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(回答先: 朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった 投稿者 中川隆 日時 2019 年 8 月 17 日 23:57:45)

不破哲三の正体
【我那覇真子「おおきなわ」#56】
沖縄「反日」運動の正体〜篠原常一郎氏が語る「日本共産党」の実像[桜H31-2-15] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=VZhWQWt4Mys
2019/02/15 に公開
司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
沖縄「反日」運動の正体〜日本共産党の実像とは
ゲスト:篠原常一郎(ジャーナリスト / 元民主党・共産党国会議員秘書)
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【我那覇真子「おおきなわ」#57】
日本(沖縄)に潜むチュチェ思想の正体〜篠原常一郎氏に聞く[桜H31-2-22] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9Ldoz5EvGt0
2019/02/22 に公開
司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
@主体思想(チュチェ思想)とは何か
ゲスト:篠原常一郎(ジャーナリスト / 元民主党・共産党国会議員秘書)
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2018年4月5日
日本共産党の七不思議…不破哲三前議長の大豪邸住まいと”芸名使用”が話題に
https://news-vision.jp/article/188154/
不破哲三日本共産党前議長(88)が時事通信のインタビューに応じ、天皇制や元号問題について語るも、なぜかSNS上では前議長の大豪邸と芸名疑惑に興味が集中、明らかになった超ブルジョアぶりに騒然となっている。
不破氏が久々にメディアに登場、3月24日の時事通信のインタビューの中で、天皇の政治関与を禁止した憲法4条について「昭和天皇の時代には、ほとんど守られなかった」「現天皇は心得ている」とする自論を述べた。また元号問題についても「時代が区分される時代ではない。やめた方がいい」とする提言をみせ、カリスマの健在ぶりを示した。
だが、この不破氏のインタビューに対し、作家・百田尚樹(62)が(内容とは無関係に)「共産党の不破哲三前書記長の邸宅がどれほど凄いものか、末端の共産党員は知っているのだろうか。門から屋敷に辿り着くまで、車で森の中を走る大邸宅なんて、滅多に住めない。凄い蓄財力だ。要するに、これが共産党。ちなみに『不破哲三』というかっこいい名前は芸名で、本名は上田健二郎」といったツイートを投稿して、これが反響を呼ぶ大盛り上がりをみせている。
百田氏の発言へのリツイートの中には「こうした人物が平等を標榜するのだから無茶苦茶」「この中で専属シェフによる高級フレンチを食べてるわけですね。『なぜ差別は無くならないのか?』とか言いながら」「中国共産党と同じ構図ってことですね。知らぬは末端の支援者だけ…」「格好いい名字には小学生の頃憧れましたね」などと平等を説きながら桁外れのブルジョアを謳歌する日本共産党指導者の暮らしぶりに興味が集中した。
■用心棒と運転手、料理人が常駐する小学校よりデカい大豪邸
不破氏の大豪邸は、16年7月の週刊文春(文藝春秋社)の「引退後も特権享受不破哲三は『赤い貴族』」なる記事で紹介されている。場所は神奈川の別荘地・津久井の山中深くにあり、広さは3265平米(約九百八十八坪)。航空写真でみると近所の小学校と変わらぬ大きさを誇っている。
敷地の所有者は不破哲三こと上田健二郎氏ながら、敷地内にある4棟の建物の内、2棟は日本共産党の所有物という公私の線引きのない形態となっている。そして建物には「不破氏の秘書、ボディーガード兼運転手、料理人が常駐していた」と関係者は語っている。
だが、なぜ不破氏は日本共産党のトップといえど、このような大豪邸が建てられたのだろうか。日本共産党の元党員・篠原常一郎氏による月刊正論(16年11月号/産經新聞社)の「幹部の収入を暴露!」という記事によれば、2つの秘密があるという。1つには、一般の党職員と幹部の給与格差がある。日本共産党でエリートといわれている常任幹部会委員で最低年収1000万円以上が保証されている。若い職員や地方の党職員の給料とは雲泥の差があることは言うまでもない。
2つ目は著書の印税に秘密があった。党内では「幹部の印税は中央財政に繰り入れられる」と説明しているがそれはウソだというのだ。幹部が出した出版物は党機関紙のしんぶん赤旗で宣伝しまくり、末端党員に購買をすすめつつ、少なめに刷った最初の「一刷分の印税」を党に寄付した後、二刷分以降の印税すべてを著者の懐に入れるという巧妙な稼ぎのテクニックがあるという。
平等を訴える共産党指導者の、桁外れのブルジョアぶりは世界共通のようである。ただし、名誉のために付記するが、同党の志位和夫委員長(63)のご自宅は慎ましやかな公団分譲マンションなんだとか。くれぐれも志位委員長や小池晃副委員長(57)には庶民の味方という立場を貫いてもらいたいものだ。
https://news-vision.jp/article/188154/
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不破 哲三(ふわ てつぞう、1930年1月26日 - )は、日本の政治家。日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党付属社会科学研究所所長。前党中央委員会議長。元衆議院議員。“不破”はペンネームで本名は上田 建二郎(うえだ けんじろう)。
日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。父は教育評論家の上田庄三郎。
経歴
当時上田家には「跡取り」がいなかったため、父子共々養子として引き取られる[要出典]。両親は高知県の出身[1]。
旧制東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)、第一高等学校を経て、東京大学理学部物理学科卒業。
