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オニクタラム g0mDaoNOg16DiYOA コメント履歴 No: 100000
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[政治・選挙・NHK271] 自分の利益しか考えない不幸な社会(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
18. オニクタラム[1] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月23日 15:49:05 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[1]
今日の朝早く、グーブログ記事を投稿しました。以下の記事です。植草さんと同じ気持ちです。もしよろしければ、〈日本の「政治」の「可能性」と「方向性」について考える〉の私の記事もご一読ください。

「県政」や「国政」の下で、粛々と進められていく「見殺し」の常態化

「県民」の命と暮らしを守れない「県政」など不要ではないのか。「国民」の命と暮らしを守れない「国政」に、はたして存続理由などあるはずはない。

それにしても、悔しいの一語だ。私たちはもう、慣れきってしまったのか。毎日、毎日、県民や国民が死んでいく。死ななくてもよかった人たちではなかったのか。埼玉県に住む50代の男性が自宅待機の果てに死んでしまった。コロナ検査で陽性と判定されたものの、「軽症」との理由から、入院もできず無念の死を遂げたのである。

県によると、入院患者を収容する病床が全く不足している旨の記者会見であったが、そんな釈明で「見殺し」にしてしまった「作為」が許されるのならば、何のための県政なのか、と言わざるをえない。おかしいだろう。県政は誰のためにあるのか。そもそも記者会見自体がおかしすぎるのだ。記者は何も質問しないのか。何も怒らないような記者も要らないのではないか。とにかくどうにかなっている。県民のためにマスクを確保することもできない公務員など不要ではないのか。

同じことは、国政に関しても該当する。どうして国は率先垂範して県を助けなかったのか。これまでの経緯を見てもおかしすぎるのだ。マスクの手配もできない国がどうして安全保障の問題など語れようか。外務省も防衛省も総務省も、厚生労働省も要らない。いや、すべての省庁が不要なのだ。国民の命と暮らしを守るどころか、その逆の働きしかできていないのではあるまいか。

安倍内閣はもう「消滅」すべきなのだ。どうにもならない人間集団が右往左往しているだけであり、まったく動きが見えてこない。そもそも国民の命を守ろうとする覚悟などありはしない。情けない限りだ。

長崎県に入港したイタリア船籍のクルーズ船、一体だれが入港を許可したのか。2月20の頃は、もうコロナ問題が浮上していた、そんなときに三菱重工という企業が自らの「金もうけ」のために、今後、はかり知れない長崎県民の命を奪いかねない「大失態」をやらかしてしまった。とても失態と言うことでは済まされない重大問題ではあるまいか。長崎県と三菱重工と、国の関係者は、一体どのような責任を取るのだろうか。いや、とても負うことのできない責任ではあるまいか。

私は、横浜のクルーズ船の寄稿の際にも、このままでは日本人の命は危ないと危惧したのだが、今後は、長崎に相当な被害をもたらすのは必至であろう。県も、国も、大企業には甘すぎるのだ。こんなざまでは、どうして営業自粛を、中小企業に求められようか。これから先、長崎県民の命と暮らしが甚大な被害を受けることになった時、私はまた断腸の思いで、言わなければならなくなるだろう。

本来ならば、死ななくてもよかった県民や国民が死んでいく。そして、そうした「見殺し」の常態化が、県政や国政の下で、粛々と進行しているのだ。同じ構図ではあるまいか。東京電力福島原発事故も、大企業と県政と国政が癒着した中で、引き起こされたのではないか。そしてその後も、放射性物質の被害に苦しむ人々が福島県をはじめとして、日本国中に生み出されているではないか。

それにしても、思うのだ。私たちは、何度同じことを繰り返しているのだろうか、と。


http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/754.html#c18

[政治・選挙・NHK271] コロナ対策の不可解 相談4万7000件も申請受理わずか214件 永田町の裏を読む(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
13. オニクタラム[2] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月23日 16:14:55 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[2]
植草一男さんの記事にもコメントをしました。厚かましくも、私自身の今朝早くグーブログに投稿しました記事を張り付けさせてもらいました。〈日本の「政治」の「可能性」と「方向性」について考える〉という題目です。いかに本日分を載せていますので、よろしければご一読ください。
「県政」や「国政」の下で、粛々と進められていく「見殺し」の常態化

「県民」の命と暮らしを守れない「県政」など不要ではないのか。「国民」の命と暮らしを守れない「国政」に、はたして存続理由などあるはずはない。

それにしても、悔しいの一語だ。私たちはもう、慣れきってしまったのか。毎日、毎日、県民や国民が死んでいく。死ななくてもよかった人たちではなかったのか。埼玉県に住む50代の男性が自宅待機の果てに死んでしまった。コロナ検査で陽性と判定されたものの、「軽症」との理由から、入院もできず無念の死を遂げたのである。

県によると、入院患者を収容する病床が全く不足している旨の記者会見であったが、そんな釈明で「見殺し」にしてしまった「作為」が許されるのならば、何のための県政なのか、と言わざるをえない。おかしいだろう。県政は誰のためにあるのか。そもそも記者会見自体がおかしすぎるのだ。記者は何も質問しないのか。何も怒らないような記者も要らないのではないか。とにかくどうにかなっている。県民のためにマスクを確保することもできない公務員など不要ではないのか。

同じことは、国政に関しても該当する。どうして国は率先垂範して県を助けなかったのか。これまでの経緯を見てもおかしすぎるのだ。マスクの手配もできない国がどうして安全保障の問題など語れようか。外務省も防衛省も総務省も、厚生労働省も要らない。いや、すべての省庁が不要なのだ。国民の命と暮らしを守るどころか、その逆の働きしかできていないのではあるまいか。

安倍内閣はもう「消滅」すべきなのだ。どうにもならない人間集団が右往左往しているだけであり、まったく動きが見えてこない。そもそも国民の命を守ろうとする覚悟などありはしない。情けない限りだ。

長崎県に入港したイタリア船籍のクルーズ船、一体だれが入港を許可したのか。2月20の頃は、もうコロナ問題が浮上していた、そんなときに三菱重工という企業が自らの「金もうけ」のために、今後、はかり知れない長崎県民の命を奪いかねない「大失態」をやらかしてしまった。とても失態と言うことでは済まされない重大問題ではあるまいか。長崎県と三菱重工と、国の関係者は、一体どのような責任を取るのだろうか。いや、とても負うことのできない責任ではあるまいか。

私は、横浜のクルーズ船の寄稿の際にも、このままでは日本人の命は危ないと危惧したのだが、今後は、長崎に相当な被害をもたらすのは必至であろう。県も、国も、大企業には甘すぎるのだ。こんなざまでは、どうして営業自粛を、中小企業に求められようか。これから先、長崎県民の命と暮らしが甚大な被害を受けることになった時、私はまた断腸の思いで、言わなければならなくなるだろう。

本来ならば、死ななくてもよかった県民や国民が死んでいく。そして、そうした「見殺し」の常態化が、県政や国政の下で、粛々と進行しているのだ。同じ構図ではあるまいか。東京電力福島原発事故も、大企業と県政と国政が癒着した中で、引き起こされたのではないか。そしてその後も、放射性物質の被害に苦しむ人々が福島県をはじめとして、日本国中に生み出されているではないか。

それにしても、思うのだ。私たちは、何度同じことを繰り返しているのだろうか、と。


http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/759.html#c13

[政治・選挙・NHK271] 妊婦向けは配布中止 アベノマスクなぜすべて情報公開せず(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
18. オニクタラム[3] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月23日 18:21:13 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[3]
この記事に目を通された読者に、是非ともご一読いただきたく、ここに私のグー・ブログ記事を張り付けさせてもらいます。私のブログのタイトルは、〈日本の「政治」の「可能性」と「方向性」について考える〉です。以下には、今朝早く投稿しました記事があります。よろしければ、ご笑覧ください。

「県政」や「国政」の下で、粛々と進められていく「見殺し」の常態化

「県民」の命と暮らしを守れない「県政」など不要ではないのか。「国民」の命と暮らしを守れない「国政」に、はたして存続理由などあるはずはない。

それにしても、悔しいの一語だ。私たちはもう、慣れきってしまったのか。毎日、毎日、県民や国民が死んでいく。死ななくてもよかった人たちではなかったのか。埼玉県に住む50代の男性が自宅待機の果てに死んでしまった。コロナ検査で陽性と判定されたものの、「軽症」との理由から、入院もできず無念の死を遂げたのである。

県によると、入院患者を収容する病床が全く不足している旨の記者会見であったが、そんな釈明で「見殺し」にしてしまった「作為」が許されるのならば、何のための県政なのか、と言わざるをえない。おかしいだろう。県政は誰のためにあるのか。そもそも記者会見自体がおかしすぎるのだ。記者は何も質問しないのか。何も怒らないような記者も要らないのではないか。とにかくどうにかなっている。県民のためにマスクを確保することもできない公務員など不要ではないのか。

同じことは、国政に関しても該当する。どうして国は率先垂範して県を助けなかったのか。これまでの経緯を見てもおかしすぎるのだ。マスクの手配もできない国がどうして安全保障の問題など語れようか。外務省も防衛省も総務省も、厚生労働省も要らない。いや、すべての省庁が不要なのだ。国民の命と暮らしを守るどころか、その逆の働きしかできていないのではあるまいか。

安倍内閣はもう「消滅」すべきなのだ。どうにもならない人間集団が右往左往しているだけであり、まったく動きが見えてこない。そもそも国民の命を守ろうとする覚悟などありはしない。情けない限りだ。

長崎県に入港したイタリア船籍のクルーズ船、一体だれが入港を許可したのか。2月20の頃は、もうコロナ問題が浮上していた、そんなときに三菱重工という企業が自らの「金もうけ」のために、今後、はかり知れない長崎県民の命を奪いかねない「大失態」をやらかしてしまった。とても失態と言うことでは済まされない重大問題ではあるまいか。長崎県と三菱重工と、国の関係者は、一体どのような責任を取るのだろうか。いや、とても負うことのできない責任ではあるまいか。

私は、横浜のクルーズ船の寄稿の際にも、このままでは日本人の命は危ないと危惧したのだが、今後は、長崎に相当な被害をもたらすのは必至であろう。県も、国も、大企業には甘すぎるのだ。こんなざまでは、どうして営業自粛を、中小企業に求められようか。これから先、長崎県民の命と暮らしが甚大な被害を受けることになった時、私はまた断腸の思いで、言わなければならなくなるだろう。

本来ならば、死ななくてもよかった県民や国民が死んでいく。そして、そうした「見殺し」の常態化が、県政や国政の下で、粛々と進行しているのだ。同じ構図ではあるまいか。東京電力福島原発事故も、大企業と県政と国政が癒着した中で、引き起こされたのではないか。そしてその後も、放射性物質の被害に苦しむ人々が福島県をはじめとして、日本国中に生み出されているではないか。

それにしても、思うのだ。私たちは、何度同じことを繰り返しているのだろうか、と。

私は、「見殺し」の常態化とか来ましたが、これはもう「人殺し」と言ってもおかしくない状態です。問題は、その主役と言いますか、誰が誰を、結果的に見殺し続け、その挙句に人殺しの状態をつくり出しているのか、ではありませんか

http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/761.html#c18

[政治・選挙・NHK271] 民度<本澤二郎の「日本の風景」(3663)<コロナ戦場で泥棒猫サンバ・ルンバが流れる日本列島> 赤かぶ
11. オニクタラム[4] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月23日 19:00:30 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[4]
この記事を読まれた読者に、もしよろしければ読んでほしいと思い、私のブログ記事を張り付けますので、ご笑覧いただければ幸いです。主題は、〈日本の「政治」の「可能性」と「方向性」について考える〉です。その中から、以下には今朝早く掻きました記事を載せています。

「県政」や「国政」の下で、粛々と進められていく「見殺し」の常態化

「県民」の命と暮らしを守れない「県政」など不要ではないのか。「国民」の命と暮らしを守れない「国政」に、はたして存続理由などあるはずはない。

それにしても、悔しいの一語だ。私たちはもう、慣れきってしまったのか。毎日、毎日、県民や国民が死んでいく。死ななくてもよかった人たちではなかったのか。埼玉県に住む50代の男性が自宅待機の果てに死んでしまった。コロナ検査で陽性と判定されたものの、「軽症」との理由から、入院もできず無念の死を遂げたのである。

県によると、入院患者を収容する病床が全く不足している旨の記者会見であったが、そんな釈明で「見殺し」にしてしまった「作為」が許されるのならば、何のための県政なのか、と言わざるをえない。おかしいだろう。県政は誰のためにあるのか。そもそも記者会見自体がおかしすぎるのだ。記者は何も質問しないのか。何も怒らないような記者も要らないのではないか。とにかくどうにかなっている。県民のためにマスクを確保することもできない公務員など不要ではないのか。

