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錯聴 (auditory illusion) _ 音の錯覚
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/756.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 9 月 16 日 08:46:46: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 本当のオーディオファイルは「ミニマリスト」を目指す 投稿者 中川隆 日時 2017 年 2 月 13 日 09:20:55)


錯聴について 柏野牧夫

視覚と同様、聴覚にもさまざまな錯覚があります。それを錯聴(auditory illusion)といいます。周波数の高い音が低く聞こえたり、右にある音が左に聞こえたり、同じ音に対する聞こえ方が変化したり、存在していない音が聞こえたり、いろいろと不思議なことが起こります。あるものは視覚の錯覚に似ていたり、しかし聴覚独特の部分もあったりします。イリュージョンフォーラムのデモで錯視と錯聴をあれこれ比べてみるのもおもしろいでしょう。

錯聴は私たちにいろいろなことを教えてくれます。まず、私たちが知覚している音の世界は、耳に入ってくる音そのものではないということ。しかし、これは必ずしも、私たちの聴覚システムが不正確であることを意味しません。むしろ逆で、そこにあらわれているのは、聞きたい音やそれを妨害する音が混在する日常の環境で、安定して効率よく音を聞き取るための数々の巧妙なしくみです。このようなしくみが無自覚のうちに働いているからこそ、耳に入ってくる音「以上の」ものが聞こえるのです。

裏を返せば、「耳」だけでは音は聞こえないということです。耳はあくまでも聴覚システムの入り口であって、その後に続く脳での膨大な情報処理が、錯聴の背後に見え隠れする巧妙なしくみを支えています。錯聴を詳しく分析すれば、脳での音の処理メカニズムについての手がかりが得られます。

ところで、こんなに多種多様な錯聴があるのに、なぜ一般には錯視ほど知られていないのでしょうか。ひとつには、音は絵のように紙に書いて眺めることができないので、音の特性と聞こえ方とのずれが気づかれにくかったからかもしれません。しかし、音に対する関心は人類の文化発祥以来とも言えるもので、あえて錯聴と名付けなくとも、知覚特性を巧妙に利用した音の提示法はさまざまな分野で開発され、利用されてきました。例えばバロック音楽では、一度に複数の音を出せない楽器で、異なった音をすばやく交互に鳴らすことで、あたかも複数の旋律が同時に奏でられているように錯覚させる手法(音の流れの分凝)が使われました。オーディオも、限られたチャンネル(通常のステレオなら2チャンネル)による音の提示によって、あたかもその場で演奏されているような感覚をいかにして生じさせるかという錯覚の探求といえるかもしれません。今後さらに巧妙な錯聴の使い方が開発されれば、音に関わる芸術や技術はますます豊かになっていくでしょう。

錯聴の研究は、1960年代から70年代にかけて第一次黄金期を迎えました。イリュージョンフォーラムでとりあげたいくつかの現象、例えば連続聴効果や音階の錯覚、反復の変形などは、 この時代に発見されたものです。1990年代には、このような現象をより定量的に把握したり、計算モデルで説明したりしようという試みが盛んになりました。2000年代に入ると、 聴覚に関わる脳のメカニズムを解明する研究の中で、錯聴も格好の素材として取り上げられるようになりました。現在も日々新しい研究成果が報告されています。イリュージョンフォーラムに来場されたみなさまの中からも、新たな発見が生まれるかもしれません。
http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/ja/auditory.html


錯覚や脳のしくみについてより深く知りたい皆さんへ、参考になる本をご紹介いたします。

このリストは、今皆さんに来ていただいている「イリュージョンフォーラム」の作成に関わった関係者が執筆した本だけを載せておりますので、ごく一部の紹介にとどまっています。その点は、なにとぞご容赦ください。


◾「脳から心へ」 宮下保司・下條信輔編 岩波書店 1995年

◾「脳科学大事典」 外山敬介編 朝倉書店 2000年

◾「認知科学辞典」  日本認知科学会編 共立出版 2002年

◾「新・心理学の基礎知識」 中島義明・繁桝算男・箱田祐司編 有斐閣 2005年

◾「脳の計算機構―ボトムアップ・トップダウンのダイナミクス―」 銅谷賢治・五味裕章・阪口豊・川人光男編 朝倉書店 2005年

◾「新編 感覚・知覚心理学ハンドブック Part2」 大山正・今井省吾・和氣典二・菊地正 編 誠信書房 2007年

◾「イラストレクチャー 認知神経科学」 村上郁也編 オーム社 2010年

◾「知覚心理学」 北岡明佳編 ミネルヴァ書房 2011年

◾「音のイリュージョン ― 知覚を生み出す脳の戦略 ―」 柏野牧夫著 岩波書店 2010年

◾「空耳の科学―だまされる耳、聞き分ける脳」 柏野牧夫著 ヤマハミュージックメディア 2012年
http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/ja/auditory_book.html  

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コメント
 
1. 中川隆[-6398] koaQ7Jey 2017年9月16日 19:37:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

耳トレ!


耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X

                      

大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。


☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。


☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。

自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!


☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a



>日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。
>日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

>英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多い。

>その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。

>人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

共感覚

共感覚(きょうかんかく、シナスタジア、synesthesia, synæsthesia)は、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。

例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。


音に色が見える共感覚

色聴と呼ばれ、日本にも専門の研究者が存在する。

共感覚者であると確証される現在の海外の人物

共感覚者であることを第三者が確証できるほどの極めて具体的な自らの共感覚の例を掲げた著作・芸術作品などの活動が確認できるほか、大学などの研究機関において被験者として検証実験を受けたり、研究者の著作・学術論文中にて引用・言及されており、共感覚者であると確証するに足る人物を挙げる。


エレーヌ・グリモー (ピアニスト)

アメリカ公共放送PBSとのインタビューで本人が語っている。


Helene Grimaud interviewed by Alexis Bloom for Quick Hits
https://www.youtube.com/watch?v=N_dw9-Bt_sM


いつもCは黒、Bは青、Fは赤、リストの曲は金色がかった色調に感じる。


また、11歳の時にバッハの平均律クラヴィーア曲集Fシャープメイジャー(嬰ヘ長調)のプレリュードを弾いている時に明るい暖かな赤とオレンジの間の色調を感じた。

数字にも色を感じる。2は黄色、4は赤、5は緑。

曲によってはいつも特殊な色の世界を感じる。時によって調性に影響される。

Cマイナー(ハ短調)は黒、Dマイナー(ニ短調)は青。

ベートーヴェンのテンペストソナタは黒、合唱幻想曲は黒、緑、赤、黄色のらせんを感じる。

___


マイケル・トーキー(作曲家)

音階や母音などに色を感じ、その色を主題として題名に取り入れたバレエ音楽『グリーン』『エクスタティック・オレンジ』などを作曲した。インタビューの中で、ひとつの実験として始めたが、特定の趣を押し付け「観客が音楽を楽しめる幅を狭めてしまったのではないか」と心配もしたと述べている。


___


イツァーク・パールマン(ヴァイオリニスト)

パールマンは、G線でBフラットを弾くときは深緑色、E線でAを弾くときは赤を感じる。

____


フランツ・リスト(作曲家・ピアニスト・指揮者)

オーケストラを指揮したとき、「ここは紫に」など、音を色として表現した指示ばかり出し、団員たちが困惑したエピソードが有名[要出典]。


____

女性の高い声を「黄色い声」などと言うように、人類、あるいは特定の環境・文化において複数の種類の感覚を結びつける比喩的習慣が広く存在するが、共感覚はそのようなものと直接は関係しておらず、共感覚を持たない人には感じられない上述の数字に色を見るなどの感覚を、主観的な知覚現象 (クオリア) として生々しく感じている。

共感覚は五感のような基本的な感覚の種別に関してだけではなく、感情や単語や数などに関して起こることもある。 共感覚者の間での複合した知覚の関係に相関は認められていない。 例えば、ある人がある文字を青く感じたとしても、他の共感覚者が同様に感じる傾向があるとは限らない。

共感覚を手がかりに主観的な心の世界と客観的な脳との関係を深く探る手がかりとしようとする研究が継続的に行われている。

赤ちゃんにおいては視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚等の異なる種類の感覚が未分化な知覚を生み出しており、通常その後の成長による感覚の発達にともなう脳の結合の変化によってこうした共感覚は失われていくとされる。この場合、成人して共感覚を保持している人は発達の過程で何らかの理由で脳の異なる部位への結合が保たれ、これらの複合した知覚もそのまま保たれているとする説もある。

共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれる。

絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。

また、色聴は共感覚の中で一番発生率が高いと報告されている。

色を感じる音にも様々なものがあり、音程、和音、単語、または音楽自体が聴こえることもある。 似たような感覚として「音視」というものもある。これは色に形や音が聴こえるという色聴とは反対の感覚である。


かつては共感覚で感じる知覚というのは共感覚者によって異なるとされてきたが、最近の研究では、多くの被験者を対象にした実験の場合、知覚にいくつかの共通点が見られることが分かった。

例えば、聞こえた音に色が付いて聞こえるサウンド・カラー共感覚(sound-color synesthesia:色聴)保有者の集団実験では、高い音ほど明るい色に見えるという傾向が見られたという。

また黒字の文字を見ても別の色に見えることがあるというグラフィーム・カラー共感覚(grapheme-color synesthesia:書記素色覚)保有者の集団実験では、やはりある文字には似たような色を感じる傾向があるということがわかった。

ところが、ある傾向が見られることは確かだが、あらゆる種類の共感覚があり、いずれの共感覚にしても個人によって誘因や症状の度合いは異なることも分かっている。この多様性のせいで、個人のもつ共感覚を定義するのは容易なことではないし、彼ら自身、自分の持っている感覚に名前が付いていないことに気付いていないことが多い。

色の付いていない文字なのに色が付いて見える人がいる。これを共感覚という。また、音声に色がついて見える人や、円周率の数列に美しさを感じる人もいる。
神経学者のリチャード・E. シトーウィックは、共感覚の診断のために用いる基準を以下のように決定した。


1.共感覚者のイメージは空間的な広がりをもち、はっきりと限定されたロケーション(位置)を特定できることが多い。 [訳註]共感覚者は空間的なイメージの中で、自分の位置している場所がはっきりと分かる。

2.共感覚は無意識的に起こる。

3.共感覚の知覚表象は一貫性がある。

4.共感覚はきわめて印象的である。

5.共感覚は感情と関係がある。


シトーウィックは、空間の広がりを見据えた実験を提言したが、最近の多くの研究はこれを正しくないとしている。例えば、共感覚者の中には文字の色や、単語の味が「わかる」のであり、実際に視覚器や味覚器で感じているわけではないのである。


共感覚者の多くは子供のころに他人とは異なる隠れた感覚に気づく。

そして彼らは自然とその感覚を日常生活に適用させていく。

また、共感覚で人の名前を覚えたり、電話番号を覚えたりすることに使うこともあれば、暗算に利用することもできる。しかし同時に、絵画・映画などの視覚的な作品や音楽を創造する上での困難になることさえある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A


音に色や温度を感じる 「共感覚」が不思議すぎる! 2016.01.12
http://eye-media.jp/entertainment/%e5%85%b1%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%81%ae%e4%b8%8d%e6%80%9d%e8%ad%b0/

音に色を感じる――。

なんだか詩的な表現のように感じますが、本当に音を色として感じることのできる人々が、世の中には存在しているのです。

こうした特殊な知覚現象を『共感覚』と呼びますが、共感覚を持つ人々にとって、音は単なる音ではなく、また形は単なる形ではありません。今回は、人が持つ特殊な感受性『共感覚』の不思議をご紹介します。


脳による五感の錯綜が「共感覚」を引き起こす?

共感覚は、英語では『シナスタジア』と呼ばれています。シナスタジアとは“感性間知覚”の意味を持つ言葉で、脳に存在する複数の感覚器官が同時に音や形を知覚する現象のことを指しています。


例えば、本来なら脳の一次聴覚野だけで処理される音情報を、視覚野でも処理することで、音から色を感じるなどの感性間知覚が引き起こされます。このように、ある現象に対して、五感の異なる感覚が作用することで起こる主観的なクオリア(感覚質)が、共感覚の原因だといわれています。

これにより、共感覚を持つ人にとっては、数字が特定の色を持つ絵として感じられたり、音を聞けば音階によって色が感じられたりします。こうした共感覚にはさまざまのパターンがありますが、「形に味がついて感じられる」、「人の容姿が色として感じられる」などの例が報告されています。


著名人にも共感覚の持ち主はいる!

中でも発生率がもっとも高い共感覚は“色聴”と呼ばれていますが、この現象は、文字通り「音に色を感じる」というものです。色聴は絶対音感を持つ人に一定の割合で存在するといわれており、ピアニストのエレーヌ・グリモーなど、自ら共感覚者であることを表明している著名人も数多く存在しています。

そして、色聴と逆の知覚現象が“音視”という共感覚です。音視を持つ人にとっては、色が特定の音階として感じられるのだそうです。

実は、私たち全員がかつて共感覚者だった!?


とても不思議な共感覚ですが、実は私たちも、新生児の頃には共感覚を持っていたといわれています。

というのも、生後間もない赤ちゃんは脳の受容器官が未分化なため、複数の器官で感覚を同時に処理していると考えられているのです。

音を色で感じ、形を音で感じる。こうした知覚の不思議を、私たちが考えるよりもずっと多くの人が経験し、記憶しているのかもしれませんね。
http://eye-media.jp/entertainment/%e5%85%b1%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%81%ae%e4%b8%8d%e6%80%9d%e8%ad%b0/


2. 中川隆[-6397] koaQ7Jey 2017年9月16日 19:39:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

>人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

音色は倍音成分の入り方で決まるので、音色というのは本当に色彩の色なのです

ブラームスは灰色、ドビュッシーは水中の光の色、モーツアルトは 1小節毎に音色が変わる

というのはイメージではなく本当にそういう色が付いているのですね

僕もプリアンプの marantz 7c を使っていた時は音に緑色の色が付いていて不思議だったです


3. 中川隆[-6396] koaQ7Jey 2017年9月16日 19:40:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


野生のしらべ – 2004/5/11 エレーヌ グリモー (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%B9-%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C-%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%BC/dp/4270000163


2007年06月28日 狼女=エレーヌ・グリモー


・性別: 女性。
・姓名: エレーヌ・グリモー Helene Grimaud。
・何人?: フランス人。
・何者?: クラシックのピアニスト。
・生年月日: 1969年11月7日生。
・備考: 美人ドキドキ

対称性の強迫


・子供の頃は奇行と奇癖の目立つ問題児。集団生活に馴染めず、いじめられっ子で友達もできなかった。


・幼少時からの対称性の強迫行為。勉強机の上で本の両側に同数の鉛筆が配され、本はノートから等距離に並べられなければならない。靴紐は両足とも同じようになるまで結んでは解いてを何時間も繰り返した(エレーヌ・グリモー『野生のしらべ』p.59)。


・コンサート・ピアニストになってからも強迫行為は暫く続いた。演奏旅行中に投宿したホテルの家具や備品を左右対称に並べ替えないと気が済まない。コンサート後は疲れているにもかかわらず、気を利かせたメイドが凝りに凝った強迫的ディスプレイを元に戻してしまったと確信して、恐れつつ電気も点けずに、ベッドルーム、バスルーム、洗面台と巡り、全てを並べ直して回った(同上。p.59-60)。


・しかし日本を演奏旅行中のある日、ホテルに帰り疲労の極致にあって猶、イルカのプリントされたセーターをその柄が上下左右対称になるよう物差し(!)を使って折り畳んでいた時に、発作的にセーターを窓から投げ捨て、以後強迫症状は止んだ(同上。p.60)。


・楽器の演奏やスポーツ等、完璧の追及が要求される営みには生得的な強迫的性格が必要、とエレーヌ・グリモーは主張する(同上。p.65)。

就眠の儀式


・眠る前にベッドの中で、教理問答で習った祈りを一定の規則で繰り返し声に出して唱える。そうして漸く眠りに就くことができた。言い間違えたり、発音やイントネーションが気に入らないと最初から唱え直し、満足するまで何時間でも続け、時には明け方に疲れ切って眠り込む、ということもあった(同上。p.51-52)。


・後、この儀式は音楽で役立つことになる。音楽学校の試験前夜、課題のシャルパンティエがどうにも退屈で憶える気が起こらず、諦めて床に就いたが、突然祈りの習慣が甦り、無意識的にスキャンされていたシャルパンティエの譜面を全て、かつて祈りを反復したようにリズムとアクセントに満足が行くまで飽くことなく繰り返してイメージ・トレーニングし、翌日試験ではその曲を完璧に弾きこなした(同上。p.52-53)。

自傷行為或いはエンドルフィン嗜癖(?)


・自傷行為が対称強迫の対象となる。6歳の時、母の故郷コルシカの海岸でかかとに傷を負い、麻酔無しで縫合の手術を受けたのだが、その最中に思わず笑みがこぼれるほどの至福感を体験する。たぶんエンドルフィン(*)が大量に分泌されたんだと思う。しかし心配する両親を尻目にめくるめく快感に浸っている自分に対して後ろめたさを感じてしまい、苦痛と涙を装ってことがこじれる。数分後に全ては忘却されたが、これを契機に全ての障害が始まった、とグリモー自身は記している(それが隠蔽記憶でなければね)(同上。p.40-44)。

(*)エンドルフィンについては ↓

「報酬系・ドーパミン・渇望:コルトレーン、ヘロインを断つ その16」
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10017910374.html

「練習による依存の適正な代替:コルトレーン、ヘロインを断つ その28」 参照。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10025913975.html


・数年後、砂利道で偶然転んで膝に傷を負い、生を強く実感、エンドルフィン体験が甦る。自傷行為が勃発し、しまいには対称強迫と連動して右手に傷をつけると左手にも傷をつけないではいられなくなる。両手・両膝・両肘に絆創膏を貼った以前にも増して奇妙な子供とグリモーはなってしまう。(同上。p.57-59)。


[覚書: エンドルフィンは自傷行為が習慣化する理由の一つであるかもしれないが、事後的に(或いは発端として)生ずる自罰衝動はエンドルフィンでは説明できない? やはりエンドルフィンだけではタナトスを説明できない? そりゃそうか。]


・7歳の時、情操教育のため(まあ、問題児だったから)両親に音楽教室へ連れて行かれ、女性ピアノ教師が弾くシューマンを聴き、深く魅惑される。

自身の内奥から生ずる魔力、とグリモーは表現するが、それってやっぱエンドルフィンじゃないだろうか(音楽に感動するとエンドルフィンが出ます)。明らかに音楽はグリモーの性に合っていた。以後ピアノにのめり込み、自ら進んで練習する。両親はさらに偏った性格になるのではないかと心配するがもう遅い(*)。音楽という全く別種の刺激に触れて報酬系は新たに賦活され、グリモーを猛烈に駆り立てる。それかあらぬかパリ音楽院に入学した13歳の頃に自傷行為は自然に消えた(**)(強迫性プラス報酬系駆動、というのはコルトレーンの生涯を理解する上でもかなり参考になる)。


(*)この辺はグレン・グールドとちょっと似ている。手袋おやじも子供の頃はむちゃくちゃ練習大好きで、変人になることを危惧した両親から練習時間を日に4時間と制限されていた。そしてグールドもまたグリモー同様友達のできないいじめられっ子だった。しかし性格はちょっと(いやかなり)違う。グールドの場合は強迫じゃなくって分裂病質だとかアスペルガー症候群だとか言われたりしている。ミシェル・シュネデール『孤独のアリア』、宮澤淳一「グールドと精神医学」(KAWADE夢ムック文藝別冊『グレン・グールド』)参照。
(**)『野生のしらべ』p.64, p.59


・エンドルフィン仮説(ドーパミンでもいいけど)をさらに裏付けるのは、くたくたになるまで運動することを好んだ、というエピソード。延々と続く歩行や階段の駆け上り、バーベルや鉄アレイ、ランニング・マシーンを通じての肉体の酷使。この女、疲労を超越した快楽の味を占めているのが見え見えですぜ、ニセ医者の旦那(ちなみに歩行やジョギングといった反復運動はセロトニン神経を活性化する。セロトニンについては後で触れるかも)(同上。p.256-257)。

狼大好き


狼マニア。「狼女」たる由縁の症状。

アメリカ移住後、狼と運命的な出会いを経験、強く嵌り込む。

狼について大学で勉強し、果ては土地を買い込み放し飼いにして狼保護センターを設立するに至る。狼についての生物学的・博物学的な知識は『野生のしらべ』にも惜しみなく投入され、自伝的エピソードのカウンター・メロディを成す。気に入るととことん強迫的(いちず、とルビを振りたい)になるタイプみたいです。狼のために恋人も捨ててしまいました。
http://ameblo.jp/lm199781/entry-10038082588.html

youtube エレーヌ・グリモー 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/150.html


4. 中川隆[-6395] koaQ7Jey 2017年9月16日 19:46:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トスカニーニ -  季節はずれのインテルメッツォ(続) 2009年08月26日

DVDの全集が出たり、どこかで必ず話題になったり、相変わらずこの人は音楽演奏の場には何らかの影響を持っているようだ。

そろそろ本当にものが言える人が出てもよさそうなものだが、その気配すらないから僕が言ってしまおう。損な役割だよなあ。

この男はばか者である、と。あるいは単なる道化役者だ。音楽家は皆、正直ではない。言質を取られないように言を左右に、むにゃむにゃ言ってごまかしているものだから、理屈を言うに長けた愛好家がいつのまにか先導している有様さ。

一言でいうならばこれで足りてしまうのだが、それでは子供の喧嘩ではないかと思う人が大半だろうから、少し言葉を補足しておく。

とにかく厄介なのは、この指揮者が作曲家に心から畏敬の念を持っていたということだ。たとえばプッチーニの「トゥーランドット」は最後の部分が作曲家が死んだせいで欠けている。

トスカニーニはこのオペラを演奏した際、プッチーニが書き記した音符まで来たとき指揮棒を置き「先生がお書きになったのはここまでです」と言ったと伝えられる。

話を逸らせると、プッチーニをそこまで尊敬する気持ちが僕には分からない。「トゥーランドット」は成る程人気のあるオペラかもしれないけれど、プチーニという人は「ラ・ボエーム」ですべてを出し尽くしてしまった人ではないだろうか。

それはさておき、トスカニーニの態度は律義者のそれに見える。ベートーヴェンと何とかのコラボなんていう催しばかりが流行する今日から見ればなんとまあ可愛い、と思えなくもない。美談だ。

つい数日前にも「美しい巻き毛のエリーゼ」だったか、少なくともそういう類の名の「エリーゼのために」を愚にもつかぬアレンジした楽譜を見せられて疲労した。

そういう意味では彼は野心家ではないのかもしれない。自分の成功のためには手段を選ばなかったカラヤンとは違う。自分が指揮するとき以外は、楽員の数を減らしていた、それを絶対に譲らなかったといった真似はできなかったかもしれない。

僕はこの人の演奏をすべて聴いたことがあるわけではない。批評家ならそれが要求もされるかもしれないけれど、そこまで暇人ではない。いくつか聴いてあとは判断してしまえばもう聴かない。

例えばマイラ・ヘスと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、あるいはルドルフ・ゼルキンとの、やはりベートーヴェンの第1番を聴いてみよう。

前奏ひとつとっても、とてもとても音楽とは思えない代物である。

なぜこんな男が当代きっての指揮者と見做されるようになったか。原因のひとつは、楽員も当時はそれなりに作曲家への畏敬の念を持っていたからだろう。どこにそんなことが書いてある、作曲家の意図を踏みにじるつもりか、君たちは、と猛烈な勢いで怒鳴りつけられてごらん。悪いのは自分たちだ、と恐れ入ってしまうような可愛らしい時代だった。演奏家ならば少しマンネリ化してサボってしまっている、という後ろめたさは皆持っているだろうし。

人間はそんなに単純なものだろうか、という疑問を持つ人もいるだろう。しかし、警察で厳しく尋問されて、覚えもない犯行を「自供」してしまうのも人間だ。

ましてや、自分の演奏の不備でも衝かれてごらんなさい。いったん守勢に回ったが最後、そう易々と形勢を転じることはできないものだ。

上述のヘスと共演しているベートーヴェンの3番は比較的楽に手に入る。聴いてご覧なさい。この曲の冒頭の付点のリズムひとつとっても、正確に聴こえないのである。つんのめって聴こえる。

それはちょうど、コンピュータが演奏したものがイン・テンポに聴こえないのと同じである。
http://blog.goo.ne.jp/dummkopf_1950/e/0908680381da03e522e00bccaf55cfc2


トスカニーニ 2 -  季節はずれのインテルメッツォ(続)2009年08月28日


トスカニーニによるベートーヴェンが、付点のリズムひとつとっても正確ではない、というところまで前回書いた。


なぜそういうことが起こったのか。誰の耳にも明らかな「間違い」を犯すということが。トスカニーニは正確さの権化ではなかったか。思うに、トスカニーニという人は、作曲家を尊敬するあまり、自分の感覚を否定したのだ。

彼の頭にはメトロノームはイン・テンポを刻めないかもしれない、という疑念はただの一度たりとも生じなかったはずだ。

自分が感じたものに「刻む」時をあてはめて、その感覚を修正していったのだと思う。気の毒としか言いようがない。

個人的に見れば今となっては気の毒な男だ、と言っても差し支えないが、音楽家がこの人への態度を曖昧にしたおかげで、現在に至るまで、いろいろな弊害が起こる。いい加減に清算したら、と僕が思うのも無理もない。

清算するなんて、学生運動華やかなりしころを思い起こさせるね。僕はこういう言葉が嫌いである。ただ、どうしていつまでも正直に見ないのかと、多少イライラしたので使ってしまった。

音大の練習棟に行って御覧なさい、ほとんどの学生がカチコチメトロノームで練習していますよ。

なにせ専科の教師からそうやって練習しろと言われているのだからもう救いようがない。これでも機会あるごとに、メトロノームはイン・テンポを刻めない、ということを噛んで含めるように言い聞かせているのだが、如何せん衆寡敵せず、焼け石に水、臭いものに蓋、いやそうなってはいけないな。

それに、メトロノームを使わなくなったからといって上達が保障されるわけではないからね。もしそんなことでよかったら、これはあまりに簡便で、なりたい人は誰でも上手になる道理だ。

メトロノームでイン・テンポを保障してその上で、それは音楽ではないからと勝手に「自由に」演奏する。その結果、自由な演奏は、たがが外れた、安定感を欠いたものになってしまった。

たとえばルバートひとつでも、ルバートを可能にする質量感がないまま、あさっての方角へすっ飛んでしまうようになった。

ギドン・クレーマーの唐突な表情は、吉田秀和さんによれば「アッと驚く、予期しない稲妻のような」ものらしいが、僕にはそう聴こえない。予期できないよ、確かに。でも、大抵の人が(日本人以外は)人のしないことをしようとただただ狙っている。投機師のようだ。

他の例を挙げれば一世を風靡した感のあるアノンクーアのオーケストラだって、素直に聴けば、ただの下手くその集団ではないか。こちらは「自由主義」ではなくて「研究」による結果、当時は奏者の腕前は低かったという見識から導かれた結果かもしれないけれどね。

そういう「自由主義者」の大量発生は、トスカニーニ流の厳格主義の裏面にすぎない。ただの一人も、今日トスカニーニ流インテンポの演奏はしない。でも、基本のイン・テンポはメトロノームに代表される刻まれた時間にある、という漠然とした盲信は持ち続けている。

だから「ロマンティックな余分なものを排除した演奏」というレッテルだけは大切に保管しているのだ。

本当は時間、テンポはただ経験されていく。その点ではまるでベルグソンの時間論そのものだと言っても良い。曲の流れは、たとえ厳格なテンポが要求される場合でさえも、それは微妙な揺らぎの中で(人間的に)捉えられるものである。話題がテンポになってしまったが、これはひとつの例にすぎない。

僕の記憶違いかもしれないけれど、たしかベルグソンは「自分の論は、いずれの日にか音楽の演奏家が正しく理解するであろう」と言った。それは時間論の中の一節だったような気がする。当時、その通りだ、と激しく気持ちが高ぶったことだけを記憶していて、出典を失念してしまった。

僕が興奮したわけは、音楽家がいずれ理解する、ということではなく、ベルグソンが演奏という行為をじつに正確に理解しているということにあった。

とんでもない、難しい横道に入り込みそうになったが、演奏における「正確さ」は何か、を問わない限りとんでもない「自由主義」は形を変えて次々にやってくる。

トスカニーニは正確さの権化と見做されていたし、今もその精神の後ろ盾のように見えるが、僕は彼は正確さを欠いた人物だと言いたいのである。

揺らいだ中でと書いたけれど、その揺らぎの中で得た安定だけが、さながらシャボン玉がさまざまな形状になりながらも安定した状態を保つように、自由な演奏を保障する。
http://blog.goo.ne.jp/dummkopf_1950/e/adf6f0e3a708df0388819bccc59e006e

youtube アルトゥーロ・トスカニーニ 名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/159.html


5. 中川隆[-6373] koaQ7Jey 2017年9月19日 09:45:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チェリビダッケ迷言集


トスカニーニ?「スコアの通り演奏したと言われているが、とても音楽と呼べる物ではない。音符をなぞっただけ。それが彼の演奏だ」


ムーティ?「並々ならぬ才能の持ち主だが、トスカニーニ同様無知者」


マゼール?「カントを語る2歳児」

ベーム?「芋袋」 -- 2005-06-13 (月) 18:18:22

カラヤン?「コカコーラ」、ツンボの耳を持っている指揮者 -- 2006-11-18 (土) 05:59:23

ハイティンク?「比類なき彷徨えるオランダ人」-- 2005-06-17 (金) 07:22:32

アバド?「天分ゼロ。苦痛そのもの。何も食べなくとも3週間平気だが、彼のコンサートは3時間で心筋梗塞。聴くだけで腹が立つ」

オーマンディ?「あんな2流指揮者が何故ストコフスキーの後任になれたのか?」

ストコフスキー?「色彩の王者」 -- 2005-06-18 (土) 10:39:23

クナッパーツブッシュ?「幅広い、ゆったりしたテンポで指揮すると言われていたが、とんでもない。音楽と呼べる代物ではなかった」

シューリヒト?「素晴らしい音楽家。学生時代、我々はベームではなく、彼の所へ勉強しに行ったものだ」

クーベリック?「大音楽家、小指揮者。話の分かる唯一の人」

サヴァリッシュ?「大学の学長の様な人。音楽家とは呼べない」

シャイー?「無能」

フリューベック・デ・ブルゴス?「彼が指揮してもモーツァルトの交響曲は音楽と呼べるか?毒にも薬にもならない何でも屋」

ショルティ?「優れたピアニスト。指揮者としては並」

バレンボイム?「指揮はお粗末だが、素晴らしいピアニスト」 -- 2005-06-18 (土) 13:16:29

カルロス・クライバー?「あんな物凄いテンポでは誰も何も受止められない。彼は音楽が何たるかを知らない。悲劇だ」

バーンスタイン?「彼には何も理解出来ていなかったが、知的な男だ。それは間違いない。」

ブーレーズ?「リズムとは、機械的に調和させるものと思い込んでいる指揮者の典型」 -- 2005-06-18 (土) 17:36:44


ぼくについてのコメントもほしいところだ。せめて準推薦くらいはして欲しいといえよう。 -- 宇野珍ポーコー会長 2005-06-21 (火) 09:59:16

a岡を指揮すればそれで良い。 -- 2006-11-18 (土) 06:01:13

極東の小評論家など知らなかったろう。ヨアヒム・カイザーやハロルド・ショーンバーグについてはボロクソに言っていたみたいだが。 -- 2005-06-21 (火) 19:52:45

ヨアヒム・カイザーにはカラヤンの伝道者というニックネームだった! -- 2006-11-18 (土) 05:56:54

ダヴィット・オイストラフ?「最上の、まさに理想的な素晴らしい音楽家」

ヤッシャ・ハイフェッツ?「苦痛そのもの」

アンネ・ゾフィー・ムター?「馬鹿な女。ヴァイオリンを弾く雌鳥。みすぼらしくて話にならない」

イダ・ヘンデル?「傑出した音楽家。女としては食虫植物」

ディヌ・リパッティ?「深遠なる音楽家」

クララ・ハスキル?「最高の音楽的才能を持つピアニスト。食卓で信じられない様な卑猥な話をしながら、笑い転げていた。」

アルフレッド・コルトー?「音楽を詩的に捉えるのが気に入らない。何を弾いても皆同じ。
彼のルバートとラレンタンドは常にパワーに欠けていて、聴いていると眠くなった。南米では彼の伴奏を拒否したよ」

ジェシー・ノーマン?「文化的素養ゼロ。抑揚を間違えて歌った。いや、叫んでいたと言った方が正確か。まるで地球外生命体の声。
あれがヘッセやシュトラウスの春だって?とんでもない。ゴビ砂漠の春だった」 -- 2005-06-24 (金) 08:03:29

裸撮るについての発言はないのだろうか? -- 2005-06-27 (月) 16:01:15

ラトルはチェリ・フリークだが、チェリがラトルをどう思っていたかは知らない… -- 2005-06-27 (月) 17:00:48

シャイーについては発言があるのに、ラトルについては何も発言してないというのは、どういうコトですか? -- 2005-07-09 (土) 01:39:47

Out Of 眼中だったのだろう。 -- 2005-07-10 (日) 11:07:57
ということは、相手にされなかったということでしょうか? -- 2005-06-27 (月) 22:45:54

残念ながらそのようです。合掌。 -- 2005-07-10 (日) 22:01:49

1992年にラトルとバーミンガム市響がミュンヘンに演奏旅行に訪れた際、ラトルは
「この街で興味あるのは、チェリビダッケが育てたオーケストラだ」とか言っていたな。

チェリの没後、ミュンヘンフィルから後任指揮者への打診があったが、ラトルは断った様だ。 -- 2005-06-27 (月) 23:19:39

モーツァルト?「独裁者だ。嬰ニ音を嬰ハ音に変換する事など容赦せず、あくまで嬰ニにこだわる人だ」

ベートーヴェン?「インストゥルメンタリストとしては、交響曲第5番での彼は極めて低級のアマチュアだ。
終楽章は良くないし、転調ミスだらけ。"エロイカ"も終楽章は悪い冗談。
そして"第9"の合唱付フィナーレはお粗末なサラダにすぎない」

ベルリオーズ?「彼の管弦楽法は大した物で、革命的だった。
しかし、彼には完全な和声学の知識が欠けていた。コラールひとつまともに作れない。
彼の作品でバスの声部や転調には多くの間違いがある事を示す事が出来る。それには30分もピアノに向かえば充分だ。
彼はその膨大な作品を作曲するに於いて、回り道の名人だった。だが、ケルンからミュンヘンに行くのにモスクワを経由するかね?」

ワーグナー?「小説家として、思想家として認められたいという小市民的な野心を持っていた。そしてそれが一番重要だと考えていた。
己が素晴らしい音楽家だという事を知らなかったのだ。
彼は持てる力を全て所謂全体芸術に注いだが、それでさえ俗物の夢以外の何物でもなかった」

チャイコフスキー?「偉大なるシンフォニスト。そしてドイツでは偉大なる未知の作曲家。

ブラームスはその交響曲第1番終楽章導入部のコラールに於いて、いかにディレッタントなトロンボーンの使い方をしているか。
そして、そういう事をチャイコフスキーがやるとどんなに上手いか!それを本当に理解しているドイツ人はいない。

全く、各々の民族の慢心には嫌気がさすよ!

フランス人ほど、ドビュッシー、ラヴェルといったお国物を演奏するのが下手な国民はいないし、

ドイツ人ほど、モーツァルトの下手な国民もいない。弓が重過ぎるのだ。

チャイコフスキーは秘めやかな慎ましさをもって演奏せねばならない。果たしてそんなことが可能か?

この可能性が最も薄いのが彼の故郷ロシア。かの国では惨たらしい仕打ちを受けている。

同国人達が彼を毎晩、これでもかとばかりに殺しているのだ」 -- 2005-07-01 (金) 07:53:09

マーラー?「節度を知らない。確かに管弦楽法と音響の偉大なるヴィルトゥーソだった。

それで?それが今日彼に与えられた重要性を正当化する事になるかね?
彼は頭が混乱していた。己の器をはるかに超えたスケールの大きさを求めていたからだ。まるで手と足のあるサナダムシ。
物事を始めると最初は良いが、その内止められなくなるタイプの典型。気骨が無い。嘘偽りばかり。人非人。
交響曲第5番の第1楽章を理解したと言うならば嘘つきだ。私はマーラーなんて願い下げだね」

ストラヴィンスキー?「天才的なディレッタントに過ぎない。大作曲家の器ではない。
だから、それを補う為に様式を次々と新しく変えていった。その結果、様式感の欠如している作品がしばしばあるのだ」

シェーンベルク?「彼を作曲家と呼んでも良いのであれば、あまりに愚鈍な作曲家。彼の作品はどれも同じに聴こえる。
幸い、彼の影響は長続きしなかった。12音音楽のシステムは惨めにも根底から崩壊してしまったからだ。
12音音楽は主要作品と言える物を1つも残していない。
なのに、何故今日でもその名が口にされるのか理解に苦しむ」 -- 2005-07-03 (日) 00:14:26
http://8930.teacup.com/kannoshigeru/bbs/35


6. 中川隆[-6348] koaQ7Jey 2017年9月20日 14:54:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チェリビダッケ語録


セルジュ・チェリビダッケはルーマニア出身の指揮者で、第2次世界大戦終戦後、フルトヴェングラーが一時演奏活動を禁止されて混乱の極みにあったベルリン・フィルの再建に尽力した男。しかし後に不和となり、世界のオケに客演を繰り返す。最後はミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督となった。録音を嫌ったことで有名。

それでは、チェリビダッケの毒舌語録をどうぞ^^


トスカニーニ→無知蒙昧な指揮者


サヴァリッシュ→高校の校長がいいところ。音楽家ではなく、メゾフォルテのマラソンのスペシャリスト

クナッパーツブッシュ→じゃがいも袋

オーマンディー→あんな凡庸な楽長が、なぜストコフスキーの後継者になれたのか。

ベーム→ありゃ、くだらん。これまでただの1小節も音楽を指揮したことがない男。ドンゴロス野郎。

カラヤン→コカ・コーラだな

クーベリック→優れた音楽家だが、指揮者としては小物だ。誰もが肩を並べられる唯一の指揮者。

ブーレーズ→リズムを機械的な者と理解すれば、それがブーレーズ

ムーティ→才能はあるが恐ろしく無知な指揮者

マゼール→カントについて語る2歳児。無能なだけでなく、オーケストラにとって有害きわまりない指揮者

アバド→まったく才能のない指揮者。ヤツのコンサートを1時間聞けば心筋梗塞を起こす。

カルロス・クライバー→私にとって我慢ならない指揮者。彼は音楽が何であるかを経験したことがない。

フルトヴェングラー→いい時に死んだ。晩年は耳も聞こえなくなってまともな音楽が出来ていなかった(この言をフルトヴェングラーの死の直後に、彼の墓前で新聞記者に語った)

マーラー→彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したなどという者はほら吹きで詐欺師。マーラーなんぞいなくなってもまったく気にならない。マーラーは音楽史の中で最も痛ましい現象の一つ。

シェーンベルク→まったくどうしようもない愚鈍な作曲家

ストラヴィンスキー→ディレッタントの天才

ベートーヴェン→「運命」の第4楽章は最悪の作品で、間違った転調に満ちている。「第九」の第4楽章の合唱はサラダ、それもぞっとするサラダ。「エロイカ」の最終楽章はひどいジョークだ。

オペラ→内容空疎で間違った芸術のならず者。オペラの指揮など不純な振る舞い

ウィーン→ウィーンで生まれ育った者や文化だけが最高と思い込んでいる最悪の街。私の生涯最悪のブルックナーの演奏はウィーンのオーケストラを指揮したものだ。

ちなみにチェリビダッケが褒め称えている演奏家や作曲家は

クララ・ハスキル
アルトゥール・ベネディッティ・ミケランジェリ
レオポルド・ストコフスキー
ピョートル・チャイコフスキー
アントン・ブルックナー(最大級に褒め称えています)


チェリビダッケ語録 2


来日記者会見で、

「カラヤンは聾だ」

いや、瞽、否、カラヤン押しです、自分(笑)。

「クリュイタンスは表面的だ」

当たり前じゃん?

