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[政治・選挙・NHK247] 日本の市民の皆様へ 2011年11月4日の再投稿
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が2011.3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。やっとこの社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、そしてこれから行う最終の投稿を通して心のケジメが付けられるかと思っております。

しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?いえ、この問いは社会の事や政治に関しての事ではありません。日本に住む市民皆さんの行動様式です。

と言う事で一番最初の投稿を再びこのウエブに載せます。No.2 以降の投稿も続きますので少しお待ち下さい。
====================================== 2011年11月 原発のスレッドに投稿
私はこのウエブサイトの読者、K.C.と申します。

先日東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故で家を追われた友人より久しぶりに連絡がありました。今回の東京電力の放射能汚染事故の補償手続に関して個人的に感じた事にのみならず、家族を抱え奈落の底に落とされてしまい、そこから這い上がる事の出来ない悔しさがストレートに出ている文面を送って来てくれました。

東京電力の福島第一原子力発電所からの放射能汚染事故の報道手法が、食品を含め多岐方面に渡る放射能汚染の実情を情報の受け手にはいどうぞ的に丸投げしている現状で、それらの数値の上り下がりに一喜一憂する日々です。この投稿は福島の放射能汚染事故地区の至近距離の被災者の双葉町、大熊町、富岡町、浪江町の市民の皆さんの声が3.11以降殆ど新聞等メディア上でニュースとして出ていない事に抵抗するのが主な1つの目的となっています。表に出てこない放射能汚染事故の被害者の方々への補償金の手続きに関する一市民の声を最初の3章に記載しております。それ以降最後の章までは私的な意見となっております。何故この様な合作投稿になったかと言うと....私自身3月11日以降立ち尽くすだけで、眠れない苛立ちの日々を送ってきました。しかし私の友の声を聞き奈落の底に落とされてしまった境遇を目の当たりにし、考えあぐねる事よりも、まず自分として目の前に在る現実にいかにタックルするか、出来るかを考えてみようと思いました。まずその為自宅にある一番大きな紙を持ち出して来て3.11以降何が起っているのかのいわゆるBig Pictureを紙の上に書いてみました。この投稿で述べている事柄は既に他の方々が指摘、又同様な意見として既出しているかもしれません。微力ながら私に出来る事と言えば、この機会に友人の声を皆さんに紹介する事位しか在りません。

此処で各章の題名を出しておきます。忙しくて時間が無い方は、3章まででも読み進めて下さい。
1. 現地からの声
2. 厳しい試練
3. 過去の判例
4. 行為とその帰結
5. 貴方への問い
6. こんな人達いらん!
7. 日本人の遺伝子
8. 中根千枝氏(タテ社会とその弊害)
9. 今 - まず出来る事
10. 近未来を見つめる
11. 最後に

1. 現地からの声
『(中略)
この9月末に前震災後半年間の避難で被った費用の補償手続きに関する話し合いと個別説明が各仮設住宅への東電社員来訪で始まった。驚いたことに9時前に出向いた時に既に各世帯でいわば早い者勝ちに懇談しているではないか。出遅れまいと少々興奮する。今日どう言う趣旨で、どう言う段取りで進行させるのか、我々にあらかじめ話・提示が全くなされないのは甚だ問題ではないか。150ページもの電話帳かと見まごうばかりの補償の説明書を読んで被害者たる当方に書け、ついては不明の分類方法や書き方を教える、という態度がそもそも加害者の位置にありながら、今回の東電の放射能汚染事故は人災との政府そのほか大方の見解にも反するやり口だ。ここで署名・捺印したら以後一切の異議、追加請求をしません、との提出書類末尾の文章を見れば早まってはいけないとその場で呼びかけた。が、早い者勝ちだと交渉と説明を受けている一人の仮設住民のオヤジが、文句がある奴は出て行け、うるさいぞと私に罵声を投げつける。』

そこに集まった皆さんは東京電力のお客さんです。しかし又同時に今回の放射能汚染事故の被害者でもあります。小難しい会計用語が散りばめられた電話帳の如くの書類を突きつけられ、この様な我先にと被災者共々競い合わせる様な説明会場の状況に身を置かれたら、心理的にどちらが主でどちらが従か関係が逆転してしまうのではないか。もしその様に主従逆転した気持ちになってしまえば、被災者が東京電力に頭を下げてお願いする立場の心理的弱者に追い込まれてしまう。放射能汚染の被害に直面する市民の皆さんの立場を、この様な方向に持って行く事が東京電力の本来の目的かとさえ勘ぐってしまう。

2. 厳しい試練
ではいったい現地では何が起っているのか。
電話で友人と話をし、東京電力が被災者に郵送した補償金請求の150ページに及ぶ書類の事を聞いてみた。電話をする前に実際どの様な損害賠償の説明なのか確認するつもりでGoogleして見、ヒットした東京災害支援ネットのウエブにはこんな記述が有った。"「東電が請求書を配り始めたというニュースを見た。」「東電から分厚い請求書が届いた。請求書を早く書いて送るべきか。」という質問が、東京災害支援ネット(とすねっと)の無料相談電話に相次いでいます。東電への賠償請求には、1)直接東電に請求書を送る、2)紛争解決センターに申し立てる、3)訴訟を起こす、という3つの方法があります。しかし、一般的に言えば、東電が示している賠償基準は低く、あわてて直接請求書を送る必要性は低いです。" [1]参照の事。

以下出口の無い奈落の底から一歩も逃げられない苦しみと、身に降り掛かった不条理に対する怒りの声である。
『(中略)
実は東電郵送封書の分厚い中身は見ていない。でもおそらくそうなんだろう、と思う。開封自体が東電の軍門に下る気がして封を切ってのちページを繰っていない。やつらの意図にまんまと乗せられ思惑通りに涙金で処理されてしまうのが容易に予想されてしまう、それが癪に触ってしようがない。地団駄を踏む悔しい感情にとらわれている。確かめずの返答で済まん。』

私の友人は家を建ててから10年もせずに、今回の放射能汚染事故で生活の拠り所を失ってしまった。両親の面倒を見るべく所、又家族にとってはかけがえのない故郷から追われてしまい、根無し草の如くの生活に直面している。まるで双六の"振り出しへ戻る"事を東京電力に強制され、考えられない程の苦労をして、又人生を最初から築き直し始めなければならない状況に置かれているのは私の友人だけではない。何万世帯の家族が非常に困難な同じ状況に置かれているのである。この様な非常に切羽詰まった生活を強要されている市民の声が表に出てこないのは全く以て不思議な社会である。以下のレポートはその数少ない情報の一つ。"告発レポート どこまで被災者をバカにするのか! 東電が補償書類に入れた「恫喝文句」" [2]参照、及び9月27日付けブルームバーグウエブサイトの記事[3]参照の事。現在進行形及び未来進行形の放射能汚染が続く中、被害に遭わせた市民の皆さんをまるで物言わぬ羊とでも考えているのだろうか。そういう神経をしていない限り、家を失い故郷を追われた方々に苦胆の試練を歩ませる様な事はさせまい。一方福島県の財政事情も非常に悪いとの事。現在貯金は0とのニュース。"福島県の「貯金」ゼロ…原発対応で出費かさむ。"読売新聞ウエブサイトより。[4]参照の事。この事態を誰の責任で解決するのか?福島県の市民の税金?間違ってもドケチな東京電力が補償するとは思えない。

私の友人はその場の補償手続説明会で150ページの電話帳を手に取って読んだのだろう。友人の御親戚の方々も東京電力で原発労働者として働いていたと聞く。近郊住民が信ずるしか他の方法はない、しかも統計的なデータに裏打ちされたとは言いがたい"原子力は安全"と言うトラストが破れた上に、経済的にも精神的にも奈落の底に落とされてしまった出口なしの悲惨極まりない状況である。この彼らの怒りに言葉を失う。

3. 過去の判例
『(中略)
被害算定基準がそもそもおかしい。交通事故休業補償やらJCO事故補償から政府肝いり原発災害補償会議?が原発災害法?に基づいて決めたとのことだが、未だ事態が収まっていないこと、全く未曾有の事態であること、その法律には全く補償金額の一字も書かれていないこと、いくらでも誰かの意向で変えられること等々の欺瞞性をどれくらいの被災民が理解・認識・判断しているのか、いぶかしい。一連の割り出された算定基準を策定した委員会メンバーやら内容に我々の意思・意向・意見等が全く反映されていないし決定内容をあらかじめ公開・吟味もなされたという話も耳にしたことがない。突然唐突に分厚い書類を郵送してきた訳で取り返しのつかない様な我々には不利で東電には有利な項目がページのどこかに埋め込まれているのではないかと危惧の念が胸奥に湧くのが当然至極ではないか。
(中略)
原発賠償法には具体的な金額が記されていない。もしかするとある意図をもって選抜された弁護士たちがこねくり練り上げでっち上げたシロモノであり従来の交通事故休業補償とJCO事故補償の適用で済ませようとしているんでは、と私には見える。全く過去とは異なる事態で、新しいパラダイムでこの震災被害に対処し将来への模範とすべきだと認識する。これが現在の理解到達点です。急がず様子見する。』

尚JCOの事故補償に関しては以下"JCO臨界事故における補償の概要"[5]参照の事。参考文献の章[1]及び[2]に詳しく写真付きで紹介されているが、150ページにも及ぶ電話帳とも見まがう書類を被害者市民の方々に押し付けている事が彼らの精神的な負担となっているのは明確ではないだろうか。補償の説明書は大変な労力で読み進めて行かないといけない。それらの事務上の処理の苦痛よりも、150ページの説明書も読まずにさっさとサインしてしまえ、と思う方々が多いのではないかと危惧する。その挙句今まで仮払いした金額より低い算定金額なら返金を要求される、又こうした笑えないケースがかなりの確率で発生することがこの電話帳には仕組まれているという評価が出てきている。まったくフェアではない。

こんな中、3.11以降取っておいた領収書の額をひたすら足し算して、放射能汚染の被害を受けた市民が東京電力に、家を失った事の賠償金ではなく生活の補償金を請求する図式。そう言う理由が背後に有っての補償金の支払いとは、居住地からの一時的な避難と言う形態にし、他の土地に移住するなら自費でやって下さいと言う事だ。明らかにもう人が長期に渡って住む事のできない土地やその上に建つ家屋などの評価額は、地方自治体が管理する登記簿を見れば一目瞭然ではないか?家屋と土地の2010年度の評価額に対して被害額を弁済する事が本来やるべきなのだが一向にこの様にならない。過去の判例など引っ張り出して来ても全く役に立たないと言う事が判らないのか?

しかし東京電力のドケチぶりの理由が、先日点と点がつながって線となって、やっと判った。講談社のウエブサイトに以下の記事が記載されているのを見つける。その極一部の抜粋である。"(中略)値上げがこれほど高額になるには、もうひとつ理由がある。賠償資金を、これから東電が稼ぐ収益の中から賄おうとしていることが元凶なのだ。" "復興よりも先に進む、東電、銀行、財務省を保護する「福島原発賠償策」の異常"より。[6]参照の事。さらに先日日経QUICKニュースに東京電力の西沢社長が記者会見した内容が載っていた。東京電力社内の風潮が図らずも垣間見えた。その極一部を抜粋する。"資金援助の時期に関しては「賠償金額も一度にすごい金額(の請求が)が来るというものではないので...." [7]参照の事。補償金額をかなり低めに想定している様である。市民の財産と命を保護するよりも一企業の救済を優先したこの国は何かが狂っている。

此処までしか読まない人が居ると思うので、ザクッと結論を裏側から迫る。日本の指導者達は今国が未曾有な危機に陥っているのを認識しているのか?又それらの危機を回避しようと努力しているのか?私にはそうは見えない。3.11以前は日本の借金は国民一人当たりGDPの2倍弱という困難のみが存在していた。(http://ex-skf-jp.blogspot.com さん、有難う)。[8]参照の事。経済の'ケ'の字も知らない人間でも次の事位は頭を捻れば判るのだが。即ち、GDPがプラスにならない限り国の借金は返せない。だがそれでも現在日本が直面する状況よりも遥かにまし。3.11以降これらにもう1つの難問が連結して来た。そう。財政赤字<=経済成長<=日本人口の減少の加速化。財政赤字を解決するには経済成長が必要。で、経済成長の原動力とは何か?若い世代を中心とした人口の増加である。それなのに3.11以降、国は日本の市民を過酷な放射能汚染地帯に留め置き、被害を受けつつある市民の皆さんを棄民化する様な政策を加速しているとしか解釈のしようがない。これでは若い人達が子供を産みたくなる環境がますます悪化するのは目に見えている。悲しいかなこの国は未来の事さえ予想し得ない人々によって運営されていると言う事である。そして更に驚くべき事に今の日本の現状は、危機管理の実行が殆ど成されていないと言う事実。その結果...

4. 行為とその帰結
原因と結果。一言で言えば因果関係ですか。でも忘れてはならない事は、そこには行為の当事者、人々が関わっていると言う事なのです。

端的に言えば、原子力と言う行為とその帰結。原子力発電を錦の御旗のもと押し進めていた組織達:福島第一原子力発電所の運転者である東京電力が行った行為とその結果、霞ヶ関の省庁も然り、当時の政党と数々の政権然り、各地方自治体然り、原子力科学屋然り。しかしそれらの行為の帰結に我関せずとほとぼりの冷める時まで、或は東北や関東、中部地方の市民が現状維持を受け入れるしか無いと諦めてしまうまでひたすら、過去から積み重ねて来た行為とその因果関係としての未曾有の放射能汚染のその責任を濁して、嵐の通すぎるのを待つと言う戦略に出ていると確信する。

今回の東京電力の放射能汚染事故の責任論的な見地からすると、まるで我々は以下の様な小咄に限りなく近い状況に置かれているのではないだろうか?

闇夜に何者かに当て逃げされた。現場検証もろくに行なっておらず事故時、運転者がどの様な状態でいたのかも判らないし居眠りしていたのかも判らない。運転手は車と共に逃げたのでその場で検証できない。よって証拠も殆ど残らない。ましてや自分に不利になる証拠も処分しただろう。で、しばらくしてほとぼりが冷めてから、運転手が警察へ出頭して来た。後に判った事は運送会社所有の貨物車で、おまけに今回の事故で積み荷であるモンスター、の分身が広範囲にバラまかれてしまった。東京電力が運転手で他に助手席に経済産業省の下部機関の...が乗っていた事が判る。貨物車の運転を行っていて生計をたてていたのであるから、如何なる事をしてもその帰結の責任を取るべきだ。しかし今回の放射能汚染事故をおこした運転手は国民の皆が知っているが、責任を取らずに逃げ廻っている状況である。運転していた本人は斯くも言う。車は古くてブレーキも利きにくかったし、又その日は雨だったから車滑っちゃった。と事故を起こした本人は反省の気持ちも更々ない。ましてや被害者の方に私はお金がありませんので補償金は余り当てにしないで下さい。これで勘弁して下さいと言う様な物。面と向かって事故に遭った人達にお詫びの文面さえも一筆しない。被害に遭われた方々に補償金を払います。でもこれから、会社の利益が出た時のその利益で払って行きますと宣う。なんと言う腐った根性ではないか?そうでなければ腐った遺伝子が組織にしみ込んでいるとも言える。ウオール街の面の皮の張った人間も赤子の様に見える。何故なら利益を最優先、最大限化し、そして安全性を求める意志は微塵もない事が今回の放射能汚染事故をきっかけに公衆の面前で公にされてしまった (例えば10年前に廃炉にすべき40年選手の一号機を単に減価償却の為に延命)。今までの度重なる事故の隠蔽工作が示す様に、利益を恣意的に最優先させる行為、と言う結果故によって、とうとう生じてしまった破局的な放射能汚染の事故と言う帰結。この行為に対する帰結の責任は未だに一切問われていない。

東京電力よ。国よ。この重大責任を取れないなら、原子力など止めておきなさい。また次の記事は現状を深く考えさせる。"原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国" [9]参照の事。東京電力と言う会社は一言で言えば、原子力発電所周辺に住む市民の命よりも、数千万円の節約の方が大事な組織。東京電力はもう民間企業として存在する理由がないと思う。"蓮池透 独占激白 福島第一原発の保守管理者として 32年勤めた東電を断腸の想いで告発する!"、 [10]参照の事。こんな原子力発電施設を輸入しようとしている諸外国はたまったものではないと思う。

上記の小咄のついでに。皆さん次の比喩的な事実関係に気が付いていますか?皆さん程度の差あれ、3月11日以降の福島第一原子力発電所の放射能汚染事故で東京電力によってガツーンと当て逃げされてしまったのですよ。この事が理解できませんか?人間だけではありません。改めて言います。生きとし生ける物全てが東京電力によって当て逃げされてしまいました。しかしながら、当て逃げされた私たちに東京電力は一言お詫びを入れたのでしょうか?3月11日以降私にはそのようなお詫びの言葉を聞いた記憶がありません。残念ながら放射能汚染は地球規模との事で、日本の一民間企業が世界中を汚染させてしまった事実を直視しなければなりません。私達市民がこの健康な体に、車で当て逃げされて事故後の或る日からむち打ち症に悩まされると言う事なんです。

5. 貴方への問い
この世に生を授かって、それ故にこの世を良くしたい、或は悪くなるのを防ぎたいと思うのは、人としての自然な思いではないだろうか?それでは、広島型の原子爆弾の少なくとも20発分の放射能が環境に放出されていると言う、この現実に対処する為の2つのケースを考えてみよう。
* 妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させないと言う行為とその帰結。(現在非常に大きな意志の力が世論に働いている)
* 妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させると言う行為とその帰結。(一人一人の市民の小さな声はまだ世論に届いていない)

良識ある市民の皆さんはどちらのケースが子供達の人権を蹂躙し日本の世の中を悪くする方であるか判るかと思います。

それでは、貴方に問います。どちらの力に組しますか?
これから押し寄せて来るであろうと思われる放射線被曝起因の、健康への影響は日本社会にとって新たな"津波"ではないだろうか?3.11地震発生以前から津波の被害を過小評価していた、全ての組織のメンタリティーは何一つ改善されていないと言いたい。健康への影響を最小限にする為に(この日本の世の中をこれ以上悪くさせない為に)今すぐ妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させる様、市民一人一人が自分が出来る範囲で - 愛する子供達の為に - 少しずつ小さいながらも行動をおこすべき時。この津波は産まれて間もない若い者達だけさらって行ってしまうだろう。津波が引いたら爺と婆だけの寂しい世の中になると心せよ。

6. こんな人達いらん!
私自身東京電力福島第一原子力発電所からの放射能汚染事故は一民間企業が起こしてしまった日本と言う国を滅ぼすと言っても過言ではない様な破局的な失敗であると思っている。ここ迄に至るまで、自らの強欲を恥じ、安全最優先に軌道修正できる様な長い道程が在りながら東京電力は自分たちの考え方は絶対だと言う無謬にはまり込んでしまったから起こしてしまった故、今回の過酷事故は過失ではないのかと思える。今回の東京電力の放射能汚染事故の組織論的な見地からすると、原子力を推進する特権的な組織とその人々は、以下の様に例えた方が的確かと思う。

(お断り:以下の例えは架空の世界の小咄)
神々しい原子力と言う神が祭られている、奥深い霊山にある原発と言う神殿。そこはまるでギリシャのDelphiの神殿と神の御信託Oracleを伝える巫女が住む世界である。[11]参照の事。神殿を運営するのはTEPCOであり、国政の御信託を賜る為に日夜馳せ参じた国会議員。おまけに日参するや寄進ならぬ、嬉しいお土産まで持たされたのでついつい心を許してしまった。この国の政権を握る党は、御信託に基づき商売を行っている面々。自分の懐に金が入ればもう万万歳さ。兎に角客の事より、千両箱。勿論、商売敵はぶちのめせ。勿論巫女は原子力官僚、TEPCOの役員達や原子力立地本部の面々、そして研究費欲しさの科学屋さん達である。特に彼らの発する言葉は神の言葉故、国と国民を自由に操って来た。しかしながらこの神殿の奥の院の開かずの扉の中には、魔神(モンスター)が封印されていたのである。巫女達は奥の院に封印されている者は大人しくて多いに人の役に立つと宣う。彼女らの言葉は神の言葉だったので、原子力と言うモンスターは何時しか人類の希望のエネルギーと呼ばれる様になった。

あの日以来、モンスターは自らの分身を野に放った。巫女達はモンスターが下界に逃げた事に騒然となって、神殿の中で右往左往している。なんとか下界に住む世俗の人々に気付かれない様に、又彼らに御信託が間違っていたと言われてしまうのを防ぐ為に、今まで駆逐して来た嘘や、捏造等あらゆる手段を使って野に放たれた、見えないモンスターのこれから仕出かす悪事を小さく見せようと試みている。自分たちがハッと気が付いた時には、巫女達は既に魔神、モンスターが放つ灼熱の炎に、己の魂を吸い取られてしまっていたのだ。今度はモンスターが日本の市民を飲み込みにかかっている。

さて現実に戻ろう。日本市民に多大な精神的、経済的負担と、個々市民の脈絡と続く過去を未来へと受け継ぐはずの子孫さえも抹殺する様な事故をおこしても、何に故に官僚と政府おんぶにだっこされながら、自らの存在を超法規的な物と勘違いして国家を操り(神殿の持つ力は強大である。侮るべからず)、現状維持に固執するのか?その一方で、福島の市民達に自ら地獄の底から這い上がってこいと言っている様な仕打ちを行っている。余りに不条理だ。それは一言で言えば金の成る木、金の卵を産むガチョウは殺さない=現状維持の為神殿の再建を企てて居る事。下界の人々に謝って、被害補償など払ってしまえばガチョウは二度と金の卵を産む事ができなくなってしまう。だから責任なんて取りはしない。改めて言う。現状維持だからこそ、妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させないと言う行為を進めている。

結局当て逃げされてしまって放射線の内部と外部被曝を受けた市民、子供達に健康の被害は大した事無い。心配するから、くよくよするから不健康になる、と御高説ならぬ御信託を垂れる人達もいる。とそのままで放置され、将来健康に支障が出て来た時は国の健康保険のお世話になる格好なのか?そしたら健康被害を受けた市民は市民が払う健康保険の料金で自分たちの健康をカバーする格好となる。最終的に健康被害の支払いは国に押し付けられる。泣き寝入りをし、貧乏くじを引くのは二重の意味で、日本の市民。原子力発電で長らく受益を受けていた組織が、受益者負担の原則を無視して、雀の涙程の補償金にて難逃れをするとは、正に当て逃げ犯の思うつぼ。現在の日本市民の健康だけではない。汚れてしまった日本の国土を子孫代々に渡り相続させてしまう事に一切ホオッかむり。堪え難い程、えげつない。よってこんなえげつない人達がいる組織いらん、と思う。それ故、脱東京電力と言う言葉がまず出てくるべきである。これは日本の世の中を良くする為歩き続けなければならない道のりのまず最初の一里塚である。

しかし国が責任を持って速やかに放射能汚染対策と処理をしないと取り返しがつかないダメージが国全体に降り掛かるのが判らないのだろうか?でも国はやる気がない。何故か?まるで政府が東京電力と悪魔の取引を行ったかの様だ。素早い行動で事故直後に積極的にSPEEDIを使ってピンポイント的に何十万或は百万人を超える市民を避難させる事ができた筈だ。この、国の大規模避難命令と言う行為とその結果国を混乱させると言う帰結の選択枝よりも東京電力同様当時の内閣も現状維持を決め込む。危機管理も出来ないバカども。

7. 日本人の遺伝子
昨今、テレビ等で日本人の物作りに対する哲学的とも言える希求心が盛んに取り上げられていた時期がありました。或る物を作った時に品質が悪かったらあらゆる方法、今までとは全く違ったアプローチで良い製品に改善して行く飽くなき欲求。この日本人個人の中に染み付いた物造りの遺伝子は世界に誇るべき事であります。この良い物を作る作業に注ぎ込むエネルギーには驚嘆します。

しかし、一方上記の章で話しました、世の中を少しでも良くして行こうという市民の希求心と言う観点からすれば、日本人の遺伝子のプールの中にその機能は僅かしか織り込まれていないのか或は麻痺しているのか、とすら疑問に思えて来る事が有ります。どうして悪い世の中から良い世の中に皆で変えて行こうという気持ちが生じないのか。色々とこの日本市民の弱点を説明するアプローチが在ると思いますが、まず真っ先に思い浮かぶ、この社会事情を40年以上前に説明していた学人を紹介します。

8. 中根千枝氏(タテ社会とその弊害)
中根氏は1967年に出版した『タテ社会の人間関係』[12],[13]参照の事、という本で日本社会での個人と個人、個人と組織の関係を深く洞察し、その日本のタテ社会と言う社会形態がどの様に機能しているかを論じている。同時にインドやヨーロッパの社会をヨコ社会と規定し、タテ社会の日本と比較を行っている。

個人的には広い社会の中で横の市民同士の関係が見えない日常と思っている。比較的自由なヨコ社会に比べて、どちらかと言うとがんじがらめ。世の中を水平的横断的な視点から見ようとしない処は日本社会の弱い部分だ。ヨコ社会では自発的な議論、アイデア、情報そして市民同士の緩やかな合意がヨコからヨコへ流れる。タテ社会では命令と情報は上から下へ流れる。霞ヶ関の経済産業省原子力行政の官僚が上層部から下部組織、地方自治体へ、更には各電力会社へと国家の意志をアウンの呼吸でお達しする命令経路は正にタテ社会の典型的な例として挙げられるだろう。54基在った原子力発電所の周辺に住む市民に原子力の本来の姿を隠し通し、安全ですと神話を植え付け地域市民の信頼を勝ち取って来た。霞ヶ関のタテ社会の住人にしてみれば"You have to be trusted by the people that you lie to...."を実行するのはお手の物だろう。何しろ東京電力1社だけで一説に依ると2010年度に250億円ものお金をマスコミに投入させて日本市民を洗脳していたのだから。

しかし3.11以前この原子力と言うタテ社会の中で経済産業省の原子力官僚(文部科学省下の旧科学技術庁の原子力官僚も然り)が操っていたと思っていた東京電力に3.11以降、逆に経済産業省全体(文部科学省全体も然り)が今更ながら結果的に操られて居たと気が付き始めている様に個人的には見えるのだが。現状は駄々をこねている、強欲でエゲツナイ商人がこの国の危機を逆手にとってそれぞれの官僚組織を操り人形の如くに操っている言うべきなのだろうか?もしかしたら東京電力そのものが国を支配するモンスターになってしまったのかも知れない。経済産業省は彼らに弱みを握られて、大人しく主人の言う事を聞く番犬のふりをしているのか?それとも巫女集団の頭を東京電力にしておいて何が何でも自分たちが行って来た行為とその帰結の責任を彼ら東京電力に押し付けると言う高等戦術でも採っているのだろうか?以下のレポートにはこんな記述がある位だから本当かな?"確かに東電幹部からも「東電を利用して搾取してきた政治家と官僚の実名を開示してやる」との声も聞こえてくる。" [14]参照の事。

9. 今 - まず出来る事
残念ながら、今回の東京電力福島第一原子力発電所が発生元の放射能汚染事故での政府、通商産業省、文部科学省、都道府県、地方自治体等の組織がトップダウンで放射能汚染事故の状況と影響の過小評価を継続的に行い、又市民の健康や財産に影響する極めて重要な情報をリアルタイムに公表せず、ほとぼりが冷めた頃を見計らって小出しにかつ静かにそれらを公表するやり方。この様な世の中を悪くする事を堂々と国がやっているので、民間の企業、流通、地方自治体も悪の軍門に下ってしまい、同じ様なズルをすると言う、悪(の)循環。上が悪だから下も悪という日本のタテ社会の典型。これじゃあ世の中良くならない。これは何が根本問題なのか。根本的治療方は知恵を絞れば幾らでも在る。対症療法的にはタテ社会の一番てっぺんをヨコ社会の視点から市民が監視し彼らの行為とその結果或は帰結を公表する事。ベルリンの壁は物理的に存在していたから自由を奪われていた東欧市民の団結力で壊わす事ができた。しかし我々市民が直面する根本問題とは自由を抑圧するタテ社会の目に見えない壁である。この壁をどの様に打ち倒すか?

以下私達市民が今何が今出来るか簡単に列挙しました。
(1)妊婦さん、乳幼児、子供達の居る家族の為の移住基金を立ち上げよう。
インドなどで活躍する、マイクロファイナンスの様な基金を立ち上げ、そこから高被曝線量に曝されている市民への移住の金銭的なサポート等が出来ないだろうか?せめて子供を持つ家庭、妊婦さんの居る家庭で住み慣れた土地から他の土地へ移住したいと願っている方々に一家当たり例えば50万円の貸し出しが出来るとしよう。で一万世帯が他の土地に移住したいとすると50億円が必要だ。この位だったら市民の総力を挙げた力と、裕福で良心的な市民の寄付などで賄えるのではないか、或はなんとか出来るのではないか?一方持ち家のある家庭では、移住とはかなり大きな問題である。でも、去年のチリ炭坑落盤の事故ではチリ市民が一丸となって鉱山に閉じ込められた炭坑労働者を精神的にも物理的に応援したではないか?何故その様な支援がこの日本で出来ないのか?その一方で東京電力は2010年度に250億円もの額を原子力発電の安全と言うプロパガンダに使ったと聞く。その額であるなら優に4万以上の家庭が比較的高い放射能汚染地帯から安全な地域への移住の手助けができる。更に、電気事業連合会は原子力発電所を持つ9つ電力会社+沖縄電力で構成されているが、彼らが年間800億円もの原子力の広告費を使っていると聞く。この様な膨大な金を無駄にするより福島県周辺の移住希望の家族を避難させる様、まとまった金額を無償で与えるべきである。しかしながらこの様な話はどこからも出てこないのはどうしてだろうか?
この様な人々をサポートするネットワークは幾つも立ち上がって来た。しかし中には問題の捉え方の違いと言う"温度差"でネットワークの運営を諦めてしまった所もある。仕方があるまい。人間の認識の中で一番厄介な事は、知らないと言う事実を知らないと言う、日常的に普通に起る事態。これを防ぐ為にも見知らぬ市民と生きたコミュニケーションが必要だと思う。[15],[16],[17],[18],[19]参照の事。
(2)良心的な食品会社の食品とそうでない会社の食品の峻別を行う。
地道な行動を行って来た極めて良心的な食品会社が広がりつつある。例えば(株)雪国まいたけ。素晴しい。安全な食品の為大変な企業努力を行っている歴史がある。心から頑張れと応援したくなる。[20]参照の事。自分の所で作った食べ物に放射能の汚染度を表示する事は非常に勇気のいる事である。その一方、この国では食の安全性に余り口出しをしないと言うスタンスで、あたかも放射能の汚染度を気にする事、事態が大げさだと言わんばかりの現状である。この、国のやり方に対する回答は簡単だ。幼い子供達に食べさせる日々の食材購入の際、食品の汚染度も表示しない生産物は不買。これらの商品名をリストに出して公表する様不買運動をしない限り、食品行政はかわりそうにない。又放射能汚染の低い原料に放射能汚染の高いものを混ぜて販売する様な食品会社はもってのほか。大事な事は放射能汚染度の数字を出す事である。そうすれば生産者と消費者双方が納得すると思うが如何か?汚染度を表示した食料品を買う買わないは買う本人の選択。しかし、汚染度も何も表示しない食料品を買うと言う事は選択の自由が存在しないと言う事だ。
(3)放射線測定器を導入できる資金的な余裕がある会社で食品の放射線を恒常的に計っているか否かをこの商習慣が食品会社に根付くまでの調査しよう。
食品流通業や食品加工業者が彼らの販売する食品の放射線を恒常的に計っているかどうかの質問を各企業に発送し、回答してこない企業の一覧のチェックリストを作成。良心的にこの作業を手間暇かけて行っている会社は上記の企業一覧に自己申告して彼らの施設を公開するなり、積極的に宣伝すべきである。市民が選択の余地なく食品からどれだけ内部被曝するか分らない現状に手を貸さずに、自社食品中の放射能の汚染レベルの表示を行ない販売するというと言う事は企業にとって非常に勇気が必要。この議論は難しいがすぐさまなんとか解決しなければならない問題なのだが、農林水産省等の食に関する関連省庁のやる気のなさには彼らが日本を悪くする勢力に組しているのかと疑念を抱かせずにはおられない。一言で言うと悪事に加担する会社は要らんとの意志表示をする大事さが世の中を少しでも良くする。既にこの検証を実行した会社がある。東洋経済新報社である。ぜひ第三者的なNPOが消費者の為に企業努力をする会社を励ます意味で、この様な活動を継続して欲しい。[21]参照の事。
(4)食品の放射能汚染検査を地域で自主的に行いたい生産者の為の測定器の購入サポート。
又放射能で汚れていない食べ物を作る事に日々努力されている生産者の方々には、食品の放射能汚染のレベルを計れる様に、共同購入と言う格好で、計測器の購入資金の貸し出しも緊急に立ち上げられないだろうか?
(5)福島を中心とした被害者市民を支える会の様な緩やかな且つ非政治的なNPO組織を立ち上げ、心のカウンセリング、健康相談等が出来ないだろうか?
小児科医の皆さんのネットワークが懸命に活動されている様ですね。嬉しい限りです。
(6)東京電力の兵糧攻め。
東京電力への電気の不買と不売を実行。しかし電気を不買すればする程、放射能汚染により生活を根こそぎにされた被害者の方々への支払い額が減ってしまう様なカラクリを作り出した組織だ。正に禁じ手を繰り出して自分たちの会社の存続を計る、東京電力。日本の歴史の中で名を残すであろう。なんとか知恵を絞って実行して行く他あるまい。如何に東京電力が手強いか[22]参照の事。

10. 近未来を見つめる
話は突然かわる。米国のCivil War(1861〜1865年。国を二分した北軍と南軍の戦い。別名南北戦争)中、米国の16代エイブラハム リンカーン大統領が1863年11月に、この7月に最も壮絶な戦いが行われた戦場ゲティスバーグを訪れて、行った演説がある。両軍とも多数の犠牲を出したがこの戦いを機に北軍が優位となる。一部を抜粋し載せる。日本語は[23]参照、英文も極めて短いので[24]参照の事。此処には重要なメッセージがある。
"...all men are created equal. ...a new birth of freedom -- government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth."

一般に社会って言うのはどこかしらに、特権階級がある。これは否定出来ない。しかしながら、日本の中の特権を持った人々が3.11以降、今現在一般市民に多大な犠牲を強いる様にシステムを作り上げ始め - まるで人間を止めろと云わん様な扱い - 日本市民の知る権利、自由な情報、表現や発言の自由や、移動の自由等を制限し、放射能汚染された地域に安全であると言って市民、とりわけ乳児や子供達を押し留める様にしている。これを特権階級の暴走と言わずして何と言うか?この社会は彼らが悪い方向に導いて行っている、と認識しなければならない時だろう。現に国の、言う事を信じない者はあたかも非国民であるかの様な風潮が出て来ていると聞く。自分たちの保身しか考えない腐った根性の東京電力にはこの演説は馬耳東風であろうが。しかしカミソリの如くに切れる官僚の圧倒的多数がこの国難の時に自分たちの保身の事しか考えないとは思いたくはない。良心的な官僚も少なからず居るはずである。目先のタテ割りに区切られた世界に埋没してしまわず、国を滅ぼしてしまう事も平気で行う極悪な連中と組する様なことは決して行わないで頂きたい。もしも一握りの官僚が日本の世の中を悪くする先導を切っているのなら、日本の市民はハッキリ言う。こんな人達いらん!と。そして良心的で且つビジョンをお持ちの官僚の皆さんに言う。タテ割りの省庁意識を超えて、超省庁チームを自発的に作られたら如何か?この国難に縄張り意識を捨て、日本と言う入れ物の中に住む、奈落の底に落とされてしまった市民の為に自分達に何が出来るのかを考えて、行動を始めて欲しい。良心的な貴方達が動けば世の中は少しずつ良くなる方向へ変って行くと思う。

さてCivil Warとは明らかにヨコ社会とヨコ社会の戦いであった。一方は全ての人々は生まれながらにして平等であると言う理想を掲げて、奴隷解放の宣言を行った社会。他方南部の州では、奴隷制度を現状維持しその上に利権と富を集約させた社会。リンカーンの言葉に裏打ちされた、"民主"主義の理念はこのタテ社会の原子力霊山と言う雲の上に住む日本の特権階級と下界に住む市民階級との間の命を賭けた、もう既に始まってしまった悪い日本が生き残るか、良い日本が生き残るかの戦いの理念を非常に明快に解き明かしてくれる。しかし誠に残念ながら日本の政治家にリンカーンの様な傑出した指導力を持った人を期待するのは無理で有ろう。それ故市民がパーフォーマンスの悪い、ビジョンも無い政治家を落選させて行く事が、消去法では有るが少しずつましな世の中に出来るのは間違いない。

近未来を見つめ、考えれば考える程、以下の事を思う... 市民の皆が色々な知恵を出し合って生き残りを賭け、この世を悪い方向へ導く勢力に対抗するしか道はなさそうである。彼らの現状維持の意志に対して自由市民はそれを押し返す力を持たなければ。では何が出来るか?9章で申し上げたが横のつながりを重んじた、非政治的でオープンマインドな、緩やかに連帯できる自由な市民のネットワーク、NPO、NGO、ボランティア団体の様な組織を作って特権階級の暴走を少しでも食い止める事。そうする事によって、一市民として既存の特権を守る人達が築いた強固なタテ社会の壁の、狭間で苦しんでいる放射能汚染事故の被害者である同胞市民に何らかの形で手を差し伸べる事ができると思う。心配しているだけでは何も始まらない。言葉よりも実行あるのみ。(まるで自分に言い聞かせている様だ...)

[余白]
避ける事ができる被曝を判らないが故に避けれない。
避ける事ができる被曝が、経済的な事情で避けられない。
ヨコに繋がる大切さ、これ無しには子供達は救えない。

11. 最後に
この投稿文を最後まで読んで下さった皆さまにお願いします。子供達には今回の放射能汚染事故の責任はありません。なるべく御両親が年少の子供達の前で明るく気丈に、楽観的に振る舞ってあげて下さい。出来るだけ、貴方の宝であり家族の一員である子供達の今回の放射能汚染の事故からくる精神的な苦痛を和らげて下さい。大人達は心の中で泣けますので。そして自分が或は家族が直面する状況を市民の皆さんに伝えて下さい。私達市民が一諸になって行動すれば必ず、良い世の中になって行く事を信じて。

参考文献等   記:ウェブのリンクには既に抹消された記事等がある事を御理解下さい。
[1] "原発事故被害者および支援者の皆様へ" 東京災害支援ネット(トスネット)資料室
http://blog.goo.ne.jp/tossnet/e/e25659c177e0639fe35fb9b0548d51a4
東京電力賠償請求関係、Googleのサイトから。
https://sites.google.com/site/tossnet311/dong-jing-dian-li
[2] "告発レポート どこまで被災者をバカにするのか! 東電が補償書類に入れた「恫喝文句」" 経済の死角、フライデー、 現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22116
[3] "戻りたいが生計のめど立たず−高放射線量の飯舘村からの避難民(1)"
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920012&sid=aLLZy9kH2bA0
[4] "福島県の「貯金」ゼロ…原発対応で出費かさむ" 経済ニュース、YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111001-OYT1T00912.htm
[5] "JCO臨界事故における補償の概要" 1305111_5.pdf
http://www.mext.go.jp
[6] "復興よりも先に進む、東電、銀行、財務省を保護する「福島原発賠償策」の異常" 町田徹、『ニュースの深層』、現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/2765
[7] "東電社長、機構の資本注入「受け入れない方向」" 日本経済新聞Web刊
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381949EE0E3E297808DE0E3E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2
[8] "The global debt clock" The Economistより
http://www.economist.com/content/global_debt_clock
[9] "原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国" 茨城新聞
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13174534196411
[10] "蓮池透 独占激白 福島第一原発の保守管理者として 32年勤めた東電を断腸の想いで告発する!"、週刊文春、10月20日号、2011年、文藝春秋
[11] デルポイ、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%A4
[12] "タテ社会の人間関係 単一社会の理論" 中根千枝、1967年、講談社現代新書
Wikipediaのページ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
[13] こちらは1ページに収まる、中根氏の本の簡単な解説。
http://retz.seesaa.net/article/108943061.html
[14] "電力会社10社に緊急アンケート 東電が10年間で6186億円も'上乗せ'できる身勝手な論理への怒り 電気料金の水増しは当然と考えるのか" フライデー、2011年10月21日号
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22847
[15] "安全な場所での教育を求める ふくしま集団疎開裁判"
http://fukusima-sokai.blogspot.com/
[16] "避難の子ども育成へ基金 郡山で設立総会"
http://ameblo.jp/hinan-mama-net/entry-11047677507.html
[17] "子どもたちを放射能から守る 福島ネットワーク"
http://kofdomofukushima.at.webry.info/
[18] "子どもたちを放射能から守る 全国ネットワーク"
http://kodomozenkoku.com/
[19] "柏の子供達を放射能汚染から守る会。"
http://kashiwamoms.wordpress.com/2011/10/03/%E3%80%90%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95%E4%B
C%91%E6%AD%A2%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%E3%80%91/
[20] 雪国まいたけホームページ。
http://www.maitake.co.jp/index.php
この会社の安心⋅安全への取り組み。
http://www.yukiguni-anzen.jp/
[21] "食品企業の放射能対策、主要35社アンケート――多くの企業が政府まかせ、後ろ向きの情報公開(1)"、Toyokeizai Online
http://lib.toyokeizai.net/business/industrial/detail/AC/d35ca85f0b7340862eabcde593a5367b/page/1/
企業リスト:
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011090900983913-2.jpg
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011090900983913-1.jpg
[22] "「原発再稼動なら大丈夫」という杜撰シミュレーションで破綻リスクを隠し、国民負担を強要する「東電第3者委報告」の国家的詐欺 待ち受ける雪だるま式の電力料金値上げ" 町田徹、『ニュースの深層』、現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22472
[23] 日本語のゲティスバーグ演説訳
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-gettysburg.html
[24] 英語のゲティスバーグ演説
http://showcase.netins.net/web/creative/lincoln/speeches/gettysburg.htm

http://www.asyura2.com/18/senkyo247/msg/682.html

[原発・フッ素50] 日本の市民の皆様へ 2011年11月4日の再投稿
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が2011.3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。やっとこの社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、そしてこれから行う最終の投稿を通して心のケジメが付けられるかと思っております。

しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?いえ、この問いは社会の事や政治に関しての事ではありません。日本に住む市民皆さんの行動様式です。

と言う事で一番最初の投稿を再びこのウエブに載せます。No.2 以降の投稿も続きますので少しお待ち下さい。

====================================== 2011年11月投稿
私はこのウエブサイトの読者、K.C.と申します。

先日東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故で家を追われた友人より久しぶりに連絡がありました。今回の東京電力の放射能汚染事故の補償手続に関して個人的に感じた事にのみならず、家族を抱え奈落の底に落とされてしまい、そこから這い上がる事の出来ない悔しさがストレートに出ている文面を送って来てくれました。

東京電力の福島第一原子力発電所からの放射能汚染事故の報道手法が、食品を含め多岐方面に渡る放射能汚染の実情を情報の受け手にはいどうぞ的に丸投げしている現状で、それらの数値の上り下がりに一喜一憂する日々です。この投稿は福島の放射能汚染事故地区の至近距離の被災者の双葉町、大熊町、富岡町、浪江町の市民の皆さんの声が3.11以降殆ど新聞等メディア上でニュースとして出ていない事に抵抗するのが主な1つの目的となっています。表に出てこない放射能汚染事故の被害者の方々への補償金の手続きに関する一市民の声を最初の3章に記載しております。それ以降最後の章までは私的な意見となっております。何故この様な合作投稿になったかと言うと....私自身3月11日以降立ち尽くすだけで、眠れない苛立ちの日々を送ってきました。しかし私の友の声を聞き奈落の底に落とされてしまった境遇を目の当たりにし、考えあぐねる事よりも、まず自分として目の前に在る現実にいかにタックルするか、出来るかを考えてみようと思いました。まずその為自宅にある一番大きな紙を持ち出して来て3.11以降何が起っているのかのいわゆるBig Pictureを紙の上に書いてみました。この投稿で述べている事柄は既に他の方々が指摘、又同様な意見として既出しているかもしれません。微力ながら私に出来る事と言えば、この機会に友人の声を皆さんに紹介する事位しか在りません。

此処で各章の題名を出しておきます。忙しくて時間が無い方は、3章まででも読み進めて下さい。
1. 現地からの声
2. 厳しい試練
3. 過去の判例
4. 行為とその帰結
5. 貴方への問い
6. こんな人達いらん!
7. 日本人の遺伝子
8. 中根千枝氏(タテ社会とその弊害)
9. 今 - まず出来る事
10. 近未来を見つめる
11. 最後に

1. 現地からの声
『(中略)
この9月末に前震災後半年間の避難で被った費用の補償手続きに関する話し合いと個別説明が各仮設住宅への東電社員来訪で始まった。驚いたことに9時前に出向いた時に既に各世帯でいわば早い者勝ちに懇談しているではないか。出遅れまいと少々興奮する。今日どう言う趣旨で、どう言う段取りで進行させるのか、我々にあらかじめ話・提示が全くなされないのは甚だ問題ではないか。150ページもの電話帳かと見まごうばかりの補償の説明書を読んで被害者たる当方に書け、ついては不明の分類方法や書き方を教える、という態度がそもそも加害者の位置にありながら、今回の東電の放射能汚染事故は人災との政府そのほか大方の見解にも反するやり口だ。ここで署名・捺印したら以後一切の異議、追加請求をしません、との提出書類末尾の文章を見れば早まってはいけないとその場で呼びかけた。が、早い者勝ちだと交渉と説明を受けている一人の仮設住民のオヤジが、文句がある奴は出て行け、うるさいぞと私に罵声を投げつける。』

そこに集まった皆さんは東京電力のお客さんです。しかし又同時に今回の放射能汚染事故の被害者でもあります。小難しい会計用語が散りばめられた電話帳の如くの書類を突きつけられ、この様な我先にと被災者共々競い合わせる様な説明会場の状況に身を置かれたら、心理的にどちらが主でどちらが従か関係が逆転してしまうのではないか。もしその様に主従逆転した気持ちになってしまえば、被災者が東京電力に頭を下げてお願いする立場の心理的弱者に追い込まれてしまう。放射能汚染の被害に直面する市民の皆さんの立場を、この様な方向に持って行く事が東京電力の本来の目的かとさえ勘ぐってしまう。

2. 厳しい試練
ではいったい現地では何が起っているのか。
電話で友人と話をし、東京電力が被災者に郵送した補償金請求の150ページに及ぶ書類の事を聞いてみた。電話をする前に実際どの様な損害賠償の説明なのか確認するつもりでGoogleして見、ヒットした東京災害支援ネットのウエブにはこんな記述が有った。"「東電が請求書を配り始めたというニュースを見た。」「東電から分厚い請求書が届いた。請求書を早く書いて送るべきか。」という質問が、東京災害支援ネット(とすねっと)の無料相談電話に相次いでいます。東電への賠償請求には、1)直接東電に請求書を送る、2)紛争解決センターに申し立てる、3)訴訟を起こす、という3つの方法があります。しかし、一般的に言えば、東電が示している賠償基準は低く、あわてて直接請求書を送る必要性は低いです。" [1]参照の事。

以下出口の無い奈落の底から一歩も逃げられない苦しみと、身に降り掛かった不条理に対する怒りの声である。
『(中略)
実は東電郵送封書の分厚い中身は見ていない。でもおそらくそうなんだろう、と思う。開封自体が東電の軍門に下る気がして封を切ってのちページを繰っていない。やつらの意図にまんまと乗せられ思惑通りに涙金で処理されてしまうのが容易に予想されてしまう、それが癪に触ってしようがない。地団駄を踏む悔しい感情にとらわれている。確かめずの返答で済まん。』

私の友人は家を建ててから10年もせずに、今回の放射能汚染事故で生活の拠り所を失ってしまった。両親の面倒を見るべく所、又家族にとってはかけがえのない故郷から追われてしまい、根無し草の如くの生活に直面している。まるで双六の"振り出しへ戻る"事を東京電力に強制され、考えられない程の苦労をして、又人生を最初から築き直し始めなければならない状況に置かれているのは私の友人だけではない。何万世帯の家族が非常に困難な同じ状況に置かれているのである。この様な非常に切羽詰まった生活を強要されている市民の声が表に出てこないのは全く以て不思議な社会である。以下のレポートはその数少ない情報の一つ。"告発レポート どこまで被災者をバカにするのか! 東電が補償書類に入れた「恫喝文句」" [2]参照、及び9月27日付けブルームバーグウエブサイトの記事[3]参照の事。現在進行形及び未来進行形の放射能汚染が続く中、被害に遭わせた市民の皆さんをまるで物言わぬ羊とでも考えているのだろうか。そういう神経をしていない限り、家を失い故郷を追われた方々に苦胆の試練を歩ませる様な事はさせまい。一方福島県の財政事情も非常に悪いとの事。現在貯金は0とのニュース。"福島県の「貯金」ゼロ…原発対応で出費かさむ。"読売新聞ウエブサイトより。[4]参照の事。この事態を誰の責任で解決するのか?福島県の市民の税金?間違ってもドケチな東京電力が補償するとは思えない。

私の友人はその場の補償手続説明会で150ページの電話帳を手に取って読んだのだろう。友人の御親戚の方々も東京電力で原発労働者として働いていたと聞く。近郊住民が信ずるしか他の方法はない、しかも統計的なデータに裏打ちされたとは言いがたい"原子力は安全"と言うトラストが破れた上に、経済的にも精神的にも奈落の底に落とされてしまった出口なしの悲惨極まりない状況である。この彼らの怒りに言葉を失う。

3. 過去の判例
『(中略)
被害算定基準がそもそもおかしい。交通事故休業補償やらJCO事故補償から政府肝いり原発災害補償会議?が原発災害法?に基づいて決めたとのことだが、未だ事態が収まっていないこと、全く未曾有の事態であること、その法律には全く補償金額の一字も書かれていないこと、いくらでも誰かの意向で変えられること等々の欺瞞性をどれくらいの被災民が理解・認識・判断しているのか、いぶかしい。一連の割り出された算定基準を策定した委員会メンバーやら内容に我々の意思・意向・意見等が全く反映されていないし決定内容をあらかじめ公開・吟味もなされたという話も耳にしたことがない。突然唐突に分厚い書類を郵送してきた訳で取り返しのつかない様な我々には不利で東電には有利な項目がページのどこかに埋め込まれているのではないかと危惧の念が胸奥に湧くのが当然至極ではないか。
(中略)
原発賠償法には具体的な金額が記されていない。もしかするとある意図をもって選抜された弁護士たちがこねくり練り上げでっち上げたシロモノであり従来の交通事故休業補償とJCO事故補償の適用で済ませようとしているんでは、と私には見える。全く過去とは異なる事態で、新しいパラダイムでこの震災被害に対処し将来への模範とすべきだと認識する。これが現在の理解到達点です。急がず様子見する。』

尚JCOの事故補償に関しては以下"JCO臨界事故における補償の概要"[5]参照の事。参考文献の章[1]及び[2]に詳しく写真付きで紹介されているが、150ページにも及ぶ電話帳とも見まがう書類を被害者市民の方々に押し付けている事が彼らの精神的な負担となっているのは明確ではないだろうか。補償の説明書は大変な労力で読み進めて行かないといけない。それらの事務上の処理の苦痛よりも、150ページの説明書も読まずにさっさとサインしてしまえ、と思う方々が多いのではないかと危惧する。その挙句今まで仮払いした金額より低い算定金額なら返金を要求される、又こうした笑えないケースがかなりの確率で発生することがこの電話帳には仕組まれているという評価が出てきている。まったくフェアではない。

こんな中、3.11以降取っておいた領収書の額をひたすら足し算して、放射能汚染の被害を受けた市民が東京電力に、家を失った事の賠償金ではなく生活の補償金を請求する図式。そう言う理由が背後に有っての補償金の支払いとは、居住地からの一時的な避難と言う形態にし、他の土地に移住するなら自費でやって下さいと言う事だ。明らかにもう人が長期に渡って住む事のできない土地やその上に建つ家屋などの評価額は、地方自治体が管理する登記簿を見れば一目瞭然ではないか?家屋と土地の2010年度の評価額に対して被害額を弁済する事が本来やるべきなのだが一向にこの様にならない。過去の判例など引っ張り出して来ても全く役に立たないと言う事が判らないのか?

しかし東京電力のドケチぶりの理由が、先日点と点がつながって線となって、やっと判った。講談社のウエブサイトに以下の記事が記載されているのを見つける。その極一部の抜粋である。"(中略)値上げがこれほど高額になるには、もうひとつ理由がある。賠償資金を、これから東電が稼ぐ収益の中から賄おうとしていることが元凶なのだ。" "復興よりも先に進む、東電、銀行、財務省を保護する「福島原発賠償策」の異常"より。[6]参照の事。さらに先日日経QUICKニュースに東京電力の西沢社長が記者会見した内容が載っていた。東京電力社内の風潮が図らずも垣間見えた。その極一部を抜粋する。"資金援助の時期に関しては「賠償金額も一度にすごい金額(の請求が)が来るというものではないので...." [7]参照の事。補償金額をかなり低めに想定している様である。市民の財産と命を保護するよりも一企業の救済を優先したこの国は何かが狂っている。

此処までしか読まない人が居ると思うので、ザクッと結論を裏側から迫る。日本の指導者達は今国が未曾有な危機に陥っているのを認識しているのか?又それらの危機を回避しようと努力しているのか?私にはそうは見えない。3.11以前は日本の借金は国民一人当たりGDPの2倍弱という困難のみが存在していた。(http://ex-skf-jp.blogspot.com さん、有難う)。[8]参照の事。経済の'ケ'の字も知らない人間でも次の事位は頭を捻れば判るのだが。即ち、GDPがプラスにならない限り国の借金は返せない。だがそれでも現在日本が直面する状況よりも遥かにまし。3.11以降これらにもう1つの難問が連結して来た。そう。財政赤字<=経済成長<=日本人口の減少の加速化。財政赤字を解決するには経済成長が必要。で、経済成長の原動力とは何か?若い世代を中心とした人口の増加である。それなのに3.11以降、国は日本の市民を過酷な放射能汚染地帯に留め置き、被害を受けつつある市民の皆さんを棄民化する様な政策を加速しているとしか解釈のしようがない。これでは若い人達が子供を産みたくなる環境がますます悪化するのは目に見えている。悲しいかなこの国は未来の事さえ予想し得ない人々によって運営されていると言う事である。そして更に驚くべき事に今の日本の現状は、危機管理の実行が殆ど成されていないと言う事実。その結果...

4. 行為とその帰結
原因と結果。一言で言えば因果関係ですか。でも忘れてはならない事は、そこには行為の当事者、人々が関わっていると言う事なのです。

端的に言えば、原子力と言う行為とその帰結。原子力発電を錦の御旗のもと押し進めていた組織達:福島第一原子力発電所の運転者である東京電力が行った行為とその結果、霞ヶ関の省庁も然り、当時の政党と数々の政権然り、各地方自治体然り、原子力科学屋然り。しかしそれらの行為の帰結に我関せずとほとぼりの冷める時まで、或は東北や関東、中部地方の市民が現状維持を受け入れるしか無いと諦めてしまうまでひたすら、過去から積み重ねて来た行為とその因果関係としての未曾有の放射能汚染のその責任を濁して、嵐の通すぎるのを待つと言う戦略に出ていると確信する。

今回の東京電力の放射能汚染事故の責任論的な見地からすると、まるで我々は以下の様な小咄に限りなく近い状況に置かれているのではないだろうか?

闇夜に何者かに当て逃げされた。現場検証もろくに行なっておらず事故時、運転者がどの様な状態でいたのかも判らないし居眠りしていたのかも判らない。運転手は車と共に逃げたのでその場で検証できない。よって証拠も殆ど残らない。ましてや自分に不利になる証拠も処分しただろう。で、しばらくしてほとぼりが冷めてから、運転手が警察へ出頭して来た。後に判った事は運送会社所有の貨物車で、おまけに今回の事故で積み荷であるモンスター、の分身が広範囲にバラまかれてしまった。東京電力が運転手で他に助手席に経済産業省の下部機関の...が乗っていた事が判る。貨物車の運転を行っていて生計をたてていたのであるから、如何なる事をしてもその帰結の責任を取るべきだ。しかし今回の放射能汚染事故をおこした運転手は国民の皆が知っているが、責任を取らずに逃げ廻っている状況である。運転していた本人は斯くも言う。車は古くてブレーキも利きにくかったし、又その日は雨だったから車滑っちゃった。と事故を起こした本人は反省の気持ちも更々ない。ましてや被害者の方に私はお金がありませんので補償金は余り当てにしないで下さい。これで勘弁して下さいと言う様な物。面と向かって事故に遭った人達にお詫びの文面さえも一筆しない。被害に遭われた方々に補償金を払います。でもこれから、会社の利益が出た時のその利益で払って行きますと宣う。なんと言う腐った根性ではないか?そうでなければ腐った遺伝子が組織にしみ込んでいるとも言える。ウオール街の面の皮の張った人間も赤子の様に見える。何故なら利益を最優先、最大限化し、そして安全性を求める意志は微塵もない事が今回の放射能汚染事故をきっかけに公衆の面前で公にされてしまった (例えば10年前に廃炉にすべき40年選手の一号機を単に減価償却の為に延命)。今までの度重なる事故の隠蔽工作が示す様に、利益を恣意的に最優先させる行為、と言う結果故によって、とうとう生じてしまった破局的な放射能汚染の事故と言う帰結。この行為に対する帰結の責任は未だに一切問われていない。

東京電力よ。国よ。この重大責任を取れないなら、原子力など止めておきなさい。また次の記事は現状を深く考えさせる。"原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国" [9]参照の事。東京電力と言う会社は一言で言えば、原子力発電所周辺に住む市民の命よりも、数千万円の節約の方が大事な組織。東京電力はもう民間企業として存在する理由がないと思う。"蓮池透 独占激白 福島第一原発の保守管理者として 32年勤めた東電を断腸の想いで告発する!"、 [10]参照の事。こんな原子力発電施設を輸入しようとしている諸外国はたまったものではないと思う。

上記の小咄のついでに。皆さん次の比喩的な事実関係に気が付いていますか?皆さん程度の差あれ、3月11日以降の福島第一原子力発電所の放射能汚染事故で東京電力によってガツーンと当て逃げされてしまったのですよ。この事が理解できませんか?人間だけではありません。改めて言います。生きとし生ける物全てが東京電力によって当て逃げされてしまいました。しかしながら、当て逃げされた私たちに東京電力は一言お詫びを入れたのでしょうか?3月11日以降私にはそのようなお詫びの言葉を聞いた記憶がありません。残念ながら放射能汚染は地球規模との事で、日本の一民間企業が世界中を汚染させてしまった事実を直視しなければなりません。私達市民がこの健康な体に、車で当て逃げされて事故後の或る日からむち打ち症に悩まされると言う事なんです。

5. 貴方への問い
この世に生を授かって、それ故にこの世を良くしたい、或は悪くなるのを防ぎたいと思うのは、人としての自然な思いではないだろうか?それでは、広島型の原子爆弾の少なくとも20発分の放射能が環境に放出されていると言う、この現実に対処する為の2つのケースを考えてみよう。
* 妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させないと言う行為とその帰結。(現在非常に大きな意志の力が世論に働いている)
* 妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させると言う行為とその帰結。(一人一人の市民の小さな声はまだ世論に届いていない)

良識ある市民の皆さんはどちらのケースが子供達の人権を蹂躙し日本の世の中を悪くする方であるか判るかと思います。

それでは、貴方に問います。どちらの力に組しますか?
これから押し寄せて来るであろうと思われる放射線被曝起因の、健康への影響は日本社会にとって新たな"津波"ではないだろうか?3.11地震発生以前から津波の被害を過小評価していた、全ての組織のメンタリティーは何一つ改善されていないと言いたい。健康への影響を最小限にする為に(この日本の世の中をこれ以上悪くさせない為に)今すぐ妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させる様、市民一人一人が自分が出来る範囲で - 愛する子供達の為に - 少しずつ小さいながらも行動をおこすべき時。この津波は産まれて間もない若い者達だけさらって行ってしまうだろう。津波が引いたら爺と婆だけの寂しい世の中になると心せよ。

6. こんな人達いらん!
私自身東京電力福島第一原子力発電所からの放射能汚染事故は一民間企業が起こしてしまった日本と言う国を滅ぼすと言っても過言ではない様な破局的な失敗であると思っている。ここ迄に至るまで、自らの強欲を恥じ、安全最優先に軌道修正できる様な長い道程が在りながら東京電力は自分たちの考え方は絶対だと言う無謬にはまり込んでしまったから起こしてしまった故、今回の過酷事故は過失ではないのかと思える。今回の東京電力の放射能汚染事故の組織論的な見地からすると、原子力を推進する特権的な組織とその人々は、以下の様に例えた方が的確かと思う。

(お断り:以下の例えは架空の世界の小咄)
神々しい原子力と言う神が祭られている、奥深い霊山にある原発と言う神殿。そこはまるでギリシャのDelphiの神殿と神の御信託Oracleを伝える巫女が住む世界である。[11]参照の事。神殿を運営するのはTEPCOであり、国政の御信託を賜る為に日夜馳せ参じた国会議員。おまけに日参するや寄進ならぬ、嬉しいお土産まで持たされたのでついつい心を許してしまった。この国の政権を握る党は、御信託に基づき商売を行っている面々。自分の懐に金が入ればもう万万歳さ。兎に角客の事より、千両箱。勿論、商売敵はぶちのめせ。勿論巫女は原子力官僚、TEPCOの役員達や原子力立地本部の面々、そして研究費欲しさの科学屋さん達である。特に彼らの発する言葉は神の言葉故、国と国民を自由に操って来た。しかしながらこの神殿の奥の院の開かずの扉の中には、魔神(モンスター)が封印されていたのである。巫女達は奥の院に封印されている者は大人しくて多いに人の役に立つと宣う。彼女らの言葉は神の言葉だったので、原子力と言うモンスターは何時しか人類の希望のエネルギーと呼ばれる様になった。

あの日以来、モンスターは自らの分身を野に放った。巫女達はモンスターが下界に逃げた事に騒然となって、神殿の中で右往左往している。なんとか下界に住む世俗の人々に気付かれない様に、又彼らに御信託が間違っていたと言われてしまうのを防ぐ為に、今まで駆逐して来た嘘や、捏造等あらゆる手段を使って野に放たれた、見えないモンスターのこれから仕出かす悪事を小さく見せようと試みている。自分たちがハッと気が付いた時には、巫女達は既に魔神、モンスターが放つ灼熱の炎に、己の魂を吸い取られてしまっていたのだ。今度はモンスターが日本の市民を飲み込みにかかっている。

さて現実に戻ろう。日本市民に多大な精神的、経済的負担と、個々市民の脈絡と続く過去を未来へと受け継ぐはずの子孫さえも抹殺する様な事故をおこしても、何に故に官僚と政府おんぶにだっこされながら、自らの存在を超法規的な物と勘違いして国家を操り(神殿の持つ力は強大である。侮るべからず)、現状維持に固執するのか?その一方で、福島の市民達に自ら地獄の底から這い上がってこいと言っている様な仕打ちを行っている。余りに不条理だ。それは一言で言えば金の成る木、金の卵を産むガチョウは殺さない=現状維持の為神殿の再建を企てて居る事。下界の人々に謝って、被害補償など払ってしまえばガチョウは二度と金の卵を産む事ができなくなってしまう。だから責任なんて取りはしない。改めて言う。現状維持だからこそ、妊婦さん、乳幼児や子供達を放射能汚染区域から避難させないと言う行為を進めている。

結局当て逃げされてしまって放射線の内部と外部被曝を受けた市民、子供達に健康の被害は大した事無い。心配するから、くよくよするから不健康になる、と御高説ならぬ御信託を垂れる人達もいる。とそのままで放置され、将来健康に支障が出て来た時は国の健康保険のお世話になる格好なのか?そしたら健康被害を受けた市民は市民が払う健康保険の料金で自分たちの健康をカバーする格好となる。最終的に健康被害の支払いは国に押し付けられる。泣き寝入りをし、貧乏くじを引くのは二重の意味で、日本の市民。原子力発電で長らく受益を受けていた組織が、受益者負担の原則を無視して、雀の涙程の補償金にて難逃れをするとは、正に当て逃げ犯の思うつぼ。現在の日本市民の健康だけではない。汚れてしまった日本の国土を子孫代々に渡り相続させてしまう事に一切ホオッかむり。堪え難い程、えげつない。よってこんなえげつない人達がいる組織いらん、と思う。それ故、脱東京電力と言う言葉がまず出てくるべきである。これは日本の世の中を良くする為歩き続けなければならない道のりのまず最初の一里塚である。

しかし国が責任を持って速やかに放射能汚染対策と処理をしないと取り返しがつかないダメージが国全体に降り掛かるのが判らないのだろうか?でも国はやる気がない。何故か?まるで政府が東京電力と悪魔の取引を行ったかの様だ。素早い行動で事故直後に積極的にSPEEDIを使ってピンポイント的に何十万或は百万人を超える市民を避難させる事ができた筈だ。この、国の大規模避難命令と言う行為とその結果国を混乱させると言う帰結の選択枝よりも東京電力同様当時の内閣も現状維持を決め込む。危機管理も出来ないバカども。

7. 日本人の遺伝子
昨今、テレビ等で日本人の物作りに対する哲学的とも言える希求心が盛んに取り上げられていた時期がありました。或る物を作った時に品質が悪かったらあらゆる方法、今までとは全く違ったアプローチで良い製品に改善して行く飽くなき欲求。この日本人個人の中に染み付いた物造りの遺伝子は世界に誇るべき事であります。この良い物を作る作業に注ぎ込むエネルギーには驚嘆します。

しかし、一方上記の章で話しました、世の中を少しでも良くして行こうという市民の希求心と言う観点からすれば、日本人の遺伝子のプールの中にその機能は僅かしか織り込まれていないのか或は麻痺しているのか、とすら疑問に思えて来る事が有ります。どうして悪い世の中から良い世の中に皆で変えて行こうという気持ちが生じないのか。色々とこの日本市民の弱点を説明するアプローチが在ると思いますが、まず真っ先に思い浮かぶ、この社会事情を40年以上前に説明していた学人を紹介します。

8. 中根千枝氏(タテ社会とその弊害)
中根氏は1967年に出版した『タテ社会の人間関係』[12],[13]参照の事、という本で日本社会での個人と個人、個人と組織の関係を深く洞察し、その日本のタテ社会と言う社会形態がどの様に機能しているかを論じている。同時にインドやヨーロッパの社会をヨコ社会と規定し、タテ社会の日本と比較を行っている。

個人的には広い社会の中で横の市民同士の関係が見えない日常と思っている。比較的自由なヨコ社会に比べて、どちらかと言うとがんじがらめ。世の中を水平的横断的な視点から見ようとしない処は日本社会の弱い部分だ。ヨコ社会では自発的な議論、アイデア、情報そして市民同士の緩やかな合意がヨコからヨコへ流れる。タテ社会では命令と情報は上から下へ流れる。霞ヶ関の経済産業省原子力行政の官僚が上層部から下部組織、地方自治体へ、更には各電力会社へと国家の意志をアウンの呼吸でお達しする命令経路は正にタテ社会の典型的な例として挙げられるだろう。54基在った原子力発電所の周辺に住む市民に原子力の本来の姿を隠し通し、安全ですと神話を植え付け地域市民の信頼を勝ち取って来た。霞ヶ関のタテ社会の住人にしてみれば"You have to be trusted by the people that you lie to...."を実行するのはお手の物だろう。何しろ東京電力1社だけで一説に依ると2010年度に250億円ものお金をマスコミに投入させて日本市民を洗脳していたのだから。

しかし3.11以前この原子力と言うタテ社会の中で経済産業省の原子力官僚(文部科学省下の旧科学技術庁の原子力官僚も然り)が操っていたと思っていた東京電力に3.11以降、逆に経済産業省全体(文部科学省全体も然り)が今更ながら結果的に操られて居たと気が付き始めている様に個人的には見えるのだが。現状は駄々をこねている、強欲でエゲツナイ商人がこの国の危機を逆手にとってそれぞれの官僚組織を操り人形の如くに操っている言うべきなのだろうか?もしかしたら東京電力そのものが国を支配するモンスターになってしまったのかも知れない。経済産業省は彼らに弱みを握られて、大人しく主人の言う事を聞く番犬のふりをしているのか?それとも巫女集団の頭を東京電力にしておいて何が何でも自分たちが行って来た行為とその帰結の責任を彼ら東京電力に押し付けると言う高等戦術でも採っているのだろうか?以下のレポートにはこんな記述がある位だから本当かな?"確かに東電幹部からも「東電を利用して搾取してきた政治家と官僚の実名を開示してやる」との声も聞こえてくる。" [14]参照の事。

9. 今 - まず出来る事
残念ながら、今回の東京電力福島第一原子力発電所が発生元の放射能汚染事故での政府、通商産業省、文部科学省、都道府県、地方自治体等の組織がトップダウンで放射能汚染事故の状況と影響の過小評価を継続的に行い、又市民の健康や財産に影響する極めて重要な情報をリアルタイムに公表せず、ほとぼりが冷めた頃を見計らって小出しにかつ静かにそれらを公表するやり方。この様な世の中を悪くする事を堂々と国がやっているので、民間の企業、流通、地方自治体も悪の軍門に下ってしまい、同じ様なズルをすると言う、悪(の)循環。上が悪だから下も悪という日本のタテ社会の典型。これじゃあ世の中良くならない。これは何が根本問題なのか。根本的治療方は知恵を絞れば幾らでも在る。対症療法的にはタテ社会の一番てっぺんをヨコ社会の視点から市民が監視し彼らの行為とその結果或は帰結を公表する事。ベルリンの壁は物理的に存在していたから自由を奪われていた東欧市民の団結力で壊わす事ができた。しかし我々市民が直面する根本問題とは自由を抑圧するタテ社会の目に見えない壁である。この壁をどの様に打ち倒すか?

以下私達市民が今何が今出来るか簡単に列挙しました。
(1)妊婦さん、乳幼児、子供達の居る家族の為の移住基金を立ち上げよう。
インドなどで活躍する、マイクロファイナンスの様な基金を立ち上げ、そこから高被曝線量に曝されている市民への移住の金銭的なサポート等が出来ないだろうか?せめて子供を持つ家庭、妊婦さんの居る家庭で住み慣れた土地から他の土地へ移住したいと願っている方々に一家当たり例えば50万円の貸し出しが出来るとしよう。で一万世帯が他の土地に移住したいとすると50億円が必要だ。この位だったら市民の総力を挙げた力と、裕福で良心的な市民の寄付などで賄えるのではないか、或はなんとか出来るのではないか?一方持ち家のある家庭では、移住とはかなり大きな問題である。でも、去年のチリ炭坑落盤の事故ではチリ市民が一丸となって鉱山に閉じ込められた炭坑労働者を精神的にも物理的に応援したではないか?何故その様な支援がこの日本で出来ないのか?その一方で東京電力は2010年度に250億円もの額を原子力発電の安全と言うプロパガンダに使ったと聞く。その額であるなら優に4万以上の家庭が比較的高い放射能汚染地帯から安全な地域への移住の手助けができる。更に、電気事業連合会は原子力発電所を持つ9つ電力会社+沖縄電力で構成されているが、彼らが年間800億円もの原子力の広告費を使っていると聞く。この様な膨大な金を無駄にするより福島県周辺の移住希望の家族を避難させる様、まとまった金額を無償で与えるべきである。しかしながらこの様な話はどこからも出てこないのはどうしてだろうか?
この様な人々をサポートするネットワークは幾つも立ち上がって来た。しかし中には問題の捉え方の違いと言う"温度差"でネットワークの運営を諦めてしまった所もある。仕方があるまい。人間の認識の中で一番厄介な事は、知らないと言う事実を知らないと言う、日常的に普通に起る事態。これを防ぐ為にも見知らぬ市民と生きたコミュニケーションが必要だと思う。[15],[16],[17],[18],[19]参照の事。
(2)良心的な食品会社の食品とそうでない会社の食品の峻別を行う。
地道な行動を行って来た極めて良心的な食品会社が広がりつつある。例えば(株)雪国まいたけ。素晴しい。安全な食品の為大変な企業努力を行っている歴史がある。心から頑張れと応援したくなる。[20]参照の事。自分の所で作った食べ物に放射能の汚染度を表示する事は非常に勇気のいる事である。その一方、この国では食の安全性に余り口出しをしないと言うスタンスで、あたかも放射能の汚染度を気にする事、事態が大げさだと言わんばかりの現状である。この、国のやり方に対する回答は簡単だ。幼い子供達に食べさせる日々の食材購入の際、食品の汚染度も表示しない生産物は不買。これらの商品名をリストに出して公表する様不買運動をしない限り、食品行政はかわりそうにない。又放射能汚染の低い原料に放射能汚染の高いものを混ぜて販売する様な食品会社はもってのほか。大事な事は放射能汚染度の数字を出す事である。そうすれば生産者と消費者双方が納得すると思うが如何か?汚染度を表示した食料品を買う買わないは買う本人の選択。しかし、汚染度も何も表示しない食料品を買うと言う事は選択の自由が存在しないと言う事だ。
(3)放射線測定器を導入できる資金的な余裕がある会社で食品の放射線を恒常的に計っているか否かをこの商習慣が食品会社に根付くまでの調査しよう。
食品流通業や食品加工業者が彼らの販売する食品の放射線を恒常的に計っているかどうかの質問を各企業に発送し、回答してこない企業の一覧のチェックリストを作成。良心的にこの作業を手間暇かけて行っている会社は上記の企業一覧に自己申告して彼らの施設を公開するなり、積極的に宣伝すべきである。市民が選択の余地なく食品からどれだけ内部被曝するか分らない現状に手を貸さずに、自社食品中の放射能の汚染レベルの表示を行ない販売するというと言う事は企業にとって非常に勇気が必要。この議論は難しいがすぐさまなんとか解決しなければならない問題なのだが、農林水産省等の食に関する関連省庁のやる気のなさには彼らが日本を悪くする勢力に組しているのかと疑念を抱かせずにはおられない。一言で言うと悪事に加担する会社は要らんとの意志表示をする大事さが世の中を少しでも良くする。既にこの検証を実行した会社がある。東洋経済新報社である。ぜひ第三者的なNPOが消費者の為に企業努力をする会社を励ます意味で、この様な活動を継続して欲しい。[21]参照の事。
(4)食品の放射能汚染検査を地域で自主的に行いたい生産者の為の測定器の購入サポート。
又放射能で汚れていない食べ物を作る事に日々努力されている生産者の方々には、食品の放射能汚染のレベルを計れる様に、共同購入と言う格好で、計測器の購入資金の貸し出しも緊急に立ち上げられないだろうか?
(5)福島を中心とした被害者市民を支える会の様な緩やかな且つ非政治的なNPO組織を立ち上げ、心のカウンセリング、健康相談等が出来ないだろうか?
小児科医の皆さんのネットワークが懸命に活動されている様ですね。嬉しい限りです。
(6)東京電力の兵糧攻め。
東京電力への電気の不買と不売を実行。しかし電気を不買すればする程、放射能汚染により生活を根こそぎにされた被害者の方々への支払い額が減ってしまう様なカラクリを作り出した組織だ。正に禁じ手を繰り出して自分たちの会社の存続を計る、東京電力。日本の歴史の中で名を残すであろう。なんとか知恵を絞って実行して行く他あるまい。如何に東京電力が手強いか[22]参照の事。

10. 近未来を見つめる
話は突然かわる。米国のCivil War(1861〜1865年。国を二分した北軍と南軍の戦い。別名南北戦争)中、米国の16代エイブラハム リンカーン大統領が1863年11月に、この7月に最も壮絶な戦いが行われた戦場ゲティスバーグを訪れて、行った演説がある。両軍とも多数の犠牲を出したがこの戦いを機に北軍が優位となる。一部を抜粋し載せる。日本語は[23]参照、英文も極めて短いので[24]参照の事。此処には重要なメッセージがある。
"...all men are created equal. ...a new birth of freedom -- government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth."

一般に社会って言うのはどこかしらに、特権階級がある。これは否定出来ない。しかしながら、日本の中の特権を持った人々が3.11以降、今現在一般市民に多大な犠牲を強いる様にシステムを作り上げ始め - まるで人間を止めろと云わん様な扱い - 日本市民の知る権利、自由な情報、表現や発言の自由や、移動の自由等を制限し、放射能汚染された地域に安全であると言って市民、とりわけ乳児や子供達を押し留める様にしている。これを特権階級の暴走と言わずして何と言うか?この社会は彼らが悪い方向に導いて行っている、と認識しなければならない時だろう。現に国の、言う事を信じない者はあたかも非国民であるかの様な風潮が出て来ていると聞く。自分たちの保身しか考えない腐った根性の東京電力にはこの演説は馬耳東風であろうが。しかしカミソリの如くに切れる官僚の圧倒的多数がこの国難の時に自分たちの保身の事しか考えないとは思いたくはない。良心的な官僚も少なからず居るはずである。目先のタテ割りに区切られた世界に埋没してしまわず、国を滅ぼしてしまう事も平気で行う極悪な連中と組する様なことは決して行わないで頂きたい。もしも一握りの官僚が日本の世の中を悪くする先導を切っているのなら、日本の市民はハッキリ言う。こんな人達いらん!と。そして良心的で且つビジョンをお持ちの官僚の皆さんに言う。タテ割りの省庁意識を超えて、超省庁チームを自発的に作られたら如何か?この国難に縄張り意識を捨て、日本と言う入れ物の中に住む、奈落の底に落とされてしまった市民の為に自分達に何が出来るのかを考えて、行動を始めて欲しい。良心的な貴方達が動けば世の中は少しずつ良くなる方向へ変って行くと思う。

さてCivil Warとは明らかにヨコ社会とヨコ社会の戦いであった。一方は全ての人々は生まれながらにして平等であると言う理想を掲げて、奴隷解放の宣言を行った社会。他方南部の州では、奴隷制度を現状維持しその上に利権と富を集約させた社会。リンカーンの言葉に裏打ちされた、"民主"主義の理念はこのタテ社会の原子力霊山と言う雲の上に住む日本の特権階級と下界に住む市民階級との間の命を賭けた、もう既に始まってしまった悪い日本が生き残るか、良い日本が生き残るかの戦いの理念を非常に明快に解き明かしてくれる。しかし誠に残念ながら日本の政治家にリンカーンの様な傑出した指導力を持った人を期待するのは無理で有ろう。それ故市民がパーフォーマンスの悪い、ビジョンも無い政治家を落選させて行く事が、消去法では有るが少しずつましな世の中に出来るのは間違いない。

近未来を見つめ、考えれば考える程、以下の事を思う... 市民の皆が色々な知恵を出し合って生き残りを賭け、この世を悪い方向へ導く勢力に対抗するしか道はなさそうである。彼らの現状維持の意志に対して自由市民はそれを押し返す力を持たなければ。では何が出来るか?9章で申し上げたが横のつながりを重んじた、非政治的でオープンマインドな、緩やかに連帯できる自由な市民のネットワーク、NPO、NGO、ボランティア団体の様な組織を作って特権階級の暴走を少しでも食い止める事。そうする事によって、一市民として既存の特権を守る人達が築いた強固なタテ社会の壁の、狭間で苦しんでいる放射能汚染事故の被害者である同胞市民に何らかの形で手を差し伸べる事ができると思う。心配しているだけでは何も始まらない。言葉よりも実行あるのみ。(まるで自分に言い聞かせている様だ...)

[余白]
避ける事ができる被曝を判らないが故に避けれない。
避ける事ができる被曝が、経済的な事情で避けられない。
ヨコに繋がる大切さ、これ無しには子供達は救えない。

11. 最後に
この投稿文を最後まで読んで下さった皆さまにお願いします。子供達には今回の放射能汚染事故の責任はありません。なるべく御両親が年少の子供達の前で明るく気丈に、楽観的に振る舞ってあげて下さい。出来るだけ、貴方の宝であり家族の一員である子供達の今回の放射能汚染の事故からくる精神的な苦痛を和らげて下さい。大人達は心の中で泣けますので。そして自分が或は家族が直面する状況を市民の皆さんに伝えて下さい。私達市民が一諸になって行動すれば必ず、良い世の中になって行く事を信じて。

参考文献等   記:ウェブのリンクには既に抹消された記事等がある事を御理解下さい。
[1] "原発事故被害者および支援者の皆様へ" 東京災害支援ネット(トスネット)資料室
http://blog.goo.ne.jp/tossnet/e/e25659c177e0639fe35fb9b0548d51a4
東京電力賠償請求関係、Googleのサイトから。
https://sites.google.com/site/tossnet311/dong-jing-dian-li
[2] "告発レポート どこまで被災者をバカにするのか! 東電が補償書類に入れた「恫喝文句」" 経済の死角、フライデー、 現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22116
[3] "戻りたいが生計のめど立たず−高放射線量の飯舘村からの避難民(1)"
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920012&sid=aLLZy9kH2bA0
[4] "福島県の「貯金」ゼロ…原発対応で出費かさむ" 経済ニュース、YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111001-OYT1T00912.htm
[5] "JCO臨界事故における補償の概要" 1305111_5.pdf
http://www.mext.go.jp
[6] "復興よりも先に進む、東電、銀行、財務省を保護する「福島原発賠償策」の異常" 町田徹、『ニュースの深層』、現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/2765
[7] "東電社長、機構の資本注入「受け入れない方向」" 日本経済新聞Web刊
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381949EE0E3E297808DE0E3E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2
[8] "The global debt clock" The Economistより
http://www.economist.com/content/global_debt_clock
[9] "原発を考えるインタビュー 村上東海村長 極めて内省に欠ける国" 茨城新聞
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13174534196411
[10] "蓮池透 独占激白 福島第一原発の保守管理者として 32年勤めた東電を断腸の想いで告発する!"、週刊文春、10月20日号、2011年、文藝春秋
[11] デルポイ、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%A4
[12] "タテ社会の人間関係 単一社会の理論" 中根千枝、1967年、講談社現代新書
Wikipediaのページ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
[13] こちらは1ページに収まる、中根氏の本の簡単な解説。
http://retz.seesaa.net/article/108943061.html
[14] "電力会社10社に緊急アンケート 東電が10年間で6186億円も'上乗せ'できる身勝手な論理への怒り 電気料金の水増しは当然と考えるのか" フライデー、2011年10月21日号
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22847
[15] "安全な場所での教育を求める ふくしま集団疎開裁判"
http://fukusima-sokai.blogspot.com/
[16] "避難の子ども育成へ基金 郡山で設立総会"
http://ameblo.jp/hinan-mama-net/entry-11047677507.html
[17] "子どもたちを放射能から守る 福島ネットワーク"
http://kofdomofukushima.at.webry.info/
[18] "子どもたちを放射能から守る 全国ネットワーク"
http://kodomozenkoku.com/
[19] "柏の子供達を放射能汚染から守る会。"
http://kashiwamoms.wordpress.com/2011/10/03/%E3%80%90%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95%E4%B
C%91%E6%AD%A2%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%E3%80%91/
[20] 雪国まいたけホームページ。
http://www.maitake.co.jp/index.php
この会社の安心⋅安全への取り組み。
http://www.yukiguni-anzen.jp/
[21] "食品企業の放射能対策、主要35社アンケート――多くの企業が政府まかせ、後ろ向きの情報公開(1)"、Toyokeizai Online
http://lib.toyokeizai.net/business/industrial/detail/AC/d35ca85f0b7340862eabcde593a5367b/page/1/
企業リスト:
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011090900983913-2.jpg
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011090900983913-1.jpg
[22] "「原発再稼動なら大丈夫」という杜撰シミュレーションで破綻リスクを隠し、国民負担を強要する「東電第3者委報告」の国家的詐欺 待ち受ける雪だるま式の電力料金値上げ" 町田徹、『ニュースの深層』、現代ビジネス、講談社のウエブサイトより。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/22472
[23] 日本語のゲティスバーグ演説訳
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-gettysburg.html
[24] 英語のゲティスバーグ演説
http://showcase.netins.net/web/creative/lincoln/speeches/gettysburg.htm

http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/143.html

[政治・選挙・NHK248] 日本の市民の皆様へ-その2 2012年1月22日の再投稿
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。やっとこの社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、そして最終の投稿を通して心のケジメが付いたと思っております。しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?

お母さんのおなかの中にいる小さな胎児がこの世に産まれて来る事を自ら選択した結果、彼らや彼女らが赤ちゃんとしてすくすくと育ち、幼稚園小学校で元気に遊ぶ様になる微笑ましい姿。しかし今は親の暖かい懐のもとで全ての子供達が健全と真直ぐに育つのが当たり前で無くなって来てしまった時代。この現代の日本が、如何に人が人間らしく生きられない世の中になってしまったとのかと言う問いを発したい。その結果の必然として子供にも受難が容赦なく降り懸かって来ている昨今。どうしてこの様な殺伐とした社会風潮となってしまったのか?主な理由は二つある。最終投稿に記載しますが、まず自分でこれらの理由を考えて!

と言う訳で、日本の市民の皆様へ-その2 2012年1月22日の再投稿となります。

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前回の投稿"日本の市民の皆様へ"に引き続き([1]参照の事)第2回目の投稿となり
ます。取り敢えず目次をどうぞ。題名としては、眼の前の出来事へのアプローチ法とでも言いましょうか。眼の前の撒き散らかされた放射能の事を議題とします。ちょっと長い文なのでまず水を沸かしてお茶かコーヒーを入れてこれをすすりながら読み進める事をお勧めします。もし時間が無い場合は8章から読んで下さい。

1.東京電力の不思議
2.磯の香り獣の匂い
3.最大多数の最大幸福
4.教科書の中の危機管理
5.統計中の1サンプルと言う運命、そして忘却され
6.より根源的な事へ
7.恣意的な誘導、意図的な解釈
8.眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)
9.心の中をマッサラにして(努力して)
10.今 - まず出来る事、その2
11.今回の投稿の最後に

1.東京電力の不思議
判らない、どうしても判らないのだ。北海道から九州まで東京電力以外すべての電力会社にはその地方の名前が付いている。どうして東京電力だけが違うのか?判らない、これも又判らないのだ。何故東京電力はこれほどまでも強欲で、ケチなのか?そんな訳で以上の不思議を調べるため色々とGoogleしてみた。まず分かった事は:日本に於ける電力産業の黎明期に各電力会社が此れ程、悪どい事をやって生き抜いて来たとは知らなかった。この様な記述をウェブで見つける。
『(中略)
この結果、大正時代になると、日本には5大電力会社が誕生しました。東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気ですな。で、この5社でさらに「電力戦争」と呼ばれる苛烈な戦いが勃発します。たとえば九州北部、近畿、中部に及ぶ事業エリアを誇っていた東邦電力(「電力王」と呼ばれた松永安左エ門が社長)は、本社を東京に設置。昭和2年、子会社の東京電力(投稿者注:ウィキペディアでの日本最大の喧嘩"鶴見騒擾事件"の記述に"現在の東京電力とは別、通称「東力」"と有る)を使って、東京電灯の事業エリアに乱入します。わずか1年ほどで、90万の電灯と12万6000kWの電力を奪取。これで東京電灯とのダンピング競争が始まるは、鉄道省や東京市への政治工作、郊外列車や発電所の奪い合いなど、めちゃくちゃな戦いが起こりました。東京電灯が名古屋進出をもくろむと、今度は関西の日本電力が京浜工業地帯に侵入(昭和4年)。東京電灯は紳士同盟を結んでいた中部・関西の大同電力(福澤諭吉の養子である福澤桃介が社長。こちらも「電気王」)とより強固な同盟を結ぶものの、すぐに顧客の奪い合いで泥沼裁判闘争が始まる……といった感じです。こうした大戦争は、単純な民間企業同士のシェア争いという側面もありましたが、その影には、もちろん当時の政治状況が絡んでいます。上記の日本電力の東京進出は、昭和4年に田中義一内閣(立憲政友会)が倒れ、浜口雄幸内閣(民政党)が成立したことで起きました。日本電力は民政党と仲が良く、わざわざ大同電力との合併話を蹴って東京進出したのでした。』ちょっと長くなりましたが[2]より引用させて頂きました。又"鶴見騒擾事件"に関しては[3]参照の事。何か6大電力会社に刷り込まれている社風と言うか文化の遺伝子がこの頃から培われていたと確信する。政党と仲良しだし生き残りの為には手段を選ばずと言う事に関しては他企業とは比較にならない程抜きん出ていますね。特に[3]は政治と利権の(親分子分と言う社会の関係も)歴史が学べる読み物です。更に東京電力の歴史を紐解いて行くと"電力の鬼"こと松永安左エ門の存在を抜きにして語れないのが判る。武骨な男である。こんな男が日本に居た事に驚く。次の引用は[4]参照の事。この中の記述に
『(中略)
安左エ門は東京に進出し、それを足掛かりとして、電気事業の全国制覇を目指していたのである。その行動の第一歩として、静岡県、山梨県に発電所を持つ早川電力を傘下に収め、続いて、群馬水力を手に入れて、大正14年3月、両社を合併して東京電力を設立し、安左エ門は、その副社長に就任した。この東京電力を拠点にして、周辺の電力会社を合併しながら、だんだん勢力を拡大していった。当時、東京電燈は「東電」、東京電力は「東力」と呼ばれていた。東力は、東京の南部から北部にわたる外輪線を建設して東電包囲態勢を築き、昭和2年1月1日を期して、本格的な供給攻勢を東電にかけて、ついに両社は需要家争奪戦で激突した。当時は、東京電燈は政友会派であり、東邦電力は憲政会派であった。憲政会内閣のときに、東力が東京の南部の供給権を手に入れれば、政友会内閣のときには、東電が名古屋市内のど真ん中に名古屋営業所を開設するなど、政治も絡んだ大抗争に発展していった。
(中略)
銀行は多くの資金を両社に出している。抗争が長引き、どちらかが大きく傷付くと、銀行にとっても責任問題になる。ついに三井銀行の池田成彬が提案者になり、金融界の主だった人たちの申出によって、昭和2年12月に東力は東電に合併した。それによって、東邦電力は、東京電燈の大株主になり、安左エ門は、東京電燈の取締役に就任して、実質的に東京進出を果たした。続いて昭和3年5月には、安左エ門は東邦電力社長に就任した。』とある。この引用[4]及び文献[5]は電力の国家管理の問題が議論されていて、非常に示唆の多い読み物である。以上色々調べてみた処、「東電」と「東力」が合併し東電と言う名前が残った事が分る。東京電力の社名の歴史とその社風の遺伝子は少しは紐解けた様な気がする。

しかし、此処まで調べて来て大局的に物事を見始め出したら私の中でどうしても判らない疑問が生じてきたのだ。どうして原子力発電所の事故は予見されていたのに、我々市民はこの事に気が付かなかったのか?それとも3.11以前、原子力に反対する人々の声は何ゆえ、圧倒的多数の私達市民に届かなかったのか?双方の力が足りなかったのだろうか?今振り返って見ると3.11以前は0.01%の原子力の正体を覚醒していた、しかしながら過激な反対派とラベル張りされた人達と99.99%の原子力の本質の事を不覚醒であったと言う事を知らなかった我々市民がいたのである。なぜこう言う事態が長らく続いていしまったのだろうかを3章の"最大多数の最大幸福"にて少し触れてみたいと思う。

皆様に御願い。この投稿を読むに当って放射能は安全か危険かと言う見方を採らないで下さい。まず自分の頭の中からは放射能と言う言葉と知識も捨て去って、この眼の前のこの現象にマッサラな状態で向き合って見て下さい。核分裂や原子と言う言葉も忘れ去り、その放射能と言う物事と特性を、単に物が時間と共にバラバラに壊れて行くのだと心で理解して下さい。自分の中のその認識から、まず最初の一歩が始まると心して下さい。

2.磯の香り獣の匂い
ところでもし貴方が年配の方であったとしたら、日本が古里の集合体であった時の思い出が、皆さんの心の中に刻まれているかと思います。NHKの新日本紀行と言う水曜夜10時から始まるTV番組が有ったのを御存知だと思います。富田勳の勇ましくも(まるで1日の始まりの徴、日の出の様な)しかしその後に続く切なくもある曲で始まる番組でした。こういう時代が有ったんですよね、このちっちゃな日本で。[6],[7],[8]参照の事。新日本紀行の時代に生きていた日本人は生活者であり、懸命に子供を育て、家族を守り、地域に生きて来た人達と思う。この時代を生きてきた人にとってこのテレビ番組を通して自分達の姿を、多かれ少なかれ漁業農業林業を生業にし、高度経済成長期の工業化の波に翻弄されながら懸命に生きて来た共同体の中一員として見い出していたのだと思う。

その一方、大都市に住んでいると判らないでしょうけれども原子力発電所が在る所の近くには十中八九磯の香りに包まれ、海の幸に恵まれた魚の匂いのする漁業の街が在るんですよね。福島第一第二原子力発電所の近辺には小さな漁港しかない。大きな漁港としては相馬市に有る漁港か。福島より少し遠い所では例えば宮城県牡鹿郡の牡蠣は有名だが、宮城県牡鹿郡女川町には東北電力女川原子力発電所が建っている。そこの地元で漁業を生業とする方々は、綺麗な海とホタテ、牡蠣、サンマ等の漁業、つまり自分達の生活基盤と、そして愛おしい、最も大切な家族と子供を守る為に原子力発電所の立地に対する反対を1969年から続けて来たと言う。[9]参照。自分達の住む場所、古里と再生可能な資源としての漁業を守る為に勇気を持って原子力発電に反対の声を挙げたので或る。母なる海からの賜物が汚れてしまってからでは遅いのだ。その中で自分たちの慎ましいながらも幸せな生活が犠牲になる様な原子力の事故を予見し、もし放射能汚染事故が起きたら汚れた物を食べなきゃならないんだよと、それこそ不転退の覚悟を決め、反対の声を発していただろうと思う。しかしながら多勢に無勢と言うか、歯を食い縛りながら時代の流れにあがなって行こうにも、彼らの反対の声は圧倒的多数の沈黙の中に飲み込まれてしまった。原子力エネルギーの本質に無関心であった沈黙の主我々市民の責任だろう。狭き地域の中の漁村の中で大きなスケールでヨコに繋がる力が弱かったが故力足りず敗北してしまったと彼らを非難する訳には行くまい。その一方原子力に反対する漁師の人々を過激な人々と言って地域の中で村八分して行く。又同時に原子力エネルギーの賛成派、反対派と地域が色分けされてしまい兄弟ながらも仲が悪くなってしまったと言う話も在る位だそうだ。しかし眼の前を大きく見れば、この豊かな自然に恵まれた日本の農業漁業林業は"まだ"再生可能な資源で在ると言う事は何事にも替えられぬ事実だ。それを守る事が、過激な運動と非難されるのであったのなら、日本の食料自給率が限りなく0に近ずいてしまうだろう。ずっと以前に私達市民は彼らの言葉に真剣に耳を傾けるべきであった。例えば"安全だったら東京に原発を建てろ"と言う言葉を言われたのは宮城県女川町漁民の方々だと言う。少し調べたら、多賀井公平さんと言う漁師の方が仰られたと言う。『だいたい電気を使うのは東京なんだよ。おれたちは電気なんて大していらないんだ。夜は早く寝るし、クーラーも入れないしよ。東京の電気は東京で作ってくれよ。女川や柏崎や下北を犠牲にするのは、それはよくないぜ。そういうのを差別とか搾取っていうんだろう。原子力はクリーンで安全なんだろう。霞ヶ関とか皇居で10年20年とか発電してみてよ。それで具合いいようだったらおれたちも考へてみるからよ』[10]参照の事。断っておくが女川原子力発電所は東北電力の発電所であり、今回の福島県を中心とした放射能汚染の事故を引き起こした東京電力の所管ではない。だが今回の海への放射能汚染を見れば汚染源が何処に在ろうとも漁業に多大影響を及ぼす事には変わりないのが判るであろう。

日々無限の海の幸を相手に額に汗し、体から発する己の獣の匂いを隠そうともせず、海からの幸の収穫を悦び、酒を仲間と交し又家族を養い子供を育てながら魚の匂いと磯の香りの中で暮らして来ている人々。人間として直感的に原子力の全体像を看過できていたのである。この前例をまるで再確認するかの様な社説が最近あった。12月13日付けの中日新聞の地球の温暖化の問題を論じた社説"全員参加、次はスピード ポスト京都は2020年"にこの様に記載されている。[11]参照の事。残念ながら以下の指摘は既存の事実なのである。
『(中略)
温暖化はもはや、見えない敵ではなくなった。‘目の前に危機はある’
生き物には、自らの危機を察知し、それを回避する能力が備わっているはずだ。人間だけがその本能を失いつつあるのだろうか。』
日常生活の中で携帯電話などの機械を操作する単なるオペレータとして生きる、又危険を察する本能を忘れ去ってしまった、或は己が獣の匂いのする人間である事を忘れてしまった、都会に住む"差別とか搾取"に無関心な人間の方が圧倒的多数居る事実がこの社説への答えである。

女川町の漁師さん達の予見が、最大多数の最大幸福の声にかき消されて現実となってしまった事に対して貴方は一体何を思うのか。しかし確かな事は私達市民が過去行って来た原子力に対し無関心であると言う行為の積み重ねによる帰結と言う事態に今我々は直面しているのである。つまり覆水盆に帰らず、放射能原子炉に帰らずという帰結を生じてしまったのである。彼ら女川の漁師は女川町の東北電力の原子力発電所の建設を反対する一方で、大きな気持ちで今回の様な放射能汚染事故を覚悟していたのだと思う。事故が起きた時には放射能汚染した地元の海で採れた海産物を涙を流しながら食べるしか選択の余地はなかろうと。何故ここに?原発を建てる?東京ではなくて?不条理?そして自分たちの力が及ばずに原子力を許してしまった敗北の歴史と、今福島の同胞市民が直面する放射能汚染の実態に涙していると思う。経済の成長期における"国策としての原子力"に反対と言う声を挙げるのがどれだけ勇気のいる事であったろうか。遅きに失しているが、彼ら女川の人々をとても勇気ある方々と言いたい。しかし放射能汚染で生業を破壊されてしまった漁業や農業を営む市民の悔しさ、怨念の気持ちが社会の表面に出てこないのは何故なのか?非常に不思議である。この期においても差別されているのか?

この多賀井氏の言葉の行間を見ると、原子力発電と人間との関係を改めて考えさせる。放射能は小さすぎて見えない、匂わない。だからクリーンと言い放つ、この人間の五感の限界に付け込んで来た組織達。今回の放射能汚染事故でもこの五感の限界に乗じて多かれ少なかれ人々自らの遺伝子を傷付ける事を強要している。改めて放射能の前に人間は裸である、と知るべし。放射能は見えない事(認識できない)故、その危険性を予見すると言う人間の能力を行使する事が出来ないのである。又眼の前におこりつつある放射能汚染の拡散と生態系の中の生物による濃縮を見ようとしない人間が圧倒的多数この世にいると言う事。多数の市民は原子力の事など3.11以前、無関心で過ごしながら生を享受してきたが、3.11以降喉元過ぎれば熱さも忘れるのだろうか、健康被害を恐れる事が日常になってしまった事にもまるで無関心であるかの様である。このままの状態即ち現状(目に見えない放射能汚染が日常生活の中に確実に増加してしまった状態)維持でOKと思っているのであろう。

おいオッチャン達、美しくも古き良き日本の古里が東京電力の傲慢さの結果によって不条理にも、けがされてしまったのだよ!どうして彼らに対し怒りの声を上げないのか?ガッツあるのか?それとも魂抜かれて、怒る本能をなくしたのか?

3.最大多数の最大幸福
先日11月20日付け東京新聞にこんな記事があった。[12]参照の事。
『(中略)
原発反対を訴え徒歩で旅をする男性を取り上げた同年四月十四日の佐賀新聞の記事には「目立ちたがりの行動をなぜ写真入り、三段抜きで報道するのか。勝手な反対派を勇気づけるだけで、社会の大多数のための政策の推進を阻害する」と報告した。...』

原子力を国策として推進する人々がどの様に日本の国民を捉えているのかハッキリと判る言葉である。多賀井氏の言葉ではないが、"差別とか搾取"のエネルギー政策の上に都会の市民は自分たちの幸福を築いてきた訳であるが - 別の言い方をすれば、他人の痛みが分らずに - 一転今回の過酷事故の様になれば、いかなる日本の市民も尺度の幅はあるにせよ、自分たちの築き上げてきた幸福がものの見事に打ち砕かれてしまうと言う事実を否定できる人はこの日本には居るまい。原子力教とでも言うべきか。無限できれいなエネルギーと言うスローガンを下界に住む市民の頭の中へ刷り込み学習させ、又市民の為に最大多数の最大幸福を実行していますよ!と。その裏腹に自分達の特権(例えば天下り先)を確保して行く(まるで何処かの宗教団体と変らない)原子力霊山に有る原子力神殿の傲慢不遜な面々。生まれながらにして、他人の痛みが分らずとでも言おうか。そして我々は彼らを無関心という行為を通して支持して来た市民であった事を自覚すべき時でないだろうか。原子力とエネルギーに関しての無関心と言う行為の結果、即ち放射能汚染と言う帰結、の代償を我々市民は将来に渡って払わなければならないのである。そして同時に我々市民はTEPCOと言う会社の傲慢さによって(昔から何か腹黒い会社と言うイメージはありましたけど)生じてしまった帰結に対しても2重に代償を払い続けなければならないのである。私たちも国とTEPCO同様少なからずこの放射能汚染事故の責任がある事を自覚せねばなるまい。

それにしてもどうして貴方と貴方の家族なのか?或は私と私の家族なのか?耐えられない不条理が此処には在る。この不条理に対する怒りを何処に持って行けばよいのか。一方で人間の犯した罪で、放射能汚染されてしまったこの世界に住まわなければならない、全ての生きとし生けるものを考えると市民の無関心と言う代償が途轍もなく巨大に見える。私達人間が犯した生態系に対する罪は途轍もなく深い。今、ここで冷静になって社会の中の異分子として扱われ、地域の中で村八分されながらも国の原子力政策に抵抗していた良心的な市民を最大多数の最大幸福を壊す様な"勝手な反対派"として社会的に葬って行った歴史を改めて考えて見るべき時なのだろうと思う。

3.11以前今まで原子力エネルギーを推進する事により受益を受けて来た側、原子力の本質に無関心であったが故に最大多数の最大幸福を楽しんで来られた側、そして原子力の痛みを押し付けられて来た側。3つの社会の構成層があった訳であるが、悲しいかな3.11以降最大多数の最大不幸となってそれぞれ圧等的な不平等を伴い3つの構成グループの人々自身の上に降り掛かって来た事になったのである。もう最大多数の最大幸福と言う言葉は存在しようがない幻となってしまった事に原子力政策を推進して来た人々も我々市民も気が付くべきだ。

第2章と上記で述べたが、3.11以前には原子力発電の本質を訴えて来た人々は異端視され彼らの声は無視されて来た。そして今3.11以降放射能の本質を訴えている市民の声が、何故圧倒的多数の人々に(敢て大衆と呼ぼう)に届かないのか。これは私の中に有る苛立である。自分達の姿を3.11以前の原子力を推進する、国家の意志に抵抗していた人々の姿と比較して、重ね合わせて見て下さい。どうして貴方の声が、今人々に届かないのか自問してみて下さい?理由は何でしょうか?この議論について少し時間がかかりますが次回の"日本の市民の皆様へ-その3"にて私見を述べたいと思います。くどい様だが改めて言わねばならぬ。原子力の将来と自分たちの将来が明るい未来とはならないであろうと言う予見が、最大多数の最大幸福の御旗の下にかき消されて現実となってしまった事実を自分と自分の家族の問題として直視すべき時だと思う。

4.教科書の中の危機管理
米国にIEEEと呼ばれるエンジニアの組織がある。IEEEは今回の福島原子力発電所の放射能汚染事故で非常に有意義な記事を発信しているのを発見。[13]参照の事。先日Googleしていた所"IEEE SPECTRUM”と言う月刊誌、11月11日号に福島原子力発電所の事故の記事が載っているのに眼が留まった。[14]参照の事。まずこの"24 Hours at Fukushima"の記事の中に一番最初に載っている写真がある。かわいい女の子がマスクを半掛けして、体全体に付着している放射能の測定をされている写真である。胸が痛む。思わず涙が出て来た。そして最後の4枚つずりの写真の最初の1枚をズームボタンを押して見て頂きたい。全体的に緑がかった水が5m x 25m程と思われるポンプ室を冠水させている写真である。2つポンプに"中温'冷水?'ポンプ"と文字が読める、さらに奥に3つのポンプが有りその5台のポンプが殆ど海水(真水とは思えない)で水没している。ポンプの高さは人間の背丈前後の大きさと思われる(推測です)。これらのポンプが水に浸かって使えないのである。色々ウェブで調べたが、何処のポンプでどれだけ重要な役割を果たしているのかは判らなかった。しかしこの写真を見たときにゾッとしてしまった。理系の方であったら絶対に起ってはならない事であるのが直感できるはずだ。更に3月24日に新潟県妙高市の(株)エアフォートサービスが撮った高解度の福島第一原子力発電所の写真がウェブ上に在った。[15]参照の事。ほんの2~3日だけ公開されていた写真である。既に御覧になった方々が多いと思うが、これらの写真を見ると同じ様にたとえ単独でも絶対に起こってはならない原子炉の溶融事故が3つの炉でほぼ同時に、又核燃料プールの爆発破損1カ所が平行しておこっていた多重事故。と心で理解できるのだが、国や東京電力は心の眼を開いて事態を直視する能力ゼロで、又自分が主張していた安全神話が神話で無ったと言う事実を認める勇気が無いらしく、日本国内ではすぐさま検閲されてしまった。何やら既に起きてしまった核汚染と言う事が、"通常"の状態になってしまう恐ろしいまでの市民に対するマインドコントロールである。全くもって不思議な国だ。何処かの独裁国家よりもスマートに市民を洗脳している。尚、日本国内での検閲後4月2日より米国にある"Cryptome"のウェブでこれらのエアフォートサービス撮影の高解像写真が閲覧できる様になっている。ついでながらもしこれらの写真を御覧になっていないのでしたら、11枚(5MBの大きさ)の写真もダウンロードして観て下さい。[16]参照の事。Cryptomeは他に色々な福島原子力発電所の現場の写真を彼らのウェブに載せている。[17]参照の事。

更にこのSpectrumの11月11日号の記事中の4枚つずりの写真の中で、"高線量注意 高線量(1000mSv/h)の瓦礫につき、この近辺にみだりに近づかないこと"の掲示が出されている写真が有る。この文句を見て思わず、東京電力の面々は本当は危機管理能力の全く無い人達だけでなく、且つ放射能汚染の現状を現場の人達に意図的に過小評価させている人々と思ってしまった。このやり方は現場の人々だけでなく、一般市民への説明にも現れている。全く緊張感の無い掲示版である。瑣末な事だが'みだり'とは東京電力にとって、或は我々にとってどういう意味なのだろうか?1Sv/h?みだり?さっぱり意味判らん。現場は被爆により数時間そこにとどまれば死んでしまう人が出て来る様な所が在った訳だ。ここも其の中の一部であろう。そしてこの記事"24 Hours at Fukushima"の中のレッスンが又優れ物である。その中のレッスン3は"非常用電源車を限りなく発電所に近い所に配置すべし。"と有る。これが対策されていれば多分3号炉と4号炉は救えたのではないかと思える。僅か数千万円をケチりたいが為非常用電源車を発電施設のすぐ傍に配置しなかった事により、長時間の電源喪失を防げず3号炉溶融と4号機核燃料プールの爆発をおこしてしまった事は明らかにTEPCOの怠慢による過失事故である。己の会社を絶対と思い込み、聞く耳を持たなかった故、今回の破局的な放射能汚染が引き起こされたと言っても過言ではない。東京電力は溜息が出るほど一般常識が通用しない会社だ。会社組織を解体して染み付いた企業文化を払拭し、出直せと言うしかなさそうだ。駄目押しでこの記事の全てのレッスンを記載しておく。特にレッスン6の対策が成されていたならベントを周辺住民の避難が終わるまで待つ事無く行えた可能性があり事態が好転できたかもしれない。ちなみに記事"24 Hours at Fukushima"の著者Eliza Stricklandは米国の雑誌"Discover"([18]参照の事)のエネルギーと環境問題を担当していたウェブ編集者からIEEEの"Spectrum"に移って2番目の記事と言う。彼女は原子力に関する記事を書くのは今回が初めてだそうだ。モシモシ?"The Best and the Brightest"を自称する日本の原子力に関わって来た科学者さん(敢て科学屋と呼ぶ。詳しくは8章参照)原子力官僚屋さん?何故貴方には彼女のこの様な客観的な、Analysis Reportが作成できないのか自問した事が在りますか?彼女に自分たちが能無しであると言う事を間接的に証明されてしまった訳ですね。恥ずかしくないのでしょうか。とても視野の狭い、教科書の中でしか危機管理が出来ない、つまり前例が無いと何も出来ない秀才タイプの人達ですね。−そりゃそうだ。書類を作るのが自分たちの仕事で、今までに人命を助けると言う事を一度も仕事としてやって来た経験がないので、日本の市民を守るなんて出来ません...と言う声が聞こえそうだ。でもそれって危機管理そのものじゃあないのか? - 言い訳する事取り繕う事=自分の責任逃れに懸命な様で、大勢の子供達を守ってやれなかった事を一人の親として恥じていないのだろうか。自分の失策を省みる事も出来ない器の小さい連中は失業して然るべきである。
Lesson 1: Emergency generators should be installed at high elevations or in watertight chambers.
Lesson 2: If a cooling system is intended to operate without power, make sure all of its parts can be manipulated without power.
Lessen 3: Keep power trucks on or very close to the power plant site.
Lesson 4: Install independent and secure battery systems to power crucial instruments during emergencies.
Lesson 5: Ensure that catalytic hydrogen recombiners (power-free devices that turn dangerous hydrogen gas back into steam) are positioned at the tops of reactor buildings where gas would be likely collect.
Lesson 6: Install power-free filters on vent lines to remove radioactive materials and allow for venting that won't harm nearby residents.

