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若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 06 日 09:48:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 06 日 00:05:13)


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった


監督 若松孝二
脚本 若松孝二 掛川正幸 大友麻子
原作 掛川正幸
音楽 ジム・オルーク
撮影 辻智彦 戸田義久
公開 2007年8月26日

動画
https://video.9tsu.com/videos/view?vid=101196
https://muryoueigadrama.com/?p=7220


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出演者

連合赤軍

赤軍派森恒夫:地曵豪
坂東國男:大西信満
山田孝:日下部千太郎
植垣康博:中泉英雄
青砥幹夫:伊達建士
山崎順:椋田涼
進藤隆三郎:粕谷佳五
行方正時:川淳平
遠山美枝子:坂井真紀
革命左派永田洋子:並木愛枝
坂口弘:ARATA
吉野雅邦:菟田高城
寺岡恒一:佐生有語
杉崎ミサ子:奥田恵梨華
大槻節子:藤井由紀
金子みちよ:安部魔凛碧
奥沢修一:玉一敦也
前沢虎義:辻本一樹
寺林真喜江:神津千恵
伊藤和子:一ノ瀬めぐみ
中村愛子:木全悦子
小嶋和子:宮原真琴
岩田平治:岡部尚
尾崎充男:鈴木良崇
加藤能敬:高野八誠
加藤倫教:小木戸利光
加藤元久:タモト清嵐
山本順一:金野学武
山本保子:比佐廉

連合赤軍に関連する人物

赤軍派塩見孝也(事実上途中離脱):坂口拓
高原浩之(事実上途中離脱):笠原紳司
田宮高麿:本多章一
重信房子:伴杏里
梅内恒夫:渋川清彦
金廣志:RIKIYA
持原好子(途中離脱):桃生亜希子
革命左派向山茂徳(途中離脱):黒井元次
早岐やす子(途中離脱):田島寧子
瀬木政児(途中離脱):山本直樹
松本志信(途中離脱):中道亜希


その他
さらぎ徳二:佐野史郎
松本礼二:倉崎青児
山荘の管理人:奥貫薫
ナレーション:原田芳雄

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あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

ベトナム反戦運動や公民権運動、ヒッピー文化やパリ5月革命など世界的な左翼全盛の時代に、日本でも反権力的な学生運動が盛り上がっていたころが舞台である。その学生運動の中でも最も純粋であったがゆえに、真剣に革命の実現を信じた連合赤軍の若者たち。彼らが何に突き動かされ、どのような葛藤を経てあさま山荘事件へと至っていったのか、そしてリンチ事件へと至ったのか。連合赤軍側の立場から、彼らの生き様を描こうとしている。

本作品は低予算であり、制作費の一部はカンパでまかなわれた他、若松孝二監督が自宅を抵当にいれ、宮城県大崎市(旧鳴子町)の自身の別荘をあさま山荘のロケセットとして使用、解体までおこなって、ラストシーンの撮影が行われた。また、リアルさと現場での緊張感を優先させる為、出演者はオーディションの段階からマネージャーの帯同禁止、メイクや衣装も自前で用意させる、山岳ベースからあさま山荘シーンの撮影時には、宮城の山中での長期合宿等、焦燥感ある空気を画面に創り出す工夫が成されている。撮影は「順撮り」(ストーリーの順番)で行われたため、出演者達が段々憔悴していく姿がリアルである。長台詞が多いので、棒読みにならないよう感情を乗せるのが難しかったという。


連合赤軍元メンバーからの批判

連合赤軍元メンバー加藤倫教は連合赤軍事件に関するインタビューの中で本作について話が及んだ際に本作の終盤の劇中で加藤元久が言うセリフに対して批判的に語っている。

「映画を見て感動したというひとが、僕のまわりにもたくさんいるんだけど、それは弟の言った言葉だというんです。
しかし、それは事実としてはないこと。完全なフィクションであるならそれも構わないけれども、仮にも『実録』とタイトルをつけるかぎりは、違和感が拭えない。(中略)

銃を持って交番を襲撃しろといったら、行くひとたちだった。それを『勇気がない』という一言でまとめられたんでは、ものすごく腹が立ちますね。それが間違っていると思っていたなら、行動するひとたちですよ。あるいは、組織を捨てて出たでしょう。

間違っているんじゃないかという気持ちは、僕にもありましたよ。しかし、間違いだ、と言い切れない、『これはこういうことだから間違っている』と言うだけの論拠、確信がなかったんです」(中略)

「若松さんに聞きたいことがあるかと言われたら、一つだけ。なぜあのような日本人ならわかるだろうという情緒的な落とし方に、どうしてしてしまったのか。あれでは『こう言いたいんだけど、言えなくて……』というのと、同じですよね。そして事が起きてしまったら、『ほんとはこうしたかったんだ』と弁解する。それと同じ扱いですよね。若松さんは、あの事件を単にそういうふうなことと理解したということなのか」[9]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D_%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E7%A8%8B


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あさま山荘事件 1972年(昭和47年)2月19日 - 2月28日

あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

1972年2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[5]。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

事件の発端

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会[注釈 3](マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた[6])、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった[7]。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。

群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、山岳ベースに、息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警は榛名ベースの焼け跡を発見、さらに2月16日には迦葉ベースも発見された[8]。

1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。この時、最高幹部の森と永田が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

坂口・植垣康博ら5人は合流地点設定のため先発隊として東京のレンタカーで調達したライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問[注釈 4]を受ける。警官らが車両の脱出を手助けしている隙に、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は2人を残して警察が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、「森林法違反容疑」で逮捕された。この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発した。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した[9]。装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡の人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる[10]。

森と永田も榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 6][11]。

2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣ら4名が軽井沢駅の列車内で職務質問された。メンバーは2手に分かれていたが、一方は手製爆弾や実弾を所持しているのが見つかり銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。駅売店の店員が、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを不審に思い、助役に通報したことがきっかけであった[12]。

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると警察の追跡を恐れて移動を開始し、捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた[13]。


事件の経過(浅間山荘への立てこもりから制圧まで)

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた[13])がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[14]。

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)[15]。

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している[13]。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[16][注釈 7]。吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口と坂東は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念された。坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[16][8]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[16]。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった[17]。

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[8]。

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[16]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[16]。こうして3人は1日でも長く徹底抗戦を続けることで一致した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという[16]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた[18]。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[16]。

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[16]。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった[16]。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された[19]。

さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという[16]。

19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。


私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 [14]

19時半頃、警察の阻止線を越えた男が山荘に近付こうとしているのを発見され、逮捕される。男は新潟市内でスナックを経営する民間人で、警察は厳重注意のうえ23時20分に釈放[19][20]。

2月22日、午前、吉野の母の説得中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った[19]。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという[16]。

正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした[19]。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃[16]。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される[19]。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)[19]。1人目の犠牲者。

14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった[19]。

20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた[8] 警察が山荘の送電を断つ。山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲[19]。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。

23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される[19]。

この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否[16][注釈 8]。

2月23日 - 14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた[注釈 9]。警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった[8]。

2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う[19][21]。

5時と6時に人質の親族による呼びかけ[19]。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望するが坂口は拒否[16][注釈 10]。

さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという[16]。

正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる[16]。

2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念[16]。

9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった[16][注釈 11]。

坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念[16][8]。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された[22]。

夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ[19]。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという[16]。

夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判[16][注釈 12]。

犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」[16]。

2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測[16]。

2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった[8][注釈 13]。

9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。

11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(殉職により警視正に特進)が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった[16]。

11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。

11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視(殉職により警視長に特進)が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者。

11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという[16]。

内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた[16][23]。

12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという[14]。

12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲[注釈 14]。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く[16]。

14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。

15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという[16]。

15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾[24]。

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。

17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾[24]。

17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾[24]。

やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明[24]。

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという[16]。

加藤倫教は連行された時の感情を以下のように記している。


のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。 私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた[8]。

18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。


▲△▽▼


警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」ことを大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。後藤田は20日朝に開かれた記者会見で「なんとかしてxx(人質女性)さんを無事救出したいという気持ちでいっぱいである。この事件が凶悪犯罪であることは間違いないが、彼ら(連合赤軍)はもともとインテリなのだから、彼らの心に訴えて慎重な作戦を取り、できるだけ血を見ないで解決したい」と述べている[25]。

警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正(警視庁警備部付)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に第二機動隊(隊長・内田尚孝警視)が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

制圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立てこもっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った[注釈 15]。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。初めは冷ややかに母親たちの説得を聞いていた機動隊員らも、子を思う親の愛情の深さに涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した[19]。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[19]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃眼を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリ・ターミナルを蹴飛ばしたため」であるといわれる[注釈 16]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。

当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[27]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

ただしこの故障説については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌[28] および自動車雑誌[29] で明かしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が盾を貫通することが分かり[注釈 17]、隊員は盾を2枚重ねて突入した。

突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け[注釈 18]、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可[注釈 19]が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。狙撃班も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな狙撃銃の使用は長官許可とされていたため[31]、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・保坂調司警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された[30]。

しかしその後も、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして、部隊指揮官の意思を尊重する形でヘルメットに指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因
生け捕りの方針であったこと人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。警察官が殺人罪で告発される懸念があったこと1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。犯人が主張や要求をしなかったこと犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった[注釈 20]。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返した。立てこもり側に有利な地形であったこと。山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと。頻繁に犯人が発砲してくること。警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったこと[注釈 21]などから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[19]。


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事件後の情勢

連合赤軍の崩壊

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され[注釈 22]、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

特殊部隊の創設

1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[33]。

1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、本人が法廷闘争を望み留まった)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

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裁判

山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。

関係者のその後

佐々淳行は初代内閣安全保障室長に就任。退職後は危機管理の専門家・評論家として活動していた。
亀井静香警察庁警備局公安第三課課長補佐は、2017年まで衆議院議員を務めていた。
國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。
佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた[34][35][36]。


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エピソード
カップヌードル事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという[19]。やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。

もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[19]。このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、同商品の知名度を一挙に高めた。直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった[37]。モップル社2月22日、浅田光輝(立正大教授)・丸山照雄(僧侶)・水戸巌(東大助教授)・木村荘(弁護士)ら「救援連絡センター・モップル社」と名乗り、立てこもり犯との交渉を名目として野中庸本部長に面会を求めてきた。応対した佐々によれば、「身の安全については自己責任の原則」「対話にあたっては通牒にわたることはしない」「現場の警察官の指示に従うこと」の3点について書面で誓約することを条件に立てこもり犯への説得をすんなりと認めると、高圧的な態度で臨んできた彼らは動揺しだし、「あのう、彼らは我々に向かっても撃つでしょうか」と佐々に尋ねてきた。佐々が「そりゃあ撃ちますとも。実の親に向かって発砲する手合いですからね。ではどうぞ気を付けて行ってらっしゃい」と言うと「東京の本部と相談してから返事します」と退散した。後に彼らが無条件での面会を求めてきたため断ったところ、記者会見を開いて警察批判をぶち、軽井沢町内に宿泊して「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃犯五十人を集めた」と書かれたビラを撒くなどの宣伝活動を行った[19]。

鉄球作戦佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[19]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は国の登録有形文化財第1号[38][39]であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。

以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の株式会社白田組に残されている。ヘルメットの意匠当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された(現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能)。

生中継1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。後方の治安当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。

警備心理「警備心理学研究会」の宮城音弥東工大名誉教授・島田一男聖心女子大教授らが、現地に派遣された。両教授から「インフォメイション・ハングリー状態となっている隊員らに情報をこまめに伝達せよ」「明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ」などと警備本部幹部へ助言がなされた。一方、高橋幹夫警察庁次長の肝いりでできた研究会の現場視察とあって張り切っていた科学捜査研究所の某技官が幹部らの面前でテレビ出演の段取りまで仕切りだし、憤慨した丸山昂参事官が富田朝彦警備局長に抗議電話を掛けた[19]。事件後の人質女性事件後報道合戦が加熱する中、入院した人質女性はマスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警護されていたが、精神科医の問診や警察の事情聴取の模様等が、特ダネとして朝日新聞に次々とスクープされた。これは、病室のベッドの下に仕掛けられた盗聴器を使用して警察や他社を出し抜いていたものであり、電池の交換に来た記者が病院に侵入したところを取り押さえられたことで判明したが、大物記者らによる必死のもみ消し工作の甲斐あってか、表沙汰にはならなかった[19][40]。

3月1日に開かれた短時間の記者会見で、「(退院したらまず何をしたいかとの問いに対し)みんなと一緒に遊びたい」といった、気が動転している中でなされた女性の発言の一部がセンセーショナルに切り取られたうえ、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く(女性が所持していたお守りを夫が勘違いで犯人から貰ったものと別の記者会見で語ってしまっていたことも一因であった)報道された。この結果、女性は広く世間の批判を受けることとなる。実際には、「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」「2月29日の報道(朝日新聞の「スクープ」)を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と、女性は後に述べている[41]。この会見後、女性のもとヘの激励の手紙が激減し、逆に「うどんが食べたい(病院で食欲を尋ねられ、うどんを所望していた)とか、遊びたいとは何事だ」「お前のために警官が死んでいるのに何を考えているのか」といった文言やカミソリの刃を同封した脅迫の手紙が届くようになり、週刊誌は女性のプライベート情報や虚偽の内容を織り交ぜて『ウソ泣きxx(女性の名前)』『偽善者』と書き立てた。女性は予め夫が目を通して問題がなかった手紙のみを渡されていたが、精神的に不安定になっていった。女性は衰弱しながらも3月11日にそれまでの報道を否定する記者会見(全国からの励ましへの感謝、殉職警官遺族への「お詫び」の意向、監禁中は常に拘束と監視を受け生命の危機にさらされていた旨)を涙ながらに行った。それ以後、女性はマスコミとの接触を拒むようになった[41]。3月1日に東京で殉職警官の合同葬が行われた時、女性は病室から浅間山荘の方角に向けて黙祷を捧げながら涙を流していたという。また退院直後には山荘に直行し、殉職者の祭壇に跪き「申し訳ありません」と泣き崩れた[41]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 

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1. 中川隆[-11688] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:01:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[303] 報告


亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日

保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150〜151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 http://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


2005年7月2日 亀井静香
警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景


定刻より15分ほど前に因島市民会館へ到着した俳優菅原文太さん。この日、飛騨の山里からJRを乗り継いだ新幹線の車中で目にした文藝春秋6月号。「三島由紀夫自決からあさま山荘事件まで」の特別企画の証言に亀井静香代議士が登場、当時、警視庁警備局公安第一課課長補佐として「あさま山荘」事件の作戦に加わっていたことに衝撃を受けた。

この事件があった72年といえば文太さんが「人斬り与太」でスターの仲間入り、その翌年に主演映画「仁義なき戦い」がシリーズ化され大ヒットした。昭和元禄といわれた六十年代の総決算ともいえる大阪万博は6422万人が押しかけた。ヤクザ映画は股旅物の様式美から実録ヤクザ映画がヒット。完全にサラリーマン化した大衆には仁侠映画でレトロ趣味を満たすことができなくなってきていた。

その一方で71年に警察庁は凶悪化した極左集団を取り締まるため警備調査官室を設置した。警視庁、神奈川、千葉の両県警をまたぐ重要事件について警視庁が直接指揮をとるための臨時措置だった。弱冠33歳の亀井静香氏が直接指示をした。72年2月には極左集団が金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店を襲った彼らの足跡をつきとめることができた。

地元民の通報で群馬県警が山狩りをして迦葉山山中で丸太小屋の山岳アジトを発見した。亀井氏も現場へ急行した。男女二人が不審自動車に立て籠もったが、引きずり出す容疑が見つからない。そこで窮余の一策として思いついたのが山小屋を作ったのだから無断伐採したはず。そこで「氏名不詳の窃盗罪」で逮捕礼状を請求した。逮捕した2人は京浜安保共闘の奥沢修一と杉崎ミサ子だった。妙義山山中=写真=ではリーダーの森恒夫と永田洋子を逮捕した。妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で4人を捕まえたものの5人逃がし、あさま山荘に逃げ込まれた。

「だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起きなかった。私にとって大恥というしかない」と、亀井代議士は回顧する。事件は解決したが。警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからで、けっして威張れるような作戦でなかったとも言う。

しかし、同僚の警察官を殺した犯人グループに対して一方的な憎しみを感じなかった。彼らのやったことは明らかに間違っている。だが、恵まれない人民をどうにかしたいという強い思いが取り調べでその気迫が伝わってきた。六〇年代後半から七〇年代にかけ東アジアはどの国も文化大革命の中国が発する情報に目を注いでいた。志ある若者が、なぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じ、亀井氏は警察庁を退職。衆院選出馬を決意する起爆剤になったことはまちがいない。

こういう亀井さんが大好きだという日本を代表する映画俳優の菅原文太さん。気を緩ませた時の笑顔が魅力的。若い男優がビビってしまう大スターの風格は厳しく怖いという印象とは別に一般聴衆たちが「文太ちゃん」という感じで接する様は闘将亀井静香の「亀ちゃん」の愛称と共通した一面もうかがえる。
http://0845.boo.jp/times/archives/6122

2. 中川隆[-11687] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:11:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[304] 報告

共産主義者はどういう人間なのか?

1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

https://medium.com/dysfunciton/正義感が強い-e107fdfd5eff

2) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?


まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

https://medium.com/dysfunciton/悪-あく-ac385668ea9e


3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/05-12/05-12-23.htm

4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない


支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

https://medium.com/dysfunciton/支配-被支配の構図-3c3ce4b7f638


5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。


格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/序列過敏-62558f9a2332

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ダメダメ家庭の目次録

音楽・映画関係の超有名サイトでしたが、東北大震災以降リンク切れになり、ミラーサイトでかろうじて読めるものがあります。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.htm

「映画の中のクラシック音楽」
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html

3. 中川隆[-11686] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:14:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[305] 報告

因みに、現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。


昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。

4. 中川隆[-11685] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:16:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[306] 報告

浅間山荘事件 _ ここでも江青女史みたいな女が出て来て大活躍

 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件

 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm

「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。


総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。


1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。


1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。

1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。

1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。

1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」


だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。

1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く


1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。

2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。

2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm


独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf

前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。

3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html

5. 中川隆[-11684] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:28:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[307] 報告

内田樹の研究室 2015-05-28
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html


私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。

私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。

その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。


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国旗国歌について


国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。

その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。

今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。

このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。

ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。

こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。
 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。

いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。

私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。

正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。

しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。

小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。

国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。

現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。

国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html

6. 中川隆[-11683] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:51:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[308] 報告

世間から相手にされなくなった 70年代左翼のその後


講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員
川端 純四郎

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。
 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。
 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。

 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。
 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。

 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。
 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。

「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。
 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。

 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。

 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。

 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京〜上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm


要するに、世間から相手にされなくなった 70年代左翼はその後、護憲派・反原発派に変身して、今は阿修羅掲示板や るいネットで細々と空しい政府批判を繰り返しているのですね。


7. 中川隆[-11682] koaQ7Jey 2019年3月06日 11:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[309] 報告

学生運動しなくてもよくなった一流大学の学生のその後

年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万〜13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html



▲△▽▼


あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。
https://bllackz.com/?p=1039


▲△▽▼

「学歴」が分断する現代日本社会
『日本の分断』吉川徹教授インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


 「学歴なんか関係ない」といくら言ったところで、学歴により就くことのできる職業も違えば、賃金にも差があるのが現実。また、社会人になると同業者や同じような人生を歩んできた人々とのコミュニケーションが多くなり、それ以外の人々がどんな生活を送り、何を考えているかについては無関心になりがちだ。大卒と非大卒の人生が別々のものになりはじめた現代日本社会では、特に若年非大卒の男性たちが多大なリスクにさらされているという。

『日本の分断 切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E6%96%AD-%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%9D%9E%E5%A4%A7%E5%8D%92%E8%8B%A5%E8%80%85-%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9-%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8/dp/4334043518

を上梓した計量社会学が専門で、大阪大学大学院人間科学研究科、吉川徹教授に日本における学歴の意味や、学歴分断社会の現状、そして非大卒の若者たちに忍び寄るリスクについて話を聞いた。


(hyejin kang/iStock/Getty Images Plus)

――日本社会で学歴が持つ意味を一言で言い表すとどんな言葉になるでしょうか?

吉川:「自己責任だとみなされているがゆえに、もっとも重視されるアイデンティティ」でしょうか。

 今の日本社会では、「ジェンダー」「生年世代」「学歴」という3つの分断線が重要な意味をもちはじめています。前者2つについては変更不可能なある意味で運命論的な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。

 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。

――学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?

吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。

――トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?

吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。

 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。

――日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。

『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社)

吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。

 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013〜14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。

――半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか?

吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。

 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。

――吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。

吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。

 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。


彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。


 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。
 
――なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。

吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。

――なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか?

吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。

――彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか?

吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。

 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。

 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。

 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。

――多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。

吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


結局、一億総中流だった日本でも中間層が没落して階級社会になってしまったのですね。

マルクスの預言通りの社会になりました。

8. 中川隆[-11681] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:19:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[310] 報告

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き

Theo Angelopoulos Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975


監督 テオ・アンゲロプロス
音楽 ルキアノス・キライドニス
出演 エヴァ・コタマニドゥ


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%9F+%CE%98%CE%AF%CE%B1%CF%83%CE%BF%CF%82


ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-11/04-11-12.htm

9. 中川隆[-11680] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:39:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[311] 報告

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き _ 2


テオ・アンゲロプロス アレクサンダー大王


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 ペトロス・マルカリス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
衣装デザイン Ghiorgos Ziakas
音楽 クリストドゥロス・ハラリス
美術 ミキス・カラピペリス
1980年 ギリシャ=イタリア=西ドイツ作品

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Angelopoulos++O+Megalexandros+++&sp=mAEB


▲△▽▼


キャスト

Alexander オメロ・アントヌッティ
The Stepdaughter エヴァ・コタマニドゥ
The Schoolteacher グリゴリス・エヴァンゲラトス
The Guide ミハリス・ヤナトゥス
Mr. Zelepis クリストフォロス・ネゼル
Mrs. Zelepis Miranda Kounelaki
Man of the Commune Thanos Grammenos
Man of the Commune Photis Paparamprou
Woman of the Commune Toula Stathopouluo
Italian Anarchist Francesco Carnelutti
Italian Anarchist ブリツィオ・モンティナーロ
Italian Anarchist ラウラ・デ・マルキ
Italian Anarchist Claudio Betan
Italian Anarchist Norman Mozzato
Alexander as a Boy イリアス・ザフィロプロス
Shepherd ストラトス・パキス

20世紀目前の大晦日、アレクサンダー大王と呼ばれる首領に率いられた山賊たちが脱獄した。 銃を手にした彼らはイギリス人貴族たちを誘拐、特赦を発令するとともに土地所有権の農民への変換を政府に要求する。だが、救世主として現れたアレクサンダーはやがて独裁者へと変貌していく。


映画のストーリー

1899年12月31日の深夜、何者かの手引きによってギリシャの小島にある刑務所から20数名の囚人が脱獄した。アレクサンダー大王(オメロ・アントヌッティ)と呼ばれる首領に率いられた賊の一団だ。

同じ夜、アテネの王宮では英国貴族らを迎えて新年と新世紀を祝うパーティが開かれていた。その席でさる英国人が、大地主ジェレピス(C・ネザール)の土地にある炭鉱の採掘許可が得られるよう陸軍大臣に訴える。しかし、ジェレピスはその土地は農民が所有権を主張して頑強に抵抗していると語る。

パーティに出席していたマンカスター卿は4人の仲間と3人の女性を伴って、アテネに程近いスーニオン岬に日の出を見に行くが、脱獄したアレクサンダー大王に誘惑されてしまう。大王はジェレピスの土地を農民のものと認め、自分たちに恩赦を下すよう国王、政府、英国大使に要求書を出し、生地である北ギリシャの村ヘ向った。途中、5人のイタリア人アナーキストが一行に加わる。しかし、村は先生(グリゴリス・エヴァンゲラトス)と呼ばれる指導者のもとで共産村が作られており、大王の部下は全てが共有で、自分のものは何ひとつないと、口々に不満を訴えた。そして翌朝、何頭かの羊が殺されているのが発見された。

村は政府軍に包囲され、大王と村人との間に不和が生じる。そんな時、政府の密使が大王を訪れ、恩赦には応じられないが形式的な裁判を開いた後、特赦によって彼らを自由にするという提案がなされ、大王は裁判を村で開くよう要請した。また、ジェレピスは政府の圧力でやむなく土地を村人ヘ返すが、陰謀の匂いを嗅ぎつけた先生はイタリア人アナーキストに不安を訴える。そして、村では戻った土地についての争いが始まり、共産制は危機に瀕し、村を逃げだそうとしたイタリア人も射殺されてしまう。

裁判は大王が検事を射殺したことにより成立せず、これによって村人とも完全に孤立し、遂に人質までも殺害してしまった。政府は人質が殺されたことにより、村に総攻撃をかけ、大王の部下を次々と倒していく。大王は多勢の村人に取り押えられるが、何故か後には大王の形をした石像が残るだけでその姿は消えてしまった。村から脱出したのは大王と同じ名の少年ただひとりだった……。
https://movie.walkerplus.com/mv11318/

▲△▽▼

アレクサンダー大王(テオ・アンゲロプロス)


 1899年12月31日深夜、義賊の首領アレクサンダー大王(歴史上の、というより、「解放者」として知られる伝説上のアレクサンドロス)は、囚われていた自らの一団を率いて脱獄、明くる日の1900年1月1日に、イギリス貴族らを誘拐する。

 向かった先の生地である北ギリシャの村は、「先生」と呼ばれる指導者によって、すでに共産村と化していた。途中で遭遇したイタリアのアナーキストらと入村したアレクサンダーは、国王や政府に対し、人質の解放と引き換えに、自らの恩赦と、イギリス人地主によって搾取された土地を農民の手に戻すことを要求する。

 だが、なかなか取引は成立せず、時間が経つにつれ、アレクサンダーのカリスマ性も徐々に薄れていき、いつしか彼は解放者から独裁者へと変貌していく――。

 久し振りに見た『アレクサンダー大王』は、何と当たり前のようにイデオロギーの映画だったことか。イデオロギーの終焉が叫ばれて久しい現在、そのあまりに堂々としたイデオロギー映画ぶりに、何だか励まされた。

 言うまでもなく、イデオロギーが終焉したならば、夢もなくなったのだ。そして、夢を見られなくなったということは、すなわち芸術が終わったということである。にもかかわらず、人は、都合よく、死んだのはイデオロギーだけで、夢や芸術はいまだ健在だと思い込んでいる。

 アンゲロプロスはきっぱりと言う。「今日、語られうるのは、いわばちゃちな夢であり、ちゃちな芸術でしかない。すべては、ちゃちなものとなってしまった」(蓮実重彦インタビュー集『光をめぐって』)。

 だからこそ、この『アレクサンダー大王』は、20世紀の「夢」を、「芸術」として真正面から語ろうとした。

出発点にあったものは、今世紀に特有の夢、つまり、社会主義的な夢の実態を批判的に考察することです。社会主義の夢というのは、否定しえない現実として人びとの想像力を支配していた。その事実は、社会主義に反対の人でも否定することはできないものです。それは、二十世紀の夢なのです。それに到達するにはいくつかの異なる出発点がありました。だが、あらゆる理論的な探求は、ある一点で、現行の社会主義が失敗であったという事実につきあたる。なぜか。

 私の映画は、そのなぜかという理由を示そうとするものではない。最後に、アレクサンドロスと呼ばれる少年が、さまざまな社会主義的な経験と試練をへた上で、夕方、都会に向けて歩んでゆく。それはもはや大王ではないアレクサンダーです。その夜は長いのか、短いのか。朝が訪れるのか否か、それはどんな色調なのかわからない。いずれにせよ、もはや夢は夢ではありえない。(『光をめぐって』)

 有名なワンシーン・ワンショットや360°のパンの多用、あるいは古代ギリシャ悲劇の劇場のような円形広場のシーンは、観客を含む全宇宙を俯瞰する視線によって、20世紀を余すところなく総体として捉えようとする野心の表れである。

 かつて中上健次は、ギリシャ悲劇の円形舞台は、もともと神の近くにいた王が、そこから転がり落ち、そうと知らずに不可避的に罪を犯してしまうそのありさまを、観客が空の上の神の位置から見渡せるように作られていたのではないかと指摘した(『中上健次と熊野』)。まさに、この作品では、観客が、アレクサンダー大王が罪を犯していく一部始終を俯瞰するのだ。

 観客が神の位置にあるといっても、むろんそこには「お客様は神様」という消費者主義的な意味はみじんもない。むしろ逆なのだ。そして、そのことは、アンゲロプロスが、なぜモンタージュを嫌い、ワンシーン・ワンショットを好むかということと明確につながっている。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指さして、ほら、このイメージを良く見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。(中略)ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています。(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、その受動性から解放させようとすることにほかなりません。


 アンゲロプロスの作品においては、観客も積極的にスペクタクルに参加し、思考と想像力を駆使し、各々が各々の映画を作り上げていかねばならない。おそらく、そのことによって身をもって示そうとしているのだ――二十世紀を俯瞰してみたときに、われわれは、もはや「夢」が受動的に与えられるものではなく、自ら見ようと積極的に紡ぎ出していかなければならないものとなったのだ――ということを。

 ラストで、アレクサンダー大王の末路と20世紀社会主義の一部始終を見届けた少年アレクサンダーは、丘の上から見下ろしていた都会へと分け入っていく。アンゲロプロスは、彼に21世紀の夢を託した。

 アンゲロプロスの予言したように、果たして、すべてを見た少年は、本当に「大王=カリスマ」にならないだろうか。おそらく、黒沢清が、1899年からちょうど一世紀を経た1999年に撮った『カリスマ』は、この『アレクサンダー大王』への真摯なレスポンスだった。ラストで、「カリスマ」と呼ばれる木をめぐる闘争の果てに、真っ赤に燃える街を見下ろす役所広司の姿は、少年アレクサンダーの反復でなくて何であろう。

 もちろん、そこに答えなどない。ただ、アンゲロプロスの夢を見てしまった者だけが、夢を見続けることができる。そして、だからこそ、また後から来る者にも夢を見せたいと願う。そうした夢と芸術のか細い連なりだけが、そこにははっきりと見える。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120901/p1


▲△▽▼


空想と現実感


16世紀、オスマントルコのギリシャ侵攻があった際、マケドニアの
アレクサンダー大王が復活したと巷間のうわさとなり、それと19世紀の
英国貴族誘拐事件の史実をふまえてアンゲロプロスはこのファンタジーを
つくり上げたそうです。

しかし、ファンタジーといっても本作の内容はやけに現実味を帯びた
部分もあり、類まれな空想のなかにのっぴきならぬリアリティを含ませて
います(全編が空想にもかかわらず)。

空想と現実感がないまぜになっているところがこの作品の魅力のひとつの
ような気がします。

長まわしのワンショット=ワンシーン、ロングショットの多用、曇天下の
撮影など、例によって変わるところはありません。

まず、冒頭近く、20世紀目前の大晦日いんちきくさい大王一味がいかにも
現実めいた脱獄を敢行したのち、いきなり古代マケドニアにタイムスリップ
したかのようなフォトジェニック、レンブラントの画のごとく明暗を強く
押し出してけぶる森の木立の拓けたまるい平土に一頭の白馬が繋がれて
遊んでいる。
やがて大王が馬に颯爽とまたがりエキゾティックな音曲がその夢のような
映像を盛り立てます。もやはうさん臭さはどこにもありません。

アレクサンダー大王、復活せり!

さて、大王が人質(農地の要求と恩赦を得るため)をつれて帰郷すると
そこはコミューンと呼ばれる共産村になっていました。
いわゆる私有財産は認められず、共有財産により貧富の差をなくそうとする
ものです。

そこで、イタリア人アナーキストの一団も加わり、村は徐々に安定性を欠いて
行きます(彼らは王のカリスマ性の限界を見抜くのだが)。

やがて、大王はしだいに村人から刀狩りや食糧略奪などをはじめ、じぶんの
言うことをきかないやつは処刑します。専制君主政のはじまりです。

結果、村人たちのうっぷんは水面下でだんだん蓄積されてゆきます。

ここらあたりは妙にリアリティが伴っています(その他、英国との折衝や裁判
など現実的な場面が何度もでてくる)。

ラスト近くの革命シーンのアイデアには度肝を抜かれますが、ここでは
思いっきり現実離れして、もはや寓話の世界です。映画的というより演劇的な
演出に圧倒されます。

史実のアレクサンダー大王もてんかん持ちだったらしく、それを持ち出すのも
芸が細かいです。

ところで、大王と同じ名のアレクサンダーという名の少年が登場します。
彼は向学心が強く、どうやらマザコンです。明らかに大王の少年時代を映しており、
次世代の英雄としての含みを持たせているように思われます。
これもどこか寓意的です。

ラストカットではもっと直截的に「英雄は生き続ける」と主張しているわけですが。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B00JKB218E

10. 中川隆[-11679] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:52:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[312] 報告


ユリシーズの瞳 Το βλέμμα του Οδυσσέα / Ulysses' Gaze

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス トニーノ・グエッラ ペトロス・マルカリス
音楽 エレニ・カラインドルー
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス アンドレアス・シナノス
公開 1996年3月23日

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%A4%CE%BF+%CE%92%CE%BB%CE%AD%CE%BC%CE%BC%CE%B1+%CF%84%CE%BF%CF%85+%CE%9F%CE%B4%CF%85%CF%83%CF%83%CE%AD%CE%B1+&sp=mAEB


▲△▽▼

キャスト

A:ハーヴェイ・カイテル
Aの元恋人/博物館職員/ブルガリアの農婦/ナオミ:マヤ・モルゲンステルン(四役)
イヴォ・レヴィ:エルランド・ヨセフソン[1]
タクシーの運転手:タナシス・ヴェンゴス
ニコス:ヨルゴス・ミハラコプロス
タクシーに同乗する老女:ドーラ・ヴォラナキ

映画監督のAは、回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟のドキュメンタリー映画を作るため、アメリカから故郷のギリシャに帰国した。そして、マナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探す旅に出る。

Aはタクシーでアルバニアを経て、マケドニアのにあるマナキス兄弟の博物館に行くが、手がかりは得られなかった。次いでブルガリア、ルーマニアのブカレストを経て、セルビアのベオグラードで旧友の記者ニコスと合流したAは、ベオグラード映画博物館の元教授を老人ホームに訪ねる。

元教授は、幻のフィルムはサラエヴォの映画博物館の館長であるイヴォ・レヴィが現像を試みていたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。Aは戦火のサラエヴォでレヴィに会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、何があっても現像すべきだと説得するA。レヴィは彼の説得を聞き入れて、フィルムの現像に着手する。

レヴィの娘ナオミと知り合ったAは、戦闘が止んだ束の間の間、懐かしい恋人のように語り合う。やがて、フィルムの現像は成功するのだが、そんな彼らに再開した戦闘の現実が襲いかかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%9E%B3


▲△▽▼


「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。

舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。


あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?


「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm

11. 中川隆[-11651] koaQ7Jey 2019年3月07日 08:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[340] 報告

山下敦弘 『マイ・バック・ページ』(2011年)


監督 山下敦弘
脚本 向井康介
原作 川本三郎
撮影 近藤龍人
公開 2011年5月28日


映画『マイ・バック・ページ』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8+2011&sp=mAEB


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キャスト

沢田雅巳(週刊東都、東都ジャーナル記者):妻夫木聡 ※モデルは川本三郎
梅山(本名・片桐優 赤邦軍リーダー):松山ケンイチ
倉田眞子(週刊東都表紙モデル):忽那汐里 ※モデルは保倉幸恵
安宅重子(赤邦軍隊員):石橋杏奈
赤井七恵(赤邦軍隊員):韓英恵
柴山洋(赤邦軍隊員):中村蒼
飯島(東都ジャーナルデスク):あがた森魚
徳山健三(週刊東都デスク):山崎一
清原(反戦自衛官):山本剛史
佐伯仁(運動家):山本浩司
中平武弘(週刊東都 記者):古舘寛治
津川(週刊東都記者):中野英樹
前園勇(京大全共闘議長):山内圭哉 ※モデルは滝田修
唐谷義朗(東大全共闘議長):長塚圭史 ※モデルは山本義隆
タモツ(うさぎ売りの青年):松浦祐也
キリスト(キリストのような風貌の青年):青木崇高
山口(東都新聞 社長):並樹史朗
小林(東都ジャーナル編集長)菅原大吉
島木武夫(週刊東都編集長):中村育二
白石(東都新聞 社会部部長):三浦友和
康すおん、近藤公園、熊切和嘉、早織 ほか

『マイ・バック・ページ』は、日本の評論家・川本三郎の著作、およびそれを原作とする2011年公開の日本映画。タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から取られている。

川本三郎が、1968年から1972年の『週刊朝日』および『朝日ジャーナル』の記者として活動していた時代を綴った回想録。前半は東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの当時を象徴する出来事の取材談、出会った人々の思い出、当時の文化状況などが新左翼運動へのシンパシーを軸に綴られ、後半は活動家を名乗る青年Kと出会ったことから、朝霞自衛官殺害事件に関わって逮捕され、有罪となって懲戒免職に至る顛末が語られる。雑誌『SWITCH』に1986年から1987年にかけて連載され、1988年に河出書房新社から『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という題で単行本が出版された。一時は絶版となっていたが、映画化を機に2010年に平凡社より再刊された。


物語

1969年、沢田は東大法学部大学院生時代に安田講堂事件を目撃する。「週刊東都」の新米記者として、新左翼運動への取材を通じて活動家たちに共感を抱きながらも、ジャーナリストとして客観性を保たなければならない立場との間に葛藤する日々を送っていた。編集部はアポロ11号の月着陸記事で忙しくしている。

1970年、教室では片桐という青年と他の学生たちとが激しい議論を戦わす。沢田は名画座で 川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』を見る。映画では新珠三千代が頼りない恋人の三橋達也に、「あんた、どっか一つくらい当てないの?」「あんた、男でしょ」となじる。オールナイトが終わってから日曜日の編集部で『ガロ』を読んでいると「週刊東都」の表紙モデル・倉田眞子が遊びにくる。

1971年、活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。自分は「京西安保」の幹部であり、「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」などと語る。紹介した先輩記者・中平武弘は「偽物だ」と決めつけるが、離れに匿う。宮沢賢治を愛読し、CCRの『雨を見たかい』をギターでつま弾きながら「雨ってナパーム弾のことなんですね」という姿に、沢田は親近感を覚えていく。編集部では『週刊東都』が出版6日後に回収という事件が起きる。中平も「左遷」される。同僚から「あんたら、うちの余った紙で雑誌作らせてもらってるんでしょ」といわれ、殴りかかる。一緒に『ファイブ・イージー・ピーセス』を観て、倉田に「私はきちんと泣ける男の人が好き」と言われる。

やがて梅山は学生仲間を引き込んで「赤邦軍」なる組織を作ると、自衛隊基地を襲撃して武器を奪うという計画を立てる。計画を明かされた沢田は自分に独占取材させてくれと頼む。

「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く。接触すると他誌の記者も来る。証拠として腕章を預かる。社会部では「思想犯」ではなく「殺人犯」として通報するといい、反論すると「うちは大学新聞作っているわけではない」といわれる。捕まった梅山は軍を動かしているのは前園だという。警察は腕章を出せば証拠隠滅罪には問わないというが、燃やしてしまっていた。会社を辞める時にモデルは終わったという倉田が訪ねてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


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「マイバックページ」を観た 2011年6月 9日


なぜか弁護士会のボックスに、マイバックページのパンフレットが入れられていて、さして興味もなかったのに、もののはずみで観てきた。

わたくし的には、これほど途中で席を立とうかと何度も思った映画は初めてだった。

何しろ登場人物の誰にも感情移入できない。
時代は1969年から1972年。
学生運動崩壊過程で起きた自衛官殺害事件を題材にしている。

潮が引くように去っていく学生たちから孤立した活動家梅山は、存在自体が怪しい組織を騙って、暴力革命路線を追及する。

そこには何の理念もありはしない。
あるのは、ただ、世間を騒がすようなことをしでかして見返してやりたいという情念だけだ。

一方、彼の取材を続ける記者沢田は、彼の理念なき大言壮語を易々と信じて肩入れしていく。

僕にとっては、どこにも共感できる要素がないのだ。


僕が大学に入ったのは74年。
初めてセクトというものと出会ったのも同じ時期である。

当時は、中核派と革マル派の内ゲバ事件が最盛期だった。

東大駒場寮から引っ越し作業中の活動家が敵対セクトから襲撃されて殺された事件があった。僕も駒場寮に住んでいたが、それを聞いても、特段の感慨すら抱かなかった、そんな時代だった。

結局、崩壊した学生運動は、どれだけ派手な成果を挙げるかだけを競い、三菱重工爆破事件や、北海道庁爆破事件を次々と起こし、自壊していった。

映画は、そうした学生運動の崩壊過程の初期を描いていることになろう。

実は収穫が一つだけあった。

常々、学生運動の経験者が実権を握った現代日本がなぜ、これほどまでに保守化していくのか、疑問に思っていた。
朝日新聞などのメディアには、相当数の学生運動経験者が、今やデスクを握っているに違いないのに、とめどなく保守化していくのはなぜなのか。

映画は、そんな疑問に明快な回答を与えてくれた。

熱病が醒めれば、潮が引くように一部の活動家を孤立化させて、抵抗なく社会に適応をする学生が大半だった。
熱病には、確固たる信念もなかった。
共通する心情は、何かしら、目立つことがしたい、いい言葉で言えば「自己実現したい」ということだけだった。

政界にしろ、メディアにしろ、組織を左右する地位を手に入れる人たちは、人並み以上の権力欲を持っている人たちだろう。
そして梅山がそうであったように、権力欲とバランスするような理念を持っている訳ではない。

政治やメディアで権力を掌握した学生運動経験者たちは、過激派と違う方向で、「自己実現」を図っているに過ぎないのだろう。

誤解なきようにいえば、学生運動経験者の全てを批判している訳ではない。

若き時代の初志を貫いている人たちがいることも僕は知っている。
但し、そうした人たちは、基本的に、名前も権力も求めず、ひたすら地道に現代という時代が抱える問題に真摯に向き合う活動を続けている人たちだ。

それにしても、と僕は思う。
少し時間を遡り、学生運動の最盛期に戻れば、大人が手を付けられないほどの若者のエネルギーがあった。

若者のエネルギーは、今こそ発揮されて欲しい。

既得権にしがみつく、私も含む大人たちが、若者の行く手を阻む構造になっていることは見やすい道理だ。

日本の社会保障費は国際的に見て、年金が占める割合が大きいといわれている中、厚生年金で、現役世代以上の収入を得て、頻繁に海外旅行を楽しむ高齢者。

40代で1000万円の年収を約束されている大企業の会社員たち。
彼らが、日本の将来を考え、若者に道を譲ることを考えない限り、若者には未来が開けないと僕は思う。
しかし、彼らは、決して既得権を手放そうとはしない。

その結果、若者の30%以上が非正規雇用に甘んじている。

かつて学生運動が華やかだった頃、若者に対して不公正な社会構造があった訳ではない。

今の社会構造は明らかに若者に対して不公正なのだ。

若者はもっと怒っていい。
僕はつくづくそう思うのだが、「希望は戦争」といわざるを得ないほど、この国は閉塞してしまっているのだろう。

この閉塞感を生み出す、至る所に張り巡らされたコングロマリットを解きほぐす手がかりはないのか、ただ無為に煩悶しながら僕の日々は過ぎていく。
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2011/06/post-7948.html

12. 中川隆[-11647] koaQ7Jey 2019年3月07日 14:49:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[344] 報告

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

しかし、昔の日本人は随分 IQ が低かったみたいですね。

13. 中川隆[-11644] koaQ7Jey 2019年3月07日 16:23:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[347] 報告

戦後の日本のインテリが全員マルクス主義のシンパになった理由


GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。

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馬渕睦夫
フランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


ロシア革命も毛沢東の中国支配も東西冷戦も朝鮮戦争もすべてユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった:

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)

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ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。

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GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1


連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)


■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  

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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html

▲△▽▼


2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで

プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg


日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。

こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

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ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 

株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235


メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。

一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。

銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。

日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。


69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。


いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。


資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  


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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。
コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html

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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由

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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


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米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。


(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm


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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107

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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は
「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/


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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html

▲△▽▼

アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ


「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
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■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他


▲△▽▼

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

14. 中川隆[-11636] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:13:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[355] 報告

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき 永遠の嘘をついてくれ 動画
https://pv755.com/eiennousowotsuitekure


▲△▽▼


中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈 15年7月執筆


 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた

“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。


 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。

「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……

そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし

「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!

無粋を承知で解説したい。


 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。

友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である
(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。

前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。


 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。


 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。

「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」

と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。


 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。
たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。

そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。

ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。

「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。


 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。

もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。

史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。

もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。


 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。

もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。

語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。


 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。


 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。

「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。

「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。

「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。


 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。


 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。

「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。

「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。


 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。

「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。


 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。

 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。

 付記

なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。

男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。
http://www.warewaredan.com/miyuki.html

▲△▽▼


中島みゆき 二隻の舟 動画
https://pv755.com/ni-seki-no-fune

15. 中川隆[-11635] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[356] 報告


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga


中島みゆき「世情」動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

▲△▽▼


2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/51115354.html

▲△▽▼

159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか


674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ


726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に〜」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?


738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。


751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?


752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/

16. 中川隆[-11633] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:13:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[359] 報告

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRDこ

こにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ〜って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・

https://qb3.5ch.net/test/read.cgi/dame/1063795169/

17. 中川隆[-11632] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:54:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[360] 報告

「遥かなる1970年代−京都」 松岡利康/垣沼真一(鹿砦社)2018.12.24
http://www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/1970s.htm


大分前に何となく気恥ずかしくも買ってあった、

松岡利康/垣沼真一『遥かなる1970年代−京都』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/%E9%81%99%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%B8%80%E4%B9%9D%E4%B8%83%E3%80%87%E5%B9%B4%E4%BB%A3-%E4%BA%AC%E9%83%BD-%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95%E8%A7%A3%E4%BD%93%E6%9C%9F%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%88%A9%E5%BA%B7/dp/4846312003

という、ノスタルジーの本。70年代の左翼的口調がいささか幼稚に感じられる。

正に、『もう誰一人、気にして無いよね。。。』(中島みゆき「誰のせいでもない雨が」)という話。


『連合赤軍事件』は確かに運動退潮の大きな転機となったのだろう。世界的な学生運動からの流れは各国では現在の国政の中に確かに生き残ってきているのだが、日本だけは未だに『反対運動』としてしか引き継がれていない。その最大の要因として、筆者達は『内ゲバ』を挙げている。レーニン組織論の悪しき遺産に足を掬われたという処である。

・・・前半は、松岡氏が出版していた「甲子園だより」という雑誌の内容が続いている。あまり面白くはない。2004年頃の記事で、70年代の同志社大学を中心としたブントの人達の人間模様である。寮母さんなんかも紹介されていて、微笑ましく、政治論争の話には深入りせず。とりあえずは置く、ということだろう。

元々ブント(共産主義者同盟)は60年安保の時に日本共産党から派生したが、敗北後、関西に拠点が移って、同志社大学では多数派であって、全学闘という大衆組織を主導していた。

60年代後半の盛り上がりの中から出現した著名な人物と言えば加藤登紀子の夫となった藤本敏夫と赤軍派を作った塩見孝也だろう。理論の方では田原芳という人が居たらしい。

赤軍派が分派したときは大変な内ゲバがあったらしい。
藤本氏が全国を逃げ回ったというのも有名な話である。

内ゲバというのは、路線対立をして別れるときの党員の奪い合いから生じるから、近い関係の党派間で行われることになる。右翼・民青と新左翼の間とか、三派全学連党派間とかは、比較的表舞台で行われるから、時折死者が出てはいながらも、根の深い事態には至らないが、近親間の内ゲバは密室で行われ、抑制が効かず、記録にも残らない。

その極端な例が浅間山荘事件で明るみになった連合赤軍の仲間内の殺し合いであった。

ヤクザ組織間の方がまだ合理性があって救われる。
「自己批判」とか「総括」とかが流行語になったのだが、それを迫られた党員達の気持ちを思えば、上司の犯罪を隠蔽してとりあえず会社を救うために自殺する社員達、特攻隊志願を迫られた学生達、更には、切腹を命ぜられた武士達等々、とも重なる。

皆真面目で優秀だった。狭い集団での規律が個人の心との間で反響して肥大していく、そんなプロセス。これは、単にイデオロギーに凝り固まったせいだけではない、何か「男性原理(権力の原理)」の欠陥のようなものにも思える。

赤軍派が誕生した後、同志社の全学闘はややそれにシンパシーを抱く、という独特のものになっていたらしい。著者が卒業してしまった後で、全学闘は1977年に学友会の主導権を失い、最後は1979年此春寮夜間襲撃、監禁、リンチ事件で壊滅した。


・・・後半は、垣沼真一氏による京大の話である。
1970年から75年まで在籍して、主に熊野寮の監察役とかをやっていたから、当時の学生運動の殆どに関わっている。

元々、1968年パリの五月革命を切っ掛けとして先進国間に拡がった学生運動は日大とか東大で全共闘運動と呼ばれるようになったが、それまでの新左翼系諸党派とは別の目的を持った運動(大学という組織に対抗する運動)であったから、当然大学の特徴を反映する。

日大と東大ではその様相はかなり違う。
京大においても、それまでのベトナム反戦運動とか安保反対運動とは別の軸を持つ運動として、各学部で個別に始まったのだが、どちらかと言えば自由な学風だったから、日大や東大に比べて運動の焦点が呆けていた。

当人達自身は勿論自らを全共闘とも呼んでいなかった。それまでの党派の運動も「全共闘」運動も反体制運動には違いないので、外から見ると区別が付かないし、外に向かっては共闘する形になった。

僕は、既に1967年には諸党派の硬直した思考に愛想を尽かして半年程で関わるのを止めて、夜は只管麻雀に付き合い、昼間はジャズ喫茶に籠って量子力学の勉強をしていたから、このような「全共闘」運動も(日大での運動は別として)随分と観念的で無駄なものに思えたのだが、個別の目的にはまあ同意していたから、邪魔しないように努めていただけである。ここに書かれてあることも殆ど知らない。

C戦線とかパルチザンとか、確か名前だけは聞いたことがある。
滝田修も名前だけしか知らない。
学生大衆運動として多少は盛り上がったのは、垣沼氏のようなノンセクト学生がクラス討論を巻き起こして無関心な学生をひっぱり出したからであって、諸党派はそれに乗っかって党派に引きずりこもうとしていたに過ぎない。

やがて運動が静まってしまうと、諸党派は武力闘争へと路線転換を行い、方針の異なる内部の党員同士での内ゲバが当たり前になっていって、それがさらに学生から見放される要因になった。

まあ、そういう流れだから、読んでいて全く嫌になってくる。
各学部で運動していた学生たちは、その後、専門を生かしながら、公害問題や労災問題といった具体的な社会問題に取り組んでいたのだが、垣沼氏には多分見えていなかったのだろう。

読む価値のある部分は、最後の2話位である。


その33.「内ゲバの論理はこえられるか−高橋和巳」では、辛亥革命、ロシア革命、スペイン人民戦線、日本共産党の50年、当時身近で見た、民青と全共闘、中核−革マルの殺し合い、を考察しての高橋和巳の提案の紹介であるが、内部での「総括」つまり少数派の粛清、には必ず党員以外のシンパのオブザーバーを参加させてはどうか?という事である。それによって、少なくとも、自ら頭に血が上って非人間的な暴力行為に至ることはかなり抑制できるのではないか?という。当時高橋和巳の小説はよく読んでいたが、こういうのは知らなかった。


その34.「書き足りなかったこと」では、「革命という目的の為には手段を択ばない」ということは間違いであり、そのことは官僚支配と独裁制をもたらしたのだが、それを避ける具体的な方法論、直接民主主義はあまりにも効率が悪すぎる。

パリコンミューンのやり方も失敗した。

中で述べられている「クロンシュタットの反乱」というのは知らなかったので、また勉強してみようかと思う。
ヴォーリンの『知られざる革命』という本があるらしい。

結論が出ないままに最後、これまでの社会思想は地球という大きな入れ物が無限であることを前提としてきたのだが、今やそれが有限となりつつある、2030年頃には水と食料が慢性的に不足してきて、社会主義と民主主義がこの観点から再度問題となるであろう、というところで終わっている。

18. 中川隆[-11627] koaQ7Jey 2019年3月08日 09:06:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[365] 報告

70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://pv755.com/kitsune-kari-no-uta

都市伝説?

中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


▲△▽▼


741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/


▲△▽▼


【2004.05.17 Monday 08:00】 author : 土岐正造
「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)
| Doblogコメント移植 | 2009/05/31 12:01 AM |
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1117

▲△▽▼


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌


 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。
http://oresuki.dreamlog.jp/archives/70903289.html


ang********さん 2010/6/4 08:52:30

狐狩りの歌です。

曲名は忘れました。中島みゆきさんの物凄く古いアルバムで、狐狩りの歌の歌詞を知りたいです。

狐狩りにいくなら
なら●●●●●
ねぇ 狐狩りは素敵さ
ただ生きて戻れたら

●には何が入りますか?

i_a********さん 2010/6/5 15:26:32


♪きつねがりにいくなら〜
『ララ、きこえるょ〜』
♪きつねがりはすてきさ〜
ただ生きてもどれたら、ね

cs8********さん 2010/6/4 21:26:50

本当の歌詞を書くよ

「内ゲバのことも忘れず」

恋人を殺された中島みゆきの怒りが垣間見られる・・・と思っている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441756209


えのき堂‏ @skoda130rs

中島みゆきの「キツネ狩りの歌」は革共同の内ゲバについて歌っていると言われているが、確かにこの歌詞はそういうものを想起させるものだと思う。

内ゲバ云々については昔、京大吉田寮のプレハブ部屋に住む中島みゆきファンの京大生から聞いたのだった。

10:18 - 2011年12月1日
https://twitter.com/skoda130rs/status/142306665130246144



▲△▽▼


474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18
あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。


477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


478 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:26

    まつりばやし                   

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

けれど行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの後ろ姿だった

 もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まうりばやしは 静かにあでやかに通り過ぎる

 もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづけるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ

 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても


479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。


480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度


481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。


482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。


485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書


488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます


489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、


490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か


491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。


492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。


493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。

496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w


497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。


498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。


499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。


500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。


501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。


502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…


504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。


505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。

507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね


508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。


509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。

515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)


516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。


517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ


519 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:35

北大農学部自治会て?
http://www.milkcafe.net/test/read.cgi/hokudai/1073889974/

北海道大学農学部自治会
http://www1.odn.ne.jp/~adu56780/index.html


520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:49
>>518
農学祭だろ


521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 13:04

いいえ北大祭じたいでしょう

522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 19:01
  
転び上手の子守歌

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ


523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/11 02:49

くすはっ。
「北へ・・・」観たが、マルのマの字も出やしねぇ。
ちなみに舞台は北大な。

北大にマルはい・ら・ね・え。
失せろ、北大の恥。
http://fc2masaki.blog.fc2.com/blog-entry-42.html


▲△▽▼

11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。


209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)


316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1140679815/


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね〜と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

>>68さん。
中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55
>>77
いや、そこまでは知りません。
>>68 で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。
http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/994505456/#22

19. 中川隆[-11622] koaQ7Jey 2019年3月08日 11:56:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[370] 報告

標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。

まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今さえ、金さえ、自分さえ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

20. 中川隆[-11614] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:45:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[378] 報告

中島みゆきが追っかけをしていた吉田拓郎のその後


アジアの片隅で-吉田拓郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%8B%93%E9%83%8E+%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%A7


団塊の世代 吉田拓郎 今も狂い酒のまま ひきのエフェクトのブログ : 2016/03/03
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

 私が中学校の時、フォークソングの一大ブームがありました。

 70年安保闘争があり、ベトナム戦争が終わったのが75年、その当時も、今の様な混乱があったと思います。

 反戦平和を訴えて、当時の若者、いわゆる団塊の世代が、世相をリードしていました。

 わたしは、中学生だったのでそんな世相のことなど分からなかったのですが、フォークソングブームの波にはさらされていました。その中でギターのうまい友達が、吉田拓郎を弾いて聞かしてくれました。中学生の当時はカッコいいなー、程度で友達と一緒によく歌っていました。思春期の憧れですね。

 しばらくして、吉田拓郎のLP「アジアの片隅で」を買ったのですが、しっくりこなくて数回聞いて聞かなくなりました。


 吉田拓郎氏は 1946年生まれ、団塊の世代です。

 「アジアの片隅で」を詞で読んで見ましょう。

 ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり
 子分共は慌てふためくだろう
 闇で動いた金を 新聞は書きたてるだろう
 ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし
 子供達を飢えが襲うだろう
 むき出しのあばら骨は 戦争を憎みつづけるだろう

 ※アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
 アジアの片隅で このままずっと
 生きていくのかと思うのだか※

 ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう
 車は人を轢き続けるだろう
 退屈な仕事は 野性の魂を老けさせるだろう
 ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり
 セールスマンは道路に坐りこむだろう
 年寄りと放浪者は 乾杯の朝を迎えないだろう

 ※−※ 繰り返し

 以下つづく ⇒ 歌詞リンク
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l0187af.html


 皆さんどう思われるでしょう?

 三番には
 ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう

 ベッキーのことでしょうか?


 凄い内容です。今にも通じる歌詞です。予言の様ですね。

 でも、ちょっと待ってください。これはこの当時(1980年)の歌です。今の世相にも通じるなんて甘い見方を私はしません。


 私は、ここで団塊の世代の特徴を見ます。

 ・・・・・問題を何も解決しない。
 ・・・・・で解決していない事実が分からない。
 ・・・・・その状態に酔いしれている。(こんなもんだと思っている)

 
 ― アジアの片隅で 狂い酒飲みほして このままずっと 生きていく ―

 ・・・だから、何も変わらないままなのです。

 吉田拓郎氏の思いは現実になっているんですね。今も、これからもずっーと。


 戦争反対だ、政治腐敗だ、と言っておきながら、一番人数が多いのに何も改善せずに、そのまま年老いていく。

 本田宗一郎の世代は一人一人が日本を変えたのに、です。

 この現象は、教育の世界でも

 神戸大学名誉教授の 広木克行 氏 1945生まれ

 このかたも ” 子どもは「育ちなおし」の名人―見えますか、子どものシグナル ”などの著書があり、講演会に行ったことがありますが、講演会は盛況になるのに、子供に関わる事件は一向になくならない。

 尾木ママもですね。

 政治の世界でも・・・・・・


 常に団塊の世代は、人数で日本を動かしてきました。人数が多すぎますが戦後民主主義の主役です。今後も日本は民主主義のままでしょう。とすれば、これから日本がどうなるかも彼らにかかっているのですが、私は老人たちを冷たい視線で見ています。


https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

21. 中川隆[-11552] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:47:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[441] 報告
連合赤軍のアホ大学生はボルボトでインテリをリンチした少年兵や文化大革命で宗族の指導者を吊るし上げた少年達と全く同じメンタリティですね。

まあ、レーニンも同じですけど:

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

22. 中川隆[-11521] koaQ7Jey 2019年3月12日 10:03:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[474] 報告

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


____

連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

23. 中川隆[-11520] koaQ7Jey 2019年3月12日 12:53:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[475] 報告

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB


2018/01/22 に公開

24. 中川隆[-11519] koaQ7Jey 2019年3月12日 15:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[476] 報告

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
25. 中川隆[-11517] koaQ7Jey 2019年3月12日 16:27:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[478] 報告

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU
26. 中川隆[-11516] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:19:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[479] 報告

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78

植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>

27. 中川隆[-11515] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:46:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[480] 報告

あさま山荘事件から40年 メディアの現在 (2012年) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=HUe181o-WdE
28. 中川隆[-11514] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:50:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[481] 報告

赤軍派の集団リンチや南京大虐殺での日本兵の残虐行為は典型的な感応精神病

1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://homepage3.nifty.com/kazano/folie.html

29. 中川隆[-11512] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:40:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[483] 報告


amazon.co.jp 植垣 康博 本
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E6%A4%8D%E5%9E%A3-%E5%BA%B7%E5%8D%9A/s?ie=UTF8&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E6%A4%8D%E5%9E%A3%20%E5%BA%B7%E5%8D%9A

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連合赤軍兵士 植垣康博 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>


▲△▽▼

2017.11.18
連合赤軍の元活動家 植垣康博 は獄中27年で「革命」をどう総括したか

元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(1)
週刊ダイヤモンド編集部+ 
https://diamond.jp/articles/-/150171


1972年に「あさま山荘事件」を起こすなど、あの時代に強烈なインパクトを残した極左暴力集団(過激派)の一つ「連合赤軍」。殺人罪、死体遺棄罪、強盗致傷罪など計31の訴因で起訴され、懲役20年の刑を受けた元連合赤軍活動家、植垣康博さんに左派の衰退や事件について聞いた。1回目のテーマは大学紛争、連合赤軍、獄中など。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)

最初は石とゲバ棒ぐらいのものが
火炎瓶、銃、爆弾……

――1998年秋に出所し、今秋で20年目。そして山岳ベース事件、直後のあさま山荘事件からは約半世紀たちますが、あのころを思い出すことはありますか?


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。 photo by Masataka Tsuchimoto

 しょっちゅう、ほとんど毎日です。だいたい店に立つと、どうしてもお客さんとその話になる。お客さんも私のことを知っていますし。なので私は当時の話をしたり、刑務所の話をしたり。事件を思い出すというよりは、常時脇にある感じです。

――68年の弘前大学入学から、72年のあさま山荘事件直前に軽井沢駅で逮捕されるまで、あの時代に何があったのかを振り返っていただけますか?

 沖縄問題をめぐる政府側のやり方に反対する闘い、それが大きかったですし、もう一つはベトナム戦争に反対する闘い。それらが大学の中で活発になっていました。それまでの大学闘争と大きく違っていたのは、それまでの闘争は左翼党派中心の運動。それに対抗する形で全共闘運動、つまり個人参加の闘い。大学闘争が盛り上がって、無期限ストライキとか、どんどん学生がなんらかの形で関わりました。そういう中で、全共闘に対して大学側というか政府側は機動隊でもって、つぶしにかかった。

 機動隊との攻防がものすごく激しくなった。最初は石とゲバ棒ぐらいのもんでしたが……。ヘルメットは警棒に対する防衛で始まった。あれはファッションじゃないですからね(笑)。そこから始まって火炎瓶、銃、爆弾……。武装するしかないという動きが出てきて、それがどちらかといえば党派の人たちは、そういう戦いをやると自分たちの党派がつぶされてしまうということで……。

典型的なのでは、中核派なんてデモをしただけで、勝利とかいう言い方をする。それはおかしいじゃないかと。むしろ一般学生の方から武装闘争の流れが出てきて、それが赤軍派と結び付いていくという展開になっていきます。

 その中で中心になっていくのは、武闘闘争と党派との関係。それがその後もずっと続いて、無政府的で組織されていないということに対して、党派がちゃんとしようと、一種の囲い込みをする。

 その中で、僕らの場合も、問題があったわけ。赤軍派としても組織体制を作りたいというところで共産主義化という考えが生まれてきた。ただ、僕らの場合は武装しちゃっているわけで、そういう形が強烈に出てきた。

 よく言うんですけど、総括要求とかする中で暴力が出てきたわけだけど、これはもう、早い話が中国のプロレタリア大革命。政府軍の運動のミニ版。そういう問題にバーンとぶつかってしまった。私らにとっても想定外だったし、何が何だかさっぱり分からない。結局、あさま山荘事件で終わってしまったわけですが、そういう新しい問題を抱えてしまったというのが、僕らの運動の現実だったと思う。

 あれによって左翼運動は確かに衰退はしてしまったけど、衰退の最大の理由は、やはりベトナム運動が終わったことなんだろう。米国の敗北で反戦運動は下火になって、それで左翼運動も下火になる過程に入った。でも問題はやはり連合赤軍の問題で、左翼が抱えている問題が表に出てしまった。これをどうするんだと。

独房から手紙で論争
赤軍派自身の総括

――逮捕後、出所まで27年間。

 まあ僕は獄中にずっと入るはめになったわけですが、連合赤軍の問題を正面から考えていこうと。左翼運動、特にロシア革命以降の労働運動。革命の歴史は粛清の歴史でもあるわけで、そういう問題を僕ら自身も抱えてしまったことによって、ロシア革命以降の革命を再点検し直そうと思った。どこに問題があったのかを問い直すことが私自身の獄中での行動になり、27年間はあっという間だった。原稿書いたり、文通で論争したり、大変だったわけですよ。

――論争と言いますと?

 独房にいますから手紙でのやり取りです。そのなかで、赤軍派自身の総括。(元赤軍派議長の)塩見孝也との論争とか。激しくやりました。

――当時、「総括」を否定する、あるいは加わらないという選択はできなかったのでしょうか。

 私自身はその場にいきなり放り込まれちゃったもんで、できるできないという問題じゃなかった。確かに初めは共産主義化というか、自分たちが抱えている問題を考えて、どう乗り越えるかを考える意味での総括なんだけど。それは別に反対するものでもない。ただああいう風な総括に変わっていくのは想定外だった。自己批判、総合批判と展開。組織と個人の問題じゃないかと思っている。

 当時はああやって激しく行われたわけですけど、現実の、例えば会社の新入社員研修なんかも似たようなことをやっているんじゃないかと思います。むしろ左翼のやり方が会社に持ち込まれたのかな。いずれにしても個人を鍛えるという意味合いで暴力的なことを持ち込むのはある意味、日本的なスタイルでもあるような感じがしないでもない。

――次第に個人の問題になったときに、なぜストップできなかったのか不思議なんですが。

 個人が組織の人間として、個人的考えを持たないようにするっていうね。完全に組織に同化させる。森(恒夫)さんとか永田(洋子)さんが指導的な立場にあったわけだけど、当時の左翼運動がそういうスタイルだったわけですよね。私はそうやって党派に完全に属してしまった人間を党派人間と呼んでいるんだけど。森さん、永田さんは党派の活動でもって、成長してきた人間なんですよね。だからまったくの党派人間そのもの。性格に問題があったとかそういうことではなくて。党派にあまりにも忠実な人間になっていたことが問題であったのではないかと思う。

 彼らは私らみたいな大学闘争の経験はないわけですよね。私らが大学闘争やっているころには、彼らは卒業していましたから。森さんは私らの兄貴と同じぐらい。大先輩だから逆らうなんてとんでもない。おやじさん、とみんなが呼んでいた。

党派による革命運動は
だめだと分かった

――当時のことを書いた本を読むと大人びた集団に思えるが、みんな20代だったんですよね。

 そうですよ。私なんか21か22歳。考えたら子どもですよ。体力があるからやれることもあった。

――当時の行動について。「集団狂気」という言葉では説明つかないですか?

 そうではないと思う。ロシア革命以降の、革命が抱える問題が日本でも出てきたということですよ。私自身も党派人間に変えられていった。変わらざるを得ない。山に入る(編集部注:山岳ベース事件)まではせめぎ合い。女性を逃がしたり、それなりの努力はしました。でもそのあたりが限界でした。

――党派人間から解き放たれたなと思ったのはいつぐらいだったんですか?

 捕まってから、この問題を考えなければならないと。党派がする総括はやはり僕には了解できなくて。で、論争する中で、党派人間からだんだん解放された。最初のころは党派が主導権をとらない限り、革命なんてできないという固定観念からなかなか抜け出せませんでした。結局、塩見孝也との論争の中で、「党派とは、党とはなんぞや」ということになって。

 党による革命というのは結局、一党独裁体制をつくるしかない。つまり国家による社会主義。本来の意味での社会主義ではないというところにたどり着いて、「やれやれ」と。それからはもう党派による革命運動はだめだと分かった。それに対抗する形でかつて行われた全共闘運動がどういうことだったのかを逆に考えるようになって。

 今の政治問題にも関わるけど、かつての党派政治が、今は政党政治になり、限界にたどりついている。これを乗り越えるためにはどうしたらいいのか。そこで全共闘運動、一種の自治運動。それがこれからの一種のスタイルとして、新しい運動の方向として追及すべきではないかという思い。個人でもって、自分自身の意見を言う。当時の活動家というのは大して勉強もしてないくせに、党派の理論を言う。それに対して、疑問を持っていたのは確か。好きじゃなかった。

――逮捕後、自供を始めるまで。

 私は最初カンモク(完全黙秘)。森さんの自供があって私も話し始めました。でも党派人間は超えられなかった。当時自供を始めたのは、「この野郎」と頭にきた面もあるけど、自供する過程で事実関係をきちんと残しておきたかった。それが最大の目的。取り調べをする刑事に「(調書を)書け、書け、書け」と。逆に、刑事が勘弁してくれというぐらい(笑)

――いま国内にいる当時の関係者と会うことはあるのですか?

 もちろんありますよ。運動としての交流ではなくて、人間関係としての交流。当時の問題について語ることもたまにはあります。

――ところで植垣さんはもう活動家ではないのですか?

 何をもって活動というかですよね。いわゆる左翼組織の党員としての活動というのはない。個人として、関われる範囲内で関わっています。いろんな問題について語ったり書いたりしている。
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元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(2)
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出所後は外国に来た気分
酒のおかげで溶け込めた


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――出所した途端、「地に足がつかない」という感想だったと植垣さんの著書で拝読しました。

 出てからは四苦八苦でした。生活費稼ぎで。

 とにかく、外国に来たような気分。街の雰囲気が全然違う。会話が成り立たない。出てからの「塀」の方がはるかに高いなあと思いました。そんな中、だんだん世の中に溶け込めるようになったのは酒があったから。酒が入れば相手もだんだん本音で話す。最初は頼まれて始めた夜の商売でしたが、今考えればこれが正解だったのかな。いつまでやっていていいものかなとも思うが。書くこともちゃんとやらないといけないから。でもなかなか両立できません。

――出所した1998年の政治情勢。その前には社会党政権もありました。

 政界再編とか、なんとかは塀の中で聞いていました。でも議会内でのごちゃごちゃは大して意味は無い。むしろ、この政党政治からどう脱却していくのかなという思いで見ていました。その中で、私なりにいけるなと思ったのが、インターネットを使った情報発信。これで交流を作っていく。思えば大学闘争の時代は固定電話でさえ、ろくにできなかった。他の大学との連帯でもわざわざそこに行かないといけなかった。大学闘争としても、結局各大学で孤立した闘いになってしまったかなあと。東京はある程度共闘できたけど、弘前大学とか田舎は……。

――今の大学は新左翼の拠点としての機能はほとんどないようです。大学紛争も下火を極めています。

 当時、私たちが一番反対したのが産学協同。特に大学でも就職問題が問題になっていく中で、共産党は学生の完全就職実現というスローガンを出してきました。それに対して、「就職は個人的行為だ」「大学の自治をいかにつくるかが問われている」と言って、大学紛争でぶつかりました。弘前大学でも盛り上がりました。

今の大学は完全に就職予備校みたいになっています。そんなところで大学の自治とか、学問の独立とか言っても盛り上がりません。学生がまずそんなこと考えていない。国立大学も経営を考えていかないといけない。企業からいかにお金をとってくるかとなると、もろに産学協同。学問が金儲けを考え出すとダメですね。

私のスナックにも
学生はよく来ます

――今の大学はセクト、ノンセクト問わず、政治活動自体、締め付けているようです。

 私がびっくりしたのは、今年連赤45周年(編集部注:1972年のあさま山荘事件から45周年)ということで、東京でシンポジウムをやったんですけど、若い人がかなり参加しました。実は私のスナックにも学生はよく来ます。極左とかじゃなく。

――若物は何を求めて来るのでしょう。

 彼らから言わせると、『あんな風にいろいろできたことがうらやましい』と。自分たちがやろうとしてもとてもできない。今の時代に、どんな形でできるか模索している様子です。

――暴力的な部分をですか?

 ではなくて、いろんな形で。団交とか、大学間連携とか。極左的な面に限定するんじゃなくて、「行動の自由があった」って言うんだね。いろんなことを自由に考えられる状況もあったと。今、大学で自治を叫んでもどうにもならん閉塞感。どうやったら解放されるか(を考えているようです)。

――植垣さんは彼らにどんなアドバイスをするのですか?

 それは自分の頭で考えるしかありません。「失敗してもともとの思いで行動した方がいいよ」とは言います。とにかく行動して経験をしないと、次の問題は見えてこない。私の本を読んだからといって、所詮あの時代の話。これからどういう行動が可能なのかは、いろんな形で行動して、失敗も糧にして経験した方がいいじゃないのと言っています。

 私らの時代は団塊の世代、人数多いし、経済的に切羽詰まっていたわけでもない。今の学生は学費も高い。先生自身への締め付けもあります。管理教育が徹底しています。


――国政について伺っていきます。

 小選挙区制にするときに、保守2大政党制にするとか、戯言を言ってましたけど、そんなんなるわけない。寄らば大樹の影。あとどこかの政党に依存していないといけない。これじゃあ政治家が、個人の存在の意味がない。議員になると何もできなくなるのと同じ。今の議会制度に対抗する運動がつくれるかどうかが今問われているのではないでしょうか。投票率が約50%。なんでこんな選挙が有効なのか。その中で多数党が政権。こんな政治おかしいだろう。政党政治の限界がここにきています。

今は左の側が護憲で思考停止
当時のわれわれ極左は改憲派だった

――政党政治への対抗。

 一つはネットを通じたつながり。そのためには情報発信力が問われます。個人の努力だろうね。

――左派、リベラル派が衰退している要因はどう考えますか。

 左の側が護憲で思考停止しちゃっています。当時のわれわれ極左は改憲派でしたね。天皇制条項排除せよとか。

――護憲で思考停止。

 それが一番大きい。そして党派政治から一歩も抜けられていない。政党政治から抜けられない。共産党も結局、自分たちの党を支持せよということでしょ。それはおかしいだろうと。

 あと当時の左翼、諸党派、みんな同じ組織構造なんだよね。政治局があって、その下に中央委員会、その下に地方委員会……。社会党はよく分かりませんが、共産主義に関わる政党は全部そう。当時のソ連のコミンテルンの傘下に置かれたわけだから。その流れで粛清の策も持ち込まれてしまったと思うんだよね。

 宮本査問事件(編集部注:戦前の日本共産党スパイ査問事件)でちょっと問題になったわけだけど、結局その問題を、ショック死としてしまった。私らが「総括できないやつが敗北死した」と言うのと同じ考え方。まったく同じ思考構造。連合赤軍はもっと派手な形で出た。それは武装していて一つの権力になっていたから。武装するということは権力になるということ。一党独裁的にならざるを得ません。

――そういう組織構造がまずかったと。


そういう組織構造で革命をやるというのは、政党が権力を握るということ。だから一党独裁にならざるを得ません。官僚的軍事的機構が支配します。

――共産党や極左は今もそういった組織構造?

 進歩がないんですね。まだ昔の古い歌を歌っている。当時の赤軍派の連中なんかとたまに会っても、まだ昔の古い歌を歌っている。とてもじゃないけど、おもしろくもなんともない。だから支持にもつながらない。関わろうという気持ちにならないだろう。

――共産党だけを見ると評価が難しくて、ある時は政権批判票を受けて伸びたり、ある時は縮んだり。

 全体で見ると、進歩がありません。しかもロートル化もいいとこでしょ。我々の頃に共産党に入った人が今ものさばっています。

学校でも戦争、軍事を教え
国民皆兵制にすべき

――護憲で思考停止の政党というと。


記者が訪れた夜、酔った客が「植垣は人殺しなんて何とも思ってない」とからんだ。それまで笑顔で受け答えしていた植垣さんは「言っていいことと悪いことがありますよ」と真顔で答えていた

 社民、共産、立憲民主……。憲法改正を自民党が主導して言ってますが、左翼が憲法についてもっと積極的に発言していたら、左翼が力を持っていたかもしれない。ただ護憲であれ、改憲であれ、安保体制を打破しないと、自主的な憲法は絶対につくれない。要するに米軍の従属下にある限り、アメリカの意向を無視できない。

――植垣さんは憲法論議ではどんなお考えなんですか。

 安保条約を破棄したうえで、自主憲法制定。軍隊を持つか持たないかはあまり重要じゃない。大切なのは軍事を知るべきだ。日本人の悪いところは、学校でも戦争、軍事を教えないところ。そして国民皆兵制にすべき。武器の扱いを知るべき。軍隊を持っていてもそれがつぶれれば終わり。本当の戦いはそこからという面があります。

――左派政党も改憲を積極的に言うべきだという考え。極端な話、共産党も改憲を主張すべきと?

 言うべきだ。左翼の定義が変わるだろうね。左翼、右翼という区別がいまや意味を成していないわけですけど。左翼は護憲、右翼は改憲という固定観念は打破していかないと。
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元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(3)
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革命はだめだめ
絶対に無理です


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――今の時代でも、革命は求められていると?

 何をもって革命か。どこかの政党、党派が暴力的に政権をひっくり返すのは革命ではなく、クーデター。ロシア革命もクーデター。政党が政権をもっちゃあいけない。革命は起こすものじゃない、起きるもの。起こそうとするとそこに無理が生じる。無理が生じれば、無理を押し通すことで問題を広げる。連合赤軍もそう。いろんな粛清もそう。……と私は総括してきました。

――過激派の中核派や革マル派は今も革命を狙っていると思います。中核派は一方で、国政選挙にも出ています。

 中核派は選挙出るけど、よくお金あるなあと感心している(笑)。当選しようという考えではないんだろうけど。

 革命はだめだめ、絶対に無理です。昔風のスタイルってのは絶対に無理。考えるのも行動するのも自由だけど、何もできない。

 彼らは所詮革命を起こそうとしている。でも誰も求めていないじゃないですか。革命はやはりどうにもならんという状況、例えば戦前の米騒動とか。民衆の動きに対応できるかどうかが問われている。

 今の政治体制への反抗が投票率の低さに表れていると思う。無関心というよりも拒否感。何をやっても変わらない。この拒否感が何らかのきっかけでぐっと盛り上がることはあると思う。今のいわゆる無党派層、昔風にいえばノンセクトたちがどう動くかで日本の政治はがっと変わるのでは。かつてノンセクト学生が大学紛争の主役だったように。

名前を出さない限り
大した力にはなりません

――ネット右翼についてはどうみていますか。

 所詮自分の名前を出さないでやっていて、どこまで本気で言っているのかなという印象です。名前を出さない限り、大した力にはなりません。わーわー叫ぶのは勝手ですが。ヘイトスピーチも大した力になっていない。名前を出すことはリスクがありますが、出してこその言論の自由なんじゃないかと。連合赤軍の問題でも匿名で出る人いるが、あれじゃあだめ。私みたいにちゃんと顔を出せよと(笑)。

――左派が衰退しているということは、逆に言えば、日本全体が右傾化しているとも言えます。

 日本経済の先が見えないことに対して無思考。考えないで行動してしまう。それが最大の問題ではないでしょうか。マスコミも右傾化してしまっている。朝日、毎日も右傾化しているように思う。朝鮮問題にしても振り回されている。私なんか「出来レースなんだからほっておけ」なんて思う。日本だけ良かれという国粋主義もあります。そういう意味では昔の右翼とは全然違う。

 最近感じるのは、40代後半から50代の世代は、団塊の世代に抵抗感がある。私らに締め付けられた。私らの世代が現役世代を退いたことで、いろいろ言い出したのかなという印象です。反発があるんじゃないでしょうか。団塊の世代がだいたい左だから、彼らは反発で右傾化しているんじゃないかなと。

――ところで植垣さんのスナックにはどんな人が来ますか。

 左翼も右翼も、私たちの学生時代にあった「行動力」に憧れて話を聞きに来る若い人も。やくざも昔刑務所で散々世話したから来ますよ(笑)。

 野村秋介(編集部注:1993年に朝日新聞東京本社で拳銃自殺した新右翼の活動家)の追悼会に、私も毎年呼ばれて行くんだけどね。いわゆる左翼でいえば、ただ一人。でも私は右翼にも結構好かれます。「右翼でも左翼でも最後までケツをふいたのは植垣ぐらいしかいない」という評価だそう。彼らは筋の通った生き方に憧れる。私は裁判闘争もやり、ハイジャックの際も出国を断りました(編集部注:植垣氏は77年に日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で釈放を要求された一人)。そういうところが大きいのだろうなあ。

要は義があるかないか
こんなこと言うと右翼もいいとこだけど

――左派、あるいはリベラル勢力と呼ばれる政党の議席が減ってきています。国民の間でも支持が減ってきているのかも。

 でしょうね。いや、どうかな。投票率50%ということは半分が日本の政治に関わっていない。そこがどう考えているのか。左翼に対しても批判的な層がそこに相当含まれているのかもしれないが。

――左派、あるいはリベラル勢力に対しての提言はありますか。


植垣さんの著書の一部。顔出し名前出しOKで堂々と語る植垣さんは「連合赤軍のスポークスマン」を自任する

 今の日本の方向性をちゃんと出すべきです。

 なぜ人気がなくなっているのか。党派政治の限界とか、いろいろある。私が右翼にモテることと関連するけど、肝心なのは一貫性。それはないわけね。何らかの行動もやってない。ただ騒いでいるだけ。行動が間違ってもいいのだけど、それに対する反省もない。

 フランス革命で『自由、平等、博愛』って言葉があるんだけど、博愛って実は「義」なんですよね。マルクスが最初に作ったグループも「義人同盟」なんですよね。義で同盟を作った人たちって意味。

 一貫性とかなんとか言ったけど、要は義があるかないか。こんなこと言うと、右翼もいいとこだけど(笑)。義を見てせざるは勇無きなり、なんてね。

――では自公に義があるかというとどうなのでしょうか。

 とてもないと思う。義で動くのは少数派かもしれないけど、義で動くかどうかってのも大事だと思うんですよね。

――10月の衆院選の結果についてはどんな感想をお持ちですか。

 こんなもんでしょう。自民党が大勝して、ますます日本はだめになっていくでしょうね。安倍(晋三首相)もかつてのような人気がなくなっているし。小池劇場なんか政治、吹っ飛んでいる。

――立憲民主党が野党第一党。

 一貫性を持っているような気もするが、さあどうなるかね。どれだけ一貫性を持ってやれるか。
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30. 中川隆[-11510] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:57:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[485] 報告

植垣康博


植垣 康博(うえがき やすひろ、1949年1月2日 - )は連合赤軍の元活動家。
現在は静岡市葵区で「スナック・バロン」を経営。


静岡県金谷町(現・島田市)生まれ。父親は農場長で、町の有力者の一人。

静岡大学教育学部附属島田中学校から静岡県立藤枝東高等学校に入学。
地質学に興味を持ち1968年4月に弘前大学理学部物理学科に入学。

大学入学後、なりゆきで民青に加盟するが、学内活動においてはあくまでクラス代表としての立場を取り、必ずしも民青の方針に沿った活動をしていたわけではなかったので、民青幹部から批判を受けることもあった。一方で民青の指示により反代々木派学生の排除(反代々木派学生に対する暴行を含む)を行い、民青・共産党から一定の評価を得るも、反代々木派を全否定する民青に対し、植垣自身はむしろ反代々木派にも一理あると感じたという。やがて民青の反代々木派学生に対する暴行に嫌気がさすようになり、1969年4月に脱退。その後反代々木派に転じる。

1969年夏に弘前大全共闘を結成しバリケード封鎖を行う。その最中、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た際に共産主義者同盟赤軍派に誘われて同党派に参加。10.21国際反戦デー闘争に参加し(但し赤軍派から指示が来なかったので知人のつてで第四インターの隊列に加わる)、新宿で逮捕され、1970年12月中旬まで獄中生活を送ることになった。その後赤軍派の活動に復帰し、横浜・寿町で活動。また、早大生・山崎順(後に山岳ベース事件で殺害される)を獲得。

1971年に赤軍派として坂東國男の率いる隊に入り、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一して連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在となり山岳ベース事件にも加担。榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面する。また、自身も総括要求をされ、一時は正座をするが、それ以上の殴打や緊縛には至らないまま有耶無耶になり、結果的に言葉以上の総括要求をされて生還した唯一のメンバーとなった。

1972年2月16日、妙義ベースに捜査の手が迫ると、植垣ら連合赤軍の残存メンバー9人は長野県佐久市に移動することを決定し、登山の経験のある植垣の先導で雪深い裏妙義を通って群馬県を脱出、長野県に入る。しかしその後、警察の包囲網を突破した気の緩みから、連合赤軍の持っていた地図にはまだ載っていなかった軽井沢レイクニュータウンに迷い込む。2月19日、連合赤軍メンバー3人と共に食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された(残った坂口弘ら5人があさま山荘事件を起こす)。

1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こしたとき、釈放要求メンバーに植垣も指名されたが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。また、連合赤軍事件の公判では森恒夫が自殺(1973年)、坂東國男が超法規的措置で釈放逃亡(1975年)と連合赤軍事件の公判において赤軍派出身幹部がいなくなっており、連合赤軍事件の被告人の中で赤軍派出身として裁判に臨む者は少なくなっていた(連合赤軍幹部として認知度が高い永田洋子と坂口弘は京浜安保共闘出身)。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告を棄却し刑が確定した。未決拘留期間が差し引かれ、残り5年半の懲役となる。1998年10月6日に出所。2005年、自らが経営するスナック「バロン」のアルバイト従業員である33歳年下の中国人留学生と結婚し、一男をもうける。

後年、植垣は12人同志殺しの山岳ベース事件について「集団狂気に陥ったり誰かにマインドコントロールされたわけではなく、集団を支える強固な論理構造があった。自分が森の立場だったら同じことをやってしまった可能性が高いと思う」と述べている。また、自身が生還できた理由については、「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」と述べている。

軽井沢駅で逮捕された理由

植垣は国鉄(当時)軽井沢駅で逮捕されたが、理由はふたつある。

体臭植垣は軽井沢駅のキヨスクでタバコを買ったが、山岳ベースでの逃亡生活のため風呂に入っておらず、悪臭が漂っていた。このにおいをかいだキヨスクの中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。職務質問の際、長野市にない地名をしゃべったこと植垣は長野行きの普通列車に乗り込もうとしたところ、軽井沢署員に呼び止められ、職務質問を受けた。その際、「長野市内幸町の友人宅へ行く」としゃべったが、長野市には内幸町という地名はなかった。署員は「そんな地名はないぞ」と植垣を問い詰めた。これで逃げ切れないと感じた植垣は大立ち回りを演じた末、逮捕された。

著書

兵士たちの連合赤軍(彩流社)
連合赤軍27年目の証言(彩流社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A

31. 中川隆[-11509] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[486] 報告

日刊ゲンダイDIGITAL 「告白」あの事件の当事者
連合赤軍元活動家の植垣康博さん静岡でスナック経営 2018/10/31
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648

「このところ、忙しいんだけど、お金は入ってこない。相変わらずの自転車操業だよ」

 元連合赤軍の植垣さんは、そうぼやいた。

 その表情に暗さはなく、以前会った時と同じように飄々としている。

 植垣さんは、連合赤軍が起こした山岳ベースにおける同志殺害や活動資金調達のための銀行強盗などにより、懲役20年の実刑判決を受けた。1998年の出所後は静岡市内でスナックバロンを営んでいる。

 植垣さんと最後に会ったのは、10年以上前のことだった。その時は彼の案内で、榛名山や迦葉山など、連合赤軍の山岳ベース跡を回った。

 そこは植垣さん自身が同志を殺め、連合赤軍の同志で当時付き合っていた恋人が亡くなった場所でもあった。

 そこでの態度も、特に感情をあらわにすることなく、冗談めかしく近況を語る時とまったく変わらぬ口調だったことが印象に残っている。



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植垣康博さん(提供写真)
植垣康博さん(提供写真)

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 11年ぶりに見る植垣さんは、口調こそ変わらぬものの、少しばかり痩せ、心なしか背中が曲がったようにも見えた。

 営業前の店内で話を聞いた。

 ――忙しいとおっしゃってましたが、やはり連合赤軍関連の取材ですか。

「そうだね。なぜか、このところテレビのドキュメンタリーとかで、インタビューを受けることや、山岳ベースを訪ねたこともあったよね」

 ――事件から、46年が経ちましたが、今も人々の記憶には強く残っているんですね。

「以前は集会をすると、同世代の人間が多かったんだけど、今はトークイベントなどにも20代から30代の若者も多いんだよね。こっちがびっくりしちゃうよね。それは、漫画の『レッド』や若松孝二監督の映画の影響も大きいんじゃないかな」


それにしても、事件を知らない若者たちはどんな思いで連合赤軍を見ているのだろうか。

「のびのび思う存分動き回れた時代で羨ましいです、なんて言う若者も多いよね。今と時代状況が違うから簡単には比較はできないけど、管理教育でがんじがらめの若者からしたら、あの時代が新鮮なんじゃないかな」

 私は思わず、うなってしまった。若者たちは、ひと昔もふた昔も前の青春譚として事件を認識しているのだ。

 仮に20代の若者だと、連合赤軍の事件は生まれる20年前のことになる。その感覚を昭和47年生まれの私に当てはめてみると、太平洋戦争と合致する。

 考えてみれば、私にとって太平洋戦争は、今では取材対象でもあるが、10代の頃には、パソコンゲームで遊んだりする仮想空間でもあった。

 昭和から平成さらに、来年には新たな元号となる時代の流れの中で、連合赤軍の事件は、若者たちによって新たな捉え方をされている。

植垣さんは、来年で70歳になる。事件に関する時代の変化を感じるとともに、日本の行く末や政治には今も一家言持っている。

「このままでは、日本はまずいことになるという思いはあるよね。ただ、安倍首相のひどさにみなが気づきはじめ、これまでにないほど日本を美しくない国にしてくれたうえに、混沌とした状況をつくり出してくれた。むしろ日本を変えるチャンスだと思うよね」

 ――どのような手段がありますか。

「さすがに武装闘争という時代じゃないからね。この経済優先の構造を変えていかないといけない。ただ、高度なテクノロジーは維持しつつ、人口が減っていくことを受け入れて、農業資源などを有効に活用していくことじゃないかな」

 日本の政治と社会に関わり続けていくことは、連合赤軍時代から現在まで変わらぬ姿勢である。 =この項つづく

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648


連合赤軍元活動家の植垣康博さん「パパやったの?」2018/11/07
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

「静岡で“スナック”と検索すると、最初に出てくるのがうちの店みたいで、地元では有名なんですよ」

 連合赤軍のメンバーのひとりだった植垣康博さんは言う。

 1972年2月に起きた連合赤軍によるあさま山荘事件は日本を震撼させた。その時に記録した最高視聴率は、89.7%でテレビ史上最高。いまだに破られていない。

 当時は今以上に左翼が影響力を持っていた時代ということもあり、連合赤軍にシンパシーを抱く者も少なくなかったが、事件後に榛名山や迦葉山の山岳ベースで仲間を殺害していた事実が明らかになると、おぞましさを感じる者も少なくなかった。

 戦後の日本社会を揺るがした事件の当事者である植垣さんは、どんな思いで、生活しているのだろうか。

「連合赤軍のことは死ぬまで向かい合っていかなければならないことだよね。それだから、このスナックを利用して、情報発信の場所としていきたいなと思っている」

植垣さんのなかでは、連合赤軍事件は現在進行形のまま続いている。

「店ばっかりじゃなくて、テレビや雑誌などにも、よく顔を出しているから、仲間からは“極左の芸能人”なんて言われているよ」

 店には、悩みごとを抱えた若者が訪れることも少なくないという。

「行ってみたいけど怖い店というイメージがあるらしいんだ。3回、店の前まで来て帰り、4回目にようやくドアを開けたなんてお客さんもいるぐらい。東京から来てくれる若者もけっこういるよね。今の学校教育というものが、政府に都合のいい人間をつくる画一化したものだから、そこからはみ出してしまうと逃げ場所がない。それで、ここに助けを求めに来る若者もいる」

 植垣さんには、離婚した中国人の奥さんとの間に中学生になる男の子がいる。彼も学校生活には馴染めていないという。

「離婚した時に、父ちゃんと母ちゃん、どっちと生活するかと聞いたら、父ちゃんがいいと言うので僕が面倒を見ているんだけど、学校には行ってないよ」

 ――そもそも、不登校のきっかけは何だったんですか?

「確か息子が小学校4年生の時に、連合赤軍のニュース映像と僕のインタビューがテレビで流れたんだよ。その時、僕は寝ていたんだけど、息子に『パパ起きて、本当にやったの?』と聞かれてね。嘘を言うわけにはいかないからね。それを同級生が見ていて、植垣君のお父さんは危ない人だとなってしまって、無視されたり遊んでくれなくなったりした。同級生の親も遊ぶなとか言ったんだろうね。それで学校に行くのが嫌になっちゃったんだ」

 植垣さんは苦笑いを浮かべながら、話を続けた。

「僕は学校なんて別に行かなくてもいいよという考えだから、気にもしていなかったけど、妻は学校が大事だという考え方で、意見が対立するようになって、離婚ということになったんだ」

――お子さんは昼間どうされているんですか?

「昼間は僕が家にいることができるから、一緒に映画を見たり、世の中のことを話したりしているよ。そもそも学校教育とは何かということから教えて、息子には学校に行かなくても生きていけると伝えている」

 革命を志した男の人生は、世間一般の常識では推し量れないようである。ただ、植垣さんは全く意に介しているようにはみえない。

 日々の生活に行き詰まった人は、植垣さんのスナックに足を運んでみてはいかがだろうか。きっと何か人生を生き抜くヒントが見つかるはずだ。 =この項おわり

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

32. 中川隆[-11508] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:39:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[487] 報告

2010年12月号掲載 おじさんの眼 「緑茶薫る遠州紀行」後編
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/

革命酒場バロン

 この日は、静岡市内に住む従兄弟と会ってそこに泊まろうと思って電話すると、誰も出ない。仕方なしに繁華街のホテルを取った。  夜は、あの獄中27年の元連合赤軍兵士・植垣康博氏の経営する「スナックバロン」に電話した。

植垣氏とは、ロフトプラスワンで何度も赤軍関連のトークをやっているし、元は同じ共産主義者同盟(ブント)で知り合いなのだが、どうも奴とは顔を合わせにくいと思っていた。

 それは一昨年、テアトル新宿で開かれた若松孝二監督作品「実録・連合赤軍、浅間山荘への過程」での公開トークショーで、植垣と塩見孝也(元赤軍派議長)と三人で、激しくやり合ってしまったからだった。

 その時のふるまいを謝る私に、電話に出た植垣は、「おう! 平野さん。是非店においでよ。そんなこと気にする必要はない」と言って、暖かく迎えてくれた。  バロンは、かつて開店記念の時に行った場所から静岡市内の繁華街に移り、店も大きくなっていた。植垣も、そしてお客の元左翼のオヤジ達も健在だった。不定期だが、プラスワンをまねて政治的なトークイベントもやっているみたいだった。

 相変わらず時代錯誤な論争が店内の客同士で展開され、若い子が東大闘争とか全共闘の質問をしていて、どこからか集まって来た老闘士が偉そうに解説しているのを、店長の植垣は、コップを洗いながらニコニコ笑って聞いている。まるでロシア革命前夜の、炭坑街の労働者が集まる酒場のように感じられた。

「この町には不似合いな時代遅れの酒場。三カ月は持たないと陰口をたたかれた(立松和平談)」と言う通り、メニューはまさに刑務所料理に毛の生えた感じだったが、その一つ一つに奴の誠意がこもっていて、それはとても美味しく感じられた。

「出所してから結婚して、子供がもう小学生になる。金も、年金もない。でも、刑務所生活を除けば、俺はまだ20代の青春真っ盛りなんだ。負けるものか」

と植垣がぽつんと言った。しこたま酔っぱらった私は、それを背中で聞いて深夜の店を出た。植垣は、多くの静岡の革命的同志から暖かく見守られているのを確認し、私は心から「よかったな植垣」と心の中でつぶやいた。


刑務所帰りと言ってももうシャバ生活10年もなる。なんだか解らん革命のために青春を刑務所で費やした。あの日々は何だったのか? 何を勝ち得て何を失ったのか、若い人は一度聞きに行くといい
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/

33. 中川隆[-11507] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:49:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[488] 報告


スナック・バロン

〒420-0031 静岡県静岡市葵区呉服町2丁目5−22

電話: 054-221-5236

新静岡駅から368m

地図
https://tabelog.com/shizuoka/A2201/A220101/22021664/dtlmap/


スナック バロン - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF+%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%B3+%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A


植垣康博(@YasuhiroUegaki)さん Twitter
https://twitter.com/yasuhirouegaki

34. 中川隆[-11506] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:54:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[489] 報告

スナック「バロン」の15周年|鈴木邦男の愛国問答-第198回 2016年5月11日


 5月7日(土)、静岡に行ってきた。スナック「バロン」15周年記念だ。でも、ここはただのスナックではない。集まった人たちも、昔、学生運動をしていた人が多い。左翼が主だが、右翼もいる。又、脱原発や人権などの市民運動をしている人が多い。「普通の人」はあまりいない。普通の「酒場の客」はいない。

 このスナック「バロン」のマスターは、実は元・連合赤軍の活動家の植垣康博さんなのだ。

『兵士たちの連合赤軍』(彩流社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120519?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4779120519&linkCode=xm2&tag=magazine9-22


という名著を書いている。詳しいし、それでいて読みやすい。一般的に連合赤軍を調べ、報道しようとすると、皆、この本を読み、そして植垣さんに会う。連合赤軍事件を知るためのテキストだ。そして植垣さんは連合赤軍事件の〈顔〉だ。テレビで連合赤軍が取り上げられる時も、植垣さんが出ることが多い。植垣さんは「兵士」と言っている。その上に幹部たちは沢山いる。しかし、森恒夫、永田洋子は亡くなり、他の幹部たちも獄中にいたり、海外に行ったりして、いない。いる人でも、語りたがらない。「失敗」体験をいくら言っても仕方ない、と思っているのだろう。だから、どうしても植垣さんの所に取材が集中する。又、静岡でスナックをやっているし、誰でも行って、会うことができる。そこで取材の約束もとれる。あるいは客が少なかったら、そこで取材も出来る。又、そこで時々、トークイベントもやっている。ライターや評論家、元活動家を呼んで、トークをやっている。僕も何度かトークをやった。又、格別、用事がなくてもブラリと行ってみることもある。

 植垣さんは弘前大学に入り、そこで赤軍派に入る。「M作戦」をやらされる。「マネー」(資金獲得作戦)だ。いくつかの銀行を襲い、大金を奪う。それが全て成功する。又、ダイナマイトを工事現場から盗む。武装闘争のためだ。連合赤軍が出来てからも参加。山で武装訓練をやり、下りて権力と全面的な闘いになるはずだった。ところが、連日の会議の中では、参加者への批判・攻撃が中心になる。山の中にいて、権力と闘えないもどかしさ。運動はどんどん小さくなる。活動家の力量も落ちている。立て直し、鍛え直さなくては…と森、永田たち幹部は思ったのだろう。それが「総括」の始まりだ。一人ひとり、総括させる。自分の非力・失敗を認める人間には、なぐる、蹴るの総括が加えられる。初めは自分で自分をなぐらせる。でも、あまり効き目がない。「皆で、援助してやれ」となる。「援助総括」だ。その人間が反省し、再生するための手助けだ。でも実際は、ただなぐる、蹴るの暴行だ。そこで死亡する人も出る。

 「総括」をしきれなくて死んだ。だから革命家としては、これは「敗北死」だ。森たちは断定した。そのうち「化粧してくるのは自覚がない」「寝たまま、他人にティッシュをとってくれと言った」…と批判される。「理屈」はどんどんエスカレートする。だが、植垣さんは主体的にかかわる。初めは嫌だったが、途中から「やるしかない」と思い、積極的に援助総括をする。総括する人間をしばり、皆でなぐり、さらにナイフで刺す。アイスピックで刺す。でも、人間はなかなか死なない。これでは、苦しみを長びかせるだけだ、と思い、首を絞めて殺してやった。

 事件の後、逮捕され、その後、27年間も刑務所にいた。刑務所の中で必死に書き、そして獄中から『兵士たちの連合赤軍』を出した。それまで僕は、この事件にさほど関心がなかった。ともかく酷い話だし、残忍な事件だ。我々の運動とは全く関係がない、と思っていたが、読んで驚いた。左翼の運動ってこんなに楽しいのかと思った。又、銀行強盗にしても、明るく書いている。「終わったことだし、これからやることもない」という割り切りがあるから、明るく書けるのか。ともかく驚き、書評を書き、それを出版社にも送ったら、出版社がそれを東京拘置所にいる植垣さんに送ってくれた。そしてすぐに本人から手紙がきた。それで、本人に会いに行った。〈連合赤軍〉と会ったのは、全く初めてだ。手紙のやりとりが続き、刑務所を出た時、彼は実家のある鳥取に帰った。僕はすぐに鳥取に行き対談し、それが月刊『創』に載った。それから、ロフトや雑誌、新聞などで何回も何回も対談した。何十回かもしれない。

 初めは鳥取にいた植垣さんだが、昔の仲間たちが静岡に呼んでくれ、店も用意してくれた。あの植垣さんがマスターだということで、初めの頃は大盛況だった。でも、女の子がいるわけでもないし、客は固定化する。コアな客だけになると、一般の人は入りにくい。それで店の経営も大変だ。でも、大変なのに15年も続いた。たいしたものだ。それで、植垣さんの努力と忍耐をたたえるパーティになった。この日はなんと、植垣さん自らが司会をやる。それもすごい。昔の仲間や反対の右翼の人、作家、マンガ家などを紹介し、挨拶してもらう。作家の山平重樹、マンガ家の山本直樹、元兵庫県警の飛松五男…などが紹介される。皆、「よくがんばった。これからも10年、20年とやってくれ。死ぬまでやってくれ」と激励する。

 でもなー、と僕は思った。いつまでもスナックのマスターでは勿体ない。いい本を書いているんだし、もっともっといろんな場で話してほしい。活躍してほしい。連合赤軍の失敗や教訓についても一番語れる人だ。本当なら作家一本でやってもらうとか、あるいは大学の先生になってほしい。静岡の酔っ払い相手に酒を飲んでいるだけじゃ、勿体ない。「国家の損失だ!」と思ったから、そう言った。「15周年で終わりにしたらいい」「20周年はいらない、30周年もいらない。植垣康博をスナックという、この小さな檻から解放しろ!」と言った。でも、不評だった。僕こそが一番、植垣さんのことを考えていると思ってたのに。

 しばらく本が出てなかったが、今年の夏には久しぶりに本が出るという。出所してから考える連合赤軍事件について書くという。これは楽しみだ。今、連合赤軍はないが、日本社会はむしろ全体的に「連合赤軍化」しているのではないか。小さなアラを見つけて批判し、罵倒する、つぶす。テレビ討論でも、出版される本でも、他人を批判し、他国を罵倒するものばかりだ。それでいて自分のことを「愛国者」だと錯覚している。とんでもない。「愛国者」に愛はない。

 失敗したとはいえ、昔の学生運動家のほうが愛があり、夢や理想があった。そんなことを僕も植垣さんに聞いてみたい。又、〈極限状況〉を見て、耐えてきた人だ。そこから学んだこと。又、地獄をくぐり抜けた先から見た、この日本。そうしたことを具体的に聞いてみたい。そんな本を出したい。スナックはもういいだろう。誰にも出来ない体験をした人だ。それを基に、広く言論活動をやってほしいと思う。
http://www.magazine9.jp/article/kunio/27740/

35. 中川隆[-11505] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:13:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[490] 報告

連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん 2010-11-25
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4

前回、前々回と静岡について書いてきましたが、わたしが静岡に行った理由は「おでん」でも「ガンダム」でもなく、元連合赤軍兵士・植垣康博さんに会うためでした。


植垣さんについて少しばかり。
植垣さんはもともと静岡の出身ですが、地質学への興味から弘前大学へ。
ここで全共闘運動に身を投じ、頭角をあらわした頃、赤軍派と接触。メンバーである坂東國男氏率いる「坂東隊」の一員となり、資金調達のためのM(マネー、マフィア。要は強盗行為)作戦を数々こなしていく。(植垣さん著の『兵士たちの連合赤軍』においては、ここらへんまで非常にあっけらかんと、明るい青春物語のように描かれている)

やがて赤軍派が革命左派(京浜安保共闘)と共闘、連合赤軍を結成するに至り山岳ベースへ合流。
同志殺しに積極的に関わり、最後は他3名と買出しに行った折、軽井沢駅において逮捕される。
この時すでに、「粛清・逃亡・逮捕」によって連赤メンバーは9名にまで減っていた。
植垣さんたち4名の逮捕後、残りの5名があさま山荘に立て篭もり、銃撃戦を展開することになります。


植垣さんと初めてお会いしたのは今年の5月に行われた「リッダ闘争38周年記念パーティー」において。
司会進行をしていた足立監督が、参加者にそれぞれ一言を求めたわけですが、その時わたしも求められたのです。
普段は大勢の前だと、緊張して何喋ってんだか途中で分からなくなるような小心者ですが、この時、なぜか言いたいことがスラスラと言えました。
たしか、以下のようなことを喋ったのだと思います。


「70年安保を中心とした学生運動のドキュメントを撮りたいと思っている」
「ある人に『君はなんだ。興味本位か』と言われた。それをみなさんに言われたらおしまいだが、それでもやらなければならないと思う」
「思想的なことは抜きにして、皆さんがやったことは歴史的に意義があることだと思う」


この時、向かいの方に座っていた若松監督(『実録・連合赤軍』『キャタピラー』)が「そんなもん、興味本位でいいんだ!!」と叱責交じりに檄を飛ばしてくれました。

「興味本位でいい」

今日に至るまで、この一言がわたしをどれだけ奮い立たせたか知れません。


話が終わると、5人くらいの方が名刺を渡しに来て下さり、その中に、植垣さんもいました。

もちろん以前から名前やプロフィールは存じ上げており、こちらから名刺を渡して取材のお願いをしようとも思っていました。
これは願ったりかなったりだ、と取材の申し込みをさせていただくと、すんなり「いいよ」。

そしてアウトサイダーアート展でもお会いし、改めて、ちゃんとお願いしよう、ということで今回植垣さんの経営されている『スナック・バロン』にお邪魔した、というわけです。

当日はあいにくの雨降り。
7時開店とのことなので、少しコーヒーなど飲んで暇をつぶしてから、市役所近くにあるというバロンを目指しました。

駅からやや歩き、市役所を見つける。
この近くか、とキョロキョロしながら向かいの雑居ビル郡の看板を見回すと・・・

あった。

ふしぎな酒場 スナックバロン。


中に入るとけっこうな雨のせいか、客はおらず。このまま0時過ぎまで、ずっと二人でお話させていただけました。
ちなみにいつもこうかと言うとそんなことは無く、わたしが前もって電話したときは非常に忙しそうで、二度にわたり「ゴメン、今はちょっと忙しいからあとで!」となりました。

「僕のこと、おぼえてますか」
そう聞くと植垣さんは「ああ、なんとなくね」とのこと。とりあえず生中を頼み、思い出してもらうべくアウトサイダーアート展で撮った写真を渡し、リッダ闘争38周年記念パーティーのことなどをお話しする。


ここからは覚えていることまで。
というのも、しっかり飲んでしまったため、記憶が曖昧なのです。また、話が非常に興味深く面白い。話しているとお酒がうまくなる。
植垣さんはそういった人柄の方です。

以下、メモを頼りに。


連合赤軍事件は、挑戦して失敗した世界である。

森氏・永田さん・坂口氏らに対し、恨みは持っていない。
しかしその後の裁判ではもっと頑張れたのではないか。(※1)

殲滅戦とは
相手の戦闘能力を無くすこと。殺すことではない。それが何時の間にか殺すことになってしまった。

革命を、起こした後どうするか、なんてことは考えていなかった。
後は誰かがどうにかしてくれるだろう、と。とにかく革命を起こさねば、という気持ち。

植垣さんをオルグした梅内さん
大阪のどこかにいるらしいが、詳しくは不明。別に隠れてるわけじゃないんじゃないか、と。

進藤さん(坂東隊の一員。総括により死亡)のお連れ合いだったMさんについて。
元芸者さん。
連赤事件後はタクシーの運転手と結婚。しかしその方は労働組合のリーダーをやっていたため、会社の雇ったヤクザに殺される。
現在は大阪の某所に。

ダッカ事件で日航機に乗り合わせていた乗客がバロンに来たことも。
ハイジャック時、丁寧な物腰だった実行メンバー(日本赤軍)たちに「なぜこのような人たちがテロをやるのか」と疑問に持ち、その話を聞きたく、植垣さんを尋ねた。

『実録・連合赤軍』について
植垣さんとしては不服。若松監督の思いが強すぎる。『レッド』の方が余計な演出もなく、事実に忠実である。(※2)

今、語ることは辛いか。
ぜんぜんそんなことはない。

逮捕された時の映像。すごい怖い表情だったが。
あれは凍傷で足が痛かった。(※3)

不屈というか、極限状態でも常にポジティブだが・・・(総括要求されても、最初は笑ってごまかしていたほど)
基本的に目の前の問題に常に前向きに取り組む。挫折とは無縁。

本であまり描かれなかった部分。死臭について。
それはもう、ひどいもんだった。(※4)


以上です。

(※)についての補足。
(※1)連合赤軍の指導部・トップの3人。
リーダーであった赤軍派の森恒夫氏は、永田さんと共に逮捕された後、自らの犯した過ちに耐え切れず拘置所内にて73年1月1日自殺。
ナンバー2的立場で、森氏と共に同志粛清体制を敷いた革命左派・永田さんは、逮捕後数々の本を上梓。死刑が確定しているも、現在病床にて重度の意識障害と危篤を繰り返す。
かつて永田さんと事実婚状態にあったナンバー3の革命左派・坂口氏はあさま山荘で最後まで銃撃戦を闘い、逮捕後は手記や歌集を執筆。死刑確定。

(※2)若松監督が粛清で殺された遠山さんを物語前半の主人公としたのは、彼女が監督自身の作品『赤軍 - PFLP 世界戦争宣言』の上映運動を担う一員だったから。(本人談)
この上映運動のメンバーには、後にリッダ闘争で銃撃戦を行う岡本公三氏も含まれている。
あらゆる面において「監督の思いが強くなる」のは仕方のない事だと思う。映画は映画なのだから。一方で当事者として一言があるのもまた、仕方のない事ではないでしょうか。その意味で極めて地味だが作品としてものすごく尖っている『レッド』(山本直樹先生によるイブニング連載・連赤事件をモチーフにした漫画)を推すのは必然かもしれない。

(※3)この映像、2:59付近に若き日の植垣さん、逮捕直後の様子が。

こわい。

(※4)なぜこのようなことを聞いたかというと、植垣さんの『兵士たちの連合赤軍』においては、極めて整然とした文章で総括とそれによる死の様子が描かれている。
これは反省的な文章を避け、事実をありのままに読んでもらいたい、という思いからですが、実際に総括を受けた方々は縛られた上にいわゆる「垂れ流し」を強いられ、ボコボコにされて死んでゆく。
このような凄惨な状況で「臭い」があまり語られないのが個人的に不思議でしょうがなかったからです。おそらく麻痺していた、というのもあるとは思うのですが・・・
植垣さんたちが逮捕された原因のひとつに、駅の売店員が感じた悪臭というものがあるのですが、これはおそらく死臭もまざっていたのではないか、と思います。

わたしはこの後吐くまで飲み、フラフラで宿に戻りました。

余談ですが、何かのキッカケで「隣駅のガンダム観にいってました」という話になりました。

ガンダムと言えば思い出される何人かの方々のうち、キャラクターデザインで今も漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を連載している安彦良和先生。
彼は弘前大学時代の植垣さんの先輩にあたり、学生運動(反戦委員会)のリーダーを務めていました。
後にそれが原因で除籍処分を受けるそうですが、植垣さんの著書『兵士たちの連合赤軍』によると
「元民青の幹部で、今日でこそアニメーション映画で活躍しているが、その当時は、多くの学生から信頼されていた活動家だったのである」
とのことです。


___

コメント

1972年琉大でも殺人があった (びせ)2013-11-02 23:57:49

1972年沖縄・琉大でも中核派による殺人がありました。
殺す相手は革マル派の幹部のつもりだったようですが、実際殺されたのはなんの関係もない一般の学生でした。中核派は自分たちの新聞に「今は戦時中で、彼(安里君と行った)は流れ弾に当たったんだ」と書いてあったそうです。

当時現場にいた私の友人は警察から呼ばれ、裁判に赴き、「犯人は被告席の男だと証言した」と言っていました。彼の証言を聞いて傍聴席にいた女性が大きな声で「ワー」と泣き喚いたと言っていました。被告の彼女だったんだろうと言っていました。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4

36. 中川隆[-11504] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:39:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[491] 報告

連合赤軍を巡る 【2】 榛名ベース - ちくわブログ 2010-12-24
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6


前回のエントリ 連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん にて静岡を訪れ、そのままある方にお会いするため大阪に向かいました。しかし40年前の縁を手繰り寄せるのは、わたしのような者にとって簡単には行かず、断念せざるを得ない状況となりました。

一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。

以下は当日つけた記録に加筆したものです。


高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。

以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。


熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】


ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。

手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。

慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。


次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。

うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。

ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)


・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)


いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。

死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。


これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。

世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。


その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。


次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6

37. 中川隆[-11502] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:54:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[493] 報告

連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース 2010-12-26
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226

前日、日が暮れて断念した迦葉山からまわる事にしたため、朝の8時から行動開始。メル斗さんとホテル前で待ち合わせ。

高速を使い、迦葉山へ。

【迦葉山とは・・・(以下wiki)
迦葉山(かしょうざん)は、群馬県沼田市上発知町に位置する、標高1322mの山である。
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。】


細い道へ入る山道の近くに車を停め、ベース付近へ進む。
沢の近くを歩く。空気もうまく、普通に来たなら観光として楽しめる山道だろう。

やや歩くと、ベースの目印となった“タンク岩”と呼ばれる巨大な岩が。

そこから少し歩き、小さな橋を渡り、川の曲がっているあたりを撮影する。恐らく、このあたりにあったのではないか、と・・・

山から降り、連赤メンバーが連絡に使ったバス停を見学することに。ちょうど、「間もなく迦葉山」と記してある天狗の看板が見える場所にある。

バス停は古びたものだが、昭和50年くらいに建て替えれられたものとのこと。


迦葉ベースにて総括によって殺されたのは以下の3名。(死亡順)


・山本順一 (革命左派)
・大槻節子 (革命左派)
・金子みちよ (革命左派)

金子みちよさんのお腹には、後にあさま山荘で銃撃戦を展開する吉野氏との間にもうけた子供がいた。

この後、殺された山本氏(夫人、生まれたばかりの赤ん坊と共に一家で山岳ベースに参加していた)の夫人が脱走。続いて革命左派の前沢氏も脱走する。
さらに革命左派・中村さんが連絡のために乗ったタクシーで、自殺志願者と間違われ通報される。この時抱いていた山本氏の子供も保護される。

次いで妙義山へ。
【妙義山とは・・・(以下wiki)
妙義山(みょうぎさん)は、群馬県下仁田町・富岡市・安中市にまたがる標高1,104メートルの山である。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。また、国の名勝に指定され、日本百景に選定されている。】


来る途中にも、特徴的な切り立った山の姿が面白く、一度車を停めてもらい、その姿を眺めた。

山道付近の宿舎前に車を停め、熊除けの鈴をつけ、山に入る。

今までとは違い、そこそこに険しい道で、道というより獣道。三脚はメル斗さんが持ってくれたが、5Dmk2とDVX100を首からぶら下げた身にはいろいろとつらく、気温の低さにも関わらず途中で汗が噴き出してきた。


ある程度の深さまで入ったが、これより先は本格的に厳しい道をしていた。今日中に向かわなければいけない、軽井沢のあさま山荘までに日が暮れるのでは元も子もないので、それらしいもの、を見つけたが違うのではないか・・・と結論。付近を撮影し、下山した。

妙義山ベースは簡易的な洞穴のベースであり、外から見ればただの岩で、現存しているというので期待して行ったが、残念だった。


妙義ベースにて総括によって殺されたのは以下1名。


・山田孝 (赤軍派)

山岳ベースの総括による最後の死者。
山田氏は赤軍派の政治局員で、本来だったらリーダーである森氏より序列が上の人。総括にかけられた直接の原因は「任務中に銭湯に入ったから」というささいなもの。

最後の言葉は「総括しろだって! ちくしょう!」

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226

38. 中川隆[-11501] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:02:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[494] 報告

連合赤軍を巡る 【4】 あさま山荘 2010-12-27
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869

迦葉山、妙義山を歩いた後、軽井沢に移動。あさま山荘のある別荘地へ。
途中、有名な“治安の礎”を見学。線香をあげ、手を合わせる。これは主に、亡くなった二人の機動隊員に対するもの。


供え物には割と新しいビール、酒等が置かれていた。
定期的に誰かが来ている様な気配だった。

今の時期はオフシーズンのため、別荘地はゴーストタウンのように閑散としていた。
また店舗物件には空き家も多く、バブルの名残を感じさせた。
山道をぐるぐる車でまわること数分。

目の前に浅間山が見える素晴らしい立地に、あの、見た事のある山荘が。
「ああ、これか」と一目で分かった。身震いするほど脳内と同じものが、目の前に現れた。

事件当時から下の部分が増築されているが、形や雰囲気は不思議に思うくらいそのまま残っている。
ただ圧倒的に屹立していて、他の別荘郡とは一線を画していた。
幾度もテレビ等で見た、坂口氏がガラスを割って顔を見せるシーン。機動隊突入時に彼らの主戦場となったベッドルーム“いちょうの間”もそこから見える。

あさま山荘に立て篭もったのは、坂口弘(革命左派)・坂東國男(赤軍派)・吉野雅邦(革命左派)・加藤倫教(革命左派)・加藤元久(革命左派)の5名。

道を回ってメンバーの侵入ルート、つまりモンケンで破壊された壁の部分が見える上部分から山荘を見ることに。
その道中、隅の方に小さなお地蔵さんが。ある方が匿名で、犠牲者三名(民間人1と機動隊員2)を慰めるために建てたものという。ここにも手を合わせる。

道には屋根部分が面していた。モンケンによる破壊作戦を行うため、おそらくここに重機が横付けしたのであろう、と思われる小さな駐車場もある。

主に攻防はこちらで行われていたという。こちら側にいくつもの銃眼が作られ、機動隊と交戦した。
報道資料でよく見るのが反対側のため、印象はあちらが強いが、まさにここが戦場となったのだ。

あさま山荘の銃撃戦では連合赤軍メンバーによる銃撃により、3名の死者が出ている。

・田中保彦さん (民間人)
・高見繁光 中隊長
・内田尚孝 警視

田中さんは新潟でスナックを経営していたが、この事件を知り、機動隊の阻止線をかいくぐってあさま山荘まで駆けつけた。
バリケード封鎖された玄関口で「文化人だからあなた方の気持ちは分かります」と言い、人質の牟田夫人との身代わりになることを求めたが、中からの坂口氏による忠告が届かず、警察側のスパイとみなされ銃殺されてしまう。
坂口氏の『あさま山荘1972【下】』には、短くではあるけど、田中さんという人物について描かれている。
一人の男が歩んだ少し寂しい人生が、ひとつの事件と交差したことで起きた悲劇だけれど、それを気にしたり同情したりする人はもう、殆どいないのかもしれない。


山を降りたころにはすっかり暗くなっていた。
せっかくだから、と、植垣さんたちが逮捕された軽井沢駅へ。駅舎は新しく建て替えられているが、当時のものも保存されているとのこと。
もう遅い時間で閉まっていたが、建物の全容を見ることはできた。

すぐ横に派出所があり、植垣さんはここに連れてこられたのか、ストーブを蹴ったという交番はここなのだな、と思い、納得したりした。

交番内には、今でもそこかしこで見る、赤軍の手配書。
この事件はまだ終わっていないんだ、といつも思う。

この旅から帰って二日くらい、頭が重く、なんだかボヤボヤとしたものが心にあった。
何なのか分からないが、憂鬱とも違う感情にとまどった。
おそらく、客観視していたものが突然目の前に現れたことによる驚きが尾を引いていたのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869

39. 中川隆[-11500] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[495] 報告
福ちゃん荘に行ってきた 2013-05-08
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp


福ちゃん荘とはいわゆる『大菩薩峠事件』のあった場所で、まだまだイケイケドンドンだった赤軍派が首相官邸襲撃のために武装訓練をしようとして山小屋・福ちゃん荘に集結。そのことが当局に筒抜けだったために参加者53名が一挙に逮捕されるという、ある意味で赤軍派の「細かいことはあまり考えない」「とりあえずやる」的な部分が思いっきり露呈したアレな事件なんであります。

メンバーにはお偉いさんも含め、中には高校生もいたという。
そんなわけでこの事件は事実上リーダー不在の中からうまれた『連合赤軍事件』の、いわば引き金となった事件なのです。時系列で追っていくと、この後最高指導者・塩見孝也さんは逮捕され『よど号事件』が起こり、さらに重信房子さんはアラブに発ち…と続き、連合赤軍に繋がります。

では当日のことを。
高崎からメル斗さんと車で出発。当日は快晴でした。

途中、なぜかダムによりダムカードをゲットし


落ちると死ぬであろう絶景に金玉をキュッとさせつつ

雪が残る道を走り

あっというまに大菩薩!!!

とかそんなわけはなく、福ちゃん荘はグーグルマップに登録されてない場所にあるのでアタシらはさんざん迷った挙句、ここまで来ました。

というか福ちゃん荘ホームページにあるアクセスページのさらにアクセス地図ページのさらに案内ページがすごくわかりやすいことに今、たった今気付いた。
上日川峠の案内


このページ見てなかったので、写真にある山道登りつつも「本当にこっちでいいのかしら」と二人して不安な表情をしていました。
しかし思い切って登ってしまえば、そこにはしっかり福ちゃん荘がありました。記事トップの写真です。
屋根にしっかり書いてある。ここが伝説の地・福ちゃん荘だ。

向かいには綺麗に山が見えます。あれが大菩薩峠なのかな。

とりあえず中へ。泊まるわけでもないので、とりあえず「ここで飯食う」というのが目標でした。入ってすぐの食堂。

山菜ラーメンを食ったよ!

