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[近代史7] 中村泰士(1939年 5月21日 - 2020年12月20日) 中川隆
1. 中川隆[-14631] koaQ7Jey 2021年12月10日 08:40:00 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[1]
中村 泰士(1939年 5月21日 - 2020年12月20日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B3%B0%E5%A3%AB

中村 泰士(なかむら たいじ、1939年〈昭和14年〉5月21日 - 2020年〈令和2年〉12月20日)は、日本の作曲家・作詞家。


略歴・人物
奈良県北葛城郡王寺町出身。本名は泰士と書いて「たいし」と読む(芸名の読みを「やすし」としていたこともある)。クリスチャンの家に、長兄と12歳も離れた5人兄弟の末っ子として生まれる。6歳の時に歯科医師の父が亡くなり、役場に勤める母に女手一つで育てられた[1]。

中学生の時、クラブ活動でブラスバンド部に入り、トロンボーン担当となる。行進曲のリズムを刻み続けることにつまらなさを感じ、部室にあったジャズの譜面のメロディーをトロンボーンで吹いていた[1]。

進学した奈良県立高田高等学校にブラスバンド部がなかったため、担任教諭に頼み部を創ってもらったが、2年生の時にエルビス・プレスリーやニール・セダカらのロックンロール音楽に出会い、大阪市・難波や神戸市・三宮のジャズ喫茶へ通うようになった。当時ロカビリーブームの最中で、プレスリーを真似て髪型を「リーゼントにしてギターケースを持っていれば女の子にモテた時代」のため、「踊りも覚える。女も覚える。楽しいから学校に行かない」ようになり、「遊びほうけて授業日数が足りなかった」ため退学となった。その後、「兄が動いて」大阪府立和泉高等学校3年生に編入したが、2カ月しか通学しなかった[1]。

18歳で、内田裕也と佐川満男のバンド「ブルージーン・バップス」にボーカリストとして加入。「美川鯛二」の芸名で芸能界にデビューした。1995年に第14回奈良県知事選挙に立候補、約9万票を集めたが2位で落選。その後、1996年には第41回衆議院議員総選挙に自由連合公認で大阪3区から立候補したが、4人中最下位で落選している。

2020年12月20日、23時50分 (JST)、肝臓がんのため大阪市の病院で死去[3][4][5]。81歳没。同年9月末ごろ体調不良を訴え、10月初旬に大阪市立大学医学部附属病院で検査を受けたところ肝臓に腫瘍があることが判明したと同年11月16日に発表していた[6]。同年12月5日に行われた大阪での船上ステージが最後の活動となった[3]。


歌手としての曲

シングル(美川鯛二名義)
野良犬のブルース/哀しき姉(デビュー曲・東芝音工/JP-1369)
赤いヨットは死んでいた/気まぐれデイト(東芝音工/JP-1401)
泣いていたのさ/夜が来て恋をして (東芝音工/JP-1440)
街灯/街の灯よ消えないでくれ(東芝音工)
網走0(ゼロ)番地/ネリカン・ブルース (ソノシート/SONO RECORDS SS-25)

シングル
昭和時代のおやじ達 / 大阪ヒューマンランド 〜やんか!〜(2003年4月28日)
俺…(2008年11月10日)

アルバム
人生満喫(2003年4月28日)

提供曲

あ行
EVE
センチメンGALじゃ〜に〜
愛田健二
涙のみなと
麻丘めぐみ
あいたいよ
浅田美代子
この胸にこの髪に
梓みちよ
小心者
荒木ミミ
ボロボロ天使
石川さゆり
風の都
鴎という名の酒場
めぐり逢う日を
夢のあとさき
流氷
いしだあゆみ
喧嘩のあとでくちづけを
砂漠のような東京で
渚にて
五木ひろし
赤い花
潮どき
そして…めぐり逢い
伊東ゆかり
深夜放送
わかれ雪
わたし女ですもの
内山田洋とクール・ファイブ
悲恋
奥村チヨ
甘い生活
小野さとる
よこはまチャチャ
小畑ミキ with アウト・キャスト
ジェーン・ジェーン(愛してる?)
ハイ・ミスター
小畑ミキ
十六の時
グッドナイト・アンディー
もしも私が


か行
かおりくみこ
やさしくしないで
加納竜
エロスの海
北野ルミ
あなた愛してなぜわるい
木元ゆうこ
チェリー・ガーデン
小林旭
泣いた数だけ倖せに
小林幸子
ふたりはひとり
矢車日記
小林幸子・木の実ナナ
メランコリック・ママ
小柳ルミ子
ジョーク


さ行
西郷輝彦
旅立ち
蔡咪咪
おとなへのバス
堺正章
倖・せ・な・女
たそがれに別れを
堺正章 ザ・スパイダース
悪魔のようなおまえ
月曜日はからっぽ
佐川満男
今は幸せかい ※作詞・作曲
佐川満男&伊東ゆかり
かんにんしてや
桜田淳子
明日では遅すぎる
足長おじさん
乙女の祈り
くちづけ
恋のフィーリング
恋人になって!!
三色すみれ
16歳の感情
16歳の夏
淳子の花物語
白い貝がら
白い日記
ちいさな花の恋
小さな姫鏡台
天使の初恋
天使の冒険
天使も夢みる
涙はたいせつに
虹のほほえみ
人形の部屋
のっぽの恋人
馬車にゆられて
鳩のいる広場
花占い
花物語
秘密
秘密のいろ
ふたりはふたり
冬色の街
妖精のつばさ
よせがき
嫁さんのお嫁入り
若草の夢
わたしの青い鳥
私のお願い
わたしの千羽鶴
ささきいさお
それいけぼくらのファイターズ ※補作詞・補作曲(作詞・作曲は石原美代子、編曲は高田弘)
ファイターズ讃歌(ささきいさお→速水けんたろう)※作曲(作詞は石原信一、編曲は高田弘)
沢知美
私はかもめ
しのづかまゆみ
パパはもうれつ
島津ゆたか
つかれたわけじゃないわ
ジュディ・オング
リクエスト ※作詞・作曲
滴のように
ジョーク
ザ・スウィング・ウエスト
恋のジザベル ※作詞・作曲
君が好きなんだ ※作詞・作曲
園まり
悪い女になりそう
夜があるかぎり


た行
高田暢彦・川崎徹
私・湘南マタンゴ娘
多岐川裕美
あぶない二人
谷ちえ子
花の女子高数え歌
私はシンデレラ
ちあきなおみ
喝采
夜間飛行
禁じられた恋の島
劇場
あいつと私
チェリッシュ
決心
チョ・ジョンミン
あっぱ ※作詞・作曲
鶴岡雅義と東京ロマンチカ
鳥取・砂丘・風の人
デューク・エイセス
京都夢かざり
テレサ・テン
My Song
敏いとうとハッピー&ブルー
かわいそうな女


な行
中条きよし
酔歌(1999)
奈良富士子
はだしの女の子
あにいもうと
野路由紀子
秘めごと
信貴の恋唄

は行
范文雀
最後の一時間
ピーター
生きているのが淋しくて
ヒデとロザンナ
愛は傷つきやすく
卒業
ふたりの関係
抱擁
ヴィッキー・チャン
満月
ザ・ピーナッツ
サンフランシスコの女
リオの女
大阪の女
淵野忠明・都はるみ
危険な関係
細川たかし
北酒場
心のこり
酒場であばよ
人生航路
みれん心
夢酔い人
堀江美都子
かわいいジーナ
本郷直樹
燃える恋人

ま行
マギー・ミネンコ
涙の河
松崎しげる
おもいで
黄色い麦わら帽子
松本ちえこ
おもいで不足
まぶしい彼
真理アンヌ
嘘でとうした愛だけど…
美川憲一
なみだ三年
水木一郎
北の狼南の虎
かあさんの灯
三田悠子
国際線
都はるみ
横須賀ラスト・ナイト
三善英史
少年記
絵日傘
待つぼうけ
目黒ひとみ
わたしのシュガーボーイ
桃井かおり&夏木マリ
DAY BY DAY 〜女・美しく生きて下さい〜
森田健作
青春のバラード〜ひとつぶの涙〜
森昌子

や・ら・わ行
八代亜紀
陸の船乗り−ロンサム ロード−
矢野良子
ちょっと好奇心
はらはらサマータイム
ダウンタウンでつかまえて
ヤスミン・ヤマシタ
おやすみなさい
由紀さおり
矢車草〜夢二のおんな〜
吉田真梨
ひまわりの彩
ザ・ルビーズ
夜霧のガイコツ今晩は ※作詞・作曲
ロス・インディオス&シルヴィア
それぞれの原宿
若山富三郎
お前死ぬのかよ
その他


校歌
大阪偕星学園高等学校


イメージソング
ジャスコイメージソング『ジャスコで逢いましょう』
東大阪市老人クラブ連合会創立五十周年記念歌

テレビドラマ
以下は全てTBSテレビ。

毎度おさわがせしますII - 秋野英明 役
毎度ゴメンなさぁい - 沢野茂 役
水曜ドラマスペシャル 東京-金沢誘惑旅行 - 河野直彦 役


Vシネマ
覇者の掟 第四章 第五章(2019年) - 竜仁会会長 岸谷幸宏 役

著作

単著
おじさんスピリット―一度遊びに来ませんか(1983年11月、山手書房)
心人類―子供の手の届く所に置いてください。(1992年7月、はまの出版)ISBN 978-4893611406
いい日いちにち―キュートナーからのメッセージ(2003年12月、アスク)ISBN 978-4901681155
まがって、シャン!(2012年5月3日、遊タイム出版)ISBN 978-4860103101
うつを超えた39のモノローグ (2013年10月15日、ゴマブックス)


共著
M2C『カラオケの科学 知って納得歌えば最高―好奇心があるなら歌はどんどんうまくなる』(1997年2月、はまの出版)ISBN 978-4893612298

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[近代史7] すぎやま こういち(1931年4月11日 - 2021年9月30日) 中川隆
1. 2021年12月10日 09:05:14 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[2]
すぎやま こういち(本名:椙山 浩一〈読みは同じ〉[3]、1931年4月11日[1] - 2021年9月30日[4])は、日本の作曲家・編曲家・指揮者。日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員、日本カジノ学会理事[5]、日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。


経歴

生い立ち
東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)で、椙山庸吉、蔦子の長男として生まれる[6]。父親の庸吉は1907年、奈良藩士の末裔である椙山家の人物と小学校教頭であった母の間の一人息子として神戸市に生まれ[6]、東京帝国大学薬学部卒業後、昭和薬科大学で教鞭を執り、1938年より愛知県庁の衛生技官を務め、1942年に厚生省本省に転じ、1952年に保安庁に出向したという経歴を持つ人物だった[7]。母親の蔦子は、1909年、大分県竹田市浄土真宗のお寺の7番目の子として生まれ、6歳の時に養子に出された[6]。

祖母が子守唄として讃美歌を歌っていた[8]ことや、両親が音楽好きだったことから、幼少から音楽に親しむ。また両親がゲーム好きだったことから、物心がついた頃から自身もゲーム好きだった[2]。

小学校時代は父の仕事の影響で引越しが多く、1年(東京市鷹番尋常小学校)[9]、2年 - 5年(清水尋常小学校)[9]、5年 - 6年(市川真間小学校)[9]と転校を繰り返す。名古屋に住んでいた頃から鼻歌で作曲を始めるようになる。カール・ブッセの「山のあなた」にメロディをつけた[10]。

千葉県立千葉中学校[8]に入学するものの、戦況の悪化に伴い、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開。戦後、東京に戻るが、食糧不足から壊血病になり死にかける[11]。この時期、父が焼け残った自宅の反物を持って、荻窪の駅前にあったレコード屋に行き、物々交換でベートーヴェンのレコード[2]やオーケストラの楽譜[8](交響曲第6番、7番のスコア)を手に入れてきてくれたので、それを元に独学でクラシック音楽の勉強を重ねた。具体的には、「田園」のレコードを蓄音機で聴きながら、コントラバスのパートを声で一緒に歌った[2]。

東京都立武蔵中学校(現:東京都立武蔵丘高等学校)2年に編入[9]。ここで青島幸男や砂田実と知り合い、青島とは生涯の親友になる。すぎやまが級長、砂田が副級長、青島が問題児という関係であり、退学寸前の大問題を起こした青島を砂田と共に職員会議に乗り込んで助ける[12]。

新制高校の第1期生として成蹊高等学校に入学した後は音楽漬けの日々を送り、音楽部を創立[9]。3年の時には戦時中に活動休止していた学内オーケストラを再組織し、指揮と編曲を務める[13]。このオーケストラには成蹊中学校の服部克久も参加(トランペット担当)。服部はその後もすぎやまに誘われる形でジャズバンドにも参加している。またそのジャズバンドではすぎやまはベーシストを担当していた。卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼でオペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲[14]。このオペラは何度も再演された。

音大を断念して東大に
当初は音楽大学への進学を望んでいたが、ピアノが弾けなかった[2][8]ことから断念し(『週刊Gallop』の鈴木淑子との対談記事では「音大志望だったがお金がなかったから東大に進学した」とも述べている)、東京大学理科II類に進学[15]。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。3年次、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学[9]。しかし、教官が(授業にあまり出ない)すぎやまの顔を覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため1年留年[9]して卒業。

卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイトをしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り[15]、引き抜かれる形で文化放送に入社[2]。1年報道部で務めた後、芸能部に移り、「日立コンサート」を担当[15]。

1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する[2]。

フジテレビ入社後
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画[2]。当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』としてドラマ化された。当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。

上記の『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』に関しては、ニュース性があり、それゆえに確実にネタ切れしないだろうと考えていた[16]。

1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家[15]としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月にフジテレビを退社した[9]。

フジテレビ退社後
退職後、フリーのディレクター[9]としてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース[2](デビュー前から関わり、彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。

1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く手がける[9]ようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し、『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。

ドラゴンクエストの作曲
1980年代半ばになると、ゲーム音楽を手がけるようになる[17]。きっかけは夢中になっていた将棋ゲームに「ご意見を」と求める葉書が付いており、そこに「音楽が入っていないので、何とかしたらと」と書いて送ったところ担当者の目に留まったことによると読売新聞の取材に答えている[17]。1986年に『ドラゴンクエスト』の作曲を担当したのをきっかけに「ドラゴンクエストの作曲家」[2]となり、以降ゲーム以外の仕事を自ら減らし、専らゲーム作曲家として活動。この時期にオーケストラへの興味が増し[16]、1987年から毎年オーケストラなどを率いて『ファミリークラシックコンサート』[18]『「ドラゴンクエスト」コンサート』[19]などのコンサートを行っている。自ら指揮者として出演することも多かった。

2004年にはSUGIレーベルを設立[20][21]。かつて様々なレコード会社から販売されていた『ドラゴンクエスト』関連のアルバムの販売を一元化するとともに、旧作の再発売や再演奏・再録音などを行っている。

2016年9月3日、東京芸術劇場コンサートホールで行われた『第30回ファミリークラシックコンサート-ドラゴンクエストの世界-』中に、『世界最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家』(2016年1月28日時点[22])としてギネス世界記録をサプライズ受賞した[23]。その後もドラゴンクエストシリーズの新作が発売されるごとに自らギネス記録を更新している[24][25]。

2018年秋の叙勲で旭日小綬章を受章[26]。

2020年、文化功労者に選出された[3]。

2021年7月23日、2020年東京オリンピック開会式の各国入場行進曲として『ドラゴンクエスト』「序曲:ロトのテーマ」が使用される[17]。

死去
2021年10月7日、敗血症性ショックのため、同年9月30日に死去していたことがスクウェア・エニックスの『ドラゴンクエスト』公式サイトで伝えられた[27][28]。90歳没。

すぎやまの死去を受けて、同年10月10日に東京競馬場で施行された中央競馬の第72回毎日王冠(GII)では、すぎやまを追悼し、通常は東京及び中山競馬場で使用されるすぎやま作曲のGIレース本馬場入場曲「グレード・エクウス・マーチ」及びファンファーレが演奏された。また、『題名のない音楽会』はすぎやま死去を受けて、同年10月23日放送分の内容を急遽変更し、追悼番組として「すぎやまこういちの音楽会 〜そして伝説へ」と題し『DQ』楽曲や『亜麻色の髪の乙女』などを放送した[29]。また、同年11月2日、政府は同日の閣議で従四位と旭日中綬章を追贈することを決定した[30]。

人物

音楽活動
名義にひらがなを使用しているのは、「誰もが分かるように」したため[31]。
「B面の王者」を自称しており、「花の首飾り」や「学生街の喫茶店」のように当初はシングルB面ながらラジオでのオンエア等で徐々に人気が出てロングセラーになったという例がいくつかある。インタビューでは「(9歳下の)筒美京平さんは狙ってヒットを打てるすごい作曲家だが、自分は頑固なんで時流に乗った曲作りはできなくて」と語っている[32]。
『ザ・ヒットパレード』で音楽を担当した宮川泰とは同い年(学年は宮川が早生まれのため一つ上)だが、作曲家になる勉強のために宮川の書いた譜面を参考にしていたため「師匠」と呼んでいた[33]。


趣味・嗜好
趣味はクラシックカメラとゲーム(ビデオゲームに限らず様々なおもちゃ)の収集[34]、読書と食べ歩き[35][36][37]。
ゲーム好きであり、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長[38]などを務めていた。ドラゴンクエストシリーズはキャラクター全員をレベル99、100時間以上やり込むなどの話も有名である[39]。
喫煙者であり、20歳の誕生日から1日20 - 30本のたばこを吸っている[40]。昨今の嫌煙の風潮については「禁煙ファシズム」「喫煙いじめ」などと称し反発しており、西部邁らと共に「喫煙文化研究会」を設立し、代表に就いている[41]。同じく喫煙者である淡路恵子と話した際、「肺がんになれば納得。他のがんだったら許さない」と2人で大笑いしていた[42]。

演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している[43]。


ドラゴンクエストとの関係
1985年8月にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』の序盤の駒の組み方に疑問を持ったすぎやまは、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを熱心に書いたが、投函するのが面倒になりほったらかしにしていた。妻がそれを見つけて投函したところ[44]、エニックスの担当者からゲーム音楽の依頼が入り、『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当することになり、エニックスとつながりができた。

その直後、同じくエニックスがプロデュースしていた『ドラゴンクエスト』に、内部スタッフが作った音楽の出来が良くないという事態を受けて、エニックスから依頼を受けて制作に参加した。しかし当時の開発陣であるチュンソフトは学生のサークル活動の延長上にあり、さらにはチュンソフトによる「ドラゴンクエスト」のゲームサウンドがある程度出来上がった時期でのすぎやまの参加が伝えられたため、特に中村光一は強く反対をした。初対面時は「異分子が入ってきたぞ」「よそ者だ」と警戒され、「ゲーム好き」というのも信じてもらえずに色眼鏡で見られていたという。堀井雄二や千田幸信が間を取り持ちつつ、すぎやまは場の雰囲気を和らげるため、バックギャモンの話に始まってゲームにまつわる話題で会話をするうちに無類のゲーム好きであることが伝わり、当時日本に二台しかなかったビンゴ・ピンボール[45]にハマり仕事後数時間かけて横浜に行って遊んでいたことなどを話す内に尊敬のまなざしを受けるようになったという。こうして一ゲームファンとして受け入れられていった末に正式に作曲を依頼されこれを受託し、作曲に携わることになる[46]。

当初はロック調でと注文されたが、ゲームの世界観が「中世の騎士物語」ならばクラシック調がふさわしいとすぎやまは主張し[32]、クラシックをベースにした基本コンセプトが固まった。マスターアップ直前のことであり、1週間で全ての楽曲を製作。すぎやまはCMなどの音楽で短時間での作業の経験(最も短いもので、12時間で仕上げる依頼もあった)が豊富であったため可能な作業でもあった。またすぎやまは「ちょうど作曲が好調な時期だったことも大きかった」としている[47][48]。「序曲」のメロディはすぐに出来、それを「54年と5分で出来た曲」[49](パブロ・ピカソの「1分プラス80年だ」[要出典][50][51]という言葉に感銘を受けて真似をした[51])と言い、それまでの54年の人生があって初めて「序曲」を生み出すことができたという言い方をしている。また、ゲームのフィールドや戦闘中の音楽に関しては、「何百回も聞くものであるから、聞き飽きないものを心がけている」という[52]。編曲に関しては、本来ならばオーケストラで演奏する編成を、ファミコン音源の3音へ絞り込むのに苦労したという[53]。以降、全シリーズの作曲のみならず開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加している。そのため、テストプレイヤーとしてもエンディングのスタッフロールで名を連ねている。

シリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」、イン・ブラスバンド、オン・ピアノ、オン・エレクトーン、弦楽四重奏、金管五重奏、吹奏楽等に編曲され、演奏楽団を自ら指揮しコンサートを行っていた。近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行っていた。雅楽においては、むつのをによる演奏で執り行われた。

音楽以外では、1995年9月にバレエ「ドラゴン・クエスト」がスターダンサーズ・バレエ団によって初演され、以後も数年おきに再演されている。

政治的主張と立場
国家基本問題研究所評議員、教科書改善の会賛同者、「国籍法の是正を求める国民ネット」代表委員、歴史事実委員会委員[54]、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人[55]、朝日新聞を糺す国民会議代表呼びかけ人、放送法遵守を求める視聴者の会呼びかけ人[56]などを務め、その一員として活動を行っている。

政治家に対する直接的な支援としては、松原仁・稲田朋美・城内実などの応援曲の作曲を手掛けたほか、2012年には稲田に計250万円(夫人・之子名義のものを含めると計450万円)[57][58]、安倍晋三に計160万円[59][60]、中山成彬に130万円[61]、中山恭子に80万円[62]、赤池誠章に50万円[63]を献金するなど、金銭面での支援も行っている。

ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙に、「南京事件の被害者が30万人という説、およびそれに基づく日本軍の虐殺行為は事実として認められない」という趣旨の意見広告を載せようとし、一度は断られたが[64]、2007年6月14日付ワシントン・ポスト紙に歴史事実委員会名義で「THE FACTS」(慰安婦問題について強制性はなかったとし、アメリカ合衆国下院121号決議案採択阻止を目指す目的の意見広告)が掲載された[65]。これを主導し、広告費全額を負担したのはすぎやまである[66]。決議案は採択されたが、すぎやまは「広告掲載を受けて当時の下院採決には十数人しか出席しなかった。広告には効果があった」と主張している[67]。

2010年2月、三橋貴明、西村幸祐らと共に、「日本人による日本人のためのメディア」という趣旨の下、“メディアを監視する”ウェブサイト「メディア・パトロール・ジャパン」(MPJ。2021年7月現在ウェブサイトは消滅) を立ち上げ、コラムを執筆している。5月、藤井厳喜と西村幸祐が鳩山由紀夫を「公職選挙法違反」の容疑で告発した際、署名の中にすぎやまも名を連ねた[68]。2015年11月には放送局に放送法遵守を求める「放送法遵守を求める視聴者の会」を興した[69]。

いわゆる一票の格差是正に向けた「一票の格差を考える会」の発起人となり、2000年2月より意見広告、情報収集、ラッピングバスキャンペーンなどを展開していたが、2017年12月に活動終了を報告した[70]。

2015年7月に放送されたチャンネル桜の「日いずる国より」内の杉田水脈との対談で、杉田の反LGBT発言に同調[71]。3年後の2018年、この様子がTwitterで拡散され、話題になった[72]。スクウェア・エニックスはAnime News Networkの取材に対し、『個人の見解は、会社の見解・活動を代弁するものではありません。スクウェア・エニックスは様々な信条、性的指向、性同一性を有するスタッフを多く採用しています。ポリシーの問題として、私たちはあらゆる差別・いやがらせを容認しておらず、世界中のすべての人の性的指向・性同一性の多様性を尊重しています。』と声明を出した一方、今後すぎやまとの関係を継続するかどうかの回答を避けた[73]。それ以降もすぎやまはスクウェア・エニックスとの関係を継続しており、ドラゴンクエスト35周年特設ページにメッセージを寄せている[74]。2020年東京オリンピック開会式に「序曲:ロトのテーマ」が使用された際、この件を再びクローズアップする一部メディアも存在した[75][76]。また、すぎやまは自身の公式サイトでは「LGBTである事で理不尽に差別されるのは是正されなければならない」と述べた[77]。

著作権に対する立場
日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員であり、違法コピーを否定する立場を取っている。自らのサイトでは「人には人権・音楽には著作権」という標語を掲げている。簡単に非劣化でコピーできてしまうCDの存在に頭を痛めており、自らのサイトでは「昔のレコードなら、中古で出回っても、使うごとに磨り減るから音質が下がっていったのに」と、レコードを懐かしむ趣旨の発言をしている[49]。

コピーコントロールCD(CCCD)が出始めの頃は、「CDの著作権を保護するためには少しの欠点は我慢しても容認すべき」として認める立場を取っていた。しかし、再生装置を破壊することがあることなどが発覚してから普及を諦めるが、「一刻も早くCCCDにかわる新技術の登場が待たれる」と発言し、新しいコピーガード技術の早期の確立が望ましいという考えを示した。また、「現在は、音楽のコピーし放題が許される状態。法改正も視野に入れて考える問題でもある」と、音楽のコピーを法規制するべきとの考えも示している[78]。

家族
妻の之子(ゆきこ[79])は東京芸大卒で元東京都交響楽団ヴィオラ奏者。ザ・タイガースの収録で知り合い結婚。2021年現在、スギヤマ工房の取締役を務めている[80]。

長男は、石田班に属していたフジテレビのプロデューサー時宗大[81]。親子二代でフジテレビに入社している。『ミュージックフェア』の演出をはじめ、ドラマ『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』では音楽監修も担当し、番組最後のスタッフロールで「すぎやまjr」と表記された。2015年現在は『アイドリング!!!』のコンテンツプロデューサー。また、日本最大級のアイドルイベント『TOKYO IDOL FESTIVAL』の総合演出も担当している[82]。

作品

ゲーム
ドラゴンクエストシリーズ - シリーズ内のほぼ全ての作品を担当。

風来のシレンシリーズ
不思議のダンジョン2 風来のシレン
不思議のダンジョン 風来のシレン2 鬼襲来!シレン城!
不思議のダンジョン 風来のシレンGB 月影村の怪物
不思議のダンジョン 風来のシレンGB2 砂漠の魔城以降は既存曲のみ(新曲は松尾早人が担当)
旧エニックスPCゲーム作品
ウイングマン2 -キータクラーの復活-
ウイングマンスペシャル -さらば夢戦士-
ガンダーラ
ジーザス(1987年パソコン版、1989年ファミコン版) - この作品では音楽がストーリーの謎解きに関わる[83]。
アンジェラス 〜悪魔の福音〜
ジーザス2
ワールドゴルフ2
ワールドゴルフ3
46億年物語
その他の作品
半熟英雄 あぁ、世界よ半熟なれ…!!
赤川次郎の幽霊列車
テトリス2+ボンブリス(ファミコン版)
バックギャモン
モノポリー(スーパーファミコン版)
いただきストリート2 〜ネオンサインはバラ色に〜(MAP15「アレフガルド」のみ、それ以外は全て筒美京平が担当)
スターコマンド〜暗闇の侵略者〜
サイバリオン(スーパーファミコン版、監修のみ)

アニメーション
子鹿物語 THE YEARLING - 主題歌・BGM
スカイヤーズ5 - 主題歌
わんぱく大昔クムクム - 主題歌
伝説巨神イデオン - 主題歌・BGM
THE IDEON 接触篇/発動篇 - 主題歌・BGM
劇場版科学忍者隊ガッチャマン - BGM
科学忍者隊ガッチャマンII - 主題歌
マシンハヤブサ - 主題歌
サイボーグ009 -(第2期)主題歌編曲・BGM
まんがことわざ事典 - 主題歌・BGM
シリウスの伝説 - 主題歌・BGM
魔法騎士レイアース - 音楽監修
ドラゴンクエスト - 原曲BGM
DRAGON QUEST -ダイの大冒険-(1991年版) - 主題歌・原曲BGM
劇場版 DRAGON QUEST -ダイの大冒険- - 原曲BGM
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(2019年8月2日公開) - 音楽

映画
地獄の蟲 - 主題歌・BGM
ゴジラvsビオランテ - BGM
リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち - BGM


テレビ
帰ってきたウルトラマン(1971年) - 主題歌[84]
元気です!(1980年 – 1981年) - BGM

ミュージシャンへの主な楽曲提供

アダムス - 「明日なき世界」「影」(1969年)
太田裕美 - アルバム「思い出を置く 君を置く」の全曲を作曲。作詞:サトウハチロー
ガロ - 「学生街の喫茶店」「君の誕生日」
キャンディーズ - 「ハート泥棒」
西城秀樹 - 「あの愛をふたたび/いつも二人で」(1976年)
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ - 「センチメンタル・シティ」(1966年)
ザ・ジャガーズ - 「いつか誰か」「フェニックス〈不死鳥〉」
シャープ・ホークス - 「遠い渚」(1966年)グループ・サウンズとしては、最初のヒット曲。「海へかえろう」(1967年)
城みちる - 「星空への誓い」
ザ・タイガース - 「花の首飾り」「君だけに愛を」「モナリザの微笑」など、タイガースの大半の曲を提供。
ザ・ダイナマイツ - 「ユメがほしい」「大人の戦争」
橋幸夫 - 「思い出のカテリーナ」「雨のロマン」など、アルバム「源氏物語」の全曲を作曲。
日のり子 - 「初恋サンシャイン」「PRETTY LOVE」
ピーターズ - 「キャンディ・ガール」「白い荒野」
ザ・ヴァン・ドッグス - 「天使は眠らない」
ヴィレッジ・シンガーズ - 「亜麻色の髪の乙女」(1968年)※原題は1966年に発売された青山ミチの「風吹く丘で」
ザ・ピーナッツ - 「恋のフーガ」「ローマの雨」
藤浩一 - 「故郷の悲しき星」「涙のギター」(1966年)
ザ・ワンダース - 「霧と恋」(1967年)作詞:橋本淳

CMソング
2000曲以上手がけている[85]。

サロンパス(久光製薬)歌:十田敬三
ライオン チャーミー(ライオン)歌:藤浩一
キンチョーサッサ(大日本除虫菊)
ロッテ 小梅、小夏(ロッテ)歌:町田義人
ニベア スキンミルク(ニベア花王)歌:前川陽子
マイ・プラチナ(プラチナ萬年筆)
ハウスバーモントカレー(ハウス食品)歌:西城秀樹
ネスカフェ プレジデント(ネスレ日本)
キリンレモン(キリンビバレッジ)
日清 麺職人(日清食品)
ポカリスエット(大塚製薬)
ユーバン(味の素ゼネラルフーヅ)
レモンスカッシュ(不二家)
コカ・コーラ「青い空青いからコカコーラ」(コカコーラ)
明治ハイミルクの歌(明治製菓 ※現:明治)
アクア(トヨタ自動車)

その他

日本中央競馬会
東京競馬場・中山競馬場で使用されるファンファーレ
東京競馬場・中山競馬場・福島競馬場・新潟競馬場の本馬場入場曲(一般競走、特別競走は2007年まで使用。重賞競走については2009年まで使用されていたが、そのうちGI競走(「グレート・エクウス・マーチ」)は休止期間を経て、2012年以降皐月賞、オークス、日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念で再び使用されている)
「キング・オブ・ターフ」(中山競馬場開場時に流されていたBGM)

NHK交響楽団
委託により『オーディオ交響曲 第1番』(1976年)、『同 第2番』(1977年)を提供。第1番の第四楽章冒頭部は、当時NHK教育テレビで放送されていた『技能講座オーディオ入門』のオープニングテーマとしても使用。
依頼により『弦楽のための舞曲 I&II』を提供。すぎやまの曲の中では珍しい純音楽的作品。1991年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団により再録された。

ザ・ヒットパレード
フジテレビディレクター時代に自らがテーマを作曲。
サウンド・イン・ナウ 1971年 - 1977年
FM音楽番組のパーソナリティーでトーク。カラオケという言葉を一般に普及させた。当時の放送局 FM東京(FM 80MHz)(現在のTOKYO FM)。
民主党衆議院議員・松原仁
応援曲「JIN・ジン・じん・仁・松原仁」
自由民主党衆議院議員・稲田朋美
応援曲「正しい政治」
自由民主党衆議院議員・城内実
応援曲「信念つらぬく 城内みのる」
東京メトロポリタン・ブラス・クインテット
「金管五重奏組曲 〜東京・メトロポリタン・ブラス・クインテットのために〜」2009年2月4日初演
国想う在野議員の会
応援歌『頑張れ日本』を提供。
クイズ・ドレミファドン!のテーマ
石川ひとみ歌唱。

著書
すぎやまこういち『やさしい作曲入門』日本文芸社、東京、1980年6月。
すぎやまこういち『やさしい作曲入門』復刊ドットコム、2010年4月。ISBN 9784835444161。
すぎやまこういち『すぎやまこういちの体験作曲法』毎日新聞社、1981年3月。
すぎやまこういち『すぎやまこういちの体験作曲法』ブッキング、東京、2006年12月。ISBN 9784835442730。
すぎやまこういち『すぎやまこういちのゲーム大博覧会』日本ソフトバンク出版事業部、1989年2月。ISBN 4890520449。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%A1
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/721.html#c1

[近代史7] 鈴木邦彦(1938年3月1日 - ) 中川隆
1. 中川隆[-14630] koaQ7Jey 2021年12月10日 09:11:18 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[3]
鈴木 邦彦(すずき くにひこ、1938年3月1日 - )は、東京府出身の作曲家、編曲家。妻は元歌手の小野階子(おの しなこ)。


人物
慶應義塾中等部[1]、慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業[2]。学生時代は慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。

母が所有していたピアノを独学で習得し[3]、学生時代からジャズ・ピアニストとして活動を始め、のちに「ザ・ヒットパレード」のバックバンドにも参加。中村八大の影響でプロの作曲・編曲家を目指す[3]。

西ドイツ・ドルトムントで開催された1966年世界体操競技選手権に日本代表専属のピアニストとして参加。床運動の規定曲を作曲する。

プロの作曲家としてデビューまもない1968年に『天使の誘惑』が、第10回日本レコード大賞を受賞する。

メーカーから依頼されたことにより、ハンドベルの普及版となるミュージックベルの開発に取り組む[3]。1971年4月、株式会社ベルミュージック並びに日本ミュージックベル協会を設立。

株式会社エンジェルミュージック、株式会社ウエディングベル設立。

作品

歌謡曲・ポップス

安西マリア
『愛のビーナス』(作詞:千家和也)
『針のくちづけ』(作詞:千家和也)
内山田洋とクール・ファイブ
『恋唄』(作詞:阿久悠)1972年
江利チエミ
『酒場にて』(作詞:山上路夫)1974年
奥村チヨ
『恋の奴隷』(作詞:なかにし礼)1969年
『恋泥棒』(作詞:なかにし礼)
『恋狂い』(作詞:なかにし礼)
おぼたけし
『美しき狼たち』(作詞:たかたかし。劇場アニメ『あしたのジョー』主題歌)
『ローリング・ファイター』(インストメンタル)
ザ・ゴールデン・カップス
『いとしのジザベル』(作詞:なかにし礼)
『銀色のグラス』(作詞:橋本淳)
『長い髪の少女』(作詞:橋本淳)1967年
『愛する君に』(作詞:なかにし礼)
西城秀樹
『恋の約束』(作詞:たかたかし)1972年
『若いふたりの海』(作詞:たかたかし)1972年
『チャンスは一度』(作詞:たかたかし)
『青春に賭けよう』(作詞:たかたかし)
『情熱の嵐』(作詞:たかたかし)1973年
『愛の十字架』(作詞:たかたかし)1973年
『薔薇の鎖』(作詞:たかたかし)1974年
『子猫とネズミ』(作詞:たかたかし)1974年
『涙と友情』(作詞:たかたかし)1974年
『罪つくりな話』(作詞:たかたかし)1974年
『季節のうつり変り』(作詞:たかたかし)1974年
『白い教会』(作詞:たかたかし)1975年(※ 初期他多数)
桜田淳子
『神戸で逢えたら』(作詞:三浦徳子)1980年
嶋大輔
『純哀物語 (ストーリー)』(作詞:高島俊一)
『Forever My Love -さよならのとき-』(作詞:河田未央子)
ザ・ジャガーズ
『ダンシング・ロンリー・ナイト』(作詞:漣健児)
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
『冬の嵐』(作詞:なかにし礼)
『雨の朝の少女』(作詞:なかにし礼)
『二人だけの天地』(作詞:有馬三恵子)
シャープ・ホークス
『ついておいで』(作詞:尾中美千絵)
『若い夜』(作詞:鈴木邦彦)
『ロンリー・ラヴ』(作詞:尾中美千絵)
『愛の土曜日』(作詞:尾中美千絵)
朱里エイコ
『時の流れにのこされて』(作詞:山上路夫)1972年
『北国行きで』(作詞:山上路夫)1972年
ザ・ダイナマイツ
『トンネル天国』(作詞:橋本淳)
『恋はもうたくさん』(作詞:橋本淳)
『真夏の夜の動物園』(作詞:橋本淳)
『毛皮になったしま馬』(作詞:林春生)
チェリッシュ
『古いお寺にただひとり』(作詞:山上路夫)1972年
トニーズ
『アカプルコの娘』 (作詞:なかにし礼)
ザ・バロネッツ
『サロマの秘密』(作詞:若木香)
『愛の女神』(作詞:若木香)
『ある恋のエピソード』(作詞:比良九郎)
ザ・ピーナッツ
『ガラスの城』(作詞:なかにし礼)
『さよならは突然に』(作詞:山上路夫)
藤圭子
『明日から私は』(作詞: 山上路夫)
黛ジュン
『恋のハレルヤ』(作詞:なかにし礼)1967年
『乙女の祈り』(作詞:なかにし礼)1968年
『天使の誘惑』(作詞:なかにし礼)1968年
『雲にのりたい』(作詞:大石良蔵/補作:なかにし礼)1969年
『涙でいいの』(作詞:なかにし礼)1969年
『土曜の夜何かが起きる』(作詞:なかにし礼)1970年
森田健作
『さらば涙と言おう』(作詞:阿久悠)1971年
『友達よ泣くんじゃない』(作詞:阿久悠)1972年
『若い涙はみな熱い』(作詞:阿久悠)
『青春の旅』(作詞:阿久悠)
『涙によろしく』(作詞:阿久悠)
ザ・リード
『悪魔がくれた青いバラ』(作詞:尾中美千絵)
『沈黙の海 〜サイレンス・オブ・ザ・シー〜』(作詞:山上路夫)
渡辺篤史
『海はいつでも』(作詞:山上路夫。テレビドラマ『ゲンコツの海』主題歌)

TV番組テーマ曲
『NHKのど自慢』(1970年4月 - )
『ウメ星デンカ』
『コンドールマン』
『日本マクドナルド』
『日本コカコーラ』

校歌
足立区立千寿双葉小学校
志学館中等部・高等部


ミュージカル
劇団四季ファミリーミュージカル「モモと時間泥棒」(初演1978年)「人間になりたがった猫」(初演1979年)「むかしむかしゾウがきた」他多数


その他
『アタミのスケッチ』 熱海市イメージソング(市制50周年記念事業[4])

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%82%A6%E5%BD%A6_(%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6)
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/712.html#c1

[近代史7] 「ブルー・シャトウ」 井上大輔(1941年9月13日 - 2000年5月30日) 中川隆
1. 中川隆[-14629] koaQ7Jey 2021年12月10日 09:43:53 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[4]
井上 大輔(1941年9月13日 - 2000年5月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%A4%A7%E8%BC%94

井上 大輔(いのうえ だいすけ、1941年9月13日 - 2000年5月30日)は、日本のミュージシャン、作曲家。本名及び旧芸名は井上 忠夫(いのうえ ただお)[2]。

東京都出身。日本大学豊山高等学校、日本大学芸術学部卒業。


略歴
1963年、ジャズ喫茶で演奏中、ジャッキー吉川・大橋道二にスカウトされジャッキー吉川とブルー・コメッツに参加、リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当。作曲も行い、「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などの曲を書いてヒットさせた。

なお、ブルコメ参加時に寺内タケシの勧めでそれまでしていたメガネからコンタクトレンズに変えている。

1972年のメンバーチェンジ(実質的な解散)後、作曲家に転身。「学園天国」「ランナウェイ」など、数多くのヒット曲を放った。

1981年、本名の井上忠夫から「井上大輔」に改名[2]。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ再結成に参加した時期でもあり、「元GSというレッテルから離れ、一から出直す」という意図もあったとされている[2]。なお「大輔」は、かねてからの愛称「大ちゃん」に由来[2](ロカビリー時代に内田裕也がとっさに「井上ダイスケ」と誤って紹介したことがきっかけ)。

日大芸術学部の同級生で友人の富野喜幸(現・富野由悠季)の頼みで手掛けた劇場版『機動戦士ガンダム』シリーズの主題歌「哀・戦士」(第2作)、「めぐりあい」(第3作)や、コカ・コーラのCM曲「I FEEL COKE」などのソロ作品がヒットした。

サックス・プレイヤーとして、山下達郎の「悲しみのJODY」「スプリンクラー」などに参加したほか、1969年の第20回NHK紅白歌合戦では紅組トリを務めた美空ひばりが歌唱した『別れてもありがとう』のサックス演奏で出演している。

2000年5月30日、病気がちの妻の看病疲れや、3月に手術した網膜剥離の術後の経過が思わしくないことを苦に自宅で自殺。満58歳没[3]。同年12月1日、堺正章や内田裕也らが音頭を取り、赤坂ACTシアターで『井上忠夫音楽葬』が開催され、TBS系列で『20世紀! 名曲黄金時代スペシャル 〜井上忠夫音楽葬〜』のタイトルで放送された。

なお翌年の2001年9月15日、自宅内で妻の遺体が発見される。首にひもが巻き付いた状態で死後数か月経過しており、その状況から自殺と断定された[4]。

2002年、5月25日に平塚市の土屋霊園で妻と共に納骨。5月30日に三回忌法要が執り行われた[5]。


楽曲提供

あ行
あいざき進也
「恋のリクエスト」
葵 (歌手) ("葵 -168-" 名義)
「秘すれば花」
青田浩子
「月の夜 星の朝」
秋山絵美
「太陽のアラベスク」
アグネス・チャン
「美しい朝がきます」
麻丘めぐみ
「卒業」
浅香唯
「瞳にSTORM」
「虹のDreamer」
麻倉あきら
「真夜中の虹 〜everlasting love〜」
麻生祐未
「ドキュメント」
網浜直子
「Mellow Mellow」
杏里
「気ままにREFLECTION」
「デ・ジャ・ヴ」(1985年の大塚製薬「ポカリスエット」CMソング:CD化はされていない)
勇直子
「さよならは落ち込まないで」
石川秀美
「スターダスト・トレイン」
石黒ケイ
「レイニー・シャドウ」
「I Remember You」サントリー缶ビールCFソング。収録アルバム「You Remember Me」をプロデュース。またフジテレビ「笑っていいとも」出演時、翌日のゲストとして石黒ケイさんを指名。
「ムーンライト・キッス」
いしだあゆみ
「昨日のおんな」
「止めないで」
石塚早織
「禁断のパンセ」
「Silent Tears」
石野陽子(現・いしのようこ)
「ロマンティック神楽坂」
稲垣潤一
「優しさが瞳(め)にしみる」
岩崎良美
「プリテンダー」
Wink
「愛を奪って 心縛って」(シングル「いつまでも好きでいたくて」C/W曲)
上田正樹
「TAKAKO」
太田幸希
「本牧イン・ザ・レイン」
「シャドウ・ハンター」
大塚たけし
「自由に生きてほしい」
大友裕子
「ボヘミアン」(後に葛城ユキもカバーしている)
大西結花
「ミモザの奇蹟」
「シャドウハンター」
荻野目洋子
「ディセンバー・メモリー」
尾崎紀世彦
「哀しみの追跡」
「象牙のナイフ」
「長距離急行」
「サマー・ラブ」
「愛は奇蹟」
「サンシャイン・ラバー」
「マリア」
アンディ・ラウ(劉徳華)
もう一度抱きしめたい

か行
影山ヒロノブ
「光戦隊マスクマン」「愛のソルジャー」(「光戦隊マスクマン」主題歌)
菊田知彦
「Beat on Dream on」(「ウルトラマンガイア」エンディングテーマ)
岸正之
「FROM A TO HEAVEN」(フロム・エーCMソング)
キャンディーズ
「若い日のひととき」、「卒業」(上述の麻丘めぐみの楽曲とは同名異曲)、「弱点みせたら駄目よ」
キララとウララ
「センチ・メタル・ボーイ」
「多感期のフラミンゴ」
倉沢淳美
「プロフィール」
クリスタルキング
「パッション・レディ」
「海南風」
小泉今日子(“あんみつ姫”名義)
「クライマックス御一緒に」
小出広美
「タブー」
「チェンジLOVE」
郷ひろみ
「2億4千万の瞳」
ゴスペラーズ
「ローレライ」
「バードメン」
小林清美
「明日を超えて」
小柳ルミ子
「ひと雨くれば」
「逢いたくて北国へ」
赤い糸
東京の空の下で

さ行
西城秀樹
「一万光年の愛」
「Blue Sky」
「夏の誘惑」
「SAYYEA',JAN-GO」
「アイムチャンピオン」(「ブルースカイ ブルー」収録曲)
「ターゲット」(「一万光年の愛」収録曲)
「STEPPIN' AWAY -夏の逃避行-」(「ミスティー・ブルー」収録曲)
「海辺の家」(「Blue Sky」収録曲)
「傷だらけのハッピーエンド」(アルバム「Feeling Free/西城秀樹」収録曲)
「THE END」(アルバム「Feeling Free/西城秀樹」収録曲)
榊原郁恵
「私の先生」
里中茶美
「オリバー」
沢田研二
「きめてやる今夜」
「どん底」
J6
「Destination」(1999年、大江千里作詞、「JRACM曲」、この曲が遺作となる。この曲がきっかけとなり、山下達郎の作品にサックス演奏で参加した事がある。)
Jeff
「まぼろしの夏」
「恋は燃えている」
「君は遥かなり」
鹿内孝
「本牧メルヘン」(1972年。2008年にはジェロがミニアルバム『COVERS』でカバー)
志賀真理子
「青い涙」
シブがき隊
「NAI・NAI 16」
「100%…SOかもね!」
「ZIG ZAG セブンティーン」
「処女的衝撃!(ヴァージンショック)!」
「挑発∞」
「アッパレ! フジヤマ」
「千夜一夜キッス倶楽部」
「君を忘れない」
島崎和歌子
「J・Jがいた夏」
島田奈美
「春だから」
下山公介
裸足のソルジャー
男たちの地図
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
19BOX
「アルバイトブギ」
「キャンディ」
「びっくりスター」
杉浦幸
「4月列車」
すぎうらよしひろ
「マッハバロン」「眠れマッハバロン」(「スーパーロボット マッハバロン」主題歌)
鈴木聖美 with Rats&Star
「TAXI」
鈴置洋孝
アルバム『ザ・ロンゲスト・ロード・イン・破嵐万丈/鈴置洋孝』 A面全曲(5曲。うち1曲は歌・間嶋里美) ※富野由悠季作詞(“井荻麟”名義)・プロデュース、宮川泰編曲
ストロベリー・スウィッチブレイド
「エクスタシー」(スバル・レックスCMソング)
仙道敦子
「指先のロンリネス」(2ndアルバム「La Fillette」収録)

た行
田中雅之(田中昌之、exクリスタルキング)
「1000カラットのサマーブロンズ」
団しん也
「飛べ!!宇宙のレッドバロン」(スーパーロボット レッドバロン主題歌)
テレサ・テン
「夜の乗客」
「アカシアの夢」
「夜のフェリーボート」
「東京夜景」
「香港の夜」
殿さまキングス
「殿キンの新東京行進曲」
高見沢俊彦
「Night of Rouge」
トランザム
「地球の仲間」

な行
ナタリー(同名の米国人歌手とは別人)
「シャントン・ラ・ムール」(1993年第一興商CMソング)
成清加奈子
「ハートのピアス」
中森明菜
「Blue Bay Story」
「Little Party」
「Terminal までの Eve」
「星のX'MAS-Berry - A Tender Star」
SILENT LOVE(クリスマス・ミニアルバム)収録の全曲
URAGIRI - アルバム CRUISE
西川弘志
「明日への叫び〜サイバー・ハート〜」
NOKKO
「アンテナ」
「METALLIC MOTHER」

は行
橋幸夫
「股旅'78」
パティ
「真珠諸島」
林寛子
「日暮れどき」
フィンガー5
「恋のダイヤル6700」
「学園天国」
フォーリーブス
「踊り子」
「ハートブレイク急行」
「乾杯グラス」
福山雅治
「アクセス」
プラスチックス
「ウェルカム・プラスチックス」(『ウェルカム・ビートルズ』の替え歌)
フレンズ
「レモンスカッシュ」
「熱いおくりもの」
ポピンズ
「妖精ポピンズ」
BORO
「ネグレスコ・ホテル」


ま行
前川清
「蛍…どこかで」
間嶋里美
「ハッシャバイ」(「無敵鋼人ダイターン3」イメージソング)
松居直美
「微妙なとこネ」
マッドネス
「シティ・イン・シティ (In The City)」(ホンダ・シティCMソング)
南野陽子
「風のマドリガル」
三橋美智也
「金沢ひとり/城下町の女」
三原順子
「悲・GEORGE」
美保幸代
「恋路」
「さよなら愛」
「夜明けのモーツァルト」
「白いテラスで」
森昌子
「恋ひとつ雪景色」

や行以降
山瀬まみ
「スターライト・セレナーデ」(「機甲戦記ドラグナー」主題歌)
EUROX
「ガリアン・ワールド」 (「機甲界ガリアン」主題歌)
由紀さおり
「スイートワルツの流れる川に」
由美かおる
「女の糸」
吉田栄作
「どうにかなるさ -Chasing My Dream-」
「もしも君じゃなきゃ」
芳本美代子
「白いバスケット・シューズ」
「プライベート・レッスン」
ラッツ&スター
「ランナウェイ」(発売時はシャネルズ名義)
「トゥナイト」(発売時はシャネルズ名義)
「街角トワイライト」(発売時はシャネルズ名義)
「ハリケーン」(発売時はシャネルズ名義)
「涙のスウィート・チェリー」(発売時はシャネルズ名義)
「め組のひと」
「今夜はフィジカル」
「月下美人(ムーンライト・ハニー)」
「グラマーGuy」
和田加奈子
「悲しいハートは燃えている」(アニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」エンディングテーマ)


テレビドラマ
ゴリラ・警視庁捜査第8班(テレビ朝日)
土曜ワイド劇場 混浴露天風呂連続殺人シリーズ(ABCテレビ)

ゲーム
田代まさしのプリンセスがいっぱい(エピック・ソニー)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%A4%A7%E8%BC%94
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/722.html#c1

[近代史7] すぎやま こういち(1931年4月11日 - 2021年9月30日) 中川隆
2. 2021年12月10日 09:54:27 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[5]
「僕のマリー」1967年2月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)

ザ・タイガース 僕のマリー - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E5%83%95%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC

「モナリザの微笑」1967年8月15日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)

ザ・タイガース モナリザの微笑 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%81%AE%E5%BE%AE%E7%AC%91


「君だけに愛を」1968年1月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)

ザ・タイガース 君だけに愛を - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E5%90%9B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AB%E6%84%9B%E3%82%92

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/721.html#c2

[近代史7] すぎやま こういち(1931年4月11日 - 2021年9月30日) 中川隆
3. 2021年12月10日 09:58:48 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[6]
「花の首飾り」1968年3月25日発売 作詞:菅原房子 補作:なかにし礼 作曲・編曲:すぎやまこういち

ザ・タイガース 花の首飾り - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/721.html#c3

[近代史7] すぎやま こういち(1931年4月11日 - 2021年9月30日) 中川隆
4. 2021年12月10日 10:04:15 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[7]
「シーサイド・バウンド」1967年5月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)

ザ・タイガース シーサイド・バウンド - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/721.html#c4

[近代史7] 市川昭介(1933年 1月4日 - 2006年 9月26日) 中川隆
1. 2021年12月10日 10:37:22 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[8]
市川 昭介(いちかわ しょうすけ、1933年(昭和8年)1月4日 - 2006年(平成18年)9月26日)は、日本の作曲家。


来歴・人物
福島県郡山市出身。福島県立郡山工業高等学校(現・福島県立郡山北工業高等学校)を卒業した18歳の頃、ハワイアンバンドでの歌手デビューを目指し上京。歌手の高倉敏、鶴田六郎らの付き人(かばん持ち)をする傍ら、作曲とピアノを独学で学ぶ。

1961年(昭和36年)、島倉千代子が歌い第3回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞した『恋しているんだもん』でデビュー。

1962年(昭和37年)、畠山みどりの『恋は神代の昔から』がミリオンセラーとなり、翌年の『出世街道』も連続のミリオンセラーを記録。1964年(昭和39年)、都はるみの『アンコ椿は恋の花』が3作目のミリオンセラーとなり大ヒット。以後『涙の連絡船』『好きになった人』『大阪しぐれ』など、都はるみの一連のヒット曲を作曲。都はるみを国民的演歌歌手に育て上げた。都はるみは恩師の市川を歌謡界の父親と慕っていた。

日本コロムビア、クラウンレコードの専属作曲家を務めた後、1974年(昭和49年)にフリーとなる。

市川の門下生には都はるみの他、ジュディ・オング、畠山みどり、五木ひろし、大川栄策、神野美伽、多岐川舞子、市川由紀乃、山口瑠美らがいる。

1990年(平成2年)から日本レコード大賞の実行委員長を務め、1998年(平成10年)からレコード大賞の制定委員を務めた。また、日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員、日本作曲家協会の副委員長も歴任した。

1992年(平成4年)、郡山市特別表彰。1996年(平成8年)、紫綬褒章受章。2004年(平成16年)、旭日小綬章受章。

2006年(平成18年)9月26日午前5時、肝不全のため東京都渋谷区の病院で死去。73歳没。戒名は浄樂院賢優昭韻居士。

2006年(平成18年)9月29日午後 川崎市立かわさき北部斎苑で火葬が行われた。

主な作品

石川さゆり
滝の白糸
石川さゆり & 琴風豪規
東京めぐり愛
石原詢子
しあわせの花 (遺作)
市川由紀乃
海峡氷雨
絆坂
さいはて海峡
海峡出船(最後の録音立会い曲)
五木ひろし
細雪
浪花盃
伊東ゆかり
さすらい(『西あきら』名義)
瞳の中から(『西あきら』名義)
大川栄策
さざんかの宿
恋吹雪

再会
大月みやこ
別れてひとり
ふたりの灯
角川博
伊豆の雨
川中美幸
花咲港
岸川美好
雪どけ
北原由紀
かしこい女じゃないけれど
伍代夏子
忍ぶ雨
里見浩太朗
夢がたり(時代劇『八百八町夢日記』第2シリーズ主題歌
三條正人
あなたを待ちます
挽歌
島倉千代子
恋しているんだもん
鳳仙花
新宝塚音頭
嶋崎由理(後のしまざき由理)
ハクション大魔王の歌(テレビアニメ『ハクション大魔王』主題歌)
ジュディ・オング
たそがれの赤い月
悲しみの十字架(クロス)
涙ぐむ星空
海辺のメルヘン
さようなら17才 (詩:岩谷時子 )
島津亜矢
袴をはいた渡り鳥 (元々は畠山みどりに提供するはずだったが、諸事情で水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」として世に出たもののオリジナル)
城みちる
イルカに乗った少年(『林あきら』名義)
神野美伽
男船
浪花そだち
釜山海峡
水前寺清子
涙を抱いた渡り鳥(『いづみゆたか』名義)
千葉由美
やるぞ一発!野球道(テレビアニメ『一発貫太くん』主題歌)
天童よしみ
これで決定いたします(『やまだ寿夫』名義)
中山たかし
生きてこの道
橋幸夫
あばれ駒
畠山みどり
恋は神代の昔から
出世街道
広町心純
七久里紅葉狩
舟木一夫
絶唱
松原のぶえ
なみだの桟橋(森昌子のシングルをカバー)
美空ひばり
しのぶ
龍馬残影
都はるみ
好きになった人
アンコ椿は恋の花
涙の連絡船
大阪しぐれ
夫婦坂
浮草ぐらし
レモン月夜の散歩道
村田英雄
皆の衆
夫婦春秋
森昌子
なみだの桟橋
ためいき橋
吉田よしみ(後の天童よしみ)
大ちゃん数え唄(テレビアニメ『いなかっぺ大将』主題歌)ほか多数
川越市立南古谷中学校校歌


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E6%98%AD%E4%BB%8B
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/711.html#c1

[近代史7] 浜 圭介(1946年4月8日 - ) 中川隆
2. 中川隆[-14628] koaQ7Jey 2021年12月10日 10:41:40 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[9]
浜 圭介(はま けいすけ、1946年4月8日[1] - )は、日本の作曲家、元歌手。旧満州[1](中国東北部)出身。

旧芸名は牧 宏次、大木 賢、浜 真二。本名は金野 孝(こんの たかし)。妻は元歌手の奥村チヨ。


来歴・人物
1946年4月8日、旧満州(中国東北部)の収容所で生まれ、1歳の時に日本に引き揚げる[1]。青森県大鰐町、次いで北海道札幌市に移り住み幼少期を過ごす。

15歳の時に高校を中退し、歌手を目指し上京[1]。森山加代子の付き人となる[1]。

1964年、牧 宏次の芸名で『波止場のロック』で歌手デビュー[1]。しかしヒットに恵まれず、一度青森に戻る[1]。1966年に大木 賢(おおき けん)の芸名で『これが愛さ』で歌手として再デビュー[1]。

1968年、浜 圭介のペンネームで作曲活動を始める[1]。同年、浜 真二の芸名で『おんな道』にて歌手としても再々デビュー[1]。漣健児に師事する。

1971年、奥村チヨに作曲提供した『終着駅』が大ヒット。

1973年、第15回日本レコード大賞作曲賞受賞。
1974年、奥村チヨと結婚。
同年、再び大木賢の芸名を用いて、シングルレコードを1枚リリース。
1975年、北原ミレイに提供した石狩挽歌では、小樽 貴賓館 旧青山別邸(国 登録有形文化財)内 庭園に石狩挽歌の記念石碑が建てられ、なかにし礼、北原ミレイらとともに名が刻まれた。
1980年、八代亜紀に提供した『雨の慕情』が第22回日本レコード大賞で大賞を受賞。
1985年、韓国で発掘した桂銀淑が『大阪暮色』でデビュー、以来多くのヒット曲を手掛ける。
2005年4月29日、春の褒章で紫綬褒章を受章。
2015年7月22日、松坂慶子とデュエットした『哀愁の札幌』を発売する。

ディスコグラフィ

シングル

牧宏次 名義
波止場のロック c/w ながれ者 (1964年)

大木賢 名義
これが愛さ c/w 初恋は君だけに (1966年)
両曲とも本人による作詞・作曲。
星空のマリア c/w まわり道 (1967年)
恋人たち c/w 星にきいてごらん (1967年)
雨のキー・ボックス c/w 雨もよう (1974年9月)

浜真二 名義
おんな道 c/w ネオン花 (1970年1月10日発売)
心にあなたは入れない c/w 悲しい悲しい恋の唄 (1971年)
あなたのすべてを c/w あいつ (1971年)
バスが来たら c/w 涙唄、別れ唄、子守唄 (1972年)

アルバム
浜真二 名義
おんな道 (1970年3月)

主な提供曲

役者
(歌: ちあきなおみ、作詞: 荒木とよひさ)

雨降る街角
(歌: ポニーズ、作詞: 湯川れい子)

終着駅
(歌: 奥村チヨ、作詞: 千家和也)

そして、神戸
(歌: 内山田洋とクール・ファイブ、作詞: 千家和也)


(歌: 三善英史、作詞: 千家和也)

街の灯り
(歌: 堺正章、作詞: 阿久悠)

折鶴
(歌: 千葉紘子、小柳ルミ子ほか、作詞:安井かずみ)

十五夜の君
(歌: 小柳ルミ子、作詞: 安井かずみ)

世界は僕らのもの
愛と友情
(歌: 西城秀樹、作詞:たかたかし )

黄昏よ、そばにいて
みんなBluesを唄ってた
心の扉
あれから君は
(歌: 西城秀樹、作詞:荒木とよひさ )

萩の女/酒場の二人
(歌: 春日八郎、作詞: 保富康午・浜圭介)

港はまだ遠い (歌: 水原弘)
石狩挽歌
(歌: 北原ミレイ、作詞: なかにし礼)

 ・夢よもういちど

(歌:真木ひでと、作詞:山口洋子)

 ・恋におぼれて

(歌:真木ひでと、作詞:山口洋子)

ひとり旅
(歌: 佐良直美、作詞: 吉田旺)

あゝお酒
(歌: 美川憲一、作詞: 千野豊彦)

