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櫻井春彦:「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 02 日 13:07:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 01 日 18:53:15)


櫻井春彦:「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?


天安門での抗議活動で有力メディアが語りたがらない事実
《櫻井ジャーナル》2019.06.02
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906020001/


 ミハイル・ゴルバチョフがソ連で実権を握る前、1980年から中国では新自由主義がすでに導入されている。その年に新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問しているが、これは象徴的な出来事だった。

 ところが、1980年代の後半になると新自由主義による社会の歪みが深刻化する。1988年に実施した「経済改革」は深刻なインフレを招き、社会は不安定化。労働者などから不満の声が高まり、軌道修正を図ることになる。

 それに対し、新自由主義で甘い汁を吸えるはずのエリート学生は「改革」の継続を求めた。そうした学生に支持されていたのが胡耀邦や趙紫陽だ。このふたりの後ろ盾だったケ小平も軌道修正に与した。

 新自由主義の継続を求める学生運動の高まりに対する責任を問われて胡耀邦は1987年に総書記を辞任、89年に死亡した。その死を切っ掛けに天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれ、6月を迎えた。

 本ブログではすでに指摘したが、当時、現地にいた西側のジャーナリストや外交官は天安門広場で学生が虐殺されたという話を否定している。

 例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日、広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許し、そこでは誰も死んでいないとしている。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 学生指導者のひとりである吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。

 また、北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 西側の有力メディアは2017年、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えている。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドがロンドンへ送った電信を見たとAFPが流したのだが、ドナルド大使自身が目撃したわけではない。彼の「信頼できる情報源」から聞いた話だ。

 その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できる。この推測が正しいなら、現場にいなかった人物の話ということになる。

 また、ウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官カルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで、群集への一斉射撃はなかったという。(“LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”, WikiLeaks)

 しかし、衝突がなかったわけではない。広場から少し離れた場所で銃撃はあったのだが、治安部隊と衝突したのは新自由主義に反対する労働者を中心とするグループだったという。この衝突では双方に死傷者が出ているようだ。西側支配層はこの衝突を掘り下げたくないだろう。

 イギリスの​デイリー・テレグラム紙​が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。

 学生の抗議活動にCIAが関与していることは間違いない。当時の状況を見ると、大統領は1989年1月からCIA出身のジョージ・H・W・ブッシュ。エール大学でリクルートされた可能性が高く、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺でも名前が出てくる。

 同年4月にアメリカ大使として北京へ赴任したジェームズ・リリーはブッシュと昵懇の間柄にあるCIAの高官。リリーの前任大使であるウィンストン・ロードは大使を辞めた後、CIAの資金を流すNEDの会長に就任している。ブッシュ、リリー、ロードの3名はいずれもエール大学の出身で、学生の秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーだ。

 学生は大使のリリーだけでなく、投機家のジョージ・ソロスともつながっていた。後に吾爾開希や柴玲など運動の指導者はイギリスのMI6やアメリカのCIAが作った逃走ルート「黄雀行動」を利用、香港とフランスを経由してアメリカへ逃げた。吾爾開希はハーバード大学、柴玲はプリンストン大学へ入学している。吾爾開希は現在、台湾で独立運動に参加しているという。

 中国政府は経済政策を修正したものの、その後もアメリカとの友好的な関係は崩していない。その関係が崩れるのは2014年、ウクライナでアメリカがネオ・ナチを使ったクーデターを実行してからだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906020001/

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【討論】天安門30年と習近平の行方[桜R1-6-1] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z8e6o4Vxo3k


◆天安門30年と習近平の行方

パネリスト:
 古森義久(産経新聞ワシントン駐在客員特派員・麗澤大学特別教授)
 澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授)
 石平(評論家)
 坂東忠信(元警視庁通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
 福島香織(ジャーナリスト)
 ペマ・ギャルポ(拓殖大学国際日本文化研究所教授・チベット文化研究所名誉所長)
 矢板明夫(産経新聞外信部次長)
司会:水島総

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国際派日本人養成講座 No.1115 天安門事件は「もう終わったもの」か? 2019/05/25
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_4.html


 この30年、中国共産党政権は巧みな手口で、天安門事件を「もう終わったもの」と糊塗してきたが、、、


■1.「居酒屋のテーブルに顔を伏せて嗚咽を漏らし続ける石平氏」

「この人の本当の人生は、実は一九八九年六月四日に終わっているのではないか? ・・・居酒屋のテーブルに顔を伏せて嗚咽を漏らし続ける石平氏を見て、私はそんな思いが頭から離れなかった」[1, p216]

 1989(平成元)年6月に起きた天安門事件[a]から30年。民主化を求めて立ち上がった学生や民衆を戦車と銃で鎮圧し、数千とも万とも言われる犠牲者が出たとされる。当時、石平氏は日本留学中だったが、この事件で何人かの知人を失った。[b,c]

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石平 私は彼らの名前も出身地も、当時の学年も所属学科も、一緒に未来を語り合ったときの雰囲気も握手したときの手のぬくもりも、すべて明確に覚えている。でも、どんなに頑張っても彼らの顔を思い出せない。……なぜか、本当に思い出せない。おそらく思い出したら私の精神はもたないんです。[1, p95]
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 自分の精神を守るために、本能が記憶の一部を封印してしまう事があるそうな。石平氏にとって、天安門事件で失った知人たちの顔はこのケースなのだろう。

 天安門事件の詳細なルポ『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した安田峰俊氏と石平氏が語り合った『天安門30年 中国はどうなる?』[1]の一コマである。天安門は石平氏にとって、いまだ直視し得ない事件であった。

 一方、安田氏はこう言う。

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安田 私は仕事でもプライベートでもさまざまな中国人に会うわけですが、事件をリアルタイムで知る世代と知らない世代では、世界観や自国(=中国)観が根本的に違う。政府や権力に対する怖(こわ)がり方や、社会への信頼感の持ちようが明確に違うんです。[1, p16]

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「その謎を解きたい」と安田氏は、石平氏との会談に臨んだ。

■2.トウ小平と知識人たちとの「契約」

 二人の対話は、「そもそも天安門に至る民主化運動の本質はなんだったのか」から始まって、「現在の習近平政権とその後の展望」にまで広がっているが、その中で筆者にとって最も印象的だったのが、中国共産党政権が事件を巧みに封印した手口だった。