CryptomeといいIEEEといい海外のメディアからの情報と比較して何故日本の社会の中からは物事を客観的に見れないのか?貴方はそれを自問された事が有りますか?色々理由は複雑だろうが、その根っこに或るのは、私達市民が物事或は現象へアプローチが巧く出来ないからだと思う。その背景を8章で考えてみたい。

5.統計中の1サンプルと言う運命、そして忘却され
先日出張した時に載った飛行機の隣の席の方が、自分は医者でこれから癌学会
へ出席する途中だと言っていました。目的地に近ずいた時に今回の原子力発電の放射能汚染事故はどの様に見ているのかの意見を聞いてみました。少し遠慮してこんな事を言いました。将来に起こるであろう、個人個人の癌の発生を全体で眺めて見、そしてそれら個人の発病の点と点を結んで線にして過去に遡って行くと、3.11.2011の福島と言う1点に辿り着くかも知れない。こんな事はおこらないで欲しいのだがと。

現状では福島第一原子力発電所の放射能汚染事故の人間の体に対する影響の統計的データは存在しない。今在るのは3.11.2011と言う点だけである。何年後何十年後かに集計した統計データを基に癌発生の因果関係を突き詰めると、長時間の調査後に曖昧ながらしかし統計的に有為な因果関係を説明するに足りると言う科学的なデータが揃う事が予想される。しかも昨今遺伝子のどの部分が破損しているのか判る様になったので因果関係が補強される様になるだろう。東京大学の児玉教授の資料[19]参照の事。しかし皆さん御存知だと思います。不特定多数の死なんて無いんです。想像してみて下さい。貴方の、私の或いは私達の子供達の死なのです。病気になった個人の苦しみは統計と言う数字からは決して表立って出て来ないのです。親族だけが苦しむのです。特に言っておかなければならない事は3.11の放射能汚染事故の被害者であるかどうか判別が非常に難しいのです。同じ様な被害者が揃わないと統計的に3.11放射能汚染と他の要因での健康被害との因果関係を峻別できないのです。何とも遣る瀬無いと思いませんか?個の生死;私でなく貴方の遺伝子が、また貴方でなく私の遺伝子が傷ついて、又共に貴方と私の子供達の遺伝子が傷つき、そして双方の家系が癌に成り易い家系となって、それぞれ捨て石の様に統計データの中に置かれ3.11の過酷な放射能汚染事故を将来無言で指し示す事になるかもしれないとは3.11以前誰が予想したでしょうか?

皆さんどうして判らないのですか?個人に病気と言う結果が確率的に降り懸かるのです。間接的な状況証拠が在るだけで(例えば髪の毛や爪、乳歯を取って置いたとしても)、これだけでは十分とは言えない。既に言及しましたが健康の被害を生じた人の数が多くなって初めて統計的に3.11の放射能汚染と健康被害の因果関係がぼんやりと見えて来ると言う事です。そしてソビエト連邦での25年前の事故の前例が在るにも関わらずこれらの統計データを用いようとしない政府。今日本で放射能は危険か安全かと言う議論をしているのはタイタニック号の船の上でこの船は沈まない安全だと議論している様な物。子供と母親、妊婦さんを一刻も早く救命ボートに載せる様な、予防的な手法を採るという事=安全&安心へのアプローチを採るべきだ。だが、関連省庁の官僚は20ミリシーベルトの居住地域なら安全と、数字を振りかざして予防的な事を一切取らない。此処でも国と政府は思いっ切り、人間の認識の限界に付け込んでいます。極悪と言わずして何と言うか。政府や厚生労働省、文部科学省は個人の死など時間が経てば忘却されると思っているのだろう。貴方の子供達の人生が国、官僚、東京電力、地方行政に弄ばれるであろう事を忘れてはならない。しかし我々市民は統計の中の1サンプルになる様な事態を己の生存を賭けて拒否する。こんな事を人間が人間に対して行ってよいのか?まるで日本人が日本人に対してホロコーストを行っているとしか思えないのだが。今からでも己の自己防衛としての予防的手法は間に合う。官僚屋の御信託に構わず、放射能の影響を最小限に出来る様、市民皆の知恵を絞り何とか生き残ろうではないか。さもなくば私や貴方の子供達は統計の中の数字としてしか扱われず、人間として生きて来た証が忘却されるであろう事を心にしっかり留めておけ。

一方、30年後に過去を遡ってみてデータを集める、のは科学である。しかし今後の30年を見据えて、危険を予見し回避する事の出来、不出来の如何は科学と言う道具を用いた政治の力の行使である事を忘れないで欲しい。この僅かながらの市民の意志を今現在原子力官僚屋の巨大な宣伝マシン、"マス"メディアを用いて圧倒的多数の人間を原子力の本質に無関心で居させ続けて置く事で骨抜きにしつつあると思える。何とか出来ないか?

6.より根源的な事へ
この章では、私が勝手に遡り法と呼んでいる方法を紹介します。まず1歩下がって全体を見る事から始めます。そして2つの事柄でどちらの事柄が先立つかと自ら問います。それでは:ある事柄-Aと事柄-Bが眼の前に在るとします。その時にまず事柄-Aの存在を消去してみます。その時には事柄-Bが存在するか?という事を検証する方法です。逆の事もやって見ます。事柄-Bの存在を消去してみます。その時には事柄-Aが存在するか?事柄-Bが事柄-Aに先立って存在するかどうか、もしそうなら、事柄-Bは事柄-Aより根源的な存在であると理解できます。即ち二つの事柄を遡ってみてどちらが根本的、根源的な存在であるかを問うアプローチです。貴方もこのアプローチを実践して見て下さい。但し"ニワトリが先か卵が先か"と言う問いの罠に捕われないで下さい。蛇足ですがこのアプローチを用いるとニワトリと卵とではどちらが根源的なのかハッキリします。つまり答えが出ないと言う事が判ります。議論は堂々巡りだと大局的に見えてきますし、そうしたら、答えは"ニワトリが先か卵が先か"の問いの外に在ると気付く筈です。はい、答えは:"始めにメスとオスありき"です。

さてこの方法を東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故に当てはめてみましょう。以下網羅した2つの項目を心の中で比較してみて下さい。又"行為とその帰結"と言う見方(一番最初の投稿4章参照)も参考に。
* 地震 vs. 津波、*地震 vs. 原子力発電、*津波 vs. 原子力発電所、*福島第一原子力発電所 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*東京電力 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*政府 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*通商産業省 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*旧科学技術庁、現文部科学省 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*原子力と言う国策 vs. 3.11.11放射能汚染事故

*電力会社 vs. 原子力発電、*ゼネコン vs. 原子力発電、*政治家 vs. 原子力発電、*官僚 vs. 原子力発電、*地方自治体 vs. 原子力発電、*金 vs. 原子力発電、*農業、漁業、林業 vs. 原子力発電、*製造業等の工業 vs. 原子力発電、*電気 vs. 原子力発電、*自然放射能 vs. 人間が作り出した放射能、*人間 vs.電気、*生命 vs.原子力発電、*国益 vs. 東京電力の社益、*国益 vs.省庁益、*省庁益 vs. 東京電力の社益、*日本国民 vs. 国会、*日本国民 vs. 官僚、*国会vs. 官僚

遡り法では峻別できないけど敢て比較します。
*安全&安心 vs. 不安、*放射能汚染 vs. 放射能汚染の測定値、*民主主義 vs.原子力発電、*原子力村(原子力神殿) vs. 原子力発電、*核燃料サイクル vs. 原子力発電、*幸せ vs. 原子力発電、*欲望 vs. 原子力発電、*愛 vs. 原子力発電、*自然放射能 vs. 癌、*人間が作り出した放射能 vs. 癌、 *原子力発電 vs.癌、*原子爆弾 vs. 癌、*原子爆弾 vs. 原子力発電、*地方 vs. 都市、現実 vs.言葉、*私 vs. あなた、*私達 vs. 私達の子供達、今 vs. 未来。

そしてこの手法にもとづけば何が何に先立つかの優先順位がハッキリ判る訳だ。より根源的な事を軽視し、後からどうとでもなる根源的でない事を重視する事はより根本的、根源的な事を殺めるに等しい。でもこんな事って常識で判るのですけれども、日本と言う国を動かしている人々はどうも我々市民とは違った思考回路をお持ちの様で、3.11以降日本の幼い子供達、乳幼児、妊婦さんの保護対策を中心とした東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故の危機管理よりも自分達の責任逃れの方が根本的、根源的だったのでしょう。さて、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが"無知の知"即ち自分は或る事を知らないと言う事を知っているのが大事と言う有名な言葉を残している。[20]参照の事。そこで、次章で違った角度から見た自分達の野心の為の最大多数の最大幸福と言う名前の神をガムシャラに布教する人々、そして我々市民のそれに対する無知の無知を論じてみよう。しかし小生この頃、彼ら原子力エネルギーを生業にする人は自分達が原子力の本質に対し無知の無知状態であったと言う素振りを見せながら、確信犯的に日本の市民の、特に子供の被曝の被害を予防的に回避しようとしなかったと考える様になって来た。

7.恣意的な誘導、意図的な解釈。日本人の弱さから派生する事
まず最初に意図的な解釈について言いたい事が或る。よく原子力発電所を運転しての事故のリスクは車を運転しての事故に遭う事と比較して小さいと主張する人がいる。論理的に決定的に違う。車は自らの責任で自分でハンドルを握り運転する、或は同乗するのである。死にたくないから注意深く運転するものじゃないのか?原子炉は安全の文化が皆無な企業が運転しているのではないか?そして過酷事故が起こってもその責任は取りたくないから、今回の4つの原子炉館屋の完全破壊の経過に対して嘘も平気で言うし、のらりくらりと逃れている、言い訳しているではないか?そんなまるで当て逃げ事故をおこして逃げる様な無責任な連中と、一生懸命真面目に生を生きている我々市民を一緒にしないで欲しい。其処を理解してからリスクの比較を行って欲しかったのだが。

さて此処で今回の放射能汚染事故に対する恣意的な誘導、意図的な解釈をする側とされる側に共通する、幾つかの陥り易い人間の認識の特性を思い付いたまま、列挙してみよう。

[誘導、解釈をする側]
1 未来を真剣に予見しようとしない:何とかなるだろうでは国家は運営できない。"Prepare for the worst, hope for the best."即ち"最悪の事態に備えよ、そして最善の結果になる事を(祈って)期待する"と言う事は、危機管理の初歩の初歩。これが何故国を中心にして出来なかったのでしょうか?最悪に備えておけば安心ではないですか?例えば海から4kmも離れているので押し寄せて来る海水の事は大丈夫と過小評価していたが故におこったと思われる宮城県石巻市立大川小学校の惨事。胸が痛みます。亡くなられた生徒さん皆さんに心から合掌致します。一言で上に立つ人間の力量、最悪の事態に備えよと決断出来るかどうかが問われたのです。本来上から下まで如何なる社会の組織のレベルでも危機管理が出来なければいけない筈。同じ事は次の事にも適用されます。放射能汚染の影響を過小評価、或は安全、安心と宣伝する行為により発生するかもしれない健康への影響がかなり悪い方向になってしまった場合には将来誰が責任を負うのでしょうか?危機管理の精神は一般市民にも備わってなければいけない。よって国が20ミリシーベルトまでの放射能汚染された所に住む事や500ベクレル/Kg以下の放射能汚染された食べ物を食べる事は安全と言う宣伝(あたかも国の命令の様に聞こえてそれに服従してしまう)が自分の本能の声と違っていたなら、躊躇なく自分の本能に従うべき。断言します。私は上に立つ人誰も責任をとらないと思います。**日本人の弱さ**
2 どこの国でも、如何なる時代にも政治家は国民の不満が鬱積した時に必ず行う事が有る:それは国民の目と不満を外、即ち国外にそらす事である。しかし日本の政治を司る人達が、逆に科学屋と官僚屋にこの手法によって手玉に採られているのが判らないとは、情け無い。私はこの記事を読んだ時に思わずアホ!と叫んでしまいました。"低線量被曝のリスク管理の政府作業部会"11月15日。まずこの記事を読んで下さい。[21]参照の事。チェルノブィリの放射線被災者の統計データを参照する事も大切だが、この日本の足下に於いて既に貴重なそれもしっかりした個人の被曝放射線線量が蓄積された形で在るではないか?"実は存在していた「低線量被曝データ」"[22]参照の事。自民党参議院議員の古川俊治氏が8月1日の復興特別委員会で質問。**日本人の弱さ**
3 視野の中で素早く動く物はすぐに認識できる:逆にとてもゆっくり動く物体は視界の全体の中で区別が難しい。例えばこの人間の認識の弱点を利用すると何が出来るか?100%の変化を1日で市民に伝えるのと1%の変化を100日かかって伝える事。つまり少しずつ情報を人間の眼と耳を通して流し込む事によって、皆が気が付かないまま既成事実を積み上げる事。これが原子力体制保持の為の危機管理なのでしょう。だから小出しに遅れて情報を政府は出すのです。**これはTEPCOと政府の恣意的な情報誘導です。**
4 始めに結論ありき:まず安全ですと言う。何処かの国の検察官も似たりよったり。**これは官僚の意図的な解釈**
5 偏見:自分と違った考え方を許容できない。多様な意見に対する寛容性がない。次の聞く耳持たぬと双子の兄弟。**人間の弱さ**
6 聞く耳持たぬ:自分が正しいと思い込む事で相手を見下す事。自分たちと違った意見を持つ方々を排斥するのが得意。そして大王様のTEPCO:良心的な科学者が幾度となく、放射能を大量に放出する過酷事故の危険性を忠告していた筈ですが、聞く耳持たなかった故に不幸が全世界中に振り蒔かれました。一方叱責すべき事は我々市民が原子力エネルギーに対する多様な意見に耳を傾ける能力が無かったと言う事。勿論我々の心の中にも原子力エネルギーに反対していた人々に対する偏見は有ったと思う。**日本人の弱さ**
7 集まる事。集まった側の外は自分と違った人間と思い排除する:タテ社会の派閥やラベル張りの典型。ヨコ社会では市民は利害関係無しに集まれる。**日本人の弱さ**
8 嘘に嘘を重ねると本当らしくなる:嘘でも何十回も言われると人間信じちゃうね、感覚が鈍感になって。又大きな嘘ほど本当の様に聞こえる。**恣意的な誘導**
9 間違えを認めない:間違ったら素直に訂正&修正すると言う事が眼の前の事と向き合う時に必要なんですけど。人間傲慢になると謙虚さが無くなるね。**日本人の弱さ**
10 失敗は成功の母:国家を滅ぼす様な事態になって何事でしょうかね。物には程度ってのがあるんだけどね。私達市民はTEPCOの失敗の生け贄か?そして責任は知らんぷり。**これは官僚の意図的な解釈**
11 木を見て森を見ず:は"木を見させて森を見させず"と言うやり方にも通用する。細かい数字や内容を出して来て大きな所は極力見させない。市民の皆さんに、今進行している事を大局的に見させない目くらまし戦法である。何が起きたか、何が起っているのか、これから何が起るのかを予見させない。実に姑息。**これはTEPCOと原子力官僚による恣意的に我々市民の視点をある処に集中させる誘導法です。**
12 不安を煽るな:そう言われても、まず不安とは何かと定義してから言って欲しい。

[誘導される、解釈を与えられる側]
13 喉下過ぎれば暑さを忘れる:時間が経ったら忘れちゃう。持続する事の難しさも言い表してます。**人間の弱さ**
14 無関心:俺の事ではない。私の事ではない。と思い込む。だが結果は判らないのでそう思い込まない方が良い。そう言う事態が長い間続いて来ているので生存本能が麻痺していますよ。皆さん!**これは人が最も陥り易い罠**
15 動物園の動物の様に一点をグルグル廻わる:ルーチンワークってんですか。携帯電話を操作しながら徘徊する人と同じ。そんな生活していると感受性無くなってしまいますね。おまけに想像力も無くしちゃって。先ず自分で自分の殻を壊してみて下さい。**日本人の弱さ**
16 無知の知:自分は或る事を知らないと言う事を知っている時、自分でその事を探求します。謙虚だし。無知の無知だと人間無関心にもなるし。**人間の弱さ**
17 類推が重なりいつの間にか思い込みになる:自分では分ったつもりになり確認を怠る。**日本人の弱さ**
18 現実を直視し果敢に問題解決:東京大学の児玉氏が国会で怒ったのはこの事。現実からの逃避。上が上だからね〜。と無関心風に言っていたら火の粉が降り掛かって来た時後悔しますよ!**日本人の弱さ**
19 知識と言葉、数字と言う色眼鏡を通して眼の前の事を見る:詳しくは次章。**日本人の弱さ**
20 誰も声を挙げなければ怒っている自分が異常に思える:大衆に埋没する個人の意見。個人のユニークさを大事にしない世の中の証。皆と違った声は皆が無視。敵意の或る時も。**日本人の弱さ**
21 平等と言う名前の、多様性(個人のユニークさ)の否定:横並びでないと御近所の皆様に悪いと変な義理が或る。だから自分の子供を放射能から守る様な事をすると、そうしない近所の人々から変わり者として扱われる。和を乱すと、近所から浮び上がってしまう。集団心理とは正にこの事。**日本人の弱さ**
22 隣の芝生:自分の家と隣家を比較の対象とすべきではない。これをやるから妬みが出て来るのじゃないのか?行ってよいのは過去の自分と今の自分の比較。**日本人の弱さ**
23 情に訴える事:論理がないし議論が無い。特に選挙等人を囲い込む時、金が物を言う世界。情と金で人を囲い込む(悪い奴程良く眠る) vs. 論理と倫理に支えられた人間の良心に基づくヨコ社会。**日本人の弱さ**
24 タテ社会とヨコ社会:タテ社会の弊害を投稿その1にて指摘しましたがトップダウンの命令が理に適わない時、それをヨコに市民同士で繋がる事で彼らの誤りを認めさせ、修正させる事をして行かなければ社会は良くなりません。- 昔から正しくない決断をしてその帰結が不幸に終わった時そのトップの面々は100%責任逃れしますけど - その結果日本の市民は大変な目を見るって事って、日本でどうして頻繁に起こるのでしょうか?その様な結末になる前に市民がヨコに繋がって声を挙げなければ何も良くならないのです。**日本人の弱さ**

[番外]
25 何でニュースを批判的に見ないのか?:単に情報として聞くだけ、読むだけの話のネタ。**日本人の弱さ**
26 そして何故大局的に物事を見ないのか?:上記25に関連して。東京電力女性社員の殺人事件の被疑者であるネパール出身のゴビンダ マイナリ氏のDNAが被害者の女性より見つかった犯人の精液のDNAと不一致と言うニュースがこの7月の時点で流れた。何故この時批判的に又大きく観れないのか?精液のDNA鑑定で更に犯人の民族的特徴も解読できる筈。しっかり心の眼を開け。日本の市民!**日本人の弱さ**
27 何も変えようとしない:官僚と長期政権であった自由民主党。官僚と権力を持った政権との関係が癒着し、中立性を失って久しい。そして彼らは政治を操る組織となった。そして官僚の中立性のチェック機構が無い。だから何時迄経っても私達市民は官僚の奴隷。**日本の弱さ**

これらの市民の弱さを把握していてそれに則り大衆操作する奴らが居る事に気が付いて欲しい。

8.眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)
この章では高度な認識、そしてそれを恒久的に見過ごしてしまう頭の特性を題材とします。

学生時代に良く遊びに行った研究室の教官がふと漏らした言葉が今でも忘れられない。もし貴方が、或る夜に月を眺めていたとしよう。その時に貴方の頭の中がまっさらな状態で居て(情報も何も前もって知らずに、即ち言葉や知識と言う色眼鏡を通さず)、尚かつその時に月の格好が何か奇妙に変化して来たと感じたとしよう。そして刻一刻と月が暗くなって来た事が判る。暫くの間、頭の中で何が起っているのか判らない状態に置かれていた。不思議である。よくよく月を見ると少し欠けているではないか。そして非常に大きな電気的ショックが頭の中を横切る。何がおこったのか?

心がまっさらな時に見ている眼の前の出来事と、"月食"と言う言葉と知識が頭の中の神経回路の発火により、繋がっのだ。だが其れだけではない。より高度なレベルの認識が存在すると言う事実を自分の頭の中で覚醒する。言葉なしでも起こる事は眼の前で起こるのである。

そう、貴方が今観ている事とは"現象としての月が欠ける事"である。つい先日12月10日の月食時もし頭の中には情報が前もって刷り込まれていたのなら、それは単に"月食と言う現象"を見ていたのだ。例えば今朝の新聞に本日夜何時何分に何処の地方から何処までの範囲で部分月食或は皆既月食があります。凡そ何分間続きます。と頭の中に情報が既に刷り込まれている訳だ。依ってその人の採る行動は、月食が始まる5分前になって外に出て月を眺め始めると言う筋書き通りの行動である。時計を見ながらあと何分この月食が楽しめるかなどと、思うに違いない。眼の前の出来事を、既知でない時に目撃する場合(人間にとって神秘な出来事)と比較して、予め予期された既に頭の中に出来上がってしまったイメージで眼の前の現象を観てしまう場合。この二者間の違いは天と地程の差がある。この事態は眼からの経路から生ずるだけでは無い。五感から入って来る"生"の情報全てに当てはまる。現象が前からやって来る。それを心をまっさらにして受け止める。特に自然を相手にする漁業や農業を生業とされる方々は心の眼が開いている故、これに近い経験が出来るのではと思う。その一方頭の中の言葉と知識を通して眼の前の出来事を見ると言う事は色眼鏡を通して"月が欠ける事"を見てしまうと言える。目から鱗とはこの事。

此処で"放射能"と"月食"を置き換えて下さい。"放射能と呼ばれる現象"と言う見方のアプローチを捨てて"現象としての原子が壊れる事"、更に噛み砕いて"現象としての物が壊れる事"と言う見方のアプローチを取って下さい。簡単に言うと頭の中に有る、"安全だ"と言う評論、"危険だ"と言う評論と、頭の中でグルグルと廻っているベクレル、ミリシーベルトなどの数字の事を捨て去って下さい。色眼鏡を通して物事を観る事は思い込みが判断の中に入り込む隙を与えたり、自分がこうなって欲しいと思っている方に傾いて物事を見てしまいがちになってしまい、物事の本質に迫る事が非常に難しくなります。目から鱗を取払い眼の前の出来事にアプローチをして下さい。そこがスタート地点なのです。この立場は英単語で言うと"perceive"日本語で"知覚"と言う言葉で表せます。ですから知覚と言うアプローチで見れば、"人の手によって核分裂で作られた原子核が壊れる事"から始めてそれは生命にとって安全だとか危ないとか言う問いができるのです。分りますか?心をまっさらにして眼の前の事にアプローチする事の大切さが。

次に"月食"を"現象としての放射能汚染"と置き換えてみて下さい。どうですか?心の中に何か響きますか?もっと極端な話にしましょう。"月食"と"津波"と置き換えてみて下さい。特に3.11.2011に直接"押し寄せて来る海水"を目の当たりにした方はもう心の中で理解していると思います。貴方の眼の前の出来事は"津波と言う現象"と言う言葉で言い表すよりも更に心に深く刻まれた"現象としての押し寄せて来る海水"を目撃体験したそのものです。あの空恐ろしいまでの海水の量を直接観た人々は、言葉を用いて物事にアプローチするより眼の前の出来事をそのまま、言葉と知識と言う色眼鏡抜きで受け入れているのがお判りいただけましたでしょうか?また"地震"をマグニチュード幾つの地震と思わず、"現象としての大地が揺れる事"と知覚で捉る様に試みて下さい。同じ解釈を採りますと、3.11以降の放射能汚染事故を"現象としての原子炉の爆発"の結果と言うもっと簡単な表現で知覚する事が出来るでしょうか。これを押し寄せる濁流や大地が大揺れする事と重ね合わせて見て下さい。人間の小ささが判るでしょうし、原子炉即ち機械なんて押し寄せる濁流や大地が大揺れする事で壊れるものだと納得します。

さて現実に戻ろう。この思考習慣は日本社会を覆う最も巨大な弱点である。司法、立法、行政を司る人々が長らく陥っている事態なのである。学者や官僚達の頭の中には既に刷り込まれた判断回路が出来上がっているので、柔軟な思考、物事を違ったアプローチから捉える事が出来ない。おまけに自分が言っている事が間違っているかと検証する意志も無い状態だ。私自身、物事や人々にラベル張りをするつもりは無い。しかし言葉と知識と言う色眼鏡を通して物事を観ている事が自分自身判らない科学者、官僚、政治家の面々を科学屋、官僚屋そして政治屋と呼ばせて頂きます。国中がこの様な状態なので外国からの今回の福島第一の放射能汚染事故の捉え方と日本政府の放射能汚染の捉え方とのギャップが或るのは不思議ではない。例えば"http://ex-skf-jp.blogspot.com<http://ex-skf-jp.blogspot.com/>"と言うウェブにThe New York Timesの12月6日の記事が紹介されていた。[23]参照の事。日本の政府が放射能汚染を如何に色眼鏡を通して解釈しているかが良く判る。その中にこんな記述があった"...Supporters see rehabilitating the area as a chance to showcase the country's formidable determination and superior technical skills - proof that Japan is still a great power...."日本語訳は"地域の除染をサポートする人々はこれが国の並々ならぬ決心と、優れた技術を持つ-日本はまだ大国である、と言う事を証する機会であると考えている。"兎に角物、技術中心の思考で日本の市民の事が思考の中に無い。自国市民を保護すると言う点で5流国であると言う事を3.11以降自ら証明してしまって何を今更大国か、と思う。国力と言う対象を総合的に見ないで技術の面のみから見ている馬鹿者達。同情心も何もない、不信心な道徳に欠ける連中。

まず貴方は"知らない"と言う自覚を持って心をまっさらにして、眼の前の事に対峙する事。次に"現象としての物が壊れて行く事"と言うアプローチ方法によって眼の前の出来事を次章で検証して行く事にする。

9.心の中をマッサラにして(努力して)
まず簡単に:ウラン235を炭に例えましょう。炭を燃やす時酸素を大量に供給して、一瞬に燃やす事と例えられるのが原子爆弾。よって炭は白く燃えつきてしまって燃えカスは余り残りません。一方炭をちょろちょろと燃やすのが原子力発電。この時燃え残りの炭と燃えカスは残っていますよね。そして原子炉の中って主に2つの動的な物理現象が同時進行する格好で発電しています。(1)中性子に依るウラン235の核分裂。(2)ウランの核分裂で生じた核分裂生成物、簡単に言うと燃えカスが更にアルファ線、ベータ線やガンマ線(即ちエネルギー)を出しながらより小さな原子へと壊れて行く物理現象です。もし原子炉に制御棒を挿入すると中性子が発生しなくなり、ウラン235は核分裂を止めます。そうすると1つの物理現象が止まって(1)もう1つの物理現象(2)のみが原子炉内で進行します。つまりこれ以上ウランの核分裂で出来る燃えカスが増えなくなる状態。又(2)のエネルギー、これが崩壊熱。[24],[25],[26],[27],[28]参照の事。

余り算数は得意でないのだが、以下の計算一生懸命やってみた。色々下調べしましたが、小生学者ではないのでもし間違えていたら御指摘下さい。そしてその時は御免なさい。又所謂反原発の本を持っていないので其処からの話の内容とかち合う事も予想されます。その所、御理解下さい。では核分裂生成物=燃えカス=放射能が原子炉の中から表へ出てしまうと言う事はどう言う事か食べ物を通して、そしてその放射能汚染に対する安全宣言に向き合ってみたい。国の暫定基準値では500ベクレル/Kgと言う値になっていて、それ以下なら安全で、それ以上なら安全でないと言う線引きの意味を知覚を通じて考察してみよう。お断り:文献の引用でBqと言う記号が出てきますがベクレルと同じです。以下セシウム137を主な例にとって話を進めて行きます。

Q1)放射性同位元素のセシウム137が1gあるとすると(セシウム137は壊れる時にベータ線即ち電子を放出する)一体何ベクレルなのか?
ベクレルとは皆さんご存知の通り"1s(秒)間に1つの原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量が1Bqである。"[29]より引用。500ベクレルとは毎秒500個の原子核が壊れてアルフア線、ベータ線やガンマ線等の放射線を出す能力。
A1)セシウム137の半減期は30.1年。これを秒に変換=30.1年x365.24日x24時間x60分x60秒=9.5x10^8秒。1gのセシウム137にはセシウム原子がアボガドロ定数/原子量だけ含まれている=6.02241x10^23/137=4.4x10^21個。依って、1gのセシウム137のベクレル量はlog-e(2)x4.4x10^21/9.5x10^8=3.2x10^12=3.2テラベクレル=3.2兆ベクレル。計算式は[29]参照の事。計算する必要も無かった。3.215TBq(10^12)である。ウィキペディア[30]参照の事。

Q2)1gのセシウム137って大変なベクレル量だけど、重さからすると大した量だとは思えないけど。比較できる具体例は無いか?
A2) ウィキペディアにこんな記述が或る。"チェルノブイリ事故以後のドイツ全土について平均してみると、セシウム137による汚染は、平均で2000-4000Bq/m2となっている。これは1mg/km2に相当し、500gのセシウム137がドイツ全土にばらまかれたことになる。"[30]参照の事。因にドイツは日本より2万平方キロメートル狭い。セシウム137が500gで1607.5テラベクレル。もし1gのセシウム137が体内に取り込まれたのなら500gで500人分。そしてセシウム137、1gが壊れる時に放出されるベータ線、即ち電子が一秒間に3215000000000個放出されるのです。又ベータ線が機関銃の実弾と考えると、判るでしょ、めちゃくちゃ細胞を被弾させていると言う事が。そうすると、細胞がダメージを受けない程度はどの位の重さのセシウム137だったら安心なのかと考えて見るのが自然な流れ。最初から500ベクレル/Kgが安全と決めつけるのは、非常に作為に満ちた手法ではないかと言える。

又[30]のウィキペディアの記述。"現在環境中に存在しているセシウム137などの多くは、1940年代〜1960年代の核実験や核事故で放出された。ただしセシウム134は、半減期の関係で数十年前に放出されたものは殆ど残っていない。1960年代前半に日本人は1日に1Bq以上を摂取していたと推定されている。"1950~60年代の大気圏核実験は壮絶を極めたが、それでも1Bqと言う単位で収まる汚染食品を日本人は1日に"摂取"であったと読み取れる。単純に考えてビキニ環礁の水爆実験の500発分が地球上に撒かれた時の値が500ベクレル/Kgの汚染食料の摂取と考えるのが妥当ではないか。以上の思考検証は500Bq/Kgとは核戦争後に放射能で人が死ぬよりも人が飢え死にしない事を優先した基準と言う記事、東北文教大松田浩平教授のコメント"国の暫定基準値の500Bq/Kgは全面核戦争時の食物の汚染上限"が正しいかどうかの為に行った。[31]参照の事。1ベクレルと500ベクレル。この違いを私達市民はどの様に解釈するのか?これで安全だと言う論拠は何処からくるのか?

さて次に食べ物の汚染が500ベクレル/Kgとはどういうレベルなのか考えてみよう。おっと、そうは行かないよ!もっとシビアに、自分の体の肉に500ベクレル/Kgの放射能が入っていると仮定しよう。だって優に2000ベクレル/Kgを超える野生のイノシシの肉も出て来てるんでしょ?[32]参照の事。可哀想に。自分達が食べる野の食料が放射能で汚れているか汚れていないかなんて峻別できないし。人間も同じ様に食べ物を区別しないで野生の人として500ベクレル/Kg*70Kgの体重*0.3(体の中の肉質の部分が体重の30%とした。投稿者の解釈)=10500ベクレル/1人当たりの放射能を抱えてみれば良い。つまり体の中で毎秒10500個の原子核が壊れているって事。もっと書きたいのですがこれ以上色々調べると頭がパンクしてしまいそうなので、ここで止めておきます。

ここでのポイントは人間の五感 vs. 小さすぎる物;原子、そしてそれが耳かき一杯の重さでも信じられない位大量に原子が在ると言う事。核エネルギーを使うという事はこう言う非常に軽いながら大量な人工の放射性物質を電気エネルギーと引き換えに毎秒毎秒生産していると言う事です。さてもう一度おさらい。中性子が飛び廻らなくなった後の原子炉の燃料棒内のウランペレット(瀬戸物)内での物理現象が、体の中でおこっている事=即ち内部被曝なのです。放射能汚染の強い牛乳を学校で子供達に無理矢理呑ませるのは原子炉での物理現象を体の中に植え付ける様な事をやっているのに等しいのです。更に高放射能汚染地に住むのはまるで原子炉建屋の中に暮らしているよりもひどい状態と聞く。半ば強制的に住まわさせられている子供達が不憫。大人が馬鹿だから子供達は健康に大変なリスクを抱え込まざるを得ない何とも不条理な世の中。これは誰のせいなのでしょうか?自分達の危機管理が出来ない私達市民のせいなのでしょうか?それとも問題を危機と認識しない為ですか?事態を楽観視しているからでしょうか?私にはこの事が群れの中に在る盲目的な精神論の行き着く果ての、遺伝子プールの自己破壊に見えてしまう。

文部科学省(旧科学技術庁を含む)が全国の国立大学主導の放射能汚染の調査の禁止を行っているとしても、いずれ国外から反論しようのない健康被害を予想するデータが提供されるだろう。今この放射能汚染の現実から目を背けて、真実を隠そうとする科学屋達。まだ判らないのか?自分達が信用されなくなって来ている事を。良心的な科学者は自分たちが無能な税金泥棒で無いと、色々社会に対し発言し手持ちの情報を公開して市民の為に仕事をしているとアピールして欲しい。そして横方向に学者同士で連帯して、日本の市民が自らの手で放射能から生き残ろうともがいているのを是非助けて欲しい。そうしない学者は失業させます。そしてTEPCOと言う野獣を野放しにして来た監督官庁は其の責任を取るべき。何故なら今回の様な原子炉の過酷事故対策を全て東京電力に丸投げしていたのじゃないのか?

10. 今 - まず出来る事、その2
(1)海洋のこれ以上の汚染をなんとしてでも食い止める事。除染に金を使うのなら、福島原子力第一発電所から海洋に漏れ出る汚染水を一刻も早く海へ漏れ出ない様遮蔽すべきである。静岡から引き舟で運んで来た1万トン級の長方形のタンカーはどうしたのでしようか?やっぱり汚染水を10万トンクラスのタンカーに移して作業現場の空間線量を減らしてこの地下ダムを作った方が最善なのではないか。まだ人間が現場で作業できる状態なので、今すぐ汚染水の遮蔽工事を実行に移せば、2年後位に工事を終了できるのではないか。それにしても日本は海洋国家ではなかったのですか?海を放射能で過酷に汚して何が海洋国家と言えるのだろうか。

(2)駆け込み出産寺
比較的高い汚染地域にお住まいの御夫婦で、もし奥様が新たに妊娠した事が判った場合に、国が旅費を含めて責任を持って放射能汚染されていない所に設けた保養施設に住まわせて、出産まで面倒見るべきである。

(3)何もしない、除染もしない。瓦礫も移動させない。今出来る事は放射能汚染地区の人々を出来るだけ放射能汚染の少ない地区に永住させる事。エントロピー増大と言う物理の法則が有る。一言で言えば除染しても又汚い所から汚れがそこにやって来ると言う事。例えば1種類の物質は放っておくと他の物質と混じり合い拡散すると言う法則。拡散に係る時間とそのスピードが遅い早いは別にして、原子力発電所に閉じ込められていた放射性物質もこの法則のご多分に漏れなかったと言う事だ(更に言うと原子炉からの放射能漏れを最小にする、即ちエントロピーの増大を抑えるには大変金が懸かると言う事をTEPCOは理解していなかったのである)。チェルノブィリの放射能汚染地帯に比べて放射能汚染が拡散、そして集積する条件が格段に多様な形態で存在する。梅雨、豪雪、台風、季節風、更に真近の山間部、すぐ隣の海岸と太平洋へと。福島、宮城、山形、新潟、栃木、群馬、千葉、埼玉そして東京の地上の形状が全く東ヨーロッパと違っている。前投稿でも指摘して於いた様に、放射能汚染された地域から追われた汚染事故の被害を受けた方々を放射能除染により元の居住場所に戻す様努力する理由は、国と東京電力が被害を受けた方々を他地域に永住させ、不動産に対する補償を行うよりも、遥かに安上がりだからである。例えば1家族の農地と宅地の評価額が2千万円だとすると、百家族で20億円。何十万の家族の農地と漁業権、宅地の評価額だとしたら何10兆円もの出費。これが嫌で除染と言う格好で利権に群がる連中に金をバラまく一方、避難していた広範囲の地域の市民を居住区に帰して彼らの遺伝子を将来に渡り傷つけさせる事を強要する。現状の放射能レベルは安全ですと洗脳された上に遺伝子を傷つけられて居住していた家に戻って元の生活をする事により、帰還者の方々が又将来に渡り差別の悪循環に陥って行ってしまう事が予見される。

(4)徹底的な放射能汚染の除染を行うよりも、放射線管理区域から外に市民を移住させ尚かつ食品への徹底的な放射能汚染の選別(或はランク付け)をやった方が日本国の遺伝子プールを守ると言う観点からすると遥かに効果的。何故これが出来ないのか?後悔しますよ今やらないと。

(5)国政レベルで国難の優先順位を付けて問題解決。国会でTPPと言う議論を行って国民の関心を外へ向けていたのを目の当たりにして、国会は優先順位を付けて物事を処理実行する考え方が全く備わっていないと判明できる。遡り法なんて手法知らんだろうしな。何が今優先度が最も高く、一番大事な事か判ってるのか?失業させます。

(6)食の製造現場の声が聞きたい。どれ位食べ物がキレイなのか、其れとも汚染しているのかが知りたい。市民にとって何か手伝える事がないか?放射能汚染の少ない食品を生産する方々を応援したい。

(7)漁業を生業とする、1970年代より原子力発電所の反対を訴えて来た人々の声が聞きたい。でもこちらから出向かないといけないですね。

(8)無理かもしれないが、原子力を推進する人々と原子力に反対する人々と建設的な対話を始める時ではないか?又都会に住む市民と原子力エネルギーと言う物で差別され、又放射能で更に差別されている放射能汚染地域に住む農業や漁業を営む市民とコミュニケーションを始めるべきである。

(9)8章で述べたが、何か物事を言葉でラベル化すると其の時点で頭の中で思考の回路が停まってしまい建設的、創造的な思考ができなくなる。例えば、"反原発"と言う言葉を用いた時点で、話が進まなくなってしまう。同じ事が"安全神話"を使用した場合にも言えるのだ。この様に言葉を用いず、現実が言葉よりも先に在る事に気がつけば、例えば原子力エネルギーのリスクとかコストとかを原子力を推進する科学者と原子力に反対する科学者の間で真剣に未来の子供達の為に議論ができるのではと思う。この辺は原発先進国のドイツを見習いたい。彼らは頭が柔らかいですね。私には彼らが言葉で説明出来き得ない過酷な事でも起こる事は起こると1986年の経験から心の中では判っているのではと勝手に解釈している。

(10)他国には原子力に対する安全神話があるのだろうか?調べて見る価値はある。

(11)現実を心をマッサラにして見る事ができない人々とどの様に連帯して行くかの方策を考えるべき時。

私達は日本の歴史の中で最も大きな曲がり角に立っている。そしてこれから生ずる困難を1つ1つ解決しなければならないと言う覚悟が必要だと思う。それこそ死に物狂いで今の日本の世の中を改善しなければ。我々の子供達の為に彼らに少しでもましな日本が引き継げる様になって欲しいが故。

11.今回の投稿の最後に
私は顔の無い人間ではありません。"kc.planaria@gmail.com"が小生のemailアドレスです。色々と思う事が有りこの9月よりそれをメモに書き留めてながら整理した事を"日本の市民の皆様へ"と表題し11月4日、阿修羅様に投稿させて頂きました。何しろ一介の会社員の為、自分のウェブもありませんので最初の投稿レポートを何処かのウェブに載せる方法が何かないだろうかと困って居りました所、或るとても親切なウェブの管理人様より、阿修羅に投稿してはと勧められまして前回と今回の2回の投稿に至った訳です。と言う事で、阿修羅様と前出の管理人様にここに感謝致します。

今回の3.11放射能汚染事故を通して日本の中の出来事を眺めてみ、大きく眼を開いて物事を見ようとしない人々が多すぎるのに驚かされました。何回でも言います。頭の中に既に刷り込まれている思考パターンを用い、又頭の中の数字や測定値を判断材料とし、眼の前の出来事を知覚する前に条件反射的に答えを出してしまう習慣を捨て去って下さい。心をまっさらにして、眼の前の出来事を観て下さい。そうすれば世の中で何が本当に起こっているのが判ると思います。そしてためらわず人間の中に有る生存本能の覚醒させて下さい。

そろそろこの長文の筆を置く時ですね。今回の放射能汚染の大局図を眺めて見たいと思う原動力が私を突き動かしています。過去から現在に到るまでの点と点をつなげて線できれば面を描いて行こうと言う気持ちでしょうか。小生の視野が足らない所も有り色々な考え方が統合出来ていないかも知れません。別の見方も有るかもしれません。言い足らなかった処は御容赦下さい。又本文で言及した方々に対する配慮が至りませんでしたら、此処でお詫び申し上げます。

最後に。今の日本の市民の置かれている、見えない、匂わない、感じない放射能汚染した街に住む立場を大局から見ると、グリム童話に載っている"ハーメルンの笛吹男"の事を想像させてしまうのだ。[33]参照の事。1284年ドイツのハーメルンと言う村は異常に繁殖するネズミに悩まされていた。1人の男がネズミを駆除すると住人に申し込んで来た。勿論報酬を約束した住人は彼にネズミの駆除を御願いした。彼は笛を吹きながらネズミを暗示にかけ川まで誘き出し、1匹残らず集団入水自殺させてしまった。この話に例えると今のこの日本で、笛を吹く者は誰だろうか?日本と言う国の原子力神殿に棲む特権階級である。ではネズミは一体誰なのか?皆さんお判りですよね?笛を吹きながら、安心安全と人々の心に取り入り無差別的に人々の遺伝子を傷つけさせている勢力。彼らの暗示から脱して川へ向かう群れから?少し変わっていると呼ばれようとも - 飛び出し、皆を正気に戻さなければ我々市民は集団自殺させられる様な、国によって棄民化される(殺されると言っても過言ではない)運命に陥る。この降りかかって来る人災を市民の力を合わせて振りのけなければ。

ご存知ですよね?"ハーメルンの笛吹男"にはオチが有るんです。ハーメルンの住民が笛吹男に報酬を出さなかった為に今度は住民の宝である子供達を笛で誘い出して村から永遠にさらって行ってしまったんです。放射能の高汚染地区から避難する金は誰も出し惜しんではいけません。

[追記]
本稿は2011年の末に投稿予定でしたが、最終チェックの時間が割けずに今頃の投稿となりました。この間色々と思う事在り、以下2点追記させて頂きます。
*どうして所謂知識人は今回の放射能汚染事故に対して萎縮しているのでしょうか?原子力エネルギーの賛成反対問わずもっと社会に対し発言すべき義務があると思います。そして市民の皆さんもこの問題に対して思考停止に陥らずに、心の眼を開けば科学者よりも物事を大局的に見る事が出来るのに気が付くべきです。
*誰か私の意見が間違っている事を証明して頂けますか?そうすればこの気持ちが穏やかになるのですが。

参考文献等
[1] "日本の市民の皆様へ",阿修羅のウェブより
http://www.asyura2.com/11/genpatu18/msg/185.html
[2] "電力会社の誕生"、東京電燈
探検コムのウェブサイトより。
http://www.tanken.com/tokyodento.html
[3] "鶴見騒擾事件" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E9%A8%92%E6%93%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[4] "電力に生涯を捧げた男 松永安左エ門 - その生涯と業績 -"より。藤村哲夫
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon.html
"電力に生涯を捧げた男 松永安左エ門 (2)"
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon2.html
[5] "第1回 「松永安左エ門――官に抗し9電力体制を築いた男(1)」",杉田望及び(2),(3),(4) J-Net 21 中小企業ビジネス支援サイトより
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20050111.html
[6] "新日本紀行" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%A1%8C
[7] Youtubeより、NHK新日本紀行〜主題歌オリジナル バージョン
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=2LePkGZ4hvM
[8] Youtubeより、新日本紀行 BGM用
http://www.youtube.com/watch?v=8laXG4wt-3Y
個人的にはこちらのノイズが入っている方が気に入っています。
[9] "「原発反対」の立看板が立つ女川原発ー東日本大震災の歴史的位置"
"東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present"より
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/09/%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%99%BA%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%AB%8B%E7%9C%8B%E6%9D%BF%E3%81%8C%E7%AB%8B%E3%81%A4%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%83%BC%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7/
及び"‘女川原発’ カテゴリーのアーカイ
ブ"http://tokyopastpresent.wordpress.com/category/%E9%9C%87%E7%81%BD/%E5%8E%9F%E7%99%BA/%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%99%BA/
[10] 東京に原発をと言った三人 4月15日 "原発日記" 老人はゆくより資料が手元に無い為、孫引きさせて頂きました。
http://haikairou.blog22.fc2.com/blog-entry-141.html
[11] 中日新聞12月13日社説。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2011121302000015.html
[12] "反原発の記事 中傷 エネ庁への報告 詳細判明"、東京新聞より時間が経ち、元のリンクが削除されてたので以下参照。
http://sekaitabi.com/tokyonp.html
[13] IEEE Spectrumのウェブサイトより
http://spectrum.ieee.org/static/fukushima-and-the-future-of-nuclear-power
[14] "24 Hours at Fukushima" by Eliza Strickland, IEEE Spectrumより
http://spectrum.ieee.org/energy/nuclear/24-hours-at-fukushima/0
[15] (株)エアフォートサービス ウェブページ
www.yamazaki-k.co.jp/airphoto/
[16] 高解像写真の在るCryptomeウェブサイトより
http://cryptome.org/eyeball/daiichi-npp/daiichi-photos.htm
彼らのホームページには日本国内でお目にかかれない写真が満載している。
[17] Cryptomeのその他の写真
http://cryptome.org/eyeball/
[18] 雑誌"Discover"のウェブサイト
http://discovermagazine.com/
[19] "国土を守り国民とともに生きる5項目提案”、東京大学児玉教授
http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/dai4/siryou1.pdf
[20] "ソクラテス"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
[21] "「科学的」めぐり、議論白熱=チェルノブイリ事故の影響で−低線量被ばくの作業部会"、時事通信社のウェブサイトより。
www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2011111501047
時事通信社のウェブサイトより削除された場合はこちらを参照。
"低線量被曝のリスク管理の政府の作業部会で、チェルノブイリ事故の科学的影響をめぐり、議論が白熱"
http://ameblo.jp/atom-tokyo/entry-11080825573.html
[22] "【注目記事】 実は存在していた「低線量被曝データ」(週刊SPA!)"
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/dab868abc7592d8b89f2cc974ee47a18
[23] "Japan Split on Hope for Vast Radiation Cleanup," The New York
Timesよりhttp://www.nytimes.com/2011/12/07/world/asia/japans-huge-
nuclear-cleanup-makes-returning-home-a-goal.html?pagewanted=all
[24] “核分裂生成物“ weblio辞書より
http://www.weblio.jp/content/%E6%A0%B8%E5%88%86%E8%A3%82%E7%94%9F%E6%88%90%E7%89%A9
[25] "放射線"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A
[26] "アルファ粒子"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E7%B2%92%E5%AD%90
[27] "ベータ粒子"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B2%92%E5%AD%90
[28] "ガンマ線"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9E%E7%B7%9A
[29] "ベクレル"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベクレル
[30] "セシウム137"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0137
[31] "国の暫定基準値の500Bq/Kgは全面核戦争時の食物の汚染上限"、東北文教大学松田浩平教授
http://ex-skf-jp.blogspot.com/2011/09/500bqkg.html
[32] "【汚染】宮城県 イノシシからセシウム2200ベクレル検出"、セーブ
チャイルドのウェブサイトより。
http://savechild.net/archives/7405.html
[33]"ハーメルンの笛吹き男"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%AC%9B%E5%90%B9%E3%81%8D%E7%94%B7
==
追記: それから投稿その1で良心的な官僚の方々に横に繋がって市民を助けて欲しいと申し上げましたが、嬉しい限りです。でも元官僚の方々なのでちょっと話が違いますが。主権在官僚を変えない限り日本は良くならないと思います。
* "橋下市長支える元官僚5人組 「大阪から国を変革」" 編集委員 堀田昇
吾、1月3日、日本経済新聞ウェブより
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819A91E0EAE2E09C8DE1E2E3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/140.html

[原発・フッ素50] 日本の市民の皆様へ-その2 2012年1月22日の再投稿
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。やっとこの社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、そして最終の投稿を通して心のケジメが付いたと思っております。しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?

お母さんのおなかの中にいる小さな胎児がこの世に産まれて来る事を自ら選択した結果、彼らや彼女らが赤ちゃんとしてすくすくと育ち、幼稚園小学校で元気に遊ぶ様になる微笑ましい姿。しかし今は親の暖かい懐のもとで全ての子供達が健全と真直ぐに育つのが当たり前で無くなって来てしまった時代。この現代の日本が、如何に人が人間らしく生きられない世の中になってしまったとのかと言う問いを発したい。その結果の必然として子供にも受難が容赦なく降り懸かって来ている昨今。どうしてこの様な殺伐とした社会風潮となってしまったのか?主な理由は二つある。最終投稿に記載しますが、まず自分でこれらの理由を考えて!

と言う訳で、日本の市民の皆様へ-その2 2012年1月22日の再投稿となります。

=====================
前回の投稿"日本の市民の皆様へ"に引き続き([1]参照の事)第2回目の投稿となります。取り敢えず目次をどうぞ。題名としては、眼の前の出来事へのアプローチ法とでも言いましょうか。眼の前の撒き散らかされた放射能の事を議題とします。ちょっと長い文なのでまず水を沸かしてお茶かコーヒーを入れてこれをすすりながら読み進める事をお勧めします。もし時間が無い場合は8章から読んで下さい。

1.東京電力の不思議
2.磯の香り獣の匂い
3.最大多数の最大幸福
4.教科書の中の危機管理
5.統計中の1サンプルと言う運命、そして忘却され
6.より根源的な事へ
7.恣意的な誘導、意図的な解釈
8.眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)
9.心の中をマッサラにして(努力して)
10.今 - まず出来る事、その2
11.今回の投稿の最後に

1.東京電力の不思議
判らない、どうしても判らないのだ。北海道から九州まで東京電力以外すべての電力会社にはその地方の名前が付いている。どうして東京電力だけが違うのか?判らない、これも又判らないのだ。何故東京電力はこれほどまでも強欲で、ケチなのか?そんな訳で以上の不思議を調べるため色々とGoogleしてみた。まず分かった事は:日本に於ける電力産業の黎明期に各電力会社が此れ程、悪どい事をやって生き抜いて来たとは知らなかった。この様な記述をウェブで見つける。
『(中略)
この結果、大正時代になると、日本には5大電力会社が誕生しました。東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気ですな。で、この5社でさらに「電力戦争」と呼ばれる苛烈な戦いが勃発します。たとえば九州北部、近畿、中部に及ぶ事業エリアを誇っていた東邦電力(「電力王」と呼ばれた松永安左エ門が社長)は、本社を東京に設置。昭和2年、子会社の東京電力(投稿者注:ウィキペディアでの日本最大の喧嘩"鶴見騒擾事件"の記述に"現在の東京電力とは別、通称「東力」"と有る)を使って、東京電灯の事業エリアに乱入します。わずか1年ほどで、90万の電灯と12万6000kWの電力を奪取。これで東京電灯とのダンピング競争が始まるは、鉄道省や東京市への政治工作、郊外列車や発電所の奪い合いなど、めちゃくちゃな戦いが起こりました。東京電灯が名古屋進出をもくろむと、今度は関西の日本電力が京浜工業地帯に侵入(昭和4年)。東京電灯は紳士同盟を結んでいた中部・関西の大同電力(福澤諭吉の養子である福澤桃介が社長。こちらも「電気王」)とより強固な同盟を結ぶものの、すぐに顧客の奪い合いで泥沼裁判闘争が始まる……といった感じです。こうした大戦争は、単純な民間企業同士のシェア争いという側面もありましたが、その影には、もちろん当時の政治状況が絡んでいます。上記の日本電力の東京進出は、昭和4年に田中義一内閣(立憲政友会)が倒れ、浜口雄幸内閣(民政党)が成立したことで起きました。日本電力は民政党と仲が良く、わざわざ大同電力との合併話を蹴って東京進出したのでした。』ちょっと長くなりましたが[2]より引用させて頂きました。又"鶴見騒擾事件"に関しては[3]参照の事。何か6大電力会社に刷り込まれている社風と言うか文化の遺伝子がこの頃から培われていたと確信する。政党と仲良しだし生き残りの為には手段を選ばずと言う事に関しては他企業とは比較にならない程抜きん出ていますね。特に[3]は政治と利権の(親分子分と言う社会の関係も)歴史が学べる読み物です。更に東京電力の歴史を紐解いて行くと"電力の鬼"こと松永安左エ門の存在を抜きにして語れないのが判る。武骨な男である。こんな男が日本に居た事に驚く。次の引用は[4]参照の事。この中の記述に
『(中略)
安左エ門は東京に進出し、それを足掛かりとして、電気事業の全国制覇を目指していたのである。その行動の第一歩として、静岡県、山梨県に発電所を持つ早川電力を傘下に収め、続いて、群馬水力を手に入れて、大正14年3月、両社を合併して東京電力を設立し、安左エ門は、その副社長に就任した。この東京電力を拠点にして、周辺の電力会社を合併しながら、だんだん勢力を拡大していった。当時、東京電燈は「東電」、東京電力は「東力」と呼ばれていた。東力は、東京の南部から北部にわたる外輪線を建設して東電包囲態勢を築き、昭和2年1月1日を期して、本格的な供給攻勢を東電にかけて、ついに両社は需要家争奪戦で激突した。当時は、東京電燈は政友会派であり、東邦電力は憲政会派であった。憲政会内閣のときに、東力が東京の南部の供給権を手に入れれば、政友会内閣のときには、東電が名古屋市内のど真ん中に名古屋営業所を開設するなど、政治も絡んだ大抗争に発展していった。
(中略)
銀行は多くの資金を両社に出している。抗争が長引き、どちらかが大きく傷付くと、銀行にとっても責任問題になる。ついに三井銀行の池田成彬が提案者になり、金融界の主だった人たちの申出によって、昭和2年12月に東力は東電に合併した。それによって、東邦電力は、東京電燈の大株主になり、安左エ門は、東京電燈の取締役に就任して、実質的に東京進出を果たした。続いて昭和3年5月には、安左エ門は東邦電力社長に就任した。』とある。この引用[4]及び文献[5]は電力の国家管理の問題が議論されていて、非常に示唆の多い読み物である。以上色々調べてみた処、「東電」と「東力」が合併し東電と言う名前が残った事が分る。東京電力の社名の歴史とその社風の遺伝子は少しは紐解けた様な気がする。

しかし、此処まで調べて来て大局的に物事を見始め出したら私の中でどうしても判らない疑問が生じてきたのだ。どうして原子力発電所の事故は予見されていたのに、我々市民はこの事に気が付かなかったのか?それとも3.11以前、原子力に反対する人々の声は何ゆえ、圧倒的多数の私達市民に届かなかったのか?双方の力が足りなかったのだろうか?今振り返って見ると3.11以前は0.01%の原子力の正体を覚醒していた、しかしながら過激な反対派とラベル張りされた人達と99.99%の原子力の本質の事を不覚醒であったと言う事を知らなかった我々市民がいたのである。なぜこう言う事態が長らく続いていしまったのだろうかを3章の"最大多数の最大幸福"にて少し触れてみたいと思う。

皆様に御願い。この投稿を読むに当って放射能は安全か危険かと言う見方を採らないで下さい。まず自分の頭の中からは放射能と言う言葉と知識も捨て去って、この眼の前のこの現象にマッサラな状態で向き合って見て下さい。核分裂や原子と言う言葉も忘れ去り、その放射能と言う物事と特性を、単に物が時間と共にバラバラに壊れて行くのだと心で理解して下さい。自分の中のその認識から、まず最初の一歩が始まると心して下さい。

2.磯の香り獣の匂い
ところでもし貴方が年配の方であったとしたら、日本が古里の集合体であった時の思い出が、皆さんの心の中に刻まれているかと思います。NHKの新日本紀行と言う水曜夜10時から始まるTV番組が有ったのを御存知だと思います。富田勳の勇ましくも(まるで1日の始まりの徴、日の出の様な)しかしその後に続く切なくもある曲で始まる番組でした。こういう時代が有ったんですよね、このちっちゃな日本で。[6],[7],[8]参照の事。新日本紀行の時代に生きていた日本人は生活者であり、懸命に子供を育て、家族を守り、地域に生きて来た人達と思う。この時代を生きてきた人にとってこのテレビ番組を通して自分達の姿を、多かれ少なかれ漁業農業林業を生業にし、高度経済成長期の工業化の波に翻弄されながら懸命に生きて来た共同体の中一員として見い出していたのだと思う。

その一方、大都市に住んでいると判らないでしょうけれども原子力発電所が在る所の近くには十中八九磯の香りに包まれ、海の幸に恵まれた魚の匂いのする漁業の街が在るんですよね。福島第一第二原子力発電所の近辺には小さな漁港しかない。大きな漁港としては相馬市に有る漁港か。福島より少し遠い所では例えば宮城県牡鹿郡の牡蠣は有名だが、宮城県牡鹿郡女川町には東北電力女川原子力発電所が建っている。そこの地元で漁業を生業とする方々は、綺麗な海とホタテ、牡蠣、サンマ等の漁業、つまり自分達の生活基盤と、そして愛おしい、最も大切な家族と子供を守る為に原子力発電所の立地に対する反対を1969年から続けて来たと言う。[9]参照。自分達の住む場所、古里と再生可能な資源としての漁業を守る為に勇気を持って原子力発電に反対の声を挙げたので或る。母なる海からの賜物が汚れてしまってからでは遅いのだ。その中で自分たちの慎ましいながらも幸せな生活が犠牲になる様な原子力の事故を予見し、もし放射能汚染事故が起きたら汚れた物を食べなきゃならないんだよと、それこそ不転退の覚悟を決め、反対の声を発していただろうと思う。しかしながら多勢に無勢と言うか、歯を食い縛りながら時代の流れにあがなって行こうにも、彼らの反対の声は圧倒的多数の沈黙の中に飲み込まれてしまった。原子力エネルギーの本質に無関心であった沈黙の主我々市民の責任だろう。狭き地域の中の漁村の中で大きなスケールでヨコに繋がる力が弱かったが故力足りず敗北してしまったと彼らを非難する訳には行くまい。その一方原子力に反対する漁師の人々を過激な人々と言って地域の中で村八分して行く。又同時に原子力エネルギーの賛成派、反対派と地域が色分けされてしまい兄弟ながらも仲が悪くなってしまったと言う話も在る位だそうだ。しかし眼の前を大きく見れば、この豊かな自然に恵まれた日本の農業漁業林業は"まだ"再生可能な資源で在ると言う事は何事にも替えられぬ事実だ。それを守る事が、過激な運動と非難されるのであったのなら、日本の食料自給率が限りなく0に近ずいてしまうだろう。ずっと以前に私達市民は彼らの言葉に真剣に耳を傾けるべきであった。例えば"安全だったら東京に原発を建てろ"と言う言葉を言われたのは宮城県女川町漁民の方々だと言う。少し調べたら、多賀井公平さんと言う漁師の方が仰られたと言う。『だいたい電気を使うのは東京なんだよ。おれたちは電気なんて大していらないんだ。夜は早く寝るし、クーラーも入れないしよ。東京の電気は東京で作ってくれよ。女川や柏崎や下北を犠牲にするのは、それはよくないぜ。そういうのを差別とか搾取っていうんだろう。原子力はクリーンで安全なんだろう。霞ヶ関とか皇居で10年20年とか発電してみてよ。それで具合いいようだったらおれたちも考へてみるからよ』[10]参照の事。断っておくが女川原子力発電所は東北電力の発電所であり、今回の福島県を中心とした放射能汚染の事故を引き起こした東京電力の所管ではない。だが今回の海への放射能汚染を見れば汚染源が何処に在ろうとも漁業に多大影響を及ぼす事には変わりないのが判るであろう。

日々無限の海の幸を相手に額に汗し、体から発する己の獣の匂いを隠そうともせず、海からの幸の収穫を悦び、酒を仲間と交し又家族を養い子供を育てながら魚の匂いと磯の香りの中で暮らして来ている人々。人間として直感的に原子力の全体像を看過できていたのである。この前例をまるで再確認するかの様な社説が最近あった。12月13日付けの中日新聞の地球の温暖化の問題を論じた社説"全員参加、次はスピード ポスト京都は2020年"にこの様に記載されている。[11]参照の事。残念ながら以下の指摘は既存の事実なのである。
『(中略)
温暖化はもはや、見えない敵ではなくなった。‘目の前に危機はある’
生き物には、自らの危機を察知し、それを回避する能力が備わっているはずだ。人間だけがその本能を失いつつあるのだろうか。』
日常生活の中で携帯電話などの機械を操作する単なるオペレータとして生きる、又危険を察する本能を忘れ去ってしまった、或は己が獣の匂いのする人間である事を忘れてしまった、都会に住む"差別とか搾取"に無関心な人間の方が圧倒的多数居る事実がこの社説への答えである。

女川町の漁師さん達の予見が、最大多数の最大幸福の声にかき消されて現実となってしまった事に対して貴方は一体何を思うのか。しかし確かな事は私達市民が過去行って来た原子力に対し無関心であると言う行為の積み重ねによる帰結と言う事態に今我々は直面しているのである。つまり覆水盆に帰らず、放射能原子炉に帰らずという帰結を生じてしまったのである。彼ら女川の漁師は女川町の東北電力の原子力発電所の建設を反対する一方で、大きな気持ちで今回の様な放射能汚染事故を覚悟していたのだと思う。事故が起きた時には放射能汚染した地元の海で採れた海産物を涙を流しながら食べるしか選択の余地はなかろうと。何故ここに?原発を建てる?東京ではなくて?不条理?そして自分たちの力が及ばずに原子力を許してしまった敗北の歴史と、今福島の同胞市民が直面する放射能汚染の実態に涙していると思う。経済の成長期における"国策としての原子力"に反対と言う声を挙げるのがどれだけ勇気のいる事であったろうか。遅きに失しているが、彼ら女川の人々をとても勇気ある方々と言いたい。しかし放射能汚染で生業を破壊されてしまった漁業や農業を営む市民の悔しさ、怨念の気持ちが社会の表面に出てこないのは何故なのか?非常に不思議である。この期においても差別されているのか?

この多賀井氏の言葉の行間を見ると、原子力発電と人間との関係を改めて考えさせる。放射能は小さすぎて見えない、匂わない。だからクリーンと言い放つ、この人間の五感の限界に付け込んで来た組織達。今回の放射能汚染事故でもこの五感の限界に乗じて多かれ少なかれ人々自らの遺伝子を傷付ける事を強要している。改めて放射能の前に人間は裸である、と知るべし。放射能は見えない事(認識できない)故、その危険性を予見すると言う人間の能力を行使する事が出来ないのである。又眼の前におこりつつある放射能汚染の拡散と生態系の中の生物による濃縮を見ようとしない人間が圧倒的多数この世にいると言う事。多数の市民は原子力の事など3.11以前、無関心で過ごしながら生を享受してきたが、3.11以降喉元過ぎれば熱さも忘れるのだろうか、健康被害を恐れる事が日常になってしまった事にもまるで無関心であるかの様である。このままの状態即ち現状(目に見えない放射能汚染が日常生活の中に確実に増加してしまった状態)維持でOKと思っているのであろう。

おいオッチャン達、美しくも古き良き日本の古里が東京電力の傲慢さの結果によって不条理にも、けがされてしまったのだよ!どうして彼らに対し怒りの声を上げないのか?ガッツあるのか?それとも魂抜かれて、怒る本能をなくしたのか?

3.最大多数の最大幸福
先日11月20日付け東京新聞にこんな記事があった。[12]参照の事。
『(中略)
原発反対を訴え徒歩で旅をする男性を取り上げた同年四月十四日の佐賀新聞の記事には「目立ちたがりの行動をなぜ写真入り、三段抜きで報道するのか。勝手な反対派を勇気づけるだけで、社会の大多数のための政策の推進を阻害する」と報告した。...』

原子力を国策として推進する人々がどの様に日本の国民を捉えているのかハッキリと判る言葉である。多賀井氏の言葉ではないが、"差別とか搾取"のエネルギー政策の上に都会の市民は自分たちの幸福を築いてきた訳であるが - 別の言い方をすれば、他人の痛みが分らずに - 一転今回の過酷事故の様になれば、いかなる日本の市民も尺度の幅はあるにせよ、自分たちの築き上げてきた幸福がものの見事に打ち砕かれてしまうと言う事実を否定できる人はこの日本には居るまい。原子力教とでも言うべきか。無限できれいなエネルギーと言うスローガンを下界に住む市民の頭の中へ刷り込み学習させ、又市民の為に最大多数の最大幸福を実行していますよ!と。その裏腹に自分達の特権(例えば天下り先)を確保して行く(まるで何処かの宗教団体と変らない)原子力霊山に有る原子力神殿の傲慢不遜な面々。生まれながらにして、他人の痛みが分らずとでも言おうか。そして我々は彼らを無関心という行為を通して支持して来た市民であった事を自覚すべき時でないだろうか。原子力とエネルギーに関しての無関心と言う行為の結果、即ち放射能汚染と言う帰結、の代償を我々市民は将来に渡って払わなければならないのである。そして同時に我々市民はTEPCOと言う会社の傲慢さによって(昔から何か腹黒い会社と言うイメージはありましたけど)生じてしまった帰結に対しても2重に代償を払い続けなければならないのである。私たちも国とTEPCO同様少なからずこの放射能汚染事故の責任がある事を自覚せねばなるまい。

それにしてもどうして貴方と貴方の家族なのか?或は私と私の家族なのか?耐えられない不条理が此処には在る。この不条理に対する怒りを何処に持って行けばよいのか。一方で人間の犯した罪で、放射能汚染されてしまったこの世界に住まわなければならない、全ての生きとし生けるものを考えると市民の無関心と言う代償が途轍もなく巨大に見える。私達人間が犯した生態系に対する罪は途轍もなく深い。今、ここで冷静になって社会の中の異分子として扱われ、地域の中で村八分されながらも国の原子力政策に抵抗していた良心的な市民を最大多数の最大幸福を壊す様な"勝手な反対派"として社会的に葬って行った歴史を改めて考えて見るべき時なのだろうと思う。

3.11以前今まで原子力エネルギーを推進する事により受益を受けて来た側、原子力の本質に無関心であったが故に最大多数の最大幸福を楽しんで来られた側、そして原子力の痛みを押し付けられて来た側。3つの社会の構成層があった訳であるが、悲しいかな3.11以降最大多数の最大不幸となってそれぞれ圧等的な不平等を伴い3つの構成グループの人々自身の上に降り掛かって来た事になったのである。もう最大多数の最大幸福と言う言葉は存在しようがない幻となってしまった事に原子力政策を推進して来た人々も我々市民も気が付くべきだ。

第2章と上記で述べたが、3.11以前には原子力発電の本質を訴えて来た人々は異端視され彼らの声は無視されて来た。そして今3.11以降放射能の本質を訴えている市民の声が、何故圧倒的多数の人々に(敢て大衆と呼ぼう)に届かないのか。これは私の中に有る苛立である。自分達の姿を3.11以前の原子力を推進する、国家の意志に抵抗していた人々の姿と比較して、重ね合わせて見て下さい。どうして貴方の声が、今人々に届かないのか自問してみて下さい?理由は何でしょうか?この議論について少し時間がかかりますが次回の"日本の市民の皆様へ-その3"にて私見を述べたいと思います。くどい様だが改めて言わねばならぬ。原子力の将来と自分たちの将来が明るい未来とはならないであろうと言う予見が、最大多数の最大幸福の御旗の下にかき消されて現実となってしまった事実を自分と自分の家族の問題として直視すべき時だと思う。

4.教科書の中の危機管理
米国にIEEEと呼ばれるエンジニアの組織がある。IEEEは今回の福島原子力発電所の放射能汚染事故で非常に有意義な記事を発信しているのを発見。[13]参照の事。先日Googleしていた所"IEEE SPECTRUM”と言う月刊誌、11月11日号に福島原子力発電所の事故の記事が載っているのに眼が留まった。[14]参照の事。まずこの"24 Hours at Fukushima"の記事の中に一番最初に載っている写真がある。かわいい女の子がマスクを半掛けして、体全体に付着している放射能の測定をされている写真である。胸が痛む。思わず涙が出て来た。そして最後の4枚つずりの写真の最初の1枚をズームボタンを押して見て頂きたい。全体的に緑がかった水が5m x 25m程と思われるポンプ室を冠水させている写真である。2つポンプに"中温'冷水?'ポンプ"と文字が読める、さらに奥に3つのポンプが有りその5台のポンプが殆ど海水(真水とは思えない)で水没している。ポンプの高さは人間の背丈前後の大きさと思われる(推測です)。これらのポンプが水に浸かって使えないのである。色々ウェブで調べたが、何処のポンプでどれだけ重要な役割を果たしているのかは判らなかった。しかしこの写真を見たときにゾッとしてしまった。理系の方であったら絶対に起ってはならない事であるのが直感できるはずだ。更に3月24日に新潟県妙高市の(株)エアフォートサービスが撮った高解度の福島第一原子力発電所の写真がウェブ上に在った。[15]参照の事。ほんの2~3日だけ公開されていた写真である。既に御覧になった方々が多いと思うが、これらの写真を見ると同じ様にたとえ単独でも絶対に起こってはならない原子炉の溶融事故が3つの炉でほぼ同時に、又核燃料プールの爆発破損1カ所が平行しておこっていた多重事故。と心で理解できるのだが、国や東京電力は心の眼を開いて事態を直視する能力ゼロで、又自分が主張していた安全神話が神話で無ったと言う事実を認める勇気が無いらしく、日本国内ではすぐさま検閲されてしまった。何やら既に起きてしまった核汚染と言う事が、"通常"の状態になってしまう恐ろしいまでの市民に対するマインドコントロールである。全くもって不思議な国だ。何処かの独裁国家よりもスマートに市民を洗脳している。尚、日本国内での検閲後4月2日より米国にある"Cryptome"のウェブでこれらのエアフォートサービス撮影の高解像写真が閲覧できる様になっている。ついでながらもしこれらの写真を御覧になっていないのでしたら、11枚(5MBの大きさ)の写真もダウンロードして観て下さい。[16]参照の事。Cryptomeは他に色々な福島原子力発電所の現場の写真を彼らのウェブに載せている。[17]参照の事。

更にこのSpectrumの11月11日号の記事中の4枚つずりの写真の中で、"高線量注意 高線量(1000mSv/h)の瓦礫につき、この近辺にみだりに近づかないこと"の掲示が出されている写真が有る。この文句を見て思わず、東京電力の面々は本当は危機管理能力の全く無い人達だけでなく、且つ放射能汚染の現状を現場の人達に意図的に過小評価させている人々と思ってしまった。このやり方は現場の人々だけでなく、一般市民への説明にも現れている。全く緊張感の無い掲示版である。瑣末な事だが'みだり'とは東京電力にとって、或は我々にとってどういう意味なのだろうか?1Sv/h?みだり?さっぱり意味判らん。現場は被爆により数時間そこにとどまれば死んでしまう人が出て来る様な所が在った訳だ。ここも其の中の一部であろう。そしてこの記事"24 Hours at Fukushima"の中のレッスンが又優れ物である。その中のレッスン3は"非常用電源車を限りなく発電所に近い所に配置すべし。"と有る。これが対策されていれば多分3号炉と4号炉は救えたのではないかと思える。僅か数千万円をケチりたいが為非常用電源車を発電施設のすぐ傍に配置しなかった事により、長時間の電源喪失を防げず3号炉溶融と4号機核燃料プールの爆発をおこしてしまった事は明らかにTEPCOの怠慢による過失事故である。己の会社を絶対と思い込み、聞く耳を持たなかった故、今回の破局的な放射能汚染が引き起こされたと言っても過言ではない。東京電力は溜息が出るほど一般常識が通用しない会社だ。会社組織を解体して染み付いた企業文化を払拭し、出直せと言うしかなさそうだ。駄目押しでこの記事の全てのレッスンを記載しておく。特にレッスン6の対策が成されていたならベントを周辺住民の避難が終わるまで待つ事無く行えた可能性があり事態が好転できたかもしれない。ちなみに記事"24 Hours at Fukushima"の著者Eliza Stricklandは米国の雑誌"Discover"([18]参照の事)のエネルギーと環境問題を担当していたウェブ編集者からIEEEの"Spectrum"に移って2番目の記事と言う。彼女は原子力に関する記事を書くのは今回が初めてだそうだ。モシモシ?"The Best and the Brightest"を自称する日本の原子力に関わって来た科学者さん(敢て科学屋と呼ぶ。詳しくは8章参照)原子力官僚屋さん?何故貴方には彼女のこの様な客観的な、Analysis Reportが作成できないのか自問した事が在りますか?彼女に自分たちが能無しであると言う事を間接的に証明されてしまった訳ですね。恥ずかしくないのでしょうか。とても視野の狭い、教科書の中でしか危機管理が出来ない、つまり前例が無いと何も出来ない秀才タイプの人達ですね。−そりゃそうだ。書類を作るのが自分たちの仕事で、今までに人命を助けると言う事を一度も仕事としてやって来た経験がないので、日本の市民を守るなんて出来ません...と言う声が聞こえそうだ。でもそれって危機管理そのものじゃあないのか? - 言い訳する事取り繕う事=自分の責任逃れに懸命な様で、大勢の子供達を守ってやれなかった事を一人の親として恥じていないのだろうか。自分の失策を省みる事も出来ない器の小さい連中は失業して然るべきである。
Lesson 1: Emergency generators should be installed at high elevations or in watertight chambers.
Lesson 2: If a cooling system is intended to operate without power, make sure all of its parts can be manipulated without power.
Lessen 3: Keep power trucks on or very close to the power plant site.
Lesson 4: Install independent and secure battery systems to power crucial instruments during emergencies.
Lesson 5: Ensure that catalytic hydrogen recombiners (power-free devices that turn dangerous hydrogen gas back into steam) are positioned at the tops of reactor buildings where gas would be likely collect.
Lesson 6: Install power-free filters on vent lines to remove radioactive materials and allow for venting that won't harm nearby residents.

CryptomeといいIEEEといい海外のメディアからの情報と比較して何故日本の社会の中からは物事を客観的に見れないのか?貴方はそれを自問された事が有りますか?色々理由は複雑だろうが、その根っこに或るのは、私達市民が物事或は現象へアプローチが巧く出来ないからだと思う。その背景を8章で考えてみたい。

5.統計中の1サンプルと言う運命、そして忘却され
先日出張した時に載った飛行機の隣の席の方が、自分は医者でこれから癌学会へ出席する途中だと言っていました。目的地に近ずいた時に今回の原子力発電の放射能汚染事故はどの様に見ているのかの意見を聞いてみました。少し遠慮してこんな事を言いました。将来に起こるであろう、個人個人の癌の発生を全体で眺めて見、そしてそれら個人の発病の点と点を結んで線にして過去に遡って行くと、3.11.2011の福島と言う1点に辿り着くかも知れない。こんな事はおこらないで欲しいのだがと。

現状では福島第一原子力発電所の放射能汚染事故の人間の体に対する影響の統計的データは存在しない。今在るのは3.11.2011と言う点だけである。何年後何十年後かに集計した統計データを基に癌発生の因果関係を突き詰めると、長時間の調査後に曖昧ながらしかし統計的に有為な因果関係を説明するに足りると言う科学的なデータが揃う事が予想される。しかも昨今遺伝子のどの部分が破損しているのか判る様になったので因果関係が補強される様になるだろう。東京大学の児玉教授の資料[19]参照の事。しかし皆さん御存知だと思います。不特定多数の死なんて無いんです。想像してみて下さい。貴方の、私の或いは私達の子供達の死なのです。病気になった個人の苦しみは統計と言う数字からは決して表立って出て来ないのです。親族だけが苦しむのです。特に言っておかなければならない事は3.11の放射能汚染事故の被害者であるかどうか判別が非常に難しいのです。同じ様な被害者が揃わないと統計的に3.11放射能汚染と他の要因での健康被害との因果関係を峻別できないのです。何とも遣る瀬無いと思いませんか?個の生死;私でなく貴方の遺伝子が、また貴方でなく私の遺伝子が傷ついて、又共に貴方と私の子供達の遺伝子が傷つき、そして双方の家系が癌に成り易い家系となって、それぞれ捨て石の様に統計データの中に置かれ3.11の過酷な放射能汚染事故を将来無言で指し示す事になるかもしれないとは3.11以前誰が予想したでしょうか?

皆さんどうして判らないのですか?個人に病気と言う結果が確率的に降り懸かるのです。間接的な状況証拠が在るだけで(例えば髪の毛や爪、乳歯を取って置いたとしても)、これだけでは十分とは言えない。既に言及しましたが健康の被害を生じた人の数が多くなって初めて統計的に3.11の放射能汚染と健康被害の因果関係がぼんやりと見えて来ると言う事です。そしてソビエト連邦での25年前の事故の前例が在るにも関わらずこれらの統計データを用いようとしない政府。今日本で放射能は危険か安全かと言う議論をしているのはタイタニック号の船の上でこの船は沈まない安全だと議論している様な物。子供と母親、妊婦さんを一刻も早く救命ボートに載せる様な、予防的な手法を採るという事=安全&安心へのアプローチを採るべきだ。だが、関連省庁の官僚は20ミリシーベルトの居住地域なら安全と、数字を振りかざして予防的な事を一切取らない。此処でも国と政府は思いっ切り、人間の認識の限界に付け込んでいます。極悪と言わずして何と言うか。政府や厚生労働省、文部科学省は個人の死など時間が経てば忘却されると思っているのだろう。貴方の子供達の人生が国、官僚、東京電力、地方行政に弄ばれるであろう事を忘れてはならない。しかし我々市民は統計の中の1サンプルになる様な事態を己の生存を賭けて拒否する。こんな事を人間が人間に対して行ってよいのか?まるで日本人が日本人に対してホロコーストを行っているとしか思えないのだが。今からでも己の自己防衛としての予防的手法は間に合う。官僚屋の御信託に構わず、放射能の影響を最小限に出来る様、市民皆の知恵を絞り何とか生き残ろうではないか。さもなくば私や貴方の子供達は統計の中の数字としてしか扱われず、人間として生きて来た証が忘却されるであろう事を心にしっかり留めておけ。

一方、30年後に過去を遡ってみてデータを集める、のは科学である。しかし今後の30年を見据えて、危険を予見し回避する事の出来、不出来の如何は科学と言う道具を用いた政治の力の行使である事を忘れないで欲しい。この僅かながらの市民の意志を今現在原子力官僚屋の巨大な宣伝マシン、"マス"メディアを用いて圧倒的多数の人間を原子力の本質に無関心で居させ続けて置く事で骨抜きにしつつあると思える。何とか出来ないか?

6.より根源的な事へ
この章では、私が勝手に遡り法と呼んでいる方法を紹介します。まず1歩下がって全体を見る事から始めます。そして2つの事柄でどちらの事柄が先立つかと自ら問います。それでは:ある事柄-Aと事柄-Bが眼の前に在るとします。その時にまず事柄-Aの存在を消去してみます。その時には事柄-Bが存在するか?という事を検証する方法です。逆の事もやって見ます。事柄-Bの存在を消去してみます。その時には事柄-Aが存在するか?事柄-Bが事柄-Aに先立って存在するかどうか、もしそうなら、事柄-Bは事柄-Aより根源的な存在であると理解できます。即ち二つの事柄を遡ってみてどちらが根本的、根源的な存在であるかを問うアプローチです。貴方もこのアプローチを実践して見て下さい。但し"ニワトリが先か卵が先か"と言う問いの罠に捕われないで下さい。蛇足ですがこのアプローチを用いるとニワトリと卵とではどちらが根源的なのかハッキリします。つまり答えが出ないと言う事が判ります。議論は堂々巡りだと大局的に見えてきますし、そうしたら、答えは"ニワトリが先か卵が先か"の問いの外に在ると気付く筈です。はい、答えは:"始めにメスとオスありき"です。

さてこの方法を東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故に当てはめてみましょう。以下網羅した2つの項目を心の中で比較してみて下さい。又"行為とその帰結"と言う見方(一番最初の投稿4章参照)も参考に。
* 地震 vs. 津波、*地震 vs. 原子力発電、*津波 vs. 原子力発電所、*福島第一原子力発電所 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*東京電力 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*政府 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*通商産業省 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*旧科学技術庁、現文部科学省 vs. 3.11.11放射能汚染事故、*原子力と言う国策 vs. 3.11.11放射能汚染事故

*電力会社 vs. 原子力発電、*ゼネコン vs. 原子力発電、*政治家 vs. 原子力発電、*官僚 vs. 原子力発電、*地方自治体 vs. 原子力発電、*金 vs. 原子力発電、*農業、漁業、林業 vs. 原子力発電、*製造業等の工業 vs. 原子力発電、*電気 vs. 原子力発電、*自然放射能 vs. 人間が作り出した放射能、*人間 vs.電気、*生命 vs.原子力発電、*国益 vs. 東京電力の社益、*国益 vs.省庁益、*省庁益 vs. 東京電力の社益、*日本国民 vs. 国会、*日本国民 vs. 官僚、*国会vs. 官僚

遡り法では峻別できないけど敢て比較します。
*安全&安心 vs. 不安、*放射能汚染 vs. 放射能汚染の測定値、*民主主義 vs.原子力発電、*原子力村(原子力神殿) vs. 原子力発電、*核燃料サイクル vs. 原子力発電、*幸せ vs. 原子力発電、*欲望 vs. 原子力発電、*愛 vs. 原子力発電、*自然放射能 vs. 癌、*人間が作り出した放射能 vs. 癌、 *原子力発電 vs.癌、*原子爆弾 vs. 癌、*原子爆弾 vs. 原子力発電、*地方 vs. 都市、現実 vs.言葉、*私 vs. あなた、*私達 vs. 私達の子供達、今 vs. 未来。

そしてこの手法にもとづけば何が何に先立つかの優先順位がハッキリ判る訳だ。より根源的な事を軽視し、後からどうとでもなる根源的でない事を重視する事はより根本的、根源的な事を殺めるに等しい。でもこんな事って常識で判るのですけれども、日本と言う国を動かしている人々はどうも我々市民とは違った思考回路をお持ちの様で、3.11以降日本の幼い子供達、乳幼児、妊婦さんの保護対策を中心とした東京電力福島第一原子力発電所の放射能汚染事故の危機管理よりも自分達の責任逃れの方が根本的、根源的だったのでしょう。さて、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが"無知の知"即ち自分は或る事を知らないと言う事を知っているのが大事と言う有名な言葉を残している。[20]参照の事。そこで、次章で違った角度から見た自分達の野心の為の最大多数の最大幸福と言う名前の神をガムシャラに布教する人々、そして我々市民のそれに対する無知の無知を論じてみよう。しかし小生この頃、彼ら原子力エネルギーを生業にする人は自分達が原子力の本質に対し無知の無知状態であったと言う素振りを見せながら、確信犯的に日本の市民の、特に子供の被曝の被害を予防的に回避しようとしなかったと考える様になって来た。

7.恣意的な誘導、意図的な解釈。日本人の弱さから派生する事
まず最初に意図的な解釈について言いたい事が或る。よく原子力発電所を運転しての事故のリスクは車を運転しての事故に遭う事と比較して小さいと主張する人がいる。論理的に決定的に違う。車は自らの責任で自分でハンドルを握り運転する、或は同乗するのである。死にたくないから注意深く運転するものじゃないのか?原子炉は安全の文化が皆無な企業が運転しているのではないか?そして過酷事故が起こってもその責任は取りたくないから、今回の4つの原子炉館屋の完全破壊の経過に対して嘘も平気で言うし、のらりくらりと逃れている、言い訳しているではないか?そんなまるで当て逃げ事故をおこして逃げる様な無責任な連中と、一生懸命真面目に生を生きている我々市民を一緒にしないで欲しい。其処を理解してからリスクの比較を行って欲しかったのだが。

さて此処で今回の放射能汚染事故に対する恣意的な誘導、意図的な解釈をする側とされる側に共通する、幾つかの陥り易い人間の認識の特性を思い付いたまま、列挙してみよう。

[誘導、解釈をする側]
1 未来を真剣に予見しようとしない:何とかなるだろうでは国家は運営できない。"Prepare for the worst, hope for the best."即ち"最悪の事態に備えよ、そして最善の結果になる事を(祈って)期待する"と言う事は、危機管理の初歩の初歩。これが何故国を中心にして出来なかったのでしょうか?最悪に備えておけば安心ではないですか?例えば海から4kmも離れているので押し寄せて来る海水の事は大丈夫と過小評価していたが故におこったと思われる宮城県石巻市立大川小学校の惨事。胸が痛みます。亡くなられた生徒さん皆さんに心から合掌致します。一言で上に立つ人間の力量、最悪の事態に備えよと決断出来るかどうかが問われたのです。本来上から下まで如何なる社会の組織のレベルでも危機管理が出来なければいけない筈。同じ事は次の事にも適用されます。放射能汚染の影響を過小評価、或は安全、安心と宣伝する行為により発生するかもしれない健康への影響がかなり悪い方向になってしまった場合には将来誰が責任を負うのでしょうか?危機管理の精神は一般市民にも備わってなければいけない。よって国が20ミリシーベルトまでの放射能汚染された所に住む事や500ベクレル/Kg以下の放射能汚染された食べ物を食べる事は安全と言う宣伝(あたかも国の命令の様に聞こえてそれに服従してしまう)が自分の本能の声と違っていたなら、躊躇なく自分の本能に従うべき。断言します。私は上に立つ人誰も責任をとらないと思います。**日本人の弱さ**
2 どこの国でも、如何なる時代にも政治家は国民の不満が鬱積した時に必ず行う事が有る:それは国民の目と不満を外、即ち国外にそらす事である。しかし日本の政治を司る人達が、逆に科学屋と官僚屋にこの手法によって手玉に採られているのが判らないとは、情け無い。私はこの記事を読んだ時に思わずアホ!と叫んでしまいました。"低線量被曝のリスク管理の政府作業部会"11月15日。まずこの記事を読んで下さい。[21]参照の事。チェルノブィリの放射線被災者の統計データを参照する事も大切だが、この日本の足下に於いて既に貴重なそれもしっかりした個人の被曝放射線線量が蓄積された形で在るではないか?"実は存在していた「低線量被曝データ」"[22]参照の事。自民党参議院議員の古川俊治氏が8月1日の復興特別委員会で質問。**日本人の弱さ**
3 視野の中で素早く動く物はすぐに認識できる:逆にとてもゆっくり動く物体は視界の全体の中で区別が難しい。例えばこの人間の認識の弱点を利用すると何が出来るか?100%の変化を1日で市民に伝えるのと1%の変化を100日かかって伝える事。つまり少しずつ情報を人間の眼と耳を通して流し込む事によって、皆が気が付かないまま既成事実を積み上げる事。これが原子力体制保持の為の危機管理なのでしょう。だから小出しに遅れて情報を政府は出すのです。**これはTEPCOと政府の恣意的な情報誘導です。**
4 始めに結論ありき:まず安全ですと言う。何処かの国の検察官も似たりよったり。**これは官僚の意図的な解釈**
5 偏見:自分と違った考え方を許容できない。多様な意見に対する寛容性がない。次の聞く耳持たぬと双子の兄弟。**人間の弱さ**
6 聞く耳持たぬ:自分が正しいと思い込む事で相手を見下す事。自分たちと違った意見を持つ方々を排斥するのが得意。そして大王様のTEPCO:良心的な科学者が幾度となく、放射能を大量に放出する過酷事故の危険性を忠告していた筈ですが、聞く耳持たなかった故に不幸が全世界中に振り蒔かれました。一方叱責すべき事は我々市民が原子力エネルギーに対する多様な意見に耳を傾ける能力が無かったと言う事。勿論我々の心の中にも原子力エネルギーに反対していた人々に対する偏見は有ったと思う。**日本人の弱さ**
7 集まる事。集まった側の外は自分と違った人間と思い排除する:タテ社会の派閥やラベル張りの典型。ヨコ社会では市民は利害関係無しに集まれる。**日本人の弱さ**
8 嘘に嘘を重ねると本当らしくなる:嘘でも何十回も言われると人間信じちゃうね、感覚が鈍感になって。又大きな嘘ほど本当の様に聞こえる。**恣意的な誘導**
9 間違えを認めない:間違ったら素直に訂正&修正すると言う事が眼の前の事と向き合う時に必要なんですけど。人間傲慢になると謙虚さが無くなるね。**日本人の弱さ**
10 失敗は成功の母:国家を滅ぼす様な事態になって何事でしょうかね。物には程度ってのがあるんだけどね。私達市民はTEPCOの失敗の生け贄か?そして責任は知らんぷり。**これは官僚の意図的な解釈**
11 木を見て森を見ず:は"木を見させて森を見させず"と言うやり方にも通用する。細かい数字や内容を出して来て大きな所は極力見させない。市民の皆さんに、今進行している事を大局的に見させない目くらまし戦法である。何が起きたか、何が起っているのか、これから何が起るのかを予見させない。実に姑息。**これはTEPCOと原子力官僚による恣意的に我々市民の視点をある処に集中させる誘導法です。**
12 不安を煽るな:そう言われても、まず不安とは何かと定義してから言って欲しい。

[誘導される、解釈を与えられる側]
13 喉下過ぎれば暑さを忘れる:時間が経ったら忘れちゃう。持続する事の難しさも言い表してます。**人間の弱さ**
14 無関心:俺の事ではない。私の事ではない。と思い込む。だが結果は判らないのでそう思い込まない方が良い。そう言う事態が長い間続いて来ているので生存本能が麻痺していますよ。皆さん!**これは人が最も陥り易い罠**
15 動物園の動物の様に一点をグルグル廻わる:ルーチンワークってんですか。携帯電話を操作しながら徘徊する人と同じ。そんな生活していると感受性無くなってしまいますね。おまけに想像力も無くしちゃって。先ず自分で自分の殻を壊してみて下さい。**日本人の弱さ**
16 無知の知:自分は或る事を知らないと言う事を知っている時、自分でその事を探求します。謙虚だし。無知の無知だと人間無関心にもなるし。**人間の弱さ**
17 類推が重なりいつの間にか思い込みになる:自分では分ったつもりになり確認を怠る。**日本人の弱さ**
18 現実を直視し果敢に問題解決:東京大学の児玉氏が国会で怒ったのはこの事。現実からの逃避。上が上だからね〜。と無関心風に言っていたら火の粉が降り掛かって来た時後悔しますよ!**日本人の弱さ**
19 知識と言葉、数字と言う色眼鏡を通して眼の前の事を見る:詳しくは次章。**日本人の弱さ**
20 誰も声を挙げなければ怒っている自分が異常に思える:大衆に埋没する個人の意見。個人のユニークさを大事にしない世の中の証。皆と違った声は皆が無視。敵意の或る時も。**日本人の弱さ**
21 平等と言う名前の、多様性(個人のユニークさ)の否定:横並びでないと御近所の皆様に悪いと変な義理が或る。だから自分の子供を放射能から守る様な事をすると、そうしない近所の人々から変わり者として扱われる。和を乱すと、近所から浮び上がってしまう。集団心理とは正にこの事。**日本人の弱さ**
22 隣の芝生:自分の家と隣家を比較の対象とすべきではない。これをやるから妬みが出て来るのじゃないのか?行ってよいのは過去の自分と今の自分の比較。**日本人の弱さ**
23 情に訴える事:論理がないし議論が無い。特に選挙等人を囲い込む時、金が物を言う世界。情と金で人を囲い込む(悪い奴程良く眠る) vs. 論理と倫理に支えられた人間の良心に基づくヨコ社会。**日本人の弱さ**
24 タテ社会とヨコ社会:タテ社会の弊害を投稿その1にて指摘しましたがトップダウンの命令が理に適わない時、それをヨコに市民同士で繋がる事で彼らの誤りを認めさせ、修正させる事をして行かなければ社会は良くなりません。- 昔から正しくない決断をしてその帰結が不幸に終わった時そのトップの面々は100%責任逃れしますけど - その結果日本の市民は大変な目を見るって事って、日本でどうして頻繁に起こるのでしょうか?その様な結末になる前に市民がヨコに繋がって声を挙げなければ何も良くならないのです。**日本人の弱さ**

[番外]
25 何でニュースを批判的に見ないのか?:単に情報として聞くだけ、読むだけの話のネタ。**日本人の弱さ**
26 そして何故大局的に物事を見ないのか?:上記25に関連して。東京電力女性社員の殺人事件の被疑者であるネパール出身のゴビンダ マイナリ氏のDNAが被害者の女性より見つかった犯人の精液のDNAと不一致と言うニュースがこの7月の時点で流れた。何故この時批判的に又大きく観れないのか?精液のDNA鑑定で更に犯人の民族的特徴も解読できる筈。しっかり心の眼を開け。日本の市民!**日本人の弱さ**
27 何も変えようとしない:官僚と長期政権であった自由民主党。官僚と権力を持った政権との関係が癒着し、中立性を失って久しい。そして彼らは政治を操る組織となった。そして官僚の中立性のチェック機構が無い。だから何時迄経っても私達市民は官僚の奴隷。**日本の弱さ**

これらの市民の弱さを把握していてそれに則り大衆操作する奴らが居る事に気が付いて欲しい。

8.眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)
この章では高度な認識、そしてそれを恒久的に見過ごしてしまう頭の特性を題材とします。

学生時代に良く遊びに行った研究室の教官がふと漏らした言葉が今でも忘れられない。もし貴方が、或る夜に月を眺めていたとしよう。その時に貴方の頭の中がまっさらな状態で居て(情報も何も前もって知らずに、即ち言葉や知識と言う色眼鏡を通さず)、尚かつその時に月の格好が何か奇妙に変化して来たと感じたとしよう。そして刻一刻と月が暗くなって来た事が判る。暫くの間、頭の中で何が起っているのか判らない状態に置かれていた。不思議である。よくよく月を見ると少し欠けているではないか。そして非常に大きな電気的ショックが頭の中を横切る。何がおこったのか?

心がまっさらな時に見ている眼の前の出来事と、"月食"と言う言葉と知識が頭の中の神経回路の発火により、繋がっのだ。だが其れだけではない。より高度なレベルの認識が存在すると言う事実を自分の頭の中で覚醒する。言葉なしでも起こる事は眼の前で起こるのである。

そう、貴方が今観ている事とは"現象としての月が欠ける事"である。つい先日12月10日の月食時もし頭の中には情報が前もって刷り込まれていたのなら、それは単に"月食と言う現象"を見ていたのだ。例えば今朝の新聞に本日夜何時何分に何処の地方から何処までの範囲で部分月食或は皆既月食があります。凡そ何分間続きます。と頭の中に情報が既に刷り込まれている訳だ。依ってその人の採る行動は、月食が始まる5分前になって外に出て月を眺め始めると言う筋書き通りの行動である。時計を見ながらあと何分この月食が楽しめるかなどと、思うに違いない。眼の前の出来事を、既知でない時に目撃する場合(人間にとって神秘な出来事)と比較して、予め予期された既に頭の中に出来上がってしまったイメージで眼の前の現象を観てしまう場合。この二者間の違いは天と地程の差がある。この事態は眼からの経路から生ずるだけでは無い。五感から入って来る"生"の情報全てに当てはまる。現象が前からやって来る。それを心をまっさらにして受け止める。特に自然を相手にする漁業や農業を生業とされる方々は心の眼が開いている故、これに近い経験が出来るのではと思う。その一方頭の中の言葉と知識を通して眼の前の出来事を見ると言う事は色眼鏡を通して"月が欠ける事"を見てしまうと言える。目から鱗とはこの事。

此処で"放射能"と"月食"を置き換えて下さい。"放射能と呼ばれる現象"と言う見方のアプローチを捨てて"現象としての原子が壊れる事"、更に噛み砕いて"現象としての物が壊れる事"と言う見方のアプローチを取って下さい。簡単に言うと頭の中に有る、"安全だ"と言う評論、"危険だ"と言う評論と、頭の中でグルグルと廻っているベクレル、ミリシーベルトなどの数字の事を捨て去って下さい。色眼鏡を通して物事を観る事は思い込みが判断の中に入り込む隙を与えたり、自分がこうなって欲しいと思っている方に傾いて物事を見てしまいがちになってしまい、物事の本質に迫る事が非常に難しくなります。目から鱗を取払い眼の前の出来事にアプローチをして下さい。そこがスタート地点なのです。この立場は英単語で言うと"perceive"日本語で"知覚"と言う言葉で表せます。ですから知覚と言うアプローチで見れば、"人の手によって核分裂で作られた原子核が壊れる事"から始めてそれは生命にとって安全だとか危ないとか言う問いができるのです。分りますか?心をまっさらにして眼の前の事にアプローチする事の大切さが。

次に"月食"を"現象としての放射能汚染"と置き換えてみて下さい。どうですか?心の中に何か響きますか?もっと極端な話にしましょう。"月食"と"津波"と置き換えてみて下さい。特に3.11.2011に直接"押し寄せて来る海水"を目の当たりにした方はもう心の中で理解していると思います。貴方の眼の前の出来事は"津波と言う現象"と言う言葉で言い表すよりも更に心に深く刻まれた"現象としての押し寄せて来る海水"を目撃体験したそのものです。あの空恐ろしいまでの海水の量を直接観た人々は、言葉を用いて物事にアプローチするより眼の前の出来事をそのまま、言葉と知識と言う色眼鏡抜きで受け入れているのがお判りいただけましたでしょうか?また"地震"をマグニチュード幾つの地震と思わず、"現象としての大地が揺れる事"と知覚で捉る様に試みて下さい。同じ解釈を採りますと、3.11以降の放射能汚染事故を"現象としての原子炉の爆発"の結果と言うもっと簡単な表現で知覚する事が出来るでしょうか。これを押し寄せる濁流や大地が大揺れする事と重ね合わせて見て下さい。人間の小ささが判るでしょうし、原子炉即ち機械なんて押し寄せる濁流や大地が大揺れする事で壊れるものだと納得します。

さて現実に戻ろう。この思考習慣は日本社会を覆う最も巨大な弱点である。司法、立法、行政を司る人々が長らく陥っている事態なのである。学者や官僚達の頭の中には既に刷り込まれた判断回路が出来上がっているので、柔軟な思考、物事を違ったアプローチから捉える事が出来ない。おまけに自分が言っている事が間違っているかと検証する意志も無い状態だ。私自身、物事や人々にラベル張りをするつもりは無い。しかし言葉と知識と言う色眼鏡を通して物事を観ている事が自分自身判らない科学者、官僚、政治家の面々を科学屋、官僚屋そして政治屋と呼ばせて頂きます。国中がこの様な状態なので外国からの今回の福島第一の放射能汚染事故の捉え方と日本政府の放射能汚染の捉え方とのギャップが或るのは不思議ではない。例えば"http://ex-skf-jp.blogspot.com<http://ex-skf-jp.blogspot.com/>"と言うウェブにThe New York Timesの12月6日の記事が紹介されていた。[23]参照の事。日本の政府が放射能汚染を如何に色眼鏡を通して解釈しているかが良く判る。その中にこんな記述があった"...Supporters see rehabilitating the area as a chance to showcase the country's formidable determination and superior technical skills - proof that Japan is still a great power...."日本語訳は"地域の除染をサポートする人々はこれが国の並々ならぬ決心と、優れた技術を持つ-日本はまだ大国である、と言う事を証する機会であると考えている。"兎に角物、技術中心の思考で日本の市民の事が思考の中に無い。自国市民を保護すると言う点で5流国であると言う事を3.11以降自ら証明してしまって何を今更大国か、と思う。国力と言う対象を総合的に見ないで技術の面のみから見ている馬鹿者達。同情心も何もない、不信心な道徳に欠ける連中。

まず貴方は"知らない"と言う自覚を持って心をまっさらにして、眼の前の事に対峙する事。次に"現象としての物が壊れて行く事"と言うアプローチ方法によって眼の前の出来事を次章で検証して行く事にする。

9.心の中をマッサラにして(努力して)
まず簡単に:ウラン235を炭に例えましょう。炭を燃やす時酸素を大量に供給して、一瞬に燃やす事と例えられるのが原子爆弾。よって炭は白く燃えつきてしまって燃えカスは余り残りません。一方炭をちょろちょろと燃やすのが原子力発電。この時燃え残りの炭と燃えカスは残っていますよね。そして原子炉の中って主に2つの動的な物理現象が同時進行する格好で発電しています。(1)中性子に依るウラン235の核分裂。(2)ウランの核分裂で生じた核分裂生成物、簡単に言うと燃えカスが更にアルファ線、ベータ線やガンマ線(即ちエネルギー)を出しながらより小さな原子へと壊れて行く物理現象です。もし原子炉に制御棒を挿入すると中性子が発生しなくなり、ウラン235は核分裂を止めます。そうすると1つの物理現象が止まって(1)もう1つの物理現象(2)のみが原子炉内で進行します。つまりこれ以上ウランの核分裂で出来る燃えカスが増えなくなる状態。又(2)のエネルギー、これが崩壊熱。[24],[25],[26],[27],[28]参照の事。

余り算数は得意でないのだが、以下の計算一生懸命やってみた。色々下調べしましたが、小生学者ではないのでもし間違えていたら御指摘下さい。そしてその時は御免なさい。又所謂反原発の本を持っていないので其処からの話の内容とかち合う事も予想されます。その所、御理解下さい。では核分裂生成物=燃えカス=放射能が原子炉の中から表へ出てしまうと言う事はどう言う事か食べ物を通して、そしてその放射能汚染に対する安全宣言に向き合ってみたい。国の暫定基準値では500ベクレル/Kgと言う値になっていて、それ以下なら安全で、それ以上なら安全でないと言う線引きの意味を知覚を通じて考察してみよう。お断り:文献の引用でBqと言う記号が出てきますがベクレルと同じです。以下セシウム137を主な例にとって話を進めて行きます。

Q1)放射性同位元素のセシウム137が1gあるとすると(セシウム137は壊れる時にベータ線即ち電子を放出する)一体何ベクレルなのか?
ベクレルとは皆さんご存知の通り"1s(秒)間に1つの原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量が1Bqである。"[29]より引用。500ベクレルとは毎秒500個の原子核が壊れてアルフア線、ベータ線やガンマ線等の放射線を出す能力。
A1)セシウム137の半減期は30.1年。これを秒に変換=30.1年x365.24日x24時間x60分x60秒=9.5x10^8秒。1gのセシウム137にはセシウム原子がアボガドロ定数/原子量だけ含まれている=6.02241x10^23/137=4.4x10^21個。依って、1gのセシウム137のベクレル量はlog-e(2)x4.4x10^21/9.5x10^8=3.2x10^12=3.2テラベクレル=3.2兆ベクレル。計算式は[29]参照の事。計算する必要も無かった。3.215TBq(10^12)である。ウィキペディア[30]参照の事。

Q2)1gのセシウム137って大変なベクレル量だけど、重さからすると大した量だとは思えないけど。比較できる具体例は無いか?
A2) ウィキペディアにこんな記述が或る。"チェルノブイリ事故以後のドイツ全土について平均してみると、セシウム137による汚染は、平均で2000-4000Bq/m2となっている。これは1mg/km2に相当し、500gのセシウム137がドイツ全土にばらまかれたことになる。"[30]参照の事。因にドイツは日本より2万平方キロメートル狭い。セシウム137が500gで1607.5テラベクレル。もし1gのセシウム137が体内に取り込まれたのなら500gで500人分。そしてセシウム137、1gが壊れる時に放出されるベータ線、即ち電子が一秒間に3215000000000個放出されるのです。又ベータ線が機関銃の実弾と考えると、判るでしょ、めちゃくちゃ細胞を被弾させていると言う事が。そうすると、細胞がダメージを受けない程度はどの位の重さのセシウム137だったら安心なのかと考えて見るのが自然な流れ。最初から500ベクレル/Kgが安全と決めつけるのは、非常に作為に満ちた手法ではないかと言える。

又[30]のウィキペディアの記述。"現在環境中に存在しているセシウム137などの多くは、1940年代〜1960年代の核実験や核事故で放出された。ただしセシウム134は、半減期の関係で数十年前に放出されたものは殆ど残っていない。1960年代前半に日本人は1日に1Bq以上を摂取していたと推定されている。"1950~60年代の大気圏核実験は壮絶を極めたが、それでも1Bqと言う単位で収まる汚染食品を日本人は1日に"摂取"であったと読み取れる。単純に考えてビキニ環礁の水爆実験の500発分が地球上に撒かれた時の値が500ベクレル/Kgの汚染食料の摂取と考えるのが妥当ではないか。以上の思考検証は500Bq/Kgとは核戦争後に放射能で人が死ぬよりも人が飢え死にしない事を優先した基準と言う記事、東北文教大松田浩平教授のコメント"国の暫定基準値の500Bq/Kgは全面核戦争時の食物の汚染上限"が正しいかどうかの為に行った。[31]参照の事。1ベクレルと500ベクレル。この違いを私達市民はどの様に解釈するのか?これで安全だと言う論拠は何処からくるのか?

さて次に食べ物の汚染が500ベクレル/Kgとはどういうレベルなのか考えてみよう。おっと、そうは行かないよ!もっとシビアに、自分の体の肉に500ベクレル/Kgの放射能が入っていると仮定しよう。だって優に2000ベクレル/Kgを超える野生のイノシシの肉も出て来てるんでしょ?[32]参照の事。可哀想に。自分達が食べる野の食料が放射能で汚れているか汚れていないかなんて峻別できないし。人間も同じ様に食べ物を区別しないで野生の人として500ベクレル/Kg*70Kgの体重*0.3(体の中の肉質の部分が体重の30%とした。投稿者の解釈)=10500ベクレル/1人当たりの放射能を抱えてみれば良い。つまり体の中で毎秒10500個の原子核が壊れているって事。もっと書きたいのですがこれ以上色々調べると頭がパンクしてしまいそうなので、ここで止めておきます。

ここでのポイントは人間の五感 vs. 小さすぎる物;原子、そしてそれが耳かき一杯の重さでも信じられない位大量に原子が在ると言う事。核エネルギーを使うという事はこう言う非常に軽いながら大量な人工の放射性物質を電気エネルギーと引き換えに毎秒毎秒生産していると言う事です。さてもう一度おさらい。中性子が飛び廻らなくなった後の原子炉の燃料棒内のウランペレット(瀬戸物)内での物理現象が、体の中でおこっている事=即ち内部被曝なのです。放射能汚染の強い牛乳を学校で子供達に無理矢理呑ませるのは原子炉での物理現象を体の中に植え付ける様な事をやっているのに等しいのです。更に高放射能汚染地に住むのはまるで原子炉建屋の中に暮らしているよりもひどい状態と聞く。半ば強制的に住まわさせられている子供達が不憫。大人が馬鹿だから子供達は健康に大変なリスクを抱え込まざるを得ない何とも不条理な世の中。これは誰のせいなのでしょうか?自分達の危機管理が出来ない私達市民のせいなのでしょうか?それとも問題を危機と認識しない為ですか?事態を楽観視しているからでしょうか?私にはこの事が群れの中に在る盲目的な精神論の行き着く果ての、遺伝子プールの自己破壊に見えてしまう。

文部科学省(旧科学技術庁を含む)が全国の国立大学主導の放射能汚染の調査の禁止を行っているとしても、いずれ国外から反論しようのない健康被害を予想するデータが提供されるだろう。今この放射能汚染の現実から目を背けて、真実を隠そうとする科学屋達。まだ判らないのか?自分達が信用されなくなって来ている事を。良心的な科学者は自分たちが無能な税金泥棒で無いと、色々社会に対し発言し手持ちの情報を公開して市民の為に仕事をしているとアピールして欲しい。そして横方向に学者同士で連帯して、日本の市民が自らの手で放射能から生き残ろうともがいているのを是非助けて欲しい。そうしない学者は失業させます。そしてTEPCOと言う野獣を野放しにして来た監督官庁は其の責任を取るべき。何故なら今回の様な原子炉の過酷事故対策を全て東京電力に丸投げしていたのじゃないのか?

