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若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 06 日 09:48:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 06 日 00:05:13)


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった


監督 若松孝二
脚本 若松孝二 掛川正幸 大友麻子
原作 掛川正幸
音楽 ジム・オルーク
撮影 辻智彦 戸田義久
公開 2007年8月26日

動画
https://video.9tsu.com/videos/view?vid=101196
https://muryoueigadrama.com/?p=7220


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出演者

連合赤軍

赤軍派森恒夫:地曵豪
坂東國男:大西信満
山田孝:日下部千太郎
植垣康博:中泉英雄
青砥幹夫:伊達建士
山崎順:椋田涼
進藤隆三郎:粕谷佳五
行方正時:川淳平
遠山美枝子:坂井真紀
革命左派永田洋子:並木愛枝
坂口弘:ARATA
吉野雅邦:菟田高城
寺岡恒一:佐生有語
杉崎ミサ子:奥田恵梨華
大槻節子:藤井由紀
金子みちよ:安部魔凛碧
奥沢修一:玉一敦也
前沢虎義:辻本一樹
寺林真喜江:神津千恵
伊藤和子:一ノ瀬めぐみ
中村愛子:木全悦子
小嶋和子:宮原真琴
岩田平治:岡部尚
尾崎充男:鈴木良崇
加藤能敬:高野八誠
加藤倫教:小木戸利光
加藤元久:タモト清嵐
山本順一:金野学武
山本保子:比佐廉

連合赤軍に関連する人物

赤軍派塩見孝也(事実上途中離脱):坂口拓
高原浩之(事実上途中離脱):笠原紳司
田宮高麿:本多章一
重信房子:伴杏里
梅内恒夫:渋川清彦
金廣志:RIKIYA
持原好子(途中離脱):桃生亜希子
革命左派向山茂徳(途中離脱):黒井元次
早岐やす子(途中離脱):田島寧子
瀬木政児(途中離脱):山本直樹
松本志信(途中離脱):中道亜希


その他
さらぎ徳二:佐野史郎
松本礼二:倉崎青児
山荘の管理人:奥貫薫
ナレーション:原田芳雄

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あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

ベトナム反戦運動や公民権運動、ヒッピー文化やパリ5月革命など世界的な左翼全盛の時代に、日本でも反権力的な学生運動が盛り上がっていたころが舞台である。その学生運動の中でも最も純粋であったがゆえに、真剣に革命の実現を信じた連合赤軍の若者たち。彼らが何に突き動かされ、どのような葛藤を経てあさま山荘事件へと至っていったのか、そしてリンチ事件へと至ったのか。連合赤軍側の立場から、彼らの生き様を描こうとしている。

本作品は低予算であり、制作費の一部はカンパでまかなわれた他、若松孝二監督が自宅を抵当にいれ、宮城県大崎市(旧鳴子町)の自身の別荘をあさま山荘のロケセットとして使用、解体までおこなって、ラストシーンの撮影が行われた。また、リアルさと現場での緊張感を優先させる為、出演者はオーディションの段階からマネージャーの帯同禁止、メイクや衣装も自前で用意させる、山岳ベースからあさま山荘シーンの撮影時には、宮城の山中での長期合宿等、焦燥感ある空気を画面に創り出す工夫が成されている。撮影は「順撮り」(ストーリーの順番)で行われたため、出演者達が段々憔悴していく姿がリアルである。長台詞が多いので、棒読みにならないよう感情を乗せるのが難しかったという。


連合赤軍元メンバーからの批判

連合赤軍元メンバー加藤倫教は連合赤軍事件に関するインタビューの中で本作について話が及んだ際に本作の終盤の劇中で加藤元久が言うセリフに対して批判的に語っている。

「映画を見て感動したというひとが、僕のまわりにもたくさんいるんだけど、それは弟の言った言葉だというんです。
しかし、それは事実としてはないこと。完全なフィクションであるならそれも構わないけれども、仮にも『実録』とタイトルをつけるかぎりは、違和感が拭えない。(中略)

銃を持って交番を襲撃しろといったら、行くひとたちだった。それを『勇気がない』という一言でまとめられたんでは、ものすごく腹が立ちますね。それが間違っていると思っていたなら、行動するひとたちですよ。あるいは、組織を捨てて出たでしょう。

間違っているんじゃないかという気持ちは、僕にもありましたよ。しかし、間違いだ、と言い切れない、『これはこういうことだから間違っている』と言うだけの論拠、確信がなかったんです」(中略)

「若松さんに聞きたいことがあるかと言われたら、一つだけ。なぜあのような日本人ならわかるだろうという情緒的な落とし方に、どうしてしてしまったのか。あれでは『こう言いたいんだけど、言えなくて……』というのと、同じですよね。そして事が起きてしまったら、『ほんとはこうしたかったんだ』と弁解する。それと同じ扱いですよね。若松さんは、あの事件を単にそういうふうなことと理解したということなのか」[9]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D_%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E7%A8%8B


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あさま山荘事件 1972年(昭和47年)2月19日 - 2月28日

あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

1972年2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[5]。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

事件の発端

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会[注釈 3](マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた[6])、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった[7]。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。

群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、山岳ベースに、息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警は榛名ベースの焼け跡を発見、さらに2月16日には迦葉ベースも発見された[8]。

1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。この時、最高幹部の森と永田が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

坂口・植垣康博ら5人は合流地点設定のため先発隊として東京のレンタカーで調達したライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問[注釈 4]を受ける。警官らが車両の脱出を手助けしている隙に、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は2人を残して警察が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、「森林法違反容疑」で逮捕された。この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発した。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した[9]。装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡の人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる[10]。

森と永田も榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 6][11]。

2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣ら4名が軽井沢駅の列車内で職務質問された。メンバーは2手に分かれていたが、一方は手製爆弾や実弾を所持しているのが見つかり銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。駅売店の店員が、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを不審に思い、助役に通報したことがきっかけであった[12]。

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると警察の追跡を恐れて移動を開始し、捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた[13]。


事件の経過(浅間山荘への立てこもりから制圧まで)

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた[13])がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[14]。

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)[15]。

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している[13]。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[16][注釈 7]。吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口と坂東は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念された。坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[16][8]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[16]。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった[17]。

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[8]。

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[16]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[16]。こうして3人は1日でも長く徹底抗戦を続けることで一致した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという[16]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた[18]。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[16]。

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[16]。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった[16]。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された[19]。

さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという[16]。

19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。


私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 [14]

19時半頃、警察の阻止線を越えた男が山荘に近付こうとしているのを発見され、逮捕される。男は新潟市内でスナックを経営する民間人で、警察は厳重注意のうえ23時20分に釈放[19][20]。

2月22日、午前、吉野の母の説得中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った[19]。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという[16]。

正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした[19]。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃[16]。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される[19]。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)[19]。1人目の犠牲者。

14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった[19]。

20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた[8] 警察が山荘の送電を断つ。山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲[19]。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。

23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される[19]。

この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否[16][注釈 8]。

2月23日 - 14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた[注釈 9]。警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった[8]。

2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う[19][21]。

5時と6時に人質の親族による呼びかけ[19]。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望するが坂口は拒否[16][注釈 10]。

さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという[16]。

正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる[16]。

2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念[16]。

9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった[16][注釈 11]。

坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念[16][8]。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された[22]。

夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ[19]。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという[16]。

夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判[16][注釈 12]。

犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」[16]。

2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測[16]。

2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった[8][注釈 13]。

9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。

11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(殉職により警視正に特進)が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった[16]。

11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。

11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視(殉職により警視長に特進)が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者。

11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという[16]。

内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた[16][23]。

12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという[14]。

12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲[注釈 14]。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く[16]。

14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。

15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという[16]。

15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾[24]。

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。

17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾[24]。

17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾[24]。

やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明[24]。

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという[16]。

加藤倫教は連行された時の感情を以下のように記している。


のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。 私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた[8]。

18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。


▲△▽▼


警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」ことを大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。後藤田は20日朝に開かれた記者会見で「なんとかしてxx(人質女性)さんを無事救出したいという気持ちでいっぱいである。この事件が凶悪犯罪であることは間違いないが、彼ら(連合赤軍)はもともとインテリなのだから、彼らの心に訴えて慎重な作戦を取り、できるだけ血を見ないで解決したい」と述べている[25]。

警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正(警視庁警備部付)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に第二機動隊(隊長・内田尚孝警視)が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

制圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立てこもっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った[注釈 15]。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。初めは冷ややかに母親たちの説得を聞いていた機動隊員らも、子を思う親の愛情の深さに涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した[19]。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[19]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃眼を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリ・ターミナルを蹴飛ばしたため」であるといわれる[注釈 16]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。

当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[27]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

ただしこの故障説については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌[28] および自動車雑誌[29] で明かしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が盾を貫通することが分かり[注釈 17]、隊員は盾を2枚重ねて突入した。

突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け[注釈 18]、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可[注釈 19]が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。狙撃班も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな狙撃銃の使用は長官許可とされていたため[31]、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・保坂調司警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された[30]。

しかしその後も、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして、部隊指揮官の意思を尊重する形でヘルメットに指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因
生け捕りの方針であったこと人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。警察官が殺人罪で告発される懸念があったこと1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。犯人が主張や要求をしなかったこと犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった[注釈 20]。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返した。立てこもり側に有利な地形であったこと。山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと。頻繁に犯人が発砲してくること。警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったこと[注釈 21]などから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[19]。


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事件後の情勢

連合赤軍の崩壊

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され[注釈 22]、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

特殊部隊の創設

1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[33]。

1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、本人が法廷闘争を望み留まった)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

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裁判

山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。

関係者のその後

佐々淳行は初代内閣安全保障室長に就任。退職後は危機管理の専門家・評論家として活動していた。
亀井静香警察庁警備局公安第三課課長補佐は、2017年まで衆議院議員を務めていた。
國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。
佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた[34][35][36]。


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エピソード
カップヌードル事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという[19]。やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。

もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[19]。このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、同商品の知名度を一挙に高めた。直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった[37]。モップル社2月22日、浅田光輝(立正大教授)・丸山照雄(僧侶)・水戸巌(東大助教授)・木村荘(弁護士)ら「救援連絡センター・モップル社」と名乗り、立てこもり犯との交渉を名目として野中庸本部長に面会を求めてきた。応対した佐々によれば、「身の安全については自己責任の原則」「対話にあたっては通牒にわたることはしない」「現場の警察官の指示に従うこと」の3点について書面で誓約することを条件に立てこもり犯への説得をすんなりと認めると、高圧的な態度で臨んできた彼らは動揺しだし、「あのう、彼らは我々に向かっても撃つでしょうか」と佐々に尋ねてきた。佐々が「そりゃあ撃ちますとも。実の親に向かって発砲する手合いですからね。ではどうぞ気を付けて行ってらっしゃい」と言うと「東京の本部と相談してから返事します」と退散した。後に彼らが無条件での面会を求めてきたため断ったところ、記者会見を開いて警察批判をぶち、軽井沢町内に宿泊して「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃犯五十人を集めた」と書かれたビラを撒くなどの宣伝活動を行った[19]。

鉄球作戦佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[19]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は国の登録有形文化財第1号[38][39]であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。

以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の株式会社白田組に残されている。ヘルメットの意匠当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された(現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能)。

生中継1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。後方の治安当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。

警備心理「警備心理学研究会」の宮城音弥東工大名誉教授・島田一男聖心女子大教授らが、現地に派遣された。両教授から「インフォメイション・ハングリー状態となっている隊員らに情報をこまめに伝達せよ」「明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ」などと警備本部幹部へ助言がなされた。一方、高橋幹夫警察庁次長の肝いりでできた研究会の現場視察とあって張り切っていた科学捜査研究所の某技官が幹部らの面前でテレビ出演の段取りまで仕切りだし、憤慨した丸山昂参事官が富田朝彦警備局長に抗議電話を掛けた[19]。事件後の人質女性事件後報道合戦が加熱する中、入院した人質女性はマスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警護されていたが、精神科医の問診や警察の事情聴取の模様等が、特ダネとして朝日新聞に次々とスクープされた。これは、病室のベッドの下に仕掛けられた盗聴器を使用して警察や他社を出し抜いていたものであり、電池の交換に来た記者が病院に侵入したところを取り押さえられたことで判明したが、大物記者らによる必死のもみ消し工作の甲斐あってか、表沙汰にはならなかった[19][40]。

3月1日に開かれた短時間の記者会見で、「(退院したらまず何をしたいかとの問いに対し)みんなと一緒に遊びたい」といった、気が動転している中でなされた女性の発言の一部がセンセーショナルに切り取られたうえ、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く(女性が所持していたお守りを夫が勘違いで犯人から貰ったものと別の記者会見で語ってしまっていたことも一因であった)報道された。この結果、女性は広く世間の批判を受けることとなる。実際には、「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」「2月29日の報道(朝日新聞の「スクープ」)を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と、女性は後に述べている[41]。この会見後、女性のもとヘの激励の手紙が激減し、逆に「うどんが食べたい(病院で食欲を尋ねられ、うどんを所望していた)とか、遊びたいとは何事だ」「お前のために警官が死んでいるのに何を考えているのか」といった文言やカミソリの刃を同封した脅迫の手紙が届くようになり、週刊誌は女性のプライベート情報や虚偽の内容を織り交ぜて『ウソ泣きxx(女性の名前)』『偽善者』と書き立てた。女性は予め夫が目を通して問題がなかった手紙のみを渡されていたが、精神的に不安定になっていった。女性は衰弱しながらも3月11日にそれまでの報道を否定する記者会見(全国からの励ましへの感謝、殉職警官遺族への「お詫び」の意向、監禁中は常に拘束と監視を受け生命の危機にさらされていた旨)を涙ながらに行った。それ以後、女性はマスコミとの接触を拒むようになった[41]。3月1日に東京で殉職警官の合同葬が行われた時、女性は病室から浅間山荘の方角に向けて黙祷を捧げながら涙を流していたという。また退院直後には山荘に直行し、殉職者の祭壇に跪き「申し訳ありません」と泣き崩れた[41]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 

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1. 中川隆[-11688] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:01:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[303] 報告


亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日

保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150〜151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 http://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


2005年7月2日 亀井静香
警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景


定刻より15分ほど前に因島市民会館へ到着した俳優菅原文太さん。この日、飛騨の山里からJRを乗り継いだ新幹線の車中で目にした文藝春秋6月号。「三島由紀夫自決からあさま山荘事件まで」の特別企画の証言に亀井静香代議士が登場、当時、警視庁警備局公安第一課課長補佐として「あさま山荘」事件の作戦に加わっていたことに衝撃を受けた。

この事件があった72年といえば文太さんが「人斬り与太」でスターの仲間入り、その翌年に主演映画「仁義なき戦い」がシリーズ化され大ヒットした。昭和元禄といわれた六十年代の総決算ともいえる大阪万博は6422万人が押しかけた。ヤクザ映画は股旅物の様式美から実録ヤクザ映画がヒット。完全にサラリーマン化した大衆には仁侠映画でレトロ趣味を満たすことができなくなってきていた。

その一方で71年に警察庁は凶悪化した極左集団を取り締まるため警備調査官室を設置した。警視庁、神奈川、千葉の両県警をまたぐ重要事件について警視庁が直接指揮をとるための臨時措置だった。弱冠33歳の亀井静香氏が直接指示をした。72年2月には極左集団が金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店を襲った彼らの足跡をつきとめることができた。

地元民の通報で群馬県警が山狩りをして迦葉山山中で丸太小屋の山岳アジトを発見した。亀井氏も現場へ急行した。男女二人が不審自動車に立て籠もったが、引きずり出す容疑が見つからない。そこで窮余の一策として思いついたのが山小屋を作ったのだから無断伐採したはず。そこで「氏名不詳の窃盗罪」で逮捕礼状を請求した。逮捕した2人は京浜安保共闘の奥沢修一と杉崎ミサ子だった。妙義山山中=写真=ではリーダーの森恒夫と永田洋子を逮捕した。妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で4人を捕まえたものの5人逃がし、あさま山荘に逃げ込まれた。

「だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起きなかった。私にとって大恥というしかない」と、亀井代議士は回顧する。事件は解決したが。警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからで、けっして威張れるような作戦でなかったとも言う。

しかし、同僚の警察官を殺した犯人グループに対して一方的な憎しみを感じなかった。彼らのやったことは明らかに間違っている。だが、恵まれない人民をどうにかしたいという強い思いが取り調べでその気迫が伝わってきた。六〇年代後半から七〇年代にかけ東アジアはどの国も文化大革命の中国が発する情報に目を注いでいた。志ある若者が、なぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じ、亀井氏は警察庁を退職。衆院選出馬を決意する起爆剤になったことはまちがいない。

こういう亀井さんが大好きだという日本を代表する映画俳優の菅原文太さん。気を緩ませた時の笑顔が魅力的。若い男優がビビってしまう大スターの風格は厳しく怖いという印象とは別に一般聴衆たちが「文太ちゃん」という感じで接する様は闘将亀井静香の「亀ちゃん」の愛称と共通した一面もうかがえる。
http://0845.boo.jp/times/archives/6122

2. 中川隆[-11687] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:11:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[304] 報告

共産主義者はどういう人間なのか?

1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

https://medium.com/dysfunciton/正義感が強い-e107fdfd5eff

2) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?


まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

https://medium.com/dysfunciton/悪-あく-ac385668ea9e


3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/05-12/05-12-23.htm

4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない


支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

https://medium.com/dysfunciton/支配-被支配の構図-3c3ce4b7f638


5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。


格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/序列過敏-62558f9a2332

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ダメダメ家庭の目次録

音楽・映画関係の超有名サイトでしたが、東北大震災以降リンク切れになり、ミラーサイトでかろうじて読めるものがあります。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.htm

「映画の中のクラシック音楽」
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html

3. 中川隆[-11686] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:14:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[305] 報告

因みに、現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。


昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。

4. 中川隆[-11685] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:16:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[306] 報告

浅間山荘事件 _ ここでも江青女史みたいな女が出て来て大活躍

 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件

 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm

「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。


総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。


1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。


1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。

1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。

1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。

1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」


だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。

1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く


1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。

2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。

2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm


独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf

前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。

3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html

5. 中川隆[-11684] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:28:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[307] 報告

内田樹の研究室 2015-05-28
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html


私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。

私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。

その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。


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国旗国歌について


国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。

その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。

今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。

このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。

ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。

こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。
 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。

いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。

私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。

正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。

しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。

小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。

国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。

現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。

国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html

6. 中川隆[-11683] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:51:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[308] 報告

世間から相手にされなくなった 70年代左翼のその後


講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員
川端 純四郎

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。
 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。
 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。

 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。
 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。

 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。
 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。

「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。
 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。

 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。

 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。

 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京〜上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm


要するに、世間から相手にされなくなった 70年代左翼はその後、護憲派・反原発派に変身して、今は阿修羅掲示板や るいネットで細々と空しい政府批判を繰り返しているのですね。


7. 中川隆[-11682] koaQ7Jey 2019年3月06日 11:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[309] 報告

学生運動しなくてもよくなった一流大学の学生のその後

年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万〜13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html



▲△▽▼


あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。
https://bllackz.com/?p=1039


▲△▽▼

「学歴」が分断する現代日本社会
『日本の分断』吉川徹教授インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


 「学歴なんか関係ない」といくら言ったところで、学歴により就くことのできる職業も違えば、賃金にも差があるのが現実。また、社会人になると同業者や同じような人生を歩んできた人々とのコミュニケーションが多くなり、それ以外の人々がどんな生活を送り、何を考えているかについては無関心になりがちだ。大卒と非大卒の人生が別々のものになりはじめた現代日本社会では、特に若年非大卒の男性たちが多大なリスクにさらされているという。

『日本の分断 切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E6%96%AD-%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%9D%9E%E5%A4%A7%E5%8D%92%E8%8B%A5%E8%80%85-%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9-%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8/dp/4334043518

を上梓した計量社会学が専門で、大阪大学大学院人間科学研究科、吉川徹教授に日本における学歴の意味や、学歴分断社会の現状、そして非大卒の若者たちに忍び寄るリスクについて話を聞いた。


(hyejin kang/iStock/Getty Images Plus)

――日本社会で学歴が持つ意味を一言で言い表すとどんな言葉になるでしょうか?

吉川:「自己責任だとみなされているがゆえに、もっとも重視されるアイデンティティ」でしょうか。

 今の日本社会では、「ジェンダー」「生年世代」「学歴」という3つの分断線が重要な意味をもちはじめています。前者2つについては変更不可能なある意味で運命論的な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。

 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。

――学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?

吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。

――トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?

吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。

 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。

――日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。

『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社)

吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。

 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013〜14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。

――半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか?

吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。

 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。

――吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。

吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。

 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。


彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。


 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。
 
――なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。

吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。

――なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか?

吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。

――彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか?

吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。

 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。

 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。

 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。

――多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。

吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


結局、一億総中流だった日本でも中間層が没落して階級社会になってしまったのですね。

マルクスの預言通りの社会になりました。

8. 中川隆[-11681] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:19:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[310] 報告

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き

Theo Angelopoulos Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975


監督 テオ・アンゲロプロス
音楽 ルキアノス・キライドニス
出演 エヴァ・コタマニドゥ


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%9F+%CE%98%CE%AF%CE%B1%CF%83%CE%BF%CF%82


ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-11/04-11-12.htm

9. 中川隆[-11680] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:39:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[311] 報告

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き _ 2


テオ・アンゲロプロス アレクサンダー大王


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 ペトロス・マルカリス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
衣装デザイン Ghiorgos Ziakas
音楽 クリストドゥロス・ハラリス
美術 ミキス・カラピペリス
1980年 ギリシャ=イタリア=西ドイツ作品

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Angelopoulos++O+Megalexandros+++&sp=mAEB


▲△▽▼


キャスト

Alexander オメロ・アントヌッティ
The Stepdaughter エヴァ・コタマニドゥ
The Schoolteacher グリゴリス・エヴァンゲラトス
The Guide ミハリス・ヤナトゥス
Mr. Zelepis クリストフォロス・ネゼル
Mrs. Zelepis Miranda Kounelaki
Man of the Commune Thanos Grammenos
Man of the Commune Photis Paparamprou
Woman of the Commune Toula Stathopouluo
Italian Anarchist Francesco Carnelutti
Italian Anarchist ブリツィオ・モンティナーロ
Italian Anarchist ラウラ・デ・マルキ
Italian Anarchist Claudio Betan
Italian Anarchist Norman Mozzato
Alexander as a Boy イリアス・ザフィロプロス
Shepherd ストラトス・パキス

20世紀目前の大晦日、アレクサンダー大王と呼ばれる首領に率いられた山賊たちが脱獄した。 銃を手にした彼らはイギリス人貴族たちを誘拐、特赦を発令するとともに土地所有権の農民への変換を政府に要求する。だが、救世主として現れたアレクサンダーはやがて独裁者へと変貌していく。


映画のストーリー

1899年12月31日の深夜、何者かの手引きによってギリシャの小島にある刑務所から20数名の囚人が脱獄した。アレクサンダー大王(オメロ・アントヌッティ)と呼ばれる首領に率いられた賊の一団だ。

同じ夜、アテネの王宮では英国貴族らを迎えて新年と新世紀を祝うパーティが開かれていた。その席でさる英国人が、大地主ジェレピス(C・ネザール)の土地にある炭鉱の採掘許可が得られるよう陸軍大臣に訴える。しかし、ジェレピスはその土地は農民が所有権を主張して頑強に抵抗していると語る。

パーティに出席していたマンカスター卿は4人の仲間と3人の女性を伴って、アテネに程近いスーニオン岬に日の出を見に行くが、脱獄したアレクサンダー大王に誘惑されてしまう。大王はジェレピスの土地を農民のものと認め、自分たちに恩赦を下すよう国王、政府、英国大使に要求書を出し、生地である北ギリシャの村ヘ向った。途中、5人のイタリア人アナーキストが一行に加わる。しかし、村は先生(グリゴリス・エヴァンゲラトス)と呼ばれる指導者のもとで共産村が作られており、大王の部下は全てが共有で、自分のものは何ひとつないと、口々に不満を訴えた。そして翌朝、何頭かの羊が殺されているのが発見された。

村は政府軍に包囲され、大王と村人との間に不和が生じる。そんな時、政府の密使が大王を訪れ、恩赦には応じられないが形式的な裁判を開いた後、特赦によって彼らを自由にするという提案がなされ、大王は裁判を村で開くよう要請した。また、ジェレピスは政府の圧力でやむなく土地を村人ヘ返すが、陰謀の匂いを嗅ぎつけた先生はイタリア人アナーキストに不安を訴える。そして、村では戻った土地についての争いが始まり、共産制は危機に瀕し、村を逃げだそうとしたイタリア人も射殺されてしまう。

裁判は大王が検事を射殺したことにより成立せず、これによって村人とも完全に孤立し、遂に人質までも殺害してしまった。政府は人質が殺されたことにより、村に総攻撃をかけ、大王の部下を次々と倒していく。大王は多勢の村人に取り押えられるが、何故か後には大王の形をした石像が残るだけでその姿は消えてしまった。村から脱出したのは大王と同じ名の少年ただひとりだった……。
https://movie.walkerplus.com/mv11318/

▲△▽▼

アレクサンダー大王(テオ・アンゲロプロス)


 1899年12月31日深夜、義賊の首領アレクサンダー大王(歴史上の、というより、「解放者」として知られる伝説上のアレクサンドロス)は、囚われていた自らの一団を率いて脱獄、明くる日の1900年1月1日に、イギリス貴族らを誘拐する。

 向かった先の生地である北ギリシャの村は、「先生」と呼ばれる指導者によって、すでに共産村と化していた。途中で遭遇したイタリアのアナーキストらと入村したアレクサンダーは、国王や政府に対し、人質の解放と引き換えに、自らの恩赦と、イギリス人地主によって搾取された土地を農民の手に戻すことを要求する。

 だが、なかなか取引は成立せず、時間が経つにつれ、アレクサンダーのカリスマ性も徐々に薄れていき、いつしか彼は解放者から独裁者へと変貌していく――。

 久し振りに見た『アレクサンダー大王』は、何と当たり前のようにイデオロギーの映画だったことか。イデオロギーの終焉が叫ばれて久しい現在、そのあまりに堂々としたイデオロギー映画ぶりに、何だか励まされた。

 言うまでもなく、イデオロギーが終焉したならば、夢もなくなったのだ。そして、夢を見られなくなったということは、すなわち芸術が終わったということである。にもかかわらず、人は、都合よく、死んだのはイデオロギーだけで、夢や芸術はいまだ健在だと思い込んでいる。

 アンゲロプロスはきっぱりと言う。「今日、語られうるのは、いわばちゃちな夢であり、ちゃちな芸術でしかない。すべては、ちゃちなものとなってしまった」(蓮実重彦インタビュー集『光をめぐって』)。

 だからこそ、この『アレクサンダー大王』は、20世紀の「夢」を、「芸術」として真正面から語ろうとした。

出発点にあったものは、今世紀に特有の夢、つまり、社会主義的な夢の実態を批判的に考察することです。社会主義の夢というのは、否定しえない現実として人びとの想像力を支配していた。その事実は、社会主義に反対の人でも否定することはできないものです。それは、二十世紀の夢なのです。それに到達するにはいくつかの異なる出発点がありました。だが、あらゆる理論的な探求は、ある一点で、現行の社会主義が失敗であったという事実につきあたる。なぜか。

 私の映画は、そのなぜかという理由を示そうとするものではない。最後に、アレクサンドロスと呼ばれる少年が、さまざまな社会主義的な経験と試練をへた上で、夕方、都会に向けて歩んでゆく。それはもはや大王ではないアレクサンダーです。その夜は長いのか、短いのか。朝が訪れるのか否か、それはどんな色調なのかわからない。いずれにせよ、もはや夢は夢ではありえない。(『光をめぐって』)

 有名なワンシーン・ワンショットや360°のパンの多用、あるいは古代ギリシャ悲劇の劇場のような円形広場のシーンは、観客を含む全宇宙を俯瞰する視線によって、20世紀を余すところなく総体として捉えようとする野心の表れである。

 かつて中上健次は、ギリシャ悲劇の円形舞台は、もともと神の近くにいた王が、そこから転がり落ち、そうと知らずに不可避的に罪を犯してしまうそのありさまを、観客が空の上の神の位置から見渡せるように作られていたのではないかと指摘した(『中上健次と熊野』)。まさに、この作品では、観客が、アレクサンダー大王が罪を犯していく一部始終を俯瞰するのだ。

 観客が神の位置にあるといっても、むろんそこには「お客様は神様」という消費者主義的な意味はみじんもない。むしろ逆なのだ。そして、そのことは、アンゲロプロスが、なぜモンタージュを嫌い、ワンシーン・ワンショットを好むかということと明確につながっている。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指さして、ほら、このイメージを良く見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。(中略)ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています。(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、その受動性から解放させようとすることにほかなりません。


 アンゲロプロスの作品においては、観客も積極的にスペクタクルに参加し、思考と想像力を駆使し、各々が各々の映画を作り上げていかねばならない。おそらく、そのことによって身をもって示そうとしているのだ――二十世紀を俯瞰してみたときに、われわれは、もはや「夢」が受動的に与えられるものではなく、自ら見ようと積極的に紡ぎ出していかなければならないものとなったのだ――ということを。

 ラストで、アレクサンダー大王の末路と20世紀社会主義の一部始終を見届けた少年アレクサンダーは、丘の上から見下ろしていた都会へと分け入っていく。アンゲロプロスは、彼に21世紀の夢を託した。

 アンゲロプロスの予言したように、果たして、すべてを見た少年は、本当に「大王=カリスマ」にならないだろうか。おそらく、黒沢清が、1899年からちょうど一世紀を経た1999年に撮った『カリスマ』は、この『アレクサンダー大王』への真摯なレスポンスだった。ラストで、「カリスマ」と呼ばれる木をめぐる闘争の果てに、真っ赤に燃える街を見下ろす役所広司の姿は、少年アレクサンダーの反復でなくて何であろう。

 もちろん、そこに答えなどない。ただ、アンゲロプロスの夢を見てしまった者だけが、夢を見続けることができる。そして、だからこそ、また後から来る者にも夢を見せたいと願う。そうした夢と芸術のか細い連なりだけが、そこにははっきりと見える。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120901/p1


▲△▽▼


空想と現実感


16世紀、オスマントルコのギリシャ侵攻があった際、マケドニアの
アレクサンダー大王が復活したと巷間のうわさとなり、それと19世紀の
英国貴族誘拐事件の史実をふまえてアンゲロプロスはこのファンタジーを
つくり上げたそうです。

しかし、ファンタジーといっても本作の内容はやけに現実味を帯びた
部分もあり、類まれな空想のなかにのっぴきならぬリアリティを含ませて
います(全編が空想にもかかわらず)。

空想と現実感がないまぜになっているところがこの作品の魅力のひとつの
ような気がします。

長まわしのワンショット=ワンシーン、ロングショットの多用、曇天下の
撮影など、例によって変わるところはありません。

まず、冒頭近く、20世紀目前の大晦日いんちきくさい大王一味がいかにも
現実めいた脱獄を敢行したのち、いきなり古代マケドニアにタイムスリップ
したかのようなフォトジェニック、レンブラントの画のごとく明暗を強く
押し出してけぶる森の木立の拓けたまるい平土に一頭の白馬が繋がれて
遊んでいる。
やがて大王が馬に颯爽とまたがりエキゾティックな音曲がその夢のような
映像を盛り立てます。もやはうさん臭さはどこにもありません。

アレクサンダー大王、復活せり!

さて、大王が人質(農地の要求と恩赦を得るため)をつれて帰郷すると
そこはコミューンと呼ばれる共産村になっていました。
いわゆる私有財産は認められず、共有財産により貧富の差をなくそうとする
ものです。

そこで、イタリア人アナーキストの一団も加わり、村は徐々に安定性を欠いて
行きます(彼らは王のカリスマ性の限界を見抜くのだが)。

やがて、大王はしだいに村人から刀狩りや食糧略奪などをはじめ、じぶんの
言うことをきかないやつは処刑します。専制君主政のはじまりです。

結果、村人たちのうっぷんは水面下でだんだん蓄積されてゆきます。

ここらあたりは妙にリアリティが伴っています(その他、英国との折衝や裁判
など現実的な場面が何度もでてくる)。

ラスト近くの革命シーンのアイデアには度肝を抜かれますが、ここでは
思いっきり現実離れして、もはや寓話の世界です。映画的というより演劇的な
演出に圧倒されます。

史実のアレクサンダー大王もてんかん持ちだったらしく、それを持ち出すのも
芸が細かいです。

ところで、大王と同じ名のアレクサンダーという名の少年が登場します。
彼は向学心が強く、どうやらマザコンです。明らかに大王の少年時代を映しており、
次世代の英雄としての含みを持たせているように思われます。
これもどこか寓意的です。

ラストカットではもっと直截的に「英雄は生き続ける」と主張しているわけですが。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B00JKB218E

10. 中川隆[-11679] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:52:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[312] 報告


ユリシーズの瞳 Το βλέμμα του Οδυσσέα / Ulysses' Gaze

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス トニーノ・グエッラ ペトロス・マルカリス
音楽 エレニ・カラインドルー
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス アンドレアス・シナノス
公開 1996年3月23日

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%A4%CE%BF+%CE%92%CE%BB%CE%AD%CE%BC%CE%BC%CE%B1+%CF%84%CE%BF%CF%85+%CE%9F%CE%B4%CF%85%CF%83%CF%83%CE%AD%CE%B1+&sp=mAEB


▲△▽▼

キャスト

A:ハーヴェイ・カイテル
Aの元恋人/博物館職員/ブルガリアの農婦/ナオミ:マヤ・モルゲンステルン(四役)
イヴォ・レヴィ:エルランド・ヨセフソン[1]
タクシーの運転手:タナシス・ヴェンゴス
ニコス:ヨルゴス・ミハラコプロス
タクシーに同乗する老女:ドーラ・ヴォラナキ

映画監督のAは、回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟のドキュメンタリー映画を作るため、アメリカから故郷のギリシャに帰国した。そして、マナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探す旅に出る。

Aはタクシーでアルバニアを経て、マケドニアのにあるマナキス兄弟の博物館に行くが、手がかりは得られなかった。次いでブルガリア、ルーマニアのブカレストを経て、セルビアのベオグラードで旧友の記者ニコスと合流したAは、ベオグラード映画博物館の元教授を老人ホームに訪ねる。

元教授は、幻のフィルムはサラエヴォの映画博物館の館長であるイヴォ・レヴィが現像を試みていたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。Aは戦火のサラエヴォでレヴィに会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、何があっても現像すべきだと説得するA。レヴィは彼の説得を聞き入れて、フィルムの現像に着手する。

レヴィの娘ナオミと知り合ったAは、戦闘が止んだ束の間の間、懐かしい恋人のように語り合う。やがて、フィルムの現像は成功するのだが、そんな彼らに再開した戦闘の現実が襲いかかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%9E%B3


▲△▽▼


「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。

舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。


あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?


