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内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/647.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 25 日 18:31:18: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 01 日 21:22:46)


内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/937.html

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-13314] koaQ7Jey 2020年3月25日 18:32:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1590] 報告

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html
2. 中川隆[-13218] koaQ7Jey 2020年3月28日 01:37:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1686] 報告
民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html
 
3. 2020年5月12日 14:27:59 : vmV5cSelDA : Si9WdWlTeVNGU0U=[6] 報告
内田樹 聖者とは何も考えないアホの事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/980.html



4. 2020年5月27日 17:42:08 : YqmpzsoafI : VFRRMlhTUnBLZ3M=[9] 報告
内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html
5. 2020年9月23日 13:11:05 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[55] 報告
「素人がコロナを語ると専門家が怒る」という日本は明らかにおかしい
内田 樹,岩田 健太郎 2020/09/23


新型コロナウイルスをめぐって、SNSなどでは「専門家以外は発言すべきでない」という意見が目立つ。それに対して神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏と神戸大学大学院医学研究科教授の岩田健太郎氏は「素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だ」という——。


※本稿は、内田樹・岩田健太郎『コロナと生きる』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

イノベーションは評価主義になじまない

【内田】僕は評価主義とはできるだけ関わりたくないんです。だから、「お前を査定してやる」という人が出てきたら、そっとその場から離れる。そういう人とディベートして、「あなたの意見と僕の意見のどちらが正しいか決着をつけよう」というのが嫌なんです。それだと評価主義の再生産にしかならない。あなたと僕のどちらが賛同者が多いかとか、どちらがSNSのフォロワー数が多いかとか、どちらが社会的地位が高いかとか、それを比較することでそれぞれの意見の理非を決するというふるまいは、それ自体が査定なんです。僕はそれが嫌なんです。

僕は誰とも論争なんかしたくない。ただ、ちょっと言いたいことがあるので言っているだけなんです。みんな僕の意見に賛同しろとも言わないし、意見が違う人に向かって「黙れ」とも言わない。だから、僕のことは放っておいてほしい。隅っこで言いたいことをぼそぼそ言わせてくれよ、と。それだけなんです。

イノベーションというのはそもそも評価主義になじまないんです。その成果の価値を測る「ものさし」がまだ存在しないようなもののことをイノベーションと呼ぶわけですから。だから、学術的なイノベーションをほんとうに支援したいと思ったら、やりたいやつに好きなようにやらせて、「放っておく」のが一番なんですよ。

日本の1億2000万人が全員「コロナ評論家」
【岩田】まったく同感です。うちの娘たちにも事あるごとに、「他人の評価を気にするな」と伝えています。

【内田】人の評価は気にしちゃいけません。ほめられようが、けなされようが、右から左にスルーすればいいんです。ほめられて増長するのも、批判されて落ち込むのも、どちらも意味ないです。「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」。勝海舟の言うとおりです。出処進退は自分で決めるから、評価はそちらで勝手にやってくれ、と。他人の評価なんかどうでもいいよということは、このコロナ禍でますます確信に至りましたね。

【岩田】今まさに、コロナの分析や予想をめぐって起きていることとも、それは重なります。ネットを見ていると、日本の1億2000万人、世界の70億人が全員コロナ評論家と言ってもいいぐらいじゃないですか。

【内田】そうですね。

素人がコロナを語ると、専門家が怒る
【岩田】みんなコロナについて、何か語らずにはいられない。それぞれコロナのせいで害を被っているんだから、当たり前です。パンデミックって、そういうふうに「全員」に影響を与えるものなので。

ところが素人がコロナについて語ることを、専門家は怒るんですね。「素人のくせに俺たちの専門領域について、デタラメなことを言って」「テレビにまで出やがって」みたいなセリフをよく目にします。テレビの件は、大体テレビに出られない人が言うんですけど(笑)。

フェイスブックを見ていると、僕の業界の人はすごく怒っているんですよ。みんなが評価主義の塊になって、「にわか専門家がテレビで知ったようなことを言うな」みたいなことを本気で書いている。「そんなに頭にくるなら、テレビを観るのやめればいいのに」と思うんですが。

【内田】ほんとに観なきゃいいのにね。それに素人があれこれ言ったっていいじゃないですか。言わせてあげたらいいのに。

日本では「半ちく野郎」とか「半可通」とか「一知半解」とか、「半」という字がつく罵倒の言葉が多いんですよね。中途半端な知識に基づいてものを言う人間を徹底的にバカにする。「よく知らないけど、俺はこんなふうに思うんだよね」と言うと、自称専門家が「黙ってろ、素人は!」と頭ごなしに叱りつける。叱られたら黙る。専門家だけが発言権を持ち、それ以外の者は知らないことについては黙る。自分の経験や知識に基づいて、個人的な意見を述べることは「許されない不作法」ないし「笑うべき愚鈍」と見なされてきた。

素人がアイデアを出すほうが、生産的ではないか
【内田】でも、それっておかしいと思う。半ちくな素人の思いつきがときに思いもかけない創見をもたらすことって実際にあるから。それに僕自身、自慢じゃないけどレヴィナス哲学と合気道以外は、全分野で半ちく野郎なんです(笑)。文学も、映画も、マンガも、能楽も、宗教も、政治も、さまざまな領域でたくさん本を書いていますし、インタビューされたら意見を述べますけれど、どの分野でも専門家というのにはほど遠い。

ただ、「このトピックについては、あんまりよく知らないんですけども、ちょっと意見言ってもいいですか?」って、つい手を挙げたくなるんです。ちょっと何か言いたくなるのは、僕が思っていることを専門家が誰も言わないからです。誰かが先に言ってることなら僕が繰り返す必要ないです。誰も思いつかないようだから、つい手を挙げて言ってみたくなる。別に定説を覆すとか、常識に冷水を浴びせるとか、そんな攻撃的な意図があるわけじゃないんです。ただ、「こういうふうに考えたら、ちょっと面白くないですか?(よう知らんけど)」というだけのことで。でも、そういう「いっちょかみ」に対して専門家たちって、ほんとうに不寛容なんですよね。「素人は隅にいて黙ってろ」って一喝される。

専門家だけが発言できるより、素人が面白がって次々にいろんなアイデアを出したほうが、結果的に学術的にも生産的じゃないかと思うんですけどね。

専門家も慌てて「にわか」で勉強している
【岩田】確かにそうなんです。コロナに関しても今、素人の方から面白いアイデアが出てきています。今朝のニュースで観たんですが、ある学校では熱中症対策とコロナウイルス対策を両立させるために、「子どもたちは傘を差して登校する」ことにしたそうです。日傘で日光が遮られますし、傘を差すことでお互いが近づけなくなるから、ソーシャルディスタンスを保てるんですね。とても面白いアイデアだと感心しましたし、専門家からは出てこない発想だと思いました。