10. 今 - まず出来る事、その2
(1)海洋のこれ以上の汚染をなんとしてでも食い止める事。除染に金を使うのなら、福島原子力第一発電所から海洋に漏れ出る汚染水を一刻も早く海へ漏れ出ない様遮蔽すべきである。静岡から引き舟で運んで来た1万トン級の長方形のタンカーはどうしたのでしようか?やっぱり汚染水を10万トンクラスのタンカーに移して作業現場の空間線量を減らしてこの地下ダムを作った方が最善なのではないか。まだ人間が現場で作業できる状態なので、今すぐ汚染水の遮蔽工事を実行に移せば、2年後位に工事を終了できるのではないか。それにしても日本は海洋国家ではなかったのですか?海を放射能で過酷に汚して何が海洋国家と言えるのだろうか。

(2)駆け込み出産寺
比較的高い汚染地域にお住まいの御夫婦で、もし奥様が新たに妊娠した事が判った場合に、国が旅費を含めて責任を持って放射能汚染されていない所に設けた保養施設に住まわせて、出産まで面倒見るべきである。

(3)何もしない、除染もしない。瓦礫も移動させない。今出来る事は放射能汚染地区の人々を出来るだけ放射能汚染の少ない地区に永住させる事。エントロピー増大と言う物理の法則が有る。一言で言えば除染しても又汚い所から汚れがそこにやって来ると言う事。例えば1種類の物質は放っておくと他の物質と混じり合い拡散すると言う法則。拡散に係る時間とそのスピードが遅い早いは別にして、原子力発電所に閉じ込められていた放射性物質もこの法則のご多分に漏れなかったと言う事だ(更に言うと原子炉からの放射能漏れを最小にする、即ちエントロピーの増大を抑えるには大変金が懸かると言う事をTEPCOは理解していなかったのである)。チェルノブィリの放射能汚染地帯に比べて放射能汚染が拡散、そして集積する条件が格段に多様な形態で存在する。梅雨、豪雪、台風、季節風、更に真近の山間部、すぐ隣の海岸と太平洋へと。福島、宮城、山形、新潟、栃木、群馬、千葉、埼玉そして東京の地上の形状が全く東ヨーロッパと違っている。前投稿でも指摘して於いた様に、放射能汚染された地域から追われた汚染事故の被害を受けた方々を放射能除染により元の居住場所に戻す様努力する理由は、国と東京電力が被害を受けた方々を他地域に永住させ、不動産に対する補償を行うよりも、遥かに安上がりだからである。例えば1家族の農地と宅地の評価額が2千万円だとすると、百家族で20億円。何十万の家族の農地と漁業権、宅地の評価額だとしたら何10兆円もの出費。これが嫌で除染と言う格好で利権に群がる連中に金をバラまく一方、避難していた広範囲の地域の市民を居住区に帰して彼らの遺伝子を将来に渡り傷つけさせる事を強要する。現状の放射能レベルは安全ですと洗脳された上に遺伝子を傷つけられて居住していた家に戻って元の生活をする事により、帰還者の方々が又将来に渡り差別の悪循環に陥って行ってしまう事が予見される。

(4)徹底的な放射能汚染の除染を行うよりも、放射線管理区域から外に市民を移住させ尚かつ食品への徹底的な放射能汚染の選別(或はランク付け)をやった方が日本国の遺伝子プールを守ると言う観点からすると遥かに効果的。何故これが出来ないのか?後悔しますよ今やらないと。

(5)国政レベルで国難の優先順位を付けて問題解決。国会でTPPと言う議論を行って国民の関心を外へ向けていたのを目の当たりにして、国会は優先順位を付けて物事を処理実行する考え方が全く備わっていないと判明できる。遡り法なんて手法知らんだろうしな。何が今優先度が最も高く、一番大事な事か判ってるのか?失業させます。

(6)食の製造現場の声が聞きたい。どれ位食べ物がキレイなのか、其れとも汚染しているのかが知りたい。市民にとって何か手伝える事がないか?放射能汚染の少ない食品を生産する方々を応援したい。

(7)漁業を生業とする、1970年代より原子力発電所の反対を訴えて来た人々の声が聞きたい。でもこちらから出向かないといけないですね。

(8)無理かもしれないが、原子力を推進する人々と原子力に反対する人々と建設的な対話を始める時ではないか?又都会に住む市民と原子力エネルギーと言う物で差別され、又放射能で更に差別されている放射能汚染地域に住む農業や漁業を営む市民とコミュニケーションを始めるべきである。

(9)8章で述べたが、何か物事を言葉でラベル化すると其の時点で頭の中で思考の回路が停まってしまい建設的、創造的な思考ができなくなる。例えば、"反原発"と言う言葉を用いた時点で、話が進まなくなってしまう。同じ事が"安全神話"を使用した場合にも言えるのだ。この様に言葉を用いず、現実が言葉よりも先に在る事に気がつけば、例えば原子力エネルギーのリスクとかコストとかを原子力を推進する科学者と原子力に反対する科学者の間で真剣に未来の子供達の為に議論ができるのではと思う。この辺は原発先進国のドイツを見習いたい。彼らは頭が柔らかいですね。私には彼らが言葉で説明出来き得ない過酷な事でも起こる事は起こると1986年の経験から心の中では判っているのではと勝手に解釈している。

(10)他国には原子力に対する安全神話があるのだろうか?調べて見る価値はある。

(11)現実を心をマッサラにして見る事ができない人々とどの様に連帯して行くかの方策を考えるべき時。

私達は日本の歴史の中で最も大きな曲がり角に立っている。そしてこれから生ずる困難を1つ1つ解決しなければならないと言う覚悟が必要だと思う。それこそ死に物狂いで今の日本の世の中を改善しなければ。我々の子供達の為に彼らに少しでもましな日本が引き継げる様になって欲しいが故。

11.今回の投稿の最後に
私は顔の無い人間ではありません。"kc.planaria@gmail.com"が小生のemailアドレスです。色々と思う事が有りこの9月よりそれをメモに書き留めてながら整理した事を"日本の市民の皆様へ"と表題し11月4日、阿修羅様に投稿させて頂きました。何しろ一介の会社員の為、自分のウェブもありませんので最初の投稿レポートを何処かのウェブに載せる方法が何かないだろうかと困って居りました所、或るとても親切なウェブの管理人様より、阿修羅に投稿してはと勧められまして前回と今回の2回の投稿に至った訳です。と言う事で、阿修羅様と前出の管理人様にここに感謝致します。

今回の3.11放射能汚染事故を通して日本の中の出来事を眺めてみ、大きく眼を開いて物事を見ようとしない人々が多すぎるのに驚かされました。何回でも言います。頭の中に既に刷り込まれている思考パターンを用い、又頭の中の数字や測定値を判断材料とし、眼の前の出来事を知覚する前に条件反射的に答えを出してしまう習慣を捨て去って下さい。心をまっさらにして、眼の前の出来事を観て下さい。そうすれば世の中で何が本当に起こっているのが判ると思います。そしてためらわず人間の中に有る生存本能の覚醒させて下さい。

そろそろこの長文の筆を置く時ですね。今回の放射能汚染の大局図を眺めて見たいと思う原動力が私を突き動かしています。過去から現在に到るまでの点と点をつなげて線できれば面を描いて行こうと言う気持ちでしょうか。小生の視野が足らない所も有り色々な考え方が統合出来ていないかも知れません。別の見方も有るかもしれません。言い足らなかった処は御容赦下さい。又本文で言及した方々に対する配慮が至りませんでしたら、此処でお詫び申し上げます。

最後に。今の日本の市民の置かれている、見えない、匂わない、感じない放射能汚染した街に住む立場を大局から見ると、グリム童話に載っている"ハーメルンの笛吹男"の事を想像させてしまうのだ。[33]参照の事。1284年ドイツのハーメルンと言う村は異常に繁殖するネズミに悩まされていた。1人の男がネズミを駆除すると住人に申し込んで来た。勿論報酬を約束した住人は彼にネズミの駆除を御願いした。彼は笛を吹きながらネズミを暗示にかけ川まで誘き出し、1匹残らず集団入水自殺させてしまった。この話に例えると今のこの日本で、笛を吹く者は誰だろうか?日本と言う国の原子力神殿に棲む特権階級である。ではネズミは一体誰なのか?皆さんお判りですよね?笛を吹きながら、安心安全と人々の心に取り入り無差別的に人々の遺伝子を傷つけさせている勢力。彼らの暗示から脱して川へ向かう群れから?少し変わっていると呼ばれようとも - 飛び出し、皆を正気に戻さなければ我々市民は集団自殺させられる様な、国によって棄民化される(殺されると言っても過言ではない)運命に陥る。この降りかかって来る人災を市民の力を合わせて振りのけなければ。

ご存知ですよね?"ハーメルンの笛吹男"にはオチが有るんです。ハーメルンの住民が笛吹男に報酬を出さなかった為に今度は住民の宝である子供達を笛で誘い出して村から永遠にさらって行ってしまったんです。放射能の高汚染地区から避難する金は誰も出し惜しんではいけません。

[追記]
本稿は2011年の末に投稿予定でしたが、最終チェックの時間が割けずに今頃の投稿となりました。この間色々と思う事在り、以下2点追記させて頂きます。
*どうして所謂知識人は今回の放射能汚染事故に対して萎縮しているのでしょうか?原子力エネルギーの賛成反対問わずもっと社会に対し発言すべき義務があると思います。そして市民の皆さんもこの問題に対して思考停止に陥らずに、心の眼を開けば科学者よりも物事を大局的に見る事が出来るのに気が付くべきです。
*誰か私の意見が間違っている事を証明して頂けますか?そうすればこの気持ちが穏やかになるのですが。

参考文献等
[1] "日本の市民の皆様へ",阿修羅のウェブより
http://www.asyura2.com/11/genpatu18/msg/185.html
[2] "電力会社の誕生"、東京電燈
探検コムのウェブサイトより。
http://www.tanken.com/tokyodento.html
[3] "鶴見騒擾事件" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E9%A8%92%E6%93%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[4] "電力に生涯を捧げた男 松永安左エ門 - その生涯と業績 -"より。藤村哲夫
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon.html
"電力に生涯を捧げた男 松永安左エ門 (2)"
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon2.html
[5] "第1回 「松永安左エ門――官に抗し9電力体制を築いた男(1)」",杉田望及び(2),(3),(4) J-Net 21 中小企業ビジネス支援サイトより
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20050111.html
[6] "新日本紀行" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E8%A1%8C
[7] Youtubeより、NHK新日本紀行〜主題歌オリジナル バージョン
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=2LePkGZ4hvM
[8] Youtubeより、新日本紀行 BGM用
http://www.youtube.com/watch?v=8laXG4wt-3Y
個人的にはこちらのノイズが入っている方が気に入っています。
[9] "「原発反対」の立看板が立つ女川原発ー東日本大震災の歴史的位置"
"東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present"より
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/09/%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%99%BA%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%AB%8B%E7%9C%8B%E6%9D%BF%E3%81%8C%E7%AB%8B%E3%81%A4%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%83%BC%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7/
及び"‘女川原発’ カテゴリーのアーカイ
ブ"http://tokyopastpresent.wordpress.com/category/%E9%9C%87%E7%81%BD/%E5%8E%9F%E7%99%BA/%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%99%BA/
[10] 東京に原発をと言った三人 4月15日 "原発日記" 老人はゆくより資料が手元に無い為、孫引きさせて頂きました。
http://haikairou.blog22.fc2.com/blog-entry-141.html
[11] 中日新聞12月13日社説。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2011121302000015.html
[12] "反原発の記事 中傷 エネ庁への報告 詳細判明"、東京新聞より時間が経ち、元のリンクが削除されてたので以下参照。
http://sekaitabi.com/tokyonp.html
[13] IEEE Spectrumのウェブサイトより
http://spectrum.ieee.org/static/fukushima-and-the-future-of-nuclear-power
[14] "24 Hours at Fukushima" by Eliza Strickland, IEEE Spectrumより
http://spectrum.ieee.org/energy/nuclear/24-hours-at-fukushima/0
[15] (株)エアフォートサービス ウェブページ
www.yamazaki-k.co.jp/airphoto/
[16] 高解像写真の在るCryptomeウェブサイトより
http://cryptome.org/eyeball/daiichi-npp/daiichi-photos.htm
彼らのホームページには日本国内でお目にかかれない写真が満載している。
[17] Cryptomeのその他の写真
http://cryptome.org/eyeball/
[18] 雑誌"Discover"のウェブサイト
http://discovermagazine.com/
[19] "国土を守り国民とともに生きる5項目提案”、東京大学児玉教授
http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/dai4/siryou1.pdf
[20] "ソクラテス"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
[21] "「科学的」めぐり、議論白熱=チェルノブイリ事故の影響で−低線量被ばくの作業部会"、時事通信社のウェブサイトより。
www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2011111501047
時事通信社のウェブサイトより削除された場合はこちらを参照。
"低線量被曝のリスク管理の政府の作業部会で、チェルノブイリ事故の科学的影響をめぐり、議論が白熱"
http://ameblo.jp/atom-tokyo/entry-11080825573.html
[22] "【注目記事】 実は存在していた「低線量被曝データ」(週刊SPA!)"
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/dab868abc7592d8b89f2cc974ee47a18
[23] "Japan Split on Hope for Vast Radiation Cleanup," The New York
Timesよりhttp://www.nytimes.com/2011/12/07/world/asia/japans-huge-
nuclear-cleanup-makes-returning-home-a-goal.html?pagewanted=all
[24] “核分裂生成物“ weblio辞書より
http://www.weblio.jp/content/%E6%A0%B8%E5%88%86%E8%A3%82%E7%94%9F%E6%88%90%E7%89%A9
[25] "放射線"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A
[26] "アルファ粒子"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E7%B2%92%E5%AD%90
[27] "ベータ粒子"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B2%92%E5%AD%90
[28] "ガンマ線"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9E%E7%B7%9A
[29] "ベクレル"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベクレル
[30] "セシウム137"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0137
[31] "国の暫定基準値の500Bq/Kgは全面核戦争時の食物の汚染上限"、東北文教大学松田浩平教授
http://ex-skf-jp.blogspot.com/2011/09/500bqkg.html
[32] "【汚染】宮城県 イノシシからセシウム2200ベクレル検出"、セーブ
チャイルドのウェブサイトより。
http://savechild.net/archives/7405.html
[33]"ハーメルンの笛吹き男"、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%AC%9B%E5%90%B9%E3%81%8D%E7%94%B7
==
追記: それから投稿その1で良心的な官僚の方々に横に繋がって市民を助けて欲しいと申し上げましたが、嬉しい限りです。でも元官僚の方々なのでちょっと話が違いますが。主権在官僚を変えない限り日本は良くならないと思います。
* "橋下市長支える元官僚5人組 「大阪から国を変革」" 編集委員 堀田昇

吾、1月3日、日本経済新聞ウェブより
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819A91E0EAE2E09C8DE1E2E3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/162.html

[政治・選挙・NHK248] 日本の市民の皆様へ-最終回, No.2
この事実は日本の七不思議の一つとして数えてよい位、とても不思議でどうしても私には理解出来ません。過去の投稿や本日の投稿に記載した様な議題等を何故所謂知識人はメディアを通して発言しないのでしょうか?それともメディアから閉め出されてしまったのでしょうか?小生は単に一介の会社員です。何故私の如くの人間が平日土曜日曜自分の時間を犠牲にしてまでもこれらの投稿を書上げなければいけないのでしょうか?ごく一部の知識人の方々を除き誰も声を挙げないではないですか?何故知識人は現在日本で進行している日本の存在意義を劣化し更に破壊させてしまう(モラル的には既に破壊されてしまった)様な政治状況に対し、抗議する発言も行動もそれに伴う責任も取ろうとしないのでしょうか?本当に、本当に日本の知識人はスケールの小さいオバカ達です!何度でも言います。オバカです。想像してみて下さい。この様な民度の低くなってしまった国から来た旅行者や海外駐在の人達が今後立派な国から来た尊敬に値する市民だと現地で歓迎される事は無くなるでしょう。

今まで過去に投稿した「日本の市民の皆様へ」の再投を行おうとしており、この作業はまだ半分も終わっていません。しかし先行して最終回を紹介します。何故なら、タイムリーな話題を議論する機会を逃す訳には行かないからです。既に書き上げた最終稿を一章毎に投稿します。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を推奨して頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。どうか本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。
===
日本の市民の皆様へ-最終回, No.2

1章 破壊されてしまった三権分立の原則
最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[1]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本である。とどのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、彼らの問題を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の一つ目である。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、本書を読み進めると幾つもの疑問点が線として繋がったのである。

さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。その時その場で私は2011.3.11の影響だと思いますと答えた。何故そうなのか?それは東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。これが一番最初のステップ。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力の強欲さ故の職務放棄と業務怠慢と、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。しかしこの次が有るのである。厚生労働省、農林水産省、環境省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?放射性同位元素に汚染された食べ物を食べても健康に問題有りませんとキャンペーンを張り、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?貴方はもう私が言いたい事が予想出来るだろうか?官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、より一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それはイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民をコントロール出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。何ともおぞましい事態なのか...

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、つまり何か行為を行った結果に対してその帰結の責任を絶対にとりたくないのである。簡単に言えば行政が実行した国事の行為(嘘を含めて)に無責任で居続けたい。 その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。嘘を言い続けなければならない習性は逆に彼らの弱点となってしまう。もしこの全官僚達の弱みを握り彼らをコントロールする事が出来たのなら素晴らしいぞ!と言う訳。 皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本中の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。それ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。一度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と欲望。この欲望の行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が美しい国とは...笑止千万である。

今、行政府と内閣与党両者が歩み寄って彼らが直面する市民の怒濤の怒りと非難の声が沈静化するまでお互いに固唾を呑んで嵐が過ぎるのを待っている状態である。しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ可能な次の嘘は残念だが無いのである。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。原理主義者に同調する事で、日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事である。今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる革命が進行中なのだ。

その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けていたとしたら?持ち論答えはYesだ。この4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。日本会議の教義を信奉する或は彼らの思想に共感する若手が各官公庁の上層部に上り詰めている可能性は私はほぼ100%と踏んでいる。日本会議から各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろうし、彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。

さて三権の内残った一権、司法府に言及しておこう。小生の三回目の投稿3章「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」にて以下記載: "哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである"とWikipediaの内容を翻訳の上指摘しておいた。非常に残念だが法務省(英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます)や検察庁のみならず、司法府が下した過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々と、面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。最後に。近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が非常事態宣言を行う可能性が非常に高い。国内の混乱の期に乗じて日本の立法司法行政と言う三つのそれぞれ独立して来た権力を以下に記したイデオロギー集団の原理主義者主導のもとに独裁政権下で統括一体化した機関とするのは時間の問題の様な予感がする。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのである。

日本会議のサークル図は中心から: 原理主義者のアーキテクト=>原理主義者の核となるインナーサークル=>日本会議の会員、原理主義者の信者=>原理主義者の取り巻き、応援団、ボランティア及び奉仕者 =>原理主義者に寄り添う事で経済的に利益を受ける個人、グループ、組織、会社。特に軍事、核開発の産業組織。既に日本の経済界は原理主義者の軍門に落ちた。=>原理主義者に加護を求める官公庁。既に日本のメディアがこのサークルに組み込まれてしまっている。政権につくす三権とメディアを見れば如何にこの原理主義集団の勢力が強大なのが判る。日本のそれぞれ独立した三権が成長し続けているこのサークルに飲み込まれる日は近い。

「この1章での結論は: 彼らの教義をもとにした社会の実現を目指す活動が国の至る所で企てられているのである。」この投稿を書き上げる最中に奇しくも田中龍作ジャーナルに上記の三権分立の破壊を示す記事が記載されていた。是非参照下さい。[2]

参考文献等
[1]「日本会議の研究」、菅野完、2016年、扶桑社
[2]「【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに」、田中龍作ジャーナル、http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/384.html

[原発・フッ素50] 日本の市民の皆様へ-最終回, No.2
この事実は日本の七不思議の一つとして数えてよい位、とても不思議でどうしても私には理解出来ません。過去の投稿や本日の投稿に記載した様な議題等を何故所謂知識人はメディアを通して発言しないのでしょうか?それともメディアから閉め出されてしまったのでしょうか?小生は単に一介の会社員です。何故私の如くの人間が平日土曜日曜自分の時間を犠牲にしてまでもこれらの投稿を書上げなければいけないのでしょうか?ごく一部の知識人の方々を除き誰も声を挙げないではないですか?何故知識人は現在日本で進行している日本の存在意義を劣化し更に破壊させてしまう(モラル的には既に破壊されてしまった)様な政治状況に対し、抗議する発言も行動もそれに伴う責任も取ろうとしないのでしょうか?本当に、本当に日本の知識人はスケールの小さいオバカ達です!何度でも言います。オバカです。想像してみて下さい。この様な民度の低くなってしまった国から来た旅行者や海外駐在の人達が今後立派な国から来た尊敬に値する市民だと現地で歓迎される事は無くなるでしょう。

今2011年から投稿して来た「日本の市民の皆様へ」の再投稿を行おうとしており、この作業はまだ半分も終わっていません。しかし先行して最終回を紹介します。何故なら、タイムリーな話題を議論する機会を逃す訳には行かないからです。既に書き上げた最終稿を一章毎に投稿します。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を推奨して頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。どうか本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。
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1章 破壊されてしまった三権分立の原則
最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[1]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本である。とどのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、彼らの問題を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の一つ目である。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、本書を読み進めると幾つもの疑問点が線として繋がったのである。

さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。その時その場で私は2011.3.11の影響だと思いますと答えた。何故そうなのか?それは東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。これが一番最初のステップ。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力の強欲さ故の職務放棄と業務怠慢と、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。しかしこの次が有るのである。厚生労働省、農林水産省、環境省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?放射性同位元素に汚染された食べ物を食べても健康に問題有りませんとキャンペーンを張り、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?貴方はもう私が言いたい事が予想出来るだろうか?官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、より一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それはイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民をコントロール出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。何ともおぞましい事態なのか...

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、つまり何か行為を行った結果に対してその帰結の責任を絶対にとりたくないのである。簡単に言えば行政が実行した国事の行為(嘘を含めて)に無責任で居続けたい。 その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。嘘を言い続けなければならない習性は逆に彼らの弱点となってしまう。もしこの全官僚達の弱みを握り彼らをコントロールする事が出来たのなら素晴らしいぞ!と言う訳。 皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本中の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。それ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。一度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と欲望。この欲望の行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が美しい国とは...笑止千万である。

今、行政府と内閣与党両者が歩み寄って彼らが直面する市民の怒濤の怒りと非難の声が沈静化するまでお互いに固唾を呑んで嵐が過ぎるのを待っている状態である。しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ可能な次の嘘は残念だが無いのである。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。原理主義者に同調する事で、日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事である。今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる革命が進行中なのだ。

その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けていたとしたら?持ち論答えはYesだ。この4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。日本会議の教義を信奉する或は彼らの思想に共感する若手が各官公庁の上層部に上り詰めている可能性は私はほぼ100%と踏んでいる。日本会議から各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろうし、彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。

さて三権の内残った一権、司法府に言及しておこう。小生の三回目の投稿3章「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」にて以下記載: "哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである"とWikipediaの内容を翻訳の上指摘しておいた。非常に残念だが法務省(英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます)や検察庁のみならず、司法府が下した過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々と、面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。最後に。近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が非常事態宣言を行う可能性が非常に高い。国内の混乱の期に乗じて日本の立法司法行政と言う三つのそれぞれ独立して来た権力を以下に記したイデオロギー集団の原理主義者主導のもとに独裁政権下で統括一体化した機関とするのは時間の問題の様な予感がする。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのである。

日本会議のサークル図は中心から: 原理主義者のアーキテクト=>原理主義者の核となるインナーサークル=>日本会議の会員、原理主義者の信者=>原理主義者の取り巻き、応援団、ボランティア及び奉仕者 =>原理主義者に寄り添う事で経済的に利益を受ける個人、グループ、組織、会社。特に軍事、核開発の産業組織。既に日本の経済界は原理主義者の軍門に落ちた。=>原理主義者に加護を求める官公庁。既に日本のメディアがこのサークルに組み込まれてしまっている。政権につくす三権とメディアを見れば如何にこの原理主義集団の勢力が強大なのが判る。日本のそれぞれ独立した三権が成長し続けているこのサークルに飲み込まれる日は近い。

「この1章での結論は: 彼らの教義をもとにした社会の実現を目指す活動が国の至る所で企てられているのである。」この投稿を書き上げる最中に奇しくも田中龍作ジャーナルに上記の三権分立の破壊を示す記事が記載されていた。是非参照下さい。[2]

参考文献等
[1]「日本会議の研究」、菅野完、2016年、扶桑社
[2]「【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに」、田中龍作ジャーナル、http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/188.html

[政治・選挙・NHK248] 日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.3
「日本の市民の皆様へ」と言う題目で2011年から断片的に本ウエブに投稿をして来た者です。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。どうか本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。
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2章 音楽は政治を批判してはならない
その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません、以下小生の音楽の嗜好が入る事お許し下さい。)歌手本人は今年の9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催予定である。[1] 因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。これは私の彼の音楽から受けた印象だが、彼の心の奥底にはキリスト教的ヒューマニズムが宿っているのではと思う。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の曲だけでも聞いて欲しい。

"If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の題名を替えて"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と皆さんに問いたい。この日本の社会が家庭をファミリーを大事にしなくなった結果なのだろうか?親が家庭で行っている彼らの子供のネグレクトや虐待が新聞やTVで報道される機会が増えて来た。心が張り裂けそうである。何も世の中の事も理解していない、そして自立も出来ていない愛くるしい子供達。この彼らの受難の時代、倒れた子供達にどうして大人達が無関心で無責任で居られるかを皆様に問いたい。何故誰も倒れた子供達に手をさしのべようとしないのか?もしかしたら、日本の社会から愛が欠落してしまったのだろうか?
"Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻く。それ故に歩く檻の中のペースを自分で刻む。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと実感する。
"Tokyo"[4]では、忙しい人生を過ごす人々と東京の姿を歌う。38年経った今でも殆ど変わっていない東京。
"Silver wheels"[5] 人間の欲望と自動車文明を痛烈に批判した曲。
"A dream line mine"[6] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
"Gavin's Woodpile" [7] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い。

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."とある。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の二つ目の理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、貴方は暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。市民の皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。そう、国家は多数の人々の構成により成り立つのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷である。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺しつつある。この世の中に住む日本の若者よ、あなたの怒りの矛先は間違っていないのか?

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017) [8]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle (窒息する) human nature and to suppress truth." [9]

「2章のポイントは: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、貴方は無言で働く感情のないロボット。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。」

参考文献等
[1] "Billboard Live TOKYO Live schedule," Bruce Cockburn,
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=calendar&date=201809&shop=1
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Tokyo", Bruce Cockburn, 1980年アルバム"Humans," https://www.youtube.com/watch?v=t76JGcMp0cM
[5] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[6] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[7] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
歌詞の中で"English River"と歌うが一企業の水銀投棄に因る河川の汚染問題の事
[8] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[9] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/659.html

[原発・フッ素50] 日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.3 「音楽は政治を批判してはならない」
「日本の市民の皆様へ」と言う題目で2011年から断片的に本ウエブに投稿をして来た者です。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。どうか本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。

===
2章 音楽は政治を批判してはならない
その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません、以下小生の音楽の嗜好が入る事お許し下さい。)歌手本人は今年の9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催予定である。[1] 因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。これは私の彼の音楽から受けた印象だが、彼の心の奥底にはキリスト教的ヒューマニズムが宿っているのではと思う。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の曲だけでも聞いて欲しい。

"If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の題名を替えて"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と皆さんに問いたい。この日本の社会が家庭をファミリーを大事にしなくなった結果なのだろうか?親が家庭で行っている彼らの子供のネグレクトや虐待が新聞やTVで報道される機会が増えて来た。心が張り裂けそうである。何も世の中の事も理解していない、そして自立も出来ていない愛くるしい子供達。この彼らの受難の時代、倒れた子供達にどうして大人達が無関心で無責任で居られるかを皆様に問いたい。何故誰も倒れた子供達に手をさしのべようとしないのか?もしかしたら、日本の社会から愛が欠落してしまったのだろうか?
"Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻く。それ故に歩く檻の中のペースを自分で刻む。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと実感する。
"Tokyo"[4]では、忙しい人生を過ごす人々と東京の姿を歌う。38年経った今でも殆ど変わっていない東京。
"Silver wheels"[5] 人間の欲望と自動車文明を痛烈に批判した曲。
"A dream line mine"[6] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
"Gavin's Woodpile" [7] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い。

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."とある。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の二つ目の理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、貴方は暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。市民の皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。そう、国家は多数の人々の構成により成り立つのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷である。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺しつつある。この世の中に住む日本の若者よ、あなたの怒りの矛先は間違っていないのか?

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017) [8]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle (窒息する) human nature and to suppress truth." [9]

「2章のポイントは: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、貴方は無言で働く感情のないロボット。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。」

参考文献等
[1] "Billboard Live TOKYO Live schedule," Bruce Cockburn,
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=calendar&date=201809&shop=1
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Tokyo", Bruce Cockburn, 1980年アルバム"Humans," https://www.youtube.com/watch?v=t76JGcMp0cM
[5] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[6] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[7] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
歌詞の中で"English River"と歌うが一企業の水銀投棄に因る河川の汚染問題の事
[8] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[9] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/191.html

[政治・選挙・NHK248] 日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.4 「欲望の行き着く果てに」
「日本の市民の皆様へ」と言う題目で2011年から断片的に本ウエブに投稿をして来た者です。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。どうか本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。

今まで直近で投稿して来た章は以下となります。
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに <== 今回分

===
3章 欲望の行き着く果てに
これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。強欲の定義は:一言で他人を押し退ける気持ちから生じる行為の総称である。

貴方はこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミの様な物。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらはヒューマニズムに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私と貴方、私と貴方がた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に、或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居る事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う学術用語がこれを説明する。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時に貴方は何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラに血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も(二週間前に再投稿を行った中で指摘しておいたIEEEの記事を参照して下さい)先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達が起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。 この不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き対地方に住む者と言う関係になろうか。2011年の核汚染において、加害者はTEPCOとその取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に食品の核汚染で遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得る欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪と今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。もしかしたら貴方は既にこの忙しい心の奴隷なのかもしれない。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこに或る国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通してと提示したい: 何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuotesとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り:"What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you will have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、貴方が必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日か貴方はそのビジョンを備えるでしょうが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニズムは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが原理主義者の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされれ、この世界を目の当たりに日々生き、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを押し通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と。この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかを貴方は思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中にも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい、何故なら - 例外はあるがほぼ - 相容れない2つの実体だからなのだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[1]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[2]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」

3章の教訓は:「己の欲望の奴隷になるな。何故か?心に悪意が生じてしまうから」である。

[1]「中学生の満州敗戦日記」今井和也著 岩波ジュニア新書
[2]「731部隊」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/694.html

[お知らせ・管理21] 2018年7月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
22. プラナリア[1] g3aDiYNpg4qDQQ 2018年8月11日 22:21:18 : ejSInxiVA2 : 6K5_h5gAljs[3]
管理人様、

読者17.さんからの御指摘通りプラナリア二重投稿をしてしまいました。ウエブの重大運営方針に違反した事申し訳ございません。今後政治板のみに投稿します。以後この様な事の無い様に気を付けます。尚上記21.のコメントは削除お願いします。

宜しく御願いします。
プラナリア

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/529.html#c22

[政治・選挙・NHK249] 日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.5 「 何処から、何処へ、何ゆえに」
「日本の市民の皆様へ」と言う題目で2011年から断片的に本ウエブに投稿をして来た者です。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。小生時代遅れのオッチャンなもので、FacebookやTwitter等のアカウントを持っていません。どうか私に代って本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。

おい、大丈夫なのか、今のままで?何が悪いのだろう?どうしてこうなってしまったのか?

何故世間の皆さんはこの問いを発しないのだろう?私が何を言いたいのかもう判るでしょう?日本の社会が病んでしまった事。会社もそうじゃないか?日本の産業界の宝と言われた半導体の会社東芝やシャープ、サンヨー等凋落を通り越して見事に没落してしまった。これも日本の社会が病んでしまった結果生じて来た問題のほんの一部なのである。その様な事も気にしないでお笑い中心のTVやLINEに夢中な日本の市民。日常の自分に、社会に問いがないから、本当の事が見えなくなってしまった。

さて、今まで直近でほぼ一週間毎に投稿して来た章は以下となります。
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに <== 今回分

===
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
この様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家はまず居まい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。こんな面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の市民の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて喧噪と欲望 対 沈黙、内省とモラルについて考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がギトギトとした欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の市民一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の帰結/結果の訳。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた原理主義者達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見ればよい。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。心が落ち着いていないのである。貴方の心は"busy monster"になってしまったか?それとも貴方自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、貴方と貴方の心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。

この章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家が本書発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。尚Google translateでは'ethos'は: the characteristic spirit of a culture, era, or community as manifested in its beliefs and aspirations... synonyms: spirit, character, atmosphere, climate, mood, feeling, tenor, essence, disposition, rationale, morality, moral code, value system, principles, standards, ethics"日本語訳:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と理解している。

最後に。悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。

4章の教訓: 「モラルも良心もない人々が政治に携わってはいけないのである。」と何故ハッキリ言わないのか?

参考文献等:
[1] 「カール ヤスパース、」 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] 「カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)」、ミネルバのフクロウ、
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] 「核兵器の歴史」、ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] Karl Jaspers, "The atom bomb and the future of man," 英語版、1961年 The University of Chicago

http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/167.html

[政治・選挙・NHK249] 日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.6 「そして全てが逆行する社会へ」
「日本の市民の皆様へ」と言う題目で2011年から断片的に本ウエブに投稿をして来た者です。このウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。貴方達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に今後続く一連の最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。小生時代遅れのオッチャンなもので、FacebookやTwitter等のアカウントを持っていません。どうか私に代って本投稿をTwitter等で拡散して下さい。心よりお願いします。

さて、今まで直近でほぼ一週間毎に投稿して来た章は以下となります。
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
5章 そして全てが逆行する社会へ <== 今回分

===
5章 そして全てが逆行する社会へ
兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の司法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。トップダウンで悪臭プンプンの邪悪なスピリッツが下々へと降り懸かって来ているではないか?おお、おぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人々をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、ビジネス上のステータスのアップデートもない。なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今彼らは自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐら。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのは群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺て見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今日本の市民の皆様は立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これは生命の滅亡を連想させる[1]。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いた電気自動車が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも原子力推進を行い、CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは前出した「日本会議の研究」を読めば理由は十分類推出来る。原因としては彼らインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々がいないと私は理解する。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。内閣府、その後ろに控える司令塔と政治家は本当に科学的なメンタリティーを持ち合わせていないのではと思える程、人類が直面する問題を捉える事が出来ていない。例えばさる8月6日の広島市での原爆の日、平和記念式典で口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に反する、核兵器禁止条約への不参加と言うこの矛盾した意思表示を見れば日本の政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。先日6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げようか?私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。貴方には圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つ貴方としてどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。貴方がアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒で神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[2]:
* 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
* 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
* 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
日本は今不可知ではあるが政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつあると思える(一番末尾のこの章の結論を読んで下さい)。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因だと私は思っている。日常の風習の色がそして世相が大きく変化しつつある訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本中の市民全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る内閣府がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する内閣府の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の市民に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアに圧力をかけている状況。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。何故なら「国はその様な事は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。使う方もレッテルを張られる方も放射脳とはよく言ったものだ。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと感心してしまう。

それでは群集行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[3] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle、Facebook、Apple等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。全てが逆行する日本の政治と、その市民の事は言わずもがな。である。

5章の結論: 「大政奉還で欧米の仲間入りに向けた自前の体制の構築を目指し、明治大正昭和の1/3を経てその体制が73年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は三流国に落ちてしまった。」

参考文献等:
[1] 「子供の亡骸を16日間も離さない母シャチの悲嘆『もう見ていられない』と研究者」、キャサリン・ハイネット、
ニューズウィーク日本版、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/16-8.php
[2] 「世俗主義、」 ウィキペディアより、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[3] 「EU一般データ保護規則」ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87

http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/199.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ、最終投稿。 第6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
2018年6月28日より「日本の市民の皆様へ、最終投稿」と題して「1章 破壊されてしまった三権分立の原則」から2018年8月13日の投稿「5章 そして全てが逆行する社会へ」を阿修羅の選挙板に投稿させて頂いております[1]。最後の投稿から随分と間が空いてしまいましたが、以下6章と7章を続けて投稿します。

1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
5章 そして全てが逆行する社会へ
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事 <== 今回分
7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と

この第6章は2011年11月より始めた一連の投稿の中で多分最も重要な章の1つだと思う。もう一つ重要な章を選んだとすると、それは原発板に2012年1月12日に投稿した「日本の市民の皆様へ-その2」の第8章 「眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)」[2]である。言葉を通じてしかこの世界を観ようとしない人々の思考と習慣を話題とした。この章と併せてお読み下さい。それは以下述べる様にスローガンに表せられたイデオロギーを通して見る世界と言葉を用いずにこの世界を観る事の違いである。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが文明の中の文化を利用した自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。
===
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[3](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[4] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[5]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[6]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るのであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達は、そこからやって来る、その正反対の不便さ即ち環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまった。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第4章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「 何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本投稿第三章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセス。頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快なら相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しきEthosの現象(「4章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性さをも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善のEthos或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[7][8]歌詞は[9]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは4章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのである。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。しかし私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。動物と同じ様、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だがとても不思議なのだが、誰一人として日本の社会でのイデオロギーに基づいた祀り事が、日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第一章 「破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により彼らが理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の'Ethos'例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人間を中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。色々と考え倦ねていた事が見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[10] Aha!である。原理主義者の実体が見えた。戦前の人々の様相。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する彼らなら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さい生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上は言葉が発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行くのか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸にとるとそれは何と短い横軸の時間の期間なのか。横軸方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本と言う社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる'Ethos'としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中に子供を守らず、子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?(次章最後の部分[一連の投稿の最後にあたり]参照の事)。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまっているのだろうか?

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実がある。そこで、日本の政府の従業員の皆様へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は駄目になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

6章での問いと独白:「生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?ground ruleに関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。原理主義者と呼ばれても仕方がないのである。」

参考文献等
[1] 阿修羅のwebより拙稿「日本の市民の皆様へ」シリーズのサーチ、 https://www.google.co.jp/search?as_occt=any&as_sitesearch=www.asyura2.com&num=100&as_q=%93%FA%96%7B%82%CC%8Es%96%AF%82%CC%8AF%97l%82%D6&btnG=%8C%9F%8D%F5&gws_rd=ssl
[2] 「日本の市民の皆様へ-その2, 」 阿修羅, http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[3] 「マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[4] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
"Max Picard Quotes," "AZ QUOTES"ウエブサイトより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[5] 「イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[6]「座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[7] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[8] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[9] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[10] 梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/120.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ、最終投稿。7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
この章が2011年から断続的にこのウエブサイトに投稿して来た一連の文章の最後となります。この3月中に過去に投稿して来たものを多分原発板に2つ、残りを政治板に投稿します。機会があったら目を通してみて下さい。
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7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
少し前につれ合いとたわい無ない話をしていた。「平成生まれの若者は駄目だね。このままじゃ日本は駄目になる。こんな平成に誰がした!」彼女曰く「天皇皇后両陛下は素晴らしい人なのにね。」こんな感じだっただろうか。あなた自身「こんな平成に誰がした?」と自問する機会がこの30余年にあったのか?

簡単さ。こんな平成にしてしまった面々と、その連中を支持したりしていたからだし、「国政、我関せず。」選挙によってこの様な面々を排除しなかった行為と言う結果に今泣いている訳である。もっとも平成生まれの若者をオペレータにしてしまったのは昭和生まれの我々の責任でもあるが。平成の若者の気質を造り上げて来た我々も反省しなければならない。何故なら、何も考えない何も表現しない何事にも無関心なオペレータをゆとり教育を通じて創って行ったからである。すまぬ。だがもうすぐ平成と言う激動の時代が閉じる。平成の終わりに当り、原理主義者と言う悪魔の様な怪物、八つもの頭を持つヤマタのオロチの様な勢力をこの元号の時代に封印閉じ込めておく方策を考え始めなければ。何と言っても希望を持って新しい元号を迎えないとこれから産まれて来る子供達の人生明るく始まらぬ。

以前の投稿で何回も言及しているが、「行為とその帰結」とは簡単に言うと: 或る行為を行った後にその結果として何かが起こると言う事。そしてそれはその結果の帰結の責任を伴う因果関係と言われる物の理。その責任を子供すら理解する自明の理なのだが現在の社会で多忙な生活と喧噪故にこの事実を心に留めておく事を我々大人は忘れてしまっている。例えば、将来において灼熱の太陽の下地球の温暖化に何ら行動を採らなかったと後悔しても、もう時既に遅し。と言う未来に起こりえる結果を、予見している時点で何を行うべきなのかと言う純粋に未来を見据えた行為が出来るかどうかの勇気('ethos')の「もと」を産み出す作業を個人個人そして社会全体で出来るかどうか、なのである。温暖化の問題は日本全体が世界全体がやらなければならない。将来悔恨の情を持って大泣きしたとしても時既に遅しなのである。この「行為とその帰結」において、ネガティブな見方からすると: 人間の物欲強欲とその帰結。軍国主義とその帰結。原発推進とその帰結。人権抑圧とその帰結。独裁政治とその帰結。原理主義に基づいた政治とその帰結。原子化した個人とオバカな人間の量産と、その帰結。一方ポジティブな見方からすると - 平和を謳う憲法の制定と国家の繁栄と言う帰結。愛と言う行為とその帰結としての新たな生命の誕生等。だが国力の衰えを目の当たりにし、皆個人個人日本が直面する「行為とその帰結」をどの様に肌で感じているのだろうか?

日本の女性市民の皆さん!「ああ、このままでは駄目だ」と言う感触、予感と不安が心の中に生ずる事が日常的にきっとある筈だ。色々な事に対し怒っているはずだ。その頻度は個人に由るだろう。暗くて孤独なここからの、出口の無い生活の閉塞感ではないか?このどうしょうも出来ない事に怒っているはず。例えば、この社会で人間らしく生きる権利が如何に大事な事なのかを子育てを通して理解されていると思います。しばらく前に「保育園落ちた日本死ね」という表現がTwitterで話題になりました。でも考え方によっては日本ではその様な風潮になっちゃうよなと思うのです。何故か。自由民主党を乗っ取っている勢力にとって自分達の教義に基づいた「女性は家庭で育児をするべき」という考え方を社会に広めようとしたい訳で今の社会の方向を、女性の立場を改善せず女性に家庭で育児をさせる様にプッシュする環境に方向付け、「女性が活躍できる社会」を目指すとか何とか言って女性の支援をしているフリをしていると思わざるを得ない社会状況なのです。再度言います。この第一章で何回が述べたが原理主義者達が国政を執り行っている訳で、彼らの教義の方向に向け、全ての国政の仕組みと日本の文化、市民の間の風潮を方向付けたいのです。このイデオロギーの流れはより良い暮らし向きをしたい世間が欲する流れに逆行しているので、自分達があたかも善政を行っているかの様なフリをして国政の守護人守り神として振る舞っている訳。原理主義者である事の本性を隠しているので本心は言わないし、やっている事やろうとしている事を隠しながら日本の社会を没落させている。それこそ言っている事とやっている事が真逆の、偽りだらけな日本と言う国の頂点に居座って旗ふりを行っている面々なのである。バブルの崩壊後の社会の波長を自分達の都合の良い様に合わせ込んで来ながら社会の変革に勤しんで来た原理主義者達。非常にスマートな連中である。メディアを使って彼らの理想とする文化の波長に沿って日本のEthos(風潮)を - 例えば人格破壊やヘイトを通して社会から寛容な心と愛する心を駆逐する様な善とは真逆なEthosへと導いて国体の変革を行ってる事。その他に「何々の可能性がある」とか、「心肺停止」等の曖昧模糊とした表現を多用しストレートに事実を言い表す表現をメディアから消滅させ - 時間をかけて造り上げて来たからである。皆が皆何でストレートにものを言えない?現実を直視しない?そう!意識するしないに関わらず、原理主義者達が実践している個人の心を刺激する遠隔操作から自ら脱さなければならない時。これは即ちメディアをコントロールすると言う一つの行為。とその結果、帰結である。それは日本の市民をコントロール出来ると言う事実を見れば明かである。

幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは発言しなければ、主張しなければ、何も得られないのである。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。民主主義とは少しづつ仕組みを良くする様な努力と社会を良い方向に持って行こうとする変革の希求、即ち政治に参加する行為とその結果と言う極めて簡単な図式を見れば、民主主義は勝ち取って来なければ失われてしまう仕組みなのである。が、たゆまぬ努力の積みで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を人々は忘れてしまった。世界中の民主主義の歴史を見渡せない故にこの社会制度がどうなろうともおかまい無しと脱力してしまっている昨今である。 この勝ち取ったのではなく与えられた民主主義が今不遜で強欲な原理主義者達により完全なる破壊に向かって追い込まれて来ている。判るだろうか?この事実に気が付かない事が日本の民主主義の最大な危機の原因なのである。極めて少数の人が曲がりなりにも日本に根付いて来た民主主義を根本からひっくり返すアーキテクチャーを設計、少数の周りの賛同者、機動部隊を啓蒙しその運動の支持者をイデオロギーに熱中させ平成と言う時代にその彼らの設計図を元にこの時代を変革して来た訳。一方日本の市民が戦後民主主義を進化させる様に努力して来なかった帰結が今ここにあり、日本の市民がこの民主主義の崩壊を目撃しているのである。日本の社会の中で民主主義に対するコミットメントの重要性を子供達に学校を通して教育してこなかった結果を痛恨する人達はどれほどいるのか?殆どおるまい。

何故私が女性の市民にここにこの様に訴えるか?その理由は: 日本で政権交代が出来ないのは2つの同等な対の補完機能と言う考え方がこの社会に根付いていないから。日本に危機管理の思想が欠如するのはこの理由による。機能が同等の非常時用バックアップの機構が存在しないものだから危機に陥った時にパニックとなってしまう事。もっと大きな視点からすると - 男女の関係が補完的ではなく、主と従としてある訳で、これでは何時迄経っても男性が女性にセクハラする行為は無くならない。男性と女性が公平で平等に扱われる社会にならなければ政権交代は出来ない。が政権交代出来ないので男女間が平等にはならない。この当たり前な事を女性市民は理解して欲しい。男性が主で女性が従と言う閉鎖的教義的社会が其処まで迫っているのにも関わらず、社会全体で携帯電話を操作するオペレータを甘受。自分の生の置かれている状況に対する覚醒もなく、この八方塞がりの社会が、行き着く所まで行かないと判らない脳死状態。女性の市民の皆さんこのままで宜しいのでしょうか?

しかし今の世の中、何時から愛を表現する事の無い社会風潮となってしまったのか?男と女が素直にメスとオスとして愛情表現が出来なくなった社会。愛を尊重する社会としない社会の落差を痛感する日々。暖かい視線が溢れる社会と冷たい視線が満る社会。 今の社会の性差別や(性)暴力の不条理から己と己の子供達を守りながら、生きている女性市民。しかし期待を裏切る様に二つの真逆な社会の一方へ向かって日本全体で行進中である。この様な女性軽視の風潮。しかも女性のみならず男性をも奴隷の如くにこき使う社会制度。万人に保証された法の下の平等さえも無視されている実情。この「失われた20年」の間にいつの間にか人が人間らしく生きれる国でなくなってしまった日本。この原因を前章とこの章で長々説明して来た。今日の怒りと明日への不安が社会の風潮となってしまった。本来人々の生命の流れは希望なのであるが、それを囲い込まれて、窒息しそうな世の中。イデオロギーによって生きる権利を抑圧され、生命を軽んずる事が許される真っ暗なご時世。何時から愛を自然に表現する機会の無い社会となってしまったのか? 喧噪と言う世の風に飛ばされて愛なんて何処かへ消えてしまった。

人間が生命の流れが切り刻まれ、そして時が流れるのではなく切り刻まれもはや人は統一体としての個ではなくバラバラとなり、この世界が意味の在る物では無くなってしまった。何でこれほどまで分裂してしまったのか?時を切り刻みこの世界を切り刻み、そして世界を掘り尽くし、その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命として出て来た一人一人の人間達が、抑圧される為に殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているこの世の不条理。過酷な自然から貰い受けた苦しみならまだ判る。この過酷な体制によって造り出されてしまった不条理に対する怒りはいったい何処へ行くのだろうか。

力を持つ者達(the establishment)の欲望が国家を滅ぼしかねず、人類を、生命を死滅させかねない所まで来ているのである。あなたはこの産まれて来た世界が悪くなって行くのを黙って見ていられるのだろうか?不条理は人間が、そして人間が造り上げた組織、体制、機構、仕組みが造り出した「こと」、「もの」なのである。だから人間が造り出した悪い所は直して行く習慣を保持する事を心がけねばならない。もし大統領が首相が何かのグループの代弁者だったら政治はどの様になるか。今皆さんその帰結を目撃しているのではないか?それは社会から公正公平が消え失せてしまう政治が行われる訳。この世の不条理を根絶するために生命の意義と意味を問い続けなければなるまい。

日本のみならず世界中で脈々と続く生命の流れを邪魔し囲い込みその消滅を加速する原子化した人間達。だがその風潮に抗った人々がいた。その例を挙げよう。それを考える時何時も、表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思うのである。核兵器の使用と人類滅亡の可能性。それに抵抗する善なる'Ethos'、即ちそれは生命を守る事、子供達を守る事、生存への希求への声が、1970年代なかから1980年代なか位にヨーロッパ全土であがった。例えば核兵器が使用されるであろう最前線である西ドイツのベルリンで1983年に60万人の人々が核兵器に反対する行動を起こしている。"A 1983 nuclear weapons protest in West Berlin had about 600,000 participants."[1] この様な生命の流れを消滅させる事に抵抗する人々の心を揺さぶる運動がヨーロッパで発生した事を覚えている年配の方々もいるだろう。生命の滅びに当ってそれに全てに無関心な人々を覚醒させるethosの流れ。人類滅亡の可能性の予見を。更に続いて自由への希求を渇望する東ヨーロッパの人々と、抑圧された同胞を自由に向けて解き放つ様に努力した西ヨーロッパの人々により、1989年ベルリンの壁が打ち倒されたれた訳である。[2] 核兵器廃絶への願いを込めた行進や自由を求める行進を見れば女性の力を後押しサポートする様な男性市民の理解があったはず。生命の流れを邪魔する物は核兵器だけではないのはお判りだろう。その流れの結果として今全世界の中でEUとヨーロッパ大陸に比較的善政が敷かれているのだと想う。社会に積極的に関わり良くして行こうと言う気持ちと行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。それは地平遥か先に見えるオープンで公正な社会と言う理想へと向かって進んで行く、或は其処に辿り着きたい気持ちを駆り立てる事で成就する。ベルリンの壁を彼らが倒したと同じ様に生きている空間をゆがめ複雑化し、生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?

[一連の投稿の最後にあたり]
この投稿を私の友人達を含め、今も東日本大震災の後遺症と格闘しながら生きている方々に捧げたい。一人のお父さんとして出来る事を精一杯やったつもりだ。父として今の不条理に満ちた社会に抗う事が出来ればと思い立ち、文章を書く事位しか能が無いものだからこの阿修羅と言うウェブをお借りして2011年冬より「日本の市民の皆様へ」と言うシリーズの投稿を行って来た。この最後の一連の投稿が日本の不条理に満ちた社会を変える小さな起爆剤となる様な幸運に巡り会えたらと思っている。

本当に大事なのだが皆忘れてしまっている事がある。それは:「チャンスは前からしかやって来ない。眼を見開いてそれをその時に掴まないと。何故ならチャンスは決してあなたを追いかける事は無い」のである。再度喚起しておく。今日本の社会に蔓延するEthosは無責任無関心無気力と脱力である。それはどう言う事かと言うとサバイバルする、生きる力が無いと言う事。これは"A watching kettle never boils"と言う英語の言い回しを見れば判る。「ヤカンを見ていてもお湯なんか沸かないさ」と言う事。お湯をわかすにはヤカンを火にかけなれればならない事が判らない訳。とても簡単な事なのに。どうして皆さんこの様に他力本願になってしまったのでしょうか?原理主義者達は平成と言う時代静かにチャンスを掴んでそれを積み重ねて国体の変革を行って来たと言う事実。彼らを昭和と言う、産まれて来た所に押し返し平成と言う時代に封印する事を火急に実行し始めなければならぬ。平成の時代に「腐敗した政治が執り行われていた」と将来振り返って見られる様、民主主義勢力が決して分裂せずに原理主義を世の中から駆逐する努力続けなければならない。でもこれを成就するにはかなりの歳月必要なのである。

物欲や思想イデオロギーに強欲な面々の、強欲な面々による、強欲な面々の為の政治が行われている現代の日本。これに対してきっぱりとNoを突きつけねばなるまい。そうする為には何を行わなければならないのか?何を成すべきなのか?それは何かと言うと、「これから産まれて来る生命にとっての意味のある社会」の現実へ向かって行動する事なのである。断言しておこう。しらけているのがcoolではない。日本の社会の問題は自分の生命の流れの死活問題だと自覚して、実際に表現の自由と言う権利を実行に移す時なのです。あなたの希望への希求の願いを込めて。

「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。

参考文献等
[1] "Anti-nuclear movement," Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-nuclear_movement
[2] 「ベルリンの壁、」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/164.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ、番外編: 特定秘密保護法案について 再再投稿
原発板に以下投稿しておりましたが、政治板に再々投稿させて頂きます。
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もう2年も前に投稿した文ですが、最近心に引っ掛かる事が多く、ここに再投稿させて頂きます。(2015年11月1日再投稿)

[再投稿に際して]
先日の東京新聞電子版に、続けて特定秘密保護法に関連し2つの記事が記載されていたので大きな絵図を背景にしてこの法案の事を短く話して見たい。2つの記事は以下参照の事。
(1)特定秘密保護法が12月に完全施行
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015100902000244.html
(2)秘密保護法「完全施行」って? 職員ら「適性」チェックに時間
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015101402000122.html

さて手短にそれは: 日本には大きな政府に反対する政党の勢力が無い事だ。
政府自民党と言う表現が頻繁に(勿論民主党政権時には政府民主党とも言われたが)新聞で使われているが、この言葉はどうしてメディアに登場するのだろうか?

と言う訳で、米国の民主主義制度を比較で見てみよう。日本とは対照的に、この国では政府民主党或いは政府共和党とは全く言わない。何故なら政府は米国の連邦政府を指し2大政党のどちらかと結託する事がないからである。即ち共和また民主どちらかの政党出身の大統領と、その(今はオバマ)政権の意向を汲み内政、外交、および軍事政策のポリシーの立案と実行を行う組織である。代わって日本では内閣総理大臣と閣僚が、例えば現在の安部政権の意向を日本の政府を通して内政外交等に反映させ、即ちそれらの立案と実行を行うのが本来の姿なのである。しかし現実には日本の国政を、はたまた政権党を意のままに操る非常に大きな力を持った政府(官僚組織)が政権党との間で内閣総理大臣を懐妊させて国政を政府の意のままに操っている姿、これこそが政府自民党と言われる言葉の内容。その言葉の裏に見える事はお上に逆らうなである。何故か?現政権を消滅させる事が出来たにせよ、政府自民党が内閣の後ろに控えている現実。

何故この様な日本の議会制民主主義が骨抜きになってしまったか再度問いたい。それは米国の二大政党の内の共和党の様に、党是として大きな政府に反対する政党が存在しなかったからなのである。特定秘密保護法や、集団的自衛権などの成立を見てみると、政府の意向を汲み内閣とその政権党がそれらの立法を行うと言う、本来の姿とは真逆な僕が主人(政府が内閣)に命令する格好で政府が国政を取り仕切っている訳。小さな政府へと志向しない限り、今の政治状況はひっくり返らないのが日本の市民の皆様には判らないのだろうか?ましてや、大きな政府の問題はほったらかしで政権交代を声高に謳う政党は、また政権交代で出来上がった内閣が政府に乗っ取られる事に気が付かないであろう。

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[阿修羅の2013年11月9日からの再投稿]
このウェブサイトに以前何回か投稿させて頂いた者ですが、ひとこと言わせて頂きます。今回の上記法案のドタバタ劇を見ていると、なんだか日本の市民の全員が催眠術に懸かったかの様に、この法律案の是非の議論に気を取られてしまっていて、これから本稿で指摘する見方が何故出来ないか小生にとって少し驚きなのである。

題して機密保持の常識とは。

ところで、先日米国の連邦政府が運営予算の不足で閉鎖になったが、その時に防衛関係の連邦政府機関(国防省、中央情報局や最近盗聴で有名になったNSA等)の所在する、Baltimoreと言う市では高速道路が通勤時間かなりすいていたと言う話を聞いた。つまり政府を運用する資金が無い、とはその職員に払う給料が無いって事。よって彼らが無給で自宅待機と言う格好で運営予算が分配されるまで待つのである。

翻って日本ではこの様な事、すなわち日本の政府が予算が足らず運営できない事が起こり得るのであろうか。小生はこれが日本の7大不思議の一つかもしれないと思っている。

さて本題に入ろう。
小生の友人からの話で恐縮する… 米国人の友人が昔言っていた事がある。米国での会社の採用時に関して。採用時にまず何を行うか?それは書類にサインをする事だ。

個人と個人或いは個人と会社(組織)、また会社と会社の間における合意を行う事を第一とする社会。即ち、契約を重要視する社会では、ある書類に本人がサインする事は即ち本人が記された項目に同意しかつそれらを守る事に同意したと見なされる訳である。

その採用時に書かされる契約書類の内訳は、企業秘密の秘匿義務、性別人種に因る差別の禁止や、セクシャルハラスメントの禁止に対する同意、それに収賄の禁止等々。これらは社会通念からしてみれば守るのが当たり前の項目である。もちろんその企業の従業員が1つでもこれらの企業の倫理に反すると罰則が待っている。解雇そして訴訟が控えている訳だ。これも人から聞いた話で恐縮だが、米国大手の某PCメーカーで、或る女性から人事部へセクハラが報告された。セクハラを行った人はその場で解雇。社内規律に違反したからである。こんなに非常に簡単な論理と倫理で社会が動いているのには驚かされる。当たり前だが社会的な通念に反する事をした場合はJusticeが待っているのだ。

何故小生この様は話を持ち出してきたか?

小生は日本の政府内に知り合いを持たないのでなんとも言えないのだが、日本の政府が新たな職員を採用する場合には採用時に上に述べた様な、契約書を書きその契約に従うと言う宣誓を行っているのであろうか?小生の知る限りでは日本の会社はこの様な習慣は無い。

さて、僭越ながら日本の市民の皆様に質問させて頂く。

質問-1)もしこの答えがYesなら、どうしてこの様な特定秘密保護法案と言う法律を国会で通す必要があるのであろうか?約束を破った人や組織に対してはそのDamageに対して民事訴訟すれば済むことなのだが。
質問-2)もしこの答えがNoなら新採用の職員(現職も含まなければ意味は無い)に契約書を書かせる慣例を行使せずにこの様な法律を採択するのは本末転倒しているとは思わないのですか?この様な習慣が無いから法律を作るなんて。だったら人材の採用時に書類にサインさせる社会習慣を日本の政府が率先して根付かせたらどうなのですか? 

以上の理由から小生の頭では国会で現在進行している事が全く理解できません。一日の3分の1を過ごす会社組織の中での、常識を少し逸脱してしまった行為にブレーキをかける様にする予防策として契約書が有効なはず。まともな組織では、或る人が契約に違反した場合にJusticeの行使が自主的かつ自立的にその組織内で出来るのではないでしょうか。そうすればもしある組織内で社会通念に反する行為を行った場合に、法律が前面に出てくる頻度を下げる事が出来るでしょう?がんじがらめは皆さん一番嫌いではないですか?
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/333.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ-その3, No.1 皆さんすっかり忘れてしまった事
2011年11月からこのウエブにて幾つか東日本核汚染の事や日本の社会問題に関して投稿をして来ました、プラナリアと申します。2018年に過去の投稿を政治&選挙板で再投稿し始めて居りました。そしてつい2日程前に一番最後の原稿を書き上げて投稿しました。ここにある投稿は2012年7月に阿修羅の原発板に投稿したものです。阿修羅の中では常連では無いのと、長文で地味な投稿内容なので本投稿群を読んで頂ける方々は残念ながらせいぜい200人から多くて400人止りでした。別に小生は読んで頂く方の数を求めている訳では有りません。しかし日本の現状を良い方向に変えるのに十分な論拠を出してあなたに訴えているのですが、その発した言葉が伝えられる訳ではなく虚しく木霊の様に消えてしまうのが無念でなりません。

2011年夏に仮住まいの避難先から全面防護服で彼と彼の家族の命の流れを築き上げて来た生まれ故郷にある御先祖様の墓参りを、これからしますと私の友人が聞いた時に涙が出て来ました。核汚染を避ける為に九州に移り住んだ友人も居ります。何故この社会に平気な顔をして不条理がまかり通るのか、不思議でなりません。黙々と何事にも堪える国民性だからなのでしょうか?それとも不条理をそれとして見えないからなのでしょうか?

何度も訂正して投稿しなかった文もある上、とりとめも無く投稿を書き上げて来たので内容に一貫性が無いかと思います。又文章を書いて飯を食っている訳ではありませんので投稿内容が粗雑になっている部分もある事をここでお詫びしておきます。

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日本の市民の皆様へ-その3, No.1 皆さんすっかり忘れてしまった事

事態は私の予想を超えるスピードで急展開して来ています。国会に設置された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会が2012年7月5日に報告書を提出。その報告書の中で日本が抱える問題点なども指摘しています。現投稿の書上げ途中ですが、この機にまず前半部をその-3,No.1として投稿します。

今までの拙稿"日本の市民の皆様へ"と"日本の市民の皆様へ-その2"を読んで頂きまして有難う御座いました。[1],[2]参照の事。しかし現投稿を書き上げる中、私にはどうしても次に述べる事が見えて来ないのです。一番目は、東京電力福島第一原子力発電所から爆発的に放出された"無主物"による原子力災害の帰結が予見出来ないのです。予見したくないなら、そうしない事も可能ですが。更に二番目は、マスメディアを用い宣伝と言う方法で無意識の内に社会の平安、互助と絆の為に現災害の影響はとるに足らない、よって心の中で安全と思い込んで貰って良いのだよと、心の糸を奏でられ、或は無意識の中に原子力災害の帰結を予見する必要が無いと刷り込まれる事。"放射能みんなで気にしなければ怖くない"ですか。原子力災害の帰結を予見しようとしない方々を非難する訳ではありません。生活者が原子力災害に対する意見を表現したとたん、彼らの生活の場でのけ者にされてしまう様な予感や恐れを心の中に引き起こし、恐ろしさに心が萎縮してしまう様に仕向ける、何十年もの間皆の心に染込んだ、自分と違った意見を攻撃する習慣が導く社会の行く末が解らないのです。

残念ながらそれでもこの放射能汚染の事態は静かに進行しています。頑張れニッポンのスローガンの下。

この人々の無意識の中に織り込まれている習慣を一つの鎖とすると、ここに集団の中に属するもう一つの鎖。それらが組み合わさった二重の鎖が見えるのです。私がこれまでの投稿とこの投稿の中で言っている内容は、過去に誰かが言った事の繰り返しに過ぎない事を理解して欲しいのです。では誰かが何かを言っても、世界各地で現在進行形の格好で起こっている諸々の事態が何故改善、解決に向けて進展しないのでしょうか?これが私にとっての2つ目の鎖の正体。人口問題然り、1972年にローマクラブ(The Club of Rome)と言うThink Tankより喚起された"成長の限界"と言う問題の提起、[3]参照の事。方や日本国内では近年稀に見るほどの貧困層の増加、又今ヨーロッパでおこっている米国発の金融危機然り。特に5人に1人が国家公務員と言われるギリシャでは慢性的財政問題を過小評価或は隠蔽しながらEUに長らく席を置いて居る。ちなみにギリシャは1981年にEUに加入した古参である。この問題を先送りする事でつい最近までやり過ごして来た訳であるが、彼らの財政が検証されるに付け、国家的破産状態の隠蔽が暴露されてしまったのである。こんな記事がウエブにあった。"ギリシャ 危機公務員数削減は至難の業? 根をはるコネ社会。ギリシャの官僚組織が、その削減努力に水を差す"[4]そして[5]と[6]参照の事。あれれ、何処かの国の出来事にそっくりですね。

その様な経過でヨーロッパひいては全世界中に迷惑が懸かっている。何故こんな事がおきたのか?簡単に言えば未来を先取り=現在の散財を未来の世代に背負わせていた事に過ぎないのである。諸々の問題を先延ばし、隠蔽する手法は全世界共通の様だ。

さて、前置きが長くなった。そこで翻って日本国内に目を向けてみよう。多難な問題を根本より解決するアプローチを採りもせず又果敢に問題解決する努力もせず、何故目の前の問題を後手後手に扱い、先延ばしにするのか?答えは2つ、簡単だ。我々もそうかもしれないが、特に社会の中で特権を持つ人々の現状維持に対する強い希求。だから何も変えたくないと言う事。次に組織の中で問題に対して発言する人が居ないからである。いやいないと言うより発言を抑圧したり、排除するからである。更に悪い事には新たに生じた問題が大きく見えない。なんとかしなくちゃと言う気持ちが湧かない。よって問題解決に向けて行動する人も居ないのだ。

例えば6.5.2012に日本経済新聞のウエブにこの様な記事が記載されていた。"[FT]「本気度見えない」電機業界 日本流の再編に危うさ"では厳しい経営が続くエルピーダメモリー、ルネサスエレクトロニクス、ソニー、日立製作所、東芝など大手メーカーが直面する問題と"「技術立国」の復活"が前途多難で有る事を記している。[7]参照の事。その中で、"ゴールドマン・サックス証券のアナリスト、松橋郁夫氏は「日本企業は進退窮まる状況まで判断を先送りする」と指摘する。"とある。ここの日本企業を日本の社会とも言い換えられるのは、皆さん想像に難くないと思いますが。多難な問題を根本より解決するアプローチを採りもしないのはその会社の選択だから会社が潰れるのも善しとしよう。しかし、他人様に迷惑を掛け未来の若者におんぶにだっこする様では頂けない。民間流の甦生法で稲盛和夫氏が再建し、半国営企業の精神がこびりついた会社から全うな会社になりつつあるJAL。そして半国営企業から何も膿を出さず国有化してしまった故、会社の再建と原子力災害の復興が国民の血税で賄われるTEPCO。この違いを思い起こさせる。

もう少し大きな枠で我々が直面している問題を考えてみましょう。と言う事で本投稿の章名が決まっている所迄の目次です。でも時間の関係で1章と2章しか載せられなかった事お詫びしておきます。

1.この怒りを何処に持って行けばよいのか?
2.遺伝子プールの中から
3.Justice is not done; 社会正義が行使されない国
4.どうして貴方達は表現する人々を脅したり抑圧したりするのですか? Character Assassinationとガス抜きの間

おっとっと。全国の原子力発電所の再稼働に関してひとこと言わせてもらう。今回の原子力災害は原子力と言うギャンブルの帰結なのだ。胴元のTEPCOそして原子炉製造メーカー、土建屋、国会議員、地方の議員らは稼いでいたが。もっとも国民も少しこのギャンブルに加担していた訳だ。しかし再稼働とはこのギャンブルで大負けし国民の財産を失わせてしまったのに性懲りもなく又国民の残った財産を担保にギャンブルを続けるのと同じではないか?ギャンブル中毒者が賭け事を止められる訳が無い。市民が止めさせなければ今度こそ未来の財産もすってんてんだよ。そして3.11.11以来この日本と言う国を支配する特権階級が行使する巨悪の仕組みがまるで霧が晴れた様に白日の下、曝され始めて来たのである。そう、こんな腐り切った特権を持つ者達が欲する事、それが全国の原子力発電所の再稼働と言う"現状維持"なのである。日本の市民の眼が届かない社会の闇の部分から遠隔操作の様に影響力を行使する機会を失なってしまわない様に懸命に努力している、それが彼らの生存本能なのである。一方誰も自分の血が絶える事を避けようとするのは、生命の中に刷り込まれた本能なのだがその生存本能をも踏みにじり、市民をまるで虫けらの様に扱うこの国を動かしている闇の世界の(社会の闇に隠れ社会を自在に操作する)住人。

1.この怒りを何処に持って行けばよいのか?
読者の皆さん、3.11.11以降の原子力災害発生に依る御自身の経済的な負担或は精神的な苦痛は今現在緩和したのかと自問自答していますか?日常生活が良い方向に向かっていると思っていますか?確かに我々市民は原子力災害の被害に遭ったかどうかは物理的にはまだ見えません。でもその事の確認を怠ってはなりません。そして他の人の精神的な苦痛は貴方には見えますか?又日本を支配する人々はどれだけ、日本の市民の事を考えて、まつりごとを行っているのか、自問し凝視していますか?

3.11.11以降私は怒っていました。特に'Dogs'と言う曲を東日本の原子力災害の発生後通勤時間中繰り返し聞きながら自分の体の中に満身に怒りが込上げて来るのを止められませんでした。勿論今でも怒っています。よって時々このアルバムを聞いています。この曲はその時聞いていた音楽アルバムの中の1曲です。それはPink FloydのAnimalsと言うアルバムです。[8]参照の事。1977年英国の階級社会を構成する社会層を動物に例えて(何も言わない一般大衆を羊に、お金持ちを翼のある豚にそしてその片棒担ぎを犬に例えて)痛烈に英国の社会を批判した音楽アルバム。確かBBCから放送禁止を食らった筈。私は怒っているのです。ハラワタが煮えくり返って来るのです。と言う訳で'Dogs'の中の歌詞の一部をそれとなく"日本の市民の皆様へ"に貼付けて置きました。何故だと思いますか?以下2つの* *で囲まれている部分を投稿その-1に載せました。

Dogsよりその1部の抜粋と抄訳:
"...
A certain look in the eye and an easy smile.
*You have to be trusted by the people that you lie to,*
So that when they turn their backs on you,
You'll get the chance to put the knife in.
...."
"眼の中に映る確かなものと親しみのこもった微笑み。
貴方は嘘をつこうとする人々に信頼されなければいけないのさ。
そうする事によって彼らが貴方に背中を向けた時に
背中にナイフを突き刺す機会がやって来るんだ。" [9],[10]参照の事。

この曲を聞く度にまるで背中からバッサリと不意打ちを食らった様に不条理が降り懸かってしまった事に怒り心頭でした。そして小生は'貴方(Dogs)'とは錦の美旗、夢の原子力と言うスローガンの下、特にやりたい放題やってきた旧科学技術庁の官僚、科学者や市町村県のおさ、町役場の役人の事として思い浮かべていました。一方歌詞の中の'彼ら'とは、全国中の原子力発電所の立地場所に住む人々の事。金によりその地域の人々を分断。人々の心に付け込み心理的に操作する様な事例えば、地域の人々に善と悪と言うラベルを用い、峻別して原子力に反対する良心的な市民に反社会的と言う悪のラベルを貼付けて、発言して来た良心的市民をよってたかって皆で彼らの背中を刺す様に仕向ける、ましては小さな血縁の地域の中で身内の仲違いを引き起こさせるなど自分達のヤリタイ放題やってきたツケが今頃になって不条理な原子力災害として巡って来た。善良な市民を騙した事、そして原子力に反対する人々を陰湿にかつ容赦なく抑圧してきた訳である。お上に逆らうとどうなるか、の見せしめ。この表現する、そして発言する人々を汚いやり方で押さえ込もうとするDogsとは=二枚舌で宣伝する官僚と科学者の本当の姿を喚起させる。私自身最近は、エリート官僚とは闇社会の番犬ポチ君ではないかと思っている。又驚く事に中には自分が番犬どころか闇社会に君臨する様な官僚も居る様である。「全国民必読 新聞,テレビはビビッて報じないどじょう野田を操る"本当の総理"」と言う題目で2011年10月3日に週刊現代の中の記事がある。[11]参照の事。この事が本当なのだろうか将来が決めてくれるであろう。しかし極一部の国家公務員の方々に失礼に当るので圧倒的多数の官僚の面々をポチ君とこの投稿では呼ばない様にする。それは何故かは4章"どうして貴方達は表現する人々を脅したり抑圧したりするのですか? Character Assassinationとガス抜きの間"参照の事。

ところが現実にはエリートのDogsでさえも同じ様に、闇社会の住人に背中からナイフを刺される様な事があると判ったのです。真実は我々の想像を絶する以上の闇の中にある。ちょっと長いですが引用しておきます。[12]参照の事。

"「夕方に発表があります。あんた異動ですわ」。2004年夏の昼下がり、経済産業省の幹部官僚に電話してきた電気事業連合会(電事連)の男は信じ難いことを口にした。その時点で事務次官か官房長しか知らないはずの「人事異動表」を持っているという。「送ってあげまひょか」。官僚は、卓上のファクスに送信されてくる紙を屈辱的な思いで見つめた。

●電力辞令
 明らかな左遷。電力10社でつくる業界団体、電事連の意向による"電力辞令"だった。官僚は直前に、核燃料サイクル事業の問題点を指摘する文書の作成に関わった。「国民に知らせるべきだ」と確信しての行動だったが、業界には不都合な文書に電事連は猛反発、警告を発した。「政治家は業界の味方。パー ティー券を大量に処理してやっているから。派手に動くと痛い目に遭うぞ」
官僚は一蹴したが、自らの異動に直面し「まさかここまでの力とは。紙を渡したのは電事連の意向を受けた大臣だろう」と思った。別の官僚は「電力ににらまれると出世できない。監視しているなんて幻想で、電力が経産省を操っている」とぶちまける。" 因にこのレポートの一番上の写真を見て初めて知った。電気事業連合会は経団連会館の中に有ると記載されている。全くの驚きである。それにしても電気事業連合会が経団連を支配しているのかそれとも逆なのか私は知らない。しかし政治家は国民の代表として選ばれたのではなく、電事連の操り人形とは。日本に巣食う支配階級の闇の深さに、より一層驚いてしまうこの頃なのである。

正直この投稿にて私が言いたい事はこのオッチャンが3分15秒のYouTubeの映像にて全て言い表しています。米国のコメディアンGeorge Carlinの字幕つきの独演会が、阿修羅のウエブサイトに載っているのをたまたま見かけました。是非見て下さい。お笑いコメディアンの中にもシビアに社会問題について発言する人がいるのは羨ましい。[13],[14]参照の事。

2.遺伝子プールの中から
この章で述べる事は中学生でも判りそうな事であるが、エリート官僚にはまるで判らないとは、こちらが赤面してしまう程彼らは応用の利かない面々の様である。

このシリーズの投稿1及び2では遺伝子プールと言う言葉を説明無しで用いておりました。遅ればせながら此処でその事を説明します。生物学又は文化人類学上用いられる言葉、遺伝子プールと言う学術用語が在る。この概念は例えば日本の遺伝子プールとは日本に住んでいる人々の遺伝子を視点とし、人間と言う入れ物を除外し1つのプールの中にある遺伝子の集合体を学術的に捉えた物である。[15]を参照の事。簡単には何千年もの間先祖代々より脈絡と受け継いで来た私達の中に流れる個別の血の糸。日本の遺伝子プールは日本と言う場、今と言う時にそれぞれ存在する糸の最終端の集合として捉える事ができよう。糸の最終端は貴方自身かもしれない。しかし十中八九貴方は糸の最終端ではない。今現在血の最終端である、遺伝子プールの事もつゆ知らない貴方の子供孫或は曾孫が、これから成長し彼らの血の糸を紡いで行くのは周知の事だ。

3.11.11以降日本中枢の国家公務員、地方の公務員或は、地方都市の議会議員、国会議員達が自分の子供達を外国に避難させていたとか言う噂が在りました。また経済的に余裕が有っても無くても子供達を兎に角外国へ留学させて居る方々もいらっしゃると思います。自分の子供を守りたいと言う気持ちは判ります。

しかし遺伝子プールの中から見ると、或る特定の遺伝子を放射能に曝さないと言う行為は長期的には余り意味が無い事なのです。参照の文献[15]にこの様な記述があります。"...その配偶子が受精することは、両親からの遺伝子が組み合わさって個体をつくりあげ、配偶子の遺伝子を遺伝子プールに戻すことになる。" 厳しい事実ですがしっかり直視せねばなりません。

つまり、遺伝子プールの水の中から1滴の粒として遺伝子が跳ね上がって外国に避難していても、その1滴が将来放射能で汚染される可能性大の遺伝子プールの中に又落ちて戻って来たとします。そしてメスとオスが生殖行為を通して、遺伝子を次世代に継承させる事に拠り、悲しくも又この遺伝子プールの中に居続けるしかないのです。留学などで放射能を短期的に避ける事は出来ますが、もっともっと大事な、実行しなければならない事が有るのです。遺伝子プールの中から長期的に物事を見ると:生殖能力をこれから行使しようとする子供達に放射能を曝してしまう事を避ける様に努力しなければならないのが判らないのでしょうか?

市民の皆さん、気が付いて下さい。遺伝子プールに巨大な人口放射能と言う津波が襲いかかったのです。そして現在食物連鎖を通して汚染された食べ物を家庭の食卓上から出来るだけ排除する様努力する人々、とりわけ幼い子供を日常的に放射能の内部被曝から守る事の為に努力する人々に、その行為が放射能に敏感に反応しすぎるとして爪弾きにする。又彼らの周囲から後ろ指しそして地域の中で区別、のけ者にされている人達がいます。そしてその防御の努力を見下し彼らを神経質な変わり者として差別する立場の人々。貴方は遅かれ早かれ内部被曝に拠る放射線で、見下した人達即ち放射能防御した人達の子供の遺伝子に比べて貴方の子供の遺伝子は放射線の影響で少し余分に傷が付きます。この意味が判りますか?程度の差はあれ、放射能に曝される頻度とその量に比例して、将来にガンに生り易いと言う家系と成ってしまい貴方の子孫が差別されてしまう可能性が生じると言う事です。

この問題は日本の将来を左右する非常に重要な問題なの事です。国民全体で議論し行動しなければなりません。遺伝子プールがひとたび汚れてしまったら、非常に大きな日本の国難となってしまうと言う事実に対し、政治家も官僚もいい加減目を覚ませ。自分の子供も大事だろうが、日本全体を見回してみて日本の全市民のまだ見ぬ孫、曾孫の事まで大きく心の眼を開いてこの事を予防出来ないのだろうか?同胞愛なんてないのかな〜。

既に何度も申し上げましたが、まず放射能高汚染地域からの市民の撤退撤収を行わなければならないと思います。更に日本の遺伝子プールを健全に保つにはどうすれば良いのかと考えるのが論理的な流れなのですが。日本国自身が何も原子力災害に対する抜本的な対策していないからなのでしょうか。市民の撤退も行なわず、放射能付き瓦礫の焼却を全国で進める事。本当に愚かな事です。本当に投げやりです。論理も何もあったものではありません。この様な杜撰極まりないことがまかり通っている。

再度言います。こんな簡単な事が何故判らないのでしょうか?全国の地方自治体に放射能のこびりついた瓦礫の焼却を半ば強制する様な行為は、お金を無駄に浪費して遺伝子プールの中に放射能汚染を拡散するだけなのです。"無主物"がこびり付く瓦礫を全国の自治体で焼却させようとしている面々は瓦礫燃却と言う行為が日本の遺伝子プールを無益に傷付けると言う事を知っていて各自治体に圧力をかけているのであったなら、明らかにこれは未必の故意と言う犯罪を犯している事になります。

私はここで単に絆と言うスローガンを掲げて将来の日本の遺伝子プールを穢す事の帰結を思いめぐらせるだけですが、環境省官僚の面々はこの行為を通して日本の支配者層への帰属意識を示し、地方自治体を中央権力の意図のまま操り、その闇社会の支配者に捧げる忠誠度に自分達が満足しているだけなのでしょうか?又地方自治体のおさ達は東京霞ヶ関中央からの命令をしっぽを縮めて服従、聞いているポチ君なのでしょうか?本当に人間の面をした悪魔の様な面々です。日本の遺伝子プールの中で、放射能汚染してしまっている食べ物を涙を流しながら地産地消している東北関東中部地方の人々、手抜き検査ですり抜けた放射能汚染している食品を全国の子供達が食べているが判らないのでしょうか?

食物連鎖の中の放射能汚染の拡散はまだ止まっていません。これから人間の生の時間スケールから見ればほとんど永遠と言う長さでこの原子力災害の放射能汚染は続きます。我々は(正確に言えば我々の子孫は)遺伝子プールの中から見れば運命共同体なのです。

3. Justice is not done; 社会正義が行使されない国
この章は日本国で社会正義が行使されてない事実を隠そうと懸命に努力している特権階級の事をお話したい。それ故に彼らは今回の原子力災害を通して日本国民を精神的にも経済的にも苦しめている人達だと思えてくる。

まず"Justice is done"と言う言葉の定義をチェックしよう。しかし残念ながら日本の現状を見ると今現在そこへも辿り着いていないのである。言葉の説明はWikipediaの"Retributive justice"(因果応報とでも訳すべきか)を参照して頂きたい。[16]参照の事。
".... Kant regards punishment as a matter of justice, and it must be carried out by the state for the sake of the law, not for the sake of the criminal or the victim. He argues that if the guilty are not punished, justice is not done. [4] Further, if justice is not done, then the idea of law itself is undermined."

抄訳すると、"哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである。" 行き着く所、国会であろうが検察であろうが警視庁であろうが福島県警であろうがTEPCOが罪を犯したかどうかの検証も行っていないのである。

続く....

[参考文献等]
[1] "日本の市民の皆様へ"、阿修羅のウエブサイトの 原発・フッ素18より
http://www.asyura2.com/11/genpatu18/msg/185.html
[2] "日本の市民の皆様へ-その2"、阿修羅のウエブサイトの 原発・フッ素18より
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[3] "The Limits to Growth" ウィキペディアより
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Limits_to_Growth
[4] "ギリシャ 危機公務員数削減は至難の業? 根をはるコネ社会。ギリシャの官僚組織が、その削減努力に水を差す," 2011-10-18、Step by Stepのウエブサイトより
http://blog.goo.ne.jp/babinchom/e/ca7dbfb37e7a695ba434a17ce93893f5
[5] "欧州連合加盟国" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E5%9B%BD
[6] "ギリシャはなぜEUに加盟できたのでしょうか" 質問・疑問に答えるQ&AサイトOctaveより
http://okwave.jp/qa/q7096070.html
[7] "[FT]「本気度見えない」電機業界 日本流の再編に危うさ" 日本経済新聞のウエブより
http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASGV05002_V00C12A6000000&uah=DF150220104320
[8] アニマルズ (アルバム) Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BA_%28%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Pink_Floyd
[9] PINK-FLOYD-LYICS.COMのウエブサイトより。
*Animalsの中の曲の一覧
Pigs on the Wing (Part One)
Dogs
Pigs (Three Different Ones)
Sheep
Pigs on the Wing (Part Two)
http://www.pink-floyd-lyrics.com/html/animals-lyrics.html
[10] Pink Floyd - Dogs - Animals (FULL),YouTubeより
http://www.youtube.com/watch?v=0bqZFp7dWbg&feature=related
[11] "全国民必読 新聞,テレビはビビッて報じないどじょう野田を操る'本当の総理'勝栄二郎の正体"
永田町ディープスロート 現代ビジネス 講談社のウエブサイトより
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/21453
[12] "日本を創る。連載企画原発編、原発と国家 Vol.2官界への影響力行使"、47newsのウエブサイトより
http://www.47news.jp/47topics/tsukuru/article/post_35.html
[13] "アメリカ資本主義社会の正体" 阿修羅のウエブサイトより
投稿の一番最後に載っている"この国の所有者 - ジョージ・カーリン"
http://www.asyura2.com/12/warb9/msg/334.html
[14] George Carlin "American Owners and Education" YouTubeより
使用している言葉はかなり下品な言葉を使用していますので、中学生以下の方にはお勧めできません。
http://www.youtube.com/watch?v=4jQT7_rVxAE
http://www.youtube.com/watch?v=dydPKOpontA&feature=player_embedded
[15] "遺伝子プール" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB
[16] Retributive Justice, Wikipediaより
http://en.wikipedia.org/wiki/Retributive_justice
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/355.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常 再投稿
皆様、過去2011年から「日本の市民の皆様へ」と題して合計6つの投稿を行って来たプラナリアと申します。今回は投稿5番目を再投稿します。以下過去の投稿リストです。この期間の間中、誰が実際に日本の社会を動かしているのか色々と考えて居りました。ですから一連の投稿の内容もこの問いに対し一貫性のない記述が在るかも知れません。ですが2018年から2019年を通して投稿していた最終回の文章には自分なりに納得行く結論が出たと思っております。少し訂正して今週位に再投稿しますので宜しく御願いします。

[投稿No.1]
日本の市民の皆様へ
投稿者 プラナリア 日時 2011 年 11 月 04 日
http://www.asyura2.com/11/genpatu18/msg/185.html
[投稿No.2]
日本の市民の皆様へ-その2
投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[投稿No.3]
日本の市民の皆様へ-その3, No.1
投稿者 プラナリア 日時 2012 年 7 月 08 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/457.html
[投稿No.4]
日本の市民の皆様へ、番外編: 特定秘密保護法案について
投稿者 プラナリア 日時 2013 年 11 月 09 日
http://www.asyura2.com/13/senkyo156/msg/153.html
[投稿No.5]
日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常
投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日
http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
===
日本の市民の皆様へ-最終回, No.1
副題:日本の市民が直面している日常

今回の投稿は特に女性市民の皆様に読んで頂けたらと思います。市民に迷惑をかける事の多い男性のタテ社会を引き倒す事が出来るのは女性しかいないと思うからです。

始めに。皆さんに単刀直入に伺おう。日本と言う国家は誰が運営していると実感しているか?

此処に一文を記載しよう。
"日本市民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸市民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が市民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、市民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は市民に由来し、その権力は市民の代表者がこれを行使し、その福利は市民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本市民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸市民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の市民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本市民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。"

この投稿を読んでいる皆さん、今後国民と言う名称を使うのを一切止めて市民という言葉を用いて頂けないだろうか?と言う事で、誠に僭越ながらWikipediaから引用した上記の日本国憲法の前文中で、"国民"を"市民"に書き換えた。[1]。明確にこの一文で国、政府、国会と市民の関係が定義されている。特に最後の一文は21世紀に生きる我々市民が如何に自己推進能力を失っているのかを喚起していないか、自分の心に問うて欲しい。更にもう一つ言葉の使い方の変更を御願いする。"国"と言う言葉が使われている文脈或は会話の中で"政府"と言う語で置き換えられるのであったらその様にして欲しい。例えば国の方針と言う言葉を政府の方針と言い換えてみれば数々の"国の方針"は市民不在の上に誰が何をやって来たかが良く判る。本来は議会制民主主義の中で国政を司って来なければならない筈だが、政府主導の元で(言い換えれば民意を代表しない)政治家と国会が国政を取り仕切っている訳なのである。この現状を追認するかの様な、政府の実態をより権威付ける習慣が何十年も前から新聞等のメディアを通して使われている。もういい加減、この習慣を止めようではないか。

次回からの投稿の目次は内容の変更が無い限り、逐次この様な感じになります。この最終投稿の一連の流れは大まかに言って、大きな政府が支配する国家とその社会に住む市民となろうか。尚、この投稿を書き終わるまで少し時間が必要となる事、御了承下さい。

[目次]
1. 政府とは何か。米国流の見方。そして日本の仕組みと、最近の出来事
2. 日本の市民が直面している日常
2.1. ユニークさを否定する社会とSelf-propelled:自己推進力を持った市民達の事
2.2. どうして貴方達は表現する人々を脅したり抑圧したりするのですか?
2.3. Uniquenessとは何か。ユニークな人間として産まれて来て
2.4. オペレータとしての人間。皆が皆何も言わない。或いは皆が皆同じ事を言う事
3. テクノロジーの行き詰まりと、天気と言う能天気
4. I told you so. それ見た事か
5. どこからどこへ何ゆえに
6. 表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思う
[あとがき]

1. 政府とは何か。米国流の見方。そして日本の仕組みと、最近の出来事
英訳は"The Government"である。さて2013年の秋だが、米国連邦政府が閉鎖された事を覚えている方も多いと思う。米国では連邦政府を運営する予算が枯渇した時には政府の事業と窓口は閉鎖される。凄く明確な関係ではないか。その辺の所はこのウェブに投稿した"市民の皆様へ-番外編"[2]にて書いておいた。米国連邦政府の翌年度の予算配分は大統領と議会の合意のもと行われる。議会が大統領の政府予算案を拒否すれば政府を運営する予算がなくなってしまうのである。

さて政府とは何かを単刀直入に説明する米国の小説がある。"Who is John Galt"と言う文句で始まるAyn Randの"Atlas Shrugged"と言う1957年に出版された本[3]。内容は:イノベーションを行う市民達と、そして彼らの富を略奪する者達とのせめぎ合いの話。イノベーションを行う市民が、彼らの生産する場より、政府に自由と知性を奪われるのならと、財産をそこへ残して次から次へこつ然と姿を消して行く話が中心になっている。簡単に言えば民間企業とこれを国有化する政府の相容れない利害関係と対立を描いている。作者はロシアで産まれ、旧ソビエト連邦から米国に移民してきた人なので、本の粗筋は彼女の経験に基づいていると思う。因にこの本は米国の共和党の指針の書。一言で言えば"大きな政府は悪"と言うポリシー。即ちそれは、政府が大きくなればなる程権力を己の手の中に収めるのが組織としての自然な欲望と言う訳。つまり、政府は規制と言う形で企業の健全な経済活動に足かせをはめ、その一方で市民に課する制約を増大させて両方を取り締る事-己の仕事の増殖-を狙っている訳。その上肥大化した政府を運営するために重税が必然となる。これらに一貫して反対するのが米国の共和党のポリシー。だから共和党員は大きな政府を指向する米国の民主党が嫌いなのである。ここに米国の保守本流のレーガン元大統領の言葉を引用しよう。今、世界中を見渡してるが良い。彼の言葉が如何に真実であるかが理解出来るであろう。この文に政府と市民の関係が明確に述べられていないか。
"Man is not free unless government is limited. There's a clear cause and effect here that is as neat and predictable as a law of physics: As government expands, liberty contracts. " 政府が制約されない限り人は自由にはなれない。ここには明白な理由と作用があり、それは物理法則の様にはっきり予測できるのである:政府が大きくなるにつれて自由は制約される。"

一方、民主党支持者は、共和党は強欲な企業寄りの政党と嫌っている。何故なら強欲な企業は悪さをするから。以上が私の知る範囲での米国市民の政府の解釈。つまり、米国では政府と民間は対立する関係といわれてるが、翻って日本の仕組み:日本の政府と民間企業の関係はどうなのだろうか?この辺の実態を私は詳しく調べていないので仔細は知らないが、実際日本では、政府主導で民間企業が"お上"の言う事を聞く様な格好で二者が癒着しているのは周知の事実ではないか。作家の落合信彦氏が日本の官僚組織を幾多の本で批判しているが以下の彼の言葉は日本の社会に根づく風潮を良く捉えている。彼の著書の"日本村のメルトダウン"の一章の題名が「官僚は"お上"ではない、"召使い"であり国民の"従業員"だ!」とある。まったく同感なのだが、彼らにとってはそんな事は馬耳東風。

政府が日本の人口に見合った大きさになれば、彼らの仕事の効率も上がるし小回りのきく政策運営の結果故国が栄えるのではないか。しかし残念ながら、日本では米国の共和党の様に公然と"小さな政府"を政策に標榜する政党は存在しない。地方の行政機関も同様"お役所仕事"が蔓延している事態は言うまでもない。右肩上がりの成長もうたかたの夢の如くに消え、産業も空洞化してしまっている状態で、本来消費税の増税に頼らない歳入の拡大と政府(とその権限)の縮小とによる歳出の縮小を行わなければならない筈だ。この高齢化と人口減少そしてGDPの縮小の時勢に、大きな政府は時代逆行の典型である事を誰も指摘しないのは不思議である。小泉元首相が政府従業員の為の国政に反対の旗を振っていた時代は何処へ行ったのか?

さてここに肥大化した政府が国政に及ぼす影響力が良く判るウェブ記事がある。この中に政府の従業員の方々が首相よりも力が上である事を見せつける記載がある。ああやっぱりと感じる。ここに三位一体となった組織集合体(政府と経団連に代表される企業、そして彼らの政党)が日本の首相を選んでいる構図が見えて来ないか?その一方彼らが如何に日本の市民を見ているのかも興味深い。掲載が3年程前の2011年なので申し訳ない。現代ビジネス、経済の死角 "この国のあり方を考える 天下人・勝栄二郎(財務省の王)はこうして伝説になった"より引用させて頂きます。政府従業員がこんなにエリート意識丸出しとは初めて知りました。
"「勝さんに国民に仕える意識があるかって?あるわけないじゃない、そんなもの。だって、国民は基本的にバカなんだから。牧場の子羊のように、ボクたちが正しく導いてあげなきゃいけない(投稿者注:市民が自己推進出来ていないからこうなる)。
 消費税を上げなかったら財政は破綻します。国民はよくわかってないかもしれませんが、ボクたちの仕事は『おカネの管理』『国家の家計簿をつけること』ですから。税収を増やすためには消費税アップ、それが正しいことだというのは、すべての財務政府職員のDNAにすり込まれています。
勝さんのことを、『いつから総理大臣になったんだ』と批判する人がいますが、総理大臣になったんじゃなくて、野田総理より勝さんのほうが偉いんです。だって、野田民主党というおんぼろな御輿を担いで、最終的には消費増税を実現しちゃったんですよ。それは奇跡のようなこと。....」"[4] 今この日本を見ると、日本の市民の選択に基づいた政権と言う実体が、そもそも政府から独立た存在であったのかと思えてくる。この政府従業員達は権威がある政府と強い産業界が国力を代表するパラメータだと思っているのだろう。そして3.11以降特に顕著になって来た国力の衰退を回避する様に国力=武力、軍事大国一直線の様である。国力=人の力と言う考え方が出来ない様な面々が国を取り仕切っていると直感すれば、今日本という国が長い歴史の中できわめて大きな曲がり角に経っている事が判ると思う。国力の向上とは、人の力、市民の力である。との考え方は上記の例を引くまでもなく、政府にとって己の力を制限される為に相容れない見方なのである。今の日本では肥大化した政府と強欲な企業がタッグを組んで日本の市民に有無を言わさず現状を受け入れる様にしているのではないか?

つまる処、ここ数年の間に日本国憲法前文の理想とは全くかけ離れた時代に突入している事に日本の市民が気が付かないのである。日本政府の職員の、日本政府の職員による、日本政府の職員の為の国家の運営と言える程、物凄い勢いで特定秘密保護法や憲法解釈の変更等の法律制定が加速している事態が白日の下に晒される事になった訳。簡単に言えば、現代まで日本国憲法の前文とは全くかけ離れた国政が施され続けて来た訳。即ち内閣は政府と経団連内の企業に囲い込まれ、そして政治家達が、政党が、はたまた国会が彼らの虜となってしまったのである。日本の政府職員、従業員達が考えた筋書き通りに内閣の閣僚は口をパクパク動かして彼らが書き上げた原稿を読む操り人形に堕しているのである。言い換えれば主流の政治家が市民の代表ではなく政府と経団連の代表となっているのである。経団連に属する強欲な企業等は利益の事しか眼に入らないし、政府の従業員は自己保身と組織の勢力拡大の事しか考えない面々だ。だから国政を方向付けできる政治家を自分の側の虜にする。奪われた政治家寝返った政治家と言う訳。簡単に言えば政党と政治家が、己の信念、理想を持たずに国政を政府から下請けしている訳。その上三位一体の勢力が既成事実を積み上げて行くやり方で国政を憲法の前文から乖離させる手法に反対し、抵抗すべく自由の希求を表現する市民に対する抑圧をエスカレート-例えば政府へのご機嫌伺いに聞こえてしまうが、国会前で行われているデモを規制したい意向が垣間見える政治家の発言等-している様にさえ見えるのである。

では日本の政府の従業員はこの国を何処へ持って行こうとしているのか?そして彼らは日本と言う国家を何故この様な方向に導いているのかを考えてみたい。その答えは意外と簡単だと思う。

それは即ち市民の眼を国外に向けさせ、強権的企てで恐怖を心に植え付け、その結果日本の市民を政府に従順に従わせれば日本を支配する機能を失わずにすむ訳で、彼ら政府従業員にとっては万々歳なのである。即ち、対外的に日本の隣国と対立し、対内的には日本の市民を抑圧するハリネズミ国家を目指している。ハリネズミは外敵から身を守るためあのような針だらけの体になっているのだが、彼ら政府従業員は日本の市民がどうやら敵に見える様である。そして日本と言う国と日本の市民社会を此処まで没落させてしまった事の責任をウヤムヤにし、回避する為だと個人的には考える。例えて言えば、ある会社が傾いた時に会社で働く貴方はその責任を現経営陣に問うでしようか?もちろん答えはイエスだと思いますが。今の日本では、例えば将来的に非常に重い枷となって日本の成長を阻害する現在進行形の太平洋の核汚染をおこしてしまった旧科学技術庁や通産省の従業員の過失責任も政府の中の仲間、検察省と裁判所によって不問にされるのが予見される。我々市民は政府に"これから市民の皆さん、今までの経営陣の下でもっともっと働いて、会社再建を頑張りましょう"と言われているに等しいのである。

更に付け加えれば、現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。特定秘密保護法と言い憲法解釈の変更と言い、政府の履行する一連の流れのタガにもならない国会の存在をも軽視した、国政を闇の奥から操る、政府のトップのやりたい放題の暴走ではないかと思う。彼らは国のバックボーンたる憲法の解釈を変更し日本の死の商人に商売をさせ国を栄えさせるやり方で日本と言う国を再生させる様に図っていると思える。

では、我々日本の市民が今一番簡単に出来る自己表現と自己推進能力の遂行は何なのかを読者に問いたい。

それはこの国の理想を掲げた良識である日本国憲法を破壊する勢力に対しこれを守る盾と剣になれる人達、なる意志を持つ人達を地方の、そして県のレベル、国政のレベルの政治の舞台に投票と言う行為で送り出す事ではないだろうか。私にはどう頭を捻っても、憲法と言うこの国のバックボーンを曲げる理由が思い付かない。そして、その次に自分達市民の武器である政治家と言う盾と剣を用いてに国政を乗っ取る、この国の頭が8つもあるヤマタノオロチの様な蛇神よりも手強いタテ社会の組織と渡り合わなければ。彼らはクビを切り落としても落としても又生えて来る様なおどろおどろしい、狡猾な仕組みの中に棲む面々。その事を十分に配慮して前に踏み出よ。

[追記] 2.2章の"どうして貴方達は表現する人々を脅したり抑圧したりするのですか? "に載せるつもりであったが、時期を失いたくないので、ここに追記させて貰う。私には以下の裁判の進捗が見えないのだが、敢てここで紹介させて貰う。

宮城県石巻市大川小の真実。"大津波で、全校児童108人の7割に当たる74人と教職員の10人が、死亡あるいは行方不明となった、学校管理下での犠牲者数としては例を見ない事故"である事を記憶されて居られる方々も多い筈[5]。犠牲者遺族が、50分もの間校庭で児童が待機した挙げ句津波に飲み込まれたと言う証言を事実として確認したいが為に事故原因の真相究明の要求を行ったが、石巻市教育委員会は遺族に対して心底から対応せず、自己保身と見受ける様な記録の改竄と思われる矛盾が情報開示資料により明らかになって来た。2013年3月10日、国家賠償法に基づく損害賠償請求権時効の前の日に"大川小遺族が「明らかに人災」と提訴 総額23億円の損害賠償請求"を石巻市と宮城県相手に起こした。[以上Diamond Online, http://diamond.jp/を参照し引用した。]このウエブで"大川小"とサーチすれば彼らの継続した取材記事が出て来る。詳しくはそちらを御覧下さい。誠に素晴らしいメディアである。遠くに見える真実に向かって手を届かせようと努力している記者達と出版社。一個人として彼らのこのたゆまぬ努力に御礼を申し上げたい。ここで言える事は、嘘は言わない。それは罪だから。でも本当の事は言わない。つまり罪にならないから、との思考が蔓延しているのである。しかし石巻市教育委員会が採った対応は:自分達に不都合な情報を隠しているから、嘘をついてでも隠し通すしかなかったからだと思えるもの。この様な自己保身の為の嘘を軽々しく口にするメンタリティーを根絶しない限り日本は良い方向に向かって前進出来ないだろう。では僭越ながら一言。事実を隠したい人達がいるのなら、対抗するしかない。あの日は石巻市は晴れていたのだと思う。大川小の写る衛星写真を入手して、児童が校庭にどれだけの時間待機していたかの事実を突き止めるのも方法の一つと思うのだが。理由は簡単。衛星写真は嘘を言わないから。

[参考文献]
[1] "日本国憲法前文," ウィキペディアより引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%89%8D%E6%96%87
[2] "日本の市民の皆様へ、番外編: 特定秘密保護法案について、" 阿修羅のウエブよりhttp://www.asyura2.com/13/senkyo156/msg/153.html
[3] "アイン・ランド," いずれもウィキペディアより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
"Ayn Rand," http://en.wikipedia.org/wiki/Ayn_Rand
"Atlas Shrugged," http://en.wikipedia.org/wiki/Atlas_Shrugged
"John Galt," http://en.wikipedia.org/wiki/John_Galt
[4]"この国のあり方を考える 天下人・勝栄二郎(財務省の王)はこうして伝説になった いつから総理になったのか 国民はバカな子羊なのか" 経済の死角"、現代ビジネスのウェブサイトより
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/32895
[5] 「間違った公文書のまま既成事実化されてしまう!」
大川小の児童遺族が“第三者委員会設置”に憤る理由
大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ"真実"〜
Diamond Onlineのウェブサイトより
http://diamond.jp/articles/print/20885

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/535.html

[政治・選挙・NHK258] 日本の市民の皆様へ-最終投稿一括編 「人間の顔を持った社会の実現に向けて何をなすべきなのか」
日本の市民の皆様へ-最終投稿一括編 「人間の顔を持った社会の実現に向けて何をなすべきなのか」
「序章」
小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。一番最後の7章構成の文章を2018年6月28日から2019年3月4日のまでの間「1章 破壊されてしまった三権分立の原則」から「7章 『こんな平成に誰がした。』 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と」を阿修羅の政治選挙板に投稿させて頂いておりました[1]。これら最後の7章に渡る投稿を世の中の不条理に対し満身の怒りを込めて書上げた。怒りだけでは明るい将来には辿り着きませんので其処の不条理からどの様に脱するか道筋を多少なりとも解明しよう、そして言葉に表す様に努力して来た。日本を被う深刻な社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、この最終の一括投稿を通して自分の心のケジメが付いたと思っております。かなりの長文なのですがあなたの心の中に光がありさえすれば、これを読み終わせる事が出来るのではと思っております。

しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?いえ、この問いは社会の事や政治に関しての事ではありません。日本に住む市民皆さんの行動様式です。

お母さんのおなかの中にいる小さな胎児がこの世に産まれて来る事を自ら選択した結果、彼らや彼女らが赤ちゃんとしてすくすくと育ち、幼稚園小学校で元気に遊ぶ様になる微笑ましい姿。しかし今は親の暖かい懐のもとで全ての子供達が健全と真直ぐに育つのが当たり前で無くなって来てしまった時代。この現代の日本が、如何に人が人間らしく生きられない世の中になってしまったとのかと言う問いこの最終投稿で発したい。その結果の必然として子供にも受難が容赦なく降り懸かって来ている昨今。どうしてこの様な殺伐とした社会風潮となってしまったのか?主な理由を二つ1章で述べてある。

ところでこれから述べる事実は日本の七不思議の一つとして数えてよい位、とても不思議でどうしても私には理解出来ません。小生が行ってきた過去の投稿や本日の投稿に記載した様な議題等を何故所謂知識人はメディアを通して発言しないのでしょうか?それともメディアから閉め出されてしまったのでしょうか?小生は単に一介の会社員です。何故私の如くの人間が平日土曜日曜自分の時間を犠牲にしてまでもこれらの投稿を書上げなければいけないのでしょうか?ごく一部の知識人の方々を除き誰も怒りの声を挙げないではないですか?何故知識人は現在日本で進行している日本の存在意義を劣化し更に破壊させてしまう(モラル的には既に破壊されてしまった)様な政治状況に対し、抗議する発言も行動もそれに伴う責任も取ろうとしないのでしょうか?本当に、本当に日本の知識人はスケールの小さいオバカ達です!何度でも言います。オバカです。想像してみて下さい。この様な民度の低くなってしまった国から来た旅行者や海外駐在の人達が今後立派な国から来た尊敬に値する市民だと現地で歓迎される事は無くなるでしょう。

おい、大丈夫なのか、今のままで?何が悪いのだろう?どうしてこうなってしまったのか?何故世間の皆さんはこの問いを発しないのだろう?私が何を言いたいのかもう判るでしょう?日本の社会が病んでしまった事。会社もそうじゃないか?ついこの間まで、日本の産業界の宝と言われた半導体の会社東芝、シャープ、サンヨー等見事に凋落を通り越して没落してしまったがこれも日本の社会が病んでしまった結果生じて来た問題のほんの一部なのである。その様な事も気にしないでお笑い中心のTVやLINEに夢中な日本の市民。日常の自分に、社会に問いがないから、本当の事が見えなくなってしまった。詳しくはこの一括投稿の一番最後を読んでみて下さい。

ところでこのウエブの読者の方々は殆ど男性だと思います。あなた達の知り合いの女性の、或は女性のお子さんお孫さんの方々に最終投稿を読んで貰える様勧めて頂けたらと思います。今の日本の社会は人口の半分を占める女性が市民として覚醒しない限り良い方向に向かうとは思えない。小生時代遅れのオッチャンなもので、FacebookやTwitter等のアカウントを持っていません。どうか本投稿をTwitter等で拡散し頂けますでしょうか?心よりお願いします。

「目次」
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
5章 そして全てが逆行する社会へ
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
7章 「こんな平成に誰がした。」行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と

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1章 破壊されてしまった三権分立の原則
最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[2]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[3]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本である。とどのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、彼らの問題を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の一つ目である。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった幾つもの疑問点が線として繋がったのである。

さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。その時その場で私は2011.3.11の影響だと思いますと答えた。何故そうなのか?それは東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。これが一番最初のステップ。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力の強欲さ故の職務放棄と業務怠慢と、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。しかしこの次が有るのである。厚生労働省、農林水産省、環境省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?放射性同位元素に汚染された食べ物を食べても健康に問題有りませんとキャンペーンを張り、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?あなたはもう私が言いたい事が予想出来るだろうか?官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、より一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それはイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民をコントロール出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。何ともおぞましい事態なのか...