 天安門事件の直後から中国は3年ほど迷走の期間があったと、安田氏は指摘する。

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安田 八〇年代の自由な雰囲気の中で育った学生が反抗したので、陳雲(ちんうん)なんかの保守派の長老にしてみれば「それ見たことか」となった。
 この時期は東欧の社会主義国に加えて、一九九一年にはついに社会主義の大親分であるソ連まで崩壊してしまいましたので、西側陣営が中国国内の世論に介入して体制転覆をはかっているとする「和平演変(えんぺん)」を警戒する声が強まった。・・・
 当時の中国の社会は、沈黙の中にあったようです。天安門事件を機に海外からの投資がいっせいに引き揚げて経済が停滞し、中国へ旅行に行こうと考える外国人もいなくなります。実際に当時を知っている人たちの話でも、社会はピリピリし続けていたといいます。そんな、死んだ沈黙の時代が、三年続いた。[1, p88]
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石平 では、そんな天安門事件の後遺症をどうすれば克服できるのか。党の側が出した一つの答えが「南巡講話(なんじゅんこうわ)」で、一九九二年、トウ小平が打ち出した市場経済の大幅な容認政策です。実は中国共産党が市場経済化、すなわち社会主義市場経済を認めたのは九〇年代からのことです。[1, p70]
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 石平氏は「中国の経済発展は、天安門事件から始まったといえる」と言う。

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石平 つまりトウ小平は、天安門事件の後遺症を克服するために、政権と敵対するエリート階層、知識人たちとの間で「契約」を結んだわけです。その契約の内容とは、「市場経済による金儲けのチャンスを与える」です。日本で「金儲けのチャンス」というと普通に聞こえますが、中国人にとっては一九四九年以来初めてのことなんです。
自分の努力次第で(もちろん悪いほうの努力も含めて)お金持ちになれるというのは、中国人にとっては衝撃です。そうなると大半のエリートたちがいっせいに市場に参入します。しかしこの契約にはもう一つ、「その代わり二度と反政府的な言動をするな、二度と政治に関心を持つな」という意味もありました。[1, p72]
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■3.「この契約を受け入れて金儲けすれば、、、」

 その「契約」に乗ったのが、たとえば石平氏の友人E君。北京大学でよく酒を飲みながら、中国の未来について激論を交わしていた。天安門の当時は、出身地の東北(旧満洲)地方で大学講師をやっていたが、北京へ戻ってきて最後まで戦い、しかも生き延びた。

 その後、しばらく東北に潜伏していたが、やがて南巡講話によって市場経済化が始まると、地方にある国有銀行の副頭取だった叔父に融資してもらい、不動産開発を始めて大金持ちになった。

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石平 彼は開発のために共産党の幹部にたくさん賄賂を渡したと公言していました。しかし彼には彼の論理があって、「自分は昔、共産党との闘いで敗れたが、今度こそ勝つ。共産党幹部は俺のカネの力の前に跪(ひざま)ずいた。カネの力で共産党を変える」というわけです。[1, p75]
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 石平氏はこの発言を聞いて、E君が心の底でまだ反骨心を持っていたことに、少しは嬉しかったという。

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 ただ、おそらく周囲の人間の大部分は彼の心の底に何があるかを知らず、「金持ち」というアイコンしか認識していない。政権側からすれば、やはり彼のような人間の登場はしてやったりでしょう。
「権力に対して反抗的な人間、天安門事件で絶望して共産党政権に敵意を抱く人間、あるいはそれでもまだ中国を変えようとしている人間──。そうした連中がみんな、この契約を受け入れて金儲けすれば彼のように大金持ちになって成功するじゃないか」というわけです。[1, p76]
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■4.西洋式「デモクラシー」と中国式「民主」の認識の「ズレ」

 トウ小平が亡くなったのは1997年だが、その後、江沢民、胡錦濤と2代の後継者を通じて、その方針は20年以上も継続された。安田氏は「天安門の学生運動の性質を、実は共産党はよく理解していた」という。

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安田 天安門の運動で若者たちを動かした動機には、民主化要求以外にもいくつかのレイヤー(層)が存在していました。それが「愛国」や「自由」です。江沢民政権は「天安門」で爆発した若者のパッションから「民主化」を注意深く除去し、「愛国」と「(経済的な)自由」のみを拡大して提示し、国民を慰撫(いぶ)することに成功した。・・・
 愛国に関しては「中国が好き」という気持ちですから、すごく明確です。自由に関しても、自由が何かを知らなくても何となく想像がつく。つまりは、自分のお金で好きなものを買って、好きな人間と交際して、好きな本を読んで好きなことを喋(しゃべ)ることですからね。しかし「民主」は漠然としていて想像がつきにくいものだった。[1, p80]
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 この「民主」が、西洋のデモクラシーとはやや意味がズレている可能性がある、と安田氏は指摘する。安田氏は天安門事件のルポを書く過程で多くの人の話を聞いたが、その中に事件当時26歳で北京大学の講師だった人がいた。一日中立ちっぱなしでデモをやっている熱血青年が、今は「牙を抜かれて会社の社長」におさまっている。天安門OBにはよくあるパターンだという。

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安田 彼が「(現在、似たようなデモが起きても)参加するかは微妙」「(自分の娘が仮に参加するとすれば)感心しない」と言ったので、その理由を尋ねると、「今は昔よりもずっと『民主』になったじゃないか」と言う(笑)。
「民主」になったとはどういうことか尋ねると、「新聞は昔よりも面白いことをたくさん書くようになったし、話せる話題も増えた。こういう商売でもちゃんとできる。『民主』じゃないか」と。そこからはもう深くは突っ込みませんでしたが、これぞまさに中国式の「民主」理解です。[1, p82]
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 本来の「民主」とは国民が政治的な自由と国政の決定権を持つことだが、中国では孟子の「民本」思想、すなわち「名君のよき統治のもとで民心が安定した状態」という中国人の伝統思想に置き換えられてしまった。この「ズレ」に、共産党政権は上手に乗っかっていると、安田氏は指摘する。石平氏もこう賛同する。

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石平 まことに腹立たしくもどかしい限りですが、そういうことですな。天安門事件後、中国共産党は「愛国」と「(経済的な)自由」だけを残し、「民主」を中国的民主に読み替えたのです。[1, p83]
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■5.「運動はなかったかのようにみんな自分の人生を歩み始めました」

