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インド人とは何か?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/680.html
投稿者 富山誠 日時 2013 年 3 月 03 日 15:11:06: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: インド大好き _ 信心深い人々が暮らす理想の社会とは 投稿者 富山誠 日時 2013 年 3 月 02 日 11:19:53)


インド女性は美しい

PRINCE FINAL
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=riLWMbUKt-o

Saravana Stores antiq jwelary HQ
http://www.youtube.com/watch?v=zWsv6D5BN2Y&feature=player_embedded

GRT Wedding and Celebration Jewellery
http://www.youtube.com/watch?v=5pLs4g7EVZo&feature=player_embedded

SHREYA GHOSHAL'S JEWELLERY COLLECTION FROM JOYALUKKAS
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=oZvgTbKe_Pw

Nathella Jewellery- Chennai, India
http://www.youtube.com/watch?v=CUXkYu_FZdo&feature=player_embedded

TANISHQ ARIA TVC
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HciYNzlLLxc


インド女性 - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E6%80%A7&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=MegyUcClJMf6mAWM3IDgAg&ved=0CDMQsAQ&biw=1040&bih=892

溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性

インドは10年前までは貧困でしか語られることのなかった国だが、国民の1割でも中産階級になっていくと、10億人の1割は1億人なので、日本の人口と同じくらいの中産階級が生まれることになる。

こういった中産階級はもう貧困で語られることがなくなり、女性たちもまた華々しさを身につけ、アピールするようになる。

そうすると、撮られる写真もいよいよ豪華絢爛になっていくので、インド女性の美しさはいよいよ際立つことになる。


それにしても、この盛装

インド女性の美しさは以前にも写真で紹介した。「溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性(1)」

(1)でも書いたが、インド人は「肌の白い」インド人が美しいと思い込んでいるので、まだまだインド中部〜南部を占める褐色のインド女性を美しく撮る写真家がいない。

いるのかもしれないが、あまり目立ってこない。

しかし、マジョリティをいつまでも無視することはできないから、やがては褐色の美しい女性が登場してインドの偏った美の概念(白肌信仰)が覆される時代が来るだろう。

それまでは、白肌のインド女性だけを見つめることになる。それにしても、この盛装はどうだろうか。溜め息をつくしかない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120613T1202200900.html


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Y 二 ヽ 人ノノノハ ゞ┴'   、` }   }         ! ! !八 |从八
{ 仄} }} ノミ辷彡'}      ,. '  从 ヽ'_       !:/:/レ人< ヽ
弋辷ン乂}{ミ辷彡'}    _,. - /辷`ヽ  `    //://  ̄`ヽ
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1. インド人とは何か?

インド人というのは、白人なのか黒人なのか黄色人種なのか?

世界は三大人種群に分かれているとはよく言われている。白人、黒人、黄色人種というのがそれだ。

コーカソイド=白人
ネグロイド=黒人
モンゴロイド=黄色人種

中国や日本ではもちろんモンゴロイドが多い。アフリカ大陸ではネグロイドが多い。ヨーロッパではコーカソイドが多い。それは恐らく誰でも分かるだろう。

では、インド人はこの分類で言うと、どこに当てはまるのだろうか?

人によってイメージが変容する国

答えは、「そのどれでもない」が正解であり「そのすべてだ」というのも正解だ。つまり、どれを選んでも正解になる。

なぜなら、インド大陸にはこの三大人種群のすべてを内容し、さらにはそれらの混血も混じり、混血の混血もいるからだ。インドはすべてマサラ(混合)して存在しているのである。

インドの北部・北西部はコーカソイド系が多い。インドの南部はネグロイド系が多い。インドの北東部・東部はモンゴロイド系が多い。

ただし、この分類はとても大雑把なもので、細かく見れば違う。そのすべての地域にありとあらゆるタイプの「混血」がいるからだ。

その混合具合が本当にバラバラで、それがインドの面白いところなのだが、同時に複雑なところでもある。

これだけ人種が違うと、当然、宗教も文化も言語も違ってくるわけで、一言でインドと言っても、日本のように「人種はこれだ」「宗教はこれだ」とまとめ切れないのである。

「典型的なインドとはこれだ」と言った瞬間に、そこから漏れ落ちるものが多すぎて、まとめにならない。あまりにも違いが多すぎて、国民すべての「相互理解」というものがまったくない。

だから、インドはつかみどころがなく、人によってイメージが変容する国でもある。

「何も分からない」「何も確実なものはない」

ボリウッド映画に出てくる美男美女は、ほとんどが白人系(コーカソイド)であることに気がつくと、インドでも白人系が影響力や力を持っていることが理解できる。

しかし、彼らもよくよく見てみると、金髪碧眼ではない。確かにコーカソイド的な特徴を持っているようだが、では彼らが「白人か?」と言われれば、誰もが返事に窮してしまうだろう。

白人の骨格をしているが、褐色の肌や黒い髪の特徴はどう見ても白人のものではない。かと言って、ネグロイド(黒人)かと問われれば、やはりそれも違う。

虹彩が黒く、髪も黒く、肌も黒いとは言ってもネグロイド(黒人)とは明らかに違うのである。

モンゴロイド(黄色人種)でもない。ボリウッド映画の美男美女を見て、自分たちと同じ人種だと感じる日本人は皆無に等しいはずだ。まったく違うのである。

つまり、インド人は世界のどの民族と比べても、違うようで同じ、同じようで違う。

民族の混血度が進んでいると言えば、ブラジルもまたそうだが、ではブラジルとインドを比べて人種的な外観が似ているかと言われれば、違うと思う人も多いだろう。

後で調べてみると、インド・スリランカ人、つまりアーリア系のインド人はコーカソイド(白人)系なのだという。そういうことになっている。

私はその学術的根拠が何に基づいて発表されたものか知らないが、どうも信じる気にはなれそうにもない。

私の中ではアーリア系インド人は白人ではないのだ。アーリアは、コーカソイドでもネグロイドでもモンゴロイドでもない、

まったくの「新種」だと言われた方がまだ納得が行くし、私は自分の中ではそんな気でいる。

本当にインドは混沌としており、いろんなことを思いつかせてくれる国で飽きない。こんな国は、世界のどこを見ても、他には見つからない。

「何も分からない」「何も確実なものはない」という気持ちにさせてくれるこのインドが好きだ。

答えはひとつしかない、と学校教育の弊害に悩んでいる人は、インドを放浪すれば思考の解放ができるのではないだろうか。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120428T0523320900.html


青、緑、黄色。変わった瞳の色を持つインド女性のいくつか

唐突だが、あなたの瞳の色は何色だろうか。確認しないで「黒だ」と思う人もいるかもしれないが、まず自分の瞳を鏡で確認してから以下の文章を読んで欲しい。

日本人は自分の瞳が「黒」だと思っている人がいて、私もずっと自分の瞳の色は「黒」だと言っていた。

しかし、「あなたの瞳は黒ではない。ブラウンだ」と笑って指摘したのがロシア人の女性だった。(マイクズ・プレイス。緑の虹彩を持った女性とロシアの崩壊)

多くの日本人の瞳は焦げ茶色(ダーク・ブラウン)

改めて自分の瞳の色を確認したら、本当に「濃い茶色」だった。客観的にはそうなのだが、私たち日本人は自分の瞳の色のことを「黒」と言う。だから、意識下では黒だ。

しかし、黒は「比喩」であり、本当は日本人のほとんどが「茶色」なのである。もしかしたら、本当に「真っ黒」だと思い込んでいる人もいるかもしれない。

もちろん、全員がそうだとは言わない。しかし、多くの日本人は恐らく「焦げ茶色(ダーク・ブラウン)」だというのが正確なところだろう。

そういえば、どこかの国のアライバル・カード(出入国カード)で瞳の色を書かされた国もあったような気がするが、そのときにも黙って訂正されたような気もする。どこの国だったか思い出せない。

恐らく日本人は全員、無意識に"Black"と書いて"Brown"に訂正されるだろう。

しかし、人を判断するのに、瞳の色をとても重要視する国もあったりして、欧米人なども自分の瞳の色をよく知っている。それが自分の個性であり、自分の「お気に入り」だからである。

私の目をブラウンだと言ったロシア女性に、「君の目はブルーだね」と言ったら「違う、グリーンよ」と言われてよくよく見たらグリーンだったことも強い印象として残っている。

瞳の色は、日本人よりも外国人のほうが敏感なのである。

日本人はずっと「目の色は黒(茶色)」が当たり前だと思って暮らしているから、外国で相手の色が違うと本当に引き込まれる感じになるのではないだろうか。

インドの「多彩さ」に触れると病みつきになる

ところで、インド圏の女性に惹かれて戻ってこれない理由がひとつある。

それは、女性たちの肉体、衣服、文化、見た目、ファッション、持っている小物、美的感覚、匂い、声調、肌の色、すべてが東アジアや東南アジアの女性と違っていることだ。

何もかも違っている。「違っている」というのは、日本人等の東アジア女性と違っているという意味だけではない。

同じインド圏でも、あきれるほどの女性のバリエーションがあって、ひとりひとりが何もかも違うのである。

インドは広大な大陸で、北と南では文化も人種もまったく違っているので、そういった違う人種がすべて国内でめちゃくちゃに混ぜられていて、膨大な「異種」の人間を生み出している。

最初、インドの神がなぜ、たくさんの顔や手があるのか分からなかったが、インドをさまよいながら、ひとりひとり「極端に違う」のを見て分かったような気がした。

インド人は、人を見て「人間とはたくさんある」というのが子供の頃から脳裏に刻み込まれている。

だから、神を描くときは潜在的に「たくさん」が強調され、顔も手もたくさん描かれるのではないかと思ったのだった。

よくニューヨークは「人種の坩堝」と言われる。しかし、それは混ざっていない人種を指している。

インドも人種の坩堝だが、インドとニューヨークが違うのは、インドの場合は人間がまとめて交配して混ざった状態で違っているということだ。

混ざるというのは、当然、青い瞳も緑の瞳も黒も茶色も全部混ざるわけで、それが多彩なインド人の印象をさらに多彩にする。

コルカタの女性は多くがベンガル人だが、ベンガル女性の中にもドキリとする女性がいる。

顔は普通のベンガル女性のはずなのに、瞳の色が緑色だったりすることがあるのである。ベンガル女性の瞳の色は、一般的に明るいブラウンだ。

それが、たまに違う瞳の女性がいたりする。もちろん、数としては多くないのだが、日本人のように全員が全員「単色」ではないところが興味深くて仕方がない。

そういったインドの「多彩さ」に触れると、もう病みつきになって戻ってこれない。瞳でさえ、同一でない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120511T0348550900.html

いったい何という混沌なのか。インドが理解できなくて当然だ

インドには完全完璧なまでに無学で、野獣のように粗暴な人間がいる。しかし、その一方で世界でも有数の知的レベルを持ったハイテクに強い人材を莫大に抱えている。

インドには女性にアシッド・アタックするような残虐な人間がいる。しかし、その一方で生き物すべてを敬い、虫すらも殺さない完全菜食主義のジャイナ教を信奉するような優しい人たちも莫大に抱えている。

インドには売春地帯があちこちに存在していて堕落した男も大勢いる。しかし、その一方で完全に禁欲してしまった瞑想者や、享楽を悪とする仏教徒も莫大に抱えている。

インドには、極端なものがすべて同時に存在して、完全に混沌としている。

カレーの中には多くの種類のハーブ(香辛料)が混ぜられてそれがひとつの味を醸し出す。インドではこれを「マサラ」と呼ぶ。

インド社会は、まさにいろんな「違うもの」がひとつの鍋の中に詰め込まれた「マサラ」なのである。

果てしのない饒舌さと、完全なる沈黙

インドはハードな国だ。最初は、あの猥雑さと混乱と喧騒に、とても馴染めなかった。

貧しい人たちの必死の生き様に巻き込まれたりすると、それだけで精根尽きるような疲労感を感じた。

いつだったか、知り合ったインド女性と話をしていたことがあった。

彼女の口調は、一方的で、激しく、そして確信的だった。それが、延々と続く。それは、もはや閉口を通り越して、困惑すら感じさせるものだった。

彼女は英語に堪能というわけではない。

単語にヒンディー語が混じり、かつ、インド独特の「r」まで発音する単語読みや、インド独特のイントネーションも、すべて混じっていた。

流暢な英語も分からないが、あまりにローカルな英語もまたつらい。途中で何を言っているのか分からなくなる。

しかし、その饒舌さに、もう聞き返したり内容を把握しようとする気力すらもなくなってしまう。だから、インドを出るときはいつも疲れ果てていた。

饒舌は、大部分のインド人に共通するところがある。

しかし、よくよく思い出してみると、まったくその逆に、言葉が話せないのではないかと思うほど寡黙な人の存在もあった。

それは、まるで自分の存在を消し去ろうとしているかのような、病的なまでの寡黙さだった。インドには、そういう人もいるのである。

私がインド人らしいとイメージするインド女性。確かにインド人らしいとは思うが、彼女とはまったく異なる人種のインド女性も莫大にいる。


インドでは神まで混沌としている

インドは何から何まで極端だ。猥雑で、混乱している。しかし、それが一種の無法地帯のような自由さを醸し出して、中毒のような気持ちを生み出す。

インドは麻薬だ。一度でもインドにとらわれると、もう二度と逃れられない。インドという国そのものが、「放浪者の麻薬」にもなっている。

中毒になってしまって、一生インドがつきまとう。

常に両極端なものが存在するから、その両極端がたまらなく面白い。そもそも、インド人が信奉する神まで混沌としている。

インドで美と豊穣の女神パールバティなどは、まさにインドを象徴している神だ。インドの混沌を思い出すときは、いつも女神パールバティを思い出す。

パールバティは、美の象徴だ。
しかし、怒ると凶悪な神ドゥルガーに変異する。

さらに怒髪天を衝くような怒りにとらわれると、もはや地球をも破壊してしまうような真っ黒な異形神カーリーとなっていく。

美の象徴が、凶悪と破壊の象徴と結びついている。

美が割れると中には凶悪が入っており、それが高じると、さらに割れて中の破壊神が出てくる。

美しさと凶悪さが同居している。

パールバティ。美の化身。しかし、この女神が怒ると真ん中からふたつに割れて、怒りの神や破壊の神が出現する。


一国多文化で見識がガラリと変わる

日本は「あ・うん」の呼吸がある国だ。黙っていても相手の考えていることが読めるのが日本社会の美徳であると言われている。

それは裏を返すと、相手も自分と同質だから、考えが読めるということになる。

もっとも、最近は同じ日本人同士でも、話が通じない異質な世界に住んでいる人も増えたが、基本的には日本人は協調し、同質化する。

「誰もが同じ」
「異質を嫌う」
「同じことで安堵する」
「似たような考えでまとまる」
「相手と違うことはしない」

つまり、全体的にみれば、「みんなが右を向けば右」で、「みんなが左を向けば左」の国である。

日本のようにベクトルが常に同じ方向を向く国民性は、それが当たったときは強い力を発揮する。1950年代からの高度経済成長期はそうだった。

しかし、目指している方向が間違っていると、みんなまとめて浮かばれない。戦前の軍国主義時代がそうだった。

良くも悪くも、日本は「一国一文化」の特徴を持つ。


インドは完全なる「一国多文化」だ

だから、日本を見るのと同じ目で、インドが「一国一文化」であると思って見ていると、まったく分からない国になってしまう。

インドは完全なる「一国多文化」だ。

言葉も、文化も、宗教も、人種も、哲学も、何もかもが完全にバラバラで、同じインド国内でも隣の村でさえ言葉が通じない。

美意識ですら違う。太っている女性が美しいと思い込んでいる人もいるし、痩せている女性が美しいと思い込んでいる人もいる。

書き言葉も、ヒンディー語と、タミル語と、ベンガル語と、ウルドゥー語では、まったく違っている。

こんな国だから、インドとはいったいどんな国なのだとイメージがつかめずに悩む人がいてもおかしくない。

私も、インドという象の尻尾しかつかんでおらず、まだ鼻すらも触ったこともないと言える。

インドは「A」だ、と説明すれば、インドの中にある「B」も「C」も「D」もすべて取りこぼす。では「B」だと説明すれば、「X」も「Y」も「Z」も取りこぼす。

だから、インドについてよく分からなくなっても、分からない国がインドなのだと開き直るくらいでちょうどいいのかもしれない。


インドがどれだけ混沌としているのか

ちなみに、インドがどれだけ混沌としているのかは、ヒンディー語、英語以外の公用語を見れば分かる。

・アッサム語
・ベンガル語
・ボド語
・ドーグリー語
・グジャラート
・カンナダ語
・カシミール語
・コーンカニー語
・マイティリー語
・マラヤーラム語
・マニプル語
・マラーティー語
・ネパール語
・オリヤー語
・パンジャーブ語
・サンスクリット語
・サンタル語
・シンド語
・タミル語
・テルグ語
・ウルドゥー語

これ以外にも500万人以上の人々に話されている言語が16種類ほどある。いったい、何という混沌なのか……。

こういったものをすべて1つにして、「インド」というラベルを貼った国が、インドである。

マサラ(カレー)の中にはたくさんのスパイスが入っている。すべてまとめて、カレーというひとつの料理になる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120927T2313140900.html

インドに亡命することになったら、生きていけるだろうか?

インド圏をさまよったことのある人間なら誰もが思うのは、インド人の自己主張の強さである。

インド人の政治家も壇上に上がって演説を始めると、原稿も見ないで延々と1時間でも2時間でも話している。

政治家だけではない。ビジネスマンの押しの強さ、粘り強さ、交渉のうまさも東南アジアや東アジアのものとはまったく違う。

話していると、まるでクモの糸に絡め取られるかのようにやられてしまう。とてもかなわないと思う。

「謙譲の文化」と「自己主張の文化」

商売人だけならまだいいが、物乞いまで強い。

小銭では満足せず、抱えている子供がいかにかわいそうかを堂々と訴えて喜捨をするように「説得」してくるのである。

当然、女性でも性根が据わっていて、「金を出せ」と激しく突き上げてきて折れない。

東南アジアでは、このような激しい交渉をする状況はあまりなかった。タイの歓楽街の女性も常に金を狙っているが、それでもタフな交渉相手ではない。

彼女たちは男たちと直接対峙するような交渉はしない。もし、仮に客と激しい口論になったとしても、インド人の執拗さ、執念深さに比べると、明らかに見劣りがする。

それは、東南アジアには人と人が対立するのを嫌う「謙譲の文化」が根底にあるからだろう。

謙譲とは、「へりくだり、譲ること」と辞書にある。日本でもそうだが、「譲り合う」ことは美徳である。

譲り合うどころか「それは俺のものだ」と自己主張するのは、感情すらも制御できない未熟者であると考えられる。そして、それは恥ずかしいことだ、とも考える。

仏教思想の「悟りを開く」状態の対極にあるのが、自分の感情すら制御できない混乱の状態である。

だから、たとえ共産国家であっても仏教圏の影響が強い東南アジアでは、そんなみっともない姿を見せたくないと考えてしまう。

激しい自己主張や、金銭に対する際限のない執着も、悟りを開いていない証拠だと見なされる。

インドという国はひとつだが、中身はカオス

しかしインドは違う。

ヒンドゥーは戦う神、怒り狂って手のつけられない神、セックスにまみれた神に溢れている。

荒々しい原始の感情、人間の持つあからさまな欲望は、すべて神々に投影され、誇張され、神話のスケールに増幅される。何もかも剥き出しであり、直接的である。

そのような感情を剥き出しにした宗教が根底にあって、さらに「分断」が社会を覆っている。

カースト制度で分断された分かり合えない各階層、シヴァ派、ヴィシュヌ派、クリシュナ派、カーリー派……と、神によって違う文化と思想。

そこに混じり込む仏教派、イスラム派、シーク派、キリスト派という異教徒の思想。

また、異人種の侵入もまたインドの文化を細分化し、それぞれを異質なものにする。

イラン側から侵入して来たアーリア系という侵略者、中国・モンゴル方面から侵入して来たモンゴロイド系。そして南アジアに土着していたドラヴィダ系。

それぞれの民族は異なった歴史を持ち、異なった言葉を持ち、異なった文化を持つ。ひとことに「異なった言語」と言うが、主要な言語だけでも、数え切れないほどだ。

ヒンディー語、ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラーティー語、カンナダ語、マラヤーラム語、オリヤー語、パンジャービー語、アッサム語、カシュミーリー語、スィンディー語、ネパーリー語、コーンカニー語、マニプリー語、サンスクリット語……。

つまり、インドとは恐ろしいほどの雑多な文化・思想・民族・宗教・言語・社会・階層を無理やりひとつに包括した国である。

インドという国はひとつだが、中身はカオスだ。完全に違う存在が凝縮されてそこにある。

インドでは女も男もタフな交渉人

だからこそ、インド人は生きるために自己主張しなければならなかったと言える。「自己主張の文化」だ。

単一民族であれば主張などしなくても、目が合っただけで分かり合える。「謙譲」の文化だ。

インドは単一民族でもないし、言葉も文化もバラバラだから、何も分かりあえない。だから、訴え、叫び、説得するのである。そういう世界だった。

これほどまでに違うものを抱えていると、分かり合うために、自分たちの特徴を主張しなければ、永遠に無視されてしまうだろう。

また、自分たちの民族や宗教が勢力を広げるという野望があるのなら、その利点を説き、圧倒するしかない。

相手に飲み込まれないためには、それぞれの個体が自らの生存を示すために、声高に権利を主張する。

そうやって長い時間をかけて、インドという国は主張する国になっていったと考えられる。

・自分の立場を「主張」する。
・生き残るために「交渉」を重視する。
・自らの正しさを「断言」する。

アメリカは移民の国であり、さしずめニューヨークなどは「人種のるつぼ」だと言われている。同じことはインドでも言える。インドもまた想像を絶する「人種のるつぼ」なのである。

だから、インドでは女も男もタフな交渉人になる。

決して折れないし、あきらめない。自らの利益を主張することにかけては、執拗で、強迫観念に取り憑かれているようにも見える。

いろいろな国を巡ったとき、旅人であった私は無意識に「この国に亡命することになったら、生きていけるだろうか?」と考える。

タイやインドネシアでは生きていけると思った。しかし、インドでは、生きていけない。彼らと対等に駆け引きする能力は自分にはない。

あなたはインドで生きていけるだろうか。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120708T0007210900.html


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2. カースト制の起源


インドへのアーリア人侵入

「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。

「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。

つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。


_________


アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究

インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された。


インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。

1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%


という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。

1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、

上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、
中層カースト(シュードラ)、
下層カースト(アンタッチャブル)

に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
http://jorde-lab.genetics.utah.edu/elibrary/Bamshad_2001a.pdf

 

Y染色体のSTR分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108


日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。
インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。

カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。

低層カーストはアジア人にもっとも近い。


■ミトコンドリア染色体のHVR1分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113


ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。

低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。


以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、


1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、
2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、

という結論になる。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332


「武士」「庶民」「奴隷」の上に絶対的権力をふるうカーストの最上位階級、バラモン(婆羅門)というのは、中央アジアにおいて極めて少数であったこの「白色人種(アーリヤン)」は、圧倒的多数の「黄色人種」や「黒色人種」の先住民と混血して、完全に同化されてしまうのを極度に恐れ、「バラモンの村」という特別区域に居住していました。

そして、彼らの持って来た民族宗教「バラモン教」の神々を武士階級と庶民階級には強制的に信仰させ、また、奴隷階級がバラモン教にふれることは禁止して、その権威を保とうとしたのでありました。

 この白人支配下のインドに生れた釈迦は、この皮膚の色にもとづく苛酷な人種差別と職業差別とに反対し、「人間みな平等」(「四姓平等」)の立場に立って、かの宗教を創始したのでありました。

 最新の研究によれば、ブッダが積極的に人種差別廃止を目指した事実はないとされている。しかし、ブッダは不可触民に対して最上格の敬語をもって接した。この事実そのものが既に革命的なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090111/p2


紀元前2500年頃、ペルシア(現在のイラン)に定住していた遊牧系のアーリア人種がドラヴィダ人の支配する地域に侵入した。そのとき、ドラヴィダ人のセックス観と性の放縦ぶりに、やってきたアーリア人は仰天したという。

ヴェーダ聖典によれば、セックスの自由は完全に許されており、男も女も気に入った相手を自由に選び、自由に取り換えていたのだという。結婚という概念は、地域によってあったりなかったりした。女性が妊娠して子供を産むと結婚するカップルもいた。しかし、そうでなければ、女性は子供を捨てて、別の関係を結ぶようにしたようだ。

ドラヴィダ人の信仰していた原始ヒンドゥーは、女性を讃え、賞賛し、そして崇拝した。つまり、女性は尊い存在だった。


白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる

しかし、アーリア人はそうではなかった。彼らはゾロアスター教を信じていたが、その宗教は極めて倫理的で天国や地獄の概念を持ち、預言者や終末論の思想があった。

現在、預言者・終末論と言うとすぐにユダヤ教・イスラム教・キリスト教を思い浮かべるが、ゾロアスター教がそれらの宗教に影響を与えていたという学説がある。

その家長的な宗教を持つ遊牧民族アーリアがインドに侵略を開始してから、インドに土着していたドラヴィダ族は次第に追いつめられて南部へと押し込められていく。その過程で膨大な混血と宗教的な融合が起きて、インド・アーリア族とも言うべき混血民族が出来上がった。

インド人とは異なる民族と血が混じり合った人種だ。その混じり具合にもグラデーションがあって、それがカーストとしての身分制度につながったと見られている。

侵略戦争に勝利したのはアーリア人であり、彼らは人種的には白人か、白人に近い特徴を持っている。ドラヴィダ人は黒い肌を持ち、黒人に近い特徴がある。そこで、侵略に打ち勝ったアーリア人の「白肌」は高貴なものと見なされるようになり、侵略されたドラヴィダ人の「黒肌」は唾棄すべきものと決めつけられた。

ボリウッド映画に出てくる主人公たちを見れば分かるが、主演の男女はみんな白い肌の美男・美女ばかりだ。いまだにアーリア色が強いものであることが分かる。

白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる。くだらないボリウッド映画がインド文化に根付けば根付くほど、インド人は意識的にも無意識にも洗脳されて、白い肌をさらに尊ぶようになる。

ドラヴィダ系の血筋を色濃く残した女性。肌が黒く、黒人種の特徴を多く残しているのが特徴だ。

ツァラトゥストラは何も語らないほうが良かった
白い肌にそれほど意味があるのかどうかは疑問だ。

しかし、近年の歴史は白人が有色人種を支配してきた歴史なのだから「白人の優位性」は、どこの有色人種の国でも見られる傾向だ。

当然、宗教や文化にもやはりアーリアの思想が優位になっていくのだが、それはゾロアスターをも取り込んだヒンドゥーの思想にも反映されていった。

初期ヒンドゥーの女性崇拝は静かに消されていった。家長主義、父権主義の思想が女性崇拝に取って変わり、やがて「女性はひとりの男性に従うもの」という保守的な文化へと変容していった。

ツァラトゥストラ(ゾロアスター教開祖)が何を語ったにせよ、自由を束縛されたインドのドラヴィダ女性にとっては、実に迷惑な話だったのは間違いない。

ツァラトゥストラは何も語らないほうが良かったのだ。

家長主義の特徴である「一夫一婦制」は、古代のドラヴィダ女性だけではなく、全世界の全人類にとって、人間の本性と合致していない。

人間は最初から雑婚だ。ドラヴィダ人の方が正しかった。一夫一婦制は、古臭く、宗教臭い。結婚制度は、もう形骸化しているし、そもそも最初から無理がある。

人間は成長したり、老化したり、考えが変わったり、気質が変化したりする。自分も配偶者も、いつまでも結婚した時と同じ人間であるはずがない。それなのに、なぜ同じ配偶者と一緒にいなければならないのか。

かつての古代ヒンドゥーの世界のように、自由のままでよかったのではないか。そして、人間はその方向に軌道修正すべきなのではないか。


現在のイラン人はインドに踏み入ったアーリア系の末裔であると考えられている。

産む子供は、父親が別々のほうが子供の生存に有利
女性は特に、これらの宗教には距離をおいたほうがいい。
本来、女性にとっては、産む子供は父親が別々のほうが子供の生存に有利である。

なぜなら、多様な遺伝子を残すことができるので、環境が変わったときに、子供たちの誰かがその環境に適応できる確率が高くなるからだ。

最初の男は肉体的に優れていて、次の男が頭脳的に優れているとする。次の時代が戦争の時代だったら最初の男の子供が生き残るし、平和の時代だったら、二番目の男の子供が生き残る確率が高い。

一夫一婦制であったとき、結婚した相手が愚鈍な男だった場合は、どんなに子供を産んでも愚鈍な子供しか生まれてこない確率が高い。

女はたまったものではない。しかし、結婚さえできれば、男は愚鈍でも自分の遺伝子を残せるのだから有利だ。

今の社会はユダヤ・キリスト・イスラムの影響が世界の隅々にまで浸透していて、それらの宗教の作り出す文化がグローバル社会によって画一化されている。したがって、放縦な性的関係は批判されるものになるし、無批判に結婚制度や一夫一婦制を受け入れなければならない。これらの呪縛から逃れようとした女性は、「売春婦」だとか「淫売」だとか呼ばれて蔑まれる。

もしドラヴィダ人が世界を征服していたら、人類の性に対する考え方は、今とは180度違うものとなっていただろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0318320900.html

色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された


インドの女性は「黒」が嫌いだ。

インドの肌の黒い女性は、自分の肌を嫌悪している人もいて、男が「黒い肌が好きだ」と言うと、自分の肌が黒いにも関わらず、必死でその意見が間違っていることを諭そうとする。

「白い肌が美しいのよ。黒い肌は美しくない」

インドでは「色」のことを「ヴァルナ」と言うが、このヴァルナは容易に肌の区別に結びついて、それが最終的には人種差別にまで行き着く。

すなわち、黒い肌の女性は劣っており、ロー・カースト(最下層)であり、醜い女性であると社会通念として通っている。

白肌に価値があると洗脳するかのようなCM

インド女性は顔貌(かおかたち)が美しい人が多い。とくに横顔を見るとその端正さが際立って目を離すことができない。

インドの男たちも自国の女性は東アジア(中国・韓国・日本)の女たちよりも美しいと言って憚らない。

もちろん個人差はあるので美醜の比較は一般論でしかないが、それにしてもインドの美しい女性は、世界中の美しい女性を圧倒的に引き離していて足元にも寄せつけない。

しかし、それでも肌の黒い自国の女と白い肌の東アジアの女がいたら、肌が白いというだけで東アジアの女性と一緒になりたいという男は多い。

白い肌は彼らの中では崇拝に値するものになっている。

女性もそれを知っているので、インドではやたらと美白化粧品が売れる。

たとえば、「Fair & lovely」という化粧品がインドにあるのだが、このコマーシャルは露骨だ。

黒肌で自信喪失の女性が見る見る白い肌に変身して輝く笑みを浮かべるのである。

あるいは、白い肌になったら注目されて成功して幸せになるようなコマーシャルが恥も外聞もなく流されている。

テレビに出てくる女性も、コマーシャルに出てくる女性も、映画に出てくる女性も、みんな判を押したかのように「白肌」だ。

インドは白い肌の人々だけが住んでいるのかと思わせるくらい、白肌俳優の採用が徹底していて、それがボリウッド映画が「夢うつつ」のような下らない内容のものにしてしまっている。

歌あり、踊りあり、シリアスあり、ドラマあり、アクションあり、サスペンスありでも、「真実」だけがない。それが、あまりに「黒」を排除するからだという遠因もある。

白肌崇拝を煽るコマーシャル。白い肌であることが重要であると洗脳するかのようなコマーシャルである。


黒は嘲笑の的になった

インドはインダス文明の担い手だったドラヴィダ族(黒肌)が、アーリア族(白肌)に征服されていく過程で生まれた国である。

アーリア族(白肌)はどドラヴィダ族(黒肌)を屈服させたあとに、肌で身分を分けた。

白肌は崇高で高貴であり、黒肌は劣っていて価値がないという身分制度である。ヴァルナで分けられた身分制度だ。

それをカーストと呼んで社会に定着させて、黒という色は「醜い」という意味を持たせるような徹底ぶりだったから、アーリア族の悪質さが分かる。

とは言っても、アーリア族はまったく躊躇なくドラヴィダとの混血を進めたから、もしかしたら実際には黒肌が劣っているとは思っていなかったのかもしれない。

本当に黒肌が「醜い」と思っていたのであれば、彼らと交わることなどなかったはずだ。

歴史はその逆の結果を見せつけている。インドほど白肌と黒肌の混血が進んだ国家はない。

口ではあれこれ言いながら、アーリア族はドラヴィダ族の女性が美しかったのを実は知っていたのだろう。これも、建前と本音の乖離であって、結果がすべてを物語っている。

肌が白くなったら、とても注目されて人気者になれるというメッセージを露骨に主張するコマーシャル。


黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている

インドでもっとも注意を惹くヒンドゥーの女神にシヴァの妃であるパールヴァティーがいる。

パールヴァティーは「白肌」だ。しかし、怒りに駆られると額が割れて、ドゥルガーという女神が飛び出して来る。

さらにドゥルガーが激怒していくと、今度は正真正銘の「真っ黒の神」であるカーリーに変異していく。

これはパールヴァティー(白肌)からカーリー(漆黒)の順番で語られている。

しかし、歴史から見ると逆だろう。

ドラヴィダの黒がアーリアの男の血を受けて白肌になっていったのだ。

だから、パールヴァティー(白肌)がカーリー(黒肌)になっていくのは先祖帰りであって、元々は「黒」がルーツなのだということを如実に示している。

黒肌のカーリー(左)と、白肌のパールヴァティー(右)。

ドラヴィダ族は征服されたのだから、内心では怒り狂っているのは当然だ。

カーリーがいつも怒り狂っているのは、そういった歴史の悲哀がそこに静かに込められているのであろうと推測している。

黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている。

しかし、インド圏で白が美しいというのは、白い肌の人が歴史の闘争に勝ったからであって、それ以外の何者でもない。

白い肌の人々が負けていれば、白が醜いヴァルナになっていたはずだ。

民族が闘争に負けるというのは、その民族の持つ特質が否定されることでもある。たとえば、日本人が闘争に負ければ、日本人の持つ何らかの特性は嘲笑の的になる。

ドラヴィダは民族闘争に負けて、インドの大地でその肌の黒さが嘲笑の的にされた。ヴァルナ(色)でその嘲笑が制度化されて、インドの歴史は黒を否定した。

私ひとりが黒い女性が美しいと思っていても、当の黒い肌のインド女性がそれを否定する。それでも、私は「黒」が好きだ。

黒い肌の女性が美しくないなんて、いったいどこの誰が考えついた冗談なのだろう。黒い肌の女性も、美しい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120629T2225080900.html

身分の低い人間は穢れていると考えるのが、身分制度の無意識

インドのカーストの最底辺の中の最底辺、カーストにすら入れないほどの身分の人間を「不可触民」と言う。英語ではアンタッチャブルである。

「触ることすらできないほど穢れた人たち」

そういう侮蔑が込められた恐るべき言葉が「不可触民」という単語に現れている。

インドでは売春女性が最下層のカーストであるのは意味がある。それは不道徳だからという理由もあるだろうが、他人にかなり密接に「触れる」からだ。

インドでは他人に触れるというのは「汚らわしい」と考える文化が根底にある。まして、カーストの低い穢れた人間など触りたくもないと思うようだ。

穢(けが)れ……。

「不可触民」というのも触れないほど「穢れて」いるのだという思想で定義された。

自分までもが汚れてしまうと無意識に考える

私たちは普通、「他人が穢れている」「他人が汚い」とは思わない。触りたくないという感覚も起きない。

それは、あまりにも当たり前のように感じるかもしれない。しかし、それは人間が平等であるという意識があるから感じないだけかもしれない。

人間には上下関係があって、自分より身分が下の人間は「劣っている」という傲慢な意識があれば、どうなってしまうのだろうか。

あまりに「穢れている」ので、そんな身分の人間を触れば自分までもが汚れてしまうと無意識に考えるのだ。

少なくとも、カースト制度の中のインド人は、そのように考えたようだ。

今でも程度の差こそあれ、そんな文化がインドでの暗黙の了解になっている。意識化されていないことも多いが、意識してそう語るインド人もいる。

だから、人に触ったり人の持ち物に触ったりしなければならない職業の人間は、最低ランクのカーストと見られるのは自然の流れだったのだろう。

他人の排泄物を扱うバンギー・カーストや不可触民が最低底のカーストと思われているのは、最も汚れたものである排泄物に「触れる」からだ。

そして、他人と肉体交渉することが仕事になっているような売春女性は、女性の中でも最も穢れていると言われている。

誘拐されて売春地帯に放り込まれ、救出されて村に戻っても、売春ビジネスをしていたということが分かったら、村人はこの女性を受け入れない。

彼女は、穢れてしまったからである。

売春地帯に堕ちた女性は、そこを抜け出しても村で受け入れてもらえないことも多い。


劣情の前には不可触民が「不可触」ではなくなる

売春ビジネスに放り込まれる女性は多いのに、いったん放り込まれると抜け出しても彼女は過去を清算することができない。

一度穢れると、今がどうであれ、すでに穢されて元に戻らないと社会が考えているからだ。

NGOが売春女性を救出して女性を村に戻しても、誰も関わろうとしないので生きていけず、仕方がなくまた売春ビジネスに戻る女性も多い。

売春というビジネスの中身を考えると、他人に触れることを無意識に嫌うインド人には「身の毛もよだつ」ことに違いない。

売春女性は他人に「触れる」どころか、男の肉体を自分の体内にまで侵入させるのを許さなければならないからだ。

しかも、1日に何人もの男を受け入れなければならず、それを拒むことができない。

必然的に売春女性は、不浄の極まった女、もはや清くなることはあり得ないまでに穢れてしまった女として扱われるようになる。

どこの国でも売春女性は存在を酷評されるが、インドは格別にそれがひどい。人権を認めるに値せず、もはや人間として扱う必要すらないとでも考えている。

しかし、皮肉な現実もある。

自分の欲望が抑え切れなくなると、「彼らは不可触だから何をしてもいい」と言いながら、ダリット女性の意志も無視して押し倒す男がいるのである。

ボロボロになるまで「不可触」の女性をレイプする警察官の存在もある。

つまり、劣情の前には「不可触民」が「不可触」ではなくなる。触ってもいいことになってしまうのだ。

インドが変わるのは、まだまだ時間がかかる

いったい、どういうことなのだろうか。

これは、別に難しい話ではない。本当は、男たちは誰も「不可触民に触れたら自分も穢れる」とは思っていないのだ。

ただ、そういうことにしておいた方が、最下層の人間を常に奴隷的に扱えるので都合がいい。だから、上位カーストの人間は思っているフリをしている。

現在でも、インドでは最下層の女性たちに対する性的虐待の事件が次々と起きている。国際ニュースになるほど事件が起きているのに、なぜ改善されないのか?

犯人を死刑にすれば状況は変わるのか?

無駄だ。身分制度(カースト)が、社会や、人々の心の中にある限り、最下層の人を見下したり、最下層の女性を見下す状況は変わらない。

また、身分制度とは別に、インドでは保守的な家長主義も浸透しているから、女性であること自体に身分に関係なく虐げられる現状もある。

下層カーストでなくても、女性は男に虐待されたり、虐げられたり、家庭内暴力を受けたりする。これが、インドの女性の置かれている厳しい現状だ。

インドの歴史は、そうやって苛烈な差別を内包したまま続いてきた。しかし、1992年からこの国は経済成長に向けて動き出しており、それから約20年近く経った。

インドはこれでも少しずつ変わりつつある。

しかし、未だ国民の6割が貧困層である現状を見ると、経済発展の動きはとても鈍いことが分かる。インドが根本的に変わるのは、まだまだ時間がかかるのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0248220900.html


人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち


人身売買されて売春宿に放り込まれ、精神を病んだ若い女性を知っている。

彼女は感情を失い、まるで小さな人形のようにイスに座り、ほとんど何もしゃべることもなかった。

何か問いかけても、彼女の声はほとんど聞き取れないほど小さく、人間としての生気が消えかけているように思えた。(コルカタの売春地帯で、デビーは人間性を叩きつぶされていた)

あとで彼女は拉致されて売春宿に放り込まれたのだというのを知ったが、猥雑で混沌としたエネルギーがうねっているようなインドの売春地帯で、彼女の醸し出す雰囲気はとても不気味なものがあった。

彼らはインドの中では人間扱いされていない

インドは自他とも認める「人身売買国家」である。他人の子供を拉致・誘拐して、売春地帯や組織に売り飛ばす職業の人間が存在していて、インド・ネパール・バングラデシュ全域をテリトリーにしている。

信じられないかもしれないが、子供が行方不明になるのは珍しい事件でも何でもなく、日本では重大な事件に発展するようなケースが警察に訴えても放置される。

なぜなら、誘拐される子供たちのほとんどが低層のカースト、もしくは不可触民であるからだ。

彼らはインドの中では人間扱いされていない。

上位カーストの男たちが下層カーストの娘たちをレイプするのは日常茶飯事だ。

思春期になって処女のままの下層カーストの娘はほとんどいないともいわれている。集団レイプが横行しているのである。(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

そういえば以前、こんな事件があった。

下層カーストの少年が上位カーストの少女に恋してラブレターを送った。それを知った上位カーストの男たちは少年をリンチしたあげくに、少年の母親の目の間で、少年を走っている列車に放り込んで轢殺したのである。

凄惨な事件だが、インド人が聞いたら「そういうこともあるだろう」で終わってしまう。

なぜなら、下層カーストの男と上位カーストの女は「交わってはならない」文化になっており、それを破るのは命を捨てることだからである。


最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている

インドではいまだに身分制度が堅牢であり、低カーストの人間は人間以下なのだから「豊かになる権利」すらない。

カーストにすら入る権利のない人間(アウト・オブ・カースト)の人間は、インドでは Sub-human であると言われているが、この言葉にインド人の信じるヒンドゥー教のおぞましさが潜んでいる。

Sub-human。人間以下。

低カースト、不可触民(ダリット)たちは、人間の形をしているが、人間ではないことになっている。

彼らは前世で罪を犯したので、今のような身分に生まれてきたのだと社会は定義しており、彼ら自身もまたそのように信じている。

そこに、ヒンドゥー教という宗教の恐ろしさがある。人間以下の人間がいることを、宗教が断言し、社会がそれに染まり、固く信じられているのである。

ヒンドゥー教は人間以下の人間がいると定義しており、ヒンドゥー教徒はそれを潜在意識にも刷り込まれて、社会全体で洗脳し合っている。

そういうわけだから、人間ではない「Sub-human」に人権などない。彼らの富はいつでも奪うことができるし、彼らの女性はいつでもレイプすることができる。

彼らの子供たちが拉致されても、人間ではないのだから、真剣に捜査する必要性すらないと信じられている。

インドが経済発展して貧困がなくなるとは恐れ入った概念だ。

確かに上位カーストは豊かになるだろう。立派な教育を受けたり、いい家に住むこともできるだろう。

しかし、低カーストの人間が果たしてその仲間入りができるかどうかは分からない。

もちろん、多少の例外は出てくるだろうが、圧倒的大多数は無視され続けるだろう。

文化的に彼らは抹殺されており、教育すら受けられないのだから、今のままでは救われることなどありえない。圧倒的大多数のスラムドッグはミリオネアにはなれない。

インドの売春婦たちの惨状をレポートしているNPOでは、このように嘆いている。

They live in sub-human conditions, are abused and exploited and their progeny suffer ostracism of the worst kind.

(彼らは人間以下の状況で暮らしており、彼らの子孫は最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている)

インドの貧困地区の現状は、恐らくインドに行ったことのない欧米人や日本人の想像をはるかに圧倒するほどの劣悪さの中にある。

ムンバイのダラピや、コルコタのカリグハットの向こう側のスラムに足を踏み入れれば分かる。

そこに展開されている世界は、今もなおインドが激しい身分制度を内包したいびつな国家であることを示している。

人身売買はなくなるのだろうか。100パーセントの確率で私はなくならないと断言したい。人間ではない人間がいるという社会通念が南アジアの大地に根強く浸透している。

野良犬を捕獲するように、人間以下の身分の子供たちを捕獲して売り飛ばす悪魔や女衒が跳梁跋扈している。これは過去の話ではない。現代の話である。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html

2013-02-28
今でもインドでは排泄物を集める仕事しか就けない女性がいる

インドにおける非常に厳しい差別の実態はブラックアジア第三部のインド編でしばしば言及した。(ブラックアジア「第三部」)

この中で、ダリット(不可触民)と呼ばれる人たちが、私たちの目から見ると、信じられない差別の中に放り込まれていて、苦難の人生を歩んでいることも書いた。

たとえば、掃除や死体処理やトイレのくみ取りの仕事を強制され、それしかできない人たちがいる。(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)

これは昔々の話ではなく、2013年に入った今でも現状は変わらない。インドでは生まれながらにして、「トイレ掃除しかやってはいけない」というカースト(身分)があるのである。

インドの社会全体が、誰もやりたがらない仕事を下位カーストに押し付け、そしてそれを固定化させたのだ。

非人=人に非(あら)ず=人間ではない

ダリット(不可触民)は、日本人にも分かりやすく言うと、「非人」である。

江戸時代、日本も身分制度の社会にあって、それは士農工商制度と言われているが、その士農工商のいずれにも属さないカテゴリーも設定されていて、こういった人たちを「非人」と言っていた。

非人=人に非(あら)ず=人間ではない。

そういう身分を作っていた身分制度があったのだ。私たちは明治時代になってから誰が何の仕事をしても構わないようになったが、今でも「家業を継ぐ」という考え方が依然として社会に残っていることもある。

芸能や事業や政治のような「高尚」な分野では家業を継いだほうが楽して儲かるので、利権を守るために自然に「家業を継ぐ」という考え方になる。

金の儲かる仕事に就いている一族であれば、家業は継ぐべきものなのである。

貧困者にとっては家業を継いでも何も得しないので、家業を継がないことが多い。また、家業を継がないことが許される。

もし、これが許されなかったら、あるいは社会に身分を強制されていたら、日本の社会はこれほど発展しなかったということが分かるはずだ。

身分制度は捨てて正解だったのである。

しかし、インドではいまだカーストと呼ばれる身分制度が続いており、カーストによって下位カーストや不可触民に対しての差別が色濃く残っており、継承されている。


排泄物の処理を仕事とするインドの「不可触民」

AFPがこの排泄物処理をしているインドの女性たちの短い特集をユーチューブに上げているので、ここでも紹介したい。いまだにこのような現状にあることがよく分かる映像だ。


映像では、NGO団体が彼女たちを救い出そうと努力している姿が映し出されているが、50万人以上の女性がここで救い出されるわけではない。

インドの闇では依然としてこのような女性たちが差別されたまま放置されて、現状の改善はなされない。

そして、もっとひどいことに、このような仕事に就いている家庭で娘が生まれると、若いうちからレイプされてしまったり、売春地帯に売られることも日常茶飯事のように起きる。(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

コルカタの売春地帯に売られてやって来た女性たちのうちの何人かは、このようなカーストから来た女性たちである。現実は、この映像よりもはるかに沈鬱で救いがない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0037110900.html

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか 2011年8月27日土曜日

1980年代後半まで、タイ・ヤラワーやスティサンには冷気茶室という売春宿が当たり前にあった。そこには見るからに幼い少女が監禁されている場所だった。今の人たちには信じられないかもしれないが、少女が監禁されていることくらい誰でも知っていた。1990年代のカンボジアにもあちこちの置屋でベトナムから売られてきた少女が雛壇に並んでいた。ベトナム人の売春村もあって、そこにも10歳にもならない少女が売春していた。少女が売春していることくらい誰でも知っていた。


セックスの奴隷

インドネシアのとある売春村ではもっと悲惨だった。少女が売春宿の地下に監禁されていたのである。

まだ知っている。

インド・ムンバイの売春ストリートも少女を水浴び場に監禁しているし、他の売春地帯では鍵のかかった部屋に押し込められていた。警察が来ると、さらに屋根裏の空洞に隠される。

娼婦が売春するための部屋には天然痘にかかってイボだらけの子供が疲れた身体を横たえて苦しんでいる。娼婦が客を取ってくると、子供は追い出される。娼婦と客は、さっきまで病気の子供が寝ていた温かい体温の残ったベッドでビジネスをする。

コルカタでは、売春する少女が客を部屋まで連れてくると、エイズに罹って幽鬼のようになった痩せさらばえた母親が金を受け取りにやってくる。売春する娘の隣の部屋でエイズの女性が治療もされずに横たわっている。これがあちこちの売春宿で普通に見る光景であると言えば驚かれるだろうか?

あるいは父親が誰だか分からない子供を産み、その子供を脇に置いたままビジネスをする娼婦もいる。この世の地獄とはまさに売春宿のことを指すのだろう。少女たちは、ただ売春宿が儲けるためだけに生かされている。

この恐るべき実態はもちろんユニセフ(国連児童基金)やNGO団体も承知しており、それだからこそ最近は様々な機会で児童売春の深刻な問題を議題に上げるようになってきている。

毎年100万人もの娘たち(少女たち)がセックスの奴隷として売買され、性的搾取されているのはユニセフの報道を読むまでもない。


この国の矛盾はいつか大きな暴力に

この中で、人身売買がもっとも多い国として、インドが挙げられている。インドは世界最大の売春地帯であり、世界最悪の人身売買国家である。東南アジアのどの国よりも劣悪な環境の中で、ネパールなどから売られてきた少女たちが凶暴な売春宿の経営者によって監禁され、虐待され、売春をさせられている。その数が一年間に40万人ということなので、先に挙げた毎年100人の犠牲者の約4割はインドが占めていることになる。

インドはカースト制度の中で国が成り立っている。上位カースト(ブラーミン)は、不可触民(ダリット、アンタッチャブル)の娘たちを面白半分に好きなだけ犯しても罪に問われない。カーストを身分制度というが、私に言わせればそれは間違った訳語であって、正確には「差別制度」である。インドでは陰でこのようなことが囁かれている。

「不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいない」

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか。理由を聞くと、あまりの恐ろしさに絶句する。

不可触民の娘なら何をしても警察は相手にしないので、男たちが道を歩いている不可触民の娘たちを好き勝手に集団レイプするからだという。もちろん、警察は動くことはないし、悪が糾弾されることはない。果敢に訴えた不可触民もいるが、家ごと燃やされて焼き殺されたりして凄惨な末路を迎えている。ほとんどが泣き寝入りになる。

ちなみにダリットはよく建物ごと焼き殺される。何もかも燃やしてこの世から消してしまいたいと上位カーストは思っているようだ。


生きたまま燃やされた不可触民の少女
顔は残っているが、身体は炭化している
輪姦されて殺されて焼かれた不可触民の姉妹
レイプされ、縛られ、焼き殺された不可触民の女性
性器から血を流しているので乱暴なレイプだったことが分かる


なぜこんなことになるのか。なぜなら、彼らは不可触民(アンタッチャブル)だからである。人間ではないと思われているのだ。不可触民は不可触民というカーストに属しているのではない。彼らはカーストにも属せないほど穢れている、すなわちカースト外(アウト・オブ・カースト)なのである。

この恐るべき差別の国で、売春宿がどういう実態になっているのかは想像するまでもない。売春宿の女性たちのほとんどが不可触民の女性である。カースト色が薄らいできたというのは、上位カースト(ブラーミン)だけの話である。


あらゆる悪が置き去りにされている

カースト制度はすでに過去のもので法的にも廃止されているはずだし、差別的言動は認められないはずだと言う人もいる。しかし、一週間もインドにいれば、それは単なる理想だったということが分かる。法律は機能していない。売春禁止法がどこの国でもまったく機能しない以上に、カースト廃止も機能していない。地方の村では相変わらずカーストに縛られて人々は暮らしており、それは今後も変革される見込みもない。

インドの人口は10億人を越えており、次世代を担う新興国と世界は持ち上げているが、そのうちの約5億人は貧困の中にある。その貧困が半端なものではない。

世界最大の売春地帯であるインド。神々が棲み、すべてが混沌とし、あらゆる思想と哲学が渦巻くこの国。

あらゆる性の技巧が記された古典「カーマ・スートラ」を生んだ国。

『ラ・マン』を生んだフランスの大作家マルグリット・デュラスの愛した国。

しかし、この国は今でもあらゆる悪が置き去りにされて跳梁跋扈としている。

ひとつ注意しなければならないのは、この国の矛盾はいつか大きな暴力となって国を覆っていくということだ。それこそ国が割れるような騒乱が起きても不思議ではない。一筋縄ではいかない国で、一筋縄ではいかない人たちがひしめき、それで何もかも順調に経済発展が享受できると思ったら大間違いだろう。

この国では何が起きてもおかしくない。
http://www.bllackz.com/2011/01/blog-post_5583.html

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3.インド人の起源

Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
  人間の設計図は核の中の46本の染色体にすべて書き込まれています。その中で性別を決めるのがXとYの性染色体です。受精時にXXなら女性、XYなら男性になるのが基本設計図なのですが、「基本」と言うとおりそれだけで男女別の分化が完成するわけではなく、受精から誕生後の幼児期〜思春期まで3回程の段階を経て男女分化が完成します。どこかの段階で分化が上手くゆかないと性不一致の問題が生じます。

  そのY染色体には膨大な遺伝情報(DNA)があり以前は技術が伴わず解析は無理だったため、より簡単だったmtDNAの解析が先に進みましたが、技術・手法の急激な進化で解析が急速に進みmtDNA解析に取って代わり民族の起源を調べる最有力な方法になりました。

  このY-DNA(男系遺伝子)情報を調べることでmtDNA(女系遺伝子)では分からなかった民族の移動がはっきりしてきつつあります。勿論日本人の起源もかなり調べられてきています。   人類の移動には大きく2種類あるそうです。人類が集団で男も女も一緒に動いた場合、たとえば70000万年頃前の砂漠化したサハラ以北のアフリカ大陸から絶滅寸前だった現代人の祖先が出アフリカを決行した時を始めとして、その後まだ人類に種族や国家などの排他意識が完全に生まれる前の移動やモンゴロイドがアリューシャン列島を渡り、南アメリカの最南端まで到達したのは、この男女セットの集団移動によります。この場合は男系のY-DNA遺伝子も女系のmtDNA遺伝子もセットで動きました。また近い時代ではトルコ系のタタール人のように民族ごとクリミヤ半島に強制移住させられた集団もいます。

  一方、人類に種族や国家などの排他意識が完全に生まれたあとは、侵略・侵攻・征服など戦争による場合はほとんど男によってなされるため、侵略した男系のY-DNA遺伝子が一方的に動き、侵略された土地の女系遺伝子と交配し新たな遺伝子セットが出来上がります。ひどい場合はその土地の男系は根絶やしになり、男系遺伝子が完全に入れ変わる場合もあったようです。中南米の現代の地元集団・インディオの成り立ちは侵略者のスペイン系やポルトガル系などヨーロッパのY-DNAと先住民の女性遺伝子との混血でラテン系の新たな集団に生まれ変わっているそうです。本当の先住民(ネイティヴアメリカン)は結局アマゾンの奥地などにひっそりと隠れ住み、ベーリング海峡を渡った偉大な冒険者の面影はあまり残してはいません。

  という訳で、Y-DNAを追いかけると、民族の変遷、征服・侵略・侵攻など現代に繋がる近代国家の成り立ちが見えてくるそうです。残念ながらmtDNA遺伝子研究では民族性にかんして重要な寄与はできないと欧米の研究者は考えているようです。このため当ブログも情報量の多いY-DNAをメインに進めます。


遺伝子調査で古典的なStanford大学の論文を紹介します
重要な内容だけまとめると、

 ・ホモサピエンスの出アフリカ時の全人口が約2,000人に過ぎなかったと推測できる。

 ・その祖先の人口の少なさは、チンパンジーや他の近縁の種と比較して、なぜ遺伝的変異性が人間のDNAではほとんどないのか説明できる。

 ・アフリカ、南北アメリカおよびオセアニアの先住狩猟採集民の「狩猟採集文化」は恐らく資源の制限と疾病、長距離移住等の重要な影響のため人口増加を経験してこなかった。

 ・一方、アフリカの農業人口の先祖は、技術革新と出生率の増加という35,000年前頃に始まった人口拡張を経験したように見える つまり古代遺伝子の一つのY-DNA「E」がアフリカに出戻ったのは35000年前頃ではないかと考えられます。

 ・また、ユーラシアと東アジアの民族は約25,000年前頃に人口拡張が始まったと思われる。いわゆる古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した新興遺伝子

    つまり、残念ながら同じホモサピエンスでも農業を経験しなかった集団は狩猟採集の段階に留まり、現代人類の人口爆発や文明の構築等の発展に一切貢献出来なかったのです。現代に発展したのは農業を経験し更に農耕革命を経験出来た集団と行動を共にした集団だけだった、と言うことです。

その農耕革命を興したのは、1万年前頃に東西で同時に発生した、

・肥沃な三角地帯でメソポタミア文明を興したY-DNA「J2」はセム系の兄弟遺伝子集団
・長江流域で稲作農耕文明を立ち上げたYDNA「O1」,「O2」は長江文明集団

です。

  当時野蛮な僻地でしかなかったヨーロッパは農耕技術を取り入れかつ多くの遺伝子集団を融合させ集団エネルギーを高め発展し、黄河文明も農耕先進地の華南を取り込むことにより豊かな食糧を手に入れ更に北の遺伝子集団も取り込み集団エネルギーを高め発展したのですが、

  同時に手に入れたものはどちらも「好戦性」でした。その代表がY-DNA「R1b」とY-DNA「O3」です。世界中を侵略して回り植民地化し富を独占したのが「R1b」、遅れながらも極東の先進国家の支配層・エリート層を独占しているのが対抗する「O3」です。

  このStanford論文や最近の新しい論文などを総合するといろいろな視点から史観を形づくれます。とにかく次カラムのY-DNAハプロタイプツリーで一目了然のとおり「出アフリカ」を果たした我々現代人はY-DNAツリーの一番下の行のY-DNA「A1b2b」でしかなかったのです、それもたった20000人しかいなかったのです。極めて同質なのです。

  ではなぜ、我々から見たら同じ黒人にしか見えないコイサン族やピグミー族より我々の方が遺伝子変異が小さいにも関わらず、見た目の形質が多様なのでしょうか?
  その理由は、出アフリカしたホモサピエンスは遺伝子そのものが変わるような古典的な突然変異だけではなく、遺伝子発現が変異する突然変異(エピジェネティクス=後天的獲得形質)を受けたからです。
  我々出アフリカ組が受けた変異はこれまで書いてきたように3種類あります。

  1.ネアンデルタール人との亜種間交配
  その結果我々ホモサピエンスの遺伝子の1-4%はネアンデルタール人から受け継いだ配列になっています。
  Y-DNAは出アフリカ時の「B」から「CF」と「DE」に分化しました。
  受け継いだ最も大きな形質は、・色白、大柄、金髪/赤毛、碧眼などの欧米人に多い形質やいかつい顔、肉食性などが特に「CF」に受け継がれ、黒色だったホモサピエンスの肌は程度により褐色から白色へと薄まりました。
  「DE」はホモサピエンスのオリジナル形質のネグリート性を維持し、肌も色黒のままでしたが、亜種間交配の負の遺産の無精子症/乏精子症を特に「D2」は受け継いでしまいました。

  2.レトロウイルス感染

  アフリカ大地に存在するレトロウイルスしか感染・内在化していない非出アフリカ組に対し
  出アフリカ組はネアンデルタール人との交配でネアンデルタール人が出アフリカ後のユーラシア大陸で感染・内在化した非アフリカレトロウイルスを受け継ぎ、
  また出アフリカ組は移動した中東やインド亜大陸でネアンデルタール人も感染していないその土地の新しいレトロウイルスに感染し内在化によってハプロタイプの古代亜型Y-DNA「C」、「D」、{E」と「F」への分化が生じました。

  3.エピジェネティクス(後天的獲得形質)

  ・高緯度地適応
  ネアンデルタール人との亜種間交配の結果獲得した色白.....等の形質は低緯度出身のネアンデルタール人が数十万年のユーラシアア大陸居住で獲得したエピジェネティクスです。
  それを我々ホモサピエンスはネアンデルタール人との交配でいとも簡単に手に入れることができたのです。
  ・寒冷地適応
  肉食の頂点捕食者だったネアンデルタール人は寒冷地適応する前に、獲物の大型獣などが寒冷化でいなくなり、絶滅してしまいましたが、
  雑食化して生き延びたホモサピエンスは、寒冷化したシベリア大地でも生き延び、Y-DNA「N」や「P」、「Q」など古住シベリア民がフルフラット・フェースや蒙古襞などの寒冷地適応をしました。
  ・黄砂適応
  黄河流域に住んでいたY-DNA「O3」は寒冷地適応もあったようですが、どちらかと言うと黄砂適応しフラットフェースになったのではないかと考えられます。


研究者はホモサピエンスが出アフリカしたのは今の角アフリカと言われるソマリア近辺だろうと考えています。当然ですが、海面は今より低くアフリカ大地とアラビア半島はこの辺りで繋がっていたのです。

そしてこの中東で人類がであった最大の出来事は先輩人類のネアンデルタール人との出会いと交配でした。60万年ぐらい前に先に出アフリカしたネアンデルタール人は既に高緯度地適応をしており、交配した新人は本来数10万年かかる形質変化を一気に獲得したのです。つまりネアンデルタール人と交配しなかったのがY-DNA「A」と「B」で交配したのが残りの全現代人なのです。交配の結果Y-DNAは「DE」と「CF」の2タイプに分化したようなのです。そしてその後の遺伝子の変遷は2タイプ間でかなり異なるものとなりました。

  このブログで時折書いてきましたが、スタンフォード大学の調査で、灼熱化したサハラで2000人ほどに絶滅危惧種になるほど激減したらしいホモサピエンスの一部は危機感を持ち種の維持のために原人や旧人などの古い人類と同様に出アフリカしたのです。

  良く考えると早くにアフリカを出て冒険の旅に出た先輩人類の原人と旧人達は全て絶滅し、最後までぐずぐずとアフリカを離れられないでいた優柔不断の先祖がいたため、ホモサピエンスとして生き残り発展することができたのは皮肉なことです。

  その優柔不断のホモサピエンスの中でも出アフリカできずに最後までアフリカを離れられなかったホモサピエンスの落ちこぼれの子孫ががY-DNA「A」のブッシュマン(コイサン族)やY-DNA「B」のピグミー族です。

もし数万年後に出アフリカ後出戻ったY-DNA「E」がいなければ、アフリカ大地の人類は極めて未開のままで絶滅していた可能性が大です。Y-DNA「E」が出戻ったことで遺伝子の多様性が増大し集団エネルギーが高まったためアフリカンとして生き残ることができたのです。そして自己選択ではなく奴隷という望みも予想もしなかった他者選択によって世界に拡がり、交配種が今やアメリカ大統領になったのです。

  我々出アフリカ組は中東あたりで先住民の旧人・ネアンデルタール人と亜種間交配し先輩人類の1-4%の遺伝子を後輩の明かしとしてもらいました。異種間交配は自然界ではめったにありませんが、人工交配ではライガーなど生殖機能が損なわれており子孫が出来ないことが確認されています。さて亜種間交配ではどうだったのでしょうか?我々が現在数十億人まで人口が増えた、ということは子孫を残すことができた、と言うことです。


ネアンデルタール人との遭遇
  欧米の遺伝子研究で明らかにされたのは、ネアンデルタール人との亜種間交配です。我らホモサピエンスの遺伝子の1-4%はネアンデルタール人との交配で獲得したものだということです。ニューギニアの一部の先住民の遺伝子Y-DNA「S」はデニソワ人との交配でY-DNA「K」から分化したと推測されています。

  ただし、非常に重要なことはmtDNA解析ではネアンデルタール人とホモ・サピエンスは全く接点がない、という点です。つまりネアンデルタール人の女性のmtDNAはホモサピエンスには全く受け継がれていない、つまり結果としてネアンデルタール人の男性とホモ・サピエンスの女性間の交配しか現代にまで子孫を残すことができなかった、と言うことです。この考察はまだ仮説にまで検討ができていません、ゆっくり考えてみます。

  中東でネアンデルタール人と遭遇したホモサピエンスは2グループの古代遺伝子に分化しました。「DE」組と「CF」組です。約20万年前に既に進化したmtDNA「L」から遅れること7万年後の約13万年前に原人からホモサピエンスに進化したY-DNA「A」は狩猟採集の雑食人類としてアフリカのサバンナに生きてきましたが、更におくれること6万年〜7万年後に過酷な環境を生き抜くために森林に戻った集団はY-DNA「B」に、中東に移住した集団は「DE」と「CF」に分化したのです。

  そしてその後の歴史の違いで更に「D」、「E」と「C」、「F」の4種の古代シーラカンス遺伝子に分化したのです。全出アフリカ組人類にネアンデルタール人の遺伝子が組み込まれているということは、交配の結果取り込んだ遺伝子の違いで分化が起こったのでしょう。そして当然受け取った遺伝子が発現する形質も異なったのでしょう。

  ホモサピエンスは本来濃褐色の肌色の集団でしたが、灼熱化したサハラで生活している間に低緯度地適応で黒肌になっていたようです。現存している「D」100%のアンダマン諸島のOnge族やJarawa族は今でも低緯度地に居住するため、黒肌を守り世界で最も黒い種族と言われていますが、出アフリカ時のホモサピエンスの姿をそのまま留めていると言われています。「E」も同じように黒肌です。

  ところが「CF」組は高緯度地適応した白肌のネアンデルタール人との交配で褐色程度に薄まっており、白肌や赤髪もいた可能性がかなりあります。つまりネアンデルタール人が数十万年掛けて獲得した高緯度地適応のエピジェネティクス(後天的な獲得形質)を交配で一気に手に入れたようなのです。そしてジャガイモ顔だったホモサピエンスはネアンデルタール人の凹凸のあるいわゆるゴリラ顔が加わり彫の深い顔に変化をしていたようです。そしてホモサピエンスよりも10~15cm以上背が高かった形質も受け取り大柄な個体も出てきたようです。


ネアンデルタール人は遺伝子研究の結果、現代の欧米人と同じ赤髪碧眼(金髪もいたそうです)だったそうで、アフリカから高緯度の地域に移住し数十万年も居住していたため高緯度地適応し肌は色白で、いかついソース顔だったそうです。赤髪碧眼も高緯度地適応の結果だったそうです。

現代人は誕生したアフリカ大陸からユーラシア大陸に移住しまだ6-70000年しか経っていないのですが、ネアンデルタール人が数十万年掛けて手に入れた形質を既に獲得していますが、それは何故でしょうか?

  旧人の中で我ら現代人と交配し遺伝子をホモサピエンスに残したのはネアンデルタール人と中央アジアで見つかったデニソワ人のみだそうです。デニソワ人が何者かはまだ詳しくはわかってはいませんが、ネアンデルタール人は中央アジアでも化石が発掘されるので、ネアンデルタール人の地域型(シベリア型)ではないかと考えられます。

  ネアンデルタール人の親子(左図)と復元顔(右の左)とよく似たミュージシャンの顔です。ネアンデルタール人が出アフリカ後60万年掛けて獲得したいかついソース顔や赤髪を現代人はたった6万年程度で交配することで手に入れたのです。ホモサピエンスの本来はジャガイモ顔なのです。

  しかし大きな相違点はホモサピエンスに比べてネアンデルタール人は額の上部が引っ込んでいることです。この特徴がソース顔の現代人にもかなり見受けられます。ネアンデルタールの特徴です。

  左図はネアンデルタール人の少女の復元だそうです。金髪に碧い眼、つまり金髪碧眼で白い肌です。この高緯度地適応の特徴もホモサピエンスはネアンデルタール人から交配の結果短期間で手に入れたのです。ホモサピエンスの出アフリカご6万年程度ではこの特徴を手に入れることは難しいのだそうですが、「交配」はそれを簡単に実現したらしいです。

絶滅寸前期のネアンデルタール人は現代人類の中欧/北欧人と良く似ていたと思われます。ヨーロッパ大陸の頂点の肉食捕食者であったことが不幸にも彼らを絶滅に追い込んでしまったと言うことのようです。

古代シーラカンス遺伝子ハプロタイプY-DNA「D」「E」「C」「F」への分化

  人類のY-DNA、mtDNA遺伝子のハプロタイプ(型)を分化させた最初の推進力はネアンデルタール人との交配でしたが、次に大きい要因は異種ハプロタイプ(型)間交配になります。

出アフリカした人類のハプロタイプは古代シーラカンス遺伝子「D」、「E」、「C」、「F」の4種あります。「D」、「E」と「C」は亜型への分化に留まりそれ以上の新興ハプロタイプへの分化は起こりませんでした。不思議なことに「G」から「T」までの全ての新興遺伝子ハプロタイプは全て「F」から分化してきたのです。

  60000年前頃に中東で分化したY-DNA遺伝子のうちY-DNA「C2」と「C4」は50000年前頃には既にサフールランド(ニューギニア/オーストラリア大陸に到達していたことがわかっています。1万年かかってというか僅か1万年でインド洋からスンダランドの沿岸を東進し到達していたのです。昨年のサイエンスの論文でオーストラロイドY-DNA「C2」と「C4」の祖先は高度な海事技術を持ちマグロを取っていたことがわかってきました。インド洋の沿岸を徒歩だけでなく船で走った可能性も相当高いのです。

  中東から東に向かった祖先集団は恐らくインド亜大陸で相当期間留まりそこで交配を深めたと考えられます。文化的にも発展をしていたと考えられます。欧米の研究者は特にY-DNA「CF」と「D」は行動を共にし、交配度を深めていた可能性が高いと書いています。

  しかし「E」は何を考えたか再度西に向かい大多数はなんとアフリカ大陸に出戻ってしまったのです。理由はまだ解明されてはいません。そして先住民であったY-DNA「A」、「B」と交配し、現在に至るアフリカンを形成したのです。現在100%の「A」、「B」と「E」部族は存在しませんが、互いに交配をする中で亜型、子亜型へ分化が進み特にY-DNA「E1b1a」はアフリカの最も代表的な遺伝子になっています。

  一方アフリカではなく地中海の北側に移動した集団もいました。彼らは先住民だったY-DNA「I」と密に交配しY-DNA「E1b1b」に分化し、現在のラテン系の遺伝子となっています。この遺伝子は後に「J」セム系遺伝子と密に交配し「J2」を分化させました。この「J2」遺伝子は「E1b1b」と共にメソポタミアの農耕文明遺伝子となり海に出てフェニキア人遺伝子にもなりました。

「I」はクロマニヨン人の遺伝子で「I1」はノルマン人の遺伝子になっています。「I2」はバルカン民族の遺伝子になりました。つまり「I」はバイキングの主流遺伝子でもあるのです。この「I」も「J」も「F」から分化した第二世代の新興遺伝子なのです。

  ではY-DNA「D」と「C」はインド亜大陸で何をしていたのでしょうか?
インド周辺にはY-DNA「D*」がほんの少数点在しています。そして南のアンダマン諸島には100%のY-DNA「D*」が現存しています。Y-DNA「D」はインド亜大陸に一時拡大をしたようですが、生き残ることはできなかったようです。「C」も同様だったようです。「D」以上にインド亜大陸には残っていません。

  一方「F」はインド亜大陸で大いに隆盛し東南アジアにも一部拡大をしましたが「F」自身それほど目立つ部族は全くなく、特筆すべきは第一世代の新興遺伝子であるコーカサス遺伝子Y-DNA「G」、ロマ族遺伝子「H」と近代文明遺伝子の親遺伝子のY-DNA「IJK」に分化したのですが、分化した要因はまだ解明されていません。一体何が遺伝子分化の推進力だったのでしょうか?

