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神輿の黙示録(14)(武士の謎:何故役座隠語と警察隠語が同じなのか)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:25:16: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(13)(江戸文化の謎:江戸時代は平和だったのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:21:10)

刑事物語で、犯人を「ホシ」と呼ぶのは何故でしょう。天に瞬く綺麗な「星・ホシ」が、何故に犯罪者なのでしょう。では、星が、犯罪者(反体制者・アウトロー)の隠語となったのはいつからなのでしようか。
日本列島の歴史上、「星」を祀った天皇は、天武天皇(672年〜686年)が始めのようです。それは、天武天皇が、672年亡命百済王朝である近江王朝を武力で倒し、日本列島史で確認される最初の天皇として即位したからです。そして、天武天皇は、壬申の乱を武力でバックアップしてくれた伊勢の現地神を祀るため、685年伊勢神宮を建立し、道教の儀式で天帝を祀ったのです。
道教では、太一(北極星)が最高神の天帝であったのです。その天上の神(天御中主)を祀ることにより、地上の天皇はその影響力を強く受けることができると信じられていたからです。
藤原不比等による「日本書紀」では、秦河勝と聖徳太子との仏教伝来物語はあるのに、道教伝来関連の記述は掲載されてはいませんが、斉明二年(656年)の条に、「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ(田身は山の名なり)また嶺の上の両つの槻の樹の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」とあるのです。
「日本書紀」によれば、この両槻宮は、槻の樹を辺に二本立てた「観」であるとの説明です。では、その「観」とは何かと言えば、仏寺でもなければ神社でもなく、それは道教寺院のことなのです。
この道観を建てた女帝斉明天皇(655年〜661年・実在は疑問。)は、「日本書紀」によれば、奇人扱いです。女帝斉明天皇は、重祚(ちようそ)する前は、女帝皇極天皇(641年〜645年)であったのです。「日本書紀」では、偶然にも蘇我王朝が滅んだ645年に、皇極天皇も退位したことになっているのです。
その女帝皇極天皇が変身した斉明天皇は、「天宮」の両槻宮を造り、更に、「狂心のミゾ」(石上山から香具山までの十二kmの大運河)を造り、その運河により運んだ石で、七万人余を費やして「石の山丘」を造った、との記述が「日本書紀」にあるのです。
更に、女帝斉明天皇は、「斉明三年(657年)トカラ人に饗えたまいき」、「斉明五年(659年)陸奥と越との蝦夷を饗えたまいき」、そして、「斉明六年(660年)ミシハセ四十七人に饗えたまいき」と、都での女帝斉明天皇による異民族接待の記述が三度も「日本書紀」にあるのは何故でしょう。
それらの「日本書紀」の女帝皇極天皇と女帝斉明天皇の物語は、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝時代に、難波・近江の湊から大運河を造り、ガラス工場のある飛鳥ヤマトに、その原料である石英の小石を船で運び込んだ事実と、中国大陸や陸奥からのアラム語やソグド語を話す多数の国際交易人が飛鳥ヤマトに来た事実を、時代を五六十年後にずらして、中国大陸の突厥帝国が支援する飛鳥ヤマトのチュルク系騎馬民族による国際交易の史実を隠蔽するための物語であったのです。
その根拠は、突厥帝国に敵対する隋の煬帝(604年〜618年)は、608年隋使裴世清を倭国に派遣し、その裴世清は小野妹子の案内により、難波の湊から、運河で船に乗り飛鳥ヤマトへ「男王」に謁見のため訪れていたからです。その「隋書」の記述に反して、「日本書紀」によれば、その隋使渡来の時代は、摂政聖徳太子が活躍した「女帝」推古天皇(593年〜628年、実在は疑問。)の統治時代だったのです。
「日本書紀」は、720年に完成・完結したものではないようです。完成後も、時の王権の思惑により改竄され続けられたようです。国書である系図一巻が紛失したことも、改竄に関係があったのでしょう。「日本書紀」の文章を分析すると、三群の作家集団により創作されたようです。第一群は、ヤマト言葉も漢語も堪能な群です。第二群は、ヤマト言葉は堪能でも、漢語が稚拙な群です。第三群は、ヤマト言葉は稚拙だが、漢語に堪能な群です。
そのような作家群により創作された「日本書紀」にある、「皇極」や「斉明」とは、漢風のおくりなです。その名前がいつ付けられたかの定説は未だないようです。(神武天皇の漢風おくりなは、奈良時代に淡海三船により発明された、との一説あり。)その「皇極」とは、中国大陸では太極と同じ意味で、「世界の中心」ということです。そして、「斉明」とは、「神の祭りを熱心にする人」の意味です。これらの言葉の出典は、中国古典の「礼記」や「書経」です。
「日本書紀」で記載されている高貴な意味の名前「皇極・斉明=世界の中心・神を熱心に祀る女帝」と、その行動を「狂心・たわぶれごころ」と、「日本書紀」でこき下ろすその落差の意味は何なのでしょう。
飛鳥・奈良時代までは、天帝である北極星を祀っていたことは確かです。それに、飛鳥時代の最上官位である「真人」とは、天帝である北極星(太一)を世話する北斗七星に居ると信じられている高官のことなのです。
しかし、この飛鳥時代の天武天皇より始る星祀りは、平安時代の桓武天皇により禁止されてしまうのです。そして、道教は「左道」と呼ばれ、邪教扱いに貶められてしまうのです。
騎馬民族文化の飛鳥時代では、「左」は、「右」よりも優位であったのです。その「左」を「邪」とするのは、平安時代より文化基準が、飛鳥・奈良時代と異なってしまったことを意味するのです。(江戸初期、東雛(あづまびな)により「左側」優位が復活。しかし、徳川三代将軍家光が天下人となると、京雛(きょうびな)の「右側」が優位となる。)
騎馬民族が、「左」を「右」より優位にしたのは、北から南の農耕民族と対峙すると、夜明けが「左=東」となり、日没が「右=西」となるからです。ですから、騎馬民族の出陣は、右翼よりも、左翼が先陣を切ったのです。
その飛鳥時代より奈良時代まで続いた騎馬文化を否定する、道教を左道(邪教)と決め付ける平安時代の貴族は、馬で移動するのではなく、牛車で移動していたのです。
では、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔は、どこに消えてしまったのでしょうか。
「士農工商」の身分制度は、江戸時代に確立されたと思っているひとが多くいるようですが、それは違います。「士農工商」の身分法は、関白豊臣秀吉が、小田原征伐後、全国を統一して、宿敵の騎馬民族末裔徳川家康をひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(エド→江戸)に移封した翌年、1591年に発令したのです。
藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉は、騎馬民族末裔の武士集団壊滅を意図して、その三年前の1588年には、刀狩令を発して、徳川家康を支援する土着武装勢力と農民・工人・商人との分離を画策していたのです。(関白豊臣秀吉は、宿敵徳川家康を支援する渡辺村を穢多村と貶めたが、1600年徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、渡辺村を役人村に引き上げ、摂津の部落民をエドに移民させるのです。)
日本刀により戦をする武士のイメージは、第三百済王朝の江戸時代の書物や講談により創られたようです。1543年(一説には、1542年豊後に渡来。)鉄砲が伝来するまでの戦では、刀は主力武器ではなかったようです。それは、戦死者の傷の多くは、矢によるものと槍によるものが殆んどであったようです。では、戦での日本刀の用途は何にかと言えば、それは敵の首切り用に使われたようです。日本列島での戦の報奨金は、敵の首と引き換えによりおこなわれていたのです。この報奨金制度は、歴史上では秦の始皇帝軍(紀元前221年〜紀元前201年)が始めのようです。漢民族には首切りの風習はなかったのです。
時代劇でお馴染みの剣術・剣法が盛んになったのは、騎馬民族末裔の武士集団が滅ぼされ、大規模な戦が無くなった第三百済王朝の徳川三代将軍家光からなのです。戦の無くなった第三百済王朝の江戸時代は、サムライ物語が盛んに創作された時代だったのです。そして、二刀流の剣豪宮本武蔵などは、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」(1637年〜1638年島原の乱に参戦)との合成人物であったのです。
では、日本刀を武器とする武士は、どのようにして日本列島に現れたのでしょうか。
日本刀の特徴を簡単に言えば、反りのある片刃で、両手で握って使うということです。そして、不思議なのは、日本刀の古い名刀ほど、実戦には適していないことです。それは、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。この日本刀が、歴史上現れたのは、平安時代のようです。
平安時代は、中国大陸で唐が覇権を制し、北のウイグル、西の吐蕃、東の新羅・渤海に圧力をかけていたのです。その圧力は、当然日本列島にも及んでいたのです。
唐の庇護を受けていた藤原氏を出し抜いて、桓武天皇は日本列島経営に着手するのです。それは、唐が求める陸奥の鉱物資源奪取です。その前触れとして、天武王朝最後の女帝称徳天皇を倒すと、亡命百済貴族末裔の光仁天皇は、780年百姓から武力に秀でた者を選び、戦闘訓練により軍隊を組織するのです。これが、日本列島での初の兵農分離です。そして、792年その息子の桓武天皇は、奈良時代の軍団を廃して、健児兵を組織するのです。
唐の支援により、桓武天皇軍団は、陸奥の「風の王国」を謀略で壊滅すると、「風の王国」の武人・技術者を捕虜として、京の都に連行して、捕虜収容所の「部落」に押し込めるわけです。そして、この時代に、京の都には「鬼」が出没するようになるのです。やがて「鬼」は京の都を荒しにかかるのです。
桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も上皇となり、809年即位した嵯峨天皇は、子作りが盛んで、分かっているだけでも五十人の父親であったのです。この頃、藤原氏のエージェント空海は、回春力抜群の密教秘法(真言立川流)により、子作りが得意な嵯峨天皇に接近して、その寵愛を受けるのです。その裏には、藤原氏の陰謀による、平成上皇と嵯峨天皇との確執による藤原薬子の乱があったのです。
事業は三代続かぬ格言を証明するように、嵯峨天皇の台所は火の車となるのです。そこで、皇子・皇女の手当てが支給できなくなり、814年多くの子供達の皇籍を外す手段として、源氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、嵯峨源氏の始まりです。
その嵯峨天皇に対抗して、淳和天皇は、825年平氏賜姓をおこなうのです。これが世に言う、公家桓武平氏の始まりです。
嵯峨天皇の時代、都の治安が「鬼」の活躍により悪化するのです。そこで、816年京の都のガードマンとして、検非違使を組織するのです。しかし、この平安貴族により組織された検非違使では、「鬼退治」はできないのです。それは、山奥に住む「鬼」とは、武術に秀でた飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔であったからです。
更に、空海と最澄による中国渡来のヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗)布教により、「鬼」のイメージが過大に膨らんでしまっていたのです。空海・最澄は、極楽世界よりも、鬼の住む地獄世界をリアルに宣伝したため、その鬼の住む地獄世界がトラウマとなり、ひとびとのこころを蝕んでしまっていたのです。(この閻魔様の地獄のトラウマは現在も続いている。)
平安仏教徒が宣伝する地獄世界が、平安貴族をどれほど脅かしたのかといえば、それは、奈良の都で、聖武天皇が発起人となって鋳造した、奈良の大仏の製作過程(752年開眼供養)での、銅・水銀による鉱毒で、平城京(710年〜784年)の街は地獄絵そのもので、ほんの十年前の出来事であったからです。
当時の医学知識では、鉱毒中毒の認識がなく、目に見える皮膚病が病で、目に見えない神経症の病は、怨霊の祟りと信じられていたのです。そのような地獄世界の平城京から、794年平安京へ逃れてきた亡命百済貴族は、平安仏教徒がインド・バラモン教やヒンズー教の地獄世界を東洋化したビジュアルで宣伝したため、バーチャル地獄世界と奈良の鉱毒汚染世界とがオーバーラップして増幅してしまっていたわけです。
更に、空海が中国から持ち込んだ密教呪法の手印のパフォーマンスは、江戸時代まで影響を及ぼし、奈良の穢れ大仏の手から悪霊が発せられると信じられていたため、奈良の大仏を観光資源にするために寺側は、鑑賞者が手印の呪法に掛からないようにするために、大仏の顔だけ鑑賞できるように、窓を開けた門を造ることになったほどなのです。
そのような地獄世界を平安貴族に布教することにより、空海と最澄は守護神の仲介者として、密教のアラム語呪文やゾロアスター教の儀式を真似た加持祈祷のパフォーマンスにより金儲けができるわけです。
しかし、唐に軍事支援された桓武天皇軍に破れ、山に逃れた前政権貴族・軍人の末裔は、平安仏教が地獄世界を宣伝したため、おどろおどろしい「鬼」として認識されてしまうのです。(仏教徒が始めた節分で、飛鳥ヤマト支配者の末裔の鬼は、豆で「鬼は外」と追い払われる身分に貶められるのですが、しかし、鬼の末裔の騎馬系武士家では、「鬼は内」なのです。)