 中国政府の工作の手は、事件当時、海外で活動していた留学生たちにも伸びた。

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石平 最初は「運動にかかわった人は帰国できない」とみんな覚悟を決めていましたが、中国政府も上手なもので、しばらくしてから「一切おとがめなし」と『人民日報』で宣言しました。それでみんな安心して帰国するようになった。
そして、帰国した中国の変化を目の当たりにして、運動はなかったかのようにみんな自分の人生を歩み始めました。人はそういうものですから、彼らを責める理由はないでしょう。[1, p116]
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 それでも帰国しない活動家たちには、中国政府のプロパガンダが浴びせられた。内ゲバや銭ゲバを取り上げられて「海外で民主主義運動をやっている連中は自分さえよければいいというようなとんでもない人間だ。理想や理念以前に人間としてダメなやつだ」というイメージが作られた。

 また、中国国内で一国一城の大企業の経営者だったのに、その地位をなげうって運動に参加した万潤南という人物は、今はニューヨークでタクシーの運転手をしながら生計を立てている。それを『人民日報』傘下の『環球時報』が「昔の民主化運動のリーダーは今このような悲惨な状況です」と底意地の悪い報道をする。


■6.「あの運動はもう終わったことにしたほうが」

 現体制に不満を抱く中国人エリートにとっては、もう一つの逃げ道ができた。海外に高飛びすることである。

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安田 極論、民主化運動をしなくても、シリコンバレーに行けば才能は発揮できるわけです。GAFA(Google, Amazon, Facebook,Apple)をはじめとした最先端のグローバル大企業に高給で雇われれば、デモをしなくても、中国どころか世界を変えることができる。
 そうなってくると、中国の体制に不満を持つ層の中でも知的に優れた層は、デモをして逮捕されて人生がご破算になるようなリスクを背負わなくていいわけです。チケットを一枚買って外国に行けばそれでハッピーですから。[1, p203]
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石平 結局、大きな環境変化の中で、ごく自然に大半の人々がそれぞれの生活に戻り、運動はあっという間に歴史になってしまった。
私も神戸大学で修士課程・博士課程を取りましたが、天安門事件後には留学生のほとんど誰もこの話には触れなくなりました。意図的に触れない。それは一種の集団的共謀であって、あの運動はもう終わったことにしたほうがみんなにとって都合がよかったからです。[1, p117]
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■7.「劉暁波という灯火」

 しかし、中国政府の巧みな工作に乗らなかった人物がいた。その一人が作家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏だった。1989年に民主化運動が勃発した際、劉はアメリカ・コロンビア大学の客員研究員の立場をなげうって帰国し、運動に身を投じた。天安門事件では学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍と交渉して衝突を防ごうとした。

 事件後「反革命罪」で投獄され、多くの政治リーダーが欧米からの中国政府への圧力で出国許可されるなかで、あえて国内に留まり、事件の殉難者の名誉回復と人権保障などを呼びかけて、さらに二度の投獄や強制労働を受けた。

 2008年には中国の大幅な民主化を求める「〇八憲章」を300名以上の知識人とともに実名で発表した。この発表により、「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年の判決を受け、2010年にノーベル平和賞を受賞したが、17年には獄中にて病死した。

 天安門事件そのものは、共産党政権の巧みな手口で、あたかも「もう終わったもの」にされてしまったが、その中で唯一、劉暁波の足跡が共産党にも消せない現実として残っている。石平氏は言う。「劉暁波という灯火が最後まで輝いたことが、我々にとって唯一の救いです。」[1, p136]

 中国共産党政権は国内では完璧な言論・報道統制を敷いているが、いまや多くの中国国民が海外に移住したり旅行したりして、政治的自由と民主主義を体感できる時代となった。

 中国共産党独裁政権の巨大な闇は世界を覆う大きさに拡大しつつある。その闇を中国国民が「劉暁波という灯火」を高く掲げて駆逐することができるかどうか。石平氏の思いは、日本国民全体にとっても他人事ではない。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(162) 天安門の地獄絵
 天安門広場に集まって自由と民主化を要求する100万の群衆に人民解放軍が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog162.html

b. JOG(487) 中国の覚醒(上) 〜 中国共産党の嘘との戦い
 「毛主席の小戦士」から「民主派闘士」へ、そして「反日」打破の論客へ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog487.html

c. JOG(488) 中国の覚醒(下) 〜 日本で再発見した中国の理想
 中国で根絶やしにされた孔子の理想は、日本で花開いていた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog488.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 石平、安田 峰俊『「天安門」三十年 中国はどうなる?』★★★、育鵬社、R01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594082297/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_4.html

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天安門事件は、1989年6月4日(日曜日)に、同年4月の胡耀邦元党総書記の死をきっかけとして、中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した事件である。

この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった。[1]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった[2]。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[3]に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。

デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。ケ小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。

衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。


抗議者に対する中国共産党による武力弾圧に対しては、国内はもちろんのこと広範な国際的非難が集まった[3]。犠牲者の数は後述のように諸説あるが、100万人とも、200万人とも言われている。


1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、ソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すために「ペレストロイカ」を表明して、同国の民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進、胡は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まった。

これに対してケ小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。

12月に、北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で、ケ小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも、反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、ケ小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は、経済の主導権を保守派の李鵬国務院総理(首相)らに渡すことになる。


胡耀邦死去

胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。

胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬国務院総理との面会を求めた声明を出すと、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。


四・二六社説

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。

趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、ケ小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。

北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。

中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。

4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。


デモの拡大

趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。

五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。

ケ小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることでケ、楊尚昆(国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。

この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカなどの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。

この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。


ゴルバチョフ訪中

このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。

中国共産党は、ゴルバチョフとケ小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。

このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。

ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、


“ケ小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。我告訴你一个秘密,在十三届一中全会有一个正式的决定,雖然這个决定没有公布,但是它是一个很重要的决定,就是說,我們在最重要的問題上需要他掌舵。”

ケ小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ

と「最終決定権がケ小平にある」ことを明かしたが、学生たちの矛先をケ小平に向けたとして、第13期4中全会で「罪状」に数えられることとなった。

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕[6]が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。

ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。

戒厳令布告[編集]



李鵬国務院総理(右)
この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。

5月16日夜、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人の政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する「四・二六社説」の修正について話し合われ、趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。



戒厳令の布告を決定したケ小平
5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者であるケ小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席を含めた会議がケ小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、ケ小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定した[7]。


「事態の進展を見ればわるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。すなわち、趙(紫陽)が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」
— ケ小平

これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を拒否したため、ケ小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を戒厳令実施の責任者に任命した[8]。


「決定を下さないよりは下した方が良いけれども、今回の決定が招くであろう深刻な事態を大変憂慮している。総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」
— 趙紫陽

5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。5月20日、ケ小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した[9]。

5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。党中央、全人代、国務院、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部及び、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。

これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。

こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。



ブリティッシュコロンビア大学に置かれた民主の女神のレプリカ
武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。

報道管制[編集]

戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカ合衆国の CNN は、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。

これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生放送を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも、そのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオテープ収録による録画中継と、固定電話や公衆電話を使用した、音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港や台湾など、国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクシミリを使って、北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたといわれている。

武力弾圧

6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[10]。

その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したと伝えられた。

この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた[11]。

広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。人民軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった。天安門事件を研究している二十一世紀中国総研のディレクターで横浜市立大学名誉教授の矢吹晋はこの状況について、人民軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまったと述べている[12][13]。

広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[14]。また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた。

なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、事件発生時に既に脱出していた学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた(其实我们期待的就是流血)。中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した[15][16][17]。現場に居なかった柴玲は広場で戦車が学生を押しつぶしたと泣きながら証言したが、最後まで現場に残って学生が脱出する為のトラックを手配していた候徳健(台湾から亡命してきた有名作曲家)は、戦車は広場の外に居たし広場で虐殺など全く起きなかったと証言している[13]。また、学生側リーダーの一人だったウーアルカイシも広場で千人が殺されたと証言したが、これについても候徳健は、「自分は午前6時半まで現場にいたが広場では一人の死者も見ていない。ウーアルカイシは既に現場から脱出しており事件を目撃していない」と証言している[18]。

武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜洲電視、アメリカ合衆国のCNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継された。その映像は無差別発砲による市民の虐殺と看做され、世界中から多くの非難が中華人民共和国に浴びせられた。武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性の映像も放映された(無名の反逆者)[19]。

武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、「北京に知人、友人が少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗が少ない」という理由で戒厳令の施行後に地方(新疆ウイグル自治区など)から動員された部隊が中心と報道された[要出典][20]。

また、AFP通信によると、2014年6月に機密解除されたアメリカ合衆国連邦政府の公文書の中に、当時の天安門広場の様子を目撃したとされる匿名の人物の話が記載されている。それによれば、楊尚昆の甥が指揮した、河北省石家庄から招集された第27集団軍(北京軍区所属)に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと主張した内容だった[21] 。しかし公開された機密文書の原文では、この匿名の情報提供者は事件発生当時は現場でなく北京市内のホテルの一室に滞在しており、第27集団軍の虐殺行為に関する一連の情報は「確認の取れない噂」であるとしている[22][23]。また、当時現場付近に居たワシントンポストの北京支局長ジェイ・マシューズは、「何百人もの外国人ジャーナリストは天安門とは別の地域か、或いは天安門広場から離れたホテルに避難していたので、広場中央での様子を目撃する事は出来なかった」と指摘している。マシューズは広場での虐殺についても、「ウーアルカイシは銃撃で200名の学生が倒れたと言うが、彼は既に数時間前に現場から脱出していた。伝聞や噂ではなく現場からの確かな証言から判断すれば、広場では誰も死んでおらず広場に通じる道路で散発的な死者が出た」と述べている[24]。

天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。相馬がその学生の言葉をメモに残してから天安門広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。ケ小平を許さない」と語ったという[25]。

アメリカのABCテレビは6月27日夜10時の番組で、天安門広場での出来事を撮影したビデオフィルムを点検した限りでは「いわゆる大虐殺の事実はなかった」と報道している[26]。


アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子について、「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」と語っている。マンローは広場ではなく他の場所で起きた虐殺に注目すべきだと問題提起している[27]。

広場での虐殺の有無や報道の矛盾について、中国研究家の矢吹晋は、「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘し、広場に居た無抵抗の市民達は一人も殺されなかったが、広場に至る路上で人民軍に攻撃を加えていた市民には多数の死傷者が出たと分析した[28]。

当時オーストラリア外務省の中国デスクを務め、ジャパンタイムズにも天安門事件についての論考を度々寄稿しているグレゴリー・クラークは自身が運営する個人HPの中で、「不確かな伝聞を排除すれば広場で虐殺が起きなかった事は明らかであり、むしろ学生側から人民軍への火炎瓶等を使った暴力が全く報道されない事は西側メディアの偏向を表している。兵士が銃撃した後で学生が放火したのではなく、群衆が先に兵士を火炎瓶で焼き殺した。群衆による破壊行為が兵士の仕業であると報道され、群衆の死体写真を報道する一方で群衆に攻撃された兵士の焼死体写真は報道していない。」と指摘している[29][30][31][32]。

死傷者

中国共産党の公式発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない。

ジェームズ・R・リリーは自らの著書の中で、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、中国人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたと述べている[33]。事件後に中国共産党によって、多くの死体が隠匿されたという報道もある。[要出典]また、約300名の民主活動家がパリに亡命した。

1989年6月4日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電では、現場に居た市民が感情的に怒って「天安門広場で10000人が殺された」と主張した事を報告している[34]。



1989年6月5日に作成され、2017年12月23日に機密解除された英国政府の公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は10000人以上が中国軍により殺害された。」と報告している。公文書は当時の駐中国アラン・ドナルド英大使(en:Alan Donald)が6月5日に本国政府へ送った外交機密電報。ドナルド大使によると、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた」情報であり、この情報源とされる人物を事件以前から信頼しており、「事実と憶測と噂を慎重に区別」して書いたという。文書には「鎮圧にあたったのは山西省を主力とする第27軍」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後には装甲兵員輸送車による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPC(装甲兵員輸送車)は何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍に銃剣で刺されてしまった」と記載されている[35][36][37]。フランス人の中国研究家ジャンピエール・カベスタン(fr:Jean-Pierre Cabestan)氏も、最近機密解除された米国の文書も類似した死者数を割り出しており、当時の英大使によるこの推定値には信ぴょう性があると述べている。しかし、中国系英字メディアサイト"SupChina"の編集者アンソニー・タオ(Anthony Yixing Tao)は、2017年12月に自社サイトの記事において「10000人という数字は匿名の、しかも米国側の発表した情報だけが根拠であって信用出来ない」と反論を述べている[38]。

クレア・バーリンスキーは、ソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では3000人の抗議者が殺されたと見積もられていると述べている[39]。