感染症の専門家といっても普段何をやってるかというと、患者さんの検査と薬を出すことがメインの仕事です。だから例えば、「コロナ対策のために、飛行機の空調やエアコンの設定をどうすればいいでしょうか」なんて聞かれても、正確には答えられないんです。航空機内の空調システムまで知悉している専門家は、非常に少数派で、旅行医学という専門分野のさらに細かいエアロメディシンという領域を勉強した人だけです。感染症のプロでもそこまでやっていた人は本当に少数派でしょう。慌てて「にわか」で勉強した人はいると思いますが。

テレビに出ている専門家も、よく知らないことを聞かれたら、慌てて文献を読んでにわか勉強して「10年前から知ってますよ」みたいな顔して言ってる人がほとんどなんですよ(笑)。実際の話、マスクがどれぐらいウイルスを防ぐかといった重要な知識も、前々から勉強してる人はあまりいませんでした。みんな急いで勉強して、にわか専門家として意見を述べているだけなんです。専門家とそうでない人の差は、案外大きくはない。少なくとも、特定のトピックにおいては。

だから、素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だと思うし、全員がコロナには利害関係があるわけですから、出てきたアイデアは真面目に検討すべきだと僕は思います。

---------- 内田 樹(うちだ・たつる) 神戸女学院大学名誉教授 1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)、街場シリーズなど多数。 ----------

---------- 岩田 健太郎(いわた・けんたろう) 神戸大学大学院医学研究科教授 1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)など多数。 ----------

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e7%b4%a0%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e3%82%92%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%81%a8%e5%b0%82%e9%96%80%e5%ae%b6%e3%81%8c%e6%80%92%e3%82%8b-%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e6%98%8e%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%84/ar-BB19k8SY?ocid=ientp

6. 2020年10月09日 14:19:25 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[12] 報告
内田樹 事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1024.html
7. 2020年10月09日 14:27:07 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[14] 報告
内田樹 「なぜ人を殺してはいけないのか?」
20世紀の倫理−ニーチェ、オルテガ、カミュ - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/520.html
8. 中川隆[-10411] koaQ7Jey 2020年10月30日 17:08:56 : IPwRWvJhmw : eTV2MEZEZVBWaVk=[4] 報告
独裁者とイエスマン 2020-10-30
http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html

 日本学術会議の新会員任命拒否に私はつよく反対する立場にある。それは私がこの問題で政府への抗議の先頭に立っている「安全保障関連法に反対する学者の会」の一員であるということからもご存じだと思うけれど、私は一人の学者としてと同時に、一人の国民として、それも愛国者としてこのような政府の動きに懸念と怒りを禁じ得ないでいる。その理路について述べる。

 任命拒否はどう考えても「政府に反対する学者は公的な承認や支援を期待できないことを覚悟しろ」という官邸からの恫喝である。政権に反対するものは統治の邪魔だからである。

「統治コストを最少化したい」というのは統治者からすれば当然のことである。だからその動機を私は(まったく賛成しないが)理解はできる。
 けれども、統治コストの最少化を優先すると長期的には国力は深く損なわれる。そのことは強く訴えなければならない。

 これまでも繰り返し述べてきた通り、 統治コストと国の復元力はゼロサムの関係にある。統治コストを最少化しようとすれば国力は衰え、国力が向上すると統治コストがかさむ。考えれば当たり前のことである。

 統治者は国力を向上させようと望むときはとりあえず国民を締め付ける手綱を緩めて好きなことをさせる。統制がとれなくなったら経済発展や文化的創造を犠牲にしても、国民たちを締め上げる。飴と鞭を使い分ける。そういうさじ加減は為政者には必須の能力であり、すぐれた政治家はこの緩急のつけ方についてのノウハウを熟知している。

 日本の場合、60〜70年代の高度成長期は国力向上のために、国民に気前よく自由を譲り渡した時期である。「一億総中流」はそれによって実現した。おかげで私は10代20代をまことに気楽な環境の中で過ごすことができた。けれども、その時期は同時に市民運動、労働運動、学生運動の絶頂期であり、革新自治体が日本全土に生まれ、あきらかに中央政府のグリップは緩んでいた。その後、バブル期が訪れたが、このときは日本人全員が金儲けに熱中していた。たしかに社会規範は緩み切っていたけれど、とにかく「金が欲しい」というだけだったので、市民の政治意識は希薄だった。足元に札束が落ちているときに、「坂の上の雲」を見上げるやつはいない。

 そして、バブルが終わって、日本が貧しくなると、政治意識はさらに希薄化した。

 ふつうは中産階級が没落して、階層の二極化が進み、貧困層が増えると、社会情勢は流動化し、反政府的な機運が醸成され、統治が困難になるはずだけれども、日本はそうならなかった。市民たちはあっさりと政治的関心を失ってしまったのである。「自分たちが何をして政治は変わらない」という無力感に蝕まれた蒼ざめた市民たちほど統治し易い存在はない。そのことを7年8カ月におよぶ安倍政権は私たちに教えてくれた。

 なんだ、簡単なことだったんじゃないか。統治者たちはそれに気がついた。
 統治コストを最少化したければ、市民たちを貧困化させ、無権利状態に置けばよいのだ。マルクスやレーニンはそれによって「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」プロレタリアート的階級意識が形成され、彼らが蜂起して、革命闘争を領導するだろうと予言したけれど、そんなことはイギリスでもフランスでもアメリカでも起きなかった。もちろん日本でも。

 市民を無力化すれば、市民は無力になる。わかりやすい同語反復である。無力化した市民たちはもう何か新しいものを創造する力がない。ただ、上位者の命令に機械的に従うだけである。当然、総合的な国力は低下し、やがて一握りの超富裕層=特権層と、それにおもねるイエスマンの官僚・ジャーナリスト・学者、その下に圧倒的多数の無権利状態の労働者という三層で構成される典型的な「後進国」の風景が展開することになる。

 今の日本は「独裁者とイエスマン」だけで形成される組織に向かっている。少なくとも、官邸は日本中のすべての組織をそのようなものに改鋳しようと決心している。そういう組織なら、トップの指示が末端まで遅滞なく伝達され、ただちに物質化される。どこかで「これは間違い」と止められたり、「できません」と突き返されたりすることが起こらない。たいへん効率的である。

