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神輿の黙示録(15)(藤原氏と秦氏の謎:藤原氏はユダで秦氏はエフライムか?)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/843.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:29:00: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(14)(武士の謎:何故役座隠語と警察隠語が同じなのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:25:16)

ひとは、小さなウソには直ぐに気がつくのに、大ウソには全く気付かない傾向があるようです。このひとの心理を悪用して、権力者は、大ウソを堂々とついているようです。
その大ウソの典型が、「聖書」と「日本書紀」の物語です。それらの書物は、時の権力者により、権力者に都合のよい大ウソ物語を挿入し、改竄され続けられていたのです。しかし、その大ウソ物語は、堂々と挿入されていたため、今でも多くのひとには気がつかなかいようです。
後世、その大ウソ物語により苦しむことがないようにと、その大ウソ物語を心あるひとに気付かせるためのひとが現れたのです。それは、「聖書」に対しては、パモス島のヨハネで、「日本書紀」に対しては、秦氏末裔の多人長です。
しかし、このパモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」も、秦氏末裔多人長による「古事記」の黙示録も、20世紀末まで解かれることはなかったのです。もし、それらの黙示録が世に出た時に、その黙示録を多くのひとが理解したならば、中世のヨーロッパ社会で、民間医療従事者の女が「魔女」として、金儲けのために医療の独占を企むキリスト者により火刑にあわずに済んだことでしょう。そして、日本国でも、仏の興福寺や神の春日社の両方の宗教を同時に支配する藤原氏による、インドカースト思想の穢れ仏教思想により、鎌倉呪文仏教徒などから、オリエント渡来の秦氏末裔が「穢多」などの差別用語でイジメられることもなかったことでしょう。
しかし、それらの大ウソにより創作されたユダヤ・キリスト世界史や藤原日本史は、今でも堂々とひとびとを洗脳し続けているのです。そこで、この章では、その「黙示録=覆い隠されたものを暴く」により、藤原氏と秦氏の謎を解明してみることにしましょう。
大ウソをついていたひとは、その大ウソ物語がバレないように細心の注意を怠りません。そして、その大ウソ物語のトリックを解明することができる民族の抹殺を謀ります。その民族抹殺の手段のひとつが、抹殺対象民族を賎民に落とし、世間との交流を断絶させ孤立させ、自然消滅させることです。つまり、「イジメ」です。
「聖書」のヨハネによる福音書第四章に、

イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

この文章を創作した作家は、大ウソをついているのです。それは、「ヨハネの黙示録」の第十三章の、「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、六百六十六である。」の謎解きをしたひとには理解できるでしょう。その666の謎解きによれば、ヤコブはヨセフの父ではなかったのです。ヤコブがヨセフの父であるとする「ヤコブ物語」は、紀元前932年ヘブライが、「一神教でヤハウェを祀るユダ」と「多神教で牡牛の偶像を祀るイスラエル」に分裂した時、イスラエルの民がソロモンをヤコブと言ったことを打ち消すための、大ウソ物語であったのです。ヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者。」、という意味なのです。
実際のイスラエルの祖であるヨセフは、ヒッタイト帝国(紀元前十九世紀〜紀元前1190年)から、紀元前1377年新都アケトアテンを建設しているアメンホテプ四世(イクナトン)の統治時代に、鉄器・鉄具を使用する土木建設仕事を求めて、古代エジプトに現れた部族であったのです。
そのヨセフ族を祖とするイスラエル民族の歴史を、レビ族末裔(ユダヤ民族)が乗っ取るために創作された物語が、「ヤコブ物語」だったのです。そのヤコブ物語では、ヤコブの末息子ヨセフは、意地悪な兄達により、エジプトの交易商人に売られて、エジプトに行ったことになっているのです。
そのヨハネの福音書(黙示録のヨハネとは別人)には、ユダヤとイスラエルとの関係が述べられています。それは、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった。」と述べているところです。
牡牛の偶像を崇拝するイスラエルは、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより亡ぼされてしまうのです。そして、その地は、サマリヤと呼ばれ、そこに住むイスラエルとアッシリアとの混血人は、サマリヤ人と呼ばれるわけです。そして、そのサマリヤ人は、ユダヤ人により、不可触賎民(オリエント版穢多)に落とされていくわけです。ここのところが理解できないと、サマリヤの女が、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」のニュアンスが分からないでしょう。
ユダヤにより、賎民視されたイスラエルの民は、紀元前八世紀のオリエントの砂漠に消えるのです。これが、失われたイスラエル十部族と言われるわけです。その十部族のリーダ的部族が、エフライム族です。つまり、イスラエルとユダヤは、祀る神が異なる別民族だったのです。
そのことは、「旧約聖書」の士師記第二章に、「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らをらを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起こした。」とあることからも理解できるでしょう。この悪をおこなうイスラエルの行状は、この後も何度もおこなったと士師記に記述してあるのです。
この聖書の「サマリヤの女物語」は、キリスト教のオリジナルではないようです。紀元一世紀キリスト教誕生と時を同じく大乗仏教が、ガンダーラで発明されるのです。その大乗仏教の教典に、「サマリヤの女物語」ソックリがあるのです。
ブッダの愛弟子アーナンダは、不可触賎民チャンダーラ(インド版穢多)に水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
キリスト教物語と大乗仏教物語との共通点は、他にも多くあるのです。キリストとブッダの奇跡物語などはまるで双子のようです。
キリストもブッダもその家系は王族につながります。キリストの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、キリストを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でキリストを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児キリストは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児キリストを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったキリストは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにキリストとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。キリストの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。キリストは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、キリストは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、キリストは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
そのようなキリスト教にソックリの大乗仏教が、四世紀以降の日本列島に、藤原氏と伴に突然現れるのです。

1776年7月4日、トマス・ジェファーソンの起草文による、アメリカ独立宣言がおこなわれるのです。これが、歴史上最初の国民国家となるのです。そして、この国民国家は、歴史初の奴隷貿易をおこなった国民国家だったのです。その奴隷貿易に異を唱えたひとが現れるのです。それがアブラハム・リンカーンです。リンカーンは、大統領に就任すると、南部の奴隷農業をおこなう豪農の反対を押し切って、奴隷貿易反対を唱えるのです。その結果、南北戦争(1861年〜1865年)に突入するわけです。1863年1月リンカーンは、南北戦争において優勢のなか、ゲッチスバーグで黒人奴隷解放宣言をおこなうわけです。その結果が、リンカーン暗殺となるのです。
その十年前、1853年東インド会社が経営するマカオ貿易港から、外科医シーボルトにより模写された伊能忠敬の日本地図を手にした米使ペリーが、日本国浦賀へ来航するのです。何故ペリー艦隊は、アメリカ合衆国から直接日本国浦賀に来航しないで、一旦東インド会社のあるマカオに行ったのでしょう。そこに、アメリカ合衆国建国の謎があるようです。その謎解きは、米1ドルの裏にある「ANNUIT CCEPTIS」のピラミッドの眼にあるようです。そして、ペリー艦隊は、高圧的に日本国の開国を幕府に要求して去るのです。
開国か鎖国かの議論にゆれる江戸幕府が躊躇している中、1866年薩長連合の盟約が結ばれるのです。その裏事情は、アメリカ南北戦争が終わってしまったため、膨大なゲーベル銃の在庫の捌き先を探っていた東インド会社の売り込みが薩長にあったからです。
その死の商社・東インド会社のエージェントが秘密結社員のグラバーで、その手先が坂本竜馬ということです。坂本竜馬は、江戸幕府の策士勝海舟とも繋がっていたのです。秘密結社員グラバーの秘密を知りすぎた坂本竜馬は、イエズス会組織に背いたために爆殺された織田信長のように、やがて暗殺されるのです
明治維新の中心的役割をした薩摩藩の元は、島津氏(秦氏末裔)の所領で、戦国時代には中国大陸→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートで銃・弾薬の密輸をおこなっていたのです。その密輸の裏には、古代から中国大陸との交易をおこなっていた、近衛家の祖藤原氏の存在があったのです。
東インド会社は特殊な会社(インドネシアで、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が覇権を争っていた。)で、その経営母体は国際金融組織ですがその実態は不明です。しかし、イギリス王国の後ろ盾があったのです。東インド会社は、日本国に進出する前に、中国・清帝国とアヘン戦争(1840年〜1842年)で巨額の賠償金を手にしていたのです。
明治維新は、イギリス東インド会社が持ち込んだアメリカ南北戦争で不要になったゲーベル銃により、長州藩の江戸幕府(第三百済王朝)を憎む、自前で銃を調達した穢多部隊と言われる「奇兵隊」により達成されたのです。
時の権力者が武勇に優れた賎民を利用することは、これは正に、平安時代末期の、奥州藤原氏の策謀による陸奥の蝦夷・源義経の源平合戦か、戦国時代の日本征服を目論むイエズス会が供給した火縄銃と火薬により、賎民の先祖を持つ織田信長・徳川家康により、近畿地域を軍事支配する仏教組織壊滅の宗教戦争と同じ戦略のようです。
その明治維新により、藤原氏が再び日本列島の中枢に現れたのです。そして、古代藤原王朝の再興を目指して、藤原日本史を創作するわけです。そのスローガンは、「王政復興」です。
明治新政府は、欧米列強に対抗するために、日本の歴史を創作することになるのです。それは、日本国の歴史は、西ヨーロッパ歴史観である民族の興亡史ではなく、誰が正統かを綴った中国史の模倣の「正統史観」により、日本史が綴られていたからです。
そこで、明治新政府は、1887年ユダヤ系ドイツ人のルードヴィヒ・リースを、帝国大学に招聘し、史学科を開設したのです。そこで、西ヨーロッパ歴史観を基に、藤原不比等が創作した「日本書紀」を基に日本国史を創作することになるのです。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去

藤原日本史によると、紀元前660年ヤマト国は建国されたというのです。しかし、考古学上では、その頃は縄文時代末期であったのです。
藤原古代日本史とオリエント・ユーラシアとの出来事を時系列に比較すると、大陸の出来事に影響されて、日本列島にも異変が起こっていることが理解できるでしょう。その多くは、シルクロードの西の果てのローマ帝国の動向が、東アジアへの影響力を与えているようです。そして、ユーラシアの騎馬民族も、ローマ軍に押されて東征したようです。しかし、自然の下に暮らす騎馬民族は歴史書を編纂しないため、そのローマ帝国の東アジアへの影響力を証明できません。
その西方からの影響力は、軍事力だけではなく、文化の伝播も示唆されます。そのひとつが、紀元一世紀のガンダーラで発明された大乗仏教です。ガンダーラは、シルクロード東西国際交易の拠点のひとつで、そこには、ギリシャ・ローマ・西アジア・イラン・北アジアからの国際交易商人達が集まるため、その結果、ガンダーラは国際的宗教の坩堝だったのです。当時の国際交易は、騙し合いが前提ですので、取引は絶対者である「神」の下でおこなわれていたからです。そのガンダーラで発明された大乗仏教は、ギリシャやイランの国際的宗教の影響を強く受けていたようです。
ガンダーラは、隣国パルチア王国(紀元前250年〜紀元226年)と交易があったため、148年ギリシャの天文学や占星術を知るパルチア僧の安世高が、後漢の洛陽に仏典をもたらし、漢語に訳していたのです。では、その時代の大乗仏教はどのようなものだったのかといえば、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が漢訳したものとは少し異なっていたようです。405年鳩摩羅什が後秦の国師となり、バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)の漢訳仏典を広めたことにより、大乗仏教経典は、オリエント大乗仏教経典から中国仏教経典に変身したのです。ですから、それらの中国仏教経典の多くは、バラモン僧龍樹により漢訳されたものですから、騎馬遊牧民族差別をするバラモン思想用語(チャンダーラ→施陀羅)に満ち溢れていたのです。
初期のオリエント大乗仏教のキャラクターである仏像は、ギリシャ的風貌であったのです。そして、キリスト像の頭光背と同じものが仏像にも設置されていたのです。そして、キリスト教の天使キューピットと同じに、飛天や音声菩薩などがあるのです。更に、仏教が特徴とする読経・仏教声明・念仏が、グレゴリオ聖歌以前のキリスト教会音楽と非常に類似していたのです。
異国で、仏典の説教をしても人集めはできません。言葉も文字も異なるからです。そこで、大乗仏教組織は、人集めのためにパフォーマンスをしていたようです。大乗仏教のスポンサーである国際交易商人は、商品を販売することが目的ですから、寺院境内で開くバザールで多くのひとを集める必要があったのです。
では異郷で人集めのために、オリエントの西方から中国・北魏に胡僧達と伴に渡来した西域人が寺院境内のバザールで、どのようなことをしていたのかを、「洛陽伽藍記」で述べるには、パルチア王国の王統を引いたと称する幻人が、奇術や魔法を駆使して、寺院の参詣者を驚かせた、とあります。又、宋代の百科事典である「太平御覧」には、パルチアの安都盧(アントロ)は飾り竿に登り剣舞をしたり、山車に雲を吐き出したり、軽業をおこなった、とあります。或いは、走る馬の上や脇腹、馬の頭や尻尾の所で色々な曲芸をみせた、とあります。