1989年6月22日に作成され1999年6月1日に公開された米外交公電は、それまでの混乱した情報を整理する目的で時系列で記述されており、銃撃の主な被害は従来の報告とは違って広場ではなく広場に続く道路で発生したとしている。死亡者数は当初の予測であった3000人を下回る可能性が高く、中国赤十字の発表である死者2600人が妥当な数字としている[40]。ただし、当時の天安門事件に関する報道でピューリッツァー国際報道賞を受賞したニコラス・クリストフによれば、2600という数字は行方不明になった学生が2600人居るという噂が死亡した学生の数だと勘違いされて出来た根拠の無い数字であり、中国赤十字は2600という数字を即座に撤回しているとされている[41]。

1989年7月に作成され2011年6月に公開された米外交公電によれば、広場に進行した兵士の大部分は銃ではなく暴徒鎮圧用の木の棒の様な物で武装しており、群衆に向けた大量発砲は見られなかったとされる。現場に居たチリの外交官は広場で大規模な銃撃は無かったと証言している。これは兵士が非武装の市民がいる広場に突撃したという複数の記者の証言と矛盾するし、死者の数は1000人を遥かに下回る事を示唆している[42]。

1989年7月12日に作成され2011年8月30日に公開された米外交公電によれば、現場に居たチリの外交官であるカルロス・ガロの証言では広場に入った兵士は棍棒で武装しており大規模な発砲は起きなかったとしている。広場にゆっくりと入って行った装甲車が広場のテントを踏みつける頃にはテントは既に無人だった様に見えた。学生が撤収した後の広場に人民軍のヘリコプターが降りてきて大きなプラスチックの袋を上に引っ張り上げていたが、彼はその中身が負傷者や遺体ではなくゴミだと思った。彼は大規模な銃撃を目撃しなかったが、広場に負傷者が大勢集まって来た事から人民軍によって数百人が殺害された事に疑いは無いと判断した[43]。

1990年3月26日に作成されウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電には、現場で鎮圧にあたった人民軍38軍に所属した兵士の母親とされる人物による匿名での証言が記載されている。彼女の証言によれば、38軍は当初は空中に威嚇射撃をしていたが、学生の襲撃を受けて仲間の兵士が数百人も行方不明になったか、或いはおそらく殺害されたという情報が部隊に伝わると38軍の兵士達は興奮した。その状況で出された発砲命令に従い群衆に向け機銃掃射を行い、1000人以上の市民が殺害された。兵士は死体にガソリンを掛けて燃やし、その死体をヘリコプターで運び去ったという。一連の証言について公電作成者は文末で、「彼女の証言が伝聞とは思わないが、時間が経過しており相当な誇張が含まれる」「我々には目撃情報が少なく誇張された天安門の情報が循環している」とコメントしている[44]。

2019年5月29日、当時日本大使館にて情報収集を統括していた笠原直樹(防衛駐在官)による詳細なメモが残っていたことが分かった。それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射はほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、一斉発砲する兵士など当時の流血の北京の状況が判明した[45]


国内における反応

批判

事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。

また、中国共産党首脳部の強硬派が密かに行った自国民の虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。

中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である薛飛と杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。杜憲は1992年に中央電視台を退社し、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。

中国共産党による隠蔽工作

上記の様に、西側諸国だけでなく、東側諸国を含む世界各国では、この事件は報道されたものの、国内においては、事件後には、平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派と、その一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証報道は、これまで一切行われておらず、中国共産党政府最大のタブーの一つでもある[46][信頼性要検証] 。 中華人民共和国国防部部長の遅浩田は、1996年にアメリカ合衆国を訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言して[47]、世界各国から反発を受けた。

事件から25年以上が経過した2018年現在でも、当局ぐるみでの事件の隠蔽が行われている。以下に主な当事件への隠蔽行為を挙げる。
当事件の名称や当事件の発生日である「6月4日」を金盾によるインターネット検閲対象とした。これにより、香港や澳門を除く中華人民共和国内の検索エンジン(Yahoo!やGoogle、MSNなど)では、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると、接続不可能になる。このことから、当事件を意味する「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の64)や、「82(=64)」などの隠語を生んだ[48]。
国内向けの衛星放送などで海外メディアが天安門事件を報じると突如放送を停止させる[49][50]。

外国人カメラマンが6月4日前後に天安門広場を撮影しようとすると、目の前で傘を開いて天安門を写させないようにする[51]。

当事件における学生運動の主要メンバーであった劉暁波のノーベル平和賞受賞の際、中国共産党政府は2010年10月下旬以降に、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、12月10日にオスロ市庁舎にて行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。書簡では式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないようにも求めた。また、北京においても数カ国の外交官に対して、同様の要請を行った[52]。

また毎年、事件発生日の6月4日前後になると、以下のような当事件への隠蔽行為と思われる当局の対応が行われている。
当事件についての記事が存在する「ウィキペディア」に対する接続規制[53]。
Twitterやhotmailなどのコミュニケーションツールの接続規制[54]。

そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は、事実を殆ど知らない。知っている者でも、暴徒が中国人民解放軍を襲ったための自衛行為という程度で、中には海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者もいた。

当事件の結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平を始めとした活動家が、中華人民共和国外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。


香港の反応

この事件に対して最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主主義的な行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。

1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。

同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、香港がイギリスより中国へ返還、譲渡された後も、同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が、毎年香港島のヴィクトリアパークで開かれ、2007年6月4日には5万5千人の参加者を集めた[55]。2012年6月4日、約18万人の参加者を集めて歴年の記録を破った[56]。

また、結果的に香港人のイギリス・カナダ・オーストラリアなどのイギリス連邦諸国や、アメリカ合衆国などへの移住ブームを本格的に始動させた事件となったが、その後、宗主国のイギリスと中華人民共和国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」の方針を受けて、「返還」後に中国共産党からの言論の締め付けなどがあるにもかかわらず、かろうじて政治的に安定している香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。

だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。

また事件当日から6日にかけて明報や新晩報などの香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、「ケ小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した[57]。


国際社会の反応

民主主義国である西側諸国の政府が次々と、事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。アメリカ、中華民国、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対して譴責あるいは抗議を発表し、G7による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。