バカか(笑)。
何を求めてんだ?
表面的でないラヴェルとは何ぞ?
魂?
ロンサール?笑

でも、藝大の講義で「マメールロワ」のある箇所の転調について熱く語っていた。
散々ゴネて、

「理屈ではなく、ラヴェルは当然そうした方が美しいと考えたから、そうした」
んだって!笑
やはり、バカか(笑)。

作曲家なら当たり前、当たり前だのクラシック!

70年代にして早々にチェリビダッケは見限りましたね。
で、80年代でサヨーナラー。
禅ではなくZEN。

ヤツの人生や演奏と同じく逃げ道を見付けるに必死。
つまり、ZENZEN、全然、自分も表面的(笑)。

最近、チェリビダッケ人気も、やっと下火に。
コントラバスからのチュウニーは面白そうでしたが。
ヒマとお金が…

_________


オットー・クレンペラーも毒舌で有名。

ある金持ちのご婦人と同衾中に突然帰宅したその夫に殴られた。翌日、顔を腫らしたままオペラを指揮していると、事情を知っている観客からブーイングが飛ぶ。振り向いたクレンペラーは

「オレの音楽が聴きたくないやつは出て行け!」

カラヤンがたしかマタイ受難曲を指揮している時、

「悪くないぞカラヤン、みんなが言うほど悪くないぞ!」

観客は爆笑し、コンサートはメチャクチャになったという。


若き日のロリン・マゼールはクレンペラーを自らが指揮するマーラー「復活」のリハーサルに招いた。リハーサル後に感想を伺いに来たマゼールに対し

「君は非常に才能に恵まれているがな、君の振ったのはどこもかしこも間違っているな」

コンサート開演前、小用を催したクレンペラーは男性用トイレを探したが見つからない。目の前には女性用トイレがある。クレンペラーは女性用トイレに駆け込み、用を足した。トイレを出ようとすると、妙齢の美女がトイレに入ってきた。悲鳴を上げた女性はクレンペラーに叫んだ。「ここは女性用ですよ!」

クレンペラーは股間の一物を指さしていった。
「これも女性用ですぞ!」


自らが指揮していたフィルハーモニア管弦楽団が、スポンサーのウォルター・レッグから解散を命じられた。呆然として悲嘆に暮れる団員たちに演奏させたのはモーツァルトのモテット「喜べ、踊れ、幸いなる魂よ」

グレン・グールドと競演した時のこと。椅子の高さの調整に余念がなく、なかなか演奏を始めようとしないグールドに対し一言。

「グールドくん、君がその椅子の脚を切ってしまえば、演奏が始められるのだがね」


カラヤンにもこんなのがあります。

ベルリン・フィルとの練習中、身振りの大きい若手団員に対して

「君、はしごをかければ天まで手が届くよ」

アルプス交響曲のリハーサル中。彼の要求するp(ピアノ)がうまく出せないトランペット群に対して

「もしできなければそれでやめにして、音を出さないでおきなさい。そうすれば私の言うピアノになる」


>グレン・グールドと競演した時のこと。椅子の高さの調整に余念がなく、なかなか演奏を始めようとしないグールドに対し一言。

「グールドくん、君がその椅子の脚を切ってしまえば、演奏が始められるのだがね」

ジョージ・セルもグールドが椅子の高さの調整に余念がないことにいらいらして、演奏を始める前に一言いいました

「君の尻の世話は終わったのかね?」

※「尻の世話」・・・ホモセクシャルどうしの行為のこと。あるいはその準備や行為後の後始末の事。

N響を何度も指揮しているある日本人指揮者名ですが、山下一史氏がベルリンフィルでベートーヴェンの第九を指揮した「事件」があった直後に、わたしの前でこう言いました。

「ベートーヴェンの第九なんてテンポが変わる部分はほんと数か所でしょ?だれでも振れるよ!」

なんて醜い、とわたしは思いました。

ある日本人指揮者がわたしが参加していたオーケストラの練習中に指揮台でこう言いました

「今どきあんな大時代かかったモーツァルトを演奏するなんて信じられない」

どうやら、朝比奈御大のことを言ってたらしいです。

どんな演奏しようがその人の勝手で指揮者は自分が信じる音楽をやればいいだけだし、客はいろいろな演奏を楽しむ権利があるわけで、練習中にこんなことを言うこの指揮者がわたしは大嫌いになりました。


7. 中川隆[-6347] koaQ7Jey 2017年9月20日 14:58:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

Die Zauberflote, K. 620 - Overture - Toscanini; VPO - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=d7lCfXFTVaw

Die Zauberflote - Overture
Arturo Toscanini; Vienna Philharmonic Orchestra
Salzburg Festival, 1937


モーツァルト 魔笛
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、ウィーン・・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン国立歌劇場合唱団、演出ヘルベルト・グラーフ

ザラストロ(アレグザンダー・キプニス)
夜の女王(ユリア・オスヴァート)
パミーナ(ヤルミラ・ノヴォトナ)
タミーノ(ヘルゲ・ロスヴェンゲ)
パパゲーノ(ヴィリー・ドムグラーフ・ファスベンダー)
パパゲーナ(ドーラ・コマレク)

第一の侍女(ヒルデ・コネツニ)、第二の侍女(ステファニア・フラトニコヴァ)、第三の侍女(ケルスティン・トルボルク)

三人の童子(クルト・ペッヒ、アルバート・フュエル、フリッツ・マーシャ)

弁者(アルフレート・イェルガー)、モノスタトス(ウィリアム・ウェルニク)、司祭(リヒャルト・サラバ)、二人の武装した男(アントン・デルモータ、カール・ビッスティ)


1937年7月30日、ザルツブルグ音楽祭。NAXOSのHistorical。


▼付録のライナー・ノーツの音源の記録(英語)から:1937年にザルツブルグ音楽祭で制作された6つのオペラは8mmセレノフォン・フィルムで録音された。

6作とは、トスカニーニの『フィデリオ』『ファルスタッフ』『マイスタージンガー』『魔笛』とワルターの『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』である。

NBCはコピーを申請したが、事務員のタイプ・ミスで『フィデリオ』が落ちてしまったため、それは送られず、結局戦争で消失してしまった。他の録音はディスクに移された。この『魔笛』のテープはガードナー・コレクション(彼はトスカニーニが好んだ録音技師の一人)にあったもので、彼のトスカニーニの録音は1965年と1983年にリチャード・カニエルに遺贈された。


▼リチャード・カニエルのライナー・ノーツ"A full measure of magic" Toscanini and The Magic Flute(英語)から:ロンドンの「タイムズ」の音楽時評は1937年8月14日のコラムでこう述べていた。

「トスカニーニの『魔笛』の再創造はヘルベルト・グラーフの舞台と共に、“魔法でいっぱい”であった。

トスカニーニ師はモーツアルトには水晶の明晰さがあるという見方を取った。

彼は『魔笛』のフリーメーソンの詩句のすべては厳粛に、序曲の冒頭から終幕の合唱まで、印象的な幅と威厳をもたらしただけでなく、すべてにおいてクリアであった。

明晰なテクスチュアが最も音楽的な効果を生み出した。

特にパパゲーノの歌はもちろん、モノスタトスの“誰でも恋をする”でさえ、想像力豊かな音楽となった。

夜の女王の第2のアリアは凄い速さで、人間の声の美しさと音楽的な能力の拡充の成果となった。・・・その効果は驚くべき美しさだった」


▼宇野功芳の評価

 「史上最悪の《魔笛》だな。こんなの聴いたことないよ。

 まず序曲ですね。癇癪もちのモーツアルト。速くて、せっかちで、モーツアルトではなくて完全にトスカニーニの音楽になっているね。

 序曲が終わって、大蛇に追われながらタミーノが登場します。このタミーノが大時代的なんだよ。「俺は英雄だ」っていっているようだね。

三人の侍女がそろいもそろってみんなずり上げ専門。

ぼくにはとうていモーツアルトとは思えない。ひどいよ。フォルテも強くてベートーヴェンのようだしね。


 第三曲、タミーノのアリアも表情をつけすぎ、語りすぎ、歌いすぎです。

 第五曲、五重唱、「フム、フム、フム・・・」は元気がよすぎる。音楽を汚しちゃているんだよね。

元気良く歌えばモーツアルトになるという、ひとつのパターンがあって、不必要に元気のいい表情をつけてしまう。だからしゃべりすぎてメロディーがわからないんですよ。五人全員が表情をつけすぎ、活発すぎ、そしてずり上げる。それから変なところで音がはずむ。それがモーツアルトだと思っているからね。

 第六曲ではモノスタトスが出てくるんだけれど。どういう音楽だかさっぱりわからないですよ。メロディーを崩してしまっているから。

パパゲーノと「フー」「フー」といい合うところは、ふざけすぎ。音程をなくしちゃってるんだ。ただ奇声をあげているだけ。

音程をなくしてどうします。ハーモニーになるところもあるんだからね。
しかも、最後にアッチェレランドまでかけるんだ。


 第七曲の『愛を知るものは』というパミーナとパパゲーノの二重唱ですが、音楽の美しさがまるでわからないですね。

奴隷たちが出てきてパパゲーノが鈴を振る。この鈴の音がひどい。

チンドン屋です。音を硬くし、しかも音程を狂わせているんだな。

これはほんとうにひどいです。
トスカニーニは音楽を破壊するためにやっているようなものですよ。


 三人の童子はウィーン少年合唱団が歌っています。これが出て来るとホッとするんだ。さすがに少年はずり上げないですよ。そこだけまともな音楽という感じがする。


 第ニ幕に入ってきて、第十四曲、夜の女王のアリアは細かい音程がいい加減ですね。

 第十五曲、ザラストロはいかにも偉そう。
「俺は偉いんだぞ」といっているようです。タミーノと同じで大時代的。

 第十七曲、パミーナのアリアは、悲しみによよと泣き崩れるようですな。まあそれはそれでいいと思いましたよ。


 許せないのは第二十曲、パパゲーノのアリアの合間に聞かれる鍵盤付きグロッケンシュピールだ(鍵盤付きの鉄琴)。

歌と音程が違うんですよね。半音くらい低いんですよ。違う調がなるんだ。

ほんと、腹立たしくなって、CDを叩き壊したくなったよ。

パパゲーノが「恋人が欲しい」と哀れっぽく歌うんだけれど。
これが泣いているんだか、笑っているんだかわからないんですよ。
表情をたくさんつければいいと思っているんですよねえ。


 面白いと思ったのは、超一流の指揮者で、しかもオペラの悪しき慣習を改革していったトスカニーニと、天下のウィーンフィルが、こういう音程のずれた音楽をわざわざ求めているということですね。

ぼくだったら怒りますよ。ぼくが聴衆だったらブーイングだし、指揮者だったらそんなことはさせない。

ということはぼくが日本人だからかな、とも思った。

本場の人はそういうのは超越しちゃうのかな、

トスカニーニやウィーンフィルみたいに、あんな耳のいい連中が怒らないでやっているわけでしょ。こっちは気持ち悪くてCDを叩き壊してやりたいと思っているのに、これは面白い現象だと思った。

 とにかく、このパパゲーノのアリアをみんなに聞いて欲しいな。

日本人はみんな癪にさわると思うよ。

今のウィーンの人たちにもこれを聴かせたいね。それでどう思うのか聞いてみたい。とても耐えられないというかもしれないしね。


 第二幕の最後に大合唱があるでしょう。コーラスが全員ずり上げるんですよ。

馬鹿じゃないかと思うね。だいたいモーツアルトの演奏というのは、基本が清潔でないと駄目なんですよ。その清潔さの中で気持ちをこめていかないと。みんなでずり上げたんじゃぶち壊しですよ」
http://homepage3.nifty.com/akiraikeda/music/magiccd.htm


8. 中川隆[-6341] koaQ7Jey 2017年9月21日 11:08:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

アルトゥーロ・トスカニーニについて:同時代の指揮者・演奏家の批評から ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
http://sergejo.seesaa.net/article/114490526.html


トスカニーニについて語っている同時代の指揮者・演奏家の批評を幾つかご紹介しようと思います。


三人の人物の著作を取り上げますが、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ウィーン・フィルで長らく楽団長を務めたオットー・シュトラッサー、そして、再び指揮者からオットー・クレンペラー。それぞれ、さまざま温度差はありますが、コンサート用作品に関してはその解釈に疑問はあるけれど、オペラにはもっと長所を感じ、何はともあれ、音色や響きには感心を示していたのが面白いことでした。

こういった領域は、きちっと楽譜を開いて・・・開いても「録音はこの音がはずれている」と間違い探しだけでは詮無い事で、楽譜が一体どういう類いのどんな校訂のものか理解して、その上で、きちっと楽譜が音楽的に読めていないと、上の三人の批評も手前勝手に(文学的な)言葉で判断してしまい兼ねないものでしょう。音楽的に読むといっても、これまたややこしい世界です。

弊ブログには荷が重いですし、そこまでは足を踏み入れたくない領域。

しかし、トスカニーニもプロとアンチそれぞれが強い意見を主張しておりますし、どちらでもない方は、一体なんなんだろうとなんだか迷うことがあるのでは?

細かい内容はところどころ判らずとも、少なくともプロの音楽家の中にも全否定・全肯定とはっきりさせずに、部分的に善し悪しを判断していた方が居たのだな、、、などと知っておくのは良い事かも知れません。そう思っておけば、自分と違う意見を見つけても、そうカッカとなることもないでしょう。

音楽家が音楽的に話をしているのを読んで、「ここは自分は判らないなぁ」と気づかされれば、(文学的)言葉だけを使った、

「ベートーヴェンが判っている/判ってない」
「作品○○の精神・本質を理解している/していない」

などの議論からは身を引いて、せめて自分の感じた音の印象に忠実に・・・といった程度に収まるものかと。呑んで音楽好きな仲間と話でもしていると、判らないなりにも虎の威を借りて「誰がこういっている」なんて引用したいこともままあるのですが、その時もちょっとは控えめになれるかと思います。

勿論、音楽の素養がある方なら、それぞれの言葉からいろいろお分かりになることがあるのでしょう。

◎ フルトヴェングラーによるトスカニーニ評:『フルトヴェングラーの手記』


W.フルトヴェングラー著『フルトヴェングラーの手記』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560037345/look4asyuracom-22/ref=nosim/


本日は、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーによる評価を簡単にご紹介致します。W.フルトヴェングラー著『フルトヴェングラーの手記』のP.70からの小論文『ドイツにおけるトスカニーニ』にあります。もうお読みになった方も多いのでは?

1930年の論文で、すでにこの時、フルトヴェングラーは44歳でベルリンフィルの主席指揮者になって8年目、

指揮者としてのトスカニーニは、オーケストラと指揮者の国ドイツにおいて、かつて他の外国芸術家にはほとんど例がないほどの成功を収めた。この成功の根拠を探り、その純正さ、影響、意義を見当することは無駄ではない。

と文章ははじまります。

私自身はトスカニーニをミラノとチューリヒ、ニューヨークならびにベルリンで聞いた事があり、しかも一、二度に限ったことではなく、数多くの試演にも立ち会っている。

と書いて居りますから、以前から関心があったことが伺えます。取り上げる三人の中では、多分、読む前から想像がつくように、もっとも手厳しい意見。トスカニーニ・ファンの方にも、フルトヴェングラーだったらそう言いそうだ・・・とお腹立て無からんことを!

1930年、トスカニーニはニューヨーク・フィルを連れて欧州に公演に行って居りますから、その時の、できごとでしょうか?

ハイドンの交響曲第101番 ニ長調 《時計》の演奏を聴いて、第一楽章ですが

(トゥッティが)対立物を真に音楽的・心理学的に結びつけようとする僅かな試みすらも彼によってなされたわけでないことが歴然とした

と。ベートーヴェンの交響曲《英雄》では、

ベートーヴェンの音楽の本来の内容を決定するすべてのもの、すなわち有機的なものとか、一つのものが別のものに移行する経過とかは、トスカニーニにとって存在しない。(中略)

だがわれわれは、その際、彼がかなりの年齢にいたるまでイタリアのオペラ指揮者にほかならなかったこと、絶えずイタリア・オペラ音楽の諸形式の枠内で思考し、彼にとっては一方ではトゥッテイが、他方では純粋にホモフォニー的なアリアが音楽の基本概念であったということを思い起こす。

この他、記述は詳細に及び、曲のどの部分か、時にはどの楽器の音かまで確認できる書き方をしておりますので、詳細は本書でご確認くださることを。トスカニーニ評を書きながら、フルトヴェングラー自らの音楽観の表出でもあって、観察結果は観察者に影響される・・・と思ったりも致します。この書籍、p.379と厚いものですが、判らないなりに読んでもフルトヴェングラーそして音楽そのものを考えさせられる小論・断章ばかりですから、ご興味あればぜひ。

さて、そんなフルトヴェングラーが疑問を感じてばかりかと言うと、上述のハイドンの第一楽章の総評ですが、

いずれにせよ、トゥッティよりも本質的に印象に残っていたものが、繊細なカンタービレの部分であった。この部分は、ややテンポを緩め、それによって惹起されたいささか意識的な感じを与える印象にもかかわらず、トスカニーニのオーケストラの響きの主要特質、すなわちすべてのカンタービレの部分で聞かれる漂うような優美さと軽快さを実に見事に響かせていた。

と賞賛。クライマックスのトスカニーニ一流の壮大さにも留保付きで感心した旨の記述がありましたが、一番フルトヴェングラーに訴えたのは、この繊細なカンタービレの響きであったようです。

*****


オットー・シュトラッサー著『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4276217806/look4asyuracom-22/ref=nosim/


トスカニーニとフルトヴェングラーの二人の指揮者と長く仕事を共にしたウィーン・フィルの楽団長オットー・シュトラッサー。その自著『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』の中には、二人を並列している記述が幾度かでてきます。

トスカニーニは正確さ、音色の美しさに気を配り、フルトヴェングラーは表現力、豊富な力の迸りに心がけ、このようにして、互いに対立しながらしかも互いに相補うこの二人の巨匠の影響力は私たちの上に著しい効果を及ぼし、双方の優れた特徴が一つになり、目に見えて、私たちに最高のフォルムを現出してくれた。

演奏者側から見ても、対照的な二人であったようです。 この部分だけ見ても、上のフルトヴェングラーのトスカニーニ評とほとんど同じ見方をしていたと伺えます。

オットー・シュトラッサーは、上の著書でトスカニーニについてはわざわざ一章を割いて記述。これが音楽的な話は勿論、怒りっぽいイタリア人をなだめる、呑気なウィーンっ子というステレオタイプにうまくはまる(はめた!?)内輪話が多くて、ゆる〜い私は時には声を出して笑いながら、両者に好感を抱いた覚えがあります。
http://sergejo.seesaa.net/article/114490526.html


アルトゥーロ・トスカニーニについて:同時代の指揮者・演奏家の批評から 元ウィーン・フィル楽団長 オットー・シュトラッサー
http://sergejo.seesaa.net/article/114538115.html


引き続き、往年の名指揮者トスカニーニについて。昨日から、音楽家がどんな風に感じて、ものを評価するかの些細な実例紹介も兼ねて、トスカニーニに関する同時代の音楽家の評価から三人の文章を取り上げて居ります。

世間的には、手放しの賞賛、さもなくば坊主憎けりゃの類いの全否定が結構多いと感じます。しかし、絶賛を浴びた指揮者も、部分部分善し悪し双方を評価している声もあると見れば、「いい」のか、「わるい」のか迷っている方も、ちょっとホッとするものかと(わたくし自身の経験がそうだった・・・というまでであります)。


本日は、ウィーン・フィルで長らく楽団長を務めたオットー・シュトラッサーのトスカニーニ評。シュトラッサーの回顧録『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』の中に、一章を割いての記述があります。

この著作、古本でしか手に入らないのが残念ですが、ウィーン・フィルの活動の模様はもちろんのこと、一見、八方丸く収めた記述の中に、共演した指揮者の特質、シュトラッサーによる評価が示されております。トスカニーニやフルトヴェングラーのほか、クナッパーツブッシュ、ベーム、カラヤン、フリッチャイその他、大勢の指揮者が登場。自分の好みの指揮者を見つけるにも中々の好著と存じます。

◎ 元ウィーン・フィル楽団長 オットー・シュトラッサーのトスカニーニ評:『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』

件の章は、第九章 アルトゥーロ・トスカニーニ −大人物の光輝(p.124〜)で、冒頭、当時のトスカニーニの名声の高さを描写します。

 私の若い時代に、トスカニーニほど、完璧さと確実さの後光に包まれていた音楽家は世界に存在しなかったと思う。人々は彼についてただ最上級でのみ話した。(略)

 彼が二回ウィーンに来た時、私たちは初めて自身の判断を下すことができた。(中略)また私たちの同僚の二人は、バイロイトにおける彼の《トリスタン》上演で共演し、私たちが彼のウィーン登場によって味わったと同様に、そこでの体験に大いに感激していた。

 ミラノ・スカラ座の監督、ニューヨーク・フィルハーモニーとニューヨークのメトロポリタン歌劇場、およびバイロイトにおける指揮者として、トスカニーニはとじ世界の大きな音楽中心地の各所に活躍して居り、指揮者中の最も優れた人とは言わない迄も、少なくとも最も重要な巨匠の一人たるに相応しい人物だった。

出会いの時は1933年。この後、トスカニーニのウィーン・フィル客演は1937年迄続きますが、そういった年表・コンサート演目詳細は、例えば、下のwebsiteなどをどうぞ。

http://www.toscaninionline.com/timeline.htm
http://www2u.biglobe.ne.jp/~toshome/main/maestro/V/MT-VPOfrm.html

さて、最初に楽団が気遣ったのは、当時の楽団長ブルクハウザー主導の下での、怒りっぽいトスカニーニに怒られない対策案!この章この手の内輪話が山ほどありますが、よほど「後から思い出すと良い思い出」だったのでしょう。

ブルクハウザーは、トスカニーニの仕事のやり方や普段の習慣などについてよく情報を得ていて私たちに示し、私たちのとるべき態度について規則を幾つか拵えておいたので、彼の尽力により衝突の可能性が最小限に抑えられた。

会社の接待とでもいいますか、下手すれば新しい担任の先生の噂をする小学生のような姿も浮かんできます。

準備万端の上、いよいよトスカニーニとの初のリハーサル。

私たちがすぐに感じ取った、絶対に妥協を許さない意志は、彼の顔の鋭い輪廓からうかがい知れた。(中略)最初から私たちは、立派に稽古をつけることを心得ている、そして信じ難いほどの集中力とエネルギーを以てしかも能率的に仕事をすることを弁えている、一人の芸術家を前にしていることを悟った。

最初の印象からして、既に立派な芸術家たる風貌を感じさせたのでした。


トスカニーニとの練習風景の仔細はぜひ本書にお確かめを。輪を描く指揮や、大事なところで指揮棒をふらない術など、トスカニーニ由来ではないかとちらっと示唆されて居ります。重要なことは、トスカニーニが

「すべての音楽は歌うことに由来する」

と常々言っていたことかと思います。

読んでいて笑ってしまうのが、怒りっぽいイタリア人と呑気なウィーンっ子という見事な典型的図式での練習中の騒動。楽団員が肝を冷やしているところ、第一ヴァイオリンの古老アルノルト・ロゼェが所謂逆ギレ気味になり、そんなロゼェにさすがのトスカニーニも気をつかったり、と殆どコメディのような状況。

しかし、段々団員も対応に慣れて来て、傑作なのは、ヴェルディの《ファルスタッフ》の練習中のできごとで、オーボエのグループが(多分、意図的に)慣れない代理奏者を第一オーボエに据えて、

何とマエストロが爆発する箇所の小節番号の数で賭けをし、それで儲けたのだ!

欧州の古都の百戦錬磨の楽団員だけあって、狸だな・・・と感心致します。もう一つ練習中のことで、記憶に残った記述は、

彼は音楽の事柄に関しては、決して専制君主であったことはない。彼は支持を与えたが、ソロを弾いている同僚を圧迫したりはせず、それぞれにその人独自の音楽の道を行かせ、誰をも決して神経質にしなかった。普通のオーケストラの楽員の生活では本当に滅多にないことだが、そのうちには私たちの側から、余分にリハーサルをしてくれるように彼に頼むようにさえなった。

でした。

◎ ウィーン・フィル元学団長シュトラッサーによるトスカニーニおすすめ名盤(CD)


さて、そんなシュトラッサーがトスカーニーニとの共演で上手く行った曲として挙げているのが、例えば、モーツァルト:交響曲第35番ニ長調K.385、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲 変ロ長調 Op.56a。

ザルツブルグ音楽祭では、ヴェルディ:歌劇《ファルスタッフ》、ベートーヴェン:歌劇《フィデリオ》、ワグナー:《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。どういう美しい表現で、これらの良い公演の記述をしているか、、、これもぜひ本書でお確かめのほどを。

逆に、今ひとつだと感じたものとしては、ベートーヴェンやブルックナーの交響曲に、モーツァルトの《魔笛》を挙げて居りました。

ウィーン・フィルとの録音はみつけられませんでしたが、ザルツブルグ公演は録音が出ております。上の写真やリンクがそれにあたります。

*****

前回の末尾に、トスカニーニとフルトヴェングラーの両者を比較したシュトラッサーの言葉を引用しました。

トスカニーニは正確さ、音色の美しさに気を配り、フルトヴェングラーは表現力、豊富な力の迸りに心がけ、このようにして、互いに対立しながらしかも互いに相補うこの二人の巨匠の影響力は私たちの上に著しい効果を及ぼし、双方の優れた特徴が一つになり、目に見えて、私たちに最高のフォルムを現出してくれた。

本日は、もう一つ別の比較で締めくくろうと思います。トスカニーニへの評価としてよく言われる「作品に忠実」に関するもの。

人々は当時トスカニーニを、「作品に忠実」という主義、すなわち、スコアから認め得る作曲者の意図にのみ従うという解釈の方法−の代表者と見なしていた。事実、彼の演奏には、楽譜が表しているものによって許されないような、如何なる変更もデュナーミク上のニュアンスも存在しなかった。当然、様々な解釈が可能と思われる諸問題は未解決にされていた。(略)

 これに反してフルトヴェングラーは、私の思うに、楽譜に示されているものの全く独自な解釈に努めた。彼は、“楽譜の背後”にあるもの、すなわち、情緒の充溢とか盛り上がり−それは楽譜ではただ不完全にしか伝えられないが−を、先ず何よりも読み取ろうと努力した。
前掲書 P.142
http://sergejo.seesaa.net/article/114538115.html

アルトゥーロ・トスカニーニ:同時代の指揮者・演奏家の批評から 指揮者オットー・クレンペラー
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4572001170/look4asyuracom-22/ref=nosim/


引き続き、往年の名指揮者トスカニーニについての同時代の指揮者・演奏家の言葉をご紹介しながら、「プロの方もこういう見方をするのか・・・」、「いろいろなものの見方があるなぁ・・・」と体感する企画です。


英書Conversation with Klemperer
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0571135617/look4asyuracom-22/ref=nosim/

本日は指揮者オットー・クレンペラー(Otto Klemperer 1885-1973)がトスカニーニをどう判断したか。それは邦訳で、ピーターヘイワース編『クレンペラーとの対話』にありますが、リンク先ご覧の通り、現時点では、中古のみにしてその値付けが・・・。何十年と神田の古書街をあるいた小生としては、はなはだ疑問な価格です。

英語版のPeter Heyworth ed., Conversations with Klempererもあって、これが存外読み易いので、お手に取られる際はこちらもご一考を。小生も英語版しか読んで居らず、ページ数などもすべて英語版に従って居ります。

◎ 指揮者クレンペラによるトスカニーニ評:『クレンペラーとの対話』

最初にトスカニーニの話が出てくるのは、指揮者兼作曲家のグスタフ・マーラーがトスカニーニを聞いた感想の話。アルマ・マーラーから伝え聞いた由。

マーラーがニューヨークはメトロポリタン歌劇場(MET)にデビューしたのは、1908年。演目はワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》でした。そして、すぐ後に、METに招聘されたトスカニーニも《トリスタン》を公演。通常、同じ演目は時期が近いうちは取り上げないのですが、《トリスタン》でなければ振らないという条件がトスカニーニから出されていたそうです。

そのトスカニーニの公演を聞いたマーラーの感想が、

これは僕らの《トリスタン》じゃない。でも、この指揮者は自分がなにをしたいのかよく判っているね。


だったと(前掲書 p.32)。

この書籍、1969年当時、スイスはチューリヒに居を構えていた最晩年のクレンペラーにインタビューしたもので、インタビューの言葉は、英語とドイツ語双方でなされたそうです。自伝的な事柄から音楽観、作曲家はもちろん、同時期の指揮者・演奏家の感想も語って貰うという主旨で、この時代の大きなfigureだったトスカニーニも、幾度も言及されて居ります。その中でも一番まとまっていて、しかも、一番ユニークと思われる見方は、19世紀末から20世紀にかけてのドイツの大指揮者 アルトゥール・二キシュ Arthur Nikischと同系列の指揮者として、論じている部分かと思います。

ニキシュは、ハンス・フォン・ビューローの後にベルリン・フィルを率い、後、その後任となるフルトヴェングラーも若き日にリハーサルや公演に通って、多くを学んだという人物。

引用は拙訳にて、各種不備はご容赦を(前掲書 p.115〜116。)

指揮者に関して、わたしが強く考えている区別は、自分で作曲もする指揮者と、指揮のみをする指揮者というものです。そして、ニキシュは作曲をしない指揮者の典型でした。彼は大変なヴィルトゥオーゾでしたよ。R.シュトラウスも高く評価しておりました。しかし、私見では、ニキシュは音楽家であるよりも、良い指揮者であったのです。シューマンの交響曲を素晴らしく指揮しました、それと、ワーグナーに、R.シュトラウス。格別に見事だったのは、《タンホイザー》の序曲。そして、なによりも、チャイコフスキーの悲愴交響曲、圧巻でした。音響の非常な美しさ。コントロールされていて、それでいて、決して情熱を失う事がない。いやはや、ニキシュは素晴らしいものでしたよ。(略)

マーラーと比較して、ニキシュの音楽へのアプローチは非常に違ったものでした。ニキシュは、「私が指揮ができるのは、音楽を心で感じた時だけだ」と常々いっておりました。その通りだったと思います。彼の音楽に対する姿勢は大変ロマンティックでした。お分かりでしょう?R.シュトラウスやマーラーを一方において、もう一方にニキシュを置いた時のその違い、それは、シュトラウスやマーラーは作曲家であり、ニキシュはただ指揮者であるということです。甚だ優れた指揮者でしたが。

ロマンテックという言葉も、さまざまに使われるので、私などには一体なんなのか・・・音楽だけでも随分ロマンティックと言われるものの印象が異なってなにがなんだかです。

シュレーゲル『ロマン派文学論』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4572001170/look4asyuracom-22/ref=nosim/


元々は文学から来た言葉だしと、ノヴァーリスやホフマンを読んだり、理論系でシュレーゲル『ロマン派文学論』やジャン・パウルの『美学入門』を読んだものですが、読めば読んだでまたややこしく、幻想的な想像力の飛翔に、皮肉な態度があるとか、ないとか、、、取りあえずは、情感に溢れ・こちらに様々なイメージを膨らませるとか、時には感傷的ということも視野に入れて、、、などとそんなことを思っておけば良いかと思います。

上の発言で大事なのは、自ら非感傷派と位置づけたR.シュトラウスと、聴くものも自らも耽溺したいわれるマーラーを一緒のグループとして、ニキシュと対比している事。この間にあるものが、作曲をしているものなら判る音楽へのあるアプローチであること。後で、引用する部分を読んでも、作曲するかしないのかによる差は、ロマンティックか否かとは違う差であることは確かです。

ここで、質問者ヘイワースが話を「トスカニーニはいかがでしたか?」と話題を振ります。

並外れた音響感覚と記憶力をもった素晴らしい指揮者でしたよ。根っこのところでは、言葉の最上の意味でナイーヴな。彼もまた作曲をしない指揮者でした。彼は自分の望む所を正確にしり、それを如何に実現させるかしっていました。彼が望む所にいつも、納得したわけではありませんが、大変高く評価します。幾つものリハーサルに行きましたが、あの格別な音を彼がいかにものにしたかは不思議なこと(miracle)でした。彼の指揮の身振りと関係があるとは思えなかったのです。

クレンペラーはトスカニーニをニキシュと同じ系列にいれます。この「作曲をするか/しないか」に由来するとクレンペラーが感じている差が、作曲をしない聞き手のわれわれにも判るものなのか・・・

◎ 指揮者クレンペラーによるトスカニーニのおすすめ

クレンペラーはこの後、あれは良い、これは今ひとつと、トスカニーニの公演を思い出します(クレンペラーが聴いたものとは異なりますが、各種録音が出ている曲はリンクしておきました)。

ハイドンの時計交響曲、良かったですね。その頃、レスピーギのなにかも指揮しました − 確か《ローマの松》という名前だったような。酷い作品だと思うのですが、トスカニーニ指揮の演奏は目を見張るものでした。それに、彼のワーグナーは、非常に、非常に良かった。ミラノで《マイスタージンガー》を聴きましたが、それは素晴らしいものでした。(略)

ベートーヴェンの交響曲第1番は素晴らしかった−クリアーで非ロマンティックでした。しかし、例えば、第7番のトリオは大変早過ぎた。私が知る限り、これは古いオーストリアの巡礼者の歌、アヴェ・マリアをもとにしています。トスカニーニはこれを知らなかったのでしょう。テンポを遅くとってはじめて意味をなします。スケルツォに対照的になるべきですから。

間に、暗譜の問題を挟んで、ヴェルディのオペラは手放しで賞賛。

1929年、彼はスカラ座の歌手とオーケストラをベルリンに率いて指揮をし、《イル・トロヴァトーレ》、《ファルスタッフ》そして《ランメルモールのルクレチア》は忘れる事のできない公演でしたよ。

序でながら、暗譜の問題ですが、クレンペラーは自分は使うし、なぜ暗譜をするのか判らないという立場。クレンペラーの世代には、そもそも暗譜の必要性が、不思議なこととも思いますが、これは最近でも、まだまだ必須とされていることなのでしょうか?

*****

さて、三回にわたって,ご紹介した同時代の指揮者・演奏家によるトスカニーニ評。

細部では指摘するポイントや取り上げる題材が異なるものの、音の響きをみな賞賛し、特にヴェルディとワーグナーのオペラを素晴らしいと思っていたところでは一致しておりました。

細部で指摘する部分がまた面白かったりしますし、それぞれ、トスカニーニ以外の話題も豊富な読み応えのある書籍ですから、ぜひお手に取ってご覧になられることを!

結局のところ、感想は自分で素直に感じるしかない・・・伝記的な事実や世間の評価も考慮にいれるべき時もありましょうが、やはり、素直に自分で感じてみる、これが根幹だと思います。

わたしも当然録音でしかトスカニーニを聴かない世代ですが、この三回で取り上げた各々が感銘を受けた音の響きの素晴らしさは、今でもコンサート・ホールでの良い公演でしか体験できない響きだったのだろうな、少なくとも実演を聴いたら大変違う感想があったろうな、、、と想像致します。トスカニーニに限らずの話で、録音物で心底感銘を受けることが確かにありながら、やはり、録音物ではなかなか再現が難しい響きがあるということでしょう。(一言!オペラものに関しては、コンサートホール形式よりも、音は悪くても実況ものが良いと思います。)

では!
http://sergejo.seesaa.net/article/114595867.html


9. 2017年9月21日 11:15:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

《トスカニーニとの会話》と《トスカニーニのワーグナー》:2009年2月16日放送
http://sergejo.seesaa.net/article/114432710.html

16日(月曜)の0:40分から、感覚的には日曜の深夜に、NHK BS2で放送されたイタリアの往年の指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini 1867-1957)のドキュメントはご覧になりましたか?しかし、あらためて1867年生まれと考えると、作曲家であり大指揮者だったマーラーが1860年生まれなので、それだけでなんだか感心してしまいます。

◎ BH2で放送されたトスカニーニのドキュメント:《トスカニーニとの会話》と《トスカニーニのワーグナー》

Hevey Sachs篇『The Letters of Arturo Toscanini』の商品写真さて、ドキュメントというからには、さまざま音楽関係者・共演者のインタビューがふんだんにあって、「一体、トスカニーニのユニークさはなんだったのか?」を音楽的に考える・・・というものを期待しておりましたが、そうでもありませんでした。そこはかなり残念なところ。

第一部:トスカニーニとの会話と第二部:トスカニーニのワーグナー という二部構成。

それぞれ製作は、フランスのIdéale Audience と カナダのFoundry Films、同じくIdéale AudienceとドイツのWDRとなってましたが、クラシックのドキュメントに過去良作の多いIdéale Audienceが主導していたのでしょうか?

