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「恥の文化」の力
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投稿者 富山誠 日時 2013 年 5 月 03 日 09:59:10: .ZiyFiDl12hyQ
 

このところ特に強く感じるんですが、最近の日本人って、ホントに自信を失ってますよね。といっても、周りの大学生などと話していると、若い世代はそれほどでもないように思うのですが、50代後半〜60代ぐらいの人たちは、なんか日本は経済も文化も根本的にダメダメみたいな感情をもっているように思います。

だから、「バスに乗り遅れるな」とか「世界の孤児になってもいいのか」「これからは英語、英語、留学、留学、トーフル、トーフル」「アジアに打って出るしかない」みたいな強迫的ともいえるグローバル化衝動が生じるのかなあなどと日々感じております。

こういう日本人の自信のなさの背景には、一つは、日本の道徳に対する不信感があるようです。

たとえば、「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ〜というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね。

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/

 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年5月03日 10:23:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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【施 光恒】続・「恥の文化」の力


前回のメルマガのあと、周囲の学生から、

「日本の道徳は、「世間様」だけじゃなくて、「お天道様」も重視しますよね。この二つって、どういう関係なんですか?」

と尋ねられました。



また、メルマガのHPやフェイスブックのコメントにも、「お天道様」関係に触れたものをいくつかいただきました。

私も、日本の道徳は、「世間様」だけでは終わらず、「お天道様」の目を意識するようになるのが本来の姿だと思います。単なる世間様倫理だけではないですよね。

ですが、前回書きましたように、ベネディクトの議論などの影響を受けて、

「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で主体性がなく同調主義的だ!」

というイメージがいまでも結構、根強いみたいです。
(´_`;)トホホ

少々前の本ですが、一昔前のいわゆる「進歩的文化人」っぽい政治学者の本を読んでいたら、こういう趣旨のことが書いてありました。

「日本人が水戸黄門のドラマが好きなのは、日本人が、オカミに弱いからだ。権威に従属したり、権威にすべてを委ねてしまったりするのが好きなのだ」。

この進歩的文化人氏以外にも、『水戸黄門』についてこういうふうに語っている人、いまでもときどきいるように思います。大手新聞の社説とかにも、この手の観点から日本人をくさして、「だから日本人は新しい規範意識を身につけ、主体性をもった市民に生まれ変わるべきだ」みたいなの、結構ありそうです。

でも、日本の道徳に対するこういう見方って、一面的過ぎですよね。

確かに、日本人は、ふだんは他者との調和を好む人が多いと思いますが、時と場合によっては、その時代の大多数の人々の見方である「世間様」の見解に逆らっても、自分の信じる道を貫こうとする人もたくさんいますよね。

「世間が分かってくれなくても、己を貫き、歯を食いしばってがんばっていこう」。

そういう強さをしっかり持っている日本人も、決して少なくないと思います。

「世間様」だけではなく、「お天道様」を意識するようになるとはどういうことなのか、少し考えてみたいと思います。

確かに、日本人が、「人目を気にする」ことは多いようです。
発達心理学の本などをみると、子供のしつけの際に「他者が自分のことをどう見ているかを意識させることが多い」というのは、日本の子育ての一つの特徴のようです。

これは別にへんなことでもなんでもなく、他者の目から自分をみることを覚えさせようとしているのだと思います。他者の目を意識して、他者の観点から自分を振り返る。そして悪いところがあれば改めることを学ばせる。そういうことなのでしょう。

子供は、だいたい最初は、母の目を意識することを覚えます。次に父親、兄弟姉妹、友達、先生、先輩後輩、近所の人…という具合に、だんだんと意識する対象が広がっていきます。そして、いろいろな人のもの見方を、当人なりに整理して作り上げたのが、「他者の一般的な見方」である「世間の見方」といえるでしょう。

子供は、成長のある段階で「世間の見方」を身につけます。そして世間一般の観点から自分を見つめることができるようになります。たぶん思春期ぐらいでしょうか。

でも、そこで成長が止まり、世間のものの見方を絶対視してしまって、それに従属するというわけではないですよね。ほとんどの子は、世間のものの見方を身につけたからといって、世間の見方が絶対に正しいなどと考えたりはしないでしょう。

当然のことですが、世間が間違うこともあるってことが、だんだんわかってくるからです。世間が、自分のことを全部知っていてくれているということはまずないわけですから。

「自分は○○だけど、周囲はそうはみてくれない」とか、「世間は自分の学校のことを△△のようにいうけど、実はそんなんじゃない」ということを皆、経験するでしょう。それによって、「世間は間違うこともある」ということがわかってきます。
それで、世間の見方や期待に沿って生きていくだけでは満足できなくなるんですね。

たとえば、石川啄木のこの短歌、そのあたりの気持ちを詠んでいると思います。

へつらいを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

たぶん、啄木がある程度、売れてからだと思うのですが、おべっかを使う人が周りに集まってくる。でも、自分は、自分のことをよく知っているから、お世辞を聞いても素直に喜べない。そればかりか、自分自身の至らなさに逆に腹が立ってくる。そんな気持ちを詠んだ歌だと思います。(勝手な解釈です。違うかもしれません。スミマセン…)

世間の見方に満足できなくなると、人は、次のように感じると思います。

「世間は自分や自分を取り巻く事情をよく知らないようだが、よく知っているとすれば、どう判断するのだろうか」。

そして、多くの人は、現実の世間そのものではなく、こちらの問いかけ、つまり「世間が自分や自分を取り巻く事情をよく理解しているとすれば、どう判断するのだろうか」ということを基準にして生活するようになると思います。

この「事情をよく理解している世間」というのがいわゆる「お天道様」だといえるでしょう。(または、「ご先祖様」とか、前回触れた「祖霊」とか、あるいは「神様」でもいいと思います)。

こういう感じで、結構多くの日本人が、「世間は必ずしもわかってくれないかもしれないけれど、お天道様には恥ずかしくない生き方をしよう」というふうになっていくのだと思います。

ベネディクトは、「恥の文化」を「世間様」レベルで止まるかのように誤解してしまったようですが、そうではないんですね。日本の道徳は、そこで止まるものではなくて、「お天道様」レベルまで進んでいくと捉えるほうが自然だと思います。

そして大多数の日本人は、「世間様」レベルの道徳では満足せずに、自分の子供には「お天道様」レベルの道徳意識を身につけてほしいと願ってきたはずです。日本の道徳は、世間様倫理ではなく、「お天道様」の目を意識するように求めるものだといっていいと思います。

そう考えると、さきほどの某進歩的文化人氏の「日本人が水戸黄門好きなのは、オカミや権威に弱い日本人の性格をよく表している」というのは、いかにもアサハカ、あるいはイジワルな見方だなあと思います。

むしろ『水戸黄門』は、不当な権威や権力にこびない、己の倫理観に従った自律的な生き方を賛美し推奨する物語であると理解するほうが、自然ではないかと思います。

たとえば、『水戸黄門』のドラマでは、次のような設定がよくありますよね。

ある町では、悪代官が、強欲な商人と結託している。そして、その町で、頑固だが真っ当に生きている職人に辛い仕打ちを行っている。職人は、どうにか持ちこたえ、慎ましくも己の信念に従って生活している。

だが、職人があまりにひどい悪代官と強欲商人の仕打ちに負けそうになったとき、水戸黄門の一行がやってくる。黄門様一行は、職人の窮状をよく知るようになり大いに同情し、悪代官と強欲商人の不正をただすために立ち上がり、彼らに正当な裁きを加える。

以上のようなものです。

このようなおなじみの設定では、悪代官や強欲商人は、偏狭な世間やそこでの権威の象徴だと解することが適切でしょう。水戸黄門の一行は、実はすべてをお見通しの「お天道様」の象徴だと理解できると思います。

したがって『水戸黄門』の物語が与えるメッセージは、権威への従属とか、世間への同調とかではぜんぜんなくて、むしろ次のようなものだと思います。

「お天道様はきっとすべてを観ていてくださり、最終的には正直者こそ救われるはずだ。だから、たとえ現在、よこしまな権力者にいじめられていたとしても、あるいは世間に認められていないとしても、くじけずに己の倫理観を貫いて強く生きよ!」
m9(`・ω・´) キリッ

こういうメッセージに、多くの日本人は世代を超えて共感してきたんでしょう。それで『水戸黄門』は人気番組だったのだと思います。

『水戸黄門』を、日本人の権威に弱く主体性に欠けた同調主義的性格を表す物語だ!などと受け取る「進歩的文化人」系の人って、いまでもときどき目にしますが、日本へのまなざしが少し冷たすぎますよね。もっと共感的理解ができないものかと思ってしまいます。まあそれが商売なのかもしれませんが…。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/17/se-13/


04. 2013年6月28日 21:42:11 : W18zBTaIM6


【施 光恒】英語公用語化を進めるよりも…


フランスの国際評論紙『ルモンド・ディプロマティーク』の日本語版に出ていたこの記事、興味深く読みました。

「英語を世界の統一言語にしてはならない」
http://www.diplo.jp/articles13/1306langueunique.html

フランスでは、1994年に定められた「フランス語使用法」により、大学を含む公立学校の授業ではフランス語を使用しなければならないとされていました。

政府の新法案は、この規定を緩和し、大学での英語の授業を認めるということだそうです。

背景を報じた産経の記事(5月29日付)
「母国語重視のフランスが英語授業を拡大 国際競争で対応迫られ」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130529/erp13052908550000-n1.htm

フランスも、日本と同じような議論をしているんですね。

日本でも、最近出された、安倍政権の「成長戦略」や教育改革の提言では、英語が使える「グローバル人材」育成の必要性がやけに強調されています。
以下のような提案がなされています。

・大学入試や国家公務員試験でのアメリカの英語能力試験トーフル(TOEFL)の義務化
・大学における英語での授業の大幅増
・中学や高校における英語授業の英語での実施
・小学校における英語の正式な教科化

TPPにも入ってしまうようですし、政府の成長戦略をみても米国型のグローバル市場に進んで飲み込まれるつもりのようですから、英語を事実上の公用語にしてしまおうというこういう政策は、わかりやすいといえばわかりやすいですが…。
(>_< )

安倍首相は、もともと「戦後レジームからの脱却」を旗印にしていたはずです。第二次安倍政権の実現を期待した保守層の多くの人々は、今度こそ、「戦後レジームからの脱却」を願っていたと思います。

ですが、最近のこういう英語偏重の政策って、脱却どころか、「戦後レジーム」の強化にほかならない印象を受けます。

その理由は以下です。

(1) 米国への利益誘導の面がある。

以前、このメルマガでも書きましたが、大学入試や国家公務員試験へのトーフルの義務化は、米国への利益誘導の面が大いにあると思います。(下記のリンク先の後半部分をご覧ください)。

「TOEFLもマスト?」(4月19日付)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/04/19/se-11/

上の記事のなかで私は、「トーフル型の試験がよければ、日本人が自分たちで新しい英語の試験を作ればいい。そのほうが、受験料など日本人のお金が米国に流出しなくて済む」と述べました。

少し補足しますと、最近だと、大学受験者が約67万5千人、国家公務員総合職受験者が約2万5千人ですので、大学受験者と国家公務員試験受験者を合わせて、これらの試験だけでも毎年70万人も受験することになります。一回の受験料が225ドルとありますので、一人一回しか受験しないとしても、約154億6千万円がトーフルの主催団体に流れます。

トーフルは数回受けて一番良い点数を受験先に提出するというテストですから、一人平均3回ぐらいは受験すると思います。そうなると、受験料だけで460億円以上の金が流出することになります。
ほんとばかばかしいですよね。
o(`ω´*)o

(2) 米国中心の世界秩序作りに積極的に手を貸している。

冒頭の『ルモンド・ディプロマティーク』の記事で、フランス人言語学者が、「逆説的なことに今日、英語の普及活動やアメリカ化を担っているのはアメリカ人以外の人々である」と述べていましたが、まさに率先して世界のアメリカ化を担っているのは、残念ながら日本のようですね…。orz…

(3) 米国に勝つぞ!負けないぞ!!という気合がハナからない。

当然ですが、世界の英語化が進めば、大部分の日本人は、仕事や学問でアメリカ人に勝てなくなってしまうでしょう。アメリカ人が、日本語で仕事や学問をするようになれば、大部分のアメリカ人が日本人に勝てなくなるのと同じです。

日本人は、68年前に、アメリカに勝つぞ!という気合を完全に挫かれてしまったんでしょうかね…。

(4) 国家や国力に対する考察がなされていない。

そもそも英語力の強化が、日本の長期的な繁栄や国力の充実にどうつながるのかは明白ではありません。たとえば、フィリピンやインドには英語がうまい人がたくさんいますが、これらの国は、「経済的豊かさ」、「政治の安定性」、「大学のレベル」など日本よりもだいぶ劣っていると思います。

自国の言語や伝統を捨て去り、別の言語を導入した国は、大部分の場合、豊かな国にはなっていないように思えます。

GDPの上位5か国を見ても、米国、中国、日本、ドイツ、フランスですので、経済力と、英語を使用しているかどうかは、あまり関係がないように思えます。

むしろ、「国力のある国というのは、英語などの外国語には頼らず、母語で、政治や経済、教育、研究などをしっかり運営できる国である」といったほうが、現実に即しているのではないでしょうか。

(5) 能動的に国際秩序を作っていこうとする構想力や気概に欠けている。

この5番目の点が、今回一番言いたいことです。

最近の過度の英語能力偏重の政策は、まじめに将来の日本の繁栄を考えた結果だとは思えません。おそらく日本は「フィリピン化」し、国力は低下するでしょう。

きっと、いまでもときどき話題になっているマレーシアやフィリピンへの「教育移住」が数年後、流行るでしょうね。そこで育った、日本語はあまりうまくないし日本人的常識や感性も身につけていないが、英語はそこそこうまくなった子なんかが、新たな日本のエリート層となり、多国籍企業の利益のおこぼれにあずかり、新しい既得権益層になり、大きな顔をするということになるんでしょう。ヤデスネ。
(´・ω・`)ショボーン

だとすれば、日本人が元気になる、もっとましな国際秩序構想を考えるべきだと思います。

思うに、戦後の日本人は真面目すぎます。日本人がアメリカ人などのネイティヴ・スピーカーと伍していけるような英語力を身につけるというマゾ的な努力を自分たちや自分たちの子孫に強いるのは、あまり賢くありません。

少し時間はかかるかもしれないけれど、英語なんか下手でも、痛くもかゆくもないような世界を作り出す戦略を練るほうがいいんじゃないでしょうか。

たとえば発想の転換をして、日本人の英語力をアップさせるのではなく、他の国の人々も、日本人のように英語が下手な世界を作るようにしたらどうでしょう。

日本人が英語下手な原因は、よく言われるように、日本では英語なんか理解できなくても、母語である日本語だけで何不自由なく暮らせるからです。日常生活には支障がまったくありませんし、大学院レベルの高等教育でも日本語で受けられます。医師や弁護士などの専門的職業にも就けます。英語のうまい下手の違いによって、収入に差がつくこともほとんどありません。

だから日本人は英語が下手なんですが、各国にこのような状態、つまりそれぞれの国の母語で、何不自由なく暮らし、専門教育を受け、専門的職業にも就けるような状態を作ることを目指せばいいんじゃないでしょうか。

つまり、日本人は、日本的な国づくりの良さを世界に訴え、広めるようにしたらどうでしょうか。「理想的な世界とは、英語が世界の統一言語になるような世界ではなく、各国の人々それぞれが自分たちの母語で何不自由ない日常生活を送り、高等教育を受け、専門的職業にも就ける世界である」。このように主張し、この主張が各国に受け入れられるように、そしてこの主張に沿った国づくりが各国で実際に行われるように、知恵を絞り、活動してはどうかと思います。

明治以来、日本は、そのときどきの先進の外来の知を翻訳し、日本化(土着化)し、日本語による近代的国づくりをうまく行ってきました。そのおかげで格差が少なく、みんなが社会に参加し能力を発揮しやすい国を作ることができています。ですので、そういう明治以来の日本が培ってきたノウハウをいかして、新興諸国の母語による国づくりを実際に支援すればいいと思います。

たとえば、日本の大学が英語で授業を行うようにしたり、会社の公用語を英語にしたりするのは、あまり賢くもないし、ハタから見れば滑稽ですらあります。

それよりも日本は、新興諸国に、母語で大学教育を行い、母語で専門職を含む多様な職業に就けるような国づくりを進めることこそ、長い目で見ればずっと良いことだと勧め、そうした国づくりの手助けを行っていくべきだと思います。

多くの新興諸国の人々が、日本のように母語で何不自由なく暮らせるようになれば、その人たちは、いまよりもずっと幸福で安定した暮らしを営むことができるようになるはずです。
(^_^)

ついでに、彼らも、英語が下手になるでしょう。そうなれば、日本人の英語下手が目立たなくなり、日本人もハッピーです。
(*・∀-)b

いい歳をした大人が、「留学生をいかに増やすか」、「トーフルの平均点数をいかに上げるか」、「英国や米国の大学ランキングで、日本の大学の順位をどのように引き上げるか」などというチマチマとした細かいことばかり考えるのはやめてほしいものです。

日本政府には、もっと「能動的、主体的に世界秩序を作っていくぞ」という気概をもち、「米国の英語による事実上の文化支配の完遂をいかに挫いてやるか」、「英語国に不当に有利な現在の世界のあり方を改善し、いかに万国の国民にとって公正な世界を作り出すか」、「英語なんか下手でも子孫に苦労させない世界をどのようにして実現するか」などの、考えるに値する大きな構想を描き、その実現のために策を練り、悪辣なまでに暗躍してほしいと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/06/28/se-16/


05. 2013年10月18日 10:52:57 : W18zBTaIM6

【施 光恒】日本人の底力

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

おっはようございま〜す(^_^)/

少し前の話題ですが、ひさびさに良いニュースでした。
日本の「成人力」世界で突出 「読解力」「数的思考力」トップ OECD調査(産経ニュース 2013年10月8日付)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131008/edc13100823540003-n1.htm

より詳しい調査結果については、文科省のHPにPDFファイルが掲載されています。
(「OECD 国際成人力調査 調査結果の概要」)
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/Others/__icsFiles/afieldfile/2013/10/08/1287165_1_1.pdf

なかでも良いと思ったのは、日本は、国民の間の知的格差が非常に小さく、多くの普通の人々のレベルがおしなべて高かったことです。

文科省のHPの「調査結果の概要」のファイルのほうでは、「読解力」の比較について18ページに詳しいグラフが出ています。

それによると、日本では、「単純作業の労働者」、「セミスキルド・ブルーカラー」(農業、林業及び漁業従事者、技能工及び組立工等)、「セミスキルド・ホワイトカラー」(事務職、サービス及び販売従事者)、「スキルド・ワーカー」(管理職、専門職、技術者・準専門職)の間の格差が、他国よりもかなり小さいのです。職業間であまり差がないんですね。

また、なんと日本の「単純作業の労働者」のほうが、米国やドイツの「セミスキルド・ホワイトカラー」(事務職、サービス及び販売従事者)よりも、かなり点数が高い!