この北魏(423年〜534年)や宋での西域人の寺院境内でのパフォーマンスは、昭和初期生まれの人は、幼少の頃、縁日の神社境内で見た大道芸人の演技を思い浮かべれば、想像がつくかもしれません。
しかし、北魏では、土着宗教を大成した道教が盛んであったのです。道教の特徴は、仙術や薬草による長生術です。この頃、大乗仏教には、長生術はなかったのです。
オリエントの国際商人により贅沢品や珍品をもたらしたり、寺院境内でのバザールで胡姫などの舞踏により若者を幻惑する大乗仏教文化は治安を乱すため、敵対宗教の道教組織の密告により、北魏の太武帝から廃仏されるのです。この後も中国大陸で度々廃仏がおこなわれたのは、大乗仏教文化には、退廃をもたらす要素が元々内在していたからです。肛門の疾患である「痔」という病気は、不自然な禁欲を強いる大乗仏教の「寺の病」であるのです。(戦国時代、織田信長が、仏僧を「欺瞞者ども」と罵り、比叡山全僧打首の理由のひとつが、このことだったのです。)
しかし、中国・北魏での道教と仏教との戦いは、やがて互いの儀式や教義を取り入れ、道教の仏教化と仏教の道教化をもたらすのです。そのことにより、民衆は仏教と道教とを見分けることが困難になってしまったのです。極端に言えば、違いは、仏像を祀るか、天帝(北極星)を祀るかです。
シルクロードの国際交易により、ローマから中国へは、物品や宗教だけではなく、各種高度技術者の渡来もあったようです。
この技術者の西アジアから東アジアへの渡来は、結果として、日本列島にも多大に影響したようです。それは、紀元三世紀末に突然現れた、巨大古墳群です。これらの全国一律相似デザインによる古墳は、日本列島在住者の技術ではなく、遠く古代エジプトやオリエントのものであったようです。それらの巨大古墳を築くには、デザイン思想もさることながら、膨大な建設物資を運ぶ巨大運河を掘ったり、幅広の直線道路建設のため硬い岩を砕く鋼鉄製の工具が必要だったのです。
では、古代の土木建設工具は、金属器が発明される前ではどのようなものだったのでしょうか。それは、土を掘る「ツルハシ」は、鹿の角を使い、土を取り出す「スコップ」は、牛の肩甲骨が使われたようです。そのような工具では、日本列島の巨石建設物や巨大古墳は造れません。
金属器の発明の歴史は、青銅器が紀元前三千年のメソポタミアで、鉄器が紀元前二千年のヒッタイトのようです。青銅器と鉄器の発明は、千年の差があったのです。
しかし、日本列島への金属器の渡来は、青銅器と鉄器とがほぼ同時だったのです。このことは、何を示唆しているのでしょうか。
飛鳥の巨石建築物・巨大運河・道幅十二mの古代高速道路などを構築するには、鋼鉄製の工具とそれらを駆使して建設する技術者が必要です。では、それらは誰により建設されたかは、645年の天皇紀・国紀の焚書により隠蔽されてしまったため、解明できません。しかし、その後、745年に起工された東大寺にヒントがあるようです。
東大寺は謎に満ちた建物です。それは、反藤原氏の聖武天皇により、遍照鬼(ルシャナブツ・鬼とは反仏教の神様)が鋳造されていたからです。その東大寺は、反体制の修験道の拠点でもあったのですが、やがて、奈良の大仏様・大日如来となってしまうのです。
その東大寺のお祭りに、「お水取り」の儀式があるのです。この儀式は、良弁の弟子実忠が始めたことになっているようですが、疑問です。
その由来は、二月十二日の夜のこと、旱の年には井が涸れて修二月法を修する閼伽水(アカミズ)が欠乏したので、衆僧が井戸のまわりに集まって遥か若狭の方に向かって水の出るように祈ったら、しばらくして閼伽井の水がみち溢れた、ということです。そこで衆僧は、若狭から閼伽井まで地下水道で通じていたと考えたのです。そして、その閼伽水を病気の者が飲むと多くが治った、ということです。
この描写は、カナートを示唆します。カナートとは、紀元前二千年バビロニアで発明されたとする開削工法による導水用トンネルのことです。この地下水道技術は、土木建設工事が好きなローマ人により、紀元百年には、ローマ帝国内に張り巡らされた水道のうち約57kmが、このカナートであったようです。そして、このカナートは、ローマ帝国軍と伴に、パルチア→西域諸国→東アジア→日本列島へと東進したようです。
しかし、ローマの建築法や思想が、実際に古代日本列島に渡来しているのに、それを証明することはできないのです。それは、それらの建築法や思想を持った部族・民族は、農耕民族ではなく、騎馬遊牧民族と伴に渡来したからです。
世界史も日本史もその基本は、農耕民族により綴られた史料を素に創作された物語です。それは、自然の下、風と伴に流離う騎馬遊牧民族と海洋民族は、歴史書をもたないからです。それに、それらの風と伴に流離う民族の神は、太陽・月・星を祀る自然神であるから、眼で確認できるため、神の来歴などの理屈が必要ないからです。
しかし、キリスト教も仏教も、ひとが創った神仏なので、その来歴を示す必要があるわけです。そして、それらの神仏の来歴が、やがて人間世界の歴史に組み入れられてしまうのです。それが現在のキリスト世界史であり、仏教日本史であるわけです。
それらの歴史書は、農耕民族世界を基盤としているわけですから、農耕民が「善」で、それに敵対する騎馬遊牧民族や海洋民族は「悪」のイメージで綴られているのです。
その例として、農耕民族である漢民族による「史記」で著される、騎馬遊牧民族や海洋民族は、匈奴、山戎、鮮卑、蠕蠕、突厥などと呼称され、まるでバケモノ扱いです。そして、漢民族は、塞外民族を東西南北に分けるのです。東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)です。
東夷の「夷」とは、弓と矢をつがえる人間の形象です。つまり、弓矢の武器を持つ民族のことです。
西戎の「戎」とは、戎=鉞(まさかり)を持つ、森林を伐採するチベット高原から四川省へかけての山岳狩猟民族のことです。
南蛮の「蛮」とは、蛇や竜類のデザインを背中、身体、腕などに文身(ほりもの)・刺青(いれずみ)をした海洋漁労民族のことです。古代の文身・刺青は、神聖なもので、それは、海中の鮫や海蛇の災いから海洋民族を守ってくれるものだったのです。
北狄の「狄」とは、獣の皮を被ったひとが、寒さを避けるために火にあたって暖をとっている北方狩猟民族のことです。
それらの騎馬遊牧民族や海洋民族を蔑視した態度は、中国の歴史書そのものです。そして、それらの遊民族をひとからげにして、「胡」と呼んでいたのです。その中国の歴史書を真似て、日本古代史は綴られていたのです。
日本古代史を調べるには、「日本書紀」に頼ることになります。それは、645年に藤原氏により、それ以前の飛鳥ヤマト騎馬民族王朝を隠蔽するために、天皇紀・国紀?(この頃天皇は存在しない。)が焚書されてしまったからです。そして、その後、日本列島の歴史を綴る「日本書紀」を720年に創作したのも、藤原氏であったのです。では、645年突然日本列島に現れた、その藤原氏とは、何者でしょうか。
その出自先を推測するヒントが、「旧約聖書」にあります。それは、「日本書紀」による歴史改竄手法が、「旧約聖書」の改竄法と酷似しているからです。藤原氏の日本歴史乗っ取り方法は、どうも「旧約聖書」を教科書にしたようです。
その手段のひとつが、「日本書紀」では、「厩戸皇子物語」(平安時代、聖徳太子に変身)の創作です。そして、その教科書と考えられるのが、「旧約聖書」の、「モーセ物語」です。それらの宗教と重大な関連のあるふたりは、後から創作され、それらの物語に挿入された、架空の人物だったのです。
モーセが、架空の人物であることを知るには、「ヨハネの黙示録」の666の謎を解く必要があります。
パモス島のヨハネは、「神と契約したモーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、「ヨハネの黙示録」を書いたのです。
ユダヤ民族の祖は、モーセを「旧約聖書」に出現させることで、レビ族のアロン一派の祭祀族が、イスラエルの歴史を乗っ取ることができたのです。モーセが「主」と契約を誓うことにより、王様を創るための「頭に油を注ぐ」儀式を創作し、その儀式を独占することで、アロン一派は永遠に祭祀階級として存続していくわけです。それは、まるで日本列島史で、日本神道を創作し、天皇を裏からコントロールすることにより、古代から現在まで生き残っている、裏で歴史を操作する藤原氏と同じようです。
そのモーセの実在を否定する暗号解読方法とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、
「ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」の謎を解くことです。
この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)文章を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、二つの異なる文章が並存します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする、ふたつの文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「神ではなく、主が主語の文章を否定せよ。」ですから、「主」が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の「出エジプト記」を、「主」文章を無視して読んでみると、「神」文章では、神と契約したモーセは居ないのです。モーセが契約した文章の主語は、全て「主」なのです。つまり、「神と契約したモーセ」は「否定」されるわけです。
では何故、ユダ民族は、モーセ物語を創作したのかと言えば、それは、紀元前538年新バビロニア王国が、ペルシャ帝国により滅ぼされたためです。紀元前586年からユダ王国の王族・祭祀者・知識人がバビロンに幽囚されていたのを、ペルシャ皇帝により解かれ、故郷のカナンへの帰還での原住民とのトラブルがその原因です。
ユダの元住人が、約五十年後のバビロン幽囚から帰還すると、カナンの地には周辺住民により占領されていたのです。その占領地を取り戻す手段として、神の契約によりカナンの地は、ユダ民族のものだと証明するための書物が、神と契約した「旧約聖書」に挿入された「モーセ物語」であるのです。そして、その五十年したら元の持ち主に土地を返還しなくてはならない神との契約が、「ヨムキプル」なのです。
このモーセ物語を挿入した「旧約聖書」により、ペルシャ帝国の対ギリシャ戦略の裏づけを得ていたため、帰還ユダ民族は、高圧的に原住民をカナンから追い出せたのです。
このモーセ物語戦略が、藤原氏による、飛鳥ヤマトの先住民族を追い出す手段の、仏教導入のための「厩戸皇子物語」となるのです。645年藤原氏は、蘇我王朝を壊滅すると、天皇記・国記(?)を焚書して、その年に仏教興隆の詔を発するのです。
しかし、一寸考えると、この仏教興隆の詔は変です。それは、「日本書紀」で、蘇我氏は崇仏派であると述べているからです。何故、645年に仏教興隆の詔が必要なのでしょうか。それは、前政権の蘇我王朝では、実際は仏教が興隆でなかったからです。
では、蘇我王朝では、どのような宗教が興隆だったのでしょうか。飛鳥ヤマトは国際交易都市であったので、ギリシャ・ローマ・オリエント・インド・ユーラシア・東アジアの神々が、それぞれの部族・民族により祀られていたのです。
そこで蘇我王朝を倒した藤原氏は、大乗仏教を利用して日本列島を乗っ取るために、「旧約聖書」の「モーセ物語」戦術を教科書として、「厩戸皇子物語」を創作したわけです。
「日本書紀」での仏教伝来は、552年です。しかし、仏教史では、538年百済の聖王仏像と経典を献ず、とあります。このブレは何故おきたのでしょうか。それは、720年完成の「日本書紀」の552年の「厩戸皇子物語」が、平安時代に、百済系桓武天皇により、538年の「聖徳太子物語」に改竄され、仏教史に挿入されたことによるのです。
仏教伝来史によれば、仏教が伝来するには、二度の神仏戦争があったということです。第一次が、蘇我稲目と物部尾輿、第二次が、蘇我馬子と物部守屋です。サイファー式暗号解読法によれば、同じ言葉・文章は抹殺せよ、ということです。その二度の神仏戦争のストーリは同じなのです。ということは、実際はその戦争は無い、と考えられます。
では、何を目的に、藤原氏は、二度の神仏戦争を創作したのでしょうか。それは、日本神道を登場させるためです。
日本神道は、誰もが信じているようにではなく、日本列島古来からの宗教ではなく、藤原氏の流れにある中臣氏により、日本列島に、四世紀以降に何処からか持ち込まれた宗教思想です。
では、仏教と闘った宗教とは何でしょうか。それは、道教と景教です。お互いの宗教儀式をパクル、仏教と道教との闘争は、中国・北魏の時代からです。では、仏教と景教とはどうなのでしょうか。
景教とは、太陽神を祀る宗教です。その源は、古代オリエントのミトラ神です。このミトラ神が、古代インドへ伝来し、マイトレーヤとなるのです。このマイトレーヤが、大乗仏教に導入され、中国で弥勒菩薩と変身するわけです。
宗教組織は、生き残るため敵対宗教の利点を導入する傾向があるようです。ですから、宗教に関心のない者には、仏教も道教も景教も同じものと考えられていたようです。
では、何故、道教・景教の神を押しのけて、奈良時代に仏教が興隆したのでしょうか。その解明のヒントが、ユダ王国のエルサレムにあるようです。
藤原氏は蘇我王朝を倒すと、都を次々に建設していたのです。では、日本列島の仏の都・日本版エルサレムの仏教寺院で「何が」おこなわれていたのでしょうか。
「旧約聖書」の「エゼキエル書」第二十三章に、
「主の言葉がわたしに臨んだ、人の子よ、ここにふたりの女があった。ひとりの母の娘である。彼らはエジプトで淫行をした。彼らは若い時に淫行をした。すなわちその所で彼らの胸は押され、その処女の乳ぶさはいじられた。彼らの名は姉はアホラ、妹はアホリバである。彼らはわたしのものとなって、むすこ娘たちを産んだ。その本名はアホラはサマリヤ、アホリバはエルサレムである。」
そして、エルサレムである妹のアホリバは、
「その妹のアホリバはこれを見て、姉よりも情欲をほしいままにし、姉の淫行よりも多くの淫行をなし、アッスリヤの人々に恋いこがれた。」、とあるのです。
この「エゼキエル書」では、エジプトから渡来したイスラエルの民を貶めるために、イスラエルの悪行を細々と描写しているのです。イスラエルの祖ヨセフは、メソポタミアの砂漠を彷徨うレビ族の祖と異なり、ヒッタイト帝国からの鉄器を使う技術集団です。そのエジプト滞在中に、太陽神アトン(聖書ではバアル・太陽神アトンは、ミトラ神の導入)を崇拝していたのです。勿論、太陽神アトンの化身牡牛の金像も崇拝する、イスラエル民族は、一神教のユダヤ民族と異なり、多神教だったのです。
そのエジプトの地母神イシスの神殿での神殿淫売を、「エゼキエル書」で「主・ヤハウェ」は、「彼らはエジプトで淫行をした。」と非難しているのです。
古代エジプトの地母神イシスは、豊穣の神であり、神殿は公共的な娼家であったのです。この地母神イシスが、その幼児ホルスを抱く母子像が、やがてキリスト教に導入され、幼児キリストを抱く聖母マリアとなるわけです。古代の神殿は、聖婚の場でもあったのです。ですから、「新約聖書」のマクダラのマリアが娼婦なのも、聖母マリアの流れにあったからです。
太陽神を祀る宗教組織は、「冬至」を聖婚儀式の日としていたのです。それは、太陽神と地母神の聖婚の日であったからです。その聖婚日(冬至)の秘儀により、一旦死を迎えた太陽は、再び再生するのです。この太陽神と地母神との聖婚が、やがて巫女(聖女)と参拝者との聖婚(まぐわい)へとなっていくわけです。
古代メソポタミアでは、その聖婚秘儀をおこなう所を、「女神の密室」と言い、バビロン語で「ハレム」と言うわけです。
大乗仏教は、中国大陸で抹香臭くなってしまいましたが、キリスト物語とブッダ物語が同根物語であるように、ガンダーラで発明された頃は、オリエントの香りがしていたのです。ですから、当然古代オリエントの聖婚秘儀も内在していたのでしょう。その聖婚秘儀は、大乗仏教と伴に、藤原氏と伴に、日本列島に伝来していたのです。そして、奈良時代末期、仏寺の「ハレム」で、天武天皇系最後の女帝称徳天皇は、藤原氏が操る怪僧道鏡により篭絡され、遂には毒を盛られ最後を遂げるわけです。では、仏寺の「ハレム」とはどのようなものなのでしょうか。