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、つまり何か行為を行った結果に対してその帰結の責任を絶対にとりたくないのである。簡単に言えば行政が実行した国事の行為(嘘を含めて)に無責任で居続けたい。 その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。嘘を言い続けなければならない習性は逆に彼らの弱点となってしまう。もしこの全官僚達の弱みを握り彼らをコントロールする事が出来たのなら素晴らしいぞ!と言う訳。 皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本中の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。それ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。一度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と欲望。この欲望の行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が美しい国とは...笑止千万である。

今、行政府と内閣与党両者が歩み寄って彼らが直面する市民の怒濤の怒りと非難の声が沈静化するまでお互いに固唾を呑んで嵐が過ぎるのを待っている状態である。しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのである。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。原理主義者に同調する事で、日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事である。今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる革命が進行中なのだ。

その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けていたとしたら?持ち論答えはYesだ。この4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。日本会議の教義を信奉する或は彼らの思想に共感する若手が各官公庁の上層部に上り詰めている可能性は私はほぼ100%と踏んでいる。日本会議から各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろうし、この原理主義者に共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい日本」は彼らにとっては夢でありイデーロギー的手法で造り上げて来たユートピアになるのであろう。

さて三権の内残った一権、司法府に言及しておこう。小生の三回目の投稿の中の[4] 3章「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」にて以下記載: "哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである"とWikipediaの内容を翻訳の上指摘しておいた。非常に残念だが法務省(英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます)や検察庁のみならず、司法府が下した過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々と、自分自身の保身と出世と言う強欲の為に面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。最後に。近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が非常事態宣言を行う可能性が非常に高い。国内の混乱の期に乗じて日本の立法司法行政と言う三つのそれぞれ独立して来た権力を以下に記したイデオロギー集団の原理主義者主導のもとに独裁政権下で統括一体化した機関とするのは時間の問題の様な予感がする。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのである。

日本会議のサークル図は中心から: 原理主義者のアーキテクト=>原理主義者の核となるインナーサークル=>日本会議の会員、原理主義者の信者=>原理主義者の取り巻き、応援団、ボランティア及び奉仕者 =>原理主義者に寄り添う事で経済的に利益を受ける個人、グループ、組織、会社。特に軍事、核開発の産業組織。又経済界には日本会議の考え方に共感し支援する財界人もいると聞く。実際には既に日本の経済界はその強欲さ故原理主義者の軍門に落ちた。=>原理主義者に加護を求める官公庁。既に日本のメディアがこのサークルに組み込まれてしまっている。政権につくす三権とメディアを見れば如何にこの原理主義集団の勢力が強大なのが判る。日本のそれぞれ独立した三権が成長し続けているこのサークルに飲み込まれる日は近い。

「この1章での結論は: 彼らの教義をもとにした社会の実現を目指す活動が国の至る所で企てられているのである。」この投稿を書き上げる最中に奇しくも田中龍作ジャーナルに上記の三権分立の破壊を示す記事が記載されていた。是非参照下さい。[5]

参考文献等:
[1] 阿修羅のwebより拙稿「日本の市民の皆様へ」シリーズのサーチ、 https://www.google.co.jp/search?as_occt=any&as_sitesearch=www.asyura2.com&num=100&as_q=%93%FA%96%7B%82%CC%8Es%96%AF%82%CC%8AF%97l%82%D6&btnG=%8C%9F%8D%F5&gws_rd=ssl
[2]「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常」
投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日
http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[3]「日本会議の研究」、菅野完、2016年、扶桑社
[4]「日本の市民の皆様へ-その3, No.1」
投稿者 プラナリア 日時 2012 年 7 月 08 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/457.html
[5]「【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに」、田中龍作ジャーナル、http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

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2章 音楽は政治を批判してはならない
その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません、以下小生の音楽の嗜好が入る事お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。これは私の彼の音楽から受けた印象だが、彼の心の奥底にはキリスト教的ヒューマニズムが宿っているのではと思う。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。彼の歌に合わせた映像メッセージも以下のリンクに有るので聞いてみては如何でしょうか?[1] 特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。

* "If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の題名を替えて"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と皆さんに問いたい。この日本の社会が家庭をファミリーを大事にしなくなった結果なのだろうか?親が家庭で行っている彼らの子供のネグレクトや虐待が新聞やTVで報道される機会が増えて来た。心が張り裂けそうである。何も世の中の事も理解していない、そして自立も出来ていない愛くるしい子供達。この彼らの受難の時代、倒れた子供達にどうして大人達が無関心で無責任で居られるかを皆様に問いたい。何故誰も倒れた子供達に手をさしのべようとしないのか?もしかしたら、日本の社会から愛が欠落してしまったのだろうか?
* "Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと実感する。自然児の彼の曲の内容が人達の気持ちに届くにはどれだけ時間がかかるのか?第6章を読んでみて考えて下さい。
* "Tokyo"[4]では、忙しい人生を過ごす人々と東京の姿を歌う。39年経った今でも殆ど変わっていない東京。
* "Silver wheels"[5] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲。
* "A dream like mine"[6] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
* "Gavin's Woodpile"[7] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い。

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."とある。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の二つ目の理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。市民の皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。そう、国家は多数の人々の構成により成り立つのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷である。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺しつつある。この世の中に住む日本の若者よ、あなたの怒りの矛先は間違っていないのか?

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[8]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle (窒息する) human nature and to suppress truth."[9]

「2章のポイントは: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。」

参考文献等:
[1] "Bruce Cockburn"のウェブサイト、http://brucecockburn.com/
一番下のページの'vevo'のビデオ映像で彼の思いが伝えられている
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Tokyo", Bruce Cockburn, 1980年アルバム"Humans," https://www.youtube.com/watch?v=t76JGcMp0cM
[5] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[6] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[7] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
歌詞の中で"English River"と歌うが一企業の水銀投棄に因る河川の汚染問題の事
[8] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[9] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/

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3章 欲望の行き着く果てに
これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。強欲の定義は:一言で他人を押し退ける気持ちから生じる行為の総称である。

あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミの様な物。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらはヒューマニズムに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に、或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居る事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う学術用語がこれを説明する。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラに血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も(2012年1月に投稿した拙稿の4章「教科書の中の危機管理」の中で指摘しておいたIEEEの記事を参照して下さい[1])先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達が起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。 この不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き 対 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCOとその取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に食品の核汚染で遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得る欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪と今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。もしかしたらあなたは既にこの忙しい心の奴隷なのかもしれない。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこに或る国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通してと提示したい: 何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuotesとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り:"What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you will have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるでしょうが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニズムは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが原理主義者の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされれ、この世界を目の当たりに日々生き、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを押し通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と。この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中にも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい、何故なら - 例外はあるがほぼ - 相容れない2つの実体だからなのだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[2]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[3]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」

3章の教訓は:「己の欲望の奴隷になるな。何故か?心に悪意が生じてしまうから」である。

参考文献等
[1]「日本の市民の皆様へ-その2」投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[1]「中学生の満州敗戦日記」今井和也著 岩波ジュニア新書
[2]「731部隊」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
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4章 何処から、何処へ、何ゆえに
この様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家はまず居まい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。こんな面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の市民の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 対 「沈黙、内省とモラル」について考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がギトギトとした欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の市民一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の帰結/結果の訳。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた原理主義者達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見ればよい。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。

この章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家が本書発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚Google translateでは'ethos'は: the characteristic spirit of a culture, era, or community as manifested in its beliefs and aspirations... synonyms: spirit, character, atmosphere, climate, mood, feeling, tenor, essence, disposition, rationale, morality, moral code, value system, principles, standards, ethics"日本語訳:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と理解している。

最後に。悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。

4章の教訓: 「モラルも良心もない不遜で強欲な人々が政治に携わってはいけないのである。」と何故ハッキリ言わないのか?

参考文献等:
[1] 「カール ヤスパース、」 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] 「カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)」、ミネルバのフクロウ、
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] 「核兵器の歴史」、ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] Karl Jaspers, "The atom bomb and the future of man," 英語版、1961年 The University of Chicago
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5章 そして全てが逆行する社会へ
兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の司法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。トップダウンで悪臭プンプンの邪悪なスピリッツが下々へと降り懸かって来ているではないか?おお、おぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人々をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、ビジネス上のステータスのアップデートもない。なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今彼らは自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐら。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのは群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今日本の市民の皆様は立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これは生命の滅亡を連想させる[1]。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いた電気自動車が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも原子力推進を行い、CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは前出した「日本会議の研究」を読めば理由は十分類推出来る。原因としては彼らインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々がいないと私は理解する。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。内閣府、その後ろに控える司令塔と政治家は本当に科学的なメンタリティーを持ち合わせていないのではと思える程、人類が直面する問題を捉える事が出来ていない。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に反する、核兵器禁止条約への不参加と言うこの矛盾した意思表示を見れば日本の政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。先日6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げようか?私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたとしてどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒で神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[2]:
* 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
* 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
* 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
日本は今不可知ではあるが政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつあると思える(一番末尾のこの章の結論を読んで下さい)。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因だと私は思っている。日常の風習の色がそして世相が大きく変化しつつある訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本中の市民全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る内閣府がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する内閣府の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の市民に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアに圧力をかけている状況。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。何故なら「国はその様な事は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。使う方もレッテルを張られる方も放射脳とはよく言ったものだ。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと感心してしまう。

それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[3] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle、Facebook、Apple等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。しかし企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と島国根性の政治屋の面々。その市民の事は言わずもがな。である。

5章の結論: 「大政奉還で欧米の仲間入りに向けた自前の体制の構築を目指し、明治大正昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は三流国に落ちてしまった。」

参考文献等:
[1] 「子供の亡骸を16日間も離さない母シャチの悲嘆『もう見ていられない』と研究者」、キャサリン・ハイネット、
ニューズウィーク日本版、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/16-8.php
[2] 「世俗主義、」 ウィキペディアより、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[3] 「EU一般データ保護規則」ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87

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第6章 「前書き」
この第6章は2011年11月より始めた一連の投稿の中で多分最も重要な章の1つだと思う。もう一つ重要な章を選んだとすると、それは原発板に2012年1月12日に投稿した「日本の市民の皆様へ-その2」の第8章 「眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)」[1]である。言葉を通じてしかこの世界を観ようとしない人々の思考と習慣を話題とした。この章と併せてお読み下さい。それは以下述べる様にスローガンに表せられたイデオロギーを通して見る世界と言葉を用いずにこの世界を観る事の違いである。言葉と言うものは言葉の内容を理解しなくても使える。この在り様が溢れ返っている時代である。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが文明の中の文化を利用した自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。
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6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[2](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[3] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[4]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[5]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るのであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達は、そこからやって来る、その正反対の不便さ即ち環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまった。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第4章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「 何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本投稿第三章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセス。頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快なら相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しきEthosの現象(「4章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性さをも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善のEthos或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[6][7]歌詞は[8]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは4章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのである。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。しかし私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。動物と同じ様、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だがとても不思議なのだが、誰一人として日本の社会でのイデオロギーに基づいた祀り事が、日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第一章 「破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により彼らが理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の'Ethos'例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人間を中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。色々と考え倦ねていた事が見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[9] Aha!である。原理主義者の実体が見えた。戦前の人々の様相。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する彼らなら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さい生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸にとるとそれは何と短い横軸の時間の期間なのか。横軸方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本と言う社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる'Ethos'としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中に子供を守らず、子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?(次章最後の部分「一連の投稿の最後にあたり」参照の事)。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまっているのだろうか?

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そこで、日本の政府の従業員の皆様へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は駄目になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

6章での問いと独白:「生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?Ground ruleに関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。原理主義者と呼ばれても仕方がないのである。」

参考文献等
[1] 「日本の市民の皆様へ-その2, 」 阿修羅, http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[2] 「マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[3] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[4] 「イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[5]「座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[6] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[7] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[8] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[9] 梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html
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7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
少し前につれ合いとたわい無ない話をしていた。「平成生まれの若者は駄目だね。このままじゃ日本は駄目になる。こんな平成に誰がした!」彼女曰く「天皇皇后両陛下は素晴らしい人なのにね。」こんな感じだっただろうか。あなた自身「こんな平成に誰がした?」と自問する機会がこの30余年にあったのか?

簡単さ。こんな平成にしてしまった面々と、その連中を支持したりしていたからだし、「国政、我関せず。」選挙によってこの様な面々を排除しなかった行為と言う結果に今泣いている訳である。もっとも平成生まれの若者をオペレータにしてしまったのは昭和生まれの我々の責任でもあるが。平成の若者の気質を造り上げて来た我々も反省しなければならない。何故なら、何も考えない何も表現しない何事にも無関心なオペレータをゆとり教育を通じて創って行ったからである。すまぬ。だがもうすぐ平成と言う激動の時代が閉じる。平成の終わりに当り、原理主義者と言う悪魔の様な怪物、八つもの頭を持つヤマタのオロチの様な勢力をこの元号の時代に封印閉じ込めておく方策を考え始めなければ。何と言っても希望を持って新しい元号を迎えないとこれから産まれて来る子供達の人生明るく始まらぬ。

以前の投稿で何回も言及しているが、「行為とその帰結」とは簡単に言うと: 或る行為を行った後にその結果として何かが起こると言う事。そしてそれはその結果の帰結の責任を伴う因果関係と言われる物の理。その責任を子供すら理解する自明の理なのだが現在の社会で多忙な生活と喧噪故にこの事実を心に留めておく事を我々大人は忘れてしまっている。例えば、将来において灼熱の太陽の下地球の温暖化に何ら行動を採らなかったと後悔しても、もう時既に遅し。と言う未来に起こりえる結果を、予見している時点で何を行うべきなのかと言う純粋に未来を見据えた行為が出来るかどうかの勇気('ethos')の「もと」を産み出す作業を個人個人そして社会全体で出来るかどうか、なのである。温暖化の問題は日本全体が世界全体がやらなければならない。将来悔恨の情を持って大泣きしたとしても時既に遅しなのである。この「行為とその帰結」において、ネガティブな見方からすると: 人間の物欲強欲とその帰結。軍国主義とその帰結。原発推進とその帰結。人権抑圧とその帰結。独裁政治とその帰結。原理主義に基づいた政治とその帰結。原子化した個人とオバカな人間の量産と、その帰結。一方ポジティブな見方からすると - 平和を謳う憲法の制定と国家の繁栄と言う帰結。愛と言う行為とその帰結としての新たな生命の誕生等。だが国力の衰えを目の当たりにし、皆個人個人日本が直面する「行為とその帰結」をどの様に肌で感じているのだろうか?

日本の女性市民の皆さん!「ああ、このままでは駄目だ」と言う感触、予感と不安が心の中に生ずる事が日常的にきっとある筈だ。色々な事に対し怒っているはずだ。その頻度は個人に由るだろう。暗くて孤独なここからの、出口の無い生活の閉塞感ではないか?このどうしょうも出来ない事に怒っているはず。例えば、この社会で人間らしく生きる権利が如何に大事な事なのかを子育てを通して理解されていると思います。しばらく前に「保育園落ちた日本死ね」という表現がTwitterで話題になりました。でも考え方によっては日本ではその様な風潮になっちゃうよなと思うのです。何故か。自由民主党を乗っ取っている勢力にとって自分達の教義に基づいた「女性は家庭で育児をするべき」という考え方を社会に広めようとしたい訳で今の社会の方向を、女性の立場を改善せず女性に家庭で育児をさせる様にプッシュする環境に方向付け、「女性が活躍できる社会」を目指すとか何とか言って女性の支援をしているフリをしていると思わざるを得ない社会状況なのです。再度言います。この第一章で何回が述べたが原理主義者達が国政を執り行っている訳で、彼らの教義の方向に向け、全ての国政の仕組みと日本の文化、市民の間の風潮を方向付けたいのです。このイデオロギーの流れはより良い暮らし向きをしたい世間が欲する流れに逆行しているので、自分達があたかも善政を行っているかの様なフリをして国政の守護人守り神として振る舞っている訳。原理主義者である事の本性を隠しているので本心は言わないし、やっている事やろうとしている事を隠しながら日本の社会を没落させている。それこそ言っている事とやっている事が真逆の、偽りだらけな日本と言う国の頂点に居座って旗ふりを行っている面々なのである。バブルの崩壊後の社会の波長を自分達の都合の良い様に合わせ込んで来ながら社会の変革に勤しんで来た原理主義者達。非常にスマートな連中である。メディアを使って彼らの理想とする文化の波長に沿って日本のEthos(風潮)を - 例えば人格破壊やヘイトを通して社会から寛容な心と愛する心を駆逐する様な善とは真逆なEthosへと導いて国体の変革を行っている事。その他に「何々の可能性がある」とか、「心肺停止」等の曖昧模糊とした表現を多用しストレートに事実を言い表す表現をメディアから消滅させ - 時間をかけて造り上げて来たからである。皆が皆何でストレートにものを言えない?現実を直視しない?そう!意識するしないに関わらず、原理主義者達が実践している個人の心を刺激する遠隔操作から自ら脱さなければならない時。これは即ちメディアをコントロールすると言う一つの行為。とその結果、帰結である。それは日本の市民をコントロール出来ると言う事実を見れば明かである。

幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは発言しなければ、主張しなければ、何も得られないのである。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。民主主義とは少しづつ仕組みを良くする様な努力と社会を良い方向に持って行こうとする変革の希求、即ち政治に参加する行為とその結果と言う極めて簡単な図式を見れば、民主主義は勝ち取って来なければ失われてしまう仕組みなのである。が、たゆまぬ努力の積みで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を人々は忘れてしまった。世界中の民主主義の歴史を見渡せない故にこの社会制度がどうなろうともおかまい無しと脱力してしまっている昨今である。 この勝ち取ったのではなく与えられた民主主義が今不遜で強欲な原理主義者達により完全なる破壊に向かって追い込まれて来ている。判るだろうか?この事実に気が付かない事が日本の民主主義の最大な危機の原因なのである。極めて少数の人が曲がりなりにも日本に根付いて来た民主主義を根本からひっくり返すアーキテクチャーを設計、少数の周りの賛同者、機動部隊を啓蒙しその運動の支持者をイデオロギーに熱中させ平成と言う時代にその彼らの設計図を元にこの時代を変革して来た訳。一方日本の市民が戦後民主主義を進化させる様に努力して来なかった帰結が今ここにあり、この民主主義の崩壊を目撃しているのである。日本の社会の中で民主主義に対するコミットメントの重要性を子供達に学校を通して教育してこなかった結果を痛恨する人達はどれほどいるのか?殆どおるまい。

何故私が女性の市民にここにこの様に訴えるか?その理由は: 日本で政権交代が出来ないのは2つの同等な対の補完機能と言う考え方がこの社会に根付いていないから。日本に危機管理の思想が欠如するのはこの理由による。機能が同等の非常時用バックアップの機構が存在しないものだから危機に陥った時にパニックとなってしまう事。もっと大きな視点からすると - 男女の関係が補完的ではなく、主と従としてある訳で、これでは何時迄経っても男性が女性にセクハラする行為は無くならない。男性と女性が公平で平等に扱われる社会にならなければ政権交代は出来ない。が政権交代出来ないので男女間が平等にはならない。この当たり前な事を女性市民は理解して欲しい。男性が主で女性が従と言う閉鎖的教義的社会が其処まで迫っているのにも関わらず、社会全体で携帯電話を操作するオペレータを甘受。自分の生の置かれている状況に対する覚醒もなく、この八方塞がりの社会が、行き着く所まで行かないと判らない脳死状態。女性の市民の皆さんこのままで宜しいのでしょうか?

しかし今の世の中、何時から愛を表現する事の無い社会風潮となってしまったのか?男と女が素直にメスとオスとして愛情表現が出来なくなった社会。愛を尊重する社会としない社会の落差を痛感する日々。暖かい視線が溢れる社会と冷たい視線が満ちる社会。 今の社会の性差別や(性)暴力の不条理から己と己の子供達を守りながら、生きている女性市民。しかし期待を裏切る様に二つの真逆な社会の一方へ向かって日本全体で行進中である。この様な女性軽視の風潮。しかも女性のみならず男性をも奴隷の如くにこき使う社会制度。万人に保証された法の下の平等さえも無視されている実情。この「失われた20年」の間にいつの間にか人が人間らしく生きられる国でなくなってしまった日本。この原因を前章とこの章で長々説明して来た。今日の怒りと明日への不安が社会の風潮となってしまった。本来人々の生命の流れは希望なのであるが、それを囲い込まれて、窒息しそうな世の中。イデオロギーによって生きる権利を抑圧され、生命を軽んずる事が許される真っ暗なご時世。何時から愛を自然に表現する機会の無い社会となってしまったのか? 喧噪と言う世の風に飛ばされて愛なんて何処かへ消えてしまった。

人間が生命の流れが切り刻まれ、そして時が流れるのではなく切り刻まれもはや人は統一体としての個ではなくバラバラとなり、この世界が意味の在る物では無くなってしまった。何でこれほどまで分裂してしまったのか?時を切り刻みこの世界を切り刻み、そして世界を掘り尽くし、その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命として出て来た一人一人の人間達が、抑圧される為に殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているこの世の不条理。過酷な自然から貰い受けた苦しみならまだ判る。この過酷な体制によって造り出されてしまった不条理に対する怒りはいったい何処へ行くのだろうか。

力を持つ者達(the establishment)の欲望が国家を滅ぼしかねず、人類を、生命を死滅させかねない所まで来ているのである。あなたはこの産まれて来た世界が悪くなって行くのを黙って見ていられるのだろうか?不条理は人間が、そして人間が造り上げた組織、体制、機構、仕組みが造り出した「こと」、「もの」なのである。だから人間が造り出した悪い所は直して行く習慣を保持する事を心がけねばならない。もし大統領が首相が何かのグループの代弁者だったら政治はどの様になるか。今皆さんその帰結を目撃しているのではないか?それは社会から公正公平が消え失せてしまう政治が行われる訳。この世の不条理を根絶するために生命の意義と意味を問い続けなければなるまい。

日本のみならず世界中で脈々と続く生命の流れを邪魔し囲い込みその消滅を加速する原子化した人間達。だがその風潮に抗った人々がいた。その例を挙げよう。それを考える時何時も、表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思うのである。核兵器の使用と人類滅亡の可能性。それに抵抗する善なる'Ethos'、即ちそれは生命を守る事、子供達を守る事、生存への希求への声が、1970年代なかから1980年代なか位にヨーロッパ全土であがった。例えば核兵器が使用されるであろう最前線である西ドイツのベルリンで1983年に60万人の人々が核兵器に反対する行動を起こしている。"A 1983 nuclear weapons protest in West Berlin had about 600,000 participants."[1] この様な生命の流れを消滅させる事に抵抗する人々の心を揺さぶる運動がヨーロッパで発生した事を覚えている年配の方々もいるだろう。生命の滅びに当ってそれに全てに無関心な人々を覚醒させるethosの流れ。核戦争による人類滅亡の可能性の予見を。更に続いて自由への希求を渇望する東ヨーロッパの人々と、抑圧された同胞を自由に向けて解き放つ様に努力した西ヨーロッパの人々により、1989年ベルリンの壁が打ち倒されたれた訳である。[2],[3],[4],[5] 核兵器廃絶への願いを込めた行進や自由を求める行進を見れば女性の力を後押しサポートする様な男性市民の理解があったはず。生命の流れを邪魔する物は核兵器だけではないのはお判りだろう。その流れの結果として今全世界の中でEUとヨーロッパ大陸に比較的善政が敷かれているのだと思う。社会に積極的に関わり良くして行こうと言う気持ちと行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。それは地平遥か先に見えるオープンで公正な社会と言う理想へと向かって進んで行く、或は其処に辿り着きたい気持ちを駆り立てる事で成就する。ベルリンの壁を彼らが倒したと同じ様に生きている空間をゆがめ複雑化し、生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?

「一連の投稿の最後にあたり」
この投稿を私の友人達を含め、今も東日本大震災の後遺症と格闘しながら生きている方々に捧げたい。一人のお父さんとして出来る事を精一杯やったつもりだ。父として今の不条理に満ちた社会に抗う事が出来ればと思い立ち、文章を書く事位しか能が無いものだからこの阿修羅と言うウェブをお借りして2011年冬より「日本の市民の皆様へ」と言うシリーズの投稿を行って来た。この最後の一連の投稿が日本の不条理に満ちた社会を変える小さな起爆剤となる様な幸運に巡り会えたらと思っている。

本当に大事なのだが皆忘れてしまっている事がある。それは:「チャンスは前からしかやって来ない。眼を見開いてそれをその時に掴まないと。何故ならチャンスは決してあなたを追いかける事は無い」のである。再度喚起しておく。今日本の社会に蔓延するEthosは無責任無関心無気力と脱力である。それはどう言う事かと言うとサバイバルする、生きる力が無いと言う事。これは"A watching kettle never boils"と言う英語の言い回しを見れば判る。「ヤカンを見ていてもお湯なんか沸かないさ」と言う事。お湯をわかすにはヤカンを火にかけなれればならない事が判らない訳。とても簡単な事なのに。どうして皆さんこの様に他力本願になってしまったのでしょうか?原理主義者達は平成と言う時代静かにチャンスを掴んでそれを積み重ねて国体の変革を行って来たと言う事実。彼らを昭和と言う、産まれて来た所に押し返し平成と言う時代に封印する事を火急に実行し始めなければならぬ。平成の時代に「腐敗した政治が執り行われていた」と将来振り返って見られる様、民主主義勢力が決して分裂せずに原理主義を世の中から駆逐する努力続けなければならない。でもこれを成就するにはかなりの歳月必要なのである。

物欲や思想イデオロギーに強欲な面々の、強欲な面々による、強欲な面々の為の政治が行われている現代の日本。これに対してきっぱりとNoを突きつけねばなるまい。そうする為には何を行わなければならないのか?何を成すべきなのか?それは何かと言うと、「これから産まれて来る生命にとって意味のある社会」の現実へ向かって行動する事なのである。これは人間の顔を持った政治がなす結果と言う事。断言しておこう。しらけているのがcoolではない。日本の社会の問題は自分の生命の流れの死活問題だと自覚して、実際に表現の自由と言う権利を実行に移す時なのです。あなたの希望への希求の願いを込めて。

「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。
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しかし...しかし...それだけの覚悟では残念ながら日本の社会が開かれたものとなり、人間の顔を持つ様になるには全くと言ってよい程非力なのである。何故か?皆さん大きく見て何故かと考えてみて下さい。今までのこの一括投稿の文章を読むにつれ自分なりに日本の社会を大きく見る努力をしているかと思います。以下小生の個人的な意見とお断りしておく。

私が義務教育を受けていた時に学校で教わった事である。「昭和と言う時代の軍国主義は忌み嫌われるべき事」であった。それは軍事国家主義であり、国家主義と言う名のもとに上から下へのトップダウン手法即ち命令、懲罰、恐怖や同調圧力によって社会統制が行われている訳。がんじがらめの社会と言えよう。その国家体制「権威主義に基づいた社会」は個性を人権を抑圧し必然的に息詰まる社会となる。

「権威主義に基づいた社会」をまず社会の上層部から下層部へと見る:
* 時代をそして富を所有する強欲者達 (命を粗末に駒として使うブラック企業や国家。暗黒時代の日本を思い出して見よ)
* 社員を所有する社長
* 家族を所有する家長
* 性を所有する夫
今の日本の「権威主義に基づいた社会」においては命令の強要が上から下まで行き届く。その一部の会社も地方自治体も活気が失せ、物を言わない言えない奴隷となって人間としては死んでしまっている。持ち論責任なんて死んでいる人間なら負う必要は無い。民意を、投票を通して表さないから民意を汲み取らず無視する国体に近づいて来ている訳。

その一方「人間の顔を持った社会」を上から下まで眺めると:
* 時代を、富を共有する社会
* 社員の間で活力を共有し、その力を導き共有する社長
* 生(と時)を共有する家族
* 性を共有する夫婦
それは肥えた土に生える大きな木(国)に例えられよう。木が土を通して根っこから養分と水を吸い取って大きくなる様に、選挙を通して表された「民意」即ち「人々の意志」が下から一番上の国会迄伝わり、届く事。即ち国会が民意を汲み取りそれに耳を傾け、善政を執り行って行ける習慣と仕組み。この様な仕組みの下で木の葉っぱの隅々まで養分と水が行き渡り元気に育つ木の様に国も成長する。即ちそれが民主主義に基づいた「人間の顔を持った社会」と言う事。それはボトムアップの風通しの良い社会である。現代日本の社会情勢からこの様な社会情勢の流れへと変えようとの理想を持つ政治家がいるかもしれない。でもその様な考えかたを劇的に変えてくれ。上から下へ流れる政治の仕組みを下から上へ流れる政治の仕組みへと流れを180度逆転しなければこの希望を失った社会は変らないのである。非常に多くの市民が結集しそして志の或る政治家達と協力した上で、希望と言う風潮を地方の政治と国政に吹き込んだとしても、とても大変な時間のかかる作業なのである。まずその、上から下へと教義を伝達する政治からの決別を宣言し、180度逆転した流れを持った民意を憲章化して国政を民主主義体制に戻して行かなければならない。その過程で原理主義者は色々な手立てを用いて彼らの教義を押し通そうとするであろう事を予見しておいて欲しいものである。

再度喚起しておく。「生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?」
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参考文献等
[1] "Anti-nuclear movement," Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-nuclear_movement
[2] 「ベルリンの壁、」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
[3] "Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=snsdDb7KDkg
[4] "The fall of the Berlin Wall in 1989," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=zmRPP2WXX0U
[5] "1989: The Fall of The Berlin Wall," Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=bQOoWw6oYzY

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/778.html

[政治・選挙・NHK259] 日本の市民の皆様へ-最終投稿の再投稿 日本の政治が腐ってしまった本当の理由。人間の顔を持った社会の実現に向けて
日本の市民の皆様へ-最終投稿の再投稿 日本の政治が腐ってしまった本当の理由。人間の顔を持った社会の実現に向けて

「序章」
この3月24日に投稿した文なのですが読んで頂いた方は200名に満たないので再投稿致します。日本の政治特に国政が腐ってしまった理由とそれに対抗する方法を記させて頂きます。今選挙の真っただ中です。この腐りきった政治に一撃を与えたい!のです。5章、6章と7章だけでも読んでみて下さい。

小生2011年から本ウエブサイトで断片的に「日本の市民の皆様へ」と題し一市民が3.11以降日々直面する苦しみとその社会的な背景を記載し続けて来た者です。一番最後の7章構成の文章を2018年6月28日から2019年3月4日のまでの間「1章 破壊されてしまった三権分立の原則」から「7章 『こんな平成に誰がした。』 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と」を阿修羅の政治選挙板に投稿させて頂いておりました[1]。これら最後の7章に渡る投稿を世の中の不条理に対し満身の怒りを込めて書上げた。怒りだけでは明るい将来には辿り着きませんので其処の不条理からどの様に脱するか道筋を多少なりとも解明しよう、そして言葉に表す様に努力して来た。日本を被う深刻な社会問題に対して何とか自分なりに納得出来る結論付けをする事が出来、この最終の一括投稿を通して自分の心のケジメが付いたと思っております。かなりの長文なのですがあなたの心の中に光がありさえすれば、これを読み終わせる事が出来るのではと思っております。

しかし何と言う世の中になってしまったのでしょうか?いえ、この問いは社会の事や政治に関しての事ではありません。日本に住む市民皆さんの行動様式です。

お母さんのおなかの中にいる小さな胎児がこの世に産まれて来る事を自ら選択した結果、彼らや彼女らが赤ちゃんとしてすくすくと育ち、幼稚園小学校で元気に遊ぶ様になる微笑ましい姿。しかし今は親の暖かい懐のもとで全ての子供達が健全と真直ぐに育つのが当たり前で無くなって来てしまった時代。この現代の日本が、如何に人が人間らしく生きられない世の中になってしまったとのかと言う問いこの最終投稿で発したい。その結果の必然として子供にも受難が容赦なく降り懸かって来ている昨今。どうしてこの様な殺伐とした社会風潮となってしまったのか?主な理由を二つ1章で述べてある。

ところでこれから述べる事実は日本の七不思議の一つとして数えてよい位、とても不思議でどうしても私には理解出来ません。小生が行ってきた過去の投稿や本日の投稿に記載した様な議題等を何故所謂知識人はメディアを通して発言しないのでしょうか?それともメディアから閉め出されてしまったのでしょうか?小生は単に一介の会社員です。何故私の如くの人間が平日土曜日曜自分の時間を犠牲にしてまでもこれらの投稿を書上げなければいけないのでしょうか?ごく一部の知識人の方々を除き誰も怒りの声を挙げないではないですか?何故知識人は現在日本で進行している日本の存在意義を劣化し更に破壊させてしまう(モラル的には既に破壊されてしまった)様な政治状況に対し、抗議する発言も行動もそれに伴う責任も取ろうとしないのでしょうか?本当に、本当に日本の知識人はスケールの小さいオバカ達です!何度でも言います。オバカです。想像してみて下さい。この様な民度の低くなってしまった国から来た旅行者や海外駐在の人達が今後立派な国から来た尊敬に値する市民だと現地で歓迎される事は無くなるでしょう。

おい、大丈夫なのか、今のままで?何が悪いのだろう?どうしてこうなってしまったのか?何故世間の皆さんはこの問いを発しないのだろう?私が何を言いたいのかもう判るでしょう?日本の社会が病んでしまった事。会社もそうじゃないか?ついこの間まで、日本の産業界の宝と言われた半導体の会社東芝、シャープ、サンヨー等見事に凋落を通り越して没落してしまったがこれも日本の社会が病んでしまった結果生じて来た問題のほんの一部なのである。その様な事も気にしないでお笑い中心のTVやLINEに夢中な日本の市民。日常の自分に、社会に問いがないから、本当の事が見えなくなってしまった。詳しくはこの一括投稿の一番最後を読んでみて下さい。

「目次」
1章 破壊されてしまった三権分立の原則
2章 音楽は政治を批判してはならない
3章 欲望の行き着く果てに
4章 何処から、何処へ、何ゆえに
5章 そして全てが逆行する社会へ
6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
7章 「こんな平成に誰がした。」行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と

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1章 破壊されてしまった三権分立の原則
最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[2]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[3]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本である。とどのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、彼らの問題を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の一つ目である。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった幾つもの疑問点が線として繋がったのである。

さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。その時その場で私は2011.3.11の影響だと思いますと答えた。何故そうなのか?それは東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。これが一番最初のステップ。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力の強欲さ故の職務放棄と業務怠慢と、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。しかしこの次が有るのである。厚生労働省、農林水産省、環境省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?放射性同位元素に汚染された食べ物を食べても健康に問題有りませんとキャンペーンを張り、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?あなたはもう私が言いたい事が予想出来るだろうか?官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、より一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それはイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民をコントロール出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。何ともおぞましい事態なのか...

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、つまり何か行為を行った結果に対してその帰結の責任を絶対にとりたくないのである。簡単に言えば行政が実行した国事の行為(嘘を含めて)に無責任で居続けたい。 その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。嘘を言い続けなければならない習性は逆に彼らの弱点となってしまう。もしこの全官僚達の弱みを握り彼らをコントロールする事が出来たのなら素晴らしいぞ!と言う訳。 皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本中の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。それ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。一度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と欲望。この欲望の行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が美しい国とは...笑止千万である。

今、行政府と内閣与党両者が歩み寄って彼らが直面する市民の怒濤の怒りと非難の声が沈静化するまでお互いに固唾を呑んで嵐が過ぎるのを待っている状態である。しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのである。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。原理主義者に同調する事で、日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事である。今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる革命が進行中なのだ。

その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けていたとしたら?持ち論答えはYesだ。この4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。日本会議の教義を信奉する或は彼らの思想に共感する若手が各官公庁の上層部に上り詰めている可能性は私はほぼ100%と踏んでいる。日本会議から各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろうし、この原理主義者に共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい日本」は彼らにとっては夢でありイデーロギー的手法で造り上げて来たユートピアになるのであろう。

さて三権の内残った一権、司法府に言及しておこう。小生の三回目の投稿の中の[4] 3章「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」にて以下記載: "哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである"とWikipediaの内容を翻訳の上指摘しておいた。非常に残念だが法務省(英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます)や検察庁のみならず、司法府が下した過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々と、自分自身の保身と出世と言う強欲の為に面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。最後に。近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が非常事態宣言を行う可能性が非常に高い。国内の混乱の期に乗じて日本の立法司法行政と言う三つのそれぞれ独立して来た権力を以下に記したイデオロギー集団の原理主義者主導のもとに独裁政権下で統括一体化した機関とするのは時間の問題の様な予感がする。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのである。

日本会議のサークル図は中心から: 原理主義者のアーキテクト=>原理主義者の核となるインナーサークル=>日本会議の会員、原理主義者の信者=>原理主義者の取り巻き、応援団、ボランティア及び奉仕者 =>原理主義者に寄り添う事で経済的に利益を受ける個人、グループ、組織、会社。特に軍事、核開発の産業組織。又経済界には日本会議の考え方に共感し支援する財界人もいると聞く。実際には既に日本の経済界はその強欲さ故原理主義者の軍門に落ちた。=>原理主義者に加護を求める官公庁。既に日本のメディアがこのサークルに組み込まれてしまっている。政権につくす三権とメディアを見れば如何にこの原理主義集団の勢力が強大なのが判る。日本のそれぞれ独立した三権が成長し続けているこのサークルに飲み込まれる日は近い。

「この1章での結論は: 彼らの教義をもとにした社会の実現を目指す活動が国の至る所で企てられているのである。」この投稿を書き上げる最中に奇しくも田中龍作ジャーナルに上記の三権分立の破壊を示す記事が記載されていた。是非参照下さい。[5]

参考文献等:
[1] 阿修羅のwebより拙稿「日本の市民の皆様へ」シリーズのサーチ、 https://www.google.co.jp/search?as_occt=any&as_sitesearch=www.asyura2.com&num=100&as_q=%93%FA%96%7B%82%CC%8Es%96%AF%82%CC%8AF%97l%82%D6&btnG=%8C%9F%8D%F5&gws_rd=ssl
[2]「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常」
投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日
http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[3]「日本会議の研究」、菅野完、2016年、扶桑社
[4]「日本の市民の皆様へ-その3, No.1」
投稿者 プラナリア 日時 2012 年 7 月 08 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/457.html
[5]「【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに」、田中龍作ジャーナル、http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

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2章 音楽は政治を批判してはならない
その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません。以下小生の音楽の嗜好が入る事、何卒お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。これは私の彼の音楽から受けた印象だが、彼の心の奥底にはキリスト教的ヒューマニズムが宿っているのではと思う。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。彼の歌に合わせた映像メッセージも以下のリンクに有るので聞いてみては如何でしょうか?[1] 特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。

* "If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の題名を替えて"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と皆さんに問いたい。この日本の社会が家庭をファミリーを大事にしなくなった結果なのだろうか?親が家庭で行っている彼らの子供のネグレクトや虐待が新聞やTVで報道される機会が増えて来た。心が張り裂けそうである。何も世の中の事も理解していない、そして自立も出来ていない愛くるしい子供達。この彼らの受難の時代、倒れた子供達にどうして大人達が無関心で無責任で居られるかを皆様に問いたい。何故誰も倒れた子供達に手をさしのべようとしないのか?もしかしたら、日本の社会から愛が欠落してしまったのだろうか?
* "Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと実感する。自然児の彼の曲の内容が人達の気持ちに届くにはどれだけ時間がかかるのか?第6章を読んでみて考えて下さい。
* "Tokyo"[4]では、忙しい人生を過ごす人々と東京の姿を歌う。39年経った今でも殆ど変わっていない東京。
* "Silver wheels"[5] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲。
* "A dream like mine"[6] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
* "Gavin's Woodpile"[7] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い。

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."とある。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の二つ目の理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。市民の皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。そう、国家は多数の人々の構成により成り立つのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷である。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺しつつある。この世の中に住む日本の若者よ、あなたの怒りの矛先は間違っていないのか?

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[8]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle (窒息する) human nature and to suppress truth."[9]

「2章のポイントは: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。」

参考文献等:
[1] "Bruce Cockburn"のウェブサイト、http://brucecockburn.com/
一番下のページの'vevo'のビデオ映像で彼の思いが伝えられている
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Tokyo", Bruce Cockburn, 1980年アルバム"Humans," https://www.youtube.com/watch?v=t76JGcMp0cM
[5] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[6] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[7] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
歌詞の中で"English River"と歌うが一企業の水銀投棄に因る河川の汚染問題の事
[8] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[9] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/

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3章 欲望の行き着く果てに
これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。強欲の定義は:一言で他人を押し退ける気持ちから生じる行為の総称である。

あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミの様な物。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらはヒューマニズムに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に、或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居る事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う学術用語がこれを説明する。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラに血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も(2012年1月に投稿した拙稿の4章「教科書の中の危機管理」の中で指摘しておいたIEEEの記事を参照して下さい[1])先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達が起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。 この不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き 対 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCOとその取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に食品の核汚染で遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得る欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪と今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。もしかしたらあなたは既にこの忙しい心の奴隷なのかもしれない。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこに或る国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通してと提示したい: 何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuotesとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り:"What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you will have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるでしょうが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニズムは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが原理主義者の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされれ、この世界を目の当たりに日々生き、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを押し通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と。この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中にも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい、何故なら - 例外はあるがほぼ - 相容れない2つの実体だからなのだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[2]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[3]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」

3章の教訓は:「己の欲望の奴隷になるな。何故か?心に悪意が生じてしまうから」である。

参考文献等
[1]「日本の市民の皆様へ-その2」投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[1]「中学生の満州敗戦日記」今井和也著 岩波ジュニア新書
[2]「731部隊」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
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4章 何処から、何処へ、何ゆえに
この様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家はまず居まい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。こんな面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の市民の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 対 「沈黙、内省とモラル」について考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がギトギトとした欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の市民一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の帰結/結果の訳。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた原理主義者達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見ればよい。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。

この章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家が本書発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚Google translateでは'ethos'は: the characteristic spirit of a culture, era, or community as manifested in its beliefs and aspirations... synonyms: spirit, character, atmosphere, climate, mood, feeling, tenor, essence, disposition, rationale, morality, moral code, value system, principles, standards, ethics"日本語訳:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と理解している。

最後に。悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。

4章の教訓: 「モラルも良心もない不遜で強欲な人々が政治に携わってはいけないのである。」と何故ハッキリ言わないのか?

参考文献等:
[1] 「カール ヤスパース、」 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] 「カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)」、ミネルバのフクロウ、
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] 「核兵器の歴史」、ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] Karl Jaspers, "The atom bomb and the future of man," 英語版、1961年 The University of Chicago
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5章 そして全てが逆行する社会へ
兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の司法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。トップダウンで悪臭プンプンの邪悪なスピリッツが下々へと降り懸かって来ているではないか?おお、おぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人々をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、ビジネス上のステータスのアップデートもない。なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今彼らは自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐら。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのは群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今日本の市民の皆様は立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これは生命の滅亡を連想させる[1]。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いた電気自動車が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも原子力推進を行い、CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは前出した「日本会議の研究」を読めば理由は十分類推出来る。原因としては彼らインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々がいないと私は理解する。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。内閣府、その後ろに控える司令塔と政治家は本当に科学的なメンタリティーを持ち合わせていないのではと思える程、人類が直面する問題を捉える事が出来ていない。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に反する、核兵器禁止条約への不参加と言うこの矛盾した意思表示を見れば日本の政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。先日6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げようか?私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたとしてどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒で神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[2]:
* 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
* 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
* 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
日本は今不可知ではあるが政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつあると思える(一番末尾のこの章の結論を読んで下さい)。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因だと私は思っている。日常の風習の色がそして世相が大きく変化しつつある訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本中の市民全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る内閣府がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する内閣府の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の市民に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアに圧力をかけている状況。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。何故なら「国はその様な事は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。使う方もレッテルを張られる方も放射脳とはよく言ったものだ。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと感心してしまう。

それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[3] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle、Facebook、Apple等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。しかし企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と島国根性の政治屋の面々。その市民の事は言わずもがな。である。

5章の結論: 「大政奉還で欧米の仲間入りに向けた自前の体制の構築を目指し、明治大正昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は三流国に落ちてしまった。」

参考文献等:
[1] 「子供の亡骸を16日間も離さない母シャチの悲嘆『もう見ていられない』と研究者」、キャサリン・ハイネット、
ニューズウィーク日本版、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/16-8.php
[2] 「世俗主義、」 ウィキペディアより、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[3] 「EU一般データ保護規則」ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87

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第6章 「前書き」
この第6章は2011年11月より始めた一連の投稿の中で多分最も重要な章の1つだと思う。もう一つ重要な章を選んだとすると、それは原発板に2012年1月12日に投稿した「日本の市民の皆様へ-その2」の第8章 「眼の前の事と向き合う(言葉或は知識、そして現象の認識とのギャップ)」[1]である。言葉を通じてしかこの世界を観ようとしない人々の思考と習慣を話題とした。この章と併せてお読み下さい。それは以下述べる様にスローガンに表せられたイデオロギーを通して見る世界と言葉を用いずにこの世界を観る事の違いである。言葉と言うものは言葉の内容を理解しなくても使える。この在り様が溢れ返っている時代である。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが文明の中の文化を利用した自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。
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6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[2](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[3] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[4]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[5]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るのであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達は、そこからやって来る、その正反対の不便さ即ち環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまった。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第4章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「 何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本投稿第三章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセス。頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快なら相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しきEthosの現象(「4章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性さをも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善のEthos或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[6][7]歌詞は[8]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは4章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのである。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。しかし私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。動物と同じ様、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だがとても不思議なのだが、誰一人として日本の社会でのイデオロギーに基づいた祀り事が、日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第一章 「破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により彼らが理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の'Ethos'例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人間を中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。色々と考え倦ねていた事が見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[9] Aha!である。原理主義者の実体が見えた。戦前の人々の様相。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する彼らなら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さい生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸にとるとそれは何と短い横軸の時間の期間なのか。横軸方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本と言う社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる'Ethos'としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中に子供を守らず、子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?(次章最後の部分「一連の投稿の最後にあたり」参照の事)。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまっているのだろうか?

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そこで、日本の政府の従業員の皆様へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は駄目になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

6章での問いと独白:「生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?Ground ruleに関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。原理主義者と呼ばれても仕方がないのである。」

参考文献等
[1] 「日本の市民の皆様へ-その2, 」 阿修羅, http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[2] 「マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[3] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[4] 「イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[5]「座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[6] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[7] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[8] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[9] 梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html
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7章 「こんな平成に誰がした。」 行為とその帰結。そして怒りと不安と希望と
少し前につれ合いとたわい無ない話をしていた。「平成生まれの若者は駄目だね。このままじゃ日本は駄目になる。こんな平成に誰がした!」彼女曰く「天皇皇后両陛下は素晴らしい人なのにね。」こんな感じだっただろうか。あなた自身「こんな平成に誰がした?」と自問する機会がこの30余年にあったのか?

簡単さ。こんな平成にしてしまった面々と、その連中を支持したりしていたからだし、「国政、我関せず。」選挙によってこの様な面々を排除しなかった行為と言う結果に今泣いている訳である。もっとも平成生まれの若者をオペレータにしてしまったのは昭和生まれの我々の責任でもあるが。平成の若者の気質を造り上げて来た我々も反省しなければならない。何故なら、何も考えない何も表現しない何事にも無関心なオペレータをゆとり教育を通じて創って行ったからである。すまぬ。だがもうすぐ平成と言う激動の時代が閉じる。平成の終わりに当り、原理主義者と言う悪魔の様な怪物、八つもの頭を持つヤマタのオロチの様な勢力をこの元号の時代に封印閉じ込めておく方策を考え始めなければ。何と言っても希望を持って新しい元号を迎えないとこれから産まれて来る子供達の人生明るく始まらぬ。

以前の投稿で何回も言及しているが、「行為とその帰結」とは簡単に言うと: 或る行為を行った後にその結果として何かが起こると言う事。そしてそれはその結果の帰結の責任を伴う因果関係と言われる物の理。その責任を子供すら理解する自明の理なのだが現在の社会で多忙な生活と喧噪故にこの事実を心に留めておく事を我々大人は忘れてしまっている。例えば、将来において灼熱の太陽の下地球の温暖化に何ら行動を採らなかったと後悔しても、もう時既に遅し。と言う未来に起こりえる結果を、予見している時点で何を行うべきなのかと言う純粋に未来を見据えた行為が出来るかどうかの勇気('ethos')の「もと」を産み出す作業を個人個人そして社会全体で出来るかどうか、なのである。温暖化の問題は日本全体が世界全体がやらなければならない。将来悔恨の情を持って大泣きしたとしても時既に遅しなのである。この「行為とその帰結」において、ネガティブな見方からすると: 人間の物欲強欲とその帰結。軍国主義とその帰結。原発推進とその帰結。人権抑圧とその帰結。独裁政治とその帰結。原理主義に基づいた政治とその帰結。原子化した個人とオバカな人間の量産と、その帰結。一方ポジティブな見方からすると - 平和を謳う憲法の制定と国家の繁栄と言う帰結。愛と言う行為とその帰結としての新たな生命の誕生等。だが国力の衰えを目の当たりにし、皆個人個人日本が直面する「行為とその帰結」をどの様に肌で感じているのだろうか?

日本の女性市民の皆さん!「ああ、このままでは駄目だ」と言う感触、予感と不安が心の中に生ずる事が日常的にきっとある筈だ。色々な事に対し怒っているはずだ。その頻度は個人に由るだろう。暗くて孤独なここからの、出口の無い生活の閉塞感ではないか?このどうしょうも出来ない事に怒っているはず。例えば、この社会で人間らしく生きる権利が如何に大事な事なのかを子育てを通して理解されていると思います。しばらく前に「保育園落ちた日本死ね」という表現がTwitterで話題になりました。でも考え方によっては日本ではその様な風潮になっちゃうよなと思うのです。何故か。自由民主党を乗っ取っている勢力にとって自分達の教義に基づいた「女性は家庭で育児をするべき」という考え方を社会に広めようとしたい訳で今の社会の方向を、女性の立場を改善せず女性に家庭で育児をさせる様にプッシュする環境に方向付け、「女性が活躍できる社会」を目指すとか何とか言って女性の支援をしているフリをしていると思わざるを得ない社会状況なのです。再度言います。この第一章で何回が述べたが原理主義者達が国政を執り行っている訳で、彼らの教義の方向に向け、全ての国政の仕組みと日本の文化、市民の間の風潮を方向付けたいのです。このイデオロギーの流れはより良い暮らし向きをしたい世間が欲する流れに逆行しているので、自分達があたかも善政を行っているかの様なフリをして国政の守護人守り神として振る舞っている訳。原理主義者である事の本性を隠しているので本心は言わないし、やっている事やろうとしている事を隠しながら日本の社会を没落させている。それこそ言っている事とやっている事が真逆の、偽りだらけな日本と言う国の頂点に居座って旗ふりを行っている面々なのである。バブルの崩壊後の社会の波長を自分達の都合の良い様に合わせ込んで来ながら社会の変革に勤しんで来た原理主義者達。非常にスマートな連中である。メディアを使って彼らの理想とする文化の波長に沿って日本のEthos(風潮)を - 例えば人格破壊やヘイトを通して社会から寛容な心と愛する心を駆逐する様な善とは真逆なEthosへと導いて国体の変革を行っている事。その他に「何々の可能性がある」とか、「心肺停止」等の曖昧模糊とした表現を多用しストレートに事実を言い表す表現をメディアから消滅させ - 時間をかけて造り上げて来たからである。皆が皆何でストレートにものを言えない?現実を直視しない?そう!意識するしないに関わらず、原理主義者達が実践している個人の心を刺激する遠隔操作から自ら脱さなければならない時。これは即ちメディアをコントロールすると言う一つの行為。とその結果、帰結である。それは日本の市民をコントロール出来ると言う事実を見れば明かである。

幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは発言しなければ、主張しなければ、何も得られないのである。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。民主主義とは少しづつ仕組みを良くする様な努力と社会を良い方向に持って行こうとする変革の希求、即ち政治に参加する行為とその結果と言う極めて簡単な図式を見れば、民主主義は勝ち取って来なければ失われてしまう仕組みなのである。が、たゆまぬ努力の積みで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を人々は忘れてしまった。世界中の民主主義の歴史を見渡せない故にこの社会制度がどうなろうともおかまい無しと脱力してしまっている昨今である。 この勝ち取ったのではなく与えられた民主主義が今不遜で強欲な原理主義者達により完全なる破壊に向かって追い込まれて来ている。判るだろうか?この事実に気が付かない事が日本の民主主義の最大な危機の原因なのである。極めて少数の人が曲がりなりにも日本に根付いて来た民主主義を根本からひっくり返すアーキテクチャーを設計、少数の周りの賛同者、機動部隊を啓蒙しその運動の支持者をイデオロギーに熱中させ平成と言う時代にその彼らの設計図を元にこの時代を変革して来た訳。一方日本の市民が戦後民主主義を進化させる様に努力して来なかった帰結が今ここにあり、この民主主義の崩壊を目撃しているのである。日本の社会の中で民主主義に対するコミットメントの重要性を子供達に学校を通して教育してこなかった結果を痛恨する人達はどれほどいるのか?殆どおるまい。

何故私が女性の市民にここにこの様に訴えるか?その理由は: 日本で政権交代が出来ないのは2つの同等な対の補完機能と言う考え方がこの社会に根付いていないから。日本に危機管理の思想が欠如するのはこの理由による。機能が同等の非常時用バックアップの機構が存在しないものだから危機に陥った時にパニックとなってしまう事。もっと大きな視点からすると - 男女の関係が補完的ではなく、主と従としてある訳で、これでは何時迄経っても男性が女性にセクハラする行為は無くならない。男性と女性が公平で平等に扱われる社会にならなければ政権交代は出来ない。が政権交代出来ないので男女間が平等にはならない。この当たり前な事を女性市民は理解して欲しい。男性が主で女性が従と言う閉鎖的教義的社会が其処まで迫っているのにも関わらず、社会全体で携帯電話を操作するオペレータを甘受。自分の生の置かれている状況に対する覚醒もなく、この八方塞がりの社会が、行き着く所まで行かないと判らない脳死状態。女性の市民の皆さんこのままで宜しいのでしょうか?

しかし今の世の中、何時から愛を表現する事の無い社会風潮となってしまったのか?男と女が素直にメスとオスとして愛情表現が出来なくなった社会。愛を尊重する社会としない社会の落差を痛感する日々。暖かい視線が溢れる社会と冷たい視線が満ちる社会。 今の社会の性差別や(性)暴力の不条理から己と己の子供達を守りながら、生きている女性市民。しかし期待を裏切る様に二つの真逆な社会の一方へ向かって日本全体で行進中である。この様な女性軽視の風潮。しかも女性のみならず男性をも奴隷の如くにこき使う社会制度。万人に保証された法の下の平等さえも無視されている実情。この「失われた20年」の間にいつの間にか人が人間らしく生きられる国でなくなってしまった日本。この原因を前章とこの章で長々説明して来た。今日の怒りと明日への不安が社会の風潮となってしまった。本来人々の生命の流れは希望なのであるが、それを囲い込まれて、窒息しそうな世の中。イデオロギーによって生きる権利を抑圧され、生命を軽んずる事が許される真っ暗なご時世。何時から愛を自然に表現する機会の無い社会となってしまったのか? 喧噪と言う世の風に飛ばされて愛なんて何処かへ消えてしまった。

人間が生命の流れが切り刻まれ、そして時が流れるのではなく切り刻まれもはや人は統一体としての個ではなくバラバラとなり、この世界が意味の在る物では無くなってしまった。何でこれほどまで分裂してしまったのか?時を切り刻みこの世界を切り刻み、そして世界を掘り尽くし、その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命として出て来た一人一人の人間達が、抑圧される為に殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているこの世の不条理。過酷な自然から貰い受けた苦しみならまだ判る。この過酷な体制によって造り出されてしまった不条理に対する怒りはいったい何処へ行くのだろうか。

力を持つ者達(the establishment)の欲望が国家を滅ぼしかねず、人類を、生命を死滅させかねない所まで来ているのである。あなたはこの産まれて来た世界が悪くなって行くのを黙って見ていられるのだろうか?不条理は人間が、そして人間が造り上げた組織、体制、機構、仕組みが造り出した「こと」、「もの」なのである。だから人間が造り出した悪い所は直して行く習慣を保持する事を心がけねばならない。もし大統領が首相が何かのグループの代弁者だったら政治はどの様になるか。今皆さんその帰結を目撃しているのではないか?それは社会から公正公平が消え失せてしまう政治が行われる訳。この世の不条理を根絶するために生命の意義と意味を問い続けなければなるまい。

日本のみならず世界中で脈々と続く生命の流れを邪魔し囲い込みその消滅を加速する原子化した人間達。だがその風潮に抗った人々がいた。その例を挙げよう。それを考える時何時も、表現者を抑圧した東ドイツと言う国家を飲み込んだ西ドイツの事を思うのである。核兵器の使用と人類滅亡の可能性。それに抵抗する善なる'Ethos'、即ちそれは生命を守る事、子供達を守る事、生存への希求への声が、1970年代なかから1980年代なか位にヨーロッパ全土であがった。例えば核兵器が使用されるであろう最前線である西ドイツのベルリンで1983年に60万人の人々が核兵器に反対する行動を起こしている。"A 1983 nuclear weapons protest in West Berlin had about 600,000 participants."[1] この様な生命の流れを消滅させる事に抵抗する人々の心を揺さぶる運動がヨーロッパで発生した事を覚えている年配の方々もいるだろう。生命の滅びに当ってそれに全てに無関心な人々を覚醒させるethosの流れ。核戦争による人類滅亡の可能性の予見を。更に続いて自由への希求を渇望する東ヨーロッパの人々と、抑圧された同胞を自由に向けて解き放つ様に努力した西ヨーロッパの人々により、1989年ベルリンの壁が打ち倒されたれた訳である。[2],[3],[4],[5] 核兵器廃絶への願いを込めた行進や自由を求める行進を見れば女性の力を後押しサポートする様な男性市民の理解があったはず。生命の流れを邪魔する物は核兵器だけではないのはお判りだろう。その流れの結果として今全世界の中でEUとヨーロッパ大陸に比較的善政が敷かれているのだと思う。社会に積極的に関わり良くして行こうと言う気持ちと行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。それは地平遥か先に見えるオープンで公正な社会と言う理想へと向かって進んで行く、或は其処に辿り着きたい気持ちを駆り立てる事で成就する。ベルリンの壁を彼らが倒したと同じ様に生きている空間をゆがめ複雑化し、生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?

「一連の投稿の最後にあたり」
この投稿を私の友人達を含め、今も東日本大震災の後遺症と格闘しながら生きている方々に捧げたい。一人のお父さんとして出来る事を精一杯やったつもりだ。父として今の不条理に満ちた社会に抗う事が出来ればと思い立ち、文章を書く事位しか能が無いものだからこの阿修羅と言うウェブをお借りして2011年冬より「日本の市民の皆様へ」と言うシリーズの投稿を行って来た。この最後の一連の投稿が日本の不条理に満ちた社会を変える小さな起爆剤となる様な幸運に巡り会えたらと思っている。

本当に大事なのだが皆忘れてしまっている事がある。それは:「チャンスは前からしかやって来ない。眼を見開いてそれをその時に掴まないと。何故ならチャンスは決してあなたを追いかける事は無い」のである。再度喚起しておく。今日本の社会に蔓延するEthosは無責任無関心無気力と脱力である。それはどう言う事かと言うとサバイバルする、生きる力が無いと言う事。これは"A watching kettle never boils"と言う英語の言い回しを見れば判る。「ヤカンを見ていてもお湯なんか沸かないさ」と言う事。お湯をわかすにはヤカンを火にかけなれればならない事が判らない訳。とても簡単な事なのに。どうして皆さんこの様に他力本願になってしまったのでしょうか?原理主義者達は平成と言う時代静かにチャンスを掴んでそれを積み重ねて国体の変革を行って来たと言う事実。彼らを昭和と言う、産まれて来た所に押し返し平成と言う時代に封印する事を火急に実行し始めなければならぬ。平成の時代に「腐敗した政治が執り行われていた」と将来振り返って見られる様、民主主義勢力が決して分裂せずに原理主義を世の中から駆逐する努力続けなければならない。でもこれを成就するにはかなりの歳月必要なのである。

物欲や思想イデオロギーに強欲な面々の、強欲な面々による、強欲な面々の為の政治が行われている現代の日本。これに対してきっぱりとNoを突きつけねばなるまい。そうする為には何を行わなければならないのか?何を成すべきなのか?それは何かと言うと、「これから産まれて来る生命にとって意味のある社会」の現実へ向かって行動する事なのである。これは人間の顔を持った政治がなす結果と言う事。断言しておこう。しらけているのがcoolではない。日本の社会の問題は自分の生命の流れの死活問題だと自覚して、実際に表現の自由と言う権利を実行に移す時なのです。あなたの希望への希求の願いを込めて。

「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。
===
しかし...しかし...それだけの覚悟では残念ながら日本の社会が開かれたものとなり、人間の顔を持つ様になるには全くと言ってよい程非力なのである。何故か?皆さん大きく見て何故かと考えてみて下さい。今までのこの一括投稿の文章を読むにつれ自分なりに日本の社会を大きく見る努力をしているかと思います。以下小生の個人的な意見とお断りしておく。

私が義務教育を受けていた時に学校で教わった事である。「昭和と言う時代の軍国主義は忌み嫌われるべき事」であった。それは軍事国家主義であり、国家主義と言う名のもとに上から下へのトップダウン手法即ち命令、懲罰、恐怖や同調圧力によって社会統制が行われている訳。がんじがらめの社会と言えよう。その国家体制「権威主義に基づいた社会」は個性を人権を抑圧し必然的に息詰まる社会となる。

「権威主義に基づいた社会」をまず社会の上層部から下層部へと見る:
* 時代をそして富を所有する強欲者達 (命を粗末に駒として使うブラック企業や国家。暗黒時代の日本を思い出して見よ)
* 社員を所有する社長
* 家族を所有する家長
* 性を所有する夫
今の日本の「権威主義に基づいた社会」においては命令の強要が上から下まで行き届く。その一部の会社も地方自治体も活気が失せ、物を言わない言えない奴隷となって人間としては死んでしまっている。持ち論責任なんて死んでいる人間なら負う必要は無い。民意を、投票を通して表さないから民意を汲み取らず無視する国体に近づいて来ている訳。

その一方「人間の顔を持った社会」を上から下まで眺めると:
* 時代を、富を共有する社会
* 社員の間で活力を共有し、その力を導き共有する社長
* 生(と時)を共有する家族
* 性を共有する夫婦
それは肥えた土に生える大きな木(国)に例えられよう。木が土を通して根っこから養分と水を吸い取って大きくなる様に、選挙を通して表された「民意」即ち「人々の意志」が下から一番上の国会迄伝わり、届く事。即ち国会が民意を汲み取りそれに耳を傾け、善政を執り行って行ける習慣と仕組み。この様な仕組みの下で木の葉っぱの隅々まで養分と水が行き渡り元気に育つ木の様に国も成長する。即ちそれが民主主義に基づいた「人間の顔を持った社会」と言う事。それはボトムアップの風通しの良い社会である。現代日本の社会情勢からこの様な社会情勢の流れへと変えようとの理想を持つ政治家がいるかもしれない。でもその様な考えかたを劇的に変えてくれ。上から下へ流れる政治の仕組みを下から上へ流れる政治の仕組みへと流れを180度逆転しなければこの希望を失った社会は変らないのである。判りますか?民意を、人々の意志を選挙を通して表さなければ政治は腐敗してしまう。腐りきった社会を生き生きとした状態に戻す事は非常に多くの市民が結集しそして志の或る政治家達と協力した上で、希望と言う風潮を地方の政治と国政に吹き込んだとしても、とても大変な時間のかかる作業なのである。まずその、上から下へと教義を伝達する政治からの決別を宣言し、180度逆転した流れを持った民意を憲章化して国政を民主主義体制に戻して行かなければならない。その過程で原理主義者は色々な手立てを用いて彼らの教義を押し通そうとするであろう事を予見しておいて欲しいものである。

再度記しておく。「生命の流れの邪魔をする日本の社会の不条理の壁が倒せるのか。このヨーロッパでおこった事実は別世界での出来事なのであろうか?それとも手に届く現実なのであろうか?」
===
参考文献等
[1] "Anti-nuclear movement," Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-nuclear_movement
[2] 「ベルリンの壁、」ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81
[3] "Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=snsdDb7KDkg
[4] "The fall of the Berlin Wall in 1989," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=zmRPP2WXX0U
[5] "1989: The Fall of The Berlin Wall," Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=bQOoWw6oYzY

http://www.asyura2.com/19/senkyo259/msg/184.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第1章 「巨大な改憲マシンの中で」
日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第1章 「巨大な改憲マシンの中で」

これから投稿するシリーズの内容はあなたにとってかなり耳の痛いものである。

どれだけの人々がこれから始まる投稿の最終回まで読み終わせる事が出来るであろうか?携帯を用い長文投稿を読むのは苦痛なので出来れば大きな画面のコンピュータを使って読んで欲しい。これらは単なる一会社員、オッチャンからの一言である。何処にでも居そうなオッチャンに言われてあなたが初めて気付く様な事もあるかも知れない。でも、もしあなたがこの巨大なマシンから逃げ出したいと言う気持ちを少しでもお持ならば、最後の章まで読み通せるのではないかと思う。一連の流れの内容は小生が過去にこのウエブを通して投稿して来た文章に少し手を加え、新たに追加する章と合わせた物である。日常生活から全く見えて来ない風景を通して日本の現状を客観的に眺めてみる。

あなたはこの表題にある様な事実を知っているか?1億2680万人もの人々が住む国でそれを認識している人々は、これを実現する方法を設計したアーキテクト以外誰一人としていないに違いない。可視化が出来ないこの巨大なマシン(仕組み)を造り上げた事には敬服する。誠に以ってあっぱれである。

端的に言ってしまおう。我々は長きに渡って構築されて来た、改憲を唯一の目的とする巨大なマシンの中で生活しているのである。経済的に苦しい、知的に息苦しい人々の日々の生活も全く関係の無いかの様に黙々と日本国憲法の解体と明治憲法の再構築、戦前の社会への復古を最終目的地としイデオロギーを原動力とした社会の中に生きているのである。憲法改正の教義に共鳴する面々を四方八方の組織に送り込んで社会に巨大な影響力を行使するマシンの中で。

我々庶民だけではない。行政府立法府司法府、地方自治体、学校、大学、企業、労働組合、自営業、新聞テレビインターネットの報道機関等々の組織とそこで働く人々が途轍もなく巨大な改憲マシンの中で、大きなしかし見えない力の流れによって或る方向に流されているのである。この流れに同調しない組織、会社、個人を改憲マシンの憲兵達が潰しにかかる訳。小生は最近のソフトバンクG叩きにこの風潮を見た。このマシンの中で人々は己の思考に基づいた決定と行動を自己推進力が無い故に自力では行使出来ない(決められない)。更に同調圧力なる外部からの影響をその善悪如何に関わらず自分の意見の如く納得し、又人と同じ様に振るまい、自らがんじがらめの社会に住む事を甘んじて受け入れている。平成の時代の後半から日本社会で変化して来た事或はおこって来た事が全て、憲法改正の為の行為の帰結とその副産物として全てが理に適い説明出来るのである。何しろ憲法改正の為には何でも利用する面々がこのマシンの中で旗ふりをしているのだ。人々の幸せな生活の事を思いめぐらせる事が政治の中に無い故に日本の政治が腐ってしまったのはこの時代の必然であろう。それでも人心は政権から離れて行かない摩訶不思議。あんたも悪い。日本の政治が腐ってしまった原因の中の一つなのである。だから権力を私物化する面々がこの世に跋扈しているのである。

或る一例を出そう。何時の頃であったかは記憶にない(即ち茹ガエルである)。日本経済新聞電子版は政権のプロパガンダに堕してしまってどの位経つのであろうか。でもつい最近此処まで露骨にやるものか!と思わず絶句してしまった記事がある。それは「トランプ氏演説『力による平和』強調 海自艦に初乗艦」だ。[1]少し長いが一部引用させて頂く。「トランプ米大統領は28日午前、安倍晋三首相と海上自衛隊の横須賀基地(神奈川県横須賀市)を訪れ、護衛艦『かが』を視察した。『かが』は事実上の空母化が決まっており、日本政府が購入する米国製のステルス戦闘機F35Bの搭載が可能となる。日米首脳がそろって乗艦し、強固な同盟関係をアピールした。...日本政府は2018年末、いずも型と呼ばれる国内最大規模の護衛艦『かが』と『いずも』の2隻を空母化する方針を決定した。F35Bのような短距離離陸、垂直着艦ができる最新鋭の戦闘機が搭載できるよう甲板を改修する。」かがが空母化されるのは噂では聞いていたのだが、この様なインパクトの高いニュースの内容を使って内外に空母化をアピールしている事。更に「日本政府は2018年末...空母化する方針を決定した。」この決定の話も聞いていなかった。今回初めて聞いた話である。もう一つ。メディアのプロパガンダの常套手段である曖昧化する手法の一つが用いられている。此処で「日本政府」とは一体何を指しているのか。客観的に言えば「現政権」が正しいと思うのだが。

ところであなたは、日本の社会のバカさ加減にほとほとうんざりしていないのであろうか?テレビが爆発的に普及して来た時に一億総白痴化なんて騒いでいた時代が懐かしい。今はどれだけの方々がインターネット依存症になっているのだろうか?これも巨大な改憲マシンの成せる技である。外から日本の社会のレベルを見ると赤面してしまう程反知性とモラル不在、無責任感の漂う荒廃した社会の様に見えるのである。まるでゾンビの様に死んだ人間によって構成されているおしゃべりのみで語っていない、表現していない、意味の無い言葉で溢れ返っている国の様だ。巨大な改憲マシンの中で人々は平成の時代に一億人がオバカ化し、改憲と言う長い物には巻かれろと言う諦めに満ちた一億総茹ガエルになってしまった事に気が付かないとは。それにしても堕ちたものだ。何と言う世の中になってしまったのだろうか?忖度なんて言う言葉のレベルは既に超えている。皆元気が無いのだ。だから会社も国も元気が無い。皆さん自己防衛本能も喪失しサバイバルの能力も失ったのか?しかも抗議の手段としての国政や地方政治に投票を通して自分の意見を表現すると言う機会を放棄してしまった人間であるに気が付かないとは。これではまるで負け犬である。小生には改憲マシンの中で皆が皆茹ガエルで居続けられる気持ちが理解出来ないのである。

この6月末の、200万人にも及んだ(主催者側公表)街頭で政治的信条の表現を行う力、のある香港の若者達のニュースを見た。隣国の建国から脈々と続く誰にでも可視化出来る一党独裁性と言う巨大なマシン。これに組み込まれてたまるか、と抵抗する気概を表現の自由を行使する事で世界に訴えかけていた。香港の人々の底力を、即ち香港の、国としての底力を目撃したのである。人間としてのintegrityを持つ香港の若者達と比較し日本の若者の民度は無きに等しい。いつのまにやら巨大な改憲マシンに閉じ込められてしまった日々。心も無責任無関心無感動に染まった諦めと閉塞感に満ちた人生。虚しくないのか?

ところで日本経済新聞電子版は権力のプロパガンダに成り下がってしまったとの意見を言ったが、そのスタッフの名誉の為に以下引用する。以下生前アップルのCEOのスティーブ ジョブズがスタンフォード大学の2005年6月の卒業式で語った言葉を日本の若者に読んで欲しいのである。[2] 彼は一番最後に"Stay hungry, stay foolish"と締めくくっている。ハングリーである事と茹ガエルである事は相反する。世界の若者がどれだけこの世を真剣に生きているのか参考にして欲しいものだ。

この章の最後にあたり: これら連続投稿を貫く重要なキーワードを2つ挙げておこう。それは「強欲」と「風潮」である。これらの言葉を心に思い浮かべてこの夏の読書をお楽しみ下さい。

参考文献等:
[1] "トランプ氏演説「力による平和」強調 海自艦に初乗艦、"日本経済新聞、2019年5月28日
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45318230X20C19A5MM0000/
[2] "ハングリーであれ。愚か者であれ," ジョブズ氏スピーチ全訳、日本経済新聞、2011年10月9日
https://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXZZO35455660Y1A001C1000000

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/352.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 2章 「すっかり破壊されてしまった三権分立の原則」
[はじめに]
本章は2018年7月28日にこのwebに投稿したものを編集した上再度投稿するものです。[1]小生2011年の11月からこのウェブに何回も投稿し続けて来ました。その理由は余りにも不条理な環境に置かれながら何とか頑張ってサバイバルして来た私の友人達を見て来たからです。何でこんな事がおきてしまったのだろうかと自分に自問自答しながら、同時にこの不条理の苦痛に堪え日々投稿に向け何百回も原稿を直し何時もの様に生業の仕事をしていました。この問題は私の友人だけの問題ではありません。しかし今現在これが既に過去の事でもあるかの様に皆が皆平気な顔をして生きていられるのはどうしてなのだろうかと言う疑問を常に心に抱き続けて来ました。ですから圧倒的多数の方々にとってこの投稿のシリーズに度々東日本の核汚染の話が出て来るのは実に不愉快に違いないと思います。

この国で苦しみもがいて生きている人々の心の痛みを判ろうと努力しない、或は出来ない今この投稿を読まれている方々はこれ以上投稿を読み進まないよう、心からお願いします。この不条理な現実に抵抗する気持ちを持ち続けられたからこそ、私自身何とか最終点まで辿り着けたのではと思います。失礼、前置き長くなってしまいました。

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最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは2012年12月の拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[2]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、彼らの望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[3]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には彼らの理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本だ。トドのつまり原理主義者(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、『彼らの問題』を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。市民にとって役立たずどころか悪法の立法を行う三権の一つを担う国会と成り下がってしまった。立法府が政権党と野党の政策論争の場として国を良い方向に導く事、を怠りその機能を無視し内閣と政権与党の隷属機関となってしまった事がまず一つ目の破壊された三権分立の原則として数えられよう。何より、国家権力を私物化しやりたい放題の政権。皆さん、こんな事は先進国では決して起こりえないと言う認識が無いのだろうか?オバカ!を通り越して小生には滑稽ですらある。このままではこの国は潰れる。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示である。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、原理主義者達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった自民党政治に関する幾つもの大きな疑問点が線として繋がったのである。

さて人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。これから何故そうなのかを考えてみたい。東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。幾度も過去の拙稿で指摘しているが、東京電力(TEPCO)の強欲さ故のトップダウンで職務放棄と業務怠慢を続け、彼らの業務監督を官公庁が放棄した結果、行政府及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により、白日の下に晒された訳である。次に農林水産省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?被災地からの食品は危ないと言うのは風評であり安全であると、放射性同位元素に汚染された食べ物を「食べて応援しよう!」とキャンペーンをしている。以下引用しよう:「農林水産省では、被災地産食品を積極的に消費することによって、産地の活力再生を通じた被災地の復興を応援するため、多様な関係者間で一体感を醸成できるよう、共通のキャッチフレーズ『食べて応援しよう!』の利用を呼びかけております。」[4]。でも根本的な問題は別の所にあるのだ。健康に問題有りませんと繰り返し宣伝し続ける事で、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?何故ならそれは安全神話を振り拡げて来た事の責任を伴う、TEPCOに対しての監督不行き届きの罪がある事を彼らは自覚しているからである。一方食べて応援するのは個人のレベルの問題なのだ。それは個人のチョイス、選択と言う言葉で表現出来よう。よってそれを人々には強制してはいけないのである。ましてや我々の宝である子供達に食べて応援させるのはいかがな物かと思う(だから黙って混ぜないでね)。つまり官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、更に一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それは組織内の隠れ原理主義者の協力と誘導の下、原理主義の司令塔と改憲マシンの力を借りてメディアを通じイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民を洗脳出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。自分達が犯した罪をウヤムヤにする為、日本の人々に核汚染から目をそらせ、些末な事に目を釘付けにさせる為に改憲マシンと共同でこの作業している事。この図式は真ん中に原理主義の司令塔がデンと座って居り、それぞれ内閣与党と行政府がそれぞれ横に従っている様なものではないだろうか。その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けている。既に所謂王の目[5]王の耳として送り込まれた活動家は原理主義者の司令塔に、彼らが所属する組織内のステータスを逐次報告しているのでしょう。これは衝動的な事であった。2018年の4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。小生は若手の活動家らが各官公庁の上層部に上り詰めており組織運営にも影響力を及ぼしている可能性はほぼ100%と踏んでいる。持ち論各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた原理主義者は横断的に連絡を取り合っているだろう。原理主義の司令塔から発信されるイデオロギーに共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい国」は原理主義者達の念願の夢でありその社会は彼らの追い求めて来たユートピアとなるのであろう。更に、小生にはこの集団がイデオロギーに満ちている故に、科学的客観性を無視しても平気でいられると解釈する。だが科学的立場なんてもうどうでも良いのである。王の目、王の耳が行政府組織内に入り込んでいるので政権が行政府をコントロール出来るし、行政府は行政府で改憲マシンが造り出した、東日本核惨事はとるに足らないと言う風潮に便乗し自分達の巨大な嘘を無効化する為に政権にすり寄りよる仕組みがもう既に出来上がっているから。

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、牢屋には行きたくない訳。つまり何か行為を行った結果に対してその(安全神話の崩壊と言う)帰結の責任を絶対にとりたくないのである。その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。だがそれ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。再度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と改憲を貪欲なまでも追い求める強欲さ。この原理主義者達の欲望の、行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?こんな国が「美しい国」とは...笑止千万である。

しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘をカバーする目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのだ。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。それは原理主義者に同調する事で、行政府は日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事なのではないか?今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる原理主義者達の革命が進行中なのである。

さて三権の内残った一権だが、次章でさらっと言及しておく。では司法府とお仲間の法務省検察庁の事を紹介しよう。田中龍作ジャーナルに政権が検察に「森友改ざん」で圧力をかけたとの記事が記載されていた。[6]三権分立が既に破壊されてしまった事の帰結ではなかろうか?それはもう癒着と言う感じの出来事。さて法務省は英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし非常に残念だが看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます。又冤罪の温床。検察庁の面々も世界で通用しない偏狭な自己保身的考え方を持っている様で無実の人を冤罪に貶めるのが非常に得意なのである。持ち論その真逆の事も昨今の得意技として挙げて良い。

この章の最後にあたり: 直感的に、近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が国内非常事態宣言を行う可能性が非常に高いと思う。国内の混乱の期に乗じて原理主義者主導の下、独裁政権下で立法府行政府司法府の私物化を加速するのは時間の問題の様な予感がする。非常事態宣言の後に改憲と言うシナリオである。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのだ。現憲法下で築き上げて来た皆が繁栄する社会から残念ながら全てが逆行する戦前社会へと日本は退化しつつある。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ-最終回, No.2,"投稿者 プラナリア 日時 2018 年 7 月 28 日
http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/384.html
[2] "日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常," 投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日, http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[3] "「日本会議の研究," 菅野完、2016年、扶桑社
[4] "食べて応援しよう! 被災地を応援," 食料産業局食品流通課, 農林水産省,
http://www.maff.go.jp/j/shokusan/eat/
[5] "王の目," Wikipedia,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E7%9B%AE
[6] "【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに," 田中龍作ジャーナル, http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/575.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 3章 「Justice is not done; 社会正義が行使されない国」
この章は2012年7月に投稿した文[1]の中の1章を基にして内容を更新、再投稿します。

==
それにしても石が流れ、木の葉が沈む何と言う時代となってしまったのだろうか?日本で社会正義が行使されてない事実を隠そうと懸命に努力している特権階級の事を思い浮かべて頂きたい。原子力災害を職務怠慢により、おこしてしまったTEPCOの事故前の経営陣の責任と罪。そしてTEPCOに対する監督不行き届きの霞ヶ関の面々の責任と罪。更には日本の女性蔑視社会を世界に知らしめた、不逮捕特権を持っているかの様な現首相のお友達。動かない何もしない検察庁のみならず、司法府の過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々との癒着ぶりがハッキリと白日の下見えて来る。これで法の番人とは笑ってしまう。彼らが自分自身の保身と出世と言う強欲の為に、面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の、腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。

まず"Justice is done"と言う言葉の定義をチェックしよう。残念ながら日本の現状を見るとそこへも辿り着いていないのである。言葉の説明は Wikipediaの"Retributive justice"を参照して頂きたい。[2] 正義の為の応報とでも訳すべきか。その中で18世紀のドイツの哲学者カントの考え方が引用されている: ".... Kant regards punishment as a matter of justice, and it must be carried out by the state for the sake of the law, not for the sake of the criminal or the victim. He argues that if the guilty are not punished, justice is not done. Further, if justice is not done, then the idea of law itself is undermined."抄訳すると、"哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである。"

行き着く所、国会であろうが検察庁であろうが警視庁であろうが罪を犯した人達を世の中に蔓延らせ、善良な市民を犯罪者に仕上げる面々を罰していないのはどうしてなのか?

それは無理だよ。だって皆さん世界に通用しない島国根性の考え方をお持ちだしね。ここに一例。2012年1月のこのウェブに投稿した拙稿[3]に以下記しておいた。力を込めて書いた長文の[3]を是非読んで見て下さい。「[番外] 25 何でニュースを批判的に見ないのか?:単に情報として聞くだけ、読むだけの話のネタ。**日本人の弱さ** (段) 26 そして何故大局的に物事を見ないのか?:上記25に関連して。東京電力女性社員の殺人事件の被疑者であるネパール出身のゴビンダ マイナリ氏のDNAが被害者の女性より見つかった犯人の精液のDNAと不一致と言うニュースがこの7月の時点で流れた。何故この時批判的に又大きく観れないのか?精液のDNA鑑定で更に犯人の民族的特徴も解読できる筈。しっかり心の眼を開け。日本の市民!**日本人の弱さ**」ジャーナリスト達も大きく考えられないオバカ達である。この声が天に届いたのかは知らない。が15年もの間無実の罪で服役していた彼は程なくして刑の執行停止の後釈放され無事家族のいるネパールに帰国した。恥ずかしいぜ。

この章の最後にあたり: 法治国家の大原則は「何ぴとたりとも法の上に立つ事が出来ない」のである。つまりそれは法の下の平等と言う普遍的な決まり事が常日頃実行され続ける社会なのである。"Justice is not done,"正義が行使されなくなるとどうなるのか?皆さん御存知ですよね!!悪事が懲罰されなくなり、結果として世の中に悪がはびこってしまう訳。

痛恨の極み。石が流れ、木の葉が沈む時代となってしまった。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ-その3, No.1," 投稿者 プラナリア 日時 2012 年 7 月 08 日,
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/457.html
[2] "Retributive Justice," Wikipediaより,
http://en.wikipedia.org/wiki/Retributive_justice
[3] "日本の市民の皆様へ-その2," 投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日,
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/576.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった 本当の理由 - 4章 「憲法改正の実現方法をシミュレートせよ」
今週7月1日の拙稿「日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 2章 『すっかり破壊されてしまった三権分立の原則』」に意見を述べさせて頂いたがまさかその日に投稿で指摘していた実情を目撃するとは...正に悪夢である。原理主義の司令塔が行政府と共にそのイデオロギーに基づいて国政を動かしている事がはっきりしてしまった。この日、政権の広告塔である日本経済新聞電子版が以下いち早く報じていた。「韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も」と言う記事[1]である。その中で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」日本の社会で政権与党は嫌韓を人々に煽動しそれを風潮として作り出し政治的に利用しているのは皆さん御存知だと思うが、この煽動が経済界にも波及して来た事は小生のとって非常にショックなのである。それは、原理主義の司令塔が叩く憲法改正を奮い立たせるドラムのビートがかなり速くなって来ているのを肌で感じるからである。ドラムのビートに合わせ強欲な原理主義者達がメディアに露出する頻度が高くなって来ておりその発言内容が一段と濃くなって来ている事実。既に2章で参照した菅野完氏の「日本会議の研究」80ページに「●ついに始まった、日本会議による改憲への『カウントダウン』」とあるが全ての事が原理主義の司令塔の筋書き通りに進んでいると言う事。 

個人的には二大政党下で憲法改正に向けた議論を行う事に対してはやぶさかではない。悪い所があれば修正して行く事は勿論の事である。

処で小生が大学の政治学科で教えていたとしたら研究室の学生を2つのグループに別け一週間と期間を区切って、一方は憲法改正の実現法を下調べの上シミュレートさせ、他方には憲法を死守する方策をシミュレートさせる。そして双方のグループで綱引きさせて議論を戦わせる。これは非常に知的に面白い内容になるだろう。でも日本の大学でこの様な事をやる柔軟性あるのかな?しかしこれは深刻な現実問題なのである。既に原理主義のアーキテクトは憲法改正実現の方策を何十年前に設計し、今までその設計図通りに実行して来た訳。立法府に議員を送り込んでいる政党で憲法を守る事を党是とする党が一同に集まって憲法を守る方策を、今に至るまで練った事が無い事は今の国政の惨憺たる状態を見れば誰でも判るだろう。野党間で考え方の違う政党と敵対し憎しみ合う。これも以下述べる原理主義のアーキテクトの策にハマった政治屋さん達。人々が苦しむ時代に光をさし込ませる様に時代を切り開こうとしない、大胆さもない心の狭い政治屋の面々。

前置きが長くなった。これからどの様な方策があるか双方の立場より列挙してみる。(尚マキュアベリの君主論や孫氏の兵法は参考にしておりません):
■まず敵と味方を峻別する
■人材を育てる
■方策を順序化しタイムテーブルを作り優先順位を付ける
■身内の人材を選別し公共的中立的な組織に送り込み勢力下に置く
■味方には利権利潤特権を与える。特に財界
■敵味方どっちに転ぶか判らない勢力をこちらに引き寄せる
■敵を徹底的に壊滅させる、懐柔策を行使し無力化させる、お互いいがみ合わせる、囲い込む。日本では二大政党制さえも無くなった
■敵にスパイを送り込む、弱みを握る
[福次的方策]
■(改憲派のみ)経済の活力をそぐ。バブルの時代の頃には皆が潤っていたので憲法改正なんて誰一人考えていなかった。窮すれば鈍する
■(改憲派のみ)国内における教育及び知的水準のレベルを下げて人々から考える力を奪う。テレビ雑誌等の内容を愚者好みにして、人々を愚民化させる。小学生達がオンラインゲームに夢中になっている時代だ
■(改憲派のみ)時間をかけて皆が変化が判らない様に、方策を少しづつ実行する。茹ガエル戦法
■(改憲派のみ)ニュース機関等のメディアをコントロールし、人々に原理主義の司令塔から送り出される改憲戦略になびく様な風潮を造る。不都合な真実に関するニュースには制限を与え都合の良いニュースに情報を偏在させる事で可能
■(改憲派のみ)知る権利の徹底的な制限。とても大事な事が隠される。どうでもよい事を大げさに報道し人の心を占有させてしまう事。即ち人々から客観性(物の見方とか)を奪い、主観を植え付ける
■(改憲派のみ)メディアは人々の誘導の道具。「日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず」2019年6月2日の日経電子版のニュースである。[2]この様なニュースに接した若者が「あ、そうなんだやっぱり内向きだったんだ」と思い込ませその風潮に同調し、自ら殻を打ち破れない保守的な気持ちを生じさせる。移動しない、出不精。違った文化を見ようとしない。別世界から日本を見ない、大きく国際情勢が見れない。改憲マシンは若者に世界の事を知らせたくない訳。風潮が自由に創れるのである
■(改憲派のみ)群衆行動のパターン分析。特に日本中のどの家庭から及びどの携帯から何処のウェブの記事を何分間見ていたか等、厳密な個人の政治嗜好の調査集計を行い政治の風がどちらに吹いているかを鳥瞰し、メディアを通してその流れを変える様手立てを行い群衆を誘導する
■(改憲派のみ)政権に対し、発言する事に脅しや懲罰などの恐怖心を植え込み発言する人間を萎縮させる。例としては特定秘密保護法
■(改憲派のみ)奥歯に物が挟まった様な表現を多様し物事をストレートに言わない。社会から単刀直入さを抹殺した上軟弱にさせて攻撃性を奪う事。実体を見えなくさせる事。常々疑問として思うのだが、一番最初の段で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」とある。この「政府」の定義は一体なんなの?マスコミの皆さんもう何十年も間違ってこの用語を使っているのではないか?私は「政府」とは"The Government"即ち立法行政司法の内特に行政府と理解しているのだが。このニュースの主語は「政権と行政府]と言う言葉が適切ではないのか?日本のジャーナリズムは地に落ちた。読売新聞英語版にはきちんと主語が書かれている。経済産業省が主語: "The Economy, Trade and Industry Ministry announced Monday that the government will more tightly control exports to South Korea of chemicals used in producing semiconductors and other devices."[3]

個人的な感想として断っておく。原理主義の司令塔は財界と協力し経済的に市民を徹底的に搾り取った上不満を外に向けさせて、人々に投票は無駄と洗脳。その上で政権を維持し続ける仕組みを築き上げた。がその後がある。私には次の二つのうちどちらが先に実行されるのか判らない。1) 「憲法改正」 2) 「米国から貰い受けていた核兵器の設計図を元に一週間で核兵器を造り上げ、核実験に持ち込む」。一度日本が核実験をしたらもう引き返せない。完全な平和憲法の死を狙っている訳。(政権の力が余りに強大なので残念ながらその設計図が行政府にあるかどうかの情報は国政調査権を実施しても出て来ないだろう。がその価値はある)。そしてあの大戦の苦しみを通して築き上げて来た平和国家を捨てて、軍事大国として不死鳥の如く瀕死の状態から日本を復興させるシナリオが用意されているに違いない。

この章の最後にあたり: 日本会議のイデオロギーと憲法改正の実現手法が日本全体に害を与え続けて来ているのである。足並みが揃わない野党の党首達に告ぐ!一丸となって憲法を死守する方策をシミュレートする度量は無いのか?

参考文献等:
[1] "韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も," 日本経済新聞のウェブ, 2019/7/1,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46789890R00C19A7EAF000/
[2] "日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず," 日本経済新聞のウェブより, 2019/6/2,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45589930S9A600C1CR8000/
[3] "Japan to effectively ban exports of semiconductor materials to South Korea,"
"The Japan News by The Yomiuri Shinbun," 2019年7月4日,
http://www.the-japan-news.com/news/article/0005845877

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/753.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - その5章 「音楽は政治を批判してはならない」
この章は2018年8月4日に投稿した文[1]に手を加え内容を更新したものを再投稿します。
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その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政権と行政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の市民の皆様はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません。以下小生の音楽の嗜好が入る事、何卒お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催している。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。日本ではこんな事考えられない。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。彼の心の奥底にはイデオロギーとは全く関係のない原始キリスト教的なヒューマニズムが宿っているのだ。(イデオロギーから愛は派生しないよね)。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを以下張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。

■ "If a tree falls"[2] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の歌詞を"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と替えて、子供が倒れても知らん振りをしている各地方の学校の先生、地域自治体の教育委員会の従業員の皆さんに贈りたい
■ "Pacing the cage"[3] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと痛感する
■ "Silver wheels"[4] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲
■ "A dream like mine"[5] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
■ "Gavin's Woodpile"[6] 彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."「システムがあなたを騙ます様にさせるな。システムがやりたい事すべては(一つ)、あなたを支配する事だ」と歌う。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の中の一つの理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた巨大な改憲マシンと言う"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷だ。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政権と行政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を攻撃或は理由なしで咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと強欲な彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。「だって政権を批判したら番組降ろされちゃうもんね」と言う感じか?そんな国は世界の標準に達しないのでG7の国々の中にいてはならないのである。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺した。

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[7]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle human nature and to suppress truth."[8]抄訳すると「表現の自由は人間の権利の基である。人間性の根幹、真実の母なのだ。表現の自由を殺す事は人間の権利に対する侮辱であり、人間性を窒息させ、真実を抑圧してしまうのである。」

この章の最後にあたり: 『表現の自由』は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット(香港の若者の行動力には恐れ入る)。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、『表現の自由』の一部で或る事を決して忘れてはならない。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.3" 投稿者 プラナリア 日時 2018 年 8 月 04 日,
http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/659.html
[2] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム"Big Circumstance," 年,https://www.youtube.com/watch?v=ErS9HCh8GfE
[3] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[4] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[5] "A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム"Nothing but a burning light,"
https://www.youtube.com/watch?v=0eG23MqIMos
[6] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
[7] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[8] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/754.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第6章 「欲望の行き着く果てに」
この章は2018年8月5日に投稿した文[1]に手を加え内容を更新したものを再投稿します。

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これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。私なりの強欲の定義は:他人を押し退ける気持ちから生じる行為の源である。

あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミ。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらの内の殆どはヒューマニズムに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に、或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居かつ影響を受けてしまう事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う用語を用いる事でこれを説明出来よう。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラに血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに安全性と言う公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達は起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。それでもこの不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き 対 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCO、その取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に放射性同位元素が混入した食品によって遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得ようとする欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪と今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。あなたはこの忙しい心の奴隷になってしまった。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこにある国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通して提示したい。何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuoteとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り: "What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you may have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるかもしれませんが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニズムは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが原理主義者の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされ、この世界を目の当たりに日々生き、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを貫き通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と。この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中にも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい。何故なら相容れない2つの実体だからだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[2]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[3]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」尚私見だとお断りしておく。東京都武蔵村山市にある国立感染症研究所へエボラウィルスを輸入し研究するとの事である。[4]しかし現政権がひた走る日本の軍国主義化の下、生物兵器の開発に使われない保証は全く無い事を記しておく。

この章の最後にあたり: 自分の心が見える鏡があったら良いのに、と思います。今の自分の気持ちが何色なのか分るかもしれません。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.4 「欲望の行き着く果てに」,"
投稿者 プラナリア, 日時 2018 年 8 月 05 日,
http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/694.html
[2] "中学生の満州敗戦日記," 今井和也著, 岩波ジュニア新書
[3] "731部隊," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
[4] "夏にもエボラウイルス搬入、専用施設稼働へ 感染症研," 日本経済新聞ウェブ, 2019年5月30日,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45466750Q9A530C1CC1000/

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/814.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第7章 「何処から、何処へ、何ゆえに」
この章は2018年8月12日に投稿した文[1]に手を加え内容を更新したものを再投稿します。

フ〜ッ。やっと半分に辿り着けた。ここに2019年6月24日から阿修羅の政治板に投稿して来た文の一覧を記載する:
1章 巨大な改憲マシンの中で
2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則
3章 Justice is not done; 正義が行使されない国
4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ
5章 音楽は政治を批判してはならない
6章 欲望の行き着く果てに
7章 何処から、何処へ、何ゆえに

それから、「日本の政治が腐ってしまった本当の理由」シリーズをTwitter等で拡散して頂けると非常に嬉しいです。政策論争も争点も何もマスコミの前面に出て来ない今回の異常な選挙の風潮。この腐りきった日本が少しでも良くなって欲しいのです。
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この表題の様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家は殆ど居るまい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。こんな面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の人々の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 対 「沈黙、内省とモラル」について考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がギトギトとした欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の結果/帰結と言う事。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下(平成30年時点)の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた原理主義者達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見ればよい。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。それは心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。この投稿のシリーズ後半にあたり、この段の内容を心に焼き付けておいて下さい。

処でこの章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[2]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[3]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[4]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[5]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'「風潮」として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家群が本書発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚'ethos'の日本語訳は:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と解釈している。

この章の最後にあたり: 悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。もしあなたが経済的に社会的につらい思いに堪え、その結果「喧噪と欲望」を日々選択せざるおえないとしたのなら、そこからまず一歩足を踏み出してみようではないか。少し時間がかかるかもしれない。でもあなたの歩みだした先には希望が待っている。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.5 「何処から、何処へ、何ゆえに」," 投稿者 プラナリア,
日時 2018 年 8 月 12 日, http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/167.html
[2] "カール ヤスパース," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[3] "カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)," ミネルバのフクロウ,
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[4] "核兵器の歴史," ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[5] "The atom bomb and the future of man," Karl Jaspers, 1961年 The University of Chicago

http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/815.html

[政治・選挙・NHK262] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第8章 「そして全てが逆行する社会へ」
この章は2018年8月13日に投稿した文[1]に手を加え内容を更新したものを再投稿します。
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兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、そして日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の司法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった様である。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。それは原理主義の司令塔がそれを上回る勢いで自分達の原理に有利になる様に世の中の風潮を変質させてしまったから。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。悪臭プンプンではないか?真に以ておぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今彼らは自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐらなのだ。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのはインターネット上のコンピュータや携帯電話の所謂「IPアドレス」を用いる事によりどこの地域の誰それが、どの家庭が世論誘導の為に設けたウェブにどの位の頻度でどれだけの時間を割いているのかの群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。世論操作も簡単に行える訳。何と言う息苦しい世の中なのでしょう。

この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今自分達が立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これらは生命の滅亡を連想させる。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いて充電した電気自動車(即ちよりクリーンな車)が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも原子力推進を行い、CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは内閣府と政権、その後ろに控える原理主義の司令塔とそのインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々が全くいないからと解釈する。だから人類が直面する問題を捉える事が出来ない訳。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に従って核兵器禁止条約への不参加と言う、この矛盾した意思表示を見れば日本の政権と政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。2018年6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。つい先週2019年6月28日と29日に大阪で行われたG20においても世界情勢を客観的に捉えられない故、国際的なリーダーシップを全く発揮出来ない日本の政権の実情を世界中に曝け出してしまった。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げよう。私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたとしてどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒。神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[2]:
■ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
■ 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由
■ 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張

日本は政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える教権主義的な考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつある訳。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因だと私は思っている。日常の風習の色がそして世相が大きく変化しつつある訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本に住む人全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る政権がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習風潮の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する政権の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の人々に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアを用い宣伝している。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。人々に言わせれば「国はその様な事は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと感心してしまう。

それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[3] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle,Facebook,Apple,Amazon等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。しかし企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と、国際的な常識が通用しない島国根性の政治屋の面々。その結果命を粗末に駒として扱っても平気な「美しい国」となってしまった。大政奉還で欧米の仲間入りに向けた独自の体制の構築を目指し、明治大正、昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は他国からも尊敬されない三流国に落ちてしまった。

この章の最後にあたり: 真実が隠される時代。皆嘘つきだ!

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ、最終投稿 No.6 「そして全てが逆行する社会へ」," 投稿者 プラナリア,
日時 2018 年 8 月 13 日, http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/199.html
[2] "世俗主義," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[3] "EU一般データ保護規則," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/855.html

[政治・選挙・NHK263] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第9章「日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事」
この章は2012年1月に投稿した文[1]の中の2章を元に書き直し一つに纏め上げ、再投稿します。
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学生時代に良く話を聞きに行った研究室の教官がふと漏らした言葉が今でも忘れられない。それは: あなたが、或る夜に満月を眺めていたとしよう。その時にあなたの頭の中はまっさらな状態であった。程なく眺めていた月が少しずつ暗くなって来た事が判った。何か、月の格好が奇妙に変化して来たと感じる。不思議である。暫くの間、あなたは何が起っているのか判らない状態であった。よくよく月を見ると少し欠けているではないか。

そして非常に大きな電気的ショックが頭の中を横切る。

言葉抜きでその出来事を見たのである。ありのままの自然現象を目撃した訳。言葉のフィルターを通さずにこの様なこの世界の出来事、ものごとを見る事は今まで経験した事が無い。それが一番目のショック。二番目のショックは言葉を通してものごとを見るよりも、その神々しい現象に自分がより近づいている状態で「それ」が見える、もう一つ上のレベルの認識が存在する事実を覚醒した事。

言葉にするにはちょっと難があるが、あなたも「現象としての月が欠ける事」と「月食」と言う言葉を頭の中に入れてこの出来事を比べてどれだけ違いがあるのかを考えてみて下さい。

名詞としての言葉を用いこの出来事を見た場合には、皆既月食が何月何日にありますと頭の中にその情報が既に刷り込まれて、「それ」が始まる5分前になって外に出て月を眺め天体ショーを楽しむ事になるのである。一方予め頭の中に出来上がってしまったイメージで眼の前の現象を見てしまう場合と比べ、眼の前の出来事を、頭の中の回路を通さずに(既知でない)目で見る、目撃する場合。それは即ち神秘的なこの世界の出来事を知覚を通し目撃 vs. 月食と言う言葉でこの現象を見る事と言い表せる。ここで例を挙げよう。プロフェッショナルな世界では、眼の前のものごとと向き合う時にフィルターを通さない即ち極力言葉をそぎ落として現象に、出来事に迫って行くアプローチをとっているのです。つまりものごとの本質を突き詰めて行くにはこの様にしなければならないのです。例えるとしたら内科医が患者さんが抱える体の問題に対するアプローチに似ています。患者の体の症状を色々な手立てで観察しそれを元にその人が語る体の症状により体の中で何が正常で無くなっているか、機能し難くなっているのか等を判断する。そしてその症状を分類された病名にあてはめる訳。病名、病理判断の前にそれだけの手順を踏んでいる訳。患者の体に全く触れないで患者の言う事に耳を傾けて診断するアプローチを採るのが薮。(でも考えると「満月」って言うのは一つの「それ」なんですね。)この二者のものの捉え方のアプローチが社会的に産み出す結果は大きな差があるのだ。

まず頭の中のフィルターを取り除き、つまり頭の中の言葉と知識を通さずに眼の前の出来事を見てそれを認識すると言う事が最初のステップ。これは単にものごとの本質を頭の言語領域を使わず認識、見る、理解し頭の中に写真のフィルムの映像の様にすり込むと言えましょう。つまり言葉に表す前に知覚を用い「それ」を見る訳。そして次に初めて「それ」を言葉を使って自分の頭の中の知識の領域に固定する或は頭の中の他の情報と照らし合わせる、等の作業を行うと言う手順。眼から言葉知識先入観等の鱗を取払い眼の前の出来事にアプローチする事。それがものごとの本質的、そして客観的な見方。この立場は英語で言うと"perceive."既に用いたが日本語で"知覚"と言う言葉で表せよう。何故この様にするのか、しなければならないのか?理由は簡単である。言葉以前に物理現象、ものごとや社会現象の方が先立って存在する事。そして言葉を超えて存在する「それ」に畏怖の念を持って接しなければならないのである。

❶「知覚の不在」
この知覚を用いたものの捉え方は現象、ものごとがまず先立ち、その後言葉が追いかけて来ると言う手順。それが我々が生きているこの世界の出来事に対する認識の基本であり、かつサイエンスの世界での常識。一方実体を眺める時それを表す名詞、言葉がまず先立ち一人歩きし、現象やものごとの本質的な部分への理解が置いてきぼりにされてしまう習慣。言葉を振り廻すだけで判断停止。平たく言えば、その名前だけ知っていて中身を知らないと言う人間に満ちた社会。更に、悪く言えば知ったかぶり。これは日本社会を覆う最も巨大な弱点である。そして「知覚の不在」は日本が一流国から転落してしまった主原因なのである。これを補強するそのほかの3つの原因は後ほど述べる。これは上から下まで日本の殆どの人が陥っていている、ものごとに対する判断形式とその習慣。これが長年に渡り積み重ねられて来た。言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い。凄まじいばかりの知力の低下である。これでは日本が三流国に落ちるのは必然と思う。更に「その」中身を知らなければ自分の中の確固たる「それ」に対する意見は生じない。それ故に同調圧力で自分の考えがコロッと変ってしまう。

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さて上記の知覚を通してものごとを見ると言う習慣が無くなってしまった事からおこってしまった不幸な事をこれからお話しよう。大事な事を書いたつもりです。度々御免なさい、又3.11の話になります。少し辛抱して最後まで読んで頂けますでしょうか?題目としては「津波」と呼ばれるものごと。

米国にIEEEと呼ばれるエンジニアの組織がある。IEEEは会員エンジニアに論文集や、電気電子業界絡みの読み物を提供している。彼らの月刊誌の"IEEE SPECTRUM"と言うと薄手の読み物に今回の福島の原子力発電所でおこったメルトダウン事故に関して何人かのスタッフが記事を書いている。その中で、ピカ一の記事があった。2011年11月11日号の記事、"24 Hours at Fukushima"[2]である。この記事の中に一番最初に載っている写真がある。かわいい女の子がマスクを半掛けして、体に付着しているであろう放射性物質の測定をされている写真である。胸が痛む。

この"24 Hours at Fukushima"の著者Eliza Stricklandと言う方は福島の原子力発電所のメルトダウン事故に関する記事を"Spectrum"に6回投稿している。この記事[2]の一番最後の所に"Spectrum"から出されている福島の事故に関連した記事が載っているので参照して見て下さい。これらの記事に載っている写真はまだ日本で公開されていない物が含まれている様だ。彼女は「原子力」の本質を良く理解しているプロフェッショナルだ。この記事は日本の原子力村の常識が世界の水準に達していなかった事実を世界中のエンジニア達に曝け出した。以下この"24 Hours at Fukushima"で彼女から今回の原子力災害のレッスンが提案されている。以下その6つのレッスンは後だしジャンケンのきらいはあるが非常に説得力のある助言である:
Lesson 1: Emergency generators should be installed at high elevations or in watertight chambers.
Lesson 2: If a cooling system is intended to operate without power, make sure all of its parts can be manipulated without power.
Lessen 3: Keep power trucks on or very close to the power plant site.
Lesson 4: Install independent and secure battery systems to power crucial instruments during emergencies.
Lesson 5: Ensure that catalytic hydrogen recombiners (power-free devices that turn dangerous hydrogen gas back into steam) are positioned at the tops of reactor buildings where gas would most likely collect.
Lesson 6: Install power-free filters on vent lines to remove radioactive materials and allow for venting that won't harm nearby residents.
[日本語訳]
レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ
レッスン 2:冷却装置が電源無しで動作する様になっているのなら、全ての部品が電源無しで操れる事を確証すべし
レッスン 3:電源車両を発電所の極めて近い所に配置すべし
レッスン 4:緊急時に電力が必須な装置に、独立した堅牢なバッテリーのシステムを設置せよ
レッスン 5:触媒を用いた水素再結合機(非常に危険な水素ガスを水蒸気に戻す電源不要な装置)は水素ガスが最も収集し易い原子炉舘屋の最上部に設置されている事を確証すべし
レッスン 6:ベント用の配管に電源が不要な放射性物質の除去フィルターを設置し、周辺住民に害を与えずにベント出来る様にすべし

その中のレッスン3が守られていたのならと悔やまれる。何故か?以下TEPCOの資料[3]の17ページより引用させて頂く:「
・ 緊急時対策本部のTV会議システムを通じて,福島第一原子力発電所(以下,「発電所」)の電源が津波によって喪失したとの情報が入ったことから,本店原子力部門は本店配電部門に対して電源車の派遣を要請。11日16:10,本店配電部門から全店に対して,高圧電源車・低圧電源車の確保と発電所への
移動経路の確認が指示され,16:50頃,全店の電源車が福島に向け順次出発
した。
・ 11日16:30頃,本店対策本部から他電力へ電源車の救援を要請。18:15頃,東北電力の高圧電源車
3台が発電所に向かっていることを確認。」
一方ウォール ストリート ジャーナル日本語版ではその後どうなったかを記述している[4]:
「午後11時頃、最初の発電用トラックが到着した。東京の首相官邸では歓声が上がった。
だが、喜ぶのはまだ早かった。発電所の損傷したメインスイッチに、発電機をつなぐことができなかったのだ。ケーブルの一部が短すぎて、発電所の別の部分まで届かなかった。津波警報も発せられ、作業員は高台に避難しなければならなかった。最初の24時間のうちに接続できた発電機はわずか1台だったことを、東電の資料が示している。」

地震で電源が遮断された真っ暗な2つのコントロールルームの中全ての方々が東京電力福島第一原子力発電所吉田所長の指揮の下原子炉のメルトダウンを防ぐべくそれこそ命を投げ捨てて懸命な作業を行っていたのである。彼ら英雄達に心より感謝し又、吉田所長のご冥福をお祈りしたい。そして現在懸命に福一で作業されている方々に御礼を申し上げたい。

さて、これは手元に消化器が無い家が火事になって隣に消化器を借りに行っている間、あれよあれよと延焼してしまった例に例えられる。これは明らかな職務怠慢。非常用電源車を発電施設のすぐ傍に配置しなかった危機管理手法の不在。これが対策されていれば多分3号炉と4号炉は救えたのではないかと思える。明らかにTEPCOの怠慢による業務上過失の罪に問われよう。特にレッスン6の対策が成されていたならベントを周辺住民の避難が終わるまで待つ事無く行えた可能性があり核汚染の事態が少しは好転できたかもしれない。既に結審しもう直ぐ判決を迎える「東京電力の旧経営陣3人が福島第一原発の事故を防げなかったとして検察審査会の決議によって強制的に起訴された裁判」[5]の記事を見ると「津波の予見」の能力の問題に議論が集約されるだけでEliza Strickland女史が指摘している様な設計上の問題点を改善する事無く(例えば上記「レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ」にある防水施行を施す様な努力を怠った)且つ、非常用電源車の配置の様に基本中の基本がないがしろにされていた事実さえも裁判の論点とならない事。この記事は凄くしっかり書かれて居り、読む価値が有る。Web上での記事の「詳しくはこちら」を選択して全文読んでみる事を推奨する。国際的な視野からするとこの国の最高峰の機関、三権の一つの司法府で行われている検察側とTEPCOの弁護側の議論がカバーするスケールの小ささと、かって時価総額日本一を誇っていた素晴らしい会社の経営陣が運営上実行、実践していた事の内容の程度の低さ、を暴露してしまう記事である。この様な国の根幹としての電力企業の運営上の厳密な手順等に関わる非常に重要な裁判なのだが、この裁判で双方原告側と被告側が議論する内容だけ見ても、何と言う日本の知性の低下だろうか、と驚嘆せざるを得えないのである。この国では人々のLiteracy即ち文字が読めて判る識字率は非常に高いが、人々の知力は惨めな状態である。処で、個人的に思うのだがこの日本で6つの条件を全て満たす再稼働中の原子力発電所はあるのだろうか?

話はガラリと変る。以下のウェブを御存知の方は少しはいらっしゃるかと思います。米国にある"Cryptome"のウェブで2011.3.11から4年弱の間の継続した福一の現場の写真が閲覧出来る。[6]よく集めたものだと関心する。TEPCOのウェブからとって来たものが多いと思う。しかしその真実を知りたいと言う原動力は科学者が持つ様な真実に対しての飽く無き追及心からではと思う。その中で、3.11事故間もない時に日本の会社が撮影した上空からの事故現場の写真が2011年3月24日からその撮影会社[7]のウェブから閲覧できる様になっていた。しかしこれらオリジナルの写真はものの二、三日で削除されてしまった。何処からか圧力が掛かったのだろう。体の良い検閲である。その後Cryptomeが4月2日から同じ写真を同ウェブに掲載している。これらの写真[8]を見るとたとえ単独でも絶対に起こってはならない原子炉の溶融事故が3つの炉でほぼ同時に、又核燃料プールの爆発破損が1カ所、平行しておこっていた多重事故、と知覚で理解できるのだが。皆さん、CryptomeといいIEEEといい海外のメディアからの情報と比較して何故日本の社会の中ではものごとを客観的に見れないのかを自問された事が有りますか?

