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森田童子
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/644.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 12 月 08 日 11:11:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本のミュージシャン 投稿者 中川隆 日時 2021 年 12 月 06 日 16:40:09)

森田童子


最美の音楽は何か? _ 森田童子『ラストワルツ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/589.html

森田童子 ぼくたちの失敗
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1022.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html

森田童子の世界(全曲のコメント)
https://11146484morita.blog.fc2.com/

昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 真田広之・桜井幸子 高校教师 (TBS 1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1000.html

野島伸司 脚本のドラマ『高校教師』が再放送できない理由をゆっくり解説 - YouTube動画
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/354.html  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-14694] koaQ7Jey 2021年12月08日 11:14:20 : SJtHPiXsUc : Sm45S0QzRkFPMFE=[49] 報告
森田童子の世界(全曲のコメント)
https://11146484morita.blog.fc2.com/

森田童子の曲についてコメントしていきます。

2020/08/10
森田童子のアルバム
オリジナルアルバム
1.グッドバイ
2.マザースカイ
3.ア・ボーイ
4.ラスト・ワルツ
5.夜想曲
6.狼少年

ライブアルバム
1.東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤

ベスト
1.森田童子自選集「友への手紙」
2.ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション

オリジナルアルバム6枚、ライブアルバム1枚、ベストアルバム2枚 計9枚のアルバムを発表している。
活動期間は22歳から30歳までの約8年。
作詞・作曲能力はもちろん、稀有な歌声はファンを魅了した。
そういう森田童子に魅かれる人へ、「聴くべき順番」を参考に書く。

1.東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤
  まずは、何といってもこれ。最初に聞くべきアルバムだ。
  ライブなので、森田の魅力がすぐそこにある。
  森田の歌声が素晴らしい。語りもいい。
  もちろん選曲も良い。
  加えて、弦楽四重奏とコーラスが見事。
  教会の録音のせいか、音も素晴らしい。

2.グッドバイ
  森田のデビューアルバム。2番目はこれ。
  この1枚だけでも森田の魅力が十分溢れている。
  どの曲もいい。名曲がそろっている。
  森田童子ってどんな人?と思ったら、この1枚。

3.マザースカイ
  森田を有名にした「ぼくたちの失敗」が入っている。
  この頃の森田は湧き出る泉のように名曲を作っていた感がある。
  3番目はこれ。

4.狼少年
  森田最後のアルバム。
  そのせいか、森田も力を入れて作ったような感がある。
  最後に森田はどんなアルバムを作ったか、4番目はこれ。

5.ラストワルツ
  森田の様々の才能がわかる。「みんな夢でありました」「ラストワルツ」
  といった曲は、森田でないと書けないと思う。

6.夜想曲、ア・ボーイ
  この2枚は森田の様々な面を知りたい状況になってからでも遅くない。
  多くの才能があったことを知ることができる。

7.自選集、ベストコレクション
  この2枚は一番最後で良いと思う。

2020/08/10
ひとり遊び
アルバムは森田のベスト盤。
ただ、おそらくは森田の意向はあまり入っていないと推測される。
ファンが望む曲を並べ、既に発表済の「自選集」とは曲が重ならぬように配慮した感がある。

このベスト盤の最後の1曲が「ひとり遊び」だ。
森田が活動停止してから20年後の、森田50歳の歌声だ。
ピアノ、ギター、ハーモニカも森田である。

「海が死んでもいいヨって鳴いている」の歌詞を一部変え、題名も「ひとり遊び」に変えている。

ただ、歌詞の変更はごく一部である。

・2番と3番を逆にしている。
・4番は「海が死んでもいいヨって鳴いてます」を
    「海が僕と死んでもいいヨって鳴いてます」にしている。

どうだろうか?まず歌詞だが、
2番と3番の交換は、意図してやったことだろうか?
4番の歌詞に「僕と」を入れる意味はあったのだろうか?
おそらくは、
「できるかわからないけど、とりあえず遊びのようにやってみる」
として録音したのではないか?
(ここで題名を「ひとり遊び」と思いついたのではないか?)

あまり書きたくないことを書く。

森田も残念ながら年をとってしまったのだ。
ずっと音楽活動をしなかったであろうから、
声も50歳の声になってしまったのだ。
自分の曲とはいえ、20年以上前に作った曲だ。
同じに歌えというのは無理がある。
20年間、おそらく曲づくりも停止していたであろうから、
おそらくこの曲1曲、不完全なままでしか録音できなかったのだ。
録りなおす気にもなれなかったと推測される。

森田に音楽活動再開を期待していた音楽関係者も
「これ以上は勧めてはいけない」と、この1曲で判断できたであろう。

人は年老いて、そしていつか死ぬ。
キラキラ輝いている期間はほんのわずかだ。
悲しいがそれが現実だ。

それでも言いたい。

「ひとり遊び」は50歳の森田童子がピアノを弾き、ギターを弾き、ハーモニカまで吹いて
そして50歳の等身大の自分で歌ったのだ。
森田はファンに最後、ひとつだけプレゼントしてくれたのだ。
これ以上、欲張ってはいけない。
むしろ、歌うこともなかなかできない状況で、録音に挑戦してくれたことに
感謝したい。

森田童子さん、ありがとう。
私がいつか、あちらの世界に行ったら、
また歌ってくださいね。


2020/08/10
ぼくたちの失敗 森田童子ベストセレクション(2003年3月5日発売)森田50歳
森田童子が音楽活動を停止後、1993年1月(森田40歳)に、テレビドラマ「高校教師」の主題歌として、
森田の「ぼくたちの失敗」が使われ、シングルCDは100万枚を超える大ヒットとなった。

最初は大物若手のデビューと勘違いする人もいたが、既に活動停止して10年になる森田の曲だった。
当然、マスコミは黙っていなかったが、森田はあくまでも沈黙を守った。

ところが、それから更に10年後の2003年1月(森田50歳)に、ドラマ「高校教師」の新作が放送され、
主題歌は再び「ぼくたちの失敗」が使用された。

森田が活動停止してから20年が経過していた。

ここからは想像だ。

音楽関係者の中には、森田に再度「歌うこと」を熱心に勧める人も当然いた。
森田はずっと拒み続けていたが、中には仕事だからではなく、
どうしても世の中に再度、50歳になった森田の音楽を聴かせたいと願う音楽関係者もいた。
その人の熱意に折れ、森田は1曲だけ歌ってみようという気持ちになった。
音楽関係者も、新曲ではなくとも、1曲だけでも森田に新たに歌ってもらえれば、
それが呼び水となって音楽活動再開も期待できると考えた。

歌う1曲を何にするのか?録音はどこで、どのように?いずれも森田に任せた。
森田は自分の曲「海が死んでもいいヨって鳴いている」の歌詞を一部変更して、
「ひとり遊び」というタイトルで、自宅にてピアノ、ギターを自ら弾き、ハーモニカも吹いて
歌った。20年ぶりの森田童子の演奏・歌声は、2003年に発売された森田のベスト盤
「ぼくたちの失敗 森田童子ベストセレクション」の最後に収録された。

私は「ひとり遊び」1曲のためにアルバムCD1枚購入する気にはなれなかった。
しかし、森田のオリジナルアルバムを全部入手して聴いていくと、「ひとり遊び」が
聴きたくて結局購入した。


2020/08/10
狼少年・ウルフボーイ
ラストの8曲目は「狼少年・ウルフボーイ」である。

聴いた瞬間、あれ?「地平線」じゃないか?と思った。
ただ、4番の歌詞が入れ替えされて
「狼に育てられたぼくは涙も 笑うことも知りません」として歌っている。

森田はどんな意図で8曲目にこの曲を入れたのか?

まずはこれで音楽活動を辞めようと決心していた。
最後の曲は、これまでの曲の中から1曲、「地平線」を選んで
歌うことにしたのではないか?
「地平線」は、ライブ「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」でも
オープニングを飾る素晴らしい出来栄えだったこともあり、
「地平線」で決まった。

しかし、ここでひとつ問題があった。
前アルバム「夜想曲」も、
最後にその前のアルバムでも収録した「ラストワルツ」を再度入れて、
おそらくあまり評判が良くなかったのではないか?

今回もそういうことが起きないようにひと工夫が必要だった。
そこで、歌詞の一部を入れ替え、タイトルも「地平線」でなく、
「狼少年・ウルフボーイ」にしたのではないか?


2020/08/10
憂鬱デス
7曲目は「憂鬱デス」だ。

気のせいか、6曲目にメドレーで続く歌のような感じがする。

間奏の森田の語りがいい。
「ひとりさくさくと柿を食らう」がいい。

6枚目のアルバムは、ここまで、ほぼ森田の思惑どおりに進み、
また、石川鷹彦との息も合い、上々の出来だったと思う。

2020/08/10
ぼくのせいですか
6曲目は「ぼくのせいですか」だ。

なんだかせつない歌だ。
短い歌だが、「去年の夏にあなたが海で死んだ」ときて、
それが「ぼくのせいですか?」「海のせいですか?」と問うている。

森田の実体験だとすると、これは森田が歌い始めたきっかけかもしれない。


2020/08/10
球根栽培の唄(ときわ荘にて録音)
5曲目は「球根栽培の唄」だ。

曲は森田得意のパターンに思う。もちろん悪くない。
「ガリ版刷り」「アジビラ」「赤ヘルメット」などという言葉は、
今の若い人には何のことかわからないだろう。

「ときわ荘」というのは、当時、森田が住んでいた阿佐ヶ谷のアパートの名前のようだ。
マンガ家が住んでいたアパートとは異なる。(笑)

なぜ、わざわざ「ときわ荘にて録音」と入れたのか?
音が悪いから?そんなことはない。スタジオ録音と思うような音だ。
あ、いや、まてよ?
エンディングで変な笛の音がするぞ?
体育の先生が吹く、首から下げた笛。あの笛の音が何度か聞こえてくる。
「ときわ荘」の外で誰かが吹いていた笛の音が入ってしまったのだ。
だからもう一度録音しなおしも考えたが、
聴いてみると不自然ではないので、そのままにした。
でも、一応(ときわ荘にて録音)と入れたのではないか?

この曲も間奏で森田が語る内容が今ひとつわからない。
「ぼくはどこまでも ぼくであろうとし ぼくがぼくで ぼくであろうとし」

2020/08/10
151680時間の夢
4曲目は「151680時間の夢」だ。

まず、「151680時間」って、どこから来ているのだ?と思った。
もしかして?と思ったのは、
森田が思春期を迎え、創作を初めてからの期間を言っているのではないか?ということ。
森田の思春期が12歳として、今回のアルバム発売が30歳。
それまで18年間となる。
1日24時間として、
24時間×365日×18年=157,680時間だ。近い。
森田は理系が得意だったのではないか?