1989年6月4日の武力制圧後の国内情勢が安定的でないことから、日本をはじめとした西側の外国企業が一時的に中華人民共和国から社員を引き上げる事態に至る。事件後、日本では外務報道官談話や官房長官談話を発表して、この流血事件に対する悪化防止を中華人民共和国政府に求めた。加えて6月20日にODAによる対中経済援助の凍結を発表し、翌1990年から予定される「第3次円借款」並びに「中日友好環境保全センターの建設」など一部の対中ODAを保留とする見直しが行われた。

同年7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、議長国フランスをはじめとした西側諸国が残虐行為を厳しく非難した。 日本の宇野宗佑内閣総理大臣は対中円借款を凍結する一方で、外務大臣の三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張[58][59]して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元総理と会談した[60]。総理退任後の1990年5月7日に宇野が訪中した際にも中華人民共和国の江沢民から、このサミットでの対応に感謝されている[58]。


1990年7月の第16回先進国首脳会議では、日本の海部俊樹総理が対中円借款の再開に言及[61]、国内・西側諸国共に多様な議論がある中で、西側の現職政府首脳として事件後初めて同年8月に訪中した。また、1992年8月に中華人民共和国政府の要請を受け、10月に宮沢内閣が「天皇皇后両陛下の中国御訪問」を閣議決定、同月に両陛下が中国を訪問され、西側各国で国際ニュースとなる。

天安門に集まる一般市民を最初は非難していたシンガポールのリー・クアンユーは、武器を持たない一般市民の騒動に対しては最低限の治安目的の対応を期待していたため、「今回の中国共産党の対応に衝撃を受けるとともに悲しみを受けた」とニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えた[62]。

1997年に江沢民の訪米が実現し、1998年6月には民主党のビル・クリントン大統領が訪中。米国をはじめとする各国も時期をおいて中華人民共和国との外交関係の回復を行っていった。しかし、この事件が中国共産党による一党独裁とその異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる、大きな原因の1つとなった。

2007年6月1日、アメリカ合衆国国務省副報道官のトム・ケーシーが、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した[63]。また、2009年6月3日にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官は、中国共産党政府に「過去の事件を検証し、死者や行方不明者についての報告を行うように」と要求し、事件の検証や拘束中の人権活動家を釈放するよう求めた。

2019年5月30日、米国務省のオルタガス報道官は記者会見にて、間もなく30年を迎える中国の天安門事件について「底した虐殺行為だった」、「罪のない命が失われた痛ましい事実を忘れない」と述べ、「抗議参加者や遺族らへの弾圧がいまだ続いている」と批判した[64]。その翌日、中国外務省の耿爽報道官は「中国政府に対する内政干渉だ」と反発し、「強烈な不満」を表明し、「新中国が発展し成果を得ているのは、国情にあった道を歩んできたことを証明している」と統治体制を正当化した[65]。

中華人民共和国と同じ東側諸国の東ドイツ、北朝鮮、チェコスロバキア、キューバ、ルーマニアや友好国のパキスタンが中国共産党による武力弾圧を支持した[66][67]。同じ社会主義国でも中国と緊張関係にあったベトナムは事件を報道するも直接コメントしなかった[68]。フィリピンは事件に遺憾の意を表明した[69]。

指名手配された21名の中心人物

中華人民共和国政府より指名手配されたものは21人。うち、亡命生活を送っているのは14人いる。

王丹 - 名簿第1位
ウーアルカイシ - 名簿第2位
劉剛 - 名簿第3位、逮捕、投獄を経て米国に亡命
柴玲
周鋒鎖(中国語版)
翟偉民(中国語版)
梁フ暾(中国語版)
王正雲(中国語版)
鄭旭光(中国語版)
馬少方(中国語版)
楊涛
王治新(中国語版)
封従徳(中国語版、英語版)
王超華(中国語版、英語版)
王有才(中国語版、英語版)
張志清(中国語版)
張伯笠(中国語版、英語版)
張銘(中国語版)
熊煒(中国語版)
熊焱(中国語版、英語版)

劉暁波のノーベル平和賞受賞

2010年10月8日、劉暁波のノーベル平和賞受賞が発表された。ノルウェー・ノーベル委員会は、劉暁波の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことであると発表した。また、劉暁波への授与の決定は「有罪確定時の今年2月には不可避の状況になっていた」こと、「選考は全会一致であった」ことなどであると発表した[70][71]。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる[72]。

国外への影響

アフリカのリビアで起こった2011年の騒乱では、カダフィ大佐が「天安門広場では、戦車によって人々が蹂躙されて中国の統一が保たれた。国家の統一のためならどんなこともする[73]」と述べ、反体制派に対する虐殺と民主化の弾圧などを正当化した[74]。それに対し、中華人民共和国外交部は困惑するも「リビアができるだけ早く社会の安定と正常な秩序を回復するよう強く希望する」として、カダフィの発言については批判しなかった[75]。なお、当時の中国は首都トリポリとカダフィ大佐の故郷スルトを結ぶ鉄道の建設などリビアで複数の権益を抱え[76][77]、内戦を受けて軍艦や輸送機などを派遣して中国人労働者3万人をリビアから退避させており[78]、中国国内ではアラブの春に影響された中国ジャスミン革命も起き、中国政府にはカダフィ政権への武器供与疑惑も追及されていた[79]。

2016年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬した共和党のドナルド・トランプ大統領候補が天安門事件の弾圧を肯定するかのような過去の発言[80]をCNNのテレビ討論会で追及を受けて天安門事件を「暴動」と表現した際には「まるで中国共産党の指導者」「中国共産党による抑圧に反対する者への侮辱だ」「アメリカの価値観の敵」であるとして王丹[81]、魏京生[82]やウーアルカイシ[83]ら天安門事件に関係した民主化運動家が抗議を行っている。

南米のベネズエラでは、2017年にベネズエラ国家警備隊(英語版)の中国製装甲車VN-4(英語版)の前に立ってニコラス・マドゥロ独裁政権に抗議する女性の映像が全世界に流れた際は天安門事件を想起させるとして話題になって「無名の反逆者」にあやかって「ラ・ダーマ(あの女性)」と呼ばれた[84][85]。

日本では1989年の7月に参議院選挙を控えたいたため、当時の日本共産党はこの事件においてイメージダウンに繋がった。選挙期間中は他党から演説において、『共産党が躍進すると天安門事件のようなことになる』といった事実無根の攻撃に利用され、それまで共産党に支持した有権者が日本社会党や(社会、公明、民社、連合が推薦する)連合の会に票が流れてしまった。そのため第15回参議院議員通常選挙では改選前の議席数を大幅に減らした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6  