 だが、この組織には致命的な欠点がある。創造力がないこと、そして復元力がないことである。

「独裁者とイエスマン」だけから成る組織では、トップは無謬であることが前提になっている。だから、メンバーにはシステムの欠陥を補正することも、失敗事例を精査することも許されない。システムのトラブルというのは、同時多発的にシステムの各所が不調になることである。そういうトラブルは、トラブルの予兆を感じたときに自己判断で予防措置をとれる人間、トラブルが起きた瞬間に自己裁量で最適な処置をできる人間たちをシステムの要所にあらかじめ配置しておかないと対処できない。けれども、「独裁者とイエスマン」の組織では、それができない。トップが無謬であることを前提にして制度設計されているシステムでは、そもそもトラブルが起きるはずがないので、トラブルを自己裁量で処理できるような人間を育成する必要がない。だから、「何も問題はありません」と言い続けているうちにシステムが瓦解する。

 トラブルが致命的なものになるのを回避し、崩れかけたシステムを復元するのは、トップとは異なるアジェンダを掲げ、トップとは異なる「ものさし」でものごとを価値や意味を衡量することのできる者たち、すなわち「異端者」の仕事である。

 けれども、「独裁者とイエスマン」から成るシステムはそのような異物の混入を許さない。

 たしかに、短期的・効率的なシステム運営を優先するなら「独裁者とイエスマン」は合理的な解である。しかし、長いタイムスパンで組織の存続とメンバーたちの安寧を考慮するならば、異物を含む組織の方が安全である。

 異物を含む組織は統率がむずかしい。合意形成に手間暇がかかる。

 だから、安全保障のために異物を包摂したシステムを管理運営するためには、成員たちに市民的成熟が求められる。「大人」が一定数いないと堅牢で復元力のある組織は回せないということである。だから、異物を含むシステムでは、成員たちに向かって「お願いだから大人になってくれ」という懇請が制度的になされることになる。

「独裁者とイエスマン」の組織では成員が未熟で無力であることが望ましい。それが統治コストの最少化をもたらすからである。

 今の日本社会では、統治者のみならず、市民たちまでもが「統治者目線」で「統治コストの最少化こそが最優先課題だ」と信じて、そう口にもしている。それは言い換えると「私たちを未熟で無力のままにとどめおくシステムが望ましい」と言っているということである。

 彼らは「大人が一定数いないと回らないシステム」は「統治コストを高騰させる」と思っているので(事実そうなのだが)、「大人がいなくても回せるシステム」への切り替えをうるさく要求する。「対話だの調停だの面倒なんだよ。トップが全部決めて、下はそれに従うだけの組織の方が楽でいい。」それが今の日本人の多数意見である。

 今、行政も、営利企業も、学校も、日本中のあらゆる組織が「管理コスト最少化」に血眼になっているのは、そのためである。「独裁者とイエスマン」の国はそういう日本人の多数派の願望がもたらしたものである。
 たしかにそういう国は統治し易いだろう。市民たちは何も考えず、鼓腹撃壌して、幼児のままで暮らすことができる。けれども、そのような国は長くは生きられない。それは歴史が教える通りである。

http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html

9. 中川隆[-10205] koaQ7Jey 2020年11月04日 20:29:44 : AJ5Znu7Ezo : RUhuckZmTnhWWDI=[61] 報告
内田樹「学術会議について菅首相はこれからも支離滅裂なことを言い続けるだろう」
https://dot.asahi.com/aera/2020110200046.html
2020.11.4 07:02 内田樹 AERA 2020年11月9日号

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

*  *  *
 日本学術会議の新会員任命拒否をめぐって首相の発言が迷走している。任命拒否という違法行為を正当化するために、法解釈が変わったと言ってみたり、リストを見ていないと言ってみたり、会員の多様性に配慮したと言ってみたり、言えば言うほど政権に批判的な学者を排除したという「それを言ったらおしまい」の真相が際立ってくる。

 任命拒否された6人は全員が何らかの形で安倍政権時代に政府批判を行っていた。政府に批判的な態度をとった者は、どれほどその専門分野で卓越していても、公的支援を期待できないという強面のメッセージを新政権の発足にあたってまず発信して、文化人、知識人を震え上がらせてやりましょうと首相の耳元にささやいた「忠臣」の計画は主観的には合理的なものだったと思う。「安全保障関連法に反対する学者の会」のメンバーでありながら任命された学者もいたというあたりの芸が細かい。

 一罰百戒の要諦は同じことをしても、ある者は罰され、ある者は罰されないという一貫性のなさにある。処罰の基準が一貫していると、権力者もまた自分が論理的な人間であると思われたがっているということを暴露してしまう。そうであれば論理的に権力者を説得したり、屈服させたりすることが可能になる。それは権力者を制御する手立てを(原理的には)国民全員が持っているということである。

 国民全員にいつでも為政者の権力の恣意的行使を制御できる権利が保障されている場合、その為政者はあまり「権力的」とは見なされない。それゆえ、為政者が畏怖され、その内心を忖度することが「臣民たち」にとって優先的な責務になる支配者でありたいと願うなら、論理的であることにこだわらないというのは必須の条件なのである。

 だから、これからも首相はこの論件について支離滅裂なことを言い続けると思う。

 権力は論理に勝るという官邸からのメッセージがじわじわと国民に浸透するか、それとも「国民に論理的な人だと思われる気がない為政者が政策の選択に際してだけは例外的に論理的に思量する」ということはあり得ないということに国民が気づくのと、どちらが先だろう。

10. 中川隆[-10105] koaQ7Jey 2020年11月07日 09:13:20 : rBzhPMJiBc : eXgyN1czclhOai4=[12] 報告
7年8カ月かけて「政治の私物化」にならされた私たち…内田樹がそれを「野蛮」と呼ぶ理由〈AERA〉
http://www.asyura2.com/20/senkyo277/msg/187.html

2020.11.5 08:02 AERA dot. 


コロナと生きる (朝日新書) 内田 樹,岩田健太郎
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022950897/asyuracom-22/


 長期政権後の菅新政権が幕を開けた。7年8カ月に及ぶ前政権の“置き土産”について、「文明」と「野蛮」の視点から読み解くその正体とは? 「一冊の本」11月号(朝日新聞出版)に掲載された、最新刊『コロナと生きる』(岩田健太郎氏と共著)が好評の思想家・内田樹氏による寄稿を、特別にお届けする。

*  *  *

■野蛮な時代の正体

 政治権力を公共の福利のためではなく、政治家自身が私利私欲のため、あるいは個人的な政治的イデオロギーの実現のために用いることを「私物化」と呼ぶのだとしたら、今の日本では政治過程のほぼすべてが「私物化」されている。けれども、国民たちは別にこれを「決してあってはならないこと」だと思っているようには見えない。権力者というのは「権力を私的な目的のために濫用することができる人」のことだと多くの日本人は思っているからである。

 一般市民がなした場合には法律上の罪に問われるようなことでも、権力者やその身内がなした場合には看過される。そういう事例を私たちはこの7年8カ月の間に繰り返し見せられてきた。そして、「世の中というのはそういうものだ」という諦観にしだいになじんできている。