  このように出アフリカしたホモサピエンスのY-DNAはネアンデルタール人との交配でY-DNA「DE」と「CF」の2グループに分化し、更に恐らくインド亜大陸辺りで「D」、「E」、「C」と「F」の4種の古代シーラカンス遺伝子に分化をしたようです。このうち「D」、「C」と「F」が日本人の遺伝子を作りだしたのです。


デニソワ人  :ネアンデルタール人のアジアの姉妹旧人
複数の人種の移動によって形成されたアジアの歴史をDNAが解明 
  古代から現代までのヒトのDNAパターンを研究している国際チームは、40,000年前のアジアへの集団大移動と人種間のDNAの混合について新事実を発見した。ハーバード大学医学部とドイツ、ライプツィヒのマックス・プランク進化人類学研究所の研究チームが最先端のゲノム解析法を使って調べた結果、デニソバンと呼ばれる古代人類が、現代のニューギニアだけではなく、フィリピンとオーストラリアのアボリジニのDNAに関与していることが分かった。このデニソバンとは最古の人類の一種で、去年シベリアで発掘された指骨のDNAを解析した結果解明された。今回の研究結果はこれまでの遺伝子学研究による説を否定し、現生人類は複数の大移動でアジアに定着したという事になる。

今回発見されたパターンは、少なくとも二回の大移動があったことを示している。
一つは東南アジアとオセアニアに住む原住民のアボリジニ、
もう一つは東南アジアの人口のほとんどを占めている東アジア人の系統である。

また、この研究は古代デニソバンが居住していた場所についても新たな考察が成されている。マックス・プランク研究所の教授であり、今回の論文の著者でもあるマーク・ストーンキング博士によると、デニソバンはシベリアから熱帯の東南アジアまでの非常に大規模な生態学的、地理的範囲に移住していたとされる。

  「デニソバンのDNAが東南アジアのいくつかのアボリジニに存在しているということは、44,000年以上前にデニソバのDNAを持つ人種と持たない人口が市松模様のように存在していたということになります。このように、デニソバンの遺伝子を有するグループとそうでないグループがあるということは、デニソバンが東南アジアに住んでいたとすれば説明がつきます」と博士は説明する。この所見は、2011年9月22日付けのAmerican Journal of Human Genetics誌に記載されている。

今回の研究は、マックス・プランク研究所のリーク博士率いるチームが2008年にシベリアのデニソバ洞窟でロシアの考古学者によって発見された古代の小指の骨を分析した研究に基づいている。スヴァンテ・パーボ博士率いるマックス・プランク研究所チームは、この骨の核ゲノム配列を解析し、リーク博士が研究員と開発したアルゴリズムを使って人種の遺伝子解析を行った。

2010年12月のNature誌に掲載された彼らの研究結果によると、デニソバンが30,000年以上前に存在していた古代原人の一系統であり、現代のニューギニア人の遺伝子に関与しているようだ。デニソバンはネアンデール人でも現生人類でもないが、共通祖先がいるという結論に達している。この論文により、初期の人類がアフリカを離れた時期から曖昧になっていた人類の進化の過程について説明と、人間が歴史的に混在しているという見解が補完された。

  新しい研究は、東南アジアとオセアニアの遺伝子変異の専門家であるストーンキング博士によって始められた。博士は、これらの地域から多様なサンプルを集め全体像の構築を行なっている。この研究はデニソバンの遺伝子が移動した「足跡」に重点を置いており、研究チームは、ボルネオ島、フィジー、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、フィリピン、パプアニューギニア、そしてポリネシアを含む東南アジアとオセアニアにおける現在の人種の多種多様のDNAを解析した。

既存のデータと新たなデータの解析結果を統合した分析結果によると、デニソバンはニューギニア人だけでなく、オーストラリアのアボリジニとママンワと呼ばれるフィリピンのネグリト族、また東南アジアとオセアニアのいくつかの人種に遺伝子材パーツを提供している。しかし、アンダマン諸島のオンジ族(注:Onge族のこと、日本人の縄文人の祖先型のY-DNA「D*」100%の遺伝子集団なので当然デニソワ人とは交配していない)やマレーシアのジェハイ族、また東アジア諸島を含む西部や北西部の人種はデニソバンと交配していない。 

研究チームは、デニソバンは現生人類と44,000年以上前に東南アジアで交配したと結論付けた。これは、オーストラリア人とパプアニューギニア人が分化する前である。東南アジアは、現在の中国人とインドネシア人とは関係のない近代人種によって植民地化された。この「南方ルート」仮説は、考古学的な証拠によってはサポートされていたが、強力な遺伝子的証拠は今まで存在していなかった。MITとハーバード大学のブロード研究所、ドイツ、インド、台湾、日本、マレーシア、そしてオランダからのチームによる共同研究によってこの研究は行なわれた。


 東アジアと南アメリカの遺伝子はY-DNA「M」,「N」,「O」,「S」と「Q」です。いずれもY-DNA「K(×LT)」から分化した亜型になります。

「R」のみがアーリア人の遺伝子となり西進しヨーロッパ人の主力となり、南下してインドアーリア人になりました。

HLA抗原・免疫システムから解析した現代人と旧人の交配

  出アフリカした現代人の遺伝子にネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝子が交配していることは明らかになりつつありますが、免疫システムも受け継いでいるようです。

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 一般財団法人 HLA研究所の説明から抜粋すると、

  HLA抗原(Human Leukocyte Antigen=ヒト白血球抗原)は発見から半世紀以上を経て、HLAは白血球だけにあるのではなく、ほぼすべての細胞と体液に分布していて、組織適合性抗原(ヒトの免疫に関わる重要な分子)として働いていることが明らかになりました。

  遺伝子型ごとに2つの型が判明します。それは、父親と母親の型を1つずつ受け継いでいるからです。両親から受け継いだ遺伝子の染色体は一対になっていますが、そのためにHLAも同様に両親から受け継いだ2つの型が一対となって1つのセットを形成しています。それを「HLAハプロタイプ」と呼びます。 自分のHLA検査を行えば、各遺伝子型の2個の型が判明するだけですが、両親のHLA検査も行うと、どちらの遺伝子がどちらの親から遺伝したのかがわかります。

    今日あるHLA検査は、HLAが遺伝子の第6染色体の短腕にあることが解明された結果です。   HLAはA,B,C,DR,DQ,DPなど多くの抗原の組み合わせで構成され、さらにそれぞれが数十種類の異なるタイプ(アリル)をもち、ハプロタイプの組み合わせは、数万通りともいわれます。HLAはヒトの体の中で重要な免疫機構として働いており、その主な役割は自他認識をすることにあります。

  例えば「HLA-A2」ハプロタイプを持つ人は「橋本病」や「Graves病」を発症しやすいのです。
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  この論文の図では、「B*73」・「C*15-」のHLAハプロタイプを持っていた原人(エレクトス)から旧人(ネアンデルタール人、デニソワ人)が、

●アフリカで分離したのは27万年〜44万年前頃、アフリカに残っていた残存原人から進化した、
●新人(ホモサピエンス)が’出アフリカ’したのは67500年前頃で、
●65000年前頃に新人存亡の危機で「C*15+」を獲得し、
●50000年前頃に東地中海辺り(つまり中東)で旧人と新人の亜種間交配が起り、旧人類が獲得していた色白、碧眼、赤毛や彫深顔などの形質だけでなく無精子症・乏精子症などの負の遺産も受け継ぎ、そして免疫システムをも受け継いだらしい。
●その後30000年前頃に肉食の頂点捕食者だった旧人は大型動物の激減と共に絶滅し、雑食に変化していた新人は生き残り、アフリカ以外のアメリカ大陸も含む世界中に拡大し、
●10000年前頃にY-DNA「E」がとうとう’出戻りアフリカ’を果たし、交配したY-DNA「A」、「B」の非出アフリカ組のアフリカ先住民にも「B*73+」・「C*15+」が受け継がれた、

のだそうです。

  本論文ではデニソワ人はネアンデルター人の姉妹人類と表現しています。他の論文では明らかにmtDNAのヌクレオチド配置が異なるためネアンデルタール人とは区別されると表現しています。当ガラパゴス史観はデニソワ人はネアンデルタール人のアジア型ではないかと推測しています。
  また更に別の論文では、新人と旧人の交配は60000年前頃の中東で恐らくネアンデルタール人と、45000年前頃に東アジアでデニソワ人との交配の可能性を報告しています。
  欧米で発表される論文は、ネアンデルタール人、デニソワ人の両旧人類と我々新人類との交配が間違いないことを続々と報告しています。恐らくその通りなのでしょう。
  50000年前頃に新人が突然技術力が上がったり、芸術性が芽生えたり、色黒のジャガイモ顔から彫深の褐色肌に薄まり、とうとう高緯度地域特有の色白紅毛碧眼になったのはネアンデルタール人との交配で一気に獲得した形質とすれば、ネアンデルタール人が獲得に数10万年かかった高緯度地域適応を数万年の短期間で手に入れた理由が納得できます。

  またY-DNA「D2」特有の日本人に多い無精子症・乏精子症の発症も亜種間交配のマイナスの結果と考えればすんなり納得できます。また同じ新人類なのにネグリート形質を今でも維持しているY-DNA「A」、「B」の非出アフリカ組や「D」の日本人、チベット人、「E」の地中海沿岸のラテン系民族等と比べて、ノルマン系など高身長人民族が大型だったネアンデルタール人との亜種間交配のプラスの結果、大型形質を受け継いだと考えることも非常に納得できます。

まとめると、ネアンデルタール人との交配で獲得した形質は、

・旧人のHLA抗原(全新人類か?!)
・無精子症・乏精子症(正式に報告されたのはY-DNA「D2」のみ)
・彫深顔(Y-DNA「CF」系が獲得)
・肉食性・攻撃性(大型獣ハンター、特にY-DNA「CF」系)
・高身長(特に北欧系・ノルマン系Y-DNA「I」の家系に顕著)
・色白、紅毛、碧眼(高緯度地適応なので北欧系に顕著)
などが目立つところです。

  新人類ホモサピエンスの中でアウストラロピテクス時代の人類本来のネグリート体質が受け継がれてきた古代遺伝子のY-DNA「A」「B」「C」「D」「E」「F」は全て現代でも基本的に小柄な遺伝子血統です。

  しかし中東で大型のネアンデルタール人と交配したことで大柄になる形質つまりエピジェネティクスを一気に獲得し、特にY-DNA「F」の新興子亜型遺伝子群にその大柄形質は濃く受け継がれました。中でも最も早くヨーロッパ大陸に拡大したクロマニヨン人つまりノルマン系「I」は、絶滅寸前のネアンデルタール人とのさらに密接な交配でしっかりと大柄形質を固定化し北欧に特に展開したため高緯度寒地に高身長が強く発現したのです。ラテン系以外の欧州人にはほとんどの民族にこのネアンデルタール人→ノルマン人遺伝子「I」がしっかりと交配しているため、欧州人は基本的に背が高いのです(大型化はエピジェネティクス=後天的獲得形質なので遺伝子そのものに変化は受けず、遺伝子の発現の仕方がコントロールされるのです)。

  一方ノルマン系遺伝子「I」の交配頻度の低い南欧のラテン系は新人本来のネグリート性を維持しているため小柄度が高いのです。勿論個々に見ると個体差はありますが民族全体で見るとはっきり違いがわかります。南欧度が高いほど小柄で、北欧度が高いほど大柄になるのです。同様に色白・紅毛・碧眼の形質度も北高南低です。

氷河期とホモサピエンスの拡散の軌跡
National GeographicとIBMの共同運営している「THE GENOGRAPHIC PROJECT」というサイトがありますが、氷河期の地図とホモサピエンスの拡散がわかりやすく世界地図にされているのでご参考に転載します。mtDNAの拡散図もあるのですがY-DNAの拡散図にしました。

1. 6万年以前の地図です。白い部分が氷河です。グリーンランド、スカンジナビアと北アメリカの最北端が氷河で覆われています。まだホモサピエンスの展開は示されていません。

2. 55,000〜60,000年前頃です。寒冷化が始まりました。北米の半分はすっかり氷河に覆われています。

3. 50,000〜55,000年前頃です。ホモサピエンスが出アフリカし東ユーラシア(中華大陸とスンダランド)に展開したのがわかります。この東ユーラシアに展開したのが古代遺伝子Y-DNA「D」で、行動を共にしたとされている古代遺伝子Y-DNA「C」も含まれているようです。このようにY-DNA「D」は東ユーラシアに展開した最初のホモサピエンスだったのです。アフリカで出アフリカしなかった残留部隊もY-DNA「A」と「B」に分化し始めています。

4. 45,000〜50,000年前頃です。非出アフリカ遺伝子Y-DNA「A」と「B」の子亜型への分化が進んでいます。

5. 40,000〜45,000年前頃です。インド亜大陸でY-DNA「C」は「D」との交配で子亜型に分化し、「C4」はオーストラリア大陸に既に到達していることがわかります。同じく子亜型に分化していたY-DNA「D」はまだ中原辺りに留まっているようです。

6. 35,000か〜40,000年前頃です。古代遺伝子Y-DNA「E」は環地中海域(南欧州と北アフリカ)に展開を始め、インド亜大陸で古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した新興遺伝子Y-DNA「I」がクロマニヨン人として欧州に、新興遺伝子Y-DNA「J」もセム種として中近東や北アフリカに展開を始めました。中華大陸の華南辺りではいよいよ新興遺伝子Y-DNA「O」が現れました。新興遺伝子Y-DNA「R」は更に新しい遺伝子なのでまだ現れてはいないようです。

7. 30,000〜35,000年前頃です。Y-DNA「D2」が日本列島に到達したことを示しています。日本列島の旧石器時代はY-DNA「D2」及び行動を共にしていたとされているY-DNA「C1」によって確立されたと欧米では考えています。

8. 25,000〜30,000年前頃です。最寒冷期になり、北欧の氷河が大きく発達し海面がかなり降下しベーリング海峡は広大なベーリング大陸となり、Y-DNA「Q」がまだ氷河におおわれている北米大陸に到達しました。この時に4タイプ程度のmtDNAも同時に渡っています。日本列島にはY-DNA「O3」が到達したようになっていますが勿論間違いです。この頃に渡ってきたとするならY-DN「C3a」のはずです。


9. 20,000〜25,000年前頃です。Y-DNA「C3a」は最寒冷化するシベリアから逃げ南下してきた大型獣を追って日本列島に入ったようです。一方北東沿岸沿いに逃げた部隊Y-DNA「C3b」はとうとうベーリング大陸を渡り北米に到達しY-DNA「Q」と共にネイティヴアメリカンの一部になりました。中南米で発見される縄文土器似の土器の製作者のようです。

10. 15,000〜20,000年前頃です。Y-DNA「Q」はとうとう南米大陸に到達しました。しかしY-DNA「C3b」は南米大陸には南下していなかったようです。

11. 10,000〜15,000年前頃です。氷河の縮退が始まりました。北欧を覆っていた氷河はスカンジナビアのみに縮小し、北ヒマラヤの氷河も消失しました。

12. 〜10,000年前頃です。間氷期になり温暖化し北極圏以外の氷河は消失し、現在に続いています。海面は上昇し現在の海岸線が出来上がり、更なる温暖化で海面は徐々に上昇し続けています。

ご参考にmtDNAの軌跡図です。

  古代の女性は集団を越えて他の集団に移動するという、人類とチンパンジーにのみ認められる方法で先ず女性に現れる新しい遺伝子を拡散してきました。

  mtDNAイヴが最新の学説で20万年前頃(前説では14万年前頃)に誕生して6万年も後の14万年前頃(前説では9万年前頃)にやっとY-DNAアダムが誕生したくらいホモサピエンスのY-DNAが確立するには時間がかかっているのです。最新学説では14万年前頃にY-DNAアダムが誕生して次にハプロタイプY-DNA「A」になるわけですが、次のY-DNA「B」が分化するのは最新説も前説と変わらず60000〜65000年前頃ごろだそうです。

  つまり人類が進化を始めるのに8万年近く(前説では3万年近く)かかっているのです。人類はホモサピエンスに進化してもすぐに古代遺伝子「C」「D」「E」「F」が分化してきたわけではないのです。「B」との共通の祖先が乾燥化して住めなくなったサハラ砂漠から絶滅危惧種に陥りながら先輩人類同様出アフリカを果たし、中東で先輩の旧人ネアンデルタール人と遭遇し、交配し初めて交配度の低い古代遺伝子「D」「E」と交配度の高い「C」「F」に分化を果たしたのです。

  もしネアンデルタール人と遭遇・交配をしていなかったら50000年前頃一気に高まった現代人類の祖先の技術力や芸術性などの進歩はもっと遅れて、農業革命も遅れ人類は今だ古代のままだった可能性も充分にあるのです。何故ホモサピエンスのみが現代まで生き残れ、更なる進化を遂げることができたのかは、まだ皆目わかってはいません。創造主足る天体地球のみが知るところなのでしょう。

  とにかく、直接のキッカケは樹上から降りて木の実食から肉食となり一気に脳が増大したことですが、絶滅危惧種に陥り出アフリカをするときに肉という食料の不足から生き延びるために雑食性になっていたことだと思います。肉食から変われなかった先輩人類のネアンデルタール人は最寒冷化で餌の大型獣がいなくなり絶滅し雑食のホモサピエンスはなんとか生き延び、理由はわかりませんが必死に一気に東へ進みインド亜大陸辺りで4種の古代遺伝子が亜型に分化し「D」と「C」はそのまま東遷し、東ユーラシアとサフール大陸に到達し古代性を持ったまま最終的に僻地のチベットや日本列島、オーストラリア大陸やニューギニアに生き残りました。

  一方「F」はインド亜大陸で大いに分化し全ての新興遺伝子を分化させ、「G」「H」が分化した後の「I」が真っ先にヨーロッパ大陸に移動しクロマニヨン人となり、後に「J」や「E」が環地中海に出戻りしました。特に「E」はアフリカ全土に展開し先住の「A」や「B」と交配し現代アフリカ人を作り上げました。しかし同じくアフリカに戻った「J」は「A」「B」とは交配をせず、セム族として独自の展開をしました。

  特に「E」はほぼすべてのアフリカ人と最北欧以外のほぼすべてのヨーロッパ人に交配しています。交配した相手の違いで今見られるような外見の形質の違いが生まれています。「E」を基にすればアフリカ人と最北以外のヨーロッパ人は同じ遺伝子交配人種と言っても差し支えはないほどです。みかけの形質の人種論より遺伝情報の方がはるかに重要である良い例です。

  新興遺伝子の中から、「K」「T」「L」「M」「N」が分化し次に「O」が分化し東ユーラシアに展開し先住の古代遺伝子「D」と「C」を僻地に追い出し主役となり、「P」「Q」の後最後に分化した最新の「R」は中央アジア辺りで「R1a」と「R1b」に分化し「R1b」は一気に西遷し現代ヨーロッパ人の中で攻撃性や支配欲の源泉となり、現在世界中を搾取しています。

「R1a」はインド亜大陸に南下し先住のインダス文明のドラヴィダ人を南インドに追い出しインドの主役となり、西北に移動した別働隊は後のスラブ民族になりました。

  さてY-DNAの分化は事実上「R」が最後なのですが、しかし「S」という更なる特殊な分化が或る特定の地域ニューギニアに存在することがわかっています。デニソワ人との遭遇と交配で予定されていなかった分化をしてしまったのではないかと推測できますが、果たして......。

Y-DNAによるヨーロッパ民族度
  今日、巨大書店のジュンク堂で世界史地図帳を購入しました。目を通していて、インド・ヨーロッパ語族の移動のところでアーリヤ人が印欧語族の故地の中西部ユーラシア(黒海/カスピ海/アラル海の北側に拡がる広大な地域)から、移動を開始したことが書かれていました。知っていたはずですがうろ覚えであることを思い知らされました。

  ある集団(Y-DNA「R1b」)は西進しヨーロッパに侵入し先住のクロマニヨン人の子孫(Y-DNA「I 」)と遭遇し、交配を嫌い独自文化を保とうとしたのがケルト民族になってゆき、交配を強めたのがゲルマン民族になっていったようです。ドイツ人やオランダ人のY-DNA「I 」頻度は意外に高いのです。やはり異なる遺伝子と交配することで民族エネルギーが上がり、純度を保とうとすると同質性が高まり民族エネルギーが下がる、という民族学の知識はここでも生きているようです。

  方や南下しイラン高原からインド北部に侵入した集団(Y-DNA「R1a」)は、インド・アーリヤ人として先住のインダス文明人のドラヴィダ人(Y-DNA「H」)を追い出しインド亜大陸南部に押し込めたのは、世界史の常識として知っていましたが...。インド人の肌の黒褐色はかなり密接に交配したドラヴィダ人から受け継いだものです。

  すっかり忘れていたのはその時にY-DNA「R1a」は故地に留まるかやや北に移動した集団がいたことです。それがスラブ系の集団になったのです。つまりY-DNA「R1a」はヨーロッパでは間違いなくスラブ民族遺伝子なのですが、実はインド・アーリア人遺伝子でもあったのです。スラブ民族とインドアリーヤ人は同根なのです。つまり交配した相手の違いで今我々が知っているくらい違う外観に変貌したのです。すっかり忘れていました。やはりうろ覚えの知識はダメですね。ロシアのプーチンはY-DNA「N」系のような感じですがメドベージェフは「R1a」のような気がします。調べてほしいですね。


古代遺伝子Y-DNA「F」はインド亜大陸で更に「H」、「IJK」に分化し、「IJK」が更に「I」、「J」と「K」に分化をし、「I」はすみやかに西に移動しヨーロッパ大陸に入り後にクロマニヨン人と呼ばれるようになり、その後氷河の後退に従い北進しスカンジナヴィアでノルマン人として定着し、後にヴァイキングと呼ばれるようになりヨーロッパを海賊行為で席巻しました。

一方「J」はかなり遅れて「I」と同様に西進し、肥沃な三角地帯で農耕文化を興しメソポタミア文明と呼ばれるようになり、更に後にはセム種としてアラブ世界を確立しました。

最後の「K」は中央アジア・東アジアに広く拡散し、その中から先ず極東遺伝子の「O」が分化し、遅れて欧米遺伝子の基になる「R」が分化し更にその中からスラブ・インドアーリアン系「R1a」とケルト・ゲルマン系「R1b」が分化し、西ユーラシア一帯に広く分布しています。

クロマニヨン人度 (ノルマン度)調査 Y-DNA「I 」

ヨーロッパの主要な遺伝子としてヨーロッパ人固有の遺伝子Y-DNA「I」ノルマン民族度の調査結果から代表例をご報告します。

  ノルマン人は、クロマニヨン人の骨から検出された遺伝子がY-DNA「I 」であることから、クロマニヨン人の直接の子孫でネアンデルタール人亡き後のヨーロッパの最初の先住民のようです。

Y-DNA「I」が「J」とインド亜大陸の古代遺伝子Y-DNA「F」から分化したのは当然インドからコーカサス辺りの一帯のはずですが、その後西に戻り地中海の北側に展開し有名なラスコー等の洞窟画を残しました。

北欧を覆っていた氷河の後退に従い北進しスカジナヴィア一帯に定着したのがY-DNA「I1」のノルマン人となり、地中海北岸に留まり、中東から出戻ってきた古代遺伝子のY-DNA「E」と交配し分化したのが後のバルカン人Y-DNA「I2」となったようです。

  2系統に分化したノルマン系Y-DNA「I1」とバルカン系Y-DNA「I2」ともども、ケルト系遺伝子「R1b」、スラブ・インドアーリアン系遺伝子「R1a」との交配度も相当高く、またラテン系遺伝子「E1b1b」やセム系遺伝子「J」とも交配していて、ヨーロッパ人は遺伝子タイプが複雑に交配しており、また言語も遺伝子頻度と必ずしも一致せずヨーロッパ人の過去の複雑な動きが見えてきます。

しかしさすがにスカンジナビアではラテン系遺伝子のY-DNA「E1b1b」の出現頻度は極めて低く交配は少ないようです、アフリカに戻ったような遺伝子集団なのでスカンジナヴィアのような寒いところは苦手なのでしょう。

スラブ度(インドアーリアン度)調査 Y-DNA「R1a」 
  ノルマン系やケルト系と異なり交配しているアジア系遺伝子など他遺伝子の種類が多いのです。

Y-DNA「R1」の発祥の地は中央アジア/コーカサス一帯と言われていますが、集団は3手に別れ、1隊はアフリカに到達し先住の「A」,「B」,「E1a」と交配し、もう1隊は「Q」か「C3b」と共にベーリング海峡を渡り北米に現存しています。

残留部隊はその後「R1a」と「R1b」に分化し、2隊に別れ1隊は西進し「R1a」は東欧圏に留まりスラブ系民族になりましたが「R1b」は更に西進し西欧圏に到達しケルト系民族になりました。

最後の1隊はインド亜大陸に南下し先住のインダス文明の子孫のY-DNA「L」ドラヴィダ人を追い出しインド南部に押し込めながら交配しインド・アーリアン民族となりました。

ロシア人の主要民族のスラブ系とインド・アーリアンは完全に同根なのです。インド人が意外に小柄なようにプーチン等ロシア人もケルト系もラテン系も小柄です。欧州人の大柄はネアンデルタール人と密に交配したクロマニヨン人の遺伝子を持つノルマン系の形質なのです。

  スラブ系集団はヨーロッパの僻地に展開したケルト系と異なり大陸の中にいたため他の集団との交配が盛んだったのか、大陸の中央部にいるためそれだけ侵略・征服されてきたのか、アジア系の遺伝子も多く検出されています。大唐帝国(Y-DNA「O」)、モンゴル帝国(Y-DNA「C」)、チムール帝国(テュルク系)など中央アジアに進出した大帝国は意外に多いので様々な遺伝子が混じっていてもおかしくはありません。

  キルギス人やタジク人などテュルク系集団が「R1a」がこれほど高頻度とは意外でした。言語と遺伝子はイコールではないことの代表例のような気がします。つまり「テュルク系」という民族遺伝子は全く存在せず、テュルク語を話す集団がテュルクに集約されたのでしょう。それだけ過去の中央アジア〜中東におけるテュルク系集団の帝国、チムール帝国、セルジュク・トルコやオスマン・トルコの存在が大きかったからでしょう。

もともとモンゴル系Y-DNA「C3c」であったと思われるテュルクの現在の主要遺伝子は、トルコ共和国もテュルクメン等の中央アジア国家も、セム民族系遺伝子Y-DNA「J」に変貌しています。宗教もイスラム教でほぼまとまっています。

  人は元の遺伝子はばらばらでも同じ宗教、言語で新たな集団を作るのです。そして遺伝子が複雑なほど民族エネルビーは高まり、交配を嫌うほど民族エネルギーは下がり先住民族・辺境民族化し滅んでゆくのです。これは遺伝子の持つ宿命なのです。

セム度(メソポタミア度)調査 Y-DNA「J 」 
  ヨーロッパ人の遺伝子調査の最後はY-DNA「I 」の兄弟遺伝子「J 」です。「J1」はセム種です。

ヨーロッパ人にとって、セム語族は極めて重要です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この3つの宗教全てを始めたのはセム語族だからです。ユダヤ人もセム種、キリストもセム種、マホメットもセム種です。欧米の宗教はセム種によって開示されたのです。当時ローマ人以外は野蛮だったヨーロッパ人は宗教なんて高尚な概念はなかったのです。ただの未開集団に過ぎませんでした。しかしローマがキリスト教を受け入れて変化が起きたのです。

  そのローマ人は地中海系民族だったのでやはり野蛮なヨーロッパ人とは一線を画していたのです。そしてヨーロッパに農耕文明をもたらしたメソポタミア文明人は「J2」遺伝子集団と考えられています。

農耕技術を持ってヨーロッパ大陸に拡散をしていったためほとんどの欧州人に「J」遺伝子が交配されています。「J」はラテン遺伝子の「E1b1b」と共にヨーロッパ人の重要な遺伝子なのです。しかし「G」はコーカサス遺伝子と知っていましたが、「J」もコーカサス発祥とは初めて知りました。コーカサスはヨーロッパの母なる土地です。

  欧米では、世界最古の民族はアルメニア人だと、以前言われていましたが、Y-DNA遺伝子の調査では、シーラカンス古代遺伝子のY-DNA「D」と「C」以外の新世代遺伝子Y-DNA「F」の中で最も古いタイプがコーカサス遺伝子Y-DNA「G」ですが、その頻度が最も高いグルジア人が最古のような気がします。いずれにせよアルメニア人も発祥の地であるコーカサス一帯が現代文明人の故郷のような気がします。実は「G」遺伝子を持つコーカサス民族には農耕をヨーロッパにもたらしたメソポタミア遺伝子「J2」の頻度も高く、当時最先端の文化を誇っていたはずなのです。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/  

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01. 中川隆 2013年3月03日 16:12:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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インドで美しいのはアーリア人女性だけ?


溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性


インドのファッション・フォト・デザイナーSuresh Natarajan氏の美しいインド女性の写真。ただでさえ美しいインド女性が、プロの写真家の腕前によって、さらに美しくなって神々しいほどだ。

Suresh Natarajan氏もインド北部の「肌の白い女性」しか撮ってくれないが、インドは12億人もの人口を抱えた「多民族国家」であり、いずれはインド南部の「褐色の肌の女性」も美の対象になっていくと思う。

そういった多様性の萌芽はまだ感じられないが、それでもインドはマサラの国だ。そのうちに、足元の多様性を振り返ってくれることもあると思う。


エキゾチックで過剰できらびやかなサリー

インド女性の美しさはその横顔の美しさと同時に、エキゾチックで過剰できらびやかなサリーと装飾にも現れている。世界中のどこを見回しても、これほど女性を美しく魅せる国は他にはない。

なぜインドの女性たちがサリーを捨ててTシャツやジーンズに走ってしまうのか理解に苦しむ。

女性を神々しいまでに美しく惹き立てるサリーを頑強に着続けて欲しいと思うが、時代の流れはこんな願いも押し流してしまうのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120128T1614410900.html
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120613T1202200900.html


美しいインド女性を、さらにゴールドで飾り立てる

東南アジアではゴールドは宝飾というよりも財産として考える。世の中が激変したときに紙幣は価値を失ってしまうことがある。

たとえば、ベトナムでは1970年代に米ソの代理戦争である「ベトナム戦争」が共産主義側の勝利となって、それを嫌った南ベトナムの人たちが大挙としてベトナムを逃げ出した。

あるいは、カンボジアでもロン・ノル政権が崩壊してクメール・ルージュが勝利したときも、共産主義を嫌った華僑もみんなプノンペンを捨てて逃げ出した。

現地の紙幣など、海外では何の役にも立たない。まして、カンボジアではポル・ポト政権が最初にやったのは「通貨の全廃」である。

現地通貨など屑も同然なのである。

ゴールドを好きだと言っても、それは財産保全のため

だから、東南アジアの人たちや華僑の人たちがゴールドを好きだと言っても、それは財産保全のために好きなのであって、ゴールドそのものが好きだというわけではない。

もちろん、ゴールドの宝飾に惹かれてアクセサリーを楽しむ女性もいるだろうが、それは特に目立って存在するわけでもない。

インドでも女性が小さなゴールドをたくさん身につけるのは、財産保全のためという理由もひとつにある。

なにしろ、つい10年ほど前までは、「銀行」すらも信用ならないと人々は考えていた。

なぜ他人の経営する得体の知れない「銀行」に自分の大切な金を預けなければならないのかと思っていたのだ。今でも大半は変わっていないかもしれない。

銀行などいつ倒産するかも分からないし、倒産したら必死で預けた金も戻ってこない。

だから銀行のコマーシャルも、「あなたのお金を、貯金しませんか?」と言うのではなく、「あなたのお金を、厳重な貸金庫に預けませんか?」というコマーシャルをやっていた。

そんな国だから、財産はゴールドに変えて持っておこうと人々は考える。


美しいインド女性を、これでもかと飾り立てる

しかし、である。

インドが他の国と違うのは、インドの女性たちは、本当に心から宝飾としてのゴールドも愛していることだ。

特に結婚式ともなれば、女性の身体は「動く金宝飾」と言っても過言ではないほどゴールドで着飾られる。

ゴールドだけではない。シルバーもダイヤモンドも、ありとあらゆる宝飾が女性の身体にまとわれる。

そのきらびやかさを見ると、本当にインドは「新興国なのか?」と驚いてしまうほどだ。

世界でもっとも現物としてのゴールドを消費するのは、インドである。これがいったい何を意味しているのかというと、インドの女性が、世界で一番ゴールドの宝飾を愛しているということだ。

いかにインドの女性たちが宝飾を愛しているのか、毎日膨大に流されるインドのテレビ・コマーシャルを見れば分かる。

美しいインド女性を、これでもか、と飾り立てるコマーシャルを、あなたにも見て欲しい。

結婚式ともなれば、インド女性は完全に「歩くゴールド宝飾」と化して見る者を圧倒する。娘が3人いれば破産すると言われるのがインドだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120717T2050130900.html


02. 2013年3月03日 16:35:23 : W18zBTaIM6

インドは3人種混合国家・・・アーリア民族の人種は白人! 2008/05/28 18:51


或る人から、インド人は「美人が多いか?少ないか?」と言う質問を受けた。美的感覚や好みに個人差があり、何とも言えないが、個人的感覚では日本と比べ圧倒的に多いと思う。清潔か清潔でないか、肥満かスリムかは別として…。だが、インドを一言で表現する事は難しい。インドは多様性・多面性のある小宇宙である。



インド人は人種的には大体3種類に分類される。

インダス・ガンジス文明を発祥させた原住民と其の流れを汲むドラビタ族。肌の色は褐色で、鼻は低く、身長も低く比較的小柄である。インダス・ガンジス文明の継承者であり、頭脳が優れている、と言われている。南インドに多い。

次に、ミャンマーやネパールからインドに移動してきたモンゴロイド族、ベンガル地方に多い。ムガール帝国時代にもモンゴル族が多数流れてきたが、彼らもモンゴロイド族である。体型も顔も東アジア人に良く似ている。肌の色は、黄色…褐色と黄色の中間である。因みにムガールはモンゴルが訛った名称。

そして3番目は、未だ正確には分かっていないが、いわゆるアーリア民族。今から約3,500年前にインドに南下してきた。この3種族がインドの主流3人種である。

アーリア民族に関しての日本人の知識は薄い。アーリア人の総称をアーリア民族と表現する事はあるが、アーリア族という特別の人種は存在しない。語学的にはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に分類される。人種的には白人である。

コーカサスから中央アジアの広範囲に住んでいた民族で、今から約3,500年アフガニスタン経由やイラン方面からインダス・ガンジス河地域に移動してきた民族。彼らは原住民・ドラビタ族を支配し奴隷とした。一部ドラビタ族は南インドに逃げて行った。今でも北インドと南インドの仲が悪い原因はこの時代から始まったもので、文化も大分異なる。アーリアと言う言葉の意味は、「高貴な人々」と言う意味である。彼らは紀元前からプライドが高い。プライドが高いせいか、独自の文化を維持し奴隷(原住民・ドラビタ族)との差別を明確にしようとした。奴隷との混血を避ける為に作られた制度がカースト制である。其のお陰で、純血を保っている。

アーリアの名称は後に「イラン」に変わる。イラン人もインド・イラン語族に属し、人種的には白人である。インドとパキスタンのアーリア民族とイラン人、元は同民族である。しかし、アーリア民族、どうも、アーリア人→アーリアン→エイリアンの方が合っているような感じがする。宇宙よりの闖入者…。

余り知られていないが、ジプシーという名称は、当時ヨーロッパにいた連中がつけた呼び方で、「エジプトからやってきた移動型民族」の意味である。エジプト→エジプシャンがジプシーに訛ったとされる。このジプシーの主流は、インドからエジプトに移動した、北インド、パンジャブやラジャスタンに住んでいたロマ(ロマニ系に由来する移動型民族)とされる。現在ではジプシーと言う呼び方は偏見と差別を感じさせるので、ジプシー全体をロマと呼んでいるようだ。人種的には白人である。

アーリア民族は混血を極力避ける。従い、インドにいてアーリア系とドラビタ系、モンゴロイド系は明確に区別できる。

例えば、極度に混血を嫌い、自分の文化を尊重し、独立独歩の道を歩んでいるシーク族(ターバン族)などは、典型的なアーリア民族、顔は薄い褐色で、少々日に焼けた白人の肌の色に近い。薄い小麦色と言った方が近いかも知れない。体型は大柄で、胸は豊満である。鼻筋は通って高く、目の輪郭がハッキリしていて大きい。殆ど二重であり、目の色は様々、黒・褐色・青・緑・灰色など、人により様々である。濃緑色の目の人には滅多にお目にかからないが、中央アジアがオリジンであろうか…不思議な色合いである。様々な色素が混じっているようだ。

シーク族の女性は圧倒的に美形である。シーク族に限らず、他のアーリア系の女性も同様、美形が多い。もっとも、鼻筋が通り、目がはっきりして大きく、二重で、口が上品なら、皆美形に見えるだろう。しかも若い頃は、スリムで足が長い。G−パンが良く似合う。歌とダンスが大好きな民族、目の表現や素振りの中に、インド風の艶っぽさがある。男尊女卑の国だからであろうか…。

インドのアーリア民族はミス・ワールドやミス・ユニバースを何回も受賞している。アーリア民族は北インドに多い。特にインド映画のメッカ、ムンバイでは多くの美形女優を輩出している。



問題は、肥満を美形とする文化、子沢山を夢見る女性、上流家庭は使用人を使う生活習慣、女性は家事もせず運動も余りしない。結婚すると殆どの女性は肥満体になる。上流家庭でなくとも美形は沢山いる。ただ、清潔感と肥満と言う観点、そして性格…、インド人はプライドが高く、自己主張も強く、自説を譲らず、口数も多い。インド人の特徴を、川柳で表現すれば…インド人の大きいもの、男女共通である。

「目・鼻・胸  腹・尻・態度  自己主張」

もちろん、モンゴロイド系にもドラビタ系にも美形はいる。日本人の美形率と同じ位いるだろう。好みにもよるが…。
http://dankaisedai.iza.ne.jp/blog/entry/589985/


03. 中川隆 2013年3月03日 17:12:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


インドの民族系統一覧

『インド人(インド・アーリア系)』 インド北部の中心的民族。コーカソイド。経済的に豊かな地域が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/43.html

『ドラヴィダ人』 インド中部から南部にかけての中心民族。元々はインド先住民。古モンゴロイド。経済的に豊かな地域が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/42.html

『タミル人』 インド南部の中心民族。オーストラロイド。インド先住民。経済的に豊かな地域も多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/119.html

『チベット系』『ミャンマー系』 インド北東部の民族。チベット系は北方モンゴロイド。ミャンマー系は南方モンゴロイド。両方とも少数民族。比較的経済的に貧しい地域が多い。


『ムンダ系』 古い南方モンゴロイド系の言語を話す民族系統。同じ系統の言語にベトナム語などがある。人種的にはオーストラロイド。インド先住民。インドの総人口から考えると極端に少数な民族系統。非常に貧しい地域が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/123.html

インド・アーリア人(インド・アーリア系)

•いわゆるインド人。インド北部に居住している人達。
•その他の民族はコチラ。(このページのリンクも含む)

インド・アーリア系の特徴。

•南方コーカソイドである。
•身長は栄養状態から考えれば高い。
•身長の割には手足は長く、顔は小さい。
•肌の色は日焼けしなければ白い。ただ、褐色も多い。
•瞳の色は、茶色から緑、また、ごく稀に青までと様々である。
•髭、体毛は濃い。
•髪の毛は黒髪で天然パーマからストレートまで。髪は湿っている。子どもの頃に金髪が少なからず見られる(メッシュ状)。
•肌は湿っている者が多い。写真を見る限り乾燥しているようにも見える。
•まぶたは二重。
•唇は厚い。口は大きい。
•鼻は大きく高く長い。
•血液型はO型54%、A型37%、B型7%、AB型2%。
•頭は長頭。(頭の前後が長い)
•狩猟・牧畜民である。
•比較的保守的な民族・性格で知られる。

彼らは古代ヨーロッパの強力な文化を引き継いでいるが、
紀元前1500年頃、ドラヴィダ人の農耕技術も取り入れ急速にその力を増した。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/43.html


インド・アーリア系の民族一覧。

•パンジャブ人 パキスタンからインド北西部に住む。長身、体型はガッチリ、肌は色白などの特徴を持つ。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/103.html

•マイティリ人 インド北部からネパール南部にかけて居住する。細身で褐色の肌。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/118.html

•シンド人 パキスタンからインド西部に住む。褐色の肌の者が多い。頭型が短頭から中頭が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/107.html

•ラージャスターン人 インド北部の広域な地域に住む少数派。長身。色白も多いが褐色の肌が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/108.html

•グジャラート人 インドの北西部グジャラート州を中心に住む。肌の色は褐色が多く体型は細身が多い。最近は肥満も多いようだ。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/109.html

•ドーグリー人 インド北部に居住。比較的北部広域に住む。肌の色がパンジャブ人同様白い。また、長身である。比較的細身である。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/110.html

•アッサム人 インド北東部のアッサム州を中心に住むインド・ヨーロッパ語族の最東端の民族。褐色の肌が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/112.html

•ベンガル人 インドの北東部からバングラデシュまでのベンガル地方を中心に住む。いわゆるバングラデシュ人であるがインドの北東部にも多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/114.html

•コンカニ人 インド西部の海岸のゴア州に主に住む。褐色の肌が多いが色白の肌も多いようだ。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/117.html

•カシミール人 インドの最も北に位置するカシミール地方の民族。肌は白い者が多いとされるが褐色も多い。宗教はイスラム教の中でも独特の信仰がある。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/182.html


ドラヴィダ人

•古代インド人と言っていい。インドの先住民と言ってもいい。
•今はインド南部に多く居住。
•「コーカソイド」でも「オーストラロイド」でもなく「モンゴロイド」である。
•地域によって形質差がかなりあり、一まとめにドラヴィダとするには無理があるようにも思う。
•その他のインドの民族はコチラ。(このページのリンクも含む)

ドラヴィダ人の特徴

•古モンゴロイド、もしくは南方モンゴロイドに属する。
•かなり古いモンゴロイドの一派であると考えられる。
•身長は低い。
•肌の色は黒い。
•身長の割には手足は長く、頭は大きい。顔は小さい。
•髭、体毛は濃い。だが、体毛の薄い者も多いようだ。
•髪の毛は天然パーマや強いカールが多い。髪は湿っている。
•肌は湿っている者が多い。
•目はくっきり二重の大きな目。
•目元が窪んでおり非常に彫の深い顔をしている。
•非常に彫が深く、また、原始的な形質などと欧米で評される事が多かった為に、長年欧米の研究で黄色人種に分類されなかった。
•唇は厚い。口は大きい。
•鼻は大きく丸く短い。現在ではインド・アーリア人との混血で高く長い者も多い。ただ、元々高い地域もあったようだ。
•血液型はO型75%、A型14%、B型8%、AB型3%。
•頭は長頭。(頭の前後が長い)
•現在、インド・アーリア系とかなり混血している。また、オーストラロイド系とも混血していると考えられる。
•農耕・牧畜民である。
•黄色人種全体に言える事ではあるが、IT(情報技術)などで高い才能を発揮している。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/42.html

ドラヴィダ系の民族・部族一覧

•トダ族
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/82.html

•カンナダ人
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/115.html

•マラヤーリ人
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/121.html

•トゥル人
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/122.html

タミル人

•タミル人はインド南部からスリランカ(少数派)に住む。
•総人口は7700万人。
•人種はオーストラロイド。
•その他のインドの民族はコチラ。(このページのリンクも含む)


タミル人の特徴

•暑さに強い者が多い。
•手足は長くも短くもない。
•身長は低い。
•髭は濃い。体毛も比較的多い。
•髪はストレートから天然パーマまで。
•肌の色は黒い。 
•汗腺が発達している。
•二重で大きな目で、まつげも長い。
•唇は厚い。
•口は大きい。
•筋肉が比較的発達している。
•鼻は横に広く大きい。高い者も多い。
•血液型:O型57%、A型40%、B型3%。
•頭は長頭。(頭の前後が長い)
•農耕民である。
•勤勉な民族との評価がある。また、頭の良い民族との評価がある。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/119.html

•チベット・ミャンマー系 

北方・南方モンゴロイド(黄色人種)。インド北東部に多い。ただし人口的には少数である。

◦ボド人 南方モンゴロイド系。ミャンマー系である。ただ、人種的にはコーカソイドの形質が多い。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/111.html

◦ニシ族 北方モンゴロイド系。チベット系である。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/113.html

◦レプチャ人 北方モンゴロイド系。チベット系の言葉を喋る。日本人に特に顔が似ているとされる。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/124.html


ムンダ族

•インド・東部のチョータナグプール高原に主に居住する。インド中部にも一部住む。また、バングラデシュにも一部居住。
•人種はオーストラロイド。
•言語は南方モンゴロイド系の言語であるアウストロアジア語族の言葉を話す。
•その他のインドの民族はコチラ。(このページのリンクも含む)


ムンダ族の特徴

•暑さに強い者が多い。
•手足は長くも短くもない。
•身長は低い。
•髭は濃い。体毛も比較的多い。
•髪は天然パーマ。ストレートもいるようだ。
•肌の色は黒い。 
•汗腺が発達している。
•二重で大きな目で、まつげも長い。
•唇は厚い。
•口は大きい。
•筋肉が比較的発達している。
•鼻は横に広く大きい。高い者も多い。
•血液型:O型54%、A型40%、B型5%、AB型1%。
•頭は長頭。(頭の前後が長い)
•農耕民である。稲作を行う。
•ムンダ系の部族は非常に貧しい生活をしているとされる。ただ、安定した食糧確保が出来る農耕民であるため、餓死などはないもよう。
http://www47.atwiki.jp/wikirace/pages/123.html


04. 2013年3月03日 19:12:47 : W18zBTaIM6

ヨーロッパのY遺伝子分布はどうなっている?


部族移動の追跡を行う上ではY染色体の分布が有力な参考資料となります。そこで、現在のヨーロッパで最先端の研究結果であるEUPEAN:Distribution of European Y-chromosome DNA (Y-DNA) haplogroups by region in percentage から重要な部分を選別してご紹介します。


前半部分となる当記事では、ヨーロッパ人の主要部分を占めるハプロタイプ"R1b""R1a""I"を扱います。


■R1b
R1bの分布

・西欧で最も多く見られるハプロタイプであり、アイルランド・スコットランド・ウェールズ西部・フランスの大西洋沿岸・バスクでは人口の80%に達する。また、アナトリアやコーカサス周辺、ロシアと中央アジアの一部にも見られる。

・どこで発生したかは明らかではないが、原型に近いものが中近東やコーカサスで発見されている。

・R1bの分布は印欧語のものとかなり近い。

・最近の言語学者は、印欧祖族の出身地を黒海−カスピ海のステップ(ドナウ川河口〜ウラル山脈間)と位置付けている。この地域にR1aとR1bの系統が混合して居住し、コーカサス北部にR1b、ステップ北部にR1aが集まっていた。

・R1a,R1bのグループは乗馬と青銅器の技術を持っていたため、ヨーロッパ先住民(I1, I2a, I2b)に対して有利に移住を進めていった。ただし、ギリシャ・バルカン半島・カルパティア山脈は当時先進的な地域だったため、R1系による遺伝子交代が比較的少なかった。また、スカンジナビア・ブルターニュ・サルディニア・ディナルアルプス山脈のような侵入しにくい地域でもI系が多く残っている。

・ステップにいたR1a・R1b混合グループが最初にバルカン半島に侵入したのは6200-5900年の間で、寒冷化によるものである。

・先にヨーロッパに進出したのはR1aで、縄文土器文化(5200-3800年前)の拡大に伴ってドイツやスカンジナビア半島にまで到達した。

・R1bがヨーロッパ西部に到達したのは約4500年前で、黒海沿岸からドナウ川を遡っていった。北方のR1aグループに押し出されるような形で移動を開始したのだろう。

・R1bは3200年前に更に大移動をし、西は大西洋、北はスカンジナビア、東はギリシャやアナトリアにまで拡大した。ただし、同程度の技術を持つR1aが既に定住していた地域は避けていた。

・R1b1bのうち何部族かは早期にカスピ海から中央アジアに移動し、R1b1b1(M73)に進化した。ウイグル族・ハザラ族・バシキール族はこの遺伝子を高い割合で持っている。いくつかのグループは数世紀を経てウラル南部やタリム盆地、中央アジア南部まで至った。

・タリム盆地では金髪のコーカソイドのミイラが見つかっており、3800年前のものが最古である。現在この地域に住むウイグル族がR1b-M73(20%)とR1a1(30%)を持っていることから、タリム盆地で両ハプロタイプの混血が起こったと想像できる。

・R1bは約15000年前にアジアからアフリカに戻っている。R1b1はレバント地方からエジプト、スーダンを介してアフリカ各地に散らばっていった。注目すべきはカメルーンで、いくつかの部族ではR1b1が95%を占めており、国全体では15%になる。


■R1a
R1aの分布

・ヨーロッパ北部、東部の印欧語族(インド−イラン人・ミケーネ人・マケドニア人・トラキア人・バルト人・スラブ人)で優勢なのがR1aである。約5000年前にロシアのステップ地帯に住んでいた遊牧民がその原型を持っていたと思われる。

・縄文土器文化(5200-3800年前)の拡大に伴ってドイツやスカンジナビア半島にまで到達した。

・ドイツ人は別のルート・タイミングで来たR1aとR1bの混血である。言語学的にも、ドイツ祖語はイタリア語、ケルト語、スラブ語と類似性を示している。

・スカンジナビア半島では、先住民(N1c1)と侵入してきたR1aが混血して現在のノルウェー人・スウェーデン人の基礎となった。

・スラブ人は約5000年前に原型ができた民族で、縄文土器文化がウクライナ・ルーマニア辺りまで広がった時に原住民のI2a2・E-V13・TとR1aが混血して形成された。これが東方と北方のスラブ人にE・Tが見られる理由である。

・インド−イラン人の祖がアーリア人と呼ばれる人々で、ウラル山脈の東にあるトボル川、イシム川の渓谷に起源を持つ。アーリア人は交易や遊牧をしながらカスピ海沿岸からシベリア南部、天山山脈にまで拡大した。また、南はインド、パキスタンにまで移動し、2500年前にはインド中に広がった。現在のインドにおけるR1aは、北西部で最も多く、ドラヴィダ人のいる南部では少ない。また、バラモンの70%がR1aである。

・遺伝子的にはヨーロッパ人と同じR1aでありながら、中央アジアの人々が印欧語に属さないのは何故か?その理由は、4〜11世紀にトルコ語が広がって定着したことにある。トルコ祖族はモンゴル〜シベリア南部で生まれた匈奴である。その系列であるフン族が東方からヨーロッパまで移動したことでトルコ語が中央アジアに広がった。

・古代民族のDNA鑑定によって、匈奴は2000年前の時点でヨーロッパ人と北東アジア人の混血部族であることが明らかにされている。モンゴルやバイカル湖周辺で確認される最も古いヨーロッパ人のミトコンドリアDNAは6000年前のものである。

■I
・ヨーロッパで最も古いハプロタイプであり、ヨーロッパに起源を持つ唯一の系統だと思われる(他のハプログループから孤立している)。35000年前に中東からIJとして移動してきたグループが、25000年前にIとして形質を固めた。このIJかIに当てはまる確立が最も高いのがクロマニョン人である。

I1の分布

・I1が最も多いタイプで、主にスカンジナビア半島やドイツ北部に見られる。

I2aの分布

・I2は17000年前にヨーロッパ南東部で誕生し、主にイベリア半島やフランス西部、イタリア西部に見られる。

今回は以上です。後半では、中近東地域の主要ハプロタイプを扱います。
http://blog.livedoor.jp/nandeya_umeda/archives/51174456.html

■G
G2aの分布図

・コーカサス周辺で誕生し、現在では主に近東〜インドの山間部(コーカサス・イラン・アフガニスタン・カシミール)で見られるが、中央アジアやヨーロッパ、アフリカ北部でもいくつか存在が確認されている。また、G2cはヨーロッパ系ユダヤ人のみに見られる。

・山間部のG系の起源は、9000〜6000年前にアナトリアからヨーロッパに移動した牧畜部族である。

・コーカサスのG2aの一部は、R1bと一緒に拡散していった可能性が高い。コーカサスは金属技術が最初に発達した土地であり、コーカサス人の金属技術が印欧語族にとって有益だったからだろう。


■J
・中東のハプログループで、北方のJ2と南方のJ1に分かれる。

J2の分布図


・J2はメソポタミア北部で誕生し、西はアナトリアからヨーロッパ南部、東はペルシアからインドまで広がっていった。古代のエトルリア人・ミノア人・アナトリア人(南方)・ポエニ人・アッシリア人・バビロニア人がそれに当たる。

・J2はギリシャに数多く見られ、特にJ2bはギリシャで誕生したと思われる。また、J2aが最も集中しているのはクレタ島であり、この地に起源を持つものだろう。興味深いことに、J2aはインドのカースト上位者にも多く見られる。バラモンは主にR1a・R2・J2aで構成されている。これら3つのハプログループがアーリア人の侵入における遺伝子の移動経路を示している。

J1の分布図

・J1はアラビア半島の人々のほとんどに見られ、中でも72%に達するイエメンが発祥の地と思われる。中世のイスラム人の侵攻によって中東・アフリカ北部からスペイン南部まで広がった。

■E1b1b
E1b1bの分布図

・最後にアフリカからヨーロッパへ大規模移動をしたのがE1b1b(公式にはE3b)である。26000年前にアフリカの角あるいはアフリカ南部で登場し、新石器または旧石器時代に中東に進出した。

・ヨーロッパ〜近東で最も多いEのタイプがE1b1b1a(またはE-M78、E3b1a)である。新石器時代初期にエジプトからレバント・アナトリア・ギリシャに進出し、J2と混血した。

・E-V13はレバントで興った農業の伝播を担った部族である。ギリシャ北部のテッサリーが伝播の起点であり(約8000年前)、バルカン半島やドナウ盆地からフランス北部、ロシアまで広がっていった。

・E-V22はレバントに在住していた部族のものであり、フェニキア人やユダヤ人に多い。フェニキア人が地中海沿岸で活発に活動したため、E-V22がその領域に広がった。


■N
・フィンランド〜シベリアのウラル語系の人々に多く、韓国人、日本人にもわずかに見られるハプロタイプである。

・20000〜15000年前に東南アジアで誕生したとされており、派生したN1c1は12000年前にシベリア南部、10000年前にはヨーロッパ東部に到達した。

・Nがフィンランドやバルト人の祖先だが、約4500年前から印欧語族の縄文土器文化がバルト地域やフィンランド南部を飲み込み始め、R1aと混血した。これが現在のバルト人がN1c1とR1aを同程度持っている理由である。


■Q
・シベリア中央・中央アジア・アメリカ原住民の大部分を占める。シベリア中央で誕生したフン族が5世紀にヨーロッパに持ち込んだと見られており、フン族が最終的に定住した地と言われるハンガリーでは人口の2〜5%がQを持っている。

・別の説では、チンギス・ハーンが東欧まで攻め込んできた時にC・G・O・R1aと共にQを持ち込んだと言われている。

最後に、これらの分布や部族移動の経路を計算して作成された「2000年前のヨーロッパにおけるY遺伝子の分布図」がこちらです。
http://blog.livedoor.jp/nandeya_umeda/archives/51174468.html


05. 2013年3月03日 19:44:34 : W18zBTaIM6

ホモサピエンスの歴史
  
 初めに、図式を書くと、次の通りだ。


            ┏━━━━ ピグミー
            ┣━━━━ コイサン
           ┏┻━━━━ ネグロイド
  初期サピエンス ━┻━┳┳┳━ 北アフリカ
  (エチオピア人?)   ┃┃┗━ 欧州コーカソイド
             ┃┗┳━ 古モンゴロイド
             ┃ ┗━ 新モンゴロイド
             ┗━━━ オーストラロイド

古モンゴロイドの展開

 アラビア半島を渡ったホモ・サピエンスは、さらに南アジアや東南アジアに進出した。さらには、スンダ大陸とサフル大陸を経て、オーストラリアにまで達した。


 そして、この長大な旅の過程で、当初はコーカソイドだったホモ・サピエンスから、オーストラロイドと古モンゴロイドが出現した。彼らは遺伝子的には近い。最初はオーストラロイドが出アフリカをして、次に古モンゴロイドが出アフリカをした。いずれも、次の経路を経て、東南アジアに到達した。


  アフリカの角 → アラビア半島南岸 → インド → 東南アジア


 その後、オーストラロイドは、さらに次の経路を取った。


   → スンダ大陸とサフル大陸 → オーストラリア


 その後、スンダ大陸とサフル大陸が水没して島々になった。だから現在では、オーストラロイドはニューギニアとオーストラリアに残るだけだ。彼らは、見かけでは黒人にちょっと似ているようだが、遺伝子的には古モンゴロイドと大差ないことがわかっている。

 また、他にアメリカ先住民も古モンゴロイドの系列だとわかっているが、遺伝子的にはかなり早期に分岐したらしいので、西アジアからシベリアを経由してアラスカに渡ったのではないか、と推定されている。(東南アジア経由ではない。)


 一度目の出アフリカのあと、その後も出アフリカは継続して何度もなされたはずだ。ただし、同じルートなので、いっぺんと数えていい。また、出アフリカをした人々が、すべて東南アジアに到達したわけではなく、途中で止まったことも多いだろう。その場合、あとから来た人々と混血することになる。したがって、アフリカに近い土地ほど、コーカソイドの血が濃いことになる。

 古モンゴロイドのうち、最も西の方で残っている明瞭な痕跡は、ドラヴィダ人だ。彼らは遺伝子的にも、古モンゴロイドの遺伝子を受け継いでいる。(今日では混血も多いが。)

 また、言語的にも、ドラヴィダ語は、印欧語(コーカソイド系)とは隔絶しており、アジア系の言語(古モンゴロイド系)と近親性がある。

           ↓ 共通遺伝子が消失
   北東部人 ━┳━━┳┳━ 北東部人
         ┃  ┃┗━ コーカソイド
         ┃  ┗┳━ 古モンゴロイド
         ┃   ┗━ 新モンゴロイド
         ┗━━━━━ オーストラロイド

    ※ 北東部人は、アフリカ北東部人の略。



 (6) 二度目の出アフリカ

 5〜6万年前に、二度目の出アフリカがあった。アフリカ北東部にいたコーカソイドが、スエズ地峡を渡ったのだ。さらに、シナイ半島を経て、欧州へ達した。そして 4.2〜 4.4万年前には、イギリスに到達した。


 これは二つの経路があったらしい。

 一つは、バルカン半島を経て、南欧に達する経路。これは(有史時代のノルマン征服を経て)イギリスまで達する。この過程では、メラニン色素を失うことはなかった。だから南欧のコーカソイドは、アフリカ北部のコーカソイドとかなりよく似ている。また、比較的古い形質を残している。

 もう一つは、北欧を経て、イギリスに到達する経路。この過程では、途中で寒地適応をしたので、メラニン色素を失い、肌が白くなり、金髪碧眼などになった。体格も大型化したようだ。(いずれも寒地適応。)


  → Y染色体DNAのハプロタイプ
http://www.cyber-u.ac.jp/column/wh/006/index.html

  → 欧州の Y-DNA のハプログループ (地図)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Haplogroups_europe.png


 コーカソイドはこれで打ち止めではない。このあともアフリカ北東部から続々と出アフリカをした人々が続いただろう。ただし、同じルートなので、いっぺんと数えていい。

 なお、あとから来た人にとっては、先住民が増えるほど、その地に進出しにくくなるだろう。だから出アフリカはだんだん減っていったはずだ。また、あとから来た人ほど、先住民との混血が進んだはずだ。とはいえ、古モンゴロイドの場合と違って、どちらもコーカソイドだから、あまり違いは目立たないだろう。せいぜい「メラニン色素が多い」というぐらいの違いでしかない。

 ※ なお、遺伝子で移動の経路を知るのは、ハプログループという概念による。詳しくは → Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

http://openblog.meblog.biz/article/10915066.html

ドラヴィダ人

ドラヴィダ人(達羅毗荼人、Dravidian)は、古代からインドに定住していたと考えられる民族群。 現在では主に、インド特に南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住し、マレーシア、シンガポール、セーシェル、マダガスカルなどにも居住している。


インダス文明はドラヴィダ人によるものだとされているが、これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、マヤ文字で有名であるユーリ・クノロゾフ(英語版)らソ連の研究者によってドラヴィダ語族の言語である可能性が高いことが指摘された為である。

これをきっかけにインダス文字の研究では、Iravatham Mahadevanがドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱し、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対していた。これらの対立にはドラヴィダ運動(英語版)の政治的な側面からの影響もあった。

その後、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ(英語版)が支持し(ただし、「この研究を有益だと述べたが、文字の意味的理解をこれまでより進めるものではないと述べた。サンプルが少なすぎて、仮説を検証することができないという障害は変わらない」という)、研究は振り出しに戻っている[1]。


ドラヴィダ人という呼称については、言語学での分類に用いられるドラヴィダ語族の概念によって定義する人々もいる。ドラヴィダ人の定義としては、ドラヴィダ語族に属するタミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、トーダ語(英語版)、コータ語(英語版)などの言語を母語として使用する人々、という言語学的側面もある。

また、インダス文明の担い手であり出アフリカ直後の時代からインドに居住し、早い時期に農耕・牧畜を始めていたと考えられている。アーリア人の移動が始まった後は、時代と共に同化していった。

また、ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪などの特徴があり、DNAの観点からは古モンゴロイドに分類される。 遺伝学が未発達な以前は、オーストラリアのアボリジニやパプアニューギニアの人々、スリランカのヴェッダ族と同じ人種、オーストラロイドまたはヴェダロイドに分類されていたこともある。

さらに、サンスクリット文学(英語版)が入る前から存在した独自のサンガム文学・タミル文学(英語版)を保持し、ムルガン神信仰(後にスカンダや韋駄天に発展したといわれる)などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも独自のものを持っている、という文化的な側面が挙げられる。 このような様々な側面が複雑に重なり合い繋がっているのが、ドラヴィダ人という概念である。また、タミル人という概念があり、主にタミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担う人々を指すが、タミル(தமிழ்;Tamil)という語はドラヴィダ(திராவிட;サンスクリット語 द्रविड, द्रमिल, द्राविड;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。このことから、タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向が、タミル・ナードゥ州を中心に展開している政治運動であるドラヴィダ運動(英語版)などにおいて存在している。

略史

紀元前53000年頃、アフリカ東岸からインド南西部に移住する。 さらに北、東へと広がって行く。

紀元前2600年頃、インダス川流域(現在のパキスタン)にインダス文明を形成する。複数の都市よりなる文明である。

紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。気候の変化が理由だと言われる。


紀元前1500年頃から、イラン高原からアーリア人のインド北西部への移住が始まる。

北部支派:インド西部のオリッサ、ベンガル
中部支派:インド中部のマディヤ・プラデーシュ
南部支派:インド南部のデカン高原


紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。が、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚した。

紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。

現在ドラヴィダ系の人々はインド全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は南インドを中心に居住している。

メソポタミアのシュメール文明との関連性も指摘されている。ドラヴィダ語とシュメール語に共通性が見られるといった議論がインドではなされており、ドラヴィダ人はメソポタミア地方から移住したとの説も存在している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E4%BA%BA


06. 2013年3月03日 20:07:30 : W18zBTaIM6

インドのY遺伝子分布(基礎情報)


「現代インド人・パキスタン人のY染色体分布」(意訳)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1380230/figure/FG4/

から、インド人のY染色体は主に”H, H1, J2b2, L1,O2a, R1a1, R2”で構成されていることが分かります(他サイトの情報も一致)。なので、以下に各ハプロタイプごとの特徴を記述します。

■H 情報元:
http://familypedia.wikia.com/wiki/Haplogroup_H_%28Y-DNA%29

・多くのインド人が持つ遺伝子であり、他所ではほとんど見つかっていない。ただし

ロマ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E

はこのハプロタイプを持っている。


・ハプロタイプFから派生したもので、3万〜2万年前にインドで発生したと推測される。

・インド南部の先住部族(ドラヴィダ系)や、カースト下位の者に多い(25〜35%)。逆にカースト上位者ではせいぜい10%程度しか見られない。

■L 情報元:
http://familypedia.wikia.com/wiki/Haplogroup_L_%28Y-DNA%29

・3万年前にハプロタイプKから派生したと思われる。

・ドラヴィダ系のカースト中上位者に多く(17〜19%)、アーリア系には少ない(5〜6%)。インド南部のケーララの人々では48%に達する。

・先住部族にはほとんど見られないため、インドに元々存在したハプロタイプではないことが分かる。

・Lは3系統(L1,L2,L3)に分岐している。L1はインド亜大陸におり、その分布はドラヴィダ語を話す人々のものと相関している。また、ヨーロッパで見つかるLは大抵L2に属している。


■O2a 情報元:
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O2a_%28Y-DNA%29

・原南アジア語族の主要ハプロタイプ。

・インド北部のカーシー族、インド東部のジュアング族に多い。


■R1a1 情報元:
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_R1a_%28Y-DNA%29

・ハプロタイプR1からの派生であり、正確にはR1a1aがR1a系のほとんどを占めている。

・カースト上位者に多く、バラモンでは西ベンガル州(71%)・マハラシュトラ州(48%)・南部のアイアンガー(31%)、そしてパンジャーブ地方のクシャトリア(67%)が代表的。

・南インドのドラヴィダ系にも一定数が見られる。チェンチュ族では26%がR1a1を持っており、ヴァルミキ族やケーララ地方でも確認されており、スリランカのシンハリ族でも13%存在する。


■R2 情報元:
http://familypedia.wikia.com/wiki/Haplogroup_R2_%28Y-DNA%29#CITEREFSengupta_et_al.2006

・このハプロタイプの9割はインド亜大陸に存在する。

・インド人、スリランカ人の10〜15%を占めており、ドラヴィダ系にも印欧系にも存在する。特に割合が高いのは西ベンガル州(23%)、スリランカのシンハラ人(38%)である。

・カースト上位になるほど割合が高くなる。

・R2とR1aの分布はかなり似ており、同時期にインドに侵入した可能性が高い(但し確証はない)。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244441


07. 中川隆 2013年3月03日 21:24:03 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

インドの民族の形成過程について

インド民族の形成過程についてこの間、投稿されてきたたY染色体の分析を踏まえて以前の投稿を補足、推測していきたい。


【土着民〜H系統・O系統】

インドに最初に到達した人種はH系統であり、インダス流域から、南インドまで広く分布していたと思われる。H系統は現在でもインドにしか存在せず、原インド人と想定して間違いない。この系統はスンダランドまでいかずにインドで適応した原モンゴロイドである。

その後1万4千年前から始まるスンダランドの水没が契機でO2bがインド東部のガンジス川流域に入ってくる。インドは東と西で大河が2つある為、H系統と混在することなくそれぞれが地域で定着していった。

【渡来系支配族〜L系統・R系統】

5000年前にインダス川流域でインダス文明が始まるが、突然完成された都市計画と農耕技術を持った文明が登場したことから、既に別の地域で文明社会を形成していた一派が流れ込んできた事は明らかである。文字、印章を持ったスタイルや煉瓦を用いた都市の作り方、言語形態から見てシュメール人と同種である可能性が高く、メソポタミア文明が形成されてから1000年後にインダス文明は作られている。

インダス文明を作った彼らをドラビダ人と呼んでいるが、この人種(L系統)は西方から来ており、Y遺伝子の流れを見ていくと地中海でFから分派したK系統の分派がL系統になり、メソポタミアを経由してインドに辿りついた可能性が高い。

そう考えると出自が全くわからないシュメール人も同様にギリシャ辺りに先住した地中海先住民の由来であることが判る。インドがその後の歴史の中で哲学の発生時期にギリシャと繋がっていくが、これはドラビダ人の形成過程と無縁ではないだろう。


以前の投稿にドラビダ人の地中海説を唱えている論説を紹介している。

>今日の南インドには、形質人類学上、地中海型の特質をもつものが多いことなどから、地中海地方にドラヴィダ人の人種的な淵源を求める説もある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241271


但しシュメール人がどの時期で来たのかは明らかになっておらず、メソポタミアで原シュメール人(地中海のK系統)が現地人と混血して形成されたのがシュメール人だとしたら、インドでドラビダ人になった民族はシュメール人になる前の原シュメール人である可能性もある。同様に原シュメール人はイラン高原でも現地人と混血し、エラム文明を作り出している。

こうしてドラビダ人は原シュメール人(L系統)と土着のインド人(H系統)によって混血し形成されていったのではないか?

ドラビダ人はその後印欧語族であるR系統によって支配されるが、それでもカーストの中にドラビダ人は一定程度、混在している。これは印欧語族の支配が完全な略奪支配ではない事を示している。


【後発の混入部族 J系統、F系統】

その他の民族として、インドの西側にJ系統が存在するが、J系統はセム族の一派であり、これはその後イスラム勢力によって支配されたムガール帝国の時代に入り込んできた人たちであろう。

また、北インドにはF系統が分布するが、これは2000年前のギリシャとの交流で人が流れ来た事を示しており、先に書いたドラビダ人の地中海発祥と無関係ではないように思える。

【日本と近似した民族混在国家】

インドはこうしてH、O2b、L、R1、R2、J2,FとY染色体による民族分布は多様に混在しており、その分布の多様性だけを見ても日本とインドは世界でも珍しい人種の坩堝であることが判る。

異なるのはその一派に西洋を支配している印欧語族のR系統が存在している事である。インド人に本源性と強烈な私権性を同時に見るのはこのRの存在が影響しているのだろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244925




●インドの部族移動の歴史

3500年前 それまでイラン高原のステップ地帯にいたイラン−インド人が寒冷化・乾燥化に伴って、イラン高原南西部に侵入したのがペルシア人、インドに侵入したのがアーリア人。

インドの原住民は、インドに住み続けた原モンゴロイドorスンダランドから来た南方モンゴロイドのいずれかだろう。

インドでは、1000年前にできた性の奥義書「カーマスードラ」や男女和合の彫刻が全面に施された神殿をはじめとして、性に対して極めて寛容(大らか)である。この性に対する大らかさはアーリア人にはないはずで、インド原住民の特徴だと考えられる。ということは、インド原住民は母系集団婚の部族であるが、これは原モンゴロイドにも南方モンゴロイドにも当てはまる。


そこにドラヴィダ人がインダス文明をつくった。南方モンゴロイドor原モンゴロイドとシュメール人が混血したのがドラヴィダ人である。シュメール人は原白人と混血しているとは言え黒人の血が濃いので、今も南インドには肌が黒いインド人が多くいる。

また、言語学的にもシュメール語とドラヴィダ語は近い関係にある。

何より、メソポタミア(シュメール)とインダスは陸海の交易路で結ばれていた。インダス文明は交易文明だといえるほど交易が盛んであった。

では、なぜシュメールがわざわざ遠方のインダスまで行ったのか?その動機は?

インドとの交易事業は大事業であり、シュメール都市国家の国家事業である。都市国家における食み出し者が抜け道としてできるような簡単な事業ではない。そこにイランの遊牧部族→商業部族(エラム人)が目をつけ、シュメールとインダスを仲介した。それがシュメール−インダス交易の始まりである。

ところが、当時シュメールはセム系遊牧部族の襲来に次ぐ襲来で都市国家財政が窮乏していた。一方、当時のインダスは豊かであった。そこでメソポタミアに見切りをつけた一部のシュメール人が豊かなインドに可能性を求めて向かったのであろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241488


Y染色体から見るインドの部族移動の経緯

インドにおける部族移動の経緯を推測してみます。


1.インド原住民の定着(3万〜2万年前)

原モンゴロイドの一派とされるハプロタイプ"F"のうち、インドに留まった部族が"H"(とH1)に変異した。

2.スンダモンゴロイドの拡散(14000年前〜)

スンダランドで"O"(O1,O2)が誕生したが、温暖化による海面上昇によってスンダランドが水没し始めたため、O2系が東からインドに侵入してきた。
→現在もO2aの密度は東部で高い


3.ドラヴィダ人の形成(4600年前〜3800年前)

メソポタミアのシュメール人(おそらく"L")がインダス川〜インド全域にかけて分布を広げ、原住民と混血してドラヴィダ人となった。インダス文明を興したのはこの人々と見られる。

※Lは地中海周辺で誕生しており、ドラヴィダ人も同様の起源を持つこと(244546)、そして現在もLの分布とドラヴィダ語を話す人々の分布が近似していることから、シュメール(L)→ドラヴィダ(L,H,O2a)の可能性は高い。

4.アーリア人の侵入(3500年前)

寒冷化を契機に印欧系遊牧民(R1a,R2,J2)が中央アジアからパンジャーブ地方に侵入した。カースト制度を基盤とする支配体制を固めたので、階級によるハプロタイプの偏りが生まれた。

→カースト上位に印欧系、下位に原住民(ドラヴィダ)系。地理的には、アーリア人侵入経路の北西〜西〜中央部で印欧系の割合が高く、南部〜東部では原住民系が色濃く残る。

ただし、階級による混血の制限は厳格ではなかったので、現代インド人は上記のハプロタイプを全て持っており、せいぜい濃淡の差がある程度。実質的には原住民の共同体体質にアーリア人が飲み込まれていったからだろう。

また、ヨーロッパ中に分布するR1aと異なり、R2はインド特有のハプロタイプである。R2はインドに侵入したアーリア人のみが持っていたのではないか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244675

ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか?

ドラヴィダ人の起源についてネットで調べてみた。

「龍VS牡牛」
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/ryuhvs.htm

というHPに記述があったので現在のテーマに即した部分を抜粋して転載させていただきます。

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≪ドラヴィダ 〜インダス文明の担い手≫

考古学、言語学の最近の研究成果によって、インダス文字がドラヴィダ系言語であることはほぼ確定し、また、インダス文明の担い手もドラヴィダ民族ではないかと推論されている。

インド・アーリア民族最古の文献といわれる『リグ・ヴェーダ』にはドラヴィダ諸語からの借用が多くみられ、前八世紀以前にインド・アーリア文化に対するドラヴィダ文化の影響があったと考えられる。

≪ドラヴィダ人の起源≫

ドラヴィダ人は、現在南インドを中心に居住し、タミル語、カンナダ語、テルグ語、マラヤーラム語などのドラヴィダ語族の言語を話す。
その人口はインド総人口の約25%を占めている。

この民族の起源、インドへの移動時期・経路、また他民族との親縁関係については不明な点が多い。

今日の南インドには、形質人類学上、地中海型の特質をもつものが多いことなどから、地中海地方にドラヴィダ人の人種的な淵源を求める説もある。

ソ連、チェコスロバキアなどの言語学者の研究によれば、前3500年ころにイラン高原からインド西北部に移動したドラヴィダ民族は、やがて三派に分岐し、そのうちの一派が南インドに移住したと考えられる。

一方、フューラー・ハイメンドルフは、巨石文化が北インドにはほとんど存在せず、主として南インドに残されていることから、地中海地方から直接、海路によって南インドへ渡来したのではないかと説いている。

≪ドラヴィダ語≫

ドラヴィダ諸語の母音には、ア、イ、ウ、エ、オ、おのおのの長・短母音がある。類型的に膠着語の一種として分類される。

一方、シュメール語は周辺に同系の語族が見られず、孤立した言語と考えられているが、類型的には膠着語であり、母音は、ア、イ、ウ、エの四つである。

≪航海術≫

アッカドのサルゴン王の碑文に、

「キシュの王シャルルキーン。かれは三四回もの戦闘を勝ち抜き、海の縁に至るまで[あらゆる]城壁を打ち毀した。メルッハの船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの波止場に停泊させた」

とある。シャルルキーンとは『竜の柩』のシャルケヌのことである。

サルゴンの興したアッカド王朝による交通・交易の要衝の確保は、アッカド市を広範な東西貿易の一大中心地たらしめ、アッカドの港には各地の船舶がひきもきらず停泊したという。

その中に、メルッハという名が出てくる。
これはインダス河口にあったのではないかと推測されている。

メソポタミアのウルでインダス文明のスタンプ印章が出土し、インダス文明の諸都市でメソポタミア文明に特有の円筒印章が出土すること、

また、黒壇の木、長い葦、山牛、孔雀、紅玉髄、黄金、銅、象牙、猿などの船荷からみて、メルッハの船とはインダスの船と考えられること、

などをその根拠とする。

メソポタミアとインダスの間で活発な交易活動が繰り広げられていたのである。

ドラヴィダ民族は、古来から航海術に優れ、海上交易を行っていた。

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上記から読み取れる事として以下の事をまとめておきます。


・インダス文明の担い手は推定ではあるが、ドラヴィダ人である。

・ドラヴィダ人はインド土着民ではなく移動してきた民族である
その起源は明らかでないが、5500年前にイラン高原から分派したとする説と地中海から来たという説があるが、地理的な条件から見て前者が可能性が高い

・ドラヴィダ語は膠着語でシュメール語と近似している

・インダス文明の担い手は航海術に長けており、メソポタミアと交易をしていた。


※以上からドラヴィダ人はイラン高原から流れてきた民族が、土着インドの民と混血し出来上がった民族と思われます。またその言語形態からシュメールと極めて近い民族であり、シュメールの交易民であるエラム文明の辺りから派生しているのではないかと思われます。

エラム文明⇒シュメールとインダスを媒介するエラム文明41257
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241271


  インドの民族〜ドラヴィダ人はシュメール人とどの民族の混血か?