そこで、平安貴族は、悪霊の妖怪の手下である「鬼」退治のため、「夷を以って、夷を制す」の戦術として、部落に住む「風の王国」の捕虜を検非違使の手下(手下は、中国漢代の官位を真似て「長吏」と呼ばれていた。しかし、平安時代に警察業務をおこなった長吏は、第三百済王朝の江戸時代に、「穢多」と同義語となるのはどうしてでしょうか。)として使うのです。
嵯峨天皇の皇子で臣籍に降った源融の子孫源綱は、清和源氏(新羅花郎軍団=ローマ軍団末裔)の源満仲の婿の養子となり、摂津西成郡渡辺村に移って渡辺姓を称するのです。
その渡辺村とは、古代エジプト語の「ワタ・波」が打ち寄せる辺(ほとり)で、「津」にある村(スク・集落)の意味で、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの交易湊となっていたのです。つまり、渡辺村は四世紀以降から、摂津渡辺津→北九州松浦→朝鮮半島南端珍島(メズラ→マツラ→松浦)の海路によるギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーで、百済のコロニー難波と対峙していたのです。
その渡辺綱は、源頼光に仕え、坂田金時、平貞道、卜部季武と共に頼光四天王と称され、「鬼退治」をおこなうわけです。その鬼退治に使われた武器が、後の武士の武具である、日本刀と鎧の原型として伝わるわけです。(この鬼退治の話は史実ではないようです。)しかし、この平安時代の日本刀と鎧は、実戦用ではなかったようです。それは、日本刀は、曲がる、折れる、刃こぼれするからです。更に、その鎧は、実戦不向きの過度の装飾を施した総皮製であったのです。では、それらの武具で武装する平安武士とは、何のための存在なのでしょう。それは、実在の敵と戦うのではなく、平安京を跋扈する目に見えぬ悪霊との戦いをする「武芸者」(芸とは神を祀ること。武芸とは、武の舞により神を祀ること。この武舞芸が源氏騎馬民族支配の室町時代に能楽に発展する。)だったのです。
では、世界でも珍しい実戦用ではない武器の日本刀のルーツは何かと探すと、その行き着く先は、陸奥の「風の王国」戦士の武器である蕨手刀となるのです。この蕨手刀は、唐軍により支援された桓武天皇軍の謀略により壊滅された、陸奥の「風の王国」の捕虜が、京に連行され部落に押し込められ武器製造の奴隷とされた、陸奥蝦夷の武器であったのです。(突厥帝国軍の刀と蕨手刀は酷似している。)
独特な片刃で反りのある日本刀が生まれた背景は、騎馬民族が、馬上から刀を振り下ろす時に生じる激力を分散させるために、刀に反りを付けたことによるのです。騎馬戦で有利な片刃の反り刀も、地上戦では、両刃の直刀の方が、片刃の反り刀より有利なのです。片刃の反り刀は、騎馬民族の智慧から生まれた武器であったのです。
では、チュルク系騎馬民族末裔が蝦夷であった根拠を述べれば、陸奥には、801年坂上田村麻呂が蝦夷を平定する以前、645年唐に支援された藤原氏により、チュルク系騎馬民族文化の蘇我王朝が倒された時、その蕨手刀を持った敗残兵は陸奥へ逃れていたからです。
武士のルーツが、俘囚の末裔(蝦夷=チュルク系騎馬民族)といわれた理由が、武士の魂である日本刀の「反り」で証明されるわけです。
更に、武士が仏教を嫌う理由は、武士同士の書き文字が、漢字ではなく、カタカナであることで説明できるでしょう。
時代劇で、漢字ひらがなまじりの書状を読む場面があることにより、武士は漢字で書状を書いていたように思われているようですが、それは代書屋に依頼したものです。
戦国時代までの代書屋の多くは、仏寺であったのです。武将が戦の前に、戦勝祈願のために仏寺に行く本当の理由は、漢字書状の解読、返事の代書と、軍資金の調達のためだったのです。仏教嫌いの織田信長と徳川家康が、イエズス会の軍事力を背景に、仏教勢力を壊滅するまでは、仏寺は軍事部族に対して借上(高利貸し)をおこなっていたのです。
では、何故に武士が漢字を認識できなかったのかと言えば、それは、武士の世界に漢字文化(仏教文化)がなかったからです。日本刀で武装する武士の祖先は、清和源氏の源義光が、別名新羅三郎と言われたように、源氏のルーツは、仏教国高句麗・百済と対峙していた、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であったからです。ですから、日本武士道とローマ騎士道とには、弱者を助け、君主に忠誠を尽くすことや、戦の方法として、名乗りを上げる一騎討ちやトーナメント形式の戦いなどの共通点が多くあるのはそのためなのです。
では、武士の別称と思われている「サムライ」とは、何なのでしょうか。「サムライ」は、第三百済王朝の江戸時代に、武士と同義語として使われ始めた言葉です。しかし、「サムライ」の語源は、平安時代まで遡るのです。
810年藤原薬子の乱により、身の危険を感じた嵯峨天皇は、蔵人所という令外官を設けるのです。その任務は、天皇の側に侍(はべ)り、警護と秘書の役目を担ったのです。その「侍る」ことを、「サブラヒ」と言ったことから、天皇の武装警護人を「サブラヒ・侍」と呼ばれていくわけです。「サブラヒ・侍」は、天皇の秘書も務まる、漢字文書が理解できる仏教文化に染まった亡命百済貴族子息により組織されていたのです。
平安時代には、令外官として二種類の武装集団がいたのです。それは、漢字の読めない新羅系「武芸者・武士=警察業務」と、漢字が読める百済系「サブラヒ・侍=秘書業務」とです。それらは、同じく武装はしているけれども、出自民族も別なら遂行任務も別であったのです。
空海が、密教儀式で嵯峨天皇に取り入られると、それと同時に藤原氏も、「藤原の女」を天皇の側室として送り続けることにより、文徳天皇(850年〜858年)の時代には、藤原良房が天皇を補佐する摂政の職務をおこなうわけです。そして、清和天皇(858年〜876年)の時代には、藤原良房へ摂政の詔が出るのです。この藤原良房が、摂政として天皇に代わり政治の実権を握ったことにより、第一百済王朝は崩壊して、藤原王朝へと突き進んでいくのです。(聖徳太子の実在性を否定する証拠のひとつとして、「摂政」の職務が、858年以前には存在していなかったことが上げられます。)
やがて、、中国大陸を支配していた唐も、東ローマ帝国とのシルクロード交易も、アラブ(中国ではインド以西はペルシャと呼ばれていた。)→インド→中国への海のシルクロード交易が盛んになると、そのシルクロード国際交易商人からの通行税収入がなくなったため国力が疲弊し、ついに907年唐が滅亡するのです。すると、平安時代の栄華を誇った第一百済王朝も衰退していくのです。それは、第一百済王朝は、唐の軍事的後ろ盾があったからこそ政権の中枢に居られたからです。
陸の交易から海の交易への影響は、朝鮮半島を支配していた統一新羅にも及ぶわけです。935年統一新羅が滅び、翌年高麗が朝鮮半島を統一するのです。この影響は、日本列島にも波及するわけです。それは、多くの統一新羅軍の残党が、日本列島に渡来したからです。それに同調して起こったのが、939年の天慶の乱です。瀬戸内海では藤原純友が、関東では平将門が兵を挙げて、独立国を建て自ら「王」を名乗ったのです。
この天慶の乱を鎮圧したことにより、百済系官僚の下で警察業務をおこなっていた「武士」の武闘力が、公に認められるのです。武士は、元々騎馬民族末裔で弓馬に優れていたため、歩兵軍団の敵ではなかったのです。
中国大陸では、唐の後に、北漢・後周・南唐・楚・後蜀・呉越が興った後、960年宋が起こり、979年宋が中国を統一すると、平安政権を牛耳る藤原氏は、日宋貿易により益々栄華を極めるのです。そして、宋の北には、契丹を継承した遼(916年〜1125年)が対峙するのです。
ここでひとつの疑問が涌くのです。それは、武士が始めて政権を執った鎌倉源氏の先祖がどこから来たかです。それは、鎌倉源氏の先祖は、嵯峨源氏ではなく、清和源氏であるからです。
天慶の乱後、藤原氏の桓武天皇より奈良に封印されたことからの政界返り咲きと同時に、645年突然日本列島に現れた藤原氏と同様に、清和源氏が政界に突然現れるのです。そして、昇殿を許された嵯峨源氏と許されない清和源氏が、天慶の乱後に合体したことになるのです。その説明として、嵯峨源氏末裔の源綱が、源満仲の婿の養子となったことです。更に、元皇籍末裔であった源綱は、渡辺津に移り渡辺綱となり渡辺党を興し、清和源氏の源満仲の配下となったことに歴史上なるのです。つまり、歴史上、清和源氏は、嵯峨源氏賜姓から約150年後に公家源氏を配下とし、源氏棟梁を継承したとの説明です。
ですから、天慶の乱以降、武家源氏の先祖は清和源氏となっているのです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。今に残る武将に関する系図の多くは、戦国時代も終わり、豊臣秀吉が天下を取った安土桃山時代以降からです。戦国時代の武将の系図が信用できないのは、特に、豊臣秀吉は、自らの出自を消すためにイエズス会史料や織田信長関連を焚書していたからです。幼名が日吉丸(ひよし=イルギ=百済系か。豊臣秀吉の出自は、木下とう「唐」きち「来た」ろう「男」か。)と云われ、自称百姓出身と言っても、百姓は王権に管理されていたため母の名が不詳とは、いったい関白豊臣秀吉はどこの生まれであったのでしょうか。しかし、豊臣秀吉だけが例外ではなく、戦国武将の多くは、出自不詳であったのです。戦国時代を代表する明智光秀、徳川家康なども、その出自は不詳であったのです。しかし、織田信長は、三代先までは辿れるのですが、その三代先の墓は、垣内にあったのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇(858年〜876年)→貞純親王→源経基→源満仲(912年?〜997年)→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、969年安和の変(藤原氏の陰謀で、武家源氏・源満仲を取り込んで、密告させることにより公家源氏・左大臣源高明を左遷させた事件。これは、藤原氏末裔近衛家が、イエズス会傭兵日吉丸→羽柴秀吉を取り込んで、関白豊臣秀吉とし、1590年騎馬民族末裔徳川家康を左遷させた戦術と同じです。)で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生?)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、鎌倉源氏の祖清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
では、武士の魂である日本刀で武装する清和源氏は、どこから来たのでしょうか。
教科書歴史を読んでいると、神代に九州に降臨した天孫族が、四世紀飛鳥ヤマトを征服し、その後、海外の軍事力の影響をまったく受けずに、九州に棲む熊襲や隼人を征服し、そして、九世紀陸奥に棲む無文化の蝦夷を征服して、平安時代に日本列島本土を統一した、というストーリ展開を意図的にしているように感じられます。
しかし、東アジア地図を、百八十度回転させて眺めてみると、日本列島は、日本海(東海・とんへ)を内海とする、騎馬遊牧民族が住む北東ユーラシアから、南東中国大陸へ至る「渡り廊下」にみえるでしょう。だから、騎馬遊牧民族が、アムール川を下り、サハリン→北海道→本州へのルートの、北海道は、古来から「渡り島」と呼ばれていたのです。日本列島は、古来から孤立していたのではなく、縄文以前から岩手県久慈には琥珀が産出され、バルト海沿岸まで、国際交易商人による琥珀ロードがあったのです。
日本列島は、北東ユーラシアの騎馬遊牧民族には南東中国本土へ攻め込む前線基地であり、それに対して、南東中国諸国では、南下する騎馬遊牧民族を阻止するために、日本列島を軍事的に押えることは死活問題となるわけです。つまり、日本列島の中心の飛鳥ヤマトは、東ユーラシア大陸の国々に、そのような軍事最前線基地として位置づけられていたのです。この「北=騎馬遊牧民族」対「南=農耕民族」の軍事対決は、「北の短弓」対「南の長弓」で証明できます。
弓からでもその南北の民族性が解明できるのです。弓の弦は、北は騎馬遊牧民族なので動物の小腸を加工したものだから、弦自体に弾力性があるため弓が短くても強力な武器となるのです。しかし、南は農耕民族なので弦は植物繊維のため、弦自体に弾力性がないため、弓を長くしてその弾力により矢を射るわけです。
漢族化した唐の軍事援助により京を支配した第一百済王朝の平安時代、平安貴族が、騎馬民族末裔の弓弦を売るひとを、「つるめそ・犬神人」として貶めた理由が、古代から続く南北対立民族闘争の結果であったわけです。
十世紀の日本列島は、唐の軍事勢力後押しの第一百済王朝の平安王朝が近畿を支配していたけれども、それは平地のみで、近畿の山々や東北の山々に隠れ住む蘇我王朝・天武王朝の騎馬遊牧民族末裔の「風の王国」の軍事勢力は健在だったのです。
やがて、907年唐が滅び、そして926年渤海が滅び、更に935統一新羅が滅ぶと、東アジアは、騒乱の時代に突入するわけです。では、戦いに敗れた東アジアの元支配者階級は、どこへ亡命したのでしょうか。
1776年の国民国家誕生までは、世界には固定した国境など存在していません。ですから、敗れた王族は、より弱い王国を侵略して生き延びるわけです。
唐が陸路のシルクロード交易で栄えていた頃、イスラム帝国がユーラシアの内陸を支配したため、アラブ(ペルシャ)の国際交易商人は、中国への海路を開発するわけです。七世紀後半には、アラブ(ペルシャ)→インド→唐への海路での定期交易路が開発されていたのです。そして、統一新羅も、陸路が使えなくなったため、交易海路を開発していたのです。
奈良・平安時代の遣唐使船は、藤原氏の日唐貿易独占と天武王朝系次世代貴族抹殺の陰謀のため、すこしの嵐でも遭難するように設計されていたため、やっとのおもいで唐に渡った遣唐使(唐留学期間は二十年前後なのに、何故最澄は八ヶ月で、空海は一年数ヶ月で帰朝したのでしょうか。それは、その唐留学の本当の目的が仏教勉学ではなかったからです。)の多くは、日本への帰りは安全な新羅商船を多く使っていたのです。