❷「真実の隠蔽」
さてこれから述べる❷❸と❹は知覚の不在を補うかの様に日本の社会で行われている習慣である。

おこってしまった核汚染の現状を直視しない事が何故出来るのか?おきてしまった事は既に其処にあるのである。それらを隠し通してどうするのか?そうする事で誰にメリットが生ずるのか?やれやれ、この世界のありのままの姿さえも無視する脳内完結しているオバカ達。真実を隠す事で問題解決が遠のいてしまうのが判らない、絶対に今回の核汚染事故の責任を取りたくない原子力マフィア。当事者で無いと言えばそれまでだが、何故IEEEやCryptomeの様な海外メディアがこの様な写真を持っていてそれらを開示しているのか。その一方で当事者の日本の行政府が何故進んでこれらの写真を開示しないのか?それは何故かと言うと、おこってしまった事を知覚を通して見れない上に、行政府はTEPCOの原子力発電時事業における業務の監督を行い、怠慢が無いかどうかを監視する義務があった訳だがそれを放棄していた事でTEPCOが世界を震撼させる核汚染事故を起こしてしまった訳。その責任を取りたくないのだ。

前半で述べたが「言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い」事を人々に継続させるのが為政者にとって重要なのだ。言葉でものごとをラベル化し、「知覚の不在」を実行し、言葉だけが一人歩きする様にその本質を隠す事がまず第一。更にその本質を物理的に隠す為に「真実の隠蔽」を行う訳。知覚を用いものごとと対峙する事と言葉を用いてものごとと対峙する事の関係においては主従関係が逆転しているのである。そして原子炉メルトダウンをおこしてしまったTEPCOや行政府の関係当事者は隠蔽された真実がそのまま表に出て来ないで闇の中へと消え去るまで時が過ぎるのを待っているのである。判るだろうか。この手の病が権力中枢に巣食っている。何やらサーカスのショーの様にあの手この手を使ってTV、新聞インターネットで本当は取りに足らない事を大々的に報道し本当に大事な事には目くらましさせるプロパガンダ。このやり方が顕著になりつつある昨今である。何やら既に起きてしまった核汚染と言う事が、「通常」の状態になってしまう恐ろしいまでの市民に対するマインドコントロールである。何処かの独裁国家よりもスマートに市民を洗脳している。

❸「ロジックの不在」
まだ続きます。日本の原子力マフィアよ、原子力村の村人よ。君たちここで何が足らないか判っていないのか??或るものごとを判断する際には厳密、厳格なロジックが必要なんだよ!!お前ら判断停止していたんじゃないか!!

あなたは凄まじいばかりの海水が押し寄せて来る出来事を直接目撃、或はTVやYoutubを通して見て来た筈だ。目の前の出来事を心を通して見ていたと思う。あなたは見た、目撃した「それ」を「津波」と十把一絡げにして表現出来ない事は判っている筈だ。

大事な事は世の中に氾濫する名詞、言葉の後ろに隠されているものごとを見れるか、見る習慣があるかどうか。津波と言う名詞から「それ」をイメージ出来る言葉に分解してより原初的な言葉に置き換える事をやってみたら良い。あなたの眼の前の出来事は"津波と言う現象"と言う言葉で言い表すよりも更に心に深く刻まれた"現象としての押し寄せて来る膨大な量の海水"を目撃体験したのだ。あの空恐ろしいまでの海水の量を直接観た人々は、言葉を用いて物事にアプローチするより目の前の出来事をそのまま、言葉と知識と言うフィルター抜きで受け入れているのがお判りいただけるだろうか?また"地震"をマグニチュード幾つの地震と思わず、"現象としての大地が揺れる事"と知覚で捉る様に試みて下さい。同じ解釈を採りますと、3.11以降の放射能汚染事故を"現象としての原子炉の爆発"の結果と言うもっと簡単な表現で知覚する事が出来る。これを押し寄せる濁流や大地が大揺れする事と重ね合わせて見て下さい。人間の小ささが判るでしょうし、原子炉即ち機械なんて押し寄せる濁流や大地が大揺れする事で壊れるものだと納得します。其処からが出発点。イマジネーションを働かせてああなったらこうなる等、論理的な道筋出しを行う事、即ちロジックを用いる事が必要なのである。自然界ではおこる事はおこるのである。全方位の要素を鑑み、その対策を行うのが当たり前じゃないか?おこらないと思っているのは人間側の都合である。だから「押し寄せて来る膨大な量の海水」に対する対策を行わなければと言うロジックは、必要が無いと都合の良い解釈に陥る。何故なら脳内完結している状態で原子力発電は安全だと思い込んで来ていたから。おこってしまいそうな事を「津波」と言う言葉で見てしまい「それ」を知覚で見ないから、ロジックを用い「それ」を思考の上対処する危機管理が出来ない訳。

でも皆さん何時もTVを見てたらロジックなんて自分の中に育つ訳ないよな。でもね、言葉の世界からこの世界を見ると平面、頭の中で完結しているのです。まずTVを消してみて下さい。言葉を用いずにこの世界を見ると何と奥が深いのだろうか...当たり前だ。頭の外に存在する(出来)事だから。この世の中に言葉だけで中身が余り無い人間がどれだけ造り出されてしまったのだろうか?脳の中でグルグルと廻っている輪を断ち切って外の世界に対して心を開いてみよ。

さてどの様に人々から知性を奪い取るのかの手法を考えよう。日本で蔓延する、TV番組の中で延々と行われている悪しき習慣に付いてである。専門家なる人物或は政治評論家なるコメンテータが何時も必ず登場する事。何時からコメンテータなる人間達がテレビ番組に出、自分の意見を述べる様になって来たのだろうか? そして何時から人々が彼らの話を御信託の如く鵜呑みにする様になってしまったのか。その他何時から人の知性を吹き消す様な短い不愉快なリズムの音がテレビで流される様になったのか? TVのコメンテータなんて「講釈師見て来た様な嘘を言う」のと同じで、知ったかぶりで現場にも足を運ばない、 現場の声も聞かない「ジャーナリスト見て来た様な記事を書く」のと同類の面々である。悪い事にTVのコメンテータの言葉をそれぞれ検証もせずロジックも無しに信じ込む人々。❶「知覚」と❸「ロジック」の適用を行わないから、日本は改憲マシンの中で上から下までオバカになってしまった。更に輪をかけ、情報を捏造し嘘を言い、真実を真実として扱おうとしないで検閲し隠す。瑣末な事に気を分散させ、大事な事を気付かせない。そんな風潮を造り出して来た、王様の様に振る舞っている極悪な面々が国政を取り仕切っている時代。更に悲しい事にその王様(を操る原理主義の司令塔)を慕って付き従っている平民ども。

この章の最後にあたり: 日本を凋落させた上記の原因に4番目の❹「イマジネーションの欠落」を付け加えておこう。人々の知性知力が地に落ちた結果更に国力を衰えさせてしまう悪循環の例を挙げる。

この2019年7月上旬「対韓輸出規制」を日本政府が発動。この問題を非常に良く解説している専門家の立場からの記事から参照させて頂く[9]: 「日本政府は2019年7月4日に、フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の3材料について、韓国への輸出規制を発動した。これまで韓国は、安全保障上信頼できる『ホワイト国』と認定されており、最大3年間分の輸出許可を一度に取ることができた。」

現政権を支持する人々はこの対韓政策に嬉々としているのに違いない。自分達の原理しか考えない政治屋の面々からすると参議院選向けのキャンペーンの1つであった。だが、専門家の立場からすると全く違った意見である: 「となると、Apple、HP、Dellなどの怒りの矛先は、DRAMメーカーのSamsungとSK hynixではなく、対韓禁輸規制を行った日本政府に向かうだろう。日本政府は、世界中の電子機器メーカーの猛烈な批判を受けることになる。」
更にこう結論付けている: 「最終的に、日本の材料メーカーも装置メーカーも、Samsung、SK Hynix、LG Electronicsとのビッグビジネスを失うことになる。単にビジネスを失うだけではない。材料や装置メーカーは、トップランナーについていくことによって、競争力を高め、ビジネスを拡大してきたのである。その貴重な機会が一挙に失われることになる。
 このような事態になってから輸出規制を解除しても、もはや手遅れである。一度壊れた信頼関係は、二度と元には戻らない。要するに、日本政府は墓穴を掘ったのだ。その代償は、あまりにも大きい。」

❹「イマジネーションの欠落」の視点からすると、電子製品の供給網の中での半導体の戦略物質の禁輸の連鎖の輪の大きさを想像していなかった致命的なミスを犯してしまった。日本の衰退の原因は色々と取り沙汰されているが、客観的にものごとを見る知性とその社会的環境が無くなってしまった事に根本原因があるのである。

この世界経済へのインパクトの大きさから、政府与党がイデオロギーを基にした政策を実行している事が世界中に知れ渡り始めてしまった。更に、日本会議の原理主義が世界中の衆目を集めると言うオマケ付きだ。個人的にはこれは戦後最悪な外交的失敗に終わると思う。原理主義者達にとって自分達の夢の実現に足らないのは憲法改正と核兵器だけと思っているのだろう。ガムシャラに戦後の民主主義体制の転覆の実現の為にあらゆる事を実行して来ている。彼らは既に冷静さを失って、もう怖いもの知らずの暴走状態と言えるのではないか。内閣の面々は元々だが、プロ集団の外務省、経産省の知性知力も此処まで落ちたかと溜息だ。つまり人々の知性知力が落ちているので、今回の政策に対し殆ど経済人学者政治家含め誰も文句を言わない。何時もながら政権にとっては非常に楽な政策運営。この様な人々の知性の状態で、現政権下において改変され続けられて来ている国の制度。空恐ろしい事だ。

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参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ-その2," 投稿者 プラナリア, 日時 2012 年 1 月 22 日, http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[2] "24 Hours at Fukushima," Eliza Strickland, IEEE Spectrum,
http://spectrum.ieee.org/energy/nuclear/24-hours-at-fukushima/0
[3] "福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成24年6月版)
資料一覧," TEPCO,
http://www.tepco.co.jp/decommission/information/accident_investigation/pdf/120620j0305.pdf
[4] "福島第1原発、事故直後の新事実が明らかに―WSJ分析," 2011年5月18日,ウォール ストリート ジャーナル, http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/237921
[5] "詳報 東電刑事裁判「原発事故の真相は」," NHK NEWS WEBより,
https://www3.nhk.or.jp/news/special/toudensaiban/
[6] "Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant Series," Cryptome
https://cryptome.org/fukushima-dai-ichi-series.htm
[7] "(株)エアフォートサービス," ウェブページ,
https://airphotoservice.co.jp/
[8] "Fukushima Daiichi Nuclear Plant Hi-Res Photos," Cryptome,
http://cryptome.org/eyeball/daiichi-npp/daiichi-photos.htm
[9] "「対韓輸出規制」、電子機器メーカーの怒りの矛先は日本に向く?," 湯之上隆 (微細加工研究所),EE Times Japan,
https://eetimes.jp/ee/articles/1907/10/news027.html?fbclid=IwAR09HYhJ3GlZODBXvIUq4EQ48aCdE1fjS5nXy1hfbTNWGP4Xb7_3O9eJvNU
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/766.html

[政治・選挙・NHK263] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第10章 「喧噪の中で失ってしまった大事な事」
[前書き]
この章は2019年3月3日に投稿した文[1]に手を加えたものを再投稿します。この章はちょっと長いのであなたの一番好きな飲み物を用意してこれをすすりながら本稿を読んで下さい。アルコールはちょっと...内容が心に染み込まないでアルコールが染み込んでしまいます。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。

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随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[2](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[3] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[4]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[5]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るのであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達は、そこからやって来る、その正反対の不便さ即ち環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまったのである。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に任せ突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第7章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本投稿シリーズ第6章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセス。つまり頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快なら相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しき風潮、Ethosの現象(「7章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性さをも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善の風潮或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[6][7]歌詞は[8]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは7章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのである。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により既に判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。そして私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。動物と同じ様、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だがとても不思議なのだが、誰一人として日本社会での内閣与党を中心とするイデオロギーに基づいた祀り事が、日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第2章 「すっかり破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により彼らが理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の「風潮」例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。生活空間の喪失に見舞われている家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人間を中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。色々と考え倦ねていた事が見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[9] Aha!である。原理主義者の実体が見えた。戦前の人々の様相。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下(平成31年時点)の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義体制を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党及び公明党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する彼らなら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さい生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸に、時間を横軸に採ると一組の男と女が共に過ごす時は何と短い期間なのか。横方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる「風潮」としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中に子供を守らず、子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?そんなあなたに一つ聞きたい。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。守るべき家族の生活空間を見失い原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまったのだろうか?子供達にとってのお父さんお母さんが作り上げて来た家庭と言う生活空間が自由を失い苦しみの場となってしまっているのである。その様な環境の中において子供達の情緒をまともに育てる事が出来るのであろうか?大人にとっても同様である。世の中に溢れる物と情報、家庭からかすめ取られる幸せな時間。自分の心と体がまるで牢屋にでも閉じ込められた様な閉塞感。

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そして日本の行政府の従業員の方々へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は没落する一方になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

この章の最後にあたり: 生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?"Ground rule"に関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。それ故に原理主義者と呼ばれても仕方がないのである。こんな世の中だ。けれどもあなた自身せっかく産まれて来る事を選んだのだから、この惨めな現実を何とかして、あなたのそしてあなたの家族の生を喜べる社会に又暮らしの中に喜びがある社会に変える様にどうして努力しないのでしょうか?

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ、最終投稿。 第6章 喧噪の中で失ってしまった大事な事,"
投稿者 プラナリア, 日時 2019年3月3日,
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/120.html
[2] "マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[3] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[4] "イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[5] "座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[6] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[7] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[8] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[9] "梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/875.html

[政治・選挙・NHK264] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第11章「三本の毒槍」
あなたに一つ聞きたい事がある。日本社会での、立法府を支配している政治勢力と経済界と行政府(司法府も含め所謂官僚)達の利権集団の関係を大雑把に考えてみた事がありますか?

私にとってそれは3人ずつお互い囲いの周りに立ち、見張り番をしている様なイメージが思い浮かぶ。はて、囲いの柵の中には何がいるのか?大人しい羊達である。彼らはおのおの毒槍を持っている羊番である。それぞれ3人がお互いに協力しあって、或る者は積極的に、或る者は便乗的に、或る者は羊達が囲いである柵から逃げない様躾け役として、この大人しい羊達を搾り取っている図である。
■経済界: 低賃金、長時間労働、非正規労働者、福利厚生の低減、男女間の不平等な給与体系など。その一方企業の内部保留金は史上最高を更新している
■行政府: 自民党との長い付き合いのお蔭で国民の事を憶い公僕として働く習慣が無くなっちゃったし、天下り先を用意してあるし、地位が安泰で自分の仕事の責任が降り懸からない様なら万事OK。でも或る事が責任問題に発展したらあの手この手で全力で反撃します
■立法府: 経済界及び行政府と協力、富める者を優遇し大事に扱い弱い立場の人々の社会的不満を封じ込め自力更正と言う名の下、緩やかな強制労働収容所と言う囲いの中へ閉じ込める様に努力。そして自分達の希求する社会を実現する戦略戦術を立法し施行

この様な日本社会の現状。しかし、「官」が主で無く、「経」が主で無く、「政」が主で無い、主権在民即ち「民」が主ではなかったのか?もうこの国では「民主」主義は死んでしまったのだろうか?いやまだだ。非常に危ない所にあるがまだ首の皮一枚残している。だがあなたが声を挙げない限り直ぐにこの世から消えてなくなる。この一連の投稿の中で何度も参照している改憲マシンとは即ち管理社会、監視社会の下全ての人間の心をコントロールする社会の事と定義出来よう。だから皆、声も挙げない投票にも行かない大人しい羊達となってしまった訳。このトレンドが長い時間をかけ非常に強力になって来たのである。それは日本の社会から柔軟性が失われてしまった事。知的なレベルが著しく劣化し、皆が皆オペレータになってしまった事。日本の社会の進化が止まり人々の退行が著しい事を見れば明らか。政治家も例外ではない。議会制民主主義は基本、二大政党制と言う仕組みより成り立つ事も理解しない、どうしょうもない島国根性で自分の政党が一番だと思っている政治屋共。嫉妬心からお互いの政党を罵りあうパワハラみたいな事に明け暮れている、改憲マシンの手の掌の上に乗っている事も判っていない孫悟空達。

此処でとても大事な問いをしておこう。大人しい羊達は彼ら3人の番人達に毒槍を放棄させ、心優しい番人変えられるかどうかである。
■ 経済界に圧力をかける。厳しいね。労働組合なんてもはや存在しないし、消費者団体なんて消えしまった
■ 行政府に裁判を通じて圧力をかける。米国では中央政府即ち連邦政府が政策を巡り地方の州政府から訴えられる事がままあるそうである
■ 立法府を選挙を通し更新し圧力をかける。これが一番簡単。一方内閣と政権与党経済界行政府の面々は大人しい羊達が生存権の一部である投票の権利の行使の意欲を喪失してしまう様に日々洗脳に頑張ってます

皆さん現在の政権下で長らく、懐事情は良くならないばかりか悪化して来ている事を肌身から感じているでしょう。しかし立法府を構成する政党の勢力図が変ったとしても、経済界と行政府は柵の中の羊達を搾り取り続けたい訳で手練手管で自分達の利益を最大限に絞り出してくれるシステムの存続の努力をします。それに協力的な政党が立法府の最大勢力になる様お互い補完的に、市民が選んだ新しい国会の政治勢力を貶める様再び策謀する事でしょう。だって一番相性が良いのが美味しいのでしょ?即ちこれを緊張関係の無いズブズブな関係と言う。これ独裁制の見本ね。この彼らの習性を皆さん忘れないで下さい。大事な事は立法府に継続的に投票と言う行為で圧力をかけ続けて、経済界と行政府に今のままでは日本は駄目になってしまうと認識させた上日本の活力を取り戻す為に今の政治が向かっている方向の、転換を計る時なのです。

この章の最後にあたり: もう一回言います。それは継続する事で達成出来ます。経済的に社会的に弱い立場の人々が支える政治勢力が立法府において力を強く持ち続ける事で立法府と言う番人を心変わりさせ日本の国民に向けた毒槍を地に置かせた時初めて、残り2人の番人が民意を聞き始めそれぞれの威圧の為の毒槍を地に置く事が可能になるのではと思います。それは人間の顔を持った社会の始まりと言えます。それにはまずベルリンの住人達と同様、羊の様に閉じ込められたこの見えない垣根と壁を壊す作業が必要ではないでしょうか。「未来を目の前にして、くたばるわけにはいかない」[1]のです。

参考文献:
[1] "ベルリンの壁崩壊を後押しした、東ドイツの若きパンクスたちの物語," Jerry Portwood (訳 Masaaki Yoshida), RollingStoneのウェブサイトより, 2018年9月24日,
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29044/1/1/1
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/164.html

[政治・選挙・NHK264] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第12章 「こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います」
圧政には幾つかのカテゴリーが有る様である。その筋の専門家ではないが、小生が思うに現政権は1/4の日本の市民の熱狂的な支持と選挙の結果のもと独裁的な形態で政治が行われ、残りの3/4の大多数の市民に対しては専制(又は暴政)的な政治が執り行われている様なのである。ウィキペディアの「専制政治」[1]より引用する:「『身分的支配層が被治者と無関係に営む統治』が専制政治である。それに対して独裁政治は、国民の大多数の支持によって権力を付与された独裁者による政治であり...」日本で行われている祀り事は、つまり1/4独裁+3/4専制の暴政と呼んでおこう。法律を破ろうが知らん顔、責任問題となってもケツを捲って逃げ、嘘をついてそれがばれても厚顔に開き直っている。要するに権力を握り続ける為何でもありのアナーキーな事を権力者が行う時代なのであった。この様な異様な事態は以前の日本ではあり得なかった。そしてこの様な日本中がマトモでなくなってしまった世相の中で憲法を書き換えると言うのであろうか?いや実は、日本がオバカになったこの状態でないと憲法は自分達の都合の良い様には改正出来ないのである。しかしここで一つだけ確実に言える事がある。「こんな政治はもう沢山だ!」

いずれにせよこんな平成になってしまった理由は簡単なのだ。思うに政治80%、経済20%の割合で双方に「こんな平成に誰がした」かの責任がありそうだ。政治の舵取りと舵を取り続ける政治家の面々がもう少しグローバルな国際的な視野を持っていたのであればと、しみじみ思う。随分昔の話で恐縮だ。大平首相の「あーうー」と言う表現を冷やかし、揶揄する新聞を読んでいた学生時代の頃が今でも心の片隅に残っている。こちらまで大平首相を小馬鹿にしたくなる気持ちにさせて貰らっていた。まだその時は日本経済新聞も国際的な見方が出来ていた気がする。その紙面の確か「私の履歴書」で大平首相が外国訪問時にその飛行機の中で原文の哲学書を熱心に読んでいたと書かれてあった。今振り返って見ると、この様な人間の事を考える政治家は希有だったのだろう。一国の首相たる者の厚みを感じる。平成は人間の厚みを失ってしまった時代なのである。この10章「喧噪の中で失ってしまった大事な事」の中で指摘しておいたが、一人一人の個人が生命の流れの中ユニークな人間として産まれて来た事を考えると、大平首相の「あーうー」なんて表現にならない表現はユニークな個性と言う事で済ませておけば良かったのだ。もしかしたらその当時から日本は人のユニークさを尊重しない社会であったのかもしれない。今思えば大平首相には済まない事をしたなと思う。

簡単に個人のユニークさとは?と言う問いを2つの社会を通じて述べたいと思う。それは自由民主党の夢である憲法改正の実現の為昭和と平成と言う時代に以下2番に述べる社会を目指す方向へ舵を切ってしまった結果こんな平成になってしまったのである。私はこの責任を政治が負うべきものと考える。
■静かだが活気に愛に満ちた平安な時代。「生命の流れの中の己のユニークさ」を想い皆が皆尊重しあいお互いに共存し助け合う社会。心に余裕があり相手の気持ちもよく判る。生命を創り出す性が大事にされ、新たにこの世に生を授かって産まれて来た命を社会の宝とする、人に優しい社会。この様な社会ではユニークさは人だけに適用されるのではない。会社もそうだし国も人間の顔を持ったユニークな実体なのだ。言葉が愛を語り真実を伝える手段として用いられている。一言で善政である
■喧噪の中、ある対象に向けた憎しみの心に満ちた時代。それにより「群れの中での己のアイデンティティー」を確認させ、群れへの帰属意識を心の起こさせる様に仕向ける事或は強要する風潮に満ちた社会。私と言うユニークな個が社会と言う群れの中で埋没し窒息している「出る釘は打たれる」時代。この国ではそれが和と言う言葉でもてはやされている。発言力のある人実力がある人が群れから嫉妬され憎まれパワハラされて「打たれる」のである。生命よりも人のユニークさよりも国家が大事にされその名誉を重んずる国家神道を実践する内閣与党自民党の政治。人の顔がノッペリとし会社の顔がノッペリとし、国の顔がノッペリとする生命の徴が無い社会。そして又言葉が真実を隠す手段として使われている時代。悪政である。

その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命としてい出て来た一人一人の人間達が、非正規労働等で経済的に飼い殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているのではないかと思える程のこの社会。天災などの過酷な自然から貰い受けた己の人生の中の苦しみならまだ判る。明治時代の歌人石川啄木の短歌「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」[2]を思い浮かべてしまうのである。この様な過酷で個人がユニークさを失った全体主義的な風潮に満ちた社会から受ける絶対貧困と言う不条理。こんな体制を英語でTyranny,暴君暴政が支配する社会と言う。前章の「3本の毒槍」で指摘しておいた様に経済界行政府立法府から受けるこの過酷な圧政によって、幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは人々が発言しなければ、投票と言う権利を用い主張しなければ、何も得られないのである。人間の顔を持った政治は消えて無くなる。その代わりに長い間を経て暴君、暴政、圧政が産まれて来るのは世界中の政治の歴史の必然なのだ。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。だが民主主義とはたゆまぬ努力の積み重ねで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を身を以て実践しこの与えられた民主主義と言う社会形態を身につけようとして来なかった結果がこれだ。社会に積極的に関わりその社会を良くして行こうと言う気持ちと、投票と言う社会参加の行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。あなたが今直面しているのはこの内の悪い方の例なのです。小生には人々はまるで徳川時代の封建制を諦めと共に素直に受け止めてしまう士農工商の農民の心情をお持ちの様な気がしてしまうのである。だがこの政権の甘言に騙されてはいけない。これは政権の暴政度のチェックの結果を見れば判る。現政権の日本国憲法を書き換える政策とは民主主義体制の転覆と裏腹一体なのである。何故なら今の政権がやっている事は独裁者が憲法を書き換えるのと全く同じだからだ。

さて内閣及び現政権の暴政度をテストしてみよう。その前にTyranny暴君の定義を米国にある非営利教育組織"Constitution Society"のWeb[3]から少し長いが引用する:
"Definition of tyranny
Tyranny is usually thought of as cruel and oppressive, and it often is, but the original definition of the term was rule by persons who lack legitimacy, whether they be malign or benevolent. Historically, benign tyrannies have tended to be insecure, and to try to maintain their power by becoming increasingly oppressive. Therefore, rule that initially seems benign is inherently dangerous, and the only security is to maintain legitimacy ― an unbroken accountability to the people through the framework of a written constitution that provides for election of key officials and the division of powers among branches and officials in a way that avoids concentration of powers in the hands of a few persons who might then abuse those powers."

[日本語訳]
「暴政(専制政治)の定義
暴政はだいたい残酷で抑圧的と思われているし、実際そうなのがしばしばである、が本来の定義は合法性を欠く悪意のある或は情け深い、いずれかの人々による統治なのである。歴史的に見れば良い暴君は不安定な傾向にあり、彼らはより抑圧的になる事で権力を保持する様に努める。それ故最初は情け深いと思われていたが生得的には危険なものとなり、(我々の)唯一安全を保つには合法性を維持する事 - 重要な要職を選挙で選ぶ事と三権の間の分離と要職に就く少数の人々がそれらの権力を乱用する可能性があり彼らの手に権力が集中する事を避ける、つまりこれら(の防護策)を提供する明文化された憲法と言う枠組みを通して破壊されることの無い責務に答える能力を、国民に与えます。」

このウェブの記事の中で暴政が用いる憲法秩序の転覆法を解説しているので、現政権が暴政であるかどうかのテストを[3]を引用する形で行ってみる。尚それぞれの項目が明瞭でない場合にはその解説の内容を一部追加しておいた。16項目の内各項目のテスト結果は黒●、白○、灰色の何れかである。

"The methodology of tyranny" [日本語訳] 「暴政の方法論」より:
1) Control of public information and opinion
[日本語訳とテスト結果] 「公けの情報や世論をコントロールする」
例えば早急に公開しなければならない重大な情報を暫くして公表するとか、日本では記者クラブなる組織が行う自主的な報道検閲等。テスト結果は黒●
2) Vote fraud used to prevent the election of reformers
[日本語訳とテスト結果] 「改革を目指す者の当選を妨げるために用いられる投票操作」
この項目の解説に以下記されている事は「ニュースのサービスが、結果を知りうる事が出来る前に選挙の結果を知り始めていたとしたら投票数は正直に数えられていない。」
決定的な証拠はまだ十分ではないのでテスト結果は灰色。
3) Undue official influence on trials and juries
[日本語訳とテスト結果] 「裁判や陪審員に公然と不当な影響を与える」
日本の司法府の裁判官は既に政権及び行政府と癒着しているので公正な裁判はもはや期待出来ない。
テスト結果は黒●
4) Usurpation of undelegated powers
[日本語訳とテスト結果] 「本来委任されていない権力を奪取する」
内閣は本来行政府の事務次官とそれぞれの省の協力のもと祀り事を客観的にこなして行かなければならないのだが、2014年5月に内閣官房に設置された内閣人事局が取り仕切る人事により政権のイエスマンだけを各省の幹部に任命する事が可能になった。テスト結果はまっ黒●。
5) Seeking a government monopoly on the capability and use of armed force
[日本語訳とテスト結果] 「政府が(個人の)武力の能力と使用に関する独占を追い求める」
米国では個人が銃を持つ事は権利と見なされているのでこれを制限する事は暴政であると言う立場。テスト結果は白○
6) Militarization of law enforcement
[日本語訳とテスト結果] 「法執行機関の武装化」
これはガンに対抗する為警察官にマシンガンと例えられる様な米国内の事情も繁栄されているが、一般的には警察活動の軍隊化で声をあげる市民に対する威圧が行えると言う事。別の解釈をすれば警察活動の先鋭化とも考える事が出来る。そうすると闇の警察と最近注目される様になった官邸ポリスの存在を考えてテスト結果は黒としておく●
7) Infiltration and subversion of citizen groups that could be forces for reform
[日本語訳とテスト結果] 「改革の力となりうる市民グループへの浸透と壊滅」
解説部には以下の様に書かれている。意訳する「内部にスパイを送り組織を監視する事から始まる。市民グループの指導者を虚偽の犯罪で訴追するのはその兆候である。」経済界、行政府、与党内閣のやり方に反対しうる勢力が消滅してしまった事実を考えるとテスト結果は黒●
8) Suppression of investigators and whistleblowers
[日本語訳とテスト結果] 「捜査官と内部告発者の抑制」
特定秘密保護法が施行されていると言う事実から、テスト結果は黒●
9) Use of the law for competition suppression
[日本語訳とテスト結果] 「競争抑制の為に法律を使う」
解説を意訳すると「主流派が勝利する様、支持者に金銭を与え支持者が対抗する勢力を懲らしめる事より始まる、が公務員自身が不法な行為、活動に関わり、敵対する独立候補を法律を用い抑圧する....」
日本の選挙では札束が飛び交い、対立候補を貶める事例えばその運動員を選挙法違反で恣意的に逮捕、等が選挙の行事の習慣として今でも残っている。最近では参議院選のさなか秋田県庁敷地内で勤務時間中知事と県職員が立候補した候補に向かってかちどきの声を上げる違法すれすれの事をやっている位の民度の低さ。よってテスト結果は黒●
10) Subversion of internal checks and balances
[日本語訳とテスト結果] 「内部チェックとバランスの転覆」
幾つか例が挙げられるだろうが、過去の投稿に2回言及している韓国に対する半導体の部材の「輸出規制」を例に挙げておく。行政府内のチェックとバランスの喪失である。本件が外務省の頭を飛び越して経産省主導で行われていたと聞く。正常なら二国間では経済関係と外交関係は裏腹一体なのだ。この非常識なイデオロギー主導の非礼外交が何時まで続くのやら。更に二大政党制を壊滅させた結果与党に匹敵する勢力の野党が存在せず権力がやっている事のチェックとバランスを行う事無く、手綱の無い狂った荒馬の如くに憲法改正へ向かって突っ走っている政権。よってテスト結果はまっ黒●
11) Creation of a class of officials who are above the law
[日本語訳とテスト結果] 「法律の上に立つ政府職員集団の創成」
先日森友学園事件に関わった、内閣府の命令に従って行動した財務省佐川某やらを大阪地検特捜部が公文書偽造等の犯罪は証拠不十分として不起訴にしたが、この国には正義を行使する手順を整える組織である検察と警察が全くの腰抜けで本来の仕事をかまけているのが判る。又仕事絡みでの女性を手篭めにした山口某が逮捕されないのを見ればこのテスト結果はドス黒いぜ。真っ黒を差し上げよう●
12) Increasing dependency of the people on government
[日本語訳とテスト結果] 「国民の政府に対する依存度を高める」
この古典的なやり方は国民から持っているもの奪い取り、権力を持つ者の要求に答える様であれば奪ったものを見返りに返すやり方。例えば年金支給額これだけ減るよと脅して政権の言う事を聞くのなら考え直してもいいよ、と言う感じか。過去を遡って政権が取った実例を思い付かないのでテスト結果は白にしておく○
13) Increasing public ignorance of their civic duties and reluctance to perform them
[日本語訳とテスト結果] 「市民の義務に対する国民の無関心を広め、それらを実行することを忌避させる」
米国での市民の義務とは投票、国家非常時の兵役、陪審員の仕事等。又先の参議院選挙の争点などの情報も殆ど隠蔽と言ってよい程国民の目から隠し通し無関心を広めていた。更に日本の立法府において十分な審議も尽くさず法律を通してしまう、立法府の国民に対する義務も果たしていない現状。テスト結果は真っ黒を差し上げよう●
14) Use of staged events to produce popular support
[日本語訳とテスト結果] 「段階的な出来事を利用して人々の人気を巻き起こしサポートを産み出す」
ここ一連のお茶の間の話題「対韓輸出規制」を例にだしておこう。テスト結果は黒●
15) Conversion of rights into privileges
[日本語訳とテスト結果] 「権利から特権への切り替え」
この項目の解説は「立証責任が請願者にある適法手続を除き、政府が制限する事を許されていない事まで(人々に対し政府が)免許と許可を要求する。」越権行為。地方自治体ではありそうだ。テスト結果は灰色にしておく
16) Political correctness
[日本語訳とテスト結果] 「政治的正しさ」
この項目の小生の理解不十分故日本語訳正確でないかもしれません。かいつまんでこの項目の解説を意訳すると「殆どの人は差別用語を用いない或はもっと柔らかい言葉に置き換える『政治的正しさ』に影響され易いので差別的見方や差別的態度に対して抑圧的な行動をとってしまい、それが専制的な政府を優位へ導いて行く。」言葉狩りが暴政への道と私は理解している。日本では差別と反差別が共に己の「政治的正しさ」の基準を持っている様である。お互いがお互いラベル張りに忙しい様だ。テスト結果はどす黒い●

==
更にこの続きでは専制政治、暴政を避けるにはどうしたら良いかを説明している。
"Avoiding tyranny"
[日本語訳] 「専制政治を避ける事」
「重要なの事は専制の風潮を常に感じ取り、彼らが更に先に進まない様に或は非常にしっかりと基盤を固める前に彼らの力を摘み取る事である。国民は如何なる憲法違反も決して黙認すべきではない。初期の段階で 是正措置を講じなかった場合には、それは更に大変厳しい対策を後ほど講じなければならぬ事を意味し、おそらく其処からの回復には数世紀かかるかもしれない人命の損失や社会の崩壊がおこってしまう。」この例として、始めは善政の様に見受けられたシリアの現政権とその内戦状態及び後始末を想像するだけで上記は誰でも理解可能。この様な内戦状態で何時も誰が犠牲になるのか考えてみて下さい。

さて、16問中黒12point即ち12点、白2point即ち0点、灰色2point即ち1点である。よって得点は満点ではないが13点/16点として現政権は暴政テストにはしっかり合格した。これで思う存分民主主義体制と憲法を破壊出来る。だが日本の3/4の人々に取っては、この政権は暴君、暴政、専制、圧政即ち国民の敵なのである。驚くべき事だがこれが日本の民主主義の実態なのである。つまり現政権は選挙で選ばれた合法性を持ちながら、二大政党下ではない状態で憲法の理念を骨抜きにする悪意或る行為を何年も続けている暴君、暴政(Tyranny)であると結論出来ます。

ここで喚起しておきます。この'Tyranny'と言う言葉は米国の共和党民主党の上院下院の議員達、行政府のスタッフ、軍人達と大統領のみならずその市民の正義心に深く突き刺さる言葉なのです。ですからもしこちら側が言葉を発せば、日本の政治状況を理解してくれると思います。

米国のトランプ政権より願ったり適ったりの圧力を受けている日本の現政権の立ち位置を以上の暴政と絡めて考えてみよう。中東ホルムズ海峡のタンカー運航の安全確保へ向けた米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請である。現憲法下での自衛隊の海外での武力行使は不可能なのだが、つまり憲法違反なのだが、自衛隊をホルムズ海峡に派遣する事により、其処で外国の軍隊と交戦した場合には戦力の放棄を定めた日本国憲法を蹂躙する事がおこる訳でこの様な要請は非常に重大な米国による内政干渉と言う事が出来るのである。武力行使を既成事実として更に現政権の改憲の勢いが一段と深化強力になり現憲法がそしてその枠組みと理念が破壊されてしまいそれを日本が永遠に失ってしまう結果となる事は明白なのだが、何故日本の誰も声を出して指摘しないのか。皆さん本当に茹ガエルになってしまったね。

米国の歴代大統領と国務省、国防省が合衆国憲法の理念に基づき「世界の警察官」として米国外のTyranny体制を転覆させてその国から除去して来た歴史からすると日本の現政権を権力から排除するのが筋だが、この暴政を更に加速する様な内政干渉と言う矛盾を何故行うのかを米国の政治勢力や民主団体、そして国際社会に訴えるべきなのである。米国民主党を公然と支持する新聞"The New York Times"にでも寄稿してみても良い。今極めて瑣末なゴシップ記事にうつつをぬかしている時ではない。日本の民主主義体制を転覆させる様なトランプ政権の、この暴政なる政権に対しての、圧力を止めて欲しいと米国上院と下院の議長に書簡を送るべき時なのである。悪政を行うTyrannyを米国が支持するのは日本の3/4の人々の民意に対する侮辱だ。ハーグの国際司法裁判所に米国の圧力の無効化を訴える事も出来るのではないか?誰がこれを行うのか?そんな優長な事言ってられないんだよ!今の日本の民主主義体制を支持する与党の一部と野党が結束して可及的速やかに事をおこさなければ全てが手遅れになってしまう。これに協力する政党が声を上げ国際社会に現政権の行っている日本の民主主義体制の破壊の事実を訴えなければならない。もうこの際自分達野党側の政権交代の非力さなんて様な恥も外聞も無いんだよ。もしかしたらもう遅いのかもしれない。だが一縷の望みを持って皆さん、またこのウェブを読む事はまず無いだろうが無理を承知で特に創価学会の会員の方々、に訴えたい。衆議院選まで待てないのだ。あなた方が暴政を行っている自民党と決別してこの国を平和な国へと3/4の日本国民が再び国政の舵を取り戻し、コントロールし始めるきっかけを作り出して頂けるだろうか?時間が無いのである。もう内密に有志連合の参加にYesとトランプ政権に伝えてあるであろう。小生法律の専門家でないので、何ともいえないのだが、この様な重大な国事の判断を行う時にどの機関が議論して結論を出すのだろうか?立法府?内閣での閣議の決定?誰か教えて下さい。

もし内閣自身が米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請の回答を出来る資格があるのであれば、その結果の公表を日本中に行う前にこれを阻止しなければ日本の民主主義はご臨終となる。韓国との貿易戦争や2019年度防衛白書原案での韓国の重要度格下げと言いこの米国の圧力などと、1/4の国民の、あわよくば残り3/4の国民の愛国心を煽って人々の心の操作を行い政権がやりたい事に同調させる手順。まるで原理主義の司令塔がそれぞれの行政府に送り込んでいる配下の者達に向かって、そのタクトを振りオーケストラの様にそれぞれの省庁による政治の出来事を造り出させ、憲法改正と言う一つの流れに合流させる様にショーを進行させている。スマートな奴らだ。今の世の中の一連の動きは彼らのシナリオ通りなのである。これが一連の憲法改正のドラムの音が大きくなりそして早くなって来た理由なのである。彼らに取っては今が憲法改正への集大成の時であり、その突破口なのである。残念ながら彼らが造り出した流れに抵抗する勢力は現在の日本には存在しない。これから最終的に少なくとも1/2の日本の市民がこの暴政に選挙でNoを突きつけ民意を表さない限りトランプ政権内のタカ派からの圧力は弱まらないであろう。

この章の最後にあたり: 問題は王様は裸と言えない国民性でかつ、人々はその裸の王様が暴君だと言えない根性無しなのである。しらけているのがcoolなのではない。この現政権の暴政を引き返せない所まで行かせてしまうのかどうかはあなたの行動に懸かっている。今からでも遅くはないと己に言い聞かせ「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家達よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。

参考文献等:
[1] "専制政治," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E5%88%B6%E6%94%BF%E6%B2%BB
[2] "一握の砂," 石川啄木, ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%A1%E3%81%AE%E7%A0%82
[3] "Principles of Tyranny (暴君の原則)," by Jon Roland (米国にある非営利教育組織"Constitution Society"の創設者),"Constitution Society" のWebより,
https://constitution.org/tyr/prin_tyr.htm
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/480.html

[政治・選挙・NHK266] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第13章 「日本病」と言う病。 人間の顔を持った社会とは?
2019年6月24日から阿修羅の政治板に投稿して来たこのシリーズの一覧は以下になります。今回が最終回です。後日少し修正を施した一括編の投稿を行います。宜しく御願いします。
1章 巨大な改憲マシンの中で
2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則
3章 Justice is not done; 正義が行使されない国
4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ
5章 音楽は政治を批判してはならない
6章 欲望の行き着く果てに
7章 何処から、何処へ、何ゆえに
8章 そして全てが逆行する社会へ
9章 日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事
10章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
11章 (国民に向けられた)三本の毒槍
12章 こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います
13章 「日本病」と言う病。人間の顔を持った社会とは?

先日9月23日のスェーデンの16歳の女性Greta Thunbergさんが国連での"Climate Action Summit 2019"で行ったスピーチの録画を最近見た。[1] 驚いている。新聞では伝えきれていない声が伝わって来る。とても立派な人である。人類は何処へ行こうとしているかを俯瞰し、この世界を大きく見ている人だ。皆が皆生命の破滅に向かって行進している時、我々大人達に対し正気を取り戻させる声を私は彼女の発言の中に聞いた。彼女が彼女の同世代に共感と連帯を訴えている事とは何か。それは生命としての自己防衛を喚起させる風である。そして何も変えようとしない国々の指導者達を怒りを込めて激しく非難する理由とは一体何かを思い起こす。それは宗教やイデオロギー、資本主義的、共産主義的思考と習慣により、現状維持を選択しなんら行動を起こさずに茹ガエルとなった世界の先進国の人々の偏狭さと頑迷さを利用し現(与党)体制の保持を図る国の上層の人々に向けられたものなのです。例えば大統領の教唆の下、人々の生態系への無理解と欲に付け込んで進んでいるアマゾンの熱帯雨林地帯の大規模な破壊が一例です。私には彼女の国連でのスピーチの揚げ足を取る方々の頭の中が理解出来ないのである。彼女の発言のContext、文脈を見ないで言葉の表面を見ている方々が何故多数いるのか。その理由は単に彼女が子供から大人になった人間達の怠慢と無為無策を非難しているからで、彼らはその事実を指摘され反発する愚かな大人達なのだ。1945年の生命の滅亡を起こしてしまう核兵器の使用とそれに対抗する為理性と英知の行使を促した1955年のラッセル-アインシュタイン宣言、"Russell-Einstein Manifesto"[2]も虚しく現在でも核兵器の数は一向に減らない大人達の無為無策と共通なのである。この宣言の一番最後にラッセル卿とアインシュタインは締めくくっている。"We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death." 抄訳は「私達は人間として人間に訴える: あなた方の(人としての)ヒューマニティーを思い出して欲しい。そしてその他の事は忘れて下さい。あなたがその様にすれば新しいパラダイスが開けて来る; もしこれが出来ないのであれば世界が死のリスクに直面するだろう。」この愚かな人間達が地球に向かって行って来た、放射性物質量をまき散らす大気圏内や地下での核爆発実験、水銀汚染した魚や、油にまみれた海の汚染、大気汚染等の蛮行愚行に対し神に許しを請う歌を1971年に作詞作曲し歌った人がいる。その彼の曲の歌詞の中の2点がGretaさんの発言全てを集約していると私は思う。[3]
1) "Whoa, ah, mercy mercy me. Oh things ain't what they used to be, no no." 「おお、ああ、私を許して下さい。(多くの)もの事が前の様ではなくなってしまった、ノー、ノー」
2) "What about this overcrowded land. How much more abuse from man can she stand?" 「この人に溢れた土地はどうなのだろう。人間から受ける虐待を彼女(地球)は更にどれだけ堪えられるのだろうか?」
あなたはこの2つの気持ちを感じた事はありませんか?

生命を絶滅に導いて行く様な要因を少しづつ破棄し無力化して行く事も出来ない我々大人達。人間の間のヒューマニティーも置き去りにしている現在。それぞれのイデオロギーや宗教のContextの違いから憎しみが発生し軍隊が発生し核兵器が発生し大量虐殺が起こるこの世界。Contextの違いにも関わらず力を持つ者に共通する事は子供達と地球の未来も何ら想像もせず、彼らの利益を最大にする事に専念しているのである。これに由り不可逆な環境破壊が進んでいる訳。それはこれから産まれて来る生命に対する犯罪に他ならぬ。Gretaさんの怒りは今の目先の利益と子供達の明るい未来のどちらが根源的で優先順位が上なのかも考えない政治家経済人と彼らをサポートする行政府に対しての怒りなのだ。自由貿易の名の下のTPPに依り地場産業の農業が死んで行き、乱獲と海水温の変動に依り漁業が死んで行き、人手不足に依り林業が死んで行く生命と人間の共存するエコシステムの崩壊の時代と言い得よう。生命の個体数と種の数が減少し人間だけ人口が増え続ける、この地球上で続く生命の多様性の消失が無言で進むのである。これらの地球全体の問題は'Post-Geopolitics'と言う世界に向けて人々が自ら進んで行かない限り達成出来ないのです。だから今、権力を自由に操れる一部の人々により操作されている己をそこから解放し偏狭で頑迷な行動様式にさよならを言う時なのではないでしょうか?

さて話しを日本に移す。皆誰も大きく観ようと努力しないこの日本の世の中、これら上記13章の投稿で日本がそして日本の人々はどの様な不可知な機構と仕組みに日々直面しているのであろうかと言う問題提起を行って来ました。そしてPost「原理主義」の時代へ進む為には、以下長々と文章を書いたのだから其処に辿り着くまでの道筋を付けなければならない、と思うのですが...如何せんその才能も時間も持ち合わせていないのでこの仕事は誰かにバトンタッチします。日本の上に立つリーダー達が国内のリーダーとしてだけではなく世界のリーダーとしてこの地球が人間の欲望と狂気で破壊される前にどの方向に向かって、何を成さねばならないなのかと言う問いの道筋や対応策を出さなければいけないのです。例えば世界中の軍事費を年間予算制から月間予算制とし、一年の内一ヶ月だけでもゼロにするとか劇的な転換を行う事が出来ないのでしょうか?このPost「原理主義」へ進む道筋を見つける宿題を良心と希望に満ち志を持つ政治家達に委ねたいと思います。グレタさんが問い続けている問題は日本も該当します。再び言います。あなたを含め良心を持つ人々が今戦っているのは市中の人々の偏狭さと頑迷さなのです。この習性の病を人々に罹患させ利用する強欲な少数の人々がいると言う事を忘れないで欲しい。
==
では本題に入ろう。一番最初の章で「強欲」と「風潮」と言うこの一連投稿の中に流れるキーワードを申し上げました。あなたはこれらの投稿で2つの言葉を通して日本の社会、日本の人々、日本の政治、そして同様に世界の人々や世界の政治の事を観察してみたかもしれません。更にこの45ページ弱もの文章中にはもう一つのキーワードが入っています。それは「見えない大きな力」と言う言葉です。「見えない大きな力」と言う言葉の背後にあるものごとを見極めると、もう一つの言葉'geopolitics'「地政学」と言う言葉が見えて来ます。日本の社会を見ると日本独自の地政学があり「復古主義」或は「国粋主義」「民族主義」と言うイデオロギーを纏って、それらが跋扈している今の日本社会を目の当たりに出来ます。その日本の外の世界を見ると更にドロドロとした欲望に満ちた人々が動かす「覇権主義」としての地政学が実感出来ます。日本独自の地政学を推進する「彼ら」に「原理主義者」「復古主義者」と言うラベルを張るのは気が引けるのですが1/4の日本の国民が国家神道と言うイデオロギーに走っているのではないかと思えて来る現状を鑑みると「日本列島改造論」ならぬ日本の社会の中で「彼ら」が進める「日本人改造論」がメディアを使って実践されていると判断するのが自然だと思います。今世界の民主主義の国々の中で憲法改正に夢中になり、強大な軍事力を持とうとしている国はトルコ(独裁制が完成間際。既に憲法改正してしまった。でも都市部のトルコ市民は大統領が進める独裁制に抵抗している)と日本位でしょう。こんな状態の日本、尊敬に値しないと世界の国の人々に笑われています。

さて前章では一人一人が投票へ行けば、日本が抱えている問題が直ぐに解決する様な幻想を与えてしまったかもしれません。又、私はあなたが以下の様な事実を認識しているかどうかは判りません。実際に日本が抱えている問題は途轍もなく大きなものなのです。投票に行く事は瀕死の民主主義国家日本の、治療へ向けた最初の一歩と言う事を伝えておきましょう。何故なら国民の知らない間に専守防衛と言う憲法の枠組みから大きくはみ出した戦闘機F35Bを搭載出来る攻撃型空母「かが」と「いずも」を建造してしまう程の社会勢力が支配している国の社会に住んでいるのです。今日のホルムズ海峡への自衛艦の船舶派遣、イージス アショアを含めた全ての日本の憲法から逸脱する流れが深化し本格化即ち再軍備化、再軍事国家化させる動きが何時始まったのか皆さん疑問に思った事は無いのでしょうか?「1番艦『いずも』が平成22年度予算で、2番艦『かが』が平成24年度予算で建造された護衛艦であるため...」[4]そしてこのウィキペディアの中で2つの空母の建造機関が2012年から2017年と明記されています。民主党が政権を握っていた時代に既に空母建設の流れが決まっていた事に驚いてしまいます。そんな中で"The New York Times"電子版の記事[5]が2015年4月の安倍首相の米国訪問でのオバマ大統領との会談の際に、事前に用意されていた二国間の軍事的な合意の内容を発表しました。この合意内容の解説は全く日本のメディアに登場しなかったのではと思います。此処では2点引用します。(1) "...American and Japanese officials announced an agreement on Monday that would expand the reach of Japan's military - now limited to its own defense - allowing it to act when the United Sates or countries American forces are defending are threatened...." (2)"Now Japanese forces also could aid American ships involved in missile-defense activities in the region, or Japan could intercept a missile heading for the United States. 'That is a very big change from being locally focused to being globally focused,' Defense Secretary Ashton B. Carter said..."
[日本語訳]
(1)「米国と日本の担当者達はこの月曜に - 現在自己防衛に限られている - 日本の軍隊の役割を米国が又は米国が防衛している国が脅威に晒された時、行動を許される事に(方針転換に)同意する旨を表明した」
(2)「今日本の軍隊はこの(アジア)地域でのミサイルに対抗する活動を行っている米国の艦船を援護する事、或は日本が米国に向け飛翔しているミサイルを遊撃する事、が出来る様になる。国防長官のAshton Carter氏は「これは地域に焦点を合わせた事(軍隊)から世界に焦点を合わせる存在となり非常に大きな変更だ」 この記述はイージス アショアを是が非でも秋田県と山口県に配置したい政府のおおもとの理由なのである。

ここには日本の「大きな見えない『イデオロギー』の力」と米国の「大きな見えない『地政学上の』力」の間でこの軍事協定の合意に達したと解釈すべきなのです。日本国の主権をねじ曲げる犯罪を現政権は行ってしまった。既に日本国憲法は実質的に改変されているのです。更に2015年7月に集団的自衛権を容認する安全保障関連法案が衆議院を通過。この日米間の軍事的一体化の同じ伏流は日本国憲法の解体の始まりを決定付ける事となった。

「彼ら」が練り上げ決定した或るスケジュールに従って現在の日本が歩んでいる軍国化の道が既存路線となっていて、その行き着いた先が憲法の枠組みと理念を超えてしまう今回の米国国務省の発表[6][7]となった訳である(この文書[6]を読んでみました。日本の行政府と自由民主党の命綱は日米安全保障条約なんだなと実感出来る外交文章でした。でも何か足らない。非常に重大な内容を持つ密約が背後に隠されているとの印象を受けた)。このオバマ大統領と安倍首相の会談の記事は日本国憲法の実質的な改変を行う合意に達した事実を示す。処が、なのだ。この合意に関して何時誰が主導権を持ちどの様な過程を踏みこの合意の草稿を練り上げたのかを日本国民に明白に説明しなければならないのです。それが全く為されていない事実。憲法と言う法律の一貫性を保つ為に、ここに国会による国政調査権の発動を要求します。何故ならそれは現政権が己の利益の為日本の主権を自らねじ曲げたのか、引っ込めたのか、それとも米国に売ったのか。或は米国のオバマ政権の圧力で折れたのかが闇に封印されているからです。以上の点を含め一番最初の時点で軍事協力の提案をどちらの国が最初に行ったのか。裏に隠された密約の有無等、を国政調査権を用い明白にしなければならないのです。この調査権は外交機密と言う盾よりも上位に位置する。何故なら、憲法に違反する様な事を行う事は憲法自身がその枠組みの一貫性を保つ様に憲法そのものの自己防衛を行う様行動する事が許されるのである。もしこれが日本と米国の間で秘密裏に進められた議題だとしても、名目として外交機密は適用されないのである。現政権は既に皆さんが考えている以上に深刻な憲法破壊を気が付かないうちに秘密裏に行ってしまっているのです。

それにしてもこの様な事を認識出来ず、記事にも出来ない日本のジャーナリストはアマチュアよりもランクが下だ。中学校の学校新聞を作っていた方が良いのでは?しかし...残念な事だが彼らとて以下に述べる「日本病」に疾患している人間なのだ。だから今の日本の人々はこの軍事協定の合意に二国間で「大きな力」が働いた事を知覚出来ないのである。

さて、「英国病」と言う言葉を御存知ならばそれはあなたは年配だと自覚しなければならない程昔の話になってしまった。それは1970年代の英国の経済状態、人々の日頃の習慣と社会の風潮の事を一般に指します。当時英国は慢性的な経済停滞と労働者の勤労意欲が低いと言う評判でした。それを世界中で英国病と呼んでいました。その後鉄の女サッチャー首相が登場した結果英国はその病から回復。では、この日本国内へ眼を向けて見ます。日本では英国病ならぬ「日本病」が蔓延しているのです。それは日本が死に至る病なのです。「日本病」と英国病と決定的に違う所は、「病にさせられた人々」と「病になった人々」なのだと記しておく。

今日本の社会が直面している根本的な問題点は何処にあるのか?それは、社会そのものが「見えない大きな力」によって病にさせられてしまった事に対して、茹ガエルが茹で上がって死ぬ直前みたいに人々が平然としていて投げやりな事なのです。それ故自分達をどの様に治療して良いかなんて考えもしない。さらに人々が心の質を低下させ、心の元気さを失い、そして人々の能力が心が病んで衰えてしまった事に気が付かない。生きる力さえも失ってしまったかの様な無気力に満ちた社会。それを私は敢て、「日本病」と呼びたいのである。どんな特徴的な症状があるかを思い浮かべた項目だけ2つのカテゴリーに別けて列挙しておく。
■社会の低いレベルから見る、「どうして?」
・大人達が子供の手本では無くなってしまった・貧富の差に関係なく子供達に豊かな公共の教育環境を提供出来なくなった・若い人々は内向き指向になり、人々は国際的な視野を失しなってしまった。即ち世界を相手に競争していると言う意識を喪失してしまった・皆チャレンジしなくなった・自分の意見を言えなくなってしまった・自分の意見を言う人を攻撃する、表現する人々を脅したり抑圧する様になってしまった・皆ストレートにものが言えなくなった・皆本当の事が言えなくなってしまった・真実を言う勇気がない、即ち人々は間違っている事を間違っているといえない・子供達を含め人々が皆集団で陰湿なイジメをする・嫉妬心とかイジメたい気持ちを持ち、パワハラしたりセクハラしたりする・人をイジメてストレス解消する・人々が泣き寝入りする様になってしまった・会社が、社会が皆腹黒く嘘付きになって来た・TVの内容が低能になってしまい知性のカケラも感じさせない事にうつつをぬかす様になってしまった・人々が愚かになった・人々から寛容さが失われてしまった。つまり日本の社会が独善と偏狭に満ちてしまった・自分の時間を失い、LINEに1分以内に返信しなければならない様なプレッシャーを感じる様になってしまった・取るに足らない色々な情報に振り回される様になってしまった・自分の足で歩く自己推進力を失い群れの中で皆と同じ様に流される様になってしまった・人々が直ぐキレる様になってしまった・日本の社会に暴力が満ち溢れる様になってしまった、そして社会で犯罪が多発する様になってしまった・皆批判精神を失ってしまった。一方人々は批判された時大らかな気持ちでいられなくなった・皆悪い事を悪いと言わず自己保身に走る様になった・皆組織にとって不都合な事を隠す様になってしまった・皆責任逃れする狡さを身につけた。皆卑怯になってしまった・皆最初から諦める習慣がついてしまった・皆力を持つ者に服従し媚びへつらっている・皆行動する力を喪失し、不正が正せない・ある出来事の説明の責任と結果の責任をとる習慣を失った・ウヤムヤが大好き・人の痛みを感じなくなってしまった

11章で述べた「毒槍」を持って日本の国民を自分達の利益の為に搾り取ろうとする3つの勢力は、日本が世界一流国だとラッパを吹いて人々を奮い立たせています。でもこれだけの病状を日本社会が示している現状の中日本の国力の実体は遥かに下に墜ちてしまっているのです。それは...「そ・し・き」の中でものを言えなくなった言わなくなったと言うこの社会の劣化の根本原因が有るからです。これでは社会が悪い方へ流されてしまうのは当たり前。それに抗う一人の自衛官がいた事を皆さんすっかり忘れてしまったでしょうね。海上自衛隊の自衛艦たちかぜ一等海士の自殺事件をここで出します。民事訴訟が2014年4月に確定しました。事件の流れを説明します。 2004年10月27日に当時21歳の一等海士が遺書を残し電車に飛び込み自殺。この中で上司の二等海曹を名指で批判。この為海上自衛隊はその後たちかぜ全乗員に暴行や恐喝の有無を尋ねるアンケートを実施。2005年に遺族がこのアンケートの公開を要求したが、海上自衛隊はアンケートは破棄と事実をねじ曲げて回答。「2006年4月5日、自殺した隊員(21)の両親が、Sと国を相手取り、1億3,000万円余りの損害賠償を求める訴えを横浜地裁に起こした。....2011年2月4日、遺族側は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した。2014年4月23日、控訴審は遺族の主張を認め賠償額も7350万円に大幅に増額、小野寺五典防衛相は25日の閣議後記者会見で『重く受け止める』と述べ、上告を断念する意向を示した。遺族側も上告せず、判決が確定した。」[8] 裁判中に三佐がアンケートの存在を内部告発。2012年6月に海上自衛隊はこれらアンケートが存在している事を7年もの間嘘を世間につき続けた後に認めた。

何故未来永劫に渡り日本の組織内で不正がまかり通るのかの答えが此処にある。その自衛官が今の日本の人々に決定的に欠ける心を一言で語っている。組織の中で人らしく振るまう事が如何に同調圧力で抑圧されているか良く判る例。彼の言葉は次の""の引用文中の一番最後の鍵括弧参照の事。"かつて訴訟担当者だった現役自衛官が「重要文書を隠蔽している」と、自らの組織の<不正>を暴いた。「自衛隊が、不利な事実を隠したまま『不正な勝利』を得てしまう」今の生活を失ってしまうかもしれない恐怖と闘いながらの苦渋の決断だった。自衛隊は「文書は破棄した」と説明してきたが、一転。その後、200点もの大量の文書が開示された。... 「私は、組織に対してではなく、法の正義と国民に忠誠を尽くしたい」...."。[9]上から下まで色々な組織でどれだけ不都合な事を隠蔽すれば気が済むのだろうか?「なお、内部告発を行った三等海佐は小野寺防衛相が処分に対し否定的見解を表明していたこと(2014年4月25日)から処分対象とされなかったものの、所属組織である海上自衛隊内部から人事面での不利益を被り続けている」[10]これが正義を潰し日本の社会を劣化させてしまう、"social pressure"(組織的)社会的圧力、「出る釘」ならぬ表に「出る正義は打たれる」日本の悲しい現実である。善さえも社会から駆逐されてしまったのか?

■ 社会の高いレベルから見る、「どうして?」
・世界の中で日本の存在がそして人々がユニークで無くなってしまった・国と色々な組織がダイナミックさを失い硬直化してしまった。動的社会から死んだ様な静的社会へと変質。人々が地域社会のイベントや地方政治、国政に関わらない・内閣と行政府が嘘を言っても情報を隠しても誰からも罰則を受けない・組織内での自浄作用の喪失・国民の知る権利を無視し、社会からそのオープンさが失われ秘密主義になってしまった。つまり密室の中で重大な事が決まってしまう・日本の至る所の組織で事実をねじ曲げたり、隠したりする・組織の中でのスピード感の喪失、決断力の喪失=茹ガエル状態・日本の経済力が、科学と技術力が落ちてしまった・日本の社会からイノベーション、発明発見する人材が育たなくなってしまった・皆時代を切り開く気持ちを失ってしまった・同じ色に染まる。即ちガンジがらめ・心がオープンで無くなり閉鎖的で島国根性になった・日本の文化のレベルが落ちてしまった・上から下まで日本は病んでしまった・日本の社会に悪が、そして不法が蔓延る様になってしまった・巨悪がぐっすり眠れる時代になってしまった・日本の地方の自治体から中央の行政府までの組織と会社は無責任に被われ不正に被われてしまった・皆無責任無関心無気力、更に脱力してしまった・秘密主義を通すから嘘をつかざるを得ないがこの循環から抜け出せない・女性が二流市民的な扱いをされる社会、つまり女性の才能を殺してしまっている・皆勇気を失った・誰も点と点を結んで線とする作業を行わない。つまり権力が隠すパズルを解かない・目に見えない大きな力への関心の喪失・見えない物を見ようとしない、見る事が出来ない。よって文化とか見えない物を造れない・皆大局観が無い・目の前の問題を根本から解決しょうとしない・日本の政治が腐ってしまった

皆さんこの連続投稿を読み、そして上記最後の問い「どうして日本の政治が腐ってしまったのか?」に対し自ら何か答えを見付ける事が出来たのでしょうか?まだですか?もしそうであれば、ちょっと悲しいです。では四つの要因を挙げよう。
(1) それは政治の私物化による: そもそもそれは、政治のプライオリティー優先順位がとんでもなく間違っている事の結果なのです。国家神道と言う「原理主義」を信奉する人達が政権を握っている事、つまり「彼ら」は国家を最優先するのです。それは国家の名誉を守り、対外的に国の威信をかける習性が優先されます。そして国民に国力と威信を保てる様お国の為に奉仕しろと、一生懸命働けと、強要している訳です。大人の思慮を持たずに隣国といがみ合いしているのを見れば明らかでしょう。自分達が自由に政治を操る事が可能になったと言う結果

(2) それは国家の私物化による: 上記の様に、国家神道支持勢力が戦後から地道に「彼ら」の夢に沿った社会変革の運動を行って来た結果を我々は今直面し体験し、見ているのである。そして政権が行政府をアゴで使う様に操れる時代だ。更に産業界(科学界や教育界の一部もこの中へ入れたい)も「彼ら」と共同で日本の社会と国民を私物化している事は第11章で申し上げた。何回も言って居るが日本を、明るい未来が見えない、自由の制限され、息苦しい巨大な改憲マシンに変えて自分達の夢に沿った社会変革を実行している訳。「彼ら」が社会から対抗する勢力を駆逐し消滅させ、権力を私物化し即ち必然的に独裁化暴政化しその勢いで国体の変革を図っている。法治も何も無きに等しいこの国家。例として、同類は批判出来ません。よって中国政府の香港の市民に対する強権的な態度を批判する事無く、民主化要求に共感的な日本の姿勢を見せられない訳。皆さん改めて言っておきます。日本社会を「彼ら」の希求する社会へとひっくり返す革命の成就はもう目の前に、そこまで来ているのです

(3) それは人々の劣化による: 人々を愚かにし人々の考える力を、行動する力を奪い取り自己推進能力を剥奪する社会的な仕組みを運営し続け、皆が皆何も言わないこの希望の失せた世の中で、社会をより良い方向に築いて行く気持ちがとても嫌な物、タブーな物であるかの様な風潮を造り出して来た。人を皆と同じ様な烏合の衆にはめ込み社会の中で流される人間に堕落させている。自分の投票と言う権利の行使が後ろ髪引かれる様な風潮の世の中では、1/4の国民が政権を盲目的に支持する為立法府が「原理主義者」の聖域になってしまうのは当たり前である。「彼ら」の国体の変革運動にはインテリや現政権に反対する勢力や民主体制を支持する勢力は邪魔、皆バカで「お上」の言う事を聞く人間が良いのである。人の力は国の力。日本は病にさせられた人間から成る国なのです。これでは国力が落ちる訳だ。でも皆さん、このままじゃあもう駄目だと言う気持ちにならないのでしょうね...

(4) それは政治形態が稚拙で昭和20年から少しも変わっていない進化していない事による: 村の密室政治と村の、町の、市の、県の(地元の)実力者に間違っていようがいまいが、自分の気持ちを捨てて付き従い忠誠を誓いへつらう部族制の政治形態。即ちそれは実力者に従い己のコネと言う利権を確保する習慣が日本の社会に根強く残っている訳である。だから百年経っても二大政党制は産まれる訳が無い。地元の実力者(地元の自由民主党の支持母体)が今や「国家神道」を支持し彼らに忠誠を誓う人々も自由民主党の支持者となっているのでしがらみと絆でがんじがらめとなり自分の中の論理的な判断を最初から放棄している訳。これは、汚れた実力者でも無条件で支持するメンタリティー即ち親分子分の関係であり、其処には女性の入り込む余地もなくその親分子分の関係と相容れない個人のユニークを尊重する社会と正反対の行為を旧態依然と日々行っているのである。この延長線上が「安倍一強」と言う事。これは日本の政治形態が将軍様、お殿様、お代官様と武士、農民、工業人、商業人が下から上へ袖の下を通して上がる収賄の金が物を言う江戸時代の政治から抜けきれていない証左なのだ。この祀り事の仕組みの行き着いた先が腐った政治なのである。村の病理が行政府と言う天辺まで到達している事は戦後70数年続けられて来た習慣が長らくの間に定着し地方が中央の言う事を聞く様な関係が強要され、高度な地方自治が失われ自治体職員は仕事もせずにお茶を呑むだけのだらしなさ、無責任さと相まってそこそこ程度の村の政治水準が国政レベルで維持されている訳。確実に国が破滅の一歩手前まで来ているのである。つい最近では賄賂を受け取った関西電力の経営陣がニュースとなったが、彼らが収賄罪で逮捕される事なく幕引きされてしまったケースを見てみよ。力のある勢力に服従するJusticeなんて言葉も知らない怠惰な面々、己の仕事もしない死法府と検殺庁の従業員の役立たずの例。よくもまあ恥ずかしくないものだ。賄賂、こんな事は世界の先進国の常識ではあり得ない事。即ちお仲間意識と悪巧みの互助心と帰属心に満ちた国の上層部の面々。村の賄賂の受任のメンタリティーと習慣が世に満ちた、世界の標準に達しない島国である。この社会習慣が世に満ちていれば国力は三流に落ちる。それほど非常に深い病にかかっているのだ。そして過疎地では相変わらずこの様な政治形態が執られ、方やその様なメンタリティーの薄い人口密集地の人々は投票権を棄権する様に操作され続けられた上更に、地方と人口集中地域の憲法違反と判断されている一票の格差も全く省みられない事実。更に人々がこの腐りきった政治の仕組みにも抗議もしない茹ガエル状態だ。これでは永遠に自民党が政府与党の立場を取り続けられるのは何ら不思議では無い。悲しいかな上に立つ者達が腐った貴族の如く振る舞い、武士道の潔さも持ち合わせていないとは世も末である。

この4つの要素が連動して日本と言う国を軍事国家へと進ませているのです。その日本の行き着く果てに辿り着く過程で今政治が腐ってしまっているのを人々は目撃しているのです。簡単に言えば「原理主義者」「復古主義者」が日本を乗っ取り日本国民の心を乗っ取っているのです。それはあたかも村上春樹氏の小説「1Q84」の中のパラレルワールドでおこっている出来事が今の事態を予言した様に現実に起きているのである。

さて皆さん点と点の繋がりを大きく観ようとしないと思いますが、同じ様に戦前の日本と日本人も病んでいました、それ故に神風が吹くと言う催眠術に安心してかかっていたのです。戦後国民が深く過去の振る舞いを反省し続けて来た結果心の病からすっかり回復し、その一方同時に人としての尊厳を抑圧するソビエト連邦からの「大きな見えない影響力」と戦っていたドイツ市民。一方この国では心の病気を回復させる様な努力もしないまま70余年経過しましたが、再び日本が深刻な病にかかってしまった事を目撃すると、何とも悲しいものがあります。島国根性の政治屋さんも戦陣を切って「日本病」にかかっている現状。この政権が主張する憲法改正の中身も判らないで協賛する政治屋の面々はその意味で日本の民主主義の敵と言って良いのです。

次に人々が洗脳されてしまうとはどう言う状態なのだろうかを述べたい。例として、現在の民主主義を守ろうとする勢力を「左翼」とか「反日」として分類する人々もいます。でもちょっと待てよ?今の世の中「ネトウヨ」の方々にとって「保守=善」であり「左翼」と分類されるグループがすっかり「悪」と言うイメージとして浸透している様だが何かおかしくないか?その理由は簡単。「右」と「左」と言うカテゴリに区分けされる勢力が議会を交代で主導するのが二大政党制の仕組みなのである。一般的に「右」とは企業寄り、金持ち寄りで彼らの税金を下げる様に努力し、技術革新等での成長を重要視。一方、一般的に「左」とは懸命に働く者と弱い立場の人達寄りで社会福祉の充実を目指し、金持ちや企業にはそれ相当の税金を払って貰う様努力し更に経済成長より子供達や国の平和な未来を重要視。(3/4の国民の皆さん判ってますよね?この常識。)「ネトウヨ」の方々は二大政党制の英国や米国では「左」として労働党と民主党、「右」として保守党と共和党がそれぞれせめぎあって議論し国家を運営している事実を知らないのだろうか?この2国から「左翼」政党を消滅させたら英国では保守党の一党独裁となり、米国では共和党の一党独裁となってしまう。だが両国の市民の風潮には必ず「振り戻し」として政権交代をおこさせる習慣があるのである。米国の民主党が国民に不人気な政治を執り行っていたら、それぞれの政党を支持する層の真ん中、中間の人々は次の選挙には共和党を支持する事で民主党を懲らしめる様にしている。だから自分が次回の投票に「左翼」的政党を支持するのか「右翼」的政党を支持するのかは自分が過去それぞれ支持して来た政党がどの様な良い政策を採って来たとか又は悪い政策を採って来たかで判断し決定する。つまりより良い政策を打ち出している2つの政党内の1つへと投票するので、その過程で右左区分けしてこちらは悪い政党だと言う思い込みは持っていない。単なるポリシーの違いを選択している訳。だから左とか右とか言っても両方正しいのである。自分の投票権、一票の使い方は極めてドライ。地元の実力者に付き従い彼らに投票する日本の市民(その意味で平民)とは大違いなのである。方や英国の保守党、労働党。米国の共和党、民主党。お互いがお互いののしりあっているのは二大政党制の中だからまだ健全。そして米国の場合例えば共和党政権が去った後は行政府から共和党政権を支えて来た職員がごっそり退職し民間に転職するので行政府も様変わりする。この世界の民主主義情勢を知らない能天気な面々が、この一度自民党政治から非自民党へと振り子を振り戻した後2012年末に崩壊させられた日本のモヤシの様な二大政党制度の中で自民党以外の政治家を糞「左翼」とか言っている自分の姿を子供達に見せられるかな〜。ちょっと恥ずかしいよ。でも人々がひとたび洗脳されるとこの影響は後々まで続きます。

更に第9章で説明した事なのですが、皆さん「知覚の不在」が世に溢れると何がおこるのか想像した事があるのでしょうか?それは人に対して「ラベル張り」を行う習慣を持つ様になるのです。上記の例では「左翼=『悪』」と安易にラベルを張る事。他に例えば何処かの政治家を「左翼ポピュリスト」なる言葉でラベル付けする事は出来るが、その後ろに或る日本の社会の病んだ理由を考えた事の無い文筆業の方々がいる訳。人間の最近の歴史を見ても幾つもの例を挙げられる。その一つ、50年弱前カンボジアのポル-ポト政権下においての大量殺戮がおきました。一説によると150万人〜200万人もの方々が命を落としたアジアの暗黒の歴史。これも或る人々にラベルを張り付け彼らを無法の状態で抹殺して行った結果です。方や冷戦下の米国でおきた1950年前後の社会現象「マッカーシズム」所謂「アカ」狩り、等の例がある。つまり何処にでもいる市井の人々にラベルを張付け、社会から隔離するとか、その人の社会的な地位を剥奪するとかを行うのである。これは単に集団的なヒステリアとも言える。一つの言葉でラベルを張られた人間とその人の実体がかくも乖離しているのかを人々が気付くは残念ながらその人の尊厳が貶められた、遥か後なのである。

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では最後にこの息苦しい社会と腐った政治にあなたが対抗するにはどうしたら良いかを考えてみたい。
(1) "Automata"(自動人形、機械人形)[11]の状態から脱出しよう: 人間の格好をし人間らしく動くが、心が存在しない操り人形の状態から己の意志の力を用い脱出する事。人々がオペレータ化した社会の中、携帯電話を寝る時も枕元に置き肌身離さずにはいられない非常に多くの人々が罹患しているインターネット依存症。それを技術の進歩と勘違いして、もてはやしている愚かさ。単にジャンクな情報の海の中で溺れているだけなのが判らない。不幸な事に「日本病」の大きな特徴は全世界に広がって来た。この世界を経験し感じそこからの経験を自分の人生の糧とする精神の自由さえも失い体制にしっかり管理された人間共である。携帯が提供する狭い世界に住むだけでこの世界を知らずに死んで行ってしまう動物園の動物の様な哀れな人々である。世界をこの眼で見ようとしない島国根性故に、インターネットのニュースサイトから流されるニュースの一こまに埋め込まれた誘導先の正体も吟味せずにそこから安易に様々な洗脳型のウェブに誘導され、韓国バッシングを始め、Youtubeの嫌韓ビデオを暇な時にずーっと見ている爺婆若者達。携帯を操作する事自体、つまらない生活から目を逸らせ、そして現実逃避と刺激を得る手段でもある。だが、携帯を手から離して目をこの生きている世界に向け、そして自分が生きている男或は女に戻る事により人生を実り多いものにする事が可能なのだけれども...今の時代人として個人としてユニークさを喪失したが故に、男としての魅力を失い女としての魅力を失ってしまっている社会なのではないでしょうか。人が男として女として魅力が無いとどうなるのか。世の中、結婚したい程魅力の或る人が少なくなっていないですか?だから草食系独身が多くなり少子化に拍車を駆けているのではないのでしょうか。兎に角Automataとして過ごす状態の時間が長過ぎなのです。今を生きている事を実感しない出来ない人々が爆発的に多くなった社会。携帯を目の届かない所へと置いてから、コーヒー又はお茶を入れてイスを窓ヘ持って行きリラックスして窓の外を眺め自分と世界の関係を深く感じて見て下さい。自意識過剰やツッパリが人のユニークさと勘違いしている人が多すぎませんか?「あなたは私ではない。」これはユニークさの根源。「私はあなたではない。」これは他人の痛みが判らなければイジメとなり、判ろうとすれば隣人愛に通じる。「あなたと私」の間に横たわる気持ちが社会に満ちた喧噪や風潮によって刺激され穏やかさを失い、更に激高し個人攻撃、グループ攻撃、組織攻撃、或は地域への差別や或る国やその国の市民への差別に発展している悲しい時代である。この様な日本の人々の心を操る事は権力による人々のヒューマニティーに対する犯罪である。でも私は騙されない。私が子供の頃曽祖母から聞いた関東大震災の時の話。東京方面がその夜になっても赤々と明るかったとの事。そして彼女の生家の地域の「朝鮮人」が人々が利用する井戸に毒を投げこんだとの事で地元の人々が彼らを追いかけ捕まえようとしていた。辛くも公民館の屋根裏に隠れ逃げ込んだ「朝鮮人」達を見つけ出し人々が下から竹槍で刺し殺したんだよと嬉々として私に語ってくれたのである。やり切れない。どうして身近な人がかくも鬼に、犬畜生の如くに人を殺める事に賛同する様になれるのか。私は人々が簡単に鬼になった事実を目撃した者としてそれからずーっとこの人生を生きている。不幸な事だが同じ事態は過去にも未来にもそして何時でもおこる。敗戦直後の満州の日本人入植者の事を思いはせて見よ。男共が旗を振る憎しみと戦いの中からは生命は産まれないのです。皆さんは偏狭で頑迷なAutomata達が憎しみを身に付け募らせる、この様な夜叉の顔を持った社会は人間の顔を持った社会即ちオープンで公平公正で誰にも偏見もなく、そして慈悲に満ちた社会とどれほどの違いがあるのか理解出来ないのでしょうか?

(2) 沈黙し内省する時間を過ごす習慣を持とう

(3) 少し抽象的ですが、心に平静平安を取り戻す事。日々の生活において心を清めきれいにし真と善と美と愛を心の中に呼び戻し社会に希望の風潮を造り出そう

(4) 地元実力者との社会的、精神的な影響力(きずな)を断ち切り、投票に行って自分の本当の意見を世の中に知らしめよう

(5) 子供の教育を重視しよう: 子供達を健全で自主性の有る人間として育てなければいけないと思います。今の子供達に自然の中で色々な体験や社会の中で色々経験させ、知識や経験を一番吸収出来る年齢時に携帯電話、或はコンピュータ、ビデオゲーム機を可能な限り操作しない様にさせないといけないのではないですか?例えば大人がハマる中毒性の高い「マインクラフト」と言うゲームに小学生が熱中するケースが広がっていると聞く。でも共働きの家庭だとビデオゲームが子守役になっちゃいますよね。この様な日常では子供達が人として全うに育たない。平成の若者がコミュニケーションが出来ない体力もない心も貧しいモヤシッ子になってしまったのを親が後悔する時代である。この社会の財産を健全に育てて来なかった昭和の親達の責任でもある。大学を含め学校の先生の給料を上げ優秀な先生を集め義務教育の質を向上させないと永遠に日本に人材が育たない事態となってしまうよ。残念ながら人間の内面なるものが創られず、育たない中身の無いAutomataが大量生産されて来た平成の時代。私は何も言えないロボットの様な自動人形から構成される社会には生きたくありません。

(6) 人と人の間での、そして組織内でのコミュニケーションをもっと大事にしよう: 建設的な意見や議論を活発化する事で組織の運営にダイナミックさが戻って来ると思います。原子化し蛸壺の中に生きている様な生活は止めにしましょう。一方もっと創造的な人生を生きている人々が横に繋がる事、連帯する事が何故出来ないのかは私にはとても不思議なのである。相手の間に垣根を作ってしまう島国根性が病として蔓延しています。何故、垣根や壁を取り払ってコスモポリタンになれないのだろうか?

(7) 自分の自己推進能力を取り戻そう: 自己推進能力とは簡単に言えば、前に見えるが遠すぎて触るのが困難な物事、に到達しようと努力する力。例えば珊瑚の敷きつめられた美しい海にあなたが潜水道具無しで泳いでいるとしよう。マリンブルーの海の底に広がる珊瑚。更に深みが見える。そしてその深みの底に触ってみたい気持ちへスイッチが入った時、貴方は息を目一杯肺の中に吸い込み満身の力を込めてそこに見えるがしかし手の届かない珊瑚の海底めがけて死に物狂いで深みへと潜り泳ぎ、到達しようと試みる。何回でも何回でも。別の言い方をすれば、目の前の地平とその彼方に見えるがしかし手に届かない対象(例えば理想社会)に地道に一歩一歩突き進む努力をして到達しようとする人達の事を自己推進力能力のある市民達と言う。その風潮が満ちる社会は「出る釘」=個人のユニークさを否定する社会的圧力が溢れる内向きな社会と真逆に位置する。しかしこの意味では「原理主義者」達も自己推進能力があります。振り返ると平和な時代が高度経済成長の後バブルの時代に取って代わりそして、復古主義の時代がそれぞれの時代の様相や風潮と相互作用する格好で我々が生きるこの社会に侵食して来たのです。それは日本社会の活力を殺める戦略戦術により人々の知性を低下させ、「彼ら」の社会変革の実体を見えなくさせる様に仕向け、又その様な社会変革に抗議する人間を消滅させて自分達の理想社会を築く様にして来た結果とは今あなたが見ている日本なのです。御覧の様に日本の国力が没落した事実を直視すべき。「彼ら」はいささかイデオロギーに強欲過ぎた。日本の3/4の人々にとってはとても不幸な事。こんな事はもう沢山。己の「日本病」を克服し、人々を病気にさせている原因をこの社会から駆除する大事な仕事が残されているのです。自己推進能力を持って日本の市民自ら腐った政治に対抗する改革の旗を振り続けないと

少し上から目線と思えますがこの1章から13章の投稿の最後にあたり簡素に述べたいと思います: 「彼ら」は中国の独裁体制の様に非常に強大な力を持っているので一人一人の日本の市民は「彼ら」が産み出して来た風潮が造り出す「見えない大きな影響力」を注意深く読み取り監視し地域や組織から、そしてメディアからイデオロギーに病んだ「彼ら」の旗を振る人々をその役職から引き下ろす事が必要です。そして同時に自分の生活の中から心の平静と平穏さを掻き乱す要因を取り除く事を始めなければなりません。自分の生を自分がコントロール出来る社会を目指す事。そして政治が、社会が必死になって生きようとしている人々を助けてくれる雰囲気や環境を取り戻す様な努力を継続して行く事が大事なのではないでしょうか。つまりPost「原理主義」と言う風潮を造り出す事がまず最初の一歩だと思います。何十年もかけ変質させられた夜叉の様な形相の日本で行われている政治から人間の顔を持った政治へと舵を切る事、それが日本の社会と国力が健全さを取り戻す唯一の方法なのです。高齢化が著しい社会の中で人々の生存権、家庭の生存権の拡大と向上、そして健全な社会への回復には日本を再び軍国主義化する事により達成する事は出来ないのは明白です。「彼ら」のその様な社会変革を阻止するには「彼ら」の造り出した風潮の中で生きている事に気付き、その風潮に被われた社会がどれだけ息苦しいかを感じる事から始めないと。その風潮が産み出す力をものともせずそれらの仕組みが見える人が増え、「彼らの見えない力」を跳ね返し、その風潮の根底部に有る「原理主義」の司令塔を社会から根絶しないと平和な日本は取り戻せません。また同時に地元の実力者にへつらう平民のメンタリティーから脱出する事が必要だと思います。そして日本を元のレールに戻す努力を厭わない「自己推進能力」のある日本の市民が日本の社会の中で増える事以外には道はありません。これがPost「原理主義」に至る道ではないでしょうか。大手ウエブニュースのサイトから誘導され嫌韓に洗脳された人々を煽って改憲を進める時代に3/4の全うな生き方をしたい日本の人々が連帯し声を挙げてこの日本を再び活気の或る社会、遥か遠くに見える人間の顔を持った社会に向けて自己推進する時だと思います。言い古された言葉ですが、幾ら闇が深くても明けない夜はこの世にはありません。日本が変る必要があると思っているのならまずあなた自身の心の中に在る闇に光を差し込んであなたを変える事から始めなければならないと思います。

本投稿を読んで頂きどうも有難う御座いました。
プラナリア
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参考文献等:
[1] Grete Thunberg, "Climate Action Summit 2019"でのスピーチ, テレ東NEWS, Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=_y8JNG7S0bo
[2] "The Russell-Einstein Manifesto", July 1955, Max-Planck-Institut,
http://einstein-virtuell.mpiwg-berlin.mpg.de/VEA/SC540264407_MOD2037217062_SEQ-1972097031_SL2006374076_en.html
[3] "Mercy, Mercy Me (The Ecology)," Marvin Gaye,
https://www.youtube.com/watch?v=U9BA6fFGMjI
以下は高音質
https://www.youtube.com/watch?v=NtlV0j0uGaA
[4] "いずも型護衛艦," , ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%82%E5%9E%8B%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6
[5] "Japan and U.S. Set New Rules for Military Cooperation," The New York Times, 2015年4月27日,
https://www.nytimes.com/2015/04/28/world/asia/japan-and-us-set-new-rules-for-military-cooperation.html
[6] "The Guidelines for U.S.-Japan Defense Cooperation," "日米関係重要文書 - 安全保障"のウエブページより, American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/5006/
[7] "日米防衛協力のための指針," 外務省のウエブより,
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000078187.pdf
[8] "護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件
[9] "自衛隊の闇 不正を暴いた現役自衛官," 2414年2月23日NNN放送,
http://www.ntv.co.jp/document/back/201402.html
[10] "たちかぜ自衛官いじめ自殺事件," ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%9C%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81%E8%87%AA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[11] "オートマタ," ウィキペディアより,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%BF

http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/801.html

[政治・選挙・NHK267] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 一括投稿編 - 産まれて来た微かな希望の徴に捧げる
ここに2019年6月24日から2019年10月28日まで阿修羅の政治板に投稿して来た文の一括をまとめ改訂を施した一括編を公開します。暇な時に時間をかけ気長に読んで見て下さい。又このウェブの読者だけではなく、他のSNSの読者にも広く読んで頂ければ幸いです。

内容一覧は:
1章 巨大な改憲マシンの中で
2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則
3章 "Justice is not done." 正義が行使されない国
4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ
5章 音楽は政治を批判してはならない
6章 欲望の行き着く果てに
7章 何処から、何処へ、何ゆえに
8章 そして全てが逆行する社会へ
9章 日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事
10章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
11章 国民に向けられた三本の毒槍
12章 こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います
13章 「日本病」と言う病。人間の顔を持った社会とは?

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第1章 巨大な改憲マシンの中で

まず最初に。本稿が日本そして日本の社会が人間の顔を持った社会へと方向転換し、その方向へ進んで行く為の道しるべの様にささやかな力になればと願いこの長文を投稿する。その方向には何が見えるのか?それは、産まれて来た微かな機運と希望の、徴なのである。この、地方から中央からそして上から下まで腐った政治が蔓延した日本の社会の中で、健全な二大政党制を少しずつ形成する様な小さな意志を私は感じるのである。その二大政党制への夢、それは遥か彼方の地平に見えるがとても手の届きそうにない、健全な社会へと時代が進んで行ける様この小さな希望のともしびに本投稿を捧げたい。

これから投稿するシリーズの内容はあなたにとってかなり耳の痛いものである。携帯電話を用い本長文投稿を読むのは苦痛なので出来れば大きな画面のコンピュータを使って読んで欲しい。これは単なる一会社員、オッチャンからの一言である。何処にでも居そうなオッチャンに言われてあなたが初めて気付く様な事もあるかも知れない。でも、もしあなたがこの巨大なマシンから逃げ出したいと言う気持ちを少しでもお持ならば、最後の章まで読み通せるのではないかと思う。一連の流れの内容は小生が過去にこのウエブを通して投稿して来た文章に手を加え、新たに追加する章と合わせた物である。日常生活から全く見えて来ない風景を通して日本の現状を客観的に眺めてみる。

あなたはこの表題にある様な事実を知っているか?1億2680万人もの人々が住む国でそれを認識している人々は、これを実現する方法を設計したアーキテクト以外誰一人としていないに違いない。可視化が出来ないこの巨大なマシン(仕組み)を造り上げた事には敬服する。誠に以ってあっぱれである。

端的に言ってしまおう。我々は長きに渡って構築されて来た、改憲を唯一の目的とする巨大なマシンの中で生活しているのである。経済的に苦しい、知的に息苦しい人々の日々の生活も全く関係の無いかの様に黙々と日本国憲法の解体と明治憲法の再構築、戦前の社会への復古を最終目的地としイデオロギーを原動力とした社会の中に生きているのである。憲法改正の教義に共鳴する面々を四方八方の組織に送り込んで社会に巨大な影響力を行使するマシンの中で。

我々庶民だけではない。行政府立法府死法府、地方自治体、学校、大学、企業、労働組合、自営業、新聞テレビインターネットの報道機関等々の組織とそこで働く人々が途轍もなく巨大な改憲マシンの中で、大きなしかし見えない力の流れによって或る方向に流されているのである。この流れに同調しない組織、会社、個人を改憲マシンの憲兵達が潰しにかかる訳。このマシンの中で人々は己の思考に基づいた決定と行動を自己推進力が無い(奪われた)故に自力では行使出来ない(決められない)。更に同調圧力なる外部からの影響をその善悪如何に関わらず自分の意見の如く納得し、又人と同じ様に振るまい、自らがんじがらめの社会に住む事を甘んじて受け入れている。平成の時代の後半から日本社会で変化して来た事或は起こって来た事が全て、憲法改正の為の行為の帰結とその副産物として全てが理に適い説明出来るのである。何しろ憲法改正の為には何でも利用する面々がこのマシンの中で旗ふりをしているのだ。人々の幸せな生活の事を思いめぐらせる事が政治の中に無い故に日本の政治が腐ってしまったのはこの時代の必然であろう。それでも人心は政権から離れて行かない摩訶不思議。あんたも悪い。日本の政治が腐ってしまった原因の中の一つなのである。だから権力を私物化する面々がこの世に跋扈しているのである。

或る一例を出そう。何時の頃であったかは記憶にない。日本経済新聞電子版は政権のプロパガンダに堕してしまってどの位経つのであろうか。でもつい最近此処まで露骨にやるものか!と思わず絶句してしまった記事がある。それは「トランプ氏演説『力による平和』強調 海自艦に初乗艦」だ。[1]少し長いが一部引用させて頂く。「トランプ米大統領は28日午前、安倍晋三首相と海上自衛隊の横須賀基地(神奈川県横須賀市)を訪れ、護衛艦『かが』を視察した。『かが』は事実上の空母化が決まっており、日本政府が購入する米国製のステルス戦闘機F35Bの搭載が可能となる。日米首脳がそろって乗艦し、強固な同盟関係をアピールした。...日本政府は2018年末、いずも型と呼ばれる国内最大規模の護衛艦『かが』と『いずも』の2隻を空母化する方針を決定した。F35Bのような短距離離陸、垂直着艦ができる最新鋭の戦闘機が搭載できるよう甲板を改修する。」かがが空母化されるのは噂では聞いていたのだが、この様なインパクトの高いニュースの内容を使って内外に空母化をアピールしている事。更に「日本政府は2018年末...空母化する方針を決定した。」この決定の話も聞いていなかった。今回初めて聞いた話である。もう一つ。メディアのプロパガンダの常套手段である曖昧化する手法の一つが用いられている。此処で「日本政府」とは一体何を指しているのか。客観的に言えば「現政権」が正しいと思うのだが。

ところであなたは、日本の社会のバカさ加減にほとほとうんざりしていないのであろうか?テレビが爆発的に普及して来た時に一億総白痴化なんて騒いでいた時代が懐かしい。今はどれだけの方々がインターネット依存症になっているのだろうか?これも巨大な改憲マシンの成せる技である。外から日本の社会のレベルを見ると赤面してしまう程反知性とモラル不在、無責任感の漂う荒廃した社会の様に見えるのである。まるでゾンビの様に死んだ人間によって構成されているおしゃべりのみで語っていない、表現していない、意味の無い言葉で溢れ返っている国の様だ。巨大な改憲マシンの中で人々は平成の時代に一億人がオバカ化し、改憲と言う長い物には巻かれろと言う諦めに満ちた一億総茹ガエルになってしまった事に気が付かないとは。それにしても堕ちたものだ。何と言う世の中になってしまったのだろうか?忖度なんて言う言葉のレベルは既に超えている。皆元気が無いのだ。だから会社も国も元気が無い。皆さん自己防衛本能も喪失しサバイバルの能力も失ったのか?しかも自分が抗議の手段としての国政や地方政治に投票を通して自分の意見を表現すると言う機会を放棄してしまった人間であるに気が付かないとは。これではまるで負け犬である。小生には改憲マシンの中で皆が皆茹ガエルで居続けられる気持ちが理解出来ないのである。

この6月末の、200万人にも及んだ(主催者側公表)街頭で政治的信条の表現を行う力、のある香港の若者達のニュースを見た。隣国の建国から脈々と続く誰にでも可視化出来る一党独裁性と言う巨大なマシン。これに組み込まれてたまるか、と抵抗する気概を表現の自由を行使する事で世界に訴えかけていた。香港の人々の底力を、即ち香港の、国としての底力を目撃したのである。人間としてのintegrityを持つ香港の若者達と比較し日本の若者の民度は無きに等しい。いつのまにやら巨大な改憲マシンに閉じ込められてしまった日々。心も無責任無関心無感動に染まった諦めと閉塞感に満ちた人生。虚しくないのか?

ところで日本経済新聞電子版は権力のプロパガンダに成り下がってしまったとの意見を言ったが、そのスタッフの名誉の為に彼らのウェブより以下引用する。以下生前アップルのCEOのスティーブ ジョブズがスタンフォード大学の2005年6月の卒業式で語った言葉を日本の若者に読んで欲しいのである。[2] 彼は一番最後に"Stay hungry, stay foolish"と締めくくっている。ハングリーである事と茹ガエルである事は相反するのだ。世界の若者がどれだけこの世を真剣に生きているのか参考にして欲しいものだ。これから新たな地平を切り開く大学の卒業生に語りかけられる文化的な懐の深さ、そして彼の言葉を真摯に受け止められる若い人間がいる。素晴らしいと思う。

この章の最後にあたり: これら連続投稿を貫く重要なキーワードを4つ挙げておこう。それは「強欲」と「風潮」そして「見えない大きな力」である。4番目のキーワードはここではまだ出さないでおく。そして、この今はまだ見えない言葉の実体を産まれて来た微かな希望を心に持つ人々に捧げたいと思う。兎に角これら上記3つの言葉を心に思い浮かべてこの文をお楽しみ下さい。

参考文献等:
[1] "トランプ氏演説「力による平和」強調 海自艦に初乗艦、"日本経済新聞、2019年5月28日
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45318230X20C19A5MM0000/
[2] "ハングリーであれ。愚か者であれ," ジョブズ氏スピーチ全訳、日本経済新聞、2011年10月9日
https://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXZZO35455660Y1A001C1000000
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2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則

小生2011年の11月からこのウェブに何回も投稿し続けて来ました。その理由は余りにも不条理な環境に置かれながら何とか頑張ってサバイバルして来た私の友人達を見て来たからです。何でこの様な事がおきてしまったのだろうかと自分に自問自答しながら、同時にこの不条理の苦痛に堪え視力を落しながら日々投稿に向け何百回も原稿を直し何時もの様に生業の仕事をしていました。この問題は私の友人だけの問題ではありません。しかし今現在これが既に過去の事でもあるかの様に皆が皆平気な顔をして生きていられるのはどうしてなのだろうかと言う疑問を常に心に抱き続けて来ました。ですから圧倒的多数の方々にとってこの投稿のシリーズに度々東日本の核汚染の話が出て来るのは実に不愉快に違いないと思います。この国で核惨事が原因となって、苦しみもがいて生きている人々の心の痛みを判ろうと努力しない、或は出来ない今この投稿を読まれている方々はこれ以上投稿を読み進まないよう、心からお願いします。この不条理な現実に抵抗する気持ちを持ち続けられたからこそ、私自身何とか最終点まで辿り着けたのではと思います。

最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは2012年12月の拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[1]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、「彼ら」の望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[2]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には「彼ら」の理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本だ。トドのつまり「原理主義者」(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、「彼らの問題」を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。(注: 本投稿では「原理主義者」、「復古主義者」、「彼ら」と言う言葉でこの勢力を言い表しておく。)市民にとって国政を担う立法府は役立たずどころか悪法の立法を行う三権の内の一つの機関に成り下がってしまった。立法府が政権党と野党の政策論争の場として国を良い方向に導く事、を怠りその機能を無視し内閣と政権与党の隷属機関となってしまった事がまず一つ目の破壊された三権分立の原則として数えられよう。何より、国家権力を私物化しやりたい放題の政権。皆さん、こんな事は先進国では決して起こりえないと言う認識が無いのだろうか?オバカ!を通り越して小生には滑稽ですらある。このままではこの国は潰れる。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。これらは今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示でもある。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、「原理主義者」達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった自民党政治に関する幾つもの大きな疑問点が線として繋がったのである。

以下人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。これから何故そうなのかを考えてみたい。東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。幾度も過去の拙稿で指摘しているが東京電力(TEPCO)の強欲さと癒着体質故、会社がトップダウンで職務放棄と業務怠慢を続けその業務監督を官公庁即ち行政府職員が放棄した結果、行政府及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により白日の下に晒された訳である。各汚染事故の後次に農林水産省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?被災地からの食品は危ないと言うのは風評であり安全であると、放射性同位元素に汚染された食べ物を「食べて応援しよう!」とキャンペーンをしている訳。以下引用しよう:「農林水産省では、被災地産食品を積極的に消費することによって、産地の活力再生を通じた被災地の復興を応援するため、多様な関係者間で一体感を醸成できるよう、共通のキャッチフレーズ『食べて応援しよう!』の利用を呼びかけております。」[3]。でも根本的な問題は別の所にあるのだ。健康に問題有りませんと繰り返し宣伝し続ける事で、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?何故ならそれは安全神話を振り拡げて来た事の責任を伴う、TEPCOに対しての監督不行き届きの罪がある事を彼らは自覚しているからである。いやしくもエリート大学出の行政府の官僚であれば、遺伝子プール[4]と言う専門用語は御存知の筈なのだが。特に子供達に核汚染した食べ物を食べさせる事によって、日本と言う国土における遺伝子プールを広範囲にそして長期に渡り傷つけてしまう事実を意図的に無視する確信犯なのか。これは日本の未来の子供達に対する犯罪に他ならない。その一方食べて応援するのは個人のレベルの問題なのだ。それは個人のチョイス、選択と言う言葉で表現出来よう。よってそれを人々には強制してはいけないのである。ましてや我々の宝である子供達に食べて応援させるのはいかがな物かと思う(だから黙って混ぜないでね)。つまり官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、更に一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それは組織内の隠れ「原理主義者」の協力と誘導の下、原理主義の司令塔と改憲マシンの力を借りてメディアを通じイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民を洗脳出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。自分達が犯した罪をウヤムヤにする為、日本の人々に核汚染から目をそらせ、些末な事に目を釘付けにさせる為に改憲マシンと共同でこの作業している事。この図式は真ん中に原理主義の司令塔がデンと座って居り、それぞれ内閣与党と行政府がそれぞれ横に従っている様なものではないだろうか。その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けている。既に所謂王の目[5]王の耳として送り込まれた活動家は「原理主義者」の司令塔に、彼らが所属する組織内のステータスを逐次報告しているのでしょう。これは衝動的な事であった。2018年の4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。小生は若手の原理主義の活動家らが各官公庁の上層部に上り詰めており組織運営にも影響力を及ぼしている可能性はほぼ100%と踏んでいる。持ち論各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた「原理主義者」は横断的に連絡を取り合っているだろう。原理主義の司令塔から発信されるイデオロギーに共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい国」は「復古主義者」達の念願の夢でありその社会は「彼ら」の追い求めて来たユートピアとなるのであろう。更に、小生にはこの集団がイデオロギーに満ちている故に、科学的客観性を無視しても平気でいられると解釈する。だが科学的立場なんてもうどうでも良いのである。王の目、王の耳が行政府組織内に入り込んでいるので政権が行政府をコントロール出来るし、行政府は行政府で改憲マシンが造り出した、東日本核惨事はとるに足らないと言う風潮に便乗し自分達の巨大な嘘を無効化する為に政権にすり寄りよる仕組みがもう既に出来上がっているから。

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、牢屋には行きたくない訳。つまり何か行為を行った結果に対してその(安全神話の崩壊と言う)帰結の責任を絶対にとりたくないのである。その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。だがそれ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。再度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と改憲を貪欲なまでも追い求める強欲さ。この「原理主義者」達の欲望の、行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?この様な国が「美しい国」とは、笑止千万である。

しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘を隠蔽する目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのだ。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。それは「原理主義者」に同調する事で、行政府は日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事なのではないか?今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる「原理主義者」達の革命が進行中なのである。

さて三権の内残った一権が如何に破壊されてしまったかは次章でさらっと言及しておく。では死法府とお仲間の法無省検殺庁の事を紹介しよう。以下の事件は「原理主義者」達が行って来た数々の悪行の一部に過ぎなくなった。それは田中龍作ジャーナルに政権が検殺に「森友改ざん」で圧力をかけたとの記事が記載されていた。[6]三権分立が既に破壊されてしまった事の帰結ではなかろうか?それはもう癒着と言う感じの出来事。さて法無省は英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし非常に残念だが看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます。又冤罪の温床、検殺庁の面々も世界で通用しない偏狭な自己保身的考え方を持っている様で無実の人を冤罪に貶めるのが非常に得意なのである。持ち論その真逆の事も昨今の得意技として挙げて良い。よって彼らの働く組織の事を、本来の仕事をしない死法府、法無省、検殺庁、警死庁と本書の中では表現しておく。しかしこれを許している国民も愚かの極みだ。

この章の最後にあたり: 直感的に、近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が国内非常事態宣言を行う可能性が非常に高いと思う。国内の混乱の期に乗じて「原理主義者」主導の下、独裁政権下で立法府行政府死法府の私物化を加速するのは時間の問題の様な予感がする。非常事態宣言の後に改憲と言うシナリオである。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのだ。現憲法下で築き上げて来た皆が繁栄する社会から残念ながら全てが逆行する戦前社会へと日本は退化しつつある。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常," 投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日, http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[2] "「日本会議の研究," 菅野完、2016年、扶桑社
[3] "食べて応援しよう! 被災地を応援," 食料産業局食品流通課, 農林水産省,
http://www.maff.go.jp/j/shokusan/eat/
[4] "遺伝子プール," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB
[5] "王の目," Wikipedia,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E7%9B%AE
[6] "【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに," 田中龍作ジャーナル, http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

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3章 "Justice is not done." 社会正義が行使されない国

それにしても石が流れ、木の葉が沈む何と言う時代となってしまったのだろうか?日本で社会正義が行使されてない事実を隠そうと懸命に努力している特権階級の事を思い浮かべて頂きたい。原子力災害を職務怠慢により、おこしてしまったTEPCOの事故前の経営陣の責任と罪。そしてTEPCOに対する監督不行き届きの霞ヶ関の面々の責任と罪。更には日本の女性蔑視社会を世界に知らしめた、不逮捕特権を持っているかの様な現首相のお友達。動かない何もしない検殺庁のみならず、死法府の過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々との癒着ぶりがハッキリと白日の下見えて来る。これで法の番人とは笑ってしまう。彼らが自分自身の保身と出世と言う強欲の為に、面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の、腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。

まず"Justice is done"と言う言葉の定義をチェックしよう。残念ながら日本の現状を見るとそこへも辿り着いていないのである。言葉の説明は Wikipediaの"Retributive justice"を参照して頂きたい。[1] 正義の為の応報とでも訳すべきか。その中で18世紀のドイツの哲学者カントの考え方が引用されている: ".... Kant regards punishment as a matter of justice, and it must be carried out by the state for the sake of the law, not for the sake of the criminal or the victim. He argues that if the guilty are not punished, justice is not done. Further, if justice is not done, then the idea of law itself is undermined."抄訳すると、「哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである。」

行き着く所、国会であろうが検殺庁であろうが警死庁であろうが罪を犯した人達を世の中に蔓延らせ、善良な市民を犯罪者に仕上げる面々を罰していないのはどうしてなのか?

それは無理だよ。他の公務員同様彼らは本来怠け癖の在る、仕事をしない面々なのだから。考えてみればこの国では力を持つ者同士が、即ち権力を握る政治屋、産業界、行政府が検殺及び死法府の面々とつるんで、仲間をかばう為に法律で律せられた法治の下のJusticeを無力化しているのである。この上と上の間での法律を超えた立場と法に対するいい加減さとは正反対に上が下を法律で縛る事は蟻一匹も逃さない様な狡猾さ。それに加えて日本の市民国民庶民平民奴隷ロボットの皆さん、考える事を止めた携帯電話を操作する茹ガエルなので、先進国で日々実践されている法治と言う事も考えた事のない状態のこの国はお粗末な後進国なのである。ここに一例。2012年1月のこのウェブに投稿した拙稿[2]に以下記した。「[番外] 25 何でニュースを批判的に見ないのか?:単に情報として聞くだけ、読むだけの話のネタ。**日本人の弱さ** (段) 26 そして何故大局的に物事を見ないのか?:上記25に関連して。東京電力女性社員の殺人事件の被疑者であるネパール出身のゴビンダ マイナリ氏のDNAが被害者の女性より見つかった犯人の精液のDNAと不一致と言うニュースがこの7月の時点で流れた。何故この時批判的に又大きく観れないのか?精液のDNA鑑定で更に犯人の民族的特徴も解読できる筈。しっかり心の眼を開け。日本の市民!**日本人の弱さ**」ジャーナリスト達も大きく考えられないオバカ達である。この声が天に届いたのかは知らない。が15年もの間無実の罪で服役していた彼は程なくして刑の執行停止の後釈放され無事家族のいるネパールに帰国した。恥ずかしいぜ。

更にもう一例。何十年も前から無実の罪で刑務所に幽閉され、晴れて冤罪から解放された袴田さんの事に関して。[3]そもそもどうしてこの事件を「袴田」事件と呼ぶ様になったのか誰か考えた事がありますか?この命名事体がおかしな事なのである。人の名称を事件名として使っていると言う事は、警殺職員や検事の方々はこの事件に眼を見据える事が出来なかったという訳。この反省点も聞こえて来ないのはどうしてなのか?大事な事は地平線上に見える犯人の足跡に到達する事ではないか。その為には見えない物証に到達しようとしなければならないのだが、自ら自己推進力を捨て去って、目の前の疑わしき人の自白を強要するのはどう言うメンタリティーなのだろうか。物証を追いかける事が出来ず自白を追いかけている悪しき検殺の面々だ。五十年余の後に検殺が物証としてでっち上げたズボン等の存在を否定した写真のネガが今頃になって見つかったと、申し出る何と言う無法者のやり方。信じられない程業務に不適切な連中である。極悪な面々は組織から解雇すべき。でも組織が灰色な牙城さ。だから外から圧力かけましょう。

この章の最後にあたり: 法治国家の大原則は「何ぴとたりとも法の上に立つ事が出来ない」のである。つまりそれは法の下の平等と言う普遍的な決まり事が常日頃実行され続ける社会なのである。"Justice is not done,"正義が行使されなくなるとどうなるのか?皆さん御存知ですよね!悪事が懲罰されなくなり、結果として世の中に悪がはびこってしまう訳。一言: 非を認めない vs. 間違えを真摯に受け止め謙虚に修正出来る。この違いは何処から来るのでしょうか?私は暴政下の社会風潮と民主主義下の社会風潮の違いと考えます。

痛恨の極み。石が流れ、木の葉が沈む時代となってしまった。

参考文献等:
[1] "Retributive Justice," Wikipediaより,
http://en.wikipedia.org/wiki/Retributive_justice
[2] "日本の市民の皆様へ-その2," 投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日,
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[3] " 裁判長、証拠の衣類「不自然」 袴田事件再審決定, " 日本経済新聞電子版,
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701O_X20C14A3CC0000/

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4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ

2019年7月1日、原理主義の司令塔が行政府と共にそのイデオロギーに基づいて国政を動かしている事がはっきりしてしまった。この日、政権の広告塔である日本経済新聞電子版が以下いち早く報じていた。「韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も」と言う記事[1]である。その中で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」日本の社会で政権与党は嫌韓を人々に煽動しそれを風潮として作り出し政治的に利用しているのは皆さん御存知だと思うが、この煽動が経済界にも波及して来た事は小生のとって非常にショックなのである。それは、原理主義の司令塔が叩く憲法改正を奮い立たせるドラムのビートがかなり速くなって来ているのを肌で感じるからである。ドラムのビートに合わせ強欲な「原理主義者」達がメディアに露出する頻度が高くなって来ておりその発言内容が一段と濃くなって来ている事実。既に2章で参照した菅野完氏の「日本会議の研究」80ページに「●ついに始まった、日本会議による改憲への『カウントダウン』」とあるが全ての事が原理主義の司令塔の筋書き通りに進んでいると言う事。 

個人的には二大政党下で憲法改善改正に向けた議論を行う事に対してはやぶさかではない。悪い所があれば修正して行く事は勿論の事である。

処で小生が大学の政治学科で教えていたとしたら研究室の学生を2つのグループに別け一週間と期間を区切って、学生達を一方は憲法改正の実現法を下調べの上シミュレートさせ、他方には憲法を死守する方策をシミュレートさせる。そして双方のグループで綱引きさせて議論を戦わせる。これは非常に知的に面白い内容になるだろう。でも日本の大学でこの様な事をやる柔軟性あるのかな?しかしこれは深刻な現実問題なのである。既に原理主義のアーキテクトは憲法改正実現の方策を何十年前に設計し、今までその設計図通りに実行して来た訳。立法府に議員を送り込んでいる政党で憲法を守る事を党是とする党が一同に集まって憲法を守る方策を、今に至るまで練った事が無い事は今の国政の惨憺たる状態を見れば誰でも判るだろう。野党間で考え方の違う政党と敵対し憎しみ合う。連帯と言う言葉も存在しない彼ら。これも以下述べる原理主義のアーキテクトの策にハマった政治屋さん達。人々が苦しむ時代に光をさし込ませる様に時代を切り開こうとしない、大胆さもない心の狭い万年野党の政治屋の面々。

前置きが長くなった。これからどの様な方策があるか双方の立場より列挙してみる。(尚マキュアベリの君主論や孫氏の兵法は参考にしておりません):
■まず敵と味方を峻別する
■人材を育てる
■方策を順序化しタイムテーブルを作り優先順位を付ける
■身内の人材を選別し公共的中立的な組織に送り込み勢力下に置く
■味方には利権利潤特権を与える。特に財界
■敵味方どっちに転ぶか判らない勢力をこちらに引き寄せる
■敵を徹底的に壊滅させる、懐柔策を行使し無力化させる、お互いいがみ合わせる、囲い込む。日本では二大政党制さえも無くなった
■敵にスパイを送り込む、弱みを握る
[副次的方策]
■(改憲派のみ)経済の活力をそぐ。バブルの時代の頃には皆が潤っていたので憲法改正なんて誰一人考えていなかった。窮すれば鈍する
■(改憲派のみ)国内における教育及び知的水準のレベルを下げて人々から考える力を奪う。テレビ雑誌等の内容を愚者好みにして、人々を愚民化させる。小学生達がオンラインゲームに夢中になっている時代だ
■(改憲派のみ)時間をかけて皆が変化が判らない様に、方策を少しずつ実行する。茹ガエル戦法
■(改憲派のみ)ニュース機関等のメディアをコントロールし、人々に原理主義の司令塔から送り出される改憲戦略になびく様な風潮を造る。不都合な真実に関するニュースには制限を与え都合の良いニュースに情報を偏在させる事で可能
■(改憲派のみ)知る権利の徹底的な制限。とても大事な事が隠される。どうでもよい事を大げさに報道し人の心を占有させてしまう事。即ち人々から客観性(物の見方とか)を奪い、主観を植え付ける
■(改憲派のみ)メディアは人々の誘導の道具。「日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず」2019年6月2日の日経電子版のニュースである。[2]この様なニュースに接した若者が「あ、そうなんだやっぱり内向きだったんだ」と思い込ませその風潮に同調し、自ら殻を打ち破れない保守的な気持ちを生じさせる。移動しない、出不精。違った文化を見ようとしない。別世界から日本を見ない、大きく国際情勢が見れない。改憲マシンは若者に世界の事を知らせたくない訳。「彼ら」には風潮が自由に創れるのである
■(改憲派のみ)群衆行動のパターン分析。特に日本中のどの家庭から及びどの携帯電話から何処のウェブの記事を何分間見ていたか等、厳密な個人の政治嗜好の調査集計を行い政治の風がどちらに吹いているかを鳥瞰し、メディアを通してその流れを変える様手立てを行い群衆を誘導する
■(改憲派のみ)政権に対し、発言する事に脅しや懲罰などの恐怖心を植え込み発言する人間を萎縮させる。例としては特定秘密保護法
■(改憲派のみ)奥歯に物が挟まった様な表現を多様し物事をストレートに言わない。社会から単刀直入さを抹殺した上弱腰にさせて怒る力を奪う事。実体を見えなくさせる事。常々疑問として思うのだが、一番最初の段で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」とある。この「政府」の定義は一体なんなの?マスコミの皆さんもう何十年も間違ってこの用語を使っているのではないか?私は「政府」とは"The Government"即ち立法行政死法の内特に行政府と理解しているのだが。このニュースの主語は「政権と行政府]と言う言葉が適切ではないのか?日本のジャーナリズムは地に落ちた。読売新聞英語版にはきちんと主語が書かれている。経済産業省が主語: "The Economy, Trade and Industry Ministry announced Monday that the government will more tightly control exports to South Korea of chemicals used in producing semiconductors and other devices."[3]

個人的な感想として断っておく。原理主義の司令塔は財界と協力し経済的に市民を徹底的に搾り取った上不満を外に向けさせて、人々に投票は無駄と洗脳。その上で政権を維持し続ける仕組みを築き上げた。がその後がある。私には次の二つのうちどちらが先に実行されるのか判らない。1) 「憲法改正」 2) 「米国から貰い受けていた核兵器の設計図を元に一週間で核兵器を造り上げ、核実験に持ち込む」。一度日本が核実験をしたらもう引き返せない。完全な平和憲法の死を狙っている訳。(政権の力が余りに強大なので残念ながらその設計図が行政府にあるかどうかの情報は国政調査権を実施しても出て来ないだろう。がその価値はある)。そしてあの大戦の苦しみを通して築き上げて来た平和国家を捨てて、軍事大国として不死鳥の如く瀕死の状態から日本を復興させるシナリオが用意されているに違いない。

この章の最後にあたり: 日本会議のイデオロギーと憲法改正の実現手法が日本全体に害を与え続けて来ているのである。足並みが揃わない野党の党首達に告ぐ!一丸となって憲法を死守する方策をシミュレートする度量は無いのか?