女の翼 (歌: 美川憲一、作詞: 岡田冨美子)
NHK「金曜時代劇 スキッと一心太助」
エンディングテーマ

大変ね (歌: 美川憲一、作詞: 岡田冨美子)
舟唄
(歌: 八代亜紀、作詞: 阿久悠)

雨の慕情
(歌: 八代亜紀、作詞: 阿久悠)

哀しみ本線日本海
(歌: 森昌子、作詞: 荒木とよひさ)

時間よお前は
(歌: 石原裕次郎、作詞: なかにし礼)

立待岬
(歌: 森昌子、作詞: 吉田旺)

酔っぱらっちゃった
(歌: 内海美幸、作詞: 千家和也)

ホテル
(歌: 島津ゆたか、作詞: なかにし礼)

望郷じょんから
(歌: 細川たかし、作詞: 里村龍一)

泣かされたって
(歌: チョー・ヨンピル、作詞: 荒木とよひさ)

大阪暮色
(歌: 桂銀淑、作詞: 浜圭介)

すずめの涙
(歌: 桂銀淑、作詞: 荒木とよひさ)

北空港
(歌: 浜圭介と桂銀淑、作詞: やしろよう)

夢おんな
(歌: 桂銀淑、作詞: FUMIKO)

酔いどれて
(歌: 桂銀淑、作詞: 吉岡治)

真夜中のシャワー
(歌: 桂銀淑、作詞: 岡田冨美子)

心凍らせて
(歌: 高山厳、作詞: 荒木とよひさ)

愛が泣いてる
(歌: 唐木淳〈黒木憲ジュニア〉、作詞: 荒木とよひさ)

時代屋の男たち
(歌: 唐木淳〈黒木憲ジュニア〉、作詞: 荒木とよひさ)

人形(おもちゃ)
(歌: 香西かおり、作詞: 荒木とよひさ)

バラ色の未来
(歌: 森昌子、作詞: なかにし礼)

この…駅で
(歌: 石井聖子、作詞: 大津あきら)

ラストチークで泣かせて
(歌: 石井聖子、作詞: 岡田冨美子)

恋はまぼろし〜Te amo〜
(歌: 石井聖子、作詞: なかにし礼)

別れる前に
(歌: 石井聖子、作詞: なかにし礼)

マラケシュの人形芝居
(歌: 石井聖子、作詞: 松本一起)

しゃっこいね (歌: 石井聖子、作詞: 浜圭介)
わたし歌手になりましたよ
(歌: 浦辺粂子・森の木児童合唱団、作詞: 荒木とよひさ、編曲: 千代正行)

TVアニメ『ムーの白鯨』オープニングテーマ&エンディングテーマ
ムーへ飛べ
(歌: 水木一郎・杉並児童合唱団、作詞: 山川啓介、編曲: 羽田健太郎)

信じるかい
(歌: 水木一郎、作詞: 山川啓介、編曲: 羽田健太郎)

特撮ヒーロー『特捜ロボジャンパーソン』主題歌・挿入歌
特捜ロボジャンパーソン
(歌: 大矢晋・森の木児童合唱団、作詞:山川啓介、編曲: 若草恵) - オープニングテーマ

正義のために
(歌: 大矢晋、作詞: 山川啓介、編曲: 若草恵) - 挿入歌

君は眠れそして歌え
(歌: 影山ヒロノブ、作詞: 山川啓介、編曲: 若草恵) - 挿入歌

ハロー! JP
(歌: 大矢晋・森の木児童合唱団、作詞: 山川啓介、編曲: 若草恵) - 挿入歌

朝焼けのララバイ
(歌: 大矢晋、作詞: 山川啓介、編曲: 若草恵) - エンディングテーマ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%9C%AD%E4%BB%8B
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/710.html#c2

[近代史7] この広い野原いっぱい 森山良子(1948年 1月18日 - ) 中川隆
1. 2021年12月10日 10:47:27 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[10]
森山 良子(もりやま りょうこ、1948年(昭和23年)1月18日 - )は、日本の歌手、タレント。本名同じ。

東京都出身。平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。平成20年秋紫綬褒章受章。長女は森山奈歩、長男は森山直太朗、娘婿はおぎやはぎの小木博明。


来歴
森山久を父として、浅田陽子を母として誕生。兄がいた(故人)。

かまやつひろしは従兄(母の甥)、その長男かまやつ太郎は従甥にあたる。

成城学園高等学校に入学、1年間の留年を経て卒業(同級生に小宮山洋子がいる)。高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らとフォークグループを結成した。作品がラジオで流れたのがきっかけで、19歳になった1967年に、黒澤プロダクション所属のソロ歌手として、「この広い野原いっぱい」でレコードデビュー。黒澤プロの所属になったのは、黒澤家をたびたび訪問し歌も披露していた森山が歌手になると聞いた黒澤明の意向だった。この時期の森山はカレッジフォークに分類される[1]。

デビュー当初はフォーク歌手のイメージだったが[2]、1969年の山上路夫作詞・三木たかし作曲による「禁じられた恋」のヒットで、日本レコード大賞大衆賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場したことから、"フォークから歌謡曲の女王"になったと評された[2]。一時期、出産のため活動休止するが、1972年に「遠い遠いあの野原」で復帰。同年の『第23回NHK紅白歌合戦』に出場し、「美しい星」を歌う。1960年代後半から1970年代にかけてヒット曲を数多く生み、当時は主に村井邦彦や森田公一といった作家陣による楽曲を歌った。1998年長野オリンピック開会式では、テーマソングの「明日こそ、子供たちが…」を子供達と一緒に長野オリンピックスタジアムで歌を披露、世界中に放映された。

1998〜2000年頃にいくつかのアルバムで発表した「涙そうそう」(BEGINとの合作で森山は作詞、BEGINは作曲)も話題となった。「さとうきび畑」で、2002年『第44回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞を受賞。同大賞では、作詞した「涙そうそう」が夏川りみの歌唱で金賞となり、森山自身もこの曲で作詩賞を受賞した。2003年には、(フォークを歌い始める前からの念願だった)初のジャズアルバム「The Jazz Singer」をリリース。ニューヨークなどのライブハウスで一連のライブ活動も行った。2006年の第48回日本レコード大賞で「涙そうそう」が特別賞を受賞した。

2007年1月、『拝啓、父上様』の主題歌「パピエ」をリリース。2009年2月25日、映画『60歳のラブレター』主題歌の「candy」などを収録した4年3か月ぶりとなるオリジナルアルバム『Living』発売[3]。2010年、矢野顕子とユニット「やもり」を結成。2013年2月6日には、自身初のクラシックアルバムとして、「Ryoko Classics」を発表した。その一方で、現在も年間100公演以上のペースで、コンサートやディナーショーを開催している。

女優として『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』では、ドラマ初出演にもかかわらず奥田瑛二演じる年下の男と不倫に堕ち、その中で少しずつ自分を見つめ直し変わって行く主婦役を巧みに演じた。その後も2002年には、『おとうさん』で田村正和の後妻に入る「タマちゃん」を演じた。2004年には、『夫婦。』(主題歌も歌う)にゲスト出演。スーパーマーケットの食料品売り場で働く女性を演じた。

家族・親族
奈歩は静岡県浜松市出身上智大学の学生だった最初の夫との間に生まれた子であり、直太朗は再婚した夫・ジェームス滝との間に生まれた子である。その後、離婚。 2006年10月、奈歩が小木博明と結婚したことにより、小木の義母となる。2009年1月、奈歩が第1子を出産、初孫ができる。なお、石橋貴明には「小木良子」と言われている。

代表曲

この広い野原いっぱい
デビュー曲で多くの音楽教科書で採用。
歌ってよ夕陽の歌を
今日の日はさようなら
キャンプファイヤーの定番曲として良く歌われる。
高知放送ラジオの深夜局名告知のBGMにも使用されている。
禁じられた恋
セ フィニ 〜愛の幕切れ〜
『大奥(1983年)』主題歌
さとうきび畑
涙そうそう
マザーアース
愛知万博開会式ソング
息子・直太朗が楽曲提供。
パピエ/手
フジテレビ系ドラマ『拝啓、父上様』主題歌
ララ福屋
広島の百貨店福屋で流れるテーマソング[11]


ドラマ
金曜ドラマ「金曜日の妻たちへIII 恋におちて」(1985年8月30日 - 12月6日、TBS)- 遠藤法子 役
金曜ドラマ「男たちによろしく」(1988年4月10日 - 7月10日、TBS)- 諸橋陽子 役
日曜劇場「おとうさん」(2002年10月13日 - 12月22日、TBS)- 安西珠子 役
スペシャルドラマ「さとうきび畑の唄」(2003年9月28日、TBS)- 本人 役
ドラマ10「第二楽章」(2013年4月16日 - 6月11日、NHK総合)- 白瀬歌子 役
連続ドラマW「私という運命について」(2014年3月23日 - 4月20日、WOWOW)- 冬木孝子 役
プレミアムドラマ「定年女子」(2017年7月9日 - 8月27日、NHK BSプレミアム)- 語り

映画
お墓がない!(1998年2月7日、松竹)- 川嶋克子 役
がんばっていきまっしょい(1998年10月10日、東映)- 篠村里子 役
箱入り息子の恋(2013年6月8日、キノフィルムズ)- 天雫フミ 役
思い出のマーニー(2014年7月19日、東宝)- 老婦人(晩年のマーニー)役(声)
竜とそばかすの姫(2021年7月16日、東宝) - 吉谷さん 役(声)


舞台
屋根の上のバイオリン弾き(1984年)- ホーデル 役
少年隊 MUSICAL PLAYZONE '94「MOON」(1994年)- 友浬子 役

著書
『ミエと良子のおしゃべり泥棒』中尾ミエ共著 主婦の友社 1981
『ま、いいか』毎日新聞社 1999
『おかあさんの台所 母に贈る104通の手紙』編著 講談社 2001
『夢の住家 Sing My Life』世界文化社 2017

エピソード
デビュー前はジャズ歌手になりたがっていたが、事務所・レコード会社の方針によりフォークシンガーとしてデビューする。その時点では納得していたが、歌謡曲色の濃い「禁じられた恋」[12]を歌わされた際には、楽曲そのものは大ヒットしたものの、さすがに目指しているものとの乖離ぶりに悩み、一時期コンサートでの歌唱も封印していた。長女の出産後復帰して以降、ジャズ歌手としての活動も開始し、念願を叶えている。

吉田拓郎と泉谷しげるが若い頃、取っ組み合いの大喧嘩をやった際、必ず制止していたのが森山である。泉谷によると、制止した直後かなり強い調子で叱責していたため、今でも「(森山良子が)世界で一番怖い」と恐れているとのこと。不仲ではない。

2006年11月中旬、自宅に「株に手を出して失敗した」という内容の、長男の直太朗を騙った振り込め詐欺の電話がかかってきた。報道では、「声が直太朗本人に全く似ていなかったらしく、逆に詐欺だと気付いた森山は、「今どこに住んでいるの?」など、親族や関係者しか知りえない質問を聞き返すなどして犯人を撃退。」などと言われていたが、実際の森山ははっきりと判別することができず、危うい所だったようである(直太朗が『僕らの音楽』に出演した際にも話題になった)。金銭的な被害は全くなかったため、警察には届けなかった。

『全日空ミュージックスカイホリデー』(ニッポン放送)で滝良子の代役を務め、その時滝良子のニックネーム『そらまめ』に因んで『あのまめ』とリスナーから名付けられた[13]。

運転免許を取得する前に練習していた車がトヨタの伝説的名車2000GTである(1969年〜1972年)。これを含め、これまで運転した愛車は16台[14][15]。

「涙そうそう」は、1971年に20代の若さで他界した兄を思い作詞した歌であると、NHK「ファミリーヒストリー」など多くのメディアで語っている。

長女・奈歩とおぎやはぎの小木博明が結婚して以降は、出演するバラエティ番組などで小木が義母・森山のことを「ざわわ」と揶揄することが多くなった。また、その影響からか共演している先輩芸人(主にとんねるず)からも森山のことを「ざわわ」と呼ぶことが多くなっている。ただし両者とも決して不仲という訳ではなく、お互い一緒に食事に出かけるほど関係は良好である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E8%89%AF%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/708.html#c1

[近代史7] 「アカシアの雨がやむとき」藤原秀行(1923年1月1日 - 1986年5月21日) 中川隆
1. 2021年12月10日 10:49:48 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[11]
藤原 秀行(ふじわら ひでゆき、1923年1月1日 - 1986年5月21日)は、日本の作曲家。

代表曲に『アカシアの雨がやむとき』(歌唱 西田佐知子)など。

本名は政利(まさとし)。
愛媛県出身。

1958年に日本マーキュリー、1960年に日本グラモフォン(後の日本ポリドール)の専属作曲家となる。

1986年5月21日、東京で死去した[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%A1%8C
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[近代史7] 松山千春(1955年12月16日 - ) 中川隆
2. 2021年12月10日 10:55:33 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[12]
松山 千春(まつやま ちはる、1955年〈昭和30年〉12月16日[2] - )は、日本の男性フォークシンガー。北海道足寄郡足寄町出身[2]。身長170cm。体重55kg。血液型はO型[2]。主な代表曲に「大空と大地の中で」「季節の中で」「長い夜」「君を忘れない」などがある。


略歴
1975年に「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも落選。

1976年にSTVラジオの竹田健二[2]ディレクターに見出され、同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー『千春のひとりうた』でメディアデビュー。

1977年1月25日、「旅立ち」でレコードデビューを果たすが、同年8月27日、二人三脚で歩んできた竹田が急性心不全のため36歳で急逝し、一時失意に陥る。しかしこれが契機となり、同年10月には個人事務所として「オフィス・パンタ」(現在のオフィス・ゲンキ)が設立され[注 1]、松山をバックアップすることになる[3]。

1977年10月には『オールナイトニッポン』水曜2部のパーソナリティに起用され、全国区の人気になった。これに伴い『サンデージャンボスペシャル』からは降板した。

1978年4月には月曜1部に昇格し全国区の知名度を更に得るようになる。同年に発売したシングル「季節の中で」が大ヒットしたことで一気にスターダムを駆け上り、以後も多数のヒット曲を出し、ニューミュージック界で確固たる地位を築くに至った。

1980年3月3日、清須邦義と加川良と共にNEWSレコードを設立。

1982年7月24日には札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。

1984年には『オレたちひょうきん族』内の『タケちゃんマン』に使用された「ビックリ箱のうた」の作詞・作曲を手がけた。

1985年、NEWSレコード事業解散。レコード会社をALFAレコードに移籍[注 2]。同年12月に結婚し、一児(長女)をもうける。

1992年、日本コロムビアに移籍。1980年以降のオリジナルアルバムCDが日本コロムビアから順次廉価再発される。

2007年には、コンサート公演回数が2000回に達した。

生い立ち・人物など
北海道夕張郡栗山町出身の父・松山明と地元出身の母・美代子(通名:ミヨ)の次男(第四子)として足寄に生まれる。姉・弟の三人兄弟。長姉は早世、長兄も肺炎のため3歳で早世している。生後間もなく股関節脱臼と診断され、札幌の北海道大学附属病院に半年間入院。この時に父・明は入院費捻出のため多額の借金を背負うことになり、その後の返済が家計を圧迫。このことが幼少期の人格形成に大きく影響を及ぼしている。その後、足寄西小学校を経て足寄中学校に入学。

フォークソングとの出会いは小学校5年生。姉の影響でピーター・ポール&マリーやジョーン・バエズ、ブラザース・フォア等を知る。翌年、幼なじみの紹介で知った岡林信康が、足寄で弾き語りのコンサートを開き、聴きに行った松山に強烈なメッセージを与えたことに始まる[4][5]。

父・明は、1954年に足寄町でたった一人で旬刊紙『とかち新聞』を創刊し主筆を務めた人物(なお同紙は1984年に休刊した)。しかし経営(=家計)は苦しく、特に1965年には当時の足寄町長の不正を紙面で取り上げたことで裁判沙汰となり、町長からの圧力で購読者数が大きく減少し、松山も納豆売りをして生活費を稼がねばならないところまで追い込まれた(なおこの裁判は1969年にとかち新聞側の勝訴で終わっている)[6]。

足寄高校では卒業時に首席となるなど成績は優秀で、担任からは大学進学を勧められていたが、このような苦しい家計を踏まえ「早く働いて父を助けたい」との考えから大学進学を断念している[7]。高校時代はバスケットボール部に所属しており、当時は十勝地区で「シュートの鬼」の異名を取ったという。練習ではフリースローを75回連続で成功させたこともある。しかし当時の十勝地区では帯広柏葉高校が圧倒的な力を持つ強豪として立ちはだかっていたため、足寄高校はいつも地区2位で全道大会進出が叶わなかった[8]。

高校卒業後は、北見市に出て、叔父が経営する小料理屋の手伝いとクラブ(ストリップショーも兼業)のバーテン兼照明係を行いながら、叔父から下宿提供等の援助を受け普通自動車免許を取得。さらに合間をみて作詞・作曲を行う。その後一時足寄に戻り、父親の仕事を手伝いながら「フォーク音楽祭」に応募。生涯の“師”と仰ぐ竹田健二と出会うことになる。

1995年11月に父・明が他界、1998年4月には姉が癌で他界している。

高音でソウルフルな歌唱法と、コード進行の単純な楽曲は、素人でも真似が容易なため、多くの芸能人がものまねのレパートリーにしている。

好きなテレビ番組はNHK総合テレビ『爆笑オンエアバトル』で、「NHKの深夜にやっている球を転がすお笑い番組が好き」とある番組でコメントしている。

テレビ出演を「出るもんじゃなくって、見るものだから」という理由で拒否していたが、「あなたにはたくさん届いた番組出演のリクエストのハガキに何か答えなければならないはず」というプロデューサー・弟子丸千一郎の言葉に感銘を受け、TBS系『ザ・ベストテン』の出演を承諾。デビュー以来、テレビに初めて出演。その後、同番組には3回の出演を果たした。かつては滅多にテレビに出ないことを売りにしている側面もあったが、30歳になった1985年頃を境に、一転してバラエティや音楽番組、ニュース、ドラマ等にも頻繁に出演するようになった。また、関西テレビ・フジテレビ系列の『SMAP×SMAP』に出演した際、「松山が生きている限り自分以上に歌が上手い歌手は出てこない」と、自分の歌唱力に相当な自信をみせるコメントをしたこともある。

『NHK紅白歌合戦』には「トリなら出る」として出場を辞退し続けている。所属事務所は紅白の出場審査の際にNHKからCDの提供を求められても「欲しいなら一般の方と同じくCDショップでお買い求め下さい」とNHKを特別扱いしない方針。一方、同じく「NHKのど自慢」にも出演していなかったが、こちらは2015年9月6日と2018年8月5日の放送に出演。

地元愛が強く、「北海道を愛するフォーク・シンガーである」というポリシーを持つ。一般的にはスキンヘッドで毒舌キャラの恐いイメージを持たれることがあるが、気さくで素朴な性格で、特に北海道ではデビュー以来常に高い人気を誇っている。

牛肉偽装問題が発覚して大きな騒動を巻き起こした際には北海道「北の食大使・牛肉大使」に任命され、牛肉のPRで全国を飛び回っていた。

スキージャンプの大ファンであり、かつて全日本ジャンプチームに大量の牛肉を差し入れていたほか、ジャンプチームの応援歌として「空−翼を広げて」を製作した。

歌手として売れるようになってからも暫く足寄の実家で生活し、現在も住所は足寄だが普段の生活拠点を札幌に移している。足寄の実家を大切に思い、ガレージには本人の似顔絵が飾られていて名物となっている。本人は函館や稚内といった離れた場所でも構わないので、北海道に住み続けたいと語っている。

コンサートで全国を回る際はいつも新千歳空港から出発している。このため、北海道民は空港のロビーで度々目撃している。特に変装したり取り巻きが恐い人ということはない(大抵はマネージャーと思われる人物が1名いる)。話しかけると、マスメディアで映っている様子と何ら変わらない気さくな人柄(例の独特のなれなれしさと北海道弁丸出し)で応えてくれる。札幌市内でも買い物をする姿をよく見られているが、店員に対してもいつもの調子で話しかけ、誰かれとなく人を引きつける魅力があるため、北海道民には概ね評判がよい[要出典]。

自身のラジオ番組では世相を憂い、特に還暦を迎える頃からは老いや親友の逝去もあり、自他の健康についての発言や気遣いもみられる。元来酒は苦手だったが先出の竹田健二から「デビューするにあたりプロになるって事は自制心が必要だ。酒か女かタバコ、どれか辞めろ」と言われ酒を選び今でも飲まないでいる。

コンサートで一輪のバラを置いてるのはファーストコンサートの時に竹田健二から「お前はギター一本だから、ギター一本じゃ寂しいだろ?だから一番気高いバラの花を一本置いとくよ。」とそれからずっと置いてる。

長らく自由民主党北海道連青年部名誉会長を務め、鈴木宗男や明石康らの支援を行なってきたが、鈴木の離党に伴い自らも離党し名誉会長職を辞任。鈴木と共に地域政党新党大地を結党した。新党大地の名付け親は松山であり、「大空と大地の中で」(着うたフル・ゴールド認定、日本レコード協会)は新党大地のテーマ曲である。

同学年であり芸歴では一年後輩のサザンオールスターズの桑田佳祐とはかつては一緒に野球をやっていた仲であった。現在も桑田は松山の才能を認めており、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)の企画「桑田佳祐が選ぶ2014邦楽ベスト20」では「歩き出してくれないか」を一位にしている。これについて松山は自身以上にアレンジャーの夏目一朗が喜んでいたことを明かし、「桑田もオレの曲を聴いてくれていたんだな」としみじみ語り、自身も桑田の曲を聴いていることを述べている[9]。

2017年8月20日、搭乗した全日空1142便(札幌・新千歳空港発大阪・伊丹空港行き)の機内で、客室乗務員に「(Uターンラッシュによる保安検査場の混雑による出発の遅れで)みんなイライラしています」と申し出て、機長の許可を得て機内放送用のマイクで「大空と大地の中で」を歌った。全日空の広報担当者は「松山さんの厚意に感謝したい。」としている[10][11][12]

2021年1月16日に母・美代子が老衰のため99歳で他界している[13]。同年9月26日の「松山千春のON THE RADIO」で9月19日に最後の親きょうだいである弟が61歳で他界したことを報告した。

不祥事
2007年2月12日夜、京都市下京区の指定暴力団会津小鉄会の図越利次会長就任10周年記念パーティに招かれ、その場で3曲歌っていたことが京都府警の調べで判明した。この報道を受け、札幌テレビ放送は同年2月18日に予定していた特別番組『松山千春 30年目の旅立ち』の同日の放送を中止し、1976年以来30年以上レギュラー番組を持ち続けてきた[注 3]STVラジオでは、『松山千春 季節の旅人』が放送打ち切りとなった。


その後松山のラジオ番組は、『松山千春のON THE RADIO』をNACK5から購入する形で放送を再開した[注 4]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%8D%83%E6%98%A5
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[近代史7] 人生一路 かとう 哲也(1941年1月15日 - 1983年10月24日) 中川隆
2. 2021年12月10日 10:59:13 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[13]
かとう 哲也(かとう てつや、1941年1月15日 - 1983年10月24日)は、日本の俳優・歌手・芸能プロモーター。三代目山口組(組長は田岡一雄)系益田組(組長は益田佳於)舎弟頭。本名:加藤益夫、元の芸名は小野透。

実姉に美空ひばり・佐藤勢津子
(ひばり・哲也の死後に演歌歌手としてデビュー)、実弟に香山武彦、実子に加藤和也(後にひばりの養子になった)がいる。


経歴
1957年 小野透の芸名でコロムビアより歌手デビュー。
1958年 東映「ひばりの花形探偵合戦」で映画デビュー。
1959年 東映「台風息子 花形三銃士」で初主演。
1960年 東映は第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指し、小野透ら若手の主演映画を多く制作。東映「殴りつける十代」、「波止場野郎」、「嵐の中の若者たち」に主演。
1961年 東映「銀座野郎」、「ネオンの海の暴れん坊」、ニュー東映「飛ばせ特急便 深夜の脱獄者」、「飛ばせ特急便 魔の十八号線」、「台風息子 お化け退治」、「台風息子 冒険旅行の巻」、「風の野郎と二人づれ」、「銀座の旅笠」に主演。
1962年 ニュー東映は客が入らず解散。小野透の主演映画もなくなる。ひばり主演の東映「民謡の旅・桜島 おてもやん」出演を最後に芸能界を引退。
1963年3月、横浜市磯子区間坂のひばり御殿こと美空ひばり邸に家宅捜索が入る。小野透の他には山口組系益田組の5人が賭博幇助容疑、賭博開帳図利等で逮捕される。京都での賭博以外にひばり御殿でも1962年7月から賭博を行っていたことが発覚する。
1964年 拳銃不法所持で逮捕される。
1966年 傷害、暴行、拳銃密輸で逮捕される。
1969年 かとう哲也の新芸名で芸能界復帰。美空ひばり公演に参加するようになる。歌手円山鈴子(後の女優円山理映子)と結婚。ハワイの新婚旅行にはひばりや母たちも同行。10ヶ月で離婚。
1971年 実子、和也誕生。
1972年 暴行で逮捕される。
1973年 1月、三代目山口組系益田組(組長は益田佳於)の舎弟頭であることが発覚。日本縦断興行だった「美空ひばり」ショーが、警察の要請により、各地で締め出された。
1973年 賭博開帳図利等で逮捕される。執行猶予付きの判決を受けるが、1974年に「保護観察中も暴力団と付き合った」として執行猶予が取り消されて収監される[1]。出獄後は任侠界と絶縁。
1977年 実子、和也がひばりの養子になる。
1981年 ひばりプロダクションの社長に就任。
1983年 心不全のため逝去。42歳没。法号は 浄顕院義照日哲居士。墓所は横浜市営日野公園墓地にある。加藤家の菩提寺は港南区の唱導寺。家族(増吉・喜美枝・和枝・武彦)は、法号に本名の一文字が含まれるが、かとう哲也に関しては「日哲」というように芸名からの一文字が使用されている。


作曲作品
『思い出と一人ぼっち」(1968年/小野透名義)
『少しの間サヨウナラ」(1968年/小野透名義)
『好きになってしまったわ』(1968年/小野透名義)
『唇に花シャッポに雨』(1968年/小野透名義)
『熱祷』(1968年/小野透名義)
『夜明けまで』(1968年/小野透名義)
『メナムの花』(1969年/小野透名義)
『恋のパープル・レイン』(1969年/かとう哲也名義)
『風の恋人たち』(1969年/かとう哲也名義)
『女飛車角』(1969年/かとう哲也名義)
『人生一路』(1970年/かとう哲也名義)
『人生将棋』(1970年/いずみ進名義)
『かなしいお話』(1971年/かとう哲也名義・作詞作曲)
『雨とさくらんぼ』(1971年/かとう哲也名義)
『花の不死鳥』(1971年/かとう哲也名義)
『ふるさとはいつも』(1971年/かとう哲也名義)
『女の人生』(1971年/かとう哲也名義)
『母』(1972年/かとう哲也名義)
『思い出の鞄』(1972年/かとう哲也名義)
『清水次郎長』(1973年/かとう哲也名義)
『雨の日記』(1974年/いずみ進名義)
『海にむかう母』(1977年/いずみ進名義)
『悲しい嘘』(1978年/かとう哲也名義)
『月下美人』(1978年/かとう哲也名義)
『涙のふきだまり』(1978年/かとう哲也名義)
『私はおんな』(1990年/かとう哲也名義)*没後発表

姉:美空ひばりは『熱祷』『人生一路』『人生将棋』の三曲をNHK紅白歌合戦にて歌唱している。


メディアでの使用
『ひとり行く』(1969年/小野透名義)
テレビドラマ『無用ノ介(伊吹吾郎主演版)』主題歌。
『江戸ッ子佐七』(1971年/かとう哲也名義)
テレビドラマ『人形佐七捕物帳(林与一主演版)』オープニング主題歌。
※いずれも、長姉の美空ひばりが歌っている、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%A8%E3%81%86%E5%93%B2%E4%B9%9F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/703.html#c2

[近代史7] 「魅せられて」筒美 京平(1940年 5月28日 - 2020年10月7日) 中川隆
2. 2021年12月10日 11:04:18 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[14]
筒美 京平(つつみ きょうへい、1940年〈昭和15年〉5月28日[1] - 2020年〈令和2年〉10月7日)は、日本の作曲家・編曲家。筒美音楽事務所(個人事務所)代表(神奈川県逗子市所在)。本名:渡辺 栄吉(わたなべ えいきち)[1]。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。既婚。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身[2]。青山学院大学経済学部卒業[3]。 2003年、紫綬褒章受章[4]。


1960年代後半のグループ・サウンズ、その後は歌謡曲、アイドル歌謡曲、J-POP、『サザエさん』に代表されるアニメ主題歌等の作曲と、非常に幅広いジャンルにわたる多数のヒット曲を世に送り出した、昭和後期から平成期を代表する職業作曲家。

1971年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1983年、1985年、1987年と10回にわたって日本の作曲家別レコード売り上げ年間1位を記録。また作曲作品が、1960・1970・1980・1990・2000年代と、5年代連続でチャート1位を獲得。1960・1970・1980・1990・2000・2010年代と、6年代連続でTOP10にチャートインしている。

来歴
幼稚園からピアノを始める[2]。青山学院初等部・青山学院中等部・高等部、青山学院大学経済学部卒業[2]。大学在学時はジャズに打ち込み、大野雄二とも面識があった[2]。

大学卒業後の1963年に日本グラモフォン(後のポリドールK.K.→ポリグラムK.K.→ユニバーサル ミュージック ジャパン)に入社[1]。洋楽担当ディレクターとして勤務する傍ら、大学の先輩である作詞家の橋本淳に勧められ、すぎやまこういちに師事し作編曲を学ぶ[1][2]。

1966年8月、「黄色いレモン」(藤浩一ほか、競作)で作曲家デビュー[1]。1967年から専業作家となる。ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味から「鼓響平」を考えていたが、「真ん中で折った時に左右対称の名前は縁起がいい」という意見があり、文字を左右対称にするために「筒美京平」とした[9]。

1968年12月に発売されたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が、筒美の作曲では自身初のオリコン週間1位を獲得。自身が作曲・編曲で日本レコード大賞を受賞した曲は、1971年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」第13回日本レコード大賞と、1979年、ジュディ・オングの「魅せられて」第21回日本レコード大賞である。

1970年代の吉田拓郎ら、シンガー・ソングライターの出現には脅威を感じたが[7][8][10][11]、物ともせず、ヒット曲を世に出した[7]。

1997年に筒美作品で構成されたCD-BOX『筒美京平:HITSTORY』が発売された。自身が手がけた楽曲では、「また逢う日まで」「さらば恋人」「木綿のハンカチーフ」が気に入っていることを、2002年のインタビューで語っている[2]。2006年4月5日に筒美作品で構成されたCD-BOX『THE HIT MAKER -筒美京平の世界-』が、2007年7月15日に『the popular music 〜筒美京平トリビュート〜』が発売された。作曲家のトリビュート・アルバムとしては、日本初となる。

2013年には声優・竹達彩奈のシングル「時空ツアーズ」や、2015年には野口五郎のシングル「再会タイムマシン」、2016年には飯田里穂のシングル「青い炎シンドローム」を手がけるなど、作曲活動は晩年も盛んだった。

2020年10月7日、誤嚥性肺炎のため死去。80歳没。かねてより自宅で病気療養していたという。葬儀は本人の希望により近親者のみにより執り行われた[12]。

訃報は12日に、筒美の音楽出版事務所の代行を行う(TBSホールディングスグループの音楽出版社の)日音が発表。メディアで伝えられるとネット上では大きな反応があり、スマホなどでの週間検索数は154万722回で、17日放送のTBS系『新・情報7DAYS ニュースキャスター』内、「週間ニュースワードランキング」で2位となった[13]。またNHK・民放の各テレビ局でも長時間にわたり報道。朝のワイドショーとニュース番組での放送時間を集計した「週間TVニュース放送時間ランキング(芸能)」では1位に[14]。『NHKスペシャル』(NHK総合)や『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)などの番組でも追悼特集が組まれた。ラジオ局では訃報が伝えられてから筒美作品のオンエアが急増。10月21日発表の週間ラジオ・オンエアチャートでは、「また逢う日まで」(24位)、「強い気持ち・強い愛」(25位)、「木綿のハンカチーフ」(38位)など15曲が、圏外からTOP200入りした[15]。

2021年4月17日・18日、『〜筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト〜 ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート』が東京国際フォーラム(ホールA)にて開催された。全編、筒美が手掛けたヒットナンバーで構成され、29組の歌手・アーティストが歌い上げた。この日のために日本を代表する実力派ミュージシャンによって結成されたバンド「船山基紀とザ・ヒット・ソング・メーカーズ」が演奏を担い、指揮と音楽監督を船山基紀が務めた[16][17]。なお、本コンサートの模様は、2021年10月3日にWOWOWライブで放送、及び、WOWOWオンデマンドで同時配信された[18]。

人物

メディア
匿名性が強い作曲家であり、その生前にマスメディアに登場することはあまりなく、プロの職人として裏方に徹するというスタンスを貫いた[7]。また性格的にもあまり人前に出ることを好まず、テレビ番組への出演も滅多になかった。ただし、新人・若手時代はどうしても断りきれなかったため、数回テレビに出演している。レコード大賞の作曲賞が決まった際は、TBSの強い要望で、半ば強引に帝国劇場へ連れ出されたこともあった[19]。

1997年12月に作曲家デビュー30周年を記念して『HITSTORY 筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967 - 97』が発売。さらには翌98年にレコード会社5社共同企画によるコンピレーションシリーズ『筒美京平ウルトラ・ベスト・トラックス』が発売。これを機会にテレビやラジオは筒美京平作品の特集を放送。この頃から新聞や雑誌の取材も少しではあるが受けるようになる。

永らくテレビ出演を敬遠してきたが、2005年、BSフジの音楽ドキュメンタリー番組 『HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜』で数十年ぶりのテレビ出演を果たす。番組は日本の大衆音楽史に大きく貢献した筒美の歩みの全体像が理解できる、優れたエンターテインメント作品であると評価され、その年の日本民間放送連盟賞・テレビエンターテインメント番組部門の最優秀賞を受賞する[20]。

2011年5月にはNHK BSプレミアムの『希代のヒットメーカー 作曲家 筒美京平』に出演した。また、この番組でのコメント部分のVTR一部が2017年9月のNHK「うたコン」筒美京平特集の中で使用された。

一方、ゲーム関係で曲を提供したケースは極めて少なく、没後までに、公式にクレジットされているものでは『いただきストリート2 〜ネオンサインはバラ色に〜』『ゆみみみっくす』がある。


作曲作品リスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E7%BE%8E%E4%BA%AC%E5%B9%B3#%E8%A6%8B%E5%87%BA%E3%81%97
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/699.html#c2

[近代史7] 「津軽海峡・冬景色」三木 たかし (1945年 1月12日 - 2009年 5月11日 ) 中川隆
3. 2021年12月10日 11:10:15 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[15]
三木 たかし(みき たかし、本名:渡邊 匡(わたなべ ただし)、1945年1月12日 - 2009年5月11日)は、日本の作曲家。歌手・女優の黛ジュン(本名: 渡邊順子)は実妹にあたる。渡辺 たかし名義の作品も存在する。


人物
東京都生まれ。貧困家庭に育ち、借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。「さくらの唄」(唄: 美空ひばり)を10代で作っている。1960年代半ばごろに歌手を志して作曲家の船村徹に弟子入りするも、船村から「君は作曲家の方が向いている」と言われ方向転換する。

1967年、当時の売れっ子作詞家であったなかにし礼の推薦を受け、「恋はハートで」(歌唱: 泉アキ/クラウン・レコード)で作曲家デビューを果たす。1968年、妹の黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚のヒット。オリコンチャート最高位2位を記録した。1969年、「禁じられた恋」(作詞: 山上路夫、歌唱: 森山良子)が8週連続チャート1位の大ヒットとなる。自身の作品が初めて同年の『NHK紅白歌合戦』で歌唱された。

1971年、歌手の松平マリ子(旧名: 梅木マリ)と結婚する(その後離婚)。

1976年から1977年にかけて、阿久悠とのコンビで西城秀樹に「君よ抱かれて熱くなれ」から「ボタンを外せ」まで7作品連続して楽曲を提供する。また1977年、「津軽海峡・冬景色」(作詞: 阿久悠、歌唱: 石川さゆり)が大ヒットとなり、第19回日本レコード大賞・中山晋平賞(後の作曲賞)を受賞した。この両者に明らかなように、作風はかなり幅広い。

1982年から1984年にかけて、盟友である荒木とよひさとのコンビで、テレビ朝日系『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の企画ユニット「わらべ」に、「めだかの兄妹」や「もしも明日が…。」などの楽曲を提供する。なお、「めだかの兄妹」は1983年のオリコン年間シングル第3位に、「もしも明日が…。」は1984年オリコンシングル年間シングル第1位を記録した。1984年から1986年にかけては、荒木とのコンビでテレサ・テンに提供した「つぐない」(1984年)、「愛人」(1985年)、「時の流れに身をまかせ」(1986年)がいずれも有線放送を中心に大ヒットした。3年連続で全日本有線放送大賞、および日本有線大賞を受賞する。

1988年、日本テレビ系アニメ『それいけ!アンパンマン』に、オープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」とエンディングテーマ曲「勇気りんりん」(共に作詞: やなせたかし(同アニメの原作者でもある) 、歌唱: ドリーミング)を提供する。なお、「アンパンマンのマーチ」は2011年までに着うた配信でミリオンセラーを達成し、近年では小学校の音楽の教科書に載るなど童謡としても親しまれている。

1994年、「夜桜お七」(作詞: 林あまり、歌唱: 坂本冬美)がロングヒットとなる。同年の第36回日本レコード大賞・作曲賞を受賞した。

2004年からは日本作曲家協会理事長を務め、また日本レコード大賞制定委員や事務局長も務めた。

2005年、紫綬褒章を受章する。同年、第47回日本レコード大賞の吉田正賞を受賞した。

2006年、下咽頭がんで声帯の一部を切除、その後声を失ってしまう[1]。

2009年1月13日、『NHK歌謡コンサート』で黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たした。自身作曲の「さくらの花よ 泣きなさい」を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。

2009年5月11日午前6時5分、岡山県岡山市の病院にて死去[1]。64歳没。


主な作品 (アーティスト名順)

あ行
あいざき進也
ミッドナイト急行 (作詞: 松本隆)
アグネス・チャン
この身がちぎれるほどに-Lovin' you is killin' me- (作詞: 荒木とよひさ)
忘れないで -time to say goodbye- (作詞: 荒木とよひさ)
believe〜永遠の輪廻〜 (作詞: 荒木とよひさ)
私小説-my love story- (作詞: 荒木とよひさ)
想い出が多すぎて-Lost Memory- (作詞: 荒木とよひさ)
心の旅人 (作詞: 荒木とよひさ)
能登の夕陽に染められて (作詞: 荒木とよひさ)
愛は奇跡のように (作詞: 荒木とよひさ)
わたしだけの少年 (作詞: 荒木とよひさ)
やさしくしないで-Falling for you- (作詞: アグネス・チャン)
悲しい恋はどんな恋 (作詞: アグネス・チャン)
浅丘ルリ子
愛の化石 (作詞: 並木六郎)
悲しみは女だけに (作詞: なかにし礼)
心の裏窓 (作詞: なかにし礼)
シャム猫を抱いて (作詞: 阿久悠)
浅田美代子
想い出のカフェテラス (作詞: 林春生)
少女恋唄 (作詞: 松本隆)
阿蘇千里
純情 (作詞: 荒木とよひさ)
麻生詩織
夜明けの仲間たち (作詞: 山川啓介、TBSラジオ『歌うヘッドライト』エンディングテーマ・2代/青森放送テレビ『江奈滋家の食卓』エンディングテーマ)
麻生よう子
愛は惜しみなく (作詞: 藤公之介)
あべ静江
コーヒーショップで (作詞: 阿久悠)
みずいろの手紙 (作詞: 阿久悠)
突然の愛 (作詞: 阿久悠)
秋日和 (作詞: 阿久悠)
石川さゆり
花供養 (作詞: 阿久悠)
あいあい傘 (作詞: 阿久悠)
十九の純情 (作詞: 阿久悠)
津軽海峡・冬景色 (作詞: 阿久悠)
能登半島 (作詞: 阿久悠)
暖流 (作詞: 阿久悠)
砂になりたい (作詞: 阿久悠)
火の国へ (作詞: 阿久悠)
春夏秋秋 (作詞: 阿久悠)
漁火挽歌 (作詞: 石本美由紀)
ほととぎす (作詞: なかにし礼)
愛の言葉よりくちづけを (作詞: 岩谷時子)
風の盆恋歌 (作詞: なかにし礼)
生まれてよかったね (作詞: 小島ひろ美)
桜夜 (作詞: さだまさし)
石原裕次郎
ひとりのクラブ (作詞: なかにし礼) ※渡辺たかし名義、編曲
昭和たずねびと (作詞: 杉紀彦)
忘れた虹 (作詞: 山上路夫)
嘆きのメロディー(作詞: 荒木とよひさ)
泉アキ
恋はハートで (作詞: なかにし礼)
あなただけみつめて (作詞: 並木六郎)
恋の砂浜 (作詞: なかにし礼)
ハートは泣いている (作詞: なかにし礼)
燃える年頃 (作詞: なかにし礼)
五木ひろし
追憶 (作詞: 阿久悠)
凍て鶴 (作詞: 喜多条忠)
伊藤かずえ
哀愁プロフィール (作詞: 荒木とよひさ)
風と光のスニーカー (作詞: 荒木とよひさ)
エンドレス・サマー (作詞: 荒木とよひさ)
伊藤咲子
木枯しの二人 (作詞: 阿久悠)
青い麦 (作詞: 阿久悠)
乙女のワルツ (作詞: 阿久悠)
冬の星 (作詞: 阿久悠)
きみ可愛いね (作詞: 阿久悠)
いい娘に逢ったらドキッ (作詞: 阿久悠)
想い出のセンチメンタル・シティ (作詞: 阿久悠)
青い鳥逃げても (作詞: 阿久悠)
愛のシルフィー (作詞: 阿久悠)
何が私に起こったか (作詞: 阿久悠)
糸川蛍子
夜明けの仲間たち (作詞: 山川啓介、TBSラジオ『歌うヘッドライト』エンディングテーマ・初代)
岩井小百合
パラレルガール (作詞: とりみき)
岩崎宏美
思秋期 (作詞: 阿久悠)
あざやかな場面 (作詞: 阿久悠)
未成年 (作詞: 山川啓介)
岡崎友紀
愛々時代 (作詞: 阿久悠)
北上川 (作詞: 阿久悠)
小田陽子
わかれの手紙 (作詞: 阿久悠)

か行
風見慎吾
そこの彼女 (作詞: 荒木とよひさ)
柏原芳恵
待ちくたびれてヨコハマ (作詞: 荒木とよひさ)
冬の孔雀 (作詞: 阿久悠)
春日八郎
人生浪花節・爪のあと・浮草情話・恋なんてきらいさ・占い小唄・男の道(作詞: 横井弘)
片平なぎさ
純愛 (作詞: 山上路夫)
頬にかかる涙 (作詞: 千家和也)
美しい契り (作詞: 千家和也)
異性 (作詞: 山上路夫)
オリーブの華麗な青春 (作詞: 阿久悠)
陽だまりの恋 (作詞: 有馬三恵子)
肌寒い雨(作詞: 千家和也)
角川博
おまもり (作詞: 荒木とよひさ)
叶和貴子&五木ひろし
ふりふり (作詞: 阿久悠)
川中美幸
遣らずの雨 (作詞: 山上路夫)
豊後水道 (作詞: 阿久悠)
女泣き砂日本海 (作詞: 阿久悠)
神田正輝
黄昏のプレリュード (作詞: 荒木とよひさ)
木之内みどり
あした悪魔になあれ (作詞: 阿久悠)
おやすみなさい (作詞: 阿久悠)
キャンディーズ
哀愁のシンフォニー (作詞: なかにし礼)
キンキン・ケロンパ
ワン・ニャン物語 (作詞: 荒木とよひさ)
あゝ結婚! (作詞: 荒木とよひさ)
クミコ
わたしは青空 (作詞: 覚和歌子)
車輪 (作詞: 覚和歌子、井上芳雄とのデュエット曲)
届かなかったラヴレター (作詞: 覚和歌子、遺作)
黒川泰子
つぎの秋が来るまで (作詞: 荒木とよひさ)
桂銀淑
悲しみの訪問者 (作詞: 荒木とよひさ)
研ナオコ
陽は昇り陽は沈み (作詞: 阿久悠)
香西かおり
花挽歌 (作詞: 市川睦月)
香田晋
渡り鳥…北から南から… (作詞: 阿久悠)
シャボン玉フワリ (作詞: 青島幸男)
都会暮らし (作詞: 冬樹かずみ)
琴風豪規
まわり道 (作詞: なかにし礼)
小林幸子
母ひとり (作詞: 荒木とよひさ)
小林幸子&北大路欣也
別れて…そして (作詞: 荒木とよひさ)

さ行
西城秀樹
君よ抱かれて熱くなれ (作詞: 阿久悠)
ジャガー (作詞: 阿久悠)
若き獅子たち (作詞: 阿久悠)
ラストシーン (作詞: 阿久悠)
ブーメランストリート (作詞: 阿久悠)
セクシーロックンローラー (作詞: 阿久悠)
ボタンを外せ (作詞: 阿久悠)
ブーメランストレート(作詞:阿久悠・T'S PARTY、多々納好夫と共同作曲)
二人だけの夜 (作詞: 阿久悠、『君よ抱かれて熱くなれ』収録曲)
今は唇に歌があるだけの(作詞: 阿久悠、『ジャガー』収録曲)
我が青春のフィナーレ(作詞: 阿久悠、『若き獅子たち』収録曲)
愛する(作詞: 阿久悠、『ラストシーン』収録曲)
はげしい雨の中へ(作詞: 阿久悠、『ブーメランストリート』収録曲)
指環のあと(作詞: 阿久悠、『セクシーロックンローラー』収録曲)
悪魔のように愛したい(作詞: 阿久悠、『ボタンを外せ』収録曲)
序曲〜デッドヒート(作詞: 阿久悠)
抱擁 春・夏・秋・冬(作詞: 阿久悠)
裸体(作詞: 阿久悠)
渚から(作詞: 阿久悠)
太陽の悲劇(作詞: 阿久悠)
ギターの墓標(作詞: 阿久悠)
青春のタイトロープ(作詞: 阿久悠)
NO(作詞: 阿久悠)
悪魔のように愛したい (作詞: 阿久悠、『ボタンを外せ』収録曲)
坂本九
懐しきlove-song (作詞: 荒木とよひさ)
心の瞳 (作詞: 荒木とよひさ)
坂本冬美
夜桜お七 (作詞: 林あまり)
TOKYOかくれんぼ (作詞: 真名杏樹)
佐々木功
君の青春は輝いているか (作詞: ジェームス三木、『超人機メタルダー』オープニングテーマ)
里見浩太朗
友よ女よ (作詞: 阿久悠、日本テレビ系時代劇『長七郎江戸日記第1シリーズ』主題歌3)
さやま友香
口紅 (作詞: 荒木とよひさ)
沢口靖子
さよならの恋人 (作詞: 荒木とよひさ、映画『ゴジラ』挿入歌)
サンドイッチ
想い出して下さい (作詞: 中村ブン)
しばたはつみ
夜はドラマチック (作詞: 阿久悠)
島倉千代子
美しきは女の旅路 (作詞: 橋本淳)
島本須美
涙の中の悲しみよ (作詞: 荒木とよひさ、『小公女セーラ』挿入歌)
水色の空へ (作詞: 荒木とよひさ、同番組挿入歌)
清水由貴子
お元気ですか (作詞: 阿久悠)
明日草 (作詞: 阿久悠)
ほたる坂 (作詞: 阿久悠)
天使ぼろぼろ (作詞: 阿久悠)
多感日記 (作詞: 阿久悠)
ずうとるび
ふとしたはずみで (作詞: 阿久悠)
大した娘だよキミは (作詞: 阿久悠)
杉浦芳博
行け! 牛若小太郎(作詞: 山崎あきら、『行け! 牛若小太郎』主題歌)
来るか妖怪 (作詞: 山崎あきら、同番組挿入歌)
鈴木賢三郎
星の王子さま プチ・プランス (作詞: 阿久悠、編曲: 長戸大幸、テレビ朝日系アニメ『星の王子さま プチ・プランス』オープニングテーマソング)
千昌夫
懐かしの人 (作詞: 有馬三恵子)


た行
チェリッシュ
想い出を香水のように (作詞: 荒木とよひさ)
白いスニーカー (作詞: 荒木とよひさ)
夢のおかず (作詞: 荒木とよひさ)
チョー・ヨンピル
想いで迷子 (作詞: 荒木とよひさ)
想いで迷子-2 (作詞: 荒木とよひさ)
夢夜舟 (作詞: 荒木とよひさ)
塚田三喜夫
愛の女王蜂 (作詞: 松本隆)
少女夜曲 (作詞: 松本隆)
つんく♂
しょっぱいね(作詞: 上田紅葉)
テレサ・テン
つぐない (作詞: 荒木とよひさ)
愛人 (作詞: 荒木とよひさ)
時の流れに身をまかせ (作詞: 荒木とよひさ)
別れの予感 (作詞: 荒木とよひさ)
悲しみと踊らせて (作詞: 荒木とよひさ)
夢立ちぬ (作詞: 荒木とよひさ)
香港 (作詞: 荒木とよひさ)
涙の条件 (作詞: 荒木とよひさ)
スキャンダル (作詞: 荒木とよひさ)
恋人たちの神話 (作詞: 荒木とよひさ)
悲しい自由 (作詞: 荒木とよひさ)
道化師 (作詞: 荒木とよひさ)
ワインカラーの記憶 (作詞: 荒木とよひさ)
ルージュで書いたサヨナラ
傷心
硝子の摩天楼
北極便
こんな女
他人雨
想い出の余白
冬のひまわり
明日のゆくえ
星のしずくに濡れて
寝物語を聴かせて
水の星座
旅人
人待ち顔で
Yes,愛につつまれ
乱されて
愛の陽差し 〜アモーレ・ミオ〜
鳥羽一郎
カサブランカ・グッバイ (作詞: 内館牧子)
豊川誕
たった一人の君は (作詞: 岩谷時子)
メンソール・シガレット (作詞: 麻生香太郎)
ドリーミング
アンパンマンのマーチ (作詞: やなせたかし、日本テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』オープニング・テーマ)
勇気りんりん (作詞: やなせたかし、同番組エンディング・テーマ)

な行
中条きよし
忘れ草 (作詞: 杉紀彦、テレビ朝日系時代劇『必殺仕事人III』挿入歌)
櫻の花のように (作詞: 荒木とよひさ、テレビ朝日系時代劇『必殺仕切人』主題歌)
中村晃子
恋の綱わたり (作詞: 福田陽一郎、TBSテレビ系列ドラマ『離婚ともだち』挿入歌)
奈美悦子
恋泥棒 (作詞: 阿久悠)
西川峰子
あなたにあげる (作詞: 千家和也)
ふたりの秘密 (作詞: 千家和也)
西田ひかる
思い出に溶けながら(作詞: 荒木とよひさ)
西田佐知子
神戸で死ねたら (作詞: 橋本淳)
忍者
涙 涙のカラオケボックス (作詞: 秋元康)
日本 (作詞: 秋元康)
野口五郎
序曲・愛 (作詞: 伊藤アキラ)
氷をゆらす人 (作詞: 浜辺芳光)
野村克也
女房よ… (作詞: 野村沙知代、補作詞: 坂口照幸)


は行
橋幸夫
ささえ(作詞: 千家和也)
泣くな恋人よ(作詞: 杉紀彦)
ザ・バーズ
ふり向くな君は美しい (作詞: 阿久悠、全国高等学校サッカー選手権大会テーマ曲)
林あさ美
つんつん津軽 (作詞: 荒木とよひさ)
ジパング (作詞: 荒木とよひさ)
手のひらの愛 (作詞: あかぎてるや)
原大輔
晩秋 (作詞: 水木かおる)
原田悠里
雪割草 (作詞: 石本美由起)
みちのく雪灯り (作詞: やしろよう)
万里まや 
おもいで美人 (作詞: 荒木とよひさ)
黄昏のむこうまで(作詞: 荒木とよひさ)
日野美歌
恋慕 (作詞: 荒木とよひさ)
ぶんけかな
おっぱいがいっぱい (作詞: 冬杜花代子)
ペギー・マーチ
忘れないわ (作詞: 山上路夫)
星美里 (現・夏川りみ)
しほり (作詞: 吉田旺)
保科有里
神無月に抱かれて (作詞: 荒木とよひさ)
さすらい譜 (作詞: 里村龍一)
NE-KO (作詞: 荒木とよひさ)
愁止符 (作詞: 荒木とよひさ)
グッバイ・ソウル (作詞: うえだもみじ)
ラブ・バラード (作詞: 山梨涼子)
素直になれなくて (作詞: 山梨涼子)
さくらの花よ 泣きなさい (作詞: 荒木とよひさ)
細川たかし
ひとり旅 (作詞: 中山大三郎)
堀江美都子
アイツと私 (作詞: 田中のぶ)

ま行
前川清
花の時、愛の時 (作詞: なかにし礼)
牧村三枝子
室生寺 (作詞: 水木かおる)
松原のぶえ
維新のおんな (作詞: たかたかし)
愛冠岬 (作詞: 田中うめの)
黛ジュン
ブラック・ルーム (作詞: なかにし礼) ※渡辺たかし名義
夕月 (作詞: なかにし礼)
自由の女神 (作詞: なかにし礼)
不思議な太陽 (作詞: なかにし礼)
憂愁 (作詞: 阿久悠)
さくらの花よ 泣きなさい (作詞: 荒木とよひさ)
真弓明信
男の夢 (作詞: 高田直和)
真弓明信&村尾亜紀
愛はふたたび (作詞: 高田直和)
マルシア
愛を置き去りに (作詞: 伊藤薫)
美川憲一
火の鳥(作詞: 秋元康)
この胸で泣きなさい(作詞: 岩谷時子)
十三夜月 (作詞: かず翼)
水木一郎
タイムリミット (作詞: ジェームス三木、『超人機メタルダー』エンディングテーマ)
美空ひばり
さくらの唄 (作詞: なかにし礼)
三田明
しあわせの法則 (作詞: 荒木とよひさ)
青春という名の旅人/ハンカチ (作詞: 荒木とよひさ)
三波豊和
青春よ翔ベ (作詞: 麻生香太郎)
南野陽子
ダブルゲーム (作詞: 荒木とよひさ)
三善英史
彼と… (作詞: 阿久悠)
愛のいさかい (作詞: 阿久悠)
森進一
北の螢 (作詞: 阿久悠)
夢をつづけて (作詞: 荒木とよひさ・梶賀千鶴子)
悲しい歌が流行ります (作詞: 阿久悠)
悲しいけれど (作詞: 荒木とよひさ)
人を恋する唄 (作詞: たかたかし)
冬桜 (作詞: たかたかし)
森昌子
愛傷歌 (作詞: 石本美由起)
孤愁人 (作詞: 石本美由起)
森山良子
禁じられた恋 (作詞: 山上路夫)
まごころ (作詞: 山上路夫)


や行以降
八代亜紀
なみだ川 (作詞: 荒木とよひさ)
竜二 (作詞: 吉岡治)
砂の城 (作詞: 吉岡治)
山口百恵
白い約束 (作詞: 千家和也)
愛に走って (作詞: 千家和也)
ヤン・スギョン
愛されてセレナーデ (作詞: 荒木とよひさ)
涙の虹を渡れば (作詞: 荒木とよひさ)
吉田真梨
もどり橋 (作詞: 喜多條忠)
水色の星 (作詞: 麻生香太郎)
まっ赤な耳たぶ (作詞: 麻生香太郎)
和田アキ子
酔いどれ (作詞: 千家和也)
君が野に咲くバラなら (作詞: 荒木とよひさ)
わらべ
めだかの兄妹 (作詞: 荒木とよひさ)
もしも明日が…。 (作詞: 荒木とよひさ)
時計をとめて (作詞: 荒木とよひさ)


その他
田村学園学園歌
桐光学園校歌
宝塚歌劇団星組公演 グランド・ショー『夢は世界を翔けめぐる -THE WORLD HERITAGE 2001-』
松竹歌劇団公演『銀河鉄道999 in SKD』※渋谷森久と連名で担当
阪神タイガース50周年記念讃歌「タイガースよ永遠に」「今日も勝ったよタイガース」
新宿コマ劇場ファイナル公演『愛と青春の宝塚』
劇団四季ミュージカル 『ユタとふしぎな仲間たち』、『わが青春の北壁』、『ドリーミング』、『夢から醒めた夢』、『新・はだかの王様』、昭和三部作 (『ミュージカル李香蘭』、『ミュージカル異国の丘』、『ミュージカル南十字星』)
映画『いつかA列車に乗って』(音楽監修・テーマ曲作曲)- 本名の「渡辺匡」として作品に出演しており、これが唯一の映画出演作となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/698.html#c3

[近代史7] 「桃色吐息」佐藤 隆(1951年3月11日 - ) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:14:04 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[16]
佐藤 隆(さとう たかし、1951年3月11日 - )は、東京都府中市出身の日本のシンガーソングライター・作曲家。


来歴
中央大学経済学部出身。
1980年『北京で朝食を』(コロムビア)でデビュー、
1984年レーベルを移籍(東芝EMI)、橋真梨子に楽曲提供した「桃色吐息」が総売り上げ33.7万枚と大ヒットし、日本作曲大賞を受賞。
 また同年、自身の最大のヒットとなる『マイ・クラシック』(大丸イメージソング)がオリコン週間チャート24位、総売り上げ14.6万枚を記録。

1985年 アルバム「ピアノとヴァイオリンのための巴里物語」(インストルメンタル・アルバム)のオーバーダビングの為にパリに行く。その際ニースの別荘に滞在中のフランシス・レイを訪問。話が弾み日本のYAMAHAがレイの為に特別に作ったアコーディオン・シンセサイザーで「白い恋人達」を眼の前で演奏してもらう。レコードと同じ演奏と音色に驚く。お礼に佐藤自作の「巴里物語」をA.Guitarで演奏する。レイ曰く「僕の作る曲に雰囲気が似ているね」と言ってもらう。
1988年 アルバム「甘い生活」のミキシングでロンドンに行く。エンジニアのNigel Walkerの紹介でアビー・ロード・スタジオを見学する事ができた。もちろん有名な第2スタジオも。後日同じくNigel Walkerにロンドン市内のAir Studioに連れて行ってもらう。そこでジョージ・マーティンに会わせてもらい、作業中だったジョン・レノンのソロ活動以降初めての映画「Imagine」のサウンドトラックの現場に入れてもらえる。さらにマーティンはその日進めていた「ジョンとヨーコのバラード」の8トラックの音を1トラックずつ個別に聴かせてくれる。レノンの歌声だけを聴いた時には衝撃を受ける。帰り道、何をしてどのように帰ったのかもわからないくらい夢のような出来事であった。なおNigel Wakerはマーティンのアシスタントエンジニアをしていた時期があり「Beatles in Hollywood Bowl」のミキシングに参加している。
現在は個人レーベルである「ジェルソミーナ・レコーズ」所属。個人レーベル所属以降は、一人で大半の楽器を演奏しマルチトラック録音を行うスタイルで楽曲を発表しており、2021年発表のアルバム「Mona Lisa 」では、佐藤独りで全ての楽器演奏・録音・ミキシング・マスタリングを行っている。
自身での歌手活動の他に沢田研二、堺正章、ジュディ・オング、谷村新司、中森明菜、吉川晃司、桑島法子などへの楽曲提供、映画「波光きらめく果て」の音楽監督などを手がけている。
2001年 井上堯之の「還暦を祝う会」にて篠原信彦より大口ひろしを紹介され、二人でTwo brain Two hearts 名義のユニットを組み、シングル「みんな元気かい / Na=Ze」をリリース。その後「六本木 Morph」にて毎月一回ライブを半年間続ける。
前妻は元女優の仁和令子であった(2018年に死別)。
2015年7月、8月「佐藤隆 Live / Hikigatari」を行う。A.GuitarまたはPianoを弾きながらの一人ライブで3時間にわたり30数曲を歌う。
2020年より 佐藤隆 / Takashi Sato / Official Web Site / Part II 内の Takashi Sato's Web Shop (https://www.takashisato.com) にて「8 beat dream (world version) 」以降のCDを販売中。
2021年5月29日 30数年振りに重久義明氏と二人だけの「佐藤隆 コンサート 2021」開催。佐藤隆(Vo, A.Guitar)、 重久義明(Piano) 。
2021年11月15日アルバム「8 beat dream (Japanese Version) )2021 Remaster)」「Woman (2021 Remaster)」 リリース。