「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm

11. 中川隆[-11651] koaQ7Jey 2019年3月07日 08:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[340] 報告

山下敦弘 『マイ・バック・ページ』(2011年)


監督 山下敦弘
脚本 向井康介
原作 川本三郎
撮影 近藤龍人
公開 2011年5月28日


映画『マイ・バック・ページ』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8+2011&sp=mAEB


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キャスト

沢田雅巳(週刊東都、東都ジャーナル記者):妻夫木聡 ※モデルは川本三郎
梅山(本名・片桐優 赤邦軍リーダー):松山ケンイチ
倉田眞子(週刊東都表紙モデル):忽那汐里 ※モデルは保倉幸恵
安宅重子(赤邦軍隊員):石橋杏奈
赤井七恵(赤邦軍隊員):韓英恵
柴山洋(赤邦軍隊員):中村蒼
飯島(東都ジャーナルデスク):あがた森魚
徳山健三(週刊東都デスク):山崎一
清原(反戦自衛官):山本剛史
佐伯仁(運動家):山本浩司
中平武弘(週刊東都 記者):古舘寛治
津川(週刊東都記者):中野英樹
前園勇(京大全共闘議長):山内圭哉 ※モデルは滝田修
唐谷義朗(東大全共闘議長):長塚圭史 ※モデルは山本義隆
タモツ(うさぎ売りの青年):松浦祐也
キリスト(キリストのような風貌の青年):青木崇高
山口(東都新聞 社長):並樹史朗
小林(東都ジャーナル編集長)菅原大吉
島木武夫(週刊東都編集長):中村育二
白石(東都新聞 社会部部長):三浦友和
康すおん、近藤公園、熊切和嘉、早織 ほか

『マイ・バック・ページ』は、日本の評論家・川本三郎の著作、およびそれを原作とする2011年公開の日本映画。タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から取られている。

川本三郎が、1968年から1972年の『週刊朝日』および『朝日ジャーナル』の記者として活動していた時代を綴った回想録。前半は東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの当時を象徴する出来事の取材談、出会った人々の思い出、当時の文化状況などが新左翼運動へのシンパシーを軸に綴られ、後半は活動家を名乗る青年Kと出会ったことから、朝霞自衛官殺害事件に関わって逮捕され、有罪となって懲戒免職に至る顛末が語られる。雑誌『SWITCH』に1986年から1987年にかけて連載され、1988年に河出書房新社から『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という題で単行本が出版された。一時は絶版となっていたが、映画化を機に2010年に平凡社より再刊された。


物語

1969年、沢田は東大法学部大学院生時代に安田講堂事件を目撃する。「週刊東都」の新米記者として、新左翼運動への取材を通じて活動家たちに共感を抱きながらも、ジャーナリストとして客観性を保たなければならない立場との間に葛藤する日々を送っていた。編集部はアポロ11号の月着陸記事で忙しくしている。

1970年、教室では片桐という青年と他の学生たちとが激しい議論を戦わす。沢田は名画座で 川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』を見る。映画では新珠三千代が頼りない恋人の三橋達也に、「あんた、どっか一つくらい当てないの?」「あんた、男でしょ」となじる。オールナイトが終わってから日曜日の編集部で『ガロ』を読んでいると「週刊東都」の表紙モデル・倉田眞子が遊びにくる。

1971年、活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。自分は「京西安保」の幹部であり、「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」などと語る。紹介した先輩記者・中平武弘は「偽物だ」と決めつけるが、離れに匿う。宮沢賢治を愛読し、CCRの『雨を見たかい』をギターでつま弾きながら「雨ってナパーム弾のことなんですね」という姿に、沢田は親近感を覚えていく。編集部では『週刊東都』が出版6日後に回収という事件が起きる。中平も「左遷」される。同僚から「あんたら、うちの余った紙で雑誌作らせてもらってるんでしょ」といわれ、殴りかかる。一緒に『ファイブ・イージー・ピーセス』を観て、倉田に「私はきちんと泣ける男の人が好き」と言われる。

やがて梅山は学生仲間を引き込んで「赤邦軍」なる組織を作ると、自衛隊基地を襲撃して武器を奪うという計画を立てる。計画を明かされた沢田は自分に独占取材させてくれと頼む。

「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く。接触すると他誌の記者も来る。証拠として腕章を預かる。社会部では「思想犯」ではなく「殺人犯」として通報するといい、反論すると「うちは大学新聞作っているわけではない」といわれる。捕まった梅山は軍を動かしているのは前園だという。警察は腕章を出せば証拠隠滅罪には問わないというが、燃やしてしまっていた。会社を辞める時にモデルは終わったという倉田が訪ねてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


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「マイバックページ」を観た 2011年6月 9日


なぜか弁護士会のボックスに、マイバックページのパンフレットが入れられていて、さして興味もなかったのに、もののはずみで観てきた。

わたくし的には、これほど途中で席を立とうかと何度も思った映画は初めてだった。

何しろ登場人物の誰にも感情移入できない。
時代は1969年から1972年。
学生運動崩壊過程で起きた自衛官殺害事件を題材にしている。

潮が引くように去っていく学生たちから孤立した活動家梅山は、存在自体が怪しい組織を騙って、暴力革命路線を追及する。

そこには何の理念もありはしない。
あるのは、ただ、世間を騒がすようなことをしでかして見返してやりたいという情念だけだ。

一方、彼の取材を続ける記者沢田は、彼の理念なき大言壮語を易々と信じて肩入れしていく。

僕にとっては、どこにも共感できる要素がないのだ。


僕が大学に入ったのは74年。
初めてセクトというものと出会ったのも同じ時期である。

当時は、中核派と革マル派の内ゲバ事件が最盛期だった。

東大駒場寮から引っ越し作業中の活動家が敵対セクトから襲撃されて殺された事件があった。僕も駒場寮に住んでいたが、それを聞いても、特段の感慨すら抱かなかった、そんな時代だった。

結局、崩壊した学生運動は、どれだけ派手な成果を挙げるかだけを競い、三菱重工爆破事件や、北海道庁爆破事件を次々と起こし、自壊していった。

映画は、そうした学生運動の崩壊過程の初期を描いていることになろう。

実は収穫が一つだけあった。

常々、学生運動の経験者が実権を握った現代日本がなぜ、これほどまでに保守化していくのか、疑問に思っていた。
朝日新聞などのメディアには、相当数の学生運動経験者が、今やデスクを握っているに違いないのに、とめどなく保守化していくのはなぜなのか。

映画は、そんな疑問に明快な回答を与えてくれた。

熱病が醒めれば、潮が引くように一部の活動家を孤立化させて、抵抗なく社会に適応をする学生が大半だった。
熱病には、確固たる信念もなかった。
共通する心情は、何かしら、目立つことがしたい、いい言葉で言えば「自己実現したい」ということだけだった。

政界にしろ、メディアにしろ、組織を左右する地位を手に入れる人たちは、人並み以上の権力欲を持っている人たちだろう。
そして梅山がそうであったように、権力欲とバランスするような理念を持っている訳ではない。

政治やメディアで権力を掌握した学生運動経験者たちは、過激派と違う方向で、「自己実現」を図っているに過ぎないのだろう。

誤解なきようにいえば、学生運動経験者の全てを批判している訳ではない。

若き時代の初志を貫いている人たちがいることも僕は知っている。
但し、そうした人たちは、基本的に、名前も権力も求めず、ひたすら地道に現代という時代が抱える問題に真摯に向き合う活動を続けている人たちだ。

それにしても、と僕は思う。
少し時間を遡り、学生運動の最盛期に戻れば、大人が手を付けられないほどの若者のエネルギーがあった。

若者のエネルギーは、今こそ発揮されて欲しい。

既得権にしがみつく、私も含む大人たちが、若者の行く手を阻む構造になっていることは見やすい道理だ。

日本の社会保障費は国際的に見て、年金が占める割合が大きいといわれている中、厚生年金で、現役世代以上の収入を得て、頻繁に海外旅行を楽しむ高齢者。

40代で1000万円の年収を約束されている大企業の会社員たち。
彼らが、日本の将来を考え、若者に道を譲ることを考えない限り、若者には未来が開けないと僕は思う。
しかし、彼らは、決して既得権を手放そうとはしない。

その結果、若者の30%以上が非正規雇用に甘んじている。

かつて学生運動が華やかだった頃、若者に対して不公正な社会構造があった訳ではない。

今の社会構造は明らかに若者に対して不公正なのだ。

若者はもっと怒っていい。
僕はつくづくそう思うのだが、「希望は戦争」といわざるを得ないほど、この国は閉塞してしまっているのだろう。

この閉塞感を生み出す、至る所に張り巡らされたコングロマリットを解きほぐす手がかりはないのか、ただ無為に煩悶しながら僕の日々は過ぎていく。
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2011/06/post-7948.html

12. 中川隆[-11647] koaQ7Jey 2019年3月07日 14:49:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[344] 報告

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

しかし、昔の日本人は随分 IQ が低かったみたいですね。

13. 中川隆[-11644] koaQ7Jey 2019年3月07日 16:23:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[347] 報告

戦後の日本のインテリが全員マルクス主義のシンパになった理由


GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。

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馬渕睦夫
フランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


ロシア革命も毛沢東の中国支配も東西冷戦も朝鮮戦争もすべてユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった:

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)

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ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。

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GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1


連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)


■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  

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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html

▲△▽▼


2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで

プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg


日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。

こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

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ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 

株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235


メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。

一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。

銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。

日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。


69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。


いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。


資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  


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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。
コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html

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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由

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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


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米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。


(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm


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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107

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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は
「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/


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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html

▲△▽▼

アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ


「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
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■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他


▲△▽▼

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

14. 中川隆[-11636] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:13:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[355] 報告

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき 永遠の嘘をついてくれ 動画
https://pv755.com/eiennousowotsuitekure


▲△▽▼


中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈 15年7月執筆


 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた

“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。


 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。

「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……

そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし

「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!

無粋を承知で解説したい。


 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。

友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である
(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。

前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。


 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。


 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。

「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」

と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。


 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。
たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。

そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。

ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。

「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。


 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。

もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。

史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。

もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。


 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。

もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。

語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。


 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。


 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。

「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。

「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。

「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。


 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。


 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。

「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。

「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。


 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。

「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。


 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。

 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。

 付記

なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。

男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。
http://www.warewaredan.com/miyuki.html

▲△▽▼


中島みゆき 二隻の舟 動画
https://pv755.com/ni-seki-no-fune

15. 中川隆[-11635] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[356] 報告


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga


中島みゆき「世情」動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

▲△▽▼


2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/51115354.html

▲△▽▼

159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか


674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ


726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に〜」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?


738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。


751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?


752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/

16. 中川隆[-11633] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:13:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[359] 報告

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRDこ

こにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ〜って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・

https://qb3.5ch.net/test/read.cgi/dame/1063795169/

17. 中川隆[-11632] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:54:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[360] 報告

「遥かなる1970年代−京都」 松岡利康/垣沼真一(鹿砦社)2018.12.24
http://www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/1970s.htm


大分前に何となく気恥ずかしくも買ってあった、

松岡利康/垣沼真一『遥かなる1970年代−京都』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/%E9%81%99%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%B8%80%E4%B9%9D%E4%B8%83%E3%80%87%E5%B9%B4%E4%BB%A3-%E4%BA%AC%E9%83%BD-%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95%E8%A7%A3%E4%BD%93%E6%9C%9F%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%88%A9%E5%BA%B7/dp/4846312003

という、ノスタルジーの本。70年代の左翼的口調がいささか幼稚に感じられる。

正に、『もう誰一人、気にして無いよね。。。』(中島みゆき「誰のせいでもない雨が」)という話。


『連合赤軍事件』は確かに運動退潮の大きな転機となったのだろう。世界的な学生運動からの流れは各国では現在の国政の中に確かに生き残ってきているのだが、日本だけは未だに『反対運動』としてしか引き継がれていない。その最大の要因として、筆者達は『内ゲバ』を挙げている。レーニン組織論の悪しき遺産に足を掬われたという処である。

・・・前半は、松岡氏が出版していた「甲子園だより」という雑誌の内容が続いている。あまり面白くはない。2004年頃の記事で、70年代の同志社大学を中心としたブントの人達の人間模様である。寮母さんなんかも紹介されていて、微笑ましく、政治論争の話には深入りせず。とりあえずは置く、ということだろう。

元々ブント(共産主義者同盟)は60年安保の時に日本共産党から派生したが、敗北後、関西に拠点が移って、同志社大学では多数派であって、全学闘という大衆組織を主導していた。

60年代後半の盛り上がりの中から出現した著名な人物と言えば加藤登紀子の夫となった藤本敏夫と赤軍派を作った塩見孝也だろう。理論の方では田原芳という人が居たらしい。

赤軍派が分派したときは大変な内ゲバがあったらしい。
藤本氏が全国を逃げ回ったというのも有名な話である。

内ゲバというのは、路線対立をして別れるときの党員の奪い合いから生じるから、近い関係の党派間で行われることになる。右翼・民青と新左翼の間とか、三派全学連党派間とかは、比較的表舞台で行われるから、時折死者が出てはいながらも、根の深い事態には至らないが、近親間の内ゲバは密室で行われ、抑制が効かず、記録にも残らない。

その極端な例が浅間山荘事件で明るみになった連合赤軍の仲間内の殺し合いであった。

ヤクザ組織間の方がまだ合理性があって救われる。
「自己批判」とか「総括」とかが流行語になったのだが、それを迫られた党員達の気持ちを思えば、上司の犯罪を隠蔽してとりあえず会社を救うために自殺する社員達、特攻隊志願を迫られた学生達、更には、切腹を命ぜられた武士達等々、とも重なる。

皆真面目で優秀だった。狭い集団での規律が個人の心との間で反響して肥大していく、そんなプロセス。これは、単にイデオロギーに凝り固まったせいだけではない、何か「男性原理(権力の原理)」の欠陥のようなものにも思える。

赤軍派が誕生した後、同志社の全学闘はややそれにシンパシーを抱く、という独特のものになっていたらしい。著者が卒業してしまった後で、全学闘は1977年に学友会の主導権を失い、最後は1979年此春寮夜間襲撃、監禁、リンチ事件で壊滅した。


・・・後半は、垣沼真一氏による京大の話である。
1970年から75年まで在籍して、主に熊野寮の監察役とかをやっていたから、当時の学生運動の殆どに関わっている。

元々、1968年パリの五月革命を切っ掛けとして先進国間に拡がった学生運動は日大とか東大で全共闘運動と呼ばれるようになったが、それまでの新左翼系諸党派とは別の目的を持った運動(大学という組織に対抗する運動)であったから、当然大学の特徴を反映する。

日大と東大ではその様相はかなり違う。
京大においても、それまでのベトナム反戦運動とか安保反対運動とは別の軸を持つ運動として、各学部で個別に始まったのだが、どちらかと言えば自由な学風だったから、日大や東大に比べて運動の焦点が呆けていた。

当人達自身は勿論自らを全共闘とも呼んでいなかった。それまでの党派の運動も「全共闘」運動も反体制運動には違いないので、外から見ると区別が付かないし、外に向かっては共闘する形になった。

僕は、既に1967年には諸党派の硬直した思考に愛想を尽かして半年程で関わるのを止めて、夜は只管麻雀に付き合い、昼間はジャズ喫茶に籠って量子力学の勉強をしていたから、このような「全共闘」運動も(日大での運動は別として)随分と観念的で無駄なものに思えたのだが、個別の目的にはまあ同意していたから、邪魔しないように努めていただけである。ここに書かれてあることも殆ど知らない。

C戦線とかパルチザンとか、確か名前だけは聞いたことがある。
滝田修も名前だけしか知らない。
学生大衆運動として多少は盛り上がったのは、垣沼氏のようなノンセクト学生がクラス討論を巻き起こして無関心な学生をひっぱり出したからであって、諸党派はそれに乗っかって党派に引きずりこもうとしていたに過ぎない。

やがて運動が静まってしまうと、諸党派は武力闘争へと路線転換を行い、方針の異なる内部の党員同士での内ゲバが当たり前になっていって、それがさらに学生から見放される要因になった。

まあ、そういう流れだから、読んでいて全く嫌になってくる。
各学部で運動していた学生たちは、その後、専門を生かしながら、公害問題や労災問題といった具体的な社会問題に取り組んでいたのだが、垣沼氏には多分見えていなかったのだろう。

読む価値のある部分は、最後の2話位である。


その33.「内ゲバの論理はこえられるか−高橋和巳」では、辛亥革命、ロシア革命、スペイン人民戦線、日本共産党の50年、当時身近で見た、民青と全共闘、中核−革マルの殺し合い、を考察しての高橋和巳の提案の紹介であるが、内部での「総括」つまり少数派の粛清、には必ず党員以外のシンパのオブザーバーを参加させてはどうか?という事である。それによって、少なくとも、自ら頭に血が上って非人間的な暴力行為に至ることはかなり抑制できるのではないか?という。当時高橋和巳の小説はよく読んでいたが、こういうのは知らなかった。


その34.「書き足りなかったこと」では、「革命という目的の為には手段を択ばない」ということは間違いであり、そのことは官僚支配と独裁制をもたらしたのだが、それを避ける具体的な方法論、直接民主主義はあまりにも効率が悪すぎる。

パリコンミューンのやり方も失敗した。

中で述べられている「クロンシュタットの反乱」というのは知らなかったので、また勉強してみようかと思う。
ヴォーリンの『知られざる革命』という本があるらしい。

結論が出ないままに最後、これまでの社会思想は地球という大きな入れ物が無限であることを前提としてきたのだが、今やそれが有限となりつつある、2030年頃には水と食料が慢性的に不足してきて、社会主義と民主主義がこの観点から再度問題となるであろう、というところで終わっている。

18. 中川隆[-11627] koaQ7Jey 2019年3月08日 09:06:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[365] 報告

70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://pv755.com/kitsune-kari-no-uta

都市伝説?

中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


▲△▽▼


741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/


▲△▽▼


【2004.05.17 Monday 08:00】 author : 土岐正造
「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)
| Doblogコメント移植 | 2009/05/31 12:01 AM |
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1117

▲△▽▼


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌


 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。
http://oresuki.dreamlog.jp/archives/70903289.html


ang********さん 2010/6/4 08:52:30

狐狩りの歌です。

曲名は忘れました。中島みゆきさんの物凄く古いアルバムで、狐狩りの歌の歌詞を知りたいです。

狐狩りにいくなら
なら●●●●●
ねぇ 狐狩りは素敵さ
ただ生きて戻れたら

●には何が入りますか?

i_a********さん 2010/6/5 15:26:32


♪きつねがりにいくなら〜
『ララ、きこえるょ〜』
♪きつねがりはすてきさ〜
ただ生きてもどれたら、ね

cs8********さん 2010/6/4 21:26:50

本当の歌詞を書くよ

「内ゲバのことも忘れず」

恋人を殺された中島みゆきの怒りが垣間見られる・・・と思っている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441756209


えのき堂‏ @skoda130rs

中島みゆきの「キツネ狩りの歌」は革共同の内ゲバについて歌っていると言われているが、確かにこの歌詞はそういうものを想起させるものだと思う。

内ゲバ云々については昔、京大吉田寮のプレハブ部屋に住む中島みゆきファンの京大生から聞いたのだった。

10:18 - 2011年12月1日
https://twitter.com/skoda130rs/status/142306665130246144



▲△▽▼


474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18
あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。


477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


478 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:26

    まつりばやし                   

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

けれど行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの後ろ姿だった

 もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まうりばやしは 静かにあでやかに通り過ぎる

 もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづけるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ

 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても


479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。


480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度


481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。


482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。


485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書


488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます


489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、


490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か


491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。


492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。


493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。

496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w


497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。


498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。


499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。


500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。


501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。


502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…


504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。


505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。

507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね


508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。


509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。

515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)


516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。


517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ


519 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:35

北大農学部自治会て?
http://www.milkcafe.net/test/read.cgi/hokudai/1073889974/

北海道大学農学部自治会
http://www1.odn.ne.jp/~adu56780/index.html


520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:49
>>518
農学祭だろ


521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 13:04

いいえ北大祭じたいでしょう

522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 19:01
  
転び上手の子守歌

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ


523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/11 02:49

くすはっ。
「北へ・・・」観たが、マルのマの字も出やしねぇ。
ちなみに舞台は北大な。

北大にマルはい・ら・ね・え。
失せろ、北大の恥。
http://fc2masaki.blog.fc2.com/blog-entry-42.html


▲△▽▼

11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。


209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)


316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1140679815/


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね〜と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

>>68さん。
中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55
>>77
いや、そこまでは知りません。
>>68 で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。
http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/994505456/#22

19. 中川隆[-11622] koaQ7Jey 2019年3月08日 11:56:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[370] 報告

標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。

まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今さえ、金さえ、自分さえ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

20. 中川隆[-11614] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:45:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[378] 報告

中島みゆきが追っかけをしていた吉田拓郎のその後


アジアの片隅で-吉田拓郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%8B%93%E9%83%8E+%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%A7


団塊の世代 吉田拓郎 今も狂い酒のまま ひきのエフェクトのブログ : 2016/03/03
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

 私が中学校の時、フォークソングの一大ブームがありました。

 70年安保闘争があり、ベトナム戦争が終わったのが75年、その当時も、今の様な混乱があったと思います。

 反戦平和を訴えて、当時の若者、いわゆる団塊の世代が、世相をリードしていました。

 わたしは、中学生だったのでそんな世相のことなど分からなかったのですが、フォークソングブームの波にはさらされていました。その中でギターのうまい友達が、吉田拓郎を弾いて聞かしてくれました。中学生の当時はカッコいいなー、程度で友達と一緒によく歌っていました。思春期の憧れですね。

 しばらくして、吉田拓郎のLP「アジアの片隅で」を買ったのですが、しっくりこなくて数回聞いて聞かなくなりました。


 吉田拓郎氏は 1946年生まれ、団塊の世代です。

 「アジアの片隅で」を詞で読んで見ましょう。

 ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり
 子分共は慌てふためくだろう
 闇で動いた金を 新聞は書きたてるだろう
 ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし
 子供達を飢えが襲うだろう
 むき出しのあばら骨は 戦争を憎みつづけるだろう

 ※アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
 アジアの片隅で このままずっと
 生きていくのかと思うのだか※

 ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう
 車は人を轢き続けるだろう
 退屈な仕事は 野性の魂を老けさせるだろう
 ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり
 セールスマンは道路に坐りこむだろう
 年寄りと放浪者は 乾杯の朝を迎えないだろう

 ※−※ 繰り返し

 以下つづく ⇒ 歌詞リンク
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l0187af.html


 皆さんどう思われるでしょう?

 三番には
 ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう

 ベッキーのことでしょうか?


 凄い内容です。今にも通じる歌詞です。予言の様ですね。

 でも、ちょっと待ってください。これはこの当時(1980年)の歌です。今の世相にも通じるなんて甘い見方を私はしません。


 私は、ここで団塊の世代の特徴を見ます。

 ・・・・・問題を何も解決しない。
 ・・・・・で解決していない事実が分からない。
 ・・・・・その状態に酔いしれている。(こんなもんだと思っている)

 
 ― アジアの片隅で 狂い酒飲みほして このままずっと 生きていく ―

 ・・・だから、何も変わらないままなのです。

 吉田拓郎氏の思いは現実になっているんですね。今も、これからもずっーと。


 戦争反対だ、政治腐敗だ、と言っておきながら、一番人数が多いのに何も改善せずに、そのまま年老いていく。

 本田宗一郎の世代は一人一人が日本を変えたのに、です。

 この現象は、教育の世界でも

 神戸大学名誉教授の 広木克行 氏 1945生まれ

 このかたも ” 子どもは「育ちなおし」の名人―見えますか、子どものシグナル ”などの著書があり、講演会に行ったことがありますが、講演会は盛況になるのに、子供に関わる事件は一向になくならない。

 尾木ママもですね。

 政治の世界でも・・・・・・


 常に団塊の世代は、人数で日本を動かしてきました。人数が多すぎますが戦後民主主義の主役です。今後も日本は民主主義のままでしょう。とすれば、これから日本がどうなるかも彼らにかかっているのですが、私は老人たちを冷たい視線で見ています。


https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

21. 中川隆[-11552] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:47:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[441] 報告
連合赤軍のアホ大学生はボルボトでインテリをリンチした少年兵や文化大革命で宗族の指導者を吊るし上げた少年達と全く同じメンタリティですね。

まあ、レーニンも同じですけど:

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

22. 中川隆[-11521] koaQ7Jey 2019年3月12日 10:03:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[474] 報告

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


____

連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

23. 中川隆[-11520] koaQ7Jey 2019年3月12日 12:53:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[475] 報告

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB


2018/01/22 に公開

24. 中川隆[-11519] koaQ7Jey 2019年3月12日 15:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[476] 報告

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
25. 中川隆[-11517] koaQ7Jey 2019年3月12日 16:27:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[478] 報告

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU
26. 中川隆[-11516] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:19:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[479] 報告

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78

植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>

27. 中川隆[-11515] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:46:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[480] 報告

あさま山荘事件から40年 メディアの現在 (2012年) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=HUe181o-WdE
28. 中川隆[-11514] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:50:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[481] 報告

赤軍派の集団リンチや南京大虐殺での日本兵の残虐行為は典型的な感応精神病

1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://homepage3.nifty.com/kazano/folie.html

29. 中川隆[-11512] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:40:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[483] 報告


amazon.co.jp 植垣 康博 本
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E6%A4%8D%E5%9E%A3-%E5%BA%B7%E5%8D%9A/s?ie=UTF8&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E6%A4%8D%E5%9E%A3%20%E5%BA%B7%E5%8D%9A

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連合赤軍兵士 植垣康博 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>


▲△▽▼

2017.11.18
連合赤軍の元活動家 植垣康博 は獄中27年で「革命」をどう総括したか

元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(1)
週刊ダイヤモンド編集部+ 
https://diamond.jp/articles/-/150171


1972年に「あさま山荘事件」を起こすなど、あの時代に強烈なインパクトを残した極左暴力集団(過激派)の一つ「連合赤軍」。殺人罪、死体遺棄罪、強盗致傷罪など計31の訴因で起訴され、懲役20年の刑を受けた元連合赤軍活動家、植垣康博さんに左派の衰退や事件について聞いた。1回目のテーマは大学紛争、連合赤軍、獄中など。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)

最初は石とゲバ棒ぐらいのものが
火炎瓶、銃、爆弾……

――1998年秋に出所し、今秋で20年目。そして山岳ベース事件、直後のあさま山荘事件からは約半世紀たちますが、あのころを思い出すことはありますか?


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。 photo by Masataka Tsuchimoto

 しょっちゅう、ほとんど毎日です。だいたい店に立つと、どうしてもお客さんとその話になる。お客さんも私のことを知っていますし。なので私は当時の話をしたり、刑務所の話をしたり。事件を思い出すというよりは、常時脇にある感じです。

――68年の弘前大学入学から、72年のあさま山荘事件直前に軽井沢駅で逮捕されるまで、あの時代に何があったのかを振り返っていただけますか?

 沖縄問題をめぐる政府側のやり方に反対する闘い、それが大きかったですし、もう一つはベトナム戦争に反対する闘い。それらが大学の中で活発になっていました。それまでの大学闘争と大きく違っていたのは、それまでの闘争は左翼党派中心の運動。それに対抗する形で全共闘運動、つまり個人参加の闘い。大学闘争が盛り上がって、無期限ストライキとか、どんどん学生がなんらかの形で関わりました。そういう中で、全共闘に対して大学側というか政府側は機動隊でもって、つぶしにかかった。

 機動隊との攻防がものすごく激しくなった。最初は石とゲバ棒ぐらいのもんでしたが……。ヘルメットは警棒に対する防衛で始まった。あれはファッションじゃないですからね(笑)。そこから始まって火炎瓶、銃、爆弾……。武装するしかないという動きが出てきて、それがどちらかといえば党派の人たちは、そういう戦いをやると自分たちの党派がつぶされてしまうということで……。

典型的なのでは、中核派なんてデモをしただけで、勝利とかいう言い方をする。それはおかしいじゃないかと。むしろ一般学生の方から武装闘争の流れが出てきて、それが赤軍派と結び付いていくという展開になっていきます。

 その中で中心になっていくのは、武闘闘争と党派との関係。それがその後もずっと続いて、無政府的で組織されていないということに対して、党派がちゃんとしようと、一種の囲い込みをする。

 その中で、僕らの場合も、問題があったわけ。赤軍派としても組織体制を作りたいというところで共産主義化という考えが生まれてきた。ただ、僕らの場合は武装しちゃっているわけで、そういう形が強烈に出てきた。

 よく言うんですけど、総括要求とかする中で暴力が出てきたわけだけど、これはもう、早い話が中国のプロレタリア大革命。政府軍の運動のミニ版。そういう問題にバーンとぶつかってしまった。私らにとっても想定外だったし、何が何だかさっぱり分からない。結局、あさま山荘事件で終わってしまったわけですが、そういう新しい問題を抱えてしまったというのが、僕らの運動の現実だったと思う。

 あれによって左翼運動は確かに衰退はしてしまったけど、衰退の最大の理由は、やはりベトナム運動が終わったことなんだろう。米国の敗北で反戦運動は下火になって、それで左翼運動も下火になる過程に入った。でも問題はやはり連合赤軍の問題で、左翼が抱えている問題が表に出てしまった。これをどうするんだと。

独房から手紙で論争
赤軍派自身の総括

――逮捕後、出所まで27年間。

 まあ僕は獄中にずっと入るはめになったわけですが、連合赤軍の問題を正面から考えていこうと。左翼運動、特にロシア革命以降の労働運動。革命の歴史は粛清の歴史でもあるわけで、そういう問題を僕ら自身も抱えてしまったことによって、ロシア革命以降の革命を再点検し直そうと思った。どこに問題があったのかを問い直すことが私自身の獄中での行動になり、27年間はあっという間だった。原稿書いたり、文通で論争したり、大変だったわけですよ。

――論争と言いますと?

 独房にいますから手紙でのやり取りです。そのなかで、赤軍派自身の総括。(元赤軍派議長の)塩見孝也との論争とか。激しくやりました。

――当時、「総括」を否定する、あるいは加わらないという選択はできなかったのでしょうか。

 私自身はその場にいきなり放り込まれちゃったもんで、できるできないという問題じゃなかった。確かに初めは共産主義化というか、自分たちが抱えている問題を考えて、どう乗り越えるかを考える意味での総括なんだけど。それは別に反対するものでもない。ただああいう風な総括に変わっていくのは想定外だった。自己批判、総合批判と展開。組織と個人の問題じゃないかと思っている。

 当時はああやって激しく行われたわけですけど、現実の、例えば会社の新入社員研修なんかも似たようなことをやっているんじゃないかと思います。むしろ左翼のやり方が会社に持ち込まれたのかな。いずれにしても個人を鍛えるという意味合いで暴力的なことを持ち込むのはある意味、日本的なスタイルでもあるような感じがしないでもない。

――次第に個人の問題になったときに、なぜストップできなかったのか不思議なんですが。

 個人が組織の人間として、個人的考えを持たないようにするっていうね。完全に組織に同化させる。森(恒夫)さんとか永田(洋子)さんが指導的な立場にあったわけだけど、当時の左翼運動がそういうスタイルだったわけですよね。私はそうやって党派に完全に属してしまった人間を党派人間と呼んでいるんだけど。森さん、永田さんは党派の活動でもって、成長してきた人間なんですよね。だからまったくの党派人間そのもの。性格に問題があったとかそういうことではなくて。党派にあまりにも忠実な人間になっていたことが問題であったのではないかと思う。

 彼らは私らみたいな大学闘争の経験はないわけですよね。私らが大学闘争やっているころには、彼らは卒業していましたから。森さんは私らの兄貴と同じぐらい。大先輩だから逆らうなんてとんでもない。おやじさん、とみんなが呼んでいた。

党派による革命運動は
だめだと分かった

――当時のことを書いた本を読むと大人びた集団に思えるが、みんな20代だったんですよね。

 そうですよ。私なんか21か22歳。考えたら子どもですよ。体力があるからやれることもあった。

――当時の行動について。「集団狂気」という言葉では説明つかないですか?

 そうではないと思う。ロシア革命以降の、革命が抱える問題が日本でも出てきたということですよ。私自身も党派人間に変えられていった。変わらざるを得ない。山に入る(編集部注:山岳ベース事件)まではせめぎ合い。女性を逃がしたり、それなりの努力はしました。でもそのあたりが限界でした。

――党派人間から解き放たれたなと思ったのはいつぐらいだったんですか?

 捕まってから、この問題を考えなければならないと。党派がする総括はやはり僕には了解できなくて。で、論争する中で、党派人間からだんだん解放された。最初のころは党派が主導権をとらない限り、革命なんてできないという固定観念からなかなか抜け出せませんでした。結局、塩見孝也との論争の中で、「党派とは、党とはなんぞや」ということになって。

 党による革命というのは結局、一党独裁体制をつくるしかない。つまり国家による社会主義。本来の意味での社会主義ではないというところにたどり着いて、「やれやれ」と。それからはもう党派による革命運動はだめだと分かった。それに対抗する形でかつて行われた全共闘運動がどういうことだったのかを逆に考えるようになって。

 今の政治問題にも関わるけど、かつての党派政治が、今は政党政治になり、限界にたどりついている。これを乗り越えるためにはどうしたらいいのか。そこで全共闘運動、一種の自治運動。それがこれからの一種のスタイルとして、新しい運動の方向として追及すべきではないかという思い。個人でもって、自分自身の意見を言う。当時の活動家というのは大して勉強もしてないくせに、党派の理論を言う。それに対して、疑問を持っていたのは確か。好きじゃなかった。

――逮捕後、自供を始めるまで。

 私は最初カンモク(完全黙秘)。森さんの自供があって私も話し始めました。でも党派人間は超えられなかった。当時自供を始めたのは、「この野郎」と頭にきた面もあるけど、自供する過程で事実関係をきちんと残しておきたかった。それが最大の目的。取り調べをする刑事に「(調書を)書け、書け、書け」と。逆に、刑事が勘弁してくれというぐらい(笑)

――いま国内にいる当時の関係者と会うことはあるのですか?

 もちろんありますよ。運動としての交流ではなくて、人間関係としての交流。当時の問題について語ることもたまにはあります。

――ところで植垣さんはもう活動家ではないのですか?

 何をもって活動というかですよね。いわゆる左翼組織の党員としての活動というのはない。個人として、関われる範囲内で関わっています。いろんな問題について語ったり書いたりしている。
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元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(2)
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出所後は外国に来た気分
酒のおかげで溶け込めた


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――出所した途端、「地に足がつかない」という感想だったと植垣さんの著書で拝読しました。

 出てからは四苦八苦でした。生活費稼ぎで。

 とにかく、外国に来たような気分。街の雰囲気が全然違う。会話が成り立たない。出てからの「塀」の方がはるかに高いなあと思いました。そんな中、だんだん世の中に溶け込めるようになったのは酒があったから。酒が入れば相手もだんだん本音で話す。最初は頼まれて始めた夜の商売でしたが、今考えればこれが正解だったのかな。いつまでやっていていいものかなとも思うが。書くこともちゃんとやらないといけないから。でもなかなか両立できません。

――出所した1998年の政治情勢。その前には社会党政権もありました。

 政界再編とか、なんとかは塀の中で聞いていました。でも議会内でのごちゃごちゃは大して意味は無い。むしろ、この政党政治からどう脱却していくのかなという思いで見ていました。その中で、私なりにいけるなと思ったのが、インターネットを使った情報発信。これで交流を作っていく。思えば大学闘争の時代は固定電話でさえ、ろくにできなかった。他の大学との連帯でもわざわざそこに行かないといけなかった。大学闘争としても、結局各大学で孤立した闘いになってしまったかなあと。東京はある程度共闘できたけど、弘前大学とか田舎は……。

――今の大学は新左翼の拠点としての機能はほとんどないようです。大学紛争も下火を極めています。

 当時、私たちが一番反対したのが産学協同。特に大学でも就職問題が問題になっていく中で、共産党は学生の完全就職実現というスローガンを出してきました。それに対して、「就職は個人的行為だ」「大学の自治をいかにつくるかが問われている」と言って、大学紛争でぶつかりました。弘前大学でも盛り上がりました。

今の大学は完全に就職予備校みたいになっています。そんなところで大学の自治とか、学問の独立とか言っても盛り上がりません。学生がまずそんなこと考えていない。国立大学も経営を考えていかないといけない。企業からいかにお金をとってくるかとなると、もろに産学協同。学問が金儲けを考え出すとダメですね。

私のスナックにも
学生はよく来ます

――今の大学はセクト、ノンセクト問わず、政治活動自体、締め付けているようです。

 私がびっくりしたのは、今年連赤45周年(編集部注:1972年のあさま山荘事件から45周年)ということで、東京でシンポジウムをやったんですけど、若い人がかなり参加しました。実は私のスナックにも学生はよく来ます。極左とかじゃなく。

――若物は何を求めて来るのでしょう。

 彼らから言わせると、『あんな風にいろいろできたことがうらやましい』と。自分たちがやろうとしてもとてもできない。今の時代に、どんな形でできるか模索している様子です。

――暴力的な部分をですか?

 ではなくて、いろんな形で。団交とか、大学間連携とか。極左的な面に限定するんじゃなくて、「行動の自由があった」って言うんだね。いろんなことを自由に考えられる状況もあったと。今、大学で自治を叫んでもどうにもならん閉塞感。どうやったら解放されるか(を考えているようです)。

――植垣さんは彼らにどんなアドバイスをするのですか?

 それは自分の頭で考えるしかありません。「失敗してもともとの思いで行動した方がいいよ」とは言います。とにかく行動して経験をしないと、次の問題は見えてこない。私の本を読んだからといって、所詮あの時代の話。これからどういう行動が可能なのかは、いろんな形で行動して、失敗も糧にして経験した方がいいじゃないのと言っています。

 私らの時代は団塊の世代、人数多いし、経済的に切羽詰まっていたわけでもない。今の学生は学費も高い。先生自身への締め付けもあります。管理教育が徹底しています。


――国政について伺っていきます。

 小選挙区制にするときに、保守2大政党制にするとか、戯言を言ってましたけど、そんなんなるわけない。寄らば大樹の影。あとどこかの政党に依存していないといけない。これじゃあ政治家が、個人の存在の意味がない。議員になると何もできなくなるのと同じ。今の議会制度に対抗する運動がつくれるかどうかが今問われているのではないでしょうか。投票率が約50%。なんでこんな選挙が有効なのか。その中で多数党が政権。こんな政治おかしいだろう。政党政治の限界がここにきています。

今は左の側が護憲で思考停止
当時のわれわれ極左は改憲派だった

――政党政治への対抗。

 一つはネットを通じたつながり。そのためには情報発信力が問われます。個人の努力だろうね。

――左派、リベラル派が衰退している要因はどう考えますか。

 左の側が護憲で思考停止しちゃっています。当時のわれわれ極左は改憲派でしたね。天皇制条項排除せよとか。

――護憲で思考停止。

 それが一番大きい。そして党派政治から一歩も抜けられていない。政党政治から抜けられない。共産党も結局、自分たちの党を支持せよということでしょ。それはおかしいだろうと。

 あと当時の左翼、諸党派、みんな同じ組織構造なんだよね。政治局があって、その下に中央委員会、その下に地方委員会……。社会党はよく分かりませんが、共産主義に関わる政党は全部そう。当時のソ連のコミンテルンの傘下に置かれたわけだから。その流れで粛清の策も持ち込まれてしまったと思うんだよね。

 宮本査問事件(編集部注:戦前の日本共産党スパイ査問事件)でちょっと問題になったわけだけど、結局その問題を、ショック死としてしまった。私らが「総括できないやつが敗北死した」と言うのと同じ考え方。まったく同じ思考構造。連合赤軍はもっと派手な形で出た。それは武装していて一つの権力になっていたから。武装するということは権力になるということ。一党独裁的にならざるを得ません。

――そういう組織構造がまずかったと。


そういう組織構造で革命をやるというのは、政党が権力を握るということ。だから一党独裁にならざるを得ません。官僚的軍事的機構が支配します。

――共産党や極左は今もそういった組織構造?

 進歩がないんですね。まだ昔の古い歌を歌っている。当時の赤軍派の連中なんかとたまに会っても、まだ昔の古い歌を歌っている。とてもじゃないけど、おもしろくもなんともない。だから支持にもつながらない。関わろうという気持ちにならないだろう。

――共産党だけを見ると評価が難しくて、ある時は政権批判票を受けて伸びたり、ある時は縮んだり。

 全体で見ると、進歩がありません。しかもロートル化もいいとこでしょ。我々の頃に共産党に入った人が今ものさばっています。

学校でも戦争、軍事を教え
国民皆兵制にすべき

――護憲で思考停止の政党というと。


記者が訪れた夜、酔った客が「植垣は人殺しなんて何とも思ってない」とからんだ。それまで笑顔で受け答えしていた植垣さんは「言っていいことと悪いことがありますよ」と真顔で答えていた

 社民、共産、立憲民主……。憲法改正を自民党が主導して言ってますが、左翼が憲法についてもっと積極的に発言していたら、左翼が力を持っていたかもしれない。ただ護憲であれ、改憲であれ、安保体制を打破しないと、自主的な憲法は絶対につくれない。要するに米軍の従属下にある限り、アメリカの意向を無視できない。

――植垣さんは憲法論議ではどんなお考えなんですか。

 安保条約を破棄したうえで、自主憲法制定。軍隊を持つか持たないかはあまり重要じゃない。大切なのは軍事を知るべきだ。日本人の悪いところは、学校でも戦争、軍事を教えないところ。そして国民皆兵制にすべき。武器の扱いを知るべき。軍隊を持っていてもそれがつぶれれば終わり。本当の戦いはそこからという面があります。

――左派政党も改憲を積極的に言うべきだという考え。極端な話、共産党も改憲を主張すべきと?

 言うべきだ。左翼の定義が変わるだろうね。左翼、右翼という区別がいまや意味を成していないわけですけど。左翼は護憲、右翼は改憲という固定観念は打破していかないと。
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元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(3)
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革命はだめだめ
絶対に無理です


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――今の時代でも、革命は求められていると?