同じことは、国政に関しても該当する。どうして国は率先垂範して県を助けなかったのか。これまでの経緯を見てもおかしすぎるのだ。マスクの手配もできない国がどうして安全保障の問題など語れようか。外務省も防衛省も総務省も、厚生労働省も要らない。いや、すべての省庁が不要なのだ。国民の命と暮らしを守るどころか、その逆の働きしかできていないのではあるまいか。

安倍内閣はもう「消滅」すべきなのだ。どうにもならない人間集団が右往左往しているだけであり、まったく動きが見えてこない。そもそも国民の命を守ろうとする覚悟などありはしない。情けない限りだ。

長崎県に入港したイタリア船籍のクルーズ船、一体だれが入港を許可したのか。2月20の頃は、もうコロナ問題が浮上していた、そんなときに三菱重工という企業が自らの「金もうけ」のために、今後、はかり知れない長崎県民の命を奪いかねない「大失態」をやらかしてしまった。とても失態と言うことでは済まされない重大問題ではあるまいか。長崎県と三菱重工と、国の関係者は、一体どのような責任を取るのだろうか。いや、とても負うことのできない責任ではあるまいか。

私は、横浜のクルーズ船の寄稿の際にも、このままでは日本人の命は危ないと危惧したのだが、今後は、長崎に相当な被害をもたらすのは必至であろう。県も、国も、大企業には甘すぎるのだ。こんなざまでは、どうして営業自粛を、中小企業に求められようか。これから先、長崎県民の命と暮らしが甚大な被害を受けることになった時、私はまた断腸の思いで、言わなければならなくなるだろう。

本来ならば、死ななくてもよかった県民や国民が死んでいく。そして、そうした「見殺し」の常態化が、県政や国政の下で、粛々と進行しているのだ。同じ構図ではあるまいか。東京電力福島原発事故も、大企業と県政と国政が癒着した中で、引き起こされたのではないか。そしてその後も、放射性物質の被害に苦しむ人々が福島県をはじめとして、日本国中に生み出されているではないか。

それにしても、思うのだ。私たちは、何度同じことを繰り返しているのだろうか、と。
以上です。ここでは「見殺し」の常態化と述べましたが、それはつまるところ、みんながみんなで「人殺し」に参加しているという、怖ろしい話になるのではないかと、私は思うのですよ。寂しくて、悲しくて、とてもやりきれない、そんな感じです。


http://www.asyura2.com/20/senkyo271/msg/758.html#c11

[カルト26] フラデ・最悪三千万人の生活が破綻する。だから、食糧危機対策の為にも農業ニューディールが必要なのである。 ポスト米英時代
2. オニクタラム[5] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月25日 20:23:32 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[5]
私もあなたの主張に賛成します。残念ながら、多くの日本人には絵空事にしか映らない、響かないかもしれませんが、こうした発想とそれに基づいた政策転換が待ち望まれるでしょう。
以下に私のブログ記事を張り付けさせてもらいますので、もし御時間がありましたらお目を通してください。今回の記事は、私のブログの主題と同じタイトルで述べています。
以下貼り付け、始め
日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える

今回は、以下のくだりにあるように、箇条書きにして話を要約している。次回から、ここで述べたことを下敷きとして、話を展開していきたい。ただし、これまでの拙論や拙著でも論じたものではあるが、やっと私自身に、「これだ」「これしかない」という、まさに「可能性」と「方向性」について、納得できるものを得たので、ここに報告した次第である。

今のコロナ危機に際して、またこれからも起こりうるウイルス危機に対処するためにも、私は日本の今後の在り方について提言しておきたい。

結論から先に述べるならば、日本は「農・林・水産業を中心とした国造りを目指すことをこれからの基本方針とすべきである。

そこにはまず何よりも、環境問題への対応・配慮が求められているとの理由が存在している。その理由は、21世紀の、また22世紀における生命維持活動において、絶対に必要不可欠であるとの事情も絡んでくる。

私たちの生存を考えるとき、食糧確保の問題を無視したり軽視することは許されない。また中国やインド、そしてアフリカ諸国の今後のさらなる「重厚長大」型の産業振興路線政策の推進の下で、農業従事者の減少とそれに伴う食糧生産の推進と維持における物理的な困難さが予想される。と同時に、地球的規模での食料争奪戦が今後ますますその熾烈化の度合いを深めていくことは、容易に予想されることだろう。

たとえ、お金があったとしても、国家がその食糧を確保して、国民に等しく分配することは、これまたかなり、実現不可能な問題であることは、今次のコロナ危機に際しての日本国家、政府によるマスクや消毒剤の確保と手配、さらにはコロナ感染患者に対する対応を見ても、とても期待できないことは明らかではあるまいか。

今回のコロナ危機は、今後もたびたび、それこそ手を変え品を変えて、日本と日本人に襲い掛かってくるのは避けられない「現実」として、受け止め、それに向き合う覚悟が必要となることを、改めて私たちに確認させたのではあるまいか。そのためには、私たちは、自らの手で、それこそ「革命」を引き起こす決意をもって、今からその準備を周到にしておかなければならない。

幸い、この危機において、私たちはいろいろなことを学ぶ機会を得た。そもそも、国家は、その本来の意味において、機能しているのだろうか。すなわち、国民の生命と財産を保障するという意味で、まったく有効に動いてはいない。

日本政府は、安倍政権は無用の長物そのものではあるまいか。内閣だけではない、国会も、その議員も不要である。わざわざ東京で政治を行う時代はもう去ったのではあるまいか。47都道府県が政治の実権を握る時代となったことが、コロナ危機で証明されたのではあるまいか。

国家の政治は、日本の防衛に限定して、国連との調整は、全国の47都道府県の「連合政治会議」(仮称)が協議すればいいのではあるまいか。防衛問題も早急にその会議が引き受けた方がいいだろう。

私たちが、この間の日本の政治・外交・防衛を見るにつけ、はっきりと了解した出来事は、もう「官僚」は不要だということではないか。彼らの能力では、もはやどうにもこの国を動かせないということが、森友・加計問題を始めとして、そしてこのコロナ危機での厚生労働省や総務省、その他の官庁の亀のような動きののろさ、そして何よりも、「公僕」としての、国民に対する不誠実極まりないなめ切った態度に、それは如実に示されているのではあるまいか。

彼ら官僚は、官僚の誇りを持つべきなのに、その矜持さえも無くし、無能な政治家を使って、その背後で国民に見えない形で、彼ら官僚の、官僚による、官僚のための「政治」を、白昼堂々と行っているのだ。

こうした政治が奉仕する日本の、また米国を始めとした覇権連合諸国の財界や経済界の意のままに動かされる、日本と日本人に甘んじたままに生きることを、私たちは何ら恥じ入らないのか。私たちの子供や、その孫や、またその子供たちに、このような日本社会の惨状を、私たちの「遺産」として、引き渡すことに、良心の呵責を感じないで済まされるだろうか。断じて許してはならないのではあるまいか。

私たちの子供たちの世代がいま直面している問題を、私たち親世代が知らないとするならば、もうあなたは親をやめた方がいい。過労死、職場における上司や仲間たちからの不当なイジメ、非正規労働問題をはじめ、枚挙にきりがない。また私たちとその親が抱えている問題も、どうにもやりきれない者が、これまたたくさんある。その大きなものに、介護の問題がある。親は自らの尊厳さを死の間際まで取り戻すことがかなわず、またその子供たちも、自らの親不孝を悔いたままで、やがて、また親たちと同じ末路を辿るのではあるまいか。

こうした問題は、私たちが当然としてきた日本の産業構造の高度化と切り離して考えることはできない。同時に、この日本の高度化問題は、世界の産業の高度化問題と結びついているのである。簡単に言えば、明治維新以降の日本は、農林水産業の第1次産業に「特化」した国造りであった。それが「あの戦争」の敗北以降、今度は第2次産業に特化した国づくりを推進していくが、いわゆる「重厚長大」型の産業の下に、高度経済成長を実現して、「分厚い中間層」の形成の下での成長と繁栄と自信に満ちた日本社会が登場した。

その夢の時代も、あっという間に過ぎてしまい、お隣の中国が重厚長大型産業の国造りに邁進するための「世界の工場」役を引き受けるのと呼応する形で、日本は、先進国では遅咲きの「金融・サービス化」経済に特化した国造りに着手するのである。

こうした産業構造の転換は、私の言う「システム」とその「関係史」の「段階」において、世界の各々の国が引き受けざるを得ない「役割」であり、その意味において、日本の金融・サービス化経済の下での国造りは、覇権国の興亡史と連動した世界資本主義システム、世界民主主義システムに見る変容と転換と、相互に補完する関係にあるのである。

何度もこれまで述べてきたように、先進国は富の二極化が引き起こされ、分厚い中間層も解体されていく。世界資本主義システムにおいて、先進国はごく一部の富裕層は、金融・サービス化経済の恩恵に与るのだが、その反面、大多数の持たざる者は、生活の困窮の度合いを深化させていく。資本主義システムにおいて、先進国とそこに暮らす者は、「低度化」の段階に甘んじざるを得なくなるが、それが先に述べた格差問題や貧困問題に象徴されるのである。

こうした先進国における世界資本主義システムに見る低度化の問題は、世界民主主義システムにおける民主主義の発展に見る「低度化」の問題と連動しているのである。すなわち、もはやかつての分厚い中間層を形成し、それに支えられていた時代の「民主主義」を「取り戻す」ことはできないのだ。私たちがいま手にしている、手にできるのは、「低度化」の段階の「民主主義」なのである。その民主主義の下では、雇用崩壊や貧困問題、そして格差社会とそれに伴う問題への対応と解決は、一層困難なのである。

私が悔しいというか、腹立たしいのは、政治学者や経済学者が、ほとんど「民主主義」の勉強をしていない、ということである。クルーグマンのようなノーベル経済学賞の受賞者も、またクリントン政権下で活躍したライシュ氏も、彼らの日本語訳著作にある、もう一度ニューディール期の、また50、60年代の米国に戻れるかのような話を展開しているが、まったくお話にもならない無責任な議論なのである。これは、、フランスのピケティの『21世紀の資本』においても、また同じような、「素人」の話を、すなわち、民主主義を取り戻すことが大事だ云々の話を、繰り返しているだけなのである。

それゆえ、もはや「民主主義を取り戻す」ことなどできないという前提から、議論を始め直すべきなのである。そして、今のコロナ危機が最後のチャンスとなるかもしれない。何度も言うのだが、日本の環境問題や原発問題や産業廃棄物問題、さらにこれからの深刻化する雇用問題と食糧確保問題、また日本のすぐ横に次期覇権国として台頭する中国と、これまでの覇権国であった米国との狭間で生きていかなければならないという外交・防衛問題を、地政学的問題とも重ねて考えるときに、私は日本のこれから以後の選択肢は、トルストイが『イワンの馬鹿』で述べている生き方以外にはない、と言わざるを得ないのである。

それが、国内の日本の代表的な多国籍企業と結びついた権力集団であるハゲタカと、国外の覇権連合勢力が主導するハゲタカから、身を守る唯一、残された生き方である、と信じて疑わないのである。農業研究者が残した有名な格言がある。土に立つものは倒れず、土を耕す者は飢えず、土に生きる者は滅びず、である。

以上、張り付け、終わり
ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/20/cult26/msg/411.html#c2

[国際28] 皆様はCovid-19第二波への備えは、おありだろうか?(マスコミに載らない海外記事) 赤かぶ
3. オニクタラム[6] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年4月25日 23:13:50 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[6]
阿修羅総合アクセスランキング瞬間に掲載されている他の記事【フラデ、最悪3000万人の生活が破綻する。だから食糧危機対策のためにも農業ニューディールが必要である。ポスト米英時代】にコメントを書きました。そこに、私のブログ記事〈日本の「政治」の「可能性」と〈方向性〉について考える〉を張り付けさせてもらいました。
あなたの記事にある第二波の危機に備えるための、私なりの愚案が述べられていますので、よろしければご一読お願いいたします。なお、私は視覚障碍者のために、ところどころ判読しにくい箇所がありますので、ご容赦ください。
http://www.asyura2.com/19/kokusai28/msg/629.html#c3
[政治・選挙・NHK272] 安倍晋三は単なる操り人形にすぎない (櫻井ジャーナル) 赤かぶ
13. オニクタラム[7] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月03日 18:19:46 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[7]
今回の「桜井ジャーナル」の記事は、ひどすぎたのではあるまいか。何か、別人が書いたような、そんな感じがした。
内容も、既に多くの論者が語っていた域を出るものではない。私は、こうした記事を書く人たちに一言、申したいのだ。私たちが手にしている普遍的人権とか、民主主義社会の実現の歩みと、ここで紹介されている話がどのように絡まってくるのかを、それをこうした記事の書き手は、まずは述べる必要があるのではないか、と。
それができないとすれば、単なる他人事の話で終わってしまう。私たちの欲求不満のはけ口として、もし阿修羅掲示板が使われているとすれば、それは誠に残念な限りである。
ただし、阿修羅掲示板の中でも、私は「桜井ジャーナル」は、学ぶべき点があることに気づかされる数少ない記事の一つだと、見ている。
とにかく、今回もお礼だけは申し添えておきたい。
http://www.asyura2.com/20/senkyo272/msg/232.html#c13
[日本の事件32] 帰化した多くの芸能人達 大田こういち
4. オニクタラム[8] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月04日 13:05:23 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[8]
「おおたこういち」という名前に記憶がありましたので、一言ご挨拶を申し上げます。もっとも、同姓同名の方はたくさんいらっしゃいますし、おそらく、この氏名も架空の方と推察します。