提供曲

石川ひとみ「アモーレ」(作曲)
吉川晃司「パラシュートが落ちた夏」「ピンナップにシャウト!!」「ペパーミント・キッズ」(作曲)
桑島法子「あかい実たべた」「Perfect Blue Sky」(作曲)
研ナオコ「名画座」(作曲)
堺正章「二十三夜」「Je t'aime 受話器から」「サルビア心中」「故郷という名のエデン」(作曲)
沢田研二「女神」(作曲)
ジュディ・オング「ひとひらの雪」「エスメラルダ」(作曲)
橋真梨子「桃色吐息」(作曲)
谷村新司「12番街のキャロル」「夢の世代」(作曲)
※「12番街のキャロル」は佐藤も自ら歌ってシングル化し、競作という形に。大阪ガスのCMで起用されたのは佐藤版である。
中森明菜「AL-MAUJ (アルマージ)」(作曲)
※アルバム「水の中の太陽」収録の「デラシネ」のカバー
早瀬優香子「我儘娘は眠りの中」(作曲)
原田知世「姫魔性」(作曲)
ビートたけし「いじけいじけて」(作曲)
森進一「イエスタデイ」(作曲)
根津甚八「ください」(作曲)
麗美「fa・ri・ra」(作曲)
原田貴和子「彼のオートバイ、彼女の島」(作曲)
中井貴一「噂のルーズ・ガール 」(作曲)
岩崎宏美「風の童話集」(作曲)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%9A%86_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC)
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/697.html#c1

[近代史7] 「セカンド・ラブ」 来生 たかお(1950年11月16日 - ) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:18:00 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[17]
来生 たかお(きすぎ たかお、1950年11月16日 - )は、日本のシンガーソングライター・作曲家である。本名は来生 孝夫(読みは同じ)。


人物
※原則的に、来生たかおは“来生”に省略、来生えつこは“来生えつこ”と表記。

アーティスト面
控えめ・都会的・ノスタルジックな作風で知られるニューミュージックのアーティスト。マイナー調の曲が多く、淡々としつつ叙情的なメロディーが特長。ほとんどビブラートを掛けない歌唱は“来生節”とも称される。歌手活動と同時に、姉・来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、「セーラー服と機関銃」(歌唱:薬師丸ひろ子)、「スローモーション」「セカンド・ラブ」(歌唱:共に中森明菜)、「シルエット・ロマンス」(歌唱:大橋純子)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(歌唱:しばたはつみ)など、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを数多く送り出している。

自身の音楽の基本はノスタルジーであり、熱愛の頃をふと思い出すようなものを作ってきたと述べ、また、自分は歌手より作曲家に向いていると語る一方で、自作品の細かなニュアンスを一番知っている自分自身でも歌いたいとも語っている[1]。デビューアルバムから最新作に至るまで、その作風は一貫しており、自らマンネリズムとも称しているが、それは、時流に流されずマイペースに長らく音楽活動を続ける数少ないアーティストであることの証左ともいえる。2002年には、“自分はまだ良い曲が作れていると思っている。そう感じられなくなったら辞める”と前置きをし、“今、同世代のアーティストが作っている曲は駄目。なんでこんな退屈な曲を作って歌っているのかと思ってしまう。昔の曲の方が断然良い”と明言している[2]。一方で、自身より年長の岡林信康がパワフルに歌っているのをテレビで観た折りは、刺激を受けたと吐露している[3]。

一般的な肩書はシンガーソングライターだが、担当しているのは歌唱と作曲であり(自作曲のいくつかは編曲も担当)、そういう意味では“歌手兼作曲家”と表するのが正確である。また、実の姉弟によるソングライティングチームはあまり類例がなく、特にデビュー当初は夫婦に間違えられることが多かった。

なお、デビュー以来レコードジャケット(アルバムでは主に帯)に記されていたアーチスト名のルビ“きすぎ”は、「夢の途中」(シングルおよびアルバム)をもって姿を消す。メジャーな存在になったことによる細やかな変化である(ローマ字による表記はこれ以降も頻発している)。ちなみに、幼少期には苗字に含まれる“きす”(=Kiss)という響きに関してからかわれたことがあり[4]、来生えつこも同様に苗字に関して様々な苦労をした過去があるという[5]。また、来生えつこの考察によれば、「上杉謙信の家臣であった木次(来次)出雲守(きつぎ・いずものかみ)が来生家の起源であり、武士の身分を捨てた木次が酒田(現:山形県酒田市)に定住する際、“新たな未来を生きる”というような意味合いで“来生”と改名したことに由来する」という(姉弟の父親は山形県の出身である)。これとは別に、木次の自官である出雲(現:島根県の一部)には、木次(きすき)という地名[6]が存在する[5][7]。

井上陽水、小椋佳に続く第三の新人として、キティレコードから鳴り物入りでデビューした当時、若者の音楽はまだフォークソング色が濃く、ジーパンにフォークギター一本というスタイルの歌手も多かった中、ピアノで歌う男性シンガーは珍しかった。最初はザ・ベンチャーズの影響でギターで曲作りも行っていたが、音符(来生自身は“おたまじゃくし”と表現することが多い)として書き留めたい、曲作りの幅を広げたいとの思いで、20歳の時に一念発起、近隣の個人教室で子供と交じりながらピアノを習い始めた。週1回のレッスンを週3回にしてもらい、自宅では紙鍵盤で練習、バイエルを3ヶ月で終わらせ、約1年半の教室通いの後は独学でこなした[8]。ピアノを始めるきっかけの一つとして、ザ・ビートルズの「Let It Be」のイントロを聴き、これくらいなら自分でも弾けるかも知れないと思ったという[9]。

ソングライティングコンビは、姉が何気なくノートに書き留めていた散文に勝手に曲を付けるかたちでスタートした。実家を訪れる姉の友達が、ギターで洋楽のフォークソング(ピーター・ポール&マリーの「500マイル」等)を歌っていたが、中には彼等の自作曲もあり、それを羨ましく聴いていたことが、何よりも先に曲作りのきっかけになったという[10]。18歳の頃、来生えつこと共に処女作「サラリーマン」(後にオリジナルアルバム『égalité』に収録)を含むレコードを10枚以上自主制作し、文化放送やニッポン放送へ持ち込んだところ、後者では斉藤安弘の『オールナイトニッポン』で取り上げられたこともあった[11]。また、デビュー曲になる「浅い夢」も19歳の時には既に原曲が作られていたという[12]。

初期の曲作りは、来生がギターでメロディーをワンフレーズ弾き、来生えつこが目の前でそれに合わせて歌詞を書くという作業を繰り返していたという[10]。ほとんどの楽曲は曲が先に作られ、後から詞が付けられるが、中には「Goodbye Day」のように詞が先の例もある。来生は、自由に楽曲の構成ができるため、曲が先の方が作りやすいと述べている。自演曲の場合、一挙に作り上げるということは滅多になく、部分的に出来たものを暫く放置し、他の曲作りをしつつ完成させて行く。散歩中や就寝前に浮かんだメロディーを録音したり譜面に起こしたりすることもあるという[13]。最初のモチーフから自分のイメージ通りの“良い曲”にするのは難しく、中には7年ぐらいかけて作った曲(オリジナルアルバム『浅い夢』参照)もあるという[8]。提供曲の場合、メロディーにある程度音を重ねたデモテープを作り、作詞家が依頼主の要望に沿った歌詞を付け、それに来生が歌を吹き込んで渡すという流れになる。打ち込みによる曲作りも、早くから機材を購入し、検討してはいたものの、締め切り直前まで作業をしないことが常のため、なかなか使いこなすまでには至らず、そちらはオペレーター(近年はバックバンドのメンバー・小田木隆明)に任せ、自らは楽器を弾くというかたちで作っている[14]。実際に提供歌手が歌ったものは、思いの外良いこともあればその逆もあると語る一方[8]、自分で歌っていても“何でこんなに難しいんだろう。もっと簡単に作れないのか”と自作曲に対する思いを吐露している[4]。また、提供希望歌手として井上陽水の名を挙げており[15]、井上陽水をイメージして作られた楽曲もある一方、2000年にリリースしたオリジナルシングル「地上のスピード」で共作(作詞:井上陽水/作曲・歌唱:来生たかお)は実現しているものの、2010年1月現在“作曲:来生たかお/歌唱:井上陽水”は未だ実現していない。

“矢倉銀”というペンネームで自作曲の幾つかは編曲も手掛けている。この名は、将棋の戦法(囲い)の1つである矢倉囲いと銀将を掛け合わせたものである。レコーディングには基本的にヴォーカルでのみ参加しているが、自ら編曲を手掛けた楽曲の中にはピアノやエレキピアノで参加しているものもある。

コンサートではこれまでに、グランドピアノ・エレキピアノ・アコースティックギター・エレキギターを担当して歌っており、2001年からはピアノの弾き語りのみのステージも試み始めている。以前は楽器を弾きながら歌うことがもっぱらで、徐々にマイクを片手に歌う機会も増えたが、後者は余計なこと(客席の人の出入り等)が気になってしまうため、前者の方が集中できるという[14]。また、専属のバックバンドは“Win 9”という名で結成され、“スタートル”と改称した後、幾度かのメンバーチェンジを経て現在に至っている。

『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』『ミュージックステーション』等、数々の音楽番組に出演してきたが、圧倒的な数の人間が観ていると思うと集中して歌えないため、あまり出たくはなく[1]、満足に歌えたこともないと断言している[14]。テレビ出演の心境をよく“寿命が縮む”という言葉で表現しており[9]、特に、歌手デビューの翌月に出演したTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』では、錚々たる面々と共にメドレーを行い、失敗したら頭からまたやり直しという極度の緊張感を味わい、その時の光景は今でも夢に現れるという[16]。

プライベート面
来生えつこによれば、幼少期はぼうっとした子で、何度訂正しても“えんぴつ”を“いちんぷ”と表現する等、いくつかの単語を間違えて覚えていたという。また、中村錦之助、片岡千恵蔵、大友柳太朗等の影響でチャンバラごっこをしたり、風呂敷を羽織って月光仮面を気取ったりしていたが、基本は内弁慶で、その傾向は成人してからも変わっておらず、都会っ子の脆さを持ったシャイな人間だという[17]。自身もその傾向は認めており、家を一歩出ると大人しくなると述べている[18]。自身の性格を対人恐怖症気味と評している通り、テレビやラジオ出演時のトークは苦手で、基本的に寡黙で淡々としているため、司会者や出演者にその点をつっこまれたり気を遣われたりすることも珍しくない。プロとしての初ステージではMC用の台本を用意していたほどである[12]。姉弟が揃ってメディアに出る機会はあまりないが、一緒に出演する時は来生えつこが積極的に喋る傾向にあり、“しっかり者の姉とシャイな弟”という微笑ましい関係が窺える。

思想家・岸田秀の“全ては幻想である”という主張に衝撃を受け、オフィシャルホームページの企画“来生たかおトークセッション”の第3弾[19] では対談も実現させている(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009年5月〉に収録)。また、好きな言葉は“色即是空、空即是色”(般若心経の一節)と語り[9]、“前向き・プラス思考という言葉は好きではない”“年を取るとピュアな恋愛なんて不可能”等、ネガティブな発言も少なくなく、自分は厭世的な人間であるとも告白している[20]。ラジオ番組において“大きな野望・小さな野望”との問いを投げ掛けられた折り、“昔から大きな夢も野望もない”と前置きをしつつ、強いて言えば、大きな野望は“かみさんと車で日本全国の温泉巡り”、小さな野望は“タクシーの運転手”と述べている[21]。一方、テレビ番組で“幸せとは?”と問われた時は、“一言では言い表せないこと”と答えている[22]。

35-45歳の頃、来生えつこの仲介により、山口昌男を中心としたテニスサークル“山口組”に夫婦共々参加し、栗本慎一郎や村上龍等とプレーしていたという[23]。また、将棋棋士の田丸昇や高橋道雄ともテニス仲間で、プロテニスプレーヤー・福井烈に相手をしてもらったこともあるという[23]。

来生えつこ率いる草野球チーム“ビコーズ”に顔を出していた時期もあるが、現在はプロの試合観賞がもっぱらで、読売ジャイアンツや楽天イーグルスのファンで、贔屓のチームが負けると食が進まず、プロ野球ニュースを全く観ないほど機嫌が悪くなるが、逆に、勝つとほとんどのスポーツニュースを観ると語っている[24]。近年は国内よりメジャーリーグの方に興味が移りがちらしい。

また、将棋、麻雀、パチンコ等の屋内ゲームを好む。東久留米の将棋クラブに所属し、米長邦雄や田丸昇等と対戦したこともあった。居飛車を得意とし、井上陽水と指した時は勝ったという[23]。麻雀は、井上陽水をはじめ松任谷正隆・由実夫婦ともよく囲んでいたらしい。パチンコは、その儲けで自宅の風呂を改築したこともあった[25]。さらに、かつては『ゼビウス』や『スペースインベーダー』等のアーケードゲームにも興じ、自宅にゲーム機を持ち込む程ハマっていたとのことで[26]、自他共に認める凝り性の気質が窺える。なお、麻雀、将棋に関しては、オフィシャルホームページの企画“来生たかおトークセッション”の第1弾[27]、第2弾[28] で、プロを交えた対談を行っている。

2003年の小津安二郎生誕100周年をきっかけに、それまでほとんど関心がなかったその作品に一気に傾倒し、アルバムのデザインワークにその雰囲気を反映させている。また、オリジナルアルバム『avantage』には、同監督作品の『長屋紳士録』(主演:飯田蝶子)で笠智衆が歌った“のぞきからくり”の一節に個人史を載せた「夢の途中譜」を収録している。MCや番組出演時には、同監督作品も含め、映画の話題を切り出すことも少なくない。

大の愛煙家で、煙草(およびコーヒー)がなければ曲が作れないとまで語っている。1983年に不整脈が出たのをきっかけに[29]、銘柄を「ハイライト」から「セブンスター」に替えたものの[30]、1990年のインタビュー[31]では日に約60本吸うと明かしており、1997年のラジオ番組では“健康のために吸っている。止めたらガン細胞が動き出して肺がんになる。どうせ死ぬわけだし、危険を遠ざけて生きるのはつまらない”と独自の哲学を語り、日に約80本吸うと述べている[32]。なお、この時、好きなコーヒーはキーコーヒーのアイスと述べている。

ウニ、イクラ等の高級な食材は食わず嫌いの傾向にあり、コンサートツアーで各地を回る時もあまり名産に興味が持てず、普段から、ラーメン、炒飯、スパゲティ等を好む[33]。来生えつこからは、味覚は子供の頃と変わっていないと揶揄されたこともある[25]。

愛車はミニ・クーパー。将来的にはもっと楽に免許を取得できるシステムになるだろうと考え、もっぱら妻の車の助手席に陣取っていたが、49歳で一念発起し一発合格を果たした。きっかけは、同じように長らく車の運転をしなかった井上陽水が免許を取得したことにあるらしく、その井上は、来生が自動車学校に通い始める数日前に会食をし、その後、帰路の途中まで自分の車で送った事実を引きつつ、万事変化を望まないイメージの来生が運転を始めた意外さに言及している。また、オリジナルアルバム『Dear my company』に作詞およびコーラスで参加した際、ミニ・クーパーの座席にギルバート・オサリヴァンのCDケースがさりげなく置かれていたことに気付いたという[34]。

ゴールデンレトリバーの“マル”[35](現在は2代目)、ミニチュアダックスフントの“ミミ”を飼っており、愛犬の散歩も趣味の一つとしている。散歩中にメロディーを考えたり、歌詞をそらんじることがあるという。東京都内にある小金井公園を散歩コースの一つにしており、園内の売店で販売しているコロッケがお気に入りとのことで[36]、同売店では一時期“来生たかおさん推薦コロッケ 1個100円”との謳い文句が使われていた。

“かみさんはご飯みたいなもの(=飽きない)”と述べ、その愛妻家振りが窺える。出会いは1978年、コンサート会場の楽屋だった。

お笑い芸人の小島よしおと誕生日(11月16日)が同じことを知り、急に親近感が湧いたと述べている[37]。また、お笑いグループの我が家が面白いと発言している[37]。

コンサートツアーの1 - 2週間前になると、よく同じ夢を見るという。開演間際にも拘わらず何も準備ができておらず、訳も分からず出鱈目に歌い出すと客席からブーイングが起きる、という内容だと吐露している。また夢の中で作曲をしていることがあり、とても良い曲と感じつつも目が覚めると思い出せないという[38]。

音楽的嗜好と影響
元々ザ・ベンチャーズ、寺内タケシとブルージーンズ等のインストナンバーを好んで聴いており、“歌入り”の音楽に興味を持っていなかった。ザ・ビートルズの日本公演に足を運んでいるが、これは、同グループのアルバム『Rubber Soul』にこれまでのバンドとは異なる魅力を感じた来生えつこが、そのことを弟にも気付かせたいと思い、都合で同行できなくなった友人の代わりに誘ったものだった[10]。やがて来生自身も、特にポール・マッカートニーの作品を敬愛するようになる。

一方、たまたまジャケットが気に入って買ったギルバート・オサリヴァンのシングル「さよならがいえない」(原題:No Matter How I Try)や、続く「アローン・アゲイン」や「クレア」等に、探し求めていたものに出会えたという意味で大きな衝撃を受け、“大明神”と称する程に崇めることになり、その楽曲(特に「クレア」)をモチーフに作った曲も多く、またその初期のスタイルを模した衣装でアルバムのジャケットを飾ったり、同様の衣装で「アローン・アゲイン」「クレア」をカヴァーしたこともあり[39]、ビジュアル的にも多大な影響が窺えるが、これには“四畳半フォーク”に馴染めず、弟の作るお洒落なポップスのイメージを強く支持していた来生えつこの、“長髪にジーンズというスタイルだけは避けたかった”という意向も反映されていると思われる[10]。

他にも好きなアーチストや楽曲として、フランシス・レイ(映画『白い恋人たち』のメインテーマ)、ヘンリー・マンシーニ(「Moon River」)、バート・バカラック(「Raindrops Keep Fallin' On My Head」)、エミット・ローズ、マイケル・ジョンソン等を挙げている[40]。“無人島に持って行く1曲”を問われた時は、映画『太陽がいっぱい』のメインテーマ(作曲:ニーノ・ロータ)を選び[25]、古今東西の楽曲の中で一番好きだと語っているが、別の番組では「Moon River」を一番好きな楽曲としている[41]。

また、近年のコンサートでは昭和の流行歌を披露するようになり、2008年には、小学生時代の愛唱歌である「雨に咲く花」(歌唱:井上ひろし)や平岡精二作品等のカヴァーを収録したオリジナルアルバム『余韻』をリリースし、前述の海外アーチスト以前に昭和歌謡の影響もあることを公表している。

他作家の楽曲には音楽理論的な見地から関心を寄せることが多い。小林亜星作曲の「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、加山雄三(弾厚作・名義)作曲・歌唱の「君のスープを」等では、その転調の面白さを語り[42]、1999年にエルヴィス・コステロが歌った「She」には“好きな1曲で、最初のメロディーは良いが、後半はちょっと残念”という感想を述べ、また、当初は全く新しい曲だと思っていたが、カヴァー(シャルル・アズナヴールによる1974年の作品)だと分かり、がっかりしたという。これは往年のようなシンプルで良い曲が近年に現れたと感激していたからである[14]。

ギルバート・オサリヴァンに関しては、コード・メロディー・構成が意外な展開を見せる点、ジャズのコードを用いながらポップ調に仕上げる点、1曲の中に多様なエッセンスを贅沢に入れている点等をその魅力として挙げており、自らの声質に合う美しいながらもシンプルなコード進行やメロディーであるポール・マッカートニー作品より凝っていて[10]、専門的な音楽的教養から生み出されるバート・バカラック作品より面白いと分析している[43]。さらに、ヴォーカルフィーリングや、2拍・4拍を強調するリズミックなピアノ演奏にも言及し[44]、独創的なセンスを持った“最後のシンガーソングライター”とも評している[43]。

活動経歴
デビュー前夜
20代前半、大学時代(20歳の時)に結成した3人組のバンド“ビコーズ”(ピアノ・ギター・ベースの編成)で、音楽喫茶(銀座タクト、渋谷“青い森”等)に出演するようになる(渋谷ジァン・ジァンはオーディションで落選)。バンド名はデイブ・クラーク・ファイブの楽曲「Because」が由来であり、ライヴのオープニングでは同曲を歌っていたという[41]。“青い森”では、アンドレ・カンドレと称していた井上陽水と出会い、お互いオリジナルやビートルズナンバーを演奏していたことから懇意になる。当時、まだギター1本で活動していた井上にはバンド編成でやってみたいとの願望があり、“ビコーズ”がバックを務めたが、程なく他のメンバーが抜けてしまったため、井上・来生の2人で、渋谷ジァン・ジァンや原宿RUIDOの他、関東近辺のライヴやラジオ番組に出演するようになった[10]。ポール・マッカートニーの「Monkberry Moon Delight」等を披露していたが[45]、来生は当時を振り返り、“習い立てのピアノで迷惑かけたんじゃないかな”と回顧している[22]。“青い森”では古井戸やRCサクセションと顔を合わせることもあり、忌野清志郎とは2000年に共作(作詞:忌野清志郎/作曲:来生たかお)も実現させている。

2年程が経ち、井上がシングル「夢の中へ」を大ヒットさせる一方で、来生はアルバイト暮らしを続けていた。そんな時、井上や小椋佳のディレクターをしていた多賀英典と知り合い、井上のファーストアルバム『断絶』にアコースティックギターで参加することになる。来生は、多賀との対面を導いた井上の存在はデビューの大きなきっかけであるとして、後々コンサートのMCやインタビューにおいて繰り返し回顧している。同時期、いずみたく、浜口庫之助等の作曲家の下へ弟子入り覚悟で曲の売り込みにも出向いているが、ほとんど門前払いの状態だったという[46]。その後、多賀へデモテープの持ち込みを行うが、“レコードにするような良い曲はない”と、こちらもまた突っ撥ねられてしまう。自信があったが故に大きなショックを受けた来生だったが、この人に認められなければ他へ行っても駄目だろうと思い、諦めなかった[10]。来生えつこによれば、多賀も参ってしまうくらいの粘り強さだったという[46]。やがて、スタジオへの出入りを許され、後に「およげ!たいやきくん」を作曲することになる佐瀬寿一と互いの曲を手伝いながらデモテープ作りに励み、同時に社員としてインスペクターをこなす日々が暫く続くことになる[10]。ちなみに、インスペクターの業務として羽田健太郎にピアノを依頼したことがあったという[3]。

このままインスペクターのまま生きて行くのかと思っていた頃、デモテープ内の1曲「酔いどれ天使のポルカ」が多賀に認められ、亀渕友香への提供曲に採用される。さらに1974年11月5日、後に高田真樹子も歌うことになる「終止符」を聴いた多賀から“君のレコードを作ろうと思っている”との一報が入った。ヴォーカルの未熟さを自覚しつつも、自作曲に最も適しているのは自分の声だと感じ、レコードデビューを思い描いていた来生は、この言葉にはいたく感動したという。かくして、書きためていた楽曲の中から50曲をデビュー候補曲として録音する運びとなり[10]、遂に“シンガーソングライター・来生たかお”の誕生へと走り出すことになる。

来生たかお大誕生
『週刊少年マガジン』1976年12月12日号にて、“カラー特別企画 陽水・小椋佳につづく彗星 ニューシンガーソングライター 来生たかお大誕生”と題された巻頭特集が組まれた。トップページには小椋佳も映っており、“東京駅かなんかの前の並木道で撮った”と証言している[47]。また、同記事には井上陽水による“生きていたんだね,来生くん”と題したコメントも寄せられている。

当初、井上陽水や小椋佳、敬愛するハリー・ニルソンのような、テレビ等のメディアには余り登場せず楽曲だけを発表して行く“レコーディングアーティスト”のような活動形態を理想としており[4]、当然、多賀が手掛けた井上や小椋と同じ路線になるだろうと思っていたが、前出の少年誌面の特集をはじめ、TBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』でデビューアルバムが取り上げられたり、FMラジオで特番が組まれたりと、一転、積極的な露出という方針に決まり、大いに困惑したという[46]。小椋佳によれば、この頃の来生はあまりにも寡黙なため、付き添いとして一緒にラジオ出演したこともあったという[47]。

不遇の時代
デビューアルバム『浅い夢』(1976年10月21日リリース)は、アレンジャー・スタジオミュージシャンとして、元ザ・モップスの星勝や、高中正義、高橋ユキヒロ、小原玪、今井裕、後藤次利等のサディスティック・ミカ・バンドの参加メンバー、さらに、安田裕美、大村憲二、是方博邦、斉藤伸雄、村上秀一、浜口茂外也等が名を列ねており、満を持して製作された力作であることが窺える。周辺関係者から20 - 30万枚セールスは間違いないと目され、荒井由実にも気に入られていた。しかし、蓋を開ければ6000枚という大きく期待を下回る結果に終わってしまう。

続くセカンドアルバム『ジグザグ』(1977年10月21日リリース) は、ロサンゼルスのスタジオ“ララビー・サウンド”でレコーディングが行われた。デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドン、ジム・ケルトナー等、錚々たる面々がスタジオミュージシャンとして参加しているが、これは、小椋佳、星勝、安田裕美のユニットであるフライング・キティ・バンドのアルバム『5・4・3・2・1・0』のレコーディングのついでに来生のアルバムも録ってしまおう、というレコード会社の方針だったらしい。また、同アルバムに収録する曲が足りず、急遽、現地のホテルで、既に出来ていた小椋佳の詞に曲を付けたという[47](来生たかお関連作品「提供曲」参照)。ちなみに、この時が来生にとって初めての海外旅行となった。海外録音という話題性も兼ね備えた『ジグザグ』に、今度こそはと周囲の期待も高まったが、結局セールスは12000枚に留まった。

来生姉弟自身は、自分達の楽曲がレコードになるという喜びの方が大きかったため、上記2枚のセールス的な結果に特段の落胆はなかったという。ただし、この先もレコードを作らせてもらえるのかという不安はあったと述べている[46]。

そんな中、しばたはつみに提供した「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(1977年7月10日リリース)がヒットする。この曲は、小林亜星、筒美京平等のベテラン作家陣が参加した東洋工業(現:マツダ)のCM楽曲コンペのために書かれたもので、来生姉弟は、無名の自分達の作品が選ばれることはないだろうと思っていたものの、参加14曲中、最後の2曲に残り、最終的にしばたはつみ自身が選んだことにより、栄冠を勝ち取った[45]。これを機に二人はソングライターコンビとして一躍脚光を浴び、以降、楽曲提供の依頼が次々と舞い込むようになる[46]。

一方、来生自身もマイペース且つコンスタントに楽曲をリリースし、CMとのタイアップや、映画・ドラマ主題歌への起用も続くものの、なかなか大きなヒットに恵まれなかった。次第に、歌手ではなく作曲家に徹するべきかと思い始めていた頃、10枚目のオリジナルシングル「Goodby Day」がスマッシュヒットし、もう少し頑張ってみようと奮起することになる[46]。

一躍ヒット・メーカーへ
1981年12月19日、全国東映系で公開された角川春樹事務所/キティ・フィルム提携映画『セーラー服と機関銃』の主題歌は、当初、来生自身の歌唱で話は進められ、レコーディングも済んでいたが、監督の相米慎二により同映画の主演女優・薬師丸ひろ子が歌う発案がキティ・フィルム代表の多賀英典になされた[48]。好評だったオリジナルシングル「Goodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー・多賀英典と共に姉弟自身もヒットを予感しており、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中であったため、大騒ぎになった。多賀は東映側に押されて承諾したものの、薬師丸が来生のファンであったこともあり、それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着を付けた[49]。

この2曲は一部歌詞に相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによれば、レコーディングのギリギリまで歌詞を書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡しの最中に手違いがあったとされる。“夢の途中”というタイトルは不意に思い付いたものの、先にタイトルが決まっていることは稀で、また、ヒットの期待を込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた“夢の途中”というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまったことは残念だったが[50]、薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は“いけるかも”と思ったという[5]。また、来生は同映画の主題歌候補として3曲用意しており、その決定はプロデューサーによってなされた。来生は、自信がなかった楽曲が選ばれたと回顧している[25]。

「セーラー服と機関銃」(1981年11月21日リリース)は、リリースの前から予約が殺到し、たちまちオリコンで第1位を獲得した。一方、同年11月10日に先駆けてリリースされた「夢の途中」は、当初オリコンで第200位前後だったが、「セーラー服と機関銃」の影響もあってかランキングを上昇し続け、翌年3月には最高第4位、有線では第1位を獲得、来生の最大のヒット曲となった。ちなみに、同曲のB面に収録された「美しい女」を作詞した山川啓介と来生はほとんど面識がなかったが、「ある時1度会った際に、山川さんから『ありがとうございました』と言われました。B面の作者にも多大な印税収入が舞い込んだからだと思います」と自身のコンサートで語っている[47]。

「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットで楽曲提供の依頼が殺到し、年間100曲以上作っていた時期もあり、時に、来生はもうマンネリと揶揄されることもあったが、「夢の途中」のような曲を、との注文を付ける依頼も少なくなかったため、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している[51]。また、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の主演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている[29]。

「シルエット・ロマンス」は、サンリオ(後に出版権はハーレクインに移行)の「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られたため、最初からタイトルは決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うということで、思う存分難しい曲を作ろうと考えた来生は、先に出来上がったサビの部分に確かな手応えを感じ、“これはいける”と思ったという。一方来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感を込めて歌って欲しくなかったため、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初の2 - 3テイクを使用して貰ったらしい[46]。当時休業を考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間が自分を忘れないためにも同曲をヒットさせたいと思っており[52]、実際、「セーラー服と機関銃」が忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわと人気を獲得し、大橋自身も第24回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。また、来生も第2回日本作曲大賞優秀作品賞を、来生えつこと共に中山晋平・西条八十賞を受賞しており、その後も多くの歌手がカヴァーを試みるスタンダードナンバーとなっている(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)。井上陽水は、来生が同曲を歌っているテレビ番組をたまたま目にし、“詞の良さ、曲の良さ、来生たかおの真摯な姿勢が相俟って、思わず涙ぐんだ”と述べつつ、改めて目の前で来生の歌を聴いた後は、“パチンコの合間にこんな良い曲を作ってるらしいんですよ”とからかっている[22]。

「セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより、大橋純子サイドから再び楽曲提供の依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜を手掛けていたディレクターの目に止まり、ぜひ明菜に歌わせたいということで提供に至った。ただしセカンドシングルということで「セカンド・ラブ」というタイトルを付けたものの、実際にはサードシングルとしてリリースされた。大橋純子用に音域を広くして作った同曲を、まだデビュー間もない中森が歌ったことに対し、来生は“大変だったんじゃないかな”と述べている[46]。また、同曲が第3回日本作曲大賞を受賞した際、松任谷由実が原田知世に提供した「時をかける少女」もノミネートされており、会場の来生たかおおよびその関係者は、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージに向かいやすい通路側に座っていたことから、「時をかける少女」の受賞は事前に決まっていると思っていたという[46]。ちなみに、同賞の景品として車が進呈されたが、当時、姉弟は共に運転免許を持っていなかったため、急遽来生夫人が教習所へ通うことになった。ちなみに、本曲より前に松任谷由実が同じタイトルで作詞をした楽曲(作詞:呉田軽穂/作曲:杉真理)を須藤薫に書いており、後にそれを知った来生は動揺したという((オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報「HEAD ROCK」))。

1983年、念願だった美空ひばりへの楽曲提供が実現した。提供曲「笑ってよムーンライト」は、大ヒットするだろうという思惑は外れたものの[4]、来生自身は名曲と自負している。レコーディングの折り、ひばりは真っ赤なスーツ姿でスタジオに現れ、編曲を担当した坂本龍一と共に感激したという。レコーディング自体も難なく完遂し、プロ意識を感じたと述べている。また、姉弟でひばり邸を訪れたこともあり、その際、もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、ひばり自身もそれを希望しているものの、多くの観客の要望と合致しないため、なかなか叶わないという思いを吐露された[53]。ひばりとはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演も果たしているが、番組側の、ピアノはフェイクでも構わないとの意向で、来生はピアノに向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている[3]。

1984年、フランスはパリにおいて企画アルバム『LABYRINTH』のレコーディングを行った。同アルバムのプロデュースおよび全編曲を担ったポール・モーリアは、それまで、必然性を感じないという理由で日本人アーティストからのプロデュース依頼を断っていたが、来生の楽曲と自身の編曲は合うと感じ、引き受けたという[54]。また、来生を“一見シンプルだが人の耳を惹き付ける明快でロマンティックな音楽を創るアーティスト”と評し、そのメロディーとヴォーカルが持つオリジナリティーに尊敬の念を抱いたという。来生作品は多少ヨーロッパ的に聞こえるが、そのメロディーが持つセンチメンタル且つロマンティックな雰囲気は、フランスにはない日本的な響きであるとし[54]、いずれもメロディーラインを重視した美しい曲であると述べている[55]。対する来生は、自作品のメロディーを生かしてくれる美しいストリングを嬉しく感じ[55]、また、ポール・モーリアの楽譜に通常各楽器の演奏者に委ねられることが多いフィルインまで詳細に記されているのを目にし、その完璧主義振りに驚いたという。同年に開催されたポール・モーリアの来日公演『PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』の11月23日・12月2日にゲスト出演し、翌1985年には上記アルバムを基調とした『LABYRINTH TAKAO KISUGI with PAUL MAURIAT』と題した映像作品もリリースしている。さらに、2008年にリリースされた10枚組CD『ポールモーリアの世界』(ユーキャン〈ユニバーサルミュージック〉)付属の特別編集誌『ポールモーリア物語』には“ポールモーリアとの思い出”と題されたコメントを寄稿している。

1986年6月30日 - 7月22日、歌手デビュー10周年企画コンサート『来生たかお10th ANNIVERSARY“ELEVEN NIGHT THEATER”』(東京都・FM東京ホール)が開催された。11日間(週末を含む3日程の単位)で既出のオリジナルアルバム11枚から全曲披露するという前代未聞の内容であった。折りしも、次のオリジナルアルバム『I Will...』の制作の途中でもあり、来生自身は同企画を承諾するかどうかかなり悩んでいたが、先んじて告知が出てしまったため、止むなく決行となった。そして、危惧していた通り、コンサートは準備の段階から過酷を極めることになる。基本的に来生自身が百数十曲にも及ぶ楽曲のライヴ用アレンジを施した後、バックバンドと共にリハーサルを行い、いざコンサートが始まってからも、毎回セットリストが異なるためステージが終わる度に次回の練習をこなすという状況で、アルバム制作の方は一旦中断せざるを得なくなった。また、MCの内容もいつも同じというわけにも行かず、コンサートの後半は来生えつこが台本を用意し、彼女自身もスケジュールの都合が付いた日は舞台に上がったため、観客席でゆっくり楽しめず残念だったと語っている。全ステージ終了後、来生はやつれていたらしいが、その後すぐにアルバム制作が再開され、姉弟は事務所とレコーディングスタジオに分かれてカンヅメになった。当初来生えつこは、歌手デビュー10周年記念のアルバムでもあるため、かつてのように膝を突き合わせて1曲1曲作りたいとの思いもあったが、時間的に叶わず口惜しかったと回顧している。ちなみにこの企画を先に耳にしていたら絶対反対したとも告白している[53]。なお、7月12日(『夢の途中』の回)のステージは後日ラジオで放送された。

1990年、井上陽水のシングル「少年時代」(同年10月21日リリース)でピアノを担当する。井上は来生に依頼した理由として、“彼は曲を作って歌っている分、ピアノが手薄かなと思って”と笑いつつ、どこか未完成でまだまだ上達する余地のある少年というイメージが曲調に合致し、実際、望み通りのピアノであったことを明かしている[22]。来生によれば、スタジオの井上から“今レコーディングしてるんだけど、とにかく来て”と電話が入り、“ポール・マッカートニーのような、専業のピアニストには出せない味のピアノが欲しい”と言われたという[56]。1999年9月24日、井上陽水の数年振りの全国コンサートツアーに先駆けて開催されたシークレットライヴにおいて、初めて同曲での共演が実現した。

1991年5月23日、歌手デビュー15周年記念イベントとして、東京は日本武道館において『来生たかお in 武道館〜アコースティックスペシャル〜』を開催した。「夢の途中」が大ヒットした当時にも同所での公演の勧めはあったが、自身のコンサートとしてはキャパシティーが大き過ぎるとの理由で断っていた。しかし、歌手デビュー15周年に際して再び同企画が持ち上がった際は、記念の年でもあり、広い会場で観てみたいとのファン心理も踏まえ、一生に一度という思いで実現させた。編成は、来生自身のピアノ、バックバンドの“スタートル”、70人から成るオーケストラというものだった。ちなみに、アマチュア時代に同所でザ・ビートルズの日本公演を観た頃と違い、安全地帯の公演を観た時(歌手デビュー15周年記念イベントの数年前)は、同所をそれ程大きいとは感じなかったという[4]。 1991年10月25日、ギルバート・オサリヴァンとの競作シングル曲「出会えてよかった」「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」がリリースされる(オサリヴァンは後者の作詞も手掛けており、“共作”というかたちでもある)。自他共に認めるオサリヴァンファンの来生は、それまでにもオサリヴァンのベストアルバム『アローン・アゲイン』(1986年3月25日)、『アナザー・サイド』(1988年6月25日)にコメントを寄稿(後者は選曲監修も兼務)していたが、1990年、日本における事実上の復帰作として発表されたアルバム『In The Key Of G』へも、忌憚のないアルバム評と共に復帰歓迎の思いを寄せた。この時、音楽シーンへの復帰を盛り立てる話題作りとして、オサリヴァンによる来生作品のカヴァー企画が持ち上がるが、どうせなら新作をというオサリヴァン自身の意向により、競作(共作)が実現した。来生姉弟は、ずっと自作自演でやって来たオサリヴァンが、自分達の曲を歌ってくれることが信じられなかったと回顧しており[25]、2010年現在においても、オサリヴァンのリリース楽曲中、唯一の例外となっている。来生は、過去にもオサリヴァンをイメージして作曲したことはあったが、それを超えるものというプレッシャーの中で書き下ろした4曲の中から「What A Way(To Show I Love You)/出会えてよかった」は選ばれた[57]。同曲はオサリヴァンの日本盤アルバム『Sounds Of The Loop/あの日の僕をさがして』にも収録され、同アルバム収録の「Can't Think Straight/ぼくときみのラヴ・ソング」(作詞作曲:ギルバート・オサリヴァン)ではデュエットも実現、さらにテレビ番組やステージでの共演も果たした(「略歴」「コンサートツアー/スペシャルライヴ」参照)。殊にステージでの共演については、当初関係者から提案がなされていたが、来生はオサリヴァンのステージを観客として堪能したいとの思いで断っていた。しかし、観覧後にオサリヴァンの楽屋を訪れたところ、オサリヴァン自身からデュエットをしたい旨を告げられたため、わずか2日後の共演を承諾したという[58]。ちなみに、2人は同年の9月1日、イギリス領内のジャージー島にあるオサリヴァンの自宅において初対面をする。来生には憧れの人物に直接会いたいという願望はなく、寧ろ会ってイメージが壊れてしまうことに不安もあったが、オサリヴァンは思い描いていた通りの人柄で、その素朴な生活スタイルも想像と違わず、良かったと述べている。来生えつこ曰く、“2人は変わり者同士”らしい[25]。後年、「Can't Think Straight」は日本国外では来生のパートがペギー・リーの歌唱による英語詞に差し替えられ、世界発売されることとなる。

1995年7月21日、歌手デビュー20周年記念として、東京はNHKホールにおいて『20周年スペシャルコンサート 浅い夢から』を開催した。このステージの一部は映像作品『TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から』に収められている。

2000年11月10日、歌手デビュー25周年記念アルバム『Dear my company』をリリース。大橋純子、中森明菜、薬師丸ひろ子とのデュエットに加え、作家陣に、井上陽水、忌野清志郎、尾崎亜美、永六輔、柚木美祐を迎える等、特別の1枚となった。

2001年、『Stand Alone』と題したピアノの弾き語りコンサートを初めて開催した。以降、フルバンド編成と共に恒例のスタイルとなる。なお、バックバンド“スタートル”のメンバーをサポートに迎えるソロステージも『Stand Alone』の一環として捉えられている。

2005年、歌手デビュー30周年記念コンサートツアー『30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』が開催され、12月26日、東京は中野サンプラザにおいて行われた『30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』のステージは、映像作品『TAKAO KISUGI 30th Anniversary X'mas Concert 2005 avantage』に収められている。

2010年末『来生たかお 35th Anniversary スペシャル・ライブ2010 Stand Alone Christmas Color』が開催され、翌2011年、歌手デビュー35周年企画コンサートツアー『来生たかお 35th Anniversary Concert Tour 2011 ひたすらに』が開催された。さらに、オリジナルアルバム『ひたすらに』をタイトルに冠したコンサートツアーが2011年にスタートした。

2011年7月1日、歌手デビュー35周年記念として、東京はサントリーホールにおいて『来生たかお 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011』を開催した。前2010年の夏、事務所のマネージャー兼社長から、歌手デビュー35周年であり、かつソロライヴを初めて10年の節目でもあることから、サントリーホールでの公演を持ち掛けられた。来生は当初、クラシックコンサートが主体である同ホールに立つことに迷いもあったが、先々の事柄に承諾を出してしまう性格であるため、実現に至った。また、引き受けてしまったことに対する不安と後悔で、公演当日まで戦々恐々としていたという[59]。

関連エピソード
提供曲・被カヴァー曲
※個々の楽曲に関しては来生たかお関連作品「提供曲」「被カヴァー曲」参照

2010年1月現在、提供曲は400曲を超えている。提供先は女性歌手が多いが、アイドル系(河合奈保子、斉藤由貴、西村知美、中森明菜、南野陽子、松田聖子、山口百恵、等)、シンガーソングライター系(小椋佳、さだまさし、やしきたかじん、等)、歌謡曲系(伊東ゆかり、西郷輝彦、橋真梨子、布施明、等)、演歌系(五木ひろし、島倉千代子、森進一、等)と、多方面に亘る。三浦友和、桃井かおり、倉橋ルイ子、平井菜水は、全収録曲が来生たかおの手によるアルバムを発表している。

「Goodbye Day」、「夢の途中(セーラー服と機関銃)」、「スローモーション」、「セカンド・ラブ」等、多くのアーチストが来生作品をカヴァーしており、「Goodbye Day」に至っては中国や韓国にも母国語によるカヴァーヴァージョンがいくつも存在する。

岡村孝子が歌った「はぐれそうな天使」は、提供曲ではなく、カヴァー曲である。どちらのヴァージョンもHonda「Today」のCMで流れたが、彼女のヴァージョンの方がヒットしたため錯誤が生じやすい。

椎名純平・椎名林檎兄妹は、母親の影響で来生たかお作品に愛着があるようで、共にカヴァー(椎名純平は「浅い夢」をアルバムでレコーディング、椎名林檎はステージで「マイ・ラグジュアリー・ナイト」を披露)している。

小堺一機は大の来生ファンであることを公言しており、来生えつこからの提案で実現したデビュー曲の「with」(企画アルバム『LABYRINTH II』参照)をはじめ、多くの楽曲提供を受け、自身のアルバム『with K』では来生とのデュエットも果たしている。「with」はライヴ用の楽曲で、当初はリリースの予定はなかったという[60]。ちなみに、小堺の妻は来生自身が歌う同曲を聴き、“こんな良い歌だったんだ”との感想を漏らしたという[61]。楽曲提供に際し、小堺からは“易しい曲を”と頼まれたが、聴く度に上達して行く彼なら歌いこなせるだろうと、来生はあえて難しい曲を提供していたという[23]。

提供曲「モニュメント」を歌った沢田聖子は、高校時代から来生のファンで、念願の1曲だったらしい。

「Goodbye Day」をカヴァーしたJUJUは、元々80年代初頭の音楽が好きで、中森明菜へ楽曲提供もしている来生たかおを“素晴らしい作家さん”と評している。もし来生が演歌調になったこのカヴァーを聴いたとしたら“ビックリされるんじゃないかな”とも語っている[62]。

時東ぁみのアルバム『A好きです…。』をプロデュースしたつんく♂は、収録曲「小夜子」を作った来生たかおを“すごいメロを生み出す人”と評している[63]。また、同曲の元々の提供歌手である山瀬まみも、収録アルバム『RIBBON』の中で一番好きな曲と雑誌のインタビューで答えている。

「セカンド・ラブ」をカヴァーした徳永英明は、メロディーは心地好いが自身の中に植え付けられていない譜割であり、レコーディングは苦労したという[64]。また、「Yahoo!ライブトーク」にて、歌唱に苦労した部分があったため、“どのように歌えば良いか来生たかお氏に尋ねてみたい”と語ったらしい。

GARNET CROWのヴォーカル・中村由利は、母親の影響で歌謡曲やニューミュージックを聴いており、最も影響を受けたのは来生のオリジナリティのある声だったという [65]。

「シルエット・ロマンス」をカヴァーしたこともある平井堅は、自作曲「アイシテル」の制作に際し、昭和の名曲を作った来生姉弟や阿久悠の名を挙げ、その歌詞やメロディーの美しさを自分なりに意識したと述べている[66]。

提供曲「another birthday」を歌った松たか子は、来生はデモテープでさらっとハミングで歌っていたが、いざ自分で歌うととても難しく、また、来生に対しては、美しい日本の言葉を歌っているとの印象が強かったため、自分で歌詞を書いてみたいと思ったという[67]。

提供曲「時を輝かせて」を歌った八神純子は、コンサートのMCにおいて、“他人の曲にはケチをつけたいが勢いがあって明るいから素直に好きになった”と述べたらしい[68]。

その他
来生ファンを公言する小堺一機は、コンサートにも足を運び、会場に祝いの花を送ることもある。失恋で落ち込んでいる時、友人から勧められて聴いたデビューアルバム『浅い夢』がきっかけとなり、セカンドアルバム『ジグザグ』は自ら入手したという。第1弾オリジナルシングルである「浅い夢」や、『ジグザグ』収録の「甘い食卓」「マダムとの散歩」に対し、“映像的で、洋画のような内容の歌詞で、当時こんな感じの歌は他に無かった”との感想を述べている。また、「Goodbye Day」を初めて聴いたのも上記の友人を通じてだったと語っている[21]。二人の初対面は日本テレビ系音楽番組『NTV紅白歌のベストテン』の楽屋で、デビューから間もない来生が話題曲のゲストとして出演した際、当時、同番組の前説を務めていた小堺がファンであることを伝えた。スターに囲まれながら楽屋で緊張していた来生は、“救われた気分だった”と回顧している[21]。また、小堺によれば、来生は勝手にステージに上がって来た女性客に“私、あなたの妻です”と迫られたことがあったらしい[61]。

フジテレビ系アニメ『みゆき』では、「疑惑」「白い愁い」「坂道の天使」「つまり、愛してる」「官能少女」「Goodbye Day」等が挿入歌として使われている。

フジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』の『テレフォンショッキング』で、タモリに“顔色が悪いですねぇ”“町工場のお兄さんと話してるみたい”等とからかわれた。この時、来生は小堺一機からの紹介で出演し、松任谷正隆を紹介している。また、テレビ東京系音楽番組『タモリの音楽は世界だ』にゲスト出演した時は、タモリの所属事務所(田辺エージェンシー)社長・田邊昭知にルックスが似ていると評された。

さくらももこはかつて、友達が他のアーティストのコンサートに行く中、一人で来生のステージを観に行き、テレビ出演もまめにチェックするほど、外せないミュージシャンだったと述べ、来生は“理想の上司”像であったことも回顧している[69]。また、自身がプロデュースしたアルバム『Sakura Classics Tabidachi Selection』『SAKURA CLASSICS White Selection』(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)には共に来生の楽曲が収録されている。2017年11月、作詞をさくらももこ、作曲を来生が手がけ、1曲毎に別の歌手が歌った7曲入りのアルバム「One Week」がリリースされた。この企画は、さくらが7編の詩を来生に送って作曲を依頼したものである。これまで2人は全く面識がなかったため、来生は「何故自分なのか」と驚いたが、依頼の手紙の「私は35年来のファンです」という言葉に感動して引き受けた。さくらの急逝直後の2018年9月1日、神奈川県民ホールでのライブで来生はこのエピソードを明かした上で、このアルバムから2曲(1曲はアンコールの最終曲)を歌い、さくらを追悼した。

杉田かおるは子供の頃“キスギタカオル”と呼ばれてからかわれたことがあったという[70]。

漫画「キャプテン翼」の登場キャラクターである“来生哲兵”は、作者・高橋陽一が来生たかおのファンで、来生たかおの息子の名前を拝借したと言われている。

ギルバート・オサリヴァンのベスト盤CD-BOX『CARICATURE: THE BOX』(2004年1月1日)のブックレットには、競作シングル「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」のジャケット写真(オサリヴァン版)が掲載されており、来生たかおに関する“a very famous and well-known aritist”“a Big fan of Gilbert”との記載も見受けられる。なお「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」の音源は収録されていない。

兵庫県新温泉町の湯村温泉にある、芸能・文化人の手形を数多く展示した“ふれあい手形散歩道”には、来生の手形も飾られている(柳通り上側、温泉橋〜繁栄橋区間)。

2006年、林眞須美著/高橋幸春・長冨俊和編『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集』(講談社)と題された書籍が刊行されている。2009年のコンサートではこの本をMCの話題に取り上げた後、「シルエット・ロマンス」を披露している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%9A%86_(%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC)
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/695.html#c1

[近代史7] 「翼をください」 村井邦彦(1945年3月4日 - ) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:21:32 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[18]
村井邦彦(むらい くにひこ、1945年3月4日 - )は、東京都出身の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で知られている。アメリカ合衆国・ロサンゼルス在住[1]。息子のヒロ・ムライはアメリカで活躍する映像作家、映画監督で、2018年のグラミー賞最優秀ミュージック・ビデオを受賞した。

人物
暁星小学校、暁星中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科に進学[2][3]。慶應義塾大学在学中、学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」に所属。大学3年の時、東京都港区赤坂にレコード店「ドレミ商会」を開店した。1966年に大学を卒業、グループ・サウンズ全盛期の1967年にヴイッキー・レアンドロスに『待ちくたびれた日曜日』を提供し作曲家としてデビュー、1968年にはテンプターズに『エメラルドの伝説』を提供した。

1969年にパリ・バークレー音楽出版社と契約して「マイ・ウェイ」などの日本国内における版権を獲得、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立。その後、1972年にスタジオA及びアルファ&アソシエイツ、1977年にアルファレコードを相次いで設立した。

自身がプロデューサーとなり、それまでポップス曲を提供する裏方としての作家活動を主体としていた荒井由実(婚姻後「松任谷由実」)をシンガーソングライターとしてデビューさせた[4]。ティン・パン・アレーを見いだし、アーティストのレコーディングの際にはスタジオミュージシャンとして起用した。1970年代末から1980年代にかけて元ティン・パン・アレーの細野晴臣が中心となって結成されたイエロー・マジック・オーケストラを世界的な成功に導いた。事業の海外進出を期に、1992年に活動の拠点をアメリカに移した。

作曲に関しては、東海林修に学んだところが多いと語っている。映画音楽が好きでミシェル・ルグランに私淑する。勝プロ作品などの音楽監督を経て、1977年に『悪魔の手毬唄』で音楽監督をつとめた市川崑監督『火の鳥』では映画プロデューサーとしてルグランに主題曲の作曲を依頼した。その後、発明家の上野隆司とヴィラスミュージックを立ち上げ、村井は代表取締役会長を務めている。

「月刊てりとりぃ」において連載コラム「LAについて」を連載中。「週刊てりとりぃ」では、山上路夫、宇野亜喜良、日向大介とのコラボレイションで「歌はいかがですか」という企画を連載。これは毎回書き下ろしの短い尺の歌を発表するもので、自身が作曲と歌唱を担当している。

エピソード
1969年に自ら歌って発売したシングル曲「朝・昼・夜」は、当時、「(特にラジオで流すと)作品中の天気予報の部分が、実際の天気予報と紛らわしい」という理由で、日本民間放送連盟(民放連)から要注意歌謡曲指定を受けているが[5]、該当する部分をカットすれば放送可能である。

提供曲

あ行

愛の伝説(歌:ザ・フィンガーズ)
朝に別れのほほえみを(歌:ザ・タイガース)
朝まで待てない(歌:ザ・モップス)
あのこの心はボクのもの(歌:ビッグ・マンモス)
或る日突然(歌:トワ・エ・モワ)
イカルスの星(歌:ザ・ラヴ、編曲のみ)
イマジネイション(歌:ザ・リリーズ)
失われたもの達(歌:ROW)
美しい愛の悲しみ(歌:江田聖明とザ・ブレイズ)
美しき愛の掟(歌:ザ・タイガース)
美しい星(赤い鳥、森山良子、ベッツィ&クリス、天地真理、など)
栄光の朝(歌:フィフィ・ザ・フリー)
エイジズ・オブ・ロック・アンド・ロール(歌:ハイ・ファイ・セット)
エメラルドの伝説(歌:ザ・テンプターズ)

か行

美しすぎて(歌:GARO)
風は知らない(歌:ザ・タイガース)
君を許す/ラヴ・ラヴ・ラヴ(歌:ザ・タイガース)
旧約聖書(歌:アダムス)
ギリシャの丘(歌:アダムス)
経験(歌:辺見マリ、サーカス)
恋人(歌:森山良子)
恋人たちの森(歌:ザ・バロネッツ)
恋人の楽園(歌:トニーズ・ファイブ・ジャックス)

さ行

ざんげの値打ちもない(歌:北原ミレイ)
幸せになるため(歌:ハイ・ファイ・セット)
少女へのソナタ(歌:ザ・フィンガーズ)
白い風を見る日(歌:ザ・ハーフ・ブリード)
白いサンゴ礁(歌:ズー・ニー・ヴー)
スカイレストラン(歌:ハイ・ファイ・セット)
すてきなクリスティーヌ(歌:ザ・フィンガーズ)
砂のお城(歌:アダムス)
そりゃあないぜセニョリータ(歌:ケーシー高峰)

た行

太陽の剣(歌:ザ・ブルーインパルス)
旅立つ朝(歌:江利チエミ)
旅人(歌:美空ひばり)
小さな恋人(歌:ザ・ブルーインパルス)
翼をください(歌:赤い鳥)
ドアを開けて(歌:ザ・リリーズ)

な行

虹と雪のバラード(歌:トワ・エ・モワ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツなど、札幌オリンピックテーマソング)
眠れる乙女(歌:アダムス)
野ばらの小径(歌:ザ・マイクス)

は行

廃虚の鳩(歌:ザ・タイガース)
はじめての涙(歌:江田聖明とザ・ブレイズ)
ファニーの恋人(歌:ザ・キングス)
星空の孤独(歌:和田アキ子、編曲のみ)
頬つたう涙(歌:ザ・リリーズ)

ま行

待ちくたびれた日曜日(歌:ヴィッキー(1967)、オックス、など)
ミッドナイト急行(歌:アパッチ)
ミドリ色の屋根(歌:ルネ・シマール) (en)
メランコリー東京(歌:ザ・ブルーインパルス)

や・ら・わ行

夢の牧場(歌:ザ・マイクス)
夜行列車(歌:ザ・リリーズ)
夜明けに消えた恋(歌:ザ・ブルーインパルス)
夜と朝のあいだに(歌:ピーター)
ララの秘密(歌:ザ・キングス)
ランブリン・マン(歌:ザ・マイクス)
悪なあなた (歌 : 津々井まり)
忘れていた朝(歌:赤い鳥)

著書
村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック(原著2018年10月22日)。ISBN 978-4845633050。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E9%82%A6%E5%BD%A6
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/694.html#c1

[近代史7] 「高校三年生」 遠藤 実(1932年7月6日 - 2008年12月6日) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:26:18 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[19]
遠藤 実(えんどう みのる、1932年(昭和7年)7月6日[2] - 2008年(平成20年)12月6日)は、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町(後の東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区立花)[2]に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。


人物
作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ、舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する(橋幸夫、千昌夫、山本リンダ、こまどり姉妹、渥美二郎等の楽曲)。

第二次世界大戦時の1943年3月、新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開する[3]。 父が新潟刑務所の看守へ配属されることが決まり新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)に引っ越しする[4]。

高等小学校卒業後、14歳で日東紡績内野工場の工員となる[5]。

1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる[6]。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。

1949年7月、17歳の時に上京[7]。様々な職を経て[8]、ギターを携えて流しの演歌師になる[9]。

星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が[10]、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー[11]。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという[11]。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。

その後日本マーキュリーの専属作曲家となる[12]。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒット[13]。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)を発表し大ヒット[14]。その後日本コロムビア専属になる[15]。

1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く[16]。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり[17]、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給された。

1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し[18]、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任[19]。その後、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。

1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける[20]。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界の重鎮である作詞家松井由利夫・石本美由紀、猪俣公章、弟子である冬樹かずみ等に前もって依頼した経緯がある。この時の呼びかけにより、三木たかし等も賛同した。翌1989年、テレビ朝日で『玉置宏の歌謡日本』が日本音楽作家教会の協賛で放送開始。病中ながら関連資料の監修等積極的な音楽活動に貢献。

1994年、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に遠藤実記念館「実唱館」がオープンした[21]。

2002年、勲三等旭日中綬章受章[22]。2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。

2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。76歳没。

2008年12月19日、日本国政府は遠藤に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした遠藤の功績を讃え、死去した12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決めた。更に2008年12月26日の閣議に於いて、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを正式決定した[23]。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者でもあった。

晩年は「再販制度廃止反対」運動を行っていた縁から、第3代日本共産党中央委員会議長の不破哲三と交流があった[24]。

2009年8月1日に、新潟県新潟市の地下街『西堀ROSA』の一角に遠藤実メモリアル・ルームが開設されている。

2017年3月、新潟市西区の内野駅前広場に「遠藤実顕彰碑」が建立された[25]。


略歴
1932年、東京・向島に生まれる。
1979年、日本演歌大賞を受賞。
1989年、日本音楽作家協会を設立、会長に就任。
1990年、紫綬褒章を受章。
1994年、日本大衆音楽文化協会会長に就任。
1995年、日本音楽著作権協会会長に就任。
2002年、勲三等旭日中綬章を受章。
2003年、文化功労者として顕彰される。
2005年、日本作曲家協会会長に就任。
2007年、日本音楽作家協会名誉会長に就任。
2008年、死去。正四位に叙され旭日重光章を授けられる。戒名は法唱院殿音海実道居士。
2009年、国民栄誉賞を受賞。


主な作品

破れソフトのギター流し(藤島桓夫、1952年) ※作曲者名義は「星幸男」
お月さん今晩わ (藤島桓夫、1957年4月)
からたち日記 (島倉千代子、1958年11月)
おもいで日記 (島倉千代子、1959年7月)
浅草姉妹 (こまどり姉妹、1959年11月)
アキラのズンドコ節 (小林旭、1960年)
初恋マドロス (美空ひばり、1960年)
ソーラン渡り鳥 (こまどり姉妹、1961年5月)
おひまなら来てね (五月みどり、1961年5月)
襟裳岬 (島倉千代子、1961年6月)
若いふたり (北原謙二、1962年8月)
一週間に十日来い (五月みどり、1962年11月)
高校三年生 (舟木一夫、1963年7月)
ギター仁義 (北島三郎、1963年8月)
修学旅行 (舟木一夫、1963年9月)
学園広場 (舟木一夫、1963年10月)
哀愁出船 (美空ひばり、1963年)
仲間たち (舟木一夫、1963年12月)
君たちがいて僕がいた (舟木一夫、1964年5月)
青春の城下町 (梶光夫、1964年)
他人船 (三船和子、1965年) ※作詞も遠藤
星影のワルツ (千昌夫、1966年3月)
太陽も笑っている (千葉真一、1966年9月)
妻に捧げる歌 (千葉真一、1966年9月)
こまっちゃうナ (山本リンダ、1966年11月) ※作詞も遠藤
新宿そだち (大木英夫・津山洋子、1967年10月)
ついてくるかい (小林旭、1971年4月)
純子 (小林旭、1971年10月)
長崎恋ものがたり/雪国の女(春日八郎、1972年)
せんせい (森昌子、1972年7月)
旅鴉 (五木ひろし、1972年11月)
中学三年生 (森昌子、1973年2月)
くちなしの花 (渡哲也、1973年8月)
白樺日記 (森昌子、1973年8月)
おかあさん (森昌子、1974年8月)
みちづれ (渡哲也、1975年/牧村三枝子、1978年10月)
悲恋草/たそがれたずねびと(三橋美智也、1976年)
すきま風 (杉良太郎、1976年10月)
浅草人情 (橋幸夫、1977年2月)※作詞も遠藤
北国の春 (千昌夫、1977年4月)
ひとり (渡哲也、1977年4月)
江戸の黒豹 (杉良太郎、1977年)
夢追い酒 (渥美二郎、1978年)
哀愁列島 (小林旭、1979年2月)
秋田旅愁 (順弘子 1979年8月)
大東京音頭 (橋幸夫・金沢明子/三波春夫/三橋美智也・藤野とし恵 ほかによる競作、1979年)
街のコスモス(橋幸夫、1979年9月)
合唱交響曲「般若心経の響き」(ロイヤルナイツミンツ・東京荒川少年少女合唱団、1979年)
君は人のために死ねるか (杉良太郎、『大捜査線』主題歌、1980年)
ふたりの坂道(春日八郎、1981年)
南風 (小柳ルミ子、1981年)
冬支度 (牧村三枝子、1984年)
昭和流れうた (森進一、1985年4月)
愛しても今は他人 (八代亜紀、1985年4月)
ときめきワルツ (山川豊、1986年2月)
昭和川 (順弘子、1987年2月)
雪椿 (小林幸子、1987年6月)
再会物語 (里見浩太朗、1988年12月)
荒野をひとり(橋幸夫、1990年3月)※c/wの「母」は橋夫人の詩に遠藤が作曲
火の酒 (島倉千代子、1996年1月)
歌 (橋幸夫、1999年4月)※作詞も遠藤
季節の中で (三ツ木清隆、2010年11月)