統一新羅が海上交易に強かったのは、弥生時代の北九州・山陰と朝鮮半島南端は、国際海洋交易民族呉(紀元前473年滅亡)・越(紀元前334年滅亡)末裔の倭族・韓族(倭族と韓族は同族)の支配地であったからです。朝鮮半島南端の珍島(メズラ)と北九州の松浦(マツラ・魏志倭人伝のマツロ国)とは、潮目を読める海洋民族により、古代から交易のため頻繁に行き来していたのです。(後に、松浦の海洋民族は、源氏海軍松浦党となり、朝鮮半島南端の珍島の海洋民族は、五島列島に拠点を移し倭寇となるのです。)
907年唐が滅亡すると、多くの元唐支配階級が平安王朝を頼って亡命してくるわけです。新羅商船が、唐滅亡前後に日本列島に頻回に訪れたのはそのためです。920年には渤海使が入貢し、その6年後、926年渤海は滅亡するのです。929年統一新羅は、朝貢を願い出るのですが、第一百済王朝に退けられるのですが、その6年後、935年統一新羅は滅ぶのです。
そのように、日本列島史では、東アジアの元支配者階級の亡命を拒否したことになっているのですが、平安時代の京の街の治安が大いに乱れたことは、東アジアの亡命者の渡来と関係があったのでしょう。その結果が、939年の天慶の乱(瀬戸内海・藤原純友の乱と関東・平将門の乱)となるわけです。それらは、唯の乱ではない証拠に、それぞれが「王」を名乗っていたからです。つまり、それらの乱の実態は、亡命王国の樹立だったのです。
天慶の乱後、武家源氏の武闘力を見せ付けられた藤原氏は、源満仲を取り込み、公家源氏の左大臣源高明を陰謀により左遷させ、摂関政治を利用して、第一百済王朝を潰しに掛かるのです。政権を倒すには、財布の紐を締めればよいのです。第一百済王朝の経済を支えていたのは、陸奥の鉱物資源の金・琥珀・鉄などです。
そこで、1051年摂政関白藤原頼道は、取り込んだ源頼義を陸奥に送り、陸奥俘囚長安部頼時を滅ぼすのです。これが世に言う、前九年の役(1051年〜1062年)です。その後、源義家(八幡太郎・八幡(やはた)とは、秦氏の神を祀る社です。その秦氏の神は、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来したのです。)の弟源義光(新羅三郎)が俘囚清原家衡を滅ぼすのです。これが後三年の役(1086年〜1088年)です。この源氏兄弟の軍事力を使った二度の陸奥侵略戦争により、奥州藤原氏の基礎が完成するわけです。しかし、藤原氏は、源氏の肥大化する軍事力を恐れるのです。そして、その恐れは現実となるのです。
藤原氏の摂政政治により律令体制が崩れ、私領である荘園経営が発達しため、この頃では、各豪族がそれぞれの荘園領主となって小さな独立国のようになっていたのです。その小さな荘園領主が、源義光(新羅三郎)の後三年の役の軍事的活躍を知り、その保護を求めるために、自らの荘園を源氏棟梁に寄進するわけです。そこで藤原王朝(866年〜1196年)に支配されている朝廷は、1091年源義家(八幡太郎)への荘園寄進の禁止を発令すのです。更に、翌年には源義家(八幡太郎)の荘園設立を禁止するのです。しかし、朝廷は、源義家(八幡太郎)の実力を無視できなくなり、1098年源義家(八幡太郎)は、ついに昇殿を許されるのです。
藤原氏は、第一百済王朝の経済を支えた陸奥の鉱物資源を奪取すると、藤原氏の荘園である南九州坊津から中国寧波へ、陸奥からの簒奪物資を輸出するわけです。その頃の宋には既に、アラブ(ペルシャ)からの国際交易船がインド経由で多く訪れていたのです。アラブ(ペルシャ)商船は、伊勢の水銀を求めて、古くから訪れていたようです。黒潮により南方のヤシの実が訪れる伊勢湾の湊は、古来から南方からの国際交易港だったのです。
昇殿を許され、山の民を味方に付けた源氏は、藤原氏のコントロールが効かないほどの勢力となるのです。そして、源氏勢力は、比叡山を廃墟にした織田信長や徳川家康のように、騎馬民族を賎民に貶めた思想を広めた拠点である平安仏教寺を荒らしまわるのです。そこで、藤原氏は、伊勢を根城とするアラブ(ペルシャ)系武装集団の利用を考えるわけです。ここに平家の登場となるわけです。平家の棟梁平正盛の登場は、1107年出雲目代を殺害した源義親の追討からです。
では、「平家」と「平氏」とは同じ軍事部族なのでしょうか。もし同じ軍事部族だとしたら、源平合戦(1180年〜1185年)とは、実態は「平家対平氏の合戦」となってしまうのです。何故ならば、源頼朝の源氏挙兵(1180年石橋山の戦い)は、桓武平氏末裔北条氏の陰謀だったからです。つまり、源平合戦での実戦部隊は源氏軍事部族であったけれども、その政治中枢は源頼朝を傀儡とする平氏の北条氏であったからです。
平安時代の関東の海岸側に勢力を張る、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして北条氏は、平安初期、百済系桓武天皇が、唐の要請により陸奥の鉱物資源を奪取するために組織した、中国山東半島から移住した元百済軍事部族による健児兵の流れを汲む、桓武平氏の末裔だったのです。つまり、桓武平氏の「平氏」とは「官位の姓」であり、ツングース系の半農半猟民族の末裔で「サブラヒ・侍」の末裔だったので、戦闘騎馬技術は苦手だったのです。
それに対して、「平家」とは、「平氏」とは異なり、姓(かばね)ではないのです。では、何ゆえに「平家」なのでしょうか。それは、摂政藤原氏の政治専制に不満を持つ、百済系白河法皇(天皇1072年〜1086年・上皇1086年〜1096年・法皇1096年〜1129年)が、藤原氏の戦略を真似た平正盛の「祇園女御」と金銭の贈呈を受けることにより、平正盛を白河上皇の軍事護衛側近として召抱えた時に与えた「名前」だったのです。つまり、「平家」とは、「平氏」と異なり、官位の姓ではないのです。
桓武平氏には、北条氏とか千葉氏などの氏名(うじめい)があるのに、平家には、氏名がありません。平家は、ただ「平○○」と名乗るだけです。平正盛の系図では、桓武天皇〜貞盛→維衡→正度→正衡→正盛となっているようですが、正盛以前は不詳です。そもそも、氏名がないということは、平家は日本列島に歴史をもっていなかったことを意味しています。それは、主に氏名の元は土地名だったからです。
では、平家が日本列島の生まれでないとしたら、どこから渡来したのでしょうか。考えられるのは、平家が好む、赤色の「べんがら染」です。「べんがら」とは、インド・ベンガル地方で産出される、酸化鉄の染料です。更に、白河法皇に召抱えられ、伊勢から京に拠点を移した所を、「祇園」とするのです。この祇園とは、インドの祇園と大いに関係があるのです。インドでは、牛は聖獣です。そしてこの京都祇園で始る祭りは、「牛祭り」と呼ばれのです。やがて、元山背国支配者のオリエントから渡来の秦氏が祀る、ミトラ神(魔多羅神)の化身である牡牛の屠り儀式と習合して、牛頭天皇の牛祭りとなるのです。この祇園祭は、インドとオリエントの異民族の祭りのため、半農半猟民族ツングースの夫餘族末裔である亡命百済平安貴族から忌み嫌われていたのです。この祭りが始ると、平安貴族は、神輿違えといって、京からその祭りの期間は郊外に避難したほどなのです。平家は、平安貴族より、賎民視されていたのです。
平家が、従来の軍事部族と異なるのは、日本の神も仏も恐れないということです。平家軍団は、怨霊を封じ込めた移動式神社である「神輿」に矢を射ったり、仏像に火を放ったりしたからです。(1180年源頼政が平家打倒で挙兵すると、平重衡は鬼の神・遍照鬼が安置されている東大寺に火を放つのです。)この平家の宗教施設の破壊の背景は、1017年藤原王朝絶頂期の藤原道長が摂政関白の時、神を仏の手下とする本地垂迹説の発明と関係があるようです。その結果、仏寺に神社が習合されてしまい、空海が唐から密教の神々として日本国に持ち込んだ、インドのバラモン教やヒンズー教の神々の像が仏像として安置されていたからです。
インド文化を保持する平家には、平安仏教施設や仏像は、霊験あらたかな「聖」ではなく、インド宗教の紛い物の「邪」に見えたことでしょう。
そのようなインドの神々を仏像として祀る比叡山延暦寺の薙刀で武装する僧兵は、藤原氏が支配する京に、日吉の神を祀る神輿を奉じて乱入するわけです。
京の街は、藤原氏の興福寺・春日社側と亡命百済貴族の延暦寺・日吉社・日枝社側との抗争時代に突入していたのです。その争いに乗じて、それらのヒンズー教化仏教に呪縛されていない平家は、それらの仏教勢力を武力で鎮圧することで、政界中央に登りつめていくわけです。そして、1167年平清盛は、太政大臣となるわけです。
そのように、日本的ではない思想を持つ、インド(アラブ)文化色が強い平家が、源氏に屋島の海戦で破れ、壇ノ浦を目指して逃亡したのは、先祖が来た海路を逆に辿り、インド→アラブ(ペルシャ)を目指したのかもしれません。平家の海洋民族文化色をみれば、その推測も成り立ちます。
アラブ国際商人の傭兵軍末裔を先祖に持つ、祇園女御を利用して安徳天皇の姻戚に登りつめた平清盛は、福原京を造り南宋貿易を独占したため、後白河法皇と藤原氏にとっては滅ぼさなければ成らない存在になっていたのです。
そのように平家が増長してしまったのは、後白河天皇と藤原氏が、1156年保元の乱と1159年平治の乱で、源氏軍団壊滅のため、平家を支援したための結果だったのです。
平家から統治権を取り戻すには、関東に棲息する桓武平氏末裔の海軍力ではかないません。それは、平家には、海外傭兵軍の強力な支援があるからです。
そこで、藤原氏と後白河上皇は、伊豆に幽閉されて、平氏の北条時政に居候をしている源頼朝を担ぎ出し、源頼朝を源氏棟梁とし、同族である陸奥の山奥に勢力を張るチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を利用することを計画するわけです。
鎌倉源氏集めの過程で、奈良時代の終わりに、藤原氏と亡命百済貴族との戦いに敗れた、天武王朝末裔の騎馬民族が関東の山奥に逃亡したことを知ることができるようです。
それは、1180年平氏の北条氏軍のみで源頼朝を担いで挙兵した石橋山の戦いで、平家に敗れた源頼朝軍残党は、伊豆から船により房総に逃れると、再起のため騎馬戦を得意とする源氏武将集めに、関東にある廃墟となっている国分寺を廻るのです。その廃墟の国分寺に、関東の山々から多くの騎馬源氏武将が集まるのです。(石橋山の戦いでの敗走の時、源頼朝を助けたのが、弾左衛門と云われています。この時の弾左衛門は、まだ穢多頭ではなかったのです。穢多の蔑称が発明されたのは、1219年源氏三代鎌倉幕府を陰謀で倒した、百済系北条鎌倉幕府の第二百済王朝時代(1219年〜1334年)だったからです。)
国分寺の歴史は、反藤原氏の歴史そのものです。反藤原氏の聖武天皇が奈良の大仏(=遍照鬼・空海が一神教を真似て「大日如来」を発明したため、反藤原氏の遍照鬼が、体制側の奈良の大仏様となってしまった。)を、藤原氏が支配する平城京を見下ろす丘に建立し、奈良の大仏の霊力で藤原氏の平城京を封じ込める装置であったのです。国分寺とは、その大仏の効力を地方にも及ぼすための装置であったのです。ですから、奈良時代での地方の国分寺は、反藤原氏の拠点でもあったのです。しかし、藤原氏を出し抜き百済系桓武天皇が支配者となった平安時代では、奈良の大仏建立時の鉱毒汚染の影響の怨霊封じのためと、百済本国を滅ぼした新羅末裔の源氏壊滅のため、その拠点の国分寺も安置された仏像(遍照鬼)も穢れ仏として、ことごとく破壊してしまっていたのです。
平家との石橋山の戦いで形勢不利の平氏北条氏は、奥州藤原氏の策略で源義経の担ぎ出しが成功すると、鎌倉源氏による平家打倒計画を実行に移すのです。源義経と源頼朝が兄弟であることは疑問ですが、藤原秀衡の後押しで源義経は、小腸の弦を張る短弓で武装した蝦夷末裔の山の民と伴に騎馬で平家追討に赴くのです。(蝦夷とは、農耕民族の文士が発明した言葉で、エビのようなヒゲのある、夷=弓を持った人の意味であるわけです。つまり、蝦夷とは、ヒゲの薄いツングース系民族ではなく、ヒゲの濃いチュルク系民族を意味した言葉です。)
この源平合戦(1180年〜1185年)は、「北」対「南」、「源氏+平氏」対「平家」、「騎馬民族」対「海洋民族」、「短弓」対「長弓」、更にその背景には、東アジアの、北宋を支配した騎馬遊牧民族の金=北朝(1115年〜1234年)と平家と藤原氏の貿易国である農耕民族の南宋=南朝(1127年〜1279年)との代理戦争でもあったのです。(1271年中国大陸の南北朝を統一した騎馬遊牧民族元軍のシンボルは笹リンドウで、源義経のシンボルも笹リンドウであるのです。このことは、同じ騎馬遊牧民族だっただけの、唯の偶然なのでしょうか。この頃日本列島では、まだ戦時に家紋やシンボルが使用されていなかったのです。敵味方の識別は、源氏の白旗と、平家の赤旗であったのです。日本列島にシンボルや家紋付き旗が戦場に現れるのは、戦国時代からなのです。)
鎌倉時代は、平安時代と共に不思議な時代です。
平安時代の不思議は、飛鳥・奈良時代の騎馬文化を継承していないにもかかわらず、百済系桓武天皇家の王権が、騎馬文化の飛鳥時代から継承されていて、更に、道教や景教が盛んであった飛鳥時代に、平安時代に発明された官職「摂政」の肩書きを持つ聖徳太子により、百済仏教が布教されていた、と物語るからです。
桓武天皇は、787年(延暦6年)前政権の新羅系王朝との決別の意味で、唐の王位継承の儀式を真似て、祭天の礼をおこなっていたのです。その祝文は、唐の「大唐開元礼」引き写しであるのです。唐の祭天の礼の儀式では、「昊天上帝」と並べて先祖神を祀ることになるのです。そうであるならば、桓武天皇は、天武天皇が始めて伊勢神宮を建立した時に祀った天照大神か天御中主(又は架空の神武天皇)を祀らなければならなかったのに、桓武天皇の父高紹(たかつぐ・光仁天皇)を祀ったのです。この意味は大きいです。つまり、天武天皇の先祖神を否定して、百済亡命貴族である光仁天皇を神として祀ったからです。787年この祭天の礼により、桓武天皇は、新羅系天武王朝が、百済系桓武王朝に替わったことを内外に宣言したわけです。
それに対して、鎌倉時代も、平安時代に負けず劣らず不思議なのです。そのどこが不思議かと言うと、「平家」と「平氏」が入れ替わり(北条鎌倉幕府の正史吾妻鏡により、源平合戦が平氏と源氏の戦いに改竄。)、そして、「源氏」と「平氏」が入れ替わっている(百済系北条鎌倉幕府の、1221年承久の乱後の六波羅探題設置による源氏狩から逃れるために、源氏落武者が山奥に集結した部落が「平家落武者部落」となり今日に至る。)からです。この北条氏が創作したトリックは、平家はアラブ系(ペルシャ)海洋民族末裔で、源氏は騎馬民族末裔で、平氏が半農半猟民族末裔であることが分かれば、すぐに見破ることができるでしょう。