「続日本紀」に、僧玄ムの死を告げる記述があるのです。それは、「天平七年大使多冶比真人広成に随って帰還し、経論五千余巻及び諸の仏像を持ち帰った。皇朝でも紫袈裟を施して着用させた。尊んで僧正となし内道場に安置させた。これから以後栄寵日に盛んにして稍沙門(ややぼうさん)の行に違犯したので、時の人はそれを悪んだ。そのため徒所(ながされところ)で死んだ。」、とあるのです。その文章を要約すると、「僧玄ムは、内道場で稍沙門の行に違犯したので、流罪所で死んだ。」ということです。では、その「内道場」とは、何でしょうか。
遣唐使船を廃止したことにより、藤原氏の逆鱗にあい、大宰府に左遷された菅原道真が、新羅商人から唐の仏教堕落について聞き出すのです。それによると、中国唯一の唐の女帝武則天(690年〜705年)の時代、仏寺での「内道場」が盛んであったそうです。その「内道場」とは、表向きは皇后、采女の仏教修行の場であるのですが、その実態は女性だけの「特別」な修行道場で、有髪の俗人女性と僧侶とが「秘密修行」する隔離部屋であったとのことです。
つまり、仏教寺院の内道場とは、その機能から推測すると、バビロン語で「ハレム」です。シュメール語で「パラダイス」、「聖書」ではアダムとイブの「エデンの園」のことであるのです。
この唐での仏教寺院の「内道場」が、「続日本紀」の記述にあるように、日本列島の仏寺に持ち込まれていたのです。
この秘密儀式を行う内道場の存在を裏付ける史料は、仏教正史には見当たりませんが、戦国時代、織田信長と徳川家康により、比叡山延暦寺を襲撃した時、原則的には、比叡山は女人禁制の聖地であるのに、仏堂伽藍から多くの若い女性が現れたということは、、その内道場の存在が推測されます。
大乗仏教組織は、織田信長との宗教戦争に敗れると、寺社領や荘園を没収されたことにより、禅宗の葬送儀式を真似て、葬式仏教となり生き延びていくわけです。そして、大乗仏教は、第三百済王朝の江戸幕府時代、オリエント渡来の秦氏末裔「穢多=日本版サマリヤ人」を支配するための人別帳を管理する組織として機能していくわけです。
キリスト教の「ミサ」も、この仏教の内道場と関係があるようです。「ミサ」とは、一般人の礼拝が終わった、と告げた後に、特殊な信者による秘密儀式のことであるわけです。その時、信者は赤い葡萄酒を飲むのです。それは、仏教の般若湯を飲むのと同じようです。
バラモン教・マニ教・ゾロアスター教と仏教が融合した密教では、ハオマ酒、ハシッシュ麻酔剤、大麻、水銀薬などの向精神薬物を使用することは公然の秘密です。だから、空海が発明した真言宗の密教から、真言立川流が生まれたのも納得できます。
仏寺の表向きは、高度文化伝道施設であるけれども、裏の機能は「娯楽施設」でもあったわけです。「聖婚」の祭祀者である藤原氏は、この仏寺の娯楽施設により、貴族・豪族を取り込んで朝廷での勢力を増していくわけです。
この仏寺の「ハレム」は後に、「本能寺の変」直後の山崎の戦いで、明智光秀をイエズス会の密令により裏切った徳川家康を憎む、明智末裔「お福・後の春日局」は、藤原氏・近衛家に取り込まれ「春日局」となり、徳川家康の死後、江戸城内に「大奥=ハレム」を開設すのです。
しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏は、権力中枢に登りつめるには、自らの出自の来歴を示す必要があったのです。それには、日本列島古来から、藤原氏は祭祀者であったことを示す物語の創作が必要となるのです。
その藤原神話物語創作の教科書は、「旧約聖書」です。その「旧約聖書」の創世記も、メソポタミアのギルガメッシュ物語(ノアの箱舟物語の元ネタ)やアッカドのサルゴン王(紀元前2350年〜紀元前2294年)物語(モーセ物語の元ネタ)の民間説話をもとに創作されていたのです。その創世記の創作手法を、藤原氏は真似るわけです。
日本の創世記を解明するには、困難が生じます。それは、日本の創世記は、ねじれているのです。何故ねじれてしまったのかと言えば、それは、720年「日本書紀」の創世記を、812年「古事記」の創世記で改竄しているからです。
「日本書紀」は、二重構造になっているのです。それは、「本書部」と「一書部」とにより構成されているのです。これは、「旧約聖書」が、「主文章」と「神文章」とで構成されているのと似ています。
この二重構成は、「日本書紀」巻第一・神代上の本書では

古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、ほのかにして牙を含めり。
それに続いて、
一書に曰く、天地初めて判るるときに、一物虚中に在り。状貌言い難し。
では、「日本書紀」の教科書である、「旧約聖書」の創世記第一章の物語ではどうでしょうか。
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」とあるのです。

そのように、「日本書紀」には、補足文章として、一書が付随しているのです。そこで不思議なのは、「日本書紀」よりも八年も前に上梓されたと信じられている「古事記」には、後から出来たと信じられている「日本書紀」の「一書」のエピソードがほぼ語られているのです。
そして、「日本書紀」の物語は、陰陽の二元論で語られているのに、「古事記」では、一元論で語られているのです。これでは、時の流れが逆です。このねじれは、「古事記」が、「日本書紀」よりも後に創作された、と考えれば理解できます。事実、「古事記」は、奈良時代ではなく、平安時代に、「古事文・ふることふみ」を素に創作されたものだったのです。
その時代背景は、中国・唐軍の軍事力を背景に、百済系桓武天皇が中国山東半島から移民させた元百済貴族が、先住民のオリエント渡来の秦氏末裔をその支配地の山城国から追い出し、その地に平安京を造ったのです。このことが、京都が、日本列島での百済渡来人対新羅渡来人(秦氏)の民族差別の発祥地の原因のひとつとなるのです。
そして、唐軍の支援の下、百済系桓武天皇により、新羅渡来人(秦氏)民族差別の武器のひとつである比叡山の天台宗が中国から導入され、更に、中国土着の神・山王(シャンワン→さんのう)が、日枝(イルギ→ひえ)と日吉(イルギ→ひよし)の神へと変身させ、藤原氏の春日神に対抗して、日本神道の神となるわけです。そして、オリエント渡来の新羅・秦氏の神・ミトラ神が、穢れ神の魔多羅に貶められていくわけです。
そして、百済系三代嵯峨天皇の時代に、「レビ記」のような「新撰姓氏録」を創作することにより、皇・神・蕃の序列により新羅系貴族を蕃族と貶め、更にその出自を抹殺したことに反発した秦氏末裔多人長が、新羅系天武天皇が、列島倭国を統合し、飛鳥に日本国を建国したことを知らしめすために、そして、百済系桓武天皇による「日本書紀」の改竄を知らせるために、「古事記」を平安時代に創作したのです。
その根拠として、「日本書紀」の最初に登場するのは、「国常立尊」であるのに対して、「古事記」では、「天之御中主神」であるのです。「天之御中主神」とは、北極星・太一のことです。この北極星(太一)を、天武天皇は、道観(後の伊勢神宮)で、道教の儀式で祀っていたのです。そして、紫衣とは、仏教高僧の着用する仏衣などではなく、道教思想での、北極星(天帝)の世話をする真人(まひと・北斗七星)の衣装であったのです。真人が、天武天皇朝での最高官位であったのは、天武王朝は、仏教ではなく、道教思想により政(まつりごと)をおこなっていたからです。
その伊勢の「天之御中主神」が、天武天皇崩御後、藤原氏により「天照大神」に変身してしまうのです。これは、「星神」が、「日神」に摩り替えられたことを意味しています。
藤原氏は、何故「星神」を「日神」に摩り替えたのでしょうか。その謎を解くには、「日本書紀」の神話に、ギリシャやオリエントの神話を素材としていることが、ヒントのようです。
藤原氏の先祖は、系図によれば「天児屋根命」です。この命の神話での出現は、天岩窟物語です。この天岩窟物語で、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す手助けのひとりとして、祝詞を述べる巫女の天児屋根命が出現するわけです。
この天岩窟物語は、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語に酷似しているのです。ギリシャ神話では、
「ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした。」、という物語です。
場面がギリシャ神話と異なるのは、天照大神は「洞窟」に篭った、ということです。藤原氏が、天照大神を洞窟から再生させることで、二つのトリックを使うわけです。ひとつは、天武天皇前政権の「星神・北極星」を「日神・太陽」に変換させることです。そして、もうひとつが、地母神(巫女)である「日女・ひめ」の天照大神を、「太陽神・天照大神」に変換させることです。
世界神話では、太陽神は男神なのです。では、天照大神は、男神でしょうか、女神でしょうか。藤原神話では、地母神・日女=天照大神です。ここに藤原氏の、地母神(女神)を天照大神(男神)に変換したトリックが明かされます。それは、地母神(女神)は、太陽神(男神・天照大神)にはなれないからです。何故ならば、女神と男神との聖婚ができないからです。実は、藤原氏は、太陽神再生儀式も藤原神話で抹殺していたのです。
洞窟は、道教の呪術思想では「子宮」と考えられていました。「子宮」の「子」とは、道教方位学では「北」です。北(子・し)と南(牛・ご)とは、天の基準である「子午線・しごせん」を形成します。
道教の宇宙観によれば、森羅万象の根源が「子」であるわけです。ですから、天文訓の「二十四節」によれば、その基点が「子」となるわけです。そして、その「子」は、「冬至」であるのです。つまり、道教の宇宙論では、冬至の太陽が篭る処が「子宮」ということです。
しかし、道教では、死と生を繰り返す太陽ではなく、真北に鎮座する不動の「北極星」が天帝(太一)であったのです。天武天皇は、伊勢の宮(道観)で、藤原氏が発明した天照大神ではなく、北極星(太一)を祀っていたのです。
この思考と類似しているのが、古代オリエントのミトラ神の太陽です。太陽を祀るミトラ教では、太陽は洞窟から再生する、と考えられていたのです。やがて、古代の祭祀者は、洞窟で聖婚秘儀をおこなうようになるのです。冬至の日に、洞窟の穴から差し込む太陽の光を、地母神の女陰にあてることで、太陽の「再生」を願うのです。(この穴倉でのミトラの秘儀が、後に、多くの秘密結社の入団儀式に取り入れられていくのです。)
それが、12月25日(冬至)におこなわれる太陽神と地母神との聖婚です。(このミトラ教の儀式が、キリスト教に導入され、「クリスマスの日」となるわけです。)ミトラ教の神殿が地下にある理由がここにあります。そして、ミトラ教では、冬至(12月25日)まで待てない時、太陽神の化身である牡牛を屠ることにより、太陽の再生(願い事の成就)を祈願するのです。
この太陽と地母神の聖婚は、遥かバビロンのジグラッドの七層の聖塔上の神殿で、或いは、そのジグラッドを真似た、バベルの塔の神殿で、おこなわれていたのです。ジグラッドの東の窓からの「太陽の船」が入ってくるとは、「冬至の日の太陽光」のことです。ですから、ジグラットは、真東を軸に南北約三十度の冬至・夏至の日の出方位を重視して建設されていたのです。このジグラッドの思想が、中国仏教に導入され、五重塔となるわけです。
藤原神話のトリックを解明すると、星神を祀る道教思想を隠蔽した、藤原氏により発明された太陽神・天照大神を祀る神社の歴史は、遠く遡っても七世紀後半であるわけです。藤原古代史では、神代は紀元前のように物語っているようですが、神話の中で馬の皮を剥ぐ物語や新羅国が現れることを考慮すれば、それは四世紀以降の頃と推測されます。その根拠は、馬が日本列島に出現するのが四世紀以降で、新羅の建国が四世紀後半だからです。そして、伊勢神宮が伊勢に遷宮されるのが、七世紀末期であるからです。
藤原古代史物語から、天照大神、神武天皇、推古天皇、聖徳太子、神仏戦争、広隆寺、法隆寺、大化の改新などを取り除いたとしたら、どのような日本古代史物語が現れてくるのでしょうか。

藤原日本史の古代史概略(ユーラシア・東アジア・関連事項)
紀元前660年建国?(日本列島、縄文時代末期。オリエント、紀元前722年イスラエル滅亡。紀元前586年ユダ滅亡。)
紀元一世紀倭国百余国に分立(中国・前漢とローマ共和国との国際交易都市・ガンダーラで大乗仏教が発明される。キリスト教の発明。(聖書はギリシャ語で書かれていた。)キリスト物語ソックリのブッダ物語集「ジャータカ」完成。)
189年卑弥呼、邪馬台国の女王となる(97年後漢、甘英をローマ領に派遣。148年パルチア僧安世高が後漢・洛陽に渡来。166年シルクロード交易によりローマ帝国使者後漢に至る。バラモン僧ナガールジュナ(龍樹180年〜240年)が、ガンダーラ大乗仏教(ギリシャ系仏教)を中国化仏教(西方浄土思想)に改竄。サンスクリット(ギリシャ語かアラム語?)仏典の漢語訳後、原典は焚書される。七世紀にサンスクリット仏典復刻。)
四世紀ヤマトを統一し、大和王朝興る?(346年百済興る。356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。392年キリスト教ローマ帝国の国教となり、キリスト者によりローマ軍神のミトラ教団壊滅される。395年ローマ帝国東西に分裂。ユーラシアで騎馬民族台頭。)
527年筑紫国造磐井の反乱(508年中央ユーラシア支配の騎馬民族国柔然、高車人により滅ぼされる。528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。)
536年蘇我稲目大臣となる(535年北魏東西に分裂。出自不明の蘇我稲目、飛鳥ヤマトに突然の出現。同時に交易の要所に武器庫の「屯倉」が設立される。)
538年百済聖王仏像と経典を献ず?(日本書紀では、552年仏教伝来。)
562年任那日本府、新羅に滅ぼされる?(552年チュルク系突厥帝国興る。568年東ローマ使者突厥庭に入る。)
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす(飛鳥に巨石建造物出現。噴水のある庭園造営。飛鳥を基点として、現在の高速道路下に、道幅十二m超のローマ軍式直線道路が造られる。蘇我氏が崇仏派かは疑問。新羅渡来の弥勒菩薩の「弥勒」とは、「ミトラ」の漢語変換。平安時代、ミトラは「魔多羅」に変換。571年イスラームのサラセン帝国興る。589年隋中国統一。)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺?(☆この頃、天皇は存在しない。)
593年聖徳太子、摂政となる?(☆飛鳥時代に摂政の職務なし。858年藤原良房、摂政の職務を始めておこなう。推古天皇統治(593年〜628年)、しかし、隋書では、ヤマト統治は男王と記述。)
603年蜂丘寺(広隆寺=仏寺)創建(蜂丘寺は、仏寺ではなく、ミトラ教寺院=景教寺。蜂丘寺がある山背国は秦氏の支配地)
607年法隆寺創建?(聖徳太子が創建と言われる?670年炎上、再建法隆寺は、北九州秦王国=豊国から移築。)
607年小野妹子を隋に遣わす(608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。618年隋滅び、唐興る。621年ゾロアスター寺院長安に建立)
622年聖徳太子逝去?(聖徳太子の実在は疑問のため、その偉業の多くは、蘇我馬子のものか?)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる(誰が、713年以降に、蘇我氏末裔に、馬子・蝦夷・入鹿などの「賎名」をつけたのか?630年唐軍により、東突厥散ず。)
643年蘇我入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす?(聖徳太子の歴史を消すためのウソ物語か?)