インド民俗学者でインド滞在経験がある斎藤昭俊著の〜「インドの民族宗教」平成3年第2刷発行〜にインドの民族の歴史と詳細が記載されていたので、インドの民族移動を考える有効な基礎情報として投稿しておきます。

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インドの民族には多数の種族があり、そして混血が行なわれている。人種的にはオノロボイド(白色人種)、モンゴロイド(黄色人種)、原オーストラロイド(褐色人種)の3種に大別される。旧石器時代の種族は密林や洞窟に住んでいた。この旧石器時代の遺物は南インドのクダッパー、グーントゥル、ネロールから東インドのオリッサまで発掘されている。

次にネグロイドが定住していたように考えられてきたが、現在ではアンダマン島に残存しているにすぎないので不明である。南インドのカダル部族、ウラリ部族などがネグロイドに似た特徴を持っているといわれる。ネグロイドは短頭、短身、暗黒な皮膚、縮毛の特徴を持ち、南東アジアの最初の住民とされる。

次に考えられるのは前ドラヴィダ族(原オーストラロイド)で長頭、短身、広鼻、暗褐色から黒色の皮膚、波状毛をもつ。スリランカのヴェーダ部族、ニコバル島のシオシベン部族、南インドの密林にいるクルンバ部族、その他バニヤン部族等の南インドの部族、中部インドのビール部族、ムンダ部族などコラリアン族といわれるもので、全インドに定住し、新石器時代に生活し、トーテミズムなどをもっていたように考えられ、南アジアからアフリカにわたる地方にいた人種の残存とされる。

モンゴロイドは短頭、黒毛で皮膚は黄白色、褐色、鼻は短く扁平である。モンゴロイドは極めて早期の時代からインドに定住している。モヘンジョ・ダロで発掘された頭蓋骨の一つはモンゴロイドである。モンゴロイドはヒマラヤの山地諸部族、チベット人、東インドの諸部族であるが、中部インド、南インドにも見られ、後代においても他族と混血してインド各地に見られる。

ドラヴィダ族は長頭で中身、中鼻、黒褐色の皮膚、巻状の毛で、コラリアン族などを圧迫してアーリヤ族がインドに侵入するまでには全インドに定住していた。モヘンジョ・ダロの新石器から鉄器にわたる遺跡はドラヴィダ族のものである。ドラヴィダ族は西インドからインダス河流域を経由して全インドに拡がった。この時期はアーリヤ族のインド侵入より1千年前とされる。ドラヴィダの文化は世界最古のシュメル文化を残したシュメル族と身体の形相が同一であること、ドラヴィダ語系のタミール語、マラヤム語、カナラ語はシュメル語と語根が共通することなどの類似点が挙げられたが明らかではない。

ドラヴィダの祭儀については現在行なわれているヒンズー祭祀の聖火、牛、母神の崇拝がそれであることが明らかにされている。

ドラビィディアンは4類型に分かれる。ドラヴィデイアン型、スキト・ドラヴィデイァン型、アーリヨ・ドラヴィディアン型、モンゴロ・ドラヴィディアン型である。
(各部族の特徴が著書では紹介されているが省略する)

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シュメール人がインドでどの人種と混血してドラヴィダ人になったのかが課題であったが、以下の可能性になる。


原オーストラロイド(アフリカから出てモンゴロイドにならなかった種族)+シュメール人=ドラヴィダ人・・・・○

原モンゴロイド+シュメール人=ドラヴィダ人・・・・△

ネグロイド+シュメール人=ドラヴィダ人・・・・×


著者の説を見れば原オーストラロイドだが、その後のドラヴィダの文化を考えると南方に拡散した原モンゴロイドの可能性もある。インドにはかなり古くからモンゴロイドが広がっていたことからどちらと混血したかの決定打は現在のドラビダ人の形質からだけでは判断できない。

※もう1点〜
斎藤氏の説によればドラヴィダ族はアーリア人に押されて南インドに転住したのではなく、アーリアが来る前からインド全域に拡がっていたとしている。(そう考えると南インドのドラヴィダ人の根強さも理解できる)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241403
 


インダス文明(特徴のまとめ)

インダス文明はモヘンジョ=ダロとハラッパーという2つの都市を含むインダス川流域全体を包括する広域文化圏である。その規模は同時代に文明があったメソポタミアやエジプトと比べてきわめて広範囲で、インダス水系を中心として東西に1600キロ、南北に1400キロに渡っている。この地域に大小併せて300の遺跡が確認されており、その90%以上は村落に当たる小規模な遺跡である。

ただ、モヘンジョ=ダロやハラッパーは都市文明を持っているがその規模はメソポタミアの都市規模と比べると小さく、メソポタミアに並存する都市の最小規模に相当し、モヘンジョ=ダロにおいてさえ南北約1キロ四方であり、ハラッパーはそれよりさらに小さい。

4600年前にハラッパーに登場したインダス文明であるが、その誕生の特徴は、高度な都市計画を持って完成された都市が突然現れた人工的な文明である。それ以前にインド地域は農耕中心のハラッパー文化が存在しているが、インダス文明との連続性はなく、インダス文明とは別系統の文化とされている。

インダス文明はその後3800年前に姿を消すまで約800年間継続されるが、その間の都市的な変化は少なく、最初に作られた都市の形態がそのまま維持されていった。

インダス文明の特徴はモヘンジョ=ダロとハラッパーでやや異なるが、いずれも氾濫農耕を生業としており、別に交易による経済が存在していた。

氾濫農耕はメソポタミアの灌漑農耕と異なり、毎年定期的に発生するヒマラヤの雪解け水によって2cmから3cmの肥沃土を堆積することで、大きな土木技術を要さなくても農耕が可能になる数少ない農耕の敵地であった。但し、氾濫するたびに農地が更新されるので、土地の境界も私有性も発生せず、あたらな土地に毎年種を植えて農業を営む生産様式であった。一方、自然条件に左右される為、常に一定の備蓄を必要とし、それがインダスの生産力の高さも相まって余剰生産を作り出し、文明を存続する一方の原動力となった。

しかし不安定な農業だけではこれだけの長期文明は維持できない。副業としての交易の必要性があり、その対象は印章や文書、交易物からメソポタミアであることが明らかになっており、4300年前から3800年前の500年に渡って交易の遺物、記録が残っている。インド地域での交易は既に前ハラッパ文化の時代から見られ、5000年以上前からイラン高原の陸路を使ってのラビズ=ラズリ、クロライトなどの交易を行なっていた。

ところが、4500年前から始まったインダス文明では海上交易が活発化している。特にモヘンジョーダロではアラビア湾のオマーンやバーレーンの海上商人を経由して交易していた事が明らかになっている。

交易のルートは海岸沿いにアラビア湾を使ってインダスの印章が発見されており、それらがアラビアの仲介交易者を経由して紅玉髄、象牙、べっ甲などの加工品がシュメールの地に渡っていたとされている。この事はインダスで文明誕生と同時に起きていた度量衡がメソポタミアのそれと異なっていた事から直接の交渉はなかったとされている。

参考)インダス文明〜NHKブックス
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=242517


インダス文明(誰が担ったのか)

インダス川に都市文明を興したのは、残っている印章などの文字から、最も近いのがドラヴィダ語であり、確定はできないものの現時点で最も可能性が高いのがドラヴィダ人である。

突然登場したという都市の形成のされ方からしてドラヴィダ人は5000年前前後にイラン高原から南下してきた原エラム文明を担っていた一派と推測され、既に文明化していたシュメール人と交流のあった彼らは高い技術力を持ってハラッパー地域から入り土着民と混血、インダス文明の先駆者になったものと思われる。

海上交易の経路を見つけると同時にその拠点を下流域のモヘンジョ=ダロに移転した。ドラヴィダ人とはエラム人と原ハラッパ人の混血である可能性が高いが、エラム人自体が、シュメール人と言語体系(膠着語)が近似しており、シュメール人との関連性もかなり強い。

また人骨からの報告では、モヘンジョ=ダロでは原南方型、地中海型、モンゴロイド、西方短頭型、ハラッパーでは原南方型、地中海型、西方短頭型、原北欧型が確認されており、多種多様な人種が混在していたとされている。

※地中海型は黒人、西方短頭型はエラム人、原北欧型はアーリア人の系統ではないかと推察する。ただ、この時代にアーリア人が来ていたのかという点は疑問が残る。

インダス文明は戦争がなかったとされているが、その根拠はつぎによる。

城壁はあるものの、規模がそれほど大きくなく、また武器がほとんど見つかっていない。わずかに銅剣が発見されているが、800年間その形態は変化しておらず、武器としての機能はなかったものとされる。ハラッパーでは城壁の外に農作物の備蓄の場所がある。

従って、日干し煉瓦で作られた城壁の機能はインダス川の氾濫の際に一時避難する災害拠点とも、すでに宗教的に集団を統合していた祭壇であるともされており、メソポタミアの防衛の為のジグラッドとは機能が大きくことなっている。

インダス文明はメソポタミアを担ったシュメールとの近似性は言われているが、同時に戦争を経験した以降のシュメール都市国家とは全く異なった形成のされ方をしていく。それはインダス周辺にはまだ侵略部族が及んでいなかった事を示し、アーリア人が侵入する3500年前まで戦争の為の都市機能は存在しなかったと思われる。

参考)インダス文明〜NHKブックス
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=242520


インダス文明(なぜ滅亡したのか)

インダス文明の滅亡の理由について〜
NHKブックスの「インダス文明」を参考にして組み立ててみた。
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インダス文明の最大の謎がなぜ滅亡したのかという事であるが、当初いくつかの説があった。

1)外部侵略者(アーリア人)による戦闘侵略
2)洪水、冠水説
3)乾燥、砂漠化説
4)都市機能消滅説


既に1)、3)は否定する根拠が明らかになっており、現時点では2)と4)の原因が合併して消滅したとされている。

まず、都市機能消滅説である。

>モヘンジョーダロを発掘したディルズは都市最末期の状況についてつぎのように記している。すなわち、この時期の建物はしばしばこわれた古い煉瓦を再利用した安普請のものであり、路地のような公共の地にもかまわず、家を建てたりして、もはやそれは単に「文明後期」とよびうる以上のひどい状態であった。ディルズはこの時期を文明後期から最末期としてとらえようとしている。

縦横高さを正確な比率で揃え、高度な建築技術を持って形成していた初期の都市の面影はなくなり、家屋はまるでウサギ小屋のようにうじゃうじゃと穴が空き、重なって存在する無秩序なものに変わっていた。


次に洪水―冠水説である。

>インダスの都市は元より、大集落はごく初期から周壁をめぐらせており、それは敵の為より洪水に備えての事であったと言われている。

たしかにインダス川は毎年のように氾濫しているのだが、人々はむしろ春ごとにくりかえされるその氾濫を待って、水が引いたのちにそこに種をまき、農耕を行なっていたらしい。しかしこの3回以上に渡ってモヘンジョ=ダロを襲った大洪水はそのような単なる一時的な氾濫とは異なった性格のいたって大規模なものであったように思われる。ただし、そのあとを示す、ときには30cm−70cmにもおよぶ厚い堆積は、きめの細かい泥土のみからなり、岩はおろか、石や煉瓦もほとんど含んでいない。したがってその氾濫は岩石や家屋などのすべてを押し流してしまうような、激しいたぐいのものではなかったようである。それはきわめてゆっくりと都市を水に沈め、しかもその水は数ヶ月、あるいは数年にわたって引かなかった様子を示している。

今日、インダス川流域と都市文明の遺跡は大きく離れている。ハラッパーは近接するラーヴィー川から10キロ離れており、交易を中心としていたモヘンジョ=ダロもインダス川支流から5キロは離れている。河川を利用するそれらの都市が流域から離れて存続できなくなったという事実にも符合する。

さらに、インダスーメソポタミアを繋ぐ交易も1800年ごろを境に断絶しており、インダス地域が都市機能を失っている事を示している。

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総合すると、インダス文明の滅亡は既に脆弱化していた都市機能に追い討ちして大規模な洪水から一定期間の冠水が起こり、それを立て直す技術も体制も既に失っていたインダス地方の住民は方々に散在し、そこで小規模な村落として存続していったのではないか?

また、3800年前のこの時代、地球規模で温暖化が進んでいたとすれば、気候変動による都市消滅の理由とも一致する。問題は年代を経るにつれて都市機能がなぜ脆弱になっていったのかであるが、これも滅亡に至る前の数回に及ぶ洪水によって徐々に耐力を失い、さらに交易対象であったシュメール都市国家のこの時期の衰退とを総合して考えると整合する。

インダス文明を担ったドラヴィダ人は先人の文化的性質だけを引き継ぎ、新天地で生きながらえていったのだと思う。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=242524


インダス文明はいかにして成立したか

[インダス文明はなぜ滅びたのか]について、「後藤健:インダスとメソポタミアの間」(NHKスペシャル 四大文明 インダス)を図版入りで紹介しているサイトがありますので、引用紹介します。


−−−−−−−−−−〔引用開始〕−−−−−−−−−−


1. インダス文明はいかにして成立したか

【前略】

まずもって、この文明の担い手がよくわかっていない。ただ、旧ソ連とフィンランドの研究グループが、それぞれ独自にインダス文字をコンピュータで解析した結果、ドラヴィダ語系統ではないかという同じような結論を出しているので、現在はインド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人がBC3500年頃イラン高原東部からにインド北西部に移住してインダス文明を造ったというのが最も有力な説となっている。

しかしドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。

後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと図1に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。

図1 紀元前3000年頃の原エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]


ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと考えられる。

事実、この国の特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆している
[後藤健:インダス・湾岸における都市文明の誕生,都市と文明, p.63-85]。

図2 紀元前2600年頃のトランス・エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]リンク

物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。

図3 紀元前2300年ごろのウンム・アン・ナール文明による交易ネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.187]


しかしながら、インダス文明は、決して他律的に形成されたわけではない。現地人には、都市文明を作らざるをえない事情があった。所謂四大文明は、BC3500年頃のヒプシサーマル期終焉に伴う北緯35度以南の寒冷化と乾燥化が人々を大河に集中させることで発生した。インドの乾燥化と寒冷化は、BC2300年ごろからとやや遅く、その結果、インダス文明は、メソポタミア文明よりもスタートが1000年以上遅くなった。メソポタミアの都市を長い歴史を持つ東京の下町に喩えるならば、インダス文明の都市は多摩ニュータウンである。後発ゆえに、先輩の都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができたのである。

インダス文明の都市遺跡には、メソポタミア文明をはじめとする他の文明の都市遺跡におけるように、強大な権力の存在を示す大宮殿や大神殿などの遺跡がないが、このことは、インダス文明に指導者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョ・ダロには、階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。

以上から推測できることは、インダス都市文明において指導者としての機能を担ったのは、軍事力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性のある人物ではないかということである。

−−−−−−−−−−〔引用終了〕−−−−−−−−−−


136030 シュメール:ウバイト期の祭祀統合社会(1)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=136030

136031 シュメール:ウバイト期の祭祀統合社会(2)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=136031

136752 ウバイド終末期に「よそ者」が進出、防御施設が出現し次いで
    ウルク期に本格的な武器が登場する 
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=136752

136772 ウバイド終末期にシュメールによる交易ネットワークが構築される
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=136772

で展開されているように、「ウバイド文化の拡散は祭祀ネットワークによっていたが、ウバイド終末期に新たな経済的物流が芽生えたのである。」(*ウバイド期は、シュメールの紀元前5500年〜4000年の時代区分)

紀元前3000年頃の前哨基地は原エラム文明の首都であるスーサで、紀元前2600年頃にはトランス・エラム文明の首都であるシャハダードに、紀元前2300年ごろにはウンム・アン・ナール文明の首都であるウンム・アンナール島に移行していく。それは、交易のネットワークが陸路から海路へと変遷していく歴史でもあった。

これらのことから、


ドラヴィダ人はシュメール人から派生しているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241271

インドの民族〜ドラヴィダ人はシュメール人とどの民族の混血か?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241403


が真実味を帯びてくる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241560

2. インダス文明消滅に関する従来の説

永井俊哉ドットコム(リンク)
「インダス文明はなぜ滅びたのか」(リンク)紹介の続きです。

−−−−−−−−−−〔引用開始〕−−−−−−−−−−


では、この平和で洗練された、一見理想的に見える都市文明は、なぜ消滅したのか。かつて、アーリヤ民族がインダス文明を滅ぼした説が唱えられた。しかし、インダス文明が消滅したのは、BC1800年からBC 1700年にかけてで、アーリヤ人がパンジャーブ地方に侵入したBC1500年より前であるから、年代的に無理がある。また、インダス文明の都市遺跡からは、アーリヤ人の来襲を証拠立てる遺物が全く見つかっていない。インダス文明の都市遺跡の屋外部分から人間の遺体が見つかっていないので、外敵の攻撃や突然の自然災害で破壊されたのではなく、むしろ住民自身が都市を見捨てたと判断できる。

現在多くの人々の支持を集めている仮説は、都市住民が自然を破壊した結果、都市文明が維持できなくなったという環境破壊説である。インダス文明の都市遺跡では、城砦の築壇や城壁の芯以外はみな焼きレンガを使っていたが、膨大な焼きレンガを製造するためには膨大な木材が燃料として必要なので、過剰に森林が伐採されたとか、インダス文明は麦作農業を行っていたが、小麦は米と異なって、必須アミノ酸の多くが欠落しているため、肉などの動物性蛋白を補う必要があり、過剰な放牧を行った結果、土壌が流出して砂漠化が進んだとかといったことがもっともらしい根拠として挙げられている。

こうした環境破壊説は正しくない。インダス文明が消滅した後、インダス川流域が無人の荒野と化したわけではないからだ。インダス都市文明はBC2000年ごろから徐々に衰えていくが、それに代わって、後期ハラッパー文化と呼ばれる豊かな農耕文化がこの地に現れる。


3. 集権的文明は環境の好転で不要になる

逆説的だが、インダス都市文明は、環境が好転したがゆえに放棄されたと私は主張したい。四大文明は、すべて環境の悪化により発生し、環境の好転によって消滅した。古代人にとって、中央集権的な都市文明よりも地方分散的な農耕文化のほうが、魅力的だったのである。

BC3500年頃から、地球の気候は寒冷化したことが、四大文明誕生の原因であることは、これまでに述べたが、BC2300年頃からBC1500年頃にかけて、太陽活動が再び活発化し、その温暖化の流れの中でエジプトでもメソポタミアでも分権化が進んでいく。

同じ頃、中国の長江文明でも、代表的な都市文明であった良渚文化が消滅している。遺跡の上層が洪水堆積層になっていることから、洪水で滅びたといわれている。確かに、中国では、3885-3500年前、気候が温暖湿潤となり、降水量が増えているが、もし都市文明が必要なら、もっと安全な場所に再建設すればよい。洪水で滅びたというよりも、洪水が発生するほど温暖湿潤化したので、都市文明が不要になったというほうが真実に近い。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241561


母系の農耕文明の宗教〜シヴァ教とディオニュソス教

インドの旧石器時代にはムンダ語を話す人々がいたとされている。彼らはプロト・アウストラロイドと呼ばれる最も古い人種である。

新石器時代になるとドラヴィダ人が登場する。褐色の肌と直毛を持ち膠着語を話した。伝承によると彼らはインドの南西に位置する四方を海で囲まれたある大陸から来たといわれ、西方(黒海のことか?)の洪水伝説を起源に持つ人々であると考えられる。

ドラヴィダ語は古エラム語(イラン高原ザクロス山脈に栄えたエラム文明の地で話されていた言葉)との親近性もあるとされるため、おそらくイラン高原あるいは中央ユーラシア発なのであろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E8%AA%9E%E6%97%8F

ドラヴィダ語はシュメール語、エトリアル語、純クレタ島語も同じ語族に属するとされ、インド・ヨーロッパ語族が侵入する以前の各地の母系の農耕文明が地中海からインドの広域に広がっていたと考えられる。

この母系の農耕文明時代の自然崇拝宗教が、インドではシヴァ教であり、地中海ではディオニュソス教である。シヴァ教は紀元前6先年期にまでさかのぼるとされるが、シヴァ教は後にアーリア人のヴェーダ教によって飲み込まれ、後のヒンズー教を形成していった。(排除しようとしても排除しきれなかった。)またギリシャでは、ギリシャ神話の世界に取り込まれていった。

シヴァ教、ディオニュソス教の特徴は、自然崇拝であり、原始の精霊信仰を受け継ぐものである。世界の創造の秘密を知り、その調和の中に生きること、世界創造主の業(わざ)にみずから働きかけ、創造主により近づき、同一化しようとうすることを目指した。そこでは、身体的なアプローチ(性の持つエクスタシー)と知的なアプローチは区別されず、その両者はヨーガのような形で一体となっていた。男根や女陰といった性的メタファーやその和合をかたどったシンボルに溢れているのは、それが農耕や牧畜の深淵にある生命誕生の原理を表象しているからである。

のちに遊牧民による都市型の宗教が生まれると、人間中心主義となり、自然崇拝的なシヴァ教、ディオニュソス教は淫らな宗教として排除されていくが、この批判は一面的であり、シヴァ教、ディオニュソス教の本質は、農耕を支えた自然崇拝にあるのである。ただし、農耕文明は性に肯定的な文明であったことは確かで、性的エクスタシーは神秘体験として重視された。そこで、神殿には公娼がすまい、宗教儀礼としての性愛の手ほどきもなされた。この延長線上に、様々な舞踏芸術も派生していったのである。

参考文献:シヴァとディオニュソス アラン・ダニエルー 講談社2008
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241300

インダス文明と縄文・弥生の相似

先住民(ドラヴィタ人)に受け入れられながら、支配層(アーリア人)が成立するという、縄文と弥生に似た歴史が見られる。それがアーリア人による支配の論理であったバラモン教が衰退し、性に大らかなヒンドゥー教が広まった要因になっているかもしれない。


インドの古典文明
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/34-india1.html

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インドやイランに移動して定住した人々はアーリヤ人(高貴な人の意味)と呼ばれる。彼らは前2000年頃から移動を開始し、氏族・部族単位で前1500年頃までにカイバル峠を越えて、パンジャーブ地方(インドの北西部、インダス川とその4つの支流によって形成される河間地方で五河地方と呼ばれる)に波状的に侵入・定住していった。彼らは先住民(ドラヴィダ人など)を征服して奴隷とし、農業と牧畜を行うようになった。

農業・牧畜を行うようになったアーリヤ人は太陽、空、山、河、雨、雷などの自然と自然現象を神格化し、これを崇拝した。神々への賛歌や儀礼をまとめたのがヴェーダである。最古のヴェーダである「リグ=ヴェーダ」は神々への賛歌を集めたもので、前1200年から前1000年頃につくられた。他に賛歌の旋律を述べた「サーマ=ヴェーダ」、祭式の実務について述べた「ヤジュル=ヴェーダ」、呪術について述べた「アタルヴァ=ヴェーダ」がある。ヴェーダを根本聖典とし、バラモンが祭祀を司ったバラモン教が成立し、司祭者であるバラモンの力が強まっていった

このような社会の発展とともに、階級の分化が進んだ。このような社会の変動とバラモン教が結びついて、司祭者であるバラモンを最高位とし、クシャトリヤ(王侯、貴族、武士)、ヴァイシャ(庶民、農民や商工業者)、そしてシュードラ(奴隷、大部分は被征服民)という4つの身分を区別するヴァルナ(種姓)制度が、前9世紀頃に成立した。
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ヒンドゥー教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99

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ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。 紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった[4]。その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243387


古代インドの母父系制と宗教@ 〜古代インドの母神信仰〜

インドに救い期待発の仏教が根付かなかった謎やカーストという厳しい身分制度においても性には大らかな国民性の謎などについて、古代インドの母系制or父系制の歴史分析を中軸として、宗教及び性との関係を構造的に見ていきます。

「母権と父権の文化史」市川茂孝著からの引用を中心にまとめます。

まずは、アーリア人の侵入までは母神信仰、母系集団であった歴史を確認します。

----------------以下引用(文中 〜 は中略を示す)---------


■インダス文明の母神信仰

前四千年紀中ころ、インダス川西方の丘陵地帯で定住農耕が始まったらしい。クエッタ西南のキル・グル・モハンマド遺跡に原始農耕の形跡が残っている。


この時代(紀元前三先年紀)のインドにはさまざまな民族が住んでいた。オーストロ・アジア語族系民族は全インドに分布していたといわれる。リンガ(男根)信仰は彼らの信仰であったという。彼らは後から来たアーリア系やドラビダ系民族に同化吸収された。彼らの末裔は現在わずかに中部インドからアッサム地方にまたがる山地に住んでいる。

紀元前三千年紀ころ、新しい民族がインダス川流域に移住してきた。彼らは紀元前二五○○年から前一六○○年ころにまたがってこの地方に優れた文明を形成した。これをインダス文明とかハラッパー文明と呼び、ハラッパーとモヘンジョ・ダロを中心としたインダス川流域の総面積約一三○万平方キロにおよぶ広大な地域に広がっていた。


遺跡からは一辺が二〜五センチの正方形の凍石に絵文字や動物の絵などを刻印した印章とか、石や銅あるいは焼成粘土製の人間や動物の像が出土している。また、焼成粘土製の女性像がたくさん出土している。頭と頸に飾りを張りつけた母神とおぼしき像や妊婦像が発見される。母神信仰があったことを示している。彼らは技術のみならず、さまざまな信仰を独自に創造した。

インダス文明を築いた人びとがどのような民族であったか正確なことは分からないが、モヘンジョ・ダロ出土の唇が厚く、はれぼったい目をしている青銅製踊り子像から、イラン南部に住んでいたドラビダ語系民族だろうと推察されている。


インダスの都市文明は紀元前一八○○年ころから衰退を始め、前一六○○年ころまでに消滅した。アーリア人による虐殺によって消滅したといわれたこともあったが、アーリア人がインドまで来たのはインダスが滅亡した後であり、洪水とか、大量の建築用レンガを焼くための樹木の伐採とその煙害による環境破壊が滅亡の原因とされている。


インダス人が創造した物質文明は全て壊滅した。しかし、彼らは水に対する崇拝、洗浄、清潔の習慣、母神信仰、シヴァ神信仰などの精神文明を残し、後生のインド人の精神活動に多大の影響をおよぼした。

■メソポタミア母神信仰への共感

インダス文明をつくった民族はイラン南部から来たので、それ以前からメソポタミアやエラム文明の影響を受けていた。インダス定住後も、アフガニスタンやイランはもとより、メソポタミアとも交易を続けた。

紀元前二三五○年ころのメソポタミアの記録に、インダス地方との交易についての記事が残っている。また、紀元前二四○○年から一七○○年の間にハラッパーで製作されたインダス特有の正方形の凍石製印章がメソポタミアの諸都市で発見されている。

ボンベイの北、カンベイ湾の奥にロハルトという世界最古の港湾施設の遺跡があり、ここがメソポタミアとの交易拠点であった。また、ペルシア湾のバーレン島のティルムン遺跡でインダスとシュメールの両方の特徴をもった文明が発見されており、この地が両文明の交易中継地となっていたと考えられている。

インダスの人びとはメソポタミアの先進文明と接触するなかでその母神信仰に共感し、自分たちの母神に対する信仰心を一層深くしたに違いない。だからこそ、後から来た征服民族アーリア人が母神を軽蔑、排斥したにもかかわらず、母神に対する信仰心を捨てなかった。

インダスの一○○○年は戦いのない平和な時代であったから、母神は戦神の性格をともなうことなく、豊穣母神として農耕技術とともに前インドに広がった。紀元前二○○○年ころには稲作が始まって農民の生活が向上したので母神信仰はますます深まった。そして、中世には母神は女神の地位を獲得して女神信仰(シャクティ信仰)を生み、遂に女性優位のタントリズムヘと発展した。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241180

古代インドの母父系制と宗教A 〜アーリア人がもたらした父系制とバラモン教〜

アーリア人が侵入して以後の状況をもう少し詳しく見てみましょう。

侵入者の遊牧民であったアーリア人は父系制(父権制)と考えられますが、インドに定住し農耕も営む中で、先住民の母神信仰を否定して父権制への転換を強行に進めようとします。そこで生まれたのがバラモン教(原始ヒンドゥー教)と考えられます。アーリア人は自らを「高貴なる人」とし、専従民を「悪魔」と軽蔑して支配を行います。バラモン教もカーストという身分制も彼らが支配を進める目的から生まれたものであると考えると合点します。


----------------以下引用(文中 〜 は中略を示す)---------

インド・ヨーロッパ語族の民族移動

インド・ヨーロッパ語族には現在のヨーロッパ白色人種やイラン人、インド人の大部分がこれに属する。その起源地については中央アジアという説、黒海の北、アルパチア山脈からコーカサス山脈に広がる平原地帯とする説、また、ドイツあたりを中心とした西北ヨーロッパであるとした説がある。

いずれにしろ、紀元前四千年紀中ころ、原郷から分かれた民族集団がドナウ中流域からバルカン半島一帯に侵入し、先住民を征服して定住し、牧畜、農耕生活を営むようになった。(前に述べたように)この南西ヨーロッパ地方には紀元前七千年紀から母神信仰を中心とした古ヨーロッパ文化が栄えていたが、侵入者のインド・ヨーロッパ語族が遊牧民であったこと、そして、母神信仰を抑圧したことから、彼らの社会が男性支配の父権制であったことは確かである。

カスピ海の北を迂回して中央アジアからイラン北部に侵入した分派は、二群に分かれ、一群はメディア地方からバルチスタンにいたるイラン一帯に定住し、イラン人の祖先となった。他の一派はアフガニスタンを経由して紀元前一六○○年ころから前一三○○年ころまでの間に、インド北西部のパンジャブ地方に侵入して定住を始めた。前一○○○年ころ、北インド中央部のガンジス川とヤムナ川がつくる肥沃な土地に移動し、この地方で米作農耕を行って反映した。彼らはその後さらに勢力を広げ、東はベンガルにおよんだ。

イランとインドに定住したインド・ヨーロッパ語族は自分たちをアーリア人(高貴なる人の意)と称した。

アーリア人は戦闘的遊牧民で、いずれの地域に侵入したアーリア人も、例外なく先住民を征服し、自分たちが支配する父権制社会を形成した。


■男神中心のバラモン教

インドに移住したアーリア人は、先住民をダユス(悪魔)と呼んで軽蔑し、先住民が信仰する母神信仰やリンガ信仰を拒否した。

アーリア人は、戦いと風雨の神インドラを主神とし、天、太陽、風、暴風雨、火、水などの自然現象や山、川、動物、植物はもとより、意力、激情、信念などをも神格化して多数の神々を信仰した。彼らの宗教を「原始ヒンドゥー教」という。彼らは神々を祭るため、ヴェーダと呼ぶ四つの聖典を編纂した。神々を讃える賛歌集リグ・ヴェーダ、詠唱集サーマ・ヴェーダ、祭詞集ヤジュル・ヴェーダと呪文集アタルヴァ・ヴェーダである。これらには賛歌と祭式が詳細に記述されており、それにもとづいて祭祀を行った。祭祀は特権階級のバラモンが行ったので、原始ヒンドゥー教は「バラモン教」ともいう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241184

古代インドの母父系制と宗教B 〜父権制を正当化するバラモン教の奥義(ウパニシャッド哲学)〜

アーリア人による父権制と母神信仰を残した先住民との対立は根強く、アーリア人は父権制の正当化を図るための理論武装を図ります。それが「ウパニシャッド哲学」。彼らアーリア人は相当に観念的な側面を有していたことを示唆します。


----------------以下引用(文中 〜 は中略を示す)---------


■権威の父と生殖の父

リグ・ヴェーダはアーリア人が残した最古の記録である。これを通して私たちは古代アーリア人の社会制度、習慣、思想、宗教などを知ることができる。

リグ・ヴェーダに表れるアーリア人社会は家父長制家族を基盤とする父権制社会であった。家父長は一課の守護神である火の神アグニを祭る祭祀権を代々受け継ぎ、家族を統率支配し保護する一家の権力者であった。〜家長はまた家族財産の所有者であった。これらの権力と財産は代々男子が引き継いだ。

権威の父の唯一の弱点は、自分が子の生みの親でないことであった。だから、男が生殖の父であることを原始父権社会には、家長があたかも生みの親のごとくふるまう模擬分娩の風習をもつものがあった。模擬分娩は、産婦が分娩している最中に、家長が産婦の傍らで陣痛の真似事をする風習である。

■母神信仰に対応するバラモンの生命哲学

ガンジス川流域に定住したアーリア人は農業を営み、鉄製農機具を使った米作により収穫を上げて裕福になった。紀元前六世紀ころまでにはガンジス川の上、中流域に十六の王国をつくっていたという。現在のウッタル・プラデーシュを中心とした上流域はアーリア・ヴァルタ(アーリア人の土地)といわれ、アーリア系有力部族が定住してリグ・ヴェーダの伝統を維持した。これに対し、中、下流域は非ヴェーダ地域で非アーリア系先住民が数の上で圧倒的に多かった。彼らはバラモン教とは無縁の存在で、母神を中心に、さまざまな地方神を崇拝していた。

農業や商工業が盛んになって庶民の生活が豊かになると、非アーリア系下位階級の意識が向上し、自分たちのアイデンティテーに目覚めた。そして、バラモンが軽蔑した母神を誇りをもってあがめ、自分たちの文化を主張するようになった。彼らは母神信仰にしたがって母を親と信じ、父を真の親とするアーリア人の父権制と対立するようになり、ガンジス川の中、下流域では、この対立を無視できなくなった。

そのためアーリア系支配階級は、非アーリア系先住民に対してはもとより、自分たち自身にとっても、父を真の親とする主張の論拠を説明する哲学が必要になった。これはバラモン教の存続と父権制の権威にかかわる重要問題でもあったのである。

紀元前六世紀ころのバラモン教はこのような状況にあったから、バラモンはもとより王侯貴族も加わって、バラモンが教える万有の根本原理を探究し、同時に父を親とする論拠を思索した。その結果生まれたのがウパニシャッド哲学であると筆者は考える。

紀元前五○○年を中心にして前一○○年ころまでに、大宇宙の本体と個人の本体の同一性を説くバラモンの哲学が、バラモンとクシャトリア階級を中心とする多数の哲学者によって発表された。これらを収集編纂したものがバラモン教の奥義書といわれる「ウパニシャッド」である。

ウパニシャッドはインド・アーリア人の父権制を擁護するために考えられた哲学であるから、女性と奴婢階級には解脱の資格を与えなかった。もし、女性が解脱を望むならば、その前段階としてまず男に生まれ変わるというステップを踏まなければならないとされている。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241187

古代インドの母父系制と宗教C 〜根付かなかった中道としての仏教〜

さて、インド発祥の仏教はバラモン教の差別からの救い期待を受けて釈迦がつくりあげたものですが、インドには根付きませんでした。バラモン教やジャイナ教の中道を指向した母神信仰系の仏教ですが、後の僧侶の退廃もあり、ヒンドゥー教の国教化とともにインドから姿を消すことになります。

救い欠乏から発した仏教ですが、インドに母系制が残り続け、アーリア人による支配も完全ではなかったこともあり、強く大衆に求められ続けることにはならなかったのかも知れません。


----------------以下引用(文中 〜 は中略を示す)---------


■バラモン教に差別された者への救い

バラモンは自らを真実語を話す者と称し、バラモンが語る言葉は必ず実現すると信じさせたので、王侯貴族といえどもバラモンの呪いの言葉を恐れ、下位階級の者はすべてバラモンの言いなりになった。こうしてバラモンは最上位の地位を維持したのである。

バラモンは祭祀をいたずらに煩雑にし、紀元前六世紀ころになるとバラモン教はたんに儀式をもてあそぶ儀式宗教の様相を呈していた。いかも、祭儀を司るバラモンたちは、自らを地上の神と称するまでに増長し、祭祀には多額の報酬を要求するようになった。祭主はお礼の学が少ないと呪われはしないかと恐れて要求に応じた。そのうえ、女性蔑視やシュードラに対する階級差別がはなはだしかったので、庶民の反バラモン感情は増大した。


このような庶民感情に応じて紀元前六世紀ころ、釈迦や六道外道と呼ばれる反バラモンの宗教家が多数現われた。そのなかで、階級差別や男女の垣根を取り払ってすべての階級に参加を許し、不殺生を重要な教義として掲げた仏教とジャイナ教が民衆に支持された。


釈迦は快楽に耽溺することも厳格な苦行主義もともに排し、中道を重視した。〜 この四諦八正道によって、煩悩を打ち消すならば、階級や男女の差別なくだれでも現世の苦しみから脱却して涅槃の境地に入ることができる。そして、女性にも仏教教団(サンガ)に加入することを許した。

■「父と母は同等」

子づくりにおける父と母の役割を釈迦はどの様に考えたのだろうか?

わかりやすく言いかえると、男女が性交して興奮すると、体内にある碁盤目の風が、男女それぞれの体全体を分布している精を瞬時にかき集めて精液をつくる。射精すると女体の中で双方の精液が混じり合って胚ができる。胚は薄くて弱々しいので、これに第五の風が働いて厚い肉の塊につくりあげる。さらにこの風は、肉塊を胎児の形につくり上げていく。

これは驚くべき構想である。これまでこのような概念はなかった。男の要素と女の要素が平等に混じり合って子供ができるということは、釈迦より二四○○年後の十九世紀末に自然科学がやっとたどり着いた結論である。なぜ釈迦はこのような構想を立てることができたのだろうか。筆者は、彼が母を親と信ずる農民と真の親は父であると主張するアーリア人の狭間に座して中道の心で迷走した結果であると思う。

釈迦族は非アーリア系の小部族である。釈迦はアーリア人ではないが、一国の王子であるから、将来の国王として、ヴェーダを学びクシャトリヤとしての教育を受けたに違いない。しかし、彼が育った環境は非アーリア系農民信仰、すなわち母神信仰が支配する社会であった。釈迦をして子づくりにおける父と母の役割を同等と考えさせたのは、農民の母神信仰であったといえよう。

■仏教の繁栄と衰亡

(仏教の)繁栄につれて仏教寺院が受ける布施の額が多くなり、寺院は冨み、僧侶は贅沢になって堕落した。また、女性のサンガ参入は僧侶の性的退廃を招いた。これを見た庶民はしだいに仏教から離れた。四世紀に興ったグプタ朝はヒンドゥー教を国教化して援助したが仏教には保護を与えなかった。

さらに、西ヨーロッパ帝国の衰亡によってローマとの交易が衰え、仏教の有力な支持母体であった商人階級が没落したので、仏教の衰退は加速された。そして、一二○三年のイスラム教徒による仏教寺院破壊によって僧侶は離散し、仏教はインドから姿を消した。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241264


古代インドの母父系制と宗教D 〜タントリズムの男女合一思想が大らかな性の基盤〜

インドにおいてはカーストという身分制度が強く残っており、なにか抑圧的な印象を受けるのですが、宗教的側面や社会性からは非常に大らかな性の文化を感じます。その背景には、ヒンドゥー教の女神信仰化がありそうです。性も清浄であるとする宗教感が人びとの性に対する大らかさの基盤にあるのは間違い無く、それは先住農耕民の信仰が生き続けた証でもあるのです。


----------------以下引用(文中 〜 は中略を示す)---------


■母神信仰から女神信仰へ

バラモンは母神信仰を軽蔑し拒否したので、リグ・ヴェーダの神々には妃をもつ男神は珍しかった。ところが、ヒンドゥー教の非ヴェーダ化が進むにつれ、六世紀ころから、男神は女神と一体になることによって完全になるという考えに変わってきた。そして、それまで村落ことに崇拝していた豊穣母神に女神の地位を与えてヒンドゥー教のパンテオンに迎え入れ、これらの女神を神妃として男神に配した。

ヒンドゥー教に重要な女神信仰はこのようにして生まれたのである。

■女性上位のタントリズム

八世紀以後のインドの宗教、すなわちヒンドゥー教、密教、ジャイナ教の聖典には、人間の本性はすべて宇宙の本体と同一であること(梵我一如)を示す証として性の表現と実践を積極的に導入したものが表われた。このような聖典を「タントラ」という。〜タントラにもとづくヒンドゥー教を「タントリズム」という。

シャクティ派が説くところによると、この世はすべてのものが、女性原理である「シャクティ」と男性原理である「プルシャ」のいずれかからなる二元の世界であり、両者が完全に合一することを究極の目的としている。

タントリズムは紀元前二千年紀後半にインド先住民の間で生まれたというが、確証はない。しかし、シヴァはインダス由来の神であり、ドゥルガー、パールヴァティーは先住農耕民が信仰していた豊穣母神である。だから、タントリズムは非アーリア系先住民が生んだ信仰といえる。

■性交によるシャクティ成就

シャクティ派が教えるシャクティ成就法は二つある。一つは、ヨーガによって制震を統御し、マンダラとマントラの助けを借りながら、シャクティとみなされる女性と儀礼的な性交を行いシャクティと合一する方法である。

シャクティを成就すると至福の状態に入る。中部インドのジャンシの東南東一八○キロにあるカジュラホ寺院群や東インドのベンガル湾岸に近いコナーラク村の太陽神殿の基壇に彫られたミトウナ像(男女抱擁像)はシャクティを成就した神々の至福の姿を表している。なかでもカジュラホ寺院群中最大のカンダリーヤ・マハーデーバ寺院の外壁の彫像群は圧巻である。

六世紀ころのオリエント世界では、性交によって妊娠するという性知識は常識に近かった。だが、タントリズムにおける性交は生殖や性欲の発散が目的ではなく、シャクティ成就を目指す行法である。このときの陶酔は、解脱がもたらす悦楽である。

■タントラ仏教としての密教

〜真言密教は人間の現実の一切の欲望を積極的に肯定する。理趣経は欲望の例として人間最大の煩悩である男女の愛欲を取り上げ、これを十七項目に分析してその各々についていずれも本性は清浄であると説く。

「欲心をもって異性を見ることも、男女交合の恍惚境も、すべて清浄なる菩薩の境地である」と謳いあげる(十七清浄句)。見事な人間賛歌であり、「欲情をもって女を見ることは姦淫であり、地獄に堕ちるに値する大罪である」と説くキリスト教とは対照的である。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241265


08. 中川隆 2013年3月03日 21:53:32 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

インダス文明とはなにか

インダス文明の痕跡は広範囲にわたっている。現に発掘された遺跡間の距離をとってもその範域が推測できるだろう。同一文化を持っていたハラッパー註1とモヘンジョ・ダロとは約650キロ離れている。今ではそのほかに100以上の遺跡の存在が知られるようになり、その分布地域はインド西海岸沿いに南に広がり、東にタール砂漠を越えてガンジス川流域にまで及んでいるのではないかと言われている。

1921年にインドの学者がハラッパーの遺跡を発見する。そのあと1922年にインド人考古学者註2がモヘンジョ=ダロの遺跡を発見する。イギリス人の考古学者ジョン・マーシャル註3は1925年からモヘンジョ=ダロ(「死者の丘」の意味)の大規模な発掘作業を開始した。これが通称言われるところのインダス文明の発見である。

そして言いようが悪いが、そこからはインダス文明を築いた人間と破壊した人間がいたことが分かっている。そういう意味では特異な遺跡であると言わなければならない。モヘンジョ=ダロが何故に「死者の丘」という意を含めて名付けられたのかはその遺跡内にある屋内跡や街路跡におびただしい老若男女の遺骨が大量に散乱していた事から来ている。そしてそれぞれの遺骨には歴然とした武器による傷痕が刻まれていた。これは外敵による侵入があり大量虐殺があった事を物語っている。殺戮者はアーリア人であったのではないかといわれている。

 実はインダス文明(Indus Valley civilization)と呼ばれているものについてはまだよく分かっていない。またこの文明の中心者であるドラヴィダ人(Dravidian)は地中海周辺に起源を持ちメソポタミアのイラク高原から北部インドに紀元前3500年ほど前に移住して来ていることが判っている。文明としては紀元前2600年から紀元前1900年の間栄えたと言えるだろう。その文明の遺跡は現在以下に影を止めている。

ハラッパー、カーリバンガン(パンジャブ地方)
モヘンジョダロ(パキスタン南部、シンド地方)
ロータル、ドーラビーラ(北西インドのグジャラート)

 いずれも小さな都市国家ではなかったかと言われている。またこの文明は「文字」を持っていたことも最近判っている。象形文字であるインダス文字註4は現在約400文字が発見されているが文字の解読は現在も進行形である。

  都市部の周辺で農耕や牧畜を行っていた「青銅器文明」でもあった。また当時のメソポタミア文明との商交易を行っていたことも判っている。その中でも特筆すべきことも最近明らかになってきている。商業活動に使った銅製分銅や秤から分銅のセットを軽い方から重い方へ並べて順番に秤量してゆくと、「二進数」を使っていたのではないか推測する指摘もある。二進数は今ではコンピューターで用いられ、その二進数を彼らがその商業活動に用いていたのでは、とある。

また祭祀については「火の祭祀」を、埋葬は地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用い遺体は、頭を「北」にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は「北」に置かれた。

先住民族としての「ムンダ人(オーストロアジア系)」はドラビダ人とともにインダス文明の担い手ではなかったかといわれている。またムンダ人の「起源神話」は卵生型神話である。その後アーリア人(Aryan)の侵入に伴いドラヴィダ人はインドを南下し以下の地方で部族形成を行っていった。インド西部のオリッサ、ベンガル、インド中部のマディヤ・プラテーシュ、インド南部のデカン高原などである。

  アーリア人(Aryan)註5の発祥については色々な説があるが手がかりは彼らの使った言語から推察したものが今のところ一番有力ではないかと思う。『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば「インド・ヨーロッパ語族」としての範疇の民族を「アーリア人」としている。属する言語として、サンスクリット語、ペルシア語、トカラ語、ギリシア語、ラテン語、英語、バルト語、ロシア語、アルメニア語、アルバニア語などが挙げられる。つまり、ヨーロッパ北大西洋沿岸から現在の中国「新疆ウイグル自治区」に該当する地域までの広範な版図が入っている。またトカラ語のように滅びていった言語も多数有るようである。歴史学的にはカスピ海、黒海沿岸からコーカサス地域に居た遊牧民族が北上しバルト海沿岸へ、また西方へはギリシャや今のトルコがある小アジアへ、そして南下は今のイラン(イランとはアーリア人の国という意)、インドへ到達したようである。つまりは、中央アジアからヨーロッパ全域にわたっている。

  アナトリア高原で建国したアーリア人はヒッタイト王国を築き先住民族から鉄の精製を得た。「旧約聖書」ではヘテ人と呼ばれメソポタミアの古バビロニア帝国を滅ぼし、ラムセス2世の率いる古代エジプトと戦いその軍を破りシリアまで版図とした。またギリシャまで至った部族は「ミュケナイ文書」を、イランへ侵入したアーリア人はゾロアスター教の最高教典「アヴェスター」を、インドへ到達したアーリア人は「ヴェーダ聖典」を残したのである。

 さて、インドへ侵入したアーリア人は先住のドラヴィダ人(Dravidian)や他の少数民族への支配と融合を目指したと思われる。世に流布されているアーリア人によってドラヴィダ人文化が滅ぼされたという書きようがあるが、それは間違いで、むしろインダス文明に基づく文化が時間をかけて変容したと考えるべきである。また逆に言えばドラヴィダ人がアーリア人によって長く支配される時代を迎えたのであると云えばよいだろう。そしてその民族支配の名残の大きなものは現在もある『カースト制度』だと思われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244546


 

インダスの起源を探る〜先インダス文化


インダス文化の起源を探るうえで、先インダス文化について紹介します。

・小麦の農耕と家畜の飼育を柱にした食料生産は、西南アジアで発展したのち、イラン高原から北方へあるいは東方へ伝播していき、前四千年紀末には、インダス川流域に及ぶ


・前三千年紀、かなり進んだ技術を持った村落農耕文化が、アフガニスタン、イラン東部、インダス川流域の平野部に成立。

・インダス下流平野部ではアムリ文化やコト・ディジ文化が栄えた。両者とも轆轤(ろくろ)を用いてつくった彩文土器を持っていた

・日干しレンガが建築に用いられたが、コト・ディジでは一般の住民の住居区域のほかに、「城塞(じょうさい)」と呼ばれる公共的性格の強い一画があり、居住地域全体が、石積みの土台の上にレンガを積んだ、幅の広い壁をめぐらせていた。さらに、三角形の土製版、土製の装身具、動物土偶、土製の牛車型玩具などもあり、周壁や城塞とともに、のちのインダス文明に共通する要素が少なくない。

・前二千三百年頃、これらの地方文化は、インダス文明の広がりとともに姿を消してしまう。彩文土器、レンガの規格、城塞や周壁など、いくつかの要素の面では、前述した諸文化とインダス文明との間につながりを認めることができる。

・しかしい、ずれの文化もインダス文明の直系の祖先とするには、インダス文明との違いが大きすぎる。

・インダス川の氾濫原に展開した前三千年紀前半の地方的文化の発展の勢いが、インダス川下流のモヘンジョ・ダロを中心に、一層の飛躍を遂げた結果、パンジャブからシンド、グジャラート方面に広がるインダス文明が成立したと考えられる。

「文明の誕生」江坂輝彌・大貫良夫 ビジュアル版世界の歴史@ 講談社  2.インダス川流域―農耕文化の東進 先インダス文化 より抜粋


インダス川周辺地方に発展した原文化(アムリ文化やコト・ディジ文化)と、後に誕生したインダス文化の要素から共通点と全く異なる点があるという。
このことから、インダス文明の起源にはアムリ文化やコト・ディジ文化と、他の文化(西から来た高度な技術を持った文化?)との接触、融合があって、形成されたことも考えられるのではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244920

エラム

●エラム人とはメソポタミアの西方に領土を持っていた民族だ。アモリ人は遊牧民族だったらしいが、エラムはメソポタミアの影響を受けて文明化されていた。「エラム文明」というよりは、メソポタミア文明圏の一つと考えた方がいい。(日本や韓半島は中国文明圏の一つ)

メソポタミア歴史用語集から
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/babylon_dic.html#erams

 ペルシア湾の北部にあるエラム地方に住んでいた民族。独自の言語と文化をもち、エラム王国(首都・スーサ)を形成して絶えずメソポタミアへの進出をもくろんでいた。紀元前2030年にウル第三王朝を倒して支配権を手にしたが、故郷であるエラムの地を離れることはできなかった。その後も何度かの征服戦争を繰り返し、バビロンからハンムラビ王の法典を彫り込んだ記念碑を持ち去るなどしたが、勢力は徐々に衰えていき、紀元前639年、アッシリア王アッシュール・バニパルによって滅ぼされた。

Wikipedia「エラム」には、その後のことが書いてある。

アッシリアの衰退に伴ってエラム王国は再び復活したが、最早往時の権勢を示すことはなく、間もなくメディアに併合されてエラムの独立は永遠に失われた。しかし、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後もメディアやアケメネス朝時代においても受け継がれ、行政語などとしてエラム語も使用され続けた。


●エラムには面白い話がある。インダス文明の生みの親がエラムだという説だ。

永井俊哉ドットコム

1. インダス文明はいかにして成立したか

1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパーの遺跡を発見し、1922年には、これに触発されたイギリス人の考古学者マーシャルがモエンジョ・ダロ(モヘンジョ・ダロとも言う)を発掘し、遺跡を発見した。インダス川流域に栄えたこれら古代都市の文明、インダス文明には、文字が解読されていないこともあって、謎が多い。

まずもって、この文明の担い手がよくわかっていない。ただ、旧ソ連とフィンランドの研究グループが、それぞれ独自にインダス文字をコンピュータで解析した結果、ドラヴィダ語系統ではないかという同じような結論を出しているので、現在はインド南部からスリランカ北部にかけて存在するドラヴィダ人が BC3500年頃イラン高原東部からにインド北西部に移住してインダス文明を造ったというのが最も有力な説となっている。

しかしドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。

後藤健によると、インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。この文明は、もともと図1に示されている通り、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していた。後藤は、これを原エラム文明と呼ぶ。

図1 紀元前3000年頃の原エラム文明による交易のネットワーク
[後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]


ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転する。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明を現地人に作らせたと考えられる。事実、この国の特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっている。このことは、インダス文明成立以前に、トランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆している
[後藤健:インダス・湾岸における都市文明の誕生,都市と文明, p.63-85]。


図2 紀元前2600年頃のトランス・エラム文明による交易のネットワーク [後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.181]


物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利である。そのため、やがてトランス・エラム文明は、ウンム・アン・ナール島、さらにはバーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになった。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎える。

図3 紀元前2300年ごろのウンム・アン・ナール文明による交易ネットワーク [後藤健:インダスとメソポタミアの間,NHKスペシャル 四大文明 インダス, p.187]

しかしながら、インダス文明は、決して他律的に形成されたわけではない。現地人には、都市文明を作らざるをえない事情があった。所謂四大文明は、 BC3500年頃のヒプシサーマル期終焉に伴う北緯35度以南の寒冷化と乾燥化が人々を大河に集中させることで発生した。

インドの乾燥化と寒冷化は、 BC2300年ごろからとやや遅く、その結果、インダス文明は、メソポタミア文明よりもスタートが1000年以上遅くなった。メソポタミアの都市を長い歴史を持つ東京の下町に喩えるならば、インダス文明の都市は多摩ニュータウンである。後発ゆえに、先輩の都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができたのである。


インダス文明の都市遺跡には、メソポタミア文明をはじめとする他の文明の都市遺跡におけるように、強大な権力の存在を示す大宮殿や大神殿などの遺跡がないが、このことは、インダス文明に指導者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョ・ダロには、階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。

以上から推測できることは、インダス都市文明において指導者としての機能を担ったのは、軍事力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性のある人物ではないかということである。


●インダス文明が突如として現れたのは、エラム人を介してのメソポタミア文明の移植ではないかということ。それに先住民の文化が加われば、インダス文明独自の文明のように見える。異常は通説にはなっていない仮説だが説得力はある。インダス文明に関してはいつか書く。
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/b39ee77d32f8cc4389b3686b8ba9e5c5


インド社会の成立過程(ヒンドゥー教成立まで) 1


■インド社会の成立過程(ヒンドゥー教成立まで)

@インダス文明の成立と発展

 紀元前3000年〜前1800年 インダス文明が栄える。

 インド先住民で現在インド南部地域に多いドラヴィダ人(モンゴロイドで原モンゴロイドの血を強く残す)により作られたと考えられている。

 インダス文明の都市は高度な都市計画に基づいており、寸法が統一された焼成レンガも使用されているなど、高度な技術力を有していた。これはドラヴィダ人が独自に構築した技術ではなく、イラン地域に存在したエラム文明が技術を提供したものと見る見解がある。

 エラム文明は元々メソポタミア至近(ザクロス山脈山麓)のスーサを首都としていたが、シュメールによって首都を奪われ、メソポタミア地域とインダス文明の中間地点であるシャハダードに首都を移す。エラムはメソポタミア文明と交易を行っていたが、新たな穀物の輸入先を求め、インダス側流域に住んでいたドラヴィダ人にメソポタミアの技術を提供。エラム人を介してメソポタミア文明の移植が行われ、高度な技術力を有したインダス文明が成立した。

(これは後藤健の仮説による→リンク)
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/b39ee77d32f8cc4389b3686b8ba9e5c5


 インダス文明はエラムだけでなくメソポタミアの都市とも交易を行い、大いに栄えた。(インダスの装身具がメソポタミアまで輸出されていた形跡が確認されている)

Aインダス文明の崩壊とアーリア人の侵入

 紀元前1800年頃、メソポタミア文明は突然崩壊を起こす。戦争の後などは見つかっておらず、崩壊原因ははっきりしていない。現在有力な原因としては前2000年頃の気候変動による砂漠化、又は地殻変動による土地の隆起と洪水の頻発、これらによる塩害が考えられている。

 紀元前1500年頃、インダス文明崩壊後の北西インド・パンジャーブ地方にアーリア人が移動。(中央アジアからアフガニスタンを経由してインド地域とイラン地域に分かれた)

 紀元前10世紀にかけて、崩壊したインダス文明の生き残りであるドラヴィダ人とアーリア人は混血。ヒマラヤ山脈に沿って東のガンジス側流域へと移動を行いながら混血と宗教・文化的融合を進めていく。

 なお、ドラヴィダ人は母系制であるが、父系・一夫一婦制のアーリア人が侵入することにより、ドラヴィダ人社会も父系制に転換が図られる。しかし、母系制の歴史の長いドラヴィダ人社会では、19Cにイギリスが侵入してくるまで母系的な社会を存続させ、地母神信仰や開放的な性文化を残していく。これが侵入してきたアーリア人社会にも大きな影響を与えることになる。

Bバラモン教の成立

 中央アジアにいた始原アーリア人の宗教は自然崇拝の原始ミトラ教と言われ、インドで成立したバラモン教、イランで成立したゾロアスター教、ローマミトラ教を経てキリスト教など多くの宗教の起源となっている。とりわけ、原始ミトラ教の内容を色濃く残したバラモン教とゾロアスター教は、神々の名前など多くの共通点を持っている。

 一方で、バラモン教で人々に恩恵を与える神(デーヴァ神族)はゾロアスター教では魔王(ダエーワ)とされており、バラモン教で人々に賞罰を与える神(アスラ神族)はゾロアスター教では善神(アフラ・マズダ)となっている。(ゾロアスター教では善と悪と言う典型的な二元論がとられているが、バラモン教では二元論的位置付けではなく、いずれも神の位置付けである)このことから、インドとイランに分かれたアーリア人部族の間には、なんらかの対立があり、分裂したのではないかと推定される。

インドのバラモン教は、アーリア人の原始ミトラ教をベースにして、ドラヴィダ人を含めた支配体制を構築する過程で生み出された。この為、バラモン教は支配制度(=カースト制)と一体の宗教となっている。バラモン教は紀元前13世紀には形作られていたが、前5世紀に聖典であるヴェーダが構築され、バラモン支配体制が構築された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=244221


インド社会の成立過程(ヒンドゥー教成立まで) 2


■インド社会の成立過程(ヒンドゥー教成立まで)


Cバラモン教の衰退

 先述したようにバラモン教は5世紀に確立し、バラモン(=司祭階級)の特別性が明確化される。バラモン階級は自分達の権威を高めるために、祭式を非常に複雑なものにしてきた経緯があり、複雑化した祭式や呪文を整理する為に編纂されたものがヴェーダである。ヴェーダの編纂により、バラモン階級は「神々への恭順な祭司者」から、その呪力によって「神々を駆使する呪術者」へと変化した。これがバラモン階級が特別化された理由である。

 祭式に関する聖典が次々と編纂され、祭式そのものが複雑、大規模化した結果、祭式にかけられる莫大な費用は、社会が負担しうる上限に達する。そこで、思索の対象は祭式の内容や手順から、その知的意味付けや知識そのものに移行していく。こうして編纂されたのがウパニシャッド「哲学」である。このようにして、祭式や宗教的知識は極めて複雑化し、祭司を専門職とするバラモン階級以外には理解不能なものとなっていく。

 ヴェーダが編纂された5世紀には、このようなバラモン支配体制に反発した新しい思想や宗教がサマナと呼ばれる自由立場の思想家から登場し始める。仏教・ジャイナ教もこのような背景から登場し、同じくバラモン支配体制に反発していたクシャトリヤ(王族・戦士階級)から支持を集める。また、商工業の発展と農業の発展によって、物質的な豊かさがもたらされた結果、マガダ国などの大国が成立。王族であるクシャトリヤ階級の権威が伸長する。新宗教・新思想の発展とクシャトリヤ階級の権威伸長により、バラモン教及びバラモン階級の維新は徐々に衰退していくことになる。

Dバラモン教の宗教改革→ヒンドゥー教の誕生

 新宗教・新思想の発展により、バラモン教は衰退を始めるが、宗教改革を行いヒンドゥー教へと変容することで、再びその権威を回復、現在に至るまでインド全域に亘って信仰を集めることになる。

 バラモン教からヒンドゥー教への変容過程で行ったことは数有るが、その中でも最も重要なのは「ドラヴィダ母系社会との融合」である。

 元来、厳格な父系制社会であるアーリア人の原始ミトラ教及びその流れを組むバラモン教には男神しかおらず、女神は存在しなかった。しかし、ヒンドゥー教への変容過程で、ドラヴィダ人の地母神信仰を取り込み、男神の妃として女神が神格化されていく。(例えばヒンドゥー教3大神の一人シヴァ神の妃パールバディーはヒマラヤ地方に住んでいたドラヴィダ系部族の土着心であった)

 これは土着神を取り込むことで社会の大部分を占める民衆、先住民系の人々の人気を集めた仏教に刺激を受けた結果であり、バラモン教は積極的に土着神を神々として取り入れて行く。ドラヴィダ人は母系制であった為、性に対して開放的・肯定的で、地母神信仰も性器信仰や性行為信仰と一体となっていた。このため、ドラヴィダの地母神を取り入れたバラモン教→ヒンドゥー教においても、性器信仰や性の肯定視が広がっていく。

 元来、バラモン教では膨大な量のヴェーダ聖典の勉強なくして解脱は出来ないとされており、この学習を許されていたのも、バラモン階級に限定されていた。これがバラモンの特別性を生み出してきた要因でもあったが、一方で万人に解脱可能性が開かれていないこと+極めて複雑な内容がバラモン教の衰退要因ともなった。

 ドラヴィダの地母神信仰の取り込みは、このような思想面にも大きな影響を与え、タントラ教典を生み出す。タントラでは、シヴァ神と神妃の性的合一による宇宙創生が説かれ、難解だったバラモン教の思想は、男性原理と女性原理の合致というわかりやすい形に置き換えられた。

 このように、地母神や性器崇拝の取り込みと解脱への実践行為としての性行為の位置付けなどをヒンドゥー教は行い、厳格で難解なバラモン教から土俗的な宗教へと変容することで、一般民衆の人気を獲得し、インド全域へと信仰を広げることに成功していく。

 こうしてヒンドゥー教に取り入れられたドラヴィダ人の母系社会的思想性は、後に「性愛」のバイブルであるカーマ・スートラを生み出し、「性」を「聖なるもの」へと昇華させていくことになる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244222

インドの古代宗教史 ヒンズー教が広まったのは、なぜか?



■インダス文明

約4600年ぐらい前に発祥したインダス文明は、インダス川を中心とした農耕生産を基盤として、碁盤目状の都市計画、排水設備など高度な技術を持った文明であったと推定されている。農耕生産を基盤としながらも、毎年繰り返される大洪水や酷暑、過酷な自然条件の下、様々な土着・自然宗教や、天文学・自然現象に関する研究が行われた。

■アーリア人の侵攻 バラモン教の浸透

このインダスの土地に、今から約3500年ぐらい前、半農半牧のアーリア人がインドに南下して来る。

アーリア人の生活哲学は、(今現在でもヒンズー教の心である)「ヴェーダ」で判る。アーリア人は元来、自然現象の深奥に潜む‘絶大なる威力’を神格化し崇めていた。その為、宗教生活は多岐に亘り、多くの「神」が存在していた。「ヴェーダ」は「聖典」というより、神々に捧げられた美しい讃歌を集めた叙事詩である。文字ではなく親から子へ口承で伝えられていた。

南下したアーリア人は、インダス文明の先住民族を征服し奴隷にする。主産業は農業である。

自然現象が極めて厳しく、変化に富むインドに移り住んだアーリア人は、インダス文明で蓄積された知識を吸収しつつ、「ヴェーダ」に基づく自然神格化傾向を益々強める。そして、アーリア人はアーリア文化の保持と、支配した都市・農村地域民衆の政治的統治、精神的民衆支配方法を考案する。「ヴェーダ」を基礎としたバラモン教、バラモン教に基づく階級制度である。

これにより、バラモン階級(神官階級)を最上位とする階級制度(ヴァルナ制度)が成立し、宗教が儀礼化・形式化して行く。

■ウパニシャッド哲学→仏教誕生

バラモン教が拡がる中にあって、それに疑問を抱く宗教家・哲学者が出てくる。そして、今から約2650年前、紀元前650年頃に新興思想「ウパニシャッド哲学」が出現する。梵我一元、輪廻・解脱思想…、この「ウパニシャッド哲学」の出現でインド哲学は盛んになる。

ここには、固定概念で凝り固まったバラモン教に対する、反バラモン教・反カースト制度が根本にある。唯物論、快楽論、懐疑論など多彩な学派が生まれる。哲学者・思想家・学術者を保護・援助したのはクシャトリア階級(王族階級)であった。政治力・経済力を持つクシャトリアは新思想を受け入れ、仏教やジャイナ教が興る。

約2300年前、北インドを統一したマウリヤ王朝第3代アショカ王は仏教に帰依し、仏教思想をベースにインドの国体の基礎を造った。(リンク)マウリヤ朝には、巨大な軍事機構が存在したばかりか、洗練された行政機構(官僚制)も存在していた。中央には20の官庁がおかれ、地方は州に分割されて、王子が統治にあたった。役人は整然と位階に分かれ、現金で給与が支払われていた。スパイも各地に放たれ、不穏な動きを監視するとともに各種の秘密工作にあたった。

巨大な軍隊、それを統治する機構、そして官僚機構。磐石な体制を整えていると思われたマウリヤ朝も、アショーカ王の死後、すぐに崩壊する。マウリヤ王朝が崩壊し約500年、インドは藩王群雄割拠の時代となる。

■統一王朝 バラモン教復興→ヒンズー教へ

紀元4世紀(1600年前)に、インドはグプタ朝により再統一される。この間、仏教が発展し続けてはいたが、「ヴェーダ」は根深く民衆に信仰され、ヴェーダの神々は崇拝され続けた。

グプタ朝時代はインド文化の黄金期であり、古典的思想・学術の復古傾向が強くなり正統派バラモン教が復興した。グプタ朝諸王は、統一国家維持の為に伝統的な階層的社会秩序=カースト制度を回復することを狙い、そうした社会秩序を正当化する理論的基礎としてバラモン教を保護し国教化した。

バラモン教諸学派が理論体系を整備し、バラモン教の体系化を完成させる。一方、バラモン教の復興と並行して、ヒンズー教が急速かつ強力に発展してくる。ヒンズー教は難解なバラモン教と並行して、一般庶民の宗教として広まり、その中身はアーリア文化と各地の土俗信仰とが融和集成されたものであった。(ヒンズー教は、外来宗教(キリスト教、イスラム教)以外の全てのインド宗教の総称。よって、インドでは仏教もヒンズー教の一派として認識されている。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=227915


ヒンドゥー教と仏教・ジャイナ教とは?1〜長い年月をかけて熟成されたインド精神史〜

『ヒンドゥー教の本〜インド神話が語る宇宙的覚醒への道〜』の【第2章】ヒンドゥー5000年史(文=高原朝彦)「すべてを呑みこむ大河ヒンドゥー 宗教という枠を超えた豊饒なる文化複合体」よりご紹介します。

インドは、日本と似たような環境・状況にあったように思います。これを読むとインドで起こった数々の変革は、略奪というよりは、併合といった方が妥当であるように思います。

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「ヒンドゥー教を定義することは不可能である。」これはインド連邦共和国の初代首相ネルーの言葉である。まして日本人にとって、インド亜大陸という広大な空間で5000年の歳月をかけて醜成されたヒンドゥー教を、われわれがふだん使っている「宗教」という言葉で捉え、理解することは、ある意味で誤りであるとさえいえよう。ヒンドゥー教という概念は、それをはるかに超え、インドの文化、社会制度、風習、生産形態にはじまり、民衆個々の心情の機微にいたるまでを包みこみ、現在まで能く複雑な文化的複合体の総称と呼ぶほうが適切である。

 おおまかにいうなら、ビンドゥー教の歴史には4つの節目がある。

1】アーリヤ人の到来
2】仏教の興隆とその影響
3】人格神(ヴィシュヌ神・シヴァ神)の崇拝の醸成
4】タントラ、バクティなどの易行道の成立。


このどれを見ても、革命的ともいえる変化をヒンドゥー教に与えたものである。しかし、その過程は数百年単位から1000年をかけて進行したものであり、われわれが常識的にいう歴史という概念を大きくはみ出しているのである。

 たとえるならヒンドゥー教とは、アーリヤ人の宗教バラモン教という川に各村落の土着神信仰が流入し、ついで仏教、ジャイナ教を加え、やや時代がくだってからはイスラーム教が流入し、という具合に、5000年をかけて流れの栃を広げていった滔々たる大河のようなものである。

 基本的にその大河は、他を排斥することなく吸収、融合し、相互に影響を与えあってきた。この歴史の豊かさこそが、容易には理解しがたい多面性、目の眩むような豊饒性を生み出した要因となったといえる。以下 ヒンドゥー教という視点でインド精神史の概観を試みてみたい。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=269254

ヒンドゥー教と仏教・ジャイナ教とは?2〜ヒンドゥーの起源となった強い支配者のいないインダス文明〜


『ヒンドゥー教の本〜インド神話が語る宇宙的覚醒への道〜』の【第2章】ヒンドゥー5000年史(文=高原朝彦)「インダス文明とヒンドゥーの萌芽 数々の遺品に刻み込まれたヒンドゥーイズムの原型」よりご紹介します。

ヒンドゥー教の起源は、インダス文明につながるとあります。そのインダス文明も、強い支配者がいたわけではないとのこと。部族連合で成り立っていたのだろうか?


----------------------------転載


 ヒンドゥー教というと、アーリヤ人の宗教であるバラモン教を基礎として発展したもの、と考えられがちであるが、ヒンドゥー教の信仰、習俗の中には、アーリヤ人のインド到来以前のインダス文明の影響が色濃く残っている。

 たとえばヒンドゥー教の修行の中心である瞑想と沐浴は、当初、祭式を宗教の中心に据えていたアーリヤ人のものではなく、インダス文明期の宗教にその源をもとめられる。そして現在でもインドで根強い牡牛の崇拝、性器(リンガ)崇拝、宗教的な紋章としての卍(まんじ)も、その原型はインダス文明期にまで遡る。

◆謎の多いインダス文明

 インダス文明は、紀元前3000年頃から、北西インドのパンジャーブ(五河)地方から現在のボンベイの北方にかけての、広大な地域に栄えた文明である。高度な銅器時代に属し、メソポタミア文明との類似性も指摘されており、農耕、牧畜のほかに、諸外国との交易も行っていたことが、ロータルで発見されたメソポ夕ミアの印章や港の遺構から類推されている。この文明に属する遺跡の中でも、とくに大規模なのが、1920年代になって発見されたモエンジョダロ遺跡と、ハラッパー遺跡である。この両遺跡は整然としたプランに基づいて建造され、排水機構なども完備している。にも関わらず、この遺跡には、これだけの大都市にふさわしい強大な権力が存在したことを示す宮殿、神殿が見当たらない。この点は、他の古代文明とはきわだって異なっており、未解明な点が多いインダス文明の中でも特に大きな謎である。

 この文明の担い手がどのような民族であったのかも、いまだに解明されていない。両遺跡から発見された夥しい数の印章に刻まれている未解読の文字に関しての最近の研究では、南インドに住んでいるドラヴィダ語族系統の言語ではないかという仮説が出されている。

◆シヴァ神もインダスの神だった

 そして注目すべき点は、その印章の中に、ヒンドゥー教の最高神シヴァの原型と思われる像が刻まれているものがあることである。その像は台の上に坐り、その性器は直立した状態で刻まれている。後のヒンドゥー教で一般的になったシヴァ神の象徴としての男性器崇拝がすでに見られること、そして輪廻転生の考え方など、単にアーリヤ人が自分たちの宗教の中に先住民の神々を吸収した、というよりも、インダス文明がヒンドゥー教の構造自体に、かなり探い影響を与えたとみるほうがいいようである。

 また、シヴァ神以外にも現在ヒンドゥー教の神々として崇拝されている諸神の中には、インダス文明期の各村落の守護神がバラモン教に吸収された神(特に女神)が多い。

 さらにそれが仏教経由で日本に伝来し、われわれにも馴染みの深い神となっている。たとえば、四国讃岐の金比羅信仰で有名な金毘羅は、その原型はインダス川のの鰐に対する信仰にまで遡るし、財宝の神・毘沙門天も、もともとはインダス起源の土俗神クベーラだったのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=269255

ヒンドゥー教と仏教・ジャイナ教とは?3〜武力支配ではなく、呪術の優位性で先住民を観念支配していったアーリア人〜



『ヒンドゥー教の本〜インド神話が語る宇宙的覚醒への道〜』の【第2章】ヒンドゥー5000年史(文=高原朝彦)「バラモン教の発展と深化 祭祀者の呪術からウパニシャッド哲学への昇華」よりご紹介します。

 特別な祭祀者の特権から誰でも悟ることができる教えとして展開・発展してゆく。

 その基盤としては、アーリア人の支配様式が関係しているようです。

「武力によって先住民を制圧するよりも、祭祀者階級であるバラモンの呪術の優位性によって、先住民を帰依させていったことが多かったようである。」

というように、日本に渡来した半島の人々の支配様式(アマテラス等の土着民間信仰との優位性など)と似ているように思いました。

 しかし、アーリア人は、牧畜民であり、既に、一神教の原点でもある拝火教と呼ばれるゾロアスター教を基盤として、バラモンを頂点とした序列ヒエラルキーが形成された社会であったとのこと。略奪・武力を支配様式として用いなかったことで、こういった先端の観念が形成されていったのだろうと思います。

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◆アーリヤ人の到来

 紀元前1500年頃、それまで西トルキスタンの平原部で牧畜を営んでいたアーリヤ人が波状的に移動を開始し、その一部はイランへ、そして、他の一部が北西インドのパンジャーブ地方に侵入しはじめた。このために古代ペルシャと古代インドの宗教の間には、神々の名前、祭式、祭具などに多くの共通要素を見ることができる。

当時のアーリヤ人の宗教は供物や犠牲獣を聖火に投じ、特殊な酒(ソーマ)を天神に捧げて福を得る、というものであったが、これはイランのゾロアスター教とも共通する聖火信仰であり、日本の真言宗の護摩祈祷もアーリヤ人の言語であるサンスクリット語の「供犠(ホーマ)」に由来している。

◆アーリア人社会の変化

 パンジャーブ地方に偉人したアーリヤ人の社会は家父長的な家を最小単位とした部族社会であった。原因は不明であるが、当時すでにインダス文明は活力を失っており、先住民を支配下にとりこむ過程は、武力を背景にした征服というよりも、緩やかなものであったらしい。

 先住民を隷民(ダーサ)として社会に取り込み、先住民の農耕文化から小麦の生産を学んだアーリヤ人社会は、しだいにその姿を変えはじめた。生産力の増大、定住化、社会の安定、などの結果として王権が強大化し、階級が形成され、祭祀者階級バラモンを頂点として、隷民を最下層に置くヴァルナ(カースト)制の原型がこの時期にできあがっていった。


◆ヴエーダ聖典の編纂

 パンジャーブ地方を占拠し、成熟の度合を深めたアーリヤ人社会は、紀元前1000年頃から、再び、さらに東方のガンジス川流域の肥沃な平原部へと移動を開始した。このときも、武力によって先住民を制圧するよりも、祭祀者階級であるバラモンの呪術の優位性によって、先住民を帰依させていったことが多かったようである。

 このような過程を通じて、アーリヤ人社会の中でのバラモン階級の重要性がますます高まっていったと考えられる。また、バラモンたち自身も、専門的知識を独占することによって自分たちの権威をより高めようとする意図もあって、祭式を複雑なものにしていった。

 当時は、祭式の手順や呪文を少しでも聞違えると、社会全件に恐ろしい祟りがおよぶと考えられていた。そのため、間違いをおかさないために、複雑になった祭式や呪文を整理し、正確に暗記する必要が生してきた。

 こうして編纂されたのがヴューダである。ヴューダは、4種類がある。もっとも古い時期に成立したのは『リグ・ヴューダ』であり、紀元前1200年〜1000年頃とされている。

 しかし、200年以上の年月をかけて、数多くのバラモンによって語り継がれたという過程からいっても、ヴューダは編纂されたというよりも、集成されたと表現したほうがより正確かもしれない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=269452



09. 中川隆 2013年3月03日 23:06:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


【インド・アーリア人社会の浸透】

 インドにおいて、本源性がどれほどあるのか?それを探るため、前回は先住民族である「ドラヴィダ人」に焦点を当てました。

 その中において、ドラヴィダ人は現在も母系制であることから、本源性を大きく残していると考えられます。

 では、そのインド社会の上層部を占める「インド・アーリア人」はどうであったのでしょうか?