団体歌 
由利本荘市立岩城中学校 校歌
新潟市立西内野小学校 校歌
新潟県立長岡明徳高等学校 校歌
壱岐市立芦辺小学校 校歌
南魚沼市歌
佐川急便 社歌 ※作詞も遠藤

門下生

橋幸夫(当初は遠藤の門下生で、遠藤に連れられビクターのオーディションを受け吉田正の下へ移った)
こまどり姉妹
舟木一夫
千昌夫
小林旭
森昌子
藤健次
冬樹かずみ(翌年推薦により猪俣公章の最後の門下生となる)
島倉千代子
山本リンダ
渡哲也
五月みどり
杉良太郎
いではく
一節太郎
順弘子
岸浩太郎
祭小春
梶光夫
伸歌華

書籍
『太陽も笑っている』
『しあわせの「源流」』 (1997年11月、講談社) ISBN 4062089823
『私の履歴書』 (日本経済新聞、2006年6月連載)
『涙の川を渉るとき 遠藤実自伝』日本経済新聞出版社、2007年、ISBN 978-4-532-16584-0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%AE%9F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/692.html#c1

[近代史7] 「風」 はしだ のりひこ(1945年1月7日 - 2017年12月2日) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:32:01 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[20]
はしだ のりひこ(本名:端田 宣彦、1945年1月7日 - 2017年12月2日[1])は、日本のシンガーソングライター、フォークシンガー。身長163cm。愛称はのりちゃん。娘は舞台女優の端田新菜。

京都府京都市生まれ。4人兄弟の長男。同志社高等学校を経て、同志社大学神学部に進学。8年と2年の休学で10年在籍し、退学。


活動
高校2年の文化祭でギターを始める。1964年にドゥーディ・ランブラーズの一員としてデビューした後、加藤和彦に請われて1968年にザ・フォーク・クルセダーズの一員として参加する。フォーク・クルセダーズが1968年10月に解散した後、「はしだのりひことシューベルツ」や「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」「はしだのりひことヒポパタマス」のリーダーを務め、ソロに転向。

ドゥーディ・ランブラーズ
同志社大学の学生であった藤原洪太、田平義昭、端田宣彦らによって1964年に結成された。1967年6月5日にクラウンレコードから「真っ赤なリボンとおさげのあの娘/戦いは一度でいい」を発表。「戦いは一度でいい」は歌詞が全編英語で作られている。

ザ・フォーク・クルセダーズ
「何のために」は、レコード未発表のはしだのオリジナル曲に、北山が新たな歌詞をつけたもの。
フォーク・クルセダーズの代表曲「帰って来たヨッパライ」は、はしだの加入以前に制作された曲であるため参加していないが、ステージでは彼の持ち歌となっていた。


はしだのりひことシューベルツ
はしだのりひことシューベルツを参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%AE%E3%82%8A%E3%81%B2%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84

はしだのりひことマーガレッツ
少女たちを従えたマーガレッツを結成し、中津川フォークジャンボリーで演奏。テレビにも出演したが、レコードの発表には至っていない。


はしだのりひことクライマックス
メンバーははしだのりひこ、藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟。
1971年に「花嫁」が大ヒットし、この年の第22回NHK紅白歌合戦にも出演。他に2枚目のシングル「ふたりだけの旅」がスマッシュ・ヒット。3枚目「この胸に」、4枚目「沈黙」がリリースされた。
スタジオ録音アルバムは製作途中で頓挫し、ライブアルバムが1枚残されただけであった。
また、シングルリリースを予定していた「戦争は知らない」や、LP用の「嫁ぐ日」などが、録音されながらも、現在まで30年以上も公式に音盤化されずに、幻となっている。制作途上で解散したことや坂庭の死去もあり公式発表はまず不可能に近い。


はしだのりひことエンドレス
メンバーは、はしだのりひこ、林竹洋子、和泉常寛、北村謙(病気のため途中脱退)。千田雄一や、水城英明が在籍した時期も有り。
「嫁ぐ日」が水平ヒットとなる。テレビ番組『凡児の娘をよろしく』(関西テレビ制作・フジテレビ系列)のテーマ曲として長く愛された。
「はしだのりひことシューベルツ」「はしだのりひことクライマックス」はメンバー四人のグループ名であり、シューベルツ、クライマックスのみでもメンバー全員のことを指した。エンドレスは、はしだのりひこ以外のメンバーがエンドレスであることが明言されているが、エンドレス単体での活動は行っていない。
エンドレスは、「嫁ぐ日/霜の音」の他にシングル「時は魔法使い/海はきらいさ」「初恋物語/青春は涙の旅」「ひとり/明日の色は」、LP『はしだのりひことエンドレスVol1』をリリースするが、大ヒット曲のないまま、解散を迎えた。
カゴメトマトケチャップのCMソング「赤いキッス」(作詞・阿久悠、作曲・小林亜星)を歌っている。
リードヴォーカルを務めた林竹洋子は解散後、広島県・山口県を拠点としてソロ歌手・ローカルタレントとして活動し、現在は柏村武昭夫人である。柏村と林竹はRCCラジオの『サテライトNo.1』で共演していた。
『サテライトNo.1』の企画で制作された林竹のソロシングル「青春ジェネレーション」(作詞・石川良)/B面「生きているのに」(作詞・永六輔)では両曲の作曲をはしだのりひこ、編曲を和泉常寛が務めた(発売:東芝EMI)。

その後
ソロ活動を開始。フォークルファミリーとは長らく没交渉に近かったが、2001年にドリーミュージックから出したミニアルバムのライナーノーツには北山修が寄稿している。

並行して妻の看病に専念したとされる時期もあったことから「主夫」としての活動が話題になったこともあり、その方面での法人団体にも関与した。主夫としての体験記を雑誌に連載し、これが後に『おとうさんゴハンまーだ』という本にまとめられ、『風のあるぺじお』の題で映画化された。

2017年4月23日、KBS京都開局65周年企画「京都フォーク・デイズ ライブ〜きたやまおさむ〜と京都フォークの世界」にゲスト出演、約10年ぶりに表舞台に車椅子姿で現れ、10年ほど前からパーキンソン病を患っていたことを公表した。このKBS京都のライブの後に京都市内の病院に入院したため、これが公の場に姿を見せた最後の場となった[1][2]。

2017年5月から白血病も患っており[2]、12月2日午前1時16分、パーキンソン病のため死去[3][1][2]。72歳没。

12月6日に行われた告別式には、参列者約600人が集まり、杉田二郎の音頭の元、ヒット曲「風」を大合唱した[4][5]。

著書
『おとうさんゴハンまーだ』(教育史料出版会,1986年)ISBN 4876520151
『親父たたかう:息子よ、語り合いたいこの時を』(文化出版局,1991年)ISBN 4579303334
『自然とおしゃべり:はしだのりひこアウトドア対談』(つむぎ出版,1994年)ISBN 4876681007
などのエッセイがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%AE%E3%82%8A%E3%81%B2%E3%81%93

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/691.html#c1

[近代史7] 「聖母たちのララバイ」 木森 敏之(1947年7月24日 - 1988年4月11日) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:34:35 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[21]
木森 敏之(きもり としゆき、Toshiyuki Kimori、Toshu Kimori、 1947年7月24日 - 1988年4月11日)は、作曲家・編曲家。北海道出身[2]。1970年、日本大学芸術学部卒業。

ロスアンゼルス DICK GROVE ミュージックワークショップ卒業。


来歴・人物
代表作として『聖母(マドンナ)たちのララバイ』(岩崎宏美。John Scottと共作扱い、共作となった経緯については同曲の項を参照のこと)、『サンセット・メモリー』(杉村尚美)、『心の色』(中村雅俊)があり、1980年代前半のヒットメーカー作曲家として知られたが、病に倒れ、急性肺炎により40歳で死去した。

数々のテレビ主題歌・ポップスを国内外のアーティストに提供する他、実写映画『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』(1982年)、『時代屋の女房』(1983年)、 『海に降る雪』(1984年)、『きみが輝くとき』(1985年)、アニメ映画『わが青春のアルカディア』(1982年)、『ゴルゴ13』(1983年)、『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!』(1986年)、テレビアニメ『キャプテン』(1980年、 1983年)、『伊賀野カバ丸』(1983年)、『ダーティペア』(1985年)、『銀牙 -流れ星 銀-』(1986年、OP・EDおよび挿入曲)、テレビドラマ(単発)『太陽は沈まず〜海よ!小さな戦士の歌を聞け』『千羽鶴幻想』『飛鳥・まだ見ぬ子、清子の母として』『化粧』『女刑事・遠山玲子 焼きつくす』、 テレビドラマ(連続)『あさひが丘の大統領』『結婚の四季』『われら動物家族』『女かじき特急便』『クセになりそな女たち』、テレビドラマ(シリーズ)『黄金の犬』『炎の犬』『パパになりたかった犬』などのテーマ曲ないしは挿入曲およびBGMの作・編曲、「球形の荒野」をはじめとする初期(1981年 - 1987年)の『火曜サスペンス劇場』の主題曲および主題歌、アイキャッチと予告編およびCM曲の作・編曲、ドラマ本編のBGMの作・編曲(「可愛い悪魔(大林宣彦監督、1982年)」なども含む)に携わり[注 1]、民放系列(主にNTV、CX系)への音楽提供活動が目立った。

加えてペンネーム"キース・モリソン(Keith Morrison、 Kirth Morrison、前者はJASRAC登録名、後者は主にサントラLPのクレジット表記)"名義で、ドキュメンタリー映画『世界の空軍 AIR FORCE'82 ドッグ・ファイト』(1982年)をはじめ、『クレージーモンキー 笑拳』(1980年、テーマ曲)、『死亡の塔』(1981年)、『少林寺』(1982年)[注 2]、『スパルタンX』(1984年)などカンフー映画の日本版LP制作も担当していた。

アメリカ留学からの帰国後、「熱砂/町田義人PART I」(1976年)、「町田義人PART II」(1977年)、 高見山大五郎「スーパー・ジェシー」(1977年)といったアルバムの制作(作・編曲)に携わる一方で、 アレンジャーとしても活躍し、映画では『蘇える金狼』(1979年、松田優作主演)のBGMとしてケーシー・ランキンに編曲を提供[注 3]、レスリー・マッコーエン「花の首飾り」「銀河のロマンス」(すぎやまこういち作曲)を英語版カバーバージョンでのプロデュースおよび編曲(1980年)、谷村新司作詞作曲の「青春残酷物語」の編曲(1984年)などを担当した。アルバムでは加藤登紀子の『いく時代かがありまして』(1975年)、森田童子の『グッド・バイ』(1975年)、ツイストの『ツイストII』編曲(1979年)、中村雅俊のLP編曲(1980年、ロスアンゼルス録音)、しばたはつみのLP編曲(1981年、ロスアンゼルス録音)、ニコ・ラムズデンのアルバムプロデュースおよび編曲(1981年、ロスアンゼルス録音)、ジミー・オズモンドの日本制作アルバムプロデュースおよび編曲(1981年、演奏はロックバンドのSHŌGUN)、中原めいこの『ココナッツハウス』(1982年)、渡辺徹の『Talking』(1983年)、田中健 の『Amazing』(1983年)などがある。その他、刀根麻理子のアルバム『WITTY』のプロデュース(1985年)においては自作のメロディーの編曲をラリー・ウィリアムズに委嘱した。

他方でバラエティ分野での活動はまれであったが、「欽ちゃんの全日本仮装大賞テーマ」の作曲が知られている。

主な作品
あおい輝彦「しゃれた沈黙」(編曲)
秋山ゆり 「別れのページ」(作曲)
麻生よう子「B1パブ」(作曲・編曲)「涙のかわくまで」「恋のサバイバル1・2」(編曲)
因幡晃「ヴィオロンの響き」(作曲)
岩崎宏美「聖母(マドンナ)たちのララバイ」「家路」「橋」「25時の愛の歌」(作曲・編曲)
岩崎良美「旅立つ少女」「揺れて純愛」「春一番を待ちわびて」(作曲)
NSP「面影橋」(福井峻と共同)「青い涙の味がする」(NSPと共同)(編曲)
エマヌエル(メキシコ) 「Será(ふたりの絵)」「El Día Esta Suelto Ya(愛のめざめ)」(作曲・編曲)
欧陽菲菲「愛と歌があれば 」(作曲・編曲)
大西結花「優しくて哀しくて」(作曲・編曲)
小椋佳「愛のピノキオ」(編曲)
尾崎紀世彦「Only Yesterday」「ニューヨーク・バラード」(作曲・編曲)
オスカル「レイズ・ザ・タイタニック 〜 タイタニック・フォエバー」(ケーシー・ランキンと共作)(作曲・編曲)(キース・モリソン名義)
小野寺昭「愛」(編曲)
柏原よしえ「毎日がバレンタイン」(編曲)
加藤登紀子「酔いどれの流れ唄」「私は修羅」(編曲)
グラシェラ・スサーナ「黒い瞳はお好き?」「流れ星」「絹の瞳」(作曲・編曲)
ケーシー・ランキン「ロンリーウェイ 〜 ロンリーウェイ」(作曲・編曲)(キース・モリソン名義)
小出正則「新しい空」(編曲)
サーカス「Tendernessを抱きしめて」(作曲・編曲)
真田広之 「彩り河 〜 Believe in Love」(作曲・編曲)
ザ・グレート・カブキ「ハート・オブ・ライオン」(作曲・編曲)
サンディエゴ 「空翔ける馬のように」 (糸数ガンジーと共作)(作曲・編曲)
しばたはつみ「Show Me The Way」「最終夜行列車」(作曲・編曲)
ジミー・オズモンド(アメリカ)「君はプリティー」「TOKYOサバンナ」(編曲)
シュガー「サーカス・ゲーム」(作曲・編曲)
杉村尚美「サンセット・メモリー」(作曲・編曲)
セブンティーン・クラブ「ス・キ・ふたりとも」(作曲)
世良公則&ツイスト「燃えつきぬ」(作曲・編曲)、ツイスト「燃えろいい女」(編曲)
高見山大五郎「スーパー・ジェシー」「夢見るジェシー」(作曲・編曲)
田中健 「愛のめざめ」「ふたりの絵」(作曲・編曲)「眠らせて(Quiero Dormir Cansado)」(編曲)
ちあきなおみ「Again」(作曲・編曲)
長南百合子とシルクロード「終章(おわり)」(作曲・編曲)
つちやかおり「あ・し・た何色」(作曲)
テイスト・オブ・ハニー 「She's A Dancer」(作曲)
刀根麻理子「YOU DON’T HAVE TO GO」「21世紀マヌカン」(作曲)
99Harmony「君は何かができる」「ありがとう」(作曲・編曲)
中原めいこ「今夜だけDance・Dance・Dance」(編曲)
中村雅俊「心の色」「君の国」(作曲)「燃える囁き」「揺れる瞳」(作曲・編曲)「野生のリサ」(編曲)
中森明菜「にぎわいの季節ヘ」(作曲)
ニコ・ラムズデン(イギリス)「Growing Up」「The Sun Comes Up」(編曲)
西郡よう子「この愛に生きて」(作曲・編曲)
西田敏行「風に抱かれて」(編曲)
パオ「リトルロマンス 〜 サンセット・キッス」(作曲・編曲)
パティ「明日…咲く」「この夢の果てまで」「太陽のユートピア」「愛のコーヒー・ブレイク」(作曲・編曲)
ヒデ夕樹「THE DOGFIGHTER」「 IF I COULD FIGHT THE WIND」(作曲・編曲)(キース・モリソン名義)
紘川淳「失恋ライブラリー」「恋景色」(作曲)
ピンク・レディー「罪な夏」(作曲)
ベリーズ「テレパシー」(作曲・編曲)
ヘレン笹野「キュン!と片想い」(作曲・編曲)
前野曜子 「蘇える金狼のテーマ」(編曲)
町田義人「行き止まり」(作曲・編曲)「この僕と」(作曲)「悲しみの果てる時」(作曲)「自由への旅路」(編曲)
水原ゆう紀「揺れながら、愛」「Please, call me again」(作曲・編曲)
南田伝「スパルタンX」(作曲・編曲)
三原順子「気まぐれSTING」(編曲)
宮内淳「青春の旗をふれ」「俺とおまえと」(作曲・編曲)
宮内タカユキ「流れ星銀」「TOMORROW」(作曲)
未来童子「ドキ・ドキ Do it! 〜ビシッとバシッと Rock'n Roll 学校編〜」(作曲・編曲)
村田有美「セクシー・ボディ」(作曲・編曲)
MORE(RIKA&MAMI) 「Together (Let us begin beguine)」(編曲)
森川美穂「赤い涙」(作曲)
森山良子「私の道」(作曲)
由紀さおり「かたちばかりの幸福」(作曲)
ルイス「翔んだカップル 〜 BOYS」(作曲・編曲)
レインボー・シスターズ「悲しきウェザーガール」(作曲・編曲)
渡辺徹「愛の中へ」「Season」「愛のように虹のように〜Talking」(作曲・編曲)「雨のメゾン201」(編曲)

その他
よくマスコミや書物やネット、あるいは通信カラオケの作家名表示等で大森敏之と誤記されることが多い。また、大森俊之(作曲家・編曲家)という人物もいるため、混同されがちである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%A3%AE%E6%95%8F%E4%B9%8B

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/689.html#c1

[近代史7] 『別れても好きな人』 佐々木 勉(1938年12月26日 - 1985年3月11日 ) 中川隆
1. 中川隆[-14627] koaQ7Jey 2021年12月10日 11:37:21 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[22]
佐々木 勉(ささき べん[1]、1938年12月26日[1] - 1985年3月11日[1])は、日本の作詞家、作曲家、歌手。

東京府出身(現在の東京都杉並区出身[1])。成城学園高校を経て成城大学卒業。本名は佐々木 勤(ささき つとむ)[1]。夫人は作詞家の笠間ジュン(前妻は女優の西尾美恵子)。

人物
現在の東京都杉並区荻窪で生まれ[1]、幼少期にバイオリンを習い音楽に親しむ[1]。

成城学園高校在学中にラジオ番組「素人ジャズのど自慢」で日本一となり[1]、バンド「カントリー・ケーパーズ」を結成し米軍キャンプを巡る[1]。成城大学に入学後、「小坂一也とワゴン・マスターズ」に参加[1]。大学卒業後は証券会社や広告代理店に勤務する傍ら作曲活動を行う[1]。

1964年、清原タケシの「夜空の星(後に「星に祈りを」と改題)」の作詞・作曲で作家デビュー[1]。その後、「いつまでもいつまでも」(ザ・サベージ)や「星に祈りを」(ザ・ブロード・サイド・フォー)を初めとする作品で世に知られるようになる。

1967年、カレッジ・フォーク系のソングライターとしてホリ・プロダクションに所属[1]、自身も「あなたのすべてを」で歌手(シンガーソングライター)としてデビューを果たす[1]。

1973年、東京音楽出版に音楽プロデューサーとして入社し作曲家活動を行う[1]。「夏のお嬢さん」(榊原郁恵)などのアイドル系歌謡曲、「別れても好きな人」「3年目の浮気」などのムード歌謡、或いは『魔法のプリンセス ミンキーモモ』主題歌などのアニメソングまで幅広いジャンルの楽曲を手掛けた。

1985年3月11日、急性肝不全のため46歳で死去。

シングル
あなたのすべてを
しのび逢う恋
憎めない人だから
別れても好きな人(ベン&あかね)
ふられ酒(亜紀あかね&UNCLE BEN)
ギターのように愛されたい(小林啓子&UNCLE BEN)
チューチューパッパ(なな子&BENCO)


主な提供曲

あなたのすべてを(徳永芽里、尾崎紀世彦)
星に祈りを(ザ・ブロード・サイド・フォー、ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
いつまでもいつまでも(ザ・サベージ)
渚に消えた恋(ザ・サベージ)
哀愁の湖(ザ・サベージ)
別れても好きな人(パープルシャドウズ、ロス・インディオス)
うつら・うつら(荒木由美子)
夏はすぐそこ(荒木由美子)(シングル「うつら・うつら」B面)
昼下がりのゲームセット(荒木由美子)(アルバム『ユミコ・イン・レイニーブルー』)
ミスター・ワンダラー(荒木由美子)(作詞・作曲)(アルバム『ユミコ・イン・レイニーブルー』)
意気地なし(荒木由美子)(作詞・作曲)(アルバム『ユミコ・イン・レイニーブルー』)
めざめのカーニバル(榊原郁恵)
夏のお嬢さん(榊原郁恵)
Do it BANG BANG(ドゥ・イット・バン・バン)(榊原郁恵)
あこがれ(榊原郁恵)
微笑日記 (榊原郁恵)
ラブジャックサマー(榊原郁恵)
夢みる想い(榊原郁恵)(TBS系『愛LOVEナッキー』主題歌)
メルシ・ボク(TBS系『メチャン子・ミッキー』主題歌)(シングル「潮風の少女」C/W曲)(堀ちえみ)
3年目の浮気(ヒロシ&キーボー)
5年目の破局(ヒロシ&キーボー)
ブラックボール(山口百恵)
マーシャの日記(ダークダックス)
恋のローラー・ブーツ(比企理恵)
陽気なフラ・ベイビー(比企理恵)
私はマチコ(今田裕子)アニメ『まいっちんぐマチコ先生』OPテーマ
ぼくらは小さな悪魔(大和田りつこ)アニメ『まいっちんぐマチコ先生』EDテーマ
ラブ・ラブ・ミンキーモモ(小山茉美)アニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』第1作OPテーマ
ミンキーステッキドリミンパ(小山茉美)アニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』第1作EDテーマ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%8B%89
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/688.html#c1

[近代史7] 「圭子の夢は夜ひらく」 曽根幸明(1933年12月28日 - 2017年4月20日) 中川隆
2. 2021年12月10日 11:40:33 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[23]
曽根 幸明(そね こうめい、1933年12月28日 - 2017年4月20日[1])は日本の作曲家、アレンジャー。

妻は女優・歌手の太田きよみ、娘はシンガーソングライターの曽根由希江[2]。

人物
東京都世田谷区出身。 日本大学文学部中退[3]。 「藤田功」の名で歌手・俳優活動の後、本名の「曽根幸明」で作曲家としての活動を始める(「曽根康明」名義で手掛けた楽曲も存在する)。

主に1960-70年代に活躍。

自作曲としては勝新太郎の「座頭市子守唄」や「いつかどこかで」(細川たかしも歌唱)、山川豊の「流氷子守歌」、森進一の「銀座の女」、藤圭子、園まりらの「夢は夜ひらく」( 練馬少年鑑別所で唱われていた俗曲を補作したもの)、藤圭子「命預けます」(編曲)などが代表作である。

また、『夢は夜ひらく』は「藤田功」名義で自らも歌っている。

他にも『象印スターものまね大合戦』など、1980年代にかけて審査員等としてテレビ番組にも登場し、親しみやすいキャラクターで人気を博した。 特にアール・エフ・ラジオ日本では昼の歌謡ワイド番組を中心に様々な番組を担当し、同局の顔として活躍していた。

病気治療などのため一線を退いたものの、晩年まで創作活動を続けていた。

作曲家の中本直樹は最後の弟子である。

2017年4月20日、肺炎のため死去。 83歳没[1][2]。

主な出演作
映画
藤田功 名義
命との対決(1960年3月、松竹):ジプシーの政
今夜の恋に生きるんだ(1960年4月、日活):藤川功 /同名曲も歌唱
借りは返すぜ(1960年9月、日活):梅田浩
続 男の紋章(1963年11月、日活):純平
男の紋章 風雲双つ竜(1963年12月、日活):純平
バラケツ勝負(1965年2月、東映):山田友三

著書
『つっぱり芸人道 /おたまじゃくしが泣いている』ベストセラーズ、1985年2月。ISBN 4584005710
『曽根幸明の昭和芸能放浪記 / 昭和の夢は夜ひらく』廣済堂、2007年7月。 ISBN 9784331512364。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%B9%B8%E6%98%8E

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/687.html#c2

[近代史7] 荒木 とよひさ(1943年[1]9月19日 - ) 中川隆
1. 2021年12月10日 11:43:43 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[24]
荒木 とよひさ(あらき とよひさ、本名:荒木 豊久、1943年[1]9月19日 - )は、日本の作詞家。


人物
旧関東州・大連の出身。敗戦で熊本に引き揚げた。
日本大学芸術学部を卒業、スキー部員だった。モーグルの開脚ジャンプで転倒し、右大腿骨を複雑骨折[2]。入院中に書かれた曲が「四季の歌」である。
1972年、「四季の歌」の作詞・作曲でデビュー。
演歌歌手の神野美伽は2回目の結婚における元妻。
その後、有限会社荒木組、フォークグループ伝書鳩のメンバーとして活躍する。
3代目あばれはっちゃくの荒木直也は最初の妻との間に生まれた長男である。
2005年、紫綬褒章受章[3]。
2010年から2012年まで、日本作詩家協会副会長を務めた[4]。

作詞した楽曲

あ行
アグネス・チャン「この身がちぎれるほどに-Lovin' you is killin' me-」「悲しみの誕生」「忘れないで -time to say goodbye-」「believe〜永遠の輪廻〜」「私小説-my love story-」「想い出が多すぎて-Lost Memory-」「わたしだけの少年」「愛のゆくえに〜fallin' love〜」「心の旅人」「能登の夕陽に染められて」「愛は奇跡のように」
阿蘇千里「純情」
亜由良「女性たちへの予感」
井上望「おはよう!スパンク」
石原裕次郎「嘆きのメロディー」
五木ひろし「雨あがり」「そして…めぐり逢い」「愛のバラードをとなりで」
伊藤かずえ「哀愁プロフィール」「風と光のスニーカー」「エンドレス・サマー」「Air-mailの最後に」「亜麻色の風の中を」「冬の星座」「悲しみのシルバー・レイン」「Spring Love Song For You」「恋にハートを瞳に☆を」」「ファースト・ベルを聴かせて」「黄昏はあの日のように」「孤独なランナー」「アガサの栞(しおり)」「幕ぎれの雨」「進化した伝説」「別れの場面」「アスファルトの河に」「ノアの箱舟」「微笑みの裏側」「あした・さよなら」
伊藤麻衣子「わたしの胸に」
岩崎宏美「そばに置いて」
浦辺粂子「わたし歌手になりましたよ」
エンレイ「テレサの羽根」「時の流れに身をまかせ〜パート2〜」
尾崎紀世彦「OPEN YOUR EYES FOR ME」
小沢亜貴子「虹のむこうに鐘が鳴る」「八月のクリスマス」
小野寺昭・篠ひろ子「北の街・恋の味」
小田達也「愛の嵐」


か行
影山ヒロノブ「鳥人戦隊ジェットマン」「こころはタマゴ」(鳥人戦隊ジェットマン)
風見慎吾(現・風見しんご)「そこの彼女」「涙のtake a chance」
柏原芳恵「待ちくたびれてヨコハマ」「黄昏のダイアリー」「化石の森」
角川博「おまもり」
加納ひろし「銀座」「夜明けの前に」「バラの香水」「舞踏曲PART II」「夜の雨」「青空の迷子たち」「愛に背かれて」「留萌のママ」
唐木淳(黒木憲ジュニア)「愛が泣いてる」「時代屋の男たち」
川崎麻世「なんじゃ・もんじゃ・ドン」「新しい予感」
川中美幸「盛り場渡し舟」
黒川泰子「つぎの秋が来るまで」
桂銀淑「すずめの涙」「悲しみの訪問者」「『Yes』と答えて」「純」「嘘じゃないわ」
ケント・ギルバート「ケンカのあとは」(作曲:三木たかし)
香西かおり「人形(おもちゃ)」「恋草紙」
小村美貴「やっぱり大阪」
小山茉美「ラブ・ラブ・ミンキーモモ」「ミンキーステッキドリミンパ」(魔法のプリンセス ミンキーモモ)


さ行
西郷輝彦「別れの条件」「アゲイン」「時に抱かれて」「桜花のとき」
西城秀樹「黄昏よ、そばにいて」「みんなBluesを唄ってた」「心の扉」
坂本九「懐しきlove-song」「心の瞳」
里見浩太朗「微笑みかけて」
佐良直美「心」「YASUKOの場合」
沢田美紀「知りつくされて」「タイムマシンの恋人」「歌姫」「いつか赤いチューリップ」「北陸冬物語」
三條正人「愛のぬけがら」「落日ホテル」「100ダースの恋〜アモーレミオ」
しばたはつみ「TWILIGHT たそがれ」
鈴木けんじ「光の戦士たち」(魔動王グランゾート)
すずき円香「いつか夜汽車で・・・」「陽だまり草」
スターダストレビュー「追憶」
セイントフォー「ハートジャックWAR」
瀬藤正則「月夜のうさぎ」
芹洋子「四季の歌」
神野美伽「浮雲ふたり」「雪簾」「手紙」
塩乃華織「イエスタディにつつまれて」


た行
大門正明「息子へ」「さらば我が友よ」
高倉一朗「さらば…侍」「おんなの雨情(あめ)」
橋真梨子「アフロディーテ」
高見知佳「キャベツから恋が生まれれば」
高山厳「心凍らせて」
田中義剛「ゆ・う・こ」
ちあきなおみ「役者」
チェリッシュ「はつかり号は北国へ」「流されて流されて」「虹色の心」「想い出を香水のように」「白いスニーカー」
チョー・ヨンピル「想いで迷子」「泣かされたって」
塚田三喜夫「ザ・チャンバラ」「ビューティフル・モーニング」(まんが 水戸黄門)
坪倉唯子「幸福ゲーム」
鶴岡雅義と東京ロマンチカ「100ダースの恋〜アモーレ・ミオ〜」
テレサ・テン「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」「恋人たちの神話」ほか
伝書鳩「路面電車」「いつか見た青い空」
徳垣とも子「ホロレチュチュパレロ」(魔動王グランゾート)
冨田麗香「ね・・・。〜お母さんの桜〜」「ね・・・。〜お父さんのコスモス〜」「さくらの花よ 泣きなさい」


な行
中条きよし「櫻の花のように」
中村美律子「おんなの純情」
新沼謙治「幸福の坂道」
中澤裕子「カラスの女房」
忍者「おーい!車屋さん」
野口五郎「別れのエチュード」「サイレント ムービー」「少し抱かれて」「愛をとめたまま」


は行
橋幸夫「面影渡り鳥」「以蔵残月」「花火音頭」「長州にて候」「この世のおまけ」
畑中葉子「後から前から」「もっと動いて」(「豊兵衛」名義)
林あさ美「つんつん津軽」「ジパング」
林寛子「晴れのち曇りそして秋」
晴山さおり「一円玉の旅がらす」
日野美歌「恋慕」
藤井健「ゴーショーグン発進せよ」「21Century〜銀河を越えて〜」(戦国魔神ゴーショーグン)
藤田まこと「月が笑ってらぁ」
保科有里「神無月に抱かれて」「NE-KO」「愁止符」「さくらの花よ 泣きなさい」
堀内孝雄「ガキの頃のように」「冗談じゃねえ」「川は泣いている」「今日も最高やねェ!」「恋唄綴り」「恋文」「影法師」「月が笑ってらぁ」「遠き日の少年」「夢酔枕」「酔いれんぼ」「坂道」「竹とんぼ」「カラスの女房」「続・竹とんぼ-青春のしっぽ-」「いいじゃない」「時代屋の恋」「かくれんぼ」「灯」「不忍の恋」
堀内孝雄with五木ひろし「ふたりで竜馬をやろうじゃないか」
堀内孝雄&桂銀淑「都会の天使たち」
堀内孝雄&斉藤慶子「悲しい乾杯」
堀内孝雄・チョー・ヨンピル「野郎(おとこ)たちの挽歌」


ま行
前川清「夢一秒」
丸山和也「浪漫(ゆめ)−さらば昨日よ−」
美川憲一「だってさ」「この青空の下で」
南こうせつ「夢の時間」「愛を宿して」「それを恋人と呼べば」「国境の風」
南野陽子「ダブルゲーム」
森進一「夢をつづけて」「悲しいけれど」
森昌子「哀しみ本線日本海」
森本英世「酔恋」「ふたつの背中」「大阪物語」


や行・わ行
八代亜紀「なみだ川」「ブルーレイン大阪」「骨までしびれるブルースを」「昭和の歌など聴きながら」「一枚のLP盤」
安田一葉「大阪BoRoRo」
泰葉「フライディ・チャイナタウン」「ブルーナイトブルー」「水色のワンピース」
山口益弘「風のメモリー」(アタッカーYOU!)
由紀さおり「愛したもうことなかれ」「それは季節のかわりめに」「心の家路」「そして・・生きなさい」
ザ・ワイルドワンズ「追憶のlove letter」「星の恋人たち」「黄昏れが海を染めても」「懐かしきラブソング」
和田アキ子「君が野に咲くバラなら」「抱かれ上手」
わらべ「めだかの兄妹」「もしも明日が…。」「時計をとめて」

その他

合唱「スーホの白い馬」作曲:李波
住友グループCMソング「夜明けの若者」(1981年-1983年)作曲:チト河内、唄:藤原誠
住友グループCMソング「未来の芽 大切に」(1984年-1988年)作曲:馬飼野康二、唄:岸正之
布亀 のCMソング「ヒヨコのヒヨコッコ」(1986年- 現在も放送中)藤本房子
黒木瞳座長公演「取り立てやお春」(2010年)のテーマソング「お春のYOSAKOI」(補作)
コメリ店内ソング[5]「風見鶏っていいですね」[6] 作曲:丸山雅仁
西日本旅客鉄道社歌「あしたへ向って」作曲:堀内孝雄
東京都中央区オリジナル音頭曲「これがお江戸の盆ダンス」作曲:市川昭介
豆子郎テーマソング「豆子郎さん通りゃんせ」作曲:宮本光雄[7]
ミサワホーム企業ソング「いついつまでも」作曲:クニ河内、唄:ハイ・ファイ・セット(オリジナル版)・ハンバート ハンバート(2014年版)


作曲した楽曲
芹洋子「四季の歌」
芹洋子のアルバム「四季の旅情」のうち6曲
大門正明「さらば我が友よ」
加納ひろし「晩秋に追われて」
一球さん(全作品、作詞:保富康午)
堀江美都子「一球さん」
こおろぎ'73「とんでけ!カッキーン」「一球入魂」
荒木とよひさ「青春の歌が聞こえる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E3%81%A8%E3%82%88%E3%81%B2%E3%81%95
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/681.html#c1

[近代史7] いずみたく 中川隆
1. 2021年12月10日 12:16:46 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[25]
いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本の作曲家。元参議院議員(第二院クラブ)。中黒を付けていずみ・たくと表記される場合もある。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。


東京市下谷区(現:東京都台東区)谷中生まれ。

仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。

東京府立第五中学校を経て、1946年(昭和21年)、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学する(同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。1950年(昭和25年)に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。1955年(昭和30年)には、朝日放送ホームソングコンクール[1]・グランプリを受賞。

歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。

1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。

1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた[2]。

1965〜69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”をデューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。

1969年(昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞 特別賞を受賞。

1972年(昭和47年)テイチク・レコード傘下にBLACKレーベルを開設。1973年「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を提供していたNHK総合テレビの番組「ステージ101」卒業生にグループ・サウンズのフィフィ・ザ・フリーなど元メンバーをスカウトなどで集めプロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成、テレビ番組出演や全国各地にて公演を行った。歌手兼ダンサー・チームと演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジットは非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋のソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。

「歌はドラマである」のモットーに基づき、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」「聖スブやん」(エロ事師たちの舞台化)、など多数のミュージカルを手がけた。ミュージカルの制作とともに、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成が基となり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現:ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。

1986年(昭和61年)、第二院クラブから参議院比例区に出馬するも落選。1989年(平成元年)、青島幸男辞職による繰り上げ当選となった。第二院クラブから出馬した理由は、一部に日本共産党支持者として有名であったものの同党がタレント議員に否定的だったためとされているが、同党への支持は変わりなかった。なお、友人である青島幸男に強く請われたためだとする説も有力である。議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力したが、1992年(平成4年)5月11日、肝不全のため任期半ばで死去。62歳没。

晩年は以前からミュージカルをプロデュースしていた「アンパンマン」のアニメ化作品「それいけ!アンパンマン」の音楽を担当しており、「すすめ!アンパンマン号」(ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』挿入歌)が遺作となった。作詞を担当したやなせたかしによると、いずみの病状が悪化したため、他の作曲家に依頼するプランもあったものの、いずみが引き受け病床で妻に口述筆記させて完成させた[3]。編曲を担当した弟子の近藤浩章によるといずみが亡くなったのは編曲作業が終了し録音に入る直後だったという[4]。

孫はシンガーソングライターのラブリーサマーちゃん[5]。


作曲・編曲した作品

青い三角定規
太陽がくれた季節(日本テレビ、『飛び出せ!青春』主題歌)
青春の旅(日本テレビ、『飛び出せ!青春』挿入歌)
いしだあゆみ
サチオ君
いずみたくシンガーズ
帰らざる日のために(日本テレビ、『われら青春!』主題歌)
ラララ青春(フジテレビ、『青春家族』主題歌)
大竹宏
ニャロメのうた(NET、『もーれつア太郎』挿入歌)
ザ・シャデラックス、尾崎紀世彦
今・今・今(劇団四季ミュージカル『さよならTYO』挿入歌[6])
桂京子
もーれつア太郎(NET、『もーれつア太郎』主題歌)
上高田少年合唱団
宇宙少年ソラン(TBS、『宇宙少年ソラン』主題歌)
岸洋子
夜明けのうた
希望
キューティー・Q
ファースト・ラヴ
淋しい花嫁
熊倉一雄/吉幾三/憂歌団/泉谷しげる/ザ50回転ズ/氷川きよし
ゲゲゲの鬼太郎(フジテレビ、『ゲゲゲの鬼太郎』主題歌)
西郷輝彦
ねがい(TBS、『江戸を斬る』主題歌)
坂本九
見上げてごらん夜の星を
幸せなら手をたたこう(編曲のみ・有田怜名義)
夜明けの唄
ともだち
みんなでつくろう
佐良直美
世界は二人のために
いいじゃないの幸せならば
肝っ玉かあさん(TBS、『肝っ玉かあさん』主題歌)
沢たまき
ベッドで煙草を吸わないで
ザ・ドリフターズ/デューク・エイセス
いい湯だな
ジャニーズ
オーイわーいチチチ(日本テレビ、『オーイわーいチチチ』主題歌)
太陽のあいつ(TBS、『太陽のあいつ』主題歌)
スリー・グレイセス、ボーカル・ショップ
さすらいの太陽(フジテレビ、『さすらいの太陽』主題歌)
デューク・エイセス
女ひとり
つくばがえる(筑波山麓合唱団〜かえるの合唱)
鳳は今日も羽ばたく(専修大学創立百年記念歌)(作詞・岩谷時子)
中村雅俊
ふれあい(日本テレビ、『われら青春!』挿入歌)
倍賞千恵子
ギララのロック(「松竹映画『宇宙大怪獣ギララ』主題歌)
月と星のバラード(松竹映画『宇宙大怪獣ギララ』挿入歌)
橋幸夫
僕等はみんな恋人さ
尾藤イサオ
ワルのテーマ(東映映画『非情学園ワル』主題歌)
弘田三枝子
バラの革命
ピンキーとキラーズ
恋の季節
涙の季節
星空のロマンス
七色のしあわせ
青空にとび出そう(TBS、『青空に飛び出せ!』主題歌)
フォーリーブス
若者は旅をつづける
人生は一度きりだから
見上げてごらん夜の星を
めぐり逢い
ブラザース・フォア
『チリンの鈴』主題歌
布施明
若い明日(日本テレビ、『青春とはなんだ』主題歌)
貴様と俺(日本テレビ、『青春とはなんだ』挿入歌。以降、日テレ青春シリーズで使われ続けた)
これが青春だ(日本テレビ、『これが青春だ』主題歌)
でっかい青春(日本テレビ、『でっかい青春』主題歌)
堀江美都子
心のうた(フジテレビ、『さすらいの太陽』主題歌)
初期では藤山ジュンコが歌っている。
ハローララベル(テレビ朝日、『魔法少女ララベル』主題歌)
魔法少女ララベル(テレビ朝日、『魔法少女ララベル』主題歌)
みすず児童合唱団、東京混声合唱団
星の炎に(『宇宙エース』主題歌)
三橋美智也
春の音/琴という女
由紀さおり
夜明けのスキャット
ザ・ワンダース
愛して行こう

童謡
手のひらを太陽に(作詞:やなせたかし)
ケロヨン関連
ケロヨンのうた
ケロヨン音頭
その他全楽曲、および劇中音楽 (BGM) も担当。

ミュージカル
ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ作品
  劇団四季作品

はだかの王様 (劇団四季)
ふたりのロッテ
雪ん子
桃次郎の冒険

CMソング
愛のスカイライン(日産自動車)
キャンロップの歌(佐久間製菓)
不二家パラソルチョコレート(不二家)
明治マーブルチョコレート(明治製菓(現:明治))
チョコレートは明治(明治製菓(現:明治))
伊東温泉ハトヤホテル(ハトヤ)
バーモントカレーの歌(ハウス食品)
SOGO(エスオージーオー)そごうへ行こう(そごう。倒産後は使用されなくなった。)


北海道エリア
狸小路のうた(狸小路商店街、歌:朝丘雪路 コーラス:ボニージャックス)

東北エリア
東北電力の歌(歌:ボニージャックス)
仙都タクシー(仙台市のタクシー会社、歌:デューク・エイセス)
エンドーチェーンの歌(歌:ピンキーとキラーズ)
虹をかける藤崎(藤崎、歌はいずみ朱子とハニー・ナイツ)
うすいの歌(うすい百貨店)

近畿エリア
フロントまるぶつ(1969年から丸物のCMや店内で使用していた。近鉄百貨店に合併後、京都店閉店を記念して復活。作詞は岩谷時子)[7]
阪神百貨店の歌(歌:由紀さおり)
みんなのお酒 白鶴だ!デューク・エイセス

中国・四国エリア
グラスをのぞくフラミンゴ(日本酒「千福」・広島県呉市、三宅本店)
いよてつそごうの歌(旧そごうグループ倒産後、伊予鉄百貨店を経て伊予鉄島屋となったため使用されなくなった[8]。)
緑と海の国(高松琴平電気鉄道)[9]

テレビ・ラジオ
テレビ時代劇『破れ奉行』(テレビ朝日系)のテーマ曲(ゲスト出演もした)
『徹子の部屋』(テレビ朝日系)のテーマ曲
『テレビ朝日スポーツ・テーマ1980』(テレビ朝日系)- モスクワオリンピック中継用に作曲されたスポーツ中継番組テーマで1980年4月から1982年4月まで使用。
『TBS歌のグランプリ』(TBS系)のテーマ曲
『OBCソング』(ラジオ大阪のテーマソング)
『QRソング』(文化放送のテーマソング)
KBCの歌(九州朝日放送のテーマソング)
TBCの歌(東北放送のテーマソング。歌は佐良直美)
仙台放送の歌

団体歌
社歌
東海ラジオ放送 社歌
株式会社ダイエー 社歌
電気化学工業 社歌


校歌・園歌

関東地方
旧葛飾区立小谷野小学校 校歌
東京都江戸川区立篠崎第四小学校 校歌
東京都大田区立糀谷小学校 校歌
東京都立八王子北高等学校 校歌
東京都八王子市立四谷中学校 校歌(作詞は井田誠一)
東京都世田谷区立松丘幼稚園 園歌
神奈川県相模原市立弥栄小学校 校歌
埼玉県新座市立新座小学校 校歌]

東海地方
静岡県御殿場市立原里小学校 校歌(作詞は岩谷時子)


近畿地方
大阪府寝屋川市立第九中学校 校歌


日本人学校
私立釜山日本人学校 校歌

その他
新八王子音頭『太陽踊り』 (歌は佐良直美)
明日への伝言
セイコー汎用型からくり時計(子供楽隊)
流山市民の歌[10]

音楽担当作品
われら劣等生 (1965年、松竹映画)
ゲゲゲの鬼太郎[11]
江戸を斬る(第2部以降)
魔法少女ララベル
それいけ!アンパンマン[12]

自作自演アルバム
『このままでいいのだろうか』(1971年、ガーリック・レーベル)

音楽作品アルバム類
「いずみたく作品集」音楽CD(2枚組)、EMIミュージック・ジャパン(1999年9月8日)

著書
『ドレミファ交友録』(1970年、朝日新聞社)
『真夜中のコーヒーブレイク』(1974年、講談社)
『体験的音楽論』(1976年、大月書店 国民文庫)
『見上げてごらん夜の星を―わが歌のアルバム』(1977年、新日本出版社)
『新ドレミファ交友録―ミュージカルこそわが人生』(1992年、サイマル出版会)

連載
おれは野次馬(アサヒ芸能)

「夜明けのスキャット」盗作説
1970年、日本テレビ系『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』にて、大橋巨泉は、いずみたくのヒット曲「夜明けのスキャット」と「いいじゃないの幸せならば」をピアニスト中島一郎に弾かせた上、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」とサンバの名曲「クマーナ」を弾かせ、「これは明らかに盗作である」と言った[13]。対象が1969年のレコード大賞受賞曲だったため、巨泉のこの指摘は大きな話題を呼んだ[13]。

1970年3月28日付の新聞で、作曲家の塚原晢夫は「もし盗作でないというなら、訴えたまえ、いずみ君。それが出来ないならレコード大賞は辞退すべきだ」と呼びかけたが、いずみたくは何も反応しなかった[13]。巨泉は2004年の自伝の中で「今やいずみさんもこの世にないが、これもボクは主張を変えていない」と記している[13]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%81%8F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/661.html#c1

[近代史7] 森繁久彌 中川隆
1. 中川隆[-14626] koaQ7Jey 2021年12月10日 12:28:49 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[26]
森繁久彌(1913年 5月4日 - 2009年11月10日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年(大正2年)5月4日 - 2009年(平成21年)11月10日[3])は、日本の俳優、声優、歌手、コメディアン(喜劇俳優)[4]、元NHKアナウンサー。最晩年はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。身長168cm[5]。血液型はB型。

昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり[6][7]、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた[7]。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた[8]。『知床旅情』の作詞・作曲者であり、歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場している。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり[6]、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多い。先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られる[7]。慈善事業にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。

受賞も数多く、紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、枚方市名誉市民、国民栄誉賞、従三位などのほか、1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章した。


来歴

生い立ち
1913年5月4日、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、その実弟は儒学者の成島柳北である[7]。父の達吉は旧制第二高等学校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家[7][9] で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌(男爵・三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。

2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる[12]。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。

旧制北野中学から旧制早稲田第一高等学院に進み、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった[2]。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した[10][11]。

演劇の世界へ
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した[2][7][10]。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた[2]。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年にロッパ一座を退座[2]。1938年に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった[7]。

1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。3ヶ月の養成期間終了後、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した[注釈 1]。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ[14][注釈 2]。また、満州各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合った。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎がいる。

満州時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送[注釈 3]を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している[15]。

人気タレント・俳優として

ラジオ東京『ぴよぴよ大学』公開録音で長女とともに解答する森繁(1954年)
帰国後は帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし[2][11][16]、この間の1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1948年7月には菊田一夫の紹介で、創作座公演の『鐘の鳴る丘』に出演し、井上正夫と共演した[2][7]。翌1949年に再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団し、同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ[2]、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演、演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めた。

1950年、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組でその才能に注目が集まり、映画や舞台に次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。以来B級喜劇映画に多数出演する。1951年、再び菊田に起用され、帝劇ミュージカル『モルガンお雪』で古川、越路吹雪と共演[2]。

1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり[7]、河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

1955年、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。

1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった[2]。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年公開のアニメ映画『もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。

映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演[2] し、1959年に淡島と自由劇団を旗揚げ[17]。1961年5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした[2]。また、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年に帝劇で初演以降、1986年までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。

テレビドラマでは草創期から活躍しており、1958年に放送された、テレビ対映画の人間模様を描いた芸術祭参加の『マンモスタワー』では特別出演。ほか『七人の孫』、竹脇無我と親子を演じた『だいこんの花』、『おやじのヒゲ』で活躍。1957年からは出演者が加藤道子の二人だけという、NHKのラジオ番組『日曜名作座』で声色を変えて何役も演じ、再放送を含めて半世紀の間放送された。

1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回と第16回は映像が現存する。1960年に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『知床旅情』を作詞・作曲し(シングル発売は1965年)、それを自ら歌うシンガーソングライターとしての活動も行っていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストであり、放送中に突然黒柳徹子の胸を触るというハプニングシーンは、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われている。森繁は同番組に通算13回ゲスト出演している。

1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。2007年に勇退後は永世名誉会長となった。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれ、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

晩年
1990年に妻・杏子(本名・満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業の清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2000年に胆管結石のために緊急入院[6]。2002年12月、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ[6]、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。

2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と『大遺言書』(語り森繁、文は久世)を週刊新潮で連載を開始、後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話がほとんど出て来なくなっていった。

2004年1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』(TBSテレビ)が俳優として最後の演技となり、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も、同年1月の坂本朝一元NHK会長のものが最期となった。

2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同年3月6日、健康上の理由から周囲が止めたが、それを押し切って久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも、再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「如何して僕より先に逝っちゃうんだよ…、長生きするって辛いのう…。」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが、これは1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々は森繁自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読。主題歌担当者とのツーショット写真は公開されている)。このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラやステーキ等の肉料理にうぐいす餅・桜餅・おはぎといった季節の和菓子、常食のショートケーキにコップ一杯の牛乳をかけたもの、特大シュークリームなども平らげた。夜食を食べた後はホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っていた。またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。

2009年8月、同年7月に風邪を引き、そのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第11回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

ウィキニュースに関連記事があります。
訃報 森繁久弥氏 - 映画、テレビなど多方面で大活躍
同年11月10日午前8時15分、老衰のため東京都内の病院で死去[3]。満96歳だった。10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビ各局もニュース速報テロップを流し、ニュース番組ではほぼトップ扱いで森繁の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。

葬儀は故人の「こぢんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた[18]。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」[18] と述べた。

葬儀・お別れの会
11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎元首相を始め、小林桂樹、竹脇無我、加山雄三、里見浩太朗、伊東四朗、ペギー葉山、樹木希林、梅宮辰夫、西郷輝彦、あおい輝彦、黒沢年雄、森公美子、関口宏、林家正蔵、野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒、中村メイコ、司葉子、西田敏行、和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した。祭壇には天皇からの祭粢料(さいしりょう/一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。

没後
12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績に対して、従三位に叙せられると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定が行われた[19][20]。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での受賞は長谷川一夫、渥美清、森に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。受賞年齢は最年長でもある。

2010年2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で内閣官房長官の平野博文(当時)も参列した。

同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。

同年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区が小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長・熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた[21]。2014年11月22日、千歳船橋駅前に森繁が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」の除幕式が行われた[22]。

人物
1975年に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし、役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画『小説吉田学校』など)。

1977年に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける[23]。以後、森繁もこの意見に賛同[24]、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『森繁久彌のおやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は67歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた[25]。著書を多く著しているが、家族曰く最晩年のものを除けばゴーストライターをほとんど使わず、ほぼ自筆で書かれたものであるという。またファンレターもスターとしては珍しく、全て自らが必ず目を通し、できる限り自筆で返事を書くようにしていたという[26]。

趣味
射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。ただし、晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。現在はヒロミが3代目会長として運営している。

ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市の賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。

人間関係
駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。

竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。

舞台、ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎、林与一、西郷輝彦、あおい輝彦らが薫陶を受けた[6]。小林桂樹や藤岡琢也、宝田明を実弟のように大変可愛がっていた。

吉本興業の社長であった八田竹男は北野中学校時代からの同級生である。

松元恵美は姪(兄の娘)の孫にあたる。

評価
森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるに連れ、シリアスな演技者となりたがる者が多発した為、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、その様な傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ、小林は同書で、森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあった為、一時的にその様に注目されたのであって、その為、彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。森繁自身も、周辺から大御所として祭り上げられたり、役として説教臭いキャラクターを演じることはあっても、自ら人生の先達めいて生き様を誇示するようなふるまいがあったわけではない。

2000年にキネマ旬報が発表した「20世紀の映画スター・男優編」で著名人選出の日本男優第9位にランクインされている(同率9位に渥美清、萬屋錦之介)。

出演作品

映画

シリーズ作品

次郎長三国志シリーズ 全7作(東宝) - 森の石松
第二部 次郎長初旅(1953年)
第三部 次郎長と石松(1953年)
第四部 勢揃い清水港(1953年)
第五部 殴込み甲州路(1953年)
第六部 旅がらす次郎長一家(1953年)
第七部 初祝い清水港(1954年)
第八部 海道一の暴れん坊(1954年)

社長シリーズ 全33作(東宝)
へそくり社長(1956年) - 田代善之助
続へそくり社長(1956年) - 田代善之助
はりきり社長(1956年) - 大神田平八郎
社長三代記(1958年) - 浅川啓太郎
続・社長三代記(1958年) - 浅川啓太郎
社長太平記(1959年) - 牧田庄太郎
続・社長太平記(1959年) - 牧田庄太郎
サラリーマン忠臣蔵(1960年) - 大石良雄
続サラリーマン忠臣蔵(1961年) - 大石良雄
社長道中記(1961年) - 三沢英之助
続・社長道中記(1961年) - 三沢英之助
サラリーマン清水港(1962年) - 山本長五郎
続サラリーマン清水港(1962年) - 山本長五郎
社長洋行記(1962年) - 本田英之助
続・社長洋行記(1962年) - 本田英之助
社長漫遊記(1963年) - 堂本平太郎
続・社長漫遊記(1963年) - 堂本庄太郎
社長外遊記(1963年) - 風間圭之助
続・社長外遊記(1963年) - 風間圭之助
社長紳士録(1964年) - 小泉礼太郎
続・社長紳士録(1964年) - 小泉礼太郎
社長忍法帖(1965年) - 岩戸久太郎
続・社長忍法帖(1965年) - 岩戸久太郎
社長行状記(1966年) - 栗原弥一郎
続・社長行状記(1966年) - 栗原弥一郎
社長千一夜(1967年) - 庄司啓太郎
続・社長千一夜(1967年) - 庄司啓太郎
社長繁盛記(1968年) - 高山圭太郎
続・社長繁盛記(1968年) - 高山圭太郎
社長えんま帖(1969年) - 大高長太郎
続・社長えんま帖(1969年) - 大高長太郎
社長学ABC(1970年) - 網野参太郎
続・社長学ABC(1970年) - 網野参太郎

駅前シリーズ 全24作(東京映画)
駅前旅館(1958年) - 生野次平
喜劇 駅前団地(1961年) - 戸倉金太郎
喜劇 駅前弁当(1961年) - 柳田金太郎
喜劇 駅前温泉(1962年) - 吉田徳之助
喜劇 駅前飯店(1962年) - 徳清波
喜劇 駅前茶釜(1963年) - 森田徳之助
喜劇 駅前女将(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前怪談(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前音頭(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前天神(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前医院(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前金融(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前大学(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前弁天(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前漫画(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前番頭(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前競馬(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前満貫(1967年) - 森田徳之助
喜劇 駅前学園(1967年) - 森田徳之助
喜劇 駅前探検(1967年) - 森田徳之助、ナレーター
喜劇 駅前百年(1967年) - 森田徳之助、森田達之助
喜劇 駅前開運(1968年) - 森田徳之助
喜劇 駅前火山(1968年) - 森田徳之助
喜劇 駅前桟橋(1969年) - 森田徳之助

新・三等重役シリーズ 全4作(東宝) - 沢村四郎
新・三等重役(1959年)
新・三等重役 旅と女と酒の巻(1960年)
新・三等重役 当るも八卦の巻(1960年)
新・三等重役 亭主教育の巻(1960年)

女シリーズ 全4作(松竹) - 金沢
喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年)
喜劇 女生きてます(1971年)
喜劇 女売出します(1972年)
女生きてます 盛り場渡り鳥(1972年)

その他
女優(1947年、東宝)
腰抜け二刀流(1950年、新東宝) - 宮本武蔵之助(初主演)
恋人(1951年、新東宝) - ダンスホールのマネージャー
ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 武上等兵
チャッカリ夫人とウッカリ夫人(1952年、新東宝) - 茂さん
三等重役(1952年、東宝) - 浦島人事課長
続チャッカリ夫人とウッカリ夫人 底抜けアベック三段とび(1952年、新東宝) - 高橋頑鐵
腰抜け巌流島(1952年、大映) - 宮本武蔵
続三等重役(1952年、東宝) - 浦島人事課長
一等社員 三等重役兄弟篇(1953年、東宝) - 天栗太郎
凸凹太閤記(1953年、大映) - 木下藤吉郎
坊っちゃん(1953年、東京映画) - 赤シャツ
芸者小夏(1954年、東宝) - 川島
スラバヤ殿下(1955年、日活) - 長曽我部久太郎、長曽我部永二(二役)
警察日記(1955年、日活) - 吉井巡査
次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り(1955年、日活) - 森の石松
森繁の新入社員(1955年、東宝) - 豊臣三太郎
番場の忠太郎(1955年、新東宝) - 青木一作
渡り鳥いつ帰る(1955年、東京映画) - 吉田伝吉
芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏(1955年、東宝) - 川島
夫婦善哉(1955年、東宝) - 維康柳吉
人生とんぼ返り(1955年、日活) - 市川段平
花嫁会議(1956年、東宝) - 山ノ内専務
神阪四郎の犯罪(1956年、日活) - 神阪四郎
ロマンス娘(1956年、東宝) - 森下
猫と庄造と二人のをんな(1956年、東京映画) - 庄造
世にも面白い男の一生 桂春団治(1956年、宝塚映画) - 桂春団治
白夫人の妖恋(1956年、東宝) - 終南山の道士(ノンクレジット)
雪国(1957年、東宝) - 伊村
伴淳・森繁の糞尿譚(1957年、松竹) - 阿部丑之助
気違い部落(1957年、松竹) - 解説者X氏
負ケラレマセン勝ツマデハ(1958年、東宝) - 岡見久吉
東京の休日(1958年、東宝) - ファッションショーのMC
暖簾(1958年、東宝) - 八田吾平
人生劇場 青春篇(1958年、東宝) - 吉良常
野良猫(1958年、東宝(宝塚映画製作))
グラマ島の誘惑(1959年、東京映画) - 香椎宮為久
花のれん(1959年、宝塚映画) - 河島吉三郎
珍品堂主人(1960年、東京映画) - 加納夏麿
路傍の石(1960年、東京映画) - 愛川庄吾
ふんどし医者(1960年、東宝) - 小山慶斎
がめつい奴(1960年、東宝) - 向山彦八
南の島に雪が降る(1961年、東京映画) - 森大尉
小早川家の秋(1961年、宝塚映画) - 磯村英一郎
青べか物語(1962年、東京映画) - 先生
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、東宝) - 半兵衛
台所太平記(1963年、東京映画) - 千倉磊吉
天才詐欺師物語 狸の花道(1964年、東宝) - 赤井紋太
われ一粒の麦なれど(1964年、東京映画) - 乳児院院長
裸の重役(1964年、東宝) - 日高孝四郎
喜劇 各駅停車 (1965年、東宝)- 寺山源吉
大冒険(1965年、東宝) - 首相
水戸黄門漫遊記(1969年、東宝) - 徳川光圀
男はつらいよ 純情篇(1971年、松竹) - 千造
座頭市御用旅(1972年、東宝) - 藤兵衛
恍惚の人(1973年、芸苑社) - 立花茂造
喜劇 百点満点(1976年、東宝) - 北上大三
ふたりのイーダ(1976年) - 須川利一郎
姿三四郎(1977年、東宝) - 玄沙和尚
事件(1978年、松竹) - 清川民蔵
夢一族 ザ・らいばる(1979年、東映) - 雨笠治平
二百三高地(1980年、東映) - 伊藤博文
連合艦隊(1981年、東宝) - 本郷直樹
海峡(1982年、東宝) - 岸田源助
小説吉田学校(1983年、東宝) - 吉田茂
ふしぎな國・日本(1983年、松竹) - 老人
さよならジュピター(1984年、東宝) - 地球連邦大統領
空海(1984年、東映) - 阿刀大足
開港風雲録 YOUNG JAPAN(1989年、東宝) - 井伊直弼
流転の海(1990年、東宝) - 松坂熊吾
四十七人の刺客(1994年、東宝) - 千坂兵部
GOING WEST 西へ…(1997年、東映) - 近所の修ちゃん
新サラリーマン専科(1997年、松竹) - 寺内庄助
死に花(2004年、東映) - 青木六三郎