1970年、40歳で日本共産党の書記局長に就任し[2]、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。1974年1月29日の予算委員会では、日本分析化学研究所が実施していた放射能測定で、データがねつ造されていることを指摘した(「米原子力潜水艦放射能測定不正事件」)[3]。
1982年に宮本顕治が中央委員会議長になり、不破が幹部会委員長に就任した。1984年にキューバのフィデル・カストロと3時間以上に及んで会談した。
詳細は「日本とキューバの関係」を参照
1987年に心臓手術のため幹部会委員長を降り、中央委員会副議長になった。村上弘委員長退任後、幹部会委員長に復帰した。選挙で党の躍進が続いた頃、マスコミから「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)(1998年度流行語大賞特別賞受賞)と呼ばれた[4]。1998年に、31年間対立・絶縁していた中国共産党との交流を再開した。
2000年の党大会で中央委員会議長に就任。2004年の党大会で全面的な綱領改定の提案をおこなった。2006年1月の党大会で高齢などを理由に議長職を退任し、党付属社会科学研究所の所長に就任した。
130冊以上の著作がある。また、「赤旗」の評論員論文・無署名論文の多くを執筆したともいわれる。
年表
1930年(昭和5年)教育評論家の上田庄三郎の次男として東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)に生まれる。
1947年(昭和22年)日本共産党に入党する。
1953年(昭和28年)東京大学理学部物理学科を卒業して、鉄鋼労連(現・基幹労連)に書記として就職する。
1964年(昭和39年)日本共産党中央委員に就任する。
1969年(昭和44年)衆議院議員に初当選する(東京都第6区、1996年の小選挙区制導入以後は比例東京ブロック単独で、連続10回当選)
1970年(昭和45年)日本共産党書記局長に就任する。
1982年(昭和57年)日本共産党幹部会委員長に就任する。
1987年(昭和62年)日本共産党中央委員会副議長に就任する。
1989年(平成元年)日本共産党幹部会委員長に再任する。
2000年(平成12年)日本共産党中央委員会議長に就任する。
2003年(平成15年)衆議院議員を引退する。
2004年(平成16年)日本共産党常任幹部会委員・日本共産党中央委員会付属社会科学研究所所長[5]。
2006年(平成18年)日本共産党議長を退任する。日本共産党常任幹部会委員留任[6]。
2010年(平成22年)日本共産党常任幹部会委員・日本共産党社会科学研究所所長[7][8][9]
2014年(平成26年)日本共産党常任幹部会委員留任[10]。
2017年(平成29年)日本共産党常任幹部会委員留任[11]。
名前の由来
『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』の中で本人が「不破哲三」の由来について、自宅付近にあった塗装業者「不破建設」と、当時の職場である鉄鋼産業労働組合の「鉄」から名付けたと語っている。鉄鋼労連は総評系で日本社会党員(特に右派)が多数を占めていたため、機関誌「前衛」などへの寄稿の際このペンネームを使用していた。
実兄・上田耕一郎は、耕一郎と建二郎とで労農同盟を意味する命名であると語っている。(経済2004年1月号での鶴見俊輔との対談での発言)
エピソード
子ども向けのテレビ番組『ウゴウゴルーガ』(フジテレビ他)において政治家ではなく、登山の講師(「やまのぼりのえらいひと」)として出演したことがあるほど山登りが好き。[12]
時代小説も好きで、少年時代はその方面での作家にもなりたかったと語っている[13]。またテレビ時代劇を愛好し、時代劇専門チャンネルを視聴している[14]。
TBS『クイズダービー』に、「野党の委員長と1年生議員大会」で、当時1年生議員の高崎裕子と出場し10万点を達成した。[要出典]
2010年、読売新聞の連載企画、「時代の証言者」で、「昔は軍国少年だった」と語った[15]。
メガネが最も似合う各界の著名人として、1998年に日本メガネベストドレッサー賞(政界部門)を受賞した[16]。
直木賞作家の水上勉と交流があり、水上勉が死去した際に追悼文を書いている。[17]
妻の七加子が伝記を出版している[18][19]。
批判
日本共産党を離党した筆坂秀世は、離党後行った共産党批判のなかで、不破が2000年に日朝国交正常化交渉で北朝鮮による日本人拉致問題を事実上棚上げにすることを求めた、と主張した。不破は、(拉致問題が疑惑だった段階では)それに応じた緻密な外交努力をするべきと主張したのであって、これを拉致棚上げの主張と非難するのは曲解である、と反論している[20]。
詳細は「筆坂秀世」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%86%E5%9D%82%E7%A7%80%E4%B8%96
2017年に86歳の不破哲三が常任幹部会委員、84歳の浜野忠夫が幹部会副委員長に就任したことに触れて筆坂は80代で未だに引退せずに自身の元で人事を牛耳らせた男を三役に置いたことに「共産党の幹部の誰一人として異論を挟めない共産党の異常が露見している。共産党が普通の政党になるならばまず物言えない体制こそ改めるべき」と強く批判している [21][22]。
論文「日本社会党の綱領的路線の問題点」の中で、社会党の平和革命路線を批判する中で「『暴力革命唯一論』者の議論は,民主主義を擁護する人民の力を無視した受動的な敗北主義の議論である。しかし,反対に『平和革命』の道を唯一のものとして絶対化する『平和革命必然論』もまた,米日支配層の反動的な攻撃にたいする労働者階級と人民の警戒心を失わせる日和見主義的『楽観主義』の議論であり,解放闘争の方法を誤まらせるものなのである」と述べており、公安調査庁は共産党の「敵の出方論」を裏付けるものだとしている[23]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%93%B2%E4%B8%89
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