 今回は「インド・アーリア人」に焦点を当てていきます。
 


●インド進出以前のアーリア人

 アーリア人は、歴史以前の時代に、どこに居住していたか?
その原住地は未だに不明であり、学者の間で種々論議されているが、定説はない。  
ドナウ河畔の沃地に生存していたのであろうとも、あるいはヴォルガ河畔のステップ地帯に遊牧民としての生活を送っていたとも考えられている。  

また、「ぶな」の木を意味する語がインド・ヨーロッパ諸語において、ほぼ共通であるという事実を手がかりにして、原住地はバルト海岸の北ドイツ地方であったという説が、一時有力であったが、定説にまでは至っていない。  

近年では、コーカサス地方の北方地帯であったという説が有力である。


●自然崇拝の遊牧民

 原始アーリア人が、牛・馬・犬等の家畜の群れを引き連れて、一つの草原から他の草原へと移動して、遊牧の生活を送っていたことは確かである。何故そのように断定できるかというと、インド・ヨーロッパ語族を通じて、家畜の名前に類似したものが多く、農産物の名前は各民族によって異なっているからということである。

 石器または銅製の道具の使用も、相当に行われていた。石器または銅製の武器を用いて、狼・熊等の野獣の来襲を防いだ。また、近隣の諸部族と物々交換を行って、自分らの草原に産出しないものを入手していた。彼らが、鉄器を使用したのは、ある時期以後のことである。  彼らの信仰は、原始民族に多い、悪霊崇拝ではなかった。彼らは自然崇拝を行い、空・太陽・月・曙・土・火・水・風・雷等、あらゆる自然現象が彼らには神として映じた。彼らは、それを畏れ敬い、その恵を請うた。神々を、天空にあり、明るく輝くものと考えていた。  

そうして、天を最高の神と見做していた。インドにおける天の神ディヤウスは、ギリシアのゼウスに相当する。天そのものに「我々の父なる神よ」と呼びかけていた。ゼウスもジュピテルも、共に天空を支配する神である。「天なる父」という信仰は、この時代に由来する。


 また彼らは、家庭の内部では、祖先崇拝を行い、祖先に供物をあげてなだめ喜ばせ、その福を授かろうとした。しかし、民族の公の宗教としては、天界の神々を崇拝することが盛んに行われていた。神々に対する供犠としては、穀物と牛乳との供物を聖火の中に投ずること、特殊の酒(ソーマ)を水盤に盛って献ずること、及び動物を犠牲に供することが主として行われた。火は供物を天に運ぶものとして、特別に尊崇された。

 彼らにとって、竈の神(アヴェスタ)は同時に氏神(ペナテス)となり守護神(ラアレス)であり、祖先の超人的な霊魂である。竈を象徴するゆえ、祭壇には火が絶やされることはなく、その一族の家長が取り仕切った。

 後期ヴェーダ時代になると、父親を家長が取り仕切る集団は徐々に分化して行き、アーリア人社会全体の統合ができなくなるにつれて、彼らは、彼ら全体を統合する観念としての、宇宙全体に関する原始的な哲学的自覚を成立させていった。宇宙は神々とは独立に、それ自身で存在し、神々はその宇宙に内在する。宇宙は一定の秩序、即ち天則によって維持されていると考えた。

 これがやがて、ウパニシャッド哲学として体系化されることになる。

●移住――原住地の草原をあとに

 アーリア民族は、ある時期(前1700年頃)、人口の増加、あるいは干ばつ等、その他の理由で原住地の草原を出て、他の地方へ移住を開始した。  若干の部族は西方へ向かったが、ついにヨーロッパに定住し、現在のヨーロッパ諸民族となった。

 また、他の諸部族は、東方へ向かって移住を開始した。彼らはアジアに入り、カスピ海の南東に当たる西トルキスタンのステップ地帯に数世紀間定住して共同生活を送っていたらしい。ここに住んでいた諸部族を総称して、インド・イラン人という。彼らは半ば遊牧、半ば農耕の生活を送っていたと考えられている。

 このインド・イラン人の宗教及び思想は、インド最古の文献で、バラモン教の聖典「リグ・ヴェーダ」と、イラン最古の文献で、ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」との比較対照を手がかりとして、推知することができる。しかし、彼らはその後再び移住を開始し、その一部は西南へ移動してイランの地に入り、アーリア系イラン人となった。

「世界の歴史B〜古代インドの文明と社会〜」より

●インド進出

 アーリア人の一部は、ヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに入り、インダス川上流のパンジャーブ地方に到達した。彼らをインド・アーリア人と呼ぶ。彼らが進出した時期は、前1500年頃と言われており(まだ確定はされていない)、インダス文明が前1800〜1700年の間に衰退したことから、インド・アーリア人の侵略によって、インダス文明を築いた先住民が滅んだという説は成り立たなくなっている。  それにより、先住民が都市から離散した跡地に、インド・アーリア人が、断続的に進出してきたと考えられ、インド・アーリア人のインド進出当初は、先住民との接触はほとんどなかった。  しかし、前1000〜600年にかけて、ガンジス川流域へ進出するようになると,次第に先住民との接触も増え、互いに友好を結ぶ場合もあったが、争う場合も次第に増え、アーリア人による先住民支配が大々的にはじまる。この支配の最たるものが、「カースト制度」であり、その支配の様子が、ヴェーダに描かれている。

 彼らはなぜ、わざわざヒンドゥークシュ山脈を越えなければならなかったのだろうか?新天地を求めようとすれば、行き易いほうを選ぶはずである。

 おそらくは、イラン高原への進出の際に、アーリア人同士の争いが起こり、その負け組みが仕方なく山を越えなければならなかったのだろう。そう考えると、初期のアーリア人と先住民との間に争いが無かった理由もわかる。日本で言うなら、縄文後期から弥生初期に江南地方の負け組みがやってきた時にもほとんど争いは起こらず、次第に融合していき、その後渡来人が、先住民を支配下に置いたのと、同様のことが起こったのだろう。


 
●婚姻様式

 彼らは父系制社会を営み、ヴェーダ時代のアーリア人社会は祭儀を頂点とした、家父長制家族であり、一夫一婦制を中心にした基盤を持っていた。つまり、祭儀も神官である父から息子へ伝えられ、竈を維持し祖先神に礼拝する権利も授けた。

 女子は子供を授かる役目にしか過ぎず、娘が夫を選ぶ場合は家長である父が、その権利を持ち、父が死んでいる場合は自分の男系兄弟の長子が権利を継承していった。このように、女子は男子と違い祭儀についての処遇も違い、家族神とは父方のみを指し、母方の祖先には供物も捧げられなかった。つまり、女子が嫁ぐと言うことは自分の血族集団と別れると言うことを指し示していた。

 このように、女性に対する低い扱いは、そのまま続き、後期ヴェーダ時代の終わりになると、浄・不浄の観念が発達し、月経中の女性に対する蔑視が極度に高まった。

 この父系制社会が、母系制社会であった先住民にも浸透するにつれて、愈々、女性蔑視が社会全体に広まり、女性の存在不安は一気に増大することになる。

 そして、カースト制度が成立すると、その存在不安は女性だけでなく、様々な人々の間にも広まることとなり、そのような状況を打破しようと、様々な思想が起こるようになる。


 以上、見てきましたように、インド・アーリア人は、原始的な自然崇拝(≒精霊信仰)の形態を残しつつも、遊牧に特有である「父系制社会」の構築により、女性の存在不安が増大するといった結果になっています。

 では、その土台を成す、インド哲学とは一体何なのか?
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/06/001086.html

インド哲学はなぜ起きたのか

インドを調べ始めて2ヶ月、いよいよインドの本質であるインド哲学について迫っていきます。

インド哲学の始原はヴェーダーにあります。アーリア人が持ち込んだヴェーダー教は土着のドラビダ人の思想体系を組み込み、リグベーダーとして大成しました。

紀元前1000年の頃です。リグヴェーダーとは讃歌集であり、哲学とは程遠いものでした。

また、アーリア人がドラビダ人を支配する上で作り出したバラモン教という祭祀至上の考えは、リグヴェーダーに祭祀の複雑な手順や意味を書き記した事から、祭祀というものをこの上なく意味の高いものに作り上げるために必要なものでした。すなわちアーリア人はドラビダ人を配下に組み込む為に壮大な歴史文集を作り上げたのです。この辺りはどの国も同じで日本では古事記がそれに相当します。

インド哲学はこのヴェーダーを元に発展していきます。

しかし、先に書いたように、アーリア人はドラビダ人を武力で支配していません。ドラビダ人の持っている認識体系を組み込んだ祭祀体系を作り上げ、それを実践することでドラビダ人を配下に置く事に成功したのです。

バラモン教とはバラモンを頂点とする絶対的な階層を正とする戒律であり、私権社会の根幹である序列原理を社会の秩序原理とするある意味、非常にストレートな宗教であると言えます。しかし、序列を絶対であると認めさせるにはいかに理論体系を精密に作ったところで、所詮正当化観念に過ぎず、外圧が緩めばたちまちボロが出ます。

或いはバラモン自身に大衆(下)からの白い目圧力が加わればあっという間に秩序はバランスを崩します。当時はインドは軍隊もなければ、大衆を制圧する自衛軍もありません。紀元前6世紀のインドの状況は、私権社会成立と同時に発生した貧困が拡大し、見え透いてきた序列に対する大衆の違和感や反のエネルギーが渦巻いていました。

仏教やジャイナ教はそういった空気の中で登場したのです。そしてインド哲学もほとんど同時期に活期を迎えています。

仏教とインド哲学はこの時期(紀元前5世紀〜紀元後2世紀まで)対立構造として相互に議論を重ねています。

これら2600年前に登場した背景とは、世界中の他の地域同様に私権社会が大衆化する時の反のエネルギーであり、同時にその反によって混乱する社会秩序不安への統合化のエネルギーでした。仏教が反の方であるとしたら、ウパニシャッドを初めとする哲学体系の創出は(私権社会)統合化=ヴェーダーや歴史の正当化の側の力によって作り出されたのではないでしょうか。

また、アーリア人は当時、紀元前1500年にインドに入り込んだ新興民族で、すでにインドに定着していたドラビダ人を初めとする土着民の人口に対してまだ少数派でした。仏教の登場によって自らの宗教体系であるバラモン教が排除される危機に対面したのです。

元々武力によって支配していないので、アーリア人はひたすら考えたのでしょう。
どうやって大衆を味方につけるか?そこで登場したのが、ウパニシャッド哲学を延長させたヒンズー教の登場です。ウパニシャッドとはそれまでのヴェーダーによる規範集や讃歌集をより実際に使える認識体系にまとめなおしたものです。ヒンズー教とはそれまでのバラモン教を大衆に布教するための多数派戦略として登場しました。

以降、この時に作られた6つの学派はヒンズー教を支える認識体系として現在まで継続されています。


下記にインドの哲学誕生までの流れを図解化します。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/INDO.pdf

http://web.joumon.jp.net/blog/2010/07/001093.html


インド哲学は何を解明したか?

さて、インド哲学、具体的にはどういうものなのか?

さわりだけですが紹介してみたいと思います。インド哲学の第一人者の宮元啓一氏の書籍からの紹介です。



実在論哲学

インド哲学というとなにか神秘的なもののような印象を持たれがちなのだが、それはことの一面に過ぎない。他の一面では、インドは論理的反省としての論理学に裏打ちされたたいへん合理的な哲学体系をいくつも生み出してきた。

ヴァーイシェーシカ哲学体系とはその最たるものである。この哲学体系は紀元前2世紀に、西北インドを支配したギリシャ王国の勢力圏内で、インド古来の哲学的思考とギリシャ哲学が正面から出会ったところから生まれたものである。ヴァイシェーシカ学派は後のインド哲学に多大な影響を与えている。

その哲学を一言で言えば、徹底した実在論哲学である。すなわちすべては知られるものであり、言語表現されるものであり、また逆に知られるもの、言語表現されるものはすべて実在である。というのがその根本的な主張である。つまり、この場合の実在論とは、観念論との対比でいわれる実在論ではなく、唯名論との対比でいわれる実在論である。

「知られる」というのは「知覚される」だけでなく「推理される」ということも含み、西洋哲学が推理、推論にほとんど関心がない事に相対している。


インド哲学の最初

インドにおける最初の哲学者は「有(あるもの)は有からしか生ぜす、けっして無からは生じない」という論理的反省の上に「有の哲学」を展開したウッダーラタ・アールニ(紀元前8世紀〜7世紀)である。

かれによれば、世界のすべての事象は「ただ有る」としかいえない唯一無二の根本有が、ただ自己のみを契機として流出したその結果であり、名称によって多様であるかに見えるが、本質的には「有」にしかほかならない。彼の哲学は流出的一元論であるとともに、唯名論でもある。


実在論における絶対無

無を扱う事に慣れていない西洋哲学の発想法からは考えにくい事であるが、インド人の無からすれば何という事もない。インドの言語では

「この床に水がめがない」

という文は、簡単に

「この床に水がめの無がある(実在する)」

とか、

「この床は(実在である)水がめの無を有する」

と言いかえられるのである。ちなみにインドの哲学者は、西洋の哲学者と違って、抽象的な無を考える事はない。無は「ただの無」ではなく、あくまでも水がめの無であるし、また無は根無し草のような「どこにあるともない無」ではなく「この床における無」である。インドの哲学者はこのように無と相対者と場の3つをワンセットにして考えるのである。


さらにインド人の特徴として記憶力がなぜよいのか について著書は触れている。

インド人の持っている資質のうちで特筆すべきものは彼らの論理的思考と共に記憶力である。インド人は私達が信じられないような膨大な記憶容量を持っている。子供がシバの千の異名をとなえるなどは当たり前で、あるパンディシャットは言われるままに一晩中哲学の学説を語り続け、朝になったら一冊の本ができあがったなどという逸話もあながち嘘とは思えないのである。

記憶力の良さは単に能力の問題ではなく、それを生かすための記憶術の問題でもある。基本的に口伝が知識を伝える手段であった頃、記憶するのに便利なように、教義や学説を警句や金言のような短い散文の形にして、まるで美しい花びらを糸に通して花輪を作るように、それらをまとめていた。そしてこれをスートラ(糸)と呼んで、弟子達は師の注釈とともにそれを学び、記憶していったのである。したがってインドの多くの学者はみずからよりどころとなる教説をスートラとしてもっている。

以上いくつか紹介しましたがいかがでしょうか?

インド哲学に馴染みの薄い私達は、これを聞いてもなんじゃこりゃ?となるわけで少なくとも、なぜ有やら無や宇宙を議論して考え尽くさなければならなかったのか、その背景がよくわかりません。しかしギリシャ哲学にせよ、インド哲学にせよ、2600年前、宗教の誕生とほぼ時期を一致して登場しました。この時の世界の状況はほぼ同じです。

それまでの部族連合が、国家という大きな枠組みに変化する直前の時期です。言い換えればそれまでの顔の見える共認という手法の集団原理から顔の見えない国家という超集団原理へ転換する時期です。この時に起きたのが宗教にせよ、哲学せよ、未明なもの、未秩序なものを統合したいという統合機運だったのだと思います。

ギリシャ哲学は数世紀も経つと風化し、その後どんどん新しい科学体系が生まれ実践場面からは消えていきました。しかしインドの場合はその本質は現在までヒンズー教という宗教の中に落とし込まれ、使われています。

インド人がなぜ理論的に物事が考えられるのか?この問いに対して著者はサンスクリット文字を引き合いに出しています。サンスクリット文字は当時バラバラであった民族間の言語を統合する為に生まれた人工言語です。サンスクリット文字を作り出す中でインド人は文法学を編み出し、その過程で公理体系を作り出したのです。この公理体系は世界最古の論理体系で、インド哲学がギリシャの哲学に比べてはるかに論理的志向性を有している根拠でも有り、現在のインド人がなぜ議論好きで理数系が得意なのかの理由もここにあるのです。

また、インド哲学はその前に作られたウパニシャッドを下敷きにしています。ウパニシャッドはさらにその前のヴェーダーを下敷きにしています。

つまり、インド人のすごいところは、良くも悪くも古代から現在まで一貫して断絶せずにに思考体系が繋がっており、新しいものを取り入れ古いものを否定して変化していく世界の諸地域と一線を画しているからでもあるのです。

おそらくその理由はインド哲学の本質の中にインダス文明、それ以前に培われた自然を対象とした認識体系が基本にあるからではないかと推察します。

インダス文明は世界でも突出して非常に発達した農業文明です。インド人(ドラビダ人)達はインダス文明やさらにそれ以前の経過の中で天文学と高度な計算能力を身に着けていったのです。

それはインダスの農法が気候を利用した氾濫農法という手法を取っていたことと関係があるのかもしれません。

インドでは数学も非常に早くから発展し、ゼロの認識や数々の数理公式が既に紀元前には定着していた可能性があり、その洞察力や追求力は私権時代以降に発生した他地域(西洋やイスラム)に比べて比較にならないほど早く、レベルの高いものが登場しています。なぜインドにそのような頭脳が登場したのか?インドの乾季と雨季を繰り返す厳しい自然の循環とそこから培った認識体系が基盤にあるのではないかと思います。
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/07/001094.html

インドにカーストが発達した理由、継続した理由〜

 
参考
カースト(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88


 インド社会を考えるとき、避けて通れないのが、インド独特の厳しい身分制度カーストです。  今回は、何故、インドでは独自の身分制度であるカースト制度が強固に発達し現在も強い影響力を持っているのか。について考えてみたいと思います。

■カースト制度が誕生した直接的理由とその意義

 アーリア人によるドラビダ人の支配を武力を用いずに行なうためのドラビダ人を納得ずくで従える制度である。

 この制度が誕生し、社会共認になった時にアーリア人のドラビダ支配は成立した。そして、武力によらずに秩序、序列制度を確立しえた点においては他の地域に比べて優れた制度と言える。
 


●カースト制度の初期形態=ヴァルナ制度

 「ヴァルナ」とは「色」のことで、侵略者アーリア系白色人種とインド先住民族の有色人種を区別するために作り上げた身分制度が「ヴァルナ制度」 で、アーリア人がドラビダ人を支配する際の観念として使った。

 これを正当化する為にヴェーダという体系を作り出したのである。

 BC10世紀頃とみられるインド最古の文献リグ・ヴェーダの次の一節は有名です。

 彼ら(神々)がプルシャ(巨人)を切りわかちたるとき、いくばくの部分に分割したりしや。彼(プルシャ)の口は何になれるや、両腕は何に。両腿は何と、両足は何と呼ばるるや。  彼の口はバラモンなりき。両腕はラージャニヤ(クシャトリヤ)となされたり。彼の両腿はすなわちヴァイシャなり。両足よりシュードラ生じたり。

●ドラビダ人がなぜ身分差別を受け入れたか

 インドの気候は雨季と乾季がはっきり分かれており、乾季の間に干上がった大地は雨季の到来とともに蘇る。そしてあたり一面緑の世界となり、地中では虫どもが活動を始める。

 こうした雨季・乾季の循環が見られるインドの大地で生と死を繰り返すという輪廻思想が自然を表す思想体系として誕生した。

 そして、アーリア人は既にドラビダ人の中にあったこの輪廻思想を、身分序列を正当化する理屈としてヴェーダに組み込み、ドラビダ人に追共認させた。

 来世で、どのような姿をとって再生するかは、前世の行為(業)によってきまる。祭祀や布施や善行に努めた者はバラモンやクシャトリヤとして生まれ、悪を行なった者はシュードラや畜類などとして生まれる。  この世の生まれは前世の業の結果であるから、シュードラに生まれようと、不可触民に生まれようと、宿命として甘受しなければならないのである。

 現在でも、保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世ではいいカーストに生まれ変われると信じられているからだ。


●カースト制度はインドの生産基盤と密接に連動していた。

 村の経済活動の中心は土地保有農民(大多数はシュードラ)である。

 雨季と乾季がはっきりしたインドで、農業において最大の収穫を上げるためには、限られた時期に大量の労働力を用いる必要がある。しかし、そうした労働力の提供者を、農繁期のためだけに、村に常住させておくことはできない。

 一方、職業の専門化がカーストの形成というかたちで進み、またヒンドゥー教の浄・不浄思想が浸透した結果、他カーストの労働に頼られねばならない種類の仕事が増えた。たとえば、宗教儀礼の執行、大工・陶工・理髪・洗濯の仕事、死畜の処理や汚物清掃といったさまざまな労働である。

 そこで農民は、これらのカーストの成員に住む場所と生活の保証を与えて、彼らを村に抱え込んだ。彼らはバラモンなどを除き、農繁期における農業労働を提供した。

 こうして農民は、日常生活において自分らにふさわしい浄性を保ち、農繁期に安定した労働力を確保するという、二重の希望をかなえることができたのである。

●カーストを継続させるための装置⇒不可触民制度

 4つのヴァルナの下には、被差別階級である不可触民の諸カーストが存在した。
 グプタ時代(550年頃)以後の社会でシュードラ差別が徐々に消えたのとは逆に、不可触民差別はさらに複雑に発達した。

 かれらは村の生活における「不浄」部分の分担者として、また農繁期の労働者として迎え入れられた。

 不可触民の存在は村人たちに一種の優越感を与え、そうした感情によって、不平等に起因する村内の緊張関係が緩められた。こうした安定は、地方の権力者や地主・土地所有農民の期待に応えるものであった。

 つまり、シュードラの不満、反発を防ぐために最低の身分を人工的に作り出したのである。

〜これは日本の鎌倉以降の河原者、江戸時代のエタ、非人と全く同じ仕組みである。


■カースト制度の2面性〜単なる身分制度ではない

 カースト制度は身分序列制度であると同時に血縁や出自を重要視しそれが共同性を高めた為、ドラビダ人の集団性を高め、かえって歓迎される部分もあった。

 さらにそれをインド全体を包含する統合宗教であるヒンズー教に組み込む事で、神によって定められた役割として身分制度は規範化された。

通常の身分制度との決定的な違いはここにある。

 他地域の制度=やむを得ず追共認する制度

      武力が必要。常に転覆の可能性がある。

 カースト制度=宗教に組み込まれた社会規範であり、共同体規範でもあり、宗教によって主体的に追求する制度

      武力は不要。転覆の可能性は低い

◆上記をまとめると

・アーリア人侵入による白人と黒人の並存〜どうする?という課題が登場 
 敗北遊牧民であるアーリア人が武力は使わずに統合する方法を考えた。
 それが、ドラビダ人の輪廻思想を組み込んで作り上げたヴァルナ制度であり、
 さらに、農業の発達とともに、血縁による共同体意識と結びつきついて強固なカースト制度となった。

 そして、カースト制度はヒンズー教によって保護、正当化され、発展してきた。


しかしさまざまな新産業の登場でカースト制度はきしみ始めている

IT技術などはその先端事例  

多くのインドの子供たちにとって出身カーストが低くても能力が高ければチャンスがつかめる「IT技術者」「ソフトウェア設計者」「医師」は将来なりたい人気の職種になっています。
   
〜即ち、インドで新産業が起き、そこを求めて可能性収束するのはすでにカースト制度が崩壊過程に入っている事を示しているのではないか?
 
 インドの可能性とは脱カーストをしながら新産業へ緩やかに転換している事であり、それらも含めて認めるヒンズー教の奥の深さでもある。

 インドに仏教が根付かなかったのは、このインドの社会秩序の根幹であったカーストを否定するばかりであらたな統合軸を提示できなかったからである。否定の論理はいつの時代も定着はしないと言える。

 
コメント

投稿者 tama : 2010年07月19日 21:34  
発見は・・・・

>ドラビダ人がなぜ身分差別を受け入れたか。
>カースト制度はインドの生産基盤と密接に連動していた。
>カースト制度の2面性〜単なる身分制度ではない。

インドになぜカーストがこれだけ長く続いたのかという問いに対してはカースト民であるインド人自身に身分差別という意識があまりなかったからではないでしょうか?

それがインド人が貧困に対してあまり悲観的にならない現象と一致します。ヒンズー教の教義の中にもあります。

カースト(職能)は神から与えられたものであり、それを全うする事が現世を生きると言う事で来世の繁栄を保障する。(〜そんな感じの事です)

・・・・日本の天職にも相当しますね。
インド人の労働観についても探ってみたいものです。


投稿者 tano : 2010年07月21日 01:31
>アーリア人によるドラビダ人の支配を武力を用いずに行なうためのドラビダ人を納得ずくで従える制度である。

 この制度が誕生し、社会共認になった時にアーリア人のドラビダ支配は成立した。そして、武力によらずに秩序、序列制度を確立しえた点においては他の地域に比べて優れた制度と言える。

なるほど。面白いですね。力づくの武力支配ではなく、ともに認める形での併合支配なのですね。

しかし、当時のインドの圧力状況があまり見えてきません。農業における雨季と乾季の自然圧力はわかりましたが、他国との圧力や大国との圧力、市場社会との圧力や他宗教とのせめぎあいなどはどうなっていたのか知りたいところです。

その圧力のなかで、彼らが、生み出していった技術は、イスラム諸国や欧米諸国に伝わって大いに発展した経緯があります。彼らが生み出したその圧力とは一体なんだったのでしょうか?

教えてほしいです。


投稿者 2310 : 2010年07月30日 06:00
よくわからないので教えて欲しいのですが、現在のトラビィダ人の分布と古代のアーリア人の侵入ルートから考えて、以下予想していたのですが

@トラビィタ人の分布は南方ほど純度が高そうで、北方にはあまりいないor混血?

Aカースト制も地方によりかなり濃淡があり、インド南方ほど共同性が強い?

・・・実際どうなんでしょう?


投稿者 Hiroshi : 2010年07月31日 19:31
@、A共、インドを知る上で的をついた質問だと思います。

ドラビダ人の分布はドラビダ語の分布図を見ればよくわかります。やはりデカン高原から、南に現在でも分布しており、その移動は紀元前から始まっていたようです。

また北インドにもドラビダ人は残っていますが、ほとんどがアーリア人との混血で純度は低いと思います。
過去のインドシリーズを参照下さい。

カースト制度については地方による濃淡はあると思いますが南側がカーストが緩いと言う事はありません。むしろ北インドより厳格で、カーストでの上昇をめぐってカースト下位のドラビダ人は上位のアーリア人と婚姻関係で繋がる事が多かったのではないかと思います。インドでは南方が共同性が強いというのはたぶんあっていると思いますが、まだその方の追求がなされていません。今後の追求にご期待ください。


投稿者 tano : 2010年08月01日 16:18
>しかし、当時のインドの圧力状況があまり見えてきません。
>他国との圧力や大国との圧力、市場社会との圧力や他宗教とのせめぎあいなどはどうなっていたのか知りたいところです。


 カースト制度が生まれた頃は、周りに特に大きな国もなく、市場も未だ発達していませんでした。そんな中で、アーリア人の流入が500年以上に渡って続き、土着のドラビィ他人と新参のアーリア人の民族間の圧力が高まり、軋轢を伴いつつ混血が進んだと考えられます。そんな中で、カースト制度が徐々に形作られたのでしょう。

 詳しくは、シリーズ「インドを探求する」第9回〜なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか その1〜
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/07/001102.html をご覧ください。

>彼らが(そのような優れた技術を)生み出した(もとになった)その圧力とは一体なんだったのでしょうか?

 インダス文明は世界でも突出して非常に発達した農業文明です。つまり市場が発達し、私権社会が拡大する前に農耕が非常に発達したのです。そのことがゼロの認識など、他の地域と比べて、強い追求力や洞察力を生んだ可能性が考えられます。
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/07/001098.html

インド理解のキーワード---ヒンドゥーイズム--- 山上 證道
《京都産業大学世界問題研究所所報『世界の窓』第11号(1995年)に掲載》


0 はじめに

 ヒンドゥーイズム(ヒンドゥー教)は、狭義では宗教を意味するが、広義では、インドの社会、インドの心ともいうべき概念である。そのことは、このレクチャーによって明らかとなるであろう。

 インドで暮らした2年間を振り返っていつも思うのは、インドほど不思議な国も珍しい、ということである。渡印直後はカルチャーショックというもので、我々日本人の理解を超えることがあまりにも多すぎて、実に驚愕の連続である。そのうち、数カ月してこの国に馴染んでくると、この国の生活が、心穏やかで、気持ちをゆったりさせてくれる日々であることに気づいてくる。

このような経験は、何もインドに限らず、長い外国生活をしたものは誰でも経験するに違いない。しかし、インドの場合は、カルチャーショックと、その後にくる充足感との落差が大きいのが特徴である。

 まず、インドに到着して、誰しも目を見張るのは、様々な肌の色をし、様々な顔をしたあふれんばかりの人の群であり、その多くがあまりにも貧しいことである。しかし、少し時間が経ってみると、多くの人の中には裕福そうな人もいて、多くの使用人を引き連れて優雅に暮らしている場面にも遭遇する。

しかも、不思議なことは、貧しい人々が、自分の生活をそれほど悲観している様子もなく、その表情は意外に明るい。ジタバタしても始まらないと言う表情すら見える。これは一体どうしたことであろうか。

 インドから日本へ帰って後、時間が経過するにつれ、インドの生活がますます懐かしく思われる。

あまり肉の入っていないカレーばかり食べながらーー実際インドの人には菜食主義者が圧倒的に多いーー、ゆっくり流れる時間に身を任せ、不思議と自然との一体感を持った心の豊かであった生活が無性に懐かしくなってくる、生活そのものは何一つ決して豊かではなかったにもかかわらず、である。

 また、町には最新式の車が走っている一方で、馬車やリキシャーが入り交じり、それでいて不思議に新旧が調和して流れていく。この猥雑にして調和的という風景は独特である。さらに、都会、田舎を問わず、神像が多く、年中お祭りのような感じがするほど宗教色が濃い社会をも感ずる。

このようなインドの不可解なことや不思議な魅力について、その根底にあるものを、歴史的・思想的に考察していきたい。

1 誤解されているカースト制度

(1) ヴァルナ制度

 インドで実生活を営み出すと、この疑問に関する一つの手がかりがすぐに見つかる。家を借りるとまず人から勧められるのは、人を雇うことである。コック・掃除人・雑用係などを雇うこと、つまり自分が多くの人々の就職先となることに驚かされる。さらに、それらの職種は厳密に定められたもので、掃除人の場合は、床を拭く人、卓上を拭く人、トイレを掃除する人、と細分化している。

つまり、まず最初に遭遇するのがインド独特の「カースト制度」と間違って呼ばれている身分制度なのである。

 カーストという語はポルトガル語カスタに由来する。ポルトガル語のカスタは、種族、血統を意味し、15世紀末に南インドにやってきたポルトガル人が、インド人の社会には、ある集団ごとの区別があるのに気づいて、その集団ごとの社会をカスタと呼んだのである。

1)つまり、それは、区別された集団が多く存在している社会に対して、漠然と、カスタと呼んだことであり、後にイギリス人がその用語をカーストという語で使用することになるが、この事実が後に大きな混乱のもととなったのである。

ポルトガル人がカスタと呼んだ集団が、一体何を基準にして区別されていたかにあまりこだわらず、漠然とカスタと呼んだことが問題をややこしくしたのである。

 さて、インドの身分制度の起源はきわめて古い。ちなみに、BC10世紀頃とみられるインド最古の文献リグ・ヴェーダの次の一節は有名である。これは、プルシャと呼ばれる巨人を解体し、その部分より宇宙を創造していく宇宙創造神話の一種である。


   彼ら(神々)がプルシャ(巨人)を切りわかちたるとき、いくばくの部分
   に分割したりしや。彼(プルシャ)の口は何になれるや、両腕は何に。両
   腿は何と、両足は何と呼ばるるや。
  彼の口はバラモンなりき。両腕はラージャニヤ(クシャトリヤ)となされ
   たり。彼の両腿はすなわちヴァイシャなり。両足よりシュードラ生じたり。

2) インドの文献は一概に時代を決定できない特徴があるが、上記の引用は、今から、ざっと3000年も昔にバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという四つの階級制度が始まっていた可能性を示している。

 これは、長年の間、インドの悪名高きカースト制度として一般に知れ渡っていたものであるが、近年この四つの階級制度をカースト制度と称したことは誤解であったことが知られ、歴史の教科書も訂正された。バラモン以下のこの身分制度を示すインドの言葉は、現在でも「ヴァルナ」(varna)という語であり、リグ・ヴェーダより数百年後の文献であるブラーフマナ文献に「四ヴァルナ」という語がすでにみられる。


3)このことよりしても、このヴァルナ制度がきわめて古いことは確実である。

このBC1000年という年代を日本の歴史と対照して考えてみれば、如何にこれが古いかが理解できるであろう。

 さらに、その成立が古いことは、次の事実からも推察されうる。つまり、ヴァルナという語は「色」という意味でも普通に用いられる単語であるという事実である。この事実は何を暗示しているか。

それは、ヴァルナ制度成立に「色」が何らかの関わりを持っていたことを示しているのである。

 そこで我々は、BC1500頃といわれるアーリヤ人のインドへの進入を想起しなければならない。

白色のアーリヤ人が北西インドに進入したとき、彼らはそこに「色」の黒い土着の民を見たのであった。

アーリヤ人の記したリグ・ヴェーダは次の讃歌を残している。


  ・・・汝(インドラ神)は、5万の肌黒き(悪魔)を打ちのめし、砦を壊
   し、・・・(4.16.13)

  ・・・魔術を使う祈りを知らぬ悪魔ダスユを沈没させたまえ、(インドラ
   神よ)・・・(4.16.9)

  ・・・(インドラ神は)武器をもって悪魔ダーサの頭を粉砕せり・・・
    (4.18.9)4)


 これらの讃歌から容易に想像できることは、白色のアーリヤ人が進入してそこに見たのは、肌の色が黒い、異なった信仰を持った人々であり、その土着の民を有力な武器でもって駆逐していったということである。さらにこのことから、また、容易に推察されることは、戦いに敗れた色の黒い土着の民が、白色の勝者により、容赦なく酷使され、軽蔑され、差別されたであろう、ということである。

5)かくして、「色」を意味するヴァルナの語が、後に、身分階級をも表すに至ったとみられるに十分値する資料であるといわれるのである。

 ところで、これらの肌黒き土着の民とは誰であったのか。それは、長年謎であったが、現在の進行中のインダス文字の読解の最新の研究では、それらの人々は、現在南インドに住むタミル人などに代表されるドラヴィダ族の人々で、しかも、彼らは、インダス文明の担い手であったのではないか、と推察されるようになってきた。6)確かに、現在の南インドの人々は、北インドの人々と肌の黒さ、顔立ちが全く異なっており、一目でわかることは事実である。もちろんこのような結論が出されたわけではない。しかし、この結論は、インドの古代の歴史を考えるうえで、最もわかりやすい筋書きを我々に提示してくれることになる。インドには土着の民としてドラヴィダ族が住んでいて、BC2300年頃、北西インドに彼らによるインダス文明が栄えた。その後、その文明が衰退した頃に、アーリヤ族が北西インドに進入して北インドではドラヴィダの人々が駆逐され、あるいは、混血が進んだが、南インドは、北インドほど重大な影響は受けなかった。かくして、現在でも南インドはドラヴィダの人々が中心である、と。


(2) ジャーティ制度

 さて、以上のように、古代においてヴァルナ制度がいち早く始まったインドで、その後古代から中世にかけて、さらに、別の身分制度が築かれ始めた。それは職業に関するもので、世襲制を伴った中世的身分制度であり、現在ジャーティ制度と呼ばれているものである。このジャーティ制度がいつ頃から、どのようにして成立したかは、現在では明確になっていない。今後の研究の成果を待たねばならない。ジャーティの意味するところは、「生まれ、出生」で、その意味からも想像されるように、氏族制度にあたるゴートラ制度等の中世的社会に特徴的ないろいろな要素が
絡み合って、このような職業世襲制を核心とした煩瑣きわまりない職業身分制度であるジャーティ制度となったものと思われている。

7)現在も厳然として存在するこのジャーティ制度は、それと並列的に
存在している前述のヴァルナ制度よりもはるかに厳しい閉鎖性を持っており、一般によく言われるインドの厳しい身分制度とは、このジャーティ制度の方を指しているのが実状である。

 ここで前述のポルトガル人がカスタと呼んだことを想起してほしい。15世紀といえば、ジャーティ制度が完全に確立している時代であり、ポルトガル人が見たインドの集団別の社会とは、ヴァルナ制度とジャーティ制度という元来全く別の二種の身分制度が複雑に入り交じった現在インドに見るのと同様の社会であったはずである。それをカースト制度という名の下に単一の身分制度としてみなして
きたところに混乱の原因があったといえよう。

 かくして、当初に述べた、インドで生活を始めると多数の人を雇うはめになる、というのはこのようなジャーティ制度によるものである。

 しかもこのジャーティ制度は厳格で、我々の理解をはるかに超える。確かに人口の多いインドにあって、限られた職種の確保、職業分担という点では、この制度の肯定的一面は認めうるかもしれない。

しかし、これらの職種は、浄・不浄の概念につながっており、貴賎の差別が明確にあり、身分差別というべきことが平然と行われていることは事実である。しかし、差別している人々も差別されている人々も、意外に平気であるのは、このような社会に対する慣れからであろうかと思ったり、上述のように、数千年に及ぶ長いヴァルナ・ジャーティ制度の歴史のなせる技であろうかと、思ったりもする。

しかし、それでも、これほどの不合理がなぜもこのように平然と、現代社会でまかり通っているのか、やはり不思議である。国家としてもこの制度が近代化を大きく妨げていることは否定できない。

優秀な人材が、低い身分に多く埋没してしまっている可能性も多いであろう。当然インド政府も最下層の人々を「神の子」(ハリジャン)と呼んで保護の手をさしのべたり、時には、かなり思い切ったクオータ制、つまり、職場に一定の枠を作って低い身分の人を採用させる制度などを実施したりして努力はしているものの、反発が激しく、なかなか効果が現れない。ヴァルナ・ジャーティ制度の改革が、なぜ、思うようにいかないのであろうか。この問題は、これから述べることと関わってくる。


2 ヒンドゥーイズム

(1) インド社会の根底を成すヒンドゥーイズム

 さて、インドに住みはじめて人々とつきあい出すと、当然、思ってもいなかったことが次々と起こってくる。今述べたような、信じがたいヴァルナ・ジャーティ制度に驚かされるのみでなく、民族・人種が実に複雑で多様であること、従って、言葉も多様であり、一家で4種類も5種類もの新聞が購読されていること、紙幣に14の言語で金額表記がなされていること、など枚挙にいとまがない。

また、時間があって無きかのごとくであることには、誰もが当初全く閉口させられる。これらのことは、すべて、インドが数千年の歴史の中で築いてきたことであり、インドほど古代からの文化が現代まで継続している国も珍しい。一国の現代を学ぶには、その国の古代からの歴史・思想・文化の知識が不可欠であることは言うまでもないが、インドに関する限り、他に類例を見ないほどこのことが重要となる。現代インドを学ぶには古代の知識が大前提となっていることがほとんどである。

なぜそうであるのかも逐次述べるであろう。

 さて、戸惑うことが多いインドでの生活で、私の注意を引いた一つのことは、休日が多いということであった。実際に日本と比較してそれほど多くはないのであるが、なぜかやたらに休みが多いように感じた。休日の理由を聞いてみると、ヒンドゥー教の神様に関連する日であることが多く、それだけ宗教を重視する国なのだ、と自らを納得させようとしていたが、そのうちに驚くことに出会うことになった。仏教の開祖釈迦の誕生日も国民の休日であるという。イスラムのラマダンの断食明けの日も国民の休日であるという。よく爆弾テロで耳にするシク教の開祖の誕生日も休日であるという。ついには、12月25日はクリスマスであるから国民の休日である、という。

これは一体どういうことか、と不思議に思うのも無理はあるまい。そこでインドの宗教と言われるヒンドゥーイズム(=ヒンドゥー教)なる宗教は、一体どのような宗教であるのか、と誰もが考え出すに違いない。現在、9億人ともいわれるインドの人口のおよそ80%はヒンドゥー教徒といわれている。それ以外は、10%ほどイスラム教徒が占めている他は、シク教、キリスト教、パルシー教、仏教、それぞれが1〜2%ずつ存在しているのみである。このようなヒンドゥー教国において、先に述べたようにマイナーな宗教の休日を国民の休日としているのが不思議であるが、後述するように、これがまさにインドなのであり、ヒンドゥーイズムなのである。そして、そのヒンドゥーイズムを知るにつれインドの不思議さが何となく理解できるようになるのである。

そしてまた、ヒンドゥーイズムを知ることは、インド数千年の文化のおさらいをさせられることでもあり、また、現代インドのあらゆる問題に立ち入ることにもなるのである。

(2) ヒンドゥーイズムの成立ーーブラフマニズムからヒンドゥーイズムへーー
 それではいかにしてヒンドゥーイズムが成立し、インドの国土に浸透したのであろうか。

その歴史と経過をしばらく考察してみよう。

 またしても話は再び数千年以前に遡る。BC1500年頃にアーリヤ人が北西インドに侵入したと述べた。その地には、それより遡ること1000年も以前に、インダス文明という高度な文明が存在していたこともすでに述べた。アーリヤ人は、土着の民であったドラヴィダの人々を駆逐して、北インドにアーリヤ文明を開いたのである。その文明の結晶が、ヴェーダ文献であり、その宗教をブラフマニズム(バラモン教)と呼んでいる。従って、ブラフマニズムは、本質的に、アーリヤ人が、自分たちが以前に定住していた土地(それは黒海とカスピ海の間といわれるが)で持っていた文化を中心としたものであったといえる。西方へ進行していったアーリヤ人の別のグループが現在のヨーロッパ文明を築いたことはよく知られていることである。インドにバラモン文化・ブラフマニズムを築いたアーリヤ人達も、やはり、半遊牧民であったらしく、動物を神に捧げる犠牲祭に代表される祭儀文化を持っていたのである。人々の生活は祭儀を中心として成り立っていたと考えられる。ヴェーダと呼ばれる文献も、すべてこれは祭儀のためのものであったのである。

先に引用したリグ・ヴェーダとは、祭儀の時に祭官が神をたたえて歌う讃歌集なのである。それ故、その祭儀を実行する立場にいたバラモンが、最高の位置に立ったのも当然といえる。

 バラモンが取り仕切る祭儀を通じて、王族や庶民は、神に祭儀を捧げるかわりに神から恩恵を受けるというギヴアンドテイクの取引を神としたのである。これがヴェーダ初期のブラフマニズムの宗教である。ある意味では非常にドライな関係が神と人の間に成立していたといえよう。まだこの時代、すなわち、ブラフマニズム初期には、輪廻や業という思想は存在していなかったと思われる。しかし、次第に、祭儀を取り仕切るバラモンの力は絶大なものとなり、祭儀を正しく執行することにより恩恵を得ることが出来るという結果のみが一人歩きをしだしたのである。このような傾向が、バラモンを堕落させると同時に、人々にも祭儀中心の宗教に不満を持たせ、バラモンと庶民との距離が時代とともに広がっていったと思われる。

 ちょうど、この時期に、輪廻の思想が登場してくる。(輪廻思想の成立については、別の機会にゆずる。)BC5、6世紀の古ウパニシャッドには、輪廻の思想が明確に見られる。バラモンは、宇宙の根元であるブラフマン(梵)を中心とした深遠な哲学理論(梵我一如)を展開した。

学習と苦行或いは瞑想によって輪廻から解脱すると説く彼らの解脱論は、思想としてはそれなりの深まりを示し、宇宙と人間が一体であると感得することにより解脱するというこの基本思想は、実際に、後のヒンドゥーイズムに受け継がれていくことになる。しかし、同時に、これを契機に禁欲主義の傾向も強まってくる。つまり、ペシミズム的思想の流れが出来たことも事実である。

 これ以後インドにおいて輪廻思想は最も重要な思想として人々のこころから離れることはない。

解脱しない限り、我々は永遠に輪廻を続けるのであり、現世は永遠の時間の一部でしかない、と人々は考えるようになる。

 しかし、難解な教理・難行苦行による解脱の思想は、もとより、一般大衆に浸透するはずはなく、大衆は、自分たちの祖先から伝えられた土着的な信仰対象など素朴な民間信仰を大切にしていたと思われる。その土着信仰の多くには、非アーリヤ的要素が多く見られることは見逃せない。

それを土台として形成されることになるヒンドゥーイズムの源に非アーリヤ的要素の存在が考えられるということは、インダス文明以来の土着要素が連綿とインドには伝わっていた可能性を示すからである。難行道に背を向け、易行道を求める民衆の力は、大きなうねりとなりインド全土へと広がる気配を見せた。このような大衆の要望に応える形で仏教、ジャイナ教などの新しい宗教が勢力を拡大していく有り様に、バラモン達が危機感を持ったことは想像に難くない。彼らバラモンは、民衆の求めに応じなければならなくなったのである。

かくして、民衆を巻き込んだ土着信仰・民間信仰の広がりによって、ブラフマニズムの変質が始まるのである。バラモン達は民衆が身近なところで大切にしていた土着要素・民間信仰を自らの宗教に取り入れだしたのである。さらに、民衆に理解可能で到達可能な解脱の道を説かねばならなくなったのである。しかし、その一方で、彼らバラモンは、自分たちの信ずるダルマを宇宙の正しい法則として教示することにより、結果的に、バラモン優位の社会体制を巧妙に固めてもいくのである。このように、民衆を意識して次第に
変質していったブラフマニズムをヒンドゥーイズムと呼んでいるが、宗教の大衆化とそれに対するバラモン・支配階級の採った対策とが微妙に交差するところに、後世複雑なインド社会が生まれる一因があったといえよう。


(3) ヒンドゥーイズムの拡大

(i) リグヴェーダではマイナーな神たち

 上述のように、ヒンドゥーイズムとはブラフマニズムが土着要素を取り入れて変身した姿といえるが、そのようなヒンドゥーイズムに独特な広がり方を見ることにより、その特色がより明確となる。

ヒンドゥーイズムといえば、ヴィシュヌ神とシヴァ神の名称が即座に挙げられるが、ごく初期には、ブラフマー神(梵天)も有力であったと見られている。しかし、この神は、宇宙の根元ブラフマンの神格化ということもあり具体性に欠けていたためか、その後ヒンドゥーイズムの表舞台から後退してしまい、ヴィシュヌ、シヴァの2神が中心となる。

 ヴィシュヌ神は、すでにリグ・ヴェーダにその名を見ることが出来るが、数ある神々の中では、全く目立たないマイナーな存在であったといえる。そこにみるヴィシュヌ神は、太陽の光照作用を神格化した神と見られる。リグ・ヴェーダでは、わずか5編の讃歌しか与えられていない。


  「彼(ヴィシュヌ)は地界の領域を測れり、最高の居所(天界)を支えたり、
  歩幅広き[神]は三重に闊歩して。・・・彼の大いなる[三]歩の中に一切
  万物は安住す」(1.154.1-2)8)

 一方、シヴァ神は、リグ・ヴェーダでは、暴風雨の神ルドラの尊称として用いられた形容詞「吉祥な」(Siva)という表現から、前身はルドラであるとされる。しかし、ルドラもそこではそれほど大きな存在ではなく、後世シヴァ神として人々に崇められるようになる兆候は見られない。

しかし、後にシヴァ神のもつ特徴につながるものは、若干見いだされる。ルドラは雷光をともなう暴風雨神とみなされるが、同時に、次にように医薬により、恵みを与えるものとしても描かれる。

また、ルドラは牡牛ともいわれている。

  なが与うる・最も効験ある医薬により、ルドラよ、われ願わくは、百歳の
  [齢]を全うせんことを。(2.33.2)9)

 このようにリグ・ヴェーダにおいてはむしろマイナーであったヴィシュヌ、シヴァの両神がどのようにして現在のような大きな存在となったのであろうか。

さきほど、民衆は身近で素朴な神に救いを見いだしたと述べたが、そのことが重要な要素として浮上してくるのである。シヴァ神、ヴィシュヌ神が現在持つ特徴を考察することで、この問題にいくばくかの光を当てることが出来よう。それらの特徴とは、シヴァ神に関しては、その象徴がリンガ(男性性器)であること、さらには、その妻や子供など、一族とされる神々が非常に多いことである。また、ヴィシュヌ神に関しては、その生まれ変わり、化身とされるものが非常に多いということである。このような特徴が両神の築いた地位を物語ってくれるのである。

(ii) シヴァ神

 狂暴なルドラを前身とするシヴァ神は、宇宙の破壊をその特徴とし、時間・運命・死を意味するカーラと同一視される(マハーカーラ=大黒天)。そのシヴァ神は、まずリンガ信仰と結合した。

リンガ信仰とは、人間の生殖作用による創造を神聖視したもっとも原始的な土着宗教の形態で、元来、どこの国にもみられる性器信仰のことである。この信仰が、シヴァ信仰と結びつき、リンガがシヴァ神の象徴として祭られるようになったのである。どのようにして結びついたかは、いまのところ明らかではない。今後の研究に待たざるをえない。シヴァ神の持つ狂暴で男性的なエネルギーが関連しているともいわれる。かくして、今日でもシヴァ神のご神体はリンガである。どこのシヴァ寺院でも、中に入っていくと一番奥に、リンガがおかれている。10)


 さらに、このリンガ信仰との関わりでもあろうし、またシヴァ神の持つ男性的精力を強調する側面でもあろうが、シヴァ神の妃が多数存在することもその特徴である。ところが、その妃の多くが、実は、もとはといえば、インド国内諸地方の人々が信仰する女神であったのである。これらの多くの女神がシヴァ神と結婚させられたのである。これもシヴァ信仰が、インド全土に広がった大きな理由であろう。

たとえば、インド女性の鏡として讃えられる美女であるパールヴァティー(山の娘の意味)は、その名の示す通り、ヒマラヤ地帯で大いに人気のあった女神であった。それをシヴァ神の妃とすることによって、ヒマラヤ地帯をシヴァ信仰に取り込むこととなったのである。また、ドゥルガー、カーリーの二女神は、ベンガル地方で多くの人たちに信仰されていた女神であったが、それがまたシヴァ神の妃とされることで、この地方もシヴァ信仰に取り込まれた。

このようにして、シヴァの妃は、サティー(貞淑)、アンナプールナー(豊饒)、などなど女性の持つあらゆる側面を神格化した女神がすべてシヴァ神の妃とされるにいたった。(もっとも、ヒンドゥーの人々は、シヴァ神の妃は一人であり、その一人の妃が女性の持つあらゆる側面を表す多くの女神に姿を変えているだけであるというのであるが。)それと同時にこれらの女神を信仰していた人々も当然シヴァ信仰へと取り込まれていったのである。

このように女神がシヴァ神の妃としてシヴァ信仰と結びついていく過程には、女神信仰に関するインドの特殊性も考慮されねばならないであろう。ヴェーダでは女神の勢いは決して大きくない。それは、ヴェーダを生んだアーリヤ民族は、「父の宗教」を持っていたからである。そのヴェーダを中心としたブラフマニズムが衰退を始めた頃と、インド各地に女神信仰が台頭する頃とがたまたま一致したこともあろう。一部の女神は、たとえば、ドゥルガーなどは、シヴァ神以上に信仰を集めることになる。村々の土着の神は、その多くが女神であり、その女神誕生の物語が、シヴァ神の妃として語られるようになったのであろう。

11)さらに、女神のみでなく、現在もボンベイ地方でことに人気のある知恵の神であり、また、富の神でもあるガネーシャという半象半人の奇怪な神を、シヴァ神の息子とすることによって、ガネーシャ信仰の人々もシヴァ信仰へと取り込んでいくのである。

 また、古代の民衆は、身の回りにいる動物や自然に対して篤い信仰心を持っていた。その典型が、古代のインドにおける牛の信仰であろう。重要な労力であることはもちろん、ミルクからとれるあらゆる食料は実に貴重であり、また、その糞までもが貴重な燃料となったことを思えば、彼らが牛に対して特別の信仰を持って当然であったであろう。ルドラが牡牛の意味を持っていたことも関連するであろうが、牡牛はシヴァ神の乗り物ナンディン牛として神聖化されてシヴァ信仰に結びついていったと思われる。これが有名な、インドにおける牛の信仰の源となったのである。

 牛の信仰もインダスの遺跡にみられ、これも非アーリヤ文化であろうといわれる。ヒンドゥーイズムの中心であるシヴァ信仰の重要な部分が非アーリヤ文化である、ということは、現在のインドを理解する上で重要である。先に述べたように、インダス文明の担い手であったドラヴィダの人々が、アーリヤ人の支配下に入った後にも、その文化は土着性となり、民衆に伝承され続け、ついには表面化してヒンドゥーイズムとなった、という筋書きが可能である。

 このように、シヴァ信仰の広がりを見るとき、ありとあらゆる信仰を飲み込んでいくそのエネルギーにはただ驚嘆するばかりである。

(iii) ヴィシュヌ神

 一方、ヴィシュヌの信仰はどのようにして広まっていったであろうか。それは、化身という手法を使って国民的英雄や人気の高い人物、動物などの信仰を取り込んでいったのである。化身とは、原語でアヴァターラといい、それは、「上から下へ降りてくる」、「降下」を意味している。つまり、下界が悪の支配により乱れると、神=ヴィシュヌが姿を変えて、世界を悪から救うために地上に降りてくる、という思想である。その典型が有名な叙事詩ラーマーヤナの英雄ラーマである。

 この物語は、マハーバーラタと同様、庶民の間に好まれていた英雄伝説であったが、人々はこの国民的英雄であるラーマを見逃すはずはなく、そのラーマをヴィシュヌの化身としたのである。

本来のラーマーヤナ物語は、王子ラーマが妃であるシーターを悪魔から取り戻す冒険物語で、無事に妃を取り戻して大団円で幕となるものであったはずである。ところが、いつのまにかその物語に、プロローグとエピローグとが追加された。天界で神様たちが相談をしている、今下界に悪魔がのさばり人々は苦労している、誰かあの悪魔を退治にいかないか、と。その役がヴィシュヌ神に決まり、かれはある王妃の体内に子として宿ってこの地上に出現した、それがラーマ王子であった。

これがプロローグである。かくしてラーマは英雄として大活躍し、悪魔を退治して妃を連れ帰る。

しかし、そこにエピローグが追加されている。その話は、こうである。無事、妃のシーターを救ったラーマは、シーターを妃として迎え入れようとしない。悪魔に幽閉されていたことで、もはや体が汚れていると冷たく言い放つ。悲しみに打ちひしがれたシーターは、大地の神に自分の身の潔白を証明するよう依頼する。大地の神はシーターの潔白を証明せんと、シーターを大地の奥深く抱き取ってしまう。大地の奥深くシーターが沈み込んだのをみてラーマは後悔するがもはや如何ともしがたく、ついには、元のヴィシュヌ神の姿に戻って天へ帰っていった、というのである。巧みにこのように前後をつけることによってラーマをヴィシュヌ神の化身と
してしまったのである。

 このような手法により、一般に理解されているだけで、ヴィシュヌ神には10の化身が想定されている。いずれも、古代からの民話に登場する動物であったり、英雄であったりするのである。ことに、化身の一つとみなされるクリシュナ信仰との融合も重要であるがここでは省略する。

 先にインドの休日のところで釈迦の誕生日までもが国民の休日になっていることにふれたが、実は、釈迦もヴィシュヌ神の化身なのである。インドの人々が、日本人を兄弟とみてくれるのは日本が仏教国であること(少なくとも、彼らにはこのように思われる)の故なのである。それにしても不思議である。インドにおいて仏教は反ブラフマニズムの立場で登場し、その思想もインドの伝統的思想とは鋭く対立し、インドの思想界で全くの異端者であり(たとえば仏教の無我の思想などはその典型である)、また、仏教の勢力は一時隆盛をきわめ、それ故、仏教以外の思想界からの敵意も相当であったのにも関わらず、釈迦がヴィシュヌ神の化身とされているのである。その取り込み方が実に巧妙でおもしろい。インドの伝統に真っ向から対立した釈迦その人を、偉人視するわけにはいかない。

しかし、衰退しかけていたとしても、仏教徒の勢力は無視できない。現在の1〜2%という弱小教団ではなかったのである。


12)そこでこのような話が作られた。ヴィシュヌ神は人間の姿をとり、釈迦となって、一見ヴェーダの宗教を守っている振りをしながら、実は、悪法を説きまくったのである、と。


13)かくして、釈迦の説く悪法に惑わされた悪魔どもはことごとく地獄に落ちて滅んでしまったのである。

かくして釈迦はヴィシュヌ神の化身としてヒンドゥー教徒からも大切にされると同時に、多くの仏教徒をヒンドゥーイズムに取り込むことに成功したのである。このしたたかな策略は誰が考えたのかはもちろん不明であるが、驚嘆に値する、と同時に、先のラーマの例と同様、ヴィシュヌ信仰がインド全土に広がっていった一例として我々の理解の助けとなる。かくして、釈迦の誕生日が国民の休日であって当然である。ひょっとすると近いうちに、シク教の教祖グル・ナナクも、いやそればかりか、キリストも、マホメットも、マルクスも(もっとも、最近彼の価値は下がったが、)ヴィシュヌ神の化身ということになるかもしれない、と真面目にいうインドの人もいるくらいである。

ここでもシヴァ信仰の拡大と同じく、あらゆるものを飲み込んでいくエネルギーが感じられる。

 このようなシヴァ・ヴィシュヌ信仰の拡張のあり方をみると、共通の特徴が明らかである。

それは、新しい土地に対して、そこにあった信仰をいったん否定して消しさり、その後に新たな信仰を植え付ける、というヨーロッパや中東にみられる方法と大きく異なっているのに気づくであろう。その土地の信仰をそのまま受け入れ、あるいは、化身とすることで、巧みにシヴァ・ヴィシュヌの信仰に取りこんでいく。当然、シヴァ・ヴィシュヌを最高の存在とみるものの、シヴァ・ヴィシュヌにまつわるその他の神々も同様に信仰対象として大切にしていく。すべてが、シヴァ・ヴィシュヌ信仰に飲み込まれていく、これがインドゥーイズムの本質である。


(4) ヒンドゥーイズムの光と影

 このようなシヴァ、ヴィシュヌ両神の信仰の拡大を眺めてみると、バラモンの意図は別にして、かくも、なにもかも巻き込み飲み込んでいくという傾向は、インドという土地に古来からある土着性のものであろう。しかし、宗教活動面で、民衆から遊離してしまっていたバラモンは、民衆の信仰に迎合し、自らの変身を始めると同時に、彼らは、リグ・ヴェーダ以来説かれてきた宇宙の法則(リタ=ダルマ)を基準とした自らのバラモン世界の価値体系の整備を謀ってもいるのである。

14)それが明確な形を取ったのが、マヌ法典の名で代表される法典類の整備である。
マヌ法典が成立したのは、およそ、紀元前後と言われるが、法典の整備自体はBC5〜6世紀から始まっていたと思われる。

15)必然的に、その内容はヴァルナ体制に沿ったものであり、それら法典類の作成は、ヴァルナ体制の維持強化の役を果たすことになる。ヴァルナ体制が確固たるものとなれば、下位の人々は上位の真似をすることで少しでも上位たらんと欲するものである。不殺生(アヒンサー)の戒をまもるバラモンの菜食主義を下位の人々も真似をし、少しでもバラモンに近づく努力をした。

かくして、リグ・ヴェーダ時代には、人々は肉を食した記録があるにも関わらず、時代が下がると、バラモンのみでなく下位のヴァルナの人々も菜食主義となり、現在のような事態に至っている。

 このようにブラフマニズムからヒンドゥーイズムへ変化していく過程で、バラモンたちは、民衆に迎合せざるをえない局面では、民衆に容易い道を与える一方で、ヴァルナ制度の維持というバラモンにとっての重要課題を巧妙に宗教の中に織りまぜつつ、次第に現在のようなヒンドゥー社会に移行していったのである。そのようなヒンドゥーイズム生成期にあって、偉大な叙事詩マハーバーラタに挿入されたバガヴァッド・ギーターは、一般大衆の絶大な人気を博し、ヒンドゥーイズム・ヴィシュヌ派最大の聖典となるにいたったのである。そこには、上記に述べたバラモンが民衆の信仰を意識した面と、ヴァルナ体制の維持を意識した面の両面が如実に現れている。重要な部分を少し引用してみよう。

 対戦の火蓋が、まさに、切って落とされようとするその時、弓の名人アルジュナは、相手陣内に自分の同胞・親族の姿を見て、一族同士が殺戮しあわねばならないこの戦いを嫌う。

そこで、馬車の御者を勤めていたクリシュナ(実はヴィシュヌ神)が、

「汝戦うべし」

と檄を飛ばす。そのクリシュナの教示が、バガヴァッド・ギーターそのものである。


  人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬
  虔な人から、信愛を持って捧げられたものを私(神)は受ける。

  たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人
  であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。

  実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産
  業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。

  いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙(クシャトリヤ)である信者たちは
  なおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。
  私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。この
  ように私に専念し、(私に)専心すれば、あなたはまさに私(神)に至るで
  あろう。

  更にまた、あなたは自己の義務(スヴァダルマ)を考慮しても、戦慄(おの
  の)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、
  義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。

もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉と
  を捨て、罪悪を得るであろう。

  あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享楽するであろう。それ故、
  アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。

苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうす
  れば罪悪を得ることはない。


16) ブラフマニズムの説く抽象的な解脱論では、もはや民衆には訴えるものはなくなっていた。

苦に他ならないこの生を無限に繰り返す輪廻から逃れるためには、厳しい修行をし、禁欲・苦行をして自己の中にある自己の原理アートマンが、宇宙原理ブラフマンと一体であることを認識するほかはない、というウパニシャッドの思想は、毎日の生活にあくせくする一般の庶民にとってはなにの救いにもならなかった。また、リグ・ヴェーダ時代の祭儀は、形骸化し、バラモンの立場を守りこそすれ、庶民の悩みに応えてくれるものではなかった。かくして、一般民衆は、救いを何に求めたか、それがここにみられるバクティとプージャーであったのである。日常生活を
営む中で神へ信愛(バクティ)を捧げ、沐浴により身を清め、身近な花や水を神に供える供養(プージャー)により解脱できる、という易行道がここには説かれている。これにより、ヒンドゥーイズムは一般民衆に爆発的に受け入れられていった。ちょうど、日本の鎌倉仏教が民衆に受け入れられたように。

 しかしバラモンもしたたかであった。最高の真理の世界としてのブラフマンはそのままヒンドゥーイズムにも受け継がれる一方で、自己の義務(スヴァダルマ)の遂行もしっかりとこれに付随させていたのである。宇宙の法則ダルマの教示は、自ずと各自が自ら持つ社会的責務の遂行へとつながる。

それ故、自己の義務(スヴァダルマ)の起源もリグ・ヴェーダに遡ることが出来るのである。


17)
またしても古来からの思潮を切り捨てることなくその上に諸思想を重ねていくというパターンがここにも見られる。


3 まとめーー未来に向けてーー

 輪廻を繰り返すこの世界で、人々は神にバクティを捧げつつ、自己の義務を遂行することが解脱への道でありブラフマンの世界にいたる道である、と説く上記のギーターを民衆はなににもまして重要な聖典として大切にしたのであった。かくして、貧しくともヴァルナ・ジャーティ制度に疑問を持たず喜々として自分の仕事に精を出し、神にバクティを捧げる現代のインドの人々の心の中には、このようなヒンドゥーイズムの聖典の言葉があるのである。前述したように、長年に渡る政治的努力にも関わらず、ヴァルナ・ジャーティ制度が改善されない理由もここにある。

18) 何度も輪廻を繰り返すうちに必ずこのような最高の世界に到達できる、と信ずる心では、時間はまさに無限に見えるであろう。今、この時間とても、無限に続く一瞬であるにすぎず、輪廻の一こまにすぎない、と感じるに違いない。先に述べたインドの人に時間の観念が希薄であるのは、このことも無関係ではないであろう。

 また、宇宙との一体を説くウパニシャッド以来の宇宙根元ブラフマンの思想は、自然との共生を前提としたもので、無限の時間の中で自然と一体となって生きる喜びを説いているともいえる。

このように、ありとあらゆる思想を飲み込み、ヒンドゥーイズムとしてしまう土着性に気付けば、新旧が並行していても違和感を与えないのも当然といえる。
 以上で最初に述べた、インドにおける様々な感想が、実は、まさにインド的なるもの、インド土着のヒンドゥーイズムを根底として生じてきているのに気づくであろう。まさに、ヒンドゥーイズムという語はインド理解のキーワードなのである。
 時間の都合でこれ以後、現代に至るまでの詳細は別稿を期すこととして、重要なポイントだけを以下に挙げておく。

8世紀以後、北インド、殊にパンジャブにはイスラムが根を下ろす。それ以後、
北インドはヒンドゥーイズムとイスラムの相克の地となる。しかし、そのような中においてもヒンドゥーイズムはたくましく生き抜いていった。何でも飲み込んで自分のものにしてしまうという社会は、イスラムをも飲み込んでいったのである。

イスラム側からのヒンドゥー融和策があったにしろ厳しいイスラム支配の中で人々は依然として、神へのバクティを捧げ、力強く生きていったのである。そのような中で、15世紀、ヴィシュヌ教徒であったラーマーナンダは、イスラムの影響を受けてカースト否定、男女平等を訴えた。その彼の思想は弟子カービルをへてナナクへと継承されていく。ナナクは、やはり、15世紀に、ヒンドゥーの子に生まれたが次第にイスラムに傾倒していき、ヒンドゥー・イスラム両者の相克の中で彼が確信に至ったことは、両方の宗教によって神は種々に説かれるが、真の神は唯一であるということであった。その神に近づくのは、バクティによるほかはない、と主張したのである。

つまり、ヒンドゥーとイスラムの折衷的宗教・シク教の誕生である。ヒンドゥーイズムを中心としてこのように複数の宗教を統一しようとする努力は後に18世紀19世紀のラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの運動へと続いていき、インド独特の宗教運動が展開されることになる。その象徴が、カルカッタにあるラーマクリシュナ・ミッションの世界本部の建物である。それは、ヒンドゥー教寺院・イスラムモスク・キリスト教会の三様式を取り入れた建物となっている。このような発想から、いま世界を悩ませている宗教戦争や民族紛争の解決の手がかりがつかめるかもしれない。そのように考えると、すべてを飲み込むヒンドゥーイズムが奇怪に映る一方で、人類を救う可能性を持っているともいえないであろうか。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yamakami/hinduism.html


10. 中川隆 2013年3月03日 23:36:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

IT関連産業を牽引役に高度成長を続けるインドですが、まだまだ多くの人が貧困に苦しみ、社会的下層民に対する差別意識も残存しているというのが、現在のインドの姿ではないでしょうか?

この間、追及してきたように、インドの序列原理の根幹には、カースト制度があります。

このカースト制度は、圧倒的多数を占める下層民の私権追求の可能性を封鎖することによって、私権をめぐる争いを制御してきたという側面と、下層民の社会に対する当事者意識に蓋をし続けたという側面を併せ持ちます。

そこで、今回は、この視点からカーストの歴史をおさえなおすと同時に、経済成長にともなう大衆の意識状況の変化→政治状況の変化をおさえ、今後につながる可能性の実現基盤を探ってみたいと思います。

                   

インドのカースト制度とダリット 《引用・編集》

○カーストの歴史【支配観念の捏造と洗脳】

カースト制度の起源は不明瞭であるというのがほんとうのところである。しかし、アーリア人の移動仮説のいくつかの解釈が、カースト制度が侵入の産物であったことを理論づけている。それは、アーリア人が自分たちのために、より高いカーストを用意して、彼らが征服したより暗い皮膚をした在来の住民をより低いカーストおよび不可触身分に降格させたという考えである。

つまり、アーリア人が先住民を支配するために、ヴァルナ制が作られていったと思われる。すなわち人種差別・民族差別がカースト制の根幹にあった。


後期ヴェーダ時代に宗教の名のもとに、力と権威の地位にある人々によってカースト制度は正当化され利用された。彼らの目的は、バラモンの支配を貫徹して、支配階級への競争を抑えることであった。一つの世代からもう一つの世代まで口伝形式でヴェーダの知識を受け渡す伝統のおかげで、ヴェーダの呪文が操作され、いくつかの新しい詩が、カースト制度を正当化しバラモンの支配権を確実にするために如才なく故意に初期のヴェーダ聖典に組み入れられた。 リグ・ヴェーダの巨人の歌は確実にリグ・ヴェーダへの後日の添加であるとされる。 カースト制度は、義務しか持っていなかった圧倒的多数の下位カーストを社会から疎外し、彼らの時代の出来事に無関心で無関係にした。

○ダリット(不可触民)の起源【支配階級から最も遠い人々】

ダリットの起源は、カースト制度と同様に不明瞭である。不可触の考えが生まれるのは、マヌ法典以降ともいわれる。紀元後3・4世紀になっても、あらゆる賤民が不可触民ではなく、いわゆる、不可触民という概念が確立するのは、インド中世の紀元後8〜11世紀頃であるともいわれている。マヌ法典や仏典にはっきり現れているように、差別すべき人間を差別することこそが規範であり道徳であった。カースト制では、同一カースト内部の結婚が厳重に強制され、他のカーストと混血したものはその共同体から追放された。


元来、狩猟文化(「殺生」、皮はぎ、肉食)と密接なつながりを持っていた文化的に異質な集団が、定住農耕社会の周縁に組み込まれて、人々の忌避するような仕事をするようになり、さらに血統意識が加重されることによって、代々穢れがみについて、けっしてのぞくことができない存在という、賤民観念が生まれたとも考えられている。
 


○大衆の意識状況の変化→カースト制度の変化

ダリット出身の初の大臣としてインド憲法を起草したアンベドカルに導かれた新仏教徒が、1960年代以降の解放運動の中心だった。新仏教徒は、1970年代はまだ600万ほどだったが、今日では約1000万人に達している。キリスト教徒やイスラム教徒のダリットも、それぞれ独自の立場で解放運動をやっていたが、1992年に宗教の各宗派を統合したダリットの全国連絡会議「ダリット連帯プログラム」が初めて結成された。


こうした解放運動や時代の進展につれてカースト制度も変化してきている。インド憲法は、不可触民制の廃止を宣言し、「指定カースト」、「指定部族」、下級カーストの「後進諸階級」の三集団に対する特別措置を設けることを定めた。すなわち、教育と公的雇用と議会議席の三分野で、留保システムの実施が宣言され、国家が定めた委員会によって次々に新政策が実施されてきた。

1991年に国民会議派のナラシマ・ラオ首相が市場の自由化政策を導入し、新産業路線を実施した。国家による経済統制を大幅に緩和して、外国からの投資に門戸を開いた。IT関連産業の開発を最優先課題として、大学を各地に増設した。その結果、国内総生産は6%をこえる高度成長が毎年続いた。外貨準備高も増え、一人当たりの国民所得も倍増した。知識人階層が増え、アメリカなど外国への留学生も増大した。社会意識や文化的価値観の分野でも、大きい構造的変動をもたらしつつある。ラマ政権は文化面における開放政策も実施した。テレビを中心としたメディア改革で、報道管制は大幅に緩和され、国営TVだけだったのが今では30チャンネルをこえるTV番組が放映されているという。

大学でも人権教育が始まり、世界の新しい情勢を学んだ若い人たちは、カースト制そのものを原理的に問題にするようになった。

戦後インドを指導してきた「国民会議派」は、今日では国会で過半数をとれず、下層カーストとダリット出身の議員が多い「中道・左派グループ」が進出してきている。残りは、北インドの上位カーストを中心に組織されたヒンドゥー教至上主義を唱える「インド人民党」があり、パキスタンとの紛争や原爆実験など保守系の民衆を煽って国家権力を握っている。


誰が大衆の当事者意識に蓋をしているのか?その答えは、明白ではないでしょうか。
既に、日本が経験してきたように、【貧困の消滅→私権の強制圧力▼→序列原理の無効化】は普遍的な構造です。

そこで求められるのは、旧観念に代わる新しい構造認識=答えに他なりません。
支配階級から最も遠い位置に生き続けてきた人々こそ、「インドなるもの」=共同体的体質を残存しており、これからの恐慌→脱市場社会で答えを出せる可能性を秘めた層ではないでしょうか?
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/08/001113.html#more

ダリットの置かれている現状の報告

インドではダリットは生まれながらにしてダリットです。 ダリットの人たちは独自の文化を持っていて、それは何千年も前にさかのぼり、インダス文明のころから伝わっています。

しかしアーリア人のインド侵略によって法典が入ってきました。 その教えによって法典のほうが重要になるようになりました。

アーリア人の侵略の前にはカースト制はなく、人々はみんな平等でした。 三千五百年前にアーリア人が入ってきたことによってカースト制ができました。その頃からダリットはカースト制を受け入れることを拒否していて、アーリア人と一緒に生活することを拒否してきました。そういった人たちを触ることはもちろん、見ることもできないアンタッチャブル(不可触)としてきました。ダリットがいるところに人が近づいてきたら、ここにダリットがいると音で知らせました。

その不可触制は法律で禁止され、そういったあからさまに見てはいけない、触ってはいけないということは無くなってきていますが、違った形で差別は残っています。


ダリットの現状の歌を歌ってくれるスタッフ

サンダルを履いてはいけない、トイレなどの公共施設を使えない、ダリットの人が亡くなったときにどこに埋めてもいいというのではなく、埋める所を決められています。

特に、ダリット女性の状況は深刻で、低賃金で限りない重労働を課せられ、不可触民、穢れているといった差別を受けているにもかかわらず、夜になるとセックスを強要されたり、性暴力を受けます。その時だけ、不可触民であるということが忘れられています。 そういったことがインドのダリットの中で女性のおかれている状況であります。

ダリットの教育問題は大変深刻になっていて、インドの教育が民営化されたことによって、お金のある上位カーストは私立の学校へ子どもを行かせ、お金のないダリットの子どもは公立の学校へ行きます。公立の学校は教師の給料が低く、設備も全く整っていません。 そういう中で、たとえ学校に行ったとしてもあまり良い教育を受けられていないというのが今の問題となっています。

カースト制のために持つべき権利を奪われているし、権力を持っている人たちはダリットがどんどん力を付けていくこと、政治に参加していくことを許さない。ただ、選挙の前になると票のためにその時だけ良い扱いをするけれどもそれは一票のためにやっており、政治に参加してくることは望んでいません。

ダリットの人たちが自分たちの権利を主張した時にはどういったことが起こるかの事例を挙げると、1つは団体で賃金を上げるための要求運動をした時に、40人が集まっていた家に放火され焼き殺されてしまいました。
2つ目は、他カーストの人たちも住んでいる村でダリットの人が村長に選ばれたが、他カーストの人がそれに従いたくないので村長とダリット6人がバスに乗っている時、7人全員が首を掻き切られて殺されました。この事件は2000年に起こった事件です。

いくつかもう少し差別の事例を挙げると、学校での一つの例は、8歳の女の子がのどが渇いたので冷水機から水を飲もうとした時に、「この水は他カーストのための水だ。おまえの物ではない。」と言って教師に叩かれ、片目を失明してしまったという事例があります。

また、警察によるダリットやダリット女性に対する暴力の事例ですが、夫が盗みをしたという容疑で職務質問のために警察に呼び出されて行った後、その夫が全然帰ってこなくなってしまいました。そのときにも暴力を受けていたのですが。 すぐに帰ってくるというのに帰って来なかったので妻が食事をもって面会に行くと、そこで叩かれて暴力を受けて、その場でレイプされたという事例もあります。こういった事例はたくさんあります。

もう一つ事例を挙げると、子どもが水浴びや体を洗ったりするのにタンクの中に入っていたことがあった。そこに上位カーストの人たちがきて、電気を走らせて感電死させたという事件がありました。

この事件に対してダリットの人たちが運動を起こしました。 こんな事があっていいのかとかなり大きな運動となり、この事件を訴えたが政府は全く見向きもせず、何のサポートしませんでした。そして、運動をした結果、その問題を分かってもらえたのではなく、上位カーストからやっぱりダリットは水を持つべきではない。ほらみてみろということを言われました。 その村は、ダリットが全く力を持っていない村で、仕事もなく、食べる物もろくにありません。運動がない村はやはりそういう状況にあります。

ダリットの人たちが家を持てるようにする政府の政策があるが、ダリットの人たちに直接行うのではなく、村の村長を通して事業が展開されています。しかし村長を通して家を建てていくことになるので、ダリットの人たちは賄賂を渡さないと家を建ててもらえないという状況があります。

家を建ててもらうために村長に2000ルピーの賄賂を渡して訴えたけれども、賄賂を払ったにもかかわらず、だまされて家を建ててもらえなかったということもありました。お金を払ったのに家を建ててくれないのかと訴えると、訴えを起こしたことに対してその人は木に縛り付けられ、「これがおまえたちの食べる物だ。」と人糞を食べさせられたという事件がありました。この事件でこんな事があってはならないと状況報告のレポートを作成して政府に訴えつづけているが、今のところ何の対応もありません。

インドには留保制度というのがあります。 政治家や村の村長など代表の18%がダリットでなければならないという制度です。それはすべての政党の中でも適用されていて、ダリットがその政党の代表になることもありますが、その人たちはダリットの代表としてではなく政党の代表として話をするので、そのひとたちによってダリットの問題が表に出ることはありません。ダリットの問題について話をしたいという人が代表になろうとするとなかなか代表になれません。ダリットの問題を公にすることは許されない状況にあります。

ダリットの人は人がしたくない仕事、穢れるという状況があります。 なぜそのような特別な仕事を与えられるかというと、それはカースト制に基づいています。

カースト制とヒンドウー教というのは結びついています。 ダリットの人たちがそういうことに気付き始めると、ヒンドウー教を否定したり、ヒンドウー教徒になりたくないといって仏教やムスリム(イスラム教徒)、キリスト教に改宗していく人が今増えています。政府はそのようにダリットの人たちが改宗していくのを避け、人がやりたくない仕事をダリットの人たちにこれからも押し付けていきたいので、ヒンドウー教から改宗させないための法律をどんどん成立させています。

このような事件がどんどん起こっています。
私たちはどんどん運動を起こして、こういう状況を変えていかなければなりません。
ファティマや色々な人がここで活動しているように、草の根レベルで広げ、国内レベルへ広げていく、そして国際レベルに訴え、あらゆるレベルに広げていくことだ大切だと思っています。だから、日本から来た皆様に話ができたことを大変うれしく思っています。
http://www.fujimoto-mariko.net/activity/20040206_0


宗教ってなに?番外編〜インドに仏教が根付かなかったのはなぜ?@〜

  

まずは、問題意識から書いていきたいと思います。

 元々の疑問は、仏教はインドで誕生したにも関わらず、現在のインドにおいて、人口の約8割がヒンドゥー教を信仰しているのはなんでだろう?という疑問です。仏教が他のどの国でも信仰されていなければ、仏教が統合観念として不十分であったと考えることができますが、仏教は西アジアを除くアジア全域に広がり、現在は東南アジアを中心に約3億8000万人の信者を有する世界三大宗教の一つとなっています。このことから、発祥の地であるインドで根付かなかったのは、仏教が統合観念として不十分であったのではなく、インドという国に何か原因があったと考えた方が自然であると言えます。

 仏教が誕生する以前のインドで信仰されていた宗教といえば、バラモン教です。バラモン教になじみのない読者も多いのではないかと思いますので、簡単にバラモン教の概要を書いてみたいと思います。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  


●バラモン教の成立ち
 インダス文明が衰退する紀元前1500年頃に、インダス川流域に侵入してきたアーリア人が先住民の宗教と融合させた自然現象を神格化した宗教がバラモン教のはじまりです。


●カースト制度
 バラモン教の名称の由来は、アーリア人社会の身分制度=カースト制度の最上級バラモン(神に仕えるもの)によるものです。カースト制度は4つの身分に分けられ、ヴァルナ(四姓制度)と呼ばれています。ヴァルナは肌の色の意味で、肌の色による差別をあらわしたことがもとになっています。

 カースト制度は上から順にバラモン(神に仕えるもの)、クシャトリア(王侯・武士)、ヴァイシャ(庶民)シュードラ(奴隷)となっており、バラモンからヴァイシャまでがアーリア人、シュードラは非アーリア人によって構成されていることから、バラモン教は征服民の宗教であることが分かります。


●バラモン教の教義
 バラモン教の教えは、輪廻転生の考え方が基本的なものとなっています。人間は生きているときの行為(カルマ・業)から判断されて、死後人間に生まれ変るか、他の動物あるいは植物などに生まれ変るかが決まるというものです。

 この世で善く生きることが出来ると最終的に輪廻から脱して解脱ができるのです。ヒンズー教も仏教も、バラモン教の輪廻思想が基盤となっています。

 バラモン教の聖典「ヴェーダ」は神の啓示によってつくられたといわれており、4編からなる文書となっています。「ヴェーダ」はバラモンによって掌握されており、バラモンは絶大な力をふるっていたと考えられます。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 仏教の創始者であるブッダは、このようなバラモン教が信仰されていた、北インドの王族の息子としてこの世に誕生したのです。  
                       


コメント


仏教はインドにとっては後発の宗教です。

あるいはそれまでカースト支配が進行していた、アーリア人によるバラモン教に対する反として登場した、民間宗教です。

他にもジャイナ教などバラモンが社会の頂点であり、特権身分であるという事を疑いはじめた大衆の心理に呼応して登場したのです。

仏教がインドに根付かなかったのはカースト制の否定の為という目的にあったのからではないかと思います。結局、その後のインドにカースト制が残り続けたように仏教は決して大衆レベルで根付く事はありませんでした。

言い換えれば、インドにとって仏教は最初から体制否定のマイノリティの宗教に過ぎなかったという事ではないでしょうか?