645年蘇我氏滅ぶ。大化の改新が始る?仏教興隆の詔?天皇紀・国紀焼失?(645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。)
660年中大兄皇子漏刻(水時計)を造る(水時計はオリエントで発明。オリエントの技術継承者渡来の示唆。)
663年白村江の戦い、百済滅ぶ
667年近江大津京に遷都(近江は古来から百済のコロニー)
672年壬申の乱、飛鳥浄御原宮に遷都(☆日本初の新羅系天武天皇誕生。)
675年占星台設置(天武天皇は道教儀式で北極星・太一を祀る。北極星→天御中主→天照大神。675年新羅、百済併合。676年統一新羅始る。668年高句麗滅ぶ。)
685年伊勢神宮式年遷宮の初め(天武天皇系の神を祀る。平安時代、百済系桓武天皇により疎まれる。伊勢遷宮前、伊勢の神(海神)は百済支配の近畿を彷徨っていた。682年東突厥復興。)
686年日本初の天武天皇崩御(天武天皇に左遷された藤原不比等、持統天皇朝廷に返り咲く。)
694年藤原京に遷都(藤原不比等策謀。698年渤海建国。)
701年大宝律令発令(藤原不比等策謀。豪族の私領を天皇に献上させ、権力を天皇に集中させる。)
710年平城京に遷都(藤原不比等策謀。)
713年風土記撰上の詔、好字令(藤原不比等策謀。好字令と風土記のセットにより、騎馬民族文化・飛鳥オリエント巨石文化が隠蔽される。)
718年養老律令発令(藤原不比等策謀。天武天皇系豪族滅亡。藤原氏のロボット天皇の権力が増大。)
720年日本書紀完成、藤原不比等死去
藤原古代史のウソを消し去ると、飛鳥ヤマトの歴史に残るのは、蘇我王朝と秦氏です。

この蘇我氏と秦氏(新羅渡来人)末裔が、藤原氏により、古代オリエントでヘブライ王国分裂後にユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリヤ人と差別されたように、第一百済亡命王朝の平安時代より賎民として蔑視されていく原因が、飛鳥ヤマトの歴史にあるようです。
蘇我氏が、飛鳥ヤマトに出現する事績を時系列に羅列すると、
536年蘇我稲目が、突然日本列島歴史上に現れる。
552年中国・北魏滅亡後、中央ユーラシアに騎馬民族国家チュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者突厥帝国庭に入る。
587年蘇我氏、物部守屋を滅ぼす。
607年蘇我氏が、小野妹子を隋に遣わす。
608年隋使裴世清、飛鳥で男王に謁見。
618年隋滅び、唐興る。
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大王となる。
630年唐軍により、騎馬民族国家・東突厥帝国散ず。
645年蘇我氏滅ぶ。
645年藤原氏の突然の出現。東アジアでの唐国隆盛。北方騎馬民族衰退。
この536年から645年までの飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化を、645年の政変によりヤマト政権を蘇我氏から簒奪した藤原氏は、「日本書紀」の物語で隠蔽したわけです。そのトリックの仕掛けのひとつが、蘇我氏対物部氏の神仏戦争と仏教導入の厩戸皇子物語です。そして、オリエント渡来の巨石土木建築技術集団の秦氏を、厩戸皇子の忠臣として、仏教伝来物語で描くわけです。
もしも、日本列島史が、「日本書紀」物語で述べるような世界であったのなら、何ゆえに、飛鳥の巨石物やローマ軍式幅広の石を敷き詰めた直線道路、軍事要塞化した蘇我氏の館、巨大古墳についての記述がないのでしょうか。それは、蘇我王朝は、中国南朝の唐文化と異なる、ギリシャ・ローマ文化やオリエント文化が花咲く国際交易都市であり、又、外敵からの侵攻を阻止する要塞都市でもあったからです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、神武天皇末裔の天皇が支配する大和朝廷が存在できるような都ではなかったのです。そして、七世紀前半の中国大陸では、南の唐国と北の騎馬民族の突厥とが覇権を争う時代の真っ只中であったのです。中国大陸への回廊でもある日本列島を軍事的に押えることは、唐国にも突厥帝国にも死活問題だったのです。
その日本列島の飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。その国際交易地の飛鳥ヤマトは、四世紀には高句麗(仏教文化国)、百済(仏教文化国)、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)が軍隊を派遣して、支配権争奪戦をおこなっていたのです。朝鮮半島での三国の争いが、日本列島の飛鳥ヤマトでもおこなわれていたのが、「日本書紀」で述べる「大和朝廷」の時代であるわけです。
四世紀後半、その日本列島に、古代エジプト巨石建築技術を持つ集団が渡来して、巨大古墳を岩手以南の列島全国に築造するわけです。その巨大古墳築造は、四世紀から七世紀頃まで続くのですが、その築造目的は「日本書紀」には述べられていません。(近畿巨大古墳は、後の御用学者により天皇の墓と決め付けられた。しかし、現在では、天皇墓説は疑問視されている。)巨大古墳は、墓であることは間違いないのですが、何故、近畿地域の古墳には、古代エジプトの計測単位のキュビトで石棺が造られ、その石棺の素材石の多くが九州阿蘇産であるのかは謎です。
そして、六世紀半ば、騎馬民族国家・チュルク系突厥帝国の軍事的支援により、高句麗、百済、新羅がそれぞれ分割支配する飛鳥ヤマトの地に、蘇我稲目が突然出現し、その地を軍事統一をするわけです。この蘇我氏による飛鳥ヤマト支配のことを、「日本書紀」では、大和朝廷と述べているのです。そして、「日本書紀」で推古天皇なる女帝を発明するわけです。
平安時代、その女帝推古天皇の存在を否定するために、そして、百済系桓武天皇により「日本書紀」の仏教伝来の552年を、百済聖王により538年伝来と改竄し、そして、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させたことを黙示するために、秦氏末裔多人長は、「古事記」を推古天皇物語で終わらせているのです。「同じ文章は否定せよ。」のサイファー式暗号解読法により、「日本書紀」の「推古天皇までの物語を否定せよ。」と「古事記の黙示録」で述べているわけです。
その突厥帝国の日本列島サテライトである飛鳥ヤマトの蘇我王朝が、隋の煬帝に宛てた手紙が「東の王が西の王に挨拶する。つつがなきや」であるわけです。その突厥系蘇我王朝による飛鳥ヤマト支配を、交戦国の隋国から確認しに来たのが、608年の隋使裴世清であったわけです。
六世紀から七世紀にかけての飛鳥ヤマトが、騎馬民族によるオリエント巨石文化都市であり、金メッキ工場、ガラス工場、貨幣鋳造工場があり、そして、景教寺(後の法隆寺)が国際ホテルのように、エジプト、ローマ、ペルシャからの国際交易商人で溢れていた、などと想像することは困難でしょう。それは、645年に突然日本史に現れた藤原氏の隠蔽トリックが、完璧だったからです。
藤原氏が創作した「日本書紀」で、552年に仏教が中国大陸より飛鳥ヤマトに伝来し、厩戸皇子により飛鳥ヤマトは仏教文化都市として繁栄していたとして、騎馬民族文化・オリエント文化が隠蔽されてしまったからです。その飛鳥ヤマト仏教文化の証拠として、騎馬民族文化・オリエント文化などの遺跡物を徹底的に破壊してしまい、「飛鳥には法興寺、法隆寺などの仏寺が多く存在していたのです。」、と「日本書紀」で物語るわけです。
この藤原氏による前政権文化を抹殺する戦術は、四世紀のローマ帝国でおこなわれていた戦術そのものです。それは、キリスト教による、ミトラ教文化の歴史的抹殺です。
紀元一世紀、ローマ帝国が支配するオリエントで、「ブッダ誕生物語」ソックリの物語をもつ新興宗教が興るのです。その宗教のウリは、ゾロアスター教の、「善と悪との戦いで世界が消滅する前に救世主が現れて、最後の審判が行われる。」、という物語を真似たものです。その「救世主」を、ヘブライ語で「マーシーアハ」と言います。そして、その「マーシーアハ」とは、「油を注がれた者」の意味です。その「マーシーアハ」は、日本語で「メシア」と言うわけです。
この「メシア=油を注がれた者」が、ギリシャ語で、「クリストス」となり、それは日本語で、「キリスト」となるわけです。つまり、紀元一世紀に発明された新興宗教とは、ユダヤ教のイエス派が、「キリスト教」と名乗ったものです。
この反ローマ帝国のキリスト教が、どういう訳か392年に、ローマ帝国の国教になってしまうのです。そして、三年後の395年ローマ帝国は、東西に分裂してしまうのです。
分裂以前のローマ帝国では、色々な宗教組織が存在していたのです。中でも、ローマ帝国軍では、ミトラ神を軍神として祀っていたのです。そのミトラ教は、地下聖堂で秘密儀式を行うため秘密結社的存在となり、その組織は時にはローマ帝国王権に反することもあったようです。
そこで、ローマ帝国の国教となったキリスト教徒は、地下聖堂のミトラ神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教会を建設して、ミトラ教文化を地上から抹殺してしまったのです。更に、ミトラ教の儀式やミトラ神の聖婚日を「クリスマスの日」として導入することにより、そのミトラ文化も抹殺してしまったのです。ですから、よほど宗教に興味があるひと以外は、キリスト教はローマ帝国のオリジナル宗教と信じているひとも多くいるわけです。
ローマ帝国軍は、傭兵軍の集まりですから、当然反ローマ帝国を掲げていたユダヤ教の一派である「キリスト教」を、快く受け入れられないミトラ神を祀る傭兵軍もいたことでしょう。しかし、東西ローマ帝国では、国教のキリスト教の神を祀っていたのです。では、ユダヤ・キリスト教に改宗できない、ミトラ神を祀っていたローマ傭兵軍は何処へ消えてしまったのでしょうか。
356年建国の新羅(秦羅)の奈勿王(対外には「楼寒」と名乗った。新羅語で、「王」は「麻立干・まりつかん」。)の出自は不明です。そして、隣国の高句麗と百済とは通訳なしには話しが出来なかったのです。それは、新羅(秦羅)には、漢字がなかったからです。と言うことは、仏典はサンスクリット(?)語から漢語に変換されたものですから、新羅(秦羅)に漢字がないということは、新羅(秦羅)には仏教も伝来していなかったことになります。
では、新羅(秦羅)では、どのような神が祀られていたのでしょうか。そのヒントのひとつとして、新羅(秦羅)の軍団は、花郎軍団と呼ばれていたのです。その花郎の、「花」とは「ミトラ」の借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、花郎軍団とは、ミトラ神を祀る軍団という意味となるのです。太陽神ミトラを祀る軍団は、ローマ軍団が考えられます。東西分裂前のローマ軍団は、ミトラ神を軍神として祀っていたからです。
356年建国の新羅(秦羅)の花郎軍団が、ローマ軍団末裔である証拠のひとつは、新羅(秦羅)の慶州古墳から出土する遺品です。そこには、仏教国の高句麗や百済の古墳から出土しない、ギリシャ・ローマ文化を示す、金製の三本樹の王冠、ブレスレット、ネックレス、指輪、そして、ローマン・グラス、トンボ玉、そして、ローマ軍が戦闘で着用する金銅製の脛甲、鉄棒、鉄斧、馬鎧、馬冑、多くの金メッキ馬具などがあったからです。
ローマと中国大陸との交流は、歴史上確認できるものは、以下のようです。
97年後漢、甘英をローマ領に派遣。
166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者、後漢に至る。
356年ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅興る。
395年ローマ帝国が東西に分裂。
528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
552年ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。
以上のような、ローマと中国との交流があったわけですが、では、どのようなルートにより、ギリシャ・ローマ文化が新羅(秦羅)に伝播してきたのでしょうか。そのルートが、砂漠のシルクロード経由であるとすれば、新羅(秦羅)へのシルクロード中継国である高句麗、百済にもギリシャ・ローマ文化の遺品が古墳から現れるはずです。しかし、出土しません。それは、ギリシャ・ローマ文化は、シルクロードからではなく、バルト海から太平洋を結ぶユーラシア大陸を貫く草原ロードから、新羅(秦羅)に伝播したからです。(バルト海沿岸から岩手県久慈まで、縄文時代に琥珀ロードが存在していた。)