私は、「システム人」に「帰化」しました元「日本人」の「村田邦夫」と申します。「オニクタラム」というペンネームで、時々、この阿修羅掲示板の記事にコメントをさせてもらっています。なお、ブログ記事[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]という主題で、書いています。

ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/201.html#c4

[日本の事件32] 帰化した多くの芸能人達 大田こういち
6. オニクタラム[9] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月04日 15:10:41 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[9]
わざわざのご挨拶、どうもありがとうございました。
http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/201.html#c6
[カルト26] 長周・東大教授・コロナが炙り出す食の脆弱性。国際政治の理不尽は脇に置き、とにかく失業者を全員就農させて自給率を百%以上… ポスト米英時代
1. オニクタラム[10] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月04日 15:36:09 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[10]
以前に、「ポスト米英時代」という方の記事にコメントさせてもらいました。私も基本的には同じ考え方です。全員は無理としても、その三分の一が本格的に取り組む社会となれば、いまとは異なる展望が開けてくるのではないか、と思います。
ただし、そのためにも、「カイより始めよ」ではありませんが、モデルとなる具体的な取り組みに着手して、その「成果」を、まずは示すことが求められると、私は考えています。
以前にも、「NAM]という運動が立ちあげられましたが。とにかく前途は多難です。それでも、私は、あなたの何回かの掲示板での提言には共感しています。
正直なところ、私は自分の行動力のなさに、情けなさを感じていますが、あなたは、どのような青写真を描かれていますか。もしよければ、少しだけでもご教示ください。
ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/20/cult26/msg/553.html#c1
[政治・選挙・NHK272] 国民の健康より欧米寡頭勢力の要求を優先する安倍氏の売国的正体がばれた:彼を辞任させるには内閣支持率をゼロにするしかない… 赤かぶ
20. オニクタラム[11] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月07日 15:31:24 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[11]
この記事を読みながら、私のブログ記事にもできればお目をとおしてほしいと思い、ここに張り付けさせてもらいます。代り映えのしない話で申し訳ありませんが、もしお時間がある方は、斜め読みしてみてください。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。





最後は、また「安倍晋三」さんの「勝利」で終わったわい!

2020-05-06 | エッセイ

最後は、また「安倍晋三」さんの「勝利」で終わったわい!

まぁ、こんなオーバーな題目にしているが、それにしても安倍さんは、「加計」に続いて、今回は「レムデシビル」を、何が何でもコロナウイルスの新薬として、日本に持ち込むとに成功した、また「お友達」のために、日本と日本人の大事なものを奪い去った、ということだろう。

ここまでして、安倍退陣となると、今度のリーダーは、もっと「お土産」を用意しなければならないなぁ。それは何だろうか。もう「主権」はとっくに、というか、そんなものは、戦後この方、なかったから、今度は逆に奪い取るのだろうか。おおこわぁ。いや、怖くても、立ち向かうべきではないか。安倍がアカン、売国奴だ、何とかしろ、みんな今コロナ騒動で、何を騒いでいるのだろうか。

今さら、そんなことを言ったとしても、自分が惨めになるだけだから、私はこうした話を、もうそろそろやめた方がいいのではないか、と、これまでも何度となく思ってきたのだが、先ほどの「ミヤネヤ」テレビ番組を見て、痛感した次第なのだ。アビガンがどうの、レムデシビルがどうの、大阪府の決定がーーー、また見事に安倍政権にはめられてしまった。

と言うより、「こちら」には、どうにもならない、何も働かないくせに、税金をただ食い潰すだけの「野党(議員)」しか存在していないから、それは巡り巡って、無能な癖に、人の二倍も三倍も欲深い「国民」しか存在していないということにもなるのだが。

何度も述べてきたように、米国による「対日要求書」と在日米国商工会議所の日本と日本人に対する「圧力」に屈した挙句が、今回の「のろのろ」とした政府の対応と、日増しに増加するコロナ感染者と死者数を前にして、やっと米国の製薬会社がお出ましとなったということではあるまいか。

何のことはない。日本のマス・メディアがこぞって、このシナリオどおりに動いたのだ。そこには米国の直接・間接の圧力があるのは、誰にもわかることだが、それにしても日本政府とマスコミは、「あまりにも」ひどすぎやしないか。韓国や台湾のコロナ対応を見るとき、いやというほど思い知らされるのである。これほど米国政府や日本政府になめ切られては、どうにもならないだろう。

さらに、こうした舐められる社会を支えるために私たちの子供や孫たちがせっせと受験勉強に励んで、そうした日米両国政府とその政府に奉仕する政府官庁をはじめ、もろもろの企業、教育機関において、たとえみんな歯車になるとしても、少しでも、よりましな「ポスト」を目指し続けるのだから、これまたどうにもならない始末となる。

それこそ、そんなアホな「生き方」をやめて、「新しい生活様式」を、自分たちが自らの手で、頭でもって、創造すればいいのに。問題は、そんなことを今の社会で許されるわけがないということだ。(このくだりを、「そのもの言いはおかしいじゃろが」と、すぐさま、腹を立てた人がいれば、まだ救いはあるかもしれない、なぁ。とにかく、先へ進む。)

誰かが誰かの歯車となって、働き続けなきゃならない。その予備軍として、子供や学生は学校で学んでいる。誰かの歯車にならないように、とそれこそ家族一丸となって、お互いを叱咤激励しながら、まさに「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の中で、「自己決定権」の拡大(消失)を巡る争奪戦の渦中に、身を投じているのだが、このコロナ禍で、勿論それ以前においてもそうであったのだが、その夢も半ばで、より一層その歯車の役割を担う羽目となる者が、多数生み出されたのは、もう今さら言うまでもないことだろう。

最後に一言。

すぐ上のくだりに関して言えば、前回に紹介したイアン・ブレナー氏が、コロナ禍以後の世界では、AIやその他の労働力削減に貢献する第4次産業革命の下で、ますます中間層や労働者の雇用が喪失していくことにより、一握りのエリート階層に対する嫉妬が生まれる云々と語っていたが、これはB、C、Aの世界(セカイ)のAに特に該当する、と私はみている。

[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]
ありがとうございました。

http://www.asyura2.com/20/senkyo272/msg/318.html#c20

[経世済民134] ポストコロナに起こる5大変化「今は苦境のフリーランスが台頭する」(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
9. オニクタラム[12] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月07日 18:22:58 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[12]
〈「コロナ以後の世界」は大きく変わる〉と言われるのに、どうして私の〈晩酌の「白酒」〉は、大きく変わらないのか。

もう「コロナ以後」がどうとか、こうとかの話が、メディアをにぎわしている。その中に、コロナ以後の世界は大きく変わる云々の話がある。本当にそうなのか。私はもういい加減にそんな話はやめてほしいと、願うばかりである。

それでは、コロナ以前の社会はどうだったのか。「1%対99%」の格差社会と言われていた。それではコロナ以後の世界は、「99%対1%」の世界にでもなるというのか。もしそうなるのであれば、99%に位置する者からすれば、「大きな変化」だと言っても構わないだろう。

勿論、そんなことにはならない。むしろ1%の中でも、99%に落ちてくるものがいるだろうが、基本的には、おおざっぱな表現の仕方ではあるが、ごく一部の超富裕層、そして富裕層から、中間層、下層へと至る区分にあまり変動はないだろう。

それでは何をもって、大きな変動というのだろうか。確かに、AIを始めとして、私たちの技術革新の波はすさまじい勢いだ。テレワーク、ライン授業、その他の第4次革命がもたらした新しい変化が、このコロナ騒動の自粛の中で、私たちの生活や経済活動や教育活動に大きく貢献していることは、間違いないだろう。

ただし、そうした大きな変化が、先の格差構造の大きな変化につながるのかと言えば、勿論、それはそうではない。むしろ技術革新は、コロナ以前における私たちの格差社会の構造を、とくにかつての先進諸国においては、ますます深化させていくことにつながるとみた方がいい。

そうした意味では、コロナ以前も以後も、私たちの社会の「中身」は、それほど変わるものではない。先進諸国に暮らす者にとっては、良くなることはない。逆に、これまでの中心諸国や、後進諸国においては、少し希望が見えるかもしれないが、つまり、分厚い中間層の形成はまだこれから先だということを鑑みた場合の話だが、それでも、私たちの社会階層の序列に際立った変化がみられるとは、私には思えないのだ。

換言すれば、外部の、外面的な世界における変化、例えば上でも紹介したように、第4次革命に伴う、大きな変化はみられたとしても、そのことが、私たちの社会の内部の、内面的な「中身」の変化をもたらすとは思われないのである。そう考えていくとき、「コロナ以後の世界の大きな変化」を喧伝する論者等は、一体何を歓迎しているのだろうか。誰のための「代弁者」として行動しているのだろうか。

ところで、最近の私は、50度前後の「白酒」を飲みながら、痛風の再発に恐れおののいている始末だが、コロナ以前も、以後も、その中身が変わるとは思えない。そこに大きな変化があっては困るのだ。(この私の気持ちは、私とは住む世界が全く違う超富裕層も、上述した「1%対99%」の文脈では、同じではあるまいか。)もっとも、技術革新の恩恵を受けて、その中身を入れる外部の瓶や外側の箱は、変わるかもしれない。ひょっとすれば、そこに、すなわち外部の外面的なところでは、それこそコロナ以後に、大きな変化が現れるのかもしれないが。さらに、意地の悪い言い方をすれば、技術革新は、いつも生まれている。その程度と規模は異なるにしても。

最後に一言

そうした点を踏まえた上で、私は思うのだ。相変わらず、コロナ以前も以後も、私の言う、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)の何ら変わり映えのしない世界が、続いていくだけである、と私は、今日も「白酒」を飲みながら、「やっぱりお酒はこれに限る」と、もう夢の中である。そういえば、白酒で思い出したが、Bの先頭は中国であった・

最後に一言

このすぐ上の私の夢の中云々を不謹慎という読者がいたら、まだ救いだろうが、そういうものが一番、駄目なんだろう、私と同じだから。私の知人が、どうしてみんな怒らないのか、なぜ暴動が起こらないのかと私に聞くから、それは、お前さんがその中にいないからだよ、と返したんだが。それもまた、私に対して、その通りなのだ。

私のグー・ブログ記事(日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える)に投稿した記事です。ご笑覧くだされば幸いです。
ありがとうございました。

http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/423.html#c9

[経世済民134] ポストコロナに起こる5大変化「今は苦境のフリーランスが台頭する」(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
15. オニクタラム[13] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月08日 12:03:42 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[13]
Kの方でしょうかね。Hのオニクタラムです。私のブログ記事に目おとおしていただきまして、ありがとうございました。あなたのコメントを拝読いたしました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/423.html#c15
[経世済民134] 元日銀参事・岩村充氏があぶりだす「黒田バズーカ」の本質 注目の人 直撃インタビュー(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
11. オニクタラム[14] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月08日 20:59:34 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[14]
いつも多くの記事投稿者と、それにコメントされる読者の方々から、多くのことを学ばせていただき、ありがたく存じます。ここにコメントされた方で、もし興味のある方に是非ともお目をとおしてもらいたいと思いまして、少し長いブログ記事で申し訳ありませんが、ご照覧いただければ幸いです。なお。グー・ブログ記事[日本の「政治」の〈可能性と〉〈方向性〉について考える]から抜粋したものです。もしこの記事に関心を抱かれた読者がいらっしゃいましたら、以前の記事のも是非ともお目をお通しください。

21世紀版『危機の20年』ならぬ『(中国が覇権国へと至る)危機の20年』に引き起こされる「出来事」とは

前回までの一連の記事において、21世紀の危機の20年において予想される出来事を、20世紀版『危機の20年』をもとにしながら、同時にE・H・カーの著作の内容に縛られることなく、その比較論的考察を試みてきた。それぞれの危機の20年において共通する出来事とそうでない出来事を、私の〈「システム」とその関係の歩み〉に関するモデルを使って抽出するとき、以下のように示される。