声の出演
白蛇伝(1958年、東映) - 男性キャラクターのすべて
風が吹くとき(1987年、ヘラルド) - ジム
せんぼんまつばら 川と生きる少年たち(1992年、スペース映像) - 昔語り
もののけ姫(1997年、スタジオジブリ) - 乙事主 役[28] / エミシの老人 役
ヘラクレス(1997年、ディズニー) - ナレーション
どんぐりの家(1997年、映画『どんぐりの家』製作委員会) - ナレーション
ドラえもん のび太と翼の勇者たち(2001年、東宝) - 鳥野守博士 役[29]

テレビドラマ

東芝日曜劇場(TBS)
第4話「忘れえぬクリスマス」(1956年)
第58話「鬼よりこわい清水の港」(1958年)
第103話「マンモスタワー」(1958年)
第109話「冬の人」(1958年)
第162話「一枚看板」(1960年)
第996話「雨傘」(1976年)
第1042話「ちいさな愛」(1976年)
第1328話「哀愁のやもめたち」(1982年)

吾輩は猫である(1963年、NHK) - 苦沙弥
七人の孫(1964年 - 1966年、TBS) - 北原亮作
太陽の丘[30](1966年 - 1967年、NHK) - 八代邦住
S・Hは恋のイニシァル(1969年、TBS) - 重太郎
おれの義姉さん(1970年、TBS) - 浜野真砂
だいこんの花(1970年 - 1977年、NET) - 永山忠臣
時間ですよ(1973年、TBS) - 元旅回り一座の女形
あんたがたどこさ 全2シリーズ(1973年 - 1975年、TBS) - 林田明経
水もれ甲介(1974年、NTV) - 三ッ森保太郎

水戸黄門(TBS / C.A.L)
第5部 第24話「二人の御老公・佐賀」(1974年) - 前佐賀藩主鍋島光茂
第14部 第19話「悪を懲らした喧嘩友達・会津」(1984年) - 会津藩主松平正容
第15部 第12話「偽黄門様は喧嘩医者・小倉」(1985年) - 玄磧
第22部 第23話「悪計暴いた備前焼・岡山」(1993年) - 備前遊山
第23部 第22話「白いお髭の意地比べ・萩」(1995年) - 前長州藩主毛利綱広

1000回記念3時間スペシャル(2003年) - 紀伊國屋文左衛門
NHK大河ドラマ / 元禄太平記(1975年、NHK) - 徳川光圀
いごこち満点 第17話(1976年、TBS) - 岩崎

江戸を斬る(TBS / C.A.L) - 徳川斉昭
江戸を斬るII(1975年 - 1976年)
江戸を斬るIII(1977年)
江戸を斬るVII(1987年)
江戸を斬るVIII(1994年)

三男三女婿一匹 全3シリーズ(1976年 - 1980年、TBS) - 桂大五郎
毛糸の指輪(1977年、NHK)
お手々つないで(1977年 - 1998年、NBN・ANB・ABC・HTB・KHB・KSB・UHT・KBC) - 原洋介
悪女について(1978年、テレビ朝日)−沢山栄次
熱い嵐(1979年、TBS) - 高橋是清
天山先生本日も多忙(1979年、ANB) - 並川天山
関ヶ原(1981年、TBS) - 徳川家康
森繁久彌のおやじは熟年(1981年、NET) - 大文字泰助
裸の大将放浪記(1982年 - 1997年、KTV) - 園長先生 役
関西テレビ開局25周年記念 吉田茂(1983年、KTV) - 吉田茂
24時間テレビ愛は地球を救うスペシャルドラマ / 黒い雨・姪の結婚(1983年、NTV) - 閑間重松
芸能生活50周年記念・栄花物語(1983年、CX) - 田沼意次

向田邦子新春ドラマスペシャル(TBS)
眠る杯(1983年) - 周造
麗子の足(1987年) - 日高喬平
響子(1996年) - 常吉
ガンコおやじに敬礼!(1985年、TBS) - 岩倉忠行
そして戦争が終った(1985年、TBS) - 鈴木貫太郎

年末時代劇スペシャル(NTV)
忠臣蔵(1985年) - 吉良上野介
白虎隊(1986年) - 井上丘隅
田原坂(1987年) - 龍左民
五稜郭(1988年) - 佐藤泰然
勝海舟(1990年) - 渋田利右衛門
鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-(1993年) - 越智兵庫助安用

おやじのヒゲ(1986年 - 1996年、TBS) - 大国辰造
森繁久彌ドラマ 花くらべ(1988年、TBS) - 岩佐東吉、佐々軍六
翔んでる!平賀源内(1989年、TBS / C.A.L) - 鴻池宗右衛門
新春ドラマスペシャル みんな玉子焼き(1990年1月1日、テレビ朝日) - 大田原泰造
社長になった若大将(1992年、TBS) - 織部寿光
清左衛門残日録(1993年) - 安富忠兵衛 役
銀色の恋文(1994年、CX)※未放送作品で、2009年11月14日に追悼番組として初放送
銭形平次 第5シリーズ 第10話「過去からの告発」(1995年、CX) - 勘助
とおりゃんせ〜深川人情澪通り 第13話「鶴の行方」(1996年、NHK) - 亀蔵
大岡越前 第14部 第1話「大岡越前」(1996年、TBS / C.A.L) - 見雲遊山
森繁久彌ドラマスペシャル・おじいさんの台所(1997年、TX) - 佐藤真三
南町奉行捕物帖 怒れ!求馬 第1話・第2話(1997年、TBS) - 田安幽斉
人情馬鹿物語(1998年、TX)
飛んで火に入る春の嫁(1998年、TX)
新春ワイド時代劇 / 赤穂浪士(1999年、TX) - 四方庵宗徧
永遠のアトム 手塚治虫物語(1999年、TX) - 幼少時代の手塚の前に現れる謎の老人
怒る男 わらう女(1999年、NHK)
あ・うん(2000年、TBS) - 水田初太郎
女と愛とミステリー / 森繁久彌サスペンス小池真理子の「鍵老人」(2001年、TX) - 西村与平
旗本退屈男 第5話「幽霊城の姫君」(2001年、CX) - 立石右京太夫
こちら第三社会部(2001年、TBS) - 毛利晋一郎(最後の連ドラ準レギュラー格出演)
向田邦子の恋文(2004年、TBS) - 建具師・庄野羊吉


ラジオ番組
愉快な仲間(1950 - 1952年、NHK第1)[31]
日曜名作座(1957 - 2008年、NHK第1)
日曜喫茶室「奈落で聴いたカーテンコール」(1980年4月13日、NHK-FM)
森繁ゴールデン劇場(1961年 - 1962年、文化放送)
今晩は森繁久彌です(1964年 - 1967年、文化放送)
友よ!森繁だ(1978年10月2日 - 、文化放送)[32]


舞台
暖簾(1958年)
佐渡島他吉の生涯(1961年)
屋根の上のヴァイオリン弾き(1967年 - 1986年) - テビィエ
孤愁の岸(1983年)
狐狸狐狸ばなし
台所太平記
赤ひげ診療譚
お遊さま


作詞・作曲
オホーツクの舟歌(1960年)
知床旅情(1963年)
能登の夢(1988年)


LPレコード
おらが唄さ(1963年、日本コロムビア)
森繁久彌 魅力のすべて(1969年、日本コロムビア)
しれとこ旅情(1971年、日本コロムビア)
我がセンチメンタルの碑(発売年不明、日本フォノグラム)


コンパクトディスク
森繁久彌全集 〜青春が花ならば〜(1996年、日本コロムビア)
森繁久彌大全集(2007年、森繁久彌さんを偲んで[33] 日本コロムビア)
愛誦詩集(2001年、エイベックス)
望郷詩集(2003年、エイベックス)
森繁ゴールデン劇場「あの唄 この唄 僕の唄」[34](2008年、ビクターエンタテインメント)
森繁久彌 歌の旅 映画の人生[35] (2010年、ビクターエンタテインメント)

NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1959年/第10回 初 カチューシャ 23/25 越路吹雪(1)
1960年/第11回 2 フラメンコ・ソーラン節 15/27 江利チエミ
1961年/第12回 3 五木の子守唄 17/25 寿美花代
1962年/第13回 4 しれとこ旅情 20/25 越路吹雪(2)
1963年/第14回 5 フラメンコかっぽれ 08/25 楠トシエ
1964年/第15回 6 戦友 21/25 越路吹雪(3)
1965年/第16回 7 ゴンドラの唄 15/25 吉永小百合

(注意点)
対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す


著書
『こじき袋』読売新聞社 1957 のち中公文庫
『森繁久弥の朝の訪問』日本放送出版協会 NHK新書 1957
『アッパさん船長』中央公論社 1961 のち文庫
『見て来た・こんな・ヨーロッパ』雪華社 1961 のち中公文庫
『森繁自伝』中央公論社 1962 のち文庫
『はじのうわぬり 森繁らくがき帖』今野書房 1964
『友よ明日泣け 今晩は森繁です』編 サンケイ新聞出版局 1966
『ブツクサ談義』未央書房 1967
『猛烈社員の条件 社長さん森繁です』東京12チャンネル制作部編 新人物往来社 1969
『一片の雲 森繁久彌随筆集』ちはら書房 1979
『にんげん望遠鏡』朝日新聞社 1979
『わたしの自由席』中公文庫 1979
『さすらいの唄 私の履歴書』日本経済新聞社 1981
『こぼれ松葉 森繁久弥の五十年』日本放送出版協会 1983
『にんげん望艶鏡』朝日新聞社 1983
『人師は遭い難し』新潮社 1984
『ふと目の前に 自伝エッセイ』東京新聞出版局 1984 のち小池書院・道草文庫
『あの日あの夜 森繁交友録』東京新聞出版局 1986 のち中公文庫
『左見右見』扶桑社 1987
『海よ友よ メイキッスIII号日本一周航海記』朝日新聞社 1992
『隙間からスキマへ』日本放送出版協会 1992 のち日本図書センター「人間の記録」
『森繁久弥の碧い海をもとめて "めいきっすIII世号"日本一周クルージング フォトエッセー』佐々木正和写真 東京新聞出版局 1992
『夜光虫』新潮社 1993
『帰れよや我が家へ』ネスコ 1994
『青春の地はるか 五十年目の旧満州への旅』日本放送出版協会 1996
『もう一度逢いたい』朝日新聞社 1997 のち文庫
『品格と色気と哀愁と』朝日新聞社 1999 のち文庫
『森繁久彌86才芸談義』倉本聰聞き手 小学館文庫 1999
『大遺言書』語り 久世光彦文 新潮社 2003 のち文庫
『今さらながら 大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2004
『生きていりゃこそ』語り 久世光彦 文 新潮社 2005
『さらば大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2006

共編著
『わたしのニューカレドニア』小谷章共編 太陽出版 1982
『男と女の一心不乱 対談』加藤登紀子、加藤唐九郎共著 風媒社 1997


作品集
『森繁久彌コレクション』(全5巻)藤原書店 2020
道―自伝
人―芸談
情―世相
愛―人生訓
海―ロマン


揮毫など
NHK大河ドラマ / 秀吉(1996年、NHK) - 題字
吟醸酒「神の座」 - 命名・題字(青森県・尾崎酒造)
日本酒「泉正宗」 - 題字(兵庫県・泉酒造)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/659.html#c1

[近代史7] 「知床旅情」 森繁久彌 (1913年 5月4日 - 2009年11月10日) 中川隆
1. 中川隆[-14625] koaQ7Jey 2021年12月10日 12:29:53 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[27]
森繁久彌(1913年 5月4日 - 2009年11月10日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年(大正2年)5月4日 - 2009年(平成21年)11月10日[3])は、日本の俳優、声優、歌手、コメディアン(喜劇俳優)[4]、元NHKアナウンサー。最晩年はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。身長168cm[5]。血液型はB型。

昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり[6][7]、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた[7]。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた[8]。『知床旅情』の作詞・作曲者であり、歌手としても紅白歌合戦に7年連続で出場している。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり[6]、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多い。先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られる[7]。慈善事業にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。

受賞も数多く、紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、枚方市名誉市民、国民栄誉賞、従三位などのほか、1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章した。


来歴

生い立ち
1913年5月4日、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、その実弟は儒学者の成島柳北である[7]。父の達吉は旧制第二高等学校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家[7][9] で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌(男爵・三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。

2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる[12]。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。

旧制北野中学から旧制早稲田第一高等学院に進み、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった[2]。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した[10][11]。

演劇の世界へ
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した[2][7][10]。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた[2]。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年にロッパ一座を退座[2]。1938年に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった[7]。

1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。3ヶ月の養成期間終了後、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した[注釈 1]。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ[14][注釈 2]。また、満州各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合った。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎がいる。

満州時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送[注釈 3]を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している[15]。

人気タレント・俳優として

ラジオ東京『ぴよぴよ大学』公開録音で長女とともに解答する森繁(1954年)
帰国後は帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし[2][11][16]、この間の1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1948年7月には菊田一夫の紹介で、創作座公演の『鐘の鳴る丘』に出演し、井上正夫と共演した[2][7]。翌1949年に再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団し、同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ[2]、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演、演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めた。

1950年、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組でその才能に注目が集まり、映画や舞台に次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。以来B級喜劇映画に多数出演する。1951年、再び菊田に起用され、帝劇ミュージカル『モルガンお雪』で古川、越路吹雪と共演[2]。

1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり[7]、河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

1955年、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。

1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった[2]。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年公開のアニメ映画『もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。

映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演[2] し、1959年に淡島と自由劇団を旗揚げ[17]。1961年5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした[2]。また、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年に帝劇で初演以降、1986年までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。

テレビドラマでは草創期から活躍しており、1958年に放送された、テレビ対映画の人間模様を描いた芸術祭参加の『マンモスタワー』では特別出演。ほか『七人の孫』、竹脇無我と親子を演じた『だいこんの花』、『おやじのヒゲ』で活躍。1957年からは出演者が加藤道子の二人だけという、NHKのラジオ番組『日曜名作座』で声色を変えて何役も演じ、再放送を含めて半世紀の間放送された。

1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回と第16回は映像が現存する。1960年に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『知床旅情』を作詞・作曲し(シングル発売は1965年)、それを自ら歌うシンガーソングライターとしての活動も行っていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストであり、放送中に突然黒柳徹子の胸を触るというハプニングシーンは、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われている。森繁は同番組に通算13回ゲスト出演している。

1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。2007年に勇退後は永世名誉会長となった。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれ、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

晩年
1990年に妻・杏子(本名・満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業の清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2000年に胆管結石のために緊急入院[6]。2002年12月、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ[6]、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。

2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と『大遺言書』(語り森繁、文は久世)を週刊新潮で連載を開始、後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話がほとんど出て来なくなっていった。

2004年1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』(TBSテレビ)が俳優として最後の演技となり、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も、同年1月の坂本朝一元NHK会長のものが最期となった。

2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同年3月6日、健康上の理由から周囲が止めたが、それを押し切って久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも、再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「如何して僕より先に逝っちゃうんだよ…、長生きするって辛いのう…。」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが、これは1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々は森繁自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読。主題歌担当者とのツーショット写真は公開されている)。このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラやステーキ等の肉料理にうぐいす餅・桜餅・おはぎといった季節の和菓子、常食のショートケーキにコップ一杯の牛乳をかけたもの、特大シュークリームなども平らげた。夜食を食べた後はホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っていた。またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。

2009年8月、同年7月に風邪を引き、そのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第11回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

ウィキニュースに関連記事があります。
訃報 森繁久弥氏 - 映画、テレビなど多方面で大活躍
同年11月10日午前8時15分、老衰のため東京都内の病院で死去[3]。満96歳だった。10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビ各局もニュース速報テロップを流し、ニュース番組ではほぼトップ扱いで森繁の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。

葬儀は故人の「こぢんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた[18]。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」[18] と述べた。

葬儀・お別れの会
11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎元首相を始め、小林桂樹、竹脇無我、加山雄三、里見浩太朗、伊東四朗、ペギー葉山、樹木希林、梅宮辰夫、西郷輝彦、あおい輝彦、黒沢年雄、森公美子、関口宏、林家正蔵、野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒、中村メイコ、司葉子、西田敏行、和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した。祭壇には天皇からの祭粢料(さいしりょう/一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。

没後
12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績に対して、従三位に叙せられると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定が行われた[19][20]。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での受賞は長谷川一夫、渥美清、森に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。受賞年齢は最年長でもある。

2010年2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で内閣官房長官の平野博文(当時)も参列した。

同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。

同年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区が小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長・熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた[21]。2014年11月22日、千歳船橋駅前に森繁が『屋根の上のヴァイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」の除幕式が行われた[22]。

人物
1975年に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし、役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画『小説吉田学校』など)。

1977年に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける[23]。以後、森繁もこの意見に賛同[24]、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『森繁久彌のおやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は67歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた[25]。著書を多く著しているが、家族曰く最晩年のものを除けばゴーストライターをほとんど使わず、ほぼ自筆で書かれたものであるという。またファンレターもスターとしては珍しく、全て自らが必ず目を通し、できる限り自筆で返事を書くようにしていたという[26]。

趣味
射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。ただし、晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。現在はヒロミが3代目会長として運営している。

ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市の賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。

人間関係
駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。

竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。

舞台、ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎、林与一、西郷輝彦、あおい輝彦らが薫陶を受けた[6]。小林桂樹や藤岡琢也、宝田明を実弟のように大変可愛がっていた。

吉本興業の社長であった八田竹男は北野中学校時代からの同級生である。

松元恵美は姪(兄の娘)の孫にあたる。

評価
森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるに連れ、シリアスな演技者となりたがる者が多発した為、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、その様な傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ、小林は同書で、森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあった為、一時的にその様に注目されたのであって、その為、彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。森繁自身も、周辺から大御所として祭り上げられたり、役として説教臭いキャラクターを演じることはあっても、自ら人生の先達めいて生き様を誇示するようなふるまいがあったわけではない。

2000年にキネマ旬報が発表した「20世紀の映画スター・男優編」で著名人選出の日本男優第9位にランクインされている(同率9位に渥美清、萬屋錦之介)。

出演作品

映画

シリーズ作品

次郎長三国志シリーズ 全7作(東宝) - 森の石松
第二部 次郎長初旅(1953年)
第三部 次郎長と石松(1953年)
第四部 勢揃い清水港(1953年)
第五部 殴込み甲州路(1953年)
第六部 旅がらす次郎長一家(1953年)
第七部 初祝い清水港(1954年)
第八部 海道一の暴れん坊(1954年)

社長シリーズ 全33作(東宝)
へそくり社長(1956年) - 田代善之助
続へそくり社長(1956年) - 田代善之助
はりきり社長(1956年) - 大神田平八郎
社長三代記(1958年) - 浅川啓太郎
続・社長三代記(1958年) - 浅川啓太郎
社長太平記(1959年) - 牧田庄太郎
続・社長太平記(1959年) - 牧田庄太郎
サラリーマン忠臣蔵(1960年) - 大石良雄
続サラリーマン忠臣蔵(1961年) - 大石良雄
社長道中記(1961年) - 三沢英之助
続・社長道中記(1961年) - 三沢英之助
サラリーマン清水港(1962年) - 山本長五郎
続サラリーマン清水港(1962年) - 山本長五郎
社長洋行記(1962年) - 本田英之助
続・社長洋行記(1962年) - 本田英之助
社長漫遊記(1963年) - 堂本平太郎
続・社長漫遊記(1963年) - 堂本庄太郎
社長外遊記(1963年) - 風間圭之助
続・社長外遊記(1963年) - 風間圭之助
社長紳士録(1964年) - 小泉礼太郎
続・社長紳士録(1964年) - 小泉礼太郎
社長忍法帖(1965年) - 岩戸久太郎
続・社長忍法帖(1965年) - 岩戸久太郎
社長行状記(1966年) - 栗原弥一郎
続・社長行状記(1966年) - 栗原弥一郎
社長千一夜(1967年) - 庄司啓太郎
続・社長千一夜(1967年) - 庄司啓太郎
社長繁盛記(1968年) - 高山圭太郎
続・社長繁盛記(1968年) - 高山圭太郎
社長えんま帖(1969年) - 大高長太郎
続・社長えんま帖(1969年) - 大高長太郎
社長学ABC(1970年) - 網野参太郎
続・社長学ABC(1970年) - 網野参太郎

駅前シリーズ 全24作(東京映画)
駅前旅館(1958年) - 生野次平
喜劇 駅前団地(1961年) - 戸倉金太郎
喜劇 駅前弁当(1961年) - 柳田金太郎
喜劇 駅前温泉(1962年) - 吉田徳之助
喜劇 駅前飯店(1962年) - 徳清波
喜劇 駅前茶釜(1963年) - 森田徳之助
喜劇 駅前女将(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前怪談(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前音頭(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前天神(1964年) - 森田徳之助
喜劇 駅前医院(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前金融(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前大学(1965年) - 森田徳之助
喜劇 駅前弁天(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前漫画(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前番頭(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前競馬(1966年) - 森田徳之助
喜劇 駅前満貫(1967年) - 森田徳之助
喜劇 駅前学園(1967年) - 森田徳之助
喜劇 駅前探検(1967年) - 森田徳之助、ナレーター
喜劇 駅前百年(1967年) - 森田徳之助、森田達之助
喜劇 駅前開運(1968年) - 森田徳之助
喜劇 駅前火山(1968年) - 森田徳之助
喜劇 駅前桟橋(1969年) - 森田徳之助

新・三等重役シリーズ 全4作(東宝) - 沢村四郎
新・三等重役(1959年)
新・三等重役 旅と女と酒の巻(1960年)
新・三等重役 当るも八卦の巻(1960年)
新・三等重役 亭主教育の巻(1960年)

女シリーズ 全4作(松竹) - 金沢
喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年)
喜劇 女生きてます(1971年)
喜劇 女売出します(1972年)
女生きてます 盛り場渡り鳥(1972年)

その他
女優(1947年、東宝)
腰抜け二刀流(1950年、新東宝) - 宮本武蔵之助(初主演)
恋人(1951年、新東宝) - ダンスホールのマネージャー
ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 武上等兵
チャッカリ夫人とウッカリ夫人(1952年、新東宝) - 茂さん
三等重役(1952年、東宝) - 浦島人事課長
続チャッカリ夫人とウッカリ夫人 底抜けアベック三段とび(1952年、新東宝) - 高橋頑鐵
腰抜け巌流島(1952年、大映) - 宮本武蔵
続三等重役(1952年、東宝) - 浦島人事課長
一等社員 三等重役兄弟篇(1953年、東宝) - 天栗太郎
凸凹太閤記(1953年、大映) - 木下藤吉郎
坊っちゃん(1953年、東京映画) - 赤シャツ
芸者小夏(1954年、東宝) - 川島
スラバヤ殿下(1955年、日活) - 長曽我部久太郎、長曽我部永二(二役)
警察日記(1955年、日活) - 吉井巡査
次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り(1955年、日活) - 森の石松
森繁の新入社員(1955年、東宝) - 豊臣三太郎
番場の忠太郎(1955年、新東宝) - 青木一作
渡り鳥いつ帰る(1955年、東京映画) - 吉田伝吉
芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏(1955年、東宝) - 川島
夫婦善哉(1955年、東宝) - 維康柳吉
人生とんぼ返り(1955年、日活) - 市川段平
花嫁会議(1956年、東宝) - 山ノ内専務
神阪四郎の犯罪(1956年、日活) - 神阪四郎
ロマンス娘(1956年、東宝) - 森下
猫と庄造と二人のをんな(1956年、東京映画) - 庄造
世にも面白い男の一生 桂春団治(1956年、宝塚映画) - 桂春団治
白夫人の妖恋(1956年、東宝) - 終南山の道士(ノンクレジット)
雪国(1957年、東宝) - 伊村
伴淳・森繁の糞尿譚(1957年、松竹) - 阿部丑之助
気違い部落(1957年、松竹) - 解説者X氏
負ケラレマセン勝ツマデハ(1958年、東宝) - 岡見久吉
東京の休日(1958年、東宝) - ファッションショーのMC
暖簾(1958年、東宝) - 八田吾平
人生劇場 青春篇(1958年、東宝) - 吉良常
野良猫(1958年、東宝(宝塚映画製作))
グラマ島の誘惑(1959年、東京映画) - 香椎宮為久
花のれん(1959年、宝塚映画) - 河島吉三郎
珍品堂主人(1960年、東京映画) - 加納夏麿
路傍の石(1960年、東京映画) - 愛川庄吾
ふんどし医者(1960年、東宝) - 小山慶斎
がめつい奴(1960年、東宝) - 向山彦八
南の島に雪が降る(1961年、東京映画) - 森大尉
小早川家の秋(1961年、宝塚映画) - 磯村英一郎
青べか物語(1962年、東京映画) - 先生
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、東宝) - 半兵衛
台所太平記(1963年、東京映画) - 千倉磊吉
天才詐欺師物語 狸の花道(1964年、東宝) - 赤井紋太
われ一粒の麦なれど(1964年、東京映画) - 乳児院院長
裸の重役(1964年、東宝) - 日高孝四郎
喜劇 各駅停車 (1965年、東宝)- 寺山源吉
大冒険(1965年、東宝) - 首相
水戸黄門漫遊記(1969年、東宝) - 徳川光圀
男はつらいよ 純情篇(1971年、松竹) - 千造
座頭市御用旅(1972年、東宝) - 藤兵衛
恍惚の人(1973年、芸苑社) - 立花茂造
喜劇 百点満点(1976年、東宝) - 北上大三
ふたりのイーダ(1976年) - 須川利一郎
姿三四郎(1977年、東宝) - 玄沙和尚
事件(1978年、松竹) - 清川民蔵
夢一族 ザ・らいばる(1979年、東映) - 雨笠治平
二百三高地(1980年、東映) - 伊藤博文
連合艦隊(1981年、東宝) - 本郷直樹
海峡(1982年、東宝) - 岸田源助
小説吉田学校(1983年、東宝) - 吉田茂
ふしぎな國・日本(1983年、松竹) - 老人
さよならジュピター(1984年、東宝) - 地球連邦大統領
空海(1984年、東映) - 阿刀大足
開港風雲録 YOUNG JAPAN(1989年、東宝) - 井伊直弼
流転の海(1990年、東宝) - 松坂熊吾
四十七人の刺客(1994年、東宝) - 千坂兵部
GOING WEST 西へ…(1997年、東映) - 近所の修ちゃん
新サラリーマン専科(1997年、松竹) - 寺内庄助
死に花(2004年、東映) - 青木六三郎

声の出演
白蛇伝(1958年、東映) - 男性キャラクターのすべて
風が吹くとき(1987年、ヘラルド) - ジム
せんぼんまつばら 川と生きる少年たち(1992年、スペース映像) - 昔語り
もののけ姫(1997年、スタジオジブリ) - 乙事主 役[28] / エミシの老人 役
ヘラクレス(1997年、ディズニー) - ナレーション
どんぐりの家(1997年、映画『どんぐりの家』製作委員会) - ナレーション
ドラえもん のび太と翼の勇者たち(2001年、東宝) - 鳥野守博士 役[29]

テレビドラマ

東芝日曜劇場(TBS)
第4話「忘れえぬクリスマス」(1956年)
第58話「鬼よりこわい清水の港」(1958年)
第103話「マンモスタワー」(1958年)
第109話「冬の人」(1958年)
第162話「一枚看板」(1960年)
第996話「雨傘」(1976年)
第1042話「ちいさな愛」(1976年)
第1328話「哀愁のやもめたち」(1982年)

吾輩は猫である(1963年、NHK) - 苦沙弥
七人の孫(1964年 - 1966年、TBS) - 北原亮作
太陽の丘[30](1966年 - 1967年、NHK) - 八代邦住
S・Hは恋のイニシァル(1969年、TBS) - 重太郎
おれの義姉さん(1970年、TBS) - 浜野真砂
だいこんの花(1970年 - 1977年、NET) - 永山忠臣
時間ですよ(1973年、TBS) - 元旅回り一座の女形
あんたがたどこさ 全2シリーズ(1973年 - 1975年、TBS) - 林田明経
水もれ甲介(1974年、NTV) - 三ッ森保太郎

水戸黄門(TBS / C.A.L)
第5部 第24話「二人の御老公・佐賀」(1974年) - 前佐賀藩主鍋島光茂
第14部 第19話「悪を懲らした喧嘩友達・会津」(1984年) - 会津藩主松平正容
第15部 第12話「偽黄門様は喧嘩医者・小倉」(1985年) - 玄磧
第22部 第23話「悪計暴いた備前焼・岡山」(1993年) - 備前遊山
第23部 第22話「白いお髭の意地比べ・萩」(1995年) - 前長州藩主毛利綱広

1000回記念3時間スペシャル(2003年) - 紀伊國屋文左衛門
NHK大河ドラマ / 元禄太平記(1975年、NHK) - 徳川光圀
いごこち満点 第17話(1976年、TBS) - 岩崎

江戸を斬る(TBS / C.A.L) - 徳川斉昭
江戸を斬るII(1975年 - 1976年)
江戸を斬るIII(1977年)
江戸を斬るVII(1987年)
江戸を斬るVIII(1994年)

三男三女婿一匹 全3シリーズ(1976年 - 1980年、TBS) - 桂大五郎
毛糸の指輪(1977年、NHK)
お手々つないで(1977年 - 1998年、NBN・ANB・ABC・HTB・KHB・KSB・UHT・KBC) - 原洋介
悪女について(1978年、テレビ朝日)−沢山栄次
熱い嵐(1979年、TBS) - 高橋是清
天山先生本日も多忙(1979年、ANB) - 並川天山
関ヶ原(1981年、TBS) - 徳川家康
森繁久彌のおやじは熟年(1981年、NET) - 大文字泰助
裸の大将放浪記(1982年 - 1997年、KTV) - 園長先生 役
関西テレビ開局25周年記念 吉田茂(1983年、KTV) - 吉田茂
24時間テレビ愛は地球を救うスペシャルドラマ / 黒い雨・姪の結婚(1983年、NTV) - 閑間重松
芸能生活50周年記念・栄花物語(1983年、CX) - 田沼意次

向田邦子新春ドラマスペシャル(TBS)
眠る杯(1983年) - 周造
麗子の足(1987年) - 日高喬平
響子(1996年) - 常吉
ガンコおやじに敬礼!(1985年、TBS) - 岩倉忠行
そして戦争が終った(1985年、TBS) - 鈴木貫太郎

年末時代劇スペシャル(NTV)
忠臣蔵(1985年) - 吉良上野介
白虎隊(1986年) - 井上丘隅
田原坂(1987年) - 龍左民
五稜郭(1988年) - 佐藤泰然
勝海舟(1990年) - 渋田利右衛門
鶴姫伝奇 -興亡瀬戸内水軍-(1993年) - 越智兵庫助安用

おやじのヒゲ(1986年 - 1996年、TBS) - 大国辰造
森繁久彌ドラマ 花くらべ(1988年、TBS) - 岩佐東吉、佐々軍六
翔んでる!平賀源内(1989年、TBS / C.A.L) - 鴻池宗右衛門
新春ドラマスペシャル みんな玉子焼き(1990年1月1日、テレビ朝日) - 大田原泰造
社長になった若大将(1992年、TBS) - 織部寿光
清左衛門残日録(1993年) - 安富忠兵衛 役
銀色の恋文(1994年、CX)※未放送作品で、2009年11月14日に追悼番組として初放送
銭形平次 第5シリーズ 第10話「過去からの告発」(1995年、CX) - 勘助
とおりゃんせ〜深川人情澪通り 第13話「鶴の行方」(1996年、NHK) - 亀蔵
大岡越前 第14部 第1話「大岡越前」(1996年、TBS / C.A.L) - 見雲遊山
森繁久彌ドラマスペシャル・おじいさんの台所(1997年、TX) - 佐藤真三
南町奉行捕物帖 怒れ!求馬 第1話・第2話(1997年、TBS) - 田安幽斉
人情馬鹿物語(1998年、TX)
飛んで火に入る春の嫁(1998年、TX)
新春ワイド時代劇 / 赤穂浪士(1999年、TX) - 四方庵宗徧
永遠のアトム 手塚治虫物語(1999年、TX) - 幼少時代の手塚の前に現れる謎の老人
怒る男 わらう女(1999年、NHK)
あ・うん(2000年、TBS) - 水田初太郎
女と愛とミステリー / 森繁久彌サスペンス小池真理子の「鍵老人」(2001年、TX) - 西村与平
旗本退屈男 第5話「幽霊城の姫君」(2001年、CX) - 立石右京太夫
こちら第三社会部(2001年、TBS) - 毛利晋一郎(最後の連ドラ準レギュラー格出演)
向田邦子の恋文(2004年、TBS) - 建具師・庄野羊吉


ラジオ番組
愉快な仲間(1950 - 1952年、NHK第1)[31]
日曜名作座(1957 - 2008年、NHK第1)
日曜喫茶室「奈落で聴いたカーテンコール」(1980年4月13日、NHK-FM)
森繁ゴールデン劇場(1961年 - 1962年、文化放送)
今晩は森繁久彌です(1964年 - 1967年、文化放送)
友よ!森繁だ(1978年10月2日 - 、文化放送)[32]


舞台
暖簾(1958年)
佐渡島他吉の生涯(1961年)
屋根の上のヴァイオリン弾き(1967年 - 1986年) - テビィエ
孤愁の岸(1983年)
狐狸狐狸ばなし
台所太平記
赤ひげ診療譚
お遊さま


作詞・作曲
オホーツクの舟歌(1960年)
知床旅情(1963年)
能登の夢(1988年)


LPレコード
おらが唄さ(1963年、日本コロムビア)
森繁久彌 魅力のすべて(1969年、日本コロムビア)
しれとこ旅情(1971年、日本コロムビア)
我がセンチメンタルの碑(発売年不明、日本フォノグラム)


コンパクトディスク
森繁久彌全集 〜青春が花ならば〜(1996年、日本コロムビア)
森繁久彌大全集(2007年、森繁久彌さんを偲んで[33] 日本コロムビア)
愛誦詩集(2001年、エイベックス)
望郷詩集(2003年、エイベックス)
森繁ゴールデン劇場「あの唄 この唄 僕の唄」[34](2008年、ビクターエンタテインメント)
森繁久彌 歌の旅 映画の人生[35] (2010年、ビクターエンタテインメント)

NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1959年/第10回 初 カチューシャ 23/25 越路吹雪(1)
1960年/第11回 2 フラメンコ・ソーラン節 15/27 江利チエミ
1961年/第12回 3 五木の子守唄 17/25 寿美花代
1962年/第13回 4 しれとこ旅情 20/25 越路吹雪(2)
1963年/第14回 5 フラメンコかっぽれ 08/25 楠トシエ
1964年/第15回 6 戦友 21/25 越路吹雪(3)
1965年/第16回 7 ゴンドラの唄 15/25 吉永小百合

(注意点)
対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す


著書
『こじき袋』読売新聞社 1957 のち中公文庫
『森繁久弥の朝の訪問』日本放送出版協会 NHK新書 1957
『アッパさん船長』中央公論社 1961 のち文庫
『見て来た・こんな・ヨーロッパ』雪華社 1961 のち中公文庫
『森繁自伝』中央公論社 1962 のち文庫
『はじのうわぬり 森繁らくがき帖』今野書房 1964
『友よ明日泣け 今晩は森繁です』編 サンケイ新聞出版局 1966
『ブツクサ談義』未央書房 1967
『猛烈社員の条件 社長さん森繁です』東京12チャンネル制作部編 新人物往来社 1969
『一片の雲 森繁久彌随筆集』ちはら書房 1979
『にんげん望遠鏡』朝日新聞社 1979
『わたしの自由席』中公文庫 1979
『さすらいの唄 私の履歴書』日本経済新聞社 1981
『こぼれ松葉 森繁久弥の五十年』日本放送出版協会 1983
『にんげん望艶鏡』朝日新聞社 1983
『人師は遭い難し』新潮社 1984
『ふと目の前に 自伝エッセイ』東京新聞出版局 1984 のち小池書院・道草文庫
『あの日あの夜 森繁交友録』東京新聞出版局 1986 のち中公文庫
『左見右見』扶桑社 1987
『海よ友よ メイキッスIII号日本一周航海記』朝日新聞社 1992
『隙間からスキマへ』日本放送出版協会 1992 のち日本図書センター「人間の記録」
『森繁久弥の碧い海をもとめて "めいきっすIII世号"日本一周クルージング フォトエッセー』佐々木正和写真 東京新聞出版局 1992
『夜光虫』新潮社 1993
『帰れよや我が家へ』ネスコ 1994
『青春の地はるか 五十年目の旧満州への旅』日本放送出版協会 1996
『もう一度逢いたい』朝日新聞社 1997 のち文庫
『品格と色気と哀愁と』朝日新聞社 1999 のち文庫
『森繁久彌86才芸談義』倉本聰聞き手 小学館文庫 1999
『大遺言書』語り 久世光彦文 新潮社 2003 のち文庫
『今さらながら 大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2004
『生きていりゃこそ』語り 久世光彦 文 新潮社 2005
『さらば大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2006

共編著
『わたしのニューカレドニア』小谷章共編 太陽出版 1982
『男と女の一心不乱 対談』加藤登紀子、加藤唐九郎共著 風媒社 1997


作品集
『森繁久彌コレクション』(全5巻)藤原書店 2020
道―自伝
人―芸談
情―世相
愛―人生訓
海―ロマン


揮毫など
NHK大河ドラマ / 秀吉(1996年、NHK) - 題字
吟醸酒「神の座」 - 命名・題字(青森県・尾崎酒造)
日本酒「泉正宗」 - 題字(兵庫県・泉酒造)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/690.html#c1

[近代史7] 平尾昌晃 中川隆
2. 2021年12月10日 12:53:00 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[28]
平尾昌晃(1937年12月24日 - 2017年7月21日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%BE%E6%98%8C%E6%99%83

平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - 2017年7月21日[1])は、日本の作曲家、作詞家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]、社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事[3]。


来歴・人物

生い立ち
化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。

東京市の牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県の湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る[4]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていた。

小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える[5]。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう[6]。

藤沢市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入る[7]。しばらくして、チャック・ワゴン・ボーイズはボーカルの小坂一也が脱退したため、オールスターズ・ワゴンとなる。

ソロ・デビュー
1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する[8]。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする[8]。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットとなる[9]。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した[10]。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった[11]。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚[12]、「ミヨちゃん」は40万枚[13] とする文献もある。

「ミヨチャン」の元歌は、戦前から中学生の間で流行していた作曲者不詳の歌で、平尾は高校生の頃に覚えたという。それを基に現代(1960年当時)向きの歌詞をつけてリメイクしたのが平尾の「ミヨチャン」である[14]。

ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI(英語版)が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった[15]。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した[15]。

1965年2月20日、拳銃不法所持で逮捕される[16]。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と[16]、名古屋と東京の暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した[16]。平尾は22日間拘留され[16]、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された[16]。

ロカビリーブームが去った1965年頃、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイクする[17]。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明が1966年に再レコーディングし、これもヒットとなった[18]。続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「恋」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」[19][20]、梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。

その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日[21]、結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除く。1969年11月30日に退院[21]。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[22]。

1970年代
1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャンらに提供している。作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。

1971年、五木に提供した「よこはま・たそがれ」、小柳に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒットする。
1972年、小柳に提供した「瀬戸の花嫁」が第3回日本歌謡大賞を受賞する。
1973年、五木に提供した「夜空」が第15回日本レコード大賞を受賞する。
1974年、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、笹峰愛、倖田來未、後藤真希、西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代
1980年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]。

音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍した。俳優としても、『二階の他人』などに出演している。

競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有した[25]。また、ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもあった。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほどだった。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。

2000年代
2001年、モンブラン国際文化賞受賞。

2002年、特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年、紫綬褒章受章。

2004年に三男の平尾勇気が歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年の第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎、前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。

晩年・闘病・死去
肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。

2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している[26]。

2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。

しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去[1]。79歳だった。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[27]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐(渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳、青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ[28]。

没後
没後に第59回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[29]。

作曲家としての提供曲

サウンドトラック
朝日放送
必殺シリーズ[30]
TBSテレビ
風の中のあいつ[31]
明日の刑事
テレビ朝日
人魚亭異聞 無法街の素浪人(制作:三船プロ)
遠山の金さん(高橋英樹主演版)[32]
よみうりテレビ
宇宙空母ブルーノア[33]


あ行
藍美代子
「ミカンが実る頃」(作詞:山上路夫)
「星の子チョビン」「星のしずくの子守唄」(「星の子チョビン」主題歌・副主題歌)
葵三音子
「哀愁」(「必殺仕置屋稼業」主題歌)
朝比奈マリア
「星空のラストソング」「太陽は死なない」(「わが青春のアルカディア」挿入歌)
アグネス・チャン
「草原の輝き」
「星に願いを」
「愛の迷い子」
「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」
梓みちよ
「渚のセニョリーナ」
「二人でお酒を」
「淋しがりや」
天地真理
「ふたりの日曜日」
「愛のメロディ」(不二家チョコレートメロディのCMソング)
鮎川いずみ
「冬の花」(「必殺仕事人III」主題歌)
「花の涙」(「必殺仕事人IV」主題歌)
荒木一郎
「西陽のあたる部屋」(「必殺仕業人」挿入歌)
荒木由美子
「フラストレーション」
「UNHAPPY END」
「夢あわせ」
アン・ルイス
「グッド・バイ・マイ・ラブ」(作詞:なかにし礼)
五木ひろし
「よこはま・たそがれ」(作詞:山口洋子)
「長崎から船に乗って」
「あなたの灯」
「霧の出船」
「ふるさと」
「夜空」
「別れの鐘の音」
「港・ひとり唄」
伊東ゆかり
「小さな恋」
「恋のしずく」
「星を見ないで」
「知らなかったの」
「愛して愛して」
「朝を返して」
大場久美子
「キラキラ星あげる」(「コメットさん」主題歌)
大塚たけし
「風は知らない」(「トリプル捜査線」主題歌)
奥村チヨ
「夜よそのままで」
尾崎紀世彦
「愛こそすべて」(東宝映画「エスパイ」主題歌)
小沢深雪
「さすらいの唄」「夜空の慕情」(「必殺必中仕事屋稼業」主題歌・挿入歌)


か行
柏原芳恵
「花嫁になる朝」
梶芽衣子
「修羅の花」(映画「修羅雪姫」主題歌)
春日八郎
「からまつ岬」
金沢明子
「浜千鳥情話」(「必殺仕事人」主題歌)
狩人
「白馬山麓」(作詞:喜多條忠)
川崎麻世
「宇宙空母ブルーノア-大いなる海へ-」「夜間航海(ナイト・クルーズ)」(「宇宙空母ブルーノア」主題歌・副主題歌)
川谷拓三
「負犬の唄」(「必殺からくり人」主題歌)
川田ともこ
「あかね雲」(「新・必殺仕置人」主題歌)
北川大介
「横浜ルージュ」
「黄昏の向こう側」
「君の住む町で」
北川大介・瀬川瑛子
「もういくつ寝るとしあわせが」
こおろぎ'73
「いつの日か」(「サイボーグ009」テレビ版第2期 副主題歌)
小柳ルミ子
「わたしの城下町」(作詞:安井かずみ)
「お祭りの夜」
「雪あかりの町」
「瀬戸の花嫁」(作詞:山上路夫)
「京のにわか雨」(作詞:なかにし礼)
「漁火恋唄」
「恋にゆれて」
「恋の雪別れ」
「花のようにひそやかに」(作詞:阿久悠)
「ひとり囃子」
「みだれ髪」
「青林檎」(作詞:一青窈)


さ行
ささきいさお
「銀河鉄道999」「青い地球」(「銀河鉄道999」主題歌・副主題歌)
「ぶっちぎりの青春」(川口オートレース場テーマソング)
桜田淳子
「玉ねぎむいたら...」(TBS・TVドラマ玉ねぎむいたら…主題歌)
里見浩太朗
「微笑みかけて」(「長七郎江戸日記」第1部 主題歌)
沢田研二
「あなただけでいい」
「『風の中のあいつ』主題歌(タイトル不明)」[34]
渋谷哲平
「わが青春のアルカディア」(「わが青春のアルカディア」主題歌)
じゅん&ネネ
「愛するってこわい」
園まり
「愛情」
「泣きぬれて」
「おもいきり泣かせて」


た行
田川裕之
「一恋橋〜いちれんばし〜」(平尾プロデュース作品)
鶴岡雅義と東京ロマンチカ
「追憶」「あなたを愛した頃」「別れてきました」「銀座の女(ひと)」
ザ・ドリフターズ
「ミヨちゃん」(平尾が初めて作詞作曲歌唱してヒットさせたナンバーのカバー。渥美清も歌っている)

な行
永井みゆき
「蛇の目小紋の女」(生前最後のリリース曲)
中尾ミエ
「花のさだめ」
「淋しそうなあなた」
中条きよし
「うそ」(作詞:山口洋子)
「理由」
仲雅美
「さすらいが呼んでる」(「家光が行く」主題歌)
中村雅俊
「瞬間(ひととき)の愛」(「必殺渡し人」主題歌)
中山千夏
「もくべえじろべえ」(「ひらけ!ポンキッキ」より)
成田賢
「誰がために」(「サイボーグ009」テレビ版第2期 主題歌)
西崎みどり
「旅愁」(「暗闇仕留人」主題歌、作詞:片桐和子)
「さざなみ」(「必殺仕業人」主題歌)
「流星」(「新・必殺仕舞人」主題歌)
西田あい
「ゆれて遠花火」
「ときめきカフェテラス」
「月見草」
「雨おんな」
「涙割り」
野口五郎
「愛よ甦れ」

は行
橋幸夫&ステファニー
「スターダスト上海」(作詞:橋本淳)
林寛子
「危険がいっぱい」
平尾昌晃&畑中葉子
「カナダからの手紙」(作詞:橋本淳)
「エーゲ海の旅」
「サンフランシスコ行き」
「ヨーロッパでさよなら」
畑中葉子
「ロミオとジュリエット'79」
原辰徳
「どこまでも愛」
原田潤
「ぼくの先生はフィーバー」(「熱中時代」先生編 第1シリーズ 主題歌、「世界一受けたい授業」主題歌)
氷川きよし
「櫻」(作詞:なかにし礼)
大安蓮(ひろあれん)
「空手バカ一代」(「空手バカ一代」 主題歌)
藤田絵美子
「さよならさざんか」(「必殺仕事人V」、「必殺橋掛人」主題歌)
布施明
「おもいで」
「霧の摩周湖」(作詞:水島哲)
「恋」
「愛の園」
「バラ色の月」
「愛は不死鳥」
「白いラヴレター」
「何故」
風吹ジュン
「愛がはじまる時」
「涙に微笑みを」
本田博太郎
「風の旅人」(「必殺仕舞人」主題歌)

ま行
松田聖子
「Eighteen」(作詞:三浦徳子)
水木一郎
「キャプテンハーロック」「われらの旅立ち」(「宇宙海賊キャプテンハーロック」主題歌・副主題歌)
みずきあい
「惜雪」(「新必殺からくり人」主題歌)
水谷豊
「カリフォルニア・コネクション」(「熱中時代」刑事編 主題歌、作詞:阿木燿子)
「やさしさ紙芝居」(「熱中時代」先生編 第2シリーズ 主題歌、作詞:松本隆)
「エンジェルSTREET」(「探偵 左文字進」シリーズ主題歌、作詞:湯川れい子)[1]
三井由美子
「やがて愛の日が」(「必殺仕置人」主題歌)
ミッツ・マングローブ
「メロン娘とオレンジ娘」
三波春夫
「桃太郎侍の歌」(「桃太郎侍」主題歌、作詞:三波春夫)
三橋美智也
京都が泣いている/恋みれん
郷愁/鵜の浜小唄
都はるみ
「にごりえの町」
森本太郎とスーパースター
「望郷の旅」(「助け人走る」主題歌)

や行以降
山口百恵
「赤い絆 (レッド・センセーション)」(「赤い絆」主題歌)
山川豊
「アメリカ橋」(作詞:山口洋子)
「霧雨のシアトル」
「ロスの街角」(作詞:編曲:冬樹かずみ)
山下雄三
「荒野の果てに」(「必殺仕掛人」主題歌)
吉沢京子
「わかって欲しいの」
ラブリーズ
「紅すずらんの伝説」(支笏湖イメージソング、作詞:茜まさお)

その他
ぶっちぎりの青春(川口オートレース場のイメージソング。歌は佐々木功)
オートレースのファンファーレ
ともだちがいる(第42回NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲)
やすらぎの時代へ
ムーンライト・カーニバル(NHKレッツゴーヤングオープニング曲、作詞:森雪之丞)
ころがれアルマジロ(NTV『新・ロンパールーム』オープニングテーマ曲。作詞:藤公之介、作曲:平尾昌晃、編曲:田辺信一、歌:やまみどり、コロムビアゆりかご会)
など多数。

また、高等学校の校歌や企業の社歌を作曲したこともある。

歌手としての作品
シングル

平尾昌章とオールスターズワゴン名義


キングレコード
リトル・ダーリン / バター・フィンガー(1958年1月)
星は何でも知っている / ロック夕やけ小やけ(1958年7月、EB-108)- 平尾昌章名義
ダイアナ(1958年)- 平尾昌章名義、ポール・アンカのカバー。山下敬二郎と競作になった。
c/w バルコニーにすわって
好きなんだ! (I Love You)(1959年)- 作詞・作曲:ポール・アンカ
c/w ロック黒田節
恋の片道切符(1960年、EB-310)- ニール・セダカのカバー
c/w 黒のブルース(メンフィス・ブルース)- アラン・ゴラゲール(英語版)楽団のカバー
ランニング・ベア(英語版)(悲しきインディアン)(1960年、EA-109)- ジョニー・プレストン(英語版)のカバー
c/w レッド・リヴァー・ロック - ジョニーとハリケーンズ(英語版)のカバー
ミヨチャン / あの日から(1960年、EB-325)
あの娘16、おさげ髪 / 木曽の仲のりさん(1960年、EB-383)
都の灯りにあこがれて / リカちゃん(1960年、EB-419)
ワゴン・トレイン(幌馬車隊)(1960年、EB-7025)- 平尾昌章名義、テレビ西部劇『幌馬車隊(英語版)』主題歌のカバー
c/w アイ・ラヴ・パリス(英語版) - ミュージカル『CAN-CAN』挿入歌のカバー
おもいで / しあわせは音もなく(1961年、EB-496)
ジャニー・ギター(1961年、SEB-49)- ペギー・リーのカバー
c/w ビーバップ・ア・ルーラ - ジーン・ヴィンセント&ヒズ・ブルー・キャップスのカバー
ムームー・ソング / 夏の日の想い出(1961年、EB-552)
ギラギラロック(1961年、EB-7033)
c/w 今夜はひとりかい?(英語版) - アル・ジョルソンやエルヴィス・プレスリーらが歌った曲のカバー
涙のムーディー・リヴァー(英語版)(1961年)- チェイス・ウェブスターやパット・ブーンらが歌った曲のカバー
c/w 世界を旅する男 - リッキー・ネルソンのカバー
いとしのルチア / 道中伊勢音頭(1961年)
思い出の歌(1961年)- 平尾昌章名義
c/wは、若原一郎の「雨の日だって楽しいさ」
嫌じゃありませんか / 水車がガッタンコ(1961年)- 平尾昌章名義
夢の恋人 / 星の降るよな晩だった(1961年)- 平尾昌章名義
クレイジー・ラヴ (EA-48) - 平尾昌章名義、ジーン・ヴィンセントのカバー
c/w ジザベル
ジングル・ベル / 別れのワルツ (Auld Lang Sayne)(1961年、EA-59)- 平尾昌章名義
男だけの世界 / 一人にしておくれ(EB-179)- 平尾昌章名義
ロック聖者が街へやって来る / 星の降る夜は(1961年)

ビクターレコード
夏の夜の恋 / 何も言えずに(1962年、VS-726)
哀愁のバイパス道路(VS-861)
c/wはフランク永井の「霧子のタンゴ」
さあ!オリンピックだ(1964年、VA-1194)
1964年東京オリンピック記念歌。伊藤アイコとデュエット。B面は伊藤のソロ曲「想い出の泉」
スピード野郎(1964年)- ミュージカル「ラップ3分2秒8」主題歌
B面は亀井信夫とスペイスメンの「祈らずにいられない」

ローヤルレコード
あいつの涙 / お月さま(1966年4月、RQ-617)


平尾昌晃名義
破れた恋にも虹がある / ひとりごと(1967年、キングレコード、BS-640)
星は何でも知っている / 砂に書いたラブレター(1976年、L-26A)
上陸!ロックン・ロール・タイフーン / 聖者の行進(1977年6月、CBSソニー、08SH-158)
A面は1950年代から1960年代のロックンロールのヒット曲のメドレー。ミッキー・カーチス、山下敬二郎と共演
カナダからの手紙 / 揺れる二人(1978年1月10日、ビクターレコード、SV-6340)- 畑中葉子とデュエット
エーゲ海の旅 / 恋ごころ(1978年4月25日、ビクターレコード)- 畑中葉子とデュエット
サンフランシスコ行き / 赤いレインコート(1978年、ビクターレコード)- 畑中葉子とデュエット
ヨーロッパでさよなら / 東京ラブ・ストーリー(1978年、ビクターレコード、SV-6496)- 畑中葉子とデュエット
手錠をかけろ / 青春のみちしるべ(ビクターレコード、SV-6655)
遠い町 / シンガーソングライター(1979年)- NHK『レッツゴーヤング』エンディングテーマ曲
香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)/ 夕焼け(2002年7月21日)- アグネス・チャンとデュエット
星空デート / 恋ふたたび(2012年4月4日)- 木の実ナナとデュエット


ベストアルバム
Nippon Rock'n'Roll - The Birth Of Japanese Rokabirii(2013年6月24日、イギリス盤)
決定版 2016 平尾昌晃(2015年11月11日)


その他
必殺仕事人 新録劇伴集((必殺仕事人2007〜)(2016年11月30日、YZHM-30101)

映画出演
嵐を呼ぶ男(1957年)
愛河(1958年)
星は何でも知っている(1958年)
赤いランプの終列車(1958年)
単車で飛ばそう(1959年)
東京ロマンス・ウェイ(1959年)
待っていた花嫁(1959年)
可愛い花(1959年)
女は抵抗する(1960年)
恋の片道切符(1960年)
不良少女(1960年)
俺の故郷は大西部(1960年)
夕陽に赤い俺の顔(1961年)
引っ越しやつれ(1961年)
幽霊五十三次(1961年)
二階の他人(1961年)
若者たちの夜と昼(1962年)
大暴れ五十三次(1963年)
七人の刑事(1963年)
嵐を呼ぶ十八人(1963年)
東京オリンピック音頭 恋愛特ダネ合戦(1963年)
若い港(1964年)
やればやるぜ全員集合(1968年)


NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 曲目 対戦相手
1960年(昭和35年)/第11回 ミヨチャン 松尾和子
1961年(昭和36年)/ 第12回 タック・ロック 西田佐知子
1962年(昭和37年)/ 第13回 ツイストNo.1 森山加代子
1978年(昭和53年)/ 第29回[35] カナダからの手紙 岩崎宏美

蛍の光・担当指揮
「蛍の光」の3代目指揮者として藤山一郎・宮川泰の後を引き継ぎ、2006年(第57回)から死去前年の2016年(第67回)まで担当した[36]。

著書
『不死鳥のメロディー』潮出版社(1972年)
『これが、プロフェッショナルだ』泰流社(1977年)
『平尾昌晃のカラオケ100点満点―カラオケなんて恐くない!!(1983年)
『平尾昌晃の歌上手になる本』山口洋子編 講談社文庫(1986年)
『気まま人生歌の旅』広済堂出版(1994年)- 自伝
『昭和歌謡1945〜1989 歌謡曲黄金期のラブソングと日本人』廣済堂新書(2013年)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%BE%E6%98%8C%E6%99%83
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/658.html#c2

[近代史7] さだまさし 中川隆
2. 2021年12月10日 13:02:31 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[29]
さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年〈昭和27年〉4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授[1][2]。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。

フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている[3]。

トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。身長165センチ。


経歴

生い立ち〜青年期
父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。

佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である[4]。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である[5]。父・雅人(1920 - 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。 (なお、雅志誕生のおよそ2年半後には弟の繁理が、およそ5年後には妹の玲子も誕生し、雅志は三人兄弟の長男として成長してゆく)

雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった[6](ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し[7]、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる[8])。

3歳よりヴァイオリンを習い始め才覚を現す。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。

最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという[9]。(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻する[9]、といった調子の生活をしていたという)

上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。

グレープでデビュー
國學院大學法学部に進学する。ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループ[10]などを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至った。

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。

ソロ歌手への転向

この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。(2010年8月)
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。

1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。

1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり[注釈 1])さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった[11]。(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。

1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。

1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。

1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の橋真梨子が初)。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売した。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。

2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。

2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。

2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。

2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。

2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。

2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。

2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表[12]。

2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。

パーソナルデータ
國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。

趣味はゴルフ、パチンコ、競馬など。

身長は165cm。血液型はA型。

家族
既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。

弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKUこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢。

シンガーソングライターとして

メロディーの傾向
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。

自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。

活発なコンサート活動
さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった[13]。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している[14]。しかし、その後もコンサートの年間開催回数に変動はなく2020年8月17日のチャリティーコンサートで4425回を達成している。

さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。

1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。

影響を受けたアーティスト
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある[15]。

その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。

同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である[16]。

また中村八大、永六輔の影響を大きく受けているとも語っている。

「噺家」として
さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた[17]。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。

コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。

落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。

このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。

1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという[18]。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている[18]。

2012年のデビュー30周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。

同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。

内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。

小説家として
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録)。

2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。

『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。

2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化された。

さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「ライナーノーツ」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。

童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。

さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。


人物

持論
さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い[19]。

祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)[20]。

前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある[21]。

こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「右翼」、『しあわせについて』で「左翼」と批判されたほどであったという[22]。

ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している[23]。

詩へのこだわり
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている[24]。

さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧西彼杵郡琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で詩島(うたじま)と改名されたことにも現れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。

スポーツの応援
プロ野球では、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまで読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという[25]。2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」として始球式に登板した[26]。また神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。「今夜も生でさだまさし」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。

その他、福岡ソフトバンクホークスも九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある栗山英樹監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦(札幌ドーム)にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。

浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が三菱重工等の企業城下町であり、前身の三菱重工業サッカー部以来のファンと公言している[27]。

また1991年から2010年まで使用された競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものであった[28]。

甲子園で、千葉県の多古高校と滋賀県の伊香高校が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。

飲食店の経営
1980年代の前半に東京地下鉄・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。

店先(地上)にはケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースのパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。
地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。
壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。
トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。
メニューには「あみんセット」(パンプキンパイ・シナモンティー・バラの形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」に因んだ「分岐点セット」(ミートパイとソーダ水)があった。
この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。故郷長崎市に「自由飛行館」がある。

その他
NHK『連続テレビ小説』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『おはなはん』と話す[29]。大泉洋が出演する、HTB『水曜どうでしょう』のファンでもある[30]。

人気・評価
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。

2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。


主な著作

ステージトーク集
噺歌集(全5巻 文藝春秋)
さだまさし 話のアルバム(新潮CD文庫)

その他
僕の愛読詩集(新潮社カセット文庫) - 井伏鱒二との対談付
さだまさしのセイ!ヤング(赤本・青本)(音楽之友社)
アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)
ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)
『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館(絶版)、文藝春秋);エッセイ
本 人の縁とは不思議なもので…(八曜社) - 初の著作本
時のほとりで(新潮文庫)
さまざまな季節に(文藝春秋)
ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)(全3巻 新書館)
風待煙草(CBSソニー出版)
せとぎわの魔術師(講談社)
日本が聞こえる(毎日新聞社)
まほろばの国で(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)
いつも君の味方(講談社)
本気で言いたいことがある(新潮社)
美しき日本の面影(新潮社)
もう愛の唄なんて詠えない(ダイヤモンド社)
まほろばの国で 終章(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)
いのちの理由(ダイヤモンド社)
酒の渚(幻冬舎)のち文庫
さだの辞書(岩波書店)