日本の強みがよく表れていますね。皆、平等に能力がある。格差が少なく普通の人々が優秀である。それこそが日本の国力の源泉だと思います。

イギリスは、この「国際成人力調査」であまり成績が良くなく、けっこう悔しかったんですかね。イギリスの新聞『ガーディアン』紙には、「日本の教育は詰め込み式だから、基礎学力はついたとしても、批判的思考力は身につかないはず」という趣旨の記事が出ていました。
(「なぜ日本人の子どもは、算数や読み書きで世界一なのか」『ガーディアン』紙、2013年10月8日)
http://www.theguardian.com/world/2013/oct/08/why-do-japanese-children-lead-world-numeracy-literacy

(上記の英文記事の紹介が次にあります。「詰め込み受験勉強のおかげ? 日本の成人「学力」世界一の理由を海外メディアが分析」『ニュースフィア』2013年10月12日」)
http://newsphere.jp/national/20131012-1/

『ガーディアン』紙の記事で強調されているのは、日本の子どもが覚えなければならない漢字の多さです。

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●韓国が五輪招致を妨害した本当の理由とは?
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小学校卒業までに1006字、中学卒業までに1130字、高校卒業までに2000字程度を覚えなければならない、それぐらい覚えないと社会人としてやっていけないと紹介しています。そして、そんなに多くの漢字を覚えるために、日本の子どもは、詰め込み教育を強いられ、批判的思考力を養う機会が奪われている。日本人の子どもは哀れだ!というような口調で書かれています。

欧米人のアジア観って、いつまでたってもあまり進歩がないですね…。

欧米人にとっては、漢字は、とても難しくみえるようです。戦後、GHQも一時期、「専制的で前近代的な」日本社会の「民主化」を進めるために、漢字を廃止し、ローマ字表記に切り替えようと考えたようですし。

ですが、日本人からしてみると、漢字を覚えるのが特に大変!ということはあまりないと思います。掛け算の九九や、歴史の年号や、英単語とあまり変わらん、という感じでしょうか。

言語社会学者の鈴木孝夫氏は、逆に、日本語の表記システムに漢字があることが、一般庶民と知識層との間に諸外国のような際立った格差ができない一因だと述べています。特に、日本の漢字には、中国や朝鮮半島などとも異なり、「音読み」と「訓読み」があることが、知的格差を作らないという点で大きいと論じています。

鈴木氏によれば、たとえば英語だと、知識層が使うような専門的語彙は、一般庶民には初見ではまったく意味がわからず、とっつくにくい語がほとんどだというのです。

鈴木氏は次のような例をあげています。

hydrocephalus (水頭症)
pyroclastic (火砕流)
socialytic (lamp) (無影灯)(手術室で用いる影になる部分を作らない証明器具)
pithecanthrope (猿人)
heliotropism (向日性)
anthropophagy (食人)

これらの英単語は、専門的な語彙であり、英語を母語とする人々でも、よほどのインテリというか専門家でなければわからないそうです。

たとえば、鈴木氏は、イェール大学に客員教授として赴任していた時、あるセミナーの席で、イェール大学の人文社会系の大学教員や大学院生を前にして、”pitecanthrope”という単語を黒板に大書きして、意味がわかるか尋ねたそうです。そうしたら、まったく、この単語の意味がわかる人はいなかったということです(鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書、138-139頁)。

日本だと、たとえ専門外の人の集まりでも、「猿人」と書けば、だいたいの人はその意味がわかります。

英語の高級語彙(専門的語彙)は、ラテン語やギリシャ語に由来するものが大部分です。鈴木氏によれば、ラテン語やギリシャ語に精通した人であれば、初見でも、こうした高級語彙の意味がおおよそ推測できるとのことです。

たとえば、hydrocephalus(水頭症)でしたら、hydroは水、cephal-は頭にあたるギリシャ語由来の綴りです。同様に、二番目のpyroclastic パイロクラスティック(火砕流)でしたら、パイロの部分が「火」で、クラソは「砕く」という意味のギリシャ語出自の綴りです。

ギリシャ語をしっかりやったことのある人なら、ある程度、「水頭症」や「火砕流」という意味を推測できるそうです。

ですが、ギリシャ語やラテン語に通じている人は欧米でも現代ではごく少数のインテリに限られますので、英語を母語とする人でも専門家でない限り、上記のような単語の意味を語源から推測することはほとんどできず、初見では理解できないということです。
つまり、hydro=water(水)とか、cephal-=head(頭)とか、pyro=fire(火)などと、一般の人は、結び付け難いのですね。
ですので、いきなりhydrocephalusとか、pyroclasticという語がでてくると、専門家以外は、ちんぷんかんぷんということになるというわけです。また、一度くらい意味を聞いただけでは覚えるのが難しいんですね。

日本語でも、音だけで「suitosho」、「kasairyu」と言われると、なかなか何のことか想像もつきません。

日本語の高級語彙の多くは、中国語由来の言葉である漢字の組み合わせで作られています。高級語彙が外国由来の言葉の組み合わせで作られるという点では、日本語も英語も、あまり変わりません。

ですが、鈴木氏によると、日本語の場合は、漢字には「音読み」だけでなく「訓読み」もあることが、本来は外国由来のなじみのない言葉をわかりやすくするのに一役買っているのです。

たとえば、「水」という漢字には、「スイ」という音読みだけでなく、子どもでも日常生活で使う、なじみやすい大和言葉である「みず」という訓読みが付きます。あるいは、「砕」という漢字には、「サイ」という音読みだけではなく、「くだく」という訓読みがあります。

つまり、鈴木氏によると、日本語の場合は、「スイ=水=みず」、「サイ=砕=くだく」という具合に、高級語彙を形成する漢字の音という外来要素が、その漢字の訓というなじみやすい日常の言葉(大和言葉)に結び付けられているために、日本語の高級語彙は、わかりやすく、覚えやすいというのです。

言ってみれば、訓読みがあるということは、「『砕=サイ』という漢字は『くだく』って意味だよ、「砕く」とも書くよ」、とか、「『食=ショク』という漢字は『たべる』って意味だよ、「食べる」とも書くよ」と折に触れて示しているようなものですよね。

このように、鈴木氏の説明によれば、「漢字の音読み・訓読み」とは、外来の抽象的概念を、日々の暮らしのなかでなじみやすい日常語に結び付ける働きをもつ仕組みだということです。

だから、日本語の場合は、特に、教養がある人とか、その分野の専門家ではない一般の人々であっても、かなり専門的な言葉が比較的かんたんに理解でき、たとえ初見でもとっつきやすいというわけなのです。高級語彙と日常の言葉にあまり断絶が生まれないんですね。日本語というのは、格差を作り出しにくい、皆に優しい言語だといえないでしょうか。

このことは、日本では、「知識人」と「一般の人々」という仕切りがほとんどなく、一般庶民の知的レベルが非常に高いということにつながってくるように思います。

ながながと書きましたが、うまく説明できたかどうかちょっと心配です…。
f(^_^;)

結局、何が言いたかったかというとですね、一つは、日本は、やはり、格差社会になっちゃいかんのじゃないかということです。以上の漢字の音読み・訓読みの仕組みに表れているように、「国のかたち」が、大きな格差ができにくいようになっているのではないかと思います。

日本は、やはり経済にしても、知的な側面にしても、一般庶民の力で保たれている国なので、多くの普通の人々が能力を磨き発揮できる社会をこれからも作っていかなければならないのだと思います。

それと、今回もう一つ指摘したかったのは、外国人が日本に対していうことって、結構、的外れなこともあるんじゃないかということです。

『ガーディアン』紙が相も変わらず書いているように、イギリス人から見れば、漢字は、ものすごく難解に見えるんでしょうね。だから、彼らの観点からは、いっそのこと、漢字を廃止してみたらどうだというような提案が出てきがちです。実際、欧米人の観点を真に受けて、漢字廃止論を唱えてきた日本人もたくさんいます。

ですが、鈴木氏の述べているように、おそらくこれは的外れです。逆に、日本語には漢字表記システムがあるからこそ、一般人と専門家との間にあまり垣根がなく、一般庶民の知的レベルが非常に高くなりやすいといえるように思います。

あまり外国目線の改革提案を真に受けずに、われわれは、自分たちの常識や生活感覚を信頼してやっていけばいいんじゃないでしょうか。日本人は、どうも最近、そういう常識や生活感覚に対する自信を失っているようです。米国などの外国から、改革が必要だ!といわれると、ホイホイ追従してしまいますし。

いつもにもまして、ながながと失礼しますた(_ _)

PS
かつてグローバル化の優等生と呼ばれた韓国は、
アメリカの言うことを真に受けて「改革」をやり過ぎたせい

失業率と自殺率が高く、レイプと放火が多発する
とんでもない国になってしまいました。

月刊三橋では、こうした真相を掘り下げて解説しています。
http://keieikagakupub.com/lp/mitsuhashi/38NEWS_video.php


http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/10/18/se-24/


06. 2013年11月18日 22:33:13 : 2D6PkBxKqI

遊び感覚で思考壊す英語教育

情緒や生活習慣を米国化

親や教師無視しゴリ押し    2013年11月15日付


 「グローバル化に対応する人材をつくる」「そのためには英語がペラペラ話せることが必要」といって、小学校では5、6年生で英語が必修とされ、中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになり、高校では今年4月から「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。大学でも、「英語でやっている授業は○%」と数値目標で追い立てている。加えて安倍内閣の教育再生実行会議は、「小学校5・6年生から英語を教科にしてテストをおこなう」「中学校でも英語の授業を英語でおこなう」といった方針をうち出している。しかしこの間、「話せる英語」「使える英語」を徹底したことで学校現場はどうなったか。小・中・高校で実情を聞いた。
 
 桃太郎はピーチボーイ 小学校の学習発表

 下関市内のある小学校では、最近、父母たちが見守る学習発表会で、六年生が「英語劇(むかし話)」を発表した。だれもが馴染みのある「桃太郎」「浦島太郎」「おむすびころりん」といった日本の昔話を、日本語でなく英語で演じるのだ。
 例えば「桃太郎」の劇は、「Hello! everybody! Momotaro,the peach boy. Let's start !(こんにちは、みなさん! ももたろうの劇です。さあ! 始めましょう!)」から始まる。

 英語のセリフを暗記している子もいたが、その他の子どもは父母たちにわかるように画用紙に書いた日本語訳を示しながら、画用紙の裏にカタカナで書かれたセリフを読んでいる。小学校では、英語のスペルを教えて読ませることはしてはいけないことになっているからだ。

 恥ずかしそうにいう子もいれば、ふざけていう子もおり、見に来ていた親たちは「だれがどの役をやっているかわからない」と苦笑したり、「なにをいっているのかわからない。低学年が日本語で桃太郎の劇をした方がまだいい」という声が上がるなど、なんともいえない違和感が漂った。以前なら六年生は、重厚な内容の物語を学級の仲間と協力して練習を重ね、感情を込めて劇を作りあげ達成感を得ることが追求されてきた。しかし英語では日本人としての情感や人情の機微に触れる演技などできない。親たちのなかでは「子どもになにが残ったのだろうか」と語られている。

 小学校では、子どもたちが感情をぶつけあい、会話もしけんかもしながら大きく成長していく時期である。その成長期にわざわざ英語教育を導入すること自体、なにを成長させたいのかと多くの親が疑問を感じている。普段の英語の授業も、絵や音楽を通じて「楽しく英語に慣れ親しむ」というものが貫かれている。日常会話である時間の聞き方や買い物の仕方、色、数字や果物などをゲーム感覚で覚えたり、耳で聞いてそれを聞き分けたりと、「スピーキング重視」「ゲーム感覚で楽しく」「英語を積極的に発すること」が重要とされている。英単語や英文を書いたり、読んだりすることは一切ないのが特徴。それはまともな英語教育ではなく語学力をつけることなど最初から目的ではなかったことを示している。

 最近の授業では、この時期に欧米でおこなわれるキリスト教の祭り、「ハロウィン」を勉強し、「Trick or treat(ご馳走をくれないと悪戯するよ)」といって各家庭をせびって歩くかけ声をはじめ、それにちなむ英語を覚えるなど、ことさら欧米流の風俗・習慣に幼い頃から慣れ親しませる内容となっている。

 6年生の教師は「スペルを書かせることもなく、絵を見てその名前を英語で答えさせたりで、英語の時間はほとんどゲーム感覚。教師であればどんな授業であれ、子どもにどんな力をつけさせるかと考えて教育するが、これで英語の力がつくのか? というのが本音だ。まずは日本語の勉強からだろうというのが、教師ならだれもが感じている。だが文科省はそれでいいという。どんな人間をつくろうとしているのか」と語っている。

 必修化後の中学生英文書けず語学力低下

 ゲーム感覚で英語に慣れさせられた子どもたちが、中学に入学すると、初めて単語のスペルを覚えたり、名詞、動詞、現在進行形などの文法を習う。

 現在の中学2年生は、小学5年生のときに英語が必修となった学年だ。ある中学校教師は、「今の中2が入学してきたとき、ALT(外国語指導助手)と積極的に英語で挨拶を交わしている姿を見て、“これまでと違う。小学校の英語の効果だ”と感心していた」という。しかしその時の英語のテストが過去最低だったと話す。例えば「What is your name?(あなたの名前はなんですか?)」を聞いて意味を理解することはできるが、そのスペルや文の構成が理解できない。つまり、耳で反応したり外国人と軽い調子で挨拶ができたとしても、英語という言語がどのような成り立ちになっているか思考する力は身についていない。

 英語教育の専門家も、文科省が「しゃべれる英語」「コミュニケーション重視」といって英語教育の改革を20年やってきたが、その結果「文法がわからない、英文が読めない、書けないという生徒が増え、英語の力が年年下がっている」と指摘している。また「物事を深く考えて、多角的に見る視点が失われた」ことも共通して指摘している。

 ある中学校の教師は、「小学校の英語は“コミュニケーション能力の育成”といって導入されたが、それは単に“ハーイ!”“ハロー”といって軽い挨拶ができる能力であって、相手の気持ちを深く理解するという力ではない。今、いじめやスマートフォンなどを通じた子ども同士のトラブルが深刻になっている。小学3、4年生から英語を導入するというが、日本語で友だち同士の関係を結ぶことも難しいのに、さらに短絡的な思考を強めるだけではないか」と語っている。


 英語で授業する高校 現実にあわず大矛盾に

 高校では今年4月から、進学校か実業高校かに関係なくすべての高校で、1年生の英語の授業は「原則として英語でおこなう」という方針を実行することになった。

 下関市内の高校で半年たった実情を聞くと、「立ちなさい」「座りなさい」「黒板に答えを書きなさい」「プリントを集めなさい」「グループで話しあいなさい」「教科書の○○ページを開きなさい」という生徒への指示は英語でするが、日本語を使わずに授業を進めることは無理であり、これまで通り日本語を使った授業をおこなっているところが多い。

 進学校に通う1年生の女子生徒は「4月の初め、先生が日本語を使わずにすべて英語で指示しはじめたので、みんな“えっ? 意味がわからない”と話になった。それで最近はなくなった。英文法の授業については先生が“文法は日本語でないとわからないから日本語でやる”といっている」と話している。

 ある英語教師は、「日本人が英語を学ぶ場合は、育った環境が日本語なのだから、日本語で考えて学ぶのがあたりまえ。英語で英語を教えることは生徒も教師も混乱するだけで、まったく無理なことをやらせようとしている。結局、アメリカに対する劣等意識を植えつけ、条件反射的に英語で動ける人間をつくろうとしているのではないか」と指摘した。

 大学人も警鐘 母国語奪う植民地教育

 小学校も中学校も高校も、英語を担当する教師は、文科省の進める「コミュニケーション重視」の英語教育では子どもの力はつかず、逆に英語の基礎的な力はなくなり、物事を深く考える力も弱まり、短絡思考とアメリカ崇拝が強まることを共通して危惧している。安倍政府の進める英語漬け教育は、学校現場ではすでに大失敗している。

 それなのになぜ、さらに対象年齢を引き下げて、無理矢理押しつけようとするのか。それは英語教育の目的が、純粋に子どもたちに会話の力をつけさせたいというものとは別のところにあるからである。

 大学で英語を教える教員のなかでは、英語教育の押しつけはアメリカによる植民地教育であるとする論議が高まっている。この数世紀間の歴史を見ても、アメリカやイギリスが世界各地でおこなった侵略と植民地支配のなかで、支配された民族は生活のすべてを奪われるとともに、民族の文化も母語も奪われた。

 たとえば19世紀のアフリカ大陸は、資源を求めるヨーロッパの列強によって勝手に線引きされ、全面的に植民地化されたが、同時に言語も奪われ、英語が押しつけられた。土着の言語は「悪魔の創造物」であり、それを話す者は白人によって「愚か者」「野蛮人」とみなされた。ケニアでは、高校や大学に進学するための試験の六科目がすべて英語でおこなわれるようになった。母語を奪われた結果、アフリカ人は民族の歴史や文化を継承する手段を失い、学校の教育で語られる言語と家庭や地域での日常言語との間につながりが見出せず、疎外感に苦しむ子どもが続出したという。

 またアメリカ大陸では、先住民のインディアンの虐殺がおこなわれ、生き残った先住民は居留地に押し込められた。インディアンの子どもたちは親から隔離されて寄宿学校に入れられ、そこで子どもたちは部族語を禁止され、それまでの生活習慣も捨てさせられて、英語と白人の生活習慣、キリスト教を強制された。そして、もともとの名前もとり上げられて、ジョンやメリーといったアメリカ人の名前がつけられた。

 そして、日本もそれが他人事ではなくなっている。日本の子どもたちから、物事を深く考える力を奪い、短絡的で条件反射的な、思考能力破壊を「英語教育」と称して植えつけ強い支配者に屈服するような状態におくことは、いったいだれが喜ぶことか。それは外資系企業や国を捨てるグローバル企業のためにごく一握りのエリートをつくるとともに、大多数の子どもを切り捨て、カタコト英語で反応する使い捨ての非正規雇用労働力にする意図に通じている。そしてそれは自衛隊にも英語での命令をするよう徹底し、あげくは日本の若者を米軍の下請戦争の肉弾にするための、正確な計算にもとづいた政策にも通じている。

 安倍政府が力を入れる英語漬け教育で進行する事態は、日本の子どもたちから民族の背骨を抜くのでなく、民族の子どもとして育てる教育を徹底して強める重要性を示している。父祖たちの歴史的経験、とりわけ被爆体験や戦争体験を学び、原爆投下者を憎み、平和を愛し、独立した日本をめざして行動できる青少年を、教師、父母、戦争体験世代が一致団結して育てる運動を、大きく発展させなければならない。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/asobikannkakudesikoukowasueigokyouiku.html


07. 2014年9月15日 00:37:55 : 3cdYZYbVIc

「英語教育論」についての再論 (内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

 英語教育についてある媒体に書いたものをブログに採録したところ、それを読んだニュージーランドに20年お住まいの読者の方から手紙を頂いた。
その方の見聞でも、ニュージーランド「留学移民」事情は、だいたい私の指摘と符合しているということであった。