 だから、政治家の汚職や不祥事のニュースでも「公人ともあろうものが」と眉根を逆立てるというような感情的なリアクションは、最近のニュースキャスターはしなくなった。そもそも「公人」という言葉が死語になりつつある。「公人」というのは「支持者も反対者も含めて全国民の利害を代表するもの」のことである。そう聞いても多くの人は意味がわからないだろう。何が悲しくて「自分の反対者も含めて」すべての人を代表しなければならないのか? われわれが議席を獲得し、多数派を形成しようとしてきたのは、「反対者を黙らせるため」ではないのか、と。

 そういう社会のあり方を「野蛮」と呼ぶ。私が言っているのではない。オルテガ・イ・ガセットがそう言っているのである。

 オルテガは『大衆の反逆』(1930)で「文明とは共同生活への意志のことである」と書いた。「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことができるというのが文明の目標である、と。

 文明の反対概念が「野蛮」である。野蛮とは「分解への傾向」のことである。人間が分散し、たがいに分離し、敵意をもつ小集団に社会が分断されるのが「野蛮な時代」である。政治的対立と国民の分断を私たちは「ふつうのこと」だと思っているけれども、オルテガはそれこそが「野蛮」だと言うのである。

 野蛮な人たちは人を説得しようとしない、自分の思想を情理を尽くして伝えようという努力もしない。ただ多数を制して、力まかせに強要する。説得や正当化を試みないのは、聴き手の知性や判断力に信を置いていないからである。

「野蛮な時代」を条件づけるのは、単にそこでは強力なものが勝つというだけのことではない。人々にことの理非正邪を判定する能力がないということである。

 政治家が有権者の知性や判断力に信を置かないとき、政治は野蛮なものになる。人々の見ている前で、実際に反対者を抑え込み、黙らせて、屈辱感を与えて、どちらが「強い」かを誇示してみせないと、人々にはどちらに理があるかわからない、それくらいに人々は愚鈍だと政治家が思っているとき、政治は野蛮になる。

■権力の私物化の実相

 私自身は論争ということをしない。絡まれてもやり過ごす。論争には意味がないと思うからである。私があることを述べた。それを「間違いだ」と言う人がいる。私の言明にはそれなりの根拠があり、私を誤りとする人の言明にもそれなりの根拠がある(はずである)。でも、どちらに理ありとするかは他の人たちが判断することである。世間の耳目を集めてから、殴り合ってみせて、勝敗の結果をご披露しないと、どちらに理があるかわからないだろうというのは論争当事者の思い上がりである。

 私は「自由な言論の行き交う場」の審判力を信じている。だから、私は私の言明を「言論の自由に行き交う場」に置く。他の人もそれぞれの持論をそこに置く。何年か何十年か経ったあとに、どれかが残る(何も残っていないかも知れない)。でも、それは私が決めることではない。言論の場が決めることである。私がそこに出て行って、他人の言論を叩き出す必要はない。消えるべきものは消えるし、残るべきものは残る。それくらいには私は長期的・集団的な叡智を信じている。

 だから、私はオルテガとともに「文明」の側に立つ。「文明の側に立つ」というのは異論異説が共生できる場を守るということである。それが「公共的」にふるまうということのいちばん根本にあることだと私は思う。

 政治家がどうして権力を私物化するようになったのか。オルテガ風に言えば、どうして政治家は「野蛮」になったのか。それは「他者と共生する」ということの大切さを忘れたからだ。「理解も共感も絶した他者」とでも私たちは場を共有し、折り合いをつけ、場合によっては協働して、何か価値あるものを創り出すことができる。それが「文明」というものだ。

 繰り返すが、「公人」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことができる人間のことである。少なくとも、統治にかかわる人間はそういう理想をめざすべきだと思う。

 でも、公人として生きることはむずかしい。一つには倫理的な痩せ我慢を強いられるからである。「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」という古諺がある。公人はすももの木の下では冠の紐が緩んでもかぶり直してはいけない。瓜の畑では靴が脱げても履き直してはいけない。さぞや不快ではあろうが、公人はその不快に耐えなければならない。というのは、公人においては「正しくふるまうこと」と同じ位に、あるいはそれ以上に「正しくふるまっているように見えること」が重要だからである。「よそ眼には罪を犯しているように見えたかもしれないが、実は犯してない」という言い訳は公人には許されない。公人は「推定有罪」なのである。それが嫌だという人はそもそも公職をめざすべきではない。

 もう一つの困難さは、全国民の利害を等しく配慮して政治を行った場合、全国民の不満の程度が均されるようなところが「おとしどころ」になるということである。だから、公共に配慮した場合、「全国民がまったく同じ程度に不満顔であること」が比較的ましな成果だということになる。

 だから、支持者の熱狂や喝采を求めて政治家になった人間は公人としてふるまうことを嫌うようになるのである。それよりは自分の支持者の要望を100%満たして、彼らが欣喜雀躍する姿を見ている方が気分がいい。反対派の要望には「ゼロ回答」で応じて、彼らが屈辱感に打ち震えるのを見る方が気分がいい。

 国民を敵味方に分断して、敵意をもつもの同士がいがみ合っている状態が実は一番統治し易い。そういう考え方をする政治家が世界中で増えている。統治の効率性だけを考えれば、それで正しいのかも知れない。

 けれども、そういう社会では人々は次第に「共同生活への意志」を失い、「他者と共生する」能力も衰える。いずれ人々は自分たちがどうして一つところで、理解も共感もできない人間たちと我慢して暮らさなければならないのか、その理由さえわからなくなるだろう。そのとき文明の命脈も絶える。そして、私たちの社会はいまそちらに向かっている。

11. 中川隆[-10064] koaQ7Jey 2020年11月08日 16:04:59 : clChoBGbOA : L3dzaVcvS1dSVkE=[22] 報告
文春オンライン
なぜ日本は自発的に「貧困化」へと向かうのか? 内田樹が語る“日本再建のビジョン”
内田 樹 2020/11/08

新型コロナウイルスの危機はグローバル資本主義のあり方に急激なブレーキをかけ、疑問符を投げかけた。今後、アンチグローバリズムの流れで地域主義が加速すると分析する思想家の内田樹が、新著『 コモンの再生 』にこめた日本再建のビジョンを語る。(全2回目の1回目。 後編を読む )

◆◆◆

――ポストコロナ時代における1つの大きな見立てとして、今後、「地域主義」が加速していくというのはどういうことでしょうか。

内田 パンデミックによってヒトとモノの流れが停滞して、グローバル資本主義が事実上、機能不全になりました。クロスボーダーに人と商品と資本と情報が超高速で移動することを前提に制度設計されてるのがグローバル資本主義です。