参考文献等:
[1] "韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も," 日本経済新聞のウェブ, 2019/7/1,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46789890R00C19A7EAF000/
[2] "日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず," 日本経済新聞のウェブより, 2019/6/2,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45589930S9A600C1CR8000/
[3] "Japan to effectively ban exports of semiconductor materials to South Korea,"
"The Japan News by The Yomiuri Shinbun," 2019年7月4日,
http://www.the-japan-news.com/news/article/0005845877

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その5章 音楽は政治を批判してはならない

その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政権と行政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の人々はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません。以下小生の音楽の嗜好が入る事、何卒お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催している。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。日本ではこんな事考えられない。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。尚彼は米国市民権を取得しサン フランシスコに移り住んだと聞く。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。彼の心の奥底にはイデオロギーとは全く関係のない原始キリスト教的なヒューマニズムが宿っているのだ。(イデオロギーから愛は派生しないよね)。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを以下張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。

■ "If a tree falls"[1] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。30年も前に今進行しているブラジルの熱帯雨林の急速な破壊を発信していた訳。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の歌詞を"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と替えて、子供が倒れても知らん振りをしている各地方の学校の先生、地域自治体の教育委員会の従業員の皆さんに贈りたい
■ "Call It Democracy"[1]は軍事力を背景にした国際資本によって搾り取られる第三世界の人々を代弁し、怒りの声を上げた曲。この曲から日本の人々がGeopoliticsの下貧困に喘ぐ現状を連想してしまうのである
■ "Pacing the cage"[2] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと痛感する
■ "Silver wheels"[3] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲
■ "A dream like mine"[1] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
■ "Gavin's Woodpile"[4] 人の欲に怒って弾き語っている。彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."「システムがあなたを騙ます様にさせるな。システムがやりたい事すべては(一つ)、あなたを支配する事だ」と歌う。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の中の一つの理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた巨大な改憲マシンと言う"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷だ。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政権と行政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を理由なしで攻撃或は咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと強欲な彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。「だって政権を批判したら番組降ろされちゃうもんね」と言う感じか?そんな国は世界の標準に達しないのでG7の国々の中に居てはならないのである。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺した。

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[5]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle human nature and to suppress truth."[6]抄訳すると「表現の自由は人間の権利の基である。人間性の根幹、真実の母なのだ。表現の自由を殺す事は人間の権利に対する侮辱であり、人間性を窒息させ、真実を抑圧してしまうのである。」

この章の最後にあたり: 「表現の自由」は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット(香港の若者の行動力には恐れ入る)。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、「表現の自由」の一部で或る事を決して忘れてはならない。

参考文献等:
[1] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム "Big Circumstance"
"Call it Democracy," 1986年アルバム "World of Wonders"
"A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム "Nothing but a burning light"
http://brucecockburn.com/
と言う彼の公式なWebサイトのホームページの一番下にある、Vevoと言う表題のあるビデオの中に上記のビデオがあります
[2] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[3] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[4] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
[5] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[6] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/
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第6章 欲望の行き着く果てに

これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。私なりの強欲の定義は:他人を押し退ける気持ちから生じる行為の、源である。

あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミ。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらの内の殆どはヒューマニティーに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果が現れる。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係が存在する事。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居かつ影響を受けてしまう事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う用語を用いる事でこれを説明出来よう。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラにさせ血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに安全性と言う公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった事の反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達は起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。それでもこの不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き vs. 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCO、その取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に放射性同位元素が混入した食品によって遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得ようとする欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪は少なくとも人間性、ヒューマニティーが垣間見えたが今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はインターネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。あなたはこの忙しい心の奴隷になってしまった。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこにある国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通して提示したい。何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuoteとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り: "What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you may have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるかもしれませんが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニティーは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニティーやヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが「原理主義者」の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この立場は優生学と言えるかもしれない。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされ、この世界を目の当たりに日々生きながら、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを貫き通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と、この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中でも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい。何故なら相容れない2つの実体だからだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[1]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[2]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」人を殺す戦争とは最もヒューマニティーに欠ける行為なのです。尚私見だとお断りしておく。東京都武蔵村山市にある国立感染症研究所へエボラウィルスを輸入し研究するとの事である。[3]しかし現政権がひた走る日本の軍国主義化の下、生物兵器の開発に使われない保証は全く無い事を記しておく。

この章の最後にあたり: 自分の心が見える鏡があったら良いのに、と思います。今の自分の気持ちが何色なのか分るかもしれません。

参考文献等:
[1] "中学生の満州敗戦日記," 今井和也著, 岩波ジュニア新書
[2] "731部隊," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
[3] "夏にもエボラウイルス搬入、専用施設稼働へ 感染症研," 日本経済新聞ウェブ, 2019年5月30日,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45466750Q9A530C1CC1000/

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第7章 何処から、何処へ、何ゆえに

この表題の様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家は殆ど居るまい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。この様な面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の人々の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 vs. 「沈黙、内省とモラル」について考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がどす黒い欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、人々は日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の結果/帰結と言う事。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下(平成30年時点)の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた「原理主義者」達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見れば判る事。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。それは心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。この投稿の後半を読み進む際、この今読んでいる段の内容を心に焼き付けておいて下さい。

処でこの章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'「風潮」として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家群が上記書籍発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚'ethos'の日本語訳は:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と解釈している。

この章の最後にあたり: 悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。もしあなたが経済的に社会的につらい思いに堪え、その結果「喧噪と欲望」を日々選択せざるおえないとしたのなら、そこからまず一歩足を踏み出してみようではないか。それには少し時間がかかるかもしれない。でもあなたを含め人々の歩みだした先には希望が待っている。

参考文献等:
[1] "カール ヤスパース," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] "カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)," ミネルバのフクロウ,
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] "核兵器の歴史," ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] "The atom bomb and the future of man," Karl Jaspers, 1961年 The University of Chicago

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第8章 そして全てが逆行する社会へ

兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、そして日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の死法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった様である。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。それは原理主義の司令塔がそれを上回る勢いで自分達の原理に有利になる様に世の中の風潮を変質させてしまったから。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。悪臭プンプンではないか?真に以ておぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今「彼ら」は自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐらなのだ。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのはインターネット上のコンピュータや携帯電話の所謂「IPアドレス」を用いる事によりどこの地域の誰それが、どの家庭が世論誘導の為に設けたウェブにどの位の頻度でどれだけの時間を割いているのかの群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。世論操作も簡単に行える訳。何と言う息苦しい世の中なのでしょう。

そもそも、行政府が嘘を言っても情報を隠しても誰からも罰則は受けないのが不思議なのである。更に考えてみると第三者機関が、行政府及びそれぞれの省組織の失敗を分析し、その原因を見つけ出し、そして大失敗を犯してしまった場合責任を取らせる様に指導する仕組みが無い。このやりたい放題の行政府の無責任の仕組みが監視出来き、改善命令を出せる組織が必要なのである。その様な世の中だ。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今自分達が立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これらは生命の滅亡を連想させる。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いて充電した電気自動車(即ちよりクリーンな車)が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも懲りずに原子力推進を行い、その発電に伴って発生した廃熱を海に放出し太平洋の海水を暖めた事が地球の温暖化の一部となった事。又CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。私自身、子供の頃からの経験と今の気候の状態を比較して見ると日本の気候がかなりのスピードで変って来ているのを実感するのだ。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは内閣府と政権、その後ろに控える原理主義の司令塔とそのインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々が全くいないからと解釈する。だから人類が直面する問題を捉える事が出来ない訳。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で首相が口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に従って核兵器禁止条約への不参加と言う、この矛盾した意思表示を見れば日本の政権と政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。2018年6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。つい先週2019年6月28日と29日に大阪で行われたG20においても世界情勢を客観的に捉えられない故、国際的なリーダーシップを全く発揮出来ない日本の政権の実情を世界中に曝け出してしまった。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げよう。私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたにとってどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒。神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまうだろう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮である。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事である。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[1]:
■ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
■ 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由
■ 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張

日本は政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える教権主義的な考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつある訳。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。現代の世界中の民主主義社会では、他人の意見とは違っていても自分の意見は尊重されると言う暗黙の了解があるのである。別の言葉にすれば、自分の意見は他の人と違って当然。つまりその様な立場からすると、他の人と同じ事を真似する、他の人のアイデアを無断で流用する事、即ち掠めとる事はタブーと教育現場では教えている訳。つまり原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因の一つだと私は思っている。その結果日常の風習の色がそして世相が大きく変化してしまった訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本に住む人全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本なのである。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る政権がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習風潮の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する政権の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の人々に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアを用い宣伝している。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。人々に言わせれば「国はその様な事(核汚染した食品摂取の人体に対する影響)は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと小生は感心してしまう。

それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[2] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle,Facebook,Apple,Amazon等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。一方企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と、国際的な常識が通用しない島国根性の政治屋の面々。その結果命を粗末に駒として扱っても平気な「美しい国」となってしまった。大政奉還で欧米の仲間入りに向けた独自の体制の構築を目指し、明治大正、昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は他国からも尊敬されない三流国に落ちてしまった。

この章の最後にあたり: 真実が隠される時代。皆嘘つきだ!

参考文献等:
[1] "世俗主義," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[2] "EU一般データ保護規則," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87

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第9章 日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事

学生時代に良く話を聞きに行った研究室の教官がふと漏らした言葉が今でも忘れられない。それは: あなたが、或る夜に満月を眺めていたとしよう。その時にあなたの頭の中はまっさらな状態であった。程なく眺めていた月が少しずつ暗くなって来た事が判った。何か、月の格好が奇妙に変化して来たと感じる。不思議である。暫くの間、あなたは何が起っているのか判らない状態であった。よくよく月を見ると少し欠けているではないか。

そして非常に大きな電気的ショックが頭の中を横切る。

言葉抜きでその出来事を見たのである。ありのままの自然現象を目撃した訳。言葉のフィルターを通さずにこの様なこの世界の出来事、ものごとを見る事は今まで経験した事が無い。それが一番目のショック。二番目のショックは言葉を通してものごとを見るよりも、その神々しい現象に自分がより近づいている状態で「それ」が見える、もう一つ上のレベルの認識が存在する事実を覚醒した事。

言葉にするにはちょっと難があるが、あなたも「現象としての月が欠ける事」と「月食」と言う言葉を頭の中に入れてこの出来事を比べてどれだけ違いがあるのかを考えてみて下さい。

名詞としての言葉を用いこの出来事を見た場合には、皆既月食が何月何日にありますと頭の中にその情報が既に刷り込まれて、「それ」が始まる5分前になって外に出て月を眺め天体ショーを楽しむ事になるのである。一方予め頭の中に出来上がってしまったイメージで眼の前の現象を見てしまう場合と比べ、眼の前の出来事を、頭の中の回路を通さずに(既知でない)目で見る、目撃する場合。それは即ち神秘的なこの世界の出来事を知覚を通し目撃 vs. 月食と言う言葉でこの現象を見る事と言い表せる。ここで例を挙げよう。プロフェッショナルな世界では、眼の前のものごとと向き合う時にフィルターを通さない即ち極力言葉をそぎ落として現象に、出来事に迫って行くアプローチをとっているのです。つまりものごとの本質を突き詰めて行くにはこの様にしなければならないのです。例えるとしたら内科医が患者さんが抱える体の問題に対するアプローチに似ています。患者の体の症状を色々な手立てで観察しそれを元にその人が語る体の症状により体の中で何が正常で無くなっているか、機能し難くなっているのか等を判断する。そしてその症状を分類された病名にあてはめる訳。病名、病理判断の前にそれだけの手順を踏んでいる訳。患者の体に全く触れないで患者の言う事に耳を傾けて診断するアプローチを採るのが薮。(でも考えると「満月」って言うのは一つの「それ」なんですね。)この二者のものの捉え方のアプローチが社会的に産み出す結果は大きな差があるのだ。

まず頭の中のフィルターを取り除き、つまり頭の中の言葉と知識を通さずに眼の前の出来事を見てそれを認識すると言う事が最初のステップ。これは単にものごとの本質を頭の言語領域を使わず認識、見る、理解し頭の中に写真のフィルムの映像の様にすり込むと言えましょう。つまり言葉に表す前に知覚を用い「それ」を見る訳。そして次に初めて「それ」を言葉を使って自分の頭の中の知識の領域に固定する或は頭の中の他の情報と照らし合わせる、等の作業を行うと言う手順。眼から言葉知識先入観等の鱗を取払い眼の前の出来事にアプローチする事。それがものごとの本質的、そして客観的な見方。この立場は英語で言うと"perceive."既に用いたが日本語で"知覚"と言う言葉で表せよう。即ち「知覚」を用い「それ」を見る事である。何故この様にするのか、しなければならないのか?理由は簡単である。言葉以前に物理現象、ものごとや社会現象の方が先立って存在する事。そして言葉を超えて存在する「それ」に畏怖の念を持って接しなければならないのである。尚話は横道に逸れるが次の章では言葉を超えて存在する「生命」の事を述べたい。

❶「知覚の不在」
この知覚を用いたものの捉え方は現象、ものごとがまず先立ち、その後言葉が追いかけて来ると言う手順。それが我々が生きているこの世界の出来事に対する認識の基本であり、かつサイエンスの世界での常識。一方実体を眺める時それを表す名詞、言葉がまず先立ち一人歩きし、現象やものごとの本質的な部分への理解が置いてきぼりにされてしまう習慣が我々の中に有る。言葉を振り廻すだけの判断停止状態。平たく言えば、その名前だけ知っていて中身を知らないと言う人間に満ちた社会。更に、悪く言えば知ったかぶり。これは日本社会を覆う最も巨大な弱点である。そして「知覚の不在」は日本が一流国から転落してしまった主原因なのである。これを補強するそのほかの3つの原因は後ほど述べる。これは上から下まで日本の殆どの人が陥っていている、ものごとに対する判断形式とその習慣。これが長年に渡り積み重ねられて来た。言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い。凄まじいばかりの知力の低下である。これでは日本が三流国に落ちるのは必然と思う。言葉と言うものは言葉の内容を理解しなくても使える。この在り様が溢れ返っている時代である。更に「その」中身を知らなければ自分の中の確固たる「それ」に対する意見は生じない。それ故に同調圧力で自分の考えがコロッと変ってしまう。

さて上記の知覚を通してものごとを見ると言う習慣が無くなってしまった事からおこってしまった不幸な事をこれからお話しよう。大事な事を書いたつもりです。度々御免なさい、又3.11の話になります。少し辛抱して最後まで読んで頂けますでしょうか?題目としては「津波」と呼ばれるものごと。

米国にIEEEと呼ばれるエンジニアの組織がある。IEEEは会員エンジニアに論文集や、電気電子業界絡みの読み物を提供している。彼らの月刊誌の"IEEE SPECTRUM"と言うと薄手の読み物に今回の福島の原子力発電所でおこったメルトダウン事故に関して何人かのスタッフが記事を書いている。その中で、ピカ一の記事があった。2011年11月11日号の記事、"24 Hours at Fukushima"[1]である。この記事の中に一番最初に載っている写真がある。かわいい女の子がマスクを半掛けして、体に付着しているであろう放射性物質の測定をされている写真である。胸が痛む。

この"24 Hours at Fukushima"の著者Eliza Stricklandと言う方は福島の原子力発電所のメルトダウン事故に関する記事を"Spectrum"に6回投稿している。この記事[1]の一番最後の所に"Spectrum"から出されている福島の事故に関連した記事が載っているので参照して見て下さい。これらの記事に載っている写真はまだ日本で公開されていない物が含まれている様だ。彼女は「原子力」の本質を良く理解しているプロフェッショナルだ。この記事は日本の原子力村の常識が世界の水準に達していなかった事実を世界中のエンジニア達に曝け出した。以下この"24 Hours at Fukushima"で彼女から今回の原子力災害のレッスンが提案されている。以下その6つのレッスンは後だしジャンケンのきらいはあるが非常に説得力のある助言である:
Lesson 1: Emergency generators should be installed at high elevations or in watertight chambers.
Lesson 2: If a cooling system is intended to operate without power, make sure all of its parts can be manipulated without power.
Lessen 3: Keep power trucks on or very close to the power plant site.
Lesson 4: Install independent and secure battery systems to power crucial instruments during emergencies.
Lesson 5: Ensure that catalytic hydrogen recombiners (power-free devices that turn dangerous hydrogen gas back into steam) are positioned at the tops of reactor buildings where gas would most likely collect.
Lesson 6: Install power-free filters on vent lines to remove radioactive materials and allow for venting that won't harm nearby residents.
[日本語訳]
レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ
レッスン 2:冷却装置が電源無しで動作する様になっているのなら、全ての部品が電源無しで操れる事を確証すべし
レッスン 3:電源車両を発電所の極めて近い所に配置すべし
レッスン 4:緊急時に電力が必須な装置に、独立した堅牢なバッテリーのシステムを設置せよ
レッスン 5:触媒を用いた水素再結合機(非常に危険な水素ガスを水蒸気に戻す電源不要な装置)は水素ガスが最も収集し易い原子炉舘屋の最上部に設置されている事を確証すべし
レッスン 6:ベント用の配管に電源が不要な放射性物質の除去フィルターを設置し、周辺住民に害を与えずにベント出来る様にすべし

その中のレッスン3が守られていたのならと悔やまれる。何故か?以下TEPCOの資料[2]の17ページより引用させて頂く:「
・ 緊急時対策本部のTV会議システムを通じて,福島第一原子力発電所(以下,「発電所」)の電源が津波によって喪失したとの情報が入ったことから,本店原子力部門は本店配電部門に対して電源車の派遣を要請。11日16:10,本店配電部門から全店に対して,高圧電源車・低圧電源車の確保と発電所への
移動経路の確認が指示され,16:50頃,全店の電源車が福島に向け順次出発
した。
・ 11日16:30頃,本店対策本部から他電力へ電源車の救援を要請。18:15頃,東北電力の高圧電源車
3台が発電所に向かっていることを確認。」
一方ウォール ストリート ジャーナル日本語版ではその後どうなったかを記述している[3]:
「午後11時頃、最初の発電用トラックが到着した。東京の首相官邸では歓声が上がった。
だが、喜ぶのはまだ早かった。発電所の損傷したメインスイッチに、発電機をつなぐことができなかったのだ。ケーブルの一部が短すぎて、発電所の別の部分まで届かなかった。津波警報も発せられ、作業員は高台に避難しなければならなかった。最初の24時間のうちに接続できた発電機はわずか1台だったことを、東電の資料が示している。」

地震で電源が遮断された真っ暗な2つのコントロールルームの中全ての方々が東京電力福島第一原子力発電所吉田所長の指揮の下原子炉のメルトダウンを防ぐべくそれこそ命を投げ捨てて懸命な作業を行っていたのである。彼ら英雄達に心より感謝し又、吉田所長のご冥福をお祈りしたい。そして現在懸命に福一で作業されている方々に心から御礼を申し上げたい。

さて、これは手元に消化器が無い家が火事になって隣に消化器を借りに行っている間、あれよあれよと延焼してしまった例に例えられる。これは明らかな職務怠慢。非常用電源車を発電施設のすぐ傍に配置しなかった危機管理手法の不在。これが対策されていれば多分3号炉と4号炉は救えたのではないかと思える。明らかにTEPCOの怠慢による業務上過失の罪に問われよう。特にレッスン6の対策が成されていたならベントを周辺住民の避難が終わるまで待つ事無く行えた可能性があり核汚染の事態が少しは好転できたかもしれない。既に結審し(2019年夏の時点)もう直ぐ判決を迎える「東京電力の旧経営陣3人が福島第一原発の事故を防げなかったとして検察審査会の決議によって強制的に起訴された裁判」[4]の記事を見ると「津波の予見」の能力の問題に議論が集約されるだけでEliza Strickland女史が指摘している様な設計上の問題点を改善する事無く(例えば上記「レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ」にある防水施行を施す様な努力を怠った)且つ、非常用電源車の配置の様に基本中の基本がないがしろにされていた事実さえも裁判の論点とならない事。この記事はしっかり書かれて居り、[4]は読む価値が有る。Web上での記事の「詳しくはこちら」を選択して全文読んでみる事を推奨する。国際的な視野からするとこの国の最高峰の機関、三権の一つの死法府で行われている検殺側とTEPCOの弁護側の議論がカバーするスケールの小ささと、かって時価総額日本一を誇っていた素晴らしい会社の経営陣が運営上実行、実践していた事の内容の程度の低さ、を暴露してしまう記事である。この様な国の根幹としての電力企業の運営上の厳密な手順等に関わる非常に重要な裁判なのだが、この裁判で双方原告側と被告側が議論する内容だけ見ても、何と言う日本の知性の低下だろうか、と驚嘆せざるを得えないのである。この国では人々のLiteracy即ち文字が読めて判る識字率は非常に高いが、人々の知力は惨めな状態である。つまりTEPCOに対するJusticeと言う視点から全く外れた裁判と言う儀式をやっていたのに過ぎないのである。処で、個人的に思うのだがこの日本で6つの条件を全て満たす再稼働中の原子力発電所はあるのだろうか?

話はガラリと変る。以下のウェブを御存知の方は少しはいらっしゃるかと思います。米国にある"Cryptome"のウェブで2011.3.11から4年弱の間の継続した福一の現場の写真が閲覧出来る。[5]よく集めたものだと関心する。TEPCOのウェブからとって来たものが多いと思う。しかしその真実を知りたいと言う原動力は科学者が持つ様な真実に対しての飽く無き追及心からではと思う。その中で、3.11事故間もない時に日本の会社が撮影した上空からの事故現場の写真が2011年3月24日からその撮影会社[6]のウェブから閲覧できる様になっていた。しかしこれらオリジナルの写真はものの二、三日で削除されてしまった。何処からか圧力が掛かったのだろう。体の良い検閲である。その後Cryptomeが4月2日から同じ写真を同ウェブに掲載している。これらの写真[7]を見るとたとえ単独でも絶対に起こってはならない原子炉の溶融事故が3つの炉でほぼ同時に、又核燃料プールの爆発破損が1カ所、平行しておこっていた多重事故、と知覚で理解できるのだが。皆さん、CryptomeといいIEEEといい海外のメディアからの客観性のある情報と比較して何故日本の社会の中ではものごとを客観的に見れないのかを自問された事が有りますか?

❷「真実の隠蔽」
さてこれから述べる❷❸と❹は「知覚の不在」を補うかの様に日本の社会で行われている習慣である。

おこってしまった核汚染の現状を直視しない事が何故出来るのか?おきてしまった事は既に其処にあるのである。それらを隠し通してどうするのか?そうする事で誰にメリットが生ずるのか?やれやれ、この世界のありのままの姿さえも無視する脳内完結しているオバカ達。真実を隠す事で問題解決が遠のいてしまうのが判らない、絶対に今回の核汚染事故の責任を取りたくない原子力マフィア。当事者で無いと言えばそれまでだが、何故IEEEやCryptomeの様な海外メディアがこの様な写真を持っていてそれらを開示しているのか。その一方で当事者の日本の行政府が何故進んでこれらの核惨事の事故写真を開示しないのか?それは何故かと言うと、おこってしまった事を知覚を通して見れない上に、行政府はTEPCOの原子力発電時事業における業務の監督を行い、怠慢が無いかどうかを監視する義務があった訳だがそれを放棄していた事でTEPCOが世界を震撼させる核汚染事故を起こしてしまった訳。その責任を取りたくないのだ。

前半で述べたが「言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い」事を人々に継続させるのが為政者にとって重要なのだ。言葉でものごとをラベル化し、「知覚の不在」を実行し、言葉だけが一人歩きする様にその本質を隠す事がまず第一。更にその本質を物理的に隠す為に「真実の隠蔽」を行う訳。知覚を用いものごとと対峙する事と言葉を用いてものごとと対峙する事の関係においては主従関係が逆転しているのである。そして原子炉メルトダウンをおこしてしまったTEPCOや行政府の関係当事者は隠蔽された真実がそのまま表に出て来ないで闇の中へと消え去るまで時が過ぎるのを待っているのである。判るだろうか。この手の病が権力中枢に巣食っている。何やらサーカスのショーの様にあの手この手を使ってTV、新聞インターネットで本当は取りに足らない事を大々的に報道し本当に大事な事には目くらましさせるプロパガンダ。このやり方が顕著になりつつある昨今である。何やら既に起きてしまった核汚染と言う事が、「通常」の状態になってしまう恐ろしいまでの市民に対するマインドコントロールである。何処かの独裁国家よりもスマートに市民を洗脳している。

❸「ロジックの不在」
まだ続きます。日本の原子力マフィアよ、原子力村の村人よ。君たちここで何が足らないか判っていないのか??或るものごとを判断する際には厳密、厳格なロジックが必要なんだよ!!お前ら判断停止していたんじゃないか!!

あなたは凄まじいばかりの海水が押し寄せて来る出来事を直接目撃、或はTVやYoutubを通して見て来た筈だ。目の前の出来事を心を通して見ていたと思う。あなたは見た、目撃した「それ」を「津波」と十把一絡げにして表現出来ない事は判っている筈だ。

大事な事は世の中に氾濫する名詞、言葉の後ろに隠されているものごとを見れるか、見る習慣があるかどうか。津波と言う名詞から「それ」をイメージ出来る言葉に分解してより原初的な言葉に置き換える事をやってみたら良い。あなたの眼の前の出来事は"津波と言う現象"と言う言葉で言い表すよりも更に心に深く刻まれた"現象としての押し寄せて来る膨大な量の海水"を目撃体験したのだ。あの空恐ろしいまでの海水の量を直接観た人々は、言葉を用いて物事にアプローチするより目の前の出来事をそのまま、言葉と知識と言うフィルター抜きで受け入れているのがお判りいただけるだろうか?また"地震"をマグニチュード幾つの地震と思わず、"現象としての大地が揺れる事"と知覚で捉る様に試みて下さい。同じ解釈を採りますと、3.11以降の放射能汚染事故を"現象としての原子炉の爆発"の結果と言うもっと簡単な表現で知覚する事が出来る。これを押し寄せる濁流や大地が大揺れする事と重ね合わせて見て下さい。人間の小ささが判るでしょうし、原子炉即ち機械なんて押し寄せる濁流や大地が大揺れする事で壊れるものだと納得します。其処からが出発点。イマジネーションを働かせてああなったらこうなる等、論理的な道筋出しを行う事、即ちロジックを用いる事が必要なのである。自然界ではおこる事はおこるのである。全方位の要素を鑑み、その対策を行うのが当たり前じゃないか?おこらないと思っているのは人間側の都合である。だから「押し寄せて来る膨大な量の海水」に対する対策を行わなければと言うロジックは必要が無い、と都合の良い解釈に陥る。何故なら脳内完結している状態で原子力発電は安全だと思い込んで来ていたから。おこってしまいそうな事を「津波」と言う言葉で見てしまい「それ」を知覚で見ないから、ロジックを用い「それ」を思考の上対処する危機管理が出来ない訳。でも皆さん何時もTVを見てたらロジックなんて自分の中に育つ訳ないよね。でもね、言葉の世界からこの世界を見ると平面的、頭の中で完結しているのです。まずTVを消してみて下さい。言葉を用いずにこの世界を見ると何と奥が深いのだろうか...当たり前だ。頭の外に存在する(出来)事だから。この世の中に言葉だけで中身が余り無い人間がどれだけ造り出されてしまったのだろうか?脳の中でグルグルと廻っている輪を断ち切って外の世界に対して心を開いてみよ。

さてどの様に人々から知性を奪い取るのかの手法を考えよう。日本で蔓延する、TV番組の中で延々と行われている悪しき習慣に付いてである。専門家なる人物或は政治評論家なるコメンテータが何時も必ず登場する事。何時からコメンテータなる人間達がテレビ番組に出、自分の意見を述べる様になって来たのだろうか? そして何時から人々が彼らの話を御信託の如く鵜呑みにする様になってしまったのか。その他何時から人の知性を吹き消す様な短い不愉快なリズムの音がテレビで流される様になったのか? TVのコメンテータなんて「講釈師見て来た様な嘘を言う」のと同じで、知ったかぶりで現場にも足を運ばない、 現場の声も聞かない「ジャーナリスト見て来た様な記事を書く」のと同類の面々である。悪い事にTVのコメンテータの言葉をそれぞれ検証もせずロジックも無しに信じ込む人々。❶「知覚」と❸「ロジック」の適用を行わないから、日本は改憲マシンの中で上から下までオバカになってしまった。更に輪をかけ、情報を捏造し嘘を言い、真実を真実として扱おうとしないで検閲し隠す。瑣末な事に気を分散させ、大事な事を気付かせない。そんな風潮を造り出して来た、王様の様に振る舞っている極悪な面々が国政を取り仕切っている時代。更に悲しい事にその王様(を操る原理主義の司令塔)を慕って付き従っている平民ども。

この章の最後にあたり: 日本を凋落させた上記の原因に4番目の❹「イマジネーションの欠落」を付け加えておこう。人々の知性知力が地に落ちた結果更に国力を衰えさせてしまう悪循環の例を挙げる。

この2019年7月上旬「対韓輸出規制」を日本政府が発動。この問題を非常に良く解説している専門家の立場からの記事から参照させて頂く[8]: 「日本政府は2019年7月4日に、フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の3材料について、韓国への輸出規制を発動した。これまで韓国は、安全保障上信頼できる『ホワイト国』と認定されており、最大3年間分の輸出許可を一度に取ることができた。」

現政権を支持する人々はこの対韓政策に嬉々としているのに違いない。自分達の原理しか考えない政治屋の面々からすると参議院選向けのキャンペーンの1つであった。だが、専門家の立場からすると全く違った意見である: 「となると、Apple、HP、Dellなどの怒りの矛先は、DRAMメーカーのSamsungとSK hynixではなく、対韓禁輸規制を行った日本政府に向かうだろう。日本政府は、世界中の電子機器メーカーの猛烈な批判を受けることになる。」
更にこう結論付けている: 「最終的に、日本の材料メーカーも装置メーカーも、Samsung、SK Hynix、LG Electronicsとのビッグビジネスを失うことになる。単にビジネスを失うだけではない。材料や装置メーカーは、トップランナーについていくことによって、競争力を高め、ビジネスを拡大してきたのである。その貴重な機会が一挙に失われることになる。
 このような事態になってから輸出規制を解除しても、もはや手遅れである。一度壊れた信頼関係は、二度と元には戻らない。要するに、日本政府は墓穴を掘ったのだ。その代償は、あまりにも大きい。」同[8].

❹「イマジネーションの欠落」の視点からすると、電子製品の供給網の中での半導体の戦略物質の禁輸の連鎖の輪の大きさを想像していなかった致命的なミスを犯してしまった。日本の衰退の原因は色々と取り沙汰されているが、客観的にものごとを見る知性とその社会的環境が無くなってしまった事に根本原因があるのである。

この半導体素材の制裁に因る、世界経済へのインパクトの大きさから政府与党がイデオロギーを基にした政策を実行している事が世界中に知れ渡り始めてしまった。更に、日本会議の原理主義が世界中の衆目を集めると言うオマケ付きだ。個人的にはこれは戦後最悪な外交的失敗に終わると思う。「原理主義者」達にとって自分達の夢の実現に足らないのは憲法改正と核兵器だけと思っているのだろう。ガムシャラに戦後の民主主義体制の転覆の実現の為にあらゆる事を実行して来ている。彼らは既に冷静さを失って、もう怖いもの知らずの暴走状態と言えるのではないか。内閣の面々は元々だが、プロ集団の外務省、経産省の知性知力も此処まで落ちたかと溜息だ。職業柄、行政府の従業員とそのトップは無党派を貫くベき立場なのだが。そして人々の知性知力が落ちているので、今回の政策に対し殆ど経済人学者政治家含め誰も文句を言わない。何時もながら政権にとっては非常に楽な政策運営。この様な人々の知性の状態で、現政権下において改変され続けられて来ている国の制度。空恐ろしい事だ。

参考文献等:
[1] "24 Hours at Fukushima," Eliza Strickland, IEEE Spectrum,
http://spectrum.ieee.org/energy/nuclear/24-hours-at-fukushima/0
[2] "福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成24年6月版)
資料一覧," TEPCO,
http://www.tepco.co.jp/decommission/information/accident_investigation/pdf/120620j0305.pdf
[3] "福島第1原発、事故直後の新事実が明らかに―WSJ分析," 2011年5月18日,ウォール ストリート ジャーナル, http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/237921
[4] "詳報 東電刑事裁判「原発事故の真相は」," NHK NEWS WEBより,
https://www3.nhk.or.jp/news/special/toudensaiban/
[5] "Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant Series," Cryptome
https://cryptome.org/fukushima-dai-ichi-series.htm
[6] "(株)エアフォートサービス," ウェブページ,
https://airphotoservice.co.jp/
[7] "Fukushima Daiichi Nuclear Plant Hi-Res Photos," Cryptome,
http://cryptome.org/eyeball/daiichi-npp/daiichi-photos.htm
[8] "「対韓輸出規制」、電子機器メーカーの怒りの矛先は日本に向く?," 湯之上隆 (微細加工研究所),EE Times Japan,
https://eetimes.jp/ee/articles/1907/10/news027.html?fbclid=IwAR09HYhJ3GlZODBXvIUq4EQ48aCdE1fjS5nXy1hfbTNWGP4Xb7_3O9eJvNU

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第10章 喧噪の中で失ってしまった大事な事

[前書き]
この章はちょっと長いのであなたの一番好きな飲み物を用意してこれをすすりながら本稿を読んで下さい。アルコールはちょっと...内容が心に染み込まないでアルコールが染み込んでしまいます。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係が在ります。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。

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随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[1](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしまった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[2] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[3]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[4]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達はそこからやって来る、その正反対の不便さ即ち人間が作り出して来た環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまったのである。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に任せ突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第7章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本シリーズ第6章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセスする事。つまり頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快な相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しき風潮、Ethosの現象(「7章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性をも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善の風潮或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[5][6]歌詞は[7]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは7章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから、外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのだ。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により既に判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。そして私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。つまり生命としての人間が持つヒューマニティーを忘れ去ってしまった事によってその風潮がこの社会に現れている訳。動物と同じ様に、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として小さな子供の私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だが私にとってはとても不思議なのだが、誰一人として日本社会での内閣与党を中心とするイデオロギーに基づいた祀り事が日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解さが有る。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第2章 「すっかり破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により「彼ら」が理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の「風潮」例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。生活空間の喪失に見舞われている家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人に対するヒューマニティーを中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。梅原猛氏は2019年1月12日に他界された日本の哲学者である。私自身色々と考え倦ねていた事がこの記事により見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[8] Aha!である。「原理主義者」の実体が見えた。鬼畜英米と言いつつも、自分達がヒューマニティーを失い鬼の形相で戦争に突入して行った国家神道信奉者の軍人と官僚達そしてその尻馬に乗っかった戦前の人々の様相が思い浮かぶ。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下(平成31年時点)の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義体制を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党及び公明党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する「彼ら」なら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さな生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。その問い続けなければならない親から授かった自分なりの答えの探求と言う宿命。これこそが「何故に」との理由なのである。あたかもそれは自分の生は何故に在るのかと言う答えを見つける為、答えの出ない長い旅を歩んでいるかの様である。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸に、時間を横軸に採ると一組の男と女が共に過ごす時は何と短い期間なのか。横方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。自分の命を賭けて己の子供をこの世に産み出す崇高な行為を行う性を持っている生命なのだが、動物としての雌の出産の苦しみも考えない雄共。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる「風潮」としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中で子供を守らず、妻に子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?そんなあなたに一つ聞きたい。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。守るべき家族の生活空間を見失い原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまったのだろうか?子供達にとってのお父さんお母さんが作り上げて来た家庭と言う生活空間が自由を失い苦しみの場となってしまっているのである。その様な環境の中において子供達の情緒をまともに育てる事が出来るのであろうか?大人にとってもこれは同様である。世の中に溢れる物と情報、家庭からかすめ取られる幸せな時間。自分の心と体がまるで牢屋にでも閉じ込められた様な閉塞感に満ちた日々。

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そして日本の行政府の従業員の方々へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は没落する一方になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

この章の最後にあたり: 生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?"Ground rule"に関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。それ故に「原理主義者」と呼ばれても仕方がないのである。こんな世の中だ。けれどもあなた自身せっかく産まれて来る事を選んだのだから、この惨めな現実を何とかして、あなたのそしてあなたの家族の生を喜べる社会に又暮らしの中に喜びがある社会に変える様にどうして努力しないのでしょうか?

参考文献等:
[1] "マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[2] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[3] "イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[4] "座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[5] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[6] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[7] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[8] "梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html

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第11章 国民に向けられた三本の毒槍

あなたに一つ聞きたい事がある。日本社会での、立法府を支配している政治勢力と経済界と行政府(死法府も含め所謂官僚)達の利権集団の関係を大雑把に考えてみた事がありますか?

私にとってそれは3人ずつお互い囲いの周りに立ち、見張り番をしている様なイメージが思い浮かぶ。はて、囲いの柵の中には何がいるのか?大人しい羊達である。彼らはおのおの毒槍を持っている羊番である。それぞれ3人がお互いに協力しあって、或る者は積極的に、或る者は便乗的に、或る者は羊達が囲いである柵から逃げない様躾け役として、この大人しい羊達を搾り取っている図である。
■経済界: 低賃金、長時間労働、非正規労働者、福利厚生の低減、男女間の不平等な給与体系など。その一方企業の内部保留金は史上最高を更新している
■行政府: 自民党との長い付き合いのお蔭で国民の事を憶い公僕として働く習慣が無くなっちゃったし、自分の天下り先を用意してあるし、地位が安泰で自分の仕事の責任が降り懸からない様なら万事OK。国民の事なんてどうでも良い。でも或る事が責任問題に発展したらあの手この手で全力で反撃します
■立法府: 経済界及び行政府と協力、富める者を優遇し大事に扱い弱い立場の人々の社会的不満を封じ込め自力更正と言う名の下、緩やかな強制労働収容所と言う囲いの中へ閉じ込める様に努力。そして自分達の希求する社会を実現する戦略戦術を立法し施行

民主主義とは一体何か?と言う問いを自然と発してしまうこの様な日本社会の現状。それは内閣と行政府と産業界の利益補完システムと言う - 原理主義或は国家神道と言う国策の名の下 - 癒着の構造に起因する経済活動が、この社会に及ぼして来た結果を我々は目の当たりにしている。行政府の「見えない手、見えない力」が此処に目撃出来る訳。 しかし、「官」が主で無く、「経」が主で無く、「政」が主で無い、主権在民即ち「民」が主ではなかったのか?もうこの国では「民主」主義は死んでしまったのだろうか?いやまだだ。非常に危ない所にあるがまだ首の皮一枚残している。だがあなたが声を挙げない限り直ぐにこの世から消えてなくなる。この一連の投稿の中で何度も参照している改憲マシンとは即ち管理社会、監視社会の下全ての人間の心をコントロールする社会の事と定義出来よう。だから皆、声も挙げない投票にも行かない大人しい羊達となってしまった訳。このトレンドが長い時間をかけ非常に強力になって来たのである。その結果日本の社会から柔軟性が失われてしまった事。知的なレベルが著しく劣化し、皆が皆オペレータになってしまった事。日本の社会の進化が止まり人々の退行が著しい事を見れば明らか。政治家も例外ではない。議会制民主主義は基本、二大政党制と言う仕組みより成り立つ事も理解しない、どうしょうもない島国根性で自分の政党が一番だと思っている政治屋共。嫉妬心からお互いの政党を罵りあうパワハラみたいな事に明け暮れている、改憲マシンの手の掌の上に乗っている事も判っていない孫悟空達。

此処でとても大事な問いをしておこう。大人しい羊達は彼ら3人の番人達に毒槍を放棄させ、心優しい番人変えられるかどうかである。
■ 経済界に圧力をかける。厳しいね。労働組合なんてもはや存在しないし、消費者団体なんて消えしまった
■ 行政府に裁判を通じて圧力をかける。米国では中央政府即ち連邦政府が政策を巡り地方の州政府から訴えられる事がままあるそうである
■ 立法府を選挙を通し更新し圧力をかける。これが一番簡単。一方内閣と政権与党経済界行政府の面々は大人しい羊達が生存権の一部である投票の権利の行使の意欲を喪失してしまう様に日々洗脳に頑張ってます

皆さん現在の政権下で長らく、懐事情は良くならないばかりか悪化して来ている事を肌身から感じているでしょう。しかし立法府を構成する政党の勢力図が変ったとしても、経済界と行政府は柵の中の羊達を搾り取り続けたい訳で手練手管で自分達の利益を最大限に絞り出してくれるシステムの存続の努力をします。それに協力的な政党が立法府の最大勢力になる様お互い補完的に、市民が選んだ新しい国会の政治勢力を貶める様再び策謀する事でしょう。だって一番相性が良いのが美味しいのでしょ?即ちこれを緊張関係の無いズブズブな関係と言う。これ独裁制の見本ね。この彼らの習性を皆さん忘れないで下さい。大事な事は立法府に継続的に投票と言う行為で圧力をかけ続けて、経済界と行政府に今のままでは日本は駄目になってしまうと認識させた上日本の活力を取り戻す為に今の政治が向かっている方向の、転換を計る時なのです。

この章の最後にあたり: もう一回言います。それは継続する事で達成出来ます。経済的に社会的に弱い立場の人々が支える政治勢力が立法府において力を強く持ち続ける事で立法府と言う番人を心変わりさせ日本の国民に向けた毒槍を地に置かせた時初めて、残り2人の番人が民意を聞き始めそれぞれの威圧の為の毒槍を地に置く事が可能になるのではと思います。それは人間の顔を持った社会の始まりと言えます。それにはまず1980年代のベルリンの壁を目の前に暮らしていた住人達と同様、羊の様に閉じ込められたこの見えない垣根と壁を壊す作業が必要ではないでしょうか。「未来を目の前にして、くたばるわけにはいかない」のです[1] 。英語のビデオ解説[2][3][4]等。特に[2]では男達が涙する映像が有る。感動的だ。東ドイツの一部の若者はベルリンの壁の背後に在る強大な権力に抵抗していました。表現者を抑圧した東ドイツでベルリンの壁を打ち倒そうと努力して来た若者達。人々が自分達の人間としての尊厳を守る事と同時に外からの風潮を変えようとしなければ未来には何も希望が見えて来ません。ベルリンの壁は見えていたので倒せました。この日本では人間性を抑圧する、見えない原理主義と言う壁を倒さなければならないのです。時折私は人間の顔を持たない国家を飲み込んだ西ドイツの人々の底力と自由を渇望し行動した東ドイツの人々の事を想うのです。

参考文献:
[1] "ベルリンの壁崩壊を後押しした、東ドイツの若きパンクスたちの物語," Jerry Portwood (訳 Masaaki Yoshida), RollingStoneのウェブサイトより, 2018年9月24日,
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29044/1/1/1
[2] "1989: The Fall of The Berlin Wall," Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=bQOoWw6oYzY
[3] "The fall of the Berlin Wall in 1989," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=zmRPP2WXX0U
[4] "Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=snsdDb7KDkg

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第12章 こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います

圧政には幾つかのカテゴリーが有る様である。その筋の専門家ではないが、小生が思うに現政権は1/4の日本の市民の熱狂的な支持と選挙の結果のもと独裁的な形態で政治が行われ、残りの3/4の大多数の市民に対しては専制(又は暴政)的な政治が執り行われている様なのである。ウィキペディアの「専制政治」[1]より引用する:「『身分的支配層が被治者と無関係に営む統治』が専制政治である。それに対して独裁政治は、国民の大多数の支持によって権力を付与された独裁者による政治であり...」日本で行われている祀り事は、つまり1/4独裁+3/4専制の暴政と呼んでおこう。法律を破ろうが知らん顔、責任問題となってもケツを捲って逃げ、嘘をついてそれがばれても厚顔に開き直っている。要するに権力を握り続ける為何でもありのアナーキーな事を権力者が行う時代なのである。この様な異様な事態は以前の日本ではあり得なかった。そしてこの様な日本中がマトモでなくなってしまった世相の中で憲法を書き換えると言うのであろうか?いや実は、日本がオバカになったこの状態でないと憲法は自分達の都合の良い様には改正出来ないのである。しかしここで一つだけ確実に言える事がある。「こんな腐った政治はもう沢山だ!」

いずれにせよこの様な平成になってしまった理由は簡単なのだ。思うに政治80%、経済20%の割合で双方に「この様な腐った平成に誰がした」かの責任がありそうだ。政治の舵取りと舵を取り続ける政治家の面々がもう少しグローバルな国際的な視野を持っていたのであればと、しみじみ思う。随分昔の話で恐縮だ。大平首相の「あーうー」と言う表現を冷やかし、揶揄する新聞を読んでいた学生時代の頃が今でも心の片隅に残っている。こちらまで大平首相を小馬鹿にしたくなる気持ちにさせて貰らっていた。まだその時は日本経済新聞も国際的な見方が出来ていた気がする。その紙面の確か「私の履歴書」で大平首相が外国訪問時にその飛行機の中で原文の哲学書を熱心に読んでいたと書かれてあった。今振り返って見ると、この様な人間の事を考える政治家は希有だったのだろう。一国の首相たる者の厚みを感じる。平成は人間の厚みを失ってしまった時代なのである。この10章「喧噪の中で失ってしまった大事な事」の中で指摘しておいたが、一人一人の個人が生命の流れの中ユニークな人間として産まれて来た事を考えると、大平首相の「あーうー」なんて表現にならない表現はユニークな個性と言う事で済ませておけば良かったのだ。もしかしたらその当時から日本は人のユニークさを尊重しない社会であったのかもしれない。今思えば大平首相には済まない事をしたなと思う。

簡単に個人のユニークさとは?と言う問いを2つの社会を通じて述べたいと思う。それは自由民主党の夢である憲法改正の実現の為昭和と平成と言う時代に以下2番に述べる社会を目指す方向へ舵を切ってしまった結果この様な平成になってしまったのである。私はこの責任を政治が負うべきものと考える。
■静かだが活気に愛に満ちた平安な時代。「生命の流れの中の己のユニークさ」を想い皆が皆尊重しあいお互いに共存し助け合う社会。心に余裕があり相手の気持ちもよく判る。生命を創り出す性が大事にされ、新たにこの世に生を授かって産まれて来た命を社会の宝とする、人に優しい社会。この様な社会ではユニークさは人だけに適用されるのではない。会社もそうだし国も人間の顔を持ったユニークな実体なのだ。言葉が愛を語り真実を伝える手段として用いられている。一言で善政である
■喧噪の中、ある対象に向けた憎しみの心に満ちた時代。それにより「群れの中での己のアイデンティティー」を確認させ、群れへの帰属意識を心の起こさせる様に仕向ける事或は強要する風潮に満ちた社会。私と言うユニークな個が社会と言う群れの中で埋没し窒息している「出る釘は打たれる」時代。この国ではそれが「和」と言う言葉でもてはやされている。発言力のある人実力がある人が群れから嫉妬され憎まれパワハラされて「打たれる」のである。生命よりも人のユニークさよりも国家が大事にされその名誉を重んずる国家神道を実践する内閣与党自民党の政治。人の顔がノッペリとし会社の顔がノッペリとし、国の顔がノッペリとする生命の徴が無い社会。そして又言葉が真実を隠す手段として使われている時代。悪政である。

その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命としてい出て来た一人一人の人間達が、非正規労働等で経済的に飼い殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているのではないかと思える程のこの社会。天災などの過酷な自然から貰い受けた己の人生の中の苦しみならまだ判る。明治時代の歌人石川啄木の短歌「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」[2]を思い浮かべてしまうのである。この様な過酷で個人がユニークさを失った全体主義的な風潮に満ちた社会から受ける絶対貧困と言う不条理。この体制を英語でTyranny,暴君暴政が支配する社会と言う。前章の「3本の毒槍」で指摘しておいた様に経済界行政府立法府から受けるこの過酷な圧政によって、幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは人々が発言しなければ、投票と言う権利を用い主張しなければ、何も得られないのである。だから人間の顔を持った政治は何もしなければ消えて無くなる。その代わりに長い間を経て暴君、暴政、圧政が産まれて来るのは世界中の政治の歴史の必然なのだ。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。だが民主主義とはたゆまぬ努力の積み重ねで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を身を以て実践しこの与えられた民主主義と言う社会形態を身につけようとして来なかった結果がこれだ。社会に積極的に関わりその社会を良くして行こうと言う気持ちと、投票と言う社会参加の行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。皆さん気が付かないでしょうが、民主主義とは二大政党の下メンテナンスを常に行っていれば非常に強固な社会システムなのです。しかしあなたが今直面しているのはこの内の悪い方の例なのです。小生には人々はまるで徳川時代の封建制を諦めと共に素直に受け止めてしまう士農工商の農民の心情をお持ちの様な気がしてしまうのである。だがこの政権の甘言に騙されてはいけない。これは政権の暴政度のチェックの結果を見れば判る。現政権の日本国憲法を書き換える政策とは民主主義体制の転覆と裏腹一体なのである。何故なら今の政権がやっている事は独裁者が憲法を書き換えるのと全く同じだからだ。

さて内閣及び現政権の暴政度をテストしてみよう。その前にTyranny暴君の定義を米国にある非営利教育組織"Constitution Society"のWeb[3]から少し長いが引用する:
"Definition of tyranny
Tyranny is usually thought of as cruel and oppressive, and it often is, but the original definition of the term was rule by persons who lack legitimacy, whether they be malign or benevolent. Historically, benign tyrannies have tended to be insecure, and to try to maintain their power by becoming increasingly oppressive. Therefore, rule that initially seems benign is inherently dangerous, and the only security is to maintain legitimacy ― an unbroken accountability to the people through the framework of a written constitution that provides for election of key officials and the division of powers among branches and officials in a way that avoids concentration of powers in the hands of a few persons who might then abuse those powers."

[日本語訳]
「暴政(専制政治)の定義
暴政はだいたい残酷で抑圧的と思われているし、実際そうなのがしばしばである、が本来の定義は合法性を欠く悪意のある或は情け深い、いずれかの人々による統治なのである。歴史的に見れば良い暴君は不安定な傾向にあり、彼らはより抑圧的になる事で権力を保持する様に努める。それ故最初は情け深いと思われていたが生得的には危険なものとなり、(我々の)唯一安全を保つには合法性を維持する事 - 重要な要職を選挙で選ぶ事と三権の間の分離と要職に就く少数の人々がそれらの権力を乱用する可能性があり彼らの手に権力が集中する事を避ける、つまりこれら(の防護策)を提供する明文化された憲法と言う枠組みを通して破壊されることの無い責務に答える能力を、国民に与えます。」

このウェブの記事の中で暴政が用いる憲法秩序の転覆法を解説しているので、現政権が暴政であるかどうかのテストを[3]を引用する形で行ってみる。尚それぞれの項目が明瞭でない場合にはその解説の内容を一部追加しておいた。16項目の内各項目のテスト結果は黒●、白○、灰色の何れかである。

"The methodology of tyranny" [日本語訳] 「暴政の方法論」より:
1) Control of public information and opinion
[日本語訳とテスト結果] 「公けの情報や世論をコントロールする」
例えば早急に公開しなければならない重大な情報を暫くして公表するとか、日本では記者クラブなる組織が行う自主的な報道検閲等。テスト結果は黒●
2) Vote fraud used to prevent the election of reformers
[日本語訳とテスト結果] 「改革を目指す者の当選を妨げるために用いられる投票操作」
この項目の解説に以下記されている事は「ニュースのサービスが、結果を知りうる事が出来る前に選挙の結果を知り始めていたとしたら投票数は正直に数えられていない。」
決定的な証拠はまだ十分ではないのでテスト結果は灰色。
3) Undue official influence on trials and juries
[日本語訳とテスト結果] 「裁判や陪審員に公然と不当な影響を与える」
日本の死法府の裁判官は既に政権及び行政府と癒着しているので公正な裁判はもはや期待出来ない。
テスト結果は黒●
4) Usurpation of undelegated powers
[日本語訳とテスト結果] 「本来委任されていない権力を奪取する」
内閣は本来行政府の事務次官とそれぞれの省の協力のもと祀り事を客観的にこなして行かなければならないのだが、2014年5月に内閣官房に設置された内閣人事局が取り仕切る人事により政権のイエスマンだけを各省の幹部に任命する事が可能になった。テスト結果はまっ黒●。
5) Seeking a government monopoly on the capability and use of armed force
[日本語訳とテスト結果] 「政府が(個人の)武力の能力と使用に関する独占を追い求める」
米国では個人が銃を持つ事は権利と見なされているのでこれを制限する事は暴政であると言う立場。テスト結果は白○
6) Militarization of law enforcement
[日本語訳とテスト結果] 「法執行機関の武装化」
これはガンに対抗する為警察官にマシンガンと例えられる様な米国内の事情も繁栄されているが、一般的には警察活動の軍隊化で声をあげる市民に対する威圧が行えると言う事。別の解釈をすれば警察活動の先鋭化とも考える事が出来る。そうすると闇の警察と最近注目される様になった官邸ポリスの存在を考えてテスト結果は黒としておく●
7) Infiltration and subversion of citizen groups that could be forces for reform
[日本語訳とテスト結果] 「改革の力となりうる市民グループへの浸透と壊滅」
解説部には以下の様に書かれている。意訳する「内部にスパイを送り組織を監視する事から始まる。市民グループの指導者を虚偽の犯罪で訴追するのはその兆候である。」経済界、行政府、与党内閣のやり方に反対しうる勢力が消滅してしまった事実を考えるとテスト結果は黒●
8) Suppression of investigators and whistleblowers
[日本語訳とテスト結果] 「捜査官と内部告発者の抑制」
特定秘密保護法が施行されていると言う事実から、テスト結果は黒●
9) Use of the law for competition suppression
[日本語訳とテスト結果] 「競争抑制の為に法律を使う」
解説を意訳すると「主流派が勝利する様、支持者に金銭を与え支持者が対抗する勢力を懲らしめる事より始まる、が公務員自身が不法な行為、活動に関わり、敵対する独立候補を法律を用い抑圧する....」
日本の選挙では札束が飛び交い、対立候補を貶める事例えばその運動員を選挙法違反で恣意的に逮捕、等が選挙の行事の習慣として今でも残っている。最近では参議院選のさなか秋田県庁敷地内で勤務時間中知事と県職員が立候補した候補に向かってかちどきの声を上げる違法すれすれの事をやっている位の民度の低さ。よってテスト結果は黒●
10) Subversion of internal checks and balances
[日本語訳とテスト結果] 「内部チェックとバランスの転覆」
幾つか例が挙げられるだろうが、過去の投稿に2回言及している韓国に対する半導体の部材の「輸出規制」を例に挙げておく。行政府内のチェックとバランスの喪失である。本件が外務省の頭を飛び越して経産省主導で行われていたと聞く。正常なら二国間では経済関係と外交関係は裏腹一体なのだ。この非常識なイデオロギー主導の非礼外交が何時まで続くのやら。更に二大政党制を壊滅させた結果与党に匹敵する勢力の野党が存在せず権力がやっている事のチェックとバランスを行う事無く、手綱の無い狂った荒馬の如くに憲法改正へ向かって突っ走っている政権。よってテスト結果はまっ黒●
11) Creation of a class of officials who are above the law
[日本語訳とテスト結果] 「法律の上に立つ政府職員集団の創成」
先日森友学園事件に関わった、内閣府の命令に従って行動した財務省佐川某やらを大阪地検特捜部が公文書偽造等の犯罪は証拠不十分として不起訴にしたが、この国には正義を行使する手順を整える組織である検殺と警殺が全くの腰抜けで本来の仕事をかまけているのが判る。又仕事絡みでの女性を手篭めにした山口某が逮捕されないのを見ればこのテスト結果はドス黒いぜ。真っ黒を差し上げよう●
12) Increasing dependency of the people on government
[日本語訳とテスト結果] 「国民の政府に対する依存度を高める」
この古典的なやり方は国民から持っているもの奪い取り、権力を持つ者の要求に答える様であれば奪ったものを見返りに返すやり方。例えば年金支給額これだけ減るよと脅して政権の言う事を聞くのなら考え直してもいいよ、と言う感じか。過去を遡って政権が取った実例を思い付かないのでテスト結果は白にしておく○
13) Increasing public ignorance of their civic duties and reluctance to perform them
[日本語訳とテスト結果] 「市民の義務に対する国民の無関心を広め、それらを実行することを忌避させる」
米国での市民の義務とは投票、国家非常時の兵役、陪審員の仕事等。又先の参議院選挙の争点などの情報も殆ど隠蔽と言ってよい程国民の目から隠し通し無関心を広めていた。更に日本の立法府において十分な審議も尽くさず法律を通してしまう、立法府の国民に対する義務も果たしていない現状。テスト結果は真っ黒を差し上げよう●
14) Use of staged events to produce popular support
[日本語訳とテスト結果] 「段階的な出来事を利用して人々の人気を巻き起こしサポートを産み出す」
ここ一連のお茶の間の話題「対韓輸出規制」を例にだしておこう。テスト結果は黒●
15) Conversion of rights into privileges
[日本語訳とテスト結果] 「権利から特権への切り替え」
この項目の解説は「立証責任が請願者にある適法手続を除き、政府が制限する事を許されていない事まで(人々に対し政府が)免許と許可を要求する。」越権行為。地方自治体ではありそうだ。テスト結果は灰色にしておく
16) Political correctness
[日本語訳とテスト結果] 「政治的正しさ」
この項目の小生の理解不十分故日本語訳正確でないかもしれません。かいつまんでこの項目の解説を意訳すると「殆どの人は差別用語を用いない或はもっと柔らかい言葉に置き換える『政治的正しさ』に影響され易いので差別的見方や差別的態度に対して抑圧的な行動をとってしまい、それが専制的な政府を優位へ導いて行く。」言葉狩りが暴政への道と私は理解している。日本では差別と反差別が共に己の「政治的正しさ」の基準を持っている様である。お互いがお互いラベル張りに忙しい様だ。テスト結果はどす黒い●

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更にこの続きでは専制政治、暴政を避けるにはどうしたら良いかを説明している。
"Avoiding tyranny"
[日本語訳] 「専制政治を避ける事」
「重要なの事は専制の風潮を常に感じ取り、彼らが更に先に進まない様に或は非常にしっかりと基盤を固める前に彼らの力を摘み取る事である。国民は如何なる憲法違反も決して黙認すべきではない。初期の段階で是正措置を講じなかった場合には、それは更に大変厳しい対策を後ほど講じなければならぬ事を意味し、おそらく其処からの回復には数世紀かかるかもしれない人命の損失や社会の崩壊がおこってしまう。」この例として、始めは善政の様に見受けられたシリアの現政権とその内戦状態及び後始末を想像するだけで上記は誰でも理解可能。この様な内戦状態で何時も誰が犠牲になるのか考えてみて下さい。

さて、16問中黒12point即ち12点、白2point即ち0点、灰色2point即ち1点である。よって得点は満点ではないが13点/16点として現政権は暴政テストにはしっかり合格した。これで思う存分民主主義体制と憲法を破壊出来る。だが日本の3/4の人々に取っては、この政権は暴君、暴政、専制、圧政即ち国民の敵なのである。驚くべき事だがこれが日本の民主主義の実態なのである。つまり現政権は選挙で選ばれた合法性を持ちながら、二大政党下ではない状態で憲法の理念を骨抜きにする悪意或る行為を何年も続けている暴君、暴政(Tyranny)であると結論出来ます。

ここで喚起しておきます。この'Tyranny'と言う言葉は米国の共和党民主党の上院下院の議員達、行政府のスタッフ、軍人達と大統領のみならずその市民の正義心に深く突き刺さる言葉なのです。ですからもしこちら側が言葉を発せば、米国市民は日本の政治状況を理解してくれると思います。

米国のトランプ政権より願ったり適ったりの圧力を受けている日本の現政権の立ち位置を以上の暴政と絡めて考えてみよう。中東ホルムズ海峡のタンカー運航の安全確保へ向けた米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請である。現憲法下での自衛隊の海外での武力行使は不可能なのだが、つまり憲法違反なのだが、自衛隊をホルムズ海峡に派遣する事により、其処で外国の軍隊と交戦した場合には戦力の放棄を定めた日本国憲法を蹂躙する事がおこる訳でこの様な要請は非常に重大な米国による内政干渉と言う事が出来るのである。武力行使を既成事実として更に現政権の改憲の勢いが一段と深化強力になり現憲法がそしてその枠組みと理念が破壊されてしまいそれを日本が永遠に失ってしまう結果となる事は明白なのだが、何故日本の誰も声を出して指摘しないのか。皆さん本当に茹ガエルになってしまったね。

米国の歴代大統領と国務省、国防省が合衆国憲法の理念に基づき「世界の警察官」として米国外のTyranny体制を転覆させてその国から除去して来た歴史からすると日本の現政権を権力から排除するのが筋だが、この暴政を更に加速する様な内政干渉と言う矛盾を何故行うのかを米国の政治勢力や民主団体、そして国際社会に訴えるべきなのである。米国民主党を公然と支持する新聞"The New York Times"にでも現政権の暴政ぶりや悪行の数々、そして米国が日本の国民に対しやりたい放題やっている事に目をつぶりその政権を利用している事実を寄稿してみても良い。残念ながら今は極めて瑣末なゴシップ記事にうつつをぬかしている時ではない。日本の民主主義体制を転覆させる様なトランプ政権の、この暴政なる政権に対しての、圧力を止めて欲しいと米国上院と下院の議長に書簡を送るべき時なのである。悪政を行うTyrannyを米国が支持するのは日本の3/4の人々の民意に対する侮辱だ。ハーグの国際司法裁判所に米国主導のホルムズ海峡への護衛艦派遣の圧力の無効化を訴える事も出来るのではないか?誰がこれを行うのか?そんな優長な事言ってられないんだよ!今の日本の民主主義体制を支持する与党の一部と野党が結束して可及的速やかに事をおこさなければ全てが手遅れになってしまう。これに協力する政党が声を上げ国際社会に現政権の行っている日本の民主主義体制の破壊の事実を訴えなければならない。もうこの際自分達野党側の政権交代の非力さなんて様な恥も外聞も無いんだよ。もしかしたらもう遅いのかもしれない。だが一縷の望みを持って - 皆さんこのウェブを読む事はまず無いだろうが - 無理を承知で訴えたい。次の衆議院選まで待てないのだ。あなた方が投票と言う行為を通して暴政を行っている自民党と決別してこの国を平和な国へと、そして3/4の日本国民が再び国政の舵を取り戻し、コントロールし始めるきっかけを作り出して頂けるだろうか?もう時間が無いのである。

もし内閣自身が米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請の回答を出来る資格があるのであれば、その結果の公表を日本中に行う前にこれを阻止しなければ日本の民主主義はご臨終となる。韓国との貿易戦争や2019年度防衛白書原案での韓国の重要度格下げと言いこの米国の圧力などと、1/4の国民の、あわよくば残り3/4の国民の愛国心を煽って人々の心の操作を行い政権がやりたい事に同調させるやり方。まるで原理主義の司令塔がそれぞれの行政府に送り込んでいる配下の者達に向かって、そのタクトを振りオーケストラの様にそれぞれの省庁による政治の出来事を造り出させ、憲法改正と言う一つの流れに合流させる様にショーを進行させている。スマートな奴らだ。今の世の中の一連の動きは彼らのシナリオ通りなのである。これが一連の憲法改正のドラムの音が大きくなりそして早くなって来た理由なのである。彼らに取っては今が憲法改正への集大成の時であり、その突破口なのである。残念ながら彼らが造り出した流れに抵抗する勢力は現在の日本には存在しない。これから最終的に少なくとも1/2の日本の市民がこの暴政に選挙でNoを突きつけ民意を表さない限りトランプ政権内のタカ派からの圧力は弱まらないであろう。

この章の最後にあたり: 問題は王様は裸と言えない国民性でかつ、人々はその裸の王様が暴君だと言えない根性無し、つまりこの暴政に鉄槌を下す勇気さえも無い訳。しらけているのがcoolなのではない。この現政権の暴政を引き返せない所まで行かせてしまうのかどうかはあなたの行動に懸かっている。今からでも遅くはないと己に言い聞かせ「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家達よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。

参考文献等:
[1] "専制政治," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E5%88%B6%E6%94%BF%E6%B2%BB
[2] "一握の砂," 石川啄木, ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%A1%E3%81%AE%E7%A0%82
[3] "Principles of Tyranny (暴君の原則)," by Jon Roland (米国にある非営利教育組織"Constitution Society"の創設者),"Constitution Society" のWebより,
https://constitution.org/tyr/prin_tyr.htm

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第13章 「日本病」と言う病。 人間の顔を持った社会とは?

先日9月23日のスェーデンの16歳の女性Greta Thunbergさんが国連での"Climate Action Summit 2019"で行ったスピーチの録画を最近見た。[1] 驚いている。新聞では伝えきれていない声が伝わって来る。とても立派な人である。人類は何処へ行こうとしているかを俯瞰し、この世界を大きく見ている人だ。皆が皆生命の破滅に向かって行進している時、我々大人達に対し正気を取り戻させる声を私は彼女の発言の中に聞いた。彼女が彼女の同世代に共感と連帯を訴えている事とは何か。それは生命としての自己防衛を喚起させる風である。そして何も変えようとしない国々の指導者達を怒りを込めて激しく非難する理由とは一体何かを思い起こす。それは宗教やイデオロギー、資本主義的、共産主義的思考と習慣により、現状維持を選択しなんら行動を起こさずに茹ガエルとなった世界の先進国の人々の偏狭さと頑迷さを利用し現(与党)体制の保持を図る国の上層の人々に向けられたものなのです。例えば大統領の教唆の下、人々の生態系への無理解と欲に付け込んで進んでいるアマゾンの熱帯雨林地帯の大規模な破壊が一例です。私には彼女の国連でのスピーチの揚げ足を取る方々の頭の中が理解出来ないのである。彼女の発言のContext、文脈を見ないで言葉の表面を見ている方々が何故多数いるのか。その理由は単に彼女が子供から大人になった人間達の怠慢と無為無策を非難しているからで、彼らはその事実を指摘され反発する愚かな大人達なのだ。1945年の生命の滅亡を起こしてしまう核兵器の使用とそれに対抗する為理性と英知の行使を促した1955年のラッセル-アインシュタイン宣言、"Russell-Einstein Manifesto"[2]も虚しく現在でも核兵器の数は一向に減らない大人達の無為無策と共通なのである。この宣言の一番最後にラッセル卿とアインシュタイン博士は締めくくっている。"We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death." 抄訳は「私達は人間として人間に訴える: あなた方の(人としての)ヒューマニティーを思い出して欲しい。そしてその他の事は忘れて下さい。あなたがその様にすれば新しいパラダイスが開けて来る; もしこれが出来ないのであれば世界が死のリスクに直面するだろう。」この生命としての存在から流れ来るヒューマニティーを忘れてしまった愚かな人間達が地球に向かって行って来た、放射性物質量をまき散らす大気圏内や地下での核爆発実験、水銀汚染した魚や、油にまみれた海の汚染、大気汚染等の蛮行愚行に対し神に許しを請う歌を1971年に作詞作曲し歌った人がいる。その彼の曲の歌詞の中の2点がGretaさんの発言全てを集約していると私は思う。[3]
1) "Whoa, ah, mercy mercy me. Oh things ain't what they used to be, no no." 「おお、ああ、私を許して下さい。(多くの)もの事が前の様ではなくなってしまった、ノー、ノー」
2) "What about this overcrowded land. How much more abuse from man can she stand?" 「この人に溢れた土地はどうなのだろう。人間から受ける虐待を彼女(地球)は更にどれだけ堪えられるのだろうか?」

あなたはこの2つの気持ちを感じた事はありませんか?この「7章 何処から、何処へ、何ゆえに」での見方を取ると私にとっては「『生命の誕生』から、『生命の滅亡』へ、『ヒューマニティー』の欠落ゆえに」地球が殺され生命が死んで行く未来を垣間見てしまう。生命を絶滅に導いて行く様な要因を少しずつ破棄し無力化して行く事も出来ない我々大人達。人間の間のヒューマニティーも置き去りにしている現在。それぞれのイデオロギーや宗教のContextの違いから憎しみが発生し軍隊が発生し核兵器が発生し大量虐殺が起こるこの世界。Contextの違いにも関わらず力を持つ者に共通する事は子供達と地球の未来も何ら想像もせず、彼らの利益を最大にする事に専念しているのである。これに由り不可逆な環境破壊が進んでいる訳。それはこれから産まれて来る生命に対する犯罪に他ならぬ。Gretaさんの怒りは今の目先の利益と子供達の明るい未来のどちらが根源的で優先順位が上なのかも考えない政治家経済人と彼らをサポートする行政府に対しての怒りなのだ。自由貿易の名の下のTPPに依り地場産業の農業が死んで行き、乱獲と海水温の変動に依り漁業が死んで行き、人手不足や過剰な伐採に依り林業が死んで行く生命と人間の共存するエコシステムの崩壊の時代と言い得よう。これら再生可能な資源の破壊を許す行政とその背後に控える、見えない大きな力を持ったGeopolitics.生命の個体数と種の数が減少し人間だけ人口が増え続ける、この地球上で続く生命の多様性の消失が無言で進むのである。これらの地球全体の問題は'Post-Geopolitics'と言う世界に向けて人々が自ら進んで行かない限り達成出来ないのです。だから今、権力を自由に操れる一部の人々により操作され踊らされている、人を憎しみ人を傷つけても平気な己をそこから解放し偏狭で頑迷な行動様式に「さよなら」を言う時なのではないでしょうか?

さて話しを日本に移す。皆誰も大きく観ようと努力しないこの日本の世の中、これら上記13章の投稿で日本がそして日本の人々はどの様な不可知な機構と仕組みに日々直面しているのであろうかと言う問題提起を行って来ました。そしてPost「原理主義」の時代へ進む為には、以下長々と文章を書いたのだから其処に辿り着くまでの道筋を付けなければならない、と思うのですが...如何せんその才能も時間も持ち合わせていないのでこの仕事は誰かにバトンタッチします。日本の上に立つリーダー達が国内のリーダーとしてだけではなく世界のリーダーとしてこの地球が人間の欲望と狂気で破壊される前にどの方向に向かって、何を成さねばならないなのかと言う問いの道筋や対応策を出さなければいけないのです。例えば世界中の軍事費を年間予算制から月間予算制とし、一年の内一ヶ月だけでもゼロにするとか劇的な転換を行う事が出来ないのでしょうか?このPost「原理主義」へ進む道筋を見つける宿題を良心と希望に満ち志を持つ政治家達に委ねたいと思います。グレタさんが問い続けている問題は日本も該当します。再び言います。あなたを含め良心を持つ人々が今戦っているのは市中の人々の偏狭さと頑迷さなのです。この習性の病を人々に罹患させ利用する強欲な少数の人々がいると言う事を忘れないで欲しい。

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では本題に入ろう。一番最初の章で「強欲」と「風潮」と「見えない大きな力」と言うこの一連投稿の中に流れるキーワードを申し上げました。あなたはこれらの投稿で3つの言葉を通して日本の社会、日本の人々、日本の政治、そして同様に世界の人々や世界の政治の事を思い巡らせて見たかもしれません。更にこの50ページ弱もの文章中にはもう一つのキーワードが入っています。それは「ヒューマニティー」と言う言葉です。この言葉に進む前に見ておきたい事があります。この章の際者の部分で少し述べましたが、この中で「見えない大きな力」と言う言葉の背後にあるものごとを見極めるともう一つの言葉'geopolitics'「地政学」と言う言葉が見えて来ます。日本の社会を見ると日本独自の地政学があり「復古主義」或は「国粋主義」「民族主義」と言うイデオロギーを纏って、それらが跋扈している今の日本社会を目の当たりに出来ます。その日本の外の世界を見ると更にドロドロとした欲望に満ちた人々が動かす「覇権主義」としての地政学が実感出来ます。日本独自の地政学を推進する「彼ら」に「原理主義者」「復古主義者」と言うラベルを張るのは気が引けるのですが1/4の日本の国民が国家神道と言うイデオロギーに走っているのではないかと思えて来る現状を鑑みると「日本列島改造論」ならぬ日本の社会の中で「彼ら」が進める「日本人改造論」がメディアを使って実践されていると判断するのが自然だと思います。今世界の民主主義の国々の中で憲法改正に夢中になり、強大な軍事力を持とうとしている国はトルコ(独裁制が完成間際。既に憲法改正してしまった。でも都市部のトルコ市民は大統領が進める独裁制に抵抗している)と日本位でしょう。その様な状態の日本、尊敬に値しないと世界の国の人々に笑われています。この3つの流れ「強欲」と「風潮」と「見えない大きな力」、に対抗出来る力を備えた「ヒューマニティー」と言う見方と考え方をどの様に行使するかを全くと言って良い程考えて来なかった日本の社会。先ほどの言葉"Remember your humanity, and forget the rest."これが日本の方向を決める鍵と成る事を明記しておきます。

さて前章の最後で述べましたが一人一人が投票へ行けば、日本が抱えている問題が直ぐに解決する様な幻想を与えてしまったかもしれません。又、私はあなたが以下の様な事実を認識しているかどうかは判りません。実際に日本が抱えている問題は途轍もなく大きなものなのです。投票に行く事は瀕死の民主主義国家日本の、治療へ向けた最初の一歩と言う事を伝えておきましょう。何故なら国民の知らない間に専守防衛と言う憲法の枠組みから大きくはみ出した戦闘機F35Bを搭載出来る攻撃型空母「かが」と「いずも」を建造してしまう程の社会勢力が支配している国の社会に住んでいるのです。今日のホルムズ海峡への自衛艦の船舶派遣、イージス アショアを含めた全ての日本の憲法から逸脱する流れが深化し本格化即ち再軍備化、再軍事国家化させる動きが何時始まったのか皆さん疑問に思った事は無いのでしょうか?「1番艦『いずも』が平成22年度予算で、2番艦『かが』が平成24年度予算で建造された護衛艦であるため...」[4]そしてこのウィキペディアの中で2つの空母の建造機関が2012年から2017年と明記されています。民主党が政権を握っていた時代に既に空母建設の流れが決まっていた事に驚いてしまいます。そんな中で"The New York Times"電子版の記事[5]が2015年4月の安倍首相の米国訪問でのオバマ大統領との会談の際に、事前に用意されていた二国間の軍事的な合意の内容を発表しました。この合意内容の解説は全く日本のメディアに登場しなかったのではと思います。此処では2点引用します。(1) "...American and Japanese officials announced an agreement on Monday that would expand the reach of Japan's military - now limited to its own defense - allowing it to act when the United Sates or countries American forces are defending are threatened...." (2)"Now Japanese forces also could aid American ships involved in missile-defense activities in the region, or Japan could intercept a missile heading for the United States. 'That is a very big change from being locally focused to being globally focused,' Defense Secretary Ashton B. Carter said..."
[日本語訳]
(1)「米国と日本の担当者達はこの月曜に - 現在自己防衛に限られている - 日本の軍隊の役割を米国が又は米国が防衛している国が脅威に晒された時、行動を許される事に(方針転換に)同意する旨を表明した」
(2)「今日本の軍隊はこの(アジア)地域でのミサイルに対抗する活動を行っている米国の艦船を援護する事、或は日本が米国に向け飛翔しているミサイルを遊撃する事、が出来る様になる。国防長官のAshton Carter氏は「これは地域に焦点を合わせた事(軍隊)から世界に焦点を合わせる存在となり非常に大きな変更だ」 この記述はイージス アショアを是が非でも秋田県と山口県に配置したい政府のおおもとの理由なのである。

これは日本の「大きな見えない『イデオロギー』の力」と米国の「大きな見えない『地政学上の』力」の間でこの軍事協定の合意に達したと解釈すべきなのです。日本国の主権をねじ曲げる犯罪を現政権は行ってしまった。既に日本国憲法は実質的に改変されているのです。更に2015年7月に集団的自衛権を容認する安全保障関連法案が衆議院を通過。この日米間の軍事的一体化の同じ流れは日本国憲法の解体の始まりを決定付ける事となった。

「彼ら」が練り上げ決定した或るスケジュールに従って現在の日本が歩んでいる軍国化の道が既存路線となっていて、その行き着いた先が憲法の枠組みと理念を超えてしまう今回の米国国務省の発表[6][7]となった訳である(この文書[6]を読んでみました。日本の行政府と自由民主党の命綱は日米安全保障条約なんだなと実感出来る外交文章でした。でも何か足らない。非常に重大な内容を持つ密約が背後に隠されているとの印象を受けた)。このオバマ大統領と安倍首相の会談の記事は日本国憲法の実質的な改変を行う合意に達した事実を示す。処が、なのだ。この合意に関して何時誰が主導権を持ちどの様な過程を踏みこの合意の草稿を練り上げたのかを日本国民に明白に説明しなければならないのです。それが全く為されていない事実。憲法と言う法律の一貫性を保つ為に、ここに国会による国政調査権の発動を要求します。何故ならそれは現政権が己の利益の為日本の主権を自らねじ曲げたのか、引っ込めたのか、それとも米国に売ったのか。或は米国のオバマ政権の圧力で折れたのかが闇に封印されているからです。以上の点を含め一番最初の時点で軍事協力の提案をどちらの国が最初に行ったのか。裏に隠された密約の有無等、を国政調査権を用い明白にしなければならないのです。この調査権は外交機密と言う盾よりも上位に位置する。何故なら、憲法に違反する様な事を行う事は憲法自身がその枠組みの一貫性を保つ様に憲法そのものの自己防衛を行う様行動する事が許されるのである。もしこれが日本と米国の間で秘密裏に進められた議題だとしても、名目として外交機密は適用されないのである。現政権は既に皆さんが考えている以上に深刻な憲法破壊を気が付かないうちに秘密裏に行ってしまっているのです。

それにしてもこの様な事を認識出来ず、記事にも出来ない日本のジャーナリストはアマチュアよりもランクが下だ。中学校の学校新聞を作っていた方が良いのでは?しかし...残念な事だが彼らとて以下に述べる「日本病」に疾患している人間なのだ。だから今の日本の人々はこの軍事協定の合意に二国間で「大きな力」が働いた事を知覚出来ないのである。

さて、「英国病」と言う言葉を御存知ならばそれはあなたは年配だと自覚しなければならない程昔の話になってしまった。それは1970年代の英国の経済状態、人々の日頃の習慣と社会の風潮の事を一般に指します。当時英国は慢性的な経済停滞と労働者の勤労意欲が低いと言う評判でした。それを世界中で英国病と呼んでいました。その後鉄の女サッチャー首相が登場し北海油田の開発稼働(読者からの御指摘、感謝します)等ラッキーな要因の結果英国はその病から回復。では、この日本国内へ眼を向けて見ます。日本では英国病ならぬ「日本病」が蔓延しているのです。それは日本が死に至る病なのです。「日本病」と英国病と決定的に違う所は、「病にさせられた人々」と「病になった人々」なのだと記しておく。

今日本の社会が直面している根本的な問題点は何処にあるのか?それは、社会そのものが「見えない大きな力」によって病にさせられてしまった事に対して、茹ガエルが茹で上がって死ぬ直前みたいに人々が平然としていて投げやりな事なのです。それ故自分達をどの様に治療して良いかなんて考えもしない。さらに人々が心の質を低下させ、心の元気さを失い、そして人々の能力が心が病んで衰えてしまった事に気が付かない。生きる力さえも失ってしまったかの様な無気力に満ちた社会。それを私は敢て、「日本病」と呼びたいのである。どんな特徴的な症状があるかを思い浮かべた項目だけ2つのカテゴリーに別けて列挙しておく。
■社会の低いレベルから見る、「どうして?」
・大人達が子供の手本では無くなってしまった・貧富の差に関係なく子供達に豊かな公共の教育環境を提供出来なくなった・若い人々は内向き指向になり、人々は国際的な視野を失しなってしまった。即ち世界を相手に競争していると言う意識を喪失してしまった・皆チャレンジしなくなった・自分の意見を言えなくなってしまった・自分の意見を言う人を攻撃する、表現する人々を脅したり抑圧する様になってしまった・皆ストレートにものが言えなくなった・皆本当の事が言えなくなってしまった・真実を言う勇気がない、即ち人々は間違っている事を間違っているといえない・子供達を含め人々が皆集団で陰湿なイジメをする・嫉妬心とかイジメたい気持ちを持ち、パワハラしたりセクハラしたりする・人をイジメてストレス解消する・人々が泣き寝入りする様になってしまった・会社が、社会が皆腹黒く嘘付きになって来た・TVの内容が低能になってしまい知性のカケラも感じさせない事にうつつをぬかす様になってしまった・人々が愚かになった・人々から寛容さが失われてしまった。つまり日本の社会が独善と偏狭に満ちてしまった・自分の時間を失い、LINEに1分以内に返信しなければならない様なプレッシャーを感じる様になってしまった・取るに足らない色々な情報に振り回される様になってしまった・自分の足で歩く自己推進力を失い群れの中で皆と同じ様に流される様になってしまった・人々が直ぐキレる様になってしまった・日本の社会に暴力が満ち溢れる様になってしまった、そして社会で犯罪が多発する様になってしまった・皆批判精神を失ってしまった。一方人々は批判された時大らかな気持ちでいられなくなった・皆悪い事を悪いと言わず自己保身に走る様になった・皆組織にとって不都合な事を隠す様になってしまった・皆責任逃れする狡さを身につけた。皆卑怯になってしまった・皆最初から諦める習慣がついてしまった・皆力を持つ者に服従し媚びへつらっている・皆行動する力を喪失し、不正が正せない・ある出来事の説明の責任と結果の責任をとる習慣を失った・ウヤムヤが大好き・人の痛みを感じなくなってしまった

11章で述べた「毒槍」を持って日本の国民を自分達の利益の為に搾り取ろうとする3つの勢力は、日本が世界一流国だとラッパを吹いて人々を奮い立たせています。でもこれだけの病状を日本社会が示している現状の中日本の国力の実体は遥かに下に墜ちてしまっているのです。それは...「そ・し・き」の中でものを言えなくなった言わなくなったと言うこの社会の劣化の根本原因が有るからです。これでは社会が悪い方へ流されてしまうのは当たり前。それに抗う一人の自衛官がいた事を皆さんすっかり忘れてしまったでしょうね。海上自衛隊の自衛艦たちかぜ一等海士の自殺事件をここで出します。民事訴訟が2014年4月に確定しました。事件の流れを説明します。 2004年10月27日に当時21歳の一等海士が遺書を残し電車に飛び込み自殺。この中で上司の二等海曹を名指で批判。この為海上自衛隊はその後たちかぜ全乗員に暴行や恐喝の有無を尋ねるアンケートを実施。2005年に遺族がこのアンケートの公開を要求したが、海上自衛隊はアンケートは破棄と事実をねじ曲げて回答。「2006年4月5日、自殺した隊員(21)の両親が、Sと国を相手取り、1億3,000万円余りの損害賠償を求める訴えを横浜地裁に起こした。....2011年2月4日、遺族側は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した。2014年4月23日、控訴審は遺族の主張を認め賠償額も7350万円に大幅に増額、小野寺五典防衛相は25日の閣議後記者会見で『重く受け止める』と述べ、上告を断念する意向を示した。遺族側も上告せず、判決が確定した。」[8] 裁判中に三佐がアンケートの存在を内部告発。2012年6月に海上自衛隊はこれらアンケートが存在している事を7年もの間嘘を世間につき続けた後に認めた。

何故未来永劫に渡り日本の組織内で不正がまかり通るのかの答えが此処にある。その自衛官が今の日本の人々に決定的に欠ける心を一言で語っている。組織の中で人らしく振るまう事が如何に同調圧力で抑圧されているか良く判る例。彼の言葉は次の""の引用文中の一番最後の鍵括弧参照の事。"かつて訴訟担当者だった現役自衛官が「重要文書を隠蔽している」と、自らの組織の<不正>を暴いた。「自衛隊が、不利な事実を隠したまま『不正な勝利』を得てしまう」今の生活を失ってしまうかもしれない恐怖と闘いながらの苦渋の決断だった。自衛隊は「文書は破棄した」と説明してきたが、一転。その後、200点もの大量の文書が開示された。... 「私は、組織に対してではなく、法の正義と国民に忠誠を尽くしたい」...."。[9]上から下まで色々な組織でどれだけ不都合な事を隠蔽すれば気が済むのだろうか?「なお、内部告発を行った三等海佐は小野寺防衛相が処分に対し否定的見解を表明していたこと(2014年4月25日)から処分対象とされなかったものの、所属組織である海上自衛隊内部から人事面での不利益を被り続けている」[10]これが正義を潰し日本の社会を劣化させてしまう、"social pressure"(組織的)社会的圧力、「出る釘」ならぬ表に「出る正義は打たれる」日本の悲しい現実である。善さえも社会から駆逐されてしまったのか?

民間でも同様なのである。古い例であるがオリンパスと言う会社での出来事。それでは順を追って:
* 2011年8月。東京高裁は、オリンパスが社内の問題を内部告発した社員の配置転換行ったが「内部告発で配転は人事権乱用」[11]とオリンパスに賠償命令の判決を下す。結果はオリンパスの敗訴
* 2011年10月。関連会社からオリンパスの社長に抜擢したマイケル ウッドフォード氏がオリンパスの上層部の不正を内部で正した結果解任される。[12][13]
* この社長の解任劇の原因となった巨額にして長年の累積赤字の隠蔽事件が明るみになり、刑事事件に発展
* 2012年2月。東京地検特捜部は前会長ら旧経営陣を逮捕。[14]

■ 社会の高いレベルから見る、「どうして?」
・世界の中で日本の存在がそして人々がユニークで無くなってしまった・国と色々な組織がダイナミックさを失い硬直化してしまった。動的社会から死んだ様な静的社会へと変質。人々が地域社会のイベントや地方政治、国政に関わらない・内閣と行政府が嘘を言っても情報を隠しても誰からも罰則を受けない・組織内での自浄作用の喪失・国民の知る権利を無視し、社会からそのオープンさが失われ秘密主義になってしまった。つまり密室の中で重大な事が決まってしまう・日本の至る所の組織で事実をねじ曲げたり、隠したりする・組織の中でのスピード感の喪失、決断力の喪失=茹ガエル状態・日本の経済力が、科学と技術力が落ちてしまった・日本の社会からイノベーション、発明発見する人材が育たなくなってしまった・皆時代を切り開く気持ちを失ってしまった・皆同じ色に染まる。即ちガンジがらめ・心がオープンで無くなり閉鎖的で島国根性になった・日本の文化のレベルが落ちてしまった・上から下まで日本は病んでしまった・日本の社会に悪が、そして不法が蔓延る様になってしまった・巨悪がぐっすり眠れる時代になってしまった・日本の地方の自治体から中央の行政府までの組織と会社は無責任に被われ不正に被われてしまった・皆無責任無関心無気力、更に脱力してしまった・秘密主義を通すから嘘をつかざるを得ないがこの循環から抜け出せない・女性が二流市民的な扱いをされる社会、つまり女性の才能を殺してしまっている・皆勇気を失った・誰も点と点を結んで線とする作業を行わない。つまり権力が隠すパズルを解かない・目に見えない大きな力への関心の喪失・見えない物を見ようとしない、見る事が出来ない。よって文化とか見えない物を造れない・皆大局観が無い・目の前の問題を根本から解決しょうとしない・日本の政治が腐ってしまった

皆さんこの連続投稿を読み、そして上記最後の問い「どうして日本の政治が腐ってしまったのか?」に対し自ら何か答えを見付ける事が出来たのでしょうか?まだですか?もしそうであれば、ちょっと悲しいです。では四つの要因を挙げよう。
(1) それは政治の私物化による: そもそもそれは、政治のプライオリティー優先順位がとんでもなく間違っている事の結果なのです。国家神道と言う「原理主義」を信奉する人達が政権を握っている事、つまり「彼ら」は国家を最優先するのです。それは国家の名誉を守り、対外的に国の威信をかける習性が優先されます。そして国民に国力と威信を保てる様お国の為に奉仕しろと、一生懸命働けと、強要している訳です。大人の思慮を持たずに隣国といがみ合いしているのを見れば明らかでしょう。自分達が自由に政治を操る事が可能になったと言う結果

(2) それは国家の私物化による: 上記の様に、国家神道支持勢力が戦後から地道に「彼ら」の夢に沿った社会変革の運動を行って来た結果を我々は今直面し体験し、目撃しているのである。そして政権が行政府をアゴで使う様に操れる時代だ。更に産業界(科学界や教育界の一部もこの中へ入れたい)も「彼ら」と共同で日本の社会と国民を私物化している事は第11章で申し上げた。何回も言って居るが日本を、明るい未来が見えない、自由の制限され、息苦しい巨大な改憲マシンに変えて自分達の夢に沿った社会変革を実行している訳。「彼ら」が社会から対抗する勢力を駆逐し消滅させ、権力を私物化し即ち必然的に独裁化暴政化しその勢いで国体の変革を図っている。法治も何も無きに等しいこの国家。例として、同類は批判出来ません。よって中国政府の香港の市民に対する血も涙もヒューマニティーも無い強権的な態度と対応を批判する事無く、民主化要求に共感的な日本の姿勢を見せられない訳。皆さん改めて言っておきます。日本社会を「彼ら」の希求する社会へとひっくり返す革命の成就はもう目の前に、そこまで来ているのです

(3) それは人々の劣化による: 人々を愚かにし人々の考える力を、行動する力を奪い取り自己推進能力を剥奪する社会的な仕組みを運営し続け、皆が皆何も言わないこの希望の失せた世の中で、社会をより良い方向に築いて行く気持ちがとても嫌な物、タブーな物であるかの様な風潮を造り出して来た。人を皆と同じ様な烏合の衆にはめ込み社会の中で流される人間に堕落させている。自分の投票と言う権利の行使が後ろ髪引かれる様な風潮の世の中では、1/4の国民が政権を盲目的に支持する為立法府が「原理主義者」の聖域になってしまうのは当たり前である。「彼ら」の国体の変革運動にはインテリや現政権に反対する勢力や民主体制を支持する勢力は邪魔、皆バカで「お上」の言う事を聞く人間が良いのである。人の力は国の力。日本は病にさせられた人間から成る国なのです。これでは国力が落ちる訳だ。でも皆さん、このままじゃあもう駄目だと言う気持ちにならないのでしょうね...

(4) それは政治形態が稚拙で昭和20年から少しも変わっていない進化していない事による: 村の密室政治と村の、町の、市の、県の(地元の)実力者に間違っていようがいまいが、自分の気持ちを捨てて付き従い忠誠を誓いへつらう部族制の政治形態。即ちそれは実力者に従い己のコネと言う利権を確保する習慣が日本の社会に根強く残っている訳である。だから百年経っても二大政党制は産まれる訳が無い。地元の実力者(地元の自由民主党の支持母体)が今や「国家神道」を支持し彼らに忠誠を誓う人々も自由民主党の支持者となっているのでしがらみと絆でがんじがらめとなり自分の中の論理的な判断を最初から放棄している訳。これは、汚れた実力者でも無条件で支持するメンタリティー即ち親分子分の関係であり、其処には女性の入り込む余地もなくその親分子分の関係と相容れない個人のユニークを尊重する社会と正反対の行為を旧態依然と日々行っているのである。この延長線上が「安倍一強」と言う事。これは日本の政治形態が将軍様、お殿様、お代官様と武士、農民、工業人、商業人が下から上へ袖の下を通して上がる収賄の金が物を言う江戸時代の政治から抜けきれていない証左なのだ。この祀り事の仕組みの行き着いた先が腐った政治なのである。村の病理が行政府と言う天辺まで到達している事は戦後70数年続けられて来た習慣が長らくの間に定着し、地方が中央の言う事を聞く様な関係が強要され高度な地方自治が失われ自治体職員は仕事もろくにせずお茶を呑むだけのだらしなさ、無責任さと相まってそこそこ程度の村の政治水準が国政レベルで維持されている訳。確実に国が破滅の一歩手前まで来ているのである。つい最近では賄賂を受け取った関西電力の経営陣がニュースとなったが、彼らが収賄罪で逮捕される事なく幕引きされてしまったケースを見てみよ。力のある勢力に服従するJusticeなんて言葉も知らない怠惰な面々、己の仕事もしない死法府と検殺庁の従業員の役立たずの例。よくもまあ恥ずかしくないものだ。賄賂みたいな事は世界の先進国の常識ではあり得ない事。即ちお仲間意識と悪巧みで通じ合った補完的な互助心と、権力者への帰属心に満ちた国の上層部の面々。村の賄賂の受任のメンタリティーと習慣が世に満ちた、世界の標準に達しない島国である。この社会習慣が世に満ちていれば国力は三流に落ちる。それほど非常に深い病にかかっているのだ。そして過疎地では相変わらずこの様な政治形態が執られ、方やその様なメンタリティーの薄い人口密集地の人々は投票権を棄権する様に操作され続けられた上更に、地方と人口集中地域の憲法違反と判断されている一票の格差も全く省みられない事実。更に人々がこの腐りきった政治の仕組みにも抗議もしない茹ガエル状態だ。これでは永遠に自民党が政府与党の立場を取り続けられるのは何ら不思議では無い。悲しいかな上に立つ者達が腐った貴族の如く振る舞い、武士道の潔さも持ち合わせていないとは世も末である。

この4つの要素が連動して日本と言う国を軍事国家へと進ませているのです。その日本の行き着く果てに辿り着く過程で今政治が腐ってしまっているのを人々は目撃しているのです。簡単に言えば「原理主義者」「復古主義者」が日本を乗っ取り日本国民の心を乗っ取っているのです。それはあたかも村上春樹氏の小説「1Q84」の中のパラレルワールドでおこっている出来事が今の事態を予言した様に現実に起きているのである。

さて皆さん点と点の繋がりを大きく観ようとしないと思いますが、同じ様に戦前の日本と日本人も病んでいました、それ故に神風が吹くと言う催眠術に安心してかかっていたのです。戦後国民が深く過去の振る舞いを反省し続けて来た結果心の病からすっかり回復し、その一方同時に人としての尊厳を抑圧するソビエト連邦からの「大きな見えない影響力」と戦っていたドイツ市民。一方この国では心の病気を回復させる様な努力もしないまま70余年経過しましたが、再び日本が深刻な病にかかってしまった事を目撃すると、何とも悲しいものがあります。島国根性の政治屋さんや原理主義を信奉される方々も先陣を切って「日本病」にかかっている現状。この政権が主張する憲法改正の中身も判らないで協賛する政治屋の面々はその意味で日本の民主主義の敵と言って良いのです。

次に人々が洗脳されてしまうとはどう言う状態なのだろうかを述べたい。例として、現在の民主主義を守ろうとする勢力を「左翼」とか「反日」として分類する人々もいます。でもちょっと待てよ?今の世の中「ネトウヨ」の方々にとって「保守=善」であり「左翼」と分類されるグループがすっかり「悪」と言うイメージとして浸透している様だが何かおかしくないか?その理由は簡単だ。「右」と「左」と言うカテゴリに区分けされる勢力が議会を交代で主導するのが二大政党制の仕組みなのである。一般的に「右」とは企業寄り、金持ち寄りで彼らの税金を下げる様に努力し、技術革新等での成長及び国防を重要視。一方、一般的に「左」とは懸命に働く者と弱い立場の人達寄りで社会福祉の充実を目指し、金持ちや企業にはそれ相当の税金を払って貰う様努力し更に経済成長より子供達や国の平和な未来を重要視。(3/4の国民の皆さん判ってますよね?この常識。)「ネトウヨ」の方々は二大政党制の英国や米国では「左」として労働党と民主党、「右」として保守党と共和党がそれぞれせめぎあって議論し国家を運営している事実を知らないのだろうか?この2国から「左翼」政党を消滅させたら英国では保守党の一党独裁となり、米国では共和党の一党独裁となってしまう。だがそれぞれの市民の間の風潮には必ず「振り戻し」として政権交代をおこさせる習慣があるのである。米国の民主党が国民に不人気な政治を執り行っていたら、それぞれの政党を支持する層の真ん中、中間の人々は次の選挙には共和党を支持する事で民主党を懲らしめる様にしている。だから自分が次回の投票に「左翼」的政党を支持するのか「右翼」的政党を支持するのかは自分が過去それぞれ支持して来た政党がどの様な良い政策を採って来たとか又は悪い政策を採って来たかで判断し決定する。つまりより良い政策を打ち出している2つの政党内の1つへと投票するので、その過程で右左区分けしてこちらは悪い政党だと言う思い込みは持っていない。単なるポリシーの違いを選択している訳。だから左とか右とか言っても両方正しいのである。自分の投票権、一票の使い方は極めてドライ。地元の実力者に付き従い彼らに投票する日本の市民(その意味で平民)とは大違いなのである。方や英国の保守党、労働党。米国の共和党、民主党。お互いがお互いののしりあっているのは二大政党制の中だからまだ健全。そして米国の場合例えば共和党政権が去った後は行政府から共和党政権を支えて来た職員がごっそり退職し民間に転職するので行政府も様変わりする。この世界の民主主義情勢を知らない能天気な面々が、この一度自民党政治から非自民党へと振り子を振り戻した後2012年末に崩壊させられた日本のモヤシの様な二大政党制度の中で自民党以外の政治家を糞「左翼」とか言っている自分の姿を子供達に見せられるかな〜。ちょっと恥ずかしいよ。でも人々がひとたび洗脳されるとこの影響は後々まで続きます。

更に第9章で説明した事なのですが、皆さん「知覚の不在」が世に溢れると何がおこるのか想像した事があるのでしょうか?それは人に対して「ラベル張り」を行う習慣を持つ様になるのです。上記の例では「左翼=『悪』」と安易にラベルを張る事。他に例えば何処かの政治家を「左翼ポピュリスト」なる言葉でラベル付けする事は出来るが、その後ろに或る日本の社会の病んだ理由を考えた事の無い文筆業の方々がいる訳。人間の最近の歴史を見ても幾つもの例を挙げられる。その一つ、50年弱前カンボジアのポル-ポト政権下においての大量殺戮がおきました。一説によると150万人〜200万人もの方々が命を落としたアジアの暗黒の歴史。これも或る人々にラベルを張り付け彼らを無法の状態で抹殺して行った結果です。方や冷戦下の米国でおきた1950年前後の社会現象「マッカーシズム」所謂「アカ」狩り、等の例がある。つまり何処にでもいる市井の人々にラベルを張付け、社会から隔離するとか、その人の社会的な地位を剥奪するとかを行うのである。これは単に集団的なヒステリアとも言える。一つの言葉でラベルを張られた人間とその人の実体がかくも乖離しているのかを人々が気付くは残念ながらその人の尊厳が貶められた、遥か後なのである。

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では最後にこの息苦しい社会と腐った政治にあなたが対抗するにはどうしたら良いかを考えてみたい。
(1) "Automata"(自動人形、機械人形)[15]の状態から脱出しよう: 人間の格好をし人間らしく動くが、心が存在しない操り人形の状態から己の意志の力を用い脱出する事。人々がオペレータ化した社会の中、携帯電話を寝る時も枕元に置き肌身離さずにはいられない非常に多くの人々が罹患しているインターネット依存症。それを技術の進歩と勘違いして、もてはやしている愚かさ。単にジャンクな情報の海の中で溺れているだけなのが判らない。不幸な事に「日本病」の大きな特徴は全世界に広がって来た。この世界を経験し感じそこからの経験を自分の人生の糧とする精神の自由さえも失い体制にしっかり管理された人間共である。携帯電話が提供する狭い世界に住むだけでこの世界を知らずに死んで行ってしまう動物園の動物の様な哀れな人々である。世界をこの眼で見ようとしない島国根性故に、インターネットのニュースサイトから流されるニュースの一こまに埋め込まれた誘導先の正体も吟味せずにそこから安易に様々な洗脳型のウェブに誘導され、韓国バッシングを始め、Youtubeの嫌韓ビデオを暇な時にずーっと見ている爺婆若者達。携帯電話を操作する事自体、つまらない生活から目を逸らせ、そして現実逃避と刺激を得る手段でもある。だが、携帯電話を手から離して目をこの生きている世界に向け、そして自分が生きている男或は女に戻る事により人生を実り多いものにする事が可能なのだけれども...今の時代人として個人としてユニークさを喪失したが故に、男としての魅力を失い女としての魅力を失ってしまっている社会なのではないでしょうか。人が男として女として魅力が無いとどうなるのか。世の中、結婚したい程魅力の或る人が少なくなっていないですか?だから草食系独身が多くなり少子化に拍車を駆けているのではないのでしょうか。兎に角Automataとして過ごす状態の時間が長過ぎなのです。今を生きている事を実感しない出来ない人々が爆発的に多くなってしまったではないですか?携帯電話を目の届かない所へと置いてから、コーヒー又はお茶を入れてイスを窓ヘ持って行きリラックスして窓の外を眺め自分と世界の関係を深く感じて見て下さい。自意識過剰やツッパリが人のユニークさと勘違いしている人が多すぎませんか?「あなたは私ではない。」これはユニークさの根源。「私はあなたではない。」これは他人の痛みが判らなければイジメとなり、判ろうとすれば隣人愛に通じる。「あなたと私」の間に横たわる気持ちが社会に満ちた喧噪や風潮によって刺激され穏やかさを失い、更に激高し個人攻撃、グループ攻撃、組織攻撃、或は地域への差別や或る国やその国の市民への差別に発展している悲しい時代である。この様な日本の人々の心を操る事は権力による人々のヒューマニティーに対する犯罪である。でも私は騙されない。私が子供の頃曽祖母から聞いた関東大震災の時の話。東京方面がその夜になっても赤々と明るかったとの事。そして彼女の生家の地域の「朝鮮人」が人々が利用する井戸に毒を投げこんだとの事で地元の人々が彼らを追いかけ捕まえようとしていた。辛くも公民館の屋根裏に隠れ逃げ込んだ「朝鮮人」達を見つけ出し人々が下から竹槍で刺し殺したんだよと嬉々として私に語ってくれたのである。やり切れない。どうして身近な人がかくも鬼に、犬畜生の如くに人を殺める事に賛同する様になれるのか。私は人々が簡単に鬼になった事実を目撃した者としてそれからずーっとこの人生を生きている。不幸な事だが同じ事態は過去にも未来にもそして何時でもおこる。敗戦直後の満州の日本人入植者の事を思いはせて見よ。男共が旗を振る憎しみと戦いの中からは生命は産まれないのです。皆さんは偏狭で頑迷なAutomata達が憎しみを身に付け募らせる、この様な夜叉の顔を持った社会はヒューマニティー溢れる人間の顔を持った社会即ちオープンで公平公正で誰にも偏見もなく、そして慈悲に満ちた社会とどれほどの違いがあるのか理解出来ないのでしょうか?

(2) 沈黙し内省する時間を過ごす習慣を持とう

(3) 少し抽象的ですが、心に平静平安を取り戻す事。日々の生活において心を清めきれいにし真と善と美と愛を心の中に呼び戻し社会に希望の風潮を造り出そう

(4) 地元実力者との社会的、精神的な影響力(きずな)を断ち切り、投票に行って自分の本当の意見を世の中に知らしめよう

(5) 子供の教育を重視しよう: 子供達を健全で自主性の有る人間として育てなければいけないと思います。今の子供達に自然の中で色々な体験や社会の中で色々経験させ、知識や経験を一番吸収出来る年齢時に携帯電話、或はコンピュータ、ビデオゲーム機を可能な限り操作しない様に仕向けないといけないのではないですか?例えば大人がハマる中毒性の高い「マインクラフト」と言うゲームに小学生が熱中するケースが広がっていると聞く。でも共働きの家庭だとビデオゲームが子守役になっちゃいますよね。この様な日常では子供達が人として全うに育たない。平成の若者がコミュニケーションが出来ない体力もない心も貧しいモヤシッ子になってしまったのを親が後悔する時代である。この社会の財産を健全に育てて来なかった昭和の親達の責任でもある。大学を含め学校の先生の給料を上げ優秀な先生を集め義務教育の質を向上させないと永遠に日本に人材が育たない事態となってしまうよ。残念ながら人間の内面なるものが創られず、育たない中身の無いAutomataが大量生産されて来た平成の時代。私は何も言えないロボットの様な自動人形から構成される社会には生きたくありません。

(6) 人と人の間での、そして組織内でのコミュニケーションをもっと大事にしよう: 建設的な意見や議論を活発化する事で組織の運営にダイナミックさが戻って来ると思います。原子化し蛸壺の中に生きている様な生活は止めにしたら?一方もっと創造的な人生を生きている人々が横に繋がる事、連帯する事が何故出来ないのかは私にはとても不思議なのである。相手の間に垣根を作ってしまう島国根性が病として蔓延しています。何故、垣根や壁を取り払ってコスモポリタンになれないのだろうか?