小説
精霊流し(幻冬舎)
解夏(幻冬舎)
眉山(幻冬舎)
茨の木(幻冬舎)
アントキノイノチ(幻冬舎)
かすてぃら 僕と親父の一番長い日[54](2012年4月5日、小学館、ISBN 978-4093863292)
はかぼんさん:空蝉風土記(2012年8月22日、新潮社、ISBN 978-4103008729)
風に立つライオン(2013年7月18日、幻冬舎、ISBN 978-4344024229)
ちゃんぽん食べたかっ!(2015年5月28日、NHK出版、ISBN 978-4140056646)
銀河食堂の夜(2018年9月28日、幻冬舎、ISBN 978-4344033603)

童話
ふうせんのはか(くもん出版)
おばあちゃんのおにぎり(くもん出版)
23時間57分のひとり旅(くもん出版)

翻訳
とても温かで とてもせつない きみの絵本(2016年4月21日、ジュヌヴィエーヴ・カスターマン著、千倉書房、ISBN 978-4805110966)

歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ
秋桜(サンマーク出版)
償い(サンマーク出版)
親父の一番長い日(サンマーク出版)
案山子(サンマーク出版)
奇跡(サンマーク出版)
また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。

教育機関等への作曲
私公立学校の校歌を作曲し提供している。

夢ありてこそ(長崎県立長崎明誠高等学校校歌)
風光る(つくば秀英高等学校校歌)
明成小学校校歌(金沢市立明成小学校校歌)
緑豊かに(岩瀬日本大学高等学校校歌)
空はるか(長崎県南高来郡北有馬町立有馬小学校校歌)
約束をしよう(栃木県大田原市立黒羽中学校校歌)
千年の祈り(奈良県十津川村立十津川中学校校歌)
愛ありて(川崎医療福祉大学大学歌)
花咲きぬ(川崎医療福祉大学大学歌)

出演

主な映像作品など
映画『翔べイカロスの翼』(主演・音楽、1980年)
映画『関白宣言』(原作・出演・主題歌、1980年) - 主演・佐田繁理
映画『長江』(監督・主演、1981年)
映画『さだおばさん』(原田泰治原作、監督・音楽、1994年) - 「欽ちゃんのシネマジャック」の1本として(アニメ作品)
映画『学校III』(山田洋次監督、出演、1998年) - 職業訓練校教務・北
『はらぺこあおむし』(エリック・カールの絵本のアニメ版、日本語版の朗読、2001年)
映画『精霊流し』(原作・主題歌、2003年)
映画『解夏』(原作・主題歌、2004年)
映画『釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪』(出演、2005年)刑事
映画『眉山-びざん-』(原作、2007年)
映画『ぼくとママの黄色い自転車』(主題歌、2009年)
映画『アントキノイノチ』(原作、2011年)
映画『サクラサク』 (原作・主題歌、2014年)
映画『宇宙兄弟#0』(アニメ作品、声優、2014年) - 通りすがりの豆腐屋


NHK紅白歌合戦出場歴
『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。1977年・第28回にも「雨やどり」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという[57]。2020年・第71回は特別企画の形で出場した。

年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手
1979年/第30回 初 関白宣言 08/23 金沢明子
1980年/第31回 2 防人の詩 08/23 五輪真弓
1990年/第41回 3 風に立つライオン 19/29 小林幸子
1991年/第42回 4 奇跡〜大きな愛のように〜 21/28 テレサ・テン
1992年/第43回 5 秋桜 27/28 和田アキ子
1993年/第44回 6 主人公 22/26 藤あや子
1995年/第46回 7 精霊流し 10/25 石嶺聡子
1996年/第47回 8 案山子 20/25 和田アキ子 (2)
1997年/第48回 9 秋桜(2回目) 18/25 由紀さおり・安田祥子
1998年/第49回 10 北の国から'98 19/25 由紀さおり・安田祥子 (2)
1999年/第50回 11 奇跡〜大きな愛のように〜(2回目) 22/27 小林幸子 (2)
2000年/第51回 12 無縁坂 09/28 長山洋子
2001年/第52回 13 きみを忘れない〜タイムカプセル〜 25/27 川中美幸
2002年/第53回 14 精霊流し(2回目) 25/27 和田アキ子 (3)
2003年/第54回 15 たいせつなひと 14/30 ZONE
2004年/第55回 16 遥かなるクリスマス 23/28 中島美嘉
2005年/第56回 17 広島の空 15/29 森山良子
2006年/第57回 18 案山子(2回目) 19/27 アンジェラ・アキ
2007年/第58回 19 Birthday 15/27 坂本冬美
2020年/第71回 20 奇跡2021(3回目) - (白組ではなく特別企画枠での歌唱)

CM

ダスキン(完了)
ダスキンのCMにはかなり長期間出演しており、3分間のコント仕立てのCM「ダスキン100番100番劇場」などにも主演している。ダスキンのキャラクターとして定着し、子供達からは一時期「ダスキンのおじさん」と呼ばれるほどだった。
常盤薬品工業「パスビタンD」(1992年)
『セイ!ヤング』で募ったファンのエキストラをホールに入れて「あなた三昧」を歌うコンサート風のバージョンと、マネージャー廣田泰永とさだとの楽屋での掛け合いの2バージョンがオンエア。
長崎俵物(2005年 - )ナレーションと音楽(案山子)
西日本新聞(2005年 - )音楽(愛)
ソフトバンクモバイル(2009年)
CM内で「私は犬になりたい\490」を歌っている。
サッポロビール「サッポロ クリーミーホワイト」(2010年 - )音楽(北の国から2010)
ナレーターを担当したバージョンもある。
日本香堂「青雲クリーン・心のケータイ」(2012年)白秋歌の歌唱
3行詩「心のケータイ」募集を兼ねたプロモーションで、CFソングを担当。
スカパーJSAT「スカパー!」(2018年)[58]
ジャパネットたかた(2019年)
ACジャパン(2019年)「2019年度支援キャンペーン『にゃんぱく宣言』」
CMソングを担当。
浅田飴(2019年)[59]
にゃんぱく宣言(2019年)[60]
明治明治プロビオヨーグルトR-1"体調一番地"シリーズ(2020年11月26日 - ) - 謎の男 役
『体調一番地デビュー』篇、『ここは体調一番地』篇(2020年11月26日 - ) - 江口のりこ、飯尾和樹、林遣都と共演[61]


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/657.html#c2

[近代史7] 松任谷(荒井) 由実 中川隆
1. 2021年12月10日 13:06:32 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[30]
松任谷 由実(まつとうや ゆみ、1954年〈昭和29年〉1月19日 - )は、日本のシンガーソングライターである。本名同じ。旧姓名及び旧芸名は、荒井 由実(あらい ゆみ)。

1972年にシングル「返事はいらない」でデビュー。一部企画では、愛称の「ユーミン(Yuming)」名義での活動もある。紫綬褒章受章者(2013年〈平成25年〉)。公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。所属レコード会社はユニバーサルミュージック(旧:EMIミュージック・ジャパン)。血液型はO型。

他のアーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじった[5]ペンネームである呉田 軽穂(くれだ かるほ[6])を使用する場合もある。

夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。


経歴
立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。

雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1972年、荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからデビューし、1976年の結婚以降は松任谷由実へ改姓。2013年、EMIJ解散に伴いユニバーサルミュージックへ移籍。


生い立ち
1954年1月、三男二女の第四子(二女)として生まれる[注 1]。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。

中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。またフィンガーズの追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。

高校は立教女学院に進学。「立教女学院のパイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている[7][8]。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける[9]。

14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが、荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。

デビュー
1971年、加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、17歳で作曲家としてデビューした。染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。

荒井は元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。1973年11月に、キャラメル・ママらとレコーディングしたファーストアルバム『ひこうき雲』を発売。TBSラジオの深夜放送番組「パックインミュージック」金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。

1975年10月発売のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャート1位を獲得(それ以前にもバンバンへの提供曲の「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得している)、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。

結婚、松任谷由実として活動
1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行する。ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。「埠頭を渡る風」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン」などはこの頃作られた。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。

1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得。特に1987年のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』が78万枚の大ヒットを皮切りに、翌1988年『Delight Slight Light KISS』は159万枚とセールスが倍増。1990年発売の『天国のドア』では史上初のアルバム200万枚出荷を記録。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。

1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。


当時人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。当時比較されがちであった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中級以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、バブル時代に沸く時代の波に乗った。

1990年代に入ると精神世界や民族音楽にも着目し、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングル初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」も続けてミリオンセラーを記録、同年末発売のアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第三次ブームと呼べる年となった。

1996年、荒井由実名義でのセルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。

1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。

2000年代〜近年の活動
2005年、NHK紅白歌合戦(第56回)に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが東日本大震災の被災地へ寄付された。

2012年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベスト・アルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がミリオンセラーとなり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数は3,000万枚を突破して、ソロアーティストならびに女性アーティスト初となった。2012年、2014年、2017年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催。

2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックに移籍する。

2013年春の叙勲で紫綬褒章受章[10][11][12]、「岩谷時子賞」受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)[13]、2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。 2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民[14]。

2016年、38枚目のオリジナルアルバム『宇宙図書館』がオリコン週間アルバムチャートで初登場1位を記録。2018年にはベスト・アルバム『ユーミンからの、恋のうた。』をリリース。発売初週に10.8万枚を売り上げ、初登場1位を記録し、2016年に自身が前作『宇宙図書館』で記録した女性アーティスト最年長記録を更新した。アルバム首位獲得数は通算24作となり、自身が持つ女性アーティストならびに男女通じてソロアーティスト歴代最多記録も更新した。また、このアルバムとともに前ベスト・アルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。

2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された[注 2]。2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された[16]。

近年は手嶌葵、一青窈、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、松田聖子、Char、薬師丸ひろ子への楽曲提供も行っている。

2020年12月1日には、4年ぶりのアルバム『深海の街』を発売。2021年9月30日から全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催予定。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E7%94%B1%E5%AE%9F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/656.html#c1

[近代史7] 八神純子 中川隆
1. 2021年12月10日 13:34:01 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[31]
八神 純子(やがみ じゅんこ、1958年1月5日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。アメリカ合衆国在住[6][7]。ジューン・スタンレー (June Stanley) 名義での活動もある。


人物・経歴

生い立ち
愛知県出身。1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。

3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという[8]。

一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている[1]。

愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった[1]。ヤマハのボーカルタレントスクール[注釈 2]にも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め[1]、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。

プレデビュー
1974年10月13日に開催された『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場し、「雨の日のひとりごと」で優秀曲賞に入賞[9][10]。同大会では「幸せの時」もノミネートされ入賞曲に選ばれた[9][10]。同一大会で2曲ノミネートされ同時入賞したのは、つま恋で本選会が開かれてからは、後にも先にも八神だけである。その後「雨の日のひとりごと (Junko's Dream)」で『第5回世界歌謡祭』に出場し[10]、本選に進出した[11]。

愛知淑徳高校在学中の音楽活動について、八神は「派手なことは許さない学校だったので、コンテストなどに出るたび職員室に呼び出され、慎みなさいと注意された」と語っている[1]。

1974年12月10日、シングル『雨の日のひとりごと』[10]で、キャニオン・レコードのAARD-VARKレーベルよりプレ・デビュー。翌1975年2月10日には2枚目のシングル『幸せの時』もリリースされた。

1975年5月に開催された『第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト』にも出場し「幸せの国へ」で優秀曲賞に入賞[12][10]。また2年連続で「幸せの国へ (Hand in Hand) 」で『第6回世界歌謡祭』に出場した[13][10]。八神はこの世界歌謡祭に出場していた外国人アーティストに誘われ、海外での音楽祭やコンテストにも挑戦する決意を固めたと語っている[14]。高校3年生であった1976年には、『第17回チリ音楽祭』[注釈 3]に参加[10]、オーケストラをバックに和服姿で「もう忘れましょう (I Shall Forget) 」を歌って6位に入賞した[15]。

高校卒業後は音楽の道に進み、プロデビュー前の1976年からデビュー後の1980年まで、文化放送で霊友会提供の帯番組『デデと純子のミュージックトリップ』にデデこと川村尚と出演していた。

デビュー当時に制作された「小さなさくら貝」[16]は、スローテンポでフォークソング調の曲だったが、当時は発表されなかった。ポプコン30周年を記念としてキングレコードからリリースされたベストアルバム「ポプコン・スーパー・セレクション」シリーズの1枚として、2003年3月26日に発売された『ポプコン・スーパー・セレクション 八神純子 ベスト』(規格品番:KICS-2401)に未発表曲として初収録されている[17][18][19]。

本格デビュー
1978年1月5日、20歳の誕生日にディスコメイトレコードより、シングル『思い出は美しすぎて』でプロ歌手として本格デビューを果たす[10]。この曲はオリコン最高位25位、売上12万枚のヒットとなった[20]。同年6月25日、デビュー・アルバム『思い出は美しすぎて』を発売、オリコン最高位5位のヒットとなる[10]。

また、デビュー当初からネム音楽院出身の選りすぐりメンバーで構成された専属バックバンド「メルティングポット」を率いていたのは当時としては画期的なことだった。

続いて同年5月5日、シングル『さよならの言葉』をリリース。この曲は1977年に開催された『第13回ヤマハポピュラーソングコンテスト』でグランプリを受賞した小野香代子の楽曲のカバーであった[21][注釈 4]。しかし、シングルが自作曲でなくカバーとなったことは八神にとっても不本意であった。セールス結果もそうした状況を反映して前作のヒットとはうらはらに、オリコン最高位67位、売上1.9万枚にとどまった。 なお、『さよならの言葉』のB面曲の「恋人同志」は「ロッテ 歌のアルバム」のテーマソングに起用され、髪に薔薇を刺して生で歌っていた。


恋人同志を歌う八神純子
「みずいろの雨」が大ヒット
シングル『さよならの言葉』の売上低迷により、八神は歌手引退も考える状況に追い込まれた[22]。次の楽曲作りに迷っていたとき、東京・原宿の歩道橋で不意に曲想を得て「みずいろの雨」を作曲することになる(作詞は三浦徳子が手掛けた)[22]。八神は「『みずいろの雨』は岩崎宏美の声を想定して書いた曲で、前のシングルが思うように売れなかったので、歌手を引退して作家への転身を考えていた」が、しかし「自分で歌ってみたところ、とても評判が良くレコーディングとなった」と語っている[22]。

同年9月5日に「みずいろの雨」をシングルとしてリリースしたところ、有線放送やラジオ番組を中心にリクエスト回数が増え始めてオリコンチャートの順位も上昇し、TBS系で1978年1月に放映開始された音楽番組『ザ・ベストテン』の注目曲を紹介するコーナー「今週のスポットライト」に出演したことで全国区に知名度を上げた[22]。八神は「一夜にして大ブレイクした」と語っている[14][22]。

それに伴いテレビの音楽番組への出演も増え、『ザ・ベストテン』の司会者だった久米宏からは、八神が毎回登場する度に体型や容姿、衣装の話などでよくからかわれていたが[注釈 5]、八神は「私がいつも緊張していたのをほぐしてくださったのだと思います」と好意的に受け止めている[22]。また黒柳徹子については「本当に勉強家で努力家で、お仕事させていただくたびに脱帽でした。本番前のリサーチが素晴らしかった」と尊敬の念を述べている[22]。


リスナーズグランプリ受賞式(1978年12月)
シングル『みずいろの雨』はオリコン最高位2位[10]、売上60万枚の大ヒット曲となった[23]。同年12月にはこの曲で「ライオンリスナーズグランプリ・FM東京最優秀新人賞」を受賞した。

1978年10月1日には、八神純子オフィシャルファンクラブが結成され、会報『はろーあんどぐっばい』が刊行された。


初めてのファンミーティング
翌1979年4月5日には、セカンド・アルバム『素顔の私』を発表しオリコン最高位1位を獲得[10]。同年にはには、『想い出のスクリーン』『ポーラー・スター』と[10]、立て続けにシングルヒットを飛ばした。

ピアノ弾き語りをしながらサンバホイッスルを吹くというスタイルを特徴とし、首からいつもトレードマークのように十字型のサンバホイッスルを下げていた[15]。『チリ音楽祭』への出場は大きな影響をもたらし、初期のヒット曲はボサノバやサンバのリズムが響く、ラテン系の哀愁と情熱を漂わせたマイナーコードの曲が多かった[15]。八神自身も「昔は暗かったですよね。でもマイナー調のパッションは美しいと今も思っている」と語る[15]。

アメリカ滞在後
八神は1980年4月から54日間、アメリカのロサンゼルスに渡り、一般人家庭にホームステイした。帰国後の同年7月21日にリリースしたシングル『パープルタウン 〜You Oughta Know By Now〜』がオリコン最高位2位[10]、売上60万枚[24]の大ヒットとなった。この曲はアメリカ滞在の体験をもとにニューヨークの街並みをパワフルに歌い上げたもので、JALPAK「I LOVE NEWYORKキャンペーン」CMイメージソングとして使用された[7]。

この曲は、前半はレイ・ケネディの「You Oughta Know By Now」(邦題:ロンリー・ガイ)のアレンジとメロディーラインの一部をベースに作曲され、後半サビの部分は八神のオリジナルという構成であった[7]。しかし当初は『パープルタウン』として発売され、さらに初回プレス盤にはケネディの名がクレジットされていなかったため、発売直後に「盗作ではないか」と騒ぎになった[7]。これに対して発売元のディスコメイトレコードは、ケネディから楽曲使用の許可を取っていることと、原曲の権利関係が複雑な上にCM音源を急遽レコード化したことで手違いが生じたという事情を説明した[7]。再プレス盤からはタイトルに原題「You Oughta Know By Now」が併記され、ケネディら3人が追加でクレジットされたことで和解した[7]。疑惑は晴れて、八神はこの曲で同年の『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場を飾った[25][7]。

また、同年11月5日のシングル『Mr.ブルー 〜私の地球〜』は、NHK総合『パノラマ太陽系』のテーマソングに起用され、1981年には『I'm A Woman』(ヤマハオーディオ)、1982年には『サマー イン サマー 〜想い出は、素肌に焼いて〜』(JAL沖縄キャンペーン'82)と、企業タイアップ曲で着実にシングルヒットを飛ばした。

八神はこの頃、郷ひろみとの交際が女性週刊誌などで取り沙汰されたこともあったが[26]、八神の話によると郷は映画や食事に行く程度の友人に過ぎず、恋人ではなかったという。

1983年にはプロデューサーにブルックス・アーサーを迎え、全曲英語のアルバム『I WANNA MAKE A HIT WIT-CHOO (恋のスマッシュヒット) 』をアメリカで製作・発表した。しかし出来映えに満足できず英語での表現に自らの限界を感じて、いつか英語で音楽や映画を楽しめるようになりたいと海外移住の夢が生まれた。そうした心境の変化により、同年12月5日発表のアルバム『FULL MOON』を最後に、デビュー当時から所属していた財団法人ヤマハ音楽振興会を離れる。

結婚・アメリカ移住
ヤマハからの移籍と同時に、レコード会社もディスコメイトレコードからアルファ・ムーンへ移籍。1985年から1986年にかけて、『COMMUNICATION』『純』『ヤガマニア』の3枚のアルバムを発表した。

1986年2月7日、八神は2歳上のイギリス人の音楽プロデューサー、ジョン・スタンレー (John Stanley)[注釈 6]と結婚、ハワイで挙式した。秋に渡米し、カリフォルニア州シミバレーのウッドランチに在住[27]。1989年に長女を、1993年に長男を出産した。

結婚後は活動の拠点をロサンゼルスに移し、日本での音楽活動はコンサートのたびに来日しており、1990年以降は毎年帰国してコンサートやディナーショーを行っていた[7]。

しかし、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生。八神はショックを受けて飛行機に乗ることが怖くなってしまった[7]。さらにテロ事件の1週間前、当時住んでいたカリフォルニアで友人の家族3人が自宅で知人に射殺される銃撃事件があり、恐怖から子供と離れられなくなってコンサートの予定をキャンセルしてしまう[28]。テロ事件後はアメリカでの不安定な社会情勢の中で、日米を行き来してコンサートの企画を立てることが困難となった[7]。そのため、2000年末のクリスマスコンサートを最後に、毎年恒例であった日本でのコンサートを中断する[10]。

以降、2000年代にはシングルやアルバムの発表も途絶え、ほぼ活動停止状態となっていた[10][7]。しかし日本ではその間にもベストアルバムが売れ続け、2002年に『八神純子 CD-BOX』、2009年には『八神純子 1974〜1986 SINGLES plus』とCD-BOXが2回発売された。

2010年には、8月21日放送の『思い出のメロディー』と、後日放送された『SONGS』(共にNHK総合テレビ)に出演し、久々に日本のテレビ番組で歌唱したことで、視聴者やファンからは復帰を望む声が高まった[10]。八神はのちに、それまで「自分はもうやり尽くした」と思っていたが、番組出演とその反響により、また日本で歌いたいという思いが生まれてきたと語っている[15]。

音楽活動再開
2人の子供が大きくなったこともあり、日本での音楽活動の再開を考えていた矢先に、東日本大震災が発生した[6][7]。「私の世界をこれ以上狭くしたくない」[7]「心配するだけで何も挑戦しない人生はやめよう、東北に行って被災者の人たちと今を生きよう」[28]という思いから急遽帰国。被災地で炊き出しと合わせたライブ活動を行った[7]。5月15日・16日には、岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町での支援活動を行い、震災後に作ったバラード「翼」を歌った[6]。『トランス・パシフィック・キャンペーン』を自ら企画して被災地支援活動を継続し、チャリティーイベントやコンサート活動などを行った[7]。八神はのちに、このときの体験を「9.11で閉まったドアが、3.11で開いた」と語っている[28]。

同年11月2日には凱旋ライブとして[7]、約10年ぶりとなる日本公演を東京・渋谷のライブハウス「SHIBUYA-AX」で開催[10]。公演は成功を収め、翌日にはgoogle検索ワード第1位になるほどの注目を集めた[6]。

翌2012年1月25日、15年ぶりのニューアルバム『VREATH -My Favorite Cocky Pop-』、ニューヨーク在住の大江千里とコラボレーションしたシングル『さくら証書』を発売。同年2月15日から、25年ぶりとなる日本での全国ツアー『翼 -私の心が聞こえますか。-』を奈良県文化会館国際ホールを皮切りに開催した。

2013年2月24日、『NHKのど自慢』(滋賀県大津市・大津市民会館で開催)に初出演し「さくら証書」をピアノの伴奏で歌う。

震災2年後の2013年3月11日、東北支援チャリティーシングルCD『翼/かれ木に花を咲かせましょう』を発表。同年4月12日の東京国際フォーラムホールCを皮切りに全国ツアー『Here I am』がスタート。同年6月5日、21世紀初となるオリジナル・アルバム『Here I am 〜Head to Toe〜』を発表。

2015年9月21日、公式YouTubeチャンネルにて、同年12月に2年半ぶりにアルバム『There you are』をリリースすると発表[29]。同年11月20日、アルバム『There you are』の詳細が発表され、12月18日にハイレゾで先行配信、翌2016年1月13日にCDリリース、同時にソニー・ミュージックダイレクト内に自主レーベル「Listen J Label」を発足させると発表した。

2016年1月16日、八神純子オフィシャルファンクラブ「Key of J」を再開。同年には第14回グッドエイジャー賞を受賞した[10]。その後もBunkamuraオーチャードホールでのコンサート「ヤガ祭り」、全国を巡るコンサートツアー「キミの街へ」など、ライブ活動を継続している[10]。またアメリカでも「LA スプリングプレミアコンサート」として杏里や大江千里と共演した[10]。

2019年にはニューアルバムをレコーディング中としていたが[10]、同年末からの新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響などもあってアルバムリリースが延期。同年8月21日に配信限定シングルとして『Here We Go!』が配信開始された[30]。

2021年9月29日に、およそ6年ぶりとなるオリジナル・アルバム『TERRA-here we will stay』をリリース。

提供曲
岩崎良美「Prologue」(作詞・作曲)「君の傍らの月」(作曲)
太田貴子「ガラスのシャボン玉」(作曲)
河合奈保子「街角」「MY BOY」(作詞・作曲)「コントロール」「夏の日の恋」「太陽の下のストレンジャー」「デリカシー」「幻の夏」(作曲)
沢田研二「スーパージェネレーション」(作曲)
宮崎美子「NO RETURN」(作曲)

著書
出版日 書名 出版社 ISBN
1980年10月 54日間のアメリカ人 ヤマハミュージックメディア ISBN 978-4636208269
1997年6月 探しものは心の中に―アメリカ子育て日記 角川書店 ISBN 978-4048834889

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%A5%9E%E7%B4%94%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/655.html#c1

[近代史6] 海王星に存在する奇妙な影…太陽系で最も謎な天体「海王星」とは 中川隆
1. 2021年12月10日 14:35:32 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[32]
【ゆっくり解説】最も美しく不気味な惑星のガチで眠れなくなる海王星の謎!



http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/942.html#c1
[近代史7] もんた&ブラザーズ もんたよしのり 中川隆
1. 2021年12月10日 15:33:14 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[33]
もんた よしのり(1951年1月8日 - )は、日本のヴォーカリスト・シンガーソングライター・俳優である。広島県福山市生まれ[1][2]、兵庫県神戸市育ち[2]。血液型はA型。娘は元COLORの門田こむぎ。


経歴
1964年 神戸市立本庄中学校1年時にハンドボール部に入部[2]。神戸市民大会で優勝。この頃からザ・ビートルズのコピーに熱中しバンド活動を開始。
1967年 報徳学園高等学校に入学[2]。ハンドボール部に在籍しながら、音楽にも没頭しR&Bやソウルなどを中心に歌う。
1968年 高校を中退し、本格的に音楽活動を開始[2]。
1970年 全日本フォークジャンボリーに中川イサトらと共に「インスタンツ」として出演。
1971年 上京し、シングル「この足の鎖ひきちぎりたい」でソロ歌手としてデビュー[2]。
1979年 東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず作曲活動を続ける。
1980年 自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラザーズ」として再デビューし、「ダンシング・オールナイト」をリリース[2]。これが大ヒットとなり、この年、第22回日本レコード大賞金賞、第11回日本歌謡大賞放送音楽特別賞、第13回全日本有線放送大賞などを受賞、第31回NHK紅白歌合戦にも出場した。この当時は北島音楽事務所に所属していた。
1981年 俳優として『燃える勇者』で映画に初出演する。本業では第10回東京音楽祭に出場し、「スティービー・ワンダー賞」を受賞。
1983年 当時同じ事務所に所属していた大橋純子とのデュエットで「夏女ソニア」をリリース。コーセー化粧品・夏のキャンペーンソングであった。
1983年 作詞・作曲を手がけた「ギャランドゥ」が西城秀樹のシングルとしてリリースされ、西城は6年連続となる第25回日本レコード大賞金賞を受賞、さらに第34回NHK紅白歌合戦でも歌唱した。
1984年 「もんた&ブラザーズ」を解散。音楽活動を一時休止。映画『愛しき日々よ』に本名の門田頼命名義で主演、本格的に俳優活動を行う。第10回報知映画賞 新人賞受賞。
1986年 「お前が好きやねん」を本名名義で発売し、再びソロ歌手として活動を再開。
2007年 「もんた&ブラザーズ」再結成。9月26日SHIBUYA-AX、10月8日なんばHatchでのライブを皮切りにバンド活動を本格化。
2009年 MONTA,bigbear&卍line (窪塚洋介)で「ありがとう」リリース。これを皮切りにレゲエ音楽も歌う。


エピソード
本人主催のチャリティーコンサートを数多く開催しており、売上げや募金は全て発展途上国や阪神大震災などの支援金として寄付されている[要出典]。
灰谷健次郎の教え子(小学校)である。
『THE夜もヒッパレ』で娘のこむぎが中学受験に合格した際、大ファンだということで安室奈美恵から「こむぎちゃんおめでとう!」とのメッセージが流された。
1996年8月『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で娘のこむぎがもんたへの手紙を涙ながらに読んだ。内容は、前年もんたが熱帯マラリアにかかって死にかけていたことについて。


出演

舞台
ジーザス・クライスト=スーパースター(1987年、劇団四季公演) - ヘロデ 役
ブロードウェイ物語(1995年) - 主演

映画
燃える勇者(1981年、東映)- 立花弘 役
愛しき日々よ(1984年、東宝) - 主演・瀬川敏夫 役

ドラマ
ふりむくな鶴吉(1974年、NHK)主題歌も担当
サントリードラマスペシャル「幕末青春グラフィティ 坂本竜馬」(1982年11月16日、日本テレビ) - 新宮馬之助 役
銀河テレビ小説「二度のお別れ」(1985年、NHK) - 主演

ドキュメンタリー
青春・スターの条件 (1978年5月3日、NHK)
売れない歌手の下積み生活(当時の芸名はもんた頼命)を、当時ホリプロが全力を挙げて売り出し中のアイドル歌手西村まゆ子(第2回ホリプロタレントスカウトキャラバングランプリ)と対比する形で取材したドキュメント番組。ちなみに西村は同年中に素行不良を理由に事務所を解雇され、一方のもんたは2年後に「ダンシング・オールナイト」の大ヒットでスターダムにのし上がっており、対照的な結果となった。


NHK紅白歌合戦出場歴
もんた&ブラザーズとして出場
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手
1980年(昭和55年)/第31回 初 ダンシング・オールナイト 09/23 ロス・インディオス&シルヴィア

「もんた&ブラザーズ」メンバー
もんたよしのり(ボーカル)
角田順(ギター)
高橋マコト(ギター)
豊島修一(ギター)
渡辺茂(ベース)
林政宏(キーボード)
マーティー・ブレイシー(ドラム)


提供曲
西城秀樹[3]
ギャランドゥ(作詞:作曲)
HONEY(作曲)
リグレット(作曲)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9F%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%8A

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/653.html#c1

[近代史7] サザンオールスターズ 桑田佳祐 中川隆
1. 2021年12月10日 15:42:20 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[34]
桑田佳祐(1956年 2月26日- )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90

桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年〈昭和31年〉2月26日[11]- )は、日本の男性ミュージシャン、シンガーソングライター[17]。自身がバンドマスターを務めるサザンオールスターズのボーカル・ギターを担当[11]。神奈川県茅ヶ崎市出身[11]。所属事務所はアミューズ[18]。所属レコード会社はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント[19]、所属レーベルはタイシタレーベル。鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍[12]。愛称は、佳ちゃん[注 8]、桑っちょ[注 9]、桑田くん[注 10]など。身長は170センチメートル[27]。

妻はサザンオールスターズのキーボード・ボーカル担当の原由子[17]、姉は作詞家の岩本えり子[28]。


1978年にロックバンド・サザンオールスターズのボーカルとしてメジャーデビューを果たし、1987年に「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」でソロ活動を開始した。以降はサザンとソロの活動を交互に行い、ソロとして「波乗りジョニー」「白い恋人達」「明日晴れるかな」などがヒットしているほか[29][30]、3時代および5年代[注 11]でアルバム首位などの記録を持つ[31]。音楽活動を通して、エイズ啓発運動であるアクト・アゲインスト・エイズや東日本大震災を含む様々な災害の復興支援活動を行ったり、2020年東京オリンピックのテーマソングを提供するなど社会的貢献も行っている[15][32][33]。


人物

音楽性
桑田は自身の音楽観については「言い訳が許されない音楽っていうのが一番正しい」とし、またそれは自身にとってはポップスだとしている[34]。

歌唱法はジョー・コッカーや前川清から影響されている[35][36]。学生時代に ダミ声が流行しており桑田も声を潰そうと思って声質をより近付けるため、ウイスキーを飲み自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続けるといったことを行っていたという[35]。

アマチュア時代および活動初期は日本語と英語のダブルミーニングの歌詞や早口な歌い方を取り入れていた[37]:175, 176。テレビの音楽番組における歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒を作ったといわれており、きっかけは桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたためで、テレビ局が桑田の歌い方に対応するために歌番組でのテロップ表示を行ったとされる[38]。桑田はかつての自身の表現方法への反省の弁を語ることがあり、また近年は楽曲によって自覚的に前述の手法を取り入れたり、明解な日本語で歌詞を書いたりするなど、表現を使い分けている[39][40]。この変化に関しては「日本人歌手としての自覚が強くなった」と語っている[41]。

楽曲の制作はほとんどが作曲した曲に詞を当てはめる「曲先」で行うが[37]:79、作品によっては作詞から先に行う「詞先」のケースもある[42]。制作のモチベーションが上がるきっかけはクライアントやスタッフからの依頼があり、締め切りが明確に存在してからであるといい、自身の立ち位置を「職業作家」と語っている。タイアップ先のコンセプトや内容に合わせて制作することもある[43][44][45]。制作する楽曲にはサザン・ソロ名義問わず、エロティックな内容も多く、放送禁止にならないギリギリのラインを狙って作詞するケースも多い[46]。また、シンコペーションを多用している[47]。近年はコンプライアンスにも配慮しており、 自身からレコード会社やマネジメントの若いスタッフに相談を持ちかけることがある[48]。

後述の通り洋邦問わず幅広いジャンルの音楽やミュージシャンの影響を受けている。10代の頃から広範な洋楽を聴き、桑田自身が言うには「咀嚼じゃなく丸呑み」するように吸収してきた[49]。楽曲・功績・音楽性はジャンルを問わず広範なミュージシャンから高く評価されている[50][51][52][53]。

生まれ故郷の茅ヶ崎市や高校時代を過ごした鎌倉市への郷土愛を度々語り、楽曲のモチーフにもしている[54][55]。また、京都も好きな街の1つであり[37]:213、楽曲のモチーフにしている[56][57][注 12]。

日本文化・古典への敬意を持っており、四季折々の情景や古語を楽曲やライブの演出に取り入れている[58][59]。かつては「自分もアメリカ人やイギリス人みたいになりたい」「いつかなれるんじゃないかって本気で思ってた」と考える程海外のロックに憧れていたが、次第に「なれるわけない」と気づき「逆に日本人の良さを出したいというか、和の感じで勝負したいな」と方針転換をし、日本語の歌詞を重視した和洋折衷な作品を目指すようになった[60]。また、日本の歌謡曲、文部省唱歌、沖縄音楽などの影響も受けており、度々そのイメージを楽曲に取り入れている[61][62][63]。サザンのベスト・アルバム『海のYeah!!』と『海のOh, Yeah!!』を聴き比べた際には、前者を「英語と日本語を融合させようとあれこれ格闘している跡が見てとれます」、後者を「やっぱり日本語を大切にして歌いたいという気持ちが、全面に出ていますね」と自己分析した[64]。

1980年代にはバブル景気などの影響も相まって「日本人のポップスやロックが、海外でも通用するんじゃないか」という期待が湧いたこともあり、全編英語詞の楽曲を制作したり、外国人のレコーディング・エンジニアを起用したり、海外のアーティストとコラボレーションするなどの活動を行っている。しかし、海外に出向いての活動を経験すると「自信を失ってしまった」「向こうの流儀を真似しているようでは、太刀打ちできないのは当然」と思うようになったと明かしている[64]。

社会を風刺したり世相を憂う趣旨の曲も存在するが、特別な意図を持って制作していた訳ではなかった旨がインタビューで語られており[60]、桑田は「正直、そこまで社会に対して問題意識を抱いていたわけじゃなかった」「ジャーナリスティックな視点でロックやポップスを描くようなトレンドがあって、自分もそこに乗っかっていた」[65]、ビクターのスタッフは「桑田さんは、ミュージシャンである前に一人の日本人だということを昔からよく言っていたので、今の日本の置かれている状況を感じ取って、特別に意図的ではなく、自然な感じで作っていると思うんですよね。桑田さんはあくまで音楽の表現者であり、世の中に対して直接政治的な動きは全くしないでしょうから」という見解を示している[66]。反戦や平和への願いを込め、戦死者や遺族などへの思いを馳せた楽曲も存在している。桑田は「歌を歌うこともある意味語り部のようだと思う」と語ったことがある[65][67][68]:189。

北朝鮮による日本人拉致問題の解決を求める楽曲がいくつか存在する[69]ほか、拉致問題、ミサイル発射実験、核問題や主体思想といった北朝鮮の諸問題への批判をビートルズの「Sun King」に乗せて歌ったり[70]、新疆ウイグル自治区騒乱などの重大事件を「漫画ドリーム09」の歌詞のテーマにする[71]など時事問題を歌にすることがある。

スペイン語やハングルを「ミスマッチの仕方が、多少定番とズレている方が面白い」という興味本位な理由で楽曲や映像に取り入れたことがある。しかし後者は出自や思想に関するデマ[注 13]がネット上に流れる遠因になった[74]:14 - 17[72]。また、インチキ外国語(外国語に聞こえるように歌っているが、実際には日本語)が主体の楽曲も存在しており、藤村有弘やタモリに少なからず影響を受けたという[75]。

かつてはトミー・スナイダーや岩本えり子が英語補作詞を行った時期が存在する[76][77]。また、先述した楽曲におけるスペイン語はルイス・サルトール、朝鮮語は具善恵の補作によるものである[78][79]。

一般に披露することは滅多にないがベース、ドラム、ピアノ、キーボードなど、バンドで必要な楽器は一通り演奏出来る。ごく一部のソロ作品のレコーディングでは桑田が全ての楽器のパートを担当した楽曲もある[80][81]。また、特にベースを弾くことについてはかなり細かい部分までこだわりがあることが語られている[82]。

ボトルネックでのスライドギターによるソロプレイをレコーディングやライブで度々行っているほか[37]:87[83]、冗談やコスプレで視聴者や観客を笑わせることも重要視している[84][10]。また、自身の事やこれまでの音楽活動を自虐的に語り、制作した楽曲やアルバムの反省点を述べたり[85]、過去の言動・パフォーマンスに行き過ぎた部分があった場合には自らの非を認めることもある[86][87]。近年のライブではエンディングで観客やファンに対して「みんな死ぬなよ!」「頑張ろうな!」と叫びエールを贈ることが多くなった[88][89]。

サザンとソロの違いについては「やってる途中でよくわからなくなってきた」と述べている[90]。ソロのほうが「逆に匿名性が高い」「フェイクしやすい」とも述べている[90]。

桑田はカバーしたい楽曲はあると公言しており、自身の冠番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』やライブ『ひとり紅白歌合戦』にてカバーを行っているが、カバーアルバムは作らないとコメントしている[91][92]。

日本の音楽シーンで長く活躍していることについて桑田は「好きな音楽を(2010年の時点で)32年間続けてこれたのは自分の才能とかじゃなく、スタッフやファンのお陰である」「自分は優秀なミュージシャンじゃない。自分の手癖を愛してくださってるんじゃないかな」と語っており、福山雅治や平井堅がこの事を証言している[93][94]。

自身が制作した曲の中で好きな曲は「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」「SEA SIDE WOMAN BLUES」「イエローマン 〜星の王子様〜」と語っている[95][96]。

桑田が考える日本の三大名曲は植木等の「ハイそれまでョ」、笠置シヅ子の「買物ブギー」、藤本二三吉の「祇園小唄」だという[97]。

思想・哲学
桑田は自身の思想について「僕には何か特定の主義もなければ思想もありませんし、右でも左でもリベラリストでもなけりゃ、聖人君子でも何でもない」と述べている[98]。勝谷誠彦は桑田の思想・哲学について「桑田佳祐は右でも左でもない。アナキストなのだ。ただし、愛国者であるなとは、私はときどき感じるのである」と評価している[99]。

愛妻家として知られており、自身のラジオでも「女の人の意見とかね、女の人の顔色うかがうっていうのは、これ基本ですね。生きる上で」といった発言をしている[100]。

生まれ育った日本および茅ヶ崎市に対する誇りを持っており[101][102]、2000年にサザンとして行った茅ヶ崎ライブでは「茅ヶ崎に生まれて良かったです!!」と感謝の言葉を述べた[102]。東日本大震災発生から一週間後に放送された自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では「日本の国民のみなさんは素敵で優しい人たちだと思う。この国に生まれて良かったなと思います」と発言している[101]。同震災から10年後の新聞のインタビューでは「音楽人として東北に向き合い、復興のために活動することが第一のプライオリティー(優先順位)だと思っている」と述べた[103]。

日章旗の掲揚や国歌「君が代」の歌唱に対して肯定的であり、ライブ・映像作品・ラジオなどでその姿勢を示している[104][105][106][107][108]。1984年には日章旗を持ったサザンのメンバーのイラストが及川正通によって制作され、情報雑誌「ぴあ」の表紙になったこともある[109]。2013年にサザンとして行ったライブ『灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!』では日章旗をはじめとする世界各国の国旗が球体になって転がり、中央にピースマークが登場し世界平和を希求する映像が取り入れられた[110]。桑田の反戦を訴える姿勢は祖母や満州からの引揚者だった父の影響によるもの。桑田は「戦争なんて悲惨なことはもう二度とやるもんじゃないというのは、ともかく親父から刷り込まれました」と語っている[111]。また、激動の時代を生き抜いた先人への感謝の念も述べている[112]。
2014年秋に紫綬褒章を受章した際には驚きながらも「身に余る光栄」と語り、ファンや自身の音楽性に影響を与えた音楽家に感謝の念を述べた。天皇・明仁(当時)や皇室に対する尊敬の念があることを述べており、現在は褒章は神棚に保管している[113][114][87]。

違法薬物の存在や薬物乱用については批判的で「ドラッグに頼ればいい音楽をつくれるわけでもありませんしね」と語っており、薬物の所持などで逮捕された元メンバーの大森隆志を『やさしい夜遊び』で叱責したこともある[115][116]。
夏の楽曲のイメージが強いが、日本の四季の中では春が一番好きであることを公言している[117]。
各界に幅広くファンがおり、桑田もファンのイデオロギーを問わず分け隔て無く接している[118][119]。

エピソード

日本文化への造詣
桑田が理想とする和食のメニューとして飯、味噌汁、海苔、漬物、卵焼き、梅干しの六品を挙げている。これらは2021年のミニ・アルバム『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』のタイトルやジャケットの由来にもなっている[120]。

サザンの11枚目のオリジナル・アルバム『世に万葉の花が咲くなり』の制作の過程で桑田は『万葉集』を読み返しており、日本語独特の情緒や情報量の多さに興味を覚えつつ「この言葉を我々はなくしていいのだろうか」といった危機感を持った[121]。

十八代目 中村勘三郎のファンであり、本人とも手紙などを通して間接的な交流があった[122]。また、2012年の全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』ではオープニングで歌舞伎を意識した演出[注 14]が取り入れられた[59]。

落語ファンであることを公言しており、特に好きな落語家として立川談志、三代目 古今亭志ん朝などを挙げている[7]。また、立川志の輔、3代目桂春蝶、桂雀々らとの共演や交流があることが語られている[123][68]:186,187[124]。桑田は2016年および2017年に架空の落語家『波乗亭 米祐(なみのりてい べいすけ)』に扮して落語を演じた経験がある[7][8]。

2017年に桂雀々の落語会にゲストで出演していたブレイク前の六代目 神田伯山(当時:神田松之丞)による講談を見たことを自身のラジオ番組で言及し高く評価した。当時桑田は長年メールでの親交がある太田光(爆笑問題)に伯山のことを教えており、後に太田と伯山は共演頻度が多い間柄になった[125]。


ボウリング関連
学生時代に桑田は父に教えてもらった影響からボウリングに傾倒する[126]。プロボウラーを目指していた時期があり、マイボールを保持しアマチュア公認の試合に出場していたという[35]。大人に混じっての公式戦では優勝しトロフィーを獲得。40年以上経過した2017年には実物を発見し写真で公開した[127]。当時は毎週4ゲームずつ投げ、アベレージ220点は出ていた。また、ボウリング場でアルバイトをしていた経験があり、レーンにオイルを引くなどして、客が来ない早朝には練習もしていたという。しかし、ボウリングのレーンの規定などが変わってからフォームが決まらず、そこでプロボウラーになることを諦め、音楽に関心が移っていったという[35][126]。

2016年に親交のあった矢島純一プロに還暦祝いとしてマイボールをプレゼントされて以降はボウリング熱が再燃し、週に一度スタッフと10ゲーム以上プレーしている。その実力は年を重ねても衰えず、1年後の2017年には279点[注 15]という高記録を達成した[128]。同年には自ら編集長に就任し『Sports Graphic Number』のボウリング特集号『Number PLUS 桑田佳祐×ボウリング特集』(文藝春秋、ISBN 9784160082311)を製作している。

2019年以降は桑田の名を冠したボウリング大会『KUWATA CUP』を開催。テーマソングも担当し、「日本ボウリング競技 公式ソング」として日本ボウリング機構から認定されている[129][130]。

2020年1月31日、自身初となるパーフェクトゲームを達成した[131][132]。

その他
同じサザンのメンバーであり、かつ妻である原由子にはミュージシャンとしても一人の女性としても頭が上がらないといい、度々敬意を示し感謝の言葉を述べている[133][134]。

性格に関しては「とにかくおとなしい真面目な人」と評されており、散見される三枚目を装うパフォーマンスは照れ隠しであることが指摘されている[135]。
サーフィンに関しては『稲村ジェーン』制作時は全くやっておらず[136]、1996年に40代を迎えてから本格的に始めた。パドルサーフィンも好んでいる[137]。
有料配信でのバラエティ番組やドラマの鑑賞を好んでいる[138]。また、好きなサスペンスドラマや映画を見たうえで、プロットを楽曲の歌詞のアイディアに応用することもある[139]。

アダルトビデオ鑑賞も趣味の一つであり、それを題材にした楽曲も制作されている。MVや雑誌で多くのAV女優と共演したほか、Netflixで『全裸監督』を視聴したことも語っている[140][141][142][138]。

野球選手では長嶋茂雄を敬愛している。青学時代には長嶋の引退試合を青山の喫茶店で見ており、一つの時代の終わりを感じたのと同時に長嶋の人生と桑田自身を比較し、人目をはばからず号泣したと語っている[143]。
プロレスのファンでアントニオ猪木を敬愛している[144]。インタビューなどで自身の音楽活動をプロレスに例えることもある[145]。2007年には「WONDA」(アサヒ飲料)のCMで(合成映像の)ジャイアント馬場と“共演”した際に馬場から“十六文キック”を浴びせられた[146]。

料理が得意。レコーディング中は鍋料理をよく作る[68]:62,63。自身の著作に本格的なカレーのレシピを掲載したこともある[147]。スタッフに手料理を振る舞ったこともあり[148]、本人曰く「喫茶店風ナポリタン」をよく作るという[149]。
オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のラジオ番組で「Bettyのマヨネーズ」(パブ)のママに名付け、「ニューハーフ」という言葉を世間に広めた[150][151]。しかし本人は、自分が広めたわけではないと否定している[152]。

かつてはヘビースモーカー(銘柄はハイライト)だったが、1999年10月23日から禁煙[153]。定期検診に通い、スタッフにも人間ドックへ行くことを勧める、暴飲暴食をしないなど、2010年の闘病以前から健康には気を使っていた[154]。


家族・親族
母方の先祖は昭和初期に『太田屋百貨店』という百貨店を東海道沿いで経営していた。当時の店の写真は茅ヶ崎市の歴史写真集『保存版 ふるさと茅ヶ崎』(郷土出版社)に掲載されている[155]。
父方の先祖は明治初頭、小倉(現:福岡県北九州市)の城下町に住んでいた[注 16]。曽祖父が40代で早世した影響により桑田家は息子達が中心となり満州に渡っている。桑田家は祖母の実家にあたり、祖父は満州に働きに来ていた鹿児島の農家の次男であった。満州にいた時期に離婚したことにより、祖母は父を連れて桑田家に戻り、終戦後に北九州[注 17]に引き揚げて来た後に上京している[155]。
父は映画好きだった影響から上京後はしばらく日本劇場で働いていた。その縁により当時映画製作が盛んだった茅ヶ崎市に移り住み、妻(桑田の母)と出会っている[155]。その後も湘南の地方新聞の記者[157]、茅ヶ崎の映画館(大黒館。後に茅ヶ崎国際劇場と改名[158][37]:12)や小田原市の西洋料理店「grill KONOMI」の雇われ支配人[157]、妻と二人三脚でのバー経営[159]と数々の職業を転々とした。また、真偽は明確ではないが小津安二郎の運転手をやっていた時期があることも示唆されている[138]。母は父とのバー経営の後に平塚市で割烹の経営をした[160]。
桑田によると、姉のえり子とは腹違い(異母姉弟)であるという[161]。


来歴
ここでは桑田中心に記す。

生い立ち、学生・アマチュア時代
1956年2月26日に神奈川県茅ヶ崎市にて生誕した[162]。

1962年に茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校に入学した[162][163]。小学生時代から将来の夢として漠然と歌手になることを考えていたが、先生によっては通用しないと思い、建築家や弁護士になりたいと答えていたこともあったという[149]。5・6年生の頃には入浴中に父の勧めで当時流行していた歌謡曲を歌い、「上手いね」と褒められた経験があり、それを後の自身の音楽活動における原点として挙げている[164]。

1968年に茅ヶ崎市立第一中学校に入学した[162][165]。当時は野球部に所属しており、エースだった。同じ野球部にいたことがきっかけで宮治淳一との交流ができている[166][165]。このころから教壇でコンサート会場さながらに歌い皆を楽しませており、黒板消しをマイクに見立てて前川清のものまねをするなど、エンターテイナーの片鱗を見せている[167][168]。また、登校前には学校のすぐ隣にあったパシフィックホテル茅ヶ崎で早朝にボウリングを行っていた[169]。

1971年に鎌倉学園高等学校に入学した[162][170]。当時は友人と2人で「ボウリング部」を名乗りトレーニングや練習をやっていた[169]。また、これまで交流がなかった小中学校の同級生とも音楽を通して交流が生まれ、お互いの家に出入りして楽器を鳴らしながらビートルズなどを2人で歌ったことが、桑田にとってギターやピアノを覚えるきっかけになった[171]。3年生になった1973年に宮治からのオファーにより神奈川県立鎌倉高等学校の文化祭(鎌倉高校祭)のロック・コンサートに出演。ビートルズの「マネー」とエルヴィス・プレスリーの「ブルー・スエード・シューズ」を披露している[172]。なお、これが桑田が人前で演奏した初めてのステージであった[173]。本人によると3年生の時のみ勉強に集中しており、英語と日本史と国語を勉強していた。特に英語と日本史は自己採点の結果パーフェクトだったという[174]。

1974年に5校の入試を受験した結果、最初に合格の通知の電話が来た青山学院大学に入学した[174][162]。大学の音楽サークル“BETTER DAYS”(ベター・デイズ)に所属し[175]、本格的にバンド活動を開始。「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など、頻繁にバンド名の変更やメンバーチェンジを繰り返していたが、1976年ごろから宮治の命名により自身のバンドに“サザンオールスターズ”の名を使用した[173]。

1977年にサザンとして『EastWest '77』に出場し、桑田はベストヴォーカル賞を受賞。デビューのきっかけをつかむ。この頃の桑田は音楽のプロになる気はなかった[176]といわれるが、一方で軽い気持ちで「作詞家になる」と父に告げていたとも語っている。父は自身の経験から学生時代の桑田に喫茶店の学校に行ってバーテンダーの勉強をすることや自衛隊に入隊することを勧めていたという。これについて桑田は「今思うと、親父は僕のことをよく考えてくれていたんだなと思いますね」とインタビューでこの事を振り返った際に述べている[177]。

学生時代に影響を受けたアーティストは、ビートルズ、エリック・クラプトン、リトル・フィートやボブ・ディランなどがいる[178]。また、フィラデルフィアポップスや筒美京平、すぎやまこういちの作品にも影響を受け[179][180]、それらは後の音楽活動(演奏、作曲など)の下地になっている[178]。他にも吉田拓郎、尾崎紀世彦、加山雄三、内山田洋とクール・ファイブ、ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、藤圭子、浅川マキ、弘田三枝子、中島みゆき、坂本九、森繁久彌、加藤登紀子などのミュージシャンにも影響を受けた[181][182][183][37]:12[184]:206[185][186][187][188][137]。

メジャーデビュー
1978年6月25日にビクター音楽産業より、サザンオールスターズとして「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たした。

1979年に桑田は青山学院大学を除籍となった[162][12]。

1980年に発売したサザンの3枚目アルバム『タイニイ・バブルス』に収録されている原由子のボーカル曲「私はピアノ」が評判となり、1981年に桑田によるプロデュースで原が「I Love Youはひとりごと」でソロデビューを果たした。1982年に桑田と原は結婚をした[189]:10,19-24。後に2児が生まれる[190]。また、1982年に中村雅俊に提供した「恋人も濡れる街角」が50万枚近くの売り上げを記録し[191]、1983年にはアミダばばあ & タケちゃんマンに提供した「アミダばばあの唄」が35万枚を売り上げた[192]。

KUWATA BAND結成、ソロデビュー
1986年にサザンは活動を休止した。桑田は同年1月に結成したKUWATA BANDとして活動をした。活動期間は1年であり、シングル4作もヒットした。唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切収録せず、全曲新曲の全英語詞アルバムになった[189]:11,48,54-55。同年と1987年の12月24日には自身が企画・出演した特別番組『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ系列)が放送され明石家さんま、松任谷由実、忌野清志郎らと共演した[193]。

1987年10月には「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」でソロデビューした。小林武史と藤井丈司が楽曲制作に参加し、プログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開。1988年には桑田・小林・藤井の共同プロデュースで1枚目アルバム『Keisuke Kuwata』を発売。発売後は再びサザンとしての活動となった[189]:11,48,54-55。

サザンの活動と並行して、1989年9月から自身が監督と音楽を務めた映画『稲村ジェーン』の撮影を開始し、同時に映画の楽曲のレコーディングも開始した[74]:10。映画は1990年9月に公開され、賛否両論ありながらも、配給収入は18.3億円を記録し、同年の日本映画配給収入年間4位にランクインした[194][195]。1991年に入り、7月にサザンとして「ネオ・ブラボー!!」を発売後に桑田は小林を迎え、SUPER CHIMPANZEEを結成し、9月に「クリといつまでも」を発売した[189]:12。

アコースティックでの製作、エイズ啓発チャリティー
1993年7月、桑田はサザンとして発売した「エロティカ・セブン」のヒット直後に再びソロ活動を始動させた[189]:78。第2期ソロ活動では小倉博和との共同作業を行い、10月には3枚目シングル「真夜中のダンディー」をソロで発売した。11月に札幌厚生年金会館で行われた泉谷しげるの奥尻島救済コンサートに参加[196]、12月にアクト・アゲインスト・エイズの一環でAct Against AIDS '93に出演するなど、チャリティー活動も行った[197]。

1994年2月に母が心筋梗塞により60歳の若さで死去。この事は当時の作風に影響を与えている[198][184]:53 - 59。8月には4枚目シングル「月」を発売し、9月には2枚目アルバム『孤独の太陽』を発売した。アルバムは前作とは異なり、楽器本来の音に着目したアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線を展開した[184]:53 - 59。10月末には5枚目シングル「祭りのあと」を発売。12月にはAct Against AIDS '94に出演し、年末には年越しライブを開催した[189]:12。

1995年に入り、1月に小林武史によるプロデュースでMr.Childrenとコラボしたチャリティーシングル「奇跡の地球」を発売。半年間による期間限定販売であったが、170万枚以上を売り上げ、全ての収益金が「Act Against AIDS基金」に充てられた[199][200]。4月からは現在も放送しているラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』が始まった。5月からはサザンとしての活動を再開した[189]:12。

1995年も引き続きAct Against AIDS '95に出演した。1996年以降は桑田が単独でアクト・アゲインスト・エイズの一環したライブを開催した[189]:13。

ポップとロックの展開、フェスとの関わり
2000年10月にサザンの活動と並行して、桑田はフジテレビ系列で自身の冠番組となる『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』が開始し、11月にはパシフィコ横浜で『Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング』も開催された。2001年に入り、桑田は完全にソロ活動に移行した。同年7月発売の6枚目シングル「波乗りジョニー」が110万枚、10月発売の7枚目シングル「白い恋人達」が120万枚を記録し、夏と冬のポップソングがヒット[201][189]:14,72,82,171。11月にパシフィコ横浜で『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』、12月にはクリスマスコンサートを開催するなど精力的に活動した [189]:14,72,82,171。

2002年に入ると、斎藤誠・片山敦夫らサポートメンバーで結成されたTHE BALDING COMPANYとの共同作業を行い、前年に発売したポップ作品とは異なり、バンド形態の本格派ロック路線を展開した。6月に発売した8枚目シングル「東京」を収録した3枚目アルバム『ROCK AND ROLL HERO』を9月に発売した[189]:14,72,82,171。前年の楽曲はアルバムには収録せずに、12月に発売したベストアルバム『TOP OF THE POPS』に収録された。なお、11月から12月にかけて全国ドームツアーを開催している。2003年以降はサザンが25周年を迎えることもあり、再びサザンとしての活動を再開した[189]:14,72,82,171。

2004年3月に父ががん性腹膜炎で死去。葬儀・告別式では桑田が喪主として挨拶を行い、生前に父が好んでいた黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」を生ギターで歌った[154][202][164]。

2006年8月26日・27日、浜名湖ガーデンパークにてフェス『THE 夢人島 Fes.』が開催された。きっかけは桑田が「無人島でフェスを開催できないのか」と提案したことが実現した。出演者はアミューズの後輩である福山雅治・BEGIN・ポルノグラフィティ・ONE OK ROCKなど、また桑田と交流がある加山雄三・Mr.Children・GLAYなども参加した[189]:86。同年11月から12月にかけて、桑田は『Act Against AIDS 2006 「星条旗よ永遠なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」』を開催している[189]:15,88。

2007年4月に桑田が本格的にソロで活動することが発表され、5月に9枚目シングル「明日晴れるかな」を発売した。オリコンで1位を獲得し、着うたではミリオンセラーとなり大ヒットした。その後、8月発売の10枚目シングル「風の詩を聴かせて」と、12月発売の11枚目シングル「ダーリン」も共にオリコン1位を獲得。11月から12月末にかけて、年越しも兼ねてソロでライブツアーを開催した[189]:15,88[203]。2008年はサザンが30周年を迎えることもあり、再びサザンとして活動を始めた[189]:87。

食道癌の治療、震災復興チャリティー、ソロ25周年
2008年5月、年中いっぱいでサザンが無期限活動休止をすることを発表し、8月にライブ『真夏の大感謝祭』を開催した[189]:15,88。10月に桑田の音楽性に影響を与えた姉が膵臓癌で亡くなっている[204]。11月に桑田はソロで『Act Against AIDS 2008 昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦』を開催し、2009年以降からは本格的にソロ活動を再開した。桑田は4月から9月まで、『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』(レギュラー第2期)に出演した。番組が終了と共に10月から2010年10月に発売予定の4枚目アルバム『MUSICMAN』の製作に入り、12月には12枚目シングル「君にサヨナラを」を発売した[189]:15,88。

2010年に入り、毎年誕生日(2月26日)を目処に行う定期検診を半年以上早めて7月に受けたところ、食道癌であることが発覚[205]。治療に専念することで音楽活動を休止し、10月発売のアルバム『MUSICMAN』は発売延期となり、その後のライブツアーも中止となった[206]。8月に手術が無事に終了して退院した。直後に手術前から決まっていた通り13枚目シングル「本当は怖い愛とロマンス」を発売[207]。10月にはアルバムのレコーディングを再開[208]。12月には紅白歌合戦に特別枠として出演し音楽活動を再開させた[189]:15,88。

2011年2月に発売延期となったアルバム『MUSICMAN』を発売した。その直後に発生した東日本大震災の被災地に収益を寄付するチャリティーを行うために桑田は所属事務所の後輩である福山雅治らと共にチーム・アミューズとして「Let's try again」を5月に発売した。この楽曲は桑田が制作したものであり、8月にはソロフルバージョンとして「Let's try again 〜kuwata keisuke ver.〜」が制作され、14枚目シングル「明日へのマーチ/Let's try again 〜kuwata keisuke ver.〜/ハダカ DE 音頭 〜祭りだ!! Naked〜」に収録したうえで発売された。9月に入ると宮城でライブ『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』を開催し、12月には年越しライブを開催した[189]:15,88。

2012年に入り、桑田はソロとして25周年を迎えた。7月に25周年ベストアルバム『I LOVE YOU -now & forever-』を発売し、80万枚に迫るヒットを記録した[209]。9月から12月の年越しにかけてアルバムを引っ提げ、全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』を開催した。2013年3月に15枚目シングル「Yin Yang/涙をぶっとばせ!!/おいしい秘密」を発売。6月にサザンは35周年を迎え、バンドとしての活動を再開した。7月には商工会議所や同級生を始めとした地元有志の働きかけもあり茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞した[210][211]。なお、サザンの活動と並行しつつ、11月には『Act Against AIDS 2013 昭和八十八年度! 第二回ひとり紅白歌合戦』を開催した[189]:15,88。

2014年11月には長年の音楽活動が評価され紫綬褒章を受章[113]。14日には妻である原を伴って伝達式に出席して実物と章記を受け取る。午後には他の受章者と共に皇居を訪れて天皇陛下に拝謁した[212][213]。同年のサザンの年越しライブでは実物を観客に向けて披露したが、そこで意図せず起きたハプニングや自身が述べた冗談が不評を買い、楽曲の歌詞に対する曲解やデマが流れたり、抗議デモを始めとしたトラブルや上述した実際の出自や思想と異なるデマが発生し、年明けに謝罪と釈明をする事態となった[注 18][48][87]。