内田樹氏© 文春オンライン 内田樹氏
 電磁パルスはこれからも国境を越えて移動するでしょうけれど、生身の人間は身動きがならない。そして、生身の人間が移動しないとどうにもならないことが世の中には思いがけなくたくさんあった。これから先も間欠的に新型ウイルスが発生して、その都度パンデミックが起きるとすると、早晩グローバル資本主義というシステムは破綻するでしょう。

 今回わかったことの1つは、「本当に必要なもの」が金で買えないことがあるということです。ビジネスマンたちは「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」という「在庫ゼロ」を理想とするジャスト・イン・タイム生産システムにこれまでなじんできました。とくにアメリカではそれが徹底していた。ですから、感染拡大の初期には、防護服やマスクまで戦略的備蓄がほとんどなかった。その後「主要な医療器具と医薬品に関しては、輸入に依存せず、国産にする」と方針を切り替えました。

 事情はヨーロッパも同じです。イタリアは医療崩壊したときにドイツとフランスに支援を求めましたが、両国とも医療品の輸出を禁止した。危機的事態になると友邦さえ門戸を閉ざすということをそのとき世界の人々は学んだ。ですから、医療品やエネルギーや食料といった社会にとって必要不可欠なものは、たとえ国際価格より割高でも自国内で調達できる仕組みにどこの国も切り替え始めてゆくと思います。

中産階級が没落し、市民の政治参加意欲が失われた日本
――日本でも深刻なマスク不足がおきて、国内での増産体制を強化しました。

内田 グローバル資本主義では、メーカーは税金が安く、人件費が安く、環境保護規制がゆるいところに生産拠点をアウトソースしてきました。でも、そういう手荒なやり方自体がこれからはもう成り立たないでしょう。

 生産拠点を海外に移せば、国内の雇用が失われ、賃金が下がり、国内市場は縮小します。でも、企業は「国内の購買力が落ちたら、海外に市場を求めればいい」と考えて、国内市場を底上げする努力を怠ってきた。その結果、ブラック企業が増え、雇用条件は劣化し、中産階級が痩せ細り、消費は冷え込み、階層の二極化がさらに進んだ。

 でも、中間層の空洞化はもともとはビジネスサイドの要請に応じたらそうなってしまったということですけれど、実際にそうなってみたら、政治的に望外の結果が得られた。それは政権の安定です。国民が貧しくなったら、統治コストが安く上がるようになった。

 普通に考えると、中産階級が没落してプロレタリアート化すると、この「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」人々は収奪されたものを奪還するために立ち上がって、革命を起こすはずなのですが、そうはならなかった。貧困化し、権利を奪われた市民たちは、ただ無力化し、政治への期待を失っただけでした。考えてみれば、たしかにそうなって当然だったのです。

 近代史を振り返ると、中産階級が勃興すると、市民の政治意識が高まり、それが市民革命をもたらしました。ということは、逆から考えると、政治意識の高い中産階級が没落して、貧困化し、無力化すれば、むしろ市民の政治参加意欲は失われる。そんな歴史的実験をした先進国はこれまでありませんでしたが、日本ではそれが起きてしまった。

 実際に中産階級が痩せ細って、プロレタリア化したら、彼らは無力化して、政治参加意識を失い、むしろ消極的にではあれ政権を支持するようになった。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という手垢のついた事大主義的な言明を上から下まで、知識人から労働者までが唱和するようになった。「国民が貧乏になると、国民は統治し易くなる」という意外な命題が成立したのでした。

 振り返れば、1960〜70年代の高度成長期、国民が「1億総中流」化した時代は「荒れた時代」でもありました。学生運動も市民運動も労働運動もその時期が一番激しかった。革新自治体が日本中に広がったのもその頃です。経済がぐいぐい成長し、若い人たちが元気に走り回り、あらゆる分野でイノベーションが起き、国としての発信力が高まった時には、実は中央政府によるコントロールが難しい時期だった。国運の向上期には統治コストが嵩むということです。

 だから、その逆に、経済活動が非活性化し、貧困化が進むと、国民の権利意識は萎縮し、政治運動は沈静化する。統治する側から見たら、ありがたい話なんです。統治コストを最少化しようと思ったら、国民を無権利状態に落とせばいい。福祉制度を空洞化し、社会的弱者は「自己責任で弱者になったのだから、公的支援を期待すべきではない」と突き放す。国民たちは貧しくなればなるほど、口を噤んで、黙って下を向くようになる。なにしろ「現状を改革したければ、現状を改革できるくらい偉くなってから言え」という強者の理屈に社会的弱者たちが進んで拍手喝采するような世の中なんですから。

国民を無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がない
――貧困化で統治コストが最少になるというのは、ドキリとする指摘です。

内田 安倍政権の7年8ヶ月の成功体験だと思います。安倍政権は反対する国民については、これを「敵」と認定して、その意向をすべて無視しました。逆に、自分の身内や味方には公権力を使って便宜を図り、公金を使って厚遇してきた。ふつうはそんなことすれば国民が怒り出すはずですけれども、そうならなかった。あまりに当然のようにはげしい身びいきをしたせいで、国民はすっかり無力感に蝕まれてしまった。権力のある人は何をしても処罰されないのだ、権力者は法律より上位にあるのだと国民は信じ始めた。そのような圧倒的権力者に逆らっても仕方がない、大人しく服従しようということになった。

 その時の成功体験を踏まえて、菅政権もそれと同じことをしようとした。反対者を潰し、社会福祉制度は骨抜きにして、中産階級の無権利化をさらに進めるつもりでいると思います。

 お隣の中国は、監視カメラによる顔認証システムやSNSでの発言チェックやカード利用歴のビッグデータを利用した全国民監視システムを作り上げました。国民監視のために膨大な国家予算を投じている。治安対策費が国防予算を超えたと聞いています。それだけの統治コストをかけるのは、国民が中産階級化してきたからです。豊かになると市民の権利意識が高まり、政治的な動きが始まる。そのことを中国政府は恐れているのです。

――2億台を超える監視カメラによる顔認証システム「天網」が中国全土に導入されていますね。

内田 ところが日本ではそんなことのために予算を使う必要がない。中国とは逆に、国民が貧しくなるにつれて、権利意識が希薄になり、政治参加意欲が減殺されているからです。うっかり反政府的なことを口走ると、すぐにお節介な奴らが「こいつ反日ですよ」とご注進に及んでくれて、公的な場から叩き出し、公的支援を止めるように陳情してくれる。だから、政府には国民監視の実務をする必要がない。官邸で寝転んでテレビを見て、「問題発言」をする人間をブラックリストに書き足すくらいの仕事で済む。マイナンバーとかほんとは要らなかったんです。別に大金をかけて国民監視システムを作るより、国民を貧乏で無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がないほど弱体化するんですから。今や統治コストの安さにおいて、日本は東アジアでは群を抜いていると思います。