前置きが長くなったが、ちょっと不思議な歌だ。
エンディングで語る森田の話もちょっとよくわからない。

ただ、この曲で、自分の思春期以降の期間を「ぼくの夢」として
「もうやりなおせないほど いつの間にか ぼくは
夢の中で 生きてしまったのです」と振り返っているような気がする。

2020/08/10
ぼくは流星になる
3曲目が「ぼくは流星になる」だ。

これはいい。
何しろ「キーラキーラキーラララ」で始まる。
森田、一生懸命歌っている姿が見えるようだ。
曲もいいが、歌詞もいい。

満員電車の中で ぼくは左耳をおさえて
去年の夏の海鳴りを聞いてる

これが詩人森田だ。

2020/08/10
ぼくを見つけてくれないかなァ
2曲目は「ぼくを見つけてくれないかなァ」だ。

素敵なタイトルだ。
しかも3番の最後は「君がぼくを見つけてくれないかなァ」と言う。
とてもシンプルでいい曲だ。
素直に今の気持ちを歌う森田の心が感じられる。
いい。


愛情練習(ロシアン・ルーレット)
1曲目は「愛情練習(ロシアン・ルーレット)」である。
石川鷹彦の編曲が見事で、おしゃれな曲調に仕上がっている。

森田の「ステップ」の歌声が舌足らずな感じでかわいらしい。
森田の素顔を知る人は身内のごくわずかな人たちだったようだが、
このような歌声を聴く限りでは、美人だったと思う。

森田は作詞の才能はもちろんだが、作曲のセンスも優れていたことが
この曲を聴いただけでもわかる。
どんな曲でも書けた。

それにしてもだ。「愛情練習」ってすごいタイトルだ。

2020/08/10
「狼少年wolf boy」6枚目のアルバム(1983年11月30日発売)森田30歳
森田のオリジナルアルバム6枚目「狼少年wolf boy」は、森田の最後のオリジナルアルバムとなる。
この後、森田は音楽活動を辞め、表舞台から姿を消す。

編曲は全曲石川鷹彦である。
森田はおそらくこのアルバムを最後に音楽活動を辞める決心をしていたのだろう。
最後は一番相性の良かった石川鷹彦に全曲の編曲をお願いしようと思ったのではないか?
最後は気持ちよく終わりたかったのではないか?

22歳でデビューした森田も30歳になっていた。
区切りとしても良いと考えたのではないか?

私生活はほとんどわからないままだが、
イラストレーターでもあり、マネージャーだった人と結婚したようである。
しかしその夫も2010年に没しているとWikipediaには書かれている。
それから8年後の2018年4月24日に森田も亡くなる。

2020/08/10
ラストワルツ
9曲目は「ラストワルツ」である。

よくわからない。森田はどういう意向でこの曲を最後に入れたのか?
前作アルバム「ラストワルツ」の最後の曲も「ラストワルツ」だったではないか?
どこが違う?
前作では、最後に古いラジオから流れるような雑音の入ったラストワルツが続く。
今回はそれをカットした少し短いバージョンである。

うーん。わからない。
そこまでして再度、最後に入れないといけなかったのか?
曲の出来が良いのはわかるが、何故なんだ?

森田が8曲目の「哀悼夜曲」でアルバムを終わらせたくなかったのか?
8曲だと曲が少ないということになり、もう1曲となったが、
森田の手持ちにその1曲が無かった?いや、そんなことはないだろう。
未発表の作品はたくさんあったはずだ。
前作に入れていた曲を再度入れなくても良かったではないか?
ファンとしては、森田の別の曲を聴きたかった。
少し残念に思う。
森田に何かあったのか?と心配になる。

2020/08/09
哀悼夜曲
8曲目は「哀悼夜曲」だ。

これも宗教音楽だろう。
森田でないと書けない曲だ。

ちょっとついていけない感じになってきた。


2020/08/09
孤立無援の唄
7曲目は「孤立無援の唄」だ。

このけだるさは何だ。
高橋和巳って誰だ?
小説家で、「孤立無援の思想」という著書がある。
この本をヒントにして書いたのか?

それにしても「プロレス」とか「でんぐり返って地獄固めだね」などと
森田が使う言葉とは縁遠い歌詞が出てくる。


2020/08/09
船がくるぞ
6曲目は「船がくるぞ」だ。

個人的にこの曲が好きだ。
最後の「クロール クロール」がとても良い。

間奏で森田が語る。
「まるで夏休みの臨海学校の新しいシーツをかぶった時みたいだ」
うーん。わからないなあ。

2020/08/09
サナトリウム
5曲目は「サナトリウム」だ。

いきなり「漱石の本」と来る。本来の森田の世界だ。
曲の最後に森田の語りが入る。

「もうすぐ ぼくの左の肺の中に 真赤な花が咲くはずです」

森田だ。


2020/08/09
麗子像
4曲目は「麗子像」だ。

何だかようやく本来の森田の歌を聴くようで少しホッとする。
歌詞に「ショパンのワルツを踊ります」とある。
この歌詞とこの曲からヒントを得て「夜想曲」というアルバムタイトルを
つけたのではないか?

この曲は日本ではない国の歌のようだ。
「四頭引きの馬車が走ります」なんて日本じゃない。
森田の頭の中にある風景なのだろう。

2020/08/09
ぼくは16角形
3曲目は「ぼくは16角形」

さっぱりわからない題名だ。
しかも歌詞も何だかわからない。

2020/08/09
淋しい猫
2曲目が「淋しい猫」

力を抜いて、サラっと歌っている。
そういう曲なのだろうが、どうすればこのような曲を書けるのか?

森田が手の届かない所へ行ってしまいそうな感じだ。


2020/08/09
蒸留反応
1曲目が「蒸留反応」だ。

そもそもどうやったらこのような題名を思いつくのか?
普通は絶対に思いつかないのではないか?

サビの「雪よ降れ んーん」のメロディーが良い。

2020/08/09
夜想曲 5枚目のアルバム(1982年11月20日発売)森田29歳
5枚目のアルバムが「夜想曲」である。

ノクターンを訳したのが「夜想曲(やそうきょく)」。夜の情緒を表す、抒情的な楽曲・・・ということか?
4枚目のアルバム「ラスト・ワルツ」の流れはあるが、少し違う方向も感じる。
森田も間もなく30歳。いろいろな変化もあったことだろう。

2020/08/09
友への手紙 森田童子自選集(1981年9月発売)28歳
森田自身が自分の曲から選んだアルバムだ。
よって、ベスト盤というわけでもない。

しかし、最初から通して聴くと、何となくわかってくる。
このアルバムは、森田のリアルな実体験を曲にしたものを選んだのではないか?

「さよならぼくのともだち」「赤いダウンパーカーぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「早春にて」
は、強い影響を受けた友人のことを歌っている。

「菜の花あかり」「まぶしい夏」「逆光線」「蒼き夜は」
は、死の影が漂う。

ラストの4曲はライブアルバムからの選曲だ。
私がライブアルバムから選曲するとすれば、
「風さわぐ原地の中に」ではなく、「センチメンタル通り」とか
「地平線」だと思うのだが、おそらくこの2曲は森田のリアルな実体験とは
少し違うのではなかったか?

2020/08/09
ラストワルツ
8曲目が「ラストワルツ」このアルバム最後の曲である。

名曲である。森田のアルバムの最後に入れる曲は傑作だ。
1枚目のアルバムのラストは「さよならぼくのともだち」
2枚目が「今日は奇蹟の朝です」
3枚目が「G線上にひとり」
(3枚目のラストは「組曲のために第3番「友への手紙」だが、これは詞の朗読なので外す)
そして
4枚目が「ラストワルツ」
いずれも名曲である。

一体、どうすればこのような詞を書けるのか?
森田はもっと曲を書くべきだった。
自分で歌わないまでも他人に提供することはできなかったのか?
森田は拒んだのだろう。そんなことはできないと。
きっとそうだ。


2020/08/09
たとえばぼくが死んだら
7曲目は「たとえばぼくが死んだら」である。

ちょっと怖い題名だが、佳作である。
前奏もギターで短く、すぐに歌に入るところが良い。

短い歌詞で4番まである。
とにかく森田はあまり長い歌詞を書かない。
ところが曲を聴くと短いと感じない。
不思議な感覚である。

2020/08/09
きれいに咲いた
6曲目が「きれいに咲いた」である。

歌詞が私にはよくわからない。
森田の曲にはそういう詞が時々ある。

しかも間奏の森田の語りがまた難しい。

「幻燈会」などという言葉を使う。
チャップリンのかなり古い映画にこの題名の作品があるという。

この曲だけ、このアルバムではちょっと異質である。

2020/08/09
みんな夢でありました
5曲目は「みんな夢でありました」である。

学生運動を曲にする試みは、何人かのアーティストが挑戦している。
しかし、森田のこの曲こそ本当の学生運動の姿を歌っているように思う。

あんなに燃え上がっていた学生運動を振り返り、
「みんな夢でありました」と言ってしまう。
かなり勇気のいる表現だったのではないか?

歌詞も曲もいいが、森田の歌声が抜群に良い。
これが男性ボーカルとか、普通に歌が上手い人の声だと
こうはいかなかっただろう。
何回聴いても「いい」と思う。

2020/08/09
グリーン大佐答えて下さい
4曲目は「グリーン大佐答えて下さい」だ。

そもそもグリーン大佐って誰なんだ?
調べてみると、どうやらスタートレックに登場し、
21世紀に地球全滅を計画した人物のようだ。

しかし、森田に直接聞いたわけではないので
正確にはわからない。
しかし、そういうような(地球全滅を考えるような)人を
森田は「グリーン大佐」としたのではないか?

この曲も宗教めいたものを感じる。

エンディングで原子爆弾でも爆発したかのような
音が聞こえる。

2020/08/09
海が死んでもいいヨって鳴いている
3曲目は「海が死んでもいいヨって鳴いている」だ。

やっぱり4枚目のアルバムは本来の森田に戻っている。
この曲なんかも本来の森田だ。

孤独を感じながらも必死に前を向いて
どうにかなりそうだけれども懸命に生きていこうとしている
そんな歌のように思う。

暗い歌ではないと私は思う。


2020/08/09
菜の花あかり
2曲目は「菜の花あかり」である。

こういう曲を森田はおそらくササっと書くような気がする。
ウーンなどと唸ったりはしない。
サラサラと書いていくように思う。

そして美しい光景が目に見えるように歌い上げる。
こういうのを才能と言うんだろう。


2020/08/09
赤いダウンパーカーぼくのともだち
1曲目は「赤いダウンパーカーぼくのともだち」だ。

ここで言う「赤いダウンパーカー」は、おそらくジェームズディーンが
映画「理由なき反抗」で着ていたものを言っているのではないか?

ジェームズディーンといえば、「エデンの東」が有名だが、
私は「理由なき反抗」のジェームズディーンが好きだ。
彼の本来の性格がそのまま出ているように感じるからだ。

映画「理由なき反抗」で印象的だったのは
ジェームズディーンが着ていた赤いダウンパーカーで、
森田はおそらくそこからこの題名を考えたのではないか?