 何をもって革命か。どこかの政党、党派が暴力的に政権をひっくり返すのは革命ではなく、クーデター。ロシア革命もクーデター。政党が政権をもっちゃあいけない。革命は起こすものじゃない、起きるもの。起こそうとするとそこに無理が生じる。無理が生じれば、無理を押し通すことで問題を広げる。連合赤軍もそう。いろんな粛清もそう。……と私は総括してきました。

――過激派の中核派や革マル派は今も革命を狙っていると思います。中核派は一方で、国政選挙にも出ています。

 中核派は選挙出るけど、よくお金あるなあと感心している(笑)。当選しようという考えではないんだろうけど。

 革命はだめだめ、絶対に無理です。昔風のスタイルってのは絶対に無理。考えるのも行動するのも自由だけど、何もできない。

 彼らは所詮革命を起こそうとしている。でも誰も求めていないじゃないですか。革命はやはりどうにもならんという状況、例えば戦前の米騒動とか。民衆の動きに対応できるかどうかが問われている。

 今の政治体制への反抗が投票率の低さに表れていると思う。無関心というよりも拒否感。何をやっても変わらない。この拒否感が何らかのきっかけでぐっと盛り上がることはあると思う。今のいわゆる無党派層、昔風にいえばノンセクトたちがどう動くかで日本の政治はがっと変わるのでは。かつてノンセクト学生が大学紛争の主役だったように。

名前を出さない限り
大した力にはなりません

――ネット右翼についてはどうみていますか。

 所詮自分の名前を出さないでやっていて、どこまで本気で言っているのかなという印象です。名前を出さない限り、大した力にはなりません。わーわー叫ぶのは勝手ですが。ヘイトスピーチも大した力になっていない。名前を出すことはリスクがありますが、出してこその言論の自由なんじゃないかと。連合赤軍の問題でも匿名で出る人いるが、あれじゃあだめ。私みたいにちゃんと顔を出せよと(笑)。

――左派が衰退しているということは、逆に言えば、日本全体が右傾化しているとも言えます。

 日本経済の先が見えないことに対して無思考。考えないで行動してしまう。それが最大の問題ではないでしょうか。マスコミも右傾化してしまっている。朝日、毎日も右傾化しているように思う。朝鮮問題にしても振り回されている。私なんか「出来レースなんだからほっておけ」なんて思う。日本だけ良かれという国粋主義もあります。そういう意味では昔の右翼とは全然違う。

 最近感じるのは、40代後半から50代の世代は、団塊の世代に抵抗感がある。私らに締め付けられた。私らの世代が現役世代を退いたことで、いろいろ言い出したのかなという印象です。反発があるんじゃないでしょうか。団塊の世代がだいたい左だから、彼らは反発で右傾化しているんじゃないかなと。

――ところで植垣さんのスナックにはどんな人が来ますか。

 左翼も右翼も、私たちの学生時代にあった「行動力」に憧れて話を聞きに来る若い人も。やくざも昔刑務所で散々世話したから来ますよ(笑)。

 野村秋介(編集部注:1993年に朝日新聞東京本社で拳銃自殺した新右翼の活動家)の追悼会に、私も毎年呼ばれて行くんだけどね。いわゆる左翼でいえば、ただ一人。でも私は右翼にも結構好かれます。「右翼でも左翼でも最後までケツをふいたのは植垣ぐらいしかいない」という評価だそう。彼らは筋の通った生き方に憧れる。私は裁判闘争もやり、ハイジャックの際も出国を断りました(編集部注:植垣氏は77年に日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で釈放を要求された一人)。そういうところが大きいのだろうなあ。

要は義があるかないか
こんなこと言うと右翼もいいとこだけど

――左派、あるいはリベラル勢力と呼ばれる政党の議席が減ってきています。国民の間でも支持が減ってきているのかも。

 でしょうね。いや、どうかな。投票率50%ということは半分が日本の政治に関わっていない。そこがどう考えているのか。左翼に対しても批判的な層がそこに相当含まれているのかもしれないが。

――左派、あるいはリベラル勢力に対しての提言はありますか。


植垣さんの著書の一部。顔出し名前出しOKで堂々と語る植垣さんは「連合赤軍のスポークスマン」を自任する

 今の日本の方向性をちゃんと出すべきです。

 なぜ人気がなくなっているのか。党派政治の限界とか、いろいろある。私が右翼にモテることと関連するけど、肝心なのは一貫性。それはないわけね。何らかの行動もやってない。ただ騒いでいるだけ。行動が間違ってもいいのだけど、それに対する反省もない。

 フランス革命で『自由、平等、博愛』って言葉があるんだけど、博愛って実は「義」なんですよね。マルクスが最初に作ったグループも「義人同盟」なんですよね。義で同盟を作った人たちって意味。

 一貫性とかなんとか言ったけど、要は義があるかないか。こんなこと言うと、右翼もいいとこだけど(笑)。義を見てせざるは勇無きなり、なんてね。

――では自公に義があるかというとどうなのでしょうか。

 とてもないと思う。義で動くのは少数派かもしれないけど、義で動くかどうかってのも大事だと思うんですよね。

――10月の衆院選の結果についてはどんな感想をお持ちですか。

 こんなもんでしょう。自民党が大勝して、ますます日本はだめになっていくでしょうね。安倍(晋三首相)もかつてのような人気がなくなっているし。小池劇場なんか政治、吹っ飛んでいる。

――立憲民主党が野党第一党。

 一貫性を持っているような気もするが、さあどうなるかね。どれだけ一貫性を持ってやれるか。
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30. 中川隆[-11510] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:57:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[485] 報告

植垣康博


植垣 康博(うえがき やすひろ、1949年1月2日 - )は連合赤軍の元活動家。
現在は静岡市葵区で「スナック・バロン」を経営。


静岡県金谷町(現・島田市)生まれ。父親は農場長で、町の有力者の一人。

静岡大学教育学部附属島田中学校から静岡県立藤枝東高等学校に入学。
地質学に興味を持ち1968年4月に弘前大学理学部物理学科に入学。

大学入学後、なりゆきで民青に加盟するが、学内活動においてはあくまでクラス代表としての立場を取り、必ずしも民青の方針に沿った活動をしていたわけではなかったので、民青幹部から批判を受けることもあった。一方で民青の指示により反代々木派学生の排除(反代々木派学生に対する暴行を含む)を行い、民青・共産党から一定の評価を得るも、反代々木派を全否定する民青に対し、植垣自身はむしろ反代々木派にも一理あると感じたという。やがて民青の反代々木派学生に対する暴行に嫌気がさすようになり、1969年4月に脱退。その後反代々木派に転じる。

1969年夏に弘前大全共闘を結成しバリケード封鎖を行う。その最中、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た際に共産主義者同盟赤軍派に誘われて同党派に参加。10.21国際反戦デー闘争に参加し(但し赤軍派から指示が来なかったので知人のつてで第四インターの隊列に加わる)、新宿で逮捕され、1970年12月中旬まで獄中生活を送ることになった。その後赤軍派の活動に復帰し、横浜・寿町で活動。また、早大生・山崎順(後に山岳ベース事件で殺害される)を獲得。

1971年に赤軍派として坂東國男の率いる隊に入り、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一して連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在となり山岳ベース事件にも加担。榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面する。また、自身も総括要求をされ、一時は正座をするが、それ以上の殴打や緊縛には至らないまま有耶無耶になり、結果的に言葉以上の総括要求をされて生還した唯一のメンバーとなった。

1972年2月16日、妙義ベースに捜査の手が迫ると、植垣ら連合赤軍の残存メンバー9人は長野県佐久市に移動することを決定し、登山の経験のある植垣の先導で雪深い裏妙義を通って群馬県を脱出、長野県に入る。しかしその後、警察の包囲網を突破した気の緩みから、連合赤軍の持っていた地図にはまだ載っていなかった軽井沢レイクニュータウンに迷い込む。2月19日、連合赤軍メンバー3人と共に食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された(残った坂口弘ら5人があさま山荘事件を起こす)。

1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こしたとき、釈放要求メンバーに植垣も指名されたが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。また、連合赤軍事件の公判では森恒夫が自殺(1973年)、坂東國男が超法規的措置で釈放逃亡(1975年)と連合赤軍事件の公判において赤軍派出身幹部がいなくなっており、連合赤軍事件の被告人の中で赤軍派出身として裁判に臨む者は少なくなっていた(連合赤軍幹部として認知度が高い永田洋子と坂口弘は京浜安保共闘出身)。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告を棄却し刑が確定した。未決拘留期間が差し引かれ、残り5年半の懲役となる。1998年10月6日に出所。2005年、自らが経営するスナック「バロン」のアルバイト従業員である33歳年下の中国人留学生と結婚し、一男をもうける。

後年、植垣は12人同志殺しの山岳ベース事件について「集団狂気に陥ったり誰かにマインドコントロールされたわけではなく、集団を支える強固な論理構造があった。自分が森の立場だったら同じことをやってしまった可能性が高いと思う」と述べている。また、自身が生還できた理由については、「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」と述べている。

軽井沢駅で逮捕された理由

植垣は国鉄(当時)軽井沢駅で逮捕されたが、理由はふたつある。

体臭植垣は軽井沢駅のキヨスクでタバコを買ったが、山岳ベースでの逃亡生活のため風呂に入っておらず、悪臭が漂っていた。このにおいをかいだキヨスクの中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。職務質問の際、長野市にない地名をしゃべったこと植垣は長野行きの普通列車に乗り込もうとしたところ、軽井沢署員に呼び止められ、職務質問を受けた。その際、「長野市内幸町の友人宅へ行く」としゃべったが、長野市には内幸町という地名はなかった。署員は「そんな地名はないぞ」と植垣を問い詰めた。これで逃げ切れないと感じた植垣は大立ち回りを演じた末、逮捕された。

著書

兵士たちの連合赤軍(彩流社)
連合赤軍27年目の証言(彩流社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A

31. 中川隆[-11509] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[486] 報告

日刊ゲンダイDIGITAL 「告白」あの事件の当事者
連合赤軍元活動家の植垣康博さん静岡でスナック経営 2018/10/31
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648

「このところ、忙しいんだけど、お金は入ってこない。相変わらずの自転車操業だよ」

 元連合赤軍の植垣さんは、そうぼやいた。

 その表情に暗さはなく、以前会った時と同じように飄々としている。

 植垣さんは、連合赤軍が起こした山岳ベースにおける同志殺害や活動資金調達のための銀行強盗などにより、懲役20年の実刑判決を受けた。1998年の出所後は静岡市内でスナックバロンを営んでいる。

 植垣さんと最後に会ったのは、10年以上前のことだった。その時は彼の案内で、榛名山や迦葉山など、連合赤軍の山岳ベース跡を回った。

 そこは植垣さん自身が同志を殺め、連合赤軍の同志で当時付き合っていた恋人が亡くなった場所でもあった。

 そこでの態度も、特に感情をあらわにすることなく、冗談めかしく近況を語る時とまったく変わらぬ口調だったことが印象に残っている。



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植垣康博さん(提供写真)
植垣康博さん(提供写真)

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 11年ぶりに見る植垣さんは、口調こそ変わらぬものの、少しばかり痩せ、心なしか背中が曲がったようにも見えた。

 営業前の店内で話を聞いた。

 ――忙しいとおっしゃってましたが、やはり連合赤軍関連の取材ですか。

「そうだね。なぜか、このところテレビのドキュメンタリーとかで、インタビューを受けることや、山岳ベースを訪ねたこともあったよね」

 ――事件から、46年が経ちましたが、今も人々の記憶には強く残っているんですね。

「以前は集会をすると、同世代の人間が多かったんだけど、今はトークイベントなどにも20代から30代の若者も多いんだよね。こっちがびっくりしちゃうよね。それは、漫画の『レッド』や若松孝二監督の映画の影響も大きいんじゃないかな」


それにしても、事件を知らない若者たちはどんな思いで連合赤軍を見ているのだろうか。

「のびのび思う存分動き回れた時代で羨ましいです、なんて言う若者も多いよね。今と時代状況が違うから簡単には比較はできないけど、管理教育でがんじがらめの若者からしたら、あの時代が新鮮なんじゃないかな」

 私は思わず、うなってしまった。若者たちは、ひと昔もふた昔も前の青春譚として事件を認識しているのだ。

 仮に20代の若者だと、連合赤軍の事件は生まれる20年前のことになる。その感覚を昭和47年生まれの私に当てはめてみると、太平洋戦争と合致する。

 考えてみれば、私にとって太平洋戦争は、今では取材対象でもあるが、10代の頃には、パソコンゲームで遊んだりする仮想空間でもあった。

 昭和から平成さらに、来年には新たな元号となる時代の流れの中で、連合赤軍の事件は、若者たちによって新たな捉え方をされている。

植垣さんは、来年で70歳になる。事件に関する時代の変化を感じるとともに、日本の行く末や政治には今も一家言持っている。

「このままでは、日本はまずいことになるという思いはあるよね。ただ、安倍首相のひどさにみなが気づきはじめ、これまでにないほど日本を美しくない国にしてくれたうえに、混沌とした状況をつくり出してくれた。むしろ日本を変えるチャンスだと思うよね」

 ――どのような手段がありますか。

「さすがに武装闘争という時代じゃないからね。この経済優先の構造を変えていかないといけない。ただ、高度なテクノロジーは維持しつつ、人口が減っていくことを受け入れて、農業資源などを有効に活用していくことじゃないかな」

 日本の政治と社会に関わり続けていくことは、連合赤軍時代から現在まで変わらぬ姿勢である。 =この項つづく

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648


連合赤軍元活動家の植垣康博さん「パパやったの?」2018/11/07
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

「静岡で“スナック”と検索すると、最初に出てくるのがうちの店みたいで、地元では有名なんですよ」

 連合赤軍のメンバーのひとりだった植垣康博さんは言う。

 1972年2月に起きた連合赤軍によるあさま山荘事件は日本を震撼させた。その時に記録した最高視聴率は、89.7%でテレビ史上最高。いまだに破られていない。

 当時は今以上に左翼が影響力を持っていた時代ということもあり、連合赤軍にシンパシーを抱く者も少なくなかったが、事件後に榛名山や迦葉山の山岳ベースで仲間を殺害していた事実が明らかになると、おぞましさを感じる者も少なくなかった。

 戦後の日本社会を揺るがした事件の当事者である植垣さんは、どんな思いで、生活しているのだろうか。

「連合赤軍のことは死ぬまで向かい合っていかなければならないことだよね。それだから、このスナックを利用して、情報発信の場所としていきたいなと思っている」

植垣さんのなかでは、連合赤軍事件は現在進行形のまま続いている。

「店ばっかりじゃなくて、テレビや雑誌などにも、よく顔を出しているから、仲間からは“極左の芸能人”なんて言われているよ」

 店には、悩みごとを抱えた若者が訪れることも少なくないという。

「行ってみたいけど怖い店というイメージがあるらしいんだ。3回、店の前まで来て帰り、4回目にようやくドアを開けたなんてお客さんもいるぐらい。東京から来てくれる若者もけっこういるよね。今の学校教育というものが、政府に都合のいい人間をつくる画一化したものだから、そこからはみ出してしまうと逃げ場所がない。それで、ここに助けを求めに来る若者もいる」

 植垣さんには、離婚した中国人の奥さんとの間に中学生になる男の子がいる。彼も学校生活には馴染めていないという。

「離婚した時に、父ちゃんと母ちゃん、どっちと生活するかと聞いたら、父ちゃんがいいと言うので僕が面倒を見ているんだけど、学校には行ってないよ」

 ――そもそも、不登校のきっかけは何だったんですか?

「確か息子が小学校4年生の時に、連合赤軍のニュース映像と僕のインタビューがテレビで流れたんだよ。その時、僕は寝ていたんだけど、息子に『パパ起きて、本当にやったの?』と聞かれてね。嘘を言うわけにはいかないからね。それを同級生が見ていて、植垣君のお父さんは危ない人だとなってしまって、無視されたり遊んでくれなくなったりした。同級生の親も遊ぶなとか言ったんだろうね。それで学校に行くのが嫌になっちゃったんだ」

 植垣さんは苦笑いを浮かべながら、話を続けた。

「僕は学校なんて別に行かなくてもいいよという考えだから、気にもしていなかったけど、妻は学校が大事だという考え方で、意見が対立するようになって、離婚ということになったんだ」

――お子さんは昼間どうされているんですか?

「昼間は僕が家にいることができるから、一緒に映画を見たり、世の中のことを話したりしているよ。そもそも学校教育とは何かということから教えて、息子には学校に行かなくても生きていけると伝えている」

 革命を志した男の人生は、世間一般の常識では推し量れないようである。ただ、植垣さんは全く意に介しているようにはみえない。

 日々の生活に行き詰まった人は、植垣さんのスナックに足を運んでみてはいかがだろうか。きっと何か人生を生き抜くヒントが見つかるはずだ。 =この項おわり

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

32. 中川隆[-11508] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:39:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[487] 報告

2010年12月号掲載 おじさんの眼 「緑茶薫る遠州紀行」後編
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/

革命酒場バロン

 この日は、静岡市内に住む従兄弟と会ってそこに泊まろうと思って電話すると、誰も出ない。仕方なしに繁華街のホテルを取った。  夜は、あの獄中27年の元連合赤軍兵士・植垣康博氏の経営する「スナックバロン」に電話した。

植垣氏とは、ロフトプラスワンで何度も赤軍関連のトークをやっているし、元は同じ共産主義者同盟(ブント)で知り合いなのだが、どうも奴とは顔を合わせにくいと思っていた。

 それは一昨年、テアトル新宿で開かれた若松孝二監督作品「実録・連合赤軍、浅間山荘への過程」での公開トークショーで、植垣と塩見孝也(元赤軍派議長)と三人で、激しくやり合ってしまったからだった。

 その時のふるまいを謝る私に、電話に出た植垣は、「おう! 平野さん。是非店においでよ。そんなこと気にする必要はない」と言って、暖かく迎えてくれた。  バロンは、かつて開店記念の時に行った場所から静岡市内の繁華街に移り、店も大きくなっていた。植垣も、そしてお客の元左翼のオヤジ達も健在だった。不定期だが、プラスワンをまねて政治的なトークイベントもやっているみたいだった。

 相変わらず時代錯誤な論争が店内の客同士で展開され、若い子が東大闘争とか全共闘の質問をしていて、どこからか集まって来た老闘士が偉そうに解説しているのを、店長の植垣は、コップを洗いながらニコニコ笑って聞いている。まるでロシア革命前夜の、炭坑街の労働者が集まる酒場のように感じられた。

「この町には不似合いな時代遅れの酒場。三カ月は持たないと陰口をたたかれた(立松和平談)」と言う通り、メニューはまさに刑務所料理に毛の生えた感じだったが、その一つ一つに奴の誠意がこもっていて、それはとても美味しく感じられた。

「出所してから結婚して、子供がもう小学生になる。金も、年金もない。でも、刑務所生活を除けば、俺はまだ20代の青春真っ盛りなんだ。負けるものか」

と植垣がぽつんと言った。しこたま酔っぱらった私は、それを背中で聞いて深夜の店を出た。植垣は、多くの静岡の革命的同志から暖かく見守られているのを確認し、私は心から「よかったな植垣」と心の中でつぶやいた。


刑務所帰りと言ってももうシャバ生活10年もなる。なんだか解らん革命のために青春を刑務所で費やした。あの日々は何だったのか? 何を勝ち得て何を失ったのか、若い人は一度聞きに行くといい
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/

33. 中川隆[-11507] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:49:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[488] 報告


スナック・バロン

〒420-0031 静岡県静岡市葵区呉服町2丁目5−22

電話: 054-221-5236

新静岡駅から368m

地図
https://tabelog.com/shizuoka/A2201/A220101/22021664/dtlmap/


スナック バロン - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF+%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%B3+%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A


植垣康博(@YasuhiroUegaki)さん Twitter
https://twitter.com/yasuhirouegaki

34. 中川隆[-11506] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:54:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[489] 報告

スナック「バロン」の15周年|鈴木邦男の愛国問答-第198回 2016年5月11日


 5月7日(土)、静岡に行ってきた。スナック「バロン」15周年記念だ。でも、ここはただのスナックではない。集まった人たちも、昔、学生運動をしていた人が多い。左翼が主だが、右翼もいる。又、脱原発や人権などの市民運動をしている人が多い。「普通の人」はあまりいない。普通の「酒場の客」はいない。

 このスナック「バロン」のマスターは、実は元・連合赤軍の活動家の植垣康博さんなのだ。

『兵士たちの連合赤軍』(彩流社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120519?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4779120519&linkCode=xm2&tag=magazine9-22


という名著を書いている。詳しいし、それでいて読みやすい。一般的に連合赤軍を調べ、報道しようとすると、皆、この本を読み、そして植垣さんに会う。連合赤軍事件を知るためのテキストだ。そして植垣さんは連合赤軍事件の〈顔〉だ。テレビで連合赤軍が取り上げられる時も、植垣さんが出ることが多い。植垣さんは「兵士」と言っている。その上に幹部たちは沢山いる。しかし、森恒夫、永田洋子は亡くなり、他の幹部たちも獄中にいたり、海外に行ったりして、いない。いる人でも、語りたがらない。「失敗」体験をいくら言っても仕方ない、と思っているのだろう。だから、どうしても植垣さんの所に取材が集中する。又、静岡でスナックをやっているし、誰でも行って、会うことができる。そこで取材の約束もとれる。あるいは客が少なかったら、そこで取材も出来る。又、そこで時々、トークイベントもやっている。ライターや評論家、元活動家を呼んで、トークをやっている。僕も何度かトークをやった。又、格別、用事がなくてもブラリと行ってみることもある。

 植垣さんは弘前大学に入り、そこで赤軍派に入る。「M作戦」をやらされる。「マネー」(資金獲得作戦)だ。いくつかの銀行を襲い、大金を奪う。それが全て成功する。又、ダイナマイトを工事現場から盗む。武装闘争のためだ。連合赤軍が出来てからも参加。山で武装訓練をやり、下りて権力と全面的な闘いになるはずだった。ところが、連日の会議の中では、参加者への批判・攻撃が中心になる。山の中にいて、権力と闘えないもどかしさ。運動はどんどん小さくなる。活動家の力量も落ちている。立て直し、鍛え直さなくては…と森、永田たち幹部は思ったのだろう。それが「総括」の始まりだ。一人ひとり、総括させる。自分の非力・失敗を認める人間には、なぐる、蹴るの総括が加えられる。初めは自分で自分をなぐらせる。でも、あまり効き目がない。「皆で、援助してやれ」となる。「援助総括」だ。その人間が反省し、再生するための手助けだ。でも実際は、ただなぐる、蹴るの暴行だ。そこで死亡する人も出る。

 「総括」をしきれなくて死んだ。だから革命家としては、これは「敗北死」だ。森たちは断定した。そのうち「化粧してくるのは自覚がない」「寝たまま、他人にティッシュをとってくれと言った」…と批判される。「理屈」はどんどんエスカレートする。だが、植垣さんは主体的にかかわる。初めは嫌だったが、途中から「やるしかない」と思い、積極的に援助総括をする。総括する人間をしばり、皆でなぐり、さらにナイフで刺す。アイスピックで刺す。でも、人間はなかなか死なない。これでは、苦しみを長びかせるだけだ、と思い、首を絞めて殺してやった。

 事件の後、逮捕され、その後、27年間も刑務所にいた。刑務所の中で必死に書き、そして獄中から『兵士たちの連合赤軍』を出した。それまで僕は、この事件にさほど関心がなかった。ともかく酷い話だし、残忍な事件だ。我々の運動とは全く関係がない、と思っていたが、読んで驚いた。左翼の運動ってこんなに楽しいのかと思った。又、銀行強盗にしても、明るく書いている。「終わったことだし、これからやることもない」という割り切りがあるから、明るく書けるのか。ともかく驚き、書評を書き、それを出版社にも送ったら、出版社がそれを東京拘置所にいる植垣さんに送ってくれた。そしてすぐに本人から手紙がきた。それで、本人に会いに行った。〈連合赤軍〉と会ったのは、全く初めてだ。手紙のやりとりが続き、刑務所を出た時、彼は実家のある鳥取に帰った。僕はすぐに鳥取に行き対談し、それが月刊『創』に載った。それから、ロフトや雑誌、新聞などで何回も何回も対談した。何十回かもしれない。

 初めは鳥取にいた植垣さんだが、昔の仲間たちが静岡に呼んでくれ、店も用意してくれた。あの植垣さんがマスターだということで、初めの頃は大盛況だった。でも、女の子がいるわけでもないし、客は固定化する。コアな客だけになると、一般の人は入りにくい。それで店の経営も大変だ。でも、大変なのに15年も続いた。たいしたものだ。それで、植垣さんの努力と忍耐をたたえるパーティになった。この日はなんと、植垣さん自らが司会をやる。それもすごい。昔の仲間や反対の右翼の人、作家、マンガ家などを紹介し、挨拶してもらう。作家の山平重樹、マンガ家の山本直樹、元兵庫県警の飛松五男…などが紹介される。皆、「よくがんばった。これからも10年、20年とやってくれ。死ぬまでやってくれ」と激励する。

 でもなー、と僕は思った。いつまでもスナックのマスターでは勿体ない。いい本を書いているんだし、もっともっといろんな場で話してほしい。活躍してほしい。連合赤軍の失敗や教訓についても一番語れる人だ。本当なら作家一本でやってもらうとか、あるいは大学の先生になってほしい。静岡の酔っ払い相手に酒を飲んでいるだけじゃ、勿体ない。「国家の損失だ!」と思ったから、そう言った。「15周年で終わりにしたらいい」「20周年はいらない、30周年もいらない。植垣康博をスナックという、この小さな檻から解放しろ!」と言った。でも、不評だった。僕こそが一番、植垣さんのことを考えていると思ってたのに。

 しばらく本が出てなかったが、今年の夏には久しぶりに本が出るという。出所してから考える連合赤軍事件について書くという。これは楽しみだ。今、連合赤軍はないが、日本社会はむしろ全体的に「連合赤軍化」しているのではないか。小さなアラを見つけて批判し、罵倒する、つぶす。テレビ討論でも、出版される本でも、他人を批判し、他国を罵倒するものばかりだ。それでいて自分のことを「愛国者」だと錯覚している。とんでもない。「愛国者」に愛はない。

 失敗したとはいえ、昔の学生運動家のほうが愛があり、夢や理想があった。そんなことを僕も植垣さんに聞いてみたい。又、〈極限状況〉を見て、耐えてきた人だ。そこから学んだこと。又、地獄をくぐり抜けた先から見た、この日本。そうしたことを具体的に聞いてみたい。そんな本を出したい。スナックはもういいだろう。誰にも出来ない体験をした人だ。それを基に、広く言論活動をやってほしいと思う。
http://www.magazine9.jp/article/kunio/27740/

35. 中川隆[-11505] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:13:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[490] 報告

連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん 2010-11-25
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4

前回、前々回と静岡について書いてきましたが、わたしが静岡に行った理由は「おでん」でも「ガンダム」でもなく、元連合赤軍兵士・植垣康博さんに会うためでした。


植垣さんについて少しばかり。
植垣さんはもともと静岡の出身ですが、地質学への興味から弘前大学へ。
ここで全共闘運動に身を投じ、頭角をあらわした頃、赤軍派と接触。メンバーである坂東國男氏率いる「坂東隊」の一員となり、資金調達のためのM(マネー、マフィア。要は強盗行為)作戦を数々こなしていく。(植垣さん著の『兵士たちの連合赤軍』においては、ここらへんまで非常にあっけらかんと、明るい青春物語のように描かれている)

やがて赤軍派が革命左派(京浜安保共闘)と共闘、連合赤軍を結成するに至り山岳ベースへ合流。
同志殺しに積極的に関わり、最後は他3名と買出しに行った折、軽井沢駅において逮捕される。
この時すでに、「粛清・逃亡・逮捕」によって連赤メンバーは9名にまで減っていた。
植垣さんたち4名の逮捕後、残りの5名があさま山荘に立て篭もり、銃撃戦を展開することになります。


植垣さんと初めてお会いしたのは今年の5月に行われた「リッダ闘争38周年記念パーティー」において。
司会進行をしていた足立監督が、参加者にそれぞれ一言を求めたわけですが、その時わたしも求められたのです。
普段は大勢の前だと、緊張して何喋ってんだか途中で分からなくなるような小心者ですが、この時、なぜか言いたいことがスラスラと言えました。
たしか、以下のようなことを喋ったのだと思います。


「70年安保を中心とした学生運動のドキュメントを撮りたいと思っている」
「ある人に『君はなんだ。興味本位か』と言われた。それをみなさんに言われたらおしまいだが、それでもやらなければならないと思う」
「思想的なことは抜きにして、皆さんがやったことは歴史的に意義があることだと思う」


この時、向かいの方に座っていた若松監督(『実録・連合赤軍』『キャタピラー』)が「そんなもん、興味本位でいいんだ!!」と叱責交じりに檄を飛ばしてくれました。

「興味本位でいい」

今日に至るまで、この一言がわたしをどれだけ奮い立たせたか知れません。


話が終わると、5人くらいの方が名刺を渡しに来て下さり、その中に、植垣さんもいました。

もちろん以前から名前やプロフィールは存じ上げており、こちらから名刺を渡して取材のお願いをしようとも思っていました。
これは願ったりかなったりだ、と取材の申し込みをさせていただくと、すんなり「いいよ」。

そしてアウトサイダーアート展でもお会いし、改めて、ちゃんとお願いしよう、ということで今回植垣さんの経営されている『スナック・バロン』にお邪魔した、というわけです。

当日はあいにくの雨降り。
7時開店とのことなので、少しコーヒーなど飲んで暇をつぶしてから、市役所近くにあるというバロンを目指しました。

駅からやや歩き、市役所を見つける。
この近くか、とキョロキョロしながら向かいの雑居ビル郡の看板を見回すと・・・

あった。

ふしぎな酒場 スナックバロン。


中に入るとけっこうな雨のせいか、客はおらず。このまま0時過ぎまで、ずっと二人でお話させていただけました。
ちなみにいつもこうかと言うとそんなことは無く、わたしが前もって電話したときは非常に忙しそうで、二度にわたり「ゴメン、今はちょっと忙しいからあとで!」となりました。

「僕のこと、おぼえてますか」
そう聞くと植垣さんは「ああ、なんとなくね」とのこと。とりあえず生中を頼み、思い出してもらうべくアウトサイダーアート展で撮った写真を渡し、リッダ闘争38周年記念パーティーのことなどをお話しする。


ここからは覚えていることまで。
というのも、しっかり飲んでしまったため、記憶が曖昧なのです。また、話が非常に興味深く面白い。話しているとお酒がうまくなる。
植垣さんはそういった人柄の方です。

以下、メモを頼りに。


連合赤軍事件は、挑戦して失敗した世界である。

森氏・永田さん・坂口氏らに対し、恨みは持っていない。
しかしその後の裁判ではもっと頑張れたのではないか。(※1)

殲滅戦とは
相手の戦闘能力を無くすこと。殺すことではない。それが何時の間にか殺すことになってしまった。

革命を、起こした後どうするか、なんてことは考えていなかった。
後は誰かがどうにかしてくれるだろう、と。とにかく革命を起こさねば、という気持ち。

植垣さんをオルグした梅内さん
大阪のどこかにいるらしいが、詳しくは不明。別に隠れてるわけじゃないんじゃないか、と。

進藤さん(坂東隊の一員。総括により死亡)のお連れ合いだったMさんについて。
元芸者さん。
連赤事件後はタクシーの運転手と結婚。しかしその方は労働組合のリーダーをやっていたため、会社の雇ったヤクザに殺される。
現在は大阪の某所に。

ダッカ事件で日航機に乗り合わせていた乗客がバロンに来たことも。
ハイジャック時、丁寧な物腰だった実行メンバー(日本赤軍)たちに「なぜこのような人たちがテロをやるのか」と疑問に持ち、その話を聞きたく、植垣さんを尋ねた。

『実録・連合赤軍』について
植垣さんとしては不服。若松監督の思いが強すぎる。『レッド』の方が余計な演出もなく、事実に忠実である。(※2)

今、語ることは辛いか。
ぜんぜんそんなことはない。

逮捕された時の映像。すごい怖い表情だったが。
あれは凍傷で足が痛かった。(※3)

不屈というか、極限状態でも常にポジティブだが・・・(総括要求されても、最初は笑ってごまかしていたほど)
基本的に目の前の問題に常に前向きに取り組む。挫折とは無縁。

本であまり描かれなかった部分。死臭について。
それはもう、ひどいもんだった。(※4)


以上です。

(※)についての補足。
(※1)連合赤軍の指導部・トップの3人。
リーダーであった赤軍派の森恒夫氏は、永田さんと共に逮捕された後、自らの犯した過ちに耐え切れず拘置所内にて73年1月1日自殺。
ナンバー2的立場で、森氏と共に同志粛清体制を敷いた革命左派・永田さんは、逮捕後数々の本を上梓。死刑が確定しているも、現在病床にて重度の意識障害と危篤を繰り返す。
かつて永田さんと事実婚状態にあったナンバー3の革命左派・坂口氏はあさま山荘で最後まで銃撃戦を闘い、逮捕後は手記や歌集を執筆。死刑確定。

(※2)若松監督が粛清で殺された遠山さんを物語前半の主人公としたのは、彼女が監督自身の作品『赤軍 - PFLP 世界戦争宣言』の上映運動を担う一員だったから。(本人談)
この上映運動のメンバーには、後にリッダ闘争で銃撃戦を行う岡本公三氏も含まれている。
あらゆる面において「監督の思いが強くなる」のは仕方のない事だと思う。映画は映画なのだから。一方で当事者として一言があるのもまた、仕方のない事ではないでしょうか。その意味で極めて地味だが作品としてものすごく尖っている『レッド』(山本直樹先生によるイブニング連載・連赤事件をモチーフにした漫画)を推すのは必然かもしれない。

(※3)この映像、2:59付近に若き日の植垣さん、逮捕直後の様子が。

こわい。

(※4)なぜこのようなことを聞いたかというと、植垣さんの『兵士たちの連合赤軍』においては、極めて整然とした文章で総括とそれによる死の様子が描かれている。
これは反省的な文章を避け、事実をありのままに読んでもらいたい、という思いからですが、実際に総括を受けた方々は縛られた上にいわゆる「垂れ流し」を強いられ、ボコボコにされて死んでゆく。
このような凄惨な状況で「臭い」があまり語られないのが個人的に不思議でしょうがなかったからです。おそらく麻痺していた、というのもあるとは思うのですが・・・
植垣さんたちが逮捕された原因のひとつに、駅の売店員が感じた悪臭というものがあるのですが、これはおそらく死臭もまざっていたのではないか、と思います。

わたしはこの後吐くまで飲み、フラフラで宿に戻りました。

余談ですが、何かのキッカケで「隣駅のガンダム観にいってました」という話になりました。

ガンダムと言えば思い出される何人かの方々のうち、キャラクターデザインで今も漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を連載している安彦良和先生。
彼は弘前大学時代の植垣さんの先輩にあたり、学生運動(反戦委員会)のリーダーを務めていました。
後にそれが原因で除籍処分を受けるそうですが、植垣さんの著書『兵士たちの連合赤軍』によると
「元民青の幹部で、今日でこそアニメーション映画で活躍しているが、その当時は、多くの学生から信頼されていた活動家だったのである」
とのことです。


___

コメント

1972年琉大でも殺人があった (びせ)2013-11-02 23:57:49

1972年沖縄・琉大でも中核派による殺人がありました。
殺す相手は革マル派の幹部のつもりだったようですが、実際殺されたのはなんの関係もない一般の学生でした。中核派は自分たちの新聞に「今は戦時中で、彼(安里君と行った)は流れ弾に当たったんだ」と書いてあったそうです。

当時現場にいた私の友人は警察から呼ばれ、裁判に赴き、「犯人は被告席の男だと証言した」と言っていました。彼の証言を聞いて傍聴席にいた女性が大きな声で「ワー」と泣き喚いたと言っていました。被告の彼女だったんだろうと言っていました。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4

36. 中川隆[-11504] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:39:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[491] 報告

連合赤軍を巡る 【2】 榛名ベース - ちくわブログ 2010-12-24
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6


前回のエントリ 連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん にて静岡を訪れ、そのままある方にお会いするため大阪に向かいました。しかし40年前の縁を手繰り寄せるのは、わたしのような者にとって簡単には行かず、断念せざるを得ない状況となりました。

一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。

以下は当日つけた記録に加筆したものです。


高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。

以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。


熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】


ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。

手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。

慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。


次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。

うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。

ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)


・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)


いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。

死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。


これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。

世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。


その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。


次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6

37. 中川隆[-11502] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:54:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[493] 報告

連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース 2010-12-26
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226

前日、日が暮れて断念した迦葉山からまわる事にしたため、朝の8時から行動開始。メル斗さんとホテル前で待ち合わせ。

高速を使い、迦葉山へ。

【迦葉山とは・・・(以下wiki)
迦葉山(かしょうざん)は、群馬県沼田市上発知町に位置する、標高1322mの山である。
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。】


細い道へ入る山道の近くに車を停め、ベース付近へ進む。
沢の近くを歩く。空気もうまく、普通に来たなら観光として楽しめる山道だろう。

やや歩くと、ベースの目印となった“タンク岩”と呼ばれる巨大な岩が。

そこから少し歩き、小さな橋を渡り、川の曲がっているあたりを撮影する。恐らく、このあたりにあったのではないか、と・・・

山から降り、連赤メンバーが連絡に使ったバス停を見学することに。ちょうど、「間もなく迦葉山」と記してある天狗の看板が見える場所にある。

バス停は古びたものだが、昭和50年くらいに建て替えれられたものとのこと。


迦葉ベースにて総括によって殺されたのは以下の3名。(死亡順)


・山本順一 (革命左派)
・大槻節子 (革命左派)
・金子みちよ (革命左派)

金子みちよさんのお腹には、後にあさま山荘で銃撃戦を展開する吉野氏との間にもうけた子供がいた。

この後、殺された山本氏(夫人、生まれたばかりの赤ん坊と共に一家で山岳ベースに参加していた)の夫人が脱走。続いて革命左派の前沢氏も脱走する。
さらに革命左派・中村さんが連絡のために乗ったタクシーで、自殺志願者と間違われ通報される。この時抱いていた山本氏の子供も保護される。

次いで妙義山へ。
【妙義山とは・・・(以下wiki)
妙義山(みょうぎさん)は、群馬県下仁田町・富岡市・安中市にまたがる標高1,104メートルの山である。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。また、国の名勝に指定され、日本百景に選定されている。】


来る途中にも、特徴的な切り立った山の姿が面白く、一度車を停めてもらい、その姿を眺めた。

山道付近の宿舎前に車を停め、熊除けの鈴をつけ、山に入る。

今までとは違い、そこそこに険しい道で、道というより獣道。三脚はメル斗さんが持ってくれたが、5Dmk2とDVX100を首からぶら下げた身にはいろいろとつらく、気温の低さにも関わらず途中で汗が噴き出してきた。


ある程度の深さまで入ったが、これより先は本格的に厳しい道をしていた。今日中に向かわなければいけない、軽井沢のあさま山荘までに日が暮れるのでは元も子もないので、それらしいもの、を見つけたが違うのではないか・・・と結論。付近を撮影し、下山した。

妙義山ベースは簡易的な洞穴のベースであり、外から見ればただの岩で、現存しているというので期待して行ったが、残念だった。


妙義ベースにて総括によって殺されたのは以下1名。


・山田孝 (赤軍派)

山岳ベースの総括による最後の死者。
山田氏は赤軍派の政治局員で、本来だったらリーダーである森氏より序列が上の人。総括にかけられた直接の原因は「任務中に銭湯に入ったから」というささいなもの。

最後の言葉は「総括しろだって! ちくしょう!」

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226

38. 中川隆[-11501] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:02:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[494] 報告

連合赤軍を巡る 【4】 あさま山荘 2010-12-27
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869

迦葉山、妙義山を歩いた後、軽井沢に移動。あさま山荘のある別荘地へ。
途中、有名な“治安の礎”を見学。線香をあげ、手を合わせる。これは主に、亡くなった二人の機動隊員に対するもの。


供え物には割と新しいビール、酒等が置かれていた。
定期的に誰かが来ている様な気配だった。

今の時期はオフシーズンのため、別荘地はゴーストタウンのように閑散としていた。
また店舗物件には空き家も多く、バブルの名残を感じさせた。
山道をぐるぐる車でまわること数分。

目の前に浅間山が見える素晴らしい立地に、あの、見た事のある山荘が。
「ああ、これか」と一目で分かった。身震いするほど脳内と同じものが、目の前に現れた。

事件当時から下の部分が増築されているが、形や雰囲気は不思議に思うくらいそのまま残っている。
ただ圧倒的に屹立していて、他の別荘郡とは一線を画していた。
幾度もテレビ等で見た、坂口氏がガラスを割って顔を見せるシーン。機動隊突入時に彼らの主戦場となったベッドルーム“いちょうの間”もそこから見える。

あさま山荘に立て篭もったのは、坂口弘(革命左派)・坂東國男(赤軍派)・吉野雅邦(革命左派)・加藤倫教(革命左派)・加藤元久(革命左派)の5名。

道を回ってメンバーの侵入ルート、つまりモンケンで破壊された壁の部分が見える上部分から山荘を見ることに。
その道中、隅の方に小さなお地蔵さんが。ある方が匿名で、犠牲者三名(民間人1と機動隊員2)を慰めるために建てたものという。ここにも手を合わせる。

道には屋根部分が面していた。モンケンによる破壊作戦を行うため、おそらくここに重機が横付けしたのであろう、と思われる小さな駐車場もある。

主に攻防はこちらで行われていたという。こちら側にいくつもの銃眼が作られ、機動隊と交戦した。
報道資料でよく見るのが反対側のため、印象はあちらが強いが、まさにここが戦場となったのだ。

あさま山荘の銃撃戦では連合赤軍メンバーによる銃撃により、3名の死者が出ている。

・田中保彦さん (民間人)
・高見繁光 中隊長
・内田尚孝 警視

田中さんは新潟でスナックを経営していたが、この事件を知り、機動隊の阻止線をかいくぐってあさま山荘まで駆けつけた。
バリケード封鎖された玄関口で「文化人だからあなた方の気持ちは分かります」と言い、人質の牟田夫人との身代わりになることを求めたが、中からの坂口氏による忠告が届かず、警察側のスパイとみなされ銃殺されてしまう。
坂口氏の『あさま山荘1972【下】』には、短くではあるけど、田中さんという人物について描かれている。
一人の男が歩んだ少し寂しい人生が、ひとつの事件と交差したことで起きた悲劇だけれど、それを気にしたり同情したりする人はもう、殆どいないのかもしれない。


山を降りたころにはすっかり暗くなっていた。
せっかくだから、と、植垣さんたちが逮捕された軽井沢駅へ。駅舎は新しく建て替えられているが、当時のものも保存されているとのこと。
もう遅い時間で閉まっていたが、建物の全容を見ることはできた。

すぐ横に派出所があり、植垣さんはここに連れてこられたのか、ストーブを蹴ったという交番はここなのだな、と思い、納得したりした。

交番内には、今でもそこかしこで見る、赤軍の手配書。
この事件はまだ終わっていないんだ、といつも思う。

この旅から帰って二日くらい、頭が重く、なんだかボヤボヤとしたものが心にあった。
何なのか分からないが、憂鬱とも違う感情にとまどった。
おそらく、客観視していたものが突然目の前に現れたことによる驚きが尾を引いていたのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869

39. 中川隆[-11500] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[495] 報告
福ちゃん荘に行ってきた 2013-05-08
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp


福ちゃん荘とはいわゆる『大菩薩峠事件』のあった場所で、まだまだイケイケドンドンだった赤軍派が首相官邸襲撃のために武装訓練をしようとして山小屋・福ちゃん荘に集結。そのことが当局に筒抜けだったために参加者53名が一挙に逮捕されるという、ある意味で赤軍派の「細かいことはあまり考えない」「とりあえずやる」的な部分が思いっきり露呈したアレな事件なんであります。

メンバーにはお偉いさんも含め、中には高校生もいたという。
そんなわけでこの事件は事実上リーダー不在の中からうまれた『連合赤軍事件』の、いわば引き金となった事件なのです。時系列で追っていくと、この後最高指導者・塩見孝也さんは逮捕され『よど号事件』が起こり、さらに重信房子さんはアラブに発ち…と続き、連合赤軍に繋がります。

では当日のことを。
高崎からメル斗さんと車で出発。当日は快晴でした。

途中、なぜかダムによりダムカードをゲットし


落ちると死ぬであろう絶景に金玉をキュッとさせつつ

雪が残る道を走り

あっというまに大菩薩!!!