恐らく、当時娘さんだったであろうお店の方とお話し、撮影させていただく。
食堂奥には事件に関する新聞や雑誌の切り抜きが額に入って飾られておりました。

昨年お亡くなりになった若松孝二監督のサインも懐かしいチラシと共に。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では福ちゃん荘がそのままロケ地として使用されているのですよね。

土産物コーナーで登山記念バッヂを購入。


横に回ると、こっちが本当の玄関。


この看板だけは事件当時から変わっていないそうです。確かに、当時の報道写真にも写っています。

この後、少しお部屋も見せてもらい、また今度は泊まりに来ますと約束して出ました。


行ってみて納得したのですが、こちらの山小屋はやや開けたところからちょっと登った、少し奥まった場所にあるのですね。だから赤軍派はここを訓練での宿泊場所に選んだのだろう、と。あえなく逮捕された当時の写真なんか見てると、寝起きに突入されたもんだから、おパンツ姿で逮捕されてたりしてあらあら…という感じです。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp

40. 中川隆[-11499] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:22:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[496] 報告
2018-05-18
山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000

レッド(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2007-09-21
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063723224/saiusaru-22/

レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2015-02-23
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063770885/saiusaru-22/

連合赤軍事件については当事者である永田洋子、坂口弘、植垣康博、坂東国男がそれぞれ手記を出している。吉野雅邦の友人の大泉康雄も本を出している。

坂東国男の本以外は、かなり繰り返し読んでいるけれど、それらの本の印象的な部分が取り入れられているなあと思う。事件の一連の経緯も分かりやすい。

ただそれぞれの一巻を読んだ時点で、気になったことがあるのでそれを書きたい。


永田洋子(赤城)の描写が気になった。

「基本的にはあったことをそのまま書いている」が「フィクション」と銘打っているのは、作者の解釈を入れたかったからか。

個人的にはその解釈が、永田洋子に対して厳しいのが気になった。

以下、漫画の内容に言及する箇所だけ()内に漫画の人名を記載している。

気になった箇所をあげてみる。

坂口弘(谷川)が永田洋子(赤城)に結婚を申し込んだとき、彼女の女性としての部分を利用しようとする気持ちがあった、というのは永田も感じているけれども、坂口弘本人がそう書いていたと記憶している。

「収監される前に、女性の体を知っておきたい気持ちがあった」「彼女ならば、自分が出所するまで待っていてくれているのではないか、という気持ちがあった」と書いていたと思う。

漫画では、坂口(谷川)は永田(赤城)に好意を持ったから申し込んだのに、永田(赤城)が「あなたはこういう魂胆があるのだろう」と邪推しているように見える。

この坂口弘による永田への結婚申し込みは、当時、革命左派内で女性がどういう扱いだったかという一例になるので、ここはきちんと描いて欲しかった。

こういうことが全て、後の山岳ベース事件における総括につながってくるからだ。

このあと結局結婚したのは、永田は「坂口氏ときちんとした愛情関係を築いてみたいと思ったから」と言っていたと思う。

これを入れるのと入れないのとでも、相当永田に対する印象が変わる。

また他にも公判を傍聴した永田(赤城)が怪我をさせられたあと、吉野雅邦の家に厄介になるのだが、その時の印象を吉野(吾妻)の母親は「強引な人」と同時に「人なつっこい人」とふたつの印象を持っていたと思う。

それが漫画では「強引な人」という印象ばかりが強調されているように見える。

また遠山美枝子(天城)に、腫れ上がった自分の顔を見るように強要するシーンは、かなり誇張されているように感じる。

同じ遠山美枝子(天城)の総括に関する場面で、「遠山に着替えをさせる。そういう援助は必要では」という永田の言葉は、「甘い」と咎められるのではないか、と思いながらも思いきって発言したと言っている。

そういう葛藤や場の雰囲気が、漫画では反映されていないのも気になる。

こういうところを見るとどうしても、永田という人物をある一定方向に印象づけたいのかなと思ってしまう。

一巻を読んだだけでもこういう印象なので、ずっとこの調子か? と心配になる。

人は自分が信じた「正しさ」の構造に、たやすく閉じ込められる。

決して永田洋子にもこういう事情があったんだ、同情しろ、と言っているわけではない。

連合赤軍事件はそれぞれの記憶も主張も感じたことも、同じことを経験していながら微妙に違う。

誰の視点に立つかでだいぶ印象が変わるのだが、1979年に出た第一審判決(石丸判決)を始め、永田洋子の性格や個人的な資質に原因を求める論がかなり多い。

この事件の最大の責任が、森(漫画では北)と永田にあるのは間違いない。

ただ永田洋子の性格や彼女の個人的な資質に事件の主因を見出すのは、かなり安易な見方だと思っている。

本当にこの事件を描こうと思うならば、流されないように常に気をつけていないとどうしてもそちらへ流されてしまう。

何故なら「ブスで性格が悪い女が権力を握って増長し、自分に逆らう人間を殺し、自分より才色が優れた同性を嫉妬から殺した」という解釈は、聞いているほうからすれば「単純明快でわかりやすいから納得しやすく、なおかつドラマとして描くうえで面白い」論だからだ。

ちなみにこれが塩見孝也が永田に求めた総括らしい。(永田の言によれば。)

特定の個人の人格や行動の動機を悪意のみで解釈して事件の原因とするのは、永田たちが殺害したメンバーに強いた理屈とまったく同じだ、と思う。

「人は自分が信じた正しさの中に閉じ込められると、他人の人格や身体を破壊することさえ何とも思わなくなる」「そしてその正しさの構造に、誰もがたやすく閉じ込められてしまう」ことこそ、この事件の主因だと思っている。

だから特定の個人の人格に事件の原因の全てを見出す言葉を見るたびに、事件と同じ構造を見るようで非常に残念な気持ちになる。

そういう解釈でこの事件を描きたいと考えているならば仕方ないが、「あった事実をそのまま描く」ことを目的としているのならば、分かりやすく刺激的で手軽な「悪女、永田洋子が事件を主導した説」は意識的に避けて欲しいと思うのだ。

「新組織における女性リーダーの座をめぐる争い」と見られがちな永田の遠山美枝子に対する総括要求は、「新組織において両派のうち、どちらが主導権を握るか」という争いの要素のほうが大きかったと思う。

つまり永田洋子においてのみそういうものがあった、と指摘されがちな心の機微は、彼女特有のものではなく、事件に関わった全員の心の中にあり作用していた、と思うのだ。

森は革命左派を迎えにいかせるときに、「水筒を持ってこなかったこと」を批判するように伝えており、すでに主導権争いを仕掛けていた。

そういう赤軍派に対して革命左派の面々は不満を募らせており、「そちらが批判してくるのならば、こちらも」という潜在的な争いの中で起こったのが、永田からの遠山批判なのだと思う。

人間関係でよくある「そういうこというなら、お前だって」という構図だ。

そして何故、そういった主導権争いを森が仕掛けたのかと言えば、革命左派の持つ銃や処刑の「実績」に、森が強いプレッシャーと恐怖を感じていた、と板東国男が書いている。

遠山批判は、森にとっても渡り船だったのだと思う。

それまで「幹部の妻」で赤軍派では特別扱いされていた遠山には、森も遠慮せざるえなかった。植垣なども「ちょっと面倒臭くてやりづらい」心境を吐露している。

森は自分にとって目の上のたんこぶの遠山を排除しつつ、彼女をスケープゴートにすることによって革命左派との連携を強めたのではないか。

日常生活の延長線上にある事件

連合赤軍の山岳ベース事件で起こった色々な出来事の構図自体は、日常生活でも「あるある」なものが多い。

「日本の組織が抱える構造的な問題だ」と四角四面に考えるまでもなく、こういう微妙な人間関係の力学は、日常的に学校でも会社でもよく見る。

自分がこの事件を恐ろしいと思うのは、そういう自分が日常でいくらでも見てきた「こういう構図、よく見るなあ」「こういうことってあるよなあ」「こういう人っているよなあ」「自分もこういう部分があるかもしれない」と思うことが、歯止めがなくなればここまで凄惨な結果に行きついてしまうというところだ。

この事件は「異常者が起こした異常な事件」ではなく、「思想にとりつかれた未熟な若者たちが引き起こした事件」でもなく、自分も含めた普通の人が生きる日常の延長線上にある事件だと思うのだ。(あの時代の学生運動は現代から見ると異様に見えるが、当時は多くの学生にとって日常の延長だった。)

ある構造の中に閉じ込められている、という一点の条件を加えるだけで、日常的に経験しているものがここまで恐ろしいものになりうるのか。

そしてこの構造に何かの拍子に閉じ込められたときに、自分がその構造の外では「異常」と言われる思考や行動をしている、と気づくかどうか。

塩見孝也が永田洋子にしたこの事件の総括の「指導」や、立松和平の「光の雨」のように、自分が連合赤軍事件が起こった構図と、そっくり同じ構図を再生産していることにまったく無自覚なままこの事件を解釈しようとしている意見を見ると、ある思考やシステムに一度取り込まれると、その外に抜け出すのがいかに難しいかということを思い知らされる。

立松和平の「光の雨」は、総括の理屈を内包してしまっている。

「光の雨」は、「他人の自己実現に、自分が関与できるという欲望の発露」が総括の本質と同じだという点を、大塚英志が強く批判している。

自分も「自分の言葉は、他人の主体を変革するほど価値があり力があるはず」と考える傲慢さこそ「総括」という概念の醜悪さだと思っている。

「結果的に」「ためになった」とその相手本人が考えてくれるのはいいと思うけれど、それは言う側が「相手のためになるはずだ」と考える、ましてや相手が受け入れないときに押し付けていいものではない。

「光の雨」は、坂口弘がモデルになっている主人公の話に若い男女が真剣に耳を傾けて、援助交際をしていた女の子が「私、自分を大事にしようと思ったの」という結論に達するという筋だ。

これをこの事件のモチーフとして用いてしまうとは。

「自分たちの言動によって、他人が自己実現する」

この「総括」の発想をそっくりなぞって肯定的に描いているのに、そのことに無自覚なまま終わるのがこの小説の怖いところだ。

「光の雨」を読んで思ったことは、連合赤軍事件のメンバーたちが行った総括の根っこにある、「自分の関与によって他人を変えたい。その事実をもって、自分の言動の価値を感じたい」という欲望は、人間にとって抑えがたいものなのだろう、ということだ。

この欲望が根底にある「総括」という概念を否定するために、主人公が自分が正しいと信じた思想と犯した罪の深さを必死に訴えても、今の若い人たちは退屈そうに聞いている。いや、聞いてすらいない。

結果、「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のことに気づくことが、この事件にふさわしい結論じゃないかと思っている。

どれだけその人にとって大切で切実で正しいことでも、他人にはあくびが出るほど退屈で聞く価値のないものであることもある。それが多様性なんじゃないかと自分は思う。

全てがそうだと寂しいけれど、「そういうことが時にあることは、人がそれぞれ違うという健全さでもある」と思うことが大切なんじゃないかと思う。

「結局、伝わらなかった、分かり合えなかった」それでいい

結局「総括」の構造から抜け出ないまま、この事件は終わるのかなと思っていた。

そんなとき、塩見孝也が死んだときに書かれた雨宮処凛の文章を読んだ。

塩見孝也とのコミュニケーションのとれなさ、その困惑があけすけに書かれている。


「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。

(引用元:「雨宮処凛がゆく!」第431回「革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻」)

これを読んだとき、笑ってしまった。

「正しさ」を受け入れられない人間は、その人格を傷つけ罵倒しても構わない。

その赤軍派の「正しさ」の構造こそ、連合赤軍事件の構造の片親であり、そこで殺し殺された人たちが閉じ込められたものだった。

そのことにあの事件から四十年以上たっても気づかず、まったく同じことを繰り返している塩見孝也に、その「正しさ」を気にもとめない言葉を言う人がいて良かった。

「マルクスも読んでいないなんて左翼でも何でもない」という言葉が最大限の罵倒であると考える価値観と、「そんなものは痛くも痒くもない」という価値観が何ひとつ分かりあえずに並ぶさま、そしてそれでいいんだと思えることが、この事件の結末に最もふさわしいと思うのだ。

この記事に書いているようなこともまったく考えず、塩見孝也が自分の思想や正しさを最後まで信じて死んだのなら「自分が正しいと考え、相手のためになると思った言葉なんて、他人には意味がないし伝わらない。そもそもろくすっぽ聞いていない」という事実を彼自身が証明したことになる。

それでいいと思う。

それが連合赤軍事件の結論に最もふさわしいと思う。

「どんなに正しいと思っても、それが伝わらないこともある。分かりあえないこともある。そういうこともある」

そういう考えを常に持っておくことが、「正しさ」の中に閉じ込められそうになったときのために大切なのかなと思った。

連合赤軍事件関連書籍


十六の墓標 上―炎と死の青春
永田 洋子 彩流社 1982-09

あさま山荘1972〈上〉
坂口 弘 彩流社 1993-04-01

革命左派側で起こったことや流れは、この二人の本を読むとだいたいわかる。

この二人は山岳ベースを退去するまでほぼ行動を共にしていたのだが、大まかな出来事はともかく、記憶や心境や観察にはかなり食い違いがある。

「川島豪が自らの奪還を指示したのか」などは事件の原因につながるので非常に重要だと思うのだが、今となっては真相を知る術がない。


兵士たちの連合赤軍〈改訂増補版〉
植垣 康博 彩流社 2014-11-19


赤軍派から参加した植垣康博の本。幹部だった上記二者の本とは、かなり雰囲気が異なる。

植垣康博はインタビューで「永田洋子は普通の人」と答えていたが、この本を読むと「普通の若者たちが起こした凄惨な事件」という印象が深まる。


「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート (祥伝社文庫)
大泉 康雄 祥伝社 2002-04


吉野雅邦の学生時代からの友人だった大泉康雄の本。

吉野が金子と付き合う前からの友人であり、吉野と金子が付き合った経緯や、付き合ったあとにみんなで遊ぶシーンも出てくる。

大泉本人は学生運動には関わっていないので、事件の記述よりも吉野と金子の交流や人柄が中心に描かれている。

金子みちよは恋人の吉野雅邦を支えるために学生運動に加わったのだが、山岳ベースに行く前に大泉に「わたしたち、馬鹿なことをしていると思う?」と聞くなど、運動に対して冷静な目も持っていたと思う。

山岳ベースでも反対の声を上げたり、最期まで総括に屈しなかった彼女のことを思うと胸が痛い。

二人への優しい気持ちと友情が伝わってくる本。読んだことがない人はぜひ。

連合赤軍「あさま山荘」事件―実戦「危機管理」 (文春文庫)
佐々 淳行 文藝春秋 1999-06-01

あさま山荘に突入した警察部隊の指揮をとっていた佐々淳行の本。現場がどのような雰囲気だったか、ということがよく伝わってくる。

この本で印象的だったのは、著者の息子が学校で「警察官や自衛官の子供は立ってください」と言われて教師から色々と言われたという箇所だ。

現代だったらあり得ないことだと思うのだが、そういう時代だったということも感じとれる。

光の雨 (新潮文庫)
立松 和平 新潮社 2001-08

「連合赤軍事件を描く上で、よりによってこのモチーフを用いるか」「山岳ベース事件以外のことが、そこに至る経緯も含めてほとんど書かれていない」という不満もあるが、それを差し引いても余りに安易な設定では……と思う。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000


41. 中川隆[-11498] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:53:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[497] 報告

2016-07-31
連合赤軍事件は「オタク」が起こした事件だった? 
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍 −サブカルチャーと戦後民主主義ー」の感想
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744


「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
大塚 英志 角川書店 2001-05-01
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4044191093/saiusaru-22/



この本の内容

題名を見ると「連合赤軍事件関連の本かな」というイメージですが、どちらかと言えば副タイトルが表すサブカル論の比重が強いです。

サブカル論の枠組みの中で、サブカルチャーという分野が興隆する直前の時代に起こった連合赤軍事件を語るという大変面白い試みをしています。

著者の大塚英志は、漫画「多重人格探偵サイコ」の原作者として有名です。


多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)

多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)
作者: 田島昭宇×大塚英志
出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
発売日: 2012/09/01
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いま見たら、24巻で完結したらしいです。7巻くらいまでしか読んでいない…。

本書で大塚英志は「若者の自己実現や自己表現の手段が、学生運動からサブカルに移り変わった」というような論も展開しているのですが、自分もこの意見に賛成です。

結局、「学生運動」も「共産主義思想」も、その時代の若者の自己実現の道具に過ぎなかったのではないか、そう思います。

それが今の時代はアニメや漫画、ゲームなどのサブカルにとって代わったのではないかと思います。

連合赤軍の言動を今の時代でやれば、ネットで「厨二乙www」と言われたことでしょう。

本書は連合赤軍事件だけではなく、オウム事件、改憲運動、村上春樹、エヴァンゲリオン、宮崎勤と永山則夫の自我形成の違いなど様々なことに言及しています。

「連合赤軍事件」については、事件そのものの記載はほとんどありません。

事件の経緯を知りたいのであれば、当事者たちの書いた本のほうがおすすめです。

事件の詳細を知ったうえで興味を持った方には、本書はたいへんおススメの本です。

自分も連合赤軍事件の本は何冊も読みましたし、映画なども見ましたが、大塚英志の解釈は類をみないほど斬新な解釈だと思っています。

連合赤軍事件について

この事件は色々な要素を含んでおり、他の事件の類似点もいくつも指摘されています。

どんな人間でも持つ、最も根源的な悪があらわになった事件だと思いますので、必ず後世に残さなければならない事件のひとつだと思っています。

この事件であらわになった「誰もが持つ根源的な悪」というのは、

「正しいことのためらならば、他人をコントロールしても構わない」という発想だと思います。

このコントロールの中には、「心身を傷つける」「主体の形成に(強引に)関与する」「行動を制限する」「自尊心を破壊する」などが含まれます。

他人をコントロールすること……ましてや行動だけではなく、他人の思想や心を暴力的にコントロールすること……これはどんな理由があれ、絶対にやってはいけないことだということが、連合赤軍事件の最も大きな教訓だと思っています。

ひるがえってみれば、昨今もそんな事件ばかりです。

ISもそう、オウムもそう、相模原の事件もそう。

「正しいことのためならば、他人を傷つけても構わない」

「正しい方向性に導くためならば、他人のことをコントロールしても構わない」

前者は極端な発想ですが、後者は日常生活でもよくあります。

連合赤軍事件においても事件発生前の活動の段階で、「もし、彼女が組織活動をやめると言ったら、殴ってでもとめようと思っていた」という発言をしていた人が組織内にいました。(この発言をした人は、事件には参加していません。)

事件の土壌として組織内に、「正しいことをさせるためならば、相手を殴っていうことをきかせても構わない」という発想があったということです。

連合赤軍事件は起こるべくして起こった事件だ、ということができると思います。

大塚英志の連合赤軍事件論

本書での大塚英志の主張の面白いところは、時代とともに移り変わってきた女性の意識に注目している点です。

連合赤軍事件に参加した女性たちは、1970年代から本格的に始まる「消費社会」で「消費による自己実現を求め出す女性」のはしりであった。

それに対して、前時代の家父長的な制度の発想で生きている男性たち、(自分が正しいと思うことのためならば、殴ってでも相手に言うことをきかすという発想の男性たち)、この二者の対立ですらない……ディスコミュニケーションがまず根底にあった。

そもそもまったく言葉が通じ合うことすらない、この二者が新左翼言語で「通じ合っている」と錯覚している状態が、土台としてあった。

それに対して主犯格の森恒夫は他の男性たちとは違い、1980年代に出現した「おたく」と呼ばれる人間に感性としては近かったのではないか。

そしてもう一人の主犯格永田洋子は他の女性たちと同じように自己実現を求めていたが、他の女性たちがバブル期に代表されるような「消費による自己実現」を潜在的に求めたのに対し、永田は少女漫画のごとき「男性に全肯定されることによる自己実現」を求めていた。

「消費社会で消費によって自己実現する女性たち」「戦前からの家父長制度的な発想に生きている男性たち」「オタクの森」「乙女ちっくな永田」

本来ならば、何ひとつ相容れず話すら通じないはずのこの四者が、新左翼言語という共通言語で話しているために、「お互い分かりあっている」と思ってしまった。

「オタク的感性の森」&「家父長制度による支配原理を持つ男性陣」VS「女性性を男性の力を借りずに、自己実現させる方法を模索した女性たち」

この構図に、「男性に存在を肯定されることによる自己実現を求めた永田」が加わり、男性側に加担した。

この辺りが連合赤軍事件の主因のひとつではないか、というのが大塚英志の主張です。

自分は連合赤軍事件の主因は、小難しい共産主義思想などとっぱらえば、結局のところ、野合した二つの組織の主導権争い、対男性を巡る女性同士の主導権争い、殺人が続いたあとはメンバー全員の相互不信が原因だと思っています。

ただ、「総括」のそもそもの発端が遠山美枝子に対する批判であったことに注目して展開された、この大塚英志の論はとても面白かったです。

特に永田洋子論は、とても秀逸です。

植垣康弘が「永田さんは、そのときに頼りにしている人の考えを、そのまま自分の考えのように話す」という風なことを言っていたように、「とても従順でかわいい女性」だったのではないかと思います。残虐な事件の主犯格として裁かれた人に対して、こういう言い方は何ですが。

だから革命左派時代に川島豪(革命左派の指導者)に利用されながらも何も言えず従い、「女性が妊娠したら、活動のために中絶しなくてはならない」という人権もへったくれもない組織の方針にも従い、川島のどんな理不尽な所業にも抗議しない坂口弘と結婚したのだと思います。

「自分の考えがない女性(パートナーの考えが、自分の考えになってしまう女性)」

個人的な感想ですが、こういう女性は今の時代も多いです。

だからなのでしょうか? 永田洋子の手記は坂口弘の手記などに比べて、事件への実感のようなものが薄いです。

大塚英志はそういった中で事件の主犯格になった永田に、同情のような言葉を寄せています。


「ぼくが永田洋子という女性をある意味であわれに思うのは、彼女が自らの中の「女性性」に強い禁忌を課し、自分で自分を抑圧してしまっている点だ。(P84)

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。(P54)

塩見(孝也)は、永田の「心や魂」の問題を「外見」(容貌)に還元してしまう。(P56)

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

逮捕後に「永田の自己批判を援助するために」、永田洋子に「自分が思い描く通りの自己批判書(永田の生い立ちや容貌に事件の原因を求める)」を書くように強要した塩見孝也(赤軍派の幹部)を、大塚英志は強い口調で非難しています。

自分もまったく同意見です。

塩見が永田に対して行ったことは、永田たちが山岳ベースで行った「総括」の論理とまったく一緒です。

「正しいことのためならば、相手の生命も人権も自我も自尊心も全て破壊して構わないし、暴力的な言動で、他人の主体の形成に関与して構わない」

事件の前から自分たちが当然のように持っていたこのような発想こそ、連合赤軍事件が起こった原因である、ということに、なぜこの人たちが気付かないのか、不思議で仕方がありません。

森恒夫という人物

大塚英志は、なぜ、森恒夫が後世に出現する「オタク」と呼ばれる人種に連なる人物であると考えるのか、ということを次のように語っています。


森恒夫における「母」の喪失とそれ故の母胎的なるものへの畏れと執着は、同じように八十年代を生きた「おたく」や「新人類」と当時名付けられた感受性のある部分と通底するように思える。

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

ここから「二次元の登場人物に性欲を向けるオタク」と、彼らは実際の女性には何もしていないのに、これを批判する「フェミニスト」とのディスコミュニケーション具合が、左翼運動を中心とした女性陣と森とのディスコミュニケーション具合に重なるという論を展開しています。

賛否はともかく、この論もなかなか面白いです。

ただ主は、森に関しては大塚英志の「森=オタク論」よりも、坂口弘が自著の中で紹介していた評論家の意見のほうが的を得ているような気がします。

ソースが手元にないので意訳になりますが、

「森は、自分の作った観念の中だけで生きている人。実際の物事や実際の人間が、本当の意味で彼の関心ごとになることはない。山岳ベース事件も極論をいえば、森の観念の中でだけで起きた事件だったのだと思う」

たぶん、そういう人だっただろうと思います。

よく考えると、この評も「オタク」と呼ばれる人に多い感覚のような気もします。

森自身も事件後、「自分が気が狂っていたとは思えない。それどころか、(山岳ベース事件のときは)人生で一番、色々なことを考えていた」と語っています。

「他人の痛みなどの実際的な物事にはほとんど関心が向かない、観念の世界で生きている人間が、総括による革命戦士化という観念を思いつき、それを実行する場を得てしまった」

そう考えると森恒夫がトップに立たなければ、あれほど凄惨な事件はおこらなかったかもしれないとも思います。

まとめ

連合赤軍事件を知った当初、一番恐怖を覚えたことは、

「自分もちょっとしたきっかけで、殺す側にも殺される側にも回ることがありうるのではないか」

「これほど残虐なリンチ殺人だが、自分の日常の延長線上でもありうる事件なのではないか」

ということです。

山岳ベースの事件の参加者の中には、普通に大学生活を送っていてたまたま呼ばれたというメンバーもいました。

そもそもこのころ行われていた「学生運動自体が、若者の自己実現の道具にすぎず、現代のサブカルと呼ばれる分野に当たるものなのではないか」という論を前提とするならば、彼らにとっては日常の少し先にこの事件が待ち構えていたという感覚だったのではないでしょうか?

永田や坂口弘が所属していた革命左派はもともとはそれほど過激な組織ではなく、川島豪がトップになってから、行動がどんどん過激化していきました。

組織を中心とした人間関係もできていたので、なかなか組織から抜ける踏ん切りがつかなかった様子、もともとはサークル活動のようだった組織運動がどんどん過激化していく様子など見ると、自分だったら既存の人間関係を断ち切ってでも組織をやめられただろうか、と考えさせられます。

これは連合赤軍事件と構図が良く似ている、北九州監禁殺人事件などにも言えると思います。(あちらは親族ですが。)

「危ない」と思った段階で、自分や家族を守るために、親族などの人間関係も断固として断ち切れただろうか。

そもそも「危ない」などと考える前に、気づいたら深みにはまっていることがほとんどなのではないだろうか。

平穏な日常にぽっかりと空いた黒い穴、そんなものを想起させる事件です。

もうひとつ、この事件の感想などを見ると「自分が下部のメンバーであったとき、やはり逆らえず殺す側に回ったのではないか」という感想を見ることが多いのですが、自分は「自分が森恒夫の立場に立ったとき、同じようなことをやってしまうかもしれない」という恐怖を覚えます。

「自分が絶対的に正しいと信じる価値観や信念と他者の痛みが対立しているとき、後者を優先できるだろうか。正しいことなのだから仕方がない、と思わないだろうか」

「現実の世界のことが感じられず、観念の世界に生き、その中で正しいと思ったことを行った森」

彼は逮捕されたあと、自分が山岳ベースでメンバーたちにしたことを社会からされることによって追体験します。

このころの社会の空気を永田洋子は、「社会全体が有形無形の形で、森さんに死ぬことを強いていた」と評しました。

恐らく罪悪感からではなく、その圧力に負けて森は自死しました。

自分を取り囲む人間全てから否定されて生きられるほど、人間は強い生き物ではないことを、森自身が証明しました。

自分の全存在を否定されることがどれほど残酷なことかを、追体験したわけです。

これほどむごく残虐な事件が、自分たちの日常生活の少し先にある。

それを防ぐためには、どれほど正しいと思うことを言う人間に対しても、「自分をコントロールすること」を許してはいけない。

そして、自分もどれほど正しいと思う意見でも、それをもって他者をコントロールしてはならないということを感じました。

連合赤軍事件が起きてから50年近い月日が流れましたが、似たような事件が何度も起こっています。

そういう事件を見るたびに、いつもそう思います。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744

42. 中川隆[-11497] koaQ7Jey 2019年3月13日 11:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[498] 報告

第431回:革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻 By 雨宮処凛 2017年11月29日
https://maga9.jp/171129/




 塩見さんが死んだ。

 塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。

 塩見さんとの付き合いは、もう20年にもなる。

 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。

 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息苦しかった。そうして自分自身はと言えば、リストカットをしては生きづらさを誤魔化すという、これまたショボいことばかりしていて、そんな自分が大嫌いだった。

 私が生まれる前、「国家」とかと命懸けで闘ってた人の話を聞いたら、何か生きるヒントが得られるのでは。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私を突然北朝鮮に誘ったのだった。なんでも、北朝鮮には70年に飛行機をハイジャックして平壌へ飛び立った「よど号グループ」なる赤軍派の同志がいるということだった。元赤軍派議長に、国際指名手配犯に会うための北朝鮮旅行に誘われる。こんなブッ飛んだ誘い、OKするしかないだろう。「行きます!」。何も考えずに、私は即答していた。

 そして99年、私は生まれて初めての海外旅行で北朝鮮に飛び立った。

 塩見さんも含めた数人で成田空港から北京に飛び、北京の朝鮮領事部で手続きをし、翌日、平壌へ。なぜか北京で花を買って、北朝鮮に着いたら真っ先に金日成の銅像に献花をし、よど号グループの招待所で、自分の父親と同世代のよど号グループと会った。

 その招待所で寝泊まりしながら連日、「金日成の生家」や「人民大学習堂」や「革命博物館」など、思想教育のような観光日程をこなした。「食糧難」や「餓死」が報じられていたのに北朝鮮で出される料理はどれも豪華で、案内役としてずっとついている朝鮮労働党の人には「日本は資本主義で、金に追われてばかりの生活で可哀想」と同情されたりして、連日、脳の許容量を越えることばかりが起きた。観光で行った幼稚園では園児がなぜかみんなフルメイクで「主席を讃える歌」を完璧に歌い踊り、あまりにも頭がクラクラしたことからその辺りで思考を停止した。

 よど号グループには私と同世代の子どもがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は、合計5回、北朝鮮に通うことになる。そうしてよど号の子どもたち三人が日本に「帰国」する際には平壌まで迎えに行き、しばらく私の家に滞在していたりもした。そのようなことが原因で02年にはガサ入れが入ったりしたのだが、私は塩見さんが北朝鮮に誘ってくれたことに、今でも深く感謝している。ただのフリーターで、この先どうやって生きていくかさっぱりわからなかった私に初めて「世界」を見せてくれた人だからだ。

 初の北朝鮮行きから半年後、私は2度目の海外旅行でイラクに行くのだが(今度は一水会の木村三浩氏に誘われて)、北朝鮮行きがなければ、決してイラクに行こうなんて思わなかったはずだ。日本という島国から、まったく価値観の違う国に行ったことは、私のその後の人生に大きな影響を与えた。それからいろいろな国に行き、価値観の違う人たちと話すことが大好きになった背景には、間違いなくこの経験がある。

 そんな塩見さんとは03年、共にイラク・バグダッドを訪れた。私にとっては2度目のイラク。時はイラク戦争一ヶ月前で、外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切り、数十人でオランダを経由してヨルダンから陸路でバグダッド入り。開戦一ヶ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモをし、多くのイラク人と交流した。そんなイラクで、塩見さんが「日本の赤軍派議長」であることを告げると、日本赤軍の岡本公三人気が異様に高い中東ではやたらと感激されたことも覚えている。

 だけど、私はそんな塩見さんと一緒の飛行機に乗ることがちょっと怖かった。「撃ち落とされるのではなか」という不安があったからだ。実際、日本のレッドアーミーの塩見孝也がイラク入りするということで、イスラエルのモサドが動いてるとか動いてないとか、そんな嘘かほんとかわからない話もあった。

 塩見さんとの付き合いはこの20年間ずっと続いていたのだが、特に06年から、私が反貧困運動を始めたことには大変喜んでくれた。60年代からなんでもかんでも資本主義のせいにしてきた塩見さんにとって、私が労働・貧困問題に「目覚めた」ことは自分の影響だと思ったのかもしれない。以後、塩見さんは「共に闘おう、そのためにまず打ち合わせをしよう」という電話やメールを頻繁にしてくるようになった。

 が、ちょうどネットカフェ難民などの「若者の貧困」が注目された当時、「元赤軍派議長と一緒に反貧困運動をする」ことは、リスクでしかないことは明白だった。しかも、私たちが求めているのは、一言で言うと「生きさせろ」ということ。が、塩見さんは明らかに「世界同時革命」を求めていて、労働・貧困運動はその「手段」でしかないことは話していて明白だった。

 「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。が、この時、私は心の中で決意した。絶対に、自分のことを「左翼」などと名乗らないでおこう、と。

 一時期右翼だった私が貧困問題に取り組み始めたことで、当時、やたらと「左傾化した」「左翼になった」と言われていた。とりあえず便利なので使っていたその言葉だったが、左翼に「なる」にはマルクスを読破するなどの「資格」が必要なようなのである。そんな七面倒臭いものならこっちから願い下げだ。その点、右翼はある意味寛容だった。「日本が好き」とか、そんなゆるふわな感じで今すぐなれるし必読図書もない。

 このように、塩見さんには面倒臭いところがあり、私は時々ちょっとうんざりしていた。

 が、そんな塩見さんに大きな転機が訪れたのはその直後のことだ。シルバー人材センターの紹介で、清瀬のショッピングセンターの駐車場管理人となったのだ。60代半ばにして、「労働者」になったのである。思えば、それまでの塩見さんは「労働者が」「人民が」と言いながらも、この国の労働の実態を、ほとんどわかっていなかったように思う。しかし、自らが時給制で働き始めたことによって、明らかに変わった。大文字の、頭の中で考えた「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験から矛盾を感じたことを発信するようになったのだ。

 そんな塩見さんに労働相談を受け、組合を紹介したこともある。一時期は本気で「シルバー人材センターユニオン」の結成を考えていたし、それは私も熱烈に応援した。が、そんな打ち合わせの席でも塩見さんが口にするのは「シルバー人材センターの労働運動を盛り上げて、最終的には世界同時革命を!」という言葉。この人、全然懲りてないな…。21世紀になっても本気で「革命」を目指すその姿に驚きつつも、塩見さんは前に比べればずっと「地に足のついた」活動家になっていた。

 塩見さんとの最後の「祭り」は、この連載の第334回「『獄中二十年』の選挙戦」で書いた清瀬の市議会選挙。15年、なんと無所属で市議に立候補したのだ。選挙最終日、応援に呼ばれたので駆けつけると「獄中二十年」「赤軍」と書かれた旗や大きな幟があり、それを見た瞬間、「落選」を確信した。が、みんなで「赤軍」の旗を先頭に、街を練り歩き、叫んだ。

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「清瀬から世界同時革命を!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 もちろん、選挙は落選した。

 塩見さんとの思い出は数えきれないほどあるけれど、印象深いのは、晩年の塩見さんの周りには、いつも「生きづらさ」を抱えた若者たちがいたことだ。2010年、突然「生前葬をやる」と言い出し、本当に開催した際には、長年ひきこもりだった若者が、塩見さんを歌った「オレは駐車場管理人」という自作のラップを作って披露。それ以外にも、不登校だったり、リストカットの経験があったりという若者がいつも塩見さんの周りには集まっていた。

 なぜ、「世界同時革命」とか言ってる元赤軍派議長の周りに若者たちが嬉々として集まっていたのか。もともとは私自身もその一人だったわけだが、それは「塩見さんの近くにいると、自分の悩みがどうでもよくなる」という作用があったからだ。

 前回の原稿で、自分の「死にたかった頃」の話を書いた。同じように「死にたい」と口にする多くの人との出会いが私を生かしてきたわけだが、塩見さんとの出会いも、確実に私の「死にたい」気持ちを脱臼させた。

 獄中20年で、個人で破防法適用とかされて、いまだに「世界同時革命」とか口にする塩見さん。その存在は、私の中に根深くあった「ちゃんと生きなければならない」という気持ちを一瞬で霧散させるものだった。なんだ、こんなメチャクチャな生き方してもいいんだ。一生「革命」とか、中2病みたいな感じで生きてていいんだ、と。

 しかも塩見さんは、何かあればすぐになんでもかんでも資本主義のせいにする。そのことは、生きづらい若者たちにとって大きな「免責」を与えてくれた。他の大人たちは、勇気を出して悩みを相談したところで、みんな「自己責任」とか「お前の努力が足りないんだ」とかそんなことばかり言うけれど、塩見さんはどんな状況の若者に出会おうとも、「それは資本主義のせいだ!」と断言していた。元赤軍派議長に、お前の生きづらさの原因は資本主義だとお墨付きをもらう。これほど強烈な「癒し」を、私は他に知らない。

 が、常々、私は心のどこかで「塩見さんが自分のお父さんじゃなくてよかった」と思っていた。ちょうど親子世代で、塩見さんには私と同世代の息子がいることは知っていた。会ったこともないその息子に、勝手にずっと同情していた。だって、自分の父親が常に全力で反抗期だったら、どういう方向性で生きていこうか、いろいろと悩むはずだ。

 そんな塩見さんと遊びまくってきたこの20年間で、覚えているのは北朝鮮に行く途中の北京での食事の席のことだ。出てきた「アヒルの舌のスープ」は、強烈な悪臭を放ち、アヒルの舌が数百個浮いている見た目もグロすぎた上、一口啜ると「おじいさんの唾液を煮詰めた」ような味がした。全身が震えるほどマズく、その場にいた誰もがまったく箸をつけられなかったそれを、塩見さんは「そんなに不味いかー? イケるぞ」と言いながら平気な顔で食べていたのだ。聞けば、母親が料理があまり上手くなかったとのことで、刑務所の食事も全然平気だったという。そういう人だからこそ、獄中20年を生き抜くことができたのだろう。

 ああ、それにしても、本当に好き勝手に生きた人だった。しかも、たったひとつの理想を、死ぬまで追い求め続けていた。そして本人の意図とはまったく別のところで、多くの生きづらい若者を確実に救っていた。

 そんな塩見さんにもう会えないことが、やっぱりすごく、寂しい。
https://maga9.jp/171129/

43. 中川隆[-11495] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:36:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[500] 報告

「獄中二十年」の選挙戦。の巻‐雨宮処凛がゆく!-第334回
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/

清瀬の商店街を練り歩く不穏な人々

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 4月25日、統一地方選最終日、東京都・清瀬の街をそんな言葉とともに練り歩く一団がいた。

 彼らが掲げる大きな幟には「獄中二十年」の文字。「赤軍」と書かれた旗を持つ人もいる。十数人ほどの一団の中にいるのはマガジン9でもおなじみ・鈴木邦男氏、ロフトプラスワンの平野悠氏、老若男女の塩見支援者、そして、私。一団の先頭ではなく後方を「足がつった」とのろのろ歩くのは、このたび清瀬市議選に立候補した塩見孝也氏だ。

 塩見孝也氏とは、1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕され、獄中20年。89年に出所した。

 そんな塩見さんとの出会いは今から約20年近く前。ロフトプラスワンに、「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことがきっかけだった。もともと、60〜70年代の「政治の季節」には並々ならぬ興味・関心があった。というより、一言で言うと羨ましかった。若者が政治のことに怒り、デモとかしまくって火炎瓶を投げていた時代。翻って90年代に「若者」だった私は、半径5メートルの世界の中で、「消費活動」や「恋愛」や「合コン」にうまく乗れない人々がなんとなく馬鹿にされ、社会や政治のことなど語ろうものなら「おかしな人」扱いされるという空気の中、生きづらさを極めていた。その自分の生きづらさが、社会と何か関係があるのではないか。政治の季節に思い切り暴れていた「元若者」の話を聞けば、何かヒントが得られるのではないか。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私をいきなり北朝鮮に誘った。

 そうして、よくわからないまま知り合ったばかりの塩見さん、他の若者数名と初めての海外旅行でピョンヤンに飛び立ったのが24歳の冬。北朝鮮には私と同世代のよど号グループの子どもたちがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は合計5回北朝鮮に通うことになり、それが原因でガサ入れを受ける羽目になるのだが、当時はそんなことなど露知らず。

 また、2003年のイラク戦争直前には、塩見さん、鈴木邦男さん、そして平野悠さんたちと数十名で外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切ってイラク・バグダッドへ。開戦一カ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモなどをすると警察が応援してくれた上、パトカーのマイクなどを貸してくれたのもいい思い出だ。ちなみに塩見さんはイラクで、撮影禁止の場所を撮影したとかで数時間秘密警察に拘束されたという、これまたどうでもいいエピソードがある。

 こんなふうに、この20年近く、私は塩見・鈴木・平野というオッサンたちと何かあるたびにつるみ、遊んできた、というか活動をしてきたのである。で、この3人は私が物書きになる前のフリーター時代、ロフトプラスワンや各種右翼、左翼、サブカル系イベントにただの客として出入りしていた時から私のことを知っていたという経緯があるため、未だにいろいろと頼まれると断れない相手でもあるのだ。

 ということで、そんな塩見さんが清瀬の市議会議員選挙に立候補しようと思っている、と本人から聞いたのは数カ月前。思わず言葉を失ったものの、ここ数年の塩見さんの「変化」に感銘を受けていた私は、選挙戦に駆けつけることを約束した。

塩見さんの事務所。いろいろすごいです。

 「変化」とは何か。例えば出会った頃の塩見さんは、とにかくなんでもかんでも資本主義のせいにし、二言目には「世界同時革命」と叫ぶという、非常に珍しい人だった。そうして常に「労働者が」「人民が」などと演説するのだが、なんというか、難しい言葉が空転しているような印象だったのだ。

 そんな塩見さんは数年前にシルバー人材センターに登録。地元・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人を始めたところから大きく変わり始めた。大文字の「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験からいろいろと矛盾を感じ、発信するようになったのだ。この数年間、幾度か塩見さんから「労働相談」的なものを受け、時には労働組合の事務所で話し合いをしたりもした。ちなみにシルバー人材センターの労働には労働基準法が適用されないなど様々な問題があるのだが、そういったことなどについても、現場目線からいろいろなことを私に教えてくれたのである。
 そんなふうに「シルバー人材センター労働運動を!」的な話になると、「これをきっかけに最終的には世界同時革命を!」なんて言い出すこともあったけれど、「革命家」・塩見孝也は70代にしてやっと「地に足がついた」活動家となったのである。この辺りの話は塩見さんの著書

『革命バカ一代 駐車場日記 たかが駐車場、されど駐車場』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4846310256?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4846310256&linkCode=xm2&tag=magazine9-22

に詳しいので興味のある方はぜひ。

 ということで、統一地方選最終日、私は清瀬に駆けつけた。73歳、元赤軍派議長・駐車場管理人の塩見氏の周りには、多くの支援者がいた。
 マイクを渡されて、私は話した。

 なぜ、塩見氏を応援しようと思ったのか。それは「現在暴走を続ける安倍政権、そして地方議会でも多数を占める与党の好き放題を止めるには、塩見さんレベルの飛び道具しかいないのではないか」と思ったからだ。なんといっても、日本で初めて、個人で破壊活動防止法を適用された人である。その上、権力に楯突き続けて50年以上。20年の獄中生活を非転向で過ごしたという「超頑固者」だ。「言うこときかない」「黙ってない」系の元祖みたいなものである。もはや存在自体が嫌がらせ。こういう人が市議会にいれば、いろいろと風通しもよくなるのではないか。
 清瀬の街頭でそんなことを話させて頂き、そして夜は商店街を「獄中二十年」の旗のもと、みんなで練り歩いた。

 そうしてすべてを終えた20時、近所のスーパーで発泡酒やお惣菜を買い込み、みんなで安酒で乾杯した。途中、「これが学生運動名物・内ゲバか?」と身構えるような喧嘩が勃発したりもしたけれど、「これでこそ塩見さんの選挙だ」ということになり、なんとなく収まったのだった。

 そうして、翌日の投開票日。塩見さんは319票を獲得したものの、落選となった。

 「市会議員・塩見孝也」誕生とはならなかったが、73歳のチャレンジは、今後きっと大きな波紋を広げていくはずだ。

 今回、改めて思ったけれど、塩見さんの周りにはいつも、生きづらさを抱えた人々が多くいる。この20年近くずっとだ。本人はまったく意識していないけれど、そういった人々を、何か救い、癒す力があるのだ。本人は「革命」を目指しているのに、癒し系。

 そんな塩見さんに、今後も注目していきたいと思っている。

左から、鈴木邦男さん、私、塩見孝也さん、平野悠さん。
この三人のオッサンと20年くらい、いろいろつるんでいる私の人生・・・。

http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/

44. 中川隆[-11494] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:52:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[501] 報告

塩見孝也


塩見 孝也(しおみ たかや、1941年5月22日 - 2017年11月14日[1])は日本の新左翼活動家、元赤軍派議長、最高指導者、テロリスト。

「日本のレーニン」と呼ばれた[2]。
「一向健」の組織名やペンネームでも知られた[3][4]。

1941年、大阪府大阪市の十三で医師の家庭に生まれ、生後1年で岡山県和気郡神根村(現・備前市)に移り[5][6]、戦後は母の郷里の広島県尾道市で育つ。

尾道市立長江小学校から[5]広島大学附属福山中学校・高等学校を経て、1962年、2浪して京都大学文学部に入学。


京大在学中から「共産主義者同盟(ブント)」の活動家となり、京都府学連書記長、社学同書記長と幹部となる。

京大は2年で中退[7]。
しかし1969年、それまでのブントの活動に飽きたらず、「これまでの闘争方針では70年闘争を闘いきれない。受動的な階級闘争論では展望が開けず、能動的な攻撃型の階級闘争こそが必要である」と武装闘争を主張する。

さらぎ徳二らの関東派と対立の結果、決別し、いわゆる関西ブントを中心に「共産主義者同盟赤軍派」を結成し、その議長に就任した。

メンバーは京大、同志社大学、立命館大学を中心に400人で、軍事委員長は大阪市立大学の田宮高麿である。

同年秋には具体的な実行として、大阪、東京で交番・パトカーなどを襲撃した大阪戦争、東京戦争等を指揮する。しかし11月に「大菩薩峠事件」の失敗で主要幹部を含む53人が逮捕され、大きな打撃を受ける。

その後、「一国内の闘争には限界がある。労働者国家(キューバ)を根拠地とし、そこで軍事訓練を行った革命軍を各地に送って、武装蜂起を図り「世界共産主義革命」を実現すべき」という「国際根拠地論」を提唱した。

1970年、「フェニックス作戦」と名づけたハイジャックを計画。下見を重ね具体的な計画を作成。実行部隊のメンバーを決定し同年3月後半の実施を決定したが、寸前の3月15日、豊島区駒込で警察に逮捕された。しかし塩見の逮捕を知った実行部隊は、善後策を協議し既定方針どおりハイジャックを決行。3月31日、田宮高麿をリーダーとする9名が、羽田空港で日本航空機・よど号をハイジャックし北朝鮮に亡命した(よど号ハイジャック事件)。

塩見は爆発物取締法、よど号事件の共謀共同正犯、破防法などで起訴される。法廷闘争の中、1972年の連合赤軍事件以来分裂状態にあった赤軍派に対し1974年に赤軍派(プロレタリア革命派)を結成。その後プロ革派は分裂し、塩見派は1979年に日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)を結成。

1980年、懲役18年の判決が出され、1982年刑が確定。
府中刑務所に収監され、結局19年9ヶ月の獄中生活を送り、1989年12月出所。

晩年

ぱとり・自主日本の会を主宰し、定期的に都内で集会を開くなどの活動を行っていた。

出所後は何度も渡朝し田宮(1995年死亡)らと再会。また近年、民族主義を唱え一水会らと共に「国の日集会」(毎年9月2日開催)を開いたり、よど号事件実行犯が日本人拉致に関与しているかのような発言を行い、物議を醸した。

だが先に挙げた民族主義に関しては彼なりの過去の内ゲバに対する反省点と愛郷心から来ており同じ革命を目指す者同士なら左右問う事無く解決すべきであるという理念が伺える。

ちなみに塩見自身は、新宿騒擾事件については刑事責任を問われうる範囲内であるも、よど号事件については自身は無罪であるとの主張を唱えていた。もっとも、ハイジャック自体については「プチブル急進主義」だったという自己批判も行っている[8]。

赤軍派や日本赤軍については、反省すべき点はあるとしつつも基本的に肯定的に評価していた。一方で連合赤軍(特に山岳ベース事件)については全否定しており、自身や赤軍派とは何の関係も無いと主張していた。一方で、山岳ベースでの同志殺害をもたらした連合赤軍の暴力的体質や「共産主義化」の理論は赤軍派や塩見のものに他ならない、との批判が関係者からなされることもある[9]

2015年4月以降「自主日本の会」の活動は休止中で、後述の駐車場関係者を中心に「銀河の会」(シルバー世代の意味)を主催。「若者から希望を奪う安倍政権打倒、老人いじめの清瀬市政と闘う」をスローガンに政治活動を展開した。

同月26日執行の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補し、候補者23人中22位で落選(定数20)した。

2017年11月14日、東京都小平市の入院中の病院にて心不全のため死去した。満76歳没[1]。

エピソード

PANTAは「塩見さんもちょっと露出のしすぎかなと思う。赤軍の頃は本当にすごくて、私らにとっては雲の上の人だったんですから」と話している[10]。

60代半ば頃には自身の高齢に伴う身体の衰えを実感し、地元の東京都清瀬市シルバー人材センターの紹介により清瀬市所有の駐車場管理員(隣は西友の駐車場)の仕事を時給950円にて紹介してもらい、本人も「66歳にして労働の意義を知る」と自身のHP内や週刊新潮(2008年5月1・8日号)等でその充実ぶりを語り、それ以前の生活費は仲間からの援助や労組からのカンパだったと語った。

mixiにて、HN「預言者」として活動していた[11]。


著書

過渡期社会論 酒井隆樹共著 共産主義者同盟赤軍派(プロ革)編 査証出版 1975
一向過渡期世界論の防衛と発展のために 査証出版 1975
封建社会主義と現代—塩見孝也獄中論文集 塩見孝也救援会,高沢皓司編 新泉社1988
いま語っておくべきこと 現代資本主義論と社会主義論 革命的左翼運動の総括 川島豪対談 新泉社 1990
「リハビリ」終了宣言—元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半 紫翠会出版 1996
さらば赤軍派 私の幸福論 オークラ出版 2002
赤軍派始末記 元議長が語る40年 彩流社 2003 
監獄記—厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年。 オークラ出版 2004 
革命バカ一代 駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場  鹿砦社 2014 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%A6%8B%E5%AD%9D%E4%B9%9F

45. 中川隆[-11493] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:55:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[502] 報告

参考 レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

46. 中川隆[-11492] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:58:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[503] 報告

1元赤軍派議長 塩見おじいさんの面白い話 世界革命の夢 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CJ7daglEA4M

2011/10/12 に公開
テント村に寝に来てビールを飲んで、クダを巻いてる酔っ払いのおじいさんと思ってインタビューしはじめました。(^_^;)

 でも話しが面白くて、1時間以上話し続けてもらいました。
いやー、本当に面白くて、特に感心したのはビジョンをもっているところです。
これからのお金のあり方など、大事なポイントだと思いました。

※なお、この中継の後、ひょんな事から10人以上の警官に取り囲まれ、パトカーで愛宕警察署に連行され、朝まで尋問を受けた。(^-^;

持っているものすべてチェックされたが、USBメモリだけは分析できないからと没収された。1年後、急に没収されたUSBメモリを取りに来い、と言われ、取りに行った。

47. 中川隆[-11491] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[504] 報告

元赤軍派議長・塩見孝也氏死去、元連合赤軍兵士だから語れるその素顔
文● 週刊ダイヤモンド編集部(ダイヤモンド・オンライン)


2017年11月14日に亡くなった塩見孝也氏(本人のフェイスブックより)

 過激派の一つだった「赤軍派」の塩見孝也元議長が今月14日に亡くなった。享年76歳。1970年代末に「赤軍派の総括」をテーマに論争し、その後も付き合いがあった元連合赤軍兵士の植垣康博さんは「まさに反面教師。悪い人ではなかったが冗談が通じないクソまじめな人だった」と話す。

 塩見氏の自著『赤軍派始末記』
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779114861/diamondonline-22/

などによると、塩見氏は62年、京都大学文学部に入学した。間もなく活動家となり、京大教養学部(当時)の闘争委員長などを歴任。69年に武装闘争を唱えて赤軍派を結成して議長に就任した。

 70年に逮捕。「よど号」ハイジャック事件など一連の赤軍派事件に関与したとして懲役18年の実刑判決を受けた。89年に出所した後は、北朝鮮にいる「よど号」グループと接触を重ねた。晩年は東京都内の駐車場に勤務。2015年4月には東京都清瀬市議選に無所属で出馬して落選した。

 赤軍派と連合赤軍の関係も整理しておこう。塩見氏が逮捕された後の1971年に逮捕を免れていた赤軍派の一部が革命左派と合流し、連合赤軍となった。連合赤軍は同志12人をリンチ殺害した「山岳ベース事件」、人質と共に立てこもった「あさま山荘事件」を起こし、日本中を震撼させた。植垣さんは山岳ベース事件に関与し、あさま山荘事件の直前に長野県の軽井沢駅で逮捕された。

 一兵士に過ぎなかった植垣さんにとって塩見氏は“雲の上の人”。そのため会ったことはなかったが、70年代末、「赤軍派の総括」をテーマに激論を交わした。互いに“獄中”のため、対面ではなく、「数えきれないほどの」(植垣さん)手紙の応酬、論文の送りつけ合いだった。

 論争の結果、2人は80年に決別した。植垣さんは「塩見さんは結局、連合赤軍を自分の問題にできなかった」と述懐。塩見氏は「(植垣さんは山岳ベース事件での)『粛清』の『同志殺し』を居直ることで、僕から去ってゆきました」と自著『監獄記』に記している。

 塩見氏が亡くなった後の本誌の取材に対し、植垣さんが答えた塩見評は悲しいほど低かった。「超主観主義の人だった。他人の意見を聴かないどうにもならない人だった」。だが植垣さんによると、そんな塩見氏も晩年は集会で顔を合わせると、アジり方(過激な言動で扇動する方法)が控えめになっていたという。植垣さんは「年を取って物腰が少し柔らかくなった。『頑固なままでいてくれよ』と拍子抜けした」と振り返る。

 塩見氏に対する評価は人それぞれだが、大学紛争など新左翼運動が活発だった60〜70年代を象徴する人物だったことは間違いない。

 塩見氏のフェイスブックの職業欄には「革命家 駐車場管理人」、出身校には「京都大学 革命」と書かれていた。最期まで「活動家であり続けたい」との気概を見せていたのかもしれない。

(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
https://ascii.jp/elem/000/001/591/1591977/

48. 中川隆[-11490] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:27:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[505] 報告

No490 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 前編 2018/4/20
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。

※ ブログの字数制限2万字を超えるため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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【「塩見孝也お別れ会」前編】

  「塩見孝也お別れ会」ならびに「時代を語る会」への案内状

 塩見孝也さんが、2017年11月14日に心不全で亡くなりました。享年76歳でした。塩見さんは1962年京大(文学部)に入学、京大、京都府学連で活躍しその後、三派全学連と第二次ブント結成に中心的役割を担いました。そして、全共闘運動、70年安保闘争の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成、議長として「大菩薩」「よど号」を主導し逮捕、破防法も適用されて18年間にわたる獄中生活を送りました。出獄後は「9条改憲阻止の会」の運動に参加するなどして、多くの方と交流しました。また文筆活動を通して「革命の夢」を語り続け一生を終えました。

 塩見さんといえば、やはり「赤軍派」問題です。1969年に「前段階武装蜂起」を主張して無謀な局面突破を追求し、7/6事件で第二次ブンドを崩壊させ、後の連合赤軍事件への道を開いた事実を避けて通ることはできません。それらは日本の地において、20世紀の革命運動の終わりを開く端緒となりました。赤軍派を胚胎した第二次ブントの路線的根拠が問われた所以でもあります。そうした事々をも含めて想い致しつつ、塩見さんのお別れ会を開催したいと思います。

 第一部は「塩見孝也お別れ会」、第二部は「時代を語る会」とします。彼との交流の濃淡を問わず、彼への評価の違いも問わず、多くの方々の参加を呼びかけます。

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椎野礼仁(司会)

「皆さま、今日は塩見孝也お別れ会及び時代を語る会にお越しいただきありがとうございました。一部は発言者が決まっておりますが、俺にも喋らせろという方は二部の方でぞんぶんに語っていただければいいと思います。

私は椎野礼仁と申します。塩見さんの追悼記事が朝日新聞と毎日新聞に出ましたが、朝日新聞は、そこにいらっしゃいます樋口さんがなかなか素敵な文章を書いておりますが、毎日新聞の追悼文は、私が実は書いております。

私は社学同の戦旗派の方にいた人間ですので、直接関係ないんですが、塩見さんの本の出版と、塩見さんが市議選に出た時に運動員の一人として応援しまして、晩年、ちょっと縁ができましたの、その関係で司会を仰せつかりました。
メイン司会の村田さんを紹介します。」

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村田能則(メイン司会)

「塩見孝也さんとは55年くらいの前から付き合いです。途中、彼が刑務所に入って20年くらい付き合いが途絶えたんですけれでも、私は赤軍派ではなかったんですけれども、ブントの関係で、学生時代と刑務所から出てきてからの付き合いが何度かあります。意見が違ったりしていますけれども、喧嘩をする時もあれば仲良く酒を飲む時もあるという関係でした。

今日は椎野さんと2人で進行をさせいただきます。よろしくお願いします。」


椎野(司会)
「それでは実行委員長から開会の挨拶をいただきます。」

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新開純也(実行委員長:京大友人)

「今日はお別れ会に参加していただき有難うございます。実行委員会を代表して、塩見孝也の大学と、共産主義者同盟ブントのいささかの先輩として、僭越ではありますが、ご挨拶をさせていただきます。

塩見孝也は、昨年11月14日に心臓疾患で亡くなりました。享年76歳でした。
塩見は1962年に京大に入学しました。たいへん目立つ男で、当時、大管法(大学管理法)反対闘争を闘い、その過程で社学同に入りました。そういう過程の中で、60年代中盤から上京し、三派全学連、第二次ブント再建の中心の役割を担って活躍しました。

70年安保の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成し、過渡期世界論を路線化して武装闘争を提起した。このことについては、皆さんのいろいろな思い、賛否はあるかと思いますが、武装闘争を初めて路線化したのは彼でありました。70年に逮捕され、よど号ハイジャックの共同正犯として約20年間獄中にありました。出てきてから北朝鮮に行って田宮らと交流し、近年は9条改憲阻止の会に参加、また、2011年の福島第一原発事故以降は、経産省前テント村にも参加して活躍した。獄中20年を含めて、闘い続けた一生だった。

その中で、彼は赤軍派リーダーでありましたから、獄中を含めてそれにこだわり続けた一生だったとも思います。

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彼は、赤軍派から出た3つの流れ、一つはよど号ハイジャック、二つ目は連合赤軍に至る過程、三つ目は日本赤軍への流れ、こういう三つの流れについて、後の二つについては、彼は獄中にいて直接タッチしていません。しかし、彼はそういうことに対して責任にこだわり、総括をすることを一生の課題にしたのではないかと思う。

彼は自分の生をストレートに表現した男ではなかったかと思う。そのことは、しばしば多くの誤解を生み、迷惑を被った人が多くいると思います。(笑)お別れ会には行かないという人が結構いるのも事実です。

しかしながら、彼は自分自身のキャラクターを自分の生身の言葉で表現しようとした一生であったと思っています。文字通り『わがままに生きた男』ではなかったか。そういう意味では幸せな人生を送ったのではないかと私は思っている。

今日は塩見孝也を偲び、その時代を語るとともに、現在、大きな転換点にあります世界と日本の今後の行方を含めて、大いに偲びつつ語っていただければ、実行委員会としては非常にうれしく思います。今日はご参加ありがとうございます。」


椎野(司会)

「塩見さんの奥様はいらっしゃいませんが、親しい方が手紙をいただいていて、それをご紹介するということで、ご了承を得ております。」


塩見一子さん手紙紹介(代読:長船青治)
<塩見一子さんの手紙 >

御挨拶 前略 ご容赦ください。

塩見孝也は、2017年11月14日20時15分旅立ちました。直接の死因は虚血性心不全。亨年76年と半年。

生前の御好意感謝致します。私が死者に代わって感謝とはおかしなことです。が、「ありがとう」「ごめん」が言えなかった人なので・・・。
2015年、家族の猛反対を押し切って、市議選に立候補以来、体調を崩し、入退院を繰り返してきました。

今年は、4月3日から15日迄「多摩北部医療センター」に入院。8月下旬から9月一杯「順洋会武蔵野総合クリニック」に入院。退院しても前のように元気をとり戻すことはありませんでした。

「入院しても、もう元には戻らんのだな」と自問自答することも多くなりました。11月14日、武蔵野クリニックで診療拒否。両病院共にトラブルの連続でした。
ケアマネジャー、清瀬市の社協に相談。具合が悪くなったら救急車を呼んで、病院を決めてもらうという方針にしました。

玄関に座り込んだままの彼に「救急車呼ぼうか?」「いや、呼ばんでいい」 台所仕事をしながら会話をしていました。言葉が途切れたので、見ると動きません。それが、20時15分でした。 救急車で心臓マッサージをしながら昭和病院に運ばれました。心臓は動きだすことはありませんでした。

「午後9時53分死亡を確認致しました。でも動かなくなったとき心臓は止まったんだと思いました」

スタッフ全員、直立不動で背筋を伸ばし、深々とおじぎをしました。死者への敬意と受け取りました。私も同様に、おじぎを返しました。感謝をこめて。

眠るような安らかな死に顔でした。3年の内に、沖縄の海に散骨するつもりでおります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お世話になりました。
塩見は何の挨拶もせず、逝ってしまいました。
故人に代わって最後の一日の様子を中心に語らせて頂きました。

本日は、ありがとうございました。
いずれ散骨の日の費用に使わせて頂きます。
塩見に対する評価(悪評)は多々あります。

しかし、個は類に規定され、時代の子でもあります。
彼をつくり出したのは同時代を生きた我々ひとりひとり。

時代を総括して、新しい時代を切り開いていく力にしていく必要はあるでしょう。

私たちとって、自分の人生に向き合うということは、塩見孝也の生涯に向き合うということでもあります。生命のある限り逃げることはありません。
合掌
12月26日  塩見一子


椎野(姉妹)

「黙祷を捧げたいとと思います、皆さまご起立をお願いいたします。」
●黙祷
「同志は倒れぬ」の曲が流れる中、全員で黙とう。

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椎野(司会)

「献花をお願いいたします。」
●献花
「同志は倒れぬ」「ワルシャワ労働歌」などの曲が流れる中、全員で献花。


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椎野(司会)

「参加者の方々から一言づつお言葉をいただきます。渕上さんお願いします。」

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渕上太郎(経産省前テント広場代表)

「塩見さんとはそんなに長い付き合いではない。彼は元赤軍派議長という肩書ですが、72年に浅間山荘の事件があり、彼の政治的な考え方等々について、政治の世界でセンセーショナルに報じられてきたし、彼自身もそうした問題についての一般的な考察を巡って苦労されたのかなと思っています。私も同時代で生きているわけですから、そういう点では共通の問題もあったんだろうと思っています。総括というのはなかなか難しい問題なので、この場でああだこうだ言うつもりはありません。ただ、人間としての塩見孝也について少し申し上げておきたいと思います。
塩見さんとは9条改憲阻止の会が出きてからの付き合いです。しばらく経ってから、会議が終わった後に、彼が『渕上、ちょっと話がある』ということで何のことかと思っていたら、『俺の方が一つ年上なのに会議で塩見と呼び捨てにされた。けしからん』と言われた。(笑)『もしそうだったとすれば悪かった』と謝って終わった。その後いろいろあったわけですが、ある日突然『30万円貸せ』と言われた。『返すのか』と聞いたら『はい』と言うので貸したが、その後お金の話は一切ない。それはそれで仕方ない、そんなこともあるだろうと思っている。

70にもなろうとする男が、呼び捨てにしたと怒って一席設けるわけです。ほとんど学生時代から成長していない。(笑)成長すればいいというものではないわけですが、革命運動などと言う限り、少しずつ成長していかないとなかなかうまくいかない部分があるはずです。そういう点が全く見られなかったので、おもしろい男だと思っていた。

その後、改憲阻止の会が沖縄闘争に取り組んだことがあって、ユニークな沖縄闘争をやりたいと考えて、その金集めの出し物として塩見孝也さんの『生前葬』をやった。その時に、彼から重要な抵抗はほとんどありませんでした。しかし、本音はたぶん『何で俺なんだ。俺はもうお終いということか』という思いもあったはずだか、直接俺には言わなかった。

生前葬に賛同していただいて、おかげで。かなりの金額を沖縄にカンパできた。
9条改憲阻止の会でそういうことをやってしまったものですから、本当に死んだらどうしよう思いましたが、これは普通の方が普通に亡くなっていく対応しかないわけであります。

亡くなってからしみじみ思うわけですが、彼があの世で、まったく違った分野で頑張っていこうということであればいいなと思っている。違った分野で違った経験をして、もう1回転じて、彼の希望していた『革命家』の道を成就することができるのではないかと思ったりするところであります。

彼は『学生運動革命家』として一生を終えた。これはこれで大変幸せな一生ではなかったのかと思っています。楽しい人生を送っていただいて、私も塩見さんの人柄に触れることができて、それはそれで良かったと思っています。」


椎野(司会)

「9条改憲阻止の会の三上治さんにご挨拶いただきます。」

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三上治(9条改憲阻止の会)

「塩見とは長い付き合いで、塩見のことはいろんな話があって、どういう風にお別れするかと思っていて、自分の中でいい言葉がないというか、もっと時間をかけて、いろんな形でやらなければいけないと思っています。

1969年から70年にかけて、いわゆる赤軍派が登場した時、僕はブントの右派といわれた、後に叛旗派となるグループの先頭で、塩見とは一番激しく対立していた時代がありました。それは、あの時代に武装闘争をやることが正しいのかどうか、基本的に僕は反対の考え方をとっていて、一番激しく対立した時期があります。その時代の後も、ずっといろんな形で総括し、話し合ってきました。

その後、9条改憲阻止の会で一緒になり、活動してきました。議論もし論争もしました。60年代の話になると、2人で激烈な喧嘩になり、収拾がつかなくなり、周りがハラハラすることもありました。でも、お互いにその問題について決着つかなくとも、何らかの形で考えていかなければいけないということに関しては塩見と共通の考えを持って、お互いの意見を聞こう理解しようとしていました。

9条改憲阻止の会が経産省前にテントを作り、初期は塩見も来ていた。その後、清瀬市会議員の選挙があり、選挙の後、清瀬まで塩見に会いにいきました。彼も前から心臓を患っていて、お互いに身体には気を付けようという話になりました。

塩見自体が、本当の意味で自分の心の底を、あの当時どうだったかということを本当の意味で語ったのか、語らなかったのか。たぶん語りたかったけれど語れなかったのか、あるいは言葉にしたかったけれど、まだ言葉にならなかったのか、それは塩見の問題ではなくて、また俺の問題でもあるんだろう。

塩見とお別れするのは、塩見の本音を自分自身で本当に理解できた時だろうし、それまでは塩見さんの存在は僕の中ではずっと続いていくだろう。それは、あの時代を共に闘った、その時代の問題でもあるのだろうと考えて、しばらくは、お別れしたいけれど、お別れするためにはまだまだ時間がかかる。まだしばらくは、お別れという言葉を留保させていただきます。」


椎野(司会)

「続いて、塩見さんと北朝鮮とかイラクに一緒に行ったり、市議選の時には応援に来ていただいた作家の雨宮処凛さん、お願いします。」

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雨宮処凛(作家)

「皆さん60年代くらいからの付き合いがある方も多いと思うんですけれども、私はちょうど20年前、塩見さんのイベント、確か『赤軍派対ダメ連』、ダメ連という若者のムーブメントと赤軍派議長が語るみたいなイベントに行ったのが、1998年、私が23歳くらいの時だったと思うんですけれども、塩見さんが初対面のただの客の私に、いきなり『北朝鮮に行こう』と言ってきて、それが最初の会話で、私も元赤軍派議長にいきなり北朝鮮旅行に誘われて、断ったら殺されるんじゃないかと思って(笑)、しょうがないから二つ返事で行きますと言って行ったのが初めての海外旅行で、99年に北朝鮮に行った。何で北朝鮮に行くのか全然説明がなくて、とりあえず平壌に行けば何とか活動するだろうみたいな感じで、いきなりよど号グループの宿舎にぶち込まれて、子どもが同世代だったので、子どもたちと仲良くなって、それで5回北朝鮮に行って、よど号の子どもが日本に帰ってくる時に、私は平壌まで迎えに行って一緒に帰ってきて、そんなことしていたから、日朝会談があった直後に家にガサ入れが入って、本当に塩見さんと付き合っていると、いきなりいろんなことに巻き込まれて人生がおかしな方向になるという、それを実践している一人です。皆さんもいろいろ迷惑を被っていると思いますけれども(笑)、私にはこの20年でこのような実害というか、そのようなことがありましたけれど、塩見さんに強引に巻き込まれたお陰で、人生がとっても面白くなったということがあります。

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あと、晩年の塩見さんのことで、皆さん知らない方もいるかもしれないですけれども、この10年15年くらい、塩見さんの周りに生きづらさを抱える若い人たちがすごく集まってきて、私のイベントにも塩見さんに来てもらっていたんですけれども、2010年にここで塩見さんの生前葬をした時は、元引きこもりの若い人が『俺は駐車場管理人』という自作のヒップホップを歌ったことがあって、その彼は塩見さんのことが大好きで、他にも引きこもりとかニートとかいじめられていたとか不登校だったとか、社会的に排除されたような若い人が、塩見さんの周りにすごい集まっていて、塩見さん塩見さんとなついていたんですね。何でかというと、その人たちのいろんな悩みを普通の大人に相談すると『自己責任だ』そんなことを言われるけど、塩見さんに相談すると全部資本主義が悪いんだ(笑)

それは全部資本主義の問題だ、世界同時革命しかないと言う感じで、普通の大人が言うのとは全く違うことで、元赤軍派議長にお前は悪くない、お前の生きづらさの原因は資本主義だと断言される。そういう形で塩見さんと関わった若者たちが、塩見さんが意図しない形ですごい勇気づけられて、元気になっていくということがたくさん起こっていたんですね。本人は気付いていなかったけど、すごいたくさんの人を救っていた。

自己責任をいわれて分断されて孤立化させられていく中で自殺に追い込まれていくという中での苦しさに対して言ってくれたので、塩見さんがどこまで若者たちの思いを理解していたかわからないですが、そういう形で救っていたというのはすごい大きなことです。

私は20年前は右翼団体にいて、塩見さんにやめろ辞めろと言われていて、12年間から貧困問題と労働問題を始めたら、全部自分の手柄だと思ったらしくて、それからしょっちゅう電話が掛かってきて、明らかにこっちの運動を乗っ取って世界同時革命をやろうというのがバレバレなんです(笑)。

10年前にシルバー人材で仕事をしてからすごく変わって、シルバー人材センターユニオンを作りたいと相談に来たことがある。結局、シルバー人材ユニオンから世界同時革命をしたいということをまだ言っていて、とても感動したことがあって、本当に好き勝手に生きてきた人だったなと思います。

私にとっての塩見さんは『世界同時革命おじさん』でした。」


椎野(司会)

「この方も塩見さんと交差した方で、塩見さんが左から右へ、鈴木さんが右から左へ行くような交差がずいぶんあった鈴木邦男さんから一言いただきたいと思います。」

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鈴木邦男(元「一水会」最高顧問)

「鈴木邦男です。今、司会者が交差と言いましたけれど、そういう点もあったのかなと。僕がかって右の運動を40年間やっていて、今は左翼だといわれますけれども、塩見さんの名前は昔から知っていましたし、本も読んでいました。ただ、皆さんと違って同志ではなかったので刑務所に迎えに行くこともできなかった。

出てきてから、運命的な討論会がありました。予備校の河合塾で『左翼激突討論会』というのがありまして、塩見さんと私がやりました。名古屋でやって、大阪でやって、東京でやって、全国でやりまして、塩見孝也というのはものすごい人だと思ったんですけれども、でも、結構脇が甘くて人間的なんですね(笑)。そういう意味で非常に面白い人ですね。

塩見さんが左翼のアホどもに利用されるのが嫌で、一度塩見さんにこう言ったことがあったんですが、

『塩見さん、そろそろ革命家としてきちんとこの国の将来を考える本を作りましょうよ。憲法9条の改憲阻止の会なんかやっているんじゃない』

すみません、関係者がいっぱいいるのに(笑)

『それよりも憲法そのものが日本にはいらないんじゃないか。天皇制もいらない。そういうことをきちんと言ったらどうですか』

と言った。かって、社会主義協会の人がこんなことを言ったことを覚えている。社会主義協会の代表だった人は

『日本には自衛隊なんかいらない。自衛隊を赤軍にしろ。ワルシャワ条約機構に加盟しろ』

と言っていた。敵ながらあっぱれなことを言うなと思った。塩見さんにもそういう存在になって欲しいと思ったんですね。塩見さんにも

『天皇制はいらないでしょう。大統領制にしましよう。自衛隊はいらないでしょう』

という話をしたんです。塩見さんは『そうだな』と。

『じゃあ憲法9条の問題をやっているところじゃないでしょう、天皇制はいらない、大統領制にする、最初の大統領は塩見さんですね』

と聞いたら、塩見さんは謙虚なんです。

『俺はダメだ。中核派の親分、本多さん』。
『その次は塩見さんですね』

と聞いたら答えない。

冗談半分なんだから大風呂敷を広げればいのに、正直で言わない。

雨宮さんが言っていましたが、若い人の話を聞いたと。塩見さんはキチンと聞くんですね。

『君はなかなか革命的だ』とほめる。
ほめる言葉の最大の表現が『革命的』ですからね(笑)。

それで、『今の若者は大したものだ、しっかりしている』。どこがしっかりしているのか、こいつらは、と僕は思いました。他人に対して甘いんじゃないかと思いました。

あれだけのことをやった日本のレーニンといわれた塩見さんだから、もっと大きく構えていればいいと思うんです。

連合赤軍の人たちが塩見さんの責任を言うと、これこれと細かく例証を上げるんですね。そんなことよりも全部自分が作ったんだ、俺のせいだ、成功も失敗も全部俺のものだと言ったらいいと思うんです。でも、そういう風に言えなかった。きっと人間が真面目なんですね。そういう意味で残念だったと思うし、そういった形で塩見さんをもっと大きくすることができなかった我々傍にいた人間の失敗だと思います。

塩見さんを送るということですが、送りたくないですね。阻止したい、奪還したいという感じですね。肉体は奪還できなくても、魂は、また、革命の志は奪還したいと思っています。塩見さんが出来なかったことを、我々がみんなが何とかしてやっていきたいと思っています。」


椎野(司会)

「続いてトークライブ酒場を経営している平野悠さんにお言葉をいただきます。」

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平野 悠(ロフト+1経営)

「僕はロフト+1というトークライブハウスを経営していまして、その中でいろんな論争があったり乱闘があったりしました。僕は青春時代は、ブントが初めて作った労働戦線で懸命に労働運動をやっていました。でも2年間一生懸命やったことが、あの連合赤軍事件で悲惨な目に遭って仕事を辞めました。僕は学生時代も労働戦線の時代も塩見と全く接点がなかったです。

85年に酒場、トークライブハウスを作った極端なきっかけは、中核と革マルを同じステージに上げて喋らせたいというのがずっと僕のテーマにあったんですけれども、結局、僕のところに出たのはブント系しかなかった。98年に塩見さんと会いましたが、塩見さんは全く孤立無援でしたね。20年間の獄中生活の中で、彼はいろんなことを思ったに違いない。出たらもう1回組織を作って世界革命をやるということはなかった。塩見さんが出てきて何かをしたいという土壌が一つもなかった。

それで僕は塩見さんを立てるしかないと、塩見さんを呼んだいろんなイベントをやりました。15年前に塩見のイベントをやった時に、塩見さんの事務所にFAXが入って『塩見を殺す』。普通の人だったら面白がって、右翼こいこいとなるが、塩見さんは異常反応しまして、防衛隊を作ってどうのこうの、そこまではいいんですが、店の入口で一人一人チェックして写真まで撮って、新宿署の公安もいるというムチャクチャなことをやった。ふざけるな、俺のところは絶対警察なんて入れないと一時絶縁した。

だけど塩見さんはいい人なんだな。塩見さんとは北朝鮮に行き、イラクに行き、原発の時は福島まで行って一緒にデモをしたり、いろんなことをしました。

最後の塩見さんとの決別の場所は、塩見さんから電話がかかってきて『俺は選挙に出る』たぶん、裏ではお金出せというだけの話だったと思うんですけれども、塩見さんに言われちゃったらしょうがないんで、僕と鈴木邦男と雨宮処凛と選挙の応援演説に行った。選挙日の前日には、皆で町をゲバラの旗を持って、赤軍派だと、世界革命の旗を持って町中行進したんですよ。これはひんしゅくもので、町はドンビキ。選挙演説の時は買い物かごを持ったおばさんに対して世界革命をやる訳ですよ(笑)。本人は受かるつもりだったらしいが。僕は間違いなく受からないと思った。でも300票くらい取ったんだよね。20年間牢獄にいたせいなんでしょうが、午前中に演説して午後には家に昼寝に行ってしまう。そんなこともありました。

でも塩見さんはいい人です。塩見さんは大衆運動にとにかく入り込みたい、自分で何かやりたいといった時に、僕の店は若者もいたし、彼は僕の店で開いた学習会にも入り込んできて、『賃労働と資本』の学習会をやったんですけれども、全部パクるんですけれど、組織者としてはうまくいかなかった。

塩見さんは最後の最後まで世界革命を忘れていなかった、という無茶苦茶偉大な人です。」


椎野(司会)

「平野さんが紹介していた選挙演説の時に、塩見さんは獄中20年と言っていた。それは隣の西東京市で、自分は大菩薩で捕まった赤軍派であるということを隠さずにトップ当選をしている市議会議員の選挙参謀がそういう戦術を打ち出した。(選挙参謀は)『塩見さん、他の人と同じことをやってもダメだ。1人対他の候補22人という構造を作り出せばそこに勝機があるかもしれない。そこにしか勝機がない』ということを仰って、それを採用して、23人中22位、319票で落選しました。ただ供託金は取り戻しました。」


村田(司会)

「これから学生運動の時代に活動家だった方が発言します。最初は白川真澄さん、お願いします。」

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白川真澄(京大大学時代の友人)

「私が大学に入学したのは1961年、安保闘争の次の年です。彼が入学したのは1962年に文学部に入学した。教養部のブンドの新しいリーダーとして活動するようになった。当時の京大ブンド、関西ブントは、渥美さんとか新開さんとか、きらびやかなスター軍団ぞろいで『巨人』のようなものです。私は共産党に入党したわけですが、共産党は人材もない戦闘力もない、当時の広島カープのような『貧乏球団』に入ったという印象だった。この『貧乏球団』をブントに並ぶ強い『球団』にしなくてはいけないということで、私が大衆運動の前面に出まして、塩見君とライバルとしてやりあったということであります。

当時の京大ブントの新開さんたちとよく論争しましたが、かなり生産的な論争ができたと思っています。だけど、塩見とは生産的な論争をした記憶が全くない(笑)。新開さんとはグラムシとかローザを読んで、それをベースにして論争するわけですが、塩見は読んだことがないんじゃないか。あいつのレーニン理解は何なんだろうと思っていて、結局塩見とは腕ずくでやり合うことが多くて、論争にならなかったというのが私の印象です。彼は『日本のレーニン』と呼ばれたそうだが、誰が言ったのだろうか(笑)。自分で言ったのではないか、とさえ思う。

私たちにとっての華というのは、68 年から70 年にかけての闘争ということになって、同じように体験したわけですが、私は共産党から当然のように除名されまして、共産主義労働者党という党派を結成しました。これは『遅れてきた新左翼』ということで、中核の諸君とかブントの諸君が先行していましたから、何とか追いつけ追い越せということで、私たちも反政府実力闘争を展開してかなりの犠牲者を出しながら実力闘争を展開しました。ただその中で、いろいろな要素があって、政府を実力で倒すという闘争と同時に、全共闘運動に見られるように自分たちに決定権を取り戻す、つまり自治の革命とか、あるいはフランス5月革命に見られる自主管理の闘い、そういう新しい要素が芽生えていたのではないか、今も当時もそう考えていました。私たちは政治革命だけではなくて、社会革命もということで『政治=社会同時革命』といういい方をして、68年69年の闘いに行こうと考えていたわけです。

ある時、69年ですが、上京していた塩見とばったり出会った。私は共労党の専従で上京していた。その時、塩見に『塩見、暴力だけでは世の中は変わらないぞ』と言った。それ対して、塩見は『何言ってるんだ、暴力で変わるんだよ、暴力で』と言った。その後、交わることはなくて逮捕されて、長い獄中生活を送るわけです。出てきたときに出迎えに行って付き合いが復活するわけです。

私は68年69年というのは、世界革命ということでいうと、国家権力を獲る革命あるいは政府権力の奪取を優先する革命から、自治の革命に革命というものが大きく転換する歴史的な転換点だったと、私は総括している。

このことは、国家権力を獲る革命、あるいは政治権力を奪取することを優先する革命は、革命的な暴力を伴います。革命的な暴力というものは、当時の新左翼の共通の考えであったわけです。『革命的暴力』をどうするかという問題があって、やっぱり塩見君はぎりぎり武装闘争を追求した。68年から70年にかけて東京でやった反政府実力闘争は敗北した。敗北をはっきろ認めなければいけない。私たちは、三里塚闘争の中で、もう1回実力闘争を復権するという道を選んだ。

ちょうど今年が管制塔占拠の40周年になるわけで、生活空間に根差した人々の抵抗の暴力は強いということを非常に実感しました。と同時に、世界的に行われた民族解放の武装闘争、第三世界の武装闘争、ベトナムやパレスチナの解放闘争、そういうものに世界革命のリアリティを求めたわけです。だけれども、それが80年90年代に挫折をしたということをどう考えるか、という問題があります。私は、暴力の問題は、人々の生活空間に根差した『抵抗の暴力』は強い、これは生きるというのが私の一つの考えで、その点、塩見がどう考えたのか、彼が生きていたら論争したかった。

普通、偲ぶ会というのは、良いところを挙げて、最後にちょっとけなすということがあるけれども、何が良いところかよくわからない。

最後に一つ申し上げます。塩見はリアリスとしての革命家としてはダメだ。だけれども、間違いなく革命の夢を追い求めたロマンティストであったことは間違いない。リアリストであるためには、冷たい計算をして闘いを勝利に導くためには、その原点は熱い心を持ったロマンチストでなければいけないと思います。その点で、ロマンチストでありたい、あろうという塩見とどこかで一致するのではないかと考えているところです。」


村田(司会)

「白川さんのお話の中で、誰が塩見を『日本のレーニン』と最初に言い出したかということですが、私の記憶では、たぶん藤本敏夫が、新聞記者相手に関西弁で『レーニンみたいな男やな』と言ったと記憶している。次に朝日健太郎さんお願いします。」

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朝日健太郎(先駆社代表)

「私は1944年生まれです、塩見さんよりちょっと下ですが、同時代を生きてきた一人です。私はフロント派といわれていた政治グループの責任者でもあります。
彼の特徴点は世界同時革命、武装闘争ということでありますけれども、その視点からいいますと、私は終生一貫して反対し続けてきた右翼日和見主義の代表のような立場であります。塩見さんとは、実はほとんど接点がありません。3・11以降、立ち話をする機会はありました。

塩見さんは第二次ブントの中心的な方ですが、第一次ブントで世の中を騒がせている人は西部邁です。この人物はどういうわけかメディアでは賛美されている。60年安保のブントの人たちの一群は、皆さんご存知のように保守派に行きました。それは、国家をどうするかということで中曽根など保守派に近づいたと思います。西部はそこに行けなかった。彼は共産主義は嫌い、これは反スタですね。もう一つは親米保守は嫌い。これは私の理解ですが、60年論争の時に最大の論争点は自立従属論争というのがあった。ブントは私たちと同じように自立派、日本帝国主義復活と闘うにはどうするのかというのがテーマであったわけですから、アメリカと手を組んでやろうという気はさらさらなかったし、ましてや、従属的な発想は全くなかったですね。ですから西部は親米保守が嫌いだった。保守派に行ったにもかかわらず、彼の考えは合理主義です。力で振り負かすというのは彼には合わない。そうすると、最後は行く場所がなくなったのではないか。私は安倍晋三は対米従属を賛美しているとは思いません。彼は明らかに日本の自主独立をどうするかということを保守の側から考えている一人です。彼は最終的には憲法だけではなくて、核武装もそうだし、天皇元首化もそうだし、日本の復古的なものをもういっぺんやろうという発想に近い方である。西部は行く場所がなくて死んだと私は思っている。

塩見孝也の長い人生を見て、ブントの中で保守に行かなかった代表者の一人だと思う。それは保守に行かなかったけれども、革命をどうするかということを終始考えていたことは間違いない。

私は世界革命戦争と市議会議員選挙がどうして結びつくのかということを彼に聞くこともなかったし、私の理解を超えた発想であります。

彼はいろんな評価はありますけれども、彼のフェイスブックを読んだ友人によりますと、そこに革命家と書いてあるという。そうか、彼は革命家として終生闘ったんだ、その中身はともかくかくとして、その志は私は最後に称えたいと思います。」


(明日のブログ後編に続く)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html

49. 中川隆[-11489] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:33:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[506] 報告

No491 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 後編 2018/4/21
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。


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【「塩見孝也お別れ会」後編】

村田(司会)

「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。

最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」

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三島浩司(元東京都学連委員長)

「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。

彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。

塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。

陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。

やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」


村田(司会)

「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」

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渥美文夫(元ブント書記長)

「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。

塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。

1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。

今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」


村田(司会)

「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」

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高原浩之(元赤軍派)

「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。

 まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。

しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。

次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。

この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。

それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。

以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。

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我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。

ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。

最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」


村田(司会)

「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」

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松平直彦(元赤軍派)

「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。

ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。

私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。

その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。

出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。

その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」


椎野(司会)

「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)

「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」

<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>

 塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。

貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。

だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。

50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。

憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。

それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。

今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。

しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕

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山中幸男(救援連絡センター)事務局長

「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。

私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。

私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。

先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」

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椎野(司会)

「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」

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パンタ(頭脳警察)

「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。

重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。

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<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>

 塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
 大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。

 塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。

 この会議のために、「現代革命T・U・V」という、のちにパンフbSへと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。

その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。

 チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。

 ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。

 塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。

 塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。

 それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。

私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。

 塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。

当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。

 僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。

 今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。

 ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。

みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。

「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。

 塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。

 当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。

 最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。

7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。

あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。

 「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。

 私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。

塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。 
2月18日 記 重信 房子


村田(司会)

「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」


<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>

私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。

話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。

厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。

反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。

反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。

「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。

評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。

我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。

ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。

この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html

<塩見孝也略歴>
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html

50. 中川隆[-11488] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:36:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[507] 報告

追悼 塩見孝也 2017.12.01
老革命家・塩見孝也(元赤軍派議長、最高指導者)の「思い出」
text:平野悠
https://rooftop.cc/report/2017/12/01090000.php



 私は今、100日以上にわたる世界一周船に乗っている。ハワイから横浜に戻る船中、ネットで塩見孝也の死を知った。

 18年にも及ぶ獄中生活を経て塩見は出所したが、昔の同志は誰も迎えには来なかったらしい。寂しい出獄だった。かの塩見が作った武装闘争を標榜する赤軍派はボロボロになって消滅していたのだ。

 連合赤軍のあさま山荘と、同志殺しの悲惨な結末により、高揚していた日本の新左翼運動は完全に終焉したと言っていいと思う。その後は、もっとくだらない新左翼各派の内ゲバの時代が長く続いた。革マル、中核派、解放派のバカな内ゲバで100人以上が死んだ。

 私が属していたブンド(共産主義者同盟)はとうに雲散霧消していた。心ある連中は、もう思い出したくもなく、誰もが口を閉じた。政治の季節に参加した誰もがあの時代を若者に伝えることすら拒否した。

 そして時代は「しらけ世代」に移行した。

LPO 三上治塩・見孝也・前田日明・鈴木邦男・高須基仁.jpg

 もう20年も前、出所したばかりの塩見は私の経営するトークライブハウスにやってきた。

「平野、俺はやっと行き場を見つけた。ここには俺の話を聞いてくれる連中がいる」と語った塩見が忘れられない。私の店で塩見は鈴木邦男(新右翼「一水会」元最高顧問)、園子温、森達也、宮台真司、若松孝二、などいろいろな文化人と知り合った。

 あの滝田修に「平野、俺はもう何もできない。追われている身だ。塩見を頼む」と言われたこともあった。

 彼はブンド赤軍の世界同時革命の夢が捨てられなかった。最後の最後まで。漫画でしかないのに革命というロマンを追い求めた。「縄文革命論」などを編み出したが誰も相手にしなかった。

「俺は連合赤軍事件の時は監獄に入っていたから、あの事実を全く知らなかった。あんな京浜安保共闘なんぞと野合を組むなんてバカな話だ。痛恨だ。俺の責任なのだろうか……」とこぼしていたが、周りは塩見の責任を追及した。

「塩見、ここで全てを背負うのがお前の任務だ。ちゃんとした総括をしろ。それなしではお前を許さない」と言われていた。

 塩見孝也は出獄してからいつだって孤立無援だった。彼はよく「平野、久しぶりに議論をしよう」と私を誘ってきた。彼と一緒に北朝鮮にも行った。そこで塩見はよど号赤軍の連中と決定的な別れがあった。さすがの塩見も北朝鮮を全面的にマンセーとは言えなかったのだ。

 イラクに人間の盾になりに行ったこともあった。その時の塩見は本当に嬉しそうだった。どこかに命をかけられるところがあることが嬉しかったのだろう、と私は思った。

駐車場007.JPG

 2年前、塩見は清瀬市議会選挙に立候補した。彼は本当に当選するつもりだった。どこまでノーテンキなのか。

 私と雨宮処凛と鈴木邦男が応援演説に立った。彼は街頭演説でも「世界同時革命」を訴え続けてたのには感動した。買い物カゴを下げた清瀬市のおばさんたちはキョトンとしていた。清瀬の駅前で「日本のレーニン塩見孝也をよろしく」と演説したのは鈴木邦男さんだった。

 選挙運動最終日には赤軍旗と世界革命の幟を立てて、20人ぐらいで街を行進した。鈴木邦男さんなんか大喜びだった。まるで漫画だったが、塩見は真剣だった。 (街の人々はドン引きだったな。)

 投票結果は惨憺たるものだった。見事に落選した。

 今、私には塩見孝也の面影が走馬灯のようにぐるぐる回っている。いいやつだった。素敵な愛すべき老革命家だった。そして塩見の死によって、遅まきながら一つの時代が終わったと思ったのは私だけだろうか。

 安らかに眠れ。塩見孝也。世界革命は近い。あんたはやることはやり尽くした。時代遅れと言われようと。
https://rooftop.cc/report/2017/12/01090000.php

51. 中川隆[-11487] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:47:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[508] 報告

追悼・塩見孝也議長 - ちくわブログ 2017-11-19
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/cec849fd59dd21112168801e9c78e019

2017年11月14日、元赤軍派議長・塩見孝也さんが亡くなった。


塩見さんとは「赤軍派」のドキュメントを撮ろうと思い立った頃から付き合いがあった。
関係者で一番最初にインタビューしたのが塩見さんだったと思う。
まだよく分かってない頃で、今そのインタビュー映像を見返すとチンプンカンプンな質問をしているが、塩見さんはひとつひとつ丁寧に答えてくれた。

わたしが塩見さんの事を人間的に信頼していたのは、ここだった。
相手の知的レベルに合わせて、決して馬鹿にすることなくそこまで降りてきて話してくれた。
どんな人に対しても平等で、相手によって態度を変えるようなことをしない人だった。そういう態度というか、そういう人、だった。

だから誰にも優しかったし、反面長い付き合いがある相手でもキレる時はすぐキレた。
それどころか現在進行形で世話になっている人でさえ、意見が食い違えばどこであろうと瞬間湯沸かし器のようにブチキレていた。
自分の思想信条や、一度そうと思った事は曲げない人だったように思う。そのせいか元赤軍派で塩見さんが嫌いだという人は少なからずいた。

撮る方としては面白かったけど。


思い返すと、まず最初に言われた事は「なんだキミは。興味本位か」という言葉だった。
このブログにも以前書いたけど、生前若松孝二監督とある集会で同席した時、そういうことをある人に言われて戸惑っている、というようなことを皆さんに話したら、若松監督がとっさに「そんなもの、興味本位でいいんだよ!!」と怒気の混じった声で言われた。
その言葉にすごく勇気付けられた。

最初にそういう経験をしておいて良かったと思う。


2015年、塩見さんは清瀬市議選に立候補した。

結果は惨敗だが、それでもあの票は重かったのではないかと思う。

一週間の選挙戦に4日ほど同行したが、近くで見ているとハラハラするくらい疲れていた。そういうそぶりは見せないようにしていたけど、確実に寿命縮めてるなあ、と思った。

でも、市民の前でアジったり、「おはようございます!!」と言ったりする塩見さんは画になった。

この時も、各地から協力者が事務所に詰め掛けた。

政治的な訴求力というより、妙に人望だけはある人だった。

どこに魅力を感じているのかそれぞれ違うと思うけど、わたしは先に挙げた点と、時折見せる人間的なかわいらしさが、塩見さんの事をどうしても憎めないポインツだった。

最後に会ったのは『連合赤軍事件の全体像を残す会』の例会だったと思う。
会の帰り道、市議選の総括を聞こうと高田馬場の路上で塩見さんに突然カメラを向けた。

その時、別件でもちょっとしたトラブルがあり塩見さんは疲れていた。それにわたしも少し巻き込まれていて、内心「しょうがねえな」と思っていた。

ひとしきり質問した後、駅前で「じゃあ」とお別れする時、最後に少し照れながら「色々とありがとな。来てくれたりアドバイスくれたり。これからもよろしくな」とお礼を言ってきた。


こういうところだな、憎めないな、と思った。


https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/cec849fd59dd21112168801e9c78e019

52. 中川隆[-11486] koaQ7Jey 2019年3月13日 14:12:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[509] 報告

ロフト席亭・平野悠の『暴走対談』
第一回 追悼・塩見孝也さん(元赤軍派議長)2018年01月20日 
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html


「資本主義が全て悪い!」(塩見孝也談)

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司会・平野悠
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出席者
鈴木邦男(評論家)
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雨宮処凛(作家)
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出所、そして北朝鮮へ


平野:元赤軍派議長、塩見孝也追悼対談ということで、お集まりいただきました。

鈴木:(机に置いてあった『塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」』を見ながら)でもね、こういう取材はかわいそうですよ、塩見さんがおもちゃにされているようで...。塩見さんって獄中でいろんな本を読んでいるんですよ、20年もいたんだから。でもね、宗教の本は意図的に読まないようにしていたと本人から聞きましたね。

塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」

ph4.jpgよど号メンバーとの交遊秘録から知られざる"性事"活動まで、
という触れ込みで塩見氏がテレクラ、風俗、キャバクラなどに取材に行く様子が書かれている


平野:ハマっちゃうから?

鈴木:親鸞とか、ハマっちゃうからでしょうね。革命家としてやはり自分に対してタガをはめたのかな。だからね、こんなに真面目な塩見さんの性の問題っていう個人的なことを出すのはかわいそうですよ。

平野:でもこれはリスペクトして書いているからいいんじゃないかとは思うけどね。人間は最終的には性なんだよ、っていうことがあるよね。

雨宮:いちばん無防備な部分ですもんね。

鈴木:所詮、われわれと同じ人間と思われるでしょう......でも塩見さんはわれわれとは全然違うよ。そのへんの連中とは違う男だよ。


平野:雨宮と塩見さんの出会いはいつ頃になるの?

雨宮:98年に開催された、塩見さんのイベントですね。当時、わたしはフリーターで人生に迷っていたんです。迷っていたからこそ、「世界同時革命だ!」って言ったり、火炎瓶を投げて政治と戦っていた世代の人に話を聞けばヒントをもらえるかなと思って参加してみたら、塩見さんがすごいテンションで演説をしていて、イベントが終わったあとに、初対面のわたしに「とにかく平壌に行こう」って誘って来たんですよ。そんなとんでもないことは人生に滅多にないから、もちろんOKをして(笑)。99年に初めての海外旅行で北朝鮮に行ったんですよ。

一同:笑

雨宮:だから塩見さんのせいで人生がめちゃくちゃにねじ曲げられました(笑)。


鈴木:僕は、ずっと塩見さんの名前は知ってはいましたけど、出会いは河合塾での「左右激突討論会」というイベントでしたね。左翼と右翼の両極端の人間が集まって、お互い敢えて相手の欠点を探り出して戦うという内容でした。それを何回もやったんですよ。振り返ってみると、世界の革命家に対して失礼だったなと申し訳ないです。

平野:初対面の印象はどうでした?

鈴木:20年も獄中にいて、さぞ打ちひしがれただろうと思ったら、全くそんなことはなかったですね。僕らが学生の時に出会っていたら大変だったと思いますよ。よど号の人たちや連合赤軍の人たちもそうだけど、活動をしていたころから何十年もたっているから話せたんですよ。

塩見さんもそうだけど、上垣さんとか、赤軍の田中さんだとかね、いい人もいるわけですよ。そういう人と学生時代に出会って意気投合していたら、僕なんて簡単に連合赤軍になったり、北朝鮮に行ったりしてたでしょうね。だから何十年も後になってから出会ってよかったですよ。

連赤の人たちとは一緒に活動をしようとは思わないじゃないですか、距離感があるからこそ自由に話し合えることはいっぱいありました。塩見さんにも、ほんとうはもっと考えを教えてもらいたかったですね。


平野:僕は学生時代に何回か会ってるんだけど、彼は三派全学連の学生部長で学生を指揮していたからほとんど会うことはなかったんですよ。僕は労働戦線に行っていたから。だから、出所してから突然電話があって「おい、ロフトプラスワンに出るぞ」って(笑)。

鈴木:あははは、出るぞってすごいな(笑)。

平野:しょうがないな、じゃあ誰と組ませようかなと思ったときに、だめ連(註1)がいいなと思ったんだよね。彼らなら、塩見さんを素朴に尊敬してくれそうだから。そしたらイベント中に質問がたくさん来ちゃって、塩見さんは「おれの話を聞いてくれるやつがこんなにいる」と感動したんだよね。

だってね、出所の日に誰も迎えにこないし、世界は何も変わっていない。奥崎(謙三)さんの状況と同じですよ。奥崎さんは、自分の出所の日をみんなが歓喜の声で迎えてくれて、テレビにも出ずっぱりになって......と想像してたわけですよ、でも現実は正反対だった。

同じように塩見さんだって少しは期待したと思いますよ。奥さんからも言われたもんね、「うちの塩見を頼みます」って。潜行中の滝田修からも「俺はいま逃げ回っていてダメだから、塩見を頼む」って言われたんだよ。だから彼に気を使ってくれている人はそこそこにいたけど、もう一回運動をやろうっていう人はひとりもいなかったね。

雨宮:そりゃそうですよ(笑)。


平野:僕はそのころ『風』っていう店の常連 組織を作って学習会なんかもやってたの。そこに塩見さんが毎回来て演説するんだよ、もうまいったな、このおじさんって(笑)。でも結局、『風』の連中をほとんど引き連れて学習会を出て、自分の団体を作ったんだよ! まぁいいんだけど。

雨宮:もしかして、それが『自主日本の会』!? わたしもあの会に入れられた。

一同:笑

鈴木:これが北朝鮮に行く『白船訪朝団』になっていくわけですね。

平野:もう一発みんな飛躍したいんだったら塩見さんについて行ってもいいんじゃないって思って見てたんですけど、最後はかの「乱入事件」で......。

鈴木:ああ、『ロフト公安事件』(笑)。


塩見孝也、ロフトプラスワンに公安を呼んで大騒動


平野:『ロフト公安事件』で塩見さんは失態を演ずるわけですよ。ロフトプラスワンにわけのわからない右翼組織から「塩見孝也を殺す」っていう予告FAXが届いたんですよ。俺はおもしろいから「来るなら来いよ」って思ってたのに、塩見さんは本気でビビっちゃって。防衛隊を作って、警察にも相談して、ロフトプラスワンの入り口で一人ひとりをチェックしはじめちゃったの。

雨宮:そうだそうだ、あの日はみんながすごい怒ってた。

平野:その日、僕はコマ劇場で北島三郎ショーを観てたんだけど、ロフトプラスワンに帰ったら防衛隊が住所と氏名を書かせて写真まで撮ろうとするし、中に入ったら鈴木さんが壇上で「塩見! 許さない! 公安は帰れ!!」って激怒してるし、警察だって塩見さんに頼まれて来てるのにさ(笑)。もうね、何が起こったのかワケわからなくて大騒ぎだったの(笑)。あんなFAXにビビるなんて考えられないよ。

鈴木:20年間も刑務所にいて、拘禁症の影響があったんでしょうね。

平野:「自分の身を守るのに権力を使うのは当たり前だ」っていうのが塩見さんの言い分だったんだけど、うち(ロフトプラスワン)は警察は絶対に入れない、自分たちで解決するっていうのが基本だったから、まさか塩見さんが警察に相談してるなんて驚いたね。お客さんもひいちゃったし、俺も「塩見断絶宣言」をRooftop(※ロフトプロジェクトが発行しているフリーマガジン)に掲載したから、結局また塩見さんはひとりになっちゃって。


鈴木:その頃の塩見さんの心理状態を、僕らももう少し考えればよかったですよね。20年間も刑務所に入れておいて、「刑務所で警察は俺を殺す気だろう」と思っていたのに刑期を終えて外に出てきてしまったわけで、「自分をどこかで抹殺しようとしている人がいる・革命をこわがっている人がいる」と自意識が過大になっていたんだと思いますよ。いつテロが起こるかもしれない、と。

雨宮:あのイベントの少し前くらいから、塩見さんの事務所にいたずらのFAXが来たり、落書きをされたりしていたんですよ。それで自分を狙っている人がいるっていう気持ちが盛り上がったんでしょうね。わたしもそのイベントに訪朝報告ということで出ていたんですけど、お客さんだったらびっくりしますよね。入り口で写真をとられるなんて。

平野:前代未聞ですよ。鈴木さんは面白がってたけど(笑)。

雨宮:あ、その頃わたし右翼だったんだ。だから公安がどういうものなのか、あんまり分かってなかったんですよ。でもみんながすごい怒っているのを見て、塩見さんはとんでもないことをやらかしたんだなっていうのは分かったんですけど、それよりもオッサンたちがものすごい剣幕で怒鳴りあっているのを見て、もう誰が悪くて何が起こっているのかさっぱりわからなかったですね。

平野:とにかくみんなすごい怒ってだよね。


清瀬市議に出馬
「赤軍派もいる明るい清瀬」


平野:塩見さんが出所してからのもうひとつの失敗は選挙かな(笑)。

雨宮:15年の清瀬の市議会選挙ですよね。

鈴木:平野さん、選挙の相談を受けたんでしょ?

平野:俺が「鈴木さんを応援演説に連れて行くから」って塩見さんに言ったんだよ。これだけ塩見さんをおもしろがっているのに、選挙に応援にこないなんて許さない!って(笑)。

鈴木:そりゃ行きますよ(笑)。

雨宮:この3人、みんな塩見さんの応援演説に行ってますもんね。でも選挙事務所に行ったら「赤軍」「獄中20年」っていうノボリが立っていて、それを見た瞬間に、受かる気ないんだって確信して(笑)。だから「赤軍派もいる明るい清瀬!」とか「清瀬から世界同時革命を!」とか全員フザけてましたよ。わたしも、「獄中20年の確かな実績!」って言いましたもん(笑)。

平野:塩見さんだけが本気だったんだよ。

雨宮:赤軍っていう旗を持って、ヘルメットかぶった人たちが練り歩いても逆効果でしかないですよ。

鈴木:最初のうちは真面目にやってたんだよね。でもスタッフ同士が喧嘩になっちゃって、それでもうヤケだから赤軍の旗も出してしまえ! と(笑)。ゲバラの旗が立っている事務所なんてすごいよね。

平野:でもね、清瀬の他の党をつぶしていけば受かる可能性もあったよね。

雨宮:つぶせなかったと思いますよ(笑)。


平野:そう思うとさ、やっぱり「塩見孝也は偉大なり」っていう総括になるよね。

鈴木:僕はそう思いますよ。でも、みんながいじってたでしょ。

平野:一番いじってたの鈴木さんだよ(笑)。

鈴木:でも真面目に話し合ったこともあるんですよ。塩見さんは憲法を守るとか9条を守れとか言っているけど、もともとは日本革命をしようとしてたでしょ? って。

平野:そうそう、あの人が9条の会に入ってたこと自体がわからなかったよ。

鈴木:今の天皇制を守る気はないでしょう? って聞いたら、「最終的にはそうだけど、今はここしかないんだ」って言ってましたね。「最終的には今の天皇制を廃止して大統領制にすべきだ。最初は中核派の本多(延嘉)を初代大統領になってもらう」って。自分は二代目になるつもりだったんじゃないですか。塩見さんはいろんな思想を持っていたんですよ。でも発表する場がなかったんですよね。イベントでもおちゃらけなことしかできなくて。

平野:9条の会でも、脱原発テントでも、塩見さんはまわりから浮いちゃって放逐されちゃうんだよな。

雨宮:結局、こっちにも来たんですよ。わたしが反貧困活動をはじめたころに、「やっと俺の言っていることが分かったか」って(笑)。

一同:笑

雨宮:俺の思想が届いて右翼が治って労働のことが分かったらしい、雨宮は俺が育てた!って思い込んでる感じで。そしたら、「もう世界同時革命しかないから会おう」って言い出してしょっちゅう電話がかかってくるんですよ。でも、明らかに若い人たちの労働運動をのっとって世界同時革命をしよう、っていう魂胆がバレバレだから会いたくないじゃないですか(笑)。

うちは世界同時革命じゃないんですよ、って説明をして会うのを断っていたら、塩見さんが本気で怒って、「マルクスも読んでいないくせになんだ、俺はお前を左翼とは認めない」って言われちゃって。そんなマルクス読むとか資格が必要ならそんなもん願い下げだ! と思って。

平野:むちゃくちゃだな(笑)。


駐車場の管理が転機か
地に足がつき始めた......と思いきや


雨宮:でもその直後に、塩見さんはシルバー人材センターでショッピングセンターの駐車場管理の仕事を始めるんですよ。そしたらやっと、世界同時革命とか人民とか労働者とか大きなことばかり言わなくなったんです。

自分が時給制で働いて、ショッピングセンターに来る人たちは週末には買い出しに来たり、一緒に働く人は年金生活だったりっていう普通の人たちの生活を知って、地に足がついたことを言い始めたんです。シルバ人材センターって労災が適応されないとかいろんな問題もあるから、相談にのってくれって連絡が来たんですよ。

平野:なるほどね。

雨宮:それで、わたしが入っているフリーター全般労働組合を紹介して、一時は「シルバー人材センターユニオン」を作ろうって話にもなってたんですよ。素晴らしいことだから応援していたのに、塩見さんはこれを利用してまた「最終的には世界同時革命」って言いだしちゃって(笑)。

一同:笑

雨宮:だからもうね、コイツ全然懲りてない! ってびっくりしました(笑)。

鈴木:居場所がなかったんですよね。僕らも責任があるでしょうけど、でもかわいそうでしたよね。運動家という立ち位置を超えてもらって、本を書いてもらうのがいちばん良かったんでしょうね。


平野:鈴木さんの誕生日イベントで、足立正生監督と塩見さんケンカしちゃってね。足立さんから「連合赤軍事件と自分は関係ないなんて言うんじゃなくて、全部背負え」って言われたんだけど、塩見さんは「その時期に自分は監獄に入っていたし、そんなこと知らない。

なんであんなバカな屋号を組んだんだ」ってしか言わないわけですよ。でもみんなは「お前は赤軍議長だろ、そこも含めて総括しろよ」って思うわけ。そしたら塩見さんが足立さんに向かって「お前に言われる筋合いない」って言っちゃって一触即発。まぁでも、塩見さんが連合赤軍の総括までする必要があるのかっていうのはひとつの論争になるよね。「お前が作った暴力組織だろ」っていう視点もあるし、塩見さんにとっては自分がいなくなってから勝手に殺し合いをしたっていう気持ちだっただろうし。

鈴木:真面目すぎるんですよ。全ては俺のせいだっていう大きな視点で考えれば良かったんですよ、でも傲慢に思われるのがいやだったんでしょうけど。

平野:ブントだけは本当にいい加減な組織だから。それで混乱して赤軍派は分裂していくんですよね。個人情報保護法の運動にも巻き込んだけど、結局は浮いちゃってさ。塩見さんはリーダーシップがとれないんだよ。インテリに一発で論破されちゃうから。

鈴木:やっぱり元赤軍派議長っていう名前も大きかったんでしょうね。

平野:興奮すると他者を寄せ付けない雰囲気を作っちゃうんだよね。

雨宮:夢を捨てないロマンの男ですからね。でも駐車場管理の仕事を始めてから謙虚になったんですよね。それまでは、どこに来ても自分が演説をしなければ気が済まなかったのに。

一同:笑


生きづらい若者たちが集まりはじめる


雨宮:シルバー人材センターで働くようになってからはしょっちゅう貧困系のデモにも参加者としてまざってくれて、すごく照れながら「自分もいち労働者として参加をしているんだ」って言っていました。

でも、塩見さんってすごい功績もあるんですよ。2010年に生前葬をやったじゃないですか?(※過去の己に一つの区切りをつけ、「地上に足を着けた人」になるという葬儀)そのときに、ひきこもりの人が「俺は駐車場管理人」っていう自作のラップを作ってきたんですよ。その頃から、塩見さんのまわりに、生きづらい系の人たちが集まるようになったんですよね。なんでかって言うと、もともとわたしも自殺志願者だったけれど、塩見さんを見ていると「ちゃんと生きよう」っていう気がまったくなくなるんです。

平野:あはははは(笑)

雨宮:塩見さんって、獄中20年だし、破防法も適応されて、未だに世界同時革命って言っていて、60代なのに厨二病を患っている働いていないおかしなおっさんだから、一緒にいると「こんなに適当に生きていけるなら自分も大丈夫じゃないか」って思えるんですよ。

鈴木:なるほど。

雨宮:それで、生きづらい若者が何を相談しても「そうか、それは全部資本主義が悪い」っていうワンフレーズしかないんですよ。他の大人に相談をすると、「お前のせいだ」「頑張りが足りないからだ」「自己責任だ」って言われるけど、塩見さんだけはなんでもかんでも「資本主義が悪いんだ」ってことにしてくれるから。全然お前は悪くない...って。

平野:全部資本主義が悪いんだ、と(笑)。

雨宮:そうですそうです。しかも名前が大きいから余計に効果的で。元赤軍派議長に「お前の悩みは全部資本主義のせいだ」ってお墨付きをもらえるわけですよ。これはもう塩見さんにしかできない芸当なんです。そうするとみんな元気になっちゃって、冗談半分で「世界同時革命だ!」なんて言って元気になっちゃって。

鈴木:それはいいことですよね。ロフトプラスワンでも塩見さんが出演した自殺志願者が集まるイベントがありましたよね。塩見さんの力もあっただろうし、そのイベントで結婚して子どもを産んだ人たちも知っていますよ。あのままだったらふたりが地球から消滅するはずだったのに、いまは3人になっている。死にたいと思うということは、本当は生きたいんですよ。だから人に悩みを相談したり、集まったり。そういう場所が減ると座間の事件みたいなことが起こったりするんです。

雨宮:自殺するより、塩見さんのまわりで「世界同時革命だ!」って言ってたほうが楽しいんですよね。そのうちになんとなく、生きづらい若者たちが塩見さんのまわりにいて、生活のことがなにもわからない塩見さんを支えるっていう図式になっていたんです。

本人は本気で「資本主義が悪い」って思っているけど、でも本人の意図していないところで若者たちを救っていたんですよ。普通ならありえない救い方をしてくれますからね(笑)。

鈴木:だから塩見さんにはどっしりと教祖としてでも、若者たちと関わっていてほしかったですよ。人間国宝にしてもらって(笑)。

一同:笑


雨宮:塩見さんの入院中も、最後まで支えてくれていた若い人がいるようで、塩見さんは幸せだったと思いますよ。もう運動家の人脈じゃないんですよ、生きづらい系のつながりも大きかったですから。

平野:平野:ああ、そうか......。考えてみれば、鈴木さんも選挙以来、塩見さんに会っていないでしょ?

鈴木:そうなんですよ、お見舞いに行こうと思ったら「もう明日退院するみたいですよ」って聞いたので。

平野:僕も行くしかないなって思ったけど、本人から「退院したよ」って電話も来てたから安心してたんだけど、急だったな。でもいまの雨宮の話を聞いてほっとしたよ、最後まで懐いている人がいたんだな。

雨宮:愛されていたと思いますよ。

平野:はじめて塩見さんのいい話を聞いたよ(笑)。

雨宮:確かに現代は資本主義が悪いですからね。

平野:はずれてはいないよね、ピントは合っている。

鈴木:週刊誌で連載をやるっていうのもなかったのかな。

雨宮:塩見さんの思想系の文章って難しいじゃないですか、普通の人はとても読めない。だから書いてもダメ、喋ったらアジる......

平野:あはははは(笑)。だから発言場所を求めてうちに来たんだよな。
雨宮:でも意図しないところで人を救うっていう最強のお笑いキャラではありましたよね。ただかっこつけだから、笑われたりするのイヤがるんですよね。本気で尊敬されないとイヤだから(笑)。


塩見孝也御一行、イラクヘ


鈴木:"日本のレーニン"っていうフレーズだって誰が言い出したんでしょうね。

平野:そんなの鈴木さんでしょ。

鈴木:いや、本人から「俺のこと"日本のレーニン"なんて言うやつがいて、困るよなぁ」って形でしか聞いたことないですよ。

平野:俺は鈴木さんからしか聞いたことないよ(笑)。

雨宮:そういえば、この3人とも一緒にイラクにも行ってるんですよね。

平野:木村三浩さん(一水会代表)が先導して30数人くらいですごかったよね。

鈴木:大川興業も行ったしね。

雨宮:イラクで塩見さんは注目されましたよね。やっぱり「レッドアーミー」って言ったらみんな感動するわけですよ。でも「モサド(世界最強のスパイ組織)」が動いて飛行機が打ち落とされるんじゃないかって心配しましたよ。

鈴木:えっ、そうなの(笑)。

雨宮:そりゃそうですよ、塩見さんと一緒に飛行機乗ってイラク行くなんて、打ち落とされてもしょうがないじゃないですか(笑)。

平野:だって赤軍派元議長ですよ。しかも右翼の鈴木邦男も乗ってるっていうんだから。

雨宮:むしろ日本の未来のために撃ち落としたほうがいいんじゃないかって(笑)。

鈴木:撃ち落とされたら英雄になったかなぁ。

雨宮:縁起でもない、やめてくださいよ。それで飛行機の中で塩見さんがタバコを吸おうとして、客室業務員とモメるっていうどうでもいいトラブルを起こして。最後にはイラクの秘密警察にも捕まったじゃないですか!

鈴木:あれ塩見さんが原因だったの?

雨宮:そうですよ! しかも、10万円をイラク・ディナールにかえたら抱えきれないような量になっちゃって、塩見銀行をやったりして。

平野:ひどいもんだよな(笑)。でも面白い人だったよな。

雨宮:楽しい思い出しかないですもん。

平野:でも彼は一体何を遺したんだろう。

雨宮:「資本主義が悪い」っていう名言ですよ。

鈴木:獄中の話もどういう風に考えていたのか知りたいよね。日記をつけていたはずだから、それは本にするべきだよ。「塩見孝也名言集」を作らなくちゃ。

平野:遺品整理しに行きますか。

鈴木:だけど 『実録・連合赤軍』(註2)を観ると、塩見さんはかっこいいじゃないですか。相当な運動をやってきた人なんだろうなとは思いますね。最初に出会ったときは怖かったですから。

平野:鈴木さんが怖いなんてありえないでしょ(笑)。

鈴木:いや、当時の塩見さんはやっぱり怖かったですよ、日本のレーニンですから(笑)。


「知らないのに『全共闘運動世代が悪い』っていうガキがいますけどムカっときますね」(鈴木邦男)


平野:(塩見孝也さんは)この世の中でも、最後まで革命って言い続けた珍しい人だよな。だって革命って言葉なんかもう全然聞かないもんね。最後まで真剣に革命なんて言っていたのは塩見さんくらいしかいないんじゃない?

でも、あの人がやってきたことは「よりラジカルに」っていう戦略で人を惹きつけただけで、世界革命だなんだっていう内容で惹きつけたわけじゃないと思うんだよ。理論家ではないよ。他の人が武装闘争に焦燥感を持っていろんな権力にぶちのめされた時に、塩見さんたちみたいな、よりラジカルな方に惹きつけられるもんなんだよ。

鈴木:でも、塩見さんは現実ではダメだったかもしれないけど、ずっと運動をやり続けて、理念の世界では勝利をした人だと思いますよ。そういう人たちは魅力的に感じますね。

よく、当時を知らないのに「全共闘運動世代が悪い」っていうガキがいますけど、ああいうのはやっぱりムカっときますね。展望がないけど、毎日運動をやっていた人は、何もしなかった人よりも偉いと思いますよ。実際、学生運動をやっていた人っていうのは全体の1割くらいしかいないわけですよ、圧倒的に無責任・無感動な連中が多かったんです。

僕らの中にも、遠巻きに左翼活動家の顔写真を撮って警察に売るような人もいて、そういうのは許せないんですよ。だって、思想が違えど同じ学友ですよ。鈴木は甘いって言われましたけど、敵だから抹殺しろという人は自分の味方とは思わないし、それならむしろ左翼として戦っていた人のほうが信用できますね。塩見さんは信用できる大きな敵でした。だから、もったいなかったですよ、我々がきちんとした発言の場を作ってあげられなかったのは申し訳ないと思っています。


雨宮:わたしは最初の海外旅行が塩見さんに誘われた北朝鮮だったんですけど、あの時に強引に誘われなかったら海外旅行なんて行かないままだったと思うんですよ。

自分の視野が広がったことにはすごく感謝しています。あと、人生に悩んだ時期に「こんなにめちゃくちゃに自由に生きてもいいんだ」って思わせてくれた人でした。死ぬ時まで一回も革命の意思を曲げたことがなかったと思うんですけど、死ぬ瞬間まで理想を追い求めて、まわりからバカにされようと笑われようと続けていて、結果的に意図せぬ形とはいえいろんな若者を救う......。そこには、強さを感じました。打算がない愚直な塩見さんに若者たちが共感をしたのだと思います、人の生き方としてはスジが通っていましたね。

鈴木:ぜひ塩見孝也の本を書いてくださいよ。「わたしの愛した塩見孝也」ってタイトルで。

雨宮:愛してないですし!

鈴木:広い意味の愛ですよ。

雨宮:ああ、広い意味の......。塩見さんがインターネットを始めたときに、出会い系迷惑メールの「わたしを抱いてください」とかを間に受けちゃって、「最近の女性はこんなに解放されているのか」って驚いてましたよ(笑)。

一同:笑

雨宮:「女性が解放されている」っていう言い方も塩見さんらしいなと思って。

平野:でも生きづらい若者を救っていたっていう姿は知らなかったな。

雨宮:死にたいってSNSに書き込んだらすかさず「お前のせいじゃない、それは資本主義が悪いんだ!」ってAIとかで返信してほしいですよね。

鈴木:そりゃいいですね。自殺も減りますよ(笑)。

平野:じゃあ「わたしが愛した塩見孝也」という本を出すということで。

雨宮:みんなが塩見さんについての思い出を語るっていうのにしましょう。

鈴木:歴史的にも価値がありますよ、やりましょうやりましょう!

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平野:やっぱりね、塩見孝也は間違いなく「ひとつの時代」を作ったと思いますよ。(文中・敬称略)

(註1)だめ連 ・・・ 1992年に神長恒一とぺぺ長谷川が始めたゆるやかな共同体。「働かないで生きるには」「恋愛しなくても楽しく生きたい」など、資本主義的な価値観にとらわれない生き方を模索した。

(註2)『実録・連合赤軍』 ・・・ 2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。監督は若松孝二。坂口拓が塩見孝也役を演じている。
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html

53. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[510] 報告

日本赤軍の女帝 重信房子     週刊現代 2000.11.16発行
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm

本誌・週刊現代だけが知っている逃亡29年、ついに逮捕

「血と銃弾と愛欲の1万日」を明かす!


「ブントのマタハリ」「テロリストの女王」といわれた伝説の美女闘士“重信房子”が日本に潜入帰国していた! 驚愕する国民を後目に、逮捕された重信容疑者は、護送される際、手錠をかけられた手を高々と上げた。パレスチナゲリラとともに闘った壮絶な「革命人生」の裏にかくれた素顔のすべてを明かす。

 

実質的な拠点は北京に置いて

「重信は来年日本に帰ってくるよ」

 日本赤軍の支援者A氏は、一昨年('98年)、ある団体の忘年会の席上、こう明言したという。出席者が、驚きながら「どうやって?」と質問すると、A氏は、

「偽造パスポートを使えばわけない。偽造でなくとも、同じ年格好で見分けのつきにくい人は結構いるものだ。そういう人間のパスポートを使えば難しいことではない」

 と、自信満々に答えた。

 日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者(本名=奥平房子)の突然の逮捕劇は日本中をあっと驚かせた。が、すでに2年前に、潜入帰国はごく近い人々には通達されていたのである。

 重信容疑者は11月8日朝、大阪府高槻市内のホテルを支援者の男性2名と出てきたところを逮捕された。

「今年7月下旬、大阪府警本部に、『重信房子に似た女がいる』というタレコミがあった。赤軍内部からの情報だ。高槻は'70年代に赤軍派の拠点があったところで、現在でも支援者が多い。中でも市内のB病院は、職員のほとんどが日本赤軍の支援者で、一大拠点となっている。この病院関係者の住まいや寮、関連施設などをしらみ潰しにあたっているうちに、アジトに出入りする中年女性を発見した。最初は重信とわからなかったが、写真や指紋をとり、前日までにようやく確認がとれ、逮捕に踏み切った」(公安関係者)

 やはり支援者の一人である関東在住のC氏によれば、

「重信が帰国しているという噂は、今年の夏前から、一部新左翼関係者の間で囁かれていた」

 というから、情報が警察に漏れるのは時間の問題だった。

 重信容疑者が潜伏していた大阪市西成区のアパートには、本人の顔写真が貼ってある別の日本人名義のパスポートやノートパソコン、フロッピーディスク、携帯電話数台などが残されていた。アパート、ホテルとも支援者名で借りてあった。中東情勢に詳しいジャーナリストが言う。

「中東の日本赤軍は、岡本公三がイスラエルでの13年にわたる獄中生活で精神を病み、ベイルートで一斉拘束された他の4人も今年3月に国外強制退去ののち送還されて逮捕された。もう実質的には彼女一人しか残っていないような状態でしたから、生きていくので精一杯だったようです」

 警視庁に移送された重信容疑者に接見した弁護士によると、重信容疑者は、

「やり残した仕事がたくさんあり残念だが、日本で皆さんに会えることを楽しみにしている」

 と話したそうだ。このコメントには“望郷”のニュアンスも感じられる。重信容疑者は、9月末に香港から関西国際空港に着いており、それ以前にも、中国、マカオなどを転々とし、日本にも過去3年間で4回入国した記録があるという。

「最近の重信の拠点はもはや北京といっていいほどだった。今年2月には、アラビア石油がサウジの油田採掘権の再契約に失敗した件を材料に、自分のコネクションを通じてサウジ王家と交渉できることをアピール。それを取引材料に政府に働きかけて帰国を実現しようと画策した。水面下では、何度かそうした交渉があったのです」(元公安調査庁調査第二部長・菅沼光弘氏)

「日本赤軍の女帝」重信房子容疑者は55歳。'71年に日本を出国し、レバノンに渡ってから29年になる。血と銃弾に彩られた彼女と日本赤軍の軌跡を簡単にたどっておこう。

 日本赤軍の前身ともいえる共産主義者同盟(ブント)赤軍派が結成されたのは'69年。その後、赤軍派のメンバーは3つに分かれていく。

ひとつは'70年、日航機「よど号」乗っ取り事件を起こし北朝鮮に亡命した田宮高麿ら9人のグループ。重信容疑者が奥平剛士と偽装結婚してベイルートへ出国した翌年の'72年2月には、日本では「連合赤軍」が「浅間山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開。凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚し、国内の赤軍派は事実上壊滅する。

 そして残る一つが重信容疑者ら中東を拠点とした「日本赤軍」だ。彼らは'72年5月30日に岡本公三容疑者(52歳)らが、イスラエル・テルアビブのロッド空港で乱射事件を引き起こしたことをきっかけに地下に潜り、'74年に「日本赤軍」を正式に名乗る。重信容疑者は、その最高機関・政治委員会のリーダーに就任した。

 その後、日本赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、レバノン・ベカー高原を拠点に、オランダ・ハーグやマレーシア・クアラルンプールの大使館占拠事件、日航機をハイジャックしたダッカ事件など、国際テロ事件を次々に起こし、世界にその名を轟かせた。

 

“飼い殺し”状態だった赤軍メンバー

 が、'97年にテルアビブ空港乱射事件の唯一の生き残りで、パレスチナ人民から英雄視されていたはずの岡本公三容疑者ら5人のメンバーが、潜伏先のレバノンで逮捕される。全盛期に30人といわれたメンバーも逮捕が相次ぎ、中東情勢の変化もあって、組織は衰退の一途をたどった。

 中東問題の専門家である拓殖大海外事情研究所・佐々木良昭教授がいう。

「日本赤軍にかつてのような戦闘能力はなくなっている上、中東の情勢がその存在を許さない環境になっている。パレスチナにとっても、いまや赤軍は邪魔でしかなくなっていたし、シリアも大統領が代わって対日政策が変わりつつあり、赤軍は居場所がなくなっていた。先に逮捕された赤軍メンバーの丸岡修服役囚(50歳)のしまりのない体型を見ても、もはやコマンド(=ゲリラ戦闘員)のそれではなかった。彼らは日本へ帰る以外に行き場所がないんです」

 こうした中で重信容疑者は、日本の支援者に書簡を出したり、声明を出すなどプロパガンダに努めてきたが、武装闘争を手段とするテロリストの側面はなくなっていった。

「'72年以来、テルアビブ乱射事件の日(5月30日)に、毎年、重信は『5・30声明』を出し続けてきたのですが、'95年には“武装闘争は誤りである”という声明を出し、この年にはベカー高原の拠点を引き払って、ベイルート市内のアパートに身を寄せるようになっていた。彼女はPFLPの幹部と結婚しているから、それなりの待遇ではあったようだが、もはや飼い殺しに近い状態になっていたようだ。現に今回の逮捕でもPFLPからは何の声明も出ていない。いかに日本赤軍との縁が薄くなっていたかの証拠でしょう」(全国紙外報部記者)

 また、支援者に、「湾岸戦争後、CIAの圧力が強くなったため、東南アジアに活動の拠点を移すつもりだ」とも語っていた。関西の左翼系新聞「人民新聞」の編集主幹は、今回の逮捕をこう見る。

「いくら組織支援とはいえ、重信が報道のように小規模の会議にのこのこ出てくるとは信じがたい。最近、彼女は、うちの新聞に、『銃による平和はもうたくさん』などと、大衆闘争路線への転換を示唆するようなリポートを寄せている。日本国内に拠点を移し、公然活動に入るための、覚悟の逮捕ではないか」

 多くのテロ事件に関わったとされる重信容疑者だが、いずれも実行犯ではない。日本赤軍のメンバーが次々に逮捕されていく現状のなかで、比較的罪の軽い重信容疑者が帰国して“みそぎ逮捕”され、公然の存在となって新たな活動を続けようとしていたのではないか、というわけだ。

 しかし、9日にはこうした重信容疑者の思惑を裏切るかのように、警視庁はハーグ事件での殺人未遂容疑で彼女を再逮捕している。

 

ゲリラに守られ市内を闊歩

 およそ30年間にわたって世界を騒がせてきたテロリスト・重信房子容疑者の素顔とはいったいどのようなものなのか。

 終戦の年の'45年、東京・世田谷で重信容疑者は生まれた。父親は鹿児島出身で、若いころは、右翼組織「血盟団」のメンバーだったという。食料品のよろず屋を営んで、生計をたてていた。重信容疑者の手記『わが愛わが革命』(小社刊)には以下のようなくだりがある。

〈'67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。

「房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな」

……父はつづけた。

 二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だとかいうが、われわれは正義のためにやったのだ。政治家が腐敗していたから、われわれが権力を変えて、もっと人民がうるおえる社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく自分が正義だと思うこと、それだけをやれ!〉

 重房容疑者の“革命家”としての下地は、父親によって育まれたのかもしれない。高校卒業後、キッコーマン醤油に就職。1年後、明治大学の二部に入学する。OLのかたわら、夜間大学に通うようになり、ここで大学紛争に出会うのである。

 気さくな美人活動家として学内で知られた存在だった彼女には恋の噂も多かった。大学時代には婚約までしていたという。相手は地方の名家出身で2〜3歳上の早大生だった。それでも、

〈あいかわらず彼は、私の手も握らない。会うたびに、この間別れたときから、今日まで何をしてたか、そんな話と討論に時間が過ぎていく〉(同書)

 が、彼は暴力的な学生運動には無縁だった。一方、彼女はどんどんのめり込み、やがてバリケードの中に泊まり込むようになる。そして1年後、彼女の方から別れを告げた。闘争に明け暮れる生活はOLと両立しなくなり、会社も辞めた。そんなとき、

〈突然、職業革命家になろうと決心していた〉(同書)

 いわば、彼と別れた傷心の中で“女革命家”が誕生したのである。この手記を構成した脚本家・佐々木守氏が当時を振り返る。

「大学の先輩後輩でもあった僕と彼女が知り合ったのは、'70年安保の真っ最中。新宿の左翼学生がたむろする、酒場みたいなところで話すようになったのがきっかけです。そういうところに出入りする女子学生というのは、マルクスとかを一生懸命勉強している生真面目な女性ばかりでしたが、彼女は、『この前、守さんがやったテレビ見ましたよ』と話しかけてくれた。人を見て対応する能力に、実に優れていた。それはベイルートで会っても変わりませんでした。生来の天真爛漫さ、ほがらかさで、自然とまわりの人間を楽しませてくれる明るさが、他派に比べて日本赤軍という組織が長く続いた原因の一つではないでしょうか」

 前出・佐々木教授がいう。

「重信房子の存在というものは、日本赤軍にとって一種、精神的なよりどころだったのだと思います。当時、日本の左派は、内部で盛んに粛清していました。赤軍に参加した20代の若者にとっても、生きづらい危険な状態が続いていたわけです。そんな中で彼女は、たどたどしい言語を使ってパレスチナとコンタクトをとり、ときに自分の体を張った行動で信頼を得て、PFLPと渡りをつけた。メンバーにとっては、彼女は、母であると同時に、姉であり、妹であり、恋人でもあるような存在だったのだと思います。今ではさすがに美貌もおとろえていましたがね」

 前述のように、レバノンに渡ったのは'71年。すでに2回の逮捕歴がある重信容疑者がパスポートを申請すれば、公安側に筒抜けになる。名字を変えるための偽装結婚が必要だった。

〈わたしはあせった。あせりながら結婚の相手を探した。……ある日、わたしはついに決心して奥平君を訪ねた。『やっぱりあんたの名前借りるわ』。そしたら奥平君は、ぴくっと顔を上げて、照れたように笑っていった。『ああ、それでもいいよ』。それがわたしたちのプロポーズであり、婚約であり、結婚式であり、要するに、男と女が結婚するためのすべてであった〉(同書)

 当時、レバノンで日本レストランを経営していた女性Dさんは、重信容疑者の印象を、

「迷彩をほどこした野戦服にカラシニコフ銃のパレスチナゲリラを引き連れて、颯爽とハムラ通り(メインストリート)を歩いていた。かっこ良かったですね」

 と言う。かつて「ブントのマタハリ」とよばれ、美人闘士として名をはせた彼女の絶頂の頃である。しかし'72年には夫の奥平剛士は、テルアビブ空港乱射事件で自爆して死亡。それまで公然と活動をしていた重信容疑者も地下活動へと突き進んでいった。

 

長女はソルボンヌ大学に留学

 その後、重信容疑者は、PFLPの幹部と結婚、2児をもうけた。

「私は彼女の夫に2〜3回会ってますが、長身でスマート、役者にしてもいいような美男子です。2人の子供はパレスチナの難民キャンプで生活してました。長女は優秀で、パリのソルボンヌ大学に入り、さらに大学院まで進みました。もう30歳近いんじゃないでしょうか。次女もソルボンヌに進学したと伝え聞いたことがあります」(重信容疑者と交流のある都内の元書店経営者)

 2人の娘が成人したことも、重信容疑者が帰国を決意した理由ではとみる関係者もいる。

 さて、重信容疑者の逮捕で、今後、日本赤軍はどうなるか。

「はっきりしているのは、赤軍の中東における使命が、完全に終わったということです。赤軍はこれまでベカー高原を拠点にし、シリア支配下にいたが、保護者たるアサド大統領が死去。加えてアラブ情勢が大きく動いて、イスラエルの力が増大した。モサド(イスラエル中央情報局)は彼女たちの動きを逐一把握しており、昔のようなゲリラ活動は不可能です。しかも、シリアは日本との間で経済上の取引があり、その利害を連動させて日本赤軍の扱いを考えるはず。注目されるのは、重信が表面上は黙秘でも、何をどこまで話すか、どんな取引材料を持ち出すかでしょう。ハーグ事件などに関与したといっても、彼女は実行犯ではないから、それで起訴できるかどうかも予断を許さない。はっきりしているのは旅券法違反など軽いものだけなので、その面でもまだ流動的です」(前出・菅沼氏)

 21世紀を獄中で迎えることになった日本赤軍の女帝は、何を思っているのか。テロを指導して世界を恐怖のドン底に陥れた罪が重いことは言うまでもない。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm


54. 中川隆[-11484] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:10:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[511] 報告

2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html

なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html

オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

55. 中川隆[-11483] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:14:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[512] 報告

重信房子


重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。

ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。
現在、東日本成人矯正医療センターにて服役中。

生い立ち

東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[1]。また、文学少女でもあった[1]。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[2]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していた[1]。

学生運動

大学入学後、夜学連に参加し[3]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[3]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[4]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[5]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。

日本赤軍

重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。

その後、奥平剛士らとパレスチナで日本赤軍を結成し、創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を主な根拠地に「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返し世界各国から非難を受けた。

逮捕

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。

2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し視察・捜査を開始。重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだ際に使用されたコーヒーカップから指紋を採取、照合したところ重信の指紋と一致したことから公安第三課は女が重信であることを突き止めると、ハーグ事件から26年後の11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。

重信が逮捕の際に押収された資料、それを報じた新聞などによれば、重信は1997年12月から2000年9月に、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返し、また1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

なお「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。また社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。また、重信が残した多数の証拠品により支援組織が解明され、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙された。

解散

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた[6]。


ハーグ事件裁判

起訴

重信は1974年9月13日に日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などでの共謀共同正犯で起訴された。

検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。これに対して弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPFLPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した[7]。

懲役

これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴した。控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ重信と同様に世界各国でテロ事件を起こし多数の民間人を虐殺し、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。

2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した[8]。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した[9]。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2027年となった。

その他

八尾恵(よど号グループの柴田泰弘の元妻)の『謝罪します』には、「1970年代後半に北朝鮮に在住し始めた時の夫の柴田のアルバムに、日本赤軍の重信房子がチマチョゴリを着て2歳くらいの娘と一緒の写真があった」と書かれており、重信とよど号グループとの関係が指摘されている。

和光晴生は1974年に北朝鮮当局に資金援助を求める手紙を見せられたこと、そして翌1975年に重信が北朝鮮に渡航したことと、その後、同国の「主体思想」に基づく「思想闘争」という活動形態が組織内部に持ち込まれたことを述懐している[10]。

但し、重信自身は和光の述懐の内容について「穿ち過ぎ」であるとし[11]、「思想闘争」や「自己批判」を行う「援助会」に関してはイスラエルやヨルダン政府などとの闘いの中で生まれたものだ、として否定している[12]。また、足立正生は1974年に日本赤軍に合流した際に年長者として思想や組織、革命に関しての議論を活発にさせたと述懐しており[13]、全てが北朝鮮やよど号グループの影響なのかは判然としない面がある。

公安関係者には「重信ファン」が少なからずいたという[14]。

2018年現在、東日本成人矯正医療センターにて抗がん剤の治療を行っている。


著書

『わが愛わが革命』講談社、1974年 [15] パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263

『十年目の眼差から』話の特集、1983年
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、1984年
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、 2001年
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『革命の季節 パレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年


共編著

『資料・中東レポート』1-2(日本赤軍との共編著)ウニタ書舗、1985-86年[16][17]
『重信房子の半生記』サンデー毎日連載、構成:竹中労、1985-1986年
『赤軍 1969→2001総特集』足立正生夫妻、山本万里子、中山千夏、平岡正明、松田政男、平井玄他、河出書房新社、2001年
『日本赤軍!世界を疾走した群像』和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也、小嵐九八郎、聞き手 図書新聞 2010年
『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年
『天皇制と共和制の狭間で』 小沢信男、日野百草、山本健治、藤田真利子、天野恵一、松田ひろむ、高橋武智、鹿島正裕他、第三書館、2018年[18]


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90

56. 中川隆[-11482] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[513] 報告

重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M


映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU

2014/05/16 に公開

元日本赤軍の重信房子と元ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ、その娘である重信メイとベティーナ・ロールをテーマとしたドキュメンタリー。当時のニュース映像や重信とウルリケに接した人たちのコメントを基に、二人の女性革命家の壮絶な人生と、そんな彼女たちの娘がたどった苦難の幼年期をつづる。監督は、アイルランドのドキュメンタリー作家シェーン・オサリヴァン。ベトナム戦争に声を上げたかつての若者たちの姿を通して、民主主義や平和とは何かを考えさせられる。

57. 中川隆[-11481] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:35:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[514] 報告

<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


2017/01/25 に公開
「日本赤軍」…日本赤軍が引き起こした事件の数々。
美人女性リーダー・重信房子は何を目指していたのか?
日本政府vs日本赤軍の知られざる真実

58. 中川隆[-11480] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[515] 報告

日本赤軍について少し
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 3 月 09 日
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html


日本赤軍について少し。(ユダヤ悪を追求すると、な〜ぜ〜か、北朝鮮勢力から狙われますよ。)

1.よど号グループと日本赤軍は、提携している。よって、どちらも黒幕は、北朝鮮。ボスは、重信房子だった。(北朝鮮の日本の出店は、統一教会インチキ右翼が兼任。)日本の中の北朝鮮=オウム真理教と重信の間にもつながりがある。

▼重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


2.重信の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。

▼行政調査新聞 「重信房子は四元義隆と会っていた?」
http://www.gyouseinews.com/storehouse/jan2001/001.html

米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。

山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


3.重信は、アラブ・ゲリラの中心人物。重信の逮捕は、「あの」連中が計画している日本テロを「アラブゲリラによる重信奪還テロ」と思わせるため?日本でも、ビン・ラディンやアルカイダの名前が使われたインチキテロが行われるのか?(勿論、実際の犯行は、地下鉄サリン同様にCIAのユダヤ人と勝共・北朝鮮の朝鮮人。)

▼【心と宗教板 元オウム信者いない?】
http://mentai.2ch.net/psy/kako/973/973772995.html


4:気になるから質問!重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?