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コメント
1. 中川隆[-9843] koaQ7Jey 2019年6月02日 14:38:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2517] 報告

桜井春彦 

1955年生まれ。早稲田大学理工学部卒業。

株式新聞社記者等のジャーナリズムを経て、雑誌「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビュー)で、米情報機関の秘密工作に関する十数本のレポートを執筆。

現在の状況に酷似している、1930年代の米国でファシズム政権の樹立を目指すクーデター計画が存在した事実を9・11事件の直前に紹介した。

雑誌「世界」(岩波書店)に、「ブッシュ政権の内幕」実態レポートを発表。著書には「テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない」(三一書房)。
http://worldforum.jp/report/2007/06.html


amazon.co.jp 桜井春彦 著書
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%A1%9C%E4%BA%95%E6%98%A5%E5%BD%A6&i=stripbooks&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss


▲△▽▼


アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る (Yosensha Paperbacks 26) – 2007/3
桜井 春彦 (著)

内容(「BOOK」データベースより)

アルカイダのオサマ・ビンラディン、反カストロのルイス・ポサダ―。皆CIAが生み出したテロリストだ。実はアメリカこそテロ支援国家なのである!
アメリカやイギリス、イスラエルの情報機関であるCIAやSIS、モサドとテロリズムは密接につながっている。
中東、中米で行ってきた彼らの工作活動を知らずして、中東情勢、そしてイラン問題は語れない。


カスタマーレビュー

罵詈雑言アラメンド 5つ星のうち1.0
かなりひどいトンデモ本です。 2007年3月27日


本屋で前書き部分を立ち読みし、シオニスト批判やネオコン批判が載っていたので、「お、結構いけるかも」と思い買いましたが....

「フリーメーソン世界征服のシナリオ!」のような本と同じレベルのトンデモ本でした。

著者は電波を出している人で、著者の言いたいことが理解できる人は、たぶん電波を受信できる人だと思います。

善良な方は、本書を読まない方が良いと思います。

本書全体的にいえるヘンテコなところとして、やたらめったら人物名を出して読者を煙に巻く、というものがある。重要な人物も重要でない人物も関係なく、とにかく登場する人物数が多い。これは著者が「俺はこんなにいろんな人物を知っているのだ、貴様ら平凡な読者はその人物相関関係など知るまい、貴様ら愚民読者どもは俺様の意見を拝聴すれば良いのだ、俺様は正しいのだ、俺様の書くとことは絶対なのだ」という思想を持って書いているようなニュアンスに読み取れます。

例として、【第5章 イスラム帝国】にどれだけの人物が登場するのか記してみます。
第5章は170ページから220ページまでの51ページです。

P170
ムハマド・レサ・パーレビ(イラン国王)
アヤトラ・ホメイニ(シーア派指導者)
デイビッド・ロックフェラー(チェースマンハッタン銀行)
ジミー・カーター(アメリカ大統領)
ゲイリー・シック(NSC=国家安全保障会議スタッフ)

P171
森詠(日本人ジャーナリスト)
モシェ・ダヤン(イラン国防大臣)

P172は写真

P173
ウリ・ルブラニ(在テヘラン非公式イスラエル大使)

P174
ロナルド・レーガン(アメリカ大統領候補)
ジェームズ・ボウト(少将)
チャールズ・ベックウィズ(デルタフォース創設者・大佐)

P175
ジョン・K・シングローブ(少将)
オリバー・ノース(中佐)

P176
キルス・ハシェミ(武器商人)
ウォーレン・クリストファー(国務長官・どこの国の?)
レザ(ハシェミの兄)
ジャムシド(ハシェミの兄)
アーマド・マダニ(イラン海軍少将)

P177
アリ・アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ(イラン国民議会議長)
イラン・ナジド・ランクニ(ハシェミ兄弟の連絡相手でラフサンジャニの義理の息子)
アーメド・ホメイニ(アヤト・ホメイニの息子)
ドナルド・マクヘンリー(国連大使)
ラムゼー・クラーク(もと司法長官)

P178
ウィリアム・ケーシー(レーガン政権時のCIA長官)
メーディ・カルビ(イランの宗教指導者)
ジョン・シャヒーン(ケーシーの友人)
ヤセル・アラファト(PLO議長)
アブデラジス・ボウテフリカ(アルジェリア外相)
アリ・ベンメナシェ(イスラエルの軍事機密を入手できる立場にあった人物)

P179
マイルズ・コープランド(元CIAオフィサー)
スタンフィールド・ターナー(CIA長官)
ロバート・マクファーレン(海兵隊元大佐)
カーミット・ルーズベルト(?)
アール・ブライアン(カリフォルニア州保険福祉局長)
メーディ・バザルガン(イスラム革命後の首相)

P180
ジョン・タワー(上院軍事委員会委員長)
ロバート・ゲーツ(?)
ジョージ・H・W・ブッシュ(パパブッシュ)

P181
ラファエル・エイタン(LAKAM指揮)
アドルフ・アイヒマン(ナチ親衛隊)

....すいません、P220まで全部抽出しようと思ったのですが、もう面倒なのでやめます。

この傾向はこの章に限った話じゃなくて、本書全編にわたってこんな感じです。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%A7%E5%A2%93%E7%A9%B4%E3%82%92%E6%8E%98%E3%82%8B-Yosensha-Paperbacks-26-%E6%A1%9C%E4%BA%95/dp/4862481302/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%A1%9C%E4%BA%95%E6%98%A5%E5%BD%A6&qid=1559453608&s=books&sr=1-2

2. 中川隆[-9834] koaQ7Jey 2019年6月03日 06:49:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2533] 報告
いずれにしろ

桜井春彦は悪質な詐欺師

で間違いない。

世の中には、意図的に流された嘘やデマも含めて、180度違った無数の意見や証言が有って、すべてを網羅して総合判断しない限り真実はわからない。

しかし、桜井春彦はその無数の信頼度が低い話の中から自分に都合のいい話だけを選別して、あたかも自分が誰も知らない隠された真実を発見した様に書いているんだな。

3. 中川隆[-9836] koaQ7Jey 2019年6月03日 07:28:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2533] 報告

新唐人テレビ 六四天安門事件の虐殺動画


1989 06 04中共在天安门屠杀大学生 - YouTube動画
http://www.youtube.com/watch?v=2tD7UP631W4


北京公演で天安門事件の写真、1万5千人ぼう然

 【広州=吉田健一】17日付の香港紙「明報」などによると、世界的なパフォーマンス集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」が今月北京で行った公演で、中国本土では公開が禁止されている1989年の天安門事件に関する写真が巨大スクリーンに映し出された。