第一部:トスカニーニとの会話は、70分ほどの長さ。俳優さんが、大晦日に家族と語らうトスカニーニ一家を芝居しながら、基本的な伝記的事実と逸話を紹介するというもの。途中途中には、プライヴェートフィルムや演奏風景、写真が織り込まれます。放送は日本語への吹き替えでしたが、元の言葉は、俳優の国籍から考えても吹き替えの後ろに聴こえていた台詞からも英語で作られたようす。

俳優さんが・・・となると、どこまで脚本家の創作なのか、、、と身構えてしまいますが、原題は、フランス語でToscanini Par Lui-Même(彼自身によるトスカニーニ)、英語でToscanini in His Own Words(自身の言葉によるトスカニーニ)。

冒頭の説明とエンドロールによれば、息子が隠し撮りしていた150分にも亘る会話と手紙や手記を元にしたとあるので、そこは忠実と思って良い様です。(ちなみに上の写真は、トスカニーニの手紙集 Hevey Sachs篇『The Letters of Arturo Toscanini』)

内容的には目新しいことはなくて、折角だったら、録音された音声をそのまま使って欲しかったと思います。もっと、いろいろ興味深い発言もあったと思うのですが・・・

第二部:トスカニーニのワーグナーは、1時間ほどで、ドキュメントといっても解説は冒頭に少々あるのみで、後はトスカニーニのワーグナーの演奏映像とヴェルディの『諸国民の賛歌 』を聞かせるというもの。放送された曲は順に


リヒャルト・ワーグナー

•歌劇《タンホイザー》序曲(1948年12月4日)
•歌劇《ローエングリン》第一幕への前奏曲(1948年3月20日)
•楽劇《トリスタンとイゾルデ》第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死(1951年12月29日)
•楽劇《ワルキューレ》からワルキューレの騎行(1948年3月20日)

ジュゼッペ・ヴェルディ
•諸国民の賛歌(1944年)

諸国民の讃歌については、インターナショナルも入ったフルヴァージョンだったのが、ちょっとめずらしかったでしょうか?

◎ トスカニーニのおすすめ名盤(DVD)


上の二種共に今後、DVDで発売予定のようですが、一般的というか平均的な伝記的事実を知って、幾つか貴重なドキュメント映像を見たいといったことであれば、既に発売されているDVD トスカニーニ~ザ・マエストロ(完全版)で十分と思います。

トスカニーニのCDも再発売だ!秘蔵録音だ!と年々ややこしくなるので、「どんな人かな?自分の好みかな?」とまず見当をつけるなら、このDVD トスカニーニ~ザ・マエストロと末尾の五つのDVDから一本お選び頂くのが、無難な選択でしょうか。

なお、細かい話ですが、このDVD国内盤では小生見て居りませんが、収録の『諸国民の讃歌』は英語版オリジナルのDVDだとカットバージョンながら、国内盤のレビューには全曲収録とありますがどうなのでしょう?(トスカニーニのインターナショナルが聞きたいという強い要望なり、特別な政治信条がなければ、特に気にならないと思いますが・・・)

その他、著作で言うなら、上述の手紙やハーヴェイ・サックス著『トスカニーニの時代』などが、基本的なものになるのでしょう。


演奏模様でしたら、数年前に国内盤で出ていたTV放送演奏集がいまはTestamentの輸入盤で入手可能。

•DVD Arturo Toscanini Television Concerts 1948-52 vol.1

1. ワーグナー:歌劇《ローエングリン》第3幕への前奏曲
2. ワーグナー:歌劇《タンホイザー》序曲とバッカナール
3. ワーグナー:楽劇《ジークフリート》森のささやき
4. ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》夜明けとジークフリートのラインへの旅
5. ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》ワルキューレの騎行
6. ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調《合唱》


•DVD Arturo Toscanini Television Concerts 1948-52 vol.2

1. ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 Op.102
2. ブラームス:ワルツ集《愛の歌》Op.52
3. ブラームス:ハンガリー舞曲第1番ト短調
4. モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K.550
5. ドヴォルザーク:交響的変奏曲 Op.78
6. ワーグナー:歌劇《タンホイザー》序曲


•DVD Arturo Toscanini Television Concerts 1948-52 vol.3

1. 演奏会形式でのヴェルディ:歌劇《アイーダ》全曲

•DVD Arturo Toscanini Television Concerts 1948-52 vol.4

1. ウェーバー:歌劇《オイリアンテ》序曲
2. ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 Op.68
3. ワーグナー:歌劇《ローエングリン》第1幕への前奏曲
4. ワーグナー:楽劇《ジークフリート》森のささやき
5. ワーグナー:楽劇《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死
6. ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》ジークフリートの死と葬送行進曲
7. ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》ワルキューレの騎行


•DVD Arturo Toscanini Television Concerts 1948-52 vol.5

1. フランク:交響詩《贖罪》
2. シベリウス:交響詩《伝説(エン・サガ)》
3. ドビュッシー:夜想曲から 雲と祭り
4. ロッシーニ:歌劇《ウィリアム・テル》序曲
5. ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67《運命》
6. レスピーギ:交響詩《ローマの松》
http://sergejo.seesaa.net/article/114432710.html


10. 中川隆[-6340] koaQ7Jey 2017年9月21日 11:20:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トスカニーニRCAコレクション|LAWSON-TICKET & HMV NEWS
http://www.hmv.co.jp/en/news/article/1201070002/


トスカニーニの最晩年の録音にも関わったRCAの名プロデューサー、故ジャック・ファイファーが全面的に監修・プロデュースし、1992年に発売された82枚組のボックスセット「アルトゥーロ・トスカニーニ・コレクション」(当時は12万円以上もしていました)のカップリングを基本的に踏襲、これにCD2枚分となるEMIへのBBC交響楽団との正規セッション録音を追加収録。さらに、トスカニーニの生涯を追ったドキュメンタリーDVD「トスカニーニ〜ザ・マエストロ」の完全版も収められるという大規模な構成。

【トスカニーニについて モーティマー・H・フランク】

このボックスセットは、トスカニーニがNBC交響楽団のみならず、ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア管、ミラノ・スカラ座管、そしてBBC響と残した正規録音を全て収めたものである。

1920年〜21年にかけてアコースティック録音されたミラノ・スカラ座管との録音に始まり、1954年の引退の年まで、トスカニーニがその後半生でオペラ上演から遠ざかり、演奏会での指揮にほぼ専念することになった約30年間の軌跡をたどることが出来る。

 NBC響とのさまざまな録音を聴けばよく判ることだが、『トスカニーニはいつも同じ演奏をした』という一般的なイメージは大きな誤りである。一例をあげるとすれば、1939年、1949年、そして1953年の3種類の演奏が収録されているベートーヴェンの『英雄』が好適だろう。それぞれの演奏はお互いに少ずつ異なっていて、トスカニーニが同じ作品においても常に自分の演奏解釈を見直していたことを如実に示しているのだ。

1939年の録音はもともと演奏会のライヴ録音であり、SPで発売された時には、音質面では問題があり、ドライで窮屈な音として悪名を馳せた。しかしCD化に当たっては、NBCによる放送用レフェレンス・マスターディスクを使用することで、1950年代のLPを思わせるようなヴィヴィッドな音が蘇っている。

 NBC響との演奏を、ニューヨーク・フィルやフィラデルフィア管との演奏と比べると、その演奏の変化や差異は一層際立ったものになる。つまりトスカニーニはいつも前進していたのである。常にアクティヴに演奏作品を検討し直し、1回1回の演奏に極限の集中力をもって臨んだため、同じ曲を演奏しても二度と同じ演奏にはならなかった。それを味わうのがトスカニーニの録音の醍醐味であり、このボックスセットはその意味で、尽きぬことのない楽しみと満足感を聴く者に不えてくれるのである。

(モーティマー・H・フランクは、ウェイヴ・ヒル・トスカニーニ・コレクション・キュレイターで、トスカニーニとNBC響に関する研究書『アルトゥーロ・トスカニーニNBCイヤーズ』を著したトスカニーニ研究の第一人者)

【収録情報】

Disc1:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』(1949年11月28日&12月5日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21 (1951年12月21日, カーネギー・ホール)

Disc2:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92 (1951年11月9&10日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36 (1949年11月7&9日&1951年10月5日, カーネギー・ホール)

Disc3:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』(1952年1月14日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60 (1951年2月3日, カーネギー・ホール)

Disc4:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』(1952年3月22日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93 (1952年11月10日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 (1939年11月4日, Studio 8H)

Disc5:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』(1952年3月31日&4月1日, カーネギー・ホール)
 アイリ−ン・ファーレル(Sp), ナン・メリマン(Ms), ジャン・ピアース(T), ノーマン・スコット(Bs), ロバート・ショウ合唱団

Disc6:NBC交響楽団
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68 (1951年11月6日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:大学祝典序曲 Op.80 (1948年11月6日, Studio 8H)
・ブラームス:ハンガリー舞曲第1, 17, 20, 21番 (1953年2月17日, カーネギー・ホール)

Disc7:NBC交響楽団
・ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73 (1952年2月11日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a (1952年2月4日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:悲劇的序曲 Op.81 (1953年11月22日, カーネギー・ホール)

Disc8:NBC交響楽団
・ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 Op.90 (1952年11月4日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調 Op.102 (1948年11月13日, Studio 8H)
 ミッシャ・ミシャコフ(Vn),フランク・ミラー(Vc)

Disc9:NBC交響楽団
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調 Op.98 (1951年12月3日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:ワルツ集『愛の歌』Op.52 (1948年11月13日, Studio 8H)
・ブラームス:運命の女神たちの歌 Op.89 (1948年11月27日, Studio 8H)

Disc10:NBC交響楽団
・モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』序曲K.492 (1947年11月8日, Studio 8H)
・モーツァルト:交響曲第35番ニ長調K.385『ハフナー』(1946年11月4日, Studio 3A)
・モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調K.191 (1947年11月18日, Studio 8H)
・モーツァルト:ディヴェルティメント第15番変ロ長調K.287 (1947年11月18日, Studio 8H)
 レオナード・シャロウ(Fg)

Disc11:NBC交響楽団
・モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調K.543 (1948年3月6日, Studio 8H)
・モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550 (1938年3月7日&1939年2月27日, Studio 8H)
・モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K.551『ジュピター』(1945年6月22日&1946年3月11日, カーネギー・ホール)

Disc12:NBC交響楽団
・ハイドン:交響曲第88番ト長調『V字』Hob.I-88 (1938年3月8日, Studio 8H)
・ハイドン:交響曲第94番ト長調『驚愕』Hob.I-94 (1953年1月26日, カーネギー・ホール)
・ハイドン:交響曲第98番変ロ長調Hob.I-98 (1945年5月25日, Studio 8H)

Disc13:NBC交響楽団
・ハイドン:交響曲第101番ニ長調『時計』Hob.I-101 (1946年10月9日&11月6日, 1947年6月12日, Studio 3A)
・ハイドン:交響曲第99番変ホ長調Hob.I-99 (1949年3月12日, Studio 8H)
・ハイドン:協奏交響曲変ロ長調Hob.I-105 (1948年3月6日, Studio 8H )
 ミッシャ・ミシャコフ(Vn), フランク・ミラー(Vc), パオロ・レンツィ(Ob), レナード・シャロウ(Fg)

Disc14:NBC交響楽団
・シューベルト:交響曲第8(7)番ロ短調D.759『未完成』(1950年3月12日&6月2日, Studio 8H )
・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D.944『ザ・グレイト』(1953年2月9日, カーネギー・ホール)

Disc15:NBC交響楽団
・シューベルト:交響曲第5番変ロ長調D.485 (1953年3月17日, カーネギー・ホール)
・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D.944『ザ・グレイト』(1947年2月25日, カーネギー・ホール)

Disc16:NBC交響楽団
・シューマン:交響曲第3番変ホ長調 Op.97『ライン』(1949年11月12日, Studio 8H )
・シューマン:劇音楽『マンフレッド』Op.115 (1946年11月11日, カーネギー・ホール)
・ウェーバー:歌劇『オイリアンテ』序曲J.291 (1951年10月29日, カーネギー・ホール)
・ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲J.277 (1952年1月3日, カーネギー・ホール)
・ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲J.306 (1952年8月5日, カーネギー・ホール)

Disc17:NBC交響楽団
・メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調 Op.90『イタリア』(1954年2月26〜28日, カーネギー・ホール)
・メンデルスゾーン:交響曲第5番ニ長調 Op.107『宗教改革』(1953年12月13日, カーネギー・ホール)
・メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』Op.61〜スケルツォ (1946年11月6日, Studio 3A)
・メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲変ホ長調 Op.20〜スケルツォ (1945年6月1日, Studio 8H)

Disc18:NBC交響楽団
・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74『悲愴』(1947年11月24日, カーネギー・ホール)
・チャイコフスキー:バレエ『くるみ割り人形』組曲 Op.71a (1951年11月19日, カーネギー・ホール)

Disc19:NBC交響楽団
・チャイコフスキー:交響曲『マンフレッド』Op.58 (1949年12月5日, カーネギー・ホール)
・チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』(1946年4月8日, カーネギー・ホール)

Disc20:NBC交響楽団
・フランク:交響曲ニ短調 (1940年12月14日&1946年3月24日, Studio 8H)
・サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調 Op.78『オルガン付き』(1952年11月15日, カーネギー・ホール)

Dics21:NBC交響楽団
・シベリウス:交響曲第2番ニ長調 Op.43 (1940年12月7日, Studio 8H)
・シベリウス:交響詩『ポヒョラの娘』Op.49 (1940年12月7日, Studio 8H)
・シベリウス:トゥオネラの白鳥 Op.22-2 (1944年8月27日, Studio 8H)
・シベリウス:交響詩『フィンランディア』Op.26 (1952年8月5日, カーネギー・ホール)

Dics22:NBC交響楽団
・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調 Op.60『レニングラード』(1942年7月19日, Studio 8H)

Dics23:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』(1939年10月28日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93 (1939年4月17日, Studio 8H)

Dics24:NBC交響楽団
・ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 Op.95,B.178『新世界より』(1953年2月2日, カーネギー・ホール)
・コダーイ:組曲『ハーリ・ヤーノシュ』(1947年11月29日, Studio 8H)
・スメタナ:『モルダウ』T.111 (1950年3月19日, Studio 8H)

Dics25:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』(1939年2月27日,3月 1日&29日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:七重奏曲変ホ長調 Op.20 (1951年11月26日, カーネギー・ホール)
・ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』序曲 Op.84 (1953年1月19日, カーネギー・ホール)

Dics26:NBC交響楽団
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68 (1941年3月10日&4月14日,12月11日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:セレナード第2番イ長調 Op.16 (1942年12月27日, Studio 8H)

Dics27:NBC交響楽団
・ケルビーニ:交響曲ニ長調 (1952年3月10日, カーネギー・ホール)
・ケルビーニ:歌劇『アリ・ババ』序曲 (1949年12月3日, Studio 8H)
・ケルビーニ:歌劇『アナクレオン)序曲 (1953年3月21日, カーネギー・ホール)
・ケルビーニ:歌劇『メデア』序曲 (1950年2月18日, Studio 8H)
・チマローザ:歌劇『秘密の結婚』序曲 (1943年11月14日, Studio 8H)
・チマローザ:歌劇『計略結婚』序曲 (1949年11月12日, Studio 8H)

Dics28:NBC交響楽団
・プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調『古典交響曲』Op.25 (1951年10月15日, カーネギー・ホール)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 Op.10 (1944年3月12日, Studio 8H)
・グリンカ:幻想曲『カマリンスカヤ (1940年12月21日, Studio 8H)
・リャードフ:キキモラ Op.63 (1952年7月29日, カーネギー・ホール)
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽『ペトルーシュカ』(1911年版)〜第1場『謝肉祭の市場』/第4場『謝肉祭の市場』夕方) (1940年12月21日, Studio 8H)

Dics29:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』(1953年12月6日, カーネギー・ホール)
・モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550 (1950年3月12日, Studio 8H)

Dics30:NBC交響楽団
・R・シュトラウス:交響詩『ドン・キホーテ』Op.35 (1953年11月22日, カーネギー・ホール)
・R・シュトラウス:交響詩『死と変容』Op.24 (1952年3月10日, カーネギー・ホール)
 フランク・ミラー(Vc)

Disc31:NBC交響楽団
・R・シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』Op.20 (1951年1月10日, カーネギー・ホール)
・R・シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』Op.28 (1952年11月4日, カーネギー・ホール)
・R・シュトラウス:楽劇『サロメ』Op.54〜7枚のヴェールの踊り』(1939年1月14日, Studio 8H)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜夜明けとジークフリートのラインへの旅 (1941年3月17日&5月14日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:ジークフリート牧歌 (1946年3月11日, カーネギー・ホール)

Disc32:NBC交響楽団
・レスピーギ:交響詩『ローマの松』(1953年3月17日, カーネギー・ホール)
・レスピーギ:交響詩『ローマの噴水』(1951年12月17日, カーネギー・ホール)
・レスピーギ:交響詩『ローマの祭り』(1949年12月12日, カーネギー・ホール)

Disc33:NBC交響楽団
・ベルリオーズ:交響曲『イタリアのハロルド』Op.16 (1953年11月28&29日, カーネギー・ホール)
・ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17〜第2部 (1947年2月17日, カーネギー・ホール)
 カールトン・クーリー(Va)

Disc34〜35:NBC交響楽団
・ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17(全曲) (1947年2月9&16日, Studio 8H)
・ビゼー:『アルルの女』組曲より (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
・ビゼー(トスカニーニ編):『カルメン』組曲より (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
 グラディス・スウォザート(Ms), ジョン・ガリス(T), ニコラ・モスコーナ(Bs), ピーター・ウィロウスキー合唱団

Disc36:NBC交響楽団
・ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲『展覧会の絵』(1953年1月26日, カーネギー・ホール)
・エルガー:エニグマ変奏曲 Op.36 (1951年12月10日, カーネギー・ホール)

Disc37:NBC交響楽団
・メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』Op.21&61〜序曲/間奏曲/夜想曲/スケルツォ/結婚行進曲/終曲 (1947年11月4日, カーネギ
ー・ホール)
・メンデルスゾーン:八重奏曲変ホ長調 Op.20 (1947年3月30日, Studio 8H)

Disc38:NBC交響楽団
・ドビュッシー:交響詩『海』(1950年6月1日, Studio 8H)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲 (1953年2月13&14日, カーネギー・ホール)
・ドビュッシー:管弦楽のための『映像』〜イベリア (1950年6月2日, Studio 8H)
・ドビュッシー:夜想曲〜雲/祭り (1948年3月27日, カーネギー・ホール)

Disc39:NBC交響楽団
・ガーシュイン:パリのアメリカ人 (1945年5月18日, Studio 8H)
・スーザ:カピタン行進曲 (1945年5月18日, Studio 8H)
・グローフェ:組曲『大峡谷』(1945年9月10日, カーネギー・ホール)
・バーバー:弦楽のためのアダージョ Op.11 (1942年3月19日, カーネギー・ホール)
・スーザ:星条旗よ永遠なれ (1945年5月18日, Studio 8H)
・スミス(トスカニーニ編):星条旗 (1942年3月19日, カーネギー・ホール)

Disc40:NBC交響楽団
・ラヴェル:バレエ音楽『ダフニスとクロエ』第2組曲 (1949年11月21日, カーネギー・ホール)
・フランク:交響詩『プシュケ』〜第4曲『プシュケとエロス』(1952年1月7日, カーネギー・ホール)
・デュカス:『魔法使いの弟子』(1950年3月19日, Studio 8H)
・サン=サーンス:『死の舞踏』Op.40 (1950年6月1日, Studio 8H)
・ベルリオーズ:序曲『ローマの謝肉祭』Op.9 (1953年1月19日, カーネギー・ホール)
・ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17〜マブ女王のスケルツォ (1951年11月10日, カーネギー・ホール)
・ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』Op.24〜ラコッツィ行進曲 (1945年9月2日, Studio 8H)
・トマ:歌劇『ミニョン』序曲 (1952年7月29日, カーネギー・ホール)

Disc41:NBC交響楽団
・ワルトトイフェル:『スケーターズ・ワルツ』 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・L.モーツァルト:『おもちゃの交響曲』 (1941年2月15日, Studio 8H)
・J.シュトラウスII世:『トリッチ・トラッチ・ポルカ』 Op.214 (1941年5月6日, カーネギー・ホール)
・J.シュトラウスII世:『美しく青きドナウ』 (1941年12月11日&1942年3月19日, カーネギー・ホール)
・スッペ:『詩人と農夫』序曲 (1943年7月18日, Studio 8H)
・ポンキエルリ:歌劇『ジョコンダ』〜時の踊り (1952年7月29日, カーネギー・ホール)
・パガニーニ:常動曲 Op.11 (1939年4月17日, Studio 8H)
・J.S.バッハ:G線上のアリア (1946年4月8日, カーネギー・ホール)
・ウェーバー:舞踏への招待 Op.65 (1951年9月28日, カーネギー・ホール)
・グリンカ:スペイン序曲第1番『ホタ・アラゴネーサ』 (1950年3月4日, Studio 8H)

Disc42:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.61 (1940年3月11日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調 Op.37 (1944年10月29日, Studio 8H)
 ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn), アルトゥール・ルービンシュタイン(P)

Disc43:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 Op.58 (1944年11月26日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op.15 (1945年8月9日, カーネギー・ホール)
 ルドルフ・ゼルキン(P:4番), アニア・ドーフマン(P:1番)

Disc44:NBC交響楽団
・ブラームス:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 Op.83 (1940年5月9日, カーネギー・ホール)
・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 Op.23 (1941年5月6&14日, カーネギー・ホール)
 ヴラディーミル・ホロヴィッツ(P)

Disc45:NBC交響楽団
・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 Op.23 (1943年4月25日, カーネギー・ホール)
・ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』 (ピアノ版) (1951年4月23日, カーネギー・ホール)
 ヴラディーミル・ホロヴィッツ(P)

Disc46:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 (1945年6月1日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:序曲『献堂式』Op.124 (1947年12月16日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:序曲『コリオラン』Op.62 (1945年6月1日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』序曲 Op.84 (1939年11月18日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:『プロメテウスの創造物』序曲 Op.43 (1944年12月18日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第2番 (1939年11月25日, Studio 8H)
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 Op.135〜第3楽章、第2楽章 (1938年3月8&18日, Studio 8H)

Disc47:NBC交響楽団
・グルック:歌劇『アウリスのイフィゲニア』序曲 (1952年11月21&22日, カーネギー・ホール)
・グルック:歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕 (1952年11月20~22日, カーネギー・ホール)
・グルック:歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕〜精霊の踊り (1946年11月4日, Studio 3A)
・ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』第1幕〜悪者よ、どこへ急ぐのだ (1945年6月14日, カーネギー・ホール)
 バーバラ・ギブソン(Sp), ナン・メリマン(Ms), ローズ・バンプトン(Sp), ロバート・ショウ合唱団

Disc48:NBC交響楽団
・ロッシーニ:歌劇『アルジェのイタリア女』序曲 (1950年4月14日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『ブルスキーノ氏』序曲 (1945年6月8日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セビリャの理髪師』序曲 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『シンデレラ(チェネレントラ)』序曲 (1945年6月8日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『どろぼうかささぎ』序曲 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『コリントの包囲』序曲 (1945年6月14日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セミラーミデ』序曲 (1951年9月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル』序曲 (1953年1月19日, カーネギー・ホール)

Disc49:NBC交響楽団
・ワーグナー:歌劇『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲 (1951年2月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:歌劇『ローエングリン』〜第3幕への前奏曲 (1951年10月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕への前奏曲 (1946年3月11日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第3幕への前奏曲 (1951年11月26日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:舞台神聖祝典劇『パルジファル』〜第1幕への前奏曲 (1949年12月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:舞台神聖祝典劇『パルジファル』〜聖金曜日の音楽 (1949年12月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:序曲『ファウスト』(1946年11月11日, カーネギー・ホール)

Disc50:NBC交響楽団
・ワーグナー:歌劇『タンホイザー (パリ版)〜序曲とヴェヌスベルクの音楽 (1952年11月8日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:歌劇『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲 (1941年3月17日&5月6日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』〜愛の死 (1942年3月19日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』〜ワルキューレの騎行 (1946年3月11日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜夜明けとジークフリートのラインへの旅 (1949年12月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜ジークフリートの死と葬送行進曲 (1952年1月3日, カーネギー・ホール)

Disc51:NBC交響楽団
・モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲 (1941年2月15日, Studio 8H)
・ドニゼッティ:歌劇『ドン・パスクァーレ』序曲 (1951年10月5日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル』〜6人の踊り (1945年6月8日, カーネギー・ホール)
・カタラーニ:歌劇『ワリー』〜第4幕への前奏曲 (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
・カタラーニ:歌劇『ローレライ』〜水の精の踊り (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
・プッチーニ:歌劇『マノン・レスコー』〜間奏曲 (1949年12月10日, Studio 8H)
・ヴェルディ:歌劇『ルイザ・ミラー』序曲 (1943年7月25日, Studio 8H)
・ヴェルディ:歌劇『椿姫』〜第1幕への前奏曲 (1941年3月10日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『椿姫』〜第3幕への前奏曲 (1941年3月10日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『シチリア島の夕べの祈り』序曲 (1942年1月24日, Studio 8H)
・ヴェルディ:歌劇『運命の力』序曲 (1952年11月10日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『オテロ』〜バレエ音楽 (1948年3月13日, Studio 8H)

Disc52:NBC交響楽団
・エロール:歌劇『ザンパ』序曲 (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
・フンパーディンク:歌劇『ヘンゼルとグレーテル』前奏曲 (1952年8月5日, カーネギー・ホール)
・カバレフスキー歌劇『コラ・ブルニョン』序曲 (1946年4月8日, カーネギー・ホール)
・モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲K.620 (1949年11月26日, Studio 8H)
・ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル』序曲 (1939年4月1&29日, Studio 8H)
・スメタナ:歌劇『売られた花嫁』序曲 (1946年11月17日, Studio 8H)
・トマ:歌劇『ミニョン』序曲 (1942年3月19日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『運命の力』序曲 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲 (1945年5月25日, Studio 8H)

Disc53:NBC交響楽団
・ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』第1幕〜第3場 (1941年2月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』第3幕〜ワルキューレの騎行 (1952年1月3日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:ジークフリート牧歌 (1952年7月29日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』〜前奏曲と愛の死 (1952年1月7日, カーネギー・ホール)
 ヘレン・トローベル(Sp), ラウリッツ・メルヒオール(T)

Disc54:NBC交響楽団
・ワーグナー:楽劇『ジークフリート』〜森のささやき (1951年10月29日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜夜明け (1941年2月24日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜ブリュンヒルデとジークフリートの二重唱 (1941年2月, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜ジークフリートのラインへの旅 (1941年2月22日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜ジークフリートの死と葬送行進曲 (1941年5月14日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』〜ブリュンヒルデの自己犠牲 (1941年2月, カーネギー・ホール)

Disc55〜56:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』Op.72(全曲) (1944年12月10&17日, Studio 8H)
 ローズ・バンプトン(Sp), エリナー・スティーバー(Sp), ジャン・ピアース(T), ジョセフ・レイドルート(T), シドール・ベラルスキー(Bs), ハーバート・ジャ
ンセン(Bs), ニコラ・モスコーナ(Bs), ピーター・ウィロウスキー合唱団

Disc57〜58:NBC交響楽団
・プッチーニ:歌劇『ボエーム』(全曲) (1946年2月3&10日, Studio 8H)
 リチア・アルバネーゼ(Sp), アン・マックナイト(Sp), ジャン・ピアース(T), フランチェスコ・ヴァレンティーノ(T), ジョージ・チェハノフスキー(Br), ニコラ・モスコーナ(Bs), サルヴァトーレ・バッカローニ(Bs)

Disc59〜61:NBC交響楽団
・ヴェルディ:歌劇『アイーダ』(全曲)(1949年3月26日&4月2日, Studio 8H)
 ヘルヴァ・ネルリ(Sp), エヴァ・ギュスターブソン(Ms), リチャード・タッカー(T), ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(Br), ロバート・ショウ合唱団

Disc62〜63:NBC交響楽団
・ヴェルディ:歌劇『ファルスタッフ』(全曲) (1950年4月1&8日, Studio 8H)
 ヘルヴァ・ネルリ(Sp), クローエ・エルモ(Ms), アントニオ・マダーシ(T), ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(Br), ロバート・ショウ合唱団

Disc64〜65:NBC交響楽団
・ヴェルディ:歌劇『オテロ』(全曲) (1947年12月4〜13日, Studio 8H)
 ヘルヴァ・ネルリ(Sp), ナン・メリマン(Ms), ラモン・ヴィナイ(T), ヴィルジニオ・アッサンドリ(T), レスリー・チャベイ(T), ジュゼッペ・ヴァルデンゴ(Bs), アーサー・ニューマン(Br), ニコラ・モスコーナ(Bs)

Disc66〜67:NBC交響楽団
・ヴェルディ:歌劇『仮面舞踏会』(全曲) (1954年1月17&24日, カーネギー・ホール)
 ヘルヴァ・ネルリ(Sp), ヴァージニア・ハスキンス(Sp), クララーメ・ターナー(Ms), ジャン・ピアース(T), ジョン・カーメン・ロッシ(T), ロバート・メリル(Br), ジョージ・チェハノフスキー(Br), ニコラ・モスコーナ(Bs), ノーマン・スコット(Bs), ロバート・ショウ合唱団

Disc68〜69:NBC交響楽団
・ヴェルディ:歌劇『椿姫』(全曲) (1946年12月1&8日, Studio 8H)
 リチア・バネーゼ(Sp), マクシーヌ・ステルマン(Ms), ジャン・ピアース(T), ジョン・ガリス(T), ロバート・メリル(Br), ジョージ・チェハノフスキー(Br), ポール・デニス(Bs), アーサー・ニューマン(Bs), ピーター・ウィロウスキー合唱団

Disc70〜71:NBC交響楽団
・ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123 (1953年3月30日〜4月2日, カーネギー・ホール)
・ケルビーニ:レクィエム ハ短調 (1950年2月18日, Studio 8H)
 ロイス・マーシャル(Sp), ナン・メリマン(Ms), ユージン・コンリー(T), ジェローム・ハインズ(Bs), ロバート・ショウ合唱団

Disc72:NBC交響楽団(&ニューヨーク・フィル*)
・ボイト:歌劇『メフィストーフェレ』〜プロローグ (1954年3月14日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『十字軍のロンバルディア人』〜ここに体を休めよ (1943年1月31日, Studio 8H)
・ヴェルディ:歌劇『リゴレット』〜第3幕』*(1944年5月25日, マディソン・スクェア・ガーデン)

Disc73〜74:NBC交響楽団
・ヴェルディ:テ・デウム (1954年3月14日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:レクィエム (1951年1月27日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『ナブッコ』〜合唱『行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (1943年1月31日, Studio 8H)
・ヴェルディ:歌劇『ルイザ・ミラー』〜アリア『穏やかな夜には (1943年7月25日, Studio 8H)
・ヴェルディ:カンタータ『諸国民の賛歌』(1943年12月8&12日, Studio 8H)

Disc75:ニューヨーク・フィル
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92 (1936年4月9&10日, カーネギー・ホール)
・ハイドン:交響曲第101番ニ長調『時計』Hob.I-101 (1929年3月29&30日, カーネギー・ホール)
・メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』Op.61〜スケルツォ (1926年2月4日, カーネギー・ホール)

Disc76:ニューヨーク・フィル
・モーツァルト:交響曲第35番ニ長調K.385『ハフナー』(1929年3月30, 4月4&5日, カーネギー・ホール)
・メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』Op.61〜スケルツォ(1926年2月4日, カーネギー・ホール)
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a (1936年4月9&10日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:ジークフリート牧歌(1936年2月8日&4月9日, カーネギー・ホール)
・デュカス:交響詩『魔法使いの弟子』(1929年3月18日, カーネギー・ホール)

Disc77:ニューヨーク・フィル
・グルック:歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』〜精霊の踊り (1929年11月20〜22日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セビリャの理髪師』序曲 (1929年11月21日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『アルジェのイタリア女』序曲 (1936年4月10日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セミラーミデ』序曲 (1936年4月10日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『椿姫』〜第1幕への前奏曲 (1929年3月18日, カーネギー・ホール)
・ヴェルディ:歌劇『椿姫』〜第3幕への前奏曲 (1929年3月18日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー(トスカニーニ編)楽劇『神々のたそがれ』〜夜明けとジークフリートのラインへの旅 (1936年2月8日&4月9日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:歌劇『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲 (1936年2月8日&4月9日, カーネギー・ホール)
・ワーグナー:歌劇『ローエングリン』〜第3幕への前奏曲 (1936年2月8日&4月9日, カーネギー・ホール)

Disc78:フィラデルフィア管弦楽団
・ドビュッシー:交響詩『海 (1942年2月8&9日, アカデミー・オブ・ミュージック)
・ドビュッシー:管弦楽のための映像〜イベリア (1941年11月18日, アカデミー・オブ・ミュージック)
・レスピーギ:交響詩『ローマの祭り (1941年11月19日, アカデミー・オブ・ミュージック)

Disc79:フィラデルフィア管弦楽団
・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74『悲愴』(1942年2月8日, アカデミー・オブ・ミュージック)
・R・シュトラウス:交響詩『死と変容』Op.24 (1942年1月11日, アカデミー・オブ・ミュージック)

Disc80:フィラデルフィア管弦楽団
・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D.944『ザ・グレイト』 (1941年11月16日, アカデミー・オブ・ミュージック)

Disc81:フィラデルフィア管弦楽団
・メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』Op.21&61〜序曲/間奏曲/夜想曲/歌と合唱/結婚行進曲/スケルツォ/終曲 (1942年1月
11&12日, アカデミー・オブ・ミュージック)
・ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』〜マブ女王のスケルツォ (1942年2月9日, アカデミー・オブ・ミュージック)
[エドウィナ・エウスティス(Sp), フローレンス・カーク(Sp), ペンシルヴァニア大学グリークラブ女声合唱団]

Disc82:ミラノ・スカラ座管弦楽団
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21〜第4楽章 (1921年3月30日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67〜第4楽章 (1920年12月24日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』Op.24〜ラコッツィ行進曲』(1920年12月24日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタ
ジオ)
・ビゼー:『アルルの女』第2組曲〜ファランドール』(1921年3月11日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ビゼー:歌劇『カルメン』〜アラゴネーズ (1921年3月31日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ドニゼッティ:歌劇『ドン・パスクワーレ』序曲 (1921年3月29&30日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・レスピーギ:『リュートのための古風な舞曲とアリア』第1組曲〜ガリアルダ (1920年12月18日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタ
ジオ)
・マスネ:組曲『絵のような風景』〜ジプシーの祭り (1921年3月31日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・メンデルスゾーン:劇音楽『真夏の夜の夢』〜スケルツォと結婚行進曲 (1921年3月11日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジ
オ)
・モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調K.543〜第3&4楽章 (1920年12月18&21日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ピッツェッティ:組曲『ピサの少女』〜ファマグストの岸壁 (1920年12月21日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)
・ヴォルフ=フェラーリ:歌劇『スザンナの秘密』序曲 (1921年3月10日, ニュージャージー、カムデン、トリ二ティ・チャーチ・スタジオ)

Disc83:BBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60 (1939年6月1日, クィーンズ・ホール)
・ベートーヴェン:序曲『レオノーレ』第1番(1939年1月6日、クイーンズ・ホール)
・モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲(1938年2月6日、クイーンズ・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『絹のはしご』序曲(1938年6月13日、クイーンズ・ホール)
・ウェーバー〜ベルリオーズ編:『舞踏への勧誘』(1938年1月6日、クイーンズ・ホール)

Disc84 BBC交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』(1937年6月22日, 10月21&22日, クィーンズ・ホール)
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21 (1939年10月28日, クィーンズ・ホール)
・ブラームス:『悲劇手序曲』Op.81(1937年10月25日、クイーンズ・ホール)

Disc85:トスカニーニ〜ザ・マエストロ(完全版)(DVD)
当DVDは、波瀾に満ちたトスカニーニの生涯を、貴重な演奏風景の映像、写真、トスカニーニ家のプライヴェート映像をはじめ、ロバート・メリル、ヤルミラ・ノヴォートナ、ヘルヴァ・ネッリ、リチア・アルバネーゼなどトスカニーニと共演を重ねた名歌手たち、そしてNBC交響楽団やニューヨーク・フィルの元楽員、孫のワルフレードへのインタビューなどで構成した1988年制作のドキュメンタリー。案内役としてジェームズ・レヴァインが出演しています。

制作は、クラシック音楽のドキュメンタリー制作者として名高いピーター・ローゼン。脚本はトスカニーニやルービンシュタインの伝記、トスカニーニの書簡集などの作・編者として知られるハーヴェイ・サックスです。

 約83分のドキュメンタリー部分に加えて、第2次大戦中の1943年にアメリカの国威高揚のために制作された『諸国民の賛歌』全曲の映像(約16分/ソ連の国家『インターナショナル』部分は削除されたもの)が収録されています。海外では2004年に、日本では2005年にDVD化されています。

[演奏シーンの収録映像]
・ヴェルディ:歌劇『運命の力』序曲(抜粋)[1943年]
・ベートーヴェン:交響曲第5番〜第1楽章(抜粋)[1952年]
・ヴェルディ:歌劇『アイーダ』第1幕・第4幕(抜粋)[1949年]
・ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』〜愛の死(抜粋)[1951年]
・ブラームス:交響曲第1番〜第4楽章[1951年]
・ワーグナー:ワルキューレの騎行(全曲)[1948年]
・ヴェルディ:カンタータ「諸国民の賛歌」(全曲)[1943年]

 制作:ピーター・ローゼン(1988年制作)
 アドヴァイサー:ワルフレード・トスカニーニ
 台本:ハーヴェイ・サックス
 出演:ジェームズ・レヴァイン(案内人)、ロバート・メリル、ヤルミラ・ノヴォートナ、ヘルヴァ・ネッリ、リチア・アルバネーゼほか

 収録時間:約97分(ドキュメンタリー:約83分/諸国民の賛歌:約14分)
 画面:4:3、カラー(モノクロ映像含む)
 音声:ドルビー・デジタル2chステレオ(一部モノラル)


11. 中川隆[-6334] koaQ7Jey 2017年9月22日 07:00:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トスカニーニは音楽がわからなかった


もしベートーヴェン家のメトロノームが正確だったら


バッハは、テンポの指示をほとんどしていない。それは、バッハのいないところでバッハの作品が演奏されるなんて、全く考えていなかったからだ。だからテンポどころか、他の表記も限りなく少ない。従って、今となっては全て演奏者が決定することにならざるを得ない。

メトロノームが発明されて、ベートーヴェンは大喜び。さっそく全作品にメトロノーム記号を書きいれたけれど、第三交響曲「英雄」のように、全く演奏不可能な指示もある。「これは倍にカウントする」などという珍説も出たが、そうすると非音楽的なので、一般的にこのような場合、記号は無視されている。「ベートーヴェンのメトロノームは壊れていた」こう考えるのは妥当だ。往時の日本の家電製品のように、発明されてしばらくは、よく壊れるのが機械の常識。

時代は下って、ペルルミュテールというフランスのピアニストがNHK教育テレビで語った、師匠ラヴェルの話。


(ラヴェルのソナチネ第2楽章を弾いて)これはメヌエットなのです。メヌエットはこのテンポでなければなりません。速ければワルツに、遅ければサラバンドになってしまいます。

ある時、トスカニーニがボレロを演奏したのです。やや速めのテンポでした(ペルルミュテールは歌った)。会場のお客さんは湧きました。そしてトスカニーニは会場に同席していたラヴェルを紹介しようと手を会場に向けました。しかし、ラヴェルは決して席を立とうとはしなかったのです。なぜならボレロのテンポではなかったから。

確かに、自作自演の録音を聞くと、かなりゆっくりのボレロである。

他にも、例えばドイツの音楽家は「イン・テンポ」を唱えながら、かなりテンポを揺らしたり、「音楽は生きているのです。テンポは毎日変わって当然です。」と言ってオーケストラを動揺させたり、段落の変わり目でテンポが緩むのは常識だったりと、あちらこちらで「幅のあるテンポ設定」が成されている。

一方、フランス人は、書いていないところでテンポを緩めるなんてかっこ悪いと思っている。「彼らはアウトバーンでも、隣町の境を越える度にアクセルを緩めたりするのかね?」と意地悪くドイツ人を見る傾向がある。フランス人は「突っ走る快感」を大事にする人々だ。

などなど、枚挙にいとまがないほど、テンポ感覚の違いについては多くの事例がある。が、全て前述のバッハとラヴェルの例に典型が表れていると言ってよいだろう。

だから、日本人の作曲家でも、フランスの影響が強い方は、テンポ表示が厳密(ラヴェル的)だし、ドイツ系列の教育を受けた方は、割と幅があったり、演奏者任せ(バッハ的)だったりと、この二つの伝統はいつまでも続いているから面白い。

ここで、はたと気づいた。

ベートーヴェン家のメトロノームが正確無比だったら、どうだったか?全て演奏可能な、テンポ表示が全作品についていたとしたら・・・。

続くシューベルト、シューマン、ブラームス、ヴァーグナー、リスト、とベートーヴェンの呪縛から逃れられない作曲家たちは、全作品に詳細なテンポ表記をしたのではないか、ということを想像したのである。こうなると影響は甚大、元々厳格が好きなドイツ人のこと、詳細なテンポ表示が楽譜上にあふれ、それを順守することに命を燃やし続ける・・・か?