香港や台湾や韓国からの児童生徒の留学生は「いざというとき」の脱出先を確保するという政治的な目的もあるので、parachute children と呼ばれている由。もちろん、そればかりでなく、幼児期から英語運用能力を身につけることで、故国に戻ったときにキャリア形成上のアドバンテージを得るということも期待されている(それをhead start と呼ぶというそうである。「一歩先んじたスタート」)。
僕の見聞の通り、父親が国に残って仕送りする母子家庭がベーシックなスタイルだが、中には小学生の子どもだけをホームステイ先に送り込んでいるケースもあるという。

さて、このように幼いときに母語的環境から切り離された子どもたちはどうなるのか。

家族と一緒に移民してきた場合、母語を生活言語として「話すこと」はできるが読み書きはできないという事例が多い。

小学生の途中で留学したが、英語運用能力が大学入学レベルに達せず、一方日本語では祖父母と会話ができないというケースや、高校の途中から留学して大学入学の英語レベルには達したが、今度は英和辞典の日本語が読めなくなったというケースなど「英語も日本語も中途半端」ないわゆる「セミ・リンガル」というケースも少なくないそうである。

この方は「留学移民」についてもEMI(Englishas a Medium of Instruction=英語以外の教科を英語で教える教育法)についても批判的であった。

高校の数学や物理を英語で教えることにどういうメリットがあるのか。教えられる教員もいないだろうし、英語の苦手な生徒たちは数学や物理学について興味があっても教科内容を理解する手前で梯子を外されてしまう。

それが非効率だからというので、明治初期に大学での教科を日本語で教えられるように、漱石のような卓越した知性を「お雇い外国人」に代えて次々と大学教員に登用し、あわせて日本語そのものを高度化していったのではなかったか。

先人が営々として築き上げて、日本の近代化を推し進めた民族的な努力を100年後にまたゼロに戻そうとする人たちは何を考えているのか。

私たちにまず必要なのは英語の早期からの習得ではなく、むしろ「日本語の高度化」だと私は思っている。

明治時代において西周や加藤弘之や中江兆民や福沢諭吉が果したような「世界と日本を架橋する」仕事を担う人々が出てこなければならないと私は思っている。
そういうのは「そういう仕事は自分がやるしかない」という自覚のある人が進んで担うものであって、利益誘導したり、強制したりするものではない。ましてや、日本人全員が就くべき仕事でもない。

「外界と自分たちの集団の間を架橋すること」は集団が生き延びてゆくために必要な無数の仕事のうちの一つである。必須のものではあるが、無数の必須の仕事のうちの一つであることに代わりはない。

「餅は餅屋」。そういう「架橋仕事」が「好きで堪らぬ」とか「自分の天職だ」と思っている人がやればいい。全員が「餅屋」になる必要はない。

考えればわかるが、「全員が餅屋であるような社会」で人は生きて行くことができない。

そんな社会で、そもそも、誰が餅米を作るのか、誰が餅を流通させるのか、餅を売った金で餅以外に何が買えるのか。少し考えれば「餅屋経済」が不可能であることはわかる。

けれども、それでも「餅屋経済」を願う人たちがいる。

「全員が餅屋であるような社会」はすぐに壊滅してしまうが、「ほとんど全員が餅屋である社会」でなら、残りの「非餅屋」には莫大な利益を確保するチャンスがあるからだ。

彼らは「餅屋が欲しがるもの」(つまり餅以外のすべての生活財)を作り、それを売ることで莫大な利益を上げることができる。

ご覧のとおり、これはグローバル経済の理想状態を戯画化した姿である。
すべての労働者と消費者を規格化・定型化することで企業の収益は最大化する。

全員が同じことしかできない、同じものしか求めない状態にあって、「それ以外のことができる」一握りの人間になることこそグローバル資本主義者の夢なのである。70億の99%を互換可能な状態にとりまとめると、地上のすべての富は残り1%に排他的に集積されることになる。

いま日本の英語教育で推進されているのは、「できるだけ多くの互換可能な人間で地上を埋め尽くす」というグローバル資本主義の夢の実現のためのプログラムである。

明治人たちの身を削るような努力を水泡に帰せしめ、日本語話者は母語だけでは政治も経済も学術も芸術も「語ることができない」状態にすること、つまり言語的な植民地状態に日本を作り替えることに官民挙げて熱中している。

「狂気の沙汰」という以外に形容のしようがないけれど、さすがにここまで頭のネジが飛んでくると、「この人たちは頭がおかしいのではないか」ということには気の利いた小学生でも気づくだろう。

彼らが言語的実践としてどういうオルタナティブを提示してくるのか、私は期待して眺めている。

予測できることが一つある。

それは、アメリカにおけるエボニクスやシンガポールにおけるシングリッシュのような「英語の極端な方言化」である。

戦略的な言い方をすれば、「母語として身につけた英語」ではもう「別の英語」圏の人たちとはコミュニケーションできないという状態を作り出すことで、英語の国際共通性=特権性を解体するのである。

実際に、たぶん半世紀後には、インドと中国では、人々が文法も語彙も私たちの知っている英語とは違う固有の「インド英語」と「中国英語」を話し始めているだろう。彼らがそのときに十分な政治力を持っていれば、当然それを「英米英語」に代えて「国際共通語」にすることを要求してくる。

もちろん、そのときは文科省は(まだ存在していれば、だが)「中国英語ができないとビジネス・コミュニケーションで不利になり、また無用の侮りを受けるリスクがある」という理由で、低年齢からの「中国英語」習得を学習指導要領に書き込むだろう。

それに対して「バカじゃないの」と思う国民が過半に及ばないようであれば、日本はもうその前に終わっているだろうから、私が今さら心配するには及ばない。
もう一つもっと夢のあるオルタナティブもある。

それは「日本語の高度化」という選択肢である。

それを担うような天才的な「日本語の遣い手」の登場を私ははげしく待望している。  


08. 2014年9月15日 00:52:15 : 3cdYZYbVIc

まさに英語教育の真っただ中にいます。

ここはアメリカ。日本人の子どもたちは現地の公立校に放り込まれバイリンガルになる期待を一身に受けESLで教室で頑張っています。

結果、不幸なことに日本語がぐだぐだになってしまった子もいます。

小学校高学年までは、まず日本語を完成させるのが先です。

コーヒーを連れてくるとか、お昼ご飯を持つなんて表現する日本人を信用できますか?

無理でしょう。近所の子は小学校6年生でありながら日本語のおしゃべりは小2レベルで止まっています。親は気づいていません。

英語は今の日本の教育の中で骨子を学べます。ただし語彙もスピーキングもリスニングも不十分ですから授業外で毎日英語字幕で映画を見たり英語の書籍を読んだりすることが大切です。エッセイを英語で書いたり、スピーチをしたり訓練すれば英語を使う仕事についてもなんとかなるでしょう。要は勉強時間の問題です。
http://www.asyura2.com/13/hasan79/msg/387.html

英語を学ぶなら日本語を勉強しよう 2012年11月17日

私は言語学者でもなければ、英語を教えるのプロでもないのですが、日本語力がある人は英語も上手くなるように思います。

ずっと海外で暮らしていた人は別にして、普通は第二外国語は母国語を超えることはない、と言われています。この考えに従えば、英語だけをがんばったとしても、日本語能力もアップさせないことには、英語は上達しない、となります。

言語能力の発展についてはいくつか考え方があるのですが、こちらの図をご覧下さい。


これは言語を能力を図式化したものなのですが、表層部と深層部に分かれています。表層部は、読み、書き、話し、聞く、といった、日常的に目に見える能力を表しています。

一方で深層部では、言語生活を支える層で、基底能力と呼ばれます。これは、普段はそれほど使いませんが、簡単にいえば「知っている」「理解できる」言葉です。

例えば、語彙を例にとると「初詣」や「奉納」といった言葉は、は日常生活の中で使わないけど、誰もが知っている言葉です。普段自分で使うことがないけど、あるいは使う自信のない単語であっても、いつでも理解したり引き合いに出せる能力が、基底能力です。そして、表層部は基底能力の大きさに比例するので、基底能力が大きければ大きいほど、表層部の発達度合いも大きくなります。

では、バイリンガルの人の言語能力の発達はどのようなものになるかといいますと、それを表したものがこちらの図です。


バイリンガルの人は、表層部に2つの山があります。表層部は分かれていますが、深層部では分かれておらず、共通基底能力として一体化しています。なお、表層部の山の大きさはきれいに同じではなく、言語の発展段階によって、母国語は大きく、第二言語は小さくなったりします。

これは言語能力発展の一つの理論で、他にも考え方はあるので、正しいか正しくないかは自分にはわかりません。

でも、確かに、自分の留学中に色々な人と出会いましたが、日本人だけではなく他の国の人も、母国語の能力が高い人は、英語力もしっかり身についていたように思います。

英語をすぐに身につけたい人には遠回りな方法かもしれませんが、英語を学びたい!と思ったら、新聞や本とかで日本語にも触れて、日本語能力をアップさせると、しっかりとした英語が身につくかもしれません。

余談ですが、最近日本でも小さい頃から英語英語、と言われていますが、日本語もしっかりと学ばないと、将来的にはその子どもが困るのではないかと思う今日この頃です。。。
http://blog.gcsgp.com/english_japanese_study.html


09. 2014年9月15日 00:53:45 : 3cdYZYbVIc

消える楽天らしさ 英語公用語化で社員ため息 2013年07月01日16時00分

英語公用語化に踏み切り、話題を呼んだ楽天。

しかしその弊害も起こっているようだ

オレの言ったこと、ちゃんと伝わってるだろうか。

不安にかられて部屋を抜け出し、携帯電話をこっそり取り出す。

かける先は、ついさっきまで会議で一緒だった他部署の管理職だ。

「英語で説明したあの件だけど意味を取り違えてないよね」

グローバル企業を標榜し、昨年7月に英語の公用語化に踏み切った楽天。

会議、メール、食堂のメニューに至るまですべて英語になったが、ある社員によると、 以来、社内にはこんな「ケータイ管理職」が目立つようになった。

社員は職位に応じて到達すべきTOEICの点数を課されており、管理職は650〜750点。

だが、にわか仕込みの英語力では会議の発言もカタコトになる。

二度手間でもケータイで事後確認せざるを得ない、というわけだ。


10. 2014年9月15日 00:54:33 : 3cdYZYbVIc

ドサクサ紛れのグローバル化 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


2020年の東京オリンピック開催が決まったのはよろこばしいことだと思うんですが、やはり少し懸念もあります。

9月11日付の東田剛さんのメルマガ記事「東京五輪を素直に喜べない理由」にもあったように、「オリンピックだから」というのを言い訳にして、新自由主義的な政策がドサクサに紛れて進められそうな気もします。

http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/09/18/korekiyo-62/

直接に新自由主義的政策というわけではないですが、グローバル化対応という意味では、下記のように、小学生への英語教育強化の政策も、ドサクサに紛れて持ち込まれそうです。

「おもてなし」へ小学校で英語教育強化 義家文科政務官インタビュー(産経ニュース 9月14日付)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130914/plc13091407390005-n1.htm

このリンク先の産経記事では、「義家弘介文部科学政務官が…、東京開催が決まった2020年夏季五輪に向けて『おもてなし』の精神を醸成するため、小学校での英語教育の強化に取り組む考えを示した」とあります。

じゃあ、英語国であるアメリカとかイギリス、オーストラリアとかは、すでに「おもてなし」精神にあふれまくってるのか〜、などと、ちょっとズレたツッコミをいれたくなります…
f(^_^;)

個人的には、小学校の英語教育には反対です。日常生活が日本語だけで済む恵まれた日本に住んでいる限り、週に一、二度、小学校で英語の歌をみんなで歌ったぐらいで、英語がうまくなるわけはありません。

もし、これを拡充して週に三、四度にしたところであまりかわらないでしょうし、それに、国語をはじめとした他の教科がおろそかになるでしょう。

それよりも、国語の時間を拡充して、日本語の感覚を磨いてほしいと感じます。よく言われるように、母語である日本語を通じて得られた言語感覚こそが、英語などの外国語を含めたすべての学習活動の基礎になると思いますので。

それに、政治との関連でいえば、日本語をしっかり学び、日本語から得られる各種の感覚を共有することが、日本人としての連帯意識(仲間意識)の基礎になるはずです。たびたびこのメルマガにも書いてますが、グローバル化が叫ばれる現在だからこそ、国民の連帯意識の維持や育成はとても大切です。


震災などの災害でも頼りになるのは、国民の助け合いですし、福祉も結局は国民の間の相互扶助を基盤としています。

民主主義的な話し合いだって、仲間意識がないところでは、なかなか成り立ちません。
(`・ω・´)

日本で最初の近代的な国語辞典『言海』(げんかい)をほぼ独力で作り上げた国語学者・大槻文彦(おおつき・ふみひこ)(1847−1928)は、国語の意義を次のように説いています。

「一国の国語は、外に対しては、一民族たるを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を団結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり」(『広日本文典序論』)。

国語は、海外に対しては一つの民族(ネイション)であることを宣言し証明するもので、国内的には、国民の連帯意識や団結心を育むものだということですよね。

現在、小学校の英語教育の強化や、はたまた幼児からの英語教育の必要性まで主張する人が結構います。最近、街中で『英語幼稚園』なるものの看板も見ました。

母語である日本語もまだほとんど身に付いていない幼児や小学生の段階で英語教育に時間を割いてしまったら、日本語の感覚や、それを基礎とする日本人同士の連帯意識や、社会に対する愛着が、子供達にしっかりと備わらないんじゃないかと少々心配になります。
(´−`;)

ところで、少々脱線ですが、大槻文彦が1891年(明治24年)に出版した『言海』という辞書、なかなか面白いです。語釈が秀逸で、まさに、「一人の著者に統率された、味のある、引き締まった文体。しばしばことばの急所を言いあて、あるいはうねるように説き進み、ユーモアすら醸し出す書き方」(ちくま学芸文庫版『言海』の解説)という感じです。

たとえば、「猫」の項目はこうなっています。

「ねこ(名)猫。人家に畜(か)う小さき獣、人の知る所なり。温柔にして馴れ易く、又よく鼠を捕ふれば畜う。しかれども、窃盗の性あり。形、虎に似て、二尺に足らず。性、ねむりを好み、寒をおそる。毛色、白、黒、黄、ぶち等、種々なり。その瞳、朝は円く、次第に縮みて、正午は針の如く、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉の如し、陰処にては常に円し。」

この猫についての語釈、「窃盗の性あり」というのがいいですね(笑)。猫はきっと、「そんなことないよ!」と怒るでしょうけど。
(=^x^=)

「猫」のついでに「犬」も。

「いぬ(名)犬、狗。家に畜(か)う獣の名、人のよく知る所なり。最も人に馴れ易く、怜悧にして愛情あり。走ること早く、狩りに用い、夜を守らすなど、用少なからず。種類多く、近年、舶来の種ありて、いよいよ一ならず。」

犬は、「怜悧にして愛情あり」となっています。大槻文彦は、犬派だったのかな。
∪・ω・∪

もう一つだけ。昨夜(9月19日)は、中秋の名月でした。福岡はとてもよく晴れていて、大きな満月がよく見えました。

『言海』で「中秋」の項をみると、「十五夜」の項をみよ、となっています。
「十五夜」は次のように書かれていました。

「じふごや(名)十五夜。もっぱら、陰暦8月15日の夜に、満月の光を賞する称。秋の半ばにして、暑からず、寒からず、天澄みて、月色甚だ明なれば、特に明月と称し、中秋の月などいひ、一年の観月の節とし、宴など開く。」

名文だと思います。「秋の半ばにして、暑からず、寒からず、天澄みて、月色甚だ明なれば…」というのは、まさに昨晩でした。

話が脱線しまくりました。
英語教育の話をしていたのでした。

言語学者の大津由紀雄氏は、小学校での英語教育に反対し、かわりに「母語である日本語を使って、ことばに対する意識を育成する」ための言語教育の導入を提言しています(大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと』(慶應義塾大学出版会))。

(ネット上では、下記の最近のインタビューに、同様の趣旨が掲載されています)
大学のTOEIC、TOEFL重視 小学校英語の教科化… 破綻に向かう英語教育
「英語教育、迫り来る破綻」 大津由紀雄氏インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3095?page=1

大津氏の述べるように、母語である日本語を用いて、日本語の感覚を磨くとともに、将来の外国語学習の基盤ともなる言語感覚一般を鍛えていく。現在の英語活動のかわりに、そういう「ことばの力を鍛える活動」を小学校時代に行うのも、一つの手かなと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/09/20/se-22/


11. 2014年9月15日 00:55:14 : 3cdYZYbVIc

【施 光恒】「オール・イングリッシュ」の愚

最近、気になったニュースがこちらです。

「文科省、省内会議に英語導入「まず自分たちから」(『日経新聞 電子版』2014年4月30日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28049_Q4A430C1MM0000/

英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文科省が省内の会議の一部を英語で行うことにしたというニュースです。省内の英語教育に関する企画立案にかかわる部門の会議の一部を英語で行うということです。

記事によると、文科省の幹部は、「職員自らが英語を活用することで、英語教育への視野が広がるはずだ」と期待しているそうです…。

このニュースを読んで、私は頭が痛くなりました。日本の教育行政をつかさどる中央官庁が、日本人だけなのにたどたどしい英語を使って、日本の英語教育の在り方について会議している姿は滑稽でしかないですね。
(´・ω・`)

いい大人は「英語ごっこ」なんぞしていないで、日本国民の将来にとって外国語教育がいかなる意味で必要なのか、国語教育とのバランスをどのように考えるべきなのかなどについて真剣に討議してもらいたいと思います。もちろん日本語で。

しかしアメリカ人は、日本の文科省で日本人同士が英語で会議しているのをみたらほくそ笑むでしょうね。「日本人も劣化したなあ、こんな国民には金輪際負けることはないなあ」と。

もし立場を入れ替えて、アメリカの役人たちがアメリカの教育省で自分たちだけなのにたどたどしい日本語で会議をしていたら、多くの日本人はそれを微笑ましさと憐れみを感じながら見つめ、「アメリカも劣化したよなあ」と思い、アメリカという国を軽く扱うようになるのではないでしょうか。
(´・ω・`)

文科省は、最近、ますます「教育のグローバル化」なるものに熱心です。

例えば、上記の日経電子版の記事の後半でも触れられているのですが(登録が必要なのでみられない方も多いかもしれません、すみません)、文科省が昨年12月に公表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」によると、小学5年生から英語を正式教科化し、週三時間それに充てるようになるそうです。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/gaikokugo/1343704.htmまた「モジュール授業」なるものも導入し、英語の授業のない日も、15分程度、英語の「聞き取り」や「発音」などの反復練習に充てる時間を取りたいと考えているようです。