とかそんなわけはなく、福ちゃん荘はグーグルマップに登録されてない場所にあるのでアタシらはさんざん迷った挙句、ここまで来ました。

というか福ちゃん荘ホームページにあるアクセスページのさらにアクセス地図ページのさらに案内ページがすごくわかりやすいことに今、たった今気付いた。
上日川峠の案内


このページ見てなかったので、写真にある山道登りつつも「本当にこっちでいいのかしら」と二人して不安な表情をしていました。
しかし思い切って登ってしまえば、そこにはしっかり福ちゃん荘がありました。記事トップの写真です。
屋根にしっかり書いてある。ここが伝説の地・福ちゃん荘だ。

向かいには綺麗に山が見えます。あれが大菩薩峠なのかな。

とりあえず中へ。泊まるわけでもないので、とりあえず「ここで飯食う」というのが目標でした。入ってすぐの食堂。

山菜ラーメンを食ったよ!

恐らく、当時娘さんだったであろうお店の方とお話し、撮影させていただく。
食堂奥には事件に関する新聞や雑誌の切り抜きが額に入って飾られておりました。

昨年お亡くなりになった若松孝二監督のサインも懐かしいチラシと共に。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では福ちゃん荘がそのままロケ地として使用されているのですよね。

土産物コーナーで登山記念バッヂを購入。


横に回ると、こっちが本当の玄関。


この看板だけは事件当時から変わっていないそうです。確かに、当時の報道写真にも写っています。

この後、少しお部屋も見せてもらい、また今度は泊まりに来ますと約束して出ました。


行ってみて納得したのですが、こちらの山小屋はやや開けたところからちょっと登った、少し奥まった場所にあるのですね。だから赤軍派はここを訓練での宿泊場所に選んだのだろう、と。あえなく逮捕された当時の写真なんか見てると、寝起きに突入されたもんだから、おパンツ姿で逮捕されてたりしてあらあら…という感じです。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp

40. 中川隆[-11499] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:22:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[496] 報告
2018-05-18
山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000

レッド(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2007-09-21
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063723224/saiusaru-22/

レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2015-02-23
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063770885/saiusaru-22/

連合赤軍事件については当事者である永田洋子、坂口弘、植垣康博、坂東国男がそれぞれ手記を出している。吉野雅邦の友人の大泉康雄も本を出している。

坂東国男の本以外は、かなり繰り返し読んでいるけれど、それらの本の印象的な部分が取り入れられているなあと思う。事件の一連の経緯も分かりやすい。

ただそれぞれの一巻を読んだ時点で、気になったことがあるのでそれを書きたい。


永田洋子(赤城)の描写が気になった。

「基本的にはあったことをそのまま書いている」が「フィクション」と銘打っているのは、作者の解釈を入れたかったからか。

個人的にはその解釈が、永田洋子に対して厳しいのが気になった。

以下、漫画の内容に言及する箇所だけ()内に漫画の人名を記載している。

気になった箇所をあげてみる。

坂口弘(谷川)が永田洋子(赤城)に結婚を申し込んだとき、彼女の女性としての部分を利用しようとする気持ちがあった、というのは永田も感じているけれども、坂口弘本人がそう書いていたと記憶している。

「収監される前に、女性の体を知っておきたい気持ちがあった」「彼女ならば、自分が出所するまで待っていてくれているのではないか、という気持ちがあった」と書いていたと思う。

漫画では、坂口(谷川)は永田(赤城)に好意を持ったから申し込んだのに、永田(赤城)が「あなたはこういう魂胆があるのだろう」と邪推しているように見える。

この坂口弘による永田への結婚申し込みは、当時、革命左派内で女性がどういう扱いだったかという一例になるので、ここはきちんと描いて欲しかった。

こういうことが全て、後の山岳ベース事件における総括につながってくるからだ。

このあと結局結婚したのは、永田は「坂口氏ときちんとした愛情関係を築いてみたいと思ったから」と言っていたと思う。

これを入れるのと入れないのとでも、相当永田に対する印象が変わる。

また他にも公判を傍聴した永田(赤城)が怪我をさせられたあと、吉野雅邦の家に厄介になるのだが、その時の印象を吉野(吾妻)の母親は「強引な人」と同時に「人なつっこい人」とふたつの印象を持っていたと思う。

それが漫画では「強引な人」という印象ばかりが強調されているように見える。

また遠山美枝子(天城)に、腫れ上がった自分の顔を見るように強要するシーンは、かなり誇張されているように感じる。

同じ遠山美枝子(天城)の総括に関する場面で、「遠山に着替えをさせる。そういう援助は必要では」という永田の言葉は、「甘い」と咎められるのではないか、と思いながらも思いきって発言したと言っている。

そういう葛藤や場の雰囲気が、漫画では反映されていないのも気になる。

こういうところを見るとどうしても、永田という人物をある一定方向に印象づけたいのかなと思ってしまう。

一巻を読んだだけでもこういう印象なので、ずっとこの調子か? と心配になる。

人は自分が信じた「正しさ」の構造に、たやすく閉じ込められる。

決して永田洋子にもこういう事情があったんだ、同情しろ、と言っているわけではない。

連合赤軍事件はそれぞれの記憶も主張も感じたことも、同じことを経験していながら微妙に違う。

誰の視点に立つかでだいぶ印象が変わるのだが、1979年に出た第一審判決(石丸判決)を始め、永田洋子の性格や個人的な資質に原因を求める論がかなり多い。

この事件の最大の責任が、森(漫画では北)と永田にあるのは間違いない。

ただ永田洋子の性格や彼女の個人的な資質に事件の主因を見出すのは、かなり安易な見方だと思っている。

本当にこの事件を描こうと思うならば、流されないように常に気をつけていないとどうしてもそちらへ流されてしまう。

何故なら「ブスで性格が悪い女が権力を握って増長し、自分に逆らう人間を殺し、自分より才色が優れた同性を嫉妬から殺した」という解釈は、聞いているほうからすれば「単純明快でわかりやすいから納得しやすく、なおかつドラマとして描くうえで面白い」論だからだ。

ちなみにこれが塩見孝也が永田に求めた総括らしい。(永田の言によれば。)

特定の個人の人格や行動の動機を悪意のみで解釈して事件の原因とするのは、永田たちが殺害したメンバーに強いた理屈とまったく同じだ、と思う。

「人は自分が信じた正しさの中に閉じ込められると、他人の人格や身体を破壊することさえ何とも思わなくなる」「そしてその正しさの構造に、誰もがたやすく閉じ込められてしまう」ことこそ、この事件の主因だと思っている。

だから特定の個人の人格に事件の原因の全てを見出す言葉を見るたびに、事件と同じ構造を見るようで非常に残念な気持ちになる。

そういう解釈でこの事件を描きたいと考えているならば仕方ないが、「あった事実をそのまま描く」ことを目的としているのならば、分かりやすく刺激的で手軽な「悪女、永田洋子が事件を主導した説」は意識的に避けて欲しいと思うのだ。

「新組織における女性リーダーの座をめぐる争い」と見られがちな永田の遠山美枝子に対する総括要求は、「新組織において両派のうち、どちらが主導権を握るか」という争いの要素のほうが大きかったと思う。

つまり永田洋子においてのみそういうものがあった、と指摘されがちな心の機微は、彼女特有のものではなく、事件に関わった全員の心の中にあり作用していた、と思うのだ。

森は革命左派を迎えにいかせるときに、「水筒を持ってこなかったこと」を批判するように伝えており、すでに主導権争いを仕掛けていた。

そういう赤軍派に対して革命左派の面々は不満を募らせており、「そちらが批判してくるのならば、こちらも」という潜在的な争いの中で起こったのが、永田からの遠山批判なのだと思う。

人間関係でよくある「そういうこというなら、お前だって」という構図だ。

そして何故、そういった主導権争いを森が仕掛けたのかと言えば、革命左派の持つ銃や処刑の「実績」に、森が強いプレッシャーと恐怖を感じていた、と板東国男が書いている。

遠山批判は、森にとっても渡り船だったのだと思う。

それまで「幹部の妻」で赤軍派では特別扱いされていた遠山には、森も遠慮せざるえなかった。植垣なども「ちょっと面倒臭くてやりづらい」心境を吐露している。

森は自分にとって目の上のたんこぶの遠山を排除しつつ、彼女をスケープゴートにすることによって革命左派との連携を強めたのではないか。

日常生活の延長線上にある事件

連合赤軍の山岳ベース事件で起こった色々な出来事の構図自体は、日常生活でも「あるある」なものが多い。

「日本の組織が抱える構造的な問題だ」と四角四面に考えるまでもなく、こういう微妙な人間関係の力学は、日常的に学校でも会社でもよく見る。

自分がこの事件を恐ろしいと思うのは、そういう自分が日常でいくらでも見てきた「こういう構図、よく見るなあ」「こういうことってあるよなあ」「こういう人っているよなあ」「自分もこういう部分があるかもしれない」と思うことが、歯止めがなくなればここまで凄惨な結果に行きついてしまうというところだ。

この事件は「異常者が起こした異常な事件」ではなく、「思想にとりつかれた未熟な若者たちが引き起こした事件」でもなく、自分も含めた普通の人が生きる日常の延長線上にある事件だと思うのだ。(あの時代の学生運動は現代から見ると異様に見えるが、当時は多くの学生にとって日常の延長だった。)

ある構造の中に閉じ込められている、という一点の条件を加えるだけで、日常的に経験しているものがここまで恐ろしいものになりうるのか。

そしてこの構造に何かの拍子に閉じ込められたときに、自分がその構造の外では「異常」と言われる思考や行動をしている、と気づくかどうか。

塩見孝也が永田洋子にしたこの事件の総括の「指導」や、立松和平の「光の雨」のように、自分が連合赤軍事件が起こった構図と、そっくり同じ構図を再生産していることにまったく無自覚なままこの事件を解釈しようとしている意見を見ると、ある思考やシステムに一度取り込まれると、その外に抜け出すのがいかに難しいかということを思い知らされる。

立松和平の「光の雨」は、総括の理屈を内包してしまっている。

「光の雨」は、「他人の自己実現に、自分が関与できるという欲望の発露」が総括の本質と同じだという点を、大塚英志が強く批判している。

自分も「自分の言葉は、他人の主体を変革するほど価値があり力があるはず」と考える傲慢さこそ「総括」という概念の醜悪さだと思っている。

「結果的に」「ためになった」とその相手本人が考えてくれるのはいいと思うけれど、それは言う側が「相手のためになるはずだ」と考える、ましてや相手が受け入れないときに押し付けていいものではない。

「光の雨」は、坂口弘がモデルになっている主人公の話に若い男女が真剣に耳を傾けて、援助交際をしていた女の子が「私、自分を大事にしようと思ったの」という結論に達するという筋だ。

これをこの事件のモチーフとして用いてしまうとは。

「自分たちの言動によって、他人が自己実現する」

この「総括」の発想をそっくりなぞって肯定的に描いているのに、そのことに無自覚なまま終わるのがこの小説の怖いところだ。

「光の雨」を読んで思ったことは、連合赤軍事件のメンバーたちが行った総括の根っこにある、「自分の関与によって他人を変えたい。その事実をもって、自分の言動の価値を感じたい」という欲望は、人間にとって抑えがたいものなのだろう、ということだ。

この欲望が根底にある「総括」という概念を否定するために、主人公が自分が正しいと信じた思想と犯した罪の深さを必死に訴えても、今の若い人たちは退屈そうに聞いている。いや、聞いてすらいない。

結果、「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のことに気づくことが、この事件にふさわしい結論じゃないかと思っている。

どれだけその人にとって大切で切実で正しいことでも、他人にはあくびが出るほど退屈で聞く価値のないものであることもある。それが多様性なんじゃないかと自分は思う。

全てがそうだと寂しいけれど、「そういうことが時にあることは、人がそれぞれ違うという健全さでもある」と思うことが大切なんじゃないかと思う。

「結局、伝わらなかった、分かり合えなかった」それでいい

結局「総括」の構造から抜け出ないまま、この事件は終わるのかなと思っていた。

そんなとき、塩見孝也が死んだときに書かれた雨宮処凛の文章を読んだ。

塩見孝也とのコミュニケーションのとれなさ、その困惑があけすけに書かれている。


「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。

(引用元:「雨宮処凛がゆく!」第431回「革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻」)

これを読んだとき、笑ってしまった。

「正しさ」を受け入れられない人間は、その人格を傷つけ罵倒しても構わない。

その赤軍派の「正しさ」の構造こそ、連合赤軍事件の構造の片親であり、そこで殺し殺された人たちが閉じ込められたものだった。

そのことにあの事件から四十年以上たっても気づかず、まったく同じことを繰り返している塩見孝也に、その「正しさ」を気にもとめない言葉を言う人がいて良かった。

「マルクスも読んでいないなんて左翼でも何でもない」という言葉が最大限の罵倒であると考える価値観と、「そんなものは痛くも痒くもない」という価値観が何ひとつ分かりあえずに並ぶさま、そしてそれでいいんだと思えることが、この事件の結末に最もふさわしいと思うのだ。

この記事に書いているようなこともまったく考えず、塩見孝也が自分の思想や正しさを最後まで信じて死んだのなら「自分が正しいと考え、相手のためになると思った言葉なんて、他人には意味がないし伝わらない。そもそもろくすっぽ聞いていない」という事実を彼自身が証明したことになる。

それでいいと思う。

それが連合赤軍事件の結論に最もふさわしいと思う。

「どんなに正しいと思っても、それが伝わらないこともある。分かりあえないこともある。そういうこともある」

そういう考えを常に持っておくことが、「正しさ」の中に閉じ込められそうになったときのために大切なのかなと思った。

連合赤軍事件関連書籍


十六の墓標 上―炎と死の青春
永田 洋子 彩流社 1982-09

あさま山荘1972〈上〉
坂口 弘 彩流社 1993-04-01

革命左派側で起こったことや流れは、この二人の本を読むとだいたいわかる。

この二人は山岳ベースを退去するまでほぼ行動を共にしていたのだが、大まかな出来事はともかく、記憶や心境や観察にはかなり食い違いがある。

「川島豪が自らの奪還を指示したのか」などは事件の原因につながるので非常に重要だと思うのだが、今となっては真相を知る術がない。


兵士たちの連合赤軍〈改訂増補版〉
植垣 康博 彩流社 2014-11-19


赤軍派から参加した植垣康博の本。幹部だった上記二者の本とは、かなり雰囲気が異なる。

植垣康博はインタビューで「永田洋子は普通の人」と答えていたが、この本を読むと「普通の若者たちが起こした凄惨な事件」という印象が深まる。


「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート (祥伝社文庫)
大泉 康雄 祥伝社 2002-04


吉野雅邦の学生時代からの友人だった大泉康雄の本。

吉野が金子と付き合う前からの友人であり、吉野と金子が付き合った経緯や、付き合ったあとにみんなで遊ぶシーンも出てくる。

大泉本人は学生運動には関わっていないので、事件の記述よりも吉野と金子の交流や人柄が中心に描かれている。

金子みちよは恋人の吉野雅邦を支えるために学生運動に加わったのだが、山岳ベースに行く前に大泉に「わたしたち、馬鹿なことをしていると思う?」と聞くなど、運動に対して冷静な目も持っていたと思う。

山岳ベースでも反対の声を上げたり、最期まで総括に屈しなかった彼女のことを思うと胸が痛い。

二人への優しい気持ちと友情が伝わってくる本。読んだことがない人はぜひ。

連合赤軍「あさま山荘」事件―実戦「危機管理」 (文春文庫)
佐々 淳行 文藝春秋 1999-06-01

あさま山荘に突入した警察部隊の指揮をとっていた佐々淳行の本。現場がどのような雰囲気だったか、ということがよく伝わってくる。

この本で印象的だったのは、著者の息子が学校で「警察官や自衛官の子供は立ってください」と言われて教師から色々と言われたという箇所だ。

現代だったらあり得ないことだと思うのだが、そういう時代だったということも感じとれる。

光の雨 (新潮文庫)
立松 和平 新潮社 2001-08

「連合赤軍事件を描く上で、よりによってこのモチーフを用いるか」「山岳ベース事件以外のことが、そこに至る経緯も含めてほとんど書かれていない」という不満もあるが、それを差し引いても余りに安易な設定では……と思う。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000


41. 中川隆[-11498] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:53:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[497] 報告

2016-07-31
連合赤軍事件は「オタク」が起こした事件だった? 
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍 −サブカルチャーと戦後民主主義ー」の感想
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744


「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
大塚 英志 角川書店 2001-05-01
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4044191093/saiusaru-22/



この本の内容

題名を見ると「連合赤軍事件関連の本かな」というイメージですが、どちらかと言えば副タイトルが表すサブカル論の比重が強いです。

サブカル論の枠組みの中で、サブカルチャーという分野が興隆する直前の時代に起こった連合赤軍事件を語るという大変面白い試みをしています。

著者の大塚英志は、漫画「多重人格探偵サイコ」の原作者として有名です。


多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)

多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)
作者: 田島昭宇×大塚英志
出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
発売日: 2012/09/01
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いま見たら、24巻で完結したらしいです。7巻くらいまでしか読んでいない…。

本書で大塚英志は「若者の自己実現や自己表現の手段が、学生運動からサブカルに移り変わった」というような論も展開しているのですが、自分もこの意見に賛成です。

結局、「学生運動」も「共産主義思想」も、その時代の若者の自己実現の道具に過ぎなかったのではないか、そう思います。

それが今の時代はアニメや漫画、ゲームなどのサブカルにとって代わったのではないかと思います。

連合赤軍の言動を今の時代でやれば、ネットで「厨二乙www」と言われたことでしょう。

本書は連合赤軍事件だけではなく、オウム事件、改憲運動、村上春樹、エヴァンゲリオン、宮崎勤と永山則夫の自我形成の違いなど様々なことに言及しています。

「連合赤軍事件」については、事件そのものの記載はほとんどありません。

事件の経緯を知りたいのであれば、当事者たちの書いた本のほうがおすすめです。

事件の詳細を知ったうえで興味を持った方には、本書はたいへんおススメの本です。

自分も連合赤軍事件の本は何冊も読みましたし、映画なども見ましたが、大塚英志の解釈は類をみないほど斬新な解釈だと思っています。

連合赤軍事件について

この事件は色々な要素を含んでおり、他の事件の類似点もいくつも指摘されています。

どんな人間でも持つ、最も根源的な悪があらわになった事件だと思いますので、必ず後世に残さなければならない事件のひとつだと思っています。

この事件であらわになった「誰もが持つ根源的な悪」というのは、

「正しいことのためらならば、他人をコントロールしても構わない」という発想だと思います。

このコントロールの中には、「心身を傷つける」「主体の形成に(強引に)関与する」「行動を制限する」「自尊心を破壊する」などが含まれます。

他人をコントロールすること……ましてや行動だけではなく、他人の思想や心を暴力的にコントロールすること……これはどんな理由があれ、絶対にやってはいけないことだということが、連合赤軍事件の最も大きな教訓だと思っています。

ひるがえってみれば、昨今もそんな事件ばかりです。

ISもそう、オウムもそう、相模原の事件もそう。

「正しいことのためならば、他人を傷つけても構わない」

「正しい方向性に導くためならば、他人のことをコントロールしても構わない」

前者は極端な発想ですが、後者は日常生活でもよくあります。

連合赤軍事件においても事件発生前の活動の段階で、「もし、彼女が組織活動をやめると言ったら、殴ってでもとめようと思っていた」という発言をしていた人が組織内にいました。(この発言をした人は、事件には参加していません。)

事件の土壌として組織内に、「正しいことをさせるためならば、相手を殴っていうことをきかせても構わない」という発想があったということです。

連合赤軍事件は起こるべくして起こった事件だ、ということができると思います。

大塚英志の連合赤軍事件論

本書での大塚英志の主張の面白いところは、時代とともに移り変わってきた女性の意識に注目している点です。

連合赤軍事件に参加した女性たちは、1970年代から本格的に始まる「消費社会」で「消費による自己実現を求め出す女性」のはしりであった。

それに対して、前時代の家父長的な制度の発想で生きている男性たち、(自分が正しいと思うことのためならば、殴ってでも相手に言うことをきかすという発想の男性たち)、この二者の対立ですらない……ディスコミュニケーションがまず根底にあった。

そもそもまったく言葉が通じ合うことすらない、この二者が新左翼言語で「通じ合っている」と錯覚している状態が、土台としてあった。

それに対して主犯格の森恒夫は他の男性たちとは違い、1980年代に出現した「おたく」と呼ばれる人間に感性としては近かったのではないか。

そしてもう一人の主犯格永田洋子は他の女性たちと同じように自己実現を求めていたが、他の女性たちがバブル期に代表されるような「消費による自己実現」を潜在的に求めたのに対し、永田は少女漫画のごとき「男性に全肯定されることによる自己実現」を求めていた。

「消費社会で消費によって自己実現する女性たち」「戦前からの家父長制度的な発想に生きている男性たち」「オタクの森」「乙女ちっくな永田」

本来ならば、何ひとつ相容れず話すら通じないはずのこの四者が、新左翼言語という共通言語で話しているために、「お互い分かりあっている」と思ってしまった。

「オタク的感性の森」&「家父長制度による支配原理を持つ男性陣」VS「女性性を男性の力を借りずに、自己実現させる方法を模索した女性たち」

この構図に、「男性に存在を肯定されることによる自己実現を求めた永田」が加わり、男性側に加担した。

この辺りが連合赤軍事件の主因のひとつではないか、というのが大塚英志の主張です。

自分は連合赤軍事件の主因は、小難しい共産主義思想などとっぱらえば、結局のところ、野合した二つの組織の主導権争い、対男性を巡る女性同士の主導権争い、殺人が続いたあとはメンバー全員の相互不信が原因だと思っています。

ただ、「総括」のそもそもの発端が遠山美枝子に対する批判であったことに注目して展開された、この大塚英志の論はとても面白かったです。

特に永田洋子論は、とても秀逸です。

植垣康弘が「永田さんは、そのときに頼りにしている人の考えを、そのまま自分の考えのように話す」という風なことを言っていたように、「とても従順でかわいい女性」だったのではないかと思います。残虐な事件の主犯格として裁かれた人に対して、こういう言い方は何ですが。

だから革命左派時代に川島豪(革命左派の指導者)に利用されながらも何も言えず従い、「女性が妊娠したら、活動のために中絶しなくてはならない」という人権もへったくれもない組織の方針にも従い、川島のどんな理不尽な所業にも抗議しない坂口弘と結婚したのだと思います。

「自分の考えがない女性(パートナーの考えが、自分の考えになってしまう女性)」

個人的な感想ですが、こういう女性は今の時代も多いです。

だからなのでしょうか? 永田洋子の手記は坂口弘の手記などに比べて、事件への実感のようなものが薄いです。

大塚英志はそういった中で事件の主犯格になった永田に、同情のような言葉を寄せています。


「ぼくが永田洋子という女性をある意味であわれに思うのは、彼女が自らの中の「女性性」に強い禁忌を課し、自分で自分を抑圧してしまっている点だ。(P84)

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。(P54)

塩見(孝也)は、永田の「心や魂」の問題を「外見」(容貌)に還元してしまう。(P56)

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

逮捕後に「永田の自己批判を援助するために」、永田洋子に「自分が思い描く通りの自己批判書(永田の生い立ちや容貌に事件の原因を求める)」を書くように強要した塩見孝也(赤軍派の幹部)を、大塚英志は強い口調で非難しています。

自分もまったく同意見です。

塩見が永田に対して行ったことは、永田たちが山岳ベースで行った「総括」の論理とまったく一緒です。

「正しいことのためならば、相手の生命も人権も自我も自尊心も全て破壊して構わないし、暴力的な言動で、他人の主体の形成に関与して構わない」

事件の前から自分たちが当然のように持っていたこのような発想こそ、連合赤軍事件が起こった原因である、ということに、なぜこの人たちが気付かないのか、不思議で仕方がありません。

森恒夫という人物

大塚英志は、なぜ、森恒夫が後世に出現する「オタク」と呼ばれる人種に連なる人物であると考えるのか、ということを次のように語っています。


森恒夫における「母」の喪失とそれ故の母胎的なるものへの畏れと執着は、同じように八十年代を生きた「おたく」や「新人類」と当時名付けられた感受性のある部分と通底するように思える。

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

ここから「二次元の登場人物に性欲を向けるオタク」と、彼らは実際の女性には何もしていないのに、これを批判する「フェミニスト」とのディスコミュニケーション具合が、左翼運動を中心とした女性陣と森とのディスコミュニケーション具合に重なるという論を展開しています。

賛否はともかく、この論もなかなか面白いです。

ただ主は、森に関しては大塚英志の「森=オタク論」よりも、坂口弘が自著の中で紹介していた評論家の意見のほうが的を得ているような気がします。

ソースが手元にないので意訳になりますが、

「森は、自分の作った観念の中だけで生きている人。実際の物事や実際の人間が、本当の意味で彼の関心ごとになることはない。山岳ベース事件も極論をいえば、森の観念の中でだけで起きた事件だったのだと思う」

たぶん、そういう人だっただろうと思います。

よく考えると、この評も「オタク」と呼ばれる人に多い感覚のような気もします。

森自身も事件後、「自分が気が狂っていたとは思えない。それどころか、(山岳ベース事件のときは)人生で一番、色々なことを考えていた」と語っています。

「他人の痛みなどの実際的な物事にはほとんど関心が向かない、観念の世界で生きている人間が、総括による革命戦士化という観念を思いつき、それを実行する場を得てしまった」

そう考えると森恒夫がトップに立たなければ、あれほど凄惨な事件はおこらなかったかもしれないとも思います。

まとめ

連合赤軍事件を知った当初、一番恐怖を覚えたことは、

「自分もちょっとしたきっかけで、殺す側にも殺される側にも回ることがありうるのではないか」

「これほど残虐なリンチ殺人だが、自分の日常の延長線上でもありうる事件なのではないか」

ということです。

山岳ベースの事件の参加者の中には、普通に大学生活を送っていてたまたま呼ばれたというメンバーもいました。

そもそもこのころ行われていた「学生運動自体が、若者の自己実現の道具にすぎず、現代のサブカルと呼ばれる分野に当たるものなのではないか」という論を前提とするならば、彼らにとっては日常の少し先にこの事件が待ち構えていたという感覚だったのではないでしょうか?

永田や坂口弘が所属していた革命左派はもともとはそれほど過激な組織ではなく、川島豪がトップになってから、行動がどんどん過激化していきました。

組織を中心とした人間関係もできていたので、なかなか組織から抜ける踏ん切りがつかなかった様子、もともとはサークル活動のようだった組織運動がどんどん過激化していく様子など見ると、自分だったら既存の人間関係を断ち切ってでも組織をやめられただろうか、と考えさせられます。

これは連合赤軍事件と構図が良く似ている、北九州監禁殺人事件などにも言えると思います。(あちらは親族ですが。)

「危ない」と思った段階で、自分や家族を守るために、親族などの人間関係も断固として断ち切れただろうか。

そもそも「危ない」などと考える前に、気づいたら深みにはまっていることがほとんどなのではないだろうか。

平穏な日常にぽっかりと空いた黒い穴、そんなものを想起させる事件です。

もうひとつ、この事件の感想などを見ると「自分が下部のメンバーであったとき、やはり逆らえず殺す側に回ったのではないか」という感想を見ることが多いのですが、自分は「自分が森恒夫の立場に立ったとき、同じようなことをやってしまうかもしれない」という恐怖を覚えます。

「自分が絶対的に正しいと信じる価値観や信念と他者の痛みが対立しているとき、後者を優先できるだろうか。正しいことなのだから仕方がない、と思わないだろうか」

「現実の世界のことが感じられず、観念の世界に生き、その中で正しいと思ったことを行った森」

彼は逮捕されたあと、自分が山岳ベースでメンバーたちにしたことを社会からされることによって追体験します。

このころの社会の空気を永田洋子は、「社会全体が有形無形の形で、森さんに死ぬことを強いていた」と評しました。

恐らく罪悪感からではなく、その圧力に負けて森は自死しました。

自分を取り囲む人間全てから否定されて生きられるほど、人間は強い生き物ではないことを、森自身が証明しました。

自分の全存在を否定されることがどれほど残酷なことかを、追体験したわけです。

これほどむごく残虐な事件が、自分たちの日常生活の少し先にある。

それを防ぐためには、どれほど正しいと思うことを言う人間に対しても、「自分をコントロールすること」を許してはいけない。

そして、自分もどれほど正しいと思う意見でも、それをもって他者をコントロールしてはならないということを感じました。

連合赤軍事件が起きてから50年近い月日が流れましたが、似たような事件が何度も起こっています。

そういう事件を見るたびに、いつもそう思います。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744

42. 中川隆[-11497] koaQ7Jey 2019年3月13日 11:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[498] 報告

第431回:革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻 By 雨宮処凛 2017年11月29日
https://maga9.jp/171129/




 塩見さんが死んだ。

 塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。

 塩見さんとの付き合いは、もう20年にもなる。

 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。

 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息苦しかった。そうして自分自身はと言えば、リストカットをしては生きづらさを誤魔化すという、これまたショボいことばかりしていて、そんな自分が大嫌いだった。

 私が生まれる前、「国家」とかと命懸けで闘ってた人の話を聞いたら、何か生きるヒントが得られるのでは。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私を突然北朝鮮に誘ったのだった。なんでも、北朝鮮には70年に飛行機をハイジャックして平壌へ飛び立った「よど号グループ」なる赤軍派の同志がいるということだった。元赤軍派議長に、国際指名手配犯に会うための北朝鮮旅行に誘われる。こんなブッ飛んだ誘い、OKするしかないだろう。「行きます!」。何も考えずに、私は即答していた。

 そして99年、私は生まれて初めての海外旅行で北朝鮮に飛び立った。

 塩見さんも含めた数人で成田空港から北京に飛び、北京の朝鮮領事部で手続きをし、翌日、平壌へ。なぜか北京で花を買って、北朝鮮に着いたら真っ先に金日成の銅像に献花をし、よど号グループの招待所で、自分の父親と同世代のよど号グループと会った。

 その招待所で寝泊まりしながら連日、「金日成の生家」や「人民大学習堂」や「革命博物館」など、思想教育のような観光日程をこなした。「食糧難」や「餓死」が報じられていたのに北朝鮮で出される料理はどれも豪華で、案内役としてずっとついている朝鮮労働党の人には「日本は資本主義で、金に追われてばかりの生活で可哀想」と同情されたりして、連日、脳の許容量を越えることばかりが起きた。観光で行った幼稚園では園児がなぜかみんなフルメイクで「主席を讃える歌」を完璧に歌い踊り、あまりにも頭がクラクラしたことからその辺りで思考を停止した。

 よど号グループには私と同世代の子どもがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は、合計5回、北朝鮮に通うことになる。そうしてよど号の子どもたち三人が日本に「帰国」する際には平壌まで迎えに行き、しばらく私の家に滞在していたりもした。そのようなことが原因で02年にはガサ入れが入ったりしたのだが、私は塩見さんが北朝鮮に誘ってくれたことに、今でも深く感謝している。ただのフリーターで、この先どうやって生きていくかさっぱりわからなかった私に初めて「世界」を見せてくれた人だからだ。

 初の北朝鮮行きから半年後、私は2度目の海外旅行でイラクに行くのだが(今度は一水会の木村三浩氏に誘われて)、北朝鮮行きがなければ、決してイラクに行こうなんて思わなかったはずだ。日本という島国から、まったく価値観の違う国に行ったことは、私のその後の人生に大きな影響を与えた。それからいろいろな国に行き、価値観の違う人たちと話すことが大好きになった背景には、間違いなくこの経験がある。

 そんな塩見さんとは03年、共にイラク・バグダッドを訪れた。私にとっては2度目のイラク。時はイラク戦争一ヶ月前で、外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切り、数十人でオランダを経由してヨルダンから陸路でバグダッド入り。開戦一ヶ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモをし、多くのイラク人と交流した。そんなイラクで、塩見さんが「日本の赤軍派議長」であることを告げると、日本赤軍の岡本公三人気が異様に高い中東ではやたらと感激されたことも覚えている。

 だけど、私はそんな塩見さんと一緒の飛行機に乗ることがちょっと怖かった。「撃ち落とされるのではなか」という不安があったからだ。実際、日本のレッドアーミーの塩見孝也がイラク入りするということで、イスラエルのモサドが動いてるとか動いてないとか、そんな嘘かほんとかわからない話もあった。

 塩見さんとの付き合いはこの20年間ずっと続いていたのだが、特に06年から、私が反貧困運動を始めたことには大変喜んでくれた。60年代からなんでもかんでも資本主義のせいにしてきた塩見さんにとって、私が労働・貧困問題に「目覚めた」ことは自分の影響だと思ったのかもしれない。以後、塩見さんは「共に闘おう、そのためにまず打ち合わせをしよう」という電話やメールを頻繁にしてくるようになった。

 が、ちょうどネットカフェ難民などの「若者の貧困」が注目された当時、「元赤軍派議長と一緒に反貧困運動をする」ことは、リスクでしかないことは明白だった。しかも、私たちが求めているのは、一言で言うと「生きさせろ」ということ。が、塩見さんは明らかに「世界同時革命」を求めていて、労働・貧困運動はその「手段」でしかないことは話していて明白だった。

 「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。が、この時、私は心の中で決意した。絶対に、自分のことを「左翼」などと名乗らないでおこう、と。

 一時期右翼だった私が貧困問題に取り組み始めたことで、当時、やたらと「左傾化した」「左翼になった」と言われていた。とりあえず便利なので使っていたその言葉だったが、左翼に「なる」にはマルクスを読破するなどの「資格」が必要なようなのである。そんな七面倒臭いものならこっちから願い下げだ。その点、右翼はある意味寛容だった。「日本が好き」とか、そんなゆるふわな感じで今すぐなれるし必読図書もない。