そんなことがあり得るか?そうしたらフランス人と同じになるのか?

いやいや、そうなったらフランス人は例によって「バカじゃないの?」と言うに決まっている。「人間なんだからさぁ、テンポなんてその日で違って当然よ」となるだろう。ラヴェルだって、モーツァルトは受け入れているが、ベートーヴェンはあまり好きではなかったらしい。「メヌエットはねぇ、国によって、時代によって少しずつ違うんだから、人によって違うのは当たり前だよ」なんて言ったりして。

厳格なドイツ人と気まぐれなフランス人の方が、本来の姿のように思う(どちらかが優れているという訳ではありませんよ、念のため)。ベートーヴェン家のメトロノーム一個で、その後の音楽史の流れが変わってしまったのではないか、などという想像をしてしまった2010年であった。
http://blog.goo.ne.jp/belloni117/e/fd4483e91b73022577dbd4bdb8308d32


12. 中川隆[-6333] koaQ7Jey 2017年9月22日 07:16:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

Beethoven Sinfonia n.9 op.125 - Toscanini - NBC (1938) - YouTube
Vina Bovy - Kerstin Thorbog - Jan Peerce - Ezio Pinza.
NBC Orchestra and Chorus. (Live rec. 6 Febbraio 1938)
https://www.youtube.com/watch?v=EcR7T_6l9NM


beethoven Symphony No 9 Choral (1939 Recording) Toscanini-3D Sound - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lp3Wo2ah_R0

「交響曲第9番第1楽章の速度」どんな速度にしたかった?

 ベートーヴェンの、特に交響曲における速度にはメトロノームによる指定があるのは広く知られているが、これが間違っているのではないかという指摘が多くて混乱しているのも周知のこと。たとえば、交響曲第9番の第1楽章の自筆原稿には、冒頭の右上に「108か120、メルツェル」と読めるメモがある。メトロノームの指定(つまり四分音符が108か120)ということになっているが、これでは速すぎる。ちなみに、第2楽章以降には速度の書き込みが1箇所しか無い。
sym9-1-man.jpg (165179 バイト)

下例のショット社の初版(1826年)では、メトロノームの指定は無い。

 この初版の直後に、四分音符=88を指定したそうである。したがって、sym9-1-sh.jpg (47360 バイト)

 現代の印刷譜では下のようになる。この速度で演奏すると13分弱になるが、これでも速すぎると思う。だから皆困っているのだ。というより、世の指揮者たちは自分の思うところの速度で演奏するしかないのだ。ちなみに、現代で容易に聴けるかなり速い演奏では、トスカニーニの指揮による13分30秒という録音が残されている。自分としてはこれが限界だろうと思う。
http://park10.wakwak.com/~naka3/bee_sym9-1.htm


ドクトルじんじんの「第九CD聴き比べ」 トスカニーニ


【指揮者】アルトゥーロ・トスカニーニ

【管弦楽】NBC交響楽団
【ソプラノ】ヤルミラ・ノヴォトナ
【メゾソプラノ】ケルステン・トルボルイ
【テノール】ヤン・ピアース
【バリトン】ニコラ・モスコーナ
【合唱】ウェストミンスター合唱団
【録音年月】1939年12月
【録音状態】下
【レーベル】Music & Arts

【コメント】
20世紀を代表する巨匠のひとりであるイタリア人指揮者、トスカニーニは、一般的にはいわゆる「新即物主義」と言われる芸風で、楽譜に忠実で、演奏者による過度の感情表現を嫌う音楽家と見なされている。ところがここに紹介する第九は、決してそうとばかりも言い切れない。

たしかに全曲を通じてみれば、テンポの採用などは楽譜のメトロノーム指示におおむね忠実で、ライバルであったフルトヴェングラーに見られるようなほとばしるばかりの表現は少ない。淡泊な演奏と言ってよいだろう。

しかし、一方で楽譜の改変はかなり施している。ワーグナーやワインガルトナーによって提唱された改変はほぼすべて取り入れているし、むしろ先人がしていない独自の改変を積極的に行なっている部分すらある。第一楽章のティンパニなどはその例で、この曲におけるティンパニは連続した音型が1小節か2小節、ふと穴が開いたようにとぎれる部分が多々あるが、トスカニーニはそういった箇所でことごとくその穴を埋めるように音符を足して演奏させている。この音型のとぎれを、ベートーヴェンが意識的に作って聴く者に不安感、緊張感を与えようとした、とは解釈せず、単なる書き忘れている部分を埋めた、という態度である。前者を聴き慣れた耳には、トスカニーニのそれはかえって不自然にも聴こえるが、興味深い比較ではある。

また、オペラ指揮者としての血が騒ぐのか、第四楽章になると急に感情移入が激しくなるように感じられるのもおもしろい。終曲近い806小節目と827小節目の二度、合唱がAllegroのテンポでAlle Menschen, alle Menschen, alle Menschen と畳みかけてからAdagioに突入する部分があるが、トスカニーニは二度とも、この最初のAlle Menschenの小節からテンポをガクッと落している。つまり、Adagioを4〜5小節先取りしているのである。「新即物主義」どころか、ずいぶん自由な指揮ぶりに思えるが、ライブならではの感情の高まりであろうか。

ライブと言えば、この録音では痛恨のミスが一か所聴ける。第二楽章のティンパニに、264小節以降20小節にわたってフォルテからフォルテシモで連打する聴かせどころがあるが、なんとこの録音では1小節多く21小節連打したあげく、動揺したのか、今度は6小節休んで290小節から次の連打を再開するべきところ、2小節出遅れて292小節から入っている。この部分は繰り返しで合計三回演奏されるが、これは一回目だけであり、二回目、三回目は楽譜通り演奏されているので、一回目がミスであることは明らかである。いかにライブだとは言え、ティンパニストにとってもっとも活躍できるこの部分でこんな初歩的なミスを犯し、かつ録音によって後世にまで残されたのは、まことに痛恨の極みと言うしかないだろう。

Alle marcia のテノールソロで、Brüder の語の譜割りがすべての場所で楽譜通りないのが、違和感がある。語尾のderが最後の八分音符でだけ発音し、結果的に真ん中のüが長いのだ。これは明らかに楽譜に書かれた譜割りではないが、これはあるいは、611小節のBrüderのリズムがこのような形なので、トスカニーニがそれに統一させたのかも知れない。

同じ時代を共に大指揮者として生きたトスカニーニとフルトヴェングラーは、第二次大戦前にその政治的な立場から相容れない仲となり、ある時路上で遭遇して大喧嘩となった、というエピソードが残る。このエピソードを聞くと、この二人こそがwas die Mode streng geteilt(時代が厳しく引き離した者)だったのだ、と思い知らされる。そして、残念ながら彼らは終生、Deine Zauber binden wieder(神の不思議な力によって再び結び付け)られはしなかった。
http://www.freude.or.jp/?p=1585


13. 中川隆[-6332] koaQ7Jey 2017年9月22日 07:31:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

メトロノームによる指定を守ったトスカニーニは音楽がわからなかった

20世紀にはベートーヴェンが指示したメトロノーム速度は間違っていると信じられて来た。

その考えに異を唱えたのが20世紀後半に台頭して来た古楽器オーケストラの指揮者アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン、そして延原武春たちである。彼らはベートーヴェンの指示通り演奏可能であり、それこそが作曲家の頭の中に響いた音楽なのだということを示した。

ビブラートの悪魔


小説や映画で悪魔が登場するとき、彼はしばしばヴァイオリンを弾いている。「悪魔のトリル」というヴァイオリン独奏曲があるし、ストラヴィンスキーが作曲した「兵士の物語」でも悪魔はヴァイオリンと共に現れる。

何故悪魔はヴァイオリンを弾くのか?その理由のひとつはあのギーギー擦る音が耳障りであるということと、もう一つはそのビブラートが気色悪いということが関係しているのではないかと僕は推察する(「悪魔のトリル」では音を上下に揺らすダブルストップのトリルが多用されている)。

世の中には絶対音感を持っている人が少数ながらいる。彼らは「バイオリンの音を聴いていると気分が悪くなる」と言う。

ビブラートは音の波である。単音をビブラートで延ばすとその周波数には一定の振幅が出来る。そのゆらぎが絶対音感を持つ人にとっては我慢ならないのだろう。

チェンバロ/オルガン奏者でバッハ・コレギウム・ジャパンの指揮者、鈴木雅明さんは

「終始ビブラートを掛けっぱなしの弦楽四重奏の演奏は頭が痛くなって聴くに堪えない」

という趣旨の発言をされている。恐らく雅明さんも絶対音感を持っていらっしゃるのではないだろうか?

こうして考えてみるとビブラートというのは一種の誤魔化しの行為ともいえるだろう。合奏前のチューニングで多少ピッチがズレていても、ビブラートを掛け続ければあたかも合っているように聴こえるのだ。

音楽の先生はビブラートのことを「音色を豊かにする手段」だと生徒に教える。
でも、果たしてそれは本当だろうか?

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代、弦楽奏者はビブラートを掛けずに演奏した。現代フルートはビブラートを掛けるが、バロック・フルートであるフラウト・トラヴェルソはノンビブラートで吹く。

ではいつ頃からオーケストラはビブラート演奏を始めたのだろう?

指揮者のロジャー・ノリントンはそれは20世紀初頭だと言う。

ロマ(流浪の民。最近では「ジプシー」という呼称は差別用語とされている)のヴァイオリン奏法を取り入れ、それが急速に広まったのだと主張している。

彼の説が正しいかどうか僕には分からない。しかし、リストの「ハンガリー狂詩曲」が出版されたのが1853年、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」が出版されたのが1869年。彼のピアノ協奏曲第2番、第4楽章にもロマの旋律が登場する。さらにドヴォルザークには「ロマの歌」という歌曲集がある。

このように19世紀半ばよりロマの音楽に対する関心が高まり、そのヴァイオリン奏法も次第に取り入れられるようになってきたのではないかと想像する。


今、僕の手元にラフマニノフが自作自演したピアノ協奏曲のCDがある。
録音されたのは1929-41年。

驚くのはそのテンポの速さである。現代では、この疾走するテンポでラフマニノフが演奏されることはない。考えるに、そのロマンティックな文脈を強調するために、時代と共に次第にテンポが落ちて溜めて弾くスタイルへと変化してきたのではないだろうか?

テンポが遅くなると、ひとつの音を延ばす時間も長くなる。
ノンビブラートだと間が持たない。
これこそがビブラートで弾くのが好まれるようになった真の理由なのではなかろうか?

「テンポの遅延とビブラートの多用(乱用)は相関する」
というのが僕の提唱する仮説である。


ベートーヴェンの交響曲のスコアには詳細なメトロノームの指示が明記されている。しかし、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、朝比奈ら20世紀の巨匠達はこれを無視し、はるかに遅いテンポで振ってきた。その理由は、驚くべきことに20世紀にはベートーヴェンが指示したメトロノーム速度は間違っていると信じられて来たからである。

その考えに異を唱えたのが20世紀後半に台頭して来た古楽器オーケストラの指揮者アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン、そして延原武春たちである。彼らはベートーヴェンの指示通り演奏可能であり、それこそが作曲家の頭の中に響いた音楽なのだということを示した。

そしてその速いテンポで演奏するとき、ビブラートの存在意義は消滅したのである。その潮流は現在、モダン・オーケストラにも押し寄せて来ている。これこそがピリオド・アプローチであり、21世紀の古典派音楽ルネッサンスなのだ

(参考までにベートーベンのメトロノーム指示に対するノリントンの考察をご紹介しておく。こちらからどうぞ)。
http://www.kanzaki.com/norrington/note-sym9.html

20世紀の音楽教育のあり方は正しかったのか?ということが今、問われようとしている。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_bf7e.html


知られざるヴィブラートの歴史

ルネッサンスからバロック期、そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン(1827年没)の時代に至るまで、装飾音以外で弦楽器や管楽器に恒常的ヴィブラート(伊: vibrato)をかける習慣はなかった(当時の教則本などが根拠となる)。

それを現代でも実践しているのが古楽器オーケストラ、例えば日本で言えばバッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、大阪ではコレギウム・ムジクム・テレマン(テレマン室内管弦楽団)等である。


19世紀半ばになると、ロマ(ジプシー)の音楽に関心が高まる。リスト/ハンガリー狂詩曲(1853)、ブラームス/ハンガリー舞曲(1869)、ビゼー/歌劇「カルメン」(1875)、サラサーテ/ツィゴイネルワイゼン(1878)等がそれに該当する。

それとともにジプシー・ヴァイオリンのヴィブラートを常時均一にかける奏法(continuous vibrato)が注目されるようになった。これは従来の装飾的ヴィブラートが指でするものだったのに対し、腕ヴィブラートへの変革も意味した。


ここに、continuous (arm) vibratoを強力に推進する名ヴァイオリニストが颯爽と登場する。フリッツ・クライスラー(1875-1962、ウィーン生まれ)である。20世紀に入り急速に普及してきたSPレコードと共に、彼の名は世界的に知られるようになる。

音質が貧弱だったSPレコードに於いて、甘い音色を放つヴィブラートという武器は絶大な威力を発揮した。その”ヴィブラート垂れ流し奏法”と共に弓の弾き方(ボウイング)にも変化が起こる(このあたりの事情はサントリー学芸賞、吉田秀和賞を受賞した

片山杜秀 著/「音盤博物誌」-”さよなら、クライスラー”
http://www.amazon.co.jp/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%9C%E7%A7%80%E3%81%AE%E6%9C%AC-1-%E9%9F%B3%E7%9B%A4%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6/dp/4903951049/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1368433753&sr=1-1&keywords=%E9%9F%B3%E7%9B%A4%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6

に詳しく書かれている)。


一方、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はノン・ヴィブラートを貫いていた(1938年にレコーディングされたワルター/ウィーン・フィルのマーラー/交響曲第9番でもヴィブラートはかけられていない)。

クライスラーはウィーン・フィルの採用試験を受けるが、審査員の一人だったコンサートマスター、アルノルト・ロゼは「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と言い、「音楽的に粗野」という理由でクライスラーを失格させた。

しかしマーラーの妹と結婚し、自身もユダヤ人だったロゼはナチスのオーストリア併合直後に国外追放となり、ロンドンへ逃れ客死。娘のアルマはゲシュタポに捕らえられアウシュビッツで亡くなったという

(オットー・シュトラッサー 著/「栄光のウィーン・フィル」音楽之友社)。
http://www.amazon.co.jp/%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E2%80%95%E5%89%8D%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E9%95%B7%E3%81%8C%E7%B6%B4%E3%82%8B%E5%8D%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC/dp/4276217806/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1368433848&sr=1-1&keywords=%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB


第2次世界大戦後、1950年代に入りオーケストラは大きな転機を迎える。スチール弦の普及である(これは鈴木秀美さんのエッセイに詳しい)。

それまで弦楽奏者たちは概ね羊の腸を糸状に縒ったガット弦を使用していた(パブロ・カザルスもガット弦でバッハ/無伴奏チェロ組曲をレコーディングしている)。ガット弦よりスチール弦の方が強度に優れ切れにくく、湿度の影響も受けない。おまけに値段も安価である(消耗品だからその方がありがたい)。だから皆、一気に飛びついた。しかし柔らかい音色のガット弦に対し、金属製のスチール弦は硬質な音がする。

ヴィブラートの普及には様々な説があるが、その音質の違和感を緩和するために恒常的ヴィブラート奏法(continuous vibrato)が推奨されるようになったのも、理由の一つに挙げられるだろう。


その過程に於いて、フルートやオーボエなど管楽器にもヴィブラートが普及していった。フルートの場合、以前は木製のトラヴェルソであったが、19世紀半ばからリングキーを採用したベーム式が普及し始め銀製の金管楽器に取って代わられる。故に木管らしからぬ金属的響きを、ヴィブラートによって緩和する目的もあったのではないかと推測される。


ヴィブラートの普及に呼応して、オーケストラの演奏速度は遅延の方向に向かう。速いテンポではヴィブラートを十分に効かせられないからである。

ここに1920年代から40年にかけ、ラフマニノフがオーマンディやストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団と共演した自作自演によるピアノ協奏曲の録音がある。驚くべきは、現代とは比較にならないくらい速いそのテンポ感である。20世紀の間にラフマニノフがロマンティックな文脈で捉えられるよう変化していった過程がそこに垣間見られる。


ベートーヴェンの交響曲も次第にロマン派以降の価値観で解釈されるようになり、遅くなっていった。ベートーヴェンがスコアに指示した極めて速いメトロノーム記号に則して演奏すると、ヴィブラートをかける暇などない。

そこで、

•ベートーヴェンの時代は器具が正確ではなかったのでスコアに記されたメトロノーム表記は必ずしも信用できない。

•耳が聞こえなくなってから、ベートーヴェン本人が考えているテンポより速い表記になっている可能性が高い。


などといった、こじつけにも等しい説が登場した。しかし、考えてみて欲しい。まず作曲者本人を疑うとは何と無礼なことであろうか!
スコアに記されたテンポで十分演奏可能であることは、延原武春、ブランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンら古楽系の指揮者たちが既に証明済みである。


こうやってヴィブラートの歴史を見ていくと、現在盛んに行われるようになってきたピリオド奏法(=モダン楽器を使用して古楽器風に演奏すること)は理に適っているのか?という疑問も生じてくる。つまり、

金属的響きのするスチール弦をノン・ヴィブラートで演奏することに果たして意味はあるのだろうか?

という問いである。そういう意味でピリオド奏法をする弦楽奏者達は今一度原点に立ち返り、スチール弦からガット弦に張り替える勇気を持つ必要もあるのではないかという気が僕にはするのだ。

ちなみにダニエル・ハーディングやパーヴォ・ヤルヴィが音楽監督を務めてきたドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは奏者全員がガット弦だそうである。また名ヴァイオリニスト ヴィクトリア・ムローヴァも、最近ではガット弦を張り、バロック弓を使用している。

ヴィブラートにまみれ、スコアに記されたメトロノーム指示を無視した、遅くて鈍重なベートーヴェンを未だに「ドイツ的で重厚な演奏」と褒め讃える人々がいる。ドイツ的って一体、何?僕には皆目、理解が出来ない。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/20-7b10.html


14. 中川隆[-6319] koaQ7Jey 2017年9月23日 05:21:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

Arturo Toscanini Symphony No 7 Bruckner - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jLy68N3CDKU

Symphony No 7 in E Major by Anton Bruckner
New York Philharmonic Orchestra
Arturo Toscanini, conductor
Carnegie Hall New York,
27.I.1935


ブルックナー交響曲第7番ホ長調
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク交響楽協会交響楽団
35/01/27

 当サイトのどこかのページに(凶暴な演奏が期待できるという理由で)「トスカニーニに演奏して欲しかった」などと書いた記憶があるけれども、まさか本当にブルックナーの録音を残しているとは知らなかった。

J.F.Berky氏(www.abruckner.comのオーナー)が送ってくれたニューズレター(5/27付)に "Toscanini Bruckner 7th recording" に関する情報と入手方法が掲載されていたため、早速ダウンロードしたのがこの音源である。(彼のサイトのEditor's Newsletterコーナーにもリンクが貼ってある。)ただし有形の媒体ではないから番外扱いとする。

 この演奏は、かつてAnsfeldenという英国のレーベルから青裏(ANS-127)としてリリースされたらしい。Berky氏のサイトには "The limited edition CDR appears to be sold out" とあるが、奇遇なことにそれが少し前(5/20)ヤフオクに出品されていたので興味津々成り行きを見守っていたところ、2500円でスタートした品が最終的に11500円まで跳ね上がってしまったのでビックリ仰天! ロハで手に入るというのに・・・・・

 カーネギー・ホールにおけるライヴということだが、さすがに70年以上前の録音だから音質は時代相応である。同年代では他にフルヴェンのベト5番や9番も持っているが、それらよりも劣るという印象である。特にジリパチ雑音が耳に付く。

のみならず第124楽章には欠落まであるということで覚悟の上で再生してみたところ、第1楽章はあと十数秒というところでバッサリ。ガクッと来た。第2楽章はクライマックスの1分少し後に数秒抜けている。そして終楽章は4分49秒で落ちた後、中途半端なところから再開する。これが最もこたえた。

ついでに書くと、同楽章6分44秒でのワープはドロップアウトではなくカットだが、これも意図不明としか言いようがない。

どれもこれも受けたダメージは決して小さくなかったため、最初は別音源を用いた修復も本気で考えた。そうなるとパッチに使用するのはモノーラル音源ということになる。いっそのこと彼の仇敵の録音(同一条件=ライヴ収録ということなら選択肢は51年カイロ盤のみ)を挿入すれば、あの世での和解の手助けになるかもしれないと一瞬アホな妄想まで抱いてしまった。が、音質劣悪の演奏にそこまで手間暇かけるのもバカらしいと思ったので止めた。何にせよ、この点は割り切って演奏評の執筆に取り組まなくてはならないのは当然であろう。

 他に気になったのが使用版である。
"1885 Version with some Modifications by Bruckner. Ed. Albert Gutmann" ということである。

その編者名に馴染みはなかったけれど、遅まきながら7番の改訂(改竄)作業に携わった人物と知った。その名の通り何か良いことをしてくれているのだろうか?

 まず改訂版の常ながら第1楽章の主題提示2巡目の直前(1分02秒)にフライング・ホルンが入る。これは予想通り。だがハ長調に移って盛り上がるところ(4分58秒〜)で突如ティンパニの連打が加わってきたのに意表を衝かれた。これは初耳。

また唯一無傷のスケルツォではティンパニが「ダンッダダン」というリズムを執拗なまでに叩いている。(ついでながら、トリオではデルマンの9番を彷彿させるような呻き声まで聞こえてきた。怖い。)

この打楽器の切る啖呵は終楽章でも何度か確認できたが、それよりも第2主題をトランペットが吹いていたのが実に新鮮だった。

まさに初物ずくしといえるが、おそらく一部はトスカニーニ自身によるアイデアではないかと思われる。

こういうのも当時としては珍しくなかったため、特にクレームが付いたりすることはなかったのだろう。他にも耳を澄ませれば楽器の変更などは聞き出せるとは思うが、実はこれから触れたいことと比べたら些細なのである。

 アダージョの冒頭部分をここまで念入りに演奏している指揮者は他に浮かばない。のみならず、最後の最後まで濃厚なスタイルを貫き通している。オーマンディも顔負けのセカセカ尻軽テンポでサッサと終わってしまうと予想していた私は完全に意表を衝かれた。

トラックタイム21分05秒に欠落部分を加えても決して長いとはいえないはずだが、時間以上に長く感じるのはメリハリを大胆に付けているためである。

トスカニーニといえば、当サイトの「ベートーヴェンのページ」にも記しているように私は「気の短い暴君タイプ」といった印象しか持ち合わせておらず、どんな曲であれインテンポで演奏するしか能がない単細胞野郎だと思い込んでいたこともある。

それが必ずしも正しくないと判ったのはベト5&8番39年盤を聴いた時である。
ともに宇野功芳が自著で褒めていたような。

とはいえ、「アウト!」と言いながらミスを犯した奏者を指さし、そのままクビにしてしまったというような逸話まで残っているため、いくら彼に心酔していた楽員がいたとしても、その冷酷非情なる人間性に疑問符を付けたくなるのは人間の情というものであろう。(今になってみると一体どこまで信用できるのかが定かでないものの、「ショスタコーヴィチの証言」に書かれていたエピソードも負のイメージが定着する原因を作ったかもしれない。)

とにかく「一欠片の情も持ち合わせていない」はずの指揮者がこんな情緒タップリ型演奏を繰り広げていたとは完全に想定外だった。だから、もっと良好な音質で聞かされたら指揮者名を当てることなど絶対無理だったに違いない。

 そういえば

「クラシック名盤&裏名盤ガイド」(洋泉社)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E5%90%8D%E7%9B%A4-%E8%A3%8F%E5%90%8D%E7%9B%A4%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK/dp/489691211X

のPART2「名演奏家のコレを聴け!」筆頭に置かれたトスカニーニの項を担当した新田明男は「この指揮者ほど、誤解の罠がしかけられているひともいない」と述べていた。

具体的には、その誤解の元となった(代表盤とされている)1950年代の録音が「功なり名とげた老人の余生の演奏」に過ぎず、指揮者が元気だった70歳まで(第2次世界大戦終了前後まで)の演奏は後年のものと同じく快速テンポながら、その速い進行のなかに大きなカンタービレがあり(以下略)ということである。

(ここでまたしてもコーホー先生を持ち出すと、Gakken Mook「フルトヴェングラー」に収められた彼と佐藤眞との対談「フルトヴェングラー vs トスカニーニ 仁義なき戦い」では、トスカニーニがインテンポ一辺倒であるというのは表面的なばかげた話で全くの誤解だという点で両者は見解の一致を見ている。)

なるほど。ならば指揮者67歳時のこのブルックナーが晩年の彼とは別人によるものと聞こえたとしても何ら不思議はない。

なお、先述したような数々のティンパニ付加は便所の蝿(by 平林直哉)のごとく耳に煩わしく、9番のレーヴェ版といい勝負(目糞鼻糞)といえるから、もしモノーラルでも音がもう少し良かったら(←しつこい)クナの演奏という騙りを誰かに信じ込ませることだって十二分に可能であろう。
http://www.geocities.jp/descanso_sabatical/music/classical/bruckner/conductor/toscanini/toscanini7.html


15. 中川隆[-6318] koaQ7Jey 2017年9月23日 05:39:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルによるブルックナー交響曲第7番 
http://okkoclassical.blog.so-net.ne.jp/2016-09-20

1935年1月27日、カーネギーホールでのライブ録音。
オケはニューヨーク・フィルです。

1935年ということを考えれば仕方のないことなのでしょうが、やはりノイズが気になります。

しかし音質は思ったほどひどくはなく、少なくともトスカニーニの意図するところをある程度汲みとることは可能と思います。

ただし欠落箇所が結構あることから、隔靴掻痒の感を強くしますが。

この曲が完成したのは1883年9月のことで、ワーグナーの死去を悼んで第2楽章のアダージョに葬送の音楽(184小節から)を付加したことでも知られています。

何よりも、ブルックナーの交響曲が初演で好評を博す嚆矢となった作品であり、第4番と並んで現在に至るまでも高い人気を保っています。

トスカニーニとブルックナーとは、どうもあまり親和性を感じない部分もあり、実際、晩年にあれほど精力的な演奏活動を共に行ったNBC交響楽団とのコンビによる演奏や録音も見当たりません。

しかし、記録によると、第4番や第7番はしばしば取り上げていたようで、1896年12月には早くも第7番のアダージョの演奏を行っていたそうです(この年の10月にブルックナーは亡くなっておりますから、きっとその追悼という側面もあったのでしょうね)。

また、ブルックナーの故国であるオーストリアとかドイツなどではいざ知らず、遠く海を隔てた米国では、その当時、まだまだブルックナーの音楽に対する理解が深かったとは云えなかったと思われますので、トスカニーニの試みは、今から思えば非常に意義深いものがあったのではないでしょうか。

そのような演奏を、80年を経て聴くことができることを心から喜びたいと思います。

さて、まずは第1楽章です。
情感たっぷりの、遠い世界から光が注いでくるような美しい演奏が始まりました。
24小節のフライング・ホルン(練習番号「A」の一拍前のアウフタクト)は、改訂版のお約束みたいなものですが、原典版を聴きなれた耳にはやはり不自然に聞こえます。

尤も、ハース版が世に出たのは1944年のことですから、それ以前の楽譜では当然の演奏なのですが。

それから、これは後の楽章でも顕著なのですが、ティンパニが様々な形で飛び入りをします。この楽章では練習番号E(a tempo)の前の4小節をトレモロで入ってきます。

その他、第2のエコーが省略されていたり、ホルンに(楽譜には記載のない)フルートが補強されているように聞こえたり、あれれ?と思うような部分もありますが、ノイズによるものか私の聞き間違いなのか判然としません。

ただ、「楽譜に忠実」というある種のトスカニーニの謳い文句とは異なる表情たっぷりの演奏で、オケにはところどころ不満もありますが、聴きほれてしまう部分も多くありました。

しかし、コーダの最後の438小節からあとの6小節が欠落!これは酷い!ざんねーん!
(記している小節や練習番号の表記について、私が所持しているスコアは1980年発行のハース版ですので、楽譜によるズレがあると思われますから、その点についてはご留意のほどを)。

次に第2楽章。
トスカニーニ自身がかなり以前から演奏をしてきた曲ということもあるのでしょうか、抑制された中にも、彼独自のカンタービレが感ぜられる感動的な演奏です。
練習番号W(177小節)から打楽器が付加されていますが、これはハース版以前の演奏形態です。

そして、肝心の葬送の音楽が始まって間もなくの189小節から192小節の4小節が欠落しています。これも酷い!

第3楽章のスケルツォ。この録音の中では唯一欠落がないので安心して聴けました。
こういう音楽ですと、トスカニーニの小気味の良さが功を奏するのか、誠に快調でノリノリです。

先にも書いたティンパニの付加。この楽章は特に顕著で、ハース版の楽譜ではトレモロになっているのにもかかわらず、随所で、金管や木管や弦楽器の付点音型をなぞって補強しています。

原典版を信奉する向きからすればとんでもない改変ですが、なんだかウキウキとさせられるような楽しさを感じてしまいました。
ブルックナーの曲がこんなに面白くていいのだろうか?などとも思ってしまいます。

いよいよフィナーレに突入します。
第7番を聴くとき、第3楽章のスケルツォからフィナーレに至るまでの曲の流れ込みが、私には大変印象的で、少々荒っぽい第3楽章のトゥッティから弦による第一主題までの変遷が何とも云えない心地良さを感じさせてくれます。

この演奏の出だしも非常に快調で、トスカニーニの面目躍如だな、などと思っていると、同じく弦による主題提示のはずの第二主題が金管に取って代わられていました!

これは、練習番号Eにおける第二主題でも同じです。

改訂版も含めてこのような演奏はこれまで聴いたことがありません。これはトスカニーニのな改変なのでしょうか。

これ以降も、楽譜にないの付加が断続的に表れます。それも弦楽器のパートに管楽器を加えて表情をつけるというような感じで、このあたりにトスカニーニの明確な意図の表れを見ることができるようにも思われます。

極めつけは練習番号N(163小節)からのクラリネットの対旋律の追加。

こんな旋律は寡聞にして聴いたこともないので、(個人的な想像ではありますが)トスカニーニが誂えたものではないかと思われます。
それとも何か由来や理由があるのか。

その前の145小節から158小節は録音が欠落しています。

さらに練習番号RからUまで(209小節から256小節まで)の48小節をカット!大胆すぎ!スコアを読んでいて、突然飛んでしまったので、次がどこなのか大いに慌ててページをめくりました。

そして曲の終盤に向けてティンパニを付加し、金管も補強して一気に大団円に向かいます。

何度か聴き込めば、さらに新しい発見があるのかもしれません。

聴いてみて最初に思ったのは、これは、いわゆるブルックナー愛好者には受け入れがたいところが多々あるだろうな、ということです。

しかし、トスカニーニが活躍していた若かりし頃、現役時代のブルックナーとも一部重なっていたことでしょうし、本人や弟子たちによる曲の改訂が半ば当然のように行われていたことを考え合わせると、長大な曲を如何に退屈させずに観客に聴かせるかという観点から手を入れたことは容易に想像できます。

弦楽器のみの主題提示に管楽器を重ねあわせたり、独自の対旋律を入れたりというのも、弦楽器だけでは響きが物足りないと考えたからなのかもしれません。

ブルックナーの音楽においては、こうしたコントラストの存在こそが聴くものに愉悦とカタルシスを与えてくれるのだと思いますが、後期ロマン派の音楽の一つという捉え方の中では、やはり物足りないものを感じたのでしょう。

その意味では、フルトヴェングラーのブルックナーの演奏とともに、如何にも時代を感じさせるものだと思います。

録音による欠落は非常に残念ですが、これはこれで大変貴重な遺産といえるのではないでしょうか。

因みに、ヒンデミットが指揮したニューヨーク・フィルによる第7番もyoutubeにアップされていました。

https://www.youtube.com/watch?v=i6Q2qiSdu44

こういう大曲の演奏が、ほぼ完全なままでネットにアップされ、無料て聴ける。

良い時代なのかもしれませんが、これではわざわざCDやを買う人も少なくなることでしょう。
そんなことが続いて、本当に欲しい名演奏のCDなどが手に入らなくなったらどうしよう、などとちょっと心配になりますね。


16. 中川隆[-5723] koaQ7Jey 2017年12月23日 18:55:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2012/01/20120122T2313000900.html


「共感覚」という言葉をご存知だろうか。天才と言われる人たちや、一瞬見たものをすべて記憶できるという劇的な記憶力を持つ人たちサヴァン症候群の人たちに共通する感覚がこの「共感覚」である。

これは、「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」と説明されるの現象である。

つまり、こういうことだ。

数字を見れば、数字ひとつひとつに特定の色が見えて絵が見える。音を聞けば、音の高さによって特定の色が見える。

共感覚が記憶の強化に結びつく

単語を見れば、単語の文字列の長さによって特定のイメージが湧く。数式を見れば、やはり数字の色と公式の形でよって特定の形が浮かんできたり、特定の味がする。

他にもいろんな「共感覚」があるのだが、そういった「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」感覚を持った人が世の中にはいて、それが記憶の強化に結びつくのだと言われている。

音を聞けば色が見えるのが、なぜ記憶の強化に結びつくのかと言うと、感覚を総動員してその音を脳裏に刻みこむことになるからだ。

たとえば、"aroy"という単語があったとする。これはタイ語で「おいしい」という意味のものだ。

これを覚えなければならないとき、「おいしい」という意味を単に記憶するのが普通の人の記憶方法だ。

しかし、「共感覚」を持った人は、"aroy"という単語を見た瞬間に舌においしいものを食べた感覚を蘇らせることができる。

共感覚を持った人は、おいしいものを食べたときにだけ聞こえる音もあったりするから、そんな音が聞こえる。

さらには、おいしいものを食べたときにだけ見える色もあったりするから、"aroy"という単語を見た瞬間に特定の色まで見える。

さて、あなたは"aroy"という単語を見た瞬間に、味を感じ、音を聞き、色を見るだろうか?