注目すべきはその後、中国、朝鮮半島、日本で定着する事になったのはなぜか?という後者の方です。

我がインドチームでも仏教についてはいずれ取り組む予定ですが、先行してぜひその道筋をつけていただければと期待しています。
投稿者 tano : 2010年06月08日 20:35
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/05/001072.html


なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか その1〜

インドにおいて誕生した仏教。 アジア各地に広まり、日本に定着しました。

しかし、インドにおいて仏教は、13世紀以降その姿を消しました(現在は復活の兆しがありますが)。

学者からは、様々な説が出されており、定説では、イスラムによる攻撃となっていますが、だとしたら、仏教以外の宗教、とりわけヒンドゥー教が残ったのは何故なのか?

どうも、仏教徒だけを攻撃したとは考えにくいのです。

そこで、今回は、その仏教衰滅の謎に迫っていきます!

 


インド仏教史の概略を下の図にまとめました。

その1 では、仏教が誕生する直前のインドの状況を押えていきます。

1.仏教成立の時代背景

○バラモンの思想

 紀元前15世紀ころ、西方よりインド西北部に進入したアーリア人たちは、先住民族と同化しながら定住し、農耕生活を始めました。その中で、次々とインドに進入してくる異民族との抗争を避けながら、アーリア人たちは西北インドからガンジス川の下流地域へ東漸するに従って、それまで経験したことのない厳しい気候・風土にさらされることになります。そこで、登場するのが呪術的信仰です。

 なぜなら、呪術的信仰は、人をして災いを逃れしめ、福を得させるという現実生活の直接的な欲求に応えようとするところに生まれるためです。
 インドの場合、東漸により、新しい環境・風土の厳しさがいや増してアーリア人に襲いかかってきました。

 ガンジス川流域のジャングルを切り開き、開墾しつつ、東漸していくアーリア人の前途は多難であったであったろうし、予期せぬ災厄や病気が、いつ降りかかるかも知れぬ危険にさらされていたでしょう。そのような状況により、人間に恵みと喜びを与える自然の諸現象を、人格的な神として崇め讃える、多神教的なおおらかで明朗な信仰は維持できなくなります。そして、いかにして予期せぬ災厄や病気が降りかかるのを防ぎ、生活上の直接的な福徳を招くかが課題となっていきました。

 そこで、土着の民が行っていた呪術的な信仰を取り入れていくことになります。そうやって、彼らは神々への祭式を発達させ、祭式を通して神々を動かし、闘いに勝利したり豊穣をもたらそうとしました。そして、その神々への讃歌や祭式の方法が述べられたヴェーダとよばれる聖典が編纂されました。

 そのヴェーダ哲学は、一言で言うなら祭式の意義、祭式の時唱える言葉についての哲学的考察、祭式の対象である神々についての考察などです。ヴェーダの祭式の伝統では、人生の節目、毎年の季節の節目毎に種々の儀式が行われていました。つまり、時間の経過とともに人生や自然からは、創造的なエネルギーが失われ混沌と化して行くので、種々の儀式によって力を補ってやり、再び人生や世界を調和へと導くことができる、と言うのです。

 人々が自然とともに生き、自然に畏敬を感じつつ生活していた時は、毎年毎年円を描きながら循環していました。

 ヴェーダ文明の最前線地帯、ガンジス河中下流域は、盛んだった稲作による穀物流通で、非常に潤っていました。

 当然、そのような時代状況では、富と財力を背景とした物質的、享楽的風潮も広がっていました。バラモンと呼ばれたヴェーダ祭式文化の中心者たちの中には、それを嘆かわしい堕落と考える人もいました。その人々にとっては、ガンジス河中下流域は「堕落の地」でしたが、彼らはただ、ヴェーダの伝統を墨守するだけでした。

 また、バラモンの中にも、物質的、享楽的風潮に流され、追従する輩が出てきました。

 そんな物質的繁栄をただ一つの目的として生きる人が恐れるのは、貧困、病気と老いと死です。自分の望みの追求が、それによって断絶してしまうからです。今の自分への固執は、他の状態、異なるものへの嫌悪、恐怖となります。

 それで、その人々は儀式を行い、財産・子孫・長寿を得る祈祷をバラモンに行ってもらうことで、功徳を積み、その望みの達成を願ったのです。ここで、「循環的な時間観」から「蓄積的な時間観」へと、大きな変化が生じ、祭式の意味について思索が深められ、前6世紀にはウパニシャッドと呼ばれる哲学的思索の書が形作られました。そのウパニシャッドの中で展開されたのが輪廻と解脱の思想でした。

○輪廻と解脱、カースト制度

 「輪廻」とは、生き物がそれぞれの業(過去の行為による報い)によって生と死をくり返すことをいいます。つまり、現在の生のあり方が次の生のあり方を決定するというのです。しかし、エジプトとは違いインドの過酷な自然のもとでは、生と死の繰り返しは苦痛だったのでしょう。この輪廻転生は、何とかして断ち切られるべきものと考えられたのです。

 この「輪廻」を循環的な時間観と捉えがちですが、輪廻が業報(がっぽう)思想と結びついた時、それは無限の因果の連鎖になってしまいます。もはや、人は元いたところには戻れず、善業も悪業も蓄積され、無限にその連鎖が続くのです。循環ではないのです。しかも、その場合の、善業は現実の欲望(自我)を満たすという目的にかなったものが、善とされているだけなのです。

 そして、祭式を司っていたバラモン(祭祀階級)たちは、祭式を行いその意味を知る者だけが、神秘的な智慧と儀式の力によってその善業を積み、輪廻から抜け出し得ると言い、その解脱の境地を、個々の人間の魂であるアートマン(自我)と宇宙の原理ともいうべきブラフマン(根本原理)との合一(梵我一如)であると説いたのでした。
 
 こうした祭祀の根底には、行う側、行ってもらう側双方に、自分を呪縛する「欲望(自我)」があります。それを釈迦は発見し、「祭式」を強く批判しました。『人々が祭式を行うのは、「今の自分」に執着しているからである。老いなど「今の自分」と異なるものに不安と嫌悪を抱くから儀式を行うのである』と。

 「今の自分」は「今の社会の仕組み」「今の世間の常識」に複雑に呪縛されています。「今の自分」「今の境遇」の延長に対する欲望は、「今の社会の存続」を何の疑いもなく受け入れることなのです。しかし、実際には自分は変化し、世間も、社会も変化する。変化する自分が変化する世界と出会う。その出会いの瞬間の多様なきらめきを如実に捉えようとしたのが、釈迦でした。釈迦の「慣習的祭式」批判は、祭式の深層に潜む「欲望(自我)」からの解放の運動だったのです。もちろんその批判の対象として、「カースト制度」も含まれてきます。「カースト制度」というものは、変わることを恐れるが故に、生涯固定の身分を作り出し、上層(バラモン)階級に至っては、そこに安住することを求めた結果なのです。

○女性蔑視の思想

 バラモンを頂点とするカースト制度に縛られたヒンドゥー社会においては、上記の輪廻観と、浄・不浄観の広まりによって、月経の際に血を流す女性は、本質的に「不浄」「邪悪」「軽薄」「淫ら」なものとされ、「女は出産の手段」「男児を産んでやっと一人前」「娘は厄介者」とされていました。

 そして、宗教的にはシュードラと同位相に位置づけられ、「三従(子供の時には父親に従い、嫁いでは夫に従い、夫の死後は子に従う)」が規範化されていました。

○商工業の発展→自由思想家の登場

 紀元前7世紀を過ぎると、先にも述べたように、農業の富が蓄積され、富と財力を背景とした物質的、享楽的風潮も広がっていき、次第に商工業が栄え、いくつもの都市国家が成立するようになり、いよいよ本格的に私権時代に突入して行くことになります。。
 
 私権時代になり、新しく力を持った王族や商工業者は、従来のバラモン的祭祀では、新たな貨幣経済においては、何ら役に立たないことを痛感し、これまでのバラモンの思想に代わる新しい思想を求め始めました。また、王族や商工業者に富が集中するに従って、人工的な貧富の格差が生じ、シュードラより下位の階級の民衆は、その苦しみからの脱出を願っていました。
 
 そして、それら脱出への勢力を代表する思想家が多数出現しました。その中の1人が釈迦です。彼らはヴェーダの権威を認めず、ウパニシャドが主張した、宇宙原理が実在するとは認めませんでした。そして独自に、この苦しみの世界からの脱出、輪廻的生存からの解脱を追求したのでした。それらの主張の中には、私権を肯定する快楽論を説く者や、徹底した唯物論を展開する者など様々でした。
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/07/001102.html

なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか その2〜


2.仏教誕生

 仏教は、一般的には釈迦が真理を悟った時を以って、誕生と言われています。前回(シリーズ「インドを探求する」第9回〜なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その1>〜)は、その仏教が誕生するまでの時代背景をまとめました。仏教は、インド社会において、共同体による共認社会から、貨幣経済による私権社会への移行期に誕生しました。つまり、私権への違和感から発生したのです。

 そこで今回は、釈迦が得た真理とは何なのか?そして彼は、何を人々に伝えたかったのか?について、まとめていきたいと思います。



○ブッダの誕生

 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、釈迦族の王子として現在のネパール南部に生まれました。16歳で結婚し一子をもうけ、何不自由のない生活を送っていました。そのような王子がなぜ家を出悟りを求めようとしたのか。仏典には次のような出来事が起こったと書かれてあります。

 ある時彼が外出のため東の門から出たところ老衰のため哀れな状態となった老人に出会う。別の日南の門から出たところ重病人を見て病の避けられないことを知り、さらに西の門から出た時には、死人が担架に乗せられ嘆き悲しむ遺族がつき従うのを見かける。最後に北門から出たとき、彼は柔和平静な出家者に出会ったというのです。

 生老病死を始めとして、世界が苦しみに満ちていると知った彼は、なぜ苦しみに満ちており、なぜ誰もが(自分自身も含め)苦しむのかと考えた末、出家者の生き方を選び(当時は、出家するのが当たり前でした)、妻子を捨てて王宮を出たのでした。29歳のときです。その後彼は6年間、他の修行者に混じって苦行を行いますが、結局真理を得ることはできませんでした。
 
 そして、いたずらに肉体を痛める苦行は人生の苦しみから脱却する方法にはならないと判断した彼は、苦行を止めて川で沐浴をします。疲れ切っていた彼は、その川で倒れてしまいます。その時、傍を通ったスジャータという少女が差し出した乳粥で体力を回復すると、彼は静かに菩提樹の下で瞑想を行います。そして、今まで出会った人々のことを思い返しはじめます。そこでようやく真の智慧を得、ブッダとなりました。


○釈迦の悟った真理

 仏教において、釈迦は真理を悟った人であり、人々は釈迦の教えを学びながら、自らも真理を悟る(ブッダになる)ことを目標にします。これが例えばキリスト教のように、唯一絶対の神による救済といった考え方や、ヒンドゥー教のように限られた人間(バラモン)だけが悟りを得る、といった考え方とは異なるのが、仏教の大きな特徴です。では、その釈迦が覚った真理とはどのようなものだったのでしょうか。                         

釈迦が世の人々に説こうとした教えの本質は、一人一人に与えられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生き抜いていくことのできる智慧と、たくましい生命力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることでした。
 しかし、この教えの本質をそのまま明かすことについては、釈迦はかなり慎重であったようです。なぜなら、人生を積極的に肯定して生きる、ということを人々にストレートに語れば、人々が誤解する恐れがあったからです。その誤解というのは、現在、自分たちが生きている煩悩(自我的欲望)と、自己中心的な人生をそのまま肯定して、それ以上の高い人生を生きようとは思わなくなるからです。

 もし、教えの結果がこのような態度を与えるものならば、釈迦の同時代に支配的であった快楽主義、現世主義と何ら異なるものではなくなります。そこで、釈迦はいったん、人々が生きている人生を「苦」として否定し、煩悩や享楽に振り回される自己中心的なあり方を、徹底的に克服することを強調しました。そして、その否定的な教えを通して、人々が目前の人生に対して、懐疑の眼を持ち、より高い次元の人生へと眼を向け直すことを願いながら、教えを説いたのです。

 ところが、仏教徒の一部の人々(主に上座部派)は、この釈迦の教えを、その奥にある真意に気付かずに、文字通り受け止めたため、仏教を厭世的・消極的なものとして、展開してしまったのです。それが終には、「灰身滅智(けしんめっち)」といって、煩悩を起こす自らの身体を灰にして無くし、様々な迷いを生じる人間の智慧を滅することこそ悟りであると捉えて、結果的に、この現実の生とこれを取り巻く社会から逃避することとなったのです。

 この傾向を是正し、釈迦の本来の真意に立ち返って、仏教の真実の精神を躍動的に継承したのが大乗派でした。ここにおいて、単に形式的に、人間の煩悩や迷いの心を断ち切るというような考え方ではなく、人間一人一人の生命の奥底に内在する仏の智慧と生命の力を、引き出し顕在化することによって、煩悩の持つエネルギーを正しく活かす道を浮かび上がらせました。

 これが、煩悩を菩提へ、生死の苦を涅槃の悟りへと転換する原理として、大乗派では特に大切にされた道です。それゆえに、大乗の教えは、極端な禁欲に囚われるのではなく、かといって煩悩・欲望に翻弄され、享楽に流されるというのでもなく、その「中道」を生きるあり方を積極的に切り開いたものと言えます。


○智慧と慈悲、そのための事実の追求へ

 釈迦は、自らの覚った真理を自分一人の中にとどめるのではなく、全ての人々に伝えようとしました。仏教においては世界を理解する智慧は常に、人々の苦しみを取り除き、楽を与えようとする慈悲の実践(抜苦与楽)と結びついています。抽象的な論議、議論のための議論は必要ではありません。

 この世界で、苦悩や欲望に囚われた人間は矢に当たった男と同じだと釈迦は言います。その男にとっては、何よりもまず矢を抜き、傷の手当をすることが必要であるのと同様に、人々に必要なのは苦しみの原因である煩悩や欲望(自我)という矢を取り除くことであって、世界は永遠であるとか、死後どのようになるかなどという問に答え、単に好奇心を満足させることは、本来の目的の妨げになると考えたのです。

 ある時釈迦は、川を渡る筏の譬えを用いて、こう弟子たちに言いました。

「みんなに言いたい。私の教えもこの筏と同じなのです。私の教えは大河を渡るための手段であって、執着する目的ではないのです。だから、私の教えに執着してはなりません。時には捨てるべきなのです」と。

 釈迦は、インド中を命がけで法を説いて歩いた(何度も殺されかけた)にもかかわらず、その法ですら捨てる場合があると言いました。法はあくまでも人を救うためのものであって、法自体が目的なのではないのです。つまり、釈迦は命がけで法を説いたというより、命がけで人を救いました。様々に工夫しながら、様々に心を尽くしながら、教えを説き、さらにその教えさえも捨てて、新たな教えを工夫し続け、どこまでも事実を追い求めたのでした。

 そして、仏教においては、事実の追求を男達が担い、女達がその事実を素直に受け入れ、広める役割を担うという流れができました。


 以上見てきた様に、仏教は一般に言われているように、現実逃避だとか、ただ単にヒンドゥー教(カースト制度)を批判しただけといった理解では、不十分であると思われます。

 釈迦にはじまる仏教は、日常起こる現象から、事実を突き詰めた結果として、カースト制度批判、私権否定となったのでした。決して、現実から目を逸らすことはありませんでした。

 シリーズ「インドを探求する」第11回〜なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その3>〜は、仏教の発展から、衰退への流れを見ていきます


コメント

>「みんなに言いたい。私の教えもこの筏と同じなのです。私の教えは大河を渡るための手段であって、執着する目的ではないのです。だから、私の教えに執着してはなりません。時には捨てるべきなのです。」

なるほど、教えは手段であり目的ではない。釈迦の教えは宗教ではなく法だと言われる所以がここにあります。後の弟子たちが法典をまとめあげていきましたが、この釈迦の「執着するな」という教えが次々と新しい法を塗り重ね深めていく幹になったのだと思います。

>教えの本質は、一人一人に与えられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生き抜いていくことのできる智慧と、たくましい生命力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることでした。


宇宙とかカルマと言われる人の中に内在するエネルギーを釈迦は肯定という言葉をもって説いています。たぶんこれを聞いた人が自らの中にまだ未開発な大きなエネルギーを感じ、それを作り上げ、きっと生きていく希望を得た事だと思います。
そしてこの部分はインドのヴェーダ思想からしっかり引きついでいます。

仏教についてこれまで知らなかった点をよく調べて投稿いただきました。勉強になりました。
投稿者 tano : 2010年08月03日 21:07


 釈迦の目指したことが、キリスト教やヒンズー教との違いが良く分かり勉強になりました。

 釈迦の言う「苦悩や欲望に囚われた人間」とは私権意識に染まった人間といえそうですね。

 自我を捨て、ひたすら法(事実の認識)を追及する姿勢は、私たちの目指すところと同じです。

 ただ、貧困にあふれた、私権の拡大期に、私権を否定すれば、社会から遊離するしかなく、仏教が厭世的と言われるのも仕方のない面があったのだと思います。

 「るいネット」には「現在は、(本源価値の)実現の時代である。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=7453 とあります。

 釈迦がどうしても超えられなかった壁を、突破する基盤が既に存在しているのです。そのことに感謝して、皆で(本源価値を)実現していきたいですね。
投稿者 tama : 2010年08月03日 22:12
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/08/001103.html

なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか その3〜

3.仏教の発展、そして衰退へ〜早すぎた仏教誕生〜

 インドにおける仏教は、先行するヒンドゥー教に対抗して出現し、アショーカ王による仏教の国教化政策によって一挙に広域波及しました。その後はヒンドゥーの国教化等により、盛衰を繰り返しますが、クシャーナ朝(1〜3世紀頃)の全盛期カニシカ王の時代に、今一度仏教が保護され、小乗仏教と大乗仏教の複線的な発展が加わって、インド全域に広がりました。

 ところが、そのインド仏教が13世紀には、廃れてしまったのです。これはなぜなのでしょうか。

 このことについては一般的には、1203年に東インドの密教の根本道場だったヴィクラマシラー寺が、イスラム教徒の軍隊によって破却され、多くの僧尼が殺害されたことを以って、インド仏教の終焉とみるのが“常識”になっています。

 しかし、大道場ではあってもその拠点が破壊されたというだけのことで、インド仏教全体が廃れるというのは考えにくく、むしろ、それ以前から仏教は民衆離れを起していたのではないか?(中村元氏)といった説もありますが、果たしてそれは、大乗仏教時代にも言えるのか疑問が残ります。

 また、仏教が貴族層や商人層に受け入れられた割に、もともと家庭儀礼や日常儀礼を重視しなかったために、社会の底辺にゆきとどいていなかったのではないか?(奈良康明氏)といった説もあります。

 しかし、どれも決定的な理由にはなりえないように感じられます。なぜなら、そのようにインドで廃れた仏教は中国や日本では蘇ったばかりか、歴史家によって認められているように、むしろインドの外で世界宗教としての力を発揮していったからです。
 ここには、インド社会独自の原因が潜んでいるのではないでしょうか。

 今回は、その辺の謎に迫っていきたいと思います。



○大乗仏教への発展

 初期の仏教教団を取り囲む社会は、相変わらずのヒンドゥー(バラモン)的社会でした。釈迦が、ダルマ(法)に基づいて四姓・男女の平等を説いたといっても、それが実現されていたのは、厳密には教団内に限ってのことでした。教団の外では、相変わらずヒンドゥー的女性観が根強く横行していたのです。

 また、教団内を見ても、50%以上がバラモン階級出身ということがあり、釈迦の滅後、特に上座部、そして小乗と呼ばれる時代に、ヒンドゥー的女性観が次第に教団内に影響を及ぼすようになります。

 さらに、バラモン的考え方から、在家に対する出家の優位の強調もはじまり、厳格な戒律主義が横行するようになります。そんな中から、大衆の中に入って、大衆とともに語り、悩み、修行に励んでいこうとする集団が現れます。それが大衆部でした。ここに、戒律・出家優位を説く「上座部」と、在家を中心とした、釈迦の時代に戻るべきだとする「大衆部」とに根本分裂します。

 後のアショーカ王の時代(紀元前三世紀頃)には、その上座部も大衆部も興隆をみましたが、それ以後は、またバラモン教を国教とする王が立ち、バラモン教が勢力を盛り返し、仏教は衰退の一途を辿ります。それは、バラモンがインド社会と一体化していたのに対して、上座部仏教は世俗の社会から離れた閉鎖集団であったと同時に、自ら分裂を繰り返しながら、互いに閉鎖集団化していった事実にもよります。

 この時代に、大衆部仏教の延長として、各地で大乗仏教が興起します。彼ら大乗教徒は、政治的(ヒンドゥー)勢力による弾圧の危機に直面したことによって、仏教徒としての原点に帰る運動をもう一度興したのでした。彼らは僧院に閉じこもるのではなく、仏教を社会に開かれたものにしました。大乗の諸経典には、政治上の権力者である「王」のあるべき姿も説かれ、仏教の理念である「法」の立場から政治にも発言するようになります。それだけ弾圧も厳しいものがありましたが、その弾圧をはねのけて社会に挑戦しようとするエネルギーが上座部(小乗)と大衆部(大乗)との明確な違いとなって現れました。

 そして、ここに改めて、四姓平等、女性の地位向上が成されることになり、特に女性が先に仏教に帰依し、それを受けて夫が帰依するという流れが出てきます。
 これは、いつの時代も、女性が先に可能性に収束する、ということの現われだと思います。

○大乗仏教から密教へ

 原始仏教から部派仏教、そして大乗仏教へと形を変えていったインド仏教でしたが、ヒンドゥー教が国教化され、弾圧が強まるに従って、一部の僧侶達は、徐々にヒンドゥー的な要素(祭式や呪句等)を取り入れてゆき、密教と呼ばれる新たな形態を生み出しました。しかし、密教化する過程で、次第にヒンドゥー教との区別が曖昧になっていき、僧侶はバラモン的存在になり、一子相伝が当たり前になっていきました。その過程で出家修行者が特定の大寺院に集中する傾向も見られ、その結果、ともすれば出家修行者と民衆の信仰が乖離しがちでありました。

○イスラム進攻→インド仏教衰滅

 そのような中で、8世紀初頭から、イスラム勢力が西北インドに進攻してきます。そして、1203年、イスラム教徒の襲撃により、東インド・ベンガル地方のヴィクラマシラー寺院が破壊されました。この時期には、その他多くの大寺院も破壊され、同時に多くの仏教僧が殺されました。そして、辛うじて生き残った者たちはチベットやその他の周辺地域に逃れていきました。一般にはこの一連の大寺院の破壊を以って、インド仏教の滅亡と見做しています。

 しかし、なぜヒンドゥー教は姿を消さずに、仏教だけが姿を消したのでしょうか?ヒンドゥーの寺院も破壊されたはずです。
 
 この疑問を解くに当たって重要なのが、上記のイスラム教徒によって破壊された仏教寺院は主に、小乗あるいは密教がほとんどだったことです。大乗の寺院の破壊はほとんどありませんでした。その理由は、大乗派のほとんどは、農村に住む人々であり、村全体で仏教を信仰されていたためです。
 では、なぜそれが破壊に繋がらなかったのかを以下、見ていきたいと思います。

 農村の仏教(大乗)信仰は比較的柔軟性の高いもので、それが仏教の良いところでもあり、弱点でもあったのです。

 その仏教には、特に固定的な実現基盤というものはなく、その時代時代に合わせて、その現実を見据えながら、可能性のある方へと、変化していく特性がありました。

 それは、言い換えれば、仏教独自の普遍主義・平等主義ともいえるもので、カースト制に基づいたヒンドゥー教とは全く違っています(ヒンドゥー教も、他の宗教を取り入れるといった柔軟性はありますが)。しかしそれゆえに、その平等主義がアダとなって、そこに、私権時代に適応し、しかも共同体的体制を残し、宗教教団内での平等を打ち出しているイスラムの容易な進入を許してしまったのです。

 インド社会においては、バラモン教の誕生以降、宗教による身分固定(カースト)により、宗教は生活の一部となり、切っても切れない存在となっていました。そこで、仏教は長らく反カーストの装置、あるいは抗ヒンドゥーの装置としての社会的な役割を果たしていましたが、その社会装置としての役割が、インド進出を頻繁に繰り返すイスラムに取って代わられてしまったのです。

 また、ここにはもうひとつの原因も重なっていました。それは、イスラムの進出とヒンドゥー教の再興隆が時期を一にしていたということです。これが8世紀から11世紀のことです。

 元々イスラムは、土着宗教には寛容なところがあり、いずれはなびくという過剰な自信を持っていました。しかし、抵抗する勢力には決定的な蹂躙を辞さないものも持っており、これが世間にしばしば「剣か、コーランか」と言われるものです。

 イスラムがインド社会に怒涛のごとく進攻していったとき、そこに立ちはだかったのは仏教徒ではなく、ヒンドゥー教徒だったのです。仏教徒はイスラムとヒンドゥーのパワー・バランスの中で、イスラムに着いた方が有利な状況にさえ立たされたといって良く、記録によれば、多くの仏教徒はスムーズにイスラム教徒に鞍替えをしているという事実も少なくなく、特に大乗仏教はそのような柔軟性に富んでいました。こうして、イスラムは仏教徒を味方につけつつ、ヒンドゥーに対峙していったのです。
 
 しかし、新興勢力としての密教徒だけはこれらに抵抗し、密教の根本道場だったヴィクラマシラー寺が破壊されたのは、その一例です。

 そして、密教がチベット等に去り、やがてヒンドゥー教の抵抗も落ち着いてくると、イスラム側もヒンドゥー側と抗争することもなくなり、インド国内において共存することとなりました。

 こうして仏教はインドにおいては廃れていき、故郷のインドを離れて、その類い稀な柔軟性(普遍主義・平等主義)から、西域や中国や東南アジア、そして日本へとその土地の土着宗教と習合しながら、現代まで残っていくこととなるのです。


 以上、インド仏教の発展から、衰退までを見てきましたが、仏教はそのはじまりから、特にこれといった実現基盤を持たずに発展してきました。そのため、貧困にあふれた、私権の拡大期に、私権を否定すれば、社会から遊離するしかなく、釈迦の戒律等を重視した小乗派や密教においては、中村元氏が指摘するように、民衆との乖離が増していき、釈迦の柔軟性を重視した大乗派においては、逆に、より強大な(私権的な)ものに飲み込まれるといった傾向が見られました。

 やはり、実現基盤・実現イメージの有無が、社会を変えていくには最も重要なファクターであり、今現在は、私権の圧力(序列原理)が衰弱する一方であり、逆に、共認原理という実現基盤ができつつあることが、最大の可能性なのです。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/08/001107.html


ヒンズー教からインドの謎にせまる
 
今回はインドの歴史や文化・因習等に深く結びついて存在しているヒンズー教について紹介していきたいと思います。
 
ヒンズー教とは言っても、日本人にとっては、あまり馴染みのない宗教ではないでしょうか。インドカレー好きなら「あ〜、インド料理店で飾ってある、派手な神様のやつだね」といった反応でしょうし、旅行好きだと、ワーラーナシー(ベナレス)のガンガーでの沐浴風景を思い浮かべるでことでしょう。
 
実際、ヒンズー教の広がっている地域は、インドとその周辺地域以外では、インドネシアのバリ島くらいであり、後は世界に点在する印橋の街で、インド人が崇拝している程度の民族宗教といってもいいようで、日本において、その信者がほとんどいないことも、イメージしにくい一因になっていることでしょう。
 
それでは、このインド独特の宗教について順に見ていくことにしましょう。
 


●ヒンズー教の概況
 
ヒンズー教はインドの8割が信奉するインドの民族宗教である一方、ヒンズー教徒は、8億人(94年時点)の規模を擁し、キリスト教徒、イスラム教徒に続いて3番目に大きな集団をなしています。
 
ヒンズー教徒とは、神話体系、宗教儀礼、社会制度、文化伝統、生活形態、宗教観念、因襲にいたるまですべてが分かちがたく結びついた文化要素によって緩やかに規定される集団です。
 
ヒンズー教から他宗教への改宗はあっても、他宗教からヒンズー教への改宗はふつう起こらない。ヒンズーになるための特定かつ共通の入門式や洗礼があるわけでもない。ヒンズー教徒になるのではなくヒンズー教徒に生まれる。

 
 
●ヒンズー教の歴史
 
ヒンズー教の歴史について、「ヒンズー教〜インドと言う謎 山下博司著」にまとまっているので引用したい。
 

ヒンズー教の成立をいつに求めるかにはさまざまな説がある。

インダス文明からという説もあれば、アーリア人のヴェーダーが編集された時期に源流を求める向きもある。ヒンズー教の成立を最も遅く定義したのが、仏教、ジャイナ教が興って以降、つまり紀元前5世紀以降の発展を一番有力とする説が多い。

ヒンズー教は仏教など新しい宗教の隆盛を契機に旧来のバラモン教の衰えに対して発生しており、宗教全体が再編の動きの中で成立している。ヒンズー教の形成と共にバラモン教で主役の座にあった神々の勢力も大きく後退する。ヒンズー教の誕生とはこのようにインドの宗教史の中で位置づける事ができる。
 
ヒンズー教は一人の開祖によって統一的な教義・体系をともなって形成された宗教ではない。ヴェーダー的・バラモン的な価値観や社会制度の枠組みの中で、民間信仰に発する要素や非アーリア的なものを含むさまざまなレベルの神観念、儀礼、習俗、論理、社会制度、生活様式などが一定の纏まりを保ちつつ、ながい時代を経ながら、再編されて出来上がった「宗教文化的複合体」ということができる。
 
ヒンズー教は、ある種の折衷主義を特徴としている。時には互いに矛盾するような考えかたも実践も併用しつつ、統一を保っていられるのは、ヒンズー教の折衷主義的な性格によることが大きい。
 
ヒンズー教的な傾向・運動は紀元前に始まり、グプタ朝が栄えた4〜5世紀以降、仏教、ジャイナ教とともに次第に決定的なものとなっていく。この時にヒンズー教の2大抒事詩「マーハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」が完成し、後の人々の価値体系や生活様式を定めた「マヌ法典」も出揃う。
 
7〜8世紀にヴェーダー時代に目立たない存在だったシヴァやヴィシェヌが最高神の地位に上りつめ、それらの神々に帰依を捧げる信仰態度が支配的になったことでひとつの達成を見る。帰依信仰は南インドでまずは盛んになり、16世紀頃までにインド全域に拡大していく。同時に新たらしい様式の寺院の広がりを見せ、8世紀に建築様式の革新が成された。
 
それまでは岩を掘り起こして作った様式にかわり、石積み式の寺院が登場し、どこにでも寺院が建てられるようになった。寺院建築が盛んになると、巡礼という宗教行為も盛んになっていく。
 

山下氏は紀元前5世紀以降をヒンズーの歴史とみているようだが、その源流・根底には、インダス文明を築いたドラビダの影響を受けているという説もあるので、合わせて紹介しておきたい。  

後世のヒンズー教に大きな地位を占めるシバ神信仰やそれとまつわる生殖器崇拝、沐浴を重視するある種の浄・不浄観などがすでに見て取れる他、カーストとはいえないまでも、そこには明確な職能集団の形成があった。それらはむしろ、のちに教義として確立・展開し、時代や地域によって変わる大伝統とは異なって、常に一貫して民衆のあいだで、生き続けてきた底流の、時代の上での源流をなすものであったかのように見える。

「インド 小西正捷編」    

ヒンズー教から感じられる、どこかしら本源的な匂い、原始宗教的な色彩は、こうしたドラビダとの融合の上にヒンズー教が成り立っているからではないだろうか。   最後に、ヒンズー教がインドに広がり隆盛していったグプタ朝の時期について、少し詳細に紹介しておきたい。
 
バラモンへの土地の施与は、グプタ朝時代からさかんになった。 古代インドでは、「全土地は王のもの」という観念があって、王は行政権、司法権の他、租税徴収権、埋蔵物の所有権、一定地区の未墾地の所有権など多大な権利を持っていた。村落施与によって王がバラモンに譲渡したのは、租税収入(注釈:租税の徴収を取りまとめる権利のことと思われる)が主な内容だった。   それに対して、土地の施与は、王の所有地を移譲したものであり、それは村落施与とは実質的に相違があった。村内に施与地があれば、村落施与では、その土地は除外された。 (注釈:租税がかからないことを説明していると思われる)

バラモンにとって、村落や土地の施与の意味は大きかった。彼らはその土地に定住し、村落の租税分を獲得して、バラモンとしての権威と王朝の威光を背景に村落を支配し、その地域社会に勢力をふるった。バラモンは王のための祭式を施行すると同時に、村落の秩序維持にあたり、ヒンズー教を浸透させたのである。

ヒンズー教はグプタ時代になってからさかんに建立された。寺院にも村落や土地が寄進され、寺院の祭祀を行うバラモンたちが、財産を管理した。バラモンの職務はヴェーダの祭式の施行であったから、寺院のバラモンは低く見られていたが、寺院が巨大な財産を蓄えたのに伴って、かれらの地位も実質的に高くなっていった。

「悠久のインド 山崎 利男著」


こうして時の支配者が、当時土着の宗教であったヒンズー教を上手く利用することで、領土内の秩序の安定を図っていったことが事わかります。
   

 
ヒンズー寺院  
 
●ヒンズー教の特徴
  
ヒンズー教じゃその成立過程からして、多様な要素が絡みあい、つかみ所の無い様にも思えるヒンズー教ではあるが、一定共通する特徴があります。
 
・多くの宗派が聖典「ヴェーダ」を啓示の書と崇めている。
 
・全ての行為が必ず結果を生むというカルマ(業)の法則によって決定される輪廻転生とその輪廻からの開放が救済であるという信仰によって特徴づけられている。
(業と輪廻の説は、アーリア人が外からインドの地に持ち込んだ観念ではないらしい。アーリア人の手になる古いヴェーダ文献にこの考え方はあまり出でてこない。むしろインドに土着の思想であるらしく前数世紀頃より表面化し一般に信ぜられるようになった)
 
・歴史上の開祖を持っていない
 
・信仰の統合的な体系を持っていない
 
・超越的な神を信奉、その神は現象世界を超えていると同時にすべての生類の中に存在していると考えている。神は、寺院の尊像、自然現象、あるいは生きた導師や聖者を通じて建ち現れる。ヒンズー教は多数の神々が崇拝の対象ではある一方、これら神々を唯一の聖なる力の顕現と見ている。
 
・ヒンズー教徒とは、インド人の社会集団、すなわちヴァルナの中に生まれ、浄性と婚姻に関わる規制に従い、シヴァ神やヴィシュヌ神といった多くの神々のうち、一つの神を最高神として信奉する者の事をいう。
 
上記の特長だけを挙げても今ひとつヒンズー教の全体像、統一性に焦点を定めにくいが、もう少しその焦点を絞ると、ほとんど全てのヒンズー教徒が共有しているものは、一つがヒンズー特有の神話・叙事詩群の共有であり、もう一つが、すべてを一元的にとらえるウパニシャッドの思想やヴィシュヌ派に顕著な化身の観念、つまりすべてのものは単一の神、の顕現であり、いかに異質なものも結局は単一・同一のものの異なった側面にすぎないという観念の共有であろう。
 
これらが、ヒンズー教の底辺での統一性を醸し出しているといえるのではなだろうか。そして、この思想性ゆえに、あらゆる異質なものも、観念上、共存可能となり、他を排除することなくあらゆる多面性をその思想性の中に組み込んでいくことになる。(逆に言えば、一見すると何もかもが、まぜこぜの様相を呈すように感じられてしまう)
 
上記の歴史紹介のところで
 
「ヒンズー教は、ある種の折衷主義を特徴としている。時には互いに矛盾するような考えかたも実践も併用しつつ、統一を保っていられるのは、ヒンズー教の折衷主義的な性格によることが大きい。」

と表現していたが、こうした思想性が、ヒンズー教の背後にあるからだともいえるだろう。
 
 
●ヒンズー教における人生の目的
 
ヒンズー教は、宗教ではあるが、一方で文化や生活形態、因習、日常の規範等とも分かちがたく結びつき絡み合って存在している。このようなヒンズー教を信奉する人たちは、ヒンズー教の何を指針としながら生活を送っているのだろうか。
 
ヒンズー教においては、人生の理想の生活として、指針となるべき規範が定められている。
 
ヴェーダ聖典成立時代の後期(紀元前2世紀頃)に人がこの世において追及すべき目的や義務、あるいは価値基準として別々に論じられてきたものが次第にまとめられてプルシャ・アルタ(人生の目的)と称されるようになった。

プルシャ・アルタには、ダルマ(法)、アルタ(実利、財)、カーマ(性愛)の3つがある。

これにモークシャ(解脱)を加え、四大目的とする場合もある。
 
この人生の四大目的は、「四姓制度と四住期の法」に組み込まれている。四姓制度はいわゆるカースト制度のことで、四住期の法が上記を指す。四住期とは、人間の一生を時間的に、学生期、家住期、林住期、遊行期の四期に分けたもの。

 
学生期:師匠を定めて勉学生活を続ける

家住期:結婚し、カーマを楽しみ、アルタを得、祖霊祭を行い、子供を作る。

林住期:子供が大きくなった後、引退し、林に住んで礼拝と祈りの生活に入る。一切の世俗を捨て、宗教生活を送る。

遊行期:一所を定めず、遊行し、宗教的真理をひたすらに追究する。世俗との縁を完全に切る。

 
これらは、人生の理想としての生活を表している。
 
 
●ヒンズー教の神々
 
ヒンズー教はシヴァやヴィシュヌなどを絶対神としているが、実際にはそれらと神話的に関連づけられる神々や村の精霊などに対する信仰も並んで行なわれており、多神教的な様相も強く帯びている。

キリスト教、ユダヤ教などの排他的かつ明瞭に定義された一神教とは異なり、ヒンズー教は無数の神々を化身として許容し、荒ぶる女神たちや名もない神々を、大きな枠組みの中に包摂する。信者たちは最高神の威力、権威を是認し、その関係の中に自らの神を組み入れる事で、ヒンズー教の中に消化、吸収されるのである。
 
ヒンズー教では多くの神々が信仰されているが、最高神としては、ヴィシュヌとシヴァ、ブラフマーが有名です。一般的には、ヴィシュヌを最高神と仰ぐ人はシヴァをその低位の神とみなし、シヴァを最高神と仰ぐ人はその逆となる。いわば、ヒンズー教における宗派のような様相となっている。
 
概してカーストの高いものほど全インド的な偉大な神とのかかわりあいが深く、下位に行くほど地方的、村的なレベルの神や鬼霊の祭りが増える傾向にある。
またヒンズー教には多くの神がいるが、それぞれ機能がことなるため、どの神を信じてもいいし、何人かの神を同時に信じることもできる。
 
 
 
三神一体(ブラフマー、
ヴィシュヌ、シヴァ)
 
   
●まとめ
 
以上ヒンズー教について掘り下げ紹介してきたが、最後にヒンズー教の全体像について、再び山下氏の著書にまとまった文章があるので、紹介によって、全体のまとめにかえさせていただきたい。
 

われわれはこれまでヒンズー教を狭く定義し、同じく南アジアに興ったジャイナ教、スィク教、仏教などと区別して論じてきた。しかし、名目的な宗教的違いこそあれ、人々はかなりの程度生活習慣を共にし、南アジアという地理的領域の中に共存共生している。それはイスラム教徒やキリスト教徒にも当てはまる。

たとえばインドのキリスト教徒の中にもヒンズー教と同じような、浄不浄の観念、「右」の優越、ヒンズー的儀礼要素、カースト意識やカースト内婚が維持されている場合が、まま見られるのである。インド人は、宗教の違いを超えて、多くのものを共有していることは否定できない。インドの人々が、宗教、宗派の違いを超えて分かちもっているものこそ、「インド的なるもの」であり、共通するものの多くはヒンズー教的な諸観念と連合し、通底しているのである。こうした意味においてヒンズー教はその影響が広範かつ汎インド的であり、インド的伝統そのものであるとすら言えるのである。

ヒンズー教的諸要素は、ヒンズー教徒の観念的なレベルでの大伝統、上位文化を構成するだけでなく、いわば生活の一部として人々の意識に上らないレベルで、暮らしの隅々までいきわたっている。ヒンズー教徒は精緻な哲学思想や洗練された文学理論など、高度に発達した「知」の体系としての上位文化がある一方、生活文化とも言えるような、ふだん意識しないレベルでのヒンズー文化もまた存在している。「知」の担い手が一部のインテリや特殊な階層であり、実際大多数のヒンズー教徒は神への崇拝や日常の儀礼を欠かさない、哲学や神学理論とは全く没交渉の中で暮らしている。
 
 
ヒンズー教は、その異文化への受容性の高さが、すべてを飲み込み、ヒンズー化=インド化していくという特質を持つ。
 
またヒンズー教の教義や理論を受け継ぐバラモン層だけでなく、すべての階層の人々にとって、生活や因習と密接に絡まりあったその有り様は、カースト制というインド独特の身分制度を残存させる要因である一方で、いざとなれば広大で多様なインドの諸民族を精神的にも一つにまとめる潜在的な力を持ち続けているようにも見える。
 
また主に農村地域においてカースト制度を基板とした村落共同体的な色彩を色濃く残存させており、人々の心の中にも共同体的な側面を持ち続けているという面もあるだろう。
 
ヒンズー教という深いバックボーンを背景に持ったインド人にとって、西洋の近代思想など、底の浅い思想としか映らなかっただろうし、このことが、イギリスに支配される歴史を持ちながらも、なお、インドがインドとして存在してこれた理由であろう。
 
しかし、インドにも弱点があるとすれば、歴史上、インドの地から出て、その外の地域へと、影響力をほとんど示してこなかった点であろう。
  
仏教の伝播や、交易による東南アジアへのヒンズー教の伝播はあったものの、国家集団として統合されたものではなかっただろう。むしろ、インドの中だけでの王朝の隆盛のみにとどまっていた。そのことは拡大思想がなかったからとも言えるし、多様かつ広大なインドの中の統合だけで手一杯だったとも言えるだろう。
 
こうしたインドが、この21世紀における大転換期を迎え、はたして世界をリードしていくだけの力を発揮していけるのだろうか。
 
11億の民を抱えたインド。現在インドは経済発展に沸き返っているが、民衆の貧困解消の兆しが見えたその時、果たして、インド人の奥底の本源性が可能性として顔をのぞかせるだろうか。

コメント

宗教は、皆が私権をむさぼることによって、本源集団が解体された結果、失われた本源欠乏=本源充足を得るために生まれてきた、と認識しています。その意味で、ヒンズー教がアルタ=私権と、カーマ=本源の両方を人生の目的としていることは、非常に興味深いことだと感じています。私権の獲得も奨励し、本源充足も奨励する、その意図は如何に・・・・
投稿者 カッピカピ : 2010年08月16日 00:28


>ヒンズー教は、その異文化への受容性の高さが、すべてを飲み込み、ヒンズー化=インド化していくという特質を持つ。

その受容性の高さから、

>いかに異質なものも結局は単一・同一のものの異なった側面にすぎないという観念の共有であろう。

といった様に、本源的な側面があるかと思えば、

>四住期の法

の世俗と縁を切るといった、いわば現実否定のような側面も出てきてしまったのかなと思います。

インダス文明あるいはそれ以前に醸成された、思想?のようなものが、ヒンズーの奥底にはあるのではないかと思います。

なんか、日本に似てますね。
投稿者 たかし : 2010年08月17日 21:14


>すべてのものは単一の神、の顕現であり、いかに異質なものも結局は単一・同一のものの異なった側面にすぎないという観念の共有であろう。

インドの強さとはこの考え方に集約されるのかもしれません。

この発想をいろんな事に適応していればおのずとあらゆるものが肯定感をもって受け入れる事ができます。これを宗教の中に取り入れ、もう当然なものとして体幹として肉体化している事がインドの強さだと思います。

世界的な恐慌や混乱が起きる可能性が高くなる次の時代は否定発の欧米的選民思想では秩序は維持できません。インドや日本のような肯定性や受け入れ体質の基盤を持つ国が秩序を維持し、次の世界の中心になる可能性が開かれてくるように思います。
投稿者 tano : 2010年08月17日 21:29


>私権の獲得も奨励し、本源充足も奨励する、その意図は如何に・・・・

アルタ=私権と、カーマ=本源と読み解いたのは、なかなか鋭い質問だと思います。

まず、原始的な形態である精霊信仰を根っこに残した、多神教であることが、西洋の一神教の宗教とありようが異なる、一つの要因ではないでしょうか。地方では男根信仰なども残っており、性に対しては、肯定的な傾向が強いのではと思います。

アルタ=私権、と置き換えられたのは、まだまだ貧困が残るインドではイメージしやすいとは思いますが、実利や物資的利益全般を指すアルタは、そのの代表的経典とされる「カウティリヤのアルタ・シャートラ(実利論)」では、主として国益の追求を目指しており、本来は、必ずしも己の私権性の追求のみを指向してるわけではないようです。特に上位層にとっては、人々を統合する上での規範としての側面も持ち合わせているのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2010年08月24日 22:32


>インダス文明あるいはそれ以前に醸成された、思想?のようなものが、ヒンズーの奥底にはあるのではないかと思います。
>なんか、日本に似てますね。

確かに、ご指摘のように、日本に似て、潜在思念上捉えられる、「本源的な何か」を感じますね。

先に、カッピカピさんにも返信しましたが、やはり精霊信仰を根っこにもつ、多神教という側面が大きいように感じます。日本人に比べやや観念的な感じもしますが、あらゆるものに神が宿るというといった感覚は、日本人ににてるように感じます。

四住期の法の世俗と縁を切るというのは、貧困が色濃く残るインドでは、現実=逃れられない私権社会からの脱出の方法として、世知辛い世俗と縁を切るしか、平穏を得られる方法はなかったということではないでしょうか。死ぬまで私権に執着せず、最終的には、私権追求から離脱し、隠遁生活を指向するあたりは、日本人に通じる感覚なのかも知れませんね。
投稿者 yuyu : 2010年08月24日 22:58


>この発想をいろんな事に適応していればおのずとあらゆるものが肯定感をもって受け入れる事ができます。これを宗教の中に取り入れ、もう当然なものとして体幹として肉体化している事がインドの強さだと思います。

肯定感を伴った受け入れ体質がインドの強みというのは、私も同感です。

インドの潜在的な生産能力を現すのに、かつてよく、「部品のねじから人工衛星まで、インドでつくれないものはない」といっていたように思いますが、現在はこれにITが加わり、技術的な受け入れとその応用力の高さは、実証済みです。

技術的な面はもとより、秩序の維持と統合という観点でも、日本と同じように、インドの奥底に残存している本源性が顔を出す事可能性は高いのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2010年08月24日 23:19
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/08/001109.html


11. 中川隆 2013年3月04日 01:39:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?〜統合様式と宗教の関係〜」
〜第1回プロローグ〜

 このブログでは、かつて

「インドを探求する」シリーズ
http://web.joumon.jp.net/blog/2010/08/001117.html

で、インドの歴史と仏教などを追求していますが、今回、新たな視点を加え、再構築してみようと思っています。その新たな視点とは、統合様式(支配様式)と最先端の観念との関係構造(統合様式は宗教を含む最先端の観念を規定する)です。
前回、当チームで追求した

「シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」
http://www.jyoumon.com/blog/2012/10/001448.html

では、日本の仏教に触れ、共同体や本源性(受入体質など)を色濃く残してきた地域における仏教の成立と発展の仕方に独特のものがあることが分かりました。
それは、その最終回、【「何か」を信じるのではなく「全て」を受け容れてきた日本人〜】のタイトルのように、とことん受け入れ、改良して共同体に溶け込んで発展してきた日本の仏教像でした。

 仏教の発祥の地、インドでは、日本同様、本源性を残しているといわれます。「インドを探求するシリーズ」でも分析されていますが、その教えは、遠く離れた日本や東アジア地域の人々の心には、深く、広く行き渡っているのに、発祥の地インドでは、消滅してゆく歴史をたどっています。現在のインドの仏教徒は、人口の1%も満たない状況のようですが、私たちの身近な宗教である仏教の原点の地では、日本とは相当異なる状況があり、改めて考えてみようと思います。

 その成り立ちと歴史は、よくまとまっている「インドと探求する」等を通して、他国の仏教の成立と発展を見てゆく中で、支配階級と観念との関係構造を明らかにして行き、「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?」を追求していきたいと思います。

一般的に教科書的には、13世紀イスラム教の侵略で、インド仏教は、滅ぼされたと言われます。また、その前史のアショカ王時代は、国教ともなり、インドでは広範囲に定着していたとされます。しかし、少なくともインドの仏教信者は、現在では、ほとんど存在しないという傾向にあるようです。

 仏教は、大衆のために作り出されたものとも考えられがちでありますが、実は、その教えは民衆に向かっていないようにも思えます。

 民衆を巻き込んだ、主だった戦争も少なかったインド地域では、日本と同じく、本源性を残し、共同体を存続してきた長い歴史があったようです。

 そのようなインドの人々は、アーリア人が持ち込んだバラモン教とその発展系であるヒンドゥー教、その身分制度であるカースト制度に、生活全般を委ねているように見えます。

また、この地域は、ほぼ、ヒンドゥー教の世界であり、2000年も継続するカースト制度=身分序列が事実として存在します。一体、それらは、どういったもので、この収束力の違いはいったいなんでなのでしょうか?

 私たちは、カースト制度=身分制度、仏教=民のための宗教、アーリア人=牧畜の好戦的人種と捉えていますが、そこには、多分に私権社会の否定形、及び、先入観、思い込みが混入しており、実態は相当異なるのではないか?という疑問を抱きました。

 仏教は、民衆を支配するために必要だった観念なのかもしれません。カースト制度は、力の序列に基づいた身分制度でもありますが、一方で、社会秩序(共同体)を維持するための制度であり、同類闘争(=戦争など)を止揚するための制度だったのではないでしょうか?さらに、アーリア人を十派一絡げで認識していますが、彼らは、渡来人としてインドの土着民をどういう形で融合し、支配・統合しようとしたでしょうか?戦争をせずに、観念支配するところは、実は、朝鮮半島からの渡来人と日本列島の縄文人との関係に近い構造を見出せるようにも思います。


※インド・中国・日本の仏教は、

「仏教の歴史について 〜インド・中国・日本〜」
http://www.jyoumon.com/blog/2009/09/000918.html

・高句麗、百済、新羅における仏教とは?
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/02/000732.html


も参考になります。

コメント
>仏教は、民衆を支配するために必要だった観念

とありますが、これには甚だ疑問です。
ヒンドゥー教もそうかと言われたらそれにも疑問ですが。 釈迦も含め、当時の出家者は、単にそれぞれが抱いた疑問をひたすら追求していただけではないでしょうか?

その追求過程が、弟子にも引き継がれ、仏教においては八万宝蔵と言われるほど膨大な経典になったのだと思います。 それが、中国において整理されました。
果たして、何もかも統合側から考えていくことが、正しいのでしょうか?

記事を読む限り、それが固定観念化しているように感じられます。

宗教を考える上では、もっと視野を広くすると同時に、人とはどういうものなのか?どういう傾向にあるのか?というところに、焦点を当てた方が良いと思います。 特に根付く根付かないを論じるのであれば。

まぁ歴史は支配者の歴史しかないので、難しいとは思いますが・・・。
また、仏教を考える上で大事なのが、日本の葬式仏教は仏教に非ずという認識だと思います。 葬式仏教の認識で以って、仏教を考えると必ずズレると思います。特にインドを論ずる時は。
投稿者 ツクシ : 2012年11月01日 19:53


インドはイギリスの植民地になるまで、「宗教対立」が今以上にありませんでした。

この世の宗教の対立の多くは近世から始まるものだと、私は確信しております。
そしてその原因は植民地の宗主国が現地民に歯向かわぬ様に、宗教対立を利用し、現地民同士を争わせる為の統治をしたのは、イギリスが非常に有名です。
そして統治の方法に限らず、『歴史の書き方』も影響を受けています。

イスラム教が仏教を滅ぼしたというには怪しいものがあります。イスラム教徒が侵入するまでに仏教は既に衰退しきっておりました。

仏教寺院の破壊にしても、イスラム教徒がやったと言われていますが、衰退した宗教施設が崩壊するのは何も戦火によるものだけではありません。
煉瓦を調達するために、廃墟になった宗教施設を解体して煉瓦を調達するのは非常によく知られた事です。

デリーの町には城郭の一部が点々と残っていますが、あれは、為政者の都市の整備の為に、古い城壁を取り壊して建材にした為です。

更に言うのであれば、「仏教が衰退した」という言葉、根付いていないという言葉も、怪しいものがあります。

ご存知かと思いますが、ヒンドゥー教徒はブッダをヴィシュヌの化身としています。ゆえに、統計上もブッダを拠り所とする仏教徒は、実はヒンドゥー教徒として統計上処理されています。

インドは政教分離の国ではありますが、事実上、ヒンドゥー教の影響力が政治の世界にも非常に強く影響されています。

必生 闘う仏教という本があります。日本人の伝記ですが、その折々でヒンドゥー教がここまで強い影響力を持つのかと、正直、とっても驚きました。
私は旅行会社で仕事をしており現地に添乗員として行きますが、デリー大学で考古学を修めたガイドから、インドの歴史は非常に捻じ曲げられているという話を良く聞きます。

資料を参考される際は、誰がいつ書いたものなのかも是非、考証する際にご検討されますと、このブログがきっと素晴らしいものになると思っております。
投稿者 うい : 2012年11月02日 22:53
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/10/001453.html

「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?〜統合様式と宗教の関係〜
第2回 仏教とインドの歴史(概要)」

意外と知っていそうで知らない「仏教とインドの歴史」の概要を、以前に当ブログで扱った内容をダイジェスト的にまとめて見て行きます。

おおまかに見ると、仏教は、カースト制度(身分制度)と女性蔑視を生んだバラモン思想への違和感から生まれました。その時代は、交易から商工業が発達し、貨幣経済に入り、私権意識が顕在化し、貧富の格差が拡大する時期でした。豊かになるとカーストのトップは腐敗し、最下層は困窮します。その一方、王侯や商工業者の新勢力は、自らの私権の拡大を阻害するバラモン思想への反を希求し、仏教を支持して行くようです。

 釈迦はバラモン教の拡大により肥大する私権社会を何とかしなければと純粋に思い、本源回帰の道を探った。しかし仏滅以降の仏教は上座部と大乗に分断され、かつ土着の大衆意識を汲み取れなかった。同時期に発生したヒンズー教がインドの第一宗教となり、仏教が排斥されたのはイスラム教による影響はあるが、本質はインドの(私権)秩序維持に対して仏教が適応していなかったからではないか。他民族が共存し様々な民族間の軋轢があるインドを統合するにはヒンズー教的土着のバックボーンが必要不可欠であった。仏教が根付かなかったのは思想の問題でなく、統合手法の脆弱さ故であった。

コメント
インドはユーラシア大陸固有の領土ではない!
では何処から流れて来たんだろうと考えるのが賢明。

エジプト・アンコールワット・中南米の巨石文明のルーツは同じ!
http://www.youtube.com/watch?v=Jciqq98ETww&feature=related
投稿者 KESSELRING : 2012年11月24日 23:24

インドに仏教がなぜ生まれたのか?

これは古代インドになぜ思想が蔓延したのかという問いと同義だと思います。仏教は他の宗教に比べてとにかく難しい。難解です。だから大乗仏教などという大衆にわかりやすい仏教が後に登場するなどしてきたのでしょう。

インドのカースト制度は最上位が僧侶です。貴族ではありません。宗教家がカーストの最上位という事は社会全体に必然的に観念に特化していく事になります。仏教が誕生する前のバラモン教の世界でインドでは観念世界が異常に発達した。事実古代インドでは天文学、数学、哲学などあらゆる観念世界の産物が登場しています。なぜそこまで観念世界を先鋭化させたのか?そこに焦点をあてていけば見えてくると思います。

仏教はそうした観念世界がどんどん深化していく過程、あるいは最後に登場します。

それと現代のインド人が頭がよく、議論好き、追求好きです。それは頭が良いという事に非常に価値を置く民族である事のように思い、これらの古代からの伝統と関係しているかもしれません。

仏教は結局インドには根付かなかった、ただ、非常に難解な小乗仏教はどこにも根付いていないのかもしれません。
投稿者 tano : 2012年11月25日 18:25
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/11/001457.html

なぜ仏教がインドで根付かなかったのか?3〜先住民に触れ変化したアーリヤ人〜

今から3500年前にインドに侵入したアーリヤ人。一体、どのような民族だったのでしょうか?

さらに、それまで住んでいた住民族との関係性はどうだったのか?アーリヤ人の特性と、アーリヤ人が形成した部族社会を詳しく押さえていきます。

http://www.google.co.jp/imgres?hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=1366&bih=510&tbm=isch&tbnid=xeo4S1POs3YcGM:&imgrefurl=http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sekaisi3.html&docid=byqDhjOD9-8pwM&imgurl=http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/indasubunmei.gif&w=316&h=411&ei=utXnUNzAA4SWkwWe6IHwCg&zoom=1&iact=hc&vpx=345&vpy=93&dur=5969&hovh=256&hovw=197&tx=131&ty=171&sig=103599476006493856050&page=1&tbnh=138&tbnw=106&start=0&ndsp=23&ved=1t:429,r:2,s:0,i:91


インドにアーリア人が侵入した時代背景と先住民との関係性を克明に記している本をベースに『先住民に触れ変化したアーリア人』を展開させていただきます

『古代インドの文明と社会 山崎元一著』より引用。
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@アーリヤ人の登場

前2000年ころ、インド・ヨーロッパ語に属する言語を話し遊牧生活を送る一団が、中央アジアに移住し、自らをアーリヤと称し優れた血統を誇った。そして、牧畜に適したこの地で人口を増加させるとともに、民族としての独自性を育んだ。

前1500年ころ、そのアーリヤ人の一部が南下を開始し、ヒンドゥークシュ山脈を超えてインドに入った。移動の原因としては、人口の増加や気候の乾燥化による牧草地不足、部族間の抗争などが考えられる。インドに入った者たちは、今日インド・アーリヤ人と呼ばれている。

一方、中央アジアからイラン方面へのアーリヤ人の大規模な移動が、前1000年ころ始まった。かれらの自称「イラーン」は「アーリヤ」と語源を同じくする。また、あとでふれるように、かれらが伝えたゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の神々と、インド・アーリヤ人のヴェーダ聖典の神々との間には共通するものが多い。


Aパンジャーブのアーリヤ人
インド・アーリヤ人の中央アジアからの移動は、家族と家畜をともない、氏族ないし部族の単位で行われたものである。おそらくシルダリヤ流域北方の草原地帯を出発したあと、アムダリヤ流域やカーブル盆地といった広大な草原の存在するところで多くの年月をすごし、やがてよりよい放牧地を求めて移動を再開するといったような、数十年あるいはそれ以上の年月をかけての移動であった。そして最後の難関であったスレイマーン山系の峠越えを果たし、緑豊かな理想郷ガンダーラの地にたどりついた。

かれらはこの地で、後続を待ちながら長い年月をかけて態勢を整え、その後にインダス川とその諸支流の流れるパンジャーブに進出した。そして先住民を征服し、またかれらとの間に経済的かつ文化的な交流をもちつつ、牧畜を主とし農耕を従とする半定着生活を始めた。

(中略)

パンジャーブに入ったアーリヤ人が遭遇したのは、農耕に従事する先住民、つまりインダス文明衰退後の文化を担った者たちであった。アーリヤ人はかれらをダーサ、ダスユと呼び、その多くを支配下に置いた。

ダーサがプルと呼ばれる城塞あるいは壁で閉まれた町に立てこもったことについては、インダス文明の滅亡の原因について述べたところで記した。ヴェーダの宗教の雷神かつ軍神のインドラは、アーリヤ人のために多くのプルを破壊したとして讃えられている。インドラは戦車に乗って戦う英雄であるが、戦士と御者が乗り二頭ないし四頭の馬が引く二輪戦車の機動性と、すぐれた金属製の武器によって、先住民に対するアーリヤ人の軍事的優位がもたらされた。

アーリヤ人は先住民ダーサを「黒い肌の者」と呼んでいる。そうした肌の色の違いが支配者・被支配者の区別を示したことは、「色」を意味するヴァルナという語が身分・階級の意味をもつことからも知られる。さらにアーリヤ人は先住民を「牡牛の唇を持つ者」「鼻のない(低い)者」とも呼び人種の遣いを強調し、また意味不明の敵意ある言葉をしゃべる者と非難して、文化の違いを強調した。

このような先住民の主体は、ドラヴィダ系の民族であったらしい。 『リグ・ヴェーダ』ではさらに、先住民について、神々に供物を捧げず、男根を拝するなど奇妙な信仰をもつ者と述べられている。これらの信仰は、インダス文明時代の地母神信仰や、生殖器崇拝に関係するのであろう。

Bアーリヤ部族社会
当時のアーリヤ社会の最小の単位は家族であり、家父長を中心とし、通常は三世代から構成されている。また家族が集まってヴィシュ(氏族)が、ヴィシュが集まってジャナ(部族)が組織されていた。

女性は息子を産むことが最高のつとめとされ、妻には夫に従うことが求められている。しかし後世におけるような極端な女性差別の風はなく、ヴェーダの讃歌を作った数人の女性の名も伝えられている。また親子・兄妹のようなごく近い親族との結婚は忌避されたが、後世のような複雑な婚姻規制は存在せず、寡婦再婚も非難されることはなかった。

氏族・部族を単位とする大きな戦闘が、先住民との間で、またアーリヤ人の他部族との間でたたかわれた。当時のア−リヤ人の最も重要な財産は牛であったため、戦闘はしばしば牛の掠奪や牧草地の獲得を目的としてなされている。こうした牛と戦闘との関係は、「牛を欲すること」を意味するガヴィシュティという語が「襲撃」「戦闘」を、「牛を勝ち取った者」を意味するゴージットという語が「英雄」を、「牛を守る者」を意味するゴーパという語が「首長」をそれぞれ意味することからもわかる。

牛は重要な祭祀のさいの犠牲獣になり、また牛乳とそれから造られるバター、チーズ、ヨーグルトなどは、アーリヤ人の貴重な蛋白源であるとともに、神々への最高の供物にもなった。牛はさらに動力源として運搬用に使われている。しかし当時のアーリヤ人の間には、後世のヒンドゥー教徒の間に見られるような牛の神聖視や、牛肉食のタブーは存在していない。

家畜としては、牛のほかに馬、山羊、羊などが飼育されている。このうち馬は数が少なく、牛よりも貴重であった。馬は軍事用・移動用に利用されたが、また首長が自己の力を誇示するため挙行する祭祀の犠牲獣としても用いられている。この祭祀は次の時代に、王が挙行する最大の供犠アシュヴァメーダ(馬祀祭)となった。


Cラージャンと仲間たち
部族の首長はラージャン(ラージャー)と呼ばれた。ラージャンの役割は、部族内の家畜や牧草地をめぐる争いを調停すること、外部の敵と戦い部族民と畜群を守ること、牛の掠奪を目的とした襲撃や、より大規模な部族間の戦闘の指揮をとること、などであった。

ラージャンの地位は世襲される傾向にあったが、専制王ではなく、部族の仲間から選ばれた首長としての性格をもっていた。権力の行使はサバー、サミティなどと呼ばれる部族集会によって制限を受けている。それぞれの集会の構成メンバーや機能の逢いについては不明な点が多いが、いずれにせよこれらの集会は、政治・軍事的な行動の決定の場であると同時に、裁判の場、宗教儀礼の場でもあった。

当時のアーリヤ人は歌と踊りを楽しみ、戦車競技やサイコロ賭博を好んで行い、祭事にはソーマ酒を神に捧げつつ飲み、平時には穀物から造ったスラー酒を飲んだ。こうした儀礼や娯楽が右の集会とともにしばしば催されている。ソーマ酒は、ソーマという同じ名の植物から造られる神酒である。その植物については、最近キノコの一種ベニテングタケとみる説が有力視されているが、確かなことはわからない。
氏族・部族はもともと血縁を同じくする平等な成員から成っていたが、当時のアーリヤ人部族の内部には、ラージャンを中心とする有力集団と一般成員との間に階層の分化が生じていた。前者はラージャニヤと呼ばれ、後者は氏族を意味するヴィシュという語で呼ばれているヴィシュは緊急時にはラージャンに率いられて戦闘に参加し、平時には牧畜を主とする生産活動に従事していた。

部族の司祭者たちは、祭祀をひんぱんに執り行って勝利や繁栄を祈願した。また機会あるごとにラージャンの偉業を讃え、気前のいい贈与を求めている。ラージャンは獲得した富のかなりの部分を祭祀のために消費し、また金銀、牛、馬、女奴隷などを司祭者に贈った。司祭者も同じ部族であったが、祭祀の規則が複雑となるにつれて、その職は世襲されるようになり、その結果、ヴィシュやラージャニヤとは別の階層の形成が促された。しかし階層間の壁は、まだ越えがたいほど高いものではなかった。


D先住民との融合
アーリヤ人と先住民との間には敵対関係や支配・被支配の関係があったが、その一方で、ダーサの首長のなかにアーリヤ人の首長と友好関係をもつ者や、アーリヤ部族と共同して戦う者もいた。またアーリヤ文化を積極的に採用する先住民も出た。アーリヤ人の司祭者に気前よく贈与したとして称讃されているダーサの首長は、自らのアーリヤ化を試みたのであろう。

パンジャーブにおける両民族の長年の接触の結果、人種的な混血も進行した。そのさい一般的に見られたのは、アーリヤ人の家族に先住民の女性が奴隷や妾として入るというものである。アーリヤ人の男と彼女らとの間に生まれた子は、その家族の成員あるいは準成員として受け入れられた。その子たちは当然、母親の言菓になじむことになる。

このような混血や、同一地域で二言語が長年にわたり接触した結果として、先住民の言語がアーリヤ人の言語に大きな影響を与えることになった。すでに『リグ・ヴェーダ』に、先住民に起源する単語や発音が見出される。舌をはねるようにして発音する反舌音もその一つである。この反舌音はドラヴィダ語に特徴的なもので、インド・ヨーロッパ語族のなかではインド・アーリヤ語にのみ現れる。

アーリヤ人は農耕文化のもろもろの技術をも先住民から学んだ。たとえば、陶工を意味するクラーラという語や、犂を意味するラーンガラという語は、非アーリヤ起源のものである。これらの語がヴェーダ文献に見出されるのは、ア−リヤ人が先住民から陶器を手に入れ、また陶器の製法や耕作の技術を学んだことを意味している。

E農耕社会への移行
前期ヴェーダ時代も後半になると、アーリヤ人の経済活動における農業の重要性がしだいに高まった。『リグ・ヴェーダ』のなかでも成立の新しい第1巻と第10巻では、耕作、種まき、取り入れ、脱穀などに関係する記事がかなり見られるようになる。アーリヤ人は農耕民への道を着実に歩んでいるのである。農作物としてはヤヴァが主として栽培された。ヤヴァは穀物の総称としても用いられる語であるが、当時は大麦を意味していた。

この時代のアーリヤ人は、アヤスと呼ばれる金属の知識をもっていた。この語は後世「鉄」を意味するようになるが、『リグ・ヴェーダ』の時代には銅あるいは青銅をさして用いられている。

インドで鉄の使用が始まるのは、前1000年ないし前800年ころからである。
工芸の面でアーリヤ人がとくに優れていたのは、戦車を造る技術であった。職人としては車造りのほかに、鍛冶エ、弓矢造り、陶エ、大エ、皮革工、織布工、理髪師、酒造りなどが知られ、職業の専門化があるていど進んでいたことがわかる。それらに先住民が加わっていたことは、いうまでもない。

『リグ・ヴェーダ』によると、先住民のなかのパ二と呼ばれる種族は、富裕であるが貪欲で、ア−リヤの神々を祀らず、ときには家畜を盗むこともあったという。このパニがインダス文明時代に活躍していた商人の末裔であった可能性は否定できない。

貨幣はまだ出現せず、取引としては物々交換が一般的であったが、牛や金塊などが交換の媒介物として用いられることはあった。ニシュカと呼ばれる金製の装飾品も媒介物となったが、この語はのちに貨幣価値の単位となっている。

アーリヤ人は、パンジャーブの地で先住民との融合を進めつつ、生活の基盤を牧畜から農耕へとしだいに移していった。前1000年ころ、そのようなアーリヤ人の一部が、より肥沃なガンジス川流域に向けて移動を始め、やがてその地で農耕社会を完成させた。かれらが移動を始めてから約400年間は、後期ヴェーダ時代(前1000〜前600年頃)と呼ばれる。これはその時代に後期ヴェーダ文献として知られるバラモン数の諸聖典が編まれたからである。

(中略)

アーリヤ人のガンジス川流域への移動のようすが、後期ヴェーダ文献のなかにヴィデーハ国の建国伝説として語られている。それによると、アーリヤ人の英雄とかれの司祭者が、地を焼き払いつつ東に進む火神アグニのあとに従って、サラスヴァティー川の岸を出発し、ガンジス川の支流サダーニーラー川(現ガンダク川)の岸に達した。この川の東方の地はそれまで聖なる火によって浄められていなかったため、司祭階級バラモンの居住に適さなかったが、これ以後は祭式によって浄化されてアーリヤ人の住地となり、この英雄を祖とするヴィデーハ国が建国されたのであるという。