(共通する点)

いずれの20年においても、システムとその関係の歩みを前提とした中で、それぞれの出来事が導かれていることがわかる。それらの出来事に共通しているのは、A、B、Cの、またB、C、Aの相互間における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為を巡る「自己決定権」の争奪戦にみる差別と排除の関係である。もう少しわかりやすく言うならば、AはBやCに対して、BはCに対して、少しでも、より優位となる地点に位置しようと努めていることである。その結果として、CはBとAに対して、BはAに対して、より劣位の地点に置かれることを甘受せざるを得なくなる。

そうした関係が「大恐慌期」(急いで付言しておくと、21世紀版の〈大恐慌期〉については注釈が必要となるだろうが、私は今のコロナ騒動に伴う経済状況の悪化を捉えて、21世紀の大恐慌期とはみてはいない。それが起こるとすれば、私のモデルから判断して、もう少し先のことだと理解している。)と呼ばれる経済状況の悪化に対するA、B、C、あるいはまた、B、C、Aグループとその政治指導者における「危機」対応に大きく影響するのである。元より、A、B、Cの関係におけるB、矢Cは、特にCにおいては、それこそ爪に「危機」なのである。というのも、CはAやBの植民地や従属地に置かれていることから、主権国家とか国民国家という形での危機を体験することがそもそもできないのだ。しいて言うならば、Cグループ内の反・植民地、反・従属地運動を展開する政治指導者においては、今なお主権国家、国民国家の形成を目指す途上にあるからである。

こうした点に関して、付言すれば、「危機」や「通常通り」あるいは「戦争」という用語の使用法は、A、B、Cの、またB、C、Aのグループ間の政治的共同体とそこに暮らす人々がシステムとその関係の歩みにおいて、どの「段階」(地点)に位置しているかによって、それらの受け止め方や見方が自ずと異なってくるのは言うまでもないであろう。たとえば、Cにおいては、危機や戦争が「通常通り」となるのではあるまいか。こうした点を、いつも銘記しておくことが私たちには必要なのだ。

(異なる点)

21世紀の危機と想定される出来事が、20世紀の戦間期の「危」とされた時期の出来事と一番異なるのは、差別、排除する側に位置していたAグループが、今度は差別され排除される側へとその立ち位置を逆転するに至ったということである。(「システム」とその関係の歩みの観点から換言するならば、B、Cはその発展の「高度化」を歩むことができるのに対して、Aはその「低度化」をひたすら辿らざるを得なくなることを意味している。)すなわち、BからもCからも差別され、排除されている。ところが、未だにこの事実というか、この現実を多くのAグループの政治指導者はもとより、多くの国民は感じてはいないのではあるまいか。

たとえば、A、B、Cの関係を前提としていた、そうした差別と排除の関係が許されていた時期の「民主主義」、つまり自由民主主義体制と、今のB、C、Aの関係を前提とした、すなわちこれまで差別し、排除する側に位置していたAが、差別され、排除する側へと追いやられた時期の自由民主主義体制の、Aにおける発現形態は高いレベルの福祉国家を実現できなくなっている。逆に、そうした民主主義の発展の低度化に加えて、BやCグループからの「ヒト・モノ・カネの大移動」に伴う構造的圧力を受け続け、その結果として、Aのかつての中間層は解体され、これまで享受してきた豊かさを失っている。そうした状態に輪をかけるように、移民や難民の流入により、さらにAの諸国に暮らす人々の富が収奪されていく。(これらの話に関しては、以前のブログ記事でも論及している。)

21世紀における、こうした民主主義体制を構成するB、C、A間の差別と排除の関係を的確に描くことが、今後ますます社会科学に従事する研究者には望まれるだろう。なぜなら、もしそうした作業が手つかずのままに置かれてしまったならば、私たちはまた大恐慌期と想定される時期において、ただ拱手傍観するだけではないか。その挙句、移民や難民流入とそれに伴う排斥問題を、政治思想や政治的価値としての「自由主義」の抱える問題云々とか「ポピュリズム」の問題云々に矮小化してしまい、民主主義の形成と発展と変容の問題にまで目を向けることもできないままに終わってしまうだろう。もしそうであるのならば、私がこれまで読者に問い続けてきた〈「システム」とその「関係」の「歩み」〉云々の次元の話には到底至らないのは必至となるであろう。

それゆえ、一番肝心な対策ができなくなるのである。それは何か。普遍的人権で保障されている通商の自由、つまり営業の自由とそれをもとに稼いだ富を懐に蓄積する私的財産権の自由(保障)にメスを入れることができなくなるのだ。それは公共の福祉とか制限といった次元の問題ではなく、見直し作業の必要性を問うことなのだ。当然ながら、憲法は、とくにこうした内容に関連した、関係した条項は「改正」しなければならないのである。

勿論、これもまた何度も指摘してきたように、それができないから問題なのだ。付言すれば、私がここで言及している「できないのだ」という物言いは、こうした話の流れさえ理解できない者が多数を占めていること、それが何より問題だということなのだ。まさにシステム人なのだ。

とても広いとは言えない土地(マンションのたとえ話はここではしない)を、2・30年ローンで契約し、購入し、そこに家を建てる。そのマイホームで楽しい我が家をとの思いで、毎日身を粉にして働き、ローンの返済に努め、やっと手にした我が家には、妻も子供もいなくなり、寂しく一人で余生を過ごす、そんな人生だとしても、男どもはそうした生き方しかできなかったのだ。

そんな男たちからすれば、営業の自由とか私的財産権は神聖不可侵ではないか。「空気」みたいなものだから、その空気とそれがつくり出す関係など、まさか私の語るシステム云々の話など、それこそ糞(くそ)みたいなもの、いや糞となるのだ。こうした「私」に理解などできないだろう。理解する必要もないし、それすら感じないのである。これまた仕方のないことだ。「システム人」としての私ことオニクタラムならぬ村田邦夫がたどってきた道だから、人様に対してエラそうなことなど何も言えない、それは確かなことである。

それにもかかわらず、こうして話を続けているのは、これまた何度も言うように、「それにもかかわらず」という問題があり、同時にそれに関連して、たとえ結果は同じような事態に陥ったとしても、避けられるべき最小限度の努力は、やはり怠ってはならないということであり、その努力とは、「してはならない」ことをしないように努めるということなのである。

ただし、私がここで「想定」している21世紀版『危機の20年』も、20世紀のそれと同じような道を、すなわち「戦争」へと至る道をたどるのではあるまいか。(誤解のないように、ここでもまた付言しておくと、既にいろいろな識者により湾岸戦争頃を起点として「第三次世界大戦」が始まったとの見解が提示されている。これについて、私の見方もそれほど異なるものではないが、それを踏まえた上で、ここで私が言う戦争とは、日本が巻き込まれる、巻き込む「戦争」をとくに意味していることをここで断っておきたい。)大恐慌期とそれに前後した経済情勢の悪化とか危機と、それに伴う国内政治状況の混乱とそれに対処すべき台頭する強権的政治指導者とその政治支配云々の問題がマスコミを、今後ますますにぎわすことになるのかもしれない。そしてひょっとして、21世紀版ヒトラーに象徴される政治指導者が世界を攪乱することになるのかもしれない。

しかし、私がここでも声を大にして読者に訴えておきたいのは、私たちが本来問うべき根木問題は、そうした出来事をつくり出す仕組みではないのか、つまり構造こそが問題だということなのだ。20世紀の危機においては、{[A]→(×)[B]→×[C]}の、そして21世紀においては、{[B]→(×)[C]→×[A]}のシステムとその関係の歩みこそが本来ならば、俎上に載せられるべき問題なのだということを。

それゆえ、そうであるからこそ、そうした「システム」とその関係の歩みを、まさに「システム人」として担い、支え続けてきた「私」とその生き方こそも同様に俎上に載せられてしかるべき問題なのではあるまいか。「私(あなた)」と「あなた(私)」とまた別の「私(あなた)」と「あなた(私)」から構成される「公的空間」の構成員たる私たちこそが本当ならば、責任を負うべき「真犯人」なのではあるまいか。

そうしたシステムとその関係の歩みは、「金の成る木」であり、いつも戦争を引き起こすのである。そのシステムがヒトラーを、逆に言えば、レーニンやスターリン、チャーチルやF・ルーズベルトや蒋介石、毛沢東、そして近衛文麿や東条英機を歴史の、つまり「システム」とその関係の歩みの「舞台」に登場させるのだ。(忘れてならないのは、彼ら指導者を選出、選択するのはすぐ上でも述べたように、私たちシステム人であることを。)またそうした政治指導者を登場させるために、大恐慌期やその前後の経済危機とそれに伴う国民とその生活困窮状況、状態がつくられるのだ。そのためにFRBとか各国の中央銀行という名の民間銀行や株式市場が設置されるのだ。

(今回は、ここまで。)
ありがとうございました。

http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/424.html#c11

[経世済民134] 元日銀参事・岩村充氏があぶりだす「黒田バズーカ」の本質 注目の人 直撃インタビュー(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
12. オニクタラム[15] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月08日 21:13:04 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[15]
すぐ上に投稿しましたJのオニクタラムです。「笑覧」とすべきが「照覧」になっていましたら、それこそお笑いください。ほかにもかなり護持。脱字があるかもしれませんが、目が不自由なためになかなかうまくいきません。勿論、私と同じく視覚障碍者第1種1級の方でも、苦も無く文章を書かれる方がたくさんいらっしゃいますので、私のここでの物言いは、いいわけにすぎません。ごめんなさい。
http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/424.html#c12
[経世済民134] 元日銀参事・岩村充氏があぶりだす「黒田バズーカ」の本質 注目の人 直撃インタビュー(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
13. オニクタラム[16] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月08日 21:17:28 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[16]
すいません。Kのオニクタラムです。誤字が、護持でしたね。誠にすいません。
http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/424.html#c13
[カルト26] シャン・馬渕・世界は中国とディープとトラの三つ巴、馬渕はトラ派。私にはディープとトラが同根に見えるが、ディープを潰す事… ポスト米英時代
2. オニクタラム[17] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月09日 00:04:06 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[17]
「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

久しぶりで、馬淵氏の話を「ユーチューブ」で聞いたところ。『阿修羅』の「総合アクセスランキング(瞬間)」のとある記事での「コメント」を散見しているときに、見つけた次第。

以前に、拙論・拙著において、馬淵氏の著作と「ユーチューブ」での話を、藤井聡氏の著作(『グローバリズムが世界を滅ぼす』)と絡めて論述したことがある。両氏ともに、刺激的な論説を展開されてきている。巣ごもり状態の私には、とてもうらやましい限りだ。

いろいろなことをご教示いただいているが、どこか少しというか、大きく見方を異にしている。もっとも、それがいけないとか、悪いという話では、勿論ないことは言うまでもない。私に言わせれば、いつもそこから先がぼかされているような感じなのだ。ただし、誰かと「コラボ」して、自説を鍛え直したいとすれば、必ずコラボに参加をお願いしたい論客のお二人であることは間違いない。

そこで、今回は、馬淵氏の最初に示された「三つ巴」の話を、私の「システム論」とコラボさせながら、論を展開してみたい。

馬淵氏は、今のコロナ戦争で激化している、あらわとなった「三つ巴の戦争状態」を以下のように整理している。

@中国の覇権掌握に向けての動き

A「ディープ・ステート」による「一つの世界」実現に向けての統合化の動き

Bトランプ大統領の説く「自国第一主義」へと各国政府が向かう動き

なお、馬淵氏は、日本政府が、Bを選択することを願っている。

それでは、こうした馬淵睦夫氏の説く「新しい世界秩序」の構築を目指した、「三つ巴の戦争状態」が世界で始まっている云々の話を、以下のように問い直すことによって、捉え直してみたいのである。

すなわち、「新しい世界秩序」の下で、世界(セカイ)の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「営為」とその「関係」はいったい、どのような形となっているのだろうか、ということである。

私は、これに関しては、コロナ戦争以前から、同時にまたコロナ戦争後も、一貫して1970年代を分水嶺とした70年代以降に形成され、発展の歩みを辿っている〈「システムとその「関係の歩み」〉が、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に描かれるシステムとその関係の歩みが、ますます強固となって、発展しているとみている。

Bの先頭を次期覇権国の中国が担い、Aの先頭にこれまでの覇権国であった米国が位置する、そうした関係である。ちなみに、Aの中位以下に今の日本は位置しているものの、さらに、その地位は下降することを免れない、と私は論じてきた。

こうしたB、C、Aから構成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、@,A、Bの動きは、それぞれが相互に対立・衝突するように見えながらも、支え合う、支え合わざるを得なくなっているのだ。