 自民党の西田昌司議員が「そもそも国民に主権があることがおかしい」と発言する画像がネットでは繰り返し流されていましたけれど、あれはまさしく自民党の本音だと思います。うっかり国民の意見を聞くと、国民の側に権利意識が芽生える。次々と要求してくる。1度でもそれを聞いてしまうと、病みつきになって、どんどん要求が増えてくる。だから、初めから「お前たちの要求は何も聞かない。お上が施してくれるものを口を開けて待ってろ」と、ピシッと言って聞かせた方がいい。そう考えている。

社会的弱者を攻撃する「貧乏マッチョ」な人たち
 統治コストを最少化したければ、国民に権利を与えないのが一番いい。口には出しませんが、今の自民党の政治家はそのことがわかっている。とはいえ、国民がみんな死んだような顔になって、社会がどんより暗鬱なものになり過ぎるとそれはそれで困る。だから、ときどきは五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだと中味のない景気のいい話で気分を盛り上げる。そんなのは所詮「打ち上げ花火」で一過性の効果しかないことは仕掛ける側だってわかっています。本気でもう1度経済をV字回復させようと思ったら、戦後日本の成功体験は「1億総中流」しかない。でも、それだけはやりたくない。だから、国運が衰微することと、国民が無力化して統治コストが安く済むことのどちらがいいか天秤にかけて、安倍政権は国運の衰微を選んだのです。

――政権批判はかっこ悪い、デモに参加するなんて「ダサい」みたいな空気もここ数年で急に強まった印象があります。

内田 そうです。デモをしたりするのは社会的弱者であることをカミングアウトすることであり、それは恥ずかしいことだという考え方がもう深く広まっています。弱者に転落したのは自己責任だから、公的支援を期待してはならないと言い出したのは英国のサッチャー首相です。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉社会から「小さな政府」への切り替えは70年代に始まりましたが、その時に「社会など存在しない」とサッチャーは公言して、労働者階級を攻撃しました。それに当の労働者たちが拍手喝采した。「福祉制度のフリーライダーは国民の敵だ」というアイディアを最も熱烈に支持したのは労働者階級でした。

 オレは貧乏になっても国には頼らない、自己責任で貧苦に耐えると宣言する「貧乏マッチョ」な人たちが福祉制度の受益者である社会的弱者を攻撃する先頭に立った。そうやって労働者階級は分断され、市民のアトム化が進行して、市民たちの権利意識は希薄化し、統治コストは削減されました。この新自由主義の流れはそれからずっと続いています。アメリカでも、日本でも、それは変わりません。トランプの最も熱烈な支持者はまさにこの「貧乏マッチョ層」ですから。

――たしかにみなが互いに協力して守り合うという感覚が現代社会では極めて希薄です。

内田 相互支援のための互助的なネットワークの解体を進めたのは、マーケットと政治です。マーケットの側の理屈では、相互支援ネットワークが存在して、身内の間では市場を介さずに商品やサービスが活発に行き来すると、資本主義的には困ったことになります。ものが売れないから。だから、まず血縁・地縁共同体を解体した。市民を孤立させれば、生きるために必要なものは市場で、貨幣を投じて調達しなければならない。資本主義の発展のためには相互支援ネットワークは邪魔なんです。

 政治の側の理屈で言うと、市民を孤立させ、無力化させると統治コストは削減される。この点でマーケットと政治の利害が一致した。国民を分断して、誰からも贈与されず、誰からも支援もされない状態に置いた方が消費活動は活性化するし、統治はし易くなる。いいことずくめじゃないかという話になった。

 そういう歴史的文脈の中で、再び相互支援の公共性を再構築することが喫緊の課題だと僕は考えています。それが「コモンの再生」というこの本のテーマです。

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『サル化する世界』『日本習合論』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。

「僕が死んだあと、私有地も道場も“面倒な”コモンにする」 内田樹が門徒に苦労させるワケ へ続く

(内田 樹/ライフスタイル出版)

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%81%aa%e3%81%9c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e8%87%aa%e7%99%ba%e7%9a%84%e3%81%ab-%e8%b2%a7%e5%9b%b0%e5%8c%96-%e3%81%b8%e3%81%a8%e5%90%91%e3%81%8b%e3%81%86%e3%81%ae%e3%81%8b-%e5%86%85%e7%94%b0%e6%a8%b9%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%86%8d%e5%bb%ba%e3%81%ae%e3%83%93%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3/ar-BB1aNqud?ocid=ientp

12. 中川隆[-16171] koaQ7Jey 2021年10月02日 05:56:31 : u8uuqDZBrs : WEpjMlNBaVNvL1E=[1] 報告
 『複雑化の教育論』まえがき
2021-09-30
http://blog.tatsuru.com/2021/09/30_1548.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 本書は2020年の夏から2021年の3月まで3回にわたって行った教育についての
講演を書籍化したものです。
 もともとは日本各地に赴いて、現地の学校の先生たちを前にして、僕が講演してから、フロアの先生方と対話をするという旅もの企画でしたが、ご承知の通りに、感染症拡大のために対面での講演が難しくなり、ツァー計画は放棄せざるを得なくなりました。代わりに神戸の凱風館(僕が主宰している道場・学塾)で行うことになりました。10人から15人ほどの聴衆においで頂き、その方たちの前で僕が2時間ほど話をして、それから質疑応答をするというやり方です。とりあえず、「人前で話す」というかたちは整えることができました。聴講者の募集・会場の設営・録音・文字起こしなどは東洋館出版社の刑部愛香さんに仕切って頂きました。お骨折りに感謝いたします。
「複雑化の教育論」というタイトルも刑部さんの提案です。どこかで僕が「教育の目的は子どもたちの成熟を支援することであり、成熟とは複雑化することだ」と話したのを聴いてくださって、「複雑化」という語が印象に残ったようです。
 まえがきとして、そのタイトルの意味について少しだけ思うところを書いておきたいと思います。