源平合戦では、平氏が赤旗を掲げたということはないようです。平氏は、源氏と伴に白旗を掲げて、平家と闘ったのです。桓武平氏は元々百済系軍事部族末裔であったわけです。源平合戦に遡ること約五百年前の壬申の乱では、亡命百済王朝の近江へ、新羅系大海人皇子(後の天武天皇)を支援する伊勢の海洋系土着民軍は、「白旗」ではなく、「赤旗」を掲げて進撃していたのです。赤旗は、北条鎌倉幕府以前までは、百済系平氏のシンボル色ではなかったのです。
縄文時代からの国際交易品の朱砂産地である伊勢は、元々アラブ系(ペルシャ/フェニキアの国際海洋商人は赤いマントを着ていた。)で赤色のベンガラ染を好む、海洋民族が支配していた地域なのです。伊勢の賎民出身の織田信長の西洋思考は、そのアラブ(ペルシャ)系の血の流れのためです。織田信長は、平安時代に、東大寺に火を放った平重衡と同じに、反仏教者である証拠に、二条御所の基礎石に石仏を砕いて使い、日本国の仏教の最高拠点の比叡山延暦寺の高僧全員を斬首し、伽藍に火を放ち徹底的に破壊したのです。
更に、源氏鎌倉三代(1192年〜1219年)を陰謀により滅ぼした平氏の北条氏は、源氏三代将軍源実朝存命中は八幡神を祀っていたのに、何故に、源氏鎌倉幕府滅亡後に女棟梁となった北条政子(源頼朝の妻)は、ベンガラ染の平家の厳島神社の神を勧進したのでしょうか。この祀る神の、八幡神社から厳島神社へのすり替えは何を意味しているのでしょうか。それは、「平家」を「平氏」に取り込み、アラブ(ペルシャ・インド)文化色の強い平家歴史の抹殺のためだったのです。
鎌倉文化で最も不思議なのは、1187年源頼朝が、放生会を鶴岡八幡宮で行い、その時流鏑馬(やぶさめ)を見学したとの故事から、現在に伝わる流鏑馬儀式での弓のことです。その弓は、下が短く、上が長い、騎射にはアンバランスな、農耕民族の武器であった長弓なのです。この長弓が、騎馬民族の武器ではないことは、左右にいる敵を瞬時に射ることが難しいところからでも理解できるでしょう。長弓は、小腸の弦ではなく、植物繊維の弦を使う農耕民族が地上から射る武器なのです。つまり、流鏑馬の儀式により、鎌倉北条幕府(1219年〜1333年)は、騎馬民族末裔ではなく、ツングース族末裔の百済系農耕民族末裔の時代だったことが証明できるのです。
戦国時代を調べるのに、「信長公記」を史料とすると史実が見えなくなるのと同じに、鎌倉時代を調べるのに、「吾妻鏡」を史料とすると史実が見えなくなるようです。
それは、「信長公記」は、豊臣秀吉が自らの出自を消すために創作した物語だからです。そこには、豊臣秀吉の出自と豊臣秀吉・織田信長・徳川家康・明智光秀・堺の商人千利休とイエズス会との関係物語はありません。
「吾妻鏡」は、北条鎌倉幕府が絶頂期の、1266年に鎌倉幕府の正史として完成されたものです。しかし、そこには、北条氏と後白河法皇により、源氏の軍事力を利用して平家を倒した後、藤原氏の勢力を京から排除した物語はありません。その陰謀史を隠すために、北条氏に依頼された作家が、源義経・源頼朝兄弟勃興・滅亡物語を創作したのです。
その根拠は何かと言えば、源頼朝は清和源氏(陽成源氏の一説あり)末裔で、源義経も系図では、源義朝の子で、源頼朝の弟となっているようです。しかし、「吾妻鏡」が述べるのとは異なり、実際は義経の母常盤御前の出自が不明なのです。そして、源義経の出生地が奈良の宇陀ということです。朱砂産地の宇陀は、飛鳥時代以前より、ウカシが支配する反王権の牙城だったのです。更に、源義経の賎民出身を暗示する物語が、少年義経が弁慶と対決する所が五条の橋であることです。平安時代の橋、中洲、坂は、鬼(前政権のまつろわぬ部族末裔)の棲む所だったのです。
1184年木曽義仲が粟津で敗死し、京に昇った源義経は、後白河法皇により検非違使に任命され、京の治安警察をおこなうのです。警察業務を行う検非違使は、秘書・警備業務の「サブラヒ・侍」ではなく、武士の仕事です。その武士は、810年藤原薬子の乱の影響を恐れた嵯峨天皇が、嵯峨源氏を治安維持部隊とするために設けた検非違使の手下として発生したものです。その手下の多くは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅のコロニーであった摂津渡辺村から出ているのです。
警察の歴史は、ローマ帝国時代に遡るようです。ローマ帝国では、対外的紛争は軍隊の仕事で、軍隊は、領内の公安・治安警察業務は行っていなかったのです。では誰が行っていたかといえば、それは街や村の名士がボランティアで武装組織を作り、街や村の平和のために警察業務をおこなっていたのです。
日本国でも、警察業務をボランティアでおこなわせたひとが歴史上存在したのです。そのひとは、徳川家康です。騎馬民族賎民末裔の徳川家康は、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、ひとも住めぬ関東の湿地帯に左遷されると、ローマ帝国軍のように、配下の土木技術部族に命じて、エドから小田原までの騎馬軍団移動のための幹線道路を造らせるのです。そして、1600年(慶長5年)関が原の戦いで、藤原氏傀儡軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。そして、徳川家康は、二里ごとの宿(しゅく)での伝馬の世話とその地区の警察業務を、その地区の役座の親分に、ボランティアでおこなわせていたのです。そのボランティアの見返りとしては、業務が終わった夜の博打と飯炊き女のサービス業務を認めることだったのです。
平安時代初期に、その検非違使の手下として警察業務を行っていた渡辺氏の先祖は、嵯峨源氏の末裔源綱で、渡辺村に移住したことにより渡辺氏が発生したことに歴史上なっているのです。この渡辺村と源義経には、特別な関係があったようです。
1185年源頼朝軍だけでは、平家を追撃できないと覚った源頼朝(実際は北条時政)は、京の警察業務を行っていた源義経に、再び平家追討の命令を下すのです。そして、その平家が陣取る屋島への出撃地が、摂津渡辺村からだったのです。
では、何故源頼朝軍では、平家を滅ぼすことができなくて、源義経軍にはそれができたのでしょうか。そのひとつが、武士の武器である弓矢です。
源義経軍の構成部隊は、その中心が騎馬民族蝦夷末裔であったのです。蝦夷の正体は、オリエント巨石文化の飛鳥王朝期から奈良時代末期までの軍隊を構成していたチュルク系軍事部族であったのです。奈良時代末期、唐軍の支援により亡命百済軍と藤原氏連合軍に破れた、新羅系天武王朝の貴族・軍族は、敗残部族となり、畿内の山奥や摂津の海辺、或いは北の陸奥へ逃亡したわけです。
唐軍に支援された桓武天皇は、唐の儀式や都の設計を真似て、唐国の支店を日本国に造るために、秦氏が支配していた山背国や比叡山を占領するわけです。その地を追われた秦氏末裔(新羅=秦羅)は、大阪湾の湿地帯に移動するわけです。
山背国に平安京を造った桓武天皇は、唐の要請で、陸奥の金・鉄・琥珀を簒奪するために、中国山東半島から移住させた元百済亡命軍団末裔により、健児兵を組織して、陸奥の蝦夷(元飛鳥ヤマトのチュルク系軍事部族・ギリシャ・ローマ文化保持国新羅軍団末裔=花郎軍団末裔=ローマ軍団末裔)を攻撃するのですが、何十倍の健児兵軍団でも、軍事力では蝦夷軍を撲滅できなかったのです。その原因のひとつが、弓矢の性能の違いだったのです。
蝦夷の弓矢は、短弓ですが、その射程距離は、健児兵の長弓より長かったのです。それは、健児兵の長弓の弦が植物繊維であったのに対して、蝦夷の弓の弦には動物の小腸を使っていたので、その弦の弾性で、矢を遠くまで飛ばせることができたのです。
1185年渡辺村から出撃した源義経は、屋島の平家砦を奇襲し、その勢いに驚いた平家軍団は、船で沖に逃れると、平家の長弓の射程距離外に出たと安心し、扇を討ってみよ、と源義経軍を挑発するのです。しかし、蝦夷の弓矢は、平家の弓矢より強力であったので、扇を射ることができたということです。(この物語は史実であるかは疑問。但し、源義経軍の弓矢の強さが、平家軍を圧倒したことは確かのようです。)
源義経の出自は、摂津渡辺氏との関係から推測すると嵯峨源氏末裔だったようです。それに対して、源頼朝は清和源氏です。清和源氏の歴史上の出現は、935年統一新羅が滅んだ後に起こった、939年天慶の乱以降なのです。そして、814年嵯峨源氏は昇殿できたのに、清和源氏は1098年源義家の昇殿が始めだったのです。
814年昇殿できた嵯峨源氏の末裔源義経が、1098年まで昇殿できなかった清和源氏末裔源頼朝の実弟であったのでしょうか。(清和源氏の実態は、969年検非違使として突然現れた源満仲が歴史上の「祖」であることから、唐・統一新羅国敗残渡来軍団末裔か?)
1185年平家が、源義経軍に滅ぼされると、源頼朝は、源義経を逆賊として追討し、その結果、1189年藤原泰衡は、源義経を衣川にて殺害するのです。その後、源頼朝は自ら出陣し、奥州藤原氏最後の泰衡一族を滅ぼし、ここに奥州藤原氏は滅亡するのです。
そして、源頼朝は、もう一方の九州南端に勢力を張っていた藤原氏の島津荘を、平安時代惟宗氏と変名していた秦氏末裔に、守護として経営させるのです。これが、明治維新の裏面史で活躍する島津氏の始めとなるのです。江戸末期、島津氏の密使が、穢多頭弾左衛門に、倒幕の参加を依頼した時、「島津とおまはんとは同族ぞ。秦氏ぞ。」と言った意味は、ここにあったのです。
1192年源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開くと、北条氏のロボットであった源頼朝は源氏の棟梁としての自覚が芽生え、平氏の北条氏のコントロールが効かなくなるのです。その結果、1199年源頼朝は不慮の死を迎えるのです。(歴史上では落馬死となっている。)二代目の源頼家は、1203年北条氏により伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されるのです。そして、三代目源実朝は、北条氏の陰謀により、公暁により、1219年暗殺されるのです。ここに源氏三代の鎌倉時代が終わるのです。
源氏部族には、源頼朝が源氏の棟梁として機能していた、1192年〜1199年が天国だったのです。御家人となった源氏の武将達は、源平合戦の働きにより、源頼朝から、平安貴族達の荘園の守護・地頭として任命されたからです。
守護とは諸国の軍事・警察と御家人を統率する任務であり、そして、地頭とは地域の警察業務を行い、所領の管理をおこなっていたのです。それらの守護・地頭の任務は、武力を背景として行っていたのです。しかし、僧兵の武装勢力で軍備を固める寺には、源氏の武力でも軍事介入できないほど、平安時代の仏教組織の軍事力は強力だったのです。それは、寺社は、唐・宗との貿易や寺社領経営、通行税、門前市の場所代、借上げの高利貸し、加持祈祷料、などなどで財を蓄えていたからです。寺社は、織田信長の仏教組織壊滅までは、中国との貿易拠点でもあったのです。
平家、源氏が滅び、更に藤原氏の勢力は京から排除され、その荘園も没収され、共同謀議者の後白河法皇も崩御し、1219年ここに第二百済王朝の北条鎌倉幕府が始るのです。
第一百済王朝の平安時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔は、亡命百済貴族により、「鬼」として貶められたのと同様に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族・源氏末裔は、平氏の北条氏により、「穢多」として貶められていくのです。
平安時代の「鬼」の思想は、唐から空海が持ち込んだ、バラモン・ヒンズー教の地獄世界を素材として創作されたものです。その創作された「鬼」と「地獄」が、バーチャルではなく、実世界として、貴族・庶民に認識されたのは、奈良の都の鉱毒汚染世界があったからです。
では、鎌倉時代に、王権にまつろわない騎馬民族末裔が、「穢多」と蔑まされた仕掛けは、どのようなものだったのでしょうか。その仕掛けのもとは、平安時代に「鬼」を創作した宗教思想だったのです。宗教は、使い方によってはひとを幸福にも、不幸にもするものなのです。
源氏三代が滅んだ頃の東アジアでは、騎馬民族のテムジンが、ナイマン部を滅ぼし、1206年チンギス汗と名乗り、北から南下して、1234年北朝の金を滅ぼすのです。更に、チンギス汗の跡を継いだオゴタイは、南宋を窺がうのです。
南宋は、鎌倉幕府の交易国です。南宋の宗教組織は、騎馬民族の南下に怯えて、国外脱出を計画するのです。その宗教組織とは、禅宗の臨済宗と曹洞宗です。禅宗は、仏教教義を広めるよりも、ヨーガの修行に近いものだったので、騎馬民族を蔑視する平安仏教嫌いの武士(サブラヒ・侍ではない。)に受け入れられていくのです。
1278年南宋は、騎馬遊牧民族元帝国により滅ぼされてしまうのです。その結果、南宋の僧達は、日本国に亡命してくるのです。これにより、鎌倉には禅寺が多く建立されるのです。
この頃、鎌倉では天変地変に加え、承久の乱後の、平氏北条氏による源氏狩りの六波羅探題の警察力から逃れた源氏落武者が、山に逃れ、鎌倉幕府にゲリラ攻撃を仕掛けていたのです。
大地震や暴風雨などの天変地変や暴動などで社会不安が広がると、ひとびとは宗教の虚構世界に逃げ込む傾向があるようです。その需要に答えて、鎌倉時代に、無数の新興宗教が起こるのです。
1230年〜1231年諸国大飢饉
1241年鎌倉大地震
1247年鎌倉浮浪人を追放
1251年鎌倉大火
1256年鎌倉大風洪水 赤班病大流行
1260年鎌倉大火
このような有様の鎌倉に亡命してきた禅宗は、南宋を滅ぼした騎馬民族「元軍」が海を越えて攻めてくると宣伝するわけです。その亡命禅僧の情報を素材に、1260年「南無妙法蓮華経」の呪文を唱えた日蓮が、「立正安国論」を著すのです。