早い話は、「腹がへっては戦ができない」し「服も着ないで、それこそプリンならぬプリーーで、戦えないだろうが。女性蔑視となるから、そこはパスした。しかし今の時代なら、これもまずいよな、男性蔑視で批判されるだろうが、お行儀良く述べると、伝わらないと思ったので、悪しからず。後で、またーーでごまかした。

@とAの動きは、何ら「矛盾」などしていない。それどころか、相互にお互いを利用しながら、先の営為を担い、支えていることは間違いないのである。

また、Bのように、たとえ、自国第一主義を唱えていても、未だにA(グループ)の米国は、B(グループ)の中国やロシア、そしてC(グループ)の中東やアフリカ諸国との「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係から、足を洗うことはできないままなのだ。勿論、日本もその例外ではない。つまりは、自国第一主義を説く前に、B、C、Aの関係から成る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係を、まさに「第一」としなければならない、「自国第一主義」にならざるを得ない、と言うことを銘記しておかなければならないのである。

石油をはじめ、鉱物資源、食糧、その他の生活必需品に至るまで、輸入と輸出の経済活動を閉ざすことは容易ではない。Bは、あくまでも「ポーズ」となる以外の何物でもあるまい。日本の小泉や安倍政権下の腰砕け外交を見れば、失礼、そもそも腰などなかったわい。

いずれにしても、何が私たちにとって問題なのかを、問題とすべきなのかを考えるとき、馬淵氏の議論は、また藤井氏もそうなのだが、「そこから先」の話がぼかされているのではあるまいか。もっとも、私のような議論を展開する者は、読者に嫌われてしまうのだ。ほどほどでいいのだ。どうせ何を言っても、何をしても「どうにもならない世の中」だから、ほんのひと時でもいいから、留飲を下げてくれる、そんな読み物で丁度、都合がいいのだろう。批判する者と批判される者がバランスよく共生・共存できるのだから、めでたし、めでたしではあるまいか。

しまった。「子供の日」の「子供」にも満たない私なのに、またエラソーなことを。
ついでにあと一言。
「新しい世界秩序」をつくり出すのは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉それ自体である。システムとその関係の歩みの中から、@ABの動きがつくり出されるのである。この逆ではないことを、念のために述べておきたい。中国も、国際団体も、米国を始めとした各国政府も、システムには逆らえないのである。

誤解のないように、またまた一言。だからと言って、それでは何もできない、と私はサラサラいうつもりはない。これに関しては、摂拙著『覇権システム下の「民主主義」論』の「伊予エスニック・グループ」「伊予共同体」ナンチャラを斜め読みお願いしたい。なんか、ここにきて、土クサイ、田舎のニオイがしてきたようで、正気になったようだ。

ここまで、お付き合い、ありがとうございました。
今また、少し加筆修正したので、「現在の日時」に直して、投稿している。
[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]2020年5月5日のブログ記事より
もしよければ、ご一読ください。
ありがとうございました。

http://www.asyura2.com/20/cult26/msg/577.html#c2

[カルト26] シャン・馬渕・世界は中国とディープとトラの三つ巴、馬渕はトラ派。私にはディープとトラが同根に見えるが、ディープを潰す事… ポスト米英時代
3. オニクタラム[18] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月09日 00:39:44 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[18]
Aのオニクタラムです。上の記事に追加して、5月6日のブログ記事を張り付けさせてもらいます。ご笑覧ください。なお、先のAの記事の下の方で、拙著が、攝拙著となっていたように思います。ごめんなさい。

「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

戦間期の「大恐慌期」において特徴的な動きは、当時の先進国が独自に建設した「帝国」との関係を維持した中で、自国経済の「ブロック化」に着する動きであった。そうした動きのあおりを受けたのが、帝国建設の後発国であった日本やドイツイタリアである。

今から、戦間期の世界の「衣食足りて(足りす)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みを振り返るとき、戦間期の以前、戦間期の大恐慌期とそれ以後において、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)に描かれる〈「システム」とその「関係の歩み」〉は、たとえ第一次世界大戦とその後の大恐慌期その後の第2次世界大戦、そして「冷戦」と呼ばれた時代の中で、たとえ紆余曲折の歩みを辿ったとしても、モデルで示される歩みであった、と私は理解しているのである。

同様に、これまで私が語ってきたように、1970年代以降から、コロナ以前の時期においても、またコロナ以後の時期においても、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に示されるように、〈「システム」とその「関係の歩み」〉には、大きな変化は見い出されない、と私はみているのである。

確かに、新興国で展開されていた、かつての先進国の経済活動が、このコロナ危機により、自国へと舞い戻る動きが出てくるのは否定できないだろう。さりとて、これまで、コロナ以前の頃に開発してきた経済活動のネットワークを、全て寸断してまで、本国に戻るというイアン・ブレナー氏の見方に対して、私は素直に同意はできないのだ。

転換期におけるのと同様に、コロナ以前につくり上げた中国を始めとしたインドや東南アジア、中央アジア、南アジア、そしてアフリカとの経済交流関係は、維持・継続したままで、しばらくは本国を拠点とした活動に専念するのがせいぜいのところではあるまいか。たとえ、米国やイギリス、その他の主要諸国が、自国第一主義を選択したとしても、はたして、そうした動きが、今日の世界の動きの中で許されるのであろうか。

たとえ、かつての先進国が、自国第一主義をとって、翻刻に拠点を移すとしても、中国は決して、そうはならないだろう。むしろ、もし米国やイギリスなどのかつての覇権国がおとなしく自国で活動するのならば、中国はこれまでになく、世界の「親分ー子分」関係のネットワークづくりに邁進できるに違いない。これこそが、中国の覇権国化を促進する流れとなる道ではあるまいか。

いずれにせよ、私には、今やこれまでの先進国が、かつての「金の成る木」として、その輝きを復活させるとはとても思われないのだ。システムとその関係の歩みにおける「高度化」と「低度化」の役割を逆転させることはできない、と私は考える。

さらに、たとえ、自国第一主義の経済を掲げるとしても、世界の警察官の役割を引き受けようとしている中国やその中国としばらくは合従連衡の動きを示すであろうロシア、またインドや、ブラジルといったBグループ、さらには、中東やアフリカ諸国のCグループとの経済活動における、何らかの協力関係抜きには、もはやAグループの生き残る道は残されてはいないのではあるまいか。

先の私のシステムとその関係の歩みを見るとき、BとCの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みだけでも、世界の歯車は順調に回転していくのではあるまいか。そこでは、Aに替わって、Cが新たにつくり出されるだけである。すなわち、{[B]→(×)[C]→×[C’]}のシステムとその関係の歩みが新たに創り出されるだけである。

こうしてみてくるとき、私には、ブレマー氏の見解はあまりにもかつての先進国を中心とした物語を描いているとしか、見えないのだ。そこには傲慢さが潜んでいるのではあるまいか。もっとも、こうした見解の論者は、時の政権にもてはやされるだろうが、その見解は、あまりにも内向きなローカルな見方ではあるまいか。誤解のないように一言申し添えておきたい。それではグローバルな世界が快適なのか、と問われれば、私の描くシステムとその関係の歩みが、まさにグローバルな世界を示していることを鑑みるとき、それもまた憂鬱なものだと言わざるを得ないのだが、私たちはもはやその世界に深く身を置いているということだけは、自覚しておいた方がいいだろう。

最後に一言。

〈「システムとその関係の歩み〉からすれば、イアン・ブレマー氏のような見解が流行するのは、好都合だとされるのは、言うまでもない。かつての米・ソ「二大」強国が対立・主導する「冷戦」という「つくり話」を、世界大に吹聴する見解がまたそうであったように。

〈「システム」とその「関係の歩み」〉を注意深く観察するとき、その時代ごとに、突然「世界の叡智」だとか「知性」だとかに祀り上げられ、その名が喧伝される思想家や歴史家、社会学者が登場することに気が付く。こうした片棒を担ぐことを、NHKは臆面もなく行っているのだが、申し訳ないが、その時間帯の受信料を換算して、次のそれに回してほしい、と切に願う私なのだ。 

ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/20/cult26/msg/577.html#c3

[カルト26] シャン・馬渕・世界は中国とディープとトラの三つ巴、馬渕はトラ派。私にはディープとトラが同根に見えるが、ディープを潰す事… ポスト米英時代
4. オニクタラム[19] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月09日 00:57:37 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[19]
ABのオニクタラムです。
いきなりA、B、Cとか、B、C、Aと言われても困ると言われる方もいらっしゃるだろうと思いますし、また、それは当然でしょう。また図式の省略形、共時態モデルもそうでしょう。
厚かましいお願いですが、私の以前のブログ記事を参照してくだされば、幸いです。
ここでは、A、B、C、またはB、C、Aについてだけ述べておきます。
Aは先進国(文明)として、Bは中進国(半開)として、Cは後進国(野蛮)として位置付けています。なお、文明、半開、野蛮の呼称は、福沢諭吉の『文明論之概略』に従って使用しています。
ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/20/cult26/msg/577.html#c4
[経世済民134] ポストコロナに起こる5大変化「今は苦境のフリーランスが台頭する」(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
23. オニクタラム[20] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月09日 14:57:51 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[20]
Eのオニクタラムです。あまり読まれない私のブログ記事ですが、Eの記事の前々回、旋回にあたるものです。少し長くなりますが斜め読みをお願いします。
ポスト・コロナの世界を、違う観点から描いた世界です。

「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

久しぶりで、馬淵氏の話を「ユーチューブ」で聞いたところ。『阿修羅』の「総合アクセスランキング(瞬間)」のとある記事での「コメント」を散見しているときに、見つけた次第。

以前に、拙論・拙著において、馬淵氏の著作と「ユーチューブ」での話を、藤井聡氏の著作(『グローバリズムが世界を滅ぼす』)と絡めて論述したことがある。両氏ともに、刺激的な論説を展開されてきている。巣ごもり状態の私には、とてもうらやましい限りだ。

いろいろなことをご教示いただいているが、どこか少しというか、大きく見方を異にしている。もっとも、それがいけないとか、悪いという話では、勿論ないことは言うまでもない。私に言わせれば、いつもそこから先がぼかされているような感じなのだ。ただし、誰かと「コラボ」して、自説を鍛え直したいとすれば、必ずコラボに参加をお願いしたい論客のお二人であることは間違いない。

そこで、今回は、馬淵氏の最初に示された「三つ巴」の話を、私の「システム論」とコラボさせながら、論を展開してみたい。

馬淵氏は、今のコロナ戦争で激化している、あらわとなった「三つ巴の戦争状態」を以下のように整理している。

@中国の覇権掌握に向けての動き

A「ディープ・ステート」による「一つの世界」実現に向けての統合化の動き

Bトランプ大統領の説く「自国第一主義」へと各国政府が向かう動き

なお、馬淵氏は、日本政府が、Bを選択することを願っている。

それでは、こうした馬淵睦夫氏の説く「新しい世界秩序」の構築を目指した、「三つ巴の戦争状態」が世界で始まっている云々の話を、以下のように問い直すことによって、捉え直してみたいのである。

すなわち、「新しい世界秩序」の下で、世界(セカイ)の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「営為」とその「関係」はいったい、どのような形となっているのだろうか、ということである。

私は、これに関しては、コロナ戦争以前から、同時にまたコロナ戦争後も、一貫して1970年代を分水嶺とした70年代以降に形成され、発展の歩みを辿っている〈「システムとその「関係の歩み」〉が、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に描かれるシステムとその関係の歩みが、ますます強固となって、発展しているとみている。

Bの先頭を次期覇権国の中国が担い、Aの先頭にこれまでの覇権国であった米国が位置する、そうした関係である。ちなみに、Aの中位以下に今の日本は位置しているものの、さらに、その地位は下降することを免れない、と私は論じてきた。

こうしたB、C、Aから構成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、@,A、Bの動きは、それぞれが相互に対立・衝突するように見えながらも、支え合う、支え合わざるを得なくなっているのだ。

早い話は、「腹がへっては戦ができない」し「服も着ないで、それこそプリンならぬプリーーで、戦えないだろうが。女性蔑視となるから、そこはパスした。しかし今の時代なら、これもまずいよな、男性蔑視で批判されるだろうが、お行儀良く述べると、伝わらないと思ったので、悪しからず。後で、またーーでごまかした。

@とAの動きは、何ら「矛盾」などしていない。それどころか、相互にお互いを利用しながら、先の営為を担い、支えていることは間違いないのである。

また、Bのように、たとえ、自国第一主義を唱えていても、未だにA(グループ)の米国は、B(グループ)の中国やロシア、そしてC(グループ)の中東やアフリカ諸国との「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係から、足を洗うことはできないままなのだ。勿論、日本もその例外ではない。つまりは、自国第一主義を説く前に、B、C、Aの関係から成る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係を、まさに「第一」としなければならない、「自国第一主義」にならざるを得ない、と言うことを銘記しておかなければならないのである。