この曲は「さよならぼくのともだち」の兄弟のような曲だ。
間奏で「さよならぼくのともだち」の歌詞を一部語っていることからも、
間違いないと思う。出来もなかなかのものだ。

最後の歌詞に「何もなかった ぼくたちの終わりに」という表現に唸ったし、
続く「君と冷たい牛乳飲んで 声を出さずに笑った」にもまいった。
君との最後に飲んだのは「酒」ではなく「冷たい牛乳」だったのだ。
そして「声を出さずに笑った」のだ。
何ともすごい表現だと私は思う。


2020/08/09
ラストワルツ 4枚目のアルバム(1980年11月20日発売)森田27歳
オリジナル4枚目のアルバム(ライブ盤を除いて4枚目)

このアルバムからそれまでのポリドール・レコードではなく、
ワーナー・パイオニアとなる。

3枚目のアルバムが、どこか違う感があったが、
この4枚目のアルバムで軌道修正されたみたいで、
元の森田に戻った感があると思うのは私だけだろうか?

22歳でデビューした森田も27歳となった。

2020/08/09
風さわぐ原地の中に
10曲目はアンコールで「風さわぐ原地の中に」だ。

まず、この曲も「友よ泣かないのか」と同じで、他のアルバムに入っていない。
森田には珍しく、激しい曲だ。アンコールにふさわしいと考えたのではないか?

歌い出しの「風」が聞こえない。「・・・さわぐ!」と聞こえる。
でもかまわないのだ。

「原地(はらち)」って、あまり使わない言葉だけど、そういう言葉を森田は使う。

前奏で森田ではないギタリストのリードギターの間に、おそらくそのギタリストが
「イェー」と言うところがあるが、
どうも気になる。「イェー」と言ってほしくなかった。
森田のコンサートに「イェー」はふさわしくないように感じる。
私だけだろうか?小さなことだけど。

2020/08/09
さよならぼくのともだち
9曲目が「さよならぼくのともだち」だ。

当時の森田は、コンサートのラストでこの曲を歌うことが多かったようだ。
それにしても歌う前の森田の語りはどうだ!

「君と僕は同じ一線で結ばれた、友達というやさしい放浪者だった。
君と二人して、夜明けの町の荒々しい空気に酔いしれて二人は彷徨った。」

ここまでも良いが続きも良い。

「いつか、君と僕は同じ一線で結ばれた、友達というやさしい放浪者だった。
さよなら、ぼくの友達」

2020/08/09
センチメンタル通り
8曲目は「センチメンタル通り」である。

歌う前に森田は3年前にライブハウスで歌い始めたことを語る。
3年前といえば森田が22歳の時だ。
ライブハウスで歌い始めてから、わずか3年でこのようなライブができた。
やはり森田は只者ではないと思う。

「センチメンタル通り」も私のお気に入りだ。
というか、この曲も初めて聴いてからしばらくの間、
私の頭の中で鳴りやまなかった。

2020/08/09
海を見たいと思った
7曲目は「海を見たいと思った」である。

森田は夜汽車が好きだったようだ。
それにしてもどうだ。
このライブを聴いていると会場は「森田童子ワールド」になっている。

あまりの森田ワールドの素晴らしさのせいか、
強い拍手が邪魔に聞こえるのは私だけだろうか?

2020/08/09
友よ泣かないのか
6曲目は「友よ泣かないのか」である。

この曲は、他のアルバムに収録されておらず、このライブ盤にだけ収録されている。
曲を始める前に、森田は「友人の土門とその彼女モンちゃん」の話をする。
二人は阿佐ヶ谷のアパートに住んでいるということで、
当時、高円寺に住んでいた私は、森田に親近感を覚えた。

私も数年前に「友よ」という曲を作ったが、
森田の詞を読んでいると、その差に愕然とする。

2020/08/09
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
5曲目は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だ。

森田がラジオで「東京のはとバスに乗ったことがあって・・・」といった話をしていたと
記憶しているが、「はとバス」をヒントにして作った曲なのだろうか?

ところで、
「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」という題名で曲を書け、と言われたら、
このような曲を書けるだろうか?
とても無理である。
森田の才能を感じる1曲である。

2020/08/09
雨のクロール
4曲目は「雨のクロール」だ。

私が完全に森田童子のファンになったのは、おそらくこの「雨のクロール」を聴いてからだろう。
何て美しくもはかない名曲なんだろうと思った。
このライブでは、女性コーラスがこの名曲を更に盛り上げている。
初めて聴いた時から、毎日のように頭の中で「雨のクロール」が鳴り響いていた。

2020/08/09
君は変わっちゃったネ
3曲目は「君は変わっちゃったネ」だ。

曲の前に、親しかった「松本さん」という先輩の話をする。
3曲目の「君は変わっちゃったネ」にスムーズに続くような話で味わい深い。

よくあるテーマだが、森田の手にかかると傑作に仕上げられる。
そんな見事な出来栄えである。

間奏に森田が言う。
「あの頃、井の頭線の線路沿いのアパートに、君と暮らし始めた。
何もない無力なぼくは、ただ君を愛すことしか知らなかった」

クー!いいね。
井の頭線には通学で毎日乗っていたので、リアルだった。
彼女がいない私にはうらやましくもあり、別世界のこととしか思えなかった。
私より5歳しか年上ではない森田が、10歳以上年上に感じた。


2020/08/09
逆光線
2曲目は「逆光線」である。

1曲目が終わると、森田は「今日のコンサートの弦楽四重奏は武蔵野音大の友達です。」
と紹介する。それに呼応するように弦楽四重奏が奏でられ、2曲目の「逆光線」を
森田が歌い始める。

勝手な想像だが、1曲目を「地平線」にすることはすんなり決まったのではないか?
続いての2曲目を何にするか?
「地平線」に続く曲・・・と繰り返しているうちに、同じ「線」つながりの「逆光線」はどうだろう?
と、遊び心から、「それじゃあやってみましょうか?」となって、
武蔵野音大の友達の紹介から、弦楽四重奏の呼応、「逆光線」を歌い出すアイディアが
生まれたのではないか?
(もちろん、すべて想像である。)
とにかく1曲目〜2曲目までは最高のすべり出しである。

私はこのアルバムから森田を聴き始めたので、「逆光線」の歌詞は少々ショッキングだった。
森田が「只者ではない」ことを実感していた。

2020/08/09
地平線
1曲目は「地平線」である。

いきなり教会の鐘の音が聞こえ、続いて雷鳴がして海猫が鳴いている。
再度雷鳴がして、静かに森田が歌い始める。素晴らしい。

重なり合って女性コーラスがずっと続き、弦楽四重奏と共に
曲を美しく盛り上げる。

間奏で森田が言う。
「ぬけるように青い六月の空は、限りないぼくたちの失敗の空です。」
なんて素敵なんだろうと、聴き入ってしまう。
もし、その会場にいたら、泣いていたかもしれない。

2020/08/09
東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978年11月1日発売)森田25歳
森田童子唯一のライブ盤「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」である。

1枚目と2枚目のアルバムからの選曲に、
「友よ泣かないのか」「風さわぐ原地の中に」の2曲を加えた10曲の構成である。

まずは、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で歌ったことが特筆される。
こういう会場は、フォークソングのコンサートには貸出しない傾向にあるのだが、
森田の場合、バックの演奏に弦楽四重奏が入ったり、美しいコーラスが入る。
そういう面を前面に出して使用許可をもらったらしい。

次に選曲だが、当時の森田の曲で評判の良かった選曲と言っていい。
バックの演奏・コーラスもしっかりしているだけでなく、
森田の歌声が実に素晴らしい。魅力あふれるライブが楽しめる。
大聖堂のせいか、音も良く、ライブであるが、ベスト盤といってもいい。
また、曲間の森田のモノローグも味わい深いものがあり、聴き飽きることなく、
あっという間にコンサートが終了する。

私が森田のレコードを最初に買ったのが、シングル「さよならぼくのともだち」。
次にアルバムが欲しくなって、迷った末、このライブ盤を購入した。
森田入門編にはピッタリのアルバムだった。うれしかった。
(当時はインターネットも無く、よって、You tubeも無い時代だった。)


2020/08/08
終曲のために第3楽章「友への手紙」
9曲目は「終曲のために第3楽章「友への手紙」」だ。

とはいえ、これは演奏だけで森田は歌わない。
だから物足りない・・・が、森田が作った詞の朗読がある。

うーん。この詞の良さが、私には今ひとつよくわからない。
「さよなら ぼくを愛さなかった友達よ」とは?

「さよなら ぼくのともだち」との関係は?

やっぱりこの3枚目のアルバムは「何か違う」感が漂っている。

2020/08/08
G線上にひとり
8曲目は「G線上にひとり」である。

まずは「G線上」って何なのだ?
バッハの「G線上のアリア」からきているらしい。
バイオリンの一番低い音がソ(G)で、このG線だけで
演奏できることから「G線上の・・・」と呼ばれているらしい。

その「G線上にひとり」ということは何を意味しているんだろう?
・・・・わからない・・・・しかしそれがどうした。

名曲である。

心地よいメロディー、森田の魅力的な歌声。
素晴らしいのは「あくびして涙ふいた」の「あくびして」を
本当にあくびしながら歌っているように聞こえることだ。
しかも、本当にあくびして歌ったら、きっと「ダメ、もう一度」と
なっていただろうが、そのギリギリの線で歌っている。
森田の歌声は天才的なものを感じる。

2020/08/08
ぼくが君の思い出になってあげよう
7曲目は「ぼくが君の思い出になってあげよう」だ。

これは思いっきりプライベートソングのように思う。
出来は悪くない。(悪いわけがない)
ただ、あまりに素直すぎて何となく通り過ぎていく感じがする。

アルバムの中では、最後の少し前あたりに置くべき曲だ。

2020/08/08
淋しい素描
6曲目は「淋しい素描」だ。

「素描(そびょう)」は、いわゆる「デッサン」だ。
いきなり「浅き夢みし 人の世は」ときた。
まるで百人一首のようだ。

森田はどんな詞でも書けるような、そんな才能を感じる。

2020/08/08
セルロイドの少女
5曲目が「セルロイドの少女」だ。

この曲は森田の新たな挑戦と感じた。
何と!テーマは「サーカス」だ。

サーカスといえば、ビートルズの「ミスターカイトのために」を思い出すが、
こっちは17歳のミドリちゃんだ。

曲調、歌詞、歌い方も全部、これまでの森田ではない。
しかも題名が「セルロイドの少女」ときた。

歌の最後に「家族合わせ」という歌詞が来るが、
カルタの一種の遊びらしい。
森田は「家族合わせ」という言葉の響きからこの詞を書いたのだろうか?

サーカスの雰囲気が見事に出ている。
なかなかの曲だし、森田も気に入っていたのではないか?