この「立正安国論」と亡命禅僧の宣伝により、元帝国に敗れた南宋や高麗の貴族・軍族が、1274年と1281年の亡命南宋移民大船団と亡命高麗移民大船団として日本国に亡命して来たのが、「元寇の来襲」となってしまうのです。その二度の亡命大船団が暴風雨で一夜にして去った後の難破船を調べると、その船倉から、武器ではなく、農機具や種籾を詰めた壷が沢山見つかったのです。果たして、二度の元寇は史実だったのでしょうか。
1271年蒙古使が、国書を持って来朝しているのですが、蒙古王のフビライ(1260年〜1294年)は、ヨーロッパとの国際海洋交易立国を目指していたのです。この蒙古の申出に対して、朝廷は、勅使を伊勢に派遣して、異国降状を祈ったのです。
禅宗組織は、中国大陸と鎌倉幕府との交易権を、元帝国に奪われることを懸念していたのです。中国の山水画や骨董品を日本国に持ち込むと、サムライは禅宗が中国から持ち込んだ南宋文化に染まっていたため、北条鎌倉サムライに、高値で売れたのです。北条鎌倉サムライは、禅宗の質素な寺を真似た建物を、武家屋敷として取り入れ、中国の骨董品を居間に飾り、床の間に中国山水画を飾っていたのです。そして、禅宗組織は、日本国から日本刀や鎧などを美術品として中国大陸に輸出していたのです。鎌倉に、刀鍛冶が多く居たのは、由比ガ浜の砂鉄でタタラを行い、日本刀を美術品として南宋に輸出していたからです。
禅宗僧は、北条鎌倉幕府の貿易顧問でもあったのです。その元寇来襲の史料の多くが、禅宗関係者の著書であることは、一体何を意味しているのでしょう。
禅宗の書籍で、元寇の大軍団が日本列島侵略のために二度も侵攻したというのなら、元寇が侵攻した北九州に近い、海を隔てた高麗に元寇の史料がなくてはならないはずです。しかし、高麗の史料に、元寇の記事が見つからないのです。
この南宋から渡来した禅宗組織の鎌倉貿易独占に対して、興福寺と比叡山延暦寺は黙っているわけはありません。
興福寺は、古代から藤原氏の中国大陸との交易拠点のひとつであったのです。飛鳥・奈良時代では、奈良の宇陀から掘り出した朱砂・水銀を、ツバキ市→興福寺→難波湊→博多→隋・唐への貿易ルートで交易していたのです。(教科書歴史では、遣隋・唐使船を仏教文化や唐文化輸入だけに目を向けているようですが、その実態は、唐による日本列島からの鉱物資源簒奪でしょう。894年菅原道真が、新羅商人からの情報で、唐の仏教が堕落しているからと、遣唐使船を廃したことに、藤原氏は密貿易が公費でできなくなったことに腹を立て、901年菅原道真を大宰府に左遷し、その二年後に菅原道真は鬼「カミナリ」となるのです。)
平安時代では、百済系桓武天皇が、藤原氏を奈良に封じ込め、比叡山→難波→博多→唐の交易ルートを独占したため、藤原氏は、錬金術師空海が唐から持ち込んだ探鉱技術で水銀鉱山を開発し、吉野山の水銀を、吉野山→興福寺→根来寺→堺→種子島→坊津→琉球→唐への密貿易ルートを開発していたのです。
戦国時代に、この藤原氏の密貿易ルートの、中国大陸→琉球→種子島→雑賀→根来寺→興福寺→本能寺(元は日蓮宗の寺だった。比叡山との戦いに敗れ、藤原氏の支配下の寺となり、火薬貯蔵庫となる。その後、織田信長に乗っ取られる。1582年織田信長が火薬庫で茶会を開いたのが誤算。織田信長は、イエズス会の密使により爆殺される。)により「鉄砲・弾薬」が、戦国武将へもたらされていたのです。
平安時代の宗教組織は、寺社領や荘園を経営して財政が豊かだったので、修行僧を多く養えたのです。しかし、平家を倒した源氏武士が政治の実権を握ると、源氏武士の守護・地頭により、その権益が奪われてしまったので、平安仏教は、源氏武士に多大の恨みを持っていたようです。(源氏武士は、「ミトラ神を祀る」ローマ軍末裔と「月・星を祀る」騎馬民族チュルク末裔の自然神を祀る民族末裔であったので、人工神の仏を祀る仏教にはなじめなかったのです。王権に擦り寄る仏教組織に消されてしまった騎馬民族のオリエント渡来の太陽化身のミトラ神は、「お天道様」となって今日まで生き残っているのです。)
鎌倉時代初期、財政に窮する平安仏教組織は、荘園を源氏武士に乗っ取られてしまった平安貴族の多大な喜捨も望めなくなったため、修行僧の大量解雇をおこなうのです。この流れで、比叡山延暦寺から追い出された下級僧侶達により、賎民を布教対象とした鎌倉仏教が始るのです。平安仏教は、生活に苦しむ賎民などは布教対象外で、貴族への文化・娯楽施設のような存在であったのです。
1219年源氏鎌倉幕府が滅亡し、落武者源氏の巻き返しであった承久の乱が、北条鎌倉幕府の軍事力で鎮圧され、源氏落武者狩りの六波羅探題を設置されると、源氏落武者は追っ手を逃れて、ひとも住めぬ山奥に集落を造り武士の出番をじっと待つことになるのです。しかし、山に逃れた源氏落武者の「武士」は、この鎌倉仏教の布教により、地獄世界を味わうことになるのです。
教科書歴史によれば、空海と最澄による平安仏教は貴族仏教で、親鸞と日蓮達による鎌倉仏教は庶民仏教と言われています。では、鎌倉仏教は、全ての庶民を生活苦から救ったのでしょうか。
鎌倉仏教の思想背景は、最澄が中国山東半島から持ち込んだ天台宗により、比叡山延暦寺が架空の聖徳太子を仏教のキャラクターとして広めた法華経です。法華経の思想は、一神教のように、他宗教思想に寛容ではありません。特に、法華経を否定する「仏敵」には不寛容です。
日本国での天皇を頂点とする律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れもの」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

比叡山から排出された鎌倉仏教僧による法華経の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると、平安時代の律令国家では日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が「穢れ者」ではなかったものが、時代が代わり、北条鎌倉時代になると、インドと交易をしていた南宋からの、バラモン・ヒンズー教の遊牧民族差別思想に染み付いた多数のインド仏教僧が鎌倉に亡命してくると、チャンダラー(セダラ=不可触賎民=屠者=騎馬遊牧民族)差別思想を南宋から持ち込まれ、「不具者・ライ病者」が「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の民族差別思想の芽生えが起こるわけです。
この騎馬民族を差別するバラモン・カースト思想は、騎馬民族末裔源義経に平安秩序を破壊された、百済系天皇家、比叡山延暦寺、興福寺、そして六波羅探題により源氏抹殺を図る北条鎌倉幕府には、魅力的思想であるわけです。
騎馬民族国家の祖・スキタイは、草原の騎馬民族を支配部族として、農耕民族、狩猟民族、海洋民族、商業交易民族、技能民族などの連合体であったのです。騎馬民族国家とは、騎馬民族単体の部族国家などではなく、異民族による部族連合体であったのです。
その後のユーラシアに出現した騎馬民族国家も、あらゆる部族を連合することにより勢力を増していったのです。日本列島での騎馬民族国家もその例外ではありません。飛鳥時代を支配していた、騎馬民族国家・突厥帝国に軍事支援された、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝も、技能部族の秦氏と連合していたのです。
ですから、北条鎌倉幕府が、山に籠もり武力抵抗している騎馬民族末裔の源氏落武者の勢力を抹殺するには、異部族連合を阻止すればよいのです。その異部族連合を阻止する手段のひとつが、バラモン・カースト思想を素材としたセダラ・不可触賎民=「穢多」の創作であったのです。
このセダラ・不可触賎民思想を、鎌倉仏教僧により、庶民に広めることにより、騎馬民族と非騎馬民族とが分離でき、異民族の連合を阻止できるわけです。鎌倉時代に創作された仁王様に踏み潰された「天邪鬼」は、騎馬民族末裔を表わし、その手足の指を「四本」にしたのです。つまり、騎馬民族末裔は、四本指の動物と同じであると、その像で暗示しているのです。鎌倉時代の仏像も美術品も、その多くは、騎馬民族末裔を貶める、ビジュアルとして開発されたわけです。
元々騎馬民族は、太陽・月・星の自然神を祀る民族の末裔であるので、人工神の仏教とはなじめないため、「仏敵」の第一候補であるわけです。そこで、王権は、王権にまつろわない騎馬民族末裔の捕虜地とした部落に、ハンセン氏病者の世話をさせるわけです。ハンセン氏病者は、「法華経」により「仏罰者」として刷り込まれていたので、そのハンセン氏病者の世話をさられている騎馬民族末裔は、「穢れて」いる、つまり、「穢多」となるわけです。そして、ハンセン氏病者は、インドのチャンダラー(セダラ)の不可触賎民と同一視されたため、その部落は、穢多部落に貶められてしまうわけです。
では、騎馬民族末裔の武士を、バラモン・カースト思想で貶めた鎌倉仏教僧の主役であった、日蓮と親鸞のバックグランドはどうなのでしょう。
日蓮(1222年〜1282年)は、法華経思想により他宗教を激しく攻撃したため、数々の「法難」を受け、佐渡にまで流された経歴の持ち主です。日蓮が、仏敵の騎馬民族を攻撃するには、その出身地が影響していたようです。
日蓮が生まれ育ったのは、千葉の漁村です。千葉は、古名では常陸(ひたち)です。日本国の地名・人名が漢字二文字となったのは、藤原氏による前政権の騎馬民族の歴史を抹殺する手段であった、713年の好字令からです。それ以前の地名・人名は、中国・漢族系では一文字で、オリエント系では「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などの多文字でした。その好字令が発令される以前、645年には、藤原氏により前政権の国際交易都市飛鳥ヤマトで使われていたアラム語やソグド語による騎馬民族蘇我氏の歴史書は焚書されていたのです。(神代文字と言われているのは、オリエントから渡来した国際交易商人による、ヤマト言葉の発音文字の可能性があります。)
そして、前政権の地域名を隠蔽するために、713年に風土記撰上の詔を発して、各地の地名の由来を創作させたのです。ですから、古代史を知ろうとして、各地の風土記を調べてみても、古代史の真実を知ることができないのです。
飛鳥時代の蘇我氏も、713年以前は何と呼ばれていたのかは分かりません。しかし、好字令が発せられた時に、二文字は全くの創作ではなく、元が一字の場合は、他の創作一字を加え、或いは多文字の場合は、二文字に縮めたようです。もし、蘇我氏の元字が、「蘇・ソ」だとすれば、その当時の「ソ・斯」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅」のことであたのです。
では、千葉の古名の「常陸・ひたち」は、713年以前は何かと言えば、それは、「常」であったのです。「常」は、「トコ」と読み、そのトコは、古代中国大陸では、東湖(トコ)で、ツングース族を示す言葉であったのです。つまり、千葉の古代住民は、東湖→とこ→常→713年に「常陸・ひたち」となり、渡来ツングース族の半農半猟民族の支配地であったわけです。
この半農半猟のツングース族は、古代中国大陸で、騎馬民族のチュルク族と死闘を続けていた部族であったのです。そのツングース族の末裔が、日蓮であったのです。
では、「南無阿弥陀仏」の呪文を唱えた親鸞(1173年〜1262年)は、どのようなバックグランドを持っていたのでしょうか。親鸞は、肉食を禁忌する仏教思想に逆らい、妻帯し、比叡山に敵対する破戒僧のイメージがあるようです。しかし、その破戒僧の裏には、藤原氏の陰謀が見え隠れするのです。
親鸞は、日蓮と異なり、高貴な血の流れにあったのです。親鸞は日野氏末裔で、その日野氏の系図は、中臣鎌子〜藤原鎌足→藤原不比等→北家・房前〜日野資業〜親鸞、となり、日本列島の古代から現在までの裏面史を飾る、藤原氏末裔だったのです。
親鸞が、法華経の牙城・比叡山と対峙したのも、戦国時代では親鸞の流れを汲む大阪の石山本願寺に居を構えた顕如が、イエズス会傀儡軍である最新式武器である鉄砲で武装する織田信長と十年戦争を遂行できたのも、藤原氏の指示・支援や、戦国時代の密貿易ルートによる鉄砲・弾薬の供給と根来・雑賀に加え、源氏武士末裔の軍事部隊がいたためです。
石山合戦を、鋤鍬で武装するムシロ旗の農民による一向一揆衆と織田信長との戦と考えると、教科書歴史の思わぬ落とし穴に嵌ってしまいます。その実態は、イエズス会と藤原氏との、日本一の国際交易港・大阪争奪をめぐる国際経済戦争であったのです。
親鸞が、騎馬民族のように肉食し、妻帯し、日本国仏教の最高権威の比叡山に逆らい、破戒僧となったのは、騎馬民族を貶める法華経を広めた比叡山延暦寺を憎む源氏落武者部落の「穢多部落」に潜入し、その軍事力を藤原氏のために利用するためだったのです。
親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
源氏武士の強さは、その弓の威力と防御具である鎧の堅牢さです。それらの素材は、動物の小腸と皮により作られていたのです。つまり、鎌倉仏教僧が、穢れ思想を広めることの裏の意義が、武器・武具製造用の原料の小腸・皮を、非騎馬民族から騎馬民族に供給させないことでもあったわけです。
北条鎌倉幕府は、穢れ思想を広めることにより、軍事物資である革の独占を図り、源氏落武者を捕虜として穢多部落に囲い、武器製造を画策していたのです。
歴史家の中には、日本列島に騎馬民族国家があったことを認めないひとも居るようです。つまり、騎馬民族征服説のことです。そのように唱える根拠として、騎馬民族が日本列島を支配したことを示す史料がないからです。しかし、騎馬民族が、海洋民族と同じに、歴史書をもたない民族であることを理解すれば、史料がないことが騎馬民族国家がなかったことの根拠として乏しいことが分かるでしょう。
ですから、日本史は、農耕民族末裔により創作された「日本書紀」の歴史書、寺社の借上の「借用書」、ヒンズー教化仏教思想の閻魔様の最後の審判用の「公家による日記」などの史料により復元されるわけです。そこには、騎馬民族の史料はありません。
しかし、武力に勝る騎馬民族は、文字としての史料は残さないが、騎馬民族が使っていた「言葉」は現在でも使われているのです。そのひとつが、「まる」です。何故、武士社会のシンボルである城の中心を本丸(ほんまる)と言うのでしょうか。