 たしかに教育を語る人の中で「子どもたちがより複雑な生き物になることを支援するのが教育の目的だ」というようなことを主張する人はあまりいません。知識が増えるとか、感情が豊かになるとか、コミュニケーションがうまくなるというようなことを「成熟」の指標にとる人は多くいますが、「前より複雑な生き物になった」ことを成熟の徴として言祝ぐというような人はあまり見たことがありません。
「前より複雑な生き物になった」場合、子どもたちはこれまで見たことのない表情を浮かべ、聴いたことのない語彙を用いて語り始め、これまでしたことのないふるまいをするようになるわけですけれど、子どものそういう変化を見て、もろ手を挙げて喜ぶ...という親も教師も、あまりいなさそうです。たしかに、昨日までとは違う人間を相手にすることになるわけですから、当惑することはあっても、喜ぶというリアクションはあまり期待できません。でも、僕は子どもの複雑化を素直に喜ぶことは大人のたいせつな職務の一つだと思います。
 別人になった子どもに向き合う大人より、別人になってしまった子どもの方がずっとたいへんだからです。一番当惑しているのは本人です。「昨日までの自分」のままではいられないというのは、自分の意志では統御できない変化なんです。生物の幼生がそれまでの殻を脱ぎ捨てて、次の段階に変態するようなものです。自分の意志でそうしているわけではありません。そうせずにはいられないのです。でも、複雑化したからと言って、子どもは「昨日より幸福になる」わけでもないし、「昨日より自由になる」わけでもないし、「昨日より強くなる」わけでもありません。長期的に見ればそうなる確率は高まるのですけれども、即席な効果は期待できません。複雑化した子どもはただ「昨日より複雑になる」だけです。
 でも、そういう複雑化プロセスを連続的に繰り返す以外に子どもたちが成熟する道筋はありません。だから、教師も親も、周りの大人たちは決然として子どもの複雑化を支援するという立場を選び取る必要がある。僕はそう考えています。

 どうしてわざわざ「複雑化」なんていうあまり教育現場で使われない言葉を僕が持ち出してきたかというと、複雑化というのは数値的に計測することができないものだからです(まったくできないわけではありませんが)。
 複雑化は計測不能である。それがとても重要なことなんだと思います。
 長さも重さも大きさも、ちゃんとそれを計る「ものさし」があります。でも、複雑化を計る「ものさし」は僕たちの手元にはありません。
 複雑化するときに起きているのは量的な変化ではありません。それは「表情の変化」「手触りの変化」「雰囲気の変化」というようなものです。表情が深くなる、声の厚みが変わる、身動きの分節が変わる。もちろん、変化が生じている以上、精密な計測機器があれば計測可能なんでしょうけれど、僕たちの手元にはそのための「できあいのものさし」がありません。ですから、子どもたちの複雑化を計測しようとしたら、「ものさし」はその場で手作りしなければならない。簡単な仕事ではありません。
「複雑化する子ども」に向き合い、その成熟を支援するというのは、周りの大人たちに集中力と発明の才を要求する、まことに骨の折れるプロセスなんです。
 それでも、僕は子どもたちの成熟の指標として、「複雑化」ということをできれば最優先に掲げたいと思っています。
 あらゆる社会制度について言えることだと思うのですけれど、その制度を利用する人たちの市民的成熟を要求する制度は「よい制度」です。
 例えば、民主制がそうです。
 独裁制なら「賢い独裁者」に丸投げして、市民たちは「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」して、わが身のことだけ考えていればよい。市民が「子ども」でも独裁制は機能する。でも、民主制ではそうはゆきません。「公共の福祉」を配慮して、そのために自分に何ができるかを考える「成熟した市民」が一定数いないと民主制は機能しません。民主制はメンバーに「大人になってくれ」と懇請する制度です。その遂行的な力ゆえに民主制は他のどの制度よりもすぐれていると僕は思っています。
 教育制度も同じです。僕は社会制度をどれも同じ基準で評価します。その制度をきちんと機能させるためには、制度運用者たちの(全員とは言いませんが)一定数が「まともな大人」であることを必要とする制度は、運用者たち全員が「幼児」でも運用できる制度よりもよい制度です。僕はこの基準だけは譲りません。運用者自身に成熟を要求する制度が、子どもたちを成熟させる制度としては最も「できがよい」ものである。僕はそう信じています。

 教育にかかわる「一定数のまともな大人」の頭数をひとりでも増やしたい。それが僕がこの本を書いた最大の動機です。分かりにくい話だということは分かっていますが、本書を最後までお読み下さったら、きっと僕が言いたいことはみなさんにもお分かりいただけると思います。では、また「あとがき」でお会いしましょう。

2021年9月
内田樹
http://blog.tatsuru.com/2021/09/30_1548.html

『複雑化の教育論』まえがき
2021-09-18
http://blog.tatsuru.com/2021/09/18_1557.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『複雑化の教育論』は教育についての講演録です。2020年の夏から2021年の3月まで3回にわたって行った講演を書籍化しました。
 日本各地に赴いて、現地の学校の先生たちを前にして、僕が講演してから、フロアの先生方と対話をするという企画でしたが、コロナ禍のために対面での講演が難しくなり、全国ツァー計画は放棄せざるを得なくなりました。代わりに3回とも神戸の凱風館(僕が主宰している道場・学塾)で行うことになりました。
 10人から15人ほどの聴衆においで頂き、その方たちの前で僕が2時間ほど話をして、それから質疑応答をするというやり方です。少人数ではありましたが、とにかく「人前で話す」というかたちだけは整えることができました。聴講者の募集・会場の設営・録音・文字起こしなどは東洋館出版社の刑部愛香さんに仕切って頂きました。お骨折りに感謝いたします。
「複雑化の教育論」というタイトルも刑部さんの提案です。どこかで僕が「教育の目的は子どもたちの成熟を支援することであり、成熟とは複雑化することだ」と話したのを聴いて、その時の「複雑化」という語が印象に残ったようです。「まえがき」として、そのタイトルの意味についてちょっとだけ書いておきたいと思います。