森田のシングルは「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」ときて、
3枚目がこの「セルロイドの少女」なのだ。

おそらく、森田の意向でこの曲を3枚目のシングルにしたのではないか?
面白い曲で魅力はあるが、シングルで発売する曲ではないように思う。
でも、そういう挑戦をした(推測だが)森田がいいと思う。

ラジオか何かで、「この曲は1枚目のアルバムの時に一度録音してボツになり、
2枚目のアルバムでも候補だったがボツになって、三度目の正直で収録された」
と話していた。

1枚目と2枚目のアルバムでボツになった理由は明白だ。
アルバムのトーンに合わなかったのだ。

1〜2枚目のアルバム成功により、
3枚目は(おそらく)かなり自由に作れたのではないか?
だからある程度の実験も可能だった。挑戦も可能だった。
「セルロイドの少女」はこうして世に出せた(と思う)。

2020/08/08
ぼくを見かけませんでしたか
4曲目は「ぼくを見かけませんでしたか」である。

間奏で森田が言う。
「ぼくは いまひとり 北上川にほとり 旅の途上にいる」
森田はコンサートで全国を回っていたのだろうか?

その旅の途中で書いた曲なのだろう。
割と素直な詞なので、わかりやすい。

しかし、最後の詞が森田らしい。

ゆきかう電車の窓越しに 真新しいセビロの ぼくを見かけませんでしたか

うーん。森田の世界に引きずり込まれた。

2020/08/08
ふるえているネ
3曲目は「ふるえているネ」である。

何と短い詞なのだろう。
これで1曲にするという発想が森田にはあった。
私には無い。(そりゃそうだ)

たぶん私小説的な内容なのだろう。
よって、なかなか入り込めない世界である。

やっぱりエンディングの演奏は長い。


2020/08/08
君と淋しい風になる
2曲目は「君と淋しい風になる」である。

編曲がいいなと思ったら石川鷹彦だった。

それにしてもやはり森田の歌声は素晴らしい。
「形のない愛は・・・」からグッときて、
「いつかふたりは」の「ふたりは」が森田でないと歌えない魅力的な歌い方だ。


2020/08/08
蒼き夜は
1曲目は「蒼き夜は」である。

「蒼」は、「青」と違い、「草の青さ」「草が青く茂る様子」を言うのだそうだ。
アルバムジャケットの森田は夜の芝生の上にうつぶせ寝している。
1曲目のイメージからだったのだろうか?

それにしてもいきなり「春はまぼろし」という歌詞から始まって
森田の世界に引きずり込まれる。
森田の歌声がとてもいい。


2020/08/08
A BOY 3枚目のアルバム(1977年12月10日発売)森田24歳
森田童子3枚目のアルバムは「A BOY」である。

このアルバムだけ、私はいまだに「よくわからない」のである。
曲は悪くはない。森田の曲なのだから、悪いはずもない。
しかし、ほかのアルバムと比べてしまうと、どこか「何か違う」感がある。

森田唯一のライブ盤「東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」は、
1978年7月29日のライブである。
「A BOY」の発売は、1977年12月10日なのであるが、
この「A BOY」からは1曲もライブ盤に入っていない。
基本的に1枚目と2枚目のアルバムからの選曲である。
これは何を意味するのか?たまたまか?そんなことはないだろう。

森田は2枚のアルバムを出し、評判も良かったわけで、
3枚目のアルバムは何か新しい挑戦をしたかったのではないか?
前の2枚のアルバムとは少し違うものを創りたかったのではないか?

それが「どこか、何か違う」感を出しているような気がする。
「G線上にひとり」は間違いなく森田の傑作のひとつである。
「セルロイドの少女」は、これまで見せたことのなかった森田の新たな一面である。

個人的にどうしても気になるのが、曲のエンディングの演奏の長い曲があること。
「ふるえているネ」「淋しい素描」
「終曲のために 第3番「友への手紙」」は、演奏だけで、後半は手紙を読む。
これは編曲者のアイディアだったのか?森田の意向だったのか?
「ふるえているネ」「淋しい素描」は、エンディングの演奏が長すぎるように思う。

正直に言うなら、これらの曲のエンディングの演奏をもう少し短くして、
もう1曲、短くても「歌う森田」の曲を入れてほしかった。

ただ、全体を通して「孤独」を感じること。
アルバムタイトルが「A BOY」である。
少年の孤独な心をアルバム全体のトーンにしたかったのではないか?

森田は女性(だと思う)ので、少年の孤独な心を表現するという
新たな挑戦をしたのではなかったか?

謎である。

2020/08/02
今日は奇蹟の朝です
10曲目、ラストは「今日は奇蹟の朝です」だ。

これは素晴らしい。森田童子でないと書けない曲だ。
森田童子ワールド全開といった感じ。

これこそ森田がキリスト教信者と思われる理由のひとつだ。
そういう人でなければ書けないだろう。

まるで砂浜にいる森田が海に向かってひざまづいて祈っているようだ。

最後のフレーズが「いま聖母マリアが浮上する」で見事に歌い終わる。

アルバムのタイトル「マザー・スカイ」は、この曲から出て来たように思う。

2020/08/02
春爛漫
9曲目は「春爛漫」である。

ファーストアルバムも最後から2番目に「たんごの節句」が入っているが、
セカンドアルバムも最後から2番目に似たような曲調の「春爛漫」が入っている。
偶然か?いや、そんなことはないだろう。
おそらく、実験的な試みをしてみたかったのではないか?
自分はこういう曲も歌いたいんです・・・みたいな。

ただ、やっぱりちょっとどうかと思ってしまう。
もちろん一定のレベルは越えているが・・・。


2020/08/02
ニューヨークからの手紙
8曲目は「ニューヨークからの手紙」である。

森田はニューヨークへ行ったのだろう。
何となく違和感もあるが、そう理解しないと進まない気がする。
何もかも嫌になって、ニューヨークへ行き、「私を忘れてほしい」と、
そうして旅立ったのだろうか?

メロディーはとても良い。
ただ、森田の気持ちがなぜこのような詞を書かせたのか、わからない。


2020/08/02
男のくせに泣いてくれた
7曲目は「男のくせに泣いてくれた」である。

これは森田の実体験だそうで、高校生だった頃、自分の苦しみを先生に打ち明けたところ、
男の先生だったのに泣いてくれたそうで、感激したようだ。

ただ、そういう体験をこんなふうに曲にできるだろうか?
なかなかできるものではない。
しかもドラマ「高校教師」でも挿入歌として使われたほどの曲に仕上げている。
ドラマヒット時、森田は活動停止していたが、ドラマのヒットにより、シングルCDが発売された。
「ぼくたちの失敗」「男のくせに泣いてくれた」である。オリコン5位までになったそうだ。

2020/08/02
海を見たいと思った
6曲目は「海を見たいと思った」だ。

森田は「夜汽車」が好きだと何かで話していた。
そうだ。夜汽車が好きでない人に「暗い電燈」だとか、
「窓ガラスに もう若くはない ぼくの顔を見た」なんて書けない。

間奏で語る。
「飲めない酒を飲んだ 泣いてみようとしたが 泣けなかった」
クー!詩人だなあ。

2020/08/02
ピラビタール
5曲目は「ピラビタール」だ。

ピラビタールとは、鎮痛剤・鎮静剤の中に入っている
少しだけ気持ちよく眠くなる作用のある薬だそうだ。

こういうのを題名にするって、なかなかできない。
「悲しいときは頬をよせて 淋しい時は 胸を合わせて」
と言ってるけど、そうだったかな?と、考え込んでしまう。

2020/08/02
逆光線
4曲目は「逆光線」だ。
これは昔で言うところの「問題作」だろう。
今、発表していたら「放送禁止」扱いされていたかもしれない。

「安全カミソリがやさしく ぼくの手首を走る」
「静かに ぼくの命は ふきだして」

「手首を切る」ではなく、「手首を走る」として、
「ぼくの血液は ふきだして」ではなく、
「ぼくの命は ふきだして」としている。

しかも切るのは「安全カミソリ」である。「カッター」ではない。
こういうちょっとした表現の違いが、ギリギリ芸術作品にとどめている。

それでも「やさしく発狂する」のは怖い。


2020/08/02
伝書鳩
3曲目は「伝書鳩」だ。

子供が複数で「青い空」「白い雲」と歌っているようだ。
結構ピッタリはまっている。
アレンジャーを調べたら石川鷹彦だった。

「朝の街にぼくの カイキンシャツが飛ぶ」なんて書けない。
「母よぼくの 鳩を撃て」ってどういう意味なんだろう。

でもそんなことはどうでもいい。
気づいたらセカンドアルバムでも、完全に森田童子の世界に引き込まれていた。

2020/08/02
ぼくと観光バスに乗ってみませんか
2曲目は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だ。

この曲も森田自身、よくライブで歌っていたようだ。
しかし、「観光バス」に乗ってみませんか?というのが森田らしい。
「ぼくとドライブしてみませんか」ではないのだ。
しかも「トランジスターラジオ」まで出てくる。
あの「ドゥーユーワナダンス」を持ってくるのもいい。

そして、森田お得意の間奏のモノローグ。
「君も一度 気が向いたら たずねて下さい 雅兄」
「雅兄」って何だかわからなかった。
男か男の友人に出す手紙で、敬愛しているというような意味だそうだ。
森田はかなりの文学少女だったと推測される。
それと、「遊びにきて下さい」ではなく「たずねて下さい」なのだ。
ちょっとした違いだが、曲を格調高くしていると思う。

2020/08/02
ぼくたちの失敗
1曲目が「ぼくたちの失敗」だ。
森田の活動停止後の1993年、テレビドラマ「高校教師」の主題歌に使われ、大ヒットした。
テレビで「高校教師」の予告編を何気なく見ていたら、森田童子の曲だったので驚いた記憶がある。
このテレビドラマは大ヒットし、この主題歌を聞いて森田童子を知った若い人がたくさんいたと聞く。

何ともすごい題名だ。「ぼくたちの失敗」なのだ。普通、こんな題名をつけない。
マイナスのイメージが強すぎるからだ。でも、いいのだ。

1曲目に森田が持ってきただけあって、おそらく自信作だったと思う。ピアノもとてもいい。
ファーストシングルは「さよならぼくのともだち」だったが、
セカンドシングルには「ぼくたちの失敗」を持ってきている。

「君のやさしさに 埋もれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ」ときた。
こういうフレーズに人は弱い。「弱虫だったんだヨネ」と認めているのだ。
「だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう」にもやられた。
こんな詞は胸に迫ってくる。

チャーリーパーカーは、アメリカのジャズ アルトサックスの名プレーヤーだそうだが、
残念ながらジャズをあまり聴かない私にはよくわからない。失礼。
森田の彼氏はジャズが好きで、森田も影響を受けたのだろうか?