その草原ロードとは、ローマ帝国領クリミア半島→マサラ→エカテリンブルク→イルクーツク→ウラジオストク→新羅・慶州ルートです。その草原ルートは、鹿をトーテムとする騎馬民族国家スキタイの流れを汲む騎馬民族の匈奴(紀元前209年〜紀元48年)、鮮卑(93年〜319年?)、柔然(319年?〜552年)、突厥(552年〜630年。682年復活〜744年)の支配地を通るわけですから、568年に東ローマ使者が、突厥帝国の朝廷を訪れた意図が理解できます。
392年キリスト教が、ローマ帝国の国教となり、それが原因となり、395年ローマ帝国は東西に分裂するわけです。ローマ・キリスト教軍団に弾き飛ばされた、ミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍は、戦争という仕事を探すために、ローマ帝国の極東サテライトであった新羅(秦羅の秦とは「ローマ」、羅は「国」の意味。漢語では、ローマ帝国は「大秦」と表示。)を目指すわけです。
朝鮮半島三国での弱小国の新羅(秦羅)が、五世紀前半に突然軍事力を増した理由は、日本の戦国時代の尾張の弱小武将の織田信長がイエズス会から傭兵軍と火縄銃を支給されたため突然軍事力を増したのと同じように、ミトラ神を祀る旧ローマ傭兵軍の新羅(秦羅)への渡来によるものだったのです。
そして、飛鳥ヤマトで高句麗、百済の軍事力により防戦一方の新羅(秦羅)の導きにより、536年チュルク系突厥軍団の武将蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れたわけです。
五世紀に、ローマ軍団末裔の新羅花郎軍団が、日本列島に渡来していた証拠のひとつは、紀ノ川下流の五世紀頃の古墳から、馬冑が出土しているからです。その馬冑は、新羅(秦羅)慶州古墳と日本の紀州古墳からしか、現在まで出土していないのです。
朝鮮半島から日本列島への軍事部族の渡来としては、527年〜528年北九州「磐井の反乱」が考えられます。この反乱の背景には、新羅(秦羅)がギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したことと関係があるようです。
高句麗が、372年仏教国になったのは、隣国の前秦(351年〜384年)の軍事的圧力があったからです。そして、百済が、384年仏教国になったのは、北朝の前秦と対峙する南朝の東晉(317年〜420年)の軍事的圧力があったからです。
そこで、新羅(秦羅)が、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国に変身したのは、隣国の仏教国の高句麗の軍事的圧力が考えられます。その圧力により、キリスト教を国教としたローマ帝国から追われたミトラ軍神を祀る旧ローマ傭兵軍のように、その仏教受容を拒否することにより朝鮮半島を追われた新羅花郎軍団は、北九州に上陸し(これが磐井の反乱の実態。)、そして、新羅(秦羅)の飛鳥ヤマトのコロニーである磯城を目指すわけです。
536年騎馬民族の突厥帝国軍と新羅花郎軍団の支援により、チュルク系蘇我稲目(「蘇我」は、713年以降の命名。本名は不明。蘇我の蘇(そ)とは、「新羅国」と「牛」の意味がある。)が、飛鳥ヤマトを軍事支配していてたツングース系高句麗・百済の軍事部族(後に物部氏と命名)を倒すと、飛鳥川が流れる丘陵地の丘に要塞都市を築くのです。その軍事都市は、飛鳥川が流れる幅700m×長さ3.000mの狭い土地にあるわけです。何故そのような狭い、小山に挟まれた処に都市を築いたのかといえば、それは、中国大陸の隋・唐軍の飛鳥ヤマトへの侵攻を予測していたからです。
六世紀の中国大陸において、突厥帝国は、北魏の後を継ぐ北齊(550年〜574年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)の軍団と戦闘を繰り返していたからです。そして、その戦争では、日本列島を軍事的に制圧・占領することは、両国にとっては死活問題であるわけです。それは、日本列島は、中国大陸の北と南を繋ぐ回廊であるからです。
蘇我稲目は、飛鳥ヤマトを軍事制圧すると、戦国時代末期関白豊臣秀吉によりエドに移封された徳川家康が、エドから小田原まで騎馬軍団が迅速に移動できるように直線の軍事道路を建設したように、ヤマトを中心に幅12mの石を敷き詰めたローマ軍式軍事道路を日本列島に張り巡らすのです。そして、交通の要所に「ミヤケ」の軍事施設を設けるのです。
ローマ帝国の軍団は、戦闘が無い時は、道路建設や都市建設にその労力を費やしていたのです。ローマ軍の軍事道路建設思想は、谷は埋め、山は切り通し、基点から目的地まで「直線」であれ、ということです。そのローマ式軍事道路思想は現在も生きていて、現在の高速道路は、飛鳥時代に建設した軍事道路上にあるのです。
騎馬民族は、物流を担う商業民族でもあるわけですから、当然飛鳥ヤマトには、商品製造のための工場も建設するわけです。それらは、金属加工工場、金メッキ工場、ローマン・グラス製造工場、そして経済の流通を促進する貨幣製造工場などです。
日本海沿岸や富山に暮す蘇我氏末裔が薬業商を営むのは、騎馬民族スキタイの影響があるようです。スキタイのトーテムは鹿です。それは、鹿の角が強壮剤(ロクジョウ)となることを知っていたからです。奈良の都に、今も鹿が多くいるのは、飛鳥ヤマトでの蘇我氏による薬業と関係があったのです。
そして、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の食卓には、バターやチーズがあったのです。それらの乳製品は、「蘇・ソ」と言われ、その蘇の最高品を「醍醐」というわけです。今日でも使う言葉で、最高の味を「醍醐味」というのは、ここからきていたのです。
645年の政変で勝利した藤原氏により、五世紀のローマ帝国のミトラ教文化をキリスト者が徹底的に破壊したように、徹底的に破壊された騎馬民族文化とオリエント文化の飛鳥ヤマトには、九州から多くの古寺が移築され、飛鳥ヤマトの「道教の観」や「景教寺」が立ち並ぶオリエント都市は、仏教文化都市に改竄されてしまうわけです。
では、そのような大規模仏寺資材の九州から近畿までの海上輸送は、藤原氏には可能だったのでしょうか。
紀元前十四世紀アルファベットを発明したフェニキア(紀元前1500年?〜紀元前612年)が、オリエントの地中海に面した地に興るのです。フェニキアは、隣国ミタンニ王国(紀元前1700年〜紀元前1270年)の侵入により、その交易を陸上から海上に移すのです。フェニキアは、レバノン杉により大型構造船を造る技術を獲得すると、ギリシャ、ローマ、エジプトとの地中海交易に乗り出すのです。
その頃フェニキアの隣国ヘブライ(紀元前1230年?〜紀元前932年)では、ダビデの王権を不正な手段(ヤコブ)で簒奪したソロモンの時代となっていたのです。ソロモンは国際交易技術に長けていて、フェニキアの交易船を利用して、紅海のエイトラ→イエメンのアデン→インドのマラバル海岸への海路を利用して、インドの香木、猿、孔雀などを輸入して、それらを地中海都市へ輸出して、莫大なソロモンの財産を築いたのです。そのように紀元前では、エジプトの紅海からインド洋まで、ベンガラ染めのマントを羽織ったフェニキア人により大型外洋船が行き来していたのです。
紀元前932年ヘブライはソロモンの死去により、一神教のユダ国と多神教のイスラエル国に分裂するのです。ユダ国は、ソロモンの流れを汲む、バビロニアの砂漠を流離っていたレビ族末裔ですから、フェニキアによるアラブとインドとの国際交易を引き継ぐわけです。
しかし、ヒッタイト王国からエジプトに渡来したヨセフ族の流れを汲むイスラエル国は、インドとの交易を引き継ぐことができないため、国力が衰え、紀元前722年隣国のアッシリア帝国のサルゴンにより、滅ぼされてしまうのです。そのことにより、「古代エジプトの巨石建造物建設技術」と「鍛冶技術」を持つヨセフ末裔のエフラエム族を頭とする、太陽神アトン(ミトラ神がエジプトで変身)と牡牛を祀るイスラエル十部族は、オリエントの砂漠に消えてしまうのです。
一方、ユダ国は、紀元前586年バビロニア王国の侵攻による滅亡まで、アラブとインドとの海洋貿易を続けるわけです。ですから、紀元前六世紀のインド西岸のマラバル海岸には、ユダヤ人の国際交易商人が多く居留していたのです。
その約千年後の399年北魏(386年〜534年)の僧法顕は仏典を求めるため、洛陽からインドへ旅立ったのです。その行程は、洛陽からインドまでは陸路で行き、411年インドから洛陽への帰路は外洋船で、インド東南端の港ニンジェヴェラム→マラッカ海峡→中国・南海→中国・山東半島牢山→412年北魏・洛陽へ辿り、帰国後「佛國記」を著すわけです。
そのように、五世紀には、インドと中国・山東半島には国際交易海洋路が確立されていたのです。ですから、中国・山東半島には、アラブ→インド→中国への海路により、アラブ、オリエント、インドの国際交易商人や宗教関係者が多く居留していたのです。中国・山東半島が、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)も神仙の薬草を求めて訪れたように宗教の坩堝であったのは、そのように古代からアラブ→インドの国際港であったからです。
アラブ→インド→マラッカ海峡を抜けて黒潮に乗り、台湾沖を東に航路をとれば、西への中国・山東半島ではなく、アラブの外洋船は、日本列島の南九州の坊津へ接岸できるわけです。
古来から、南九州の坊津やその東にある種子島が、南蛮船が漂着する理由が、黒潮ベルトコンベアの影響であったのです。そのマラッカ海峡を北上すれば黒潮により外洋船が流れ着く坊津と種子島は、古来より藤原氏が、中国大陸との密貿易を行っていた国際交易港だったのです。
その坊津は、奈良時代は遣唐使船が渡来する湊であり、そして、種子島は平安時代末期に活躍した、インド・ベンガラ塗りの厳島神社で「海神」を祀るペルシャ平家の日本列島拠点のひとつであったのです。
更に、戦国時代の種子島は、南蛮船の密貿易港であり、ここから火縄銃や火薬が、藤原氏(近衛家)により紀州雑賀→根来寺→本能寺へと密輸されていたのです。多くの謎を秘めた出自不明の藤原氏による海上交易は、古代から明治維新を経て、日本国海軍まで続いていたのです。ですから、飛鳥時代に北九州で解体した多くの寺の建築資材を、瀬戸内海ルートを使い、飛鳥ヤマトまで海上輸送することなどは、エジプト・紅海からインド・マラバル海岸への海上交易に比べれば、簡単なことであったのです。
何故古代飛鳥ヤマトが仏教文化都市ではなかったとの論拠は、飛鳥ヤマトで発掘される寺跡にあります。大乗仏教は、一世紀の国際都市ガンダーラで発明された宗教です。その宗教の特徴は、多くのキリスト教の物語ソックリの仏典と仏像です。その仏像を安置する場所が仏寺というわけです。その仏像は、大乗仏教のキャラクターのブッダ(紀元前五世紀に没した釈尊とは別人。ブッダは覚醒した人の意味。)を表したものであるわけです。仏像は、紀元一世紀に発明されたものですから、紀元前五世紀に没した釈尊とは、全く関係がないものなのです。(釈尊は、民族差別をするバラモン教を否定するため、偶像崇拝を否定していた。)
飛鳥ヤマトにおけるその仏像を安置したとされる仏寺の遺跡が、発掘調査によれば、ある方向を基準に建てられていたのです。その方向は二つです。ひとつは、子午線を基準としたものです。そして、もうひとつは、東西線から約三十度ずれた線を基準に建てられていたのです。
もし、飛鳥ヤマトが、仏教文化一色であったとしたら、その地から発掘される仏寺跡の二つの異なる建築方位は、どのように説明するのでしょうか。
その二つの異なる建築基準を推測すれば、それは、真北の北極星を祀る民族と冬至・夏至の太陽を祀る民族とが、それぞれの宗教思想基準により、飛鳥ヤマトに「寺」を建設していたのではないかということです。
北極星を祀る民族と考えられるのは、ユーラシアの騎馬民族です。星・月は、遊牧の旅での方位を示してくれる騎馬民族の神であるからです。ですから、騎馬民族末裔の国旗のシンボルの多くは、星と月であるのです。飛鳥時代末期、その騎馬民族末裔の新羅(秦羅)系天武天皇は、道教の観で北極星(太一)を祀っていたのです。
冬至・夏至の太陽を祀る民族と考えられるのは、エジプトの太陽神・アトンを祀るヨセフ末裔のエフライム族、そしてミトラ神を祀るローマ軍末裔(新羅花郎軍団)です。太陽を祀る宗教は、中国大陸では「景教」と呼ばれていたのです。
太陽を祀る景教は、太陽神の再生日(聖婚日)である冬至を重要視します。そのため景教の寺は、冬至の太陽が昇る真東から約二十五度±五度北寄りの方位を神聖視するわけです。そこで、不思議なことが分かるのです。それは、実在性の乏しい聖徳太子と関係の深い法隆寺の遺構のことです。
法隆寺は、「日本書紀」によれば、607年厩戸皇子により創建されたとの記述はなく、606年斑鳩寺建立の記述があるのみです。後世のひとが、斑鳩寺を法隆寺であると言っているだけです。つまり、法隆寺建立時の史料はないため、法隆寺は謎の寺であるのです。しかし、「日本書紀」では、670年法隆寺は、炎上したことになっているのです。そして、708年頃に金堂やその他が再建されたというのです。