そんな感覚を持っていたら、それが共感覚を持っているということだ。もちろん、普通の人はそんな感覚など何も持っていない。

だから、"aroy"という単語を見たところで、何ら感慨も思い浮かばないし、ましてや何度覚えても忘れるし、覚えたことすらも覚えていない状態になる。

しかし、共感覚を持っている人は、たちどころにそれを記憶することができる。あまりにも「感覚が鋭敏」すぎて、「覚えざるを得ない」というのである。

音を聞くと、色が見える。音が色を感じさせる。共感覚は、ある感覚が別の感覚を呼び起こす。

共感覚は天才の入り口

なぜ単語を見て、そんなたくさんの感覚が一度に感じられるのか、普通の人はまったく分からない。

「そんなたくさんの感覚が湧き上がったら、毎日疲れてしょうがない」と思うかもしれないが、どうやらそれは当たっている。

実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。

サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。

ここに1個のリンゴがあるとする。彼らの見ているリンゴは、私たちの見ているリンゴの数十倍にも数百倍にも拡大されたものであり、すべての感覚が総動員されて迫ってきているはずだ。

リンゴを見ただけで、味から色からイメージから喜怒哀楽まですべてが再現されていたら、たしかに共感覚も度が過ぎれば日常生活が送れなくなるのもうなずける。

もっとも、共感覚を持っていたからサヴァン症候群になったのか、それともサヴァン症候群だったから共感覚を持つのかは何も分かっていない。

自閉症は、その原因はまだ詳しく解明されたものではないようだ。しかし、興味深いものではある。

普通の人が、ほどほどにそのような共感覚を持っていたら、恐らく「天才」だと絶賛されるはずだ。

特定の日の曜日をたちどころに言え、一瞬見ただけの風景を書き起こすことができ、一度聞いただけの曲をピアノで弾くことができ、円周率を延々と暗唱することができ、複数の外国語を覚えることができるようになる。

共感覚は天才の入り口なのである。

よく、物を覚えるときは音読すればいいと言われる。これも共感覚を使った記憶になるからだと考えられている。

見て、それを声に出して、それを聞くのである。ただ黙読するよりも3倍の感覚を使っている。効果があるのは当然だ。

数字や数式に色がつき、味がつき、音がつき、イメージがつく。共感覚は、数字を見ても何も感じない一般人には想像もつかないが……。

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ

ところで、記憶とは何かを調べているうちに出会ったこの「共感覚」という言葉や現象をはじめて見た時、私は「ああ、あれのことか」と思いながら読み進めていた。

私は一般人であり「共感覚」など持っていないし、そんな能力の欠片もない。しかし、共感覚がどんなものだか知っている。

それが「共感覚」という言葉で表す現象だということを知らなかっただけで、実は共感覚というものがどんな感覚で、どうやれば手に入れることができるのか、知っているのである。

もちろん、あなたも「共感覚」を試してみることができる。

答えは"Lucy in the sky with diamonds"(ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ)だ。


Lucy In The Sky With Diamonds - The Beatles (lyrics) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eKXfqpg-Q-k

自分の描いた絵の中の、川に浮かぶボートの中
タンジェリンの木と、ママレードの空

『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』はビートルズの名曲中の名曲だ。

この意味のわからない不思議な世界と、サイケデリックな映像を見ていると分かると思うが、これはいかにも「共感覚」を現している。

空には色があってマーマレード
女の子の目は万華鏡
空に女の子とダイヤモンド

この歌が歌われたのは1967年。アメリカではサイケデリック・ロックが盛んなときだった。


共感覚は、これで手に入れることができる

1943年の春。スイスのある研究所でアルバート・ホフマンという研究者が麦角アルカロイドについて研究していた。1938年、研究を進めていたホフマンは合成したこの薬をLSDと命名した。

LSDは期待された薬効成分としてあまり効果がなかったので一時的に研究は中止された。

しかし、改めて1943年にこの合成薬は取り出されて研究されることになった。

その研究中に、アルバート・ホフマンはこの薬を誤って自ら吸引してしまったのである。

途中で気分が悪くなったアルバート・ホフマンは研究を中止して、めまいがする中で休んでいたとき、「幻覚」が爆発した。

物が歪み、万華鏡のような光が渦巻き、幻想的な光景が次から次へと浮かんでは消えていく。

これに驚いたアルバート・ホフマンは、今度は幻覚を見るために、改めて自分を臨床実験にした。

最初の気分の悪さが消えると、そのあとから浮かんで来るのは「信じがたい多幸感」と「見たこともないような鮮明で、美しく、幻想的な世界だった」というのである。

LSDを摂取すると、ほとんどの人に現れるのが視覚の変容だ。光が幸せなシャワーのようになだれ込んできて、それが例えで言うと、まさに「万華鏡」の世界なのである。

Lucy in the sky with diamonds(頭文字はL.S.D)の空飛ぶ女の子ルーシーの目も「万華鏡」だと歌われている。

「LSD-幻想世界への旅」ではアルバート・ホフマンはこのように言っている。


視界は環状と螺旋状が開いては閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。
ここで注目して欲しい。「それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった」と書かれているのが分かる。

それぞれの音にふさわしい色?
それぞれの音にふさわしい形?

これはまさに「共感覚」であると、誰もが認めるはずだ。そうなのだ。つまり、LSDを取るだけで、「共感覚」を手に入れることができるのである。


枠を打開するためにLSD

結論から言えば、あなたが共感覚というものがどんなものなのかどうしても手に入れたいと思うのであれば、LSDを試してみればいいということになる。

これほど手軽で共感覚を手に入れることができる手段を他に知らない。LSDは規制され、違法となっているが、感覚を増幅させるパワーはあまりにも強烈過ぎるからだろう。

しかし、このクスリがまだ違法ではなかった1965年までは、多くの人たちがLSDを試して、その幻覚の素晴らしさに酔い、爆発的にLSDの幻覚音楽が生まれた。

このときの音楽をサイケデリック・ロックというが、音楽史上、これほど芳醇の時代はなかった。

まさに「共感覚」がそれを生み出していたので当然だ。

LSDを得て、共感覚を手に入れたミュージシャンは、まさにみんなまとめて「天才」にまで増幅されていたのである。

ミュージシャンには、マリファナも、LSDも与えられていたが、このふたつは幻覚や多幸感には必須なのだ。そして、一般の感覚に煮詰まったミュージシャンは、枠を打開するためにLSDを切望する。

LSDで共感覚を得たミュージシャンとそうでないミュージシャンの差は圧倒的に違う。

感覚が「共感覚」となって増幅されているほうは、もはや「音符に書き表せない」まで「超越」していく。

言葉ではよく分からないというのであれば、「音符を超越した音楽」、すなわち「共感覚」が産み出した音楽を「見て」ほしい。

アメリカ国家をここまで素晴らしく表現できるミュージシャンは、ジミ・ヘンドリックスの前にも後にも登場していない。


あなたは何も発言しないほうがいい

共感覚は普通を簡単に超えさせる。LSDは共感覚を生み出す。だから、結論から言えば、LSDを取れば誰でも簡単に共感覚が得られる。

知覚が変化し、感情が変化し、意識が変化し、視覚が変化する。LSDを取れば、あなたも簡単に常識を超えることができるのである。

ミュージシャンはその共感覚が音楽に活かせる。

あなたが、何に活かせるのかは分からない。もしかしたら、あなたの何らかの天才性は、LSDで常識を超えるかもしれない。共感覚が常識を超える感覚を現すのだから、そうなって当然だ。

今でも、LSDなどは、どこでも手に入るドラッグなのだが、いかんせん違法であり、逮捕されれば人生を棒に振ることになる。

アルコールで共感覚は得られない。共感覚どころか、感覚のすべてが「鈍感」になるだけである。鈍感になった感覚から素晴らしいものは生まれてこない。

LSDはその逆だ。強烈なまでの鋭敏な感覚、万華鏡のような多彩な光を得て、新しいものが生み出される確率が高い。

本当はアルコールを麻薬指定して厳禁とし、かわりにLSDを解禁すれば、共感覚を得た人たちが才能を爆発的に開花させるので文化をさらに深化させることができる可能性もあった。

共感覚を得るLSDは禁止された。
多幸感を得る大麻は禁止された。

そして、その代わりに「禁止されなかった」のは何だったのか。それは、酒とタバコだ。

感覚を鈍感にさせる酒は与えられた。
病気を引き起こすタバコは与えられた。

あなたは才能を伸ばすLSDを厳禁されて、かわりに鈍感になるアルコールが与えられている。アルコールならどこにでも手に入って、どんどんあなたの感覚を鈍らせる。

あなたは多幸感を得て治療薬にもなっていた大麻を厳禁されて、かわりに病気になるタバコが与えられている。タバコならどこにでも手に入って、どんどんあなたを病気にさせる。

なぜ国際社会や国家が、人々を愚鈍にさせる酒と病気にさせるタバコを許して、才能や多幸感を与えるLSDや大麻を禁止したのか分からない。

まるで、国民を天才にしたり、幸せな感覚を味わせるのは、絶対に許さないと叫んでいるかのようだ。

そして、人々はLSDも大麻も禁止されたので、自分が何を禁止されたのか、それを最初から知らない。

あなたが禁止されたのは、才能と多幸感だ。あなたが与えられたのは、鈍感と病気だ。

しかし、それに気がついても、あなたは何も発言しないほうがいい。それを指摘すると、「反社会的だ」「危ない人間だ」と後ろ指を指されることになる。


17. 中川隆[-5607] koaQ7Jey 2018年2月24日 10:22:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ドレミの7音は虹の色
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/3afd8b8ff8b5db888abbadfc093fbae5


どうして日本経済新聞の記事はこうも興味深い内容が多いんだろう。これまでブログにも音楽関連の記事を再三再四引用させてもらっているが、今回の記事はこれ。

    

スマホでブログをご覧になっている方は字が小さすぎて読みずらいだろうから、要約してみよう。

「音を聴くと色を思い浮かべる特殊な知覚「共感覚」の持ち主が感じる「ドレミファソラシ」の7音の名前が虹の色「赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍(あい)・紫」と、ほぼ順序よく対応しているとの調査結果を新潟大学のチームがまとめ、英科学誌電子版に発表した。

つまり「ドは赤」「ミは黄」「ソは青」といった具合。

メカニズムは不明だが「なぜ音楽に心を動かされるのかという未解明の問題にヒントを与えてくれるかもしれない。

共感覚とは「音に色を感じる」、「味に形を感じる」といった二つ以上の感覚が結びつく知覚現象のことで、音楽家ではシベリウスやリストが知られている。」

実をいうと、この現象に「似たような話」を以前のブログ

「グレン・グールドの恋人」(2017・11・25)
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/435fb60f23a679e675e579258c57db89


に掲載したことがある。これも日本経済新聞の記事がもとだった。

    

ブログの内容は「あのいかにもストイックで禁欲的な演奏をする大ピアニストのグールドにコーネリア(人妻)という画家の恋人がいた。」という話。

3か月前の記事なのですでに忘却の彼方にある人たちが大半だろうから(笑)、ブログの中の「似たような話」の個所を再掲してみよう。

「音楽家と画家との恋愛というわけだが、「聴覚芸術」と「視覚芸術」との間でお互いに刺激しあい、畏敬の念が高じて恋愛感情にまで発展したことは想像に難くない。

両者の間でいったいどういう芸術論が戦わされたのか、まったく想像の域を出ないが、たとえば「音楽」につきものの音響と「絵画」につきものの色彩の共通点を「波長」という視点から探ってみよう。

音響の場合、低音域は波長(波の高点と低点との距離)が長く、一方、高音域は波長が短いのは周知のとおりだが、色彩だって「可視光線」のもとで波長の概念を当てはめてみると、長い順に<赤〜オレンジ〜緑〜青〜紫>の順番になる。ちなみに赤外線は波長が長すぎて、そして紫外線は波長が短すぎて目には見えない。

そういうわけで、「音響」を「色合い」で表現すれば低音域は赤色のイメージとなり、中音域は緑色、高音域は紫色のイメージとなる。

「低音域〜赤色・オレンジ色〜暖かい」 VS 「中高音域〜青色や紫色〜クール」という印象を受けるし、オーディオも低音域が豊かだと暖かい気分になり、高音域が優った音はクールな気分になるのもそれだ。中音域だと緑色に該当するので何となく安心感がある。

ただし、これはここだけの極めてユニークな「珍説」なのでけっして真に受けないように申し添えておこう〜(笑)。」

というわけで、自分の「珍説」もまんざら「当たらずといえども遠からずだったなあ」と、一人で「悦に入っている」が(笑)、肝心の読者の皆様はどういうご意見をお持ちなんだろう。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/3afd8b8ff8b5db888abbadfc093fbae5


18. 中川隆[-11108] koaQ7Jey 2018年4月23日 13:35:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11995]

2012年1月22日
天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事


「共感覚」という言葉をご存知だろうか。天才と言われる人たちや、一瞬見たものをすべて記憶できるという劇的な記憶力を持つ人たちサヴァン症候群の人たちに共通する感覚がこの「共感覚」である。

これは、「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」と説明されるの現象である。

つまり、こういうことだ。

数字を見れば、数字ひとつひとつに特定の色が見えて絵が見える。音を聞けば、音の高さによって特定の色が見える。


共感覚が記憶の強化に結びつく

単語を見れば、単語の文字列の長さによって特定のイメージが湧く。数式を見れば、やはり数字の色と公式の形でよって特定の形が浮かんできたり、特定の味がする。

他にもいろんな「共感覚」があるのだが、そういった「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」感覚を持った人が世の中にはいて、それが記憶の強化に結びつくのだと言われている。

音を聞けば色が見えるのが、なぜ記憶の強化に結びつくのかと言うと、感覚を総動員してその音を脳裏に刻みこむことになるからだ。

たとえば、"aroy"という単語があったとする。これはタイ語で「おいしい」という意味のものだ。

これを覚えなければならないとき、「おいしい」という意味を単に記憶するのが普通の人の記憶方法だ。

しかし、「共感覚」を持った人は、"aroy"という単語を見た瞬間に舌においしいものを食べた感覚を蘇らせることができる。

共感覚を持った人は、おいしいものを食べたときにだけ聞こえる音もあったりするから、そんな音が聞こえる。

さらには、おいしいものを食べたときにだけ見える色もあったりするから、"aroy"という単語を見た瞬間に特定の色まで見える。

さて、あなたは"aroy"という単語を見た瞬間に、味を感じ、音を聞き、色を見るだろうか?

そんな感覚を持っていたら、それが共感覚を持っているということだ。もちろん、普通の人はそんな感覚など何も持っていない。

だから、"aroy"という単語を見たところで、何ら感慨も思い浮かばないし、ましてや何度覚えても忘れるし、覚えたことすらも覚えていない状態になる。

しかし、共感覚を持っている人は、たちどころにそれを記憶することができる。あまりにも「感覚が鋭敏」すぎて、「覚えざるを得ない」というのである。


音を聞くと、色が見える。音が色を感じさせる。
共感覚は、ある感覚が別の感覚を呼び起こす。


共感覚は天才の入り口

なぜ単語を見て、そんなたくさんの感覚が一度に感じられるのか、普通の人はまったく分からない。

「そんなたくさんの感覚が湧き上がったら、毎日疲れてしょうがない」と思うかもしれないが、どうやらそれは当たっている。

実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。

サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。

ここに1個のリンゴがあるとする。彼らの見ているリンゴは、私たちの見ているリンゴの数十倍にも数百倍にも拡大されたものであり、すべての感覚が総動員されて迫ってきているはずだ。

リンゴを見ただけで、味から色からイメージから喜怒哀楽まですべてが再現されていたら、たしかに共感覚も度が過ぎれば日常生活が送れなくなるのもうなずける。

もっとも、共感覚を持っていたからサヴァン症候群になったのか、それともサヴァン症候群だったから共感覚を持つのかは何も分かっていない。

自閉症は、その原因はまだ詳しく解明されたものではないようだ。しかし、興味深いものではある。

普通の人が、ほどほどにそのような共感覚を持っていたら、恐らく「天才」だと絶賛されるはずだ。

特定の日の曜日をたちどころに言え、一瞬見ただけの風景を書き起こすことができ、一度聞いただけの曲をピアノで弾くことができ、円周率を延々と暗唱することができ、複数の外国語を覚えることができるようになる。

共感覚は天才の入り口なのである。

よく、物を覚えるときは音読すればいいと言われる。これも共感覚を使った記憶になるからだと考えられている。

見て、それを声に出して、それを聞くのである。ただ黙読するよりも3倍の感覚を使っている。効果があるのは当然だ。


数字や数式に色がつき、味がつき、音がつき、イメージがつく。
共感覚は、数字を見ても何も感じない一般人には想像もつかないが……。


ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ

ところで、記憶とは何かを調べているうちに出会ったこの「共感覚」という言葉や現象をはじめて見た時、私は「ああ、あれのことか」と思いながら読み進めていた。

私は一般人であり「共感覚」など持っていないし、そんな能力の欠片もない。しかし、共感覚がどんなものだか知っている。

それが「共感覚」という言葉で表す現象だということを知らなかっただけで、実は共感覚というものがどんな感覚で、どうやれば手に入れることができるのか、知っているのである。

もちろん、あなたも「共感覚」を試してみることができる。

答えは"Lucy in the sky with diamonds"(ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ)だ。


自分の描いた絵の中の、川に浮かぶボートの中
タンジェリンの木と、ママレードの空

『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』はビートルズの名曲中の名曲だ。

この意味のわからない不思議な世界と、サイケデリックな映像を見ていると分かると思うが、これはいかにも「共感覚」を現している。

空には色があってマーマレード
女の子の目は万華鏡
空に女の子とダイヤモンド

この歌が歌われたのは1967年。アメリカではサイケデリック・ロックが盛んなときだった。


共感覚は、これで手に入れることができる

1943年の春。スイスのある研究所でアルバート・ホフマンという研究者が麦角アルカロイドについて研究していた。1938年、研究を進めていたホフマンは合成したこの薬をLSDと命名した。

LSDは期待された薬効成分としてあまり効果がなかったので一時的に研究は中止された。

しかし、改めて1943年にこの合成薬は取り出されて研究されることになった。

その研究中に、アルバート・ホフマンはこの薬を誤って自ら吸引してしまったのである。

途中で気分が悪くなったアルバート・ホフマンは研究を中止して、めまいがする中で休んでいたとき、「幻覚」が爆発した。

物が歪み、万華鏡のような光が渦巻き、幻想的な光景が次から次へと浮かんでは消えていく。

これに驚いたアルバート・ホフマンは、今度は幻覚を見るために、改めて自分を臨床実験にした。

最初の気分の悪さが消えると、そのあとから浮かんで来るのは「信じがたい多幸感」と「見たこともないような鮮明で、美しく、幻想的な世界だった」というのである。

LSDを摂取すると、ほとんどの人に現れるのが視覚の変容だ。光が幸せなシャワーのようになだれ込んできて、それが例えで言うと、まさに「万華鏡」の世界なのである。

Lucy in the sky with diamonds(頭文字はL.S.D)の空飛ぶ女の子ルーシーの目も「万華鏡」だと歌われている。

「LSD-幻想世界への旅」ではアルバート・ホフマンはこのように言っている。


視界は環状と螺旋状が開いては閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。

ここで注目して欲しい。「それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった」と書かれているのが分かる。

それぞれの音にふさわしい色?
それぞれの音にふさわしい形?

これはまさに「共感覚」であると、誰もが認めるはずだ。そうなのだ。つまり、LSDを取るだけで、「共感覚」を手に入れることができるのである。


枠を打開するためにLSD

結論から言えば、あなたが共感覚というものがどんなものなのかどうしても手に入れたいと思うのであれば、LSDを試してみればいいということになる。

これほど手軽で共感覚を手に入れることができる手段を他に知らない。LSDは規制され、違法となっているが、感覚を増幅させるパワーはあまりにも強烈過ぎるからだろう。

しかし、このクスリがまだ違法ではなかった1965年までは、多くの人たちがLSDを試して、その幻覚の素晴らしさに酔い、爆発的にLSDの幻覚音楽が生まれた。

このときの音楽をサイケデリック・ロックというが、音楽史上、これほど芳醇の時代はなかった。

まさに「共感覚」がそれを生み出していたので当然だ。

LSDを得て、共感覚を手に入れたミュージシャンは、まさにみんなまとめて「天才」にまで増幅されていたのである。

ミュージシャンには、マリファナも、LSDも与えられていたが、このふたつは幻覚や多幸感には必須なのだ。そして、一般の感覚に煮詰まったミュージシャンは、枠を打開するためにLSDを切望する。

LSDで共感覚を得たミュージシャンとそうでないミュージシャンの差は圧倒的に違う。

感覚が「共感覚」となって増幅されているほうは、もはや「音符に書き表せない」まで「超越」していく。

言葉ではよく分からないというのであれば、「音符を超越した音楽」、すなわち「共感覚」が産み出した音楽を「見て」ほしい。

アメリカ国家をここまで素晴らしく表現できるミュージシャンは、ジミ・ヘンドリックスの前にも後にも登場していない。

あなたは何も発言しないほうがいい

共感覚は普通を簡単に超えさせる。LSDは共感覚を生み出す。だから、結論から言えば、LSDを取れば誰でも簡単に共感覚が得られる。

知覚が変化し、感情が変化し、意識が変化し、視覚が変化する。LSDを取れば、あなたも簡単に常識を超えることができるのである。

ミュージシャンはその共感覚が音楽に活かせる。

あなたが、何に活かせるのかは分からない。もしかしたら、あなたの何らかの天才性は、LSDで常識を超えるかもしれない。共感覚が常識を超える感覚を現すのだから、そうなって当然だ。

今でも、LSDなどは、どこでも手に入るドラッグなのだが、いかんせん違法であり、逮捕されれば人生を棒に振ることになる。

アルコールで共感覚は得られない。共感覚どころか、感覚のすべてが「鈍感」になるだけである。鈍感になった感覚から素晴らしいものは生まれてこない。

LSDはその逆だ。強烈なまでの鋭敏な感覚、万華鏡のような多彩な光を得て、新しいものが生み出される確率が高い。

本当はアルコールを麻薬指定して厳禁とし、かわりにLSDを解禁すれば、共感覚を得た人たちが才能を爆発的に開花させるので文化をさらに深化させることができる可能性もあった。

共感覚を得るLSDは禁止された。
多幸感を得る大麻は禁止された。

そして、その代わりに「禁止されなかった」のは何だったのか。それは、酒とタバコだ。

感覚を鈍感にさせる酒は与えられた。
病気を引き起こすタバコは与えられた。

あなたは才能を伸ばすLSDを厳禁されて、かわりに鈍感になるアルコールが与えられている。アルコールならどこにでも手に入って、どんどんあなたの感覚を鈍らせる。

あなたは多幸感を得て治療薬にもなっていた大麻を厳禁されて、かわりに病気になるタバコが与えられている。タバコならどこにでも手に入って、どんどんあなたを病気にさせる。

なぜ国際社会や国家が、人々を愚鈍にさせる酒と病気にさせるタバコを許して、才能や多幸感を与えるLSDや大麻を禁止したのか分からない。

まるで、国民を天才にしたり、幸せな感覚を味わせるのは、絶対に許さないと叫んでいるかのようだ。

そして、人々はLSDも大麻も禁止されたので、自分が何を禁止されたのか、それを最初から知らない。

あなたが禁止されたのは、才能と多幸感だ。あなたが与えられたのは、鈍感と病気だ。

しかし、それに気がついても、あなたは何も発言しないほうがいい。それを指摘すると、「反社会的だ」「危ない人間だ」と後ろ指を指されることになる。
http://www.bllackz.com/2012/01/blog-post_5404.html

音楽は人々を陶酔に導くが、それはすなわちドラッグの性質だ 2013-07-23

古代のキリスト教が禁止していたものがある。それはリズム性のある音楽だ。

アフリカではリズムのあるパーカッションで陶酔(トランス)状態に陥る黒人たちの姿はキリスト教徒にもよく知られていたが、音楽は古代のアニミズムを呼び起こす仕掛けになっているとキリスト教徒は考えたのだった。

実は、それは間違っていなかった。

音楽というのは、もともと麻薬性・呪術的な要素がある。何の音楽を聞いても、感情は高揚していく。どの音楽で感情が高揚するかは個人の趣味や思い出に関わっているから特定することは意味がない。

ロックが好きな人はロックを聞いてエクスタシーを感じるだろうし、ベートーベンが好きな人はそれで激しくドージング(麻薬投与)のような症状に陥るだろう。

バリで集団合唱をする異様な伝統的舞踊がある。ケチャ・ダンスである。ケチャの様式もまたそのような「麻薬音楽」を視覚化したものだ。あれはトランスを呼び起こす。

音楽とドラッグは、強く結びついているものだ

アメリカの軍人にとっては、「アメリカ国歌」が最高の麻薬音楽になる。また、軍歌・マーチ・突撃ラッパなどが随所に利用されていて、人間の精神を変容させる。

この精神高揚をさらに高めるために、軍は本物のドラッグも兵士に与えている。アメリカ軍では、デキセドリンという覚醒剤が使われている。

さらに、他にも得体の知れないドラッグを数種類も与えているようだ。その薬物の種類は分かっていないが、覚醒剤と似たような効用があるという。

音楽とドラッグの融合で、兵士は無意識に好戦的になる。

突撃ラッパについては、アメリカが現在のアメリカ合衆国として成り立つ以前から、ネイティブ・アメリカンを殺戮するときに高らかに鳴らされていた。

日本国軍もまた軍歌を唱和させて精神的効用を与え、ヒロポンという本物の麻薬(メタンフェタミン)で兵士を操っていた。

特にカミカゼ特攻隊という自爆攻撃に向かわせる際には、ヒロポンは欠かすことのできない薬だったのだ。

音楽と本物のドラッグというのは容易に結びつくもので、アメリカの1960年代後半のカウンター・カルチャーの時代は、ほとんどすべてのヒッピーがドラッグを常用していた。

当時のミュージシャンは、サイケデリック・ロック、アバンギャルド・ロックと言われるジャンルにいた。

サイケデリックの根本は、LSDがもたらす幻覚を音楽化、視覚化したものだった。この世にドラッグ・ミュージックというジャンルがあるとすれば、まさにこの時代のロックがそうだ。


当時のヒッピー時代のミュージシャンは、そのほとんどがドラッグに手を染めて、陶酔(トランス)を独自に表現しようとしていた。


Janis Joplin - Ball & Chain - Monterey Pop
http://www.youtube.com/watch?v=X1zFnyEe3nE

ジャニス・ジョプリンの史上最高の名曲「ボール・アンド・チェーン」


ドラッグ・パーティーには、無法地帯が必要だった

グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン。

彼らは、すべてドラッグと音楽を融合させたミュージシャンだった。

ジミ・ヘンドリックスの代表曲と言えば、「ワイルド・シング」や「パープル・ヘイズ」だが、紫の煙とは何を指すのか。それはマリファナの煙だとみんな知っている。

ウッドストック・フェスティバルでは、マリファナもLSDも大量に出まわって、麻薬文化を後押しした。

ベトナム戦争では兵士がデキセドリンを与えられて狂ったようにベトコンを虐殺している間、アメリカ本土ではヒッピーたちがマリファナやLSDを消費していたということになる。

やがてヒッピー・カルチャーは、ドラッグ乱用で失速していくことになる。

ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンは麻薬に溺れて若くして死んで行き、LSDに狂っていたチャールズ・マンソンがシャロン・テートを殺害して、ヒッピーカルチャーはゆっくりと自壊の道を辿った。

しかし、一部のヒッピーは麻薬における精神世界から抜け出ることを拒否した。

そして当時、ドラッグ大陸だったインドや東南アジアに目をつけて、ヒッピーの共同体をそのまま、インドのゴアやタイのサムイ島に持ち込んだ。

ゴアもサムイ島も、今と違って昔はアジアの辺境だった。ヒッピーの共同体とフリー・パーティ(ドラッグ・パーティー)には、無法地帯が必要だ。

アジアの辺境は、それに相応しい場所だったと言える。


ジミ・ヘンドリックス。ドラッグ文化を象徴する屈指のミュージシャンであり、今も時代を越えてその音楽性がリスペクトされている。


PURPLE HAZE JIMI HENDRIX LIVE AT MONTEREY POP FESTIVAL 1967
http://www.youtube.com/watch?v=JhI6EImeY_s

ジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」。このラフなスタイルとパフォーマンスは、後のロックに大きな影響を与えた。


音楽の歴史はドラッグの歴史。音楽こそがドラッグだ

1980年代でも東南アジアの辺境でヒッピー文化が味わえた。そこはまるで、無法地帯だった。

(コ・サムイ。かつてドラッグとセックスの無法地帯だった島)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120127T1808020900.html


あの頃のサムイ島では、まるで時代が止まったかのように、CCRやジミ・ヘンドリックスがかかっていたのを今でもよく覚えている。

誰も彼らのサウンドをドラッグ・ミュージックとは言わなかったが、ドラッグがつきものだったのは誰もが知っていた。

なぜなら、その音楽はドラッグから生まれ、ドラッグの陶酔の中で聴くためにあったからだ。

そして、ディスコ時代、MTV時代、クラブ時代へと変遷する中でコカインが長らく使われ続けていたが、やがて主流に踊り出てきたドラッグがエクスタシーだった。

音楽のリズムに合わせるように首を振るとエクスタシーに導かれるので、中国では揺頭(ヤオトウ)とも呼ばれた。

エクスタシーは、1990年から地道に勢力を伸ばしていて、今やこのドラッグがもっともメジャーなのではないだろうか。

少なくとも東南アジアでは手に入るドラッグの中で、エクスタシーが一番の人気だ。現代社会には音楽は生活に欠かせないものになっているが、エクスタシーは音楽と親和性が高く、それゆえに好かれ続けている。

信じられないが、ドラッグを所持しているだけで死刑になるシンガポールでさえ、売春女性がエクスタシーを持っている。

エクスタシーはエクスタシーで陶酔したいというよりも、それで音楽を陶酔に結びつけたいという種類のドラッグであり、音楽が欠かせない。

マリファナも、レゲエと深く結びついている。レゲエはマリファナがないとその精神性を理解できない音楽でもある。

(マリファナは武器ではない。ボブ・マーリーが訴えていたこと)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130405T0110230900.html


こう考えると、音楽の歴史はドラッグの歴史であることが見えてくるはずだ。

ドラッグの代用ともなる陶酔(トランス)を表現しない音楽、ドラッグを知らない音楽家は、人の心を陶酔に結びつけることがないということなのかもしれない。

逆に言えばこうだ。音楽こそがドラッグなのだ。

それを分かっていないミュージシャンは、音楽の本質を知らない「まがいもの」であると言われても仕方がない。

Bob Marley - Get up, stand up 1980
http://www.youtube.com/watch?v=F69PBQ4ZyNw

ボブ・マーリーの名曲「Get Up, Stand Up」。「牧師さんよ、天国が地面の下にあるなんて言うなよ」と痛烈に宗教を批判する。このトランスの中での宗教批判の意味が、あなたには分かるだろうか。これが、かつてのキリスト教徒が恐れていたものだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130724T0012200900.html


19. 中川隆[-11889] koaQ7Jey 2018年5月04日 07:51:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13084]

Innocent Key 音質と過渡応答と残留ノイズの関係
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087

ざっくりとした経験則なのですが、100kHz程度までの信号過渡応答を保つこと、音声帯域を超える領域を含めた全帯域でのランダムノイズを極限まで減らすこと、この2つが特に音質の確保のために重要のようです。

一般論として人間の聴覚は上限20kHzと言われています。サイン波での測定では確かにその通りです。それ以上の高周波は普通に音として聞くことが出来ないということになっていますし、自分自身もサイン波は16kHzくらいまでしか聞こえません。

しかし可聴帯域外に含まれている高調波成分の違いが不思議な事に人間は感じ取ることが出来ており、実は聴覚の限界よりずっと高い周波数を何らかの方法(耳以外の感覚器官の影響も?)で捉えることが出来るように思えます。

たとえばDACの矩形波応答をアナログフィルタで調整すると音は変わって聞こえます。ここで変化が起きている帯域は明らかに20kHz以上の領域なのですが音は変わります。音声信号以外の残留ノイズも同様で100kHz以上の残留ノイズをカットすることでも質感が変化したりします。

オーディオでは実は20-20kHzの挙動だけではなく、もっとずっと高周波まで含めた成分を考慮することも重要だと考えます。一般論とは異なり人間は1MHz以内くらいまでの挙動は音の差として判別できる可能性があるようです。

帯域外ノイズの影響

では上記のように遥かに高い周波数領域の違いを人間がそのまま感じ取ることが出来ているのでしょうか?体感上はそのような帯域でも音質に影響を与えている可能性について書きましたが、それを裏付けるような資料もあります。

ここで指摘されているのはRF(ラジオ周波数)領域の半導体の挙動尾についての話です。この資料によると帯域外ノイズであっても低周波への影響は観測上無関係ではない可能性があることを示しています。

高周波雑音によるアナログICの誤動作に関する研究
http://repo.lib.nitech.ac.jp/bitstream/123456789/433/1/ot0167.pdf

この資料が指摘するように高周波がDCになってしまう現象が起きるとしたら、DCだけではなく低周波のノイズへと変換されることもありえると思います。なぜならRFノイズの変動によって変換されたDCレベル自体も変動すれば、それは低周波の変動となり、揺らぎ方次第では可聴帯域内周波数へのノイズへ変化するかもしれません。

もともとは超高周波のノイズだったものが音声帯域のノイズへと実は変換されて現れる=高周波領域の挙動を聞き取ることが出来る、という可能性もあるわけです。

実際に実験した体感上でも可聴帯域のはるか外であっても現実的には音質へ大きな影響を与えていると感じています。ですがこの資料を見るとその原因は上記のような半導体の性質にありそうです。

「人間がMhz以上の超高周波を聞きとれている」というちょっと怪しい話ではなく、半導体によって高周波ノイズが低周波へ変換されてしまっているとしたら、高周波領域のノイズ差も直接音質に影響を与えることは実は一般的な現象だと言えそうです。

これがどうオーディオに影響するか?といえばたとえばDACの残留ノイズの問題や、ディスクリートとオペアンプの違いに影響があるように思えます。

はっきりとした根拠があるわけではないのですがICオペアンプの音が悪い理由とも何か関係があるような気がします。素子の数が多いほど高周波ノイズを低周波ノイズに変換している等。また超シンプルなディスクリート回路が特性が最悪でも意外と音が良い理由等。

DACの残留ノイズは特にデルタシグマDACは良くないって通説にも繋がりそうな話です。ノイズシェーピングは後段にノイズの影響を与えないならば最良ですが、今回の話を参考にするなら現実的にはそううまい話ではないという話になります。DACにトランスをつけると音が良いという話がありますがトランスは半導体ではないのでノイズが変換されない&帯域が制限される=音質が良いということにもなりそうです。マルチビットDACとデルタシグマDACにトランスを付けてトランスの有無の音質差が気になります。

バランス入出力のピン1問題

意外と見過ごしているかもしれないポイントです。要するにバランス端子のホット、コールド(ピン2-3)以外の部分。シールドとシグナルGND(ピン1)の処理についての考え方です。

こちらはよくあるピン1を信号のGNDとして扱う図ですがこの図は良くないということのようです。

AESではこちらの接続を推奨しているようです。違いがわかりますか?基板上のシグナルGNDをピン1に接続するかどうかが最大の違いです。ピン1を基板のGNDに接続するかわりにケースをピン1に接続、そしてケーブルシールドもピン1と接続します。

考え方としては、バランス信号はホットとコールドで完結しており、それ以外はシールドとして接続するということになります。ケースもシールドですからピン1はケースとケーブルシールドと同等とみなせます。

このピン1を基板上のGNDに接続するとハムの原因になったりシールド経由の外来ノイズが基板に流入したり、各種ノイズ問題の原因になることがあるそうです。

詳しくはリンク先を見てください。

http://www.rane.com/note110.html

Bruno Putzeys氏による文献

だいぶ前から紹介しようと思っていた文献です。正直英語がよくわかる方は下のPDFを直接見てもらうと良いと思います。結構重要な内容だと思います!わかりにくいところは補足もいれています。もちろん自分の解釈も完全じゃないかもしれません。ですが何らかの参考になればと思います。

https://www.hypex.nl/img/upload/doc/an_wp/WP_The_G_word.pdf

実は上記バランス端子のピン1処理の方法についてもこの文章内に記載がありますが、ここで紹介するのはそれではなくバランス回路とGNDの考え方についてです。結構重要な考え方ですし、面白い回路も記載されています。興味があれば原文を見ることをおすすめします。

http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087

この写真には本当に間違ったことがあります。見えますか?あなたがそれを見つけられるかどうか見てみましょう。ここには何がありますか?この図の出力信号は何ですか?私たちは魔法のユニリード電圧計をもう一度出ますか?私たちはこれについて真剣に考えなければなりません。すべての信号は2本のワイヤです。二つを描きなさい。

よくあるオペアンプの回路ですが、これだと「差動信号」の考え方としては不十分ということでしょう。

http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087

それははるかに良いです。我々はスイングに入っている。この回路が行うことは、入力電圧をRf / Riで増幅し、オペアンプの出力ノードとRflが接続されている基準電位との間の電圧を発生させることです。
これはどのように動作するのですか:

Fig9と同じ回路ですが、この書き方のほうがより「差動」を意識した考え方です。

http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087


これは、差動増幅器を見る別の方法を提供する。 これは参照トランスレータです。 これは浮遊電圧源のようなもので、好きな場所で参照することができます。 しかし、ここではショックを受けています。逆変換バージョンを構築できる限り、任意の回路に参照変換機能を追加することができます。

うーん、翻訳ではよく意味がわからないですね。分かる人にはわかるかもしれませんがかなりわかりにくい感じです。なので個人的解釈による補足を追記します。

まず入力と出力の電圧信号リファレンスがそれぞれどこになるかを示した図で、入力信号はGNDを基準とした信号としてアンプに入力されますが、Out-で図のように1Vが接続されるとオペアンプの動作によってOut+も1Vになります。

しかし普通のアナログオーディオの回路図ではどちらもGNDで設計することが多いと思います。しかも1V側の端子はFig9のように入力側に近いGNDとして描かれることが多く、Out-出力であると考えることは少ないかと思います。

実際の基板ではどちらもGND点に接続しますが、実は現実の配線では離れた場所にある点が基準となる可能性が高いわけです。現実のOut-側GNDは理想的なGNDではなく抵抗を持つ配線であり、入力GNDと個別に変動しているとみなせます。そうすると図のようにOut+に入力信号と無関係なGND変動が乗ってしまうということです。

ベタアースでも理想GNDではないので場所が離れていれば変動する可能性はありえます。

そしてここではOut-を入力側GNDではなくて差動出力として考えていることが重要です。差動なら後段回路で変動をキャンセルできる可能性があります。逆に差動信号という考え方が不十分だった場合は、Out+に乗った変動は永遠に除去できないノイズ信号です。

http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087


Fig11で色々書きましたが、動作をよく理解している方からしたら次の説明のほうがより正確で分かりやすいかと思います。

もともと、 “グランド”と呼ばれるあいまいなノードに結ばれていたノードは、オペアンプの入力をコモンモード信号で過負荷から保護する必要がなければ、どこにでも接続する必要はありません。その場合、実際の場所はオペアンプのデカップリング・キャップの近くのグランド・プレーン上にあります。これは暗黙的にオペアンプのHFリファレンスであるためです。理想的には、この点から差動出力電圧へのフィードスルーはゼロです。そのために自由度があります。

これで適切な差動ペアができました。 1本のワイヤはオペアンプによってアクティブに駆動され、2本目は低インピーダンスのタイによってグランド・プレーンに受動的に駆動され、ほとんどどこでも作成できます。重要なことは、トレース全体がこのような接続を1つしか持たないため、このように変換された次の段階では、フィードバックネットワークと同じノードペアの間で入力が行われることです。磁気ピックアップを最小限に抑え、容量ピックアップのバランスを取るために、常に信号を2本のワイヤーとして配線します。第2のワイヤが別のネットとして扱われることをPCBレイアウトソフトウェアが理解できるようにするには、ゼロオーム抵抗を介してパッシブドライブ接続を行う必要があります。それでもある時点でGNDと呼ばれるものに電気的に1点で接続されています。

http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087


このプリアンプを構築する場合は、2つを作成してください。 そのようにして、ボリュームコントロールのA / Bスイッチとして2番目のプリアンプを使用して比較することができます。 高価なハイエンドプリアンプ(ユニティゲインに設定)、この小さなプリアンプ(これもユニティゲイン)、それとソースへの直接接続。 2つのプリアンプの出力のどれが入力信号に最も似ているかを聞きます。 あなたははっきりした経験をするかもしれません。

これは上記の話を応用したプリアンプの例です。非常に面白い回路だと思います。多分MolaMolaのプリアンプはこの回路を使っているのでしょう。時間があったらこの回路にもチャレンジしてみたいです。おそらくですがほとんどの電子ボリュームを使ったプリアンプよりも優秀じゃないかと思います。

でもこれだけで完璧でしょうか?そうは思いません。

今回の話はアンプの動作や部品が理想的で完璧な場合にのみ成立する話だと思われるので、一部には机上の理論でしかない側面も持ち合わせていると思われます。それはまさにこのページの一番上で紹介した帯域外ノイズやアンプのRF動作の問題も含まれるでしょう。

なので現実には理想から遠い部分をどうやって実装上でカバー出来るかが重要となると思います。このまま適当に作ってもよくある電子ボリュームキットよりは良いでしょうが、それだけでは真のハイエンドクオリティにはならないと予想します。

MolaMolaの製品はそういう対策を含めた付加価値を載せていて、その部分で絶対の自信があるからこそ、このような基礎技術を公開しているものと思うべきでしょう。誰にでも真似ができるならmakuaのような高額製品には価格に見合う価値はないと思います。

しかし回路だけ真似しても音質は同じにならない。だからむしろプリアンプの回路を公開してしまう。これはBrunoからの挑戦状のようなものかもしれません。
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=8087


20. 中川隆[-12002] koaQ7Jey 2018年5月04日 20:39:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13225]

人間の聴覚と音質について - Innocent Key
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


このような資料を見つけました。コード社の資料ですがなかなか良く出来ています。最も先進的で個人的な経験とも一致する箇所が多い内容です。もちろんすべて同意ではありませんがここ近年でみた資料のなかではもっとも同意できる内容の多い資料だと思いましたので、同意できる部分についてのみですが、ここで紹介しておきたいです。

hugo_technology.pdf

ただし元の資料は当然ながらフル英語なのでかなり意訳というか自分の勝手な解釈による文章と、分かる範囲で個人的経験からの捕捉を追加しています。後半は持論の展開になりますので、原文の正しい解釈を求める方はそのまま原文の資料を御覧ください。

元はパワーポイントのファイルだったので原文はこちらでPDFにコンバートしておいておきます。


音の知覚

•既存の音響技術は単純な耳のキャパシティ(20-20kHzなどの聴覚の限界やスペック?)をもとにした測定値で評価されます。たとえば聴感補正された歪率やSN比です。

•画像認識では目から入るデータは10%で残り90%は脳内処理によるもので、オーディオでも同様です。

• 我々は個別の音を知覚しますが、これは耳からではなく脳から来ています。

• それらの分離した音は3次元空間に配置され、これも脳の処理によります。

• どのように個別の音を脳が分離しているかについての科学はまだ未発達であり、脳がどのように処理しているのかは乏しい理解しか持っていない。


ここで出ている話についてですが、たしかにオーディオ、いやこれは音楽制作のほうが個人的に経験が多いのでこちらで例えてしまいますが、非常に同意できる内容が多いです。耳の訓練によって聞こえる音=認識できる音の質と量は全く別物のように変わっていきます。それは脳の処理によって獲得された情報なのかもしれません。

たとえば音楽制作では音程やスケールの認識、コード進行、パート編成、音色、それらを組み合わせた楽曲の意図を正しく理解し、さらに表現するためには相当の訓練が必要です。音楽のエンジニアリングでもEQやコンプによる音の変化、そこからミックスやマスタリングへの応用、意図的な音づくり等、どちらも何年にも及ぶ訓練が必要な世界です。そして聞こえなかった音が聞こえる=認識できるようになるという経験は常に自分自身の成長とともにありました。

これはオーディオでも同じで部品や音質差の聞き分け精度は訓練で向上します。聞こえなかった音は頑張ればだんだん聞こえるようになるはずです。(もちろん自分自身も聞こえていない音がまだまだあるはずです)

そして現状では体系的な音質についての研究は進んでおらず、世間では音質議論そのものがヘタしたらオカルト扱いです。そもそも未だに従来の単純な測定スペックでしか評価ができないオーディオ機器の現状があります。見かけのスペックと音質の相関関係は事実上ほとんど崩壊しているのですが、そのような事実に対して納得の行く説明が未だにつかないのが現実です。

この資料で指摘しているのは、このような従来の指標のみではまったくオーディオ機器の性能を評価することは出来ないし、従来の常識に不足していることが多いということを訴えたいのでしょう。これはもちろん測定が無意味という意味では決してなくて測定には限界があるというのが重要な捉え方です。

バーでこのシーンを想像してみて


http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

•あなたは楽器を別々に認識できます。

•あなたは誰かが隣で話している内容を理解できます。

•あなたは3次元空間で2つの音がどれくらい離れているか、実際の配置、高さ、左右、奥行きを認識できます。

•あなたが後ろに3メートル下がったとき、バンジョーはより遠くに聞こえます。それが20メーターならばその深さで感じ取れます。

•脳はそれらすべての処理と計算をリアルタイムで行います。

•科学は人間の脳が行うこれらの詳細な方法についての理解を持っていません。

•まだこの処理ができるように設計されたコンピュータはありません。

•そして私たちは当たり前のようにそれができます!