還暦、ボウリングイベントの開催、オリンピックテーマの制作
2015年8月に桑田はサザンとしてのライブ『おいしい葡萄の旅』が終演し、11月からソロ作品発売のためにレコーディングを開始した[214]。2016年2月に還暦を迎え、誕生日当日にはソロ名義の作品のダウンロード配信が開始された[215]。6月に16枚目シングル「ヨシ子さん」を発売した。この楽曲はR&B・HIPHOP・ EDM・サブスクリプションなどの最先端の音楽用語に対応しきれず、サタデー・ナイト・フィーバー、ナガオカ針、演歌などを回顧するアナログ世代の悲哀ととれる内容になっている[216]。そして、11月に17枚目シングル「君への手紙」を発売し、12月には年越しライブを開催した[189]:16。

2017年4月、特設サイトにて「ROUND30」と名付けられた企画を発表し、ソロデビュー30年の節目を迎えるにあたって、30項目におよぶ“全力投球”を宣言した[217]。7月にライブハウスイベントの開催、8月には「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017」に出演した。直後に5枚目アルバム『がらくた』を発売。アルバムは35万枚を超えるヒットとなり、この年の男性ソロアルバムとして最大売上を記録[218][219][注 19]。10月から12月にかけて、アルバムを引っ提げて、全国ツアー『がらくた』を開催した[189]:16。

2018年11月に『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』を開催した。今回のライブで桑田にとって、Act Against AIDS活動は終了した[220]。2019年に入り、サザンの全国ツアー『LIVE TOUR 2019 “キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!” だと!? ふざけるな!!』と並行して桑田佳祐 & The Pin Boys名義の活動を開始。1月にボウリングシングル「レッツゴーボウリング」の発売、2月に自身主催のボウリング大会「KUWATA CUP 2019」を開催した。「レッツゴーボウリング」に関しては、オリコンで1位を獲得したことにより、30歳代〜60歳代で1位を獲得した。この記録は史上初となる記録になった[221][222]。同年12月にはサザンも含めて自身の楽曲全てがサブスクリプション型サービスでのストリーミング配信が解禁された[223]。

同年7月に民放5局列による2020年東京オリンピック共同企画「一緒にやろう2020」のテーマソングを桑田が制作することが発表され、2020年1月に民放5局列で同時放送された番組内で「SMILE〜晴れ渡る空のように〜」が公開された[33][224]。2月にはボウリングシングル2枚目となる「悲しきプロボウラー」が発売された[225]。

2020年1月から2021年4月まで、『週刊文春』にて『ポップス歌手の耐えられない軽さ』のタイトルでエッセイの連載をした[226]。

2021年3月に桑田にとって初となるブルーノート東京で無観客ライブを開催し、昨年のサザンの無観客ライブも合わせて通算3回目の無観客ライブとなった。ブルーノートは格式が高く、桑田はこの会場でのライブに憧れていたという[227]。このライブから得た収益の一部は「Music Cross Aid ライブエンタメ従事者支援基金」を通じ、ライブエンタテインメント業界支援のために役立てられた[228]。9月には自身初となるミニ・アルバム『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』が発売され、それに先駆けて7月に「SMILE〜晴れ渡る空のように〜」、8月に「炎の聖歌隊 [Choir]」と「Soulコブラツイスト〜魂の悶絶」が配信シングルとして先行発売された[229][230][231][232]。

評価
前述の通り出身地である茅ヶ崎市やその周辺都市を取り上げた楽曲も多く、その影響で知名度や経済への貢献を評価され、これらが決め手となり2013年の茅ヶ崎市民栄誉賞贈賞に至った[210]。

チーフマネージャーから若手スタッフまで幅広い関係者から意見を募ったり、食事に連れて行ったりするなど面倒見がいいことでも知られる[233]。また、音楽活動においてのメンバーやスタッフとの連携を大切にしており、リハーサルの際には誰よりも早くスタジオに入り、一人一人に挨拶をして回ることが語られている[234]。桑田は「サザンは5人だけじゃない、スタッフを含めた総力戦」と発言している[137]。ソロ活動でサポートメンバーとして共演した経験がある亀田誠治は桑田について「僕らに対してもスタッフさんに対しても偉そうにしている姿なんて見たことない」と評している[234]。

ファンへの対応も評価されており、チーフマネージャーの話によると、桑田をはじめとしたサザンのメンバーは全員ファンレターにはすべて目を通しており、返信ハガキが同封されたものは時間が許す限り返信を書いている[233]。老若男女幅広くファンが存在しており、桑田は「ファンレターや掲示板(公式BBS)を通じて、ファンの皆さんから教えられることも年々多くなってきた」と述べている[69]。

共演機会が多くメールでの交流もある内村光良(ウッチャンナンチャン)は桑田を「繊細な方」「あんなにスターなのに、全然スターに見えないというか、なにも飾らないし、本当に気さくな方」と評価している[86]。

2003年にHMVが発表した『邦楽アーティストの重要な100人(Top 100 Japanese pops Artists - No.1)』の12位に選ばれ、サザンは同チャートの1位に選出された[235]。

2012年3月にgooが発表した「国歌斉唱、聴きたい男性歌手は?」と題したランキングで11位(668票)を獲得している[236]。

オリコンが2007年・2008年に調査した“父親にしたいと思うアーティスト”にて総合1位を獲得[237]、2007年に調査した“夏のバラードが似合う男性アーティスト”や“イケてる夏ダディ”でも全世代で1位を獲得している[238][239]。

2014年の明治安田生命保険のアンケートで、「理想の有名人夫婦」ランキングの3位に桑田・原夫妻が入った[240]。夫婦で苦楽をともにする姿が共感を集めたとされ、また2人とも第一線で活躍していることが支持された[240]。

同郷の先輩の加山雄三は「茅ヶ崎出身で世界に通用するのは桑田君しかいない」「世界に誇れるアーティスト」と桑田の才能を高く評価する発言を度々している[241][242]。

坂本冬美は元々は音楽への興味の中心はポピュラー音楽よりも演歌だったが、中学生時代からは初恋の相手の影響でサザンの楽曲にも関心を示すようになった。当時のことを「ハスキーな歌声がせつなくて、そのときは歌詞の深い意味まではわからなかったけど、胸にキュンときたのを覚えています」と回想している[243]。

前川清は桑田の楽曲について「あの人のメロディーというのは、予測つかないです」「聴いててうれしくなるんです。ゾクーっときますよね」「ご自分しか歌えない歌というのも、けっこうありますよね。そういうところもおもしろいんだよなぁ」と評価しており[53]、カバーすることに対しても積極的な姿勢を示している[244]。

藤井フミヤは桑田に対して「誰も敵わないと思う」「昨日、たまたまなんだけど、ラジオを聴いていたら、桑田さんの曲を何人かのアーティストが歌っていたのよ。別に届いてこないんだよね、歌詞もメロディも。ところが、桑田さん本人が歌うと、ドーンってくるじゃん。やっぱり、すごいなぁと思い知らされたね」「オレ、キングオブポップは桑田佳祐さんだと思ってる」と述べ敬意を払っていることを明かしている[245][246]。

草野マサムネ(スピッツ)は「今現在日本のポピュラーソングを作ってる人間で直接的でも間接的でも(桑田の曲の)影響受けてない人ってほとんどいないと思うんですよ」「とくに、ロックのリズムに強引に日本語をのっけちゃう手法とか」「言葉の意味よりもリズム重視という作詞をコミカルになり過ぎない範囲でスマートにやれちゃうっていう、この辺がねぇ桑田佳祐さんこそ、J-POPのゴットファザーだと思う所以です」と桑田の音楽的な影響力の強さを語っている[247]。

R-指定(Creepy Nuts)はサザンおよび桑田ソロの楽曲を愛好しており、桑田の音楽性を「最初は普通に音楽を楽しんでたんですけど、いま聞くと、もうあの人は表現がラッパーなんですよね」「めっちゃ韻踏んでたりとか、言葉を詰めるとか、日本語の発音を耳障りが良いように崩すとか、あの人の歌い方がなかったら日本語でラップするのは難しいんじゃないかなって思うくらい(笑)」と評価している[52]。

パク・ジニョンは桑田の音楽性を「桑田さんは本物のソウルを持っていて、アメリカのアーティストに比べて全然劣らないと思います」と評価しており、「一番好きな日本のアーティストです」と語っている[51]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/654.html#c1

[近代史7] 寺尾聡 中川隆
1. 2021年12月10日 15:46:09 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[35]
寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、日本の俳優、ミュージシャン。所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。父は俳優の宇野重吉。

神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。目黒区立第十中学校、和光学園、法政大学第二高等学校、文化学院卒業。


来歴
1965年に奥島吉雄、林廉吉らが結成したカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースギターを担当した。1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー、この曲と2枚目の「この手のひらに愛を」が大ヒットするが、すぐにグループを脱退した。 1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加、シングルを1枚出して解散した。 同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューした。

これを機に裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として、主にテレビドラマに出演、青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また、『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。このころはサングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマークだった。

ソロとしての歌手活動では、1981年に「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめとする多くの賞を受賞した。

石原プロ退所後、1980年代後半から黒澤明が監督した『乱』『夢』『まあだだよ』に続けて出演。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。2005年にも『半落ち』での演技で同賞の2度目の受賞を果たした。日本レコード大賞ならびに日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の両方の獲得経験者は寺尾のみである(2020年現在)。

2005年7月7日、CLUB CITTA(神奈川県川崎市)でのライブを期に、18年ぶりに歌手活動を再開した。現在でも、ステージでジャズベースをプレイしており、「ザ・サベージ」時代と変わらぬ腕前を披露している。アルバム『Re-Cool Reflections』も発売され、メロウな歌声を聴かせている。2007年1月に、NHK総合テレビで放送された『SONGS』に出演、アルバム『Reflections』収録曲や「ルビーの指環」を新アレンジで披露した。

2007年12月31日の『第58回NHK紅白歌合戦』に出場した。紅白出場は、1981年から実に26年ぶりで、通算2回目。

2008年4月、春の褒章伝達者発表において、紫綬褒章を受章することが発表された。父の宇野重吉も紫綬褒章を受章しており、父子2代での受章となった。2018年11月、秋の叙勲で旭日小綬章を受章。

人物
父は俳優の宇野重吉。妻は1979年秋の資生堂CM『微笑の法則』に出演したモデルの星野真弓。

出演作品

テレビドラマ
銀河テレビ小説(NHK総合)
大風呂敷(1970年)
港の詩(1971年)
おおさか・三月・三年(1974年)
友情(1977年)
おくさまは18歳(1970年 - 1971年、TBS) - 教師 貝沼先生
男は度胸(1970年 - 1971年、NHK総合)
2丁目3番地(1971年、日本テレビ)
美人はいかが?(1971年 - 1972年、TBS)
3丁目4番地(1972年、日本テレビ)
天下のおやじ(1974年、日本テレビ)
大河ドラマ(NHK)
国盗り物語(1973年) - 徳川家康(若年期)
花神(1977年) - 小山良庵
軍師官兵衛(2014年) - 徳川家康(中年期) [7]
鬼平犯科帳(1969年 - 1972年、NET) - 粂八
バラ色の人生(1974年、TBS) - 一作
およね平吉時穴道行(1977年、NHK)
大都会 闘いの日々(1976年、日本テレビ) - 東洋新聞城西署記者クラブ・日高記者
いろはの"い"(1976年 - 1977年、日本テレビ) - タイムス社会部・小泉明夫記者(ハイドン)
太陽にほえろ! 第253話「生きがい」(1977年、日本テレビ) - 西本刑事 役
大都会 PARTIII(1978年 - 1979年、日本テレビ) - 城西署捜査課・牧野次郎刑事(ジロー)
西部警察(1979年 - 1982年、テレビ朝日) - 西部署捜査課・松田猛(マツダタケシ)刑事(リキ)
火曜サスペンス劇場 / 女子高校生への鎮魂曲(1983年、日本テレビ)
法医学教室の午後(1985年、日本テレビ) - 医者
法医学教室の長い一日(1986年、日本テレビ)
太陽にほえろ!PART2(1986年 - 1987年、日本テレビ) - 「七曲署」捜査一係・喜多収刑事(オサムさん)
刑事貴族 第1話(1990年、日本テレビ) - 須藤刑事
土曜ワイド劇場 / 牟田刑事官事件ファイル9(1988年、テレビ朝日)
文五捕物絵図 男坂界隈(1991年、日本テレビ) - 丑吉
金曜エンタテイメント / 収容所から来た遺書(1993年、フジテレビ) - 山本幡男
土曜ワイド劇場 / タクシードライバーの推理日誌4 幸福の代償 妻と別れたい男の殺人契約!?(1994年、テレビ朝日)- 井狩慎矢
忠臣蔵(1996年、フジテレビ) - 寺坂吉右衛門 ※ナレーションも兼任
御家人斬九郎 第3シリーズ 第2話「虎退治」(1997年、フジテレビ / 映像京都) - 尼子兵衛之助
上杉鷹山〜二百年前の行政改革〜(1998年、NHK正月時代劇) - 儒学者・細井平洲
夜逃げ屋本舗 (1999年3月、日本テレビ) - 第10話
合い言葉は勇気(2000年7月 - 9月、フジテレビ)
陰陽師(2001年、NHK) - 蘆屋道満
こころ(2003年、NHK連続テレビ小説)
恋文 〜私たちが愛した男〜(2003年、TBS)
水曜プレミア / 夜回り先生(2004年10月27日、TBS)- 水谷修
弟(2004年、テレビ朝日)[注 3]
優しい時間(2005年1月 - 3月、フジテレビ) - 主演・涌井勇吉 役
刑事部屋〜六本木おかしな捜査班〜(2005年7月 - 9月、テレビ朝日) - 鵜飼遊佑
土曜ドラマ / 刑事の現場(2008年3月1日 - 3月29日、NHK) - 主演・伊勢崎彰一
CHANGE(2008年5月12日 - 7月14日、フジテレビ) - 神林正一
松本清張生誕100年記念スペシャルドラマ・火と汐(2009年12月21日、TBS) - 主演・熊代繁
宮部みゆき・4週連続 “極上”ミステリー 第1夜 理由 (2012年5月7日、TBS) - 主演・吉田達夫
土曜ドラマ / 永遠の泉(2012年6月16日、NHK) - 主演・山内
水曜ミステリー9 / 松本清張没後20年特別企画・留守宅の事件(2013年4月24日、テレビ東京) - 主演・石子隆明
金曜プレステージ(フジテレビ)
事件屋稼業(2013年5月17日) - 主演・深町丈太郎
事件屋稼業2(2014年1月31日) - 主演・深町丈太郎 役
ドラマW / チキンレース(2013年11月10日、WOWOW) - 主演・飛田譲
松本清張 球形の荒野(2014年3月9日、BS日テレ) - 野上顕一郎
松本清張ドラマスペシャル・死の発送(2014年5月30日、フジテレビ) - 山崎治郎
ようこそ、わが家へ(2015年4月 - 6月、フジテレビ) - 倉田太一
信長燃ゆ(2016年1月2日、テレビ東京) - 近衛前久 [8]
仰げば尊し(2016年7月 - 9月、TBS) - 主演・樋熊迎一[9]
特集ドラマ 喧騒の街、静かな海(2016年7月18日、NHK総合 / NHK大阪) - 海老沢淳
カインとアベル(2016年11月 - 12月、フジテレビ) - 高田宗一郎 ※ 平幹二朗の代役[10]
琥珀 (2017年9月15日、テレビ東京) - 荒井敏男 役
陸王(2017年10月 - 12月、TBS) - 飯山晴之
ドラマスペシャル「白日の鴉」(2018年1月11日、テレビ朝日)- 五味陣介 役
特捜9(2018年4月11日 - 、テレビ朝日) - 宗方朔太郎 役[11]
白い巨塔(2019年、テレビ朝日) - 東貞蔵 役
そろばん侍 風の市兵衛SP〜天空の鷹〜(2020年1月3日、NHK) - 中江半十郎 役
人生最高の贈りもの(2021年1月4日、テレビ東京) - 笹井亮介 役

映画
黒部の太陽(1968年) - 森賢一
愛の化石(1970年) - 並木
喜劇 男は愛嬌 (1970年) - 曽我民夫
甦える大地(1971年) - 土屋
湯けむり110番 いるかの大将(1972年) - 秋沢五郎
チョットだけョ全員集合!!(1973年) - 矢代五郎
同胞(1975年) - 主演・斉藤高志
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け (1976年) - 観光係員
サチコの幸 (1976年) - 広沢
男はつらいよ 寅次郎と殿様 (1977年) - 巡査
分校日記 イーハトーブの赤い屋根(1978年) - 桜井喜八
迷走地図(1983年) - 土井伸行
危険な女たち(1985年) - 棚瀬秀雄
乱(1985年) - 一文字太郎孝虎
テイク・イット・イージー(1986年) - 池谷浩一
星の牧場(1987年) - 主演・モミイチ
ロックよ、静かに流れよ(1988年) - 磯山
男はつらいよ 寅次郎の休日(1990年) - 一男
夢 (1990年) - 主演・私
花のズッコケ児童会長(1991年) - 宅和源太郎
まあだだよ(1993年) - 沢村
新宿欲望探偵(1994年) - 主演・草薙凰介
釣りバカ日誌7(1994年) - 宮本竜太
裏ゴト師(1995年) - 神崎徹
モスラ(1996年) - 医者
失楽園(1997年) - 衣川和記
キャッツ・アイ(1997年) - 黒田龍太郎
二宮金次郎物語 愛と情熱のかぎり(1998年) - 金次郎の父
雨あがる(2000年) - 主演・三沢伊兵衛
サトラレ(2001年) - 東隆之
日本の黒い夏─冤罪(2001年) - 神部俊夫
東京マリーゴールド(2001年) - 邦夫
阿弥陀堂だより(2002年) - 主演・上田孝夫
半落ち(2003年) - 主演・梶聡一郎
CASSHERN(2004年) - 東博士
亡国のイージス(2005年) - 宮津弘隆
イントゥ・ザ・サン(2005年) - 松田
博士の愛した数式(2006年) - 主演・博士
魂萌え!(2007年) - 関口隆之
さまよう刃(2009年) - 主演・長峰重樹


NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手
1981年(昭和56年)/第32回 初 ルビーの指環 11/22 五輪真弓
2007年(平成19年)/第58回 2 ルビーの指環 13/27 平原綾香


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E8%81%B0
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/652.html#c1

[近代史7] 森井じゅんの話の何処がおかしいか 中川隆
5. 2021年12月10日 17:24:11 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[36]
【Front Japan 桜】『賃上げ税制』は逆効果![桜R3/12/10]




キャスター:藤井聡・森井じゅん

■ 中国の『経済植民地」になりつつある日本
■ 『賃上げ税制』は逆効果!

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/160.html#c5
[近代史5] 『賃上げ税制』は逆効果! 中川隆
1. 2021年12月10日 17:27:23 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[37]
森井じゅんの話の何処がおかしいか
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/160.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1364.html#c1
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モーツァルト『劇唱 どうしてあなたを忘れられようか K.505』 中川隆
4. 2021年12月10日 18:09:51 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[38]
ベルガンサ

Mozart: "Ch'io mi scordi di te... Non temer, amato bene", K.505
Teresa Berganza - 18th-Century Portraits
℗ 1963 Decca Music Group Limited



















http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/1013.html#c4
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モーツァルト『劇唱 どうしてあなたを忘れられようか K.505』 中川隆
5. 2021年12月10日 18:14:51 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[39]
シルヴィア・マクネアー

Sylvia McNair; "Non temer, amato bene"; KV 505; Wolfgang Amadeus Mozart




Sylvia McNair--soprano
Alfred Brrendel--piano
Sir Neville Marriner--conductor
Academy of St Martin in the Fields
1996





Sylvia McNair, Claudio Abbado, Martha Argerich, BPO : Mozart Concert Aria K.505




Sylvia McNair, Claudio Abbado, Martha Argerich, Berliner Philharmoniker
Live recording. Salzburg Festspiele 16.4.1993





Mozart: "Ch'io mi scordi di te... Non temer, amato bene", K.505




Sylvia McNair · Alfred Brendel · Academy of St Martin in the Fields · Sir Neville Marriner

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/1013.html#c5
[近代史7] 雅夢 三浦和人 中川隆
1. 2021年12月10日 18:23:48 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[40]
三浦 和人(みうら かずと、1958年6月10日 - )は、兵庫県宍粟郡波賀町(現:宍粟市)出身のシンガーソングライター。

来歴
1958年、兵庫県宍粟郡波賀町に生まれる[1]。兵庫県立伊和高等学校卒業[1]。
1976年〜1979年、中京大学在学中に中川敏一と共にフォークデュオ・『雅夢』(がむ)を結成する。
1980年、5月に第19回ヤマハポピュラーソングコンテストつま恋本選会に出場する。歌唱した「愛はかげろう」優秀曲賞を受賞し、9月に歌手デビューとなった。同曲はロング・ヒット曲となり、その後通算9枚のシングルと7枚のアルバムをリリースした。
1984年、12月に雅夢を解散し、ソロ活動を開始する。
1988年、三浦 雄也(みうら ゆうや)名義で楽曲を発表する。
1993年、三浦 和人名義で楽曲を発表する。
2008年、かつて活動していたフォークグループ・元ふきのとうの細坪基佳とのフォークデュオ・『細坪君と三浦君』を結成する。デビューライブアルバム『50's cafe(全沖縄録音)』を発表する。
2010年、4月にデビュー30周年記念アルバム『僕の声が聞こえますか』を発表する。
2015年、9月にデビュー35周年記念アルバム『夢の跡先』を発表する。
2020年、10月にデビュー40周年記念アルバム『 それぞれの明日(あした) 』を発表する。

人物
三浦の作り出す詩(うた)については、音楽評論家から『叙情詩人』として評価されている。
コンサートやラジオパーソナリティーなど、精力的に活動している。
子供の頃はスポーツ少年で、プロ野球は巨人ファンだった[1]。
学生時代の後輩には小西博之などがいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%92%8C%E4%BA%BA
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/651.html#c1

[近代史7] 南こうせつ・伊勢正三 中川隆
4. 2021年12月10日 18:27:31 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[41]
南 こうせつ(1949年2月13日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%A4


南 こうせつ(みなみ こうせつ、本名:南 高節、1949年2月13日 - )は、日本のフォークシンガー・元かぐや姫のリーダー。ベリーファーム所属。

大分県大分市竹中(旧:大分郡竹中村)出身。かぐや姫時代に「神田川」が大ヒットし、続けて「赤ちょうちん」「妹」がヒット。解散後も「夢一夜」「夏の少女」などのヒット曲を生んでいる。現在、大分県杵築市在住。妻はエッセイストの南いくよ(南育代)。


人物・概要
大分市(旧:大分郡竹中村)の曹洞宗勝光寺の生まれ。3人兄弟の三男。大分県立大分舞鶴高等学校卒業、明治学院大学社会学部中退。寺は次兄・光洋が継ぐ予定だったが早世し、現在は、東京でサラリーマンをしていた長兄・慧昭(えしょう)が定年退職後に跡を継ぎ、住職を務めている。その長兄は2006年に民教協のドキュメンタリー番組「生きる×2」(大分放送制作)で取り上げられた。なお、竹中と言う地名はかぐや姫の楽曲「ひとりきり」の歌詞にも出てくる(南が作詞を担当)。

1970年4月『最後の世界 / むなしいうた』でソロデビューする。同じ年10月「南高節とかぐや姫」としてベース奏者、大島三平らと『酔いどれかぐや姫』をリリースする。認知度を上げるため、所属事務所の指示で全日本歌謡選手権に出場、4週勝ち抜いた翌週、審査員をしていた竹中労に「フォークをやるならこの番組に出るべきでない」と言われ、落選した。その後山田パンダ、伊勢正三と新生かぐや姫を結成、かぐや姫解散後にソロ活動を開始した。

1976年3月、日本武道館で、日本人ソロ・シンガーソングライターとしては初めてのワンマン公演を開催する。同年5月には追加公演も行われた。

1980年代はオールナイトの野外コンサート『サマー・ピクニック』を毎年九州で中心となって開催し、多数の観客を集めた。

1983年6月には、フジテレビ系列「ミュージックフェア」にて、ジョン・デンバーとデュエットで「故郷へかえりたい」を歌った。その後2人は親交を深め、翌年琵琶湖で行われた「世界湖沼会議」の前夜祭にてジョンとともにライブを行った。また1990年には、ジョンとのデュエット作品『岩を砕く花のように』を発売している。

2009年9月には、こうせつの還暦記念として、つま恋でサマー・ピクニック・コンサートが行われ、約2万人の観客を集めた。

1993年12月1日に福岡ドーム、12月2日に東京ドームで行なわれたサイモン&ガーファンクルの来日コンサート「Event of a lifetime Tour」東京公演で、前座を務めた。その中で、こうせつ自身が(自身も尊敬する)「サイモン&ガーファンクルの前座で緊張してんだぞ」と発言、コンサート前のスタジアムを盛り上げる。

名前を平仮名表記にしているのは、レコードに印刷された「南高節」という文字を見て、「私はこの『なんこうぶし』という曲を聴いてみたい」と近所に住んでいた老人が発言したから、と本人が「徹子の部屋」や「TALKゲリラ」で説明している(小室等がこうせつの持ってきたデモテープのラベルに「南高節」と書かれていたのを、「なんこうぶし」と読んだというエピソードもある)。

蓮池薫が帰国した直後、自作曲『国境の風』を入れたMDを送り、話題を呼んだ。

2010年6月13日放送の『ザ☆スター』で、杵築の自宅の広大な土地で気に入った樹木を植えて育てている様子が紹介された。仕事を終えて自宅に戻ると、決まってそれらの樹と話をするという。また、家庭菜園にも勤しんでいると紹介された。さらに同番組で、南の歌声を日本音響研究所で分析したところ、通常人には聞こえない超音波の域まで声が出ていることと、風鈴や梵鐘の音にみられるようなゆらぎがあって、聞く者に癒しを与えるという結果が出た。

オペラ歌手の錦織健が、中学の頃かぐや姫の歌をギターで弾き語りしており、南に憧れていたと語り、ステージで「帰れソレントへ」を2人で歌った。

後に「3B junior(ももいろクローバーZ ・ 私立恵比寿中学 ・ チームしゃちほこ ・ たこやきレインボー)」を象徴する歌となる「七色のスターダスト(2014年1月1日発売)」の作曲を手掛ける。

エピソード
かつて、大の飛行機嫌いであったため、国内移動ではできる限り陸路を使っていた。過去に飛行機での移動がストレスとなり、あまりの恐怖で手にカビが生えるという奇病にかかったことがある。後に飛行機嫌いは克服している。

明治学院大学を中退しているが、上京する理由を作るために大学進学したため、実際にはほとんど通うことなく中退している。

現在は大分県杵築市に広大な土地を購入して家族と生活しており、仕事が入れば上京する。それまでは富士山の麓などで生活するが、夫婦共に冬の寒さに限界を感じたのがきっかけで大分県への引っ越しを決意する。

大分県内にある明豊中学校・高等学校の校歌を、妻の育代と共に手がけている(育代作詞・こうせつ作曲)。また、杵築市立山香中学校の校歌も手がけている(こちらは作詞・作曲ともにこうせつ)。明豊高校の校歌はニューミュージック調で、硬式野球部が甲子園球場での全国大会・全国高等学校野球選手権大分大会の試合へ出場する際に場内やテレビ・ラジオ中継でこうせつ自身の歌唱音源を流していることから、高校野球ファンにも広く知られている。

1976年3月に、日本人アーティストとして初めて日本武道館にてワンマン公演を行う。後にライブ・アルバム 「グッド・バイブレーション/ミスターKOSETSU イン武道館」を発表した。

普段の活動で見せる人の良さとは裏腹に、吉田拓郎より喧嘩が強いらしい。新幹線で移動の際に同じグリーン車両で酒を飲んで横柄な態度をとっていたヤクザに対し、胸座をつかんで「ハイ!! 皆さん、どうも南こうせつでございます。こういう方は許して良いんでしょうか皆さん」と言ったという[1]。

『鶴瓶の家族に乾杯』のロケが在住の杵築市で行われた際、地元住民の一人として出演している[2]。

細野晴臣のアルバム『トロピカル・ダンディー』収録曲でかつシングルでも発売された(アルバムと同日発売)「絹街道」に「ホイヤー」というコーラスで参加している。一方、細野も同時期に南のアルバム「かえり道」にエレキベースで参加している。

『南こうせつのオールナイトニッポン』でパーソナリティを務めていたとき、ある少女から一通のファンレターが送られてきた。南の大ファンだが、1975年4月12日のかぐや姫解散コンサートに行くことができないとあった。何故なら少女は不治の病に侵されており、この手紙は病院のベッドの上で書かれたものだった。それを収録で読んだ南は「何弱気な事言ってるんだ! 必ず会場に来てくれよ」とマイクを通じてエールを送った。だが数日後、あの少女の友人と名乗る人物から手紙が届いた。「彼女は亡くなりました。でも、今度のコンサートには彼女の写真を持って行きます」と書かれていた。南は涙ながらその手紙を読み、後日コンサートが行われた。当時のコンサートにはラジカセを持ち寄り録音する観客が多く、南のコンサートに訪れた観客たちが「(録音したテープの中の)間奏中に女の子の声がする」とコンサート主催のニッポン放送に電話が殺到した。この話を聞いた南はディレクターに頼み、会場の集音マイクの音源を確認すると、会場の喧噪を遮るように「わたしにも聞かせて」と寂しげな女性の声が入っていた[3]。これを聞いた南は号泣し、その一部始終を見聞きしたのが、当時おなじく『オールナイトニッポン』のパーソナリティだった稲川淳二であった。なお、その直後から稲川とその関係者に降りかかる異常事態が怪談『生き人形』であり、作中ではこの南のエピソードを導入部としている[4]。

吉田拓郎の楽曲「野の仏」(『たくろうLIVE'73』収録)の歌詞に登場している。

OBS大分放送のみで放送される『八鹿酒造の天気予報』のサウンドロゴが、デビュー前の地元ミュージシャンとして活躍していた南こうせつのものとされる。

『神田川』など数々の曲を手がけた盟友で作詞家喜多條忠が肺がんのため、2021年11月22日に死去したとの訃報を知り、「喜多條さんの体調不良は知っていましたが、こんなに早く亡くなるとは思っていませんでした。奥様からの留守電で訃報を知って驚いています。最後に喜多條さんにお会いしたのは、今年の11月5日。御自宅に伺って、ベッドの上に仰向けのままの喜多條さんと、時に手を握りながら1時間くらい話をしました。『二人でもう一度いい歌を作ろうよ、神田川の次は三途の川じゃないからね』と冗談を言ったり昔話をしながら、喜多條さんは涙を浮かべて微笑んでいました。お互いまだ学生だった頃、喜多條さんは文化放送の新人の放送作家、僕はペーペーのミュージシャンでした。文化放送の近くの喫茶店で二人が意気投合して、いつかきっと青山にでっかいビルを建ててみんなで夢を語れる自由なお城を作ろうよ!と語り合ったのがつい昨日のことのようです。また一人大事な戦友を失い、寂しい気持ちでいっぱいです。僕はこれからもギターを抱えて歌っていくからずっと空から見守っていてください。 さようなら喜多條忠!」と所属レコード会社日本クラウンを通じて追悼のコメントを出している[5][6]。


提供楽曲
伊藤つかさ「少女人形」(作曲のみ、作詞:浅野裕子)「童話色」、「私はブルーバード」(いずれも作曲のみ)
大竹しのぶ「こころくん こころさん」(作曲のみ、作詞:つかこうへい)
小泉今日子「Candy Kiss」(作曲のみ、作詞:湯川れい子)
小西博之・清水由貴子「銀座の雨の物語」(作曲のみ、作詞:阿久悠)
榊原郁恵「雨音に口づけを」(作曲のみ、作詞:伊勢正三)
さだまさし「歌紡ぎの小夜曲(セレナーデ)」(作曲のみ、作詞:さだまさし)
3B junior「七色のスターダスト」(作詞:伊勢正三と共作、作曲)- オリコン週間2位
島倉千代子「からたちの小径」(作詞:喜多條忠と共作、作曲)
テレサ・テン「ノスタルジア」(作曲のみ、作詞:松井五郎)
富田靖子「今日子」「よりみち」(作曲のみ、作詞:松井五郎)
中山圭子「パパが私を愛してる」(作曲のみ、作詞:阿木燿子)
藤あや子「夢のまにまに」(作曲・プロデュース、作詞:売野雅勇)

出演番組
テレビドラマ
東中学3年5組(1984年) - 主演・理科担当教師 役

NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手
1992年(平成4年)/第43回 初 神田川 04/28 イルカ
1993年(平成5年)/第44回 2 妹 07/26 由紀さおり・安田祥子
1995年(平成7年)/第46回 3 上を向いて歩こう 21/25 田村直美
1996年(平成8年)/第47回 4 夢一夜 15/25 杏里
1997年(平成9年)/第48回 5 うちのお父さん 10/25 長山洋子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%A4
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/650.html#c4

[近代史7] 南こうせつ・伊勢正三 中川隆
5. 2021年12月10日 18:29:37 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[42]
伊勢 正三(1951年11月13日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%AD%A3%E4%B8%89

伊勢 正三(いせ しょうぞう、1951年11月13日 - )は、日本のシンガーソングライター。あだ名は正やん。かぐや姫、風のメンバー。大分県津久見市出身。大分県立大分舞鶴高等学校卒。千葉工業大学工学部工業化学科中退(3ヶ月ほどで中退)。

経歴
高校時代に先輩だった南こうせつに誘われてコーラス部でバンドを結成する。先に上京しソロやかぐや姫を結成し音楽活動をしていた南が、大学入学間もない伊勢を「かぐや姫」の新メンバーに再び勧誘し加入、山田パンダと3人で1975年4月まで活動。1975年2月に元・猫の大久保一久とフォークデュオ「風」を結成。1978年、かぐや姫の再結成に参加。

1979年に風が活動休止した後、ソロ活動を開始。1981年、南こうせつとともに日本クラウンからキャニオン・レコードへ移籍。1985年からは表立った活動を控えるが、1990年、第10回サマーピクニックで大久保一久と一夜限りの風として共演。1993年、フォーライフへ移籍し、ソロ活動を再開した。1995年には池田聡と期間限定ユニット「IS」を結成、1999年には山本潤子とのコラボレーションを実現。同年、かぐや姫の再結成に参加。

その後、伊勢、太田裕美、大野真澄の3人で全国を回る『アコースティックナイト』コンサートを開催。この3人は「なごみーず」と呼ばれるユニットを組んでおり、2007年12月2日コンサート会場と通販のみの限定リリースでライブ・アルバムの『アコースティックナイト』を発売した。2008年に風の再結成が計画されたが、大久保の病気のため休止となった。その後「風ひとり旅」コンサートを企画し、全国をゆっくり行脚している。

2013年、南こうせつと新しいユニット「ひめ風」を結成。

人物
夫人は古谷野とも子で、娘の伊勢未知花は2008年上映の映画「その日のまえに」で女優デビューを果たし、2015年に「MICHIKA」名義で、10月28日発売の童話CDアルバム「あからんくん」に収録された表題曲を父娘でデュエットしている[1]。
趣味は、フライフィッシング。

活動休止状態であった伊勢がソロとして活動を再開したあとの歌い方や声は、休止前から変化している。伊勢自身は、2007年8月10日の文化放送『くにまるワイド ごぜんさま〜』で、「どこか進化していないとつまらない」「絶対無理じゃないですか昔のままって、まずルックスが無理なんだから」と発言している。
伊勢の代表曲、「なごり雪」を嘉門達夫が替え歌フルと言うスタイルで「なごり寿司」としてフルコーラス替え歌にした。嘉門がそれを伊勢に渡し、面白かったために伊勢が自分のコンサートで「なごり寿司」を歌ったところ、「なごり雪」よりもウケが良かったという。

楽曲提供
イルカ「あの頃のぼくは」「なごり雪」(作詞・作曲、1974年)「雨の物語」(作詞・作曲、1977年)
太田裕美「初恋」、作曲のみ。
中村あゆみ「HARU」、作曲のみ。
椛田早紀「Fish」「フレンズ」作詞(椛田早紀と共作)・作曲、「まどわさないで」作詞(椛田早紀と共作)
由紀さおり「つかの間の雨」(1976年の紅白歌合戦で歌われた)
チータとみつばち合唱団「みつばちマーヤの冒険」(アニメ「みつばちマーヤの冒険」主題歌)
徳永英明「星と月のピアスと君の夢」(作詞、1993年)シングル『僕のそばに』カップリング曲
裕木奈江「転校」(作詞・作曲、1993年) - アルバム『旬』に収録
山本潤子「緑の季節」(作詞・作曲、1998年)
alan「悲しみは雪に眠る」(作詞、2010年)
3B junior「七色のスターダスト」(作詞、2014年) - オリコン週間2位
研ナオコ「砂の舟」
水谷豊「あす陽炎」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%AD%A3%E4%B8%89
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/650.html#c5

[近代史7] ゴダイゴ タケカワユキヒデ 中川隆
3. 2021年12月10日 18:41:24 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[43]
タケカワ ユキヒデ(1952年10月22日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87#:~:text=%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%20%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87%20%EF%BC%88%E6%9C%AC%E5%90%8D%EF%BC%9A%20%E6%AD%A6%E5%B7%9D%20%E8%A1%8C%E7%A7%80%20%E3%80%81%201952%E5%B9%B4%2010%E6%9C%8822%E6%97%A5,%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E6%89%80%E5%B1%9E%E3%80%82.%20%E5%B8%9D%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%20%E5%AE%A2%E5%93%A1%E6%95%99%E6%8E%88%20%E3%80%82.%20%E8%BA%AB%E9%95%B7172cm%E3%80%81%E8%A1%80%E6%B6%B2%E5%9E%8BB%E5%9E%8B%E3%80%82.%20%E3%80%8C%20%E7%AB%B9%20%E5%B7%9D%E8%A1%8C%E7%A7%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%80%8C%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82.

タケカワ ユキヒデ(本名:武川 行秀(読み同じ)、1952年10月22日 - )は日本のシンガーソングライター・作家。ゴダイゴのメインボーカルであり、ほとんどのシングル曲の作曲者。アメニティ所属。帝京大学客員教授。身長172cm、血液型B型。

「竹川行秀」と書かれることが多いのでカタカナで「タケカワユキヒデ」と表記している。


略歴
1952年、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)に生まれる。5歳からヴァイオリンを、10歳から作曲を始める。

母方曽祖父が国産ヴァイオリンメーカー鈴木バイオリン製造創業者の鈴木政吉。母方大叔父に、ヴァイオリン教育のスズキ・メソードで名高い鈴木鎮一がいる。また、父方の祖父は判事の武川佳海である。父は、『「第九」のすべて』(芸術現代社)などの著作がありベートーヴェン研究家、音楽評論家として著名な武川寛海という音楽家の家系。

埼玉県立浦和高等学校、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業(休学・復学を繰り返し11年間かけて卒業。在学中に結婚)。

1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌1976年、以前から活動を共にしていたミッキー吉野とゴダイゴを結成し、作曲とボーカルを担当。彼独特のメロディーは「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、「銀河鉄道999」、「ビューティフル・ネーム」といった数々のヒット曲を残した。1985年のゴダイゴ活動休止後は、中森明菜、酒井法子、松田聖子、光GENJIなど、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースでヒットメーカーとしての地位を確立し、2枚のアルバム、1枚のサントラ盤もリリース。同年、高倉健主演映画「夜叉」の主題歌の作曲を手がけた。

1989年アルバム『I LOVE YOU』を発表し、本格的にソロ活動を再開。1990年代に入り、作曲家・音楽プロデューサー・ライブ活動のほか、講演、テレビ・ラジオ番組の司会・コメンテーター、文筆活動など、マルチアーティストとして幅広く活躍中。1994年5月にダイワハウスのCMソング「僕たちの愛」を発表、同年11月には自己のヒット曲をメドレーにしたシングル「ガンダーラ伝説」が、ゴダイゴを知らない世代で話題となり、ヒットチャートの上位にランクインされる。

1男4女の父親であり、1999年にはベストファザー賞を受賞、2001年には「娘を持つ父親のための本」を出版。4女のうち三女・基、四女・武川アイがT's COMPANYというユニットを組んでおり、近年は彼女達と一緒に"タケカワユキヒデ & T's COMPANY"として音楽活動することが多い。特に花王リーゼのCMソング「気分は上々」は人気を博した。この他にも、長女の唯と次女の誓によるT's FACTORYもある。さらに、T's COMPANYとT's FACTORYに妻の敦子と長男の暁を加えたT's FAMILYといったグループも存在する。また、NHK教育テレビ『天才てれびくん』の音楽プロデューサーや、TBSラジオ『こども電話相談室』のレギュラーとしても有名。

1999年に、ゴダイゴがオリジナルメンバーで期間限定で再結成した。そして2006年、恒久的なゴダイゴ再結成を遂げ、活躍している。

2012年、帝京大学教育学部客員教授に就任。

趣味
多彩な趣味人として知られる。旅行(国内、海外問わず)・アウトドア・写真・料理・パソコンなど幅広い趣味を持っており、テレビ番組で紹介されることも多い。

特に漫画好きは有名で、妻の実家が所有している山梨県某所にある別荘に漫画専用の書庫を構え、『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』『週刊少年ジャンプ』『週刊少年チャンピオン』『週刊少年キング』のバックナンバーをすべて保存している[1]。また、『ビッグコミックスピリッツ』『コミックモーニング』『ビッグコミック』『ビッグコミックオリジナル』など、週に約7冊の漫画雑誌を読破しているという。

30年以上漫画雑誌を収集し続け、少年漫画・少女漫画を問わず造詣が深いことから、趣味の範疇を超えて漫画評論家としての側面も持っている。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本で解説文を寄せたこともある。

手塚治虫文化賞の第1回から第3回までの選考委員も務めた。

シングル提供曲

約束(相川恵里)
鏡の中の私(アグネス・チャン)
100万人のジャバウォーキー(アグネス・チャン)
STAR(浅香唯)
j・e・a・l・o・u・s・y(池田聡)
悲しみをうけとめて(伊藤つかさ)
September Summer(伊藤麻衣子)
思い出が降る夜(上田正樹)
魅惑・シェイプアップ(内山田洋とクール・ファイブ)
Tonight(大沢逸美)
スウィート・チェリー・パイ(北原佐和子)
渚のファンタシィ(酒井法子)
SONGOKU(堺正章)
あなたス・テ・キ/さみしくって(ジェシー・慕)
Marginal(設楽りさ子)
Diamond Rain(設楽りさ子)
君はシンデレラ(富田靖子)
日付変更線(中村雅俊)
SOLITUDE(中森明菜)
熱いほどミスキャスト(原江梨子)
Meet Me(光GENJI)
レディーはそよかぜ
開けてみれば愛(布施明)
ジャックナイフの夏(堀ちえみ)
タンゴゲーム(堀江しのぶ)
優しいソレイユ(増田未亜)
旅立ちはフリージア(松田聖子)
恋するメトロ(三田寛子)
MAKE YOU No.1 (MEGU)
あなたの勇気になりたい(持田真樹)
微熱に抱かれて(森恵)
気持ちを離さないで(米屋純)
ここちE(渡辺典子)
空色のピアス(渡辺典子)

アニメソング

歌唱
夢の舟乗り(テレビ『キャプテン・フューチャー』OP)
THE GALAXY EXPRESS 999/TAKING OFF!(映画『銀河鉄道999』主題歌/挿入歌) ※ゴダイゴ
魔法のあかり/アラジンのランプ(映画『アラジンと魔法のランプ』主題歌/挿入歌) ※ゴダイゴ
じょうじなまはげ(クレイ・アニメ『じょうじなまはげ』主題歌)
ハグしよう(映画ドラえもん 『おばあちゃんの思い出』主題歌)
BE WITH YOU(テレビ『ぐるぐるタウンはなまるくん』ED)
A HAPPY LIFE(OVA『蒼い海のトリスティア』ED)
ONE FOR EVERYONE(テレビ『シルクロード少年 ユート』OP) ※ゴダイゴ


作詞・作曲・編曲
どこから来たのユニコ/そして今日も 他(『短編 ユニコ 黒い雲と白い羽』OP/ED他)
ニルスのふしぎな旅/いつまでも友達 他(『ニルスのふしぎな旅』OP/ED他)
(あ)ロックンロール/オトメチックドリーム 他(『とんでモン・ペ』OP/ED他)
FIRE(『愛してナイト』挿入歌)
失われた伝説(ゆめ)を求めて/ブルー・レイン(『機甲創世記モスピーダ』OP/ED)
ROCK THE PLANET/REMEMBER MY LOVE/BORN TO BE FREE(『うる星やつら』OP他)
悲しみが許せない(『強殖装甲ガイバー』挿入歌)
心の扉(『扉を開けて』挿入歌)
ドリーミング・A・Go-Go/スーパー・ウォーズ 他(『ビックリマン』OP/ED他)
空色のピアス(『アニメ三銃士』挿入歌)
セント・ジュエルを探せ!/そして君にたどりついた 他(『新ビックリマン』OP他)
うわさのエンジェル/ピエロ 他(『なな色マジック』挿入歌)
光の戦士たち 他(『魔動王グランゾート』OP他)
君に/HOWLLING(『愛と剣のキャメロット』挿入歌)
オレ タルるート(『まじかる☆タルるートくん』OP)
パプワ音頭でつんつくつん(『南国少年パプワくん』挿入歌)
愛はNEVER END 他(『不思議の国の美幸ちゃん』挿入歌)


ゲーム音楽
太字は、自身がヴォーカルを担当した曲。

ソウルブレイダー
ED「恋人のいない夜」(作詞・作曲)
エルファリアII(作曲)
ウイニングポスト2(作曲)
桃太郎道中記(作曲)
西遊記
OP「MAGIC GOKU」(作詞・作曲・編曲)
悠久幻想曲 2nd Album
セガサターン版OP「永遠の親友〜AND THOUGH YOU COULD HAVE ANYONE〜」(作詞・作曲・編曲)
下記の「永遠の親友」の英語版。
CMソング「永遠の親友」(作詞・作曲・編曲)
プレイステーション版OP「永遠の親友」(作詞・作曲)
イメージソング「友達といるときは」(作詞・作曲・編曲)
イメージソング「友達といるときは」(作詞・作曲・編曲)
上記の「友達といるときは」とは別アレンジ。
TANTRA
イメージソング「ガンダーラ TANTRA ver.(英語版)」(作曲・編曲)
イメージソング「ガンダーラ TANTRA ver.(日本語版)」(作曲・編曲)
イメージソング「ガンダーラ T's COMPANY ver.(英語版)」(作曲・編曲)
イメージソング「ガンダーラ T's COMPANY ver.(日本語版)」(作曲・編曲)
イメージソング「TANTRA(英語版)」(作詞・作曲・編曲)
イメージソング「TANTRA(日本語版)」(作詞・作曲・編曲)


校歌
さいたま市立大宮国際中等教育学校 - 2019年4月開校
帝京大学小学校
国際基督教大学高等学校 - 作曲。作詞は奈良橋陽子。なお、歌詞はすべて英語である[2]。
杉並区立永福小学校 - 2013年4月1日開校(作詞)[3]
浦安市立高洲小学校 - 2003年4月1日開校(補作詞・作曲)[4]

書籍
こだわりすてぃっく・えっせい タッタ君現わる(小学館、1983年8月)
タケカワユキヒデのコンピュータミュージックだぞ -僕だけのウィリアムテル序曲-(啓学出版、1988年10月)
タケカワユキヒデの自動伴奏シンセだぞ -僕だけのマル秘作曲法-(啓学出版、1989年5月)
元総理探偵・霧島幸四郎の推理(講談社ノベルス、1992年10月
元総理探偵・霧島幸四郎絶体絶命!(講談社ノベルス、1993年4月)
ガンダーラ 新西遊記(講談社ノベルス、1994年5月
ガンダーラ 妖鬼滅却伝(講談社ノベルス、1994年11月)
タイアップ殺人事件 - マネージャー探偵 朝館吾郎(ジョイ・ノベルス、1995年4月)
殺しは本番5分前 - マネージャー探偵 朝館吾郎(ジョイ・ノベルス、1996年5月)
サラダな家族(実業之日本社、1995年11月)
たびにでたいな マンナひとりで(小峰書店、1995年11月)
Oじいさんのチェロ(あかね書房、2001年2月)※翻訳のみ
タケカワユキヒデのもっと楽しもうよ!音楽@ 歌うって楽しい!(汐文社、2001年3月30日)
タケカワユキヒデのもっと楽しもうよ!音楽A 楽器にチャレンジ!(汐文社、2001年3月10日)
タケカワユキヒデのもっと楽しもうよ!音楽B バンドを作ろう!(汐文社、2001年3月25日)
※「タケカワユキヒデのもっと楽しもうよ!音楽」シリーズは、3冊入りBOXも発売された。
娘を持つ父親のための本(集英社、2001年12月)
ともだちロボットギタローくん(ポプラ社・ブンブンコミックス、2004年12月)


逸話
出身地である、さいたま市の歌「希望(ゆめ)のまち」の製作に携わった(公募した歌詞の選考委員長・補作詞・作曲)。浦和レッズのファンでもある。

小学生の頃は、ヴァイオリンを習っていた。作曲する音楽も、自然とクラシック調の曲が多かったという。突然曲が浮かぶといけないので、草野球をする時にまで五線譜を持っていく、変わった子供だった。

ビートルズに衝撃を受け、中学2年の時にバンド活動を始める。中学の文化祭で演奏しようとしたところ、その前に教師たちの前で演奏することに。だが、意外なことに教師たちからは拍手喝采される。いまだにビートルズを敬愛しており、芸能界一のビートルズ・フリークとしても知られる。

「武川」という苗字が珍しかったため、中学時代に「武蔵」と読み間違われたことがあった。

埼玉県立浦和高等学校では、ラグビー部に入ろうとしたが、怪我をしたらピアノが弾けなくなるという理由で、音楽大学教授の父に止められたという。

受験した大学は、横浜国立大学、東京外国語大学英米語学科、早稲田大学政治経済学部、上智大学史学科であった。当時、東京外語の合格発表と入学手続きは早稲田の入学式の数日後だったため、一旦早稲田に入学して東京外語の合格発表を待ち、東京外語合格を確認して早稲田は退学した。

デビューしたときは未だ学生で、その後の曲のヒットなどにより多忙になり、一時は大学の卒業が危ぶまれた。しかし、学則で認められた最高8年の在学と、休学期間上限を使い切り、無事に卒業した(しかも妻・敦子と結婚し長男・暁が生まれていた)。当時のエッセイで、入学時に大学に問い合わせて合計11年の在学が可能であることを確認していたと明かしている。卒業式では総代を務め、芸能マスコミがこれを伝えた。式では10歳下の卒業生達と一緒だったという。

今ではある程度得意であるが、意外にもデビュー当時は英語が苦手だった。ゴダイゴのデビュー時、プロデューサーのジョニー野村は、彼が韻を踏むことばかりを考えて単語を並べて作った、意味がめちゃくちゃな歌詞を見て爆笑したという。このため、それ以降のゴダイゴの歌詞のほとんどを奈良橋陽子が手がけることとなる。

大学1年目の外語祭(文化祭)でバンドを組んで歌ったところ、河野一郎(当時英米語学科教授)から、「タケカワ君は、英語は下手だけど、英語の歌は上手いね」と言われたという。

1978年に放送開始されたテレビアニメ『キャプテン・フューチャー』のオープニングテーマ「夢の舟乗り」でボーカルを務めている。この歌の作曲は、同作の劇伴も手がけた大野雄二であり、純粋にヴォーカリストとしての参加である。なおこの曲は、番組開始からしばらくの間はヒデ夕樹(『人造人間キカイダー』の主題歌等で知られる)が歌うヴァージョンが使用されていたが、途中からタケカワの歌うものが使用されるようになった。現在入手可能なサウンドトラック集『コロムビア・サウンド・アーカイブス キャプテンフューチャー オリジナル・サウント・トラック -完全盤-』には、両ヴァージョンともテレビサイズとフルサイズの両方が収録されている。大野は、かねてからタケカワとの共演を熱望していたが、諸般の事情でなかなか実現は果たせず、本作はそんな大野の念願叶っての一作となったという。大野は、ゴダイゴのメンバーであるトミー・スナイダーも何度かボーカリストに起用しており、こちらは『ルパン三世』の挿入歌などが有名である。

1986年、『超新星フラッシュマン』の主題歌(オープニングテーマ「超新星フラッシュマン」 / エンディングテーマ「ファイティングポーズ・フラッシュマン」)を作曲。歌唱者は北原拓だが、タケカワの長男は、タケカワが歌うものだと思い込んでいたため、親子で放送開始前のイベントに参加した際、そこでようやく北原が歌うことを知った長男に「お父さん、歌わせてもらえなかったんだ……」と残念そうに言われたという[5]。

ゴダイゴが活動休止してからしばらくは、コンサートやテレビに出演することはせず、他アーティストへの提供曲を作曲する仕事に専念していた。そんなある日、大声で泣き叫んで仕事の邪魔をした子供を叱ったところ、「何言っているの?どうせタッタは歌を歌って遊んでいるだけじゃないか!」と反論された。これをきっかけに、以前のようにコンサートやテレビにも出演するようになったという。

1992年1月にエニックス(現:スクウェア・エニックス)から発売されたスーパーファミコン用アクションRPG『ソウルブレイダー』の音楽を担当。国内で20万本、海外(北米+欧州)で9万5千本のセールスを記録した。しかし、当時の家庭用ゲーム市場を事実上制覇していたスーパーファミコンが、勢いを増していた時期の発売だったため、数多くのタイトルの中に埋もれてしまった感もあり、あまり知名度は高くない。しかしながら、プレイした人間には、作品の世界観を補完し盛り上げる楽曲が高い評価を受けている。サウンドトラックは、エニックスのゲームミュージックアルバムを多数発売していたアポロン(後のバンダイ・ミュージックエンタテインメント)からリリースされた。BGM20曲に加えて、エンディング曲「恋人のいない夜」に歌詞を付け、タケカワ自ら歌ったヴォーカルヴァージョンも収録されている。

放送開始当初から、NHK教育の人気子供番組『天才てれびくんシリーズ』の音楽を担当しており、特に1998年から2005年まで同番組音楽コーナー「ミュージックてれびくん」の音楽監督を務めていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87#:~:text=%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%20%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87%20%EF%BC%88%E6%9C%AC%E5%90%8D%EF%BC%9A%20%E6%AD%A6%E5%B7%9D%20%E8%A1%8C%E7%A7%80%20%E3%80%81%201952%E5%B9%B4%2010%E6%9C%8822%E6%97%A5,%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E6%89%80%E5%B1%9E%E3%80%82.%20%E5%B8%9D%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%20%E5%AE%A2%E5%93%A1%E6%95%99%E6%8E%88%20%E3%80%82.%20%E8%BA%AB%E9%95%B7172cm%E3%80%81%E8%A1%80%E6%B6%B2%E5%9E%8BB%E5%9E%8B%E3%80%82.%20%E3%80%8C%20%E7%AB%B9%20%E5%B7%9D%E8%A1%8C%E7%A7%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%80%8C%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%A6%E3%82%AD%E3%83%92%E3%83%87%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82.
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/649.html#c3

[近代史7] 谷村新司 中川隆
3. 2021年12月10日 18:45:38 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[44]
谷村新司(1948年12月11日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%9D%91%E6%96%B0%E5%8F%B8

谷村 新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。アリスのリーダー。大阪府大阪市住之江区の出身で、大阪府河内長野市生まれの大阪市東住吉区桑津育ち。愛称はチンペイ。

血液型はAB型 (ABO)。シスAB型というAB型の9千分の1という珍しい血液型。[要出典]3人兄姉の次男(兄1人、姉1人)。娘は歌手の谷村詩織。


来歴

アリス結成前
両親が第二次世界大戦の最中に大阪府河内長野市の長野温泉で親族が営んでいた旅館に疎開していたことから、大戦後の1948年に同市内で出生。3歳まで生活した[1]後に、大阪市内へ転居した。

大阪市立桑津小学校、大阪市立東住吉中学校、大阪府立大和川高等学校(現:大阪府教育センター附属高等学校)卒業。桃山学院大学中退。 少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名され傷つく。母親は長唄の三味線を、姉は6歳から地唱・舞をずっと続けていた[2]。谷村自身は特に音楽に興味があった訳ではなかったが、『渡り鳥シリーズ』でギターを弾く小林旭の姿を見て一念発起。「女にモテたい一心で」(本人談)ギターを練習し始め、やがてバンド活動も開始した。

1965年、高校在学中に山本峯幸、島津ちず子とピーター・ポール&マリースタイルのフォーク・グループ「ロック・キャンディーズ」を結成。グループ名は「氷砂糖」の意。大阪と神戸で絶大な人気を誇り、神戸のアマチュア・バンド・サークル「ポート・ジュビリー」の看板グループであった。1968年9月、シングル「どこかに幸せが」で東芝レコードよりデビュー。1971年には唯一のアルバム『讃美歌』を発表している。

1970年、大阪万博の会場で、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる細川健と知り合う。細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」のドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。

帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。堀内は「ポート・ジュビリー」で、既に谷村とは知り合いだった。

アリス結成〜活動休止
1971年12月25日、谷村新司、堀内孝雄の2名で「アリス」結成。桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。

1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。同年5月5日、矢沢透が正式に合流し、現在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。

デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。所属事務所ヤングジャパン、なんとか打開策を見出そうと、ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初来日させるが、当時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、来日公演は不入り。逆の意味で“伝説のライブ”となり、ヤングジャパンは、莫大な借金を背負ってしまった。

この際、3000人を収容できる大阪フェスティバルホールに観客が約200人しか集まらなかった。ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に歓声を上げていた谷村は、ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、舞台袖で舞台監督に「もうだめだ、やりたくない」と言っているジェームス・ブラウンの姿が見えたという。

借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企画するが、これもまた成功には至らず借金をこじらせる結果となる。挙句は帰国途中に谷村が当事者となったコレラ騒動までもが起こった。(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)谷村の著書での回想によれば当時人気絶頂だったガロが同行したがスケジュールの都合で途中で帰国してしまったという。困った谷村達は懸命にアリスで盛り上げようとしたという。

しかしアリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」、「涙の誓い」、「ジョニーの子守唄」、「チャンピオン」、「狂った果実」等のヒット曲を連発する。1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。

アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった(シャンソン歌手アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル製作、他の歌手への楽曲提供(山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、1980年の「昴 -すばる-」で一定の完成をみる。1981年にはシングル「群青」が東宝映画『連合艦隊』の主題歌となる。

1981年8月23日、北京・工人体育館にて日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」開催。中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月に工人文化宮で開催された「第一回中日友好音楽祭」に出演したゴダイゴに次ぐものだが、単独公演としてはアリスが初めてであった。この公演が李力や王勇ら多くの若手ミュージシャンに影響を与え、中国にポップスが根付く礎となった。またソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなった。

同年11月、アリス活動停止。

ソロ活動期
1982年、シングル「スーパースター-MY SUPERSTAR-」、アルバム『JADE-翡翠-』をリリースして、本格的にソロ活動をスタート。1983年の『EMBLEM』、1984年の『抱擁』『刺-とげ-』など、1980年代は年に1〜2枚のハイペースでアルバムを発表。いずれもアルバム毎に明確なコンセプトをもった意欲作である。またその間1983年の「22歳」や、翌1984年も小川知子とのデュエット曲「忘れていいの-愛の幕切れ-」のシングル曲をそれぞれヒットさせている。

毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらとジョイント・コンサートも実施。1983年からはニュー・ミュージック系アーティストでは初めてのディナーショーもスタート。また親友である チョー・ヨンピル、アラン・タムと共に、アジアのミュージシャンを集めたイベント「PAX MUSICA」をスタート。1984年の後楽園球場での公演を皮切りに、年に1回アジア各地で開催され、現在も続いている。ちなみに1985年、映画『サンダーアーム/龍兄虎弟』撮影中に瀕死の重傷を負ったジャッキー・チェンが、復活した姿を初めて聴衆の前に現したのも、香港コロシアムでのPAX MUSICA公演のステージ上であった。

1986年、完成したばかりの東京・青山劇場で1ヶ月のロングラン・リサイタル『CORAZON』を開催。この青山劇場公演は年末の恒例行事となり、2002年の『LA STRADA VI -宝石心-』まで続いた。

1987年、「アリス」としての活動も再開。シングル「BURAI」、アルバム『ALICEX』をリリースし健在をアピール。ただし、この時はコンサート・ツアーは行わず、数本のテレビ番組出演をするにとどまった。その後アリスは再び長い活動休止期間に入る。