多くの宗教建築物は、その宗教思想により建立されるわけです。ですから、寺を再建する場合、前建築物の基本設計を変更することなくおこなうのが普通です。しかし、現法隆寺と、元法隆寺と言われる若草伽藍推定範囲内にある金堂と塔遺構の方位が異なっているのです。
現法隆寺が、真北から西に四度傾いて建てられているのに対して、若草伽藍の金堂と塔の遺構は、真東より北に約二十度軸方向が傾いて建てられていたのいたのです。このことは、北極星を祀る民族が現法隆寺を建立し、そして、太陽神を祀る民族が若草伽藍の金堂と塔を建立したと推測できます。
この謎の多い法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時期(606年〜708年)を解明することにより、「日本書紀」で物語るものではない、飛鳥ヤマトの歴史が再現される可能性があるようです。
日本国の誕生は、神話時代などではなく、謎の寺である法隆寺が建立され、炎上し、そして再建された時代であったのです。
日本人が、日本国が神代の時代に存在していたと信じているのは、日本国の誕生と騎馬文化・ペルシャ文化の飛鳥ヤマトの歴史を、藤原氏が645年の謀反により王権を簒奪し、そして国書を焚書して、大陸から渡来した仏教文化で前政権文化を隠蔽して、その後、720年「日本書紀」を編纂したためです。
藤原氏による前政権文化の隠蔽のための蘇我王朝の焚書やエジプト・ペルシャ遺跡破壊が完璧だったため、その飛鳥時代の日本列島は、中国大陸王国の「梁書」や「唐書」の史料でしか知ることはできないようです。
その「梁書」(梁・502年〜557年)によれば、日本列島には、北海道・渡島の扶桑国、大坂難波の大漢国、出雲熊野の文身国、そして、九州阿蘇の倭国があったということです。そして、「唐書」(唐・618年〜907年)によれば、672年誕生の日本国は、倭国(いこく)を取り込んだ国と記述しているのです。
日本列島の出来事は、中国大陸の出来事と連動していたようです。それは、日本列島は海に囲まれているため、外洋船によるアラブ→インド→中国への航路が開発されていた五世紀後半では、世界に開かれた処であったからです。
では、日本国が誕生する時代の、日本列島と大陸での出来事を調べてみることにしましょう。

528年新羅、ギリシャ・ローマ文化国から仏教文化国となる。(新羅花郎軍団、日本列島に渡来。)
535年東ローマ帝国と密接であった北魏が東西に分裂。
536年チュルク系蘇我稲目、突然飛鳥ヤマトに現れ、軍事制圧する。(中央ユーラシアで騎馬民族隆盛。チュルク系騎馬民族・突厥軍東進する。)
552年中央ユーラシアにチュルク系突厥帝国興る。
568年東ローマ使者、突厥帝国庭に入る。
571年イスラームのサラセン帝国興る。(イスラーム台頭のため、東ローマと突厥との交易困難。)
589年隋興る。(突厥帝国との戦闘激化。)
600年飛鳥ヤマト王権、遣隋使の派遣。(飛鳥ヤマトの支配者は誰か。日本国の誕生は672年。天皇は、この頃存在していない。日本国天皇は、672年天武天皇が初め。)
603年蜂丘寺建立。弥勒菩薩像安置。(弥勒とはミトラで、太陽神信仰民族の神。ローマ軍末裔、新羅(秦羅)花郎軍団、山背国支配。族長は、秦河勝か?)
607年小野妹子隋に派遣。国際交易ホテルの斑鳩寺(法隆寺?)創建。(太陽神信仰民族、飛鳥ヤマト支配。)
607年蘇我氏、国ごとに軍事施設の屯倉を設置。(屯倉は、騎馬民族突厥軍団による、対唐日本列島侵攻軍への軍事防御拠点。)
608年隋使裴世清、飛鳥ヤマトで男王に謁見。(「唐書」により、女帝推古天皇と聖徳太子の実在性否定。)
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷大臣となる。(「月・星信仰」のチュルク系騎馬民族、飛鳥ヤマト支配。「太陽信仰」の秦氏軍団と共存。)
630年突厥帝国、唐軍により散ず。(飛鳥ヤマトの母国・突厥帝国の滅亡。)
642年蘇我入鹿、執政。(唐軍、藤原氏の外洋交易船にて難波に渡来。)
645年蘇我氏滅亡。(唐軍支援の下、藤原氏の台頭。藤原氏、天皇紀(?)・国記を焚書。藤原氏による、仏教興隆の詔。藤原氏、飛鳥ヤマトの道教観、景教寺、エジプト・ローマ・ペルシャ遺跡を徹底的に破壊し、後に、仏寺の興福寺、神社の春日社建立。)
663年白村江の戦い。百済滅ぶ。(百済貴族、中国・山東半島、日本列島・近江に亡命。)
668年高句麗滅ぶ。(高句麗貴族、日本列島に亡命。武蔵国・高麗に移住。)
670年法隆寺全焼。(藤原氏による、国際交易ホテルの斑鳩寺の破壊。)
672年壬申の乱。(近江・百済亡命王朝へのチュルク系突厥・蘇我氏軍の反乱。新羅系天武天皇誕生。日本国誕生。飛鳥浄御原宮に遷都。)
674年唐軍、新羅を討つ。(唐・新羅連合軍の離反。)
676年統一新羅建国。
682年突厥帝国の復興。
686年天武天皇死去。(藤原不比等の復活。百済系女帝持統天皇により藤原京に遷都。)
708年法隆寺再建。(北九州・豊国より移築。)
713年風土記撰上の詔。(好字令の漢字二語の「日本語化」により、エジプト・オリエント文字を隠蔽。)
720年「日本書紀」完成。藤原不比等死去。

以上のような歴史の流れから分かるように、645年以降の藤原氏により、オリエント巨石文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の歴史が抹殺され、そして、日本列島古代史が、藤原不比等により、ギリシャ似神話やオリエント史や百済史を素材として「日本書紀」を創作し、中国歴史物語を真似た万世一系天皇物語により、神武天皇から女帝推古天皇までを、藤原日本古代史に改竄されてしまったのです。
ですから、「日本書紀」を史料として、古代飛鳥ヤマトの歴史を解明しようと努力しても、藤原不比等のトリックに引っかかり、四世紀に天皇が支配する大和朝廷が存在し、六世紀に百済から仏教が伝来し、飛鳥ヤマトは「仏教文化都市」であった、と信じてしまうわけです。
しかし、「日本書紀」を斜めから読んでみると、思わぬ発見をすることもあるのです。それは、588年着工されたと言われる法興寺(飛鳥寺)の「日本書紀」の記述です。
「日本書紀」は、平安初期に百済系桓武天皇により改竄されてしまっているので、百済関係の記述は信用できませんが、法興寺が建造される時、百済の王から、経論と伴に、律師、寺大工、瓦職人、仏師などの建築士が飛鳥ヤマトに送られてきた、との記述があるのです。その法興寺を建立した建築士の名前(?)を「日本書紀」に記述しているのです。
それらは、寺工太良未、文賈古子、将徳白昧淳、麻奈文奴、陽貴文、昔麻帝弥、白加などです。これらの名前と思われるものは、実はペルシャ人の名前ではなかったのです。それらは、中世ペルシャ語で解読すると、太良未は寺工、文賈古子はテント型御堂、将徳白昧淳は露盤受け、麻奈文奴は屋根葺、陽貴文は丸瓦、昔麻帝弥は鬼瓦、白加は彫刻などの職業名の発音を、中世ペルシャ語から「漢語化」したものであったのです。つまり、これらのペルシャ建築士達により、588年に法興寺が建立された、と「日本書紀」は述べているのです。
古代では、ペルシャとは、インド以西の国のことです。それらの国々は、木々が生い茂る湿潤な地域などではなく、木々の育成が困難な乾燥地帯で、建物は石材や日干しレンガで建設されていたのです。そのような環境に育ったペルシャ建築士が日本列島に渡来して、飛鳥ヤマトで木造の法興寺(飛鳥寺)を建設できるものなのでしょうか。
この「日本書紀」の記述により、何故607年に建立されたと伝わる「法隆寺」(斑鳩寺は606年創建)の創建記録を、「日本書紀」で記述しないのかを推測できます。それは、元法隆寺は、ペルシャ建築士により、「石材やレンガ」を多用して建てられたものと推測されるからです。
ですから、元法隆寺の遺構が、太陽信仰民族・ペルシャ建築士(秦氏・エフライム族)により建立されたため、冬至の神聖ラインの建築基準に合うわけです。つまり、645年を境にして、飛鳥ヤマトの文化は、前のオリエント巨石文化と後の仏教文化とで異なっていたのです。
前政権のオリエント巨石文化を、そのように完全に抹殺できるものかと疑問を持っているひとは、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化をキリスト教が歴史上抹殺した事実を知れば、納得できるでしょう。
645年突然飛鳥ヤマトに現れた藤原氏が、エジプト〜中国への南海交易ルートの西端である紅海のエイトラからの、ソロモンの海洋貿易民族末裔であるのなら、四世紀のローマ帝国でのミトラ教文化抹殺手段を知っていた可能性があります。
古代飛鳥ヤマトには、「日本書紀」に記述されているように、ペルシャ(ギリシャ・ローマ・エジプトも含む)の建築関係技術者が多く渡来していたのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの遺跡物の多くは、その計測はエジプトの計測単位のキュビト(約42cm)で割り切れるからです。
四世紀のローマ帝国のミトラ教の地下神殿は、キリスト教徒により徹底的に破壊され、その跡にキリスト教会を建設したため、物理的にミトラ教神殿は跡形も無く抹殺されてしまったのです。キリスト教関連の映画で、教会の床の石を何らかの方法でずらすと、地下神殿への階段が現れた、というシーンを見たことがあると思います。その地下神殿とは、ミトラ教の神殿なのです。
では、飛鳥ヤマトでのミトラ教神殿(道教の観・景教寺)を隠蔽したのは、どのような仏寺なのでしょうか。考えられるのは、聖徳太子建立七寺と言われる、法隆寺、四天王寺、中宮時、橘寺、広隆寺、池後寺、葛木寺(葛城尼寺)です。これらは、飛鳥ヤマトの神殿を隠蔽した、飛鳥ヤマトでのキリスト教会と考えられます。これらの寺の地下、或いは近隣の地下に、元法隆寺の冬至神聖ラインに基づく遺構のように、前政権の「道教の観・景教寺・オリエント寺」の遺構の存在が推測されます。
では、古代飛鳥ヤマトの巨石建築物を破壊して、木造巨大建造物を建設した建築士は、何処から渡来してきたのでしょうか。
古代飛鳥ヤマトへの異国からの渡来ルートは、三つあります。
ひとつは、ギリシャ・ローマ文化をもたらした騎馬民族渡来のユーラシア草原ロードです。
二つめは、ペルシャ文化をもたらしたアラム語を話すソグド人が渡来した、中央アジアの砂漠地帯を貫くシルクロードです。
そして、三つめは、アラブ・インド文化をアラブ→インド→中国の海路でもたらしたフェニキアの海洋交易商人の南海ロードです。
この南海ロードの中継国のインド南端は、気候が湿潤なため木造建築が盛んであったのです。そして、そのインドの輸出品のひとつである香木は、仏教儀式の必需品でもあったのです。
大乗仏教は、紀元一世紀北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されたものですが、そのキャラクターであるブッダは、インド南方への布教過程でヒンズー教の太陽神ビシュヌ神として取り込まれていたのです。そして、インドで発明された「観音思想」は、国際海洋商人と伴に、東洋に渡来し、大乗仏教に取り込まれ「観音様」となるわけです。シルクロードから渡来した大乗仏教と、南海ルートから渡来した大乗仏教との「仏様」は、異なっていたのです。
ですから、シルクロードから前秦に渡来し、372年高句麗に伝播した大乗仏教と、南海ルートから東晉に渡来し、384年百済に伝播した大乗仏教とは、「仏様」が異なっていたのです。弥勒菩薩は、太陽神ミトラが大乗仏教に取り込まれた「仏」です。その弥勒菩薩は、シルクロードから高句麗に伝播したものです。その弥勒菩薩が、何故、飛鳥時代に、百済からもたらされ、聖徳太子が、弥勒菩薩を安置するために、秦河勝に広隆寺を創建させた、と仏教史は言うのでしょうか。飛鳥ヤマトの仏教伝来物語には、「ウソ」が多すぎます。
古代飛鳥ヤマトが、オリエント巨石文化に支配された後、インド文化が渡来したことを示唆する動物がいます。それは、牛です。
古代飛鳥ヤマトでは、牛は神への犠牲とされていたのです。太陽神ミトラを祀る民族は、その宗教儀式で牡牛を屠っていたのです。牡牛は太陽神の化身のため、牡牛を屠ることにより、願をかけるのです。旱魃での雨乞いの儀式では、太陽神に牡牛を捧げていたのです。そして飛鳥ヤマトでは、牛肉は食用となり、乳はバター・チーズ(醍醐)として加工されていたのです。これらの宗教儀式の文化をもたらしたのは、ユーラシアの草原ロードからの騎馬遊牧民族とオリエントの民です。
しかし、686年騎馬民族系天武天皇が崩御し、藤原氏の政治力が増した、741年牛馬屠殺の禁止令が出たのです。これは、牛に対する思想の変化を示唆します。