日本語もまだ不確かな小学生にそんなことする必要あるんでしょうかね。英語圏で将来働きたいという希望を持っている子が大多数だというわけでもないでしょうし。

ちょっと意地悪な言い方をするとすれば、文科省は、日本が将来、アメリカの正式な属国になると予想しているのかもしれません…。

中学に目を移すと、中学校の英語の授業は、原則英語で行うことにするようです。高校では昨年度の一年生から始まっていますが、「英語の授業は全部英語でやるべきだ!」といういわゆる「オール・イングリッシュ」という取り組みです。数年後には、それを中学校レベルでも導入しようというのです。

基本的に、英語の時間は日本語禁止で、文法の説明も英語で行い、訳読はしないというのでしょう。ただ、高校の英語の先生に尋ねたところ、現場はやはりそういうわけにはいかず、文法や単語の説明は日本語でするし、和訳も当然しているとのことでした。

ですが、文科省が「英語の時間は英語でやるのが基本」だと強く打ち出していますので、数年後には、英語の時間に日本語を用いる中学や高校の先生がたは、うしろめたさを感じるようになるのではないでしょうか。

不思議なことに、英語教育の専門家には、中学校や高校における「オール・イングリッシュ」の英語の授業を推奨する人は少ないようです。また、英語教育学の研究者のなかでは、「英語は英語のみで教えるべきだ」という説は、学術的に正しくないという意見がかなり強いようです。

たとえば、イギリスの応用言語学の大家ガイ・クック氏は、「オール・イングリッシュ」のように児童・生徒が日常使っている言語を教室から排除する教授法のことを「直接教授法」と呼び、これを批判しています(クック/斉藤兆史、北和丈訳『英語教育と「訳」の効用』研究社、2012年)。

クック氏は、「英語は英語で教えられなければならない」とか「ネイティヴ・スピーカーこそが最良の英語教師である」というような一連の「直接教授法」の考え方には、学術的根拠はあまりなく、それが広まったのは、むしろ「商業上の理由」からではないかと述べています。

つまり、つまり「英語は英語で」とか「ネイティブの先生こそ最良の教師だ」という見方が広まれば、イギリスやアメリカなどの英語国の出版社や学校は、相手国の言語や文化に関係なく、自国の教師や教材を一律に輸出できるので都合がいい。そういうビジネス上の都合から、直接教授法が正しいものとして世界に広まっていっただけなのではないか、と推測しています。

同じように、言語教育の専門家ロバート・フィリプソン氏も、世界の英語教育業界において、誤っているのに広く受け入れられてしまっている5つの誤謬を列挙しています(フィリプソン/平田雅博ほか訳『言語帝国主義──英語支配と英語教育』三元社、2013年(原初は1992年に出版))。

興味深いので5つとも書いておきます。(1)単一言語使用の誤謬、つまり「英語は英語で教えるのが最もよい」という信条

(2)母語話者の誤謬、つまり「理想的な英語教師は母語話者である」という信条

(3)早期教育の誤謬、つまり「英語学習の開始は早いにこしたことはない」という信条

(4)最大受容の誤謬、つまり「英語に接する時間は長いにこしたことはない」という信条

(5)減算的言語観の誤謬、つまり「英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる」という信条

フィリプソン氏は、多くの論拠を挙げながら、これら5つの信条がいずれも誤りで、学術的根拠はあまりないのではないかと論じています。

たとえば、(1)に関しては、児童・生徒がすでに身に付けている言語の土台があり、それに十分関連付けられて初めて外国語の学習が進むのであり、そうした関係を軽視してはならないという点に言及しています。

(2)については、たとえば、学習者と言語や文化を共有し、また自らが第二言語として英語を学習してきた経験を持つ非母語話者のほうが、学習者の言語的および文化的ニーズをよく理解しているため、単なる母語話者よりも教師としてふさわしいとする研究を示しています。そして「理想的な英語教師を母語話者とすぐに結びつける発想自体が拙速である。この信条は科学的妥当性をもたない」と論じるのです。

フィリプソン氏も、「単一言語使用の誤謬」や「母語話者の誤謬」が学術的裏付けが乏しいにもかかわらず広まった原因について、これらが広まることによるアメリカやイギリスなど英語国やそこの各種業者の政治経済上のうま味について指摘しています。アメリカ人やイギリス人の英語教師は、相手国の言語や文化を知らなくても、英語教育関連の世界中の職場で職を得られるようになるわけですし、アメリカやイギリスの出版業者は相手国の言語・文化にかかわらず世界中に教材を売ることができるようになりますので。

フィリプソン氏は、「単一言語使用の誤謬」がもたらす学習者への心理的な悪影響についても強調します。学習者の言語を教室から締め出すことは、学習者の言語や文化が劣ったものだと意識させることにつながらないかと懸念するのです。

フィリプソン氏によれば、ドイツの言語や文化の広報機関であるゲーテ・インスティテュート(ドイツ文化センター)の付属のドイツ語学校も、かつては単一言語使用の方法論に従っていたそうです。

しかし、ゲーテ・インスティテュートは80年代にこの方針を改めました。「学習者の母語を教室から締め出すような教育は、彼らに疎外感をもたらし、彼らから文化的アイデンティティを奪い取り、異文化間コミュニケーションの能力の向上ではなく文化変容を引き起こす」と指摘されたからだそうです。

フィリプソン氏は、この点について、「確固たる文化的アイデンティティを身に付けていると考えられる成人の学習者に対する外国語としてのドイツ語教育にすら、こうした異論があるというのであれば、感受性の強い子供たちに一言語のみを用いて行う教育が壊滅的な結果をもたらしうることは想像に難くない」と論じています。

私も、中学校や高校での「オール・イングリッシュ」の方針は、「百害あって一利なし」に近いんじゃないかと思います。中学、高校の英語の時間は、せいぜい週5時間程度でしょう。一年35週、一時間の授業が50分だとすると、英語の時間は、一年365日中、丸6日程度しかありません。学校教育の外国語学習など、時間的にみれば、たかが知れています。

丸6日程度のうち、英語の音に触れたり、英会話の練習をしたりする時間が授業内で少し増えたところで、たいして英会話がうまくなったりするものでもないでしょう。

それよりも、「オール・イングリッシュだから日本語禁止!」とか、「小学校から英語を学ばせなければ!」とか、「スーパーグローバル人材だ!」とか、「会議は英語でやるお!」とか、グローバル、グローバル、英語、英語と大人たちが叫んでいることの子どもに与える悪影響の方が心配になります。

このような状況は、子どもたちに、「英語や英語文化のほうが、日本語や日本文化よりも圧倒的にえらい」という見方をはからずも刷り込こんでいるのではないでしょうか。

以前のメルマガ記事でも書きましたが、日本の文教政策の短期的な目標の一つとして「英語力向上」というのがあってもいいとは思いますが、それが日本の教育政策の柱となってしまうのはまずいでしょう。

いくら日本人の英語力が向上したといっても、アメリカ人やイギリス人の英語力には適うわけありませんし、おそらく日常生活で英語を必要とするシンガポール人やインド人、フィリピン人にも勝てないでしょうから。

ですので、日本の政策目標としては、「たとえ英語ができなくても、豊かになれ、多様な機会が得られる国づくりを維持し徹底する」のほうがずっと望ましいでしょう。(また「英語による文化支配が事実上行われている世界の現状を長期的には是正し、公正化をはかる」という国際戦略も必須でしょう)。

文科省は、東京オリンピックが開かれる2020年をめどに英語力向上!と叫んでいますが、片言で英会話できる日本人が少々増えたところで別に外国の人はよろこばんでしょう。

それよりも、「日本人は英語がかなり下手だけど、街は豊かさにあふれ、清潔で、安全だ! そして人々は親切だ!『英語化=近代化』などではなかった」という当たり前の事実を外国の人々に認識して帰ってもらった方が今後の世界のためにずっといいように思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/05/02/se-37/


12. 2014年9月15日 00:55:40 : 3cdYZYbVIc

明治時代の大学関係者や知識人は、「学問の独立」を大切にしました。
たとえば、大隈重信の親友で、大隈とともに早稲田大学(前身の東京専門学校)の創設に深くかかわった法学者の小野梓(1852-1886年)は、東京専門学校の開校式(明治15年)で次のような演説を行っています。

「一国の独立は国民の独立に基ひし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。しかして国民精神の独立は実に学問の独立に由来するものなれば、その国を独立せしめんと欲せば、必ずまずその民を独立せしめざるを得ず。その民を独立せしめんと欲せば、必ずまずその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ずまずその学問を独立せしめざるを得ず」(山本利喜雄編『早稲田大学開校・東京専門学校創立廿年記念録』早稲田学舎、明治36年、所収)。

すなわち、一国を独立させるためには、国民の精神の独立を図らなければならない。国民精神の独立は、学問の独立に由来する。したがって、一国の独立のためには、学問の独立が必要だ。そのように小野梓は開校式で主張し、学問の独立、ひいては日本の独立を確立するために東京専門学校を作るのだ。そのように宣言したのです。

ちなみに「学問の独立」を実現するために、東京専門学校が非常に重視し、開校の理念の一つにしたのは、「邦語による授業」です。つまり大学の講義を日本語で行うことでした。

明治の最初のころの日本の大学は、東大をはじめとして、講義をすべて英語などの欧米諸語でやる場合が大部分でした。日本語の教科書もなく、日本語の専門的語彙も不足し、日本人の教員も育っておらず、「お雇い外国人」の教員などが、英語などで授業を行わざるを得なかったからです。日本人教員の場合も、英語などで講義する場合がほとんどでした。

大隈重信や小野梓、あるいは高田早苗(政治学者)などの東京専門学校の創設メンバーは、これでは日本の学問の独立は達成できないと考え、日本語で授業を行い、日本の学問の独立や発展を担う人材を育成する学校を作ろうと考えました。それが、東京専門学校、つまりのちの早稲田大学の創設趣旨の一つでした。

小野梓は、上記の東京専門学校開校式の演説のなかで次のようなことも述べています。

「当時(明治15(1882)年)の世界情勢では、独立を保っている非欧米諸国は、かろうじて日本と中国(清)のみだ。インドは英国に、インドネシア(ジャワ)はオランダに、ベトナムはフランスに植民地化されてしまった。

独立を維持している日本も、欧米諸国との不平等条約改正問題や、清や韓国との関係など深刻な国際問題が山積している。日本に隙あらば付け込もうとする外国も多い。

日本国民の元気を養い、その独立の精神を発揚しなければ、日本の独立を保つのも危うい。日本国民の元気を養い、その精神を独立せしめる方法はいろいろあるとしても、その根本的基礎となるものは、やはり学問の独立である!」
m9(`・ω・´)キリッ!
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/05/16/se-38/


13. 2014年9月15日 12:23:17 : 3cdYZYbVIc

グローバリズムと英語教育

「グローバリズムと英語教育」というタイトルの文章をある媒体に書いた。英語教育専門の媒体なので、たぶんふつうの方は読む機会がないだろうと思うのでここに採録する。

少し前にある雑誌から「子供を中等教育から海外留学させることがブームになっている」という特集を組むので意見を聴きたいと言ってきた。そういう人がいるとは聞き知っていたが、特集を組むほどの拡がりとは知らなかった。

聞けば、富裕層は欧米の寄宿学校へ子供を送り、それほど富裕でもない層ではアジア諸国に移住して子弟をインターナショナル・スクールに通わせ、父は単身日本に残って働いて送金するというかたちが選好されているそうである。

半信半疑だったが、その後バリ島に行ったとき、現地の日本人の方からバリ島のインターナショナルスクールに日本人の母子を誘導する計画があるという話を聴いて得心した。なるほど、そういう時代になったのだ。

これが意味するのは、親たちが「英語が話せる」能力の開発を教育の最優先課題に掲げるようになったということである。英語が話せないとグローバル化した世界では高いポジションを得ることはできない。そうこの親たちは信じている。

一面の真理ではあるが、中等教育から英語習得だけのために海外留学させるのは長期的に見れば得るものより失うものの方が多いと私は思う。

どうしてもうちの子供はその国で育って欲しいという強い願いがあっての留学なら話は違う。例えば、シンガポールという国が大好きで、その社会システムや独特の文化に強い親近感を覚えるという人がシンガポールに子供を送るというのなら話はわかる。その場合はそこで過ごす時間はおそらく有意義なものになるだろう。けれども、ほんとうはスイスの寄宿学校に入れたかったのだが、予算が足りず諸式リーズナブルな国を選んだということになると話は違う。そこに暮らす必然性が本人にも家族にも「英語が話せるようになって、グローバル人材としていずれ重用される」という期待しかないからである。

だが、頭を冷やして考えて欲しい。英語運用能力が大きなアドバンテージになるのは「グローバル化が進行しているのに、英語を話せる人間があまりいない社会」においてだけである。この子供たちはいずれ日本に帰ってこなければ留学した意味がない。

当然ながら、そのような理由で留学させた親たちは、子供が留学先の土地や文化に親和して、そこに居着くことを全く望んでいない。現地人と結婚して、タガログ語やインドネシア語を話す孫たちが生まれるというようなことは祖父母にとっては悪夢以外の何ものでもない。彼らが大きな財政的負荷や単身赴任の不便さや異国での生活に耐えることの代価として求めているのは、「英語が話せる子供たち」が帰国後にそのアドバンテージを最大限活用することだけだからである。

しかし、残念ながら、子供たちが親の願い通りのキャリア形成をするという見通しに私は与することができない。この子供たちは「日本の学校なんかに行くとグローバル社会では生き残れない」という言葉を幾度となく耳に育ってきたわけであるが、それは毒性の強い呪詛としてやがて機能することになるからである。

「日本で学校教育を受けたらダメになる」と聞かされてきたからこそ、子供たちは母語が通じず、生活習慣もものの考え方も感じ方も違う異邦での生活に耐えてきた。だから、彼らが帰国して、まわりの「日本育ちの若者」を見たときに、そこに「自分ほどの努力をしてこなかったもの」への軽蔑の感情がまじることは避けられない。英語が話せない日本の若者たちは「自分のような苦労」をしなかったことの罰を「英語が話せる若者」に侮られ、それより低い地位と低い年収に甘んじることで支払う義務がある。

論理的にはそうなる。どれほど性格のよい若者であっても、自分のがしてきた苦労を正当化するためには、英語が話せない若者たちより自分の方が高く格付けされるべきだと思うことを止めることができない。

だが、果たしてそのような考えをする若者が日本社会において順調なプロモーションを遂げることができるであろうか。私は懐疑的である。彼らはたぶん二言目には「だから日本はダメなんだ」というコメントを口にする「厭なやつ」になってしまうが、それは彼らの属人的な資質とは関係がない。親たちがグローバル化する世界で競争上のアドバンテージを取るためには「日本で教育を受けたら負ける」と判断したことのコロラリーなのである。そういう若者が上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われるということはあまり起こらない。結局、彼らが「厭なやつ」にならずに済むのは、「全員がふつうに英語を話している環境」だけである。だから、遠からず彼らは日本を離れて、彼の英語運用能力が何のアドバンテージももたらさない労働環境を探すようになるだろう。

そういうコスモポリタン的な生き方をはじめからめざしているなら「三界に家なし」という生活を楽しめばよい。だが、ドメスティックな格付けを上げるために「日本を捨てる、日本を侮る」という態度を選ぶことの長期的なリスクについてはもう少し冷静に評価した方がよいと私は思う。

今さら言うまでもなく、英語が国際共通語であるのは、イギリスとアメリカが200年にわたって世界の覇権国家であったという、それだけの理由による。

母語が国際共通語である人間はあらゆる領域で圧倒的なアドバンテージを享受できる。世界中どこでも母語で通せるし、国際会議も国際学会も母語でできる。母語しか話せないのに「国際的な人間」という資格を僭称できる。非英語圏話者たちが英語習得のために費やすすべての労力を英語話者は免ぜられる。そしてあらゆるコミュニケーション局面で英語話者は非英語話者に対して圧倒的な優位を保持する(ネイティブスピーカーはどんな文脈でも、相手の話の腰を折って、発音や言い回しを「矯正」することができるが、逆は絶対に許されない)。英語話者はこの政治的優位を決して手放さないだろう。

何よりあらゆるイノベーションは母語の領域で行われるということが決定的である。私たち誰でも母語においては新しい言い回し、ネオロジスム、それまでにない音韻、文法的破格を行う自由を有する。それによって母語は不断に富裕化している。ある語をその辞書的意味とは違う文脈で用いることが「できる」という権能は母語話者だけに許されている。

今の日本の若者たちは「やばい」という形容詞を「すばらしく快適である」という意味で用いるが、それを誤用だから止めろということは私たちにはできない。けれども、例えば私が「与えた」というのをgaveではなくgivedと言いたい、その方がなんか「かっこいい」からと主張しても、それは永遠に誤用のままであり、それが英語の語彙に登録されることは絶対にない。

知的イノベーションというのは、こう言ってよければ、そこにあるものをそれまでと違う文脈に置き直して、それまで誰も気づかなかった相に照明を当てることである。だが、そのような自由が許されるのは母語運用領域においてだけなのである。

フィリピンのある大学の先生がこう言っていた。「英語で講義ができるのはpracticalである。母語で講義ができないのはtragicである。」

彼女の母語は情緒豊かな生活言語ではあるが、それで国際政治やグローバル経済や先端的な学術について語ることは困難である。これが植民地の言語政治の実相である。

知的イノベーションは母語によってしか担われない。成長したのちに学んだ英語によっては「すでに英語話者が知っている概念」を表現することはできるが、「まだ英語話者が知らない概念」を語ることはできない。語ってもいいが、誰も理解してくれない。母語ならそれができる。母語話者の誰もがそれまで知らなかった概念や思念や感覚であっても、母語なら口にした瞬間に「それ、わかる」と目を輝かせる人が出てくる。記号が湧出してくる「土壌」を母語話者たちは共有しているからである。その非分節的な「土壌」から生起するものは潜在的には母語話者全員に共有されている。だから、「わかる」。それがイノベーションを励起するのである。

だから、フィリピンのような二層言語構造では、エリートたちは英語に習熟するにつれて「母語的土壌が生み出すイノベーション」のチャンスから遠ざけられる。それが植民地の知的自立を遠のかせている。

英語の国際共通語化というのは、英語を母語とする者があらゆる分野でのイノベーションを排他的に担う仕組みを作ることである。政治でも通商でも学術でもあらゆる領域で英語を母語とする人間の優位性を半永久的に保持するようにするための政治的構築物である。

これは否定しがたい現実である。だが、英語を効率よく学習しようとする非英語圏の人々は、まさにそのふるまいを通じて、英語話者の圧倒的優位というアンフェアな仕組みをさらに補強することになるということはつねに自分に言い聞かせるべきだろう。

繰り返し言うが、言語はすぐれて政治的なものである。覇権国家の言語が国際共通語になる。軍事的・経済的弱小国の人々は強国の言語を学ぶという「苦役」を強いられる。

ただ、この「苦役」は同時に「贈り物」でもある。というのは、母語が国際共通語である人たちにとって、「国際的であるために国際的であることを要さない」というのはメリットであると同時にたやすくリスクにも転化するからである。