 このように、塩見さんには面倒臭いところがあり、私は時々ちょっとうんざりしていた。

 が、そんな塩見さんに大きな転機が訪れたのはその直後のことだ。シルバー人材センターの紹介で、清瀬のショッピングセンターの駐車場管理人となったのだ。60代半ばにして、「労働者」になったのである。思えば、それまでの塩見さんは「労働者が」「人民が」と言いながらも、この国の労働の実態を、ほとんどわかっていなかったように思う。しかし、自らが時給制で働き始めたことによって、明らかに変わった。大文字の、頭の中で考えた「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験から矛盾を感じたことを発信するようになったのだ。

 そんな塩見さんに労働相談を受け、組合を紹介したこともある。一時期は本気で「シルバー人材センターユニオン」の結成を考えていたし、それは私も熱烈に応援した。が、そんな打ち合わせの席でも塩見さんが口にするのは「シルバー人材センターの労働運動を盛り上げて、最終的には世界同時革命を!」という言葉。この人、全然懲りてないな…。21世紀になっても本気で「革命」を目指すその姿に驚きつつも、塩見さんは前に比べればずっと「地に足のついた」活動家になっていた。

 塩見さんとの最後の「祭り」は、この連載の第334回「『獄中二十年』の選挙戦」で書いた清瀬の市議会選挙。15年、なんと無所属で市議に立候補したのだ。選挙最終日、応援に呼ばれたので駆けつけると「獄中二十年」「赤軍」と書かれた旗や大きな幟があり、それを見た瞬間、「落選」を確信した。が、みんなで「赤軍」の旗を先頭に、街を練り歩き、叫んだ。

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「清瀬から世界同時革命を!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 もちろん、選挙は落選した。

 塩見さんとの思い出は数えきれないほどあるけれど、印象深いのは、晩年の塩見さんの周りには、いつも「生きづらさ」を抱えた若者たちがいたことだ。2010年、突然「生前葬をやる」と言い出し、本当に開催した際には、長年ひきこもりだった若者が、塩見さんを歌った「オレは駐車場管理人」という自作のラップを作って披露。それ以外にも、不登校だったり、リストカットの経験があったりという若者がいつも塩見さんの周りには集まっていた。

 なぜ、「世界同時革命」とか言ってる元赤軍派議長の周りに若者たちが嬉々として集まっていたのか。もともとは私自身もその一人だったわけだが、それは「塩見さんの近くにいると、自分の悩みがどうでもよくなる」という作用があったからだ。

 前回の原稿で、自分の「死にたかった頃」の話を書いた。同じように「死にたい」と口にする多くの人との出会いが私を生かしてきたわけだが、塩見さんとの出会いも、確実に私の「死にたい」気持ちを脱臼させた。

 獄中20年で、個人で破防法適用とかされて、いまだに「世界同時革命」とか口にする塩見さん。その存在は、私の中に根深くあった「ちゃんと生きなければならない」という気持ちを一瞬で霧散させるものだった。なんだ、こんなメチャクチャな生き方してもいいんだ。一生「革命」とか、中2病みたいな感じで生きてていいんだ、と。

 しかも塩見さんは、何かあればすぐになんでもかんでも資本主義のせいにする。そのことは、生きづらい若者たちにとって大きな「免責」を与えてくれた。他の大人たちは、勇気を出して悩みを相談したところで、みんな「自己責任」とか「お前の努力が足りないんだ」とかそんなことばかり言うけれど、塩見さんはどんな状況の若者に出会おうとも、「それは資本主義のせいだ!」と断言していた。元赤軍派議長に、お前の生きづらさの原因は資本主義だとお墨付きをもらう。これほど強烈な「癒し」を、私は他に知らない。

 が、常々、私は心のどこかで「塩見さんが自分のお父さんじゃなくてよかった」と思っていた。ちょうど親子世代で、塩見さんには私と同世代の息子がいることは知っていた。会ったこともないその息子に、勝手にずっと同情していた。だって、自分の父親が常に全力で反抗期だったら、どういう方向性で生きていこうか、いろいろと悩むはずだ。

 そんな塩見さんと遊びまくってきたこの20年間で、覚えているのは北朝鮮に行く途中の北京での食事の席のことだ。出てきた「アヒルの舌のスープ」は、強烈な悪臭を放ち、アヒルの舌が数百個浮いている見た目もグロすぎた上、一口啜ると「おじいさんの唾液を煮詰めた」ような味がした。全身が震えるほどマズく、その場にいた誰もがまったく箸をつけられなかったそれを、塩見さんは「そんなに不味いかー? イケるぞ」と言いながら平気な顔で食べていたのだ。聞けば、母親が料理があまり上手くなかったとのことで、刑務所の食事も全然平気だったという。そういう人だからこそ、獄中20年を生き抜くことができたのだろう。

 ああ、それにしても、本当に好き勝手に生きた人だった。しかも、たったひとつの理想を、死ぬまで追い求め続けていた。そして本人の意図とはまったく別のところで、多くの生きづらい若者を確実に救っていた。

 そんな塩見さんにもう会えないことが、やっぱりすごく、寂しい。
https://maga9.jp/171129/

43. 中川隆[-11495] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:36:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[500] 報告

「獄中二十年」の選挙戦。の巻‐雨宮処凛がゆく!-第334回
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/

清瀬の商店街を練り歩く不穏な人々

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 4月25日、統一地方選最終日、東京都・清瀬の街をそんな言葉とともに練り歩く一団がいた。

 彼らが掲げる大きな幟には「獄中二十年」の文字。「赤軍」と書かれた旗を持つ人もいる。十数人ほどの一団の中にいるのはマガジン9でもおなじみ・鈴木邦男氏、ロフトプラスワンの平野悠氏、老若男女の塩見支援者、そして、私。一団の先頭ではなく後方を「足がつった」とのろのろ歩くのは、このたび清瀬市議選に立候補した塩見孝也氏だ。

 塩見孝也氏とは、1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕され、獄中20年。89年に出所した。

 そんな塩見さんとの出会いは今から約20年近く前。ロフトプラスワンに、「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことがきっかけだった。もともと、60〜70年代の「政治の季節」には並々ならぬ興味・関心があった。というより、一言で言うと羨ましかった。若者が政治のことに怒り、デモとかしまくって火炎瓶を投げていた時代。翻って90年代に「若者」だった私は、半径5メートルの世界の中で、「消費活動」や「恋愛」や「合コン」にうまく乗れない人々がなんとなく馬鹿にされ、社会や政治のことなど語ろうものなら「おかしな人」扱いされるという空気の中、生きづらさを極めていた。その自分の生きづらさが、社会と何か関係があるのではないか。政治の季節に思い切り暴れていた「元若者」の話を聞けば、何かヒントが得られるのではないか。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私をいきなり北朝鮮に誘った。

 そうして、よくわからないまま知り合ったばかりの塩見さん、他の若者数名と初めての海外旅行でピョンヤンに飛び立ったのが24歳の冬。北朝鮮には私と同世代のよど号グループの子どもたちがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は合計5回北朝鮮に通うことになり、それが原因でガサ入れを受ける羽目になるのだが、当時はそんなことなど露知らず。

 また、2003年のイラク戦争直前には、塩見さん、鈴木邦男さん、そして平野悠さんたちと数十名で外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切ってイラク・バグダッドへ。開戦一カ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモなどをすると警察が応援してくれた上、パトカーのマイクなどを貸してくれたのもいい思い出だ。ちなみに塩見さんはイラクで、撮影禁止の場所を撮影したとかで数時間秘密警察に拘束されたという、これまたどうでもいいエピソードがある。

 こんなふうに、この20年近く、私は塩見・鈴木・平野というオッサンたちと何かあるたびにつるみ、遊んできた、というか活動をしてきたのである。で、この3人は私が物書きになる前のフリーター時代、ロフトプラスワンや各種右翼、左翼、サブカル系イベントにただの客として出入りしていた時から私のことを知っていたという経緯があるため、未だにいろいろと頼まれると断れない相手でもあるのだ。

 ということで、そんな塩見さんが清瀬の市議会議員選挙に立候補しようと思っている、と本人から聞いたのは数カ月前。思わず言葉を失ったものの、ここ数年の塩見さんの「変化」に感銘を受けていた私は、選挙戦に駆けつけることを約束した。

塩見さんの事務所。いろいろすごいです。

 「変化」とは何か。例えば出会った頃の塩見さんは、とにかくなんでもかんでも資本主義のせいにし、二言目には「世界同時革命」と叫ぶという、非常に珍しい人だった。そうして常に「労働者が」「人民が」などと演説するのだが、なんというか、難しい言葉が空転しているような印象だったのだ。

 そんな塩見さんは数年前にシルバー人材センターに登録。地元・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人を始めたところから大きく変わり始めた。大文字の「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験からいろいろと矛盾を感じ、発信するようになったのだ。この数年間、幾度か塩見さんから「労働相談」的なものを受け、時には労働組合の事務所で話し合いをしたりもした。ちなみにシルバー人材センターの労働には労働基準法が適用されないなど様々な問題があるのだが、そういったことなどについても、現場目線からいろいろなことを私に教えてくれたのである。
 そんなふうに「シルバー人材センター労働運動を!」的な話になると、「これをきっかけに最終的には世界同時革命を!」なんて言い出すこともあったけれど、「革命家」・塩見孝也は70代にしてやっと「地に足がついた」活動家となったのである。この辺りの話は塩見さんの著書

『革命バカ一代 駐車場日記 たかが駐車場、されど駐車場』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4846310256?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4846310256&linkCode=xm2&tag=magazine9-22

に詳しいので興味のある方はぜひ。

 ということで、統一地方選最終日、私は清瀬に駆けつけた。73歳、元赤軍派議長・駐車場管理人の塩見氏の周りには、多くの支援者がいた。
 マイクを渡されて、私は話した。

 なぜ、塩見氏を応援しようと思ったのか。それは「現在暴走を続ける安倍政権、そして地方議会でも多数を占める与党の好き放題を止めるには、塩見さんレベルの飛び道具しかいないのではないか」と思ったからだ。なんといっても、日本で初めて、個人で破壊活動防止法を適用された人である。その上、権力に楯突き続けて50年以上。20年の獄中生活を非転向で過ごしたという「超頑固者」だ。「言うこときかない」「黙ってない」系の元祖みたいなものである。もはや存在自体が嫌がらせ。こういう人が市議会にいれば、いろいろと風通しもよくなるのではないか。
 清瀬の街頭でそんなことを話させて頂き、そして夜は商店街を「獄中二十年」の旗のもと、みんなで練り歩いた。

 そうしてすべてを終えた20時、近所のスーパーで発泡酒やお惣菜を買い込み、みんなで安酒で乾杯した。途中、「これが学生運動名物・内ゲバか?」と身構えるような喧嘩が勃発したりもしたけれど、「これでこそ塩見さんの選挙だ」ということになり、なんとなく収まったのだった。

 そうして、翌日の投開票日。塩見さんは319票を獲得したものの、落選となった。

 「市会議員・塩見孝也」誕生とはならなかったが、73歳のチャレンジは、今後きっと大きな波紋を広げていくはずだ。

 今回、改めて思ったけれど、塩見さんの周りにはいつも、生きづらさを抱えた人々が多くいる。この20年近くずっとだ。本人はまったく意識していないけれど、そういった人々を、何か救い、癒す力があるのだ。本人は「革命」を目指しているのに、癒し系。

 そんな塩見さんに、今後も注目していきたいと思っている。

左から、鈴木邦男さん、私、塩見孝也さん、平野悠さん。
この三人のオッサンと20年くらい、いろいろつるんでいる私の人生・・・。

http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/

44. 中川隆[-11494] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:52:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[501] 報告

塩見孝也


塩見 孝也(しおみ たかや、1941年5月22日 - 2017年11月14日[1])は日本の新左翼活動家、元赤軍派議長、最高指導者、テロリスト。

「日本のレーニン」と呼ばれた[2]。
「一向健」の組織名やペンネームでも知られた[3][4]。

1941年、大阪府大阪市の十三で医師の家庭に生まれ、生後1年で岡山県和気郡神根村(現・備前市)に移り[5][6]、戦後は母の郷里の広島県尾道市で育つ。

尾道市立長江小学校から[5]広島大学附属福山中学校・高等学校を経て、1962年、2浪して京都大学文学部に入学。


京大在学中から「共産主義者同盟(ブント)」の活動家となり、京都府学連書記長、社学同書記長と幹部となる。

京大は2年で中退[7]。
しかし1969年、それまでのブントの活動に飽きたらず、「これまでの闘争方針では70年闘争を闘いきれない。受動的な階級闘争論では展望が開けず、能動的な攻撃型の階級闘争こそが必要である」と武装闘争を主張する。

さらぎ徳二らの関東派と対立の結果、決別し、いわゆる関西ブントを中心に「共産主義者同盟赤軍派」を結成し、その議長に就任した。

メンバーは京大、同志社大学、立命館大学を中心に400人で、軍事委員長は大阪市立大学の田宮高麿である。

同年秋には具体的な実行として、大阪、東京で交番・パトカーなどを襲撃した大阪戦争、東京戦争等を指揮する。しかし11月に「大菩薩峠事件」の失敗で主要幹部を含む53人が逮捕され、大きな打撃を受ける。

その後、「一国内の闘争には限界がある。労働者国家(キューバ)を根拠地とし、そこで軍事訓練を行った革命軍を各地に送って、武装蜂起を図り「世界共産主義革命」を実現すべき」という「国際根拠地論」を提唱した。

1970年、「フェニックス作戦」と名づけたハイジャックを計画。下見を重ね具体的な計画を作成。実行部隊のメンバーを決定し同年3月後半の実施を決定したが、寸前の3月15日、豊島区駒込で警察に逮捕された。しかし塩見の逮捕を知った実行部隊は、善後策を協議し既定方針どおりハイジャックを決行。3月31日、田宮高麿をリーダーとする9名が、羽田空港で日本航空機・よど号をハイジャックし北朝鮮に亡命した(よど号ハイジャック事件)。

塩見は爆発物取締法、よど号事件の共謀共同正犯、破防法などで起訴される。法廷闘争の中、1972年の連合赤軍事件以来分裂状態にあった赤軍派に対し1974年に赤軍派(プロレタリア革命派)を結成。その後プロ革派は分裂し、塩見派は1979年に日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)を結成。

1980年、懲役18年の判決が出され、1982年刑が確定。
府中刑務所に収監され、結局19年9ヶ月の獄中生活を送り、1989年12月出所。

晩年

ぱとり・自主日本の会を主宰し、定期的に都内で集会を開くなどの活動を行っていた。

出所後は何度も渡朝し田宮(1995年死亡)らと再会。また近年、民族主義を唱え一水会らと共に「国の日集会」(毎年9月2日開催)を開いたり、よど号事件実行犯が日本人拉致に関与しているかのような発言を行い、物議を醸した。

だが先に挙げた民族主義に関しては彼なりの過去の内ゲバに対する反省点と愛郷心から来ており同じ革命を目指す者同士なら左右問う事無く解決すべきであるという理念が伺える。

ちなみに塩見自身は、新宿騒擾事件については刑事責任を問われうる範囲内であるも、よど号事件については自身は無罪であるとの主張を唱えていた。もっとも、ハイジャック自体については「プチブル急進主義」だったという自己批判も行っている[8]。

赤軍派や日本赤軍については、反省すべき点はあるとしつつも基本的に肯定的に評価していた。一方で連合赤軍(特に山岳ベース事件)については全否定しており、自身や赤軍派とは何の関係も無いと主張していた。一方で、山岳ベースでの同志殺害をもたらした連合赤軍の暴力的体質や「共産主義化」の理論は赤軍派や塩見のものに他ならない、との批判が関係者からなされることもある[9]

2015年4月以降「自主日本の会」の活動は休止中で、後述の駐車場関係者を中心に「銀河の会」(シルバー世代の意味)を主催。「若者から希望を奪う安倍政権打倒、老人いじめの清瀬市政と闘う」をスローガンに政治活動を展開した。

同月26日執行の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補し、候補者23人中22位で落選(定数20)した。

2017年11月14日、東京都小平市の入院中の病院にて心不全のため死去した。満76歳没[1]。

エピソード

PANTAは「塩見さんもちょっと露出のしすぎかなと思う。赤軍の頃は本当にすごくて、私らにとっては雲の上の人だったんですから」と話している[10]。

60代半ば頃には自身の高齢に伴う身体の衰えを実感し、地元の東京都清瀬市シルバー人材センターの紹介により清瀬市所有の駐車場管理員(隣は西友の駐車場)の仕事を時給950円にて紹介してもらい、本人も「66歳にして労働の意義を知る」と自身のHP内や週刊新潮(2008年5月1・8日号)等でその充実ぶりを語り、それ以前の生活費は仲間からの援助や労組からのカンパだったと語った。

mixiにて、HN「預言者」として活動していた[11]。


著書

過渡期社会論 酒井隆樹共著 共産主義者同盟赤軍派(プロ革)編 査証出版 1975
一向過渡期世界論の防衛と発展のために 査証出版 1975
封建社会主義と現代—塩見孝也獄中論文集 塩見孝也救援会,高沢皓司編 新泉社1988
いま語っておくべきこと 現代資本主義論と社会主義論 革命的左翼運動の総括 川島豪対談 新泉社 1990
「リハビリ」終了宣言—元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半 紫翠会出版 1996
さらば赤軍派 私の幸福論 オークラ出版 2002
赤軍派始末記 元議長が語る40年 彩流社 2003 
監獄記—厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年。 オークラ出版 2004 
革命バカ一代 駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場  鹿砦社 2014 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%A6%8B%E5%AD%9D%E4%B9%9F

45. 中川隆[-11493] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:55:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[502] 報告

参考 レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

46. 中川隆[-11492] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:58:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[503] 報告

1元赤軍派議長 塩見おじいさんの面白い話 世界革命の夢 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CJ7daglEA4M

2011/10/12 に公開
テント村に寝に来てビールを飲んで、クダを巻いてる酔っ払いのおじいさんと思ってインタビューしはじめました。(^_^;)

 でも話しが面白くて、1時間以上話し続けてもらいました。
いやー、本当に面白くて、特に感心したのはビジョンをもっているところです。
これからのお金のあり方など、大事なポイントだと思いました。

※なお、この中継の後、ひょんな事から10人以上の警官に取り囲まれ、パトカーで愛宕警察署に連行され、朝まで尋問を受けた。(^-^;

持っているものすべてチェックされたが、USBメモリだけは分析できないからと没収された。1年後、急に没収されたUSBメモリを取りに来い、と言われ、取りに行った。

47. 中川隆[-11491] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[504] 報告

元赤軍派議長・塩見孝也氏死去、元連合赤軍兵士だから語れるその素顔
文● 週刊ダイヤモンド編集部(ダイヤモンド・オンライン)


2017年11月14日に亡くなった塩見孝也氏(本人のフェイスブックより)

 過激派の一つだった「赤軍派」の塩見孝也元議長が今月14日に亡くなった。享年76歳。1970年代末に「赤軍派の総括」をテーマに論争し、その後も付き合いがあった元連合赤軍兵士の植垣康博さんは「まさに反面教師。悪い人ではなかったが冗談が通じないクソまじめな人だった」と話す。

 塩見氏の自著『赤軍派始末記』
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779114861/diamondonline-22/

などによると、塩見氏は62年、京都大学文学部に入学した。間もなく活動家となり、京大教養学部(当時)の闘争委員長などを歴任。69年に武装闘争を唱えて赤軍派を結成して議長に就任した。

 70年に逮捕。「よど号」ハイジャック事件など一連の赤軍派事件に関与したとして懲役18年の実刑判決を受けた。89年に出所した後は、北朝鮮にいる「よど号」グループと接触を重ねた。晩年は東京都内の駐車場に勤務。2015年4月には東京都清瀬市議選に無所属で出馬して落選した。

 赤軍派と連合赤軍の関係も整理しておこう。塩見氏が逮捕された後の1971年に逮捕を免れていた赤軍派の一部が革命左派と合流し、連合赤軍となった。連合赤軍は同志12人をリンチ殺害した「山岳ベース事件」、人質と共に立てこもった「あさま山荘事件」を起こし、日本中を震撼させた。植垣さんは山岳ベース事件に関与し、あさま山荘事件の直前に長野県の軽井沢駅で逮捕された。

 一兵士に過ぎなかった植垣さんにとって塩見氏は“雲の上の人”。そのため会ったことはなかったが、70年代末、「赤軍派の総括」をテーマに激論を交わした。互いに“獄中”のため、対面ではなく、「数えきれないほどの」(植垣さん)手紙の応酬、論文の送りつけ合いだった。

 論争の結果、2人は80年に決別した。植垣さんは「塩見さんは結局、連合赤軍を自分の問題にできなかった」と述懐。塩見氏は「(植垣さんは山岳ベース事件での)『粛清』の『同志殺し』を居直ることで、僕から去ってゆきました」と自著『監獄記』に記している。

 塩見氏が亡くなった後の本誌の取材に対し、植垣さんが答えた塩見評は悲しいほど低かった。「超主観主義の人だった。他人の意見を聴かないどうにもならない人だった」。だが植垣さんによると、そんな塩見氏も晩年は集会で顔を合わせると、アジり方(過激な言動で扇動する方法)が控えめになっていたという。植垣さんは「年を取って物腰が少し柔らかくなった。『頑固なままでいてくれよ』と拍子抜けした」と振り返る。

 塩見氏に対する評価は人それぞれだが、大学紛争など新左翼運動が活発だった60〜70年代を象徴する人物だったことは間違いない。

 塩見氏のフェイスブックの職業欄には「革命家 駐車場管理人」、出身校には「京都大学 革命」と書かれていた。最期まで「活動家であり続けたい」との気概を見せていたのかもしれない。

(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
https://ascii.jp/elem/000/001/591/1591977/

48. 中川隆[-11490] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:27:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[505] 報告

No490 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 前編 2018/4/20
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。

※ ブログの字数制限2万字を超えるため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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【「塩見孝也お別れ会」前編】

  「塩見孝也お別れ会」ならびに「時代を語る会」への案内状

 塩見孝也さんが、2017年11月14日に心不全で亡くなりました。享年76歳でした。塩見さんは1962年京大(文学部)に入学、京大、京都府学連で活躍しその後、三派全学連と第二次ブント結成に中心的役割を担いました。そして、全共闘運動、70年安保闘争の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成、議長として「大菩薩」「よど号」を主導し逮捕、破防法も適用されて18年間にわたる獄中生活を送りました。出獄後は「9条改憲阻止の会」の運動に参加するなどして、多くの方と交流しました。また文筆活動を通して「革命の夢」を語り続け一生を終えました。

 塩見さんといえば、やはり「赤軍派」問題です。1969年に「前段階武装蜂起」を主張して無謀な局面突破を追求し、7/6事件で第二次ブンドを崩壊させ、後の連合赤軍事件への道を開いた事実を避けて通ることはできません。それらは日本の地において、20世紀の革命運動の終わりを開く端緒となりました。赤軍派を胚胎した第二次ブントの路線的根拠が問われた所以でもあります。そうした事々をも含めて想い致しつつ、塩見さんのお別れ会を開催したいと思います。

 第一部は「塩見孝也お別れ会」、第二部は「時代を語る会」とします。彼との交流の濃淡を問わず、彼への評価の違いも問わず、多くの方々の参加を呼びかけます。

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椎野礼仁(司会)

「皆さま、今日は塩見孝也お別れ会及び時代を語る会にお越しいただきありがとうございました。一部は発言者が決まっておりますが、俺にも喋らせろという方は二部の方でぞんぶんに語っていただければいいと思います。

私は椎野礼仁と申します。塩見さんの追悼記事が朝日新聞と毎日新聞に出ましたが、朝日新聞は、そこにいらっしゃいます樋口さんがなかなか素敵な文章を書いておりますが、毎日新聞の追悼文は、私が実は書いております。

私は社学同の戦旗派の方にいた人間ですので、直接関係ないんですが、塩見さんの本の出版と、塩見さんが市議選に出た時に運動員の一人として応援しまして、晩年、ちょっと縁ができましたの、その関係で司会を仰せつかりました。
メイン司会の村田さんを紹介します。」

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村田能則(メイン司会)

「塩見孝也さんとは55年くらいの前から付き合いです。途中、彼が刑務所に入って20年くらい付き合いが途絶えたんですけれでも、私は赤軍派ではなかったんですけれども、ブントの関係で、学生時代と刑務所から出てきてからの付き合いが何度かあります。意見が違ったりしていますけれども、喧嘩をする時もあれば仲良く酒を飲む時もあるという関係でした。

今日は椎野さんと2人で進行をさせいただきます。よろしくお願いします。」


椎野(司会)
「それでは実行委員長から開会の挨拶をいただきます。」

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新開純也(実行委員長:京大友人)

「今日はお別れ会に参加していただき有難うございます。実行委員会を代表して、塩見孝也の大学と、共産主義者同盟ブントのいささかの先輩として、僭越ではありますが、ご挨拶をさせていただきます。

塩見孝也は、昨年11月14日に心臓疾患で亡くなりました。享年76歳でした。
塩見は1962年に京大に入学しました。たいへん目立つ男で、当時、大管法(大学管理法)反対闘争を闘い、その過程で社学同に入りました。そういう過程の中で、60年代中盤から上京し、三派全学連、第二次ブント再建の中心の役割を担って活躍しました。

70年安保の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成し、過渡期世界論を路線化して武装闘争を提起した。このことについては、皆さんのいろいろな思い、賛否はあるかと思いますが、武装闘争を初めて路線化したのは彼でありました。70年に逮捕され、よど号ハイジャックの共同正犯として約20年間獄中にありました。出てきてから北朝鮮に行って田宮らと交流し、近年は9条改憲阻止の会に参加、また、2011年の福島第一原発事故以降は、経産省前テント村にも参加して活躍した。獄中20年を含めて、闘い続けた一生だった。

その中で、彼は赤軍派リーダーでありましたから、獄中を含めてそれにこだわり続けた一生だったとも思います。

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彼は、赤軍派から出た3つの流れ、一つはよど号ハイジャック、二つ目は連合赤軍に至る過程、三つ目は日本赤軍への流れ、こういう三つの流れについて、後の二つについては、彼は獄中にいて直接タッチしていません。しかし、彼はそういうことに対して責任にこだわり、総括をすることを一生の課題にしたのではないかと思う。

彼は自分の生をストレートに表現した男ではなかったかと思う。そのことは、しばしば多くの誤解を生み、迷惑を被った人が多くいると思います。(笑)お別れ会には行かないという人が結構いるのも事実です。

しかしながら、彼は自分自身のキャラクターを自分の生身の言葉で表現しようとした一生であったと思っています。文字通り『わがままに生きた男』ではなかったか。そういう意味では幸せな人生を送ったのではないかと私は思っている。

今日は塩見孝也を偲び、その時代を語るとともに、現在、大きな転換点にあります世界と日本の今後の行方を含めて、大いに偲びつつ語っていただければ、実行委員会としては非常にうれしく思います。今日はご参加ありがとうございます。」


椎野(司会)

「塩見さんの奥様はいらっしゃいませんが、親しい方が手紙をいただいていて、それをご紹介するということで、ご了承を得ております。」


塩見一子さん手紙紹介(代読:長船青治)
<塩見一子さんの手紙 >

御挨拶 前略 ご容赦ください。

塩見孝也は、2017年11月14日20時15分旅立ちました。直接の死因は虚血性心不全。亨年76年と半年。

生前の御好意感謝致します。私が死者に代わって感謝とはおかしなことです。が、「ありがとう」「ごめん」が言えなかった人なので・・・。
2015年、家族の猛反対を押し切って、市議選に立候補以来、体調を崩し、入退院を繰り返してきました。

今年は、4月3日から15日迄「多摩北部医療センター」に入院。8月下旬から9月一杯「順洋会武蔵野総合クリニック」に入院。退院しても前のように元気をとり戻すことはありませんでした。

「入院しても、もう元には戻らんのだな」と自問自答することも多くなりました。11月14日、武蔵野クリニックで診療拒否。両病院共にトラブルの連続でした。
ケアマネジャー、清瀬市の社協に相談。具合が悪くなったら救急車を呼んで、病院を決めてもらうという方針にしました。

玄関に座り込んだままの彼に「救急車呼ぼうか?」「いや、呼ばんでいい」 台所仕事をしながら会話をしていました。言葉が途切れたので、見ると動きません。それが、20時15分でした。 救急車で心臓マッサージをしながら昭和病院に運ばれました。心臓は動きだすことはありませんでした。

「午後9時53分死亡を確認致しました。でも動かなくなったとき心臓は止まったんだと思いました」

スタッフ全員、直立不動で背筋を伸ばし、深々とおじぎをしました。死者への敬意と受け取りました。私も同様に、おじぎを返しました。感謝をこめて。

眠るような安らかな死に顔でした。3年の内に、沖縄の海に散骨するつもりでおります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お世話になりました。
塩見は何の挨拶もせず、逝ってしまいました。
故人に代わって最後の一日の様子を中心に語らせて頂きました。

本日は、ありがとうございました。
いずれ散骨の日の費用に使わせて頂きます。
塩見に対する評価(悪評)は多々あります。

しかし、個は類に規定され、時代の子でもあります。
彼をつくり出したのは同時代を生きた我々ひとりひとり。

時代を総括して、新しい時代を切り開いていく力にしていく必要はあるでしょう。

私たちとって、自分の人生に向き合うということは、塩見孝也の生涯に向き合うということでもあります。生命のある限り逃げることはありません。
合掌
12月26日  塩見一子


椎野(姉妹)

「黙祷を捧げたいとと思います、皆さまご起立をお願いいたします。」
●黙祷
「同志は倒れぬ」の曲が流れる中、全員で黙とう。

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椎野(司会)

「献花をお願いいたします。」
●献花
「同志は倒れぬ」「ワルシャワ労働歌」などの曲が流れる中、全員で献花。


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椎野(司会)

「参加者の方々から一言づつお言葉をいただきます。渕上さんお願いします。」

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渕上太郎(経産省前テント広場代表)

「塩見さんとはそんなに長い付き合いではない。彼は元赤軍派議長という肩書ですが、72年に浅間山荘の事件があり、彼の政治的な考え方等々について、政治の世界でセンセーショナルに報じられてきたし、彼自身もそうした問題についての一般的な考察を巡って苦労されたのかなと思っています。私も同時代で生きているわけですから、そういう点では共通の問題もあったんだろうと思っています。総括というのはなかなか難しい問題なので、この場でああだこうだ言うつもりはありません。ただ、人間としての塩見孝也について少し申し上げておきたいと思います。
塩見さんとは9条改憲阻止の会が出きてからの付き合いです。しばらく経ってから、会議が終わった後に、彼が『渕上、ちょっと話がある』ということで何のことかと思っていたら、『俺の方が一つ年上なのに会議で塩見と呼び捨てにされた。けしからん』と言われた。(笑)『もしそうだったとすれば悪かった』と謝って終わった。その後いろいろあったわけですが、ある日突然『30万円貸せ』と言われた。『返すのか』と聞いたら『はい』と言うので貸したが、その後お金の話は一切ない。それはそれで仕方ない、そんなこともあるだろうと思っている。

70にもなろうとする男が、呼び捨てにしたと怒って一席設けるわけです。ほとんど学生時代から成長していない。(笑)成長すればいいというものではないわけですが、革命運動などと言う限り、少しずつ成長していかないとなかなかうまくいかない部分があるはずです。そういう点が全く見られなかったので、おもしろい男だと思っていた。

その後、改憲阻止の会が沖縄闘争に取り組んだことがあって、ユニークな沖縄闘争をやりたいと考えて、その金集めの出し物として塩見孝也さんの『生前葬』をやった。その時に、彼から重要な抵抗はほとんどありませんでした。しかし、本音はたぶん『何で俺なんだ。俺はもうお終いということか』という思いもあったはずだか、直接俺には言わなかった。

生前葬に賛同していただいて、おかげで。かなりの金額を沖縄にカンパできた。
9条改憲阻止の会でそういうことをやってしまったものですから、本当に死んだらどうしよう思いましたが、これは普通の方が普通に亡くなっていく対応しかないわけであります。

亡くなってからしみじみ思うわけですが、彼があの世で、まったく違った分野で頑張っていこうということであればいいなと思っている。違った分野で違った経験をして、もう1回転じて、彼の希望していた『革命家』の道を成就することができるのではないかと思ったりするところであります。

彼は『学生運動革命家』として一生を終えた。これはこれで大変幸せな一生ではなかったのかと思っています。楽しい人生を送っていただいて、私も塩見さんの人柄に触れることができて、それはそれで良かったと思っています。」


椎野(司会)

「9条改憲阻止の会の三上治さんにご挨拶いただきます。」

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三上治(9条改憲阻止の会)

「塩見とは長い付き合いで、塩見のことはいろんな話があって、どういう風にお別れするかと思っていて、自分の中でいい言葉がないというか、もっと時間をかけて、いろんな形でやらなければいけないと思っています。

1969年から70年にかけて、いわゆる赤軍派が登場した時、僕はブントの右派といわれた、後に叛旗派となるグループの先頭で、塩見とは一番激しく対立していた時代がありました。それは、あの時代に武装闘争をやることが正しいのかどうか、基本的に僕は反対の考え方をとっていて、一番激しく対立した時期があります。その時代の後も、ずっといろんな形で総括し、話し合ってきました。

その後、9条改憲阻止の会で一緒になり、活動してきました。議論もし論争もしました。60年代の話になると、2人で激烈な喧嘩になり、収拾がつかなくなり、周りがハラハラすることもありました。でも、お互いにその問題について決着つかなくとも、何らかの形で考えていかなければいけないということに関しては塩見と共通の考えを持って、お互いの意見を聞こう理解しようとしていました。

9条改憲阻止の会が経産省前にテントを作り、初期は塩見も来ていた。その後、清瀬市会議員の選挙があり、選挙の後、清瀬まで塩見に会いにいきました。彼も前から心臓を患っていて、お互いに身体には気を付けようという話になりました。

塩見自体が、本当の意味で自分の心の底を、あの当時どうだったかということを本当の意味で語ったのか、語らなかったのか。たぶん語りたかったけれど語れなかったのか、あるいは言葉にしたかったけれど、まだ言葉にならなかったのか、それは塩見の問題ではなくて、また俺の問題でもあるんだろう。

塩見とお別れするのは、塩見の本音を自分自身で本当に理解できた時だろうし、それまでは塩見さんの存在は僕の中ではずっと続いていくだろう。それは、あの時代を共に闘った、その時代の問題でもあるのだろうと考えて、しばらくは、お別れしたいけれど、お別れするためにはまだまだ時間がかかる。まだしばらくは、お別れという言葉を留保させていただきます。」


椎野(司会)

「続いて、塩見さんと北朝鮮とかイラクに一緒に行ったり、市議選の時には応援に来ていただいた作家の雨宮処凛さん、お願いします。」

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雨宮処凛(作家)

「皆さん60年代くらいからの付き合いがある方も多いと思うんですけれども、私はちょうど20年前、塩見さんのイベント、確か『赤軍派対ダメ連』、ダメ連という若者のムーブメントと赤軍派議長が語るみたいなイベントに行ったのが、1998年、私が23歳くらいの時だったと思うんですけれども、塩見さんが初対面のただの客の私に、いきなり『北朝鮮に行こう』と言ってきて、それが最初の会話で、私も元赤軍派議長にいきなり北朝鮮旅行に誘われて、断ったら殺されるんじゃないかと思って(笑)、しょうがないから二つ返事で行きますと言って行ったのが初めての海外旅行で、99年に北朝鮮に行った。何で北朝鮮に行くのか全然説明がなくて、とりあえず平壌に行けば何とか活動するだろうみたいな感じで、いきなりよど号グループの宿舎にぶち込まれて、子どもが同世代だったので、子どもたちと仲良くなって、それで5回北朝鮮に行って、よど号の子どもが日本に帰ってくる時に、私は平壌まで迎えに行って一緒に帰ってきて、そんなことしていたから、日朝会談があった直後に家にガサ入れが入って、本当に塩見さんと付き合っていると、いきなりいろんなことに巻き込まれて人生がおかしな方向になるという、それを実践している一人です。皆さんもいろいろ迷惑を被っていると思いますけれども(笑)、私にはこの20年でこのような実害というか、そのようなことがありましたけれど、塩見さんに強引に巻き込まれたお陰で、人生がとっても面白くなったということがあります。

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あと、晩年の塩見さんのことで、皆さん知らない方もいるかもしれないですけれども、この10年15年くらい、塩見さんの周りに生きづらさを抱える若い人たちがすごく集まってきて、私のイベントにも塩見さんに来てもらっていたんですけれども、2010年にここで塩見さんの生前葬をした時は、元引きこもりの若い人が『俺は駐車場管理人』という自作のヒップホップを歌ったことがあって、その彼は塩見さんのことが大好きで、他にも引きこもりとかニートとかいじめられていたとか不登校だったとか、社会的に排除されたような若い人が、塩見さんの周りにすごい集まっていて、塩見さん塩見さんとなついていたんですね。何でかというと、その人たちのいろんな悩みを普通の大人に相談すると『自己責任だ』そんなことを言われるけど、塩見さんに相談すると全部資本主義が悪いんだ(笑)

それは全部資本主義の問題だ、世界同時革命しかないと言う感じで、普通の大人が言うのとは全く違うことで、元赤軍派議長にお前は悪くない、お前の生きづらさの原因は資本主義だと断言される。そういう形で塩見さんと関わった若者たちが、塩見さんが意図しない形ですごい勇気づけられて、元気になっていくということがたくさん起こっていたんですね。本人は気付いていなかったけど、すごいたくさんの人を救っていた。

自己責任をいわれて分断されて孤立化させられていく中で自殺に追い込まれていくという中での苦しさに対して言ってくれたので、塩見さんがどこまで若者たちの思いを理解していたかわからないですが、そういう形で救っていたというのはすごい大きなことです。

私は20年前は右翼団体にいて、塩見さんにやめろ辞めろと言われていて、12年間から貧困問題と労働問題を始めたら、全部自分の手柄だと思ったらしくて、それからしょっちゅう電話が掛かってきて、明らかにこっちの運動を乗っ取って世界同時革命をやろうというのがバレバレなんです(笑)。

10年前にシルバー人材で仕事をしてからすごく変わって、シルバー人材センターユニオンを作りたいと相談に来たことがある。結局、シルバー人材ユニオンから世界同時革命をしたいということをまだ言っていて、とても感動したことがあって、本当に好き勝手に生きてきた人だったなと思います。

私にとっての塩見さんは『世界同時革命おじさん』でした。」


椎野(司会)

「この方も塩見さんと交差した方で、塩見さんが左から右へ、鈴木さんが右から左へ行くような交差がずいぶんあった鈴木邦男さんから一言いただきたいと思います。」

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鈴木邦男(元「一水会」最高顧問)

「鈴木邦男です。今、司会者が交差と言いましたけれど、そういう点もあったのかなと。僕がかって右の運動を40年間やっていて、今は左翼だといわれますけれども、塩見さんの名前は昔から知っていましたし、本も読んでいました。ただ、皆さんと違って同志ではなかったので刑務所に迎えに行くこともできなかった。