石油をはじめ、鉱物資源、食糧、その他の生活必需品に至るまで、輸入と輸出の経済活動を閉ざすことは容易ではない。Bは、あくまでも「ポーズ」となる以外の何物でもあるまい。日本の小泉や安倍政権下の腰砕け外交を見れば、失礼、そもそも腰などなかったわい。

いずれにしても、何が私たちにとって問題なのかを、問題とすべきなのかを考えるとき、馬淵氏の議論は、また藤井氏もそうなのだが、「そこから先」の話がぼかされているのではあるまいか。もっとも、私のような議論を展開する者は、読者に嫌われてしまうのだ。ほどほどでいいのだ。どうせ何を言っても、何をしても「どうにもならない世の中」だから、ほんのひと時でもいいから、留飲を下げてくれる、そんな読み物で丁度、都合がいいのだろう。批判する者と批判される者がバランスよく共生・共存できるのだから、めでたし、めでたしではあるまいか。

しまった。「子供の日」の「子供」にも満たない私なのに、またエラソーなことを。
ついでにあと一言。
「新しい世界秩序」をつくり出すのは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉それ自体である。システムとその関係の歩みの中から、@ABの動きがつくり出されるのである。この逆ではないことを、念のために述べておきたい。中国も、国際団体も、米国を始めとした各国政府も、システムには逆らえないのである。

誤解のないように、またまた一言。だからと言って、それでは何もできない、と私はサラサラいうつもりはない。これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論』の「伊予エスニック・グループ」「伊予共同体」ナンチャラを斜め読みお願いしたい。なんか、ここにきて、土クサイ、田舎のニオイがしてきたようで、正気になったようだ。

ここまで、お付き合い、ありがとうございました。
[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]、(グー・ブログ記事)

「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

戦間期の「大恐慌期」において特徴的な動きは、当時の先進国が独自に建設した「帝国」との関係を維持した中で、自国経済の「ブロック化」に着する動きであった。そうした動きのあおりを受けたのが、帝国建設の後発国であった日本やドイツイタリアである。

今から、戦間期の世界の「衣食足りて(足りす)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みを振り返るとき、戦間期の以前、戦間期の大恐慌期とそれ以後において、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)に描かれる〈「システム」とその「関係の歩み」〉は、たとえ第一次世界大戦とその後の大恐慌期その後の第2次世界大戦、そして「冷戦」と呼ばれた時代の中で、たとえ紆余曲折の歩みを辿ったとしても、モデルで示される歩みであった、と私は理解しているのである。

同様に、これまで私が語ってきたように、1970年代以降から、コロナ以前の時期においても、またコロナ以後の時期においても、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に示されるように、〈「システム」とその「関係の歩み」〉には、大きな変化は見い出されない、と私はみているのである。

確かに、新興国で展開されていた、かつての先進国の経済活動が、このコロナ危機により、自国へと舞い戻る動きが出てくるのは否定できないだろう。さりとて、これまで、コロナ以前の頃に開発してきた経済活動のネットワークを、全て寸断してまで、本国に戻るというイアン・ブレナー氏の見方に対して、私は素直に同意はできないのだ。

転換期におけるのと同様に、コロナ以前につくり上げた中国を始めとしたインドや東南アジア、中央アジア、南アジア、そしてアフリカとの経済交流関係は、維持・継続したままで、しばらくは本国を拠点とした活動に専念するのがせいぜいのところではあるまいか。たとえ、米国やイギリス、その他の主要諸国が、自国第一主義を選択したとしても、はたして、そうした動きが、今日の世界の動きの中で許されるのであろうか。

たとえ、かつての先進国が、自国第一主義をとって、翻刻に拠点を移すとしても、中国は決して、そうはならないだろう。むしろ、もし米国やイギリスなどのかつての覇権国がおとなしく自国で活動するのならば、中国はこれまでになく、世界の「親分ー子分」関係のネットワークづくりに邁進できるに違いない。これこそが、中国の覇権国化を促進する流れとなる道ではあるまいか。

いずれにせよ、私には、今やこれまでの先進国が、かつての「金の成る木」として、その輝きを復活させるとはとても思われないのだ。システムとその関係の歩みにおける「高度化」と「低度化」の役割を逆転させることはできない、と私は考える。

さらに、たとえ、自国第一主義の経済を掲げるとしても、世界の警察官の役割を引き受けようとしている中国やその中国としばらくは合従連衡の動きを示すであろうロシア、またインドや、ブラジルといったBグループ、さらには、中東やアフリカ諸国のCグループとの経済活動における、何らかの協力関係抜きには、もはやAグループの生き残る道は残されてはいないのではあるまいか。

先の私のシステムとその関係の歩みを見るとき、BとCの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みだけでも、世界の歯車は順調に回転していくのではあるまいか。そこでは、Aに替わって、Cが新たにつくり出されるだけである。すなわち、{[B]→(×)[C]→×[C’]}のシステムとその関係の歩みが新たに創り出されるだけである。

こうしてみてくるとき、私には、ブレマー氏の見解はあまりにもかつての先進国を中心とした物語を描いているとしか、見えないのだ。そこには傲慢さが潜んでいるのではあるまいか。もっとも、こうした見解の論者は、時の政権にもてはやされるだろうが、その見解は、あまりにも内向きなローカルな見方ではあるまいか。誤解のないように一言申し添えておきたい。それではグローバルな世界が快適なのか、と問われれば、私の描くシステムとその関係の歩みが、まさにグローバルな世界を示していることを鑑みるとき、それもまた憂鬱なものだと言わざるを得ないのだが、私たちはもはやその世界に深く身を置いているということだけは、自覚しておいた方がいいだろう。

最後に一言。

〈「システムとその関係の歩み〉からすれば、イアン・ブレマー氏のような見解が流行するのは、好都合だとされるのは、言うまでもない。かつての米・ソ「二大」強国が対立・主導する「冷戦」という「つくり話」を、世界大に吹聴する見解がまたそうであったように。

〈「システム」とその「関係の歩み」〉を注意深く観察するとき、その時代ごとに、突然「世界の叡智」だとか「知性」だとかに祀り上げられ、その名が喧伝される思想家や歴史家、社会学者が登場することに気が付く。こうした片棒を担ぐことを、NHKは臆面もなく行っているのだが、申し訳ないが、その時間帯の受信料を換算して、次のそれに回してほしい、と切に願う私なのだ。 
ありがとうございました。



http://www.asyura2.com/20/hasan134/msg/423.html#c23

[政治・選挙・NHK272] 吉村大阪府知事礼賛劇場のからくり(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
18. オニクタラム[21] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年5月11日 09:07:42 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[21]
米国は日本を支配している、逆から言えば、日本は米国に支配されている、ということですが、私もこうした見方に異論はありません。
それではその米国を支配しているのは誰なのか。その際、世界的大富豪のユダヤ人の云々とか、あるいはディープ・ステート云々の話ではなく、別の誰かを考えていくとき、私は、覇権システムという見方をとるのです。また、そこから、世界資本主義システム、世界民主主義システムとを結びつけた三つの下位システムから構成される一つのシステムの存在に行きつきました。歴代の覇権国と言えども、このシステムには逆らえません。
勿論、日本も米国と、そしてその米国も従わざるを得ないない、このシステムに支配されています。そしてそこから先に見えてくるのは、やがて、日本は中国に支配されるということです。
もし、ここまでのくだりに、少しでも興味を抱かれた読者がいましたら、私のグー・ブログ記事[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]を、ご一読ください。ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/20/senkyo272/msg/412.html#c18
[カルト27] ガキ・米中がハワイで第二次朝鮮戦争と北による統一朝鮮を議論、ゲン・戦争を望む財界。日本を巻き込まぬ為にも馬鹿の退陣は大… ポスト米英時代
1. オニクタラム[22] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年6月25日 14:39:14 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[22]
この記事に関して、私もとても興味深いものを感じています。勿論、それは喜ばしい者ではありませんし、悲しくなる話ですが、私たちはこうした仕組みの中で生きていることを、免れないということを、強く自覚する必要がある、と私は考えています。

なお、私のgooブログ記事【日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉を考える】にある拙文(2020年6月17日付)を張り付けさせてもらいます。ご一読いただければ幸いです。

「システム論」から「今の」朝鮮半島情勢を巡る論議に接するとき

朝鮮半島がまた何か騒がしそうだ。北朝鮮が何かを爆破した云々。専門家がテレビの中で忙しくしゃべっていたが、7月の都知事選を巡る昨日の私の記事にある話と同様、「システム論」の立場からは「どうでもいい話」、「関係のないこと」である。

それでは、「システム論」の観点から「どうでもいいとされてはならない話」「関係のある話」を、少しだけでも開陳しておきたい。

先ず何よりも押さえておくべき点は、たとえ朝鮮半島で有事となって、北が南を、あるいは南が北を制圧するような事態となっても、またそこから「南北統一」と「朝鮮国」の誕生という事態となったとしても、何度も語ってきたように、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)で描く「システム」には、何ら影響を及ぼすものではないということである。

Bの先頭には中国が、Aの先頭には米国が位置し、両国によるいわゆる「米・中覇権連合」の下で、「システム」は今後ますますB、Cグループにおける「高度化」とAグループにおける「低度化」を深化させていく。朝鮮半島での南北の衝突と、戦争と南北統一と朝鮮国の誕生は、「システム」のB、Cにおける「高度化」とAにおける「低度化」に作用氏ながら、「システム」全体の「高度化に、すなわち「金の成る木」としての「システム」の目標実現に貢献するのである。

「システム」内での韓国と北朝鮮の位置づけをしておくと、両者は共にBグループ内の下位か、あるいは韓国はBの下位に、北朝鮮はCの上位化中位あたりに位置しているのではあるまいか。私がここで言いたいのは、そのような両国による戦争や南北統一や朝鮮国の誕生といった「出来事」は、「システム」が、(とくにその重要な構成要素である米国と中国の両国による覇権連合の形成と発展が深く与っているが)つくり出すものであり、その意味では、「システム人」としての「己」を知る私には、とても悲しい、つらい話でしかないのだ。

少しここで「歴史」を、(私にとっては、「歴史」とは「システム」のそれを意味しているのだが、)ごくごく簡単に振り返ってみたい。

「システム」によって、19−20世紀転換期に、「今の」日本と日本人と、「今の」韓国と北朝鮮とそこに暮らす韓国人と北朝鮮人は、当時の蘭・英・仏・米とそれに加えて独・露に代表される欧米列強諸国が主導する理不尽極まりない国際秩序の下で、「どうにも始末に負えない」遭遇を迫られ、そこから対立・敵対し、朝鮮半島や中国、そして他のアジア地域とそこに生きている人々を巻き込みながら、戦争を継続し、その挙句、敗戦そして米国主導のGHQの占領下におかれ、「独立」以降も米国の半ば従属国として生きてきた。

戦後の日本と日本人は、すぐ横で引き起こされている朝鮮半島の痛ましい、悲惨な歴史を、「他人事」として見てきた、その意味では非常に「民度の低い」人間集団から構成された国家であり、その国民であったのだ。それはある面では、同情すべきことだとして論じられてもいい。というのも、「システム」は、戦争前も、戦中も、そして戦後も一貫して、民度の低い日本と日本人をつくり続けてきたのだから、仕方がないことなのだ。勿論、だれしもこんなもの言いで済まされるとは思わないだろうが、それがまた現実であったという以外にはないのである。

可哀そうなのは、韓国と北朝鮮の名も無しカネもない人々である。背負いきれない重荷を「システム」によってずっと背負わされてきたのに、当の日本と日本人はもとより、かつての欧米列強諸国と諸国民もまた同様に、他人事のように、み続けているのだ。

欧米諸国とその国民の「質(たち)の悪さ」は際立っている。(このような言い方をして誠に失礼だとは思うのだが、「民度の低い」「日本人」が話しているので、しばらくはご寛恕お願いするのみ。)と言うのも、彼らは朝鮮半島やアジア諸地域で繰り返された植民地の歴史に深く関係した「今の」モメゴトを、あたかもアジア諸国内で引き起こされた、アジア人の問題だとして、傍観したままなのである。いや、それならまだしもいいのだが、日本の「あの戦争」とそれに伴う戦後の歴史問題、従軍慰安婦問題、朝鮮半島の南北分離の原因を、日本と日本人が「すべて」背負うべき問題だとして、「国際ニュース」の題材にしていることである。そこでも常に、対立構図は韓国対北朝鮮、韓国対日本、北朝鮮対日本というように、「二項対立」図式にすり替えられたままなのだ。