国際共通語話者は「言葉が通じる相手」があまりに多いせいで、「言葉が通じない相手」の「何が言いたいのかよくわからないこと」に耳を傾ける手間を惜しむ傾向がある。だが、歴史が教えるのは、「帝国」の没落は「何が言いたいのかよくわからない人々」によってもたらされてきたということである。
http://blogos.com/article/93720/


14. 中川隆 2014年10月24日 08:31:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

英語の授業を英語で教える必要はあるのか 2008/12/27


英語で授業…「正直、無理」 高いハードルに先生困った
http://www.asahi.com/national/update/1222/TKY200812220321.html

 ぼくはこういう授業はの特別な生徒を一部を除いて無駄だと思います。

無論語学で会話も必要ですが、文法を英語で習ってもよくわかりません。

日本語の比較で理解するわけですから。あたしゃ、ロンドンで随分それで苦労したことか・・・・。しかも文法をすっ飛ばして勉強すると英語圏に住んでいた時やその後しばらくはよかったのですが、段々と忘れていくわけですな。で、未だに英語の勉強を毎日しております。

 非ネイティブが勉強するのは文法を完全にマスターすること。それが経験から得たぼくの結論です。

 英語の授業を英語でできて、しかも成果をだせるのはごく一部の帰国子女や英語(あるいは語学全般)が得意な生徒だけでしょう。このような教育はむしろ英語嫌いを増やすだけです。

 こういう授業は一部の進学校の、それまた一部の生徒を対象とするぐらいでいいのではないでしょうか。

 そもそも何故英語を学ぶか、という目標を当局は示していません。

 現在仕事や日常でもっとも必要性があるのはネットでの情報収集などでしょう。となるとまず読めること。それからメールなどで問い合わせなどができること。となると英作文です。つまり読み書きが重要です。

 別に海外旅行や外国人に道を教えるため、あるいは横須賀や福生で米兵にぶら下がるために巨額の公費を使って英会話を教えてもさほどメリットがあるとは思えません。

 もし海外で交渉する、外国人を説得するというのであれあば、英語よりもむしろ、国語やそのほかの授業で口頭試問やディスカッションを増やし、またそれに参加するように生徒を指導することでしょう。
 
 日本人は堂々と自己主張をすることが出来ません。またつかみ合いになるような口論をした次の日に、ニコニコして話しかけるなどとうことも苦手です。
 
 日本人同士の会議などでも発言せず、あとでブツブツいう人が多いわけです。こういう人がいくら英語を勉強しても交渉ごとは出来ません。
 外国人と交渉するには話術と厚かましさが必要です。それは普通の日本人には向きません。

 いくら英語ができてもビジネスや外交の場でまったく役に立たない人は結構おります。故宮沢喜一氏などその典型例じゃないでしょうか。むしろ、かなり怪しげな英語しか話せない中小企業の大将の方が余程交渉ごとが上手かったりします。


 文化の多様性を教えるならば、フランスのように高校で第二外国語を教えるべきです。で、第二外語をとるか、英語だけでいくかを生徒に選択させる。そのほうが国家として、また個人としてえるものがあると思います。

 英語で英語の授業をする前に、総会屋、詐欺師、ヤクザなど言葉の戦争が日常で、説得力を要する商売の方々を講師に招いて、日本語のオーラル・コンバセーションをやった方が宜しいでしょう。


 日本語ですら自分の意見が言えず、相手を説得できない人間が英語でそれをできますか?

 ぼくは高校一年の時、たまたま成績が良かったので学級委員にされたのですが、そのとき学級委員を対象としたリーダー研修会というのがありました(銚子西高ではまだこのような研修を続けているのでしょうか?)。

 これで、積極的に発言したり、議論に参加したり、自分の考えを他人に伝えると、交渉をするという技術を学びました。この経験が現在の仕事で非常に活きています。

 こういう教育は外国語教育の前に是非必要だと思います。  
 

 日本語での「交渉」「説得」の技術の向上の参考になるとおもいます。
http://kiyotani.at.webry.info/200812/article_9.html


15. 中川隆 2014年10月24日 08:34:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

ある防衛専門家のブログですが、ここに上げられている疑問に私も同意です。

英語の授業を英語で教える必要はあるのか
http://kiyotani.at.webry.info/200812/article_9.html


文法を英語で習ってもよくわかりません。日本語の比較で理解するわけですから。


私もネパール語やタイ語を英語で習ったことがありますが、本当にわかりにくかったです。

英語で入ってくる抽象的な内容をいったん日本語に置き換えて、さらにネパール語やタイ語の文法として当てはめていくという頭の作業が必要なので、理解が遅くなります。

(何語でもそうですが、ネパール語やタイ語を日常普通にしゃべるためには文法学習など必要ないのですが、当時はクソまじめに考えていたのでわざわざカネ出して学んだりしたんですね)。

抽象的な思考を深くするには母国語が必要です。


そもそも何故英語を学ぶか、という目標を当局は示していません。

 現在仕事や日常でもっとも必要性があるのはネットでの情報収集などでしょう。となるとまず読めること。それからメールなどで問い合わせなどができること。となると英作文です。つまり読み書きが重要です。

日本人には「英会話が苦手」という意識が強くあり、しかもそれを克服しなければならないという強迫観念のような思い込みがあり、英語の勉強といえば「会話」だ、グローバル時代ならますます会話だ、という固定観念がいまだにありますが、そういう発想は古いと思います。

インターネットの時代に必要な英語力というのは大量のドキュメントを処理する力(読書力)や英文メールを書く力です。これは、多くの普通の人が経験から感じていることではないでしょうか。

つまり、「英会話主義」はもう古い、といえると思います。


別に海外旅行や外国人に道を教えるため、あるいは横須賀や福生で米兵にぶら下がるために巨額の公費を使って英会話を教えてもさほどメリットがあるとは思えません。

 もし海外で交渉する、外国人を説得するというのであれあば、英語よりもむしろ、国語やそのほかの授業で口頭試問やディスカッションを増やし、またそれに参加するように生徒を指導することでしょう。

まったく同感です。

日本人の多くは、「英会話」が苦手な以前に、「会話」自体が、ほかの国の人々に比べて苦手です。

これはいろんな国の人が日ごろからいかによくしゃべり、論じているか、その様子やしゃべっている内容を、日本人の日常会話と比較してみてもわかると思います。

しかし、会話自体が下手であることが悪いこととも限りません。

日本人の日常会話は断片的な単語や表現を羅列しているだけのことが多いのに対して、多くの外国人の場合は(たとえば今身近にいるマレー人でも中国人でもインド人でも)、どうでもいいようなくだらないことを一見理屈めいた形式であれこれと口に出して論じているようです。

彼らがしきりにしゃべり論じていることは、日本人が日本語で同じことをやったら、

「くどいやつ。理屈っぽいやつ。言っても仕方がないことをいちいち言い、言わなくてもわかること、見ればすぐわかることをいちいち口に出す頭の鈍いやつ」

という評価を受けるようなことばかりです。

つまり、日本人が会話自体が苦手なのは、文化や美意識の違いから来ていることなのであって、無条件に悪いということではありません。会話が上手いから無条件に優れているということではないのです。

日本の固有の文化が「会話が苦手なことに理由のある文化」なのであり、この固有文化を否定してなんでもかんでも「世界標準」にあわせなければならないという理由はありません。

そのようなイデオロギーが英語業界等にまかり通っているようですが、それは文化の多様性の否定にほかならず、非白人的な(さらには、非ユーラシア的な)少数派民族文化の否定です。

もちろん、とにかくしゃべること、まっとうでない理屈であってもあらゆる可能な理屈を試みていく姿勢、が必要とされる場面はたくさんあります。外国人との交渉ごとは常にそうでしょう。


外国人と交渉するには話術と厚かましさが必要です。それは普通の日本人には向きません。

 いくら英語ができてもビジネスや外交の場でまったく役に立たない人は結構おります。故宮沢喜一氏などその典型例じゃないでしょうか。むしろ、かなり怪しげな英語しか話せない中小企業の大将の方が余程交渉ごとが上手かったりします。

 
 英語で英語の授業をする前に、総会屋、詐欺師、ヤクザなど言葉の戦争が日常で、説得力を要する商売の方々を講師に招いて、日本語のオーラル・コンバセーションをやった方が宜しいでしょう。

 日本語ですら自分の意見が言えず、相手を説得できない人間が英語でそれをできますか?
http://kuantan2007.wordpress.com/2008/12/28/%e8%8b%b1%e8%aa%9e%e3%81%ae%e6%8e%88%e6%a5%ad%e3%82%92%e8%8b%b1%e8%aa%9e%e3%81%a7%e6%95%99%e3%81%88%e3%82%8b%ef%bc%9f/


16. 2014年10月24日 08:37:08 : b5JdkWvGxs

外国語は文法が大切

外国語の学習では文法が大切です。

「日本人は文法ばかり勉強しているので英語が話せない」というのはまったくのウソです。

英語がほとんど話せない日本人ツーリストを観察していればわかることですが、英文法の知識もほとんどありません。

ネパールの公教育での英文法のレベルは日本より高度です。

山村の公立学校の7年生(日本の中一)の教科書を見せてもらいましたが、現在完了や使役、原型不定詞などの文法知識を問う書き換え問題がたくさん乗っていて、繰り返し練習させていました。

本自体が貴重であり、紙質も粗末なので、日本の英語の教科書にあるような、何の目的かわからないようなお話を読ませる「リーダー」は少ないようでした。

テュイションとかよばれるスクーリング(これによって山村で働きながら「大学」の学位をとる人も多い)の英語の授業を見学させてもらったこともありますが、やはり、教師と少人数の生徒との間で、文法的な言い換え、質問にどう答えるか、という文法訓練中心に行われていました。

もちろんみんながそういう課程を十分に経ているわけではないので、英語がまったく話せない人ももちろんたくさんおり、英語を話す人でも文法はいい加減で、英単語をネパール語と同じ語順(日本語とほぼ同じ語順)で話してくる人も少なくありません。

いずれにしても、文法をちゃんとやらずに会話だけで覚えた英語を話す人は、無教育をひけらかしているようなものだと思います。会話だけで覚えた英語には、仮に発音がそれらしく流暢そうに見えても、無教養がにじみ出ています。売春バーの臭いが染み付いているといっても良いでしょう。

文法が存在しないに等しい言語(タイ語やマレー語など)の場合は別かもしれませんが。

多くの日本人が「英会話」中心で英語を習い、「流暢な無教養」を世界に垂れ流して歩くことが日本にとって良いことだとは到底思えません。

日本人の英語が上達しないのは、文法をちゃんとやらないからです。

日本の学校では国語科でも国文法が軽視されすぎていると思います。国文法をちゃんとやらないので外国語の学習になじみにくいということがあると思います。中学くらいまでに古語を含む国文法をみっちりと、頭が痛くなるくらいに教えたほうが良いと思います。
http://kuantan2007.wordpress.com/2009/03/31/%e5%a4%96%e5%9b%bd%e8%aa%9e%e3%81%af%e6%96%87%e6%b3%95%e3%81%8c%e5%a4%a7%e5%88%87/


17. 2014年10月24日 08:39:34 : b5JdkWvGxs

英語を話す百姓(チョウキで)

せっかくネパール語しか通じないところに来て、そういう家の親切な人たちに囲まれてネパール語の会話の勉強に励んでいるときに、殴りこんでくるのが「英語をちょっと話す百姓」である。こういうのはネパールにはどこにもかならずいる。ツーリズムという産業が、その国家全体に及ぼす害毒といってよい。

英語百姓の目的はまず第一に外国人を捕まえて英語を話してみたいこと、第二に自分の英語を試してみたいこと。第三に(時には第一に)、日本人などに英語で挑戦し「日本人は英語が話せない」ことを確認し自己の「優位性」を示したいということ。

ネパールでは多くの場合、英語百姓はアーリア系である。

英語百姓は英文法もほとんど知らないようだが早口でまくし立てる。ネパール語だけで会話していたときのまったりした雰囲気は台無しである。

彼らの目的は「能力を競うこと」である。どう対応しても「競い合い」にされてしまうので、まったく場がしらけてしまう。

ネパールに限らず、アジアにはどの国にもこの種の、好んで植民地奴隷になりたがる野暮天が、多かれ少なかれ必ずいる。
http://kuantan2007.wordpress.com/2009/03/31/%e8%8b%b1%e8%aa%9e%e3%82%92%e8%a9%b1%e3%81%99%e7%99%be%e5%a7%93/


18. 2014年10月24日 08:42:15 : b5JdkWvGxs

日向で数学の勉強をする「平民」の女子高生

マオイストに比べれば「平民」だが、チェトリ(インドのクシャトリアに該当)の子。17歳で9年生。


ただネパールの学校教育の水準は決して低くない。テキストこそ粗末だが内容はかなり高度。

山村の公立学校7年生(日本の中一)の数学のテキストを見せてもらったが、2次方程式や因数分解などを普通に解いていた。最近の日本のゆとり教育学校よりは明らかに高度だろう。

英語はさらに高度で、公立学校(「ボーディングスクール」ではない)7年生でもう現在完了や原形不定詞を使った使役などの書き換え問題(askなどを使った説明文をmakeやgetやletを使った文章に書き換えさせたり、「present perfect」で表現しなさいというような問題)をやっている。問題文もすべて英語。

この子は今コンパスを使って図形の勉強をしている。


学費の高いボーディングスクールなどで英語で教育を受けた子供は(英語が出来る=エリートという意識はあるが)、ネパール語は上手く出来ないことが多いという。本人がそう言うことがある。

カーストを問わず大部分のネパール人にとってネパール語が現在母語になっているが、それでも正しいネパール語を話せる人は少ない。地方訛りとかそういう問題ではなく、発音だけでなく、語彙や文法も含めてである。読み書きはさらに難しいという。

公立学校でネパール語の教育を受けていても「ネパール語が出来る人はあまりいない」とネパール人が言う。

日本では、日本人ならおよそ日本語が話せる、理解できると考えられているだろう。

それが常識になっているという点ひとつをとっても、日本の基礎教育水準が(少なくともこれまでは)多くの国に比べて優れている(た)といえるのだと思う。

この点について、「ネパール語はアーリア語だから(絶対的に)難しい」という考えは誤りである。(ネパール語にはドイツ語のような複雑な性数による変化があり無生物主語が多用され、語順が日本語とほぼ同じとはいえ、「正しい」ネパール語を日本人が話すことが難しいのは確かである)。

我々日本人は日本語を「しっかり」習得してしまっているので、まったく別系統の言語(ほとんどの外国語がそうだが)を学ぶのは難しいというにすぎない。

逆に、ある言語(外国語)に非常に熟達すると母語も忘れていくといわれる。

日本人の大部分が、「外国語習得が難しくなるほど母国語を身につけていること」が、(これまでは)日本の底力となっていたのだろう。

マレーシアの華人などには、英語、マレー語および複数のシナ語を自在に使い分ける者が珍しくない。彼らにとっては外国語習得は日本人よりも簡単なのだ。そのかわり彼らは、どの言語をとっても、普通の日本人が日本語を身につけているほど「しっかりと」は身につけていないはずである。
http://kuantan2007.wordpress.com/2009/03/19/%e6%97%a5%e5%90%91%e3%81%a7%e6%95%b0%e5%ad%a6%e3%81%ae%e5%8b%89%e5%bc%b7%e3%82%92%e3%81%99%e3%82%8b%e3%80%8c%e5%b9%b3%e6%b0%91%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%a5%b3%e5%ad%90%e9%ab%98%e7%94%9f/


19. 2014年11月15日 14:14:54 : b5JdkWvGxs

【施 光恒】「リカちゃん人形」と「いただきます」 2014/11/14

2週間ほど前のNHKのテレビ番組で面白いことを話していました。
http://www4.nhk.or.jp/masakame/x/2014-11-01/21/30135/

タカラトミーが出しているおなじみの「リカちゃん人形」ですが、今年で発売47年になるそうです。

このリカちゃん人形ですが、47年間、変わらない特徴があるとのことです。

リカちゃんの眼です。リカちゃんの眼は、まっすぐに前を見つめておらず、少し左上に視線が行くように作られています。

なぜかと言えば、子どもがリカちゃんで遊ぶときに目が合ってしまうと、圧迫感を感じてしまうので、それを避けるためだそうです。

タカラトミーは、いかにも日本の企業ですね。

アメリカのバービー人形は、まっすぐ前を見つめています。画像検索して、バービー人形の画像をみてみましたが、なるほど目が合いそうです。私なんかは、バービー人形で遊ぶ子どもは、確かに人形の目から圧迫感を感じてしまいそうだと思いますが、アメリカ人の子どもは別に気にしないのでしょう。

日米の文化の違いですね。

文化の相違といえば、先日、大学院のゼミの時間に学生と「いただきます」についての話をしました。私のゼミは、一応、政治理論・哲学のゼミなのですが、その日はカナダのあるベジタリアン(菜食主義者)の政治哲学者のことが話題に上りました。

その関係で、食事の際に何に感謝するかという話になりました。

日本では、「いただきます!」というときは、料理をしてくれた人とともに、これから食す食べ物(肉や野菜など)にも感謝をします。つまり生命を提供してくれた魚やトリ、ブタ、ウシ、野菜、穀物、果物などに感謝の意を込めて「いただきます」と言うわけです。

欧米では、「いただきます」とは言いませんが、食事の前に祈る場合があります。この際、個々の食材ではなく、キリスト教の神に感謝の念を捧げるのが普通のようです。

私は、キリスト教の中学校に通っていたので、中学時代、たびたびキリスト教のお祈りを唱えさせられました。いまでも覚えているのですが、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という一節がありました。食物を与えてくれるのは神だと理解するわけです。

生命を捧げてくれた個々の食材に感謝する日本と、万物の創造主としての神を想定し、その神に感謝する欧米。この相違の根底にあるものは、食前の儀礼以外でもさまざまな面で見出すことができ、非常に興味深く感じます。

論者によって詳細は異なりますが、日本と欧米の文化の違いについて、よく次のような指摘がされます。

日本では、状況における他者の気持ちや期待、人々の関係性や社会的役割に注意を払う「関係重視の道徳」が優勢である。他方、欧米文化では抽象的な原理や非人格的なルールを尊重する「原理重視の道徳」が優勢である。

「リカちゃん人形」の件も、「いただきます」の件も、このような文化差から説明できるのかもしれません。

日本社会では、他の人々に敬意を払い、他者の気持ちを大切にしなさいと教えられます。あるいは、「もったいない」の精神に表現されるように、「万物に感謝の心を持ちなさい」などともよく言われます。

こう教えられるため、日本人は他者の気持ちに配慮するようになりますし、他者の視線に敏感にもなります。モノを大切にする文化も形成されますし、「いただきます」と食前にいう習慣も生じます。

当然ながら、日本と欧米の文化のどちらが優れているかという優劣の問題ではなく、文化の違いの問題です。

ただ、日本人は弱気なことが多いですよね。自分たちの文化の論理をうまく説明できず、主張されるがままに欧米の理屈を受入れてしまうことが少なくないようです。

このメルマガでよく取り上げる言語学者の鈴木孝夫氏が、ある本で次のように書いていました(鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書、1999年)。