それは、インドの思想では、牛は、家畜として飼うことも、屠殺して肉食することもできない聖獣であるのです。藤原氏が、飛鳥ヤマトでの牛の扱いを、百八十度変えたということは、藤原氏が騎馬遊牧民族と異なる思想を持っていたことを示唆します。では、藤原氏は、どのような思想をもっていたのでしょうか。
藤原氏の思想を推測するヒントのひとつは、日本神道です。神道は、二世紀の中国で、道教思想から派生したものであるようです。
日本神道は、日本列島の古来の宗教思想と思われているようですが、それは違います。日本列島は、古来からアニミズムの精霊が宿る処であったのです。善も悪もなく、浄も不浄もなく、貴も賎もなく、全てのものに精霊が宿っていたのが、日本列島であったのです。
しかし、巨大古墳が築造されなくなる時代に、二元論を持つ思想が渡来するわけです。その思想では、善と悪、浄と不浄、貴と賎とを分けるのです。そして、悪、不浄、賎を祓うことにより、気が満ちるとするのです。つまり、古墳時代後半=飛鳥ヤマト時代後半に、「穢れ払いの儀式」が日本列島で始るのです。そして、神が宿る建物を建設するのです。その建築物は、古墳の上やその近隣に建立されるのです。それが、神社の始まりのようです。ですから、神社の始まりは、古墳築造後の、四世紀を遡ることはないでしょう。
神社とは、いつ、どこで、だれが発明したものかを示す史料は未だお目にかかったことがありません。何故、神社の歴史が伝わらないのかは、それは、神社の歴史解明が、藤原氏の渡来歴史の謎を解明してしまうからかもしれません。その根拠は、日本神道の始めは、藤原氏の祖である中臣氏に繋がるからです。中臣氏は、日本列島で、始めて中臣神道を発明した氏族であるからです。
飛鳥ヤマト時代は、古墳時代とオーバーラップします。その飛鳥ヤマト時代の中ほどの、645年に藤原氏は、日本列島に突然出現するわけです。そして、藤原不比等は、686年新羅系天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が政権を握ると、文武天皇、元明天皇、元正天皇を傀儡として朝廷を支配するのです。
そして、710年山階寺を奈良に移し、その寺を「興福寺」とするのです。そして、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡に毒を盛られて崩御する二年前の768年に、神を祀る「春日神社」を建立するのです。つまり、道教を祀る天武天皇系勢力が健全の時代には、さすがの藤原氏でも、仏寺も神社も建立できなかったのです。
では、その藤原氏の祖の中臣氏が発明した中臣神道の「穢れ祓い」では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。それは、天武天皇は、道教の神・北極星(太一)を祀っていたからです。飛鳥ヤマトは、蘇我王朝、天武王朝の時代は、オリエントの景教や中国の道教文化が盛んで、仏教文化は隆盛ではなかったのです。
天武天皇崩御後、隆盛になった仏教と伴に、中臣神道が発明されるわけです。その中臣神道の穢れ祓いの趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
藤原氏の祖は、その「天つ罪」と「国つ罪」との二元論的穢れ祓いから推測すると、日本列島古来の全ての「モノ」に「カムイ」が宿るという精霊思想とは、異なる思想を持った民族であったようです。そのような二元論に基づく思想の宗教として考えられるのは、「光と闇」が闘うゾロアスター教と、「天使と悪魔」が闘うキリスト教が考えられます。
キリスト教は、ユダヤ教ヨシュア(イエス)派の別名です。キリスト教もユダヤ教も、唯一神「ヤハウェ」を祀ります。そのユダヤの神ヤハウェを祀るキリスト教は、インドのマラバル海岸では、二世紀には、国際交易商人に経済的支援をされた宣教師による布教がおこなわれていたのです。
そして、五世紀のそのマラバル海岸は、アラブと中国との国際海洋交易の中継点であったのです。この国際交易船と伴に、インドのヒンズー教の神々が七福神となって、日本列島に渡来するわけです。ヒンズー教の水神クビーラなどは、四国に渡来して「金毘羅様」に変身するわけです。つまり、インドと日本列島は、国際海洋交易により、古来より交通があったのです。
そのような国際海洋交易の環境において、藤原氏の先祖を、インドのマラバル海岸からのユダヤ・キリスト教徒末裔と仮定して眺めてみると、藤原氏による飛鳥ヤマト仏教伝来物語のトリックの仕掛けが見えてくるのです。
そのひとつが、厩戸皇子の創作です。しかし、この厩戸皇子は、平安時代に百済系桓武天皇が、「日本書紀」での仏教伝来物語を、552年から538年に改竄する時に「厩戸皇子」を、「聖徳太子」に変身させてしまい、更に「上宮聖徳法王帝説」や「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」などの聖徳太子存在偽装作品を創作したため、後世のひとたちは、聖徳太子は実在していた、と信じてしまうわけです。
そして、「旧約聖書」で、紀元前586年のバビロン幽因後、カナンの地を占拠した異民族を追い出すために創作したモーセ物語(唯一神ヤハウェの神によりカナンはイスラエル・ユダヤ民に与えられたという物語。)のように、平安時代に唐軍の軍事支援により平安京を占拠した亡命百済貴族は、「日本書紀」に、「538年に百済聖王が、仏教を日本国に伝来させた。」、という物語を挿入してしまうわけです。
ですから、古代飛鳥ヤマトの物語から、聖徳太子の事跡を消すことにより、その史実が現れてくるわけです。では、聖徳太子建立七寺の地下に眠る遺構から、どのような歴史が飛び出してくるのでしょうか。
日本列島に仏教を隆盛させたと伝わる聖徳太子のキリスト教色は、古くから指摘されています。しかし、その聖徳太子の伝記には、馬屋で誕生したキリスト教色のみではなく、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ(廃仏派物部氏対崇仏派蘇我氏との戦いで活躍する少年聖徳太子)、そして、十戒の立法を創作したモーセ(十七条の憲法と官位十二階を制定した聖徳太子)のようにユダヤ教色も強くあるのです。そのユダヤ・キリスト教色の強い聖徳太子が、飛鳥ヤマトの歴史で関わった人物には、蘇我馬子と秦河勝とがいます。
聖徳太子と蘇我馬子との関係は、神仏戦争と宣伝される物部守屋との戦争で、少年聖徳太子は蘇我軍を支援するわけです。そして、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、蘇我馬子と天皇記と国紀を編纂するのです。しかし、この天皇紀と国紀とは、日本国史では、645年に蘇我蝦夷により消失したことになっているのです。
そして、聖徳太子と秦河勝との関係は、物部氏との神仏戦争で勝利したことにより、仏教が飛鳥ヤマトに導入され、その仏像を安置するための仏寺の広隆寺を、秦河勝が建立するわけです。しかし、秦河勝が支配する山背国(後の京都)にあったと伝わる広隆寺の元は、蜂丘寺と言われ、その寺は現広隆寺の近隣に建てられていたペルシャ寺(景教寺)であったのです。
秦河勝が仏教徒ではないことは、1402年に刊行された世阿弥の「風姿花伝」により証明されます。河原者である世阿弥は、「風姿花伝」で、能楽の祖は秦河勝と述べているからです。その世阿弥は、第二百済王朝の鎌倉時代から、大乗仏教徒に「穢多=日本版サマリヤ人」とイジメられた秦氏の末裔であったのです。
怨霊を歌謡と舞とで鎮魂する能楽の源は、申楽(シン楽→秦楽)です。(簒奪平安王権により猿楽と貶められた。)その能楽の元の申楽は、飛鳥時代では、景教の祭祀でのミトラ神を祀るための歌舞であったのです。つまり、能楽の祖・秦河勝は、景教の祭祀者であったのです。そのミトラ神祭祀者の秦河勝が、敵宗教の仏寺など建立するはずはないのです。
ここで、藤原氏による飛鳥ヤマト物語での厩戸皇子(後の聖徳太子)の役割が分かるのです。それは、チュルク系蘇我氏の星・月を祀る宗教と太陽を祀る秦氏の宗教を、抹香臭い仏教色に換えることです。
では、仏教文化都市飛鳥ヤマトの歴史は、実際はどのように「想像」されるのでしょうか。
日本列島は、島国のため、外国の影響力が少ないと信じているひとが多くいるようですが、それは違います。日本列島は、四面を海流に洗われているのです。ですから、海流の知識と貿易風の知識があれば、帆船であれば遠くアラブからでも渡来は可能なのです。
六世紀の東アジアの世界情勢は、東ローマ帝国と中国・北魏とのシルクロード交易の権益を廻って、その中継国での紛争が絶えなかったのです。
五世紀後半に、中央ユーラシアに興ったチュルク系騎馬民族突厥は、ユーラシア草原ロードを支配して、東進するのです。その東進により、東ユーラシアを支配するツングース系遊牧民族国の柔然が、南下を開始するのです。やがて、南下する柔然は、突厥と北魏に破れ、552年消滅するのです。
その柔然の消滅の過程で、北魏も西魏と東魏に分裂し、更に、西魏は北周に、東魏は北齋になり、やがて、589年隋が、それらの国と南朝の宋を支配し、中国を統一するのです。
その動乱の時代の、552年突厥は、中央・東ユーラシアを支配し、突厥帝国を興すのです。そして、チュルク系突厥帝国は、シルクロードを支配するツングース系騎馬遊牧民族国家・隋と、東ローマとの交易を廻って抗争を起こすのです。
この突厥帝国と隋との国際交易戦争時代が、日本列島の飛鳥ヤマト時代なのです。飛鳥ヤマトは、「日本書紀」で物語るような女帝推古天皇と摂政聖徳太子とが統治する地ではなかったのです。
六世紀から七世紀の日本列島は、チュルク系騎馬民族突厥とツングース系遊牧民族隋との代理戦争の地であったのです。日本列島の飛鳥ヤマト時代とは、騎馬民族と遊牧民族との異民族闘争の時代だったのです。
中央ユーラシアを席巻した突厥は、534年宿敵北魏が滅亡すると、敦賀・能登・佐渡の渡海ルートを使い、日本列島の飛鳥ヤマトに騎馬軍団を派遣するわけです。それが、536年蘇我稲目が、突然飛鳥ヤマトに現れた背景です。(飛鳥時代に、ローマ軍式幅広直線道路が飛鳥から新潟まで敷設されていたのは、朝鮮半島はツングース系民族に支配されていたからです。)
飛鳥ヤマトは、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。しかし、飛鳥ヤマトは、日本列島の中心に位置しているため、この地を支配することにより、日本列島全土を支配下に置くことが出来るのです。
蘇我稲目が出現する前の飛鳥ヤマトは、北方仏教国・高句麗、南方仏教国・百済、ギリシャ・ローマ文化保持国・新羅が、飛鳥の三輪山麓のツバキ市の交易権をめぐって三つ巴の戦いをしていたのです。その三国は、朝鮮半島でも、三つ巴の戦いをしていたのです。
その三輪山麓の紛争地に進駐してきた蘇我軍は、新羅派遣軍(花郎軍団・ミトラ神軍団)と共闘し、高句麗・百済派遣軍を制圧し、飛鳥ヤマトを軍事支配をするのです。チュルク系蘇我軍と花郎軍団(ローマ軍団末裔)との共闘は、568年東ローマ帝国(四世紀末までのローマ帝国軍の軍神はミトラ神だった。)の返使ゼマルクスが、突厥帝国に訪れたように、突厥帝国と東ローマ帝国とは、交流があったからです。つまり、新羅(秦羅)は、慶州の石積木郭墳の埋蔵品がギリシャ・ローマ文化を示すように、馬冑・馬鎧で武装した勇者は金のネックレス・ブレスレット・指輪で飾る、高句麗や百済と異なる、ミトラ神を祀る騎馬民族国家であったのです。
そして、飛鳥ヤマトを軍事支配した蘇我稲目は、交通の要所に防衛基地を構築するのです。それが、「日本書紀」で言う処の天皇領の「屯倉」です。蘇我稲目は、九州から侵攻する北魏残党軍を阻止するために、主に瀬戸内海沿岸から難波にかけてミヤケを構築したわけです。
これらのオリエントから渡来の民族が、飛鳥ヤマトを支配したことにより、岩手県以南全国に、海岸地帯から内陸部に向かって類似形巨大古墳が出現したことを説明できるのです。それは、それらの類似系巨大古墳を全国一律に設造するには、古代エジプトの土木建築技術と古代オリエントの日干しレンガ製造技術なくしてはできないからです。
更に、飛鳥ヤマトを基点として、幅十二mの谷は埋め峠は切り通す直線道路を敷設するには、ローマ軍の土木建築技術が必要であったのです。そして、飛鳥ヤマトの巨石建築物、アナートの地下水道、噴水のある池公園、大運河などは、古代エジプトとオリエントとの土木建築技術の融合なくしてはできないものです。
そして、チュルク民族の石人は、騎馬民族支配の関東以北の野原や街道に設置されるのです。しかし、そのチュルク石人は、第二百済王朝の鎌倉時代には道祖神となり、細工をされたものは地蔵として変身してしまうのです。
これらのオリエント渡来の遺跡が、飛鳥ヤマトから、現在も発掘されているのです。しかし、「日本書紀」では、オリエント巨石文化の遺跡を無視して、飛鳥ヤマトは仏教文化都市であるのです。誰が、「ウソ」をついているのでしょうか。