(7) ヒューマニティーと言う視点で物事を見、観察し、チェックする事。これは新しい視点の導入である。そしてその尺度を基に悪い所を正して行こう: 最初からこの点を考えて本稿を書いた訳ではありませんでしたが、本投稿は結果的にヒューマニティーと言う見方を背景にし日本の政治が如何に腐って来てしまったかを検証した訳です。日本の社会から長らくの間それが喪失してしまった事は皆さん実感されていられると思います。それに対抗する為にヒューマニティーの無い色々な仕組みや慣習を無くす方向へと努力する事が必要です。現代は非人間的な軍事技術や科学を極力抑圧する方向にコントロールせず、又生命の多様性の喪失を起こさせる熱帯雨林の破壊や核汚染を含む環境汚染を人間が造り続ける狂気の時代。でもこの行進している方向は、皆さん一人一人がヒューマニティーと言う視点を心の中に持つ事に依って転換できるのです。いや、生命の存続の為に滅亡に向かった行進を止めて方向転換しなければならないのです。さて、前にも言いましたが、民主主義とは皆さんが思っている以上に強力な制度なのです。そして投票と言う行為はこれを強く保つ為の道具なのです。3/4の日本の人々がヒューマニティーと言う風潮を造り出し日本の社会から、上記(4)と連動しヒューマニティーを持たない鬼、夜叉の顔をした強欲な面々をこの社会から力強く、かつ黙々と駆除しなければならないと思います。これが目に見えない暴政を倒す事に繋がります。つまり健全な二大政党制の下ヒューマニティーの無い政党は淘汰されなければならないのです。そしてこの作業の結果女性が、子供達がのびのびと活躍出来る社会が来ると予見出来ます

(8) 自分の自己推進能力を取り戻そう: 自己推進能力とは簡単に言えば、谷底に落とされた獅子の子が谷から這い上がって行ける能力の事を言う。 又別の表現では、前に見えるが遠すぎて触るのが困難な物事、に到達しようと努力する力。例えば珊瑚の敷きつめられた美しい海にあなたが潜水道具無しで泳いでいるとしよう。マリンブルーの海の底に広がる珊瑚。更に深みが見える。そしてその深みの底に触ってみたい気持ちへスイッチが入った時、あなたは息を目一杯肺の中に吸い込み満身の力を込めてそこに見えるがしかし手の届かない珊瑚の海底めがけて死に物狂いで深みへと潜り泳ぎ、到達しようと試みる。何回でも何回でも。別の言い方をすれば、目の前の地平とその彼方に見えるがしかし手に届かない対象(例えば理想社会)に地道に一歩一歩突き進む努力をして到達しようとする人達の事を自己推進力能力のある市民達と言う。その風潮が満ちる社会は「出る釘」=個人のユニークさを否定する社会的圧力が溢れる内向きな社会と真逆に位置する。しかしこの意味では「原理主義者」達も自己推進能力があります。振り返ると平和な時代が高度経済成長の後バブルの時代に取って代わりそして、「復古主義」の時代がそれぞれの時代の様相や風潮と相互作用する格好で我々が生きるこの社会に侵食して来たのです。それは日本社会の活力を殺める戦略戦術により人々の知性を低下させ、「彼ら」の社会変革の実体を見えなくさせる様に仕向け、又その様な社会変革に抗議する人間を消滅させて自分達の理想社会を築く様にして来た結果とは今あなたが見ている日本なのです。御覧の様に日本の国力が没落した事実を直視すべき。「彼ら」はいささかイデオロギーに強欲過ぎた。日本の3/4の人々にとってはとても不幸な事。こんな事はもう沢山。己の「日本病」を克服し、人々を病気にさせている原因をこの社会から駆除する大事な仕事が残されているのです。自己推進能力を身につけて日本の市民自ら投票に行き、腐った政治に対抗する改革の旗を振り続けないと

少し上から目線と思えますがこの1章から13章の投稿の最後にあたり簡素に述べたいと思います: 「彼ら」は中国の独裁体制の様に非常に強大な力を持っているのでこの強権を倒し、駆除するのには多大な困難を伴います。一人一人の日本の市民は「彼ら」が産み出して来た風潮が造り出す「見えない大きな影響力」を注意深く読み取り監視し地域や組織から、そしてメディアからイデオロギーに病んだ「彼ら」の旗を振る人々をその役職から引き下ろす事が必要です。そして同時に自分の生活の中から心の平静と平穏さを掻き乱す要因を取り除く事を始めなければなりません。自分の生を自分がコントロール出来る社会を目指す事。そして政治が、社会が必死になって生きようとしている人々を助けてくれる雰囲気やその環境を取り戻す様な努力を継続して行く事が大事なのではないでしょうか。つまりPost「原理主義」と言う風潮を造り出す事がまず最初の一歩だと思います。何十年もかけ変質させられた夜叉の様な形相の日本で行われている政治から人間の顔を持った政治へと舵を切る事。それは健全な二大政党制の仕組みの上に立った日本の社会とその結果としての豊かな国力の回復が、社会の中にヒューマニティーや人間らしさを取り戻す唯一の方法なのです。高齢化が著しい社会の中で人々の生存権、家庭の生存権の拡大と向上、そして健全な社会への回復には日本を再び軍国主義化する事により達成する事は出来ないのは明白です。「彼ら」のその様な社会変革を阻止するには「彼ら」の造り出した風潮の中で生きている事に気付き、その風潮に被われた社会がどれだけ息苦しいかを感じる事から始めないと。その風潮が産み出す力をものともせずそれらの仕組みが見える人が増え、「彼ら」の「見えない力」を跳ね返し、その風潮の根底部に有る「原理主義」の司令塔を社会から根絶しないと日本に平和は取り戻せません。また同時に地元の実力者にへつらう平民のメンタリティーから脱出する事が必要だと思います。そして日本を平和の下の繁栄と言う元のレールに戻す努力を厭わない「自己推進能力」のある日本の市民が日本の社会の中で増える事以外には道は無いと思います。これがPost「原理主義」に至る道ではないでしょうか。大手ウエブニュースのサイトから誘導され嫌韓に洗脳された人々を煽って改憲を進める時代に3/4の全うな生き方をしたい日本の人々が連帯し声を挙げてこの日本を再び活気の或る社会、遥か遠くに見える人間の顔を持った社会に向けて自己推進する時だと思います。言い古された言葉ですが、幾ら闇が深くても明けない夜はこの世にはありません。日本が変る必要があると思っているのならまずあなた自身の心の中に在る闇に光を差し込んであなたを変える事から始めなければならないと思います。

血も涙も無い連中の様々な嘘。もう隠してもしょうがないだろう?国の高いレベルで、国内の全ての知能を動員してPost「原理主義」の為の公開円卓会議を開き、何をどうしたら良いか議論し「原理主義者」達によって引き起こされてしまった日本が直面する非常に深刻な問題の解決の為に、日本の人々が人間の顔を持ちヒューマニティー溢れる健全な二大政党制に基づいた社会に向けて自己推進する時ではないでしょうか。

本投稿を読んで頂きどうも有難う御座いました。
プラナリア

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参考文献等:
[1] Grete Thunberg, "Climate Action Summit 2019"でのスピーチ, テレ東NEWS, Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=_y8JNG7S0bo
[2] "The Russell-Einstein Manifesto", July 1955, Max-Planck-Institut,
http://einstein-virtuell.mpiwg-berlin.mpg.de/VEA/SC540264407_MOD2037217062_SEQ-1972097031_SL2006374076_en.html
[3] "Mercy, Mercy Me (The Ecology)," Marvin Gaye,
https://www.youtube.com/watch?v=U9BA6fFGMjI
以下は高音質
https://www.youtube.com/watch?v=NtlV0j0uGaA
[4] "いずも型護衛艦," , ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%82%E5%9E%8B%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6
[5] "Japan and U.S. Set New Rules for Military Cooperation," The New York Times, 2015年4月27日,
https://www.nytimes.com/2015/04/28/world/asia/japan-and-us-set-new-rules-for-military-cooperation.html
[6] "The Guidelines for U.S.-Japan Defense Cooperation," "日米関係重要文書 - 安全保障"のウエブページより, American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/5006/
[7] "日米防衛協力のための指針," 外務省のウエブより,
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000078187.pdf
[8] "護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件
[9] "自衛隊の闇 不正を暴いた現役自衛官," 2414年2月23日NNN放送,
http://www.ntv.co.jp/document/back/201402.html
[10] "たちかぜ自衛官いじめ自殺事件," ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%9C%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81%E8%87%AA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[11] "オリンパス内部告発訴訟 社員側が逆転勝訴," 0テレNEWS24,
http://www.news24.jp/articles/2011/08/31/07189629.html
[12] "オリンパス事件," Wikipedia, http://ja.wikipedia.org/wiki/オリンパス事件
[13] "「日本は三流の国」と言われた -- マイケル・ウッドフォード氏インタビュー," BusinessMedia誠,
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1204/19/news020.html
[14] "オリンパス菊川前会長ら逮捕 有価証券報告書の虚偽記載容疑で、"ITMediaニュースのウエブより。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1202/16/news044.html
[15] "オートマタ," ウィキペディアより,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%BF

http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/745.html

[政治・選挙・NHK268] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 [再投稿編] - 産まれて来た微かな希望の徴に捧げる
何はともあれ目出度い新年の始まりです。が、日本のみならず世界中で激動の時代の到来が予見される新たな10年と言う区切りの始まりに当たって、今は本当に21世紀なのかと言う問いを発してしまう程惨めな現代日本社会の現状及び背後に在るこの帰結の原因を深く掘り下げる様努めた2019年12月1日の投稿文を再び投稿させて頂きます。正月の三が日に時間をかけ気長に読んで見て下さい。又このウェブの読者だけではなく、他のSNSの読者にも広く読んで頂ければ幸いです。

内容一覧は:
1章 巨大な改憲マシンの中で
2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則
3章 "Justice is not done." 正義が行使されない国
4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ
5章 音楽は政治を批判してはならない
6章 欲望の行き着く果てに
7章 何処から、何処へ、何ゆえに
8章 そして全てが逆行する社会へ
9章 日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事
10章 喧噪の中で失ってしまった大事な事
11章 国民に向けられた三本の毒槍
12章 こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います
13章 「日本病」と言う病。人間の顔を持った社会とは?

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第1章 巨大な改憲マシンの中で

まず最初に。本稿が日本そして日本の社会が人間の顔を持った社会へと方向転換し、その方向へ進んで行く為の道標の様にささやかな力になればと願いこの長文を投稿する。その方向には何が見えるのか?それは、産まれて来た微かな機運と希望の、徴なのである。この、地方から中央からそして上から下まで腐った政治が蔓延した日本の社会の中で、健全な二大政党制を少しずつ形成する様な小さな意志を私は風として感じるのである。その二大政党制への夢、それは遥か彼方の地平に見えるがとても手の届きそうにない、健全な社会へと時代が進んで行ける様この小さな希望のともしびに本投稿を捧げたい。

これから投稿するシリーズの内容はあなたにとってかなり耳の痛いものである。携帯電話を用い本長文投稿を読むのは苦痛なので出来れば大きな画面のコンピュータを使って読んで欲しい。これは単なる一会社員、オッチャンからの一言である。何処にでも居そうなオッチャンに言われてあなたが初めて気付く様な事もあるかも知れない。でも、もしあなたがこの巨大なマシンから逃げ出したいと言う気持ちを少しでもお持ならば、最後の章まで読み通せるのではないかと思う。一連の流れの内容は小生が過去にこのウエブを通して投稿して来た文章に手を加え、新たに追加する章と合わせた物である。日常生活から全く見えて来ない風景を通して日本の現状を客観的に眺めてみる。

あなたはこの表題にある様な事実を知っているか?1億2680万人もの人々が住む国でそれを認識している人々は、これを実現する方法を設計したアーキテクト以外誰一人としていないに違いない。可視化が出来ないこの巨大なマシン(仕組み)を造り上げた事には敬服する。誠に以ってあっぱれである。

端的に言ってしまおう。我々は長きに渡って構築されて来た、改憲を唯一の目的とする巨大なマシンの中で生活しているのである。経済的に苦しい、知的に息苦しい人々の日々の生活も全く関係の無いかの様に黙々と日本国憲法の解体と明治憲法の再構築、戦前の社会への復古を最終目的地としイデオロギーを原動力とした社会の中に生きているのである。憲法改正の教義に共鳴する面々を四方八方の組織に送り込んで社会に巨大な影響力を行使するマシンの中で。

我々庶民だけではない。行政府立法府死法府、地方自治体、学校、大学、企業、労働組合、自営業、新聞テレビインターネットの報道機関等々の組織とそこで働く人々が途轍もなく巨大な改憲マシンの中で、大きなしかし見えない力の流れによって或る方向に流されているのである。この流れに同調しない組織、会社、個人を改憲マシンの憲兵達が潰しにかかる訳。このマシンの中で人々は己の思考に基づいた決定と行動を自己推進力が無い(奪われた)故に自力では行使出来ない(決められない)。更に同調圧力なる外部からの影響をその善悪如何に関わらず自分の意見の如く納得し、又人と同じ様に振るまい、自らがんじがらめの社会に住む事を甘んじて受け入れている。平成の時代の後半から日本社会で変化して来た事或は起こって来た事が全て、憲法改正の為の行為の帰結とその副産物として全てが理に適い説明出来るのである。何しろ憲法改正の為には何でも利用する面々がこのマシンの中で旗ふりをしているのだ。人々の幸せな生活の事を思いめぐらせる事が政治の中に無い故に日本の政治が腐ってしまったのはこの時代の必然であろう。それでも人心は政権から離れて行かない摩訶不思議。あんたも悪い。日本の政治が腐ってしまった原因の中の一つなのである。だから権力を私物化する面々がこの世に跋扈しているのである。

或る一例を出そう。何時の頃であったかは記憶にない。日本経済新聞電子版は政権のプロパガンダに堕してしまってどの位経つのであろうか。でもつい最近此処まで露骨にやるものか!と思わず絶句してしまった記事がある。それは「トランプ氏演説『力による平和』強調 海自艦に初乗艦」だ。[1]少し長いが一部引用させて頂く。「トランプ米大統領は28日午前、安倍晋三首相と海上自衛隊の横須賀基地(神奈川県横須賀市)を訪れ、護衛艦『かが』を視察した。『かが』は事実上の空母化が決まっており、日本政府が購入する米国製のステルス戦闘機F35Bの搭載が可能となる。日米首脳がそろって乗艦し、強固な同盟関係をアピールした。...日本政府は2018年末、いずも型と呼ばれる国内最大規模の護衛艦『かが』と『いずも』の2隻を空母化する方針を決定した。F35Bのような短距離離陸、垂直着艦ができる最新鋭の戦闘機が搭載できるよう甲板を改修する。」かがが空母化されるのは噂では聞いていたのだが、この様なインパクトの高いニュースの内容を使って内外に空母化をアピールしている事。更に「日本政府は2018年末...空母化する方針を決定した。」この決定の話も聞いていなかった。今回初めて聞いた話である。もう一つ。メディアのプロパガンダの常套手段である曖昧化する手法の一つが用いられている。此処で「日本政府」とは一体何を指しているのか。客観的に言えば「現政権」が正しいと思うのだが。

ところであなたは、日本の社会のバカさ加減にほとほとうんざりしていないのであろうか?テレビが爆発的に普及して来た時に一億総白痴化なんて騒いでいた時代が懐かしい。今はどれだけの方々がインターネット依存症になっているのだろうか?これも巨大な改憲マシンの成せる技である。外から日本の社会のレベルを見ると赤面してしまう程反知性とモラル不在、無責任感の漂う荒廃した社会の様に見えるのである。まるでゾンビの様に死んだ人間によって構成されているおしゃべりのみで語っていない、表現していない、意味の無い言葉で溢れ返っている国の様だ。巨大な改憲マシンの中で人々は平成の時代に一億人がオバカ化し、改憲と言う長い物には巻かれろと言う諦めに満ちた一億総茹ガエルになってしまった事に気が付かないとは。それにしても堕ちたものだ。何と言う世の中になってしまったのだろうか?忖度なんて言う言葉のレベルは既に超えている。皆元気が無いのだ。だから会社も国も元気が無い。皆さん自己防衛本能も喪失しサバイバルの能力も失ったのか?しかも自分が抗議の手段としての国政や地方政治に投票を通して自分の意見を表現すると言う機会を放棄してしまった人間であるに気が付かないとは。これではまるで負け犬である。小生には改憲マシンの中で皆が皆茹ガエルで居続けられる気持ちが理解出来ないのである。

この6月末の、200万人にも及んだ(主催者側公表)街頭で政治的信条の表現を行う力、のある香港の若者達のニュースを見た。隣国の建国から脈々と続く誰にでも可視化出来る一党独裁性と言う巨大なマシン。これに組み込まれてたまるか、と抵抗する気概を表現の自由を行使する事で世界に訴えかけていた。香港の人々の底力を、即ち香港の、国としての底力を目撃したのである。人間としてのintegrityを持つ香港の若者達と比較し日本の若者の民度は無きに等しい。いつのまにやら巨大な改憲マシンに閉じ込められてしまった日々。心も無責任無関心無感動に染まった諦めと閉塞感に満ちた人生。虚しくないのか?

ところで日本経済新聞電子版は権力のプロパガンダに成り下がってしまったとの意見を言ったが、そのスタッフの名誉の為に彼らのウェブより以下引用する。以下生前アップルのCEOのスティーブ ジョブズがスタンフォード大学の2005年6月の卒業式で語った言葉を日本の若者に読んで欲しいのである。[2] 彼は一番最後に"Stay hungry, stay foolish"と締めくくっている。ハングリーである事と茹ガエルである事は相反するのだ。世界の若者がどれだけこの世を真剣に生きているのか参考にして欲しいものだ。これから新たな地平を切り開く大学の卒業生に語りかけられる文化的な懐の深さ、そして彼の言葉を真摯に受け止められる若い人間がいる。素晴らしいと思う。

この章の最後にあたり: これら連続投稿を貫く重要なキーワードを4つ挙げておこう。それは「強欲」と「風潮」そして「見えない大きな力」である。4番目のキーワードはここではまだ出さないでおく。そして、この今はまだ見えない言葉の実体を産まれて来た微かな希望を心に持つ人々に捧げたいと思う。兎に角これら上記3つの言葉を心に思い浮かべてこの文をお楽しみ下さい。

参考文献等:
[1] "トランプ氏演説「力による平和」強調 海自艦に初乗艦、"日本経済新聞、2019年5月28日
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45318230X20C19A5MM0000/
[2] "ハングリーであれ。愚か者であれ," ジョブズ氏スピーチ全訳、日本経済新聞、2011年10月9日
https://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXZZO35455660Y1A001C1000000

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2章 すっかり破壊されてしまった三権分立の原則

小生2011年の11月からこのウェブに何回も投稿し続けて来ました。その理由は余りにも不条理な環境に置かれながら何とか頑張ってサバイバルして来た私の友人達を見て来たからです。何でこの様な事がおきてしまったのだろうかと自分に自問自答しながら、同時にこの不条理の苦痛に堪え視力を落しながら日々投稿に向け何百回も原稿を直し何時もの様に生業の仕事をしていました。この問題は私の友人だけの問題ではありません。しかし今現在これが既に過去の事でもあるかの様に皆が皆平気な顔をして生きていられるのはどうしてなのだろうかと言う疑問を常に心に抱き続けて来ました。ですから圧倒的多数の方々にとってこの投稿のシリーズに度々東日本の核汚染の話が出て来るのは実に不愉快に違いないと思います。この国で核惨事が原因となって、苦しみもがいて生きている人々の心の痛みを判ろうと努力しない、或は出来ない今この投稿を読まれている方々はこれ以上投稿を読み進まないよう、心からお願いします。この不条理な現実に抵抗する気持ちを持ち続けられたからこそ、私自身何とか最終点まで辿り着けたのではと思います。

最初に、「...現行の憲法の下の国家運営で70年弱もの間国際社会の中で紛争も起こさずに巧く立ち振る廻って来ている訳だが、憲法に対する解釈などを変えるにはそれに見合った大きなメリット等、余程の理由が無い限り誰もが躊躇する事なのである。日本に住む全ての市民にどれだけ利点が有るのか、誰からも何ら説明が無いのはどう言う訳なのだろうか。」これは2012年12月の拙稿、「日本の市民の皆様へ-最終回, No.1」[1]に記載した文である。どうしても判らなかった上記の不思議が昨年(2017年)夏に読んだ本で見事に氷解した。非常に良く書かれている本である。日本の現代史のこの50年の中で、ある勢力が日本の国政に対し行使して来た影響と行為を膨大な量の情報を基にあぶり出している。この本を読めば如何に日本の屋台骨が脈々と長い年月をかけてこの勢力の教義と原理によってねじ曲げられ、「彼ら」の望む様に変えられてしまったのか明快に判る。菅野完氏の「日本会議の研究」[2]がその本である。何の事はない。現憲法を否定し、憲法改正を教義/原則に掲げる勢力には「彼ら」の理念故、憲法改正の理由を誰にも説明する必要は無いのである。その様な勢力が大多数を占める国会が-日本の市民がそれこそ悪戦苦闘しながら日々直面する-問題の解決など眼中にないのは当たり前なのが良く判る本だ。トドのつまり「原理主義者」(この表現は「日本会議の研究」から流用させて頂く)達の教義に沿った、「彼らの問題」を解決する場として国会が機能している事を日本の市民は大きく眼を開いて見据えなければならない。(注: 本投稿では「原理主義者」、「復古主義者」、「彼ら」と言う言葉でこの勢力を言い表しておく。)市民にとって国政を担う立法府は役立たずどころか悪法の立法を行う三権の内の一つの機関に成り下がってしまった。立法府が政権党と野党の政策論争の場として国を良い方向に導く事、を怠りその機能を無視し内閣と政権与党の隷属機関となってしまった事がまず一つ目の破壊された三権分立の原則として数えられよう。何より、国家権力を私物化しやりたい放題の政権。皆さん、こんな事は先進国では決して起こりえないと言う認識が無いのだろうか?オバカ!を通り越して小生には滑稽ですらある。このままではこの国は潰れる。

さて日本会議の教義、原理と行動理念のエッセンスは上記書22ページの「●日本会議は何を目指すのか?」に要約されているので、転記しておく。「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが(1)、昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え(2)、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し(3)、国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し(4)、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い(5)、もって各国との共存共栄をはかる(6)」とある。これらは今の内閣と自民党が押し進める政策の指南の訓示でもある。一言で戦前の強権体制の再構築が一番重要なゴールと読めるだろうか。更に、本書112ページでは以下の様に、「原理主義者」達の正体を暴いている。「だが、2015年現在、宗教団体『生長の家』は左傾化とも言われる路線変更ののち、政治や社会運動との関わりを一切絶っている。(段)しかし、教団のこの路線変更に我慢ならず、創始者・谷口雅春が説いたウルトラナショナリズム路線を堅持しようとする『生長の家本流運動』なる運動が存在する。この『生長の家本流運動』における最大の組織が『谷口雅春先生を学ぶ会』と呼ばれる組織だ。『生長の家原理主義者たち』と言ってもよいだろう」。この文章を読んだ時はいささか驚きであったが、この本を読み進めると私の中にあった自民党政治に関する幾つもの大きな疑問点が線として繋がったのである。

以下人からの話で恐縮だ。2014年に或る人から聞いた話だ。この人はとある官公庁関係の一般事務の仕事をしている。その人が言うには、組織内の雰囲気が変ってしまったと。皆偉そうに振る舞う様になって来たとの事であった。これから何故そうなのかを考えてみたい。東日本での核惨事が発生する以前に経産省や文部科学省(科学技術庁)が彼らの原子力行政を推進する為に主張し根拠として来た「原子力発電所は5つの防護壁に守られているからとても安全です」と言うキャンペーンがいとも簡単に潰えてしまった事実。幾度も過去の拙稿で指摘しているが東京電力(TEPCO)の強欲さと癒着体質故、会社がトップダウンで職務放棄と業務怠慢を続けその業務監督を官公庁即ち行政府職員が放棄した結果、行政府及びTEPCOがつき続けて来た巨大な嘘が東日本の核惨事により白日の下に晒された訳である。この核汚染事故の後次に農林水産省等の官公庁が繰り出して来た手は何だったのだろうか?被災地からの食品は危ないと言うのは風評であり安全であると、放射性同位元素に汚染された食べ物を「食べて応援しよう!」とキャンペーンをしている訳。以下引用しよう:「農林水産省では、被災地産食品を積極的に消費することによって、産地の活力再生を通じた被災地の復興を応援するため、多様な関係者間で一体感を醸成できるよう、共通のキャッチフレーズ『食べて応援しよう!』の利用を呼びかけております。」[3]。でも根本的な問題は別の所にあるのだ。健康に問題有りませんと繰り返し宣伝し続ける事で、事故前の官僚が言い続けてきた安全神話=巨大な嘘をまるで煙幕がその嘘を包み込む様に隠して静かに退場させてしまったではないか?何故ならそれは安全神話を振り拡げて来た事の責任を伴う、TEPCOに対しての監督不行き届きの罪がある事を彼らは自覚しているからである。いやしくもエリート大学出の行政府の官僚であれば、遺伝子プール[4]と言う専門用語は御存知の筈なのだが。特に子供達に核汚染した食べ物を食べさせる事によって、日本と言う国土における遺伝子プールを広範囲にそして長期に渡り傷つけてしまう事実を意図的に無視する確信犯なのか。これは日本の未来の子供達に対する犯罪に他ならない。その一方食べて応援するのは個人のレベルの問題なのだ。それは個人のチョイス、選択と言う言葉で表現出来よう。よってそれを人々には強制してはいけないのである。ましてや我々の宝である子供達に食べて応援させるのはいかがな物かと思う(だから黙って混ぜないでね)。つまり官僚の面々が3.11以降何故主権を持つ市民に、更に一層傲慢不遜な態度を取る様になってしまったか。それは組織内の隠れ「原理主義者」の協力と誘導の下、原理主義の司令塔と改憲マシンの力を借りてメディアを通じイメージ操作、マインドコントロール、平たく言えば真実でない事を宣伝する事によって市民を洗脳出来る自信が2014年の時点でついたからであると思っている。自分達が犯した罪をウヤムヤにする為、日本の人々に核汚染から目をそらせ、些末な事に目を釘付けにさせる為に改憲マシンと共同でこの作業している事。この図式は真ん中に原理主義の司令塔がデンと座って居り、それぞれ内閣与党と行政府がそれぞれ横に従っている様なものではないだろうか。その根拠を挙げよう。以下の事を「日本会議の研究」を読めば容易に思い浮かべる事が出来る。この原理主義集団は公官庁に彼らの影響を及ぼすべく長年に渡り若手メンバーを公官庁に送り込み続けている。既に所謂王の目[5]王の耳として送り込まれた活動家は「原理主義者」の司令塔に、彼らが所属する組織内のステータスを逐次報告しているのでしょう。これは衝動的な事であった。2018年の4月にかなり上の立場の自衛官が国会議員を罵倒した事件が発生した。小生は若手の原理主義の活動家らが各官公庁の上層部に上り詰めており組織運営にも影響力を及ぼしている可能性はほぼ100%と踏んでいる。持ち論各官公庁や新聞社テレビ等のメディア各社に送り込まれた「原理主義者」は横断的に連絡を取り合っているだろう。原理主義の司令塔から発信されるイデオロギーに共感する彼らが、極少人数の原理主義アーキテクト達及びインナーサークルの人々が日本に独裁制を敷くのを後方支援するのは当然ではあるまいか。この様な「美しい国」は「復古主義者」達の念願の夢でありその社会は「彼ら」の追い求めて来たユートピアとなるのであろう。更に、小生にはこの集団がイデオロギーに満ちている故に、科学的客観性を無視しても平気でいられると解釈する。だが科学的立場なんてもうどうでも良いのである。王の目、王の耳が行政府組織内に入り込んでいるので政権が行政府をコントロール出来るし、行政府は行政府で改憲マシンが造り出した、東日本核惨事はとるに足らないと言う風潮に便乗し自分達の巨大な嘘を無効化する為に政権にすり寄りよる仕組みがもう既に出来上がっているから。

次に。行政機関の従業員である官僚達は何故安全だから食べて応援と言う様な巨大な嘘を付かなければならなかったのかとの疑問が生ずる。そう。官僚達の生存本能、牢屋には行きたくない訳。つまり何か行為を行った結果に対してその(安全神話の崩壊と言う)帰結の責任を絶対にとりたくないのである。その結果嘘を言い始め、その嘘を言い続けるしか無くなる。皆さんお判りだろうか?責任を取りたくないから、真実を隠蔽する。問題を先送りする。21世紀に入り、日本の社会と多様な組織がこの有り体になってしまったかの様である。だがそれ以上に内閣と与党はタチが悪い、のである。再度手に入れたら二度と離さない権力に対する執着と改憲を貪欲なまでも追い求める強欲さ。この「原理主義者」達の欲望の、行き着く果ては何処なのか?自分達の保身の為に、日本の政治屋と行政府の従業員が嘘をつき、且つ無責任に振る舞って日本を何処に導こうとしているのか?この様な国が「美しい国」とは、笑止千万である。

しかし...私の確信が間違っている事を祈っているが...更に次があるのである。原子力発電は安全と言う嘘を隠蔽する目的で核汚染した食料を食べても安全と言う嘘を行政府は繰り出して来たが、この後者の嘘が破綻した時にこの嘘の連鎖をカバーアップ、隠蔽可能な次の嘘は残念だが無いのだ。ではその時その場合の次の手は有るのか?勿論答えはYes。この章の題名として今進んでいるシナリオがその回答となる訳。そう。それは「原理主義者」に同調する事で、行政府は日本の市民に有無を言わせない強権な体制を内閣、与党と共に創る事なのではないか?今回のモリカケ疑獄も吹っ飛んでしまう程の、緻密にそして周知される事の無い静かなる「原理主義者」達の革命が進行中なのである。

さて三権の内残った一権が如何に破壊されてしまったかは次章でさらっと言及しておく。では死法府とお仲間の法無省検殺庁の事を紹介しよう。以下の事件は「原理主義者」達が行って来た数々の悪行の一部に過ぎなくなった。それは田中龍作ジャーナルに政権が検殺に「森友改ざん」で圧力をかけたとの記事が記載されていた。[6]三権分立が既に破壊されてしまった事の帰結ではなかろうか?それはもう癒着と言う感じの出来事。さて法無省は英語ではMinistry of Justiceと言う。しかし非常に残念だが看板に偽りありで、Ministry of Injusticeと省名を改める様にしたら実体に近いのではとアドバイスしておきます。又冤罪の温床、検殺庁の面々も世界で通用しない偏狭な自己保身的考え方を持っている様で無実の人を冤罪に貶めるのが非常に得意なのである。持ち論その真逆の事も昨今の得意技として挙げて良い。よって彼らの働く組織の事を、本来の仕事をしない死法府、法無省、検殺庁、警死庁と本書の中では表現しておく。しかしこれを許している国民も愚かの極みだ。

この章の最後にあたり: 直感的に、近未来の大震災クラスの災害発生で内閣が国内非常事態宣言を行う可能性が非常に高いと思う。国内の混乱の期に乗じて「原理主義者」主導の下、独裁政権下で立法府行政府死法府の私物化を加速するのは時間の問題の様な予感がする。非常事態宣言の後に改憲と言うシナリオである。一言で言えばこの原理主義が世俗の習慣や通念を駆逐してしまう事が起こりうるのだ。現憲法下で築き上げて来た皆が繁栄する社会から残念ながら全てが逆行する戦前社会へと日本は退化しつつある。

参考文献等:
[1] "日本の市民の皆様へ-最終回, No.1 副題:日本の市民が直面している日常," 投稿者 プラナリア 日時 2014 年 12 月 08 日, http://www.asyura2.com/14/senkyo175/msg/884.html
[2] "「日本会議の研究," 菅野完、2016年、扶桑社
[3] "食べて応援しよう! 被災地を応援," 食料産業局食品流通課, 農林水産省,
http://www.maff.go.jp/j/shokusan/eat/
[4] "遺伝子プール," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB
[5] "王の目," Wikipedia,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E7%9B%AE
[6] "【森友改ざん】 内部文書「官邸が法務省に巻きを入れている」 検察への介入明らかに," 田中龍作ジャーナル, http://tanakaryusaku.jp/2018/06/00018368

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3章 "Justice is not done." 社会正義が行使されない国

それにしても石が流れ、木の葉が沈む何と言う時代となってしまったのだろうか?日本で社会正義が行使されてない事実を隠そうと懸命に努力している特権階級の事を思い浮かべて頂きたい。原子力災害を職務怠慢により、おこしてしまったTEPCOの事故前の経営陣の責任と罪。そしてTEPCOに対する監督不行き届きの霞ヶ関の面々の責任と罪。更には日本の女性蔑視社会を世界に知らしめた、不逮捕特権を持っているかの様な現首相のお友達。動かない何もしない検殺庁のみならず、死法府の過去の判例を鑑みると日本の経済界の強欲な面々との癒着ぶりがハッキリと白日の下見えて来る。これで法の番人とは笑ってしまう。彼らが自分自身の保身と出世と言う強欲の為に、面子を保ちたい権力のインナーサークルの面々の、腰巾着に成り下がって久しい事は言うまでもあるまい。

まず"Justice is done"と言う言葉の定義をチェックしよう。残念ながら日本の現状を見るとそこへも辿り着いていないのである。言葉の説明は Wikipediaの"Retributive justice"を参照して頂きたい。[1] 正義の為の応報とでも訳すべきか。その中で18世紀のドイツの哲学者カントの考え方が引用されている: ".... Kant regards punishment as a matter of justice, and it must be carried out by the state for the sake of the law, not for the sake of the criminal or the victim. He argues that if the guilty are not punished, justice is not done. Further, if justice is not done, then the idea of law itself is undermined."抄訳すると、「哲学者カントは罰とは正義を行う為のものと考えている。罰を課すと言う事は、犯罪者又犠牲者の為に法の行使を行うのではなく、法が法たるもののゆえんを保持するため故行使されなければならないのである。カントは罪を犯した者に罰を下さない事は'justice is not done'だと論議している。更に突っ込んで言えば正義の行使(justice is done)が施されなければ、法律と言う理念が弱体化してしまうのである。」

行き着く所、国会であろうが検殺庁であろうが警死庁であろうが罪を犯した人達を世の中に蔓延らせ、善良な市民を犯罪者に仕上げる面々を罰していないのはどうしてなのか?

それは無理だよ。他の公務員同様彼らは本来怠け癖の在る、仕事をしない面々なのだから。考えてみればこの国では力を持つ者同士が、即ち権力を握る政治屋、産業界、行政府が検殺及び死法府の面々とつるんで、仲間をかばう為に法律で律せられた法治の下のJusticeを無力化しているのである。この上と上の間での法律を超えた立場と法に対するいい加減さとは正反対に上が下を法律で縛る事は蟻一匹も逃さない様な狡猾さ。それに加えて日本の市民国民庶民平民奴隷ロボットの皆さん、考える事を止めた携帯電話を操作する茹ガエルなので、先進国で日々実践されている法治と言う事も考えた事のない状態のこの国はお粗末な後進国なのである。ここに一例。2012年1月のこのウェブに投稿した拙稿[2]に以下記した。「[番外] 25 何でニュースを批判的に見ないのか?:単に情報として聞くだけ、読むだけの話のネタ。**日本人の弱さ** (段) 26 そして何故大局的に物事を見ないのか?:上記25に関連して。東京電力女性社員の殺人事件の被疑者であるネパール出身のゴビンダ マイナリ氏のDNAが被害者の女性より見つかった犯人の精液のDNAと不一致と言うニュースがこの7月の時点で流れた。何故この時批判的に又大きく観れないのか?精液のDNA鑑定で更に犯人の民族的特徴も解読できる筈。しっかり心の眼を開け。日本の市民!**日本人の弱さ**」ジャーナリスト達も大きく考えられないオバカ達である。この声が天に届いたのかは知らない。が15年もの間無実の罪で服役していた彼は程なくして刑の執行停止の後釈放され無事家族のいるネパールに帰国した。恥ずかしいぜ。

更にもう一例。何十年も前から無実の罪で刑務所に幽閉され、晴れて冤罪から解放された袴田さんの事に関して。[3]そもそもどうしてこの事件を「袴田」事件と呼ぶ様になったのか誰か考えた事がありますか?この命名事体がおかしな事なのである。人の名称を事件名として使っていると言う事は、警殺職員や検事の方々はこの事件に眼を見据える事が出来なかったという訳。この反省点も聞こえて来ないのはどうしてなのか?大事な事は地平線上に見える犯人の足跡に到達する事ではないか。その為には見えない物証に到達しようとしなければならないのだが、自ら自己推進力を捨て去って、目の前の疑わしき人の自白を強要するのはどう言うメンタリティーなのだろうか。物証を追いかける事が出来ず自白を追いかけている悪しき検殺の面々だ。五十年余の後に検殺が物証としてでっち上げたズボン等の存在を否定した写真のネガが今頃になって見つかったと、申し出る何と言う無法者のやり方。信じられない程業務に不適切な連中である。極悪な面々は組織から解雇すべき。でも組織が灰色な牙城さ。だから外から圧力かけましょう。

この章の最後にあたり: 法治国家の大原則は「何ぴとたりとも法の上に立つ事が出来ない」のである。つまりそれは法の下の平等と言う普遍的な決まり事が常日頃実行され続ける社会なのである。"Justice is not done,"正義が行使されなくなるとどうなるのか?皆さん御存知ですよね!悪事が懲罰されなくなり、結果として世の中に悪がはびこってしまう訳。一言: 非を認めない vs. 間違えを真摯に受け止め謙虚に修正出来る。この違いは何処から来るのでしょうか?私は暴政下の社会風潮と民主主義下の社会風潮の違いと考えます。

痛恨の極み。石が流れ、木の葉が沈む時代となってしまった。

参考文献等:
[1] "Retributive Justice," Wikipediaより,
http://en.wikipedia.org/wiki/Retributive_justice
[2] "日本の市民の皆様へ-その2," 投稿者 プラナリア 日時 2012 年 1 月 22 日,
http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/412.html
[3] " 裁判長、証拠の衣類「不自然」 袴田事件再審決定, " 日本経済新聞電子版,
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701O_X20C14A3CC0000/

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4章 憲法改正の実現方法をシミュレートせよ

2019年7月1日、原理主義の司令塔が行政府と共にそのイデオロギーに基づいて国政を動かしている事がはっきりしてしまった。この日、政権の広告塔である日本経済新聞電子版が以下いち早く報じていた。「韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も」と言う記事[1]である。その中で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」日本の社会で政権与党は嫌韓を人々に煽動しそれを風潮として作り出し政治的に利用しているのは皆さん御存知だと思うが、この煽動が経済界にも波及して来た事は小生のとって非常にショックなのである。それは、原理主義の司令塔が叩く憲法改正を奮い立たせるドラムのビートがかなり速くなって来ているのを肌で感じるからである。ドラムのビートに合わせ強欲な「原理主義者」達がメディアに露出する頻度が高くなって来ておりその発言内容が一段と濃くなって来ている事実。既に2章で参照した菅野完氏の「日本会議の研究」80ページに「●ついに始まった、日本会議による改憲への『カウントダウン』」とあるが全ての事が原理主義の司令塔の筋書き通りに進んでいると言う事。 

個人的には二大政党下で憲法改善改正に向けた議論を行う事に対してはやぶさかではない。悪い所があれば修正して行く事は勿論の事である。

処で小生が大学の政治学科で教えていたとしたら研究室の学生を2つのグループに別け一週間と期間を区切って、学生達を一方は憲法改正の実現法を下調べの上シミュレートさせ、他方には憲法を死守する方策をシミュレートさせる。そして双方のグループで綱引きさせて議論を戦わせる。これは非常に知的に面白い内容になるだろう。でも日本の大学でこの様な事をやる柔軟性あるのかな?しかしこれは深刻な現実問題なのである。既に原理主義のアーキテクトは憲法改正実現の方策を何十年前に設計し、今までその設計図通りに実行して来た訳。立法府に議員を送り込んでいる政党で憲法を守る事を党是とする党が一同に集まって憲法を守る方策を、今に至るまで練った事が無い事は今の国政の惨憺たる状態を見れば誰でも判るだろう。野党間で考え方の違う政党と敵対し憎しみ合う。連帯と言う言葉も存在しない彼ら。これも以下述べる原理主義のアーキテクトの策にハマった政治屋さん達。人々が苦しむ時代に光をさし込ませる様に時代を切り開こうとしない、大胆さもない心の狭い万年野党の政治屋の面々。

前置きが長くなった。これからどの様な方策があるか双方の立場より列挙してみる。(尚マキュアベリの君主論や孫氏の兵法は参考にしておりません):
■まず敵と味方を峻別する
■人材を育てる
■方策を順序化しタイムテーブルを作り優先順位を付ける
■身内の人材を選別し公共的中立的な組織に送り込み勢力下に置く
■味方には利権利潤特権を与える。特に財界
■敵味方どっちに転ぶか判らない勢力をこちらに引き寄せる
■敵を徹底的に壊滅させる、懐柔策を行使し無力化させる、お互いいがみ合わせる、囲い込む。日本では二大政党制さえも無くなった
■敵にスパイを送り込む、弱みを握る
[副次的方策]
■(改憲派のみ)経済の活力をそぐ。バブルの時代の頃には皆が潤っていたので憲法改正なんて誰一人考えていなかった。窮すれば鈍する
■(改憲派のみ)国内における教育及び知的水準のレベルを下げて人々から考える力を奪う。テレビ雑誌等の内容を愚者好みにして、人々を愚民化させる。小学生達がオンラインゲームに夢中になっている時代だ
■(改憲派のみ)時間をかけて皆が変化が判らない様に、方策を少しずつ実行する。茹ガエル戦法
■(改憲派のみ)ニュース機関等のメディアをコントロールし、人々に原理主義の司令塔から送り出される改憲戦略になびく様な風潮を造る。不都合な真実に関するニュースには制限を与え都合の良いニュースに情報を偏在させる事で可能
■(改憲派のみ)知る権利の徹底的な制限。とても大事な事が隠される。どうでもよい事を大げさに報道し人の心を占有させてしまう事。即ち人々から客観性(物の見方とか)を奪い、主観を植え付ける
■(改憲派のみ)メディアは人々の誘導の道具。「日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず」2019年6月2日の日経電子版のニュースである。[2]この様なニュースに接した若者が「あ、そうなんだやっぱり内向きだったんだ」と思い込ませその風潮に同調し、自ら殻を打ち破れない保守的な気持ちを生じさせる。移動しない、出不精。違った文化を見ようとしない。別世界から日本を見ない、大きく国際情勢が見れない。改憲マシンは若者に世界の事を知らせたくない訳。「彼ら」には風潮が自由に創れるのである
■(改憲派のみ)群衆行動のパターン分析。特に日本中のどの家庭から及びどの携帯電話から何処のウェブの記事を何分間見ていたか等、厳密な個人の政治嗜好の調査集計を行い政治の風がどちらに吹いているかを鳥瞰し、メディアを通してその流れを変える様手立てを行い群衆を誘導する
■(改憲派のみ)政権に対し、発言する事に脅しや懲罰などの恐怖心を植え込み発言する人間を萎縮させる。例としては特定秘密保護法
■(改憲派のみ)奥歯に物が挟まった様な表現を多様し物事をストレートに言わない。社会から単刀直入さを抹殺した上弱腰にさせて怒る力を奪う事。実体を見えなくさせる事。常々疑問として思うのだが、一番最初の段で「政府は1日、韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表した。」とある。この「政府」の定義は一体なんなの?マスコミの皆さんもう何十年も間違ってこの用語を使っているのではないか?私は「政府」とは"The Government"即ち立法行政死法の内特に行政府と理解しているのだが。このニュースの主語は「政権と行政府]と言う言葉が適切ではないのか?日本のジャーナリズムは地に落ちた。読売新聞英語版にはきちんと主語が書かれている。経済産業省が主語: "The Economy, Trade and Industry Ministry announced Monday that the government will more tightly control exports to South Korea of chemicals used in producing semiconductors and other devices."[3]

個人的な感想として断っておく。原理主義の司令塔は財界と協力し経済的に市民を徹底的に搾り取った上不満を外に向けさせて、人々に投票は無駄と洗脳。その上で政権を維持し続ける仕組みを築き上げた。がその後がある。私には次の二つのうちどちらが先に実行されるのか判らない。1) 「憲法改正」 2) 「米国から貰い受けていた核兵器の設計図を元に一週間で核兵器を造り上げ、核実験に持ち込む」。一度日本が核実験をしたらもう引き返せない。完全な平和憲法の死を狙っている訳。(政権の力が余りに強大なので残念ながらその設計図が行政府にあるかどうかの情報は国政調査権を実施しても出て来ないだろう。がその価値はある)。そしてあの大戦の苦しみを通して築き上げて来た平和国家を捨てて、軍事大国として不死鳥の如く瀕死の状態から日本を復興させるシナリオが用意されているに違いない。

この章の最後にあたり: 日本会議のイデオロギーと憲法改正の実現手法が日本全体に害を与え続けて来ているのである。足並みが揃わない野党の党首達に告ぐ!一丸となって憲法を死守する方策をシミュレートする度量は無いのか?

参考文献等:
[1] "韓国への輸出規制を強化、政府発表 韓国は対抗措置も," 日本経済新聞のウェブ, 2019/7/1,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46789890R00C19A7EAF000/
[2] "日本の10〜20代は内向き 留学や海外生活望まず," 日本経済新聞のウェブより, 2019/6/2,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45589930S9A600C1CR8000/
[3] "Japan to effectively ban exports of semiconductor materials to South Korea,"
"The Japan News by The Yomiuri Shinbun," 2019年7月4日,
http://www.the-japan-news.com/news/article/0005845877

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その5章 音楽は政治を批判してはならない

その様な風潮があると聞く。誰が言い出したのだろうか?そしてそれは何故なのだろうか?

ならば、更に一歩進んで逆の立場を考えて見ようではないか。音楽が政治を、或は政権と行政府を批判する事が寛容な精神で許容される様な所がこの世界の中にあるのだろうか?そしてその結果この歌手に国民栄誉賞的な名誉が与えられる様な国があるのだろうか?

その答えは: 実際にその様な歌手がいて、そしてその様な国が有るのである。日本の人々はこの事実はとても驚きではなかろうか。(すみません。以下小生の音楽の嗜好が入る事、何卒お許し下さい。)歌手本人は2018年9月29日と30日にBillboard Live TOKYOにてソロコンサートを開催している。因にその歌手が受けた名誉とは以下である。本人の顔と背景に10曲程の曲名を記載したカナダの郵便切手が2011年の6月末から発売された。日本ではこんな事考えられない。Bruce Cockburnは1970年代初頭からアルバムを出している人だ。デビュー当時は愛を語る美しい曲を作詞作曲して謳っていた。80年代だろうか、社会問題に対して現地を訪問、住人と対話しその時のその地の現状を見、感じて作詞作曲するジャーナリスティックな手法を取り入れ音楽を造り始めた。そして音楽を通してある社会問題を公にし、この問題をリスナーの感性に訴える様なアルバム造り続けている。またコンサートを70歳過ぎてもこなしている。強いな。尚彼は米国市民権を取得しサン フランシスコに移り住んだと聞く。

彼のアルバムの中から、1980年に出された"Humans"は独裁制(アジアでの)に対する満身の怒りを歌い上げたもので、1985年のアルバム"World of Wonders"は大国が如何に小国を餌食とし、むしり取って来たかを深い悲しみを込めて歌う。また人間の、自然から与えられた摂理からの逸脱、例えば欲望やイデオロギーによる生命に対する悪行の数々を告白し歌い続けている。そしてこの世の不条理に対する彼の怒りは熾烈を極める。一方人々に対する愛もまた深い。彼の心の奥底にはイデオロギーとは全く関係のない原始キリスト教的なヒューマニズムが宿っているのだ。(イデオロギーから愛は派生しないよね)。同時に自然をこよなく愛する吟遊詩人である。特に印象に残る曲のYouTubeのリンクを以下張っておく。洋楽は好きではないと言う方は次の一番最初の曲だけでも聞いて欲しい。

■ "If a tree falls"[1] 人の欲望の餌食となった熱帯雨林とその生態系。30年も前に今進行しているブラジルの熱帯雨林の急速な破壊を発信していた訳。速いテンポで歌詞も曲も心に残る。音質少し良くないですが、是非聞いてみて下さい。曲の最後の所ではこう歌っている。"If a tree falls in the forest, does anybody hear? If a tree falls in the forest, does anybody hear? Anybody hear the forest fall?" 一本の木が伐採され倒れる音を誰も聞こうとしなければ、森全体が伐採されるのは誰も判る筈が無い。のである。私はこの曲の歌詞を"If a child falls in the society, does anybody hear? Anybody hear the society fall?"と替えて、子供が倒れても知らん振りをしている各地方の学校の先生、地域自治体の教育委員会の従業員の皆さんに贈りたい
■ "Call It Democracy"[1]は軍事力を背景にした国際資本によって搾り取られる第三世界の人々を代弁し、怒りの声を上げた曲。この曲から日本の人々がGeopoliticsの下貧困に喘ぐ現状を連想してしまうのである
■ "Pacing the cage"[2] 何とも美しいメロディーだ。彼が歌を通して訴え続けて来たこの世の正義に反する事、不条理な事があたかも現実でないかの如くに誰も聞き入れない様な現状が維持され続けられている、欲望に満ちた愛の無い世界。その様な世界の中、そして長い人生の中で今自分がハツカネズミの様にクルクルと廻る檻の中で歩きながらペースを取る。歌詞の中で"...Powers chatter in high places(行)stir up eddies in the dust of rage(行)set me to pacing the cage..."とある。良い訳が出来ないが...「力を持つ者達が手が届かない所で喋っている。そして(私の)怒りの礫が渦を巻き、それで歩く檻の中のペースが決まってしまった。」私は何処へ行くのだろうか、そして何故にと思いながら檻の中を諦めずに毎日毎日歩き続け、外の世界を檻の中から眺めて感慨深く溜息をつく様な感覚である。私も落ち込んだ時に聞くと、皆も同じなんだなと勇気付けられる曲。人々が連帯しなければ世の中は決して良くならないのだと痛感する
■ "Silver wheels"[3] 自動車文明を通し人間の欲望を痛烈に批判した曲
■ "A dream like mine"[1] 人間が動物から逸脱し、自然の中よりいでて、欲望に満ちた土地にこの世界を変えてしまった事への告発
■ "Gavin's Woodpile"[4] 人の欲に怒って弾き語っている。彼の歌の中で最も好きな曲である。弾き語りを8分間もやっている。凄い

彼の歌詞を読めば今の日本に当てはまる事が多いのに驚嘆するに違いない。1984年のアルバム"Stealing fire" の一曲"Maybe the poet"の歌詞中に"Don't let the system fool you(行)all it wants to do is rule you..."「システムがあなたを騙ます様にさせるな。システムがやりたい事すべては(一つ)、あなたを支配する事だ」と歌う。そう、不動産バブル期に大人になっていた世代には判ると思う。年々テレビ、新聞、週刊誌(漫画雑誌を含む)の知的なレベルが下がって来ていてそれと同時に日本の人々の行動を伴う活発さが落ちて来ているのを実感しないか?日本においては既に"The system fooled you"で人々は既に心が操作されているのである。この事実が日本が殺伐とした社会となってしまった根本原因の中の一つの理由である。昨今の日本での出来事が世界の常識から或は世界のレベルからかけ離れてしまっているのを看、あなたは暗澹たる気持ちにならないのか?教育において発明発見を行う人材を輩出させる力を無くし、日本の経済が物造りと言う発想に収斂してしまった結果隣国の台湾や韓国の後塵を喫し早や何年になるのであろうか。皆さんがイノベーションの原動力である個人のユニークさを、日本の社会が否定する事を知らない、この民度の低さ故の国力の衰退の結果なのである。日本会議を中心とする勢力が造り上げた巨大な改憲マシンと言う"The system"が日本の市民を"fooled you"するとは簡単に言えば、絶えず携帯電話の操作を行うオペレータに日本の市民を堕しめ、また意見の多様性を認めない無言の圧力、同調圧力を個人の心に浸透させる事により達成出来る。個人の活力、社会の活力がその結果消滅してしまった訳。精神の荒廃、制度の荒廃、社会の荒廃が目の前に曝け出されている事、即ち日本の社会が病んでいる事に気付かないとは...今、日本の市民はシステムの奴隷だ。

ここで明確に言っておく。Bruce Cockburnが作詞作曲し作り上げたアルバムで世界の政治や自国を含めて各国の政権と行政府を間接的に批判するのは即ち今の世界の現状や状況を(建設的に)良くしたい気持ちから発せられるのであって政治を理由なしで攻撃或は咎めている訳ではないのである。もちろん彼の曲ではこの世界に幅をきかせている、欲望にかられた強欲な面々も批判の対象だ。音楽は政治を批判してはならないと強欲な彼らがキャンペーンを張る理由は実は此処にある。そうなのだ。この章では「音楽は政治を批判してはならない」としたが音楽をテレビ、新聞週刊誌に置き換えてみよ。極一部のメディアを除き、既に力を持つ者達を建設的に批判さえもしなくなってしまった。「だって政権を批判したら番組降ろされちゃうもんね」と言う感じか?そんな国は世界の標準に達しないのでG7の国々の中に居てはならないのである。日本のメディアは「表現の自由」を自ら殺した。

ここで「表現の自由」が強権体制下で如何に抑圧されているかの一例を見よう。中華人民共和国の中国民主化運動の中心人物で「投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である。」 劉 曉波氏 (Liu Xiaoba 1955-2017)[5]は以下この「表現の自由」の事を言い表している:"Free expression is the base of human rights, the root of human nature and the mother of truth. To kill free speech is to insult human rights, to stifle human nature and to suppress truth."[6]抄訳すると「表現の自由は人間の権利の基である。人間性の根幹、真実の母なのだ。表現の自由を殺す事は人間の権利に対する侮辱であり、人間性を窒息させ、真実を抑圧してしまうのである。」

この章の最後にあたり: 「表現の自由」は政治を独占する人々の権力欲と支配欲と戦う最大の武器なのだが、これを行使出来なければ、あなたは無言で働く感情のないロボット(香港の若者の行動力には恐れ入る)。更に一言。己の投票権は自分の政治的な、「表現の自由」の一部で或る事を決して忘れてはならない。

参考文献等:
[1] "If a tree falls," Bruce Cockburn, 1989年アルバム "Big Circumstance"
"Call it Democracy," 1986年アルバム "World of Wonders"
"A dream like mine," Bruce Cockburn, 1991年アルバム "Nothing but a burning light"
http://brucecockburn.com/
と言う彼の公式なWebサイトのホームページの一番下にある、Vevoと言う表題のあるビデオの中に上記のビデオがあります
[2] "Pacing the cage," Bruce Cockburn, 1996年アルバム"The Charity of night,"
https://www.youtube.com/watch?v=mN2uMVYwmqc
[3] "Silver wheels" Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=z-avqJQwOoo
[4] "Gavin's woodpile," Bruce Cockburn, 1976年アルバム"In the falling dark," https://www.youtube.com/watch?v=ovhTIQn2Je4
歌詞は以下参照。http://cockburnproject.net/songs&music/gw.html
[5] 劉暁波、ウィキペディア、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2
[6] "China Seeks to Delete Nobel Peace Prize Winner Liu Xiaobo from the Internet,"
https://torguard.net/blog/china-seeks-to-delete-nobel-peace-prize-winner-liu-xiaobo-from-the-internet/

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第6章 欲望の行き着く果てに

これは以前読んだ本の中の言葉である。作家の広瀬隆氏の1981年出版の「東京に原発を!」最終章に広瀬氏がこの言葉を読者に問いかけていた。強欲と言う言葉がピッタリと当てはまる、この言葉の視点から日本と日本人が歩んで来た時代を眺めてみよう。私なりの強欲の定義は:他人を押し退ける気持ちから生じる行為の、源である。

あなたはこの問いの先には何が待ち受けているのかを過去から学習したのか?欲望をコントロールせず、その行き着く果てまで突っ走って行った結果は。それは...カタストロフィーなのである。荒廃した土地に待ち受ける破局。まるで人間の欲望が地球を破滅に導いている様な。

欲望。何ともイヤラシくしかもいとも簡単に人々の心を占有してしまう感染症の様な心にこびり付いた大きなシミ。宗教的な欲望。イデオロギー的な欲望。政治組織問わず、権力に対する欲望。名誉欲、自己保身欲。責任逃れ=無責任欲、暴力欲。金銭的な欲望。食欲、性的な欲望そして虚栄心や嫉妬心そして自己顕示欲。これらの内の殆どはヒューマニティーに反する心である。何故なら、人を押し退け貶める行為だから。つまり全て共通する事は:相手がいる事。私とあなた、私とあなたがた。自国と他国、或は全世界。持ち論我々の欲望が小さな生き物に影響する事もある。つまり個人と個人、個人と集団、集団と個人、集団と集団。これらの中において、一方から他の一方へ加えた行為、そしてその行為からの個別の相互作用とその結果が現れる。力の相関図を見ると明確なのは、ある行為を行った者(達)と行為を受けた側の関係が存在する事。両者の内側での経済的な立ち位置や気持ちの持ち方等、何かが変化しその行為に因って両者が共に生きている土壌に或る影響を及ぼす結果となる。が両者に一切関係しない人(々)がこの土壌の上に居かつ影響を受けてしまう事も忘れてはなるまい。それがグローバル化で顕著に現れる。相互作用と言う用語を用いる事でこれを説明出来よう。

さてあの1986年から1991年までの不動産バブル経済の時にあなたは何をしていたのだろうか?それともまだ産まれていなかったのだろうか?その時期にひと儲けしてやろうと眼をギラギラにさせ血眼になって金儲けの話に飛びつき、あぶく銭で遊び回っていたのだろうか?そしてそれらの行為とバブルは何時かは弾けると言う事実、その帰結を予見していたのであろうか?そう、欲望の行き着く果てに待ち受けていたバブルの崩壊と、失われた20年の事を誰も反省も総括もしていないとは日本の不幸。不動産バブルが弾けた後、人を押し退け弱い者を押さえつけていた事を反省しなかったから、モラルや愛の或る社会に日本を戻す機会を逃したな。同じ事が今回の東日本核惨事にも言える。欲望のままに安全性と言う公益よりも、企業の利益を優先課題とし原子力発電を推進する行為をとって来た主謀者達(TEPCO、経済産業省等)、そして安全対策を軽んじていた故に津波に対する対策も先延ばしにして来た事により起こってしまった人災なのだが、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、所謂国会事故調が纏め上げた報告書が核惨事を起こしてしまった事の反省を行っている位で、当の行為とその主謀者達は起こしてしまった事故を何ら反省していないのはどうしても不動産バブルを起こした面々の姿と重なってしまうのである。それでもこの不動産バブル期には日本の都市部の市民ほとんどがその恩恵にあやかった訳。海外旅行、高級ブランドの買い漁り、行楽地でのドンチャン騒ぎ。欲望のなすがまま美味しい思いと美味しい生活 。同じ構図が電気を使い放題使って原子力発電所は過疎地に押しつけ、美味しい生活をして来た都会の市民。美味しい生活は弱い誰かの出費或は犠牲によって賄われている事が見えないのか?先ほど説明した相互作用から、加害者と被害者の関係を通して不動産バブルを見ると、都市部に不動産を持つ者そしてその取り巻き vs. 地方に住む者と言う関係になろうか。一方2011年の核汚染において、加害者はTEPCO、その取り巻きと原発を過疎地に押し付けて来た東京都民。被害者はこの原発を過疎地に押し付けて来た東京都民と、東日本に住む住人の方々、更に放射性同位元素が混入した食品によって遺伝子を傷付けられてしまう、全国の子供達。相手の事を考えない、他人を押し退けて自分だけ利益を得ようとする欲望の行き着く果てに、未来永劫に渡り核汚染した故郷を我々の子孫に引き継がせてしまった訳。上から下までの「足るを知らない」人々の暴走の果ての終着に今の日本は行き着いているのだ。それでも皆まだ自分の欲望の行き着く果ての結末/帰結を反省しないまま今日に至っている訳。だから自分の欲望を満たしてくれそうな政党を支持するのでしょう?違いますか?

しかし今思えば不動産バブル期の欲望、喧噪は少なくとも人間性、ヒューマニティーが垣間見えたが今の時代の欲望喧噪は全く違うと思えるのである。バブルの時には日本と言う大きな入れ物の中で皆が皆、何かに向かって一心不乱に走っていた熱狂的な時代。打って変わって今の社会は死んだ様に静かである。喧噪はインターネット上に移り最終的に人々の心の中に入り込み、与えられたインターネット上の情報を忙しく咀嚼。好みの情報は飲み込み、嫌なものは吐き出す作業を絶え間なく行っているこの忙しさ。良い情報は「いいね」とすぐさま反応し、或は「いいね」を貰う為に見栄を張り、一方嫌いな情報なら攻撃、違った考え方を持つ人々を人格破壊する欲望には事欠かない。あなたはこの忙しい心の奴隷になってしまった。

さて、世界の国々の中で他人を押し退ける強欲さに満ちた人々や国々は事欠かないが、その点からすると何時から日本人がこの仲間入りをしたのだろうかと思う。金の話でもない。利権の話でもない。手短かに話そう。ケチとはお金を独り占めしておきたい人の総称。次に「お金」を「情報」に換えて下さい。特定の情報を出さない、共有出来ない。自分の保身と自分の強い立場を壊したくない故の情報の独占。お金の独占と同じ感覚で、自分の所有する情報にもケチなのである。これも強欲の一部なのだ。会社の組織運営の観点からすると社内情報/技術情報を組織内でシェアしない事はチームワークを重要視するなら御法度。同じ事が国の機関組織内や、主権を持つ日本の市民と国の諸処の機構の間でも言える訳。チームワークの協業関係に必要な潤滑油としての情報のシェアではなく、情報を上から下へと伝える習慣を造り上げ、流す内容もコントロールする独裁的手法。お金は誰のものか?持ち論稼いだ者に属する。国の運営に必要な情報は一体誰のものか?暫く前に成立した秘密保護法を見ればそれが誰なのか良く判る。

この章の後半として人が人らしく生きられる世界とは、を考えよう。或る社会、国家、そして地政学上に影響力を及ぼせる地域に、そこにある国々の国政を司る人々にどの様な事が要求されるかを一例を通して提示したい。何時の事だったか。クリントン氏が大統領時の1997年か1998年だったか定かではない。英語版週間紙Newsweekに週間ごと世界中で発せられた言葉のページ(確かQuoteとかだった気がします)に以下の言葉が記載されていた。ヨルダンのフセイン国王(現在の国王の父上)が米国ワシントンDCのキャンプデービッドで行われたイスラエルとパレスチナの平和交渉が決裂した時に当時のイスラエルのネタニヤフ首相にかけた言葉だ。すみません記憶が正しければ以下の通り: "What you need is Sir, the vision that Yitzhak Rabin had. Someday you may have it but today was the victory of terrorists and warmongers."訳すと、「閣下、あなたが必要なものはイツハク ラビンが持っていたビジョンなのです。いつの日かあなたはそのビジョンを備えるかもしれませんが、今日はテロリストや戦争愛好家達の勝利なのです。」残念ながら、今もフセイン国王が表現した事は改善されていない。御存知の方も多いと思うがラビン首相は1995年宗教的不寛容な勢力の一員(ユダヤ教原理主義者とでも言おうか)により暗殺されてしまった。その後を継いだのがシモン ペレス氏。その後一年も経ずにネタニヤフ氏が首相に就任。この首相は頭が切れて口達者で知られる。目の前の現実を戦術的に自分の国に有利に持って行く事も得意の様だ。フセイン国王はラビン氏が存命中、彼の眼の中に映る、恒久平和のビジョンを自分の命を顧みず実現しようとする意志を読み取ったのだろう。人間存在の意義と意味を問うヒューマニティーは人類に共通する、宗教を超えた心情なのである。そう、宗教がこの様なヒューマニティーやヒューマニズムと連動しこれを問う事、を忘れてしまったらそれは単にイデオロギーに堕すのだ。見よ、日本に於いて神道や仏教がイデオロギーに成り下がってしまった事実を。ユダヤ人であろうが日本人であろうが「原理主義者」の欲望を傍で見ていると選ばれし者達と言う感覚なのだろうか、他人がどうなろうと構わない、自分の信念を押し通す者達だと言う事が判る。神様仏様に許されたエゴなんてあるものかと思うが。此処に問おう。宗教が人間存在を抑圧して構わないのか?多分違うと考えたい。その宗教がイデオロギーに墜ちてしまった故にと願う。

これは、力を持つ民族(人々)が弱い立場である他民族(人々)を抑圧する事が人として、それがモラル、哲学、宗教等如何なる理由にせよ許されるのかと言う問いである。この立場は優生学と言えるかもしれない。この世界を共有しこの時代を共に分かち合う人間。そして生命の存在の意味の根源的な問いを自ら課し見えない答えを出そうと努力し続けて来たラビン首相。人はそれぞれの母よりこの世界に産み落とされ、この世界を目の当たりに日々生きながら、しかもこの世界を共有している筈ではないか?戦略的戦術的なスマートさを貫き通し、この国の人々の欲望のままそれを代表し権力を把握し続けてその地域の弱い者を抑圧し彼らの沈黙を強要する。相手と自分と、この世界をそして今の時代を彼らと共有していると言う感覚が国を導く人達の心の内に無いとどうなるかをあなたは思った事があるのか。残念ながら、その様な気持ち、モラルを持ち合わせていない人々がトップに立って、欲望の行き着くまま原理主義権威主義を振り廻し国政を行っても善政を敷く事は出来ないのである。この事は組織のスケールを小さくしても同じ。家庭の中でも学校の中でも同様当てはまる。人の中では欲望とモラル二者はバランス取りが難しい。何故なら相容れない2つの実体だからだ。

上記同様、欲望とモラルのバランスが取れず暴走してしまった過去の日本で、長い間反省されないまま今日に至っているもう一つ例を挙げよう。岩波ジュニア新書から発売されている今井和也著の「中学生の満州敗戦日記」[1]150ページから少し長いが引用させて頂く。七三一部隊とは満州国ハルビン市で運営されていた生物兵器の研究開発機関であった[2]:「『七三一部隊の深い闇』について、もう一度考えてみる。七三一部隊の施設の中では、生きたままの四肢切断•気管切開•弾丸摘出、ペスト•チフス•コレラ菌を感染させて死後解剖、腕を水に浸し全裸のまま立木にくくりつけて零下四0度の戸外に放置した凍傷実験、毒ガス吸入•血管に空気注射•血液をぬいた失血死•食事をあたえない餓死•感電死などの人体実験がおこなわれていたという。(行)読んでいるだけでも寒気がする様な残酷な実験のかずかずを、人命を救うこと、人の痛みをやわらげることを天職とする医者たちが、なぜ平然と実行できたのか。(行)これには二つの理由が考えられる。一つは『お国のため』という名目さえあればなんでも許されたという時代背景。もう一つは『自国民以外は人間ではない』という民族差別意識である。(行)『国家至上主義』と『民族差別主義』、この二つはいつの時代でも国際紛争を成立させる原理でもある。」人を殺す戦争とは最もヒューマニティーに欠ける行為なのです。尚私見だとお断りしておく。東京都武蔵村山市にある国立感染症研究所へエボラウィルスを輸入し研究するとの事である。[3]しかし現政権がひた走る日本の軍国主義化の下、生物兵器の開発に使われない保証は全く無い事を記しておく。

この章の最後にあたり: 自分の心が見える鏡があったら良いのに、と思います。今の自分の気持ちが何色なのか分るかもしれません。

参考文献等:
[1] "中学生の満州敗戦日記," 今井和也著, 岩波ジュニア新書
[2] "731部隊," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
[3] "夏にもエボラウイルス搬入、専用施設稼働へ 感染症研," 日本経済新聞ウェブ, 2019年5月30日,
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45466750Q9A530C1CC1000/

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第7章 何処から、何処へ、何ゆえに

この表題の様な人間としてのモラルから派生する問いを投げかける事が出来る現代日本の政治家は殆ど居るまい。当たり前なのだが政治家がそれを言ったらキザなのだ。その判断をするのにはまず政治家の眼を見よ。そしてその眼光に人々に共通な気持ちが宿っているかどうかで判断して下さい。そして、言葉が軽い政治屋は内省が軽いかそれとも無い事を理解すべきなのである。この様な面々が国会に大きな顔をしてのさばってるから日本の人々の生活苦が一向に改善出来ないのである。前章と同様この章にて「喧噪と欲望」 vs. 「沈黙、内省とモラル」について考える。

国政を司る者達、政治家や官僚組織の各省の従業員達がどす黒い欲望に溢れ、強欲な人間達であったらその社会において子供達を含め、日本の一人一人がにこやかに又幸せな気持ちで明るく暮らせる様な政治が実現出来るのであろうか?否、断じて否だ。日本の市民の声が国政から無視され続けられ、人々は日々大変な思いをしながら生き残りに必死になって努力している事。世相が暗いのはこの様な行き詰まりの社会で前に進もうと暗闇の中を這っても、這っても明るい出口が見えないから。これは己の投票権を行使し強欲な面々を選んだ、或はこの政治的な表現の自由、即ち投票権を行使しなかった為に不遜で強欲な政治屋が低い支持率にも関わらず選ばれ、国政を取り仕切っている事の結果/帰結と言う事。その様な社会に今我々は生きている。

「欲望の行き着く果てに」自分の欲望のまま行為する人と「何処から、何処へ、何ゆえに」を己に問え続ける人において、その2つは真逆の性向なのである。身近な例として、天皇皇后両陛下(平成30年時点)の眼からは誰も欲望の「よ」の字も感じ取る事は出来ない。一方公務上での各地を訪問され続けていらっしゃられていたが、それぞれの場所でとった行為やそこで発した言葉の奥底には両陛下を突き動かしているお気持ちが読める筈。それは、権力欲にまみれた「原理主義者」達と政治屋が、静かにそして非常に長い期間をかけて国体の変革を希求し、変革に向けての法律を立法し、昭和の戦後の産みの苦しみの結果としての「平和」、を敵視し続けて駆け抜けて来た平成の時代を見れば判る事。表面上は静かだがこの激動の平成の時代の終わりにあたり、昭和と言う過去におこった出来事を背負ってこれを振り返り、未来を見据えながら、この日本は「何処から来て、何処へ行こうとしているのか、そして何ゆえに」との問いを発しているのを感じ取れるのは私だけだろうか。お気持ちを察すればおそらく両陛下はこの日本で、日本の憲法が改憲されてしまうのを目撃したくないと一番強く願っているのではと私は思うのである。

心の状態。何ら目新しい言葉ではない。心此処に有らず。それは心が落ち着いていないのである。あなたの心は"busy monster"になってしまったか?それともあなた自身が"busy monster"なのか?他方は、心此処にまします。心が鎮座している。この世界の中、私と私の心、あなたとあなたの心、私の家族、私の家族の内にある心、これらを自然と内省する生活。この投稿の後半を読み進む際、この今読んでいる段の内容を心に焼き付けておいて下さい。

処でこの章で表題に引用した言葉はドイツの精神分析家で哲学家のKarl Jaspers[1]が1964年にドイツのTVで講義した内容を本にした「哲学の学校」[2]と言う著作から取った。人は一体何処から来てそして何処へ行こうとしているのか。又何ゆえに?と言う問い。人間存在の意味又は意義とでも言えるか。Jaspersは精神病理学者、哲学者で第二次世界大戦後の西洋哲学に多大な影響を与えた人である。

さて、1945年7月16日に米国ニューメキシコ州にて行われた人類最初の核実験が行われ、1ヶ月も経たずに無垢の日本の市民の頭上に2回にわたり原子爆弾が投下され、核兵器開発の黎明期に既にこの兵器の使用が現実となってしまった歴史の事実。その後1952年に水素爆弾の核競争の時代に突入[3]した結果核の存在が蝕む人間存在の意義を非常に深く憂う時代が到達した。暫く後の1958年、人間存在の意味を問うJaspersが"The atom bomb and the future of man"[4]を出版した。東ヨーロッパと背後に控えるソビエト連邦と対峙する核の前線西ドイツにおける市民生活の中、何時核戦争が始まるのか不安に囚われた息苦しさを予見するしかし明かりへの道筋を示す本である。その本の序文の中で"An altogether novel situation has been created by the atom bomb. Either all mankind will physically perish or there will be a change in the moral-political condition of man. This book is an attempt to clarify what strikes us as a choice between two fantasies."日本語訳すると、「目新しい事態が一挙に原子爆弾により創られてしまった。全人類が物理的に死滅するか、人間の中のモラルと政治の関係に変化がおこるかのどちらかになるだろう。この本は、この空想的である二つの状況への選択が、私達の心に何を突きつけるのかを明らかにしようと試みる本なのである。」

非常に大事な問いだ。予見に基づいた行動が出来るかどうか。何もしないで人間が滅ぶのを選ぶか、手探りながらも明かり(希望、生存)の方へ這い出て行くのか。この問題は他人事ではない。人類の持続的な生存の可/不可が問われている訳。これは人々のモラルが政治を動かし核兵器を廃絶出来るか。残念ながら現在もこの作業中であるが。だが人類を取り巻く問題は核兵器だけではない。環境問題もしかり。更に裏カバーで以下この本を紹介しているコメントがある:"... Our hope, Jaspers believes, lies in the possibility that fear of nuclear warfare will pervade the individual consciousness and grow into a new ethos, a moral force in history, that could create a politics adequate to the threat of extinction...."日本語訳は、「Jaspersが信じる処によると、核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'『風潮』として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある。」

このコメントは息詰まる悪意に満ちた社会や国家群が上記書籍発刊41年後の1989年のベルリンの壁の崩壊の後消滅させられてしまった原動力、モラルの力を思い浮かべさせてくれる。メルケル元首相の気持ちがここから読める感じである。尚'ethos'の日本語訳は:「信念や向上心の中に現れている文化、時代、又は地域の特徴的な精神。同義語:精神、キャラクター、雰囲気、風潮、ムード、気持ち、進路、エッセンス、気質、道理をわきまえた、道徳、道徳的なおきて、価値観のシステム、原則、基準、倫理」。私はこれを社会の雰囲気、風潮或は皆の心の状態と解釈している。

この章の最後にあたり: 悪意に満ちた希望の持てない今の日本の社会の風潮(ethos)である。日本は一体これから何処へ行こうとしているのか?その問いの答えを予見する人々が、邪悪な欲望だらけの風潮に対抗する新たな、つまり心と心が集まって、人々のモラルを集合体化しモラルのある風潮を産み出して行かなければならない時代となったのは確実である。もしあなたが経済的に社会的につらい思いに堪え、その結果「喧噪と欲望」を日々選択せざるおえないとしたのなら、そこからまず一歩足を踏み出してみようではないか。それには少し時間がかかるかもしれない。でもあなたを含め人々の歩みだした先には希望が待っている。

参考文献等:
[1] "カール ヤスパース," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
[2] "カール・ヤスパース、『哲学の学校』 (No.760 10/07/01)," ミネルバのフクロウ,
https://weltgeist.exblog.jp/11445450/
[3] "核兵器の歴史," ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
[4] "The atom bomb and the future of man," Karl Jaspers, 1961年 The University of Chicago

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第8章 そして全てが逆行する社会へ

兎に角劇的に変ってしまったのである。それは2011年の東日本の核惨事以降日本が、そして日本の制度の構造が見えない所で。官邸主導の下、無責任と言う特権の保証のお墨付きが貰える様に政府与党に寄り添う行政府の従業員。特に国の死法行政立法の三権の機関で働く人々は留めも知らぬ程狡く(ズルく)なってしまった様である。嘘、隠蔽と強欲と無責任がタッグを組んでいるではないか。その様な人々が国政を動かしている。前章「何処から、何処へ、何ゆえに」で説明したEthos(世の中の風潮)から見ると人々が作り出す風潮にスピリッツ、活力が無くなってしまった。それは原理主義の司令塔がそれを上回る勢いで自分達の原理に有利になる様に世の中の風潮を変質させてしまったから。世の中に悪意が満ちて来て、悪貨が良貨を駆逐する如くに人々の心の中から善を司るスピリッツを駆逐しまったのである。国政を動かしている人々を見よ。悪臭プンプンではないか?真に以ておぞましい。

そして今日本の市民がお互いにコミュニケーションする事を忘れてしまったのである。他人を押し退けても気にしなくなってきたのであろう。人をいとも簡単にネット上で攻撃する様になってしまった。また会社の若い方々にEmailを出しても返信は来ない、なんと言ってもコミュニケーションが出来ないのである。発言もしない、出来ない。更に悪い事に、会社では誰も物事の責任を取ろうとしない。投げやりなのだ。無責任、無関心、無気力と三無主義なんて言っていた時代があったがそれより遥かに劣悪になっている。何だこれは?人口の減少を抜きにしてもこれでは国力が落ちる訳だ。大人がおかしくなったのか、男がおかしくなったのか、それとも俺がおかしいのか?もしかしたらこれが日本会議が理想とする、大人しい羊が占める「均質な社会」なのか。

ところで皆さん既に御存知だと思う。権力を持つ者達は人の心を操作するすべを心得ている。更に人の心のその先にある世相、風習、習慣、群衆行動さえも毎日の人々のマニピュレーション(操り)の積み重ねで、自分達が操作する事も可能となってしまった。今「彼ら」は自分達の目標、国体の変革に向かって真っしぐらなのだ。現政権の失政にも関わらず、政権運営に妙に自信があるのはインターネット上のコンピュータや携帯電話の所謂「IPアドレス」を用いる事によりどこの地域の誰それが、どの家庭が世論誘導の為に設けたウェブにどの位の頻度でどれだけの時間を割いているのかの群衆行動のパターンの分析データが有るからなのだろう。政権交代は無いと言う確信。世論操作も簡単に行える訳。何と言う息苦しい世の中なのでしょう。

そもそも、行政府が嘘を言っても情報を隠しても誰からも罰則は受けないのが不思議なのである。更に考えてみると第三者機関が、行政府及びそれぞれの省組織の失敗を分析し、その原因を見つけ出し、そして大失敗を犯してしまった場合責任を取らせる様に指導する仕組みが無い。このやりたい放題の行政府の無責任の仕組みが監視出来き、改善命令を出せる組織が必要なのである。その様な世の中だ。この章の題目は言い換えれば社会全般に影響が出る様な嘘をつく事に罰が伴わず、真実も何も全く価値がない「息詰まる社会へ」と言えるか。では群衆行動と言うカテゴリの立場から「逆行する社会」を眺めて見る。

週刊誌等のマスコミやネットの住人が右翼がどうした、左翼がどうしたとか反日だとか議論している。何をボケた事を言っているのか?思いっきり時代錯誤であると思う。もっと高い所に立ち、この世界とこの時代を鳥瞰したら如何か。 今日本は強権体制に突き進んでいる訳で、右翼的独裁だろうが左翼的独裁だろうが代りはない。今表現の自由だとか、法の下の平等だとかの人権を制限する強権体制を選択するか、劣化したとはいえ少なくとも70年は保っている民主主義体制を維持するかの分水嶺に今自分達が立っているのを認識理解しているのであろうか?

日本の外側に見える人類を取り巻く環境即ち人口爆発、戦争、核兵器や核汚染、灼熱地獄の様を呈して来た地球の温暖化、オゾンホール、この地球上から緑が失われた事や人口爆発により生ずる水不足からの飢饉、海水の温度上昇による魚類海洋性ほ乳類への絶大なる影響、プラスチック片による広範囲な海洋汚染等、これらは生命の滅亡を連想させる。大局を見れば遥かにシビアな問題が今日本を取り巻いているのだ。EUで太陽光や風力発電そして再生可能な電力を用いて充電した電気自動車(即ちよりクリーンな車)が産業として盛んなのは政治家が人類の行く末の事を予見し今何を行なわなければならないかを政策に反映させたに過ぎない。一方日本はことごとく真逆の事を政策として採っている訳。自然エネルギーの推進よりも懲りずに原子力推進を行い、その発電に伴って発生した廃熱を海に放出し太平洋の海水を暖めた事が地球の温暖化の一部となった事。又CO2の排出規制も積極的に行なわない事からして地球温暖化の対策に逃げ腰なのが判る。私自身、子供の頃からの経験と今の気候の状態を比較して見ると日本の気候がかなりのスピードで変って来ているのを実感するのだ。何故グローバルな問題に積極的にアクションをとらないのか?何故この様な何もしない事がおこるのか?それは内閣府と政権、その後ろに控える原理主義の司令塔とそのインナーサークル内にテクノクラート、理系のメンタリティー、マインドを持った人々が全くいないからと解釈する。だから人類が直面する問題を捉える事が出来ない訳。問題へのアプローチと解決に至るには最初に科学的に問題を捉える事理解する事が前提なのである。例えばさる8月6日(2018年)の広島市での原爆の日、平和記念式典で首相が口先だけの大衆受けする核廃絶に言及した一方、自民主党を乗っ取っている原理主義集団の教義に従って核兵器禁止条約への不参加と言う、この矛盾した意思表示を見れば日本の政権と政府が世界の他の先進国と、直面しているグローバルな地球上の課題に対する問題意識を共有さえしていないのは明白だ。2018年6月のG7の中での日本の存在感を見ればこれが判るだろう。山積みする問題を米国以外のG5諸国とも共有もしない日本のトップの意識のレベルの低さを実感させる。つい先週2019年6月28日と29日に大阪で行われたG20においても世界情勢を客観的に捉えられない故、国際的なリーダーシップを全く発揮出来ない日本の政権の実情を世界中に曝け出してしまった。

何故そうなってしまったのか?具体的な例を幾つか挙げよう。私は多分以下の理由からなのであろうかと思っている。それは、理系のメンタリティの欠如だけではないのである。あなたには圧等的多数の人が或る事を信じようとしない思考様式や習慣が、理系の思考を持つあなたにとってどうして人々は頑迷なのだろうかと暗い気持ちにさせてしまう息の詰まる社会状況を考えた事があるのだろうか。想像力を働かせてみよう。あなたがアメリカ南部の州に住んでいるとしよう。その地域は信心深い人々が非常に多いと聞く。そしてそこの州立の理系の大学に通っているとしよう。だが公立の中学高校ではダーウィンの進化論を教わらずに大学に入学。圧倒的な数で周りの学生達は熱心なキリスト教徒。神様が地球と人間を一週間で創造したと信じている。大学では分子生物学でDNAに関連する講義も受けているが、なんだ、この社会を被う息苦しさは!そうなのだ。科学の一部である進化論に対する無言の圧力、同調圧力が底流にある社会なのである。孤立し落ち込み、暗澹たる気持ちになってしまうだろう。理系の人間にとってそれは真っ暗な社会に住んでいる息苦しさである。そう、進化論も地球の温暖化も信じない社会風潮である。何故そうなるか、その理由とは知的な多様性が容認されない宗教やイデオロギー(或は社会風潮)下の社会にいると言う事である。この社会状況を世俗主義の反対語の教権主義と言う。因に世俗主義とはウィキペディアより[1]:
■ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないと言う主張・立場。或は宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則...
■ 個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由
■ 人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張

日本は政治と教育において日本会議と言う勢力が唱える教権主義的な考え方が、大きな潮流となって皆が知らない間にこの日本の社会文化の中に浸透しつつある訳。例えば考え方、生き方、生活のスタイル等個人の選択の自由とでも言える人々の多様性を批判する国会議員も大きな顔をしているではないか。現代の世界中の民主主義社会では、他人の意見とは違っていても自分の意見は尊重されると言う暗黙の了解があるのである。別の言葉にすれば、自分の意見は他の人と違って当然。つまりその様な立場からすると、他の人と同じ事を真似する、他の人のアイデアを無断で流用する事、即ち掠めとる事はタブーと教育現場では教えている訳。つまり原理主義集団の教権を深く静かにこの社会に浸透さながらスムーズに強権へと移行するタイミングを見計らっているのである。これは日本の衰退の根本原因の一つだと私は思っている。その結果日常の風習の色がそして世相が大きく変化してしまった訳。昨今政治家と政治を操作し、宗教人を操作し、経済人を操作し、日本の市民をオペレータにおとしめて操作(マニュピューション)し個人の自由と個性を抑圧するソフトパワーの仕組みを作り上げ、日本に住む人全員が自分の欲望のなすがまま行動する様に仕向け、悪に対し盲目で居続けさせる仕組み。日本社会においては同調圧力により、知的な多様性が容認されない社会となってしまった。知識人、科学者、技術者達が自由に発言する事を自制(或は発言出来ないオバカ達)してしまった結果、言論の自由学問の自由もない一つの単色(暗黒)に染まった戦前の昭和の様な社会へと変質しつつある日本なのである。

知的な多様性が容認されない雰囲気が醸し出す社会に住むとはどう言う事なのか具体例をもう一つ挙げよう。イデオロギーを重んずる、理系のメンタリティーもない人々が操る政権がメディアを使って作り出す世間及び社会の風習風潮の影響が多大な社会での出来事である。改めて言いたい。理系のメンタリティーを持つ人間としては福島第一原発の事故によって放出された大量の放射性同位元素の生態系への影響をどうしても軽んずる事は出来ない。この原理主義を信奉する政権の方々は上記「人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張」の様な世俗の考え方を持たない故に科学を軽んじ、政策立案しているのではと考えられよう。その様な考え方の下核汚染した食べ物を国で規制する事もなく、人工放射性同位元素が生体の細胞に及ぼす影響の知識を持ち合わせていない圧倒的多数の日本の人々に、食べても問題なし!と政府の広報車のマスメディアを用い宣伝している。理系の人間だったら発狂してしまわないのかと思われる程、東日本の核汚染問題と核汚染食品問題を科学的に捉えようとしない日本の上から下までの人々の頑迷さである。人々に言わせれば「国はその様な事(核汚染した食品摂取の人体に対する影響)は言っていないから」だそうだ。「政府は嘘をつく」或は「政府は本当の事は言わない」のは世界のかなりの数の国々では常識なのだがどうやら日本ではこの常識はまだ受け入れられていない。特に理系の官僚諸氏や学者諸氏にはこの様な社会通念のレベルの低さでよく心の歯車が壊れてしまわないのかと小生は感心してしまう。

それでは群衆行動学とは全く関係ない出来事に話題をかえよう。先日EUで法律として施行されたGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の内容をかいつまんで勉強する機会があった。一言で世界中の企業が欲しがるEU市民の、プライバシーに属する情報の収集の制限と取り扱いの範囲である。非常に高い理念の下、市民のプライバシーの権利を広範囲に認めている。この法律に違反した企業は年間利益の少なからずの部分に相当する罰金を払わなければならない。個人が忘れ去られる権利。個人が企業に要求すればその会社が所有するその人の個人情報をその人に提出しなければならない。個人情報は必要なくなったら破棄しなければならない。等々。[2] プライバシーもおかまいなく個人情報を継続し収集、蓄え込むGoogle,Facebook,Apple,Amazon等の多国籍企業が狙い撃ちされている様な感じである。その内容はさておき、この様な法律を立案しそして施行するその実行力。EUと言う連邦国家が如何にその市民を守るのか、市民の事を考えて政治を行っているかをまざまざと見せつけてくれる。素晴らしい国家群だ。つまり個人の自由は最大限に尊重されなければならない。一方企業の自由には在る程度の制限が加えられなければならないと言う立場。全てが逆行する日本の政治と、国際的な常識が通用しない島国根性の政治屋の面々。その結果命を粗末に駒として扱っても平気な「美しい国」となってしまった。大政奉還で欧米の仲間入りに向けた独自の体制の構築を目指し、明治大正、昭和の1/3を経てその体制が74年前に終焉。戦後米国の「押しつけ民主主義」からの脱却をゴールとする日本で今行われている政治、それは日本の市民の事など微塵も考えず、明治大正昭和で育てた自前の体制の復興に全ての力を注ぐ。アジアではまだ辛うじて一流の国かもしれない。しかしこの世界を被う生命の存続の脅威の事を全く考えない、世界の政治趨勢に逆行する近視眼的で時代錯誤の政治を眺めると残念ながら日本は他国からも尊敬されない三流国に落ちてしまった。

この章の最後にあたり: 真実が隠される時代。皆嘘つきだ!

参考文献等:
[1] "世俗主義," ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
[2] "EU一般データ保護規則," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/EU%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%A6%8F%E5%89%87

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第9章 日本が一流国から転落してしまった原因とその習慣の結果おこってしまった不幸な一つの出来事

学生時代に良く話を聞きに行った研究室の教官がふと漏らした言葉が今でも忘れられない。それは: あなたが、或る夜に満月を眺めていたとしよう。その時にあなたの頭の中はまっさらな状態であった。程なく眺めていた月が少しずつ暗くなって来た事が判った。何か、月の格好が奇妙に変化して来たと感じる。不思議である。暫くの間、あなたは何が起っているのか判らない状態であった。よくよく月を見ると少し欠けているではないか。

そして非常に大きな電気的ショックが頭の中を横切る。

言葉抜きでその出来事を見たのである。ありのままの自然現象を目撃した訳。言葉のフィルターを通さずにこの様なこの世界の出来事、ものごとを見る事は今まで経験した事が無い。それが一番目のショック。二番目のショックは言葉を通してものごとを見るよりも、その神々しい現象に自分がより近づいている状態で「それ」が見える、もう一つ上のレベルの認識が存在する事実を覚醒した事。

言葉にするにはちょっと難があるが、あなたも「現象としての月が欠ける事」と「月食」と言う言葉を頭の中に入れてこの出来事を比べてどれだけ違いがあるのかを考えてみて下さい。

名詞としての言葉を用いこの出来事を見た場合には、皆既月食が何月何日にありますと頭の中にその情報が既に刷り込まれて、「それ」が始まる5分前になって外に出て月を眺め天体ショーを楽しむ事になるのである。一方予め頭の中に出来上がってしまったイメージで眼の前の現象を見てしまう場合と比べ、眼の前の出来事を、頭の中の回路を通さずに(既知でない)目で見る、目撃する場合。それは即ち神秘的なこの世界の出来事を知覚を通し目撃 vs. 月食と言う言葉でこの現象を見る事と言い表せる。ここで例を挙げよう。プロフェッショナルな世界では、眼の前のものごとと向き合う時にフィルターを通さない即ち極力言葉をそぎ落として現象に、出来事に迫って行くアプローチをとっているのです。つまりものごとの本質を突き詰めて行くにはこの様にしなければならないのです。例えるとしたら内科医が患者さんが抱える体の問題に対するアプローチに似ています。患者の体の症状を色々な手立てで観察しそれを元にその人が語る体の症状により体の中で何が正常で無くなっているか、機能し難くなっているのか等を判断する。そしてその症状を分類された病名にあてはめる訳。病名、病理判断の前にそれだけの手順を踏んでいる訳。患者の体に全く触れないで患者の言う事に耳を傾けて診断するアプローチを採るのが薮。(でも考えると「満月」って言うのは一つの「それ」なんですね。)この二者のものの捉え方のアプローチが社会的に産み出す結果は大きな差があるのだ。

まず頭の中のフィルターを取り除き、つまり頭の中の言葉と知識を通さずに眼の前の出来事を見てそれを認識すると言う事が最初のステップ。これは単にものごとの本質を頭の言語領域を使わず認識、見る、理解し頭の中に写真のフィルムの映像の様にすり込むと言えましょう。つまり言葉に表す前に知覚を用い「それ」を見る訳。そして次に初めて「それ」を言葉を使って自分の頭の中の知識の領域に固定する或は頭の中の他の情報と照らし合わせる、等の作業を行うと言う手順。眼から言葉知識先入観等の鱗を取払い眼の前の出来事にアプローチする事。それがものごとの本質的、そして客観的な見方。この立場は英語で言うと"perceive."既に用いたが日本語で「知覚」と言う言葉で表せよう。即ち「知覚」を用い「それ」を見る事である。何故この様にするのか、しなければならないのか?理由は簡単である。言葉以前に物理現象、ものごとや社会現象の方が先立って存在する事。そして言葉を超えて存在する「それ」に畏怖の念を持って接しなければならないのである。尚話は横道に逸れるが次の章では言葉を超えて存在する「生命」の事を述べたい。

❶「知覚の不在」
この知覚を用いたものの捉え方は現象、ものごとがまず先立ち、その後言葉が追いかけて来ると言う手順。それが我々が生きているこの世界の出来事に対する認識の基本であり、かつサイエンスの世界での常識。一方実体を眺める時それを表す名詞、言葉がまず先立ち一人歩きし、現象やものごとの本質的な部分への理解が置いてきぼりにされてしまう習慣が我々の中に有る。言葉を振り廻すだけの判断停止状態。平たく言えば、その名前だけ知っていて中身を知らないと言う人間に満ちた社会。更に、悪く言えば知ったかぶり。これは日本社会を覆う最も巨大な弱点である。そして「知覚の不在」は日本が一流国から転落してしまった主原因なのである。これを補強するそのほかの3つの原因は後ほど述べる。これは上から下まで日本の殆どの人が陥っていている、ものごとに対する判断形式とその習慣。これが長年に渡り積み重ねられて来た。言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い。凄まじいばかりの知力の低下である。これでは日本が三流国に落ちるのは必然と思う。言葉と言うものは言葉の内容を理解しなくても使える。この在り様が溢れ返っている時代である。更に「その」中身を知らなければ自分の中の確固たる「それ」に対する意見は生じない。それ故に同調圧力で自分の考えがコロッと変ってしまう。

さて上記の知覚を通してものごとを見ると言う習慣が無くなってしまった事からおこってしまった不幸な事をこれからお話しよう。大事な事を書いたつもりです。度々御免なさい、又3.11の話になります。少し辛抱して最後まで読んで頂けますでしょうか?題目としては「津波」と呼ばれるものごと。

米国にIEEEと呼ばれるエンジニアの組織がある。IEEEは会員エンジニアに論文集や、電気電子業界絡みの読み物を提供している。彼らの月刊誌の"IEEE SPECTRUM"と言うと薄手の読み物に今回の福島の原子力発電所でおこったメルトダウン事故に関して何人かのスタッフが記事を書いている。その中で、ピカ一の記事があった。2011年11月11日号の記事、"24 Hours at Fukushima"[1]である。この記事の中に一番最初に載っている写真がある。かわいい女の子がマスクを半掛けして、体に付着しているであろう放射性物質の測定をされている写真である。胸が痛む。

この"24 Hours at Fukushima"の著者Eliza Stricklandと言う方は福島の原子力発電所のメルトダウン事故に関する記事を"Spectrum"に6回投稿している。この記事[1]の一番最後の所に"Spectrum"から出されている福島の事故に関連した記事が載っているので参照して見て下さい。これらの記事に載っている写真はまだ日本で公開されていない物が含まれている様だ。彼女は「原子力」の本質を良く理解しているプロフェッショナルだ。この記事は日本の原子力村の常識が世界の水準に達していなかった事実を世界中のエンジニア達に曝け出した。以下この"24 Hours at Fukushima"で彼女から今回の原子力災害のレッスンが提案されている。以下その6つのレッスンは後だしジャンケンのきらいはあるが非常に説得力のある助言である:
Lesson 1: Emergency generators should be installed at high elevations or in watertight chambers.
Lesson 2: If a cooling system is intended to operate without power, make sure all of its parts can be manipulated without power.
Lessen 3: Keep power trucks on or very close to the power plant site.
Lesson 4: Install independent and secure battery systems to power crucial instruments during emergencies.
Lesson 5: Ensure that catalytic hydrogen recombiners (power-free devices that turn dangerous hydrogen gas back into steam) are positioned at the tops of reactor buildings where gas would most likely collect.
Lesson 6: Install power-free filters on vent lines to remove radioactive materials and allow for venting that won't harm nearby residents.
[日本語訳]
レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ
レッスン 2:冷却装置が電源無しで動作する様になっているのなら、全ての部品が電源無しで操れる事を確証すべし
レッスン 3:電源車両を発電所の極めて近い所に配置すべし
レッスン 4:緊急時に電力が必須な装置に、独立した堅牢なバッテリーのシステムを設置せよ
レッスン 5:触媒を用いた水素再結合機(非常に危険な水素ガスを水蒸気に戻す電源不要な装置)は水素ガスが最も収集し易い原子炉舘屋の最上部に設置されている事を確証すべし
レッスン 6:ベント用の配管に電源が不要な放射性物質の除去フィルターを設置し、周辺住民に害を与えずにベント出来る様にすべし

その中のレッスン3が守られていたのならと悔やまれる。何故か?以下TEPCOの資料[2]の17ページより引用させて頂く:「
・ 緊急時対策本部のTV会議システムを通じて,福島第一原子力発電所(以下,「発電所」)の電源が津波によって喪失したとの情報が入ったことから,本店原子力部門は本店配電部門に対して電源車の派遣を要請。11日16:10,本店配電部門から全店に対して,高圧電源車・低圧電源車の確保と発電所への
移動経路の確認が指示され,16:50頃,全店の電源車が福島に向け順次出発
した。
・ 11日16:30頃,本店対策本部から他電力へ電源車の救援を要請。18:15頃,東北電力の高圧電源車
3台が発電所に向かっていることを確認。」
一方ウォール ストリート ジャーナル日本語版ではその後どうなったかを記述している[3]:
「午後11時頃、最初の発電用トラックが到着した。東京の首相官邸では歓声が上がった。
だが、喜ぶのはまだ早かった。発電所の損傷したメインスイッチに、発電機をつなぐことができなかったのだ。ケーブルの一部が短すぎて、発電所の別の部分まで届かなかった。津波警報も発せられ、作業員は高台に避難しなければならなかった。最初の24時間のうちに接続できた発電機はわずか1台だったことを、東電の資料が示している。」

地震で電源が遮断された真っ暗な2つのコントロールルームの中全ての方々が東京電力福島第一原子力発電所吉田所長の指揮の下原子炉のメルトダウンを防ぐべくそれこそ命を投げ捨てて懸命な作業を行っていたのである。彼ら英雄達に心より感謝し又、吉田所長のご冥福をお祈りしたい。そして現在懸命に福一で作業されている方々に心から御礼を申し上げたい。

さて、これは手元に消化器が無い家が火事になって隣に消化器を借りに行っている間、あれよあれよと延焼してしまった例に例えられる。これは明らかな職務怠慢。非常用電源車を発電施設のすぐ傍に配置しなかった危機管理手法の不在。これが対策されていれば多分3号炉と4号炉は救えたのではないかと思える。明らかにTEPCOの怠慢による業務上過失の罪に問われよう。特にレッスン6の対策が成されていたならベントを周辺住民の避難が終わるまで待つ事無く行えた可能性があり核汚染の事態が少しは好転できたかもしれない。既に結審し(2019年夏の時点)もう直ぐ判決を迎える「東京電力の旧経営陣3人が福島第一原発の事故を防げなかったとして検察審査会の決議によって強制的に起訴された裁判」[4]の記事を見ると「津波の予見」の能力の問題に議論が集約されるだけでEliza Strickland女史が指摘している様な設計上の問題点を改善する事無く(例えば上記「レッスン 1:非常用発電装置は高い場所に、或は防水された部屋に設置せよ」にある防水施行を施す様な努力を怠った)且つ、非常用電源車の配置の様に基本中の基本がないがしろにされていた事実さえも裁判の論点とならない事。この記事はしっかり書かれて居り、[4]は読む価値が有る。Web上での記事の「詳しくはこちら」を選択して全文読んでみる事を推奨する。国際的な視野からするとこの国の最高峰の機関、三権の一つの死法府で行われている検殺側とTEPCOの弁護側の議論がカバーするスケールの小ささと、かって時価総額日本一を誇っていた素晴らしい会社の経営陣が運営上実行、実践していた事の内容の程度の低さ、を暴露してしまう記事である。この様な国の根幹としての電力企業の運営上の厳密な手順等に関わる非常に重要な裁判なのだが、この裁判で双方原告側と被告側が議論する内容だけ見ても、何と言う日本の知性の低下だろうか、と驚嘆せざるを得えないのである。この国では人々のLiteracy即ち文字が読めて判る識字率は非常に高いが、人々の知力は惨めな状態である。つまりTEPCOに対するJusticeと言う視点から全く外れた裁判と言う儀式をやっていたのに過ぎないのである。処で、個人的に思うのだがこの日本で6つの条件を全て満たす再稼働中の原子力発電所はあるのだろうか?

話はガラリと変る。以下のウェブを御存知の方は少しはいらっしゃるかと思います。米国にある"Cryptome"のウェブで2011.3.11から4年弱の間の継続した福一の現場の写真が閲覧出来る。[5]よく集めたものだと関心する。TEPCOのウェブからとって来たものが多いと思う。しかしその真実を知りたいと言う原動力は科学者が持つ様な真実に対しての飽く無き追及心からではと思う。その中で、3.11事故間もない時に日本の会社が撮影した上空からの事故現場の写真が2011年3月24日からその撮影会社[6]のウェブから閲覧できる様になっていた。しかしこれらオリジナルの写真はものの二、三日で削除されてしまった。何処からか圧力が掛かったのだろう。体の良い検閲である。その後Cryptomeが4月2日から同じ写真を同ウェブに掲載している。これらの写真[7]を見るとたとえ単独でも絶対に起こってはならない原子炉の溶融事故が3つの炉でほぼ同時に、又核燃料プールの爆発破損が1カ所、平行しておこっていた多重事故、と知覚で理解できるのだが。皆さん、CryptomeといいIEEEといい海外のメディアからの客観性のある情報と比較して何故日本の社会の中ではものごとを客観的に見れないのかを自問された事が有りますか?

❷「真実の隠蔽」
さてこれから述べる❷❸と❹は「知覚の不在」を補うかの様に日本の社会で行われている習慣である。

おこってしまった核汚染の現状を直視しない事が何故出来るのか?おきてしまった事は既に其処にあるのである。それらを隠し通してどうするのか?そうする事で誰にメリットが生ずるのか?やれやれ、この世界のありのままの姿さえも無視する脳内完結しているオバカ達。真実を隠す事で問題解決が遠のいてしまうのが判らない、絶対に今回の核汚染事故の責任を取りたくない原子力マフィア。当事者で無いと言えばそれまでだが、何故IEEEやCryptomeの様な海外メディアがこの様な写真を持っていてそれらを開示しているのか。その一方で当事者の日本の行政府が何故進んでこれらの核惨事の事故写真を開示しないのか?それは何故かと言うと、おこってしまった事を知覚を通して見れない上に、行政府はTEPCOの原子力発電時事業における業務の監督を行い、怠慢が無いかどうかを監視する義務があった訳だがそれを放棄していた事でTEPCOが世界を震撼させる核汚染事故を起こしてしまった訳。その責任を取りたくないのだ。

前半で述べたが「言葉の後ろに隠されているものごとを見ようとする習慣が無い」事を人々に継続させるのが為政者にとって重要なのだ。言葉でものごとをラベル化し、「知覚の不在」を実行し、言葉だけが一人歩きする様にその本質を隠す事がまず第一。更にその本質を物理的に隠す為に「真実の隠蔽」を行う訳。知覚を用いものごとと対峙する事と言葉を用いてものごとと対峙する事の関係においては主従関係が逆転しているのである。そして原子炉メルトダウンをおこしてしまったTEPCOや行政府の関係当事者は隠蔽された真実がそのまま表に出て来ないで闇の中へと消え去るまで時が過ぎるのを待っているのである。判るだろうか。この手の病が権力中枢に巣食っている。何やらサーカスのショーの様にあの手この手を使ってTV、新聞インターネットで本当は取りに足らない事を大々的に報道し本当に大事な事には目くらましさせるプロパガンダ。このやり方が顕著になりつつある昨今である。何やら既に起きてしまった核汚染と言う事が、「通常」の状態になってしまう恐ろしいまでの市民に対するマインドコントロールである。何処かの独裁国家よりもスマートに市民を洗脳している。

❸「ロジックの不在」
まだ続きます。日本の原子力マフィアよ、原子力村の村人よ。君たちここで何が足らないか判っていないのか??或るものごとを判断する際には厳密、厳格なロジックが必要なんだよ!!お前ら判断停止していたんじゃないか!!

あなたは凄まじいばかりの海水が押し寄せて来る出来事を直接目撃、或はTVやYoutubを通して見て来た筈だ。目の前の出来事を心を通して見ていたと思う。あなたは見た、目撃した「それ」を「津波」と十把一絡げにして表現出来ない事は判っている筈だ。

大事な事は世の中に氾濫する名詞、言葉の後ろに隠されているものごとを見れるか、見る習慣があるかどうか。津波と言う名詞から「それ」をイメージ出来る言葉に分解してより原初的な言葉に置き換える事をやってみたら良い。あなたの眼の前の出来事は"津波と言う現象"と言う言葉で言い表すよりも更に心に深く刻まれた"現象としての押し寄せて来る膨大な量の海水"を目撃体験したのだ。あの空恐ろしいまでの海水の量を直接観た人々は、言葉を用いて物事にアプローチするより目の前の出来事をそのまま、言葉と知識と言うフィルター抜きで受け入れているのがお判りいただけるだろうか?また"地震"をマグニチュード幾つの地震と思わず、"現象としての大地が揺れる事"と知覚で捉る様に試みて下さい。同じ解釈を採りますと、3.11以降の放射能汚染事故を"現象としての原子炉の爆発"の結果と言うもっと簡単な表現で知覚する事が出来る。これを押し寄せる濁流や大地が大揺れする事と重ね合わせて見て下さい。人間の小ささが判るでしょうし、原子炉即ち機械なんて押し寄せる濁流や大地が大揺れする事で壊れるものだと納得します。其処からが出発点。イマジネーションを働かせてああなったらこうなる等、論理的な道筋出しを行う事、即ちロジックを用いる事が必要なのである。自然界ではおこる事はおこるのである。全方位の要素を鑑み、その対策を行うのが当たり前じゃないか?おこらないと思っているのは人間側の都合である。だから「押し寄せて来る膨大な量の海水」に対する対策を行わなければと言うロジックは必要が無い、と都合の良い解釈に陥る。何故なら脳内完結している状態で原子力発電は安全だと思い込んで来ていたから。おこってしまいそうな事を「津波」と言う言葉で見てしまい「それ」を知覚で見ないから、ロジックを用い「それ」を思考の上対処する危機管理が出来ない訳。でも皆さん何時もTVを見てたらロジックなんて自分の中に育つ訳ないよね。でもね、言葉の世界からこの世界を見ると平面的、頭の中で完結しているのです。まずTVを消してみて下さい。言葉を用いずにこの世界を見ると何と奥が深いのだろうか...当たり前だ。頭の外に存在する(出来)事だから。この世の中に言葉だけで中身が余り無い人間がどれだけ造り出されてしまったのだろうか?脳の中でグルグルと廻っている輪を断ち切って外の世界に対して心を開いてみよ。

さてどの様に人々から知性を奪い取るのかの手法を考えよう。日本で蔓延する、TV番組の中で延々と行われている悪しき習慣に付いてである。専門家なる人物或は政治評論家なるコメンテータが何時も必ず登場する事。何時からコメンテータなる人間達がテレビ番組に出、自分の意見を述べる様になって来たのだろうか? そして何時から人々が彼らの話を御信託の如く鵜呑みにする様になってしまったのか。その他何時から人の知性を吹き消す様な短い不愉快なリズムの音がテレビで流される様になったのか? TVのコメンテータなんて「講釈師見て来た様な嘘を言う」のと同じで、知ったかぶりで現場にも足を運ばない、 現場の声も聞かない「ジャーナリスト見て来た様な記事を書く」のと同類の面々である。悪い事にTVのコメンテータの言葉をそれぞれ検証もせずロジックも無しに信じ込む人々。❶「知覚」と❸「ロジック」の適用を行わないから、日本は改憲マシンの中で上から下までオバカになってしまった。更に輪をかけ、情報を捏造し嘘を言い、真実を真実として扱おうとしないで検閲し隠す。瑣末な事に気を分散させ、大事な事を気付かせない。そんな風潮を造り出して来た、王様の様に振る舞っている極悪な面々が国政を取り仕切っている時代。更に悲しい事にその王様(を操る原理主義の司令塔)を慕って付き従っている平民ども。

この章の最後にあたり: 日本を凋落させた上記の原因に4番目の❹「イマジネーションの欠落」を付け加えておこう。人々の知性知力が地に落ちた結果更に国力を衰えさせてしまう悪循環の例を挙げる。

この2019年7月上旬「対韓輸出規制」を日本政府が発動。この問題を非常に良く解説している専門家の立場からの記事から参照させて頂く[8]: 「日本政府は2019年7月4日に、フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の3材料について、韓国への輸出規制を発動した。これまで韓国は、安全保障上信頼できる『ホワイト国』と認定されており、最大3年間分の輸出許可を一度に取ることができた。」

現政権を支持する人々はこの対韓政策に嬉々としているのに違いない。自分達の原理しか考えない政治屋の面々からすると参議院選向けのキャンペーンの1つであった。だが、専門家の立場からすると全く違った意見である: 「となると、Apple、HP、Dellなどの怒りの矛先は、DRAMメーカーのSamsungとSK hynixではなく、対韓禁輸規制を行った日本政府に向かうだろう。日本政府は、世界中の電子機器メーカーの猛烈な批判を受けることになる。」
更にこう結論付けている: 「最終的に、日本の材料メーカーも装置メーカーも、Samsung、SK Hynix、LG Electronicsとのビッグビジネスを失うことになる。単にビジネスを失うだけではない。材料や装置メーカーは、トップランナーについていくことによって、競争力を高め、ビジネスを拡大してきたのである。その貴重な機会が一挙に失われることになる。
 このような事態になってから輸出規制を解除しても、もはや手遅れである。一度壊れた信頼関係は、二度と元には戻らない。要するに、日本政府は墓穴を掘ったのだ。その代償は、あまりにも大きい。」同[8].