城とは、古代では建物を言うのではなく、古代ユーラシア大陸での草原戦闘で、防御のために土を固めた塀のことなのです。(城=土で成る)この城の防御機構は、渡来民族により、日本列島に持ち込まれるわけです。縄文・弥生時代の日本列島での防御機構では、ユーラシアとは反対に、大きな深い堀を陣地に廻らしていたのです。
この城の防御機構が、ユーラシアからの騎馬民族の南下により朝鮮半島に持ち込まれると、本陣となる山の麓に、石垣を築いて城とするわけです。この防御機構は、地名から朝鮮式山城というわけです。そして、その陣地である山の頂を「まる・聖地」と言ったのです。
四世紀、朝鮮半島の部族が、東アジアの動乱を逃れて、そして、日本列島の朱砂を求めて、日本列島にコロニーを造るわけです。しかし、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅がそれぞれ覇権を唱えていたのです。その影響は、日本列島にも及び、近畿のヤマトでは、山を陣地として百済コロニーの「葛城」と新羅コロニーの「磯城」とが、先住民が支配する三輪山を挟んで対峙していたのです。この頃の城とは、まだ建物のことではありません。城とは石垣のことなのです。この頃の城は、山を石垣で取り囲んだ防御機構だったのです。
やがて、オリエントから景教・仏教が、中国大陸から道教が日本列島に渡来すると、それらの宗教組織は、国際交易商人の出先機関でもあったので、交易品を保管し、賊からの襲撃に備えて、堅牢な建築物を構築していたのです。つまり、「寺院」とは、神・仏を祀る所でもあり、賊からの防御施設の「砦」でもあったのです。
鎌倉時代には、事実、武士との戦いで仏寺は僧兵が防御する「砦」の役割を果たしていたのです。北条鎌倉幕府に追われた、源氏落武者は、四世紀にギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した民族末裔ですから、山の麓に石垣を張り巡らした城を築くのです。そして、要所要所に曲輪(くるわ)の城郭を造り、そこから敵に向かって矢を射るのです。
城と言うと、天守閣がある石垣の上にそびえる「お城」をイメージするひとが多くいるようですが、その「お城」が歴史上に現れるのは、1576年の戦国時代末期なのです。織田信長は、イエズス会宣教師により、ヨーロッパの城の情報を得て、その思想を真似て「お城」造ったのです。しかし、織田信長は、デウスの神を祀らないで、自ら主(神)と唱え臣下に祀らして、自分の住処として「神」の住む「天主閣」を創作したのです。「天主閣」が「天守閣」となったのは、織田信長の死後のことです。
室町時代に、その源氏落武者が篭る、山城の頂を「まる・聖地」と呼んだことにより、山城と仏閣とが合体して、「まる」である中心建物を土塀で囲む砦が、平地に「平城」として建てられるわけです。この平城が、戦国末期に、イエズス会の鉄砲渡来により、石垣の上に仏閣が建てられ、その仏閣に天主閣が、織田信長により増設されることにより、現在に残る「お城」が完成するわけです。つまり、そのお城の中心的建物の本丸の「まる」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅からの言葉だったのです。
では、北条鎌倉幕府の源氏狩りにより、山奥の山城に篭る源氏落武者達は、どのような運命を辿ったのでしょう。
北条鎌倉時代、比叡山から排出された鎌倉仏教僧達が、農耕民達に「極楽浄土思想」と「穢れ思想」を布教したことにより、山に篭る騎馬民族末裔の「武士」の生活が困窮してくるのです。それは、里の農耕民との交流が「穢れ思想」によりできなくなり、里の農耕民からの食料供給が難くなったからです。
騎馬民族末裔は、基本的に農耕をしません。江戸初期、騎馬民族末裔の徳川家康は、秦氏末裔の弾左衛門に、隅田川沿いに広大な土地を提供したにもかかわらず、そこを畑として開墾せず、野原のままだったのです。その広大な野原は、弾左衛門による処刑場として利用されたに過ぎませんでした。
「穢れ思想」のトリックは、血の禁忌です。「血」は、穢れていると決め付けることにより、肉食、或いは動物を食料とする騎馬民族末裔の生活基盤は、その鎌倉仏教思想により穢れた存在と、農耕民達に認識されていくわけです。農耕民は、比叡山の高僧が「薬食い」と言って食肉していたのに対し、元々高価な「肉」は食べれなかったので、鎌倉仏教僧が宣伝する、「血の禁忌→肉食→穢れ=武士」の連想思想に染まりやすかったのです。
鎌倉仏教僧は、その穢れ思想を破った者は、法華経にあるように「仏罰者」として「ハンセン氏病」になり、守る者は「極楽に行ける」と、鎌倉仏教の本質を知らない農耕民達を脅すわけです。
紀元前六世紀、北インドに、先住牧畜民族トラヴィダを不可触賎民と差別する、バラモン教の教義に疑問をもったひとが現れるのです。そのひとは、バラモン教の聖職者階級が永遠にその最高地位に留まるトリックの「輪廻転生」によるカースト差別思想から解脱する方法を考え出すのです。それは、前世と後世を否定するために、あの世とこの世との中間に暮す、「非人」となり、一切の世俗的欲から開放されるために、「乞食・こつじき」の喜捨により暮すことを考え出し、出家し実行するわけです。その民族差別に疑問を持ったひとの名は、釈尊です。
しかし、紀元一世紀、北インドのガンダーラで、釈尊の名を騙る宗教組織が現れるのです。その宗教組織は、法華経を創め数多くの仏典と仏像(釈尊は、バラモン教の宣伝技術の像制作を禁止していた。ですから釈尊没から大乗仏教が発明される紀元一世紀まで仏像は存在していなかったのです。)をプロパガンダに使うのです。そして、キリスト奇跡物語ソックリのブッダ奇跡物語を、その異教国の布教先に広めるのです。
その宗教組織は、ガンダーラの国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト教、東に向かったのが大乗仏教と呼ばれるわけです。ふたつの宗教の教えの基本は同じで、「ウソをつくな。」、です。この教えは、ビジネスの基本として今日でも通用します。そして、その教えを守らない、「ウソをつく者は地獄に落ち」、それに対して、「ウソをつかない正直者は天国にいける。」と言う教えです。
ガンダーラの国際交易商人が、それらのふたつの宗教組織を経済的に支援し、異教国に布教させたのは、宗教組織自体の考えは分かりませんが、自らの商売を有利にするための市場開拓のためだったのです。古代の異民族との交易は、ウソが前提のため、取引でウソをつかせないようにするために、聖なる庭(神が降臨する所)でおこなわれていたのです。
そのような大乗仏教が、ガンダーラの国際交易商人と伴に、中国大陸に到達すると、土着宗教の長生術の道教(薬草を使う仙術・神農様を祀る。)に影響され、「西方浄土」「極楽浄土」を唱え始めるのです。そして、インドと海洋交易をおこなっていた南中国に到達すると、インド・バラモン教とヒンズー教に影響されて、向精神作用のある水銀薬を使う「密教」を発明し、その「密教」は平安初期に、錬金術師空海により日本列島に持ち込まれるわけです。
唐留学で仏教の勉強をあまりしていなかった中国天台宗を輸入した最澄は、空海に「密教」の教えを請うのです。つまり、日本国仏教の最高教育機関である比叡山延暦寺は、空海の教えにより、インド・バラモン教とヒンズー教色の強い民族差別思想を持った仏教思想を取り込んでしまっていたのです。(日本列島で多くの水銀鉱山を開発した空海が発明した真言宗の、あるお寺では近年まで、「旃陀羅・屠者のたぐいの穢れたるひとを見たらば、このしんごん(真言)をとなうべし」のお札を販売していたのです。)
そして、北条鎌倉時代になると、南宋の滅亡により、日本語を理解できないため、ただ睨めっこしかできないダルマ(達磨)のようなカースト思想に染まったインド僧が大勢鎌倉におしよせてきたのです。そのインドから南宋を経由して渡来したインド僧達が、「天竺(インド)に旃陀羅(チャンダーラ)というは屠者なり。生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」の騎馬民族を貶める思想を民衆に広めるのです。
北条鎌倉幕府での、鎌倉仏教僧達による「血の禁忌」の穢れ者(穢多)思想普及により、武士と農耕民との分離政策が成功すると、山の民と伴に暮す「武士」は、生活苦のため里に下りてくるのです。
この穢多思想が普及するのは、関東ではなく、関西です。関東は、飛鳥・奈良時代までは新羅系天武王朝と友好関係にあった騎馬遊牧民族が暮す「風の王国」であったのが、百済系天皇が支配する平安時代には、俘囚(王権に取り込まれた蝦夷)の棲む地になってしまっていたのです。つまり、平安時代では、関東全体は「部落」であったのです。ですから、北条鎌倉幕府を支配する平氏末裔北条氏も、平安時代に都から左遷された部族であったのです。鎌倉時代以前は、北条氏が支配する「伊豆・いず」とは、えびす(夷・い)が棲む地(夷住→いず→伊豆)、という処だったのです。
それに対して、関西では、古来からツングース族末裔の百済亡命民と騎馬民族末裔の新羅亡命民とが、その支配コロニーの拡張・争奪戦で争っていた地であったのです。
平安時代、唐国の軍事支援で、新羅系天武王朝を、藤原氏との謀略で簒奪した百済亡命貴族末裔の桓武天皇が近畿地方を支配すると、中国山東半島から元百済亡命民を近畿地方に移住させ、先住民のオリエントからの秦氏や新羅亡命民の土地を奪ったため、近畿地方は、百済亡命民と新羅亡命民との民族闘争が行われていた地であったのです。
そのような関西では、鎌倉仏教僧による騎馬民族を貶める「血の禁忌」「血の穢れ」「肉食は悪」などの思想は、百済亡命民末裔による、新羅亡命民末裔攻撃(イジメ=夷を絞める=異民族抹殺)の強力な武器となっていくわけです。
そのような民族紛争の時代背景により、騎馬民族を貶める「穢多」の民族差別思想は、全体が部落である関東では、関西より薄いのです。
騎馬民族国家は、農耕民族文士により、騎馬で戦闘に明け暮れる民族のように描かれているようですが、それは違います。騎馬民族国家は、異民族の連合体なのです。山奥の砦に立て篭もる武士と伴に暮す秦氏末裔は、技能部族であったのです。
北条鎌倉時代に、山から下りた、武士と技能部族末裔により、職能民、座、馬借の発生が起こるわけです。
鎌倉時代の文化を調べようとして、公の史料を調べても、どのような過程で鎌倉時代に職能民、座、馬借が発生したのかを理解できないのです。
職能民のひとつである鍛冶屋が、村中ではなく、どうして村外れにあるのか。どうして先住民の氏神の祟りを恐れて封じ込め施設である、農耕民が近づかない藪の中にある、異界の神社を中心に同業者組合ネットワークの「座」が拓かれてたのか。そして、平安時代に牛車でひとや物を運んでいたのに、何故、北条鎌倉時代に、馬でひと・物を運ぶ運送業が現れたのか。それらの疑問を分かるように説明した歴史書がないのは何故でしょう。
それは、それらの仕事に従事したのは、王権にまつろわぬ民、騎馬民族末裔や賎民だったからです。
では、なぜそれらのものが、北条鎌倉時代に現れたのでしょうか。それは、北条鎌倉幕府の経済を支えていた貿易先の南宋が、1279年に元帝国に滅ぼされてしまったことにより、北条鎌倉幕府の権力が衰えたことと、それに、荘園が武士により乗っ取られたため、平安貴族が没落することにより、平安時代からの賎民統制機構の天皇制が崩壊寸前になっていたからです。
平安時代までの文化・経済を支えていたのは、百済系天皇の庇護を受けていた比叡山延暦寺だったのです。北条鎌倉幕府に、天皇親子が隠岐や佐渡に島流しにされたことにより、その庇護を受けていた比叡山延暦寺のカリスマ性のメッキが剥げてしまったのです。そのことにより、比叡山が経営する難波の湊も衰退し、替わって、新羅亡命民コロニーだった大坂(おさか→おおさか・大阪)に元国の交易船が「硫黄」を求めて訪れるのです。
源氏発祥の地・大坂は、北条鎌倉幕府を倒し、再び源氏武士が支配した室町時代になると、元国に替わって明国との国際交易港に変身していくわけです。戦国時代に、その大坂の繁栄を見た、イエズス会国際交易商人と藤原氏の流れを汲む石山本願寺派が、その地の争奪戦を行ったのが十年戦争の石山合戦だったのです。その決着は、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀により、デウスを祀らない織田信長が元藤原氏の寺であった本能寺で爆殺されると、イエズス会から寝返り藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉により、大坂の地は藤原氏の支配地となり、元の支配者の源氏を祖とする渡辺村の住民は、1590年に関東の湿地帯に移封された徳川家康のように、湿地帯に追われ、そこを穢多村とされてしまうのです。その地に豊臣秀吉は、1583年大阪城を修築するのですが、1615年大阪夏の陣により、徳川家康が、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅すると、大阪城と豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊するのです。そして、更地にした処に大坂城を再建するのです。
1260年元帝国に即位したフビライは、ヨーロッパと海洋交易を行うため、そして、場合によっては征服するための武器の原料の「硫黄・イオウ」を海外に求めていたのです。元帝国は、爆裂弾という火薬を使う武器を開発していたのです。火薬は、硝石・硫黄・炭粉により作られるわけです。火山国である日本列島には硫黄が無尽蔵にあり、また、緑の島国の日本列島には炭を作るための樹木も無尽蔵にあるわけです。
そのような元帝国の要望のために、1271年元帝国使が、国書をもって北九州に訪れるわけですが、南宋から渡来した禅僧の悪智慧を疑わない北条鎌倉幕府は、元帝国使を追い返してしまうわけです。
歴史教科書によれば、その仕返しとして「元寇」の来襲と言うわけです。しかし、元帝国の貿易船は、その後も続々と日本列島に訪れているのです。1306年には、日本列島から貿易船が元帝国に赴いているのです。では、日本国から何を持ち出していたのかと言えば、そのひとつが「硫黄」だったのです。この硫黄輸出は、室町時代の、1434年硫黄の輸出禁止令が出されるまで続けられていたのです。この硫黄貿易を主に行っていたのは、日本列島から中国本土への密輸ルートを、平安初期から開発していた南九州の藤原氏だったのです。(鎌倉初期に、源頼朝により、藤原氏の荘園は、惟宗氏(島津氏)の荘園となる。その後、島津氏は藤原氏末裔近衛家と姻戚関係を結んで取り込まれる。)島津氏とは、秦氏末裔なのです。