それにしても「電熱器」って何だかわからない若い人は多いのではないか?
しかもそれをストーブ代わりに使っていたなんて、イメージがつかないかもしれない。

しかし、それがどうした。そんなことはおかまいなしに、ドラマ「高校教師」の主題歌として、
大ヒットしたのだ。
このドラマの脚本家の推薦に、プロデューサーが応じて主題歌として採用されたらしい。

何かふわふわしてどこかに飛んでいきそうな歌い方がこの曲にマッチして絶妙である。
こういう歌い方は森田でないとなかなかできないだろう。

2020/08/02
マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=2枚目 1976年11月21日 森田23歳
森田童子 セカンドアルバムは、ファーストアルバム発売のぴったり1年後に発売された。

レコードジャケットがドキッとする。十字架が砕け散る写真なのだ。
森田の音楽には宗教(キリスト教)を感じさせるところがある。
しかし、宗教ドップリではないことは、このジャケット写真でわかると思う。

ファーストアルバムは素晴らしかったが、セカンドアルバムもなかなかのものだ。
この頃(森田23歳)は湧き出る泉のように名曲が出来上がっていたのではないか?

それにしてもジャケット写真は衝撃だった。

2020/07/31
さよならぼくのともだち
ラスト10曲目が「さよならぼくのともだち」だ。

森田童子の代表曲。
まだ22歳というのになんて大人びた詞を書くのだろうと驚く。
「行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると」
などという詞を書けるだろうか?

「仲間がパクられた日曜の朝 雨の中をゆがんで走る」
などという詞を若い女性が書けるだろうか?
男でも無理だ。

私はこの曲がずっと頭から離れなかった。


2020/07/31
にわか雨
9曲目は「にわか雨」。
(タイトルの「にわか」は難しい字を使っている。)

さりげない、目立たない曲である。
静かにひとりでいる時に聞くと良さそうなおとなしい曲だ。

しかし、メロディーはなかなかだ。

2020/07/31
たんごの節句
8曲目は「たんごの節句」。

正直に言えば、この曲はこのアルバムのトーンに少し合わないような気がする。
曲は悪くないし、歌声ももちろん良い。(特に最後の「たんごの節句!」がすごい。)
ただ、幼い姉と弟がいっしょにお風呂や川に入るというのが、
ちょっとだけこのアルバムのトーンに合わないと感じてしまう。
(ぜいたくだろうか?そうだ。きっとレベルの高いアルバムを聴いていると更に上を望んでしまうのだろう。)

2020/07/31
淋しい雲
7曲目は「淋しい雲」。

タイトルと曲がなかなか結びつかない。
それよりも驚くのは、アグネスチャンが歌っているように聞こえることだ。
この曲に限って言えば、歌い方が森田らしくない。
・・・といえば批判的に聞こえるかもしれないが、批判しているのではない。
もしろ、森田はこういう歌い方もできたのかと驚かされる。
ひと言で言えば「とてもかわいらしい声」なのだ。
森田はこの歌い方をこの1曲でやめたようだ。
自分の曲のイメージに合わないと判断したのだろうか?
少し残念だ。

ところで、「ミセス・カーマイケル」って誰なのかと思ったら、
昔の海外ドラマの「ルーシーショー」の「ルーシー」のことだそうだ。
そういう名前をさりげなく歌詞に入れるのが森田だ。


2020/07/31
センチメンタル通り
6曲目はセンチメンタル通り。

映画「ジャイアンツ」と言えば「ジェームズディーン」だと思っていたら「ロックハドソン」ときた。
やっぱり森田はただものではない。
そもそも題名が「センチメンタル通り」である。
この時代を見事に描いている。

「みんな夕方になると集まった」の次にまさか「映画館」が来るとは思わなかった。

森田は22歳だが、本物の大人だった。そう思う。そうでなければこんな詞書けない。

個人的に、ひとつ残念に思うのは、冒頭のオートバイの音だ。
この時代のこの曲に合うと思って入れた効果音と思うが、私は不要だったと思う。
5曲目までの雰囲気がちょっと壊されるような気がするからだ。
あくまでも個人的な感想だ。曲そのものの素晴らしさは変わることがない。

2020/07/31
地平線
5曲目は「地平線」。

一体、どうすればこのような歌詞が書けるのだろうか?
素晴らしいのひと言に尽きる。

この曲もライブアルバム(東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤)に入っており、
オープニングを飾っている。このライブアルバムでの「地平線」でもコーラスが良い。
コーラスを聴いているだけでも満足しそうな曲である。
しかもモノローグも良い。森田は詩人だ。


2020/07/31
雨のクロール
4曲目は「雨のクロール」。

美しい名曲である。
このアルバムの「雨のクロール」もいいが、
私は森田のライブアルバム(東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤)の「雨のクロール」が一番好きである。
前奏・間奏でのコーラスが美しく、耳から離れない。

この歌詞は素直に「僕」が男性で、「君」は女性で良いようだ。
「君は花柄のワンピース置いて」と来るものだから、少しドキッとした。
森田は「ワンピース脱いで」とせず、「置いて」としたところが見事だ。
曲の品を落とさず、名曲に仕上げた。

森田は「泳ぐ」=「クロール」と決まっているようだ。
アルバム夜想曲の「船が来るぞ」でも「クロール クロール」と歌っている。

短い曲だが、本当に素晴らしい。森田の代表曲のひとつである。

2020/07/31
まぶしい夏
3曲目は「まぶしい夏」。

タイトルだけではわからないが、曲を聴くと森田は「太宰治」が好きだったと推測される。
いきなり「玉川上水」が出てきて、「太宰の好きな君」が出てくる。
「君から借りた太宰の本は、寂しい形見になりました」とダメ押しが来る。
(アルバムのタイトルが「GOOD BYE」である!)

森田20歳のときの友人の死がきっかけで歌を歌い始めたようだが、これはその友人のことかと想像する。
仮にそうだとすれば、そんな衝撃的な出来事をこんな美しくもはかない曲に仕上げる森田。
唸るしかない。

森田は「汗をかく」「汗ばんだ」といった「汗」を歌詞にすることが好きなようである。
(「さよならぼくのともだち」にも汗が出てくる)

2020/07/31
君は変わっちゃったネ
2曲目は「君は変わっちゃったネ」。

森田はこの曲を気に入っていた模様で、ライブでよく歌っていたようだ。
もちろん私もお気に入りの曲だ。

歌詞は素直に自分が子供っぽいのに、君は大人になったと書いている。
後に森田唯一のライブアルバムでは、間奏のモノローグが効果的である。

素直な詞であるが、メロディーが良いものだから、忘れられない曲になる。
そう。森田は言うまでもないが才能豊かなシンガーソングライターだった。

2020/07/31
早春にて
1曲目の「早春にて」は、森田童子の魅力満載である。
歌声、メロディー、歌詞、なかなかのものである。

森田は女性(だろう)と思っていたが、歌詞を聴いていると、
「君」が女性のようで違うようで、「僕」は男性のようでそうでない。
後日、わかったことだが、森田は自分を「僕」と表現しているようなのだ。
女性が「僕」と言うと不思議な魅力を感じる。

間奏でモノローグが入るが、これが何とも言えずいい。
「もうすぐそこに夏が来ています」なんて、いい。

森田の歌詞は比較的短いのだが、不思議なことに短く感じない。

エンディングの効果音は飛行機の離陸する音のようだが、
最初、何で飛行機の離陸音なのかわからなかった。
しばらくして、彼は飛行機で故郷へ帰ったのだろうと推測できた。
あの頃、飛行機は高額であまり利用できなかったから、ピンとこなかった。
「飛行機の離陸する音を入れてください」と森田は言ったのだろうか?
いや、私にはそんなことを言うとは思えない。任せたのではないかと思う。

2020/07/31
GOOD BYE 1枚目のオリジナルアルバム1975年11月21日発売(森田22歳)
森田童子のファーストアルバム「GOOD BYE」は、森田22歳の時に発売された。
私は森田よりも5歳年下だから、私が17歳の時にラジオの深夜放送で「さよならぼくのともだち」を聴いたと思う。
このファーストアルバムが素晴らしい。名曲ぞろいである。
わずか22歳でこれだけの曲を書けるのだから、相当な才能である。

私は東京で4年間、大学生をやっていた。「いつか森田童子のコンサートに行こう」と思っていたが、
結局、行かないまま卒業し、故郷に戻ってしまった。後悔している。
あの4年間で、何としてでも行くべきだった。おそらく一生後悔して生きていくと思う。

2020/07/29
森田童子の世界

もう40年以上前のことです。東京の大学進学に向けての受験勉強中、ラジオの深夜放送を聴いておりました。
そこで流れてきたのが「さよならぼくのともだち」でした。とにかく引き込まれたことを覚えています。
魅力的な歌声でしたし、繰り返す「さよならぼくのともだち」が良かったし、まだ見ぬ大学生の生活が
ぼんやり浮かんだような気がしました。

「弱虫でやさしい静かな君」というのは「つまらないダメな人間」と思っていましたが、「ぼくはとっても好きだった」
と歌われ、「この人、誰なんだ?いいな!」と思いました。

これが私の森田童子との出会いです。当時は、どんな人が歌っているのか、情報もありませんでした。
https://11146484morita.blog.fc2.com/

2. 2021年12月10日 19:05:21 : Ody43AKNio : eVlvWFdmS3lQSms=[48] 報告

森田 童子(1952年 1月15日 - 2018年4月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90


森田 童子(もりた どうじ、1952年[1][2][3][4]1月15日[4] - 2018年4月24日[5][6][7][8])は、日本の女性シンガーソングライター。本名は非公表[5][6]。芸名は笛吹童子に由来する[9]。

1973年、西荻窪ロフトでライブハウスデビュー[10]。以降、ライブハウスを中心に活動する。

1975年10月、シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)からメジャーデビュー。1980年、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)へ移籍。

1975年から1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年のアルバム『狼少年 wolf boy』と、1984年の新宿ロフトでのライブ[10]を最後に音楽活動を休止する[1][9]。

2018年4月24日未明、心不全のため[5]自宅で死去[6][8][7]。66歳没。遺族から日本音楽著作権協会(JASRAC)に連絡があり[5]、同年6月1日発行の日本音楽著作権協会(JASRAC)会報に訃報が掲載されたことで死去が明らかになった[5]。活動休止後は主婦として暮らしていた[7]。音楽関係者の話として「体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなく逝去した」「公表するつもりはなかった」と報道された[8]。

関連人物
木森敏之 - アレンジャー:『GOOD BYEグッドバイ』
石川鷹彦 - アレンジャー:『マザー・スカイ』『狼少年 wolf boy』
J.A.シーザー - アレンジャー:『マザー・スカイ』
木田高介 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
若草恵 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
千代正行 - アレンジャー:『ラスト・ワルツ』『夜想曲』
比呂公一 - アレンジャー:『夜想曲』
高梨豊 - 写真家:ジャケット写真撮影
丸尾末広 - イラストレーター:『狼少年 wolf boy』インナーイラスト担当
劇団黒テント - 当時「68/71黒色テント」としてライブ活動などに協力
平野悠 - ライブハウス「ロフト」経営者
前田亜土 - イラストレーター:マネージャーで夫
高取英 - 劇団月蝕歌劇団主催。夫の前田亜土ともども親交があった
かわさきひろゆき -森田童子狼少年コンサート 前進座劇場や新宿ロフトにて朗読をする少年。現在映画監督