藤原氏の騎馬民族文化抹殺意図は、720年完成の「日本書紀」の遣唐使と唐皇帝との会話記述に現れています。遣唐使に同伴した蝦夷に皇帝は尋ねます。
皇帝「蝦夷の国はどこか。」
蝦夷「東北です。」
皇帝「民族は何種か。」
蝦夷「三種です。遠くが都加留(つがる)、次が荒蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)です。熟蝦夷は年ごとに朝貢しています。」
皇帝「その国には五穀はあるのか。」
蝦夷「ありません。動物の肉を喰います。」
皇帝「国に家はあるのか。」
蝦夷「ありません。深山の樹の下に住みます。」
「日本書紀」に、このような会話を記述して、ダメ押しに「皇帝は蝦夷の顔かたちが異様なのに驚いている。」として、蝦夷を野蛮人扱いしているのです。
しかし、中国の「新唐書」では、「日本の使者が蝦夷人とともに入朝した。蝦夷も日本人と同じく海の彼方の島に住んでいる。蝦夷の使者の鬚の長さは四尺ほどもあった。箭を首にはさむ。人の頭の上に瓢を載せ、数十歩離れて立たせて瓢を射ったが当たらないことはなかった。」、と「遣唐使と蝦夷を同格」に扱い、更に、皇帝は蝦夷の射術に感心を示しているのです。
この蝦夷に対する、「日本書紀」と「新唐書」との記述の落差は何を意味しているのでしょうか。この「日本書紀」の蝦夷世界の記述により、後世のひとは、陸奥の蝦夷の国は、無文化の肉食の野蛮国と信じてしまうのです。
藤原不比等が、686年新羅系天武天皇崩御後、百済系女帝持統天皇朝に返り咲いた時代は、進駐唐軍により飛鳥ヤマトは支配され、飛鳥ヤマトのオリエント巨石文化は徹底的に破壊され、地中に埋められ跡形も無くなってしまったのです。
そして、694年飛鳥京から藤原京に遷都された後に、その更地の飛鳥ヤマトに北九州から多くの仏寺が移築されてくるわけです。後から移築された仏寺は、オリエントの太陽信仰民族の建設基準を知らないため、現法隆寺の地下に眠る若草伽藍の金堂と塔のように東西線二十五度±五度の冬至夏至の神聖ラインではなく、唐国建築物基準の南北線を基に建立されているのです。ここからも、オリエント文化の遺跡の上に、中国製仏教寺院が移築されたことが証明できます。そして、670年法隆寺は全焼したことに、「日本書紀」ではなっているのです。
つまり、オリエント文化の蘇我氏ゆかりの地には、聖徳太子建立七寺が鎮座することにより、地上のオリエント蘇我王朝の遺跡は、歴史上抹殺されてしまったのです。しかし、現在も飛鳥ヤマトの地からオリエント巨石文化遺跡が発掘され続けているのです。
唐進駐軍と藤原氏に敗れた、飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系蘇我氏やオリエント渡来の秦氏末裔は、陸奥を目指し落ち延びていくわけです。近畿に留まる者は、深山に隠れ住み、進駐唐軍の動向を探り、反撃の時を待つのです。やがて彼らは、仏教の敵、「鬼」、「天狗」、「河童」として貶められていくのです。
では、百年も続いたオリエント文化の蘇我王朝は、何故に、唐・藤原氏に敗れてしまったのでしょうか。それは、東アジアの情勢の影響が、日本列島にあったからです。
六世紀半ば、中央・東ユーラシアを支配したチュルク系突厥帝国は、630年唐軍により、その地を追われ突厥帝国は瓦解してしまったのです。その15年後、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝も、645年唐・藤原氏により滅んでしまうのです。
しかし、672年百済亡命政権の近江王朝を、騎馬民族系新羅の皇子(後の天武天皇)を頭に、蘇我氏残党軍とアラブの商人軍団(後のペルシャ平家・織田信長の祖)が共闘し倒し、チュルク系騎馬民族軍に支援された天武王朝が誕生するわけです。
そして、騎馬民族の王の尊称「テングリ・天子」から、「天皇」が発明され、672年天武は、日本国初の天皇となるのです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
そのチュルク系蘇我氏軍団支援により、672年天武王朝が、元蘇我王朝の飛鳥ヤマトの地に誕生すると、682年東ユーラシアに東突厥帝国が復活するのです。ここから再び、南の唐と北の突厥との闘争が始るのです。
唐軍は、国際海洋貿易商人の藤原氏と組むことにより、戦国時代に大坂の地を侵略するイエズス会のように、飛鳥ヤマトの国際交易地の略奪戦略を練るわけです。
藤原氏の祖は、中臣です。中臣とは、「中」の僕(しもべ)、或いは家来という意味です。では、「中」とは何でしょうか。それは、インドでは、サンスクリット語でナーガは「ヘビ」のことです。
日本列島で、始めて日本神道を発明したのは、中臣氏です。その神を祀る神社では、「ヘビ」は神の使いとして崇拝されていたのです。(ユダヤ・キリスト教のモーセ物語では、モーセの杖はヘビに変身するのです。)
神社は、神を祀る処と信じられていますが、飛鳥・奈良時代では、神社は先住民の氏神を封じ込めるための建物だったのです。ですから、鳥居をその参道の入り口に建て、神社境内を結界と示したのです。そして、その鳥居に、しめ縄(ヘビ)を蒔きつけることにより、先住の氏神を封じ込めたのです。つまり、藤原氏(鳥居のヘビ)により、先住の氏神が、娑婆に出られないようにした装置が神社の始まりだったのです。
ヘビは、一般人には嫌われていますが、キリスト教のグノーシス主義者は、誕生と死を繰り返すウロボロス(尾をくわえるヘビ)にキリスト復活を見出し、ヘビをイエス・キリストの象徴として崇拝していたのです。
インドでの、数字のゼロが発明されたのは、この自分自身を食べて無(ゼロ・0)になるウロボロスからと言われています。そのインドのマラバル海岸のユダヤ・キリスト教のコロニーから、ヘビを崇拝する「中臣氏」は、外洋船により、南九州坊津に渡来してきたのです。
では、秦氏はどこから渡来したのでしょうか。814年完成の「新撰姓氏録」によれば、弓月国であるとしています。しかし、秦氏の持つ技術を考慮すると、もっと西にその起源があるようです。
秦氏の渡来は、何度かに分かれていたようです。歴史上では、紀元前三世紀の秦氏末裔徐福の渡来です。徐福は、秦の始皇帝を騙して、軍団、技術者、そして童男女三千名の群団で、中国山東半島から東に船出したのです。その後は、「新撰姓氏録」まで歴史上の記述はないのです。
そこで、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門の、江戸幕府に提出した趣意書をヒントに、秦氏の出自を推測してみることにしましょう。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この趣意書によれば、弾左衛門の配下に、石切、鋳物師がいます。現在と異なり、古来の技術情報は、門外不出であり、その技術の奥義はごく限られた身内・縁者のみに伝承されたものです。ですから、石切や鋳物の技術伝承は、鎌倉時代以前のものと考えられます。狩猟採取の日本列島にその石切技術が渡来するのは、巨大古墳築造時代の四世紀からと推測されます。
石切を可能にするための鋼鉄工具製作技術の発祥の歴史は、紀元前十五世紀のヒッタイト帝国からです。鋼鉄工具がなければ、石切はできないのです。ですから、石切の技術と鋼鉄鋳物技術とは、共存するのです。
では、その石切の技術が発揮された時代を歴史に求めると、紀元前1377〜紀元前1358年までのエジプトを支配したアメンホテプ四世が考えられます。それは、アメンホテプ四世は、神々を勝手に発明する多神教のエジプト神官の支配を抹殺するため、唯一神の太陽神アトン(オリエンとから導入したミトラ神を変身させた神。)を祀る新都アケトアテンの造営のため、海外から優秀な都市建設技術者を求めていたからです。エジプトでの建設素材は、木造素材ではないので、外国人の建設技術者でも、石切の技術があれば優遇されたわけです。
そこに現れたのが、ヒッタイト帝国からの鋼鉄工具を持つヨセフ族です。
ヨセフ族は、「旧約聖書」によれば、ヤコブの息子で、邪悪な兄達により交易商人に売られ、エジプトに来たことになっているようです。しかし、「モーセ五書」にある、このヤコブ物語は、紀元前932年ヘブライのソロモン王が没して、ユダ国とイスラエル国に分裂した時、イスラエルの民が、ソロモン王を、不正な手段で王権を奪った者(ヤコブ)と言ったことを隠蔽するために創作された物語であったのです。(ヤコブをヨセフの父とする物語を創作することで、本来の意味を摩り替えて、不正な簒奪者=ヤコブの言葉を封印したのです。)
しかし、実際のヨセフ族は、独裁者アメンホテプ四世の寵愛を受け、エジプトの建設指導者となっていたのです。しかし、「旧約聖書」によれば、ヨセフ族は奴隷となり、日干し煉瓦を作り、そして、鞭打たれ巨石運搬の重労働に従事したことになっているのです。しかし、実際は、遺跡に残るヒエログリフの文章によれば、新都アケトアテンの建設従事者には給料と食料とが与えられていたのです。そして、その頃のエジプトでは、建築資材は、日干し煉瓦ではなく、石材を使用していたのです。日干し煉瓦は、バビロニアでの建築材だったのです。この記述からも、「モーセ五書」が、紀元前586年バビロン幽囚時代以降の創作だったことが推測されます。
「旧約聖書」の「出エジプト記」によれば、ヨセフ族の末裔エフライム族は、エジプトでの奴隷労働に疲れていたのを、紀元前1230年モーセにより、エジプトを脱出したことになっているのです。その出エジプト後に、あの有名な十戒を、唯一神ヤハウェにより授かったことになっているのです。しかし、「出エジプト記」を含む、「モーセ五書」の創作時期は、その約七百年後の紀元前586年バビロン幽囚時代以降であるのです。
ですから、紀元前722年アッシリアのサルゴン王に滅ぼされた、イスラエル民族十部族は、「ヤコブ物語」も「出エジプト記」も知らなかったのです。
では、今日読まれている「旧約聖書」はいつできたのでしょうか。
紀元一世紀、シリアが支配していたパレスチナは、ローマ帝国軍に支配されていたのです。その地に、ユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)が勢力を伸ばし、ローマ帝国軍に挑むわけです。しかし、紀元70年エルサレムがローマ帝国軍に落ちると、革命の希望を失ったキリスト教徒が、希望を失ったユダヤ民に対して、ユダヤ経典から好き勝手に言葉をひきだして、キリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)だけに都合のよい説明をおこなったのです。そして、42冊の合本を創るのです。これが、後にカトリックの「旧約聖書」となるのです。それまでのユダヤ教では、それぞれが独立した数多くの経典であったのです。そこで、ユダヤ教祭祀者は、勝手な説教をするキリスト教(ユダヤ教ヨシュア派)の「旧約聖書」に対抗するため、正典(カノン)を創る必要がおこったのです。つまり、紀元98年までは、ユダヤ教経典には、外典や偽書なとの差別は存在していなかったのです。
そのように、キリスト教「旧約聖書」は42冊で、ユダヤ教「旧約聖書」は24冊に収まったのですが、元は、それぞれの部派の経典からの合本(ビブリア)だったのです。このビブリア(合本)が、いつしかバイブル(聖書)と呼ばれて今日に至るわけです。
が、しかし、発生時は、反ローマ帝国のユダヤ教ヨシュア派(キリスト教)は、どういうわけか、392年ローマ帝国の国教となるのです。そして、ローマ・キリスト教は、国際交易商人と伴に、全世界に布教という侵略をおこなっていくのです。
そのような不思議な履歴を持つ「旧約聖書」に、イスラエル民族の記述はあっても、エジプトの巨大石造物建設技術、堀掘削技術、鋼鉄工具製作技術を持ち、「太陽神」と「牡牛」を祀るイスラエル民族十部族は、「旧約聖書」が完成するずっと以前、紀元前722年には、オリエントの砂漠に消えてしまっていたのです。
「ウソ」には、「良いウソ」と「悪いウソ」とがあります。「良いウソ」とは、ウソをつくひとも、つかれるひとも、ともに「良い思い」をします。しかし、「悪いウソ」は、ウソをつくひとだけが利益を得、つかれるひとは「悪い思い」をします。
「聖書」と「日本書紀」には、ウソが満ち溢れています。そのウソも、「良いウソ」よりも、「悪いウソ」のほうが多いのです。その「悪いウソ」で被害にあっているのは、「聖書」では、イスラエル民族です。そして、「日本書紀」では、新羅(秦羅)人です。
では、ウソツキは誰かと言うと、「聖書」では、レビ族のアロンの末裔です。「日本書紀」では、藤原氏です。そして、アロン末裔により、イスラエル民族は不可触民・サマリヤ人と蔑まれ、そして、藤原氏により、新羅(秦羅)人は、不可触民・穢多と蔑まれていくのです。  

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