この話はまさに測定器と人間の感覚の違いを示しているように思います。個人的に思うオーディオでの音質差でこの内容が妥当だと思う根拠はノイズフロア内に埋もれた情報を聞き取ることが出来るという経験です。従来の学説ではそれは不可能ということになっていますが、オーディオ開発における経験ではそのような従来の説は完全ではないように感じています。

それはちょうど上記で言う、沢山の人や楽器の存在する実際の空間で、さらに反射音が複雑に絡み合っている環境で音を聞く例を使うと確かにうまく説明ができます。コンピュータや測定器がそのような環境で、どのような楽器がどんな曲を流しているのか、そしてまわりにいる誰が何を話しているかそれらを同時に全て認識することが出来るのかという話です。しかしそんなことはまず不可能です。人間でも母国語であれば騒音の中でも脳内補完で理解が出来ますが、それが聞き慣れない方言や覚えたての外国語だったら途端に聞き取れなくなってしまいます。

このように人間の聴覚は訓練に獲得された脳内処理によって成り立っており、単純なセンサーではないという話はそのとおりです。そして学習内容は人によって癖がありますから、オーディオにおける印象の個人差はそれらの経験の差によって方言のように生じていることでしょう。これがオーディオにおける評価の難しさではないかと思います。


ノイズフロア変調

•音楽信号に合わせてノイズが増減することは、ノイズフロア変調を生じます。

•耳と脳はこの問題に非常に敏感であり、それは脳が個々の実体へ音を分離するのを妨げます。

•リスニングテストは測定可能以下のレベルにあるノイズフロア変調に対する感度を示しました。

•ノイズフロア変調は音を明るく、固く、攻撃的にします。それは楽器の分離とピントを悪化させます。ノイズフロア変調を減らすことはなめらかさ、ピント、品位を改善します。それはより自然な音です。


ノイズフロア変調という意味はよくわかりませんが、この部分で述べられている実験結果は当サイトの基本的価値観である「音質=分離の良さ」と同じだと考えると、個人的な試行錯誤の経験と直接関係している内容です。特に測定限界以下にあるノイズフロアの成分変化=音質の変化というのは経験的にも確実にありました。

例えば当サイトで主張している電子ボリュームやアナログボリュームによる音質劣化、抵抗の音質差などがまさにこれに当てはまります。これらの熱雑音は音の分離を即座に確実に奪います。このようなランダムノイズは非常に音質にとって害のあるものです。しかしその変化は測定限界以下、ノイズフロア以下での変化でしかありません。そのような違いは認識不能ではないのです。ですがそこまで害があるようにはまだまだ主張されていないように思います。

たとえば100Ωと10Ωの違いなんてノイズレベルで言えば相当微小な差ですがそれでも耳で聞けば違いがわかります。実際にはそれよりずっと大きなノイズ要因を残した状態であっても、ずっと微小領域のノイズ源を除去したときにその違いはちゃんと聞こえるのです。これはノイズに埋もれた音は認識できないという俗説と反しています。たとえばノイズの多いオーディオ機器でも電源ケーブルや中の部品を変えたら音の違いがわかるという話です。それらの違いは完全にノイズに埋もれている超微小領域の差のはずですが、人間にはそれがわかるのはこのような耳の特性があってこそです。このような大きなノイズに埋もれた微小領域のノイズの差は測定することが不可能な領域ですが、音質にとっては違いが出てしまうのが事実です。この領域の精度はおそらく認識に個人差がありますがそれは訓練の多寡によるものでしょう。

上記のバーでの例えから見てみますと、人間の耳はノイズの中での特定の微小音を認識、特定できるように作られているようです。その理由はモガミ電線の方も書いていましたが、生命の進化の歴史に根拠があると思っています。たとえば風の音や水の音等さまざまな音が存在する自然界で天敵に襲われるときの状況を考えてみます。そのようなシチューエーションで外敵の存在を聞き分ける能力の有無は直接死活問題だったのでしょう。

このような特定の微小ノイズは測定限界以下の領域での変化であっても耳にとっては大きな影響があるということ…それはChord社も同様の見解のようです。ただし私自身は何でもノイズフロアを極限以下に持っていくことだけが重要という考えより、音質を悪化させる特定の要因に注目してそのような成分を減らすことが重要だと思っています。音質にとって害にならない=脳で分離処理できるノイズ成分はオーディオでは実はあっても構わないとも言えます。ですが測定器では害のあるノイズかそうでないかは区別が出来ません。測定器の単純なノイズフロアだけでは音質は評価できない可能性はあります。もちろん測定上でノイズフロアが極限に低ければ悪質なノイズも少ない可能性が高いというのは正しいです。逆にノイズフロアだけ低くても害のあるノイズばかりなら同じスペックの機器より音が悪いというのもありえます。

経験的に害のないノイズ、問題になりにくいノイズは振動とか電源の残留リップルとか歪成分とか発振波形も大丈夫のようです。これらの共通点は特定の周波数に依存している成分です。何らかの相関性があるノイズは耳で分離が出来る=これらは空間を埋めたり音を消したりしない(限度問題ですが…)ことが多いです。たとえばカップリングコンデンサの音質変化なども振動起因だと思っているので、こういうノイズは積極的に音作りに利用しても良いのではと思います。実際にハイエンドメーカーの設計を見てもコンデンサだけはそういう使い方を見かけます。ですが抵抗や半導体の発する完全なランダムノイズは音質の分離を即座に悪化させるので、出来るだけこういうノイズの発生を防ぐことが高音質への道、それがオーディオ開発での重要なポイントになるでしょう。

Chord社の主張するインターサンプルのタイミング精度について

私はChord社の主張しているタイミング精度の重要性、長大なFIRフィルタの必要性については同意していません。その理由を画像を使って説明したいとおもいます。もちろん画像と音声は性質が違うので単純比較は出来ませんが、ひとつの例えと思ってください。しかしこの例えではFIRフィルタの優位性はそこまで大げさな正当性があるのかどうか疑問という要点はなんとなく伝わるのではと思います。


オリジナル(生音)
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

まずアナログの原音がこれだとします。この時点では情報量がめいいっぱいあるとします。

44.1kHz NOSのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


こちらは44.1kHzで収録されたデジタルデータのイメージです。この時点で情報はすでに失われてしまっています。NOSの場合はデジタルのカクカクをそのまま再生するのでこのようなイメージになるかと思います。


FIRフィルタのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


こちらはFIRフィルタのイメージ画像です。この画像自体はバイキュービックというフィルタですが、FIRフィルタに似ている特性のフィルタです。

ここで重要なのはNOSもFIRフィルタも元画像に近づいているわけではないということです。Chord社の主張はこのFIRフィルタの精度を高めるほど元のタイミングに近づくと主張しているようですが、実際には失われた情報は元に戻るわけではないのは画像で例えるとよりわかりやすいように思います。特に国内ではNOSがベストと主張するタイムドメイン派の存在もありますので両者の主張は真っ向から対立することになってしまいます。

ではどちらが正しいのでしょうか。

正直画像から優劣を判断するとしたら、元の画像(音源)の傾向によってフィルタが合う合わないは変わる=フィルタ自体に絶対の正解は無いのではないかというのが本当の答えのように思います。どちらにせよ決して元のデータに戻るわけではないなら、音源に合わせて好みに応じて選べるのが一番良いのではないでしょうか。

性質が違うとはいえ画像でこういう例えが成立してしまう以上Chord社の主張するフィルタの重要性は正しいのかかなり疑問に思っています。自社のFPGAが完全独自技術で超長大なFIRを使えることが既存メーカーに対する数少ない優位性なのでこのような主張をしているように考えてしまいますがどうでしょう?

Hugo等の高音質はこのFIRフィルタの長さによるタイミング精度の向上より、内部処理のハイサンプル化により内部SN向上と外部フィルタ回路を大幅に簡略化出来たことによる恩恵が殆どであって、実はフィルタはそれほど音質に貢献していないのではないかと考えてしまいます。実際彼らの言う貧弱なフィルタしか搭載していない典型的な既存DAC-ICであるAK4495でもHugoの音質は超えられました。この事実は彼らのフィルタの絶対的優位性の主張は完全ではない=音質にとって最重要な要素ではないことを示していると思います。

ついでですが、画像で例えるなら多分DSDはこんなイメージです。RGB各単色+ノイズによる拡散ですがそのかわり解像度は高いイメージです。もちろんハイレゾになればPCMもDSDよりも多くの情報量を持つことが出来ますので、この画像比較だけでDSDが良いっていう話じゃありません。あくまで一例なので厳密には違います。

DSDのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

関係するかもしれない話

追記で面白い話なのでリンクを貼っておきます。人間の認識能力の限界は予想よりも高そうです。生まれつき持っていない感覚を補うことが出来る能力が脳にはあるようです。これをみると脳が世界を見せているという話もますます信ぴょう性が高まります。


人間に新たな感覚を作り出すことは可能か?
David Eagleman / 青木靖 訳 2015年3月 (TED2015)
http://www.aoky.net/articles/david_eagleman/can_we_create_new_senses_for_humans.htm
https://www.ted.com/talks/david_eagleman_can_we_create_new_senses_for_humans?language=ja


私たちの体はとても小さなものからできていて、すごく大きな宇宙の中にいるわけですが、そのようなスケールの世界を私たちはあまり上手く把握できません。私たちの脳は、そういうスケールで世界を理解するようには進化して来なかったからです。私たちの認識はむしろ真ん中のほんの薄い領域に捕らわれています。さらにおかしなことに、私たちが自分の居場所と思っているその薄い領域においてすら、私たちは起きていることの多くを見てはいないのです。

たとえば世界の色を例に取って見ましょう。これは光波で、物に反射した電磁波が目の後方にある専用の受容体に当たることで認識されますが、私たちはすべての波長を見ているわけではありません。実際私たちが見ているのは、全体のほんの10兆分の1にすぎません。だから電波やマイクロ波やX線やガンマ線が今まさに体を通り抜けているにも関わらず、まったく気付かないのです。それを捕らえられる感覚受容体が備わっていないからです。何千という携帯電話の会話が今まさに体を通り抜けているというのに、それがまったく見えません。

そういったものが本質的に見えないという訳ではありません。ヘビに見えている世界には赤外線の一部が含まれているし、ミツバチが見る世界には紫外線が含まれています。そして私たちの車のダッシュボードにはラジオ周波数帯の信号を捕らえる機械があるし、病院にはX線領域の電磁波を捕らえられる機械があります。しかし私たち自身はそういったものを感じ取ることができません。少なくとも今のところは。そのためのセンサーを備えていないからです。

それが意味するのは、私たちの体験する現実は生物としての肉体に制約されているということです。私たちの目や耳や指先は客観的な現実を伝えているという思い込みに反して、実際には私たちの脳は世界のほんの一部をサンプリングしているに過ぎないのです。生き物の世界を見渡してみれば、異なる生き物は世界の異なる部分を見ているのが分かります。視覚も聴覚も欠くダニの世界で重要となるシグナルは温度や酪酸です。ブラック・ゴースト・ナイフフィッシュの感覚世界は電場で豊かに彩られています。エコーロケーションするコウモリにとっての現実は空気圧縮波から構成されています。それが彼らに捕らえられる世界の断片なんです。

科学でそれを指す言葉があって、Umwelt (環世界)と言います。「周りの世界」という意味のドイツ語です。どの生き物もきっと自分の環世界が客観的現実のすべてだと思っていることでしょう。立ち止まって自分の感覚を越えた世界があるかもしれないなどと考えはしません。自分に与えられた現実をみんなただ受け入れるのです。

ひとつ意識喚起をしましょう。自分がブラッドハウンド犬だと思ってください。世界の中心にあるのは「におい」です。2億という嗅覚受容体を備えた長い鼻を持ち濡れている鼻孔はにおいの分子を引き寄せて捕らえます。鼻孔には切れ目さえあって、鼻いっぱいに空気を取り込むことができます。犬はすべてをにおいで捕らえます。ある日ふと気づいて足を止めるかもしれません。そして飼い主の人間を見上げて思います。「人間みたいに貧弱で情けない鼻を持っているというのはどんなものなんだろう?」(笑)「空気をほんのちょびっとしか取り込めず、たった百メートル向こうに猫がいることや、お隣さんが6時間前この場所にいたことさえ分からないというのは?」(笑) 私たち人間はそのようなにおいの世界を体験したことがないので、そのことを特に残念とも思いません。私たちは自分の環世界にすっかり馴染んでいるからです。しかし私たちはずっとそこに捕らわれているしかないのでしょうか?

私は神経科学者として技術が私たちの環世界を拡張できる可能性や、それが人間としての体験をいかに変えることになるかに興味があります。技術を生物的な肉体に組み込みうることを私たちは知っています。何十万という人が人工的な聴覚や視覚を使って歩き回っています。その仕組みはマイクを使って信号をデジタル化し電極を直接内耳に繋ぐ、あるいは網膜移植なら、カメラを使って信号をデジタル化し格子状の電極を視神経に直接繋ぎます。15年前という比較的最近まで、そういった技術はうまくいかないと考える科学者がたくさんいました。なぜならそういった技術が話すのはシリコンバレーの言葉で、それは生物的感覚器官の言葉とは違っているからです。しかし実はうまくいくんです。脳はそういった信号の使い方をちゃんと見つけられます。どのようにしてか?

実を言うと、脳というのはそういったものを見も聞きもしてはいないのです。脳は音も光もない頭蓋骨の中に収められています。脳が見るのは様々なケーブルから入ってくる電気化学的な信号だけです。脳が扱うものはそれだけです。脳というのは、そのような信号を取り込んでパターンを抽出し意味付けを行うことに驚くほど巧みで、この内的な宇宙からストーリーをまとめ上げて、皆さんの主観的な世界を作り出しているんです。ここで鍵になるのは、脳というのはそういうデータがどこから来ているのか知らないし、気にもしないということです。何であれ情報が入ってきたら脳はその使い方を見つけ出すのです。脳というのとても効率的な機械です。それは基本的には汎用計算装置で、どんなデータに対してもどう使えばいいか見出すことができ、 母なる自然が様々な入力チャネルを作り出す自由を生み出しています。私はこれを「進化のPHモデル」と呼んでいます。ここではあまり専門用語を使いたくありませんが、PHは「ポテト・ヘッド」の略です。この名前を使っているのは、私たちがよく知り気に入っている感覚器というのは目にせよ耳にせよ指先にせよプラグアンドプレイの周辺装置に過ぎないことを強調するためです。差し込むだけで準備OK、脳は入ってくるデータの使い方を見つけ出します。

動物の世界を見渡すと、様々な周辺機器が見つかります。ヘビには赤外線を感知するピット器官があり、ブラック・ゴースト・ナイフフィッシュには電気受容器があり、ホシバナモグラは鼻先の22本の突起を使って周囲を探って世界の3次元モデルを作り出し、鳥類の多くは磁鉄鉱を備えていて地球の磁場を感じ取れます。これが意味するのは、自然は脳を再設計し続ける必要はないということです。脳機能の基本が確立されたなら、あとは新たな周辺装置のデザインだけ気にすればいいんです。それが意味するのは、我々に備わる器官は別に特別で根本的なものではない、ということです。進化の長い道のりで受け継いできたものというに過ぎず、我々はそれにしがみついている必要はないのです。

そのことの良い例として「感覚代行」と呼ばれる現象があります。これは通常とは異なるチャネルを通じて脳に情報を送るということで、脳はその情報をどうすべきかちゃんと見つけ出します。空論に聞こえるかもしれませんが、これを実証した最初の論文が1969年のネイチャー誌に出ています。ポール・バキリタという科学者が、改造した歯科用椅子に盲人を座らせ、ビデオカメラを設置してその前に何か物を置き、被験者はその映像を格子状に並べた筒型コイルによって背中で感じるようにしました。だからコーヒーカップをカメラの前で動かすとそれを背中に感じるわけです。盲目の人たちは背中の小さな部分の刺激からカメラの前にあるものを驚くほど正確に言い当てられるようになりました。

その後これをより現代化したものがいろいろ現れました。「ソナー眼鏡」は目の前にある物の映像を音の風景に置き換えます。物が近づいたり遠ざかったりすると「ジジジジジジジジジ」と音がします。雑音みたいですが、何週間かすると盲目の人はその音をたよりに目の前に何があるかを非常に良く把握できるようになります。これは別に耳を使う必要はなく、こちらのシステムでは格子状の電気触覚を額に貼り付けて目の前にあるものを額で感じ取ります。なぜ額かというと、他に大して使う用がないからです。最も新しい例はBrainPortと呼ばれるもので、小さな電極の格子を舌に付け、ビデオ映像を電気触感信号に変換します。盲目の人はこれを驚くほどうまく使うことができ、ボールをカゴに投げ入れたり複雑な障害物コースを通り抜けたりできるようになります。舌で見るようになるんです。

突拍子のない話に聞こえるかもしれませんが、視覚は脳の中を流れる電気化学的信号でしかないということを思い出してください。脳はその信号がどこから来たのか気にしません。単にそれをどう使ったらよいか見出すんです。

私の研究室で関心を持っているのは、聴覚障害者のための感覚代行です。ご紹介するのは私が大学院生のスコット・ノーヴィックと一緒にやっているプロジェクトで、彼は博士論文に向けてこの研究を主導しています。私たちがやりたいのは、周囲の音を何らかの形に変換し、聴覚障害者が言われたことを理解できるようにすることです。私たちは携帯機器の性能と遍在性を生かし、携帯電話やタブレットで使えるものにしたいと思いました。またこれは身に付けて服の下に着られるものにしたいと思いました。

コンセプトを目にかけましょう。私が話すと、その音をタブレットが捕らえてチョッキに埋め込まれたたくさんのバイブレータに対応付けます。携帯に入っているようなモーターを使っています。私が話した言葉がチョッキの振動パターンへと変換されるわけです。これはただのコンセプトではありません。このタブレットはブルートゥース通信をしていて、私は今そのチョッキを身に付けています。だから私がしゃべると、その音がダイナミックな振動パターンへと変換されます。これによって周囲の音響世界を肌で感じ取ることができます。私たちはこれを聴覚障害者に試してもらっていますが、ほんのわずかな期間でチョッキの言葉を感じ取り理解できるようになることが分かりました。

彼はジョナサン、37歳で修士号を持っています。生まれもっての重度聴覚障害者です。普通の人の環世界の一部が彼には欠けているわけです。それで彼にこのチョッキの訓練を4日間、日に2時間ずつしてもらい、5日目の様子がこちらです。

(映像中 ノーヴィック) You

スコットが言葉を言い、ジョナサンがそれをチョッキから感じ取ってホワイトボードに書いています。

(映像中 ノーヴィック) Where

ジョナサンは複雑な振動パターンを解釈して、言われた言葉を理解することができます。

(映像中 ノーヴィック) Touch

ジョナサンはこれを意識的にやっているわけではありません。パターンがあまりにも複雑なためです。彼の脳がパターンを紐解いて、データの意味を理解するようになっているのです。私たちの予想では、このチョッキを3ヶ月も着ていれば彼は直接的な聴覚の感覚を持つようになるでしょう。ちょうど盲目の人が点字の上に指をすべらせたときに意識的な努力なしに意味が直接ページから飛び込んでくるように感じるのと同じように。

この技術は大きな変化をもたらす可能性を持っています。現在聴覚障害の唯一の解決法は人工内耳ですが、それには外科手術が必要です。しかもこのチョッキは人工内耳の40分の1以下の値段で作ることができ、この技術を広く世界に、最も貧しい国々にも行き渡らせることができます。私たちは感覚代行での結果に強く勇気づけられ、「感覚追加」について考えるようになりました。このような技術を使ってまったく新しい感覚を人間の環世界に付け加えることはできないでしょうか? たとえばインターネットからリアルタイムデータを直接人の脳に送り込んで直接的な認知経験を発達させることはできないでしょうか?

これは私たちの研究室でやっている実験ですが、被験者はインターネットからのリアルタイムデータを5秒間体感します。その後2つのボタンが現れ、どちらかを選択します。被験者は何のデータか知りません。選択が正しかったか1秒後にフィードバックが与えられます。ここで見たいのは、被験者はパターンが何を意味するのかまったく知らないわけですが、どちらのボタンを押せばよいか正しく判断できるようになるものかどうかです。被験者は私たちの送っているデータが株式市場のリアルタイムデータで、自分がボタンで売買の選択をしていることを知りません。(笑) フィードバックで正しい選択をしたかどうか伝えています。私たちが見たいのは、何週間かの訓練の後に、世界経済の動きを直接把握する感覚を持つように人間の環世界を拡張することは可能か、ということです。結果がどういうことになったか追ってご報告します。(笑)

これは私たちが試しているもう1つのことですが、今朝のこのセッションの間、TED2015のハッシュタグがついたツイートを自動的に集めてセンチメント分析にかけています。みんなが肯定的な言葉を使っているか否定的な言葉を使っているかということです。この講演の間ずっと私はこれを感じていました。私は何千という人々の集合的な感情にリアルタイムで繋がっているわけで、これは人にとって新しい種類の経験です。みんなが今どうしていて、どれくらいこれを楽しんでいるか分かるんですから。(笑)(拍手) これは人が通常体験できるよりも大きなものです。

私たちはまたパイロットの環世界を拡張しようとしています。ここではチョッキにクアッドコプターから9種類のデータ—ピッチヨーロール方位方向などが送られていてパイロットの操縦能力を向上させています。パイロットの皮膚感覚が遙か向こうの機体にまで拡張されているようなものです。これはとっかかりに過ぎません。私たちはこれを計器で埋められた現代的なコックピットに適用したいと考えています。個々の計器を読み取る代わりに感じ取れるようにしたいのです。

私たちは情報の世界に生きていますが、ビッグデータにアクセスするのとそれを肌で感じ取るということの間には違いがあります。人間の地平を拡張することの可能性には本当に限りがないと思います。たとえば宇宙飛行士が国際宇宙ステーション全体の状態を感じ取れるというのを想像してみてください。あるいは自分の体の血糖値やマイクロバイオームの状態といった見えない健康状態を感じ取れるというのを。あるいは360度の視覚や赤外線や紫外線の視覚を持つというのを。ここで鍵となるのは、未来へと進む中で私たちは自らの周辺機器を選んでいけるようになるだろうということです。母なる自然が長いタイムスケールで感覚器官を与えてくれるのを待つ必要はありません。良い親が皆するように、世界に出て行って進む道を決めるために必要な道具は既に与えてくれているのですから。今私たちが問うべきことは、自分の世界をどう体験し探索したいかということです。ありがとうございました。(スタンディングオベーション)

アンダーソン これ感じていますか?

イーグルマン ええ、このチョッキで拍手を感じるのは初めてですが、良い気持ちです。マッサージされているみたい (笑)

アンダーソン ツイッターでみんな熱狂し、驚喜している! 例の株式市場の実験ですが、もし成功すれば研究資金に困ることはもうなくなりますね?

イーグルマン そうですね、もう国立衛生研究所に提案を書かなくて済みます。

アンダーソン ちょっとの間だけ懐疑的な見方をしてみましょう。これはすごいものだと思いますが、これまで得られた結果の多くは感覚代行が機能するということで、それは必ずしも感覚追加がうまくいくということではありませんよね? 盲目の人が舌で見ることができるのは視覚中枢があって情報処理できるからで、それが必要な構成要素だという可能性はありませんか?

イーグルマン 良い質問です。実のところ脳はどのようなデータを取り込めるのか理論的な限界を私たちは知りません。しかし一般論として、ものすごく柔軟だとは言えます。人が視覚を失うと、視覚中枢が他のものに引き継がれることになります。触覚や聴覚や言葉によって。それから分かるのは、皮質は単機能で、単にある種の計算を行うということです。たとえば点字のようなものに目を向けると、指で感じるでこぼこから情報を受け取っているのです。理論的な限界があると信ずべき理由はないと思います。

アンダーソン それが正しいとなったらみんな殺到することでしょう。非常に多くの応用が可能です。その準備はできていますか? もっとも期待していること、これが進む方向はどのようなものだと思いますか?

イーグルマン 応用はとてもたくさんあると思います。感覚代行を越えるという意味では、宇宙ステーションの宇宙飛行士という話をしましたが、監視に多くの時間費やす代わりに状況を感じ取れるようになるのではと思います。これが特に適しているのは多次元データだからです。鍵となるのは、私たちの視覚システムは塊や境界を検出するのには優れていますが、世界の状態を把握するのはうまくないことです。無数のデータを表示するたくさんの画面を1つひとつ注意して見ていく必要があります。だからこれは物事の状態を感覚的に把握するための方法になると思います。何もしないでいても自分の体の状態を知ることができるように、重機や安全性、工場や装置の状態を感じ取るというのは、すぐに応用できる領域だと思います。

アンダーソン デイヴィッド、本当に驚嘆させられる話でした。どうもありがとう。

イーグルマン ありがとうクリス。(拍手)
http://www.aoky.net/articles/david_eagleman/can_we_create_new_senses_for_humans.htm


21. 中川隆[-13766] koaQ7Jey 2018年7月20日 12:23:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17053]

以前「どんな言葉で言うかよりも、どんな声で言うかが大事!」の記事で、以下のように紹介しました。

>言葉は大切。

>でも、その前にその言葉を、どんな声で言っているかのほうがずっと大事。

上記記事は子育て中のお母さんが感情発でしかってしまう話でしたが(私も思い当たる節があります><)、声って普段余り意識されませんが、それだけに様々な可能性を秘めていると考えられます。

実は古代世界の人々は“声”を病気の治療やもっと高度なことに使おうとしていたのです!

コチラから引用させていただきます。


****************************
古代の人々は意識を覚醒させるために「超音響」を使用していた(そして、死者との会話も?)

先史時代のネクロポリスの遺跡から、当時の人々が、「音の周波数が人間の脳の活動に及ぼす影響」を利用していたことに対しての手がかりを得られた。

研究者たちは、地中海のマルタ島にある 5000年前の葬祭殿の内部で 70Hzと 114Hzの相互の音響による強い重共鳴周波数の存在を検出した。

ハル・サフリエニ地下墳墓は、納骨堂や宗教的な儀式のために、新石器時代に建設された地下構造物で、世界で唯一の先史時代の地下墳墓とされている。

このハル・サフリエニの地下墳墓で「地下神託の部屋(The Oracle Room)」の名として知られる部屋は、非常に優れた音響の動きがあるとして歴史的に名高い評価を得ている。

この部屋での試験中、低い男性の声は、建物内で共振現象を起こし、地下墳墓を通して、骨が震えるような効果を創り出すのだ。

そのエコー(残響音)は、最大8秒間続いたと報告された。

考古学者フェルナンド・コインブラ( Fernando Coimbra )博士は以下のように語る。

「自分の体の中を早い速度でサウンドが突き抜けていったように感じた。そして、その現象は、私にリラックスの感覚を残した。それが繰り返された時は、またそのリラックスした感覚が蘇り、そして、まるで自分の体が壁に描かれている古代の赤い黄土色の絵画に反映されているような幻覚に浸った」。

人はこの場所で古代を体験できる。

やや臭気かがった暗い中、人から分かれた人への愛の感情を持つ遺骨を越え、薄暗い光が点滅している中、儀式の聖歌を聴くことができるのだ。

バスとバリトンの70Hz から 130Hz までの音は、地下墳墓内の環境の自然現象として共鳴させるための特定の方法がある。それらは、先史時代の遺跡ニューグレンジの墓の通路や、ケアンズの巨石の空洞内にもある。

実験室でのテストでは、これらの特定の周波数に暴露される(聴く)ことにより、人は脳活動においての物理的な効果を獲得できることを示した。

イタリアのトリエステ大学のパオル・デベルトリス(Paolo Debertolis )博士は、臨床神経生理学部で実施された試験で以下のように報告している。

ボランティアの被験者たちは、それぞれが独自の個々の周波数を有している。それは常に 90ヘルツから 120ヘルツの間だ。前頭葉に罹患を持つボランティアたちは(音の)試験中、人間が瞑想中に閃く考えや思考と似た状態を受け取った。そして、後頭葉に罹患を持つ被験者は、ビジュアライズ(可視化)されたイメージを音から受け取った。

博士は以下のように述べている。

「古代の人々は、薬物や他の化学物質を使用することなく、意識の異なる状態を(音によって)得ることができていた。」

共同で報告書を書いた人類学者のエズラ・ズブロウ( Ezra Zubrow )博士は、「私たちは、新石器時代のマルタ島の人々が、地下墳墓の音響効果を発見し、そして、それを体験していたことは間違いないとみなしている。それは超常的なもので、そして、おそらくは《奇妙な別世界》を体験していただろう」と語る。

何より驚異的なのは、今から 5000年も前に、建設した人々が、意図的にこれらの「超音響」を高める設計技術を使用したということだ。

地下墳墓を視察した無線周波数スペクトルのエンジニア、グレン・クライズバーグ(Glenn Kreisberg)氏は、「地下神託の部屋の天井、特に外側の領域からの入口付近と、そして、この細長い部屋自体が、意図的に導波管の形に彫られているように見える」と語る。

特殊な音は、古代の神聖な事柄と関連付けられていることが、古代学の会議で明らかにされている。

それは、フランスとスペインの先史時代の洞窟から、インド寺院の石まで。そして、メキシコで保護されたアステカ文明の古文書から、エレウシスの謎やイランの神聖なエラム、そしてギリシャの神殿まで数多くに渡る。

それは、平凡な日常生活からこれらの超音波の場所を隔離するために、そして、特殊な音域の所作は神の存在を暗示するもので、高い重要性を持つものだった。

****************************

5000年前の人々が音の不思議な効果を知っていただけではなく、それを増幅するような設計追求にまでたどり着いていたことに驚きです!

現代よりずっと、自分たちの持っている身体や目の前の自然に対する可能性収束力や追求力が高かったのではないでしょうか。

以前紹介した

『声のサイエンス』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A3%B0%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A3%B0%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%BF%83%E3%82%92%E6%8F%BA%E3%81%95%E3%81%B6%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-NHK%E5%87%BA%E7%89%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-548-%E5%B1%B1%EF%A8%91-%E5%BA%83%E5%AD%90/dp/4140885483

の著者、山ア広子さんも別の著書

8割の人は自分の声が嫌い 心に届く声、伝わる声 (角川SSC新書)
https://www.amazon.co.jp/8%E5%89%B2%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%AF%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E5%A3%B0%E3%81%8C%E5%AB%8C%E3%81%84-%E5%BF%83%E3%81%AB%E5%B1%8A%E3%81%8F%E5%A3%B0%E3%80%81%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8B%E5%A3%B0-%E8%A7%92%E5%B7%9DSSC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E5%B4%8E-%E5%BA%83%E5%AD%90/dp/404731644X

で言っています。

>声は自分と他者を繋ぐもっとも身近にして最強のメディアです。いかようにも使える便利な道具であり、武具であり防具です。

もっと自らが生まれ持った声の可能性について、追求してみたくなりました!
http://blog.livedoor.jp/iiotokoiionna/archives/52262532.html#more


22. 中川隆[-13850] koaQ7Jey 2018年7月22日 06:24:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17170]

あなたの音感は何型か? 〜『絶対音感』の誤解
http://takuki.com/onkanx.html

23. 中川隆[-13864] koaQ7Jey 2018年7月27日 11:34:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17326]

エージングについて GRFのある部屋

エージングと行っても老人力が付いて来る意味ではありません(苦笑)。スピーカーや装置全体が、使い込んでくると音が良くなる、落ち着く、丸くなる、見通しが良くなる、といったように変わってくることを意味します。

よく感じるのは、新品の装置を入れたような場合です。ただ、気をつけなくてはいけないのは、「気のせい」と言うこともあります。また、装置がエージングしたのではなく、聴いている耳が「慣れた」という場合です。


むかし、SD05の石田さんから面白いことをお聞きしました。その頃、石田さんはSD05の音は聴いてもらわないと、その良さが解らないとおもって、試聴機の貸し出しを積極的に行っていました。だいたい一週間単位で貸し出されていました。ほぼ毎週、その機械は石田さんの所から、新しいお客さんに貸し出されていてのです。すっかり使いこなれていますから、そのまま聴いていただければ真価はすぐにわかるのですが、ほとんどの方が、着いてからすぐには聴かず、通電して一日二日経ってから本格的に聴き始めていたのです。すると、到着当初と、三日後では音が違って、きこえたと報告されています。


その貸出機は、何人、何十人のところへ送られているので、機器としても慣らしは必要ないのですが、ほとんどの方が、二三日したら、音が良くなったと言われました。石田さんは、にこやかに笑って、それは、アンプではなく耳の方が、SD05の音になれたのだと言われました。始めて聴く音でも、当初は経験が無くても人間は、その環境に順応するのだと。そしてその環境が心地よければプラスの評価をすると。


勿論、SD05からマークレヴィンソンやクレルの音はしません。そういう音を求める人には、合わなかったでしょうが、圧倒的な低域再現能力やクロストークの無さに驚かれた方は、10年以上経ったいまでも、愛用されています。発熱はしないし、酷暑の夏にはもってこいです(笑)。また、メイン装置だけはなく、マルチアンプの低域用や、熱の発生がないのでテレビ用にと、重宝に使われています。映画の最低音など凄い迫力です。


エージングの時に、気をつけなければいけないのは、機器の慣らしより、聴いている耳の慣れです。人間の想像を絶する対応能力には何時も驚かされます。災害があったとき、72時間の生存率とよく言われますが、異なった環境への対応も72時間経つと、脳が行うそうです。実験で、プリズムをめがねにして、上下反対の画像を送り込んでいると、最初は勿論歩けないほどの大混乱ですが、徐々に慣れてきて、三日目の朝になると、その倒立した画像を正常だと脳が判断して、上下が反転して正常に見えるという実験を見て驚きました。


人間の対応力と、脳のメカニズムの精緻さ巧妙さ、対応力、本能的な危険察知能力すべてにです。視覚はわかりやすいのですが、聴覚はもっと本質的に関わり合ってきます。目は瞳を保護するために瞼を閉じられますが耳は常に開き放しです。その為、大振動の音が入ってくると、マイクの役割をする鼓膜は膜ですから破壊したりします。私の親戚で、じこで鼓膜を破った人もいますが、壊れた後の三日間は目が回っておきられなかったそうです。現在は半分青い状態ですから、聞こえる方の側に座らないと、聞こえづらいそうです。


目も耳も判断して居るのは脳の方ですから、経験のないものを見たり聞いたりしても時には判断できないこともあります。その脳が経験するのに必要な時間が、二三日間ですから機械の方ではなく、脳の学習時間をエージングと言っているのです。でも二三日間でも確実にエージング・年取っているのは事実ですね(汗)。


自分でも出来るのですが、指をこする微かな音を目をつぶって頭の周りで出してみると、ものの見事に、前後、左右、上下、すべての方向を言い当てることが出来ます。その精緻なメカニズムと人間・動物の本能の凄さを感じてしまいます。


ベルリンフィルのデジタルコンサートホールをご覧になっている方は、見た事があると思いますが、コンサートではなく「FILM」というコーナーがあり、その中で、主席の奏者たちの特集を組んでいます。収録されているトランペットやチューバ、コントラバスの音を聴くと、オーケストラ全体では無く、その楽器だけの音が聞こえて、装置の調整に役立ちます。そこで大事なのは、最低域の再現性ですね。


普通のステレオ装置と、ハイファイ装置の差は、高域ではなく最低域の再現性だと思っています。残念ながらその低域にこだわっている方が少ないのが残念です。低域の再現性は、SPの大きさでも、部屋の大きさでもありません。出したいという聞き手側の意識の問題なのです。脳が望まなければ何事も得られませんね。
https://tannoy.exblog.jp/29957004/


24. 中川隆[-13854] koaQ7Jey 2018年8月05日 06:30:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17623]

Is Consciousness More than the Brain Interview with Dr. Gary Schwartz - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=x-6hosFAObI

現実とは幻である。神経科学者が教える「脳が現実を作り出すために幻覚を見せる方法」2017年08月18日
http://karapaia.com/archives/52244354.html


 これまでも、我々が現実と感じているものは、それまでの知識や経験に基づいたもので、脳が作り出した幻想であるとする研究結果が報告されていたが、つい最近、英サセックス大学の神経科学者アニル・セス博士が我々が認識する現実、つまり意識の起源について論じた。

 彼は議論を始めるにあたってまず、「意識はどのように発生するのだろうか?」と聴衆に問いかけた。セス博士によれば、意識は科学と哲学に残された最大のミステリーだという。

 この問いに続いて、セス博士はその重要性について説明した。


どの脳の中でも、それぞれが小さな生物マシンである数十億もの神経細胞による共同作業が行われており、それが意識体験を生み出しています。

しかもただの意識体験ではなく、あなた自身の今ここにおける意識体験です。一体これはどのようにして起きているのでしょうか?