略歴

人物
カーリーヘア(しかもこれが地毛という証拠もなかった。後述)にサングラス、男性的な服装というスタイルが特徴で、レコードジャケットはもちろんコンサートなどでも素顔を見せることはなかった[1]。森田童子は芸名であり、本名は非公開。加えて実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、作品に生活感を滲ませることを避けていた[1]。出身地や生年月日、家族構成などの個人情報を明かすことも少なかったため、本人に関する情報が非常に乏しい[2]。

出身地は東京都とされているが[6]、青森県とする資料もある[3]。北海道出身の詩人・笠井嗣夫は、コラム「『森田童子』あるいは共犯幻想のこちらがわ」で、1980年11月28日夜に札幌市教育文化会館大ホールで開催された森田童子コンサートについて書き、会場で主催者から配布されたチラシに掲載された「森田童子ラフスケッチ」では「1952年に青森で生まれ、1968年 - 1970年の学園闘争の最中に高校生活を送り、友人が逮捕されたことをきっかけとして、1970年に高校を中退[1][9]。1972年の夏、ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめた」と紹介されていたことを記している[3]。この亡くなった友人をモチーフにした曲が、デビュー曲となる「さよなら ぼくの ともだち」である。

ロフト経営者の平野悠は、森田の訃報を受けて書いたブログ記事で「森田童子は私が、1973年の西荻窪ロフトでのデビューから、1984年の新宿ロフトでの引退宣言まで、最初から最後まで見届けた数少ない音楽家だった」と書いている[10]。平野は当時を振り返り「1973年の夏に近い梅雨の蒸し暑い夕方、一人の無名な少女が西荻窪ロフトにやって来てデモテープを1本渡し、『私にも歌えるのでしょうか』と静かに控えめに聞いてきたことを、今でも覚えている」と言う[10]。また平野は森田について「彼女はいつも孤立無援だった。『君の過去に何があったんだ?こんな詩は誰もが書けるものじゃない』と何度か聞いてみたが、彼女はニコッと笑って話題をそらした」「マネージャーの前田氏と結婚したときは悲しかった。前田氏は森田をメジャーにしようとしたが、やはりアンダーグラウンドな歌手だった」とも述べている[10]。

森田と親交があり、森田のマネージャーで夫でもあるイラストレーターの前田亜土とも親交があった劇作家の高取英[11]は、「リテラ」のインタビューで森田について語っている[12]。高取によれば、森田自身は全共闘のピークの頃は高校生で全共闘世代より少し若く、東京教育大学(現:筑波大学)の大学闘争に関わっていたという話もあったが、セクトに入ったり高校全共闘として活動していたという話はなかったという[12]。また高取は、森田は前田と結婚していることも公表しておらず、周囲には話していなかったと述べている[12]。

森田がレコードデビューした直後の1976年から1977年に、高取が海潮社刊行の音楽雑誌『音楽全書』で森田について書いたことで、前田亜土と親交を持ち、森田とも親しくなる[11][12]。前田は高取が主催する月蝕歌劇団の公演も見に来ていた[11]。高取は森田のライブに通い、『森田童子全集III A BOY ボーイ』などのライナーノーツも執筆した[12]。また森田も高取の演劇公演に来るようになり、高取の代表作である『聖ミカエラ学園漂流記』についての評論文を書くなど、互いの音楽と演劇に批評文を寄せ合う関係となった[12]。高取の演劇『少年極光(オーロラ) 都市』の音楽を森田が制作したこともあり、高取が書いた詩に森田が曲を付ける形で3曲制作したが、森田は他人の歌詞に曲を付けるのは初めてだと言っていた、と高取は述べている[12]。しかしその高取でさえも森田のサングラスを外した素顔は見たことがないと言い、森田のカーリーヘアはウィッグではないかと述べている[12]。

1980年11月20日から11月24日にかけて、池袋の三越裏の空き地に500人収容の黒色テントを張り、コンサート「夜行」を開催した。東京都内の公園や国鉄用地などにテント劇場の設置許可を掛け合ったものの断られ、いったん許可が出た都立青山公園では許可が撤回されるなど紆余曲折を経て、池袋の三越裏で開催にこぎつけた。そのコンサート実現までを追ったドキュメンタリー番組『青春の日本列島〜森田童子 ラストワルツ〜』が東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された。番組中ではコンサートのポスターを店に貼ってもらおうと頼むスタッフが「フォークでしょ?うちの客層はそういうんじゃないから」と断られる様子や、会場に来た若い女性ファンが「(森田の音楽は)今の時代と違う、そこが好き」と語る様子などが映され、1980年代に入り「時代が変わった」ことが暗示される。森田は番組中で視聴者に向けて「あと何年か後には、東京にテントを張ることは不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていくさまを、私たちの歌が消えていくさまを、見てほしいと思います。今回のテント劇場は、私たちのコンサート活動の終末かもしれません。ひとつの終わりの時代に向けて、私たちの最後のせつない夢を、見てほしいと思います」と静かに語りかける。高取はこれを見て、森田の引退の理由について「出産や病気と言う人もいたがそうではなく、自分が言いたいことはもう言い尽くした、やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」と述べている[12]。

1983年に群雄者出版から刊行された『高取英戯曲集 聖ミカエラ学園漂流記』の出版記念パーティーには森田も出席したが、高取がその場でスピーチを頼んだところ、森田はうろたえて姿を消してしまったという[12]。その後まもなく、森田は活動を停止して表に出ることはなくなった。

2010年5月に掲載された朝日新聞の取材記事によれば「近しい人物の死去による精神的ショックと、自身の持病により活動が困難な状況」にあったという[1]。夫の前田亜土は2010年に没している[13]。

活動停止後のリバイバルヒット
1988年、初期アルバム4作『グッド・バイ』から『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』までが初CD化された。

1989年9月9日に公開された、学生運動と青春と恋の挫折をテーマにしたミニシアター系映画『グッドバイ』[14]に楽曲が使用され、映画での使用曲を集めたサウンドトラックCDも発売された。

一部ではカリスマ的な人気を博しつつも、森田のファンは全国的に見れば少数で[1]、森田本人がメジャー化を望んでいなかったこともあり[1]、その作品はマスコミなどに表立って紹介されることもなかった。

1993年1月、テレビドラマ『高校教師』の主題歌として、1976年発売のシングル「ぼくたちの失敗」が使われ、シングルCDは100万枚に迫る大ヒットとなった[2]。これに伴い、同年3月にベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がCDで発売された。続けて同年4月には、オリジナル・アルバム7枚(初CD化3枚を含む)がCDで再発売され、活動当時を知らない若い世代を含めて新たに多くのファンを獲得した。同年11月には、映画版『高校教師』の主題歌として「たとえばぼくが死んだら」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)が使われ、シングルカットされて発売された。

このドラマの脚本を書いた野島伸司は、高校時代に同級生に誘われてライブハウスで歌う森田を知り、強い印象を受けたという[15]。野島はプロデューサーの伊藤一尋とともに森田の楽曲の採用を決定した[16]。しかしこのリバイバルブームに対し、森田本人はマスコミの取材には応じず沈黙を守った[2]。

2003年1月、10年ぶりにドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。これに伴い発売された2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に、「海が死んでもいいョって鳴いている」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)の歌詞を一部変更し、新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録され、それが最後の作品となった。「ひとり遊び」は森田の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された[17]。

2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』で「ラスト・ワルツ」が挿入歌として使用された。

『高校教師』のリバイバルヒットで再発されたCDアルバムも、その後廃盤になり長らく入手困難な状況が続いていたが、2016年7月20日に23年ぶりにCDが再発売された。オリジナルアルバム7作、ベストアルバム2作(うち『友への手紙 森田童子自選集』は初CD化)の計9タイトルが発売。小澤賢太郎(音楽出版ジュンアンドケイ)の企画・監修で、レーベルはユニバーサルミュージック/USMジャパン。オリジナルマスターテープからデジタルリマスタリングされたSHM-CD仕様となっている[18]。

2018年10月31日には「追悼 森田童子 紙ジャケットシリーズ」として、2016年版リマスター音源9タイトルが、LPジャケットをミニチュア再現した紙ジャケット仕様の限定盤として再発売された[19]。

森田の楽曲は、様々なアーティストによってカバーされている。リバイバルヒットで代表曲となった「ぼくたちの失敗」は、YMCK、cheeなどによるカバーがあり、mondialitoによるフランス語カバー曲(曲名は「notre echec」)も存在する。「たとえばぼくが死んだら」はeastern youth、山中さわお、中村中によってカバーされている。変わったところではJOJO広重(非常階段)の「スラップ・ハッピー・ハンフリー」によるノイズ系カバーなどもあり、幅広いジャンルのミュージシャンにカバーされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%AB%A5%E5%AD%90

3. 中川隆[-14089] koaQ7Jey 2022年1月23日 20:30:10 : SqaUv9RCQ6 : UGxERWhFLnBXOUE=[21] 報告
2022.01.23
業界騒然! 謎の歌手・森田童子の父親が「なかにし礼の兄だった」事実が意味すること
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91686

なかにし礼『血の歌』と『兄弟』をめぐって

作詩家なかにし礼とシンガーソングライター森田童子が叔父と姪の関係であることを明らかにしたことで、『血の歌』(毎日新聞出版)が話題を集めている。同時にこの作品は、短篇ではあるが、なかにしのヒット作『兄弟』(1998年、文藝春秋)と表裏をなす重い内実をたたえている。

『兄弟』は作詩家から小説家になったなかにしの初めての本格的長篇。特攻隊の生き残りで、事業の失敗や弟名義での借金でなかにしを破滅にまで追いこむ常軌を逸した兄(話題となったテレビドラマではビートたけしが演じた)となかにしの愛憎と葛藤を描いた小説で、「兄さん、死んでくれてありがとう」と主人公が独白する結末が当時、大きな反響を呼んだ。そのモデルである兄の娘(次女)が、何と森田童子だったのだ。

映画の中のなかにし礼と森田童子
音楽史において、大衆の心に響く歌謡曲の作詩家であるなかにしと、孤高のシンガーソングライターの森田は対極的な存在であるが、映画史においては、この叔父と姪は踵を接し、1978年にともにスクリーンデビューしている。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


この年に公開された大森一樹監督の『オレンジロード急行』で、森田童子のメジャーデビュー作『さよなら ぼくの ともだち』が初めて映画の挿入歌として使われ、同年に公開された『時には娼婦のように』(小沼勝監督)はなかにし礼の同名曲の大ヒットを当てこんで製作されたからだ。

『時には娼婦のように』は、《当時、(兄が作った─引用者註)借金に追われている時期で、好条件を提示されたこともあり、原案、脚本、音楽、さらには主演までこなした》(『わが人生に悔いなし─時代の証言者として』、河出書房新社)となかにしが語るロマンポルノであるが、なかにし礼のバイオグラフィにおいてはきわめて重要な作品である。