「子どもたちがより複雑な生き物になることを支援するのが教育の目的だ」というようなことを主張する人はあまりいません。ふつうは知識が増えるとか、感情が豊かになるとか、コミュニケーションがうまくなるというようなことを「成熟」の指標にとります。それでももちろん構わないのですけれども、子どもにおけるほんとうに大きな変化は「昨日より複雑な生き物になった」というかたちで現れると僕は思っています。これまで見たことのない表情を浮かべ、聴いたことのない語彙を用いて語り始め、これまでしたことのないような身動きをするようになる。
 教師や親にしてみると、ちょっとショックです。ですから「当惑する」ということはあっても、「喜ぶ」というリアクションはあまり期待できない。でも、僕はここで大人は喜ばないといけないと思うのです。
 大人たちは当惑しますけれど、それ以上に当惑しているのは本人の方です。なにしろ、「別人」になってしまうんですから。なりたくてなったわけじゃないんです。「複雑化しよう」と自己決定して、自己努力の成果として変わったわけじゃないんです。
 量的な変化なら自己決定・自己努力で達成できます。体重を増やそうとか、声を大きくしようとか、俊敏に動こうというようなことならある程度までは自分で統御できます。でも、「複雑になる」というプロセスは統御できません。単細胞生物が多細胞生物になるようなものだからです。単細胞生物がより複雑な生き物になる時に、あらかじめ「下絵」を書いたり、工程管理をしたりすることができません。だって、多細胞生物がどんなものか知らないんですから。
それと同じです。子どもがより複雑な生き物になるというプロセスがどういうものかは、なってみないと分からない。気がついたら、複雑になっていた。
 それはさまざまな「行(ぎょう)」の構造とよく似ています。宗教的なものであれ、武道的なものであれ、あるいは芸事の修業であれ、「行」というのは「前に進む」ということだけがわかっていて、いつ・どこにたどりつくことになるのかは分かりません。「行」の場合には「先達」がいますので、ただその背中についてゆくです。どこに向かっていて、いま全行程のどの辺まで来たのか、その行程を走破するとどういうことが起きるのか、そういうことを先達は何も教えてくれません。言ってもしょうがないからです。仮に目的地はどこかを言葉で言ってみても、その語は修業者の手持ちの語彙にはないからです。だから、たとえ聴いても意味がわからない。
 武道の修業もそうです。それまで自分の身体にそんな部位があるとは知らなかった部位を操作できるようになり、そんな動きができると思ってもいなかった動きができるようになった後に、これまで自分が稽古してきたことの意味がはじめてわかる。
 行の意味は事後的にしか開示されません。だから事前に「この行の目的はね...」というふうに説明をすることができない。
 子どもが複雑化するプロセスも「行」に少し似ています。子どももまた自分の「先達(メンター)」を無意識のうちに探しています。それは身近にいる具体的な人の場合もあるし、読んだ物語や観た映画に出てきた虚構の人の場合もあるし、あるいは現実や想像の断片を繋ぎ合わせて手作りしたぼんやりした「像」の場合もあります。それが日ごとに入れ替わることもある。でも、とにかく「その人の背中を見ながら前に進む人」がいる。それに導かれて、気がついたら昨日よりも複雑化していた。もう「昨日までの自分」のままではいられない。表情も、声も、身ぶりも、話すことも、興味を抱くものも、全部変わる。どれか一つ変わると全部が変わる。記号体系というのはそういうものですよね。「歯触りがよい」とか「喉ごしがやさしい」というような言葉を一つ学習したら、それまでそれ一本でやってきた「美味しい」という 
 言葉のニュアンスがもう前と同じではなくなる。それと同じです。
 複雑化というのは、自分の意志では統御できない変化なんです。複雑化したからと言って、子どもは「昨日より幸福になる」わけでもないし、「昨日より強くなる」わけでもないし、「昨日よりも勉強ができるようになる」わけでもない。そういう即席の、分かりやすい効果がある変化ではないのです。でも、子どもたちはそういう複雑化の連続的なプロセスをたどることによって成熟の階梯を上ってゆきます。それ以外に成熟の道筋はありません。
 そうである以上、われわれ大人は子どもたちが複雑化することを全力で支援しなければならない。少なくとも、複雑化することは君たちにとって少しも不利益をもたらさないということを保証してあげなければならない。
 でも、それがなかなかできない。だからこそ、僕はわざわざ「複雑化」というあまり教育現場で使われない言葉を持ち出してきたのです。
 教師も親も子どもの成熟を評価するときに「より複雑化したかどうか」ということを見る習慣がないからです。複雑化は数値的に計測することができないからです。
 量的な変化であれば、それを計る「ものさし」があります。身長が伸びるとか、体重が増えるとか、偏差値が上がるとかは数値で計れます。でも、複雑化をはかる「ものさし」はありません。複雑化するときに起きているのは量的な変化ではないからです。表情に深みが出る、声の響きが変わる、身動きの分節が細かくなる...などなど。もちろん変化がある以上、精密な計測機器があれば計測は可能でしょう。でも、それは「できあいのものさし」で数値的にはじき出すことはできない。
 例を一つ挙げます。
 前に、僕の道場でも、小学生を集めて、合気道の少年部を始めることになりました。子ども好きの女性の門人たちが担当してくれました。合気道にも段や級があります。ふつうは五級から始まって、1級になって、それから初段、二段・・・と上がってゆきます。
 始まってしばらくして少年部の担当者から、子どもたちのために10級から6級までというグレードを新設したいのだけれど、いいだろうかと訊いてきました。正式の免状は出ないのですけれども、子どもたちの稽古の励みになるならと思って「いいですよ」と許可しました。
 それからしばらくして担当者が1つの級をABCの三段階に分けてもいいかと訊いてきました。つまり、10級のCから6級のAまで全部で15段階に分けたいというのです。「なんでそんなややこしいことをするの?」と訊いたら、親からの要望なのだというのです。子どもの修業の進度をできるだけ頻繁に、かつ数値的に表示して欲しいと親たちが要望してきたのです。なんと。
 僕はちょっと驚きました。だって、自分の子どもが武道の稽古に通っていたら、その変化は歴然としていると思ったからです。ご飯をたくさん食べるようになったとか、よく寝るようになったとか、首まわりに筋肉がついてきたとか、正座の姿勢がよくなったとか...、無数の徴候が検知できるはずです。でも、子どもの変化を分かりやすく数値で示して欲しいと親は言う。
 僕はこれにはかなり愕然としました。インストラクターに修業の進度を数値表示してもらわないと子どもの変化が「分からない」というような親がいるのだろうかと思ったのです。でも、いるのかも知れません。さまざまな場面で、子どもの変化を「数値的に表示する」という習慣になじんでしまったせいで、子どもの身に起きたアナログで微細な変化を観察するということができなくなってしまった親がいるかも知れない。だとしたら、これはかなりシリアスな事態だと僕は思いました。
 それ以後、わりと注意して親や教師たちの言動を見てきたのですが、「数値的に考量できない変化をどうやってきちんとモニターするか」という問題にまっすぐ取り組んでいる人があまりいないということに気づきました。定量的な変化を精密化することにはずいぶん熱心なのですけれども、定性的な変化を吟味できるような精密な「計測能力」を手作りしようと努力している親や教師にはなかなか出会うことがありませんでした。「複雑化の教育論」というのは、僕の側のそういう問題意識に基づいて書かれたものです。
 3回の講演を通じて着々と結論に向かって接近してゆく...という作りではなくて、同じ一つの論件をいくつかの視点から「ああでもない、こうでもない」と吟味しています。ですから、みなさんはどこから読まれても構いません。ぱらりとめくって、何となく興味を惹くトピックがあれば、そこから読み出してくださって結構です。
ではまた「あとがき」でお会いしましょう。

http://blog.tatsuru.com/2021/09/18_1557.html

13. 中川隆[-15145] koaQ7Jey 2021年11月24日 13:27:00 : 34RYzVL0Ss : dk5pdEs0MHRvU0E=[22] 報告
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html

内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/647.html

内田樹 事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1024.html 

内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html

内田樹 聖者とは何も考えないアホの事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/980.html

「恥の文化」の力
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/778.html

格差について - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1133.html

国民国家 対 グローバル資本主義
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1326.html  

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