13:そんなことよりも、重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?上手くいかなかったらどうするんですか?平田さんの連絡先も教えて下さい。でないとタダのネタになっちゃいます。

4.元赤軍派の塩見が、結局は、朝鮮系右翼とつるんでいるわけです。つまり、日本の半島系右翼は、北朝鮮の傀儡。総元締めは、ロックフェラーの手先と北朝鮮の出先を兼任する文鮮明ということです。

▼元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

▼新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同

【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

▼平壌製作『よど号物語』上映
日本赤軍の塩見孝也が主体となった、よど号物語という映画の上映会に、サヨクがみんな集まった訳だけれども、「賛同人」の中にやっぱり、新右翼が混じっていたわけです。中台一雄(大悲会元会長)

5.ということで、オウム・日本赤軍・アルカイーダの連携に見せかけたインチキ日本テロを、ユダヤCIA+統一勝共似非右翼・創価学会の朝鮮人+北朝鮮が企んでいる恐れありと見ます。

日本有事情報【極秘】
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=677&KEY=1038823935
2000年韓国に亡命 1975〜80年に、対日戦を想定した特殊部隊525部隊(5旅団6万人)を指揮し、100万人の一般部隊と合同で訓練をしていた。南光植によると、北朝鮮は、東京を占領することを目的とした、特別の軍隊を訓練させている。想定しているのは、東京での市街戦、化学兵器で人の脳を窒息させる、呼吸器系を麻痺させる、脳を麻痺させ手足を自由に動かなくさせる、政府関係庁舎の占領、空港の破壊、TV局や、新聞社などマスコミ関係の占領、化学兵器で市民を窒息させる等。北海道への上陸作戦の訓練も行っていた。金正日は、生物化学兵器で、東京市民を、一週間眠らせ、東京を占領するという内容の映画を作製し、軍の指揮官に見せている。

2チャンのコメント:「だからその実験がオウムのサリン事件なわけで。オウムは北鮮の破壊工作用下部組織だからね。カルト宗教などではない。」正解ですね。

↓は、私がかなり前に作ったHPです。現状は少し変わってきているので、ご参考程度にどうぞ。(2002年に起きなかった日本テロが、今年おきても不思議はないですが。)

◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

◎東京でのテロは、重信房子奪回の名目。表向きは、イスラム過激派と赤軍派の共同作戦。実は統一・創価・北朝鮮・CIAの合同作戦。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_5.HTM


http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html

59. 中川隆[-11479] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:18:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[516] 報告

Re: 在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 4 月 13 日 10:54:09: XUSllUZ/d1uKA
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/239.html


在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。どちらも内部に、北朝鮮に直結した在日・帰化人のネットワークが出来上がっています。それは、「右翼宗教」でも同じことです。北朝鮮とつながっているのは「サヨク」だけだと思うのは幻想です。むしろ、『右翼』の看板に隠れて、北朝鮮勢力が日本国内で工作を進めていると見るべきです。(従って、日本の右翼の大半は、在日と部落であるわけです。日本になんら利益をもたらさない品性下劣なヤクザ右翼は、反日的な朝鮮人でなければ勤まりません。日本の国家の利益を損ない、日本民族を愚弄する役割なのですから。日本人にはできません。)右翼とヤクザはほとんど同義語であり、どちらも「朝鮮」という接頭語をつけてながめるべき対象です。

日本赤軍は、右翼を偽装した民族派組織を日本国内に網羅することで、北朝鮮のための破壊工作を準備していたと思われます。(参考@)
新右翼の中心組織、一水会の宴会に出席している連中の顔ぶれを見れば、「北朝鮮系サヨク・似非在日右翼・在日宗教」が裏で手を結んでいるのが良くわかります。勿論、朝鮮創価学会の幹部も出席しています。赤軍派の塩見も右翼の親分も宮崎学もオウムのスポンサーだった代議士、山口敏夫も同席しています。この連中みなが、結局は北朝鮮と背後のユダヤ権力の手先ということです。(参考A)

一方で、北朝鮮の日本総代理店であった赤軍派が弱体化し、北朝鮮のための工作ができなくなった後、代わりにピョンヤンの手先の役割を担ったのが、オウム真理教でした。(参考B)よって、北朝鮮の同志である創価学会と統一教会の朝鮮人が、ピョンヤンの新しい対日工作拠点であるオウム真理教に移動集結したのも当たり前なわけです。オウムが1990年から急速に膨張したのは、創価・統一の朝鮮人・帰化人が親組織の命で、偽装改宗して組織に入り込んだという理解をすべきです。

参考@ 【赤軍派は、朝鮮労働党直結の似非・右翼団体の組織を目論んだ】
「鈴木邦男と一水会とピースボートと朝鮮労働党の関係」
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/information.htm
「このころ彼(よど号グループの田宮高麿)は、日本国内に「愛族同盟」と称する政治団体を結成することを考えていた。民族主義を最前面に押し出した組織だった。もちろん、この動きが朝鮮労働党の指導のもとに行われていたことは明白だった。そして、この組織化のなかで日本の民族派系組織も取り込んで運動を拡大することが画策されていた....」

参考A
【結局、こいつ等がオウムの背後にいた連中に繋がっている】
一水会を鼓舞する会 
http://web.archive.org/web/20000605001307/http://www2.neweb.ne.jp/wc/issuikai/226.html
「一水会を鼓舞する会」の発起人名簿の一部。
有田芳生     (ジャーナリスト)
井上聖志     (創価学会広報室渉外部長)
柴田泰弘     (「よど号事件」メンバー)
高野 孟     (「インサイダー」編集長)
徳田虎雄     (徳洲会理事長)
中台一雄     (大悲会前会長)
宮崎 学     (作家)
山口敏夫     (元労働大臣)
塩見孝也     (元赤軍派議長)

参考Aの2
朝鮮労働党系右翼???
石井一昌氏のHPより  http://www.ishiikazumasa.com/cc/messages/0117200002.html
最初は、「新右翼」という試みを、旧態依然の右翼団体が誹謗し潰そうとしているのかと腹が立ちましたが、右翼の人にもちゃんとした言い分があるそうで、その根拠は、一水会および鈴木邦男氏は、日本赤軍の末端組織で朝鮮労働党の傘下組織である
・彼等の行動の真の実体は、北朝鮮支援、テロと誘拐拉致・核開発・日本に対する誹謗中傷の手伝い、という売国行為である・朝鮮労働党の指導下にある「愛族同盟」という極左と反米右翼を合流させる目的の組織があり、ここで一水会と塩見氏らが共闘しているというものであるということや、あと、鈴木氏個人の悪評判まで色々目にしました。 右翼の方が、ここまで言い切ってしまっているものを無下に「そんなのは誹謗中傷だろ」とも僕は言えなくなってしまい少々混乱しております。
そんな折りに、石井さんのページを見つけ、石井さんが鈴木邦雄さんに並々ならぬ感情をお持ちのようだというのを読んで、その根拠と、上記のことについて石井さんは御存知なのか、それについてどう御考えになるのか、ということを聞いてみたくなった次第です。

参考Aの3
【もはや、イデオロギーは無関係。右翼も左翼も、合言葉は在日、そして北朝鮮】
元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から) http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

参考Aの4
新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同
http://www.zorro-me.com/TANAKA/TANAKA02_1.html
【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

参考B
重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/96.htmlオウムの北朝鮮コネクション

オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。

早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

以上


全部読むなら.....◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/239.html

▲△▽▼


こーれはまた面白い情報をありがとうございました
投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 4 月 13 日 18:00:24: WgkZZjZT3HifU
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/243.html

ブッシュ親子の自作自演テロの11様、

鈴木邦雄の妙な赤軍への擦り寄りについては、
あたくしも一部引用していただいた記事も含め、これまでに読んで知っていました。
でも、彼が在日コリアンであることを知ったのは、あなたのHPでのことです。
日本も自前の諜報機関を持てとか強化しろとか言う人もいますが、
ブッシュ親子の自作自演テロの11様ならスカウトされちゃったりして、ははは。
ほんとにすごいです。

思えば彼の『公安の手口』(ちくま書房でしたっけ?)と言い
重信メイの著作(講談社刊?)と言い、
割とメジャーな出版社からああも易々と手を差し伸べられていることが
また何とも不思議でなりませんでした。

今のところ、ぱっと見はどんなに突飛に映っても
赤軍がシオニストと組んでいるという仮説については
それをますます強化するような情報しか出て来ないように思えます。

北朝鮮と中東の関係に関連して、
レバノンからも拉致してた、なんていう情報もありましたからねえ。
重信氏はずっとレバノンに住んでたはずですから、
レバノン人の拉致にも何かしら関係があっても不思議はありません。

またお手隙の時にでも一度、
赤軍派(重信、奥平や岡本の)が起こしたことになってるテロが
ほんとに彼らの手になるものだったとお思いになるかどうか
ご意見をお聞かせいただけたらと思っております。
下に資料を添えておきます。

前にホロコースト板にも書いたのですが、
ミッション=インポシブルじゃあるまいしですね、
一体どうやってあれらのことをしでかして
捕まらないでトンズラしたり出来たというのか。
しかも、その場所たるや、
どこもむしろシオニストやメーソンリーであればこそ
水を得た魚のように動き回れる土地ばかり。

どうせ全部『モ』の字のお膳立てでイイカッコしたんでないの?
てか、アメリカやイスラエルがやりたかった工作に
名前を貸し、撹乱に協力して恩を売った、というのかしらん。

ではまた、ごきげんよう。


『無限回廊』より 日本赤軍が引き起こした主なテロ事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm

=================================================================================
1972年(昭和47年)5月30日 
テルアビブ空港事件

イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。
---------------------------------------------------------------------------------
1973年(昭和48年)7月20日
ドバイ事件

丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。
---------------------------------------------------------------------------------
1974年(昭和49年)9月13日
ハーグ事件

重信房子、西川純、奥平純三、和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。
---------------------------------------------------------------------------------
1975年(昭和50年)8月4日
クアラルンプール事件

奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。
---------------------------------------------------------------------------------
1977年(昭和52年)9月28日
ダッカ事件

丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、戸平和夫、坂東国男と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。犯人グループは奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人と現金600万ドルをダッカに移送させたあとアルジェリアに逃亡し人質全員を解放した。
---------------------------------------------------------------------------------
1986年(昭和61年)5月14日
ジャカルタ事件

インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1987年(昭和62年)6月9日
ローマ事件

ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、奥平純三らを犯人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1988年(昭和63年)4月14日
ナポリ事件

イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、奥平純三と重信房子を犯人と断定した。
=================================================================================

http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/243.html

60. 中川隆[-11478] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:24:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[517] 報告

2018年3月31日

 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/

61. 中川隆[-11477] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:31:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[518] 報告
重信家三代の家族愛‐鈴木邦男‐マガジン9 2012.03.07

3月4日(日)の「鈴木ゼミin西宮」は超満員だった。2カ月に一度、西宮で、いろんなゲストを読んで開催しているが、今回で10回目だ。今回のゲストは重信メイさん(国際ジャーナリスト)だ。お母さんは重信房子さんだけでなく、僕は房子さんのお父さんにも昔、会っている。重信家三代にわたって会っている。西宮では、その話を詳しくした。

 重信メイさんは日本に帰ってきて11年目だ。日本に帰る前から話は聞いていた。「もの凄い美人だ。日本に連れて帰って女優にしたい」と、映画監督の若松孝二さんは言っていた。全共闘時代の重信房子さんは「美人闘士」として有名だった。その娘さんなんだし…と、皆、思っていた。

 日本に帰ってきて、メイさんはまず河合塾の講師になった。河合塾には全共闘運動をしていた先生方が多い。そんなことがあって、呼ばれた。メイさんは、超人気講師で、廊下にまで生徒があふれていた。さらに「朝日ニュースター」のコメンテーターになった。5年ほどやったが、今は辞めて、フリーの国際ジャーナリストだ。河合塾の方は、今も授業があるという。僕も河合塾コスモで授業を持っている。「だから職場の同僚です」と言ったら、「鈴木さんは大先輩です」と言われた。

 西宮では、初めに、メイさんから40分ほど話してもらい、その後、二人でトーク。この時、僕は「重信家三代」との付き合いについて話をした。そのあと、質疑応答。会場を移しての二次会と続いた。初めにメイさんは、「これからの世界を語る。〜アラブ、アメリカ、そして日本」と題して話してくれた。又、アラブでの生活、お母さんのこと、日本赤軍の人たちのこと…などについても話してくれた。

 本名は「重信命」だ。命は、「いのち」だし、革命の命だ。そんな思いを込めて、お母さんが付けた。でも、漢字で書くと、かなり重い。重く信じて、それを命がけで守る。そんな感じになる。「それに、右翼のようでしょう」とメイさんは言う。「○○命(いのち)」なんて腕に入れ墨してる人がいるが、あんな感じがするという。右翼というよりは暴走族かもしれない。ともかく、重苦しくなるので「重信メイ」にしたという。その方が、国際ジャーナリストとしても通りがいい。

 この日、僕は、お爺さんの重信末夫さんに取材した「やまと新聞」のコピーを持っていって、会場の皆に配った。〈重信房子はなぜアラブへ。元右翼の父が語る女闘士の素顔〉と、見出しが書かれている。小見出しは…「ロマンを求めて。北一輝などを高く評価」「連合赤軍、唾棄すべきもの」「極右と極左は一致。ただ天皇観だけが違う」。

 「やまと新聞」の昭和49年3月15日付だ。1974年だ。三島事件の4年後。連合赤軍事件の2年後だ。今年は「連合赤軍から40年」だから、末夫さんに取材したのは今から38年前だ。タイトルで分かるように、末夫さんは元右翼だった。それも筋金入りだ。戦前の「一人一殺」の血盟団事件に参加していたのだ。ただ、テロを決行する直前、井上日召に言われた。

「君は人間が優しいからテロには向いてない。我々が破壊をやるから、その後の建設を頼む」と。

それで郷里に帰り、教師になった。戦前は、国家革新、革命、を言うのは右翼だった。だから、「娘は右翼ですよ」と断言していた。「右翼」は誉め言葉なのだ。この世の中を変えるために闘っている。そんな娘を誇りに思っていた。末夫さんの「過去」を知らずに、右翼からよく抗議、嫌がらせが来る、と言っていた。

「あんな左翼の娘に育てて恥ずかしくないのか。責任をとって自決しろ」と言ってくる。

末夫さんは、戦前の右翼だ。そんなものに動揺する人じゃない。笑って話していた。この時、「娘さんとは連絡はないんですか?」と聞いたら、「ない」と断言していた。房子さんが日本を脱出する時、「もう二度と会うことはないだろう」と思ったという。

 それから20年以上が経って、房子さんは日本に帰っていたところを逮捕される。そして、懲役20年の刑を受け、今は八王子の医療刑務所にいる。刑が決まる前、法廷には何回か行った。拘置所でも何回か面会をした。お父さんの話をよくした。

 「実は、あの時、父から問い合わせがあったんです」と房子さんは言う。「元右翼学生の鈴木邦男という男から取材の申し込みがあった。知ってるか?」という内容だったという。

もう連絡はないと言ってたが、ちゃんと連絡はあったのだ。父親から手紙が来たが、房子さんは知らない。周りの人達に聞いた。日本から来た活動家は沢山いて、その何人かが知っていた。

「右翼の暴力学生ですよ、鈴木というのは」。それで、「ロクな奴じゃないから取材は断った方がいいですよ」と房子さんは手紙を出した。

しかし、今と違い、38年前だ。手紙が届いて、返事が来るのに1カ月以上かかる。それが幸いして、僕は取材することが出来た。

 僕は右翼学生運動をやっていたが、内部闘争で、除名になり、運動の場から追われた。1969年だ。そして縁があって、1970年から1974年まで、産経新聞に勤める。事件を起こして産経をクビになってからは、右翼の世界に戻り、「新右翼」と言われるようになる。

「産経に4年いた」と言うと、「記者だったんですね」「だから、その後、本を出したりしてるんですね」と言われる。

しかし、産経では販売局と広告局にいて、ものを書く仕事ではない。産経を辞めてから、原稿を書くことを始めた。友人が「やまと新聞」にいたので、よく書かせてもらった。1974年の東アジア反日武装戦線〈狼〉の連続企業爆破事件について「やまと新聞」に連載した。それが三一書房の社長の目にとまり、本を出すことになった。『腹腹時計と〈狼〉』だ。それが僕のデビュー作だ。

 「やまと新聞」は右派系の日刊紙だ。当時は、月刊、週刊だけでなく、右派系の日刊紙もあったのだ。そこでは随分と書かせてもらい、生活も助かった。その頃、重信末夫さんにも取材した。

 そう思っていた。ところが、末夫さんのインタビューだけは違っていた。まだ産経新聞にいた頃だ。休みの日を利用してインタビューに行ったようだ。今、思い出したが、「発表するのは、やまと新聞ですが、僕は産経新聞の社員です」と言って、身分証を見せて、信用させたような気もする。その頃は、産経には満足していた。サラリーマン生活をエンジョイしていた。入社した年の暮に三島事件があり、それが契機で、昔の学生運動仲間が集まり、一水会を作った。でも、サラリーマンのサークル活動だった。

 ところが、末夫さんに話を聞いて、衝撃を受けた。「このままで俺はいいのか?」と思った。真剣に思った。そのインタビューから10日後、僕は事件を起こして、産経をクビになる。自分の心の中に、「このまま会社にいてはダメだ!」という焦りが生まれたようだ。末夫さんに会っていなければ、心をかき乱されることもなかっただろう。そして、ずっと会社勤めをしていたことだろう。

 最近、本屋で見つけて読んだ本だが、由井りょう子さんの『重信房子がいた時代』(世界書院)がある。いい本だ。「学生時代のサークル仲間が綴る重信房子の家族愛の軌跡」と本の帯には書かれている。第三章は「父と娘の革命」になっている。僕も三代の家族愛に触れた。そして運動の世界に戻った。不思議な縁だ。

http://www.magazine9.jp/kunio/120307/

62. 中川隆[-11476] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:48:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[519] 報告


プロフィール画像

ang********さん 2009/6/22 07:16:49

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


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P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280

63. 中川隆[-11475] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:53:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[520] 報告


2019/03/13
重信房子
全共闘のマドンナ 1974年 ハーグ事件

「血盟団員」だった右翼の父と語った"世界同時革命"

しげのぶ・ふさこ 1945年、東京生まれ。
明治大学二部在学中に学生運動に身を投じる。
赤軍派に所属して71年、パレスチナに渡る。
その後、日本赤軍の最高責任者。2000年密かに帰国中に大阪で逮捕される。


日本赤軍の重信房子が大阪の高槻で逮捕されたのは2000(平成12)年11月である。日本を出国したのが1973(昭和48)年だから丸々27年間、姿を消していた。逮捕後、オランダッで起きた「ハーグ事件」における監禁・殺人未遂の共謀共同正犯の罪で起訴され、06年6月、東京地裁で判決があった。裁判は有罪、無期懲役の求刑に対して懲役20年の刑が言い渡された。重信は無罪を主張して即座に高裁に上告している。

 日本赤軍と、そのリーダーだった重信房子についての報道や記録はおびただしいが、なかでももっとも興味深いのは重信の父への取材である。重信(偽装結婚しているか戸籍上は奥平)房子の父、重信末夫は戦前の右翼テロ事件「血盟団事件」に関係した男である。このことを発掘してはじめてインタビューしたのは、まだ産経新聞の社員だった鈴木邦男である。民族派の『やまと新聞』紙上に掲載されたインタビューで、鈴木の質問に重信の父はこう言った。

 「警察が何回捕まえようと、マスコミがどうこう言おうと自分の初心を貫くことは立派だと思う」


「戻るな」と言った父

インタビューは74(昭和49)年。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起き、パレスチナに渡った日本赤軍幹部として重信房子の名が禍々しいものとし報道されたあとである。この2年前には浅間山荘事件があり、東京の町田に住んでいた重信の父のもとには嫌がらせの脅迫が殺到していた。鈴木は重信の父の態度と言葉に心を打たれる。鈴木が原稿を書き、記事になって原稿料を手にしたのはこの時がはじめてであり、このインタビューをきっかけとして産経新聞を辞めて民族運動に専念することになる。

 重信の父は『文藝春愁』に「重信房子の父として」と題された7ページの手記を残している。教育者だったからか文は達者である。そこで冒頭からこう記している。

 「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしにくのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」

 重信末夫は宮崎の都城出身。現在の東京理科大学を卒業して故郷で代用教員をしていた時に血盟団事件に誘われる。しかし首謀者の井上日召に「お前は教育者だ」とあとのことを託されてテロの実行役からはずされている。

【田宮高麿との結婚を嫌う】

パレスチナに渡る以前、重信房子は家に学生運動のメンバーをよく連れてきている。そこでたびたび父を交えた会話と議論があった。かなり深い話もあったようだ。


「私がかつて右翼クーデターに参加した人間であることは、子供たちは知っている」

「話題は当然、革命に及んだ。歴史の大きな流れのために、私は革命は時には必要なものだったと思っている」

 しかし赤軍派についてはこう言う。

「房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、私は最後まで反対だった…中国で言う天が、仮に客観的必然性といったことを指すとするなら、房子たちの理論にはまったく天がかけていた」

 手記の最後はこう結んでいる。

 「ともあれ、房子は海のかなたに去った。アヒルは記しには戻らないだろう、と私は考えている」

 パレスチナへ入ったのは、抑圧されているパレスチナ人と共闘して、そこを根拠地として世界同時革命を闘おうという目的のためである。

 重信の父は娘が国際手配を受けたあとも堂々と生きて、83(昭和58)年に73歳で死んだ。

 逮捕のときこそ、その豹変ぶりから「ふつうのオバサン」と揶揄されたが、重信房子を罵る言葉は右からもない。左にとっては今も「全共闘のジャンヌ・ダルク」で、田宮高麿にいたっては「史上最高の女は重信房子だ」と叫んだ。

 重信のパレスチナ行きには、その田宮が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよとい指令があり、それを嫌った重信がほとんど思いつきでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。
(桃井四六氏文より転載)

http://bonbay.blog.shinobi.jp/%E5%B7%A6/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90


64. 中川隆[-11474] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[521] 報告
2007年11月9日(土) 東京 45歳
「血盟団公判速記録」 と重信末夫
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140


鈴木邦男のブログの記事の中に「血盟の革命戦士たち」と題し、血盟団事件のことが取り上げられていた。

血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であることも見逃すべきではない。(*)

井上日召が血盟団メンバーに命令した「一人一殺」の指令により、団伊玖磨の父親の団琢磨(三井財閥)を始めとする政財界の重鎮が次々とテロの凶弾に倒れた事件であることは、日本近代史の授業で勉強して覚えている。

鈴木は31歳(1974年)のときにこの事件の裁判記録全4冊3551ページを読破していて、最近必要があってまた読み返したとのことである。

一点の私情もない、純粋に国のために決起した血盟団の革命戦士たちの裁判での言葉を紹介している。

たとえば古内榮司氏。三井銀行常務池田成彬を狙い決行前に逮捕された。彼の公判中の陳述より。

「吾人の行く所は国家の反逆児として、乱臣賊子として葬り去られる、其の途を行く。さうして私の心境としては、私の境涯としては、それが即ち成仏の道だ、そう思って居ります」

悟り切った心境だ。宗教的だ。哲学的でもある。それに、今気づいたが、「自分は愛国者だ」とか「無知な国民の目を覚まさせるためにやった」「国民を啓蒙するんだ」などという人間はいない。実に謙虚だ。「天誅を下したんだ」と絶叫する人もいない。冷静で、淡々としている。そして、「愛国者」として名が残ることを求めてない。それが、国家の「戦死」とは違う。名誉も称賛もない。人を殺すのだから罪人だ。乱臣賊子だ。それでいい。むしろ、自虐的ですらある。これは何やら清々しい。

また、彼らの潔い、謙虚な発言に感心したからだろうか、この法廷では裁判官も被告らに十分に喋らせている。じっくりと話を聞いている。こうなると、時には被告は「講師」であり、「先生」である。裁判官、検事は「聴衆」のようだ。

実際、この古内の陳述のあと、裁判長は「よし聞こう」と言って、古内にもっと話を聞きたい、喋りなさいと促している。今の裁判ではこんなことは絶対にない。血盟団の公判では、立場上、仕方なく裁いているが、「被告」たちは一点の私情もない。国のために決起した男たちだ。それを裁判官も検事も認めている。その場に居合せたことを喜び、真剣に聞いている。傍聴人だって、被告たちの陳述を聞き、感動し、涙を流している。

日蓮宗の宗教観とも相関するのであろうが、この悟りきった精神の純粋性は素晴らしくも思うが、だからといってテロを肯定するかと問われれば、私は「否!」と答える。しかし人の心がテロに向かうときの精神の営みの記録は非常に興味がある。

鈴木の記述の中で私が初めて知った事実があった。それは重信末夫氏のことだ。
(以下、ばっすい)

血盟団の中では、同じ東大ということもあって池袋氏と四元氏は仲がいい。実は、もう一人、親友がいた。それは重信末夫氏だ。そう、日本赤軍の重信房子さんのお父さんだ。

末夫氏は当時、都城で教員をしていた。ところが、「国家の一大事だから上京しろ」と池袋氏から電報をもらい、上京する。そして血盟団に入る。しかし、決行直前に、井上日召から、「お前は心が優し過ぎるからテロリストには向かない。テロの後の建設を担当しろ」と言われる。それで郷里に帰ったのだ。

そうか、重信房子には父 末夫氏の革命家の血が流れていたんだな。これは知らなかった。

最後に2002年に書いた重信房子の愛娘メイさんに関して、以前書いた日記を以下に貼り付ける。

重信メイ

日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者の長女。今日ラジオに出演していた。パレスチナでの死と隣合わせの過酷な体験を、かろやかで聡明な口調で淡々と語るところに親しみを持った。イデオロギー、主義主張の違いはあるが、母親の重信房子にも親近感を持った。一番驚いたのが

パレスチナにいたときには
手相がほとんどなかったのが、
日本に来て生命線がうっすらと見えてきたんだって!!


手相学って本当にあるんだ、と思ったね。エドワード・サイードも言っていたが、パレスチナでは占いとか、超常現象とかにはほとんどだれも見向きもしない。何故ならそんなことをしている余裕はないから。常に生存を脅かされ死と向かい合っている状況で、そんなことを考える隙間は全くないというわけだ。なるほど、と思った。

若松孝二の自伝『俺は手を汚す』に重信房子のことが書いてあったことを思い出す。もともと現地の大学で語学を学ぶ学生だった重信は、通訳の仕事で初めてアラブゲリラに接したらしい。取材したキャンプが数日後、敵の攻撃で全滅したのを目の当たりにしたときに、西洋的な民主主義ではどうにもならない社会構造の矛盾を感じ、急進的な武装闘争の方へ進んだらしい。そのとき同行していたのが映画監督の足立正生で、足立は重信と活動を共にし赤軍創設に与し、若松は日本に帰国した。
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140

65. 中川隆[-11473] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:40:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[522] 報告

永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪 │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=287
66. 中川隆[-11472] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[523] 報告

重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのはエシュロンから情報を得た米国だった


米国の同盟国・友好国に対する盗聴問題は古くからフランスなど欧州諸国から指摘されていた。

盗聴を担っているのは、「エシュロン」と呼ばれる傍受システムで、米国の国家安全保障局が主体的に運営している。

参加国はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどアングロサンソン系のイギリス連邦に所属する国々だと欧州連合などが指摘しているが、米国連邦政府自身が認めたことはない。

ドイツを初めとする欧州諸国や韓国が強く反発しているのに対して、日本の菅官房長官は

「日本が盗聴の対象になったか、米国に確認する予定はない」

と極めて自制的な態度で、どこか他人事のようだ。

エシュロンの施設が三沢基地にあることは公然の秘密だし、米国が日本国内の通信を傍受していることもよく知られている。


北朝鮮の最高指導者の長男である金正男氏の来日や日本赤軍最高幹部だった重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのもエシュロンから情報を得た米国だったという。

これらは日本が施設を提供している見返りだという確度の高い噂がある。


また、日本が米国の諜報に頼っているだけではなく、自衛隊が中国やロシア、北朝鮮の通信を傍受してエシュロン運営に協力していると考えられている。

それどころか、アメリカ政府がイラク戦争での多国籍軍参加の見返りにエシュロン参加を許可したという一部週刊誌の報道がある。
だが、その真偽は不明なままである。
http://64152966.blog.fc2.com/blog-date-201312.html

67. 中川隆[-11471] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:55:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[524] 報告

『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる


日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

68. 中川隆[-11470] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:57:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[525] 報告

日本の街宣右翼=朝鮮労働党日本支部だったんです。 2011/05/22


初心者の方には難しいと思いますが、日本には似非右翼と言われる下品な連中がいます。北朝鮮とつながった極左、部落極左がその実態です。棺桶左翼内閣とも水面下で提携し、311テロを実行する目的で、小沢一郎さんの首相就任を不正手段で阻止しました。

朝鮮労働党がよど号グループに指示した「日本国内の右翼民族派」結成工作のその後
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_40.html

北朝鮮右翼の起源
http://rkblog.html.xdomain.jp/200910/article_14.html

似非右翼暴力団の頭目が、実は、左翼過激派の偽装転向者だった。」
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_21.html

極左集団「日共左派・毛沢東派」元幹部が小沢さんを検察審査会にチクッた。
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_35.html

北朝鮮右翼が中国を攻撃するもう一つの理由
http://rkblog.html.xdomain.jp/201006/article_19.html

騙されないでください。「右翼」は看板だけです。黒幕は311テロリストと北朝鮮です。


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

69. 中川隆[-11469] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:14:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[526] 報告

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html

70. 中川隆[-11468] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:34:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[527] 報告

赤軍派関係の話を総合すると、どうしても馬渕睦夫の

世界共産革命 = ユダヤ・グローバリズム = deep state が仕組んだ共産化運動

が正しい様な気がしてきますね:

馬渕睦夫
ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

▲△▽▼

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656

▲△▽▼


アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


「東京裁判史観」を正面から打ち破る一冊! !
「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」……、
近現代史の裏には必ず彼らがいる!

ウィルソン大統領やルーズベルト大統領を操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。


日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

71. 中川隆[-11467] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:43:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[528] 報告

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。


2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html

72. 中川隆[-11466] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[529] 報告

2009年04月03日 池田信夫 blog 実録・連合赤軍

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が、日本映画批評家大賞の作品賞を受賞した。若松さんには昔、仕事でちょっとお世話になったので、まずはおめでとう。

しかし映画の出来は、残念ながらそれほどのものとはいいがたい。若松さんの連合赤軍への「思い」が過剰で、彼らを客観的に突き放して見ていない。特に最初の学生運動の経緯を資料フィルムで追う部分は、説明的で冗漫だ。殺し合いのシーンの演出も説明的でアップが多く、テレビのホームドラマみたいだ(ビデオ撮影というせいもあるが)。

最近の若者が見ると、こんな凄惨な殺し合いが行なわれたという事実に驚くようだが、私が大学に入ったのはこの事件の翌年で、東大駒場では2年間に5人が内ゲバで殺された。そのうち4人が私と同じサークルだったので、この映画の世界は他人事ではない。なぜそういうことが起こったのかもよくわかる。それはこの映画で美化されているような崇高な理想ではなく、ただのカルトだったのだ。

殺された友人のうち2人は誤爆だったが、2人は革マルの活動家だった。彼らの共通点は、地方の高校から出てきて、大学に友人がいなかったことだ(灘や開成の連中は、この種の党派には入らない)。2人とも党派にリクルートされ、「地下」に潜って大学へ出てこなくなった。たまに出てくると黒田寛一や梯明秀などを口まねした呪文のような話をするようになり、他の党派を「殲滅」することが最大の闘いだと主張した。そのくせ自分が殲滅されることは警戒しておらず、2人とも生協の前で演説しているところを白昼、襲われて殺された。

1960年代に世界的に学生運動が盛り上がったのは、ベトナム反戦運動がきっかけだった。それが先鋭化した末に衰退したのはどこの国も同じだが、こういう近親憎悪が激化したのは日本だけだ。私の印象では、その原因はイデオロギー的な党派性というより、自分たちのムラを守る意識だったと思う。だから党派が細分化されて小さくなればなるほど憎悪が激しくなり、内ゲバは激化した。

こうした「日本的」な中間集団の性格は、今も変わらない。都市化して個人がバラバラになると、人々は自分の所属すべき集団を求めて集まる。それが学生運動が流行したころは極左の党派であり、その後は原理であり、またオウムだったというだけだ。創価学会や共産党も同じようなもので、さらにいえば会社も中間集団だ。この意味で団塊世代は、学生運動というカルトが挫折したあと、日本株式会社という巨大なカルトに拠点を移しただけともいえる。

しかし今、日本の会社はほとんど連合赤軍状態だ。浅間山荘のような袋小路に入り込んでにっちもさっちも行かないのに、誰も軌道修正しようと言い出せない。連合赤軍からは逃亡できたが、沈没する日本からは誰も逃亡できない。このまま日本経済は、団塊世代とともに玉砕するのだろうか。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301239.html

73. 中川隆[-11465] koaQ7Jey 2019年3月13日 22:09:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[530] 報告


「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月

 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
http://zilx2g.net/index.php?%A1%D6%CF%A2%B9%E7%C0%D6%B7%B3%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%B0%C7

74. 中川隆[-11464] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:05:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[531] 報告

2011-02-27 連合赤軍って何?


実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。

赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。

革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。

赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1


75. 中川隆[-11463] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[532] 報告

2011-03-04
連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか
http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1


このメモでは、連合赤軍事件最大の悲劇、いや、日本の「学生運動」「社会運動」中最大の悲劇である、連合赤軍が「同志」12人をリンチ殺害した事件について、小熊英二さんの大著「1968」をもとに整理します。


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産 – 2009/7/1
小熊 英二 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4788511649/gardenmemo-22/


連合赤軍はどのように誕生したのか、また「同志」へのリンチはどのようにして進行していったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。

連合赤軍の母体−「一緒になってはいけない二つの組織」


連合赤軍は、そもそも一緒になりそうにない二つの過激派「革命左派」(ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループ)と「赤軍派」(1969年9月結成)が合同してできた組織です。


•両者の共通点: ◦深く考えずに行動する
◦暴力を用いた活動を行う
◦指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない
◦逮捕者等が多く組織が崩壊に瀕している

•相違点: ◦思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)
◦女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


これって、「一緒になってはいけない組織」そのものだと思うのですが・・・なぜそんな両者が一緒になってしまったのでしょうか。


連合赤軍誕生の経緯

簡単に言えば、両者が壊滅の危機に瀕していた頃、革命左派創立メンバーの一人・川島豪の指示があり、仕方なく一緒になったのです。

経緯の詳細は以下の通りです。

革命左派は、逮捕された川島豪を奪還するため民間の鉄砲店を強盗し銃を奪います。彼らが信奉する毛沢東が「人民のものは針一本、糸一筋とってはならない」と言っているのにです(毛沢東が実際にどんな人物だったかは別として。※このメモの末尾で関連メモをご紹介しています)。これで革命左派は世間に知られるようになりました。

赤軍派もこれに影響を受けて「M(マフィア)作戦」を開始します。要は金融機関強盗です。

両者、悪いことは真似するんですよね・・・彼らはこのようにして武器やお金を集めました。

一方警察は、こういった過激派摘発のためにアパートや旅館25万か所を4万5000人の警官でしらみつぶしに捜索するようになり、結果彼らからは多くの逮捕者が出ました。

対する革命左派の永田らは冬の札幌などで息を殺し続ける生活に疲弊していき、都市部から出て山にこもるようになります。これがアジト・山岳ベースの発端です(なお、この山岳ベースができた背景には、永田が批判者を都市にばらけさせずに集めておきたがっていたからではないかという元「同志」の回想もあります。これが、後の悲劇の遠因になります。)。

赤軍派も同様に組織が壊滅状態に陥ります。

そんな中、川島が獄中から赤軍派との合同を示唆します。そして71年夏に連合赤軍が誕生。

このように、つぶれかけの集団が仕方なく一緒になったのです。しかし、この相容れないはずの両者が一緒になることで、悲劇は進行していきます。

処刑開始のきっかけは「大言壮語」と「生真面目」

連合赤軍は山岳ベースにこもり続けます。そんな中、革命左派の山岳ベースからは脱走者が出ます。

これに対し赤軍派の森は「処刑すべきではないか」と発言。すると革命左派は脱走者2名を殺害します(印旛沼事件)。

それを聞いた森は「頭がおかしくなったんじゃないか」と言ったそうです。

え?自分が「処刑すべき」と言ったのでは??

赤軍派の森が「言うだけ言ってみた」ら、革命左派が「決めたことは実行すべき!」と後先考えずに殺害に走る・・・もともと「大言壮語だが実行力のない」赤軍派と「生真面目」な革命左派の相違が生んだ悲劇と言えます。

また森は、この事件から革命左派への政治的な負い目を感じ、革命左派より優位に立つには赤軍派による殲滅戦しかない、と考えるようになります。

両者は悪影響を煽りあうようになっていくのです。

この印旛沼事件をきっかけに、リンチ事件へまっすぐ伸びるレールのような原理が構築されてしまいます。

それは、「自分が逮捕される危険を逃れるため逃亡者を処刑し、自分の地位を追い落とす危険のある者を共犯者にして犯行を封じる」という原理です。

もはや、曲がりなりにも「武装闘争で革命を起こし世の中をよくする」という建前すらも実質的にはなくなり、エネルギーは上層部(森と永田)の保身のために燃焼されるようになっていくのです。

それがこの山岳ベースでの「同志」12名のリンチ殺害です(ちなみに私はこのリンチもあさま山荘で行われたと思っていました・・・)。

ところでその山岳ベースは、どんな状況だったのでしょうか。


山岳ベースの環境もリンチ発生を後押しした

先に山岳生活を始めていた永田が、まだ都市にいた森を訪ねたとき森が肉を食べているのを見てショックを受けている記述があります。肉を食べているだけでショックを受ける生活環境だったというわけです。

その後、ベースは警察に見つからないために次々変わっていきますが、例えばリンチが多発した榛名ベースは次のようなすさまじい環境でした。


•居住空間は横4メートルに縦2.5メートル

•ここに革命左派約20名と赤軍派約10名が居住

•そして夜は氷点下15度

•トイレは満足に機能しない

•風呂はまれなので体臭がひどい(買い出しに行った際体臭が原因で通報され逮捕されたメンバーがいるくらい)

•これに重労働(薪割り等)の疲労

•逮捕の恐怖


以上をあわせて考えると、本書の著者小熊さん曰く「判断能力も正常でなくなるのは無理もない。事件の描写はこれを念頭に読む必要がある。」


榛名ベースがあった群馬県榛名山 地図
https://www.google.com/maps?ll=36.470667,138.847954&z=9&t=h&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&q=%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1+%E3%80%92370-3348+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%A6%9B%E5%90%8D%E6%B9%96%E7%94%BA

山岳ベースでの「同志」リンチ殺害

71年12月下旬〜72年2月、ここで何が起こったのか。

森と永田が「同志」に言いがかりをつけてリンチしていくのです。

目的は「共産主義化(意味は誰にもわからなかったとの証言あり)」。

詳細に書いても気分が悪くなるだけなので端的にメモします(小熊さんも同じ理由でこの箇所を簡潔に書いたとのことですが、その分実態が明確にあぶりだされている感がありました)。


■リンチされ始めたきっかけ

•夕食会で「私の中にブルジョア思想が入ってくること闘わねばならない」と告白→森「入ってくるというのはこの闘いを放棄したもの」→リンチ

•「交番襲撃のさい日和った(学生運動中、権力に対し怖じ気づいた)」と告白→「日和見主義克服」→リンチ

•「ルンペン的」→リンチ

•「すっきりした、という発言がまじめではない」→リンチ

•「女学生的」→リンチ

•「主婦的」→リンチ

•リンチ殺害の輪の外でうろうろしていた→リンチ

•運転の不手際を叱咤され「革命のお手伝いをしに来ただけだ」と反論→リンチ

•カンパ集めに失敗→リンチ


■リンチの内容

•殴打(主に全員で)

•自分自身による殴打強要

•緊縛し氷点下の屋外に放置→飢えと寒さで死亡

•アイスピックで心臓を刺したが死ななかったので絞殺

■被害者のプロフィール(一部)

•赤軍派の人数が足りないので数合わせに連れてこられたもともと忠誠心のない人物

•メンバーでなくシンパで、妻子を連れてピクニック気分で来ていた人物(妻子は無事)

•妊娠8ヶ月の女性(金子みちよ。殴打された際も「何をするのよ!」と叫ぶ、リンチ中抗議したのは彼女ただ一人、リンチに10日間も耐えたのも彼女だけ。本事件を裁いた石丸裁判長が金子の友人に送った手紙には「36年間の裁判官生活で・・・金子さんはもっとも感慨深い心にしみこむ『被害者』でした」と記述)

■リンチ死を「敗北死」と呼ぶことの「効果」

有名な話ですが、これらのリンチは「総括」と呼ばれています。「共産主義化」を達成するための反省・自己批判の一環らしいのですが、実態は完全にリンチですよね。

そして、このリンチによる死亡については、森が「敗北死」という名前をつけました。死亡した人間は、総括しきれずに敗北して勝手に死んだ、という理屈です。行為の実態は単なるリンチでも、このように特別な名称や理屈付けを行うことで、集団の感覚麻痺が一層進んでしまったものと思われます。

実際、永田は取り調べで「なぜ殺したのか」と訊かれて初めて自分は人を殺していたのだと自覚できた、と語っています。


■川島豪

なお、革命左派メンバー天野勇司によると、後日革命左派創立者の川島豪にこのリンチ事件について問うと「ゲリラノ鉄則ドオリニシタノデハ」との電報が返ってきただけで、まったく反省していなかったようです。そしてこの事件の全責任を永田に転嫁していたといいます。

この人物、森や永田ほど言及されませんが、個人的には、この悲劇に及ぼしている彼の影響はかなり大きいと見ています。生真面目な労働運動団体だった革命左派が暴力を使い始めたのも、赤軍派との合同を促したのも彼ですからね。ちなみに1990年に死去しています。


■個人的な感想

私はこのリンチ事件を初めて耳にしたときは「どうせ狂信的政治思想の持ち主が同じように狂信的な人間を殺したんだろう。殺された人は気の毒だけど自業自得な面もあるんじゃないか」などという感想を持ちましたが、今回この本を読んで自業自得と切り捨てるのは相当不適切で思考停止だと強く感じるようになりました。そして反省。

リンチ殺害が行われた理由

なぜこんなことが起こったのか。私もそれが大変気になっていました。


■これまで論じられた理由

著者小熊さんによれば、関連書籍を渉猟し整理した結果、これまで論じられた理由は主に4つに分類されるそうです。


•外部の敵と戦えなかったので内に向かった

•異なる両派がどう新路線を作ろうとするかを議論しようとすると森は個々人の共産主義化(リンチ理由)に問題をそらした(永田の回想による)

•高校時代に剣道部主将だった森の体育会系気質

•永田が気に入らない人間を総括し森がそれを合理化

■小熊英二さんの挙げた理由

しかし、小熊さんは、以上の理由は潤滑油程度のものでしかなく、本質は「指導部が逃亡と反抗の恐れを抱いたのが『総括』の原動力だった」と指摘します。理由は次の通りです。


•リンチは反抗か逃亡の怖れがあった人物に集中

•メンバー全員に被総括者を殴打させたのも「全員共犯にし脱走させなくする」ため(傍証多数)

•買い出しの場合、人選が慎重に行われた。上層部がいかに逃亡を恐れていたかの例と言える。 ◦まず関係の弱い者同士で行かせる(相談して脱走しないため)

◦また、ベース内に恋人や身内がいれば必ずどちらかをベースに残す(人質)。


とはいえ、上層部はこれを計算していたわけではなく、当初は勢いでやっていたがそうした計算が半ば無意識的に入って固定化したというのが実態ではないか・・・これが小熊さんの考察です。

私はこれを読んで、え?それって新しい説なの?むしろ、それ以外考えにくいんじゃないの?と思いました。それくらい、様々な資料で描かれている状況と「指導部の保身」のつながりが明確だったからです。


なぜこんなシンプルな理由が今まで出てこなかったのでしょうか。小熊さんはそのわけをこうではないかと推測しています。


•実は連合赤軍関係者の回想記などが出揃ったのはここ数年で(永田の回想記はずっと前から出ていたが、やはり記憶の改変があるし、あくまで永田視点の記述であるため完全に依拠できるものではない)、今までは分析しようにも材料が少なかった

•世の中、特に日本の社会運動に大きな影響を与えたこの事件の理由が「保身」のような矮小なものであってほしくないという思いも影響していたのでは


なるほど。時間がたってはじめてわかったこともあるし、時間がたってやっと客観的に分析できるようになった、ということなのですね。


■よしてるの感想−ポル・ポトとの類似

ちなみに今回、リンチの経緯を知って私が真っ先に連想したのはカンボジアのポル・ポトのやり方です。


井上 恭介・藤下 超「なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢」
http://www.yoshiteru.net/entry/20060209/p1


彼らも、規模は異なるものの(170万人を処刑したという説*1もあります)、以下の点が連合赤軍に類似しているように思います。この点からも、私にとっては小熊さんの「連合赤軍の同志リンチ理由は保身」説が納得しやすくなっています。


•リンチは共産主義の名の下行われたがその意味の説明はなかった

•言いがかりをつけて人をどんどん殺す(眼鏡をかけている→知識人→処刑、など)

•攻撃されることを極度に恐れ、疑心暗鬼になっていた(政権をとるとすぐ首都にいた200万人を全員地方に移住させたが、その理由のひとつは「そうしないと暴動が起こって政権を覆されるから」など)。


1つ目の共通点について。ポル・ポトも革命革命と連呼していましたがその意味を人民に説明することはなかったらしいです。

2つ目と3つ目の共通点からは、小熊さんのいう「保身」というキーワードが浮かび上がってきます。

人間、保身に走ると、我が身を守るためには何でも −同志をリンチで殺害したり国民を100万人以上処刑したり− してしまう生き物なのかもしれません。逆に言うと、人間、居場所があって安心できることがとても大切な生き物、とも言えるのでしょう。

まとめ

連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか?


•そもそも、連合赤軍の母体となった2グループは仲間割れをし互いに暴力をふるう背景があった(「深く考えず行動する」「暴力を用いる」点が共通している反面、思想面では相容れなかった)

•そんな「一緒になってはいけない組織」を革命左派の創立者・川島豪が一緒になるよう指示した

•彼らのアジト「山岳ベース」のコンディションが劣悪なため、判断能力が正常でなくなっていった

•リンチによる死亡を「敗北死」と称することで「死亡した人間は敗北して勝手に死んだ」ということになり、集団の感覚麻痺が一層進んでしまった

•そして最も根本的な理由は、連合赤軍指導部が他のメンバーの逃亡と反抗の恐れを抱いたため


(参考)この事件をモデルにしたまんが

上記の小熊英二さんの本は非常に興味深いですが分厚く値段もかなりします。この事件のことをもう少し手っ取り早く知りたい方には、連合赤軍をモデルにしたまんが「レッド」をおすすめします。

モデルといっても組織と人物の名前が変えてあるだけで、非常によく調べてありほぼ実録といっていい内容です。

たとえば、このメモに登場した人物と作中の人物はこんなふうに対応しています。

•森恒夫 → 北(大阪弁をしゃべっているリーダー)
•永田洋子 → 赤城(一番髪が短い女性)
•金子みちよ → 宮浦

また、混乱しがちな多数の登場人物に番号をふって判別をつきやすくしてある点も理解の助けになります。

以下の8巻では、榛名ベースで最初の犠牲者が出るところまでが描かれています。グロテスクな画は(まだ)出てきません。空虚な理論のもとに同志を殴り続ける様子は読んでいて精神がこたえるものの、この事件の現場イメージを理解するには非常に適した作品といえると思います。なお、Kindle版は単行本の半値近くで入手しやすくなっています。

レッド 1969〜1972(8) (イブニングコミックス)
山本 直樹 講談社 2014年02月
https://www.amazon.co.jp/dp/B00IXC9MHO?tag=maftracking222142-22&linkCode=ure&creative=6339


http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1

76. 中川隆[-11462] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:20:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[533] 報告

2011-03-10
連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か
http://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1

1回目のメモでは「連合赤軍とはどういう集団だったのか」を、2回目のメモでは「リンチはどのようにして進行し、『同志』12名の殺害に至ったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。」についてメモしてみました。今回は、最後に、この事件をどう受け止めるのが適切なのかを考えてみます。

これまでの受け止められ方

1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。

その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1。

当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はやらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのはやり過ぎかもしれませんが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思います。少なくとも政府はそれを望んでいたようです。

政府による「演出」

まず、あさま山荘事件について。警察庁長官後藤田正晴は犯人を射殺し「殉教者」とすることは避け、必ず生け捕りにするよう厳命。そして、機動隊の突入は2月28日月曜日に行われましたが、「夕刊の出る平日なら新聞が2回この事件を報道し事件がより大きくなる」との判断があったそうです。そして長官の命令通り犯人全員を生きたまま逮捕した後、今度はリンチ事件が明るみに出ると、いっそうの「演出」が披露されます。

警察は被害者の埋められた死体を発見後また埋め戻し、それからマスコミを呼び「公開捜査」の名の下「死体発見」を見せるようとりはからいます。当時のマスコミもなぜ必ず死体が出てくるのか不思議に思ったそうですが、一方でこれほどの「ネタ」もないわけで、報道は過熱していきます。しかも警察は犠牲者全員を一気に「発見」するのではなく、何度かに分けてマスコミに公開。警察側の言い分では検視する医師の数が不足していたためとのことですが、ショッキングな「死体発見」を複数回報道させるための「演出」と捉えたほうが自然に思えます。これらの「演出」が日本政府と警察の「政治運動にネガティブイメージを植え付けさせる」意図のもと行われたとしたら、これは大成功だったと言えるでしょう。

事件をどう受け止めていくのが適切か

著者小熊英二さんは、多くの文献を例に挙げ、この事件はこれまで「党組織の問題」「理想・正義」の限界などのような普遍的なテーマで論じられてきたことを示しています。しかし、これまでの検証結果から判断すると、この事件の本質は「幹部の保身という矮小な理由」に集約されます。このギャップの理由の一つとして、小熊さんは当時この事件にショックを受けた人々が「あれほど自分たちに衝撃を受けた事件は普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、という先入観があったのでは」と指摘しています。

このような同時代人の「せめてこうであってほしい」という先入観と政府の巧みな演出により、この事件はいびつなかたちで捉えられてきたようです。それは平成の大学生にも一定の影響を与えていました。そんな普通でないバイアスがかかったこの事件、いったいどう受け止めていくのが適切なのでしょうか。

小熊さんは、この事件を記述した章を次の言葉でまとめています。

感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである。


私もまったく同感です。この事件は、その残虐性のみならず、その後の社会運動を停滞させたという点でも非常に大きなマイナスの影響を日本社会に与えてきました。しかし今世紀に入ってから、多くの当時の関係者が証言を始めるようになったことでこれまでメモしてきたような「この事件の本質」が明らかになってきました。この事件のもたらした呪縛から解き放たれるには十分すぎる時間が過ぎました。「社会運動に熱心にかかわるとろくなことにならない」というイメージは完全に捨て去るべきときに来ているのではないかと思います。

最後に、私がこの事件から学んだ、身近に起こりうること2点についてもメモしておきます。ひとつは「身体的に不快な環境は精神を病ませる」ということ。連合赤軍メンバーの証言から、彼らが食事・住環境において悲惨な状態にいたことがどれほど人間性を抑圧し思想行動に影響を与えたかをつぶさに感じました。出発点がいくら精神的に高尚なものであっても、厳寒の狭い山小屋に押し込められ貧しい食事と不潔なトイレが続く毎日を送っていると道も踏み外しやすくなるということを痛感しました。

もうひとつは、組織がおかしな方向に進んでいっても、メンバーがそれを察知して制御できる段階は限られており、それを過ぎると組織メンバーは制御するより逃げ出すようになり、それが崩壊を加速させるということ。連合赤軍も、もとの組織のひとつは革命左派、さらにその前身は労働運動を生真面目にやる組織「警鐘」だったわけです。永田洋子は、共立薬科大で学ぶうち薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいと思いこの「警鐘」(正確にはその前身となる組織)に入ったものの、最終的には12名リンチ殺害の首謀者に変わり果てている。このような組織の変容に彼女がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、変容の段階を経るにつれほとんどのメンバーが組織から抜け出ています。転落していく組織は制御されるより見捨てられ、それにより転落に拍車がかかる。誰も永田(や森)の変容と暴走を止められなくなる。そんな悲劇を連合赤軍のたどった経緯から感じ取った次第です。

(参考)指導者たちのその後

リンチを主導した森恒夫は1年たたないうちに拘置所で自殺。森と共に事件を進行させた永田洋子は先月(2011年2月)確定した死刑が執行されることなく脳腫瘍で死亡。この事件の遠因を作り出した(と私は思います)革命左派元議長の川島豪(リンチ事件には直接関与していない)は1979年に出獄、1990年に死亡。


http://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1

77. 中川隆[-11461] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:26:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[534] 報告

このブログが赤軍事件の細部まで一番詳細に記録しています:


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entrylist.html

78. 中川隆[-11460] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:32:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[535] 報告


1970年5月10日 重信房子逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html


■1970年5月10日 赤軍派・女闘士を逮捕(朝日)


 重信逮捕といえば2000年11月の大阪府高槻市での逮捕を思い浮かべるが、この記事は明治大学時代(24歳)のこと。遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)とホステスのアルバイトをやっていた頃と思われる。

よど号ハイジャック事件以来、赤軍派に対する捜査はいっそう厳しくなり、残った幹部が次々と逮捕された。そんな状況の中、まだ無名だった重信房子が逮捕された。この時代の重信については「婦人公論」に連載された「時代を創る女たち」(島崎今日子)に詳しい。


 女性活動家には男と同等に闘おうとジグザグデモの前に立つタイプと、「私は女よ、女でなにが悪い」と開き直るタイプがいた。重信は後者で「女を武器化している」とと批判されても「ブントのため」と平気だった。

 昔の週刊誌には、重信のオルグ率は98%とある。優しく笑いながら「ねえ、一緒にデモ行かない?世界が変わるわよ」。重信の「微笑外交」、またの名は「ポン引きオルグ」で思想研はみるみる膨れ上がった。そこには遠山のほかによど号ハイジャックの田中義三がいた。

 重信が目に見えて変わったのは赤軍派に入ってからだと、明大の仲間たちは異口同音に口にする。教師になるつもりだったが、高原(遠山美枝子の夫)にさそわれるまま赤軍派に加わった重信は、激しい内ゲバ・リンチの真っ最中に居合わせ、人生を変えた。「ルビコン川を渡った日です。党派の理論を知らないまま当事者になり、やるしかないとアクセルを踏みました」。

 赤軍派は男社会で、軍隊化はジェンダーの差異を明確にする。そんなとき田中美津がウーマン・リブのアジビラ「便所からの開放」を一晩で書き上げる。それに新左翼の女たちも激しく共振したが、しかし重信は「男を糾弾するより、主体的に世界を変えることに熱中していた」。

 すでに多くの逮捕者を出し、主たるメンバーは指名手配されていた。重信は神出鬼没で、運動資金を稼ぐために獄中手記を書き、テレビに出演した。彼女派赤軍は時代に公安条例違反等で3度逮捕されている。

(「婦人公論」2007年12月7日号「時代を創る女たち・重信房子 この空を飛べたら(2)」より抜粋)

 文中の「思想研」とは赤軍派の合法組織。獄中手記とは「週刊現代」1970年7月16日号「赤軍派"女隊長"初々の獄中記」のこと。サブタイトルが「日航機乗っ取り謀議の容疑で逮捕された明大生・重信房子の愛と闘争」となっている。


 赤軍派は、よど号ハイジャックで幹部が北朝鮮へ流出し、国内でも幹部逮捕が相次いだため闘争は完全に行き詰っていた。革命をあきらめるメンバーも多い中、重信は国外に活路を見出そうとしていた。そして彼女がテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の奥平剛士と出会うのは、この年の秋のことである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html

79. 中川隆[-11459] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:34:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[536] 報告

1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html


■1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ

 ちょうど赤軍派がM作戦(強盗)を開始したころ、森恒夫と折り合いの悪かった重信房子がレバノンへ旅立った。空港に見送りに行った遠山美枝子(後の山岳ベースで死亡)は、「ふーが先に死ぬのね」と涙を浮かべたが、重信に悲壮感はなかった。


 前の年に、友人に連れられて重信は京大バルチサンの奥平剛士にカンパを求めに行ったところ、奥平が語ったゲバラやパレスチナ問題にすっかり逆オルグされてしまった。そして、彼女のほうから奥平にパレスチナ行きを持ちかけたのだった。


 2月26日、まず奥平がレバノンへ旅立つ。2月28日、奥平と偽装結婚して「奥平房子」のパスポートを取得した重信が後を追った。レバノンのベイルートで合流した2人は、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)の庇護と支援を得ることに成功する。

 森恒夫は重信のレバノン行きを「国内で資金を集めろ」と引き止めたが、赤軍派をやめてでも行くと伝えると、「なら、赤軍派として行ってくれ」と指令が下った。森にとって重信は制御不能な存在だった。歴史に「もし」はないが、重信が日本にいたなら連合赤軍事件は起こらなかったと言う人、真っ先に粛清されたと言う人、2つの見方がある。


 森はアラブの重信にお金を送ったことで遠山美枝子に自己批判を求めている。重信は、逮捕後独房で、親友の遠山が総括の名の下で殺されていく過程をつぶさに読んだときの苦しい胸のうちを明かす。


「リーダーたるべき人が次々いなくなり、できもしないのに責任感で頑張ったのが私であり、また森さんでしょう。森さんの遠山さんへの恨みは私の分もあるという人がいます。私の、女でいいじゃないかという甘えと、ダメな男への軽蔑の流れが、遠山さんへの批判と死をもらたした気がしました・・・」


「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」

■1971年3月15日 赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か(毎日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-15 毎日ベイルートに重信潜入

 3月15日、毎日新聞に「赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か」の見出しが躍り、クウェートにその記事が流れた。これをきっかけに、重信と奥平の短い"新婚生活"は終わりを告げる。・・・PFLPは「これでは秘密が守れない」と、重信は合法組織である情報宣伝局アルハダフに配属され、奥平は希望して軍事訓練所に赴くことになる。・・・


 映画監督の若松孝二が、後に日本赤軍のスポークスマンになる足立正生に「パレスチナに行こう」と誘われ、ベイルートに足を向けたのは5月だった。・・・その秋、『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』のフィルムを積んだ真っ赤なバスの上映隊が日本全国を回り、若者の血を駆り立てた。その中には、テルアビブ空港襲撃でひとり生き残り、イスラエルに逮捕される岡本公三もいた。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)

■テルアビブ空港乱射事件への道


 奥平は京都パルチザンの仲間を呼び寄せる準備を始めていた。安田安之、山田修、檜森孝雄の3人がベイルートに到着、軍事訓練に入る。PFLPの指揮の下、テルアビブ空港を襲撃するリッダ作戦が動き出し、討議が繰り返された。だが、重信がこうした事実を知るのは逮捕後の2002年2月、檜森から「語っておかなければならないことがある」と差し入れられた手記を読んだときだ。重信は、奥平の下に仲間が結集しているのを知ってはいた。・・・だが、彼らが重信に軍事機密をもらすことはなかった。


 72年1月、山田が寒中水泳の訓練中、心臓麻痺で急死。奥平は、泣いて拒む檜森を強引に遺体と帰国させる。山田の死で日本人グループの存在が明るみに出ると、PFLPは作戦決行を決定。・・・間もなく、重信は奥平から「退路を断つ闘いに行く」と告げられる。重信は衝撃を受け、猛反対してPFLPに意見書を上げるが、決死作戦を願い出たのは奥平だった。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)


 1972年5月30日にテルアビブ空港を襲撃したのは、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名だった。岡本公三は京都パルチザンのメンバーではなかったが、帰国した檜森に誘われた。


 檜森にどのような言葉で誘われたのかは不明だが、岡本が日本を後にしたのは、アラブゲリラと共闘しようとしたのでも、テルアビブ空港襲撃に加わるためでもなかった。逮捕後の岡本のインタビューが残されている。


−日本を出るときから、こういう計画(テルアビブ空港襲撃)に参加するつもりだったのか。
「いや、日本を出るときは単純に兄に会える期待と、軍事訓練を受けるつもりしかなかった」
(兄はよど号事件の次兄・岡本武のこと)


−その一員にどうしてなったのか。
「自分でもなぜボクに白羽の矢がたったのかわからない。たぶん、兄のせいだろう」


−その兄に会えるからといってレバノンへつれてこられて兄に会えず、だまされたとは思わなかったか。
「奥平が、お兄さんに合わせられなくて申し訳ないと謝ったので納得した」


(「週刊文春 1972年7月24日号 「テルアビブで岡本公三と一問一答」)

 このような経緯からわかるように、テルアビブ空港襲撃は京都パルチザンメンバーが主体となって行った闘争であり、重信は関与していなかったのである。また、事件当時、「アラブ赤軍」なる組織も存在しなかった。 しかし、重信は「アラブ赤軍」としての声明を出し、後に改称した「日本赤軍」を「リッダ闘争を行った組織」と宣伝したのである。


 日本赤軍コマンドだった和光晴生は、2010年の著書「日本赤軍とはなんだったのか」の中で、この宣伝を「うそつきの始まり」と辛らつに批判している。


※日本では「テルアビブ空港」と報道されたが、テルアビブの「ロッド空港」のこと。アラブ側呼称は「リッダ空港」という。日本赤軍は「テルアビブ空港襲撃事件」のことを「リッダ闘争」と呼称している。


https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html

80. 中川隆[-11458] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:55:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[537] 報告

1972年3月14日 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)

 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。

自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html

81. 中川隆[-11457] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:01:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[538] 報告

1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。

「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。
取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」

というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。

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1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)


■1970年3月6日 武器頼まれ銃砲店襲撃を計画(朝日)

 岩手県水沢署に猟銃や散弾を盗んだ疑いで逮捕された元自衛隊員(23)が4日夜「赤軍派の武器調達を頼まれていた」と自供、警視庁に逮捕されていた赤軍活動家(23)とともに、秋田市内の銃砲店を襲う計画を立てていたこともわかった。この実行寸前に大菩薩峠で赤軍派が一斉逮捕されたため、あきらめたという。

 調べによると、昨年10月ごろ、赤軍派幹部から武器調達のために8万円を受け取り上野を出発、手始めに海上自衛隊のころ知り合った医師宅から上下2連銃と散弾68発を盗んだ。


■1970年3月16日 赤軍派委員長を逮捕(朝日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-03-16 朝日 朝14 赤軍派・ 塩見議長逮捕


 塩見は田宮(後によど号)、小西(後によど号)、前田と討論をした後、前田と2人でタクシーで駒込駅へ向かったところを警官にとめられた。降りたとたん、逃亡をはかった。

 


 ところが、陸橋のところに派出所があったのが運のつきだった。そこに若い警官がいて、彼に差をつめられた。「止まれ!」なんて叫んでいるもんだから、近所の6,7人の小中学生が、泥棒か何かと間違えて、わあわあ騒ぎ一緒になって追いかけてくる。「オレは人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけれれるんだ」(笑い)・・・。警官はピストルまで抜いて追いかけてくる。追いつめられ、しゃあない、という感じで逮捕された。まあ、それから僕の「20年」というのが始まるわけです。

(「赤軍派始末記」)


 押収された塩見の手帳には「HJ」のメモ書きがあったが、警察はそれが「ハイジャック」を意味するとは気づかなかった。


 ちなみに 「ハイジャック(hijack)」 とは乗り物を占拠すること。日本では 「Hight Jack」 と誤解され(?)、航空機に対してのみ用いられ、他の乗り物の場合は、シージャックとかバスジャックという和製英語で表現される。


 このころ、内ゲバを敵前逃亡し活動をはなれていた森恒夫が赤軍派に復帰する。重信房子は独自の活動をしていたようだ。


 後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」 というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。


 大菩薩峠のあと、赤軍派は中央政治局員7人のうち、花園紀男、堂山道生、上野勝輝、八木健彦が逮捕され、作戦を練るのは、塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3人になっていた。政治局員の補充に塩見は森恒夫を推したが、田宮は 「あんな度胸のないやつはだめだ。ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」 と反対した。しかし塩見は 「あの男には理論がある。一平卒からやりなおさせよう」 と納得させた。12月に大阪からボストンバッグ1つで上京した森は一平卒から出直すことを承諾し、翌日からビラ配りに従事した。


 12月12日、京大全共闘議長にして赤軍国際部長の小俣昌道が、国際根拠地建設のためアメリカ、キューバに向け旅立った。アメリカではイリノイ大学の集会などで大みえをきり、極左集団に精力的に働きかけた。キューバではカストロ首相に面会しようとするが、相手にされるはずがなく、滞在期間がオーバーして200ペソの罰金をとられるありさまだった。


 1月16日、お茶の水の電通会館で再起のための政治集会「1・16赤軍派武装蜂起集会」を開き、「国際根拠地論」 を披露し、すでにキューバに1人送り込んだと発表した。この日は1500円払えば報道関係者も傍聴できたが、これは大菩薩峠の痛手からよみがえったことを印象付けるための演出だったと思われる。
(「連合赤軍・この人間失格」より要約)

 森恒夫は臆病者だといわれているが、そのエピソードは次のようなものだ。


 1965年11月11日、日韓条約批准デモで逮捕されたとき「おっちゃん、かんにん、おっちゃん、かんにん」と泣声であっさり自供した。

 1969年6月28日、内ゲバで森恒夫と藤本敏夫が監禁され、自己批判を迫られたとき、藤本は拒否したためリンチを受けひん死の重傷を負うが、森はあっさり自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と泣きわめいた。

 1969年7月2日、赤軍派は藤本リンチの報復のため敵陣に乗り込むが、まさに乗り込もうとする直前、敵前逃亡した。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。


 森が連合赤軍のリーダーになったとき、「もう2度と逃げない」 と心に誓い、それが総括をより過激にさせたと考えられている。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10361265024.html

82. 中川隆[-11456] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:10:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[539] 報告

1971年12月  
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 森氏は遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。

森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲だった。
遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。
遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。

____


1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)


 永田と坂口が帰った後の赤軍派・新倉ベースの出来事を追いかけみる。このあと連合赤軍になるので、赤軍派単独としては最後の出来事になる。


 森は、進藤、遠山、行方の3人は、「連合赤軍メンバーとしての資格がない」 とし、新倉ベースの赤軍派メンバーを1軍と2軍に分けた。


(1軍)
森恒夫(理論家。過去、内ゲバから逃走したトラウマあり)
坂東国男(森の懐刀。酒もタバコも女もやらない硬派)
山田孝(理論家。塩見の秘書役で森より格上だが、一から出直すため森配下へ)

青砥幹夫(森の秘書。合法部との連絡役。革左女性との関係を批判される)
植垣康博(爆弾作りなど実用技術に優れる。革左女性への痴漢で批判される)
山崎順(M作戦途中で坂東隊へ入隊。女性問題で批判される)


(2軍)
進藤隆三郎(M作戦に惹かれて坂東隊へ入隊。同棲女性の問題で批判される)
遠山美枝子(救援対策から新倉ベースへ。女を利用していると批判される)
行方正時(救援対策から新倉ベースへ。消極的態度が批判される)


 こうしてみると女性問題が多いことに気づくが、別に女性とつき合ったからいけないというわけではない。それぞれの批判理由があった。


 この記事では、森恒夫が何を語り、進藤隆三郎、遠山美枝子、行方正時の3人がどのように批判されていくかに着目してほしい。


■1971年12月11日 「総括ができていない。銃の訓練を続けろ!」(森恒夫)


 森氏は、全員に、

「いいか、総括するには、それまでのことをああだったこうだったというだけではだめだ。それまでのここの実戦にどのような意識で関わってきたか、その意識は今からとらえ返せばどのような意識であったか、それを今後どのように止揚していくかを、自分ではっきりさせる必要がある」

と延べ、進藤氏、遠山さん、行方氏に対して、

「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ。そのためには、討論だけでは不十分だ。銃の訓練をしてよく考えろ」と命じた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森は銃の訓練をしている遠山・行方・進藤をそれぞれ呼んで、「銃を握っていて何を考えた?」などと聞いたが、森の期待する答えではなかった。結局3人とも、「総括ができていない。銃の訓練を続けろ」と却下されてしまった。


■1971年12月12日 「遠山さんにカチカチ山というあだ名をつけた」(植垣康博)

 遠山さんが山の急斜面で何度か転んだのに対して、私たちはその様子が不恰好で狸みたいだといって笑い、柴を背負った狸ということで、彼女に「カチカチ山」というあだ名をつけた。それは遠山さんを蔑視する差別的な言動だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■1971年12月13日 「森氏への信頼は絶対的なものになった」(植垣康博)
 もうすぐ上赤塚交番襲撃事件一周年の「12・18集会」(柴野追悼集会)が行われる。そこでアピールをするため、これまでの赤軍派の闘争の総括の討論会開いた。2軍の3名は参加させてもらえなかった。


 森氏は赤軍派の総括をとうとうとよどみなく語り、私たちは圧倒されてしまった。この総括によって私たちの森氏への信頼は絶対的なものになったのである。私たちが森氏の総括に感心していると、森氏は「力量の違い」といって得意そうな顔をした。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森の語った総括は長いので省略するが、ブント以降の闘争を、「銃−共産主義化論」 の観点から、否定的に総括したものである。ところが「銃−共産主義化論」がうさんくさいと思って読んでいると、怪しい総括としか思えない。


 しかし、逆に言えば、これまでの闘争を否定的に総括することによって、「銃−共産主義化論」の正当性を主張するものになっている。つまり、「12・18集会」で、「銃−共産主義化論」をアピールするために、つじつまを合わせた、ということだろう。そういう観点でみると、やはり森の理論構築力は大したものである。なんといっても当時27歳の若者なのである。


■1971年12月14日 「ナイフと金を取り上げて隠せ」(森恒夫)

 この日、山田は12・18集会のため東京へ出発した。進藤、遠山、行方の3人は、雪の上の足跡を消してくるように命じられた。


 4人が出かけたあと、森氏は、私たちに、進藤氏たちに対する逃亡の警戒の必要性を強調し、彼らからナイフや金銭をすべて取り上げ、弾薬と金銭を隠すように指示した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 ナイフを取り上げたのは、彼らが立ち向かってくることを恐れたからである。この猜疑心は尋常ではない。


 心理分析(「ヘボ」がつくが)→ 決め付け → 常軌を逸した防衛行動、というのは、精神疾患(統合失調症)の被害妄想によくみられる。森がその種の病を発病していたかどうかはわからないが、病的なまでの人間不信(恐れ)があった。これはそのまま連合赤軍に持ち込まれる。


■1971年12月15日 「銃の訓練以外のことをさせてはならない」(森恒夫)
 この日、森と坂東は、翌日から会議のため一週間ほど革命左派の榛名ベースへ行くことをメンバーに告げた。そして、留守の間、「進藤、遠山、行方には銃の訓練以外のことをさせてはならない」 と言い残した。


■1971年12月16日 「遠山がお前をたぶらかすから気をつけろ」(森恒夫)


 森氏は、私と青砥氏に、進藤氏たち3人を甘やかしてはならず、きびしく監視するようにいった。特に、遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲 だった。遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。


 また、森氏は、私に対して、「遠山がお前をたぶらかして取り込もうとするかもしれないから、気をつけろ。甘い第度をとるな」といった。そんなことはどう考えてもありえないことなので、私は、森氏のそういう見方に驚いたが、そんなものだろうかと思い、遠山さんに厳しい態度で臨むことを表明した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 午後、森と坂東は、革命左派の榛名ベースへと出発した。


 この夜、植垣と青砥は、「おやじさん(森)いったいどうするつもりなんだろう?」「まったくあの3人のおかげでえらいことになってしまったなあ」と話し合った。

■1971年12月17日 「夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌った」(植垣康博)

 午前10時ごろ、山崎氏が大変な剣幕で進藤氏たちに怒っており、私たち(植垣・青砥)に、「あいつら、みんなが出かけてから俺の言うことを少しも聞こうとしない!総括する気がないんじゃないのか!」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 批判されている3人にしてみれば、うんざりしていたところで、森と坂東がいなくなったので、タガがはずれたのであろう。しかし、植垣、青砥、山崎は、彼らの総括の責任を負わされていたから、甘い顔をするわけにはいかなかった。


 遠山、進藤、行方はあいかわらず銃の訓練をさせられたが、午後、遠山を呼んで、重信房子との連絡ルートや金を送った額などを紙に書かせた。


 こうして私たちは、この日以降、坂東氏が迎えに来る12月29日まで、昼は遠藤氏たちに銃の訓練をさせ、夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌ったり雑談をしたりしてにぎやかに過ごしたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月19日 「座禅でもはじめたのか?」(植垣康博)
 3人に銃の訓練だけさせるということは、お互いにあきあきすることだった。そこで植垣は総括討論をやることにし、行方に質問しながら総括を聞いたが、行方は答えられなくなり、行方はうなだれて正座してしまった。植垣は「座禅でもはじめたのか?」と冷やかした。


■1971年12月20日 「お前は金が目当てだ」(植垣康博)
 この日は進藤を呼んで総括討論を行った。そして彼の行動を金銭欲などで解釈した総括を押し付けてしまう。彼女と付き合ったのは、旦那から金をせしめるためであり、赤軍派に関わったのはM作戦(銀行強盗)の金が目当てだった、というものだった。そして「克服するには、共産主義化を通して銃による殲滅線に全力をあげることだ」と結論をいった。


 進藤氏は「よくわからんけど、そういうことになってしまうな。しかし、そういう総括の仕方ははじめてだ」といい外に出て行った。(中略)
 その夜、私に「おい、バロン、やっぱりあの総括はおかしいよ」といった。だが私は冷たく、「おかしくもなんともない。よく考えろ」といって、考え直そうとはしなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月21日 「最高幹部・高原の妻という特権的地位を利用した」(植垣康博)
 この日は遠山を呼んで総括討論を行った。


 私は、遠山さんのそれまでの活動を、高原氏に依存し、高原氏の妻という特権的地位を利用した活動でしかなかったと解釈した総括を押し付けた。これに、遠山さんは、「そういう風に自分の問題を考えたことがないので、よくわからない」と答えていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月22日 「女にもてようとする英雄欲だ」(植垣康博)
 この日は再び行方を呼んで総括討論を行った。


 「市民社会から遠ざかるのが恐いといいながら赤軍派の活動に関わってきたのは、そのことによって英雄気取りをし、女にもてようとする英雄欲からではないか」と批判すると、行方氏はうなだれてしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私たちは、その後も、進藤氏たちに銃の訓練を強制しながら総括討論を行っていったが、これによって私が彼らに押し付けた総括が、後に彼らを死に追いやっていくことになるのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 植垣の総括の押しつけは、これまでの森の批判を踏襲したものだと思われる。だが、夜になると3人を含めて酒を飲んだり歌を歌ったりしていたのだから、本気でやっていたのか疑問である。森に対するポーズだったに違いない。


 「銃−共産主義化論」はまったくやっかいな代物である。銃の訓練ばかりやらされた3人はたまったものではないし、銃を握ったところで総括が進むわけではなかった。


 「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。森は、「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ」といって、ヒントをくれなかったから、「正解」は闇の中であった。


 総括を要求されている3人と、そうでない3人の差はほとんどなかったのだから、指導などできるわけなかったのだが、しかし、植垣、青砥、山崎は、これまで一緒に活動してきた仲間3人に対し、次第に蔑視的な態度をとるようになった。


 森と坂東のいない新倉ベースで、植垣、青砥、山崎、遠山、進藤、行方の6名はこのように過ごしていた。そして、年の瀬も迫った12月29日に坂東と寺岡が迎えに来て、革命左派の榛名ベースへ合流することになる。


 それは墓場への招待だった。榛名ベースでは、より進化した「総括」が彼らを待ち受けていたのである。この6名のうち、生き残るのはたった2名しかいないのである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10883575003.html

83. 中川隆[-11455] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:24:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[540] 報告

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

1971年12月 永田洋子の怒り爆発(革命左派・榛名ベース)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html


 今回は、連合赤軍結成直前の革命左派の動向である。


 この時点でのメンバーを確認しておくと、共同軍事訓練 に参加したメンバーが、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、岩田平治の9名。参加しなかったメンバーが、尾崎充男、小嶋和子、加藤倫教(次男)、加藤元久(三男)、伊藤和子、寺林真喜江、山本順一の7名である。


 山岳ベースに入るきっかけは、指名手配されているメンバーが潜伏するためだったが、永田は合法部隊も呼び寄せていた。加藤倫教の「連合赤軍少年A」によれば、それは、獄中指導者の川島豪からメンバーを引き離す目的があったからだという。川島豪の獄中からの指示や批判に対し、永田は面白くなかった。そこで、永田はメンバーを目の届くところにおき、川島豪から引き離そうとしたというのである。


 さて、この記事でのポイントは、まもなく開催される12・18集会(上赤塚交番襲撃事件 の1周年記念集会)の段取りに不満を抱いた永田たちが、集会に乱入(?)を企てるところだ。このことが後に、連合赤軍の暴力的総括の遠因となる。


■1971年12月13日「大見得を切ってきた以上、共産主義化を獲得してもらわねば困る」 (永田洋子)

 指導部会議のため赤軍派の新倉ベースに残っていた永田と坂口が、完成間近の榛名ベースに戻ってきた。永田は赤軍派との指導部会議の内容をメンバーに報告した。


 4,5日すると永田、坂口の2人が榛名に帰ってきた。2人は全員を集め赤軍派との論議について説明した。「今回の共同軍事訓練の最大の成果は、両派が共産主義化による党建設という点で一致したことである」と報告し、それに関して革命左派が主導権を持って論議を進めたことが強調された。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 実際のところは、「指導部会議はほとんど森氏が主導した」(永田洋子・「十六の墓標(下)」)のだった。


 永田は、女性解放という観点から、組織内の女性が男性メンバーと同様に、重い荷物を持ったり小屋の建設に参加したり、武力闘争でも実行部隊に入ることなどを、男女平等の実現だと考えていた。

 また、女性メンバーが活動上、必要もないのに化粧をしたり、指輪などの装飾品を身につけたがるのは、「男に媚びる女性蔑視のブルジョア思想」とみなしていた。そして、革命戦争を闘うには、これらのブルジョア思想の克服が不可欠だと語った。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田の考える「女性解放」とは、「女を捨てて男並みになる」ということだったが、これが後に女性への暴力的総括の原因となってしまう (ちなみに、当時の女性解放運動は男並になればそれでよいというような単純なものではない)。


 同時期、ウーマンリブ運動の中心にいた田中美津は、永田について以下のように語っている。


 他の人、男や、権力や金を持つ人、自分より力のある人が求めるもの、求めるイメージを生きようとする限り、結局は化粧も媚び、素顔も媚びになってしまう、ということに永田は気がついていなかったと思います。永田がもし毅然としている一方で、私もイヤリングをつけたい、イヤリングつけて革命して何が悪いのヨって思っていたら、あの群馬県の山中での出来事は起きなかったかもしれない。
(田中美津・「かけがえのない、大したことのない私」)


 田中は、真岡銃砲店襲撃事件 のあと、永田に誘われて革命左派の丹沢ベースを訪れたことがある。このとき彼女は、革命左派に取り込まれることを警戒して、わざと戦士にふさわしくないミニスカートで行ったそうだ。


 永田はわれわれに、「赤軍派に対して、革命左派が離脱者の問題にぶち当たり、組織のメンバーが自己分析に基づいて自分の中に巣食うブルジョア思想と闘うことによって、革命戦争を闘う党建設を進めてきたと大見得を切ってきた以上、皆が自己を革命戦士化する『共産主義化による党建設』の地平を獲得してもらわねば困る」 と話した。

 こうした説明は、一部のメンバーを悩ませることになった。特に、共同軍事訓練への参加から外された者は、深刻だった。自らが皆より遅れているから外されたのだといわれたに等しい。そう受け止めていたからだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 共同軍事訓練は、赤軍派のメンバーが9名だったため、革命左派も人数合わせのために9名に絞ったいきさつがあった。


 そのあと、尾崎氏が沈痛な面持で、「上京して京谷さんと会う手はずをとったけど、京谷さんは待ち合わせの場所に来なかった。そのため12・18集会の準備さえどうなっているのか聞いてくることはできなかった・・・・・全く頭にきた」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 12・18集会とは、上赤塚交番襲撃事件(柴野が死亡)の1周年の記念集会である。京谷は救援対策で、獄中のメンバーとの連絡役をしていた。

 この日の夕食は、私と坂口氏が沢山買ってきた豚の脂身を入れた雑炊であったが、これは好評だった。皆は、「脂身は安くて豚肉の香りがして脂肪が沢山とれるのだから、これからはこういう肉をたびたび買おう」といっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このころの食事は、押麦の雑炊に中国製アヒルの缶詰かサバの缶詰、採ってきた山菜が主なメニューだった。たまに即席ラーメンを食べる程度だった。豚肉の「香り」や「脂肪」で喜んでいるのだから、当時としても極貧の食事であった。後に逮捕され拘置所で出される食事で栄養回復したという話もある。


■1971年12月14日〜16日「私は山で産む」(金子みちよ)
 14日の朝、大槻と岩田が12・18集会のアピール文を持って上京した。永田は小嶋といっしょに小屋のスキマを新聞紙で目張りしたり小屋の建設を手伝った。


 小屋建設の間、永田は杉崎ミサ子、金子みちよ、寺林喜久江など、女性たちから異性関係のことや組織活動のことで相談にのっている。永田は下部メンバーの個人的な相談にも丁寧に応じるから、相談しやすかったようだ。そういえば、赤軍派の進藤や行方も、永田をよき相談相手としていた。


 永田は、吉野の子供を宿していた金子みちよに、「産婦人科に行ったらどう?」とすすめたが、金子は「私は山で産む」といって、産婦人科には行かなかった。


 革命左派の山岳ベースは家族雰囲気で、問題も起きるが、楽しそうでもあった。だが、それもこのあたりまでの話である。


■1971年12月17日「永田は聴き手の心を揺さぶった」(坂口弘)
 再び京谷に会いに行った尾崎が帰ってきた。尾崎の報告によると、これまでのように京浜安保共闘(革命左派の公然大衆組織)と革命戦線(赤軍派の公然大衆組織)の主催ではなく、革命左派と赤軍派の主催になっていたということだった。そして、京谷は獄中からのアピールを尾崎に渡すとさっさと帰ってしまったという。


 組織名について解説しておくと、革命左派も赤軍派も、逮捕者の救援活動など合法活動を行う表の組織が別にあった。革命左派の場合「京浜安保共闘」で、赤軍派の場合「革命戦線」だった。新聞では革命左派のことを京浜安保共闘と報じているが厳密には正確ではない。


 もっとも、メンバーは流動的だったし、山岳ベースに合流したので、どちらも同じと思っても差し支えない。だが、12.18集会の主催名については、組織名が問題にされたのである。


 獄中からのアピールを読んで永田は激怒した。川島豪(革命左派指導者)は挨拶程度の電報文であり、渡辺正則(死亡した柴野とともに上赤塚交番を襲撃)は、「爆弾闘争ひとつもしていないじゃないか」と指導部を批判するものだったからだ。


 そこで私は、これらのアッピールと京谷氏が指導部との打ち合わせを拒否し、独断で革命左派の主催として12・18闘争を準備したことと関係があると考え、さらに京谷氏は、獄中革命左派が銃の問題を理解せず獄外革命左派に批判的であることから、12.18集会の打ち合わせを拒否したのだ、12・18集会には銃の観点はない、そうであれば12.18闘争一周年記念集会は何の意味もないと判断した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 要するに、永田は、京谷が獄中幹部とグルになって、銃による殲滅線を封じ込めようとしている、と疑ったのだ。

 永田はメンバーを前にしてアジ演説を行った。彼女には独特のアジテーションの才能があった。


 夜になると彼女は、「革命左派の主催にされた以上、銃の観点を打ち出す集会にしなければならない。そのためには軍から代表を送り、銃の観点を打ち出す発言を勝ち取る必要があると思うがどうか」と提起した。全員が「異議なし!」と答えた。それで積極的に賛成した前澤虎義君と伊藤和子さんの2人が上京して集会に参加し、軍の発言を勝ちとることになった。

 永田さんの怒りには激越さがあった。ちょっと口に出した碇でも、内心では煮えたぎっている場合が多く、切っ掛けを得ると凄い勢いで爆発した。怒りを爆発させると雄弁家になり、相手を激しく攻撃したかと思うと、ホロリとするようなことも言って、聴き手の心を揺さぶった。意識的というよりも自然にやっているので、情感に訴えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 翌18日、前澤虎義と伊藤和子が12・18集会へ出発した。


 それにしても、革命左派を名乗ったのを口実にしてメンバーを送り込んだのは強引過ぎた。それは、集会を準備したK君らの苦労を考えず、まったく一方的にこちらの意思を押し付けるものだった。私は、この時も彼女を制しなかった。弁解めくが、彼女のアジ演説はなかなかのものだったのだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そして、前澤と伊藤は忠実に責任を果たそうとした。ところが、この一件が後の暴力的総括の発端につながっていく。


■偶然集まった連合赤軍メンバー

 ここまでで、連合赤軍になるメンバーが出そろったわけだが、赤軍派にしても、革命左派にしても、連合赤軍になったメンバーは、志願したわけでも、選抜されたわけでもない。偶然そこにいただけである。


 逮捕された人とか、連絡がつかなかった人とか(当時電話はあまり普及してなかった)、山岳ベースに向かう途中ではぐれてしまった人とか、そういう人たちは、たまたまその場にいなかった。


 その場にいなかった者たちは、後日、あさま山荘の闘いをテレビでや新聞でみて拍手を送っていた。だが12名の同志殺害が発覚すると、その手は凍りついてしまった。自分がその場にいなかったのは偶然の成り行きでしかなく、彼らと自分を区別するものは何もなかったからである。


 一方、政治運動とは無縁の者にとっては、さしあたり異常者のレッテルを貼っておけばよかった。しかし後年になって、好奇心から当事者の記録を読むと、それではすまなくなった。彼らの常識や判断は、自分とさほど変わりがなかったからである。


 関係者であれ、部外者であれ、「自分と同じ」というのは都合が悪かった。自分も仲間を殺害できる人間だとは断じて認めたくない。彼らが異常者であってくれれば安心できるが、そうでないとすると、安心するための唯一の方法は、彼らがどこでどんな間違いを犯したかを見つけ出すことである。


 ここまでのところ、間もなく12名の同志殺害が起こる気配はない。しかし、実際に起こった。このあと彼らは、どこでどんな間違いを犯したのか、途中で引き返すことができなかったのか、という観点でみていくことにする。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html

1971年12月20日 森恒夫・坂東国男が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html


 森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。


 (山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・外観


■「遠山らは総括した」(森恒夫)
 再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。


 雑談のあと、赤軍派からの状況を森同志が報告しました。12・18集会を皆で祝ったことなどを。しかし、このとき、進藤同志、行方同志、遠山同志達を「2軍」とし、この集会に参加させずに、銃の訓練を科していたことは報告しませんでした。いろりのまわりで私たちが集会を祝い、酒を飲んでいるとき小屋の片すみの土間で、銃をかまえていた同志達の姿が今も目に浮かびます。自分たちを「1軍」として祝うことのうちろめたさから、彼らのほうをそっと見ました。ときどきこちらをみては、頑張らねばという建前と、しかし納得できないという晴れ晴れしない表情で、再び銃を構えるというような情景にこれでいいのかと思いました。

 しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
 革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。


 坂東氏は身を乗り出すようにしてアジテーション調で相当長く発言したが、何をいっているのかよくわからなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 支離滅裂な内容で、何を喋ればいいのかわかってないようだった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そのあと私が赤軍派を代表することになったわけですが、これは、「銃−共産主義化論」を未消化のまま、森同志のうけうりで、いいカッコしてアジテーション調にやったため、みんなわかりにくいなあという表情でしたね。素直に自分の感情を言うことは、何か価値の低いものでもあるかのように思っていたものですから、人間蔑視もいいところですよね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃−共産主義化論」 をわかっていなかったのである。


■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
 夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。


 (榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議


 森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。


 (森氏は)今度は他の革命左派の1人ひとりの評価を始めた。小嶋さんへの批判でいやな思いをした私は、驚き、ますます不愉快になり下を向いて目をつぶり、どうして森氏がこのようにいうのか考えながら聞いていた。森氏は金子さんを全面評価したが、それ以外の人、特に尾崎氏を軍人らしくないといって細かいことまで批判した。

 私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。


 私は革命左派内における個々人の評価を表明することで、森氏の批判に反対した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。


■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)

 個人批判の問題がひとまず終わったあと、森氏は、それの延長のようにして、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした。これまで、関心を持たなかったのは自己批判的に考えているが、生理のときの出血なんか気持ち悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。もうそれではやっていけないことがわかった」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。


 森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。

森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」


森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」


森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」


森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)


 どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。


 「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という森氏の発言は、明らかに女性の性そのものを否定した女性蔑視の観点を女性の革命戦士化の問題として持ち込むというものであった。しかし、それは、まず人間として生きることを掲げて、女性としての独自の要求をもとうとしなかった私の婦人解放の志向を徹底化させたものであったため、私は極端なことをいうと思っただけで、女性蔑視の観点そのものを批判していくことができなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。


■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
 森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。


 私は森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた。寺岡氏もほーうという感じでいたし、坂口氏、吉野氏も強い関心を持って聞いていた。私は、森氏が毛沢東思想を私たち以上にしっかりと理解していると思い、理論的指導者としての信頼の気持ちを深めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。


 森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。


私は睡魔に勝てず、うつらうつらしていたが、森君は相変わらず、独りで延々と喋りまくった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


雑談はその後も続いていたようであるが、私はいつの間にか眠ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。


 初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。


 そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html

1971年12月21日 われわれになった日
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

 前日、徹夜で森が中国の革命について語っていたので、この日の指導部会議は昼から始まった。


(冬へ向かう榛名山 「氷解」・彼らはこの景色をみて榛名ベースに入った)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-冬へ向かう榛名山(「氷解」イラスト)


■「共産主義化の理論にすがりついた」(永田洋子)

 森は「三大規律・八頭注意」を共産主義化のモデルとすることを主張した。「三大規律・八頭注意」とは、毛沢東が制定した軍規である。


<三大紀律>
1.一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ)
2.不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな)
3.一切?獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)

<八項注意>
1.説話和気(話し方は丁寧に)
2.買売公平(売買はごまかしなく)
3.借東西要還(借りたものは返せ)
4.損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ)
5.不打人罵人(人を罵るな)
6.不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな)
7.不調戯婦女(婦女をからかうな)
8.不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)

 つまり、党建設の機軸を路線にではなく、作風・規律に置き、両派の路線の不一致のまま、路線問題の解決よりもその問題の解決を両派の共通の課題として優先させたのである。しかし、私はこれに確信をもった。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田のいう「やっていけなくなった」ものとは何か、最後に考察してみる。


■「われわれになった」(永田洋子)


 森君は、「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を獲ち取るというようにするのではなく、銃と連合赤軍の地平で獲ち取っていくべきなのだ」と提起した。永田さんが直ちに賛成し、「それなら、われわれになったという立場から共産主義化の問題を追及していくべきじゃないの」と応じた。期待をこめた発言だった。

 森君はややあってから頷いた。こうして「われわれになった」こと、即ち新党の結成が確認されるのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 永田さんは、「われわれになった」ことがよほどうれしかったとみえ、会議の途中、土間のストーブの周りにいた被指導部メンバーのところへ行って、「われわれになった」ことを伝えた。そして、指導部のところへ戻ってきて、「われわれになったのだから、革命左派のメンバーを指導してほしい」と森君に慫慂(しょうよう)した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

この「我々になった」という表現は、革命左派の被指導部の者にはすぐには理解できなかった。意味がわからずきょとんとしている者が多かった。(中略)

 永田は私たちの反応がないのを見て、「我々になったのよ。嬉しくないの。これから赤軍派と一緒に闘っていくことになったのよ」と再度「我々になった」ことを強調した。これを聞いて、やっと被指導部の者たちは拍手した。中には雄叫びのような声を上げた者もいた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 これまでは、赤軍派と革命左派の軍事的連合という位置づけであったが、このときから、ひとつの党としてやっておくことになった。これを永田が、 「われわれになった」 といったのである。


■「坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」(永田洋子)


 そのあと指導部会議は雑談的なものになった。森氏はこのとき、坂東氏に、「坂東はどうして結婚しないのだ。結婚しても闘っていくということが指導者に必要なのではないか」といった。(中略)


 私が、「我々になったのだから、坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」というと、坂口氏も、元気のよい声で、「それはいい。ぜひとも結婚すべきだ」と賛成した。森氏も勧めた。(中略)


 坂東氏は、皆から勧められて、「本来、結婚するとすれば永田さんが一番良いということになるのだろうけど、もう相手がいるからダメだし・・・。ごめんね、おちょくって・・・」といって考えていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田はさっそく伊藤に打診する。


 伊藤さんはもそもそした調子で私にいった。
「私は、日大全共闘の黒ヘルの人に行為を持っているから・・・」
「その人と結婚したいの」
「そこまでは・・・」
「もし、そうでないなら、坂東さんとの結婚を考えたらどう」
 私たちは夕食まで2人で話し合えばよいということにして、こたつを離れた。2人は何か話し合っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まったく個人的感情を無視しているが、組織的に結婚させるというのは、革命左派の前身あたりから風習があったらしい。


■「もう永田さんと離れまいと思った」(森恒夫)
 夕食後、全体会議で、永田が、「われわれになった」ことを正式に報告した。そのあと永田に要請され、森が共産主義化と「われわれになった」ということの説明を行った。永田は森の演説を、 「うまいなー」 と感心して聞いていた。


 森氏は最後に、共同軍事訓練での遠山さん批判を評価し、「この時初めて永田さんを共産主義者と認めた。そのときから、もう永田さんと離れまいと思った」と笑いながらいい、私の方へ手を差し伸べた。また、森氏は、「革命戦士の夫婦として求められるのは永田さんと坂口君の場合だけであり、僕も含めてあとの者はそうとはいえない」ともいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このあと、被指導部の者1人ひとりが発言した。それらは、中国革命戦争の歴史に関心を寄せ、「我々になった」ということに期待するものであった。小嶋さんも同様のことをいい、さらに「二人のときに立ち会ってうれしかった」といった。この時、それまでオブザーバーのようにしていた森氏が、急に身を乗り出して、「ちょっと待った。そんなこと言ってよいのか」と強い調子でいった。小嶋さんはビクッとし、「良くなかった」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 小嶋がいった 「二人のとき」 とは印旛沼事件(向山・早岐の処刑) のことである。小嶋は運転手役をやらされていて、その後、精神が不安定になっていた。


 前日、森が小嶋を批判したとき永田は不快感を表したが、「われわれになった」この日はもはやそうではなかった。


 森はもともと革命左派を吸収しようとしていた。だから森は水筒問題 で革命左派を責めたてたのだが、永田は遠山批判 というカウンターパンチを放った。もし森がそのまま主導権争いを続けたら、また違った展開になっていただろう。森が遠山批判を認め、永田を持ち上げたからこそ、永田は森をリーダーとして受け入れ、両派の統合が一気に加速したのである。


 この日のポイントは、ひとつは「われわれになった」ことであり、もうひとつは、政治路線は棚上げにして、内部の作風・規律を重要課題としたことである。


■永田は何を「やっていけなくなった」のか、何に「すがりついた」のか?
 永田は、共産主義化の理論 をよくわかっていなかったといっている。にもかかわらす「すがりついた」とはどういうことだろうか。細かい話になるが、永田が「確信をもった」という理由を再度引用して、深読みしてみたい。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この文章で、「やっていけなくなった」ものは、普通は「闘争」と考える。しかし、そうだとすると、「ガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったので、もっとガムシャラな闘争精神である共産主義化でやっていくことにした」というおかしなリクツになってしまう。そもそも共産主義化とは革命左派の「ガムシャラな闘争精神」を発展させたものだったのだから。
 
 ところが、「やっていけなくなった」ものは「闘争」ではなくて「メンバーの統制」のことだと考えると合点がいく。以前から、革命左派において、メンバーの間に反永田の気運が盛り上がっていた。印旛沼事件、中国行き提案など、永田指導部の方針には、常に批判や不満がつきまとっていた。


 永田指導部への批判は、永田や坂口が強弁によって押し切ってきた。それが限界になって、「理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなった」のではないだろうか。つまり、「極左的な実践の限界」とは、「メンバーを統制しきれなくなった」ことだと思われる。


 永田はメンバー統制のために、理論が必要だと考えていた。そこに現れたのが森恒夫である。


 もし森が従来の赤軍派の理論である「前段階武装蜂起」や「世界同時革命」などをふりがざしていたら、永田は興味を示さなかっただろう。なぜなら永田が必要としていた理論は、組織の外側に向いているものではなくて、内側に向いているものだったからである。


 森の提唱した「共産主義化」は、まさに組織の内側に向き、個人の内側まで達していた。永田の理想としたフォーマットだった。つまり、「革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えた」というのは、「メンバーを強弁によって押し切るのではなく、共産主義化の理論で説得できることを期待した」ということになる。


 永田が「すがりついた」のは、共産主義化の「理論」ではなくて、共産主義化の理論の「フォーマット」である。だからわからないのにすがりつけるのである。


 よって、理論を操ることのできる森恒夫に主導権を渡すことは、さして抵抗がなかった。むしろ、メンバーの統制をより強固にするためには、そのほうが都合がよかったのだ。


 これは推論であり、正しいかどうかはわからない。だが、もし正しいとするなら、森恒夫と共産主義化の理論は、見事に永田の「期待」にこたえることになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html

 加藤・小嶋への殴打を紹介してきたが、特筆すべきは森の暴力の導入が、革命左派の榛名ベースで行われたことだ。赤軍派は、森と坂東と山田の3名だけで、いわば完全アウェーの中、革命左派メンバーの加藤能敬と小嶋和子を殴打したのである。


 そこには、森の強い意志が感じられるが、いざ、「高い地平」(森)に到達してみると、森は、新倉ベースに残してきた赤軍派メンバーの遅れが気にかかった。そして森の心は揺れ動くのである。


 南アルプスの新倉ベースでの赤軍派メンバーの出来事は、1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース) を復習しておいてほしい。


 今回は、12月27日の夜の指導部会議の様子である。


■「南アルプスにいる旧赤軍派の者をどうするか?」(森恒夫)
 

 (森は)「南アルプス(赤軍派の新倉ベース)にいる旧赤軍派の者をどうするか?」と問うてきた。(中略)


 森氏は、さらに、「僕は加藤、小嶋をい殴ったあとだから、ここを離れることはできない。それにしても、南アルプスにいる者はここにいる者よりはるかに遅れてしまった。この差はかなりのものだ」といった。私は、これに対し実に簡単に、「それなら、榛名ベースに結集させ、共に共産主義化を獲ち取っていこう」と答えた。


 「遠山(美枝子さん)ら3名は総括できた」という森氏の発言を信じていたからである。私は、遠山さんらに厳しい総括要求が課せられていることをまったく知らなかった。そのため彼女らを榛名ベースに連れてくれば、暴力的総括要求にかけられるかもしれないという予測をすることはできなかった。私の発言に皆が同意した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そもそも、赤軍派の幹部(森・坂東・山田)が革命左派の榛名ベースにきたのは、新党結成のためのミーティングをするためであった。それが、とんとん拍子で、12月21日に新党に合意 したので、森が革命左派メンバーに対しても指導権を発揮するようになったのである。


 だから新倉ベースの赤軍派メンバーは、幹部の帰りを待っている状態だった。そこで、彼らをどうするか相談を持ちかけたわけだが、新党が結成されたのだから、合流されるのが当然である。


■「どこまで話すか?」(森恒夫)


 しかし、森の心は揺れ動いた。

 (森は)続いて、「どこまで話して結集させるか?」と問うてきた。私はすべて話すのが当然だと思い、「新倉ベースの人には、加藤、小嶋を殴ったことやその総括のすべてを話し、『共産主義化』による党建設」の同意を得て結集させるべきだ」と答えた。私は、すべてを話して同意を得ればおくれの差を生めることが出来ると思った。ところが森氏は、「そうか、すべてを話すのか」といって少し考え込み、「うん、そうしよう。すべてをそのまま話す」といった。


(中略・そのあと、具体的な段取りなどを打ち合わせたことが書かれている)


 この時、森氏は、私に、「遠山、行方、進藤をどうするか?」と聞いてきた。私は、意味が分からず、「どうして?」と聞いた。森氏は、強い口調で、「だってそうだろう。南アルプスの者ははるかにおくれてしまったのに、この3人は南アルプスの他の者より問題を抱えているのだ。榛名ベースの者からみれば総括できたといえないじゃんか」といった。この時、「遠山らは総括した」といったことが実は違うことを森氏はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく森が心配していたことは2つある。


 ひとつは、暴力のことまで話すと、総括中の3人(遠山・行方・進藤)が逃亡するのではないかと疑っていたことである。だから、「遠山、行方、進藤をどうするか?」ときいたのは、「3人の逃亡を防ぐにはどうするか」という意味だったと思われる。結局、3人については車で移動させることにした。


 もうひとつは、総括中の3人が榛名ベースに合流すると、3人とも暴力的総括要求を行わざるを得ないと憂慮したことだろう。加藤・小嶋への殴打を正当化し、理論化してしまった以上、3人に対しても断固とした対応をとらなければならない。


 森の歯切れが悪いのは、この時点では、さらなる暴力に対し、いくらか躊躇があったからであろう。だから永田に相談を持ちかけたのである。


 ところが、12月20日に森は永田に「遠山ら総括した」とウソをついていたので、永田は森の躊躇にまったく気づかなかった。


 だから当然の如く、総括中の3人も含めて召集することに決まってしまう。坂東と寺岡が迎えに行くことにし、山本順一が車の運転をしていくことになった。


 そして、坂東たちが彼らを連れてくる頃には、森は、断固とした態度で臨むことを決意しているのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html


1971年12月29日 女の革命家から革命家の女へ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)は、理不尽な批判にさらされていく)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

■12月29日時点の連合赤軍メンバーの状況 (榛名ベース)

−−− 指導部 −−−
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)

坂東国男 (赤軍) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山田孝  (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
吉野雅邦 (革左)

−−− 被指導部 −−−
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前澤虎義 (革左) 中村愛子を迎えに上京
岩田平治 (革左) 中村愛子を迎えに上京
山本順一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
尾崎充男 (革左) 立ったまま総括中
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)


 夫婦関係にあるカップルは、永田洋子と坂口弘、寺岡恒一と杉崎ミサ子、吉野雅邦と金子みちよ、山本順一と山本保子の4組であった。山本夫妻を除いては、法的な婚姻ではなく、組織が認めた「夫婦関係」である。加藤能敬と小嶋和子は、組織に認められていなかったので、「恋人関係」にとどまっていた。


■「どうして美容院でカットしてきたんや」(森恒夫)

 指導部会議を終えてから、森氏は大槻さんから買い物の報告を聞いたが、その時、大槻さんが髪をカットしたことを知ると、「山でパーマをかけると決め美容院にパーマの道具を買いに行くようにいったのに、どうして美容院でカットしてきたんや。これは問題だぞ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 その後、森は杉崎ミサ子を指導部のこたつのところに呼んで深刻そうに話し込んだ。その間、永田は手洗いに立ち、金子や大槻と雑談をしてから、指導部のこたつに戻ったが、森と杉崎はまだ話し込んでいた。

 しばらくすると、杉崎さんは、「寺岡さんと離婚し、自立した革命戦士になる」といった。森氏はこれを評価し、私や坂口氏に伝えた。私は冗談じゃないと思ったが、自立した革命戦士になるという以上反対できずに黙っていた。


 このあと、大槻さんが「星火燎源」を読んでおり、秋収蜂起から井岡山への闘いに関心を持っているというと、森氏は、「知識として読んでいるにすぎない」といった。私は欲理解できず、「えーっ」といった。森氏は、「美容院でカットしてきたのは何だ!」といったあと、強い調子で、「知識!知識!」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「あぶり出しをしているかのようだった」(加藤倫教)
 夕食後、全体会議が開かれた。

 加藤倫教は、全体会議に参加する気持ちを次のように述べている。

 まるであぶり出しをしているかのように、毎晩毎晩の発言の中で、幹部たちの、特に森、永田の気に入らないような発言をしてしまった者が、次の標的にされいくように感じられた。(中略)


 物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのかわからない「総括」要求と暴力に、森と永田以外のものは怯えていた。


 私も怯えていたが、永田は、私や弟のことをまだ一人前の構成員とはみなしていないようだった。いわば子ども扱いされていたのであり、そのおかげで「総括」させられることもなかったのである。


 その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには、「銃による殲滅戦」を行うしかないという信念、それだけだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 全体会議といっても名ばかりで、実態は、指導部の方針の伝達と、それに対して決意表明を行う場だった。そのときの決意表明が、「総括」するかどうかのリトマス試験紙になっていた。森や永田が気に入らなかったらおしまいというのは、メンバーの証言が一致している。


 指導部の方針は指導部会議で出されるが、それも名ばかりで、森の問題提起に対して承諾を求められ、民主的な装いをあたえる機関でしかなかった。


■「女の革命家から革命家の女へ」(森恒夫)


 全体会議の参加者はいつもより大分少なかった。メンバー状況からわかるように、被指導部のメンバーは加藤兄弟以外は女性ばかりであった。


 全体会議では、杉崎が「自立した革命戦士になるために、寺岡さんと離婚します」と宣言した。これが森と杉崎の話し合いで出された結論であった。

 森氏が、「女性兵士が自立した革命戦死になるということは、『女の革命家から革命家の女へ』ということだ。杉崎さんの離婚表明は革命家の女になるものだ」といって、杉崎さんの離婚を評価した。しかし、森氏は、『女の革命家から革命家の女へ』ということがどういうことなのか説明しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 当時、リブ運動に、「抱かれる女から抱く女へ」というスローガンがあり、森はそのフレーズを意識していたのではないだろうか。

 その後も発言が続いたが、金子さんの番になると、彼女は、「私も、自立した革命戦士になるために、吉野さんと離婚します」と発言した。


 これを聞いて、私は杉崎さんのとき以上に驚きあわててしまった。私は、「金子さんは杉崎さんと違うのだから離婚する必要はない。離婚しないでもやっていけるし、自立した革命戦士になれる」といった。金子さんは黙ってしまったが、離婚表明は撤回しなかった。(中略)


 森氏は、私の反対に何もいわなかったが、のちに、金子さんの離婚表明への批判を独自の観点から行っていくのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は、「革命家の女になるために努力する」と発言した。

 森氏が、半ば私に、半ば全体にいう感じで、「美容院に行ってカットしてきたことも自己批判ぜず、女の革命家から革命家の女になるために努力するということが許されるのか」と批判した。森氏は終始一貫して大槻さんに批判的であった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「少し休ませてください」(尾崎充男)


 会議の途中に、尾崎君が指導部のいる炬燵に向かって歩いてきて、「少し休ませてください」と言った。森君は怒って、「おとなしく立って総括しろ!」と叱りつけた。尾崎君は、一旦、土間の側に戻って立っていたが、しばらくするとまた炬燵のほうにやってきた。


 森君はかんかんに怒り、その場で、「眠らずに総括しろ!」と言って、尾崎君に大きな試練を課した。尾崎君は、肉体的苦痛が大きすぎて、抑制の利いた行動が取れなくなっていたのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 この日の夜、森の指示で吉野が尾崎の見張りにつくことになった。


■「革命家の女」になるには、女を捨てなくてはならない


 永田は、「女の革命家から革命家の女へ」という言葉を受け入れたが、理論的には消化しきれずにいた。だから、離婚宣言に対して、杉崎については承認し、金子については引き止めるという中途半端な対応になった。


 「女の革命家から革命家の女へ」 というのは、 言葉通り受けとめれば、「女である前にまず革命家であれ」 ということだ。そういう意味なら、革命左派の女性たちは、とっくに 「革命家の女」 だった。以前から、女だから、などという意識はなく、あたりまえのように男女の区別なく活動してきたのである。


 ところが、森の問題意識は異なっている。12月20日 に、森は、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」といったが、その内容は、女性の身体や装着品についての問題提起だった。森の理想とする 「革命家の女」 になるには 、 女を捨てなければならないのだ。


 永田は、森の女性蔑視的発言に反感を抱きつつも、その後の女性メンバーへの総括要求では、森の側に身を寄せた。その動機はともかくとして、女らしさを粉砕しなければならない、という点については、永田も一致していたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html


1971年12月31日 「敗北死」の踏み絵
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html

 前回は、尾崎充男が死亡し、森が「敗北死」と規定した。今回はその続きとなる。


■メンバーの状況(12月31日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍) 新倉ベースから戻る
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左) 新倉ベースから戻る
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
進藤隆三郎(赤軍) 新倉ベースから合流
遠山美枝子(赤軍) 新倉ベースから合流
行方正時 (赤軍) 新倉ベースから合流

【死亡者】
尾崎充男 (革左)12月31日 敗北死(殴打による衰弱、凍死)


■「女性とばかり話している」(森恒夫) 「髪を切る必要を全く理解していない」(永田洋子)
 坂東に連れられて、新倉ベースからやってきた赤軍派の進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースの小屋に入るなり、尾崎、加藤、小嶋がたれ流し状態で柱に縛りつけられている光景を目にしてしまった。


 彼らは総括要求されている最中だったから、心中穏やかでいられるはずはなかった。3人は森に挨拶にもいけなかった。


 坂東は、森に3名について報告をした。坂東の手記では、3人とも総括できたと肯定的に報告したことになっているが、坂口の手記では、3人に不利な内容が報告されたことになっている。どちらにしても、森は3人を最初から冷たい目でみていたから、坂東の報告はほとんど関係なかったと思われる。


 森は、「進藤は戸口を気にしている。逃げようとしている」、「進藤と行方は、女性とばかり話している」、「行方は総括のことより、自分に出された指名手配書を気にしている」などと、さっそく批判を始めた。

 森氏のこの批判は、・・・(中略)・・・実にめちゃくちゃなものであった。あまりにもひどいものだったため、私たちは同意しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 しかし、永田は永田で、遠山をみて、「髪を切ったとはいえ、前と同じ服装であり、非合法の為に髪を切る必要を全く理解していない」としっかり批判している。山を降りてないのだから、服装が同じなのは当然である。


■「みんなにこのことを知らせるか?」(森恒夫)
 森は、尾崎の死について、指導部に対しては「敗北死」ということで始末をつけたが、被指導部のメンバーへの対応については、弱気な面をのぞかせた。

森「みんなにこのことを知らせるか?」
永田「みんなに知らせるのは当然だ」
森「そうか。それではそうしよう」
森「誰が全体に報告するか?」
全員「・・・・・」
森「永田さんにやってもらおう」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋)


 森は自分からは言いたくないようである。

 永田さんは、向山君と早岐さんの殺害と一緒に全体の前に報告すべきだと主張したが、森君はこの提案に躊躇した。しばらく考えてから彼は、前沢君と岩田君の2人に、早岐、向山殺害の事実を教え、しかる後に全体の前に報告しようとする代案を出した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森、坂口、吉野は前沢と岩田を小屋の外によんだ。

 ここで森君は、「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括し切れなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。この時、私は、全身が汚辱にまみれ、下等な人間に転落していくのがハッキリとわかった。

 続いて彼は、早岐、向山を殺害した事実を明らかにした。岩田君は、「たぶんそうだと思っていました。自分は異議ありません」と言った。私は、革命左派の責任で行った殺害行為が、赤軍派の森君によって語られたことに、非常に惨めな気持ちになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どうして森氏が2名の処刑を全員に話すことに反対し、前沢氏、岩田氏には話すといったのか、どうして尾崎氏の死を全員に話すことを始めはためらい、さらに自分が行うことは避け、前沢氏らには自分が話すといったのか、私にはわからない。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく、森は、尾崎の死に際して、誰よりも動揺していたし、誰よりも責任を感じていた。全員(ほとんどが革命左派メンバー)に「敗北死」が通用するかどうか、自信がなかったのではないだろうか。


 メンバーには隠しておこうとも考えたが、永田にピシャリと否定されたので、革命左派のリーダーである永田の口から説明してもらうようにしたのだろう。


 遺体を埋める作業を手伝わせるため、森は、岩田と前沢の2人には、すべてを話した。もっとも信頼できる2人を選んで、森の言葉が2人に通用するか確かめたのだと思われる。逆にいえば、他のメンバーには信頼をおいていなかったということである。


 しかも、このとき、坂口と吉野を同席させて、数的優位をつくった上での説明であった。このように森は、小心な面が顔をのぞかせることがある。

 私は、みんなが尾崎の死でびっくりしたりショックを受けたりして食事ができなくなるようではいけないから、全体会議ではパンとコーヒー、コンビーフの缶詰で軽い食事をしよう」と提案した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 普段は、麦の雑炊しか食べてないので、パン、コーヒー、コンビーフは、たいへんなご馳走だった。要するに、ニンジンをぶらさげて、敗北死を認めるように迫ったわけだ。


 尾崎の遺体は、坂東、吉野、前沢が小屋の近くに埋め、山田と岩田が、加藤と小嶋を小屋の外に出した。尾崎の死を聞いてショックを受けないようにするためということだった。


■「尾崎は自ら敗北の道を辿って死んでいった」(森恒夫)

 全体会議が始まった。始めに永田さんが、「尾崎が死にました」と報告した。全員がしーんと静まり返った。彼女は、命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならないことを強調し、「加藤、小嶋に敗北死させないように必ず総括させよう」と言った。全員が、「異議なし!」と答えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 続いて森君が尾崎君の死を総括して、おおむね次のような発言をした。


「尾崎は、われわれの厳しい共産主義化の闘いの中で、最終的にこの闘いに勝利しきれず、自ら敗北の道を辿って死んでいった。われわれにとって共産主義化の獲得こそが党建設の内実であり、これを獲得するためには各個人の文字通りの命がけの飛躍が必要である。こうしたことをなし切れなかった尾崎の死は、共産主義化の獲得(=党建設)というわれわれが初めて直面した高次な矛盾であるが故に、この現実を厳しく直視しなければならない。だから彼の敗北死を乗り越えて前進する決意をわれわれ自身がより固めていかなければならず、食事が摂れないというようなことがあってはならない」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「高次な矛盾」とはいったいなんだろう。森はこの言葉を、都合が悪いときの言い訳として使っているような感じだ。


 「自己批判書」には以下のように書かれている。

 この事(前沢と岩田に敗北死の説明をしたこと)は、私自身が尾崎君の死を暴行によるものではないかと考えた事を”命がけの”飛躍という事によって合理化し、又、肉体的暴行、食事なし、寒気という異常な条件に対する指導という意味での慎重な配慮を為さなかった為に死なせてしまった事を省みず、死の責任を一方的に押しつけるものであったし、更に、その事実を食事云々ということで他のメンバーに対する踏絵にし前記の誤りの承諾を強要したものであった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「自己批判書」は、他の人の手記と違って、逮捕直後にかかれている。つまり、山岳ベースの熱が醒めないうちに書いているのだが、「敗北死」などとは思っていなかったことがわかる。


 永田はどう総括しているかと言うと、

 もし、暴力を制裁、報復と位置づけていれば、尾崎氏の死の原因が暴力にあったことを認めざるを得ないが故に、「敗北死」という総括が出てくることはなかったと思う。


 しかし、共産主義化の思想それ自身、すべての問題の原因をまず路線や指導に求めるのではなく、個々人の資質や性格に求めていくものであったのであるから、「敗北死」という総括は暴力的総括要求の論理の必然的結論だったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そ、そうなのかっ!?
 「死者が出た以上、暴力を援助と規定したことがそもそもの誤り」とするのが、「必然的結論」ではないだろうか。


■「尾崎の死は鴻毛のように軽い」(岩田平治)


 全体会議では、例によって決意表明が行われた。

 私は驚愕した。同志の死を「敗北死」で片付けて、悼む姿勢すら見せないことが信じられなかった。それどころか尾崎の死を受けて、再び出席者全員による総括と決意表明が行われたのである。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 皆の発言には、「敗北死」という総括に反対するものはいなかった。本当に敗北死だとか、尾崎氏は日和見主義だとか、自分は頑張っていくといった発言が相次いだ。


 遠山さんは、「私は絶対革命戦士になるんだと決めてきた」と発言した。岩田氏は、「毛沢東は『死にも泰山のように重いものと鴻毛のように軽いものがある』といっているけど、尾崎の死は唾棄すべき軽いものだ。僕は革命戦士として泰山のような重い死に方をしたい」と表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この岩田の発言は、森に気に入られた。岩田は、これまでも積極的に森に迎合した発言を行っていたが、しかし、内心では冷静に事態をみつめていた。なぜわかるかというと、彼は脱走者第一号になるからである。


■「小嶋は総括しようとしている態度ではない」(金子みちよ)

 各自の発言が続いている最中、金子さんが見張りから戻ってきた。金子さんは、指導部のところに来て森氏に、「とり肉とミルクをやったら、加藤は黙っておとなしく食べたけど、小嶋は食べたあと『また、あとでちょうだいね』といった。小嶋は総括しようとしている態度ではない」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 金子は、尾崎に決闘をさせたときは否定的だったが、ほかの「総括」にはむしろ積極的に関わっていたのである。

 小嶋さんは敵対的な態度をとっている私たちに同志としての態度を期待したばかりか、苦痛を強いる暴力的総括要求に圧力に屈しない自主性を持ち続けていたのである。ところが、私たちは、こうした小嶋さんの態度を総括しようとしない態度と決めつけたのである。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■踏み絵を踏んだ日


 尾崎の死は、暴力的総括から引き返す最大のチャンスだった。


 暴力に関わった者が自分の殴打によって尾崎が死んだと思い、動揺していた。それは森も同じだった。もし、森が、直後に「敗北死」といわなかったら、12名もの同志殺害はなかったはずである。


 尾崎の死が確認された直後の数分間で、森は「敗北死」という、実に効果的な言葉を創出した。「共産主義化」をイデオロギーに、入り口を「殴ることは指導」「殴ることは援助」で暴力に参加させ、出口を「敗北死」で完結させ、ステージを先へすすめてしまったのである。


 森は責任逃れの方便であることを自覚していたし、ほかのメンバーもそれはわかっていた。その証拠に、後に逮捕され、同志殺害を追求されたとき、誰一人として、「敗北死」などといわなかった。罪悪感から逃れるために、「敗北死」にすがりついたのである。


 「敗北死」の理論がまかり通ったのは、外部と遮断された閉鎖空間だったからである。もし、外部とつながっていれば、外部からの圧力によって指導方法が見直されたにちがいない。さらに悪いことには、指名手配者が多かったため、遺体を家族に返すこともなく、秘密裏に埋葬することになった。


 結局、「敗北死」の踏み絵を踏んでしまった以上、メンバーは、贖罪意識を背負って、尾崎以上に頑張り、革命戦士をめざすしかなくなった。途中下車という選択肢は、森によって、「山を降りる者は殺す」と出口を封じられていた。


 この日、榛名ベースに合流した進藤、遠山、行方の3人は、驚くことばかりであったが、次に、おのれにふりかかるであろう総括を考えると、心穏やかでいられるはずはなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html


1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html


(進藤隆三郎は榛名ベースに殺されに来たようなものだった)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-進藤隆三郎顔写真


進藤隆三郎(享年21歳)


【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 赤軍派
【学歴】 日仏学院
【レッテル】 ルンペン・プロレタリアート、不良
【総括理由】 金めあての闘争参加。女性関係。逃亡の意思。
【総括態度】 「縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
【死因】 殴打による内臓破裂


(加藤能敬と小嶋和子は外に出され、立ち木に縛られた)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-木立に縛られた加藤・小嶋

※横になっているのは見張りの山田孝と岩田平治


■「山谷物語を聞いてるんじゃない!」(森恒夫)


 全体会議は72年の1月1日に入っても続いたが、正月を迎えるような雰囲気ではなかった。全員の発言がすむと、森氏は進藤氏を批判し始めた。森氏の批判は激しく攻撃的なものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 進藤は、山谷や寿町の寄場で、暴力団手配師との闘争などをしていたところ、寿町で植垣と知り合い、赤軍派のシンパとして活動を共にするようになった。M作戦(銀行強盗) を行う頃には、持原好子と一緒に生活していた。森は精神的に消耗した持原への処刑命令 を出すが、実行されずにすんでいた。


 植垣によれば、進藤は、一緒に活動しているだけで、赤軍派メンバーという意識も薄かったとのことだ。そのため、森に対するリスペクトも少なく、従順というわけではなかったようである。森はそれが気に入らなかったであろう。


 森の進藤への批判は、闘争よりもむしろM作戦(銀行強盗)のために赤軍派に参加したこと、ルンペン的であること、持原との関係で自分も処刑されるかと思ったと話していたこと、などであった。


 進藤は、つきつけられた問題を1つ1つ、重苦しい感じで答えていった。

 私は寝ることを森氏らに断って、被指導部の人たちの後ろに行き、シュラフに入ってすぐ寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このやり取りの中で、森君が、「山谷物語を聞いてるんじゃない」と言って、進藤君の話をさえぎろうとすると、進藤君が、「自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と言って、なおも山谷を中心とした活動を話そうとした場面があった。森君に逆らって自分の意思を押し通すなどということは、容易に出来ることではないので、これは印象深い出来事であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「縛ってくれ」(進藤隆三郎)
 討論は未明まで続き、森は進藤に最終的にどう総括するのか問い詰めた。

 すると進藤君は自分から、「縛ってくれ。自分はその中で総括する」と言った。この言葉は、進藤君の最大限の誠意の表れだった。ところが森君は、「縛ってくれなどと言うのは甘えた態度だ。われわれの方で君を縛って総括を求める」と言って、これをけった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 森君は、われわれ指導部のものに向かって、進藤君を全員で殴打することを提起した。この時、尾崎君のときの殴打に触れ、「ひざで殴ったのはまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と言った。これは森君自ら”敗北死”のペテンを認めるものに他ならなかった。(中略:坂東に命じて縛らせる)

 それがおわると、非常に厳しい口調で、「みんなに殴られて総括を深化しろ!」と進藤君に向かって言った。(中略)
 「自分から縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どれほど眠っていたかわからないが、ドタドタという足音が耳元にし私は驚いて起きた。皆は血相を変えて森氏のあとを追い、森氏と進藤氏を取り囲むところだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森がものすごい勢いで7〜8発、続いて山田、坂口、吉野が、腹部を殴った。進藤は、「総括します。分かりました」と言っていたが、やがて失禁をした。


■「革命戦士になるためにこんなことが必要なのか!」(進藤隆三郎)

 しばらくすると彼は、思い余って、「何のためにこんなことするのか分からない!革命戦士になるために何でこんなことが必要なのか!待ってくれ!」と叫んだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 「こんなことで本当に総括といえるのか?」といわれたときには、心臓がドキドキしました。彼のいうことに答えきれる内容があるのか? そんなことを考える自分はやはり森同志のいうように甘いのかもしれないなど、自分にこだわり、自分の頭の中だけが忙しいだけでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、「自分で考えろ!」と突き放した。指導部が殴り終えると、下部メンバーが進藤を殴った。吉野の証言によれば、永田が下部メンバーに殴るようにいったそうである。

 女性メンバーに殴られたとき、進藤君は首を垂れて、「有難う」と言った。すると森君は叩きつけるように、「甘えるな!」と言い、女性メンバーに代わって進藤君の腹部を数発立て続けて殴った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「私には殴れない」(遠山美枝子)
 森は、行方と遠山にも殴るように指示した。彼らは殴れないでいたのである。

 行方氏は森氏にいわれてすぐ殴ったが、その殴り方は森氏ら男の人たちが殴ったときのような激しさはなかった。(中略)


 続いて遠山さんも殴ろうとした。しかし、殴ろうとした遠山さんは、その途中で森氏を見上げて、「私には殴れない」といった。皆は黙っていた。森氏は、「殴れ!」と強い口調でいった。遠山さんは必死の面持ちで進藤氏を数回殴った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 坂口によれば、遠山が殴れないでいると、メンバーは口々に「だらしがない」といって非難したそうである。

 そのうち、私は進藤同志の腹が赤くなっているのに気づきました。同じくらいに森同志も気がついたようでした。森同志は私を呼んで「大丈夫か?」といくらか心配そうにいい、私の方は、「わからないけど、早く気絶させるか、やめたほうがいいと思う。ミゾおちなら早く気絶するかもしれない」といったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 一体、何順しただろうか。このときの殴打もたまらなく長く感じた。終わりの方になると、進藤君の腹部は、赤色のかなりの部分が鮮やかな緑色に変色した。目も当てられぬ惨状であった。多分、内臓破裂したのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「もうダメだ」(進藤隆三郎)
 森によれば30分ぐらいたったところで、中止の指示を出し、外の木立に縛っていくように命じた。

 私、坂東君、山田さん、吉野君等で、進藤君を支えながら、加藤君たちを縛ってある木の近くに連れて行った。この時、進藤君は、喘ぎながら、「自分で歩いていきます。大丈夫です」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 しかし、進藤は途中で力尽き、自分で歩けなくなってしまった。

 この時、私は、「進藤は芝居をしているんだ!」と彼に罵声を浴びせた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂東も、甘えていると腹をたてた、と証言している。

 そのあと指導部会議が開かれた。森は進藤への批判を再確認するように繰り返した。、

 指導部会議を続けていると、岩田氏が、小屋に駆け込んできて、「進藤が、立ち木に縛られてしばらくして、『もうダメだ』といって死んだ」と報告した。私はびっくりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は極めて冷静にこの報告を聞いた。私も冷静であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口によれば、報告したのは岩田でなく山田ということになっている。


■「敗北死や」(森恒夫)

 森氏は、進藤氏の報告を聞くと少し考えていたが、


「敗北死や。縛ってくれといえば縛られないと思ったことが見破られ、殴られて縛られたことから共産主義化の為に闘う気力を失ってしまったんや。だからこそ、『もうダメだ』といったあと死んだんや。『もうダメだ』という気力がある位なら、共産主義化のために努力し共産主義化を獲ちとることができたはずや」


といった。この森氏の総括に、私はたしかにそうだと思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は本当にそう思ったのかもしれないが、「敗北死」はもちろんペテンであった。

 私自身、尾崎君の時以上に彼の死が殴ったことに原因するのではないかということを考え、腹部を強く何度も連続して殴るとそのときはすぐに肉体的に表に出なくても致命的な痛手を与えることになるので、今後は絶対そうしないでおこうと思ったりした。

(森恒夫・「自己批判書」)


■「進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった」(永田洋子)


 指導部会議のあと、全体会議を開いた。このときも森の求めに応じて永田が説明した。

 続いて森が進藤への批判を繰り返したが、女性が殴ったのに対し、「ありがとうございます」といったのは、女性をバカにしたものだ、という批判も行った。非指導部のメンバーも、進藤に対する怒りの空気が充満していたようだ。

 こうして、進藤隆三郎氏は、私自身でさえ、なんだかよくわからないうちに榛名ベースで1日もたたずに、暴力的総括によって「殺害」された。進藤氏の死は、腹部への激しい殴打による肝臓破裂だったのである。進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 こうして、同志を信頼せず、同志を自分のことのように考えきれず、おくれた人間として考える私のあり方が、榛名ベースに来て一日もたたずに、殺す事態をもたらしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 死の予感を抱きながら榛名ベースにやってきた進藤君の胸中は察するに余りある。殴打中の進藤君は、驚嘆すべき強靭な生命力を発揮し、その叫びは、総括を求めるわれわれの愚劣さと残酷さを厳しく告発していた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 同志に対する暴力への抵抗は消えていなかったが、「暴力=援助」論 に明確な反論ができない以上、幹部の指示に従わないわけにはいかない。否、むしろ指示がなくとも積極的に振舞わなくてはならない。そんな相反する気持ちの中で、自分は弟とともに最下位の兵士なので、それほど積極的に振舞わなくても大目にみられるだろうとも考えていた。そこで、同志を殴らざるを得ない場合も、強すぎもせず、弱すぎもしないように殴るという態度を取ることにした。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 進藤君の努力を認識しつつも、人間的な感情を押し殺し、共産主義化の戦いの厳しさをのみを観念的に拡大していき、その論理に安住することによって、現実や実際的な人間的感情と乖離していった。私のこうした過程が、ほかのメンバーに巨大な影響を与え、彼らの精神的荒廃をもいたらすまでになっていたのである。
(森恒夫・「自己批判書」より筆者が要約)


■出口のない「総括」と「未必の殺意」

 進藤は榛名ベースに到着したばかりで、新たに批判されるようなことはしていない。つまり、赤軍派時代の批判 がそのまま繰り返された。


 赤軍派時代は、「銃−共産主義化」論 に基づいて、銃の訓練をする程度だったのだが、森のものさしが変わってしまったため、ここでは暴力的総括にかけられたのである。ということは、森にしてみれば、進藤・遠山・行方を榛名ベースに呼んだ時点で、暴力を加えることは、規定路線だった。それゆえ、3名を榛名バースへ呼ぶことを躊躇 していたわけだ。


 革命左派メンバーにとっては、進藤への批判は何もわからなかったはずだが、積極的に関わることが共産主義化に必要なことと信じ、進藤を殴ることにためらいはなかった。このあたりは、新たに参加した赤軍派のメンバーと、はっきりとした心理的対比をなしている。


 坂東は、進藤・遠山・行方を「3人とも総括できている」といって榛名ベースにつれてきた張本人 なのに、かばう気配もなく、森の批判に同調し、進藤を殴っている。このあともそうだが、坂東は、自分の意見を主張せず、常に森の指示を冷酷に実行するのである。


 森は、坂東に「大丈夫か?」と尋ねていることから、殺意があったとは思えないが、腹を「鮮やかな緑色」(坂口)になるまで殴って、状態を確認することもなく、極寒の中、木立に縛りつけたら、死亡するのは当然である。「死んでもかまわない」という「未必の殺意」があったと考えるのが自然であろう(もちろん彼らの手記にはそんなことは書かれていないが)。