❹「イマジネーションの欠落」の視点からすると、電子製品の供給網の中での半導体の戦略物質の禁輸の連鎖の輪の大きさを想像していなかった致命的なミスを犯してしまった。日本の衰退の原因は色々と取り沙汰されているが、客観的にものごとを見る知性とその社会的環境が無くなってしまった事に根本原因があるのである。

この半導体素材の制裁に因る、世界経済へのインパクトの大きさから政府与党がイデオロギーを基にした政策を実行している事が世界中に知れ渡り始めてしまった。更に、日本会議の原理主義が世界中の衆目を集めると言うオマケ付きだ。個人的にはこれは戦後最悪な外交的失敗に終わると思う。「原理主義者」達にとって自分達の夢の実現に足らないのは憲法改正と核兵器だけと思っているのだろう。ガムシャラに戦後の民主主義体制の転覆の実現の為にあらゆる事を実行して来ている。彼らは既に冷静さを失って、もう怖いもの知らずの暴走状態と言えるのではないか。内閣の面々は元々だが、プロ集団の外務省、経産省の知性知力も此処まで落ちたかと溜息だ。職業柄、行政府の従業員とそのトップは無党派を貫くベき立場なのだが。そして人々の知性知力が落ちているので、今回の政策に対し殆ど経済人学者政治家含め誰も抗議をしない。何時もながら政権にとっては非常に楽な政策運営。この様な人々の知性の状態で、現政権下において改変され続けられて来ている国の制度。空恐ろしい事だ。

参考文献等:
[1] "24 Hours at Fukushima," Eliza Strickland, IEEE Spectrum,
http://spectrum.ieee.org/energy/nuclear/24-hours-at-fukushima/0
[2] "福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成24年6月版)
資料一覧," TEPCO,
http://www.tepco.co.jp/decommission/information/accident_investigation/pdf/120620j0305.pdf
[3] "福島第1原発、事故直後の新事実が明らかに―WSJ分析," 2011年5月18日,ウォール ストリート ジャーナル, http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/237921
[4] "詳報 東電刑事裁判「原発事故の真相は」," NHK NEWS WEBより,
https://www3.nhk.or.jp/news/special/toudensaiban/
[5] "Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant Series," Cryptome
https://cryptome.org/fukushima-dai-ichi-series.htm
[6] "(株)エアフォートサービス," ウェブページ,
https://airphotoservice.co.jp/
[7] "Fukushima Daiichi Nuclear Plant Hi-Res Photos," Cryptome,
http://cryptome.org/eyeball/daiichi-npp/daiichi-photos.htm
[8] "「対韓輸出規制」、電子機器メーカーの怒りの矛先は日本に向く?," 湯之上隆 (微細加工研究所),EE Times Japan,
https://eetimes.jp/ee/articles/1907/10/news027.html?fbclid=IwAR09HYhJ3GlZODBXvIUq4EQ48aCdE1fjS5nXy1hfbTNWGP4Xb7_3O9eJvNU

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第10章 喧噪の中で失ってしまった大事な事

[前書き]
この章はちょっと長いのであなたの一番好きな飲み物を用意してこれをすすりながら本稿を読んで下さい。アルコールはちょっと...内容が心に染み込まないでアルコールが染み込んでしまいます。

あるアイデアが情念になりそれがイデオロギー化しスローガンを通してこの世界に働きかける - と言うイデオロギーと目の前の世界の関係が在ります。そんなイデオロギーと言う名の欲望とその欲望から発せられた言葉に全くおかまいなく脈々と流れる"あるもの"を考える章である - 政権にどの様な勢力が居座ろうが自分達のイデオロギーの夢の実現の欲求として、その地域の昔からの固有の文化を自分達の達成したい理想社会の方向に都合の良い様に引き寄せながら政権運営をおこなって行く過程、そしてその過程を取り仕切っている不遜で強欲な人々を我々は世界の至る所で現在進行形で目撃している。

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随分昔に読んだ本からの引用と言う形で話を進めてみる。Max Picardと言うスイスの哲学者が、1958年みすず書房より出版された「騒音とアトム化の世界」[1](残念ながら絶版になって久しい)と言う本の中で述べていた。人々は喧噪の世の中に生き、各個人がそれぞれアトム化(原子化)してしまった事。以下の様にも言っていたとも記憶する。間違っていたら御免なさい。人間がオペレータ(即ち機械をもくもくと操作する者)に堕してしまった事。同じくみすず書房より出版された彼の「沈黙の世界」と言う本では神と対話する内省の重要性を訴えていた。彼自身の言葉を示す。"Nothing has changed the nature of man so much as the loss of silence."[2] それは、現代社会において有史以前から持っていた動物としての人間の中の本性より、沈黙を喪失してしまった事だと言える。人間が沈黙の中での内省を行う事を忘れ、言葉が一杯詰まった頭のみに意義を見いだし、その生命存在の意義を失いつつある事と言えようか。また、文明批評家Ivan Illiciの著書「エネルギーと公正」[3]の中で心に残った言葉があった。彼は「加速」と言う言葉をこの本の中で使っていた。この世の社会と人々の動きを良く表している。物質文明、機械文明の生活の中で欲望が肥大化し、それらの文明が深まるにつれ上に述べた状態が不可避となり、人であるよりもオペレータになっている時間がより一層長くなり、どんどんと抜け出せない深みにはまって行くのである。それは日常の中で一人一人の統一体としての生命が分裂、原子化し家族が原子化しバラバラで絆を喪失そして社会にはユニークさも無くなり分断化する現代の日本の人々の事を言い当てて居る様に思える。

Picardが語った言葉で彼の考えを良く表す言葉を記しておく。手元に「騒音とアトム化の世界」が無いので孫引きと言う不本意な形となってしまいますが以下の引用をさせて頂きます。[4]現代の人々の生き方を非常に良く記述していると思う。「私はある時、一人の男がテレビの前に座っているのを見た。その傍らで同時にラジオが鳴っていた。しかも同時にこの人は時折テレビから目をはなして新聞を読んだ。いったいこの人はどこにおるというのだろう。テレビの中か、新聞・ラジオ、あるいは安楽椅子の中か。彼はそれらのすべてであり、そして無でもあった。いたるところにおり、しかもどこにもおらなかった。そして彼の欲したのは実はこのことであった。即ちどこにもいないこと、自分自身を解体し、またその破片から自分を組み立てることであった。昨日の死はなんとつまらなく、今日の復活もまたなんとつまらないことであろう。この人間は自分自身から脱走しておったのである−というのも当たらない。彼はそもそも自分というものを持っていないのであって、したがって自分自身から逃げるということもできない。彼は一般崩壊の中の、運動の一小部分以外の何ものでもないのである。現代人は内面的に連関性をなくしたごたごたの中に生活している。我々は内的に寸断されてしまっているのである。我々は連続性の中に生きているのではなく、非連続性の中に生きているのである。一つの印象、一つの感情、一つの考えが、隔絶されながら、それぞれ別の印象や、感情や考えの側に平気で並んでいる−否、先立つもが全くなかったかのように、次々と立ち現れるのである。ただ絶え間なく何ものかが、瞬間を通って転じてゆくだけである。」あなた自身今の生活を省みて彼の言葉に反論する事が出来るであろうか?

皆が皆生命を、命を愛する事を忘れ去り、加速をこよなく愛する喧騒の時代でもある。現代社会において加速は一つのキーワードだ。加速と言う中毒。この結果は人に何をもたらすか?スピードをこよなく愛する一方人として愛を育む心と、内省の習慣が失せてしまった事。どうしてその様に先を急ぐのか?個人が加速し、人々が加速し、人間が加速し、情報が加速し、日常が加速し、技術が加速し、一年が加速し、一世紀が加速し、人類の歴史が加速し、一体ぜんたい我々は何処へ行こうとしているのか?沈黙の中での内省を忘れ忙しい人生を送りながら、己の強欲さ故、他の人の事を気にかけずにおとしめ蹴落とし、人を精神的に肉体的に傷つける事をいとわない輩達、己を他の人々と切り離し社会の中の或は集団の中の自意識過剰な原子となり、加速する人々。皆が皆人生の速さや人生のスケールを誇っている現代社会。肥大化する欲望そして強欲と便利さを更に加速し追い求めるのとは裏腹に、騒がしい人間以外の動物が棲む自然界の生きとし生ける物達はそこからやって来る、その正反対の不便さ即ち人間が作り出して来た環境汚染や環境破壊と言う結果を沈黙の中で甘受しなければならないこの不条理が見えないのである。動物、鳥、魚、植物はこの生きにくい世界になす術がないのが人間には判らないのだろうか?同じ様に人間もこの殺伐とした空間で何がおこっているのかと言う関心をも失ってオストリッチの様に頭を砂の中に入れて、この様な事態が過ぎるのを待っているだけなのだろうか?もしかしたら人間のみならず生命が滅ぶのを知っていて何もせずそれを楽しんでいるのではなかろうか?もしそうだとしたらその様な考えはこの世の終末を待ち望み単に楽しんでいる終末論者の考え方と同じではないか?どうやら人間は先の見えない判らない何かの終わりに向かって加速している様である。 今や人間が人間以外の動物にくらべて遥かに愚かになってしまったのである。生命が何らかの理由故にこの世に在る事を忘れ、この流れが続いて行く事を忘れ、欲望に任せ突っ走り、他人を押し退け、自然を押し退け動物を押し退け、生態系を押し退け排除し、生命の存在の大事な意味を忘れ喧噪の中で生きている。

一言で言おう。第7章「何処から、何処へ、何ゆえに」の中では述べなかったが、「何処から、何処へ、どの様に」と言う問いが"Profile"(例えば隣の芝生は青いとか)と言う言葉と結びついて我々個人の中で相手との比較の対象となってしまっている現在。人間は近年この世界を物理的に大きなスケールで見渡せる事が出来、その結果比較の対象が広がってそれにより更に欲望が際限なく増殖してしまった。だが「何ゆえに」と言うと問いのおおもとにあるのは生命なのである。あなたには日常の中でそれを感じる事が出来るか?実はその他人の中と自分の中にある「何ゆえに」は比較の対象がないのである。しかし「何ゆえに」と言う問いをも忘れてしまうか無視するからユニークな個人、特定の宗教を信ずる人々や民族の迫害や、抑圧がおこってしまうのである。生命の公正と平等には優生思想など入り込む余地はない。この事実を無視するgeopoliticsに満ちた日常に踊らされて、brainwashに巻き込まれてしまっている我々。

本シリーズ第6章の「欲望の行き着く果てに」で書いた事を詳しく述べる。この世界の出来事を現場で見る気持ちは更々無く、情報のリアルタイム化とそのダイジェスト即ち咀嚼に追われる日々の生活習慣の事である。この様な環境ではいとも簡単に人は情報に騙される。何故か?客観性が無いからさ。自分の好みの情報だけをアクセスする事。つまり頭の中に入っている自分の、世界の解釈理解を確認する為に自分の好みの新聞やインターネット上の情報を選択し、自分の考えを補強する記事のみ読み漁る。選択的情報の咀嚼。これが心地良いのである。頭の中は言葉で一杯。でも心の中は空っぽ。虚しいね。簡単に言えば自分の意見と同じ様な論調を読んで安心安堵し、その反対の意見に反発し攻撃する。攻撃される人々は主に自らの意見を公に出来る自己推進能力のある方々。その様な人々を人格破壊しようとする訳。何故人々は意見の違う人々を攻撃するのか。どうしてそのまま、ありのまま、受け入れられないのか。それは何故か?色々と理由が有ろうがその一つとして: 皆が皆インターネット上で喧噪を選び、違った意見を持つ人々や他の民族を批判し、それにより己の心に満足感をもたらしている訳なのだろう。不快な相手を攻撃する事、が心地良い。この悪しき風潮、Ethosの現象(「7章 何処から、何処へ、何ゆえに」参照の事)は世界で同時進行している事に皆さん気づいて欲しい。つまり異なった相手を受け入れる能力の無い人々が増加中とも言えようか。そして又他人に対しての意地悪が心地良い。ところが現実とはユニークさと多様性の集合体なのだ。生命が、此処では自分が母より産まれて来る事を選択した時点でユニークな存在なのであるが、その個人の多様性さも判らん輩が文化の多様さや民族の多様性をも見下し軽蔑する行動を取るのは愚かな事。しかも自分がユニークで優生な人間だと思っているのでなおさら、たちが悪い。心がここにあらず、善の風潮或はスピリッツな世界を喰らい尽くす"busy monster"達。インターネット依存症のあなたへ。この姿を自分の形相として捉えられるだろうか?この事から人間を紋切り型にさせておく事、オペレータにさせておく事が権力を持つ面々にとって如何に重要なのか判るだろう。

さてまたまた音楽の話で恐縮だ。あなたが以下の曲を聴いた時自由にこの曲から何かをイメージ出来る様に以下の文を読む前この同じ曲を2つの映像のYoutubeで聞いてみて欲しい。[5][6]歌詞は[7]。英国の作曲家で英国のロックグループU2のアルバムのプロデューサとして知られるBrian Enoと言う方がいる。彼の2005年のアルバム"Another Day on Earth"の中の"And then so clear"と言う1曲。あなたは今この曲を聴いて何を連想、想像しただろうか?

今日は私がその曲から思い浮かぶイメージをEnoさんには申し訳ないが勝手に解釈してここに記載する。ご勘弁の程。それは7章 「何処から、何処へ、何ゆえに」で以下言及した、心があなたの中に落ち着いて座っていてあなたとあなたの心が一体(unity)となっている時、この時この場所に「心此処にまします」と言う事に関連する。私にとって”And then so clear”の曲からイメージする事は: まだ私が小さな子供であった時に車を使った何泊かの家族旅行から家へ帰って来た時に見た天窓から光が差し込んでいる場面でフッと思った事なのである。それは私と父、母私の兄弟が一緒にいると言う一体感。静寂の中の愛に包まれた家族の中の自分。そしてそのunityから、外の社会があると言う事を初めて理解した時の感触に近い。言葉では説明出来ない自分と家族と世界との一体感。しかしこれとて以下述べる生命の流れの極一部を認識、感じとったに過ぎないのだ。

これは沈黙するしかない動物には彼らの本能により既に判っているのである。それは、この表題の章の問いへの答えである。あなたが喧噪な世の中に棲む事で心の中から失ってしまった気持ち。それは思っているよりも遥かに大きく大事なものなのである。そして私と言う生を授かった事はもっと高い次元の、何かしらの理由があるからなのだろうと言うこの世のシンプルな捉え方。脈々と続いて来た生命の流れとその脈動をこの曲を何回も聴くと思い浮かぶのである(実は歌詞の内容と違うのですが)。前の幾つかの段で述べたが今現在物質文明に晒された人々は沈黙と内省を忘れ、そして頭の中にある行動パターンに影響され見ず知らずの他人を安易に攻撃、人格破壊する事が広く行われている。他の人の持つ固有で唯一の個としての尊厳さが疎んじられてしまう日常の思考と習慣の中に生きている。それこそがアトム化と言う事。自分が原子化アトム化し己がこの世界にあると言う事実を忙しい情報の中で見失う事で心の中の自分を失い大事な己と世界の関係を断ち切られてしまう。つまり生命としての人間が持つヒューマニティーを忘れ去ってしまった事によってその風潮がこの社会に現れている訳。動物と同じ様に、人が石の上を歩くのを止めてから言葉が増殖しこの世界と切り離され人は原子化してしまった。あなたは上記の様に子供の頃、自分と家族と世界との一体感を感受した事はなかったのだろうか?その様な気持ちが生じた事があったかどうか、あなたの中にある記憶の糸を手繰ってみて欲しい。

この世界に産まれて来て、思春期に家族から独立する気概が生じた後に、社会に出でて女としてまた男として異性と出会い結婚し子供が出来て彼ら子供達が一人立ちし、自分が自分の親と同じ様に長い人生を歩んで行きそして老いてゆく。そしてその初期の過程の中で家族と言う小さな群れの中に一人の生き物として小さな子供の私が生きていると言う実感と、家族と言う小さな群れが大きな群れの中に生きている実感、(2つの違った遺伝子がもっと大きな流れ即ち時の流れと脈々と続く生命の流れを共有する)とそれを囲む外との関係の連続性を既知する事で社会性を理解し、習得する事が出来る。これは生物の群生の空間的な尺度から見た考え方。だが私にとってはとても不思議なのだが、誰一人として日本社会での内閣与党を中心とするイデオロギーに基づいた祀り事が日本の社会空間、群生の空間にどのように力を及ぼし変出させ影響しているのかと言う見方を執れない不可解さが有る。

この考えに少し関連する事だ。群生の空間と言う観点で日本社会と言う空間から観ると、後に述べるが、どうやら偏屈な考え方やイデオロギーが跋扈し、人間の顔の態をなしていない文化の風潮が蔓延るいびつな空間、人が棲み難い生活空間となってしまった様だ。人間が家族が原子化してしまった現在、第2章 「すっかり破壊されてしまった三権分立の原則」で言及したが或る勢力による、社会形態を変えようとする事により「彼ら」が理想と考える様な、日本を素晴らしい国にして行こうと言う努力をするのは理にかなっているのかどうか甚だ疑問なのである。そんな事よりまず善の「風潮」例えば希望を人々の心の中に取り戻し育て、家族の中に社会の中に人間愛を呼び戻す事が先なのが判らないでいる、日本の社会があたかも自分達の物であるかの様に振る舞う不遜で強欲な政治屋達。現代日本の社会においては生きる力が弱い家族もあり強い家族も或る訳で、弱い家族を手助けする福祉と言う社会制度を手厚くするどころか、彼らを更に窮地に蹴落とす様な政策を実施している事実。生活空間の喪失に見舞われている家族と言う小さな群れに必要以上の経済的な圧力をかけてはばからない社会制度。一方軍備拡張の為惜しみなく予算を注ぎ込む。正直者は馬鹿を見る、どころではない更に悪い状態である。つまり弱い者が更に抑圧されてしまっている日本の社会。この様な不条理がまかり通っている事に殆ど誰も怒りを表現しないのは、人間が家族が原子化してしまった上日々機械的に生きている為と思うのだが。子供を持つ親として不条理に満ちた政治のやり方に抗うのは、動物として生命として当たり前の事なのであるが。そう。オペレータとは皆が皆何も言わない、或は皆が皆同じ事を言う状態に陥っている人々の事である。個人的に成功の為の機会を持たない、持てない市民を抑圧するエリート意識に満ちた優生学的政治手法が日本で行われているのではないかと思えてくるのだ。何も明治時代の教育勅語を実践し、戦前の封建的な大家族に家族形態を戻す事が本当に現実味のある社会問題の解決策なのだろうか?人に対するヒューマニティーを中心に据えた実践的な政策やアプローチを行う政治手法と、イデオロギー的なアプローチを取る政治手法の間の乖離をまざまざと見せつけられる今日この頃である。残念な事にこの世界の意義、意味の深さを忘れてしまって忙しく人生を送っている原子化した人間で構成される社会においてはこの乖離の帰結がどうなるのかを考えようとする'Ethos,'風潮も社会から失われてしまった。判っていると思うが、不遜傲慢強欲にかられた面々が支配する国は滅びる。

この章の推敲の途上に先日の東京新聞のWeb 「梅原猛さんの平和思想」と題した以下の記述を発見。梅原猛氏は2019年1月12日に他界された日本の哲学者である。私自身色々と考え倦ねていた事がこの記事により見事に鮮明になった。以下長いが引用する: 「梅原猛さんから興味深い見解を聞いたことがある。『神も仏も捨てたのが、明治政府です』と−。仏教を排斥した史実はあるが、神を捨てたとは…。はてと首をひねった記憶がある。 『昔から日本人は山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にも同じ思想があり、神と仏を合体させた宗教を民衆は信仰してきた。神仏習合、それが日本の思想の中心でした。だが、明治になり国家神道という一神教になったのです』 国家主義は古来の思想を無視して、国家神道という新しい宗教を国民に強制した。さしずめ教育勅語はその道具であった。この一神教こそ戦争へと日本人を駆り立て、日本を狂わせた張本人なのだという説明だった。」[8] Aha!である。「原理主義者」の実体が見えた。鬼畜英米と言いつつも、自分達がヒューマニティーを失い鬼の形相で戦争に突入して行った国家神道信奉者の軍人と官僚達そしてその尻馬に乗っかった戦前の人々の様相が思い浮かぶ。梅原氏が指摘していた様に多神論を捨てた故に生命の流れの観点から世界の人々を見渡す事が出来なかったのであろう。現政権と天皇皇后両陛下(平成31年時点)の関係がこじれている理由が良く判る。ところで話はがらりと変る。危機管理の極意は「最悪の事態に備える事」である。よって民主主義体制を支持する全ての人々が持てる限りの力を合わせ、日本会議によるクーデターに備えた危機管理体制の構築を行わなければならない時なのである。その根拠として変質してしまった与党自由民主党及び公明党が通して来た法律の数々を見れば直感的に判るだろう。イデオロギーに執着する「彼ら」なら日本の民主主義を転覆させるクーデターをやりかねない。

さて生命を時間的な尺度から考えてみよう。私と言う生命は私の父がたぐって来た、私の母がたぐって来たそれぞれの赤い糸の様な生命の流れが重ね合わさった物なのである。別の表現をとれば、私は父と先祖の血の繋がりと母と先祖の血の繋がりからの一つの生命としてこの世に生まれて来た訳。この世の根底に脈々とした生命の流れがある事実。この事が一番理解し易い人生での出来事は結婚式と言う場であろう。新郎が属する群れと新婦が属する群れの一同に会する出会いと祝福の時ではなかろうか。その出発点から、男と女の愛と愛情という中で新たな生命は生まれ成長し、心と心が重なり合って一つの心が産まれ、この世に長々と生を過ごしながら、体と心の一体感(unity)と共に尊厳を持って死を迎える。その間新たに産まれた小さな生命が全く同じ繰り返しの中で女性として或は男性として育ちそれぞれの道を旅し各々(原子化していない)個人が大きな生命の流れの中で出会う訳。即ちそれは私が一人の男として私の妻が一人の女としてこの世に生命を送り出す同じ営みを行い父となり又母となり、午後の太陽の高さに例えればまるで日の陰った夕方の様に、齢を重ねそして日暮れの様に歳をとりこの世から役目を終えて去って行く。私と妻の遺伝子を子供達に引き渡し、そして「何処から何処へ」の問いの先にある、どうしても答えられない「何故に」との問いを子供達に引き継がせている。その問い続けなければならない親から授かった自分なりの答えの探求と言う宿命。これこそが「何故に」との理由なのである。あたかもそれは自分の生は何故に在るのかと言う答えを見つける為、答えの出ない長い旅を歩んでいるかの様である。だが、この大事な問いを背負って生を生きているのかどうかが彼や彼女に判るかどうかは本人の自覚次第だ。(或は親として子供にこの問いの意味を教えるべきなのだろうかと言う自問はあるが)。人間以外の動物達は、自分達がこの世界にあり生きて居る事の、不思議な見えない力が(「何故に」と言う先に)在る事を知っているのである。だが残念な事に私と言う小さなスケールを通してしかこの世界が見えないこの限界故これ以上言葉は発せない。沈黙の中で生命の不思議を想う。

その一方この一つの生命としてこの世に生きる、私の中にある欲望は何処から来るのか、そして何処へ行こうとしているのだろうか?何ゆえに?との問いが私の中を、私の生を貫く。そして体を欲する心の渇きの側面を持つ愛の事を考え巡らす。一人の男と一人の女の間のunityを縦軸に、時間を横軸に採ると一組の男と女が共に過ごす時は何と短い期間なのか。横方向に過去を振り返れば途轍もなく遥か以前の私の知らない時がある。又逆方向を見れば新しい未来が見える。この生命の流れは「何処へ」行くのかと言う問いは未来へ向かって発しているのである。そして私は何かを残しつつ、一つの生命としてこの世から去って行くと言う事。何故に生命は死ぬのかは生命には終わりがあるから。何故に生命は産まれるのか。それはあなたと言う生命が産まれて来る事を選んだ事に理由があるから。これから産まれて来る子供達、生命達を「安全」な社会に或は生態系に送り出さなければならない宿命。その今生きる生命としての、遥かに崇高でしかも過酷な迄の義務を人間を含む生命は背負う。

生命を産み出して来た、又これから産み出すであろう、女性のあなた方にはこの事実は体の中に刷り込まれた思いであるに違いないだろうし、又無視出来ないのでは。幸せな人生を送れる様に身を粉にしながら日々男性優位の社会の中で悪戦苦闘している日本の女性達。自分の命を賭けて己の子供をこの世に産み出す崇高な行為を行う性を持っている生命なのだが、動物としての雌の出産の苦しみも考えない雄共。日本の社会が男性が優位性を保てる様に設計され且つその様に機能している現状。その一方小さな群れとしての家族の中で子供と妻をないがしろにする又はネグレクトする様、最悪な場合は暴力を振るう様な行動をとってしまう男性諸君。又己の考え、思考習慣に基づき人々の間にある多様性を無視し、女性差別や蔑視を行う面々。男性優位の特徴である、最下部に位置する小さなスケールの家族から、地方自治や地方の会社、そして社会最上部に位置する国会へと貫く、男尊女卑の源である家長制と言うヒエラルキーを生活の社会空間から柔らかいベールで包み都合良く隠し続けて来た事。これこそ悪しき文化としての風潮である。これが日本社会の中の生活空間に深く根付いている。更に昨今競争原理と言う手法を取り入れ敗者復活戦の様に弱いもの同士を戦わせるやり方。日本の中に新たにカースト制を作っているのか?それ故に、「法の下の平等」が日本の中で崩壊している事に女性の市民自身が強く抵抗し、善なる「風潮」としての社会の希望を女性の方々が共有しこの日本の社会を良い方向に変えて行く様に努力して行かなければこの閉塞した社会に明るい光は差し込まぬ。この投稿を読んでいる皆さん、御存知の様に強権的組織の中では個性と、女性の権利は抑圧すべき対象と理解していると思う。それはアジア的な、個人のユニークさを否定する、男のタテ社会の属性であると言う事。これは母性が産み出したユニークな生命と多様性の容認を行う社会の対極に位置する。男と女の間にその様な生命の対等さと言う見方が出来ない男性諸君は生命の流れを創る女と言う性を守れない男達である。ほ乳類の間ではオスはメスを守り、子供を守るのではなかったのか?この生き難い世の中で子供を守らず、妻に子供に当り散らし暴力を振るってどうするのか?もっとやる事が有るのではないのか?そんなあなたに一つ聞きたい。あなたには自分の子供達が小学校の半ばの頃その横顔をさりげなく観た時、特に自分の娘の横顔から、彼女がこれから産み出すであろう生命の流れの片鱗をかすかに読み取った事があるのだろうか?そう想うだけで今の社会の女性や女の子に対する性差別や(性)暴力の不条理から彼女達を守らなければと心を構えるのがオスとしての務めと思わないのか?どんな肌の色の人々でもどんな社会的立場の人々でも子供の事を想う気持ちは同じである。自分の子供の中の生命の流れを認識出来ない者達。守るべき家族の生活空間を見失い原子化した家族の中でその気持ちを喪失してしまったのだろうか?子供達にとってのお父さんお母さんが作り上げて来た家庭と言う生活空間が自由を失い苦しみの場となってしまっているのである。その様な環境の中において子供達の情緒をまともに育てる事が出来るのであろうか?大人にとってもこれは同様である。世の中に溢れる物と情報、家庭からかすめ取られる幸せな時間。自分の心と体がまるで牢屋にでも閉じ込められた様な閉塞感に満ちた日々。

悠久と流れる生命。そして人々の、己の生命の流れを守ろうとする意志。その一方女性が自身を守り子供達を守る事。更に男性が女性と子供達を守る事。更に社会が家族を大事にし守る事。この全ての防壁が決壊しつつある、日本の生活空間。経済的に困窮すると心に余裕が無くなるのは自明の理。個人がそして家族を含め、公正公平さを失い教条化し硬直化した組織の犠牲となりつつある。皆さん、もっと大きく見ようではないか。家族も同様なのだが、日本全体が袋小路に追い込まれてしまっている事実があるのだ。そして日本の行政府の従業員の方々へ。このままでは日本は駄目になってしまうと言う危機感が心の中に生ずる事がきっとある筈だ。あなた方は日本の市民よりも世の中の大局観をお持ちの筈。今出世欲に駆られた爺婆となるか、単に何も言えないオペレータになるか、それとも未来を予見し危機を回避しなければ日本は没落する一方になるとの大局観を持って日本の屋台骨の内側から変化をもたらす様努力をするか、あなた方は今この3者の内どの立ち位置を取るかと言う所まで追いつめられているのである。この事実をしっかり認識しておく様喚起したい。

冬の、或る日曜日の昼下がりの日差し。ほのぼのと呑むミルクティー。クッキーをこれに浸して口の中に運びながら美味しさを実感するこの様な些細な時。でもその様に個人が幸せであると感じさせる時間がこの世から失せてしまった。心が満ち足りている営みの喪失。何故に男がいて女がいるのか。そして人間は一体何処へ行こうとしているのか?騒々しい日常生活からは全くもって考えつかない想いである。

この章の最後にあたり: 生命の流れと言う"Ground rule"と、権力欲、金銭欲等の強欲と言う事の間の関係とは一体何なのか?"Ground rule"に関与する事無く、憲法改正の御旗のもと自分達のイデオロギーの目指す理想郷を実現する為に祀り事を行っている面々。それ故に「原理主義者」と呼ばれても仕方がないのである。こんな世の中だ。けれどもあなた自身せっかく産まれて来る事を選んだのだから、この惨めな現実を何とかして、あなたのそしてあなたの家族の生を喜べる社会に又暮らしの中に喜びがある社会に変える様にどうして努力しないのでしょうか?

参考文献等:
[1] "マックス・ピカート」 ウィキペディアより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88
[2] "Max Picard Quotes,"AZ Quotesのウエブより、https://www.azquotes.com/author/28210-Max_Picard
[3] "イヴァン・イリイチ」、ウィキペディア、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
[4] "座右の銘データベース」、http://www.kokin.rr-livelife.net/post/post_meigen/post_meigen_253.html
[5] "And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=sLEgjBVtdhE
[6] 同じ曲で違った映像背景、"And then so clear," アルバム"Another Day on Earth," Brian Eno,
https://www.youtube.com/watch?v=lcK8_kKCsq8
[7] "And then so clear"の歌詞、https://genius.com/Brian-eno-and-then-so-clear-lyrics
[8] "梅原猛さんの平和思想、【私説・論説室から】、2019年1月21日、東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019012102000139.html

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第11章 国民に向けられた三本の毒槍

あなたに一つ聞きたい事がある。日本社会での、立法府を支配している政治勢力と経済界と行政府(死法府も含め所謂官僚)達の利権集団の関係を大雑把に考えてみた事がありますか?

私にとってそれは3人ずつお互い囲いの周りに立ち、見張り番をしている様なイメージが思い浮かぶ。はて、囲いの柵の中には何がいるのか?大人しい羊達である。彼らはおのおの毒槍を持っている羊番である。それぞれ3人がお互いに協力しあって、或る者は積極的に、或る者は便乗的に、或る者は羊達が囲いである柵から逃げない様躾け役として、この大人しい羊達を搾り取っている図である。
■経済界: 低賃金、長時間労働、非正規労働者、福利厚生の低減、男女間の不平等な給与体系など。その一方企業の内部保留金は史上最高を更新している
■行政府: 自民党との長い付き合いのお蔭で国民の事を憶い公僕として働く習慣が無くなっちゃったし、自分の天下り先を用意してあるし、地位が安泰で自分の仕事の責任が降り懸からない様なら万事OK。国民の事なんてどうでも良い。でも或る事が責任問題に発展したらあの手この手で全力で反撃します
■立法府: 経済界及び行政府と協力、富める者を優遇し大事に扱い弱い立場の人々の社会的不満を封じ込め自力更正と言う名の下、緩やかな強制労働収容所と言う囲いの中へ閉じ込める様に努力。そして自分達の希求する社会を実現する戦略戦術を立法し施行

民主主義とは一体何か?と言う問いを自然と発してしまうこの様な日本社会の現状。それは内閣と行政府と産業界の利益補完システムと言う - 原理主義或は国家神道と言う国策の名の下 - 癒着の構造に起因する経済活動が、この社会に及ぼして来た結果を我々は目の当たりにしている。行政府の「見えない手、見えない力」が此処に目撃出来る訳。 しかし、「官」が主で無く、「経」が主で無く、「政」が主で無い、主権在民即ち「民」が主ではなかったのか?もうこの国では「民主」主義は死んでしまったのだろうか?いやまだだ。非常に危ない所にあるがまだ首の皮一枚残している。だがあなたが声を挙げない限り直ぐにこの世から消えてなくなる。この一連の投稿の中で何度も参照している改憲マシンとは即ち管理社会、監視社会の下全ての人間の心をコントロールする社会の事と定義出来よう。だから皆、声も挙げない投票にも行かない大人しい羊達となってしまった訳。このトレンドが長い時間をかけ非常に強力になって来たのである。その結果日本の社会から柔軟性が失われてしまった事。知的なレベルが著しく劣化し、皆が皆オペレータになってしまった事。日本の社会の進化が止まり人々の退行が著しい事を見れば明らか。政治家も例外ではない。議会制民主主義は基本、二大政党制と言う仕組みより成り立つ事も理解しない、どうしょうもない島国根性で自分の政党が一番だと思っている政治屋共。嫉妬心からお互いの政党を罵りあうパワハラみたいな事に明け暮れている、改憲マシンの手の掌の上に乗っている事も判っていない孫悟空達。

此処でとても大事な問いをしておこう。大人しい羊達は彼ら3人の番人達に毒槍を放棄させ、心優しい番人変えられるかどうかである。
■ 経済界に圧力をかける。厳しいね。労働組合なんてもはや存在しないし、消費者団体なんて消えしまった
■ 行政府に裁判を通じて圧力をかける。米国では中央政府即ち連邦政府が政策を巡り地方の州政府から訴えられる事がままあるそうである
■ 立法府を選挙を通し更新し圧力をかける。これが一番簡単。一方内閣と政権与党経済界行政府の面々は大人しい羊達が生存権の一部である投票の権利の行使の意欲を喪失してしまう様に日々洗脳に頑張ってます

皆さん現在の政権下で長らく、懐事情は良くならないばかりか悪化して来ている事を肌身から感じているでしょう。しかし立法府を構成する政党の勢力図が変ったとしても、経済界と行政府は柵の中の羊達を搾り取り続けたい訳で手練手管で自分達の利益を最大限に絞り出してくれるシステムの存続の努力をします。それに協力的な政党が立法府の最大勢力になる様お互い補完的に、市民が選んだ新しい国会の政治勢力を貶める様再び策謀する事でしょう。だって一番相性が良いのが美味しいのでしょ?即ちこれを緊張関係の無いズブズブな関係と言う。これ独裁制の見本ね。この彼らの習性を皆さん忘れないで下さい。大事な事は立法府に継続的に投票と言う行為で圧力をかけ続けて、経済界と行政府に今のままでは日本は駄目になってしまうと認識させた上日本の活力を取り戻す為に今の政治が向かっている方向の、転換を計る時なのです。

この章の最後にあたり: もう一回言います。それは継続する事で達成出来ます。経済的に社会的に弱い立場の人々が支える政治勢力が立法府において力を強く持ち続ける事で立法府と言う番人を心変わりさせ日本の国民に向けた毒槍を地に置かせた時初めて、残り2人の番人が民意を聞き始めそれぞれの威圧の為の毒槍を地に置く事が可能になるのではと思います。それは人間の顔を持った社会の始まりと言えます。それにはまず1980年代のベルリンの壁を目の前に暮らしていた住人達と同様、羊の様に閉じ込められたこの見えない垣根と壁を壊す作業が必要ではないでしょうか。「未来を目の前にして、くたばるわけにはいかない」のです[1] 。英語のビデオ解説[2][3][4]等。特に[2]では男達が涙する映像が有る。感動的だ。東ドイツの一部の若者はベルリンの壁の背後に在る強大な権力に抵抗していました。表現者を抑圧した東ドイツでベルリンの壁を打ち倒そうと努力して来た若者達。人々が自分達の人間としての尊厳を守る事と同時に外からの風潮を変えようとしなければ未来には何も希望が見えて来ません。ベルリンの壁は見えていたので倒せました。この日本では人間性を抑圧する、見えない原理主義と言う壁を倒さなければならないのです。時折私は人間の顔を持たない国家を飲み込んだ西ドイツの人々の底力と自由を渇望し行動した東ドイツの人々の事を想うのです。

参考文献:
[1] "ベルリンの壁崩壊を後押しした、東ドイツの若きパンクスたちの物語," Jerry Portwood (訳 Masaaki Yoshida), RollingStoneのウェブサイトより, 2018年9月24日,
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29044/1/1/1
[2] "1989: The Fall of The Berlin Wall," Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=bQOoWw6oYzY
[3] "The fall of the Berlin Wall in 1989," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=zmRPP2WXX0U
[4] "Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall," Youtube,
https://www.youtube.com/watch?v=snsdDb7KDkg

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第12章 こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います

圧政には幾つかのカテゴリーが有る様である。その筋の専門家ではないが、小生が思うに現政権は1/4の日本の市民の熱狂的な支持と選挙の結果のもと独裁的な形態で政治が行われ、残りの3/4の大多数の市民に対しては専制(又は暴政)的な政治が執り行われている様なのである。ウィキペディアの「専制政治」[1]より引用する:「『身分的支配層が被治者と無関係に営む統治』が専制政治である。それに対して独裁政治は、国民の大多数の支持によって権力を付与された独裁者による政治であり...」日本で行われている祀り事は、つまり1/4独裁+3/4専制の暴政と呼んでおこう。法律を破ろうが知らん顔、責任問題となってもケツを捲って逃げ、嘘をついてそれがばれても厚顔に開き直っている。要するに権力を握り続ける為何でもありのアナーキーな事を権力者が行う時代なのである。この様な異様な事態は以前の日本ではあり得なかった。そしてこの様な日本中がマトモでなくなってしまった世相の中で憲法を書き換えると言うのであろうか?いや実は、日本がオバカになったこの状態でないと憲法は自分達の都合の良い様には改正出来ないのである。しかしここで一つだけ確実に言える事がある。「こんな腐った政治はもう沢山だ!」

いずれにせよこの様な平成になってしまった理由は簡単なのだ。思うに政治80%、経済20%の割合で双方に「この様な腐った平成に誰がした」かの責任がありそうだ。政治の舵取りと舵を取り続ける政治家の面々がもう少しグローバルな国際的な視野を持っていたのであればと、しみじみ思う。随分昔の話で恐縮だ。大平首相の「あーうー」と言う表現を冷やかし、揶揄する新聞を読んでいた学生時代の頃が今でも心の片隅に残っている。こちらまで大平首相を小馬鹿にしたくなる気持ちにさせて貰らっていた。まだその時は日本経済新聞も国際的な見方が出来ていた気がする。その紙面の確か「私の履歴書」で大平首相が外国訪問時にその飛行機の中で原文の哲学書を熱心に読んでいたと書かれてあった。今振り返って見ると、この様な人間の事を考える政治家は希有だったのだろう。一国の首相たる者の厚みを感じる。平成は人間の厚みを失ってしまった時代なのである。この10章「喧噪の中で失ってしまった大事な事」の中で指摘しておいたが、一人一人の個人が生命の流れの中ユニークな人間として産まれて来た事を考えると、大平首相の「あーうー」なんて表現にならない表現はユニークな個性と言う事で済ませておけば良かったのだ。もしかしたらその当時から日本は人のユニークさを尊重しない社会であったのかもしれない。今思えば大平首相には済まない事をしたなと思う。

簡単に個人のユニークさとは?と言う問いを2つの社会を通じて述べたいと思う。それは自由民主党の夢である憲法改正の実現の為昭和と平成と言う時代に以下2番に述べる社会を目指す方向へ舵を切ってしまった結果この様な平成になってしまったのである。私はこの責任を政治が負うべきものと考える。
■静かだが活気に愛に満ちた平安な時代。「生命の流れの中の己のユニークさ」を想い皆が皆尊重しあいお互いに共存し助け合う社会。心に余裕があり相手の気持ちもよく判る。生命を創り出す性が大事にされ、新たにこの世に生を授かって産まれて来た命を社会の宝とする、人に優しい社会。この様な社会ではユニークさは人だけに適用されるのではない。会社もそうだし国も人間の顔を持ったユニークな実体なのだ。言葉が愛を語り真実を伝える手段として用いられている。一言で善政である
■喧噪の中、ある対象に向けた憎しみの心に満ちた時代。それにより「群れの中での己のアイデンティティー」を確認させ、群れへの帰属意識を心の起こさせる様に仕向ける事或は強要する風潮に満ちた社会。私と言うユニークな個が社会と言う群れの中で埋没し窒息している「出る釘は打たれる」時代。この国ではそれが「和」と言う言葉でもてはやされている。発言力のある人実力がある人が群れから嫉妬され憎まれパワハラされて「打たれる」のである。生命よりも人のユニークさよりも国家が大事にされその名誉を重んずる国家神道を実践する内閣与党自民党の政治。人の顔がノッペリとし会社の顔がノッペリとし、国の顔がノッペリとする生命の徴が無い社会。そして又言葉が真実を隠す手段として使われている時代。悪政である。

その結果産まれる事を選び何らかの理由を持ってこの世に生命としてい出て来た一人一人の人間達が、非正規労働等で経済的に飼い殺される為に産まれて来たかの如くの人生を送ってしまっているのではないかと思える程のこの社会。天災などの過酷な自然から貰い受けた己の人生の中の苦しみならまだ判る。明治時代の歌人石川啄木の短歌「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」[2]を思い浮かべてしまうのである。この様な過酷で個人がユニークさを失った全体主義的な風潮に満ちた社会から受ける絶対貧困と言う不条理。この体制を英語でTyranny,暴君暴政が支配する社会と言う。前章の「3本の毒槍」で指摘しておいた様に経済界行政府立法府から受けるこの過酷な圧政によって、幸せに生活している家庭が少なくなり、崩壊寸前な家族が増えて来ているこの理不尽な社会。何故か?民主主義の大原則とは人々が発言しなければ、投票と言う権利を用い主張しなければ、何も得られないのである。だから人間の顔を持った政治は何もしなければ消えて無くなる。その代わりに長い間を経て暴君、暴政、圧政が産まれて来るのは世界中の政治の歴史の必然なのだ。確かに現在の日本の民主主義は米国から戦後に与えられた物であるのは周知の事実だ。戦後74年に渡って与えられた物を甘受して来た訳。だが民主主義とはたゆまぬ努力の積み重ねで初めて進化し向上する社会習慣、社会制度である事を身を以て実践しこの与えられた民主主義と言う社会形態を身につけようとして来なかった結果がこれだ。社会に積極的に関わりその社会を良くして行こうと言う気持ちと、投票と言う社会参加の行動の積み重ねが如何に大切なのかと言う例。皆さん気が付かないでしょうが、民主主義とは二大政党の下メンテナンスを常に行っていれば非常に強固な社会システムなのです。しかしあなたが今直面しているのはこの内の悪い方の例なのです。小生には人々はまるで徳川時代の封建制を諦めと共に素直に受け止めてしまう士農工商の農民の心情をお持ちの様な気がしてしまうのである。だがこの政権の甘言に騙されてはいけない。これは政権の暴政度のチェックの結果を見れば判る。現政権の日本国憲法を書き換える政策とは民主主義体制の転覆と裏腹一体なのである。何故なら今の政権がやっている事は独裁者が憲法を書き換えるのと全く同じだからだ。

さて内閣及び現政権の暴政度をテストしてみよう。その前にTyranny暴君の定義を米国にある非営利教育組織"Constitution Society"のWeb[3]から少し長いが引用する:
"Definition of tyranny
Tyranny is usually thought of as cruel and oppressive, and it often is, but the original definition of the term was rule by persons who lack legitimacy, whether they be malign or benevolent. Historically, benign tyrannies have tended to be insecure, and to try to maintain their power by becoming increasingly oppressive. Therefore, rule that initially seems benign is inherently dangerous, and the only security is to maintain legitimacy ― an unbroken accountability to the people through the framework of a written constitution that provides for election of key officials and the division of powers among branches and officials in a way that avoids concentration of powers in the hands of a few persons who might then abuse those powers."

[日本語訳]
「暴政(専制政治)の定義
暴政はだいたい残酷で抑圧的と思われているし、実際そうなのがしばしばである、が本来の定義は合法性を欠く悪意のある或は情け深い、いずれかの人々による統治なのである。歴史的に見れば良い暴君は不安定な傾向にあり、彼らはより抑圧的になる事で権力を保持する様に努める。それ故最初は情け深いと思われていたが生得的には危険なものとなり、(我々の)唯一安全を保つには合法性を維持する事 - 重要な要職を選挙で選ぶ事と三権の間の分離と要職に就く少数の人々がそれらの権力を乱用する可能性があり彼らの手に権力が集中する事を避ける、つまりこれら(の防護策)を提供する明文化された憲法と言う枠組みを通して破壊されることの無い責務に答える能力を、国民に与えます。」

このウェブの記事の中で暴政が用いる憲法秩序の転覆法を解説しているので、現政権が暴政であるかどうかのテストを[3]を引用する形で行ってみる。尚それぞれの項目が明瞭でない場合にはその解説の内容を一部追加しておいた。16項目の内各項目のテスト結果は黒●、白○、灰色の何れかである。

"The methodology of tyranny" [日本語訳] 「暴政の方法論」より:
1) Control of public information and opinion
[日本語訳とテスト結果] 「公けの情報や世論をコントロールする」
例えば早急に公開しなければならない重大な情報を暫くして公表するとか、日本では記者クラブなる組織が行う自主的な報道検閲等。テスト結果は黒●
2) Vote fraud used to prevent the election of reformers
[日本語訳とテスト結果] 「改革を目指す者の当選を妨げるために用いられる投票操作」
この項目の解説に以下記されている事は「ニュースのサービスが、結果を知りうる事が出来る前に選挙の結果を知り始めていたとしたら投票数は正直に数えられていない。」
決定的な証拠はまだ十分ではないのでテスト結果は灰色。
3) Undue official influence on trials and juries
[日本語訳とテスト結果] 「裁判や陪審員に公然と不当な影響を与える」
日本の死法府の裁判官は既に政権及び行政府と癒着しているので公正な裁判はもはや期待出来ない。
テスト結果は黒●
4) Usurpation of undelegated powers
[日本語訳とテスト結果] 「本来委任されていない権力を奪取する」
内閣は本来行政府の事務次官とそれぞれの省の協力のもと祀り事を客観的にこなして行かなければならないのだが、2014年5月に内閣官房に設置された内閣人事局が取り仕切る人事により政権のイエスマンだけを各省の幹部に任命する事が可能になった。テスト結果はまっ黒●。
5) Seeking a government monopoly on the capability and use of armed force
[日本語訳とテスト結果] 「政府が(個人の)武力の能力と使用に関する独占を追い求める」
米国では個人が銃を持つ事は権利と見なされているのでこれを制限する事は暴政であると言う立場。テスト結果は白○
6) Militarization of law enforcement
[日本語訳とテスト結果] 「法執行機関の武装化」
これはガンに対抗する為警察官にマシンガンと例えられる様な米国内の事情も繁栄されているが、一般的には警察活動の軍隊化で声をあげる市民に対する威圧が行えると言う事。別の解釈をすれば警察活動の先鋭化とも考える事が出来る。そうすると闇の警察と最近注目される様になった官邸ポリスの存在を考えてテスト結果は黒としておく●
7) Infiltration and subversion of citizen groups that could be forces for reform
[日本語訳とテスト結果] 「改革の力となりうる市民グループへの浸透と壊滅」
解説部には以下の様に書かれている。意訳する「内部にスパイを送り組織を監視する事から始まる。市民グループの指導者を虚偽の犯罪で訴追するのはその兆候である。」経済界、行政府、与党内閣のやり方に反対しうる勢力が消滅してしまった事実を考えるとテスト結果は黒●
8) Suppression of investigators and whistleblowers
[日本語訳とテスト結果] 「捜査官と内部告発者の抑制」
特定秘密保護法が施行されていると言う事実から、テスト結果は黒●
9) Use of the law for competition suppression
[日本語訳とテスト結果] 「競争抑制の為に法律を使う」
解説を意訳すると「主流派が勝利する様、支持者に金銭を与え支持者が対抗する勢力を懲らしめる事より始まる、が公務員自身が不法な行為、活動に関わり、敵対する独立候補を法律を用い抑圧する....」
日本の選挙では札束が飛び交い、対立候補を貶める事例えばその運動員を選挙法違反で恣意的に逮捕、等が選挙の行事の習慣として今でも残っている。最近では参議院選のさなか秋田県庁敷地内で勤務時間中知事と県職員が立候補した候補に向かってかちどきの声を上げる違法すれすれの事をやっている位の民度の低さ。よってテスト結果は黒●
10) Subversion of internal checks and balances
[日本語訳とテスト結果] 「内部チェックとバランスの転覆」
幾つか例が挙げられるだろうが、過去の投稿に2回言及している韓国に対する半導体の部材の「輸出規制」を例に挙げておく。行政府内のチェックとバランスの喪失である。本件が外務省の頭を飛び越して経産省主導で行われていたと聞く。正常なら二国間では経済関係と外交関係は裏腹一体なのだ。この非常識なイデオロギー主導の非礼外交が何時まで続くのやら。更に二大政党制を壊滅させた結果与党に匹敵する勢力の野党が存在せず権力がやっている事のチェックとバランスを行う事無く、手綱の無い狂った荒馬の如くに憲法改正へ向かって突っ走っている政権。よってテスト結果はまっ黒●
11) Creation of a class of officials who are above the law
[日本語訳とテスト結果] 「法律の上に立つ政府職員集団の創成」
先日森友学園事件に関わった、内閣府の命令に従って行動した財務省佐川某やらを大阪地検特捜部が公文書偽造等の犯罪は証拠不十分として不起訴にしたが、この国には正義を行使する手順を整える組織である検殺と警殺が全くの腰抜けで本来の仕事をかまけているのが判る。又仕事絡みでの女性を手篭めにした山口某が逮捕されないのを見ればこのテスト結果はドス黒いぜ。真っ黒を差し上げよう●
12) Increasing dependency of the people on government
[日本語訳とテスト結果] 「国民の政府に対する依存度を高める」
この古典的なやり方は国民から持っているもの奪い取り、権力を持つ者の要求に答える様であれば奪ったものを見返りに返すやり方。例えば年金支給額これだけ減るよと脅して政権の言う事を聞くのなら考え直してもいいよ、と言う感じか。過去を遡って政権が取った実例を思い付かないのでテスト結果は白にしておく○
13) Increasing public ignorance of their civic duties and reluctance to perform them
[日本語訳とテスト結果] 「市民の義務に対する国民の無関心を広め、それらを実行することを忌避させる」
米国での市民の義務とは投票、国家非常時の兵役、陪審員の仕事等。又先の参議院選挙の争点などの情報も殆ど隠蔽と言ってよい程国民の目から隠し通し無関心を広めていた。更に日本の立法府において十分な審議も尽くさず法律を通してしまう、立法府の国民に対する義務も果たしていない現状。テスト結果は真っ黒を差し上げよう●
14) Use of staged events to produce popular support
[日本語訳とテスト結果] 「段階的な出来事を利用して人々の人気を巻き起こしサポートを産み出す」
ここ一連のお茶の間の話題「対韓輸出規制」を例にだしておこう。テスト結果は黒●
15) Conversion of rights into privileges
[日本語訳とテスト結果] 「権利から特権への切り替え」
この項目の解説は「立証責任が請願者にある適法手続を除き、政府が制限する事を許されていない事まで(人々に対し政府が)免許と許可を要求する。」越権行為。地方自治体ではありそうだ。テスト結果は灰色にしておく
16) Political correctness
[日本語訳とテスト結果] 「政治的正しさ」
この項目の小生の理解不十分故日本語訳正確でないかもしれません。かいつまんでこの項目の解説を意訳すると「殆どの人は差別用語を用いない或はもっと柔らかい言葉に置き換える『政治的正しさ』に影響され易いので差別的見方や差別的態度に対して抑圧的な行動をとってしまい、それが専制的な政府を優位へ導いて行く。」言葉狩りが暴政への道と私は理解している。日本では差別と反差別が共に己の「政治的正しさ」の基準を持っている様である。お互いがお互いラベル張りに忙しい様だ。テスト結果はどす黒い●

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更にこの続きでは専制政治、暴政を避けるにはどうしたら良いかを説明している。
"Avoiding tyranny"
[日本語訳] 「専制政治を避ける事」
「重要なの事は専制の風潮を常に感じ取り、彼らが更に先に進まない様に或は非常にしっかりと基盤を固める前に彼らの力を摘み取る事である。国民は如何なる憲法違反も決して黙認すべきではない。初期の段階で是正措置を講じなかった場合には、それは更に大変厳しい対策を後ほど講じなければならぬ事を意味し、おそらく其処からの回復には数世紀かかるかもしれない人命の損失や社会の崩壊がおこってしまう。」この例として、始めは善政の様に見受けられたシリアの現政権とその内戦状態及び後始末を想像するだけで上記は誰でも理解可能。この様な内戦状態で何時も誰が犠牲になるのか考えてみて下さい。

さて、16問中黒12point即ち12点、白2point即ち0点、灰色2point即ち1点である。よって得点は満点ではないが13点/16点として現政権は暴政テストにはしっかり合格した。これで思う存分民主主義体制と憲法を破壊出来る。だが日本の3/4の人々に取っては、この政権は暴君、暴政、専制、圧政即ち国民の敵なのである。驚くべき事だがこれが日本の民主主義の実態なのである。つまり現政権は選挙で選ばれた合法性を持ちながら、二大政党下ではない状態で憲法の理念を骨抜きにする悪意或る行為を何年も続けている暴君、暴政(Tyranny)であると結論出来ます。

ここで喚起しておきます。この'Tyranny'と言う言葉は米国の共和党民主党の上院下院の議員達、行政府のスタッフ、軍人達と大統領のみならずその市民の正義心に深く突き刺さる言葉なのです。ですからもしこちら側が言葉を発せば、米国市民は日本の政治状況を理解してくれると思います。

米国のトランプ政権より願ったり適ったりの圧力を受けている日本の現政権の立ち位置を以上の暴政と絡めて考えてみよう。中東ホルムズ海峡のタンカー運航の安全確保へ向けた米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請である。現憲法下での自衛隊の海外での武力行使は不可能なのだが、つまり憲法違反なのだが、自衛隊をホルムズ海峡に派遣する事により、其処で外国の軍隊と交戦した場合には戦力の放棄を定めた日本国憲法を蹂躙する事がおこる訳でこの様な要請は非常に重大な米国による内政干渉と言う事が出来るのである。武力行使を既成事実として更に現政権の改憲の勢いが一段と深化強力になり現憲法がそしてその枠組みと理念が破壊されてしまいそれを日本が永遠に失ってしまう結果となる事は明白なのだが、何故日本の誰も声を出して指摘しないのか。皆さん本当に茹ガエルになってしまったね。

米国の歴代大統領と国務省、国防省が合衆国憲法の理念に基づき「世界の警察官」として米国外のTyranny体制を転覆させてその国から除去して来た歴史からすると日本の現政権を権力から排除するのが筋だが、この暴政を更に加速する様な内政干渉と言う矛盾を何故行うのかを米国の政治勢力や民主団体、そして国際社会に訴えるべきなのである。米国民主党を公然と支持する新聞"The New York Times"にでも現政権の暴政ぶりや悪行の数々、そして米国が日本の国民に対しやりたい放題やっている事に目をつぶりその政権を利用している事実を寄稿してみても良い。残念ながら今は極めて瑣末なゴシップ記事にうつつをぬかしている時ではない。日本の民主主義体制を転覆させる様なトランプ政権の、この暴政なる政権に対しての、圧力を止めて欲しいと米国上院と下院の議長に書簡を送るべき時なのである。悪政を行うTyrannyを米国が支持するのは日本の3/4の人々の民意に対する侮辱だ。ハーグの国際司法裁判所に米国主導のホルムズ海峡への護衛艦派遣の圧力の無効化を訴える事も出来るのではないか?誰がこれを行うのか?そんな優長な事言ってられないんだよ!今の日本の民主主義体制を支持する与党の一部と野党が結束して可及的速やかに事をおこさなければ全てが手遅れになってしまう。これに協力する政党が声を上げ国際社会に現政権の行っている日本の民主主義体制の破壊の事実を訴えなければならない。もうこの際自分達野党側の政権交代の非力さなんて様な恥も外聞も無いんだよ。もしかしたらもう遅いのかもしれない。だが一縷の望みを持って - 皆さんこのウェブを読む事はまず無いだろうが - 無理を承知で訴えたい。次の衆議院選まで待てないのだ。あなた方が投票と言う行為を通して暴政を行っている自民党と決別してこの国を平和な国へと、そして3/4の日本国民が再び国政の舵を取り戻し、コントロールし始めるきっかけを作り出して頂けるだろうか?もう時間が無いのである。

もし内閣自身が米国に拠る有志連合への軍事的な協力要請の回答を出来る資格があるのであれば、その結果の公表を日本中に行う前にこれを阻止しなければ日本の民主主義はご臨終となる。韓国との貿易戦争や2019年度防衛白書原案での韓国の重要度格下げと言いこの米国の圧力などと、1/4の国民の、あわよくば残り3/4の国民の愛国心を煽って人々の心の操作を行い政権がやりたい事に同調させるやり方。まるで原理主義の司令塔がそれぞれの行政府に送り込んでいる配下の者達に向かって、そのタクトを振りオーケストラの様にそれぞれの省庁による政治の出来事を造り出させ、憲法改正と言う一つの流れに合流させる様にショーを進行させている。スマートな奴らだ。今の世の中の一連の動きは彼らのシナリオ通りなのである。これが一連の憲法改正のドラムの音が大きくなりそして早くなって来た理由なのである。彼らに取っては今が憲法改正への集大成の時であり、その突破口なのである。残念ながら彼らが造り出した流れに抵抗する勢力は現在の日本には存在しない。これから最終的に少なくとも1/2の日本の市民がこの暴政に選挙でNoを突きつけ民意を表さない限りトランプ政権内のタカ派からの圧力は弱まらないであろう。

この章の最後にあたり: 問題は王様は裸と言えない国民性でかつ、人々はその裸の王様が暴君だと言えない根性無し、つまりこの暴政に鉄槌を下す勇気さえも無い訳。しらけているのがcoolなのではない。この現政権の暴政を引き返せない所まで行かせてしまうのかどうかはあなたの行動に懸かっている。今からでも遅くはないと己に言い聞かせ「さあ、世直しの為に投票へ行こう。」そしてより良き政治、善政に向けた流れに参加しよう。将来を予見しようと努力する人々にとって、政治に参加する事は知的な興奮であり楽しみなのである。政治が楽しければ日本の民主主義の未来は明るい。そして志ある政治家達よ、本当に投票に値する入れ物を用意しておいてくれ。

参考文献等:
[1] "専制政治," ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E5%88%B6%E6%94%BF%E6%B2%BB
[2] "一握の砂," 石川啄木, ウィキペディア,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%A1%E3%81%AE%E7%A0%82
[3] "Principles of Tyranny (暴君の原則)," by Jon Roland (米国にある非営利教育組織"Constitution Society"の創設者),"Constitution Society" のWebより,
https://constitution.org/tyr/prin_tyr.htm

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第13章 「日本病」と言う病。 人間の顔を持った社会とは?

先日9月23日のスェーデンの16歳の女性Greta Thunbergさんが国連での"Climate Action Summit 2019"で行ったスピーチの録画を最近見た。[1] 驚いている。新聞では伝えきれていない声が伝わって来る。とても立派な人である。人類は何処へ行こうとしているかを俯瞰し、この世界を大きく見ている人だ。皆が皆生命の破滅に向かって行進している時、我々大人達に対し正気を取り戻させる声を私は彼女の発言の中に聞いた。彼女が彼女の同世代に共感と連帯を訴えている事とは何か。それは生命としての自己防衛を喚起させる風である。そして何も変えようとしない国々の指導者達を怒りを込めて激しく非難する理由とは一体何かを思い起こす。それは宗教やイデオロギー、資本主義的、共産主義的思考と習慣により、現状維持を選択しなんら行動を起こさずに茹ガエルとなった世界の先進国の人々の偏狭さと頑迷さを利用し現(与党)体制の保持を図る国の上層の人々に向けられたものなのです。例えば大統領の教唆の下、人々の生態系への無理解と欲に付け込んで進んでいるアマゾンの熱帯雨林地帯の大規模な破壊が一例です。私には彼女の国連でのスピーチの揚げ足を取る方々の頭の中が理解出来ないのである。彼女の発言のContext、文脈を見ないで言葉の表面を見ている方々が何故多数いるのか。その理由は単に彼女が子供から大人になった人間達の怠慢と無為無策を非難しているからで、彼らはその事実を指摘され反発する愚かな大人達なのだ。1945年の生命の滅亡を起こしてしまう核兵器の使用とそれに対抗する為理性と英知の行使を促した1955年のラッセル-アインシュタイン宣言、"Russell-Einstein Manifesto"[2]も虚しく現在でも核兵器の数は一向に減らない大人達の無為無策と共通なのである。この宣言の一番最後にラッセル卿とアインシュタイン博士は締めくくっている。"We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death."抄訳は「私達は人間として人間に訴える: あなた方の(人としての)ヒューマニティーを思い出して欲しい。そしてその他の事は忘れて下さい。あなたがその様にすれば新しいパラダイスが開けて来る; もしこれが出来ないのであれば世界が死のリスクに直面するだろう。」これは「第7章 何処から、何処へ、何ゆえに」で述べた 哲学者"Karl Jaspers"の立ち位置「...核戦争の恐れが個々人の意識の中に浸透しこれが新たな'ethos'『風潮』として育ち、歴史上のモラルの力となり、絶滅の脅威に対する適切な政治を産み出す可能性、の中に我々の希望がある」との考え方と共通する。この生命としての存在から流れ来るヒューマニティーを忘れてしまった愚かで強欲な人間達が地球に向かって行って来た、放射性物質量をまき散らす大気圏内や地下での核爆発実験、水銀汚染した魚や、油にまみれた海の汚染、大気汚染等の蛮行愚行に対し神に許しを請う歌を1971年に作詞作曲し歌った人がいる。その彼の曲の歌詞の中の2点がGretaさんの発言全てを集約していると私は思う。[3]
1) "Whoa, ah, mercy mercy me. Oh things ain't what they used to be, no no." 「おお、ああ、私を許して下さい。(多くの)もの事が前の様ではなくなってしまった、ノー、ノー」
2) "What about this overcrowded land. How much more abuse from man can she stand?" 「この人に溢れた土地はどうなのだろう。人間から受ける虐待を彼女(地球)は更にどれだけ堪えられるのだろうか?」

あなたはこの2つの気持ちを感じた事はありませんか?この「7章 何処から、何処へ、何ゆえに」での見方を取ると私にとっては「『生命の誕生』から、『生命の滅亡』へ、『ヒューマニティー』の欠落ゆえに」地球が殺され生命が死んで行く未来を垣間見てしまう。生命を絶滅に導いて行く様な要因を少しずつ破棄し無力化して行く事も出来ない我々大人達。人間の間のヒューマニティーも置き去りにしている現在。それぞれのイデオロギーや宗教のContextの違いから憎しみが発生し軍隊が発生し核兵器が発生し大量虐殺が起こるこの世界。Contextの違いにも関わらず力を持つ者に共通する事は子供達と地球の未来も何ら想像もせず、彼らの利益を最大にする事に専念しているのである。これに由り不可逆な環境破壊が進んでいる訳。それはこれから産まれて来る生命に対する犯罪に他ならぬ。Gretaさんの怒りは今の目先の利益と子供達の明るい未来のどちらが根源的で優先順位が上なのかも考えない政治家経済人と彼らをサポートする行政府に対しての怒りなのだ。自由貿易の名の下のTPPに依り地場産業の農業が死んで行き、乱獲と海水温の変動に依り漁業が死んで行き、人手不足や過剰な伐採に依り林業が死んで行く生命と人間の共存するエコシステムの崩壊の時代と言い得よう。これら再生可能な資源の破壊を許す行政とその背後に控える、見えない大きな力を持ったGeopolitics.生命の個体数と種の数が減少し人間だけ人口が増え続ける、この地球上で続く生命の多様性の消失が無言で進むのである。これらの地球全体の問題は'Post-Geopolitics'と言う世界に向けて人々が自ら進んで行かない限り達成出来ないのです。だから今、権力を自由に操れる一部の人々により操作され踊らされている、人を憎しみ人を傷つけても平気な己をそこから解放し偏狭で頑迷な行動様式に「さよなら」を言う時なのではないでしょうか?

さて話しを日本に移す。皆誰も大きく観ようと努力しないこの日本の世の中、これら上記13章の投稿で日本がそして日本の人々はどの様な不可知な機構と仕組みに日々直面しているのであろうかと言う問題提起を行って来ました。そしてPost「原理主義」の時代へ進む為には、以下長々と文章を書いたのだから其処に辿り着くまでの道筋を付けなければならない、と思うのですが...如何せんその才能も時間も持ち合わせていないのでこの仕事は誰かにバトンタッチします。日本の上に立つリーダー達が国内のリーダーとしてだけではなく世界のリーダーとしてこの地球が人間の欲望と狂気で破壊される前にどの方向に向かって、何を成さねばならないなのかと言う問いの道筋や対応策を出さなければいけないのです。例えば世界中の軍事費を年間予算制から月間予算制とし、一年の内一ヶ月だけでもゼロにするとか劇的な転換を行う事が出来ないのでしょうか?このPost「原理主義」へ進む道筋を見つける宿題を良心と希望に満ち志を持つ政治家達に委ねたいと思います。グレタさんが問い続けている問題は日本も該当します。再び言います。あなたを含め良心を持つ人々が今戦っているのは市中の人々の偏狭さと頑迷さなのです。この習性の病を人々に罹患させ利用する強欲な少数の人々がいると言う事を忘れないで欲しい。

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では本題に入ろう。一番最初の章で「強欲」と「風潮」と「見えない大きな力」と言うこの一連投稿の中に流れるキーワードを申し上げました。あなたはこれらの投稿で3つの言葉を通して日本の社会、日本の人々、日本の政治、そして同様に世界の人々や世界の政治の事を思い巡らせて見たかもしれません。更にこの50ページ弱もの文章中にはもう一つのキーワードが入っています。それは「ヒューマニティー」と言う言葉です。この言葉に進む前に見ておきたい事があります。この章の際者の部分で少し述べましたが、この中で「見えない大きな力」と言う言葉の背後にあるものごとを見極めるともう一つの言葉'geopolitics'「地政学」と言う言葉が見えて来ます。日本の社会を見ると日本独自の地政学があり「復古主義」或は「国粋主義」「民族主義」と言うイデオロギーを纏って、それらが跋扈している今の日本社会を目の当たりに出来ます。その日本の外の世界を見ると更にドロドロとした欲望に満ちた人々が動かす「覇権主義」としての地政学が実感出来ます。日本独自の地政学を推進する「彼ら」に「原理主義者」「復古主義者」と言うラベルを張るのは気が引けるのですが1/4の日本の国民が国家神道と言うイデオロギーに走っているのではないかと思えて来る現状を鑑みると「日本列島改造論」ならぬ日本の社会の中で「彼ら」が進める「日本人改造論」がメディアを使って実践されていると判断するのが自然だと思います。今世界の民主主義の国々の中で憲法改正に夢中になり、強大な軍事力を持とうとしている国はトルコ(独裁制が完成間際。既に憲法改正してしまった。でも都市部のトルコ市民は大統領が進める独裁制に抵抗している)と日本位でしょう。その様な状態の日本、尊敬に値しないと世界の国の人々に笑われています。この3つの流れ「強欲」と「風潮」と「見えない大きな力」、に対抗出来る力を備えた「ヒューマニティー」と言う見方と考え方をどの様に行使するかを全くと言って良い程考えて来なかった日本の社会。先ほどの言葉"Remember your humanity, and forget the rest."これが日本の方向を決める鍵と成る事を明記しておきます。

さて前章の最後で述べましたが一人一人が投票へ行けば、日本が抱えている問題が直ぐに解決する様な幻想を与えてしまったかもしれません。又、私はあなたが以下の様な事実を認識しているかどうかは判りません。実際に日本が抱えている問題は途轍もなく大きなものなのです。投票に行く事は瀕死の民主主義国家日本の、治療へ向けた最初の一歩と言う事を伝えておきましょう。何故なら国民の知らない間に専守防衛と言う憲法の枠組みから大きくはみ出した戦闘機F35Bを搭載出来る攻撃型空母「かが」と「いずも」を建造してしまう程の社会勢力が支配している国の社会に住んでいるのです。今日のホルムズ海峡への自衛艦の船舶派遣、イージス アショアを含めた全ての日本の憲法から逸脱する流れが深化し本格化即ち再軍備化、再軍事国家化させる動きが何時始まったのか皆さん疑問に思った事は無いのでしょうか?「1番艦『いずも』が平成22年度予算で、2番艦『かが』が平成24年度予算で建造された護衛艦であるため...」[4]そしてこのウィキペディアの中で2つの空母の建造機関が2012年から2017年と明記されています。民主党が政権を握っていた時代に既に空母建設の流れが決まっていた事に驚いてしまいます。そんな中で"The New York Times"電子版の記事[5]が2015年4月の安倍首相の米国訪問でのオバマ大統領との会談の際に、事前に用意されていた二国間の軍事的な合意の内容を発表しました。この合意内容の解説は全く日本のメディアに登場しなかったのではと思います。此処では2点引用します。(1) "...American and Japanese officials announced an agreement on Monday that would expand the reach of Japan's military - now limited to its own defense - allowing it to act when the United Sates or countries American forces are defending are threatened...." (2)"Now Japanese forces also could aid American ships involved in missile-defense activities in the region, or Japan could intercept a missile heading for the United States. 'That is a very big change from being locally focused to being globally focused,' Defense Secretary Ashton B. Carter said..."
[日本語訳]
(1)「米国と日本の担当者達はこの月曜に - 現在自己防衛に限られている - 日本の軍隊の役割を米国が又は米国が防衛している国が脅威に晒された時、行動を許される事に(方針転換に)同意する旨を表明した」
(2)「今日本の軍隊はこの(アジア)地域でのミサイルに対抗する活動を行っている米国の艦船を援護する事、或は日本が米国に向け飛翔しているミサイルを遊撃する事、が出来る様になる。国防長官のAshton Carter氏は「これは地域に焦点を合わせた事(軍隊)から世界に焦点を合わせる存在となり非常に大きな変更だ」 この記述はイージス アショアを是が非でも秋田県と山口県に配置したい政府のおおもとの理由なのである。

これは日本の「大きな見えない『イデオロギー』の力」と米国の「大きな見えない『地政学上の』力」の間でこの軍事協定の合意に達したと解釈すべきなのです。日本国の主権をねじ曲げる犯罪を現政権は行ってしまった。既に日本国憲法は実質的に改変されているのです。更に2015年7月に集団的自衛権を容認する安全保障関連法案が衆議院を通過。この日米間の軍事的一体化の同じ流れは日本国憲法の解体の始まりを決定付ける事となった。

「彼ら」が練り上げ決定した或るスケジュールに従って現在の日本が歩んでいる軍国化の道が既存路線となっていて、その行き着いた先が憲法の枠組みと理念を超えてしまう今回の米国国務省の発表[6][7]となった訳である(この文書[6]を読んでみました。日本の行政府と自由民主党の命綱は日米安全保障条約なんだなと実感出来る外交文章でした。でも何か足らない。非常に重大な内容を持つ密約が背後に隠されているとの印象を受けた)。このオバマ大統領と安倍首相の会談の記事は日本国憲法の実質的な改変を行う合意に達した事実を示す。処が、なのだ。この合意に関して何時誰が主導権を持ちどの様な過程を踏みこの合意の草稿を練り上げたのかを日本国民に明白に説明しなければならないのです。それが全く為されていない事実。憲法と言う法律の一貫性を保つ為に、ここに国会による国政調査権の発動を要求します。何故ならそれは現政権が己の利益の為日本の主権を自らねじ曲げたのか、引っ込めたのか、それとも米国に売ったのか。或は米国のオバマ政権の圧力で折れたのかが闇に封印されているからです。以上の点を含め一番最初の時点で軍事協力の提案をどちらの国が最初に行ったのか。裏に隠された密約の有無等、を国政調査権を用い明白にしなければならないのです。この調査権は外交機密と言う盾よりも上位に位置する。何故なら、憲法に違反する様な事を行う事は憲法自身がその枠組みの一貫性を保つ様に憲法そのものの自己防衛を行う様行動する事が許されるのである。もしこれが日本と米国の間で秘密裏に進められた議題だとしても、名目として外交機密は適用されないのである。現政権は既に皆さんが考えている以上に深刻な憲法破壊を気が付かないうちに秘密裏に行ってしまっているのです。

それにしてもこの様な事を認識出来ず、記事にも出来ない日本のジャーナリストはアマチュアよりもランクが下だ。中学校の学校新聞を作っていた方が良いのでは?しかし...残念な事だが彼らとて以下に述べる「日本病」に疾患している人間なのだ。だから今の日本の人々はこの軍事協定の合意に二国間で「大きな力」が働いた事を知覚出来ないのである。

さて、「英国病」と言う言葉を御存知ならばそれはあなたは年配だと自覚しなければならない程昔の話になってしまった。それは1970年代の英国の経済状態、人々の日頃の習慣と社会の風潮の事を一般に指します。当時英国は慢性的な経済停滞と労働者の勤労意欲が低いと言う評判でした。それを世界中で英国病と呼んでいました。その後鉄の女サッチャー首相が登場し北海油田の開発稼働(読者からの御指摘、感謝します)等ラッキーな要因の結果英国はその病から回復。では、この日本国内へ眼を向けて見ます。日本では英国病ならぬ「日本病」が蔓延しているのです。それは日本が死に至る病なのです。「日本病」と英国病と決定的に違う所は、「病にさせられた人々」と「病になった人々」なのだと記しておく。

今日本の社会が直面している根本的な問題点は何処にあるのか?それは、社会そのものが「見えない大きな力」によって病にさせられてしまった事に対して、茹ガエルが茹で上がって死ぬ直前みたいに人々が平然としていて投げやりな事なのです。それ故自分達をどの様に治療して良いかなんて考えもしない。さらに人々が心の質を低下させ、心の元気さを失い、そして人々の能力が心が病んで衰えてしまった事に気が付かない。生きる力さえも失ってしまったかの様な無気力に満ちた社会。それを私は敢て「日本病」と呼びたいのである。どんな特徴的な症状があるかを思い浮かべた項目だけ2つのカテゴリーに別けて列挙しておく。
■社会の低いレベルから見る、「どうして?」
・大人達が子供の手本では無くなってしまった・貧富の差に関係なく子供達に豊かな公共の教育環境を提供出来なくなった・若い人々は内向き指向になり、人々は国際的な視野を失しなってしまった。即ち世界を相手に競争していると言う意識を喪失してしまった・皆チャレンジしなくなった・自分の意見を言えなくなってしまった・自分の意見を言う人を攻撃する、表現する人々を脅したり抑圧する様になってしまった・皆ストレートにものが言えなくなった・皆本当の事が言えなくなってしまった・真実を言う勇気がない、即ち人々は間違っている事を間違っているといえない・子供達を含め人々が皆集団で陰湿なイジメをする・嫉妬心とかイジメたい気持ちを持ち、パワハラしたりセクハラしたりする・人をイジメてストレス解消する・人々が泣き寝入りする様になってしまった・会社が、社会が皆腹黒く嘘付きになって来た・TVの内容が低能になってしまい知性のカケラも感じさせない事にうつつをぬかす様になってしまった・人々が愚かになった・人々から寛容さが失われてしまった。つまり日本の社会が独善と偏狭に満ちてしまった・自分の時間を失い、LINEに1分以内に返信しなければならない様なプレッシャーを感じる様になってしまった・取るに足らない色々な情報に振り回される様になってしまった・自分の足で歩く自己推進力を失い群れの中で皆と同じ様に流される様になってしまった・人々が直ぐキレる様になってしまった・日本の社会に暴力が満ち溢れる様になってしまった、そして社会で犯罪が多発する様になってしまった・皆批判精神を失ってしまった。一方人々は批判された時大らかな気持ちでいられなくなった・皆悪い事を悪いと言わず自己保身に走る様になった・皆組織にとって不都合な事を隠す様になってしまった・皆責任逃れする狡さを身につけた。皆卑怯になってしまった・皆最初から諦める習慣がついてしまった・皆力を持つ者に服従し媚びへつらっている・皆行動する力を喪失し、不正が正せない・ある出来事の説明の責任と結果の責任をとる習慣を失った・ウヤムヤが大好き・人の痛みを感じなくなってしまった

11章で述べた「毒槍」を持って日本の国民を自分達の利益の為に搾り取ろうとする3つの勢力は、日本が世界一流国だとラッパを吹いて人々を奮い立たせています。でもこれだけの病状を日本社会が示している現状の中日本の国力の実体は遥かに下に墜ちてしまっているのです。それは...「そ・し・き」の中でものを言えなくなった言わなくなったと言うこの社会の劣化の根本原因が有るからです。これでは社会が悪い方へ流されてしまうのは当たり前。それに抗う一人の自衛官がいた事を皆さんすっかり忘れてしまったでしょうね。海上自衛隊の自衛艦たちかぜ一等海士の自殺事件をここで出します。民事訴訟が2014年4月に確定しました。事件の流れを説明します。 2004年10月27日に当時21歳の一等海士が遺書を残し電車に飛び込み自殺。この中で上司の二等海曹を名指で批判。この為海上自衛隊はその後たちかぜ全乗員に暴行や恐喝の有無を尋ねるアンケートを実施。2005年に遺族がこのアンケートの公開を要求したが、海上自衛隊はアンケートは破棄と事実をねじ曲げて回答。「2006年4月5日、自殺した隊員(21)の両親が、Sと国を相手取り、1億3,000万円余りの損害賠償を求める訴えを横浜地裁に起こした。....2011年2月4日、遺族側は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した。2014年4月23日、控訴審は遺族の主張を認め賠償額も7350万円に大幅に増額、小野寺五典防衛相は25日の閣議後記者会見で『重く受け止める』と述べ、上告を断念する意向を示した。遺族側も上告せず、判決が確定した。」[8] 裁判中に三佐がアンケートの存在を内部告発。2012年6月に海上自衛隊はこれらアンケートが存在している事を7年もの間嘘を世間につき続けた後に認めた。

何故未来永劫に渡り日本の組織内で不正がまかり通るのかの答えが此処にある。その自衛官が今の日本の人々に決定的に欠ける心を一言で語っている。組織の中で人らしく振るまう事が如何に同調圧力で抑圧されているか良く判る例。彼の言葉は次の""の引用文中の一番最後の鍵括弧参照の事。"かつて訴訟担当者だった現役自衛官が「重要文書を隠蔽している」と、自らの組織の<不正>を暴いた。「自衛隊が、不利な事実を隠したまま『不正な勝利』を得てしまう」今の生活を失ってしまうかもしれない恐怖と闘いながらの苦渋の決断だった。自衛隊は「文書は破棄した」と説明してきたが、一転。その後、200点もの大量の文書が開示された。... 「私は、組織に対してではなく、法の正義と国民に忠誠を尽くしたい」...."。[9]上から下まで色々な組織でどれだけ不都合な事を隠蔽すれば気が済むのだろうか?「なお、内部告発を行った三等海佐は小野寺防衛相が処分に対し否定的見解を表明していたこと(2014年4月25日)から処分対象とされなかったものの、所属組織である海上自衛隊内部から人事面での不利益を被り続けている」[10]これが正義を潰し日本の社会を劣化させてしまう、"social pressure"(組織的)社会的圧力、「出る釘」ならぬ表に「出る正義は打たれる」日本の悲しい現実である。善さえも社会から駆逐されてしまったのか?

民間でも同様なのである。古い例であるがオリンパスと言う会社での出来事。それでは順を追って:
□ 2011年8月。東京高裁は、オリンパスが社内の問題を内部告発した社員の配置転換行ったが「内部告発で配転は人事権乱用」[11]とオリンパスに賠償命令の判決を下す。結果はオリンパスの敗訴
□ 2011年10月。関連会社からオリンパスの社長に抜擢したマイケル ウッドフォード氏がオリンパスの上層部の不正を内部で正した結果解任される。[12][13]
□ この社長の解任劇の原因となった巨額にして長年の累積赤字の隠蔽事件が明るみになり、刑事事件に発展
□ 2012年2月。東京地検特捜部は前会長ら旧経営陣を逮捕。[14]

■ 社会の高いレベルから見る、「どうして?」
・世界の中で日本の存在がそして人々がユニークで無くなってしまった・国と色々な組織がダイナミックさを失い硬直化してしまった。動的社会から死んだ様な静的社会へと変質。人々が地域社会のイベントや地方政治、国政に関わらない・内閣と行政府が嘘を言っても情報を隠しても誰からも罰則を受けない・組織内での自浄作用の喪失・国民の知る権利を無視し、社会からそのオープンさが失われ秘密主義になってしまった。つまり密室の中で重大な事が決まってしまう・日本の至る所の組織で事実をねじ曲げたり、隠したりする・組織の中でのスピード感の喪失、決断力の喪失=茹ガエル状態・日本の経済力が、科学と技術力が落ちてしまった・日本の社会からイノベーション、発明発見する人材が育たなくなってしまった・皆時代を切り開く気持ちを失ってしまった・皆同じ色に染まる。即ちガンジがらめ・心がオープンで無くなり閉鎖的で島国根性になった・日本の文化のレベルが落ちてしまった・上から下まで日本は病んでしまった・日本の社会に悪が、そして不法が蔓延る様になってしまった・巨悪がぐっすり眠れる時代になってしまった・日本の地方の自治体から中央の行政府までの組織と会社は無責任に被われ不正に被われてしまった・皆無責任無関心無気力、更に脱力してしまった・秘密主義を通すから嘘をつかざるを得ないがこの循環から抜け出せない・女性が二流市民的な扱いをされる社会、つまり女性の才能を殺してしまっている・皆勇気を失った・誰も点と点を結んで線とする作業を行わない。つまり権力が隠すパズルを解かない・目に見えない大きな力への関心の喪失・見えない物を見ようとしない、見る事が出来ない。よって文化とか見えない物を造れない・皆大局観が無い・目の前の問題を根本から解決しょうとしない・日本の政治が腐ってしまった

皆さんこの連続投稿を読み、そして上記最後の問い「どうして日本の政治が腐ってしまったのか?」に対し自ら何か答えを見付ける事が出来たのでしょうか?まだですか?もしそうであれば、ちょっと悲しいです。では四つの要因を挙げよう。
(1) それは政治の私物化による: そもそもそれは、政治のプライオリティー優先順位がとんでもなく間違っている事の結果なのです。国家神道と言う「原理主義」を信奉する人達が政権を握っている事、つまり「彼ら」は国家を最優先するのです。それは国家の名誉を守り、対外的に国の威信をかける習性が優先されます。そして国民に国力と威信を保てる様お国の為に奉仕しろと、一生懸命働けと、強要している訳です。大人の思慮を持たずに隣国といがみ合いしているのを見れば明らかでしょう。自分達が自由に政治を操る事が可能になったと言う結果

(2) それは国家の私物化による: 上記の様に、国家神道支持勢力が戦後から地道に「彼ら」の夢に沿った社会変革の運動を行って来た結果を我々は今直面し体験し、目撃しているのである。そして政権が行政府をアゴで使う様に操れる時代だ。更に産業界(科学界や教育界の一部もこの中へ入れたい)も「彼ら」と共同で日本の社会と国民を私物化している事は第11章で申し上げた。何回も言って居るが日本を、明るい未来が見えない、自由の制限され、息苦しい巨大な改憲マシンに変えて自分達の夢に沿った社会変革を実行している訳。「彼ら」が社会から対抗する勢力を駆逐し消滅させ、権力を私物化し即ち必然的に独裁化暴政化しその勢いで国体の変革を図っている。法治も何も無きに等しいこの国家。例として、同類は批判出来ません。よって中国政府の香港の市民に対する血も涙もヒューマニティーも無い強権的な態度と対応を批判する事無く、民主化要求に共感的な日本の姿勢を見せられない訳。皆さん改めて言っておきます。日本社会を「彼ら」の希求する社会へとひっくり返す革命の成就はもう目の前に、そこまで来ているのです

(3) それは人々の劣化による: 人々を愚かにし人々の考える力を、行動する力を奪い取り自己推進能力を剥奪する社会的な仕組みを運営し続け、皆が皆何も言わないこの希望の失せた世の中で、社会をより良い方向に築いて行く気持ちがとても嫌な物、タブーな物であるかの様な風潮を造り出して来た。人を皆と同じ様な烏合の衆にはめ込み社会の中で流される人間に堕落させている。自分の投票と言う権利の行使が後ろ髪引かれる様な風潮の世の中では、1/4の国民が政権を盲目的に支持する為立法府が「原理主義者」の聖域になってしまうのは当たり前である。「彼ら」の国体の変革運動にはインテリや現政権に反対する勢力や民主体制を支持する勢力は邪魔、皆バカで「お上」の言う事を聞く人間が良いのである。人の力は国の力。日本は病にさせられた人間から成る国なのです。これでは国力が落ちる訳だ。でも皆さん、このままじゃあもう駄目だと言う気持ちにならないのでしょうね...

(4) それは政治形態が稚拙で昭和20年から少しも変わっていない進化していない事による: 村の密室政治と村の、町の、市の、県の(地元の)実力者に間違っていようがいまいが、自分の気持ちを捨てて付き従い忠誠を誓いへつらう部族制の政治形態。即ちそれは実力者に従い己のコネと言う利権を確保する習慣が日本の社会に根強く残っている訳である。だから百年経っても二大政党制は産まれる訳が無い。地元の実力者(地元の自由民主党の支持母体)が今や「国家神道」を支持し彼らに忠誠を誓う人々も自由民主党の支持者となっているのでしがらみと絆でがんじがらめとなり自分の中の論理的な判断を最初から放棄している訳。これは、汚れた実力者でも無条件で支持するメンタリティー即ち親分子分の関係であり、其処には女性の入り込む余地もなくその親分子分の関係と相容れない個人のユニークを尊重する社会と正反対の行為を旧態依然と日々行っているのである。この延長線上が「安倍一強」と言う事。これは日本の政治形態が将軍様、お殿様、お代官様と武士、農民、工業人、商業人が下から上へ袖の下を通して上がる収賄の金が物を言う江戸時代の政治から抜けきれていない証左なのだ。この祀り事の仕組みの行き着いた先が腐った政治なのである。村の病理が行政府と言う天辺まで到達している事は戦後70数年続けられて来た習慣が長らくの間に定着し、地方が中央の言う事を聞く様な関係が強要され高度な地方自治が失われ自治体職員は仕事もろくにせずお茶を呑むだけのだらしなさ、無責任さと相まってそこそこ程度の村の政治水準が国政レベルで維持されている訳。確実に国が破滅の一歩手前まで来ているのである。つい最近では賄賂を受け取った関西電力の経営陣がニュースとなったが、彼らが収賄罪で逮捕される事なく幕引きされてしまったケースを見てみよ。力のある勢力に服従するJusticeなんて言葉も知らない怠惰な面々、己の仕事もしない死法府と検殺庁の従業員の役立たずの例。よくもまあ恥ずかしくないものだ。賄賂みたいな事は世界の先進国の常識ではあり得ない事。即ちお仲間意識と悪巧みで通じ合った補完的な互助心と、権力者への帰属心に満ちた国の上層部の面々。村の賄賂の受任のメンタリティーと習慣が世に満ちた、世界の標準に達しない島国である。この社会習慣が世に満ちていれば国力は三流に落ちる。それほど非常に深い病にかかっているのだ。そして過疎地では相変わらずこの様な政治形態が執られ、方やその様なメンタリティーの薄い人口密集地の人々は投票権を棄権する様に操作され続けられた上更に、地方と人口集中地域の憲法違反と判断されている一票の格差も全く省みられない事実。更に人々がこの腐りきった政治の仕組みにも抗議もしない茹ガエル状態だ。これでは永遠に自民党が政府与党の立場を取り続けられるのは何ら不思議では無い。悲しいかな上に立つ者達が腐った貴族の如く振る舞い、武士道の潔さも持ち合わせていないとは世も末である。

この4つの要素が連動して日本と言う国を軍事国家へと進ませているのです。その日本の行き着く果てに辿り着く過程で今政治が腐ってしまっているのを人々は目撃しているのです。簡単に言えば「原理主義者」「復古主義者」が日本を乗っ取り日本国民の心を乗っ取っているのです。それはあたかも村上春樹氏の小説「1Q84」の中のパラレルワールドでおこっている出来事が今の事態を予言した様に現実に起きているのである。

さて皆さん点と点の繋がりを大きく観ようとしないと思いますが、同じ様に戦前の日本と日本人も病んでいました、それ故に神風が吹くと言う催眠術に安心してかかっていたのです。戦後国民が深く過去の振る舞いを反省し続けて来た結果心の病からすっかり回復し、その一方同時に人としての尊厳を抑圧するソビエト連邦からの「大きな見えない影響力」と戦っていたドイツ市民。一方この国では心の病気を回復させる様な努力もしないまま70余年経過しましたが、再び日本が深刻な病にかかってしまった事を目撃すると、何とも悲しいものがあります。島国根性の政治屋さんや原理主義を信奉される方々も先陣を切って「日本病」にかかっている現状。この政権が主張する憲法改正の中身も判らないで協賛する政治屋の面々はその意味で日本の民主主義の敵と言って良いのです。

次に人々が洗脳されてしまうとはどう言う状態なのだろうかを述べたい。例として、現在の民主主義を守ろうとする勢力を「左翼」とか「反日」として分類する人々もいます。でもちょっと待てよ?今の世の中「ネトウヨ」の方々にとって「保守=善」であり「左翼」と分類されるグループがすっかり「悪」と言うイメージとして浸透している様だが何かおかしくないか?その理由は簡単だ。「右」と「左」と言うカテゴリに区分けされる勢力が議会を交代で主導するのが二大政党制の仕組みなのである。一般的に「右」とは企業寄り、金持ち寄りで彼らの税金を下げる様に努力し、技術革新等での成長及び国防を重要視。一方、一般的に「左」とは懸命に働く者と弱い立場の人達寄りで社会福祉の充実を目指し、金持ちや企業にはそれ相当の税金を払って貰う様努力し更に経済成長より子供達や国の平和な未来を重要視。(3/4の国民の皆さん判ってますよね?この常識。)「ネトウヨ」の方々は二大政党制の英国や米国では「左」として労働党と民主党、「右」として保守党と共和党がそれぞれせめぎあって議論し国家を運営している事実を知らないのだろうか?この2国から「左翼」政党を消滅させたら英国では保守党の一党独裁となり、米国では共和党の一党独裁となってしまう。だがそれぞれの市民の間の風潮には必ず「振り戻し」として政権交代をおこさせる習慣があるのである。米国の民主党が国民に不人気な政治を執り行っていたら、それぞれの政党を支持する層の真ん中、中間の人々は次の選挙には共和党を支持する事で民主党を懲らしめる様にしている。だから自分が次回の投票に「左翼」的政党を支持するのか「右翼」的政党を支持するのかは自分が過去それぞれ支持して来た政党がどの様な良い政策を採って来たとか又は悪い政策を採って来たかで判断し決定する。つまりより良い政策を打ち出している2つの政党内の1つへと投票するので、その過程で右左区分けしてこちらは悪い政党だと言う思い込みは持っていない。単なるポリシーの違いを選択している訳。だから左とか右とか言っても両方正しいのである。自分の投票権、一票の使い方は極めてドライ。地元の実力者に付き従い彼らに投票する日本の市民(その意味で平民)とは大違いなのである。方や英国の保守党、労働党。米国の共和党、民主党。お互いがお互いののしりあっているのは二大政党制の中だからまだ健全。そして米国の場合例えば共和党政権が去った後は行政府から共和党政権を支えて来た職員がごっそり退職し民間に転職するので行政府も様変わりする。この世界の民主主義情勢を知らない能天気な面々が、この一度自民党政治から非自民党へと振り子を振り戻した後2012年末に崩壊させられた日本のモヤシの様な二大政党制度の中で自民党以外の政治家を糞「左翼」とか言っている自分の姿を子供達に見せられるかな〜。ちょっと恥ずかしいよ。でも人々がひとたび洗脳されるとこの影響は後々まで続きます。

更に第9章で説明した事なのですが、皆さん「知覚の不在」が世に溢れると何がおこるのか想像した事があるのでしょうか?それは人に対して「ラベル張り」を行う習慣を持つ様になるのです。上記の例では「左翼=『悪』」と安易にラベルを張る事。他に例えば何処かの政治家を「左翼ポピュリスト」なる言葉でラベル付けする事は出来るが、その後ろに或る日本の社会の病んだ理由を考えた事の無い文筆業の方々がいる訳。人間の最近の歴史を見ても幾つもの例を挙げられる。その一つ、50年弱前カンボジアのポル-ポト政権下においての大量殺戮がおきました。一説によると150万人〜200万人もの方々が命を落としたアジアの暗黒の歴史。これも或る人々にラベルを張り付け彼らを無法の状態で抹殺して行った結果です。方や冷戦下の米国でおきた1950年前後の社会現象「マッカーシズム」所謂「アカ」狩り、等の例がある。つまり何処にでもいる市井の人々にラベルを張付け、社会から隔離するとか、その人の社会的な地位を剥奪するとかを行うのである。これは単に集団的なヒステリアとも言える。一つの言葉でラベルを張られた人間とその人の実体がかくも乖離しているのかを人々が気付くは残念ながらその人の尊厳が貶められた、遥か後なのである。

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では最後にこの息苦しい社会と腐った政治にあなたが対抗するにはどうしたら良いかを考えてみたい。
(1) "Automata"(自動人形、機械人形)[15]の状態から脱出しよう: 人間の格好をし人間らしく動くが、心が存在しない操り人形の状態から己の意志の力を用い脱出する事。人々がオペレータ化した社会の中、携帯電話を寝る時も枕元に置き肌身離さずにはいられない非常に多くの人々が罹患しているインターネット依存症。それを技術の進歩と勘違いして、もてはやしている愚かさ。単にジャンクな情報の海の中で溺れているだけなのが判らない。不幸な事に「日本病」の大きな特徴は全世界に広がって来た。この世界を経験し感じそこからの経験を自分の人生の糧とする精神の自由さえも失い体制にしっかり管理された人間共である。携帯電話が提供する狭い世界に住むだけでこの世界を知らずに死んで行ってしまう動物園の動物の様な哀れな人々である。世界をこの眼で見ようとしない島国根性故に、インターネットのニュースサイトから流されるニュースの一こまに埋め込まれた誘導先の正体も吟味せずにそこから安易に様々な洗脳型のウェブに誘導され、韓国バッシングを始め、Youtubeの嫌韓ビデオを暇な時にずーっと見ている爺婆若者達。携帯電話を操作する事自体、つまらない生活から目を逸らせ、そして現実逃避と刺激を得る手段でもある。だが、携帯電話を手から離して目をこの生きている世界に向け、そして自分が生きている男或は女に戻る事により人生を実り多いものにする事が可能なのだけれども...今の時代人として個人としてユニークさを喪失したが故に、男としての魅力を失い女としての魅力を失ってしまっている社会なのではないでしょうか。人が男として女として魅力が無いとどうなるのか。世の中、結婚したい程魅力の或る人が少なくなっていないですか?だから草食系独身が多くなり少子化に拍車を駆けているのではないのでしょうか。兎に角Automataとして過ごす状態の時間が長過ぎなのです。今を生きている事を実感しない出来ない人々が爆発的に多くなってしまったではないですか?携帯電話を目の届かない所へと置いてから、コーヒー又はお茶を入れてイスを窓ヘ持って行きリラックスして窓の外を眺め自分と世界の関係を深く感じて見て下さい。自意識過剰やツッパリが人のユニークさと勘違いしている人が多すぎませんか?「あなたは私ではない。」これはユニークさの根源。「私はあなたではない。」これは他人の痛みが判らなければイジメとなり、判ろうとすれば隣人愛に通じる。「あなたと私」の間に横たわる気持ちが社会に満ちた喧噪や風潮によって刺激され穏やかさを失い、更に激高し個人攻撃、グループ攻撃、組織攻撃、或は地域への差別や或る国やその国の市民への差別に発展している悲しい時代である。この様な日本の人々の心を操る事は権力による人々のヒューマニティーに対する犯罪である。でも私は騙されない。私が子供の頃曽祖母から聞いた関東大震災の時の話。東京方面がその夜になっても赤々と明るかったとの事。そして彼女の生家の地域の「朝鮮人」が人々が利用する井戸に毒を投げこんだとの事で地元の人々が彼らを追いかけ捕まえようとしていた。辛くも公民館の屋根裏に隠れ逃げ込んだ「朝鮮人」達を見つけ出し人々が下から竹槍で刺し殺したんだよと嬉々として私に語ってくれたのである。やり切れない。どうして身近な人がかくも鬼に、犬畜生の如くに人を殺める事に賛同する様になれるのか。私は人々が簡単に鬼になった事実を目撃した者としてそれからずーっとこの人生を生きている。不幸な事だが同じ事態は過去にも未来にもそして何時でもおこる。敗戦直後の満州の日本人入植者の事を思いはせて見よ。男共が旗を振る憎しみと戦いの中からは生命は産まれないのです。皆さんは偏狭で頑迷なAutomata達が憎しみを身に付け募らせる、この様な夜叉の顔を持った社会はヒューマニティー溢れる人間の顔を持った社会即ちオープンで公平公正で誰にも偏見もなく、そして慈悲に満ちた社会とどれほどの違いがあるのか理解出来ないのでしょうか?

(2) 沈黙し内省する時間を過ごす習慣を持とう

(3) 少し抽象的ですが、心に平静平安を取り戻す事。日々の生活において心を清めきれいにし真と善と美と愛を心の中に呼び戻し社会に希望の風潮を造り出そう

(4) 地元実力者との社会的、精神的な影響力(きずな)を断ち切り、投票に行って自分の本当の意見を世の中に知らしめよう

(5) 子供の教育を重視しよう: 子供達を健全で自主性の有る人間として育てなければいけないと思います。今の子供達に自然の中で色々な体験や社会の中で色々経験させ、知識や経験を一番吸収出来る年齢時に携帯電話、或はコンピュータ、ビデオゲーム機を可能な限り操作しない様に仕向けないといけないのではないですか?例えば大人がハマる中毒性の高い「マインクラフト」と言うゲームに小学生が熱中するケースが広がっていると聞く。でも共働きの家庭だとビデオゲームが子守役になっちゃいますよね。この様な日常では子供達が人として全うに育たない。平成の若者がコミュニケーションが出来ない体力もない心も貧しいモヤシッ子になってしまったのを親が後悔する時代である。この社会の財産を健全に育てて来なかった昭和の親達の責任でもある。大学を含め学校の先生の給料を上げ優秀な先生を集め義務教育の質を向上させないと永遠に日本に人材が育たない事態となってしまうよ。残念ながら人間の内面なるものが創られず、育たない中身の無いAutomataが大量生産されて来た平成の時代。私は何も言えないロボットの様な自動人形から構成される社会には生きたくありません。

(6) 人と人の間での、そして組織内でのコミュニケーションをもっと大事にしよう: 建設的な意見や議論を活発化する事で組織の運営にダイナミックさが戻って来ると思います。原子化し蛸壺の中に生きている様な生活は止めにしたら?一方もっと創造的な人生を生きている人々が横に繋がる事、連帯する事が何故出来ないのかは私にはとても不思議なのである。相手の間に垣根を作ってしまう島国根性が病として蔓延しています。何故、垣根や壁を取り払ってコスモポリタンになれないのだろうか?

(7) ヒューマニティーと言う視点で物事を見、観察し、チェックする事。これは新しい視点の導入である。そしてその尺度を基に悪い所を正して行こう: 最初からこの点を考えて本稿を書いた訳ではありませんでしたが、本投稿は結果的にヒューマニティーと言う見方を背景にし日本の政治が如何に腐って来てしまったかを検証した訳です。日本の社会から長らくの間その視点が喪失してしまった事は皆さん実感されていられると思います。この腐った政治や社会からの影響に対抗する為に、ヒューマニティーの無い色々な仕組みや慣習を無くす方向へと努力する事が必要です。現代は、非人間的な軍事技術や科学を極力抑圧する方向にコントロールせず又生命の多様性の喪失を起こさせる熱帯雨林の破壊や核汚染を含む環境汚染を人間が産み出し続ける狂気の時代。でもこの行進している方向は、皆さん一人一人がヒューマニティーと言う視点を心の中に持つ事に依って転換できるのです。いや、生命の存続の為に滅亡に向かった行進を止めて方向転換しなければならないのです。さて、前にも言いましたが、民主主義とは皆さんが思っている以上に強力な制度なのです。そして投票と言う行為はこれを強く保つ為の道具なのです。3/4の日本の人々がヒューマニティーと言う「風」を造り出し日本の社会から、上記(4)と連動しヒューマニティーを持たない鬼、夜叉の顔をした強欲な面々をこの社会から力強く、かつ黙々と駆除しなければならないと思います。これが目に見えない暴政を倒す事に繋がります。つまり健全な二大政党制下ヒューマニティーの無い政党は淘汰されなければならないのです(残念ですが二大政党制が確立しなかった為に日本で今の独裁制がゾンビの様に復活してしまった訳)。そしてこの作業の結果女性が、子供達がのびのびと活躍出来る社会が来ると予見出来ます

(8) 自分の自己推進能力を取り戻そう: 自己推進能力とは簡単に言えば、谷底に落とされた獅子の子が谷から這い上がって行ける能力の事を言う。 又別の表現では、前に見えるが遠すぎて触るのが困難な物事、に到達しようと努力する力。例えば珊瑚の敷きつめられた美しい海にあなたが潜水道具無しで泳いでいるとしよう。マリンブルーの海の底に広がる珊瑚。更に深みが見える。そしてその深みの底に触ってみたい気持ちへスイッチが入った時、あなたは息を目一杯肺の中に吸い込み満身の力を込めてそこに見えるがしかし手の届かない珊瑚の海底めがけて死に物狂いで深みへと潜り泳ぎ、到達しようと試みる。何回でも何回でも。別の言い方をすれば、目の前の地平とその彼方に見えるがしかし手に届かない対象(例えば理想社会)に地道に一歩一歩突き進む努力をして到達しようとする人達の事を自己推進力能力のある市民達と言う。その風潮が満ちる社会は「出る釘」=個人のユニークさを否定する社会的圧力が溢れる内向きな社会と真逆に位置する。しかしこの意味では「原理主義者」達も自己推進能力があります。振り返ると平和な時代が高度経済成長の後バブルの時代に取って代わりそして、「復古主義」の時代がそれぞれの時代の様相や風潮と相互作用する格好で我々が生きるこの社会に侵食して来たのです。それは日本社会の活力を殺める戦略戦術により人々の知性を低下させ、「彼ら」の社会変革の実体を見えなくさせる様に仕向け、又その様な社会変革に抗議する人間を消滅させて自分達の理想社会を築く様にして来た結果とは今あなたが見ている日本なのです。御覧の様に日本の国力が没落した事実を直視すべき。「彼ら」はいささかイデオロギーに強欲過ぎた。日本の3/4の人々にとってはとても不幸な事。こんな事はもう沢山。己の「日本病」を克服し、人々を病気にさせている原因をこの社会から駆除する大事な仕事が残されているのです。自己推進能力を身につけて日本の市民自ら投票に行き、腐った政治に対抗する改革の旗を振り続けないと

少し上から目線と思えますがこの1章から13章の投稿の最後にあたり簡素に述べたいと思います: 「彼ら」は中国の独裁体制の様に非常に強大な力を持っているのでこの強権を倒し、駆除するのには多大な困難を伴います。一人一人の日本の市民は「彼ら」が産み出して来た風潮が造り出す「見えない大きな影響力」を注意深く読み取り監視し地域や組織から、そしてメディアからイデオロギーに病んだ「彼ら」の旗を振る人々をその役職から引き下ろす事が必要です。そして同時に自分の生活の中から心の平静と平穏さを掻き乱す要因を取り除く事を始めなければなりません。自分の生を自分がコントロール出来る社会を目指す事。そして政治が、社会が必死になって生きようとしている人々を助けてくれる雰囲気やその環境を取り戻す様な努力を継続して行く事が大事なのではないでしょうか。つまりPost「原理主義」と言う風潮を造り出す事がまず最初の一歩だと思います。何十年もかけ変質させられた夜叉の様な形相の日本で行われている政治から人間の顔を持った政治へと舵を切る事。それは健全な二大政党制の仕組みの上に立った日本の社会とその結果としての豊かな国力の回復が、社会の中にヒューマニティーや人間らしさを取り戻す唯一の方法なのです。高齢化が著しい社会の中で人々の生存権、家庭の生存権の拡大と向上、そして健全な社会への回復には日本を再び軍国主義化する事により達成する事は出来ないのは明白です。「彼ら」のその様な社会変革を阻止するには「彼ら」の造り出した風潮の中で生きている事に気付き、その風潮に被われた社会がどれだけ息苦しいかを感じる事から始めないと。その風潮が産み出す力をものともせずそれらの仕組みが見える人が増え、「彼ら」の「見えない力」を跳ね返し、その風潮の根底部に有る「原理主義」の司令塔を社会から根絶しないと日本に平和は取り戻せません。また同時に地元の実力者にへつらう平民のメンタリティーから脱出する事が必要だと思います。そして日本を平和の下の繁栄と言う元のレールに戻す努力を厭わない「自己推進能力」のある日本の市民が日本の社会の中で増える事以外には道は無いと思います。これがPost「原理主義」に至る道ではないでしょうか。大手ウエブニュースのサイトから誘導され嫌韓に洗脳された人々を煽って改憲を進める時代に3/4の全うな生き方をしたい日本の人々が連帯し声を挙げてこの日本を再び活気の或る社会、遥か遠くに見える人間の顔を持った社会に向けて自己推進する時だと思います。言い古された言葉ですが、幾ら闇が深くても明けない夜はこの世にはありません。日本が変る必要があると思っているのならまずあなた自身の心の中に在る闇に光を差し込んであなたを変える事から始めなければならないと思います。

血も涙も無い連中の様々な嘘。もう隠してもしょうがないだろう?国の高いレベルで、国内の全ての知能を動員してPost「原理主義」の為の公開円卓会議を開き、何をどうしたら良いか議論し「原理主義者」達によって引き起こされてしまった日本が直面する非常に深刻な問題の解決の為に、日本の人々が人間の顔を持ちヒューマニティー溢れる健全な二大政党制に基づいた社会に向けて自己推進する時ではないでしょうか。

本投稿を読んで頂きどうも有難う御座いました。
プラナリア

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参考文献等:
[1] Grete Thunberg, "Climate Action Summit 2019"でのスピーチ, テレ東NEWS, Youtube, https://www.youtube.com/watch?v=_y8JNG7S0bo
[2] "The Russell-Einstein Manifesto", July 1955, Max-Planck-Institut,
http://einstein-virtuell.mpiwg-berlin.mpg.de/VEA/SC540264407_MOD2037217062_SEQ-1972097031_SL2006374076_en.html
[3] "Mercy, Mercy Me (The Ecology)," Marvin Gaye,
https://www.youtube.com/watch?v=U9BA6fFGMjI
以下は高音質
https://www.youtube.com/watch?v=NtlV0j0uGaA
[4] "いずも型護衛艦," , ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%82%E5%9E%8B%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6
[5] "Japan and U.S. Set New Rules for Military Cooperation," The New York Times, 2015年4月27日,
https://www.nytimes.com/2015/04/28/world/asia/japan-and-us-set-new-rules-for-military-cooperation.html
[6] "The Guidelines for U.S.-Japan Defense Cooperation," "日米関係重要文書 - 安全保障"のウエブページより, American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/5006/
[7] "日米防衛協力のための指針," 外務省のウエブより,
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000078187.pdf
[8] "護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件" ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件
[9] "自衛隊の闇 不正を暴いた現役自衛官," 2414年2月23日NNN放送,
http://www.ntv.co.jp/document/back/201402.html
[10] "たちかぜ自衛官いじめ自殺事件," ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%9C%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81%E8%87%AA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[11] "オリンパス内部告発訴訟 社員側が逆転勝訴," 0テレNEWS24,
http://www.news24.jp/articles/2011/08/31/07189629.html
[12] "オリンパス事件," Wikipedia, http://ja.wikipedia.org/wiki/オリンパス事件
[13] "「日本は三流の国」と言われた -- マイケル・ウッドフォード氏インタビュー," BusinessMedia誠,
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1204/19/news020.html
[14] "オリンパス菊川前会長ら逮捕 有価証券報告書の虚偽記載容疑で、"ITMediaニュースのウエブより。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1202/16/news044.html
[15] "オートマタ," ウィキペディアより,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%BF

http://www.asyura2.com/19/senkyo268/msg/575.html

   

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