アメリカ人の英語教師が、日本の学生たちによく要求することの一つに、人と話すときは相手の目を見つめながら話しなさいということがあります。会話の最中に目をそらすことは何か心にやましいことがある、何か良くないことを企んでいる、と解釈するのがアメリカの文化だからだそうです。

しかし、日本人の感覚からすれば、人の目をじっと見続けることは、失礼なことです。「ガンをつける」という言い方があるように、日本では相手の目を注視すれば見つめられる方は不快な気持ちになってしまう場合が多いでしょう。

ですが、日本人は、アメリカ人の先生に「相手の目を見て話しなさい」と言われると、照れくささや違和感を覚えながらも、おとなしく従うことがほとんどだと思います。

鈴木孝夫氏は、ここで黙って従ってしまうのはおかしい、それでは本当の国際的な相互理解は果たされないとします。国際的な相互理解という観点からすれば、この場合、日本人学生は、アメリカ人教員に日本の文化的見方をきちんと説明すべきだと鈴木氏は論じます。つまり、「相手の目を正面から見据えて話すことは、アメリカと異なり日本では相手を威圧することにつながりかねず礼儀正しいことではない」とはっきりと述べる必要があるというのです。

私もそう思います。日本では、他者の言い分を受入れ、自分を変えていくことが美徳だと考えられることが多いからか、どうも自分たちのものの見方の意味を言語化し、相手に説明し、納得させることをあまりしてきませんでした。日本人自身が日本的なものの見方は特殊だと思い込み、海外(特に米国)の基準に合わせようとしてきました。

近年は特にそうですね。いわゆる構造改革も、最近のTPP参加を見据えた国内の制度改革(例えば軽自動車の税制上の優遇措置の廃止など)も、そうでしょう。「グローバル化=英語」と言わんばかりのビジネスや教育での英語化の流れも顕著です。この調子でいけば、近い将来、日本人にとって生きづらい日本社会ができてしまい、我々の子孫は大変苦労することになりかねません。

何年かぶりに米国からメジャー・リーガーがやって来て、現在、日米野球が開催されています。近頃いつもそうですが、相変わらず、使用するボールの規格で日本人選手は苦労していると報じられています。

日本のプロ野球で使われているボールと、アメリカの大リーグで使用されているボールは、手触りや縫い目の高さなど細かいところで違うからです。

これなんかも私は、日本で開催するときは、基本的に日本のプロ野球が普段使っているボールを日米野球でも使用するべきではないかと素朴に考えます。あるいは、全試合中、半分は日本球、もう半分はメジャー球というふうに公平にすべきだと思います。

もちろん、メジャー・リーグ主催のWBCではメジャー使用球が使われるので、それに慣れるためという事情もあるのでしょう。

しかし、だったらWBCでも、あるいはメジャー・リーグ自体でも、品質がよりよいとされる日本式のボールを公式球として一部でも採用してもらうように日本野球機構などの上部組織は粘り強く交渉してもらいたいものです。

上に立つ者、あるいは組織が、相手方のルールや土俵を呑まされてしまい、現場の人間が苦労する。なんか最近の日本ってそういうことがやけに多い気がします。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/11/14/se-48/


20. 中川隆 2015年1月30日 13:05:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

安藤忠雄「英語なんかできなくても世界で仕事はできる」

SAPIO2015年2月号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150130-00000000-pseven-bus_all

 建築家で東京大学特別名誉教授の安藤忠雄氏はまぎれもない国際人だが、英語の早期教育については必ずしも前向きというわけではない。「まずは日本語をきちんと学べ」と説く。

 * * *

 メディアでは、日本人建築家が海外で高い評価を受けているという報道を耳にする。そういった実感は特にないが、私の事務所では仕事の90%以上が海外の案件になっていることは事実だ。これまで手がけた海外プロジェクトは、アメリカやフランス、スペイン、中国、韓国、インドネシアなど40か所に及ぶ。
 
 外国で仕事をする、あるいはコンペに参加するには「強いチーム」が必要だ。我々は設計をするが、他にも構造設計や施工をする人などがいて、さまざまな役割の人たちと一緒にチームを作る。もちろん、日本人だけではなく、現地の会社や人とも組む。
 
 この時にお互いが自らの意見をぶつけて徹底的に議論することで、心の交流と信頼が生まれ、強いチームができる。いいチームができないようならその仕事は受けない。
 
 日本人には、話を聞くだけで自分の意見を言わない人や、逆に相手の話をまったく聞かない人が多い。それは衝突を恐れているからである。私は初めから衝突するつもりで乗り込んでいく。

 2014年9月にオープンした上海のオペラハウス(保利大劇院)や、先のAPECの会場になった北京のホテルなど、これまで中国でもいくつか設計を手がけてきた。よく「中国人は手抜きをする」「信用できない」などという人がいるが、まったくそんなことはない。本気で本音の対話をすれば、相手が中国人でも衝突を乗り越えていいチームを作れるし、今まで問題が起きたこともない。
 
 国際的な仕事をするには英語が必要だと言われる。それを否定するつもりはない。しかし、その前に日本文化を学び、日本人としての地盤を固めていなければ国際人とはいえない。生まれたばかりの子供に英語教育をするのなら、それより先にきちんとした日本語で意思を伝えることを教えるべきだろう。
 
 実は私は英語がほとんど話せないが、不便を感じることは少ない。海外のクライアントでも、熱意を持って仕事に臨めば必ず意思は通じ、思いを一つにすることができる。それで海外の仕事を35年やってきたし、何の問題もなかった。
 
 心の交流が必要だというと、すぐに酒を連想する人が多いが、酒に頼った信頼関係など本物ではない。本当の信頼は仕事の現場で生まれるものだ。


21. 2015年2月06日 14:14:14 : b5JdkWvGxs

【施光恒】「グローバル人材」って「植民地人」のことかもね!? 2015/02/06


From 施光恒(せ・てるひさ)@九州大学


数日前に、こんな記事がありました。

「さいたま 小1から英語 政令市で初、正式教科に」(『東京新聞』2015年1月31日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015013102000135.html

さいたま市は、市立小学校で英語を小学校一年生から正式教科にすると発表しました。今年の四月からモデル校数校で先行実施し、二〇一六年度には市内の全百三校に導入するそうです。

上記の記事中でも触れられていますが、岐阜市はもっと力を入れていて、今年4月から市内全校で小学校一年生から英語を正式教科とする予定です。

あいかわらずの英語偏重教育だと半ば感心します…。
ヘ(´_`;)ヘトホホ…

ちなみに東京都は、公設の「英語村」を作る予定です。

「東京都が「英語村」開設へ 中高生向け、来春にも検討委」(『日本経済新聞』2014年12月22日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO81184200S4A221C1CR8000/

政府も負けてはおらず、「クールジャパン」の一環として、日本国内にもかかわらず英語を公用語とする「英語特区」を作るという話が昨夏、出てきました。

「「英語特区」創設を提言 クールジャパン有識者会議」(『産経新聞』2014年8月26日付)
http://www.sankei.com/economy/news/140826/ecn1408260011-n1.html

政府肝いりの「クールジャパンムーブメント推進会議」なる有識者会議は、オドロキの提案を行っています。日本人が自分たちの税金でわざわざ英語「租界」を作ってやろうというとても「クールな」(お寒い)提案です。外資は喜ぶでしょうけど。

例えば、「特区内では公共の場での会話は英語のみに限定する」、「視聴できるテレビ番組は(英語の)副音声放送がある番組とする」、「販売される書籍・新聞は英語媒体とする」、「特区内で事業活動する企業が、社内共通語の英語化や社員の英語能力向上に資する活動を積極的に展開する等の一定条件を満たした場合、税制上の優遇措置を図る」などです。
( ゜д゜)マサカマジデイッテルンスカ…

このような最近の英語偏重教育の流行について、私が最も懸念するのは、子どもたちが母語である日本語や日本文化を、英語や英語文化よりも、価値の低い、劣ったものだと考えてしまうのではないかという点です。

さいたま市や岐阜市だけでなく、数年後には日本中の小学校で英語を正式教科として教えるようになります。当然ながら、私立中学の入試では英語が課せられるでしょう。教育熱心な家庭では、子どもの英語圏への短期留学なども流行ります。

中学・高校の英語の時間では、原則的に日本語禁止の「オール・イングリッシュ」の方針がとられます。(これについては下記の過去記事もご覧ください)。
(【施 光恒】「「オール・イングリッシュ」の愚」『三橋貴明の新日本経済新聞』2014年5月2日配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/05/02/se-37/

大学でも、「一流大学」ほど講義が英語化されていきます。京大は教養科目の半分を英語による講義にするそうですし、九州大学は4分の1の授業の英語化を目標としています。

東京大学の理学部化学科にいたっては、すでにすべての授業を留学生に合わせて英語化してしまいました。日本語廃止ですな…。

(「東大理学部化学科、外国人編入生受け入れ 全授業を英語に」『日本経済新聞』2014年9月30日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H18_Q4A930C1CR8000/

こういう流れのなかで、今後の日本の子供たちは、まず間違いなく「日本語や日本文化は英語や英語文化よりも劣っている」と考えるようになるでしょう。省庁や自治体、国立大学などが「英語化を進めれば進めるほど先進的なのだ、知的なのだ」というイメージを周囲に振りまいているわけですから、子供たちは影響されるはずです。

そう遠くない将来、日本人の多くが、「あの大学、まだ日本語で授業してる。三流大学だなwww」、「社内で日本語が聞かれるようでは一流企業ではない」などと普通に思うようになるのではないでしょうか。

しかしそうなってしまったら、法的には独立国家の体裁を保っていたとしても、日本人のものの見方は植民地下に置かれた人々と似たようなものになってしまいます。

ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ氏は、ノーベル文学賞候補として毎年のように名前が挙がる人物です。グギ氏は、かつては英語で小説を書いていたのですが、ある時期から自分の母語であるギクユ語で執筆するようになりました。母語で書かなければ、自分たちの本当の感情は表現できないし、文化の独立や発展にもつながらないと考えるようになったのです。

グギ氏は、植民地体制下では一般に、宗主国の人間は自分たちの言語を、現地の言葉よりも価値の高い一種のステイタス・シンボルにしようとすると指摘します。その上で、次のように続けます。

「白人の言葉を学んだ者は誰もが、田舎者である大多数の者とその粗野な言葉を軽蔑しはじめる。選びとった言葉の思考方法と価値観を身につけることによって、彼は自分の母語の価値観から、すなわち大衆の言葉から疎外されるのである」(グギ・ワ・ジオンゴ/宮本正興ほか訳『精神の非植民地化──アフリカ文学における言語の政治学(増補新版)』第三書館、2010年、188頁)。

つまり「英語がことさら重視されることで、現地語は汚名を着せられ、英語と同等の価値がある言語とみられる可能性がなくなる。結果として現地の文化や言語の創造性が妨げられる」というのです。

もちろん日本は植民地下に置かれているわけではありませんが、近い将来の日本の子供たちの多くは、植民地下の人々と同じような状況に陥りそうです。英語的な価値観や思考方法こそ先進的でカッコいいと思いこみ、日本語や日本的価値観、ひいてはそれを身につけている大多数の日本人を軽く見るようになるのではないかと懸念せざるを得ません。

日本の政府や自治体、教育制度自体が税金を使って「これからは英語だぞ〜、日本語は内向きで遅れた言語だぞ〜、賢い子は英語で話し、学び、考えろよ〜」と暗黙のメッセージを発しまくるわけですから。

ここ最近、朝日新聞的インテリの権威が地に堕ち、日本社会はやっと戦後の自虐史観から少しずつ脱しつつあるのに、また新たな、おそらくもっと強力な自虐的世界観が広まってしまいそうです。

「グローバル人材を育成するぞ!」と意気込んだのに、フタを開けてみたら自国の文化や言語に抜き去りがたいコンプレックスを抱えて打ちひしがれる「植民地人ができちゃいました…」なんてことになりそうです。ホント笑えません。
(´・ω・`)ショボーン

イカン、このまま終わると暗い気分を引きずりそうですので、最後にもう少し元気が出る話題を。

当メルマガで私がよく引用する言語社会学者の鈴木孝夫氏は、日本語の持つ「タタミゼ効果」について最近、よく書いています(例えば、鈴木孝夫『日本の感性が世界を変える──言語生態学的文明論』新潮社、2014年)。

「タタミゼ」とは、もともとは、フランス語で使われてきた比較的新しい言葉で(フランス人が)「日本かぶれする、日本びいきになる」「日本人っぽくなる」といった意味だそうです。柔道のさかんなフランスですので、「畳」が日本のシンボルなのかもしれませんね。

鈴木氏は、この言葉の意味を少し変えて、日本語が、日本語使用者に与える影響について語っています。

海外の日本語研究者や日本語学習者、あるいは日本語教師の間では以前から、「日本語を学ぶと、性格が穏和になる」「人との接し方が柔らかくなる」ということが指摘されていたそうです。

日本語の持つこうした「人を優しくする力」に着目して、鈴木氏は「タタミゼ効果」と名付けています。

鈴木氏は著書のなかで、多くの実例を挙げています。

例えば、アメリカ人のあるキャリアウーマンは、日本語を学び、日本で暮らした結果、万事控え目になり、自己主張があまりできなくなってしまったそうです。これではアメリカに戻ってきちんと暮らしていけなくなってしまうのではないかと心配になったとのことです。

ロシア人の元外交官は、日本語を学び、日本に滞在している間に、ロシアに帰国すると「日本人になったみたいだ」と冗談を言われるぐらい感じが変わり、やはり人当たりが柔らかくなったということです。

鈴木氏の著書によれば、多くの日本語学習者が、日本語を学ぶと、「柔和になった」、「一方的な自己主張を控えるようになった」、「相手を立て、人の話をよく聞くようになった」、「自分の非を認め、謝ることができるようになった」などの性格の変容を経験しています。

これ、非常に興味深いですよね。以前のメルマガ記事でも書きましたが、日本語の会話では、周囲の状況や他者の気持ちを読み取り、それに配慮して話すことが求められます。

例えば、自分のことを指すときは、英語では常に「アイ(I)」で済みますが、日本語だと、職場では「私は…」、友人の前では「俺は…」、自分の子供の前では「お父さんはな…」などと状況に応じて使い分けなければなりません。

また、日本語の会話では、例えば、ある人のお宅を訪問してそこから帰ろうとするとき、はっきり帰るとは普通言いません。だいたいこんな感じです。

「あのう、それではそろそろ…」
「そうですか。お構いもしませんで…」
「いえいえ、ではまた」
「お気をつけて」

互いに、周囲の状況や相手の気持ちを察する能力を鍛えて、身に付けていないと日本語の会話はなかなかよどみなく進んでいきません(佐々木瑞枝「日本語表現を通してみた『察しの文化』」(濱口惠駿編『世界のなかの日本型システム』新曜社、1998年、所収))。

日本語を学ぶということは、状況や他者の気持ちを読み取る「察する力」「共感」「思いやり」などの能力を発達させ、身に付けることが求められるのです。

日本の治安の良さ、「おもてなし」や「思いやり」の美徳などは、日本語のもつ力が大きいのだといえるでしょう。

(相変わらず日本はとても安全な国のようです。「世界で最も安全な都市ランキング、東京1位 大阪3位」『CNN.co.jp』2015年1月30日配信)
http://www.cnn.co.jp/business/35059735.html

鈴木孝夫氏は、日本語に現れている、他者との共存を大切にする柔和な日本文明の世界観を、世界の人々にもっと知ってもらうべきだと主張しています。私も賛成です。

しかし残念ながら、現在の日本の政治は、日本人自身が、「日本人らしさ」を身につけにくくなるように進んでいます。また子供たちが、日本語や日本文化に自信を持てず、逆に文化的コンプレックスを抱いてしまいかねない国作りに邁進しています。

ホント、日本人が、日本の税金を使いつつ、自分たちが住みにくい社会をわざわざ作っていくという近年のアホな流れをどうにかしないといけませんね。
(`・ω・´)キリッ
http://www.mitsuhashitakaaki.net/


22. 2015年8月03日 08:03:35 : b5JdkWvGxs

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」(日刊ゲンダイ)
2015年8月3日 日刊ゲンダイ
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/878.html


英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) – 2015/7/17
施 光恒 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%8C%96%E3%81%AF%E6%84%9A%E6%B0%91%E5%8C%96-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%8A%9B%E3%81%8C%E5%9C%B0%E3%81%AB%E8%90%BD%E3%81%A1%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%BD-%E5%85%89%E6%81%92/dp/4087207951

■安倍政権は米国に追随したいだけはないか


 安倍政権は安保法制で何を守ろうとしているのか。根本的な問いかけをしている話題の書が、施光恒・九大大学院准教授が著した「英語化は愚民化」(集英社新書)である。米国の繁栄を前提に、とことん米国に追随しようとする安倍政権は安保政策やTPPで尻尾を振るだけでなく、ついには英語の事実上の公用語化に動き始めている。英語教育の充実は当たり前のように思われがちだが、それによって、強制的に国の形、文化、働き方が変えられてしまう恐れがある。その先に何があるのかを著者に聞いた。


――タイトルは非常に刺激的というか、英会話ブームの今の日本の風潮を真っ向から否定するものですね。この本を書かれた動機は?