 さて、進藤の自己批判の内容はというと、植垣に押し付けられた総括をもとに、事実以上に露悪したと思われる。しかし、露悪することは、総括を認められるどころか、逆に怒りをかう結果となった。後の被総括者もたびたび露悪することになるのだが、それはことごとく失敗に終わるのである。


 黙っていれば「隠している」、反抗すれば「総括する態度ではない」、露悪すれば「反革命だ」、などと、森は出口という出口をふさいでいる。森の手記にも、どうなれば総括したことになるのか、ひとことも書かれていないので、あとから考えても出口はみあたらないのである。


 しかも、進藤への批判は、連合赤軍はおろか、赤軍派に加わる前のことであった。榛名ベースでは、あとから法律を作って裁く 「事後法」 がまかり通っていたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html

1972年1月1日 小嶋和子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html

(小嶋は何を言っても悪意に解釈された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-小嶋和子顔写真


小嶋和子(享年22歳)
【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 革命左派(中京安保共闘)
【学歴】 市邨学園短大
【レッテル】 ヒロイズム 小ブルジョア急進主義、精神の病
【総括理由】 自己陶酔的態度、加藤能敬とキスして神聖な場をけがした
【総括態度】 「集中していない」「反抗的」「指導部を憎悪」
【死因】 凍死


■メンバーの状況(1月1日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左)
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 外の木立に緊縛中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 外の木立に緊縛中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
遠山美枝子(赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず
行方正時 (赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)


■「小嶋は闇を恐れるから、目かくしをするといいんじゃないか」(加藤三男)

 全体会議が終わった頃、雨が降り出したので、外の木立に縛られている加藤と小嶋を小屋の床下に移すことになった。

 N・K氏が、「小嶋は闇を恐れるから、それを克服するために目かくしをするといいんじゃないか」といった。私は、小嶋さんが真夜中がこわいといっていたのを思い出し、「たしかに小嶋は闇を恐れる」といった。すると森氏が、「革命戦士としては、それは克服させねばならないことだ」といった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このとき、小嶋が1人で歩こうとしなかったことも批判された。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-目隠しをされた小嶋和子


■「総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」(加藤能敬)

 このあと指導部会議が続けられたが、しばらくすると、床下で柱に頭を打ちつけている音がした。それはかなり長く続いた。森氏は、それに対し、「あれは小嶋や。小嶋はあんなことをして総括に集中していないんだ。総括しようとしていないのだ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森と永田が見に行くと、柱に頭を打ちつけていたのは、小嶋でなく加藤だった。

 森氏が、加藤氏の体をゆさぶるようにしながら、「おい、どうした」と聴いた。それは、驚いた声ではあったがやさしいものだった。加藤氏は、「こうしていても、ボヤーとして総括に集中できなくなる。それが悲しい。総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」といった。

 森氏は、「そうか、総括しようとしているんだな。よし、おまえを小屋の中に入れよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 加藤を小屋に入れてから、森は加藤の手を湯につけて揉みほぐしたり、「総括できるのも間近だろう。それまで頑張れ」とはげますように声をかけた。柱にしばるときも、「苦しかったらいってくれ」と少しゆるく縛った。

 床下で頭を柱に打ち付ける音がした時、森氏は「あれは小嶋や」と決めつけ、それを総括に集中していない表われとみなした。ところが、打ちつけていたのが加藤氏とわかると、評価は一転して総括していようとしているとみなしたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 だが、私は、加藤君を床下から部屋の中へ移す段階ですでに加藤君に対しては総括の期待をもっていたが、小嶋さんについては恐らく総括できないのではないかという事、即ち総括できないだろうから死ぬかもしれないがそれでも最後まで可能性を追求してみようという事を思っていた。
(森恒夫・「自己批判書」)

 私は、総括を要求されたものが次々と死んでいく中、兄が総括できそうだと森らに認められたことに胸が熱くなるほどの喜びを感じた。永田は私が嬉しそうな顔をしていると言い、小屋に戻された兄の服を着替えさせようとすると、「兄さんが頑張っているのだから、あなたも頑張らなければいけない」と、私が兄に近づくことを止め、小嶋の見張りにつくよう指示した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


■「小嶋は永田さんを恨んで死んでいった」(森恒夫)


 私と伊藤とで、小嶋の見張りをしていたが、兄が小屋に戻されてしばらくすると、様子がおかしくなってきた。私たちが見張りについたときには、顔を前に向けていたのだが、突然頭をガクンと垂れてしまった。その様子を見た伊藤が私に、「森さんたちに報告してきて」というので、小屋の中に急いで行き、小嶋の様子がおかしいと報告した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 森や永田たちが、あわてて様子を見に行き、人工呼吸を施すが、小嶋が息を吹き返すことはなかった。

 森氏は、小嶋さんの顔を見ながら、「怒ったような顔をしている。永田さんを恨んで死んでいったんやろう」といった。私は意味が分からず、「エッ」といった。森氏は、「あたりまえじゃないか。それがわからないのか」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 最後に彼女の様子がおかしいという事で我々が床下へ行った時、彼女はすでに絶息していたが、口を大きく開けて目を見開き点をにらみつける風な感じで恐らく死ぬまで我々のことを憎悪していたと思われる程であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「死をつきつけても革命戦士にはなれない」(山田孝)
 そのあと指導部会議を開いたが、会議は重苦しく沈痛なものだった。森もすぐには「敗北死」とは言い出せないでいた。

 そうしたなかで、山田氏が、森氏に体を向けて指をさし、少しきつい調子できっぱりと、「死は平凡なものだから、死をつきつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」といった。(中略)

 山田氏は森氏をジーッと見つめ、森氏は考えるような感じで山田氏の目をはねつけていた。2人は火花が散るほど対立し合っていたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、山田さんに共感したが、助け船を出すことも出来ず、成り行きを見守った。2人はジーッと睨み合っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 そのうち、森氏は、断乎とした強い調子で、「いや、そうではない。死の問題は革命戦士にとって避けて通ることの出来ない問題だ。従って、精神と肉体の高次な結合が必要である。そのために、今後は心理学と医学を学ぶ必要がある」と主張した。山田氏は、「ウーン・・・精神と肉体の高次な結合か。よし、わかった」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「共産主義化には精神と肉体の高次な結合が要求される」(森恒夫)

 森は、小嶋の死は、共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へとつながったと説明した。

 森氏はさらに、「小嶋は最後まで総括しようとしなかった。だから、死顔は恐ろしい顔をしてにらんでいたのだ。だいたい、あの直前まで元気だったのに急に死んだのは敗北死をよく示している。小嶋は加藤が小屋にあげられ自分だけが床下におかれたため、絶望して敗北死したんだ。共産主義化は精神と肉体の高次な結合が要求されているのだ」と主張した。山田氏はうなずいた。森氏のこの主張に皆もそうかという様子になり、それまでの沈痛な雰囲気が急速に薄れていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「精神と肉体の高次な結合」とは、共産主義化しようとしていれば、寒くても凍死しないし、食べなくても餓死しないし、銃で撃たれても死なない、という荒唐無稽な精神主義である。

 それ故、暴力的総括要求による死はすべて、「肉体と精神の高次な結合」を獲ち取れなかった「敗北死」ということになるのである。(中略)しかし、共産主義化に必死になっていた私たちは、ひたすらそのために「努力」し、その荒唐無稽さを考えもしなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 現実に価値をおかず、同志の痛みを自らの痛みとしえない同志愛、人間愛の欠如が、死すら精神で乗り越えるという極端な論理を作り、これをもって同志の死を無視したのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 我々はその後前述の様に2人の死亡でどの様な違った方法を考えるべきか討論していたが、結局、具体的な回答は出なかった。ただ、今までの殴る−縛るという方法が全く間違いであったという事で問題にしたのではなかった事、革命戦士にとっての"死"の問題は必ず英雄的な気概によって乗り越えなければならない問題であり、でなければ殲滅戦はとても闘い抜けない事、従って死に対する恐怖を払拭し、いつでも権力に死を賭けた戦いを挑む準備がなされていなければならず、縛られてからでも「自分が死ぬのではないか」と考えたり「死にたくない」と思ったりする事がすでに敗北のはじまりであると確認されていった事から、2人の死亡に直面して何とかこうした方法以外の方法を見つけ出そうとすることが考え出されなかったことは当然であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた」(永田洋子)

 全体会議では、永田が小嶋の「敗北死」を森の主張の受け売りで説明した。しかし、さすがに3人もの「敗北死」は、割り切れない思いがあったようで、全体会議は盛り上がらなかった。

 それぞれの発言は「敗北死」の規定を追認し、自分は共産主義化した革命戦士になると決意表明するものがほとんどだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さん、行方氏は、暴力的総括要求の現実と死者の続出の緊張感にすっかり落ち着きをなくしていた。特に、遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた。行方氏は、そういうなかでも動揺してはならない、元気でいなければならないと思って必死に努力しているようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪」(森恒夫)
 森の「自己批判書」を読むと、小嶋のいった言葉や態度をいちいち悪意に解釈して、それを解説している。「彼らの名誉回復の為に」といっているわりには、もう一度「総括」をやりなおしている感じである。


 この日も永田が指摘しているように、頭をぶつけているのが、小嶋だと決めつけ、「総括に集中していない」と悪意にとらえ、加藤だとわかると、「総括しようとしている」に変わった。


 「小嶋さんは殴られしばれても決しておとなしくはせず、毅然として自分の意見や要求をはっきり説明していた」(永田洋子)という。つまり、最後まで屈服はしなかった。それが、森にとっては、「反抗的」と映り、気に入らない存在だったのであろう。


 それを認めるように、森は小嶋について最後にこう述べている。

 彼女(小嶋和子)については・・・(中略)・・・何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪でしかあり得ない。
(森恒夫・「自己批判書」)


 だが、この一文にしたって、「憎悪」は小嶋が先と決めつけている。その上、「でしかあり得ない」と、対岸の火事を眺めるか如きなのである。


 それに加えて残酷だったことは、メンバーのおそらく全員が小嶋を蔑視し、無視するようになっていたことである。


■またもや歯止めをかけるチャンスを逃した
 この日、山田が、「死をつきつけても革命戦士にはなれない」と、森との対決姿勢を示した。山田のほうが森より、赤軍派的には立場が上(赤軍派発足時の組織図)だから、暴力や緊縛をやめさせるチャンスだった。だが森はまたしても、「精神と肉体の高次な結合」という言葉を生み出し、イデオロギーと言葉のパワー によって、山田の抗議ををはねつけてしまったのである。


 山田がどういう気持ちだったのかはわからないが、彼は、この言葉によって、振り上げたこぶしをいとも簡単に納めてしまった。理論家の山田が納得したとは思えない。もし、誰かが山田の援護射撃をすれば、暴力と緊縛に歯止めがかかった可能性もあった。


 こうして、尾崎充男が死亡して、「敗北死」の踏み絵を踏んだときに続いて、またしても歯止めをかけるチャンスを逃してしまった。

 かくて、尾崎君の死を精神的な敗北としたことは進藤、小嶋さんの死によってますます純化され、意識的に死の恐怖に対する挑戦を要求することが必要であるという地点に迄至ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 かくて、森の脳内理論は暴走しつづけるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html


1972年1月2日 植垣・山崎・青砥が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

(指導部はカーテンで仕切られたコタツにこもりっきりだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議
 前日(1月1日)は、進藤隆三郎、小嶋和子が相次いで「敗北死」し、尾崎充男と合わせて犠牲者は3名になった。自分たちの行動が、目指したことと、つじつまの合わない結果が出れば、そこで立ち止まり検証するのが普通である。


 しかし森は、「敗北死」や「肉体と精神の高次な結合」という言葉を放って、見事につじつまを合わせてしまった。合理的に考えれば、そんなことがあるはずがないが、それは誰にとっても免罪符になったから、メンバーは異議をとなえるどころか、進んで受け入れてしまったのである。


 ただし、それは同時に、自分が「敗北死」する可能性を受け入れるということでもあった。「敗北死」を逃れる方法はただひとつ、共産主義化を達成して、革命戦士になることであった。


 1月2日には、残りの赤軍派メンバー(植垣、山崎、青砥)が榛名ベースへやってくる。植垣が榛名ベースの雰囲気を伝えているのでそれを紹介する。


■メンバーの状況(1月2日・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍) 独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左) 学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左) 永田とは夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍) 暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍) 森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左) 1月2日 東京経由で榛名ベースに戻る。
吉野雅邦 (革左) 暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左) 会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左) おしゃれ(パンタロン)や男性関係を批判される。
杉崎ミサ子(革左) 革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左) 断固とした態度で暴力に加わる。
岩田平治 (革左) 言動が森に評価される。
山本順一 (革左) 運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左) 山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左) 永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 長男。小屋内の柱に緊縛中。
加藤倫教 (革左) 次男。兄の様子が心配。
加藤三男 (革左) 三男。兄の様子が心配。
遠山美枝子(赤軍) 死者続出に動悸が激しくなり落ち着かない様子。
行方正時 (赤軍) 死者続出に必死に動揺を抑えている様子。
植垣康博 (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
山崎順  (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
青砥幹夫 (赤軍) 1月2日 東京経由で榛名ベースに合流。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)


■「前沢氏になんでもない風に装った」(植垣康弘)
 赤軍派の植垣康弘と山崎順は、新倉ベースの後始末(指紋消しなど)を行った後、1月2日の昼ごろ榛名湖のバス停に到着した。しばらくして、前沢が迎えに来た。

 前沢氏は、道々、付近の地理を案内してくれたが、その際、すでに2名が死んで小屋の近くに埋められていること、その1人は進藤氏であることを語った。私は、目まいを感じるほど驚いたが、彼がそのことをこともなげに語ることにも驚いた。ある程度予感していたことが、現実のものとなったことに強い圧迫感を受けた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 前沢は「敗北死」の説明をしなかったので、植垣は、2人は総括できないため殺されたと解釈した。

 しかし、私は、これに敗けてはならないと想い、前沢氏になんでもない風に装った。というのは、彼の態度があまりにも堂々としていて、2人の死に驚いているようではダメだといっているようなものだったたうえ、前沢氏が私たちの様子を観察しているようだったからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 大槻さんに再会できる喜びは大きかったものの、彼女に批判されるのではないかという恐れも一段と大きくなり、どういう顔をして彼女にあったらいいか困ってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、12月の共同軍事訓練のとき、革命左派の大槻節子に恋心を抱いたのだが、夜中に大槻に困ったことをしていた 。


 そのため、より総括の厳しくなった榛名ベースにおいては、彼女に批判されるかもしれないと、心配していたのである。


■「森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していた」(植垣康弘)
 大槻への心配は杞憂に終わり、彼女は植垣を笑顔で迎えた。

 しかし、小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんも共同軍事訓練のときのようなはつらつとした感じが見られなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、柱に縛られている加藤に気づいた。そして、おびえたような顔をしている遠山と行方に声をかけるが、2人には返事をする余裕もなかった。すると、森は、「こっちへ来い」と、植垣と山崎を指導部のこたつに呼んだ。

 私は、立ったまま、森氏に、「来ました」と挨拶したが、森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していたうえ、ほかの指導部の人たちも同じような目つきをしていたので、その威圧的な雰囲気に圧倒されそうになった。しかし、踏ん張って何気ない態度を装った。だが、山崎氏は少し萎縮し、態度がぎこちなく、森氏の威圧的な態度に圧倒されそうになっていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は森に新倉ベースの後始末を完了したことを報告した。そして永田に促されて、メンバーひとりひとりに挨拶をした。

 この時、私は、縛られている加藤氏に挨拶しなかった。私自身のなかに総括要求されている者を差別する気持ちがすでにあったのである。加藤氏を除く全員に挨拶を終えて指導部のところに戻ると、永田さんが、「もう一人忘れてはいない?」といった。私は、加藤氏を差別したことをつかれたように思い、あわてて加藤氏のところに行って、「植垣です。よろしく頼みます。大変でしょうが頑張ってください」と挨拶した。加藤氏は、「加藤です。こちらこそ」と答えた。このやりとりがおかしかったのか、その場にいた皆が笑った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「山田氏や坂東氏も威圧的になり、永田さんもよそよそしくなっていた」(植垣康弘)


 ベース内の雰囲気には、あまり暗さはなかったが、非常に緊張しており、それが全体を重苦しくしていた。旧革命左派の家族的雰囲気はなくなり、指導部と被指導部の区別が旧赤軍派の時以上にはっきりし、指導部に近寄りがたい威圧感があった。


 森氏に進藤氏のことを聞いてみても、「そのうちわかる」としか答えず、声をかけることさえはばかられる有り様だった。山田氏や坂東氏も、それまでの気楽に話せる親しさがなくなり、威圧的な」態度をみなぎらせていた。


 永田さんも、以前にはよく被指導部の人たちと一緒に話していたのに、指導部のこたつにおさまっていて、すっかりよそよそしくなっていた。


 指導部一人ひとりの性格までかわってしまったかのようだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「大槻さんは女まる出しだ」(森恒夫)
 夜、全体会議が始まった。

 私は、自己紹介したあと、進藤氏の死は彼を総括させられなかった自分の責任である、M作戦には反人民的行為など多くの問題があり、それを今後総括して行きたい、丹沢での痴漢行為 は女性同志を女としか見ていない女性蔑視であり、謝罪すると自己批判した後、勇気を出し、思い切って、「新たな問題として、共同軍事訓練の時、大槻さんを好きになってしまったことがあります。大槻さんと結婚したいと思ってます」といった。


 私は、この時、激しく批判されるのではないかと覚悟していたが、皆は驚いたような顔をしただけで、何もいわなかった。大槻さんはひどく恥ずかしそうにうつむいた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森氏は、「お、いいじゃないか」といった。ところが、私は、(中略)「大槻さんには渡辺との関係の総括、向山との関係の総括が問われているのだから、これらをぬきに当面結婚は考えられない」といった。すると、森氏は、「お、いいじゃないか」といったのを忘れてしまった如く、植垣氏と大槻節子さんの結婚は当面ではなく、絶対考えられないように主張しだした。私はこの森氏の変化に面食らってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 渡辺と向山とは大槻の以前の恋人である。渡辺は上赤塚交番襲撃事件 で逮捕され、向山は、すでに処刑されていた(印旛沼事件 )。


 これまでもずっとそうだったのだが、森は、永田が厳しいことをいうと、それにかぶせるように、より厳しいことをいった。


 一般に、同じ思想を持った集団では、より過激な意見に反対するのは難しい、といわれている。森は常に一番過激な意見をいって、その場をリードした。

 続いて、山崎氏が自己紹介し、組織関係を利用して女性をはき捨てるように利用してきた。運転手の地位に安住し、それ以上のことをやろうとしなかったと自己批判した。私も山崎氏も批判されなかったので、ホッとしたものの、進藤氏したちへの非常なきびしさを思うと、批判されなくてもいいのだろうかともやもやした気持ちが残った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 続いて皆が自己紹介した。

 この自己紹介のなかで、大槻さんが、やはり恥ずかしそうに、「植垣君にはヴァイタリティがあります。植垣君の申し出を素直に受け止めたい」といった。今度は私がうつむいてしまう番だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 ところが、この時、森氏が指導部の者にいうように、「大槻さんは女まる出しであり、総括よりも男女関係の方を優先させている。総括なんて考えていない態度だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻に対する森の批判について、革命左派時代に一緒に活動した京谷明子は以下のように述べている。

 (大槻さんは)とっくの昔に「革命家の女 」なんですよ。たまたま女だっただけであって、男だ、女だと言ってない。(中略)
 大槻さんは綺麗だったから、女としてみていたのは森さんであって、大槻さんはぜんぜん自分は女だという意識はなかった。京浜安保は、女のほうがずっと勇敢だったんです」
(京谷明子・「情況2008年6月号」 京浜安保共闘の女性たち)


 「京浜安保共闘」というのは、「革命左派」の合法部隊の名称である。


■「『敗北死』という言葉がにわかには理解できなかった」(植垣康博)

 自己紹介がすむと、森氏、植垣と山崎に、「2人は圧倒的に遅れている。しばらくの間、皆から教われ」といった。そのあと、永田が小嶋の「敗北死」について総括した。

 私は、まだ死者がいることに驚いたが、「敗北死」という初めての言葉がにわかには理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「スプライトを飲んだことを自己批判する」(青砥幹夫)
 全体会議の最中、寺岡と青砥が榛名ベースに帰ってきた。青砥は始めての榛名ベースである。寺岡も青砥も、死者が出たことは、このとき初めて知ったはずである。

 青砥氏は各自の発言が終わったあと自己紹介し、新党結成の指示を表明した。また、東京に行った時にスプライトを飲んだことを自己批判し、「これまで金遣いが荒く無駄な活動が多かったけど、今回、寺岡さんと一緒に東京に行って行動を共にするなかで、節約の精神を身につけることが出来た」と発言していた。


 私ははたしてスプライトを飲んだことを自己批判することが共産主義化に必要なのだろうかと思い、あっけにとられた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は青砥は、革命左派の女性との関係について自己批判すべき問題があった。だが、この時は、わざわざスプライト(炭酸飲料水)を持ち出して、さしさわりのない自己批判でやりすごしたのであろう。


■榛名ベースは異様な緊張感につつまれていた

 この日、合流した赤軍派3名は、これまで森にそれほど厳しい追求を受けていなかった。それは3人が責任をしっかり果たしていたことと同時に、それぞれの存在価値があったからだと思われる。


 植垣は爆弾製造や戦闘能力にすぐれ、青砥は合法部とのつなぎ役として、山崎は車の運転ができた。当時、まだ車が少なかった時代なので、運転免許を持っている者も少なく、このときのメンバーで、ほかに運転免許を持っているものは、山本順一だけだったと思われる(小嶋和子も運転手役だったがすでに死亡している)。


 彼らは予感していたとはいえ、榛名ベースの異様な緊張感に驚いた。ましてや、道中、進藤の死を聞かされたから、圧倒される思いだったに違いない。


 これで現状において、集められるメンバーが揃った。ということは・・・・・あとは減る一方なのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

84. 中川隆[-11454] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:33:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[541] 報告

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

(遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真


 今回は1月2日の続きである。


 遠山美枝子が総括要求されるのであるが、遠山への批判は、過去のものと全く変わりがない。そこで、まずは、遠山美枝子について、これまでの経緯をまとめておく。


■遠山美枝子が榛名ベースへやってくるまで

 遠山は明治大学時代、重信房子の親友になり、赤軍派で主に後方支援や救援活動を行ってきた。


 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。


 遠山は、当時の赤軍派の幹部・高原浩之と結婚していたため、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。これは、遠山に限らず、赤軍派伝統の慣習的なものだった。


 その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練 に参加した。軍の闘争や非合法活動に縁の遠かった彼女が、なぜいきなり共同軍事訓練に参加したのかは、はっきりしていない。森が人数合わせのために呼び寄せたという説や、救援活動に役立てるための見学のつもりだったという説がある。

(後に紹介するが、総括では、別の理由だと、決めつけられてしまう)


 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。これを 「遠山批判」 という。遠山批判は、その前日に 「水筒問題」 で赤軍派に批判された革命左派が、赤軍派に対してカウンターパンチを放ったものだった。党派的な争いの手段としての批判だったのである。


 ところが、森は、遠山をかばうことなく批判をじっと聞いていた。森は、革命左派の吊るし上げともいえる集団的批判こそ 「共産主義化」 の実現方法であると考え、翌日には、森のほうから、遠山に対して、赤軍派時代の闘争へのかかわり方を糾弾 しはじめた。


 森の批判が、革命左派のそれと違っていたのは、過去の活動への批判だったことだ。これが、いわゆる 「総括」 の始まりであった。


 革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。


 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


 共同軍事訓練が終わり、森が榛名ベースへ行った後も、遠山はずっと批判され続けていた 。ただし、このときまでは 「銃−共産主義化論」 に基づき、銃の構え方の訓練をえんえんとやらされるだけですんでいた。


 森は、榛名ベースに来てから、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れた。そこへ遠山たちが榛名ベースに呼び寄せられたのである。


 遠山が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして、遠山と一緒に榛名ベースにやってきた進藤隆三郎が、その日のうちに殴打によって死亡 してしまった。


 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。ちなみに遠山とともに榛名ベースに合流した行方正時も、革命左派による批判こそなかったものの、ほぼ遠山と同じ経緯をたどっている。


 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)は、何も変わっていないのだが、森のほうが変わってしまっていたのである。


■「小嶋のようになりたくない。・・・・・死にたくない」(遠山美枝子)

 森氏は、「遠山にはちゃんと批判しなければならない」といって、遠山さんを批判していった。
  「小嶋の死を自分が総括する立場からどうとらえているんや」
  「革命戦士になろうとしなかった者の敗北死だ。私は革命戦士になって頑張る」
  「革命戦士になって頑張るというだけでは総括にならん。どう革命戦士になろうとするのか」
 遠山さんは革命戦士になることに決めているとか、革命戦士になるつもりで榛名ベースに来たなどといったことを答えたが、森氏はそう答える度に強い口調で、「違う!」「そんなのは総括じゃない!」と批判した。
 そのため、遠山さんは答えることができなくなって黙ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そこで、森君は、彼女が榛名ベースに来てから初めて所持金を提出したこと、髪の毛を短くカットしてこなかったこと、従来の彼女の組織活動に対する関わり方が、闘争と組織のためというより、個人的な関心によってなされていた要素が大きいこと、合法活動のなかで権力との接触によって、精神的、肉体的に大きな負担を負うようになり、とても殲滅戦を闘い抜ける力を持っていないこと、さらに合同軍事訓練のとき、腹部に衝撃を受けたと言って訓練を中止し、ずる休みをしたことなどの点を列挙して詰問した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 すると、被指導部の人たちが、口々に、「黙っていないでなんとかいえ!」「総括する気があるのか!」などといいたてた。遠山さんは、落ち着かない様子でそのようにいう被指導部の人の方をキョロキョロと見ていたが、そのうち思いつめた表情で、「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせ総括させよう」(永田洋子)


 森氏は、遠山さんの発言に強い調子で、「我々にとって生きることは、革命戦士になって生きぬくことでしかない。『死にたくない』というのは、死にたいしてのブルジョア的な恐怖心であり、そのことをいうこと自体すでに敗北死の始まりだ。柴野君のように死ぬ ことが革命戦士として生きることなのだ」と批判した。


 私はその通りだと思った。森氏はこのあともさらに追求していったが、遠山さんは、顔面を蒼白にさせて、「死にたくない」「生きたい」と答えることしか出来なくなってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、森氏の追及は、遠山さんを追い詰めるだけで総括させることにならない。これではまた暴力を持ち込むことになるだけだ。実践によって総括させるのが一番よいと思い、指導部の人たちにいう感じで、「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせる実践によって死に対する恐怖を克服させ、そうして総括させよう」といった。森氏は、「それはいい」と答えた。(中略)


 遠山さんは、それまでの追い詰められた様子とはいくらか違って、しっかりした声で、「総括できないときの敗北は死だ。これを乗り越えるために、小嶋の死体は私が埋めに行きます」と表明した。私は、これを聞いて既に半分総括できたと思い、「死体を埋める実践によって総括しなさい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 これは、小嶋さんの敗北死を直視させて決してこういう道を選ばないという決意をさせる事によって、敗北的な傾向を払拭させる目的でそうしたのだが、(中略)彼女を本当に革命戦士にするような方法では全くなく1つの制裁にすぎなかったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「僕もやります。僕もそうして総括します」(行方正時)


 遠山さんが立ち上がりかけると、行方氏が、「僕もやります。僕もそうして総括します」といって立ち上がった。(中略)
 この時、寺岡氏が、「その実践が真に総括しているものかどうかを皆で確認しよう。皆で行ったほうがいい。そうして、遠山さん、行方君の総括を援助しよう」といった。すると、森氏がすかさず、「死体を埋めるのは遠山がやり、行方はそれを手伝え。他の者は手をだすな」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 皆が出かけていったときには、もう3日の午前一時になっていた。


■「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」(森恒夫)
  被指導部のメンバーも、遠山の沈黙を、「総括する態度ではない」とみなし、口々に彼女を批判した。では、何といえばよかったのかというと、おそらく誰にもわからなかった。


 なにせ、森は、「自己批判書」において、遠山に対して、「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」と書いている。さまざまな決め付けとは、男を手段化した、親への依存心が組織では官僚的な態度になる、男性にこびを売る、などである。


 そして、「心理的な問題を拾い上げては恣意的な判断に組みたて、精神的に彼女を縛り上げる残酷な詰問を何時間も行った」と証言しているのである。


 はじめから、「恣意的な決め付け」なのだから、何をいえばいいのかわかるはずがない。遠山は一生懸命言葉を探すが、何をいっても詰問を繰り返される運命だったのである。


 永田は、遠山への総括要求が行き詰ったと見るや、機転を利かして新たな展開に持ち込んだ。だが、小嶋の死体を埋めたからといって問題が解決するわけではない。助け舟を出したのだが、それは向こう岸まで渡れるものではなかったため、追求を一時中断させるものでしかなかった。


 そして、遠山が、小嶋の死体を埋めて戻ってきたあと、遠山を待っていたのは、目をそむけたくなるような制裁だった。


 否! 目をそむけることさえ、遠山は許されなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


(指導部はコタツ、メンバーは土間のストーブの周りが定位置だった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・榛名ベース
 


 遠山美枝子は小嶋の死体埋葬を強要されていた。


 森と永田と、しばられている加藤能敬以外は、遠山の死体埋葬作業を見守るため、遠山に同行した。


■「こんなことをやっていいのか?」(植垣康博)

 遠山と行方は小嶋の死体を引きずるようにして沢の上まで運んでいった。他のメンバーは、懐中電灯で2人の足元を照らしながら、「頑張れ、頑張れ」と声援を送った。

 その光景はそうみても異様だった。しかし、その異様な事態のなかで、誰もが死をめぐって何の動揺もなく動いていること、遠山さんさえ死体埋めにちゅうちょしなかったこと、むしろ、私自身の方がその異様な事態に驚いてしまっていることから、なるほど私の方が遅れていると思ってしまい、山崎氏に、「俺たちのほうが相当遅れているな。本当に圧倒されちゃうよ」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私は、坂東氏をつかまえて、「こんなことをやっていいのか?」と聞いた。私は、それまでの気安さで、坂東氏とよく話し合ってみたかったのである。ところが、坂東氏は、ぶっきらぼうに、「党建設のためだからしかたないだろう」としか答えなかった。私の意見に耳を傾けていたそれまでの坂東氏とまったく違っていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、榛名ベースにきて間もないので、死体運びに付き合うメンバーに対して違和感を感じている。榛名ベースのメンバーはすでに3人の死者を出していたから、免疫ができていたのである。


 それが、彼らの論理では、「遅れている」ということになるらしい。よく話したり、冗談をいったりした坂東も、すでに昔の坂東ではなくなっていた。


■「小嶋の死体を皆で殴れ」(寺岡恒一)


 死体を埋める場所まで運んでくると、遠山は、いきなり死体に馬乗りになり、顔面を殴り始めた。やり場のない怒りをぶつけたようだった。しかし、皆に早く穴を掘るように促された。穴を掘り終わると、死体の衣服を脱がせた。

 そのあと、遠山さんは、再び死体に馬乗りになり、「私を苦しめて」「私は総括しきって革命戦士になるんだ」といいながら、死体の顔面をしばらく殴っていた。
 この時、寺岡氏が、「よく見ろ。これが敗北者の顔だ。こいつは死んでも反革命の顔をしている。こんなやつが党の発展を妨げてきたんだ。こいつを皆で殴れ」といった。


 皆が小嶋さんの死体の顔を1,2回ずつ殴り、私も、妙な気分のまま1回殴ったが、皆が殴っている最中、寺岡氏は、「だんだん死人の顔になっていく」といっていた。


 皆が殴り終わってから、遠山さんと行方氏は、小嶋さんの死体を穴の中に入れて土をかぶせた。そのあと、皆で枯葉や枯れ枝を土の上にばらまき、小屋に戻った。その頃は、もう午前3時を過ぎていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「敗北死は反革命の死ではない」(森恒夫)

 午前3時頃、山田氏と坂口氏の2人が深刻そうな顔をして戻ってきた。そして、山田氏が、「非常に問題なことが起こった。寺岡君が小嶋の死体を皆に殴らせた」と報告した。坂口氏がこれにうなづいた。
 森氏は、「ナンセンスだなあ。もう死体になっているのだから、総括など関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ」と繰り返しいっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、戻ってきた寺岡に質問した。

 「どうして、皆に小嶋の死体を殴らせたのだ?」
 「小嶋の死は反革命の死だと思ったからだ」
 「敗北死は反革命の死として処理することは出来ない。死んでしまえば単なる物体だから、もう総括と関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ。このことはちゃんと総括しておくように」


 この時、森氏は反革命の死として処理することがどうしてできないのかを説明しなかったが、問題なのは新倉ベースから東京にまわっていたため、寺岡氏は、「敗北死」の規定についてほとんど知らなかったということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 寺岡は、革命左派では軍のリーダーであり、連合赤軍になってからも断固とした態度をとってきた。ところが、赤軍派メンバーを迎えに新倉ベース行ったあと、東京を回っていたため、3人の敗北死に立ち会っていなかったのである。


 だから、永田が指摘しているように、「敗北死」の規定を知らなかった。そのため、小嶋の死を「反革命の死」としたのであろう。「反革命」とは、革命を目指す側の人間に対し、「反抗者」という悪い意味でのレッテル貼りに使われる言葉である。


 この一件は、あとあとまで寺岡が批判されることになる。


■「とにかく自分の力で埋めました」(遠山美枝子)

 全体会議を始めると同時に、森氏は遠山さんに、「小嶋を埋めにいったことについて総括しろ」といった。遠山さんは、「最初は怖かったし、重かったし大変だったけど、とにかく自分の力で埋めました」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山はともかくやりきったということで、追いつめられた気持ちを払拭できたようだった。

 ところが、この時、遠山さんの様子に注目していた森氏が、指導部の者に、「おかしい。遠山は死体を埋めたことをそんなに恐ろしがっていない。どういうことや」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森はなぜおかしいと思ったかというと、、、

 というのも、我々が前に述べたように、総括の発展を促すといいつつ、実際的には制裁としてあの異常な作業を提起したが故に、彼女がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準であると思い込んでいたり、そこではじめて極限的な精神的解体−再生のの歩みがはじまるのであり、意識的にこの精神(=古い個人)の解体を迫ることなしに人間的情愛(涙等)の獲得もないと思っていた為である。
(森恒夫・「自己批判書」)

 これは、遠山さんが、遺体運びをなし切ったものの、それによって獲得したはずの共産主義的変革(革命戦士への変革)が態度に表れないのはおかしい、と思ってのことである。この森君の観察は、私の観察と異なる。遠山さんは辛い作業をやり終えて、自信に満ちた顔をしていたのである。だが、私は森君に異議を挟むことはしなかった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、あわてて遠山さんに、「知り合いの人の死に接したことがあるの?」と聞いた。遠山さんは、「おばあさんの死に接しました」と答えた。
 森氏は、「それでわかった。だから、恐ろしがらなかったんだ」と指導部にいったあと、遠山さんをさらに追及していった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「遠山は単なる死体として小嶋を見ていたにすぎない。革命戦士の敗北死として見ていたなら総括できるはずだ」と決めつけ、「遠山が死体を殴ったことも、嫌なものに対する憎悪か演技でしかない」と冷たく言った。
 自信に満ちた表情をしていた遠山さんは、一転して暗い顔になり、押し黙ってしまった。こうして”共産主義化"に基づく森君の一方的な判断によって、遠山さんの驚異的努力は、一瞬にして否定されてしまうのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「小嶋みたいになりたくない!」(遠山美枝子)


 このあとも追求はかなり長く続き、森は遠山の総括を、「芝居をしてるんじゃないのか」「お前は自分の問題を明らかにしようとしていない」 などと、ことごとく否定していった。


 遠山は、黙ってしまった。皆は例によって、「何とかいえ!」「いつまで黙ってるんだ!」といいたてた。
 そのとき、やはり総括を要求されていた行方が、突然、「あんたの顔には表情がない!判った、あんたの顔は小嶋の顔と一緒だよ!」といった。行方の言葉は、なんとか総括してほしいという願いをこめたものだったのだが、、、

 遠山さんは、ワーッと泣き出し、
「なりたくない!なりたくない!私は小嶋みたいになりたくない!やだもん、あんな格好で死んでいくのは!・・・何を考えていいのかわからない。頭の中を死がぐるぐる回っている!」
といった。
 森氏は冷たくつきはなすように、「死にたくないなら総括せい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■間違った「善意」と「弱者」のレッテル貼り
 「地獄への道は善意で舗装されている」という。


 榛名ベースでは、共産主義化の論理
が支配していたから、主観的には、善意で遠山を総括させようとしていたと思われる。それは、違和感を感じていた植垣でさえ、すぐに善意で舗装された道を歩みはじめたことからもわかる。


 「間違った善意」ほどたちの悪いものはない。「ストレートな悪意」なら歯止めがかかる可能性があるが、「間違った善意」は、それが正しいと信じているがゆえに、歯止めがかからないのである。


 そして、メンバーは、総括にかけられた者を、自分とは区別するために、「弱者」というレッテルを貼って、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖をやり過ごしていた。


 だから、森の一方的な決めつけに対し、遠山を弁護する者は誰ひとりいなかった。すべてを否定されてしまった遠山の絶望は察するに余りある。


 そして、森の次のひとことが、絶望している遠山をさらに地獄へ突き落とすのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

(遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

 今回は、連合赤軍事件の中でも、もっとも残酷で、書くのも辛い話である。


 小嶋の死体を埋めて戻ってきた遠山は、何を言っても、ことごとく否定された。

 遠山は、黙ってしまった。


■「自分で自分の顔を殴れ!」(森恒夫)


 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」


こうして、あれよあれよという間に遠山さんにたいし、自分で自分を殴らせることが決まってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 彼女が意識的に涙ひとつ出さず歯をくいしばってこの異常な残酷な要求を遂行したことをこうして否定した上で、我々は彼女のブルジョア的女性の解体を迫り、自分の手で自分の顔を殴ることを要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)

 森同志は、このとき山田同志と私(それから、他にも同志がいたと思いますが)を呼び、「これまで、尾崎、進藤同志のように殴ると敗北死すること、それに遠山同志は人に頼ろうとするから、何も援助せず自分で全部でやらせろ」と言ってきたわけです。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 遠山さんは、最初は躊躇していたが、突然、両手で自分の首を絞めようとした。森君がすぐ、「それは止めろ」と言って、止めた。すると彼女は、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。(中略) 遠山さんの自己殴打の場面を描くのはつらい。それは、見るに耐えぬ残酷なものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 遠山が両手で自分の首を絞めようとしたのは、自殺を考えたものとみられる。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。これは自分の唇に自身を持っているからとの理由で命じたと記憶している。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 酷い話だが、「唇を殴れ」でわかるように、どうやら目的は、遠山の顔を醜くすることなのである。


■「顔はボールのように腫れ上がった」(坂口弘)


 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 その中で私は、「顔を殴れ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 ここからが、皆が、「嫌な気分になった」と証言するところである。

 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。同性に対するこの仕打ちに私は腹が立った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 しゃがみこんでしまった遠山に、永田が鏡を見るように命じ、「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と言いながら、鏡を見ようとしない遠山に鏡を見ることを何度も強いた。


 私は、この永田の行動に驚いた。永田が自分の容姿にコンプレックスを抱いているだろうとは以前から思っていたが、これでは、まるで白雪姫と魔女の世界ではないか。あるいは絶対的な権力を握った暴君が、非力な被支配者をいたぶるという図式ではないかと思ったが、永田に疑問を呈してもすべては総括させるためと言うに違いなかった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田自身は、次のように証言している。

「あんた、今の顔どんなか判る。ひどい顔になっちゃったけど、それを気にせず総括しなきゃだめよ。鏡を見てびっくりするようではだめだ」といった。遠山さんは鏡を見たが、別に驚く様子もなく無表情だった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が、遠山さんが自分で自分の顔を殴ったあと、鏡を遠山さんにみせたのは、私の意図しない形で展開した激しい総括要求にまけてはダメだという思いからであったが、それによって、私は、森氏の遠山さんへの総括の暴力化を追認し、支えてしまった。


 なお、私が鏡をみせた時、皆いやな思いをした、という証言があるが、この時、山田さんは遠山さんに、「そうして総括するんだ。」といったことを、明らかにしておく。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田は、鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 だというが、これでは理由になっていないだろう。

 この段階で、永田はすでに明らかにおかしくなり始めていた。しかし、私もその頃には、何が起ころうともはや永田たちについていくしかないという、半ば投げやりに近い気持ちに支配されていたのだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さんがこれ程まで自己殴打したにも拘らず、森君は、彼女の総括を認めず、当然のように坂東君、山田さん、吉野君ら3人の指導部メンバーに命じて、(命じられたのは赤軍派の植垣君、青砥君、山崎君の3人だったとの証言もある)、彼女を戸口の柱に立たせたまま、後ろ手、胸、大腿部、足首をロープで縛った上、柱に括りつけてしまった。(中略)


 それからすぐ森君が、山崎君に遠山さんの髪を丸刈りにさせた。それがおわると、永田さんが誰かに縄を解かせ、遠山さんの着替えをさせてやった。この時の事であるが、リュックサックから衣類を取り出した際、「こんなセーターを持っている」などと遠山さんの持ち物を品評して、嫌な気分にさせられた。


 着替えが終わると、再び縛り、森君の指示で彼女の肩から毛布がかけられた。「遠山は冷え性だから」という”配慮”によるものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森はもはや縛る理由を、加藤のときのように、 「総括に集中させるため」 とはいわなかった。それもそのはずで、髪を丸刈りにするなど、逃亡防止であることは明らかだった。

■白雪姫と魔女の世界か?

 遠山の女らしさを解体するきっかけが、共産主義化に基づく「善意」であったにせよ、ここまでくると、それだけでは説明がつかなくなってくる。


 森が、「女を売りにしている」ことを総括させるために、自分の顔を殴らせる(醜くさせる)という方法論を思いついた時点で、すでに常軌を逸している。


 残虐性でなければ、病気ではないかと疑うが、いまひとつ捨てがたい可能性がある。それは、永田の心情を察して、森が主導権をとって動いたということだ。


 永田に、そういう望みがあったのかどうかは定かでない。しかし、鏡をみせるくだりなどを考えると、的外れとも思えない。それに、青砥幹夫や加藤倫教は、永田が主導したかのように記憶し、証言してるほどだ。


 多くのメンバーが証言していることだが、永田は、特に女性に対して、自分より優れている者や、並びたとうとする者に対して、それを嫉妬し、粉砕せんとしたという。


 永田の場合、それがあからさまな態度となって現れたから、森がそれを察して、より過激な方法で具現化することによって、主導権を保とうとしたとしても、不自然ではない。


 もちろん、これは1つの推論にすぎない。どうしてこういう推論をするかというと、永田の証言では、心情説明に説得力が感じられないからだ。鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 というのがその一例である。


 いずれにしても、共産主義化の論理 に重なり合うように、森と永田の思惑が交錯していたことは確かだろう。どの角度から光をあてるかによって、連合赤軍事件は、さまざまな表情をみせるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

1972年1月3日 中央委員会(CC)の発足と行方への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

(行方正時は「卑怯者」とレッテルを貼られた)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 行方正時 顔写真

 遠山美枝子を柱に縛った後、指導部会議が開かれ、その後全体会議を行った。徹夜が続いているので、日付の切れ目が難しいが、1月3日夜から、1月4日未明にかけてのエピソードを紹介する。

■「異常な禁欲的秩序にとまどうばかりだった」(植垣康博)

 榛名ベースに来てからの私たちは、生活そのものに至るまでの異常とも思えるほどに統制された重苦しい禁欲的秩序にとまどうばかりだった。タバコ1人1日3本という制限に至っては、理解に苦しんだ。指導部の森氏と永田さんがそうした制限を受けずにタバコをすっていたので、よけいそうだった。

 その後、この制限は、永田さんの意見でゆるめられ、なし崩し的になっていったが、こうした秩序に誰も不満をいう者はいなかった。全体会議で永田さんは、要求があれば提案して欲しいといっていたが、現実には、とても提案できるような状況ではなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 1月2日に合流したばかりの植垣は、榛名ベースの異様な光景や緊張感に、とまどいと疑問をもっていたが、指導部の、「遅れている」という判断を受け入れた。そして、同化しようと頑張る過程で、最初感じたとまどいや疑問を、消しゴムで消すように払拭していくのである。

 こうした思考停止に陥る過程は、特異な宗教団体などにもみられる現象である。

■「これでスッキリした」(行方正時)

 この日(1月3日)の夜の全体会議で、森君の提案により、C・C(中央委員会)を発足させた。私が司会を命じられ、指導部メンバー7名がそれぞれC・Cに立候補して全メンバーに承認された。

 この時、森君は、集団指導を強調し、新党は一に殲滅戦、二に他党派との分派闘争のための党建設であるから、党内での分派闘争は一切禁止すると言った。また”しのぎ合い”は競争ではなく、相互に前進や意欲を促しあうことである、という説明をした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 C・Cが承認された時、行方正時君が、「これでスッキリした」と言った。これに対して森君が、「”スッキリした”とはどういうことだ」と問い返した。これが行方君に対する総括要求の発端となる。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

「何がすっきりした!?」
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりうました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」
「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」

 行方氏は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森氏は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなったあと、「おまえみたいな卑怯な奴は何をするかわからん。青砥、山崎、行方のうしろについて押さえろ!植垣、行方の70年からの活動内容を聞け!」と命じた。

 当時、私はこれがどういうことかわからなかったが、行方氏が、赤ちゃんのRちゃんを楯にとって逃げようとするかもしれないからそうできないようにしろ、ということであったらしい。行方氏のうしろにRちゃんのベッドがあったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 Rちゃんとは、頼良(らいら)ちゃんのことで、山本夫妻が連れてきた赤ちゃんである。森は、行方が、頼良ちゃんを人質にして逃亡するのを警戒したようだ。

 行方は、闘争にかかわってきたものの、過激な闘争には臆病風をふかせたこと、赤軍派の極左路線にはついていけないと苦悩し、榛名ベースに合流する前に自殺しようかと考えたことを打ち明けた。


 「おまえ、ビビッたとかどうとかそういうことばかりいって、総括をひきのばそうとしてるんじゃないのか。深刻そうな顔をして悩んでいるような態度をしているが、それは総括しているかのようにみせるポーズとちゃうか」と批判したあと、「総括がなってない!青砥、山崎、植垣、縛れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方への追求は、具体的には、常に自分を後方の安全地帯におく、弱気なくせに女性にはカッコつける、開き直った態度をとる、などであった。

■「行方を卑怯者と決めつけた」(森恒夫)

 もともとおくれた分子とかってに決めつけ、総括要求の対象に考えていたのですから、何をいっても追及の手から逃れることはできなかったのです。誤った「共産主義化」に確信がもてず、また本音を隠せる(私のように建て前や観念的でない分)人ではなかった分、追求されるたびに動揺が大きくなり、それを私たちはますます、おくれていると決めつけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、南アルプスの新倉ベース時代、遠山や進藤に比べれば、行方は、総括が進んでいると考えていた。ところが、榛名ベースに合流してから、評価は一転したのである。


 12月31日に彼がベースに来た時には、私は彼が軽度のノイローゼにでもあるかの様にやせて神経質になり、目を異様に光らせて、1人で居る時と雑談している時の感情的な差異が余りに大きいのに驚いた。(中略)我々はこうした彼を革命戦士(連合赤軍兵士)として認めることができないと考えた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 永田や坂口の観察では、森がいうほどひどくはない。

 行方は、森の追及にたいし、弱々しい笑みを浮かべながら、そうだと思う、とうなずいていたそうである。


 我々は、彼のこうした様子から、革命戦士として不適格な弱者→卑怯者と彼の事を判断して、それを総括して強者→戦士にさせる為にロープで縛ることにし、逆エビ状にロープで縛って柱にくくったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森はまとめてしまっているが、正確にいうと、このときは普通に縛られた。後に再び追求された時に、逆エビ型に縛りなおされることになる。

■「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」(加藤能敬)

 行方氏を縛ったあとも、CCの承認を求める全体会議が続いた。この会議の最中、加藤氏が、縛られている土間のほうから大きな声で、「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」と発言したことがあったが、坂口氏が、「黙れ!」とどなって加藤氏を黙らせてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全体会議が終わったのは4日の午前3時ごろであった。このあと縛られている加藤が、目隠しを外そうとしたり、足を動かしているのを、見張り当番の植垣と山崎に目撃され、森に報告されてしまった。

 病的なほど逃亡を警戒している森が、これを知ったらただではすまないことは予想がつくだろう。

■CCは独裁に民主主義の化粧をほどこしたもの
 CC(Central Committee:中央委員会)の発足といっても、指導部の看板をかけかえたにすぎなかった。

 CC発足にあたって、「共同指導体制」とか「スターリン主義の防止」が強調されたが、その舌の根も乾かぬうちに、行方に対する追求・緊縛は、完全に森の独断専行で行われた。

 CCとは、森が、責任を分散させ、独裁に権威をつけるためのもの、すなわち、独裁に民主主義の化粧をほどこしたものと考えてよさそうだ。

 結局、赤軍派で2軍扱いされた進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースに合流すると、赤軍派時代の批判をそのまま持ちこまれた。つまり、赤軍派時代は許容範囲であったものが、連合赤軍においては、共産主義化の観点から見過ごせなくなった、というわけだ。

 しかも、過去の活動を事後法で裁くものだった。過去の活動暦だったら、森の活動暦こそ、ビビッたり、敵前逃亡したりの連続なのだ。

 森は、他者の中に、自分に内在する弱さをみつけたとき、それを厳しく糾弾するのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び
https://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html


(行方が追求されているとき、遠山は 「手を切って」 と叫んだ)
 遠山美枝子顔写真

■「遠山さんは、女を意識している」(永田洋子)

 入り口の横に縛られていた遠山は立っているのがつらそうな様子でいた。それをみた永田は、座らせることを森に提案した。森はすぐに返事をしなかったが、永田の説得にしぶしぶ了解した。ところが、、、

 そのあと、縛りなおされた遠山さんを見ると、彼女は両足を崩して座っていた。その様子はボンヤリしており、総括しようとしているものとは思えなかった。私はせっかく勇気をふるい総括に集中しやすいように座って縛らせたのに、それに集中せず女を意識していると苛立った。(中略)
 私は、中央委員会の場でこの苛立ちをそのまま表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田が、「勇気をふるい」といっているのは、森にあまいと批判されるかもしれないと思ったからだそうだ。山岳ベースでの永田は、暴力的総括を鼓舞しているものの、縛られた者の苦痛についてはやわらげようとしている傾向がある。

 しかしながら、そのあと、中央委員会で、「両足を崩して座っていた」 からといって、 「女を意識している」 と摘発してしまうようでは逆効果であり、森の論理に味方することになった。


■「行方氏は放心したような顔をしていたが、追及にはていねいに答えた」(植垣康博)


 午後8時頃、森氏が青砥氏、山崎氏と私の3人を指導部のコタツに呼んで、「行方が権力にバラしたアジトを全部調べろ。パクられた時に何をしゃべったかも聞け」といった。(中略)
 行方氏は放心したような顔をしていたが、青砥氏の追及にはていねいに答えた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 行方への批判は、赤軍派時代のことであり、革命左派メンバーには、理解できなかった。


■「ああ、手が痛い。誰か手を切って」(遠山美枝子)


 青砥氏が中心になって追求していたが、何を追及しているのか私にはわからなかった。この最中、入り口の横に縛られていた遠山さんが、再び、
「お母さん、美枝子は頑張るわ」
「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね。私も革命戦士になって頑張るわ」
「ああ、手が痛い。誰か手を切って」
「誰か縄をほどいて。・・・いい、縄をほどかなくていい。美枝子は頑張る」
などと叫ぶようにいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山の手には酷いしもやけによる激痛があった。縛られたメンバーはいずれも手足が動かなくなるほどのしもやけになったのである。

 しかし、私たちは、そのような遠山さんを全く無視し、行方氏を追及した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」(森恒夫)


 行方氏の追及の終わり頃、森氏が、「懐中電灯で行方の目を見たら、瞳孔が開いているのがわかった。行方は死の領域に足を踏み込んでいる」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 青砥氏の追及が終わった時、行方氏はあきらめてしまったような様子であったが、それでも誠実に義務を果たそうとするかのように、これまでの事務やアジトを引き継ごうとして語り始めた。


 すると森氏は、「おまえから、そんなことを聞こうとは思わない。それはこっちで考える」といって、行方氏の発言を封じ、逃亡の意思について追及した。


「これまで逃亡しようと思ったことはなかったか」
「あります」
「いつ逃亡しようと思ったんだ」
「車で他の場所に移されるときに、逃亡しようと思ってました」

(中略)

 「逃亡してどこへ行こうとしたのだ」と追求した。行方氏は、少し黙ったあと、「実家に帰るより他にないでしょう」といくらか腹立たしげに答えた。


 そのあと森氏は、「縛る前に、絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まず森が肘で肩甲骨を殴り始め、ついで山田が殴った。

 その時の私は、こうした大変な任務は指導部だけにやらせておくべきではない、私たちもやるべきだという思いだった。続いて、大腿部を手刀で殴ったが、途中で寺岡氏が、「そんなんじゃだめだ」 といって、土間からまきを持ってきてそれで殴った。私は、その激しさに驚いたものの、さすがはCCと思い、私もまきで力いっぱい殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 他の者も寺岡氏に続いて、まきで思いっきり殴っていた。こうした行方氏への殴打はとてもみていられない程のものであった。

(中略)

 行方氏は激しい苦痛に必死に耐えているようで、わずかにうめき声をあげただけだった。殴り終わった頃、森氏は、「逆えび型に縛っておけ」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方は、逆えび型に縛られ、さらに縄を床に固定されて、まったく身動きが出来ないようになってしまった。


■「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」(森恒夫)

 このとき森は、信じられないようなことを考えていた。

 そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 行方は、1月3日から縛られたままだったのだから、「夢の中でしゃべるような様子」であってもおかしくはないだろう。そして、夜の榛名ベースでは、ロウソクの灯しかない暗闇なのだから、瞳孔が拡大しているのは正常である。

 それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は懐中電灯を目に当てながら質問しているので、瞳孔が縮小しはじめるのも、あたりまえのことである。

 こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」 といいながら、「逃亡の危険がある」 とはどういうことだろうか?


 そして、行方を「死の世界」から救おうとして、「詰問調の追及を質問調に変えた」はずなのに、「彼の手足を力が抜ける程殴って」「逆エビ状に再び縛った」 のである。


 森の論理は倒錯しているが、この場にいた坂口も違和感を感じていたようだ。

 私は、森君がほぼこれと同じ事を喋ったのを記憶している。瞳孔の開閉状態でそんな心の洞察ができるものだろうか、という疑問とともに、森君の表情と語り口が(彼は、行方君の目に懐中電灯の光を当てながらこういうことをいった)、何か物に取り憑かれたようで、嫌な感じがした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「イエス」でも「ノー」でも

 加藤能敬の最期を思い出してみよう。加藤は、逃亡の意思について否定し続けたが、まったく信じてもらえず、死ぬまで追求され続けた。そして加藤が死亡したとき、「逃亡しようとしたことがばれて絶望した敗北死」と解釈されたのだった。


 いっぽう行方は、逃亡の意思をあっさり認めた。しかしそうなると、手ひどく殴られ、逆エビに縛られてしまった。 何のことはない、「逃げようと思っただろう?」と疑われたら最後、「イエス」と答えても、「ノー」と答えても、ダメなのだ。


 つまり、森の手には、あらかじめレッドカードが握られていて、イエスだろうが、ノーだろうが、瞳孔が開いていようが、閉じていようが・・・・・出されるカードの色は変わらないのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

(遠山美枝子に対する追及は拷問そのものだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 遠山美枝子 顔写真

 森は、行方氏を追及している最中に、遠山が、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね」と繰り返しいってたことを追求し始めた。


■「そうです。芝居でした」(遠山美枝子)


 行方氏を調べ終えると、森氏は植垣氏ら3人に、「遠山の縄をほどいてこっちに連れてこい」と指示した。(中略)
 「さっき、何であんなことをいった。芝居だったんとちゃうか」
 遠山さんが黙っていると、皆が「何で黙っているんだ」といった。

 皆は、この頃から遠山さんをこずいたり殴ったりしたらしい。遠山さんをぐるりと取り囲んだ輪のうしろにいた私にはわからなかった。そういうなかで、遠山さんは答えた。
「そうです。芝居でした」
「どうして、そんな芝居をしたんだ」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山は、父が自殺して母が苦労して育ててくれたこと、それでいつか母を仕合わせにしようと思って、階級闘争をやってきたことを語った。

 追求の終わりごろ、男性関係についても追及された。

「明大時代、誰がすきだったんや」
遠山さんは最初は黙っていた。すると、取り囲んだものが、「何とかいえ!」「おい、どうした。早くしゃべれ!」などといった。遠山さんは、しぶしぶという感じで、「サークルの部長です」といった。
「赤軍派に入ってからは?」
「高原です」
「合法時代はどうだったんや」
遠山さんはしばらく答えようとしなかった。そのため、周りのものから一斉にあれこれいわれ、そのうち、2人の男性と関係をもったことをいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「おやじさんが好きだったの」(遠山美枝子)


 森氏の追及が終わったあと時、遠山さんは、ポツンと、「おやじさん(森氏)が好きだったの」といった。森氏は、この発言にニヤニヤする態度をとった。
 それは、それまでの遠山さんに対しての態度とあまりにも違ったものであった。遠山さんが森氏にそのようにいうことによって総括要求を回避しようとしていると思い、また、それにたいして森氏がまじめに彼女に総括させようとしていないと思い、「やっぱりそういうのはわかっていた」と批判した。
 私は、森氏が遠山さんにたいしてただ激しい暴力的総括を果しているだけで、本当に総括させようとしているとは思えなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 ところが、森氏は何を勘違いしたのか遠山さんにたいして怒り出し、彼女を殴りながら追求した。
「おまえ、俺をいつから好きだったんだ」
「明大の寮にきた時からです」
「うそつけ!あのころはオバQだったんとちゃうか。俺よりもオバQのほうが偉かったんだぞ」
「はい、そうです」
「それなら、いつから俺を好きになったんだ」
「南アルプスからです」
「この野郎!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この追求は、無実の容疑者が、取調官に恫喝され、検察側のシナリオにそって「白状」してしまうケースにそっくりだ。シナリオと違えば「ウソ」であり、「正解」になるまで尋問は続けられる。


 森のシナリオは、遠山は常に権力のある者を好きになることによって高い地位を得ようとした、つまり女を売りにして男を利用してきた、というものである。だから、遠山が森を好きになったのは、森がトップである南アルプスの時点でなければならなかったのである。


 なお、このシナリオは永田も一致していたようだ。坂口によれば永田は、「あなたは偉い人ばかり好きなのね」と皮肉をいったそうである。


■「男と寝たときみたいに足を広げろ」(寺岡恒一) 「そういうのは矮小よ!」(永田洋子)

 そのあと、森氏は、「遠山も行方と同じように殴って縛れ」と指示した。私たちは遠山さんをうつぶせにし、まず肩甲骨を肘で殴り、続いて大腿部をまきで思いっきり殴った。遠山さんは悲鳴をあげたが、私たちはそれを無視した。


 殴り終わって逆エビに縛ろうとすると、森氏が、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といった。それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その際、寺岡氏が、「男と寝たときみたいに足を広げろ」といった。


 これに私たちは笑ったが、女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。私たちはあわてて笑うのを止めたが、行方氏、遠山さんへの激しい暴行は、私たちの気持ちをすさませ、より残酷で下劣なものにしてしまっていたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 なぜ、森は、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といったのかというと、「女らしい様子をさせないため」(森)だそうだ。おそらく、少し前に永田が、遠山が女らしいしぐさで足を崩して座っていたことを咎めたからだと思われる。


 このように森は永田のいったことをよく覚えていて、わりとよく 「対処」 をするのである。

 こうして遠山さんは、3日の朝に縛られて以来、水も食事も与えられないまま、ここへ来て逆えび型に縛られ全く身動きできなくされてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山さんも行方氏もぐったりしていた。私は、この激しい殴打に、そこまでやらなくてはならないのかといささかたじろぎ、その反面、やられっぱなしの2人がなんともふがいないものを感じ、どうして総括を放棄してしまうような態度を取るのか、もっとシャキッとできないのか、何とか頑張ってくれという思いもあったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だとバトウした」(森恒夫)


 この時には、彼女が私を好きだということでロープを解いてもらおうとしているということと、階級闘争の中で男性を手段としてきているということが結合して、彼女に対する怒りとして放たれ、彼女が何人かの男性の名をあげた事に対して、我々は余りにハレンチだとして彼女を殴ったり、足げにしたりした。そして、本当に自分のことを情けなく思っているのなら、涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だ(彼女がかつて自分は泣けないと云ったことを押さえて)とバトウしたのである。
(森恒夫・「自己批判書」 句読点修正)


 森は、遠山に小嶋の死体を埋めさせたとき から、一貫して、「遠山がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準」と考えていたのである。


 どうやら、共同軍事訓練の最終日 に、森自身が総括を述べたとき、涙を流した体験と結びつけて考えているようだ。


■「寺岡は女性蔑視だ」(森恒夫)


 このあと、中央委員会を開いたが、そこで、森氏は、「寺岡君が『男と寝たときみたいに足を広げろ』といったのは、女性蔑視だ」と「真面目」な面持ちで批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「真面目」とカッコつきなのは、寺岡の言葉に男性たちはみな笑ったのに、あたかも、寺岡個人の問題であり、自分は無縁であるかのようにふるまった森への皮肉である。


 森は、永田の批判に、寺岡をスケープゴートにして面目を保とうとしたようだ。

 森氏は続いて、「殲滅戦のための準備のための活動を開始しよう」といって、井川ベースの整理、名古屋にいるF・Kさんらを連れてくること、東京での若干の活動、山岳調査などの必要をいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 F・Kとは殺害した小嶋和子の妹である。連れてこようと考えるとは、どういう神経であろうか。


■「女の革命家から革命化の女へ」(森恒夫)

 全体会議で、森は「女の革命家から革命化の女へ」という定式の説明を行った。

「共産主義化されないまま、女が男と関係をとり結ぶのは、それまでの生活を通して身に着けたブルジョア的な男性観にもとづいたものであり、こうした傾向を止揚しない限り女の革命戦士化はかちとれない」と述べた。
 この説明に私はなるほどと思った。そのあと、森氏は、大槻さんと金子さんにたいして、銃による殲滅戦を準備する闘いに向けて早く総括すべきだといった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


その後役割が決められた。


井川ベースの整理は、山崎、寺林、中村、山本保子の3人。
名古屋にF・Kを呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に行くのは前沢、青砥。


■独裁体制とメンバーの思考停止

 遠山への批判は、共同軍事訓練のときからずっと続いている。いつも永田の批判がきっかけとなり、森がそのあとを引き受けて追求した。よく注意してみると、森の批判は永田のそれとは別物であるが、永田は、森の批判に同調してしまうのだから、2人の関係はややこしい。


 森の過酷な追求によって、遠山は、それに迎合する告白をしてしまった。なんとか追求から逃れようとしたのだろうが、どのように答えても、批判され、人格を破壊されていくのである。あまりに残酷で拷問としかいいようがない。


 他のメンバーは、威勢はいいものの、せいぜい、「おい、どうした」 「黙ってないで何とかいえ」 という掛け声しか発することができなかった。すでに思考停止状態であり、森と永田の側に身を寄せることが精一杯だった。すべての判断は森と永田の専権事項になっていたのである。これを独裁という。


 いったん独裁体制が確立してしまうと、独裁者が自ら踏みとどまったり、引き返したりすることはない。事実、同志殺害は、森と永田が権力の手中に落ちるまで続くのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

1972年1月7日 遠山美枝子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

(遠山は人間の誇りを破壊された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

遠山美枝子(享年25歳)
【死亡日】 1972年1月7日
【所属】 赤軍派
【学歴】 明治大学
【レッテル】 古い赤軍派、ブルジョア的女性
【総括理由】 指輪、化粧、髪型、女を売りにして男を利用、幹部の妻としての特権的地位、死への恐怖
【総括態度】 「まだ女を意識している」
【死因】 凍死 or 衰弱死


遠山美枝子が山岳ベースに参加してから死亡するまでの経緯は以下の通りである。

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ

1971年12月29日〜31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める

1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る


 1月7日は、メンバーに任務が告げられ、その準備をしていた。この任務は殲滅戦を闘うための準備と位置づけられた。


井川ベースの整理に行くのは、山崎、寺林、中村、山本保子。
名古屋に小嶋史子(死亡した小嶋和子の妹)を呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に黒ヘルグループのオルグに行くのは、前沢、青砥。


 そして、森の提案で、新たな山岳ベースの調査することになった。榛名ベースは久々に活気に溢れたのである。


 しかし、その準備の最中に遠山の容態が悪化した。


■「お前は薄情だ!」(坂口弘) 「謝りなさいよ!」(永田洋子)


 手洗いから戻って来た時、縛られている遠山さんを見ると、それまでの様子と違って妙にひっそりしていた。私はそっと脈をみた。脈はかすかにしか感じられなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 それで坂東君、寺岡君ら5人のメンバーが飛んでいってすぐに人工呼吸を行った。私が少し遅れていくと、森君が、「酒を飲ませてみたらどうか」と言ったので、ストーブの上にかけてあるバケツの湯の中に一升瓶を入れて燗をしようとした。すると側にいた永田さんが、「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ。お酒はお銚子に移してから燗するものよ」と言って私を腐した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すぐそばでは人工呼吸が続いていた。永田は会議の場に戻った。

 ところが私が戻ってすぐ坂口氏が大変な剣幕で私のところに来て立ったまま大声で、「お前は薄情だ」とどなった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「おまえの態度は真剣でない!遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と、私は彼女を怒鳴りつけた。鏡の件などで、遠山さんに冷淡で、刺激的なことをした永田さんに対し怒りがうっ積していたのだ。だが、すぐに本当の敵は彼女ではなく、森君だと思った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田と坂口の口論中、森が、「永田さんの行動は薄情ではない」と助け舟を出したため、坂口は押し返されてしまった。

 彼女はいっそう居丈高になり、「私と森さんを侮辱したことを誤りなさいよ!会議の進行を遅らせたことを誤りなさいよ!」と言って謝罪を求めてきた。(中略)
 私は目を瞑り、腕を組んで、反抗すべきかどうか考えた。(中略)
 総括の最大の山場だと思った。自分の全人格が問われていると思った。気持ちが反抗と屈服の交互に揺れ動いた。しかし、私は、反抗の道を選択することが出来なかった。両名、とくに森君と論戦しても勝てないと悟ってしまったのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、「CCを辞任したい」と申し出るが、驚いた森があわてて取り成した。結局、「会議の進行を妨げて申し訳なかった」と惨めな謝罪を行ない一件落着となった。

 森氏は新党維持のため、私や坂口氏を特別扱いしていた。そのため、この問題で、私か坂口氏のどちらかが総括要求されることはなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 2人は一緒に顔を洗ったりするなど仲が良かったので、このときの激しいやり取りにはとまどわされた。しかし、このあとは何事も無かったかのように仲良くしており、このことにもとまどってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「遠山さんは蘇生しなかった」(植垣康博)


 遠山さんの人工呼吸は30分以上も続けられたが、結局、遠山さんは蘇生しなかった。坂東氏たちは人工呼吸をやめ、遠山さんの死体を床下に運んでいった。会議は重苦しい気分のまま中断となった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 坂東氏たちが戻ってきた時、森氏が、坂東氏に、「どうだった」と聞いた。坂東氏は首を横に振り、遠山さんの死体を床下に置いて来たことを報告した。
 そのあと、全体会議を中断して中央委員会の会議を開いたが、この会議は重苦しいものだった。もはや討論もなく敗北死という規定をした。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「暴力は不適格な人間を間引くことだと気づいた」(前沢虎義)

 このころから、メンバーの間では、総括に対する複雑な思いが芽生え始めていた。

(なぜ死ぬと分かっているのに遠山を殴ったのか?)
 自分の死ってものをある意味では前提にしているわけです、僕ら。軍の兵隊になった時点で。自分の死を前提にしてると、同じ仲間の死というものも・・・というか、中途半端な態度をとってることに対して許せないわけですよ。なんでそういう態度をとってるんだ、と、そういう態度をちゃんと克服しろ、と。
(植垣康博・「朝まで生テレビ」2004年3月27日放送)

 加藤が死んだときは遠山美枝子が縛られ、行方も既に縛られるのを待っている状態でした。私は加藤が死んだことで、遠山も行方も、そしてその後ももし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろうと、はっきりと判断しました。
 それまでは総括の援助だと言われ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 前澤虎義上申書(1972年8月11日付))


 前沢はこのような思いを胸に抱いて、東京に黒ヘルグループのオルグに行くのであるが、任務終了後、榛名ベースへ戻るのをためらうことになる。

 なぜ、こんなことさせるんだという憎しみを持ちながらも、遠山さんに対する暴力行為を断れない・・・。正しいと思っているわけじゃないんだ。そう思い込もうとしているだけなんだ。そんなことみんな分かっているのに止められないんだよ。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫インタビュー『スキャンダル戦争1』2002年6月 より引用)

 僕は遠山さんの問題については、永田に非常に大きな責任があると思っています。遠山さんの「総括」の最中を思い出すたびに、本当に正視できないようなことばかりだったと思う。だって普通、女の人に顔殴らせてね、「あんたの顔こんなに醜くなった。見てみなさい」なんて、鏡を突きつけますかね。
(荒岱介・「破天荒な人々」 青砥幹夫インタビュー)


 永田が遠山に鏡をみせた経緯は、 1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊 を参照。


■「遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくした」(永田洋子)


 遠山さんへの批判は、彼女のすべての行動を権力欲や嫉妬心で解釈することによって、彼女の人格を徹底して侮辱し彼女を絶望させてしまうものであった。それは遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくすものであった。


 こうした女性蔑視の排外的な批判に、遠山さんが沈黙してしまったのは当然のことであった。なぜなら、批判者自身が、そうした批判の誤りを理解しない限り、いくら違うといっても通用しないからである。


 敗北後、遠山さんに行われたのと同じような批判をされ続けてきたが、それによってやっと彼女の無念な思いが痛いほどわかるようになった。私たちの犯した誤りを利用した私への女性蔑視の排外的な批判に直結して、私はやっと同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は反省しているようでいて、「同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てた」 とはずいぶん虫のいい話である。


 遠山批判には、 「批判の誤り」 というような論理で割り切れないものを感じる人が多いだろう。


 以下のような吉野の証言もある。

 新倉共同訓練での遠山さん批判を受けた森がこうして遠山さんを縛らせるに至ったことで、森は永田からつきつけられた課題を片づけた思いになり、永田は永田で、赤軍派メンバーに対する自己地位を一応確保し、いわば赤軍派内での妨害要素を除去しえた思いで安堵したその心理が作用していたと私は見ます。


 森が苦心惨憺して遠山さんを批判していた時、傍らに座っていた永田は本当に満足そうに安堵しきった表情で、その追求ぶりを見物していたのを印象深く覚えています。


 私の認識としては、永田はとうとう森をして遠山さんを縛らせることに成功し、自分と森との統合への道の第一段階をこの時確保したのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 吉野雅邦 1983年1月28日付手紙)


 遠山を死に至らしめたのは、直接的には、森の課した肉体的制裁であることは間違いない。だが、森をここまで動かしたものは、はたして共産主義化の論理 だったのだろうか、それとも永田の意向が働いたのであろうか。


 同じ疑問は、このあとの革命左派の女性メンバー2人への総括要求のときにも生じるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

85. 中川隆[-11453] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:49:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[542] 報告


1972年1月7日 金子みちよ・大槻節子への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)はなぜ批判されたのか?)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

 今回は、遠山美枝子が死 亡したあとの全体会議での出来事である。遠山を「ブルジョア的女性の敗北死」としたため、それを受けて永田が、金子みちよと大槻節子へ総括を要求した。


■メンバーの状況(1月7日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。
吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左)「女まるだし」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)断固とした態度で暴力に加わるも疑問が生じる。
岩田平治 (革左)言動が森に評価される。
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左)永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
行方正時 (赤軍)★緊縛中★ オドオドした態度を批判された。
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)雰囲気に圧倒されてオドオドしている。
青砥幹夫 (赤軍)合法部との連絡役でそつなく立ち回る。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死) 

加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)

■「もう、総括はないだろう、との希望を持った」(青砥幹夫)


 遠山美枝子さんが亡くなった1月7日夜の全体会議で、森君が、「(死んだ)5名との共産主義化の闘いを踏まえて殲滅戦を具体化する」と宣言した。(中略)
 青砥幹夫君は、のちに連合赤軍統一公判裁判の証人尋問で、このときの気持ちを問われ、「もう、総括はないだろう、との希望を持った」と、実感をこめて述べたが、これは森君を除く全面メンバーの気持ちを代表していた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あんた、頭がよすぎるのよ」(永田洋子)


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 女性たちがそれぞれ自己批判する中、大槻節子はパンタロンを買った ことを自己批判した。だが、永田はそれでは不十分だと納得しなかった。

 私はさらに大槻さんに総括すべき問題をいった。
「あんた、よく本を読んでいるけど、知識として頭で理解したってだめなのよ。あんた、頭がよすぎるのよ。何でも頭で知識としてパーパー理解してある程度までは進むけど、それ以上は進めなくなっちゃう。あんたは頭が良すぎるのがかえってマイナスになっている」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、以前、森が永田に、「大槻は知識として本を読んでいるだけ」と批判したとき の受け売りであった。


■「男にこびる方法を身につけてしまっている」(永田洋子)

 大槻は、永田の批判にピンと来なかった。そして、渡辺正則 との関係について自己批判した。

 「私が渡辺と関係をもったのは、渡辺のかっこよさにひかれたにすぎなかった。渡辺の私への要求は、結局、シンパ的な可愛い女にすぎなかった」


「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」


この時、寺林さんが、大槻さんに、
「私や中村さんは自慢できるものが何もないから、それだけ総括できる。大槻さんも私たちみたいに単純バカになって早く総括しちゃってよ」
と励ますようにいった。大槻さんは、「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は誠実に自己批判したものの、永田とかみ合わなかった。それえは当然で、永田は、頭がよすぎるとか、可愛すぎるとか、およそ欠点とは思われない点に批判の矢を向けていたのである。


■「あんた、まだ総括していないわね」(永田洋子)


 金子さんの番になったとき、彼女は、「私が吉野さんと別れるといったのは、私は吉野さんの足をひっぱってきたからです。私は、吉野さんとは運動にかかわる前から関係をもっていた。運動の中ではお互いを高めあうようにしてきたけど、この関係に甘えてきた。私は、完全に総括できないので吉野さんと別れたいと思います」といった。
 私は再び、「あんた、吉野さんと別れるといってるけどそうじゃないのよ。あんた、まだ総括していないわね。あんたは、離婚しなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はないのよ」といったが、金子さんは首をかしげ、うつむいて考え込んでいた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、金子に何を批判しているのかよくわからない。離婚表明にしたって、同じ理由で杉崎ミサ子が寺岡恒一と離婚表明したのは認めているのに、金子の離婚表明は否定するのである。

 2人とも兵士たちのなかでは活発に活動していたし、指導力もあったので、私は、どうして彼女たちが評価されないのか理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 全体会議を終わることにした時、私は、「大槻さんと金子さんは総括できるのだから、早く総括しちゃいなさい」といった。私は、彼女たちの批判をはっきりと理解できないまま、こういわずにはいられなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「女が男に対して行う女の顕示を克服しなければならない」(森恒夫)

 遠山批判を経て、森が構築した革命家の女論 は、「自己批判書」で明かされているが、原文は長いので、永田の説明を引用する。

 森氏は、敗北したあとで作成した「自己批判書」の中で、女性問題を特に重視した理由について、次のように述べている。


 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 早い話が、恋愛は革命の邪魔だということであり、恋愛は女が男に従属するものだと考え、そのため女が自立できないと決めつけている。


 革命家の女論を受け入れたとしても、問題は、「女の顕示」を判定する基準があいまいなことである。つまるところ、森や永田の恣意的な判断なのである。


 森は初めて革命左派のベースにやってきたとき、金子と大槻を大いに認めていた。それが、この理論を構築してから、批判に転じている。


■「不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬したのではない」(永田洋子)

 逮捕後のメンバーの多くは、金子と大槻への総括要求は、永田の嫉妬であると証言している。これに対して、永田は最終意見陳述において以下のように反論している。

 ところで、こうした大槻さんへの批判が、何か私の嫉妬から行われたかのようにいい、不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬して、批判し、殺したというまことしやかな中傷的解説が、まかりとおっている。もちろん、こんな解釈で連赤問題の本質を解明できないのは、当然である。だが、私が不思議に思うのは、こうした森氏の大槻さんへの批判に同調した他の男性のC・Cが、そんなことがなかったかのように口をぬぐっていることである。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田が言わんとしていることは、森が大槻を批判しているとき、むしろ擁護する立場をとったのであり、他のC・C(中央委員)は、森に同調していただけだったではないか。それを今さら、私の嫉妬のせいにするのはフェアではない、ということである。


■美人であることが批判された
 大槻節子と金子みちよに対する総括要求はわかりにくい部分である。森の理論にしても、永田の言い分にしても、美人であることがいけないとしか思えない。これでは、批判されるほうも、どう総括したらよいか困惑するばかりだ。


 大槻と金子は共通点が多い。大学が同じ(横浜国大)、美人でスタイルが良い、頭が良い、積極的な活動、リーダーシップがある、などであり、多くのメンバーから認められた存在だった。


 そしてもうひとつ忘れてはならない共通点は、2人とも永田に対してイエスマンではなかったということだ。大槻は、意見書 を書いた本人であり、金子は革命左派時代からたびたび永田に意見していた。


 永田は彼女たちの能力を認めていたが、その一方で、嫉妬があったり、自分の立場を脅かすという警戒があったりした可能性が強い。森の革命家の女論にしても、これまでもそうだったように、永田の直観や感情を理論化したものだったかもしれない。


 遠山美枝子を厳しく批判していた金子と大槻は、一転して批判される立場に立たされたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html


(榛名ベースは道路から近いので危険と判断されたが・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名山

(そう簡単には見つからない山の斜面にあった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース

■メンバーが活動に出発
この日の朝、メンバーがばたばたと出かけていった。


山崎、中村、寺林、山本保子は、静岡県の旧革命左派の井川ベースに残してきた荷物をとりにいった。

岩田、伊藤は、名古屋へ行き、総括で死んだ小嶋和子の妹をつれてくることになった。

前沢、青砥は、黒ヘルグループの奥沢修一たちをオルグし入山させることと、森の夫人に会うことになった。


 指導部会議では、新たな山岳ベースの調査に行くことが決まった。坂東・寺岡は日光方面へ、吉野・寺林は赤木山方面へ、植垣・杉崎は迦葉山へ調査に行くことになった。このため大槻と加藤三男は地図を買いに行くことを命じられた。


 なぜ新たな山岳ベースを調査するかというと、榛名ベースは道路から近いため危険と判断したからである。植垣が始めて榛名ベースを訪れたときにも心配していた。

 岩田氏は元気で張り切っている様子で、とてもそのあと脱走することになるとは思えなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」(坂口弘)


 私は、小屋上手の便所に行った帰り、便所の側で丹前を着たまま蹲り、森君はまだ総括を続けるつもりなのだろうか? そうだとしたら、われわれの組織はこの先、どうなってしまうのか? などと考えていた。
 すると、永田さんがやってきて、昨夜 とはうってかわった優しい調子で、私に話しかけてきた。それで私は、「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか。このままでは駄目だ。一刻も早く殲滅戦を戦うべきだ」といった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、なんとか永田を味方につけたいと思ったのであろう。しかし、、、

 私は人民内部の矛盾を認めながらも、共産主義化の闘いを絶対的に確信していたので、「総括は、私たちが前進していくためにはどうしても必要じゃないの」といった。坂口氏はうなづき、小屋に戻っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、坂口の件を指導部会議で報告するが、森は何もいわなかった。

 私はこの問題で、当然総括を求められるべきなのに、その後も彼から追及されることはなかった。私は、永田さんと共に、森君に特別視されていたことを認めざるを得ない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」(行方正時)


 青砥氏が出かけたあとは、私が行方氏に食事を与えたが、行方氏は、その日の午後、「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」と唄っていたかと思うと、「ジャンケンポン、アイコデショ」といったり、「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」といったりしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方は1月3日に批判 され、1月4日未明に緊縛されてから、ほとんど食事を与えられていなかった。見かねた青砥と植垣が森に進言して1日1回食事をあたえていたが、あとはずっと放置されていた。


■「金子は主婦的、大槻は女学生的」(森恒夫)

 夕方、森は、金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判しはじめた。

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、森の批判に驚いたが、金子を会計から外せば、森に批判されないですむと思ったという。

 それで私は、金子さんのところに行き、「あんたを会計から外すから、持っているお金やノートを出して」といって、これらを受け取ってコタツに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「行方氏はぐったりしていたが、私たちは注意を払わなかった」(永田洋子)


 夕食後、私たち兵士は土間で雑談をしていたが、8人も出かけているため、ベース内はガランとしていた。午後9時頃、見張りの順番を決め、早々に寝ることにした。行方氏がガタガタ震えていたので、指導部の誰かが行方氏に毛布をかけていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 8日の晩は、中央委員会も全体会議も無く見張りを残して寝た。見張りは被指導部の人たちが交代で行っていたが、行方氏はぐったりしたまま元気が無かったが、私たちはほとんど注意を払わなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■久々の活気も、いよいよ闘争・・・にはならなかった
 メンバーに任務を与えるとき、1人で外出ということはなく、慎重にペアが決められていた。これは、互いの行動の監視や、逃亡を抑止するという意味があったようだ。


 殲滅戦の前準備とはいえ、ようやく任務らしい任務を与えられた下部メンバーは少し元気を取り戻した。もともと彼らは、共産主義化のためではなく、闘争活動のために集ったのだから、それは当然であった。


 その一方で、行方は放置されていた。精神に異常をきたし、もはや総括うんぬんの状態ではなかった。誰もがそう思っていただろう。しかし、同情を口にすれば、総括にかけられる恐怖があり、断固とした態度でいるためには、弱者というレッテルを貼って切り捨てるしかなかった。


 森の金子と大槻に対する批判は、この日も止まらなかった。事実、金子は主婦だし、大槻は女学生なのだから、それが何か? とツッコミたくもなる。「主婦的」とか「女学生的」という言葉で批判する森のほうこそ、女を意識し、蔑視していることがよくあらわれている。


 さて、メンバーは、これで暴力的総括、すなわち、 「敗北死」 は終わりという期待をしていたようだが、そうはいかなかった。 それどころか、「死刑」 という 「新たな地平」 に連れて行かれるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html

1972年1月9日 何気ない日常の恐ろしさ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html


 今回は、行方死亡後の出来事をフォローしておく。

 メンバーは久々の任務について、活動にでかけていた。


■メンバーの状況(1月9日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。

吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係をはずされた。
大槻節子 (革左)「女まるだし」「女学生的」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)黒ヘルグループをオルグするために東京へ
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ(運転手)
中村愛子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ
寺林喜久江(革左)荷物を回収に井川ベースへ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)荷物を回収に井川ベースへ
青砥幹夫 (赤軍)黒ヘルグループをオルグするために東京へ

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)
行方正時 (赤軍) 敗北死の規定なし(1月9日・凍死or衰弱死)


■「岩田君は僕に似ている」(森恒夫)


 岩田氏、前沢氏について森氏は、最初から評価していたが、とりわけ岩田氏を高く評価し、「岩田君は僕に似ている」とさえいっていた。しかし、森氏が高く評価した彼らがのちに脱走することになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、山岳ベースで、ずっと心理学者気取りであったが、まったく的外れだった。


■「中村さんと結婚したい」(山崎順一)
 夕方、井川ベースに整理に行ったメンバーが帰ってきた。

 夕方、井川に行っていた山崎氏たちが戻ってきた。さっそくリュックを持って、大槻さんや山本氏たちといっしょに車まで荷物を取りに行った。その際、大槻さんがすすんで重い荷物を運び、私の方が驚いてしまった。(中略)
 それだけに、こんなに頑張っている大槻さんに対して「総括できていない」という指導部の態度が腹立たしかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 中村さんは、「山崎さんは、運転中に眠気止めといってタバコをのんでいたけど、帰ったらのめなくなるから今のうちに沢山すっておくんだといってスパスパすった」とさもおもしろそうに話した。
 また、山崎氏は、「車の荷台にちょこんと横になって寝ていた中村さんがかわいかったので、中村さんと結婚したいと思った」と明るい調子でいった。
 私は二人の気持ちがそういう風ならそれはよいと思い、ニコニコしながら聞いていたが、これらのことがのちに批判的に取り上げられることになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 夕食後、土間で一服しながら皆と雑談したとき、私は、山崎氏と、新しいベースの調査には2人で行こうと約束し合った。これは、山崎氏が運転手としての地位に安住していたと自己批判したことから、できるだけ他の任務をした方がよいと話し合い、誰か行くものはいないか聞かれたら、2人で立候補することにしていたからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「植垣、お前の大槻に対する態度は何だ」(森恒夫)
 夜9時ごろ、遠山、行方の死体を埋める作業が行われた。坂東、吉野、植垣が行方の死体をかつぎ、坂口、山田、寺岡、山崎が遠山の死体をかついだ。


 戻ってきた時は午前零時をまわっていた。

 この時、森氏は植垣氏を中央委員のこたつの所に呼び、まず、杉崎さんと一緒に山岳調査に行くよう指示し、さらに党員にすることを伝えた。植垣氏は了解したものの、今一つ彼らしく張り切る様子はなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 植垣が気乗りしなかった理由は、ひとつは、山岳調査にいく相手が山崎ではなかったことだ。しかし、森は脱走を異常に警戒していたから、仲の良い2人組にすることはなかった。

 もうひとつは、他の党員候補が、前沢、岩田、寺林と聞いて、植垣の評価と違い、拍子抜けしたからである。

 そのあと、森氏は、「南アルプスでは、お前も大槻もすぐれていたが、ここでは違うんだ。お前の大槻に対する態度は何だ。いやらしいぞ」と批判しだした。私は、まずいことになったと思い、あわててその場をはなれた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森が、「南アルプス」といったのは、連合赤軍になる前の、赤軍派と革命左派の共同軍事訓練 のことをさす。 森は、榛名ベースでの植垣の大槻に対する態度を 「いやらしいぞ」 と批判したが、実は、共同軍事訓練のときの植垣の態度 のほうが、批判されるべきだろう(笑)


■連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされた
 今回の話は、大したエピソードではない。しかし、行方が死んだ直後なのに、何もなかったかのように時間が流れた。それが逆に恐ろしい。


 行方の死で、死亡者は6名になった。もうかんべんしてくれと言いたくなるが、まだあと6名死亡するのである。


 これまで検証してきて、はたして、「彼らはどこでどんな間違いを犯したか」 という答えがみつかったかというと、ノーと答えるほかない。ここだ、と指をさせるポイントはみあたらないのだ。

 あとから考えてみても、ここでとどまるべきだったといえる明確な地点はどこにもない。いいうることはただ、ある人間が泳ぎだし、ちょっと遠くまで泳ぎすぎたということだ。しかし、どのひとかきが余計だったのか、正確にどの地点で引き返すべきだったのか、はっきりと考えることの出来る人などいないだろう。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)


 ただ、引き返すチャンスはあった。最大のチャンスは、最初に尾崎が死亡したとき である。死者が出るとは想定外だったメンバーは大いに動揺し、それは森恒夫もまったく同じだった。


 ところが森は、指導方法を改める代わりに、瞬時に、「敗北死」という規定を提示した。「敗北死」は自らの指導を正当化すると同時に、メンバーに免罪符を与えるものだった。動揺していたメンバーは、「敗北死」にすがったのである。


 もし、尾崎の死を「敗北死」と規定しなければ、2人目の死者はでなかった可能性が強い。連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされたのである。それゆえ、森の理論の中でも、「敗北死」の理論はもっとも罪深いのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html

86. 中川隆[-11452] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[543] 報告

1972年3月12日 頼良ちゃんを救え!   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html

 森の上申書をきっかけにメンバーの自供が相次いでいる。ただしそれは断片的なものだったので、新聞はそれらを組み合わせ、ストーリーを考え、記事を創作したとしか考えられない。当時これらの情報により、彼らは自分とは違う人間なのだと思っていた。


■3日間夫は泣いた 山本保子(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-12 毎日 朝刊19


 山本保子は素直に取り調べに応じ、「私は夫が殺されるのをこの目で見た」と始めて語った。幹部に少しでも逆らうと総括を受け、リンチはしょっちゅうだった。とくに永田のリンチぶりはひどかった。リュックにおしめを入れていると夫の順一が手伝ってくれた。これが永田の目に留まり「夫婦はブルジョア趣味だ。もっと強くならなければならない」となじった。ついに夫は総括を受けることになった。1月下旬、森、永田らは突然、「これから総括する」と言って腕や手足を縛り上げ、木切れや板でなぐったりけったりした。私は駆け寄ろうと思ったが、監視がきびしく泣き声すらあげられなかった。リンチは3日3晩続いた。夫は寒かったのだろう。"オー、オー"と叫びながら助けを求めていた。3日目になると声も出なくなった。夫は死んだのだ。


 直接話法でかかれているが、事実とはまったく違う。保子はリンチの現場にはいなかったし、森、永田もリンチの現場にはいなかった。山本順一の総括は坂口が中心に行なわれた。

■処刑の跡 ロープ 無数の弾痕 暗い穴の中に焼けた布切れ(毎日)
 榛名山アジトは榛名湖から保育等に約5キロ。4畳半くらいの小屋跡にはバスローブのタオルひも、おしめのような布、クギ、カスガイなどが凍り付いている。小屋のすぐ上に深さ1メートルぐらいの穴があり、細かい布が無数にこびりついていた。すぐ下の大木には、人の背中の高さのところにロープでこすったような跡がある。小屋から5メートルぐらい下ったところに小さな小川が流れている。そのほとりに黒く焼けた木材、石などがころがっていた。ここが彼らの炊事場。炊事場に隣接するこの小川の中がトイレ。おびただしい量の排泄y物や、生理用品が、済んだ水の中に浮いている。・・・榛名山アジトの小屋周辺はすべてが焼き払われており、灰化したような土の山。それは、自分たちの犯行の血なまぐささに耐えられなくなり、その悪夢を振り払おうとして、撤退していく彼らの暗い絶望的な姿を思わせた。


■頼良ちゃんを救え! 連れていた中村手配(朝日)
 保子の供述によると頼良ちゃんは1月末、榛名山味とから、迦葉山アジトに移った直後、「夫婦、親子の関係を清算しなければ革命はできない」と幹部に指摘され、保子の手から中村愛子に移されたままという。

 中村愛子は2月7日の雪の朝、榛名湖畔でストーブにあたらせてやった食堂経営者佐藤道三さん(48)は「てっきり自殺かと思った。...こちらの心配を気にしてか、"自殺なんかしないわよ"とはじめて笑顔をみせた。あの赤ん坊はどうしているんですかねえ」という。

 身元引受人にされた高校時代のAさんも「ひどく疲れているようだった。タクシーの中でほとんど話をしなかった。"事情がある"というだけで、あとはよくわからないまま"サヨナラ"といって行ってしまった」といっている。


■前沢が出頭 リンチこわくアジトを脱走(朝日)
 11日親類2人につきそわれて東京・練馬署へ出頭した。2月7日、金を一銭ももたず、乞食のような身なりでやってきて、塗装業の栗田さんの手伝いをしていた。栗田さんは指名手配されて顔写真がいっせいにのった10日の新聞記事をみて驚き、「これではきれいさっぱり話してしまわなければいけない」と前沢を説得、出頭したという。前澤は「リンチの場面をみてこわくなり組織をやめようと逃げた」と語った。


■夫婦も兄弟もなかった  肉親でもリンチ殺人 車もたつき"総括"直前(朝日)
 奥沢修一(22)の自供によると・金子みちよの殺害には、当初吉野が不在のときといわれていたが、吉野も手を下していた。加藤には弟も殺害に参加。これは「夫婦、親子、兄弟などの関係は革命の前には放棄すべきだ」とする永田の考え方の実践で、同時に生き残る者に対する「踏み絵」としての意味を持たせた。肉親同士殺し合うという異常ぶりに「革命の精神が高められた」と総括していたという。

 山本は運転をしばしば誤って総括されたが、車をミゾに落とすことは、そのまま犯行の発覚につながる恐れがある、と重視されたという。死体搬出でスリップしてミゾに車輪を落とした山本は、味とに帰ってから森や永田に「気合が入っていないからだ」と厳しい追及を受ける結果となった。

 2月7日、奥沢は怪しまれてレンタカーを断られると、永田が「革命精神が足りなかったからだ」と総括にかけられた。奥沢は死を覚悟したが、心酔していた森から「あと1日やるから車をかりてこい」と1人だけ残った運転技術を買われて助けられた。8日に車輪を溝の落として近所の人に助けられて人目につき、16日にもぬかるみに車輪を取られて警官にみつかり、グループの破滅につながった。

 結局、山も虎の運転技術者を「運転の仕方が悪い」などの理由で次々に殺して言った最高幹部の"過剰殺人"が、奥沢のようなまずい技術者の起用につながり、壊滅的な打撃となって終わった。

 加藤は1月上旬ごろ、女性関係のもつれから榛名山アジトで人民裁判にかけられ、リンチされることになった。次男Aもそのメンバーに入れられて一緒に殴った。三男Bは兄の処刑が決まりリンチが始まると「殺される」と思い、森ら最高幹部たちに「兄さんの命だけは助けてほしい」と訴えた。この命乞いに森は「だまっていろ、兄のことは組織に任せておけ」と答え、聞き入れられなかったという。


 最後の加藤リンチの状況は事実と違う。次男Aも三男Bも、永田に促されて2人とも殴った。命乞いうんぬんのくだりは彼らの手記にはでてこない。


■「女問題・逃亡は『死刑』」 青砥が自供 山崎惨殺は見せしめ(朝日)
 山崎順(21)があまりにもむごたらしい殺され方をしていたため、青砥らを追求したところ、山崎は榛名山アジトに出入りしていた女性をめぐって他の男とトラブルを起こした。森・永田らからとがめられたことから、イヤ気がさし、逃亡しようとしたところをみつかり、人民裁判にかけられた。

 同アジトでは、少ない女性をめぐって、他にもトラブルがあったため、森・永田らは、「これ以上女性トラブルが増えると組織がもたない」と考えていた。こうした中で脱走者が出ることを厳しくチェックするようにしたり、山崎の脱走行動がヤリ玉にあがったという。このため山崎は他の処刑者と違って死刑宣告を受け、殺され方もみせしめのため、みんなの前でわざと残虐な方法がとられたという。


 山崎死刑は幹部だけで話し合われて、メンバーには死刑の理由を知らされていなかった。メンバーの自供に基づいた記事のため、事実と違う記事になったと思われる。


■永田洋子という女 森しのぐ実力 飛びぬけて激しい言動(朝日)
 永田の存在が不気味にクローズアップされてきた。アジト内の会議では議長の森を牛耳った。処刑の場では大声をあげてメンバーを動かしていた。当局の調べに対し、逮捕者が相次いで脱落、自供していく中で、彼女だけは口を割らない。「実質的な指導者は森ではなく永田ではないか」という評価も生まれつつある。


▲リンチ通し地位高める
 山本保子の供述によれば、永田はリンチのとき飛びぬけて激しい言動をみせた。集団リンチという異常極まりない行動をとるとき、病的に冷酷な人間が最低一人は必要といわれる。当局によればそれが永田だった。逮捕当時「ナンバー1」の森さえ、永田を抑えきれなくなっていたらしい。彼女はリンチを加えることによって組織内での自分の地位を高め、ついに事実上の「ナンバー1」にのしあがったといえるようだ。


▲死に行く者をあざ笑う
 最後に処刑された山田孝は妙義山のほら穴アジトで縛られ、雪の上に放置されていた。死の直前、のどのかわきをいやすためか、山田はからだを必死にねじまげて雪をなめ、そのまま死んだ。居あわせたメンバーは一瞬シーンとなった。洋子はその静けさを破るように大声で笑いながら言った。「こいつは死ぬまで食い意地が張っている」(警視庁への密告から)


 これはひどい。山田が死んだとき、永田は森とともに東京アジトにいて現場にいなかった。関係者がそんなこと供述するはずがない。全員逮捕されているのに「警視庁への密告から」というのも奇妙だ。「永田」でなく「洋子」と呼称しているのは女性を強調するためだろうか。


▲警官の心臓めがけ短刀
 永田は森恒夫と妙義山中でつかまった。登山ナイフをふりかざしながら機動隊員と取っ組む森に「やれえッ、やれえッ、殺せッ、突き刺せッ」と声を限りに叫んだ。機動隊員が雪ですべって森に組み敷かれると彼女もとがったやすりを振りかざして旨めがけて突き刺そうとした。機動隊員は防弾チョッキを着ていたので、ケガを免れた。あとで、チョッキを調べたら、刺し跡は心臓のみに集中していた。


 「十六の墓標(下)」(永田)によると、永田が持っていたのはナイフであり、すぐ取り押さえられたというから、攻撃できたとは思えない。心臓にナイフを刺したのは森。


▲不美人を気にする日常
 「色黒。ギョロ目、上歯やや突出した感じ」(手配書から)。美人とは言いがたい永田はそれを自覚してかどうか、仲のいい活動家に「私だって子供には慕われるのよ」といっていた。浅間山荘にたてこもった坂口弘と同性していたところ、わざと腕を組んで見せて「新婚なのよ」と誇らしげに話した。人目をそらすための、偽装だけではなかった、と当時を知る人たちはいう。


▲仲よい山本夫妻いびる
 坂口は心臓が弱く「夫婦仲」は必ずしもよくなかったようだ。夫婦仲のよかった山本夫婦のむつまじさにイラ立って「夫婦気取りで革命はできない」と非難した。保子が子供のおむつを味との外に干そうとすると「人にみつかる」ときつくたしなめた。群馬県警に逮捕された1人は「嫁いびりのようだった」と表現している。


▲永田とはだれの名だ
 妙義山中の逃避行の際、警官に職務質問されたことがあった。洋子は一緒にいた森ととっさにキスをして、アベック旅行者を装ったという。逮捕後、自分への手配書をみせられると泣いて悔しがったが、取調べでは一番係官を手こずらせている。自分が永田であることを認めていない。留置場につけられた「永田洋子」の名札をみて「これはいったい誰の名前だ」。取調官にたて突く。「殺人罪とはどういうことをいうのか」「刃物を持つのが悪いとはどういうことか」ダバコをすすめると「オマエらのものをすえるか」しかし、しばらくして灰皿の吸殻を拾ってすった。


 いくらなんでも職務質問中に「とっさにキス」をしたとは信じ難い。取調べの模様は「続・十六の墓標」(永田)に詳しい。それとはずいぶん違う印象だが、このようなう面もあったかもしれない。タバコの件は「タバコを権力にもらうのはよくないが、落ちているタバコを拾ってすう分には問題ない」という連合赤軍ルールによる。森も「拾って」吸った。


▲コーヒーを飲ませろ
 彼女はいま群馬県高崎署に収容されている。朝晩留置場から調べ室に警官が両脇をかかえて進行する。その警官に必ず彼女は言う。「病人だから大事にあつかいな」調べ室ではあいかわらずだんまりを決め込みプイと横を向く。そしてときどき命令する。「病気だから調べをやめな」「下着を買ってくれ」「コーヒーをのませろ」「弁護士を頼んでくれ」永田はバセドー氏病にかかっている。


 永田の感情の高ぶりがよくバセドー氏病と結び付けられるが、まったく関係はない。また「永田はバセドー氏病のため子供が生めない体だから、妊娠した金子に嫉妬していた」などとかかれる事もあるが、これも病気とは一切関係がない。事実、永田は妊娠し中絶している。この経験から、金子が妊娠したとき「今後は子供を生んで育てていくようにしよう」と提案し、祝福したから、金子は山に入ったのである。


▲大学生も恐れる論旨
 京浜安保共闘の川島豪議長が逮捕されてから「理論面」で永田に並び立つものはいなかった。アジ演説も巧みだし、論旨もそれなりに明快だった。だから議論になっても反論するものはなく、大学生のメンバーでもひたすら恐れ入ってしまったという。


 「大学生も恐れる論旨」という見出しからもわかるように、当時、大学生はエリート扱いされていた。だから赤軍派は「労働者諸君!」などと見下すようにアジっていたのである。ちなみに永田は共立薬科大卒業だ。


■13人目のリンチ殺人(毎日)
 京浜安保共闘がが独自で山岳アジトを作ったとき、リンチ殺人が行われたとみている。これは中京安保共闘の少年2人と同、寺林真喜江(23)、京浜安保共闘の伊藤和子(22)、山本保子(28)の断片的な自供から得たもの。


■その他の記事
きょう4人の死体発掘 保子が現場を案内(朝日)
37名の警官が負傷した明治公園爆弾事件は森が陣頭指揮をとったと青砥が自供(毎日)
頼良ちゃんを連れて逃亡したとみられる中村愛子(22)を森林法違反の疑いで全国指名手配(各紙)

https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html

87. 中川隆[-11449] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:30:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[546] 報告

1972年3月13日 破滅の魔女・永田洋子   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme


 この日の紙面は永田バッシングのオンパレード。憶測(でっちあげ?)記事が多く、なんでもありの書きたい放題。新聞の間違い探しをするのが目的ではないが指摘しないわけにいかない。連合赤軍の”総括”を批判しながら、連合赤軍の"総括"とまったく同じことが行われているのだ。新聞とはかくなるものであったか、と痛感する。


■さらに四遺体 同じ穴、折り重なって(毎日)
 群馬、長野寮県警は青砥らの自供にもとづき、榛名山ろくで男3人、女1人の死体発掘作業を行い、4遺体を収容した。同本部は、加藤能敬(22)、尾崎充男(22)、進藤隆三郎(21)、小嶋和子(22)と確認した。これで9人の死体が発見された。


■隠された"ねらい"に焦点(朝日)
 連合赤軍殺人事件は13日の発掘で12人全員がみつかり、殺された人数は12人と断定した。これは8日森が前橋地裁あてに書いた上申書の内容とこれまでの捜査経過から判断されたものである。
 警察当局はこれだけ陰惨なリンチ事件を繰り返し、組織を防衛してきた背景には、何か、大きな目的があったのでは、と疑っている。その1つに妙義アジトでつかまった森恒夫と永田洋子がまっ先に捜査員に聞いたセリフ「東京で何かあっただろう」という質問がある。この永田のセリフからして、その前後に東京またはその周辺で何事かが起こるか、武器の隠し場所がわかるなどのことがあるはずだが、1ヶ月あまりたったいまもそうした動きを警察はつかんでいない。


 森や永田が「東京で何か起こらなかったか?」と聞いた、という記事は3月1日の読売新聞にもでていたが、彼らの手記を読んでみても、東京でコトを起こそうとしていた気配はない。


■恐怖の"穴掘り役" 次は自分が「総括」に 山本保子、前沢ら自供(朝日)
 遠山、行方、寺岡の死体の処分は保子が運転する車に死体をのせ、監視役として坂東か吉野がのりこみ、穴掘りは前沢だった。前沢と保子が死の恐怖を感じたのは、遠山、行方、寺岡が尾崎ら4人の死体処理に出かけたときに永田が「次の処刑予定はあの3人だ」とアジトでもらしていたのを聞いたためで、自分達も同じ運命にあると感じたという。

 前沢らが「今度は自分の番だ」と恐怖にかられていた矢先、山崎順の「脱走失敗」のハプニングがあり、死刑が行われた。森らの自供を総合すると、保子についての疑いが晴れなかったので、その長女、頼良ちゃんを人質として取り上げ、中村愛子にあずけさせるとともに、保子の身代わりとして夫の順一を総括して殺し、保子らに対する処分を先延ばししたという。


 永田は次の処刑予告などしていない。山崎は脱走失敗したわけではない。保子の身代わりとして順一を殺したということではない。


■「総括」と「死刑」は別 「死は彼らの敗北」 森の自供(毎日)
 森は自供の中ではっきりと「総括」と「死刑」2つの殺害方法があったことを明らかにした。これによると「総括」とは「ブルジョア社会の残存物を排せつして、革命戦士として自らを変えていくことであり、討論(自己批判要求のこと)の過程で"総括"しつくせないときは、暴力の援助(全員によるリンチを意味)をし、仮にその者が死しに至った場合は敗北になる」という。「死刑」については「味方を敵に売り渡す裏切り分子に対しては"死刑"を宣告した」という。しかし、森は総括にかかれば死以外にはないことも認めている。


 これは重要な記事だ。森が「暴力の援助」や「敗北死」について自供しているのがわかる。ここにリンチ殺人の本質のヒントがあったのだが、当局もマスコミも、この論理を「身勝手」と一蹴し、一顧だにしなかった。その姿勢は後の裁判においても続く。しかし、いかに身勝手な論理であっても、彼らはそれにすがってリンチ殺人を行っていたこともまた事実なのである。


■「15人を殺した」永田洋子ついに自供(毎日)
 永田は2月17日、妙義山アジトで逮捕されて以来高さ貴書に留置、取調べを受けていたが、名前も応えず、捕まったことに悔し涙を流しただけ。あとはかたくなに黙秘を続けていた。


 しかし13日になって、奥沢の自供によって山田隆や金子みちよらの発掘当時の無残な全裸死体のカラー写真と山田の引きちぎれた衣類、森が8日に書いた上申書を見せたところ、永田は動揺の色をみせた。


 始めは「この上申書はウソだ」と言い張っていたが、やがて見覚えのある森の筆跡に納得したのかカラー写真をじっと見つめた。そのうち全身を震わせはじめ、まず「永田」であることを認めた。刑事の間髪をいれぬ厳しい追及に群馬県下での連合赤軍関係の12人殺害の事実を認めた。


 さらに奥沢や11日自首した前沢、少年兄弟2人の「永田は丹沢や大井川の山岳アジトでもやっている」との供述を告げたところ「そうだ」と認めたという。


 血の粛清をした事実については「15」の数をあげているが、どこでたれを殺したのかは、まだはっきりとはいっていない。人数と場所の関係については、森、奥沢、前沢の供述を総合すると、西丹沢では男女2人、多い側では男1人になっている。


 「永田自供」のニュースは毎日だけが一面で報じた。朝日と読売は翌日の朝刊に掲載されることになる。不思議なことに毎日はたびたび他紙より1日早く記事になる。「15人」というのは何かの間違いだろう。翌日の朝日、読売では「14人」と自供したことになっている。

■永田洋子の残忍さ 女はみんな丸坊主(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 毎日 夕刊11

 12日、榛名山で発掘された小嶋和子の頭髪はわずか1センチ。迦葉山で発掘された金子みちよ、大槻節子の頭髪もほとんど同じ状態だった。これらの被害者は「イヤリングをするのはブルジョア的だ」「物質欲が強い」「コケティッシュだ」と普通の女性なら誰でももっている"本能"を「反革命的である」と決め付けられ、永田洋子の命令で徹底的に痛めつけられた。


 「総括」−。永田のツルの一声で、たちまち両手足をしばられ、なぐられ、けられ、あげくの果てに「自己批判しろ」と長い髪をつかまれて、ハサミでバッサリやられた。いわば、女性への最大の恥辱がリンチの手始め。それは組織(仲間)への見せしめなのか、不美人と言われる永田のうっぷんばらしだったのか。 永田は共立薬科大に在学中、目が飛び出るバセドー氏病にかかった。娘時代に、この突然の容ぼう変化は劣等感をつのらせ、自分より美しいものへ憎悪をかりたてたのではあるまいか。


 特に仲むつまじい男女への仕打ちはまるで嫁いびりのシュウトメのようにネチネチとしつこかった。大井川、丹沢のアジトを経て榛名山アジトに移り革命を妄信したグループの閉鎖社会の中で、数少ない女性リーダーとして仲間からチヤホヤされているうちに、うっ積していた美しい者へのネタミが一挙に爆発、それ以降は森をも押さえて"革命"の名のもとにやりたい放題だった。永田の目は1日中、女性隊員の行動をギラギラと追い続け、ちょっとでも男から声をかけられた女性は絶対に許さず、それが"任務"の話であっても永田の目には男女間の"恋愛行為"と写ったらしい。


 こうしてささいなことを取り上げては"総括"の対象者に仕立て上げ、そのリンチも髪を刈ることだけでは満足せず、被害者を雪の中に放り出したあとも、妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐり「お腹の子供をひっぱりだそうか」と森と真剣に協議していた。 サイギ心とネタミにとりつかれた心は、逮捕後もガンとして開かず、森をはじめ逮捕者が次々に自供した中で、1人"反抗"を続けている。その心は革命とはまったく無縁の"狂気の女性心理"といえる。


 金子と大槻の緊縛や暴力を主導したのは森である。髪を切ったのは「手始め」でなくリンチの後であり、逃亡を防ぐためだった。妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐった事実もない。金子が総括できない場合「子供を取り出すことも考える」と言ったのは森である。


■ナイフ刺し「抜くな」 永田が、とどめ(毎日)
 寺岡恒一(24)が虐殺された模様が杉崎ミサ子(24)の自供で明らかになった。寺岡は死刑の宣告を受けた1人で、森がナイフで心臓をえぐり、永田が首を絞めてとどめを刺した。森が寺岡に対して「坂口の地位をねらっていた」と詰問した。全員の厳しい追及に寺岡は「現在はそんなことは考えていない。しかし過去にそのような考えを持ったことは確かにあった」と応えた。このため森が死刑を宣告、坂東に目配せした。坂東はいきなり正座している寺岡の左太ももにナイフをつきたてた。寺岡がナイフを抜こうとすると、まわりから押さえ込んで15分間もそのままにさせた。坂口はそのナイフを抜くと、寺岡の左腕に刺し、こんども抜かずに15分間そのままにした。森はこのナイフを抜き取ると、正面から寺岡の心臓を深く刺した。
 ひん死の状態になった寺岡に、永田は杉崎にアイスピックをにぎらせ「とどめをさせ」と命令。杉崎は寺岡の首の後ろを刺した。さらに永田はヒモで首を絞め、絶命させた。


 寺岡の足にナイフを刺したのは坂東でなく森。腕に刺したのは坂口でなく坂東。「首の後ろを刺せばいいのでは」といったのは永田ではなく他の誰か。ヒモで首を絞めたのは永田ではなく他のメンバーたちである。首の後ろを刺したのもヒモで首を絞めたのも、なかなか絶命しない寺岡を早く楽にさせてやりたいという気持ちからであった。


■「七人委」が殺人儀式 指名の証人、次は被告(読売)
 これまで森らは全員が裁判に加わったと自供していたが、前言をひるがえし、7人が合議のあと森と永田が最終結論をくだしたという。"総括"とするか"死刑"とするかを宣言したのは森で"判決"があると全員が"被告"にとびかかって縛り上げ、次々になぐるけるのリンチを加えた。


 永田は、刑の執行をながめながら被告の行状を口汚なくののしり、"被告"が助けを求めても、「だれがお前の潔白を証明できるのか」と誘導尋問し、仲間の一人を名指しすると、名がたらはその名指しされた仲間にいっそう激しく暴力をふるうよう命じていた。この証人探しは森、永田にとっては、次の被告選びでもあったという。


 永田は”被告"の行状を大げさにののしったのは確か。かなり迫力があったらしい。だが、証人探しはしていないし、次の被告選びということもなかった。


■チリ紙をとって、といっただけでも(読売)
森恒夫などの自供で、児島和子ら4人の総括と称される処刑理由が明らかになった。
小島和子=●男と肉体関係を結んだ●組織の指示に従わなかった。
尾崎充男=●合法活動をしている者に銃器の保管場所を教えた●寝袋に入ったままチリ紙をとってくれといった。革命的でなく甘えている。
加藤能敬=●小島和子と肉体関係を持った●作業態度がよくない。
進藤隆三郎=●女遊びばかりして革命実践に対する意欲がみられない。


 同じ記事が3紙とも掲載されているから公式発表と思われる。こういう些細なこと(しかも過去のこと)が、総括要求となり、死へのリンチに発展した。


■兄貴も浮かばれる(読売)
 「ああ、これでよかった。兄貴もやっと家へ帰れるだろう」−加藤倫教(19)は兄、能敬の遺体が発掘されたと知ると、こうつぶやいた。「線香を立てて、兄のめい福を祈らせてください」と係官に頼み込んでいた。「リンチが終わったあと、弟のこっそり"この日を兄貴の命日にしよう"と話し合った」とポツリポツリ語った。


■森、永田は再三上京 前沢ら自供 土田邸事件とも符号(朝日)
 この自供は前沢、山本ら。森は「あの事件はわれわれではない」と土田邸爆破事件の犯行を否定したが、上京して何をしていたか、については供述していない。しかし長野県に逮捕されている被疑者の中で「あの事件をやった」としていることなどから、事件解明を急いでいる。


 「土田邸爆破事件」とは、土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発し、夫人が即死した事件。警察はメンツにかけて犯人逮捕にやっきになったいた。これは連合赤軍の犯行ではない。後に、活動家18名が逮捕・起訴されるが、公判中に捜査当局のデッチアゲが明らかになり、全員無罪となる。

■リンチはこうして 「総括」は夜中に 理由はどうにでも 永田は手を下さず(朝日)
▼午前2時
 森の「起きろ」の声が犠牲者の出る人民裁判の開始を告げた。「だから夜中が恐ろしかった」と恐怖を語る自供が多い。裁判にかける理由はさまざまだが、異様なまで永田が嫌ったのは男女関係だった。アジト移転のときオムツを袋に入れる山本保子を手伝ったという理由で、夫の順一が殺された。死の直前に「オー、オー」と大声を上げているのを聞き、永田は生き残りの妻保子に近づいていった。「何いってんのよう」「赤ちゃんを呼んでいるのかもしれない」「違うわよ。あんたを呼んでいるのよ」。このあと保子から4ヶ月の赤ちゃんを引き離したりもしている。保子を恐怖でナマ殺しにしていたわけだ。


 理由は何でも良かった。ささいなことを取り上げて、妊娠8ヶ月の金子みちよ(24)を3日間も立ったまま屋外に縛りつけて殺してしまうのだった。女が女を憎むとき、もっとも陰惨なリンチとなって現れていた。


 山本順一が総括要求された理由は運転技術が未熟なのを認めなかった点と暴力に否定的で「物理的に手伝っただけだ」といったこと。「オムツを袋に入れるのを手伝った」からではない。


▼素手
 「総括」は立ち直りを「援助」する名目だった。処刑・リンチに幹部はナイフで「兵士」は素手で全員が参加した。


 ナイフやアイスピックは「死刑」の場合に使われたのであって、幹部以外も使っている。「総括」の場合は幹部を含めて刃物は一切使っていない。「死刑」と「総括」は区別されていた。


▼寝袋
 総括にかかりそうになって助かったのは、ただ1人の運転手だった奥沢だけ。処分が決まるとたちまち縛り上げられたり、ナイフを突き刺された。処分が出されてしまえばそれで終り。大槻と金子と山田は縛られたまま寝袋に入れられ運ばれた。..遺体解剖で胃に食べ物が入っていたものはほとんどいない。


▼罪状
 リンチのときに永田はいつも叫び続けた。犠牲者の罪状をあげて責め続けた。これが総括の集団ヒステリー的空気をさらにあおった。しかし永田自身はけっして手を下さなかった。永田は自ら実行しないことで「手が汚れていない」と言い逃れをしようとしたのか。


■これがアジトの生活 幹部はパン食、銃訓練 兵士は雑炊、たきぎ集め(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊03

▼生活
 森らはパンやミルクなどうまいものを食べることが多く、大部屋組は土間で麦・野菜・魚のカンヅメを使った雑炊が多かった。森か坂口が「食べろ」と合図するまでハシに手をつけられなかった。大部屋組は「革命」のためには多少の空腹に耐えて体を鍛えよ」と幹部から言われていた。...昼間は小屋作り、たきぎ拾いが作業の中心で、永田以外の女は交代で買い物に行かされた。夜は6時に寝た。


▼人民裁判
 .いっさいの反論は許されず、他の活動家の弁護も聞かれなかった。幹部7人いても追求するのは森・永田の2人で、独裁的な"判決"が下されていた。.幹部のうち寺岡と山田も殺されたが、その理由については幹部以外には知らされなかった。


▼訓練
.. 7人の幹部は腹心の青砥と植垣をつれて9人で銃器をもち、アジトからさらに数キロもはなれた山奥へ向かっていった。留守組はアジト作りに終われ訓練らしい訓練をしていなかった。山奥に訓練に出かけた幹部は半日ぐらい帰ってこないことがあった。


 連合してから射撃訓をしたという話は彼らの手記には書かれていない。


▼学習
 .テキストやパンフレットの使用はほとんどなく、森が連合赤軍の精神について1人でしゃべりまくることが多かった。それに対して意見を述べたり討論することもあった。反対意見も許されたが武装ほう起の路線をはずれたり、批判することだけは許されなかった。


 永田はたびたびレジメうぃ作ることを森に申し入れるが、森はこれを無視し続けた。森にとってはメンバーを革命戦士に飛躍させることが最大関心事だった。


■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋についての自供も間近いとして、本部は追及に全力をあげる。また、奥沢から「ほかにもう2人ぐらい殺されている、という話を聞いている」との供述を得たため、事実かどうかの確認を急いでいる。


 群馬県内以外にも連合赤軍のリンチの被害者がいる、との情報について、警察庁は疑問を持っている。警察庁が疑問を持っているのは、(1)事実を目撃したわけではなく、幹部が話していたとの伝聞である(2)前沢虎義、寺林真喜江らは「そんなリンチがあれば次の榛名アジトなどへはこわくて参加しなかった」とはっきり否定しているなど。


 読売夕刊には以下のように報じられている。


 長野県警本部の得た自供は森恒夫の「永田洋子からの伝聞だが、京浜安保共闘だけが集結した丹沢アジトで粛清があり、男女2人が殺された」というもの。さらに青砥ら2人が「丹沢か、奥秩父、大井川上流アジトで、やはり粛清があったらしい」と供述した。


■すらすらだんまり 表情も様々"死刑執行人"(読売夕刊)
▼森恒夫(27)
 「同志の死は、ムダにはしない。殺したのは、命を捨てて革命を進めるための人柱だ」と彼ら一流の"総括"について、さる8日、上申書を書いて"殺害"の一切を自供した。さらに永田洋子が漏らしたという丹沢アジトの京浜安保共闘だけの粛清についても自供。夜中に「ウーン、ウーン」とうなされたり、大きな声で寝言をいう。しかし、都内の一連の爆破事件、土田邸爆破事件については、ひとこともしゃべらず「われわれの闘争、粛清については、法廷であきらかにする」とむっつり。殺人以外の事件については、警察を権力と敵視する態度はくずさないが検事とは対話する。


▼永田洋子(27)
 山田孝、山本順一らの死体発掘を知らされたときも、ただ頭をたれただけだったが、この日、群馬県内で最後の12体目が出たことを告げられても無表情。名前も明かさない終始完全黙秘を続けている。森の書いた上申書に「フン」といって横を向き「森さんが、こんなものを書くわけがない」といったのが口をきいた最初。朝の点呼さえ、返事もしないかたくなな態度をとり続けた。ただ13日朝午前6時の点呼で「永田洋子」と呼ばれるとはじめて「ハイ」と答え、追求に「考えさせてください」。


▼坂東国男(25)
 独房の中では食事のときだけ看守のほうを向くが食べ終わり「こっちを向け」といっても、また瀬を向けてすわり続ける。東京から来た保坂節雄弁護士(27)との面会も拒否。「知らねえ人の差し入れは受けない」とみんな断り、1食62円の食事だけ。11日夜は山崎らの遺体埋葬現場の写真を見せられ、顔は真っ青になったが、死人のように口をつぐんだまま。


▼吉野雅邦(23)
 いぜん、何を聞かれても顔をそむけ、無表情に黙秘を続けている。まだ自分の名前すら言っていない。さる10日、自分の子を身ごもっている内妻、金子みちよの死体発掘を知らされたが、表情ひとつ変えなかった。


▼坂口弘(25)
 次々と明かされるリンチ殺人を聞かされても完全黙秘を続け、表情、態度に大きな変化はない。わずかにリンチ死体が発掘されてから、ふてぶてしい態度を和らげてきている程度。雑談にも一切応じず「便所」といった必要以外の言葉は話さない。


▼青砥幹夫(23)
 調べ中、気弱そうな目でジッと一点を見つめたりする。リンチ殺人についてはほぼ供述を完了したが、山本保子の脱走についてはほかの幹部が「子供を人質にしておけば逃げないとみていたが、子供をおきざりにして逃げてしまい、計画が狂った」ともらしていたのを聞いていると言う。


▼奥沢修一(22)
 早くから自供を始めたが、1月中旬以降に合流したため、公判のリンチ殺人を目撃しただけ。迦葉山の三遺体を埋めた場所を自供、案内した。新たな自供をしそうな気配を見せているが「森さんを尊敬しているので、森さんのことはあまり言えない」としぶっている。最近は安心したのか、夜半に2、3回寝返りを打つ程度でよく眠り、よく食べている。


▼伊藤和子(22)
 入浴の介添えに当たった婦人補導員に「人間とは思われない」といわせた和子が自供をはじめたのが10日夜から。「仲間の遺体がでたぞ」と知らされると、総括にあった"同志"の名前を次々と上げるなど、これまでのつき物がおちたように語りだした。しかし、法廷に出たとき、仲間の報復を受けるのではないか−という恐怖感が強く、時々「しゃべっても大丈夫でしょうか」と取り調べ官に不安を訴えている。


■主導権争いで自滅(読売夕刊)
 殺人と言う手段がとられた裏には、丹沢ですでに殺害の実績"をもつ永田が、森ら赤軍派に革命への献身度を誇示して同じ方向をとるように迫ったためだった。同じ過激路線の赤軍派は京浜安保共闘の銃強奪事件で「遅れをとった」として強いコンプレックスを持ち、一連の金融機関襲撃作戦を始めたと言われ、当局ではこうした背景と"強固な革命軍"結成へのあせりがからみあって、森も永田に同調していったとの見方を強めている。


■破滅の魔女 脱落者は消せ 鬼のような絶叫(毎日夕刊)
 事件の全容が明らかになるにつれ、永田の残虐さが説きに際立っている。毎晩開かれる会議で「脱落した者はどうせ戦いには加われない。われわれの殺しの訓練台に使おう」とまくしたてた。「やっちまえ」と毎日絶叫する永田。シーンと静まり返ったアジトで「男だろ。もっと強く首を絞めろ」。スジ金入りの戦士をアゴで使う永田。森恒夫も坂口弘、坂東国男ら中央委員も黙々と永田の指示にしたがうだけ。


 永田の姿は都内各地のデモでもよく見られた。髪をふりみだし、ツバを飛ばし「イヌ」と警官に叫ぶ永田の姿には"女性"を見出すことはできなかった。 しかし、その永田も幼いころは成績優秀なおとなしい女の子だった。「大きくなったら薬剤師になる」が夢だった。微妙な変化が見え出したのは高校時代。世の中は"60年安保"で騒然としていた。「人生、学問とは何か」−永田は思い悩んだ。さらに共立薬科大時代、バセドー氏秒をわずらい、目が異常に突起してから過程でも激しく泣きわめいたりするヒステリックな女になった。


 丸顔、色黒、ギョロ目、上歯がやや突き出た感じ(警察庁の手配書)−異性とのつきあいも少なく、男性コンプレックスに陥っていた永田は、大学を出て病院勤めをしているうち、心臓病で悩む坂口と知り合い、ウルトラ過激派へ−狂気の殺人集団へ突っ走っていった。


 「脱落者を殺しの訓練台に使おう」「男だろ。もっと強く首を絞めろ」などと永田は言っていない。。「やっちまえ」とも言っていないと思われる。坂口や坂東はともかくとしても、森恒夫が「黙々と永田の指示にしたがうだけ」ということはなかった。


■いま"狂信"に泣く 山本保子(毎日夕刊)
 「私は夫と行動をともにしようと群馬のアジトに入った。みんな連合赤軍の同志です。やっと見つけたアジトで、きっと温かく迎えてくれるだろう、楽しい共同生活ができる、そう信じていた。しかし私をまっていたものは、あまりにも過激なオキテ、狂った倫理だった。人間無視の生活。永田のガラガラした、ヒステリックな声が毎日響き、同志が次々と殺されていった。永田がにくい。」


 永田のヒステリックな言動はメンバーの手記にもたびたび出てくる。スタインホフ氏の「死へのイデオロギー」によれば、「永田のやり方は主に個人的に批判をぶつけるというもので、あとであたたかく接することによってバランスをとっていた」。だがそれは革命左派時代までで、連合赤軍になってからは、暖かく接する余裕はなくなっていた。


■「自分が恐ろしい」 杉崎みさ子(毎日夕刊)
 「今回のような人間として許せない残酷な、目をおおうばかりの殺人行為をしてきた自分自身が恐ろしく、また、なくなった方々のめい福を祈る心境から深く反省し、哀悼し、今後自分自身もこれを機会に真人間になって新たな出発をし、両親のヒザ元に帰り、親孝行をしたいと思っている」


■(広告)週間サンケイ臨時増刊号

「連合赤軍全調査」特別付録 6インチ両面シート あさま山荘トップシーン完全録音盤


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊CM


ソノシートの付録つきとういうのが当時ならでは。

この時期、週刊誌は連合赤軍特集の臨時増刊号を出している。だが、それは結果的にあさま山荘までの"前編"になってしまった。各誌とも後に粛清事件を特集したもう一冊の臨時増刊をだすことになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme

88. 中川隆[-11447] koaQ7Jey 2019年3月14日 12:56:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[548] 報告

1972年3月14日 頼良ちゃんは無事 永田洋子ついに自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

 この日の紙面は頼良ちゃん関連の記事で持ちきり。「目がパッチリ、血色もよく、丸々と・・・」と元気な様子が大きな顔写真写真入りで報じられ、この陰惨な事件の唯一の明るい記事となった。ほかにも永田自供など見逃せない記事が盛りだくさん。


■頼良ちゃんは無事(朝日)
 迦葉山アジトから中村愛子に連れ出されたまま行方がわからなかった頼良ちゃんは無事だった。母親保子に置き去りにされたあと、2月7日、中村に抱かれて山を降りたが、消息をたってから34日ぶりに保護された。


■中村愛子も出頭(朝日)
 21時23分、警視庁に「中村です。これから自首します」と電話をしてきた。5分後に正門に来たので、中村を確認 した。自供によると先月7日から山を下りて、頼良ちゃんといっしょに都内に舞い戻り、まもなく知人に頼良ちゃんを預けた。指名手配を知り、自首しようとしたが、頼良ちゃんを預けた知人と連絡が取れずためらっていた。頼良ちゃんが13日、保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。


■預かって欲しいと中村から電話 合田さん語る
 合田さんは2月7日(8日に中村と頼良ちゃんを高崎署員がみており食い違いがある)の夜、子供を背負った中村が「今夜泊めて」と訪れてきた。2月9日、合田さんは勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると頼良ちゃんが一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの寺岡医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。寺岡医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談、13日一緒に市川市へやってきたという。


■無心の荒旅93日間 友人の子供と中村が預ける(読売)
↓クリックすると読めます。

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972ー03-14 読売 夕刊10

■永田、ついに犯行自供 逮捕以来、25日ぶりに(朝日)
 連合赤軍の主犯格、永田洋子(27)が13日「12人の同志を殺したなかに私も加わっていた」と初めて自供した。逮捕されてから25日ぶりのことである。元"同志"の12人の遺体が発掘されたことを告げられ、"共同墓地"の遺体写真をみせられて、急に態度を変え、リンチ殺人の事実関係について口を割った。


 「オニババア」と同志からもカゲ口をされていた永田。群馬県・高崎署の薄暗い2階。この5号室が永田の独房。連行されたとき永田はまるで、野生の山ネコのような表情だった。留置場では顔は一応毎日洗う。3度の食事も警察で用意したものだけはきちんきちんと食べる。1日1本のタバコもうまそうに吸い、週1度の風呂にも入る。が、救対組織からの差し入れには「名前もわからない人からのものは受け入れない」と拒む。


 ふてくされ、ダンマリを続ける永田に手を焼いた高崎署は取調官を警備部公安担当から捜査の黒沢警部にかえた。大久保事件で名をあげた"落としの黒沢"だが、歯が立たないほどだった。


 それが8日、山田の遺体写真をみせられてから、少しずつ態度が変わってきた。スカートをスラックスに履き替えたり、髪にはくしを必ず入れた。「きょうはきれいだね」と係官が声をかけるとはずかしそうに「へへへへ・・・」。夜、寝てからうなされさかんに寝返りをうつ。独房の隅でじっと考え込むこともあった。


 「どうだい、君だけががんばってないで、もう話したら・・・」の説得に「両親と相談したい」と口を開いたのが11日。そして12日、森の上申書をみせられ、「ニセモノだ」「警察のでっちあげだ」と強がりはいってみたものの、同志の"転向"にささえを失い、ガックリしたのか、13日の朝の点呼にはじめて応じ、同志の殺害を自供した。


 この日、取調室を出てきた永田はジーパンに濃いグリーンのカーディガン姿。腰縄をされているが、髪はさほどみだれていない。フラッシュに驚いて一瞬あげた顔はむしろあどけない感じさえする。血も凍る大量リンチの「主役」とは思えないほど弱々しかった。


 永田が森の上申書を見せられたのは12日ではなく9日。上申書をみたとき、「驚愕し、わけがわからなくなり、何かがガラガラとくずれおちるように感じた」という。全面自供ではないが、殺害の事実を認めた。黙秘については著作で以下のように述べている。


 私の黙秘は、密室で第三者のいない取調べではそれが唯一の防衛であり、権利であるということを理解した上でのことではなかった。それは、黙秘すべきという観念からであった。というのは、何故黙秘が必要であり大切であるかということが語られないまま、黙秘することを絶対的原則のように強調され、黙秘したかどうかが組織員たりえたかどうかの基準、さらには転向しなかったかの基準のように扱われ、雑談でさえも黙秘に違反したことのようにみなされていたからである。(「続・十六の墓標」)