この元帝国との貿易が始る頃に、歴史上馬借が現れるのです。硫黄は、海ではなく、山から産出されるものです。その山は、北条鎌倉幕府のサムライではなく、武士や山の民が支配していたのです。
そして、その硫黄の対価として、当然元帝国貿易商人から物品が得られるのです。すると、その輸入品を捌くためのルートが必要となるわけです。しかし、武士や山の民は、北条鎌倉幕府から目を付けられている存在です。そこで、誰もが立ち寄らない異界の神社が、そのルート基点として発展していくわけです。これが後に「座」となるわけです。
北条鎌倉幕府に追われた源氏武士達は、山奥に城で砦を築き、そして、生活のため里に下り、鎌倉仏教僧が布教する騎馬民族差別思想(血の禁忌、肉食は悪、武士は穢れ者)に耐えながら、村外れの鍛冶屋などの技能民として、或いは馬での輸送業者として、神社の闇のネットワークを使い情報交換をしながら、武士が活躍できる時期をじっと待っていたのです。
北条鎌倉幕府は、その権力の中枢は半農半猟のツングース系桓武平氏末裔であったので、山奥の山城に篭る騎馬系源氏武士団を壊滅できなかったのです。ですから、北条鎌倉幕府の警察業務をおこなう守護・地頭が支配できない山国が、北条鎌倉時代に多くあったのです。
それらの北条鎌倉幕府の支配が及ばない地は、西から備後、備中、伯耆、因幡、丹後、丹波、摂津、河内、能登、越中、飛騨、甲斐です。これらの騎馬民族末裔源氏支配地には、北条鎌倉時代、守護も地頭も存在が確認できなかったのです。(これらの地の支配者末裔は、徳川三代将軍家光からの第三百済王朝において、「穢多」「藤内」「鉢屋」「茶筅」「ささら」などと言われ、再び民族差別されていくわけです。)
北条鎌倉幕府は、南宋の滅亡により交易ができないだけでなく、元帝国と密交易をおこなっている禅僧により、「元寇」などと言うニセ情報操作により元帝国との交易を阻止されたことにより、北条鎌倉幕府経済は壊滅状態になっていたのです。その期を見た後醍醐天皇は、山に立て篭もる源氏落武者末裔を味方に付け、北条鎌倉幕府を攻めるのです。
1333年足利尊氏(源氏)が北条鎌倉幕府の警察機構である六波羅探題を落とし、新田義貞(源氏)が鎌倉を攻め落とすことにより、第二百済王朝の北条鎌倉幕府は、ここに滅亡するのです。
後醍醐天皇による、北条鎌倉幕府倒幕も、その軍事的中心をなした源氏の足利氏との見解の相違により、1336年吉野の後醍醐天皇の朝廷(南朝)と、足利氏の武家政権(北朝)との分裂となるのです。これが南北朝の始まりです。百済王朝再建を目指す後醍醐天皇が、1339年死去し、南朝の楠木氏も北朝に寝返ったため、1392年南北朝の合体となり、1394年三代足利義満が太政大臣となり、源氏足利氏の室町時代が確立されていくわけです。
この源氏室町幕府の時代に、現在に続く日本文化の基礎が花開くのです。その主役は、山から降りた民達です。
室町時代の文化を代表する芸能のひとつとして、「能楽」があります。1402年賎民の世阿弥は、能楽の奥義書の「風姿花伝」を著すのです。その書によれば、能楽の祖は、秦河勝というのです。そして、能楽は、猿楽から派生したというのです。では、その猿楽の「猿」とは何を物語っているのでしょうか。
猿は、古来王権よりの蔑称で、王権に服従する先住民を意味していたようです。812年多人長が著した「古事記」には、(古事記の奥付712年は、唐国の儀式により新羅系天武天皇の神・天御中主(北極星・太一)を祀るのではなく、百済系桓武天皇が父・光仁天皇を神として祀り「日本書紀」の文章を嫌新羅、親百済(552年百済仏教伝来のウソ。蘇我馬子の事跡を聖徳太子の活躍に改竄。チュルク系騎馬民族蘇我王朝を隠蔽するために、聖徳太子を発明。)に改竄したことを、多人長が、後世のひとに気付かせるために付けた年号。古事記が812年に発刊された根拠として、「古事記」は、後に(720年))に発刊された「日本書紀」の、推古天皇までの解説文(一書)全てに対応しているからです。更に、「日本書紀」が万葉語に稚拙なのに、それ以前に発刊された「古事記」の万葉語は完璧なのです。それは、オリエントから渡来の秦氏末裔多人長が、万葉語(万葉とは、世界の言葉の意味。)の学者で、そして、「日本書紀」の解説者でもあったからです。)

わたしは国つ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天つ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。

とあります。猿田彦は、「神様」だったと、秦氏末裔の多人長は、「古事記」でさりげなく述べているのです。その国つ神とは、先住民の神ということなのに、何故王権から、「猿」は蔑視されていたのでしょう。それは、王権がある時点(平安時代)で、「摩り替わって」いたからです。
猿は、猿まわしの大道芸として、今日でも人気のある芸です。その猿は、古来から「馬」の守護神であったのです。何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょうか。そこには、簒奪王権により隠された物語があるようです。
猿まわしは、古来より猿廻し、猿曳、猿牽、猿遣い、猿飼いなどと言われていましたが、「狙公・そこう」とも言われていたのです。その「狙公」と「猿まわし」との因果関係がよく分かりませんが、「狙」と「公」とに分解すると、その意味が分かります。
「そ」とは、古代新羅語で、「新羅」と言うことで、「公」とは、尊称でひとのことです。つまり、「狙公」とは、「新羅のひと」ということです。(新羅国の古語に、「けものへん」の「狙」を使うことにより、亡命百済王権よりの、新羅末裔への貶めが窺がえます。それは、教科書歴史で、新羅を、「しんら」ではなく、「しらぎ」と読ませることと同じです。「しらぎ」とは、「新羅の奴(やつ)」という蔑称だからです。)
新羅(しんら)とは、秦羅(しんら=ローマの国。漢語でローマ帝国は「大秦」と表記。)でもあり、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅であり、秦氏は、オリエントからシルクロードにより中国大陸を経て朝鮮半島に渡来し秦王国(新羅)を興し、そして、朝鮮半島の騒乱を逃れ、秦氏一族は北九州に亡命し、秦王国(後の豊国)を興し、そして、紀元四世紀には飛鳥ヤマトに渡来してきた民族なのです。
能楽の祖が、秦河勝で、能楽の祖が猿楽であるならば、猿が先住民の神(国つ神)であったことが理解できます。つまり、「猿楽」とは、「申楽」で、その申(さる)とは、645年蘇我王朝の簒奪者・藤原氏により、「神」の偏を盗られてしまい「申・さる=猿」に貶められてしまった「神楽」(神に捧げる芸)だったのです。
では、何故「猿」が「馬」の守護神なのでしょう。
それは、秦氏が渡来してきた日本列島の歴史を考えれば、そのヒントが得られます。日本列島に「馬」が存在していなかったのが、四世紀の古墳から「馬具」が突然現れるのは、ユーラシアから騎馬民族の渡来が示唆されます。
五世紀から六世紀にかけて、飛鳥ヤマトに渡来した騎馬民族チュルク(蘇我氏)は、そこに王国を建てるのです。その騎馬民族チュルク王国(蘇我王朝=ヤマト王朝)を護ったのが、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した秦氏であったのです。
飛鳥ヤマトを中心に、十二m超幅のローマ軍式「直線道路」が、難波や近江の各湊を目指して造られていたことは、そのローマ式軍事道路建設の技術を持った部族が、飛鳥ヤマトに渡来していたからです。その技術部隊が、秦氏であるわけです。
それに、エジプトの石棺造りの技術、巨石建造物を造る技術、噴水を造る技術などは、全てオリエントからの技術なのです。なのに、教科書歴史では、秦氏とは、「はた織」の技術者だから、「はた」氏なのです、と説明しているのです。
そのヤマトの歴史が後に、猿(秦氏)が馬(騎馬民族)を護るという物語となったわけです。この「猿が馬を護る」物語は、1590年騎馬民族末裔の徳川家康が、宿敵の関白豊臣秀吉により穢れ地のエドの湿地帯に左遷された時、徳川家康の馬が疲弊したのを、鳥越から駆けつけた穢多頭弾左衛門(秦氏末裔)が「猿曳き」を伴いお迎えしたと、千年の時を超えて繋がっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて、異装・異相の武装集団が出没するのです。そして、その頃「槍」が戦で出現するのです。槍は、弥生時代から矛が武器として使われていたから、古来からあると思われていますが、そうではないのです。
鎌倉時代の前、平安時代には、槍は戦場で存在していなくて、長物武器は薙刀だったのです。平安時代の藤原氏の興福寺や亡命百済貴族の延暦寺の僧兵軍団は、薙刀(唐軍の武器か?)で武装していたのです。そして、平安時代に出現した武士は、日本刀と弓矢で武装していたのです。
では、その槍はどこからもたらされたのでしょうか。考えられるのは、1274年と1281年との「元寇」と言われる、南宋と高麗からの亡命軍の渡来です。異装・異相の武装集団が、太平洋側よりも、日本海側に多く出現したことにより、南宋や高麗から外洋船で亡命候補の北九州を目指していたのが、沖で暴風雨に遭遇し、亡命軍団船が対馬海流により日本海沿岸に打ち寄せられたことが推測されます。
長槍は、ローマ軍の主力武器だったのです。長槍と盾により集団で防御・攻撃をおこなうのがローマ軍の闘い方です。その長槍を、ロンギヌスの槍ということからもローマ軍の長槍は有名だったのです。そして、ローマ軍は、傭兵軍団により組織されていたのです。
傭兵は、お金のために闘うので、条件がよければ遠方でも、どのような異国にも赴いていたのです。秦の始皇帝の軍隊にも大勢のローマ傭兵軍兵士が加わっていたのです。
鎌倉末期から南北朝にかけて現れた、異装・異相の武装集団は、自ら「あく党」と名乗っていたのです。では、その「あく党」とは、悪い集団の意味の「悪党」なのでしょうか。自ら「悪党」を自認することは稀です。では、「あく」とは何を意味しているのでしょうか。それは、「あく」とは、古代ペルシャ語で、「勇者」を意味していたのです。異装・異相の武装集団が、自ら「あく党」と名乗ったのは、「勇者団」を意味していたのです。
日本の家紋の歴史上の出現は不明です。その武士の家紋が確認されるのは、1467年応仁の乱の流れにおける、下克上の群雄割拠する戦国時代からです。時代劇映画での合戦シーンでの家紋を付けた旗指物が現れるのが、戦国時代なのです。平安時代の源平合戦では、源氏の白旗に対して、平家は赤旗で闘っていたのです。鎌倉時代も、室町時代も、その合戦場で、家紋付き旗など見られません。
では、何故、合戦場で、家紋が戦国時代に突然現れたのでしょうか。考えられるのは、鎌倉末期に現れた異装・異相の武装集団の渡来です。
ローマ軍団は、出自の異なる各傭兵軍団により組織されていたのです。ですから、それぞれの出身の異なる傭兵軍団は、戦場での自部族軍の働きを雇い主に示すために、盾や旗にそれぞれの部族を示すシンボルマークを付けていたのです。そのシンボルマークが家紋というわけです。
日本の家紋の歴史は、不明です。「日本書紀」で、天皇家のルーツが、ひともいない神代から続いていると述べているのに、天皇家の家紋である十六弁菊紋が現れるのが、鎌倉時代というのはどうしてでしょう。
鎌倉時代とは、天皇家の経済基盤である天領と荘園とが、源氏武士により略奪され(この百済系天皇領の略奪は、源氏武士の先祖の新羅系天武天皇の支配地を取り戻した、とも考えられます。)、更に、源氏の支配権を奪った北条鎌倉幕府により、天皇とその子息は島流しにされた時代なのです。そのことから推測すると、家紋という意匠は、元々日本列島に住むひと達とは異なる思想を持ったひと達により、創り出されたもののようです。
現在に至る日本国の家紋は、そのデザインに使われる多くの動植物は、オリエント渡来のものです。鎌倉時代に出現した百済系天皇家の家紋である十六弁の菊も、そのルーツはペルシャ原産なのです。動植物を使わない部族を表わすデザインでも、ユーラシアの騎馬民族が崇拝する、「月・星」を使用しているのです。(現在のユーラシアの国々では、国旗に月・星をデザインに使用している。)
源平合戦で、闘った平家と源氏とは、それぞれのシンボルを星に求めていたのです。オリオン座の赤いα星のベテルギウスを「平家星」と呼び、白いβ星のリゲルを「源氏星」と呼んでいたのです。このことから、平家と源氏とが、農耕民族でないことが証明されます。海洋民族と騎馬遊牧民族は、定住民族の農耕民族と異なり、星の指示により民族移動をしていたからです。
その源氏系の渡辺氏の家紋、三ツ星に一文字とは、オリオン座のミンタカ・アルニラム・アルニタクの三ツ星を表わし、一文字とは槍を表わしていたのです。その槍は、源平時代には戦で使われていなかったのです。槍が戦で使われるのが、鎌倉末期から南北朝であったから、それ以前の源平の時代に、三ツ星と一文字の家紋など存在していなかったから、源氏は白旗だったのです。
日本国の家紋の歴史的出現も不思議ですが、お金(銭)の歴史も不思議なのです。日本国が中国から独立していると歴史書が述べるのなら、何故、飛鳥・奈良時代は富本銭や和同開珎を鋳造していたのに、平安・鎌倉・室町時代に、日本国独自の銭を鋳造しないで、宋銭や明国の永楽銭を輸入して、日本国内で流通していたのでしょうか。そして、現在の「円」も中国の貨幣呼称単位なのです。
何故、708年和同開珎を鋳造したことが、「日本書紀」に誇らしげに書かれているのに、後世に「お金は穢い。」と言われるのでしょうか。それは、平安時代に、中国大陸と密貿易をおこなっていた藤原氏と百済系天皇家が、反体制の民(新羅系天武天皇末裔・富本銭や和同開珎を鋳造していた民族)が勢力を復活させないようにするために、騎馬民族と農耕民族との交易を阻止するための手段のひとつとして、貨幣の流通を禁止するために、発明した「呪文」だったからです。