この映画に現れる心臓発作と性への耽溺、兄の借財を背負わされる弟、複数の女性との同棲、なかにしが第二の故郷と呼ぶ青森への郷愁といったなかにしの人生に欠くべからざる光景が、なかにしがのちに書く『翔べ!わが想いよ』('89年、東京新聞出版局、新潮文庫、文春文庫)から『夜の歌』(2016年、毎日新聞出版、講談社文庫)にいたる自伝小説のプロトタイプ(試作品)になっているからだ。


なぜこの原稿が書かれたのか
この作品を起点として、なかにしを「戦争と歌謡曲を交響楽(シンフォニー)のように、硝煙とエロスをカットバックで描いた作家」と評した、私の『夜の歌』講談社文庫版('20年)の解説を読んだなかにしは、私を西麻布「キャンティ」に招いてくれた。だが、交遊が始まってまもなく、2020年12月になかにしは突然他界した。死後に机の引き出しから発見された未発表原稿をなかにしの子息で音楽プロデューサーの中西康夫が刊行したのが、『血の歌』である。


『血の歌』は作家の死後に刊行された未発表原稿の常として、多くの謎につつまれている。

どうして作者がこの原稿を書いたか、が第一の謎である。後記で中西康夫が『血の歌』は1995年に執筆されたと推測しているように、『血の歌』は'96年に小説のモデルである兄(中西正一)が死去する1年前に、『兄弟』の習作として書かれたものと思われる。

『血の歌』は、兄が語り部に近い立場で書かれていることから、仮借なく兄を描いた『兄弟』よりも兄へのシンパシーが宿る。また、『血の歌』において戦時中に兄が操縦する戦闘機を失墜させる場面は、ほぼそのまま『兄弟』の完成稿に使われている。『血の歌』でなかにしは、兄の視点から娘(森田童子)を描き、同時に娘を小説の「狂言回し」に使えないかと模索していたと憶測できる。


では、なかにしはなぜ封印したのか
しかし、'95年の執筆当時、森田童子は音楽活動を停止中だったとはいえ、'93年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマの『高校教師』の主題歌として使われたことから再ブレイク中だった。なかにしや正一との関係が世間に知られれば、彼女のプライバシーや作品評価に差し障ると考え、なかにしは森田童子をモデルとする『血の歌』を封印したのだろう。

『兄弟』を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦は述懐する。

「『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます」

『兄弟』という大作に濃密に関わった編集者ならではの見方と言えるだろう。

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父から見た娘、また娘から見た兄という視点が削られ、弟から見た兄という視点で小説を一貫させたことで、『兄弟』の構成は堅牢になり、作品は直木賞候補になるなど大きな評価を得た。『血の歌』は『兄弟』のいわば試作品であったのだ。

そのようにいったんボツにした草稿をなかにしはなぜ残していたのか、が第二の謎である。後記で中西康夫が書くように、なかにしはつねに原本(草稿)を廃棄していたという。彼が『血の歌』だけを残しておいたのは、将来何らか形での発表を意図していたと考えるのが自然だろう。

次に湧き上がる謎は、なかにし礼が森田童子の音楽的才能をどのように捉えていたかという点である。その謎を解き明かしてくれたのが、『血の歌』では「お貞さん」、『兄弟』では「藤原慶子」と呼ばれて作中に登場する辣腕音楽プロデューサーの松村慶子である。彼女は'64年に『知りたくないの』(菅原洋一)で作詩家・なかにし礼を、'74年に『さよならぼくのともだち』で森田童子を、ともにメジャーデビューさせた。

松村は「礼ちゃんは童子を『手に負えない才能だ』と高く評価していて、本当は応援したかった」と証言した。しかし、森田童子は「叔父の七光りで世に出たくない」と反発し、松村も「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案、なかにしがその約束を死ぬまで守り続けてくれたことを感謝する。


小説『時には娼婦のように』を構想していた
森田童子の音楽が、なかにし兄弟が育った満州牡丹江の裕福な家庭にあった音楽的な環境に胚胎していることは疑いがないだろう。しかし、森田は叔父の後ろ盾なしで自らの音楽世界を築き、父親の戦争中の失墜と戦後の堕落に対して全共闘世代の挫折感を対置させ、先行世代への鎮魂歌を歌いつづけた。彼女は中西家の「虚無という血」を引き継いだ、と私には思える。

「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村は、なかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。中西康夫もそれが父の遺志だと信じている。なかにしとの共同作業で数々のヒット曲を生み出した辣腕プロデューサーと、なかにしと最も身近に接してきた子息の見解には、確かに説得力がある。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


しかし私は、『血の歌』を読んで、一つの別な想像をめぐらせた。

私がなかにし礼と最後に会ったのは、なかにしが亡くなるちょうど2年前、'19年の12月だった。「キャンティ」で私と話すうちになかにしは、『時には娼婦のように』というタイトルで、'70年代の懶惰な日々を小説にしたいと思い立った。7人の女性が住み、彼女らの世話をする年配のマダムがいる一軒家。なかにしにはそこを訪ねて遊んだ日々があった。特権的な時間であったとは思うが、平和ボケの極みのような退廃と乱倫のなかに、なかにし独自の共生と気づかいの哲学を再発見しようとしたのかもしれない。なかにしはその時代を描きたいと切実な調子で言い始めたのだ。

その後、なかにしはその小説の構想を河出書房新社の担当編集者に持ちかけたと聞いたが、それが実現しないまま終命の時を迎えた。ここから先は私の憶測だが、なかにしはこの作品に、'74年の森田童子の歌手デビューを絡め、当時の音楽状況をふくめて回想しようと目論み、その時のために、いつか作品の形を与えようと思っていた草稿を机の引き出しに入れておいたのではあるまいか──。

こんなふうに『血の歌』は、さまざまな空想を喚起し、なかにし礼の死が創作活動を無残にも途絶させたことを、悲しみとともにあらためて思い起こさせる掌編なのである。


▲△▽▼


2022.01.01
「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91082

なかにし礼の未発表作品に書かれたこと

作詩家であり、作家のなかにし礼が亡くなって1年が経つ。それにあわせ、死後に自宅から発見された未発表作品『血の歌』(毎日新聞出版)が刊行された。そこに書かれていた主題が、一部で波紋を呼んでいる。なかにしの代表作『兄弟』で描かれたあの破滅的な兄。その娘こそ、一世を風靡した森田童子であったのだ。つまり、森田は、なかにしの姪にあたる。なぜ、なかにしは森田との関係をここで明かすことになったのか。森田と交流もあった元『ガロ』編集長の高野慎三が記す。

テレビドラマ『高校教師』のあの歌声

かつて森田童子という類まれなシンガーソングライターが存在した。一部で熱狂的に支持されたようだ。その後1990年代前半に、テレビドラマ『高校教師』のバックに流れる「ぼくたちの失敗」で一般的に知られるようになった。そのときの語りかけるような音律と透き通る細い歌声が聞く者の心をとらえた。そして、「暗く悲しい歌」の歌い手として認知された。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


森田童子の存在をはじめて知ったのはいつのことだろう。70年代の終わりに、わたしより一回り以上も若い青年たちが「一度聞いて欲しい」と録音テープを届けにきた。聞いてみて、「いやにセンチメンタルな歌だなあ」とそのときは思った。


突然の電話
従来、わたしは音楽にほとんど関心を持たなかった。クラシックも、ジャズも、ロックも聞いたことがない。戦前・戦後の歌謡曲のいくつかと、森進一や八代亜紀の2、3の歌を好んだ。

1970年以降のフォークソングにも馴染めなかった。森田童子の歌も私的な生活を言葉にしたフォークとさほど違いはないものとわたしは思い込んだ。

ただ、若い友人たちのこだわりが尋常ではなかった。森田童子のコンサートにしばしば出かけていたようだ。「ぼくたちの歌」と捉えているふしがうかがえた。この場合の「ぼくたち」とは1960年代後半の「反乱の季節」における高校生世代を意味する。たぶん、森田童子の歌のなかに自らを重ね合わせていたのだろう。その心情を理解できなくはなかったが、「青春の甘酸っぱさ」は願い下げたかった。

そんなある日、森田童子の関係者から突然の電話がある。用件は、「つげ義春さんの作品を使用したいのですが」との問い合わせだ。

わたしは1967年から71年までマンガ雑誌『ガロ』の編集長を務め、つげ義春さんを担当した。その縁で、辞めてからもつげさんの取次役のようなことをやっていた。つげさんに連絡を取ると即時に承諾。「使用料は考えないで」との言葉も伝えた。また別の日に「作品のタイトルをコンサート名にしてもいいですか?」と問われ、これもつげさんから了解を得た。

森田童子がつげ義春の愛読者であることを知って、わたしは新たに格別の興味を抱いた。それでも、もっと歌を聞いてみたいとまではならなかった。

森田はなぜつげ義春に執着したか
ところがである。「これから森田とお邪魔します」と、また電話があった。1時間ほどして、杉板づくりの大きなリンゴ箱を肩に担いだ男性が、わたしが営む小さな文具店のガラス戸を開けた。「森田がいろいろお世話になりました」と言うと、表通りの歩道をふり返った。帽子を深くかぶったサングラス姿の彼女が深々とお辞儀をした。あわててわたしも返した。パートナーと思われる男性は「これからつげさんにもお届けします」と急いで車に戻った。森田童子と接したのはこのときが最初であり、最後だ。

挨拶の言葉ひとつ交わすこともなかったが、感じのいい出会いだった。

同じころ、住まいに近い渋谷道玄坂裏の円山町のラブホテル街の電柱に「森田童子コンサート・夜行1」とか「大場電気鍍金工業所コンサート」とかのステッカーを見かけた。『夜行』は、つげ義春の新作を掲載した本だ。どれほど彼女がつげ義春に執着しているかを想った。いや、つげ義春だけではない。下町葛飾の労働者たちの60年安保闘争を描いた実弟のつげ忠男のマンガ集『懐かしのメロディ』に寄せて、彼女は「絶望と孤独の風景」と綴り、つげ忠男への限りない愛惜を表明した。

以後、森田童子との接点は途絶えたままになった。歌うことをやめ、東京を離れたと風のうわさが流れた。気になりだしてCDを購入し、ときどき聞いた。いくつもの歌詞から森田童子の立ち位置が想起され「ああそうだったのか」との思いに襲われた。つれ合いが森田童子の歌を聞きながら、台所でふと手を休め、「いい歌よね」と言う。そして「正しい歌だわ」と続けた。冗談じゃない、歌に正しいも正しくないもあるものか、と言い返そうとして、思いとどまった。

なかにし礼の『血の歌』が明かす森田童子の過去
森田童子より2歳年上のつれ合いは、森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。

「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。

いったい、森田童子とは何者なのか、と疑問を抱いた。しかし、わたしにはどのような情報も届かなかった。森田童子は謎に包まれたままの存在となった。それから20年が経ち、30年が経ち、予期しないときに訃報が飛び込んできた。わたしはつれ合いの遺影のある小さな部屋で、森田童子の歌を流した。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