 いうまでもなく「黙秘が絶対原則」の理由は組織防衛のためである。しかし、このときすでに全員逮捕されていて、「連合赤軍」という組織はなかったから、黙秘の必要性は根本からなくなっていた。

 また"落としの黒沢警部"については好意的である。


 取り調べのある時、黒澤刑事と私の2人だけになったことがある。そのときこの刑事はポツンと「お前もかわいそうな女だな」とつぶやいた。留置場から連れ出すときも、取調室に行きたくない私がゆっくり歩いたり、途中で立ち止まって歩かなくなっても、それを黙って待ってくれた。私が菓子パンの購入希望をいうと、すぐに買いに行ってくれもした。この時買ってきてくれたメロンパンもおいしかった。(「続・十六の墓標」)


■編集手帳(読売)
 連合赤軍によるリンチ事件がここまでいやらしくなり得るという標本なら、首謀者の森恒夫が書いた上申書なるものは、人間がこうも得手勝手になることができるという見本である。上申書のように、自分たちが虐殺しながら、かれらの死をムダにせずなどとしらじらしいことをいったら軽蔑されるだけだ。


 本当に1日でも早くかれらのなきがらを家族に渡したいと言うなら、なぜ逮捕されたときにすぐいわなかったか。それをいまごろ取ってつけたようなことをいうから、何を勝手なことを・・・という気持ちにもなるのである。この期に及んで自分だけいい子になろうという魂胆が見えすいている。


 彼らの死は反革命や卑俗な人間性の問題ではなく、生死を賭けた革命戦争の主体構築のための戦いのなかの死とやらだそうだが、チリ紙を出してくれといったのがいかんなどとおよそくだらない理由で殺しながら、ずいぶんと都合のいいきれいごとがいえたものである。できることなら知らん顔で通す積もりだったのに、心ならずも自供したのでてれかくしの意味もあったろう。だがそれよりも、かれらの死を美化することによって、自分たちの殺人行為を正当化するのが上申書の狙いではなかったか。だからこそ、ひとごとみたいにいえるのだろう。


 意味ありげな「総括」と「死刑」の区別にしても、どっちみち死ぬまではやめないのだから無意味であった。総括して死んだ場合は敗北と言うのも詭弁である。まるで死んだ者に理ありといわんばかりだが、総括とはしょせん同志の首を<しめくくる>ことにすぎなかった。


■統一公判を要求 森(読売)
 森は「法廷を戦いの場として、すべてを明らかにする。このため他県で逮捕された仲間を加え、全員を同じ法廷に立たせてほしい」と13人の統一公判を要求した。「12人の遺体はオレの責任で明らかにした。ほかの事は法廷で戦うことなのでいっさい言えない」と口を閉ざし「奥沢は何をいっていますか」「永田に何もいうなと伝言してほしい」と面会人などに頼んでいるという。


そう言っておきながら森は4月13日から「自己批判書」を書き、そして法廷に立つ前に自殺してしまう。


■「私が悪かった・・・」加藤兄の父 白髪めっきりふえて(朝日夕刊)
 加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。父親は悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら「私はすべて自分に向かって問い直しているんです。教育者として、父親としての私に・・・」−約1時間、悲しく語った。


 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。


 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。


 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。


■ツキモノ落ちた対面 青砥(毎日)
 青砥は明け方必ずうなされている。大声でわめき、ガバッと起きる。「いつも同じ夢です。高校時代の友人が次々とリンチを受けて殺されていく。私はそれを黙って傍観しているのです。友人の顔が次から次に迫ってくる・・・」。


 13人のうち一番早く自供した青砥。完全黙秘に"攻め手"を考えた。そこで事件のことには一切触れず、青とのふるさと、福島の名物饅頭の話など雑談を繰り返した。依然黙秘。ただ同じ話を繰り返すと、厳しい表情でひとこと「くどい」。


 逮捕後10日たって父親が面会に来た。肉親のキズナを絶つことが革命への第一歩と思い込んでいた息子が、わずかな時間だがあった。面会後、やがてポツリ。「父親が・・・、ありがとうございました」あとは○○○(3字不明)のように自供をはじめた。父親と面会してツキモノが落ちたようになった。


■信仰化した理論(毎日)
 上申書の文中に特徴的にみられるのは、12人もの同志を殺していながら、それを「闘いの中で死亡した」「元同志たちの死」「死に物狂いの闘い」と他人事か、自然死、事故死のように片付け、「同志の死を決してムダにせず」といってのけていることである。


 呪文をとなえながら自らを縛る。他者への説得力はゼロである。うしろをむいてはならない。理論に、そして信仰に忠実に、死に物狂いの闘いを、と自分自身に言い聞かせたとき、残された道は前へ前へとまい進するだけ。その不自然さに気づかず、たどり着いた先が12人を殺し、一転して全面自供。しかし、罪の深さにおののく気配は何一つ感じられず、遺族へのお詫びの言葉ひとつない。


 革命を志した仲間がこわくなり「命助けて」と敵のはずの警察に飛び込んだり、捕まった仲間が「もうコリゴリ」と"自供コンクール"を演じているのを知っていて(森は取り調べ刑事から事件をつぶさに報道した日刊各誌を見せられている)なお「今は逮捕された同志の団結を軸に闘う」という無神経ぶり。


 指導者に必要不可欠な"冷静な状況認識"などカケラもない。わずか30人余しかいない連合赤軍の残党の3分の1以上を、自ら指揮して殺して、それでなくても減少した戦力をなぜ自滅させていったか、常識では到底、理解できない"リーダー"ぶりである。

 ナゾの男である。赤軍はそのものが発足当初からミステリーに包まれた疑惑の集団だったが、その幕引きにふさわしい男が、これまたわけのわからぬ森恒夫。「上申書」は森のカタワぶりを如実に示している。


■あと5人殺す予定 森が自供(毎日)
 森はこの日の調べで「あと5人は総括する予定だった」と自供。13番目から17番目までの殺しの順番を自供した。13番目の奥沢は連合赤軍が結成される前から杉崎と愛人関係にあったことと、寺岡の死刑に対し手加減を加えたこと、レンタカーを借りるのを怪しまれて失敗したことが理由。だが運転できるものがほかに1人しかいないので死体運搬要因に残しておいた。杉崎も次に総括の方針だったという。


 15番目は青砥。尾崎のリンチの際、手加減をしたためだが、あやまったので、死体運搬係として"一時延期"していたという。


 16、17番目は16歳と19歳の少年兄弟。長男の加藤能敬と愛人の小島和子殺害のとき、森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにしたため総括を免れていたが、兄をころしたことでかなりショックをうけ、いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていたという。この恐るべき殺人予定リストはすでに"殺人法廷"の決定機関「七人委員会」でも正式決定していたという。


 「死体運搬要員に残しておいた」「死体運搬係として"一時延期"していた」「いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていた」というのだから、総括とは名ばかりで、森ははじめから殺害目的だったことになる。もしこの記事が事実ならば。


 ところが、殺人予定リストの件は「正式決定していた」というが、森、永田、坂口、坂東の著書にもひとことも出てこない。また、本文中「森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにした」というのは間違いで、実際は森でなく永田が「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」といって数回殴らせただけである。 ここ数日の毎日のすっとんだ記事から推測すると、この記事の信憑性は薄いのではないだろうか。


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)
 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。


■永田も手を下す(毎日夕刊)
 永田の持っていたアイクチから、ルミノール反応があり、死刑にされた寺岡の血液型と一致した。これで永田が寺岡を指した疑いが強いとして追求を始めた。永田は「もっと厳しくやれ」と指示することが多かったとされていたが、永田自身も命令者としてではなく、死刑執行人として寺岡の心臓を刺した疑いが強くなった。


 これ自体はどうと言うことのない記事だが、同紙は昨日、寺岡殺害について「永田がとどめ」という見出しで「永田はヒモで首を絞め、絶命させた。」と報じたばかり。ちなみに永田は寺岡を刺していない。


■手配の岩田を逮捕(朝日夕刊)
 13日夜10時50分過ぎ、家族に付き添われて長野県辰野署に出頭した。岩田は寺岡、山崎が死刑にされるのを目撃し、恐くなって逃げ出した。2月17日大阪府のおじの家にころがりこみ「仲間につかまれば殺される」といってかくまってもらったという。


読売朝刊では「張り込み中の長野県警署員に逮捕された」と報じていたが、自首が正しい。


■頼良ちゃん 危うかった一命 時々入浴も 中村自供(朝日夕刊)
 中村も昨年11月、警視庁に逮捕されたときの態度を森や永田に問い詰められたが「完全黙秘で通した。ただトイレに行くか、といわれたときに返事をした」と答えると「権力と口を利いたのはまずい」と一晩反省させられた。頼良ちゃんの面倒をみていると「子守をさせるために呼んだんじゃない」と批判されることもあったが、「子守も革命」と自分自身に言い聞かせ、ときどきは頼良ちゃんを風呂にいれたりした。「リンチに参加しないと自分も殺される」と思って恐かったという。


 死亡した加藤能敬は、無抵抗に逮捕されたことと取調官と雑談しただけでリンチをうけた。それに比べれば一晩反省するだけなら、まだましだった。加藤論教はこのときの様子をこう述べている。


 そこへ、前沢と岩田に連れられて、中村が帰ってきた。中村は席に着くと、逮捕されて留置されている間に、刑事の出してくれた飲み物や食べ物を拒否せず、飲み食いしてしまったことを自己批判すると述べた。永田はこの発言を聞くと、その夜の総括中の者の見張りを自分と一緒にするように命じて、中村にはそれ以上の追求はしなかった。


 私にはこれはきわめて不公平に映った。それは、永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく応対するということだった。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった。府中の是政での逮捕時の対応において、中村は兄と同様に厳しく追及されてもよさそうなものだった。しかし、ほとんど問題にもされなかったのは、ただ単に永田に従順だったからだ。そう思うと、納得がいかなかった。(「連合赤軍少年A」)


■今さら!悔恨の涙 森「死刑」におびえる(朝日夕刊)
 「死刑がこわい」−森恒夫が13日夜の取調べでぽつりともらした。調べ官は「あれだけ冷酷無残に仲間を"死刑"にしておきながら・・・」と憮然としながらも、やっと森にまともな感情が戻ってきたとみて追求をつづける。


 森は山田の死体が発見されてからショックを受け、調べ中に泣きじゃくるなど、それまでの強い態度をくずしはじめた。ところが8日、上申書では「山田らの"総括"は革命遂行のために必要だった」と処刑の正当性を主張し、居直りをみせていた。しかし、10日以降、次々に掘り出された惨殺したいのカラー写真をみせられて再び態度が急激に変わり出した。13日夜はついに「死刑になるんでしょうか。死刑がこわい」と恐怖を訴えた。


 森は逮捕されたときからずっと動揺しつづけた。時に強気になり、時に泣き崩れる。上申書を書いたり、それを後悔したり、自己批判書を書いたかと思うと、すぐそれを撤回する。死の直前には、自己批判しなおすことが急務と手紙に書きながら、気持ちが揺れ動き、1973年1月1日についに自殺してしまう。


■羽田闘争が動機に 奥沢 赤軍加盟で自供(朝日夕刊)
 慶応大に入学した42年、第一次羽田闘争事件で学生一人が機動隊の下敷きになって死んだという記事を読み、「警察が殺したに違いない」と確信、学生運動に入った。その後森と知り合い、ひかれていった。昨年11月、下宿に森が土方ののような姿であらわれ、赤軍に入るよう説得された。12月19日夜、下宿に若い男女があらわれ「森に頼まれた」とやはり赤軍に入るよう説得した。


■その他の記事

山本順一の父秀夫さん(58)は「一度も見たことない孫だからどういっていいのか」と喜んだ。(朝日)

もし警察の手が伸びなければ、青砥・奥沢も総括のリストに入っていた。(読売)

不審なのは中村愛子のアジト脱出の供述が得られていないことだ。(読売)

青砥の自供から、12人以外の殺人は、京浜安保議長と愛人のA子の2人と確信を得た。(毎日)

岩田は吉野から「お前の目は革命の目ではない」とすごまれ、総括を恐れ逃走した。(朝日夕刊)

前沢は雑談には素直に応じよくしゃべるが、肝心な点になると口が重くなるという。(朝日夕刊)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

89. 中川隆[-11446] koaQ7Jey 2019年3月14日 13:13:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[549] 報告

1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme

■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日)

 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。


 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を認めた。場所については地図で場所を示すそぶりをしたが「私は死体を運んでいないので、くわしくはわからない」と述べた。


 永田は「裁判所では私が最も信頼している森恒夫と共闘して法廷で闘う」と延べ、リンチ殺人事件を自供した森に"裏切り者"として反発していた態度を急にやわらげた。 また永田はノート数枚に「あなたと誓い合った約束は忘れていないが、こうなった以上はやむをえない。われわれは敗北した」という意味の森宛の手紙を書いた。


 2人は「総括」にかけたのではなく、騙して連れ出し、いきなり暴行を加え死亡させた。

 永田は「手紙を出す許可」は下りたものの、「学習許可」が下りなかったため、房で筆記用具を使うことはできず、手紙を書くときは別室で筆記用具を借り、30分以内に書かなければならなかった。すぐに森と坂口に手紙を出したが、坂口には離婚表明したことを謝った。「あなたと誓い合った約束」とは完全黙秘のことだろうか。

■岩田の同級生も犠牲? 丹沢アジトで総括か(朝日)
 岩田から「丹沢アジトにいた頃、京浜安保共闘の向山茂徳(21)が殺されたのではないか、という話をきかされた」との自供を得た。このため岩田は大井川アジトに移ったころ、坂口、吉野らにこの点をただしたところ「お前の知ったことじゃない」いうような意味のことを言われ、そのままわからずじまいになったという。


■寺岡が独断で許可 山本親子のアジト入り(読売)
 「七人委」のメンバーだった寺岡が死刑を受けたのは、山本夫婦がアジトに頼良ちゃんを連れてきたことが「七人委の許可をとっていない」と問題になった際、寺岡が独断で山本夫婦に許可をあたえたことがわかったため。「独断は反革命的な行為だ」と永田らが強く主導、死刑に決まったという。


 寺岡の死刑は、革命左派時代に永田・坂口をおろして自分が主導権を握ろうとした、という過去の出来事が理由だった。寺岡は詰問され暴力を受ける中で、ありもしないことを"告白"する。坂東とアジト予定地探しに行ったとき「坂東を殺して逃げようと思ったが、スキがなくて逃げられなかった」といい、みなの怒りを買った。しかし、当の坂東は、自分が寝ている間に朝ごはんを作って起こしてくれたことなどから、「おや?」と思ったという。


 寺岡同志への追及が始まり、「永田同志や坂口同志がつかまればよい、そうすれば最高指導者になれる」という告白から怒り、そのあと「私を殺そうとした」というのを聞いて、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。だから、次々と為される"告白”−金をとって王宮を作ろうとしたとか−を遠い世界の他人のことのように聞いていたのです。(「永田洋子さんへの手紙」)


■ラーメンでも総括(朝日)

 金子みちよの総括の1つにラーメンがある。アジトでインスタントラーメンを食べていたとき、「お腹の子供のためにもうひとつほしい」といったところ、永田洋子が「ブルジョア的で物欲が強い」と怒り、内縁関係の吉野の足をひっぱったことと合わせて、リンチされた。


 金子はラーメンで総括されたのではない。尾崎が坂口と決闘をさせられた際、席をはずしたことをとがめられた。「あんなことをしても尾崎君は立ち直れない」と批判的に言ったことから総括対象になった。他にも、下部メンバーに官僚的であるとか、吉野に頼りすぎているとか、総括の理由をつけられたが、実質的には「死刑」であったといわれる。事実、森は幹部に対し「金子は女の寺岡だ」「子供を取り出すことも考えなければならない」といっている。金子は幹部に対しても批判すべきことは批判し、暴力に対しても最後まで屈服しなかった。しかしその毅然とした態度さえ、森に「お腹に子供がいるから総括されないと思っているのだ」と決めつけられてしまう。


 対して、同じ時期に総括にかけられていた大槻節子は終始素直な態度だったが、森に「優等生的だ」ととがめられている。総括にかけられたら助かる道はない。


■だんまり三人男(毎日)

▼坂口弘(25)

 取り調べのために「外へ出ろ」というとくるりと背を向けてしまう。食欲はすさまじい。留置場の定食のほか、さらに必ず1回に食パン5枚を平らげる。思い出したようにはくことがある。「ミカンをくれ」「便所」−。


5月4日の読売では「房内で食べるのは実費62円の至急弁当だけ」となっている。


▼坂東国男(25)

 警官が入り、2人ががりでかかえるようにして調べ室に入れる。いすに座ると真正面を向いて目をとじたまま。なんとも攻め手がないといった状況だ。


▼吉野正邦(23)

 自分の名前すら認めていない。高校時代の話で水を向けると「そんなことは関係ない」とどなる。凍りつくような目でにらむ。ただ14日には「いい天気ですね」といいい、長い髪をつかんだりしていた。


■軍建設へ徴兵制 「銃が最高の兵士 人はいくらでも補充」 青砥自供

 青砥らの自供から軍建設のために「徴兵制」をしいていた事実をつきとめた。森恒夫らは150人近い活動家の中から、次々と「兵士」を招集、過酷な訓練についていけない「「兵士」は死の処分にするという軍律を確立していたという。「銃こそ最高の兵士、人間はいくらでも補充できる」−その軍律は人間蔑視で貫かれていた。


■この徹底的差別 革命という名で "どれい" 扱い(読売)
 寺林の自供によると、迦葉山と妙義アジトでの食事は、森、永田ら七人の中欧委員は別室でパンやミルクなのに対し、兵士は大部屋で円陣をつくり、麦や野菜をまぜた雑炊をたべさせられていた。幹部たちは「革命遂行のため、兵士は粗食に耐える訓練をせよ」と命令し、幹部が合図するまでハシを持つことさえもできず、幹部は食後にコーヒーも飲んでいた。 また、寺林は永田から会計係を引き継いだが、出納簿は1円にいたるまで、克明に記入され、森、永田は金銭の横領は「総括」の対象だと、おどしていた。


 岩田の自供によると、西丹沢では、武闘訓練が行われ、幹部だけが小屋に入り、小屋のハリには猟銃など銃が5丁乗せてあった。兵士は小屋の付近にテントを張って寝起きし、"革命戦士を育成する"ということで、夜間のタキギ取りのほか、炊飯、洗濯をさせられ、学習、討論もするというきびしい生活だったという。このため脱落者が相次いだこととから、アジトを変えることになり、点々としたあと11月末に榛名山に移った。


 革命左派時代の山岳アジトは岩田の自供と異なり、和気あいあいとしていたと証言する人も多い。連合赤軍結成前に森たちが革命左派のアジトを訪ねたとき、こんなエピソードがある。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。(「十六の墓標(下)」)


■悪霊の世界(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-15 毎日 夕刊11

▼ろうそく集会
 夜の討論はろうそくをともして行われた。車座になってすわるが、山の寒さはピリピリするほどだった。その風景を、2人の少年は「今思うとぞっとするほどこわい」という。
 討論では、いつも森恒夫と永田洋子が話した。坂東国男、吉野雅邦、坂口弘なども発言をするが、他のものはあまりものはいわず、ほとんどが下を向いて聞き入っていた。 森はよく「オレは中国に行きたい」と話していた。永田はいつもヒステリックで、つねに討論の主導権を握っていた。残酷なことや他のものに対する批判は、ほとんど永田から出た。


 このあたりの様子は、永田の「十六の墓標(下)」、坂口の「続・あさま山荘1972」、植垣の「兵士たちの連合赤軍」に詳しく述べられている。それによると討論の主導権は常に森であり、永田は過激な言葉で森に同調していたようだ。永田が摘発→森が問題視し詰問→永田が同調して煽る→森が暴力指示、という流れのようだ。


▼マキ割り
 幹部たちは、銃の訓練をしに山奥へ出かけていったが、他のものは一日中マキ割りやアジトの修理、タキギ拾いなどをさせられた。しかし、必ずどこかで監視の目が光っていた。ときどき銃の訓練もさせられたが、青砥幹夫らはマキ割りで、てのひらはマメだらけになり、銃がよく持てず、ねらいが定まらないので、坂東から「モタモタするな」とどなられた。それでも言い訳は許されなかった。「総括!」と、いつ言われるかわからないからだ。永田以外の女はよく山をおりて食料や日常品を買いに行かされた。それでもお互いがつねに監視しあう方法がとられた。


▼麦と赤軍兵士
(省略。読売の記事とほぼ同じ)


▼マラソン競争
 榛名山アジトから迦葉山アジトに移るとき、忘れものをしたので、みんなアジトに走って戻った。坂口が1番で青砥が2番だった。坂口は「心臓が悪くて坂を上るのもムリ」といわれていたが、それはとんでもない間違いだった。髪をハサミできるのは坂東だった。坂東は手先が器用でハサミをうまく使った。


▼新月が羅針盤
 アジトからアジトへ移るときは新月の晩だった。月光をたよりに、暗い山道を歩いた。山登りに自信がある青砥がいつも先頭。だれもが4、5回疲れと寒さで倒れた。それでも銃だけは決してぬらしたり、放り出すことは許されなかった。


▼次のアジトは八溝山系
 ラジオで追求の手がのびたのを知り青砥が「八溝山にしよう」と提案した。八溝山のふもとに青砥の親戚があり地理にくわしい。「少なくともそこへ行くまではオレが案内役だから殺されない。八溝山へ行けば、地理に詳しいので逃げられると考えていたからだ」という。アジトを移すごとに殺されるものもふえていく。そして最後には、いったいだれが残ることになったのだろうか。


 このとき、寺岡と山田はすでに死亡していて、森と永田が逮捕されたから、幹部は坂口、坂東、吉野しか残っていなかったし、すでに総括もおこなわれていなかった。しかも山岳逃避行の最中だから、逃げようと思えばなにも八溝山までいかなくても、いつでも逃げられそうなものだ。後年、青砥は「離脱するつもりはなかった」とインタビューに答えている。


青砥「バスに乗ったままだと軽井沢に行ってしまうことは僕も植垣もわかっていた。でも見て見ぬふりだった」

 荒 「どうして?」

青砥「もう疲れきっていたんです」

 荒 「連赤を離脱しようとは思っていなかった?」

青砥「離脱しようとは全然思っていなかった」

 荒 「もうどうなってもいいとも思っていた」

青砥「というより、正常な判断力を失っていたと思う」

(「破天荒な人々」)


■その他の記事

・寺林は会計を任され、女性ではナンバー2であった。(朝日)

・この日森は取り調べには応じず、上申書に続く"執筆"を行った。(朝日)

・頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)

・寺林は京浜安保共闘の丹沢アジトで手投げ弾20個をつくったと自供。(毎日)

・森は「革命は決して間違ってはいない。その方法に誤りがあった」と自己批判。(毎日)

・森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)

・発掘現場はまるで観光名所の様相を呈している。(毎日)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme

90. 中川隆[-11443] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:20:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[552] 報告

連合赤軍リンチ殺人事件の報道をふりかえる(筆者)  2009-03-31 
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■新聞とはかくなるものであったか

 写真が一枚もなく、当事者たちは死んでいるか、留置場の中にいる。だから記者は、逮捕されたメンバーの供述のリーク情報によってしか記事を書くことができなかった。メンバーたちは断片的な供述しかしないから、それをつなぎ合わせ、足りないところは想像で補って記事をつくりあげた。もともとのリーク情報さえ、当局の想像で組み立てられたものだったから、「警察は・・・とみている」という責任転嫁の表現をせざるをえなかった。


 当時は永田や坂口の手記はなかったから、報道に接した当時の人たちは、森恒夫や永田洋子を悪魔だと思っていた。筆者もそう思っていたから「十六の墓標」(永田洋子)をはじめて読んだとき「あれれ?」と拍子抜けしたものだ。そして「どうしてまともな思考の人が、あんな常軌を逸した事件をおこしたのだろう?」と興味を持ったのである。なぜなら彼らの手記に書かれていた思考や判断は私たちのそれと別段変わるところがなかったからである。


 私たちはマスコミを通してしかニュースをしることができない。特に新聞記事は多くの人が信頼している。しかし、ときとして一線を越えてしまうことがある。それはどんなにひどいことを書いても、誰からも文句を言われない状況において起こる。連合赤軍事件もその1つだったし、オウム真理教事件のときもそうだった。逮捕されたメンバーはどのような気持ちで新聞を読んだだろうか。


 おもしろいことに、新聞がセンセーショナルに報じたのに対し、週刊誌はきちんと取材した記事が多い。おそらく新聞にお株をとられてしまったことと、新聞ほどリーク情報が得られないことによるからだろうが、周辺人物の取材をして事件を検証する、という落ち着いた記事が多いのである。


■今後の予定
さて、1972年4月以降も取調べが続き、1973年から大荒れの連合赤軍裁判へと続くことになる。その間には森恒夫の自殺もあり、坂東国男のアラブ行きもある。しかし、先へ進める前に、一度時計を戻して、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が誕生したころからの彼らの新聞記事を振り返ってみたい。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10325060408.html?frm=theme

91. 中川隆[-11442] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:51:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[553] 報告

(基礎知識編)赤軍派・革命左派・連合赤軍 組織関連図   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme

 連合赤軍と日本赤軍は何が違うのか、テレビカメラにVサインしていたおばさんは何者なのか、永田洋子と重信房子の区別がつかない、などなど、最近のニュースで興味を持った人にとっては、左翼運動の派閥がわかりにくい。


 そこで、連合赤軍周辺の組織について、手持ちの組織図・関連図をまとめて掲載しておく。


■赤軍マップ (「赤軍―1969→2001」より )

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍マップ

 歴史的な流れをつかむのはこの図が決定版だ。事件を中心に知りたい人は、これだけ知っていればよい。


■赤軍派発足時の組織図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍派組織図・発足当時

 赤軍派を発足したメンバーが名を連ねている。


 田宮高麿は9名でよど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡り、そのまま亡命した。このグループを「よど号グループ」とよぶ。


 他の中央政治局のメンバーは逮捕されているので、連合赤軍メンバーの手記では「獄中幹部」などと呼ばれている。獄中幹部は森恒夫の敵前逃亡を知っているため、森に対する評価は高くない。


 後に、連合赤軍メンバーとなる山田孝の名前があるが、当時は森より地位が上だった。そのため、森に意見することのできた唯一の赤軍派メンバーであった。


■よど号グループ(2002年3月13日 朝日新聞より )


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-よど号グループの関係図


 「当時16歳少年」というのは柴田泰弘のことで、柴田は2011年6月に死亡した。


■京浜安保共闘の関係組織 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-京浜安保共闘の関連組織


 革命左派の組織図。連合赤軍メンバーの名前がちらばっている。「京浜安保共闘」は労働者を中心としたさまざまな組織を束ねていた公然組織(表の組織)である。新聞記事で組織名がさまざまなのはこのためである。なお、図には表れていないが「中京安保共闘」からも連合赤軍に参加している。


■人民革命軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-人民革命軍関係図


 上記の組織図から少したって、連合赤軍結成直前の革命左派の組織図。京浜安保共闘のメンバーも山岳ベースに集められたころである。


■連合赤軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍関連図


 組織がたくさんありすぎて、どこがどう違うのかよくわからない。左翼運動は組織分裂の歴史で、思想・闘争方針・人間関係などの要因によって分裂を繰り返した。特に赤軍派は一人一党といわれたほどである。


 共産党配下を代々木系、反共産党系を反代々木系という。名前がまぎらわしいが、永田洋子・坂口弘の「日本共産党革命左派」は反代々木系で日本共産党と対立関係にある。


■日本赤軍組織図 (ネットより)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-日本赤軍組織図


 日本赤軍のリーダーは重信房子で、2000年9月に逮捕された時、カメラに向かってVサインをしていた人である。重信は、森恒夫と折り合いが悪く、独自の路線に舵を切り、アラブへ旅立った。


 PFLPというのは、パレスチナ解放人民戦線のことで、PLO(パレスチナ解放機構)にも参加する過激派である。


 重信は人気者で、赤軍派時代はオルグとカンパに手腕を発揮し、「微笑外交」とか「ポン引き外交」とかいわれた。アラブへ行ってからは、結集を呼びかけ、日本から多くのメンバーがアラブへ渡った。さらに、ハイジャック闘争で、連合赤軍や、東アジア反日武装戦線、はては一般刑事犯まで釈放させ、日本赤軍に結集させた。


 ごった煮集団だが、コマンド(軍事)志向のメンバーを集めたことが特徴的である。


■京大パルチザン

 赤軍マップで、日本赤軍と点線でつながっているが、これは、京大パルチザンが重信房子を手配師としてアラブへ渡り、テルアビブ空港乱射事件を起こしたからである。


 京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)の革命理論の影響を受けたノンセクト・ラジカル(党派に属さない過激派グループ)である。


■東アジア反日武装戦線


(右翼にも愛読された腹腹時計)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-腹腹時計(東アジア反日武装戦線<狼>)

 赤軍マップに突如現れる「東アジア反日武装戦線」について説明しておく。


、1970年代に三菱重工爆破など連続企業爆破事件を起こした独特のグループである。他の組織は民間企業をターゲットにすることはなかったので、日本中が驚いた。


 なぜ民間企業を爆破したかというと、戦後も大企業はアジアを経済侵略し、彼らを隷属させ、利益を搾取している、したがって大企業は現在進行形のアジア侵略者である、という思想にもとづいていた。この歴史観は他の左翼とは一線を画している。


  「東アジア反日武装戦線」というのは総称で、実際の組織は「狼」「大地の牙」「さそり」から成っている。大道寺将司の「狼」に共感したり、爆弾指導を受けたグループが、「大地の牙」「さそり」である。


 「狼」が出版した「腹腹時計」という爆弾製造法やゲリラの心得を書いた教本は、左翼過激派だけでなく、右翼や公安にも幅広く読まれた。


 それぞれのメンバーは以下の通りであるが、重信房子に好まれたようで、日本赤軍のハイジャックによって3名が出国した。


・「東アジア反日武装戦線・狼」

 大道寺将司(死刑確定)

 大道寺あや子(→日本赤軍・指名手配中)

 片岡利明(死刑確定)

 佐々木規夫(→日本赤軍・指名手配中)


・「東アジア反日武装戦線・大地の牙」

 斎藤和(逮捕直後自殺)

 浴田由紀子(→日本赤軍→逮捕→懲役20年))


・「東アジア反日武装戦線・さそり」

 黒川芳正(無期懲役)

 宇賀神寿一(懲役18年→2003年出所)

 桐島聡(指名手配中)


 このグループのメンバーは、他の組織でみられる様な責任の擦り付け合いがなく、とても仲が良い。この点でも他の組織とは一線を画している。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme

92. 中川隆[-11441] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:00:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[554] 報告

(理論編)「イデオロギー」と「言葉」のパワー   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme


 連合赤軍のリンチ殺人事件について、誰もが感じる最初の疑問は「なぜ12名もの仲間を殺害したのか」ということに違いない。


 永田洋子や坂口弘によれば、それは共産主義化のイデオロギーということになる。イデオロギーとは「観念の体系」と訳されるが、この事件の場合、「物事の判断を下す根拠となる思想」と理解すればいいだろう。


■統一公判一審「中野判決」

 共産主義化のイデオロギーを紹介する前に、まず、裁判でどう判断されたかを紹介しておく。1982年の統一公判の第一審判決では永田洋子に死刑、坂口弘に死刑、植垣康博に懲役20年が言い渡された。有名な「中野判決」である。


 なぜ有名かというと、永田を、「執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と酷評するにあたり、「女性特有の」と一般化した表現を使ったため、大いにひんしゅくを買ったからである。そして、判決理由には、中野武雄裁判長の永田に対する並々ならぬ怒りがこめられていた。


 被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。


 他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である。


 被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである。

(1982年6月18日 一審判決 中野武雄裁判長)


 判決を報じた新聞の社説では各紙とも、「死刑判決は当然」としつつも、「だが、12人もの殺害については・・・」とつづく。「いささか物足りなさが残る」(朝日)、「およそ考えられないことだ」(読売)、「いまだ得心のいかないことが多い」(毎日)という具合に、歯切れが悪い。12名の同志殺害について判決理由を聞いても、ピンとこなかったのである。


 判決の時点で事件からすでに10年がたっていたが、新聞各社は12名の同志殺害の原因について、納得する理由を見つけられずにいた。かといって中野判決のように個人的資質の問題だけに割り切ることもできなかった。これは39年たった現在でも同じで、だからこそ連合赤軍事件がいまなお語られるのであろう。


 もし判決の通り、森と永田の個人的資質の問題だとすると、なぜ殺された12名は、黙って殴られ、縛られ、無抵抗に死んでいったのか。なぜメンバーは森恒夫と永田洋子の2人をやっつけてしまわなかったのか。なぜさっさと逃げ出さなかったのか、という疑問がわく。森と永田以外のメンバーの行動に説明がつかないのである。


 判決が間違っているとはいわないが、十分とも思えない。中野裁判長は「革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく」として、確信犯的に革命運動の問題を切り離している。


 本件は刑事裁判であり、思想を裁くことはできないから判決にあたり考慮しない、といえばよさそうなもので、わざわざ断定的に否定する必要があったのだろうか。これでは心を裁いたことになりはしないだろうか。


■「イデオロギー」と「言葉」のパワー

 1995年、オウム真理教という団体が、地下鉄サリン事件を起こした。サリンを撒いたのは、学歴が高く分別のある人たちだった。実行者たちは大いに動揺し、迷いながらも、満員の地下鉄車内でサリンの入ったビニール袋に傘を突き立てた。実行に踏み切らせたのは「救済」という言葉だった。


 人が動揺し、迷っているときは、どのような言葉で正当化するかが決定的な役割を果たす。それが「救済」だった。とはいえ、いきなり「救済のために」といわれても、サリンを蒔けるわけではない。


 オウム真理教の「救済」という言葉は、タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)のイデオロギーの上に盛られていた。信者がタントラ・ヴァジラヤーナを受け入れていたからこそ、「救済」という言葉が威力を発揮し、人間を反社会的行動に動かしたのである。


 「救済」を「援助」に、「タントラ・ヴァジラヤーナ」を「共産主義化」に置き換えれば、連合赤軍のリンチ殺人事件も同じことがいえる。すなわち、暴力的総括は「援助」という言葉で正当化され、それは「共産主義化」というイデオロギーの上に盛られていた、と。


 いったんイデオロギーを受け入れてしまえば、「救済」とか「援助」という言葉が、いかに詭弁であろうと、たとえ指導者が詐欺師であろうと、それは有効に機能する。


 こういうことは、別にオウム真理教や連合赤軍に限ったことではない。「教育」とか「治療」とか「矯正」とか、一見正しそうな言葉が、何らかのイデオロギーの上に盛られることによって、反社会的なパワーを発揮する例はめずらしくない。


 ただ、外部の目にさらされることによって(特に人が死亡すれば)、歯止めがかかる仕組みになっているだけだ。オウム真理教はサティアン、連合赤軍は山岳ベースで、外部の目の届かない空間で起こったため、歯止めがかからなかったのである。


■どちらが「本質を見誤った」のか

 連合赤軍の同志殺害は閉鎖空間で共産主義化の「イデオロギー」と「言葉」が猛威をふるい、メンバーがそれを受け入れていたからこそ、仲間に対して過酷な暴力をふるうことができたし、被総括者は無抵抗に暴力を受け入れたのである。


 ゆえに森恒夫と永田洋子の資質だけに原因を求め、イデオロギーを切って捨てた判決理由は、大事な部分から目を背けたというしかなく、「本質を見誤った」のではないだろうか。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme


(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −
https://ameblo.jp/shino119/entry-10827152785.html?frm=theme


 山岳ベースの12人の同志殺害について、当事者たちは口をそろえて「殺意はなかった」といっている。そして「共産主義化をめざした」とも・・・共産主義化とはいったい何なのか?


■共産主義化とは「ブルジョア性を克服し、死をも恐れぬ革命戦士となること」
 国家の共産主義化ではなくて、個人の共産主義化とはどういうことなのか。明確な定義はないが、当事者たちによれば、「過去の活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために、死をも恐れぬ革命戦士となること」ということである。


 一般的な言葉で言えば、内面から 「私」 を消し去り、命さえも革命のためにささげる、ということになるだろう。


 何がブルジョア性の現われなのか、どうすれば克服できるのか、共産主義化が達成されたとはどういう状態なのか、などすべての基準はあいまいであり、森恒夫や永田洋子の恣意的な判断だった。実は永田もよくわかっていなかったが、永田は「問題があるとみなした言動をブルジョア性の現われとみなした」のである。


 つまり、共産主義化の理論は、山岳ベースでは森恒夫の頭の中だけにあって、誰にもわからなかったのだが、わかるかどうかは大して問題にならない。重要なことは、受け入れるかどうかであり、連合赤軍のメンバーは全員受け入れたのである。


 ハワイ大学の社会学部のパトリシア・スタインホフ教授は、以下のように分析している。


 赤軍派の、闘争用語でいっぱいの難解なイデオロギーは、それが不可解に近いがゆえに、受け入れられることが多い。人びとが心情的にやりたいと思っている行動を、学問的に知的に裏付けてくれるような気がするからである。


 実際のところ、共産主義化という概念は実に曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、全く理解できなかったと述べている。しかし、彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。


 問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得すべき変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった。日本のプチブル学生が革命戦士への変革を獲得するということは、個人の過去から現在に至るあらゆる思考や行動をすべて否定することにつながりかねない。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)

■塩見孝也議長の提起した「共産主義化」
 赤軍派は、1969年12月、大菩薩峠での大量逮捕 により、大打撃を受けた。この総括として赤軍派議長・塩見孝也が「革命戦争の網領問題」の中で提起したのが「共産主義化」である。


 永田の「続十六の墓標」に植垣康博の最終意見陳述が引用されているが、それによると、


 塩見は「革命戦争の網領問題」の中で、革命戦争の客観的な要素よりも主観的な要素を重視し、「革命戦争の型は戦争の担い手の主観的要素の如何によって決まる。・・・戦争の問題とは結局"人間の問題"である」と述べ、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律が闘いの源泉となる」と主張して、「戦争に占める"人"、すなわち精神力の要素の決定的重要性」を強調した。そしてこの「精神力」の獲得の為に「主体の共産主義的改造」いわゆる「共産主義化」を提起したのである。
(植垣康博 「1983年・最終意見陳述」)


 塩見は大菩薩峠での大量逮捕において、その原因は、指導部の計画・作戦に問題があるのではなく、無抵抗で逮捕された各人の問題であると考えた。爆弾1つ、ナイフ一太刀の抵抗もないまま大量逮捕されてしまったことを問題視したのである。


 だから、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律」が必要であるとし、そのように「主体の共産主義的改造」を行うことを提起し、それを「共産主義化」といった。


 赤軍派と革命左派が共闘するようになった頃、塩見は、「党の軍人化、軍の中の党化をかちとり、革命党を建設しよう!」「軍の正規軍化、共産主義化をかちとり、『赤軍』を拡大、強化しよう!」という獄中からのアピールを出した。


 しかし、塩見は必要性をアピールしただけで、具体的な方法は示していなかった。もちろん、このとき共産主義化のために暴力を持ち込むなどとは考えていなかったはずである。


■森恒夫は塩見孝也の「共産主義化」に応えようとした

 森恒夫は塩見孝也を信奉しており、塩見の提起に忠実に応えようとした。塩見の共産主義化をそのまま引き継いでいるためか、森の手記には、共産主義化の定義や説明はでてこない。


 「自己批判書」の冒頭で「まず最初に、全体の概略を明らかにしておきたい」と述べてから、数ページ後にはもう「共産主義化」の文字が現れる。1971年12月の共同軍事訓練の革命左派による遠山批判 の話である。


 こうした討論が繰り返される過程で、私は問題が両者とも党に関する問題であり、とりわけ革命戦士の共産主義化の問題である事、要はその結果を「そうしなければならない」として受け止める事にあるのではなく、共産主義化の組織的な達成を党建設の中心的な方法の問題として確立してゆく事である事に気付いた。


 従来の旧赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では「革命戦士の共産主義化」が中心軸としてだされてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は旧革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判−自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えたのである。


 そして、そうした相互批判−自己批判の同志的な討論の組織化を通して実践的な経験を貴重なものとして受け止め、真に"人の要素第一"の原則を確立してゆくことができると考えたのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、遠山批判は、個人が改めればそれでいいというものではなく、共産主義化の問題であり、それを組織的に達成することが、党建設の軸になると気づいた。


 すなわち、メンバー全員を共産主義化させることを党の中心課題とし、そのためには、相互批判−自己批判を組織的に行うことが必要だと考えたのである。


 革命左派による遠山批判を引き継ぐように赤軍派による遠山批判 が行われたのは、こうした理由による。


■森恒夫は共産主義化の歴史的必然性を理論づけた


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)


 漢字が多くて読みにくいが、要するに、共産主義化の総括要求は歴史的必然であった、といいたいのであろう。しかし、この理論にはかなりの飛躍がありそうだ。


 理論はともかく、気になるのは文体の方で、「問われた」「要求された」を連発して、決して「考えた」とはいわないのである。この文章の中に主体であるはずの森自身が不在なのである。


 「自己批判書」であるにもかかわらず、ここまで自己を不在にした理由は、責任の重さを引き受けられないからであり、歴史的必然を装った理論は、生身を覆い隠すための鎧のように思える。


■証言集


 私と永田さんが新倉ベースでの確認事項を伝えたとき、寺岡幸一君が、「共同軍事訓練の成果をみんなに伝えようとしたところ、何を報告すればよいのかハッキリしなかった」と当惑して言った。寺岡君等より2日長く居て森君の話を聞いていた私ですら、森君が何を話し、何を言わんとしているのか理解できなかったので、この発言は無理もなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や、文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。


 ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。


 何が「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものかと問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。


 従って私は、「共産主義化」に対する明確な規範を持たないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の表れとして批判し、その総括を要求していったのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 「新党」(筆者注・連合赤軍のこと)では、一応討論という形をとっていたものの、実際には指導部会議でも、討論をを通して問題を明確にし、物事を深めるということが一回もなかった。たとえば、「共産主義化」というもっとも肝心な問題1つとっても、その必要性が強調されながら、いったいそれは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった。主導的な意見に、それを支持するか否かが問われるだけで、それで終わっていたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 共産主義化の闘いの本来の目的は、それまでの活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために自己のすべてを犠牲にすることのできる革命家を育成することにありました。


 この点で、共産主義化の闘いを推進した森氏は他の誰よりも自己犠牲的な革命家たろうとしていましたし、私たちもそうした革命家になろうと必死になりました。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」あとがき)


 大菩薩での敗北は、「殺すか、殺されるか」の政治における人の要素と、「敵を消滅し、味方を保存する」軍事における武器の要素との分離にあったとして考えていったということです。単純に言えば、本当に武器をもって闘おうとせず、福ちゃん荘でも、爆弾ひとつ投げる人間はだれもいなかったと批判することによって、自分たちがいつも銃のことを考え、身からはなさず、いつでもそれを敵に向けて使う用意があるようにすべきであり、そうなるためには、人が死をも恐れない革命戦士として共産主義化されなければならないというものです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 このとき、私を含む指導部が自己を改造する立場に立って働きかける指導制をもてず、「共産主義化」をいうとき、自己の人生観(ブルジョア性や小ブル思想−人間憎悪、人間蔑視の哲学)を絶対的な基準として下部の同志たちへの対象変革を求めることに陥っていくことになりました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 赤軍派は、世界革命戦争というロマンを掻き立てて華やかに登場した。しかしながら、その闘争は次々と権力に圧殺され、よど号ハイジャックのほかは、たいした成果はあげられなかった。逮捕者が続出し、壊滅寸前になったところで、森恒夫がリーダーに繰り上がった。


 考えてみると、森がリーダーとなった時点で、取り得る選択肢は2つしかなかった。ひとつは敗戦処理であり、闘争を後退させ組織を温存すること。もうひとつは、闘争を飛躍させ、敗北に直面した現状を一気に飛び越してしまうことである。


 森は後者を選択し、「銃による殲滅戦」で飛び越しに賭けた。そのイデオロギーが「共産主義化」だった。しかしながら、死を覚悟するということは、敗北を意識しているということに他ならなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10827152785.html?frm=theme


(理論編)「銃−共産主義化」 − 人と銃の結合 −
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

 森恒夫は「共産主義化」 に銃をからめて、「銃−共産主義化」論を構築した。これが実にヘンテコなのだが、しかし、どんなにヘンテコな理論であろうと、山岳ベースでの総括を支配し、リンチ殺人事件をもたらしたのである。なお、 永田洋子や植垣康博の著書では、「銃による殲滅戦論」と表記している。


 森の書いたものの中に、「銃の物神化」とか「人と銃の高次な結合」などという言葉が出てくるが、いずれも、「銃−共産主義化」論の話で、関係式は次のような感じである。


「共産主義化」+「銃の物神化」=「銃−共産主義化」 → 「人と銃の高次な結合」の要求


■「革命左派の撤退を美化した」(森恒夫)
まず、革命左派が山岳ベースへいたるまでの経緯を復習しておくと、以下のようになる。


リーダー川島豪の逮捕
→川島豪の奪還計画を策定
→銃奪取を計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わる)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→北海道への逃避行
→永田が中国への逃避を提案するがメンバーの反対で断念
→山岳ベースへ後退


 森は共同軍事訓練最終日 に、革命左派の行動を高く評価した上で、「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」と結論づけた。いったいどういうことなのだろうか?


 「自己批判書」は難解なので、赤軍派による「12・18アピール」(森の考えを山田孝が書いたもの)と坂口の手記を参考に、大胆にデフォルメしてみると、以下のようになる。


1.上赤塚交番襲撃 では、「殺すか、殺されるか」という攻防が出現したが、威力のない武器で対抗したため敗北してしまった。「殺すか、殺されるか」という攻防には銃が不可欠である。


2.真岡銃砲店襲撃 は上赤塚交番襲撃の総括の上に立って行われたため成功を収めた。「奪取した銃」は敵の弾圧を引き出した。そして、「奪取した銃」は革命左派に銃を守る闘いを要求した。


3.「奪取した銃」によって銃を守る闘いを要求された革命左派は、山岳への退避によって、「奪取した銃」の要求に応えようとした。


4.「奪取した銃」は、銃を握る者に対し、主体の革命戦士化、すなわちメンバーの共産主義化を要求している。


5.「奪取した銃」の要求に応えようとして、革命左派は、山岳ベースで自己批判・相互批判を組織的に行なってきた。これは自然発生的ではあるが共産主義化の萌芽である。


6.「奪取した銃」にはこのように人を変革する力があるのだから、ゆえに「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」

(赤軍派による「12・18アピール 殲滅する銃を! 」と「あさま山荘1972(下)」をデフォルメ)


 なるほど、そうだったのか・・・と納得する人はおそらくいないだろう。奇妙な理論である。

 森は、赤軍派と革命左派との共同軍事訓練の最中、遠山批判 をきっかけに、革命左派を吸収しようという姿勢から、革命左派に学ぼうという姿勢に転じた。そして革命左派の行動を美化し、理論化したのである。


 無論これは森君が頭の中でそう考えたということであり、われわれ革命左派にはそんな意識はこれっぽっちもなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口にこういわれてしまうと身も蓋もない(笑)。しかし、持ち上げられるのが好きな永田洋子だけは「そうだったのか!」と本気で信じたような気がする。


 たしかに革命左派は、敗走に敗走を重ねて山岳ベースにたどり着いたのであり、山岳ベースでも、目の前の事態に追われ続けていただけだった。もっとも森はそれを承知しているので「自然発生的ではあるが」「共産主義化の朋芽」と繕っている。


■ 「銃を物神化した」(森恒夫)
 森は、革命左派の行動を美化し、あたかも銃が導いたの如く理論を構築した。しかも銃に「奪取した銃」というように属性を持たせている。


 驚くべきことに、主体の飛躍に応じて「奪取した銃」→「味方を団結させる銃」→「敵をせん滅させる銃」→「プロレタリアート独裁の銃」というように銃が成長していくのだという。銃に超自然的な力があるかのように考えていたようだ。これを後に「銃を物神化した」と振り返っている。


 共同軍事訓練後も、森は行方正時に対し、人が銃を成長させる、だから総括すれば銃は重くなってくるはずだ、といっている。ばかばかしいようだが、赤軍派の遠山・進藤・行方の3名はこの理論を根拠にして、寒い中、ひたすら銃を構える訓練を続けさせられるのである。


 彼は、12・18闘争(上赤塚交番襲撃)が日本革命戦争の開始であり、2・17闘争(真岡銃砲店襲撃)は12・18闘争の実践的総括である。奪取した銃で殲滅戦をやろうとしたからこそ、銃を守るために退却した山岳ベースで共産主義化の闘いを組織し得た。従って、人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない、と述べた。しかし、これが何を意味し、何をみんなの上にもたらすことになるのか、私には想像もつかなかった。


 この主張の要点は、前述したように共産主義化の論理的必然性を銃の説明に基づいて明らかにしたことである。無論それは、客観的なものではなく、森君の観念に客観的装いをこらしたものに過ぎないが、彼はこれによって、共産主義化の闘いを確信をもって進めていくようになる。

 いまひとつの要点は、共産主義化の新しい方法論を見つけたことである。人と銃を結合させて共産主義化を勝ちとる、というのがそれである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「かなりの信頼をもった」(永田洋子)


 私は、森氏の説明を聞いていて、それが「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をよりいっそう理論化したものであると思い、かなりの信頼をもった。そして、その中で、共産主義化による党建設の重要性を強調したことから、目的意識的な共産主義化をどうしても獲ち取っていかなければならないと思うようになった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 もともと永田は、「銃を軸とした建党建軍武装闘争」を主張していたが、理論というより、直観的なものだった。「銃−共産主義化」論は、永田の直観に共産主義化をリンクさせたものという見方もできる。


 「目的意識的な共産主義化」というのは、自然発生的な共産主義化(「下から主義」)ではなく、目的意識的な共産主義化(「上から主義」)を達成しなくてはならない、と森がいったことによる。


 森は永田の直観や行動を次々と理論化したので、永田が「かなりの信頼をもった」のは当然だった。しかし、いったん思い込むと盲目的に突き進む永田は、その都度理論を繰り出す森と相互作用を繰り返して、12名の同志殺害というとんでもない結果を生み出してしまうのである。


■「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」(森恒夫)
 森は逮捕された直後から「自己批判書」を書いた。しかし、後に森は「自己批判書」を全面撤回し、自己批判をやり直すと宣言している。したがって、逮捕直後の「自己批判書」を書いた当時の森と自殺直前の彼は総括の立場が異なっていることに注意したい。


 坂東国男にあてた最後の手紙では、「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」と表現した上で、以下のように述べている。


 この形而上学的「銃−共産主義化論」の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して「総括」を要求し、過去の闘争の評価等を含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです。
(1973年1月1日 森恒夫が坂東国男にあてた最後の手紙)


 ひらがなの「ぼく」、「形而上学的」、「強要」、「粛清」などの言葉の用法からして、山岳ベースの狂気から醒めたような印象を受ける。そして、早急に自己批判をやり直さなければならないと書かれているが、残念ながらそれは実現しなかった。なぜなら、森はこの手紙を書いた直後に首を吊ってしまったからである。
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(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −
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 事件報道当時、連合赤軍といえば総括、総括といえば処刑を意味した。学校でも「ソーカツ」がはやり言葉になったほどだ。よく「総括」とカッコつきで表すのは、連合赤軍における総括は、リンチ殺人と結びついていて、一般用語としての総括とはいささか意味が違うからである。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-11 朝日 人民裁判=総括=死刑. 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1982-06-19 朝日 私刑に法の総括

■連合赤軍以前の総括
 一般に総括という場合は、組織内での活動において、それまで行なってきた活動の方針や成果を自ら点検・評価し、最終的には、組織としての今後の方針を打ち出すことである。


 赤軍派では、作戦行動上のミスがあったときなどに、メンバーをリーダーの前で自己批判させ、リーダーは、1ヶ月の禁酒・禁煙など禁欲的罰則を課して総括をすませていた。集団批判は行われていなかったようである。罰則は守らない者もいたようだ。


 革命左派では、総括という言葉は使わなかったが、もともと自己批判・相互批判が行なわれていた。坂口によれば、「吊るし上げに終わることが多かった」そうである。永田がリーダーになってからは、メンバーが指導部の批判を行うこともあったようだ。


■連合赤軍における「総括」
 連合赤軍では「総括」という言葉の意味を使い分けているので注意が必要だ。「総括しろ」というときは自己批判の意味で、「総括にかける」というときは集団批判の意味、「総括できていない」というときは、本来の総括の意味だったり、自己批判の意味だったりする。


 森は革命左派の集団批判のスタイルを取り入れ、より過酷な追及の場にした。それは人民裁判のようだった。被告が被総括者とするなら、裁判官が森と永田、検察官は他のメンバー全員で、弁護人は不在である。しかも法律に基づいていなかった。客観的には、集団で一方的に断罪する吊るし上げでしかなかった。


 連合赤軍における「総括」の定義を、共産主義化と合わせて考えると、「自分の内面(ブルジョア性、日和見性、敗北主義など)と誤りを徹底的に、問題点を深く掘り下げて、根本的な原因の解明と克服方法を提示すること」になる。


 森は共産主義化の方法論として、革命のためには個人の内なる革命が必要と考えた。そして、「闘争に対する姿勢やかかわり方、日常生活上の問題点を通じてブルジョア性、日和見性、敗北主義を払拭し、死をも恐れずに、肉体的限界状況下で死をも辞さない厳しい総括が必要である」と、「総括に命がけの真剣さを要求した」のである。


 森は総括の達成度を態度を観察することで判断しようとした。断固としている、能動的である、明るくふるまう、元気を出す、などが総括が進んでいる証と考えたようだ。総括を認められたメンバーは1人もいないので、認められなかった理由から逆に推測すると、そういうことになる。


 特徴的なのは、総括の目的が、組織の活動に生かすためというよりは、人の精神を変革する目的で行われたことだ。


 ともかく、ある人間が、別のある人間の精神のありようを変えようとすることは、よかれあしかれ、きわめて危険をはらんだ操作といいうるであろう。それはどこかで、他者を自分の意のままに支配する欲望と短絡する危険をはらんでいる。そして変化の目的が、教育・治療(森の述語で言えば「飛躍」)などの大義名分をもっているときに、当然必要なブレーキや他者に対する謙虚さを失う危険が大きいのである。

 教育や治療の真の目的は、他者のうちにひそむ健康な自発性や才能の自然の開花をうながし、その現存在を世界に向かって開くことを助けるものでなければならない。
(精神医学博士・福島章・「甘えと反抗の心理」)

■被総括者の選定 −誰でもよかった?
 森恒夫と永田洋子は、「闘争から逃げた」「キスをした」「運転をミスした」「風呂に入った」など、ささいな問題を、針小棒大にとりあげ、あたかも反革命的行為であるように摘発した。しかも、摘発は過去の活動にまでさかのぼるのだからたまったものではない。


 そんなささいな理由だったら、誰にでも思い当たることはある。それはすなわち、被総括者は誰でもよかった、ということになる。いくらなんでもそれはないだろうと考えるなら、別の合理的な理由で摘発が行われたと推測するしかない。


 別の理由があったと推測する人は多い。新党結成に疑問を抱いている者を粉砕しようとしたとか、軍事能力の低い者を間引いたとか、森や永田の立場を脅かす可能性のある者に先制攻撃したとか、単に気に入らない者を摘発しただけとか、・・・・・諸説あるのだが、意見の一致をみていない。共通しているのは私刑あるいは制裁の趣があったと解釈している点だ。


■総括の進捗

 総括が進んでいるかどうかは、森にしか判断ができなかった。それはあたりまえで、「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。


■「殴ることは援助である」(森恒夫)
 森は剣道部時代、気絶して目が覚めたときに生まれ変わったような気がしたそうだ。その経験から、「殴って気絶させ、目が覚めたときには、革命戦士に生まれ変わっているはずだ」といって総括に暴力を持ち込んだ。


 さらに、「殴ることは援助である」と正当化し、メンバーを暴力に参加させた。ところがいくら殴っても思惑通り気絶しなかった。この失敗が逃亡防止のために被総括者を縛ることになり、ますます衰弱させ、死に至らしめる結果となってしまう。


 ちなみに、ボクシングの試合で、鮮やかなノックアウトが生まれるのは、やわらかいグローブをつけているからである。グローブの弾性が脳を振動させ、麻痺させるから気絶する。素手で殴ったところで、ボコボコになるだけで気絶することはない。事実、被総括者は顔が球状に腫れ上がるまで殴られたが、気絶した者は1人もいなかった。


 気絶しないのなら「援助」にならないのだから、やめればよさそうなものだが、死者が出ても暴力は続いた。なぜかというと、森は殴ることによって得た新たな告白に満足し、暴力を新たな告白を得るための手段として活用することにしたからである。


 しかしその告白は、冤罪事件でよくあるように、厳しい取調べを受けた無実の容疑者が、苦し紛れに「自白」してしまうのと同質の「告白」であった。


■「盲目的に森氏に追従した」(永田洋子)
 表向きの事実経過だけをたどれば、暴力的総括は森が主導したことは疑う余地がない。しかし、気になるのは、そこに永田の意向が反映されていたかどうかである。


 永田の「十六の墓標(下)」には、暴力的総括の様子が詳しくかかれている。そこに登場する永田本人のキャラクターは、徹頭徹尾、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」である。


 だが、それは、他のメンバーの証言と大きく異なっている。永田の手記全般についていえることは、事実関係については、他のメンバーの証言とほぼ一致しているが、こと彼女自身の内面の描写については、他のメンバーの印象と大いに食い違いをみせるのである。内面は確かめようがないが、少なくとも周囲には、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」には見えてはいなかった。


 永田さんの筆は、彼女の周囲の人々の動きや心理の翳を実に的確に捉えています。下手な小説家などはとても適わない筆力です。そのくせ、彼女自身の影が薄いのです。彼女の言動が一番影絵のようで生彩がありません。
(瀬戸内寂静・「十六の墓標(下)」まえがき)

 最後にあたって、永田同志の総括について、自分の問題として一言のべておきたいことがあります。「十六の墓標」を読んで感じることは、自分の感情や頭の中での問題意識を比較的正直に表現していると思いますが、しかし、そこに価値がないということをとらえかえしてほしいと思いました。客観的に映る永田同志や私の姿は、まさに、自分の誤りを保守するために、冷酷に、鬼のように同志を死に至らしめたという姿であって、まさに、その実態こそが、敗北を引き起こしたのだということに中心の問題があると思います。

 もし動揺している姿が実態であれば、同志を殺すこともなかったと思うのです。動揺していたということでは、最も動揺していたのはきっと森同志であったでしょう。それは、永田同志の書いている本にも出ているし、私自身のとらえかえしの中でも気づくことです。動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 こうしたことから、暴力的総括は、森が永田に引きずられた、という説が浮上する。なぜなら、森は、当初、革命左派の2名の処刑に否定的だったが、後に肯定するようになったし、山岳ベースも否定的だったのに、いつのまにか肯定に転じている。永田の影響を強く受けたふしがあるからだ。


 したがって、森は永田の意向にそって総括を行った、という見方もありえない話ではない。総括で死亡した革命左派のメンバーは、永田とそりがあわないメンバー(しかも指導者の資質を持った者)が多いことも、そうした見方を補強している。


■「総括できなかったところの敗北死だ」(森恒夫)
 普通、組織内で死者がでれば、遺体は家族に返される。もし連合赤軍が、家族と連絡をとっていたら、2人目の犠牲者は出なかっただろう。しかし、幹部はみな指名手配されていて、人目につかない山岳ベースに潜んでいたので、それはあり得ない選択だった。議論するまでもなく、山中に埋葬することになってしまった。


 メンバーは、自分たちが仲間を殺してしまったと大いに動揺した。それは森も同じだった。しかし森は直後に、「われわれが殺したのではなく敗北死した」 という解釈を披露したのである。すなわち、「同志の援助に応えられず、総括できずに敗北し、死亡した」というのだ。


 もちろん「敗北死」など信じられるはずがない。だが、この理論は動揺したメンバーたちに、救済の手を差しのべていた。彼らは、「敗北死」の理論にすがりつき、罪の意識を開放したのである。


 森は目の前の事態を正当化する能力にずば抜けていた。森がとっさに「敗北死」の理論を創造しなかったら、この時点で暴力行為は見直されたに違いない。


 1人目の犠牲者が出て、「敗北死」の理論を受け入れてから、メンバーには心情的な変化が現れた。ひとつは、次第に物事の解釈や判断を指導部にゆだね、自らは思考停止していったこと。そして指示があれば、仲間を殴ることも、殺すことも抵抗がなくなっていった。もうひとつは、自ら共産主義化(革命戦士化)を達成しなくてはならないという、贖罪意識が生まれたことである。


 同志が死んでも暴力的総括要求を続けたのは、私たちが「殺害」した事実を認めることを恐れた以上に、同志を「敗北死」させた自己批判を自分たちの闘い−死に求めたからである。(中略)

 私たちは、同志への暴力を通して自分たちはもはや死ぬ以外にないところに追い込み、同志の死への贖罪意識によって死を恐れない革命戦士となって、殲滅線を実行せんとしたのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 「敗北死」とは、死亡した者へ責任を転嫁する言葉にすぎなかった。しかし、その言葉の影響は絶大で、次々と「敗北死」を再生産していくのである。


■証言集 「永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。」(横浜国大生・S)


 短期に組織の共産主義化をかちとろう−そのために厳しい同志的援助をし合う必要があり、苛烈な暴力すら余儀なくされているそうした同志的な、かつ厳しい援助の下でなおかつ真摯な総括の姿勢を示さない場合、文字通り命がけの状況を創出して総括を迫るのがぎりぎりの同志的援助であるし、最終的には共産主義化の獲得は同志的援助ではなく、個人の力によってなされるべきものである、というのであったが、この端緒的な指導の誤りとその合理化は、当初からそうした指導に対する下からの批判が保障、確立されていなかったことから前述した過程へ突入していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした討論過程で常にそうしていたのだが、批判や追及に対して、ただそれを事実として認めることが総括の意味ではなく、事実を事実として素直に認めた上で、それが革命戦士になろうとする自分にとってどういう問題なのかを把みとり、そうした問題を止揚する方法、方向性、決意を確立することが大切であること...(以下略)
(森恒夫・「自己批判書」)

 新党で掲げられた共産主義化とは、武装闘争のためにいかなる犠牲も恐れない革命戦士となるために、それまでの活動上の問題を自己批判し、克服していくこととしてあった、こうした観点から、新党では、それまでの夫婦関係や恋人関係も問題にされた。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。なにが「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものか、と問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。

 したがって、私は、「共産主義化」に対する絶対的な規律をもたないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の現れとして批判し、その総括を要求していったのである。これは、私がそれまでの革命左派の党派活動の中で経験的に見につけた作風や規律を、「共産主義化」のための規律にしたということに他ならない。
(永田洋子・「続・十六の墓標」)

 12名の同志「殺害」という自殺的行為によって敗北し、組織そのものが完全に解体したことほど、この誤りの大きさを私につきつけたものはなかった。しかし、この12名の同志「殺害」を引き起こした共産主義化が赤軍派との共同軍事時訓練を通して提起された時、このような事態に至ることを予想することはまったくできなかった。反対に、私たちは、この共産主義化によってよりいっそうの前進が可能になると多いに希望を持ったのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 12名への批判の重大な誤りは、誤った闘争路線に基づいていたことにあるだけでなく、批判、総括要求に政治的な基準を与えなかったことにある。そのため、私たちの批判は、人の性格や資質を憶測や推測で批判する個人批判になってしまった。私たちは、批判を際限なく拡大させ、その人の全過去、全人格を否定し、自己批判要求された人を絶望に追い込み、どのような方向で自己批判したらいいかわからなくさせてしまった。自己批判できたと判断しえる基準もないため、いつまでたっても自己批判できたといえない状態が続き、暴力のもちこみの中で「敗北死」を続出させることになったのである。

 そして、暴力的総括要求の残酷さに対する動揺、ためらい、恐れなどの人間感情を、克服すべき「弱さ」「甘さ」として自らをおしつぶしたばかりでなく、皆にもおしつぶさせ、総括要求をより残酷なものにしていった。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)

 森君の総括要求は客観的必然性を有したものではない。それは彼の観念の産物であった。それ故、総括のマニュアルなど有るはずもなく、勢い対象者の態度で判断する恣意的なものにならざるを得なかった。こうした無茶な総括から逃れるには、森君の意に沿って、明るい顔をしたり、何のためらいもなく自分の問題を語るようにすれば良かった。つまり総括ができたふりをすれば良かった。言うまでもないが、精神的に追い詰められた時に、こういう芸当はたやすくできるものではなかった。
(坂口弘・「続あさま山荘1972」)

 森同志や永田同志がこれらの会議を主導していく(形としては)ことになったわけですが、私はその都度、二人の同志が非常によく観察していること、自分なら想像もしないような解釈を同志の行動の中に見出すことに対して、感心しさえしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 尾崎同志の「政治的死」の総括によって、自然発生的に目的意識的に指導部への造反が生まれ始め、制裁に動揺示した同志、我々の絶対化を少しでも批判めいたことを主張した同志、「共産主義化」の闘いに遅れていると我々が考えた同志(実際は小ブル革命主義の反動化路線に反対した同志)を、単に「自己総括」が遅れている不徹底者とみなすだけでなく、「分派」と決め付けたり、「脱落分子」と決め付けたり、更には「権力の手の中へ逃亡し、敵権力と通ずる分子」ではないかと疑い始め、総括要求は厳しい追求・詰問に変わっていった。
(「赤軍ドキュメント」坂東国男)

 今思えば、森恒夫があの暴力的総括要求を「日和見主義や敗北主義との戦いによる主体の飛躍」、それによるメンバーの死を「主体の飛躍に失敗した敗北者の死」と理論付けることがなかったら、いくら永田さんが感情丸出しでメンバーを摘発したとしても、あのように死者が続出することにはならなかったように思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 森君本人も、自分の中の暴力回避の日和見性を払拭し切らんとする内的志向があって、あれほど苛烈に自らを駆り立て、論理で自らを縛り、袋小路にのめりこんでいったのだと僕には思えます。下部メンバーはもちろん、森君にも、けっして総括の対象者への憎悪や敵愾心は無かったと思います。森君は実に的確に、被対象者の心理を「見抜き」、批判の矢を浴びせ、暴力をエスカレートさせていきました。それは彼が、対象者の内に、自らの姿を投影して見ていたためで、彼が、被対象者に鉄拳を加える時、森君自身の内なる日和見性に鉄拳を下し、消し去ろうとしていたのだと思います。森君にとって「12名との闘い」とは即ち、「内なる12名との闘い」を彼自身闘っているつもりだったろうと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 結局暴力は当初から異端者なる者、分派に傾く可能性のある者や、脱落・落伍の可能性のある者、不服従姿勢を持つ者への制裁といった色彩の強いものであったと思い返さざるをえません。...実質的には一種の統制手段としてのそれに他ならなかったということであろうと思います。(中略)追求や暴力への関与姿勢そのものが、評定・点検の観察対象となり、また被緊縛者の反抗姿勢や逃亡意思の有無が最大の評価対象となったのも、その本質の所在を示していました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 僕や植垣君が「総括」の対象からはずされていたということはありません。実際、両名とも何度か「総括」を求められた。極限までいかなかったことに理由はないと思います。だから常に危機感があった。
「総括」要求の対象およびレベルに明確な基準があったとは思えません、だれでも可能性があった。一方で「真のターゲット」というような考えは、当時も今もあったとは思えません。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫公判調書)

 森と永田とは不即不離の関係にあって、永田が感情的、直感的に発言し行動することを森が理論づけしていた。永田は組織の中で、自己の地位を脅かす者とか永田のヘゲモニーを奪おうとするものとか、別の面(美人、頭がよいとか)で永田に勝っていると思われる者とかに対してはきわめて敏感であって、それをできるだけ粉砕しようという意図を持っていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)

(加藤が死亡したとき)それまでは総括の援助だといわれ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 森も永田も小心性な性格であった。森と永田は、メンバーを強制的に殴打させ、あとでどう感じたかを聞いて、その答えの内容を今度はその者に対する「総括」の理由とした。永田は、自分が信用できないと思う者に順番にいいがかりをつけていったのが「総括」であった。何人目かが死んだ頃、永田はメンバーに対して、「同じ立場になったから逃げるものがいない」趣旨のことを言った。永田は指名手配になったことを相当重荷に思っていたようである。メンバーを共犯にすることによって、みんなが警察に追われる立場になったことを喜んでいたものと思われる。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義公判調書)

 (森は)いっしょに生活しているうちになんとなく「この男は気が小さいな」と感じることがありました。(中略)この森の小心性から、同志に対して不必要な疑いをかけ、敗北主義者、あるいは日和見主義者、と決めつけて殺した例がたぶんに出ております。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 永田は、女性に対して非常に一種独特な批判の眼を持っており、特に自分を批判的に見る人に対してそういう眼を持っていた。つまり指輪をしているから革命戦士になれない(遠山の場合)というような、すごく矮小的な形から批判をもってゆく、そのようなものを根本とするものの考え方をした。非常に嫉妬深い性格である。そのことは永田の排他的性格でもあった。つまり、メンバーが自分と同等であってはならなかった。自分と対等に並ぼうとするものに対しては、常にこれを排斥しなければ自分が落ち着いていられない性格であった。とくにそれは男性面で出た。だから結局、自分に取って代わるだろうと思われる者を排斥(抹殺)した。


 榛名ベース以前では銃はわたし達が保管していたが、以降は永田や森が座る位置の後ろに必ず銃が立てかけてあって、それは我々の方に向かっていた。それは永田や森を守るために必要だったのだと思う。常に権力というものはそういうものが必要なのだと思う。「総括」要求の基準というものは何もなかった。永田と森の肝づもり1つであった。だから永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。永田をして「女王」「絶対君主」みたいにした原因は、我々にも責任があると思う。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」寺岡の妻で横浜国大生Sの公判調書)

 ごらんのように、「総括」については、当事者たちの証言でも意見が分かれている。12名もの同志を殺害しておきながら、主導したのは森恒夫だったのか、永田洋子だったのか、真の目的はあったのか、なかったのか、あるとすれば、それは何だったのか・・・・・はっきりしないというのは、どうにもこうにも収まりが悪い。これが今なお連合赤軍事件が語られ続けている理由である。


 総括に暴力をもちこんだのは、他者を変革するための「同志的援助」のつもりであったにせよ、暴力を受けた者の内面に生まれるのは、反抗か屈服のどちらかしかない。反抗すれば「総括する態度ではない」と、より苛烈な暴力を加えられた。屈服し、反革命的行為を告白すれば、「裏切り者」とレッテルを貼られた。総括に出口はあったのだろうか。


 メンバーの心の一方には、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖があり、それに対しては、被総括者に弱者のレッテルを貼ることによって何とかバランスを保っていた。もう一方には、贖罪意識という死者への負債が重くのしかかっていた。死者への負債を返済するためには、自らが革命戦士となって殲滅戦を全うするしかなかった。


 森は次々と理論を創出し、適用を試みるのであるが、彼の脳内理論と現実の間には大きな隔たりがあり、それは決して埋まることはなかった。なぜなら森は指導する者ではなく、裁きを与える者だったからである。しかも、森の脳内のものさしは、事態の変化に応じて、どんどん形を変えたから、ついていけるはずがない。


 そして、「総括」によって、自分の価値観をメンバーに強要し、他の価値観を一切許さなかった。メンバーの主体はこうして解体されていくのだった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」


 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される


(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判


 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme

93. 中川隆[-11440] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:06:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[555] 報告

日本赤軍 
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm

 


 日本赤軍のルーツは、1960年代、学生運動をリードした共産主義者同盟(ブント)である。 当時、自分たち
の力で無理やり世の中を自分たちの考える国に変えてしまおうというグループがいろいろあった。 ブントは、
1969年、武力闘争路線をめぐって深刻な内部対立を起こし、最左派が分離して赤軍派を結成した。 この赤軍
派の中央委員兼中央組織局副局長だったのが重信房子である。 赤軍派は、日本をはじめ、世界にはよくない
国がいくつかあるので、武器を使って世の中を変えようと考えた。 そして、世界各地に拠点を作り、軍事訓練を
受けた上で日本で革命を起こすという 「 国際根拠地論 」 を唱えていた。 

 

【北朝鮮に渡った赤軍派】

   1970年3月 ――― 日航機 「 よど号 」 乗っ取り事件が起きる。


 赤軍派は 「北朝鮮は日本と仲が悪いし、軍隊もある。日本からそれほど遠くない。 北朝鮮に行って軍隊の
訓練を受けさせてもらおう。 そのためにはいっぺんに行けるように飛行機を乗っ取ろう。赤軍派がやったという
宣伝にもなる。」 と考えて、この事件を起こした。 この時、幹部ら9人が 「 国際根拠地論 」 に基づいて北朝鮮
に渡った。

 この事件が起きてから「 ハイジャック 」 という言葉が使われるようになった。 ハイジャック防止法という法律も
でき、飛行機に乗る際の所持品検査やボディチェックもこの後から行われるようになった。 彼らは政治亡命を主
張しているが、この行動は北朝鮮からはそれほど歓迎されなかった。 

メンバーですでに死亡した者もいるが、北朝鮮で妻子らとともに働いている。 2001年には、子どもたちのうち
3人が日本に来た。 娘たちの話では、メンバーは帰国を望んでいるというが、帰国すれば日本の警察に逮捕さ
れる。

 

【連合赤軍】

 赤軍派の他のメンバーは、新たな国際拠点を中東に求めた。 
   1971年2月 ――― 重信房子、奥平剛士らが、レバノンに出国した。(2人は偽装結婚して出国 )
 このグループはパレスチナ人の味方をして、世界各地で飛行機をハイジャックしたり、大使館を襲ったりした。 
彼らは、日本赤軍と呼ばれた。

 

 国内に残った赤軍派は、京浜安保共闘と連合赤軍を結成し、日本各地で銀行や郵便局、銃砲店などを襲った
りした。

   1972年2月・・・連合赤軍は、浅間山荘事件を起こす。
 連合赤軍は、群馬山中で軍隊の訓練をしているところを警察に見つかって逃げ出し、5人が軽井沢の浅間山荘
に立てこもった。 管理人の奥さんが人質となり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた。 この時、警察官2人が死亡し
たが、5人は逮捕された。 この連合赤軍は、群馬県で訓練をしている間に、仲間を14人も殺していたことがわ
かった( 連合赤軍事件 ) 。 この事件後、連合赤軍は事実上、消滅していく。 

 

 

【日本赤軍が起こした事件】

 重信房子たちは、1972年、従来の赤軍派と決別を宣言し、 「 アラブ赤軍 」 を名乗り、海外を拠点にテロ活動
を独自に進めることになった。
 重信房子はPLOの内部組織・パレスチナ解放人民戦線( PFLP )の幹部と結婚し、PLO内でも重要な地位に
あり、アラファト議長と直接会話をする間柄とされる。 

   1972年5月30日・・・イスラエル・ロッド空港事件 ( テルアビブ空港乱射事件 ) を起こす。


 奥平剛士、岡本公三ら3人が、テルアビブのロッド空港で自動小銃を乱射したり、手投げ弾を投げたりして、
100人を死傷 ( うち24人死亡 ) させるという無差別テロ事件である。  奥平剛士は自爆死し、岡本公三は
逮捕された。 重信房子らは、この事件を日本赤軍の誕生日と位置づけた。  
 重信らは長く中東の庇護下に置かれ、旅行者を装ってレバノン入りした日本の捜査員も重信らの姿をそっと
見守るしかなかった。  彼女は、パレスチナ過激派の幹部と接触し、軍事訓練を取り仕切り、数々のテロや
ゲリラに送り込んだ。

 


   1973年7月・・・日航機ハイジャック事件が起きる。
  丸岡修とパレスチナゲリラ4人がオランダのアムステルダム上空で
 日航機を乗っ取り、リビアに着陸した。 乗客らを解放した後、日航機
 を爆破した。 犯人たちはリビア政府に投降、国外追放となった。

 ←左写真   1973年8月、ヨーロッパで日本の民放テレビ番組の
         インタビューに応じ、ハイジャック事件などについて語る
         重信房子

   1974年9月・・・ハーグ事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生(ハルオ)らが、オランダ・ハーグのフランス大使館に手投げ弾や短銃を持って乱入した。 
パリ当局に拘禁中の日本赤軍の一人を奪還し、シリア・ダマスカス空港に逃げた。 そこでシリア政府の説得に
応じて投降したが、その後姿を消した。 

 

   1975年8月・・・クアラルンプール事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生ら5人がマレーシアのクアラルンプールでアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し
た。 彼らの要求は、日本に勾留中の日本赤軍のメンバーらの解放だった。 日本政府は要求されたメンバー
を超法規的措置で出国させた。  

 

   1977年9月・・・ダッカ事件が起きる。


 丸岡修らがバングラデシュで、飛行機乗っ取り事件を起こす。  乗客156人らの人質と交換に超法規的
措置で奥平純三ら6人を釈放させ、身代金を奪い(600万ドル)を奪い、アルジェリアに逃亡した。 

 

【中東和平など国際情勢変化の中で・・・】

   1993年9月・・・パレスチナ暫定自治合意が達成される。(=歴史的な和解)


 これをきっかけに、中東和平が進み、日本赤軍はレバノンのベカー高原を閉鎖せざるを得なくなり、重信房子
らメンバーは他の中東地域や南米、東欧、アジアに散らばったとみられた。 実際に、ルーマニアやネパール、
ボリビアで仲間が身柄を拘束され、国際テロ組織に対する世界的な包囲網から、南米やアジアでも活動の場を
失ったようだ。 
 1997年には、それまで保護していたレバノン治安当局が、岡本公三、和光晴生らメンバー5人を逮捕し、
組織の弱体化に追い討ちをかけた。 ( レバノン政府は岡本公三に対しては 「 彼こそ真の反イスラエル闘争に
かかわってきた 」 との理由で政治亡命を認めている )  

   2000年11月・・・日本赤軍の最高幹部・重信房子が、大阪で逮捕される。


 重信容疑者は、ハーグ事件の計画立案者として国際手配されていた。 重信はテロ事件では表に出ず、陰の
黒幕的存在だった。 中東和平が進み、日本赤軍の居場所がなくなり、重信容疑者も帰国を余儀なくされたと
みられている。


http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm

94. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2019年3月15日 07:27:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[564] 報告

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html


(寺岡恒一の不在中に厳しい総括の準備がなされていた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

■「寺岡の問題はCCに止まれるかどうかまで問われる大きな問題」(森恒夫)
 この日、指導部で残っているのは、森、永田、坂口の3人だけだった。森は、永田と坂口に、寺岡の問題を提起した。


 坂東と寺岡が日光方面へ新たなベースの調査に行っているとき、寺岡恒一に対する批判が本人不在のまま始まったのである。

 森君は、「寺岡君の総括の問題は、寺岡がC.Cとして止まるかどうかまで問われる大きな問題なので、寺岡の従来の活動を体系的に検討しよう」と永田さんと私に言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


C.C(Central Committee)とは中央委員会、つまり指導部7名のこと。


寺岡の問題点として、表向きにあげられたのは、以下の3点である。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき、皆に死体を殴らせたこと
(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと


それぞれについて擁護のコメントをしておく。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき 、皆に死体を殴らせたこと
 森は、これを「党建設の高次な矛盾を反革命として処理するのはスターリン主義だ」と批判した。「スターリン主義」とは、強権的独裁者というような意味である。

 しかし、寺岡が小嶋の死を「反革命の死だ」といったのは、この直前に東京から榛名ベースに戻ってきたばかりで、まだ、「敗北死」という言葉を知らなかったのだから無理もないことだった。


(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
 杉崎はさまざまな面で寺岡に依存していたことを反省し、革命戦士として自立するために寺岡との離婚を表明していた。だが、寺岡は本気とは思っていなかったようで、まじめに取り合わなかった。

 杉崎が離婚を表明したのは、「女の革命家から革命家の女へ」 という森の理論に沿ったものだったが、寺岡はこの理論も聞いていないので、離婚表明されたといっても、にわかには信じられなかったのである。

(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき 、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと
 寺岡の発言に対して、男たちが笑っているのをみて、永田が「そういうのは矮小よ!」と、森を含めた男たち全員を批判したのである。森はその時は何も言わなかったが、その後の会議では、「女性蔑視だ」と寺岡個人に責任を転嫁したのである。


■「寺岡に対して体系的な批判を行う必要がある」(森恒夫)


 ところが、森の批判の矛先は、問題とされた3点ではなくて、別の方向へ向かっていった。「自己批判書」をみると、だんだん論理が飛躍していくことがわかる。


 森は、「我々」とは森と永田のこと、としているが、素直にそう読める人はいないだろう。

 こうした現実に起こった問題と共に我々はその頃から彼に対する体系的な批判を行う必要があると考えていった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 それは彼が旧革命左派の古い政治理論を批判することを通り越して、旧赤軍派の政治理論に乗り移る様な傾向を示した事、(私から見れば一知半解と思われる)現状分析や理論を得意げに振り回し旧革命左派の同志があたかも自分よりはるかに遅れているかの様な態度をとった事、以前から旧革命左派の指導部間でそうした態度をとったことがあり、、乗り移り的路線変換やそれに伴うほかの指導メンバーのパージ等を策した事がある事、又、以前から直系的な人脈作りを行う傾向があり、概して他のメンバーに官僚的で厳しいことであった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 こうした事から、我々は、真に同志的な”しのぎ合い”の場であるべきC.C.を競争のように彼が考えているのではないかと考え、更に軍事指導者として活動してきた彼の活動内容を検討することにした。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした批判を彼には12月3日頃任務で出かける前に話して、彼の政治的傾向が官僚主義的スターリン主義的であると批判したが、彼はそれを認めて自分は以前からそういう傾向があった、革命左派への参加も中核なら大きいが革命左派なら小さいしすぐ出世できるという政治的野心をもって入った、等を言った。
(森恒夫・「自己批判書」)


「12月3日頃」というのは「1月12日」の誤りだと思われる。

 その後、彼が任務から帰ってくるまでに我々は、彼のこうした問題は単なる政治的傾向というよりはもはや体質をなしている事、政治的野心競争−官僚主義−女性蔑視−等は、・・・(中略)・・・小ブルテロリズム的な冷酷さすら示しているとして彼を批判してC.C.を除名する必要があるのではないかと考え、その上で、一兵士としていわば0よりマイナスの地点から彼が実践的に総括することを進めるべきだと考えていた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 ということは、森は、寺岡の批判を始める前の段階で、寺岡をC.Cから除外しようと考えていたわけだ。


■「それは大いに問題だ。分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ」(森恒夫)

 森氏は、「2・17(71年2月17日の真岡銃奪取闘争)後の厳粛な総括が必要だ。そのなかに寺岡君の問題もあるにちがいない。闘争後のことを詳しく話せ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、革命左派時代の寺岡君のことは知らないので、永田さんにいろいろ質問した。永田さんは躊躇する訳でもなく、積極的に答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 永田は、寺岡が改組案を出したこと にふれた。寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げする改組案だった。しかし、寺岡は改組案をひっこめ、それ以降は永田に協力的になったので、永田は何も問題はないと思っていた、と語った。

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 (森氏は)「この分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ。寺岡に厳しく総括要求する必要がある」といった。私も坂口氏もそれにうなずいた。この時から寺岡氏への森氏の呼びつけに、私は抵抗を感じなかった。

 森氏は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ、山田君がもうすぐ戻って来るから、山田君をオルグしよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■森は、はじめから寺岡を処刑するつもりでいた
 結果を先にいえば、数日後に寺岡は「死刑」になる。筆者の結論も先にいえば、森は最初から寺岡に殺意があったと考えている。


 まず、坂東と寺岡の山岳ベース調査が唐突に追加されたのが不自然だ。これはおそらく寺岡のいない状況を作りたかったからだ。森は、革命左派幹部で、寺岡と一緒にやってきた永田と坂口に、寺岡への処刑を納得させるための時間をつくりたかったのではないだろうか。


 寺岡が出発すると、森は、永田と坂口に、寺岡批判を開始し、たてまえ上、3つの問題点をあげたが、そんなことはどうでもよかった。すぐ、過去の活動に焦点を移し、寺岡の過去を聞きだすことによって、処刑の理由になりそうな問題をみつけだそうとした。


 改組案の話を聞いて、これだと思った森は、改組案をことさら大げさにとりあげ、寺岡を「分派主義」ときめつけた。永田が擁護する発言をすると、その擁護を「下から主義」と、永田に問題があったかのように批判した。


 こうして永田と坂口の説得に成功した森は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ」と、思わず「オルグ」という言葉を使った。これは、永田と坂口に対しても「オルグ」であったことを露呈したものだ。


 もちろん、森は、永田や坂口に「処刑する」とはいっていないから、2人とも数日後に寺岡が「死刑」になるとは想像もできなかっただろう。 だが、森の頭の中では、寺岡の「死刑」について、この日、お墨付きを得たのである。


 以上は、筆者の推測であることを強調しておくが、坂口も、森にはじめから寺岡に対する殺意があったと証言している。

 坂口は、「森は、...寺岡君のことを自己の権力を脅かす危険人物とみなし、彼を除くために、彼を総括することにきめた。...森は、寺岡君を総括にかける前から、除くことを考えていた・・・」と述べており、この点で、植垣の主張と一致している。
(「インパクション18」(1982年)水戸巌・「連合赤軍における『総括』とは何か」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html

1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真     連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)


 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判したことがあった。

■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真


 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。

 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。

 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。

 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。

 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたときもそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたときもそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。

 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。

 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。


 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


1972年1月17日 寺岡恒一への総括
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(寺岡恒一に出口はなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

今回も寺岡の話である。1月14日から続いている。


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し

 寺岡は山岳ベース調査に行っていて、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部(CC)のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。


■「永田さんと坂口さんが逮捕されればよいと思った」(寺岡恒一)

 寺岡氏はなかなか中央委員のこたつの所に来なかった。私たちから総括を課せられ冷たい態度をされていたため、来にくかったのであろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は冷たい口調で追求を始めた。寺岡は総括要求された3つの問題 について、共産主義化を理解していなかったこと、女性蔑視だったことを認めたが、それ以上はよくわからなかったと答えた。

「そんなことで総括したとはいえない。そんなことは許されない。一体、総括要求ををどう考えているんだ」
森氏の追及は非常に長いもので、それまで問題としてあげてきたことをやつぎばやに追求していくものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 寺岡君は、そうした批判を認め、他のメンバーに対して、弱点を掴み、それによって自分を精神的上位に置こうとしたとか、組織の歩みに従いていけないメンバーや権力に屈服する恐れのあるメンバーいついては殺してもよいと思っていたとか、さらに真岡銃奪取闘争を1人でやったかのように言ったこともスターリン主義的傾向の表れだった、と言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 寺岡君が認め、告白したことも、すべて森君の厳しい追求にあってしたものであり、自分から進んでしたものでないことも明らかである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうしたやりとりの中で、寺岡君は、「永田さんと坂口さんが出かけたとき、逮捕されればよいと思った。組織の金を自由に出来ないことを苦々しく思っていたからだ」と答えた。
 永田さんは怒った。私はまずいことを言ったと思った。吉野君が寺岡君の顔面を一発殴った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「坂口さんは落ちた。永田さんは軽い。森さんは倒せると思っていた」(寺岡恒一)
 森は寺岡に、「おまえは、しのぎあいを競争と取り違えている」と批判したあと、「一人ひとりをどう思っていたかいってみろ」といった。

 寺岡氏は、吉野氏は自分より下だったので対象外だった、坂東氏は軍事の競争相手と見ていたといったあと、


「山田さんは当面の自分の競争相手であり、理論的にしっかりしているようだけど、尾崎らの死体を埋めに行くときにあわてたので、落ちたと思った」


「坂口さんは永田さんに追従しているけど、殴ったりする総括要求にたいして、人民内部の矛盾だからといって動揺する気持ちをもったので、落ちたと思った」


「永田さんについては、森さんが教師で永田さんが生徒のようだと思った。だから、競争相手として軽いと思った」


「森さんは倒すのが大変な奴だと思っていた。しかし、女性関係で弱みがあるから、これをつけば倒せるだろうと思っていた」


といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 無論、無理に言わされたのであり、進んで告白したなどというものではない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私たちは、誰もこの寺岡氏による評価に苦笑しただけで、怒ったり批判したりする人はいなかった。これらの評価が一面で当たっていたからである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「殴って欲しいんだよね」(寺岡恒一)

 そのあとも森氏は追及したが、寺岡氏が急に立ち上がって、「殴って欲しいんだよね。僕は殴られることを恐れる気持ちがあるから、殴られることによって克服し、そのことによって総括したい」といった。それは思い余っての発言だった。

 森氏は冷たく、「おまえに指示されて殴りはしない。我々はもっと追及する」といってさらに追及していった。しかし、それは同じことの繰り返しであった。それで私は、「寺岡への総括要求はもはやCCだけの問題ではないから、全体で追求しよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏は、寺岡氏に、「いいか、我々はおまえのような傾向と最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」と激しい口調でいった。寺岡氏は坂口氏と吉野氏の間で正座し黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全員が起こされた頃にはもう日が変わっていた。


■はじめから寺岡に出口はなかった
 寺岡に対する追求は、総括要求された3点の問題とは、まったく別の問題で行われていることに注意したい。森の根回しによって、そもそもフェアな場ではなくなっていた。


 「全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判」(永田)を、寺岡は無理やり認めさせられたが、それを総括要求されるのではなく、「最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」といわれた。はじめから寺岡に出口はなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」


 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される


(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判


 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html

1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その1・戸惑うメンバー
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


(メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 今回掲載するの内容は、前回 から続いているが、すでに日付は18日になっていた。

 寺岡が死刑にいたる過程は詳しくみていくので、何回かに分割して掲載する。


■「永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた」(坂口弘)

 被指導部の人たちが全体会議のため集った頃は、もう18日の午前1時頃になっていた。皆は急に起こされ、一体なんだろうという様にボンヤリとしていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君に指示された永田さんが、経過報告を兼ねてアジ演説をぶった。それを聞いて、森君への”乗り移り”(これこそ本当の”乗り移り”だろう)の鮮やかさに驚いた。寺岡君の胸中は知るべくも無いが、抵抗が無かったとは到底言えまい。
 永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡の「乗り移り」とは、赤軍派の理論を受け入れたとき、革命左派のメンバーに対し得意げに語ったことから、森に「乗り移り」と批判されていたことをさす。

 しかし、皆はよくわからない様子をして少しも盛り上がれず、そのため、私の話は空回りしているようだった。私は、「どうして、こんな重大な問題にみんな黙っているの」といったが、やはり皆はぼんやりとして黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ここで吉野が、けしかけるが、やはりメンバーはピンとこない様子で黙ったままだった。

 そこで私は、「みんな判らないような顔をしているけど、考えてごらん。思い当たることがあるでしょう。みんな今まで寺岡に指導されてきたと思ったらだめよ。彼のは指導じゃないんだから」といったが、それでも誰も積極的に語ろうとしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡の何が問題なのかよくわからなかった」(植垣康博)

 私は、寺岡氏が永田さんや坂口氏が逮捕されればよいと考えていたことを大変なことだと思ったものの、寺岡氏の指導が他の指導者たちのそれと特に変わっていたわけではなかったので、一体彼の指導の何が問題なのかよくわからなかった。だから、発言しなかったのではなく、発言できなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 そうしたなかで、坂東氏が、大きな声で、「お前らひとごとのような顔をしているがなー、寺岡はなー、革命を売ろうとしたんだぞ!永田さんや坂口さんを敵に売ろうとしたんだぞ!黙っていてもしょうがない、何とかいえ!」と怒鳴った。これに、皆はびっくりし、寺岡氏を批判し始めた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 しかし、その批判の内容は、寺岡氏の指導が自分勝手で個人主義だったとか、被指導部の者への口のきき方が乱暴で官僚主義的だったというもので、寺岡氏に固有のものとはいえなかった。それは、中央委員への指導への不満を寺岡氏に集中したものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡を真ん中に引き出して追求すべきだ」(大槻節子)

 批判が活発になっていった時、大槻さんが、立ち上がり寺岡氏を指をさして、「寺岡をそんなすみに置かないで、真ん中に引き出して追求すべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 すると、寺岡氏の両脇に坐っていた坂口氏と吉野氏が寺岡氏を私たちの方へ突き出した。寺岡氏は皆に引っ張られるようにして真ん中に引き出され、私の前に正座させられた。そのまわりを皆が取り囲んだ。私は、寺岡氏の胸倉をつかむと、寺岡氏のメガネをはずしてそばにいた山崎氏に渡し、「この野郎!ふざけた野郎だ!」といいながら、顔面と腹部を1発ずつ殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣が殴ったのをきっかけに、被指導部のメンバーが寺岡を殴りだした。


■永田は寺岡を擁護しないばかりか、森の側に立って寺岡を攻撃した


 寺岡への批判の根回し は、森が指導部に行ったもので、メンバーには知らされていなかったし、そもそも悪意を持って決めつけるものでしかなかったから、急に言われても、メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった。


 坂東の恫喝によって、ようやく批判を口にしたが、「自分勝手」「口のきき方が乱暴」「官僚的」と、指導部全員にあてはまることをいっただけで、特に寺岡の問題ではなかった。


 寺岡は、革命差派時代、永田を格下げする改組案を出したことは確かではあるが、すぐに撤回している。


 当時、革命左派は、反永田機運が漂っていた。改組案撤回後は、寺岡が永田支持に回って永田を支え、協力してきたこともまた確かなのである。


 また、連合赤軍になる直前、森の革命左派批判に、永田への援護射撃を行ったのは寺岡だけであった。坂口と吉野は黙っているばかりだったのである。


 寺岡は、森に批判されるだけならともかく、永田によって、革命差派時代の全活動と人格を否定されてしまったのだから、その悔しさたるや察するに余りある。


 メンバーは、6名の死によって、「総括」は一区切りついたと思っていたので、また始まったのかとうんざりした。だが、「総括」ではすまなかった。「死刑」という「新たな地平」に連れて行かれるとは、誰も予想していなかったのである・・・・・唯一、森恒夫を除いては。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その2・森が足にナイフを突き立てる
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html

(寺岡は、坂東を刺して逃げようと思ったというが・・・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

 森は、寺岡を総括にかける際、永田にアジ演説させたが、それは寺岡が革命左派の幹部だから、メンバーを同意させるには、永田のほうがよいと思ったのであろう。


 さて今回は、いよいよ森の追求である。


■「坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」(寺岡恒一)


森  「おまえは新しい組織をつくろうとしたようだが、新しい組織づくりができると思ったのか」
寺岡 「できるとは思わなかった」
森  「できなかったら、どうするつもりだったのか」
寺岡 「逃げるつもりだった」
森  「いつ逃げようと思った」
寺岡 「坂東さんと調査に行っていた時です」
坂東 「どうやって逃げようと思った」
寺岡 「テントで寝ている時に坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」
森  「どうして坂東を刺して逃げなかったんや」
寺岡 「坂東さんにはそういうスキはなかった」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)

 (私たちは)さらに激しく怒り、寺岡をめちゃくちゃに殴った。あまりに激しく殴るため、寺岡氏が倒れないよう胸倉をつかんでいた私まで殴られる有り様だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「『おや?』と思った」(坂東国男)

(坂東は寺岡がウソの告白をしていることに気づき「おや?」と思った)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真


 ここで思い出さなければならないのは、1月16日(山岳調査の最終日) に、寺岡が坂東に、「総括ということがよくわからないんだよね」と打ち明けたときのことである。再掲載すると、、、

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 だから寺岡は、逃げようと思えば、逃げられたし、坂東を刺そうと思えば刺せたのである。それを一番よく知っていたのは坂東本人であった。

「私を殺そうとした」というのを聞いて、逆に、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず、「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「宮殿をつくって、女をはべらかせるつもりだった」(寺岡恒一)


森  「組織を乗っ取ったらどうするつもりやったんや」
寺岡 「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」
森  「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」
寺岡 「商社から金を取るつもりだった」
森  「いくら取るつもりだった」
寺岡 「数千万円取るつもりだった」
森  「そんなに金をとってどうするつもりだったんだ」
寺岡 「宮殿をつくって、女を沢山はべらかせて王様のような生活をするつもりだった」
森  「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」
寺岡 「そうしたことはないが、いろいろな女性と寝ることを夢想する」
森  「誰と寝ることを夢想する?」
寺岡 「大槻さんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 M作戦とは、赤軍派時代に行った銀行強盗 のこと。

 森に「他にはだれか」といわれて、金子、伊藤、中村、寺林、永田の名前をあげたが、寺岡はそのたびに本人たちから殴られた。

森  「お前はいったいなんのために闘争に参加してきたんや」
寺岡 「革命左派は小さな組織だったので、すぐ幹部になれると思ったからです」
森  「それなら、おまえにとっては、どの組織でもよかったのとちゃうか」
寺岡 「はい、そうです。どの組織でもよかったんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


■「ナイフを刺して追求するぞ。いいな」(森恒夫) 「うん」(永田洋子)


森  「おまえは情報を売って助かる道を確保するつもりだったといっていたが、今までに権力に情報を売ったことはなかったのか」
寺岡 「ありません」
森  「本当にないのか」
寺岡 「本当にありません」
森  「本当にないのか!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 皆も「どうなんだ!」「隠すな!本当のことをいえ!」と追求しだしたとき、森は、皆の輪の後ろのほうにいた永田に小走りに来て、「寺岡の足にナイフを刺して追求するぞ。いいな」と確認した。永田は、「うん」とうなずいた。

森  「おまえが逮捕された時(69年の9・3、4 愛知外相訪ソ訪米阻止闘争 で逮捕された時)、おまえだけが執行猶予になったなー。これはどういうことや」
寺岡 「判らない」
森  「どうなんや」
寺岡 「叔父さんに父が手を回したのかも知れないが、そのことを僕は知らない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 この追及の過程で、森は正座した寺岡の足にナイフを突き立てた。

 すると、森氏は、私に、「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ」と指示した。私は、寺岡氏の後ろに回り、寺岡氏の両手を後ろ手に持ち、押さえた。森氏は、寺岡氏の前に正座すると、再び権力との関係を追及したが、その際、いきなり寺岡氏の左腿に細身のナイフを刺した。寺岡氏は、「ううっ」とうめいき声をあげて状態をよじらせた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 突然、寺岡君の表情が苦痛に歪んだ。何事が起きたのか、と思って彼の全身を見回すと、森君が左大腿部の上で、ナイフの柄を握っていた。ナイフを突き刺したのだ!息を呑んだ。ナイフを突き刺す状況ではないし、事前に相談があった訳でもない。不意打ちである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 森君は、握った柄を時々ゆすったりした。残酷だった。寺岡君は「ううっ」と呻いたり、体を捩ったりして堪えた。こんなにされても、彼は権力との関係を否定した。私は見ていないが、この後、森君はナイフを抜いたらしい。彼の供述調書によると、ナイフの先が3センチほど曲がっていたという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「少しも彼への憎しみがわいてこなかった」(坂東国男)


森  「おまえ、一度東京へ1人でいったことがあったなあ。あれ、何しにいったんや」
寺岡 「学生時代のサークルの友だちの所にカンパをもらいに行きました」
森  「本当にそうか」
寺岡 「そうです」
永田 「あんた、あの時、帰りがばかに遅かったじゃないの?どうしてあんなに遅かったの?」
寺岡 「慎重を期して遠回りの電車で帰ったから、遅くなったのです」
永田 「ちゃんといいなさいよ。本当にそうなの」
寺岡 「本当にそうです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 寺岡は、権力との関係についてはきっぱりと否定した。

 その時、森氏は、ナイフを抜き、坂東氏に耳打ちした。坂東氏は、寺岡氏のそばに坐ると、「この野郎、本当のことをいえ」といって、ナイフを寺岡氏の左腕の付け根に差した。それでも寺岡氏は、権力との関係を否認した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 それは名誉を大きく傷つけられた彼の自己尊厳を守る最後の踏ん張りであった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうした追求のため、寺岡氏の足の下から血がしみ出して来たばかりか、腕からも血が流れて来て、私の手や袖口が真っ赤になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森同志が足を刺したと同時に、決意して腕を刺しました。しかし、決意してやってみても、少しも彼への憎しみがわいてこなかったのです。非常に矛盾していることではあるんですが。死刑を宣告したことに対しても、敵対矛盾だからやむをえないと思いつつ、同志達がナイフやアイスピックでで刺すのを外から眺めていたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、「おや?」とか「シラー」と思ったり、憎しみがわいてこなかった、とふりかえっているが、やってることは冷酷そのものである。彼はどんな状況にあっても、常に森の命令を忠実に実行した。


■判断は森の専権事項になっていた

 森の追求に寺岡はありもしない露悪をした。これまでも、厳しい追求を受けると、ありもしない露悪をするメンバーがいたが、寺岡も例外ではなかった。


 森がナイフを刺したのは、寺岡になにがなんでも権力との関係を「自白」させようとしたものだが、そんなことをしてまで「自白」を引き出すことに意味があるとしたら、それはあらかじめ予定している「判決」を正当化するためとしか考えられない。


 森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻って考え直すのではなくて、より苛酷な手段をとるのは、これまでの公式どおりである。


 寺岡が権力との関係を「自白」すれば「反革命」と断罪されるだろう。しかし、寺岡はきっぱり否定した。決して自暴自棄になっていたわけではないのである。


 では「自白」しないとどうなるかというと、これまでの公式では、「総括する態度ではない」と批判され、やはり「反革命」と断罪されるのである。事実も公式どおりとなる。


 こんなヘンテコな論理がやすやすとまかり通るのは、指導部もメンバーも思考停止し、すべての判断を森にゆだねるようになっていたからである。すでに判断は森の専権事項になっていたのだ。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その3・「革命戦士として死ねなかったのが残念です」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

(青砥幹夫のイラスト・寺岡の処刑は残酷だった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 寺岡恒一の処刑

■「反革命といわざるをえない。死刑だ」(森恒夫)


 しばらくすると、森氏は、改まった大きな声で、「おまえの行為はこれまでのことと異なり、反革命といわざるをえない。これまでと違う根本的な総括を早急にやる必要があるが、おまえにそれを期待することはとうていできないので死刑だ」といった。
 皆は、「異議なし!」といった。私も皆と一緒に「異議なし!」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「声が小さい!どっちなんだ、ハッキリしろ!」と強い口調で、再度返事を促した。その声に威圧されて、全員が、「異議なし!」と大声で答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「革命戦士として死ねなかったのが残念です」(寺岡恒一)


 そのあと、森氏は、寺岡氏に静かな口調で、「おまえに死刑を宣告する。最後に言い残すことはないか」といった。寺岡氏は沈痛な、しかし落ち着いた声で、「革命戦士として死ねなかったのが残念です」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏はセーターとシャツをまくりあげて胸をはだけると、「お前のような奴はスターリンと同じだ。死刑だ」といって、アイスピックを心臓部に刺した。しかし、一度では絶命しなかった。すると、森氏は、全体を見まわした。おそらく、誰が自分に続くのか確かめようとしたのであろう。


 私は、どのみち殺されるのなら早く殺してしまったほうがいいと考え、また、このような誰もやりたくない任務を党のために率先してやるべきだと思っていたので、「よし、俺がやる」といって、そばにいた大槻さんとN氏に寺岡氏を支えるのを代わってもらい、森氏からアイスピックを受け取って寺岡氏の心臓部を刺した。血はまったく出なかった。私は2度、3度と刺したが、絶命しなかった。


 すると、青砥氏が私に変わってアイスピックで刺した。やはり絶命しなかった。私は、脊髄の付け根の延髄を刺せば即死すると聞いていたので、「脊髄の付け根を刺せばいいのではないか」というと、誰かが寺岡氏の首の後ろをアイスピックで刺した。それでも絶命しなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 首の後ろをアイスピックで刺したのは、杉崎ミサ子である。杉崎は寺岡の妻であった。

 彼女は、寺岡君を殺すことで早く楽にしてあげようと、進んでこの辛い行為を引き受けたのだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた」(植垣康博)


 「植垣、首を絞めろ」と坂口氏がいった。私は、寺岡氏の後ろから両手を彼の首にまわして締めようとしたが、締めきれなかった。吉野氏が「ロープで締めたほうがいい」といい、誰かがサラシを持ってきた。私たちは寺岡氏を早く絶命させようと必死だった。サラシを寺岡氏の首にまいて、吉野氏や山本氏、大槻さん、長谷さんたちが両方から引っ張り上げて首を締めた。寺岡氏の体は、数分の間、けいれんしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 この時、輪の中から出てきた森氏は、その頃、皆の輪のうしろでウロウロしていた山崎氏をジロリと見て、私に、「問題だ」といった。そのあと再び輪の中に入って行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 以前から森は、総括に対するメンバー態度を、注意深く観察していた。そして、その態度によって、次に総括にかける者を選び出していたのである。

 そのうち、けいれんは間遠になり、止まった。青砥氏が寺岡氏の手首を取って脈をみていたが、しばらくして、寺岡氏が死んだことを告げた。サラシがはずされると、寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 寺岡氏が絶命したのは18日の午前7時ごろで、もうあたりはすっかり明るくなっていた。森氏が、寺岡氏の死体を床下に移すように指示した。何人かが寺岡氏の死体を床下に運んでいった。寺岡氏の坐っていたシートの上には血が沢山たまっていた。私は皆と一緒にそれをふきとったりしていたが、誰も一言も発せず黙々とこれらのことを行った。誰も大変なことをしてしまったという感じで、いうべき言葉がないようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「我々はすごく高い地平に来たのだ」(森恒夫)

 朝食後、中央委員会が開かれたが、この時ももっぱら森氏が話した。森氏は、「寺岡との闘争は、テロリズムとの闘いだった。CCのなかからテロリズムを出したのは、共産主義化の闘いが進んだからだ。我々はすごく高い地平に来たのだ」と感激したような面持ちで語った。
 そのあと、「実際に、ナイフで刺すのは大変なことだ」といって、ナイフやアイスピックで刺した坂東氏、青砥氏、植垣氏を大いに評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 続いて森は、スターリン批判を展開し、寺岡をスターリン主義ときめつけて死刑の位置づけを行おうとした。スターリン批判とは、世界革命の観点がない、官僚的、粛清を行ったという批判であった。

 私は、スターリン主義に関連付けたところに疑問を感じた。その頃は、中ソ論争の影響を受け、私たちはプロレタリアート独裁を維持したという観点からスターリンを擁護していたので、寺岡君をスターリン主義と決め付けた最初の段階からずっと違和感を抱いていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 革命左派の永田、坂口、吉野は、スターリン主義批判に同意しなかった。かといって反対もしなかったので、森は同じ主張を繰り返すことになり、中央委員会は夕食後まで続いた。それまでメンバーは、寺岡が死刑になった理由がわからなかった。


■「森君の総括を理解できた者は1人もいなかった」(坂口弘)

 全体会議は夜9時ごろから始まった。
 森は、最初、永田にメモを渡して説明をさせたが、永田はうまく説明が出来なくて、しどろもどろになった。

 森君は次のように述べた。
「寺岡の問題は、単に従来からどういう傾向を持っていたとか、どういうことをしたとかいうことではない。革命戦争をやり抜く指導部として、この間の6名の死を生んだ苛烈な革命戦士の共産主義化を主導する立場に居ながら、自己の内在的な総括をしようとせずに、反革命という名での死んだ同志への清算、競争の中でのヘゲモニー構築というスターリン主義的な政治を持ち込んだことが、今後の党建設にとって致命的な問題を突き付けてこのような闘争をしなければならなかった。6名の死以後も共産主義化の闘い−−−党建設の闘いはより高次な地平で永続的に発展することを問われており、6名の死によって、何かしら闘争が終わったということではない」
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森は、「寺岡は分派主義だ」ということも強調した。指導部に意見を言う者、つまり、イエスマンでないと分派主義者ときめつけられてしまうようだ。

 この内容を理解できた者は1人も居なかったと思う。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、指導部の寺岡氏の死刑の総括になるほどと思ったが、総括要求が更に続いていくというのには、いささかげんなりする思いだった。その頃は、なにかというと行われる会議そのものが苦痛になり出した時だったので、この思いは大きかった。しかし、そのように思っても、共産主義化を必要な闘いとみなす考えには変わりはなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった」(青砥幹夫)

 メンバーは、理由がよくわからないまま寺岡を殴り、死刑判決に「異議なし!」といわされた。「いわされた」 というのは、総括に対する態度が断固としていないと、次の総括のまな板にのせられるを知っていたから、同意するしかなかったのだ。


 組織がここまで暴走してしまうと、もはや個人の力ではどうすることもできない。

 あの場には横のつながりが一切ないのです。いかに革命兵士として充分ではないかを自己批判要求され、それを乗り越えよということを言われた。みんな一人一人になってしまっていた。総括を要求されるときも一人だし、総括を要求するから集れと言われて集っても、一人一人がバラバラに言われるから集っているに過ぎない。

 何らかの共通の認識を持って追求するということはなかった。みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった。

(「情況2008年6月号」 『36年を経て連赤事件を思う』・青砥幹夫インタビュー)


 これは、独裁者の支配体制そのままである。

 逃れる手はただひとつ、独裁者がいなくなることであろう。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

95. 中川隆[-11426] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:11:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570] 報告

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html


能力が低い人は、自分の能力が低いことに気づく能力も低い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/940.html


▲△▽▼

これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

96. 中川隆[-11429] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:58:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[567] 報告

標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU

▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78

▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


97. 中川隆[-11435] koaQ7Jey 2019年3月15日 20:27:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[562] 報告

元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚、2月5日死亡(弐)。 2011/02/07
https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html



日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww (引用)

(以下引用)

349 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:48:43 ID:9JQLFjMY0
>>336
永田洋子も連合赤軍もアカじゃないんだけど?
つか、新左翼も社民党や民主党みたいな売国反日団体のことをアカと言ったら愛国政党であり日本の民主主義と独立を守る日本共産党に失礼だ。

377 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:52:25 ID:wNZKLzaa0
>>349
日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww

392 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:54:36 ID:vD9Oy25J0
極左ってマジで怖いよな。
平気で仲間ぶっ殺すし、銃乱射して住民虐殺するし。
火炎瓶千葉が保身のために、死刑囚をぶっ殺したのも頷けるわ。

434 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:59:31 ID:9JQLFjMY0
>>377
日本共産党と連合赤軍みたいなトロツキスト団体は全くの別物だよ。共産党を除名されたカスがソ連や中国の支持の元に社会党や在日と連合したのがそもそもの新左翼なんだから、日本共産党とは敵対関係だよ。

実際に血で血を洗う抗争を続けてきたし、新左翼を擁護する社会党(社民党)やプロ市民と違って共産党は一貫して新左翼による暴力行為には反対してきた。

福島や辻本や菅や仙谷みたいなテロリストが社民党や民主党に多い理由も、上記の通り。

466 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:03:13 ID:wNZKLzaa0
>>434
朝鮮人そそのかして暴動やテロを起こしてきた代々木(日本共産党)が言える台詞ではありません。

477 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 10:04:55 ID:9JQLFjMY0
>>466
朝鮮人とは縁を切ったし、ソ連や中国とも関係を断ち切ったから大丈夫。そのお陰でサヨク全盛時代にも社会党に負けっぱなしだったけど、日本の名誉と独立は守れたぞ。

495 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:06:49 ID:wNZKLzaa0
「不屈の共産主義・よど号30周年記念の集い」(平成12年開催 公式サイト消滅)
民主党沖縄県連代表喜納昌吉議員が赤軍派よど号ハイジャック30周年記念式典の呼びかけ人

http://members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (公式サイト消滅)
http://megalodon.jp/2010-1020-0431-29/members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (魚拓)

505 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:07:53 ID:yrDY2JJs0

この当時の革命戦士(笑)の人の殺し方

1、お前の革命理論は間違ってる!と言いがかりをつける。
2、何処が間違ってるかの説明はしない。
3、被害者が、なぜですか?といったら、こう答えればOK

なぜ?だあ?お前、今、我々の崇高な革命理論に疑問を持ちやがったな!!
粛清してやる、有りがたく思いやがれ!!

4、あえて、理屈を言わないのがポイント!被害者の方が頭良かった場合
  論破されるから!

と、言うワケで革命戦士(笑)に正しい革命理論なんてありません!!ヘタに理論を出して、論破されると、自分が粛清されちゃうからです!

その、証拠に、殺された人達は革命理論が元で殺されたのではなく、キスしてたとか、ジュース飲んでたとか、生意気だからであって、

別に革命に付いて話し合いの末、意見が分裂して殺害されたワケじゃありません!!!!

530 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:10:55 ID:/6dsAl6r0
>505

結局宮本の真似だよね。

543 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:12:23 ID:Xe9bLBzkO
>>392

結局、自己正当化の為に敵見つけて悪魔化レッテル貼りのイチャモンつけて「アイツより俺の方が良い(マシ)だろ?な?」というやり方でしか勢力拡大出来ない根本的・絶対的に見ると「無能」な連中なのよ(´・ω・`)

だから、外に敵が居るうちはそれはもう身内に対しては親分気取りで虚勢張って、ジェントル(笑)な振る舞いでイキイキと輝いているように「見せかける」のが得意だが、

「外の敵」(笑)と何らかの理由(敵失・実力差がありすぎてとても戦えない等)で戦えなくなると、今度は身内の中から「敵」を見つけ出し始めるわけ。

(勿論「アイツより俺の方がマシだろ?」の自己正当化の為w)これがブサヨの十八番「内ゲバ」であり「粛清」。

粛清は大して能力無い癖に自己正当化と権力拡大・維持したいような権力志向だけが強い尊大なゴミみたいな奴にとっては実に便利な魔法なのよねw

日本古来の哲学
(他人がどう言おうが、或いは他人と比べて上か下か等という相対評価がどうであっても自分の心が納得しなければその道を究める事を止めない職人的気質)とは全く相容れない

考え方>相対評価さえ高ければ良い、自分の相対評価上げるためにはどんな方法使っても他人を貶めて自分をよく見せて権力さえ掴めばいい、という考え方。

602 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:18:20 ID:IXYlzecWO
永田と親交のある大臣いそうだな(笑)
民主党なら可能性ゼロじゃないw
枝野の革マル献金もあるしw

630 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:20:57 ID:QgGD42bU0
>>392
極左じゃないよ、サヨク一般の本質。 権力を手にする前は、国民がとか、市民がとか人権とか、福祉とか優しいことを並べ立てるが、権力を手にすると(それがセクト内のものであっても)その権力をすぐに絶対化する。独裁、粛正、言論統制は思うがまま。

今の民主党がそう。

民主党の自衛隊に対する態度などまさにそう。

サヨクというのは本質的に冷酷、残酷、そういうことを人類は20世紀の間に数億人の犠牲の代償として学んで、もう既に常識になってる。なのに、この日本だけはぬくぬくと現実から隔離され、そういうサヨクが生き残ってる極めて稀な国。小沢とか、管とか、北澤とかの言動みてみ、あいつら政権とったら何してもいいって本気で思ってるから。

635 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:21:09 ID:kq47F2QW0
山岳ベース事件か。

田原総一郎とかの仲間。

642 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:21:27 ID:gfXPqzdv0
男なら オウム真理教 麻原彰晃
女なら 連合赤軍    永田洋子

日本犯罪史上に燦然と輝く二大テロ集団の頭目にして
大量リンチ殺戮者 手段は『ポアしろ!』 『総括しろ!』 → 『友愛しろ!』(最新進化型)

その永田洋子(享年65歳)のおトモダチであった菅直人、岡崎トミ子、仙谷ら
旧学生運動家は、年をとっても 相変わらず党内で内ゲバに明け暮れている。
まるで進歩ナシw
特に菅首相(当時東工大)は、当時の公安だった佐々淳行から、
デモの先頭でアジ演説をやってたと思ったらいつの間にかいなくなる
『逃げ足の菅ちゃん』と呼ばれマークされていたwww

当時の呼び名

菅直人(当時東工大 64歳);逃げ足の菅ちゃん
岡崎トミ子(当時高卒 66歳):爆弾おトミ
仙谷由人(当時東大 65歳):弁当運びのヨシト

・行方正時(享年22)
  坊ちゃん育ちのため、当時、永田や森に目をつけられた
  成れの果ての図


画像


686 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:25:09 ID:wSTnRItS0
定期的に永田と重信を混同した問いが入るが、何なんだ?
なんかのお約束なのか?

ブス永田
プリティ重信
 ↑
とりあえずこれで暗記しとけ!

692 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:25:27 ID:kq47F2QW0
前原・仙谷・野田あたりは、弔意を示しているんじゃないか?

田原総一郎はこの種類の人間。
あとみのもんたとか、テレビ局の顔になっているキャスターに、こいつらと同じ傾向じゃないか、
って人間は多い。

720 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:28:09 ID:gfXPqzdv0
【一方、当時のブサヨの同志は今… スーパーでサキイカを万引きしてたwww】

http://live14.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1106746117

かつて国際指名手配にまでなった日本赤軍コマンド、山本万里子、赤軍解散後の現在、東京都内で生活保護を受けています。本年、コンビニで万引きして身柄保護も受けました。その際、新聞に出て判明しました。

勿論、生活保護はその後も継続されています。執行猶予も取り消しにはなっていません。ニッポンは寛大で甘い良い国ですなー。

http://www.jimmin.com/2002a/iwase_02.htm

http://blog.livedoor.jp/milkbottle/archives/23035047.html

日本赤軍にヘキサゴン

山本万里子がスーパーでさきイカを万引きしたこと、小さな事件だったが世間の嘲笑をかっただろう。生活保護を受けていた身、万引きしなくても暮らせたはず。赤軍コマンドが万引き、さきイカだよ、何と恥ずかしい。重信は支援者から豊富な資金カンパ、64歳の山本万里子は放置、仲間内の支援もなく、山本の過去は犯罪の経歴しか残らない。

763 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:32:46 ID:xpEwIex00
森と永田


画像


790 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:35:07 ID:FyjCjNmw0
赤軍のリンチの内容って、通州事件で、中国人が
日本人の妊婦を生きたまま、
胎児をはらから取り出したとか、内容が似ている。

共産主義にかぶれると、ああいう残虐なの平気になるらしい。

812 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:37:03 ID:39seb6Rt0
旧社会党にはこの永田のお仲間がたくさんいたし、その社会党から現在の民主党に流れ着いてる人間がまたゴマンといる。仙谷やら千葉やらトミ子やら……だけではない。

そういう民主党に、小沢が代表する旧自民党の腐敗金権体質がドッキングして力をつけ、政権奪取に至った。

いわば、今の政府は「赤と黒」で出来ている。まともな国になるわけがないよね。

824 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:38:23 ID:tprml/qG0
日本帝国主義=悪 共産主義=善 だと妄信していたのです。一番悪いのは、歴史を捏造したGHQなんですけどね。

団塊の世代は、皆が貧しかったですから。万人の平等という言葉に惹かれたんでしょう。

彼等も最初は被害者だったと言えるかもしれません。

908 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:46:03 ID:gfXPqzdv0
『森さん、あなたはズルい、ズルい、ズル〜〜い !』

共犯者、連合赤軍最高幹部 森恒夫の首吊り自殺の報を聞いて 永田洋子談話

954 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:50:33 ID:sbFdpP3w0
連合赤軍って主要な実力者が全部海外にでちゃって
ボロボロの赤軍と横浜連合?とかいうところがくっついてできた
もう終わってた組織だよね

https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html

98. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2019年3月16日 10:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[565] 報告

[橘玲の日々刻々]
日本の若者が極右化しているのではなく 革新=リベラルが絶望的に退潮している

若い世代の政党支持で特徴的なのは、安倍政権(自民党)への支持が高いことではなく、野党への支持が極端に低いことだ。高齢層では10%ちかくが野党第一党(旧民主党・民進党)を支持していたものの、若者のあいだでは2%に満たない。その一方で、右側の政党と見られている自民党は、左派や穏健左派の若者からもかなりの支持を得ることに成功している。

 この状況を著者たちは、「若者自体はイデオロギー軸上の真ん中に留まって、政治に関心を払ったり払わなかったりしているのだが、それと同時に、左側の選択肢に対する信頼を失っているという状況が、表面上は保守化のように見えるのであろう」と述べている。若者には棄権するか、自民党に投票するかの選択しかないため、自民党への投票割合が他の世代に比べて高くなるというのだ。

 これはたしかに説得力があるが、『朝日ぎらい』で指摘したように、若い世代では男女で自民党(安倍政権)への支持率が大きくちがう。2017年10月の日経新聞の調査では、18〜19歳の女性の自民党支持率は33%で女性の平均(36%)より低いが、男性の支持率は55%で平均(43%)を大きく上回っている。20代でもこれは同じで、女性の支持率は37%で男性は54%だ。これほど大きなちがいは、やはりなんらかの説明が必要だろう。次は「若い男性の自民党(安倍政権)支持」についても通説を検証してほしい。

日本社会は革新=リベラルが絶望的なまでに退潮している
 現代日本における政治イデオロギーを実証的に検証した『イデオロギーと日本政治』を読んで感じるのは、日本社会は保守化・右傾化しているのではなく、革新=リベラルが絶望的なまでに退潮しているということだ。革新政党を自認する共産党は、若者からは「保守政党」と見なされている。それ以外の生まれては消えていく野党も、保守かリベラルかというイデオロギー対立以前に、そもそも政治勢力として扱われていない。

 日本の「左翼」は、冷戦下に「護憲」「非武装中立」という非現実的な理想にしがみつき、冷戦が終焉してグローバル世界のルールが大きく変わっても自らの政治イデオロギーを修正することができず、エリート的な「無謬神話(自分はぜったい間違えない)」で巨大な墓穴を掘ることになった。そのなれの果てが現在の「安倍一強」だと考えれば、そこになんの不思議もない。

「リベラル」を自称するひとたちは「立憲主義を踏みにじる」安倍政権をさかんに批判するが、その声高なプロパガンダが若者たちからほとんど相手にされないのは、安倍政権を生み出したのが自分自身だという「事実(ファクト)」から目をそらせているからだろう。こうして、「民主主義を守れ」とこぶしを振り上げれば上げるほど若者たちは政治を忌避するようになる。――日本の大学では、政治の話をするとKY(空気が読めない)のレッテルを貼られて仲間外れにされるのだという。

 実証データからわかるのは、日本の若者も他国の若者たちと同じように「リベラル化」しており、変化や「革新」を求めていることだ。ところが日本の「リベラル」はそうした期待にまったくこたえることができず、憲法から築地市場移転まで「変える」ことに頑強に反対してきた。その致命的な失敗を自覚しないかぎり、日本において「リベラルの復権」はあり得ない。

『イデオロギーと日本政治』の最後で著者たちは、イタリアとの比較で、日本の政治イデオロギーの特殊性に触れている。イタリアでは冷戦時代の政党がすべて消滅するほどの大きな変化が起きたにもかかわらず、「右派」「左派」のような政治イデオロギーの指標は世代にかかわらずすべての有権者に共有されているのだ。

 このちがいを著者たちは、「多くの国では、社会的な亀裂は共通の政治体験と政治的言説を次の世代に伝達する役割を果たしている。日本においてはそのような亀裂がないため、若い有権者が政治の複雑な世界にうまく向き合いにくくなっている」と説明する。欧米は階級・宗教・地域社会、あるいは人種的な亀裂に基づいて分断されているが、日本にはそのような分断がないため、政治イデオロギーが固定せずに浮遊してしまうのだ。

 これは、「日本において民主主義の原則と制度が疑問視されていない」ということでもある。著名な国際政治学者であるイアン・ブレマーは、「大国の中で民主主義が比較的うまく機能しているのが日本だ」と述べているが、それも国民の統合度の高さから説明できるかもしれない。
https://diamond.jp/articles/print/196823
https://diamond.jp/articles/-/196823

99. 中川隆[-11430] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[567] 報告


街場の平成論のまえがき - 内田樹の研究室 2019-03-16
http://blog.tatsuru.com/2019/03/16_1045.html


「街場の平成論」(晶文社)
https://www.amazon.co.jp/%E8%A1%97%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E8%AB%96-%E7%8A%80%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4-%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9/dp/4794970374


がもうすぐ書店に並ぶ。

私が編著で、寄稿してくださったのは小田嶋隆、釈徹宗、白井聡、仲野徹、平川克美、平田オリザ、ブレイディみかこ、鷲田清一という方々である。

 「平成を回顧する」という趣向の原稿は私自身ずいぶんあちこちに書いた。そういうタイトルの書物もこれからいくつか出されるだろうと思う。他の方々はどんなふうにこの30年を総括するのかとても興味がある。

 予告編として「まえがき」を掲載しておく。


 みなさんこんにちは、内田樹です。

 本書は平成の30年間を回顧する論集です。どういう趣旨の書物であるかを明らかにするために、寄稿者たちに執筆依頼した文章をまず掲げることにします。

 みなさんこんにちは、内田樹です。

 この出だしを見て「おお、また『あれ』か・・・」と身構えた皆さん、勘いいですね。ご賢察の通りです。内田を編者にしたアンソロジーの企画をまたまた晶文社の安藤聡さんが立案しました。今回のテーマは「平成を総括する」です。これはみなさんにご寄稿をお願いするメールであります。

 この30年ずいぶんたくさんの事件があり、世界の表情はずいぶん変わりました。

 30年前、平成が始まった年、1989年のことをみなさんは覚えておいでですか。

 89年というのは、北京で天安門が起き、ポーランドで「連帯」が圧勝し、ケ小平から江沢民への世代交代があり、ドイツのホーネッカーが失脚し、ソニーがコロンビア映画を買収し、三菱地所がロックフェラーセンターを買収し、ベルリンの壁が崩れ、ルーマニアのチャウシェスクが失脚し、日経平均株価が史上最高値を記録した年でした。それに加えて、わが国では昭和天皇の崩御と、今上天皇の即位があったのです。ちなみに首相は竹下登、宇野宗佑、海部俊樹と一年間で三人を数えました。

こう列挙してみただけで、それからの30年で世の中の「空気」がずいぶん変わってしまったことに気づくはずです。

 僕たちは出来事が起きた後に回顧的に過去を振り返りますので、1989年から2018年まで、すべての出来事は因果関係に従って経時的に継起してきたと考えがちです。

 でも、ほんとうにそうでしょうか。ちょっとだけ、時計を30年戻して、1989年を思い出して下さい。みなさんはその時に「これから世界はどうなるだろう」と予測していましたか? 30年後の世界が「こんなふう」になっていると想像していましたか?

 想像していなかったと思います。

 あの年に、30年後にはロシアの市民たちがプーチンのような強権的な支配者を歓呼の声で迎え、習近平が軍事的・経済的成功を背景に毛沢東以来の個人崇拝体制を再構築し、アメリカがドナルド・トランプのような知性と倫理性にともに問題をかかえた人物を大統領に戴くことになると想像できた人なんて、ほとんどいなかっただろうと僕は思います。

 少なくとも、僕はまったく想像していませんでした。

 僕は東欧の市民革命はさらに進行するだろうと思っていました。ロシアは覇権国家としての行き方を放棄し、二度とかつての国威を回復することはないだろう。中国政府はいずれしぶしぶとではあれ民主化に譲歩して、市民社会の成熟と歩調を合わせるようにして近代化を遂げるだろう。そして、日本についてはこう考えていました。

 日本はさらに金持ちになるだろう。世界中の土地や権益を買い漁り、札びらで相手の頬を叩くようなしかたで世界各地に事実上の「植民地」を手に入れるだろう。宗主国アメリカには欲しがるだけの「小遣い」を渡してうるさい口出しを封じ、そうすることで「国家主権を金で買い戻す」という世界史上どんな国も果たし得なかった偉業を成し遂げるだろう。その成功体験は日本人すべてが自信たっぷりの厭味な拝金主義者になるという重篤な副作用をもたらすだろう。

 漠然とそんな未来を僕は予期していました。きちんと書き留めておいたわけではないので、いくらかは「後知恵」も含まれていますが、それでも「社会主義圏に強権政治が復活することはもうないだろう」、「これからは軍事力の多寡ではなくて、提示できるグローバルなヴィジョンの良否が国際関係でのイニシアティヴを決するだろう」、「日本は世界一の金持ち国になるだろう」ということについてはかなりの確信を抱いていました。

 でも、この予測はことごとく外れました。

 もちろん89年時点でも、30年後に世界がこんなふうになる「芽」のようなものはあったはずです。あったからこそ「こんなこと」になったわけですから。でも、それはほんとうに「芽」のようなものに過ぎなかった。それ以外にもっと将来性のある「芽」がたくさんあって、すでに枝葉を茂らせていて、あと少しで花を咲かせようとしていた。

 でも、30年経ってみたら、期待されていたような花は咲かず、まさかと思われた「芽」ばかりがすくすく育って、「こんなふうになるとは思わなかった」世界が現実のものとなった。

 どうして「起きてもいいこと」が現実にならず、「起きるはずがなかったこと」の方が現実になったのか?