この伝説のなかのサラスヴァティー川は、インダス川の支流の一つで、パソジャーブの東端部を流れる聖河である。その流域には前期ヴェーダ時代にバラタ族など有力なアーリヤ部族が拠っていたが、やがて気候の乾燥化、あるいは上流における流路の変更のため、川は涸れてしまった。ア−リヤ人の移住が、こうした自然環境の変化によるものか、人口の増大や部族の内紛によって引き起こされたものかはわからないが、右の話のなかに、森林を焼き払いつつ開拓を進めるア−リヤ人の姿を読み取ることができる。

そうした開拓は、はじめ厚い森林で覆われたガンジス河畔の地を避け、ヒマラヤ山麓の丘陵地帯に沿って進められた。この地帯は開拓が比較的容易で、また川幅も狭かったからである。さきの英雄もこの道をたどっている。移住者たちは、開拓した土地に村をつくって定着した。考古学の調査によって、ア−リヤ人の進出以前のガンジス川流域に農耕文化が存在したことがわかっている。前1000年ころからこの地に移動してきたアーリヤ人は、こうした文化をもった先住民と接触し、米の栽培を学んだ。

鉄器の使用はおそくとも前800年ころまでには始まっている。鉄ははじめ武器に、のちには農具にも用いられるようになった。鉄製農具の使用によって、ガンジス河畔の森林の開拓は容易になり、また鉄の刃先をもつ犂(すき)を牛に引かせる耕法も発達し、農業生産の増大がもたらされた。

経済活動の中心は牧畜から農耕へと完全に移ったが、牛はいぜんとして重要かつ貴重な家畜であった。

----引用終わり

上記は本の引用ですが、インドに侵略したアーリヤ人と先住民(ドラヴィダ人)との関係性がかなり詳細まで克明に記述されていますね

まず、驚くべきことは、インドに侵入してきたアーリヤ人と、先住民であるドラヴィダ人とが、それぞれの文化を相互に取り入れている点です。

特に、侵入した民族(アーリヤ人)側が先住民の文化を取り入れている点は、大変興味深いです。

というのも、通常、大陸における侵略の場合、『皆殺し』が常であるのに、インドに侵入したアーリヤ人は、先住民を皆殺しにするどころか、先住民と融合を図っているからです。

当時の時代背景を鑑みると、これは世界的に見ても極めて稀な事例と捉えることができそうです。

また、先住民と触れることでアーリヤ人の『言葉』と『生産様式』が変化したことの意味合いは大きく、これは先住民が、アーリヤ人を受け入れたと見ることができます。

これに似たような構造は、古代日本にもありました。

支配目的で日本にやってきた渡来人が、縄文人(弥生人)の受け入れ体質(縄文体質)に触れることで、下への配慮(=共同体を壊さなかった)意識が芽生えたという構造とそっくりなのです。

先住民(ドラヴィダ人)が、侵入してきたアーリヤ人と激しく闘うことなく、受け入れ体質(縄文体質)を有する民族だった場合、アーリヤ人は先住民の共同性を完全に破壊しなかったと考えられます。

これは、先住民が、本格的な略奪闘争に巻き込まれたことがなかったとしたら、十分ありえる話です。

しかし、1点だけ日本とインドとで大きく異なる点があります。それは、古代日本の場合は、渡来人が新しい生産様式(=農耕生産)を日本に持ち込んで拡めたのに対して、インドの場合のアーリア人は、生産様式(=牧畜・遊牧)を先住民の生産様式(=農耕生産)に転換している点です。

生産様式の転換は、統合様式との関係が大きく絡んできそうですが、この点に関しては日本とインドとで構造が180度異なります。

いずれにしても、アーリヤ人は、先住民(ドラヴィダ人)に触れることによって、

@言葉と生産様式が変化した。
A共同体を壊さなかった。

上記2点については、インドという国の歴史基盤を考える上で、特に重要であることをここでは固定化しておきたいと思います。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001470.html

なぜ仏教がインドで根付かなかったのか?4〜カーストに繋がる身分制度の形成〜

農耕社会を成立させてきたインドでは、生産体制が安定化し、司祭者や王族に余力が出てくるようになります。その中で、自らの立場を守るために、のちのカースト制度に繋がる身分制度:ヴァルナが形成されていきます。

その過程の内容を紹介します。

以下、ヴァルナ制度の内容です。
『古代インドの文明と社会』山崎元一著 より


○四つのヴァルナの形成

農業技術が向上し十分な余剰生産がえられるようになったため、生産に直接たずさわる必要のない司祭階級や王侯・武士階級の形成が促された。かれらは前期ヴエーダ時代の部族司祭とラージャニヤの後継者たちであるが、前代にくらべてはるかに排他的な階級となっている。

 そうした階級は「色」を意味する「ヴァルナ」という語で呼ばれている。この時代になると先住民との混血も進み、肌の色と身分・階級との対応関係はほとんどなくなったが、ヴァルナという語はそれ以後も、身分・階級の意味に用いられつづけたのである。

 第一のヴァルナの呼称バラモンは、ヴェーダの聖句にそなわる呪術的な力「ブラフマン」をもつ者、つまりヴェーダ聖典を伝持しヴェーダの祭祀を執り行う者を意味している。

第二のヴァルナの呼称クシャトリヤは、クシャトラ(権力)をもつ者という意味である。これら両ヴァルナは支配階層を形成している。

 これに対し前代の一般部族民ヴィシュは、上位の両ヴァルナから切り離され、生産と貢納を役割とする第三のヴァルナとなった。このヴァルナの呼称ヴァイシャは、ヴィシュから派生したものである。

 アーリヤ人の支配下に置かれた先住民の多くは、隷属的な奉仕階級シュードラとなった。おそらくシュードラに近い発音の名で呼ばれた先住民がアーリヤ人の隷属下に置かれ、この固有名詞がのちに同じ境遇の者が属する階級の呼称となったのであろう。

 以上の四ヴァルナから成る社会制度が成立したのは、後期ヴェーダ時代の半ばのことである。

ヴァルナ制度のきっかけとなったのは最上位にいる、司祭者(バラモン)。いかに自分の身分を守るかという意思で身分制度を形成していきます。


●バラモン・ヴァルナの形成

 ○特権身分の要求
 農耕社会の成立とともに、自然の災害から国と住民を守るための祭祀の重要性はいよいよ高まった。司祭者バラモンはこの機会をとらえ、自己の特権的地位を確保しようと努めている。

 そのために採用した手段の第一は、祭祀を複雑にしてそれを独占することであった。かれらの説くところによれば、祭祀は絶対的な力をもち、それが規則通りに行われるならば、神々も司祭者の意思に従わざるをえないという。かれらが不注意に、あるいは故意に祭祀の手順を違えるならば、大きな富を費やした祭祀の全体が無効となるだけでなく、災いの原因にもなるのである。

 要するにバラモンは、祭祀を通じて神々を動かし、自然界の諸現象を支配できる者たちということになる。こうしたバラモンを司祭者とする祭祀万能主義の宗教は、バラモン教と呼ばれる。

 第二の手段は、厳格な婚姻規則を定めて排他的な内婚集団をつくり上げることであった。司祭者の家に生まれた男女の結婚のみを正当とし、その他の組み合わせの結婚を原則的に禁じたのである。司祭者の家に生まれた子は幼いときから特別の専門教育を受け、おもにその知識を自分の子に授ける。こうして司祭職は、バラモン・ヴァルナの内部で世襲されることになった。

 第三の手段は、身分秩序の最高位を獲得するために、自分らを「人間と神との仲介者」「人間の姿をした神」「ア−リヤ人の純粋な血を引く最清浄な存在」などと、くり返し主張することである。こうした主張はのちに、バラモン・ヴァルナを最清浄・最高位とし不可触民を最不浄・最下位とするカースト社会の身分秩序の形成を促すことになる。

 第四の手段は、自己の生計を確保するための機会を増やすことである。司祭者たちは祭祀や宗教教育に対する報酬で生計を立てねばならず、戦士になることや農業・牧畜・商業という庶民の職業に従事することは原則的にはできない。そこでかれらは、王に向かって祭祀を頻繁に挙行するよう奨励し、また上位三ヴァルナ(アーリヤ)の家長に向かって、日常の宗教儀礼に少なくとも一人のバラモンを招くよう求めた。

 バラモンはまた、上位三ヴァルナの子弟にヴェーダの教育を義務づけることにより、宗教的権威と生計の手段をより確実なものにした。上位三ヴァルナの男児は、十歳前後にウパナヤナ(入門式)を挙げてバラモンのもとに弟子入りすることになったのである。

 この入門式はアーリヤ社会のメンバーとなるための重要な儀式であり、第二の誕生とみられた。

上位三ヴァルナに属する者は、人生で二回の誕生を経験するためドヴィイジャ(再生族)と呼ばれ、母親の胎内から生まれるだけのシュードラはエーカジャ(一生族)として差別の対象となった。

 このようにクシャトリヤもヴァイシャも、ヴェーダ聖典を学び、それぞれの家の小さな祭式を自ら執り行ったのである。しかしバラモン以外の者が他人のために祭式を執り行ったり、他人にヴェーダを教授したりすることは厳しく禁じられた。

このように、バラモンは徹底して自らの優位性を確立しようとしました。
しかし、バラモンは絶対的な身分制度を確立しようとしたのではなく、相互依存を図りながらお互いの身分を守るための制度という位置付けで考えていたようです。


 ○クシャトリヤとの相互依存
 バラモンとクシャトリヤが身分秩序の最高位をめぐって争うこともあった。バラモンがヴェーダ文献のなかでクシャトリヤに勝ることをくり返し強調するのは、そのためである。

 しかしそのバラモンも、クシャトリヤと相互に利用しあってはじめて支配階級になりうることは十分にわかっていた。「バラモンとクシャトリヤは相互依存の関係によって共に栄える」というのがヴェーダ文献の説くところである。

 インド古代史を通じてバラモンは、宗教や儀礼にかかわる議論では王権に対する自己の優越をあくまでも主張したが、現実の生活においては、王に従属し、与えられた職務を果たすことによって地位と収入を保証されている。王とバラモンのそうした関係をまとめてみるならば、次のようになろう。

 バラモンはまず、特別な儀式によって王権の正統性を保証し、また呪術の力によって王と王国に繁栄をもたらす。こうした役割を果たすバラモンのなかで最高位にあるのが、宮廷司祭長のプローヒタである。

 次にバラモンは、王の守るべき神聖な義務を説くことによって、政治に参加した。王は法の制定者ではなく、バラモンの伝持する聖なる法(ダルマ)に従って統治する者とみられたからである。この面でもプローヒタが指導的役割を果たしている。

 さらに知識階級としてのバラモンは、大臣や裁判官として、また上下の役人として王に奉仕する。かれらが国政の運営と、国家の秩序の維持の上に果たした役割はきわめて大きい。

また、出自で厳密に身分制度を規定しているように見えますが、実体は混血も進んでいたようです。
やはり都合良く、柔軟に制度を利用していたようです。



 ○混血バラモン
 バラモン・ヴァルナは純粋なアーリヤの血を保持する内婚集団ということになっているが、現実にはさまざまな出身の者を受け入れている。

 アーリヤ化した先住民のなかからも、ヴェーダ聖典と儀礼を学び、バラモンと称する者が出た。バラモンのパラシュラーマが祭祀に必要な数の司祭者を見つけることができなかったため、火葬の薪から六〇人の男を作りバラモンの地位を与えたという話や、英雄ラーマが多数の山岳民の出身者をバラモンと認めたという話がある。これらは先住民がバラモン・ヴァルナに組み込まれた事実を語るものであろう。

 混血者や先住民のバラモン・ヴァルナへの編入が見られたのは、とくにアーリヤ社会の周縁部においてであった。ガンタス・ヤムナー両河地域のバラモンは、周縁部のバラモンを「バラモンと自称するにすぎない者」として蔑視している。しかし、かれらの活動があってはじめて、アーリヤ文化はインド亜大陸全域におよぶことになったのである。

バラモン、クシャトリヤという上位層に対し、ヴァイシャ、シュードラという庶民も身分制度に組み込まれていきますが、過酷な差別があった訳ではなく、例えば奴隷という存在はほとんどいなかったなど、身分差はありながらも、生活は出来ている状態だったようです。



●庶民と下層民

○ヴァイシャの経済活動 
 アーリヤ部族の上層が、この時代に上位両ヴァルナを形成したのに対し、一般部族民は、農耕・牧畜などの生産活動によってそれら両ヴァルナを支える第三のヴァルナ「ヴァイシャ」とされた。かれらは生産物の一部を王に納めたが、それは自分たちを保護してくれる王に酬いる「分け前」、ないし王の「取り分」と説明されている。こうして組織的な徽税制度の第一歩が踏み出された。

 しかしヴァイシャは、シュードラとは異なりアーリヤ社会の正式メンバー「再生族」であり、ウパナヤナ(入門式)を挙げ、バラモン教師のもとでヴューダ聖典を学ぶ資格を与えられていた。

 ヴァイシャのなかから、獲得した富を商業活動に振り向ける者も現れた。かれらが住みついたのは王侯の居城のある「都市」や、街道沿いの町であったが、その活動はいまだ小規模にとどまっていた。貨幣や文字の使用もまだ始まっていない。


○厳しいシュードラ差別
 ガンジス・ヤムナー両河地域に進出したアーリヤ人に対し、先住民は強く抵抗することはなかったようである。先住民のなかからア−リヤ化した個人や集団も出たが、多くの者は第四のヴァルナ「シュードラ」とされた。また敗戦によって、あるいは従事する職業によって、シュードラの地位に落ちたアーリヤ人もいたことが想像される。シュードラに与えられた義務は上位三ヴァルナへの隷属的奉仕であり、さらに手工芸や芸能の仕事もかれらの役割とされた。

 シュードラは隷属民として差別されたが、奴隷とは異なり、一般に自分の家族をもち、わずかではあるが財産を所有している。当時の社会には主人の所有物として売買や譲渡の対象となる「奴隷」も存在していたが、奴隷制は古代のインドでは発達しなかった。これはシュードラという隷属階級が存在したからであろう。高価かつ喪失(病気・死)の危険の大きな奴隷を手に入れるよりは、シュードラを使用するほうが有利なのである。

 女性の地位は前代にくらべて低下したようである。女性は宗教的にはシュードラに等しいとされ、ヴエーダ聖典の学習はできなかった。しかし妻は夫を助けて家庭の祭式を執り行う役目をもたされており、シュードラの宗数的無資格との違いは大きかった。



○不可触民の出現
後期ヴューダ時代の終わり近くになって、社会の最下層に重要な動きが生じた。浄・不浄の観念が発達し、排泄、血、死などに関係する行為や物が極度に不浄視されるようになった結果、それらにかかわる職業に従事していた人びとが、不可触民の地位に落とされたのである。

 不可触民の起源について、これまでさまざまに論じられてきたが、なお未解明の部分が多い。ただし確実にいえることは、バラモンが自己を最も清浄な存在と主張しつつ身分秩序の最上位を確保したこの時代に、不浄とされる賎民集団が社会の最下層に押し出されるようにして形成されたことである。

 賎民視されるにいたった諸集団の多くは、ア−リヤ社会の周縁部に住む狩猟採集民であった。狩猟採集民のなかには、農耕民となってア−リヤ社会に編入される者も出たが、そうした機会を失った者たちは、旧来の習俗を維持しつつ、アーリヤ社会の最下層に組み込まれた。

 また、これら賎民視された諸集団の間にも上下の区別がもち込まれ、その最下位にチャンダーラと呼ばれる不可触民が置かれた。チャンダーラという呼称は、アーリヤ人に征服された先住民部族の名から出たものらしい。

 不可触民は、はじめシュードラの最下層に位置づけられていたが、やがてシュードラ以下の存在、第五のヴァルナとみなされるにいたった。

 チャンダーラには清掃、体刑執行、屍体処理などの仕事が割り当てられている。

 不可触民の存在は、ヴァイシャとシュードラにある種の優越感をもたせ、経済活動の担い手であるかれらと支配階級との間に生ずる緊張関係を緩める効果をもっていた。これ以後、不可触民制は、ヴァルナ・カースト社会の安定的な維持に不可欠な装置として発達することになる。



○ヴァルナ制度のひろがり
 ガンジス・ヤムナー両河地域で成立したヴァルナ制度は、アーリヤ文化の伝播にともなって周辺地域に伝わり、やがてインド亜大陸全域におよぶことになる。こうした伝播には、必ずしもアーリヤ人の大量移住を必要とはしない。南インドのドラヴィダ世界に見られたように、先住民の有力者が北の文化と制度を受け入れて、王権の強化と社会の秩序化を図るということもあったからである。

 先住民のこうしたアーリヤ化にさいして、バラモンの果たした役割は大きかった。かれらは祭式の報酬と布施に頼って生活する者であり、したがって保護者を求めてしばしば遠隔の地に移住することも辞さなかった。周縁の地に赴いたバラモンのなかには、先住民の有力者の保護を受けつつアーリヤ化の先駆となる者も出たのである。

 ヴァルナ制度の理論は、最高のヒンドゥー法典とされる『マヌ法典』において完成する。またこの制度は、六、七世紀ころから複雑に発達するカースト制度の基本的な枠組みとしても機能することになる。そして時代や地域によって厳しい緩いの差はあるものの、カースト社会の大きな枠組みとして、日常の生活で意識されるか否かにかかわらず、今日まで存続しつづけている。

 近年の例でいえば、庶民の日常生活においては、バラモンの場合を除きヴァルナの区別がとくに意識されることはない。しかし特定のカーストが社会的ランクを上昇させようと試みるとき、かれらは突然バラモンやクシャトリヤといった高位ヴァルナの子孫であることを主張しはじめるのである。

このように、ヴァルナという身分制度がインド全土で見事に確立していきますが、なぜ、現代のカースト制度にまで繋がるこの身分制度が、存続し続けているのでしょうか?

それは、インド人に脈々と受け継がれている、輪廻思想が影響しています。


 

○業・輪廻思想の誕生
 業・輪廻思想はインド人の死生観の根本である。また仏教にともなってわが国に伝来し、日本人の死生観に大きな影響を与えた。寺の僧侶の説法に六道輪廻という語が出てくるが、これは霊魂がこの世の善悪の行為(業)に従って地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六種の世界の間で生死をくり返すことを意味している。われわれはだれでも「地獄に堕ちるぞ、畜生に生まれるぞ」とおどされた経験をもっている。

 インドの気候は雨季と乾季がはっきり分かれており、乾季の間に干上がった大地は雨季の到来とともに蘇る。そしてあたり一面緑の世界となり、地中では虫どもが活動を始める。輪廻思想の起源を先住民に求める説も有力であるが、いずれにせよこうした雨季・乾季の循環が見られるインドの大地でこの思想は誕生した。


 そのさい、どのような姿をとって再生するかは、前世の行為(業)によってきまる。祭祀や布施や善行に努めた者はパラモンやクシャトリヤとして生まれ、悪を行った者はシュードラや畜類などとして生まれる。さらに極悪の者は祖先たちの道に入ることもなく、単に虫けらとして地上で生死をくり返すのであるという。

 この世の生まれは前世の業の結果であるから、シュードラに生まれようと、不可触民に生まれようと、宿命として甘受せねばならないのである。こうした宿命観は、ヴァルナ制度や、のちのカースト制度を思想的に支えることになる。 俗世を支配する王といえども、輪廻転生から自由ではありえない。古代インドの王たちは、善政や大供犠・大布施・寺院建立といった功徳を積んで来世に天国に生まれることを願い、悪政や不信心の報いで地獄に堕ちることを恐れた。


この輪廻思想により、信仰心が高いインド人は、神官(バラモン)を頂点とする身分制度を甘んじて受け入れました。また、元々の共同体も残存し、職業の役割分担も含めて、安定的な秩序を守るための、社会統合、共存のシステムとして確立していったと言えます。

このように古代に身分制度が確立し、古代国家が成立していきますが、その後、私権拡大とともに権力闘争も激しくなります。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001471.html

なぜ仏教がインドで根付かなかったのか?5〜古代インドの社会構造

今回は、仏教が生まれた時代はどのような社会だったのかを見ていきたいと思います。

 仏教が生まれた時代のインドは幾つもの都市王国が頻繁に闘争を行っており、徐々に統合されていく時代でした。

仏教が生まれた時代と言うと、自分の内面を見つめる平和で落ち着いた社会をイメージしてしまいますが、現実には交易による経済発展と貧富の差の拡大、王に対して商人が力を付け、市場拡大が進展する、私権獲得の可能性が開かれた時代でした。

それでは、仏教が生まれた時代のインド社会の様子を見ていきましょう。

『古代インドの文明と社会 山崎元一著』からの引用です。

(以下引用)


■古代王国の成立

●ガナ・サンガ国の興亡

ブッダはガナ・サンガ国に生まれた

仏教興起時代(前六〇〇〜前三ニ○年頃)の初期、北インドにはマハージャナパダ(大国)と呼ばれる国家群が割拠していた。十六大国と総称されるそれらの国々を国家の形態から眺めると、ヴリジ国やマッラ国のように部族共和制(ガナ・サンガ制)を採る国と、マガダ国、コーサラ国のように王制を採る国とに分類できる。

 ここでいう部族共和制国とは、ガナ・サンガなど「集団」「共同体」を意味する語で呼ばれる国家であり、部族的な集団支配を特色としていた。(中略)
ブッタの時代の北インドに存在したガナ・サンガ国の多くは、ガンジス川北岸からヒマラヤ山麓にいたる地域に拠っていた。小国ではあったが、ブッタの出たシャーキャ (釈迦)族の国もガナ・サンガ政体を採用している。
(中略)

●王国の強大化

仏教興起時代に入ると、ガンジス川の中・下流域に、専制的な王を戴く強国が台頭してくる。

そうした王国の官僚組織と軍隊を維持するための財源は、米の栽培を中心とする農業生産の増大と、都市経済の発展による豊かな税収入によってもたらされた。諸国の王たちは群雄割拠の時代を生き抜くため、富国強兵策を進め、出身地や出身部族、ときには出身ヴァルナにこだわることなく、有能な者を臣下の列に加えた。
(中略)

 王の周囲にはまた、プローヒタと呼ばれる宮廷司祭長を中心とする司祭者群が存在した。王権の強化のためにはバラモンたちの宗教的な補佐を必要としたからである。王は財物のほか村や土地を施与することによって、かれらのはたらきに報いた。その一方で王たちは、精神的な支えを仏教やジャイナ教などの非バラモン的な新興宗教に求め、教団に保護の手をさしのべている。
(中略)

仏教興起時代のガンジス川中・下流域では、都市(ナガラ、プラ)が発達し、都市を結ぶ交易活動が活発に行われた。貨幣の使用が始まったのも、ブラーフミーの名で呼ばれるようになる文字の使用が始まったのも、このころである。

厳格派のバラモンたちは郡市の生活を軽視し、商業とりわけ金融業を低級な職業とみていた。

 これに対し、仏教ではそれらの職業による利潤を正当に評価しており、また商人から経済的援助を受けていた。仏典のなかに都市の生活や商人の活動に関する記事が多いのは、そのためである。
(中略)

●商人と交易活動

 都市の経済活動の中心に位置するのはガハパティ(家長)と称される上流市民であった。かれらの代表は金融業者や交易商人であり、ときには都市行政の一端を担わされている。商業はヴァイシャ・ヴァルナの職業とされているが、現実にはバラモン出身やクシャトリヤ出身の商人もいた。

 遠路を往来する交易商人が運んだ商品としては、上質の織物、金銀象牙細工、宝石、栴檀香(せんだんこう)などの高級特産品、鉄製品やもろもろの金属などがあった。
(中略)

 海上貿易活動には、常に難破の危険が待ち受けている。商人たちは出発にさいし神々を祀ったり仏教教団に布施したりして、旅の安全を祈願した。無事帰国し巨富をえた者たちは、お礼詣でを行っている。

 これら大商人以外にも、多くの行商人たちが、荷を背負ったり、驢馬の背に載せたりして、村や町を渡り歩いた。村の集会堂が行商人たちの宿泊の場として利用されることもあったらしい。

 主要な街道にはところどころに関所が設けられており、商人から通行税や商品税を徴収した。貨幣の使用もこの時代に始まった。

インドでは、前六世紀ころはじめて国家の保証印をともなった貨幣が発行されている。
(中略)

 仏典は都市社会を背景にして編まれたものであるが、そこにおいても社会は、四つのヴァルナとその下の賤民階層という五つの大きな枠組みから成るとみられている。しかし四ヴァルナの順序はクシャトリヤを第一とし、それにバラモン、ヴァイシャ、シュードラがつづくという形に変えられている。

 これはブッダがクシャトリヤの出身であること、クシャトリヤが仏教を支持したこと、生まれを重視するバラモン至上主義の主張に仏教が批判的であったこと、などによるのであろう。クシャトリヤ重視の主張は、同じ非正統派であるジャイナ教の伝承にもみられる。
(中略)

●農村と森林

仏教興起時代は、商業活動に劣らず積極的な農業活動の行われた時代であり、開拓の進展とともに、新しい村落が数多く誕生した。ガンジス川中・下流域の平原で見られた集約的な水稲栽培は、単位面積当たりで麦や陸稲の栽培をはるかに上回る収穫をもたらし、マガダ国発展のための基盤を提供した。
(中略)

 耕地は一般に私有されており、農作業はそれぞれの家単位で行われた。村人の間には所有する耕地の広さ、家畜の数に応じた貧富の差が存在した。つまり、広い耕地を所有する地主、奴隷や雇人を使用する富農、主として家族の労働に頼る中農、他人に雇われて働く貧農などが、一つの村に住んでいるのである。富裕な農民は、都市の上流市民と同じくガハパティと呼ばれ、そのなかの有力者が、村長となり、末端の行政官・徴税官に協力して村内行政にあたった。
(中略)

 都市や村は広大な森林に囲まれていた。村の周囲の森の中では牛飼いや山羊飼いが、柵や小屋を作って住んでおり、森の近くの大工村の住民は、森に入って木を伐り出し、都市に運んで家を建てている。猟師たちは森の中の猟師村に住み、獲物の肉や毛皮を都市に運んで売った。
(中略)

 森を出て村や町の近くで暮らすようになった人びとは、村人や市民から、社会の最下層に位置する賤民として扱われた。不可触民として差別されたチャンダーラの多くがそうした森の住民に起源することは、かれらが農耕社会に獣の肉を供給したり、王から森の守備を命じられたりしているところからも知られる。

 森の住民や不可触民はまた、農耕社会の住民から、病気、死、災厄など目に見えない世界と特別な関わりをもち、それらを調伏する呪術力をもつ者とみられていた。古代の文献には、チャンダーラの呪術に関する話がさまざまに語られている。
(中略)
(以上引用終わり)
  
  
 稲作を生産様式とする部族国家は、私権統合されつつも共同体性を色濃く残し続けていきました。そして、周辺の森で狩猟採取を行っていた森の民を不可触民として私権社会に組み込み、農村共同体における4つのヴァルナの人々は、例え下層のヴァルナであっても更に下に不可触民を設けることで安定化し、国家全体を秩序化していきました。

ここで改めてインド特有の「カースト制度」について見てみましょう。


(以下引用)

●カースト制度とその起源

 グプタ朝滅亡後、ムスリム王朝のインド支配が始まるまでの600〜700年の間に、ヴァルナ制度の枠組みの内部に多数のカースト集団が生み出され、カースト社会が徐々に形成された。

(中略)
 インドでは、カーストを「生まれ」を意味するジャーティという語で呼んできた。つまり「生まれを同じくする者の集団」という意味である。

 ジャーティ、カーストという語の意味からも知られるように、カースト社会に暮らす人びとは自分と同じ「生まれ」に属する者と結婚せねばならない。またそれぞれのカーストは固有の職業と結ばれており、カーストの成員はその先祖伝来の職業を世襲する。
(中略)

 このようにカーストは自治的機能を具えた排他的な集団である。そしてインド人は貧富の差や失敗・成功に関係なく、自分のカーストから生涯離れることができない。 

 カーストの数は、20世紀初めの調査によるとインド亜大陸全体で2000〜3000におよんでいる。そしてこれら厖大な数のカースト、サブ・カーストは、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという四つのヴァルナと、その下の不可触民を加えた、五つの大きな枠組みのいずれかに属している。
(中略)

 村の諸カーストの中心は、最も多くの人口を抱え、最大の耕地をもつ農業カーストである。そしてこのカーストを取り巻くかたちで、農業生産を直接・間接に補助する多数の職人カースト、サーヴィス提供カーストが存在する。司祭カーストのバラモン、書記カースト、大工カースト、陶工カースト、理髪カースト、洗濯カースト等々であり、また皮革加工カースト、清掃カーストなど不可触民に属するカーストも含まれている。中程度の村の場合、村内に存在するカーストの数は20ほどになる。
(中略)

 カースト間のタテの関係とは、ヒンドゥー教の浄・不浄思想に基づく上下の関係である。こうした関係の最上位にはバラモンが、最下位には不可触民の諸カーストが位置し、中間にはその他の諸カーストが上下に並んでいる。
このような上下関係によって、社会には全体として一つの秩序が形成されているのである。
(中略)
 

●多数のカーストから成る村落の形成

 古代の村は農耕民を主体とする比較的単純な構造をもつものであったが、グプタ時代以後に、多数のカーストを抱え込んだ村へとゆるやかに変わった。こうした村落社会の再編成は、おそらく次のような経過をたどって進行した。

 村の経済活動の中心は土地保有農民である。かれらは古代以来の農民と、地位を向上させたシュードラ耕作者、さらに新たに農耕民となった旧部族民などであり、大多数はシュードラ・ヴァルナに属すとみられるようになっていた。

 この時代に農民たちは、それぞれの地域で農業カーストとして団結し、他カーストによる経済的な侵害から自分たちの生活を守った。つまりかれらは村の支配的なカーストとなったのであり、かれらのなかの有力者が村長や長老として村を治めた。

 雨季と乾季のはっきりしたインドで、農業において最大の収穫を上げるためには、限られた時期に大量の労働力を用いる必要がある。しかし、そうした労働力の提供者を、農繁期だけのために村に常住させておくことはできない。

 一方、職業の専門化がカーストの形成というかたちで進み、またヒンドゥー教の浄・不浄思想が浸透した結果、他カーストの労働に頼らねばならない種類の仕事が増えた。たとえば、宗教儀礼の執行、大工・陶工・理髪・洗濯の仕事、死畜の処理や汚物清掃といったさまざまな労働である。これらの労働の提供者は、いまやそれぞれのカーストに所属する者たちであった。

 そこで農民は、これらのカーストの成員に住む場所と生活の保障を与えて、かれらを村に抱え込んだ。新たに村に住みついた者は、バラモンなど一部のカーストの成員を除き、農繁期における農業労働を提供した。こうして農民は、日常生活において自分らにふさわしい浄性を保ち、農繁期に安定した労働力を確保するという、二重の希望をかなえることができたのである。農業以外のカーストの成員にとっても、村での定住生活は願わしいことであった。安定した生活のためのさまざまな便宜をえることができたからである。
(中略)
 

●不可触民差別は広がった

 四つのヴァルナの下には、被差別階級である不可触民の諸カーストが存在した。グプタ時代以後の社会でシュードラ差別が徐々に消えたのとは逆に、不可触民差別はさらに複雑に発達した。シュードラ差別のかなりの部分が不可触民差別の中に吸収されたのである。
(中略)

 農耕社会の周縁部に住んでいたそれぞれの賤民集団は、部族組織をカースト組織に変えて維持しつつ分散し、村々に定住したのである。かれらは村の生活における「不浄」部分の分担者として、また農繁期の労働者として迎え入れられた。

 不可触民の存在は村人たちに一種の優越感を与え、そうした感情によって、不平等に起因する村内の緊張関係が緩められた。こうした安定は、地方の権力者や地主・土地所有農民の期待に応えるものでもあった。
(以上引用終わり)

 カースト制度とは単なる差別制度では決してなく、私権社会と共同体性を両立させる統合システムだったのです。

 共同体性が崩壊した私権社会では、固定の身分序列は差別制度になってしまいますが、共同体性を色濃く残したインド私権社会では、争いを止揚し社会全体の秩序化、安定化を第一とした社会役割共認の重要なシステムとなっていました。

 私権社会における上下関係は明確にしつつ、それぞれのカーストが職業=生産の場、婚姻制度=生殖の場を保証された共同体維持を前提としつつ、社会の中で無駄に争わず共存できる、人々の安定期待・秩序収束に応えるもの、それがカースト制度だったのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001472.html


なぜインドで仏教が根付かなかったのか6〜仏教の成立、社会とのズレ

ご存じのように仏教は、インド北部にて「お釈迦様」こと仏陀が開いた宗教です。
キリスト教やイスラム教が発祥地で今も多くの信者がいるのに対して、仏教はご当地インドではすっかり廃れてしまいました。

新興の仏教は、結局土着の宗教(というより規範・秩序体系にちかい)であるヴァルナ教=ヒンズー教への回帰の中で廃れてゆきますが、これは教義教典の内容云々というより、当時のインド社会において仏教は大衆の意識から「ズレていた」、ゆえに長期にわたる社会共認を得られなかった、というのが実態と思われます。

さて、当時のインドはどんな社会だったのでしょうか。

これは前回の「古代インドの社会構造」の中で扱いました。

意識の根底には社会規範や役割規範の要となる伝統的な身分制度「カースト制度」が強く存在していましたが、その一方で当時の古代インドは小国家が勃興、抗争、衰退を繰り返す極めて不安定な時代を迎えており、さらに浸透する貨幣経済の中で商人等の中産階級が台頭し、社会の秩序が大きく揺さぶられていた時代でした。

そこで「仏教」も産声を上げますが、当時は他にも様々な思想や観念が登場した百花繚乱の時代であったことにまず注目する必要があります。

以下、山崎元一著 「世界の歴史 3 古代インドの文明と社会」 より引用します。

非正統派思想の興起

新思想の誕生
六十二見と呼ばれる思想家群 

仏教興起時代においても、バラモンたちは、ガンジス川上流域(ガンジス・ヤムナー両河地域)を中心に、自分らの教学を充実させるための努力をつづけていた。かれらの思想をここでは「正統派」と呼ぶことにしたい。しかし、こうしたバラモンの教学は一部の特権集団のみに関わるものであり、宗教運動としては停滞を免れなかった。東方の地に興った「非正統派」の宗教運動は正統派のそうした弱点を衝き、下層民をも加えた大きなうねりとなって展開した。

 ガンジス川中・下流域における政治・経済の発展を担ったのは、国王を頂点とするクシャトリヤ・ヴァルナと、バラモンたちから低い地位を与えられてきた商人階層であった。かれらはいずれも部族制の束縛を脱し、伝統にあまりとらわれることなく行動した。
(中略)

非正統派の主張

 この時代のガンジス川中・下流域で活躍した思想家の間には、いくつかの共通点が存在する。

その第一は、いずれもヴェーダ聖典の権威とヴェーダの祭祀の有効性を否定していることである。

とくに多数の犠牲獣を必要とする大供犠が攻撃の的となった。輪廻転生思想の発達もあって、動物の殺生を厭う傾向が出てきたが、そうした風潮も供犠批判を促している。
 
共通点の第二は、宗教・思想におけるヴァルナ差別を否定したことである。

バラモンに特別な地位と権威を与え、思想と行動をヴァルナの枠に押し込めようとする制度は、都市で活動する入びとにとって受け入れがたいものである。新思想家たちの主張は、王侯から下層民にいたる都市の住民に歓迎された。
 
共通点の第三は、思想家たちが広範囲の人びとを対象に、平易な言葉で教えを説いたことである。

この態度は、難解なヴェーダ聖典を独占的に伝えてきたバラモンの態度とは対照的といえよう。仏教の経典もジャイナ教の経典も、初期のものは俗語(プラークリット語)で編まれている。
 
共通点の第四は、いずれの思想家も個人として自己主張をし、信者たちも出身ヴァルナや出身地に関係なく個人として帰依していること である。

生まれではなく、個人の能力、意思、行為が評価された。「個」が血縁の中に埋没していた前代の社会には見られなかった現象である。

以上引用終わり


社会潮流の中で様々な思想が芽生え始めていた、そしてその担い手は、貴族や商人を皮切りに、下層市民へと広がっていった事がよく分かります。

興味深いのは、彼らは古代宗教にありがちな死後の「救い」を求めたのではなく、既存の権威や枠組みを取り払うことで、より自由で広範な思想や行動を希求した点です。

現実社会の中で充足感や活力源を見いだそうとする、インド大衆の活動的な姿が目に浮かびます。

こうした中でいよいよ仏教があらわれます。  以下、引用します。


仏教の成立

ブッダの生涯とその教え 

仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)は、ヒマラヤ山麓に拠っていたシャーキヤ(釈迦)族の有力者の家に生まれた。

(中略)
 ゴータマは生後すぐに母を失ったが、叔母の手でなに不自由なく育てられ、結婚して一児をもうけた。しかし感受性ゆたかなかれは、恵まれた環境の中にあっても老・病・死をはじめとする人生の問題に悩み、29歳のとき妻子を棄てて出家した。

 出家したゴータマは、新しい宗教活動の盛んであったマガダ国に行き、6年のあいだ苦行に専念したが、満足な結果はえられなかった。そこで苦行をやめ、今日のブッダガヤーの地に移って、菩提樹の下で静坐・瞑想に入り、悟りを開いた。35歳のときのことである。これ以後ゴータマは、ブツダ(仏陀、悟った者)、シャーキヤ・ムニ(釈迦牟尼、シャーキヤ族出身の聖者)などの尊称で呼ばれることになった。

 その後の45年間、ブッダはマガダ国・コーサラ国をはじめとするガンジス川中・下流域の諸国を旅して回り、修行と教化の日々を送った。教化の対象は、王族やバラモンから、都市・農村の下層民にまでおよんでいる。

(中略)
 ブッダは生きることを「苦」とみて、そこから脱するための道を求めた。

そしてその苦の原因が、諸行無常(あらゆる存在は遷り変わる)という真理に気づかず、無常である存在に執着するところにあることを知った。人間はいつまでも生き長らえることなどできず、また最愛の人ともいつかは死別する。こうした諸行無常の真理をわきまえない無意味な願望が煩悩であり、その煩悩のとりこになった凡人は、迷いのうちに輪廻転生をくり返すとみたのである。
(中略)

仏教教団サンガの成立

 ブッダは悟りを開いたあと、ブッダガヤーの地を離れて、ヴァーラーナシー(バナーラス)へ行き、郊外の鹿野苑(ろくやおん)(現サールナート)で苦行時代の5人の仲間に教えを説いた。これが初転法輪(しょてんほうりん)といわれる出来事である。この5人がブッダの弟子になったことにより、仏教教団が誕生した。

 その後もブッダの周りに、かれと同じ方法で悟りをえようと志す出家者(比丘(びく)、原語のビクシュは乞食する人の意味)が集まり、教団はしだいに大きくなった。仏教教団をサンガ(僧伽(そうざや))と呼ぶが、これは集団、共同体を意味する語である。仏法僧という三宝のなかの僧は、個々の僧侶の意味ではなく、仏教教団サンガのことである。

以上、引用終わり

他の思想と違い仏教が特徴的なのは、まず開祖仏陀が、裕福な階級の出身なのにも関わらず 「すべてを投げ出している」 点、そして悟り、解脱といった、あくまで 現実社会からの超越を志向 している点です。

もっとも、これを大衆にも響く観念体系としてまとめ上げたのはやはりお釈迦様の凄いところで、存命中は広く大衆に受け入れられたようです。

しかし、仏陀の非凡な能力とカリスマ性に依存していた感も否めず、現実に立脚しない観念群に支えられた思想基盤の脆さは、彼の死後すぐに露呈します。

以下引用です


仏教の展開

仏典編集のはじまり

ブッダの没後、師の言葉の理解をめぐって意見の対立の生ずるおそれが出たため、長老マハーカーシュヤパ(大迦菓(だいかしょう))は、ラージャグリハ郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の比丘を集め、教団の規則(律)とブッダの教説(経)を確認しあった。これが第一結集として知られる仏典編集会議である。

 結集の原語「サンギーティ」は「一緒に唱えること」という意味である。当時の教団では文字を使用しておらず、全員でくり返し唱えることによって暗記したのである。このときの律と経が、後世の諸部派によって多少の改変の手を加えられつつ伝えられ、今日の『律蔵』と『経蔵』になった。

仏教教団の分裂

 第一回の仏典結集から100年間は、教団の統一がなんとか維持された。そしてこの間に仏教は、通商路にそってガンジス川上流域や西インドに伝えられた。

教団の組織は、ローマ・カトリック教会の組織とは異なり中央集権的なものではなく、一地方の比丘の全員が集まったところに一つの自治的な教団が形成されるというものである。そのため布教活動が遠隔地におよぶようになると、地方で独自の活動を行う集団も現れた。
 
仏滅後100年(あるいは20年)に開かれた第二回の仏典結集は、ガンジス川中流域の豊かな都市で安易な修行生活を送る比丘たちと、遠隔地の厳しい環境のなかで布教・修行の生活を送る比丘たちとの対立というかたちをとった。

 (中略)
 戒律や教義の理解をめぐるこのような対立が原因となって、第二結集のころ(一説によると第二結集の結果)、教団に最初の大分裂が生じ、保守派の上座部(テーラヴァーダ)つまり長老たちの部派と、革新的な立場をとる大衆部(だいしゅうぶ)(マハーサンギカ)が成立した。

さらにその後の200年間に、二大部派の内部に新たな分裂が生じ、合計20ともいわれる部派となった。 

以上引用終わり


現実離れした理想論、観念論をこねくり回して対立し、権力闘争と分裂を繰り返す。

そこには社会や人々の意識に目を向けた形跡はありません。
まるで、どこかの国の学者や政治家達を見ているようです。

ここで、現実に立脚したかつての社会秩序体系がリバイバルします。

以下引用です

正統派の抵抗−ヴァルナ制度の理論と現実

ヴァルナ制度の理論的根拠

 ガンジス川中・下流域で都市が発達し、入びとがヴァルナ制度の諸規則にとらわれずに活動していたころ、その西のガンジス川上流域は、依然としてバラモン文化の中心でありつづけた。
(中略)

バラモンたちは、時代の流れに抗し、身分秩序の強化と維持をめざしてヴァルナ制度の理論の確立を図った。そうした努力の結晶が、『ダルマ・スートラ(律法経)』 である。

ダルマとはインド思想の中心概念の一つで、真理、教理、義務、法律、慣行などさまざまな意味をもつが、ダルマ・スートラのダルマは、各ヴァルナに属する者が守るべき宗教的・社会的な規範を意味している。「スートラ (経)」とは、暗記しやすいように要点を簡潔に記した作品のことである。

 この文献の語るヴァルナ制度の理論は、およそ次のようなものである。
 
(1)人間社会は、バラモンを最高・最浄とし、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと、しだいに地位・浄性を低下させる四つのヴァルナから成っている。
この世の生まれは前世の業の結果であるから、人は生涯にわたって自分のヴァルナから離れることはできない。
 
(2)各ヴァルナは独自の職業と結ばれている。それぞれのヴァルナに生まれた者は、自分のヴァルナの職業に専念せねばならない。それこそが、よりよい来世をえるための最も功徳ある行為である。
 
(3)各ヴァルナに属する者は、同じヴァルナに属する者と結婚せねばならない。また各ヴァルナの成員は、日常生活において、それぞれのヴァルナにふさわしい慣行を守らねばならない。
 
(4)四ヴァルナの区別は人類出現の昔にさかのぼる。人間の生命がランクと機能を異にする身体の各部分の調和によって維持されるように、社会は四ヴァルナがそれぞれの役割を果たすことによって、平安に維持される。 


 
結婚に見られる柔軟な現実対応

しかし現実には、ヴァルナ制度の理想とは相容れないさまざまな事態が生ずる。『律法経』 の編者であるバラモンは、こうした事態にきわめて柔軟に対応した。そうした対応は結婚と職業の問題によく示されている。

 ヴァルナ制度は、各ヴァルナの成員が自分と同じヴァルナの者と結婚することによって維持される。しかし違法とされる異ヴァルナ間の結婚はしばしば見られ、その結果として混血の子も多く生まれた。これを放置するならば、ヴァルナ制度は根底から崩れてしまう。

 この事態に対処するため、バラモンはアヌローマ(順毛)の理論を唱えた。つまり、男が上位ヴァルナ、女が下位ヴァルナの組み合わせを、髪の毛を上から下にとかすような自然な関係と認め、この組み合わせを準合法としたのである。
(中略)

窮迫時における柔軟な現実対応

 ヴァルナ制度では、人びとは自分のヴァルナに固有な職業で生計を立てるよう求められている。しかし現実の生活においては、その理想に反する事態がしばしば生じた。

(中略)
 理想と現実の間のこうした矛盾は「窮迫時の法」という臨時法を定めることによって解決された。困窮に陥っている者にかぎり、下位ヴァルナの職業で生活することを準合法として認めたのである。

(中略)
「窮迫時の法」は、あくまでも臨時的な救済法であり、本来の職業で生活できるようになった者は、ただちにその生活に戻らねばならない。しかし現実には、この法を一つの口実として、自己のヴァルナの職業とは異なる雑多な仕事に従事する者は、きわめて多かった。このように「窮迫時の法」は、ヴァルナ制度の理想と現実との間の溝を埋め、四ヴァルナの大枠を維持させるための有効な理論だったのである。

以上、引用終わり

なんと柔軟で現実的な制度でしょう!

一目して、仏教など、かないっこない!と思ってしまいます。

と同時に、仏教のなにがズレていたのか、その中身が鮮明になってきました。

仏教は現実社会やそれを構成する人々の意識を対象化せず、現実を捨象した観念世界に埋没してゆきます。観念世界に埋没すればするほど、みなの意識からズレてゆく、というのは当然といえます。

これでは人々の期待に応える事など出来ません。
挙句の果てには教団内で権力争いと分裂を繰り返してゆきます。

これでは大衆に受け入れられ、定着する訳がありません。

もっとも、新興宗教が勃興する中で、バラモン階級もその存在意義をかけて、現実と人々の意識を直視し、硬直した思想と体制を見直したのかもしれません。

その結果、社会秩序を司る身分制度を「安定」基盤としつつ、様々な現実の問題に柔軟に対応する「変異」の要素を併せ持つことで現代まで続く精神基盤となり得ました。

そしてこれが、「ヒンズー教」へと発展してゆきます。

「安定」と「変異」は様々な外圧に適応するための、いわば「自然の摂理」です。
社会秩序もまたその例外ではないと言うことが、この事実からも見て取れます。
翻って現代社会を見ても、今は「自由」や「個人」を偏重し、序列や身分制度を旧弊とする風潮があります。しかしこれは「普遍」「安定」をないがしろにした、いびつな社会体制と言えるのではないでしょうか。現代社会の諸問題もこうした観念の「偏り」に起因していることは明らかです。


観念のみに傾斜し、社会とどんどんズレて行ったインドの仏教。

「安定」と「変異」を両輪とし大衆に深く浸透していったバラモン教とカースト制度。

現代社会の諸問題を解く鍵もここにあるように感じます。

このバラモン教がさらに発展し、諸聖典やカースト制度を引き継ぎながら出来上がったのが、現在ほとんどのインド人が帰依する「ヒンドゥー教」です。

コメント
インドの仏教が、結集をする度に観念のみに傾倒し、権威主義に陥っていったことは間違いないでしょう。そして、それが大衆から遊離する原因にもなったのは確かです。
しかし、それが釈迦の頃からそうであったとするのはどうでしょう?


>これを大衆にも響く観念体系としてまとめ上げたのはやはりお釈迦様の凄いところで、・・・現実に立脚しない観念群に支えられた思想基盤の脆さは

と書かれていますが、これは明らかに間違えです。
まず、観念体系をまとめ上げたのは、結集をした後の弟子たちです。

釈迦は、出会う一人一人の「苦」に同化し、その「原因」を見抜き、適切に助言をして歩いただけです。それが、彼の全てです。

とことんまで、一人一人の現実に目を向けて、その解決に全力を注ぎました。決して「悟り」や「解脱」を目指していたわけではないのです。

インド中を歩いたからこそ、彼の助言が膨大な数になり、弟子がそれをまとめた結果、様々な経典が出来上がってしまったのでしょう。

弟子に対するある助言の中では、観念の世界に入り込むことを、意味のないものとして、明確に戒めています。

故に、釈迦存命中は、仏教の観念論なるものは一切ありません。

そのことは、引用の中でも書かれている『律蔵』や『経蔵』を読めば、明確に書いてあります。

おそらく、後の弟子たちが観念に埋没してしまった背景としては、釈迦の言葉があまりにも多岐に渡り、中には180度違う意味の言葉もあることから、それを何とかまとめようとしたために、色々と理由付け(正当化)をし始めてしまったのでしょう。

180度違うのは当たり前で、状況が正反対の人に対する助言なのですから。それを、同じ人間に当てはめてしまったことが失敗だったのだと思います。

180度違う助言があるという点を見ても、釈迦がいかに柔軟であったかがわかると思います。

つまり、釈迦が何をしたかったのか?が弟子には分かっていなかったということが、仏教が観念論に陥ってしまった原因だと思います。

原始仏典を紐解くならば、いかに釈迦が現実主義者であったかが、よくわかると思います。彼は今ある現実を、より良い方向へ向けるにはどうしたら良いか?人としてどう生きるか?を助言して歩いただけなのです。
投稿者 仏典を読んだ者 : 2013年01月28日 03:10

是非中村元先生の著作(『原始仏教』など多数)をお読みになることをお勧めします。仏教の真髄は釈迦〜龍樹にあると思います。仏教は論理学や哲学の範疇にまで入り込みながらギリギリのところですべてを翻し野へ向かわせる他の宗教にない思想的凄み、深みがあります。そして釈迦は悩まぬものには悟りは必要ない(違約)とまで言っています…
投稿者 原始仏教ファン : 2013年02月05日 05:49
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001476.html

なぜ仏教がインドで根付かなかったのか?7〜ヒンドゥー教の成立

前の記事:シリーズ「なぜ、仏教がインドが根付かなかったのか?6」〜仏教の成立、社会とのズレ〜で

>新興宗教が勃興する中で、バラモン階級もその存在意義をかけて、現実と人々の意識を直視し、硬直した思想と体制を見直したのかもしれません。

その結果、社会秩序を司る身分制度を「安定」基盤としつつ、様々な現実の問題に柔軟に対応する「変異」の要素を併せ持つことで現代まで続く精神基盤となり得ました。

そしてこれが、「ヒンズー教」へと発展してゆきます。

 インド人の83%が信仰するヒンズー教も、人々の意識を統合するためにその内容を時代に応じて変容して行くようです。

この流れを見て行きたいと思います。


『古代インドの文明と社会 山崎元一著』からの引用です。


●ヒンドゥー教の形成 

渾然一体としたヒンドゥー教

本節では、グプタ朝という時代にはとらわれず、ヒンドゥー教そのものについて紹介してみたい。

 ヒンドゥー教はアーリヤ人の宗教であるバラモン教(ヴェーダの宗教)と先住民の信仰との融合というかたちで、長い期間をかけて徐々に形成されたものである。そして、グプタ時代までひとまず成立し、それ以後においても、時代と地域の要請に応じてさらに新しい要素を加えつつ今日にいたった。ヒンドゥー教の形成にともないインドラ、アグニなどヴェーダの宗教で人気のあった神々は背後に退き、代わって非アーリヤ的な性格を強くもった神々が舞台に登場する 

このようなヒンドゥー教形成の歴史のなかで、聖者と呼ばれる宗教家は多く現れたが、キリスト教、イスラム教、仏教の開祖に相当する人物は存在しない。また聖典の類は多数編まれているが、バイブルやコーランに相当する唯一最高の聖典も存在しない。ヒンドゥー教は、インド哲学の名で呼ばれる高度かつ難解な哲学思想からアニミズム的信仰にいたるさまざまな要素を包み込んだ、渾然一体とした宗教なのである。。ヒンドゥー教徒は今日のインド共和国人口の約83パーセントを占めている。

 ヒンドゥー教徒が祀る神としては、まず家の神がある。これにはかまどの神や敷地の内外に棲む精霊などがあるが、とくに祖先の霊の供養は、家長が日々行う最も重要な宗教的義務とされている。

 家を超えた地域社会には村の神々がいる。それらはコレラ・天然痘をもたらす女神や、境界の神、沼の神などで、人間の姿をした像から単なる石にいたるさまざまな形に偶像化され、多くは村はずれの小さな祠の中に祀られている。これらの祠を守るのは、バラモンではなく一般に下層カーストの者である。

 地域を超えて信仰される神々も多数あるが、そうした神々の頂点に、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという最高神が存在する。

ヒンドゥー教は確かに多神教であるが、ヒンドゥー教徒の間では最高神への憧れが強く、最高神に絶対的帰依を捧げるバクティという信仰形態が広く見られる。村の中央の寺院に祀られているのは、これらの最高神やその一族であり、寺院を管理するのは一般にバラモンである。

 礼拝の方法としては、バラモン教における形式重視の祭祀に代わって、プージャーと呼ばれる礼拝が一般的となった。これは神々に水、食物、花、香を供え、神像の前に額(ぬか)ずき、真心から神に祈りを捧げるものであり、形式よりも信仰心の強さが求められている。今日のヒンドゥー教寺院で見られるのは、この種の礼拝である。

 最高神としてヒンドゥー教徒の信仰を二分しているのはヴィシュヌとシヴァであるが、これら両神のそれぞれがヒンドゥー教形成の歴史の一面を語ってくれる。


●恐怖と恵みの神シヴァ

 シヴァ神信仰はインダス文明の昔にさかのぼるように思われる。というのは、この文明の遺跡から出土する印章の面に、シヴァ神の原初の姿が見出されるからである。またインダス文明では、豊鏡・多産を祈る生殖器崇拝も行われていた。

 インドに入ったアーリヤ人は、先住民の信仰を拒絶していたが、のちにこの「原シヴァ神」を、かれらの宗教の暴風神ルドラと同一視するという方法で受け入れた。ヒンドゥー教においてシヴァ神はリンガ、つまり創造のエネルギーを象徴する男性の性器の形に表現されている。シヴァ寺院の奥殿の中央に安置されているのは、ヨーニと呼ばれる女陰に囲まれた姿の御神体シヴァ・リンガである。

 額に「第三の目」をもち三叉のほこを手にしたシヴァ神は、凶暴な一面をもつ神であり、ハラ(奪う者)、バイラヴァ(恐ろしい者)の名で呼ばれ、宇宙を破壊し焼きつくす役割を演ずるとみられている。しかしその一方で、この神は人類に恩恵を与えてくれる慈悲深い神でもある。シヴァという名そのものが、サンスクリット語で 「吉祥」「幸福」を意味している。

 たとえば、シヴァ神は破壊した宇宙を再び創造する神であり、またヒマラヤ山中で苦行しつつ天の聖河ガンガーの水を頭髪の中に受け止めて、大洪水から人間世界を守る神である。その頭髪を伝わって落ちた水が聖河ガンジスなのであるという。またこの神は世界を滅ぼす猛毒を飲んで神々や人類を救い、自らは青い頸(くび)をもつにいたったともいわれる。さらに踊りつつ宇宙を創造、維持、破壊するところから舞踏の神(ナタラージャ)、芸術の神としても崇拝されている。


●シヴァ神に従う親族たち

 このようにシヴァ神は、さまざまな働きをする神々を一身に取り込んだともいえる神格であるが、この神はさらに、地方的に信仰を集めていた多数の神を自分の一族(けん属(ぞく))として抱え込むという方法で、信者の輪を拡げた。 

まず土着の農耕民・狩猟民に信仰されていた地母神が、強い生殖力(性力、シャクティ)をもった妃神となり、崇拝された。ドゥルガー、カーリーはそうした女神であり、いずれも悪魔の殺戮などシヴァ神の恐ろしい面を代行する役割を果たしている。彼女らはまた、動物や人間の犠牲を喜ぶ残忍な女神として、さらに、献身的な信仰を捧げる者に恵みを惜し気もなく与える慈悲深い女神として信仰された。両女神(別名で呼ばれる同一女神ともいわれる)に対する信仰は、今日なおベンガルをはじめインド各地でさかんである。

 ヒマラヤ山麓の住民に信仰されていた山の女神パールヴァティーもまた、シヴァの妃神とされたが、彼女はどちらかといえば、やさしい豊饒の女神である。さらに女神の性のエネルギーとしてのシャクティが独立して崇拝の対象となった。シャクティ信仰は、のちにヒンドゥー教や仏教のタントリズム(密教)として新たな展開を見せることになる。

 象頭・太鼓腹という異様な姿をしたガネーシャ(ガナパティ)も、土着の信仰に起源する神であるが、シヴァとパールヴァティーの息子として最高神の一族の仲間に加えられた。この神は、災いを除く神、知恵と富と幸運の神としてインド全域で信仰されている。六つの頭をもち孔雀を乗物とする軍神カールッティケーヤもまた土着信仰起源の神であったが、シヴァとパールヴァティーの息子とされ、スカンダとも呼ばれて信仰された。ガネーシャもスカンダも仏教とともにわが国に渡来し、それぞれ歓喜天、韋駄天となっている。 

さらにスカンダは、ドラヴィダ民族とくにタミル民族の間で人気のあった「山の神」「戦いの神」ムルガンと同一視されることにより、南インドの住民をシヴァ信仰の中に取り込んだ。南インドではまた、マドゥライ地方で崇拝されていた幸福の女神ミーナークシーが、パールヴァティーと同一視され信仰された。そしてシヴァとパールヴァティの結婚がミーナークシー崇拝の中心に据えられ、これを記念する春祭りがマドゥライの大寺院で今日なお盛大に催されている。


●ヴィシュヌは変身して世界を救う

 もう一方の最高神ヴィシュヌは『リグ・ヴェーダ』に太陽神の一つとして現れるが、主要な神ではなかった。その後しだいに信仰を集めるようになり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』では慈悲深い神、宇宙を創造し維持する神として崇拝されている。この神は、同一視と権化という二つの手段によって土着の神々を取り込んだ。 

このうち第一の手段は、土着の主要神をヴィシュヌと同一視することである。ヴィシュヌは多数の名を持つ神として知られるが、それらの名の多くは地方的に信仰されていた神に起源する。たとえば、デカン西部のパンダルプル地方などで信仰されていたヴィトーバー神は、ヴィシュヌと同一視されることによってヒンドゥー教の最高神としての地位を獲得した。この地の住民は従来どおりに祈りを捧げていれば、ヴィシュヌを拝したことになるのである。

 またインド半島東北部のオリッサ地方の部族神も、ヴィシュヌと同一視され、ジャガンナート(世界の主)として大寺院に祀られることになった。プリー市にあるこの寺院で催される祭りは、インド最大の祭りの一つである。

 第二の手段の権化(化身、アヴァターラ)とは、「ヴィシュヌはさまざまな姿に身を変えて地上世界に現れ人類を救う」という信仰に基づくものである。それらのなかで十権化が名高い。十権化とは出現の順に、魚、亀、いのしし、人獅子、小人、パラシュラーマ (バラモン出身の英雄)、ラーマ (『ラーマーヤナ』 の主人公)、クリシュナ(牧畜民の神、『マハーバーラタ』の英雄神)、ブッダ(仏教の開祖)、カルキ(未来の救済者)である。 このように、土着の信仰に起源する神々や、叙事詩の英雄、さらにブッダまでが権化という手段でヴィシュヌ信仰に取り込まれているのである。仏教信者がいかに反論しょうとも、ヴィシュヌ派ヒンドゥー教徒の立場からすれば、仏教徒はブッダの姿をとったヴィシュヌ神を崇拝していることになる。

 ヴィシュヌ神の妃は、ラクシュミーあるいはシュリーの名で知られる美と幸福の女神である。グプタ朝をはじめインド土着王朝の発行した貨幣には、裏面にこの女神を打ち出したものが多い。ラクシュミー女神は仏教にともなってわが国に伝来し、吉祥天として崇拝されている。

●二大宗派は共に栄える

 土着の主要な神々は、このようにしてヒンドゥー教の二大神のなかに取り込まれた。シヴァ派、ヴィシュヌ派の信徒は、そうした地方神が最高神と同一であることを証明するために、豊かな想像力を駆使して神話や伝説を創作し、それが文学や芸術をいっそう多彩なものにした。

 二大宗派の信徒たちは、いずれが真の最高神であるかをめぐって争うこともあったが、一般的には協調関係を保ってきた。

 たとえば、坂田貞二の調査したヴィシュヌ信仰(クリシュナ信仰)の聖地ヴリンダーヴァンにあるシヴァ寺院の縁起によると、クリシュナが牧女たちとたわむれつつ吹いた笛の音にさそわれ、ヒマラヤ山中からシヴァ神がこの地に飛来し、女装して牧女の群れに加わったという。

 あまりにも激しく踊ったため、シヴァの顔を覆っていた布が落ちた。クリシュナはそれを見てシヴァの来訪を喜び、この地に住居、つまりシヴァ寺院を建てることを許した。今日、ヴリンダーヴァンを訪れるヴィシュヌ派の巡礼者たちは、みなこのシヴァ寺院にも詣でるという。

 さらに、ヒンドゥー教徒の最高神への憧れは、ヴィシュヌ(ハリ)とシヴァ (ハラ)を一体とみるハリハラの観念や、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三神を一体とみるトリムールィの観念を生んだ。

 一方、二大神に関係するこのような展開と並行して、中扱・下級の神々も、ヒンドゥー教のパンテオンの内部にそれぞれにふさわしい場所を与えられた。ナーガ(蛇)、ヤクシャ(夜叉)、ハヌマーン(猿神)、ガンダルヴァ(半大半神の音楽神)、アブサラス(天女)、さらには川、湖、船 木、石までが崇拝の対象とされている。


 バラモンは不動の地位をえた。

 このようなヒンドゥー教の形成にあたり、司祭老バラモンはどのような役割を演じたのであろうか。

 もともとバラモンは、アーリヤ人の宗教の指導者であると自負し、先住民の信仰を拒絶していた。その後、仏教やジャイナ教などの非正統派が興ると、かれらはこれに圧倒され受け身に回った。つぎにかれらは、シュードラ以下と蔑視していた異民族の支配下に入るという屈辱をあじあった。バラモンにとって不本意な時代がつづいたのである。

 バラモンたちはこれらの危機に対処し退勢を挽回するため、自分たちの宗教、つまりバラモン教の大衆化(ヒンドゥー教化)という手段を選んだ。非アーリヤ的な土着の神々を崇拝の対象として受け入れたのも、シュードラへの宗教的サーヴィスを始めたのも、そうした苦心の現れである。さらに偶像崇拝、寺院参詣、聖地巡礼、プージャーといった大衆的な信仰形態が、バラモンたちに受け入れられた。かれらは時代の状況に応じて自分たちの宗教を変質させ、非正統派を退けるとともに、地位と特権を守ったのである。

ヒンドゥー教徒の生はサンスカーラと呼ばれる通過儀礼の連続である。それらは結婚後に新郎・新婦つまり両票行う受胎式ー息子を妊娠するよう祈願する儀礼ーに始まる。この世に生を享けてからは、誕生式、命名式、食い初め式などとつづき、入門式、結婚式などを経て葬式にいたるのである。さらに、死後には祖霊として子孫たちから祭られた。祖霊の祭り子孫たちにとって最も重要な宗教的義務とみられている。

 不可触民など最下層の家を除くヒンドゥー教徒の家では、こうした家庭の祭事にバラモンを司祭者として招くことになっている。したがってバラモンとヒンドゥー教徒の家とは、わが国の家と檀家の関係を幾重にも強化したような関係で結ばれているのである。どの村にも、村人の祭事を先祖代々執り行ってきたバラモンの家族が住んでおり、大きな村の場合は、幾人ものバラモンが村の家々の祭事を分担している。 このように、バラモンは地域社会の生活の中に完全に組み込まれているのである。バラモンを指導者とするヒンドゥー教の根強さはここにある。のちにインドにやって来たイスラム教の支配者も、インドの大地に深く根を下ろしたバラモンと、かれらの指導するヒンドゥー教の排除を、断念せざるをえなかった。


前回に続いて、実に柔軟な現実的な考え方で庶民の意識を統合しています。

>土着の主要な神々は、ヒンドゥー教の二大神のなかに取り込まれた。この、シヴァ派、ヴィシュヌ派の信徒は、そうした地方神が最高神と同一であることを証明するために、豊かな想像力を駆使して神話や伝説を創作し、それが文学や芸術をいっそう多彩なものにした。

共同体的な側面を残す民族は少ないので世界では珍しい統合様式ですね。日本に近いと感じるのは、共同体を残すためでしょう。

 観念(頭)の先端を塗り替えるだけで、カースト制度も含めた元々の共同的な生活は認めていっている。共同体(ウンマ)の制度を組み込んだイスラム教でも入り込めなかったことを見ると、その本源(共同体)性は高いと思います。

又、カースト制度は、バラモンの地位は守るが、金・地位・いい女という私権の独り占めは出来ない。一方、クシャトリア、商人、王侯は、私権をどれだけ得ても、バラモンにはなれない。権利の1極集中を避ける制度といえます。私権を得た王が神格化してゆく西洋はもとより、中国の皇帝とも異なることが大きな特徴と言えます。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001475.html

「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?8(最終回)〜統合様式と宗教の関係

シリーズ「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?1」〜プロローグ〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/10/001453.html

>インドの社会状況から、統合様式(支配様式)が最先端の観念(宗教等)を規定するという構造を解明していきます。

プロローグでは、統合様式と最先端の観念がインドではどのような関係になっているのか?を提起しました。

シリーズ「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?2」〜仏教とインドの歴史(概要)〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/11/001457.html

>仏教は、カースト制度(身分制度)と女性蔑視を生んだバラモン思想への違和感から生まれました。その時代は、交易から商工業が発達し、貨幣経済に入り、私権意識が顕在化し、貧富の格差が拡大する時期でした。豊かになるとカーストのトップは腐敗し、最下層は困窮します。その一方、王侯や商工業者の新勢力は、自らの私権の拡大を阻害するバラモン思想への反を希求し、仏教を支持して行くようです。


市場化・都市化の押し寄せる中、バラモンの衰退と仏教の成立が見て取れます。クシャトリア・王侯貴族・商人たちには、バラモンやカーストが邪魔な存在であり、それを捨象している仏教を新しい教えとして採用した経緯が見て取れます。

シリーズ「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?3」〜先住民に触れ変化したアーリヤ人〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001470.html

>侵入した民族(アーリヤ人)側が先住民の文化を取り入れている点は、大変興味深いです。

というのも、通常、大陸における侵略の場合、『皆殺し』が常であるのに、インドに侵入したアーリヤ人は、先住民を皆殺しにするどころか、先住民と融合を図っているからです。

当時の時代背景を鑑みると、これは世界的に見ても極めて稀な事例と捉えることができそうです。

また、先住民と触れることでアーリヤ人の『言葉』と『生産様式』が変化したことの意味合いは大きく、これは先住民が、アーリヤ人を受け入れたと見ることができます。


>先住民(ドラヴィダ人)が、侵入してきたアーリヤ人と激しく闘うことなく、受け入れ体質(縄文体質)を有する民族だった場合、アーリヤ人は先住民の共同性を完全に破壊しなかったと考えられます。


最先端の私権原理を持ち込んだアーリヤ人は、先住民(ドラヴィダ人)に触れることによって、彼らを征服・皆殺しにしないで融合していったようですね。特徴的なのが、@言葉と生産様式が変化した。A共同体を壊さなかったの2点については、特に重要で、共同体体質を色濃く残す社会の私権原理への適応様式が見て取れます。


シリーズ「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?4」〜カーストに繋がる身分制度の形成〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001471.html

>インド人に脈々と受け継がれている、輪廻思想が影響しています。
>この輪廻思想により、信仰心が高いインド人は、神官(バラモン)を頂点とする身分制度を甘んじて受け入れました。また、元々の共同体も残存し、職業の役割分担も含めて、安定的な秩序を守るための、社会統合、共存のシステムとして確立していったと言えます。


もともとインドには輪廻という思想があり、ヴァルナ、カーストにつながっていきます。輪廻思想は、これらを裏付ける原点となっていることが分かりました。

シリーズ「なぜ、仏教がインドで根付かなかったのか?5」〜古代インドの社会構造〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001472.html

>カースト制度とは単なる差別制度では決してなく、私権社会と共同体性を両立させる統合システムだったのです。

 共同体性が崩壊した私権社会では、固定の身分序列は差別制度になってしまいますが、共同体性を色濃く残したインド私権社会では、争いを止揚し社会全体の秩序化、安定化を第一とした社会役割共認の重要なシステムとなっていました。

 私権社会における上下関係は明確にしつつ、それぞれのカーストが職業=生産の場、婚姻制度=生殖の場を保証された共同体維持を前提としつつ、社会の中で無駄に争わず共存できる、人々の安定期待・秩序収束に応えるもの、それがカースト制度だったのです。


カースト制度は、差別制度、身分制度といわれますが、欧米の私権社会から見れば、そう見えますが、共同体の基盤がしっかりと残っているインドにおいては、共同体を安定⇒秩序化して維持・継続できるシステムであったのだろうと思います。だからこそ、現在までこの制度は生き残り、人々が拠り所にしたのだろうと思います。

シリーズ「なぜ、インドで仏教が根付かなかったのか6」〜仏教の成立、社会とのズレ〜  
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001476.html

>現実離れした理想論、観念論をこねくり回して対立し、権力闘争と分裂を繰り返す。
>仏教は現実社会やそれを構成する人々の意識を対象化せず、現実を捨象した観念世界に埋没してゆきます。観念世界に埋没すればするほど、みなの意識からズレてゆく、というのは当然といえます。

これでは人々の期待に応える事など出来ません。
挙句の果てには教団内で権力争いと分裂を繰り返してゆきます

>新興宗教が勃興する中で、バラモン階級もその存在意義をかけて、現実と人々の意識を直視し、硬直した思想と体制を見直したのかもしれません。

その結果、社会秩序を司る身分制度を「安定」基盤としつつ、様々な現実の問題に柔軟に対応する「変異」の要素を併せ持つことで現代まで続く精神基盤となり得ました。

そしてこれが、「ヒンズー教」へと発展してゆきます。

>観念のみに傾斜し、社会とどんどんズレて行ったインドの仏教。

「安定」と「変異」を両輪とし大衆に深く浸透していったバラモン教とカースト制度。
現代社会の諸問題を解く鍵もここにあるように感じます。


シリーズ「なぜ、インドで仏教が根付かなかったのか7」〜ヒンドゥー教の成立〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/001475.html#more

>(ヒンドゥー教は、)実に柔軟な現実的な考え方で庶民の意識を統合しています。
>共同体的な側面を残す民族は少ないので世界では珍しい統合様式ですね。日本に近いと感じるのは、共同体を残すためでしょう。


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 この上記の二つの記事から、仏教は、インド社会とずれていたと理解できたのですが、具体的に何が、ずれていたのか見てみたいと思います。当時は、新たな私権原理・市場原理の圧力に晒されたインドを前提に考えて見ましょう。

 まず、生殖:性において、仏教は俗世の煩悩として排除しています。共同体の中で育まれてきたインドのおおらかな性に対して、輪廻からの解脱と称して、排除してしまったところに大きな問題があると思われます。

さらに、仏教は、社会を秩序化・安定化させるカースト制度を排除しようとした点も問題でしょう。

 闘争:食=職業において、カースト制度は、インドにとっては、単なる身分制度ではなく、社会を安定・秩序化する制度そのものであったと思われます。社会を構成する集団(共同体)を維持する機能としてみなに受け入れられていたのだろうと思います。

仏教は、私権社会で台頭してきた新しい勢力(私権社会の勝ち組であるクシャトリア(王侯貴族など)・商人)の後ろ盾を得て、成立していた教えであり、本源的な部分を捨象しようとする姿勢が、庶民から見れば、受け入れがたいものと写ったでしょう。

このように仏教は、自ら、社会との断層を生み出して、大衆の共認を得る事ができず、インドに定着しなかったのでした。逆に、ヒンドゥー教は、その全てを柔軟に受け入れ、かつ、己の教義や主張である観念内容を変え、現実のカースト制度と古代インドの観念体系を踏襲して、人々の意識を秩序立て、収束させていったと思われます。この受け入れ姿勢は、庶民との共認形成を得て、インド社会を包摂する大河のような教えとなっていったと思われます。

 その基盤となっている原住民(ドラヴィダ人等)の本源性・共同体性は、アーリヤ人の私権意識をも変質させて、共同体を破壊することなく、本源的な安定⇒秩序収束を連綿と受け継いで現在のインド社会が形作られたのだろうと思います。それは、誰もが変えられなかったのだと思います。

その後、仏教は、大乗仏教や、密教へと大衆寄りに変化して引き継がれ、ネパール等の周辺諸国、東南アジアや、朝鮮半島、日本へと伝来していったのだろうと思います。


このような本源的な共認原理による社会統合期待が根付いていたインドにおける観念体系は、日本の神道(八百万の神や神話の世界等)に見られ、ヒンドゥー教と似たものとなっています。また、その構造には特長があるのではなかろうか?と思い調べてみたところ、とても、参考になる記事がありましたので、下記に紹介します。るいネットからの引用です。

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『なんでや劇場(3) 武力時代の東洋の共同体質⇒秩序収束⇒規範収束 (冨田彰男)』

しかし、イスラムでは王はいないし、インドでは王がいるが形式上は神官の方が上である。(また、身分序列が確立しているからと言って、必ずしもキリスト教のような一神教になるわけではない。日本然り、インド然り。インドのバラモン教でも、シバ神などの部族連合時代の神々が生き残っている。)

イスラムとインドは何故こうなったのか? その共通項は?