こうして、私たち「システム人」としての連帯は、ことごとく「システム」により妨げられるのである。「システム」はその担い手である「システム人」を、例えば「日本人」に、「韓国人」に、「北朝鮮人」に、つくり替えていくのである。そうすることで、「本来の出自」である「システム人」としての自覚を妨げてしまい、「システム」にとって都合のいい「国民」を創るのである。

アジア地域を語る際に、「中国」と「中国人」を忘れてはならない。彼らも悲惨な歴史を歩んできた。欧米列強により、半ば植民地として蚕食され続け、「今の」香港問題もまさに、未だに半植民地時代の歴史が終わっていないことを、如実に示している。香港対中国(本土)の二項対立構図の中で、「主犯」である「システム」の重要な構成要素の英国は歴史の法廷に、「強制連行」されないままなのだ。その英国は、当時の覇権国であり、覇権システムを牽引していたことを忘れてはならない。

付言すれば、当時の覇権国である英国と他の欧米列強が中心となり主導した「システム」は、これまで何度も指摘してきたように、{[A]→(×)[B]→×[C]}の関係として描かれる。(省略形、共時態モデル)このモデルにおける当時の日本は、Bグループに、中国はCグループに、また韓国と北朝鮮はCグループの中位から下位に位置していたと私はみている。英国は中国に香港を割譲させたのだ。こんなおかしな話を「今の」私たちは、もう何もおかしなことだと判断したり評価することができないでいる。

さて、ここで冒頭の話に戻ろう。「今の」日本と日本人の中に、他人事のような顔をして、北朝鮮は怖い国だとか、韓国も「過去」の歴史を引きずり過ぎていて、とても付き合いしかねる云々を語る人がいるとすれば、と同時に、中国と中国人をことさら貶めるような物言いを繰り返すとすれば、ますます日本と日本人の安全保障は危ういものになるだろう。一刻も早く、日本人は「システム」の学習を必要としているのだが、当の「システム」が動員するマスコミの情報操作の前で、それこそ「民度の低い」幸せな国民として生き続けている。(以上)
手前みそな話で申し訳ないのですが、これで失礼いたします。

http://www.asyura2.com/20/cult27/msg/292.html#c1

[国際28] 「中国はアメリカに勝てない」ジョセフ・ナイ教授が警告(ニューズウィーク) 赤かぶ
15. オニクタラム[23] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年6月25日 19:42:31 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[23]
覇権国の興亡史を見ていくとき、オランダ、イギリス、アメリカそして中国へと移り変わる際に、ある種の「法則」のような何かを確認できます。オランダからイギリスへ、イギリスからアメリカへ、そしてアメリカから中国へと、「国富」が手渡されていく関係がみられます。また、覇権国として登場する以前のおよそ20年間にみられる政治の特徴は、強権的発動による民衆の改革要求を弾圧するところにあります。1820年代のイギリス、1920年代のアメリカの政治は、そうした抑圧的手法を特徴としていました。正直なところ、オランダに関しては少し記憶があいまいですが、いずれの国も、対内的対外的に、自由や民主主義の実現要求に対して強権的な弾圧を展開しています。
ジョゼフ・ナイ氏の見解に欠落している点は、「タイム・スパン」の視点です。中国は、これから20年後には、アメリカを凌駕する覇権国となるでしょう。ただし、アメリカが中国を覇権国とするのです。歴代の覇権国の関係は、いくら戦争を相互に展開していても、そうした関係が見いだされるのです。決して、勝ち負けの問題ではありません。これ以上、私自身面白くもない話を長々とすることはやめておきます。ここまでお付き合い、ありがとうございました。(文責、村田邦夫)
http://www.asyura2.com/19/kokusai28/msg/865.html#c15
[政治・選挙・NHK273] 軍艦島とは?韓国が世界文化遺産の登録取り消しを求め、再び注目浴びる。ある「展示」も議論に(第三者視点では「差別なかった… 戦争とはこういう物
2. オニクタラム[24] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年6月26日 10:06:41 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[24]
少し長くなることをお許しください。以下に、私のgooブログ記事【日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える】に載せた記事を二つ張り付けさせてもらいます。申し訳ありませんが、もしよろしければ、ご一読ください。もう先の人生もあまり残されていませんので、ご寛恕を。

(2020年6月24日水曜日)

(補論)なぜ今『21世紀の孫子の兵法』を語る必要があるのだろうか、『21世紀の孫子の兵法』から朝鮮半島情勢を語るマスコミ報道の愚かしさを考える

先ずは以下に引用・張り付けしたニュース記事に目をとおしてほしい。

(以下引用貼り付け)
ア msn ニュースコ

共同通信
日本政府、世界遺産で韓国に反論 軍艦島、取り消し要求巡り

共同通信社

2020/06/24 19:01

 日韓両政府は24日、外務省局長によるテレビ電話協議を実施した。日本の歴史認識を問題視し、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の登録取り消しを求めている韓国に対し、日本は「受け入れられない」と反論した。両国間で歴史認識問題が再燃する可能性がある。明治日本の産業革命遺産には「軍艦島」として有名な長崎市の端島が含まれる。

 日本政府は、明治日本の産業革命遺産に関する「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)の展示で、戦時徴用された朝鮮半島出身者が端島炭坑などで働いていたと明示する一方、差別的対応はなかったとする元島民の証言なども公開している。

(引用、貼り付け、終わり)

私は、その記事の中で、とくに次のくだりを見て、正直ながら、愕然としてしまうのである。
すなわち、−−− 日本政府は、明治日本の産業革命遺産に関する「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)の展示で、戦時徴用された朝鮮半島出身者が端島炭坑などで働いていたと明示する一方、差別的対応はなかったとする元島民の証言なども公開している。ーーー

いま世界中で、黒人差別に対する激しい抗議活動が展開しているときに、どうしてこのような無神経な見解を日本政府は世界に向かって発信するのかと、驚くと同時に、こんな政府では、前回、前々回での私の記事で述べたような取り組みや対応を期待するのはとても無理だと思ってしまった。

先の記事にある「戦時徴用された」のくだりと、「差別的対応はなかったとする元島民の証言」のくだりは、次のように置き換えられる。すなわち、「黒人徴用」と、「差別的対応はなかったとする南部住民の証言」のくだりとなる。

「差別」とは一体、どのようなことを意味しているのかを、日本政府は理解できないのである。「徴用」ということの意味すらも理解できないのではあるまいか。当然ながら、他国に土足で踏み入り、そこに暮らす人々を自分たちの都合の良いように「侵略」し、「支配」したかつての欧米列強の生き方や日本国家の生き方を、振り返って反省したりすることは望みようがないのではあるまいか。

日本政府の先の声明は、政府を構成する指導者と彼らを選んだ日本国民の歴史認識」の問題を反映していると、世界の批判にさらされても仕方がない。私の前回、前々回の記事は、そうした世界からの批判にどのように向き合えばいいのか、また批判する世界が抱える問題はどこにあるのかを、問い直すための話であった。その世界の中には、韓国も、北朝鮮も中国も、その他の欧米諸国とそこに暮らす人々が含まれている。

だが、日本政府の今回の「反論」は何ら反論とはなっていないばかりか、歴史認識問題の入り口にすら立てないことを、悲しいかな、示している。それにしてもひどすぎる。韓国側にも、相当な問題があるにもかかわらず、それすら問いただすことが許されない話であると同時に、いま抗議活動している世界の人々の目に留まれば、さらなる批判を浴びるのは必至となろう。

(2020年6月25日木曜日)

私の語る「システム」論から、あきれるほどに「しつこい」韓国と、これまたあきれるほどに「淡白な」日本の関係を読み解くとき

「韓国と日本」は、また「北朝鮮と日本」、「中国と日本」は、さらに「日本と米国」は、そしてそこからさらに、「韓国と北朝鮮と中国と日本と米国とその他諸国」は、「システム」という「同じ穴」の「狢」である。ここで注意してほしいのは、私は、「韓国」と「日本」に替えて、「韓国と日本」として語っていることである。すなわち、一国枠ではなく、関係枠から述べていることである。

過去の戦争とそれに伴う歴史認識問題や戦争責任問題は、「関係枠」を単位として議論しない限り、ほとんど生産的な話とはならないだろう。もし韓国が、こうした「関係枠」から構成される「システム」から、「日本」という国家だけを勝手に切り離して非難・批判したとしても、そうした「一国枠」を前提とした批判・非難からは、あの戦争に関する歴史認識や戦争責任といった問題を、的確にまた公正にバランスをもって論じることは、ほとんどできなくなるだろう。

開国以降の日本という国家建設の歩みには、イギリスのロスチャイルド財閥を介してイギリス国家とイギリス国民とが包含されている。むろんイギリスだけではない。その他の欧米列強諸国とその国民が包含されている。同時に、朝鮮半島や中国東北部の人々も、日本国家建設の歩みにおいて、切り離しては語れない存在であった。

こうした関係を前提として、戦争や侵略や植民地化・従属地化の歩みが引き起こされていくのであるから、もし仮に、韓国が日本の侵略戦争云々の批判や避難をするのであれば、こうした関係とそこに組み込まれた日本という存在を批判m非難しなければならなくなる。

その関係を、私は「システム」として描いてきたが、ここでは話を分かりやすくするために、先のような「同じ穴」の「狢」として述べたのである。韓国の日本の侵略批判・非難は、やがては韓国の他の地域に対する侵略として批判・非難されることを意味する。と言うのも、「システム」という「同じ穴」は、覇権システム、世界資本市議システム、世界民主主義システムの下位システムから構成されているが、それらの下位システムは、「差別と排除の関係」を基本的原理としていることから、韓国もそうした差別と排除の関係から抜け出せないことを、いやむしろ、差別され排除される側に位置するだけではなく、差別し、排除する側にも位置していることを示している。

それは、韓国自体が、「システム」の担い手としてそれを支え、強固なものにしていることから、韓国と韓国人が、たとえそうした流れを認めない、望まない、選択しないとしても、彼らの意思に関わらず、「システム」の差別と排除の関係を支え、強化していることを意味している。

そうした韓国が、どうして日本の侵略を批判・非難できるのだろうか。「同じ穴の狢」のくせに、「目糞鼻糞を笑うではない」が、誠に笑止千万なのだ。勿論、こうしたことを述べる私自身も、笑止千万な輩であることは言うまでもない。韓国が、先のシステムから抜け出す努力をする一方で、日本と日本の過去の侵略戦争を批判・非難するのなら、話はまた別だが、韓国の生き方は、そうではないのは明らかである。ただし、こうした批判の仕方は、韓国には失礼かもしれない。たとえ覇権国という最大の軍事力を要する国家であっても、「システム」から足を洗うことは許されないからである。

19世紀の半ば以降から今日に至る東アジアの歴史を描いていたのは、「システム」であり、その中でも米国やイギリス、そしてロシア(ソ連)であったということである。換言すれば、東アジアに位置する韓国、北朝鮮、日本、中国は、確かにその地域の「役者」ではあったが、それは名目にすぎず、そうした諸国を創ったのは先の「システム」とその指導的大国であったということである。

朝鮮半島情勢を決めるのは米国とロシア、そして今日では中国の国家間関係であり、日本の針路を決めるのは、その米国と中国、そしてロシアとの国家間関係である。その意味では、韓国、北朝鮮、日本は、いわば操り人形と化した形式だけの国家として存続してきたわけである。

そうした「システム」とそれを牽引する中心的役割を担う覇権国を含む強大国の「ロボット」として存在してきた韓国の日本批判と、その逆の日本の韓国批判。北朝鮮と韓国の相互批判の応酬といった政治劇は、もう喜劇を通り越している。さらに、北朝鮮の米国に対する挑発云々の話となれば、それは悲劇の段階へと私たちを導く。いずれの劇も、本当ならば、腹をねじらさせるほどの苦笑とならざるを得ない。

開国以降から第二次世界大戦終結に至る韓国と日本の関係は、戦後から今日に至る日本の米国に対する向き合い方と、酷似している、と私は診ている。それを一口で言うならば、前者の後者に対する卑屈な対応、屈辱的関係に対して、後者の前者に対する勝手し放題の傲慢な対応関係であったと、私は理解している。

そうした中でも、韓国は、従軍慰安婦問題や歴史認識問題を始めとした「あの戦争」を巡る後遺症の補償を求めて、「しつこいほど」に、日本と向き合い続けている。ところが、日本のあの戦争での米国からの原爆投下やGHQによる占領下の日本のフ女子に対する理不尽極まりない対応や、日本と日本人に対する侮蔑的態度に対する謝罪や補償を米国と米国人に求めるという観点において、韓国の日本との向き合い方と比較して、見事に「あっさり」というか、「淡白なほど」に曖昧模糊としてしまったのである。

あまりにもだらしない、体たらくな日本の姿に、私は今も歯ぎしりして我慢するしかないのだが、そんな私には、韓国や北朝鮮の世界に対する、勿論日本に対する「叫び」を、それが操り人形としてのなせる業だと理解しつつも、「ブラボ^−」と言って、拍手するのである。もう、私の頭も相当にいかれているが、それでも、日本と日本人の生き方は恥ずかしい限りなのだ。