歴史家はふつう「起きなかったこと」については「それはなぜ起きなかったのか?」というような問いは立てません。でも、「起きてもいいことが起きなかったのはなぜか?」というのは世界の成り立ちと人間の行動を根源的に考察するときに有効な問いのひとつだと僕は思っています。

 今回はみなさんには平成の30年間の総括をお願いします。どんなトピックをどんな切り口で論じて頂いても結構です。

でも、執筆者のみなさんに僕から一つだけお願いしたいことがあります。

 それは今から30年前、1989年時点に想像的に立ち戻って、まだ「未来が霧の中」だった時に、みなさんが感じていた期待や不安やときめきを思い出してほしいということです。その時点で望見していた30年後の世界と、現実の世界を並べて、少しだけの間その二つを見比べて欲しいということです。書き始める前の「儀式」として、一度だけやってみてください。僕からはそれだけです。
 どうぞよろしくお願い致します。

2018年8月1日 内田樹

 というのが、僕から寄稿者たちへの依頼の文章でした。

 今回集まった原稿を通読してみましたら、果たして全員が「1989年時点で、まだ未来が霧の中だった時点に想像的に立ち戻る」という「儀式」を済ませてから書き始めてくださっていました(そう思います)。そして、全員が「30年前にはまさかこんなことになるとは思わなかった」という感懐を抱いていたように思われました。

 まえがきとして、ここでは「どうして僕たちの未来予測はこんなに劇的にはずれてしまったのか」について考えてみたいと思います。

 本書の寄稿者の中では仲野徹先生が「予測不能性」を主題にして書かれていました。その中で1960年に当時の科学技術庁が21世紀の科学的達成を予測した書物に言及されています。予測のうち当たったのはわずか2〜3割だったそうです。

 医学分野では、感染症は根絶され、人工臓器が開発され、臓器移植は実現されず、ストレスフルなライフスタイルのせいで胃潰瘍(!)が代表的な消化器疾患になっていると予測されていましたが、現実には、根絶された感染症は天然痘だけでしたし、人工臓器開発は進まず、逆に臓器移植は長足の進歩を遂げ、胃潰瘍は特効薬が開発されて、重篤な病気ではなくなりました。

 自然科学はそれまでの達成の上に新しいものが付け加わるという直線的な開明と高度化のプロセスをたどります。世界の仕組みは科学の進歩によって間違いなくより明らかになってゆきます。「科学技術が次第に退化する」とか「重要な科学的発見がどんどん忘れられてゆく」というようなことは自然科学の分野では起こりません。それでも予測は困難なのです。ましてや、政治や経済においておや。

 というのは、政治経済領域では、政治家やビジネスマンの資質が劣化するとか、歴史的教訓が忘れられるとか、深遠な知見が打ち捨てられるとかいうことはまさに日常茶飯事だからです。開明化・高度化した場合に何が起きるかを予測しなければいけないだけではなく、迷蒙化・暗黒化したり、あらぬ彼方へ逸脱したりした場合も勘定に入れて僕たちは未来を予測しなければならない。当たるはずがありません。

 でも、外れる予測をそれでも繰り返し立てることはたいせつな仕事だと僕は思います。それは「どうして起きてもよい『あのこと』は起きなかったのか?」という問いと「どうして起きなくてもよかった『このこと』は起きてしまったのか?」という問いを組み合わせることで、僕たちの生きるこの世界はより一層複雑なものに見えてくるからです。

 ただでさえ複雑な世の中をよけい複雑にしてどうするんだと苛つく方もおられるかも知れません。でも、複雑なものを複雑なまま扱うというのも重要な知性の働きです。その作業を遂行するためにはタフな知力が要ります。

 「タフ」というのは、質はともかく丈夫であるということです。いろいろなものを詰め込める。いろいろなものを詰め込んでも壊れない頭のことです。複雑なものを複雑なまま扱うためには「よい頭」というよりはむしろ「丈夫な頭」が要るのです。

 頭のいい人は複雑なものを複雑なまま扱うことをしません。複雑な話を単純化する手際にこそ「頭のよさ」が鮮やかに示されると彼らは信じているからです。実際、頭がいいとそういうことができるのです。ややこしい話を切れ味よくすぱっと切り分けて、われわれを「なんだ、こんなに簡単な話だったのか」と得心させてくれる。読者としては知的負荷が一気に軽減するので、こんなにありがたいことはありません。ですからつい、そういう切れ味のよい仮説に飛びついてしまう。

 でも、申し訳ないけれど、「切れ味のよい仮説」の賞味期限は人々が期待するほど長くはありません。すぐにその仮説ではうまく説明できない事象が出来する。そのときに「あ、自分の仮説は間違っていた」とさくっと自説を撤回しださるといいんですけれど、なかなかそうはなりません。というのは、「頭のいい人」の頭の良さは「複雑な話を単純化する」ことと同じく「自分の間違いを間違っていなかったかのように取り繕う」手際において際立つからです。これは長く生きて来た僕が確信を込めて断言することができることの一つです。ほんとうにたいしたものです。思わず拍手したくなることさえあります。

 でも、そうやってご自身の知的体面は保ったとしても、それは集団的な知性の働きには資するところがありません。資するところがないどころか、むしろ有害です。

 うまく説明できなことは「うまく説明できないこと」として、そのままパブリックドメインに公開しておいて、誰か説明できる人の出現を待つというのが知性のほんらいのマナーではないかと僕は思っています。自分には説明できないことでも、誰か別の人や、未来の人なら説明してくれるかも知れない。ですから、その人たちが仕事をしやすいようにしておく。「この問題は解決できませんでした」、「この事象は説明できませんでした」、「こんな出来事が起きるとは予測もできませんでした」というわれわれの知性の不調についてのタグをわかりやすく、見やすいところに付けておく。

 世の中には「これ一冊読めば目から鱗が落ちて、世界のすべてのことが理解できる」という触れ込みで書かれる本もありますし、本書のように、知性の不調についての点検報告書のような本もある。

 でも、そういう作業は絶対に必要だと僕は思います。みなさんだって、自分の車を仕業点検するときには、「ブレーキの効きが悪い」とか「エンジンから異音がする」ということの方を「オーディオの音質がすばらしい」とか「シートの革の艶がみごと」ということよりも優先的に配慮しますでしょ。不調を放置しておくと命にかかわるから。こういう問題だって同じです。

 というわけで、僕がこの本の寄稿者に選んだのは「頭のいい人たち」というよりは「頭の丈夫な人」たちでした(こんなことを書くと怒られそうですけれど)。寄稿者リストを作ったときにはそんなことを考えて選考したわけではないのですけれど、集まった原稿を読んだら、そういう印象を受けました。みなさんも最後まで読んで頂ければわかりますけれど、読み終えて「なるほど、そういうことだったのか。なんだ世の中というのは思いのほか簡単なものだったのだな」と膝を打つということは絶対にありません。それは保証します。寄稿者のみなさんは、書きながらどんどん話を複雑にして、収拾のつかない難問のうちにどんどん踏み込んでいって、途中で「紙数が尽きた」で読者を放り出して終わり・・・という感じです(わりと)。

 読者サービスという点ではいささか問題がありそうですけれども、でも、「読んですっきりする」ということと「読んでどきどきする」というのはレベルの違う経験なんです。

 複雑な世界をその複雑さ込みで高い解像度で記述するというのは、なかなかたいした仕事なんです。ほんとうに。そういうものを読むことはある種の高揚感をもたらします。それは、複雑に見える世界が実はとても単純なものだったという「心安らぐお話」を聴かされてほっとするときの安堵感とは異質のものなのです。

 本書がそういう種類の高揚感をもたらすものであることを編者としてはつよく願っています。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/16_1045.html

100. 中川隆[-11427] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:32:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570] 報告

「民安かれ」の経済学 〜 山本勝市著『社会主義理論との戦い』から 2019/03/15
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_3.html


■1.山本勝市博士の戦い

「社会科学とはかくも進歩しないものなのか」と、このほどKindle版として復刻された

山本勝市博士の『社会主義理論との戦い』
https://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%9D%E5%B8%82%E5%8D%9A%E5%A3%AB-%E8%AB%96%E6%96%87%E9%81%B8%E9%9B%86-%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%A0%94%E5%8F%A2%E6%9B%B8-No-21-ebook/dp/B07MPQ2BC1?SubscriptionId=AKIAJZPZKAA66PNS4ODQ&tag=japanonthegl0-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B07MPQ2BC1


を読みながら思った。

 山本博士は大正末期から昭和の初めにかけて、ドイツやソ連に留学し、そこでの統制経済や共産主義の実態を見聞して、帰国後、社会主義理論の誤りを学問的に訴え続けた。大東亜戦争直前の昭和12(1937)年から始まった統制経済に反対した著書『計画経済』は革新派軍人たちから絶版を勧告され、戦時中には教職から追放された。

 戦後は一時、国会議員として活動していたが、今度は共産主義者らの策謀によって、公職追放処分を受けた。さらには追放期間に「統制経済より自由経済の方が良い」という講演をして、東京高裁から禁固8か月の判決を受けた。追放が解除された後には、自由民主党政調副会長など要職にあって、自由経済による戦後復興を導いた。

 今日においては、「統制経済より自由経済の方が良い」とは当然至極の「常識」になっていると思っていたが、その「常識」は、山本博士のような人々の体を張った言論活動のおかげで根付いたものだ、と知った。同時に、現代世界においても、山本博士の主張がまだまだ理解されていない面が多分にあることを考えさせられたのである。

■2.文在寅政権の「根本的誤謬」

 統制経済とは、商品やサービスの価格を政府が人為的に決めてしまう「価格統制」が出発点となる。たとえば、賃金は労働の「価格」であり、最低賃金を市場の賃金とかけ離れた水準に政治的に決定してしまうことは価格統制である。

 これを行っているのが、韓国の文在寅政権だ。大統領選での公約を実現しようと、2年間で約30%もの最低賃金引き上げを行った。各種の手当てを含めると時間990円相当。わが国の東北や四国、九州の760円よりはるかに高く、東京の985円すら上回る。

 山本博士は、すでに80年近くも前、昭和15(1940)年の『社会主義計画経済の根本的誤謬』の中で、最低賃金を上げる政策が「根本的誤謬」であることを、こう説明している。

__________
 他の労働者を犠牲にすることなくして労賃を高める方法は、資本の増加又は生産過程の改善によって、労働の一般的生産性を高めるといふ以外に方法はない。
もし政府が単に最低労賃の立法によって自然労賃を高めるならば、企業のうち自然労賃で漸く引合ってゐたものは損失を免れず。従って生産を縮小して労働者を解雇する外はなくなる。かくて、外部からの人為的な市場労賃引上げの結果は失業労働者の増加といふ現象となってあらはれ、・・・[1, p112]
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 山本博士の指摘通り、韓国の本年1月の失業率は4.4%と急上昇し、世界的な金融危機の影響を受けていた2010年1月の4.7%以来の最悪となった[2]。韓国最大の新聞社「中央日報」は「若者に恥ずかしい最悪の大卒失業率=韓国」と題した社説で、次のように文政権を痛烈に批判した。

__________
教育部が卒業生57万人を全数調査(2017年末基準)したところ、就職率が前年(67.7%)より1.5%ポイント下がった66.2%にとどまった。2011年以降就職率が67%以下に落ちたのは今回が初めてだ。雇用政府を前面に出した文在寅政府にもう一つの雇用惨事が追加されたわけだ。[3]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大学を卒業しても3人に1人が就職できないのでは、かつての日本の就職氷河期なみだ。アベノミクスで好転した日本の就職内定率98%と比べれば、天地の差がある。どうりで日本企業への就職を目指す韓国人青年が多いはずだ。

 文政権はこの「雇用惨事」をなんとか取り繕おうと、公共機関に短期バイト採用を割り当てて、「雇用粉飾」という批判まで浴びた。「価格統制」が需給のアンバランスを引き起こし、それを抑えるために、今度は「需給統制」にまで手を広げざるをえなくなっていく。こうして統制の網は限りなく広がっていくのである。


■3.市場の調整機能を無視して「介護人材が38万人不足」?

 日本も他人事ではない。「2025年には介護人材が38万人不足する」などと喧伝され、その対策として外国人労働力導入が不可欠である、というような説がまことしやかに唱えられる。これも一種の需給統制ではないか。

 経済企画庁経済研究所長などを経て、現在、大正大学地域創生学部教授の小峰隆夫氏によると、こうした労働力不足の計算は、賃金や生産性、企業の参入や撤退など、すなわち市場による調整は無視して、単純に需要と供給が現在の動向を続けたら、両者のギャップがどれだけ広がるのか、という計算をしているという。

 市場調整機能のもとでは、介護人材が不足すればその分野の賃金水準が上がり、他分野から介護分野に入ってくる人々も当然でてくる。また、企業側でも賃金上昇を吸収すべく、生産性向上に努める。介護作業におけるロボット活用などで、一人の介護士がお世話できるお年寄りの人数が増えれば、不足人数も圧縮できる。

 こういう生産性向上が進まない企業は高い賃金を払えずに、市場から退場していく。その分、生産性の高い企業が事業を拡大して、このプレーヤー交代だけで、業界の平均的な生産性も上昇し、不足人数も減る。

 こういう市場による調整機能こそ、自由経済の本来的な強みであるのに、それを無視した需給を計算しているのでは、まさに統制経済での官僚仕事そのものではないか。


■4.統制経済は人智を超えた所業

 市場の調整機能を無視した価格統制や数量統制がうまくいかない例を、山本博士は戦時中の配給制度の経験で紹介している。

__________
 過般も筆者は、山口県宇部市を訪問し、そこの肥料会社の首脳者から、肥料は倉庫に充満して仕末に困つてゐるといふ話から、統制会社の配給無能力に関する満々たる不平を聞かされた。
然るに他方農民にとつて、肥料は赤子に乳の如き状況にあることは申すまでもないのに、それがなかなか配給せられず、たまたま配給せられても、適当な時期に届かぬといふ不平は、何人もしばしば聞かされてゐる所であらう。[1, p314]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山本博士は、この原因が戦争中の輸送能力不足とか、統制会社の無能力ではない事を、素人にも分かりやすく説明している。輸送能力が原因ではない事は、日清戦争でも日露戦争でもこんな問題は起きておらず、ひとえに配給制度を採用した今次大戦でしか見られない現象であることから、明らかだという。

 また、原因を「統制会社の無能力」に帰するのも間違いで、そもそも厖大な商品点数、様々な生産地、消費地、流通経路を計画すること自体が、人智を超えた所業である事を、次のような例で説明する。

__________
 北海道の石炭増産計画を成功せしめるためには、横浜や門司の荷上げ人足の募集計画のみならず、荷揚げ人足の住宅計画から、其の子供の学校教室の建築計画。そのための大工、左官の計画から、木材の運搬伐採の計画。運搬人、伐採人の住宅計画から米の計画……といふ如くに、世の中にありとある一切の生産配給の計画が総合的に樹立されてゐなければならぬ。[1, p324]
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 山本博士はこうした統制経済に反対する主張をしたために、戦前戦中は革新派軍人に睨まれ、戦後は共産主義者たちの策略で公職追放処分を受けた。両者とも同じく統制経済を信奉しているからだ。


■5.「生活保護で貰ったお金をパチンコに使って何が悪い」

 統制経済の後継思想が「福祉国家」である。ソ連などで、計画経済に基づく共産主義体制の失敗が明らかになると:

__________
多くの社会民主主義者たちは、生産手段の公有制による中央集権的計画経済という手段を断念した。
 しかし、富と所得の平等分配という目的を放棄したわけではなく、・・・生産手段の私有制、市場メカニズムをそのままにして、富と所得の平等化という社会主義本来の目的を徐々に実現しようと考えるに至った。
 これがいわゆる「民主社会主義」の台頭であり、「福祉国家」の着想である。[1, p162]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「富と所得の平等分配」がうまくいかない、という事は、革命直後のソ連がすでに経験している。

__________
 一九一七年秋の共産革命によつて大地主、寺院等から没収された土地は、細分して土地をもたぬ農民たちに分配せられた。そして自家用としての保有穀物を除く剰余は、すべて供出せしめる方式が採られた。
ところが農民の供出成績は香(かんば)しく行かないために、都市住民の食糧不安となり、遂に、武装徴発隊を組織して強権を以て供出せしめようとしたが、至る所に農民の一揆を見たのみならず、農業生産は一路減退して、農民たちは辛うじて自家の糊口をしのぐだけを作るに止める、といふ傾向を示すに至つた。
 ここにおいて都市の食糧不安は容易ならぬ事態となり、一面では、農業の全面的社会主義化の提唱もあつたにかかはらず、レーニンが事態の打開のためにとつた政策は、社会主義化とは正反対に「中農の要求を容れて、穀物の自由取引を認むる」ことを本質とするいはゆる新経済政策であつたのである。[1, 374]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国が生活保護を提供するのが当たり前になりつつある現代日本では「生活保護で貰ったお金をパチンコに使って、何が悪い」というような主張をする輩までいる。それに対する明確な反論を山本博士は用意している。

__________
・・・国家が保障するとか、全体の責任だとかいっても、事実国民のある人々が受取るものは、必ず国民の他の人々から与えられねばならないのだ。[1,p164]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点に気がつけば、「他人が働いて稼いだお金を巻き上げてパチンコに使うのを、君は正しいと考えるのか」と反論できよう。


■6.「国家が保障するということは、官吏の手に委ねること」

 もう一点、山本博士が指摘するのは、「国家が保障するということは、実はその配慮を官吏の手に委ねる、ということである」という点だ。

__________
 いわゆる福祉国家を追求する限り、政府の仕事は増える一方であり、歳出は増加する一方であり、従って税金は高くなる一方である。[1, p172]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここから、「一般消費税の導入で財政は救えない」という博士の主張が出てくる。今日でも通ずる、いや今日では忘れられた本質的議論である。

 ただし、ここで留意すべきは、

__________
困窮者に対して国家がミニマムを保障するということの必要に関しては、原則的には何人にも異論はなく、問題は、その程度とその組織と、ことにそれを動かす精神の如何だということである。[1, p166]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「福祉国家」という美名のもとに、官僚が一部の国民から強制的に税金を取り立て、それで他の国民の暮らしの全般の面倒を見る、という「精神」が問題だと、山本博士は言うのである。


■7.「自分の考え方は陛下のみ心に背いていない」

 山本博士自身が目指すのは、は次のような「日本型福祉社会」である。

__________
 個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯を基礎としつつ、効率のよい政府が適正な公的福祉を重点的に保障するといい、自由経済社会のもつ創造的活力を原動力とした我が国独自の道[1, p199]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これはひたすらに「民安かれ」を祈られてきた皇室の伝統を、現代経済学の用語で語った理想と言えよう。この理想を目指して、山本博士は「社会主義理論との戦い」を続けてきたのだが、その足跡を次のようにふり返っている。

__________
私は戦前、戦時を通して市場メカニズムの崩壊を憂えて文章を書いたために、著書は発禁になり、教職を追われて、ついに特高警察の監視下に置かれました。しかし、それでも勇気を失わなかったのは、近衛(文麿)さん、東条(英機)さん、その他誰よりも上に天皇がいまして、自分の考え方は陛下のみ心に背いていない、という自信でした。それが唯一の心の支えであったといっても過言ではありません。
 戦後もまた私は、占領軍から追放を受け、禁錮八カ月の刑の宣告までも受けましたが、陛下が宮中のお祭りやお歌会の行事を断たれないと聞き、また陛下が、私たちに幾倍もする御苦しみに堪えておられると思うと、追放も有罪判決も、それほど苦にはなりませんでした。[1, p304]
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 皇室の「民安かれ」の祈りをどう具現化するか、山本勝市博士の経済学は、そこを目指しているのである。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(930) 大御宝(おおおみたから)の経済学
 国民の幸せを目指す「経済民本主義」。
http://blog.jog-net.jp/201512/article_3.html

b. JOG(834) 自立と自助の経済学 〜 澤上篤人氏の「金融の本領」
「こんな世の中を子供たちや孫たちに残してやりたい」と願う将来方向で頑張っている企業を応援する。
http://blog.jog-net.jp/201402/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山本勝市『社会主義理論との戦い(山本勝市博士 論文選集)』★★★、国民文化研究会、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B07MPQ2BC1/japanontheg01-22/

2. REUTERS「1月の韓国失業率は4.4%、9年ぶりの水準に悪化」
https://jp.reuters.com/article/southkorea-economy-unemployment-idJPL3N2076JK

3. 中央日報「【社説】若者に恥ずかしい最悪の大卒失業率=韓国」H301228
https://japanese.joins.com/article/586/248586.html?servcode=100§code=110

4. 小峰隆夫「無意味な人手不足の人数推計」『週刊東洋経済』H310119


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_3.html

101. 中川隆[-11403] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:29:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[597] 報告
標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


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しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


102. 中川隆[-11398] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:06:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[602] 報告

なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

103. 中川隆[-11397] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:52:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[603] 報告

今の時代やはり暴力革命は成立しえない
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1

このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container


そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

104. 中川隆[-11395] koaQ7Jey 2019年3月18日 17:47:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[605] 報告

日本で極右ファシズム独裁の実現は可能か考察
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805

独裁者と言えば浮かべるイメージとしてナチスドイツとアドルフ・ヒトラー総統の典型的なイメージがある。

そして対極的な社会主義政党による一党独裁、つまりヨシフ・スターリンのような実例があり独裁と言えば極右か極左のどちらかになることが近現代史においては多い。

20世紀という時代を総括するのであれば共産主義と全体主義による独裁、そして民主主義というおおまかな3つの政治制度により歴史が形成されてきた。

帝国主義とそれを打倒する闘争、そしてかつて植民地だった国ではポスト・コロニアリズム、先進国ではポスト・モダンへの希求が論争されてきて現代に至る。

更に日本に置いては新興宗教が台頭し、現在では欧米において回教過激派もその勢力を伸ばしつつある。

その日本に置いては連合赤軍や学生運動、共産主義過激派による運動が敗北し勢力を失っていくことになり現在では過激派という言葉すら歴史上の出来事だ。

そして一時、過激派の運動は80年代の好景気とバブル景気により徐々に衰退していくが、90年代にオウム真理教が台頭し始め例の化学テロを実行することになる。

自分はこの60年代から70年代にかけての出来事と、80年代後半から90年代前半の出来事について考察する場合「左派と宗教の敗北」だと考察している。

より端的に言うのであればこの国でもはや左翼と宗教に勝ち目はない。

彼らがやったことと言えば政権の獲得を民主主義的手法によって諦め、テロに走り公安から逃げ回っただけだった。政権掌握以前にその転覆すら不可能で、公安組織から逃げ回り自衛隊といった実質的な軍事組織が出る幕もなかった。

それは必然だ、所詮連合赤軍が強奪した猟銃ではフルオートのサブマシンガンMP5やPSG1のようなドイツ製最新自動狙撃銃を配備した国家組織に敗北して当たり前なのだ。彼らの中にそういった最低限の軍事理論を身に着けている人材すら存在しなかったのだ。当時はまだMP5やPSG1は配備されていなかったが64式小銃と61式戦車は自衛隊に配備されていたため暴力革命での勝利は不可能だったことは間違いない。

それから一歩進みロシアから旧式の戦闘ヘリを密輸し自動狙撃銃を密造し、毒ガスであるサリンの製造をもくろんだオウム真理教は宗教テロ組織としては画期的だった。

しかし彼らも公安からの捜査を回避するためにサリンを手放し、わずかに残った未完成の毒ガスを地下鉄で散布することが限度だった。戦闘ヘリや戦闘車両を保有し、連日戦闘訓練を積む大規模組織、すなわち自衛隊にはたどり着くことすらなく所詮公安組織に鎮圧されるレベルでしかなかった。

こういった反体制地下組織はどうあがいても巨大な権力に打ち勝つことはできない。

まるで旧日本軍が国民総動員で武器を疲弊しながら製造していた時期に週刊空母を大量に実戦配備して来たことと同じだ。皮肉にも彼らはかつて批判していた戦前右派と同じ過ちを犯したのだ。

基本的に強い物には勝てない、テロですら弾圧される。

日本では逆らっていけない物が二つある。

それは天皇陛下とアメリカだ。

論理的に考えてこの二つには絶対に勝ち目がない。天皇制を敵視するという事は日本民族そのものを敵視することであり、本当の革命や政変を長期的に実現することはできない。

藤原道長、足利義満、織田信長ですら不可能だったのが帝、つまり天皇の打倒だ。第二次世界大戦における敗戦にも負けず存続した天皇制の日本人に対する希求性は論理を超えており、自分自身むしろ天皇統帥権を実現しようとしているほどだ。

また戦後のアメリカによる実質的な半植民地支配による戦後の体制についても打倒はできない。

どれけ反乱を起こしたとしても在日米軍に要請されれば確実にその反体制勢力は崩壊する。

結局のところインテリ層や知的階級が打倒できると思っていた天皇制やアメリカ合衆国には勝てなかったというのが戦国日本史だ。平成においてもシールズによる擬似的な反安保闘争が起きたが、その直後与党は圧勝した。

基本的に日本で左派と宗教が政治的勝利を得ることはもうありえないだろう。最盛期の学生運動やオウム真理教ですら事実上ただ公安に追われることが精いっぱいだった。その先にある自衛隊やアメリカなど遠い夢でしかなかった。

革命や政変と言えば「左派」というイメージが存在するが実はそうではない。

近現代史を遡れば右派が革命により政権を掌握したり維持したケースは多い。

1:ナチス・ドイツの政権掌握

2:イラン・イスラム革命

3:朴正煕による軍事クーデーター

4:フランシスコ・フランコによる独裁政権の維持

アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党はいわゆる左翼による革命ではなく、むしろドイツ帝国以来の保守層を支持母体にしていた。ロシア革命やキューバ革命と違う部分で言えば、きわめて民主的な手法により政権を獲得し、かつての軍部や官僚の支持を得られたことで政権獲得後も政権運営が可能だった。

実はドイツは近代国家として一定の水準で確立されており、暴力革命によってナチスは政権を獲得したわけではない。そのため革命というよりも政変という言葉が相応しい。

一定の文明水準に達した国は民主的手段に打って出る必要があるという事の証左であり、戦前に日本も実は北朝鮮のような一党独裁の国ではなく長い民主主義運動の歴史があった。

次にイラン・イスラム革命だが、これは近年まれに見る保守革命の具体例の一つだ。

日本でよく「ホメイニ師」として知られる宗教指導者により大胆な保守回帰路線が実行されたのがイラン革命だ。

元々イランはアメリカや西側の路線に近い資本主義的な国家だったが、今では世界屈指の反米国家でありイスラム国家として存在地位を築いている。

日本で例えるならば大日本帝国の復活や、平安朝時代の文化の再現に成功した事例と言えるだろう。

次に朴正煕による軍事クーデーターだが、「パク・チョンヒ」と読むのか「ぼくせいき」とよむのかで世代が分かれる。いずれにせよ時代としては北朝鮮初代国家主席金日成と対峙した冷戦直下の時期であり開発独裁と反共産主義を掲げ「西側の独裁者」としては代表格的な存在だ。

アメリカ合衆国という国は民主主義を押し通すように見えて実は自分たちの利益になる国や対立構造の中で利用できる国に対してはある程度、独裁を容認する傾向がある。

かつて最貧国だった大韓民国を「漢江の奇跡」によって新興国にまで押し上げたことは軍事独裁による強硬政策による功績だ。現在でも朴正煕政権に関して韓国では評価が分かれている。いわゆるファシスト的な要素があったことも事実であり長期的な軍事独裁を敷いた。

「アメリカに支援された東アジアの独裁者」という意味では最も朴正煕が近い例だろう。

最後にスペインのフランシスコ・フランコだが、この国は米ソ東西冷戦の真っただ中で翻弄された国の一つだろう。つまり元々フランコはアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと近しい存在であり、ファシスト陣営の一人だったが第二次世界大戦に参戦しなかったことにより"特例"ともいえる形で許された。

米ソ冷戦終結までアメリカに支援されたスペインは一定の繁栄を謳歌したのは事実だ。

更にフランシスコ・フランコはスペインの王室制度とも対立せず、フアン・カルロス1世を自身の後継者に指名したほどだ。

つまり「西側でありながら王朝と対立せず政権を維持した独裁者」という意味でフランシスコ・フランコは歴史において類稀なるケースだと言える。

仮に日本で何らかの革命や政変を実現しようとするのであれば連合赤軍やSEALDsの敗北のように左派による革命は狙えない。

宗教も実質的に不可能であり現在において公安は監視を厳しくしており、テロリズムに走れば数回何らかの行動をすることが限度だろう。左派と宗教では戦後日本の打倒は不可能だと二つの組織が証明している。

もし何らかの革命や政変を日本で起こすのであればこれはもはや右派によってでしか実行できない上に、実際右派による政権運営は可能だと現代の政治が証明している。

現在でもわずかに過激派新興宗教の支持者や極左が残存しているが彼らを右派の路線に転向させることができれば政変の実現には近づく。つまり極左や過激派宗教組織の中に存在するインテリ層や科学技術者等に右派への転向を迫ることがまず第一歩となる。

つまり「未来永劫左翼や宗教組織をやっていても永遠に勝てない」ということをどう彼らに気付かせられるかだ。なんとなく既存の勢力に反抗していれば楽しい人生で終わるのか、本気で政権を掌握するかだ。

そもそも日本の左派のレベルが低いということにうんざりしている極左も多く、彼らのようなインテリ層が真の革命や政変の右派に転向することが合理的だという事に気付くかどうかだろう。

公安から隠れながらサリンを製造するのではなく、むしろ保護された国家組織の一員としてより強大なものを作るか。つまり歴史上の勢力が開発した毒ガスや自動小銃をただ秘密裏に製造しそれですら不完全で終わるだけで終わるのか、サリンやAK74を開発したナチスやソビエト側になるのか。

更に現在において既存の右派勢力のレベルが向上することが求められる。

現在の右派はかつての三島由紀夫のような知的文化人を欠いており、いたずらに近隣諸国を稚拙な言葉で批判するレベルに終始している。

日本衰退の現実から目を背け「日本の街は綺麗ですね、水道水が美味しいですね」という外国人観光客の言葉に一喜一憂することしか今は日本人が誇りにするものが無くなっている。

左派のレベル低下も深刻だが、そこに安心し右派のレベルの低下から目を背けてもいけない。

仮に右派による革命や政変をより高度な段階で実現するならば、まずは日本左派勢力や宗教勢力からの転向、および既存保守勢力のレベル向上が求められるだろう。
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805

105. 中川隆[-11393] koaQ7Jey 2019年3月18日 18:03:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[607] 報告

日本の左翼はなぜ自分の思想に酔っているのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/05/13/131511

左翼思想そのものの是非はともかく、自分は日本の左翼はあまり好きになれない。思想がどうかというよりも日本の左翼特有の自分の思想に酔っている感、左翼思想持ってる自分頭良いだろ感が気取っているように見えて好きではない。

あくまで思想は彼らのファッション道具の一つに過ぎず、政治運動やデモをするときもフェスに参加して「俺輝いてる」感を味わいたいだけでしかないように見える。

「平和を叫んでる自分最高に輝いてる」

「差別を批判してる私正義」

「平和活動をしてる自分が好き」

「弱者の味方してる俺かっけえ」

「左翼は頭がいい、よって自分も頭がいい」

とにかく政治や思想をファッションに使っている人が多く、まともに左翼思想や社会主義、革命などの理念を理解すらしていないのではないだろうか。現にシールズの時も憲法をまともに知らなかったり、安保の時にようやく政治に興味を持ち始めたような人が多く話にならないレベルの教養の低さをさらけ出していた。

結局お祭り騒ぎや反対運動したいだけの人が、たまたまそこに政治があったから乗っかっただけだったり自分は頭が良いと思い込みたい中二病こじらせた人間が左派よりの考え方に飛びついているだけである。

平和を標榜しておきながら攻撃的だったり、差別を批判しておきながら自分は差別的言動をしているダブスタ左翼が非常に多い。

思想の内容や本質など彼らにとってどうでもよいのである。ファッションを気取れればいいし、何かに反対しているときの昂揚感を得たいだけである。実際自分の大学時代の極左教授も学生運動の頃の興奮が欲しいだけだったり、とにかくアメリカを叩いていたいだけの教授でしかなかった。

左翼

まだそう言った教授や昔学園闘争をしていた世代、あるいは日本赤軍、連合赤軍のような極左にはまだ知識があったように思える。あの頃の左翼はまだちゃんとインテリが左翼をやっていた頃でそれなりに高学歴や知識人が多く、左翼の話している内容もレベルは高かった。

しかしながらよど号ハイジャックのときは北朝鮮についてろくに知らず行き当たりばったりの行動で行ってから後悔しており若気の至りでしかないのも実態であった。その頃の左翼ですら実はそこまで高度ではなく最終的にテロに訴えかける勢力も多かった。実は昔日本では極左テロが横行しており非常に攻撃的であった。

そして現代の左翼はその頃からさらに劣化しており、もはやただの軽いお祭り集団にしか見えず政治思想の基本もよくわかっていないような人が多い。

昔の左翼はまだ見ていて本物感があるしちゃんと頭は良かったが今の左翼は明らかに馬鹿になっている。むしろ左翼ではない自分の方が最近のファッション左翼よりも知識を持っているのではないかとすら思わせられる。

左翼思想が悪いというよりもその思想を扱う人間が悪いしすべての左翼を批判しているわけではない。ファッション平和主義者や弱者の味方気取りが嫌いなだけであって、その理念をすべて否定しているわけではない。むしろ本物の極左を自分はリスペクトしている。

よく海外の左翼は愛国者で、日本の左翼は単に日本が嫌いなだけと言われるようにこの国の左派はいわば偽左翼やファッション左翼という立ち位置に近い。彼らはなんとなく左翼は頭がよさそうに見えるから気取るために左派思想を掲げているに過ぎない。

とはいえなんとなく左翼をやっている人が多いように、右翼にもなんとなく右翼をやっている層も多く左右共に良くわかっていないような層を抱えている。

こういった良くわかっていない層は知識がないにもかかわらず行動力だけはあるため、ネットの掲示板などでも文脈を読まずいきなり政治の話をし始めるため俗に政治厨と呼ばれている。

昔は右派の方が掲示板やコメント欄などで政治の話を空気読まずに始めていたが、今は逆に左翼の方が唐突に右翼批判を始める逆転現象が起きている。いずれにせよこういった政治厨はTPOをわきまえず行動している自分に酔いたいだけなのである。そういった層が左右それぞれのイメージを著しく下げており真の左派や右派にとってはマイナス要因となっている。
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/05/13/131511

106. 中川隆[-11392] koaQ7Jey 2019年3月18日 18:54:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[608] 報告

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。
かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。
悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。


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なぜ平和主義者ほど過激な人が多いのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/08/09/115512

平和主義者というのは文字通り平和を愛する人々であり、主に反戦や非戦を主張する人々を指す。特に日本では先の大戦により多くの犠牲者を出したため「平和」という言葉は崇高な概念として半ば神格化されている。

そんな平和を擁護する平和主義者だが彼らの言動を見ていると本当に平和を愛しているのか疑いたくなるような過激な言動が多い。

平和主義者ほど攻撃的であり、反差別主義者ほど自分の差別には無自覚である。

例えば自分の気に入らない政治家に対して口汚く罵り、時には彼らの生命さえ否定しようとする。そんなことを何の抵抗もなく口にできる人々が反戦や平和を掲げることに違和感を覚えずにはいられない。

彼らは平和の為なら何を言っても良いと思っている。

自分たちの正義の為なら何を言っても良い、というのは彼らが執拗に批判する全体主義者と変わらない。

「平和」「反戦」という言葉は美しく紛れもなく素晴らしい理念である。

しかしそういう言葉が暴言を吐く人々に悪用されているのも事実であり、むしろ彼らの方が反戦や平和という概念を汚している。

また彼ら自称平和主義者の言動や教養は非常に浅く、彼らが「平和」という言葉を声高に叫べば叫ぶほどその言葉が陳腐に思えてくる。自らの言動に既に矛盾が生じているのだ。

「平和を叫ぶ人はどこか怪しい」というイメージが付けば、本当に平和を望み実行しようとしている人々の活動まで疑われた目線で見られるだろう。実際に日本で左派が政治的に勝利することが少ないのは、そういった思想を掲げる人々の軽薄さが信用されていないからだろう。

本当の左派や平和主義者は存在せず、ほとんどが自分がインテリだと気取るためのファッション目的でしかないのだ。

平和、平等、反戦、そういった綺麗な言葉が品のない人々に多用されればイメージは悪化する。

こういった綺麗なフレーズは非常に便利であり、使えば自分たちを正しい主張を行っているという印象を作りやすい。それゆえに中身のない主張であっても綺麗なフレーズで着飾れば正しい主張であるかのように受け止められることがある。

逆に非常に論理的な主張であり現実を語っている主張であっても「戦争賛美者」などのレッテルを貼れば議論は有利に進む。

平和が大事だと言っていればなんとなく良い人のように見てもらえるのである。そして現実的な解決策を示そうとする人にはレッテルを貼れば悪人に仕立て上げることができる。

平和主義者

「平和叫んでる自分はかっこいい」

「いいこと言ってる私が好き」

彼らの真の目的は平和などではなく、単にその主張をして得られる昂揚感でしかないのだ。そんな人々に平和や反戦という言葉が悪用されてはならない。

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。

かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。

わかりやすい悪役ファシストとして右派の政治家をターゲットにして口汚く罵ればもうそれで立派な革命家ごっこが楽しめる。

戦争が大好きな悪役を仕立てげて攻撃すればそれが平和活動となる。

そしてその悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。

議論の都合が悪くなれば「アイツは戦争が好きな悪い奴」と認定することで自分を正当化する。しかし彼らの言動を見れば非常に過激であり、平和主義者なはずなのに攻撃的なことが多い。

「平和」という言葉は魔法のフレーズであると同時に、危険でもある。

どんなに支離滅裂な考えも「平和」というシールを貼ればよい考えに見えるのだ。

そしてそれがこの言葉の危険な部分でもある。

色んな人がその効力を頼りこの言葉を使おうとするため当然悪用する人もいる。

間違ったことも「平和のため」と装えば綺麗に見える。

パッケージをよくすれば悪い商品でも購買意欲が上がるのと同じだ。

日本の政治議論が成熟させるためにはこういった表面的な言葉だけを投げつけあう体質を変えなければならないだろう。


https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/08/09/115512

107. 中川隆[-11391] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[609] 報告

なぜ最近の若者は「反体制」ではないのだろうか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514

学生運動を体験した全共闘世代と呼ばれる人の話を聞くとよく「その頃はデモに参加することがかっこよかった」と話すことがある。

新左翼活動に参加した友人が消えることも日常茶飯事で、また長淵剛も「ロックは反体制であるべき」というようなことを語っている。

しかし今の若者はむしろ現政権を支持している人の方が多く、それが「最近の若者はなんで今の政権を支持するのかわからない」とテレビ番組のコメンテーターから不思議がられることさえある。

今の時代になぜ革命を起こせないかと言えばそれは若者に情熱が無くなっている事だけが原因ではなく、いわゆる頭の良い人たちは基本的に現体制を支持しているからである。

例えばビジネス雑誌プレジデントの読者が評価する歴代総理大臣で、反体制勢力が批判していた総理はことごとく上位に入っており優秀な人は基本的に現政権支持に回ることが多い。

つまり能力を持っている人達はある程度体制側に入ること出来るため、反逆する必要が無い。

自分はどちらかというと革命を起こしていくべきだと考えている立場だが、能力がある人たちは体制側にいるので革命勢力は烏合の衆にしかならないのが現実なのだ。


チェ・ゲバラ
https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514


また反体制や何かに逆らうということ自体が今の時代やや"暑苦しい"ものになりつつある。

例えば今の若者で長淵剛に共感する人はあまりいないだろう。

機動戦士ガンダムでも昔はジオン公国が好きで、シャア・アズナブルの男としての生き様に憧れる人が多かったが今はむしろ連邦やアムロ・レイに共感する人の方が多い。

日本人には敗者の美学があり、負けた勢力に美意識を見出すことが多いが最近は結局体制が勝つということをナチュラルに理解している人の方が多くなりつつある。

世の中そんな熱くなってもどうせ上手く行かないのだからという事なかれ主義が基本的なスタンスになってきているのだ。

時代が変わり今は体制側はそこまで敵視するものではないという考え方になり、実際に自分も「現政権に反発してる人達元気だなぁ」と考えている。

反原発デモしてる人や、わざわざ沖縄まで行って反米軍基地デモをしている人を見るとどこからそのモチベーションが湧いてくるか不思議になるし熱くなれる人は羨ましくもある。

逆に左派に限らず、保守系まとめサイトのコメント欄で周辺国の批判をしている人を見ると執着心凄いなとも感じる。

自分の知っている大学の反米極左教授がいるのだが、だいぶ高齢なのに今も反米への高い情熱を維持している。

今の若い世代からするとなぜそこまで反米に熱心になれるのかわからないのだが、「何か大きなものに逆らっている昂揚感」というのは時として生きるエネルギーにもなる。

村上龍の『オールドテロリスト』という小説は高齢者がテロを起こしていくというストーリーなのだが、「老いても維持できるのは怒りという感情だけだ」という台詞がある。

まさにそれが本質で、未だに反体制デモや反米活動、反原発デモをしている人はことごとく高齢化しており、若者でそんな熱い事をしている人はあまり存在しない。SEALDsも結局解散し、安保に勝てないと悟りどこかに消えて行った。

ある意味「反体制」という物が若者の間ではすでにダサいものになっており、何かに逆らっていくようなストーリーはあまり受けることが無い。

初代ガンダムは地球連邦とジオン公国と二つの対立軸だったが、21世紀に入って初代のリメイクのような形で作られたガンダムSEEDはそのようなストーリーになっていない。

最初は連合とザフトの戦いなのだが、いつしかオーブやラクシズという新勢力が現れ、いまいちZAFTにジオンのような魅力は無い。

ガンダムファンにだけを見てもジオンを見て育った世代と、ザフトを見て育った世代では反体制への美学が異なっている。

確かに「コードギアス反逆のルルーシュ」のように巨大勢力に逆らうような話はあるのだが、そこまで広く受け入れられているとは言えず一部の厨二病のような扱いになっている。

昔は反体制がトレンドであり、政治熱が冷めて行った後の時代でも校内暴力や暴走族、更に言えば反抗期のようなものがあった。

今の若者世代にとって反逆は一部の厨二病の憧れる事であり、そこまで争いに興味が無いという人の方が多い。

アニメの嗜好も戦う事や争う事よりも、悪いキャラは出てこない仲良しグループの日常を求めるようになって来ている。

今のアニメで嫌な性格のキャラクターはなるべく出てきてはいけないし、同じアニメファンの中で対立することも避けられる。つまり何かの危険を冒したくはないし、仲よくしときたいというのが、今のトレンドでそれはLINEグループやタイムラインを荒らさないほうが嫌われないという感覚に近い。

林修が「小池百合子が"排除"という言葉を使ったのはまずかった。現代人は極度に仲間外れにされることを恐れる。」という解説をしていたのだが、体制側にいることが居心地がよく浮いた人間になりたくないというがもはや本音なのかもしれない。

アイドルグループも仲の良さが重要になり、仲が悪い事はそのグループの人気に関わる時代だ。アニメもアイドルも仲良しグループの仲の良さが最重視される時代であり、「LINEグループ化現象」がどこにおいても進んでいる。

実際自分も革命熱や政治熱のような物は減衰して来ており、男性ホルモン自体が少なくなってきている。

「危険思想の持ち主が最近少なくなって寂しい」と言いながらも、自分自身がそこまで熱心に戦いを求めなくなった。

男子の女子化が進んでおり、男性ホルモンが徐々に少なくなってきているとも言える。

実際ゆとり世代の自分からすると路上で目が合ったら喧嘩していた時代の話は信じられないし、哀川翔が原宿の竹下通りで抗争していたエピソードは素直に凄いなと感じる。

学生時代一回も肉弾戦の喧嘩をしたことが無いという男子がもう完全なる多数派になっており、今の時代仲が良いことが至上価値として育てられている人の方が多い。

そういう時代にそりゃ反体制になるわけがないのは至極当然の事なのかもしれない。

SNSで日常アニメ見て分かりやすい短いセリフを実況する事に癒しを求める人が増え、もはやLINEグループの身内ではぶられないことを最優先するという時代になっている。

これは今自分が勝手に考えた定義だがもはや「ゆとり世代」というよりも、更に「LINEグループ世代」という層が最近は登場している。

自分はギリギリ高校時代はLINEというのが無かった世代なので、正直なところLINEグループを気にするということを10代で体験することはなかった。

今はそれがナチュラルな世代になって来ており、こういう世代からもはや反体制分子が育つことはありえないだろう。

自分のようなゆとりも相当大人しいが、今の日常癒しアニメや親近感ユーチューバーを見て育っている世代は、更に何かに反発することに魅力を感じないのではないか。

ゆとり世代、LINEグループ世代、そして更にあと数年で「ヒカキン世代」という層が登場する可能性もある。

反体制に熱心な人は年齢的に高齢化して来ていて、若者の方は精神的に高齢化してきている。

若者が若者らしくなくなっているというか、夢を見ず冷めた人が多くなってきている現実はある。今の日本は高齢者の方が元気になっており、怒りだけが彼らを突き動かしている。

逆に若者の間で壮大な夢を持っている人はちょっと暑苦しがられるというか、意識高い系に思われてしまうようになって来ているのかもしれない。

長淵剛は暑苦しいし本田圭佑はちょっと意識高い系だという認識が今の若者の考え方なのではないか。

チェ・ゲバラがかっこいいと思う感性を持った10代はもう絶滅危惧種だろう。

イスラム国に憧れて川崎国を作った連中は今の若者の中では相当レアな部類で、沖縄の成人式で暴れてるような連中も普段はまともな社会人をして反体制活動をするわけではない。

育つ時代の背景や雰囲気が違うとどうしても人間というのはその影響を受ける。

政治的激動が日常であり、任侠もの映画や不良映画が流行ったり反体制がトレンドだったりした時代と今のLINEグループとSNSの時代では全てが違う。

ガンダムが1stからSEEDになり、そして今はもはやガンダムを見ない時代になった。

これが時代の思潮の変化を表しているように思えてならない。


https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514

108. 中川隆[-11390] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:11:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[610] 報告

標記映画の動画リンク追加
若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

109. 中川隆[-11389] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:29:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[611] 報告

あさま山荘事件ー凍える攻防
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama

突入
鉄アレイで壁を破壊しての突入。
2002年2月19日の新聞の多くが、トップであさま山荘事件30周年を報じていた。 少し前には、今ではNHKの人気番組となった「プロジェクトX」で、鉄アレイで山荘の破壊を担当した人 や大量の水をポンプアップした消防隊員が取り上げられていた。まもなく映画も封切られるという。

確かにこれらは一面ではあるが、殉職した2警官のほか射殺された民間人が1人いたことやライフルで報道関係者など27人が重軽傷を負ったこと、 この事件の最中にニクソン大統領訪中という左翼運動にとってエポックメーキングな出来事があって、母親の一人によるマイクの説得にもでてきたこと、なによりも、 連合赤軍がここに来るまで12人も(京浜安保組まで入れると14人)総括という名のリンチで仲間を殺していたことなどにまったく 触れられていないことが不思議だった。

私にとっては札幌オリンピックとセットみたいな事件だ。というのもオリンピック取材団の一人としてずっと札幌にいて、五輪の終了直後に発生した事件で、 おまえたちは寒さになれているし、装備が整っている(五輪用の防寒靴やフードつきのコートなどを着用していた)、 という理由で、カメラマンともどもオリンピック取材チームがそのまま軽井沢に向かったのである。 といっても我が家を含めて、家族は夫や息子がどこに行ったのか知らなかった。これは新聞社では普通のことだった。


一つには、この時代、電話事情が悪かったことがある。入社のときは関西から札幌に申し込むと3時間くらいたってつながった。 急ぐ時は警察電話が頼り(全国に張りめぐらされた警察電話が一番充実していて、即時だった。よくないのだろうが、県警本部 を通じて最寄警察から市内電話につないでもらった)という時代が長かった。

二つのオリンピックを経てこのころよくなったとはいえ、軽井沢の現場から本社に一度つながると、切るな、といわれていたくらい。原稿や写真電送を どんどんすませるようにしていた。取材本部にしたのも電話がある空き別荘で、所有者に連絡して明けてもらったものだ。 でも風呂には入れなかった。犯人が包囲された手がかりが、異臭を放つというのが理由だったが、機動隊ふくめてこちらも似たような事情だったのだ。


あさま山荘
このロケーションを見ても難攻不落の天然の要塞
だったことがわかる。3階に見える 白い屋根の
ところが1階部分で道路に面して玄関がある。
軽井沢というと高級別荘地を思うが、旧軽のイメージとはまるで違うところだった。場所も国鉄(当時)をはさんで反対側だし ボタ山に開けた新興別荘地といった方がいいくらい。立ち木も大きいのがなくて、せいぜい直径15センチ くらいで、あまり遮蔽物にならない。これがマスコミに怪我人を出す理由にもなった。


銃眼
一晩のうちにあけられた銃眼。
夜中、犯人がコツコツと壁に銃眼をあける音がするのだが、照明は禁じられているので、どこなのかわからない。夜明けと ともにそこからいきなりライフルを撃ってくる。1本の木の後ろに数人のマスコミが隠れているから、ひざや手が木の幹よりどうしてもはみ出す。これで射抜 かれる者が多かった。右の写真がその銃眼だが、現場にいた者にはこれが正面玄関上にあけられた銃眼で、銃口からライフルだとわかる。私はこの銃口の先の山の斜面にしゃがんで いたのだが、右後方のテレビクルーがやられた。

銃口を避けてあちこち場所を変えながら移動するのだが、山の中の一本道を山荘で遮断されているから、はるか下を迂回するか、上の山側を越えるかしかない。笹の中のちょっとした登山の連続になる。たちまちズボンがだめになった。私もはじめて ジーンズを駅前で買ったが、事情は各社同じで品切れになるほどだった。この洋品店主は東京に仕入れに行ったあと急死したが、こんな話は30年後でもどこにも出てこない。


佐々淳行
佐々淳行氏
現場はあさま山荘だが、ここには、警察は機動隊員、マスコミは若い記者とカメラマンという「手足」がいた。 作戦を練る 警察幹部や新聞のキャップなど「頭脳」にあたる人間はずっと離れたところにいた。取材の中心は警察庁の寮だった。ここには佐々淳行・警備局付警務局監察官が 後藤田正晴警察庁長官の命令で派遣されていて、その指揮所になっていた。本名は「あつゆき」というのだが、当時「さっさ・じゅんこう」と呼んでいた、 氏は、この事件を機に危機管理の専門家の道を歩む。20年ほどのち、横浜のある会合で食事をともにすることがあり、席が隣り合わせだったので、現場に居たというと、あそこ が私の原点です、といっていた。


佐々淳行さん死去

佐々淳行(さっさ・あつゆき)さんが2018年10月10日、老衰のため亡くなった。87歳だった。
佐々さんは1954年に東大法学部を卒業し、現在の警察庁に入庁。全共闘などの学生が東大・安田講堂に立てこもった69年の「安田講堂事件」では、警視庁警 備1課長として現場を指揮。72年の「あさま山荘事件」も陣頭指揮した。その後は防衛施設庁長官などを歴任し、86年に初代内閣安全保障室長に就任した。
退官後は危機管理の専門家として活動し、警察官僚時代の経験を題材にした著書も執筆。あさま山荘事件のノンフィクションは2002年に映画化された。

警察の縄張り意識は今に始まったことではない。警察の管轄はよく池や川で区切られているが、地方支局勤務のとき、こういうところで土左衛門が上がると、 竹ざおで管轄外の向こう岸に押しやるということがあった。単純な自殺などでは書類処理の手間ばかりかかるので嫌がるきらいがあった。向こう側の署もしたたかで、 同じように押し返して、結局最初に 発見された地点の警察署が処理をする羽目になったという笑い話をよく聞いた。


これくらい世間の注目を集める大きな事件だと、こっちの力で解決できるという県警側の自負と、中央から派遣された側の、そっちだけではどうにもならんだろうという意識がぶつかり合う。 装備も中央の機動隊のが優れ、銃弾に対しても県警機動隊の防御楯4枚重ねて、やっと警視庁機動隊の一枚並という気の毒な面も あった。だから、中央から派遣された警察庁、警視庁機動隊組と地元の長野県警は仲が悪 かった。無線連絡も互いには通じなくてそれぞれの上司にだけ報告が上がる。あさま山荘の中にいる犯人の割り出しも両者別々にやっているきらいがあった。 手違いで照明弾が打ち上げられたときには「あのバカが」とののしる始末で、けっしてうまくいっていたわけではない。


東京組は事件後、すぐ本を出したが県警組は不快感をあらわにした。こざかしいことだけ長(た)けているとでもいうように。 後年(平成14年)NHKが「プロジェクトX」であさま山荘事件を放映したが、主役として地元消防団員や県警幹部、モンケーンの 操縦士を取り上げたため、今度は東京組がそっぽ、といったあんばいだ。

あさま山荘のつらら
放水はたちまち凍って
全体が氷柱(つらら)で覆われた
しかし、現場は違った。
とにかく寒かった。いまマイナス20度近くになる八ヶ岳に自分の方から進んで身を置いているが、犬のおしっこがみるみる凍るのを見るたびあさま山荘を思い出すほどだ。 放水の水をキャンバス地のタンクにためるのだが、周辺部からしわしわになり始めて、やがてみるみる全面凍った。寒気に加えて山荘めがけて水をまくから周囲は氷。寒さが加速するばかりだ。 取材といったって膠着状態で、別にすることはないから、町の薪炭店で買った薪をカメラマンが張り付いている ところに運び上げて、焚き火をしてやるのが主な仕事。しびれた手足の機動隊員が、たまりかねて、「お願いします。あたらせてください」とやってくる。一緒に股火鉢で夜の明けるのを 待つ。そんな繰り返しだ。現場では東京組も県警組もない。互いに「手足」同士の連帯感が生まれていた。


4日目くらいにたまたま「大事件」を目撃した。昼ごろだったが、功名心にかられたか信越放送の記者と、画家という男が警戒線を突破して山荘に近づいた。これはすぐつかまったが、これに気を取られているうちに、 斜面を這い登ってきた別な男がいた。みんなが見守るなか道路を悠々と歩いて山荘玄関にたどりついた。新潟からきたこの30歳の喫茶店経営者は麻薬で何回もつかまったことがあり、前日「人質の身代わりにきた」 と禁止区域に入ってつかまり、夜中釈放されたばかりだったが、このときはわからない。 「赤軍さん、赤軍さん、わたしも左翼です。私は妻子と離縁してきました。医者をやっております。中へ入れてください」。 このとき中にいた坂口弘は、警察だと思って銃眼から拳銃で撃つ。


自分で立ちあがり、かけつけた警官に「おお痛え。大丈夫だ」というが朦朧としているようす。佐久病院で後頭部の弾の摘出手術を受けるが10日ほどあと死亡する。 これとて、警察の連携が十分なら捕まえた不審者を夜中に釈放するなどありえないと思うのだが、山荘を取り囲む東京組中心の機動隊が首をかしげるなかひょこひょこ 出てきた。

坂東国男
坂東国男
余談だが連合赤軍の坂東国男は逮捕された後、佐久警察署で調べられた。 40日黙秘したのち、事件中に自殺した父親の位牌を見せられると、「ありがとう。間違ったことをしてしまった。父には本当に申し訳ない」といって、12人のリンチ殺人を語り出した。この警察署も病院も、私の山小舎からすぐ下にあり、 通りがかるたびに思い出す。


機動隊とカップ麺
カップ麺を食べる機動隊員
テレビ中継は記録づくめ。突入の日などNHKは朝から11時間ノンストップ放送。民放もはじめてCMを飛ばした。視聴率89.7%は全国民が見たといっていい数字だ。おかげでわけのわからないのも、全国からあさま山荘めがけて 集まって来たのもこの事件の特色かもしれない。 東大助教授、弁護士、僧侶の4人組が赤軍と面会したいとやってきたが、安全は保証できないといわれると帰った。クルマでやってくる野次馬は3000人になった。屋台まで出始めた。


後日談だが、日清食品が発売したカップヌードルは湯を注げばいつでもどこでも食べられるのが売りだったが、「あさま山荘事件」で機動隊員が食べる風 景(写真右)がテレビで流れ、注文が殺到、今日のカップ麺隆盛のきっかけとなったのもこの事件の余波だ。

突入
あさま山荘正面玄関からの突入。逮捕は日没時までかかった。
強行突入した最後の日、2月28日は現場にいなかった。交代が来たので東京に戻っていた。久しぶりに我が家で風呂にはいって、出社した編集局のテレビで落城を見守った。あれだけ恐怖の的だったモルタル壁にあけられた銃眼がモンケーン(鉄球)の1発で吹き飛んでいた。

突入した機動隊員は警視庁組と県警組との混合部隊だった。1階は警視庁第9機動隊、2階は長野県警機動隊、3階は警視庁第2機動隊、突入のため選抜されたのも警視庁と長野県警2人ずつという配置で、 張り合う組織同士の顔が立つように配慮されていた。

顔出し
犯人がライフルを構えたまま顔を出した瞬間。
坂東と吉野弟かと思うが狙撃されることはなかった。
3階の片隅に追い込まれた犯人は射殺されないことをいいことに、鉄パイプ爆弾を投げ、ライフルを撃ちとやりたい放題。殉職者2人ほか重軽傷多数という凄惨な現場になっていた。催涙ガスと放水で息苦しくなった犯人2人が雨戸を蹴破って 顔を出した際も配置されていた狙撃手は撃たなかった。後述の警察庁長官通達のためだった。

午後6時15分、牟田泰子さんが救出され、つぎつぎ逮捕されて引きずり出される連合赤軍の連中は(自殺防止の)さるぐつわをかまされていたが、どれもずぶぬれで悪鬼のような表情だった。218時間に及ぶ「あさま山荘事件」は解決 したがこれはまだ序の口で、14人も惨殺された驚愕のリンチ殺人が白日にさらされるのはこのあとのことだった。

あさま山荘事件の経過と最後に突入し犯人逮捕の瞬間まで(ここクリックでYouTubeへ)

治安の礎
治安の礎(いしじ)のレリーフ
あさま山荘事件は昭和47年(1972)2月19日から10日間。1500人の警察官が投入され、2人の犠牲者と多数の重軽傷者を出して終わった。。翌年、殉職した 警視庁の内田尚孝警視長と、高見繁光警視正(ともに死後2階級特進)の2人の冥福を祈り、治安への決意を表す記念碑が建立された。「治安の礎(いしじ)」 といい、碑の右横にはモンケーンで突入する瞬間が描かれた銅板のレリーフがはめ込まれている。

後年ゴルフに行くことが多かったプリンスホテルの「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ場」のそばにあり、遠くに山荘が望める場所なので時々立ち寄ったことがある。 いまも「あさま山荘」はあるものの、河合楽器から別の企業に売却されている。


*追い詰められた連合赤軍*(メモ1)

警察もマスコミもこの派手なあさま山荘事件で一連の過激派犯罪は終結したと思った。だがこれは次なる驚愕の集団リンチ殺人事件への幕 開けにすぎなかった。あまりの残酷さゆえに過激派の闘争はよりどころを失い、一気に消滅へと向かう。その狂気への経過はどういうものだ ったのか。

赤軍派はよど号ハイジャック事件をおこした集団だが、1971年(昭和46年))12月ごろ、森恒夫(当時27、大阪市立大)が率いていた。 これと永田洋子(ひろこ、当時24、共立薬科大卒)が委員長の京浜安保共闘(警察の公安用語では日共革命左派)が合流して、計29人 (うち女性10人)の連合赤軍ができた。京浜安保共闘というのは日本共産党左派神奈川県委員会(日本共産党とは無関係)から分派した もので彼らの中では「革命左派」と呼ばれていた組織。

今ではあさま山荘事件もリンチ殺人事件も連合赤軍の犯行と簡単に一まとめにされるが、赤軍派と京浜安保共闘の非公然部門が合体して連 合赤軍を結成した事実はマスコミも警察も当初は掴んでいなかった。だから、銃砲店襲撃や銀行襲撃など彼らの犯行の手配も別々の事件と して扱われていたほどだ。過激派が連合したことはあさま山荘事件の直前にようやく察知できたことだった。

《つぎつぎ逮捕》

1972年(昭和47年)2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中にあることがつきとめられた。2月14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト 捜索が開始された。この山小屋は暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていたようだがすでに小屋を 焼いて撤収していた。

続く2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを実施した。午後になって群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはま って動けなくなったライトバンがトラックに引っ張り出してもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。3人の男は逃走したが、 残る2人の男女は車の中に閉じこもって、ラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、女も尻を出して排泄するなど の行為をした。

このため署員は車を押して、500メートルほど先の人家まで運びアジトへの出入りを目撃した地元の人に確認させたところ、赤軍メンバーら しいことがわかった。とりあえず山小屋を作るのに国有林を切った容疑で同夜逮捕した。
男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生、杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生、奥沢修一(当時22歳)と判明した。


連行される森恒夫と永田洋子
2人の逮捕を伝える当日の新聞(2月17日朝日夕刊)
森恒夫の名前がまだ分からず「連れの男」になっている。

森恒夫と永田洋子
逮捕時の森恒夫と永田洋子
さらに翌2月17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田洋子(当時26歳)が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、 機動隊員10人が近づくと、森は匕首(あいくち)を抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえた。
その前にも2人は機動隊員と出くわしていた。このときは、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言 って逃れていたが、引き返さずにまたも洞窟に向かったため再度出くわしての逮捕劇だった。2人の身なりは汚く、垢まみれで匂いが漂っ ていたのも手がかりだった。

ちなみに、この時森恒夫の取り調べに当たったのが当時、警察庁警備局公安第一課長補佐で、のち政界に転出した亀井静香・ 衆議院議員。自民党元政調会長など要職にあったが郵政民営化に反対して国民新党に追われたものの有力な死刑廃止論者として知られる。

森、永田という最高幹部の逮捕で残る行動メンバーは9人になっていた。彼らはラジオで2人の逮捕を知り、これで総括がなくなると喜ぶ。し かし、19日には軽井沢駅で植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら男女4人が逮捕された。これも異臭をはなつのが怪しまれた。

4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店(今で言うキヨスク)で新聞とタバコを買ったが、こ の時店員が不審に思って駅員に知らせた。いずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥で汚れていて臭ったためだ。長 野行きの汽車の中で通報を受けた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬 類取締法違反で現行犯逮捕された。

これで残り5人。これがあさま山荘事件を起こすことになる。

*あさま山荘事件*(メモ2)

追われた5人はトラックを運転手ごと奪って逃げたりするが、追い詰められて、1972年(昭和47年)2月19日午後3時半ごろ、軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514−181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に 玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城する。これが事件の発端だった。


5人は、坂口弘(25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘)、坂東国男(25歳/京都大卒/赤軍派)、吉野雅邦(23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(19歳/東海高校卒/京浜安保共闘)、その弟のM(当時16歳/東山工業高校/京浜安保共闘)だった。 加藤倫教とその弟のMには兄(能敬)がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻・金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。

牟田夫妻
牟田夫妻
あさま山荘が選ばれたのは、冬にはほとんど空き家になる中で、人が住んでいると判断したから。事実、管理人で、泰子さんの夫でもある郁夫さん(当時35歳)は、6人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。この6人分の食料も役だった。入ってみてわかったことだが、道路に面した山荘の玄関は実は3階にあり、その下に2階、1階があった。 標高1169.2メートルの崖に建てられた要塞のような建物で、守りやすいということで、立てこもることで意思統一した。 このとき、連合赤軍が所持していた武器は、これ以前に栃木県真岡(もおか)市の銃砲店を襲って手に入れた、ライフル1丁、拳銃1丁、上下2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実包約700発。


余談だが、真岡の銃砲店襲撃の前には、ハードボイルド作家の大藪春彦邸襲撃も企画した。「彼なら銃器も持っている に違いない」と大藪邸に連合赤軍の先遣隊がファンをよそおって訪れたところ、応接間に通され、お茶も出してくれて歓待された。 この恩義で襲撃先から外したという。


後藤田
後藤田正晴長官
あさま山荘事件では、後藤田正晴警察庁長官は6項目からなる指示を出している。
(1)人質牟田泰子は必ず救出せよ。
(2)犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3)身代わり人質交換の要求には応じない。特に警察官の身代わりはたとえ本人が志願しても認めない。殺されるおそれあり。
(4)銃器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
(5)報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
(6)警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。


「カミソリ後藤田」の異名をとり、後年、政界に入り副総理までつとめた人だけに、30年後の今でも適切な指示に感心する。ライフルの使用に制限を加えたのは、 二年前の瀬戸内シージャック事件の影響がある。狙撃で解決した事件だが、胸を撃たれ、デッキにゆっくりくず折れていく犯人の姿がテレビで流れ、人権派が批判していた。 中には守られなかった(死者が出た)ものもあるが、マスコミとの報道協定が成立、どちらかといえば無秩序だった取材現場(犯人が報道で警察の動きを知ることが多かった)で、 一つのルールができていくのもこのときからである。連合赤軍側が発砲したのはライフルなど104発、これに対して警察側は威嚇射撃16発だけ。殉職者2人。警察側がいかに、耐えに耐えた事件かわかる。


今ならわからないが、息子がこんなことをして申し訳ないというのが、犯人の家族の気持ちだった。指紋から割り出されて、3日目から家族が到着する。警視庁のヘリコプターで来た吉野雅邦の両親と坂口弘の母親が警備車から呼びかけを行う。 「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野の母、51歳)


「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口の母) 「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(同)


前日の21日、ニクソン米大統領が北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。時代のうねりが現場でも感じられた。 零下10数度の寒風の中、マイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親たち。機動隊と報道陣の目が潤んだ。 「お母さんを撃てますか」といった母親に、吉野はためらわずに1発撃った。母の乗った特型警備車に命中した。 指紋照合で坂東国男もいることが判明。坂東の母親(当時47歳)も現場に駆けつけた。 「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てらっしゃい」

坂口
連行される坂口弘
2月28日(10日目、Xデー当日)午前10時から、警備部隊1635人(うち警視庁からの応援部隊548人)、特型警備車輛9輌、高圧放水車4輌、10トン・クレーン車1輌での総攻撃が始まった。ガス弾と放水で抵抗力をそぎ、鉄球で 壁を粉砕して、飛び込む作戦だったが、連合赤軍側もライフル、拳銃、鉄パイプ爆弾で抵抗した。結局2人の殉職者を出し、散弾銃で失明した隊員もでた。一進一退が夕方まで続いたが、午後6時20分、突入した機動隊員が5人を逮捕、泰子さんも救出された。
あれだけ中継を続けたテレビだったが日没で、猿ぐつわをはめられて出てくる犯人を写したのはハンディカメラを持っていたフジテレビ1社だけだった。


その日、坂東の父親(51)は旅館を経営していた滋賀県大津市の自宅で自殺した。息子の責任をとっての自裁だった。現在、旅館は廃屋となり、荒れるがままになっているそうだ。

機動隊側から回顧した番組がある。日本テレビの番組「あさま山荘事件」で、氷づけのなかで暖をとる機動隊、犯人の説得に当たる母親、ライフル発射の瞬間、第2機動隊の内田尚孝隊長 殉職の画面など。日本テレビの「佐々淳行スペシャル」で、3編に分かれている。


(佐々淳行スペシャルーその1)
(佐々淳行スペシャルーその2)
(佐々淳行スペシャルーその3)

*14人総括への道すじ*(メモ3)

発掘現場
4人が埋められていた現場。報道陣も息を呑んだ。
=昭和47年3月、群馬県の山中
(クリックで大きな画像に)
2月16日に妙義山中でライトバンの中に立てこもって逮捕されていた奥沢修一が、3月7日になって「大久保清事件よりもっと恐ろしいことなのです 」と震えながら、日本中がその残忍、非情さに驚愕したリンチ殺人を自供しはじめた。全国民はふたたびテレビと新聞に釘づけになった。

奥沢の自供から群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1bほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生  27歳)のものだった。遺体は手足が縛られており、死因は凍死。衣類はナイフで切り裂かれて全裸だった。それからの1週間で12人の遺体を 掘り起こすことになる。


群馬県警の穴堀り
「山岳ベース事件」で穴掘りする群馬県警の警察官ら
(1972年3月、群馬県倉渕村))
群馬県警は前年(昭和46年)、大久保清連続殺人事件で、多くの遺体を掘り出したばかりで「穴掘り県警」と呼ばれた。群馬県はその後も殺人事件 での発掘が多く、「関東の墓場」とまでいわれた。

あさま山荘事件があったころ、すでに逮捕されていた永田洋子(ながた・ひろこ)が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝 えてくれ」と話していたが、内部闘争くらいにとらえていてこれほどのリンチ事件とは誰も考えなかった。


山田の遺体発掘を知らされた森恒夫と永田洋子は異様な反応を示したものの自供までには至らなかった。まもなく事件の前後に逮捕されたメンバー の自供などから大量のリンチ殺人の全容がわかってきた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、実に12人が死刑、または総括で死亡してい たのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた後藤田正晴・警察庁長官は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。

山中で殺されたのは12人だが、京浜安保共闘はその前に2人を処刑しているので連合赤軍によるリンチ殺人の被害者は14人になる。「永田のやって ることは甘っちょろい革命ごっだ。おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」」と批判して向山茂徳(20)が女性メンバーの早岐やす子(21)を連れて脱 走した。永田洋子は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じ、茨城県印旛沼付近に埋めた。

早岐やす子は長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、 京浜安保共闘に。伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」と呼ばれた。71年6月に小袖ベースに入山するが、7月に名古屋市の交番 襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永 田洋子が怒り女性兵士全員に「なんとしてでも見つけ出して来い」と命令した。


群馬県警の説明
山中で大勢のマスコミを前に連日のように
開かれる群馬県警の説明はまるで講義のよう。
(1972年3月12日、群馬県榛名の現場))
板橋区の友人のアパートにいるところをメンバーに突きとめられ、やってきた小嶋和子の「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許 してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」という言葉を信用してついていった。仲間に「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った ため殴られ失神した。小嶋和子の運転するクルマで運ばれた印旛沼のほとりで、男たちが穴を掘り始めたが、やす子がいつの間にか土手の方へ逃 げ出した。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。

向山茂徳(20)は長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗、上京して早稲田ゼミナールに通った。2浪し新聞配達 店で働きながら勉強をしていたときに京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。 71年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。

脱走したものの浪人中の身でそれほど危険を感じていなかったようですぐ居場所を突き止められ、8月10日殴られ血まみれで失神する。やはり小 嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれたが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害され、やす子の場所から少し離れたところ に埋められた。

総括の名の下に山中で殺されたのは次の12人。

死亡メンバー


死亡日

メンバー

年齢 学籍

旧所属

総括事由

1971年12月31日  尾崎充男  22歳 東京水産大学  京浜安保  12.18の交番襲撃で積極的でなかった
1972年1月1日  進藤隆三郎  21歳 秋田高卒  赤軍派  戦士として他より遅れている
1972年1月1日  小嶋和子  22歳 市邨学園短期大学  京浜安保  加藤能敬とのキスを永田に見つかる
1972年1月4日  加藤能敬  22歳 和光大学  京浜安保  革命戦士となるべき場所で小嶋と接吻した
1972年1月7日  遠山美枝子  25歳 明治大学  赤軍派  髪を伸ばし化粧している。革命戦士に不必要だ。
1972年1月9日  行方正時  25歳 岡山大学  赤軍派  1/3の会議で不適切発言
1972年1月17日  寺岡恒一  24歳 横浜国立大学  京浜安保  「このままじゃ森と永田に皆殺されるぞ」と言った
1972年1月19日  山崎順  21歳 早稲田大学  赤軍派  寺岡の死刑に不参加だった
1972年1月30日  山本順一   28歳 北九州大学卒  京浜安保  妻、山本保子への態度が偉そうで、革命戦士の意識が低い。
1972年1月30日  大槻節子  23歳 横浜国立大学  京浜安保  60年安保の議論で「敗北」の言葉を多用したのと永田の嫉妬
1972年2月4日  金子みちよ  24歳 横浜国立大学  京浜安保  「同志とやったことがあるだろう」と永田に責められ
1972年2月12日  山田孝  27歳 京都大学  赤軍派  「組織を脱退したい」と申し出たのと薪拾いが遅い。


永田洋子
永田洋子(ながた・ひろこ)
射撃訓練で的をはずし「弾が外れてそれが原因で敗北するかもしれないのよ。革命戦士としての自覚が足りない」と自己批判を迫られるものもい た。「他の者の総括中に余計なことを口走った」(尾崎)、「妻への態度が偉そうだ。革命意識が低い」(山本)のも総括対象になった。寺岡は親友の坂口弘に「総括っておかしいと思わんか。このままじゃ俺たち全員森と永田に殺されるぞ」といったが、坂口が2人に告げ口、 ナイフを足に突き立てられるなどすさまじいリンチを受ける。森が「最後になにか言うことないか」と言うと、「おれは最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや。 お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいわい」と叫んで殺されていった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが「同志と やった(sex)ことがあるだろう。物への執着が強すぎる」と4日間も外に吊るされ、お腹の子とともに死んだ。

「たくさん食べすぎる」「美容院で髪をカットした」「隠れて銭湯に入った」「パンタロンをはいて、おしゃれをした」「寝そべったまま、”ちり紙を取ってくれ” と言った」…なんでも総括の理由にされた。多くは永田洋子の異常な嫉妬心、こじつけの革命論による犠牲者といえる。

たとえば永田と坂口弘は夫婦でこのころ結婚して2年余りたっていた。 資金調達のため東京に潜伏中の森と永田に、脱走者が出たことを報告しに行った坂口は、いきなり「私は森さんが好きになった。あなたと別 れて森さんと結婚する。これが共産主義化の観点から正しいことだと思う」と、一方的に離婚を申し渡されている。有無を言わさぬ態度で、坂口 はしかたなく「分かった」と答え、妙義山アジトに戻っている。

それにしても、連合赤軍内でこうした理屈も何も理解を超える残虐・非道な同志へのリンチ殺人に発展したのはなぜなのか。

確かに、はじめは革命を目指すための武闘派集団だった。その連合赤軍内で、いつしか永田、森の二人が独裁的支配をするようになり、2人の気 に入らない者は、規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」のリンチにかけられ、殴られ、蹴られ、縛られた上、極寒の中に放置さ れて凍死させられた。

脱走した者もいたが、彼らが逮捕されると、警察に追及されてアジトの場所が知られることになるため、ついには脱走するおそれのある者まで「 総括」の対象となった。この“人民裁判”は7人の中央執行委員会によって行われた。中央執行委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・ 坂口弘、中央執行委員には、坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の4人が名を連ねていた。といっても、実際は、委員長の森と副委員長の永 田が“判決”を下し、他の5人はそれに同調するだけだった。拒否したりビビったりすれば、中央執行委員であっても「総括」された。実際、寺岡 と山田が“死刑”に処せられている。

「総括」と呼ばれたリンチには「芟除(さんじょ)」と「死刑」があった。「芟除」とは、刈り除くという意味で革命戦士になれなかった者に対し、全員で 顔や腹を殴りつけ1歩も歩けない状態にしアジトの外の柱に縛り付け食事を与えないままに放置して寒さと飢えで死なせた。「死刑」は文字通り、 罰してすぐに殺してしまうことである。榛名山ベースでは、12月31日から翌年1972年(昭和47年)1月17日にかけ、8人が殺害された。

それにしてもすさまじい殺され方だった。赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦 しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛 を刈られていた。

《犠牲者それぞれの生い立ちと総括理由》

最初の犠牲者、尾崎充男(おざき・みちお)は岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大に進学した。丹沢ベー スで公然活動のメンバーに不用意に銃の隠し場所を教えたことと総括の際坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永 田に問題視され、縛られ暴行を受けた。苦しさから死ぬ間際に舌を半分噛み切っていたが死因はアジトの外の柱に体を縛られ食事も与えられない まま放置されたことによる凍死。

進藤隆三郎は福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修 の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり赤軍派に加わりM作戦にも参加。ハンサムで、女性をオルグする役割だったが横浜のドヤ街で 同棲していた元芸者の女が逮捕され、メンバーのことを喋ってしまったことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と 見られ総括を受けた。

小嶋和子は愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。日精工業に勤務していて同僚で短大の先輩である寺林真喜江にオルグされ、当時高 校生だった妹と「中京安保共闘」に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。 印旛沼の同志殺しにも関与。71年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。 「永田さん、いやになっちゃう。加藤が、寝ていると変なことするんだもん」と訴え出たが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、他の全員に 殴る蹴るなどの暴行を受け、小屋の外に放置され1月1日凍死した(享年22)。

加藤能敬(かとう・よしたか)は愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学、京浜安保共闘へ。あさま山荘事件で逮捕され た加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達。通称「加藤三兄弟」。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で質素な生活をこころがけ ていたが右翼的思想の持ち主で兄弟3人が反発した。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。 2人は涙を頬に流し泣きじゃくりながら体を震わせて殴った。それは朝まで続けられ、気づいたときには死んでいた。事件を知った父親は3月3日付 で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。

遠山美枝子は横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール 本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親 密になると、遠山が高原と付き合うようになった。すらりとした美人で赤軍派では女王のようにふるまっていたことから永田に目をつけられる。 髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされ総括された。
行方正時(なめかた・まさとき)は滋賀県大津市出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダ ー格にかつぎあげられ、ベ平連デモや東大・安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放された行方は膳所高の先輩である坂東について 赤軍派中央軍に参加した。時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森に目をつけられたとされる。
寺岡恒一は東京都文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここ の学生が多く69年の革命左派結成時から参加。杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる。俺は 初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と言ったため総括を求められた。
順位6位の中央執行委員であったが、「こんな調子ではいつ自分がやられるか分からない」と以前から親しくしていた書記長でもある坂口弘なら分か ってくれるだろうとつい口をすべらせたのが、そのまま、森と永田の耳に入り、ナイフやアイスピックで刺され、最後には首を締められるとい う凄まじい死刑を執行された。

山崎順は東京都渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指して いたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂 東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。寺岡処刑の時に加わらなかったことや、森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、 組織から脱落しようとした」とされ、死刑を宣告された。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められ て殺害された。

山本順一は愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ。卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子(頼良ちゃん の母親、脱走して無事)と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、その後愛知県の父親が引き取り 名前を変えて育てた。

大槻節子は神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働 運動を目指してキャノンに入社後、革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には都内各所で火炎瓶騒ぎを 起こす役をつとめ逮捕された。かなりの美人だったが、これが永田の嫉妬を受け暴行を受け、髪を刈られて殺された。

金子みちよは横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野雅邦(あさま山荘立てこもり) と出会い結婚。山では「同志と肉体関係がある、物質欲が強い」などの理由で、妊娠8か月だったが手足を縛られて交代で殴られ、外の床下の 柱に縛られて凍死した。胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。胃の中は空っぽだった。
母親は娘の変わり果てた姿をみたとき、「恐ろしーい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」と繰り返すだけだった。

山田孝は東京・大森生まれ。一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の 母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われ る。70年5月に結婚し、71年11月に子どもが誕生したが連合赤軍とともに山中へ。やがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とは うまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡。最後の犠牲者。

◇ ◇ ◇

一人が逮捕されると自供でアジトが判明するので、転々と居場所を変えていた。同県沼田市の通称迦葉山(かしょうざん)ベース、碓氷郡松井田 町の妙義山ベース・・・行く先々で死体が増えた。「妻に対する態度がブルジョア的だ」という理由で殺されたのもいる。

メンバーが逮捕され、遺体が発掘されると逃亡していた連合赤軍メンバーで自首するものが出てきた。10日に名古屋・中村署に出頭してきた山本 順一の妻・保子もその一人でこのままではいつ殺されるか分からないという恐怖から長女・頼良ちゃん(当時3ヶ月)を山中に残したまま脱走した。

パレスチナの女闘士、ライラ・ハリドにちなんで命名したものだが、てっきり永田らに殺されたと思っていたようで、頼良ちゃんの面倒を見ていた看護大出身の中村愛子も脱走して千葉・市川署に出頭して子ども が無事保護されていることがわかると号泣したという。

このほか岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も各地で逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。


森恒夫
前橋署に連行時の森恒夫
(1972年2月17日))
連合赤軍最高幹部の森恒夫は7月になって東京拘置所で自己批判書を書いた。
<私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない。一種の “狂気” だと思っている。私 は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う>
翌年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。

1975年(昭和50年)8月4日、坂東国男は日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ出て日本赤軍と 合流、今も逃亡中だ。坂口弘の名も釈放要求の名簿にあったが、これに応じず、国際電話に対して、「君たちは間違っている。私は出ていかない 」と拒否、こののち死刑判決を受け、1993年に最高裁は永田洋子・坂口弘の上告を棄却、死刑が確定している。

総括で妊娠8ヶ月だった恋人の殺害に直面、あさま山荘事件では5人のメンバーとともに立てこもった吉野雅邦(よしの・まさひろ)は無期懲 役が確定し、千葉刑務所で服役中。

落葉焚く匂いに友をリンチせし小屋の炊事の匂いを想う                   (東京都)坂口 弘

1992年12月13日の朝日歌壇に佐々木幸綱撰で載った歌だが、獄中の坂口弘の作だ。

刺さざりし奴が居りぬと叫ぶ声吾のことかと立ち竦(すく)みおり      (朝日新聞社刊『坂口弘歌稿』)

という短歌」もある。

永田洋子が長い完黙(完全黙秘)ののち、突然、全容を話し始めたきっかけが、まんじゅうだったことが当時の取調べ担当検事のエッセーに出て いる。

「ある時、まんじゅう二個の差し入れがあった。永田容疑者は横を向いたまま、おいしそうに一つ食べ終えると、一言も話さないまま、残りの 一つを私の方へ押してよこす。『食べていいのか』と聞くと、横を向いたままうなずいた。彼女はそうすることで気持ちが変わったことを表した のだと思った。『では、遠慮なく』と食べ、しばらく二人でお茶を飲んだ。翌日から前を向き、供述を始めた。『殺してしまった人たちに対する 責任を果たす』という姿勢を貫き、順番に、きちんと、徹底的に話した」(後に検事総長をつとめた松尾邦弘氏)=2006年9月20日日経新聞夕刊「こころの玉手箱」。
永田洋子39年後の獄死

永田洋子
警視庁移送時の永田洋子(1972年5月))
死刑判決が確定していた永田洋子は2011年2月5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去した。65歳だった。法務検察関係者によると、死 因は脳腫瘍による多臓器不全とみられる。1984年に脳腫瘍と診断され2度の手術を受けた。2006年には脳萎縮による意識障害で寝たきりとなり、2008年には一時、危 篤状態になり家族が呼び寄せられたほどだったが持ち直した。しかし、面会者が訪れても相手が判別できない状態で視力も失い、前年9月からは誤嚥性肺炎を起こし て治療中だった。66歳の誕生日まで3日残しての死亡。

永田は昭和20年2月8日東京都文京区生まれ。父は電機会社員、母は看護師。私立調布学園中学、高校を出て1963年、共立薬科大進学後、ベトナム反戦デモや集会に参加 し、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)に加盟、卒業後は就職し大学の薬局を転々とした。

次第に政治活動にのめり込み、日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党左派神奈川県委員会立ち上げ時よりのメンバーとなる。この革命左 派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。


永田洋子
連合赤軍を率いた頃の永田洋子
1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を結成し、副委員長に就任し、委員長の森恒夫 に次ぐナンバー2となった。ゲリラ闘争を掲げた連合赤軍は、「革命戦士」になるための軍事訓練を実践したが、この訓練の過程で、永田らは逃げ出したメンバー 2人を殺害、仲間に「総括」と称する自己批判を迫り、殴打や手足を縛って厳寒の野外に放置するなどのリンチを繰り返し、山岳ベース事件では同志12名がリンチ 殺害された。


永田逮捕
逮捕時の永田洋子。
(暴れたため手錠のほか
足錠までつけられている)
1972年2月17日、森と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、山狩り中の警官隊に発見され、激しく抵抗をした末、揃って逮捕された。

「同志殺害の原因は、当時の誤った革命理論に求められるべき」。昭和57年(1982)3月の1審東京地裁での最終意見陳述で永田はそう主張したが、判決では一顧だにされなかった。

「(事件が)組織防衛とか路線の誤りなど革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったというしかない。あくまで被告人永田の個人的資質の欠 陥と森の器量不足に大きく帰因する。永田は自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の 悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「女性特有の…」というくだりが女性団体から非難されたが、事件の原因を永田の資質と断じたものだった。。

公判中から事件を「総括」するためとして、手記「十六の墓標」を執筆、この本の序文を書いてもらったことを契機に、作家の瀬戸内寂聴さんと文通。瀬戸内さ んは控訴審に証人として出廷し、「被害者の一日一日を思い出し、責任を痛感している」「生きて事件の意味を考えさせてほしい」と死刑回避を訴えた。

永田獄死を聞いた瀬戸内寂聴さん(88)は「死刑ではなく、病死と聞いてほっとした。とても幼かった。何を食べたかを聞くと、喜んで朝からの食事を書き連ね、 漫画を写して送ってくることもあった。なぜ普通の女の子がそうなってしまったのか。世の中の矛盾など私たちにも責任があると感じた」


永田
怖い顔写真ばかり掲載されるが、ごく普通の女性の
一面も。第6回公判(1973年2月)時の永田洋子
連合赤軍の元メンバーで、現在は自然保護関係のNPO理事を務める愛知県刈谷市の加藤倫教(みちのり)さん(58)は19歳の時、あさま山荘事件で逮捕され、 懲役13年の刑に服した。山岳アジトでは永田に手をつかまれ、3歳年上の兄を殴るように命じられ、泣きながら殴りつけた(兄は死亡)。

「死亡に感想はない。71年夏、神奈川県内の山中のアジトで初めて会った。第一印象はニコニコしていて、優しそうな年上の女性。やがて自分と意見が食い違う人 には、攻撃的になる一面が見えるようになった。自身の活動を正当化したままだったことが残念で、憤りに近い。武力革命という大義名分を利用し邪魔になるメン バーを追い詰め、殺していった自己崩壊だった」と振り返る。裁判では共に被告席に座ったが、反省の色は見えなかったという。

赤軍派出身で93年3月まで獄中で文通していた植垣康博さん(62)=静岡市、下に近況紹介記事=は事件で懲役20年の刑を受け98年に出所した。文通では「主体的に考えられな い人間」と自己評価していたといい「男が代わる度にその男に好かれるよう振る舞う面があった。連赤時代は森(恒夫)に影響された面が大きかった」と話した。

2008年公開の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の若松孝二監督は「事件で学生運動もすべてだめになった。そういうことを総括せず、森に責任転嫁し たまま死んでいった」と語った。

あさま山荘事件で現場で指揮に当たった佐々淳行元内閣安全保障室長は「判決が確定して20年近くたつのに刑が執行されない日本の刑事政策はおかしい。凶悪犯ほど早く 執行すべきなのに、イデオロギー的な犯罪には手がつけられず、永田死刑囚は手術も受け、税金で生きるようにさせてきた。事件で殉職した警察官のことは全く考えられていない」 と語った。


*事件、その後*(メモ4)


あさま山荘事件とそれに続く連合赤軍リンチ殺人事件に関わった者の多くは判決が確定し獄中にいる。そうしたなか、事件から40年たち、服役 を終え社会に出ている者もいる。


植垣康博
刑期を終え静岡市でバーを
経営している植垣康博さん
その一人、多くの殺人に関わり懲役20年の判決を受けた植垣康博(2009年で60歳)の近況が紹介されている。2009年2月7日の産経新聞 企画、【さらば革命的世代】ですっかり頭も禿げ上がり、中国人の女性との間に子供をもうけ静岡市内でスナックを経営している様子が伝えられている。

「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」という記事で、ネットにも掲載されていたが、サーバーから削除されたようなので下記に再録しておいた。

植垣康博は1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者だった。弘前大学理学部物理学科に入学。赤軍派として坂東隊に入り 、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在になり山岳ベース事件にも加担 し、榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面している。1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こした とき、釈放要求メンバーに植垣の名前もあったが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。

逮捕時の植垣康博
逮捕当時
1972年2月19日、食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された。きっかけはものすごい臭い。軽井沢駅の売店でタバコを買っ た際に中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。長野行きの普通列車で職務質問を受けたとき「長野市内幸町の友人宅へ 行く」と言ったが軽井沢署員に「そんな地名はないぞ」と言われ大立ち回りを演じた末、逮捕された。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告棄却した。1998年(平成10年)10月6日に出所。以下は新聞記事から の近況。

◇ ◇ ◇
【産経掲載の記事】「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」


静岡市役所近くの小さな雑居ビルにスナック「バロン」はあった。スキンヘッドの店主、植垣康博さん(60)は37年前の連合赤軍事件で、1 2人が殺害されたリンチ事件にかかわり、懲役20年の実刑判決を受けた。出所したのは平成10年10月。バロンは当時の彼のあだ名だ。取 材について、「私は事件から逃げることはできませんから」と言い、半生を語り始めた。

子供のころは鉱物や天文が好きな理系少年。鉱山の多い東北の土地柄にひかれて昭和42年、弘前大学理学部に入った。京大大学院への進学希望 があったが、「物理学は核や原子力に協力してもよいのか」と全共闘に加わった。弘前大全共闘には「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイ ンなどで知られる漫画家、安彦良和さん(61)もいた。このころまで植垣さんらは一般的なノンセクト活動家だった。

理系の知識をかわれて「爆弾をつくってほしい」と頼まれたのが赤軍派とかかわるきっかけだった。「僕なんかマルクスもろくに知らない。むし ろ右翼的な発想で『義を見てせざるは勇なきなり』という思いがあった」。上京して参加したデモで逮捕。拘置所で赤軍派の文書を読むうちに「 これからはゲリラ戦」と考えるようになった。赤軍派兵士として、銀行を襲撃して闘争資金を調達する「M作戦」などに加わった。

山中に集まったのは両派の29人。ささいなことで不協和音が生じた。革左(京浜安保共闘)のメンバーが水筒を持っていなかったことを赤軍が 「自覚が足りない」と指摘。逆に革左は赤軍の女性の化粧や指輪を問題視した。批判の矛先が次々とメンバーに向けられるなか、同志をリンチす ることで「共産主義化を進める」という理屈が生み出された。「血」の総括の始まりだった。

すでに3人が惨殺されてから合流した植垣さんは旧知の幹部、坂東国男容疑者(62)=後の超法規的措置で国外逃亡中=に「こんなことやっ ていいんですか」と言ったが「組織のためだ」といわれた。彼らにとって上の命令は絶対だった。その光景は凄惨そのものだった。「総括が 足りない」同志をみなで殴り、柱に縛ってさらに殴り続けた。リンチ死した埋葬前の遺体を「敗北死だ」とさらに殴ったこともあった。

植垣さんは会議が始まると、幹部から目をつけられないよう端に座るようにしたが、リンチが始まると前に出た。「よごれ仕事は僕のような兵士 がすべきとも思っていた」。

つい先ほどまで親しかった仲間を殴るとき、一体何を考えていたのか。植垣さんは少し間をおいてこう話した。「申し訳ない、という気持ち、で すよね。殴ったあとで柱に縛りつけながら小声で『すまない』と言ってみたり…」。一方で「問題を起こしたのだから殺されても仕方ない」とい う感覚もあったという。

次々と仲間たちが殺されるなか、植垣さんはなぜ、リンチのターゲットにならなかったのか。「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器 用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」

映画やドキュメントなどでいまなお注目される連合赤軍。平成20年に公開された映画「実録・連合赤軍」で連赤側の視線で事件を描いた若松孝 二監督(72)は「集団があると権力者が生まれ、権力を握った人間はそれを守ろうと内向きに攻撃を始める。相撲部屋でリンチが起きたよう に、どんな組織にも起こりうることだと描きたかった」。

植垣さんも「周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できるという発想は、日本的なものかもしれない。社員教育や体育会にもそう した風潮はある。あのときは制裁ではなく、教育のためという考え方に陥っていた」と話す。

平成17年、「バロン」のアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生、李紅梅(リ・ホンメイ)さん(27)と結婚、 今は3歳の息子「龍一」君と3人で暮らす(記事では妻子の名前は出ていない)。口の悪い連中には“これこそまさに犯罪だ”とか、“中国だったら、死刑じゃないか”なんてさんざ んイビられたそうだ。

「彼女は中国・黒竜江省出身で、語学留学生として来日し、前の店の2階に友達と下宿してた。そのうちにウチの店でバイトを始め、日々顔を合 わせてたらだんだんとふたりの距離が縮まって……。彼女に“子供ができた”って告げられたときは、さすがに心臓が止まりそうになった。こ っちは一生独身だと思ってたし、彼女が“産む”といってくれたときは、本当にうれしかったよ。ただ、彼女は大学進学を視野に入れて留学し てきたのに、パーにしてしまった。それについては申し訳ないと思ってる」

「子どもの名前は中国名で『ロンイー』と読めるいい名前。これなら向こうの親族も満足してくれるんじゃないの。今の願いは龍一が元気で育って くれることだけ。ボクが寄り道した26年8ヶ月分まで龍一には生きてガンバッて欲しいね」

取材を受けたことについて「僕は当時、幹部じゃなくて、ただの兵士。だから連合赤軍の代表みたいな顔をして話すのはおかしい、と言われるこ ともある。でも殺してしまった仲間への義理がある。事件を風化させないようにするのが僕の仕事と思っています」。

リンチ死に追いやった仲間の遺族からは「下手な反省はしないでくれ」といわれた。「安易な謝罪をされたらたまらない。一生かけて考えてく れ」という意味だと受け止めている。
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama

110. 中川隆[-11388] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:34:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[612] 報告

26 - 赤軍派 よど号 ハイジャック事件 - 1970 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q6kpyOy14Jo&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01


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よど号事件から30年か
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama


21世紀を直前にして、2000年11月8日、日本赤軍の最高指導者、重信房子(55)が大阪で逮捕された。長い間、全国の交番に貼り出されていた手配書でおなじみの人物だ。 それより先の6月末、よど号事件の田中義三が逃亡先のタイから送還されてきた。


田中義三の51歳という年齢を見て考えさせられた。当時21歳の確か大学生も、いまや頭ははげて見るからに中年。赤軍の女王だった重信房子だって、Vサインで連行される写真は 手配の顔写真とはまるで違っていて、そのへんのおばさんの群れにまぎれたらまずわかるまい。年頃の娘もいるというから当たり前だが、テレビをみながら別な感慨が沸いた。


彼らが30年ぶりの帰国というからには、私ども夫婦も結婚30周年になる。銀婚式が25周年だから、真珠婚式か何かにあたるわけだが気がついたのが6月では、 遅すぎてどうすることもできなかった。


昭和45年4月4日、大阪で挙式したのだが、私たちには結婚式の写真がない。なにせ突然のよど号事件。発生は少し前で、取材先の新幹線の岐阜羽島の駅のテレビで知った。 それまで聞いたこともない事件のパターンで、ハイジャックという言葉もこのとき初めて使われたのだが、よりによって私たちの結婚式とぶつかったのだ。

安田講堂事件
安田講堂めぐる攻防の
さなかに東京へ異動したのだが。
経緯を説明しておく必要があろう。昭和44年(1969)2月25日に夕刊フジが東京で創刊された。この年は日本人が高揚した気分にあった。日本のGNP(国民総 生産)が世界第2位になり、東名高速が全線開通し、「もはや戦後ではない」を合言葉に世界に向け発展しようとしていた。さらにアポロ11号が月面着陸を果たして世界から宇宙に目が向いていた。 一方では1月に東大安田講堂が水攻めで陥落、70年安保は過激派の分裂もあり挫折しつつあった。ベトナム戦争も泥沼の様相を呈していた。内外ともに騒 然とした雰囲気だった。

夕刊フジの創刊号
夕刊フジの創刊号
そんな時期に日本で最初のタブロイド新聞が創刊された。それまで産経新聞大阪本社の社会部にいて西成、阿倍野、住吉など大阪南部の7警察署を担当する「南回り」というサツ記者をしていた。天王寺動物園内にある記者クラブに寝っころがっていたとき、デスクに呼び出され「ちょっと2年ほどお江戸に行ってんか」と辞令一本で東京に異動して戦列に加わった。人事で新聞社の約束ほどあてにならないのはないのだが、2年どころかそれから30年以上東京に居つくとは思わなかった。

夕刊フジはまだ大阪で発行されていなかったので、身は東京に置いたまま岐阜羽島まで取材に行ったり、京都に来日したイギリスのアン王女を追っかけたりしていた。家内は芦屋にいた。一年生記者だから文字通り新幹線で東奔西走 していた。私の実家は大阪、家内の実家も関西、勤め先は東京、学生時代の友人の多くは札幌、そんな地縁から挙式は大阪になり、司会者と本人、それ に招待者の一部の上司や大学や仕事の仲間は東京から大阪に移動するという必要があった。このころは電話事情も悪く、新聞社は専用電話を引いていたが、一般家庭では、東西間でも申し込 んでつながるまでかなり時間がかかった。だから、たいした打ち合わせもできずもともとぶっつけ本番に近い結婚式ではあった。

前日夜遅く大阪南郊の実家に戻った。ニュースに素人の家人は、ニュースと我が家の行事とが関係するなど考えもしない。よど号の話など露ほどもなく、 九州・唐津や東北・米沢などから遠路駆けつけた親戚との昔話ばかり。家内の実家にもここ2,3日は電話もしていなかったが、どうせホテルでの着付けや髪結いのことでこちらの理解を超えている。子供じゃあるまいし、時間になれば勝手にホテルに来るだろう、と互いに連絡もしなかった。
事件発生から4日たっていたが夕刊の扱いはまだ大きくて、連日トップ。大阪本社社会部の記者がかなり動員されている様子だった。本人はいやな予感がしないでもなかったが、電話する時間もなかった。

当日、新郎は大してすることがない、はずだった。のんびり構えていたら電話が入った。司会者本人からで、新幹線に乗り遅れて遅刻する、よろしく、だと。前夜に飲みすぎたという。同じ社宅だが式の打ち合わせもしたことがなかった。全体の仕切りもこの男の役目だったが、内容も聞いていない。 そんなこと直前に新郎に言われたって・・・仕方ない、客ごと式を遅らせるしかない。

仕事がら披露宴の招待客には記者やカメラマンが多かった。ホテルの式場に行ってみると、少し招待客の数が少ない。ホテルのすぐ近くが大阪本社なので、社会部に立ち寄ってから来るのだろうくらいにしか考えなかった。いざ披露宴会場に入り、新郎席に着席すると、目の前のテーブルごとごっそり空席である。みんな、よど号を追ってソウルに飛んだという。それも今日ではなく事件発生直後からだという。 結婚式の当人だけはさすがに配慮したか、行けとは言われなかった。それだけでもめっけもんだ。

ホテルの宴会担当者が新郎の私に相談にやってきた。どうしますか、といわれたって知恵があるわけもない。テーブルごと片付けるわけにもいかない。呑ん兵衛が多いから出しとけば誰か飲むでしょうよと言うほかない。

とどめは写真だった。挙式の写真を撮るはずのカメラマンはいなくなっていた。これまたひとことの連絡もなく。ブン屋ならそれくらい察しがつかなくてどうする、といわんばかり。立つ鳥跡を汚してソウルでシャッターを切っていた。
当然披露宴の写真もない。後日パラパラと素人のスナップ写真が集まってきた。お色直しも何回かあり、家内は和洋の晴れ姿を披露したようなのだが、何も残っていないし私の記憶にもない。義母が言ったものだ。「ウチにもカメラぐらいありましたのに」。

それでも編集局の幹部は何人か式場に残っていた。記者やカメラマンをソウルに出張させた当人だが、それとて、デスクと事件の電話連絡のために中座してろくすっぽ席になどいやしない。この時代携帯電話はないからいちいちロビーの赤電話に行く。 酒を呑みに席に戻るようなもので、実のないことおびただしい。もっとも事件がなくてもこんなものだったろう。社会部は経済部や文化部より数段ガラが悪いとされていたから。

その日のうちに伊丹空港から羽田に飛び、ハワイ便に乗り換えた。羽田には東京での同僚が多数見送りに来ていた。といっても我々のためではない。この日北朝鮮が機体の返還を発表したため、今にも「よど号」が着陸するかもしれないというので、記者やカメラマンが多数、空港に配置されていた。結局は5日朝の着陸になったため、手持ち無沙汰の連中が我々の冷やかしにやってきた、というのが実態だ。 空港に張り付いていた写真部員が、我々を見かけて、ついでに撮ってくれたスナップが唯一、プロの手になる写真だ。

1週間後、新居といっても社宅だが、へとへとで戻ると、我々2人より先にすでに同僚数人が部屋に入りこんで、勝手に冷蔵庫のもので酒盛りの真っ最中。ほとんど出来上がっている連中の話題はまだよど号が続いていて、われわれのハワイの話など聞かれもしなかった。

北朝鮮で死んだのもいるが、いまだにメンバー4人や田中義三の家族までふくめると30人も暮らしているという。望郷やみがたく、みな帰国したがっているらしい。昭和13年1月、女優、岡田嘉子が愛人の演出家、杉本良吉と雪の樺太国境 (当時は樺太の大平原を横切る線が日ソの国境。歩いて越境できた)を越えてソ連に亡命した。男は共産党員で、あこがれの共産国家で歓迎されると思ったらしいが、あにはからんやスパイ容疑で 拷問にかけられた(男のほうはまもなく銃殺されたことがのちになって判明)。戦後、国交が回復してモスクワ放送で働いていた岡田嘉子が帰国したとき、やはり同じようなセリフを吐いた。


そのとき、作家であり和尚である今東光が「甘ったれるでない。向こうに骨を埋めろ」と新聞で大喝した。亡命というのは言葉は甘美だが、切ないものだ。岡田嘉子にもよど号犯たちにもいえるが、革命の大義も何かあわれをもよおす30年の歳月である。

*「よど号」ハイジャック事件(メモ1)* 

赤軍派では「フェニックス作戦」といった。3月27日の予定であったが、予約の仕方やチケットの買い方を知らないのがいて遅刻者が続出、決行は1970年(昭和45年)3月31日。 ねらわれたのは、午前7時21分、東京・羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)。 当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件がきっかけで、ハイジャック防止法が施行され、現在のような検査が義務づけられた。


離陸してすぐ、富士山上空を飛行中に、赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして(のちに、これらの武器は偽物とわかる)叫ぶ。 「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」。 その後ずっと帰れなくなろうとは、考えていなかったのが分かる。


9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(=たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(25歳/東大)、田中義三(よしみ/21歳/明治大)、岡本武(24歳/京大)など、8人の大学生と高校生1人。 岡本武は1972年(昭和47年)5月30日にイスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、26人の死者をだした岡本公三の兄。

福岡空港
福岡空港で給油するよど号。機体の下に
潜り込んでいるのは整備士に扮装した警察官
彼らは操縦室に押し入って、機関士を縛り(当時は正副パイロットの後ろに機関士が乗っていた。のち合理化で廃止)、操縦士に北朝鮮行きを命ずる。石田真二機長(当時47歳)は、平壌(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、福岡行きを説得した。 「よど号」は機動隊1000人で厳戒態勢が敷かれた福岡・板付空港に着陸し給油する。ここで病人や女性、子どもら23人を解放して、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かう。 そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけがわかる白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。


まもなく機体マークを消した戦闘機が現れ、親指を下に向けた。高度を下げろ、というサインらしいことが分かり、下げて38度線付近あたりにさしかかったとき、 「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン・・・」という無線が入る。指示されるままに平壌空港に着陸するが、 実はそこはソウル郊外の金浦(キンポ)空港だった。

韓国軍兵士
金浦空港で「よど号」を警戒する韓国軍兵士
韓国側は、北朝鮮兵の服装でニセの歓迎プラカードを立てて出迎えるなど偽装工作するが、赤軍派はこれを見破る。着陸直後に空港内に米軍機らしい機影を見たのと、田宮が操縦席の窓から下にいた兵士に 「Here is Seoul?」と尋ねる。何も知らない兵士は「Yes, Seoul!」と答えてしまう。そこまで手配する時間がなかったのだ。無線で交渉にあたっていた韓国側はなおも、「ここはピョンヤンだ」と言い張ったが、田宮が「金日成(キムイルソン)の 大きな写真を持って来い」と言う。あるわけなかった。


よど号機内で田宮らが、着陸地がソウルと見破ったきっかけは、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだという話もある。北朝鮮の ラジオにアメリカのスタンダードナンバーが流れるわけがない。このあたり、すこしできすぎた話のような気がするが、彼らがいつか司直の手で調べられる時に明らかになるかもしれない。

よど号
よど号から開放される乗客(金浦空港)。
金浦空港では翌4月1日から日本から駆けつけた橋本登美三郎運輸大臣、自ら“身代わり”になることを名乗り出た山村新治郎運輸政務次官(当時36歳)らによる犯人学生への説得工作が続けられ、結局4月3日になって犯人たちは残りの乗客全員を解放して、 北朝鮮の平壌へ亡命することで合意に達した。

この間、日本赤十字社と朝鮮赤十字会の連絡がつく。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、 着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>

3日午後2時28分、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり”に搭乗した。 乗客が解放される直前、リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。 再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った、という。
同機に乗り合わせた乗客の中に聖路加国際病院の日野原重明理事長(98)がいた。2010年3月、「よど号」乗っ取り事件から40年というので、産経新聞に寄稿し 、当時の様子を生々しく振り返っている。               
 ◇ ◇ ◇


日野原重明理事長
聖路加国際病院の日野原重明理事長
(2009.3.3撮影)

事件は、私が59歳になる半年前のことであり、当時、私は聖路加国際病院の内科医長だった。ちょうど飛行機が富士山の噴火口の真上を飛んでいたとき、日本刀 を持った一団からハイジャックの宣言を聞き、これは大変なことになったと胸騒ぎがした。自分の気持ちが動揺しているかどうか確認しようと思い、縛られた手の指 で自分の脈拍を数えてみると、平素の脈拍数70が80にもなっていた。

尊敬するアメリカの医学教育の開拓者、ウィリアム・オスラー博士の講演集『平静の心』にある「医師にとって、沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない」とい う文章や、新約聖書にある「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」というイエスのお言葉が頭をよぎった。私はあるがままに任せるほか仕方がないと観念した。

冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に 機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。

3日目の夜には、乗客の1人がハイジャックとはどういう意味かと質問をしたが、田宮(高麿)代表も答えられなかったので、私がマイクをもらって「ハイジャック する人が説明できないのはおかしい」といったところ、一同は大笑いして、座が急に明るくなった。生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたスト ックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない。

乗客の1人が別れの歌「北帰行」を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌「インターナショナル」を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗 客たちが手拍子を取って一緒に歌ったりもした。

ハイジャック4日目の朝に解放されて金浦空港(韓国)の土を踏んだときの靴底の感覚を私は今でも忘れることができない。1969年にアポロの宇宙飛行士が月 飛行を終えて無事に基地に帰り、大地を踏んだときの心境に近いものではなかったかと思った。

人生を還暦前と還暦後に分ければ、私は、後半の人生を誰のためにささげるべきかを深く考えさせる大事件に出会ったわけである。国の内外を問わず、人々のために ささげる生き方を始める人生の転換が与えられたのだと感じ、その後、いつまでもその覚悟を持って生活してきた。

赤軍のよど号グループのメンバーたちは、今にして無謀なことをやったと後悔はしていようが、帰国すると刑を受けるために、残留組は意地をはっていると思う。

《40年後の詫び状》
1970年3月に発生した日航機「よど号」ハイジャック事件で、北朝鮮在住の元赤軍派メンバー4人=国外移送目的略取容疑などで国際手配=が、乗客とし て人質になった聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(100)に事件を謝罪する手紙を親族を介して手渡していたことが26日、分かった。

共同通信の電話取材に応じたメンバーの若林盛亮容疑者(64)は「日野原先生が100歳の誕生日を迎えられたことを機に、おわびとお祝いを兼ねて何か するべきだろうという話になった」と手紙を出した経緯を説明した。

手紙の文章は小西隆裕容疑者(67)が執筆し、4人の連名を付記した。先月、訪朝した際に手紙を託された小西容疑者の母親(90)が25日に日野原さんの許 を訪れて手渡したという。(2011.10.26付産経新聞)
日野原重明さん死去 105歳
.  100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さ んが2017年7月18日、呼吸不全のため死去した。105歳。葬儀は29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。

1911年山口県生まれ、京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで、一線で働き続けた。 同病院名誉院長、聖路加国際大名誉理事長に就任後も車いすで時折緩和ケア病棟を訪れ、患者と言葉を交わしていた。「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、2000年には「新老人の会 」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。

東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執り、 多くの被害者を受け入れた。58歳だった70年には「よど号」ハイジャック事件に遭遇した経験もある。

 聖路加国際病院によると、日野原さんは3月20日に消化器系統が悪化。胃に直接栄養を届ける胃ろうの設置などの提案を断り、自宅で家族らの介助を受けていた。今月14日に  意思の 疎通が困難な状態に陥ったという。

 老いの在り方を説いた「生きかた上手」(01年)など一連のシリーズがベストセラーになるなど多数の著書がある。98年に東京都名誉都民、99年に文化功労者、05年に  文化勲章受章。( 2017年7月18日 毎日新聞)

 ◇ ◇ ◇

午後6時5分、赤軍派学生9人と山村次官、機長ら4人、計13人を乗せた「よど号」は金浦空港を離陸、北朝鮮の平壌へと向かうが、38度線を越える際にはみんなで「北帰行」を合唱した という。のんびりした機内に比べ、コックピットには焦りがあった。 石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。仕方なく肉眼で滑走路に見えたところに強行着陸した。真っ暗闇の中での見事なランディング。そこは、平壌の美林(ミリム)空港という廃港であった。

赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、亡命は成功する。4日、北朝鮮側は非難声明を出した上で、人道主義的観点からとして、機体と乗員の返還を行うと発表し、「よど号」は山村政務次官と乗務員3人を乗せ、5日午前9時10分、羽田に到着、事件は終わった。


(よど号事件の経過をまとめた動画)=「watch on youtube」クリックでスタート

*「よど号」事件、その後の人間模様(メモ2)* 

”身代わり新治郎”の異名をとって、その後の選挙を楽勝した山村衆議院議員は22年後に悲劇に見舞われる。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、 赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定していたのだが、出発の前夜、1992年(平成4年)4月12日、千葉県佐原市の自宅で、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺している。

また、石田機長は、事件のフライトの後、国際線の機長に昇格する予定だったのだが、有名になったことで、女性スキャンダルが発覚し、2年後日本航空を退社するはめになった。企業の専属パイロットや、漬物屋を始めたりしたが長続きせず、最後の勤め先の警備会社を78歳でやめてからは大阪・岸和田市でひっそりと暮らした。2006年3月韓国政府が「平壌と見せかけて金浦空港に降りたのは機長の判断」という外交文書を発表した際、「なんでそんなこというのかね。事実は違う(韓国側の工作)」と不思議がっていたという。2006年8月13日、肺がんで死去。83歳。

ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、共同生活をはじめる。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受けた。望んだ軍事訓練も帰国することも許可されなかった。 やがて、共同で貿易会社を設立し、平壌市内に外貨ショップを開いた。

その後9人は、訪朝7年目の1977年頃に北朝鮮当局の指令で一斉に結婚した。相手は、日本国内で朝鮮総連の指導による主体思想(チュチェ思想)勉強会などで、学んでいた北朝鮮シンパの日本人女性だった。全員が中国経由などで北朝鮮に渡った。

1980年、自民党訪朝団が平壌を訪れた際、田宮と小西が同行の記者団の前に現れ、望郷の念を語ったりしている。 だが、そうした中、メンバーが次々と病死や事故死、こっそり帰国して逮捕などで、欠けていく。昭和60年(1985)、吉田金太郎が死亡(35歳時。結婚したかどうか、死亡の状況など詳細は不明)。昭和63年(1988)岡本武が妻とともに事故死(42歳)、金日成首相が死去した翌年の平成7年11月にはリーダーだった田宮高麿が心臓発作で死去(52歳)。現在、北朝鮮に残っているメンバーは小西隆裕、若林盛亮、赤木志郎、安部公博の4人だけとなった。

田中義三は1996年(平成8年)に、タイのパタヤで偽100ドル札を使用したとしてつかまり、2000年(平成12年)6月28日、30年ぶりに日本へ移送された。2002年(平成14年)2月、東京地裁からハイジャック事件の強盗致傷罪などで懲役12年を言い渡され、翌年刑が確定、熊本刑務所に収監された。服役中に肝臓ガンが見つかり2006年末大阪医療刑務所に移され、12月には東京高検が刑の執行を停止していたが、2007年元日未明、入院先の千葉県内の病院で死亡した。

◇ ◇ ◇ ◇
2002年3月12日、よど号事件の犯人たちのその後の姿が意外なかたちで浮かんできた。

先年、北朝鮮から帰国して成田で旅券法違反などの罪で逮捕された赤木恵美子被告(46)=旧姓、金子、犯人の一人、赤木志郎と北朝鮮で結婚した= の東京地裁での公判に検察側証人として出廷した、犯人の一人、柴田泰弘の元妻、八尾恵さん(46)が衝撃の証言をしたのだ。


神戸市出身の有本恵子さん(元神戸市外大生、当時23)がロンドン留学中の83年に北朝鮮に連れ去られたとされる事件で、「田宮高麿に指示されて私が拉致した」と詳細に供述したのだ。 警察庁は「北朝鮮による拉致容疑事案」に有本さんを追加認定し、これで8件11人と増えることから、マスコミは大きく報道した。 警視庁も、供述から組織的な拉致の疑いが強いと、結婚目的誘拐罪の適用を視野に入れて捜査本部を設置する展開となった。


実は「八尾恵」の名は事件を知っているわれわれ報道関係者の間では有名で、私もクレームを受けて、会ったことがある。彼女もよど号事件を今に引きずる被害者なのだ。 むりやり結婚させられて、現地でもうけた娘2人(長女、黎は1978年、二女、燦は1980年生まれ)をなんとか取り戻したい一心で法廷に立ったものだ。新聞テレビはこの日の法廷ではじめて 直接、拉致の供述が得られたと報道しているが、実は彼女はそれより1年以上前から同じ主旨の拉致の事実ともっとくわしい内容を供述している。有本さんの両親もこの日の証言を事前に知っていて、 ホテルで会ったとき、八尾さんは両手を突いて泣き崩れたという。


八尾さんの証言によると83年1月ごろ、平壌市内にあるよど号グループの拠点で、リーダーの田宮高麿(その後死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得して欲しい。男性ばかりでなく、 女性も獲得せなあかんだろ。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本さんを拉致することにして、デンマークのコペンハーゲンでよど号事件のメンバーの安部公博=北朝鮮に渡った日本女性、 魚本民子と結婚=に引き合わせ、彼が北に連れ出したという。この件では結婚目的誘拐容疑で警視庁が安部公博の逮捕状を取り国際手配中である。

さらに八尾さんは、田宮高麿の妻の森順子らが男性2人を獲得した、という話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。 タイから日本に強制送還された田中義三の妻、水谷協子(45)=同=が、故金日成主席のチュチェ(主体)思想を教えていることや、拉致された日本人男性らと元気に暮らしていることなどを聞いた、と述べた。

その後、有本恵子さんの誘拐にかかわった詳細を明らかにした『謝罪します』(文芸春秋・1600円)を出版(2002年)、その中で、革命村にやってきた金日成首相の右腕にぶら下がって迎えた話などを披露している。

◇ ◇ ◇ ◇

八尾さんは数奇な人生を送ってきた。日本を出国し、半分観光のつもりで北京を経由して北朝鮮に入国した。ところが、入国後、二ヶ月あまり軟禁状態で思想教育を受けた後、1977年5月、よど号グループの一員である柴田泰弘(犯行時未成年)と強制的に結婚させられた。 その強いられた結婚生活は、いわゆる「ハウスキーパー」で、柴田の「慰安婦及び子生み・子育ての道具」だったと後の裁判で述べている。


その後防衛大学生を拉致するよう命令を受け、そのため横須賀に住み、接触するための場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」という店を作った。夫の柴田もひそかに日本に入国するが、1988年5月逮捕され、彼女もまもなく 有印私文書偽造同行使で逮捕される。そのとき「北朝鮮の女スパイ」と書かれたことから「北朝鮮には行ったこともない。よど号グループとは何の関係もない」とマスコミや国、警察を相手に14件もの裁判をおこしている。私が会ったのはそのときだ。この時、多くのマスコミは敗訴した。 わが社も百何十万円払った口だ。ニュースソースの秘匿という職業上の義務があって、たとえ警察情報と分かっていても明かすことができなかったためだ。後年彼女は「真実ではないことを語り、ご迷惑をおかけしました」と謝罪したが、支払った金は戻ってこなかった。


92年になって田宮から「よど号グループの妻であることを公表するように」という指示が来る。さすがにこのあたりから、気持は北朝鮮から離反していく。何より、夫婦2人とも日本で逮捕されているのに、娘2人が北朝鮮に残されるという 状況に耐えられず、東京地方裁判所によど号事件の現在のリーダー小西隆裕に対し、彼女の2人の子供の返還を求める裁判を起こしている。97年の夏に日本の戸籍を取得している八尾恵さんの2人の娘は帰国できないでいる(その後帰国)のに、他の犯人の子女はどんどん帰国している。これでは転向ゆえの人質だというのが訴えだ。


「よど号グループ」の子どもたち(といっても全員20歳以上)は意外に多い。田宮高麿が3人、小西隆裕に2人、田中義三に3人といったぐあい。2001年4月、田宮の娘(22)小西の娘(22)、田中の娘(23)が 裁判支援などのため帰国した。「朝香」「立子」「東美」と日本風の名前なのを見ても親の望郷の念を感じる。

2001年9月帰国して逮捕された赤木志郎の妻、恵美子被告の裁判で八尾恵さんが”敵側の”検察側証人として立つまでには、娘が北朝鮮で人質同然の立場におかれているという背景があった。


麻薬・覚せい剤とニセドル紙幣が北朝鮮の経済を支えているといわれるが、よど号事件から30年余、今では彼らはニセドルの使用と日本人拉致の手先に使われているらしい断片が浮かんできている。


(2004年1月14日、2月25日、5月10日追記)


八尾恵さん(この時点で48歳)の娘の一人が平成16年1月13日ようやく帰国した。この日北京経由で6人のよど号グループの子供たち( 全員北朝鮮生まれ)が帰国したが、この中に柴田泰弘(刑期終了)と八尾恵さんの間に生まれた次女、柴田燦(あき)さん(23)が入っていた。 ほかに安部公博(55)=結婚目的誘拐などの容疑で国際手配中。北朝鮮に渡った日本女性、魚本民子と結婚=の長女(21)と次男(19)、元リーダーの故田宮高麿の長男(20)、故岡本武の次女(22)、田中義三=服役中=の次女(17)。魚本民子=51歳。旅券法違反で国際手配中=本人も2月24日、北京経由で空路帰国、警視庁に逮捕された。公安部は、夫の安部容疑者が有本恵子さん拉致事件の実行役で、魚本容疑者も欧州などで「日本人獲得工作」に関与していたとみている。


一時北朝鮮に30人以上いたよど号犯の妻子は平成13年5月、平成15年9月、平成16年1月、2月にあいついで帰国、6月13日には最後まで残されていた八尾恵さんの長女、柴田黎さん(この時点で27歳)も帰国した。


八尾さんの娘は二人とも父親の姓を名乗っているが、2004年に帰国した次女、燦(あき)さんは田宮高麿が死亡したあとリーダーをつとめていた小西隆裕が育てていたが、90年ごろ、両親が日本にいることを知らされ、94年ごろから国 際電話で話をするようになった、という。よど号グループは八尾証言をでっち上げと批判しているくらいだから、燦さんも「母が拉致に関与したかどうかは分からないが、親子の信頼関係を何度も裏切られ、大きな不信感がある」などと話し、長女も母親を裏切者と呼び非難している。八尾恵さんは空港に出迎えに来ていたが、洗脳された娘との関係修復は容易ではないことをうかがわせていた。

柴田泰弘
柴田泰弘(逮捕時)
八尾恵さんの前夫、柴田泰弘は他人名義の旅券で日本に帰国し潜伏していたが、昭和63年に逮捕され実刑が確定、平成6年に刑期を終え、釈放された。事件後4 0年というので2010年3月産経新聞がインタビューを試みている。


「もう(運動は)やりません。疲れちゃってるんで…。本当に疲れちゃってるんですよ」。大阪の下町にあるマンション、短髪に黒いサングラス姿で顔をのぞかせ た男性は、それだけ言うとドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。
関係者によると、釈放後は大阪・日本橋でパソコンショップを開いていた時期もあったが、すでに店をたたみグループやその家族らからも離れているという。(2010年3月29日付産経新聞) その柴田泰弘は2011年6月23日病死しているのが発見された。大阪府警などによると、連絡が取れないのを不審に思った知人が管理人に安否確認を依頼。23 日午後8時ごろ、管理人と警察官が大阪市浪速区のマンションの自室に入ったところ、死亡しているのを見つけた。死後数日が経過し、死因は病死とみられる。58歳。
◇ ◇ ◇

2002年9月17日の小泉純一郎首相と金正日総書記のトップ会談で北朝鮮側が拉致したことを認め、謝罪したあと、よど号グループ の立場は微妙なものとなった。今でもいっさい関与を認めていないのだが、八尾証言はじめ出てくる話は関与が濃厚なことばかり。拉致を認めたあとは北朝鮮にとってよど号グループはもはやお荷物に過ぎず、それが妻子のいっせい帰国につながっているようだ。


◇ ◇ ◇ ◇

(2006年6月14日追記)

北朝鮮政府は「よど号」犯と家族をもてあましているようで、2001年から毎年のように帰国させている。2006年6月現在、北朝鮮に残っているのは8人。


小西隆弘
安部公博
若林盛亮
赤木志郎
若林佐喜子(若林盛亮の妻、旧姓黒田)
森順子(よりこ。田宮高麿の妻)
北朝鮮に自分で渡った赤木志郎の妹と結婚した男(氏名不詳)
若林盛亮の次男(11歳)


よど号犯と結婚した女性は八尾恵さん含めほとんどが日本国内で「チュチェ思想研究会」のメンバーだった。森順子ら「在日」だった女性が多いが、若林佐喜子ら日本人女性もいる。彼女らの「自伝」によると、森順子は強制連行で日本にに来た朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれ、父の遺骨を故国に返すべく北へ渡った。 若林佐喜子は群馬県伊勢崎市出身で、専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航したという。 2001年5月から始まった北朝鮮の”送還事業”だが、一時30人を超えていたものの最後まで残るのはメンバー4人だけということになりそうだ。


赤木邦弥
関西空港帰国と同時に逮捕された赤木邦弥。


謎の男帰国(この項2007年6月加筆)
上で「氏名不詳の男」と書いたが、突如、熊本県宇城(うき)市出身の赤木(旧姓・米村)邦弥(52)と判明した。2007年6月5日に平壌から北京経由で関西国際空港に21年ぶりに帰国、ただちに旅券法違反容疑で警視庁公安部に逮捕され、即日羽田空港に送られた。
「北朝鮮に残留する身元不詳の男」と上述したように、2004年11月の日朝実務協議で、北朝鮮側が本名を 明らかにするまで、警察当局ですら身元がつかめなかった「謎の男」だった。逮捕後、「日本で(先に帰国した)妻や娘と 一緒に暮らしたかった」と帰国の理由を語ったあと黙秘しているようだが、どうやら欧州で日本人拉致に関わってきたようである。

赤木に関する情報を、警察当局が初めて知ったのは1992年10月ごろ。よど号犯らが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木に出会ったことがきっかけだった。よど号犯の赤木志郎(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)をもうけていた。

94年に「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表しはじめたが身元は分からず、97年に2人の娘の出生届が日本国内で 出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請されている。

その正体が突如判明したのは04年11月、平壌での日朝実務協議。北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたのだ。 本人も今回の帰国のため旅券を返納したが、その記録からいりいろ動きが判明してきた。 熊本県出身で、旧姓・米村邦弥。元神戸大生で昭和56年(1981)10月、大阪からパリに向け出国。当時の西独の飲食店な どで働いたが資格外活動で検挙され、国外退去処分になった。その後ウィーンに入り、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」 を発行する日本人留学生らの活動に加わっている。この時ウイーンを訪れた土井たか子・元社会党委員長と小川淳として会っている写真も残っている。=右下


赤木=小川
土井たか子・元社会党委員長と
小川淳として会っている写真(赤円内)も
=「おーJAPAN」から
ウイーンには昭和60年(1985)まで滞在したが、この時よど号犯の赤木志郎の妹、美智子と知り合い、62年(1987)4月に一緒に北へ渡り、結婚している。北朝鮮に渡る前の昭和60年に日本に不法帰国し、実姉の居住地がある兵庫県内に住民登録していたことも分かった。この時期は、メンバーの一人や八尾恵さんが、組織拡大のための日本人獲得などを目的に極秘帰国した時で、日本人拉致の活動をしていたことも考えられる。

よど号犯による拉致の活動は昭和52年(1977)ごろスタートし、当初リーダーの田宮高麿 (1995年11月に死亡)らが指導していたが、昭和58年ごろには、魚本(旧姓・安部)公博容が責任者になっていた。赤木邦弥 がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、赤木邦弥は 欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。

「北朝鮮にいるときは恵子のことも知っていると思うんですね。だから話して欲しいという気持ちはありますけれども。だけど、 話さないだろうと思ってます」(有本恵子さんの母・嘉代子さん)

(2009年1月加筆)
2009年1月13日、若林盛亮(もりあき)=国外移送略取などの容疑で国際手配=の次男(14) が北朝鮮から北京経由で関西国際空港に到着した。北朝鮮生まれで日本旅券のない次男は、代理人が準備した旅券に代わる渡航書を所持し、北京国際空 港で日本大使館の担当者と帰国手続きを行った。

帰国に同行した支援団体「救援連絡センター」の山中幸男事務局長によると、次男は94年に北朝鮮で生まれ、2歳で日本国籍を取得。北朝鮮では一般の 子供たちと一緒に就学し、両親から日本語を学んだ。今後は大阪市内で中学に編入して高校進学を目指すという。

実行犯の家族の帰国は2001年5月、故田宮高麿リーダーの長女らが帰国したのが最初で以来北朝鮮生まれの子供など家族26人が帰国、次男は最後の1人 だった。これで北朝鮮に残るのはメンバー4人と拉致被害者の石岡亨さんと松木薫さんに対する結婚目的誘拐容疑で国際手配中の妻2人の計6人となった。

これまでに帰国した子女26人は14〜31歳になり、それぞれ東京や大阪で大学生や会社員などとして生活しており、中には結婚し出産した者もいる。北 朝鮮の6人とは普段は電子メールなどで連絡を取り合い、長期休暇には渡朝して直接会っているという。

支援者はよど号事件から40年となる2010年までに若林佐喜子、森順子、メンバー4人の順で帰国させたい意向を表明しているが実現は難しい。2008 年6月の日朝実務者協議で北朝鮮側は、よど号グループの引き渡しに協力することを約束したが、その後、交渉に進展は見られない。また、よど号グ ループは拉致への関与を否定し、「拉致容疑での逮捕状の撤回」を帰国の条件としているためだ。残る6人は「核心部分が残った」(警視庁幹部 )かたちになる。

ついに本件の拉致で逮捕状
これまで帰国した連中は国内に入ると同時に逮捕されたが、皆平気な表情で連行された。旅券法違反などの形式犯で刑が軽いことを知っているからだ。事実ほとんどはすでにシャバに出て支援活動などをしている。しかし森・若林の二人の場合はそう簡単ではなさそうだ。2006年2月に、拉致被害者の松木薫さんの拉致に関与した疑いが強いとして、松木さんの姉の斉藤文代さん(60)が、「拉致された弟がまだ帰国できないのに、関与した2人が帰ってくるのは許せない」と逮捕監禁容疑で警視庁公安部に告発状を出して受理され、さらに2007年6月に警視庁公安部が石岡さんと松木さんを欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で逮捕状を取り、国際手配したからだ。


よど号犯関与の証拠写真
撮影されるのを嫌ったようだが、
石岡さん拉致に若林、森の二人が関与した証拠写真。


札幌市出身の石岡亨(いしおか・とおる)さん=当時(22)=と熊本市出身の松木薫(まつき・かおる)さん=同(26)=は昭和55年(1980)4月、スペインで若林、森の2人と会い、ウィーン旅行に誘われた後に失跡した。石岡さんは日大卒業後、パン作りの技術を学ぶためバイト先で仲良くなった友人と2人で旅行中(のち動かぬ証拠となる動物園での写真はこの友人が撮影)。また松木さんは京都外大大学院を休学して語学留学中だった。松木さんには日本に将来を誓った女性がいて「あなたが一番好き。1年で帰国するから待っていてください」とマドリードから絵はがきを送っている。姿を消す理由はなかった。

森、若林らよど号犯の活動拠点は当時オーストリアのウイーンにあったが、スペイン・マドリードにアパートを借りて拉致工作を行っていた。2週間ほどのあいだにターゲットにされたのが石岡、松木さんと関西地方からこの地を訪れていた姉妹だった。姉妹はウイーン行きを断って無事だったが、拉致して子どもを産ませるため北朝鮮で誰かと結婚させようとしたと見られている。

4月16日、スペイン・バルセロナのテルミノ駅で友人と2人でいた石岡さんに森、若林が「日本の方ですか」と声を掛けて近づいてきた。4人で市内の動物園に移動して記念写真を撮った。石岡さんの友人がシャッターを押し、のち動かぬ証拠となる上の写真だが、このとき2人は嫌がるそぶりをみせたもののかえって不自然だと思ったようで一緒に収まっている。

松木さんの方はマドリードにいた。4月15日から5月20日までの宿泊記録がある。この間に石岡さんがバルセロナで写真を撮った時の友人と分かれて戻ってきた。今度 は森、若林が自分たちのアパートに石岡さんと松木さんを頻繁に招くようになった。ほとんど毎晩でこの席には前述の姉妹も招かれ、手料理で歓待されたりトランプゲ ームなどをして遊んだという。やがて「ウイーンに一緒に行きましょうよ」と誘われる。姉妹は断ったが男2人は付いていったと思われる。

石岡さんは6月3日、日本の友人に「ウイーンに滞在中ですが、マドリードで知り合った人たちと4人で共産圏を旅してきます」と手紙を送っている。姉妹は「あの4人としか考えられない」という。こうしてスペインからウイーンに誘い込まれた2人はルーマニアなど旧共産圏を旅行して、6月上旬にユーゴスラビアから北朝鮮に拉致されたと見られる。「共産圏の旅行には北の特務機関の人間が付き添うのが普通。そうして送られたのだろう」と警視庁公安部ではみている。


家族に届いた手紙
危険を冒して家族に届けられた手紙。
北朝鮮側に証拠として突きつけられた。
8年後の昭和63年(1988年)9月、突然、石岡亨さんから札幌の実家に、手紙が届く。松木さんや昭和58年7月に行方不明になった元神戸外大生の有本恵子さん (当時23歳)と北朝鮮で暮らしているというもの。8月13日付の消印からポーランドで投函されたのがわかっている。警戒が厳しい平壌で、バレたら殺される身の危険を冒してすれ違った共産圏の人に託したも のと考えられている。

この手紙で有本恵子さんの両親、有本明弘さん・嘉代子さん夫妻が外務省に陳情しても無視され相手にされない。困り果て、当時北朝鮮と親密な関係にあった社会党の 力を借りようと国会を訪れ国会内のエレベーター前で土井たか子委員長に石岡亨さんの手紙を根拠に直接陳情した。しかしけんもほろろで全く相手にされず、それどこ ろか、土井たか子氏は石岡亨さんの手紙の存在事実を事もあろうに朝鮮総連に通告したという。夫妻は今も社会党と土井たか子氏への怒りを隠さない。

この手紙は2000年の日朝国交正常化予備交渉の席で日本側から提出され、有本恵子、松木薫、石岡亨の3人の消息確認要請がされた。、2年後の小泉首相の訪朝時に回答があったが 、いずれも交通事故で死亡とか洪水で墓が流されて分からないとか欺瞞だらけの内容だった。生存とされた5人は帰国をはたした。

有本さんはデンマーク・コペンハーゲンで拉致されたが、この件ではウイーンを拠点に活動していた魚本(旧姓・安部)公博の関与が分かっていて、北朝鮮工作員 に引き合わせたしてすでに国際手配中だ。