私たちそれぞれにとっての意識はそこにあるものすべてです。だからこそ、この問いに答えることが重要なのです。世界がなければ、自己もいません。一切が存在しなくなります。


意識と生命は表裏一体。物質は意識の派生物である。

 マックス・プランクは「意識は基本的なものである。物質は意識の派生物である」と述べた。つまり、意識は物質の形成に必須であるということだ。

 どいうわけか、この2つのまったく別個に思える現象は、私たちがいまだ完全には理解していないやり方で絡み合っている。

 ある論文は、物理的現実の性質を形作る意識の役割を探るために二重スリット実験がいくども利用されてきたことを指摘する。

 セス博士は、意識と生命もまた表裏一体であると論じる。知性と自己認識が真の標識であると論じられることもある一方、彼は意識が「私たちを生かし続ける生物学的メカニズムによって形成」されたことを論証しようとする。


実のところ、意識のあるAIが生まれる見込みはかなり低いと思います。その理由は、私の研究が告げていることが、意識は純粋な知性とはあまり関係がなく、むしろ生きて呼吸する生命体としての私たちの性質に関係があるということだからです。

意識と知性はかなり別物です。苦しむために賢い必要はありませんが、おそらく生きている必要はあるでしょう。


制御された幻覚

 自分が脳になったところを想像してみよう。頭蓋骨の内部には光も音もない。何もかもを五感から届けられる電気的なインパルスに頼らなければならない。

 こう話したセス博士は、いくつか錯覚の事例を取り上げた。そこでは感覚が真実をごまかそうとしている。

 脳は受け取ったインプットを基にして、私たちが意識的に体験することがらを常に変化させている。

 セス博士が取り上げた事例は驚くべきものだが、究極的には、多くの場合、脳が受けとる感覚情報は変化していないことを示している。変化しているのは、私たちが体験していることがらに対する認識だ。


 プラトンは正しかった。感覚は本当に私たちを騙しているのだ。


つまり、そこに何があるのか理解しようとする認識は、情報に基づいて推測しようとする作業、つまり脳が感覚信号とその感覚信号を発する世界とはきっとこうであろうという従前の予測や信念を組み合わせるプロセスでなければなりません。

脳は音も聞かないし、光も見ません。私たちが認識しているのは、世界の様子についての妥当と思われる推測なのです。


脳と身体が意識を生じさせているのか?

 取り上げた事例からは、私たちがただ受動的に世界を認識しているのではなく、積極的に作り出していることも分かる。

 私たちが体験している世界とは、外部からもたらされるのと同じくらい、内部からももたらされているのである。


私たちは常に幻覚を作り出しています。今この瞬間にもです。その幻覚について同意するとき、それを現実と呼んでいるにすぎません。

あなたの自分という体験、すなわちあなたであるという特定の体験もまた脳によって作られた制御された幻覚です。


 この分野の多くの者たちが認めざるを得ないことがある。

 それはまだ完全には理解されていないことだが、物理物質世界の宇宙と私たちの体験は実は心が作り出したものであるということ、あるいはごく控えめに見ても意識がその創造に根本的な役割を果たしているということだ。
 
 ジョンズ・ホプキンス大学のR. H. ヘンリーはネイチャーで次のように述べている。
 

ジェームズ・ジーンズによれば、『次々ともたらされる知識は非機械的現実に向いている。宇宙は偉大な機械というより偉大な思考であるかのような姿を現し始めている。

もはや心は物質領域に偶然紛れ込んでしまった侵入者には思えない。むしろそれを物質領域の創造者や支配者として迎えるべきだ』……宇宙は非物質だ――精神的かつスピリチュアルなものだ。生きて、楽しむがいい。


Is Consciousness More than the Brain? | Interview with Dr. Gary Schwartz
via:collective-evolution/ translated by hiroching / edited by parumo
http://karapaia.com/archives/52244354.html


▲△▽▼


我々が認識している現実は脳が描いた虚像である。過去の経験や知識で判断するでっちあげの世界(ドイツ研究)2017年05月05日
http://karapaia.com/archives/52238258.html


 ある論争を巻き起こしている研究によると、現実とは脳が見えると予測するものに基づいた幻想にすぎないのだそうだ。

 これまでの専門家の見解では、我々が認識している現実は目や耳から入ってきた情報を用いて脳が構築したものだとされていた。この現象をボトムアップ処理という。

 ところが、今回

Philosophy and Predictive Processing
https://open-mind.net/about


というオンラインポータルで公開されている一連の論文によると、現実とはそれまでの知識や経験に基づいて脳が作り出したものであると示唆している。つまりトップダウン処理であるとうことだ。

 したがって、我々が現実であると解釈しているものは、実際には心によるでっち上げ、あるいは幻想にすぎないということになる。


過去の経験や得た知識に応じて判断される現実世界

 例えば、あなたが何かをつまみ上げたとしよう。そのとき感じる重さのほとんどは、実際の重量ではなく、脳が予測していたその物体の重さに基づいて認識されているということだ。

 その証拠として、大きさと重さの錯覚について調べた先行研究が挙げられる。実験では、被験者に重さは同じであるが、サイズが大きいものと小さいものの2種のボールを渡し、その重さを答えてもらった。すると大きなボールの方が重いと回答されるケースが頻繁に見られたのである。

 この現象は、過去の経験が現実の認識に影響を与えていることを示している。

予測処理と現実

 認識が部分的にトップダウン処理に基づくという考え方は新しいものではない(これは認識に関する通説がその役割を無視してきたことを否定しない)、とヨハネス・グーテンベルク大学マインツ校のヴァンヤ・ヴィーゼ(Wanja Wiese)氏とトーマス・K・メッツィンガー(Thomas K. Metzinger)氏は論じている。
 
 この予測処理という概念の新しい点は、それは感覚入力がはっきりしている場合でも、曖昧な場合でも、いつも行われており、トップダウン処理と知識の影響を認識における一般的な特徴であると徹底的に強調しているところにある。

 彼らによると、今発生してしているに違いないことについて推論を導くため、脳は体内や環境での出来事を常に監視している。

 そして、現実を最もうまく表していると考えられる予測を最優先する。その予測は階層的にまとめられているという。また見ているものの予測は、個人の経験や感情状態など、様々な要素に基づいているそうだ。

 2014年、人は科学的根拠に基づく事実を知ったところで、信じたくないものは信じないという研究結果が報告されている。

 であるならば、今ここにある現実は、自分の思考や価値観、経験から大きく歪められている可能性はなきにしもあらずだ。

via:How we perceive the world is based on what our brains expect to see, claims theory/ translated hiroching / edited by parumo
http://karapaia.com/archives/52238258.html


25. 中川隆[-13357] koaQ7Jey 2018年10月15日 02:08:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19201] 報告

音楽家がオーディオに熱心ではない理由 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2018年10月03日

日頃から不思議に思うことが一つ。

楽器を演奏する人をはじめ音楽評論家、さらには音楽学校に学んで専門的に勉強した方などのほとんどに、オーディオに熱心な方をまず見受けない。こういう方々こそ日頃から生の音に接しているのでひときわ「いい音」には敏感なはずなのに。

いったい、なぜだろう?

素人考えでいくつか挙げてみよう。

1 常日頃、半分仕事みたいな意識で生演奏に携わっているので自宅に帰ってまで音楽を聴こうとは思わない、つまり日常生活の中に仕事を持ち込みたくない。

2 ほとんど毎日、歪みのない生の音を聞いているので電気回路を通した人工的な音を聴く気がしない。

3 他人の演奏をなるべく聴きたくない。芸術的な見地から影響を受けるのがイヤだから。

4 他人の演奏のアラが分かるから聴きたくない。むしろ音楽を聴くよりも演奏者のテクニックの上手下手に関心がいってしまう。

5 ちょっと「ましな音」で聴こうと思っても、オーディオ装置はどうも高価すぎる。それくらいのお金があれば「いい楽器」のほうを優先する。

以上のとおり、アトランダムに挙げてみたが実は「決定的とも思える理由」をメル友さん(東京)から教えていただいた。ことはオーディオに対する姿勢にも及ぶとてもユニークな内容だった。

そのまま引用させてもらうとしよう。

「音楽家がオーディオに熱心ではない理由」について決定的と思われる理由をメル友さん(東京)からご教示いただいたのがこの文面。

『私も貴方同様にいつも「聴衆・観客」の一人で、演奏をした経験は皆無なのですが、あるピアニストと話をしていて貴方とまったく同じことを感じました。

彼女は、私が持ち込んだiPodスピーカーのトランジスタ・ラジオと変わらぬ貧しい音響にすぐに感激して”良い音ですね”と言うのです。聞かせた演奏の特徴もズバリ言い当てて楽しんでいます。身体がすぐに反応します。

私が感じたのは、随分と想像力が豊かなんだなあということでした。元の音を想像して実際の演奏の様子をすぐに復元できるようなのです。その復元を楽しんでいる。とても我々のできることではありません。

オーディオは単なる「手がかり」に過ぎない。想像による復元のために最低限の情報を提供してくれればよい。それで充分だと思っているようです。彼ら音楽家にとっては(オーディオとは)その程度のものでしかないようです。

また、オン・ステージで演奏する側では聞える〔というより身体で感じる)「音」そのものが違います。他方、我々が求めるオーディオの「音」は客席の音です。

この二つは決して同じではない。そして彼ら演奏家は客席でどう聞えるかをあまり気にしていないのではないか。どうもそう思えてならない。我々との間には、越えがたい溝があるのではないかという気がします。〜以下、略〜』

というわけで以上のご指摘に基づき前回の「音楽家がオーディオに熱心にならない」理由の5つ(再掲)に加えて6番目を追加させてもらうことにしよう。

1 常日頃、半分仕事みたいな意識で生演奏に携わっているので自宅に帰ってまで音楽を聴こうとは思わない、つまり日常生活の中に仕事を持ち込みたくない。

2 ほとんど毎日、歪みのない生の音を聞いているので電気回路を通した人工的な音を聴く気がしない。

3 他人の演奏をなるべく聴きたくない。芸術的な見地から影響を受けるのがイヤだから。

4 他人の演奏のアラが分かるから聴きたくない。むしろ音楽を聴くよりも演奏者のテクニックの上手下手に関心がいってしまう。

5 ちょっと「ましな音」で聴こうと思っても、オーディオ装置はどうも高価すぎる。それくらいのお金があれば「楽譜」や「楽器」のほうを優先する。

6 オーディオは単なる「手がかり」に過ぎず、「元の音を想像して復元する」ための最低限の情報を提供してくれればそれでいい。したがってオーディオに熱心になる必要性をあまり感じない。

実にもっともらしい回答を得てこれで理由のすべてを網羅できた気がする。

音楽と真剣に向き合あうリスナーにとっては素敵なオーディオシステムもさることながら、それを手がかりにして豊かな想像力を磨くことこそ重要なのかもしれない。

たとえば五味康介さんの著作「西方の音」の中でフォーレの音楽を聴いて海浜で貴婦人に抱かれているシーンを妄想するくだりがあるが、豊かな想像力を磨くとはそういうことなんでしょう。

いくら「いい音」とか「悪い音」とかいってみても、結局「いい音楽」とはリスナーの頭の中で創造するものなのだ・・・。

おっと、身の程知らずで少し大上段に振りかぶりすぎたかな?

以上、「迷える子羊」からの「世迷い言」でした(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/375cefe97bde45c7fe6d0c6d83b877a1
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/92bca154e20feac003a4ab443b7ee626

26. 中川隆[-13323] koaQ7Jey 2018年10月16日 09:02:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19210] 報告

音楽家がオーディオに熱心ではない理由〜補完編〜 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2018年10月16日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/7cb2562009994da5172529dc86029db1


2週間ほど前のブログ「音楽家がオーディオに熱心ではない理由」(2018.10.3)の内容だが、タイトルに関して、身近な例では桐朋学園を卒業後、渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがないので素直な疑問をメル友さんのお知恵を拝借してまとめたものだ。

我がブログについてはいつも仕上がりが不揃いなので搭載後に自己採点しているが、これは優良可でいえば良というつもりだったが、意に反して鋭く盲点を突いてこられた匿名のメールをいただいた:


この度の「音楽家がオーディオに熱心でない理由」ですが、貴兄の箇条書きされた内容、また、メル友さんの「手がかりに過ぎない」は、なるほどと感心しました。

全て当てはまるような気がします。が、決定的なことが漏れているのではないかと思いました。

ここでの「音楽家」が「プロ」なのか「アマチュアにちょっとプラスアルファ」なのかわかりませんが私には「彼らには決定的に時間が足りない」のじゃないかと思います。

「人様が演奏しているのなんか聴いている暇があったら練習しなくてはいけない」のだと。

「1日でも練習をサボったらそれが聴衆にわかってしまう」と言ったのは、ピアニストの誰だったか・・・。晩年のホロヴィッツだったかもしれません。

卑近かつ低次元な話で申し訳ありませんが私も30代末から十数年間ピアノ教室に通いつつ練習していましたが趣味とはいえ発表会の前、数か月は余暇はすべて練習に費やしました。(それにしては「ヘボ」でしたが)

そんな私でも「一日でも練習をサボったら、二日分後退してしまう。」と脅迫観念に囚われたものです。

ましてや、プロともなれば1曲を仕上げるのに、数か月いや年単位でしかも1日じゅう寝食を忘れて練習が必要でしょう。そのプレッシャーたるや如何ほどのものか・・・。想像するだに恐ろしい。

たしか内田光子さんだったと思いますが「1日8時間は」とインタビュー記事にあったような記憶が・・・。

でも、この辺のプロ事情は文献などで貴兄の方がよほどお詳しいことと推察いたします。

また「音楽家」がiPODの音に”いい音ね”って簡単に感激するのは実は彼らなりのリップサービスで真意は「プロでないあなたたちこそ音楽をほんとうの意味で楽しんでいるのね!」ってことでしょうか。

私も先生から「生徒さんこそいろんな音楽を知ってて楽しんでるのよね〜」ってマジで言われたことがあります。

そうなんです!彼らは自らが演奏するジャンル以外の音楽に関しては無知であることを強いられているのです。

しかも、最も多感な時期にず〜っと。これも「決定的に時間が足りない」からでしょう。

また「彼らは客席でどう聞こえるかはあまり気にしていない」も、たぶん違うような気がします。

彼らの関心事はただただ「自分の演奏が聴衆にどう聞こえ、かつ訴えかけるのか」では、無いでしょうか。

何しろそれが「プロがプロたる所以」なのですから・・・。

ここでも「一日でも練習をサボったら聴衆にバレてしまう」という苦悩に満ちた告白が思い起こされます。

27. 中川隆[-13322] koaQ7Jey 2018年10月16日 09:06:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19210] 報告

因みに、プロの音楽家は音楽を左脳で言葉として聴いていて、右脳で音楽を聴いている唯の音楽ファンやオーディオマニアとは脳の使い方が全然違うのですね。

プロの音楽家には音楽や音がわからない人が多いのはそういう事情が有るのです。

28. 中川隆[-13321] koaQ7Jey 2018年10月16日 09:11:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19210] 報告

絶対音感のカラクリ〜「ド」は「ド」(其の三)

音感の正体


前回の

「絶対音感は1つ1つの音高を記憶している」

と言う説では実はもう1つ、
絶対音感保持者が音高を特定する際に
音名は正しいがオクターブを間違える、
いわゆる

「オクターブエラー」

と呼ばれる現象の説明がつきません。

もし絶対音感が1つ1つの音高を記憶しているのであれば、
明らかに高さの違う2つの音を間違えるはずがありません。

「ドレミファ〜」と徐々に音を高くしていくと、
「〜ソラシド」と再び「ド」の音に戻ってきた感覚になります。

このとき、最初の「ド」と最後の「ド」の音は
高さと言う概念で考えれば、

「周波数が異なる明らかに別の音」

であるにもかかわらず、
不思議なことに人間には音の高さが違っても
どちらも当たり前のように「ド」の音として認知されます。

これを

「オクターブ等価」

と言いますが、このとき2つの「ド」の音は
周波数比が1:2(周波数が2倍)の関係にあります。

なお、絶対音感保持者が原曲キーで唄えなくても
オクターブ違いなら唄える仕組みは、

「オクターブエラーと同じ原理」

だと私は考えています。
http://raykawamoto.hatenablog.com/entry/2014/11/18/204324

29. 中川隆[-13320] koaQ7Jey 2018年10月16日 09:16:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19210] 報告

音がわかる=「オクターブエラー」する のが一流音楽家

音がわからない= 「オクターブエラー」しない のが三流音楽家

絶対音感保持者でないとこういう芸当はできない:


若きブラームスが完璧なピアノ・テクニックを象徴する有名な逸話。

巡業先で半音高く調律されたピアノに遭遇したヴァイオリニストのレメーニは、
弦が切れるのを怖れて調弦を上げられない。そこでブラームスは、
《クロイチェル・ソナタ》のピアノ・パートを公開演奏の場で、
瞬時に半音低く移調して弾いた。[※半音高くと移調したという説もある]

移調できるとかできないという次元の問題ではなく、
《クロイチェル・ソナタイ長調》とは全く異なる《クロイチェル・ソナタ変イ長調》用に、
指の準備が即刻できてしまう能力を持っていた。

この他に、メイの伝記中、ハ短調を半音上げて弾いた話があり、こちらの方が有名。
さらにこの回想録シリーズの第2巻でも、似たような移調演奏のエピソードがある。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-1992.html?sp

30. 中川隆[-13756] koaQ7Jey 2018年12月18日 08:44:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

職人たちの超感覚。 科学の忘れもの
http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html


ミクロン単位の誤差を指先で感知するレンズ研磨職人、玉鋼の加熱状態を秒単位で制御する刀匠、数千数万の匂いを嗅ぎ分ける香水調合師……職人たちの繊細な感覚技術のそれぞれの要素はいま、科学技術によって置き換えることが可能になりつつあります。しかし職人たちが感じているのは、誤差や温度や匂いだけではありません。そのときどきの気候や、対象が発する光や音に応じて、彼らの技はコントロールされています。さらには想定外、つまりは不測の事態に即座に対応できることも、名工であるための必要条件です。按配し臨機応変する能力の裡にこそ、職人たちの真骨頂があるのです。

◉現代では職人といえば、主に手工業に携わる人々を指しますが、もともとは特殊な技能を持っている者のことでした。古代では鉄器鍛冶や庭師がその代表です。中世になると貨幣経済と物流が発展したことと相まって、多様な職人たちが登場します。そして近世までの「職人」は、単にモノを生産する人を意味したわけではありません。連歌師や白拍子、勧進聖や神主などコトにかかわる者、つまり芸能者や宗教者たちも、職人と呼ばれていました。市や街道は、そんな職人たちによるモノやコトが交換される場所だったのです。

◉才能という言葉があります。才と能は別の意味を持ちつつ、切り離すことができません。かつて才は「ざえ」と読み、人間の側ではなく素材の側に備わっているものとされていました。木や石、場合によっては風景や気象の才に感応し、これを引き出す人間の力が能であり、それはマジカルな力であるとも考えられていました。漢字の「職」が耳につけられた呪術的なしるしをあらわしているように、職人とは、常人には聞くことのできない自然や神仏の声を聞く能力を持つ人々だったのです。もちろんここで言う「聞く」は音響だけに対応するわけではありません。

◉中世には職人を題材とした「職人歌合」が流行しました。歌合は歌の優劣を競う遊びですが、職人歌合は、朝廷や貴族に従属する職人を描写することによって、怨霊や祟りを鎮めることが目的とされていたといいます。江戸時代には、三味線の名手の原武太夫が、弦の音色がいつもと違っているのを聞き、津波を予見して仲間の命を救ったというエピソードも残されています。

◉レンズや金属加工の領域でミクロン単位の対象の変化を触知するというような単純な物理量をめぐる感覚は、確かに超絶的ではありますが、テクノロジーによって置き換えることが可能となりつつあります。しかし琴の音色で、それがナイロン弦なのか絹糸製であるのかはもちろん、絹糸をつくった蚕の飼育方法や飼料の変化を聞き分けたり、墨の匂いで古文書の書写年代を嗅ぎ当てたりといったことは、コンピュータでは代替できそうにはありません。また、調香師になるためには最低600以上の匂いを正確に記憶しなくてはなりません。それ自体は物質分析の領域ですが、調香師の本領はそこから先、つまり未知の香料や香水をつくり出すことにあり、ときには好き嫌いのような感覚にも深くかかわる以上、テクノロジーでは単純には代替できません。そもそも人間の感覚は気分や体調によって大きく左右され、そのこと自体が例外的な感覚に結びついていたりもします。少なくともいまのところ、スーパーコンピュータを駆使した天気予報でさえ、経験豊富な漁師たちの感覚や勘には、まだまだ及びもつかないようです。

◉人間は成長にしたがって感覚が発達し、肉体の成熟とともに感覚の能力もピークに達するといいます。その後は経験とトレーニングによって感覚は磨かれますが、基本的な能力は減衰する一方です。確かに言語をめぐる感覚や、渋味や苦味などを味わう感覚は、成人の方が豊かであるようにも見えます。しかし絶対音感は生来のもの、あるいは幼児期に獲得できるものであり、外国語の習得もスタートが早い方が有利であるともされています。ちなみに絶対音感は、必ずしも「絶対的」な音感ではなく、また環境音まで西洋音楽の十二平均律に「翻訳」してしまう傾向があるなど、一概に音楽的に優れた能力であるとは言えないようです。また母語習得前に外国語を学ぶことへの弊害も指摘されています。

◉我々は、たとえば日本人ならば同じアジア人であっても、インドの人々の顔だちは皆、同じように見えてしまいます。逆にインド人にとっては、日本人の顔は似たり寄ったりに見えているはずです。最近では多くのメディアによって欧米人の顔に馴染んでいるため、欧米の俳優や政治家の顔の区別はできるようになっていますが、江戸時代の日本人にとっては、白人は一様に、赤ら顔の鼻の極端に尖った人たちに見えていました。また動物園の猿山のニホンザルをその顔で区別できる人は、当の飼育員でない限りほとんどいないと言っていいでしょう。かろうじて毛色や大きさや傷の有無などで判別できるくらいです。ところが多くの幼児は、この猿山の猿たちの顔を見分けることができます。この例では、成長にしたがって、すなわち人間社会に馴染み、言葉によるコミュニケーションに習熟するにしたがって、猿の個性が見分けられなくなっていくわけです。どうやら我々の一般的な感覚は、本来の能力にフィルターをかけることによって成立しているようです。いちばんのフィルターは、言葉です。職人たちの超絶的な感覚は、収斂によって研ぎすまされるのと同時に、このフィルターをあらためて剥ぎ取ることで獲得されているのかもしれません。

◉確かに言葉は、脳に保存されている膨大な感覚の記憶をプログラムし、オペレーションするための有効な道具でした。それによって人類は文明を獲得したと言うこともできます。しかし言葉の獲得に続いて文字が発明されると、我々の感覚にはさらに強力な拘束がかかり、同時に感覚の中で視覚が圧倒的な優位に立つことにもなりました。もしかすると絶対音階、あるいは平均律も聴覚への何らかの拘束になっているのかもしれません。犬や猫、鳥や魚などの動物たちがときに地震や天候の変化を予知することができるのに、人間がそれを苦手とするようになってしまったのは、言葉によって生来の感覚に蓋をされてしまったためなのでしょう。方向感覚や時間感覚も、文明や科学技術によって鈍化している可能性があります。
http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html

31. 中川隆[-13755] koaQ7Jey 2018年12月18日 08:47:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告
2018年12月14日
文字を色で感じ、音を匂う〜共感覚の可能性。
http://web.kansya.jp.net/blog/2018/12/6603.html


文字が色つきで見えたり、言葉を匂いつきで感じたりする共感覚を持つ人がいます。1000人に一人とか100人に一人とか言われていますが、幼児の多くはこの共感覚を持っているそうで、大きくなにつれてこの感覚は無くなっていき、文字は文字、言葉は言葉としか認識できなくなるのだそうです。

今回はこの共感覚について考えてみます。


以下(http://www.abiroh.com/jp/sensitive-human/1065.html)より引用します。
———————————-

人間は成長にしたがって感覚が発達し、肉体の成熟とともに感覚の能力もピークに達するといいます。その後は経験とトレーニングによって感覚は磨かれますが、基本的な能力は減衰する一方です。確かに言語をめぐる感覚や、渋味や苦味などを味わう感覚は、成人の方が豊かであるようにも見えます。

しかし絶対音感は生来のもの、あるいは幼児期に獲得できるものであり、外国語の習得もスタートが早い方が有利であるともされています。ちなみに絶対音感は、必ずしも「絶対的」な音感ではなく、また環境音まで西洋音楽の十二平均律に「翻訳」してしまう傾向があるなど、一概に音楽的に優れた能力であるとは言えないようです。また母語習得前に外国語を学ぶことへの弊害も指摘されています。

?我々は、たとえば日本人ならば同じアジア人であっても、インドの人々の顔だちは皆、同じように見えてしまいます。逆にインド人にとっては、日本人の顔は似たり寄ったりに見えているはずです。最近では多くのメディアによって欧米人の顔に馴染んでいるため、欧米の俳優や政治家の顔の区別はできるようになっていますが、江戸時代の日本人にとっては、白人は一様に、赤ら顔の鼻の極端に尖った人たちに見えていました。

また動物園の猿山のニホンザルをその顔で区別できる人は、当の飼育員でない限りほとんどいないと言っていいでしょう。かろうじて毛色や大きさや傷の有無などで判別できるくらいです。ところが多くの幼児は、この猿山の猿たちの顔を見分けることができます。この例では、成長にしたがって、すなわち人間社会に馴染み、言葉によるコミュニケーションに習熟するにしたがって、猿の個性が見分けられなくなっていくわけです。

どうやら我々の一般的な感覚は、本来の能力にフィルターをかけることによって成立しているようです。いちばんのフィルターは、言葉です。職人たちの超絶的な感覚は、収斂によって研ぎすまされるのと同時に、このフィルターをあらためて剥ぎ取ることで獲得されているのかもしれません。

?確かに言葉は、脳に保存されている膨大な感覚の記憶をプログラムし、オペレーションするための有効な道具でした。それによって人類は文明を獲得したと言うこともできます。しかし言葉の獲得に続いて文字が発明されると、我々の感覚にはさらに強力な拘束がかかり、同時に感覚の中で視覚が圧倒的な優位に立つことにもなりました。もしかすると絶対音階、あるいは平均律も聴覚への何らかの拘束になっているのかもしれません。

犬や猫、鳥や魚などの動物たちがときに地震や天候の変化を予知することができるのに、人間がそれを苦手とするようになってしまったのは、言葉によって生来の感覚に蓋をされてしまったためなのでしょう。方向感覚や時間感覚も、文明や科学技術によって鈍化している可能性があります。
—————————————
こどもの成長は、人類の進化過程を辿っている。とすれば、人類が言葉を話すようになり、文字を発明したとき、それまでの先端感覚だった嗅覚や色覚を動員して新しい情報を認識しようとしていたのかも知れません。

共感覚についての研究はまだあまり進んでいないようですが、レオナルドダビンチも共感覚の持ち主だったと言われており、数学者のファインマンは数式を思い浮かべると色がついて見えると言っていたそうです。

感覚を研ぎ澄まして追求する過程で、この共感覚は創造性や思考の深さにプラスの影響を及ぼしている可能性が考えられます。

共感覚をもつ子供たち。言葉や文字で豊かな感覚機能に蓋をすることなく、その感性を伸ばしていくことができれば・・・色々な可能性が広がっていくような気がします。

32. 中川隆[-13287] koaQ7Jey 2018年12月31日 17:50:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告
カクテルパーティー効果 2016/08/25


音が身体に及ぼす影響というテーマの
中でカクテルパーティー効果について
述べました。

大勢の人が会話を楽しんでいる、大きな
騒音が満ちているパーティー会場の中でも、
例えばあなたの名前がどこかで囁かれた
とすると、その音はちゃんと聞こえて
きてしまうのです。それは名前だけでなく
いつも頭から離れない関心の強い何か、
かも知れません。

この効果(?)を最大限に活用している
のがフルオーケストラを指揮している
指揮者だと言えるかも知れません。

第二ヴァイオリンの奏者の一人が一音
フラットしてしまったことも聞き逃さない
のは、プロの指揮者としては当たり前の
技能かも知れませんが、オーケストラ
全体の音量と第二ヴァイオリンの
一奏者の音量を比べると、それは驚異的
な能力と言わざるを得ません。

絶対音感の持ち主でもある世界的な
指揮者、佐渡裕さんが若かりし頃、
そう小澤征爾さんがいきなり優勝してしまった
あの若手指揮者の登竜門と呼ばれている
ブザンソン音楽祭のファイナルで、
こんなテストを受けたそうです。
オーケストラの間違い探し!課題曲を
オーケストラが譜面通りに演奏しているか
否かを指揮しながら指摘していくという
ものです。いくつも仕掛けられた罠を
見事に指摘し、エンディングを迎えるとき
何か『違和感』を覚えたそうです。
音の違いではないし、何かがおかしい?
オーボエとクラリネットが入れ替わり
互いのパートを吹いていたそうです。
佐渡さんはその違和感に気づき、この
間違え探しのテストにも満点で合格。
結局、その年の優勝者に選ばれました。

意識を向けることによって、大音量の
中の小さな音を捉え分析することが
出来るのです。世界的な指揮者に与え
られた才能でもあるし、もっと身近な、
宴会の中の噂話が聞こえてきてしまう
という誰にでもある経験のように、
ヒトの聴覚がもっている特徴とも言える
能力です。

これほど繊細な聴覚にこれからどんな
音を与えていくか。
新しい選択が生まれました。エムズ
システムのスピーカーが奏でる音は
自然で、そこに音楽が生まれた瞬間の
空気感が生まれます。

ぜひ一度ご体感ください。
http://mssystem.co.jp/article/detail.php/722/314325

33. 中川隆[-13286] koaQ7Jey 2018年12月31日 17:52:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

CDの作り手と聴き手の間
マイキング、ミキシング、マスタリングとは。そして音響オタクができるまで。
渋谷ゆう子 2016/06/02
https://ninoya.co.jp/ninoya_log/nomos/9908


CDの作り手と聴き手の間

クラシックを中心にCD製作を行う日常で経験した事柄を、アルバム製作をお考えの作り手と、クラシックを日常で嗜みたい聴き手の方へと綴ります。音楽を愛する全ての皆さまへ。


ミキシングやマスタリングなどという用語はよく耳にするけれど、よく分からないという方も多いのではないでしょうか。

スタジオのエンジニアがどのような仕事をしているのか、そしてその作品がどう出来上がっていくのかを、今日はお話したいと思います。


マイキングとは

録音の際に楽器や周辺にマイクを向けること。これがマイキングです。しかし、ただマイクを置いておけばいいわけではありません。マイクの角度や楽器との距離が違えば、録音される音が全く違ってきます。

どの楽器に、どのマイクをどのように立てて、どこまでの音をどう拾っているか。またそれを送ってくる導線が正しく綺麗に音をキャッチできているかどうか、エンジニアは常に厳しく見究めています。

さらには物理的な空気の振動である音が、どのような電気信号となって変換され、その電気信号をいかにうまくスピーカーから拡張させて、再びどのように空気を振動させるかを、工学的な観点も含めて決定し、作業をおこなっているのです。

クラシック音楽の録音では特に、楽器ごとに分けて演奏する”別撮り”をしませんので、楽器と楽器の共鳴や、空間全体の響きを計算し、音楽性をより良く捉えなければなりません。ちょっとしたマイクの角度、反響板の位置から、導線の種類に至るまで、その緻密なエンジニアの作業はまさに音の職人です。

人間の耳とマイクの集音はどう違う?