ここで東洋と西洋の違いに触れておく。

6000〜5000年前、イラン高原において乾燥化を契機に、最初の略奪闘争(戦争)が起こり、それが玉突き的に伝播して武力支配国家が出来上がったわけだが、その伝播ルートは二つある。一つはメソポタミア・エジプト・アラブへというルート、もう一つは中央アジア〜モンゴル高原へというルート。

イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥り、そこでの略奪闘争は皆殺しが常態となったが、モンゴル高原はイラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての共同体性を強く残すことになる。

インドを征服したアーリア人も「我々は神である」と言ってインド先住民を支配したわけで、大して殺戮していない。だからインド人にも共同体体質が残っている。

〜中略〜
市場圧力は共同体を破壊する。つまり市場原理VS共認原理は決定的に対立する。そこで共同体原理に立脚して宗教集団の強力な規範で以って、市場原理の弊害を封鎖したのが、マホメットが創始したイスラム教である。だから、イスラム教では利息の禁止や喜捨が規定されている他、日常の生活規範までがコーランによって細かく定められているのである。

つまり、インドとイスラムの共通項は、共同体性の残存度が高いということ。

イスラムは国家全体が宗教集団化し、インドは未だにバラモン教時代のカースト制度が残存している。

これは、観念収束ではなく、共同体に立脚した規範収束の結果である。

共同体性を最も色濃く残しているのは日本。実は日本人にとっては身分序列は居心地が良い。実際、縄文人たちも朝鮮からやってきた支配部族に対して抵抗せずに受け容れている。それは共同体体質故に、秩序収束⇒規範収束(身分序列や生活規範)が強いからである。日本人と同様にインド人もイスラム人も、規範秩序に守られているという感覚であって、だからこそ居心地が良いのである。(西洋人はそのことを批判するが、それは彼らが共同体性を失った自我民族だからに他ならない。)

日本人・中国人・インド人・イスラム人の精神構造は、共同体質故の秩序収束⇒規範収束である。

〜中略〜

日本人は戦前まで村落共同体が残存しており、そこでの本源共認と規範としての身分序列によって統合されてきた。そこでは観念性はほとんど見られない。先に検討した、現実共認と宗教共認の分裂は実は、西洋固有の特徴なのではないか。実際、日本人・中国人・インド人・イスラム人の精神構造は、共同体基盤に立脚した規範統合と言うべきであって、全く分裂していない。

東洋では、庶民にとって必要なのは現実の秩序共認であって、支配者として王や天皇は存在しているが、それは庶民にとってはどうでもいい存在なのではないか。単に、収束した秩序の上の方に天皇がいる。その方が精神安定的で居心地が良いので奉っているだけなのではないだろうか。イスラムやインドの神官も同様で、庶民が収束した秩序の上の方に神官がいた方が安定的なので共認されているのではないか。

言い換えれば、日本人やインド人が、国家や天皇や官僚に期待しているのは、秩序さえ安定していればそれで良いということなのではないだろうか。社会期待としてとらえ返せば、日本人・東洋人・イスラム人は共同体体質を色濃く残存⇒安定期待⇒秩序収束⇒規範共認に収束して安定を求めるという構造である。

 それに対して、救い期待に応えて一神教が登場したのは西洋特有の構造である。また、仏教も救い欠乏を土台にしており、それがインドにおいて仏教が根付かなかった理由であろう。

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重要なキーセンテンスは、

『これは、観念収束ではなく、共同体に立脚した規範収束の結果』

『日本人・東洋人・イスラム人は共同体体質を色濃く残存⇒安定期待⇒秩序収束⇒規範共認に収束して安定を求めるという構造である。』

です。

当初の疑問に答えるなら、共認統合社会が私権統合社会に適応していく過程では、このように、安定期待⇒秩序収束⇒規範共認に収束して安定を求めるという構造になり、最終的には、みなが充足できるものとなっていく法則がありそうです。これは、社会統合様式(=共認統合)に沿った形で規範や観念群、生産様式などの社会システムが形成されるということがいえるのではないでしょうか?

 また、

『日本人と同様にインド人もイスラム人も、規範秩序に守られているという感覚であって、だからこそ居心地が良いのである。』

というところが、日本ととても似ているのではないでしょうか?

この両者の精神構造は、今後の新しい共認社会にとって、重要な視点となってくるのだろうと思います。新しい社会の構造を垣間見て、最終章とします。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/02/001481.html


12. 中川隆 2013年3月04日 02:14:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

           / 乃了   `ヽ  ヽ∨∧ヽ \`、
              //_/7 ′     ハ `、〈〈_ノ ノ   ヽヽ
       r,ニY/」 ′〃   , ' l| ト、 l l ̄l「`、   | ハ
       __〉イ〃 ,  /, l   / ,イ!} |リ 八 ヽ |ハ
       〈 rク// ,′ ,'/l‖ ,' /厶‐十ナ/}小、ヽ ∨/  、
    , -ァ7イ {  l   |l ハ ト、 { l /ィ乏f千ァ l |ヽ}_ノ   、、 `、
  // 〃l ハ  、 レイ下丶、j′'ヾ゙ジ  // rヘ川 U ヽ ヽ
//   {l { い、、\V,ィf赤       //  ,ィ|l |  ト、 \
{_/    ヾ \/ ヽ\ヾ`ー'′       { !  仆//  ,′ | ヽ  ヽ
         ノ{ {  八_〉、   ` , - ァ  ゝ, ' V ハl /   ハ }   \
      , -‐'´/ハ 、 { |lヽ、      ∠ニ-V リ / /  ∨
  ,.|ヽ .ヽヽ、ヽ| ,'  ,..-,, `ヽ''-''-'、 __ヾ  ,,. -‐ V"´ __ `ヽ、_ ,
r''".| ヽヽ _,.´,, ',´´        `ヽ、'   ,.. - ''"´   ``ヽ 、`ヽ、ィ
|  ,|  川ヽ、/ /ト-;:::、        u丶 '´         .....ヽ、 i  /l
| ハ  |! j/ ./::`:::::、                        .:::r::、::.ヽ レ'  |
   ヽヽヽ .、 i   : : : : : : : : : : : : u: :/   、: 。: : . . .  . : : : : : ': : : :|    k   
    ヽヽヽヽ、ヽυ : : : : : : : : : : :, :'´: : : : : :ヽ : : : : : j : : : : : : : : : : :,'r;;=;;、  \
     \\ヽ ヽ、: : : :υ: : , : : : : : : : : : : : : : : : : : ι: : : : : : : : ιl L;;;ノ    \
      | l! ヽ、ヽ、--‐ '´: : :     : : : : : : : : :`: ヽ、、_:_:_:_:.: :j'´}:::::::::::::::::...   ┌――--,
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  `ヽ 、   丿 ヽゝ,, ::' "´        . . . . . . . . . .: : : : : : : : : :/ ,'.   ' ̄ \::::r';;ヾ /
     ``ヽl. |   y \          ``''''     . :-、、: : : ,' ,'.、     ̄ ̄ :::ヾソ ,'
        ヽヽ  ト、 `` フ                 : :ヽ-く ,'  ヽ、  __    _,(,,,,,,,,,..--
: : : : : .     ヽ、|!: :`‐‐': : :                。 : : : :\ u  ,,,ι- ''"´´
: : : : : : : .      ,,,.. -- ーー-、 __             : : :,, -‐''´

釈迦の教えが滅びた本当の理由は?


1.仏教の反自然主義

 仏教は宗教ではない。という見解がある。

 宗教とは、人間と神の関係を<信仰>を軸に構築したものである。そこにおける神とは、ユダヤ教や、イスラム教のように創造神であったり、キリスト教のように創造神/聖霊/メシアの統合体(三位一体)、クリシュナ教徒のように近代化された古代神だったりするが、ある種の霊的超越者であり、多くは宇宙創造神である。

 ところが、仏教は成立の初期において、教祖自身にこの種の信仰心が希薄なのである。教祖シッタータ王子は、人間として真理に到達したが、自分が神であると宣言した訳ではないし、神の預言者であった訳でもない。

 そもそも釈迦族のシッタータ王子は、クシャトリア階級の出目であるからバラモン階級のように精神世界に没入する訳にはいかなかった。インドのカースト制度において伝統的な神事は、バラモン階級の専売特許であった。そこで、かれは当時流行の精神世界ヒッピーである「沙門」になる道を選んだ。沙門になるのは、簡単である。身分も問われない。「わたしは、沙門になった。」と宣言し、林住期や遊行期の老バラモンのように無一文で修行三昧の生活に入れば良いのだ。

 かれは様々な行者に倣い瞑想を深め、宇宙と人のあり方を追求した。その意味で、シッタータ王子は宗教家と言うよりも実践的哲学者、精神修行者であった。かれが求めたのは宇宙構造、なかんずく人間(小宇宙)と大宇宙の関係に関する真実(真理)であり、輪廻という循環構造からの自己の解放であった。最近のひ弱な修行者のように精神的な安寧や、既存の神話体系を借定したヌミノース体験を追求した訳ではない。

 その意味で、かれはニューエイジ・サイエンスを極めたと言っても良い。

 そして、<12因縁の順観と逆観>という瞑想法を経て<成仏>したのである。

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを<現法的梵行>と呼んだ。現法的梵行とは、津田博士の言を借りると「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」(参考文献F参照)ということだ。つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。このときのシッタータ王子の判断は、良く理解できる。かれは衆生のために真理探究の道に入った訳ではない。深刻な実存的疑問を味わって、その解決のために天才的な能力を傾けた青年なのである。大宇宙と小宇宙に通底する真理を会得したからには、それを理解できず、まして、実践するなどおよそ不可能であろう大多数の人間に、無理な教えを提示するよりは、自得した理法を用いて、存在の次の位相に転移し、先を探ろうとするのは、探求者としては自然な成行きである。

 ところが、伝承によると、梵天王(ブラーフマン)が釈迦無二菩薩の<不説>をいち早く知り、その場に伺候して熱心に説法を勧請する。つまり、「世界に教えを説くまで、涅槃に入るのを思いとどまる」ように懇願した。釈迦が法を説かねば人間社会(六道を含めると人間以外も含まれるが)が敗壊する。世界そのものが敗壊すると、梵天は惑乱したという。梵天は、いわば上位霊的存在であったが、人間のように活動界に根を置いていないため、輪廻を解脱する方法を開発できなかったのだ。また、護法天としての本能が、いまや六界に教えを説く立場となった仏陀が責任を放棄して、自分の手の届かない領域に避難してしまうのを阻止するという使命感にも燃えていたのであろう。この勧請は成功し、釈迦はこの熱意に打たれて、あらためて世界を慈悲の目で見て説法に踏み切る。これを<梵天勧請>と言う。

 ところで、津田眞一博士は、ここに梵天を使嗾した上位の無名神を想定する。かれの作業仮説である<開放系の神>においては、梵天勧請がなされるまで釈迦が<不説>に傾いていたことから、釈迦の<慈悲>を外部からもたらした存在、<閉鎖系>である釈迦の仏法をも内包する<開放系>の神を想定したのだ。

 この<開放系の神>とは、『リグ・ヴェーダ』に言及される根源神プルシャのように、世界を身体とする神、地球そのもの、或いは生命の自然の流れの総体のようなものと考えられる。<出家主義的な現法的梵行>という生命の潮流に反する行為は、巨大な宇宙の順流に対する部分的な反流を発生させる。そして、この意図的に起こされた反自然のベクトルが、「世界を敗壊させない」ために必要な刺激となっている。

 梵天勧請により、釈迦が不説を撤回し、人間の生命潮流に僅かな反流を発生させた。

 生命潮流とは、何か。それは、個々の生命が織りなす巨大な潮流である。その一端は、『リグ・ヴェーダ』にある宇宙の開闢に端を発し、インド神の宇宙論によれば無窮の未来において目覚めたヴィシュヌ神(または、シヴァ神)が新羅万象を破壊し尽くす、宇宙の終焉までの長い時間軸を中心に螺旋状に存在するすべての生命の軌跡である。その一部のみが地上の生命として現れ、目にすることができるが、インド的輪廻転生の思想によれば生と死はひとつの道の表と裏であり、生命潮流の螺旋は、その上昇弧では誕生、成長、老衰、死という生命の顕在部分を、下降弧においては、輪廻転生を準備する同じ生命の糸の未顕現部分を表すことになる。そして、幾億とも知れぬ生命の支流の総体が、意志をもつ、プルシャ、すなわち未顕在の<梵(ブラーフマ)>と無数の目覚めた<神我(アートマン)>として、<開放系の神>を形作る。この巨大で、かつ微小の存在が、自らの運動の正常値を保つために、<現法的梵行>という反流、または生命潮流からの逸脱を必要としていた。

 星ひとつ分の生命、インド人の思想によれば、その中には人間のみならず、鳥獣草木はおろか、六道の精霊、魔獣すべてが含まれる巨大な生命のうねりに比べると、仏教の一僧侶の生命は余りにも小さいが、その生命の輝き(津田博士は、<intensite>(激烈さ)という用語を使っているが)において、神と対面し、神を癒すほどの働きをもつのであると言う。当代随一の仏教思想家(哲学者)の思想が、SF作家光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と同じような結論に導かれるのも面白い。


 津田博士の仮説は大胆であるので、その後の歴史的動きを見てみよう。

 仏陀の生存中の教団は、その哲学を科学的正確さで追求した。理法の内容からして、一般の社会人が、たとえ王侯貴族であろうと、身分を保持し、社会生活を営みながら<最初期の解脱プログラム>を履修できるものではない。そのためには社会生活と肉親の全てを犠牲にし、出家する必要があった。仏陀が懸念したように、ほとんどの人間には実修できるものではない。しかも、後に<波羅密の方法>(パーラミターナヤ)と呼ばれる釈迦の教えは、非常に時間を必要とした。人間の一生ではまかない切れず、<三阿僧祇劫>という膨大な時間をかけて、何度も生まれ変わり、僧として修行を繰り返して、初めて解脱できるのである。大多数の衆生は、仏陀の教え、最終的な解脱からは切り離されていた。仏陀の教団についていける者たちは小数のエリートだったのだ。

 従って、当然のことだが、カリスマ的指導者である仏陀の没後に、教団は崩落した。

 それは<神秘哲学の閉鎖的実践集団>から、<教祖を神格化した布教集団>への変貌、或いは教えの民衆化という運動に現れた。これを追求した者たちは、自分たちの運動を<大乗>と呼び、仏陀の本来の教えに忠実な者たち(上座部仏教)を侮蔑の念をこめて<小乗>と呼んだ。「乗」とは<乗り物>の意味であり、<大乗>の方が多くの民草を救えるという自負が呼ばせたものだ。

 しかし、仏陀の発見した真理の本質的部分が変化した訳ではない。大乗仏教の僧侶は、トリックを使ったのだ。釈迦の方法論は、人間の業や煩悩を無くすために否定的な努力を重ねる<止滅の道>(ニヴリッティ・マールガ)と、世間的活動を積極的に行い心活動を活発にする<促進の道>(プラヴリッティ・マールガ)という二つの相反する方法論に集約できるが、上座部仏教では主として<止滅の道>を、大乗仏教では主として<促進の道>を励行した。正しい行為を積み重ねれば、仏陀への信仰心を維持し、「やがては安心往生できる」というのは<促進の道>としても、かなり欺瞞的な教えである。単なる善行のレベルで、修行もしない衆生が輪廻の枠の外に出ることはないからだ。

 ユダヤ教のハシドのように、日々の生活のなかにティクーンを織り込み<殻>(クリパー)の内部に聖なるものを満たすことにより、<神聖なる火花>(フンケ)をひとつひとつ解放していこうという運動に似ていなくもないが、ハシドにしても<輪>(ギルガル)から離脱するためには超人的な刻苦勉励が必要なのである。ハシディズムの教えでは、毎夜、人間の霊魂は眠りとともに肉体を離れ、その一日分の罪科について天使の審判を受けるとされた。そして、死の瞬間に罪科が重ければ、抜き身の剣を保持した天使が、復活もままならぬように死者の霊体をぎざぎざに切り刻んでしまうのである。

 大乗仏教の僧都が、衆生の目から真理を隠して、道徳性で埋めて教えた動機は、あまりにも残酷な真理(在家信徒は所詮、解脱できない。)から目をそらす<大慈悲>であっただろう。そこにはドストエフスキーの『大審問官』がクリストスを非難する感動的な場面に通じる「神に離反しても民草を愛する」という覚悟が読みとれる。しかし、哲学的立場から見れば、嘘は嘘である。

 後に、この欺瞞が密教の発展とともに自然解消し、<真言の方法>(マントラナヤ)と呼ばれる現在の時間短縮の手段が開発される。弘法大師は、これを<即身成仏>と呼んだ。ある意味では「嘘から出た誠」である。<真言の方法>にもいくつものやり方がある。日本に伝教し真言密教では、『大日経』において、真口意の<三密行>が説かれ、『金剛頂経』では<五相成身観>が説かれた。ところが、後期密教においては、成仏実現のリアリティを高めるため、三密のうち身体要素が強調され、生理的行法や、性的行法が導入され、それを理論化、細密化していく。

 性を否定した仏教が、インドにおける最後の発展形態である後期密教において、性を肯定するがごとき教義に変化していったのは、興味深いものがある。

 チベット仏教のサキャ派の碩学サチェン・クンガーニンポは、著書『密教概論』において、大乗仏教の顕教と密教の違いを次のようにまとめている。

 顕教は、愛欲などの煩悩を打ちきる必要があり、<法身>と<色身>を成就するための菩薩としての修行期間が長い。それ故に<因乗>と呼ばれる。

 密教は、愛欲を立つ必要がない。短い期間で果を得るので、<果乗>と呼ばれる。

 つまりは、シッタータ王子が反自然的かつ直線的な技法で得た果を、自然かつ迂回的な技法で達成しようとするのが密教であるとも言える。システムは常に進化するのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/1anti.html

2 尸林の土着信仰

 尸林(しりん)、シュマシャーナとは中世インドの葬儀場のことである。大きな都市に隣接して、この寂しい尸林が存在する。死者の遺骸は、都市部から尸林に運ばれ、荼毘に付されるか、そのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられた。しばしば、尸林は処刑場をかねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていた。

 これは腐りやすい死体の輸送という問題に直面した古代の都市が、いずれも採用した解決策である。ユダヤ教の地獄(のひとつ)であるゲヘナとは、イェルサレムの近傍にあった葬儀場の名前である。また、墓無人(インセプルティ)になることを恐れたローマ人は、旧市街(ローマ・クアドラタ)の周囲に墳墓を設けた。そして、現代のカリフォルニアのフリーウエィを走ると大都市の郊外に集合墓所( city cemetry )の巨大で陰鬱な壁を目にすることになる。

 これらは、まともな神経の人間には、実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所でもあった。そして、しばしば、魑魅魍魎が徘徊する場所として、恐れられていた。インドの尸林には、嘗て女神が祀られていた。そして、尸林自体もバドラカーリーなどのように女神の名前がつけられていた。これらは土着宗教の女神たちであり、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か、仏教の女神(守護女尊)として崇拝されている。それぞれの尸林の女神の祠には、巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術(Necromancy)を生業としていた。その巫女は、苦行母(ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)という。大神シヴァの神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に、彼女たちは、侍女兼巫女として仕えている。

その聖地(ピータ)に土着(クセトラジャー)の女性たちは、多くはアウト・カーストの出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていた。彼女らは一年の特定の祭日、または、月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物(<三昧耶>(サマーヤ))をとり、酒を呑み、歌舞音曲を楽しむというオルギアを行った。古代のディオニュソスの祭儀か、どちらかと言うとキリスト教によりディフォルメされた魔女のサバトに似た狂乱の宴である。

もちろん、この土着の「尸林の宗教」(津田眞一博士の命名による)は、文献も残さず、伝承も不確かな存在であり、ヒンドゥー教や、仏教サイドの文献から存在そのものを再構築するしかない。しかし、その痕跡は現代にも残されている。津田博士が1975年にカルカッタのカーリー寺院を訪れたときは、暗い回廊の下に黒衣をまとったダーキーニーが、黒い羊の首、四、五体を並べた前にひとり座していたという。

 もちろん、多かれ少なかれ性的儀礼を含む自然崇拝的宗教は、世界中に伝播している。『旧約聖書』においても、IHVH神はバアル神と鋭く対立した。何故なら、バアル(男性原理)及びバアラテ(女性原理)とは大地の豊饒を司る精霊で、その集合体が神格化、宗教化したバアル神だったからだ。夫婦の神の交わりにより、土地を肥やし、作物を生む。農民は、その神々に帰依する者となり、神々の交わりを模倣して神聖な性交を行うことで豊饒を祈る。遊牧民の神であるIHVH神は、この性的な豊饒儀礼とは無縁であった。

性的祭儀はハムの子孫であるカナン人が発展させ、イスラエルに教えたのである。聖書は、これを避難して<アモリ人の悪>(『創世記』15章16)と呼び、その祭儀に参加する者を「高きところでバアルと頸城をともにする者」と呼んだ。潔癖主義のユダヤ教は、カナン人の信仰だけでなく、神殿娼婦を置き性の崇拝を織り込んだ古代の有力な宗教と対決を続けてきた。しかし、その一方、ギルガメッシュとイナンナ女神の恋愛神話を旧約聖書のなかの『雅歌』に翻案して残したりしている。(S.N.クレーマー著『聖婚』参照)

 しかし、農耕神の素朴な性的儀礼と尸林の宗教は、かなり異なる。バアルの聖なる交合は、大地の実りをもたらす開放的な営みであるが、墓所における性の儀礼は、人間の心の深奥部へ辿り着こうとする閉鎖的な営みだからだ。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式である。中世インドまでの中期密教において、九想観等の死体が崩壊する様を瞑想する技術はすでに確立しており、宗教者が修行のためや、純粋に供犠のために尸林を訪問する機会はあったのである。インドにおいて宗教者とは常に男性であり、タントラ行者は、土着宗教の巫女たちと性交を含む儀式を行ったと考えられている。

 ガナチャクラの構成員は9名である。つまり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神パイラヴァを召喚した男性行者が1名、そして、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行う儀礼である。天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽する。この位置変換を<瑜伽女の転移>(サンチャーラ)という。

女性行者が8名に臨時のメンバー(行者ではない女性)を1名加えた9名という説もある。その場合は、中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女一組に対して、円形に8名の女性行者が並び、曼陀羅が常時成立することになる。この結果、中央の男性行者は、すべての女性行者と平等に和合することになる。この儀式は、インドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっている。ちなみに、切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地(ピータ)である。

 星辰の回転を象徴しながら、都合、8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は、<大楽>(マハースーカ)と呼ばれ、この<大楽>が行者を<梵我一如>の境地に連れ去るのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/2smshna.html

3 神的憑依のシステム

 その昔、プラトンは占い師(マンティス)と予言者(プロフェアタイ)を区別した。(『ティマイオス』72B 参照)

 占い師は、ダイモーンの霊威を受け、受動的な熱狂のなかで謎めいた言葉を口走る熱狂者(マネンテース)である。その口走る言葉は、不可視の濃霧のなかから響くダイモーンの言葉、理解不能な暗号である。ダイモーンと人間は、共通の地盤をもつ意志疎通のための言語機能(パロール)を有していない。ダイモーンの記号言語(ラング)は、われわれには未知のものであり、占い師は、それを人間の言葉としてではなく、自分の生理的発声器官(喉)を通して異種の記号言語のまま発声する。すなわち、異言である。

 一方、予言者は、神々の代弁者として神秘的な言葉を解釈し、人間的な言葉に翻訳する予告者である。例えば、巫女(ピュティア)が、憑依状態で神の語り部となるとき、巫女自身はその言葉の意味を理解していない。それを聞く予言者が、翻訳し、人間の言葉(ロゴス)に再形成するのである。

 このように古代ギリシアでは、恍惚状態(マイネスタイ)にある憑依される者、すなわち占い師、巫女などの受動的存在と、感銘を与える者(プロエイペン)、すなわち神霊者として霊言を解釈する予言者に機能が2分されていた。

 この霊媒、審霊者の2重構造は多くの原始社会に共通する。

 イスラエルの神は、創世記の時代には、アダムからアブラハムに至るまで直接、選ばれた民の心に語りかけていた。この時代の素朴な遊牧民たるユダヤ人の精神は、自我の境界が曖昧で霊的世界と現象世界に明確な区分がなかったからである。エジプト捕囚(厳密にはエジプト移民だったようだが)によって、文明の洗礼を受けたユダヤ人は、素朴な霊性を失い預言者の時代に移行する。

 イスラエルの預言者(ナビ)は、上記の巫女と予言者の機能をひとりで兼ねている。

 ここで預言者(ナビ)と予言者(プロフェアタイ)を区別しておかねばならない。ギリシャでは、哲学の解釈者も、競技の伝令さえも、何かあることを隠さずに語り、公に告知する者は、予言者と呼ばれることがある。それに対して、預言者とは、ただ、神と人間の関係においてのみ、上から下へ神の使者として、下から上に人間の祈りをあげる者として、両者の仲に立つ者である。以後、この用語を使う。

 神がモーシェに語る場面で、「見よ、わたしはあなたをファラオに対して神(エロヒム)のごときものとする。あなたの兄弟アロンは、あなたの預言者(ナビ)となるであろう。」(『出エジプト記』7章1)そして、「かれはあなたの口となり、あなたは彼のために神(エロヒム)に代わるであろう。」(同 4章16)とも言う。

 ここで重要なのは、<神の預言者>(ナビ・エロヒム)とは、神の「口」であることだ。独立した機能である<神の口>は、異種言語(神のラング)である<異言>を自分の内部で翻訳して、ヘブル語による預言(人に向けた神のパロール)として物語る。

 ギリシャのダイモーンと同じく、IHVHまたはALHIMは、人間の心には言葉以前の声なき声を預言者に与える。その神的根元語をそのまま発声すれば、「激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐると閃きわたりながら北から来た。」(『エゼキエル書』1章4)という風におよそ言葉とかけ離れた自然の雄叫びとなる。つまり、預言者は、燃える柴のなかから、或いは雲のなかから神の声を聞き分け(感知し)人間の言葉に翻訳するのである。

 イスラムにおいてはどうであろうか。スーフィズムの行者は、神に憑依され、自己の消失(ファーナー)を得るために、1日のほとんどの時間、ズィクルを行ずる。イブン・ハルドゥーンによれば、忘我の状態にあるとき「己の人間性(バシャリヤー)が駆逐され、天使性(マラキヤー)を帯びるように強要される」という。かれは一時的に神の分光である天使界の一部になる。

 この他動的なプロセスを、古代アラビア語の<憑き物(ジンに憑かれること)>(タジュニーン)という言葉で表現できる。

 イスラム教成立以前の<無道時代>において、このタジュニーン(ジンに憑かれた人)や、マジュヌーン(ジンにやられた人)となったのは、次の三つの典型的な人物であった。

 その1は、<詩人>(シャーイル)である。かれらの詩才は、文字通りジンから与えられる。と言うより、ジンの方から詩人を捕まえにいくのである。ジンは、自分の好みの人間を選び、突然、その人間を地面にねじ伏せ、馬乗りになって自分専用の詩人にしてしまう。それまで一言半句も分からない羊飼いや、石工が、ジンに憑かれた瞬間に、部族の霊的権威である詩人として言葉を紡ぎ始める。いわば強姦同然の憑依現象で詩人にされた者たちは、自分の相方のジンを固有名詞で呼ぶ。かれらにとってジンは<親友>(ハリール)であり、常にともにいる者である。例えば、後期無道時代の大詩人アル・アーシャーは、かれのジンを<なめらかに舌を動かす者>(ミスハル)と呼んでいた。

 その2は、<祭司>(カーヒン)である。無道時代は、前イスラムの多神教時代なので、アラブの諸部族は部族ごとに特殊な神をあがめていた。カーヒンは、特定の神殿に所属し、神託を告げる祭司のことである。ただし、その神は、創造神ではなく、強い力をもつジンなので、かれらの性格はジンとの個人的結合によりオカルト的能力を身につけた職業占い師のようなものである。事実、かれらはお布施ならぬ、<心付け>(ハルワン)を受け取って、民衆のために魔術を行った。かれらが神託を伝えるときの<サジュウ調>と羯呼ばれる独特の語法は、ジンがごろごろと喉を鳴らす異様な音として響いた。

 その3は、<預言者>(ナビィー)である。もちろん、イスラム世界において預言者とはムハマンドその人のことである。かれはジンの祭司ではなく、創造神の預言者であった。「神のお恵みでお前(ムハマンド)は祭司(カーヒン)ではない」(『クルァラーン』52章29)とあるように、預言者は、ジンの力を借りて託宣をする者(カーヒン)より、さらに上位の存在、創造神が人類に対する啓示を与える媒体である。

 啓示には、三つの形態があり、実のところ『クルァラーン』の記述(42章50〜51)を見ると、これは特殊な憑依・半憑依のシステムそのものである。

 つまり、第1が神から直接的に預言者にコミュニケーションを図る<霊感>(ワヒー)型、前イスラムの預言者であるモーシェが燃える柴越しに聞いたのは、神の霊感である。残念ながらムハマンドにはこの第一の啓示は下されていない。第2は「垂れ幕の後ろから聞こえる声」、これは「鈴のじゃらじゃら鳴る音のように」(ミスラ・サルサラティ・アル・ジャラス)聞こえる一種の非言語的な音響である。

ムハマンドは、啓示を受け終わり日常意識に復帰した途端、その金属的な無意味な音が、明瞭に文節された有意味的語の連鎖であることに気づく。それは『クルァラーン』の本文を見て分かるように、しばしば、前出の<サジュウ調>の文章に自動翻訳されている。第3は、天使ジブリールを介して行われる啓示である。ただし、『クルァラーン』を啓示したのは、最初の頃は、得たいの知れない圧倒的威厳に満ちた巨大な霊的存在であった。それは<神性の息吹>(ルーフ・アル・クドス)(ヘブル語の<神聖なる息吹、聖霊>(ルアク・ハ・コデシュ)と同義)とも呼ばれた恐ろしい霊的存在である。後世になって、そのすべてが人間の世話をやく天使ジブリール(ガブリエル)に結びつけられたのである。

 ここで、仏教に戻る必要がある。仏教では、些か様相が異なる。

 初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する<止滅の道>であった。この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。

 その過程において、4、5世紀頃から徐々に7、8世紀頃にかけて、護摩祭などの集団的祭礼、血骨皮を用いる土着信仰儀礼の浸食、性的オルギア、そして、憑依現象の利用などが顕著になってきた。ただし、こと憑依に関しては、完全な忘我状態にあるのではなく、自意識を有して観想状態に入るというというという優位性を主張できたのではあるが。

 チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパは、ラマ行者ウマパに師事し、<成就法(サーダナ)>を収めて、文殊菩薩に会い、その姿をいつでも目の当たりにすることができたと言う。のちに、かれは『大真言道次第』(ガクリムチェンモ)という著作のなかで、生起次第を本格的に履修してから約1年ほどで「神々が面前にはっきりと現れる」ことを示した。かれは文殊菩薩から直接教えをもらっていたのである。これは現代風に言えば、チャネリングになるのだろう。心霊科学では<憑依>と呼ばれる。ある精神回路が開き、かれの心は見神状態で固定されたのだ。この種の宗教体験は珍しいものではない。ラーマクリシュナは、いつでも母神カーリーを現前に見ることができた。主イエス・キリストの花嫁として恍惚状態に陥る尼僧ヒルデガードの例など枚挙に暇はない。

しかし、チベット仏教の場合は、その手段をシステム化することに成功している。たとえば、後世のゲルク派は、<ヤマーンタカ成就法>を完成させた。<閻魔を殺す者>(ヤマーンタカ)とは、宗祖ツォンカパの<守護尊>(イダム)となった神であり、ヒンドゥー教の破壊神シヴァが憤怒の相を表したときの神格ヴァジュラ・パイラヴァと同一視されている。また、ヤマーンタカはゲルク派自身の守護尊とも呼ばれ、後世のゲルク派の<三密教>(サンデジクスム)とは、父タントラに属する<秘密集会>、母タントラに属する<チャクラサンヴァラ>そして、<ヤマーンタカ>である。さて、その修行法は、次の三段階に区分される。

 その1は、<初加行三摩地>である。この段階では、本尊であるヤマーンタカを観想し、修行者がヤマーンタカ神そのものにほかならないことを体得する。このとき<死の光明>を通過し、歓喜とともに<空性の智>の体験が得られる。さらに<中有>において、身体が浄化されると<幻身>が構成される。その後、月輪観及び日輪観を経てヤマーンタカが種字から顕現する。そして、ヤマーンタカが単体ではなく本尊(ヤプ)と明妃(ユム)になり、種字が性器となり交合するさまを観想する。修行者は双子のアンドロギュノス的体験をする。明妃を貫く本尊の男性的快楽と、本尊に貫かれる明妃の女性的快楽の双方を<大楽>として感じるのである。しかも、それら全てが万物の空性の故であると悟らねばならない。むろん、神格と自己の融合は、一種の憑依現象であるが、修行者は手綱を放すことなく、憑依をコントロールしている。

 その2は、<曼陀羅最勝王三摩地>である。ヤマーンタカの十三尊からなる曼陀羅全体を観想する。その曼陀羅は修行者の心臓のなかに置かれる。交合する本尊(ヤプ)の全身から光明が発せられ、そのなかに万余の仏と菩薩が招来され、本尊の口から呑み込まれて凝集されひとつの滴(ティクレ)となる。ティクレは、喉から、心臓へ、そして男性器へと下降し、明妃(ユム)の女性器のなかに射精される。ティクレは女性器から明妃の心臓へと上昇し、そこで2分割される。片方のティクレは、宮殿と座を表象する種字となり、もう一方のティクレは、十三対の歓喜仏となり、先の座につく。<生起の門>の完成である。

この曼陀羅となってティクレは、心臓から女性器に再度降下し、本尊の男性器に吸い込まれて本尊の心臓に戻る。そこで、修行者は曼陀羅を身体の外に放出する。<放出の門>である。曼陀羅は虚空に無限に拡散し<行為の門>となり、極微に収斂し点となり<集約の門>となり、再度、拡大し正しい位置に戻り<安住の門>となる。これが五門の成就である。魔術の召喚技法において、神格を纏った術者が、神の権威で下位神格や、霊を統制する場面を想起してもらいたい。また、I∴O∴S∴の神殿儀式における精密なアストラル・ライトの投射も、同様の(性魔術部分は、通常の祭儀には執行されないが)プロセスを辿る。

 その3は、<羯摩最勝王三摩地>である。細部を記述するときりがないが、<外供養>、<内供養>、<秘密供養>の三つの供養を行い。微細な生起次第を学び。生起を思念し。念踊を行い。ヤマに供物を捧げて謝し、曼陀羅を収斂させて終える。技術的には豪華絢爛な儀軌の連続であり、いかに視覚的な細部を固めながら人間の精神を変質させていったかが理解できる。住する段階を越えるダイナミックな変化を<変容>というが、まさしく儀典による精神の変容を目的としている。

 これまで見たとおり、召喚の根源となる仕組みは<憑依>のプロセスであり、それは世界の主要な宗教のなかに変質して潜んでいる。チベット密教は、その<憑依>のプロセスを応用、改善し、より高度な意識変容システムを完成させた。そして、<憑依>のシステムに力動的な推進力を与えているのが、初期の古怪な性魔術(尸林の儀軌)とは、一線を画する精密な性の哲学と技術である。

 むろん、他のシステムにも性の密儀は存在する。カバリストは、完全な性的結合の上にシェキナーが訪れることを知っていた。ハシドたちによって発展した<神聖なる交わりの奥義>は、ラビ・フリッシュが「・・・家庭を神殿とし、寝室を至聖所となす。・・・低き交わりと高き交わりをともに完成させるために、性愛のさなかに・・・」(『セフェル・ケドゥシャー・ヴェ・ツニゥート』イェルサレム。1979年)と語り、ラビ・ヴィダスが「男女が性の交わりにおいてひとつの霊魂とひとつの身体になり、ついに一個の人格に融合するとき、聖なるかな、誉むべき主はその上に宿られる。」(『レシト・ホクマー』イェルサレム。1984年)などと語ったことなどが含まれている。前者は、マニュアル的な細部に至るまで記述しているので、詳細は略させてもらう。

 その本質は、性の喜びをシェキナーに帰することであるが、性愛の前後の複雑な手順と最中の瞑想を含んでいる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/3posss.html


4 大印契(ザ・グレート・ライト)

 チベット仏教がインド後期密教からその精緻な教えを伝承したとき、当然のことだが、大印契(マハー・ムドラー)などの教義に融合した尸林の土着信仰の残滓を飲み込むこととなった。密教が象徴主義による直接的な悟りを得る技法を追求した段階で、人間の営みの全てを捧げることになるのは、ある意味で自然の流れである。むろん、宗祖である釈迦の<現法的梵行>という枠を大きく逸脱しているのは事実であるが。

 尸林の宗教において、性交を伴う儀式集会(メーラー)が行われたことはすでに述べた。その儀式に召喚される主神は、パイラヴァ神であったが、これがチベット化してヘールカ神となり、同様の儀式構成を取るようになったのが<ヘーヴァジュラ・タントラ>である。

 ガナチャクラは、通常のパターンのほかに、儀式の施主を招いて灌頂を授けるという参入儀礼スタイルのものも実施されていた。中央の阿闍梨を囲む8人の女性たちは<印>(ムドラー)と呼ばれる。<印契女>たちは、性ヨガの経験を積んだ在家信者たちであるが、入門儀礼のために初めて参加する<大印>(マハー・ムドラー)と呼ばれる「月経期間中の16歳の美しい処女」が準備される。彼女が祭礼の中心になる。

8人の<印契女>たちは、女尊を召喚し、独自のヨガに入る訳だが、この霊威が円の中心において最初に阿闍梨と交わる<大印>にすべて集中する。従って、すべての<印>を束ねる<大印>たりうるのだ。入門儀礼でなければ、阿闍梨は、<印契女>たちを転移させながら、都合8回和合することになるか、さらに複数の侍僧が円の外周で同時に<印契女>と和合するという次第になるが、入門儀礼では転移するのは阿闍梨の側である。

 入門儀式は、いくつかの段階に分かれる。

 第1の段階では、先に述べたように阿闍梨自身が性魔術を実践する。

 阿闍梨は、<大印>と交わる。このとき般若波羅密を体現する処女(大印)と阿闍梨の和合により生じた体液の混合物(アレイスター・クロウリーならば、「Birth of Elixir(精液)とElixir Rubaeus(月経血)の混合物」と呼ぶであろう。)を<菩提心>と呼び、この液体を志願者の口に含ませる。いや、植え付けるのである。これが<秘密灌頂>である。

「みめ美しい一六歳になる女を得て、加持の三句をもって秘密裡に供養を始めるべし。如来の大いなる妃であるローチャーナー等として観相すべし。二根交合によって、仏(となる)悉地を得ることになろう。」(松長有慶著『秘密集合タントラ校訂梵本』第7分参照)

 第2の段階では、阿闍梨は脇に移動し、志願者は先ほどの16歳の乙女と和合する。志願者は、射精しないように自己をコントロールしながら、性魔術ではカレッアと呼ばれる技法であるが、菩提心を下から徐々に頭頂に導き、サンスクリットの種字に変成し、いわゆる<ポワ>を完成させる。これが<般若智灌頂>である。

 ここまでで精緻な象徴主義により、構築された入門儀礼は終了する。

 だが、さらに、第3の段階がある。<第4灌頂>と呼ばれるその儀軌は、逆説的に言葉で伝授される。これまでの課程が、性エネルギーによって活性化された自己の変容であるとすると、言葉での伝授は即時性はなく、その意味が志願者の心に徐々に染み込んでいくまで完成はしない。津田博士は、<第4灌頂>を密教の自己否定、つまり。<反密教>と捕らえている。密教の方法論を自ら否定することで、自らを完結させる。このとき伝授される秘密の言葉は公開されていない。しかし、『ヘーヴァジュラ・タントラ』の末尾にある次の偈のようなものであろうと推測される。

「この智慧はきわめて微妙であり、金剛曼陀であり、

 虚空のごとくである。

 離塵であり、静寂であり、解脱をもたらす。

 『汝は自ら、汝の父である』。」

(参考文献D 284ページ)

 これが象徴化され洗練されてチベットに導入された。

 ゲルク派の『大印契の滴』(チャクチェン・ティクレ)によると<大印契>とは、四灌頂を正しく授かり、生起次第の修行を満了した後に収める行である。

「『手(チャク)』とは空性の智慧であり、

 『印(ギャ)』は輪廻の在り方から解放されることである。

 『大いなる(チェンポ)』は、二つのものが合一することであり、

 『大いなる手印(チャクチェン)』と呼ばれている。」

(参考文献H 93ページ)

 その技法には、金剛身たる修行者の外的な手段、つまり、儀軌、呼吸、その他の条件付けなどによる環境整備を行い、修行者の内的手段、主として観想技法により、<風>(ルン)を中央脈管に導き、停止させ、溶解していく。この過程で生まれるのが純粋な歓喜、性的歓喜を超越するとも呼ばれる<大楽の光明>である。しかも、この<光明>を通じて<空性>をイメージとして理解することが必要とされている。ゲルク派は、サムィエーの宗論のカマラシーラの末裔とも言える立場にあり、かれらは中観思想の立場を発展させ、<無自性>を中心に組み立てていく。従って、<大印契>の行においても、光明によって空性を直接自覚することが重視されている。

 このとき方便(手段)である<大楽>は、智慧である<空性>と不可分一体になるのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/4gtrite.html


 インドにおける密教は、次のように発展してきた。『 』内は、伝統的な和訳文献名である。

 初期密教 いわゆる<雑密>期。成立する組織的教典なし。

      <明呪>(ヴィドヤー)なる呪法が盛んである。


 中期密教 金剛界 『金剛頂経』

      胎蔵界 『大日経』

 後期密教 無上瑜伽  父タントラ系    『秘密集合タントラ』など

            母タントラ系    『ヘーヴァジュラ・タントラ』など

            双入不二タントラ系 『時輪タントラ』

 後期密教になると密教の面白さは、倍加する。もともと、象徴主義を突き詰め、動作(身)、呪文(口)、精神集中(意)により、速やかに悟りに達するというシステムを極端に追求していた中期密教が、身体内部の生理的変化、場合によっては顕微鏡的正確さによる内臓器官への瞑想と、感覚の制御を行い、さらには性エネルギーまで自在にする後期密教へと進化していったのである。

 西洋魔術における技法の進化も、同様のプロセスを辿ってきたので、大いに力づけられる。文中でぼかしてあるが、ユダヤ教のカバラは、本来、神の身体(シウル・コーマー)の段階から、かなり性的なイメージが内在している。カバリストの立場は、極端な禁欲か、性交渉の聖化という選択であった。そして、発達する技法のなかには、性エネルギーの利用も当然あった。

 むろん、ベースとなる宇宙論の差違が、技法にも影響を落としている。インド人が固執した<空性>は、カバラにはない。そもそも宇宙観が違うのだ。ユダヤ〜キリスト〜イスラムという<教典の民>の宗教では、<空性>ではなく<神性の充溢>が基本に置かれている。この宇宙の全て、一木一草どころか、砂の一粒、空に舞う塵ひとつにも、光と闇が内在し、そのいずれも神の創造の行方なのだ。これは<神聖なる火花>を包含するクリパーという思想で、アリから派生し、ハシドが倫理的に突き詰めていった<修正>の思想に端的に現れている。スーフィーの賢者が、「わたしはない。」と言うときの<無>は、絶対神への完全な没入による自我の消滅を指すのであって、別の賢者はその境地で「神はわれなり。」と叫ぶのである。

 従って、半可通の知識で他の流儀を非難するなどもってのほかである。

 かの<寒いぇーの宗論>のときから、関連する何十冊もの宗教書、哲学書を読んで得た感慨である。とは言え、共通点も多々あるので、チベットの技法を参考にするには問題はない。団員諸兄姉には、本論を参考に魔術の研鑽に励んでもらいたい。

 もし、密教に興味がないという人間でも、<3 神的憑依のシステム>だけは目を通してもらいたい。召喚魔術の思想に示唆するものがあると思う。

 個人的には、津田眞一博士の斬新な哲学に共鳴している。その意味で、津田眞一と松本史郎の論争は非常に興味深かった。

 残念ながら日本においては、カバラの思想は仏教ほど多数紹介されていない。実は、紹介されていないだけで、外国語のカバラの文献は多数出版されているのだ。その学問的研究もショーレム博士に限らず多彩なものがある。興味のある団員は、せめてマルティン・ブーバー著作集から『ハシディズム』と『ゴグとマゴグ』だけでも読んで欲しい。すでに絶版本となって久しいが大都市の図書館には、残っていると思う。わたしは、神戸市立図書館の震災のあとも生々しい版を借りて読んだ。なお、『ハシディズム』は、みすず書房から再版されているので入手可能であろう。ハシディズムは、中世までのカバラと現代をつなぐ生きた伝統の宝庫である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/5forios.html


13. 中川隆 2013年3月04日 02:29:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

ヨガの起源

今、テレビや雑誌などで、ヨガや瞑想が取り上げられ、若い女性を中心に流行っていますが、何も知らずに興味本位や健康法、趣味などで生活に取り入れると、取り返しのつかないことになります。

 何故、ヨガや瞑想が危険かと言うと、これらの起源は一般には良いこととしてしか知られていませんが、およそ健康法などとは全く関係の無いものだからです。もともと、ヨガや瞑想は一般の人たちには縁の無い、インドやチベットなどの行者が「悟りを開く」と言う目的で行なっている修行法です。


 ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。

その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。


 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。


ヨガや瞑想が危険であるのは、健康法などとごまかしてヨガのポーズをとったり、瞑想したりしている内に、知らず知らずに黒魔術の儀式を行なっていることになり、そこに数多くの悪霊を呼び寄せ、額にある霊的な目(第三の目)を横目(正しくは縦目)に開き、サタン(悪魔)との契約を結ぶことになり、悪の強靭なエネルギーを得て、自らの体内に取り入れて、魂を悪魔に捧げることとなり、それが密教で言う「悟り」であるとされていますが、ヨガや瞑想に関わり続けることで、人生を台無しにし、魂をも堕落させ、取り返しのつかない過ちを犯すことになるからです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html


巫女は神と交わる聖なる女性

オルギア、狂宴(Orgy)
ギリシア語の o[rgia に由来する語で、「秘密の礼拝」を意味した。
ほとんどの秘教の礼拝には、エレウシス、カビリア、シャクティスム、スーフィー教、キリスト教の一派の拝蛇教などの秘儀におけるごとく、性の儀式が含まれていた。

「宗教は、自然と密着したすべての祭儀につきもののオルギア的傾向をもはやとらなくなったときでさえ、……つねに性愛的な一面を持っている。

……遠くさかのぼればさかのぼるほど、性愛と聖礼の違いを見分けるのはますます困難になる。

そして『遠くさかのぼる』のは単に時間的な意味だけでなく、経験の深さをもまた意味する」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/orgia.html


少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。 神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。 巫女との性行為を通じて人は神と対話した。
http://blog.livedoor.jp/deal_with0603/archives/51331139.html


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。 おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。 とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html

シュメール人と言えば、史上最古の民族とされ、紀元前3000年頃にはメソポタミア南部に都市国家をつくり、楔形文字を発明したことで知られる。このシュメールに「神殿娼婦」と称する、性交に熟達した女達がいた。後にギリシア人は、彼女達を「ヒエロドゥロス」と呼んだ。

各地から男達が貢ぎ物を持って神殿にやってくる。神殿娼婦達は、そうした男達のすべてと性行為を行う義務があった。 彼女達は神の側女とされ、性交為はいわば接待であり、見知らぬ男達との性交は、神秘的な夫婦関係と見なされた。つまり彼女達が性交するのは神へ奉仕するのと同じこととされたのである。

また、シュメールの娘達は、神殿で処女を捧げるのが習慣になっていた。 処女が流す血は神の好む供物とされていたから、娘達は祭壇の前で、神の代理人である祭司に身をまかせ、処女の血を流した。その神をイシュタルといい、愛と結婚、性愛、豊穣の女神だった。 しかしイシュタルは同時に男神でもあり、両性具有神なのである。したがって娘達は、祭司を男神としてのイシュタルの神聖な化身と信じて疑わなかった。


逆に言えば、娘達は聖職者からそう思い込まされていたのである。こうして処女を捧げると、娘達は祝福を受け、初めて結婚が認められた。 イシュタルは結婚の守護神であると同時に神殿娼婦達の守護神でもあった。

ところでシュメールの結婚は、男が妻を買うということでまとまった。 基本的には一夫一妻制だが、既婚の男が他に妾を持っても、あるいは神殿娼婦とセックスを楽しんでも、背徳の行為として非難されることはなかった。

娘を誘惑し、性交為におよんだ場合、独身の男ならその娘と結婚しなければならない。 既婚の男であれば娘の父親に慰謝料を払って償う必要があった。

この地域は、やがてバビロニアとなるが、それでもこうした性習慣は引き継がれた。バビロニアの娘達は神殿で処女を捧げてから結婚したり、情事に耽った。 無論、神殿娼婦もいたが、彼女達はもはや慈善的な性交為をするのではなく、金をもらって相手をする神殿内の売春婦となっていた。
http://tig.seesaa.net/article/11028153.html


ヒンズー教のデヴァダシスdevadasis(寺院娼婦)のように、古代の中東の神殿では、娼婦-巫女が女神の恵みを分け与えた。彼女たちは美と善意の比類ない結びつき(カリスcharis、ラテン語のcaritas)に関わっていたため、しばしばカリスたち、あるいは美の女神たちとして知られていた。 charisはのちに「慈善」charityと訳されるようになる。 実際にはカリスは、母の愛、優しさ、慰め、神秘的啓示、そして性交、がすべて一体となったヒンズー教の慈悲karunaと同様のものであった。

 古代の娼婦はしばしば高い社会的地位を占め、彼女たちの持つ学識は尊敬を受けていた。 パレスティナにおいてカデシェト(偉大なる娼婦)と呼ばれた天界の女王の化身のように、娼婦はギリシアと小アジアのミノア島の学問の中心地において、女王のように崇敬された。実際に女王になった者さえあった。ユスティニアヌス帝の妻であるテオドラ皇后は、最初は神殿娼婦であり、コンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、皇后-聖人になる前は娼婦であった。

 エジプトの物語では、ブバスティスのある巫女は、彼女の愛の一夜の代償として、男の現世の財産すべてを要求した。 彼女は「私は神に捧げられた奴隷である。すなわち私は人間ではない」と言った。

最近までエジプトには「神聖娼婦」ghazyeと呼ばれた階級があった。 ghazyeはマルムーク王朝(1250-1517)の時代には大いに尊敬され、奉仕の期間が終わると花嫁として重んじられた。

 神殿娼婦は病気を治癒する者として崇められた。 彼女たちの分泌物そのものが医療的効力があると考えられた。スーウィー教徒の「女性の膣には治癒力がある」という諺は今もなおこの考え方を暗示している。 彼女たちの唾液でさえ病気を治すことができた。イエスが唾液で盲人を治す話(『マルコによる福音書』第8章 23節)は、母権制社会の伝承を模倣したものである。ニネヴェ(古代アッシリアの首都)から出土した粘土の銘板は、眼の病気が娼婦の唾液で治ることを示している。
娼婦はまた魔術師、預言者、占い師であった。 ヘブライ語のzonahは、娼婦と女予言者の両方を意味する語である。

 霊を持つ女性としても知られ、多くの男性と交わった日本の巫女-シャーマンは、「聖なる母たち」と呼ばれていた。彼女たちは神の花嫁となって神殿に入り、神の霊の乗り移った神主とともに横たわった。

同様の慣習は、天界のみだらなニンフを模倣したインドの寺院娼婦デヴァダシスdevadasisの特徴となっていた。

 娼婦という職業は一般的な職業であった。エリュクス、コリント、キプロスその他の地にある アプロディテの神殿には1000人の神殿娼婦が仕えていた。 古代ギリシア人が妻を召使いの地位にまで引き下ろしたとき、高等娼婦hetairaiは法的にも政治的にも男性と同等の地位にとどまった。

ローマの貴族で最も身分の高い女性は、啓示が必要なとき、ユノ・ソスピタの神殿で、自ら娼婦となった。 バビロニアの女性はみな、結婚前に神殿で娼婦となった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/prostitution.html

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。

後期密教では仏性の原理の追求が図られた。

ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)を修行する無上瑜伽も後期密教の特徴であり、男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。

ヨーガ・タントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、性交がその最も効果的な方法とされた。

しかし男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要したため、仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)への回帰もみられた。

また僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽も実際の性行為ではなくクンダリニー・ヨーガによる性的な瞑想へと移行する動きも生じた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99


中世のインドでは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教という宗教の枠を超えて、性を重要なテーマとする宗教「タントリズム」が爆発的に流行した。つまり後期密教がこの方向に走ったのは時代の潮流がその背景にあったということだ。


性的ヨーガ

仏教徒が輪廻からの解脱を実現する方法として、努力して少しずつ煩悩を排除してゆくという一般的方法をあえて採らず、ある秘密の技法によって一気に解脱に達しようとする方法が性的ヨーガ。

タントラとは、密教経典、とくに性的ヨーガの実践を主張する経典のこと。

それはつまり、「無上瑜伽タントラ」のことだ。

ある高名なタントラの成就者は、タントラの道について、それは選ばれた者だけが知ることができるのであって、余人に知らしめてはならぬという意味の文を書き残したそうだ。

「無上瑜伽タントラ」は「父(ふ)タントラ」「母(も)タントラ」「双入不二タントラ」に分けられ、それぞれにまた複数のタントラが存在する。

父タントラには敵を調伏する修法が多く、母タントラは性的ヨーガの実践に積極的だった。

双入不二タントラは父・母両タントラを統合止揚しようとするもの。

後期密教では、人間の体の中に「霊的な器官」があると思われていた。


身体論を導入したものとして大日経の「五字厳身観」がある。
これは、地水火風空を象徴するア・ヴァ・ラ・ハ・カの5字を身体の5箇所に観想する。

この5字に加持された行者の身体は大日如来の五輪塔となり、清浄な仏の身体に転化する。
このような身体の中の特別な場所は、後期密教ではチャクラと呼ばれるようになる。

「ヘーヴァジュラ・タントラ」では4つのチャクラが説かれ、それらは身体の臍・心臓・喉・頭頂にあり、そのうちの3つが如来の応身・法身・報身に対応する。
チャクラは蓮華の形をしていて、花弁の数はチャクラによって異なる。

また身体にはチャクラの他に脈管がある。

脊髄のそばに1本、その左右に各1本。

並行して走るこの3本は、上端・下端とチャクラの部分でだけ接合している。
これが当時のインドの生理学説で、「四輪三脈」説という。
脈管の中はそれぞれ精液、血液、その混合物が通る。

母タントラでは精液が「世俗の菩提心」と呼ばれ重視された。

精液は快感の源であり、これを脈管の下端から次第に上のチャクラへと送る。

それぞれのチャクラで得られる快感には名前が付けられ、4つ目の「倶生歓喜」を成就することが生理学的ヨーガの課題とされた。

前述のように精液は菩提心なので、射精は菩提心の放棄でありタブーだった。

行者は睡眠中の夢精すら許されなかった。

なお、上述の快感が下から上へ行く説の他に、上から下へ降りるとする説もあった。

一番下のチャクラは会陰部にあり、これはまだ性的な力にすぎない。
この力を順次上のチャクラに送り、次第に浄化し、頭頂にある最上のチャクラに送ると修行者は解脱するという。

現代では実際に性的な行為をするのでなく、観想によって精神的に修行するそうだ。

しかし8−10世紀頃のインドでは修行者が実際に女性と性交することでヨーガを実践していたらしい。


後期密教の灌頂はそれ以前のものよりも複雑になっている。

それは4つに分かれていて、まず瓶灌頂は、瓶から香水を取り出し受者の頭頂に灌ぐのでこの名が付いている。この瓶灌頂では受者の本尊も決める。またそれ以外にも複雑な儀礼が付加されている。

瓶灌頂は中期密教の灌頂の内容を継承したものになっており、もともと国王の即位式を真似たものだった。そういえばキリスト教の洗礼ともどこか似ている。ここまでなら私にも納得できる。

ところが後期密教は、この国王の即位式を真似た最高の儀礼であるはずの瓶灌頂を格下げして灌頂の第1段階とし、その先におぞましいものを持ってきた。

第2の灌頂である秘密灌頂から先は、後期密教になって付け加えられた灌頂だ。

秘密灌頂では受者が阿闍梨に女性を献ずる。

あるいは阿闍梨が瞑想に入り女性を観想する。

阿闍梨はこの女性と交わり、「金剛杖の中の菩提心」つまり精液を取り出し、指でつまんで受者の口に入れる。

これで「菩提心を授けた」ことになる。

なお、精液だけでなく赤白二滴(経血と精液の混合物)を授けるとする文献もある。

次の般若智灌頂では、こんどは受者は阿闍梨から与えられた女性と交わる。

女性と交わりつつ受者はヤブユムの本尊の境界を悟る。

受者は射精を我慢して究竟次第の4つの歓喜を体験しなければならない。

そして受者が射精を我慢できなくなった時は女性の体内に菩提心を放出し、赤白二滴(経血と精液の混合物)を服用する。

最後の第4灌頂は、阿闍梨が受者に「言葉によって」大切な教えを授ける。

人は死ぬと「中有」になる。 最大で四十九日間。

中有はやがて未来の父母の性行為の場面に遭遇する。
それを見て失神し、赤白二滴(経血と精液)の中に吸着される。

父母の性行為をまのあたりにして父に愛欲を起こして母に嫉妬すると中有は女になり、母に愛欲を起こして父に嫉妬すると男になる。
http://blueclouds.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300688127-1


[3.85 射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。

男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。]
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より。)


ヴァジローリー(性器による吸引)に関しては「実際見せてもらったことがある」というスナックのママさんの話を聞いたことがあります。

曰く、温泉場で同伴した長年ヨーガを実践している女性が性器から湯を吸い上げたり、吐き出したりすることを自在にやって見せたそうです。

私は当時沖正広師の著作を読んでいたので、周囲の人ほど驚くこともなく聞いていましたが、ほとんどの人は話そのものを信じていない様子でした。

ただし、この女性はおそらくこれを「性技」として活用しているのだと思われました。

私の考えでは、ヴァジローリーとは、修練すれば性器でさえ自在にコントロールすることができる証しなのだと思うわけです。

もう少し突っ込んでいうなら、交接時に「受け身」である女性は性器を巧みに絞ったりゆるめたりすることで、男性の射精を適宜操ることができるのです。そしてこれは「女性の修行法」に相当します。


[3.88 ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを保全して、死を克服する。ビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。]

[3.90 人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければならない。]


「ビンドゥ」は精液と同義のようです。

「接して漏らさず」的な考え方がここにも表れています。


[3.98 ヨーギニー:男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。]


「ラジャスとは、ここでは交接時の女性の分泌物であろう」

との佐保田師の解説があります。

3.101には「ラジャスを回収し保全するならば、空中を歩むことができる」という記述もあります。

そしてこの部分も「女性の修行法」に相当すると思われます。

これはこの著作の際だって特異な記述です。

つまり、ヴァジローリーはともかくとして、女性も男性同様に「もらさない(下世話にいえば、イカナイ。多量の愛液をもらさない)」ことが健康法レベルでの禁欲的な実践になるのでしょう。

そしてヴァジローリーができない限りは、「絶頂感」は男女ともに慎んでおくべきなのです。
http://redsnake.seesaa.net/article/94566521.html


性的パートナーと性的ヨーガ 2008年 10月 27日

チベット仏教に精通している人っておられますか?

もち、密教は仏教のなかの一部なんだけど、歴史的にインド仏教が後に興隆したヒンドゥー教に押されてしまいインド仏教の高僧が人里はなれたチベットに移り住みそこでインド仏教を根付かせた。

チベット密教の本を手に取ればそこには性的パートナーっていう、俗に言うセックスフレンドというかセックスパートナーを公認している。

そのセックスパートナーとは性的ヨーガによりつながり互いの性の力の高まりにより悟りを開くというものだから、、、ちょいと驚くよね。

このセックスパートナーって言うのは夫婦関係以外のことも多いからよけい驚く。
インドの仏画をみたりしたら男女が裸体で性器を突き入れているっていう感じのものがよくあるよね。

それが性的ヨーガを一部現したようなものなんだそうな。

ただし注意しないといけないのは、この性的ヨーガをするならばチベット密教の密教的原理だけを理解していて実践するのは絶対にダメだということ。

釈迦が説いた数多くの説法を読み込んでからにしたほうがいい。
そうじゃないと女性がいいように他人に操られるようになってしまう。

おそらくしっかり仏教経典を読み込んでいれば人間の生命場をあらわした超能力的な不思議な目に見えないような世界の話もでてくることがわかるだろう。

だがそれだけじゃなくて仏教の土台を理解してそのうえにひとつの教義としてチベット密教の考え方がある、そう受け止めちゃえば変ないかがわしい人間の甘言や脅しなどにも抗し得るだろう。

そうやって仏教に対してのバランス感覚がよくなった人ならば安心だろう。
チベット密教はやはり私たちの常識では計り知れない叡智がある。

性的ヨーガで得られる悟りを開けるほどのトランスとエクスタシーはそれを我が身で体験した女性は性的に熟練し若さを保て魅力的になるにとどまらず人生観までも転機するといったような。。。。。。。

ぞくぞくっとするような。あのチベット密教の寺院にこだまする読経の声こそ深くこの世の世界から天界へと意識をトリップさせるためのマントラのパワフル極まりないエネルギーに満ちたものだった。

そのことは僕が実際に女性とのセックスをしたときにBGMがチベット密教の寺院で読経された音源だったからこの身をもって体感した。

だけどもチベット密教での性的ヨーガはヨーガの修行体系のひとつでもあり瞑想の行でもあるわけだから、それなりに男女とも修行って言うものがひとしきりする覚悟がないといけない。

そこは安直な簡単で短時間にとかいったような浅薄なことに慣れて面倒なことをしたくないっていう人には向かないよね。

それにチベット密教の行をする過程でリンガといった男性性器が力をつけていくしヨーニという女性性器も変わっていくのを感じた。

セックスのとき極々従順にすべてを受け入れてくれる女性が、セックスの回数を重ねるたびに美しくなっていくっていう秘密のひとつがこういったものなんだよね。
性的パートナーとして整体師さんである僕の性技を味わえば、セックスで整体していく感覚を持てるのかもしれない。
http://sexbody.exblog.jp/8834718/


14. 中川隆 2013年3月04日 02:46:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

光が乱舞する心の深層の世界

仏教タントラではブラフマン(創造神)とアートマン(真我)の合一を体験することをサマジー(三昧耶)・・・暝想の極致という。
ダンマ(真理)に接近しこれと合一する(即身成仏)ことを目的にした、究極的な高度で、深い暝想のはてに、浄化がある。


○想像力は目にみえないものを見させる

 ハワイのフラダンスは、もともと神に奉げれていた神舞であった。
フラの巫女には、女神ペレのマナ(霊力)が感応してくる。
ハワイ語でマナとはスピリチャル・パワーのことだという。
そこで、もともとフラは神霊との交流の儀式であった。

 始めに、詔(みことなり)や、リズムと歌で、神々しい雰囲気と聖なる場を整える。
「真如」の導入である。

次に、フラのダンサーは、そのリズムで踊りながら陶酔し、やがて「没我」となる。
そこに、神霊が「感応」する。
恍惚が踊り手を支配する。
すると、神からの返答が現れ、「天恵」が現象化する。

こうしたプロセスをもつ古代儀式は、世界中に普遍的にある。
ダンスがそもそも交霊術であることを示してくれる明確な例はスーフィのダンス、鎌倉時代に起きた一遍の「踊念仏」などが上げられよう。
不乱の舞は、「没我」に至るには欠かせなかったのだろう。


 古代的な交霊は、表面的にしか物事を見ない人々には理解できない。
エンタテインメント化されたショウとしてのフラよりも、マナ(スピリチャル・パワー)と一体になったフラは偉大で神聖である。
ハワイ島では、古代と同じ”のり”で女神ペレへの感謝のフラが、今でも行われている。

これが奇跡なのだろう。

 なんであれ、音楽とダンスとは一体であり、それは神楽(かぐら)だった。
日本の祭の神輿(みこし)の”のり”が、それなのだろうか。
洸惚感、あの陶酔感は、御輿(御神体)を担ぐことによって、はじめて感じることができる。

神輿を担ぐことは、スピリチャル・ダンスだった。
真の芸能には、「真如」「天応」「没我」「天恵」の4つのプロセスが必ず組み込まれている。

だからこそ喜びと生きる力を与えていた。
現代では、真のイベントは少なく、その一部か、残り物だけとなってしまっている。

それは、大音響のロックの陶酔感とはあきらかに違うものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/008.html


釈迦の教えが滅びた本当の理由は?

要するに、悟りを得て悩みや苦しみが無くなったら、人生の一番美味しい部分も一緒に消えて無くなってしまうのですね。

釈迦は宗教がどういうものか全く理解できなかったという事でしょうね。


15. 中川隆 2013年3月04日 08:00:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

釈迦が理解できなかった本当の信仰とは:


ディーバ。アプサラ。巫女。神聖なる女性に隠された闇とは?


今から1000年ほど前、ちょうどインドで大勢力を誇っていたのがチョーラ帝国(チョーラ朝)だった。

最盛期のチョーラ帝国は現在のインド・ベンガル州からバングラデシュを抜け、東南アジア南部、あげくにインドネシアまでを含む大帝国だった。

そして、インドのみならずアジア一帯のあちこちに石窟寺院を残している。

こういった寺院には非常に多彩で複雑な彫刻が施されているが、そこに描かれている女性が、「デバダシ(Devadasi)」である。

チョーラ帝国の時代、寺院で信者ややってくる人々に踊りや歌やサービスを提供する女性たちがいた。

彼女たちが「デバダシ」と言われる存在であり、初期は恐らく崇高で崇められる女性たちであったと思われる。

若干ニュアンスは違うが、日本の巫女(みこ)を想像すれば、彼女たちの存在は分かりやすいかもしれない。

ディーバ、デバダ、デバダシ。この共通点

アンコールワットもびっしりと女性の彫刻が施されているが、彼女たちはデバダ(Devada)と呼ばれており、やはりチョーラ帝国のデバダシと同様の役割があった。

こちらはよく「仙女」と訳されている。現代のカンボジアでは、仙女と言えば、デバダという古語ではなく、アプサラという言葉のほうが使われている。

ベトナム戦争からポルポト政権の激動を生き抜いたカンボジアのシハヌーク王は、ことさらアプサラたちが踊るのを見るのが好きだったと言われる。

あの手首を独特に回すアプサラたちの踊りは確かに優雅で美しく魅力的だ。歌や踊りの訓練を受けて、寺院に来る人々を魅了したデバダシ、デバダ……。

ヨーロッパではオペラ歌手のプリマドンナのことをディーヴァ(Diva)というが、これは「歌姫」と訳される。

今はもう歌姫というのはオペラのプリマドンナのことだけではなく、カリスマのある女性歌手はみんな歌姫(ディーヴァ)と言うようになっている。

この Diva というのが、Devadasi、Devada に近い語感があるので、もしかしたらチョーラ帝国のデバダシから派生した用語なのかもしれない。

Devadasi
Devada
Diva

並べて見ると、一目瞭然だ。

デバダシ・カーストの女性。チョーラー帝国の巫女がデバダシだ。


神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在している

1981年にはフランスでそれを題名にしたディーヴァという映画が公開されているが、出てくるのはオペラ歌手であり、これに映画の主人公と「娼婦」が絡んでくる。

このフランス映画の監督が、ディーヴァと娼婦を登場させたのは、深い意味があったのかどうかは知らない。しかし、それほど奇妙な取り合わせではなかった。

カンボジアの仙女(アプサラ)をことさら愛したシハヌーク国王だったが、かつてアプサラは歌や踊りだけではなく、妖艶な「性の化身」でもあった。

そして、ポルポト政権からその崩壊までの東南アジア史上最悪のジェノサイド(大量虐殺)を生き抜いたアプサラたちは、その貧しい教え子たちに踊りを継承させることになる。

しかし、教え子たちは踊る前に生きる必要があり、若い女性が売春に駆り立てられていたのが1980年代以降の現状だった。

2000年に入っても、アプサラ志願の女性は、相変わらず売春ビジネスをしていた。(アプサラを踊る娘。貧困地区に棲む天使(アプサラ)の笑み)

日本の巫女はかつては処女性が重視されていたのだが、一方で密教の巫女には「性の儀式」もあったという噂もあって、その姿は一様ではない。

宗教の裏側で、なぜか神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在しているのである。神聖なる女性に隠された「闇」とは、すなわち「セックスの提供」だ。

巫女はかつて漢字で「神子」と書くこともあった。

そして、「神子」と言えば、英語では「シャーマン(shaman)」、すなわち呪術師と同一にされている。

だから、巫女を Devada ではなく、Shaman と訳すのが正しい現代語かもしれない。

写真はカンボジアのアプサラ。カンボジアのアプサラは「仙女」。インドでのアプサラは「水の妖精」になる。


現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」

シャーマンとはシャーマニズム(呪術)を通して神と交信する人なのだが、密教系のシャーマンは、しばしばセックスを通して神と交信する。Shaman と Devada と 性がここでも結びついている。

密教と言えばキリスト教にも拝蛇の密教があって、その教義は性と結びついていた。

キリスト教は歴史的にも数々の異端の教え、異端の集団を生み出しており、セックス教団も数多く存在する。これらの教団に属する女性たちは信者であって、デバダでもある。

では、チョーラ帝国のデバダシはどうなっているのだろうか。

もともとインドは神々と性は別に秘されているものではない。神々が何百日にも渡ってセックスをやめなかったような伝承が残っているくらいで、リンガ・ヨーニに至っては、それが何を意味しているのか誰もが知っている。

シヴァリンガというのは、シヴァ神の男性器をそのまま現しており、ヒンドゥー寺院にはそれらのシンボルが安置されている。女性たちは男性器に礼拝し、油を先端に差す。

リンガ・ヨーニのミニチュア版もインドではどこにでも売っているが、それらはすべて聖なるものであり、礼拝に欠かせないものである。

ヒンドゥー教というのはそのような宗教であり、はじめてインドにやってきてトラヴィダ人やタミル人と接したアーリア人は、その土着のアミニズムに取り込まれて、今では彼らもインド人でありヒンドゥー教徒になった。

そして、そのヒンドゥー教の中にデバダシはしっかりと根づいているが、時代が繰り上がるたびにデバダシは世俗化し、カースト化し、そして意味合いが変質した。

現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」として残されており、一種の売春カーストになってしまっているという。

貧困家庭が子供をデバダシとして売り飛ばし、少女は性奴隷としてずっと売春をしながら生きていく。

聖女、巫女、神子、仙女、歌姫、と様々な単語や意味となって世界の歴史をくぐり抜けてきた Devadasi が、最後には売春カーストとなっているわけだ。

男は誰でも彼女たちを金で買うことができる。しかし、かつての神聖なる姿がそこにあるのかどうかは分からない。


デバダシ・カーストの女性。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130113T0403570900.html

2011年2月4日金曜日
無意識を自覚する方法。自分が何に洗脳されているか、一瞬で知る方法


インドの女性は歌が好きだ。

インド・コルコタにいたとき、ひとりの女性が口ずさむように、静かで優しい歌を歌ってくれたことがある。

彼女は普段はどちらかと言えば粗野な喋り方をする女性で、感傷的な感情をほとんど持っていないようにも見えた。

しかし、物憂げな部屋の中で暇を紛らわすように歌ったその歌は、とても感傷的なリズムで、抑制された美しい声に私は聞き惚れて涙がこぼれそうになった。


マントラという歌

声のトーンも彼女の普段の粗野なものが消えていて、まるで彼女が別人になったかのような不思議なものであった。

「それは何の歌だい?」と尋ねると、彼女は部屋の神棚に飾っている私の知らない神の写真を指さして「昔の歌(Old Song)よ」と答えた。

確かにそうだろうと思う。街の騒々しいボリウッドソングとはまったく違った趣(おもむき)の歌だった。

そのとき、私は知らなかったのだが、のちにこのような歌をマントラというのだと分かった。

マントラという言葉は初めて聞く言葉ではない。それは呪文だか呪術だとか、そういうニュアンスで私は覚えていたので、歌までマントラという括りをすることに驚いた。

今となっては彼女がアカペラで歌ったそのマントラがどんなものだったのか旋律が思い出せないのだが、その歌を聞いたときの感情は生々しく思い出すことができる。

美しい歌を聞いたときの感動の震えがそこにあった。そして、ずいぶん後になって私は「これは危険だな」と意識したのだった。

美しさに取り込まれてしまいそうなのが分かっていた。

その歌がマントラなのであれば、その歌の先にヒンドゥー教が待っている。


ガヤトリ・マントラ

人は美しい歌を聞いて感動し、その歌の世界観に浸って自分の心を癒すことができる。

宗教はそういった歌の効用をよく知っていて、それを巧みに使って心を操っていく。

キリスト教徒は賛美歌やゴスペルに涙を流す。

たとえば、「アメイジング・グレイス」や「What A Friend We Have In Jesus」などをじっくり聞いていると、キリスト教徒は涙がとまらなくなるという。

人口に膾炙する美しい旋律(リズム)と、その詩の内容の優しさが加わって心に響くようだ。

インドのマントラも美しい旋律のものがいくつかあって、ガヤトリ・マントラ(GAYATRI MANTRA)などはよく知られている。

ただ、古い歌にはよくあることだが、ひとことでガヤトリ・マントラと言っても、膨大な種類のリズムと歌詞があって、同じ歌でもまったく違うように聞こえる。

私が聞いているガヤトリ・マントラは YouTube で見つからないのだが、近いのはドイツ出身の歌手、デヴァ・プレマールの歌うガヤトリ・マントラかもしれない。

Deva Premal and Miten - Gayatri Mantra
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=d63COahIpVM

Om bhur bhuvah svaha
tat savitur varenyam
bargo devasya dhimahi
dhiyo yonah prachodayat

彼女はドイツ人だ。なぜドイツ人女性がヒンドゥー語でガヤトリ・マントラを歌っているのか最初は戸惑った。

調べてみると、彼女は子供の頃から父親にマントラを聞かされていたらしく、その影響が強かったようだ。

こういった珍しい経歴の人もいる。彼女は歌を通してヒンドゥーに取り込まれていた。

欧米でも、このようなヒーリング的なものを求める人たちにはよく売れているようだ。

人は、このような歌から精神世界や宗教に取り込まれていく。その典型的な例がマントラの旋律にあった。

美しさは無条件に人の心に染み入っていく。

そして何度も何度もそれを繰り返すことによってその歌の世界が自分の感情と同化していく。

そこに宗教的なメッセージがあれば、歌と同時に人はそれをも無意識に受け入れてしまう。歌が美しいゆえに拒絶反応すら起きることがない。


美しい旋律の歌が人生を変える

これは一種の巧妙な洗脳とも言える。

アメイジング・グレイスやガヤトリ・マントラのような美しい旋律の中に宗教を散りばめて人々を取り込んでいくのである。

教会や寺院で人々は何をやっているのか。賛美歌を歌っているのではなかったか。

賛美歌は神を讃える歌詞をリズムに載せたものである。それを皆と一緒に歌い、感動を共有し、その宗教と一体化する。

日本が無神論者のような人が多いのは、仏教が美しい歌を「開発」しなかったからだと私は強く思っている。

念仏は眠気を誘うが宗教心を芽生えさせない。そういう意味で仏教の親玉は他の宗教と比べると知恵が足りなかったのだろう。

ヒンドゥー教もキリスト教も、歌だらけだ。

インド人は幼い頃からマントラを聞いて、歌って、その世界観の中で生きていき、成人する頃には頭の中はその思考から離れられない。

あの真っ青な荒唐無稽な神は私にとっては単なる滑稽なフィクションだが、彼らにはそうではない。それが自分の血肉に染み付いた大切な精神世界なのだ。

同じことがキリスト教にも言える。あの十字架にぶら下がっている死体は、やはり私にとっては滑稽なフィクションだが、彼らはそれを「なんという友、私たちのジーザスよ」と感極まっている。

子供の頃からくり返しくり返しそれを聞いて、それを歌い、それが思考の基盤になっていている。

父親も母親も、そして兄弟も地域社会も、自分のまわりがすべてそのひとつの宗教に染まっている。

そこまで行くと、その宗教を否定することは両親や地域社会や文化をすべて裏切ることになる。

美しい歌があり、心地良い思い出がすでに蓄積されている。だから、いくら荒唐無稽だとしても、その宗教を否定することなどできなくなってしまっている。否定する意味もない。

そして、村ぐるみで、町ぐるみで、国ぐるみで宗教を擁護し、それを認めない者を「自分を否定した」と憎むようになる。


アメイジンググレイス
http://www.youtube.com/watch?v=uofG9z66LXg&feature=player_embedded#!