森・若林
2人の近影
=産経新聞から
松木さんは北朝鮮に連れてこられて初めてだまされたことに気づいて激しく怒ったようだ。前述の八尾恵さんの手記『謝罪します』によると、森順子は松木さんに殴ら れたという。このとき男性メンバーが松木さんに「だまされる方が悪いんや」と言ったそうだ。2人はかなり抵抗したようで、八尾さんの証言では平壌郊外「元新里 」にあるよど号犯の拠点「日本革命村」から山をぐるっと回って小一時間のところの招待所で暮らしていたという。ここで思想教育を受けていたが「よいところと聞い ていたが、大したことはなかった」と漏らすのを同じく拉致被害者の田口八重子さんから聞いたと、帰国した地村富貴恵さんが証言している。地村さんは平壌郊外の招 待所で田口さんと一時一緒になったことがあり、ここには石岡さんと松木さんによく似た男性が1980年7月ごろから1年間生活していたと証言している。

小泉首相の訪問時に、北朝鮮は日本政府に2人の拉致を認め「石岡さんは有本恵子さんと結婚したが1963年にガス中毒で死亡、松木さんは1996年に交通 事故死した」と伝えてきている。北が提供した松木さんの遺骨というのはDNA検査で全くの別人のものと判明している。横田めぐみさん含め死亡したとして ニセ遺骨を送りつけてくる北朝鮮のことだから、はいそうですかと信じられる話ではないが、なんでまたこんなに手の込んだ拉致をする必要があったのか。金 日成主席が「代を継いで日本革命を行わなければならない」とよど号犯とその妻らに教示したため、組織拡大と結婚相手確保のため、昭和53年ごろからウイー ンなどを拠点にいっせいに日本人留学生の獲得に乗り出したとされる。マンガのような北朝鮮とその頭領だ。もっともその前に、よど号を乗っ取って北朝鮮で革命 拠点をつくると考えた連中のマンガがあるのだが。


よど号事件から40年 北朝鮮に残るメンバーが電話取材で


日航機「よど号」乗っ取り事件から2010年3月30日で40年になるのを機に、北朝鮮に残るよど号犯のメンバーが産経新聞の電話取材に応じ、「あっという間に過 ぎた40年」「よど号問題は政治的遺物」と述べた上で、「北朝鮮ではいつもお客さんと感じてきた。60歳を過ぎてお客さんとは甲斐性がない。そろそろ帰国し ないと」、などとその後の生活と心情を語っている。


若林盛亮
若林盛亮
(2002.7.9)
電話取材に応じたメンバーは、若林盛亮(もりあき)容疑者(63)を名乗り、「寂しくなった。(平壌での)商店運営など経済活動からも退いた」と述べた。 北朝鮮での40年間の生活を「苦労していない」「日本で言えば富裕層」とした上で、2009年11月に実施され、経済混乱を招いているとされるデノミネーション (通貨単位の切り下げ)を受け、「外貨が入り、得をしていた人が前より落ちた」「闇のレートがあったが、なくなった」と打撃を被った事実に触れた。

金正日総書記の三男、ジョンウン氏(28)への後継委譲については、ジョンウン氏をたたえるとされる歌の存在は知っているとした上で、「金総書記の(後継委譲 の)ときは僕らでも分かったが、そういう雰囲気は感じない。あまり国民は意識していないんじゃないか」と語った。

メンバーの日本人拉致事件への関与については「代を継いで革命をやるために結婚目的で誘拐したとされているが、そんな悠長なことはない。われわれの代が何も していないのに。まず帰国が目的。逮捕状自体認めるわけにはいかない」と述べた。

40年前の事件を振り返って「赤軍派路線自体がむちゃな路線だった。『われわれはあしたのジョーである』と言って“リング”に上がったが、やはり赤軍派み たいなやり方はダメと分かった」と、武装蜂起による日本革命やそのための国際根拠地建設論を実行犯自らが否定した。

「寂しくなったのは事実。バレーボールをやっても大人だけで2対2でやる」と若林を名乗ったメンバーは産経新聞の電話取材にそう語った。

北朝鮮に暮らすメンバーは家族を合わせ一時30人を超えたが、逮捕されたり、子供ら全員が昨年末までに帰国したため、残るのは乗っ取りと日本人拉致の両事件 で国際手配されている6人だけとなった。6人の処遇をめぐっては、2009年の日朝協議で北朝鮮側が引き渡しへの協力を表明したが、交渉に進展はなく、宙に浮い た状態のまま。

◇ ◇ ◇

この電話インタビューとは別に 彼らと最近面会した関係者にもらしたところでは、北朝鮮で200万〜300万人の餓死者が出たとされる1990年代後半の飢饉の時 は「この国は終わるんじゃないかと思った」という。


よど号メンバー
現在平壌にいるよど号メンバー。左から若林盛亮、小西隆裕、
赤木志郎」、魚本(旧姓 安倍)公博=2002.7.9=
関係者によると、平壌市郊外の「日本人革命村」で庶民とは隔絶した生活を送っている彼らだが、飢饉当時、北朝鮮で聖山とされる白頭山にドライブに出かけた。革 命村から一歩出て、急激に増えた物ごいに転落した一般市民の数に驚いたという。そのうち影響は革命村にも及んだ。自宅に電気が来なくなり、真冬に暖房が止まっ た。朝起きてネズミが凍死しているのを目にしたその瞬間、北朝鮮の最後を感じたのだという。

北朝鮮社会に大混乱をもたらしたといわれる前年のデノミについても「えらい打撃を受けた」と別の関係者に打ち明けている。外貨を自由に使える分、闇レートの利 ざやで潤っていたが、デノミ後の外貨使用禁止や闇レートの乱高下が影響したとみられる。だが、「あの(飢饉の)ころと比べれば、経済は持ち直し、生活に困る ことはない」とも関係者に話している。

「理髪店に行く以外はほとんど(現地通貨の)ウォンを使ったことがない」彼らは依然として北朝鮮で隔絶された生活を送っているが、日本の情報には敏感だ。N HKなどの衛星放送で情報を得てきたが、日本政府による北朝鮮への制裁強化とともに日本からスポーツ新聞が届かなくなった。メンバーは最近訪朝した支援組織 関係者に愚痴をこぼしたという。

メンバーは上下のしきたりは今も頑なに守り続けているという。食事の際、現リーダーの小西隆裕容疑者(65)がはしをつけるまで誰も食べ始めない。その一方 で、「田宮さんは偉かった」「田宮さんがこう言ったんだけど…」とことあるごとに平成7年に死亡したとされる田宮高麿の名前を持ち出すという。

「日本人村」での暮らしぶり公開

「よど号」ハイジャック事件で北朝鮮に渡り、欧州で日本人拉致にも関与したとして国際手配されているよど号グループが暮らす施設「日本人村」の様子が2014年5月公開 された。


日本人村のアパート
よど号事件のメンバーが暮らす日本人村アパート
書籍編集者の椎野礼仁さん(65)が4月末に現地を訪れた際に撮影したもので、日本人村は平壌中心部から約20キロ離れた大同江のほとりにある。メンバーらが生活する3 階建ての鉄筋アパートなど10棟余りが点在。現在はアパートのほか、事務所や来客用宿舎、食堂の4棟が、北朝鮮当局から貸与され、村の管理や警備にあたる専従のスタッフが 配置され、家庭菜園や来客者向けの宿舎もあった。庭木の手入れが行き届いた広大な敷地にはグラウンドや一般国民には認められていないとみられる衛星放送の受信施設もある など、事件から約45年が経過した今も北朝鮮当局による厚遇ぶりがうかがえる。


パソコンに向かう若林盛亮容疑者
パソコンに向かう若林盛亮容疑者。メールはできるがネットには繋がっていない。
若林盛亮容疑者がパソコンにむかっている写真も公開されたが IT環境は厳しく制約されていて国際電話用の通信回線も最近整備されたものの、インターネットには繋がって いない。しかしパソコンで電子メールの送受信はできる。NHKや米CNNのニュースも見ることができたという。

公安当局によると、かつては「日本革命村」と呼ばれ、ピーク時には妻子も含め計36人が暮らしたが、刑期が短くてすむ妻子はほとんど帰国、日本に戻れば刑事訴追がまぬが れない者は帰国を拒んでいる。現在、日本人村で暮らしているのは小西隆裕(69)、若林盛亮(67)、魚本(旧姓 安倍)公博(66)ら6容疑者とみられる。

平壌中心部のビルで中古車などを扱う貿易会社を運営していたとされるが、ビルは昨年7月に当局に返還されたといい、事実上の隠居生活に入った可能性があるという。

日本政府はメンバー全員の身柄引き渡しを北朝鮮に求めている。しかし、グループはハイジャック事件については事実関係を認めるものの、魚本は有本恵子拉致事件へ関与した罪 で警察庁と国際刑事警察機構から国際指名手配されている。

◇ ◇ ◇

2014年5月16日このホームページへのアクセスが1万ページビューほど上がった。この日新聞などで上記のルポが掲載されたためとみられる。事件から45年、まだ多く の人が興味を持っていることをうかがわせた。

◇ ◇ ◇
よど号グループ平壌残留組6人の近影(2014年11月11日)


ツイッターにある6人の画像
ツイッターの自己紹介欄に載せている画像。
左から魚本(安部)公博、森順子、小西隆裕、若林盛亮、
赤木志郎、若林(黒田)佐喜子の各容疑者
「よど号グループがツイッター開始。でも、帰国の希望に厳しい反応」という記事が11月11日の朝日新聞に掲載された。そこで現在の彼ら残留組の 近影が紹介されている。


北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーと妻のグループが支援者を通じて、ツイッターでつぶやき始めた。事件から44年。元メンバーらが高齢になるなかで、帰国の希望を世論に訴え かけるのが狙いだが、厳しい反応も多い。

〈1970年、日航機「よど」をHJ(ハイジャック)して北朝鮮に来たのです。以来、ずっとこちらにいます〉〈拉致疑惑をはねかえし日本への帰国をめざして頑張ります〉
グループのツイート(つぶやき)が流れ始めたのは10月3日。北朝鮮ではインターネットの接続先が制限され、ツイッターを使えないため、日本の支援者に定期的にメールを送っ て代わりに投稿してもらっている。しかし、元メンバーらの「肉声」には国内から厳しい反応も相次いでいる。

〈歴史の生き証人の方々と会話ができることに感動を禁じえません〉と好意的なものもあるが、大半は〈止(や)むことのない望郷の念が湧くのなら潔く罪を償う覚悟で帰国されよ〉 〈能天気ですね。拉致に対する意識が希薄で不愉快です〉など厳しい声が多い。
■元メンバーらのつぶやきと主な反応(抜粋)

・小西隆裕容疑者〈こんにちは、「よど号」の小西です。と言っても、分かる人はほとんどいないでしょうね。1970年、日航機「よど」をHJして北朝鮮に来たのです 以来、ずっとこちらにいます。なぜ帰ってこないのかですって? よく聞いてくれました。それについてもこれからおいおい話していきます。よろしく〉
→《反応》〈詳しく知りたいです!〉〈カビの生えた何の役にも立たない武勇伝など聞きたくない〉〈皆さんの言葉の耐え難いほどの軽さは、存在の軽さにつながります。ご注意 下さい〉

・赤木志郎容疑者〈日本と真っ正面から取り組もうと、日本という国と民族がどれほど貴重なものか、勉強しています。いろいろ教えてください〉
→《反応》〈めでたく地上の楽園に行けたんだから帰国なんて考えなくても良いのでは?〉

・若林(旧姓・黒田)佐喜子容疑者〈在朝30余年になる、私です。「じぇじぇ!!」ですよね[ちょっと古いかな]。今、「よど号拉致」逮捕状見直しの国賠をやってます。 ここ朝鮮の地から国賠のこと、日本への思い、日常の出来事をつぶやいていきます〉
→《反応》〈能天気ですね。拉致に対する意識が希薄で不愉快です〉〈どこで暮らそうが、歳(とし)を重ねれば爺(じじ)・婆(ばば)になりますな〉
日本革命村で生まれた筋金入り子供20人が日本に帰国

よど号ハイジャック犯9人が北朝鮮に逃亡したのは1070年。彼らは「日本革命村に住み、金日成体制の主体思想による徹底的な洗脳教育を受け、この間北朝鮮で日本人妻(日本から渡った)と結婚し子供を合計20名もうけた。日本革命村の周囲には、射撃練習場、格闘技場、研究所、アパートなどがあり、金正日総書記直轄の連絡部56課の指導のもと、家族全体で日々、革命教育が行われていたという。どんな教育内容かは彼らが毎朝唱える「10の誓い」を見ればわかる

【日本革命村で毎朝唱える10の誓い】
1、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想で日本を金日成主義化するため青春も生命も捧げて闘うことを誓います。
2、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志を忠誠の一心を持って高く仰ぎ戴くことを誓います。
3、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の権威と威信を絶対化し、首領様を擁護、防衛するために親衛隊、突撃隊、決死隊になることを誓います。
4、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念化し、首領様の教示を信条化し日本革命勝利のため、社会主義・共産主義偉業のため最後の血の一滴まで捧げて闘うことを誓います。
5、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の教示と親愛なる指導者金正日同志の教えを無条件、徹底して遂行し、任務を貫徹することを誓います。
6、我々日本革命家は、日本革命の指導者である田宮同志を中心とする全党の思想的意思統一と革命的団結を強化することを誓います。
  7、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志に学び、共産主義的風貌と革命的活動方法、人民的活動作風を所有、体得していくことを誓います。
8、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志から授かった政治的生命を大切に守り、首領様の高い政治的信任と配慮に高い政治的自覚によって、忠誠心で応えていくことを誓います。
9、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の唯一的指導の下に、組織の秘密を命懸けで守りながら活動することを誓います。
10、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の導きの下、日本革命の偉業を代を継いで最後まで継承し完成させていくことを誓います。
  (出典:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会のHPより)

帰国した妻や子女は26人に上るが、このうち革命思想教育を受け、当時10代後半から20代に育っていた子供たちは20人。2001年から次々と帰国を希望、2009年には全員が帰国した。日本の国籍法により、日本国籍の選択ができるよど号ハイジャック犯の子供たちは、親の指導もあったのだろうが全員帰国を希望した。現在、国内各地に20人が支援者の支援を受けながら暮らしている。
[よど号犯の帰国子女]
●2001年5月 田宮長女(22歳)・小西長女(22歳)・田中長女(22歳)帰国
●2002年9月 小西次女(24歳)・岡本長女(25歳)・若林長男(24歳)・赤木長女(22歳)・魚本長男(23歳)帰国
●2004年1月 田宮長男(20歳)・岡本次女(22歳)・魚本長女(21歳)・魚本次男(19歳)・田中次女(17歳)・田中三女(14歳)・柴田次女(23歳)帰国
●2004年9月 田宮次男(16歳)・赤木妹長女(16歳)帰国
●2006年6月 柴田長女(27歳)・赤木妹次女(?歳)帰国
●2009年1月 若林次男(14歳)帰国
(年齢)は帰国時。

日本にいる支援者が戸籍編製(編製とは戸籍などを新しくつくること)の手続きをし、日本で生活しているが、洗脳されて筋金入りの過激派に育ち、地方選挙に出自を隠して立候補する者も出ている。

例えば、主犯格の田宮高麿の長男、森大志は1983年北朝鮮生まれで、「日本革命村」で育てられたのち、2004年、21歳で日本に帰国した。28歳になった2011年4月に三鷹市議会議員選挙に「市民の党」から立候補して、落選している。森大志を擁立した「市民の党」のルーツは「MPD・平和と民主運動」で、MPDは、元ブント(共産党)系の活動家たちが結成した日本学生戦線から発展した組織である。その「市民の党」には元総理大臣、菅直人の資金管理団体「草志会」が2007年から合計6250万円の政治献金を行い問題になった。

子供たちが「日本革命村」で受けた教育は、「10の誓い」を見ればわかる通り「組織の秘密を命懸けで守る」ことを誓い、「代を継いで」組織のために活動し続けるというものだ。忠誠を誓う「偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志」のあとに現在では「金正雲」の名が加わっているのかもしれないが、現在そこまでは確認されていない。しかし、子供や孫の代まで組織のために忠誠を誓ったテロリストになるという教育を学校で受けてきたわけだから、その行動は日本国内でも推して知るべし、である。

◇ ◇ ◇ ◇


この項は重信房子が逮捕されたところから書き始めたが、2001年重信は東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。
2006年2月23日には「懲役20年」の東京地裁判決が出た。日本赤軍メンバーがオランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」で、殺人未遂や逮捕監禁など3つの罪に問われていたが村上博信裁判 長は「重要かつ不可欠な役割を担っていた」と、最大の争点だったハーグ事件での実行犯との共謀を認定。「複数の国家を巻き込もうと武器を準備したうえ組織的に 敢行された犯行」と断じ、懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡したのだ。判決主文を聞き、重信被告は傍聴席に向かって右手の拳を上げてみせたものの、か つての闘士も、事件から30年余を経てこの時既に還暦だった。

2007年12月20日東京高裁も一審を支持、重信は上告。このとき被告席で詠んだ「いちょう舞い さざんかの咲く日に 法廷の 控訴棄却は終わりにあらず」と いう短歌に思いを託し、退廷の際、握った右手の拳を高々と挙げて「ありがとう。よいお年を」と傍聴席に声をかけている。このほかにつくった短歌は、歌集 「ジャスミンを銃口に」として発表。また活動を振り返る手記を出版するなど、拘置所でも意欲的に活動している。裁判は続くといえ、出てくる時は「80歳」である。

ハーグ事件は、当時フランス当局に逮捕されていたメンバーの奪還を計画、和光晴生、西川純、奥平純三の3人が、昭和49年(1974年)年9月13日、拳銃や手榴弾で武装してオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、 大使ら11人を監禁、警察官2人に発砲してけがをさせた。和光晴生(09年で61歳)は1997年2月15日、レバノン当局が別の事件で逮捕。刑期を終えた2000年に強制 送還され、警視庁に逮捕された。殺人未遂と逮捕監禁の罪で一、二審で無期懲役判決を受け最高裁に上告したが、2009年10月上告棄却され刑が確定した。

重信房子1    重信房子2


重信房子の手配写真(左)と逮捕時の写真(右)。時を感じさせる変化だ。

重信被告は昭和20年9月、東京都生まれ。都立第一商業高を卒業してキッコーマン醤油に勤めながら、昭和40年、明治大学2部 に通っていたところを赤軍派の生みの親、塩見孝也にオルグされた。在学中に学生運動に参加。「共産主義者同盟(共産同)赤軍派」(日本赤軍)が昭和44年に結成された時か ら中央委員に就任。日本赤軍の最高幹部となった。昭和46年には「世界同時革命」を掲げ、故奥平剛士幹部と偽装結婚し中東のレバノンに渡った。ここでパレスチナ解放機構 (PLO)の内部組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と共闘。日本赤軍は、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港襲撃事件などにかかわったとされる。第一次大戦時の著名な女スパイに なぞらえて「ブント(共産主義者同盟のこと)のマタハリ」と呼ばれた。

ハーグ事件で昭和50年に逮捕状が出され、平成元年に国際手配。平成9年以降、日本、中国、ベトナムを他人名義の旅券で16回行き来していたが、平成12年11月、 潜伏中の大阪府高槻市で逮捕された。1991年かに日本に戻り、日本での武力革命を目指す覆面組織「希望の21世紀」をつくって、社民党(旧社会党)との連携を 計画していたようだ。


重信メイ
重信房子の一人娘、メイさん
(日本テレビの「知ってるつもり?!」
=番組はすでに終了=から)
重信房子にはパレスチナ人との間に生まれた一人娘の重信メイさん(1973年生まれ)がいる。「革命」の命から名づけたといい、平成13年(2001年)に日本国籍を 取得して「帰国」した。メイさんはレバノンで母、重信房子から日本語と日本の風習を手取り足取りおそわったという。1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業 後、同大学政治学科大学院に在籍。レバノン大学では、ジャーナリズムを学び、現在、日本で塾講師のかたわらパレスチナ問題を中心に、中東問題などの講演活動や 著作活動をしながら母親の支援活動をしていて、東京拘置所の独房で過ごす母親の元を週一回は訪ねているそうだが、その母親は現在、歯槽膿漏(のうろう)に悩 まされているという。

2009年6月25日の産経新聞に東京拘置所でのインタビューが掲載されている。この時重信は63歳。前年大腸がんが判明、2月に手術を受けたが体調は悪いという。


「戦場では何度も捨てては拾った命。人にはそれぞれ定められた命があると思っている。それに向かってポジティブに生きたい」

全共闘運動がわずか数年でしぼんだことについては、「学生だけの運動になっていた。現実に多くの人たちに迷惑をかけ、彼らを踏みつけにしていることに気づい ていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」

「日本には日本の社会にふさわしい合法的に政治や社会を変えるやり方をもっと重視すべきだと思います。これは反省して海外で思ったことです。運動を離れた人を 恨む気持ちはありません。彼らが運動をやめたのは『世の中を変えられない』と思うようになったから。運動を続けている者の責任として、そういう人を受け入れ られる基盤を作れなかったという反省もある」


日本赤軍誕生の経緯
もともと重信房子を抜擢したのは過激派集団、日本赤軍の生みの親、塩見孝也・元赤軍派議長だった。重信はさらに“塩見路線”に飽き足らず海外に 飛び出したもので日本赤軍の「鬼っ子」的存在だ。塩見孝也の名前はどの事件でも出てこないが、早くに逮捕され長く獄中にあったためだ。


塩見孝也
現在は駐車場で働く
塩見孝也・元赤軍派議長
(2008年7月)
塩見孝也・元赤軍派議長は1941年、大阪・十三(じゅうそう)生まれ。広島・尾道市の中学、高校を経て、2浪して京都大学文学部に入学した。在学中 の1969年正月に東大安田講堂の攻防があった。放水で陥落し学生運動は急速に沈静化に向かったところに「こんな生ぬるい運動では70年安保は乗り越え られない」と、関西地方の学生を糾合して「「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」を結成(1969年9月4日、東京・葛飾公会堂)、議長に就任した。革命 軍を世界に送り出し「世界同時革命」を実現するという理論で、大菩薩峠(山梨)で手製の手榴弾の投擲など軍事訓練を行なっていたところを警視庁に 察知され、早朝、警視庁機動隊に襲われ(1969.11.5)計画は壊滅した。

この事件で幹部兵士を失った塩見・元議長は、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮の海外の革命拠点で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って 革命を実現しようと計画する。ところが、タクシーで東京・駒込のアジトから出たところを逮捕された(1970年3月15日)。一人息子の満1歳の誕生日で 会いに行こうとしたらしい。急遽、残された田宮高麿ら9人が作戦を実行することになった。これが2週間後の「よど号事件」だった。捕まっていなか ったら指揮をとって北朝鮮に渡っていたのは塩見・元議長のはずだ。

逮捕された塩見・元議長の手帳には「HJ」の文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件後のことだった。爆発物取締 法、破防法などの共同正犯で刑が確定。19年9か月の獄中生活の後、1989年の暮れに出所した。北朝鮮のよど号犯とも連絡を取っていて、これまで40 回ほど北朝鮮に渡っている。最近(2007年10月)接見禁止が解かれた重信に、塩見が四半世紀ぶりに東京拘置所で面会、透明なプラスティック越しに ハイタッチしたという。

産経新聞の連載企画「さらば革命的世代」(2008年7月3日)によると、かつて「日本のレーニン」と呼ばれた男は、東京都清瀬市のシルバー人材センタ ーに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。


「この年になって、ようやく労働の意義を実感している。39歳のひとり息子も『親父がまともな仕事をするのは初めてだ』と喜んでいます」
それまでの生計は「カンパや講演料に頼ってきた」というが、あえて働き始めたのは昨秋、心臓を患ったのがきっかけだった。「もっと自活能力を付 けたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい」と思ったという。

「僕らは、若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた」と振り返りながらも、当時の手法については、「未熟だった。軍事至上主義だった」と 率直に認める。赤軍派が公然と登場したのは44年9月。東大安田講堂の落城から8カ月が過ぎており、「全共闘はすでに行き詰まっていた。最後はド ンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた」。

よど号事件についは、「人民を盾にしたという点で誤った方針だった。刑事責任に問うなとか、連れてきただけとか何とか言い訳をしないで、さっさと 帰国すべきだった。いまとなってはもう遅い。時期を逸した。彼らは帰ってこないほうがよい。北に骨を埋めなさいと言いたい。仮に帰ってきたなら、 そのときは不屈に最後まで闘うと意地を見せてほしい」。

最近では自身のホームページに加え、若者に人気のインターネットの会員制サイト「ミクシィ」に熱中。ハンドルネームは「預言者」で「『ミク友』と言 うんでしょうか、ミクシィを通じた若い友達は600人以上いるね」という。

塩見孝也・元赤軍派議長が死去
 日航機よど号ハイジャック事件を計画した元赤軍派議長で、実刑判決を受けた塩見孝也(しおみ・たかや)氏が14日午後9時53分、心不全のため東京都小平市の病院で死去した。76歳。広島県出身。葬儀・告別式は未定。

 昭和48年に共産同赤軍派を結成して議長に就任した。赤軍派のメンバーが日航機をハイジャックし、北朝鮮に渡った「よど号事件」を計画したが、実行に移す直前に別の事件で逮捕された。事件後に首謀者として再逮捕され、よど号事件のほか、首相官邸襲撃を計画し、山梨県の山中に同派活動家を集めて武闘訓練をした「大菩薩峠事件」などで懲役18年の実刑判決を受け、平成元年に出所した。

 出所後は北朝鮮に残るよど号犯とも交流した。駐車場の管理人の仕事に就き、赤軍派関連の書籍も執筆。最近は沖縄の基地反対運動や反原発運動にも参加していた。平成22年には関係者を集めて自身の「生前葬」を開いた。(産経新聞2017.11.15 )
塩見孝也氏の活動と言動をまとめた週刊新潮の「墓碑銘」がわかりやすいので採録し、併せて生前葬を紹介したブログがあるのでこちらに掲載しておいた。

連合赤軍とは
こうした赤軍派の動きと並行して、「革命は銃口から生まれる」という同じような過激派理論のもと、京浜工業 地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘が、米大使館や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、銀行強盗で資金稼ぎをしていた。71年2月には栃木県真岡市の銃砲 店を襲って、銃と銃弾を手に入れた。この京浜安保共闘と赤軍派が地下でひそかにドッキングして作ったのが「連合赤軍」だ。

国際手配中の日本赤軍メンバー

ロッド空港事件の殺人容疑で国際手配されている岡本容疑者のほか、連合赤軍によるあさま山荘事件で起訴されたが、クアラルンプール事件で超法規的に釈放、 ダッカ事件のハイジャック防止法違反容疑で逮捕状が出ている坂東国男容疑者(59)ら7人が、現在も逃亡中。

警察庁は2010年4月1日、連続企業爆破などのテロ事件に関与したとして殺人容疑などで国際指名手配している日本赤軍メンバー7人のうち男女3人について新た な写真を入手、一部の写真を差し替えた手配ポスターを配布した。

佐々木規夫(61)、奥平純三(61)の写真は平成10年ごろ、東京都千代田区有楽町の東京都旅券窓口で、実在する別人になりすまして旅券を受けた際のもの だという。大道寺は海外で外国人の名をかたって潜伏している模様。写真は、現地関係機関から提供されたものとみられる。

佐々木、大道寺は昭和49年、東京・丸の内の三菱重工本社ビルなどを相次いで爆破、8人を殺害し380人に重軽傷を負わせた連続企業爆破に関与した容疑で、 奥平は同年にオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠した事件など4事件で殺人などの容疑でそれぞれ国際手配されている。

【国際手配中で現在逃亡中の日本赤軍】(年齢は2010年現在)

赤軍メンバー
赤軍メンバー手配A
2010年4月警察庁配布の最新の手配写真。
重信と西川が外され岡本公三が入っている。

赤軍メンバー
赤軍メンバー手配@(平成9年のもの)
 西川は1997年11月ボリビアで逮捕、公判中。
重信房子は控訴中。岡本公三だけ手配写真がない。
 岡本 公三 (62)
 奥平 純三 (61)
 佐々木規夫 (61)
 大道寺あや子(61)
 仁平  映 (63)
 坂東 国男 (63)
 松田  久 (61)


日本赤軍メンバー城崎勉37年ぶりの帰国、逮捕


城崎勉i2015
37ぶりに帰国、逮捕された城崎勉
(2015年2月20日)
1986(昭和61)年5月にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれたジャカルタ事件で、警視庁公安部は2015年2月20日、現住建造物等放火未遂と殺人未遂の疑いで、米国から 成田空港へ強制送還された日本赤軍メンバー、城崎勉容疑者(67)を逮捕した。完全黙秘しているという。

城崎容疑者は77(昭和52)年、日本赤軍が日航機を乗っ取りメンバーらの釈放を求めたダッカ事件で、人質交換の要求に応じた日本政府(福田赳夫総理大臣)が「人命は地球よりも重い」と 「超法規的措置」で釈放したうちの一人。37年ぶりの帰国となった。


城崎勉1977
超法規的措置で釈放された時の城崎勉
逮捕容疑は86年5月14日午前11時半ごろ、インドネシアの首都・ジャカルタで日本大使館に迫撃弾を発射して人を殺害しようとしたほか、迫撃弾を発射した近くのホテルの一室に放火して証拠 隠滅を図ったなどとしている。迫撃弾が発射された室内などから、城崎容疑者の指紋が見つかり、公安部が92(平成4)年に国際手配していた。

96(同8)年9月、ネパールで潜伏中に偽造旅券容疑で身柄拘束され、米国に移送され、ジャカルタ事件で禁錮30年の判決を受けテキサス州ボーモント連邦刑務所で服役していたが、刑期短縮 され、釈放後日本に強制送還された。

城崎勉は富山県出身。徳島大学入学、共産同赤軍派に参加。M作戦に関与して逮捕され、懲役10年が確定して府中刑務所服役中の1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的措置で釈放され 、日本赤軍に参加。その後、国際指名手配される。1992年に刑法により有期懲役の時効の15年が経過したため、服役中の日本における懲役10年の刑の時効が成立(刑の時効は公訴時効と異なり、国 外逃亡の時効停止規定がない)している。

◇ ◇ ◇

久しぶりに聞く日本赤軍の名前だったが、本人は「完黙」で通しているというからまだ闘士の気分のようだ。「超法規的措置」がなければ強盗で10年食らったザコだった。37年ぶりの帰国と言っ てもシャバにいたのは19年でほとんど刑務所暮らし。成田に着いてはじめて写真が撮られたが、ご覧のとおり、すっかり初老のおっさんで、なにか哀れをもよおす姿だった。


日本赤軍と「超法規的措置」
日本赤軍は、過激派共産同赤軍派のメンバーらが中東で結成した国際テロ組織で、72年にはイスラエルのテルアビブ空港乱射事件で100人を超える死傷者を出すなど、世界各地でテロ行為を繰 り返した。いわば日本国産初のテロ集団だったが、上述のように組織そのものは2001年に最高指導者だった重信房子が東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。

しかし、当時の日本政府はテロへの対応を誤り、二度にわたって要求をのみ、「超法規的措置」をとって獄中にあった過激派を釈放した。一度目は三木武夫首相当時の1975年で、日本赤 軍が在マレーシアの米国大使館などを占拠したクアラルンプール事件の時。機動隊との銃撃戦で死者3人を出した「あさま山荘事件」の実行犯で服役中だった坂東国男、多数の死傷者を出 た1974年8月30日、東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工爆弾テロ事件に関与したとして服役中だった佐々木規夫らが釈放された。二度目は福田赳夫首相 当時の1977年、日本赤軍が日航機を乗っ取り、乗客との人質交換を求めたダッカ事件で、城崎勉はこのとき釈放された一人。

2度の超法規的措置で釈放された活動家らは11人を数え、いまだに逃亡中のものが7人もいる。テロへの対応を間違ったつけの数でもある。

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama

111. 中川隆[-11387] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:40:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[613] 報告

アカシアの雨に打たれた安保
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama


60年安保は学生で、機動隊に追われる立場。70年安保は機動隊のうしろで取材する立場だった。札幌中央警察署の看板をかっぱらって、みんなで 小便をひっかけるという、なにやらマンガチックなことにうつつを抜かしていた。入学した昭和34年、北大からは唐牛健太郎(かろうじ・けんたろう)という 全学連委員長を出している手前、がんばらねばならぬ雰囲気があったが、実態は子供じみていた。

唐牛健太郎
晩年の唐牛健太郎


■唐牛 健太郎(1937−1984)
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント。書記長・島成郎)が指導した60年安保全学連の伝説的な委員長。60年安保の象徴的存在。函館の湯の川温泉の芸者の子、いわゆる 庶子として生まれ、道立函館東高校入学。がり勉ではなかったが教師が「唐牛が現役で北大にはいるかどうか」で賭けをしているのを聞いて猛勉して 1956年現役で北海道大学教養部(文類)に入学。入寮資格がゲルピン(貧乏)だけだった恵迪寮(けいてきりょう)に入る。1年の夏休みに休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。

翌年北海道に戻り、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。しかし、共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、ブント書記長、島成郎が北海道まで来ての強い説得を受けて上京、昭和34年(1959)の全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性は「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。

唐牛逮捕
羽田で逮捕される唐牛健太郎(1960.1.16)
唐牛が、「60年安保」で実際に歴史の表舞台で活動した期間は、通算3か月ほどの短期間に過ぎなかった。全学連委員長として指揮した岸訪米反対デモで逮捕された(写真右=1960年1月16日)あと、その後のけた外れの長期拘留のためで、最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であったが、周りに強い影響力を与えた。藤本敏夫(日大全共闘、歌手・加藤登紀子の夫)は、のち唐牛の追悼集で『唐牛健太郎のまわり百メートルは、いつも革命的であった』と述べている。

元自民党幹事長で、60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに東大時代「3回だけ参加した」経験をもつ加藤紘一は「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」と『唐牛追想集』に一文を寄せている。

評論家、西部邁も「彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代人の目で書いている。

闘争後、北洋漁業の漁師をしたり、太平洋横断の堀江謙一などとヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、衆議院奄美群島選挙区で徳洲会・徳田虎雄の選挙にも関わったりした。また右翼の巨頭とされる田中清玄の許に身を寄せ、ゼンガクレンが資金提供を受けていたことが暴露されたりした。このため「左翼運動も左、左と行くと右になる」などと言われるなど毀誉褒貶が多かったが、弁解したことはなかった。

昭和59年(1984)3月4日、直腸ガンのため死去。青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子が、彼が好きであった「知床旅情」を歌った。

私は彼とはクラスメートにあたる。といっても、あちらがだいぶ上だ。当時、北大の教養部では第2外国語にフランス語を選ぶと自動的に「4組」に編入された。 彼は入学時にフランス語を取ったのだが、学生運動に忙しくてほとんど東京にいて札幌に戻ってくる時間はない。かくて、毎年ドッペって(落第して)いたのだが、 この時に自動的に一年下の「4組」に落ちてくる。こうして私と同じクラスになっただけ、一度も会ったことがない。大学に は教養4年、学部4年の計8年しかいられない。このクラスを最後にまもなくむこうさん除籍になった。

私はクラス委員をしていたが、役目は講義時間ごとに教官と交渉して休講にしてもらい、クラスをまとめてデモ隊への参加者を増やすことだった。樺美智子が死んだ ときなど、運動のピーク時にはデモ隊の先頭が大通り公園に達しても最後尾はまだ大学の正門を出ていないというほどだった。機動隊が充実されるのはその後の話で 学生に比べて圧倒的に数が少なかった。

このころのデモ隊は投石などせず、シュプレヒコールしながら時折ジグザグをやるくらい。機動隊に隊列を切断されたりすると竹ざおで殴りかかるくらいが関の山だったが、 機動隊側には少数ゆえの恐怖感があったのだと思うが、荒っぽかった。捕まったことがあるが、写真に写る腰から上は何もしていないが、下はあの固い靴で蹴り上げてきた。頭にきて殴りかかると証拠写真にはこちらの手を振り上げた姿ばかりという図式だ。

警察もまだのんびりしていて、捕まっても身元引受人がいるとすぐ釈放されるのだが、こちらは遠方から来ているから地元に知り合いなど少ない。 実は遠い親戚が2人いたがその仕事柄、学生運動などとんでもない立場だったし、もう一人、両親が仲人をした縁でよく食事に招かれたりしていた人は札幌高裁の判事をしていて、これまたとても名前を出すわけにはいかなかった。だから警察の方で扱いに困って放り出されるまでけっこう時間がかかった。下宿に戻っても誰も不審には思わなかった。運動部の合宿で留守にしていたのだろうくらいの反応である。公安が下宿に身元を調べに来た様子もなかった。要するにパクってはみたものの雑魚扱いで、興味もなかったのだろう。

安保活動はその後急速にしぼんだ。もともとデモ隊で条約の中身を知っているものなど皆無だった。私もさっさと所属していた馬術部と、ヨット部と自分でつくった探検部の活動に打ち込んで、アンポの影など周囲にまったくなくなった。

卒業後マスコミに身を投じた。地方支局に配属になり、何年か過ごして本社に戻った。所属先は大阪社会部で、取材するのが大阪の安保闘争だった。70年の安保改定まであと3、4年となり再び反対運動が盛り上がってきた。しかし過激派の分裂でデモ隊はセクトごとに動き、激しさを競ううちに、デモ隊が次第に荒れてきた。当初ヘルメットも要らなかったくらいだったのが、記者とカメラマンが投石よけの透明板、後頭部を守るひたたれつきのヘルメットで現場に立つという時代になった。
さらに、東京に異動した。創刊されるタブロイド紙「夕刊フジ」の要員として報道部にいた。60年アンポから8年、今度は70年アンポの東京のデモ隊を取材する立場に なった。セクト対立でどこがどう違うのか判然としないまま、過激派の連中が大言壮語する姿にアホらしさを感じていた。だが運動自体は荒れに荒れていく。催涙ガスにむせびながら日比谷交差点に立っていた。デモ隊はさらに先鋭化して都電や国鉄の敷石を剥がして投げるようになっていた。

「60年安保」と「70年安保」の違いはあるが、機動隊と対峙していたわが身が、わずか10年でいま、(安全な)機動隊のうしろで投石よけのひたたれがついた ヘルメットで催涙ガスのなかにいる。さすがに思想のむなしさを感じないわけにいかなかった。

◇ ◇ ◇
60年安保と70年安保
今となっては、60年安保と70年安保の違いも説明しないとわからないだろうが、大雑把に我流の解説をするなら以下のようなことだ。立場によって異論があるやも知れないが。


日本が米国占領下にあった1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これによりアメリカは日本占領政策を放棄して朝鮮半島に専念せ ざるを得なくなった。日本を自由主義陣営にとどめ、且つ自立させるために、1950年7月警察予備隊の結成を命じ(自衛隊設立は1954 年6月)、翌年には日米安全保障条約及びサンフランシスコ平和条約を締結させ、日本の再軍備と国際社会への復帰を急いだ。

1952年安保が発効したが、韓国の李承晩・初代大統領が一方的に対馬海峡に李承晩ラインを設定して日本漁船を拿捕、竹島も不法占 拠した。軍事力がない日本は何もできず、米軍もまた日本を助けなかった。このときの安保条約ではアメリカに日本を防衛する義務が なかった。


岸信介首相
(アンポから20余年後の写真)

日本の要望を受ける形で岸信介内閣は旧安保を改定、日米が共同して日本防衛にあたるとした(第5条)新安保条約を締結した。これに反対する 社会党と共産党主導の反対運動が「60年安保闘争」だ。(「60年安保闘争」の経過ではこのサイトがよくまとまっている。

1960年5月19日、自民党主流派が強行採決を行なったことで世論は反岸内閣、反安保に向かった。5月20日未明、新条約が強行採決されるや国会周辺のデモ隊は日増しに激しく、学生、労組から一般市民まで広がり内乱的様相を帯びていく。自衛隊の出動も検討された。

その可能性を記者から「蒋介石は『暴にむくいるに徳をもってする』といったが、首相の考えは『力に対し、力でむくいる』ことになるのではないか」と問われた時の岸信介元首相の答えは「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかも知れぬが、私は“声なき声”にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは“声ある声”だけだ」と述べた。のちのちまで口の端にのぼる<声なき声>発言である。

国会前デモ
強行採決の日(1960.6.15)国会前を埋め尽くして
ぶつかり合った警官隊とデモ隊(右)。ここで樺美智子が死んだ。

樺美智子
国会前デモで
死んだ樺美智子


国会をデモ隊が取り囲んだとき、一気に表舞台に登場したのが日共から分派した新左翼で急進派の先端にあった「共産主義者同盟=ブント」 だった。ブントは全学連を組織し6月15日デモ隊を国会に突入させた。この時ブントの手伝いをしていた東大生、樺美智子さんが隊列の中で巻き込まれて圧死、安保闘争はピークを迎えた。
※ブントとは 戦後の学生運動を指導した全学連は日本共産党の指導下にあったが、ハンガリー事件やスターリン批判などを受け共産主義体制が揺らぎ、全学連は共産党批判に転じた。共産党は香山健一、島成郎ら全学連指導者を除名、武装闘争放棄に転じたため全学連主流派は反共産党派をま とめ「共産主義者同盟」を結成した。これが「共産同」とか「ブント」と呼ばれる党派。1847年ロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された秘密結社「共産主義者同盟」 (der Bund der Kommunisten)にちなみ、ブントは「同盟」を意味するドイツ語。60年代の学園闘争や安保闘争で新左翼を引っ張った組織だったが、1970年以降、学生運動が下 火になると四分五裂し弱体化した。

その10年後、安保条約の自動延長の期限がやってきた。これに反対する運動を「70年安保闘争」という。前年の東大安田講堂攻防事件はじめ、新宿騒擾 事件、4・28沖縄闘争(44年)等の集団武装闘争を繰り広げたが、過激派の各セクト(革マル、中核など)が乱立して火炎ビン闘争ま でエスカレートしたが、セクト間の内ゲバで組織は壊滅に瀕し、日本赤軍派のハイジャック事件、連合赤軍による凄惨な同士討ちの 連続リンチ殺人まで起し運動自体が荒廃の一途をたどって国民の支持を失い最後は三島由紀夫の憂国の諌死事件で幕を下ろす。
60年と70年、両方のデモ隊の画像があるので下に紹介した。


 
 
前が60年安保、後が70年安保の様子。
モノクロとカラー、首相の名前、デモ隊の服装など10年の時代差を感じる。

09 - 60年安保闘争 - 1960 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ggLGEFr-ZPk&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01

24 - 70年安保闘争 - 1970 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iveB4YMJPuw&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01


     
◇ ◇ ◇

西田佐知子の「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」が、安保の挫折感を代表するテーマソ ングで、たしかに気分がよく出ている。しかし、これは昭和36年に世に出た歌で、60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。

あのとき先頭に立った社会党は、党内意見が分かれているとはいえ、 いま安保是認を党として認めようとしている。なにより社会党自身が人気がなくなってしまった。名前もいつしか社民党となった。万年野党が連合政権を担い首相を 出すや自衛隊をあっさり認めるとは誰があの時想像したろう。いまは女性を党首に立てて脱皮をはかりつつあるものの、2007年参議院選でさらに議席を 減らし劣勢覆うべくもない。テレビのモーニングショーに出てきて、事件ニュースにまでいっぱしのコメントをしている女性党首を見ると、もう歴史的使命を終えたといっ てもいいだろう。

60年安保では大学のクラス討論会にまで社会党や共産党のオルグが入ってきたものだ。それが、いわゆる「55年体制」の保革2大政党の「対立」時代は表向きで、裏では 「馴れ合い」時代だったことが、新聞記者として議会内を取材するうちにわかってくる。社会党の議員が外遊する際には自民党の領袖のもとを回って餞別を集めたという類の話が わんさと出てきて幻滅したものだ。「アンポ」はなんだったのかと思う。

いま民主党議員として口角泡を飛ばす人物の多くは少し前まで日教組や自治労から出た旧社会党議員だ。変わり身の早いことに感心するが、船が沈むときにはいち早く脱出するというネズミ を見る思いだが、相づちを打っている民主党有力議員の大半はちょっと前まで自民党右派で鳴らした人たちだ。どこに共通項を見出しているのだろうか不思議でならない。

◇ ◇ ◇
西田佐知子だ「アカシアの雨がやむとき」だといっても、何だそれはという時代になった。当時、アカシアの街、札幌に居たせいもあり、この歌も「アンポ」もごく 身近だった。こんな歌だ。


    「アカシアの雨がやむとき」
       作詞:水木かおる 
       作曲:藤原秀行


アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9B%A8%E3%81%8C%E3%82%84%E3%82%80%E3%81%A8%E3%81%8D+%E8%A5%BF%E7%94%B0%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90&sp=mAEB

 アカシアの 雨にうたれて
 このまま 死んでしまいたい
 夜が明ける 日がのぼる
 朝の光の その中で
 冷たくなった わたしを見つけて
 あの人は
 涙を流して くれるでしょうか

 アカシアの 雨に泣いてる
 切ない胸は わかるまい
 思い出の ペンダント
 白い真珠の この肌で
 淋しく今日も 暖めてるのに
 あの人は
 冷たい瞳(め)をして 何処(どこ)かへ消えた

 アカシアの 雨が止む時
 青空さして 鳩がとぶ
 むらさきの 羽の色
 それはベンチの 片隅で
 冷たくなった 私のぬけがら
 あの人を
 さがして遥(はる)かに 飛び立つ影よ

水原弘の「黒い花びら」の方も画像があるので紹介しておく。


     「黒い花びら」
       作詞:永 六輔
       作曲:中村 八大


黒い花びら 水原弘 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%BB%92%E3%81%84%E8%8A%B1%E3%81%B3%E3%82%89+%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98


1 黒い花びら 静かに散った
   あの人は 帰らぬ 遠い夢
  俺は知ってる 恋の悲しさ
   恋の苦しさ
   だからだから もう恋なんか
   したくない したくないのさ

2 黒い花びら 涙にうかべ
  今は亡い あの人 あゝ初恋
  俺は知ってる 恋の淋しさ
  恋の切なさ
  だからだから もう恋なんか
  したくない したくないのさ


http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama

112. 中川隆[-11386] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:42:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[614] 報告

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

113. 中川隆[-11385] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:27:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[615] 報告
安保条約の改定反対と新左翼

(1)60-70年・安保条約の改定と反対運動 


●60年安保とは

 昭和32(1957)年2月25日に成立した岸政権の最大の課題は、アメリカの占領下で作られた日米関係を、独立国としての新しい日米関係に転換することであった。
 その観点から、昭和26(1951)年9月の講和会議の際に吉田茂政権によって締結された、日本にとってきわめて片務的な日米安保条約を、日米対等の国際条約に改定することが、岸政権にとっての最大の目玉政策であった。
 
 吉田自由党と鳩山民主党が保守合同を実現して現在の自民党が誕生したのは、昭和30(1955)年11月15日のことである。最初の自民党の首相は鳩山、石橋と続いたが、共に病気もちであり、その間の自民党・幹事長であった岸信介が首相として本格的に表舞台に登場したのは、その2年後のことであった。

 岸信介は、太平洋戦争の開戦時の東条内閣において商工大臣をつとめた、戦前の日本を代表する政治家である。

 岸の経歴は、戦前の商工省出身の所謂「新官僚」として、日本の植民地であった満州国の建国・経営に携わり、東条英機などと並んで同じく満州で名をあげた「2キ3スケ」(*)の1人に挙げられたほどの有名人であった。

 この人物が戦後の保守本流に返り咲いたわけであるから、戦争責任が厳しく追求されてきた西欧などにおいては考えられない政治的復活である。

*「2キ」とは、東条英機(満州事変後の関東軍憲兵司令官、のちに開戦時の内閣
  総理大臣となる)と星野直樹(内閣書記官長)のこと。

 「3スケ」とは、松岡洋右(近衛内閣の外務大臣)、鮎川義介(満州重工業など
  を通じて軍部と提携して満州開発を主導した実業家)そして岸信介(満州国・
  実務部次長)を指し、日本の大陸政策を代表した中心的人物のことである。

 この岸政権が、吉田政権によって占領下の時代に、アメリカの利益に大きく比重をかけて作られた日米関係を、独立国として対等の日米関係に移行させようと考えるのは、至極当然のことであった。

 その岸政権の最大の目玉は、昭和35(1960)年に改定が予定されている新安保条約の締結であった。ところが意外なことに、日本国民はこの日米関係の対等化を狙った新安保条約の実現に対して、史上に類を見ないほどの抵抗と反発を示した。

 その理由は、ひとつはアメリカと対等の軍事的関係を締結することにより、アメリカによるアジア戦争に巻き込まれることを怖れたことであり、いまひとつは戦前派の岸政権により戦後民主主義が解体されることを恐れたことにある。

 これが日本全土に繰り広げられた反安保、反岸の国民運動であり、それが60年安保反対運動の本質であった。

 この国民運動は、学生運動の参加により先鋭化し、昭和35(1960)年6月15日に2万人が参加した国会デモにおいては、遂にデモ隊が国会に突入して東大生・樺美智子さんが死亡するという事件に発展した。

 この際の機動隊による過剰警備に反発した人々は、その翌日には、女子学生の死を悼む5万人のデモとして国会をとりまいた。

 このような国民的な反対運動の高まりにもかかわらず、6月18日には、33万人の労働者、学生、市民が国会を取り巻く中、岸政権による新安保条約は自然成立した。そして、この安保反対運動の挫折が、日本の新しい歴史の出発点になった。


●戦後の現代史は60年安保から始まった!

 60年安保の国民運動の高揚とその挫折は、それから40年にわたる日本の現代政治史の出発点になった。それはこの国民運動の中心になって戦後民主主義を守るために戦った世代が、昭和20年代に生まれた戦後世代であることからくる。

 そしてその主体になった人々は、今や60歳台の老齢にさしかかっており、これから始まる時代は、戦後世代にとっては「未来史」になるわけであり、その意味では戦後世代の現代史は今終わろうとしている。

 現在の日本の安倍政権は、図らずも岸信介の孫にあたる政権であり、その政治的発言は、岸信介が40年前に言ったことに果てしなく類似している。

 その意味から、今、我々は新しい時代の始まりにいると思われる。

 昭和35(1960)年7月15日、岸政権に代わって政権の座についた池田首相は、「所得倍増」、「寛容と忍耐」を政策の冒頭に掲げた。今から考えると、この2番目の政策である「寛容と忍耐」の意味が極めて分りにくい。

 池田は、日本の「高度成長政策の創始者」として高い評価を得ている宰相である。そこに加えられた「寛容と忍耐」とはフシギな言葉である。

 実は、池田は政治面では本来、岸に負けないタカ派の政治家であった。しかし岸政権に対する国民的反感を考えると、政治的には「寛容と忍耐」で臨み、経済中心の政策に重点を移そうとした政策として考えると、この言葉の意味は良く分かってくる。

 つまり60年安保の国民運動の大きな成果は、岸政権が政治的に実現しようとした政策が40年間もの長い間、休眠せざるを得なくなったことにある。

 それは岸の孫である安倍政権により、ようやく今に至って国民の前に現われ始めたといえる。

 その一方で、60年安保の国民運動は、現代につながる日本の右翼と左翼の政治的運動に大きな影響を齎した。

 つまり「新右翼」、「新左翼」は安保反対の運動を通じて誕生してきたものである。

 右翼の運動は、本来、1人1派の政治運動であり、大きな流れは掴みにくい。

 しかし前回、このwebでとりあげた三島由紀夫の「楯の会」は、まさに60年安保の国民運動の中から誕生した新右翼の典型的な運動のひとつであり、それは自衛隊にも大きな影響を齎した。

 三島由紀夫は、60年安保の丁度10年後の70年安保が不発に終わり、そのために「楯の会」の出番が失われたことから自死の道を選んだ。

 しかし一方の左翼の運動も、60年安保の成立=挫折から70年安保までの間に、組織は4分5裂して、その内部抗争が激化し、新左翼の運動は国民の支持を失って自滅への道を歩んだ。

 そこで、あせった新左翼の一部は、さらに先鋭化して武装闘争にのめりこんでいった。武装闘争は社会革命の条件となるものであるが、高度経済成長下にあった1970-80年代の日本社会に、社会革命の条件が存在するわけはなかった。

 新左翼の政治運動における自滅化の危機意識が武装化を生み出し、それがさらに新左翼運動の衰退を決定的なものにした。

 その悲劇的な展開が、日本赤軍と連合赤軍の事件である。「日本赤軍」は、武装革命の条件のない日本を脱出して世界革命を目指した。そして「連合赤軍」は、国内の山岳に「革命」の拠点を求めて彷徨った上、「総括」と称して仲間を次々に粛清するという悲劇的な過程をへて自滅することになった。


●肩すかしをくった70年安保闘争

 昭和45(1970)年1月14日に、第3次佐藤内閣が成立した。そこで中曽根防衛庁長官は、1957年以降の「国防の基本方針」として、「外部侵略には日米安保体制を基調として対処する」方策をとり、「自主防衛」中心にする事を明らかにした。

 この自主防衛を基調にした国防計画は、70年に原案が完成し、72年から実施する4次防の柱になった。つまり70年安保の重点は、60年安保における日米の軍事協力関係の実現から、より国民的理解が得やすい日本の自主防衛に大きく切り替えられた。

 しかし3次防では5年間に2兆3千億円であった予算規模は、4次防では一挙に倍増して5兆5千億円になった。そして従来の陸上兵力を中心にしていたものから、海上自衛隊の強化が重点とされ、さらに航空自衛隊の強化に重点を移していくとされた。

 このことにより陸海空の3軍の軍事力が強化され、独立国家として必要な軍事力が装備され始めたことになる。

 当時、アメリカのニクソン政権は、泥沼化するベトナム戦争からいかにして名誉ある撤退をするかに腐心していた。そのため日本の軍事力が強化されてアメリカの軍事的負担が軽減されることは、ニクソン政権の大いに歓迎するところでもあった。
 1970年は、日米安保の見直しの年である。ここで日本の軍事力強化をアメリカに提案して、日米安保条約はそのまま自動延長にすることは、日米の双方にとって非常に好ましいことであった。

 そこで佐藤内閣は6月22日、日米安保条約の「自動延長」を決めた。60年安保の時、岸信介の実弟である佐藤栄作には、10年前の安保条約成立の日に孤独な兄に寄り添っていた記憶が、なまなましく思い出されたと思う。

 そのため佐藤首相は、70年安保の改定の際、ふたたび反安保の騒動が起こることを極度に恐れた。さらに安保を取り巻く状況自体も、この10年で大きく変わっていた。

 69年末の選挙において、社会党、共産党、新左翼は安保条約延長反対、廃棄を主張しており、安保問題、沖縄問題がこの選挙の重要な争点になった。しかし69年には沖縄は既に本土復帰を果たし、さらに70年安保条約は自動延長となった。そのため「1970年安保」を政治決戦と考えてきた社会党、共産党、新左翼系は、完全に「肩すかし」をくうことになった。

 さらに、社会党は69年末の選挙で惨敗し、江田委員長のもとで党の再建を迫られており、共産党も東京、京都で自民党を大きく引き離し、解散時の議席の3.5倍である14議席になったものの、国政レベルではもはや対決の場を失い、知事選に舞台が移っていた。

 このような段階で、70年安保の運動は、もはや国民的運動として盛り上がる基盤がすべて奪われていた。そのため過激な学生運動も、国民的な支持もなければ、自衛隊による治安出動の必要もなく、警察力だけで十分であった。

 そのことが三島由紀夫の1970年11月25日の事件になったことは、実はきわめて象徴的なことであった。
http://www.araki-labo.jp/samayoe009.htm


(2)「新左翼」の武装化(その1)

●学生運動の武装化の軌跡

 学生運動において、今では当たり前になっているゲバ棒に覆面、ヘルメット、投石用のレンガや石、火炎ビン、さらには、銃や爆弾が登場したのは何時頃からかを調べてみると、60年安保闘争の1年後あたりからのようである。

 60年安保のデモでは、かなり激しく行なわれた場合でも、学生たちはヘルメットもゲバ棒ももたず、一方的に機動隊の警棒で打たれて血を流していた。
 それがヘルメットで防御し、棍棒で武装するようになったのは、内ゲバと称する仲間同士の暴力から身を守ることが、直接的動機となって始まった。

 昭和36(1961)年7月8日に東京の両国公会堂で行なわれた全学連の第17回大会をマル学同が単独で開催した際、反対派から大会を守るために、角材によるゲバ棒が初めて登場したといわれる。

 これはその時の全学連書記長・清水丈夫のペン・ネームが「岡田新」であったことから、「岡田式暴力的衝突を含む党派闘争」と呼ばれたという。ここでゲバ棒が、内ゲバの武器として登場したことは注目に値する。

 同月の2日には、早稲田大学で革マル派と中核派の内ゲバ騒動が起こった。ここで殴りこみを掛けてきた中核派などがヘルメットに身をかため、棍棒と石で攻撃してきた。これらのことから正確には分からないが、60年安保運動の翌年あたりから、ヘルメットにゲバ棒といったスタイルが登場したと見られるのである。

 内ゲバではなくノンセクト・ラジカルが、棍棒や石を武器にして公然と機動隊に立ち向かうようになったのは、「全共闘」(全学共闘会議)が学生運動の中心になった1960年代の中頃からと見られる。

 例えば昭和39(1964)年9月14日に、法政大学において学生が機動隊と衝突した時にそれは現われ、羽田事件における暴力闘争の序幕となった。

 60年安保闘争の中で、既成政党である社会党、共産党の主導権は大きく失われていった。そしてそれに代わって「新左翼」の勢力が、特に学生運動においては主流の座についた。しかし「新左翼」の組織は1960年代を通じて4分5裂しており、そのために組織間のゲバによる殺し合いが絶えない状態になり、結局、破滅化への道を辿った。

 1960年代末葉の新左翼運動は、大きく次の3つの潮流に分かれていた。


 (1) 全国全共闘 ―全国反戦を媒体とする八派連合で、その中心は「中核派」
 (2) 共産同赤軍派や日共左派など、武装蜂起と世界革命を主張する「武闘派」
 (3) 八派の解体を路線とする「革マル派」

 ちなみに「全国全共闘」とは、全国的な各大学「全共闘」の連帯組織として東大、日大をはじめとする学園紛争が全国的な広がりを見せる中で、1969年9月5日に全国178大学の全共闘と中核派など八党派により結成された組織のことである。

 この3者中、第2の「武闘派」の潮流が「赤軍」の流れである。それは1969年に東大、日大紛争を頂点とした全共闘運動が敗北していく過程で、1969年夏頃から最も過激な武力闘争を主張して登場してきた。

●赤軍派の登場

 赤軍派は、東大紛争、日大紛争が警察力の導入により次々に解体されていく中で、共産同ブントにおける「関西(武闘路線)派」(*)が、「早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起」を主張して69年5月に赤軍を結成したことに始まる。
 この際のメンバーは、京大、同志社大、立命館大を中心とする活動家400人であった。

(*)ブント(Bund)とは、ドイツ語で「同盟」を意味する言葉であり、日本では「共産主義者同盟」(共産同)のことを指す。1958年12月10日に日本共産党・東大細胞のメンバーを中心にして、日本共産党の指導体制に反発する「新左翼」のブントが結成された.

 この組織が1960年4-6月にかけての安保闘争を全学連の主流派として指導したが、安保が成立した後の8月9日に、安保の総括をめぐり、「関東のブント」は「革命の通達派」、「プロレタリア通信派」、「戦旗派」の3つに分裂した

 これに対して「関西ブント」は、独自に60年安保の総括を行い、組織的統一を維持することに成功した。これがここでいうブント「関西派」であり、このブントの「関西派」が60年代末の「赤軍」に繋がっていく。

 「赤軍派」の登場は、1969年1月の東大・安田講堂の攻防戦のあとから始まる。

 後に詳述するが、安田講堂の攻防戦の後、ブント「関西派」は1969年6月21日の「マル秘」通達により、秋の闘争において世界同時革命の展望を提起し、ここに始めて「赤軍」という言葉が登場した。

 8月26日、ブント「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルに集まり、「共産同赤軍派」を独立させることを正式に決定した。

 議長は、京大の塩見孝也であり、これが赤軍派の原型となった。

 9月4日、日比谷音楽堂で行なわれた全国全共闘結成大会の前日、都内の葛飾公会堂において赤軍派は「大政治集会」を開いた後、上記、革マル派を除く全国の学生3万4千人が集まる全国全共闘結成大会に初めて公然と姿を現した。

 この赤軍派の赤ヘル集団が突然出現したことに、大会出席者は声を呑むほどの衝撃を受けたといわれる。

 赤軍派は、武器奪取、交番襲撃などの「大阪戦争」、「東京戦争」を9月末に展開し、10月21日の国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させて、新宿駅襲撃、中野坂上のピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行なった。

 11月5日には首相官邸を襲撃する計画をたてており、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を行なうために結集したところを警察側にキャッチされて、53人という大量の逮捕者を出し計画は未遂に終わった。

●武装闘争の画期となった東大紛争

 昭和44(1969)年1月は、東大紛争における最大の山場となった機動隊と全共闘による安田講堂の攻防戦で幕を開けた。

 大正14(1925)年に、財閥・安田善次郎の寄付により完成した鉄筋コンクリート造4階建てで、特徴的な時計台をもった安田講堂は、本来、「大日本帝国」におけるアカデミズムの権威を象徴する建築物であった。

 そのため、ここを占領した全共闘系の「新左翼」の学生を、8千5百人の機動隊が攻撃する大攻防戦は、全国民の注目を集めるものになった。

 1月18-19日の2日にわたる攻防戦は、NHKテレビを始め各テレビ局が48本の特別番組を組み、21時間にわたってニュースを流し続けた。そのときのNHKの視聴率は、なんと44.6%を記録したといわれる。

 19日の午後5時46分、安田講堂から流しつづけられた「時計台報送」が最後のアピールを全国の学生、市民、労働者に流し終わり、全員、ずぶ濡れになって逮捕された。これを見ていた国民の多くは、紛争の意味は分からなくても、自分の利益を越えて戦い、玉砕した若者に同情した。

 東大紛争は、いまでは殆ど忘れられているが、その発端はなんと自民党支持率が30%を超えて、東大の中でも最も保守的な学生が多い医学部から起こった。

 ちなみに当時の東大生全体の自民党支持率は18%程度である。
 東大紛争の発端は、1946年に連合軍の勧告により導入された無給のインターン(実地修練生)制度に対する改善要求から始まった。

 そしてそれが医学部生全員による学生スト、試験ボイコットに広がり、翌68年1月29日から医学部は無期限ストに突入していた。

 この東大医学部の紛争は、医学部教授連の対応の悪さから大きく拗れ、昭和43(1968)年6月15日には東大医学部全共闘と東京医科歯科大学の40人の学生が安田講堂にバリケードを作って、これを占拠するまでに発展した。

 この医学部系学生による安田講堂の占拠に対して、大河内総長が機動隊の出動を要請し、2日後に8,500人の機動隊が東大安田講堂に入り、占拠学生を排除した。
 このことから、医学部の紛争は全学的な東大紛争に拡大することになった。

 6月17日に機動隊が導入されると、直ちに各学部の学生大会においてストが可決され、20日には安田講堂前広場で機動隊の導入に抗議する「全東大人集会」が開催された。これには6,000人の学生が参加し、駒場の教養学部の学生2,000人も30台のバスを連ねてこの集会に参加した。

 この全学的な東大紛争が始まった6月28日に、大河内総長は「大衆団交」という形式を認めなかったことから、安田講堂は7月2日に再びバリケードで占拠され、占拠した学生から「開放講堂」とか「安田砦」とか呼ばれて、大学紛争による解放区の象徴的存在となった。

 占拠された安田講堂は、東大側の事実上の管理から離れて、いろいろな「反戦集会」、「労働者・市民の連帯集会」などに貸し出された。

 従って、この昭和44(1969)年1月19日における東大安田講堂の落城は、全国の学生運動の終焉を意味するほどの深刻な影響を大学紛争に与えた。

 この段階で共産同ブントの「関東派」(=穏健派)は、東大闘争や日大闘争のような「大衆的ゲバルト」を積み重ねることにより、労働者や農民を巻き込んだ広範な革命勢力が醸成されると考えていた。

 これに対して同じ共産同ブントの「関西派」(=過激派)は、京大・塩見孝也の「革命の決め手は「大衆」ではなく「軍」である」とする「塩見理論」を背景にしており、関東、関西ブントの両派は、東大の安田講堂の落城を契機にして深刻な対立関係に立つことになった。

 4月28日、「関東派」共産同ブントの「仏(きさらぎ)派」が沖縄闘争において、あくまでも「大衆闘争の勝利」を信じて全力で取り組み、再び機動隊に叩きのめされた。このことに怒った「関西派」は、6月21日、自派の活動家に武装蜂起の「マル秘」通達を送った。

 この通達の中で「今秋の闘争には世界同時革命―日本革命戦争の前段階として、爆弾、小銃、拳銃などの銃器を持って戦う武装蜂起を設定、その中から革命の展望を切り開くべきである」としている。

 ここで「新左翼」の中に、初めて「赤軍」という言葉が登場した。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括連合赤軍事件」226頁)

 この「マル秘」通達は、直ちに「関東派」に伝わり、関東派の議長・仏徳二は、7月2日に赤軍派を除名にする声明を出した。これにより関西、関東の両派の対立は激化し、7月5日には激しい内ゲバがおこり、それにより仏徳二が瀕死の重傷を負って警察に逮捕されるという事件が起こった。

 この際の激しい内ゲバの状況は、上掲「赤い雪」に詳述されている。この内ゲバにより、昭和44(1969)年8月26日、「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルにおいて、「共産同赤軍派」を正式に発足させて、ここに赤軍派の原型が形作られた。


 このときの赤軍派の政治局員は、次の7人である。


     議長 塩見孝也(京都大学)
     局員 田宮高麿(大阪市立大学)―後によど号事件のリーダーとなる。
        上野勝輝(京都大学)
        堂山道生(同志社大学)
        高原浩之(京都大学)
        花園紀男(早稲田大学)
        八木健彦(京都大学)
http://www.araki-labo.jp/samayoe010.htm

(3)「新左翼」の武装化(その2)

●大菩薩峠における赤軍派中央軍の壊滅

 ▲赤軍派の誕生

 共産同ブントの「関西派」が、「関東派」から分裂してそこから「赤軍派」が誕生した。そしてその中核組織体として「中央軍」が誕生した。

 赤軍派の軍事委員会における総指揮官として中央軍を担当したのは、のちに「よど号」ハイジャック事件の主犯となる田宮高麿である。

 田宮は、東北地方まで足を伸ばして赤軍兵士の獲得につとめ、わずか1ヶ月の間に高校生29人を含む百数十人のコマンドの「徴兵」に成功した。そのため赤軍派の組織の規模は、塩見孝也議長以下、336人という大軍団になった。

 それは田宮が考える「十個連隊1万人の師団編成をもった中央軍」にはほど遠いものではあったが、その短い時間を考えると急速なピッチの拡大であった。

 昭和44(1969)年9月4日午後6時、赤軍派の高原浩之の愛人であった重信房子が借りた葛飾公会堂において「赤軍派」の旗揚げ総会が開催され、ここに初めて赤ヘルメットに「赤軍」と白地で染め抜いた赤軍の兵士たちが登場した。

 公会堂の回りは、250人の兵士たちで埋め尽くされ、そのうちの50人は「赤軍戦闘団」と書かれたカシの棒を持って入口をかためていた。

 1階ホールの窓はすべてカーテンでふさがれ、そこに女性用の黒ストッキングで覆面をした兵士たちが観客席に陣取る姿は、それまでの新左翼の集会にはない物々しい状況であったといわれる。

 その大会には逮捕を恐れて塩見、高原、田宮という最高幹部は出席せず、大会の司会は中大生の佐々木泰弘がつとめた。また「基調報告」は政治局員の八木健彦が行なったが、参加者はそれが塩見高也であると思っていた。

 この大会において「戦争宣言」が採択され、ここから赤軍派は公然と武闘路線を走り始めた。

 ▲赤軍派の前段階 ―武装蜂起の失敗

 赤軍派の「前段階武装蜂起」は、大阪戦争と東京戦争の2段階で構成されていた。

 まずその第1段は、大阪において警察署、交番を襲撃して、武器を奪う「大阪戦争」から始まる。そして第2段としてその武器をもって首都東京に攻め入り、首相官邸、国会議事堂周辺の政府機関、警視庁を襲撃する「東京戦争」にいたるというものであった。

 この第2段において東京中央を襲い、政府高官を射殺すれば、大衆は革命に向って走り出すであろうという、まさに明治の自由民権時代に匹敵するほどの、大時代的、かつメルヘン的な構想である。
 
 田宮は本気で桃山学院大学の生協事務所に軍事委員会の幹部4人を集めて、大阪戦争の計画を作成し、軍事委員会は直ちに布令を発して兵士を大阪に招集した。
 大阪における襲撃隊長の関西大学・福岡信孝に率いられた20名の兵士たちは、9月17日に大阪市東淀川区下新庄の明教寺に集まり、交番を襲撃することになった。

 ところが福岡が襲撃後の逃走資金として5千円を各人に渡そうとしたら、怖気づいた7人が集団脱落し、そのため17日の決行は不可能になった。

 福岡はあくまでも交番襲撃をあきらめず、翌18日には残る13人を堺市北署の安井町派出所近くの喫茶店に集めた。ところがこの派出所はマンモス交番であり、とても13人くらいでは歯の立たないことがわかった。

 そのため今度は2日後、福岡たちは枚方市の枚方署阪派出所を狙い、午後6時頃、近くの公園に集合した。しかし警官が何時までたっても現れない。

 実は、その日は京大全共闘の学生が大阪周辺で解放区闘争を行っており、大阪から京都に向う道路はすべて封鎖されていた。そのため警官たちはすべてそちらに動員されており、結局、10時まで待っても警官が現れないため襲撃中止になった。

 これにこりず、福岡たちは、9月22日午後6時半、大阪市内の阿倍野署・金塚交番を襲撃した。襲撃隊は、福岡以下20人であった。

 その日、交番の中には5人の警官がいた。その1人が、本署に連絡しようと真向いの果物店に飛び込んだのを見て、この警官から拳銃を奪おうとその果物店に火炎ビンを投げた。

 ところがこれが不発であり、これを見た群集が怒って赤軍派の兵士を半殺しにしてしまい、この襲撃は失敗した。

 民衆は、赤軍派の攻撃を見ても蜂起しなかったのである!これらの話は、まるで現代から遠くはなれて、明治時代の自由民権運動における話を聞くようにメルヘン的である。

 つまり日本の「赤軍派」の思想や行動は、日本の社会的現実からあまりにも遊離しており、そのことがメルヘンといえない悲劇的な事件に自らを追い込んでいった。

 「大阪戦争」に失敗した田宮は、舞台を東京に移すことにした。そこで大阪戦争の失敗に怒った重信房子など東京組は、9月30日夜、東大龍岡門近くの本富士警察署と大崎署の西五反田派出所を襲撃する計画をたてた。

 本富士署襲撃隊の隊長は明治大学の田中義三(=後によど号事件に参加)、隊員28人で高校生も混じっていた。ところが襲撃は、所長室に火炎ビンを投げ込んだものの、拳銃を奪う事は出来なかった。

 また五反田派出所の襲撃の指揮は中央委員の松平直彦、兵士は13人で、襲撃しようと交番を覗くと、公安とおもわれる私服がいたので、攻撃を中止してしまった。
 あとからこの私服の人物は、道を聞いていたただの市民とわかった。

 この2つの襲撃が失敗した後、逮捕された高校生から襲撃隊全員の名前が分かり、36人全員が逮捕されてしまい、「東京戦争」も失敗した。

 これらの失敗により、赤軍は武装蜂起に必要な武器の調達ができず、塩見孝也をはじめとする中央の大幹部はすっかり困惑していた。

 このようなときに福島医大の学生運動のリーダーで、共産同の東北地方の活動家で「みちのく赤軍」を立ち上げていた梅内恒夫が、パイプ爆弾の開発に成功したという情報が入ってきた。

 10月16日、梅内恒夫は実験室にしていた福島医大の産婦人科教室において、「鉄パイプ爆弾」を開発し、4人の仲間と阿武隈川で爆発実験を行い成功した。

 この爆弾の開発・実験の成功に狂喜した塩見孝也は、10月29日、赤軍派の拡大中央委員会を招集した。会場の東京・赤羽台団地471号棟101号室には、上野勝輝、八木健彦、松平直彦、重信房子などの幹部を中心に24名がそろった。

 ここで塩見孝也が「首相官邸武装占拠計画」を披瀝している頃、東北では梅内恒夫が弘前大学の青砥幹夫、植垣康博をアシスタントとして、青森市浦町奥野21番地の一軒家を爆弾製造工場としてパイプ爆弾の量産体制の準備に入っていた。

 10月31日の午後11時すぎ、文京区小石川2丁目17番の「富阪セミナーハウス」で赤軍派の幹部会議が開かれ、「首相官邸を襲撃する前に、兵士に武器の使い方を教えるため、11月3日から5日まで、山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行なう」計画を決定した。
 幹部会議の3日前の10月28日、大菩薩峠の中腹にある「福ちゃん荘」という山小屋を赤軍派の木村和夫(東大)と松平直彦(早大)の2名が訪れ、ワンダーフォーゲルの合宿として、11月3日から3晩、70人の宿泊を申し込んでいた。

 首相官邸の襲撃方法は、攻撃隊、突入占拠隊、道路防護隊など、大菩薩峠での軍事訓練を終了した精鋭部隊により、11月6日午前6時を期して行い、官邸を占拠する。占拠は3日間持てば成功であり、その間に佐藤首相を人質として政治犯の釈放を要求するとし、襲撃後の組織再建の責任者まで決めた。

 ところが、11月2日になり、11月6日には全国全共闘のデモが首相官邸をとおり、そのために警戒が厳重になることから、実行日を11月7日に延ばすことになった。この24時間の遅れが、赤軍派には致命的なものになった。

 幹部会の決定は直ちに東北、関西に伝えられ、全国から大菩薩峠を目指して赤軍派が集合した。11月3日午後6時30分、「福ちゃん荘」の2階の2部屋をぶち抜いた大広間において作戦会議が開かれ、作戦行動計画の詳細が発表された。

 ところが50数名の赤軍兵士のうち、大菩薩峠における軍事訓練の真の目的を知っていたのは10名たらずに過ぎなかった。

 あとの兵士たちは殆どその計画を知らず、死ぬかもしれないという重苦しい空気が会場を支配したという。そして作戦会議の後で、肉親などへの「遺書」を書き始めた。

 一方、その頃、下界では他のメンバーが、攻撃用のトラックを盗んだり、千葉県内に「武器庫」や「兵舎」を設営する必死の準備をすすめていた。

 「赤軍派が不気味な動きをしている」という情報はかなり早くから警察の耳に入っていた。そして殆ど信じられないことではあるが、その頃、東京都心の道路や陸橋には、大菩薩峠で軍事訓練を行なう赤軍への参加を誘うビラが張り出されていたことを、私は記憶している。

 そこにはさすがに首相官邸を襲撃するとは書いてないものの、反政府的な軍事行動が大菩薩峠で行なわれることは、東京都民にも知られるほどの大らかなものであった。それはまさに明治時代の「自由民権運動」の現代版ともいえる大時代的なものであった!

 全国の公安は、既にそれまでの学生たちの動きを厳しく観察していた。

 西千葉駅西側のアパートの2階十号室に、11月3日午前2時頃、10人余りの赤軍派のメンバーが入るのを千葉県警の特別捜査班の刑事が見つけ、尾行を開始した。
 午前9時ごろアパートを出た高校生兵士と思われる2人組みの少年は、午前11時半の松本行きの急行に乗り、塩山駅で降りた。

 駅前から裂石行きのバスに乗り、終点で降りた。これを警視庁の刑事4人がタクシーで追い、福ちゃん荘に入るのを見た。

 その夜の内に、東京、大阪、京都、神奈川、千葉、茨城など関係都府県の公安刑事に非常呼集がかけられた。11月4日には塩山署に警察本部合同の「公安捜査隊」(100人)が編成され、更に280人の武装警官隊が組織されて、大菩薩峠には厳重な警戒網が張られた。

 総攻撃は11月5日午前6時に開始され、400名近い大部隊が小屋に突入した。

 そして「福ちゃん荘」に宿泊していた53名は、1時間足らずで全員逮捕された。

 7人の政治局員のうち4人が逮捕され、塩見、田宮、高原の3人を残すのみになった。塩見、田宮にも逮捕状が出されて、残存部隊に対する警察の追及が厳しくなり、赤軍派中央軍は殆ど壊滅的な打撃を受けた。
http://www.araki-labo.jp/samayoe011.htm

114. 中川隆[-11384] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:34:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[616] 報告
4.よど号事件とその後

(1)赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件 

 大菩薩峠において赤軍派が大打撃を受けた1週間後の11月12日、塩見議長は赤軍国際部長の小俣昌道(京都大学全共闘議長)を、ひそかに国外の過激派との連携をつくるために羽田から出発させた。

 当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の超過激派が、銃や爆弾を使ってテロ路線を突っ走っていた。

 このようなアメリカの超過激派と国際的な連携を保ち、「あすの地球をまわす世界赤軍」を構築しようというのが塩見議長の夢であった。

 昭和45(1970)年に入り、赤軍派は新しい軍事蜂起をめざし、1月はじめに東京の赤坂東急ホテルで「中央委員会」を開いた。

 ここに重信房子を含む14人の赤軍派幹部が集まり、田宮が「フェニックス計画」(=よど号事件)と名付けた海外脱出計画を明らかにした。

 さらに1月16日には東京で560人、2月7日に大阪で1500人を集めて蜂起集会を開いた。この東京集会は、元東京都学連書紀長・前田祐一(中央大学)の率いる「長征軍」が北海道、東北、北陸、九州をまわって徴兵してきた若者を集めて、神田駿河台の全電通労働会館ホールで開いた武装決起集会である。
 
 この集会では「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の方針が提起され、ここで赤軍派は「世界赤軍」の名の下に、海外に救いをもとめる動きを見せ始めた。

 それは明治の自由民権運動において、国内の運動がすべて鎮圧されたとき、朝鮮半島に新しい活動の場を求めておこした「大阪事件」に似ていた。

 そこでは他にもいくつかの作戦が計画されたが、それらの殆どが例によって失敗した。それでも塩見らは海外脱出の「フェニックス計画」をあきらめず、赤軍派幹部を含む13人を「ハイジャック班」として決行することになった。

 ところがその決行の直前の3月15日に、最高指導者の塩見高也と前田祐一の2人が逮捕されてしまった。しかも小西隆裕と森清高が脱落したため、最終的には9人により日本で最初のハイジャックを実行することになった。

 その事件の概要は次のようなものである。


●よど号事件の概要

 昭和45(1970)年3月31日午前7時半すぎ、羽田を離陸して富士山上空を福岡に向かって飛行していた日本航空ボーイング727(よど号:乗員7人、乗客131人)が、乗客として乗っていた9人の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮に行くように指示された。

 丁度、その航空空域が米軍の管制下にあったことから、この事件はただちに米軍にキャッチされた。そのためこの事件は日米韓北朝鮮の4国がからむ厄介な国際問題になり、ハイジャック事件としては解決までの時間の世界最長記録を作ることになった。

 米軍は直ちに同機に搭乗していたアメリカ人乗客を調べた。すると、聖職者とコーラ関係者の2名のアメリカ人が搭乗していることが分かった。

 このうちの聖職者マクドナルド氏が、アメリカが北朝鮮に行かれると困るCIA?にからむ人物であったふしがある。

 そのことがよど号の問題解決を、事件の裏でさらに複雑かつ困難にしたと思われる。

 その内容は、よど号事件の際に日本航空の対策本部事務局長をつとめた島田滋敏氏の著書「『よど号』事件 三十年の真実」草思社に詳しい。

 よど号は福岡空港において病人、女性、子供など23人をおろして給油し、6時間半後の午後2時前に福岡空港を離陸し北朝鮮に向った。

 この福岡においてアメリカ人をおろすことができなかったため、アメリカには、どうしてもよど号を韓国に着陸させて乗客を解放させる必要が出てきたようである。

 そのことがハイジャック事件の解決までの時間的最長記録を作る、厄介な国際問題に発展させた。

 福岡を飛び立った日航機は朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。
 そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。

 機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようである。
 しかしそこは、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。

 そのためハイジャック機は、そこで日米韓北鮮の軍事的、外交的、謀略的な駆け引きの真っ只中に巻き込まれた。そしてよど号は、帰国まで122時間という寿命が縮まるほどの恐ろしい経験をすることになった。
 
 ちなみに朝鮮半島において、「休戦ライン」と「38度線」とは実は全く別のものである。つまり休戦ラインは、朝鮮半島の東部においては38度線より北に入り込んでおり、西部の休戦ラインは38度線より南に入り込んでいる。このことがよど号のピョンヤンへの飛行経路に錯覚を与えたようである。

 朝鮮戦争の休戦協定により、この休戦ライン上を飛ぶ飛行機は、国籍・理由を問わず、撃墜してもよいことになっている。そのため、その上空は、民間機が絶対に飛んではならない危険な空域であった。

 当時、韓国は軍事クーデターにより政権をとった朴正煕大統領の政権下にあった。

 そのため、韓国の朴政権と北朝鮮の金日正政権とは、朝鮮戦争に続く軍事的に一触即発の戦争状態にあった。そこを日本の飛行機が、韓国の領空を犯して北朝鮮に向ったわけであり、無事に飛べたことは殆ど奇跡であった。

 韓国の上空を、ハイジャックされた日本の飛行機が北朝鮮に向かって飛ぶことは、韓国としては国家主権にかかわる重大事であり、絶対に許す事のできないことであった。そのため朴政権は、米軍の連絡を受けた段階から、ハイジャック機を韓国内で阻止し、確保することを考えたと思われる。

 韓国側は金浦空港において、北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持って、ハイジャック機を歓迎するように偽装して迎えた。ところが準備時間が短かかったため準備が間に合わず、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。

 赤軍派は、ノースウエスト機には気がつかなかったが、ラジオ放送やアメリカ車に気がついて、そのウソはたちまち見破られてしまった。

 韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、日本側の強い意向により、4月1日に人質の身代わりになるため日本から着いた山村政務次官が赤軍派と交渉にあたり、4月3日に乗客全員はようやく開放された。

 そして山村政務次官1人が代わりに人質になり、4月3日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図ももたずに飛び立った。

 事件発生から83時間後のことであった。この間における日本外交の不手際、韓国政府の強行姿勢、そして疲労が重なる乗客と日航乗務員のけなげな活動は、前掲の島田氏の著書に詳述されている。

 よど号事件の実行犯は次の9名である。

     田宮高麿(大阪市大)―その後、北朝鮮で死亡
     小西隆裕(東大)−在北朝鮮
     田中義三(明大)―タイで逮捕、日本に送還され裁判、2007年日本で死亡。
     安部公博(関西大)―在北朝鮮
     吉田金太郎(京都市立・堀河高校卒、日立造船所工員)―北朝鮮で死亡
     岡本武(京大)−北朝鮮で粛清?
     若林盛亮(同志社大)―在北朝鮮
     赤木志郎(大阪市大)―在北朝鮮
     柴田泰弘(神戸市立・須磨高校生)―1985年帰国、93年懲役5年刑、94年出所。
                      
 よど号をハイジャックした赤軍派の新しい活動は、北朝鮮に入ったところから始まった。しかしその後の北朝鮮における情報は断片的にしか入らず、その動静は闇に包まれていた。
http://www.araki-labo.jp/samayoe012.htm


2)よど号ハイジャック犯のその後

●よど号犯のその後

 よど号ハイジャック犯のリーダー・田宮高麿は、北朝鮮からさらにキューバへ飛び、その年の内にも筋金入りの「革命軍」をつれて、日本に帰国するつもりであった。

 しかしその目論見は北朝鮮への入国後、完全に外れてしまった。

 それだけでなく、彼らの北朝鮮における運命は、彼らが事前に計画していたものとはすっかり変わり、世界革命に参加するどころか、北朝鮮国家への奉仕者に作り変えられていった。

 もともと極度に民族主義的なチュチェ思想を主張する北朝鮮の指導者・金日成が、世界革命を標榜するトロツキスト集団であるハイジャック犯を受け入れるわけはなかった。ソ連にスターリンが生きている時代であれば、彼らは確実に全員処刑されたと思われる。

 しかし時代が少し遅れていたため、命は取り留めたものの、全員、招待所において北朝鮮のチュチェ思想の信奉者に作りかえられていった。

 もともと北朝鮮が、トロツキスト集団である日本の赤軍派の「世界革命の理想」に同調するはずはなかった。驚くべきことに、赤軍派は北朝鮮に対する調査もコンタクトも全く行なわないまま、国交のない北朝鮮へ向ったのである。

 そのため、その年に帰国するどころか、その後の彼らに関する動静は殆ど消されてしまい、それから30年を経てようやくその後のことが少しずつ分かり始めた。

 それを見ると、彼らを待ち受けた運命は驚くべきものであった。
 
 ハイジャック事件の当初、犯人たちの受け入れに対して北朝鮮側は寛容な姿勢を見せていた。しかしハイジャック機が、4月3日夜、山村次官1人を人質にして、ピョンヤン郊外の美林空港についてみると、彼らの態度は一変していた。

 その理由は、ハイジャック機が多数の日本人を拉致してピョンヤンに来ると思っていた北朝鮮側の期待が裏切られたことにあると、私は思う。

 今から考えて見ると、もしあのとき、多数の日本人の人質を乗せたまま、よど号が福岡から直接ピョンヤン入りを果たしていたとしたら、北朝鮮が工作員を使ってその後に行なった日本人拉致事件は大きく変わっていたと思われる。

 3月31日、福岡空港からピョンヤンに向った日航機には、108人の乗客が搭乗していた。北朝鮮はこれらの乗客は、すべて北朝鮮への不法侵入者として扱うことが出来た。彼らはこの乗客の内から、北朝鮮に役立つ人々を自由に選ぶことが出来るわけである。

 まさにこのハイジャック事件は、北朝鮮にとって鴨が葱を背負ってくるような事件であった。うまくいけばその後に特殊工作員を使って行なった、日本人に対する「拉致事件」が不要になるほどの事件であったわけである。

 ところがその北朝鮮が欲しかった日本人の人質たちは、すべて韓国でおろされてしまった。その期待が裏切られた事が、よど号が山村政務次官1人を乗せて北朝鮮に降りた時、彼らの態度が一変していた理由であると私は思う。

 しかし、よど号のハイジャック犯が北朝鮮を目指したということは、朝鮮民主主義人民共和国が、社会主義の「シャングリラ」(理想郷)であることを世界に宣伝する機会として利用できる、と金日成は思い直した。

 その様な事情から、北朝鮮に渡った赤軍派は世界革命の拠点作りはできなかったが、北朝鮮に客人として迎えられた。そして招待所においてチュチェ思想で洗脳された上で、日本人の拉致をはじめとする北朝鮮側の手先に利用されることになった。

 よど号亡命者のその後については、全共闘運動を経験したジャーナリストの高沢皓司氏が、北朝鮮に何度も渡ってよど号犯と話し合い、彼らのその後の活動を記述した力作「宿命」(新潮社、1998)に詳述されている。

 そこで同書によって彼らの足跡の概略を追いかけてみよう。

 よど号亡命者たちが、当初、北朝鮮政府に対して求めたものは、次のようなものであった。


    (1) 軍事訓練を受ける事
    (2) 今年中に帰国できる条件を整えてもらうこと。
    (3) 経済学、哲学、対日武装闘争の経験の講義を受ける事、など。


 多岐にわたっていたが、その殆どは北朝鮮側から無視され、当初、受け入れられたのは市中の散策と体力作りくらいであった。

 そして全員、市民から隔絶された招待所に軟禁され、チュチェ思想の講義と学習を一方的に受けさせられた。彼らが第一に求めた軍事訓練などは、全く受ける事は出来なかった。

 しかし彼らは、2年後の1972年元旦、金日成首相にあてて手紙を書いている。そこで彼らは寛大で革命的な「偉大なる首領」の金日成に対して、チュチェ思想をより深い内容で理解できるようになった事に、心からなる感謝を表明した。

 彼らは、原典主義により「金日成著作集」5巻を読破し、1労作ごとに体系化を行なった。そして要旨を書き抜き、その真髄や教訓について討論した。

 招待所の消灯は午後11時であったが、午前2時まで勉強するグループもあったという。(高沢皓司「前掲書」104頁)

 このよど号犯の手紙は、金日成を非常に喜ばせた。さらに、中東における日本赤軍の活躍が、彼らの取り扱いを一変させることになった。

 彼らは北朝鮮にとっての貴重な「金の卵」となり、72年4月27日に、金日成はNHK、朝日新聞、共同通信の記者との会見において、彼らのことを話題に取り上げた。


●北朝鮮に利用されたよど号犯

 1972年5月26日、イスラエルのテル・アビブ空港において、日本赤軍のコマンド3人が自動小銃と手榴弾で乗客たちを攻撃する事件が発生した。この事件では、死者25人、負傷者72人(内、25人は重体)を出し、コマンドも奥平剛士と安田安之が射殺されて、岡本公三が逮捕された。

 逮捕された岡本公三は、よど号犯の岡本武の実弟である。この事件に金日成は非常に関心をもったといわれる。そして同じ日本赤軍の田宮高麿に対して、「日本のアラブ赤軍を北朝鮮の労働党工作部に取り込め!」と指令を出した。

 金日成は、それと同じ事件をソウルの金浦空港で起こすことを考えていたと思われ、それに日本赤軍を使いたいと考えた。

 田宮高麿は、この将軍さまのアイデアを実現させるために、いくつも手紙を書いて実行を図ろうとしたが、結果的にはこの計画は実現できなかった。

 しかしそれを契機にして、よど号犯を労働党工作部の特殊工作に利用する試みが始まった。

 まずこの計画が発端となり、よど号犯たちに日本人妻をあてがい、北朝鮮に定住させ、共和国のために奉仕させようという奇妙な計画が持ち上がった。

 その結果、ヨーロッパを旅行中の多数の日本人女性が北朝鮮に拉致され、よど号犯の妻にされる事件が頻発するようになった。

 そのことによって、彼らの住所は「招待所」から「日本人革命村」に成長する。
 
 よど号犯の妻たちと、彼らが結婚して家庭を持った年を、図表-1にあげる。

図表-1
http://www.araki-labo.jp/samayoe013.htm

この表を見ると、その年が1976-77年に集中していることが分かるであろう。


 

よど号犯の妻たち よど号犯の名前 事件時年齢 妻の名前 結婚年月 妻の経歴


田宮高麿 27歳 森順子 77.5.1 強制連行で日本に行った朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれた。父の遺骨を故国に返すべく来鮮

田中義三 22歳 水谷協子 77.5.5 愛知大学在学中から北朝鮮にあこがれ来鮮

柴田泰弘 16歳 八尾 恵 77.5.4 いろいろな仕事を転々として、渡航経歴も非常に多い。キム・ヨーチルに声を掛けられ、日本に潜入して佐藤恵子という名前で「夢見波」という店を開いているところを1988年5月、逮捕された。

小西隆裕 25歳 福井タカ子 76 東大病院の看護婦で東大紛争の頃知り合う。75年10月、自分の意思で出国し北朝鮮へ渡航。


吉田金太郎 20歳  
   
若林盛亮 23歳 黒田佐喜子 76 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航。

岡本武 24歳 福留貴美子 76 四国の高校を出て、東京の警備会社の警備員になるが、保母への転職を考える。モンゴル旅行に憧れ失踪。北朝鮮に拉致されたと見られる。岡本と共に死亡?土砂崩れというが不明。

赤木士郎 23歳 金子恵美子 77 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になる。ヨーロッパ経由で渡航。

安部公博 22歳 魚本民子 76 高校の頃から学生運動に従事。プロレタリア学生同盟に入り、共労党の指示で来鮮。ピョンヤンで恋愛結婚。

 この頃になってよど号犯たちは、ようやく朝鮮労働党からある程度の信用を獲得することに成功していた。そこで彼らは、北朝鮮の工作員としての軍事訓練やスパイ活動の訓練も受けられるようになり、彼らの中から特殊工作員として海外において活躍する者も出始めた。

 ▲粛清された?岡本武

 まずテルアビブ空港における日本赤軍の岡本公三が、よど号犯の岡本武の実弟であることから、1980年代の初めに、岡本武の日本潜入工作が計画されたようである。既に、岡本武は、1970年代の末にウィーンにおいて反核運動を組織することに成功しており、更に、カナダに活動を広げようとしていた。

 その段階で、岡本武の日本潜入工作の計画が持ち上がった。ところが1980年代の初頭において、田宮をはじめとするよど号グループと岡本武は、革命路線をめぐり思想的、路線的に対立し、それが表面化してきていた。

 このような段階で、岡本による日本潜入工作の計画は不可能であった。そこでこの計画は中止になりピョンヤンに戻り、仲間から外されて招待所に戻された。

 岡本武は、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられて、収容所に入れられた。その後の岡本の消息は全く途絶えており、妻の金子恵美子ともども、死亡もしくは粛清された?と思われている。

 ▲ニセ・ドルで逮捕され、日本で死去した田中義三

 よど号犯の中でも最も行動的であった田中義三は、1996年3月、カンボジアにおいて偽造米ドルのロンダリング容疑で逮捕された。

 彼はそのとき、北朝鮮大使館の公用車に乗っており、大使館が発行した旅券では北朝鮮の外交官「キム・イルス」となっていた。

 この事件は、北朝鮮外交官とよど号犯によるニセドル疑惑として国際社会に報道された。

 彼の著書によると、田中義三がカンボジアへ行った目的は、日本に帰国するための拠点づくりにあり、1994年にカンボジアに入国した。カンボジアには、日本に帰国する方途の条件があった。しかしそこをインターポール(国際刑事機構)に察知され脱出したが、3月24日にカンボジアとベトナムの国境で逮捕された。

 そのときカンボジアにおいて田中が拠点とした児玉国際貿易の事務所からニセドル札が見つかり、そのうちの1枚からは田中の指紋が見つかったというのが逮捕の理由であった。

 その後、田中の身柄はタイ国のチョンブリ刑務所に移されたが、その間の話は、よど号事件の場合と同様に、日本、アメリカ、北朝鮮、タイ、カンボジアの国際的かつ外交的なカケヒキが錯綜していて、その実態は極めて分かりにくい。

 大体、田中は、チョンブリ刑務所に1年半もいた段階で、身分、氏名も明らかにされず、「あなたは今から望むなら韓国の人間にも、ハヤシなる人物にもだれにでもなれる」といわれていたという。(田中義三「前掲書」68頁)

 田中義三は、タイにおいて米財務省のシークレット・サービスの取調べを受けた上で、起訴され裁判にかけられた。このニセ札事件の裁判は、1999年6月に「完全無罪」の判決が下りた。しかしその裁判の経過は、彼の著書をみても極めて分かりにくい。日、米、朝鮮、タイの間の国際的陰謀とカケヒキが、この単純な事件を殆ど一般人には理解できないほど複雑な話にしている。

 翌2000年5月、日本政府からの強制送還の要求に対して田中は自主帰国を表明し、6月28日、日本に帰国。ハイジャック容疑で逮捕・起訴された。

 2002年2月、東京地裁の判決は懲役12年だった。高裁に上告したが、2003年4月30日、上告が取り下げられて刑が確定した。

 熊本刑務所に服役したが、ガンのため、大阪医療刑務所に移され、さらに、千葉の病院に移され、2007年1月1日に亡くなった。


 ▲柴田泰弘はなんと日本国内で逮捕された
 
 1988年5月、兵庫県警は東京新宿区三栄町のアパートにいた「中尾晃」という男を、偽造旅券の疑いで逮捕した。そしてその身柄はすぐに神戸に移された。
 この男の指紋を照合してみると、なんとその男は、よど号ハイジャック事件の柴田泰弘であることが分かり、公安関係者は衝撃を受けた。

 1988年は、丁度、ソウル・オリンピックの直前の時期であり、公安やマスコミは、柴田の入国は、オリンピック開催の妨害工作ではないかと考えた。

 しかしそれは「よど号犯」たちの第2次日本潜入計画であり、柴田の逮捕によってその後の計画は挫折した。柴田は、偽造旅券による旅券法違反で、懲役5年の刑に処せられた。


 ▲よど号犯たちの最大のタブー? 吉田金太郎

 吉田金太郎は、よど号犯たちの中で、柴田泰弘の次に若く、小柄で色白の好男子であった。彼は1985年9月4日、午前5時12分、急性肝萎縮症のためピョンヤン市内の病院で亡くなったとされている。

 そして翌5日にピョンヤンで火葬に付され、「よど号」の仲間たちにより葬儀が営まれた。彼の病状が深刻になった85年の8月末に、最後の面会にピョンヤンまでこられないかという手紙が、京都市祇園の彼の実家に届いた。

 吉田金太郎の遺族は、面倒な手続きをへて、10月に北京からピョンヤン入りを果たした。そして翌日、ホテルを訪ねてきたよど号メンバーから木箱に入った金太郎の遺骨と金日成から贈られたスイス製の腕時計と死亡診断書を受け取った。手紙はなかった。

 これで吉田金太郎の死は、1件落着のはずであるが、「宿命」の著者である高沢皓司氏は、そこからいくつかのフシギなことに気がついた。
 
 1993年の初冬、高沢氏はピョンヤン郊外において、よど号の妻たち全員のインタビューをした。そこで高沢氏は彼女たちに同じ質問を繰り返したが、誰からも吉田金太郎の名は一度も出ず、まるで彼は存在しない人のようであったという。

 図表-1から明らかなように、彼女たちは、すべて1976-77年に結婚している。そうだとすれば、85年までには8年の歳月があり、彼女たちが吉田金太郎について全く語らないというのは、いかにもフシギな事である。

 そして図表-1において、最も若い柴田泰弘にも妻が決まったのに、4歳年上の吉田金太郎1人だけは妻の名がないのもふしぎである。

 よど号犯たちと度重なる交流を持ってきた高沢氏は、遺族との対応の中で吉田金太郎のことが、彼らの最大のタブーであると感じるようになったという。

 そこで吉田金太郎が、いつ「革命村」から姿を消したかを調べて見ると、存在が確認できるのはなんと1973年までであることが分かった。

 1976年11月に小田実との会見に「吉田金太郎」が出席したことになっている。しかしそのときには、写真が撮られていないので彼の存在が確認できない。

 1976年は、よど号の全員の妻帯が既に決定していた年であり、吉田金太郎の妻だけが決定していて消えたのか、このとき既に吉田金太郎がいなくなっていたかのどちらかになる。

 吉田金太郎の実家は、神戸で有名な吉田金太郎商店である。しかしその実家は、その後に没落して、彼の父は京都の祇園に小さな串カツ店を開いていた。その意味で、彼自身は、「労働者」ではあるが、本来の出身は大金融業の家の御曹司である。このことは北朝鮮において、どのように評価されたのであろうか?

 
 儒教国の北朝鮮では「出身成分」分類が、大きく3つに区分されているという。


 第1は、金日成思想に忠実な忠誠心に満ちた核心階層。
 第2は、監視対象、動揺分子。
 第3は、特別監視対象。敵対分子で最下層の者、である。


 高沢氏は、吉田金太郎は、第2もしくは第3の階層に属しており、「総括」の場で彼は自分の出自を問われて、答えることが出来なかったのではないかと考える。

 そのために、「村」から消されたと推理されており、彼が死亡したのは、1985年ではなく、それより10年前の75-76年にさかのぼると思われている。

 ▲そして田宮高麿も急死した!

 最後に、よど号のリーダーの田宮高麿も急死している。1995年11月30日のことであった。死因は、「心臓麻痺」とされている。

 つまり、若かったハイジャック犯9名中、殆ど半数の4名が亡くなるという異常な死者数をみても、北朝鮮における彼らの生活がいかに過酷であったかが分かる。

 ハイジャック犯たちに北朝鮮で家庭を持たせ、北朝鮮を拠点とした北朝鮮赤軍?として日本に潜入させ利用するという金日成の構想は、彼らの半数が死んだことにより失敗に終わった。
http://www.araki-labo.jp/samayoe013.htm

115. 中川隆[-11383] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:44:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[617] 報告
5.連合赤軍の事件

(1)「連合赤軍」の誕生 

 70年代初頭、赤軍の指導部は殆ど逮捕されており、政治局員としては高原浩之、1人を残すのみという壊滅状態になっていた。

 その高原もハイジャック事件の3ヵ月後の70年6月7日に、同事件の共同正犯の容疑で逮捕されてしまい、赤軍の中枢は公安によって完全に破壊された。
 残された大幹部の重信房子も昭和46(1971)年2月28日に、京大の奥平剛士とともにパレスチナへ脱出し、これにより日本赤軍の中枢は完全に機能を停止した。

●連合赤軍のリーダーとなった森恒夫

 壊滅状態になった日本赤軍は、昭和45(1970)年には、「PBM作戦」、つまり塩見議長の奪還、国際根拠地の建設、そして革命資金の調達のための軍事作戦を展開していた。しかしこれらが挫折してしまい、翌71年には「M作戦」(革命資金の調達)一つに絞られていた。

 「M」とは資金調達のことであり、71年初頭から7月23日の松江相互銀行米子支店の襲撃にいたる、一連の金融機関に対する襲撃・強盗事件が繰り返された。
 その一方、日本共産党革命左派神奈川県委員会(「革命左派」もしくは「京浜安保共闘」を称する)は、70年末に上赤塚交番を襲撃して、逆に柴野晴彦が殺されるという事件を引き起こしていた。

 そして71年2月17日に栃木県真岡の銃砲店を襲撃し、猟銃、銃弾の奪取に成功し、この鉄砲がその後の浅間山荘事件に使われることになる。

 戦前の日本共産党も、最後に武装闘争による銀行強盗事件を起こして社会的に顰蹙を買ったが、それと同様に瀕死状態になった過激派の組織は、その頃、なりふりかまわぬ終末期の状態に突入していた。

 このような瀕死の状態となった赤軍の中枢組織に、後に悲劇的な連合赤軍事件を引き起こす最悪の幹部として、森恒夫と永田洋子が登場してくる。

 森恒夫は、重信房子より1歳年上であり、大阪交通局の現業監督する父親のもとで、戦争末期の昭和19(1944)年12月、大阪大淀区の交通局公舎の棟割り長屋に生まれた。小学校では1番の成績であったという。

 豊崎中学から大阪府立の名門・北野高校に進んだ。定員450名の内の「100番くらいの成績」で高校に入学したのが、1960年安保騒動の年である。しかし森は学生運動には全く興味を示さず、もっぱら剣道に打ち込み、主将にまでなった。

 秀才ぞろいの北野高校では、森の学業成績も今ひとつであり、大学は外語大を第一希望としていたが、願書提出の段階で1ランク落として、大阪市立大学にしたといわれる。このことが後に森のコンプレックスとなって残ったようである。

 昭和38(1963)年4月、森は大阪市立大学・文学部に入学した。入学と同時に「大学生協」でアルバイトを始めた。その1年後、生協を支配する「社学同」委員長のポストについたのが、よど号事件のリーダーになった田宮高麿であった。

 以後、森は田宮の「腰巾着」のような存在になったといわれる。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括・連合赤軍事件」180頁)

 田宮高麿は、岩手県の出身、森の1級上の昭和18年1月生まれである。府立四条畷高校を卒業して、森の1年前に大阪市立大学へ入学していた。

 田宮は共産同ブントのリーダーであり、森が入学した頃の大阪市大では日共系の勢力が強く、ブントと日共系の両者は激しい新入生の争奪戦を展開していた。

 森は学生運動に興味がなく逃げ回っていたが、とりあえず「勢力の強そう」な日共系の「統社同」に籍をおいていた。それが、田宮委員長の支配権が確立すると、あっという間に社学同に鞍替えし、田宮の腰巾着になってブントの学生運動にのめりこんでいった。つまり森は目先の利く要領のいい性格のようである。

 昭和43(1968)年6月、従来の学生運動から大きく武装闘争に軌道をかえた共産同ブントのリーダーの京大生・塩見高也は、新しく武装化への準備をはじめた。

 これに同調した田宮高麿は突然、大阪の「みよし荘」アパートから姿を消し、東京中央区の月島にある「長田荘」アパートへ移った。

 突然、親分を失った森は驚いて後を追ったが、森の優柔不断な性格を知っている田宮は、この新しい政治活動に森を入れなかった。そのため、やむをえず森は成田闘争に参加して「小隊長」の地位についた。

 しかし元来、指導力のない森に成田闘争の小隊長が勤まるわけはなく、1年後にほうほうの態で成田を逃げ出した。昭和44(1969)年1月の安田講堂攻防戦を、森は千葉県成田の農家で見ていた。

 その頃、成田闘争における小隊長・森の権威は日増しに低落していた。そこで森は、成田を脱出して上京して、ふたたび田宮を頼ってきた。

 当時、共産同ブントは前に述べたように「関東派」と「関西派」に分裂しており、両者は力による対決の段階に入っていた。そのため、森は関西派に迎えられることになったが、森の優柔不断な性格は、成田闘争に参加した後も全く直っていなかった。

 そのことは次の事件からもわかる。昭和44年6月28日、明治大学構内の明治記念館で「関西派」の集会が開かれた時、其処へ向かう途中で当日の弁士である同志社大学の藤本敏夫とその司会の森が、「関東派」の学生に拉致される事件が起こった。

 そのとき、藤本は「関東派」が要求する自己批判を受け入れなかったため、人事不省に陥入るほどの暴行を受けた。ところが森は、「関東派」に這いつくばって謝り、逃げ去って無事に帰るという事件が起こった。

 これらをみると、後に起こる悲劇的な連合赤軍事件も、リーダーの森恒夫と永田洋子という最悪の組み合わせにより引き起こされた思いが強い。

●京浜安保共闘のリーダー・永田洋子

 永田洋子は、昭和20(1945)年2月8日、東京都文京区元町に生まれた。父は電気会社の玉川工場で働き、母は看護婦として働く共働きの家庭であった。

 洋子が生まれた2ヵ月後に横浜市港北区南綱島に疎開し、小学校4年までは横浜・綱島の会社の寮に住んでいた。そのため物心のついた頃から、労働運動に対しては共感を持っていたという。
 
 昭和32(1957)年4月、田園調布にある私立・調布学園中等部に入学した。同学園は、中学・高校とつづく「良妻賢母」の育成を目指す女子校であった。中学3年で60年安保の運動に遭遇し、それに関心を持ち、理解しようと悩んだという。

 昭和38(1963)年4月、私立・共立薬科大学に入学し、ワンダーフォーゲル部に入った。入学後、しばらくして社会科学班に入り、樺美智子さんの虐殺抗議集会やポラリス原潜寄航反対の集会に参加したりした。

 昭和39(1964))年1月に社学同の会議に誘われ、3月20日の金鐘泌・韓国外相の訪日反対のデモに参加し、5月には社学同ML派に加盟した。

 昭和41(1966)年2月、大学3年のときパセドー氏病と診断された。この病気は、甲状腺ホルモンの過多から起こる病いであり、首が太くなり、目が飛び出すといった症状がでてくる。

 永田はこの病気のため、男性にもてなくなることに悩んだといわれる。明治の大逆事件における菅野すがが、隆鼻術の失敗による後遺症に悩まされて、それが幸徳秋水の大逆事件への引き金になったとする説がある。

 永田の場合にも残虐な連合赤軍事件に至る原因には、この病気が大きく影響しているように私には思われる。
 
 社学同ML派が、日韓闘争の総括を巡り内部対立する中、67年3月に大学を卒業し、慶応病院の研究生となり、薬学の社会的学問分野の運動と婦人解放問題に取組んだ。

 翌68年3月、日本共産党に造反した神奈川県「革命左派」が結成されると、これに参加し、慶応病院付属病院の薬局で無給の医局員をつとめたあと、品川の三水会病院に勤めた。

 68年秋には済生会病院の薬局代表になり、夏のボーナス闘争では団交に参加するようになった。この活動において、永田は薬剤師として労働と生活に立脚した運動の立場をとらず、最初から革命左派のもとでの党派活動の立場をとり、共婦、反戦平婦の活動を優先させていたといわれる。

 昭和44(1969)年4月20日、横浜市鶴見で「京浜安保共闘」が結成され、東京水産大学の坂口弘が指導者になり、永田はこれに参加して、「女闘士」と見られるようになった。

 京浜安保共闘の坂口弘、吉野雅邦など5人は、東大闘争の挫折以来、低迷していた学生運動にカツを与えることをねらい、9月4日、愛知外相が訪米、訪ソに向かう飛行機を羽田において火炎ビンで襲撃する闘争を行い、有名になった。

 主要メンバーが逮捕されて危機的状態になった京浜安保共闘の公判闘争などを通じて、永田洋子は京浜安保共闘の組織の中枢を占めるようになった。

 さらに京浜安保共闘の吉野雅邦が、昭和46(1971)年2月17日、栃木県真岡市の塚田銃砲店に押し入り、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2300発という大量の武器を入手することに成功した。

 ここで京浜安保共闘の武器と赤軍のM計画による資金が合体して、連合赤軍が誕生することになった。

●連合赤軍の誕生

 昭和46(1971)年4月21日、京浜安保共闘の幹部の坂口弘と永田洋子は、赤軍派の森恒夫に会い、今後の支援・協力を話し合うため上京した。

 23日に両者は会い、赤軍と京浜安保共闘はできるだけ早い時期に一緒になり、「統一赤軍」を作ることで合意した。そしてその年の12月3日、赤軍派の「新倉アジト」に、永田洋子の京浜安保共闘が乗り込んできた。

 京浜安保共闘が榛名山に新しい「榛名アジト」を建設し、そこで両者が正式に合体したのは昭和46(1971)年12月20日のことであった。

 京浜安保共闘の吉野雅邦が慎重に選んだ榛名アジトは、湖畔の周遊道路から徒歩で20分も入った山の斜面を開いて吉野らが建設したもので、間口7m、奥行き5m、天井高3.5m、建築面積3平米の山小屋であり、台所、堀コタツ、ガラス窓の入った本格的な建物であった。

 それは赤軍派がそれまで使用していた無人の植林小屋を占有した新倉アジトとは全く異なる規模であり、森や坂東の赤軍派は京浜安保の気迫に飲まれ、驚嘆した。

 最初の両軍の討論に参加したのは次のメンバーである。


  赤軍派 森恒夫、坂東国男、山田孝

  京浜安保(革命左派) 永田洋子、坂口弘、吉野雅邦、寺岡恒一、岩田平治、
加藤能敬、小嶋和子、尾崎充男

 12月20日夜の会議は徹夜で続けられ、森は毛沢東が指導した1927年10月の秋収蜂起から、井岡山に至る闘争において紅軍建設の柱とした「三大規律・八項注意」(中国労農紅軍の隊内規律で、大衆の物は針1本、糸1筋、奪ってはならない、言葉づかいは穏やかにする、婦人をからかってはいけない、など)理論的な話をして、今度は京浜共闘の永田のほうが、「目が醒める思いで」それを聴いた。
 
 討論は連日連夜、続けられたが、永田が「ブルジョア的な遅れている兵士の再教育」の必要性について強硬な意見を出し、28日になっても最終結論が出なかった。 
 その後の総括・虐殺に繋がる厳しい個人追及は、すでにこの最初の指導者会議の段階から始まっていた。

 それは京浜安保の12.18集会に対して、加藤、岩田の意見書が出たところから始まった。この意見書に対して、加藤能敬と小嶋和子が総括を求められた。

 さらに、26日夜には永田が、加藤と小嶋が接吻しているところを見たことから、27日未明に寺岡、坂東、吉野の3人が寝ている加藤をシュラフから出し、土間の柱にしばり気絶するまで殴打し、小嶋も柱にしばられて放置される事件が起こった。

 さらに29日には、京浜安保の銃を管理していた尾崎充男と、赤軍派で「遅れている」と思われていた進藤隆三郎の2人が、氷点下15度を越す屋外に2日2晩縛り付けられ、尾崎が死亡した。これが最初の事件になる。

 28日から京浜安保は東京、名古屋に散らばる兵士たちを、また赤軍派は新倉アジトに残る赤軍派の仲間を坂東国男が呼びに行き、兵士集めに入っていた。

 中京安保共闘の山本純一と妻保子は、生後18日の娘の頼良(ライラ)ちゃんとともに、「山の中の理想的な共産主義社会で、親子3人幸せに暮らそう」という希望に燃えて榛名山へ向った。

 この榛名山アジトに集められた人数は、双方合わせて30名くらいであったと思われる。
http://www.araki-labo.jp/samayoe014.htm

(2)連合赤軍事件

 昭和47(1972)年元旦には、榛名山のアジトは既に地獄と化していた。1月1日には、尾崎に続いて進藤も雪の中で死亡した。肋骨が6本も折られていた。

 1月2日、後に「兵士たちの連合赤軍」の著者となった弘前大学の赤軍派の植垣康博が、新倉アジトから榛名アジトに到着したときには、既に、尾崎、進藤が殺害され、土間には加藤能敬が縛られており、アジトは緊張した重苦しい空気に包まれていた。

 山田、坂東には気楽に話せる親しさがなくなっており、威圧的になっていた。また永田洋子は指導部のコタツに入り、よそよそしくなり、みんなすっかり性格が変わっていた。

 その幹部の山田も、間もなく殺害されて、連合赤軍のなかで森と永田による支配体制は、2月のはじめには確立する。その1月末から2月初めにかけて山岳アジトは榛名から伽葉山、妙義山へと移るが、そこでも総括と殺害は継続されて、そのわずか1ヶ月そこそこの間に、図表-2に挙げる多数の人材が殺害された。


図表-2 山岳アジトにおける連合赤軍事件の犠牲者
http://www.araki-labo.jp/samayoe015.htm


死亡日 名前 享年 所属 出身学校 処刑理由

1971年12月31日 尾崎充男 22歳 革命左派 東京水産大学 12.18闘争の交番襲撃において日和りみて、柴野春彦さんを死なした

1972年1月1日 進藤隆三郎 22歳 赤軍派 早大?日仏学院? 女性と話ばかりしている

1972年1月2日 小嶋和子 22歳 革命左派 市邨学院短大 神聖な場を接吻で汚した

1972年1月4日 加藤能敬 22歳 革命左派 和光大学 同上

1972年1月7日 遠山美枝子 25歳 赤軍派 明治大学 きちんと総括できない

1972年1月8日 行方正時 22歳 赤軍派 岡山大学 女性と話ばかりしている

1972年1月18日 寺岡恒一 24歳 革命左派 横浜国立大学 分派主義で死刑

1972年1月20日 山崎 順 21歳 赤軍派 早稲田大学 総括が寺岡と似ているので死刑

1972年2月5日 大槻節子 23歳 革命左派 横浜国立大学 パンタロンを買った事を隠したり、美容院でカットした

1972年2月8日 金子みちよ 24歳 革命左派 横浜国立大学 皆にだまって出産の用意をしていた

1972年2月10日 山田 孝 27歳 赤軍派 京都大学 総括しようとしていない

(出典)永田洋子「十六の墓標」、植垣康博「兵士たちの連合赤軍」、小嵐「蜂起には至らず」などから作成

●イイカゲンな理由で総括・殺害された被害者たち

 図表-2を見ると、「総括」による処刑・殺害の理由が恐ろしくイイカゲンであることが分かる。

 ただ、幹部の寺岡に対する死刑は、彼が最高指導者である塩見高也の信頼の厚かった人物であることから、森の支配確立のための政治的粛清であるし、最後の処刑になる赤軍派の中央委員である山田孝に対するものも、それに準じるようである。

 しかし殺害の理由が分からぬまま殺された犠牲者が、圧倒的に多いことがこの表からも分かる。つまり兵士たちの粛清は「総括」という名の恐怖政治により、森と永田の支配体制を確立する手段として利用されたに過ぎないと私は思う。

 たとえば金子みちよの場合、妊娠している体で山岳蜂起の活動に参加すべきでなかった、という信じられない理由で処刑されている。

 以下同様に、殆どすべての人々は理由にならない理由により、森、永田の権力確立の犠牲になって殺害された。これが「連合赤軍事件」の本質である。

 ではこのような不当な処刑に対して、他の幹部や兵士たちが何故、唯々諾々と処刑に参加したのか?ということが大きな問題として残る。

 たとえば幹部の1人の坂口弘は、「あさま山荘1972」(下)のなかで、進藤隆三郎を総括するにあたり、なかなか気絶しない進藤を皆に殴らせたと書いている。

 そのとき遠山美枝子が、「私には殴れない」と人間的な言葉を発した。そのとき、皆はだらしがないといって彼女に進藤の殴打を強制する話が出てくる。(坂口弘「あさま山荘1972」下、301頁)

 このとき一緒になぐって処刑者が死ねば、参加者は心情の如何にかかわらず、森と永田と同罪で共犯の立場になる。そして、もしそのとき徹底して反対すれば、今度は反対した自分が処刑される立場になる。

 事実、進藤の死の1週間後に、遠山美枝子自身が総括により殺されている。このような異常な心理状況を作り出し、処刑の連鎖を作ることにより、森と永田の支配体制を確立していったと考えられるのである。

 つまり連合赤軍事件は、スターリンの「血の粛清」や毛沢東や江西たち4人組による「文化大革命」と全く同質であり、イデオロギー的な組織を確立する過程において、支配者が権力を奪取していくための権力闘争の小型版であったといえる。

 そして、その愚かさと残酷さにおいて、将に、スターリン、毛沢東に負けないひどい事件であった。

 連合赤軍事件で処刑された人々は、図表-2のほかに、榛名山へ来る前の昭和46(1971)年8月に、永田が向山茂徳(20歳、予備校)と早岐(はいき)やす子(21歳、日大高等看護学院生)の2人を、組織脱落者として処刑している。

 さらに、榛名山アジトの次に移った伽葉山アジトにおいても、1月30日に山本順一(労働者、革命左派)が総括にかけられ死亡している。山本は、妻と娘の頼良ちゃんをつれて「理想の天国」を求めて榛名山へ来た人である。命の危険にさらされた妻の保子は、処刑寸前に頼良ちゃんを置いて逃走した。

 そこで図表-2の人々とあわせると全部で14人が処刑されたことになる。
 
 このような状況下にある地獄のアジトから脱出を図る人々も出てきた。まず最初に榛名山から脱出したのは岩田平治であった。彼は伊藤和子と一緒に資金集めに名古屋へいき、集めたカンパの4万円を伊藤に渡して、そのまま脱走した。

 帰ってきた伊藤から岩田の脱走を知った森と永田は、岩田から榛名山アジトとそこでの殺人事件が発覚する事を恐れて、次ぎのアジトへ移動する事を決めた。

 次に脱出したのは前沢虎議であった。前沢は、東京大田区の自動車部品メーカー「三国工業会社」の工員であった。同じ会社に工員としてもぐりこんでいた坂口弘のカリスマ的魅力にとりつかれて、京浜安保共闘に入り、榛名山アジトにやってきた。

 そこは「プロレタリアの天国」どころか、この世の地獄であった。そこで妙義山に移る段階で脱出の機会をうかがい始め、2月7日、脱走した。

 そして3月11日に親戚の人に連れられ、東京の練馬署に出頭し、死体を埋めたことを洗いざらい自供した。

 2月17日、森と永田も、2人で逃亡を計画していたとみられる尾道への「出張」から妙義山アジトへ戻る途中、群馬県警のパトロール隊に逮捕された。

 独裁者を失った連合赤軍の9人の残存部隊はそろって最後の妙義山アジトから逃亡し、そのうちの4人は軽井沢駅で列車にのったところで逮捕された。

 そして最後の5人が銃を持って軽井沢のあさま山荘に篭り、警察との間で激しい銃撃戦になったのが有名な「あさま山荘」事件である。

 森はその後、1973年1月1日、東京拘置所で自殺した。これに70年12月18日の上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加えると、連合赤軍事件の犠牲者は16人になる。これが永田洋子の著書「十六の墓標」の表題の数字である。
http://www.araki-labo.jp/samayoe015.htm


(3)あさま山荘事件

●アジトからの逃走
 伽葉山アジトにおいて
、山本順一が総括により殺害された理由というのが、驚くべきものであった。引越しの際、妻の山本保子が子供の頼良ちゃんのおしめをリュックにつめていた。それを、山本が手伝ったのを永田が見て、嫉妬したことが総括の原因といわれる。(角間隆「赤い雪―総括・連合赤軍事件」24頁)

 子供を取り上げられた上に、夫を処刑された保子は、もはや自分も助からないと思い、伽葉山から命がけの脱走をした。

 そのとき森と永田は、尾道に「出張?」しており、伽葉山アジトのリーダーは永田の元の愛人であった坂口弘が務めていた。山本保子の脱走を知った坂口は、中村愛子に頼良ちゃんをつれて尾道の森と永田のところまで、その旨を連絡に行く事を命じた。中村は看護学院にいた実績から、頼良ちゃんの面倒を見るよう命令されていたのである。

 2月7日の未明、中村愛子は生後2ヶ月の頼良ちゃんを背負い、腰まである雪の中を町まで下りて、信越線の渋川の駅前からタクシーで榛名湖畔に向った。
 タクシーの運転手は、この異様な風体の親子を見て自殺志願者と間違え、湖畔で警察に届けた。そこで彼女は警察に保護され、東京で保母をしている友人に引き渡された。

 この頃、榛名湖畔で県立公園の管理人をしている丸岡和平という人が、湖畔の森の中にフシギな足跡や、ライトバンが乗り捨てられているのを発見して、さらに焼失しているアジトの跡を見つけた。

 その通報により、群馬県警の捜査員が榛名湖アジトの焼け跡に乗り込んだのは、中村が保護された翌日の2月8日のことであった。

 ようやく事の重大さに気がついた警察は、付近の山一帯を捜索して、2月15に榛名山ベースから20キロ離れた「伽葉山ベース」を発見した。伽葉山ベースはよほどあわてて引き払ったためか、殆どそのまま残されていた。

 その遺留品を調べた警察は、手配中の赤軍派や京浜安保のゲリラ戦士たちが付近の山に潜伏していると結論し、16日朝から関東、甲信越の山々に、厳重な捜査態勢をしいた。

 このことを全く知らない森と永田は、中村愛子から坂口たちが妙義山にアジトを移したという報告を受け、2月16日にようやく妙義山にたどりついた。しかし夜の暗闇の中、妙義山アジトの位置も分からず、雪の中で一夜を過ごして、翌朝、妙義山の洞窟アジトを求めて出発したが、既にその周辺は警察に厳重に押さえられており、2人は逮捕された。

 妙義山アジトにおける11人のメンバーのうち、奥澤修一(22歳、慶応大学)と杉崎ミサ子(24歳、横浜国大)は、妙義山から出発したレンタカーの中で逮捕された。19日朝、残りの9名の半分は雪の中に洞窟を掘って待機し、そのうち4人は佐久方面に出て衣服や食糧を調達して、再度合流することが決まった。その4人は次の人々である。


   青砥幹夫  23歳 弘前大学 赤軍派
   植垣康博  23歳 弘前大学 赤軍派
   寺林真喜江 23歳 横浜国大 京浜安保共闘
   伊藤和子  22歳 日大高等看護学院 京浜安保共闘


 4人は軽井沢駅の売店で新聞やタバコを買っているうち、その異様な風体を怪しまれ、7時50分発の長野行き普通列車に乗り込んだところを逮捕された。

 この頃になると、警察は群馬県警の機動隊員470名をはじめ、長野、新潟、栃木、茨城、埼玉、神奈川など6県警の警察官合計1300名以上に動員がかけられ、各県境の山など93箇所を虱潰しに捜索が始まった。

 残る5人は、軽井沢のレイクタウンにおける雪穴の中で、軽井沢駅での4人の逮捕を聞いた。2月19日午後3時過ぎ、彼らは軽井沢町地蔵が原の新興別荘地「レイクタウン」にいるところを、15人の警官隊に襲撃された。

 20分の銃撃戦の後、5人は別荘を捨て、山の奥へ逃走した。午後4時頃、いったん神津牧場方面に逃げた5人は、其処からさらに1キロ余り離れた山腹の険しい崖のところに建つ、「河合楽器」の保養寮「あさま山荘」に飛び込んだ。

●あさま山荘・銃撃戦

 敷地630平米、木造モルタル3階建てのこの山荘は、3Fが唯一の出入り口になっており、裏は険しい崖に建っている。将に攻めるに難、守るに有利な要塞のような建物であった。

 当日は6人の宿泊客があったが、犯人たちが侵入したとき、丁度、管理人の牟田郁男は皆を連れて外出しており、留守番は妻の泰子ただ1人であった。

 彼らは泰子を3階のベッド・ルーム「銀杏の間」にビニール紐で縛って閉じ込めた。午後5時40分、犯人の1人がベランダに現れ、空き箱や畳でバリケードを作り、警官隊が呼びかけるたびに、無言で銃を乱射してきた。

 この日、昭和47(1972)年2月19日から28日までの10日間、延べ218時間45分にわたり、わが国の犯罪史上に類を見ない長い「銃撃戦」の幕が切って落とされた。

 4日目の2月22日の午前11時40分頃、突然、黒いコートの男が警察の制止を聞かず、警戒線を突破して3階の玄関口にたどり着いて中の犯人と話を始めた。

 どのように話がついたか分からないが、男は内側のバリケードの上に、前日から玄関前に放置されていた手紙の束と果物籠を置き、外に向かい「大丈夫」と言うように手をふり始めた。

 これを見て、機動隊が行動を開始し、4人の特攻隊員がドアに近づいた途端、射撃音と共に男は倒れた。男の名は田中保彦といい30歳。事件には無関係の新潟のスナック経営者であったが、8日後に病院で死亡した。

 篭城5日目の2月23日になっても、警察は犯人たちの正確な人数さえつかめないでいた。午後3時57分、警察側は一斉にガス弾を撃ち込み、犯人側も的確な射撃で打ち返してきた。

 6日目の24日になっても犯人の人数はおろか、人質になっている牟田泰子の安否さえつかめなかった。既に山荘に対する送電は第1回の総攻撃以来とめられており、その上、放水車から大量な水が注ぎ込まれていて、人質の生命も危険な状態にあった。

 そこで2月28日が総攻撃のXデーに定められた。午前10時、山荘を壊して突入するため、クレーン車と直径60センチの巨大な鉄の玉が用意された。これにより、山荘東側の洗面所の壁を破壊し始めると同時に、放水車による放水が始まった。

 鉄玉は水平打ちから垂直打ちに変わり、屋根が破壊され催涙弾が打ち込まれた。
 家の中からは、クレーンめがけてライフルによる猛烈な射撃が行なわれ、クレーンを操縦していた警官は、間一髪で難を逃れるという死闘が続いた。

 午前11時31分、鉄玉の威力で玄関の屋根が崩れ落ちた。機動隊が突入しようと立ち上がったとき、猛烈な射撃を浴びて、警視庁特科車輌隊・高見重光警部と警視庁第2機動隊長・内田尚孝警視が倒れ、その後に病院で亡くなった。

 犯人たちは3階奥の「銀杏の間」に立てこもったようであった。既に、冬の日は山の端に落ち、夕闇が迫る中を満月が昇り始めており、凄惨な現場は投光器により照らし出されていた。

 17時50分、猛烈な放水が開始され、「銀杏の間」の窓枠は吹き飛び、奔流は滝のように室内に流れ込んでいた。その中へ機動隊が突入した。午後6時21分、連合赤軍の最後の5人が逮捕されて、人質は無事に救助された。犯人は以下の5人であった。


       坂口弘  25歳
       坂東国男 25歳
       吉野雅邦 23歳
       加藤次郎 19歳
       加藤三郎 16歳


 この日のあさま山荘攻防戦はテレビで実況放映され、視聴率は98.2%という驚異的な水準に達した。

 それはまさに、映画「明日に向って撃て」の日本版であった。TVに映しだされる犯人たちに、国民の多くはポール・ニューマンやロバート・レッドフォードを重ね合わせて見ていた。そこには分からないけれど、「明日」に向っての何かがあるのではないか? でもそこには「明日の世界」など、なにもなかった!