出てきてから、運命的な討論会がありました。予備校の河合塾で『左翼激突討論会』というのがありまして、塩見さんと私がやりました。名古屋でやって、大阪でやって、東京でやって、全国でやりまして、塩見孝也というのはものすごい人だと思ったんですけれども、でも、結構脇が甘くて人間的なんですね(笑)。そういう意味で非常に面白い人ですね。

塩見さんが左翼のアホどもに利用されるのが嫌で、一度塩見さんにこう言ったことがあったんですが、

『塩見さん、そろそろ革命家としてきちんとこの国の将来を考える本を作りましょうよ。憲法9条の改憲阻止の会なんかやっているんじゃない』

すみません、関係者がいっぱいいるのに(笑)

『それよりも憲法そのものが日本にはいらないんじゃないか。天皇制もいらない。そういうことをきちんと言ったらどうですか』

と言った。かって、社会主義協会の人がこんなことを言ったことを覚えている。社会主義協会の代表だった人は

『日本には自衛隊なんかいらない。自衛隊を赤軍にしろ。ワルシャワ条約機構に加盟しろ』

と言っていた。敵ながらあっぱれなことを言うなと思った。塩見さんにもそういう存在になって欲しいと思ったんですね。塩見さんにも

『天皇制はいらないでしょう。大統領制にしましよう。自衛隊はいらないでしょう』

という話をしたんです。塩見さんは『そうだな』と。

『じゃあ憲法9条の問題をやっているところじゃないでしょう、天皇制はいらない、大統領制にする、最初の大統領は塩見さんですね』

と聞いたら、塩見さんは謙虚なんです。

『俺はダメだ。中核派の親分、本多さん』。
『その次は塩見さんですね』

と聞いたら答えない。

冗談半分なんだから大風呂敷を広げればいのに、正直で言わない。

雨宮さんが言っていましたが、若い人の話を聞いたと。塩見さんはキチンと聞くんですね。

『君はなかなか革命的だ』とほめる。
ほめる言葉の最大の表現が『革命的』ですからね(笑)。

それで、『今の若者は大したものだ、しっかりしている』。どこがしっかりしているのか、こいつらは、と僕は思いました。他人に対して甘いんじゃないかと思いました。

あれだけのことをやった日本のレーニンといわれた塩見さんだから、もっと大きく構えていればいいと思うんです。

連合赤軍の人たちが塩見さんの責任を言うと、これこれと細かく例証を上げるんですね。そんなことよりも全部自分が作ったんだ、俺のせいだ、成功も失敗も全部俺のものだと言ったらいいと思うんです。でも、そういう風に言えなかった。きっと人間が真面目なんですね。そういう意味で残念だったと思うし、そういった形で塩見さんをもっと大きくすることができなかった我々傍にいた人間の失敗だと思います。

塩見さんを送るということですが、送りたくないですね。阻止したい、奪還したいという感じですね。肉体は奪還できなくても、魂は、また、革命の志は奪還したいと思っています。塩見さんが出来なかったことを、我々がみんなが何とかしてやっていきたいと思っています。」


椎野(司会)

「続いてトークライブ酒場を経営している平野悠さんにお言葉をいただきます。」

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平野 悠(ロフト+1経営)

「僕はロフト+1というトークライブハウスを経営していまして、その中でいろんな論争があったり乱闘があったりしました。僕は青春時代は、ブントが初めて作った労働戦線で懸命に労働運動をやっていました。でも2年間一生懸命やったことが、あの連合赤軍事件で悲惨な目に遭って仕事を辞めました。僕は学生時代も労働戦線の時代も塩見と全く接点がなかったです。

85年に酒場、トークライブハウスを作った極端なきっかけは、中核と革マルを同じステージに上げて喋らせたいというのがずっと僕のテーマにあったんですけれども、結局、僕のところに出たのはブント系しかなかった。98年に塩見さんと会いましたが、塩見さんは全く孤立無援でしたね。20年間の獄中生活の中で、彼はいろんなことを思ったに違いない。出たらもう1回組織を作って世界革命をやるということはなかった。塩見さんが出てきて何かをしたいという土壌が一つもなかった。

それで僕は塩見さんを立てるしかないと、塩見さんを呼んだいろんなイベントをやりました。15年前に塩見のイベントをやった時に、塩見さんの事務所にFAXが入って『塩見を殺す』。普通の人だったら面白がって、右翼こいこいとなるが、塩見さんは異常反応しまして、防衛隊を作ってどうのこうの、そこまではいいんですが、店の入口で一人一人チェックして写真まで撮って、新宿署の公安もいるというムチャクチャなことをやった。ふざけるな、俺のところは絶対警察なんて入れないと一時絶縁した。

だけど塩見さんはいい人なんだな。塩見さんとは北朝鮮に行き、イラクに行き、原発の時は福島まで行って一緒にデモをしたり、いろんなことをしました。

最後の塩見さんとの決別の場所は、塩見さんから電話がかかってきて『俺は選挙に出る』たぶん、裏ではお金出せというだけの話だったと思うんですけれども、塩見さんに言われちゃったらしょうがないんで、僕と鈴木邦男と雨宮処凛と選挙の応援演説に行った。選挙日の前日には、皆で町をゲバラの旗を持って、赤軍派だと、世界革命の旗を持って町中行進したんですよ。これはひんしゅくもので、町はドンビキ。選挙演説の時は買い物かごを持ったおばさんに対して世界革命をやる訳ですよ(笑)。本人は受かるつもりだったらしいが。僕は間違いなく受からないと思った。でも300票くらい取ったんだよね。20年間牢獄にいたせいなんでしょうが、午前中に演説して午後には家に昼寝に行ってしまう。そんなこともありました。

でも塩見さんはいい人です。塩見さんは大衆運動にとにかく入り込みたい、自分で何かやりたいといった時に、僕の店は若者もいたし、彼は僕の店で開いた学習会にも入り込んできて、『賃労働と資本』の学習会をやったんですけれども、全部パクるんですけれど、組織者としてはうまくいかなかった。

塩見さんは最後の最後まで世界革命を忘れていなかった、という無茶苦茶偉大な人です。」


椎野(司会)

「平野さんが紹介していた選挙演説の時に、塩見さんは獄中20年と言っていた。それは隣の西東京市で、自分は大菩薩で捕まった赤軍派であるということを隠さずにトップ当選をしている市議会議員の選挙参謀がそういう戦術を打ち出した。(選挙参謀は)『塩見さん、他の人と同じことをやってもダメだ。1人対他の候補22人という構造を作り出せばそこに勝機があるかもしれない。そこにしか勝機がない』ということを仰って、それを採用して、23人中22位、319票で落選しました。ただ供託金は取り戻しました。」


村田(司会)

「これから学生運動の時代に活動家だった方が発言します。最初は白川真澄さん、お願いします。」

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白川真澄(京大大学時代の友人)

「私が大学に入学したのは1961年、安保闘争の次の年です。彼が入学したのは1962年に文学部に入学した。教養部のブンドの新しいリーダーとして活動するようになった。当時の京大ブンド、関西ブントは、渥美さんとか新開さんとか、きらびやかなスター軍団ぞろいで『巨人』のようなものです。私は共産党に入党したわけですが、共産党は人材もない戦闘力もない、当時の広島カープのような『貧乏球団』に入ったという印象だった。この『貧乏球団』をブントに並ぶ強い『球団』にしなくてはいけないということで、私が大衆運動の前面に出まして、塩見君とライバルとしてやりあったということであります。

当時の京大ブントの新開さんたちとよく論争しましたが、かなり生産的な論争ができたと思っています。だけど、塩見とは生産的な論争をした記憶が全くない(笑)。新開さんとはグラムシとかローザを読んで、それをベースにして論争するわけですが、塩見は読んだことがないんじゃないか。あいつのレーニン理解は何なんだろうと思っていて、結局塩見とは腕ずくでやり合うことが多くて、論争にならなかったというのが私の印象です。彼は『日本のレーニン』と呼ばれたそうだが、誰が言ったのだろうか(笑)。自分で言ったのではないか、とさえ思う。

私たちにとっての華というのは、68 年から70 年にかけての闘争ということになって、同じように体験したわけですが、私は共産党から当然のように除名されまして、共産主義労働者党という党派を結成しました。これは『遅れてきた新左翼』ということで、中核の諸君とかブントの諸君が先行していましたから、何とか追いつけ追い越せということで、私たちも反政府実力闘争を展開してかなりの犠牲者を出しながら実力闘争を展開しました。ただその中で、いろいろな要素があって、政府を実力で倒すという闘争と同時に、全共闘運動に見られるように自分たちに決定権を取り戻す、つまり自治の革命とか、あるいはフランス5月革命に見られる自主管理の闘い、そういう新しい要素が芽生えていたのではないか、今も当時もそう考えていました。私たちは政治革命だけではなくて、社会革命もということで『政治=社会同時革命』といういい方をして、68年69年の闘いに行こうと考えていたわけです。

ある時、69年ですが、上京していた塩見とばったり出会った。私は共労党の専従で上京していた。その時、塩見に『塩見、暴力だけでは世の中は変わらないぞ』と言った。それ対して、塩見は『何言ってるんだ、暴力で変わるんだよ、暴力で』と言った。その後、交わることはなくて逮捕されて、長い獄中生活を送るわけです。出てきたときに出迎えに行って付き合いが復活するわけです。

私は68年69年というのは、世界革命ということでいうと、国家権力を獲る革命あるいは政府権力の奪取を優先する革命から、自治の革命に革命というものが大きく転換する歴史的な転換点だったと、私は総括している。

このことは、国家権力を獲る革命、あるいは政治権力を奪取することを優先する革命は、革命的な暴力を伴います。革命的な暴力というものは、当時の新左翼の共通の考えであったわけです。『革命的暴力』をどうするかという問題があって、やっぱり塩見君はぎりぎり武装闘争を追求した。68年から70年にかけて東京でやった反政府実力闘争は敗北した。敗北をはっきろ認めなければいけない。私たちは、三里塚闘争の中で、もう1回実力闘争を復権するという道を選んだ。

ちょうど今年が管制塔占拠の40周年になるわけで、生活空間に根差した人々の抵抗の暴力は強いということを非常に実感しました。と同時に、世界的に行われた民族解放の武装闘争、第三世界の武装闘争、ベトナムやパレスチナの解放闘争、そういうものに世界革命のリアリティを求めたわけです。だけれども、それが80年90年代に挫折をしたということをどう考えるか、という問題があります。私は、暴力の問題は、人々の生活空間に根差した『抵抗の暴力』は強い、これは生きるというのが私の一つの考えで、その点、塩見がどう考えたのか、彼が生きていたら論争したかった。

普通、偲ぶ会というのは、良いところを挙げて、最後にちょっとけなすということがあるけれども、何が良いところかよくわからない。

最後に一つ申し上げます。塩見はリアリスとしての革命家としてはダメだ。だけれども、間違いなく革命の夢を追い求めたロマンティストであったことは間違いない。リアリストであるためには、冷たい計算をして闘いを勝利に導くためには、その原点は熱い心を持ったロマンチストでなければいけないと思います。その点で、ロマンチストでありたい、あろうという塩見とどこかで一致するのではないかと考えているところです。」


村田(司会)

「白川さんのお話の中で、誰が塩見を『日本のレーニン』と最初に言い出したかということですが、私の記憶では、たぶん藤本敏夫が、新聞記者相手に関西弁で『レーニンみたいな男やな』と言ったと記憶している。次に朝日健太郎さんお願いします。」

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朝日健太郎(先駆社代表)

「私は1944年生まれです、塩見さんよりちょっと下ですが、同時代を生きてきた一人です。私はフロント派といわれていた政治グループの責任者でもあります。
彼の特徴点は世界同時革命、武装闘争ということでありますけれども、その視点からいいますと、私は終生一貫して反対し続けてきた右翼日和見主義の代表のような立場であります。塩見さんとは、実はほとんど接点がありません。3・11以降、立ち話をする機会はありました。

塩見さんは第二次ブントの中心的な方ですが、第一次ブントで世の中を騒がせている人は西部邁です。この人物はどういうわけかメディアでは賛美されている。60年安保のブントの人たちの一群は、皆さんご存知のように保守派に行きました。それは、国家をどうするかということで中曽根など保守派に近づいたと思います。西部はそこに行けなかった。彼は共産主義は嫌い、これは反スタですね。もう一つは親米保守は嫌い。これは私の理解ですが、60年論争の時に最大の論争点は自立従属論争というのがあった。ブントは私たちと同じように自立派、日本帝国主義復活と闘うにはどうするのかというのがテーマであったわけですから、アメリカと手を組んでやろうという気はさらさらなかったし、ましてや、従属的な発想は全くなかったですね。ですから西部は親米保守が嫌いだった。保守派に行ったにもかかわらず、彼の考えは合理主義です。力で振り負かすというのは彼には合わない。そうすると、最後は行く場所がなくなったのではないか。私は安倍晋三は対米従属を賛美しているとは思いません。彼は明らかに日本の自主独立をどうするかということを保守の側から考えている一人です。彼は最終的には憲法だけではなくて、核武装もそうだし、天皇元首化もそうだし、日本の復古的なものをもういっぺんやろうという発想に近い方である。西部は行く場所がなくて死んだと私は思っている。

塩見孝也の長い人生を見て、ブントの中で保守に行かなかった代表者の一人だと思う。それは保守に行かなかったけれども、革命をどうするかということを終始考えていたことは間違いない。

私は世界革命戦争と市議会議員選挙がどうして結びつくのかということを彼に聞くこともなかったし、私の理解を超えた発想であります。

彼はいろんな評価はありますけれども、彼のフェイスブックを読んだ友人によりますと、そこに革命家と書いてあるという。そうか、彼は革命家として終生闘ったんだ、その中身はともかくかくとして、その志は私は最後に称えたいと思います。」


(明日のブログ後編に続く)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html

49. 中川隆[-11489] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:33:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[506] 報告

No491 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 後編 2018/4/21
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。


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【「塩見孝也お別れ会」後編】

村田(司会)

「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。

最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」

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三島浩司(元東京都学連委員長)

「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。

彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。

塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。

陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。

やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」


村田(司会)

「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」

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渥美文夫(元ブント書記長)

「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。

塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。

1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。

今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」


村田(司会)

「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」

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高原浩之(元赤軍派)

「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。

 まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。

しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。

次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。

この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。

それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。

以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。

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我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。

ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。

最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」


村田(司会)

「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」

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松平直彦(元赤軍派)

「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。

ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。

私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。

その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。

出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。

その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」


椎野(司会)

「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)

「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」

<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>

 塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。

貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。

だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。

50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。

憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。

それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。

今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。

しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕

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山中幸男(救援連絡センター)事務局長

「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。

私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。

私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。

先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」

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椎野(司会)

「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」

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パンタ(頭脳警察)

「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。

重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。

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<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>

 塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
 大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。

 塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。

 この会議のために、「現代革命T・U・V」という、のちにパンフbSへと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。

その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。

 チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。

 ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。

 塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。

 塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。

 それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。

私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。

 塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。

当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。

 僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。

 今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。

 ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。

みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。

「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。

 塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。

 当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。

 最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。

7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。

あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。

 「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。

 私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。

塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。 
2月18日 記 重信 房子


村田(司会)

「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」


<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>

私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。

話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。

厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。

反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。

反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。

「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。

評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。

我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。

ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。

この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html

<塩見孝也略歴>
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html

50. 中川隆[-11488] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:36:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[507] 報告

追悼 塩見孝也 2017.12.01
老革命家・塩見孝也(元赤軍派議長、最高指導者)の「思い出」
text:平野悠
https://rooftop.cc/report/2017/12/01090000.php



 私は今、100日以上にわたる世界一周船に乗っている。ハワイから横浜に戻る船中、ネットで塩見孝也の死を知った。

 18年にも及ぶ獄中生活を経て塩見は出所したが、昔の同志は誰も迎えには来なかったらしい。寂しい出獄だった。かの塩見が作った武装闘争を標榜する赤軍派はボロボロになって消滅していたのだ。

 連合赤軍のあさま山荘と、同志殺しの悲惨な結末により、高揚していた日本の新左翼運動は完全に終焉したと言っていいと思う。その後は、もっとくだらない新左翼各派の内ゲバの時代が長く続いた。革マル、中核派、解放派のバカな内ゲバで100人以上が死んだ。

 私が属していたブンド(共産主義者同盟)はとうに雲散霧消していた。心ある連中は、もう思い出したくもなく、誰もが口を閉じた。政治の季節に参加した誰もがあの時代を若者に伝えることすら拒否した。

 そして時代は「しらけ世代」に移行した。

LPO 三上治塩・見孝也・前田日明・鈴木邦男・高須基仁.jpg

 もう20年も前、出所したばかりの塩見は私の経営するトークライブハウスにやってきた。

「平野、俺はやっと行き場を見つけた。ここには俺の話を聞いてくれる連中がいる」と語った塩見が忘れられない。私の店で塩見は鈴木邦男(新右翼「一水会」元最高顧問)、園子温、森達也、宮台真司、若松孝二、などいろいろな文化人と知り合った。

 あの滝田修に「平野、俺はもう何もできない。追われている身だ。塩見を頼む」と言われたこともあった。

 彼はブンド赤軍の世界同時革命の夢が捨てられなかった。最後の最後まで。漫画でしかないのに革命というロマンを追い求めた。「縄文革命論」などを編み出したが誰も相手にしなかった。

「俺は連合赤軍事件の時は監獄に入っていたから、あの事実を全く知らなかった。あんな京浜安保共闘なんぞと野合を組むなんてバカな話だ。痛恨だ。俺の責任なのだろうか……」とこぼしていたが、周りは塩見の責任を追及した。

「塩見、ここで全てを背負うのがお前の任務だ。ちゃんとした総括をしろ。それなしではお前を許さない」と言われていた。

 塩見孝也は出獄してからいつだって孤立無援だった。彼はよく「平野、久しぶりに議論をしよう」と私を誘ってきた。彼と一緒に北朝鮮にも行った。そこで塩見はよど号赤軍の連中と決定的な別れがあった。さすがの塩見も北朝鮮を全面的にマンセーとは言えなかったのだ。

 イラクに人間の盾になりに行ったこともあった。その時の塩見は本当に嬉しそうだった。どこかに命をかけられるところがあることが嬉しかったのだろう、と私は思った。

駐車場007.JPG

 2年前、塩見は清瀬市議会選挙に立候補した。彼は本当に当選するつもりだった。どこまでノーテンキなのか。

 私と雨宮処凛と鈴木邦男が応援演説に立った。彼は街頭演説でも「世界同時革命」を訴え続けてたのには感動した。買い物カゴを下げた清瀬市のおばさんたちはキョトンとしていた。清瀬の駅前で「日本のレーニン塩見孝也をよろしく」と演説したのは鈴木邦男さんだった。

 選挙運動最終日には赤軍旗と世界革命の幟を立てて、20人ぐらいで街を行進した。鈴木邦男さんなんか大喜びだった。まるで漫画だったが、塩見は真剣だった。 (街の人々はドン引きだったな。)

 投票結果は惨憺たるものだった。見事に落選した。

 今、私には塩見孝也の面影が走馬灯のようにぐるぐる回っている。いいやつだった。素敵な愛すべき老革命家だった。そして塩見の死によって、遅まきながら一つの時代が終わったと思ったのは私だけだろうか。

 安らかに眠れ。塩見孝也。世界革命は近い。あんたはやることはやり尽くした。時代遅れと言われようと。
https://rooftop.cc/report/2017/12/01090000.php

51. 中川隆[-11487] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:47:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[508] 報告

追悼・塩見孝也議長 - ちくわブログ 2017-11-19
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/cec849fd59dd21112168801e9c78e019

2017年11月14日、元赤軍派議長・塩見孝也さんが亡くなった。


塩見さんとは「赤軍派」のドキュメントを撮ろうと思い立った頃から付き合いがあった。
関係者で一番最初にインタビューしたのが塩見さんだったと思う。
まだよく分かってない頃で、今そのインタビュー映像を見返すとチンプンカンプンな質問をしているが、塩見さんはひとつひとつ丁寧に答えてくれた。

わたしが塩見さんの事を人間的に信頼していたのは、ここだった。
相手の知的レベルに合わせて、決して馬鹿にすることなくそこまで降りてきて話してくれた。
どんな人に対しても平等で、相手によって態度を変えるようなことをしない人だった。そういう態度というか、そういう人、だった。

だから誰にも優しかったし、反面長い付き合いがある相手でもキレる時はすぐキレた。
それどころか現在進行形で世話になっている人でさえ、意見が食い違えばどこであろうと瞬間湯沸かし器のようにブチキレていた。
自分の思想信条や、一度そうと思った事は曲げない人だったように思う。そのせいか元赤軍派で塩見さんが嫌いだという人は少なからずいた。

撮る方としては面白かったけど。


思い返すと、まず最初に言われた事は「なんだキミは。興味本位か」という言葉だった。
このブログにも以前書いたけど、生前若松孝二監督とある集会で同席した時、そういうことをある人に言われて戸惑っている、というようなことを皆さんに話したら、若松監督がとっさに「そんなもの、興味本位でいいんだよ!!」と怒気の混じった声で言われた。
その言葉にすごく勇気付けられた。

最初にそういう経験をしておいて良かったと思う。


2015年、塩見さんは清瀬市議選に立候補した。

結果は惨敗だが、それでもあの票は重かったのではないかと思う。

一週間の選挙戦に4日ほど同行したが、近くで見ているとハラハラするくらい疲れていた。そういうそぶりは見せないようにしていたけど、確実に寿命縮めてるなあ、と思った。

でも、市民の前でアジったり、「おはようございます!!」と言ったりする塩見さんは画になった。

この時も、各地から協力者が事務所に詰め掛けた。

政治的な訴求力というより、妙に人望だけはある人だった。

どこに魅力を感じているのかそれぞれ違うと思うけど、わたしは先に挙げた点と、時折見せる人間的なかわいらしさが、塩見さんの事をどうしても憎めないポインツだった。

最後に会ったのは『連合赤軍事件の全体像を残す会』の例会だったと思う。
会の帰り道、市議選の総括を聞こうと高田馬場の路上で塩見さんに突然カメラを向けた。

その時、別件でもちょっとしたトラブルがあり塩見さんは疲れていた。それにわたしも少し巻き込まれていて、内心「しょうがねえな」と思っていた。

ひとしきり質問した後、駅前で「じゃあ」とお別れする時、最後に少し照れながら「色々とありがとな。来てくれたりアドバイスくれたり。これからもよろしくな」とお礼を言ってきた。


こういうところだな、憎めないな、と思った。


https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/cec849fd59dd21112168801e9c78e019

52. 中川隆[-11486] koaQ7Jey 2019年3月13日 14:12:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[509] 報告

ロフト席亭・平野悠の『暴走対談』
第一回 追悼・塩見孝也さん(元赤軍派議長)2018年01月20日 
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html


「資本主義が全て悪い!」(塩見孝也談)

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司会・平野悠
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出席者
鈴木邦男(評論家)
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雨宮処凛(作家)
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出所、そして北朝鮮へ


平野:元赤軍派議長、塩見孝也追悼対談ということで、お集まりいただきました。

鈴木:(机に置いてあった『塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」』を見ながら)でもね、こういう取材はかわいそうですよ、塩見さんがおもちゃにされているようで...。塩見さんって獄中でいろんな本を読んでいるんですよ、20年もいたんだから。でもね、宗教の本は意図的に読まないようにしていたと本人から聞きましたね。

塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」

ph4.jpgよど号メンバーとの交遊秘録から知られざる"性事"活動まで、
という触れ込みで塩見氏がテレクラ、風俗、キャバクラなどに取材に行く様子が書かれている


平野:ハマっちゃうから?

鈴木:親鸞とか、ハマっちゃうからでしょうね。革命家としてやはり自分に対してタガをはめたのかな。だからね、こんなに真面目な塩見さんの性の問題っていう個人的なことを出すのはかわいそうですよ。

平野:でもこれはリスペクトして書いているからいいんじゃないかとは思うけどね。人間は最終的には性なんだよ、っていうことがあるよね。

雨宮:いちばん無防備な部分ですもんね。

鈴木:所詮、われわれと同じ人間と思われるでしょう......でも塩見さんはわれわれとは全然違うよ。そのへんの連中とは違う男だよ。


平野:雨宮と塩見さんの出会いはいつ頃になるの?

雨宮:98年に開催された、塩見さんのイベントですね。当時、わたしはフリーターで人生に迷っていたんです。迷っていたからこそ、「世界同時革命だ!」って言ったり、火炎瓶を投げて政治と戦っていた世代の人に話を聞けばヒントをもらえるかなと思って参加してみたら、塩見さんがすごいテンションで演説をしていて、イベントが終わったあとに、初対面のわたしに「とにかく平壌に行こう」って誘って来たんですよ。そんなとんでもないことは人生に滅多にないから、もちろんOKをして(笑)。99年に初めての海外旅行で北朝鮮に行ったんですよ。

一同:笑

雨宮:だから塩見さんのせいで人生がめちゃくちゃにねじ曲げられました(笑)。


鈴木:僕は、ずっと塩見さんの名前は知ってはいましたけど、出会いは河合塾での「左右激突討論会」というイベントでしたね。左翼と右翼の両極端の人間が集まって、お互い敢えて相手の欠点を探り出して戦うという内容でした。それを何回もやったんですよ。振り返ってみると、世界の革命家に対して失礼だったなと申し訳ないです。

平野:初対面の印象はどうでした?

鈴木:20年も獄中にいて、さぞ打ちひしがれただろうと思ったら、全くそんなことはなかったですね。僕らが学生の時に出会っていたら大変だったと思いますよ。よど号の人たちや連合赤軍の人たちもそうだけど、活動をしていたころから何十年もたっているから話せたんですよ。

塩見さんもそうだけど、上垣さんとか、赤軍の田中さんだとかね、いい人もいるわけですよ。そういう人と学生時代に出会って意気投合していたら、僕なんて簡単に連合赤軍になったり、北朝鮮に行ったりしてたでしょうね。だから何十年も後になってから出会ってよかったですよ。

連赤の人たちとは一緒に活動をしようとは思わないじゃないですか、距離感があるからこそ自由に話し合えることはいっぱいありました。塩見さんにも、ほんとうはもっと考えを教えてもらいたかったですね。


平野:僕は学生時代に何回か会ってるんだけど、彼は三派全学連の学生部長で学生を指揮していたからほとんど会うことはなかったんですよ。僕は労働戦線に行っていたから。だから、出所してから突然電話があって「おい、ロフトプラスワンに出るぞ」って(笑)。

鈴木:あははは、出るぞってすごいな(笑)。

平野:しょうがないな、じゃあ誰と組ませようかなと思ったときに、だめ連(註1)がいいなと思ったんだよね。彼らなら、塩見さんを素朴に尊敬してくれそうだから。そしたらイベント中に質問がたくさん来ちゃって、塩見さんは「おれの話を聞いてくれるやつがこんなにいる」と感動したんだよね。

だってね、出所の日に誰も迎えにこないし、世界は何も変わっていない。奥崎(謙三)さんの状況と同じですよ。奥崎さんは、自分の出所の日をみんなが歓喜の声で迎えてくれて、テレビにも出ずっぱりになって......と想像してたわけですよ、でも現実は正反対だった。

同じように塩見さんだって少しは期待したと思いますよ。奥さんからも言われたもんね、「うちの塩見を頼みます」って。潜行中の滝田修からも「俺はいま逃げ回っていてダメだから、塩見を頼む」って言われたんだよ。だから彼に気を使ってくれている人はそこそこにいたけど、もう一回運動をやろうっていう人はひとりもいなかったね。

雨宮:そりゃそうですよ(笑)。


平野:僕はそのころ『風』っていう店の常連 組織を作って学習会なんかもやってたの。そこに塩見さんが毎回来て演説するんだよ、もうまいったな、このおじさんって(笑)。でも結局、『風』の連中をほとんど引き連れて学習会を出て、自分の団体を作ったんだよ! まぁいいんだけど。

雨宮:もしかして、それが『自主日本の会』!? わたしもあの会に入れられた。

一同:笑

鈴木:これが北朝鮮に行く『白船訪朝団』になっていくわけですね。

平野:もう一発みんな飛躍したいんだったら塩見さんについて行ってもいいんじゃないって思って見てたんですけど、最後はかの「乱入事件」で......。

鈴木:ああ、『ロフト公安事件』(笑)。


塩見孝也、ロフトプラスワンに公安を呼んで大騒動


平野:『ロフト公安事件』で塩見さんは失態を演ずるわけですよ。ロフトプラスワンにわけのわからない右翼組織から「塩見孝也を殺す」っていう予告FAXが届いたんですよ。俺はおもしろいから「来るなら来いよ」って思ってたのに、塩見さんは本気でビビっちゃって。防衛隊を作って、警察にも相談して、ロフトプラスワンの入り口で一人ひとりをチェックしはじめちゃったの。

雨宮:そうだそうだ、あの日はみんながすごい怒ってた。

平野:その日、僕はコマ劇場で北島三郎ショーを観てたんだけど、ロフトプラスワンに帰ったら防衛隊が住所と氏名を書かせて写真まで撮ろうとするし、中に入ったら鈴木さんが壇上で「塩見! 許さない! 公安は帰れ!!」って激怒してるし、警察だって塩見さんに頼まれて来てるのにさ(笑)。もうね、何が起こったのかワケわからなくて大騒ぎだったの(笑)。あんなFAXにビビるなんて考えられないよ。

鈴木:20年間も刑務所にいて、拘禁症の影響があったんでしょうね。

平野:「自分の身を守るのに権力を使うのは当たり前だ」っていうのが塩見さんの言い分だったんだけど、うち(ロフトプラスワン)は警察は絶対に入れない、自分たちで解決するっていうのが基本だったから、まさか塩見さんが警察に相談してるなんて驚いたね。お客さんもひいちゃったし、俺も「塩見断絶宣言」をRooftop(※ロフトプロジェクトが発行しているフリーマガジン)に掲載したから、結局また塩見さんはひとりになっちゃって。


鈴木:その頃の塩見さんの心理状態を、僕らももう少し考えればよかったですよね。20年間も刑務所に入れておいて、「刑務所で警察は俺を殺す気だろう」と思っていたのに刑期を終えて外に出てきてしまったわけで、「自分をどこかで抹殺しようとしている人がいる・革命をこわがっている人がいる」と自意識が過大になっていたんだと思いますよ。いつテロが起こるかもしれない、と。

雨宮:あのイベントの少し前くらいから、塩見さんの事務所にいたずらのFAXが来たり、落書きをされたりしていたんですよ。それで自分を狙っている人がいるっていう気持ちが盛り上がったんでしょうね。わたしもそのイベントに訪朝報告ということで出ていたんですけど、お客さんだったらびっくりしますよね。入り口で写真をとられるなんて。

平野:前代未聞ですよ。鈴木さんは面白がってたけど(笑)。

雨宮:あ、その頃わたし右翼だったんだ。だから公安がどういうものなのか、あんまり分かってなかったんですよ。でもみんながすごい怒っているのを見て、塩見さんはとんでもないことをやらかしたんだなっていうのは分かったんですけど、それよりもオッサンたちがものすごい剣幕で怒鳴りあっているのを見て、もう誰が悪くて何が起こっているのかさっぱりわからなかったですね。

平野:とにかくみんなすごい怒ってだよね。


清瀬市議に出馬
「赤軍派もいる明るい清瀬」


平野:塩見さんが出所してからのもうひとつの失敗は選挙かな(笑)。

雨宮:15年の清瀬の市議会選挙ですよね。

鈴木:平野さん、選挙の相談を受けたんでしょ?

平野:俺が「鈴木さんを応援演説に連れて行くから」って塩見さんに言ったんだよ。これだけ塩見さんをおもしろがっているのに、選挙に応援にこないなんて許さない!って(笑)。

鈴木:そりゃ行きますよ(笑)。

雨宮:この3人、みんな塩見さんの応援演説に行ってますもんね。でも選挙事務所に行ったら「赤軍」「獄中20年」っていうノボリが立っていて、それを見た瞬間に、受かる気ないんだって確信して(笑)。だから「赤軍派もいる明るい清瀬!」とか「清瀬から世界同時革命を!」とか全員フザけてましたよ。わたしも、「獄中20年の確かな実績!」って言いましたもん(笑)。

平野:塩見さんだけが本気だったんだよ。

雨宮:赤軍っていう旗を持って、ヘルメットかぶった人たちが練り歩いても逆効果でしかないですよ。

鈴木:最初のうちは真面目にやってたんだよね。でもスタッフ同士が喧嘩になっちゃって、それでもうヤケだから赤軍の旗も出してしまえ! と(笑)。ゲバラの旗が立っている事務所なんてすごいよね。

平野:でもね、清瀬の他の党をつぶしていけば受かる可能性もあったよね。

雨宮:つぶせなかったと思いますよ(笑)。


平野:そう思うとさ、やっぱり「塩見孝也は偉大なり」っていう総括になるよね。

鈴木:僕はそう思いますよ。でも、みんながいじってたでしょ。

平野:一番いじってたの鈴木さんだよ(笑)。

鈴木:でも真面目に話し合ったこともあるんですよ。塩見さんは憲法を守るとか9条を守れとか言っているけど、もともとは日本革命をしようとしてたでしょ? って。

平野:そうそう、あの人が9条の会に入ってたこと自体がわからなかったよ。

鈴木:今の天皇制を守る気はないでしょう? って聞いたら、「最終的にはそうだけど、今はここしかないんだ」って言ってましたね。「最終的には今の天皇制を廃止して大統領制にすべきだ。最初は中核派の本多(延嘉)を初代大統領になってもらう」って。自分は二代目になるつもりだったんじゃないですか。塩見さんはいろんな思想を持っていたんですよ。でも発表する場がなかったんですよね。イベントでもおちゃらけなことしかできなくて。

平野:9条の会でも、脱原発テントでも、塩見さんはまわりから浮いちゃって放逐されちゃうんだよな。

雨宮:結局、こっちにも来たんですよ。わたしが反貧困活動をはじめたころに、「やっと俺の言っていることが分かったか」って(笑)。

一同:笑

雨宮:俺の思想が届いて右翼が治って労働のことが分かったらしい、雨宮は俺が育てた!って思い込んでる感じで。そしたら、「もう世界同時革命しかないから会おう」って言い出してしょっちゅう電話がかかってくるんですよ。でも、明らかに若い人たちの労働運動をのっとって世界同時革命をしよう、っていう魂胆がバレバレだから会いたくないじゃないですか(笑)。

うちは世界同時革命じゃないんですよ、って説明をして会うのを断っていたら、塩見さんが本気で怒って、「マルクスも読んでいないくせになんだ、俺はお前を左翼とは認めない」って言われちゃって。そんなマルクス読むとか資格が必要ならそんなもん願い下げだ! と思って。

平野:むちゃくちゃだな(笑)。


駐車場の管理が転機か
地に足がつき始めた......と思いきや


雨宮:でもその直後に、塩見さんはシルバー人材センターでショッピングセンターの駐車場管理の仕事を始めるんですよ。そしたらやっと、世界同時革命とか人民とか労働者とか大きなことばかり言わなくなったんです。

自分が時給制で働いて、ショッピングセンターに来る人たちは週末には買い出しに来たり、一緒に働く人は年金生活だったりっていう普通の人たちの生活を知って、地に足がついたことを言い始めたんです。シルバ人材センターって労災が適応されないとかいろんな問題もあるから、相談にのってくれって連絡が来たんですよ。

平野:なるほどね。

雨宮:それで、わたしが入っているフリーター全般労働組合を紹介して、一時は「シルバー人材センターユニオン」を作ろうって話にもなってたんですよ。素晴らしいことだから応援していたのに、塩見さんはこれを利用してまた「最終的には世界同時革命」って言いだしちゃって(笑)。

一同:笑

雨宮:だからもうね、コイツ全然懲りてない! ってびっくりしました(笑)。

鈴木:居場所がなかったんですよね。僕らも責任があるでしょうけど、でもかわいそうでしたよね。運動家という立ち位置を超えてもらって、本を書いてもらうのがいちばん良かったんでしょうね。


平野:鈴木さんの誕生日イベントで、足立正生監督と塩見さんケンカしちゃってね。足立さんから「連合赤軍事件と自分は関係ないなんて言うんじゃなくて、全部背負え」って言われたんだけど、塩見さんは「その時期に自分は監獄に入っていたし、そんなこと知らない。

なんであんなバカな屋号を組んだんだ」ってしか言わないわけですよ。でもみんなは「お前は赤軍議長だろ、そこも含めて総括しろよ」って思うわけ。そしたら塩見さんが足立さんに向かって「お前に言われる筋合いない」って言っちゃって一触即発。まぁでも、塩見さんが連合赤軍の総括までする必要があるのかっていうのはひとつの論争になるよね。「お前が作った暴力組織だろ」っていう視点もあるし、塩見さんにとっては自分がいなくなってから勝手に殺し合いをしたっていう気持ちだっただろうし。

鈴木:真面目すぎるんですよ。全ては俺のせいだっていう大きな視点で考えれば良かったんですよ、でも傲慢に思われるのがいやだったんでしょうけど。

平野:ブントだけは本当にいい加減な組織だから。それで混乱して赤軍派は分裂していくんですよね。個人情報保護法の運動にも巻き込んだけど、結局は浮いちゃってさ。塩見さんはリーダーシップがとれないんだよ。インテリに一発で論破されちゃうから。

鈴木:やっぱり元赤軍派議長っていう名前も大きかったんでしょうね。

平野:興奮すると他者を寄せ付けない雰囲気を作っちゃうんだよね。

雨宮:夢を捨てないロマンの男ですからね。でも駐車場管理の仕事を始めてから謙虚になったんですよね。それまでは、どこに来ても自分が演説をしなければ気が済まなかったのに。

一同:笑


生きづらい若者たちが集まりはじめる


雨宮:シルバー人材センターで働くようになってからはしょっちゅう貧困系のデモにも参加者としてまざってくれて、すごく照れながら「自分もいち労働者として参加をしているんだ」って言っていました。

でも、塩見さんってすごい功績もあるんですよ。2010年に生前葬をやったじゃないですか?(※過去の己に一つの区切りをつけ、「地上に足を着けた人」になるという葬儀)そのときに、ひきこもりの人が「俺は駐車場管理人」っていう自作のラップを作ってきたんですよ。その頃から、塩見さんのまわりに、生きづらい系の人たちが集まるようになったんですよね。なんでかって言うと、もともとわたしも自殺志願者だったけれど、塩見さんを見ていると「ちゃんと生きよう」っていう気がまったくなくなるんです。

平野:あはははは(笑)

雨宮:塩見さんって、獄中20年だし、破防法も適応されて、未だに世界同時革命って言っていて、60代なのに厨二病を患っている働いていないおかしなおっさんだから、一緒にいると「こんなに適当に生きていけるなら自分も大丈夫じゃないか」って思えるんですよ。

鈴木:なるほど。

雨宮:それで、生きづらい若者が何を相談しても「そうか、それは全部資本主義が悪い」っていうワンフレーズしかないんですよ。他の大人に相談をすると、「お前のせいだ」「頑張りが足りないからだ」「自己責任だ」って言われるけど、塩見さんだけはなんでもかんでも「資本主義が悪いんだ」ってことにしてくれるから。全然お前は悪くない...って。

平野:全部資本主義が悪いんだ、と(笑)。

雨宮:そうですそうです。しかも名前が大きいから余計に効果的で。元赤軍派議長に「お前の悩みは全部資本主義のせいだ」ってお墨付きをもらえるわけですよ。これはもう塩見さんにしかできない芸当なんです。そうするとみんな元気になっちゃって、冗談半分で「世界同時革命だ!」なんて言って元気になっちゃって。

鈴木:それはいいことですよね。ロフトプラスワンでも塩見さんが出演した自殺志願者が集まるイベントがありましたよね。塩見さんの力もあっただろうし、そのイベントで結婚して子どもを産んだ人たちも知っていますよ。あのままだったらふたりが地球から消滅するはずだったのに、いまは3人になっている。死にたいと思うということは、本当は生きたいんですよ。だから人に悩みを相談したり、集まったり。そういう場所が減ると座間の事件みたいなことが起こったりするんです。

雨宮:自殺するより、塩見さんのまわりで「世界同時革命だ!」って言ってたほうが楽しいんですよね。そのうちになんとなく、生きづらい若者たちが塩見さんのまわりにいて、生活のことがなにもわからない塩見さんを支えるっていう図式になっていたんです。

本人は本気で「資本主義が悪い」って思っているけど、でも本人の意図していないところで若者たちを救っていたんですよ。普通ならありえない救い方をしてくれますからね(笑)。

鈴木:だから塩見さんにはどっしりと教祖としてでも、若者たちと関わっていてほしかったですよ。人間国宝にしてもらって(笑)。

一同:笑


雨宮:塩見さんの入院中も、最後まで支えてくれていた若い人がいるようで、塩見さんは幸せだったと思いますよ。もう運動家の人脈じゃないんですよ、生きづらい系のつながりも大きかったですから。

平野:平野:ああ、そうか......。考えてみれば、鈴木さんも選挙以来、塩見さんに会っていないでしょ?