 楽天やユニクロが社内の公用語を英語化したでしょう? 同じ頃、安倍政権が日本社会全体を英語化する政策を推進し始めた。たとえば、産業競争力会議の下にあるクールジャパンムーブメント推進会議は「公共の場での会話は英語のみ」という英語公用語特区をつくる提言をしました。日本国内であるのに日本語を「使ってはいけない」区域をつくるという信じ難い提案です。教育行政でも、英語による授業の割合を増やす大学には巨額の補助金を与えるようになり、文科省は一流の大学は10年後に5割以上の授業を英語化せよ、とまで一昨年言っている。その背景には、グローバル化の時代なのだから仕方がないという発想があるのですが、本当にグローバル化の流れは必然なのか、良いことなのか。その波に乗ることで、日本の強さの基盤が破壊されることはないのか。そうした根源的な疑問を持ったんですね。


――小学校でも間もなく英語が正式教科になりますね。


 そうなれば、中学入試の科目に英語が入ります。教育熱心な家庭は小学生を英語圏に短期留学させるでしょうね。父親は日本で稼ぎ、母子は外国で暮らす。そうやって英語が上達した子が、日本のエリートと目されるようになる。しかし、こうした英語偏重教育は当然、日本語の力に跳ね返ってくる。母国語である日本語が怪しいエリートたちに、果たして深い思考ができるのだろうか。英語はできるが思考力のない植民地エリートのような人々が仕切る政治や行政は、一般の国民が求めるものとはかなりずれたものになる。これが怖いのです。


――こうした英語化推進は「国家百年の計の過ちである」と書かれていますね。


 ビジネスや大学教育など日本の社会の第一線が英語化されてしまうと、どうなるか。英語がしゃべれるか否かという教育格差が、収入など経済的格差に直結し、究極の分断社会が誕生します。どんなに他の能力が高くても英語力を磨く余裕がないというだけで、中間層の人々は成長したり、能力を磨いたりする機会を奪われる。日本の誇る中間層が愚民化を強いられ、没落するのです。また、日本語が高度な議論の場で使われなくなれば、日本語そのものも最先端の用語を持たない遅れた言語となり、国民の愚民化に拍車が掛かる。一方で、英語がしゃべれるだけのエリートもまた、深い思考力や洞察力を持てないから日本全体が愚民化していきます。


――でも、英語がしゃべれるようになるのは悪いことじゃないでしょう?英語化に熱心な楽天の三木谷さんは「第2公用語を英語にしたら、日本の経済はシンガポールのように超強くなる」と言っていますよ。


 英語化によって日本の知的中間層が衰弱したら、日本経済の再生など不可能です。ちなみにシンガポールは超格差社会で、民主主義国家ですらないのです。グローバル化の流れに乗れば、国民が幸福になるというのは幻想です。


――今の日本を覆っているのが、米国流のグローバルスタンダードに従うべきだという風潮です。


 安保法制にしても、TPPや英語公用語化の動きにしても、何が日本の利益になるのかはっきり見えない。結局、米国に追従したいだけではないか。こうした問題への対応を見ていると、今の政府が、まるで自分たちをアメリカ人であるかのように錯覚しているのが分かる。すでに植民地エリートになっているのかもしれません。


■英語しかしゃべれない植民地エリートが国を壊す

「安倍政権に強い危機感」と訴える施氏(C)日刊ゲンダイ


――英語を公用語化すれば、グローバル企業が参入し、日本人もそこで働けるというのが狙いなのでしょうが、この発想も植民地的ですね。


「経済的利益のためなら日本語をないがしろにしてもかまわん。言語はしょせんツールだから」と英語化推進派は思っているようです。しかし、経済的利益などあまりないし、それよりも何も、言語は私たちの知性や感性、世界観をつくっているのです。例えば、日本語は私、俺、小生などさまざまな一人称がある。時には子供の前で自分を指して『お父さんはね』などとも言う。相手を呼ぶ場合もあなた、君、おまえから、先生、課長などいろいろです。日本人は常に相手との関係を考えて話をする。それが互いに思いやる文化をつくってきた。一方、英語の一人称は常にIだし、二人称もYouだけです。英語を母国語とする人は、最初から自分が中心にいるのです。


――日本人の気配り、欧米人の自己主張。そういう民族性の違いは言語に起因すると?


 我々は言葉から自由になれないし、その言語がつくり出す文化に縛られているのです。たとえ英語がペラペラになっても、彼らの文化やルールの上で、米国人や英国人と対等に勝負できるかというとそうではない。結局、日本人がグローバル資本の奴隷になるだけです。つまり、英語はそこそこ話せるけれども高度な思考はできないといった、安価で都合のいい現地雇いの労働者の量産が狙いでしょう。


 非英語圏の星である日本までが英語化すると、世界全体も不幸になります。英語圏諸国を頂点に置くピラミッドのような「英語による支配の序列構造」がさらに強固になるからです。つまり、英語のネーティブの特権階級が上にいて、その下に英語を第2公用語とする「中流階級」ができる。その下に英語を外国語として使う「労働者階級」が存在する。そういうピラミッドが不動のものになる恐れがあります。


――このピラミッドの下の方から、日本人が抜け出すことは難しそうですね。


 この言語による不公正な格差構造のある世界を、日本人はグローバル社会と呼び、称賛する。グローバル化って、マジックワードなんですよ。本当は違うのに、進歩した世界に聞こえてしまう。役所でも、グローバル化対応予算などというと、すんなり通りやすくなる。


――村より国家、国家より地域統合体、理想は世界国家みたいな考え方ですね。しかし、EUは地域統合で行き詰まっていますね。


「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」で話題のフランスの歴史学者のエマニュエル・トッドは、グローバル化の進展に伴って、EU各国内での民主主義が機能しなくなっていると警鐘を鳴らしています。


――EUの閉塞状況こそを参考にしなければいけないのに、日本は周回遅れのランナーのように、グローバル化と叫んでいる。


 安倍首相は当初、「瑞穂の国の資本主義」というスローガンを掲げていたのに、真逆の方向に進んでいます。安倍さんのナショナリズムというのは日本の文化や言語を大事にするのではなく、米国がつくった評価システムの中で日本のランキングを上げるという発想です。私はそれをランキング・ナショナリズムと呼んでいます。米国の覇権を前提にして、日本がなるべく米国に近い位置を占めようとする発想です。


 グローバル化の荒波からいかに国民生活や文化を守るかが問われているのに、国民経済の安定を目指すべき経産省がグローバル化をあおり、日本文化を守るための教育を担う文科省が日本を破壊する英語公用語化の旗を振っている。米国への従属から脱する気のない政府に強い危機感を覚えます。


23. 2015年8月03日 08:15:42 : b5JdkWvGxs

自ら発展途上国化しようとしている日本

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる 2015-07-08


我が国を長期的に亡国に導く可能性がある衝撃的なニュースが報じられていた。


『ホンダ、英語を公用語…日本人だけなら日本語も
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150705-OYT1T50040.html


 ホンダは2020年を目標に、英語を社内の公用語にすることを決めた。
原則として、外国人の社員が参加する会議や、本社と海外拠点で共有する文書では、英語を使う。自動車業界はグローバル化が進んでおり、英語の公用語化によって、社員同士の意思疎通を円滑に進めることを目指す。

 基本的には、外国人社員が一人でも会議に出席していたり、本社から海外拠点に指示したりする場合には英語を用いる。ただし、外国人社員が出席しない会議や、現地の従業員だけが共有する文書は、これまで通り日本語や現地の言葉を使うなど柔軟に対応する。

 現在、本社と海外の現地法人の電話会議は、主に日本語で会話しており、日本人の駐在員しか出席しない場合が多い。駐在員が会議の内容を英語に翻訳して外国人従業員に伝えるため、手間がかかり、本社の意図を正確に伝えられないこともあったという。』

 これで、ホンダは「日本企業」であることをやめたも同然です。そして、日本語環境で高度な思考を巡らせ、製品開発や販売戦略を練ってきた日本人社員が英語を強制されることで、意思疎通は更に悪化し、需要に応える自動車を作るという意味における、真の意味の「ホンダの競争力」は凋落していくことになるでしょう。


 ホンダを含む「英語の公用語化」などと愚かな実験を始めた全ての日本企業の経営者、社員に読んで欲しい一冊があります。7月17日に発売になる、施光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」です。


自由、平等、そして民主主義の「基盤」となっているのは、何でしょうか。

国民の言語です。


 国民の言語が統一されていることで、人間は、
「多数の選択肢に実際にアクセスし、その中から選ぶことができる」
 という意味における自由を手に入れます。日本が、

「英語が公用語。日本語は現地語」

 といった状況だと、我々日本国民の人生の選択肢は相当に狭まってしまうでしょう。すでにして、「英語が分からなければ、ホンダで働けない」と、自由の制限が始まっているのです。


 また、言語が統一されていれば、
「グローバル言語(かつてはラテン語。今は英語)を話す人と、現地語(あるいは土着語)で話す人」
 といった格差が生じ、平等が破壊されることが防げます。そして、日常生活で使う言葉や語彙で「政治」を話し合うことができて初めて、民主主義が成立するのです。 


 施先生が本書で例に出されていますが、ベルギーは1830年の建国以来、異なる言語を使う人々の間で連帯意識をいかに醸成するか、苦労に苦労を重ねてきました。結局、言語が異なる国民同士の連帯意識を高めることは不可能に近く、現在は南部と北部の対立が先鋭化し、選挙のたびに国政が停滞する(政権が発足できない)状況が続いています。(最近では、言語問題に輪をかける形で、移民問題を抱えているわけです)


 母国語を捨てることは、自由や平等、そして健全な民主主義が存在する社会を諦めることなのです。
 
 そもそも、「グローバルな言語(現在は英語)」が公用語的になっており、人々が日常的に話す言葉が「土着語」「現地語」と呼ばれ、高等教育を母国語で実施できない国のことを「発展途上国」と呼ぶのです。


 ビジネス界のみならず、我が国では小学校の英語教育の早期化や、大学教育の英語化が始まっています。すなわち、自ら発展途上国化しようとしているわけで、これほど愚かな国は世界に類例を見ないのではないでしょうか。
 
 人類の進歩というものがあるとしたら、それは施先生も書かれていますが、「翻訳と土着化」で進んできました。欧州を近代化させたのは、間違いなくグローバル言語(ラテン語)で書かれた聖書の各国語への翻訳と土着化です。聖書が英語やフランス語、ドイツ語に翻訳され、概念に基づき語彙が増えていき、各地の「国民」は母国語で世界を、社会を、神を、人生を、哲学を、政治を、科学を、技術を考えられるようになったのです。結果、欧州は近代化しました。


 日本の近代化は、それこそ「明治産業革命」時代の翻訳と土着化により達成されました。外国語をそのまま使うのではなく、概念を理解し、日本語に翻訳する。適切な言葉がないならば、作る(日本語は漢字で表現されるので、非常に便利です)。


 科学、哲学、個人、経済、競争、時間といった言葉は、日本語に適切な訳語がないため、造語されました。自由、観念、福祉、革命などは、従来の漢語に新たな意味が付加されました。


 日本が先進国なのは、先人が「英語を公用語化する」(そういう話は何度もありました)という愚かな選択をせず、「総てを母国語で」を貫いたおかげです。結果的に、恐ろしく柔軟性(これも幕末以降の造語ですが)に富み、抽象表現が幅広く使える日本語により、世界に冠たる文明(これも造語)を築き上げることに成功したわけです。


 確かに、日本人は英語が下手ですが、当たり前です。そもそも日常生活で英語を使う必要が全くなく、母国語で素晴らしい文化(これも造語)を花開かせているのです。英語が巧くなるわけがありません。とはいえ、何度か書いていますが、「日本語」以外でワンピースやコードギアスやシュタインズ・ゲートが生まれると思いますか? 絶対に、無理です。


 逆に、「現地住民」が英語を学ばなければならない国は、母国語のみでは生活できない発展途上国なのでございます。この種の国の国民が、母国語のみで生きていけるようになったとき、初めて「先進国」になるのです。


 というわけで、施先生がメルマガなどでも書いて下さったように、我が国は各国が、
「英語が下手でも普通に生きていける国」

 になるよう、支援するべきなのでございます。それにも関わらず、我が国は自ら「英語を学ばなければ、生きていけない国」を目指しているわけで、このあまりにも愚かな動きに対し、断固反対していかなければなりません。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12047937948.html

【施 光恒】英語化と「国のかたち」 2015/07/10


7月17日に、『英語化は愚民化──日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)という新しい本を出します。
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207951/ref=zg_bs_492118_4


中身は、日本社会で進む英語偏重の流れや、その背後にあるグローバル化を筋道立てて批判したものです。

しかし、英語偏重の流れは、止まりませんね。三橋さんも先日触れていらっしゃいましたが、楽天、ユニクロだけでなく、ホンダも、企業内の公用語を英語にするらしいですね。

昨日もそれに関連する下記のような記事がでていました。

「ホンダ「も」導入した英語公用語化──「オフィスは英語」が日常の風景になるのか」(『日経ビジネス ONLINE』2015年7月9日付)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/070800028/?P=1

小学校での英語正式教科化も、2020年から始まる予定です。7月6日の『朝日新聞デジタル』では、小学校での英語教育推進の是非についてのさまざまな意見が特集されていました。

「早期の英語教育、改めて考える 反響をもとに取材」(『朝日新聞デジタル』2015年7月6日)
http://www.asahi.com/articles/ASH6T6486H6TUTIL03Y.html

日本語も覚束ないような幼い時から「英語、英語」ということには、上記の記事にあるように反対意見も多々出されているのですが、文科省など行政は、着々と、英語化を進めています。

小中学校で外国人教師を採用したり、小学校教員の採用試験を英語重視に改めたりするようです。

「教員採用試験でも広がる「グローバル化」──英語教育の充実で」(『Benesse教育情報サイト』2015年7月2日)
http://benesse.jp/blog/20150702/p1.html

私が「おっかないな」と思うのは、こうした英語偏重の「改革」が続けば、あるどこかの時点で「閾値」を超え、ダーッと日本社会の英語化が進んでしまうのではないか、ということです。

その「閾値」というのは、多くの日本人が、「英語ができなければ、子供たちが将来、よい教育を受けられないし、よい職業にもつけず、みじめな思いをしてしまうだろう」と実感してしまう時点だと思います。

この時点を迎えてしまえば、たとえ個々人が「ここは日本なのだから、英語よりもまず日本語が大切だ」と考えていたとしても、あまり関係ありません。自分の子供が将来、つらい思いをするかもしれないと心配になってくれば、大部分の人は、自分の考えはどうあれ、子供にともかく英語を身に付けさせるようになるでしょう。

この「閾値」となる時点は、すでにすぐそこまで来ているのではないかと思います。

今回のホンダの企業内英語公用語化のニュースも、この時点の到来を早めるものの一つでしょう。

それに政府は、小学校の英語正式教科化や、大学の授業の英語化など、英語偏重の教育改革に躍起になっています。

全国の小学校で英語が正式教科となってしまえば、当然、私立や国立の中学入試でも、英語が必須科目となります。

「コミュニケーション重視」「実用的英語力重視」のご時世ですので、中学受験で英語の面接などが導入されるところが増えるのではないでしょうか。

そうなれば、教育熱心な家庭では、小学生のときから、アメリカやイギリス、あるいはフィリピンなどの英語圏に留学させることが流行すると思います。少なくとも、夏休みに、小学生が語学留学するのは、ごく一般的になるはずです。

また、下村博文文科大臣は、平成25年の第四回産業競争力会議で、「世界と競う大学」を作るために、「今後10年間で、大学の授業の5割以上を英語で実施するようにすべきだ」という成果目標を提案しています。
(-_-;)

「人材力強化のための教育戦略」(「第4回 産業競争力会議配布資料 下村文部科学大臣提出資料」平成25年3月15日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/dai4/siryou7.pdf
(PDFファイルが開きます。上記の成果目標は、6ページに記載されています)。

「小学生の間にある程度、英語を身に付けていないと、よい中学に入れない」「英語ができないと、よい大学で学べない」「将来、良い仕事にも就けなくなってしまう」と思う日本人が、遅くても10年足らずの間に急速に増えることが予想されます。

財界の一部や、その意を受けた政府が、(日本人の税金を用いて)政策として日本社会の英語化を進め、「国のかたち」を変革しようとしているわけです。

この変革は、ある程度まで行ってしまい、「英語ができなければ、子供たちが惨めな境遇に追いやられる」と多くの人が実感するようになれば、それから先は、半ば自動的に日本社会の英語化は加速度的に進んでいくようになります。

その先に待っているのは、英語能力の格差が経済的なものに反映される著しい格差の拡大であり、「英語族」と「日本語族」との間の国民の分断であり、日本語があやしく日本人的な感覚も持ち合わせていない新世代の「エリート」による、よそよそしい政治であると思います。
(´・ω・`)

なぜ、日本社会の英語化というバカな流れが止められないのでしょうか。

一つの理由は、現代人の多くが、「グローバル化は時代の必然的流れであり、抗うことはできない」「英語化も時代の不可避の流れだから、しょうがない」というような奇妙な歴史観にとらわれてしまっていることにあるように思います。

拙著『英語化は愚民化』では、まず、この奇妙な歴史観の検討と批判から、話を始めています。

「グローバル化・英語化は時代の流れだから、しょうがない」という無力感にとらわれず、「たとえ英語ができなくても、子供たちは、高いレベルの教育をきちんと受けられ、よい仕事にも就ける。様々な機会を享受できる。惨めな思いなどしなくてもよい」という日本を守っていかなくてはならん。そういう思いから、拙著を書きました。

書店に並ぶようになりましたら、ぜひ手に取ってご覧くだされば幸いです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/seteruhisa/

本日は先日来ご紹介して、異様に反響があった施 光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」発売日でございます。わたくしはゲラ段階で拝読させて頂き、献本いただいて再度読んだわけですが、つくづく「良書」でございます。

 というわけで、あまりネタバレしたくはないのですが、一つだけ、
「なぜ、現在の日本国において、曲がりなりにも民主主義が成立しているのか」
 について、施先生の考察を書きたいと思います。


 民主主義が成り立つためには、国民が政治的な概念、言葉、定義を共有し、議論をする必要があります。政治の語彙(ボキャブラリー)がない人は、政治について語ることはできません。


 例えば、現在の永田町では「防衛という安全保障」を巡る議論(一応、議論としておきます)が活発化していますが、これは「防衛」「安全保障」といった概念を、日本国民が日本語で語ることが出来なければ成り立たないのです。日本語に「防衛」「安全保障」という語彙がない場合、日本国民は防衛や安全保障について議論することはできません。


 その状況で、民主主義が成り立つでしょうか。もちろん、無理です。


 というわけで、民主主義をこよなく愛する(はずの)朝日新聞は、今こそ「反・英語化」の路線を採るべきなのです。日本の政治が「英語」なしでは議論できない状況になった日には、間違いなく我が国の民主主義は終わります。政治は、英語を解する一部の特権階級のものとなり、「土着語」である日本語を話すマジョリティの国民は、政治について語ることが不可能になってしまうのです。


 母国語で、つまりは日常的に使う言語で「政治」について、一般の国民が話し合うことが不可能な国では、民主主義は成り立たないのです(実際、成り立っていません)。我が国が「国民が主権を持ち続ける国」であるためにも、現在の「英語化」の動きには断固として反対しなければならないのでございます。


 日本国民は、江戸末期から明治初期にかけて、欧米から新たに入ってきた「概念」について、「翻訳と土着化」をして下さった先人に感謝するべきです。当時の日本人が、文化、文明、民主、自由、共和、経済、競争といった「概念」について、日本語を「造語」してまで翻訳して下さったおかげで、我が国は先進国になれたのです。すなわち、普通の日本人が文化やら文明やら、共和、民主、経済、競争といった「概念」を用いてコミュニケーション可能な国にしてくれたからこそ、日本は先進国となりました。


 無論、当時の日本人は概念の翻訳と土着化のみならず、より物理的な「技術」についても欧米から学び、「日本で生産可能」とするための投資を積み重ねました。まさに、その「遺産」こそが明治産業革命遺産なのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12051193178.html


24. 2015年8月14日 23:23:08 : b5JdkWvGxs

岩上「ウィキリークスがTPPの国有企業分野に関する文書をリークしました」

山田氏「米国では、この文書は非公開公式文書と位置づけています。ケルシー教授は、この国有企業に関して注意を促し続けてきました」

岩上「山田さんは、このリーク文書に関して分析をされていますね。この国有企業とは、国民健保、共済健保、県立病院、畜産振興事業団エーリックなどの野菜、砂糖、畜産物の価格安定資金の事業もすべて含まれる、ということですが」