今回の韓国政府による日本の世界遺産登録申請に対する批判に対する日本政府の「反論」をみるとき、日本政府は、また日本人の多くは、日本があたかもアジア地域における主権国家としての責務を担っているとの錯覚にでも陥っている感がするのだ。もし、日本と日本人が、「システム」という「同じ穴」に住む「狢」であり、韓国同様に、その操り人形として、ロボットとして生きていかざるを得なかったとの苦渋に満ちた思いを抱いていたならば、3歳児にも劣るような「反論」はしなかったであろう。(なお、3歳児の皆様にはご寛恕お願いしたい。「三つ子の魂百まで」を念頭に置いていたことから、3歳にこだわった次第である。)
(文責 村田邦夫)
http://www.asyura2.com/20/senkyo273/msg/642.html#c2

[政治・選挙・NHK274] 対中非難決議案に「慎重姿勢」を説くバカな政治家たち。(日々雑感) 笑坊
3. オニクタラム[25] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年7月08日 12:45:34 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[25]

初めまして。阿修羅記事」で、何回かあなた様の記事を拝読したことがありますが、今回は、私のgooブログ(「日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える」)に投稿しました以下の記事を張り付けさせてもらいました。少し長いのですが、ご容赦ください。

私の「システム」論から、今回の自民党の中国政府の香港安全維持法の成立に対する非難決議を考えるときーーー日本の外交は危ない。何も見えていない。中国の力とアメリカの力は、はるかに日本のそれを

2020-07-08 | 日記

私の「システム」論から、今回の自民党の中国政府の香港安全維持法の成立に対する非難決議を考えるときーーー日本の外交は危ない。何も見えていない。中国の力とアメリカの力は、はるかに日本のそれを凌駕している。親分のアメリカに対する、75年間にも及ぶ子分としての惨めすぎる態度を鑑みるとき、次期親分の中国に対して、どうしてこんな「怖いこと」ができるのだろうか。

「歴史」を学べない民族は必ず滅びる。戦後の日本は、親分として世界に君臨した覇権国のアメリカに、「盲従」するのみであった。これほど悲しくつらい民族の歴史がどこにあるのだろうか。あのパレスチナの民族はイスラエルに対して、ずっと戦い続けている。その結果が始めから見えていたとしても。

世界の人々は馬鹿ではない。こうした民族の生き方をよく観察している。日本人は尊敬されないのだ。いつも強い者の後ろに隠れて、せっせと金儲けをしてきたからだ。それにもかかわらず、エラそうに、アジアにおいても一番の国だと、未だに勘違いして生きているから、これはもう笑うしかないだろうが、もうそんなことが言える時期でもないのだ。

戦前の日本は、戦後において、イギリスから覇権のバトンを受け継いで、親分になろうとしていたアメリカと戦った。アメリカに対立・敵対して、その挙句戦争に突入して、やられてしまったのだ。「無謀な戦争」ではなかった。最初から、それがわかっていた戦争だったから、愚かしい戦争をしてしまったのである。「システム」は、「金の成る木」として、日本を戦争に引き込むことを逃さなかった。戦争によって、「システム」の力が増強され、それによって、戦後のアメリカは覇権国となり、そこでアメリカの民主主義は花開くと同時に、アメリカ経済も黄金時代を迎えたのだ。

そんな親分によって、戦後に目を付けられた日本は、徹底していじめの対象となり、苛め抜かれてきたわけだから、親分に逆らうことや、次期覇権国を見誤ることの恐ろしさは、肌身に感じられても一向におかしくはないことなのだが、どうもこの民族は違うのかもしれない。一旦、牙をむいて、相手に襲い掛かり、死に物狂いで戦い、相手にもそれ相応の恐怖感を与えたということを、もうすっかり忘れてしまったのだから、本当にこの民族は生き抜くことはできない。

そうしたさ中、今回の事件は起きたのだ。例の自民党による中国に対する非難決議云々の話だが、「力」のある者に対しては、逆らってはならない。当然なことではあるまいか。これまで甘い汁を吸い続けてきた自民党の国会議員がたとえ何人その政治生命を失おうととも、アメリカの顔色だけを見続けていては、もう駄目なのだ。誤解のないように。アメリカに対しても、これまで同様に、これからも敬意をもって付き合うことが大事であるのは言うまでもない。この物言いは、子分の言うことではない。アメリカの指導を仰ぐことは言うまでもない。

だが同時に、子分の日本は、中国の指導をも仰がなければならないのだ。子分としての日本の立ち居振る舞いが今こそ求められているのである。日本は、中国の香港へのかかわり方に、一切口を出してはならないのだ。その理由に関しては、上記のとおりなのだが、どうしてこれがわからないのだろうか。

私の伝えたいことは、ただそれだけである。「理屈」の話からではさらさらない。それを断った上で、その理屈さえおかしなことを、自民党は主張しているということを、少しだけ、言及しておきたい。以下に引用・張り付けしたくだりを、読者は注意してみてほしい。念のため、記事全文は、最後に張り付けているので、その前後の関連については、ご確認いただきたい。

(以下に張り付けた記事の引用開始)

ーーー 高度な自治を保障した「一国二制度」のもと、経済的に発展してきた香港の今後に関し、「香港における自由、人権、民主主義といった基本的価値が維持されるか疑念を抱かざるを得ない」「国際金融センターとしての香港の地位にも影響が出かねない」と指摘。中国政府に対し「国際社会との約束を守り、大国としての責任を自覚するよう強く求める」と訴えた。ーーー

(記事の引用終わり)

よくもこんな恥ずかしいことを世界に向かって発信するとは。「香港における自由、人権、民主主義といった基本的価値が維持されるか疑念を抱かざるを得ない」、と毎度の決まり文句だが、今の日本においても、同様なことが行われているのではないのか。このくだりにある「香港」を「日本」に置き換えてみても、まったくおかしくはない話ではあるまいか。いや、それこそ今のアメリカは白人警官による黒人暴行死事件に端を発した抗議デモによって、国内中が揺れ動いているが、そのアメリカも、同じではあるまいか。それどころか、こんな文句を言われて困るのは、世界中のほとんどの国ではあるまいか。

イギリスは香港を、植民地の遺制として、長らく統治してきたが、そうした状態の香港に、そもそも自由、人権、民主主義といった基本的価値は維持されていたのだろうか。日本は、戦後確かに「独立」をアメリカの指導の下で実現したが、その日本には沖縄や横田基地をはじめ、未だ日本と日本人が自由に使えない在日米軍基地が多く存在・存続しているではないか。

さらに、香港は、かつて、「4匹の龍」として、アジアニーズとして、その目覚ましい経済発展を称賛されたのだが、その当時の香港では、自由や人権や民主主義はどの程度、実現されていたのだろうか。高度経済成長期の日本において、どの程度の自由や人権や民主主義が実現されていたかの問題を鑑みるとき、それほど感歎に、また安易に、基本的価値云々の問題を提示することはできないのではあるまいか。

裏返して言えば、この種の「基本的価値」の「価値」云々の話は、詐欺話に他ならないのだ。一応、そうした「価値」を謡ったのだから、後はそれが現実のものになろうが、そこまでは、知ったことではないという代物なのだ。

いわゆる憲法第25条に関する裁判で、「朝日訴訟」というのが昔あったが、最高裁の判決もそれと全く同じで、憲法の条文は「形式」で、それがどの程度に現実になるかは、「努力目標」として理解されるべきだとの話なのである。こんなインチキ話はないだろうが、それを適材適所で、為政者は、「システム」に使われる為政者は、吹聴しまくるのだ。もっとも、そんなことは、日本に暮らす者ならば、よく理解している。それゆえ、香港に関しても、イギリスの統治下だろうと、中国統治下だろうと、それほどに「実質」が変わることはないのだ。

そもそも、国会議員の中で、先の自由や人権や民主主義といった基本的価値が実現されるのは、いかなる国際関係、国内関係を前提としているのか、という問題に、一体だれが満足のいく答えを出せるのだろうか。それは議員だけではない。ジャーナリストも研究者も等しく同じなのだ。もう少し言えば、この先の話は、相当に「まずい」のだ。「価値」の次元に置いておかなければならないのだ。先の朝日訴訟もそうだし、私たちの現実の生活は、自由、人権、民主主義の何が、どこが、どれほど満足のいく状態にあるのかと、今日の格差社会で働く人に、ほんの少し聞いてみれば、わかるというものではあるまいか。いや、そんなこと、聞かなくてもわかるはずなのだ。もし、「幸福なヒト」でないならば。

このように、私たちは、いつも自由や人権や民主主義といった「基本的価値」の問題を取り上げるのだが、そこから先を決して問わないのである。すなわち、どうすれば、そうした価値は現実のものとして実現されるのか、という問題に対して、である。本当におかしな世界なのだ。私に言わせれば、誰もわかっていないのだ。以前の記事でも述べていたように、いわゆる「市民革命」において、基本的価値を実現したイギリスやアメリカやフランスは、そうした価値の「実現」を、彼らの植民地や従属地に対して、決して認めなかったのである。それ以前に、植民地や従属地の独立を認めなかった。「属国」として、扱ったのだ。まさに、これは戦後の日本ではあるまいか。

さらに、先の市民革命を経験した諸国が、市民的価値の実現を可能とさせたのは、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル。なお、前回、前々回の記事を参照されたい。)の「システム」が存在していたからに他ならないのだ。換言すれば、差別と排除の「親分ー子分」の「暴力(帝国主義)」関係を前提とした「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の中で、実現されたのである。それゆえ、自由、人権、民主主義といった基本的価値は、それほど称賛に値する価値などではなく、むしろ「支配ー従属」関係を色濃く持つ、差別と排除の関係の象徴そのものなのである。

なお、引用・貼り付けしたした「国際金融センターとしての香港の地位にも影響が出かねない」についての論評は、ここでは触れなかったが、後日、機械があれば述べてみたい。ただし、ここにあるようなことにはならない、と私はみている。むしろ、逆に、今後ますますの発展を見ることになる、と私は確信している。次期覇権国としての中国を見て語る必要があるのだが、そんなことを私が述べたとしても、未だに中国崩壊論を信じている「賢者」が多すぎて、私など、下を向くしかないのが現状である。


上に引用・貼り付けした記事の前文は以下のとおりである。

(記事全文)

習主席国賓来日の中止要請 香港国家安全法で自民が非難決議へ
7/3(金) 7:43配信
産経新聞

自民党本部=東京都千代田区永田町(斎藤良雄撮影)
 中国による香港への統制強化を目的とした「香港国家安全維持法」」が可決、施行されたことを受け、自民党がまとめた非難決議の内容が3日、分かった。すでに同法違反を適用した逮捕者が出ていることについて「重大で深刻な憂慮」を表明。日本政府には、延期の状態となっている習近平国家主席の国賓来日の中止を求めた。

(中略)

 自民党は昨年11月と今年5月にも、混乱する香港情勢を懸念する決議文をまとめた。こうした経緯を踏まえ、今回の非難決議では「懸念していた事態が現実のものとなった現在、この状況を傍観することはできない」と強調した。

 高度な自治を保障した「一国二制度」のもと、経済的に発展してきた香港の今後に関し、「香港における自由、人権、民主主義といった基本的価値が維持されるか疑念を抱かざるを得ない」「国際金融センターとしての香港の地位にも影響が出かねない」と指摘。中国政府に対し「国際社会との約束を守り、大国としての責任を自覚するよう強く求める」と訴えた。

 また、日本政府には在留邦人や企業の保護を要請。就労ビザの発給などにより、香港を離れる人々への支援の検討を求めた。

(以上、記事全文、終わり)

〈文責、村田邦夫〉
http://www.asyura2.com/20/senkyo274/msg/105.html#c3

[原発・フッ素52] 放射能汚染地帯から子供たちを避難させなかった人々(東海アマ)政府を断じて許さないが、それ以上に、日本共産党や立憲民主党な… てんさい(い)
5. オニクタラム[26] g0mDaoNOg16DiYOA 2020年8月05日 21:06:02 : z6WxoS1CRQ : OUVCVnhhZ1FCSFU=[26]
「東海アマ」氏のブログ記事を初めて拝読いたしました。そして、早速今日の私のgooブログ記事【日本の「政治」の〈可能性〉と方向性〉について考える】で、木村知氏のブログと一緒に、紹介させてもらいました。久しぶりに、自分の問題として、社会の出来事を引き受けていると感じられるあなたの記事に出会い、うれしくなりました。どうもありがとうございました。(文責、村田邦夫)
http://www.asyura2.com/19/genpatu52/msg/831.html#c5

   

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