鈴木:そうなんですよ、お見舞いに行こうと思ったら「もう明日退院するみたいですよ」って聞いたので。

平野:僕も行くしかないなって思ったけど、本人から「退院したよ」って電話も来てたから安心してたんだけど、急だったな。でもいまの雨宮の話を聞いてほっとしたよ、最後まで懐いている人がいたんだな。

雨宮:愛されていたと思いますよ。

平野:はじめて塩見さんのいい話を聞いたよ(笑)。

雨宮:確かに現代は資本主義が悪いですからね。

平野:はずれてはいないよね、ピントは合っている。

鈴木:週刊誌で連載をやるっていうのもなかったのかな。

雨宮:塩見さんの思想系の文章って難しいじゃないですか、普通の人はとても読めない。だから書いてもダメ、喋ったらアジる......

平野:あはははは(笑)。だから発言場所を求めてうちに来たんだよな。
雨宮:でも意図しないところで人を救うっていう最強のお笑いキャラではありましたよね。ただかっこつけだから、笑われたりするのイヤがるんですよね。本気で尊敬されないとイヤだから(笑)。


塩見孝也御一行、イラクヘ


鈴木:"日本のレーニン"っていうフレーズだって誰が言い出したんでしょうね。

平野:そんなの鈴木さんでしょ。

鈴木:いや、本人から「俺のこと"日本のレーニン"なんて言うやつがいて、困るよなぁ」って形でしか聞いたことないですよ。

平野:俺は鈴木さんからしか聞いたことないよ(笑)。

雨宮:そういえば、この3人とも一緒にイラクにも行ってるんですよね。

平野:木村三浩さん(一水会代表)が先導して30数人くらいですごかったよね。

鈴木:大川興業も行ったしね。

雨宮:イラクで塩見さんは注目されましたよね。やっぱり「レッドアーミー」って言ったらみんな感動するわけですよ。でも「モサド(世界最強のスパイ組織)」が動いて飛行機が打ち落とされるんじゃないかって心配しましたよ。

鈴木:えっ、そうなの(笑)。

雨宮:そりゃそうですよ、塩見さんと一緒に飛行機乗ってイラク行くなんて、打ち落とされてもしょうがないじゃないですか(笑)。

平野:だって赤軍派元議長ですよ。しかも右翼の鈴木邦男も乗ってるっていうんだから。

雨宮:むしろ日本の未来のために撃ち落としたほうがいいんじゃないかって(笑)。

鈴木:撃ち落とされたら英雄になったかなぁ。

雨宮:縁起でもない、やめてくださいよ。それで飛行機の中で塩見さんがタバコを吸おうとして、客室業務員とモメるっていうどうでもいいトラブルを起こして。最後にはイラクの秘密警察にも捕まったじゃないですか!

鈴木:あれ塩見さんが原因だったの?

雨宮:そうですよ! しかも、10万円をイラク・ディナールにかえたら抱えきれないような量になっちゃって、塩見銀行をやったりして。

平野:ひどいもんだよな(笑)。でも面白い人だったよな。

雨宮:楽しい思い出しかないですもん。

平野:でも彼は一体何を遺したんだろう。

雨宮:「資本主義が悪い」っていう名言ですよ。

鈴木:獄中の話もどういう風に考えていたのか知りたいよね。日記をつけていたはずだから、それは本にするべきだよ。「塩見孝也名言集」を作らなくちゃ。

平野:遺品整理しに行きますか。

鈴木:だけど 『実録・連合赤軍』(註2)を観ると、塩見さんはかっこいいじゃないですか。相当な運動をやってきた人なんだろうなとは思いますね。最初に出会ったときは怖かったですから。

平野:鈴木さんが怖いなんてありえないでしょ(笑)。

鈴木:いや、当時の塩見さんはやっぱり怖かったですよ、日本のレーニンですから(笑)。


「知らないのに『全共闘運動世代が悪い』っていうガキがいますけどムカっときますね」(鈴木邦男)


平野:(塩見孝也さんは)この世の中でも、最後まで革命って言い続けた珍しい人だよな。だって革命って言葉なんかもう全然聞かないもんね。最後まで真剣に革命なんて言っていたのは塩見さんくらいしかいないんじゃない?

でも、あの人がやってきたことは「よりラジカルに」っていう戦略で人を惹きつけただけで、世界革命だなんだっていう内容で惹きつけたわけじゃないと思うんだよ。理論家ではないよ。他の人が武装闘争に焦燥感を持っていろんな権力にぶちのめされた時に、塩見さんたちみたいな、よりラジカルな方に惹きつけられるもんなんだよ。

鈴木:でも、塩見さんは現実ではダメだったかもしれないけど、ずっと運動をやり続けて、理念の世界では勝利をした人だと思いますよ。そういう人たちは魅力的に感じますね。

よく、当時を知らないのに「全共闘運動世代が悪い」っていうガキがいますけど、ああいうのはやっぱりムカっときますね。展望がないけど、毎日運動をやっていた人は、何もしなかった人よりも偉いと思いますよ。実際、学生運動をやっていた人っていうのは全体の1割くらいしかいないわけですよ、圧倒的に無責任・無感動な連中が多かったんです。

僕らの中にも、遠巻きに左翼活動家の顔写真を撮って警察に売るような人もいて、そういうのは許せないんですよ。だって、思想が違えど同じ学友ですよ。鈴木は甘いって言われましたけど、敵だから抹殺しろという人は自分の味方とは思わないし、それならむしろ左翼として戦っていた人のほうが信用できますね。塩見さんは信用できる大きな敵でした。だから、もったいなかったですよ、我々がきちんとした発言の場を作ってあげられなかったのは申し訳ないと思っています。


雨宮:わたしは最初の海外旅行が塩見さんに誘われた北朝鮮だったんですけど、あの時に強引に誘われなかったら海外旅行なんて行かないままだったと思うんですよ。

自分の視野が広がったことにはすごく感謝しています。あと、人生に悩んだ時期に「こんなにめちゃくちゃに自由に生きてもいいんだ」って思わせてくれた人でした。死ぬ時まで一回も革命の意思を曲げたことがなかったと思うんですけど、死ぬ瞬間まで理想を追い求めて、まわりからバカにされようと笑われようと続けていて、結果的に意図せぬ形とはいえいろんな若者を救う......。そこには、強さを感じました。打算がない愚直な塩見さんに若者たちが共感をしたのだと思います、人の生き方としてはスジが通っていましたね。

鈴木:ぜひ塩見孝也の本を書いてくださいよ。「わたしの愛した塩見孝也」ってタイトルで。

雨宮:愛してないですし!

鈴木:広い意味の愛ですよ。

雨宮:ああ、広い意味の......。塩見さんがインターネットを始めたときに、出会い系迷惑メールの「わたしを抱いてください」とかを間に受けちゃって、「最近の女性はこんなに解放されているのか」って驚いてましたよ(笑)。

一同:笑

雨宮:「女性が解放されている」っていう言い方も塩見さんらしいなと思って。

平野:でも生きづらい若者を救っていたっていう姿は知らなかったな。

雨宮:死にたいってSNSに書き込んだらすかさず「お前のせいじゃない、それは資本主義が悪いんだ!」ってAIとかで返信してほしいですよね。

鈴木:そりゃいいですね。自殺も減りますよ(笑)。

平野:じゃあ「わたしが愛した塩見孝也」という本を出すということで。

雨宮:みんなが塩見さんについての思い出を語るっていうのにしましょう。

鈴木:歴史的にも価値がありますよ、やりましょうやりましょう!

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平野:やっぱりね、塩見孝也は間違いなく「ひとつの時代」を作ったと思いますよ。(文中・敬称略)

(註1)だめ連 ・・・ 1992年に神長恒一とぺぺ長谷川が始めたゆるやかな共同体。「働かないで生きるには」「恋愛しなくても楽しく生きたい」など、資本主義的な価値観にとらわれない生き方を模索した。

(註2)『実録・連合赤軍』 ・・・ 2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。監督は若松孝二。坂口拓が塩見孝也役を演じている。
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html

53. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[510] 報告

日本赤軍の女帝 重信房子     週刊現代 2000.11.16発行
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm

本誌・週刊現代だけが知っている逃亡29年、ついに逮捕

「血と銃弾と愛欲の1万日」を明かす!


「ブントのマタハリ」「テロリストの女王」といわれた伝説の美女闘士“重信房子”が日本に潜入帰国していた! 驚愕する国民を後目に、逮捕された重信容疑者は、護送される際、手錠をかけられた手を高々と上げた。パレスチナゲリラとともに闘った壮絶な「革命人生」の裏にかくれた素顔のすべてを明かす。

 

実質的な拠点は北京に置いて

「重信は来年日本に帰ってくるよ」

 日本赤軍の支援者A氏は、一昨年('98年)、ある団体の忘年会の席上、こう明言したという。出席者が、驚きながら「どうやって?」と質問すると、A氏は、

「偽造パスポートを使えばわけない。偽造でなくとも、同じ年格好で見分けのつきにくい人は結構いるものだ。そういう人間のパスポートを使えば難しいことではない」

 と、自信満々に答えた。

 日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者(本名=奥平房子)の突然の逮捕劇は日本中をあっと驚かせた。が、すでに2年前に、潜入帰国はごく近い人々には通達されていたのである。

 重信容疑者は11月8日朝、大阪府高槻市内のホテルを支援者の男性2名と出てきたところを逮捕された。

「今年7月下旬、大阪府警本部に、『重信房子に似た女がいる』というタレコミがあった。赤軍内部からの情報だ。高槻は'70年代に赤軍派の拠点があったところで、現在でも支援者が多い。中でも市内のB病院は、職員のほとんどが日本赤軍の支援者で、一大拠点となっている。この病院関係者の住まいや寮、関連施設などをしらみ潰しにあたっているうちに、アジトに出入りする中年女性を発見した。最初は重信とわからなかったが、写真や指紋をとり、前日までにようやく確認がとれ、逮捕に踏み切った」(公安関係者)

 やはり支援者の一人である関東在住のC氏によれば、

「重信が帰国しているという噂は、今年の夏前から、一部新左翼関係者の間で囁かれていた」

 というから、情報が警察に漏れるのは時間の問題だった。

 重信容疑者が潜伏していた大阪市西成区のアパートには、本人の顔写真が貼ってある別の日本人名義のパスポートやノートパソコン、フロッピーディスク、携帯電話数台などが残されていた。アパート、ホテルとも支援者名で借りてあった。中東情勢に詳しいジャーナリストが言う。

「中東の日本赤軍は、岡本公三がイスラエルでの13年にわたる獄中生活で精神を病み、ベイルートで一斉拘束された他の4人も今年3月に国外強制退去ののち送還されて逮捕された。もう実質的には彼女一人しか残っていないような状態でしたから、生きていくので精一杯だったようです」

 警視庁に移送された重信容疑者に接見した弁護士によると、重信容疑者は、

「やり残した仕事がたくさんあり残念だが、日本で皆さんに会えることを楽しみにしている」

 と話したそうだ。このコメントには“望郷”のニュアンスも感じられる。重信容疑者は、9月末に香港から関西国際空港に着いており、それ以前にも、中国、マカオなどを転々とし、日本にも過去3年間で4回入国した記録があるという。

「最近の重信の拠点はもはや北京といっていいほどだった。今年2月には、アラビア石油がサウジの油田採掘権の再契約に失敗した件を材料に、自分のコネクションを通じてサウジ王家と交渉できることをアピール。それを取引材料に政府に働きかけて帰国を実現しようと画策した。水面下では、何度かそうした交渉があったのです」(元公安調査庁調査第二部長・菅沼光弘氏)

「日本赤軍の女帝」重信房子容疑者は55歳。'71年に日本を出国し、レバノンに渡ってから29年になる。血と銃弾に彩られた彼女と日本赤軍の軌跡を簡単にたどっておこう。

 日本赤軍の前身ともいえる共産主義者同盟(ブント)赤軍派が結成されたのは'69年。その後、赤軍派のメンバーは3つに分かれていく。

ひとつは'70年、日航機「よど号」乗っ取り事件を起こし北朝鮮に亡命した田宮高麿ら9人のグループ。重信容疑者が奥平剛士と偽装結婚してベイルートへ出国した翌年の'72年2月には、日本では「連合赤軍」が「浅間山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開。凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚し、国内の赤軍派は事実上壊滅する。

 そして残る一つが重信容疑者ら中東を拠点とした「日本赤軍」だ。彼らは'72年5月30日に岡本公三容疑者(52歳)らが、イスラエル・テルアビブのロッド空港で乱射事件を引き起こしたことをきっかけに地下に潜り、'74年に「日本赤軍」を正式に名乗る。重信容疑者は、その最高機関・政治委員会のリーダーに就任した。

 その後、日本赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、レバノン・ベカー高原を拠点に、オランダ・ハーグやマレーシア・クアラルンプールの大使館占拠事件、日航機をハイジャックしたダッカ事件など、国際テロ事件を次々に起こし、世界にその名を轟かせた。

 

“飼い殺し”状態だった赤軍メンバー

 が、'97年にテルアビブ空港乱射事件の唯一の生き残りで、パレスチナ人民から英雄視されていたはずの岡本公三容疑者ら5人のメンバーが、潜伏先のレバノンで逮捕される。全盛期に30人といわれたメンバーも逮捕が相次ぎ、中東情勢の変化もあって、組織は衰退の一途をたどった。

 中東問題の専門家である拓殖大海外事情研究所・佐々木良昭教授がいう。

「日本赤軍にかつてのような戦闘能力はなくなっている上、中東の情勢がその存在を許さない環境になっている。パレスチナにとっても、いまや赤軍は邪魔でしかなくなっていたし、シリアも大統領が代わって対日政策が変わりつつあり、赤軍は居場所がなくなっていた。先に逮捕された赤軍メンバーの丸岡修服役囚(50歳)のしまりのない体型を見ても、もはやコマンド(=ゲリラ戦闘員)のそれではなかった。彼らは日本へ帰る以外に行き場所がないんです」

 こうした中で重信容疑者は、日本の支援者に書簡を出したり、声明を出すなどプロパガンダに努めてきたが、武装闘争を手段とするテロリストの側面はなくなっていった。

「'72年以来、テルアビブ乱射事件の日(5月30日)に、毎年、重信は『5・30声明』を出し続けてきたのですが、'95年には“武装闘争は誤りである”という声明を出し、この年にはベカー高原の拠点を引き払って、ベイルート市内のアパートに身を寄せるようになっていた。彼女はPFLPの幹部と結婚しているから、それなりの待遇ではあったようだが、もはや飼い殺しに近い状態になっていたようだ。現に今回の逮捕でもPFLPからは何の声明も出ていない。いかに日本赤軍との縁が薄くなっていたかの証拠でしょう」(全国紙外報部記者)

 また、支援者に、「湾岸戦争後、CIAの圧力が強くなったため、東南アジアに活動の拠点を移すつもりだ」とも語っていた。関西の左翼系新聞「人民新聞」の編集主幹は、今回の逮捕をこう見る。

「いくら組織支援とはいえ、重信が報道のように小規模の会議にのこのこ出てくるとは信じがたい。最近、彼女は、うちの新聞に、『銃による平和はもうたくさん』などと、大衆闘争路線への転換を示唆するようなリポートを寄せている。日本国内に拠点を移し、公然活動に入るための、覚悟の逮捕ではないか」

 多くのテロ事件に関わったとされる重信容疑者だが、いずれも実行犯ではない。日本赤軍のメンバーが次々に逮捕されていく現状のなかで、比較的罪の軽い重信容疑者が帰国して“みそぎ逮捕”され、公然の存在となって新たな活動を続けようとしていたのではないか、というわけだ。

 しかし、9日にはこうした重信容疑者の思惑を裏切るかのように、警視庁はハーグ事件での殺人未遂容疑で彼女を再逮捕している。

 

ゲリラに守られ市内を闊歩

 およそ30年間にわたって世界を騒がせてきたテロリスト・重信房子容疑者の素顔とはいったいどのようなものなのか。

 終戦の年の'45年、東京・世田谷で重信容疑者は生まれた。父親は鹿児島出身で、若いころは、右翼組織「血盟団」のメンバーだったという。食料品のよろず屋を営んで、生計をたてていた。重信容疑者の手記『わが愛わが革命』(小社刊)には以下のようなくだりがある。

〈'67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。

「房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな」

……父はつづけた。

 二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だとかいうが、われわれは正義のためにやったのだ。政治家が腐敗していたから、われわれが権力を変えて、もっと人民がうるおえる社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく自分が正義だと思うこと、それだけをやれ!〉

 重房容疑者の“革命家”としての下地は、父親によって育まれたのかもしれない。高校卒業後、キッコーマン醤油に就職。1年後、明治大学の二部に入学する。OLのかたわら、夜間大学に通うようになり、ここで大学紛争に出会うのである。

 気さくな美人活動家として学内で知られた存在だった彼女には恋の噂も多かった。大学時代には婚約までしていたという。相手は地方の名家出身で2〜3歳上の早大生だった。それでも、

〈あいかわらず彼は、私の手も握らない。会うたびに、この間別れたときから、今日まで何をしてたか、そんな話と討論に時間が過ぎていく〉(同書)

 が、彼は暴力的な学生運動には無縁だった。一方、彼女はどんどんのめり込み、やがてバリケードの中に泊まり込むようになる。そして1年後、彼女の方から別れを告げた。闘争に明け暮れる生活はOLと両立しなくなり、会社も辞めた。そんなとき、

〈突然、職業革命家になろうと決心していた〉(同書)

 いわば、彼と別れた傷心の中で“女革命家”が誕生したのである。この手記を構成した脚本家・佐々木守氏が当時を振り返る。

「大学の先輩後輩でもあった僕と彼女が知り合ったのは、'70年安保の真っ最中。新宿の左翼学生がたむろする、酒場みたいなところで話すようになったのがきっかけです。そういうところに出入りする女子学生というのは、マルクスとかを一生懸命勉強している生真面目な女性ばかりでしたが、彼女は、『この前、守さんがやったテレビ見ましたよ』と話しかけてくれた。人を見て対応する能力に、実に優れていた。それはベイルートで会っても変わりませんでした。生来の天真爛漫さ、ほがらかさで、自然とまわりの人間を楽しませてくれる明るさが、他派に比べて日本赤軍という組織が長く続いた原因の一つではないでしょうか」

 前出・佐々木教授がいう。

「重信房子の存在というものは、日本赤軍にとって一種、精神的なよりどころだったのだと思います。当時、日本の左派は、内部で盛んに粛清していました。赤軍に参加した20代の若者にとっても、生きづらい危険な状態が続いていたわけです。そんな中で彼女は、たどたどしい言語を使ってパレスチナとコンタクトをとり、ときに自分の体を張った行動で信頼を得て、PFLPと渡りをつけた。メンバーにとっては、彼女は、母であると同時に、姉であり、妹であり、恋人でもあるような存在だったのだと思います。今ではさすがに美貌もおとろえていましたがね」

 前述のように、レバノンに渡ったのは'71年。すでに2回の逮捕歴がある重信容疑者がパスポートを申請すれば、公安側に筒抜けになる。名字を変えるための偽装結婚が必要だった。

〈わたしはあせった。あせりながら結婚の相手を探した。……ある日、わたしはついに決心して奥平君を訪ねた。『やっぱりあんたの名前借りるわ』。そしたら奥平君は、ぴくっと顔を上げて、照れたように笑っていった。『ああ、それでもいいよ』。それがわたしたちのプロポーズであり、婚約であり、結婚式であり、要するに、男と女が結婚するためのすべてであった〉(同書)

 当時、レバノンで日本レストランを経営していた女性Dさんは、重信容疑者の印象を、

「迷彩をほどこした野戦服にカラシニコフ銃のパレスチナゲリラを引き連れて、颯爽とハムラ通り(メインストリート)を歩いていた。かっこ良かったですね」

 と言う。かつて「ブントのマタハリ」とよばれ、美人闘士として名をはせた彼女の絶頂の頃である。しかし'72年には夫の奥平剛士は、テルアビブ空港乱射事件で自爆して死亡。それまで公然と活動をしていた重信容疑者も地下活動へと突き進んでいった。

 

長女はソルボンヌ大学に留学

 その後、重信容疑者は、PFLPの幹部と結婚、2児をもうけた。

「私は彼女の夫に2〜3回会ってますが、長身でスマート、役者にしてもいいような美男子です。2人の子供はパレスチナの難民キャンプで生活してました。長女は優秀で、パリのソルボンヌ大学に入り、さらに大学院まで進みました。もう30歳近いんじゃないでしょうか。次女もソルボンヌに進学したと伝え聞いたことがあります」(重信容疑者と交流のある都内の元書店経営者)

 2人の娘が成人したことも、重信容疑者が帰国を決意した理由ではとみる関係者もいる。

 さて、重信容疑者の逮捕で、今後、日本赤軍はどうなるか。

「はっきりしているのは、赤軍の中東における使命が、完全に終わったということです。赤軍はこれまでベカー高原を拠点にし、シリア支配下にいたが、保護者たるアサド大統領が死去。加えてアラブ情勢が大きく動いて、イスラエルの力が増大した。モサド(イスラエル中央情報局)は彼女たちの動きを逐一把握しており、昔のようなゲリラ活動は不可能です。しかも、シリアは日本との間で経済上の取引があり、その利害を連動させて日本赤軍の扱いを考えるはず。注目されるのは、重信が表面上は黙秘でも、何をどこまで話すか、どんな取引材料を持ち出すかでしょう。ハーグ事件などに関与したといっても、彼女は実行犯ではないから、それで起訴できるかどうかも予断を許さない。はっきりしているのは旅券法違反など軽いものだけなので、その面でもまだ流動的です」(前出・菅沼氏)

 21世紀を獄中で迎えることになった日本赤軍の女帝は、何を思っているのか。テロを指導して世界を恐怖のドン底に陥れた罪が重いことは言うまでもない。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm


54. 中川隆[-11484] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:10:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[511] 報告

2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html

なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html

オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

55. 中川隆[-11483] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:14:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[512] 報告

重信房子


重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。

ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。
現在、東日本成人矯正医療センターにて服役中。

生い立ち

東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[1]。また、文学少女でもあった[1]。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[2]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していた[1]。

学生運動

大学入学後、夜学連に参加し[3]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[3]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[4]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[5]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。

日本赤軍

重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。

その後、奥平剛士らとパレスチナで日本赤軍を結成し、創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を主な根拠地に「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返し世界各国から非難を受けた。

逮捕

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。

2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し視察・捜査を開始。重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだ際に使用されたコーヒーカップから指紋を採取、照合したところ重信の指紋と一致したことから公安第三課は女が重信であることを突き止めると、ハーグ事件から26年後の11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。

重信が逮捕の際に押収された資料、それを報じた新聞などによれば、重信は1997年12月から2000年9月に、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返し、また1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

なお「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。また社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。また、重信が残した多数の証拠品により支援組織が解明され、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙された。

解散

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた[6]。


ハーグ事件裁判

起訴

重信は1974年9月13日に日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などでの共謀共同正犯で起訴された。

検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。これに対して弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPFLPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した[7]。

懲役

これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴した。控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ重信と同様に世界各国でテロ事件を起こし多数の民間人を虐殺し、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。

2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した[8]。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した[9]。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2027年となった。

その他

八尾恵(よど号グループの柴田泰弘の元妻)の『謝罪します』には、「1970年代後半に北朝鮮に在住し始めた時の夫の柴田のアルバムに、日本赤軍の重信房子がチマチョゴリを着て2歳くらいの娘と一緒の写真があった」と書かれており、重信とよど号グループとの関係が指摘されている。

和光晴生は1974年に北朝鮮当局に資金援助を求める手紙を見せられたこと、そして翌1975年に重信が北朝鮮に渡航したことと、その後、同国の「主体思想」に基づく「思想闘争」という活動形態が組織内部に持ち込まれたことを述懐している[10]。

但し、重信自身は和光の述懐の内容について「穿ち過ぎ」であるとし[11]、「思想闘争」や「自己批判」を行う「援助会」に関してはイスラエルやヨルダン政府などとの闘いの中で生まれたものだ、として否定している[12]。また、足立正生は1974年に日本赤軍に合流した際に年長者として思想や組織、革命に関しての議論を活発にさせたと述懐しており[13]、全てが北朝鮮やよど号グループの影響なのかは判然としない面がある。

公安関係者には「重信ファン」が少なからずいたという[14]。

2018年現在、東日本成人矯正医療センターにて抗がん剤の治療を行っている。


著書

『わが愛わが革命』講談社、1974年 [15] パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263

『十年目の眼差から』話の特集、1983年
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、1984年
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、 2001年
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『革命の季節 パレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年


共編著

『資料・中東レポート』1-2(日本赤軍との共編著)ウニタ書舗、1985-86年[16][17]
『重信房子の半生記』サンデー毎日連載、構成:竹中労、1985-1986年
『赤軍 1969→2001総特集』足立正生夫妻、山本万里子、中山千夏、平岡正明、松田政男、平井玄他、河出書房新社、2001年
『日本赤軍!世界を疾走した群像』和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也、小嵐九八郎、聞き手 図書新聞 2010年
『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年
『天皇制と共和制の狭間で』 小沢信男、日野百草、山本健治、藤田真利子、天野恵一、松田ひろむ、高橋武智、鹿島正裕他、第三書館、2018年[18]


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90

56. 中川隆[-11482] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[513] 報告

重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M


映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU

2014/05/16 に公開

元日本赤軍の重信房子と元ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ、その娘である重信メイとベティーナ・ロールをテーマとしたドキュメンタリー。当時のニュース映像や重信とウルリケに接した人たちのコメントを基に、二人の女性革命家の壮絶な人生と、そんな彼女たちの娘がたどった苦難の幼年期をつづる。監督は、アイルランドのドキュメンタリー作家シェーン・オサリヴァン。ベトナム戦争に声を上げたかつての若者たちの姿を通して、民主主義や平和とは何かを考えさせられる。

57. 中川隆[-11481] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:35:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[514] 報告

<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


2017/01/25 に公開
「日本赤軍」…日本赤軍が引き起こした事件の数々。
美人女性リーダー・重信房子は何を目指していたのか?
日本政府vs日本赤軍の知られざる真実

58. 中川隆[-11480] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[515] 報告

日本赤軍について少し
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 3 月 09 日
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html


日本赤軍について少し。(ユダヤ悪を追求すると、な〜ぜ〜か、北朝鮮勢力から狙われますよ。)

1.よど号グループと日本赤軍は、提携している。よって、どちらも黒幕は、北朝鮮。ボスは、重信房子だった。(北朝鮮の日本の出店は、統一教会インチキ右翼が兼任。)日本の中の北朝鮮=オウム真理教と重信の間にもつながりがある。

▼重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


2.重信の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。

▼行政調査新聞 「重信房子は四元義隆と会っていた?」
http://www.gyouseinews.com/storehouse/jan2001/001.html

米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。

山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


3.重信は、アラブ・ゲリラの中心人物。重信の逮捕は、「あの」連中が計画している日本テロを「アラブゲリラによる重信奪還テロ」と思わせるため?日本でも、ビン・ラディンやアルカイダの名前が使われたインチキテロが行われるのか?(勿論、実際の犯行は、地下鉄サリン同様にCIAのユダヤ人と勝共・北朝鮮の朝鮮人。)

▼【心と宗教板 元オウム信者いない?】
http://mentai.2ch.net/psy/kako/973/973772995.html


4:気になるから質問!重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?

13:そんなことよりも、重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?上手くいかなかったらどうするんですか?平田さんの連絡先も教えて下さい。でないとタダのネタになっちゃいます。

4.元赤軍派の塩見が、結局は、朝鮮系右翼とつるんでいるわけです。つまり、日本の半島系右翼は、北朝鮮の傀儡。総元締めは、ロックフェラーの手先と北朝鮮の出先を兼任する文鮮明ということです。

▼元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

▼新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同

【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

▼平壌製作『よど号物語』上映
日本赤軍の塩見孝也が主体となった、よど号物語という映画の上映会に、サヨクがみんな集まった訳だけれども、「賛同人」の中にやっぱり、新右翼が混じっていたわけです。中台一雄(大悲会元会長)

5.ということで、オウム・日本赤軍・アルカイーダの連携に見せかけたインチキ日本テロを、ユダヤCIA+統一勝共似非右翼・創価学会の朝鮮人+北朝鮮が企んでいる恐れありと見ます。

日本有事情報【極秘】
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=677&KEY=1038823935
2000年韓国に亡命 1975〜80年に、対日戦を想定した特殊部隊525部隊(5旅団6万人)を指揮し、100万人の一般部隊と合同で訓練をしていた。南光植によると、北朝鮮は、東京を占領することを目的とした、特別の軍隊を訓練させている。想定しているのは、東京での市街戦、化学兵器で人の脳を窒息させる、呼吸器系を麻痺させる、脳を麻痺させ手足を自由に動かなくさせる、政府関係庁舎の占領、空港の破壊、TV局や、新聞社などマスコミ関係の占領、化学兵器で市民を窒息させる等。北海道への上陸作戦の訓練も行っていた。金正日は、生物化学兵器で、東京市民を、一週間眠らせ、東京を占領するという内容の映画を作製し、軍の指揮官に見せている。

2チャンのコメント:「だからその実験がオウムのサリン事件なわけで。オウムは北鮮の破壊工作用下部組織だからね。カルト宗教などではない。」正解ですね。

↓は、私がかなり前に作ったHPです。現状は少し変わってきているので、ご参考程度にどうぞ。(2002年に起きなかった日本テロが、今年おきても不思議はないですが。)

◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

◎東京でのテロは、重信房子奪回の名目。表向きは、イスラム過激派と赤軍派の共同作戦。実は統一・創価・北朝鮮・CIAの合同作戦。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_5.HTM


http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html

59. 中川隆[-11479] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:18:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[516] 報告

Re: 在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 4 月 13 日 10:54:09: XUSllUZ/d1uKA
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/239.html


在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。どちらも内部に、北朝鮮に直結した在日・帰化人のネットワークが出来上がっています。それは、「右翼宗教」でも同じことです。北朝鮮とつながっているのは「サヨク」だけだと思うのは幻想です。むしろ、『右翼』の看板に隠れて、北朝鮮勢力が日本国内で工作を進めていると見るべきです。(従って、日本の右翼の大半は、在日と部落であるわけです。日本になんら利益をもたらさない品性下劣なヤクザ右翼は、反日的な朝鮮人でなければ勤まりません。日本の国家の利益を損ない、日本民族を愚弄する役割なのですから。日本人にはできません。)右翼とヤクザはほとんど同義語であり、どちらも「朝鮮」という接頭語をつけてながめるべき対象です。

日本赤軍は、右翼を偽装した民族派組織を日本国内に網羅することで、北朝鮮のための破壊工作を準備していたと思われます。(参考@)
新右翼の中心組織、一水会の宴会に出席している連中の顔ぶれを見れば、「北朝鮮系サヨク・似非在日右翼・在日宗教」が裏で手を結んでいるのが良くわかります。勿論、朝鮮創価学会の幹部も出席しています。赤軍派の塩見も右翼の親分も宮崎学もオウムのスポンサーだった代議士、山口敏夫も同席しています。この連中みなが、結局は北朝鮮と背後のユダヤ権力の手先ということです。(参考A)

一方で、北朝鮮の日本総代理店であった赤軍派が弱体化し、北朝鮮のための工作ができなくなった後、代わりにピョンヤンの手先の役割を担ったのが、オウム真理教でした。(参考B)よって、北朝鮮の同志である創価学会と統一教会の朝鮮人が、ピョンヤンの新しい対日工作拠点であるオウム真理教に移動集結したのも当たり前なわけです。オウムが1990年から急速に膨張したのは、創価・統一の朝鮮人・帰化人が親組織の命で、偽装改宗して組織に入り込んだという理解をすべきです。

参考@ 【赤軍派は、朝鮮労働党直結の似非・右翼団体の組織を目論んだ】
「鈴木邦男と一水会とピースボートと朝鮮労働党の関係」
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/information.htm
「このころ彼(よど号グループの田宮高麿)は、日本国内に「愛族同盟」と称する政治団体を結成することを考えていた。民族主義を最前面に押し出した組織だった。もちろん、この動きが朝鮮労働党の指導のもとに行われていたことは明白だった。そして、この組織化のなかで日本の民族派系組織も取り込んで運動を拡大することが画策されていた....」

参考A
【結局、こいつ等がオウムの背後にいた連中に繋がっている】
一水会を鼓舞する会 
http://web.archive.org/web/20000605001307/http://www2.neweb.ne.jp/wc/issuikai/226.html
「一水会を鼓舞する会」の発起人名簿の一部。
有田芳生     (ジャーナリスト)
井上聖志     (創価学会広報室渉外部長)
柴田泰弘     (「よど号事件」メンバー)
高野 孟     (「インサイダー」編集長)
徳田虎雄     (徳洲会理事長)
中台一雄     (大悲会前会長)
宮崎 学     (作家)
山口敏夫     (元労働大臣)
塩見孝也     (元赤軍派議長)

参考Aの2
朝鮮労働党系右翼???
石井一昌氏のHPより  http://www.ishiikazumasa.com/cc/messages/0117200002.html
最初は、「新右翼」という試みを、旧態依然の右翼団体が誹謗し潰そうとしているのかと腹が立ちましたが、右翼の人にもちゃんとした言い分があるそうで、その根拠は、一水会および鈴木邦男氏は、日本赤軍の末端組織で朝鮮労働党の傘下組織である
・彼等の行動の真の実体は、北朝鮮支援、テロと誘拐拉致・核開発・日本に対する誹謗中傷の手伝い、という売国行為である・朝鮮労働党の指導下にある「愛族同盟」という極左と反米右翼を合流させる目的の組織があり、ここで一水会と塩見氏らが共闘しているというものであるということや、あと、鈴木氏個人の悪評判まで色々目にしました。 右翼の方が、ここまで言い切ってしまっているものを無下に「そんなのは誹謗中傷だろ」とも僕は言えなくなってしまい少々混乱しております。
そんな折りに、石井さんのページを見つけ、石井さんが鈴木邦雄さんに並々ならぬ感情をお持ちのようだというのを読んで、その根拠と、上記のことについて石井さんは御存知なのか、それについてどう御考えになるのか、ということを聞いてみたくなった次第です。

参考Aの3
【もはや、イデオロギーは無関係。右翼も左翼も、合言葉は在日、そして北朝鮮】
元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から) http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

参考Aの4
新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同
http://www.zorro-me.com/TANAKA/TANAKA02_1.html
【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

参考B
重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/96.htmlオウムの北朝鮮コネクション

オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。

早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

以上


全部読むなら.....◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/239.html

▲△▽▼


こーれはまた面白い情報をありがとうございました
投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 4 月 13 日 18:00:24: WgkZZjZT3HifU
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/243.html

ブッシュ親子の自作自演テロの11様、

鈴木邦雄の妙な赤軍への擦り寄りについては、
あたくしも一部引用していただいた記事も含め、これまでに読んで知っていました。
でも、彼が在日コリアンであることを知ったのは、あなたのHPでのことです。
日本も自前の諜報機関を持てとか強化しろとか言う人もいますが、
ブッシュ親子の自作自演テロの11様ならスカウトされちゃったりして、ははは。
ほんとにすごいです。

思えば彼の『公安の手口』(ちくま書房でしたっけ?)と言い
重信メイの著作(講談社刊?)と言い、
割とメジャーな出版社からああも易々と手を差し伸べられていることが
また何とも不思議でなりませんでした。

今のところ、ぱっと見はどんなに突飛に映っても
赤軍がシオニストと組んでいるという仮説については
それをますます強化するような情報しか出て来ないように思えます。

北朝鮮と中東の関係に関連して、
レバノンからも拉致してた、なんていう情報もありましたからねえ。
重信氏はずっとレバノンに住んでたはずですから、
レバノン人の拉致にも何かしら関係があっても不思議はありません。

またお手隙の時にでも一度、
赤軍派(重信、奥平や岡本の)が起こしたことになってるテロが
ほんとに彼らの手になるものだったとお思いになるかどうか
ご意見をお聞かせいただけたらと思っております。
下に資料を添えておきます。

前にホロコースト板にも書いたのですが、
ミッション=インポシブルじゃあるまいしですね、
一体どうやってあれらのことをしでかして
捕まらないでトンズラしたり出来たというのか。
しかも、その場所たるや、
どこもむしろシオニストやメーソンリーであればこそ
水を得た魚のように動き回れる土地ばかり。

どうせ全部『モ』の字のお膳立てでイイカッコしたんでないの?
てか、アメリカやイスラエルがやりたかった工作に
名前を貸し、撹乱に協力して恩を売った、というのかしらん。

ではまた、ごきげんよう。


『無限回廊』より 日本赤軍が引き起こした主なテロ事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm

=================================================================================
1972年(昭和47年)5月30日 
テルアビブ空港事件

イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。
---------------------------------------------------------------------------------
1973年(昭和48年)7月20日
ドバイ事件

丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。
---------------------------------------------------------------------------------
1974年(昭和49年)9月13日
ハーグ事件

重信房子、西川純、奥平純三、和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。
---------------------------------------------------------------------------------
1975年(昭和50年)8月4日
クアラルンプール事件

奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。
---------------------------------------------------------------------------------
1977年(昭和52年)9月28日
ダッカ事件

丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、戸平和夫、坂東国男と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。犯人グループは奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人と現金600万ドルをダッカに移送させたあとアルジェリアに逃亡し人質全員を解放した。
---------------------------------------------------------------------------------
1986年(昭和61年)5月14日
ジャカルタ事件

インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1987年(昭和62年)6月9日
ローマ事件

ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、奥平純三らを犯人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1988年(昭和63年)4月14日
ナポリ事件

イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、奥平純三と重信房子を犯人と断定した。
=================================================================================

http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/243.html

60. 中川隆[-11478] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:24:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[517] 報告

2018年3月31日

 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/

61. 中川隆[-11477] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:31:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[518] 報告
重信家三代の家族愛‐鈴木邦男‐マガジン9 2012.03.07

3月4日(日)の「鈴木ゼミin西宮」は超満員だった。2カ月に一度、西宮で、いろんなゲストを読んで開催しているが、今回で10回目だ。今回のゲストは重信メイさん(国際ジャーナリスト)だ。お母さんは重信房子さんだけでなく、僕は房子さんのお父さんにも昔、会っている。重信家三代にわたって会っている。西宮では、その話を詳しくした。

 重信メイさんは日本に帰ってきて11年目だ。日本に帰る前から話は聞いていた。「もの凄い美人だ。日本に連れて帰って女優にしたい」と、映画監督の若松孝二さんは言っていた。全共闘時代の重信房子さんは「美人闘士」として有名だった。その娘さんなんだし…と、皆、思っていた。

 日本に帰ってきて、メイさんはまず河合塾の講師になった。河合塾には全共闘運動をしていた先生方が多い。そんなことがあって、呼ばれた。メイさんは、超人気講師で、廊下にまで生徒があふれていた。さらに「朝日ニュースター」のコメンテーターになった。5年ほどやったが、今は辞めて、フリーの国際ジャーナリストだ。河合塾の方は、今も授業があるという。僕も河合塾コスモで授業を持っている。「だから職場の同僚です」と言ったら、「鈴木さんは大先輩です」と言われた。

 西宮では、初めに、メイさんから40分ほど話してもらい、その後、二人でトーク。この時、僕は「重信家三代」との付き合いについて話をした。そのあと、質疑応答。会場を移しての二次会と続いた。初めにメイさんは、「これからの世界を語る。〜アラブ、アメリカ、そして日本」と題して話してくれた。又、アラブでの生活、お母さんのこと、日本赤軍の人たちのこと…などについても話してくれた。

 本名は「重信命」だ。命は、「いのち」だし、革命の命だ。そんな思いを込めて、お母さんが付けた。でも、漢字で書くと、かなり重い。重く信じて、それを命がけで守る。そんな感じになる。「それに、右翼のようでしょう」とメイさんは言う。「○○命(いのち)」なんて腕に入れ墨してる人がいるが、あんな感じがするという。右翼というよりは暴走族かもしれない。ともかく、重苦しくなるので「重信メイ」にしたという。その方が、国際ジャーナリストとしても通りがいい。

 この日、僕は、お爺さんの重信末夫さんに取材した「やまと新聞」のコピーを持っていって、会場の皆に配った。〈重信房子はなぜアラブへ。元右翼の父が語る女闘士の素顔〉と、見出しが書かれている。小見出しは…「ロマンを求めて。北一輝などを高く評価」「連合赤軍、唾棄すべきもの」「極右と極左は一致。ただ天皇観だけが違う」。

 「やまと新聞」の昭和49年3月15日付だ。1974年だ。三島事件の4年後。連合赤軍事件の2年後だ。今年は「連合赤軍から40年」だから、末夫さんに取材したのは今から38年前だ。タイトルで分かるように、末夫さんは元右翼だった。それも筋金入りだ。戦前の「一人一殺」の血盟団事件に参加していたのだ。ただ、テロを決行する直前、井上日召に言われた。

「君は人間が優しいからテロには向いてない。我々が破壊をやるから、その後の建設を頼む」と。

それで郷里に帰り、教師になった。戦前は、国家革新、革命、を言うのは右翼だった。だから、「娘は右翼ですよ」と断言していた。「右翼」は誉め言葉なのだ。この世の中を変えるために闘っている。そんな娘を誇りに思っていた。末夫さんの「過去」を知らずに、右翼からよく抗議、嫌がらせが来る、と言っていた。

「あんな左翼の娘に育てて恥ずかしくないのか。責任をとって自決しろ」と言ってくる。

末夫さんは、戦前の右翼だ。そんなものに動揺する人じゃない。笑って話していた。この時、「娘さんとは連絡はないんですか?」と聞いたら、「ない」と断言していた。房子さんが日本を脱出する時、「もう二度と会うことはないだろう」と思ったという。

 それから20年以上が経って、房子さんは日本に帰っていたところを逮捕される。そして、懲役20年の刑を受け、今は八王子の医療刑務所にいる。刑が決まる前、法廷には何回か行った。拘置所でも何回か面会をした。お父さんの話をよくした。

 「実は、あの時、父から問い合わせがあったんです」と房子さんは言う。「元右翼学生の鈴木邦男という男から取材の申し込みがあった。知ってるか?」という内容だったという。

もう連絡はないと言ってたが、ちゃんと連絡はあったのだ。父親から手紙が来たが、房子さんは知らない。周りの人達に聞いた。日本から来た活動家は沢山いて、その何人かが知っていた。

「右翼の暴力学生ですよ、鈴木というのは」。それで、「ロクな奴じゃないから取材は断った方がいいですよ」と房子さんは手紙を出した。

しかし、今と違い、38年前だ。手紙が届いて、返事が来るのに1カ月以上かかる。それが幸いして、僕は取材することが出来た。

 僕は右翼学生運動をやっていたが、内部闘争で、除名になり、運動の場から追われた。1969年だ。そして縁があって、1970年から1974年まで、産経新聞に勤める。事件を起こして産経をクビになってからは、右翼の世界に戻り、「新右翼」と言われるようになる。

「産経に4年いた」と言うと、「記者だったんですね」「だから、その後、本を出したりしてるんですね」と言われる。

しかし、産経では販売局と広告局にいて、ものを書く仕事ではない。産経を辞めてから、原稿を書くことを始めた。友人が「やまと新聞」にいたので、よく書かせてもらった。1974年の東アジア反日武装戦線〈狼〉の連続企業爆破事件について「やまと新聞」に連載した。それが三一書房の社長の目にとまり、本を出すことになった。『腹腹時計と〈狼〉』だ。それが僕のデビュー作だ。

 「やまと新聞」は右派系の日刊紙だ。当時は、月刊、週刊だけでなく、右派系の日刊紙もあったのだ。そこでは随分と書かせてもらい、生活も助かった。その頃、重信末夫さんにも取材した。

 そう思っていた。ところが、末夫さんのインタビューだけは違っていた。まだ産経新聞にいた頃だ。休みの日を利用してインタビューに行ったようだ。今、思い出したが、「発表するのは、やまと新聞ですが、僕は産経新聞の社員です」と言って、身分証を見せて、信用させたような気もする。その頃は、産経には満足していた。サラリーマン生活をエンジョイしていた。入社した年の暮に三島事件があり、それが契機で、昔の学生運動仲間が集まり、一水会を作った。でも、サラリーマンのサークル活動だった。

 ところが、末夫さんに話を聞いて、衝撃を受けた。「このままで俺はいいのか?」と思った。真剣に思った。そのインタビューから10日後、僕は事件を起こして、産経をクビになる。自分の心の中に、「このまま会社にいてはダメだ!」という焦りが生まれたようだ。末夫さんに会っていなければ、心をかき乱されることもなかっただろう。そして、ずっと会社勤めをしていたことだろう。

 最近、本屋で見つけて読んだ本だが、由井りょう子さんの『重信房子がいた時代』(世界書院)がある。いい本だ。「学生時代のサークル仲間が綴る重信房子の家族愛の軌跡」と本の帯には書かれている。第三章は「父と娘の革命」になっている。僕も三代の家族愛に触れた。そして運動の世界に戻った。不思議な縁だ。

http://www.magazine9.jp/kunio/120307/

62. 中川隆[-11476] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:48:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[519] 報告


プロフィール画像

ang********さん 2009/6/22 07:16:49

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


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P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280

63. 中川隆[-11475] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:53:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[520] 報告


2019/03/13
重信房子
全共闘のマドンナ 1974年 ハーグ事件

「血盟団員」だった右翼の父と語った"世界同時革命"

しげのぶ・ふさこ 1945年、東京生まれ。
明治大学二部在学中に学生運動に身を投じる。
赤軍派に所属して71年、パレスチナに渡る。
その後、日本赤軍の最高責任者。2000年密かに帰国中に大阪で逮捕される。


日本赤軍の重信房子が大阪の高槻で逮捕されたのは2000(平成12)年11月である。日本を出国したのが1973(昭和48)年だから丸々27年間、姿を消していた。逮捕後、オランダッで起きた「ハーグ事件」における監禁・殺人未遂の共謀共同正犯の罪で起訴され、06年6月、東京地裁で判決があった。裁判は有罪、無期懲役の求刑に対して懲役20年の刑が言い渡された。重信は無罪を主張して即座に高裁に上告している。

 日本赤軍と、そのリーダーだった重信房子についての報道や記録はおびただしいが、なかでももっとも興味深いのは重信の父への取材である。重信(偽装結婚しているか戸籍上は奥平)房子の父、重信末夫は戦前の右翼テロ事件「血盟団事件」に関係した男である。このことを発掘してはじめてインタビューしたのは、まだ産経新聞の社員だった鈴木邦男である。民族派の『やまと新聞』紙上に掲載されたインタビューで、鈴木の質問に重信の父はこう言った。

 「警察が何回捕まえようと、マスコミがどうこう言おうと自分の初心を貫くことは立派だと思う」


「戻るな」と言った父

インタビューは74(昭和49)年。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起き、パレスチナに渡った日本赤軍幹部として重信房子の名が禍々しいものとし報道されたあとである。この2年前には浅間山荘事件があり、東京の町田に住んでいた重信の父のもとには嫌がらせの脅迫が殺到していた。鈴木は重信の父の態度と言葉に心を打たれる。鈴木が原稿を書き、記事になって原稿料を手にしたのはこの時がはじめてであり、このインタビューをきっかけとして産経新聞を辞めて民族運動に専念することになる。

 重信の父は『文藝春愁』に「重信房子の父として」と題された7ページの手記を残している。教育者だったからか文は達者である。そこで冒頭からこう記している。

 「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしにくのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」

 重信末夫は宮崎の都城出身。現在の東京理科大学を卒業して故郷で代用教員をしていた時に血盟団事件に誘われる。しかし首謀者の井上日召に「お前は教育者だ」とあとのことを託されてテロの実行役からはずされている。

【田宮高麿との結婚を嫌う】

パレスチナに渡る以前、重信房子は家に学生運動のメンバーをよく連れてきている。そこでたびたび父を交えた会話と議論があった。かなり深い話もあったようだ。


「私がかつて右翼クーデターに参加した人間であることは、子供たちは知っている」

「話題は当然、革命に及んだ。歴史の大きな流れのために、私は革命は時には必要なものだったと思っている」

 しかし赤軍派についてはこう言う。

「房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、私は最後まで反対だった…中国で言う天が、仮に客観的必然性といったことを指すとするなら、房子たちの理論にはまったく天がかけていた」

 手記の最後はこう結んでいる。

 「ともあれ、房子は海のかなたに去った。アヒルは記しには戻らないだろう、と私は考えている」

 パレスチナへ入ったのは、抑圧されているパレスチナ人と共闘して、そこを根拠地として世界同時革命を闘おうという目的のためである。

 重信の父は娘が国際手配を受けたあとも堂々と生きて、83(昭和58)年に73歳で死んだ。

 逮捕のときこそ、その豹変ぶりから「ふつうのオバサン」と揶揄されたが、重信房子を罵る言葉は右からもない。左にとっては今も「全共闘のジャンヌ・ダルク」で、田宮高麿にいたっては「史上最高の女は重信房子だ」と叫んだ。

 重信のパレスチナ行きには、その田宮が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよとい指令があり、それを嫌った重信がほとんど思いつきでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。
(桃井四六氏文より転載)

http://bonbay.blog.shinobi.jp/%E5%B7%A6/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90


64. 中川隆[-11474] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[521] 報告
2007年11月9日(土) 東京 45歳
「血盟団公判速記録」 と重信末夫
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140


鈴木邦男のブログの記事の中に「血盟の革命戦士たち」と題し、血盟団事件のことが取り上げられていた。

血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であることも見逃すべきではない。(*)

井上日召が血盟団メンバーに命令した「一人一殺」の指令により、団伊玖磨の父親の団琢磨(三井財閥)を始めとする政財界の重鎮が次々とテロの凶弾に倒れた事件であることは、日本近代史の授業で勉強して覚えている。

鈴木は31歳(1974年)のときにこの事件の裁判記録全4冊3551ページを読破していて、最近必要があってまた読み返したとのことである。

一点の私情もない、純粋に国のために決起した血盟団の革命戦士たちの裁判での言葉を紹介している。

たとえば古内榮司氏。三井銀行常務池田成彬を狙い決行前に逮捕された。彼の公判中の陳述より。

「吾人の行く所は国家の反逆児として、乱臣賊子として葬り去られる、其の途を行く。さうして私の心境としては、私の境涯としては、それが即ち成仏の道だ、そう思って居ります」

悟り切った心境だ。宗教的だ。哲学的でもある。それに、今気づいたが、「自分は愛国者だ」とか「無知な国民の目を覚まさせるためにやった」「国民を啓蒙するんだ」などという人間はいない。実に謙虚だ。「天誅を下したんだ」と絶叫する人もいない。冷静で、淡々としている。そして、「愛国者」として名が残ることを求めてない。それが、国家の「戦死」とは違う。名誉も称賛もない。人を殺すのだから罪人だ。乱臣賊子だ。それでいい。むしろ、自虐的ですらある。これは何やら清々しい。

また、彼らの潔い、謙虚な発言に感心したからだろうか、この法廷では裁判官も被告らに十分に喋らせている。じっくりと話を聞いている。こうなると、時には被告は「講師」であり、「先生」である。裁判官、検事は「聴衆」のようだ。

実際、この古内の陳述のあと、裁判長は「よし聞こう」と言って、古内にもっと話を聞きたい、喋りなさいと促している。今の裁判ではこんなことは絶対にない。血盟団の公判では、立場上、仕方なく裁いているが、「被告」たちは一点の私情もない。国のために決起した男たちだ。それを裁判官も検事も認めている。その場に居合せたことを喜び、真剣に聞いている。傍聴人だって、被告たちの陳述を聞き、感動し、涙を流している。

日蓮宗の宗教観とも相関するのであろうが、この悟りきった精神の純粋性は素晴らしくも思うが、だからといってテロを肯定するかと問われれば、私は「否!」と答える。しかし人の心がテロに向かうときの精神の営みの記録は非常に興味がある。

鈴木の記述の中で私が初めて知った事実があった。それは重信末夫氏のことだ。
(以下、ばっすい)

血盟団の中では、同じ東大ということもあって池袋氏と四元氏は仲がいい。実は、もう一人、親友がいた。それは重信末夫氏だ。そう、日本赤軍の重信房子さんのお父さんだ。

末夫氏は当時、都城で教員をしていた。ところが、「国家の一大事だから上京しろ」と池袋氏から電報をもらい、上京する。そして血盟団に入る。しかし、決行直前に、井上日召から、「お前は心が優し過ぎるからテロリストには向かない。テロの後の建設を担当しろ」と言われる。それで郷里に帰ったのだ。

そうか、重信房子には父 末夫氏の革命家の血が流れていたんだな。これは知らなかった。

最後に2002年に書いた重信房子の愛娘メイさんに関して、以前書いた日記を以下に貼り付ける。

重信メイ

日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者の長女。今日ラジオに出演していた。パレスチナでの死と隣合わせの過酷な体験を、かろやかで聡明な口調で淡々と語るところに親しみを持った。イデオロギー、主義主張の違いはあるが、母親の重信房子にも親近感を持った。一番驚いたのが

パレスチナにいたときには
手相がほとんどなかったのが、
日本に来て生命線がうっすらと見えてきたんだって!!


手相学って本当にあるんだ、と思ったね。エドワード・サイードも言っていたが、パレスチナでは占いとか、超常現象とかにはほとんどだれも見向きもしない。何故ならそんなことをしている余裕はないから。常に生存を脅かされ死と向かい合っている状況で、そんなことを考える隙間は全くないというわけだ。なるほど、と思った。

若松孝二の自伝『俺は手を汚す』に重信房子のことが書いてあったことを思い出す。もともと現地の大学で語学を学ぶ学生だった重信は、通訳の仕事で初めてアラブゲリラに接したらしい。取材したキャンプが数日後、敵の攻撃で全滅したのを目の当たりにしたときに、西洋的な民主主義ではどうにもならない社会構造の矛盾を感じ、急進的な武装闘争の方へ進んだらしい。そのとき同行していたのが映画監督の足立正生で、足立は重信と活動を共にし赤軍創設に与し、若松は日本に帰国した。
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140

65. 中川隆[-11473] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:40:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[522] 報告

永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪 │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=287
66. 中川隆[-11472] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[523] 報告

重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのはエシュロンから情報を得た米国だった


米国の同盟国・友好国に対する盗聴問題は古くからフランスなど欧州諸国から指摘されていた。

盗聴を担っているのは、「エシュロン」と呼ばれる傍受システムで、米国の国家安全保障局が主体的に運営している。

参加国はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどアングロサンソン系のイギリス連邦に所属する国々だと欧州連合などが指摘しているが、米国連邦政府自身が認めたことはない。

ドイツを初めとする欧州諸国や韓国が強く反発しているのに対して、日本の菅官房長官は

「日本が盗聴の対象になったか、米国に確認する予定はない」

と極めて自制的な態度で、どこか他人事のようだ。

エシュロンの施設が三沢基地にあることは公然の秘密だし、米国が日本国内の通信を傍受していることもよく知られている。


北朝鮮の最高指導者の長男である金正男氏の来日や日本赤軍最高幹部だった重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのもエシュロンから情報を得た米国だったという。

これらは日本が施設を提供している見返りだという確度の高い噂がある。


また、日本が米国の諜報に頼っているだけではなく、自衛隊が中国やロシア、北朝鮮の通信を傍受してエシュロン運営に協力していると考えられている。

それどころか、アメリカ政府がイラク戦争での多国籍軍参加の見返りにエシュロン参加を許可したという一部週刊誌の報道がある。
だが、その真偽は不明なままである。
http://64152966.blog.fc2.com/blog-date-201312.html

67. 中川隆[-11471] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:55:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[524] 報告

『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる


日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

68. 中川隆[-11470] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:57:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[525] 報告

日本の街宣右翼=朝鮮労働党日本支部だったんです。 2011/05/22


初心者の方には難しいと思いますが、日本には似非右翼と言われる下品な連中がいます。北朝鮮とつながった極左、部落極左がその実態です。棺桶左翼内閣とも水面下で提携し、311テロを実行する目的で、小沢一郎さんの首相就任を不正手段で阻止しました。

朝鮮労働党がよど号グループに指示した「日本国内の右翼民族派」結成工作のその後
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_40.html

北朝鮮右翼の起源
http://rkblog.html.xdomain.jp/200910/article_14.html

似非右翼暴力団の頭目が、実は、左翼過激派の偽装転向者だった。」
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_21.html

極左集団「日共左派・毛沢東派」元幹部が小沢さんを検察審査会にチクッた。
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_35.html

北朝鮮右翼が中国を攻撃するもう一つの理由
http://rkblog.html.xdomain.jp/201006/article_19.html

騙されないでください。「右翼」は看板だけです。黒幕は311テロリストと北朝鮮です。


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

69. 中川隆[-11469] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:14:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[526] 報告

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html

70. 中川隆[-11468] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:34:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[527] 報告

赤軍派関係の話を総合すると、どうしても馬渕睦夫の

世界共産革命 = ユダヤ・グローバリズム = deep state が仕組んだ共産化運動

が正しい様な気がしてきますね:

馬渕睦夫
ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

▲△▽▼

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656

▲△▽▼


アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


「東京裁判史観」を正面から打ち破る一冊! !
「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」……、
近現代史の裏には必ず彼らがいる!

ウィルソン大統領やルーズベルト大統領を操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。


日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

71. 中川隆[-11467] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:43:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[528] 報告

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。


2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html

72. 中川隆[-11466] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[529] 報告

2009年04月03日 池田信夫 blog 実録・連合赤軍

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が、日本映画批評家大賞の作品賞を受賞した。若松さんには昔、仕事でちょっとお世話になったので、まずはおめでとう。

しかし映画の出来は、残念ながらそれほどのものとはいいがたい。若松さんの連合赤軍への「思い」が過剰で、彼らを客観的に突き放して見ていない。特に最初の学生運動の経緯を資料フィルムで追う部分は、説明的で冗漫だ。殺し合いのシーンの演出も説明的でアップが多く、テレビのホームドラマみたいだ(ビデオ撮影というせいもあるが)。

最近の若者が見ると、こんな凄惨な殺し合いが行なわれたという事実に驚くようだが、私が大学に入ったのはこの事件の翌年で、東大駒場では2年間に5人が内ゲバで殺された。そのうち4人が私と同じサークルだったので、この映画の世界は他人事ではない。なぜそういうことが起こったのかもよくわかる。それはこの映画で美化されているような崇高な理想ではなく、ただのカルトだったのだ。

殺された友人のうち2人は誤爆だったが、2人は革マルの活動家だった。彼らの共通点は、地方の高校から出てきて、大学に友人がいなかったことだ(灘や開成の連中は、この種の党派には入らない)。2人とも党派にリクルートされ、「地下」に潜って大学へ出てこなくなった。たまに出てくると黒田寛一や梯明秀などを口まねした呪文のような話をするようになり、他の党派を「殲滅」することが最大の闘いだと主張した。そのくせ自分が殲滅されることは警戒しておらず、2人とも生協の前で演説しているところを白昼、襲われて殺された。

1960年代に世界的に学生運動が盛り上がったのは、ベトナム反戦運動がきっかけだった。それが先鋭化した末に衰退したのはどこの国も同じだが、こういう近親憎悪が激化したのは日本だけだ。私の印象では、その原因はイデオロギー的な党派性というより、自分たちのムラを守る意識だったと思う。だから党派が細分化されて小さくなればなるほど憎悪が激しくなり、内ゲバは激化した。

こうした「日本的」な中間集団の性格は、今も変わらない。都市化して個人がバラバラになると、人々は自分の所属すべき集団を求めて集まる。それが学生運動が流行したころは極左の党派であり、その後は原理であり、またオウムだったというだけだ。創価学会や共産党も同じようなもので、さらにいえば会社も中間集団だ。この意味で団塊世代は、学生運動というカルトが挫折したあと、日本株式会社という巨大なカルトに拠点を移しただけともいえる。

しかし今、日本の会社はほとんど連合赤軍状態だ。浅間山荘のような袋小路に入り込んでにっちもさっちも行かないのに、誰も軌道修正しようと言い出せない。連合赤軍からは逃亡できたが、沈没する日本からは誰も逃亡できない。このまま日本経済は、団塊世代とともに玉砕するのだろうか。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301239.html

73. 中川隆[-11465] koaQ7Jey 2019年3月13日 22:09:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[530] 報告


「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月

 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
http://zilx2g.net/index.php?%A1%D6%CF%A2%B9%E7%C0%D6%B7%B3%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%B0%C7

74. 中川隆[-11464] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:05:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[531] 報告

2011-02-27 連合赤軍って何?


実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。

赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。

革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。

赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1


75. 中川隆[-11463] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[532] 報告

2011-03-04
連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか
http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1


このメモでは、連合赤軍事件最大の悲劇、いや、日本の「学生運動」「社会運動」中最大の悲劇である、連合赤軍が「同志」12人をリンチ殺害した事件について、小熊英二さんの大著「1968」をもとに整理します。


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産 – 2009/7/1
小熊 英二 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4788511649/gardenmemo-22/


連合赤軍はどのように誕生したのか、また「同志」へのリンチはどのようにして進行していったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。

連合赤軍の母体−「一緒になってはいけない二つの組織」


連合赤軍は、そもそも一緒になりそうにない二つの過激派「革命左派」(ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループ)と「赤軍派」(1969年9月結成)が合同してできた組織です。


•両者の共通点: ◦深く考えずに行動する
◦暴力を用いた活動を行う
◦指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない
◦逮捕者等が多く組織が崩壊に瀕している

•相違点: ◦思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)
◦女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


これって、「一緒になってはいけない組織」そのものだと思うのですが・・・なぜそんな両者が一緒になってしまったのでしょうか。


連合赤軍誕生の経緯

簡単に言えば、両者が壊滅の危機に瀕していた頃、革命左派創立メンバーの一人・川島豪の指示があり、仕方なく一緒になったのです。

経緯の詳細は以下の通りです。

革命左派は、逮捕された川島豪を奪還するため民間の鉄砲店を強盗し銃を奪います。彼らが信奉する毛沢東が「人民のものは針一本、糸一筋とってはならない」と言っているのにです(毛沢東が実際にどんな人物だったかは別として。※このメモの末尾で関連メモをご紹介しています)。これで革命左派は世間に知られるようになりました。

赤軍派もこれに影響を受けて「M(マフィア)作戦」を開始します。要は金融機関強盗です。

両者、悪いことは真似するんですよね・・・彼らはこのようにして武器やお金を集めました。

一方警察は、こういった過激派摘発のためにアパートや旅館25万か所を4万5000人の警官でしらみつぶしに捜索するようになり、結果彼らからは多くの逮捕者が出ました。

対する革命左派の永田らは冬の札幌などで息を殺し続ける生活に疲弊していき、都市部から出て山にこもるようになります。これがアジト・山岳ベースの発端です(なお、この山岳ベースができた背景には、永田が批判者を都市にばらけさせずに集めておきたがっていたからではないかという元「同志」の回想もあります。これが、後の悲劇の遠因になります。)。

赤軍派も同様に組織が壊滅状態に陥ります。

そんな中、川島が獄中から赤軍派との合同を示唆します。そして71年夏に連合赤軍が誕生。

このように、つぶれかけの集団が仕方なく一緒になったのです。しかし、この相容れないはずの両者が一緒になることで、悲劇は進行していきます。

処刑開始のきっかけは「大言壮語」と「生真面目」

連合赤軍は山岳ベースにこもり続けます。そんな中、革命左派の山岳ベースからは脱走者が出ます。

これに対し赤軍派の森は「処刑すべきではないか」と発言。すると革命左派は脱走者2名を殺害します(印旛沼事件)。

それを聞いた森は「頭がおかしくなったんじゃないか」と言ったそうです。

え?自分が「処刑すべき」と言ったのでは??

赤軍派の森が「言うだけ言ってみた」ら、革命左派が「決めたことは実行すべき!」と後先考えずに殺害に走る・・・もともと「大言壮語だが実行力のない」赤軍派と「生真面目」な革命左派の相違が生んだ悲劇と言えます。

また森は、この事件から革命左派への政治的な負い目を感じ、革命左派より優位に立つには赤軍派による殲滅戦しかない、と考えるようになります。

両者は悪影響を煽りあうようになっていくのです。

この印旛沼事件をきっかけに、リンチ事件へまっすぐ伸びるレールのような原理が構築されてしまいます。

それは、「自分が逮捕される危険を逃れるため逃亡者を処刑し、自分の地位を追い落とす危険のある者を共犯者にして犯行を封じる」という原理です。

もはや、曲がりなりにも「武装闘争で革命を起こし世の中をよくする」という建前すらも実質的にはなくなり、エネルギーは上層部(森と永田)の保身のために燃焼されるようになっていくのです。

それがこの山岳ベースでの「同志」12名のリンチ殺害です(ちなみに私はこのリンチもあさま山荘で行われたと思っていました・・・)。

ところでその山岳ベースは、どんな状況だったのでしょうか。


山岳ベースの環境もリンチ発生を後押しした

先に山岳生活を始めていた永田が、まだ都市にいた森を訪ねたとき森が肉を食べているのを見てショックを受けている記述があります。肉を食べているだけでショックを受ける生活環境だったというわけです。

その後、ベースは警察に見つからないために次々変わっていきますが、例えばリンチが多発した榛名ベースは次のようなすさまじい環境でした。


•居住空間は横4メートルに縦2.5メートル

•ここに革命左派約20名と赤軍派約10名が居住

•そして夜は氷点下15度

•トイレは満足に機能しない

•風呂はまれなので体臭がひどい(買い出しに行った際体臭が原因で通報され逮捕されたメンバーがいるくらい)

•これに重労働(薪割り等)の疲労

•逮捕の恐怖


以上をあわせて考えると、本書の著者小熊さん曰く「判断能力も正常でなくなるのは無理もない。事件の描写はこれを念頭に読む必要がある。」


榛名ベースがあった群馬県榛名山 地図
https://www.google.com/maps?ll=36.470667,138.847954&z=9&t=h&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&q=%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1+%E3%80%92370-3348+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%A6%9B%E5%90%8D%E6%B9%96%E7%94%BA

山岳ベースでの「同志」リンチ殺害

71年12月下旬〜72年2月、ここで何が起こったのか。

森と永田が「同志」に言いがかりをつけてリンチしていくのです。

目的は「共産主義化(意味は誰にもわからなかったとの証言あり)」。

詳細に書いても気分が悪くなるだけなので端的にメモします(小熊さんも同じ理由でこの箇所を簡潔に書いたとのことですが、その分実態が明確にあぶりだされている感がありました)。


■リンチされ始めたきっかけ

•夕食会で「私の中にブルジョア思想が入ってくること闘わねばならない」と告白→森「入ってくるというのはこの闘いを放棄したもの」→リンチ

•「交番襲撃のさい日和った(学生運動中、権力に対し怖じ気づいた)」と告白→「日和見主義克服」→リンチ

•「ルンペン的」→リンチ

•「すっきりした、という発言がまじめではない」→リンチ

•「女学生的」→リンチ

•「主婦的」→リンチ

•リンチ殺害の輪の外でうろうろしていた→リンチ

•運転の不手際を叱咤され「革命のお手伝いをしに来ただけだ」と反論→リンチ

•カンパ集めに失敗→リンチ


■リンチの内容

•殴打(主に全員で)

•自分自身による殴打強要

•緊縛し氷点下の屋外に放置→飢えと寒さで死亡

•アイスピックで心臓を刺したが死ななかったので絞殺

■被害者のプロフィール(一部)

•赤軍派の人数が足りないので数合わせに連れてこられたもともと忠誠心のない人物

•メンバーでなくシンパで、妻子を連れてピクニック気分で来ていた人物(妻子は無事)

•妊娠8ヶ月の女性(金子みちよ。殴打された際も「何をするのよ!」と叫ぶ、リンチ中抗議したのは彼女ただ一人、リンチに10日間も耐えたのも彼女だけ。本事件を裁いた石丸裁判長が金子の友人に送った手紙には「36年間の裁判官生活で・・・金子さんはもっとも感慨深い心にしみこむ『被害者』でした」と記述)

■リンチ死を「敗北死」と呼ぶことの「効果」

有名な話ですが、これらのリンチは「総括」と呼ばれています。「共産主義化」を達成するための反省・自己批判の一環らしいのですが、実態は完全にリンチですよね。

そして、このリンチによる死亡については、森が「敗北死」という名前をつけました。死亡した人間は、総括しきれずに敗北して勝手に死んだ、という理屈です。行為の実態は単なるリンチでも、このように特別な名称や理屈付けを行うことで、集団の感覚麻痺が一層進んでしまったものと思われます。

実際、永田は取り調べで「なぜ殺したのか」と訊かれて初めて自分は人を殺していたのだと自覚できた、と語っています。


■川島豪

なお、革命左派メンバー天野勇司によると、後日革命左派創立者の川島豪にこのリンチ事件について問うと「ゲリラノ鉄則ドオリニシタノデハ」との電報が返ってきただけで、まったく反省していなかったようです。そしてこの事件の全責任を永田に転嫁していたといいます。

この人物、森や永田ほど言及されませんが、個人的には、この悲劇に及ぼしている彼の影響はかなり大きいと見ています。生真面目な労働運動団体だった革命左派が暴力を使い始めたのも、赤軍派との合同を促したのも彼ですからね。ちなみに1990年に死去しています。


■個人的な感想

私はこのリンチ事件を初めて耳にしたときは「どうせ狂信的政治思想の持ち主が同じように狂信的な人間を殺したんだろう。殺された人は気の毒だけど自業自得な面もあるんじゃないか」などという感想を持ちましたが、今回この本を読んで自業自得と切り捨てるのは相当不適切で思考停止だと強く感じるようになりました。そして反省。

リンチ殺害が行われた理由

なぜこんなことが起こったのか。私もそれが大変気になっていました。


■これまで論じられた理由

著者小熊さんによれば、関連書籍を渉猟し整理した結果、これまで論じられた理由は主に4つに分類されるそうです。


•外部の敵と戦えなかったので内に向かった

•異なる両派がどう新路線を作ろうとするかを議論しようとすると森は個々人の共産主義化(リンチ理由)に問題をそらした(永田の回想による)

•高校時代に剣道部主将だった森の体育会系気質

•永田が気に入らない人間を総括し森がそれを合理化

■小熊英二さんの挙げた理由

しかし、小熊さんは、以上の理由は潤滑油程度のものでしかなく、本質は「指導部が逃亡と反抗の恐れを抱いたのが『総括』の原動力だった」と指摘します。理由は次の通りです。


•リンチは反抗か逃亡の怖れがあった人物に集中

•メンバー全員に被総括者を殴打させたのも「全員共犯にし脱走させなくする」ため(傍証多数)

•買い出しの場合、人選が慎重に行われた。上層部がいかに逃亡を恐れていたかの例と言える。 ◦まず関係の弱い者同士で行かせる(相談して脱走しないため)

◦また、ベース内に恋人や身内がいれば必ずどちらかをベースに残す(人質)。


とはいえ、上層部はこれを計算していたわけではなく、当初は勢いでやっていたがそうした計算が半ば無意識的に入って固定化したというのが実態ではないか・・・これが小熊さんの考察です。

私はこれを読んで、え?それって新しい説なの?むしろ、それ以外考えにくいんじゃないの?と思いました。それくらい、様々な資料で描かれている状況と「指導部の保身」のつながりが明確だったからです。


なぜこんなシンプルな理由が今まで出てこなかったのでしょうか。小熊さんはそのわけをこうではないかと推測しています。


•実は連合赤軍関係者の回想記などが出揃ったのはここ数年で(永田の回想記はずっと前から出ていたが、やはり記憶の改変があるし、あくまで永田視点の記述であるため完全に依拠できるものではない)、今までは分析しようにも材料が少なかった

•世の中、特に日本の社会運動に大きな影響を与えたこの事件の理由が「保身」のような矮小なものであってほしくないという思いも影響していたのでは


なるほど。時間がたってはじめてわかったこともあるし、時間がたってやっと客観的に分析できるようになった、ということなのですね。


■よしてるの感想−ポル・ポトとの類似

ちなみに今回、リンチの経緯を知って私が真っ先に連想したのはカンボジアのポル・ポトのやり方です。


井上 恭介・藤下 超「なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢」
http://www.yoshiteru.net/entry/20060209/p1


彼らも、規模は異なるものの(170万人を処刑したという説*1もあります)、以下の点が連合赤軍に類似しているように思います。この点からも、私にとっては小熊さんの「連合赤軍の同志リンチ理由は保身」説が納得しやすくなっています。


•リンチは共産主義の名の下行われたがその意味の説明はなかった

•言いがかりをつけて人をどんどん殺す(眼鏡をかけている→知識人→処刑、など)

•攻撃されることを極度に恐れ、疑心暗鬼になっていた(政権をとるとすぐ首都にいた200万人を全員地方に移住させたが、その理由のひとつは「そうしないと暴動が起こって政権を覆されるから」など)。


1つ目の共通点について。ポル・ポトも革命革命と連呼していましたがその意味を人民に説明することはなかったらしいです。

2つ目と3つ目の共通点からは、小熊さんのいう「保身」というキーワードが浮かび上がってきます。

人間、保身に走ると、我が身を守るためには何でも −同志をリンチで殺害したり国民を100万人以上処刑したり− してしまう生き物なのかもしれません。逆に言うと、人間、居場所があって安心できることがとても大切な生き物、とも言えるのでしょう。

まとめ

連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか?


•そもそも、連合赤軍の母体となった2グループは仲間割れをし互いに暴力をふるう背景があった(「深く考えず行動する」「暴力を用いる」点が共通している反面、思想面では相容れなかった)

•そんな「一緒になってはいけない組織」を革命左派の創立者・川島豪が一緒になるよう指示した

•彼らのアジト「山岳ベース」のコンディションが劣悪なため、判断能力が正常でなくなっていった

•リンチによる死亡を「敗北死」と称することで「死亡した人間は敗北して勝手に死んだ」ということになり、集団の感覚麻痺が一層進んでしまった

•そして最も根本的な理由は、連合赤軍指導部が他のメンバーの逃亡と反抗の恐れを抱いたため


(参考)この事件をモデルにしたまんが

上記の小熊英二さんの本は非常に興味深いですが分厚く値段もかなりします。この事件のことをもう少し手っ取り早く知りたい方には、連合赤軍をモデルにしたまんが「レッド」をおすすめします。

モデルといっても組織と人物の名前が変えてあるだけで、非常によく調べてありほぼ実録といっていい内容です。

たとえば、このメモに登場した人物と作中の人物はこんなふうに対応しています。

•森恒夫 → 北(大阪弁をしゃべっているリーダー)
•永田洋子 → 赤城(一番髪が短い女性)
•金子みちよ → 宮浦

また、混乱しがちな多数の登場人物に番号をふって判別をつきやすくしてある点も理解の助けになります。

以下の8巻では、榛名ベースで最初の犠牲者が出るところまでが描かれています。グロテスクな画は(まだ)出てきません。空虚な理論のもとに同志を殴り続ける様子は読んでいて精神がこたえるものの、この事件の現場イメージを理解するには非常に適した作品といえると思います。なお、Kindle版は単行本の半値近くで入手しやすくなっています。

レッド 1969〜1972(8) (イブニングコミックス)
山本 直樹 講談社 2014年02月
https://www.amazon.co.jp/dp/B00IXC9MHO?tag=maftracking222142-22&linkCode=ure&creative=6339


http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1

76. 中川隆[-11462] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:20:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[533] 報告

2011-03-10
連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か
http://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1

1回目のメモでは「連合赤軍とはどういう集団だったのか」を、2回目のメモでは「リンチはどのようにして進行し、『同志』12名の殺害に至ったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。」についてメモしてみました。今回は、最後に、この事件をどう受け止めるのが適切なのかを考えてみます。

これまでの受け止められ方

1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。

その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1。

当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はやらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのはやり過ぎかもしれませんが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思