内田氏「実際にTPP交渉で議論されている国有企業は、途上国のものだけでなく、純粋に出資比率で見ているので、私達にとって関係のない話ではありません」

岩上「また、国民が安心して利用可能な安価で公平な医療制度が壊されることになるのではないか、と指摘されていますね」

山田氏「医薬品が米国と同様にとてつもなく高くなってしまうでしょう。タミフル1本で7万円という世界に突入する可能性がある」

岩上「TPP最大のターゲットは、米国におけるTPP推進のロビー活動日を見れば一目瞭然。医療・製薬の分野で5300億円のロビー費が投入されています。米国にとって医療は超巨大な産業であり、将来の成長産業です」

内田氏「マレーシアやベトナムは、これまで数多くの除外リストを出しています。しかし、日本には自分たちに何が起こるかという認識と想像力が欠如しています」

山田氏「各国は分かってきている。分かっていないのは日本だけです」

岩上「地方自治体の公共事業も国有事業に準じ、工事の限度額がTPP協定で明記されない限り、日本の中小企業と米国のゼネコンによる英語と自国語の競争入札になる、ということですが」

山田氏「設計と工事が分離され、設計の段階から競争入札が入ります」

山田氏「地方自治体の公共事業は、英語と自国語で行われるようになります」

岩上「だからこそ文科省は、大学の授業を英語で行うとか、国公立大学の人文社会系の学問を排除するとか言っているわけですね」

岩上「農業、医療、国立大学に出される補助金も日本政府は自由に決められることができなくなる、と」

山田氏「米国の企業の都合で決められていくことになります。企業に不都合な内容だと、ISD条項で訴えられることになります」

岩上「今、話した内容はすでに合意済みの可能性があるということですね」

山田氏「憲法13条と25条に明らかに反しています。ですから、まずは司法に問うていくことが必要だと感じています」

岩上「自民党が聖域とした農産品の分野でも日本は譲歩し続けています」

山田氏「地方の養豚業者の方と話す機会がありましたが、TPPに入ったら廃業するしかない、とおっしゃっていました」

山田氏「今、国会で審議されている安保法制は、政権が変わって法律を変えればなんとかなりますけれど、TPPは国内法の上位に来るものですから、どうしようもなくなってしまいます」

岩上「自民党は、『ウソつかない。TPP断固反対。ブレない』というポスターを掲げて2012年末の衆院選を戦いました。それが、わずか3ヶ月で手のひら返しですよ」

山田氏「これは、国を売る行為ですよ。幕末に次ぐ、第2の国難であると思っています」

岩上「自民党の大西英男議員は、2013年5月に私のインタビューに応えて、TPPについて『すぐではなく、いずれ関税撤廃ということ。自民党の議員の多くも同じ考えだ』と暴露しました」

山田氏「私も、自民党の他の議員から聞いたことがあります」

内田氏「この2年間はTPP交渉の漂流プロセスでした。TPPを妥結しようと言いながら、一方で日米並行協議が進んでいます。米国は、TPPという晴れ舞台を用意しつつ、実利が取れる並行協議をしっかりと仕掛けておいたのだと思います」
http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/642.html


25. 2017年1月08日 00:51:30 : GwjfBtLlN6 : 8oMzFeAp6FQ[6]

日本が良くなりますように

神道の思想について海外の反応

2016-09-16 11:05:34
テーマ:ブログ
http://ameblo.jp/lovejapanmuch/entry-12200279274.html抜粋


海外「神道の思想が大好きだ」 日本人が持つ独特な宗教観に外国人が感銘
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1841.htmlより

(日本の宗教と宗教観について解説した動画)

今回は日本人の宗教観を知る為の5つのポイントが解説された動画からで、
あくまでも外国人向けに、理解の一助になるよう説明されています。

以下が要点になります。

1.(重層信仰であるため)日本国内の宗教の信者数は人口のほぼ2倍になる。

2. しかしながら、一人一人に信仰する宗教の有無を尋ねると、
  特定の宗教を信仰している人の割合は2、3割に過ぎない。

3. 日本には八百万の神がいる。
  特定の宗教を信仰している・いないに関わらず、
  ほとんどの日本人は森羅万象に神が宿ると信じている。
 これは日本が地理的要因から災害が非常に多い国であることから、
 自然は克服すべき対象ではなく、敬意を払い共生していく存在である、
 ということを、古代から日本人は経験から学んでいたことによる。

4. ほとんどの日本人は、自然だけではなく、先祖も大事にしている。

5. 特定の宗教を信仰している・いないに関わらず、
  かなりの割合の日本人は、神道や仏教に由来する、
  四季折々のお祭りを楽しんでいる。

以上になります。

外国人にとっては、かなり興味深い内容だったようでした。(※抜粋)

■ 素晴らしい解説でした……arigato +1 アメリカ

■ 個人的にはだけど、「宗教」って意味合いでは、
  仏教やシントウのゆったりした感じが大好きだなぁ。
  キリスト教とかイスラム教とか西側で生まれた宗教は、
  時代遅れのモラルを私たちに押し付けてる気がする。 +4 アメリカ

■ 本当に興味深かった!
  キリスト教の聖書には、神が世界と人間を創ったという事と、
  人類はこの世界を大事にしなくてはいけないって事が書かれてるの。
  下の言葉は創世記1.28からね。
 「神は彼らを祝福して言われた。
 『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
  また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」。
  だけどこれは人類が自然をコントロール出来るって意味じゃなくて、
  神だけが自然を支配出来るって意味だと私たちは信じてる。
  とにかくも、素敵な動画をありがとう! ^^ +13 ブラジル
   
     ■ そう、そして調和の中に生きなくてはいけない。本当はね……。
     それなのに全てをめちゃくちゃにしちゃってる。 +3 国籍不明

■ 良い動画だった!
  ヒンドゥー教徒も神は万物に宿るって考えてるよ。
  数百万の神々が存在してるって信じてるところも一緒。
  日本に住んで2年になるんだけど、インドと日本の文化の間に、
  驚くような類似性があることに気づいたよ。 +3 インド

■ キリスト教徒は日本人とはかなり違う。
  聖書を信じてる人たちは、自然をコントロール出来ると考えてる。
  なぜかと言うと、キリストは吹き荒れる嵐を止めた上で、
  「あなたたちにはこれ以上のことが出来る」と口にしたから。
  殆どのキリスト教徒は聖書を額面通りには受け取っていないがね。
  大事なのは神の力なんだが、その力を神は人類に与えたと言う。
  キリスト教徒の多くは、神には大いなる力があると信じているが、
  神の力を与えられていても、我々には何も出来ないと考える人が多い。
  このあたりはちょっと複雑だね。 +1 アメリカ

■ 特に自然に対する考え方がすごく気に入った。
  他の国の人たちも同じような考えを持ってくれればいいのに。
  そうすれば何の考えもなしに自然を破壊することはなくなるはず。
  自分は神々の存在は一切信じていないけど、
  自然が持つ力や美しさには驚嘆してる。 メキシコ

■ 自然との共生を語ってるパートが好きだなぁ。
  日本の職人さんにスポットを当てた動画を思い出した。
  その人は動画の中で、「人類は自然と一緒に生きることもできるし、
  自然に抗うこともできる。だけど日本人は前者を選んだ」
  って内容の話をしてたんだよね。それは本当なんだと思う。
  そういう思想は、日本の建築物、職人技術、伝統、
  それから料理にも見ることが出来るから。 +2 国籍不明


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こっちは「菊と刀」じゃなくて・・


【海外反応】パンドラの憂鬱

海外「日本だけズルイ!」 世界的バンドの日本公演ポスターがカッコ良いと話題に
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26. 中川隆[6091] koaQ7Jey 2017年1月16日 10:19:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6537]

内田樹 2017.01.15 「民の原像」と「死者の国」


高橋源一郎さんと昨日『Sight』のために渋谷陽一さんをまじえて懇談した。
いろいろ話しているうちに、話題は政治と言葉(あるいは広く文学)という主題に収斂していった。

そのときに「政治について語る人」として対比的に論じられたのが「安倍首相」と「天皇陛下」だった。

この二人はある決定的な違いがある。

政策のことではない。霊的ポジションの違いである。
それについてそのときに話しそこねたことを書いておく。

なぜ、日本のリベラルや左翼は決定的な国民的エネルギーを喚起する力を持ち得ないのかというのは、久しく日本の政治思想上の課題だった。

僕はちょうど昨日渡辺京二の『維新の夢』を読み終えたところだったので、とりわけ問題意識がそういう言葉づかいで意識の前景にあった。


維新の夢 (ちくま学芸文庫) 2011/6/10 渡辺 京二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E5%A4%A2-%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4%BA%8C%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E5%8F%B2%E8%AB%96-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E4%BA%AC%E4%BA%8C/dp/4480093796


渡辺は西郷隆盛を論じた「死者の国からの革命家」で国民的規模の「回天」のエネルギーの源泉として「民に頭を垂れること」と「死者をとむらうこと」の二つを挙げている。

すこし長くなるけれど、それについて書かれた部分を再録する。

渡辺によれば第二回目の流刑のときまで西郷はスケールは大きいけれど、思想的には卓越したところのない人物だった。

「政治的な見識や展望はどうか。そういうことはみな、当時の賢者たちから教えられた。教えられれば、目を丸くして感心し、それを誠心実行に移そうとして。勝海舟、横井小楠、坂本竜馬、アーネスト・サトウ、みな西郷に新生日本の行路を教えた人で、西郷自身から出た維新の政治理念は皆無に等しかった。だから、この維新回天の立役者はハリボテであった。

だが、政治能力において思想的構想力において西郷よりまさっていた人物たちは、このハリボテを中心にすえねば回天の仕事ができなかった。これは人格の力である。

この場合人格とは、度量の広さをいうのでも、衆心をとる力をいうのでも、徳性をいうのでもない。それは国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱であり誠心であった。革命はそういう熱情と誠心によってのみエトスを獲得することができる。エトスなき革命がありえない以上、西郷は衆目の一致するところ最高の指導者であった。」(『維新の夢』、ちくま学芸文庫、2011年、341頁)

彼は戊辰のいくさが終わったあと、中央政府にとどまらず、沖永良部島に戻るつもりでいた。「官にいて道心を失う」ことを嫌ったのである。

島は彼の「回心」であったというのが渡辺京二の仮説である。

島で西郷は何を経験したのか。

渡辺は「民」と「死者」とがひとつに絡み合う革命的ヴィジョンを西郷がそこで幻視したからだと推論する。

「西郷は同志を殺された人である。第一回流島のさいは月照を殺され、第二回には有馬新七を殺された。この他にも彼は、橋本左内、平野国臣という莫逆の友を喪っている。」(343頁)。

この経験は彼に革命家は殺されるものだということを教えた。革命闘争の中では革命家は敵に殺されるだけでなく、味方によっても殺される。「革命を裏切るのは政治である」。

死者はそれだけでは終わらなかった。

寺田屋の変で西郷は旧友有馬を殺された。西郷の同志たち、森山新蔵、村田新八、篠原國幹、大山巌、伊集院兼寛も藩主の命で処罰された。渡辺は「これが西郷を真の覚醒に導いた惨劇である」と書く。

事実、この直後に西郷が知人に書き送った書簡にはこうある。

「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」

西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。

彼が維新回天の中心人物として縦横の活躍をするようになるのは、彼が「お見限り下さるべく候」と書いた「あと」の話なのである。同志朋友を殺した島津藩への忠義を断念し、死者のために生きると決意したときに西郷は政治家としてのブレークスルーを果した。

「いまや何を信ずればよいのか。ここで西郷の心は死者の国へととぶ。彼はもう昨日までの薩摩家臣団の一員ではない。忠義の意図は切れた。彼は大久保らの見知らぬ異界の人となったのである。彼の忠誠はただ月照以来の累々たる死者の上にのみ置かれた。」(346頁)

みずからを「死者の国の住人」と思い定めた西郷は島で「民」に出遭う。
西郷はそれまでも気質的には農本主義者であり、護民官的な気質の人であったが、民はあくまで保護し、慰撫し、支配する対象にとどまっていた。それが島で逆転する。

「彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。

西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。」(347頁)

「革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。」(348頁)

長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクトを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。

という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。

『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。

それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう。

「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。

だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない。

彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。

だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる。

日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。

靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。

どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。

どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。

世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。

政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。

リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。

極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。
それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。

安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出た存在である。

彼はたしかに岸信介という生々しい死者を肩に担いでいる。祖父のし残した仕事を成し遂げるというような「個人的動機」で政治をするなんてけしからんと言う人がいるが、それは話の筋目が逆である。

今の日本の政治家の中で「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的なのは安倍晋三くらいである。だから、その政策のほとんどに対して国民は不同意であるにもかかわらず、彼の政治的「力」に対しては高い評価を与えているのである。
ただし、安倍にも限界がある。それは彼が同志でも朋友でもなく、「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負っている」点にある。

これに対して「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っているのが天皇陛下である。

首相はその点について「天皇に勝てない」ということを知っている。

だから、天皇の政治的影響力を無化することにこれほど懸命なのである。

現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の負託を背負う首相」と「すべての死者の負託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している。
というふうな話を源ちゃんとした。

もちろん、こんなことは新聞も書かないし、テレビでも誰も言わない。
でも、ほんとうにそうなのだ。
http://blog.tatsuru.com/


27. 中川隆[7526] koaQ7Jey 2017年4月04日 17:34:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8010]

本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かせ

考え抜かれた製品、技術、デザイン、哲学、サービスを持った希有な企業が世の中には存在する。磨き抜かれたオリジナル、技、発想、アイデアを持った希有な人が世の中には存在する。

独自の「何か」を生み出す能力を持った企業や人は本物だ。そして、長い目で見ると、結局生き残るのは本物だ。

誰かが何かを成功させると、真似やパクリをする企業や人が山ほど現れるのだが、パクリ製品は気が付けばいつしか消えて後に残らない。

パクリがどんなにうまくやってのけても、結局はオリジナルの方が生き残る。そして、オリジナルの方が愛される。

どれほど巧妙にパクリを成し遂げても、なぜオリジナルが最後に生き残る可能性が高いのか。

その理由は、その製品、技術、デザイン、哲学、サービス、発想、アイデアには、それができあがるまでに多くの試行錯誤が為され、その試行錯誤で得た知識や経験が「物事の基本」となって製品を支えているからだ。しかし、パクリには土台を支える思想がない。


物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ。それが揺らいでいると何が重要で何が重要でないのかも分からない。そして、「次」を踏み出す時に間違う。

次の新しいものを生み出すにも、今あるものを改良するにも、さらなる付加価値を付けるにも、基本ができていないと何もできない。逆に、基本がしっかりしていると、「次」に発展することができる。

本当のことを言えば、そんなことは誰でも分かっている。では、なぜ基本をないがしろにして、他人のものをパクることで生きていこうとする企業や人がいるのだろうか。

たとえば、中国や韓国は、ありとあらゆる企業のパクリを行っており、国中に粗悪なパクリ製品が溢れている。

なぜ、彼らは次から次へとパクリを行うのか。なぜ、彼らはオリジナルを生み出すこと、すなわち基礎や基本をないがしろにするのか。

その理由は簡単だ。基礎や基本をきちんと身につけるというのは、実は尋常ではないほど単調で、単純で、根気のいる作業を延々と繰り返さなければならないからだ。これは、すべての分野に関して言える。

基本を身につけるには、誰も注目しておらず、誰も褒めてくれず、誰も気付かないところで、ずっと単調な作業を繰り返し、常に試行錯誤していかなければならない。

この単調な繰り返しを行って基本が身につくのだが、パクリを行う人間はそれをすっ飛ばすのである。そして、表面や形だけをパクって世の中をごまかす。

最初は騙せるのかもしれない。しかし、それがオリジナルではない時、やがて人々に見透かされる。そして捨てられる。


時代が変わっても古くならない原理原則

基本が重要であるというのは、職人も、技術者も、芸術家も、アスリートも、アナリストも、兵士も、各職業人も、すべてがそれぞれの言葉で言い伝えている。

そして、基本を否定する人間は誰ひとりとしていない。

つまり、「基本を怠らずに鍛える」というのが、時代が変わっても古くならない原理原則であるということである。

表面や形だけをパクリ取って、まともな基本を身につけていない企業や人は、そのときは良くても最後に足をすくわれる。土台がないので応用がまったく利かない。

もちろん、そのようなパクリをして人生を乗り切る生き方もひとつの生き方である。あえてそれを選び取る人間もいる。

手っ取り早く儲かるのであれば、あるいは手っ取り早く売名できるのであれば、それを選び取る人は珍しくない。

売れた製品のパクリを作って安売りする企業、あるいは売れた人間の技や作品や芸をそのまま真似して、自分こそが元祖だと起源を主張するクズのような人間もいる。しかし、それは邪道であり王道ではない。

王道とは、その道の基礎や基本を誰も見ていないところで、淡々と愚直に繰り返し、泥にまみれ、汗を流し、苦しみを味わうことである。

それは、一見ムダなように見える時間だが、基礎や基本は膨大な時間をそこに費やさなければ身につかないのだから、絶対にムダではない。

どれだけ基礎と基本が身についているかで、その世界で成功できるかどうかが決まる。

ムダなのは、自分の人生に重要でも何でもないことに時間を費やすことだ。自分がその道で生きていくつもりもないようなもの、たとえば時間つぶしのゲームだとか、だらだら見ているテレビだとかに時間を費やすのは、たしかにムダだ。


自分の分野で道を究めることが日本の復活になる

自分の全人生を費やしても構わないと思うことに全力集中で取り組み、基礎や基本を繰り返し反復する。

そうやって、基礎的な能力を身につけても、まだそれで世の中を渡っていけるのか、成功できるのか、大成できるのかどうかは分からない。そして、それで食べて行けるのかどうかも分からない。

しかし、基礎や基本がないのに、いきなり他人のパクリをしてそれで生きていけないことだけは、はっきりしている。

かつての日本人はこういった基礎や基本を「型」と言っていたが、型を身につけるのに誰も見ていないところで死ぬほど練習していたし、それが日本人の底力を作り上げていた。

日本人が「特異な民族」なのは、そういった基礎や基本を疎かにしないという人間が夥しく存在していて、基礎を追求する文化を持っていたからである。日本人には、ありとあらゆる分野が「道」を極める対象となった。

ただ、「お茶を淹れる」という些細なものであっても、それは「道」となって、茶道となっている。

日本人のひとりひとりが、それぞれの分野で基礎と基本を地道に積み上げて道を究めてきたから、あらゆる点で日本は他の民族や国家を凌駕してきたのだ。

最近、日本の土台が揺らいできたというのであれば、恐らく最近の日本人は、かつての日本人ほどに基礎と基本の積み上げが足りなくなっているからだ。

科学の世界でも、ノーベル賞を取るほど優秀な人間がいる一方で、形ばかり研究者のフリをして他人の論文をコピーして、パクリや真似でごまかそうとする人間が出てきたりしている。

日本人にパクリは似合わない。日本人はパクリの道を行くのではなく、優れたものを生み出せる民族であってほしい。パクリを排除し、ひとりひとりが自分の分野で道を究めることが日本の復活になる。


基礎や基本を疎かにしないで道を究めるのが日本人の特異性だ。日本人は本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かして生き残るべきだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/12/20141230T1541480900.html


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