多くの国の美しい曲

たったひとつの美しい旋律の歌が、そのような篤い宗教心の人間を生み出しているのは間違いない。

私が感銘を受けたガヤトリ・マントラは、その一曲で私をヒンドゥー教に向かわせる威力もあったはずだ。

美しい旋律の曲が人生を変えるというのは本当だ。自分の気に入った歌を思い出して欲しい。

あなたは無意識にその歌の世界をなぞって生きているはずだ。

それに気がつかなかった人もいるかもしれない。そして、それに気がつくと、恐ろしくなる人もいるかもしれない。

あなたが子供の頃から知っている好きな歌が、あなたを洗脳した歌だ。そして、その歌の世界が、あなたの世界観である。

あなたの自分の世界観は、実はあなたが考えた世界観ではなく、歌で洗脳された世界観だ。

あなたが何に洗脳されたか知る方法は、あなたがどんな歌が好きなのかを思い出すだけでいい。

自分の愛する歌は、それ自体が自分の感情に対する訴えかけを失ってからもずっと後まで、意思決定や性格形成に影響を与え続ける。

私がガヤトリ・マントラでヒンドゥーに染まらなかったのは、理由はひとつだ。

私は、タイでタイの美しい歌に聞き惚れ、カンボジアでカンボジアの美しい歌にしっとりとし、インドネシアでやはり美しい歌に心を奪われた。

多くの国の美しい曲が、私をひとつの思考や哲学や宗教や国にとどまらせるのを許さなかった。
http://www.bllackz.com/2011/02/blog-post_3799.html


16. 中川隆 2013年3月04日 08:12:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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                    ,. -‐''"´  ``ヽ         /(ノ7            ,; :::::::::::..  / xく l!ノ
               ,. '"           \ ,.-‐=ァ==ァ':l/'.    __  、   ::::::::::o'´xェ;-‐''" l!/
            ,,. '"      _,.          Y  ./ ,.ィ/.とノ     ヾヽ.ヽ    ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_
           ,. '"    u  /         ヽ、(   {:l/ ./l      、 ヾ,、}    ::::::::::::.Yi芽.l-‐|
        ,. '"  _,.っ,,.__o゚ノ            ヽ`゙'ー--‐'".:::::l         ノ'       ::::::::ノ'"}lメ! ,レ
    ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、  ``丶、      u     ヽ.   / .:::::::l、   ι´´   _     ::::U '゙’-ィ-/
 ,. ' イ    /::::::::::゙'':´::::::::..                ヽ./  ..:::::::::>:..、      ´u (( ̄``ヽ=ァニ二イ/,ィ
'"/     : : :: : : : : : : : : :                              `゙' ァ,.、 _  ゞ_,.-‐'ア´__ノ__ノ ノ
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                                    ´``ヽ、   l、:l l /  / / // //_/// ,
                     _,.:==    _____   __ `丶 \l l :/ / // ///  / /,.イ /
   ι                u'´       (ノ ̄ ̄フ‐'"´ ̄    ̄``丶 、゙ ‐- l.,l_l //l { / / l !(
            u                     ,. ィ''´               `丶、 `ヽ、Y :l l iヾ
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中川隆_宗教関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/132.html

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

西洋の達人が悟れない理由 _ 秘密仏教(密教)の秘密とは…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html

「宗教」とは根源的な世界畏怖、怖れ畏む気持ちこそが原点ではないかと思う
へのコメント 『原始宗教』
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/614.html

釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html

釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/741.html

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html

ブッダ最後の旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/738.html

スッタニパータ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/736.html

ダンマパダ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/737.html


17. 中川隆 2013年3月04日 22:07:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


4. 仏教が釈迦の教えを完全に無視した理由は?

深い闇に覆われた釈迦の真の教え

「武士」「庶民」「奴隷」の上に絶対的権力をふるうカーストの最上位階級、バラモン(婆羅門)というのは、中央アジアにおいて極めて少数であったこの「白色人種(アーリヤン)」は、圧倒的多数の「黄色人種」や「黒色人種」の先住民と混血して、完全に同化されてしまうのを極度に恐れ、「バラモンの村」という特別区域に居住していました。

そして、彼らの持って来た民族宗教「バラモン教」の神々を武士階級と庶民階級には強制的に信仰させ、また、奴隷階級がバラモン教にふれることは禁止して、その権威を保とうとしたのでありました。

 この白人支配下のインドに生れた釈迦は、この皮膚の色にもとづく苛酷な人種差別と職業差別とに反対し、「人間みな平等」(「四姓平等」)の立場に立って、かの宗教を創始したのでありました。

 最新の研究によれば、ブッダが積極的に人種差別廃止を目指した事実はないとされている。しかし、ブッダは不可触民に対して最上格の敬語をもって接した。この事実そのものが既に革命的なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090111/p2

六道輪廻について
 
 世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。 それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。 生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。

 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。

 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html


スッタ・ニパータは釈迦の本当の教えなのか?

仏教学を学ぶ者にとって、釈迦が、神の存在や霊魂の不滅性の是非を説かなかったことは、初歩中の初歩であるのだろう。そして、多くの仏教本には、釈迦は、人間にとって知ることのできない形而上学的諸問題については、それを問うても解答の出ないものであり、釈迦は、それらをことごとく捨て去ったと書かれている。(無記説)

ところで、最古の経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「無執着説」を説きながら、一方では、「輪廻からの解脱」ということを言う。最初から、霊魂の不死性を肯定も否定もしなかった仏陀が、一体、何故に、再び「輪廻」という言葉を持ち出してくるのだろうか?

これらのことは、『スッタ・ニパータ』を読んだときから、どうしても、私の頭から離れなかった疑問点であった。そして、もともと、本経典は、別々の時代に書かれた別の経典から編集されたものであり、全く別のものとして仏教を誤解釈した釈迦弟子が、仏陀の言葉として書き記したものであるのだろうか?

あるいは、釈迦は最初から輪廻を信じていて、これらは、何かの点によって繋がっているものであるのだろうか? それとも、それらはナーガールジュナ(龍樹)が言うような「勝義諦」と「世俗諦」なのだろうか?

実を言うと、先日、由緒ある曹洞宗のお寺に、日本を代表する仏教学者である奈良康明先生の講演会があり、話が終わった後に、個人的に、これらの質問をもって行ったところ、お寺の奥にあった小部屋に、先生から直々に案内され、一対一で、先生からの、これらに関する解答を頂いたのでした。


『釈迦は無我説を説き、霊魂の不滅性は説かなかった。

しかし、当時の一般民衆のほとんどが輪廻思想を信じていて、釈迦は霊魂の不滅性を否定はしなかった。霊魂の不滅性を否定したなら、托鉢で飯も食えなくなっただろうし、それを信じる者には、その道で行きなさい、といった感じだった。

だから、スッタ・ニパータのは矛盾はない。』


その日の夜に、仕事が終わった後に、スリランカ出身の友人B氏と、これらについて、さらに深い部分にまで及んで話し合ったところ、まったく別の説が浮かび上がってきた。

その彼の説はこうである。

『当時のインドでは、ほとんどの人が輪廻を信じていて、釈迦は輪廻からの解脱に挑んだ。その到達点は梵我一如のそれと同じであり、ニルヴァーナに至った釈迦には輪廻それ自体が無くなってしまった。

それゆえに、神(ブラフマン)の領域にまで達した釈迦にとってはアートマンは輪廻することが無くなったために、霊魂は不滅ではなくなった。』


しかし、B氏の説はバラモン教や梵我一如とその到達点ばかりではなく、それに至る道までもが同じではないのか?

一体、釈迦の仏教は梵我一如であったのだろうか?

いや、そんなはずはないだろう。釈迦の仏教が梵我一如の達人であったのなら、仏教は仏教である意味は喪失してしまうことになるのだろう。

私は、仏教のニルヴァーナの境地とバラモン教の境地とは、同一のものであることはB氏の意見と一致するが、釈迦の山頂に登る手法は、梵我一如のそれとは異なっていたのではないのかと思っている。

そして、「釈迦は霊魂の不滅説を説かなかった(否定も肯定もしなかったという意味)。

しかし、当時、霊魂の不滅性を信じる多くの一般民衆に対しては、霊魂の不滅性を否定はしなかった。」

という奈良先生の説に、私は賛同している。

もしかしたら、修行のレベルに合わせて釈迦は説法をされたのであろう。(対機説法)
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/47870614.html

釈迦の待機説法について

私は、もう随分前のことであるが、初めて仏教の経典を読み始めたときに、仏教の経典には(それが同じ経典の中でさえも)、それぞれに全く矛盾するような言葉が存在することに強い違和感を感じたことを、今でも覚えている。


 具体的に言えば、ある経典には、永久不滅なるアートマン(霊魂)の不死(または「来世」や「冥土」に関しても同様)や絶対者なる神の存在の有無に関しては捨て去れ、と言い、また別の経典においては、アートマンの不滅性や、どう考えても「来世」あるいは「あの世」としか捉えようのない「極楽浄土」や「仏国土」のようなものの状況の内容までもが詳細に語られている、ということである。そして、一方では、すべての存在は無常であるとも言う。(実際に、古い経典には、釈迦は、一切の現象は無常であると説いている。)
 
 一体、何ゆえに、仏教というものは、 全く別物であるかのように見える多くの仏教が存在するのか?そして、宗派ごとに、「これこそが釈迦の直説である!」などと唱えて罵り合うことの最大の原因は、一体、どこにあるのか?

最近になって、私は、それらが、一体なぜなのか、少しずつ分かり始めてきた。

 私は、仏教の経典ごとに異なった言葉は、釈迦の「対機説法」というものにあると思うのである。

釈迦は、出家修行者においては、その修行のレベルに応じて、その人に合った説法を行っていた、ということである。 もちろん、在家信者や、在家の仏教徒ではない人々に関しても、その説法の内容は、決して、修行者に対して語られたものとは同じである、ということはできないだろうと、私は思うのである。

 もし、釈迦が、「来世」や「アートマン(霊魂)の不滅性」を信じる一般の人たちに、そのようなものはすべて捨て去れ、などと言ったら、一体どうなっただろうか?

おそらく、お釈迦さまが、そのように言ったとすれば、彼らの自我は一瞬にして壊されてしまい、泣き叫ぶ人も現れてくるだろうことは、容易に推測できると思うのである。

 もちろん、釈迦の滅後、多くの考え方を持った仏教者たちが仏教に自らの理念や思考を盛り込んで、(釈迦の死後、500年以上後に)様々な経典や物語が書かれていった、と言うこともできる。

 実際に、紀元後にインドで生きていたとされるナーガールジュナ(漢語で言う「龍樹」)が記したとされる『中論』の中には、仏教には「世俗諦」と「勝義諦」(真理諦)とがあり、その両方を知っておかなければならない、とも記されている。
 そのことは、釈迦の「待機説法」の真の意味を知っておかなければならない、ということであるのではないのかと、私は思ってる、ということである。
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1795001.html

対機説法の目的


スッタニパータ 第二章 小なるもの 第一経 宝

227  正しくある者たちに賞賛された、これら四組の者たち八人(四双八輩:正覚に至る四階梯の各々において学びつつある者と学び終えた者の計八人)が〔世に〕有るなら、彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。

これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。これもまた、僧団(サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html


ここで布施を受けるのは、貧しい人々ではなく、バラモンの生活法に則って、家住期を終え、家庭を離れて遍歴修行する遊行者、あるいは祭祀を行うバラモンのことである。
 
ゴータマとその弟子たちもまた、住居と生業をもたない遍歴の修行者であった。 かれらも生存していくためにやはり在家から食を乞わねばならない。 

 そのとき、布施の功徳を問われれば、先のマーガとの問答にあるように、祭祀さえも認めることがあったのだろう。 後の経典は、動物供犠を除けば邪盛会でさえ、肯定されているのである
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/comp5.html

要するに上記227節の意味は、

釈迦の弟子は特別な存在だから、もっと金を出せ

という事ですね。そしてこれこそが仏教における釈迦崇拝の背景でしょう。


スッタニパータを書いた目的も

善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。

というのを一般の人に納得させる事なんですね.

要するに,我々偉大なる釈迦の弟子にもっと金を出せ という事です.

輪廻転生や死後の世界を素朴に信じている無知蒙昧な一般人に大金を出させるには,釈迦の弟子が特別な選ばれた人間であると思わせなければならないですからね.

ブッダというのは目覚めた者という意味で単なる人間にしか過ぎない。

さらに、部派仏教の段階で釈迦の教えは既に大幅に修正されていたので、釈迦の言説は100年後には既に真理だとは思われていなかったですからね。

悟った人間は阿羅漢と言われて、本来はその全員が釈迦と同格ですね。釈迦から阿羅漢に認定された弟子は当時、何千人も居たので、釈迦が特別な人間という訳ではないのです。


釈迦が何故神格化されたかと言うと、無知蒙昧な一般人にお布施を出させるには,釈迦が神で、その弟子も特別な選ばれた人間であると思わせなければならないからでしょう。

坊さんも水を飲んで霞を食べて生きている訳じゃないですからね.

ハッタリも方便

要するに、僧侶にとって宗教は,職業として生活の為にやっているものなので,釈迦の本当の教えなんかどうでもいいという事なんでしょうね.

釈迦の悟りというのは、輪廻転生とか霊界・死後の世界と言われているものが、実際には人間の無意識の中で生起している現象に過ぎないという事に気付いた事なのです。神や悪魔というのも人間の心の中にしか存在しない、そういう事がわかったという事です。

俗に死後の世界とか霊界とか言われているのは心理学の言葉で言えば無意識の事です。人間が死ねば脳が溶けて、意識も無意識も一緒に消えてしまいます。従って、極楽も地獄も人間の死と共に消えてなくなるのですね。

輪廻転生というのも生きている人間の脳内で生じる virtual な経験なんです。そして、その事に気付いたのが釈迦の悟りですね。

ウパニシャッドにおいては、ブラフマン・アートマンが実在する事が真実だったんですね。アートマンというのは人間の魂なので、魂が実在すれば、肉体が滅びてもまた生まれ変わってくるという輪廻の考え方になってしまうのですね。

しかし、輪廻は当時のカースト制を維持する為に悪用されていた考え方なんです。

低いカーストの人間は前世で悪行をした報いだから、上のカーストの人には逆らわず、文句を言わず、がまんして苦しい労働に耐え、来世で高いカーストに生まれ変わる様に努力しなさいという上の人間に都合のいい考え方を押し付けていたのですね。

しかし、釈迦はカーストというのはアーリア人がドラビダ人を征服したから生じたもので、人間の価値とは関係ないとわかっていたんです。

それでカースト制を支えている輪廻転生、アートマンの存在を否定する考え方を探し求めたんです。

そしてその答えとして


アートマンは存在しない(無我説)

生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。


を思いついたのです。

釈迦の悟りというのはこの無我説を実際の瞑想体験で確認するという事ですね。

神や悪魔や地獄の様な悩みの元になるものは普遍的無意識の浅い層にあるもので、そこからさらに深い所まで下りて行けば普遍的無意識の深い層(涅槃・空の世界)が広がっている。

従って、魂や死後の世界というのは幻影で、涅槃の世界からすべてを見る事ができる様になれば、苦しみもなくなるというのが釈迦の教えです。


ブッダというのは目覚めたる人間という意味ですが、目覚めるというのは魂や死後の世界というのが幻影だと悟るという意味なのですね。


仏教史を整理すると


@ 釈迦は輪廻転生や死後の世界が深層心理に基づく virtual なものだというのに気付いた。


A しかし、当時の人は魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じていたから、真理をそのまま教えたらパトロンの王侯貴族からお布施が貰えなくなる。


B それで、対機説法というのを考えて、魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じている一般人には真理を伝えないで誤魔化す事にした。


C 釈迦の弟子もお布施が貰えなくなると困るから、釈迦の対機説法を釈迦の教えとして仏典をまとめた。 スッタニパータで釈迦が否定した筈の天界や輪廻転生が語られるのにはそういう事情があった。


D 部派仏教で人間の心の深層の研究が進むにつれ、ブラフマン・アートマンが実在する事が確認され、釈迦の無我論をそのままの形で継承するのが不可能となった。


E 大乗仏教になると、釈迦の対機説法を当時の一般民衆に人気のあったヒンドゥー教に置き変えて、宗教ビジネスとして完成させた。 大乗仏教の空というのは本質的にはブラフマン・アートマンと同じものを指している。 その結果、大乗仏教での悟りも釈迦の悟りではなく、バラモン教・ヒンドゥー教の悟り、即ち梵我一如と輪廻転生からの解脱と本質的には変わらなくなってしまった。


F 日本に渡来した大乗仏教ではさらに、仏教の外見だけ残して中身を完全に自然神道に置き変えて、それまで村の古老がやっていた儀式を殆ど引き継いだ。 日本のお坊さんが本来の仏教では絶対にやらない筈の葬式やお盆で稼いでいるのはこういう事情なのです。


纏めると

インド仏教は外観だけ釈迦の教えに見せ掛けているが、中身はバラモン教・ヒンドゥー教に置き換えた。

中国仏教は外観だけインド仏教に見せ掛けているが、中身は道教に置き換えた。

日本仏教は外観だけ中国仏教に見せ掛けているが、中身は自然神道に置き換えた。


18. 2013年3月05日 10:32:56 : W18zBTaIM6


イエスが見たインド


聖イッサ伝 ※イッサとはイエスであり。モッサとはモーゼを指す。

第四章

10 イエスが十三歳、イスラエル人の妻を迎える年になったとき、

11 生活の資を得るため、両親がつましい商いをしていた彼らの家は、金持ちや高い身分の人々の集会の場になった。彼らはみな、若いイエスを自分の婿にしたがっていた。全能の神の名による教化の説教は、すでにイエスを有名にしていたから。

12 イエスがひそかに両親の家を離れ、エルサレムを立ち、商人たちとともにシンドに向けて出発するときが来た。

l3 神のことばにおける完成を日指し、大いなるブッダの法を学ぶために。

第五章

1 神はイエスを祝福したもう。若いイエスは十四歳のとき、シンドのこちら側に来て、神の愛された地、アーリア人の間で一人立ちしていた。

2 この不思議な子どものうわさは、北シンド全域に広がった。彼が五つの川と、ラージプータナの国を過ぎたとき、ジャイナの神の帰依者たちは、自分たちの間にとどまってほしいとイエスに懇願した。

3 だが彼はジャイナの娯った信仰を拾て、オリッサの国、ジャガナートに行った。そこにはヴィアーサ・クリシュナの遺骸が安置されており、バラモンの白い僧らがイエスを歓迎した。

4 彼らはイエスにヴェーダを教え、祈祷によって病人を治すことを教えた。聖典を講じ、解釈することを教え、人の体から悪霊を払い、正気に戻すことを教えた。

5 彼は六年間をジャガナートで、ラージャグリハで、べナレスで、また他の聖都市で過ごした。イエスが平和のうちに、ヴァイシャやシュードラと暮らし、彼らに聖教典を教えるのを見て、だれもがイエスを愛した。

6 だがバラモンとクシャトリヤは、イエスに告げた。ヴァイシャ、シュードラは偉大なるパラ・ブラフマ神の脇腹と脚から生まれた賎しいものである。われらは彼らに近づくことを、神によって禁じられている。

7 ヴァイシャに許されているのは、ただ祭りの日に朗読されるヴェーダを聞くことだけであり、

8 シュードラには何も許されていない。ヴェーダを唱える場に出ることも、ヴェーダのことを考えることすら許されていない。なぜならシュードラは、バラモンやクシャトリャ、そしてヴァイシャにさえ、永遠に、奴隷として仕えねばならぬ身分だから。

9 「ただ死のみが、彼らを奴隷の状態から自由にすることができる」と、パラ・ブラフマの神は申された。だから彼らのもとを去り、われらとともに神々を敬え。もしあなたが神々に従わぬのなら、神々はあなたに激しい怒りを浴びせるだろう」

10 しかしイエスはそのことばに従わず、バラモン、クシャトリヤにさからい、シュードラのもとにおもむいて道を説いた。

11 イエスは同じ仲間の人間から、人としての権利を奪い、横取りする卑劣な人間の行為をののしった。「なぜなら」とイエスは言った。

「父なる神はわが子に、どんな差別も置いてはいない。父なる神にとっては万人が平等であり、万人ひとしくわが父の愛するものです」と。


12 イエスはヴェーダとプラーナが、神から発したものであることを否定した。「なぜなら」とイエスは彼に従うものに教えた。

「神の掟はあのように煩瑣なものではありません。人の行為を導く掟は既に与えられているのです。すなわち、

13 「あなたの神を畏れよ。あなたの神にのみ膝まずけ。ただあなたの収入に応じてのみ、供物を捧げよ」

14 イエスは三神一体を否定し、パラ・ブラフマの神が、ヴィシュナの神に、シヴァ神に、またその他の村々に化身するというバラモンの考えを否定してこう言った。

15 「永遠の裁き主、永遠なる霊とは、唯一にして不可分の全宇宙の魂です。この神ただ一人がすべてを創り、すべてを包み、すべてに生命を与えました。

16 「この神ただ一人が行為し、創造したのです。この神のみが永遠の昔から存在し、その存在に終わるときはありません。天にも地にも、この神に比べるものはない。

17 「偉人なる創造の主は、その力を、生きたどんなものにも分け与えることはありません。まして偶像やその他、生命のないものに、主がそういうことをされるかどうか、言うまでもないでしょう。ただこの神のみが全能なのです。

18 「この神が心に決めたから、地が現われました。神はその計画どおり、水と、地の乾いたところとを分け、水を一か所に集めました。神は人という不思議な存在の原理であり、人の中に、神は自分の性質の一部を吹き込まれたのです。

19 「そして神は、地の、水の、獣の、そしてすべての被造物の上に人を立てました。すべては神のこの計画に従い、不変の秩序の下に、時と所を定められています。

20 「しかし神の怒りは、やがて人に向かって放たれるでしょう。なぜなら人はその創り主を忘れ、神の宮を忌むべきもので満たし、神が人の下に置いた石や金属や、動物を崇拝しています。

21 「なぜなら、人の中にこそ至高の霊が宿っているのに、石や金属を崇めるために人を犠牲に供えています。

22 「なぜなら 著りを極めた食卓に座り、働こうともしない人の機嫌を取るために、額に汗して働く人々を恥ずかしめています。

23 「神が与えた幸せを兄弟から奪うものは、やがて必ず自分が奪われるでしょう。バラモンとクシャトリヤは、やがて自分がシュードラになるでしょう。そして永遠の神はいつまでも、いまシュードラである人々とともにおられるでしょう。

24 「なぜなら終末 裁きのり シュードラとヴァイシャの多くは、その無知のゆえに赦されます。だがこれに反し、神の正義を横取りしたものには、神の激しい怒りが降るでしょう」

25 ヴァイシャとシュードラは感激に溢れ、イエスに聞いた。永遠の幸せを失わぬためには、どのように祈ればよいでしょう、と。

26 「偶像を拝むな。偶像に聞く耳はありません。ヴェーダに耳を傾けるな。その言う真理は偽りです。人を押しのけるな、隣人を恥ずかしめるな。

27 「貧しいものを助け、弱いものを支えてやりなさい。だれにも悪事を働くな。あなたが持っていないもの、他人のものとわかっているものを、むやみにほしがってはなりません」


第六章

1 白い祭司と王の臣下らは、シュードラに説かれたイエスの説教を知り、イエスを殺そうと考えた。殺そうとして、彼らは従者を差し向け、若い預言者を探させた。

2 だが、シュードラに危険を警告されたイエスは、夜に紛れてジャガナート地方を去り、山に入って、仏教徒の国、唯一にして崇高なプラフマンを信じる人々の間に住むことにした。すなわち、かの偉大なブッダ・シヤカム二誕生の地である。

3 義の人イエスは、パーリ語を完全に習得した後、聖なる仏典の研究に専心した。

4 六年の後、聖なる教えを広めるため、プッダが選んだ人イエスは聖典の完全な講述者になった。

5 その後彼は、ネパール、ヒマラヤ山地を離れ、ラージプータナの谷へ降り、さまざまな国の民に、人間の究極の完成について説きながら、西へ向かった。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/fukuinnsyoco/gesatu_itussaden.htm


19. 2013年3月05日 10:46:07 : W18zBTaIM6

十九世紀末、ロシアの探検家ニコラス・ノトビッチはカシミール地方を旅した際に、ある仏教徒の集会で「聖イッサ」という名の外国から渡来した超人的人物にまつわる言い伝えを耳にした。

イッサというのはイエスのインド名で、このイッサの東洋伝道を記録する古文書が、チべット各地の寺院に保管されているというのである。

イッサに輿味をもったノトビッチはその古文書を探す旅に出た。そしてラダックの首都レーにあるヒミス寺にその文書が保存されていることを突き止めた。そしてその内容を、通訳を介して書きとめて故国に持ち帰り、「イエスの知られざる生涯」というタイトルで出版した。以後それが英訳されてイエスのインド渡来説の有力な資料とされるようになった。

それによるとイッサはインドでバラモン憎に迎え入れられてヒンドゥー教の聖典を学びながら六年を過ごした。 が、イッサはその感化は受けなかった。それどころか、カースト制度や偶像崇拝、人身供犠に我慢できなくなり、下層階級の救済に着手。特権階級のバラモン(聖職者)やクシャトリヤ(貴族)の横暴を非難し始めた。

いかにもイエスのやりそうなことである。

そして遂には「ヴェーダ」 「プラーナ」といったヒンドゥー教の根本聖典の権威、三位一体説(ブラーフマ・ビシュヌ・シバの三神)を否定し、「天の父」たる唯一神への信仰と、人間のすべてが等しく宿している霊性への回帰を説き始めた。

これもイエスらしい。

そのことに脅威を感じ始めたバラモンたちはイッサの殺害を計画。それを察知したイッサはヒマラヤ山脈に逃れて釈迦生誕の地ルンビニ一に入り、仏典の研究を始めた。

入山から七年後、イッサは下界に下り、西方への伝道を開始した。
その教えは入山前と同じだったという。
http://www.gusuku.sakura.ne.jp/characters/main/ishadow1.html

キリスト教について考える時、ここで私たちが考えてみなければならないのは、

「人類は果たしてどれだけ『イエス』と呼ばれる人物を知っているのか?」

ということです。  実はキリスト教徒が使っている聖書には、イエスの生まれた時から12歳くらいまでの記述と、30歳を過ぎて人々に教えを説きはじめてからの記述しかありません。

ですから現在、正統とされているクリスチャンは、12〜30歳までのイエスの姿について実は何も知らないわけであり、イエスの人生の半分以上は何も分かっていないのです。


 
実はニコラス・ノートビッチという方が、一八八七年にチベットを旅行して、ヒミスの寺院を訪問し、そこで「聖イッサ伝」の写本を発見しました。聖イッサとはイエス・キリストのアジアでの呼び名です。つまりニコラス・ノートビッチという方は、アジアにおけるイエス・キリストの言い伝えを発見したわけです。

 そして彼は現地の人にその写本を読んでもらい、書き写し、そして『知られざるイエス・キリスト伝』という本を世に発表しました。その本の中で、イエスはインドに趣き、そして修行しながら、人々に教えを説いているのです。

 当然ながら『知られざるイエス・キリスト伝』は様々な問題を呼び、その真偽についていろいろと議論されました。そしてその後、インドのアグラにある公立大学のある教授が、実際にヒミス寺院へいって、聖イッサ伝について調査しました。

 彼がチベットの寺院に行って、

「イッサの伝記を書いた書物があるそうだが、知っているか」

と聞くと、僧侶は答えました。

「イッサという名のついたものについては聞いたこともありません」と。

 そしてその教授は「『知られざるイエス・キリスト伝』の信頼性は薄い」と発表したのです。 しかしこれで終わりにはなりませんでした。

その後、一九二二年にアベーダナンダという方が、ヒスミ寺院に立ち寄り、

「ニコラス・ノートビッチは、ここで聖イッサに関する写本を見つけて、『知らざれるイエス・キリスト伝』という本を出したが、それは事実なのか?」

と僧侶たちに訊ねました。 

すると僧侶たちは「まさに真実だった」と教えてくれたそうです。

 そしてそれから三年後、ヒミス寺院を訪問したニコラス・レーリッヒという方は、イッサについて書かれた古文書を発見し、のちに公刊したそうです。 またさらに一九三七年、エリザベス・カスパリという方が、ヒミス僧院の図書係りから三冊の本をみせられ、こう言われたといいます。

「あなたがたのイエスはここにいた。この本にそうかかれています」

 イエスが生きた当時のインドは、仏陀が地上を去ってから約500年くらいでありますが、相変わらず厳しい身分社会でした。

ですから低い身分の人々、すなわちシュードラと呼ばれる奴隷階級の方々は、その生まれによって判断されて、宗教家たちから心について学ぶことが許されていなかったのです。

 しかし聖イッサはそうした中でも、低い身分の人々に教えを説きました。

バラモンと呼ばれる当時の宗教家たちは、聖イッサに言います。


「ただ死のみが、彼らを奴隷の状態から自由にすることができるのだから、彼等に真理を教え説いてはいけない」


 もちろん聖イッサが、現実にイエス・キリストであるならば、そんなことで引き下がるわけもございません。


なぜなキリスト教徒なら誰でも知っていることでありますが、イエスという方はとても激しい愛の人であったからです。

 聖イッサはバラモンの言葉には一切従わず、奴隷階級の人々のところに赴いて、真理を説いまわりました。

そして聖イッサは、同じ人間が他の人間の権利を奪い、横取りするような卑劣な行為に対して厳しく批判した上で、こう言っています。

「父なる神は我が子に、どんな差別も置いてはいません。

 父なる神にとっては万人が平等であり、万人が等しく我が父の愛する者なのです」

 これは紛れもなくイエスの愛の教えそのものでありますが、こうした教えが確かにインドから「聖イッサ伝」として発見されたわけです。

 確かに「聖イッサ伝」の信憑性は議論の余地がありそうですが、しかし言えることが三つあります。

 まず一つ目は、「新約聖書にはイエスの十二歳から30歳くらいまでの記録が何も書かれていない」ということです。

そして二つ目は、「聖イッサ伝にはその間の修業時代のことが書かれている可能性がある」ということです。

そして最後の三つ目は、「新約聖書に画かれるイエス・キリストと、聖イッサ伝に描かれる聖イッサの人物像がとても似ている」ということです。


 そしてもしもインドの地で伝わる聖イッサが、キリスト教徒たちが知らないイエス・キリストであるならば、イエスは転生輪廻の教えを説いていた可能性はますます高くなります。

なぜならインドは仏教発生の地であるのみならず、転生輪廻の教えが深く根付いている土地であるからです。
http://ngomisumaru.blog19.fc2.com/blog-entry-949.html


20. 中川隆 2013年3月05日 17:48:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


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釈迦はモンゴロイド? アーリヤ人?


釈迦族(しゃかぞく、Śākyaシャーキャ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族やシャーキャ族とも。
インドではサンスクリット語で शाक्य (śakya, シャーキャ) 、パーリ語で sākiya(サーキヤ)と言う。

前6〜前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキャはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった。(場所は現在のインドとネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった。

シャーキャ族は、政治形態としてはサンガを採用していた。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという。
釈迦族とは、様々な民族に経典を翻訳して伝える際に、注釈を加えてわかり易く説法する世襲制の祭司族または書記族の意味だという。

釈迦族の人種的な系統については諸説ある。

伝説では、アーリヤ人のクシャトリヤ王統に属すると言われる。
一説には、アーリヤ系の日種 (サンスクリット: Suurya-vaMza) に属し、甘庶王(かんしょおう、オッカーカ)系といわれる。
一説では、非アーリヤ系の民族だとする。
歴史家の中には、チベット・ビルマ系だと見なす人もいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F

234 :日種族萌え:02/10/22 23:17 ID:1Imj0Ffm

仏伝によれば、シャカ族は、日種族のオッカーカ王の末裔とされていま
す。

月種族(月神の子孫)と日種族(太陽神の子孫)は、アーリア人クシャトリアの二大ブランドで、日本の源氏と平家のようなものです。

日種族はコーサラ地方の古い王族ですが、シャカ存命中のコーサラ王プラセナディットは卑賎の生まれで、シャカ族から妃をもらって権威付けしようとしました。 つまり、シャカ族は本当にアーリアの超名門である日種族だった、或いは当時世間からそう信じられていたということではないでしょうか。
http://mimizun.com/log/2ch/geo/1005353574/


現在のところ、シャカは白人系だったと考えられている。

バラモン教の社会においては、肌の色が白人と違うことは激しい差別の対象とされた。だがシャカに関するあらゆる文献にそうした差別ということは出てこない。
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/folder/1040554.html?m=lc&p=11


釈迦さまは、一般的にはヒマラヤ麓の農耕民族の国に生まれたと言われています。
検索をかけても、大体はそのような伝承を紹介しています。 しかし、私はそれらの伝承には、リアリティを感じることができません。

お釈迦さまが生み出した仏教は、「煩悩」の克服をテーマにしていると言えるでしょう。 果たして、のどかで純朴な農村に生まれ育った人が、「煩悩」の克服を最重要課題に挙げるでしょうか。 田園地域で心静かに暮らしていたのであれば、「欲望」を目の敵にする必要など、そもそもなかったと思うのです。

逆に、欲望が渦巻くバザールがあるような交易都市ならば、人間の愚かさを痛感したり、それを乗り越えようとする問題意識が生じる可能性が高い気がします。

また、お釈迦さまについての逸話から考えても、元来は牧畜・騎馬民族だったことが窺えるように思われるのです。

たとえば、苦行に疲れた彼に「中道」を悟らせたのは、土地の娘が差し出した牛乳粥だったという。弱った体に滋養を与えるものとして選んだのだから、それは安心できるソウル・フードであり、決して珍奇な御馳走ではなかったと思うのです。それが牛乳粥だというのは、騎馬民族の証しではないか…。

そして、お釈迦さまが出家をしたとき、伴ったのは愛馬カンタカと言われます。
愛馬と言うのだから、誰かに馬を引かせるのでなく自分で乗りこなせたのでしょう。

また、お釈迦さまが説法を始めたことを初転法輪と言いますが、この輪とは馬車や牛車の車輪に違いありません。

これらの逸話から見ても、農耕民だったとは思えないでしょう。

私には、若き日のお釈迦さまは、騎馬民族の貴公子としてイメージされるのです。
そのようなビジョンが見える気がします…。
http://blog.goo.ne.jp/higa-noboru/e/6949038cfcde885697d5ff31da388758


シャカ族は人種的には何人種に属していたか、はっきりしたことは学術的には現在もわかっていません。

お釈迦様がアーリヤ人(白色人種)ではないことを、井上哲次郎氏が『釈迦種族論』(哲学書院1897年)の中で主張されています。しかし、中村元氏のように、お釈迦様ははアーリヤ人であると考えられるとされる学者もおられます。

その理由として、

1.お釈迦様が御誕生になったのはルンビニーであることは、歴史的事実として、ほぼ断定されています。ところが、インドからネパールにかけて人類学的調査に従事されたことのあるアメリカ人の人類学者ボールズ博士によると、ルンビニーのあるタラーイ盆地の住民はだいたいがアーリヤ人なんだそうです。

蒙古人類型の人種はそのあたりでは、とびとびに散在しているだけだということです。中村元氏は、もしそうであるならば、約二千数百年前にもそれと相似た事情であったことも可能であり、シャカ族は文化的には多分にインド的であったとしていますね。

2.シャカ族の遺骨をおさめた舎利壷が発見されたのですが、その銘文はアーリヤ系の俗語で書かれ、しかもアーリヤ系の言語でしるされた銘文としては現存最古のものであることから、シャカ族がアーリヤ人であったという推定がますます確かめられることになると語っています。

3.お釈迦様は仏教が生まれた最初期から、「イクシュヴァーク王の後裔」であると考えられていたのですが、シャカ族の系譜はアーリヤ人の神話的伝承を受けているのです。当時のシャカ族の人たちが、自分たちの系譜を、アーリヤ人の神話的伝承によっていたということは、シャカ族は文化的にアーリヤ的であったのですね。このことは、理由1のタラーイ盆地の住民はだいたいがアーリヤ人で、それはお釈迦様在世も同様に考えられるとする人類学的研究とも一致します。

どちらが正しいのでしょうか?
最新の研究成果に基づくお釈迦様=アーリヤ人という主張に分があるように思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1025949110

他民族との混血を極度に嫌った釈迦族

実際の血筋はともかくとして、釈迦族は古代の聖なる王につらなる出自を誇りながらヒマラヤ辺境で農耕を営む少数民族でした。釈迦族はインド社会の四姓制度の文脈では、自らをクシャトリア(王族)階級と位置づけていました。釈迦族のなかではそれほど階級ははっきりしておらず、農地を所有する貴族的な家系(参政権のある王族)とそれ以外の庶民、王家に従属する奴隷(使用人)に分かれている程度だったと思われます。

また、これは釈迦族滅亡の原因となるのですが、

「かれらは、混血を恐れ、自分たちの姉妹と同棲生活をしました。」

という経典の文章にあるように、釈迦族は他民族との混血を嫌い、独自の通婚タブーを持っていたようです。

釈尊の妃(ヤソーダラ姫)の出自と言われるコーリヤ族は釈迦族の親類民族でしたが、水利権を巡って紛争を起こしたこともありました。中部123「稀有未曾有経」などで「如来の希有未曾有法」として列挙される17項目には、釈尊が立産で生まれたという記録があります。この立産は一部チベット系民族の習慣でもあることなどから、釈迦族はインドを征服したアーリア系民族ではなく、土着のモンゴル系だったのではないかという説も唱えられています(この釈迦族モンゴロイド説は日本の仏教学者からよく言われることです)。

コーサラ国の属国だった釈迦国

そして釈尊の時代、釈迦族が置かれていた状況については、中部98「ヴァーセッタ経」に以下の記述があります。

ヴァーセッタよ、現世においても、来世においても、この衆においても、法がどのように最上であるかということは、次の根拠によって知られるべきです。

ヴァーセッタよ、コーサラ王パセーナディは知っています。

『沙門ゴータマは、釈迦族から出家したものであり、(その)他の人ではない』と。

しかし、ヴァーセッタよ、釈迦族の者たちは、コーサラ王パセーナディに従属しています。

ヴァーセッタよ、釈迦族の者たちは、コーサラ王パセーナディに、平伏、敬礼、起立、合掌、奉仕を行います。

このように、ヴァーセッタよ、釈迦族の者たちがコーサラ王パセーナディに対して行う、平伏、敬礼、起立、合掌、奉仕を、コーサラ王パセーナディは如来に対して行います。それは、

『沙門ゴータマは善き生まれの者であり、余は悪しき生まれの者である。沙門ゴータマは力のある者であり、余は力のない者である。沙門ゴータマは端正な者であり、余は醜い者である。沙門ゴータマは大威力の者であり、余は威力のない者である』

というようにではありません。そうではなく、その法のみを尊敬し、法を尊重し、法を敬愛し、法を供養し、法を敬礼しつつ、このように、コーサラ国王パセーナディは、如来に対して、平伏、敬礼、起立、合掌、奉仕を行います。

これはバラモン教の生まれ差別に対する痛烈な批判のくだりですが、釈迦族がコーサラ国王に、「平伏、敬礼、起立、合掌、奉仕を行う」従属的な立場に置かれていたことが明言されています。ブッダの時代、釈迦国はコーサラ国の属国だったのです。


釈迦族滅亡の序曲

さて、ブッダの故国である釈迦国は、釈尊の晩年にパセーナディ王から王位を簒奪したコーサラ国のヴィドゥーダバ将軍(琉璃王子)に首都カピラワットゥを攻略され滅亡したとされています。北伝で伝えられた漢訳『増一阿含経』にはその顛末が詳細に紹介されているので、仏教に詳しい方はよくご存じではないかと思います。

しかし、実はテーラワーダ仏教で伝えるパーリ経典には、この釈迦族滅亡の記録が見当たらないのです。ヴィドゥーダバ将軍が釈迦族を滅ぼしたという記録は、釈尊の滅後1000年以上経ってからまとめられたジャータカやダンマパダの注釈書にようやく登場します。パーリ注釈書に出てくる話は、上述の『増一阿含経(36経)』と大筋は似通っています。増一阿含経が訳出されたのは東晋(4世紀から5世紀)の時代なので、その頃には広く知られていた物語なのでしょう。

だいたいの傾向として、漢訳阿含経典に出てくる仏伝エピソードは、パーリ仏典では経典ではなく注釈書に取り入れられているパターンが多いのです。漢訳阿含経典は、経典と注釈書が混ざった形で翻訳されたのでこのような混乱が起こったものと考えられます。

ブッダとその教団の熱心な外護者でもあったパセーナディ王の王子、ヴィドゥーダバが釈迦族を滅ぼすにいたったきっかけは、その生い立ちにあると言われています。

インドの新興勢力であったコーサラ国を統治していたパセーナディは、小国ながら血筋の良さで知られていた釈迦族と姻戚関係を結びたいと考えていました。そこで彼は属国である釈迦国に対して、王族の娘を妃として輿入れさせることを要求します。

これに対して、釈迦国の王族だったマハーナーマは、自らの奴隷女に産ませた娘、ワーサバカッティヤー(一説にナーガムンダー)を自分の王女といつわって差し出します。釈迦族のとりわけ王族は独特な婚姻タブーを持つ閉鎖的な部族社会だったので、族外の異民族との結婚は血の穢れを意味していたのです。

この詐術は、地域大国の台頭でアイデンティティを揺るがされていた小部族国家の意地だったかもしれません。釈迦族の王族たちはコーサラ国に服属している関係からパセーナディ王の要求を断れなかったので、うまく一計を講じたつもりでいたのです。しかし、この近視眼的な態度が、のちに釈迦族の首を絞めることになります。


復讐を誓うヴィドゥーダバ

のちに成長したヴィドゥーダバは弓術(釈迦族は卓越した弓術でも知られていました)を習うために母方の祖国でもある釈迦国に遊学しました。しかし、そこで彼が王族の席に座ったことが大問題になったのです。

「奴隷の血を引いた男が釈迦族の玉座をけがした」

と憤慨した一部の釈迦族は、呪いの言葉を吐きながら、牛乳でその席を洗い清めました。その光景を偶然目撃してしまったヴィドゥーダバは、自らの血筋を知り衝撃を受けたのです。

コーサラ国の皇太子として育てられたにも関わらず、釈迦族が奴隷に産ませた娘が自分の母だったとは……。

そして宗主国の王子面する「自分たちの奴隷の子」への嫌悪感をむき出しにした釈迦族に、ヴィドゥーダバは深い復讐心を抱いたのでした。

ヴィドゥーダバの生まれのスキャンダルはすぐコーサラ国にも伝わり(前後関係ははっきりしませんが)、パセーナディ王は激怒してヴィドゥーダバを廃太子し、王子は母とともに蟄居を余儀なくされました。

釈尊のとりなしで窮地を脱する

パーリ・ジャータカ註に記録されたエピソードによれば、パセーナディ王へのとりなしによって、ヴィドゥーダバ母子の苦境を救ったのは、釈尊ご本人だったそうです。これは推測ですが、釈迦族に欺かれたパセーナディ王の方こそ、ヴィドゥーダバを廃太子するどころか、激昂して釈迦国を攻め滅ぼしてもおかしくなかったでしょう。コーサラ王が帰依する「釈迦族の聖者」釈尊がこの問題の仲裁に入ったことで、釈迦族は滅亡の危機から一度は救われたのです。

また、ヴィドゥーダバの生母ではなかったものの、彼に愛情を注いでいたと思われるパセーナディの妃マッリカー夫人(彼女は熱心な仏教徒でした)も彼のために奔走したと思います。この頃の話かは定かではありませんが、パセーナディはマッリカー妃との対話の中で、ヴィドゥーダバを最も愛する者の一人として素直に認めています(中部87経)。パセーナディ王から許されたヴィドゥーダバはしかし、「ヴィドゥーダバ将軍」と呼ばれていました。おそらく王の庶子として扱われており、王位継承者としての地位は曖昧だったでしょう。

ヴィドゥーダバ自身は、自分の血を呪われたものとした「釈迦族の聖者」である釈尊に対して微妙な感情を抱いていたようです。中部90経には、王宮内で釈尊を誹謗する言葉を吹聴したとして、ヴィドゥーダバがパセーナディ王から詰問される描写があります。

またジャータカ註では、釈尊から派遣されたアーナンダ尊者はパセーナディの二人の王妃に法を説いたが、ヴィドゥーダバの母は仏法に関心を寄せることがなかったとされています。釈迦国の王族マハーナーマを父に持っていたにせよ、奴隷の娘としての身分を偽って他国に嫁がされるという数奇な運命をたどった彼女が、その釈迦王族出身のアーナンダ尊者からいくらすばらしい教えを受けたとして、それを素直に受け入れられなかったことは想像に難くありません。
http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article13317


シャカ族について

 シャカ族は、現在のインドとネパールにまたがった東西約80キロ、南北約60キロほどの比較的狭い地域(京都府より少し広い地域)に住み、稲田と家畜の生産物で生活していました。

 タラーイ盆地の一部をなすその領地は、北方はヒマラヤ連山、東方はローヒニー河、西と南はラプチ河を境とする極めて肥沃な低地で、沙羅樹の高く茂り聳える森林の間には魚類の豊かな湖沼が点在していました。村々が黄金色に実る稲田の周りに散在し、あちこちに池を囲んでマンゴウやタマリンドが茂り、牛が叢林を徘徊していました。

 シャカ族は、経典に「繁栄と大いなる快楽とを恵まれた種族」とあるように、豊かな種族でした。ガンジス河流域諸国と山地とを媒介する地理的条件にも恵まれていましたが、その富の源泉は、疑いもなく稲作にありました。

 釈尊の父親の名前はスッドーダナといいます。漢訳経典では「浄飯王」と訳されていますが、スッドーダナとは「浄い米飯」「白米の御飯」という意味です。また、スッドーダナの3人の弟たちの名前も、スッコーダナ(白飯)、ドートーダナ(斛飯)、アミドーダナ(甘露飯)というように、みな「オーダナ」(飯)という語を含んでいます。こういう名前から見ても、当時、シャカ族ではすでに稲作が行われていて、白米が珍重されていたことが分かります。

 シャカ族の国の首都は、カピラヴァットゥ(カピラ城)という名の町でした。シャカ族は、カピラヴァットゥの公会堂での会議を重んじ、一種の共和制を実施していました。ですから、スッドーダナは、後の経典では「王」と呼ばれていますが、実際には、専制君主ではなく、選挙で選ばれた種族の代表者だったわけです。

 シャカ族は、隣接する強大なコーサラ国に従属していましたが、コーサラ国王パセーナディと同じく、ヴェーダ聖典に出てくる伝説の英雄イクシュヴァーク王(甘藷王)の後裔であると主張し、極めて自尊心が強かったと言われています。

 シャカ族の起源に関して、経典にこんな伝説が伝わっています。

「シャカ族はオッカーカ(イクシュヴァーク)王を先祖とみなしている。

昔オッカーカ王は寵愛した妃の王子に王位を譲ろうと欲して、年長の王子たち4人を国外に追放した。継母の企みによって国外に追放された王子たちは、ヒマラヤの麓にある湖水の畔に、サーカ樹の大きな森のあるところ(カピラヴァットゥ)に住居を定めた。

彼らは、血統の乱れることを恐れて、自分らの妹たちを配偶とした」と。


 後代の文献に、

「犬や野牛のように、自分の妹たちと夫婦になったものの子孫」

と、シャカ族が罵られたことが伝えられていますが、それはこの伝説によるものです。血統正しき種族であると主張する伝説が、裏目に出たというところでしょうか。

 それはともかく、シャカ族は、イクシュヴァーク王の後裔、つまり「太陽の子孫」を自称するだけあって、実際に歴史の古い種族だったようです。そのため、政治的には微々たる勢力しかなかったにもかかわらず、「シャカ族の自尊」という諺にもなっているくらい自尊心が強く、バラモン教の権威を全く認めていませんでした。ですから、バラモンたちの眼には、シャカ族は、尊大で野卑な種族に見えていたのです。

 経典に、コーサラ国のアンバッタという青年バラモンが、釈尊に向かってこう呼びかけています。

「ゴータマよ、シャカ族の生まれの人々は粗暴である。…粗野である。…軽はずみである。…狂暴である。隷属している者でありながら、バラモンたちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばない。そういうことは、適当でなく、ふさわしくない」と。

 つまりは、シャカ族はバラモンの権威を無視し、バラモンたちはシャカ族を軽蔑していたのです。仏弟子の50%以上はバラモン出身の者たちでしたが、そのバラモン出身の仏弟子たちは、内心、シャカ族を良く思っていなかったわけです。そのうえ、釈尊の滅後に経典を編纂したマハーカッサパもバラモン出身でした。現存する経典に、釈尊の出身種族であるシャカ族を非難するような言葉が散見されるのは、そういう事情もあってのことではないかと思います。

 ちなみに、シャカ族は人種的に何人種に属していたのかよく解っていません。アーリア人の聖典であるヴェーダの権威を全く認めていないのですから、アーリア人ではなく、ネパール人と同様、モンゴロイド(蒙古系人種)だったのかもしれません。

 かつて、イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、

「釈尊は生まれは蒙古人であったらしい。すなわち蒙古人の特徴をそなえチベット人に似たグールカのような山岳民であったらしい」

と発表して、議論を巻き起こしたことがありました。また、インドの著名な歴史学者チャクラヴァルティも、

「(シャカ族は)多分ネパール地域のモンゴル人であった」

と言っていますから、歴史学畑では、シャカ族はモンゴロイドだったと考えられているのかもしれません。

 実際、インドの古い文献には、シャカ族はアーリア人種ではなく、キラータ(山の民)だと書かれているといいます。キラータというのは、ヒマラヤ東部からアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住むモンゴロイド(蒙古系人種)のことです。

インドに稲作を伝えたのは、このキラータだといいます。釈尊の頃のインドでは、麦や粟や稗が主食で、米はまだ珍しかったはずですが、シャカ族だけは、ちゃんと米を食べていたのです。ですから、シャカ族がキラータだという説には信憑性があるようにも思えます。

 「太陽の子孫」を自称する種族は、農耕文化と結びついて世界中の古い種族にみられますが、農耕文化というものは、不思議なことに、古代のある時期に世界中でほぼ時を同じくして始まっています。それは世界中を舐め尽くしたという伝説の大洪水の後のことです。また、シャカ族には、従兄弟姉妹交互婚という特殊な習俗があったと伝えられていますが、これは、「歴史はシュメールに始まる」と言われるメソポタミアのシュメールの王家にも見られた、非常に古い習俗です。

 シャカ族は、古い起源を持ち、当時のアーリア人とは異なった文化を持っていたのです。

とすると、あるいは、タラーイ盆地でキラータたちが稲作を行っていたところに、北西から少数のアーリア人が入ってきて主導権を握った(さきほどのシャカ族の伝説は、そういう歴史的事実を反映しているのかもしれません)が、文化的にはキラータの側に飲み込まれてしまったということなのかもしれません。これは想像に過ぎませんが、ありうることのようにも思えます。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa21.html


インドの稲作の起源

  14000年前頃に始まった長江文明は、共工を祖先神とするY-DNA「D1」の羌族に取って代わって揚子江(長江)周辺の文明となったのです。狩猟採集+牧畜的な色彩の強い羌族に対し、長江文明人は穀類の栽培を行い定住性が強かったのでしょう。

  長江文明はメソポタミア文明などよりも早く農耕文化を持っていたと考えられています。16000年前頃の遺跡から既に稲モミが発見され、14000年前頃日本列島で縄文文化が始まった頃の遺跡から既に栽培された稲が見つかっているほど稲作は古い歴史を持っているのです。

  7000年〜9000年前ごろには水稲栽培が始まったと考えられ、6500年前頃には既に大規模農耕が始まっていたそうです。このように長江文明人は世界で最も進んだ最先端の農耕技術を持つ農耕集団だったのですが、結局、戦闘好きの野蛮な黄河文明集団に中華大陸からほとんど追い出されてしまったのです。残った集団は現代の今でも少数民族として羌族などと同様、中国の国勢力の向上に全く寄与できていません。極めて残念です。

  世界でも冠たる水田稲作の先端農耕技術は本家中国大陸では発展せず、逃げ込んだ先の日本列島で華開き、水田稲作農耕民は少数民族化せず、日本文化と日本の国勢力の向上に大きな寄与をし続けています。結局逃げ込んだ先の環境の違いによって、同じ遺伝子集団でもその後大きな発展の違いになってしまったのです。

  長江文明の中心は長江下流域に拡がっていたとされるY-DNA「O2」遺伝子集団です。残念ながら「O3」の黄河文明集団に中国大陸から追い出され大部分は南に逃げ、江南から東南アジアそしてニコバル諸島へ、更に西に向かいインド亜大陸や南インドのドラヴィダ人と交配し稲作を広めて行きました。

  特に学習院大学の大野晋教授が学説を表明し、一時ブームになったドラヴィダ人の中のタミール語族のタミール語が日本語の祖先であるという説はとても面白いものでしたが、残念ながら全くの誤りでした。

ドラヴィダ人のY-DNA遺伝子の調査結果は見事に明快でなんとY-DNA「O2a」が14%も交配しているのです。

中華大陸を追われたY-DNA「O2a」集団は結局、稲作の適した土地を求めて南インドまで移住してきたのです。そしてドラヴィダ人と交配をしながら南インドに根を下ろしたのです。このため特に水田稲作関連の単語の語源はアジア共通なのです。Y-DNA「O2」の単語なのです。

  では世界に冠たる水田稲作農耕を興したY-DNA「O2a」長江文明人はどんな人々だったのでしょうか?

アンダマン諸島に縄文人の祖形の直系子孫のY-DNA「D*」100%の遺伝子集団Onge族やJarawa族が現存しているように、同じ列島弧上にあるニコバル諸島には弥生人の祖形=長江文明人の直系の子孫でY-DNA「O2a」100%のShompen族が現存しています。勿論オーストロアジア語族です。

Y-DNA「O」はどんな人種だったのか?

  黄河文明系遺跡から発掘される人骨はモンゴロイド的ではなくむしろコーカソイド的形質を持っている骨が以外に多いということはそれほど知られてはいません。つまり今言われている人種が確立したのは「意外に新しい」ということです。

 「D1」羌族や次に「O1」、「O2」長江文明人が勢力を張っていた頃の黄河文明族は、もともと雲南省辺りで「O2」から分化した最も新しい亜型のため、中原には入れず黄河流域に居住しながら勢力を蓄え9000年前頃には河南省辺りに裴李崗文化を興しましたが、地べたの竪穴式住居で畑作農業でアワなどを作っていたそうです。
  しかし歴史は常に新しい遺伝子が作ってきたように始めは弱小の新興遺伝子集団も活性が高いため古い遺伝子集団を押しのけて取ってかわるのです。極東はこうして全ての先進的な国の支配階級は「O3」になったのです。

そして長江文明族最後の王朝夏に取ってかわり「O3」最初の殷王朝を興し、次第に周辺の他民族を取り込み漢民族と言うヨーロパのY-DNA「R1b」と並ぶ大遺伝子集団を作り上げていったのです。


極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3)

  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び
  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。


O3      雲南省あたりで「O2」から分化した亜型  日本列島では2.2%
O3a O3a1  漢民族の20%を占める。黄河文明の直系の亜型かもしれない。
O3a1c                              日本列島では5.7%もある。
O3a2   漢民族の35%を占める。長江文明人と交配し分化した長江文明系「O3」
                                  日本列島では3.3%
O3a2b    長江文明の大溪文化(5000年〜7000年前頃)人と交配した遺伝子らしい。
O3a2b1a   ミャオ族特有の「O3」
O3a2b1b   シェ族特有の「O3」
O2a2b2   ヤオ族特有の「O3」
O3a2c1   シナ―チベット語族特有の「O3」      日本列島では3.1%
O3a2c1a  漢民族系特有の「O3」             日本列島では4.6%
O3a2c1b  チベット−ビルマ語系特有の「O3」

  以上を見ると黄河文明人=漢民族ではないことがよくわかります。漢民族は黄河文明人を基盤に長江文明人と交配しながら出来上がり、周王朝辺りから自分たちを固有民族として自覚し始め、漢王朝辺りから漢民族として確立していったようです。

中国の漢民族内の頻度的には55%の「O3」の中で、黄河文明系の直系が10%程度なのに対し長江文明との交配系は残りの45%を占め、漢民族は黄河文明系と長江文明系の完全融合体であることが良くわかります。文化的には北方系の黄河系文化が中国の主流となりましたが、遺伝子頻度的には江南系の南方遺伝子系の方がはるかに多いのです。


●長江文明系の楚系と思われるY-DNA「O1a」の出現する民族はそれほど多くはありません。台湾の先住民が最も頻度が高く、楚が滅んだ際に長江河口から台湾に逃げ込み、島の中で各部族に別れ先住民族化したようです。他に南下した集団もいたようです。

●長江文明系の越系と思われるY-DNA「O2a」は越が滅んだ際に江南に留まり少数民族化した集団もあれば、更に南下しインドにまで逃げた集団も相当多くいます。

ドラヴィダ民族の中のタミール系Asur地域民はなんと64%が越系「O2a」遺伝子になっています。

この「O2a」がタミール人に水田稲作農耕系の文化と語彙を持ち込んだため、弥生系日本語彙と出自を同じくする長江農耕民系の単語がタミール語に多く残り、大野教授が日本語の祖先はタミール語と誤解する原因になりました。遺伝子調査による民族の逃避・移動がわかった現在では、残念ながらタミール語祖先説は成り立ちません、同様に東北アジア系騎馬民族(Y-DNA「C3c」)も日本列島には入ってきてはいません。


Y-DNA「D1」羌族の次に中華大陸に拡大をした長江文明ですが、中国神話では漢民族の敵役の三苗として描かれています。現代ではミャオ族、シェ族、ヤオ族、リー族などが末裔と考えられています。   

中国古代神話では漢民族の祖と考えられている黄帝に長江文明祖先神の蚩尤が破れ、長江文明の蚩尤集団は「O2」のミャオ族と「O1」のリー族に分裂したということになっています。恐らく長江文明の中心だったらしい「O2」の集団は南北に四散したことになっており、

越系の「O2a」は江南からインド亜大陸まで逃げ、途中各地でヴェトナムなど「O2a」のオーストロアジア語族集団を形成し、

最も遠くに逃げた集団はドラヴィダ人と交配し、南インドに水田農耕稲作の文化を持ちこみ日本語とよく似たオーストロアジア語系の稲作農耕用単語を定着させました。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/

以上を纏めると


@ 長江の故地を追われた稲作民のキラータ(山の民)がインドのタラーイ盆地に逃れてきた。

A タラーイ盆地にイクシュヴァーク王の後裔、「太陽の子孫」のシャカ族が入ってきて、キラータを支配する様になった。

B シャカ族は由緒正しい血統を守る為にキラータ他の有色人種との混血を嫌い、独特な婚姻タブーを持ち続けた。


このシャカ族が独特な婚姻タブーを持つ事自体がシャカ族がアーリア人である証なのですね。

ドラヴィダ人やキラータの様な農耕民の性習俗は乱交制に近く、性や結婚にタブーは全く有りません。

一方、アーリア人、ベドウィンやユダヤ人の様な遊牧民は性を敵視するのが特徴です。

砂漠や草原地帯では養える人口が限られているので、子供を何人も生むと一族全員が餓死する羽目になります。 従って財産や権力の有る男以外には子供を作らせない様な宗教的な掟を作って人口調整しなければ恐ろしい事になるのですね。

釈迦の教えにもこの遊牧民特有の性を敵視する考え方がはっきりと現れています:

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを(現法的梵行>と呼んだ。現法的梵行とは、津田博士の言を借りると

「八正道の本質というのは、(現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」

ということだ。つまり、仏教において、最大の戒律は、(不犯>であった。 もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、(現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/1anti.html

>なぜ、快楽を追求する方向を否定するのでしょうか?

仏教の哲学をある程度知っている方なら、理解されているでしょう。

快楽=苦だからです。

自我(心)の妄執から来る欲望がすべての「苦」を生みだすからです。

生老病死、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦の四苦八苦はすべて自我の妄執から来るのです。これを滅すれば涅槃寂静、仏教理想の安寧な状態になれるというわけです。

すなわち仏教では、性行為よりもそちらのほうがいいと考えているのです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274067922

農耕民と遊牧民の性習俗の違いについて詳細は


狂った宗教 イスラム教
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/322.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/324.html

元弟子が語るイエス教団「治療」の実態 _ 女性器切除の起源
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

西洋の達人が悟れない理由 _ ロシアで流行ったカルト宗教 去勢派
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

ディープ世界への入り口 平賀敬美術館 _ ゴーギャンは何故ヨーロッパを捨てたのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html

欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html

サルはなぜサルか 1 _ 白人崇拝がタイ人を猿にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html

タイは天国に二番目に近い国 1
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html

タイは天国に二番目に近い国 2 _ 誰が私をこんな女にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/378.html

他人には絶対に知られたくない秘密って沢山あるよ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/418.html

旧家の男子と乳母との心の繋がりが実の母親より遥かに大きい理由 _ 太宰治は本当に性的虐待を受けたのか?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/348.html

大阪 飛田遊郭 _ 徳川幕府の将軍の性事情すげえwwwwwwwww
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/328.html

日本の農村は怖い _ 嫁は夫ではなく家の所有物
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html


21. 2013年9月01日 10:39:06 : W18zBTaIM6

このままでは国家破綻か。危機的状況に陥りつつあるインド 2013-08-16


インドが恐ろしいことになっている。インドの通貨ルピーが怒濤のように価値を失っており、2013年8月16日、1ドル61ルピー台にまでになってしまった。

実際にインド経済がおかしくなったのは、2011年の後半頃からである。2012年6月には、ダークネスでインド経済の変調を書いた。(インドへの投資は失敗する。追い詰められていく新興国の姿)

インドはすでに巨額の経常赤字を抱えている。世界経済が回復しないのであれば、インド経済が上向くこともあり得ないので、投資家は逃げる。

それはインドからの資本流出という形を取るようになって、ルピーの価値は毀損していく。

そして、原油の80%近くを輸入に頼っているインドは、インフレを避けることができず、すでに2013年7月の段階で約6%ものインフレになっている。

2013年の後半のどこかで、インドの「破綻」が新聞の一面を飾る日が来るかもしれない。それほどまで追い込まれている。

先進国が人為的に経済発展「させた」国がインドだ

ところで、インドは日米欧のように、自力で経済発展した国ではない。先進国が人為的に経済発展「させた」国である。

世界の「多国籍企業」がインドに対して狙っていたストーリーは、貧困層が所得を上げて、中流層に上がっていくことである。

膨大な貧困層が中流階級になっていくことによって、彼らは購買力をつける。そうすると、先進国で生産されたあらゆる商品が消費される。

その結果、先進国の「多国籍企業」が儲かるのである。

先進国での消費はとっくに頭打ちになっている。そうなると、商品の「売り先」がなくなって、多国籍企業の成長も止まる。

そこで、多国籍企業は、膨大な人口を抱える中国・インド・ブラジル等の新興国に目を向けた。その国を富ませて、膨大な人口に商品を売りまくるのだ。

とにかく、彼らが購買力を持たなければならない。だから、欧米の多国籍企業は、こぞってインド・中国・ブラジルの成長を促進させるために手を尽くしたのである。

すべては、多国籍企業が成長を維持するために仕掛けられたシナリオであり、実際そのように世の中が動いている。

分かりやすく言えば、こうだ。

多国籍企業が生き残るために、新興国を富ませて消費を加速させるという戦略が採られ、中国とインドが人口の多さから選ばれた。

ルピーの通貨価値が、2011年の後半からどんどん毀損しているのが分かる。現在、それが危機的な状況にまで陥ってしまった。ここからインド政府がどのように切り返すのか、予断を許さない状況だ。


何者かが勝手にやってきて、世の中を変えている

インドは国内に激しい社会対立と分断があるにもかかわらず、突如として、迷うことなく、経済成長と経済発展に向けて動き出した。

投資家に注目され、話題をさらい、将来を祝福され、大国だと持ち上げられた。

あの貧困層の群れとはまるで関係のないところで、大きな力が動いていて多国籍企業の筋書き通りに世界が動いた。

しかし、インドは政治家の腐敗も、国内の宗教闘争も、カーストも、何ひとつ解決しないまま、貧困層を取りこぼしながら、ほんの一部のインド人が中間層になっただけだった。

だから、今でもインドの貧困層は経済発展とは無関係だし、世界で何が起きているのか分かっていない。

貧困層は「取り残された」のである。

何が起きているのか貧困層が気が付いていなくても、それは無理もないことだ。

外部の何者かが勝手にやってきて、世の中を変えているのだから、分かるはずがない。

ただし、懐(ふところ)が良くなっていくことについては、誰も文句は言わなから、すべてのインド国民がそれに対して希望を抱くようになった。

貧困層も、無理すれば、携帯電話やカラーテレビを買うことができるようになっている。売れっ子の売春女性の部屋には古いカラーテレビが置いてあったのも覚えている。

しかし、依然として100ドル以下の生活を強いられている人々は6億人ほどもいて、中世と変わらないような生活をしているのも事実だ。

カラーテレビのある家。スラムに住む貧困層も、家でテレビを見ることができる時代になってきている。


国が割れることになったとしても、対立は収まらない

しかし、ある日、インド経済が突然大不調に陥ったり、成長が止まって国が破綻寸前になったら、どういうことになるのだろうか。今、まさにその危機的状況が起きつつある。

混沌の国が、さらなる混沌に飲まれて行ったらどうなるのだろうか。

インドの経済発展がいつ頓挫するかどうかは誰にも分からないが、このままでは、かなり近い将来、危険なことが起きる可能性が高い。

新興国(ついこないだまで発展途上国と言われていた)は、昔も今も、外部の先進国の都合によって発展したり停滞したりしている。鍵を握っているのはインドそのものではない。

エジプト経済も大変なことになっているが、インドや中国も無事に立っていられる保証など、どこにもない。

インドは文字通り「発展の途上」にあるわけで、経済発展が経済停滞へ、そして経済後退へと逆流していったら、政治的安定は必ず吹き飛んでいく。

インドは国民が一致団結する国ではない。

民族、宗教、文化、制度、人種、世代が、すべて先鋭的な対立を起こす国である。一度激化した対立は、日本人のように「水に流す」ようなことは絶対にあり得ないのだ。

パキスタン、バングラデシュがインドから分離したのも、妥協なき宗教対立の結果である。

国が割れることになったとしても、対立は収まらない。インド圏とはそういう場所である。

経済発展で一様に潤っているときは不協和音は消される。しかし、それが逆流した瞬間に、以前よりも大きな不協和音がインド国内に充満していく。

先進国の人間は、インド国内の貧困層の絶望や憎悪を甘く見ている。彼らが救われなかったとき、自然発生的に破壊行動が起きていく。

あまり、「インドの成長」を無邪気に信じない方がいい。今のインドは崖っぷちにある。

ムンバイの中心地は「大都市」だが、郊外を見ると依然として貧困層の家屋で埋め尽くされているのが分かる。

取り残された貧困層が多ければ多いほど、不況や国家破綻が起きたとき、社会不安が大きなものになっていく。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130817T0018520900.html


22. 2013年9月01日 10:54:44 : W18zBTaIM6

インドは、815もの犯罪組織が子供を誘拐して売りさばく国だ 2013-08-09


インドは女性にとっては非常に危険で生きにくい国なのだが、子供たちにとっても同じだ。2013年3月6日、インド政府はインド国内でここ3年間で23万6000人の子供が行方不明になったことを報告している。

そのうち、7万5000人の子供の行方は現在も所在が分からず、未解決事件になっているのだという。

2012年10月には、AFP通信は年間5万人と報告しているが、いずれにしても、インドの子供の行方不明は桁違いの数字であることが分かる。

子供が失踪した場合、それは子供自身の意思ではない。事故に遭って遺体が見つからないというのもあるはずだが、インドの場合はそのほとんどが「連れ去り」であると言われている。

2011年のインド警察によると、インド全土で子供の誘拐する犯罪組織は815団体もあるという。

子供の誘拐は大都市で行われることが多く、デリーやムンバイがその標的になっているようだ。

裏で大人が仕切って、子供たちの売上を分捕っている

それにしても、815もある「子供連れ去り組織」は、いったい何が目的なのだろうか。連れ去った子供たちを何に「使う」のだろう?

実際、インドで確認されているのは、以下の4つだ。

・物乞い
・強制労働
・売春、ポルノ産業
・臓器売買

インドでは子供の物乞いは山ほどいる。コルカタを歩いても、デリーを歩いても、ムンバイを歩いても、次から次へと子供たちが物乞いにやって来る。

子供が赤ん坊を抱えて手を差し出してくることもある。

同情してひとりに小銭を渡すと、それを見ていたまわりの子供たちが一斉に殺到して身動きできなくなることもある。

旅行者は、この子供たちが自分の意思で物乞いをしているのだと思っているが、実はまったくそうではなく、大人が子供たちを組織して、ビジネスとして子供を使っているのである。

これは東南アジアでも似たような傾向である。

たとえば、タイでもスクンビットの路上で子供が座り込んで物乞いをしていることもある。

彼らのほとんどは、カンボジアから連れてこられた子供たちで、裏で大人が仕切って、子供たちの売上を分捕っている。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』で、大人に強制されて物乞いをする子供たちの場面。物乞いでは「赤ん坊がいると2倍稼げる」と主人公のひとりに言わせている。


子供たちの強制労働で、先進国の商品ができている現実

子供たちは単なるビジネスの道具なのだが、このビジネスを成り立たせるには、その「道具」を集めなければならない。つまり、犯罪組織は道具になる子供を欲している。

需要があれば、それを供給する組織が生まれるのがアンダーグラウンドの世界である。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』でも、そのあたりの闇が描かれていた。

この映画では、子供たちのひとりが目を潰される。現実の世界でも似たような事例があって、他にも手や足を切断されたり、わざとポリオになるように注射を打たれたりすることもある。

世界的に有名なアパレルのメーカー「H&M」を、あなたは知っているだろうか? あるいは「C&A」はどうだろう。

先進国ではどちらもカジュアルファッションのメーカーとしてよく知られている。

これらのファッション・メーカーはインドに工場を持っていたが、その工場が子供や女性に長時間労働を強いて、給料は3年後に払うという、奴隷的な労働を強制していた。

少年は衣料工場の他に、石炭の運搬や、レンガ作り、農業に駆り出されて、やはり一日14時間以上の強制労働させられていることが発覚している。

先進国の子供たちはサッカーをして遊んでいるが、そのボールはインドの貧しい子供たちが血まみれになって作っていることを知っている人は誰もいない。

後進国の子供たちが罵られ、叩かれ、泣きながら作ったサッカーボールを、先進国の子供が遊びに使う。

工場経営者は奴隷のように働く労働者を欲しており、インドではそれが「手に入る」のである。

誰が子供たちを供給するのか。それが、子供を誘拐する815の犯罪組織である。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』の少女時代のラティカを演じるルビーナ・アリ。彼女も本当のスラムの住民なのだが、2011年、スラムの大火で彼女の家も焼け落ちた。インド・ムンバイのスラム大火。

ルビーナ・アリの家も焼け落ちたようだ
http://www.bllackz.com/2011/03/blog-post_425.html

インドでは、闇から闇に葬られているのが現状だ

インドでは性別も関係なく子供が誘拐されていくが、どちらにも、それぞれ需要があるということだ。

それでも、どちらかと言うと、女の子の方がカネになるのかもしれない。

なぜなら、彼女たちは売春ビジネスに使えるからである。インドの売春ビジネスは非常に規模が大きく、需要も高い。売春地帯もあちこちにある。

インドの売春地帯については、ブラックアジア「第三部」で集中的に書いた。インドの売春地帯は地獄だ。

(ブラックアジア「第三部」)
http://www.bllackz.net/blackasia/page/p003.html


そこには奇妙な女性が山ほどいる。猛烈な仏頂面をした女性もいれば、激しい憎悪を剥き出しにして、男に挑みかかるような目を向ける女性もいる。

あるいは、その中で精神が壊れたような女性を見かけることもある。

コルカタでひとりの物静かな女性を見かけたことがある。彼女も精神が壊れていた。

(コルカタの売春地帯で、デビーは人間性を叩きつぶされていた)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120824T2258210900.html


こんな女性が例外ではないのが、インド売春地帯の恐ろしいところだ。

最近は、インドでも闇ポルノが作られるようになっており、少女たちがポルノに出演させられたりしていることもある。

インドは約6億人が今も貧困の中にあって、低カーストの人々は生まれながらにして虐げられている。

警察も腐敗していて、自ら低カーストの女性を拘置所内でレイプして事件になっている。

(ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html?a=1


いや、事件になるのはまだ良い方で、闇から闇に葬られているのが現状だ。

国自体がそんな状態なので、子供たちの誘拐も捜査されているというよりも、放置されているという方が近いのではないだろうか。

インドの闇は、私たちが考えている以上に深い。


誘拐されるのは貧しい家庭の子供たちが多い。子供の写真はないことが多く、警察も真剣に動かない。だから、よけいに見つからない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130809T0329010900.html?a=l0ll


23. 2013年11月06日 05:39:27 : j38uWocHcc
中川先生、ウソはいけませんよ。

「津田元一朗をマトモな学者連中は相手にしていない」という嘘はね。

検索してみたら、アカデミズム関係(学術書関係)の

オカタイ出版社からは20数冊以上も出版されているではありませんか。

相手や関係者を陥れたいのであれば、真実を語るだけで十分でしょう。

「津田元一朗先生の著作には一般の日本国民相手には
  
 大ヒットしたのが一冊もないですね。B層相手に売れる本を執筆できる

 能力に秀でているのは、石原慎太郎センセや橋下徹センセの側では

 ないのですが、関係者も広める努力が足りませんね」とね。


24. 中川隆[-7775] koaQ7Jey 2017年5月03日 07:31:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


25. 中川隆[-14518] koaQ7Jey 2020年1月15日 09:55:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1442] 報告
レイプ大国インド。標的になるのは貧しい女性、そして抵抗力が弱い少女 2020.01.15


インドが恐るべき「レイプ大国」であることを知らない人は日本人くらいだ。毎年、表沙汰になるレイプ事件だけでも2万件から4万件になる国。1日に100件以上のレイプ事件が起きる国、生まれたばかりの乳児ですらもレイプされる国。


アルジャジーラも「女性にとって最も危険な国のひとつ」と呼ぶ国。それがインドの現状である。


インドでは2012年のバス内レイプの事件が国際的に広く報道されて世界中がインドのレイプの残虐さに驚いた。ジョティ・シンという女性がバス内で集団レイプされて鉄パイプを膣に突き刺され、その2週間後に死亡した。


この事件は6人の男が関わったのだが、そのうちの4人は死刑が確定している。2020年1月22日に死刑は執行される予定だ。


この事件の後にインドでは「日常的に起きているレイプを何とかせよ」と女性たちが立ち上がったのだが、それから7年経っても現状はまったく何も変わっていない。日本では想像もできないような凄まじいレイプが次々と起きて止まらない。


私は2003年頃からインドに向かうようになってインドの売春地帯の惨状に驚いたものだったが、さらにインド国内の女性の置かれている立場の劣悪さにも気づかざるを得なかった。(ブラックアジア:売春地帯をさまよい歩いた日々:インド・バングラ編)


インドの状況が変わっていない。それならば、凄まじいレイプ犯罪はこれからも繰り返し起きると書いた。(ブラックアジア:これから何度でも残虐非道なレイプ犯罪がインドで発生する)


実際、その通りになっている。
https://blackasia.net/?p=16743

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