レコーディングで時々、「客席にマイク立てれば、客と同じでイイ音録れるじゃん。」と言う演奏者に遭遇します。
自分が客席で聴いているような音にしてほしいという意味でおっしゃっているのだとは思いますが、マイクを観客の場所に置いても、自分が認識している音と同じにはならないのです。

人間の耳は カクテルパーティ効果という、便利で勝手な機能が備わっています。
周囲の音楽や大勢の人の話し声の中から、聞きたいものだけをフォーカスできるのです。
騒がしい音を遮断して、隣のひそひそ話を聞き分けるような経験をしたことがあるのではないでしょうか。

この性能のおかげで、演奏を生で聞く時も特定の楽器の音だけに集中したり、「自分の聞きたいようなイメージ」に合わせて無意識にバランスを取ったりもしています。
現実に鳴っている音と、脳が認知している音には乖離があるということです。

反対に、「キャッチできる範囲の音(空気の振動)をそっくりそのまま集めてくれる」のがマイクです。
それを耳に例えると、ただむやみに音を意識せず、ぼーっと耳に入れているのと同じような感じになる、といえば分かりやすいかもしれません。

だからこそ、レコーディングでは多くのマイクを使い、多チャンネルで音を集め、その楽曲の音楽性を合わせて「聞こえてほしいように作っていく」というエンジニアの作業が必要となるのです。

ミキシング・ミックスダウンとは

空間全体を捉えたマイクや、低音、高音、楽器ごとなど複数の回線を通ってきた複数のチャンネルを精査し、バランスや音色を決めていく。これがミキシングです。

多くのチャンネルを少ないトラックに移行させるのでミックスダウン、トラックダウンと呼ばれたりします。

バランスを整えるだけでなく、音色を変えたり、残響やノイズの調整など、その聞き分け能力にはいつも驚かされます。

このミックスダウンの段階で、それだけきちっと作れるかが作品の出来を大きく左右します。この作業の中で、私が一番興味深いのは「楽器の距離感が音でわかる」ようにする、ということです。
例えば、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの楽曲CDを家庭にあるような小さなスピーカーを聴いていたとします。そのスピーカーの音でさえ、「ピアノはちょっと奥から聞こえる」とか、「ヴァイオリンとチェロは横に並んでいる感じ」など、その演奏空間を音から感じることがあります。

マイクは楽器にごく近く配置されているにも関わらず、再生する際にはそれぞれに距離感がでるようにまとめているなんて、ちょっと魔法のようです。

マスタリングとは

ミックスダウンされたそれぞれの楽曲を順に並べ、音圧や音量を揃えて、曲間を合わせてCDのマスター(原盤)にする。これがマスタリングです。
いろいろな洋服を綺麗に畳んで、大きさをそろえ、プレゼント用の箱に入れるようなイメージといえば分かりやすいかもしれません。

私が主に関わっているレコーディングの現場では、録音もミキシングもマスタリングもフルデジタル化されています。
音源をコンピュータに取り込み、音源の編集ソフトを起動し、あれやこれやの加工と処理をコンピュータで行い、CDの規格にしたり配信用のデータにしていきます。

また、昔のアナログマスターが経年劣化でだめになってしまうことを恐れて、デジタル化やリマスタリングされることも多いのですが、果たしてそのデジタル化が本来アナログが持っていた良さを保存しているのか、という意見も出たりします。

デジタル処理とはいえ人の手が加わる以上、誰が何をどうしたのかに違いがでて、同じ録音でもマスタリングが違えば、出来上がりも同じではありません。使ったソフト、機材、加わった人の技術やセンスが違えば、全く違ったものになるということです。

なぜ音響オタクが生まれるのか


オーディオ装置もまずまずのものを所有していた。トーレンスのプレーヤーとラックスマンのアンプ。小型のJBLの2ウェイ。独身時代にかなり無理をして買ったものだ。彼は古いジャズをアナログ・レコードで聴くのが昔から好きだった。(村上春樹『木野』より)

ミキシング、マスタリングを経て出来上がった音を、CDにするのか、アナログレコードにするのか、ハイレゾなのかと、出口の規格でまた音は変わってきます。

さらには、リスナーがどんな機材で再生するか、スピーカースペックはどうか、アンプが何か、さらにはオーディオルームの壁や、さらには電柱の場所(!?)に至るまで、その音の聴き方は無限の選択肢があります。

「ブルックナーヲタク」の回でも述べましたが、”知識欲を刺激し、膨大な情報をストックし、微細な違いを判別できるようになるという自意識をくすぐり、達成感を得られる土壌” が、この音響やオーディオ機器の世界にも壮大に広がっているわけです。

クラシック音楽ファンは音響機器オタクも多く、楽曲への理解だけでなく、音質までこだわる耳の肥えたファンが大挙する世界です。

レコーディングやミキシングの知識や分類だけでなく、使用する音響ソフトや機器類のこと、音響工学にも造詣深く、生半可な知識では到底会話に参入できません。
だからこそ、またさらに知りたくなり、集めたくなり、耳を鍛えたくなるのでしょう。
このあたりもブルヲタと相通じるものがありそうです。

そんな世界へ作品を送り続ける演奏家とエンジニアの仕事に、今日も感銘を受けるのでした。

ああ、でもやっぱり、私も真空管アンプ欲しい。
https://ninoya.co.jp/ninoya_log/nomos/9908

34. 中川隆[-13285] koaQ7Jey 2018年12月31日 17:55:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

CLASIC レコーディング
http://www.mu-s.com/Edu/classic_rec.html

「クラシックのオーケストラ」日本の有名な○○○交響楽団などは常に50本近いマイクを各パートに立ててマイクやHAレベルも毎回同様にセットしていると伺った。(マイクリストをそうっと見せていただいた事もある)セッティングやバラシの手間も時間もかかるが、毎回同等のバランスやクオリティを維持するには良い方法と思う。また、客席では中々味わえない(演奏者の近くに設置されたオンマイクによる)鮮明な音はファンも多いらしい。

僕もスタジオ録音の際は毎回全部の楽器にマイクを立てるがホールでの録音を依頼された場合は極力少ない数のマイクで録る事が多い。(ご指定で全部の奏者に1本づつマイクを立てる場合もある)。もちろん予算や時間の問題もあるが、自分の裁量で選べる場合は、仮に潤沢な予算があるプロジェクトであってもあまり沢山のマイクは使用しないと思う。

日本のホールで収録する場合はたいてい三点吊りの施設があるのでそこにメインマイクをセットする。あればB&Kの4006(銀キャップ仕様)、無ければショップスのマイクでも、あるいはノイマンの69でもAKGの414でも良い。このマイクの位置や角度がジャストに決まると「他にマイクを立てる必要も無いかな」って気になる。(海外事情は後述する)

そうは言ってもステージ上に一点吊り等がある場合はそれも準備する。また、オーディエンスリアクションを録る為に比較的前寄りの位置にあるシーリングの吊りマイクを低めの位置まで降ろして使用する事が多い。ほとんどの場合は以上6本、最近はステージの左右一番奥に客席に向けたマイク2本を立てる事もある。主にはサラウンド用で立てはじめたのだがコイツが中々いい感じになる事も少なくないので出番が増えてきた。

沢山のマイクを立てる場合、たとえば「この部分のハープをもっとフューチャーしたい」とか、「この部分のピッコロをもっと聞きたい」みたいな場合、その楽器のマイクを距離感が変わらない程度に上げてあげれば良くなる事も多いが、「ティンパニーがでかいので下げて」とか「金管ががんばりすぎちゃってるんだけど」みたいな場合は結局どのマイクにもでっかく入ってる事がほとんどでそれぞれにマイクが立っているからと言って簡単に修正出来る訳では無い。

有名な話だが、かつてN響の常任指揮者に就任し厳しく一切妥協のない練習でN響を一流オーケストラに育てたとされるヴルヘルム・シュヒターは録音方法についても細かく要求したそうで、「音のバランスはオーケストラ自身がつくる」という信念のもと、従来のように複数のマイクロフォンを使用するのではなく、メインマイク一本のみで録音することを求めたそうだ。

オーケストラの場合、音を大きくしたい時は人数で補強するそうで、客席で見ていると、たとえばコントラバスとかは人数が10人くらいいても楽章によっては2人しか弾いてないなんて時も見かけるが、さぼってる訳ではなくテュッティの時には全員で弾いて重厚な低音を表現するって訳だ。

三点吊りのメインマイクであきらかにどこかのパートが大きいとか小さく感じるような時は何かが間違っているか、あるいはアマチュアのオケとかだと演奏者や指揮者の技量の問題かも.....。リハーサルの間に客席でも聴いてチェックする。もしコンサートマスターが親しい友人ならリハ終了時に問題の箇所を再生して聴いてもらおう。単発のお仕事でそういう関係では無い場合はリハ中にマイクの位置や角度を少しでも良い方向に変えてみる方が良い。リハが終わってからマイクセッティングを替えるのはリスクが大きい。

実際にお客さんが入るコンサートで少ないマイク収録する際のマイク配置や録音システムの例は以下の図を参照。ちなみにこのセットで9時にホール入りしてセッティングを開始、10時半からのリハーサルに間に合うようにすべてをセットする。開場は12時、開演は13時からだ。自分のマイクを吊りこんでいるとリハ時間までにセットアップするのは難しいので、ステージ内の二点吊り、指揮者後方の三点吊り、客席の一点吊りx2は開場に付帯設備使用料を払ってレンタルした。

僕のところに依頼されるクラシック録音のお仕事はほとんどがDSDのダイレクトミックスによる一発録り。大抵の場合、1ビットでSACDの倍のサンプリング速度5.8MHzで収録する。LIVE Recordingの場合、どんな事情があったにせよ「すみません録れていませんでした」って訳にはいかないので、バックアップのシステムも含めて万全の録音プランを練る。

万が一の場合に備えて三点吊りのメインマイクは電池駆動のMR1000でも収録し(もちろん電池は新品)、ファントム電源もそこから供給している。マルチトラックのプロツールズをミックスまで使用する事はめったにないが、万が一にも後でバランスを変えたいなんて時にそなえ、また、HAのマイクレベルの確認やスペアナにもなるのでダイレクト2ミックス基本とは言え結局コイツははずせない。

SACDやハイレゾのダイレクト配信に載せれるプログラムはそれほど多くなくほとんどの場合結局は最終的に44.1KHz/16bitのCD盤になる。それでもDSDで録った物をPCMに変換した方が結果的に高評価をいただけるようだ。やはり非常に高い時間解像度で収録したものを44100分の1秒毎にデータ化した方が最初から44100分の1秒の解像度でサンプリングしてデータ化するよりも良いのだろう。


<マルチマイク VS ワンポイントまたは最小限のマイク>

前述したが、かつてN響の常任指揮者に就任し厳しく一切妥協のない練習でN響を一流オーケストラに育てたとされるヴルヘルム・シュヒターは録音方法についても細かく要求したそうで、「音のバランスはオーケストラ自身がつくる」という信念のもと、従来のように複数のマイクロフォンを使用するのではなく、メインマイク一本のみで録音することを求めたそうだ。

演奏を客席で聴く事を考えれば 「音のバランスはオーケストラ自身がつくる」というコンセプトは極めて理にかなっており、「原音に忠実」という録音の基本を考えればワンポイント録音に分がある事は明らかと思う。

しかし、客席で聴いた時よりも、あまつさえ指揮者の場所で聴いた時よりも良いバランスの録音は多数ある。

オーケストラのもつ大きなダイナミックレンジもその場にいさえすれば耳が(脳が)追従してピアニシモからフォルテシモまでちゃんと聴き分ける事が可能だが録音となるとメディアのもつダイナミックレンジに制約を受けたり、さまざまな事由で聴こえない音が多い事も多々ある。演奏を指揮する指揮者の場合、自分が指揮している事と目で見えている為レベルが小さくても(客席では聴こえない音が)聴こえる事さえある。ベストなポイントに置いたワンポイントマイクは決して人間の脳を超える事は無く、残念な事に最良の場合でもほぼあるがままをそのまま収録するにすぎない。そんな場合でもマルチトラックで収録していればミックスダウンという作業を通してすべてがちゃんと聴こえるように補正する事も不可能ではない。

オンマイクとオフマイクの違いは元音が発した直接音とそれが空間を伝搬していった際に付加される間接音のバランスが大きく異なる。楽器自体の音はもともとエコー(リバーブ)がかかっている事はほぼ無いが、商品になっているクラシックのレコードの場合、たっぷりとリバーブがかかっているものがほとんどだ、音の良いといわれるホールはステージ上の演奏に自動的に心地良いホールエコー(リバーブ)が付加される。ワンポイントのマイクや数の少ないマイクで全体を収録した場合は当然のように楽器の直接音よりも間接音の割合が高くなる為、楽器の細かいニュアンスや奏者の息づかいなどをハッキリ収録する事は出来ない。当然客席にいるお客さんにもそれは聴こえない。

一方マルチトラック(マルチマイク)による収録では各奏者の極めて近い位置に専用のマイクが置かれる為楽器の細かいニュアンスや奏者の息づかいなどもクリアに収録する事が可能だ。そう言った面でもある一定のファンはいる。 リバーブを付加すれば距離感も多少は調整出来る。スタジオで収録する場合は迷わずマルチトラックで収録する事がほとんどだ。

ただし、マルチトラック(マルチマイク)による収録は良い事ばかりかと言うといくつかデメリットもある。

大きなデメリットはセッティングも撤収も手間が(時間が)かかる事である。たとえば日曜日のマチネー公演で14時から本番がある場合、客入れはだいたい一時間前の13時、という事は12時か、遅くとも12時半にはリハーサルを終了して客入れの 準備にかかる。ホールは通常朝の9時にシャッターが開き入場可能。それからオーケストラの山台を組み、譜面台や指揮台を準備して10時にはオケの皆さんが入ってくる。10時半からリハーサルがスタートってのが普通だ。録音チームも9時には駐車場にスタンバイしてドアオープンと同時に搬入を始める。オケ搬入と重なるので最悪の場合は階段を手持ちで搬入って事もある。10時半のリハスタートまでにレコーディングシステムを搬入し、組み立てセッティングして三点吊りや二点吊りの位置を決め、回線をチェックする。わずか8本のマイクでも中々厳しい。オケの山台を組み、譜面台や指揮台を準備してからでないとマイクのセッティングは始められないので9時にドアオープンして順調に セッティングが進んでもマイクを立てられるのは早くて10時。その時間から30分で各セクションにマイクを立てて回線をチェックするのはほぼ不可能。

同様に撤収時間も問題だ。完全撤収が5時とかだと、2時に演奏会が始まり、4時に終了したとしても、客がはけてステージ上の作業が可能になるのは4時半、それからステージ上のマイクを撤収する訳だが、オケの山台や譜面台、指揮台なども同じ時間に一斉にバラシに入る。数本のマイクであっても相当に大変だが各セクションにマイクが立っていたら、「その時間で撤収するのは困難」という事になる。

舞台上は「見切れ」の問題もありステージ上から舞台袖の録音場所まではかなりの距離がある。マルチケーブルを使用したり、10mのマイクケーブルを途中でジョイントする事もしばしば。ケーブルは重くてかさばる。素人が奇麗に巻くのも困難だ。専門家を何人も連れてくればそれなりに費用もかさむ。マイク、スタンドやケーブルの重量も容量も相当のモノだ。当然機材の総量も増え、トランポの費用も、人苦の費用も大きくなる。

もう一つの大きな問題は「見た目」。客を入れないで録音の為の録音なら良いが、お客さんを入れたコンサートのライブ録音の場合はあくまでもメインは「コンサート」、録音は二の次で、決してメインの「コンサート」の邪魔になってはイケナイ。目立つマイクが沢山立つ事を嫌う舞台監督も多い。

総括:クラシックのライブレコーディングの場合、録音が重視されていてかつ予算がある場合以外はマルチトラック(マルチマイク)による収録は中々 難しい

POPSの場合だともともとPAの為に各楽器毎にマイクやDIが準備されているが、PAとステージ上のモニターで回線を二分岐している事が多く、さらに録音用に分岐する事を嫌うPA担当者も少なくない。三分岐するためトランスやスプリッタ-と呼ばれる分岐用のディバイスを使用する事が多く、デカいし重いしレンタルも安くないので金額もかさむ。

PAやモニターのコンソールによってはMADIでダイレクトに出力出来たりイーサネット1本でPCに接続可能なものもあるにはあるが、残念ながらまだ一般的では無い。(90%以上の確率で無理)


<指揮者の視点から見たマルチマイク VS ワンポイントマイク>

前項の記事を読んだ指揮者の北村憲昭先生からとても貴重なご意見をいただいたので以下に転載する。


一点気に成りました事がございました。シュヒター氏の意見はごもっともだと思います。同感です。

ただそれ以上に、タイムラグの問題が有ります。
1秒で340メートルしか進まない音ですので、行進曲で1秒で1小節つまり2拍(2歩)です。

そこに16分音符ですと8個。つまり1音符1/8秒ずれると音符1つ狂います。
すなわちその1/4ぐらいとすれば、ほぼ10メートル離れたとき同時に鳴ればそれくらいでしょうか。
それですと両端の奏者はかなりずれていると判断します。(パパンぐらいです。)
これくらいずれますとハーモニーではなく「タリ」という旋律に成ってしまいます。

この辺りが問題なのです。ですので指揮台から遠い演奏者には少し早く出てもらうようにします。それを巧く降るのが指揮者のテクニックでもあります。
ですので、特に早い曲、たとえば「火の鳥」などでは、かなり気をつけたいところと思っています。

いつも後方に陣取っているティンパニーやコンバス奏者はすでに少し早く出るように習慣づけられていますので、楽器の近くのマイクでとられるとずれが出ます。マルチでとった録音でそれが良いという方もいますが、やはり全体的には問題と思っています。その様なわけで私もなるだけワンポイントが嬉しいと思っているわけです。

そういえば前回先生とご一緒させていただいた録音ではメインマイクを中心に6本のマイクをダイレクトミックスした録音とは別に予備システムとして客席内をヘッドフォンを掛けながらマイクを持ってうろちょろして良さそうな場所を探り、そこに設置して回しっぱなしにしていたサブシステムの音をとても気に入っていただいた。メインのシステムよりもかなり後方、ステージから10m弱の距離でワンポイントマイクで録音したものだが、そのあたりの時間的なマッチングが良かったのかもしれない。

疑い深い僕は北村先生のご意見を元に東京オペラシティホール(ステージ間口 17.1m〜19.5m、奥行 9.0〜10.5m)にオケの配置をプロットしてみた。

まずFACTとして、大気中の音の速度は温度15度で1秒間に約340m,20度で343m。

最も標準的な楽曲はテンポ120、4/4拍子の場合だと4分音符1つは500ms(0.5秒)2/2のマーチであれば4分音符1つは1秒(1000ms)、気温が15度であれば音は1秒で340m進むので、仮に指揮者との距離が7mとすると340÷7=約50分の1秒(20ms)ズレる計算になる。

音が2つ鳴ったか1つしか鳴らなかったかの標準的なしきい値は15ms、つまりもしも15ms音がズレれば10人中9人は音が2つ鳴ったと判断出来る。もし10msとかだと半数くらいの人は音が1度しか鳴らなかったように聴こえる。

指揮者と7mの距離にある演奏者の音をオンマイクでミックスすると20ms以上のズレが生じる事になる。

一方、図の中で緑色で示され三点吊り+小数の補助マイクであればズレは10ms以内と考えられ、障害の可能性は少ない。

なるほど。演奏者がスタジオ録音や、POPSの様なモニターシステムを使用せず指揮者の指揮どおりに演奏したとしたらマルチマイクだと慎重にDelayを付加しない限りは難しそうだ。

波形を見れば発音タイミングの時間的なズレがどのくらいあるのかは一目瞭然だが、時間差があると言う事は距離があるという事で、その時間差によって距離感、奥行きや広がりが感じられるので、ただただ発音タイミングを補正すれば解決って訳では無い。気の弱い僕はやはり小数のマイクで録り続ける事になりそうだが....。

以上の事を理解した上でたくさんのマイクを使用したい場合は「中級編」の後半に使用例を記述した。
http://www.mu-s.com/Edu/classic_rec.html

35. 中川隆[-11116] koaQ7Jey 2019年10月01日 06:33:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1704] 報告
2014年02月04日 サイエンス
音楽によって「時が止まったような瞬間」が生まれるメカニズムとは?
https://gigazine.net/news/20140204-how-hijack-subjective-time/

時計で計測できる「客観的時間」は誰にでも一定ですが、素晴らしい音楽を聞いていると時間の流れ方を早く感じたり短く感じる「主観的時間」があります。そんな主観的時間が流れるスピードや感じ方を音楽によって操作する仕組みを、作曲家でスタンフォード大学教授であるジョナサン・バーガー氏が解説しています。

How Music Hijacks Our Perception of Time - Issue 9: Time - Nautilus
http://nautil.us/issue/9/time/how-music-hijacks-our-perception-of-time



バーガー氏は40年前にシューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調を聞いた時、「時間が失われて停止したような、圧倒的に強烈な感覚を体験した」とのこと。その経験から音楽が時間を操作できることを学んだバーガー氏は、「主観的時間」の操作について調査や研究を始めました。

日常の中でも、バーでスローテンポの音楽をかけると、お客さんは楽しい印象を受けるので長居するようになり、ドリンクの売上が増えるようになるとのこと。また、スーパーマーケットでスローな音楽をBGMに設定すると顧客の滞在時間が38%延びたという研究結果も出ています。


また、2004年にRoyal Automobile Club財団は熱狂的なテンポが運転手の正常な速度感覚に干渉してスピードを上げさせるとして、リヒャルト・ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を、運転中に聞くと最も危険な音楽であると判断しています。

音楽によって極度に知覚を左右されているような状態の時、神経科学の見地では、人間は自ら前頭前皮質の活動、特に「自己」に関するエリアの機能を一時的に停止させていると考えられています。神経科学者のイラン・ゴールドバーグ氏によると「一時的に自己喪失に陥っている時、人はクリアな神経相関物を受け取ることになります。そのため前頭前皮質は流れてくる音楽の重要性を再評価しています」と述べており、音楽が時間が止まっているような「禅」に似た状態を生み出す場合があるとのこと。


音楽は脳のある部分を占領することができるわけですが、作曲家はその効果を意識したテンポを「アダジエット」「レンティッシモ」「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」という風に楽譜に起こすことができます。バーガー氏が最も気に入っている速度標語は「テンポ・ルバート」で語源のイタリア語が表す通り、「時間を盗む」ことができると話しています。


主観的時間をゆがめることに長けている作曲家としてはアントン・ブルックナーやオリヴィエ・メシアンなどが挙げられますが、シューベルトは一時的ながら主観的時間の根本的なコントロールに成功している作曲家だとバーガー氏は解説しています。

シューベルトのような「長-短-長」のリズミカルなテンポや、「同じテンポの反復」といった音楽は主観的時間の“ハイジャック”に効果的とのことです。音楽の聞こえ方による主観的時間の感じ方は人によって異なりますが、バーガー氏は音楽の科学的な脳への影響を意識して音楽記号を配置することでまるで時間を操るような効果を生み出すことができると主張しています。
https://gigazine.net/news/20140204-how-hijack-subjective-time/

36. 中川隆[-10692] koaQ7Jey 2019年10月20日 07:57:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2164] 報告
2019年10月19日
「音楽は世界共通の言葉」という通説が間違っていた可能性
https://gigazine.net/news/20191019-musical-pitch-perception-cultures/


音楽は文化や言語の違いを超えて親しまれることからよく「音楽は世界共通の言葉」だといわれています。しかし、アマゾン奥地の先住民の音の聞こえ方を調べた研究により、音楽の聞こえ方にも文化の影響が確かに存在する可能性が示されました。

Universal and Non-universal Features of Musical Pitch Perception Revealed by Singing: Current Biology
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(19)31036-X

Perception of musical pitch varies across cultures | Cosmos
https://cosmosmagazine.com/biology/perception-of-musical-pitch-varies-across-cultures

南米に位置するボリビアの熱帯雨林に住むチマネ族は、西洋文化とは隔絶された自給自足の生活を貫いていることから、これまで生活習慣と健康の関係を調べる研究などにより注目を集めてきました。



そんな中、マサチューセッツ工科大学で認知科学について研究しているジョッシュ・マクダーモット氏は、チマネ族とアメリカ人を対象に「シンセサイザーで合成した音を声で再現してもらう実験」を実施。チマネ族とアメリカ人の音楽的な感性には、文化を背景にした違いと、生物学的な共通点に根差した普遍性の両方が存在することを突き止めました。

マクダーモット氏らはまず、アメリカ人を対象に異なる音域で発せられた2つの音を聞かせてから、それを声で再現してもらう実験を行いました。すると、アメリカ人の対象者は、2つの音がオクターブ単位で正確にずらした音ではなかったにもかかわらず、オクターブごとにずらした音を声で再現する傾向にあったとのこと。この傾向は、一般のアメリカ人よりも、音楽の訓練を経験したミュージシャンの場合でより顕著でした。



研究グループは、この結果にはオクターブの等価性が関係しているとみています。オクターブの等価性とは、「別の音であっても、オクターブの整数倍の音程だけ離れていれば同じ音として知覚される」という現象のこと。これは、裏を返せば「同じ音に聞こえる2つの音はオクターブの整数倍の音程だけ離れた音である」ということなので、経験豊かなミュージシャンほどオクターブの差を意識してしまうのだと推測されます。

チマネ族に同様の実験を行ったところ、特にオクターブにこだわることなく音の響きを重視した再現を行ったとのことです。この結果からマクダーモット氏は「オクターブの等価性は文化的背景によるものであり、オクターブを基本単位とした西洋音楽に触れていない人には無関係なようです」と述べています。



一方、マクダーモット氏は文化を超えた共通性も発見しています。大半の西洋人は音が約4000Hz以上になると音の違いがほとんど分からなくなることが知られており、これは「ピアノなど西洋音楽で使われる楽器のほとんどが約4000Hzを高音の上限としてきたからだ」とされてきました。



しかし、チマネ族が使う楽器の音の上限は4000Hzよりもかなり低いものが多いにもかかわらず、チマネ族も西洋人と同様に約4000Hzまでは正確に聞き取れた一方で、それ以上になると音の違いが分からなくなってしまったとのこと。



この結果についてマクダーモット氏は「音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下し、音の違いを判別することが困難になるのではないでしょうか」との推論を述べて、人間の音感の限界は文化ではなく生物学的な制限に起因したものだとの見方を示しました。
https://gigazine.net/news/20191019-musical-pitch-perception-cultures/

37. 2020年10月12日 07:25:01 : RpwMiNUFXo : Nzk2SWtSOXdJekE=[7] 報告
2020年 10月 11日
耳・聴覚の話
https://tannoy.exblog.jp/31770076/


BSの秋の新番組で、人間の感覚の番組がはじまりました。その第二話は「耳・聴覚」の話でした。番組でも言っていましたが、音は耳で聞いているのでは無く、脳が聴いているのです。音の違いだけでは無くその背景の響きが構成している色や温度や厚みや重量さえ脳が聞き分けているのです。生後、育った環境に寄って耳の働きが変わってくるのも、脳が学習をして覚えるからです。「門前の小僧習わぬ経を読む」があるのです。

番組中指揮者の佐渡裕さんが、ブザンソンの指揮者コンクールで、第二オーボエと第二クラリネットの音を違えて演奏されるのを聞き分ける試験のことを話されていました。指揮者としては当然の才能だとおもいます。それより大変なのは、本番5分前に初見の曲を渡され、間違いなく指揮をする、いわゆるソルフェージュの能力の方です。とびっきりの変拍子の曲や見たことも無い曲をまとめて間違いないように指揮するのですから。プロの音楽家は、それをどうやって演奏するのでしょう。初見の曲であれば、譜面を見て音を読む能力と、同時に音を出しながらそれを修正していく能力が必要です。

そして何十年も演奏している一流のオーケストラと、そうで無いオーケストラは、どこが違っているのでしょう。まだ日本には音を外す金管楽器奏者がいますが、プロとして舞台に立つ最低限の資格は間違えないで弾くことです。それを制御しているのは、演奏者の技術なのでしょうか、はたまた音の繋がりを指示する脳の働きなのでしょうか?

たとえて言えば、初心者の運転は、道路の曲がりを見て、後からハンドルを切りますが、慣れてくると道路のカーブを見ると事前に適正な量だけハンドルを切り、実際にカーブを切っていくときに、道路の曲がりと車の曲がり方があっているかを、同時に判定して、違えば事前に修正を予期して行う予知能力の組み合わせだと思います。

カーブを切ってから、ハンドルを修正するのでは遅く、ほんの少し前に予知して切っていく経験と音を出す能力だと思います。運転は慣れればほとんど人が自然に出来るようになります。意識して考えるのでは無く、自然に動いていくのです。目の動きと違って、耳は動かせません。恣意的に聞き分けることはできません。その動きをしているのは、信号を受け取る脳の方です。脳は、本能と後から学んだ学習の蓄積により、音を聞き分けることが出来るのです。複数の違う会話が同時進行で行われていても、恣意的に自分の聴きたいことをより分ける能力さえ持っているのです。

耳は母親の声をおなかにいるときから聞き分けているそうです。生まれたときから生存するためには、母親の存在が絶対です。それが出来るように本能の中に組み込まれているのでしょう。しかし、その後の情報は生まれてから環境の音を急速に学習していくのだです。生まれ育った街に、オーケストラがあれば、どれほど素敵なことでしょう。脳がまだ柔らかいときに音楽とふれあえば、その後の人生を豊かにしてくれます。もちろんそれは、音ばかりではないのですが。

コンサートホールや教会の中の響きのきれいな音楽を聴いている人と、生の音楽を知らず、ラジオやテレビの音だけで育った世代では、歳を取ってからの人生が随分と違うのだと思います。本を読まず、ゲームばっかりやっている人生と、何時も同じような演出された無知を演じる芸能人のクイズ番組を見ている人と、自らの世界を拡げるために、広大な想像の王国に出かけられる豊かな人生との差を考えると、恐ろしいほどです。

今の世界は、独裁者による国民の自由の剥奪と、人の意見を聞かず、ルールも破る自分勝手な指導者がいる国へと二分化しています。あまりにも底の浅い、他人の権利を考えない世界になってきていることでしょう。イアフォンや人工的な音で囲まれる人工的な音響を聴いている単純で底の浅い音の環境が、無限に近い階調を持って、想像の翼に旅立てる音の世界を破壊したように、自然と自由を奪っているのです。人を尊敬して自由を守る気概の無い、紙に書かれているだけのルールを優先する、心ない国へ急速に傾斜している我が国の現状もとても憂いています。それはあたかも騒音に囲まれて、自然の響きを失いつつある耳の環境の悪化とも無縁では無いでしょう。

Commented by パグ太郎 at 2020-10-12 06:22 x
GRFさん

私たちの感覚は経験と学習によって習得されて行くものということをわかりやすく見せてくれていましたね。

円周上に配置したスピーカーのどれが鳴っているのかを耳たぶの反射の差により人は簡単に判別できる、耳たぶの形を変えると聴きとり精度が悪くなるが、周囲の音を聴いていると数日で新しい耳の形にも対応して精度が戻る、、、、等など興味深かったです。色々な音を体験することが重要という意味で、一つの方向、一つの価値感、考え方にのみ身を晒すことは自分の感覚の十全な発達を妨げることなのですね。

一見、効率的に見える、一つの方向にまとまることは真の豊かさを失わさせるものでしかないということは、何度も歴史が繰り返していることですが、こればかりは、私たち人間は学習しない様です。

特に意見が合うもの、嗜好が同一のものばかりを選択してフィード(原義通り餌として与え続ける)するSNSはその傾向を強めていて、文字、印刷技術の発明に匹敵する影響を社会に及ぼす気がします。「あなたの好みと真逆の人のタイムライン」を強制的に見せることだって出来るはずなのですが。
https://tannoy.exblog.jp/31770076/

38. 2020年11月03日 09:32:42 : TuqvwFp9Ek : UFloSzJYUlNNUjY=[1] 報告
2年ほど前のブログで「ドレミの7音は虹の色」と題して投稿したことがある。


要約すると

「音を聴くと色を思い浮かべる特殊な知覚「共感覚」の持ち主が感じる「ドレミファソラシ」の7音の名前が虹の色「赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍(あい)・紫」と、ほぼ順序よく対応しているとの調査結果を新潟大学のチームがまとめ、英科学誌電子版に発表した。

つまり「ドは赤」「ミは黄」「ソは青」「シは紫」といった具合。

メカニズムは不明だが「なぜ音楽に心を動かされるのかという未解明の問題にヒントを与えてくれるかもしれない。

共感覚とは「音に色を感じる」、「味に形を感じる」といった二つ以上の感覚が結びつく知覚現象のことで、音楽家ではシベリウスやリストが知られている。」

というわけで、低音域の豊かな音は「赤系の音」、中音域では「緑系の音」、高音域の音は「紫系の音」といった具合だが、それでもまだ正確に言い表せない気がする。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/eec740aa7f7fea6cf4ee965e9ae66fe6

39. 中川隆[-7707] koaQ7Jey 2021年2月05日 10:05:15 : rbwCQpuSgs : eEc0YkNkUVZqY0E=[6] 報告
「音楽&オーディオ」の小部屋
「外見+音声」で人の印象は決まる 2021年02月05日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/8180f2624d2ed32f0041167145ab8de6


作家「藤沢周平」氏の「周平独言」を読んでいたら次のような一節があった(132頁)。

「47年2月号の「歴史と人物」に河野多恵子氏が「人物と音声」という文章を書いている。

与謝野晶子が、低く、小さく静かな声で話す人だったといわれることに触れ、歴史上有名な人物でも、性格、容姿、趣味教養は伝わっていても「音声についてほとんど伝えられていないことを残念がっておられる文章である。

あの「芥川龍之介」にしても、繊細な感覚の作品や、面長、長髪の写真などから私は迂闊にも芥川という人は細い静かな声音で喋る人だろうと思っていたら「太い声」だったそうで目が覚めるような感じがした」、とある。

与謝野晶子といえば当時の日露戦争で出征した弟に対し「君死にたまふことなかれ」と、当時の世相に反するような激越な歌を詠んだ歌人だが「小さな声だった」との対比が面白い。

私たちにも思い当たる節がある。たとえば、瘦身の神経質そうな方から「野太い声」が発せられると、「線の細い人だ」との印象がいっきに覆ってしまった経験をお持ちの方が少なからずいるに違いない。

ずっと以前に「任侠映画」の傑作とされる「仁義なき戦い」を観たときに登場人物たちの腹の底から迸るような「野太い声」に、これこそ命を張った任侠の世界にふさわしい声だと妙に圧倒されたことを思い出す。

したがって、人の印象は「外見」に加えて「音声」も欠かせない要素だといつも思っているが、関連してずっと以前に「声を読む」というタイトルで投稿したことがあるので少し手直しして再掲しよう。

「私たちが普段コミュニケーションの道具として何気なく使っている「声」。声と同時に発せられる言葉については強く意識されるものの、トーンというか「声音」(こわね)についてはあまり注意を引くことがないように思うが今回はその「声」が持つ役割、真価について話題にしてみよう。

<「声」の秘密>(2008.10.1、アン・カーブ著)という本がある。

                              

本書の”あとがき”に次のようなことが書いてあった。(要旨)

「声は人間の社会で大きな役割を果たしているのに驚くほど顧みられていない。そのもどかしさが本書を書くきっかけとなった。言語やボディーランゲージについては詳しく調べられ、その重要性が高く評価されている。一方、声は(少なくとも学問以外の世界では)なおざりにされ、称えられることはほとんどない。

声は文字にとって代わられ、画像にその地位を追われて<目が耳に勝った>といわれているがそれは間違い。人は家庭や職場で、あるいは友人知人との交流において、”声を読む”という優れた能力を利用している。声を正しく理解するためには、鋭い感性を身につけなければならない。<深く聴く>ことが必要だ。」

といった内容だが、「声を読む」というのは実に”言いえて妙”でいろんな情報が声から得られるのは事実である。

自分の場合に例をとると、人と接するときに話の内容よりもむしろその人の表情とか声音でいろいろと判断していることが意外と多いことに気付く。

たとえば、心の動揺が思わず声に表れてしまい普段と違う声になったり語尾が小さくかすれたりすると「あっ、この人は”話す内容に自信を持っていない”とか、”本心をしゃべってないかもしれない”」といった具合。

また、「オーディオ愛好家」の立場からすると目と耳との機能の違いにも凄く興味が湧く。いわば「視覚と聴覚」の対決だが、自分は「目が耳に勝つ」なんてあまり思いたくないほどの圧倒的な耳擁護派である(笑)。

たとえばモーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞するときにDVDで画像を観ながら聴くのとCDで音楽だけ聴くのとでは受ける感銘度がまるで違う。自分の場合、後者の方が圧倒的にいい。

その理由を端的にいえば第一に画像が目に入るとそちらに注意力がいってしまって”聴く”ことに集中できない。第二に音楽を聴いて沸き起こるイマジネーションが、既に与えられた画像の枠内に留まってしまってそれ以上には拡がらない。

結局、現実の情報量を得るには目が勝っているものの、豊富なイマジネーションの糧(かて)となると耳の方が勝っていると勝手に思っているのだが、これは聴覚をひたすら大切にするオーディオ愛好家の勝手な“身びいき”なのかもしれない。

ただし、養老孟司さん(解剖学者)の著書「耳で考える〜脳は名曲を欲する〜」には次のような一節があって科学的な根拠が示されている。

「耳の三半規管は身体の運動に直接つながっているので退化せずに残っており、情動に強く影響する<大脳辺縁系>と密接なつながりを持っている。そしてこれと一番遠いのが<目>。だから、目で見て感動するよりも耳で聴いて感動する方が多い。」

そういえば、下世話な話だが「女性は耳で恋をする」といった話を聞いたことがある。

女性は男性に対して“見かけ”よりもむしろ“口説き文句”の方に弱いという意味だが、とんでもない美女にお世辞にもカッコイイとは思えない男性がくっつく例をよく見かけるが、おそらくこの類だろうか(笑)。

おっと、近年ではそれほど魅力があるとも思えない「IT長者」が美女と一緒になるケースも散見されるが、これは「口説き文句」よりも「お金」の誘惑の方が優ったのかもしれないですね(笑)。

さて、遅くなったが本書「声の秘密」の構成は次のとおりとなっている。

第T部 声の生態

生物学と言語学の見地から人間の声の能力と役割を詳しく見ていく。

第U部 声を支配するもの

どのようにして個人の感情の起伏が声に表れるのか医学や心理学などを動員して分析しているところ(153頁)が非常に面白い。たとえば、発声にかかわる筋肉組織は実に複雑な仕組みになっているので、感情によって引き起こされた筋肉の緊張や呼吸のパターンなどが声の音の変化に密接に影響を及ぼすことを豊富な事例で紹介。

第V部 声の温故知新

「百聞は一見にしかず」の諺どおり「見る道具」の発達により「現代は視覚文化」となっている感があるが、声の重要性は高まりこそすれ決して低下していないことを縷々証明していく。さらに、「音声合成システム」の発達に伴い「声は誰のものか」(288頁)という問いかけが興味深かった。たとえば誰もが身近に使っている「カーナビ」の音声は合成だが結構うまくできているのはご存知のとおり。

いずれ、実在する人物の声を合成できる時代が来るという。この技術が完成すれば「窃盗」など新種の犯罪が起きる可能性がある。現在も衰えを知らない「振り込め詐欺」などへの悪用は最たるものだろう。

さらに懐かしの映画スターに新しい台詞を言わせるのは造作もないことだそうで、そうすると「声は一体誰のものだろうか」というわけ。

「声」の著作権についてこれから物議を醸す時代がやってくるそうですよ。

以上のとおりだが、ふと思い出したことがある。

かって、ジャズマンの「エリック・ドルフィー」は最後の録音終了後にこうつぶやいた。とても有名な言葉なのでご存知の方も多いと思う。

「When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again. ”

「音楽を聴き終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」

同じ音が二度と聴けないというのも「一期一会」の情が湧いてきていいものだと思うが、これも録音技術の進展によって夢物語に等しくなるのかもしれないですね(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/8180f2624d2ed32f0041167145ab8de6

40. 中川隆[-15958] koaQ7Jey 2021年7月29日 09:43:56 : 6D5ARNw16M : Qkh3WTBqZ1UyY00=[10] 報告
【ゆっくり解説】ぜひやってみてください。普通の人は聞き取れません。『絶対に錯覚する音』
2021/07/26




今回は耳の錯覚テストです。
普通の人は正確に聞き取れません。
ぜひチャレンジしてみてください。
41. 2021年8月10日 14:31:06 : vQyPMzu3FY : NVZsaVNGQzJVQkE=[37] 報告
「音楽&オーディオ」の小部屋
音楽と耳の機能にまつわる話
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/aa9e0729bc431cc237b540665df99928


ようやく終ったかと思えば、またやってくるコロナ禍の猛威。

こういうご時世では個人ごとの「免疫力」がいちばん頼りになるので「適度な運動とリラックス」は必須ですね。

リラックスといえば我が家では「音楽&オーディオ」に尽きるが、そういう輩にとって「耳が遠くなる」ことほど悲しいことはない。

自分などは、そうなるともう死んだ方がマシとさえ思うが、悲しい現実として「聴力は20歳ころをピークに徐々に低下しはじめていき、65歳以上の4人に1人、75歳以上の2人に1人は補聴器が必要な状態だ」と、ショッキングな書き出しで始まるのが「耳トレ!」である。
   
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X                   

自分なんぞは年齢からしてよくもまあこんな耳でオーディオを楽しめるものだと我ながら感心するが、いまだにもっと「いい音を」という欲求が尽きないのだからおそらく傍から見ても呆れかえっている人が多いことだろう(笑)。

さて、大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。

以下、とりわけ興味を引いた点を自分のために忘れないように箇条書きスタイルで整理してみた。

なお、※の部分は勝手な独り言なのでけっして鵜呑みにしないでくださいね(笑)。

☆ 難聴の大きな要因は「騒音」と「動脈硬化」

2007年10月、日本の国立長寿医療研究センターから「加齢と難聴には相関関係がない」というショッキングなニュースが発表された。主として難聴に関係していたのは「騒音」と「動脈硬化」の二つだという。

「騒音」の原因には「騒音職場」とともに「ヘッドフォン難聴」「イヤフォン難聴」が挙げられ、一方の「動脈硬化」は言わずと知れたメタボリック・シンドロームである。

この二つは日常生活の中で十分予防が可能だが、比較的若い時期から一人ひとりが心がけていかない限り、近い将来「大難聴時代」がやってくることは必至だという。

☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツだが、これが英語ともなると200〜12000ヘルツとなって随分違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。

また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がってくる。

☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。

したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかるが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!

☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとして述べると、オーディオ愛好家が音楽を聴くときには心が揺り動かされるので主として「感情系ルート」がはたらき、それ以外の普通の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろう・・・。

ほかにも本書には「音楽好きための難聴予防テクニック」など貴重な情報が満載で、末永く「音楽&オーディオ」を楽しみたいと思われる方は是非ご一読されることをお薦めしたい。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/aa9e0729bc431cc237b540665df99928

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