そして、いまになって、なかにし礼の未発表小説『血の歌』(毎日新聞出版)によって、森田童子の過去が明らかにされた(作品のなかでは「美納子」「森谷王子」となっている)。森田童子は、なかにし礼の姪だったのだ。なかにし礼の代表作である『兄弟』のモデルだった、「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きたという実兄の娘だったのである。そのあまりに衝撃的な人間関係に驚きを禁じ得ないが、しかし、それらはある意味、充分に納得のいく事柄であった。

荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)

森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。

つげ忠男は、工場街の裏町で目撃した実像の与太者を通して「戦後」を凝視した。森田童子は、父親の荒廃した実像を通して「戦後」を触知した。つげ忠男の一連の作品が戦後の「正しさ」を描き留めたように、森田童子も「戦後」のなかで自らの「正しさ」を追い求めた。

『血の歌』は、森田童子の秘密に触れると同時に、戦争体験を経た「戦後」という時間の秘密をも物語る。森田童子の歌が存在する限り、つげ忠男の作品が存在するかぎり、「戦後」は終わらないのである。


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血の歌 Kindle版
なかにし 礼 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09NQVTK1R/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B09NQVTK1R&linkCode=as2&tag=asyuracom-22&linkId=fcb312468f0c633b2dc696aa2dce0968

痛ましい歌声が、俺の胸を血まみれにする。
戦争の昂揚と絶望、そして戦後の果てない堕落。兄の人生を見つめたその娘は、「謎の歌手」に生まれ変わった。
代表作『兄弟』の原型にして、いまに鮮烈な未発表作品、なかにし礼の死後1年目に衝撃の単行本化!

4. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2022年3月25日 21:34:40 : wN51kKTSAK : c05GVzJZYnVwZC4=[15] 報告
森田童子さんの評伝本、遺族「許諾を得たなんて嘘」と激怒でお蔵入り騒動
2022/03/25 16:15NEWSポストセブン
https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1738070.html

記念すべき森田さんのファーストアルバム『GOODBYE グッドバイ』のジャケット(画像はユニバーサルミュージックジャパンのホームページより)

(NEWSポストセブン)

 世の中には謎のままにしておいた方がいいこともある。亡くなった人の謎であれば言うまでもない。その“パンドラの箱”を、不作法に開けた人と遺族との間でトラブルが起こっているという。懐かしい女優の名前も聞こえてくるが、どうやら誰もが悲しむ状況で──。

 儚さを感じさせる、つぶやくような歌声。カーリーヘアにサングラス姿という中性的なスタイルで、男性か女性かさえも明確にせず、“謎の歌手”と評された森田童子さん(享年66)。1975年にデビューするも、シングル発売は4枚のみ、たった8年で引退してしまった。当時の映像や写真はほとんど残っていない。

「1993年、ドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌に起用された森田さんの楽曲『ぼくたちの失敗』は、CD売り上げが100万枚に迫り、一世を風靡しました。しかしそれは森田さんが引退してから10年経ってのこと。当時、結婚していて主婦として生きると決めた森田さんは、まったく表に出てきませんでした。

 2018年4月に亡くなり、2か月後には全国的に報じられています。『高校教師』で森田童子を知った人たちは、まさに謎の歌手として認識しているでしょう」(音楽関係者)

 そんな森田さんの生誕70周年となった今年1月、単行本『夜想忌 森田童子大全』(Pヴァイン)が4月1日に発売することが発表された。森田さんの関係者インタビューや寄稿をもとに“真実”が明かされる評伝本だ。

「寄稿した人のなかでも『高校教師』の脚本を担当した野島伸司さん(59才)は、特別な思いがあると思います。高校時代にライブハウスで森田さんの歌を聴いて衝撃を受け、“絶対に自分のドラマで使いたい”という長年の思いを実現したのがこのドラマでしたからね」(芸能関係者)

 主演を務めた桜井幸子(48才)は、2009年に芸能界を引退しているが、13年ぶりの“芸能活動”ということになるのか、寄稿した人物の一覧に桜井の名前が載っている。

「最高視聴率33%をたたき出したこの作品で、桜井さんは一躍人気女優になります。主題歌でドラマを支えた森田さんについていま思うことや当時のエピソードを聞けるのであれば、貴重な本といえるでしょう」(前出・芸能関係者)

 今回の『森田童子大全』よりも先に、謎に包まれた森田さんの正体を明かしたのは、昨年12月、作詞家のなかにし礼さん(享年82)の没後1年に出版された遺作『血の歌』(毎日新聞出版)だった。

「その本のなかで、森田さんがなかにしさんの兄の娘、つまり姪であることが明かされていたんです。そこには血縁関係であることを隠すに至った経緯なども書かれています」(別の芸能関係者)

 その直後に出版されると発表されたのが『森田童子大全』だっただけに、謎に包まれた森田さんの素顔が明かされるのではないかと、ファンの期待は膨らんだ。しかし、2月末に事態は一転する。

「予約注文していましたが、突然“無期限発売延期”のメールが届きました。延期の理由はまったくわかりませんが、タイトルも内容も変わるとのこと。大々的に宣伝していたレコードショップでもいまは予約できません。お蔵入りになってしまうのでしょうか」(60代女性ファン)

「名前を使う限り許さない」
 森田さんの遺族を訪ねると、開口一番から怒気をはらんだ声で怒りをぶつけ始めた。

「森田童子が死んでいるからといって、何をしてもいいというわけではない。私たちは許しませんよ!」

『森田童子大全』の宣伝文には《本書は森田童子さんのご遺族から許諾を得て制作した“決定版”である》とわざわざ記載されている。だが、激しい剣幕を見るに事実は違うようだ。遺族が経緯をこう説明する。

「今年の1月、遺族の1人がふとネットを見ていたら、この本の告知を見つけたんです。何も聞かされていないので本当に驚きましたよ。慌てて監修として名前があったA氏に連絡をしました。

 というのも2021年11月に、A氏が私たちのところに、“企画書”と称したメモ書きを寄越してきたんです。しかし、肝心な内容がまったく書かれていない。なので、詳細な内容が知りたいと伝えましたが、その後、A氏からも出版元からも一切連絡がありませんでした。遺族の許諾を得たなんて嘘です。連絡もないから許諾のしようがない状況なんです。そんななかで、本の告知がされました」

 森田さんの持つ楽曲や肖像権などの権利は、森田さんの遺族が管理をしている。遺族が怒るのは至極真っ当なことだろう。

「“森田童子”の名前で、4000円ほどもする高価な商品を売るのであれば、私たちを通すべきでしょう。それを無視された。私たちは発売を中止すべきだと主張しましたが、出版元から『販売網の都合もあるので一度延期ということにして、そのうえで考えてほしい』と言われました。顔を立てる意味で受け入れましたが、ホームページでは発売中止と告知してほしいと話したのに、いまだに発売延期となっています。

 この企画はやめるべきです。森田童子の名前が使われる限り、私たちは許しません」(前出・森田さんの遺族)

 遺族がここまで激怒するのにもわけがある。

「私たちは、身内として彼女を守らなければならないんです。森田童子としてのイメージを守ることも当然大事。しかし、それ以上に引退後の約35年間を一般人として共に過ごしてきた家族である彼女を守りたいんです。

 ファンのかたは、歌と自分の人生を重ね合わせて、それぞれの愛し方をしてくれていると思っています。本の監修であるA氏はファン代表みたいな態度だったと聞きます。謎多きまま引退して亡くなった森田童子の“真実を伝える”とか“決定版”とあおるような本を、ファンのかたは本当に欲しいのかな、と疑問に思っているんです」(前出・森田さんの遺族)

『森田童子大全』には、森田さんをプロデュースした松村慶子氏がインタビューで登場するとの記載がある。今回の経緯について松村氏に聞くと、寝耳に水といった様子だ。

「え! そうなんですか? 延期になったことはまったく知りませんでした。いつしか話したことの使用許可を求める連絡が一度だけきましたが、新たにインタビューなんて受けていませんよ。過去に自分で話したことについては“はい、どうぞ”と承諾しました。連絡はそれきりですね」

 この調子では、桜井の寄稿や、ほかの関係者のインタビューなどもどんな体裁のものなのか疑問が残る。遺族はほかの点にも疑義を呈する。

「40年以上前にFM東京(現:TOKYO FM)で放送したラジオライブの音源がCDとなって付いてくるらしいんですが、これはFM東京から提供されたものなんでしょうか。そういった丁寧な説明もないまま告知するなんて不信感しかありません」

(TOKYO FMの広報部は「現在、調査中ですが、広報として番組使用申請があったと把握していません。もし、付録CDが許可なしで発売されるのであれば、法務部に相談したうえで差し止めなど然るべき対応をします」と回答した)

 これを機に、遺族は“正式な窓口”作りを始めている。

「公式ホームページを作っている真っ最中で、開設は森田の命日の4月24日を予定しています。今後、楽曲の使用や企画などの対応は、すべてここを通して行います。『ファンの心を無視した逸脱行為は許さない』『本も承諾していない』と記載するつもりです。今回の混乱について、ファンのかたには申し訳なく思っています」(前出・森田さんの遺族)

『森田童子大全』の出版元は「プロジェクトに関することはお答えしません」と回答。草葉の陰の森田さんが、遺族が、そしてファンが、喜ぶ形を再考する必要があるかもしれない。

※女性セブン2022年4月7・14日号

https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1738070.html

5. 中川隆[-12932] koaQ7Jey 2022年8月25日 18:59:04 : XboiKyUdfk : bkZRZERuckkuZVE=[7] 報告
テレビドラマ なかにし礼『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』(テレビ朝日 1999年)

脚本:竹山洋
制作:テレビ朝日、カズモ

動画
https://www.youtube.com/watch?v=nF7G3xh3hYI
https://www.youtube.com/watch?v=_RtekDfDZaY






「兄弟」はなかにし礼の小説である。

実兄・正一の人生を題材にした、自伝的小説となっている。

破滅的人生を送る実兄・正一に翻弄され、苦闘を強いられた弟・禮三の愛憎と葛藤を描いている。

1997年6月号から1997年12月号までオール讀物に連載(ただし10月号は休載)され、1998年に文藝春秋に刊行された。そして第119回直木賞候補になった。文庫本では2001年に文春文庫を、2004年に新潮文庫として刊行された。

テレビドラマ
『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』のタイトルで、1999年3月10日にテレビ朝日の開局40周年記念スペシャルとしてドラマ化された。

キャスト
ビートたけし
豊川悦司
桃井かおり
高島礼子
工藤静香
麻生祐未
余貴美子
馬渕晴子
梨本謙次郎、坂本長利、生井健夫、村田則男、磯村千花子、芦田昌太郎、田島基吉、西田聖志郎、市村直樹、北河多香子、森たまき ほか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%84%E5%BC%9F_(%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


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