1988年、ロンドン交響楽団と共演した大作アルバム『獅子と薔薇』を発表。1989年の『輪舞-ロンド-』(国立パリ・オペラ・オーケストラと共演)、1990年の『Price of Love』(ウィーン交響楽団プロジェクトと共演)と合わせ、「ヨーロッパ三部作」を完成させる。1995年のアルバム『I・T・A・N』ではプロデューサーにフィル・ラモーンとジャック・エリオットを起用するなど、80年代後半から90年代前半にかけては欧米のミュージシャン、プロデューサーとの仕事が多かった。

1989年12月、父・新蔵が死去。『第40回NHK紅白歌合戦』で「陽はまた昇る」を追悼曲として歌った。

1992年11月16日、加山雄三と連名でシングル「サライ」を発表。日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングとして使用され、現在でも番組を代表する曲として歌い継がれている。

1996年、世界初の商業用DVDソフトであるライブDVD『シンジ ラ ムニタ』を発表。このことは、2008年9月3日に放送されたテレビ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の水曜コーナー『クイズ!メイクダウト』でも取り上げられた。

2000年代以降
2000年、インディーズ・レーベル「mama's & papa's」を立ち上げた。リリースしたシングルは「ハーヴェスト」1曲のみであった。

同年末の『第51回NHK紅白歌合戦』でアリスの活動を再開。

2001年、1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに、14年ぶりのニュー・アルバム『ALICE 0001』のリリース、全国ツアーと活躍した。

2002年、アルバム『半空』を発表。坂崎幸之助や鈴木康博といった旧友に混じって、元MR.BIGのギタリストポール・ギルバートが参加した。

2004年、中国・上海音楽学院で教授を務めている。同年、中国の歌手毛寧のアルバム『我』をプロデュース。

2005年、日本国際博覧会「愛・地球博」NHKテーマソング『ココロツタエ』(歌=夏川りみ・作詞=谷村新司・作曲=谷村新司)。

2005年、『NHK紅白歌合戦』に、アリスとして2度目の出場を果たす。

2006年、avex ioに移籍、6年ぶりのMaxiシングル「風の暦」をリリース。

2007年4月18日、『半空』以来5年ぶりのオリジナル・アルバム『オリオン13』を発売。

NHKの番組『にっぽん 心の仏像』に出演した。番組のテーマ曲は本人の歌『カノン』。
『オリオン13』に収録されてある「ココロツタエ」には作曲・編曲共「千住明」によるソロバージョン。
2007年7月8日、平城遷都1300年記念祭テーマソング「ムジカ」(歌・作詞・作曲=谷村新司)

2007年9月19日、「夢人〜ユメジン〜」(avex ioから2枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年3月19日、「今ありて」(avex ioから3枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年6月4日、「ツバメ」(avex ioから4枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年8月27日、「ロード・ソング」(avex ioから5枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年12月10日、「十三夜/マカリイ」(avex ioから6枚目)のMaxiシングルをリリース。

「マカリイ」という楽曲は、「昴」の曲に対するアンサーソング。
2009年2月4日、「桜は桜/夢になりたい」(avex ioから7枚目)のMaxiシングルをリリース。

2012年2月18日、「風の子守唄〜あしたの君へ〜」(avex ioから8枚目)のMaxiシングルをリリース。

前の作品「メシアふたたび」(阪神・淡路大震災)に次ぐ「東日本大震災」で2作品目となる支援団体への印税全額寄贈物。
2012年7月18日、「はじまりの物語/伴奏」(avex ioから9枚目)のMaxiシングルをリリース。

人物・エピソード
南ベトナムのグエン・カオ・キ元副大統領に顔が似ているとしても知られている。顔の2大特徴のうち、後退気味の額は初期アリス時代からで当時はキャップを被ることが多かった。さだまさしは、自身と谷村および松山千春を「フォーク界御三毛(ごさんけ)」と呼んだことがある。

口髭は1980年代に入ってから蓄えている。

脳内で突然楽曲が閃き、そのまま創り上げたのが「昴」である。その際谷村は「プレアデス星人」と交信していたという[3]。

『セイ!ヤング』は最初ピンで、のちにばんばひろふみの共演で火曜日を担当していたがピン時代からの名物コーナー『天才・秀才・バカ』は現在のテレビでは放送できない下ネタのオンパレードでこれが元で今でも谷村=スケベというイメージで見られている。また当時の女優鳥居恵子との噂がリスナーの中で広がったが、本人は「自分が一方的にファンなだけ。鳥居さんには迷惑なこと」と完全否定した。しかし数年後実は付き合っていたと告白した。谷村の浮いた噂は後にも先にもこれ一つである。

175RやGackt、TRICERATOPSら若手ミュージシャンとの交流も積極的である。デーモン閣下が谷村のコンサートにゲスト出演したこともある。また、1993年のコンサート『THE MAN』のバック・メンバーの中には、元爆風スランプのベーシスト江川ほーじんがいた。

アメリカのロックバンドのザ・ベンチャーズとは、プライベートでも交流がある。
曹洞宗の檀徒でもある。2007年5月15日、16日にはさいたまスーパーアリーナで開かれた、「梅花流創立55周年記念奉讃大会」の清興に出演。[1]
2009年、2010年には社会を明るくする運動の広報ポスターに写っている。
仕事を休業する決意をした矢先に上海からの誘いがあり、受けたとライブで本人談。

2001年の『第52回NHK紅白歌合戦』出演時、本番中舞台袖の布をカーテンとしたスペースで着替えをしていた紅組司会の有働由美子(NHKアナウンサー)に対し、「うどちゃん頑張ってね」と布をめくって着替えを覗いた。着替えに集中していた有働は「ありがとうございます」と普通に返したが、その時はTバックの下着以外一糸纏わぬ姿だったという[4]。

クッキーが苦手。「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「食わず嫌い王決定戦」内では「唾液を吸い取られるような物がダメ」と語っている。
2017年、68歳で自動車の運転免許を取得した。

NHK紅白歌合戦出場歴
ソロとして通算16回出場し、白組トリおよび大トリを一度務めている。この他にも、2000年、2005年、2009年はアリスとして出場している。

年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1987年(昭和62年)/第38回 初 昴 -すばる- 19/20 由紀さおり トリ前
1988年(昭和63年)/第39回 2 群青 19/20 五輪真弓 トリ前 (2)
1989年(平成元年)/第40回 3 陽はまた昇る 19/20 和田アキ子 トリ前 (3)
1990年(平成2年)/第41回 4 いい日旅立ち 28/29 石川さゆり トリ前 (4)
1991年(平成3年)/第42回 5 昴 -すばる-(2回目) 28/28 和田アキ子 (2) 大トリ
1992年(平成4年)/第43回 6 三都物語 24/28 都はるみ
1993年(平成5年)/第44回 7 階(きざはし) 24/26 和田アキ子 (3)
1994年(平成6年)/第45回 8 昴 -すばる-(3回目) 23/25 キム・ヨンジャ
1995年(平成7年)/第46回 9 君のそばにいる 13/25 藤あや子
1996年(平成8年)/第47回 10 愛に帰りたい 22/25 藤あや子 (2)
1997年(平成9年)/第48回 11 櫻守 21/25 坂本冬美
1998年(平成10年)/第49回 12 チャンピオン 20/25 長山洋子
1999年(平成11年)/第50回 13 昴 -すばる-(4回目) 25/27 石川さゆり (2)
2001年(平成13年)/第52回 14 陽はまた昇る(2回目) 23/28 キム・ヨンジャ (2)
2002年(平成14年)/第53回 15 昴 -すばる-(5回目) 23/27 中島みゆき
2003年(平成15年)/第54回 16 いい日旅立ち・西へ 12/30 華原朋美

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%9D%91%E6%96%B0%E5%8F%B8
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/648.html#c3

[近代史7] 柴田淳 中川隆
1. 2021年12月10日 18:49:37 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[45]
柴田 淳(1976年11月19日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%B7%B3


柴田 淳(しばた じゅん、1976年11月19日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。積極的なインターネット活動から「ブログの歌姫」[1][2][3]と呼ばれた(#インターネット活動を参照)。ラジオパーソナリティとしても定評がある。愛称は「しばじゅん」。


他アーティストへの提供曲
CHEMISTRY「月夜」(2002年、作詞提供)
中島美嘉「声」(2008年、作詞作曲提供)
坂本真綾「秘密」(2011年、作曲提供)
鶯谷フィルハーモニー「夜ははじまる」(作曲提供)


インターネット活動
ブログ
デビュー当初から芸能活動にインターネットを積極的に取り入れていることで知られており、ブログに関しては、公式サイトで公開しているWeb日記を中心に複数更新していた時期もある。自分の心境を率直に綴るブログが評判となり、そのキャラクターの立ち方から、芸能界で「ブログの女王」と呼ばれた眞鍋かをりや中川翔子になぞらえて、メディアから「ブログの歌姫」と称された[1]。2009年にはモバゲータウン内ブログのミュージシャン部門で12月22日から2日連続でデイリーランキング1位を記録したが、2010年5月30日を最後に更新を休止している。2010年9月27日よりTwitterを開始した。2013年より、デビュー以来更新を続けてきた公式サイトのWeb日記を閉鎖している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%B7%B3
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/647.html#c1

[近代史7] 鬼束ちひろ 中川隆
1. 2021年12月10日 18:54:53 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[46]
鬼束 ちひろ(1980年10月30日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%9D%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%8D

鬼束 ちひろ(おにつか ちひろ、1980年10月30日 - )[2]は、日本の女性シンガーソングライター。本名同じ。身長153cm。血液型O型[3]。2013年からは鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHESのボーカルとしても活動。妹は舞踊家で女優の鬼束桃子。

19歳の2000年2月9日に1stシングル『シャイン』でデビュー。半年後にリリースした2ndシングル『月光』で、一躍脚光を浴びる。

2001年3月発売の1stアルバム『インソムニア』がミリオン・セールスとなり、4thシングル『眩暈/edge』が第43回日本レコード大賞の作詞賞を受賞[4]。

2002年3月に『インソムニア』が日本ゴールドディスク大賞「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞[5]。同年11月5日には日本武道館での公演を成功させるなど、ソングライターとしてだけでなくシンガー、パフォーマーとしても地位を確立した。

短期間で急激な成功を収める一方、2年間でアルバムを3枚リリースするなどのハードスケジュールにより、心身共に健康状態が悪化。2002年春のコンサートツアーでは緊急入院で2公演をキャンセルし、退院後もドクター・ストップを押し切っての強行ツアーとなったほか、2003年夏に喉を痛めながら仕事を続けた結果、声帯結節発症をきっかけに2003年限りで活動を一時停止。UNIVERSAL SIGMAへ移籍したものの、11thシングル『育つ雑草』リリースとライブのゲスト参加だけにとどまり再び休養。

27歳の2007年に4thアルバム『LAS VEGAS』発売と海外進出希望を表明[6]。2008年4月に単独公演を大成功させた後、コンサートツアー全国5公演を体調不良で全てキャンセル。

2009年に3枚のシングルと5thアルバム『DOROTHY』をリリースしたが、発売前後のプロモーション活動を殆ど行わず、公演も行われなかった。

30歳の2011年にレーベル移籍。自身がプロデュースした6thアルバム『剣と楓』リリース以後、コンサートツアー再開やインディーズレーベルでのサイドプロジェクト的な「BILLYS SANDWITCHES」名義での活動を続けるが、本業より私生活でのDV騒動やニコニコ生放送出演、Twitter騒動に世間の目が向けられることになった。

2016年からは単独4公演開催とメジャーレーベル契約。2017年に7thアルバム『シンドローム』発売。全国ツアーを完遂するなど、安定して活動を継続。

経歴

幼少期からオーディション合格まで
小学2年生から中学3年生まで、友達に誘われてエレクトーンを習い始め、小学4年生から詩を書き始める。中学時代に母親に勧められて聴いたカーペンターズから洋楽に興味を持ち、以降、外国人女性シンガーソングライターの楽曲を中心に聴く。

現在の作詞スタイルを確立させたのは中学2年生の時にアラニス・モリセットの世界観に影響されてからで[7]、銀色夏生の影響も受けたという[8]。

高校2年生の時にジュエルのアルバム『心のかけら』によってその音楽と存在に衝撃を受け[9][10]、その瞬間からシンガーソングライターを志す。17歳の時に、文化祭でエイズに関する劇の主役をやった事に感化され、初めての楽曲「call」を作る[10]。以降デビュー決定後までは全て英語詞で楽曲を作った。(「call」「edge」「NOT YOUR GOD」等)

1998年、高校3年生の春にVirgin TOKYO主催の「Virgin ARTIST AUDITION」を受ける。審査では一人一曲を歌うことになっていたが、鬼束だけが二曲を歌わせてくれるように事前に交渉していた。そしてジュエルの「Who Will Save Your Soul」と自作曲「call」(当時は全英語詞)をキーボード弾き語りで歌いグランプリを獲得した[11]。

年表
1999年
3月、高校卒業と同時に上京し[12]、作曲活動に入る(「We can go」「シャイン」「月光」「シャドウ」などはその当時に作られた)。
10月、シングル『シャイン』のレコーディングに入る[13]。
2000年
2月9日、シングル『シャイン』で東芝EMI・Virgin Tokyoよりデビュー[注 1]。
8月9日、2ndシングル『月光』発売。テレビ朝日系ドラマ『TRICK』の主題歌になり、ロングヒット。約60万枚のセールスを記録する。
9月8日、監督を手掛けた堤幸彦の依頼により、ドラマ『TRICK』最終話エンディングのシーンに出演し、主題歌「月光」を歌唱する。
2001年
2月15日、JFNリスナーズアウォード2001において新星堂賞を受賞。同舞台で「月光」と「眩暈」を歌唱し、この模様はインターネット配信された。
3月7日、初のアルバム『インソムニア』発売。約150万枚のセールスとなるミリオンセラーを記録する。同日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』で初の単独パーソナリティーを務める。
4月10日、初のライブツアー『CHIHIRO ONITSUKA LIVE TOUR 2001』をBIG CATの公演で開始。後にWOWOWでライブの模様が放送される他、一部はDVD『CRADLE ON MY NOISE L*I*V*E 〜LIVE INSOMNIA VIDEO EDITION〜』にも収録される。
9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。4日前の9月7日に5thシングル『infection/LITTLE BEAT RIFLE』が発売されたばかりであったが「infection」の歌詞の内容に事件を予見していたかのようなフレーズがあるということから、事件から2日後の9月13日に東芝EMIより楽曲のプロモーションを自粛するという声明文が発表される。プロモーション活動は約1か月半自粛され、プロモーションビデオも放送されず、代わりに両A面となっていた「LITTLE BEAT RIFLE」で同作品のプロモーション活動を行うこととなる。
9月21日、NHK『トップランナー』に出演。番組内で初めてジュエルの楽曲「Foolish Game」をピアノ弾き語りでカバー。
12月、台湾の歌手である劉虹嬅のアルバム『好好愛我』収録曲の「月光」を書き下ろしで提供する(自身の代表曲である「月光」とは無関係)。他アーティストへの楽曲提供は初。
12月31日、4thシングルとして発表した「眩暈」で、第43回日本レコード大賞作詩賞を受賞する。
2002年
2月2日、「螺旋」が挿入歌として使用されたリュック・ベッソン監督、ジャン・レノ主演の映画『WASABI』公開。
3月13日、1stアルバム『インソムニア』が日本ゴールドディスク大賞ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。同日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』が放送される。
3月25日、2度目のライブツアー『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE 2002'』を渋谷公会堂の公演で開始。4月初頭、過労による急性腸炎を発症し、大阪と仙台の2公演を延期し、ツアー終了後は休養を挿む。
11月5日、日本武道館ライブ『CHIHIRO ONITSUKA ULTIMATE CRASH '02』で活動を再開する。
11月30日、テレビCF初出演となるKENWOOD企業CM「心ヲ揺サブルモノ 心ヲ満タスモノ」編が放送開始。
2003年
1月3日、NHK総合にて初のドキュメンタリー番組『ARTIST DOCUMENT 神が舞い降りる瞬間 〜鬼束ちひろ・22歳の素顔〜』が放送される。
3月10日、オフィシャルサイトの登録メンバーを対象に抽選で招待となったライブ『CHIHIRO ONITSUKA SPECIAL LIVE』をSHIBUYA-AXで開催。後にテレビ朝日で放送された同公演は、単独公演では2001年以来となる客席オールスタンディングで行われた。
5月23日、フジテレビ系『笑っていいとも!』に初出演。
8月5日、朝日放送の企画『SOUND RENAISSANCE』と連動して、クラシック音楽家・歌手以外では史上初めて、大阪のザ・シンフォニーホールにて、ライブ『"UNPLUGGED SHOW '03"』を行う。8月19日には東京サントリーホールで同公演を行う。
9月10日、声帯結節手術に伴う休養のため、年内の活動を休止すると発表する。10月に予定されていたイベントライブも中止となる。
10月29日、山口百恵の往年のヒット曲「いい日旅立ち」をカバーした9thシングル『いい日旅立ち・西へ』発売。作詞作曲者の谷村新司が詞をリメイクしている。谷村のラブコールにより実現したもので、引退した山口百恵(現姓・三浦)も太鼓判を押したという。JR西日本のイメージソングとしてCM等で放送される。
11月26日、10thシングル『私とワルツを』を発売。東芝EMI時代最後のオリジナル作品となる。
2004年
3月17日、これまでにリリースされた全10枚のシングルをボックスセットにした『シングルBOX』を初回限定生産で発売。当初はオリジナルアルバムとDVDをリリース予定だったが急遽発売中止となり、差し替えられて発売された。
4月3日、MELODY STAR RECORDSとのマネジメント契約終了。1か月遅れの5月29日にMELODY STAR RECORDSのサイト上で正式発表。
6月18日、所属事務所をSony Music Artistsに移籍。サイト上でファンに向けてのコメントを発表。
7月23日、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。同時にレーベルをユニバーサル傘下のA&M RECORDSに移籍、同レーベル所属アーティストの第1号となる。
9月20日、日比谷野外大音楽堂での、スペースシャワーTV主催の音楽祭『SWEET LOVE SHOWER 2004』に、シークレットゲストとして登場。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」とポリスの「King of Pain」のカバー曲、新曲「育つ雑草」を披露。
10月27日、移籍第1弾シングル『育つ雑草』発売。また、体調不良による年内の休養を発表。予定していたテレビ出演・雑誌インタビュー等も全てキャンセルした。
2005 - 2006年
2005年1月31日、Sony Music Artistsとのマネジメント契約終了。
レコード会社に通い始め、プロデューサー小林武史と接触。everyhomeを制作し、小林にプロデュースを確約させる。2006年春から徐々に楽曲制作とレコーディングを開始。
2006年9月10日、映画『もんしぇん』の公開中、上映館(上野・国立博物館内映画館『一角座』)において、玉井夕海のユニット・Psalmとともにゲストライブに出演し、2004年の『SWEET LOVE SHOWER 2004』以来久々に公の場に姿を現す。映画について「音楽も映像も美しい。そんな美意識の高い映画は滅多にないと思います」というコメントを寄せる。
2007年
2月20日、『ROCKIN'ON JAPAN』2007年3月号(ロッキング・オン社)誌上において「鬼束ちひろ、シーンに帰ってくる」という見出しの記事が掲載される。翌日の2月21日にはスポーツ報知紙上でも復帰の内容が報道される。
3月17日、小林武史主催のap bankのイベント『AP BANG! 東京環境会議 vol.1』にてライブを行う。ピアノとチェロの構成で「月光」と「MAGICAL WORLD」「everyhome」を歌唱する。3月18日付の日刊スポーツ紙上でその旨が報道された他、ファンに対し「待っていてくれたファンの方にはありがとう。これからもいい曲を作って歌い続けていきます」とのコメントが掲載される。
4月1日、個人事務所であるNAPOLEON RECORDSを設立。
5月12日、新オフィシャルサイトを開設。
5月16日、音楽関係者を対象に『Welcome to everyhome -鬼束ちひろ プレゼンテーション試聴会-』を開催し「everyhome」を披露する。
5月30日、復帰作となる12thシングル『everyhome』を発売。
6月1日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演し、およそ4年振りにテレビ番組に登場する。フジテレビ系『僕らの音楽』でも特集が組まれ、小林武史との対談とスタジオライブが放送される。
10月31日、3rdアルバム『Sugar High』から実に4年10か月振りの発表となる、4thアルバム『LAS VEGAS』を発売。
11月5日、ニッポン放送『鬼束ちひろのオールナイトニッポン』が放送される。オールナイトニッポン枠でパーソナリティを務めるのは2002年3月の『鬼束ちひろのオールナイトニッポンR』以来。
2008年
4月26日、単独公演としては2003年の『UNPLUGGED SHOW '03』以来4年8か月振りに、渋谷Bunkamuraオーチャードホールにて、1夜限りのプレミアムコンサート『CHIHIRO ONITSUKA CONCERT NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS』を行い、新曲「SUNNY ROSE」や「蛍」等を披露する。
8月6日、坂本昌之プロデュースの下、映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』の主題歌に起用された14thシングル『蛍』と、ライブDVD『NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS』を同時発売。
9月26日、2002年の『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE' 2002』以来約6年振りの全国ツアーとして予定されていた『CHIHIRO ONITSUKA CONCERT TOUR 2008 "VEGAS CODE"』の全5公演が、極度の疲労による体調不良のため中止された。これにより年内の活動を休止する。
2009年
3月13日、公式サイトで活動再開を発表。
5月20日、15thシングル『X/ラストメロディー』発売。
7月22日、16thシングル『帰り路をなくして』発売。
9月2日、17thシングル『陽炎』発売。
10月28日、5thアルバム『DOROTHY』を発売。
2010年
4月28日、デビュー10周年を迎え、ベストアルバム『"ONE OF PILLARS" 〜BEST OF CHIHIRO ONITSUKA 2000-2010〜』を発売。
6月 ユニバーサルミュージックとの契約が終了する[14]。
6月30日、「everyhome」~「陽炎」「STEAL THIS HEART」のPVを収録したDVD「HARD RED FANTASIA」を発売。
2011年
2月28日、所属レコード会社をフォーライフミュージックエンタテイメントに移籍したことを公式サイトで発表。
4月6日、18thシングル『青い鳥』を発売。
4月20日、6thアルバム『剣と楓』を発売。同時に、自身初の著書である自伝『月の破片』を発売。
5月9日 - 6月4日、渋谷・SUNDALAND CAFEにて初の個展「CHIHIRO ONITSUKA『BUNNY AND THE PYTHON』」を開催。
7月24日、JOIN ALIVE 2011に出演。
9月21日、ニコニコ生放送レギュラー番組「鬼束ちひろの『包丁の上でUTATANETS』」がスタート。
10月1日 - 15日、前回と同じく渋谷・SUNDALAND CAFEにて第2回個展「CHIHIRO ONITSUKA『WHOLE MONSTER PUNKS』」を開催。
11月30日、『CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE 2002'』以来約10年振りとなる全国ツアー「鬼束ちひろ CONCERT TOUR 2011『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』」が愛知県芸術劇場 大ホールの公演から開始。(全3公演)
2012年
鬼束が「発信」するファッションブランド「SCORPIO FACTORY」を立ち上げる。なお、この第1弾商品のTシャツ「KISS OF DEVIL」が、2011年11月-12月に行われた『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』で先行発売された。
3月14日、『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』の東京国際フォーラム公演の様子を収録したDVD『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA MY GUN』を発売
5月30日、自身初の洋楽カバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』を発売。
6月4日、「BAZOOKA!!! 035 鬼束ちひろのフリーダム歌謡SHOW」(BSスカパー)に出演。シンディ・ローパーのカバー「Time After Time」、同プリテンダーズ「Brass In Pocket」アコースティック・ギター弾き語りで未発表新曲「Wasted」を披露した[15]。
2013年
3月11日 - 3月26日、「鬼束ちひろ CONCERT TOUR 2011『HOTEL MURDERESS OF ARIZONA ACOUSTIC SHOW』」以来約1年3か月振りのツアー「CHIHIRO ONITSUKA TOUR SHOW 2013 悪戯道化師(いたずらどうけし)」を開催。また、本ツアー限定で19thシングル『悪戯道化師』を発売する。
12月18日、20thシングル『This Silence Is Mine/あなたとSciencE』を鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHES名義でリリース。同日、ベストアルバム『GOOD BYE TRAIN 〜ALL TIME BEST 2000-2013』をユニバーサルミュージックよりリリース。
2014年
1月13日 - 4月5日、鬼束ちひろ & BILLYS SANDWITCHESとして初の全国ツアー「Heart Beat Tour 2014」を開催。
5月28日、配信限定シングルとして「祈りが言葉に変わる頃」をリリース。6月28日から公開される映画『呪怨 -終わりの始まり-』の主題歌として書き下ろされた楽曲である。
9月23日、東京・TSUTAYA ROPPONGIで『BURGERS TALK SHOW〜I'm fine thank you 2014〜』トーク&ハイタッチイベント実施。[16]
10月16日、「秘密のケンミンSHOW & ダウンタウンDX 合体SP」に出演。前出のトークショーの模様などが紹介された。[17]
2015年
4月30日、オフィシャルファンクラブ会員限定でCD『スター・ライト・レター』をリリース。
8月7日、テレビ朝日『ミュージックステーション』にて花岡なつみが鬼束に提供されたデビュー曲「夏の罪」を披露する際、鬼束本人がビデオ出演しメッセージを寄せた。
2016年
1月28日、Ustreamで特別番組「CHIHIRO ONITSUKA『TUNE HOUR 2016』」を配信(全12曲)。
2月24日リリースの中島美嘉のトリビュートアルバム『MIKA NAKASHIMA TRIBUTE』に「Fighter」カバーで参加。[18]
4月8日・10日、2年ぶりのワンマンライブ「TIGERLILY」を開催。 7月22日、追加公演を大阪で開催。
10月19日リリースのUNCHAINのバンド結成20周年記念コラボレーションアルバム『20th Sessions』に楽曲「緊張」で参加。[19]
11月2日にJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントより21stシングル『good bye my love』をリリース。
11月4日、中野サンプラザにてワンマンライブを開催。
2017年
2月1日、ソロ名義では約6年振りとなる7thアルバム『シンドローム』をリリース。
4月13日 - 7月18日、ソロ名義では約4年振りとなるコンサートツアー「シンドローム」を9都市10公演にて開催。
6月7日リリースの吉田拓郎のトリビュートアルバム『今日までそして明日からも、吉田拓郎 tribute to TAKURO YOSHIDA』に楽曲「夏休み」で参加。[20]
6月21日、自身初のライブアルバム『Tiny Screams』をリリース。
8月11日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017に出演。
10月31日、がんと診断された「大切な人」を応援するため、自らも髪型を丸坊主にしたことを明かす[21]。
11月29日、コンサートツアー「シンドローム」の様子を収録した約5年振りとなるライブ映像作品『ENDLESS LESSON』をリリース。
2018年
5月29日、アルバム「シンドローム」のフランス発売、2019年1月にフランス・パリでの単独公演開催が決定した事を正式発表[22]
6月13日 - 8月31日、コンサートツアー「UNDER BABIES」を4都市にて開催。
7月27日、自身のInstagramで、2015年に一般人の男性と結婚していた事を公表した[23]。
8月22日、22ndシングル『ヒナギク』をリリース。
12月11日 - 12月19日、ワンマンコンサート「BEEKEEPER」を東京、大阪で開催。
12月22日、体調不良によるフランス公演中止を公式サイトで発表[24]。
2019年
3月20日、7thアルバム『シンドローム』をプレミアム・コレクターズ・エディションとして再リリース。また、ワンマンコンサート「BEEKEEPER」の東京公演の様子を収録したライブ映像作品『HUSH HUSH LOUD』をリリース。
3月27日、配信限定シングルとして「End of the world」をリリース。
2020年
2月1日、NHKの音楽番組『SONGS』に初出演[25]。
2月20日、デビュー20周年を迎え、ベストアルバム『REQUIEM AND SILENCE』を発売。
2月23日、NHKの音楽番組『The Covers』にゲスト出演[26]。
6月24日、ライブアルバム『Tiny Screams』を2CD形態で再リリース。
9月18日、鬼束ちひろ初のストリーミングコンサート『SUBURBIA』開催[27]。
9月19日、配信限定シングルとして『憂鬱な太陽 退屈な月』をリリース。
10月14日、配信限定シングルとして『焼ける川』をリリース。
11月17日 - 11月24日、ワンマンコンサート「UNHESITATE」を東京、大阪で開催。
11月25日、8thアルバム『HYSTERIA』をリリース。
12月8日、音楽番組『The Covers』が主催する年に一度のフェス『The Covers’ Fes.2020』に出演[28]。
2021年
2月24日、23rdシングル『スロウダンス』をリリース。
5月26日、ワンマンコンサート「UNHESITATE」の東京公演の様子を収録したライブ映像作品『LIVING WITH A GHOST』をリリース。


人物
洋楽好きで船乗りの父と邦楽好きで民謡の師範代であった母の間に生まれる[29]。中学校では全国共通模擬試験の英語科目で全国1位になったが[30]、音楽人となってからは高偏差値であることを窺わせる態度や発言をすることはなく、お笑い芸人との交流に勤しんだりホームレスに差し入れをしたりといった庶民的な一面を見せる。2010年から「有り余るパワーをコントロールするため」にタトゥーを彫っている[31]。

実家の鬼束家は喧嘩や衝突が日常茶飯事だったが家族間の絆が強く、鬼束個人としても友人・業務上の繋がりに至るまで家族的な信頼関係を築く一方、初対面のインタビュアーを挫折させたこともある[32][33]。喜怒哀楽が激しく、負けず嫌いで断捨離が得意。臆病だが他人に媚びることはない。言い訳はせず、礼には礼で返す。ミーハーかつ飽き性でバイ・セクシャルだが男を立てる古風で保守的な面を併せ持つなど多様な面を併せ持つ。幼少期から上がり症。特定信教上の神ではなく、守護霊の存在や神道的な神を信じ[34]、運命論者である。ステージ衣装デザインとスタイリストを自ら兼ね、ステージ上では裸足で歌い、踊る。愛猫は(メインクーン)の「しゃもじ」と「なべ」。愛称はちぃ(ちゃん)。2015年から既婚者[23]。

協力者・恩人
ピアニスト、アレンジャーとして多くのセッションやリハーサルを行い、ステージを共にした富樫春生を”東京の父”的存在であると紹介している。歴代プロデューサーでは、鬼束を18歳の頃から知る羽毛田丈史と2008年から懇意の坂本昌之らはスタジオ内だけに留まらず、多くの出演や公演に伴奏者として帯同した。烏龍舎代表の小林武史は制作だけでなく、営業活動でも協力した。玉井夕海[35]は2004年からの休養中に鬼束を援助した人物として知られる。鬼束の発掘者の一人で、育ての親として知られる元MELODY STAR RECORDS社長兼プロデューサーの土屋望は、一時的に鬼束が歌手生命を奪われかねない事態に陥ったため、その評価はファンにより二分された。後年、土屋は当時の状況について「経営者と制作者の狭間で苦しんだ」と胸の内を明かした[36]。


東芝EMIとMELODY STAR RECORDSからの移籍の変遷
東芝EMIとMELODY STAR RECORDSを離脱した件について、事務所と本人が共にコメントを出さなかったため様々な憶測を呼ぶことになったが、鬼束は2007年以降、複数のメディアで当時の心境を朧げながらに語っている。移籍の発端となったのは2003年(平成15年)に声帯結節を発症してからで「「いい日旅立ち・西へ」のあたりから周囲と波長が合わなくなってきた」「楽曲自体には問題はなかったが、周囲を信用できなくなってきて無理が生じた[37]」「プライベートでもいろいろあった。」としているが詳細は不明である。 喉の手術後、2004年4月にMELODY STAR RECORDSとの契約を終了した鬼束は、レーベル契約に先立ちマネージメント会社のSony Music Artistsと6月に契約し、声明を発表した。
ファンの皆様。ご無沙汰してます。鬼束ちひろです。突然ですが、私はここ半年間ほぼ死人のような状態でした。
だけどそんな状況の中でも、混乱し、泣き喚き、激しい感情の起伏に振り回されていました。
 私はとても気紛れで、性格的に猛獣の様なところがあるので、これからの人生もどうなるかは全くわかりませんが、今は歌を作り、それを歌っていきたいと思っています。
 心配してくれた方々、どうもすいません。そしてありがとう。
UNIVERSAL SIGMAと契約し「育つ雑草」を発売した鬼束だったが、発売後に再び活動停止。翌2005年、レーベル契約を維持したままSony Music Artistsと中途で契約終了した。これについては「自分のペースでの創作と、アーティスト活動、世の中のペースが一致しない」[38] としており「何か問題やトラブルがあった訳ではない」「もっともっと休む時間が必要だった」と語っている[8]。東芝EMI時代の「月光」以降の全ての楽曲はMELODY STAR RECORDSとテレビ朝日ミュージックとの包括契約になっている[39]。音楽祭『SWEET LOVE SHOWER 2004』に登場した際の衣装は、望まずに成功(セルアウト)したニルヴァーナのカート・コバーンがライブで着用していた物と同じセーターであった。

インターネット不信
鬼束はデビュー当時からインターネットに対して「誰が書いたかわからない」恐怖と忌避を表明していた[40]。また「練炭自殺する人は最初に椎名林檎を聴き、次にCoccoを聴いて、最後に鬼束ちひろの曲を聴いてから死ぬ」という言説をネットで拾い見し、歌うことに対する拒絶感を抱いた[32]。

騒動・事件
2001年2月16日、テレビ朝日系『ミュージックステーション』に出演の際「飼っていたハムスターがカタカタうるさかったのでベランダに放置したら熱射病で死んでた」「またハムスターを飼って外に出したら凍死した」と発言。動物虐待ではないかとの批判が殺到し、当時の所属事務所が謝罪する事態となった[41]。

2002年2月9日、友人のバイクに同乗していた際、バイクが自動車と接触して横転、軽傷を負う。

2005年7月26日、本人が住むマンションに花束を持ち30分近くインターホンを鳴らし続ける男が現れ、警視庁渋谷署に住居侵入罪(ストーカー規制法違反)容疑で逮捕された。

2010年8月18日、渋谷区の自宅マンションで同棲中の無職男性に殴られ、顔面骨折や肋骨骨折などで全治1か月の重傷を負い[42][43]、9月17日に容疑者が逮捕された[42]。

2012年6月22日、Twitterを始める。歌手の和田アキ子に対して「あ〜和田アキコ殺してえ。」前年に芸能界を引退した島田紳助に対して「なんとか紳助も殺してえ。」とツイートして、ネットを騒然とさせた[44]。それに対し「えんじょう???? 何それ。」「あたしいつもこういうハメになるなぁ。フツウにしてるつもりなんだけど。ネットってこわ〜」と反省の素振りすら見せなかったが[45]、ツイートは削除され、翌日に公式ホームページで謝罪文が掲載された[46]。その後同アカウントは凍結された。

2021年11月28日、東京都渋谷区の路上で救急車を蹴ったとして、器物損壊の疑いで警視庁に現行犯逮捕された[47]。同日午後4時半ごろに共にパチンコに興じていた友人が体調を崩し、駆け付けた救急車に搬送される際に周囲の通行人とトラブルになり、その腹癒せが動機とされる[48][49]。30日に送検され、同日釈放された[50][51]。12月2日、謝罪と反省のコメントを発表した[52]。

音楽性

歌詞
鬼束は10代から詞先で作曲を始めた。これは鬼束が楽曲において歌詞を最重要視しているためであり、もし歌詞と曲がマッチしていない時でも「詞の世界を壊したくない」「直感を大事にしたい」との理由で歌詞を変更することは少なく、曲を無理やり詞に合わせたり、曲のフレーズに詰め込む等の手法を用いる[53]。詩の内容について、20歳頃までは「曲は詞の風景」と語り、自らの存在価値や葛藤、愛憎など自らの内面を掘り起し、或いは溢れ出す感情を書き連ねる。ストーリー性のある詞も初期からあったという。月光がブレイクし多忙になった後も、映画、ドラマ、ゲーム等タイアップの仕事から与えられたテーマから触発されて曲を量産し続けた。キャリアを重ねると共に、初期衝動的な方法から妄想、俯瞰視を経て、よりストーリー性重視へと変容していった。文章表現は暗喩を多様し、恒久的に謳われることを意図して時代性のある品詞を極力使わないのが特徴である。鬼束個人は歌詞について「詞の一部だけを切り取って欲しくない」「想像力を掻き立てるもの」とし、解釈は聴き手に任せている。難解な詞もあるが、身近な事象を多彩な表現方法を用いて詩的に仕上げる見本例は多い。初歩的な解釈例を以下に示す。

「携帯電話」については”振動”(「流星群」2002年)や”点滅”(「Sign」2003年)となる。
”眼の前で溢れるもの”(「流星群」2002年)は「涙」。
”涙は傷口で溺れる”(「good bye my love」2016年)は涙より物理量で遥かに上回る「体液(血)」の存在を暗に示唆しており、シュルレアリスムと錯覚するリアリズムとなる。(論理的解釈)。
”この舌に雑草が生える”(「infection」2001年)は2ch発祥である、笑いの省略語「w」が口から吹き出す描写の喩えと、「使っていない(ペンペン草)」意味のダブル・ミーニングとなる。
その後「育つ雑草」と曲名にもなった「草」については、2chにおいて「(w」が「www」と増幅。それが他のSNSに伝播され、若者の笑いは「草生える」「草を生やす」と表現されるようになったが、その始祖は鬼束ちひろである。

時には直喩や平易な言葉も使う場合もあり、必ずしもアイデアが固定化されているわけではないが随所にリスナーを試すような遊び心が折り込まれている。日本語詞では韻を踏む詞は少ないが、英語詞だと韻を踏むパターンが多い。「帰り路をなくして」「陽炎」以降は和的美しさを追求する。4thアルバム以降は作詞と作曲を同時に行うことが多くなったと述べている。「月光」と「インソムニア」のヒット後、一部の歌詞について職業作家[54]や音楽批評家からの批判にさらされることもあったが[55]、宗教的批判の矛先は当時二十歳の女子である鬼束のみに向けられ、クリスマスやバレンタインデーを推進する企業や、無神教者がキリスト教会で挙げる結婚式に対しては無言を貫くダブル・スタンダードである場合が殆どであった。このように批評や中傷の対象となりやすい鬼束の詞だが、露骨な表現を極力避け、自身に寄り添ってくれる人間にしか理解出来ないような表現が鬼束の作詞制作上での定石となっていることは、経済における利潤の追求を最大の目的とする市場戦略である特定の大衆層の共感や代弁を意図したものではなく、全てが鬼束の内なる美意識から生み出される本来の芸術の誕生そのものであることの証明となる[注 2]。歌詞がより伝わりやすく単純になっていけば、かつて「飯」と言えば食事の要求であったように、単なる指令や伝達信号となり、言語文化としては衰退していく。鬼束の一見解りにくく、遠回しで、書き手の心情まで察する能力を要求される詞は、言葉の文化の伝統継承だけでなく、他人を思い遣る気持ちを呼び醒まし、あるいは想い起こさせるものとして、現代社会の片隅で確かに存在する。ROCKIN'ON JAPAN誌で「日本では稀有な、無形文化財のようなもの」と評されたことがある[56]。

作曲
「詞があれば曲はすぐに出来る」と言い、10数分で出来ることもあれば「everyhome」のように3日間で完成させた曲もある[57]。 最も影響を受けたアーティストはジュエル[9][10][注 3]。
他、アラニス・モリセット[10][注 4]アマンダ・マーシャル[注 5]、メリッサ・エスリッジ[注 6]、ジョニ・ミッチェル、ポーラ・コール、キャロル・キング[注 7]、トーリ・エイモス[9]。


編曲
伴奏については、ピアノを基盤としたアンプラグドやアコースティックな生音主体で、ストリングスが用いられる楽曲も多い。鬼束の圧倒的な個性が出発点で、それ故、ピアノと鬼束のボーカルだけのパフォーマンスが究極の帰着点であると羽毛田は捉えていたようである。鬼束自身もデビュー当時からシンプルなものこそ相手に伝わると考えており、ミニマルなアコースティックにホールでのライブを好む。バリエーションとしてはエレキギターのブルースやカントリーロック、オルタナティブ・ロック、ケルト音楽、エレクトロニカといったような、様々な編曲が試みられている。 鬼束は20代まで、原盤制作においてアレンジやアルバム収録曲の選定、曲順決め等には介入しない場合が多かった。また、音楽ジャンル分けされることには否定的で「”鬼束ちひろ”というジャンルで構わない」という。[32]

書籍
月の破片(2011年4月20日、幻冬舎) ISBN 978-4-344-01977-5

楽曲提供
劉虹嬅「月光」(作詞:姚謙、作曲:鬼束ちひろ) 鬼束の月光と同名異曲。JASRAC登録名「Moon light」
花岡なつみ「夏の罪」(2015年8月12日)作詞作曲[58]
UNCHAIN「甘い晩餐」2017年6月7日発売Album『from Zero to "F"』収録。作詞提供。[59]


サウンドトラック
『テレビ朝日系ドラマ「トリック」オリジナル・サウンドトラック』TOCT-24416(2000年9月6日)「月光 〜TV86〜」収録
『オルゴールで聴く 鬼束ちひろ 作品集』VRCL-5028(2001年12月5日)
『「ラストゲーム最後の早慶戦」オリジナル・サウンドトラック』UMCK-1257(2008年8月6日)「蛍(Instrumental)」収録

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%9D%9F%E3%81%A1%E3%81%B2%E3%82%8D
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/646.html#c1

[近代史7] 中島みゆき 中川隆
2. 2021年12月10日 19:01:17 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[47]
中島 みゆき(1952年2月23日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D

中島 みゆき(なかじま みゆき、本名:中島 美雪(読みは同じ)、1952年2月23日 - )は、日本のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身。1975年にシングル『アザミ嬢のララバイ』でデビューした。公式ファンクラブ名は「なみふく」。

オリコンにおいて、4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストであり、他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得している(後述参照)。また、自身の歌唱も含めると、作詞・作曲を手掛けた作品が5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得したことになる。


経歴

幼年期 - デビュー前
祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長。札幌市に生まれ、5歳の時に岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。帯広に移り、市立帯広小学校を卒業、市立帯広第三中学校に入学する。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り、市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業する。

帯広柏葉高校3年生の時、文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする。北海道大学フォークソングのメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っている[注 1]。1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。この時の音源は大会実況版としてLP化されている[注 2]。後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が支給されるので、バイト代わりであったと述べている。大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続ける。ジャズ喫茶オーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏んでいる。 デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない(後述の「未音源化楽曲」を参照)。

デビュー - 1970年代後半
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による『第9回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」が入賞した[2]。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコードデビューを果たす。1975年10月の『第10回ポピュラーソング・コンテスト』に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し[3]、11月の『第6回世界歌謡祭』でもグランプリを受賞した[4]。「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される[5]。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める[注 3]。翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組の一つとして1977年から放送された『コッキーポップ』がある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。1981年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングルカットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなっている[6]。『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。

1980年代
1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーの間で大きな人気を集めた。1980年代前半にはミュージシャンとしてさらに大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。

以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期[注 4]を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した[注 5]。

「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

1990年代
1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかった。中島みゆきも例に漏れず、ドラマ『親愛なる者へ』の主題歌「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めた。『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新した[注 6]。

1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成され、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。

1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた[7]。この審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきだけである。

2000年代以降 -
2000年には25年にわたって在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社・ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初は話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムの発売にあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレームがつき[注 7]、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出場。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演[8]。スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。

1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となっている。近年では、アレンジ等にベックの父親として知られるデヴィッド・キャンベルや、ヴィニー・カリウタ、ニール・スチューベンハウス、マイケル・トンプソンなどといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えてアルバムを制作するのが毎年恒例となっている。

1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演された。

2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。同年には、TOKIOに提供した「宙船(そらふね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2007年8月から新設のヤマハミュージックアーティスト(現:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)がマネジメントを行う。秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章。中島は受章に際して、

「 思いがけずうれしいことの表現に『棚からボタ餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。 」
—[9]

とコメントした。

2010年10月から2011年1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。このツアーから各公演の様子を伝えるTwitterを開始した[注 8]。

2012年10月から2013年2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われた。また、2013年11月から12月まで「夜会工場」と称するガラコンサートを開催した。

2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦にも出場し、同曲を歌った。中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となった。

楽曲

歌詞
中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができる。普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多い。例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されている。
対照的に、工藤静香に提供した「MUGO・ん…色っぽい」や西田ひかるに提供した「きっと愛がある」のように軽いノリの詞も存在する。ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピー[注 9]にひっかける方が望ましいと中島が指示を受けていた経緯がある。
大学の卒業論文では谷川俊太郎を論じており[10]、現代詩からの影響が濃い。また、中島みゆき自身の歌詞が現代詩の一つとして扱われ名詩選に収録されていることもある[11]。


歌唱法
基本的に、深いブレスと力強い声質を生かして朗々と歌い上げる。曲によって、また曲の中でも情景や詞が含む感情によって、いくつもの声色を使い分けている。例として、「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌い回しの違いが挙げられる。同じアルバムの中でももっと声質の大きく異なる曲が収録されることも多い。歌っているときの声と普段の喋り声とのギャップも著しい。転調が得意であるため、転調する曲が多い[12]。例として、「浅い眠り」と「空と君のあいだに」が挙げられる。尚、中島みゆきのオールナイトニッポンでは、歌唱時の細かいビブラートを『ちりめんビブラート』と称しており、揶揄している。


ライバル
松任谷由実は、かつて「ライバルは?」と聞かれ「中島みゆきさん」と答え、テレビ・ラジオなどでは「みゆき」と呼ぶ。逆に中島は、『中島みゆき お時間拝借』で「松任谷」と呼んでいた(中島は松任谷より2歳上)。

1980年代以降、トレンドに合わせた楽曲でヒットを飛ばす松任谷由実と、己の道を行く中島みゆきを「月と太陽」「光と影」とするような対比が多く見られ、ユーミンは「恋愛歌の女王」、中島みゆきは「失恋歌の女王」、「女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容された。当人同士は、そうした周囲の対比をさほど気にもかけていない様子である。同年代で交友もあり(ユーミンの夫松任谷正隆が中島の曲のアレンジを担当したこともある[注 11])、互いに認め合っている。

1984年、中島のコンサートツアー「明日を撃て!」のパンフレットに寄稿した松任谷は、「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と中島の音楽を評し、「でも、そうやってこれからも一緒に、日本の布地に風合いを出していきましょう」と締めくくっている。中島は自身の著書『愛が好きです』の中で松任谷のことを「尊敬している」と語っている。

2人はこれまでにラジオで7回対談している。『中島みゆきのオールナイトニッポン』(1980年6月9日、1983年6月13日)『ミュージック・パスポート』(1982年3月7日)、『松任谷由実 サウンドアドベンチャー』(1994年10月23日)、インターネットラジオ『ウィークエンドスペシャル 松任谷由実はじめました』(2001年8月24日)など。

また、ライバルというよりも戦友的存在の一人として、谷山浩子も挙げられる。谷山も中島と同じくヤマハ・ポプコン出身ということや、オールナイトニッポンの構成作家が同じということから交友があり、谷山が出演していたラジオ番組『谷山浩子のオールナイトニッポン』(木曜二部)にたびたび出演するほか、後年、『夜会 ウィンターガーデン』(2000年)でも共演している。

コンサート
コンサートは現在でも、2000人〜3000人規模のホールを中心に行っており、原則アリーナクラス以上の会場では公演を行わない。過去に両国国技館、横浜アリーナ、大阪城ホールでは行ったことがあるが、日本武道館では一度も公演を行なったことがない。


海外における知名度
MTVチャイニーズのホームページ内「音楽評論家のアフターヌーンティー」コーナーには「中島みゆきの創作力は、広く認められている。彼女の作品は、常に香港や台湾の歌手にカバーされ、日本のみならず、アジア全域に中島みゆきの音楽が行き渡ったと言っても過言ではない」と書かれている。

膨大な数のカバー曲や、日本音楽業界との密接な関わりにより、中島のニュースは時々台湾の新聞でも見かけられる。『中国時報』、『聯合報』の両新聞社の情報バンクだけを取り上げても、ここ十年間[いつ?]における中島に関する報道は、年間20件 - 30件ある。

台湾の詩人曾淑美は、文学雜誌で中島みゆきに関する評論を載せ、香港の評論家湯禎兆も蘋果日報に「中島みゆきの名にちなむ」という文章で中島を紹介した[13]。作家劉黎兒も中島の長年のファンとして知られ、自身の作品の中に、幾度も中島のことや歌を書き上げたことがある。

テレビドラマ
明日の刑事(TBS、1977年12月7日)
初のドラマ出演で、第10話に出演した。
親愛なる者へ(フジテレビ、1992年7月9日・9月17日)- 南雲律子 役、第2話・最終話。
東京全力少女(日本テレビ、2012年10月10日)- 清掃員 本人 役、第1話。
やすらぎの郷(テレビ朝日、2017年6月29日・7月7日・8月22日)- 車椅子を押す入居者 役[注 48]、第64・70・102話。
永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜(2019年7月15日、NHK総合) - 語り[39]

映画
妖精フローレンス(1985年) - ムジカ 役(声の出演)
東京日和(1997年) - バーのママ 役
サヨナラCOLOR(2005年) - 巌岳 役
ガラスの使徒(2005年)
間宮兄弟(2006年) - 間宮順子 役

NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手 備考
2002年(平成14年)/第53回 初 地上の星 23/27 谷村新司 [注 49]
2014年(平成26年)/第65回 2 麦の唄 22/23 美輪明宏 [注 50]


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D
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[近代史7] 森田童子 中川隆
2. 2021年12月10日 19:05:21 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[48]

森田 童子(1952年 1月15日 - 2018年4月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90


森田 童子(もりた どうじ、1952年[1][2][3][4]1月15日[4] - 2018年4月24日[5][6][7][8])は、日本の女性シンガーソングライター。本名は非公表[5][6]。芸名は笛吹童子に由来する[9]。

1973年、西荻窪ロフトでライブハウスデビュー[10]。以降、ライブハウスを中心に活動する。

1975年10月、シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)からメジャーデビュー。1980年、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)へ移籍。

1975年から1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年のアルバム『狼少年 wolf boy』と、1984年の新宿ロフトでのライブ[10]を最後に音楽活動を休止する[1][9]。

2018年4月24日未明、心不全のため[5]自宅で死去[6][8][7]。66歳没。遺族から日本音楽著作権協会(JASRAC)に連絡があり[5]、同年6月1日発行の日本音楽著作権協会(JASRAC)会報に訃報が掲載されたことで死去が明らかになった[5]。活動休止後は主婦として暮らしていた[7]。音楽関係者の話として「体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなく逝去した」「公表するつもりはなかった」と報道された[8]。

関連人物
木森敏之 - アレンジャー:『GOOD BYEグッドバイ』
石川鷹彦 - アレンジャー:『マザー・スカイ』『狼少年 wolf boy』
J.A.シーザー - アレンジャー:『マザー・スカイ』
木田高介 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
若草恵 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
千代正行 - アレンジャー:『ラスト・ワルツ』『夜想曲』
比呂公一 - アレンジャー:『夜想曲』
高梨豊 - 写真家:ジャケット写真撮影
丸尾末広 - イラストレーター:『狼少年 wolf boy』インナーイラスト担当
劇団黒テント - 当時「68/71黒色テント」としてライブ活動などに協力
平野悠 - ライブハウス「ロフト」経営者
前田亜土 - イラストレーター:マネージャーで夫
高取英 - 劇団月蝕歌劇団主催。夫の前田亜土ともども親交があった
かわさきひろゆき -森田童子狼少年コンサート 前進座劇場や新宿ロフトにて朗読をする少年。現在映画監督

略歴

人物
カーリーヘア(しかもこれが地毛という証拠もなかった。後述)にサングラス、男性的な服装というスタイルが特徴で、レコードジャケットはもちろんコンサートなどでも素顔を見せることはなかった[1]。森田童子は芸名であり、本名は非公開。加えて実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、作品に生活感を滲ませることを避けていた[1]。出身地や生年月日、家族構成などの個人情報を明かすことも少なかったため、本人に関する情報が非常に乏しい[2]。

出身地は東京都とされているが[6]、青森県とする資料もある[3]。北海道出身の詩人・笠井嗣夫は、コラム「『森田童子』あるいは共犯幻想のこちらがわ」で、1980年11月28日夜に札幌市教育文化会館大ホールで開催された森田童子コンサートについて書き、会場で主催者から配布されたチラシに掲載された「森田童子ラフスケッチ」では「1952年に青森で生まれ、1968年 - 1970年の学園闘争の最中に高校生活を送り、友人が逮捕されたことをきっかけとして、1970年に高校を中退[1][9]。1972年の夏、ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめた」と紹介されていたことを記している[3]。この亡くなった友人をモチーフにした曲が、デビュー曲となる「さよなら ぼくの ともだち」である。

ロフト経営者の平野悠は、森田の訃報を受けて書いたブログ記事で「森田童子は私が、1973年の西荻窪ロフトでのデビューから、1984年の新宿ロフトでの引退宣言まで、最初から最後まで見届けた数少ない音楽家だった」と書いている[10]。平野は当時を振り返り「1973年の夏に近い梅雨の蒸し暑い夕方、一人の無名な少女が西荻窪ロフトにやって来てデモテープを1本渡し、『私にも歌えるのでしょうか』と静かに控えめに聞いてきたことを、今でも覚えている」と言う[10]。また平野は森田について「彼女はいつも孤立無援だった。『君の過去に何があったんだ?こんな詩は誰もが書けるものじゃない』と何度か聞いてみたが、彼女はニコッと笑って話題をそらした」「マネージャーの前田氏と結婚したときは悲しかった。前田氏は森田をメジャーにしようとしたが、やはりアンダーグラウンドな歌手だった」とも述べている[10]。

森田と親交があり、森田のマネージャーで夫でもあるイラストレーターの前田亜土とも親交があった劇作家の高取英[11]は、「リテラ」のインタビューで森田について語っている[12]。高取によれば、森田自身は全共闘のピークの頃は高校生で全共闘世代より少し若く、東京教育大学(現:筑波大学)の大学闘争に関わっていたという話もあったが、セクトに入ったり高校全共闘として活動していたという話はなかったという[12]。また高取は、森田は前田と結婚していることも公表しておらず、周囲には話していなかったと述べている[12]。

森田がレコードデビューした直後の1976年から1977年に、高取が海潮社刊行の音楽雑誌『音楽全書』で森田について書いたことで、前田亜土と親交を持ち、森田とも親しくなる[11][12]。前田は高取が主催する月蝕歌劇団の公演も見に来ていた[11]。高取は森田のライブに通い、『森田童子全集III A BOY ボーイ』などのライナーノーツも執筆した[12]。また森田も高取の演劇公演に来るようになり、高取の代表作である『聖ミカエラ学園漂流記』についての評論文を書くなど、互いの音楽と演劇に批評文を寄せ合う関係となった[12]。高取の演劇『少年極光(オーロラ) 都市』の音楽を森田が制作したこともあり、高取が書いた詩に森田が曲を付ける形で3曲制作したが、森田は他人の歌詞に曲を付けるのは初めてだと言っていた、と高取は述べている[12]。しかしその高取でさえも森田のサングラスを外した素顔は見たことがないと言い、森田のカーリーヘアはウィッグではないかと述べている[12]。

1980年11月20日から11月24日にかけて、池袋の三越裏の空き地に500人収容の黒色テントを張り、コンサート「夜行」を開催した。東京都内の公園や国鉄用地などにテント劇場の設置許可を掛け合ったものの断られ、いったん許可が出た都立青山公園では許可が撤回されるなど紆余曲折を経て、池袋の三越裏で開催にこぎつけた。そのコンサート実現までを追ったドキュメンタリー番組『青春の日本列島〜森田童子 ラストワルツ〜』が東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された。番組中ではコンサートのポスターを店に貼ってもらおうと頼むスタッフが「フォークでしょ?うちの客層はそういうんじゃないから」と断られる様子や、会場に来た若い女性ファンが「(森田の音楽は)今の時代と違う、そこが好き」と語る様子などが映され、1980年代に入り「時代が変わった」ことが暗示される。森田は番組中で視聴者に向けて「あと何年か後には、東京にテントを張ることは不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていくさまを、私たちの歌が消えていくさまを、見てほしいと思います。今回のテント劇場は、私たちのコンサート活動の終末かもしれません。ひとつの終わりの時代に向けて、私たちの最後のせつない夢を、見てほしいと思います」と静かに語りかける。高取はこれを見て、森田の引退の理由について「出産や病気と言う人もいたがそうではなく、自分が言いたいことはもう言い尽くした、やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」と述べている[12]。

1983年に群雄者出版から刊行された『高取英戯曲集 聖ミカエラ学園漂流記』の出版記念パーティーには森田も出席したが、高取がその場でスピーチを頼んだところ、森田はうろたえて姿を消してしまったという[12]。その後まもなく、森田は活動を停止して表に出ることはなくなった。

2010年5月に掲載された朝日新聞の取材記事によれば「近しい人物の死去による精神的ショックと、自身の持病により活動が困難な状況」にあったという[1]。夫の前田亜土は2010年に没している[13]。

活動停止後のリバイバルヒット
1988年、初期アルバム4作『グッド・バイ』から『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』までが初CD化された。

1989年9月9日に公開された、学生運動と青春と恋の挫折をテーマにしたミニシアター系映画『グッドバイ』[14]に楽曲が使用され、映画での使用曲を集めたサウンドトラックCDも発売された。

一部ではカリスマ的な人気を博しつつも、森田のファンは全国的に見れば少数で[1]、森田本人がメジャー化を望んでいなかったこともあり[1]、その作品はマスコミなどに表立って紹介されることもなかった。

1993年1月、テレビドラマ『高校教師』の主題歌として、1976年発売のシングル「ぼくたちの失敗」が使われ、シングルCDは100万枚に迫る大ヒットとなった[2]。これに伴い、同年3月にベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がCDで発売された。続けて同年4月には、オリジナル・アルバム7枚(初CD化3枚を含む)がCDで再発売され、活動当時を知らない若い世代を含めて新たに多くのファンを獲得した。同年11月には、映画版『高校教師』の主題歌として「たとえばぼくが死んだら」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)が使われ、シングルカットされて発売された。

このドラマの脚本を書いた野島伸司は、高校時代に同級生に誘われてライブハウスで歌う森田を知り、強い印象を受けたという[15]。野島はプロデューサーの伊藤一尋とともに森田の楽曲の採用を決定した[16]。しかしこのリバイバルブームに対し、森田本人はマスコミの取材には応じず沈黙を守った[2]。

2003年1月、10年ぶりにドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。これに伴い発売された2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に、「海が死んでもいいョって鳴いている」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)の歌詞を一部変更し、新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録され、それが最後の作品となった。「ひとり遊び」は森田の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された[17]。

2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』で「ラスト・ワルツ」が挿入歌として使用された。

『高校教師』のリバイバルヒットで再発されたCDアルバムも、その後廃盤になり長らく入手困難な状況が続いていたが、2016年7月20日に23年ぶりにCDが再発売された。オリジナルアルバム7作、ベストアルバム2作(うち『友への手紙 森田童子自選集』は初CD化)の計9タイトルが発売。小澤賢太郎(音楽出版ジュンアンドケイ)の企画・監修で、レーベルはユニバーサルミュージック/USMジャパン。オリジナルマスターテープからデジタルリマスタリングされたSHM-CD仕様となっている[18]。

2018年10月31日には「追悼 森田童子 紙ジャケットシリーズ」として、2016年版リマスター音源9タイトルが、LPジャケットをミニチュア再現した紙ジャケット仕様の限定盤として再発売された[19]。

森田の楽曲は、様々なアーティストによってカバーされている。リバイバルヒットで代表曲となった「ぼくたちの失敗」は、YMCK、cheeなどによるカバーがあり、mondialitoによるフランス語カバー曲(曲名は「notre echec」)も存在する。「たとえばぼくが死んだら」はeastern youth、山中さわお、中村中によってカバーされている。変わったところではJOJO広重(非常階段)の「スラップ・ハッピー・ハンフリー」によるノイズ系カバーなどもあり、幅広いジャンルのミュージシャンにカバーされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/644.html#c2

[近代史5] 山へ行こう 中川隆
24. 2021年12月10日 20:14:22 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[49]

【ゆっくり解説】新潟親子遭難事故




【ゆっくり解説】今回は2018年に起きた新潟親子遭難事故をお届けします。

父親と6歳の子供が「ハイキングに行ってくる」と言い残し山へ出かけた。しかし、家族に登ると伝えていた山と、実際に登った山は違う山だった…。6歳の子供と登るには難しい山に、軽装で登る親子…。多くの不可解な出来事が起こった事故です。

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/422.html#c24
[番外地6] 山の危険 _ 迷っているときは沢に下りてはいけません(絶対に!) 中川隆
61. 中川隆[-14624] koaQ7Jey 2021年12月10日 20:15:13 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[50]

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父親と6歳の子供が「ハイキングに行ってくる」と言い残し山へ出かけた。しかし、家族に登ると伝えていた山と、実際に登った山は違う山だった…。6歳の子供と登るには難しい山に、軽装で登る親子…。多くの不可解な出来事が起こった事故です。

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