その銭の穢れ思想は、平安仏教徒が広めた思想であるわけです。その結果、平安時代では、銭の穢れ思想に染まった農耕民族は、銭を嫌っていたのです。そのため、商業を得意とする騎馬民族と農耕民族との交易が途絶えるわけです。それは、王権が望むところです。
しかし、宋国と密貿易をおこなっていたひと達は、宋銭を溜め込んでいたのです。そこで、1192年南宋貿易で銭を溜め込んでいた平家を倒した後、北条氏の傀儡政権の源頼朝は、伊勢の湊で南宋との密貿易で宋銭を溜め込んだ落武者平家末裔を封じ込めるために、銭貨の停止を発していたのです。
政権を維持する者は、その支配権を維持する経済的基盤を磐石にするために、色々なトリックを考え出すようです。そのひとつが、土地本位経済です。土地を支配することにより、臣民を支配できるからです。
その例のひとつが、大宝律令の土地制度のトリックです。そのトリックとは、豪族・氏族が所有する土地を、一旦天皇に献上し、改めて各氏族が、天皇より土地を賜ることにより、天皇の庇護を受けることができる、とするのです。しかし、そこにトリックがあるのです。
例えば、天皇が、ある氏族を潰そうと画策すると、その土地を天皇に返還させさえすれば、その氏族の経済基盤が消滅するため、武力を使うことなく、その氏族も消滅してしまうわけです。このようにして、奈良時代の反藤原氏の貴族・豪族は、抹殺されていったのです。
奈良時代の、藤原氏による天皇の権威付けが、興福寺の奈良仏教であり、春日社の中臣神道であったのです。そして、そのトリックの奥義書が、「日本書紀」というわけです。(平安時代に、桓武天皇により、「日本書紀」に百済史が挿入される。その「日本書紀」の改竄を後世に示すために、812年多人長は、「古事記・712年奥付」を著したのです。)
しかし、銭は、土地と異なり、それを完全に支配することは、天皇でも困難です。そこで、王権は、銭を溜め込み、革命を起こさないようにするために、銭を溜め込まない政策を画策するのです。それが、「銭は穢れている。」と言う思想を、仏教僧により布教することです。
鎌倉時代に発生した同業者組合の流通・交易の場である「座」では、騎馬民族はユーラシア大陸での交易で古来から為替を使っていたように、騎馬民族末裔の民が仕切る神社では、宋銭が交易に使われていたのです。
「座」での商業活動で「宋銭」を溜め込むことにより、源氏末裔の復活を恐れる北条鎌倉幕府は、鎌倉仏教僧達に、平安時代に発明された「銭は穢い思想」を、騎馬民族末裔を世間から疎外するために、その思想背景を知らない農耕民達に布教させるのです。
庶民や賎民に、仏教説話で「銭は穢れている。」と布教し、銭を嫌悪させることにより、仏寺は多大の献金を集めることができたのです。何故、神仏への浄財である賽銭を、賽銭箱に投げ入れる理由が、その銭の穢れ思想にあったのです。それは、穢れた銭と一緒に身の穢れも投げ捨てる、というトリックなのです。では、その穢れ銭は、何に使われるかと言うと、仏寺や神社の借上用に使うのです。神や仏は、銭が必要が無い存在なのです。銭が欲しいのは、僧侶達だったのです。
しかし、騎馬民族は、商業民族の性格を内在していたので、「座」での農耕民との交易をする術を知っていたのです。そのひとつが、バザールの開催です。ユーラシアの遊牧民族は、古来より日にちを決めて定期的にバザールを開催していたのです。そのバザールでは、物品の交易だけではなく、色々な魅力ある興行(猿楽=神楽)もおこなわれていたのです。
しかし、その穢れ地である神社でのバザール開催を快く思っていないひともいるわけです。そこで、バザール荒らしが発生すると、それを阻止するひとが現れるわけです。それが、「座」を仕切る「役」の、「役座」の発生となるわけです。
役座は、賎民の交易の聖地である神社境内(反体制の地)の平和を守るために、警察業務をおこなうわけです。役座は、王権からの威圧破壊行動に対して、弱い者(賎民)の立場を守る者であることから、「任侠」とも言われるわけです。「任侠」とは、弱い立場のひとと、ひととの気持ちを狭めることを表した言葉です。この「強きを挫き、弱きを助ける」任侠道思想は、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるわけです。
警察業務は、大きく二つに分けられます。ひとつは、公安警察で、もうひとつが治安警察です。
公安警察業務とは、事件を未然に防ぐためにおこなう警察業務です。その主業務とは、犯罪組織の動向を探る情報収集です。
治安警察業務とは、起きてしまった事件を速やかに解決するために、武力を伴う鎮圧業務です。
平和を守るための警察業務とは、そのノウハウと情報収集をおこなうための全国的組織と武闘力行使のための軍事組織が必要なのです。ですから、賎民の平和を守る「役座」の仕事は、誰にでもできるものではないのです。
ローマ帝国では、街の平和を守るために、裕福な街の名士の財力で、情報収集と武闘のための警察組織を作っていたのです。
では、室町時代、何故「役座」が、神社境内での「座」やバザールでの警察業務ができたのでしょうか。それは、神社成立の謎にあります。
神社は、日本古来から存在する、神様を祀る施設と思っているひとが多くいるようですが、それは違います。神社は、仏教が伝来して、道教・景教を駆逐した後に、道教・景教の神を封じるために発明されたものです。
多くの神社は、こんもり茂った小山の上にあることからも分かるように、土の家=塚=墓(古墳)の上に建てられているのです。日本列島での古墳の発生は、仏教が伝来する前の三世紀後半からです。ですから、三世紀以前には神社など存在していなかったのです。
では、神社は何のために建てられた施設なのでしょうか。それは、前政権の氏族の霊の祟りを封じ込めるために発明されたものですが、どのような神を封じたのでしょうか。
仏教が壊滅した前政権の祭祀者は、こんもり茂る小山で何をしていたのでしょうか。そのことを知るヒントが、「日本書紀」の皇極天皇元年(642年)の条に、

「雨乞いのために村々の祝部(はふりべ)の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社(やしろ)の神を祭(いの)る」

、とあるのです。この記述は、何を意味しているのでしょうか。それは、ミトラ教の儀式を描写しているのです。
古代オリエントで発明されたミトラ教では、輪廻再生する不死身の太陽の化身の牡牛を屠ることにより、死から再生することができる、と信じられていたのです。その牡牛を屠る儀式が、異民族との交易契約を見守る神でもあるミトラ神が、国際交易商人と伴に、各地域に伝播することにより、「牡牛を屠ると太陽神(ミトラ神)により、願い事が叶う。」と拡大解釈されていくわけです。
四世紀に、日本列島に、牛・馬と伴に渡来した民族により、そのミトラ教(景教)の儀式も持ち込まれていたのです。この牡牛を屠る儀式は、百済系桓武天皇が統治した平安時代まで続いていたようで、804年牛の屠殺の禁止令が出ていたほどです。
その儀式は、藤原氏が持ち込んだ大乗仏教の火の儀式に敗れることにより、ミトラ教儀式の祭祀場である、森(「もり」とは、古代新羅語で「神」が宿る聖地の意味。)の小山に、藤原氏の仏教勢力により神社が建てられるわけです。しかし、ミトラ神の祟りを恐れるため、ミトラ神が宿っていると信じられていた祠(ほこら)や石物は、そのまま放置されたわけです。現在に残る神社境内の薄暗い湿気のある処にある祠や石物は、ミトラ教の名残かもしれません。
奈良時代末期から平安初期におこなわれた、藤原氏や百済系貴族が、天武天皇系の前政権の支配者を抹殺したため、奈良の大仏の建造時での銅・水銀鉱毒症が、医学の知識がない時代だったので、前政権者の怨霊の祟りと信じられていくのです。
特に、藤原百川による、天武天皇系最後の血を伝える、後に光仁天皇となった百済亡命下級貴族のお后であった井上皇后と他戸親王(おさべ)母子の謀殺により、天武王朝を乗っ取った光仁・桓武天皇親子は、その怨霊に怯えていたのです。更に、桓武天皇は、ダビデの王権を独占したソロモンと同じに、実弟を無実の罪で謀殺していたのです
怨霊の魂を鎮めるには、同族の祭祀者でなければならないと、当時では信じられていたため、怨霊封じ込め施設の神社の警察・警護は、俘囚があてられたのです。
唐進駐軍の統治下にある桓武天皇軍の陸奥国蝦夷討伐により、前政権の天武王朝軍属は、京に連行され、俘囚と呼ばれるわけです。そして、湿地帯の散所・別所・湯浅・垣内と呼ばれる捕虜収容地に囲われ、武器製造を担わされていたのです。その俘囚と呼ばれる、チュルク系騎馬民族末裔により、蕨手刀を改良して日本刀が創られるわけです。その根拠として、石上神社蔵の刀剣銘には、「陸奥国月山住俘囚臣宇久留」、とあるのです。
その俘囚が創った日本刀と、鎧により武装した、検非違使の手下となった者を、「武芸者」と呼ぶわけです。その武芸者が、後に武士と呼ばれていくわけです。
しかし、その武芸者は、平安時代を統治していた唐進駐軍から敵視されていた新羅軍属末裔もいたわけですから、その携帯する武器も、日本刀は、曲がる、折れる、刃毀れする実践用ではなかったのです。そして、鎧も総皮製の実戦用ではなかったのです。
では、それらの実践用武器・武具ではないもので武装した「武芸者」は、何をしていたのでしょうか。それは、怨霊退治のための公安警察業務(キヨメと呼ばれた。)です。
神社として前政権の神域を封印してしまっても、ひとの記憶を消すことはできません。俘囚とならずに山奥に逃れた「鬼達」は、元の聖域であった神社に自然と集まってくるのです。そして、鬼達は、自分達の土地を簒奪した平安貴族達の館を襲うわけです。
しかし、平安時代では、怨霊の存在を信じていたわけですから、実態のある事件は、治安警察業務をおこなう唐進駐軍や健児兵でおこなっても、実態が見えない事件は、怨霊の仕業と考えていたため、怨霊鎮めのために、鬼の同族である俘囚の武芸者に公安警察業務をおこなわせるのです。それは、武芸者の剣舞による、怨霊鎮めの警察業務です。ですから、武芸者の武器・武具は武舞用で、実践用ではなかったのです。
武芸者の「芸」とは、神を祀る(楽しませる・鎮める)技術であったのです。それらは、歌謡と舞を基本としていたのです。その俘囚の芸(神楽)は、後に簒奪王権により、申楽(猿楽)に貶められてしまうわけです。源氏が支配する室町時代に発明された能楽は、この剣舞の「怨霊鎮め」が素となっているのです。能楽の素は、賎民の彷徨える魂を鎮める「神楽」だったのです。
美術品のような日本刀とチュルク系騎馬民族の鎧兜に華美な装飾を施した武具で、神社境内で、怨霊鎮めのために剣舞をおこなう武芸者は、やがて貴族・民衆に崇められていくのです。やがて、怨霊封じの結界である神社が、武芸者の剣舞を鑑賞するための民衆が集まる場となり、民衆の交易、娯楽の地となっていくのです。すると、武芸者は、神社の平和維持のために、神社境内の警察業務もおこなうようになるわけです。
前政権の氏神を封じ込める神社が、俘囚の武芸者により前政権の氏神が復活することを恐れた仏教勢力は、その神社を取り込むトリック思想を考え出すわけです。それが本地垂迹説です。それは、神は仏の手下という意味です。
そのトリック思想により、神社は仏寺に習合されてしまうのです。元々仏教も神道も、四世紀以降に、藤原氏により中国大陸から日本列島に持ち込まれたものですから、その本地垂迹説により神と仏が同居する神宮寺は、平安貴族達に受け入れられていくわけです。それにより、神社で剣舞をおこない、そして警察業務もおこなっていた武芸者は、神社から排除されていくわけです。
しかし、武芸者は、神宮寺から排除されても、唐進駐軍の後ろ盾の百済系桓武天皇により、奈良の都に封じ込められた、怨霊の祟りを恐れる奈良貴族(藤原氏)により、怨霊鎮めの仕事が与えられるわけです。
武芸者が何故公安警察業務をおこなえたのかと言えば、その要因は二つあります。
ひとつは、武芸者の祖は蝦夷で、その蝦夷の祖は、騎馬民族チュルク族と新羅花郎軍団末裔であったからです。騎馬民族国家は、異民部族の連合体ですので、合議制でものごとを決めていたのです。合議制とは、談合のことです。談合するためには、部族同士の情報交換の技術が必要です。武芸者は、情報収集能力に長けていたのです。
もうひとつは、武芸者には、組織統制の技術が蓄積されていたからです。それは、ローマ騎士道→花郎騎士道→日本武士道の流れにあるからです。その武士道の掟は、組織への忠誠心と弱者へのいたわりです。この思想が無い限り、民衆の共感を得る警察業務はできないのです。民衆の支持が無い警察業務は、長続きはできません。(武士組織と役座組織には共通点が多い。)
彷徨える芸能者の仲間であった武芸者は、939年の天慶の乱により、武士に変身するのです。
907年唐滅ぶ。926年渤海滅ぶ。935年統一新羅滅ぶ。
東アジアの騒乱を逃れてそれらの国の亡命軍属が、日本列島に渡来することにより、各地で紛争が起こったのです。藤原氏は、経営する荘園を防衛するために、公安警察として雇っていた武芸者を、治安警察に使用したのです。この武芸者の活躍により、天慶の乱は速やかに鎮圧されていくわけです。
元々、武芸者とは、飛鳥ヤマトの騎馬民族末裔の武人であったから、武勇に優れ、騎射も得意だったのです。そして、その騎馬民族末裔の武士が、源氏を名乗るわけです。
ここに、闇の世界の公安警察業務をおこなっていた武芸者から、表の世界での治安警察業務をおこなう武士が誕生するわけです。そして、北条鎌倉時代末期に、その闇の世界の武芸者の末裔から、神社で交易・興行をおこなう賎民の平和を守るために役座が現れるわけです。ですから、役座隠語と警察隠語とは同じなのです。
この役座の闇の世界の治安警察業務は、江戸時代まで続くのです。しかし、明治維新により、公安・治安警察業務は、建前として、薩摩藩(秦氏末裔)の下級武士の仕事となったのです。しかし、役座が、任侠思想(武士道の流れにある思想)を理解し、実行している限りは、どのような権力でもその組織撲滅はできないでしょう。何故なら、役座組織は、鎌倉時代から続いているからです。  

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