 その後になって、山岳アジトにおける信じられない惨劇が明らかになってきた。そして赤軍派に対する国民のなにがしかの同情や共感は、完全に吹き飛んでしまった。日本国内にける新左翼運動には、その時点からシンパがまったくいなくなった。

 連合赤軍事件は、日本国民にそれほど大きな衝撃を与える事件となった。
http://www.araki-labo.jp/samayoe016.htm

116. 中川隆[-11382] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:49:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[618] 報告

日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。


____

6.日本赤軍の事件

 昭和44(1969)年11月、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を展開しようとしていた赤軍派は、大量検挙によって潰滅状態に陥った。

 この勢力が衰えた赤軍派を、海外の軍事的反体制勢力と提携して組織を再建するため、重信房子と奥平剛士は昭和46(1971)年2月、偽装結婚してパレスチナ入りした。そしてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で、海外赤軍派をつくった。海外赤軍派は、当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降、日本赤軍を名乗るようになった。

 1972年春、日本では連合赤軍の大量リンチ殺人事件が明るみに出て、極左武装集団に対する国民の支持は完全に失われた。そしてその頃、北朝鮮では金日成が、日本からハイジャックにより入国してきた赤軍派客人たちの利用法を考えていた。

●テルアビブ空港襲撃事件

 このような状況のもと、海外赤軍派が起死回生の思いで引き起こした事件が、テルアビブ空港襲撃事件である、と私には思われる。その結果は、世界中に大きな衝撃を与え、いろいろな意味においてこの事件は、70年代以降の反体制テロ活動の端緒となる画期になったといえる。 まず事件の経過を簡単に述べる。

 昭和47(1972)年5月30日、海外赤軍派の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエル・テルアビブのロッド国際空港(=現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを自動小銃、手投げ弾などで襲撃して、死者24人を含む100人以上を殺傷した。奥平と安田はそこで射殺され、岡本は逮捕された

 このテロ事件は、いろいろな意味で世界中に大きな衝撃を与えて、日本赤軍の名を世界中に広める事になった。

 その大きな衝撃の理由の一つは、イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

 現在、中東のゲリラで一般的に行なわれるようになった「自爆テロ」という形式の第1号が、この事件である。それはさらに、日本の「特攻隊」に原型があると私は思う。

 しかし何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。

 このことは、国際的な理解からいえば、日本国が意識的に超過激派を海外に輸出したことを、国家自身が認識していることを表明したことになる。

 (そのことは、ハワイ大学の教授・パトリシア・スタイホフの著書「日本赤軍派」(河出書房新社、1991)の中の「日本人の責任意識」に詳述されている。)

 誰もその責任を指摘していないにも拘らず、日本政府は超過激派を海外に輸出した国の責任を、世界中に表明した。

 これは通常の国の政府にとっては理解不能のことであり、そのことが世界中の人々を驚かせた。

 そこで「偉大なる金日成首相」は、早速、北朝鮮に来ている日本赤軍のメンバーに、このフシギな中東の日本赤軍を自国に取り込む事を指示した。


 
●海外の日本赤軍とその事件

 国内の日本赤軍は、連合赤軍事件により壊滅し、1970年代の前半以降、赤軍派の勢力は急速に衰えていくが、海外においては、70-80年代にかけて日本赤軍によるテロ活動はかなり活発化する。その主要なものを図表-3にあげる。


図表-3 日本赤軍などによる海外での主要なテロ活動
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm


年月 事件名 事件の主体 事件の概要

72.5.30 テルアビブ空港襲撃事件 まだ日本赤軍と名乗っていない 日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエルのテルアビブの空港を自動小銃と手榴弾で攻撃、民間人100名以上を殺傷し、岡本公三は逮捕され、残りの2名は自決した事件。このときには、未だ日本赤軍を名乗っていなかった。

73.7.20 日航機ハイジャック・ドバイ空港に着陸 PFLP 丸岡修と4人のPFLPのメンバーが、パリ発・東京行きの日航機をハイジャック。ドバイ、ダマスカスを経由してリビアのベンガジ空港へ向う。ベンガジ空港で乗員・乗客141人を解放後、機体を爆破して投降した。

74.1.31 シンガポール シェル石油襲撃事件 日本赤軍とPFLP 日本赤軍の和光晴生、山田義昭とパレスチナ・ゲリラ2名が、シンガポールのシェル石油の製油所を爆破。乗員を人質にフェリー・ボートを奪取。

74.2.6 クウェート日本大使館占拠事件 PFLP PFLPのゲリラ5人がクウェートの日本大使館を占拠。大使ら16人と引き換えに和光らシンガポールのゲリラを移送させて、合流。のちアデンで投降。

74.9.13 ハーグ事件 日本赤軍 日本赤軍の西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカの大使館を占拠して拘束されたメンバーの解放を要求。フランスは、超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。

75.8.4 クアラルンプール アメリカ大使館占拠事件 日本赤軍 マレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ、スウェーデンの大使館を占拠し、アメリカ総領事を人質にとり、赤軍派などの釈放を要求。日本政府は超法規的措置として日本赤軍西川純、戸平和夫、赤軍派 坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線 佐々木規夫を釈放。赤軍派の坂口弘は釈放を拒否。

77.9.28 日航機ハイジャック、ダッカ事件 日本赤軍 日航機がインド・ボンベイ空港を離陸後にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。超法規的措置と日本赤軍・奥平順三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博、仁平映を釈放。600万ドルの身代金を支払う。

86.5.14 ジャカルタ事件 日本赤軍? アメリカ大使館にロケット弾が発射され、発射元のホテルから城崎勉の指紋が検出された。

86.11.15 三井物産支店長誘拐事件 フィリピン共産党・新人民軍 三井物産支店長がフィリピン共産党の新人民軍に誘拐され、身代金を要求された。1991年に犯人たちは逮捕されたが、そのとき日本赤軍の協力があったことを供述。

87.6.9 ローマ事件 日本赤軍 ベネチアサミットの開催中、ローマのアメリカ、イギリス大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」の名で声明が出された。イタリア公安当局は、日本赤軍の奥平純三の犯行と発表した。

88.4 ナポリ事件 不明 イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ兵など5名が死亡した。日本赤軍はこの犯行を否定している。

●黄昏の「新左翼」

 1960年安保反対の国民運動の中から誕生してきた「新左翼」は、70年代の内ゲバと連合赤軍事件により国民の支持を失った。

 さらに70-80年代に繰り広げられた海外の日本赤軍の事件は、独善的な「世界革命」の視野に立っていたことから国民的支持を得る事は難しく、80年代を通じて「新左翼」の運動は根無し草のような状態に落ち込んでいった。

 このような左翼勢力の後退は、80-90年代におけるソ連を中心にした社会主義体制の崩壊により、さらに決定的なものになった。そしてそれに代わって、西欧、アメリカ、日本などにおいて、新保守主義への歩みが加速していった。
 
 日本では、1960年以降、新右翼、新左翼の流れは時と共に衰退して、保守中道の自民党系の政治勢力のみが、激動する世界の中を生き延びる結果になった。それは明治政府が、自由民権を弾圧し、最後に大逆事件により反政府運動に止めを刺したが、勝ち残った政府側も明治末年には国家破産の状態に突入していたのに似ている。
 
 そこでは政治家、官僚たちの腐敗・堕落が目を蔽うばかりに広がり、戦後に作られてきた教育、福祉をはじめとする社会的システムは、すべて劣化・崩壊の危機にさらされるようになった。

 さらに国家財政にいたっては、政府の誤った国家政策の結果、国民1人あたりの負債が1千万円に達し、1945年の敗戦時よりも悪い状態に落ち込んだ。それは、最早、自力再建は不可能といえる状態にある。

 戦後、作り上げられた議会制民主主義は完全に形骸化して、日本中で支持政党をもたない人々が最大多数を占める状態になってしまった。このような状況で、左右の政治勢力が衰退したことは、国民の将来に対する政治的期待や展望を全く失わせる閉塞的な状況になってきている。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm

117. 中川隆[-11381] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:56:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[619] 報告
標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

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<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

118. 中川隆[-11378] koaQ7Jey 2019年3月19日 12:22:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[624] 報告

マルクス主義者は、政府に歯向かわなければ人々を放っておく以前の君主制や夜警国家とは違って、社会のすべての側面、個々人の内面まですべて支配しようとする。


マルクス主義はなぜ全体主義化するか?
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/marxism-and-totalitarianism


マルクス主義は自由と平等に始まり、支配と抑圧に終わった

共産主義を目指す国家は抑圧的でした。

独裁政権による全体主義化。

民衆虐殺(デモサイド)。

共産主義は理念としてはすばらしいが、理想主義にすぎない、としばしば言われます。

あらゆる抑圧からの解放、人が人を支配することの廃絶。

そんなマルクス主義がなぜ転倒してしまうのか? 

調べてみました。


マルクス主義国家はなぜダメになるのか

The Marxist Paradox: An Anarchist Critique - Anarkismoという記事を見ていきます。著者はWayne Priceというアナーキスト。

原文はWayne氏によるRonald D. Tabor氏の大著「The Tyranny of Theory」への書評。文中に登場する「ロン」氏は彼のことです。

マルクス主義の歴史

マルクス主義の歴史は血塗られています。


共産主義はアナーキズムと同じように、19世紀の民主主義、社会主義、労働階級の解放のため運動に起源を持つ。そのゴールは資本主義、階級、国家、そしてすべての抑圧の終焉である。……

アナーキズムと共産主義はそのゴールが非常に似ています。


しかし結果はどうだったか? マルクス主義の最初の運動は、ヨーロッパやいたるところに社会民主党を生みだした。それらは資本主義を支援し、革命を防止することに終わった。既存の国家を、ブルジョワ民主主義を、西洋帝国主義と戦争を支援した。現在社会民主党は、新しい社会制度を提唱するというすべての偽善を放棄している。

日本でも日本社会党が日露戦争で浮かれて戦争支持に周り、多くの共産主義者がアナーキスト(多くは無政府共産主義)に転向しました。


レーニンやトロツキーは革命的なマルクス主義に回帰するように思われた。彼らの活動は「スターリニズム」に終わった。労働者と農家、そして数千もの共産主義者を殺した、一連の怪物的な、国家資本主義、専制君主である。現在ではこれらは伝統的な資本主義に崩壊している。

共産主義を目指す国家は資本主義国家よりも血塗られた国となることが多い 。


なぜマルクス主義は良く始まり、悪く終わるのか? 疑いなくそこには「客観的力」が存在する……。

では、その客観的力とはなんなのか。

一見完璧に見えるマルクス主義のどこに問題があるのか。

マルクス主義は全体主義である

著者は、元非正統的トロツキスト革命社会主義連盟のリーダーだったロン・テーバーの著書を参照しています。彼はマルクス主義者からさらに左に振れてアナーキストになった人です。


ロンの結論は、「マルクス主義は、今見ると、全体主義のドクトリンであり、マルクス主義者のプログラムを実現するためのあらゆる試みであり、どれだけ良い動機があろうと、権威主義と国家支配を生みだす」というものだ。

マルクス主義は全体主義のドクトリンである。それは国家を社会主義のために用いるというような計画、そしてヘーゲルに基づく哲学に根ざしているとロンは主張します。


全体主義とはやや議論の余地のある言葉だ。ロンが言いたいことは、私が思うに、資本主義システムではナチ・ドイツやスターリン下のロシアのように、国家が一連のイデオロギーとともに一党によって支配されており、社会のすべての側面を支配しようとする場合のことだ。これは政府に歯向かわなければ人々を放っておく以前の君主制や夜警国家とは異なる。

ロンは人々を管理統制するような権力の働きかけを全体主義と表現しているようです。

国家は「自発的に」崩壊しうるか?


マルクスは国家が支配階級に奉仕し、社会のその他を抑圧する本質的に抑圧的な機関であることに同意する。協働的で、自由で平等な社会は国家をことごとく廃絶するだろうと。

国家を抑圧的なものだと考えたマルクスですが、なぜか彼は国家は自発的に「存在を辞める」と考えました。


マルクスは労働者階級とその同盟は国家を、新しい国家の創造を廃止すると考えた。国家は資本家とその支持者を抑圧するだろう。労働者の国家は資本主義によって中央集権化され、安定した経済を奪取する。このことは経済のすべてまたはほとんどを中央集権化されたシステムに国有化する。(中央集権化とは少数が中心部を占め、ほとんどの人は周辺部に位置することを意味する)。ときとともに、中央集権化された国家が「国家」を辞める。それは強制的ではなく、慈悲による、「人々を管理するのではなく、物品を管理する」機関となる(まるで人々を支配せずに管理できるかのように)。


このような計画が、実際の場合は、全体主義を生みだし続ける結果になることは驚くべきことではない。ロンが言うように、もし革命的な政党が新しい国家を建設することにすべてを注ぎ、一方で国家が突然自動的に分解することを期待するならば、その結果は……国家である。

国家は自発的になくなることはありません。


クロポトキンは1910年に警告している。「国家にすべての経済生活の源泉を渡すこと……産業のすべての管理を委ねることは……新しい暴政の装置を生みだすことを意味する。国家資本主義は、官僚と資本主義の権力を増すだけである」

絶対権力を持てばどんな組織でも腐敗します。

プロレタリアート「独裁」


マルクスはコミューンの根本的な民主的構造を共産主義革命の前駆体として指示した。エンゲルスはこのことを「プロレタリアート独裁」と呼んだ。このことはしばしばマルクスのマルクス主義の自由主義的―民主主義的な側面をあらわすものとして引用される。

実は、有名な「プロレタリアート独裁“dictatorship of the proletariat"」という言葉の「独裁」は、現代的な「独裁」を意味してはいなかった。

当時は「議会による/人民による/民主主義による独裁」というような表現は肯定的に用いられた。Hal Draperによれば、マルクスとエンゲルスは同語を12回用いたが、それぞれを調べた結果、「労働者による支配」以上の意味は持たなかったようである。

この「独裁」という言葉が、ほんとうの独裁を正当化してしまったと言える。


実際、エンゲルス以降のマルクス主義者は「プロレタリアート独裁」を抑圧的な意味で解釈した。このことは特にロシア革命以降、真実であった。そこではこの言葉が、ボルシェヴィキの警察国家の正当化するものとなった。

聖書や憲法が権力者に都合の良いように解釈されるのと構造的には同じですね。

中央集権化と労働者の支配?

マルクスは独裁を認めたわけではなかった。しかし、「中央集権化された労働者の政府」というよくわからない概念を前提とした。


単一政党の独裁ではないとしても、マルクスは中央集権国家を提唱した。ロンが言うように、「中央集権化された国家が直接的民主主義的に労働者階級によって運営される……これは矛盾しているし、達成は不可能である」

自明の論理です。

理想は現実に先立つ――唯物論的歴史観

マルクスは共産主義革命の「可能性」を示唆したのではない。「必然的に」「不可避的に」起きるのであって、人類はその変革を避けられないと考えた。その根底にはヘーゲル弁証法がある。

「未来の歴史は不可避的に決定している」というイデアリズムは危険である。その理想のもとにはいかなる暴虐も許容されることになる。未来のために現代を犠牲にすることが強いられる。あらゆる抑圧が共産主義化という運命のうちに内包され、正当化されるからである。

イデオロギーが先行するとろくなことにならないのはいつの時代も同じであって、「八紘一宇」という理念のもとに動いた日本も同じ。

もっとも、「時代を方向づける」ことも重要だと著者は言う。


(マルクスの唯物論的歴史観は危険という見方もあるが)、すべては偶然によって起きるとか、理由がないとか、予測できないと考えることもまた危険である。歴史には方向性がないのだから、すべてが起こりうる。これはリベラルの考え方の基本である。何度も何度も、資本家秋級はその権力を強制されることなく放棄しないことが示されている。しかしリベラルは、まるで歴史は無意味かのように行動している。彼らはこう考える。今回こそ、資本家たちは人民の幸福のために彼らの利益を手放すだろう、と!

歴史的必然はありえないが、歴史から学び、歴史を変えようとする働きかけは重要だと著者は言う。まあ、当然のことである。

終わりに しかしマルクス主義は重要である

マルクスの主張はたしかに権威主義や全体主義傾向を内包している。共産主義を目指した国家が独裁主義に転落したのは、むしろ必然だったとも思える。

しかし、マルクスの思想はそれだけではない。


マルクスの働きには違う側面もある。……彼は国家を放棄すべき、抑圧的な階級装置であることに同意した。彼は狭量な独裁政権ではなく、民主的な労働階級の支配を信じていた。


アナーキズムとマルクス主義のもっとも重要な共通点は、労働者の階級闘争と、虐げられた労働者たちの潜在的な同盟の重要さを信じることである。これらの人々が世界を救う革命を起こすことのできる人々である。資本主義が経済崩壊や環境的大災害、核戦争を起こす前に革命が起きることは不可避なことではない。しかし、マルクスは資本主義のまさにそういった方向性のなかで、そういった諸力が起きることを実証した。私たちは間に合うだろうか? それはわからない。大事なのは絶対的知識ではなく、コミットメントにあるのである。

あらゆる思想は時代に支配される

ヨーロッパ人はキリスト教を2000年間信じてきました。しかし、現代ではキリスト教を本気で信じる人はむしろ稀になった。

だからといって、キリスト教の教えが間違っているわけではありません。間違っているところはあるが、そこから学べることは多い。

マルクス主義についても同様です。私たちはそのなかから優れたものを取りだせばよいだけ。

その結果がいくら陰惨なものであっても、マルクスが求めたのはたしかに自由や平等、抑圧のない社会でした。

思想は理想化すべきではなく、またいたずらに拒絶すべきでもないといえます。
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/marxism-and-totalitarianism

119. 中川隆[-11377] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:00:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[625] 報告
60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)

アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。

背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

120. 中川隆[-11375] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:09:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[627] 報告

60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2


アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3


▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。
 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。
2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。
3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。
4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

121. 中川隆[-11337] koaQ7Jey 2019年3月20日 19:14:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[668] 報告

権力闘争 【分断して統治せよ】
http://ronri2.web.fc2.com/game05.html


分断統治とは、支配階層が世の中を統治し易くするため、支配される側の結束を分断して、反乱を未然に防ぐための統治法です。

支配される側を一級市民と二級市民に分けて、扱いに差をつけます。すると生活に不満があっても、一級市民は二級市民を見下すことで不満のはけ口にします。「自分はまだあいつらよりもマシだ」。とうぜん、二級市民は一級市民を敵視するようになります。支配される側の人々は仲たがいをし、小さな利害でも対立するようになるのです。

支配される側の人々は互いに争うので、支配階層に対する批判の矛先を逸らすことができるのです。分断統治は、人々が持つ差別意識や優越意識を利用しています。

たとえば、江戸時代の身分制度も分断統治といえます。身分制度とは、出身などにより生まれつき身分が固定されている制度のことで、江戸時代には士・農・工・商という身分制度がありました。支配階層である武士階級の下に、被支配階層の商人・職人・農民という序列が存在しました。

しかし、農民の下にもっと身分の低いえた・ひにん(部落)という賎民階級が存在していました。賎民(せんみん)とは、ふつうの民衆よりも下位に置かれた身分を指す言葉です。教育用の資料から引用してみましょう。

(『江戸時代後半の民衆の不満をそらす差別強化 別の身分から下の身分へ(PDF)』より引用。)

江戸時代中頃から、幕府や藩は一揆や打ちこわしの増加に対して、えた身分やひにん身分への差別を強めることで、不満をそらしたり、農民と対立させたりした。そうした中で、世代を経るにつれ、えた身分やひにん身分を百姓・町人より下に見る差別意識が強くなっていった。それに対して渋染一揆のように立ち上がった人もあった。

部落の民は、藩から差別的な制限を強制されており、例えば、水害の危険性の高い河原などの決められた場所にしか住むことを許されませんでした。また農民や町人との交際も禁止、職業や服装も制限されていたため、姿を見ただけで部落民だと判別できるようになっていました。さらに、部落の身分は法律により親子代々に受け継がされました。江戸幕府は身分制度をうまく利用して、武士による厳しい支配への不満を逸らし、民衆の結束を阻止したのです。

ではなぜ、民衆はこうも容易く分断されて、下を見て生きていくのか、そのヒントが


自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか – 2000/9/1
クリストフ アンドレ (著), フランソワ ルロール (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4314008776?ie=UTF8&tag=dayswingtrade-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4314008776


という本に載っています。「自己評価」とは、自信のようなもので、自分自身に対する評価のことです。

【自己評価と人種差別】

心理学の実験で、被験者になってくれた人たちにわざと難しい仕事をさせて失敗させたり、自分の死のことを考えさせて自己評価を下げさせてやると、そうされた人々は他人の悪口を言うか、そうでなければ犯罪に厳しくなったり、自分の文化とはちがう文化からの攻勢に不寛容になる(11)。たとえば、このような方法で自己評価を下げられたアメリカの市民たちは、自分の国の悪口を言う人間に対して厳しい判断を下す傾向にあった。また、別の実験を見ても、自己評価を下げられた人間は容易に人種差別的な偏見を口にするようになるという結果が報告されている。

もちろん、人種差別の原因は、自己評価が低いことばかりではないだろう。だが、自己評価が下がっている人間にほんの少しイデオロギーが手を貸してやれば、簡単に差別的な行為をするようになるはずである。

11.J.Greenberg et al.,>,Journal of Personality and sociar Psychology,1992,63,p.212-220
(「自己評価の心理学 」より引用。)

社会的な階級が低い人ほど一般的に自己評価も低いと思いますので、まさしく統治者が恐れている層ほど、下を見て生きる習慣があるということになります。たとえば、ホームレスを襲撃する少年たちも自己評価が著しく低いと考えられます。犯人の少年たちは同世代に比べて社会的に低い位置にいると思いますが、彼らをそうさせたのはホームレスではありません。しかし、少年たちはホームレスを見下して、正義の名の下に襲撃しようとします。

これの応用に、外交問題をクローズアップして民衆の目を内政から外交へ向けさせる統治法があります。内政に対する民衆の批判が強くなってくると、仮想敵国を演出して国の外側に攻撃の矛先向けさせるやり方です。

ほかに分断統治の手法の一つに賞を使った統治があります。

『分裂勘違い君劇場』
https://www.furomuda.com/

というブログにわかりやすい記事が載っているので引用します。


世界史を勉強すれば、この「抜け駆け」こそが、搾取と隷属を作り出してきたことがよく分かります。とくに、「抜け駆け」を利用した間接統治は、白人が有色人種を支配し搾取する時の常套手段です。

ラテンアメリカでも、アフリカでも、まず、現地の有色人種のうち、抜け駆けして白人に媚びを売った有色人種に特権的な地位を与えます。そして、その特権的な有色人種に、他の有色人種を支配させるのです。

そして、支配される有色人種には、「抜け駆け」して白人政権のために働けば、オマエも特権的な地位に就けてやるぞ、とささやくのです。

全文は

『分裂勘違い君劇場 プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです』
https://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060


権力者に逆らわない者、命令をよく聞く者を一級市民に昇格させてやり、反抗するものは二級市民の身分とする。一級市民には賞を与える、というわけですね。

・分断統治は小さな集団の中でも効力を発揮します。スタンフォード大学がある実験を行いました。刑務所を模した実験施設に囚人役と看守役の被験者を入れて、その動向を観察する実験です。この実験のなかで、看守役は賞と罰を巧みに利用して囚人役の結束を分断したのです。ほかのサイトから記事を引用します。

二日目、早くも事件が発生した。囚人らは監獄内で看守に対して些細なことで苛立ちはじめ、やがて暴動を起こしたのである。

看守らはこの事態を重く見、補強人員を呼んで、問題解決にあたった。しかし暴動は一向に収まらず、最後には囚人に向けて消火器を発射して怯ませ、その隙に監獄内に突入、全員を裸にした上で、暴動を主導した人物らを独房へと送ったのである

更に看守らは今後の暴動を抑止するために心理的攪乱(かくらん)作戦を開始した。まず暴動に関与していない囚人のグループを”良い”監房へ収容して彼等を丁重に扱い、そして関与した囚人のグループを”悪い”監房へと送り、過酷な扱いを行うことにしたのである。そして半日程が経過すると、今度は一部の囚人を、理由を教えずにそれぞれ交代させ、囚人らを混乱に陥れた。

つまりこの交代によって悪い監房に残された囚人らは、良い監房に移動した囚人が看守に何らかの密告を行い、その褒美で良い監房へと格上げされたのではないかと推測したのだ。

そしてこの巧妙な看守側の作戦は見事に功を奏し、たった二日目にして、看守と囚人の間のみならず、囚人内部でさえ、対立が発生した。

また途中から入獄したある被験者(彼は途中まで予備の囚人として待機していた)は、看守の態度を知るなりすぐにハンガーストライキ(絶食などによる抗議行動)を行ったが、逆に罰として真っ暗な独房へと押し込められ、数時間をそこで過ごすことを強要された。そして看守らは他の囚人らに対して、彼を独房から出す交換条件として毛布を渡すこと、より粗末な囚人服に着替えることなどを要求したが、囚人らはそれを拒否し、結果、更なる囚人間の対立を生んだ。

全文は

『情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは』
https://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060


分断統治には内集団バイアスが関係していると考えられます。これは自分の所属する集団が他の集団よりも優れていると錯覚する現象です。リンク先で詳しく解説しているので、よろしければご覧ください。

【まとめ】

支配者チームが勝利するためには、いかに民衆チームの結束を分断するかがカギになります。民衆チームが数で勝っているときに団結されると逆襲される恐れがあるためです。逆に、民衆チームが勝利するためには、いかに分断統治を見破って団結するかがカギになります。

★分断統治は、学校や家庭で、子供を管理する方法として使われることもありますが、そのように育てられた子供は民主的なコミュニケーションを覚える機会を失ってしまうので、権力闘争でしか物事を判断できなくなります。

http://ronri2.web.fc2.com/game05.html


5. 中川隆[-11341] koaQ7Jey 2019年3月20日 18:40:23: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[664] 報告
▲△▽▼

日本に浸透してくるアングロサクソンの支配情念 2015年5月18日
http://www.news-pj.net/news/21035


資本主義と共産主義は、かって相反するもののように考えられていた。

前者は自由を、後者は平等を、それぞれ表看板の理念として掲げていた。

平等を表看板にかかげたソ連の共産主義国家はスターリンの独裁国家となり、やがて崩壊していった。

冷戦はおわった。

一方の対立軸を失った状況のなかで、現在は「自由」を表看板に掲げて、新自由主義と称する金融資本主義が、コンピュータの技術に援護されながら、国境と各国の伝統に貪着無く、大手をふって世界の政治と経済を支配しているようだ。

***

しかし、現状をみると両者は元々コインの両面である。

コインの表が自由の観念にもとづく金融資本主義で、裏が平等の観念にもとづく支配情念としての共産主義である。

その支配のイデオロギーに潜むのは、いわゆる「分断統治 (divide and rule)」である。

非支配の国民や民族を単に分断するのだけではなく、相互に対立させ誤解させ敵対関係にさせる戦略である。

対立するそれぞれの組織においても、さらに支配と非支配の構造を作り上げるのが、政治戦略としての分断統治の基本構造である。

***

分断統治の巧妙な戦略は、組織の末端においても戦術的に機能する。

大英帝国領のビルマ(現ミャンマー)に警察官として勤務していた G.オーウェルのエッセイに「絞首刑 ( A Hanging(1946) 」がある。

絞首刑を執行される犯罪者はヒンズー教徒のインド人、彼が収容されている刑務所の看守たちもインド人、看守の長はドラヴィダ系インド人、死刑囚の首に縄をかけて落下のレバーをひく者は刑務所の囚人で、ビルマ人の判事が立ち会っている。

死刑囚の落下後に刑務所長(オーウェルはあえて記述していないが大英帝国のイギリス人役人)があらわれ、わずかに揺れてぶら下がっている死体をステッキで突いて、「完全に死んでいるな ( He’s all right )」とつぶやいてから、腕時計を見ながら「やれやれ、これで今朝の仕事は完了だ ( Well, that’s all for this morning, thank God.)」という。

処刑後、 ヨーロッパ人との混血の若い看守は、即死しなかった囚人の脚を引っ張って死亡を確認した話をする。刑務所長は耳を傾ける。

さらに、その若い看守は、「でも、反抗する囚人は、もっと悪いですよ。」と、六人掛かりで独房から引きだすのに手間取った囚人の話をつづける。

若い看守「おまえが俺たちに引き起こしている手間ひまを考えてくれよ、といったが、もちろん聞き分けてくれませんでしたが。彼はほんとにやっかいだった」と、芝居がかった媚びた冗談を刑務所長にいう。

ビルマ人の判事は、突然笑い出す。周りの者たちもみんな同調して刑務所長を囲んで笑いだす。 オーウェルも笑った。

刑務所長は鷹揚な態度でにんまり笑い、愛想良く関係者らにウィスキーの提供を申し出る。

「われわれは、みんな一緒になごやかに一杯やった、現地人も欧州人もだ。死体は100ヤード先にあった。」でエッセイは終る。

***

同様の状況において、旧日本陸軍が中国で現地人を処刑をした場合、どうしていただろうか。

アングロアメリカンの米国もアングロサクソンの支配の構図は受けついでいるだろうが、大英帝国の役人ほどの熟達した対応を囚人たちにはしないだろう。

***

オーウェルの父親は、大英帝国のインドに駐在してアヘン局に勤務していた。

今日アヘンといえば麻薬であり、犯罪にかかわる危険物質であるが、アヘン局は、アヘンの栽培の管理をおこなう部局であり、それを中国に売りつけていた。

インドー中国ーイギリスの三国間で、インドの麻薬を原資として綿製品と茶が回転する魔の三角貿易である。イギリスはインド人には製品を作らせず綿製品をインドに売りつけ、アヘンと綿花を中国人に売りつけ、その金で茶を買い付けていた。

当時は、国家的な規模の麻薬貿易が国際的非難も受けずにまかり通っていたのである。

***

表現の自由に寛大なイギリス人であり、女王陛下の戯画を描いても問題にならない英国であるが、アヘンの話題だけはタブーに近いようだ。

権力や偽善に対して呵責なく批判するオーウェルであるが、ことアヘン( opium )に関してだけは彼の著作を調べてもどこにも言及が見当たらない。

今日のイギリス知識人の間でも、これだけはタブーのようである。(後藤春美『アヘンとイギリス帝国――国際規制の高まり1906〜43』参照)

ここに西欧人のいう「歴史認識」については、ある種の深い欺瞞があるだろう。

***

1993年、S.P.ハンチントンは「The Clash of Civilizations」を『外交問題』誌に発表した。

これに対してG. ピッコ氏が鋭く批判を加えた。

冷戦が終わって世界は平和を望むべきであるが、米国は「新たな敵が必要だった」と指摘している(・・・The Soviet Union was no more; civil war had erupted in the Balkans, the Caucasus region and Africa. There was a need for a new enemy. His theory was the first of many to offer one.・・・ (Giandomenico Picco: ’A dialogue of civilizations’; Special to Japan Times ;10/10/1998)。

結果的に、ハンチントンの論文は現代おこなわれている中東の混乱の枠組みを提示してしまっている。

彼は、分断統治派に格好の戦闘舞台の設計図を提供してしまった。

2004年にハンチントンは遺作となる「我々とはだれか――アメリカ国家のアイデンティティ」を発表して、合衆国がラテン系グループと非ラテン系の二つのグループ、二つの文化、二つの言語に分断されることに警告している。

しかし、「アメリカ国家のアイデンティティ」に危機感をいだいたハンチントンは、アングロアメリカンの底深い支配情念にとっては、いまだ善良なるアメリカンのようだ。

「アングロサクソン」の支配情念には「連合王国」という実体的伝統のある本拠地があるが、「アングロアメリカン」へと肥大化したグローバリズムの支配情念は、あたかもアメリカ政府さえも利用機関とみなしているように思えるからだ。

「アングロアメリカン」の支配情念には、国民的アイデンティティや民族的な伝統は支配の障害である。

アングロアメリカン的支配情念にとっては、「資本主義と共産主義」は結局、支配力というコインの両面に過ぎない。

なぜなら本家アングロサクソンの分断統治には、その内部に二重思考が隠されているからだ。

***

『マクベス』の最初に三人の魔女たちが歌う――Fair is foul, foul is fair (公正は邪悪、きれいはきたない、快適は不快、などなど、 なんとも多義的な表現で訳しようがない)

シェークスピアの全作品のなかで「マクベス」をもっとも評価するオーウェルは、彼の『1984年』で、魔女たちの言葉を転用する。

戦争は平和 自由は隷属 無知は力(war is peace;freedom is slavery; ignorance is strength)

つまり被支配者の言語内に二重思考を埋め込むのが言語支配の戦略であり、これが様々な行動とシンボルの使用にもかかわってくる。

この二重思考は、極度に抽象化された言語操作であるから、一般の人々は、実感をもって理解できにくい。

しかし、その抽象化された意図は知られることがなくても、具体的な行動で現実世界に影響をあたえことができる。

来客を迎えるにこやかなホストの笑顔は、獲物を得る前の隠された喜びである場合がある。

西欧人の、特に知識人における人生のゲーム化は、彼らの生活の様々な場面で観察できることであり、ゲームとはプレーであるが、同時に獲物をも意味する。

アングロサクソン的支配情念とは、結局のところ、戦略的言語操作に帰着する。

世界史を動かしているのは、言葉、言葉、言葉だ。

***

「カオス理論 (「Chaos Theory and Strategic Thought」)」という戦略理論を最近知った。

1992年にアメリカの戦略家 Steven R. Mann が発表した論文である。

これに対して批判的な指摘がある――「最近の出来事は完全に米国によって発明された「管理化された混乱 (manageable chaos) 」に合致している。それを創作した者たちに、Z. ブレジンスキー、G.シャープ、S. マンがいる。

S. マンは、「カオス理論と戦略思想」を著し、彼自身はかってのソ連の一部の共和国における「カラー革命」の陰謀に関わっている。


「管理化された混乱」理論の主要な原則は――


1 現体制に反対する様々なグループを合体させる

2 一国の指導者たちに、自分自身と軍隊の忠誠に対する自信を徐々に減退させる

3 攻撃的な反対者たちと犯罪者らを援助して、現状を不安定化される


などである。

特に、2)はターゲットにされた指導者に対する心理的攻勢である。

これはロシア側の一部の論評であるから、この指摘の妥当性については、各識者の見解に委ねる。

しかし、スターリンの共産主義と決別したロシアは、いまだに西欧において信用がないが、かってマルクス共産主義に多くのイギリス知識人たちは賛同していたのではないか。

***

本日、朝日新聞(5月14日)の夕刊の一面をながめていた。「安保11法案 今夕閣議決定」の大見出し。

紙面の左側には、「南シナ海 中国、数年後に滑走路」の記事。

両方の見出しを交互にながめていると、なんだか「安保11法案」を肯定したくなるような気分になってきた。

紙面の中央には横書きで「銀座・官邸前で抗議の声」があるが、その「声」がかすんでいる。

他の読者はどうだろうか。

自分も、すでに二重思考の言語操作に溶け込まされているのか。

安倍政権には、日本の伝統の本質と国益について、そして世界史的観点からアングロサクソン、アングロアメリカンの支配情念について、今一度深い歴史的洞察をおこなっていただきたいと願う者である。

もちろん、この支配情念は、一般のイギリス国民やアメリカ国民の国民性とは別個のものである。
http://www.news-pj.net/news/21035

122. 中川隆[-11336] koaQ7Jey 2019年3月20日 19:24:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[669] 報告
分断統治・分割統治
人々を地域・民族・宗教・身分などで分断・対立させ支配する統治方法
Divide-and-conquer, 2016.5.13, 2018.9.7,
http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html

分割統治の歴史

 分割統治ともいいますが、他国や他勢力の地域や組織を支配するときに、内部対立を誘発し、支配しやすいいずれかの勢力を支援することで、その地域や組織の全体を支配するという支配方法です。

 歴史的には、ローマ帝国が支配下の都市同士の間に格差を設け、人々の不満を都市同士に向かわせることで、征服した都市同士が連携して反乱することを抑えることに成功した、というあたりが起源のようです。

 19世紀中盤から20世紀中盤まで約90年に渡り、イギリスがインドを支配していましたが、このときも分断統治が使われました。このときはイスラム教とヒンズー教の対立が支配に利用されました。

 イギリスのインド支配以降、分断統治は様々な国家や組織の支配に積極的に利用されるようになり、それが現在まで続いています。

 分断統治は、現在でもテロ・紛争などの宗教や民族対立、また、格差社会という国家内部構造を不満のはけぐちにすることで、国民を支配しやすくするという方法に利用されています。しかしながら、現在では、格差社会は政治の失策という認識が広がっており、人々の不満が政府に向かうことを防ぐことは難しくなってきています。

 人々は政治によって格差社会を是正できると考えるようになってきていますので、実際に格差社会を改善できる可能性は日増しに高まっていると言えるでしょう。2016.5.13


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

分断や分割、両建の例
 あれもこれも対立誘発作戦だった

 一見すると分からないようになっていますが、分断して対立させコントロールして支配しようという戦略に使われている対立を挙げてみます。私たち一般人や組織同士の対立を誘発する印象操作が疑われる分断は思いのほか多いです。マスコミ報道レベルでは私たちの関心や悪意・善意などを誘導する報道が多くなっています。

ハラスメント・イジメ問題 … 暗黙の分断工作
セクハラ問題 … 暗黙の男女対立
パワハラ問題 … 暗黙の上司部下の対立
他国のイメージダウン報道 … 国家対立
オリンピック … 愛国心の強化 国家対立へ誘導 そもそも国別対抗戦にする必要はない
犯罪報道 … ごく少数の犯罪者と市民の分断 防犯利権のための危険偽装
学歴社会 … 学歴という隠された身分による市民分断
市民監視政策 … 共謀罪・通信傍受法などで監視・被監視という基準で市民を分断
マスコミ報道全般 … 利益誘導のための印象操作が目的 無から利益や必要性という有を生み出す大衆洗脳 対立構造の悪用が多い
右翼左翼 … 保守・革新の政治機能が機能しているという偽装
与党野党 … 左右翼より具体的な政治機能偽装
在日批判 … 日本人・朝鮮人対立
自国や自民族の美化 … 他国や他民族と優劣をつける分断
イスラエルとアメリカのシリア攻撃 … 国家対立・戦争などの誘発
アメリカ・ロシア … 二大軍事国家の対立 軍事危機の偽装 軍需利権の維持拡大
イギリス・フランス … 表世界の支配の実行犯の対立
ユダヤ人批判 … ユダヤ・非ユダヤ人対立
民族批判 … 社会や国家よりも多くの人たちをまとめて対立へ誘導
南北朝勢力 … 日本の分断支配 イエズス会系とメーソン系の分断説も
イエズス会・イルミナティ … 秘密結社対立
陰謀論 … 庶民と富裕層の対立 富裕層は超富裕層の身代わりの悪者役
血統支配 … 限られた血族にだけ富や権力を与え支配者層と市民を分断


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

民族・国家・大勢力などの広範囲分割と組織内の上下関係を強める小規模分割

 タイトル名とサブタイトル名でほぼすべて説明してしまいましたが、分割統治には大規模な横割りパターンと小規模な縦割りパターンがあります。

 縦割り分割では上下の立場が違う人たちの間では争いが起こりにくいので対立を偽装する分割統治感は弱いので一般的には分割統治には含まれていませんが、支配のために分割していることはたしかですから、分割統治に含めても問題ないだろうとこのサイトでは考えています。

 実際に支配層は縦割り分割も好んで使っていて、イルミナティなどは33階層とも99階層とも言われる細かい階層に分割して支配されています。

 さらに大規模と小規模の間の中規模な分割統治としては、経済格差で序受け関係を作る社会階層や、政治家・軍人・警察官・市民といった職業毎に権力や実力で上下関係を作るというやり方もあります。社会階層や職業毎に生まれる上下関係は自然発生した部分もあるでしょうが、これも支配層が好んで分割統治に使っています。

 少数の特定の民族や部落、血族などをエリートとして特別扱いする代わりに従わせ、さらにそれらの人々を使って一般の人たちを間接支配するというのが分割統治のやり方です。これを社会階層や職業に応用して、一部の階層や職業に過度な特権を与えエリート化し一般人の支配するという支配方法になっています。

 このサイトが追っている集団ストーカー問題でも、同じ仲間だったはずの日本人を加害者・加害協力者・被害者などに立場を分割することで支配しようとしています。

 分割統治や支配層戦略の全体は牧畜がモデルになっています。羊飼いが羊を飼うために番犬を飼って、若いリーダー羊を何頭か残してそれ以外の羊を去勢して管理するような牧畜と同じパターンが私たちの人間の支配に悪用されています。

 支配者と支配される一般人というのは支配や管理のために意図的に作られた強者と弱者であるとも言えます。

 それぞれ分割された勢力は表向きは争ったりけん制しあったりしているように見えます。しかし、分割統治の本質はグループの頂点だけを支配層などの権力ネットワークで支配することで、末端の人たちを権力で従わせる点にあります。

 そのため分割統治の仕掛け人たちは本当はあまり争うことはないとみられています。主に争っている、あるいはそう見えるのは仕掛け人が使っている作業員や一般人である私たちなのです。

 秘密ネットワークを使って隠れて談合し、争わずに楽に支配し富や権力を得るというのが分割統治や支配層戦略のやり方です。2018.5.25


分割統治の目的

 分割統治の目的を簡単にまとめると次のようになります。


対立による社会混乱
 人種・民族・宗教・その他の勢力を対立させ、争わせることで社会を混乱させる。


真犯人の隠蔽
 偽の犯人勢力をあえて作っておくことで、真犯人、真の首謀者勢力の隠蔽を行い、人々の批判の矛先を変える。


反対勢力への監視と統制の強化
 人種や民族、地域などで人々を分断し、互いに争わせることで、互いの監視や各勢力の権力バランスのコントロールを行う。助力がないと活躍できないような小勢力に助力しつつ借金などで支配することで、全体を支配させ利益を得る。2017.5.29, 2018.1.21


選択肢の制限
 政治の左右翼など意図的に分断された、あるいは対立が偽装された勢力が出す意見のどれを選んでも支配層が得をする、あるいはあまり不利益にならないよう選挙などでの人々の選択肢を制限する。2017.5.29, 2018.5.26


社会的なルール変更
 各勢力を争わせた後は、その反省として支配層に都合のよい新たルール作成やルール変更を行い、さらなる利益の拡大を行う。


まとめ
 社会的な混乱は、社会全体のモラルを低下させ支配層である、多国籍型の秘密エリートネットワーク(*1)の得意な詐欺・洗脳犯罪の成功率を高める土壌となります。モラルの低い社会のほうが詐欺洗脳犯罪を行う上での協力者も作りやすくなります。また分断された各勢力は互いに監視し合いますので、エリートネットワークが支援し、利用している勢力やそれに敵対する勢力の情報も手に入れやすくなります。反対勢力だからといってつぶしてしまうよりも残しておいたほうが、友好勢力への監視に使えるというのが支配層戦略です。情報を管理しつつ各勢力へのコントロールを強化し詐欺洗脳犯罪を永続するという戦略です。2017.5.29, 2018.1.21


両建戦略の目的

争いの発生と解決による利権の創造

 両建戦略とは二つの勢力を作り、争い事を起こしたり解決させたりして利権を拡大する支配層戦略(*2)のことです。陰に隠れて他人を動かすことで利益を得るシオニストネットワーク(*1)お得意のフィクサー型支配戦術です。両建戦略と分断統治(戦略)は似ていますが、色々ある分断統治の方法のうちのひとつが両建戦略です。

 両建戦略が行われる理由は、本質的には争い事を意図的に引き起こすこと自体が目的となっています。人は一般的に喧嘩や争い事を起こすものではありますが、自然状態では互いを強く傷付け合うような過剰な争い事は起こさないものです。戦争が代表的な例ですが、特に大きな争い事というものはわざと起こるように仕向けないことには、なかなか起こりません。人間同士は大きなくくりでみれば同属であり仲間ですから自然状態では無闇に殺しあうようなことはしないように出来ているのです。

 それではあまり儲からないので、争い事を意図的に引き起こす、というのがシオニストネットワークの戦略です。社会を混乱させ争いを起こし、そこで利益を得て、争いが終わると自分たちの都合のよいようにルールを変更するというのが、長年行われてきた彼らの詐欺支配戦略です。


両建戦略は継続型分断統治

 分断統治では2大勢力を作り争わせるという方法がよく使われています。歴史的にみればイギリスとフランスが何百年もその2大勢力を演じています。政治の与党と野党なども両建戦略のひとつと見ることが出来ます。その時々の支配層の都合で、利益が出る場合は協力させ、利益に反するときは争わせるということが日本でも何十年も繰り返されています。

 今の社会で起きている出来事、特に政治的な出来事の多くはヘーゲル弁証法の正反合の発展思想に基づいて仕組まれた争い事であって、大きな事件の多くが意図的に起こされた争いだったとみられてます。

 私たちは政府やマスコミが流す情報によって世界が動いているように思わされていますが、実際には結果の決まったお芝居を見させられているような状態にあります。何十年も前にケネディ大統領が“すべてのニュースには流す目的がある”といったことを言っていますが、あの言葉は今も真実を示しています。

 補足しておくと、現在ではマスコミの発信出来る情報量自体が増えてしまっているので、あまり意味のない情報、つまり支配層からするとうまく大衆誘導出来ていないようなニュースも増えているようです。2018.1.21


日本と特亜の分割統治

 大局的にみると、日本の嫌韓思想誘導や韓国の反日教育なども、英米超富裕層などによる日韓支配のための不和や対立構造の意図的な構築であろうことが疑われます。

 日韓はともに海を隔てた外国同士ですから、嫌いになる理由も、好きになるきっかけも、もともとの自然状態ではそれほど存在しません。日韓友好は国益を見込んだ日韓両政府の意向であり、日韓対立はそれを拒む勢力の思惑とみるべきでしょう。

 日中友好に関してもアメリカは以前から強く反発しており、親中政策を打ち出した政治家、田中角栄や小沢一郎などは、政治的失策というよりも、強引な妨害工作によって失脚させられたとみられています。2016.5.13, 2016.5.24

 これに対して米中は友好関係を深めて国益を拡大していますので、直接的にはアメリカ勢力が主導する、日本と特亜(中・韓・北朝鮮)との分断政策が、現在も行われていることが予想されます。2016.5.13

 日本と特亜の不和は、アメリカの都合で、アメリカ主導で行われているマクロ的な分断統治とみられており、日本国民が忌み嫌う核兵器の実験を何度も北朝鮮に行わせている理由もここにあるとみてよいでしょう。

 日本と特亜の友好関係が築かれた後は、ロシアとの関係も改善されることになるでしょう。日本が中東から輸入している石油は、タンカーで運ぶだけでも燃料費が2千万円などと莫大な費用がかかり効率が悪いのですが、ロシアと北海道の間に海底石油パイプラインを通してしまえば、輸送コストは劇的に下がり、エネルギー問題も一気に改善に向かいます。

 ロシアは世界一の石油産出国ですから、価格の交渉もしやすく、安定した供給も見込めます。また、ヨーロッパ諸国の石油の多くもロシアが供給しています。

 ちなみにISISテロが攻撃している地域も石油パイプラインが通っている地域ですので、石油利権をめぐる水面下での様々な戦いが存在することが予想されます。2016.5.13, 2016.5.24

日本の領土問題はすべて分断統治工作、逆に共有化で解決可能

 分断統治の分かりやすい例が領土問題です。北方領土はロシア、尖閣諸島は中国、竹島は韓国、それぞれ日本との間に領土問題という外交問題を発生させ、互いに争わせるという100年の計が実行されています。

 中韓は国策として政府が反日思想誘導を行い、政治に利用していますので、しばらく解決は難しいでしょう。しかし、ロシアであれば、特に反日という訳でもありませんので、比較的解決しやすいでしょう。

 領土問題で問題となっている島は、島自体はどれも大した価値のない島や岩ですので、つまらない紛争のきっかけとして残すよりも、早く分割なり、買取などして決着をつけてしまうほうがよいでしょう。

 理想的な解決策としては、所有権紛争地域(?)は両国共有の自由貿易地域などにすれば、平和的な解決が可能で、さらに両国のさらなる発展も見込めるでしょう。

 レジャー施設を充実させていけば、領土問題解決の成功例として、歴史に輝かしい名を残すことも夢ではありません。日本だけでなく世界の紛争地域も共有地化してしまい、税収や資源などの利益を公平に分配すれば健全な運営も可能となることでしょう。

 インターネットで人々がつながってしまった現在の世界で、その土地がどの国の名義であるかといった問題は、ささいな問題のようにみえます。2016.5.30


< 追伸 2016年10月18日 >

 日本とロシアの領土問題、北方領土問題への解決策として、共有方式の共同統治案が検討されていることが、日経新聞の記事となっていました。

 共同統治案は菅官房長官が否定しているように、現在の日本の政治方針では、表向きは否定されています。政府としては2島返還という2島の譲渡を求める方針で話を進めたいようです。2016.10.18


< 関連 >
新領土問題 日本の土地がイギリスに取られていた
 天皇陛下が危ない! 皇居のとなりのイギリス大使館はイギリスの土地に建っている


コラム : 分断統治は個人でも使えるがリスクが高い詐欺術

 余談ですが、分割統治・分断統治・対立工作などは、ここであげた大きな勢力同士でなくても使うことができます。最少人数はたったの2人です。上司が2人の部下に、それぞれ異なる情報を与えることで対立させ、自分に有利な方向へ事態を変化させるような使い方ができます。

 たとえば、お互いに対して、別の人はもっと頑張っているとか、影であなたの悪口を言っていたとか伝えることで対立させる、自分に有利な状況を作り出すことができます。これは姑が嫁たちに対して使っているというのがフジテレビで放送されていたことから、今後、庶民レベルでも悪用される危険があります。

 分断工作は詐欺洗脳術ですから、本当はこんなことを書くと情報が広まってしまうので、紹介すべきではありません。しかし、そうではありますが、日本も心理戦が家族や交友関係・ビジネスなどでの、人として求められるメインスキルとなるような社会に変わりつつありますので、対処するためにはいたし方ないことでしょう。

 心理戦というのは誰かが始めてしまうと、それに対抗するためほかの人たちも使わざるをえないものですから、偽ユダヤなどが日本に心理戦を持ち込んでしまった以上は、これを理解することで対処していくしかないでしょう。

 対立や争いが起きているとき、これは分断統治や対立工作かもしれない、と考えられる視点を持つことが大切です。

 みなさんは、なるべく悪用しないよう注意してください。分断統治を個人レベルで顔見知りの人たちに行うと嘘がバレやすいうえに、バレてしまったときは自分の信用を大きく傷つけるというたいへんリスクの高い詐欺戦略となっています。

 分断統治や対立工作はあくまで人をだます詐欺術、洗脳術の一種であることをよく心得ておいてください。

 このサイトのテーマとなっている集団ストーカー問題でも、被害者の周囲の人たちへ、被害者の悪評を振りまく風評被害というのがあります。これも分断統治の理論を民間レベルで悪用したかたちになっています。2017.5.29


http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html

123. 中川隆[-11330] koaQ7Jey 2019年3月20日 20:55:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[675] 報告

世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について 2008年03月30日
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5


 このブログの今年の1月9日の記事で赤木智弘さんの「希望は戦争」について触れ、私も「もうこうなったら世代間戦争だとでも言いたくなってくる」と書いたことがありました。

 月刊『創(つくる)』の今月号を読んでいたら作家の雨宮処凛さんが、「『世代間闘争』問題」という記事を載せていました。その記事に触発されて、「世代間闘争問題」を再度論じてみたいと思います。

 いま全国でロスジェネ世代のフリーターや派遣・非正規労働者の労働組合が次々に設立されていくという感動的な現象が進行しています。各地で立ち上がった人々に対して心からの声援を送ります。皆さまがんばって下さい。心から応援します。

 さて、雨宮さんの記事は、京都の若者向け労働組合「ユニオンぼちぼち」のパネルディスカションの際に起こった「事件」を書いたものでした。パネルディスカッションは、反貧困そして生存のため、若者がどのように連帯していけばよいのか真剣に話し合うものだったそうです。その際、フロアーにいた団塊の世代の学生運動経験者らしいオジサンが、「甘えるな」「一人一人がしっかりしていない」「戦略意的に生きてこなかった結果」などと、すごいケンマクで「フリーター=自己責任論」をまくしたて、あげくの果てには会場にいた生活保護受給者に対し、「生活保護を受けられるだけでも有り難いと思え」などと暴言を吐いたというのです。

 雨宮さんは、「そんな言葉を聞くたびに、猛烈に胃が痛くなる。人に責められる前に、当事者は死ぬほど自分を責めている。責めに責めて、私の周りでも多くの人が命を絶った。そのたびに、思うのだ。言葉は簡単に人を殺せるのだ」と書いていました。

 団塊の世代には確かにこの種の人間が多い。残念なことですが。私自身、長い間「フリーター研究者」として過ごしてきて、団塊の世代の人々からその種の言葉をもらって傷ついた経験があります。このブログにも、団塊世代とおぼしき人からその類のことを書きこまれてすごく傷ついたことがありました。もちろん団塊の世代すべてがそういう人なわけではありませんが、残念ながら、かなりの割合でこういう人々が存在することも事実です。

 なぜ団塊の世代の人にはこういう人が多いのだろう? 基本的に社会科学のイロハも分かっていないとしか思えない。社会科学の「イ」の字でも分っていれば、以下のことはすぐに分かるでしょう。

 ロストジェネレーションの悲劇は、日本企業が土地ころがしのバブル生成に狂奔し、日本政府がそのバブルを放置し、ついにそれを崩壊に追い込んだことによって生み出されたこと。その背後にはプラザ合意から日米構造協議と続いた米国による市場原理主義イデオロギーに基づいた一連の内政干渉があること。バブルに踊らされたのは団塊の世代の人々であり、ロスジェネ世代の人々には何の責任もないこと。それなのにバブル崩壊の被害をロスジェネ世代が一身に背負っていること。

 いわば犯罪者たちがそのまま食い逃げし、無罪の人々が冤罪で牢獄につながれているようなものです。こうしたことが分かれば、まずは団塊の世代として、ロスジェネ世代に謝罪の一言もあってもよいと私は思うのです。なぜハレンチにも自己責任論をまくしたてて、若者を傷つけ、死に追いやっているのか。あまりにもひどい。
 
 彼ら・彼女らが社会科学の「イ」の字も分っていないのは、彼らが学生時代ゲバルトばかりして暴れ回っていたため、全く基礎的な教養がないことと関係があるのでしょうか?
 彼・彼女らはマルクスぐらいちゃんと読んでいたと思っていたのですが、暴れるのに忙しくてマルクスもちゃんと理解していなかったのではないですか? 

 私は、いわゆる「全共闘運動」というものに対して決定的に嫌悪感を抱いています。全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという全く訳の分らないスローガンには怒りを覚えます。運動の目的も何も分らない。甘ったれもいいところだ。そんならアンタたちがトットと大学を退学すればよいだけじゃないですか。何で勉強したい人々の邪魔しながら大学をバリケード封鎖などしなければならないのですか?

 連帯などはじめから求めていないから、各個人がバラバラに孤立していくしかなかったのです。彼らは破壊しか知らず、創ることなど何もできなかった。信州大学全共闘で破壊活動ばかりしていた猪瀬直樹が、小泉政権による日本破壊政策の片棒を担いだのは、象徴的なことだったと思います。

 いや、全共闘の中でも評価できる運動もあります。日大全共闘です。私から見て日大の運動は評価できますが、東大含めそれ以外の大学の運動は全く評価できません。日大全共闘は、「学園の民主化」というきわめて正当で具体的な課題を掲げて闘い、運動の目的がハッキリしていたと思います。そして皆が共通目標に向かって連帯し、協力することによって確かな成果を勝ち取っていったと思います。

 だから日大全共闘OBは、学生運動経験を人生における輝かしい出来事としてポジティブに評価でき、その後の人生においても運動経験を前向きに活かしている方が多いと思います。それは人間同士が連帯して何かを生みだすことの素晴らしさを、彼・彼女らが運動の中で学んだからだと思います。

 その他の大学の全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという運動の目的も何もサッパリ分らないメチャクチャなスローガンからは何も生まれません。目的が分からないから連帯などしようがない。「自己否定」から「自己責任」へ。連帯のすばらしさも経験することのできなかった彼らは、アトムへと分解し、徹底的に個人主義的な思考になってしまったのではないでしょうか。

 運動の中で何も得るもの、誇れるものも何も得られなかった彼・彼女らは、「運動なんかバカがするものだ」みたいなことを自分の子どもたちに平気で言って、人々が生きやすい社会をつくるために力をあわせて政治を変えていこうとする努力そのものも否定するようになりました。彼らは極度のニヒリズムに陥って個人主義的になり、自己責任論をまくしたてるようになってしまったのではないでしょうか。

 彼らは学生時代に暴れていただけで勉強していないにも関わらず、社会に出て自分が努力したから、個人の力で頑張ったから何とか成功してきたと勘違いしているのです。勘違いしてナルシズムに浸っている。それでロスジェネ世代に対して、「努力が足りない」「頑張らないのが悪い」「甘えるな」などと暴言を吐くのです。

 あなたたちが社会人になった70年代は、頑張ればどうにかなる時代だったのですよ。個人の力でも何でもない。90年代には個人の力で頑張ってもどうにもならなようない社会構造ができあがってしまったのです。派遣労働の自由化などによって。

 10%の経済成長を遂げている時代の失業者者も「自己責任」、マイナス成長の時代の失業者も同じく「自己責任」なのですか? バカも休み休み言いなさい。
 
 全共闘の人々が犯罪的だと思うのは、彼らがバカげた運動をしたせいで、その後の日本人の大多数が社会運動そのものに決定的にネガティブなイメージを持つようになってしまったこと。そして民衆が歴史を動かすという具体的イメージを日本社会が失ってしまったことです。学生運動が実際に社会を動かしてきたフランスや韓国などの活力比べて、日本がここまで硬直してどうしようもなくなっているのも一重に全共闘運動の責任だと思うのです。すでにして彼らは、こうして後の世代に多大な負債を残しているというのに、あろうことかこの期に及んで、貧困に苦しむ若い世代の新しい運動に対して、「自己責任」と罵倒しながら冷水を浴びせかけるなんて、私には断じて許せない。彼・彼女らに対しては断固として闘わねばならないと思います。
 
 いま全国で起ちあがっているロスジェネ世代は、団塊ジュニア世代でもあります。ぜひ両親の世代をギャフンと言わせるだけの成果を勝ち取りましょう。そして「団塊の世代の呪い」による日本の社会運動の沈滞を、創造的に乗り越えていきましょう。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5


分断統治への反撃 ―こんどはこっちが分断する番だ 2008年04月25日
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6


 まず、一つ前の記事がだいぶ物議をかもしだしたようですので、続きを書きます。なぜあんなことをを書こうと思ったのかを説明します。

 あの記事は、少なからぬ団塊の世代の方々を傷つけてしまったようです。私は、あの記事で「ニヒリストかつナルシスト」という精神的傾向を持つ全共闘崩れの一群の方々を批判しました。もちろん私は、前向きにポジティブに生きておられる元全共闘の団塊の世代の方も少なからず知っています。ですので、心の中では「ああ、ステレオタイプなこと書いちゃってすいません」と謝りながらも、なおかつ敢えて書きました。

 というのも、「俗流若者論」で若者が攻撃され、若者が打ちひしがれているという現状があり、それに対するささやかな抵抗として「俗流団塊論」で少しくらい言い返してやったって、バチは当たらないだろうと思ったのです。レッテル貼りにはレッテル貼りで対抗し、レッテル貼り攻撃してきた上の世代の方々に自省を促したかったという点があります。

 赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国 −私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社、2007年)の第1章は「強大な敵としての俗流若者論」でした。それは、上の世代から放たれる「最近の若者は・・・・」という不当なレッテル貼りに対する抗議の文章です。それを読んで、共鳴したというのも、あれを書いた動機の一つです。

 私は、このブログを始めてからというもの、若者たちとの論争をだいぶしてきました。中国・韓国に対する差別的バッシングにあけくれる若者たちとの論争です。私もカーッとなって「差別はやめろ」などと口泡飛ばすような論争をしてきました。

 しかしながら、最近になって、「自分は分断の罠にはまっていただけなのではなないだろうか?」と自省するようになったのです。中国・韓国を叩いてウサを晴らそうとする、絶望的な状況に追い込められた若者の気持ちも分かります。絶望的な状況に置かれて未来が見えない中、しかも自己責任論で上の世代からバッシングされる中、「自分よりダメな人々」を求めて、韓国・中国に攻撃の矛先を向けてしまっているのでしょう。人間は弱いものです。これだけ格差が増大したら、そうなってしまうのも仕方ないです。

 市場原理主義のグローバル化によって絶望的な状況に追い込まれた若者のやるせない不満のはけ口として、中国・韓国を利用しようとしているのは、『諸君!』や『正論』などに寄稿するご老人方です。そしてその背後には、アジア諸国を分断して混乱させながら、日本の従米状態を恒久化させようとする米国の戦略があります。日本人に「中国は怖い」というイメージを徹底的に刷り込むことによって、日本が米国の半植民地状態にあることを恒久化させ、日本を米国とって便利なATMマシーンとして機能させ続けようというわけです。ちなみに、『諸君!』という雑誌は、そもそもCIAの工作資金で創刊されたものです。

 西洋帝国主義のお得意は分断統治戦略。大英帝国はインドを植民地統治するにあたって、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が互いに争うように仕向けさせ、彼らの怒りの矛先が英国に向かわないようにしました。そのせいでインドとパキスタンの分裂とその後の抗争の悲劇が生まれたわけです。

 日本国内で、米国のエージェントのようになって反中・反韓論を威勢良く展開しているご老人方、豪邸に住んで何不自由なく暮らしている方々は、いまの若者の絶望的な状況に共感できる一片の感性も持ち合わせていない。彼らは、自分たちの世代の責任でここまで日本をダメにしてしまったという、その犯罪を覆い隠そうとするかのように、若者の目を国内矛盾からそむけさせようと、意図的に中国・韓国に対する敵意を煽りたてようとしているのです。だから右派雑誌ときたら、中韓批判やら民主党批判やら朝日新聞批判の特集ばかりで、格差社会批判の特集など組もうとしないのです。それで「日本の格差など中国に比べればはるかにマシだ」などという、およそ反論にもなっていないハレンチな開き直り論を展開するのです。

 あれらの雑誌に寄稿する人々は、中国・韓国批判の一方では、自己責任論をあおりたて、市場原理主義を礼賛する人々でもありました。宮台真司氏の言うところの「ネオリベ右翼」です。「ネオリベ右翼」は、方法論的個人主義を大前提とする市場原理主義を礼賛しながら、なおかつ国家主義を煽りたてるという、とてつもなく矛盾した人々です。

 それで、市場原理主義を正当化するところの新古典派経済学がどんな学説なのか分かっているのかといえば、彼らは不勉強で全然知らない。知らないままに、ただただ米国に迎合して資本主義万歳、構造改革万歳を唱和してきただけ。だから、自分の思想がとてつもなく矛盾しているという事実そのものにも気付かない。救いようのない愚かな人々です。

 しかも、ああした反中・反韓雑誌に寄稿している方々の少なからぬ人々が、元左翼活動家だったりするで唖然とします。そのような無節操な人々が信用できるわけないでしょう。「左翼はバカだ」という若者の皆さん。少なくとも日本の左翼は本当にバカだと私も思います(ただ、外国の左翼はあまりバカでない人たちも多いですが・・・)。そのバカな左翼思想にかぶれていたような浅薄な人々なんて、右翼になった今も変わらずバカなのだと思いませんか?

 絶対にあの無節操な元左翼右翼たちを信頼してはいけません。若者たちを、彼らバカな元左翼右翼の影響下から引き離すにはどうしたらよいのだろう、私たちが分断されるのではなく、彼らを分断するにはどうすればよいのだろう、それがあの文章を書いた主要な問題意識です。手始めに全共闘崩れの構造改革礼賛論者の精神的病理の分析をしようと思ったのです。
  
 「分断統治戦略」とはよく言ったものです。私なんか、まんまと支配層の策謀に引っかかって、分断の罠にはまりこんでいたのかも。私は、格差社会を批判する、中国だけでなく米国もちゃんと批判するような右派の方々は好きです。いままで、私たちが分断されてしまっていた。これからは彼らを分断してやりましょう。まずは政治的ヌエのような存在である「ネオリベ右派」を社会的に孤立させ、その思想的影響力を消滅させることだと思います。

https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6

124. 中川隆[-11313] koaQ7Jey 2019年3月21日 08:32:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[693] 報告

マルクス主義で言う平等というのは 99.99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99.99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


ユダヤ人は最初は共産化、今は移民の大量受け入れで 0.01% 対 99.99% の世界を作ろうとしたのです:


世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占
2019年1月21日 14:19 発信地:ダボス/スイス
  

【1月21日 AFP】世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っているとの報告書を、国際NGO「オックスファム(Oxfam)」が21日に発表した。拡大する一方の貧富の差を是正するため、裕福層への増税が必要だと各国政府に強く求めている。

 スイス・ダボス(Davos)で開かれる世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)を前に発表された最新報告によると、資産額10億ドル(約1100億円)以上の裕福層の人々が世界各地に保有する資産の総額は2018年、毎日25億ドル(約2700億円)ずつ増加した。

 世界一の富豪である米アマゾン・ドットコム(Amazon.com)の創業者ジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏の資産は昨年、1120億ドル(約12兆2800億円)に増えた。オックスファムによればベゾス氏の総資産のわずか1%が、人口1億500万人のエチオピアの保健医療予算全額に匹敵するという。

 一方、世界人口のうち経済的に恵まれない半数に相当する38億人の資産総額は昨年、11%減少した。

 オックスファムは、拡大する格差によって貧困対策の効果が損なわれ、経済は打撃を受け、人々の怒りをあおる結果になっていると強調。各国政府が保健医療や教育といった公共サービスに割く予算を削減する一方で、富裕層に対する税制優遇を続け、経済格差をさらに深刻化させていると警告した。

 報告書は、富裕層や大企業に課税して「底辺への競争」をやめるよう各国に強く要求。最富裕層がたった0.5%多く税金を払えば、「現在教育を受けられずにいる子どもたち2億6200万人に教育を授け、330万人の命を救えるだけの保健医療を提供しても、余りある資金を確保できる」と指摘している。(c)AFP

125. 中川隆[-11285] koaQ7Jey 2019年3月22日 13:43:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[721] 報告

七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。

ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。

この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。

なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

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比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

126. 中川隆[-11243] koaQ7Jey 2019年3月23日 21:28:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[766] 報告

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
★1%の大富豪がつくる世界共産主義体制 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q0-jbet_YWA

収録日:2019年1月21日 / 48分

127. 中川隆[-11219] koaQ7Jey 2019年3月25日 02:23:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[791] 報告

「ひとりがたり馬渕睦夫」#17
朝鮮半島問題とは何か?@ 朝鮮戦争に見る近代史の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=B2p75lnFBfU
128. 中川隆[-11217] koaQ7Jey 2019年3月25日 03:06:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[793] 報告

日本の左翼、全学連(西暦1993年)平成5年 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z0q8JvwZbmo


左翼(さよく、英:left-wing, leftist, the Left)または左派(さは)とは、政治においては通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指すとされる。

「左翼」は急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、または、無政府主義的傾向の人や団体をさす。

対義語は「右翼」や「保守」である。

「左翼」「右翼」の語源はフランス革命である。「左翼」という表現は、革命後の国民議会で議長席から見て左側の席を、共和派や世俗主義などの急進派が占めた事に由来する。

「左翼」という用語は、通常、「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」を指し、革命運動、社会主義、共産主義、社会民主主義、アナキズムなどを支持する層を指すことが多い。
同時に、「左翼」は相対的な用語であり、何を「左翼」や「右翼」と呼ぶかは時代・国・視点などによって変化する。また「左翼」という言葉はレッテル貼りに使われる場合も多い。

左翼と呼ばれる勢力には、多かれ少なかれ根底には専制政治や弱肉強食的な資本主義に対する懐疑がある。左翼は平等、労働条件の改善、社会保障、福祉、平和などを追求する場合が多い。

左翼は総称であり、非常に幅広い潮流を含んでいる。たとえば目標とする国家については、市民や労働者の自治を重視するサンディカリスム、政府を否定する無政府主義、逆に国家の積極的な介入を重視する福祉国家、執権党が一党独裁を行うソ連型社会主義などがある。

また変革の方法についても、資本主義の枠内での社会改良主義、議会制民主主義のもとで将来的には社会主義社会を目指す平和革命主義、武力革命を行うべきとする暴力革命主義などがある。

身分制度や封建主義などに反対して近代化と富の増大を求める面では、資本主義と同様に近代主義・啓蒙主義・自由主義の側面がある場合がある。
逆に、資本主義による伝統的な地域共同体の破壊や労働者の搾取に反対する面では、保守主義の側面がある場合もある。

ヨーロッパ、特に大陸では「左派」と政党や政治家が自ら公称することは珍しくない。
一方でアメリカ合衆国では「左派」「右派」とも批判的な文脈では使われるが、自称する例は少ない。
一般に左派は「リベラル」と称されるが、1980年代以降の政治家はこの呼称で定義されることも避け、中道的立場を強調することが多い。
これは「保守」を強調する政治家が一定存在し、また「保守」と定義されることを避ける政治家があまりいない点と異なる。

政党の内部において、党内の「左派」「右派」と呼ばれる例も多い。たとえば、旧日本社会党では、社会民主主義的な勢力は「社会党右派」、労農派マルクス主義の流れをくむ勢力は「社会党左派」と呼ばれた。

129. 中川隆[-11212] koaQ7Jey 2019年3月25日 03:18:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[798] 報告

東大全共闘 安田講堂 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q5qq0jW1yTE
https://www.youtube.com/watch?v=X7xcOi4fpro

130. 中川隆[-11008] koaQ7Jey 2019年4月02日 12:41:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1016] 報告

よど号ハイジャック事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=cOhCoEJzPsk

ドラマスペシャル よど号ハイジャック事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CD65pnHxH6s

131. 中川隆[-10976] koaQ7Jey 2019年4月03日 21:32:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1050] 報告

因みに、赤軍派もカンボジアのポル・ポト政権も毛沢東をそっくりそのまま真似しただけなんですね:

紅い皇帝毛沢東と狂爛の文化大革命【东方红】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=AtJy-yu2rHw

2019/01/24 に公開


東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。

132. 中川隆[-10968] koaQ7Jey 2019年4月04日 06:47:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1058] 報告

中島みゆき「世情」の

「変わらない夢を 流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者」


というのは毛沢東とその世界中の同志を指しています:


▲△▽▼

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

133. 中川隆[-10830] koaQ7Jey 2019年4月08日 08:12:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1201] 報告

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼、毛沢東崇拝になった理由


17 dead in 'horrific' high school shooting - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgIJosk0pnA


暴力も自殺も、まるで伝染病のように人々の心に乗り移るという事実を知れ2019.04.08
https://blackasia.net/?p=12486
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私たちは「伝染病」と言えば、ウイルスが人から人へと伝染していくインフルエンザのようなものだけを想像する。

しかし、伝染するのは病原菌だけではない。

強い感情もまた人から人へと伝染していく。たとえば、憎悪だ。それはとても強い感情なので、共鳴するにしても反発するにしても、相手と同じ憎悪が当事者に発生して、どんどん広がっていく。

憎悪は理性ではなく感情である。感情は往々にして理性を超えるので、憎悪が蔓延すると理性は働かない。

個人的な憎悪もそうだし、集団的な憎悪もそうだ。それが国家的な規模の憎悪になることもある。そういった憎悪は、しばしば紛争や対立を生み出す元凶となる。そして言うまでもないが、暴力もまた伝染する。

秩序だったデモの一角で暴力が発生すると、それが見る見るエスカレートしていくのは、それが紛れもなく「伝染」するものだからだ。(鈴木傾城)

「強い感情」が拡散していく

フランスは2018年11月17日から「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)」という政府に対する抗議運動が始まった。「燃料税を引き下げろ」「自動車税を引き下げろ」「貧困層の生活水準を改善しろ」という要求が、マクロン政権の退陣要求へと広がっていったものだ。

このデモはしばしば破壊と暴動につながっているのだが、いったん暴動が起きるとその暴動はすぐに全国規模で広がっていく現象が知られている。

過激な言動がテレビやインターネットで克明に映し出されると、それがより過激行動を生む。暴力は伝染していったのである。

ベネズエラでも首都カラカスで激しいニコラス・マドゥロ打倒のデモが起こると、それは瞬時に地方都市に伝播して広がっていくのが知られている。暴力が吹き荒れると、それは「伝染」していくのである。

これは別に今に始まったことではない。

殺人も同じく、伝染していく。世界のどこかで一度でも耳目を集めるような巨大テロが起きると、世界各国でテロが「伝染」して暴走していく。

2014年から2018年までシリア・イラク一帯で猛威を振るった超過激イスラム暴力集団「ISIS」の指導者は、インターネットで斬首や爆破によって損壊した遺体の動画を上げ、「世界中でテロを起こせ!」と扇動していた。

どうなったのか。インターネットでリアルな暴力を見せつけられた人々に「暴力感情」が乗り移り、まるで伝染病のようにテロが世界に広がっていったのだ。

暴力は人種や国をやすやすと超越して放射状に影響力を放っていく。

爆破が起きると爆破事件も伝染して続いていく。自爆が起きるとそれも伝染して自爆事件が続く。戦争が起きると戦争まで伝染して広がっていく。

暴力は人間の感情を激しく興奮させる伝染的効果がある。その「強い感情」が拡散していく。激しい感情は分かりやすく、一方的で、強力なので、その伝染力もまた強力なのだ。

自殺もまた伝染するという事実

2018年2月16日。フロリダ州にあるマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で、退学処分を受けたニコラス・クルーズという19歳の男が、武装して高校に乗り込み、火災報知器を作動させ、生徒が避難を始めたところでAR-15ライフルを乱射するという事件を引き起こした。

この事件では、17人の生徒や教職員が死亡した。

ところで、最近になってこの銃撃事件で生き残った生徒たちが相次いで自殺を図っていることが報告されている。

生き残った生徒は親友が目の前で死んでいく姿を見て大きなショックから抜けられず、自らも引き寄せられるように死を選んでいったのだった。憎悪や暴力と同じく「死」もまた人から人へと伝染していく。

自殺とは何か。自殺とは「自分自身に対する暴力」である。暴力が他者に向かうか自分に向かうかという違いだけで、自分に向かった暴力が自殺となるのだ。

カリスマ的な有名人が自殺や死亡すると、それは強い感情を放射状にまわりに引き起こして、感受性の強い人を巻き込んでいく。日本でも、香港でも、アメリカでも、芸能人が自殺した後に、ファンが後追い自殺をしていく現象はよく知られている。

マイケル・ジャクソンが突然死したのち、世界各国で後追い自殺するファンが続出したこともあった。

全世界でそのような現象が起きており、自殺もまた伝染することが何度も何度も確認されている。

サダム・フセインが絞首刑にされたあと、その映像が出まわってアラブ圏の人々にはとりわけそれにインパクトを受けた。そこでどうなったのかというと、それからアラブ圏で首吊り自殺が次々と拡散していったのだった。

西側諸国にとってサダム・フセインは悪人だったかもしれないが、アラブ諸国の一部の人々にとって、サダム・フセインは神にも等しいカリスマだったのである。カリスマの死は、伝染病のように死を伝播させていた。

人間は感情の伝染病に無防備である

他人が死んだから自分も死ぬというのは、もちろん理性的なことではない。しかし、それは「強い感情」によって突き動かされているものであり、理性を超えたところにあるものだ。

だから「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。

憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する。それは、もう「経験則」ではない。科学的に証明された現象でもある。

人間の感情が伝染する理由のひとつとして、科学の世界では「ミラーニューロン」という脳神経細胞が作用していることが突き止められている。ミラーニューロンとは何か。直訳すると「鏡の脳神経細胞」となる。

ミラーニューロンは1996年に確認されたものだ。他人が行動しているのを見ると、見ているだけで自分もまた脳の同じ部位が活動していく。

相手があくびをすると自分もあくびが出る。相手が泣いていると自分もまた涙が出てしまう。相手が興奮していると自分もまた興奮する。それは、あたかも自分が同じ行動をしているかのように感じさせる。

相手が何らかの感情を発火させることによって、ミラーニューロンは反応して同じ感情を呼び起こす。

ところで、それは何の役に立つのか。それは「他者の行動を即時に理解する」ことに対して役に立っている。ミラーニューロンがあることによって人は相手の感情や気持ちを推し測ることができる。人間が社会性を確立するために、ミラーニューロンは必要不可欠なものだったのだ。

しかし、それは「負の側面」もある。それが「憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する」というものだった。だから、人々は他人の感情に影響されて、憎悪がそこにあったら憎悪を感じ、暴力がそこにあったら暴力の感情に巻き込まれる。

にも関わらず、感情が伝染病のように伝播していくという事実はあまり意識されていない。自分が「感情の伝染病」にかかるということも意識されていない。意識されていない以上、人間は感情の伝染病に無防備である。(written by 鈴木傾城)

「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。
https://blackasia.net/?p=12486

134. 中川隆[-10829] koaQ7Jey 2019年4月08日 08:20:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1202] 報告

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼・毛沢東崇拝になった理由 _ 2


パラノイア・統合失調症は伝染病として感染する
1960年代から1970年代前半の学生の反米左翼・毛沢東崇拝は憑依型の感応精神病


フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


という訳で、

大学は中世の人里離れて隔離された山奥の村落と同じで、すぐに憑依型の感応精神病が猛威をふるってしまうのです。

135. 中川隆[-8920] koaQ7Jey 2019年8月02日 08:36:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3808] 報告
れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。
森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。母親は森順子、
ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?

2019/07/24
https://tr.twipple.jp/t/7d/1153760807710126080.html

▲△▽▼

森大志【もりたいし】

 1983年に北朝鮮のピョンヤンで生まれる。父親はよど号ハイジャック事件のリーダーで連合赤軍の田宮高麿。

北朝鮮による日本人拉致問題で警察庁により国際指名手配されている森順子(北朝鮮に潜伏中)は母親。

2004年1月13日に来日。2歳上の姉、6歳下の弟も既に日本にいる。

 本籍は川崎市。ガソリンスタンドや介護用品整備、鉄工所、物流センター などで働く。2005年8月高等学校卒業程度認定試験(旧大検)合格。2008年専修大学商学部マーケティング学科入学。(中略)税理士を目指し、働きながら勉強中。

 極左過激派の政党、「市民の党」のメンバーで、2011年4月に東京都三鷹市の市議選挙に立候補したが落選した。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B9%C2%E7%BB%D6


▲△▽▼


2011/04/01
「市民の党」と森大志を糾弾せよ!

東京都の三鷹市議選に「市民の党」から立候補している森大志(28)は、なんとあの田宮高麿の長男だそうです。

読者の通報(カキコ)で知りました。
ネタ元は週刊新潮の「出自を秘めて三鷹市議に立候補する「よど号ハイジャック犯」長男」のようです。


森を擁立した「市民の党」のルーツは「MPD・平和と民主運動」にあります。
MPDは、元ブント(共産同)系の活動家たちが結成した日本学生戦線から発展した組織です。

その流れは、「MPD・平和と民主運動」→護憲リベラル→平和・市民→「市民の党」となります。
つまり、「市民の党」はブントの血を引く過激派の末裔ということです。

私は、ハイジャック犯の長男が「市議選の候補」ということ以上に、その所属する「市民の党」の存在そのものが問題だ、という気がします。
まさに「市民」の仮面をかぶった「過激派」。

市民団体とかNPOにも、こういう素性のものが多い。
ほんとうに要注意です。

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私の「韓国に配慮した歴史を教えよ!というカルト左翼」というエントリに、次のようなカキコがありました。


坂氏は今の大多数のサヨクを買いかぶっておられるのではないでしょうか。反国家=国家破壊運動ほどの意識をもっているサヨクは少数派と思いますが。小林よしのりの言うところの「うすら甘いサヨク」、すなわち、自分が全く責任を問われない事項について謝罪していい人になりたいってだけの馬鹿が大多数では。

この認識はまったく甘い!と言わざるを得ません。
そもそも小林よしのり氏は政治を解っていません。
左翼やイデオロギーの本質については無知と言ってもよいでしょう。
左翼の本質は左翼であった者しか解らない、
政治を実践した者の方が政治をよりリアルに理解できる、
私はそう思います。

社会の至るところに極左がしぶとく根を張っています。

それは、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が、市民団体の反対と妨害活動によって、ほとんど採択されなかったという事実を見れば分かります。
重信房子が日本に密入国し、9年間も潜伏して極秘活動ができたことも、極左のネットワークが健在であることを示しています。

そして何より、社民党が国政選挙で300万票を獲得できる、という現実、それだけカルト左翼とその支持者がいる、ということです。
社民党は「元」極左の巣窟ですからね。

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ここで田宮高麿について書いておきます。


田宮は1943年、岩手県生まれ。
父親は農林省(現・農水相)の役人。
1970年3月に起きた「全日空日航機よど号ハイジャック事件」のリーダーです。

大阪市立大学時代に学生運動をはじめました。
私にとっては、ブント(共産同)の大先輩に当たります。
が、私がブントに参加した時は、彼は既に共産同赤軍派として分派していましたから直接の面識はありません。

組織の先輩から聞いた話ですが、田宮は活動家としては異色の存在だったようです。

ロン毛で理屈っぽい者たちが多い中で、彼はどちらかと言えば体育会系。
その度胸と行動力、そして統率力は群を抜いていたそうです。
だから赤軍派の軍事委員長(司令官)に就いた。

ハイジャックの被害に遭った乗客の一人は

「犯人たちは、学生だけあって、どこかウブなところが残る顔立ちだった。その中で、田宮だけは暴力団に入っても立派にやっていけそうな、凶々しい目つき」

と語っています。

大阪市大の教授が当時

「田宮君がいるから乗客の身の安全は絶対に大丈夫」

と、語っていたのが忘れられません。

まあ、思想ややった事の是非を別に置けば、田宮はそれなりの人物だった、
先輩たちの話から、私は、そう強く感じました。

ただ理論はからきしダメで、吉本隆明の本は1ページも読めなかった。
当時、ブントのかなりの部分が吉本隆明の影響を強く受けていたことを考えれば、田宮が塩見孝也に付いてブントを出て行った理由がよく解ります。

ところで、連合赤軍(連赤)の最高幹部で、12人の同志を虐殺した森恒夫は、田宮と同じ大阪市大の活動家です。

謂わば田宮の子分みたいな存在でしたが、田宮からは「ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」と完全にバカにされていました。

森が連赤に逃げ込み、史上稀に見る凶悪事件を引き起こしたのは、田宮に対するコンプレックスが一因だったと私は思っています。

この、当時はそれなりに英雄視された田宮も、結局は北朝鮮に屈服、その奴隷になってしまいました。

そして、1995年に平壌で突然死します。

田宮の突然死は未だ謎ですが、ハイジャック犯たちが北朝鮮の工作員として活動するようになったことと無縁ではないような気がします。
つまりハイジャック犯たちの内部で路線対立が起こり、田宮は粛清された、のではないかと思うのです

下の写真は、今でも鮮明に覚えています。
短髪(角刈りに近い)で、右手に日本刀を持った田宮の精悍な顔つきは、まるで右翼のようでした。


右手に日本刀を持ち、解放される人質を見つめる田宮高麿

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私は、田宮の長男が、「市民の党」というカルト左翼から市議選に出馬するのは、父親より母親の影響が大きいと思っています。

田宮が死んだ時、森大志はまだ12歳です。
父親の思想など理解できないでしょう。
では、森の母親とは何者なのか?

森大志の母親は森順子(よりこ)と言います。

つまり大志は、母親の姓を継いでいるのです。
順子は、在日朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれました。

パスポートを取得していることから、日本国籍であると思われます。

が、北朝鮮では“在日2世”として迎えられており、自分は「日本人」だと言う一方、平壌では「ここは私にとって祖国でもありますからね」と語っています。

ところで、この森順子、欧州における日本人拉致事件に関与しているとして、警察庁により国際指名手配されています。

つまり、有本恵子さんや松本薫さん、石岡亨さんを拉致した実行犯である可能性が極めて高いのです。

下の写真は、順子と石岡亨さんが欧州で一緒だったことを示すものです。


森順子・中央と石岡亨さん・右


確かに森大志はハイジャック事件のリーダーの長男です。
が、田宮は既に16年前に死んでいます。

一方、母親の森順子は、日本人拉致の実行犯(の可能性が極めて高い)であり、未だに逃亡中です。

おそらく北朝鮮にいるのでしょう。
そして、赤軍派のハイジャック犯たちと連携して北朝鮮の工作活動を展開している、と思われます。

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「高敬美ちゃん剛くん拉致事件」を捜査していた兵庫県警は、1988年5月6日早朝、新宿区三栄町のアパート前で北朝鮮の秘密工作員と見られる男の身柄を確保しました。

男は「中尾晃」と名乗っていました。

が、調べてみると、この「中尾晃」の正体は、ハイジャック犯の一人である柴田泰弘だったのです。

1996年3月、カンボジアのベトナム国境近くで北朝鮮大使館員らとともに逮捕された日本人も、ハイジャック犯の一人である田中義三でした。

田中たちは、タイのリゾート地パタヤで大量の偽ドル札を偽造していたのです。
つまり、世界革命を目指して、北朝鮮を革命の根拠地にするためにハイジャックを実行した戦士たちは、北朝鮮の手先となり、日本人拉致や偽ドル偽造に手を染めていたということです。

そのハイジャック犯のリーダーを父に持ち、日本人拉致の実行犯(とみなされている)を母に持つ男が森大志です。

選挙に立候補する権利はありますが、この男が当選するようなことがあってはなりません。

「市民の党」の候補は、前回選挙では次点でしたが、それ以前は2議席を有していました。

つまり、それなりの基礎票は有しており、森大志は、やり方によっては当選の可能性があるということです。
が、こんな人物を当選させるなんて絶対に許されません。

「市民の党」と森大志を糾弾せよ!
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2011/04/post-160d.html

136. 中川隆[-11133] koaQ7Jey 2019年9月28日 19:40:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1683] 報告

「よど号事件」犯人たちの洗脳と日本人拉致
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/651.html
137. 中川隆[-10810] koaQ7Jey 2019年10月16日 10:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2035] 報告

2019年10月16日
左翼の本質は思想ではなく「タカリ」という生き方
http://www.thutmosev.com/archives/81231879.html


他人の金にタカル人は自動的に左翼になります

学生や主婦や老人に左翼が多いのは偶然ではない


画像引用:「キリスト教」と「お金」と「左翼(パヨク)」 〜 すべては、「お金が欲しいから」(笑) - 親子チョコ💗(300冊以上の良質な書籍のご紹介)https://oyakochoco.jp/blog-entry-2089.html


左翼運動とはすべて金目当ての運動

日本では様々な場面で左翼団体や左派の人が登場し、反対運動やなにかの妨害をします。

特徴としては最初に日本政府などが何かをやろうとして、それに反対する運動を始める。

古くは成田闘争とか新幹線反対、国鉄民営化反対などの運動もあった。


最近では台風や災害の時に被災地に出かけて自衛隊の活動を妨害したり、政府を批判している。

沖縄の辺野古基地建設では沖縄県が給料を出している職員が、給料を貰って反対運動したり反対派の送迎をしている。

共通しているのは左翼運動は必ず政府などに金を要求していて、金を要求しない左翼運動はまず無い。


一見すると無償でやっている運動であっても、突き詰めていくと最後に「国は金を払え」と言い出します。

石原環境相は中間貯蔵施設の建設反対運動について「最後は金目でしょ」と本当の事を言ってしまいクビになった。

人間本当の事を言われると一番怒るもので、金目当てで運動していて善意を偽装している人間に「金目なんでしょ」と言うと猛烈に怒り出します。


例えば辺野古基地前でテントを設置して何年も暮らしている連中がいますが、その金はどこから出てるんでしょうか。

共産党や公明党のような政党は何かというと政治腐敗で騒ぐが、多額の寄付金を集めているのは周知の事実です。


この連中もやっぱり「最後は金目」で金目当てなんです。

安保闘争は毛沢東の「日本を共産化して乗っ取れ」という指示によるものだったが、本人たちは自分の意思でやっていると思っていた


1960_Protests_against_the_United_States-Japan_Security_Treaty_02
画像引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/1960_Protests_against_the_United_States-Japan_Security_Treaty_02.jpg


「タカリ」という生き方をすると左翼になる

金目当てではなく純粋に社会に革命を起こす目的でやっている人も存在したが、組織の上層部は必ず金の亡者です。

60年代から70年代に安保闘争があり、日本中の大学生が共産主義革命を起こすんだと言って暴動を起こしました。

この学生運動を扇動したのは中国共産党で、始まりは毛沢東の文化大革命でした。


毛沢東が権力を握ってから大躍進政策によって飢餓や粛清で3000万人以上がなくなり失脚しました。

1960年代に復権を期して無知な学生を煽って暴動を起こさせたのが、紅衛兵と文化大革命でした。

文化大革命は成功し毛沢東は再び権力を握り、次に敗戦国日本を共産化する目的で日本の学生を扇動しました。


まず大学教授を共産主義者にし教授が学生を教育し、先輩が後輩を教育してわずか数年で日本中の大学生を洗脳しました。

こうして東大闘争や連合赤軍事件が起きたのだが、やっていた本人は洗脳されたのに気づかず、自分の意思だったと信じ込んでいます。

オウム真理教にも通じるが、本物の洗脳とは洗脳されたのに気づかないほど巧妙で完全なものです。


金目当てでないのはこうして洗脳された兵隊だけで、毛沢東自身は完全な権力亡者で金と権力だけの為に生きたような人物でした。

左翼とは日本政府や大企業のようにまず金を払ってくれそうな大組織があり、その組織を食い物にしてタカル事で左翼になります。

千葉の水害で自衛隊が助けに来ると左翼の人達は「なにやってんだよ遅いんだよ」「謝罪して金払え」と言い出します。


たとえば韓国人は1997年の国家破産は「日本が助けるのが遅かったから」だと言って今も謝罪を要求しています。

日本はお金を出して韓国を助けたのですが、それが遅かったから謝罪して金払えというのが、典型的な左翼の発想です。

災害があれば政府に謝罪と賠償を求め、同じく被災者である電力会社などにも謝罪や賠償を要求してきます。


左翼の本質は思想や信条ではなく「タカリ」であり、タカリをする人が自然に左翼になるのです。
http://www.thutmosev.com/archives/81231879.html  

138. 中川隆[-10520] koaQ7Jey 2019年10月28日 15:46:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2353] 報告

【緊急特番!「おおきなわ」#93】
脱北青年が出演!韓国で反文在寅デモに立ち上がった理由を激白[桜R1-10-27] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2_yuyBAZQDE


司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)

ゲスト:
 篠原常一郎(ジャーナリスト)
 サイ・ランケン(脱北者)

139. 中川隆[-15230] koaQ7Jey 2019年12月05日 12:32:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2297] 報告


生放送特番 「日本をどうする!?斎藤まさし氏と語る」



菅直人氏をはじめ革新系候補を多数プロデュースし「市民派選挙の神様」とうたわれる斎藤まさし氏。現在は、れいわ新選組・山本太郎氏の参謀とも噂され、過去には北朝鮮との繋がりも指摘されている氏の本意は何処にあるのか?来年の東京都知事選挙だけでなく、解散総選挙も予想される現在、水島がその人物像に迫ります!
140. 中川隆[-15227] koaQ7Jey 2019年12月05日 12:36:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2294] 報告

生放送特番 「日本をどうする!?斎藤まさし氏と語る」 へのコメント
https://www.youtube.com/watch?v=aev9qQqSzAw&feature=emb_title


77 7

斎藤まさし先生や日本の左翼はマルクスの言う階級というのがどういうものなのか全くわからなかったのですね

斎藤まさし先生や日本の新左翼・日本共産党員の知能はマルクスを齧った18歳の大学生程度
水島総先生やチャンネル桜出演者の知能・思考力はマッカーサーが言った様に 13歳児程度
(社会主義者だったルーズベルトや 終戦後の日本を変えた共産主義者の GHQ幹部の知能を30歳とした場合だけど)

▲△▽▼

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く

中核派に恋人を殺された革マル派の歌姫 中島みゆきの歌「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

同棲した恋人の優しさに学生運動を止めたくなった早大生の歌 神田川 1973年9月20日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://video.9tsu.com/videos/view?vid=101196

<再現>日本赤軍事件 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6


日本が戦後、世界で唯一成功した社会主義国になれた理由

昔、民青・共産党員や新左翼は階級闘争、階級闘争と騒いでいましたが、彼らには日本に階級なんか無かったというのがわからなかったんですね。

日本の階級を潰して一億総中流社会にしたのは GHQ なんです。民青・共産党員や新左翼は無知蒙昧で、階級社会というのがどういうものか知らないので、日本で階級闘争が起きる筈もないのがわからなかった。そもそも日本共産党や日本の労働組合は GHQ が合法化したのです。

終戦直後は大したインフレは起きなかったのに、その後預金封鎖になるまで物価が上がったのもGHQが日本の階級を破壊する為に物価操作したのが原因です。 円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからです

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。

戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えた。 だからハイパーインフレとは全く違う。

その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ
因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収
が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配した

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね 損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった
それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由


_______


77 7

斎藤まさし先生は なんちゃって革命家一座の座長 (自分では気付いていないけど)

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか不自然で
この親子も なんちゃって革命家一座の団員でスーチー型やダライラマ型
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。 要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
▲△▽▼
日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。

日本赤軍について少し。(ユダヤ悪を追求すると、な〜ぜ〜か、北朝鮮勢力から狙われますよ。)

1.よど号グループと日本赤軍は、提携している。よって、どちらも黒幕は、北朝鮮。ボスは、重信房子だった。(北朝鮮の日本の出店は、統一教会インチキ右翼が兼任。)日本の中の北朝鮮=オウム真理教と重信の間にもつながりがある。

2.重信の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。行政調査新聞 「重信房子は四元義隆と会っていた?」
米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相でCIA工作員)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

3.重信は、アラブ・ゲリラの中心人物。重信の逮捕は、「あの」連中が計画している日本テロを「アラブゲリラによる重信奪還テロ」と思わせるため?日本でも、ビン・ラディンやアルカイダの名前が使われたインチキテロが行われるのか?(勿論、実際の犯行は、地下鉄サリン同様にCIAのユダヤ人と勝共・北朝鮮の朝鮮人。)

4.元赤軍派の塩見が、結局は、朝鮮系右翼とつるんでいるわけです。つまり、日本の半島系右翼は、北朝鮮の傀儡。総元締めは、ロックフェラーの手先と北朝鮮の出先を兼任する文鮮明ということです。
_____
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。

その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
__

あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


https://www.youtube.com/watch?v=aev9qQqSzAw&feature=emb_title

141. 中川隆[-13068] koaQ7Jey 2020年4月20日 18:50:29 : at6ayMU0Ck : WklkR3pzU3dhZmM=[54] 報告
残酷を直視できない「事なかれ主義」の日本人 2020年04月20日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html

「残酷を直視できない事なかれ」は1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。

 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。

 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。
 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。

 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。

 今回の新型コロナ騒動の全体像が、日を追うごとに鮮明になりつつあるが、それらの流れのなかで、浮き上がってきた問題点も、はっきり見え始めている。
 私が、1月末の報道(主に羽鳥MS)から一貫して感じているのは、日本政府や関係者の共通点、うんざりするほどの「事なかれ主義」である。

 安倍晋三がコロナ禍をひどく軽く考え、オリンピック開催を第一義に情報操作する姿勢を見せていたのは、はっきり分かった。
 PCR検査をしたがらないのも、疫病パンデミックという恐ろしい事態を矮小化、小さく、軽く見せようとして、なんとか無理矢理でもオリンピックを実現したい、という軽薄な考えの上に、見せかけだけの対策を行っている姿がはっきり見えていた。

 とにかく、事態の深刻さを直視したくない。政権の人気取りだけは大げさに報道するが、直面する事態を軽く見せかけ、すぐにでも解決できるようにしか公表しない。

 期待していた「オリーブの木」の黒川君までも、コロナ禍に関して「事なかれ」姿勢が見えたので、本当にがっかりした。そういう姿勢では、これからの恐ろしい時代を真正面から切り開くことなどできるはずがない。
 靖国神社を参拝するなどの無益な冒険を敢行できるなら、もっと真剣に問題を受け止められるはずだ。

 メディアの司会者の大半も、事態の深刻さを理解できている者は、テレ朝の玉川徹を除いて、ほとんどいなかった。
 日本人は、どうして、ここまで現実にある問題の矮小化=「ことなかれ」が好きなのだろう?
 私は、「残酷を直視できない」日本人の文化的パーソナリティに大きな問題があるような気がしている。

 外国映画やドラマを見ていると、日本では、まずお目にかかれない残虐シーンが、これでもかと豊富に出てくる。
 フリンジ・NCIS・Bones・lie to me 手元にあるDVDをみても、ほぼすべてのドラマが、まるで残虐シーンの競争をしているように、これでもかと破損腐敗した遺体をリアルに題材にしている。

 戦争映画でも、ライアン・地獄の黙示録・プラトーン・フルメタルなど、すべての映画に、銃弾で頭が吹っ飛ぶシーンとか、銃器自殺とか、本当の殺人シーンを再現しているような迫力のある残酷シーンが目白押しだ。

 翻って、日本映画やドラマで、遺体の出てくるシーンがあったとしても、アンチリアリティの制約でもあるのかと思える実に抽象的で陳腐な表現ばかり。
 人が死んでいても、アメリカドラマのように脳味噌が吹き飛んだり、腐敗してウジが湧いていたり、血糊が変色して黒ずみ、真っ黒の臓物が飛び出していたりするシーンは、ほとんど見たことがない。

 以下は、残酷と称する映画の予告編だが、アメリカの映画関係者が見たら、お笑い芸人の遊びにしか見えないだろう。
 https://www.youtube.com/watch?v=DK0Z2F06U5A

 血が噴き出たり、肉片が飛んだりの現実感が希薄なのだ。だから、座頭市など日本映画のチャンバラシーンは、現実感のない観念的な映像ばかりだったので、「殺人でなく、体操にすぎない」と、海外では不評だった。
 後に、勝やタケシが、少しはリアリティのある殺陣を公開してみても、どこか芝居じみて現実感に乏しい表現から逃れられないでいる。

 テレビドラマで、毎回死体が登場する、沢口靖子の科捜研シリーズとか、内藤剛志の刑事シリーズなども、24時間経た遺体の血糊が顔料赤のままになっていて、リアリティからほど遠い子供だまししか感じ取れず、現実感・空気感・肌に染み入る衝撃を感じることができないことにより、とてもアホらしくて見ていられない。

 日本製の映画やドラマが評価されないのは、こうした真実・現実から乖離した観念的でリアリティのない表現ばかりであることが最大の原因だろう。演出家たちは、かつて川内康範が作詞のリアリティを得るため日航機事故の遺体置き場に通ったような努力が必要だろう。

 というより、こうした「残酷を直視できない事なかれ」は、戦後のある時期までは、戦争の残虐を体験させられたことの反作用だったのだろうが、その後、日本人から勇気や精神的タフネスを奪うために、意図的に演出された路線だったような気さえするのだ。

 もう少し言えば、これはCIAの日本国民コントロール政策に含まれた陰謀だったかもしれない。
 「血を見ることを嫌悪する」心優しい日本人ばかり作って、小さな犠牲を厭わず戦闘的な姿勢を奪い去る仕掛けだったかもしれないのだ。
 こうした傾向は、1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。

 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。
 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。
 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。

 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。
 「これが日本人の文化的パーソナリティ」と言ってしまえば、それまでだが、世界の他国では、アメリカの映画やドラマに出てくる残酷こそが真実なのだ。
 日本人は、あるべき真実を、たくさんのオブラートで包んで、雰囲気だけを味わって「行き着くべきところに行き着かない」という臆病さがあると考えるべきだろう。

 こうした日本的臆病が、今の日本政府の「事なかれ主義」による重い重い、無意味な政策の羅列につながっていて、日本人が事態を正しく直視することを妨げている。
 それどころか、日本的事なかれ主義は、今や、ネット界の主流にもなってしまっている。
 ユーチューブも、残酷シーンがわずかでも含まれている動画は、片っ端から削除していて、昔のような自由な情報収集が不可能になっている。
 今、私が、この文章のなかで「残酷シーン」を紹介しようとしたら、ほぼすべてのシーンが削除されてしまって、これでは「残酷」とは何であるのか、子供たちに理解させることさできなくなっている。

 まさに日本流事なかれ主義が、世界のSNSを制覇しているような状況で、かつてイスラム国が捕虜の首を切断する生々しい映像も、今や探し出すことさえできない。
 逆に言えば、ネットSNSを利用している世界中の読者は、世界には残酷が存在しない、蝶と花だけの世界であるかのような洗脳をもたらしているのではないか?

 ネット上には、ネットの残酷シーンに拒絶反応を示して、追放を要求する知性も思索もない馬鹿が溢れているが、現実社会が蝶や花だけの世界と勘違させられている連中が、いざ、コロナ禍のような事態に遭遇して、対策を正しく考えることなどできるはずがない。

 我々の人生には、苦もあれば楽もあり、天国もあれば地獄もある。人生に真正面から対峙し、苦難を克服するには、良いことも悪いことも、あらゆるすべての情報が必要なのだ。
 ユーチューブのように、「残酷排除」のような愚かな姿勢では、子供たちは正しい人生観を持てなくなる。
 我々は、すべての真実を隠蔽しないで見せるメディアを必要としているのではないのか?
 もう、いいかげん「事なかれ主義」は追放されなければならない。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html

142. 中川隆[-12879] koaQ7Jey 2020年4月28日 15:36:31 : JsOWMf57GI : YVVvWFhQOFlsdUk=[13] 報告

隣組と攻撃性 - 内田樹の研究室 2020-04-27
http://blog.tatsuru.com/2020/04/27_1819.html


 市民たちの相互監視が始まっている。

 GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。

「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。

 私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。

 私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。

 人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。

 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。

 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。

 最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。

 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。

 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。

 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)

 いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。

 これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。

 彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。

 そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。

 この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。

「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。

「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。

 いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。

 大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。こういうことをする人たちは人間が条件が整うとどれほど攻撃的になるのか、その機会を待ち望んでいるのかということを知らない。あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。

 ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったのである。市民の相互監視させ、攻撃性をリリースすることを統治手段に使おうとする政治家はきわめて危険な存在である。みなさんが思っているよりはるかに危険な存在である。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/27_1819.html

143. 中川隆[-6451] koaQ7Jey 2021年3月22日 06:16:21 : X81eBtetkw : cmZoNHAzcUppeHc=[6] 報告
ロクでなしの左翼に大金を流して操るのは闇組織や外国勢力の常套手段
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/536.html
144. 中川隆[-17304] koaQ7Jey 2021年8月11日 07:23:44 : Byxbbc4XKU : WE51OVA5THEuZlU=[4] 報告
僕は今の日本社会を見ていて、正直「怖い」と思うのは、人々がしだいに「不寛容」になっているような気がすることです。

 言葉が尖っているのです。うかつに触れるとすぐに皮膚が切り裂かれて、傷が残るような「尖った言葉」が行き交っている。だから、傷つけられることを警戒して、みんな身を固くしている。あるいは、自分の言葉の切れ味がどれくらいよいか知ろうとして、「刃」に指を当てて、嗜虐的な気分になっている。

 そういう「尖った言葉」が行き交っている。外から見ると、あるいはスマートで知的なやりとりが行われているように見えるのかも知れません。でも、僕はそういう言葉がいくら大量に行き交い、蓄積しても、それが日本人全体の集団としてのパフォーマンスが向上することには結びつかないと思います。

 僕はものごとの適否を「それをすることによって、集団として生きる知恵を力が高まるか?」ということを基準にして判断しています。もちろん、その言明が「正しいか正しくないか」ということを知るのもたいせつですけれど、僕はそれ以上に「それを言うことによって、あなたはどのような『よきもの』をもたらしたいのか?」ということが気になるのです。言っている言葉の内容は非の打ち所がないけれど、その言葉が口にされ、耳にされ、皮膚の中に浸み込むことによって、周りの人たちの生きる意欲が失せ、知恵が回らなくなるのだとしたら、その言葉を発する人にはそれについての「加害責任」を感じて欲しい。

 よく考えてみたら、それは僕がずいぶん昔からずっと言ってきたことでした。
 若い頃は左翼の言葉づかいに対して、そのような不満を感じていました。「革命をめざす」といっている人たちがお互いに相手について「はしなくも階級意識の欠如を露呈し」とか「嗤うべきプチブル性」とかいう非難を投げ合っていたからです。正直言って、そんなことをいくらやっても得るところはほとんどないんじゃないかと思っていました。というのは、そうやって「革命闘争を担う資格を持つ人」の条件を厳しくすればするほど「革命の主体」の頭数は減るだけだからです。「世の中をよりよいものにしよう」と願う資格のある人間の条件を厳密化することによって、この人たちはどうやって世の中をよくする気なんだろうと思っていました。

 同じことは、そのあとフェミニズムやポストモダニズムにも感じたことです。今度は「はしなくも性差別意識を露呈し」とか「はしなくも植民地主義者の加害者意識に気づくこともなく」というふうに表現は変わりましたけれども、それでも「真に差別され、徹底的に疎外された人間だけがシステムを批判する権利を持つ(それ以外の人間はすべて無意識のうちに差別し、疎外する側に加担している)」ということになると、すてきに切れ味はいいテーゼではあるのですけれども、これもやっぱり、徹底すればするほど「世の中を少しでも住みやすくする」事業の仲間の頭数を減らす結果になる。
http://blog.tatsuru.com/2021/08/02_0935.html

145. 中川隆[-16269] koaQ7Jey 2021年9月20日 02:32:08 : TGBjgarh1s : ZXZkWi5GNlFkTkU=[6] 報告
【ゆっくり解説】日本赤軍を解説します。〜暴力革命で世界を変えようとした組織〜
2021/09/19


146. 2022年5月28日 10:05:00 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[13546] 報告
〖速報〗「日本赤軍」元最高幹部の重信房子さん(76) 刑期20年満期で出所(2022年5月28日)
2022/05/28
ANNnewsCH
https://www.youtube.com/watch?v=pnKO7Glk-hw
147. 中川隆[-10876] koaQ7Jey 2024年4月16日 17:24:51 : HONZEEU5Kw : cVFmQW5SS1dDU2s=[8] 報告
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2024年04月16日
飯山陽が劣勢な理由 / 左翼の長い影
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

日本の若者は国家意識を無くした

student riots in Japan 213Japan in 1980s
(左 : 全共闘に精を出す大学生 / 右 : 80年代のバブル景気に浮かれた日本人)

  日本の政治が混迷し、没落の一途を辿っているのは、日本人にデモクラシーが適していないからだ。そもそも、民衆が代議士を選ぶことじたいが間違っている。「政治は武士の役割」というのが日本の國體(constitution)だ。幼い頃から忠君愛国を叩き込まれた武士と、目先の利益だけを追求し、受験勉強が唯一の苦労というのが平民の子供だから、才幹と気概の点で後者は比べものにならない。

  しかも、昭和の教育が劣悪で、敗戦となるや、共産主義者と反日主義者が大繁殖。日本の政治を“左傾化”させ、“鬱血状態”や“没落の悪循環”に導いたのは、何も占領軍だけのせいじゃない。アメリカ軍の“威光”を利用して出世を謀った「敗戦利得者」や学生運動で“有頂天”になった「アンファン・テリブル(enfant terrible)」*にも原因がある。(*「他人に迷惑を掛けても平気なガキども」という意味。) 歐米諸国と同じく、我が国も「高学歴社会」となっているから、政治家や官僚、企業経営者、地方公務員、ホワイトカラーの専門職、研究所や工場の技術者などは、程度の差こそあれ、「大卒者」で占められている。となれば、大学教師は未成年の精神構造に大きな影響を与える立場にあるはず。日本人の精神がどこか異常で、奇妙なくらいに歪曲しているのは、小学校から大学に至るまで、左翼陣営の「非国民化イデオロギー」が浸透しているからだ。

  日本の先を歩く米国では、幼稚園から大学までリベラル派の独擅場となっている。以前、ブルックリン・カレッジのミシェル・ランバート(Mitchell Langbert)准教授と、ヘテロドックス・アカデミー(Heterodox Academy)研究所のショーン・スティーヴンス(Sean Stevens)所長が大学教員に関する調査を行ったことがある。彼らが実施した教員の政治意識調査によれば、民衆党支持者が共和党支持者を大きく上回っており、約「9対1」の割合であることが判った。(Christian Schneider, 'Democratic professors outnumber Republican ones by 9 to 1 ratio, according to new data', The College Fix, January 22, 2020.)ランバート氏とスティーヴンス氏は、政党に登録している1万2千372名をサンプルにして大学教授の政治指向を調査したが、驚くことに、そのうちの48.4%が民衆党員であり、共和党員はたったの5.7%しかなかった。これが一般国民だと違っており、29%が民衆党員で、26%が共和党員となっている。この調査では、政治献金についても質問がなされており、民衆党の候補者に献金した教授と共和党の候補者に献金した教授の比率は、「95対1」であったというから、まさしく目眩がする数字だ。

  たぶん、日本でも状況は似たり寄ったりだろう。国立や私立の区別はなく、ほとんどがプロ左翼かピンク・リベラルとなっている。今では「遠い昔の出来事」となっているが、1960年代から70年代にかけての大学は、左翼分子の特殊部落であった。文学部や法学部、教育学部、史学部などはもちろんのこと、自然科学を専攻する学生でも、全学連や全共闘に加わって暴れ回っていた。明治から昭和の前半くらいまで、教師と学生との私的な交流というものがあったが、フランスの極左学生みたいな連中が増えたことで、日本の伝統はズタズタになってしまった。教授を皆の前で罵倒し、吊し上げることを喜んでやっていたんだから、支那の文化大革命と同じだ。

Jean-Pierr Duteuil 213343(左 / ジャン・ピエール・デュトゥール)
  1968年5月には悪名高きフランスの左翼暴動が起きたけど、日本でもこれに触発されたのか、左巻きの大学生がキャンパスで猿真似に興じていた。パリの5月暴動で学生の先頭に立っていたのは、札付きの“赤い三人衆”で、ドイツ生まれのアシュケナージ・ユダヤ人たるダニエル・コーン・ベンデット(Daniel Cohn-Bendit)、アルザス出身のユダヤ人であるアラン・ジェスマル(Alain Geismar)、そしてPSUに属していた社会主義者のジャック・ソヴァジョ(Jacques Sauvageot)であった。コーン・ベンデットの親友であったジャン・ピエール・デュトゥール(Jean-Pierr Duteuil)は、アナーキストのマルキスト。父親も筋金入りのマルキストであったから、親子代々の共産主義者だ。

Daniel Cohn Bendit 0324Alain Geismar 21334Jacques Sauvageot 324Oda Makoto 992
( 左 : ダニエル・コーン・ベンデット / アラン・ジェスマル / ジャック・ソヴァジョ / 右 : 小田実)

日本の左翼学生も様々で、ある者はマルクス・レーニン主義の心酔者。また、ある者はスターリンの独裁政治を批判し、志半ばで斃れたレオン・トロツキーを尊敬するクルクルパー。ユダヤ人の共産主義に馴染めない田舎者は、毛沢東主義者となって「アジアとの共存」を掲げていた。小田実(おだ・まこと)に感化された極左は、ベトナム戦争に反対し、観念論で「アジアとの連帯」を呼びかける始末。

Ooe Kemzaburo 324(左 / 大江健三郎)
  ちなみに、小林秀雄から「気味の小説は小説じゃない」と酷評にされた小説家の大江健三郎は、フランスの左翼やユダヤ人哲学者のサルトル(Jean-Pierr Sartre)に憧れていたのか、ナイト・クラブの酌婦の前では「僕、アルジェ生まれ」と嘯(うそぶ)いていた。一緒に居た阿川弘之は「何言ってやがんだ! お前は愛媛生まれじゃないか!」と腹を立てていたけど、遠藤周作は隣で笑っていたのかも。

  とにかく、呆れてしまうが、当時の左翼学生は“本気”なのか“ファッション”なのか、何が動機で学生運動に参加したのか判らない。だだ、60年安保闘争の世代と同じく、70年代に新左翼にのめり込むような連中は、カルト宗教の信者と変わりがなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持って機動隊に突っ込んだ連中は、まさしく人生を棒に振ってしまったし、逮捕された者は「前科者」となって、まともな就職先が見つからなかった。闘争の末に障碍者となった学生は、「後悔先に立たず」を実感する。しかし、上手く立ち回った連中は、藝能界やマスコミに潜り込んだ。法学部の学生は、仙谷由人のように法曹界を土俵とし、人権派弁護士になっていた。朝鮮人の支援者になる弁護士が多いのも、左翼教育の結果である。

Kan Naoto 8243(左 / 菅直人)
  「ズルカン」と呼ばれた菅直人は、東工大の暴力学生ではなかったが、日本への憎しみを“売り”にする「市民活動家」へと変貌していた。師匠の市川房枝からも「駄目な奴」と思われていたのに、マスコミの支援で我が国の総理大臣になれたんだから、永田町には悪魔と貧乏神が混在しているんだろう。だいたい、民主党の「サポーター」には国籍条件が無かったから、在日朝鮮人が「サポーター」になっていてもおかしくはなかった。

  菅直人はあるインタビューで自分の過去を偽っていた。「暴力では社会は変えられない。私はもともと、社会の矛盾をひとつひとつ解決していくという改革派なんです。そういう意味では、いまに至るまで挫折感はない」*と語っていたが、単に“卑怯者”だから仲間を見捨てただけだろう。 (*註 / 臼井敏男『叛逆の時を生きて』朝日新聞出版、2010年, p.197.)後に、機動隊を率いていた佐々淳行が茶化していたけど、菅直人は武闘派の学生じゃなかった。第五列や第六列といった後方に隠れ、逃げ足だけは早い卑劣漢であったから、障碍者にならず、弁理士になれたのだ。菅は「市民運動」とやらに邁進したが、その根底には松下圭一(法政大学教授)のドス黒い政治思想が流れていた。

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(左 / 坂本龍一)
  「元左翼」というのは藝能界 にも潜んでいる。例えば、都立新宿高校で左翼運動に熱心だった故・坂本龍一は、東京芸大に進んでYMOを結成したが、高校時代は左翼生徒であった。1980年代、シンセサイザーを演奏する坂本氏は、大量の電気を浪費するが、一向に気にする様子はなかった。「エコロジー」なんて頭の片隅にも無かったはずだ。当時は一風堂の土屋昌巳と同じで、「JAPAN」のデイヴィッド・シルヴィアンに憧れたのか、お化粧の方に夢中だった。

  ちなみに、同校で運動に加わっていたのは、坂本氏の先輩で、後に安倍内閣で官房長官となる塩崎恭久だ。塩崎と坂本の二人は、機動隊が入る前の安田講堂に足を運んだそうで、中にいた全共闘の学生らと話すことが出来たという。なるほど、生徒会長になった不良生徒(塩崎氏)が、荒れ狂う東大に赴いて、「自由」や「個性」を学んだというわけだ。さすが、二年生を率いて校長室を占拠する生徒会長は、ひと味もふた味も違っている。

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(左 / 塩崎恭久 )
 大臣を経験した塩崎氏は、議員を引退すると地元の愛媛で里親の支援をしているそうだが、自身の「転向」をどう思っているのか? だいたい、高校生の時からバリケード封鎖をしていた不良生徒が、政界に入って厚労大臣となり、不憫な子供に“温かい家庭”を斡旋するんだから、機敏なカメレオンだってビックリだ。息子の塩崎彰久はオヤジの地盤を引き継ぎ、今では自民党の代議士で、厚生労働政務官となっている。ホント、岸田文雄に林芳正、河野太郎、小渕優子、小泉進次郎といい、永田町にはボンクラの世襲議員がゾロゾロいる。一般国民というのは、自分の投票で子や孫の将来を台無しにしているが、その自覚が無いところに真の悲哀がある。

  演出家のテリー伊藤も、日本大学で学生運動に勤しんだ一人である。ただ、機動隊との衝突で一生涯の障碍を背負ったから悲惨だ。彼が機動隊から逃れる時、後ろに居た誰かが石を投げたという。不幸にも、その石が偶然、彼の左目に当たってしまい、伊藤氏は斜視になってしまった。藤竜也みたいに、同大学の芸術学部に入って映画界にスカウトされる方が、よっぽどマシである。下らない大学をさっさと辞めて、大好きなスポーツ・カーを買った方が遙かに健全だ。真田広之も日大の学生だったが、左翼分子にはならず、役者の世界に入った。二枚目俳優だから当然だけど、デビューして直ぐに『忍者武芸帖 百地三太夫』の主役なんだから凄い。(筆者も劇場で観たけど、真田氏の出演作品の中では一番いい。現在、彼はハリウッドの『Mortal Kombat』や『Shogun将軍』に抜擢され、ステレオタイプの「日本人」を演じているが、昔の方が良かった。)

  NHKの贔屓を得た小説家の高橋源一郎も、横浜国大で暴れ回ったうちの一人だ。彼は学生運動で逮捕されたり拘留されたりと、散々な青春時代を送っていたが、後に小説を書いて有名人となった。拘置所では“沈黙”を貫いたそうで、朝八時から夜の八時まで、12時間もずっと下を向いて黙っていたというから、ある意味“真面目な奴”だ。でも、取り調べの後に独房入りだから、正常な精神状態ではなかったはずだ。実際、一種の失語症に罹ったみたいで、喋るときの発音が難しくなったそうである。大学を除籍になり、筋肉労働者になっても、小説家になれたんだから良かったじゃないか。しかも、明治学院大学で教授になれたし、無事退職したことで“オマケ”として附いてくる「名誉教授」にみなれた。しかし、国際学部の学生はどんな気持ちで彼の授業を受けていたのか?

ポルシェに乗っていた左翼学生

  大学で暴れていた一般の左翼学生というのは、一種の“お遊び”に興じていた不真面目な人々で、内心では政府転覆など考えてもいなかった。要するに、みんなでワッショイ、ワッショイ、と騒いでいると、何となく自分が日本全体を動かしているように思えたのである。令和の大学生が聞けばシラけてしまうが、全共闘に共鳴するアホな学生は、「チェ・ゲバラに倣え、我らも社会主義革命を!」とか、「差別の元兇たる天皇制を打倒せよ!」、「ベトナムを侵掠する米帝國に反対!」「在日米軍基地を許すな!」と本気(?)で叫んでいた。

  筆者が高校生の時、御茶ノ水駅附近にある楽器店でギターを買ったことがある。そのついでに神田の三省堂に立ち寄ろうとしたが、途中で目にした明治大学の風景のせいで気分が悪くなった。入り口や塀には汚い看板がズラリと並んでおり、殴り書きの文字(日本や米国を呪う罵倒のスローガン)が踊っているように見えた。当時、筆者は看板を眺めながら、「アルフォンス・ミーシャ(Alfons Maria Mucha)のようなアール・ヌーヴォー風じゃなくてもいいから、もっと美しい文字で綺麗なイラストを附ければいいのに・・・。」と思ったものである。しかし、怨念に凝り固まった学生には、美術的センスは皆無だ。どいつもこいつも紅衛兵みたいな奴らばかり。「安保反対」を掲げながら「国防軍の創設」を主張しない学生は、一体どんな頭をしているのか? 左翼学生というのも呑気なもので、フォーク・ギターを片手に、ボブ・ディランやジョン・レノンの歌を奏でて喜んでいる。一方、ノンポリの学生達は酒を飲みながら、共産主義の幻想に酔いしれていた。

student riots 1970sStudent riots in Paris 2134
(左 : 学園闘争に熱中する日本の大学生 / 右 : パリで抗議行動に没頭するフランスの大学生)

  ゲバ棒を振るう学生達も甘えん坊だ。自分たちは思いっきり火焔瓶を投げつけているくせに、いざ機動隊が反撃すると「暴力反対!」と叫ぶ。彼らは警察官が決して発砲しないことを確信していたから、安心して角材を振り回していた。国家に刃向かっても、“国家権力(暴力装置)”は決して民衆を射殺しない、と信じ切っている。支那大陸で北京政府に反抗したら、即座に“皆殺し”か戦車で轢き殺されるのがオチだ。北朝鮮なら学生全員が逮捕され、どこかの広場で公開処刑だろう。もしかすると、あっさりとした銃殺じゃなく、「てるてる坊主」みたいに軒先で縛り首だったりして。場合によっては、牢獄で餓死とか。

  まぁ、みんなと一緒に「武力闘争」をしているうちは、危険なようで気楽である。ところが、いざ卒業が目の前にチラつくと大変だ。おちゃらけ学生は急に“現実”が怖くなる。長髪でジーンズ姿の青年も、就職面談となれば、長い髪を切って清潔感を出すしかない。彼らは親に買ってもらった背広を着込み、真剣な面持ちで会社に赴く。面接で過去を詮索されないか、とヒヤヒヤする青年は、慎重に言葉を選びながら答える。でも、過去がバレて不合格になれば意気銷沈だ。もし、晴れて合格となれば「ああ良かった!」と胸をなで下ろす。

  在学中に勉強しなかった学生は、どうしたものかと思い悩んだ。でも、「体育会系」を前面に出してアピールすれば何とかなった。「一生懸命頑張ります!」と言えば鉄鋼メーカーに入れることもあったし、営業部では忍耐と体力が重要だ。理系の学生ならもっと有利で、金属プレス加工や化学製品のメーカー、あるいは精密部品の製造企業に受け容れられたりする。ちょっとコネがあれば総合商社に入れたし、テレビ局や新聞社、出版社は「ゴキブリ・ホイホイ」みたいな受け容れ先だった。元々労働組合やリベラル知識人が強いから、“学生運動の落ちこぼれ”でもOK。上司にも「左翼シンパ」や「左翼崩れ」がウヨウヨ居るから大丈夫。読売のナベツネだって元左翼(共産主義者)じゃないか。

  東京大学や早稲田大学、日本大学、法政大学などで左翼運動に係わっていた連中は、どこから“資金”を得ていたのか判らないが、上層部の学生には“とんでもない奴”が紛れていた。例えば、早稲田大学の荒岱介(あら・たいすけ)は飛び抜けている。彼は1965年に法学部に入るが、1968年に除籍となっていた。荒氏は「社学(社会主義学生同盟)」の委員長や「全国学生対策部長」に就任した人物で、東大安田講堂の闘争では兇器準備結集罪で指名手配を受けていた。彼は1969年4月に逮捕され、裁判に掛けられて有罪判決を受ける。刑務所には三年間服役し、1977年に出所したそうだ。塀の中に入る人間というのは“懲りない面名”なのか、荒氏は人生で七回も逮捕されたという。ちなみに、府中刑務所では民族派右翼の野村秋介(のむら・しゅうすけ)と一緒だった。

  学生運動を知らない世代は、マスコミのプロパガンダ記事に騙され、純粋で真剣な学生が腐敗した政府に反抗したと思っている。だが、教室を占領した連中なんて、ほとんどが“チンピラ左翼”か“俗物”でしかない。令和の大学生が驚いてしまうのは、荒氏が「ポルシェ」に乗っていたことだ。彼は世間の倫理道徳や組織上層部の説教が嫌いで、自らの欲望を満たすことに何の躊躇(ためら)いも無かった。荒氏は言う。

 ・・・そういうこと(道徳主義)に若者を縛り、革命的規律という名の下に、好きなことをさせない、何を買っちゃいけないとか言って、市民社会からかけ離れていくということを、俺は突破したくてね。当然、若者がBMWに乗りたいというのもいいわけじゃない。・・・俺は文化に出あいたかったんだよ。自動車はドイツ生まれで、ポルシェで言えばフェルナンド・ポルシェが作った文化である。そういう文化を知りたい、乗って味わいたいと思った。そんなの当たり前だと思う。(宮崎学『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社、2002年、pp.84-85.)

  平成の緊縮財政で貧しい生活を“当然”と考えるようになった学生からすれば、「いった、どんな奴なんだ?」と思ってしまうだろう。しかし、1950年代から70年代までの日本だと、意外にも高額所得者の子供で左翼になる者が少なくなかった。(「元左翼財界人」に関しては別の機会で紹介したい。) チェ・ゲバラに憧れ、ベトナム戦争に反対し、人民解放のために革命を目指す荒氏であったが、段々とレーニン主義者や新左翼に懐疑的となったそうだ。彼は1990年代になると従来の思想を棄ててしまい、今度は「エコ左翼」というか、世田谷か吉祥寺に棲息する「環境革命家」へと転向する。荒氏によれば、左翼闘争はゲバ棒から火炎瓶、さらに重火器から爆弾へとエスカレートするので、世間との隔たりが大きくなってしまうという。彼は次のように述べた。

  まぁ、現実との関係においては、現実に理論が接近するんじゃなくて、現実に理論が接近できなくなってしまって、あるべき姿の方向に現実を接近させろというふうにますますなっていったんだよ。(上掲書、p.88)

  つまり、左翼学生がどんな理想を語りかけようが、世間の人々は振り向かず、むしろ軽蔑の眼差しで“距離を取る”という訳だ。確かに、1970年代の新左翼運動の頃から、一般の大学生には、ある種の“変化”が訪れていた。安保闘争の世代は、Tシャツにジーンズといった薄汚い格好であったが、新世代の学生は、米国のアイビィー・ルックを真似て、紺色のブレザーにネクタイを締めていた。街を歩くと、身綺麗な若者が、「VAN」のロゴが印刷された紙袋を手に提げ、友人や恋人と楽しそうに話している。こんな光景を目にした若者からすれば、新宿や代々木でマルクス理論を語るなんて野暮天だろう。恋人と一緒に銀座へ赴き、ウィンドー・ショッピングを堪能する方がいい。ウッドストックでのヒッピー姿なら分かるけど、麻布や目黒、あるいは新橋や神楽坂で、日本人がヒッピー・スタイルを真似ても、それは滑稽でしかない。

Ivy Look in America 2143Ivy style Americans 662
(左 : 東部の有名大学に通うエリート学生 / 右 : アイヴィー・スタイルのアメリカ人 )

  高級ブランドのVANで身を包んだお坊ちゃん達は、早稲田や法政の田舎者とは違っていた。美形の女子学生と一緒に喫茶店に入り、ジャズでも聴いている方が“格好良く”思えたのだ。一世を風靡したVAN-JAC社は、1978年(昭和53年)に営業不振で潰れてしまうが、1980年代の大学生は、もう学生運動には戻らなくなっていた。好景気は青年の精神を変えてしまうものだ。この世代は小難しい哲学議論より、ショット・バーに通って仲間と談笑したり、人気のディスコで踊り明かす方をキャンパスライフと考える。デートになればスポーツカーを用意し、女の子を乗せて軽井沢に直行だ。苗場のスキー場に赴けば、ロマンティックな夜で意中の女性を口説こうとする。「ブハーリン」と聞いても、「それ、ロシアのウィスキー?」と尋ねる世代に、共産主義革命なんて無理だろう。

  それでも、学生運動が忘れられない世代は、財界やマスコミ界で息を潜め、嘗ての仲間や後輩の左翼学生を支援する。朝日新聞と連携するテレビ朝日などは、『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を得た猪瀬直樹を持て囃し、「朝まで生テレビ」や「ビートたけしのTVタックル」に招いていた。当時の一般視聴者は猪瀬氏の過去や素性を知らず、『昭和16年夏の敗戦』を書いた著者とか、道路公団を批判する反骨の知識人、と思っていた。(『国民新聞』の読者は違うけど。)

Inose Naoki 823(左 / 猪瀬直樹)
  東京都の副知事から都知事に登り詰めた猪瀬氏は、作家になる前に、信州大学の全共闘議長を務めていた。闘争は1969年6月、文学部のバリケード封鎖から始まったというが、猪瀬氏は全共闘の主力部隊を率いていたそうである。しかし、学生運動には国家を根本的に変える中身が無かった。口先だけの学生達は、単なる観念論じゃだ。動物園で飼われているナマケモノが、「百獣の王」を気取っているようなものだ。職員から餌をもらっているシマシウマに、弱肉強食のジャングルなど解らない。学生運動にのめり込んでいた猪瀬氏も、何となく「世間の風」という“壁”に気づいていたのだろう。

  ある時、彼は国際反戦デーや佐藤栄作首相の訪米阻止のために上京するが、そこで目にした光景は彼の人生を変えるものであった。東京にやって来た猪瀬氏は、新宿の裏通りでコーラを買おうとしたそうだ。そこで、猪瀬氏は表通りから裏通りに足を運んだわけだが、迷い込んだ場所にはパチンコ屋があって、軍艦マーチが流れていたという。突然、猪瀬は通りを一つ隔てただけで“別の世界”があることに気づく。彼は当時を回想し、次のように述べていた。

 そこには日常性があるわけですよ。そのころから、学生運動はこんなものだな、という自覚はあった。学生運動で世界が変わるなんて思っていなかった。日常性の連続がふつうの生活なんです。そして日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえなおさないといけにないと思った。(臼井敏男『叛逆の時を生きて』、p.145.)

  猪瀬氏によれば、1960年代の学生運動は、69年の佐藤訪米阻止闘争で終わったそうである。(上掲書、p.144.) 「あの時点で九割の人は学生運動を止めた」というから、岩波書店の『世界』や『朝日ジャーナル』で活躍していた左翼知識人は、闘争時代の「残滓」なのかも知れない。猪瀬氏は信州大学を卒業後、東京の出版社に勤め、そこの給料で大学院への資金を貯めるにしたそうだ。

  まぁ、左翼組織が強い明治大の大学院だから、心からの“転向”は無かったと思うが、『週刊ポスト』に連載を持ったり、実際の政治に係われば、イヤでも“現実の世界”が判ってくる。学生時代には“綺麗事”を並べていればそれで良かったが、実際の仕事になれば汚いことだって進んでやるしかない。代表作の『ミカドの肖像』だって、“ネタ本隠し”があったそうで、元ネタは早川和廣の『堤義明 悪の帝王学』や草野洋の『西武商法 悪の構図』であったという。たぶん、“パクリ本”とバレるのが恥ずかしかったのか、猪瀬氏は引用先の出典を挙げていなかった。でも、佐野眞一がそれを暴露したから万事休す。『ミカドの肖像』を作成するに当たって、ノンフィクション作家の池田房雄とジャーナリストの岩瀬達哉が協力したそうだ。この二人がネタになりそうな題材とデータ集めに奮闘したそうで、猪瀬氏は触れられたくない過去の暴露に怒っていた。

  最近、国会議員の裏金問題化や悪徳知事の横暴が話題となっているが、そもそも日本人にはデモクラシーなんて“体質”に合わない。選んでいる国民が、選んだ政治家を嫌っているんだから本末転倒である。例えば、愛知県の大村秀章知事は、衆議院で出世の見込みがないと分かった鞍替え組で、津田大介に理解を示すなんちゃって左翼。静岡県の川勝平太知事は、支那人と昵懇で国益の売却者だ。しかも、大学教授の時からパワーハラスメントの常習者ときている。徳島県知事に鞍替えした後藤田正純は、“下半身検査”で不合格となった不適格議員。2000年から2022年まで、ずっと再選を果たしてきたのに、なぜか一度も大臣になれず、衆議院に見切りをつけての知事選だった。

  赤く染まった北海道は、反日や共産主義者の産地となっている。知事の鈴木直道は北海道出身じゃないけど、支那人に国土を明け渡す売国奴。有名な「夕張リゾート」は2017年、支那企業の「元大(げんだい)リアルエステート」に“たった2億円”で売却されてしまい、2019年になると、この支那企業が香港系のファンドに15億円で転売だ。本当に酷いけど、これが現実の北海道である。二階俊博に可愛がられるくらいだから、鈴木知事がどんな人物なのか、誰にでも分かるだろう。

  今、東京15区の補欠選挙が世間の注目を集めているが、世論調査で首位に立っているのは、共産党の支援を受けた立憲民主党の酒井菜摘(さかい・なつみ)である。二番手は日本維新の金澤結衣(かなざわ・ゆい)で、日本保守党の飯山陽(いいやま・あかり)は、地元民からの知名度を得るだけで精一杯。もし江東区民が正常なら、飯山氏がトップに立っているはずだけど、地元民は「この人誰?」といった反応だ。

飯山あかり00213(左 / 飯山陽)
  飯山氏は移民流入の深刻さを解っているので、平穏な暮らしを望む庶民からすれば、彼女が最も相応しい国会議員となるはず。だが、一般国民は左翼教育のせいで健全な判断能力を持たない。普段は常識的な人でも、政治となれば、ちょっと左寄りとなってしまい、無意識のリベラル派で候補者を選ぶ。左翼教育の影は長く、薄くなったように思えても、人々の脊髄に残っている。我が子や地元の将来を大切にする庶民が、知名度だけで左翼分子に投票し、自ら「故郷の破壊者」となってしまうんだから、本当に憐れだ。せめて自民党支持者の七割くらいが飯山氏に投票するのであれば、まだ救いがある。しかし、左巻きにされた国民が正常な判断を下すとは思えない。乙武候補がコケたことくらいが救いである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

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