 シルク・ドゥ・ソレイユ側は、公演内容はすべて中国当局の事前審査を経たとしている。中国政府は天安門事件に関して厳しい言論統制を敷いており、審査時に当局が見落とした可能性がある。

 写真が登場したのは、9〜11日に行われた公演の初演。米歌手の故マイケル・ジャクソンさんの「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」という曲に合わせ、天安門事件で戦車の前に一人の男性が立ちはだかる有名な写真が舞台上に約4秒間映し出された。その瞬間、会場内の約1万5000人の観客は驚き、ぼう然となったという。


●中共の指導者、ケ小平は次のように言った。

「中国には10億の人間がいる。100万人、200万人死のうが、ものの数ではない。」
このようにして大虐殺を行い、民主化を求める市民を弾圧したのである。これは人間のすることではない。ナチス以上の悪魔だ。そりゃそうだ。反右派闘争、大躍進の失敗、文化大革命における文化人の大虐殺。人を殺すのが大好きな悪魔勢力、それが中共だ。

投稿主様の勇気ある投稿に敬意を表します。中共を撃滅しなければ人類の未来はない。

4. 中川隆[-9841] koaQ7Jey 2019年6月03日 14:50:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2547] 報告

天安門事件の死者は「1万人」 英外交機密文書 2017年12月26日
https://www.bbc.com/japanese/42482642


天安門広場近くで燃える装甲兵員輸送車 (1989年6月4日)

英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになった。


「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」人物から入手した数字だと説明している。

国務院は中国の内閣に相当 し、首相が議長を務める。


天安門事件の死者数はこれまで、数百人〜1000人以上と、様々に推計されていた。

中国は1989年6月末に声明で、1989年6月4日の「反革命暴動」を弾圧した、北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表していた。


民主化を求める大勢の学生が天安門広場でハンガーストライキを続けた(1989年5月14日撮影)Image copyright AFP
Image caption

一連の光電はこれまでロンドンの英国立公文書館で保管されていた。10月に機密指定が解除され、香港のニュースサイト「香港01 」が閲覧した。

ドナルド大使によると、情報源は事件以前から信頼できていた人物で、「事実と憶測と噂を慎重に区別」していたという。

大使は当時、「学生たちは広場退去まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし、5分後に装甲兵員輸送車(APC)が攻撃を開始した」と書いている。

「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」

「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、銃剣で刺されてしまった」

ドナルド氏は、「国務院委員の一部は、内戦勃発の危機が迫っていると考えていた」と付け加えている。

天安門広場の抗議デモは、軍の派遣まで7週間続いた。共産主義国家・中国にとって、史上最大規模のデモだった。

天安門事件は、今なお中国では極めてデリケートな問題として位置付けられている。

中国は活動家の追悼行事を一切禁止し、政府批判の検閲を含め、天安門事件に関するオンラインでの議論を厳しく規制している。しかし活動家たちは毎年6月には、特に香港や台湾などに集まり、天安門での犠牲を追悼してきた。

(英語記事 Tiananmen Square protest death toll 'was 10,000')
https://www.bbc.com/japanese/42482642

新唐人テレビの六四天安門事件についての番組

1989 06 04中共在天安门屠杀大学生 - YouTube動画
http://www.youtube.com/watch?v=2tD7UP631W4

5. 中川隆[-9840] koaQ7Jey 2019年6月03日 14:57:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2549] 報告

天安門事件の鎮圧は「正しい」と中国国防相 30周年を前に異例の言及 2019年6月03日
https://www.bbc.com/japanese/48493511


1989年6月、北京・天安門広場に民主化を求める大勢の市民が集まった


中国で起きた天安門事件から6月4日で30年を迎えるのを前に、同国の魏鳳和(ウェイ・フォンホー)国防相が2日、軍による民主化運動の鎮圧は「正しい」方針だったと、同事件について異例の言及をした。多数の死傷者を出した天安門事件は、中国ではタブーになっている。

魏氏はシンガポールで開かれた会合で、聴衆から天安門事件について質問を受けた。

中国の対応は不適切だったとする意見が今もあることに疑問を投げかけた魏氏は、「あの出来事は政治的な騒乱であり、中央政府は騒乱を収束するために対応した。正しい方針だ」と述べた。

そして、「この30年間で中国は大きく変わった」と主張。天安門事件に当時の政府があのように対応したからこそ、「中国は安定と発展を享受している」との考えを示した。

当時、何が起きた?

1989年4月、100万人を超える学生や労働者たちが民主化を求め、北京の天安門広場を占拠。約1カ月半にわたって抗議デモを繰り広げた。

このデモは中国各他の都市や大学に拡大。共産党による独裁体制の打倒やインフレ対策、賃金の上昇、住宅事情の改善などを求めた。


自由や民主主義を要求して天安門広場に集まった学生たち

6月3日夜、天安門広場に軍の戦車と部隊が出動。4日朝にかけて、武器を持たないデモ参加者たちに向けて発砲し、多数を殺傷した。

当局は後日、発砲による死者はゼロだと説明した。

中国政府はこれまで、デモ参加者の死者数を明らかにしていない。だが、天安門事件の死者は数百〜数千人に上ったと言われている。


<関連記事>
◾天安門事件の死者は「1万人」 英外交機密文書
◾劉暁波氏――中国が消せなかった人
https://www.bbc.com/japanese/48493511

6. 中川隆[-9839] koaQ7Jey 2019年6月03日 15:13:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2551] 報告

◆ (死体グロ画像注意)
NHKクローズアップ現代「天安門事件で大きな虐殺は無かった」と大嘘! 日本政府、天皇陛下を政治利用! 2019年06月01日
https://blog.goo.ne.jp/hosizorajp/e/f5f3aca8c963b5eda061a6cc7e63758a

http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5469.html
抜粋

NHKクローズアップ現代「天安門事件で大きな虐殺は無かった」と大嘘
   


1989年の「天安門事件」の後、国際社会は、学生ら市民を大虐殺した支那に対して、投資を激減させるなどの制裁措置をとった。

支那は、その後何年間も、国際社会による制裁措置にあえいだ。

この支那の窮地に、いち早く手を差し伸べたのは、日本だった。

まず、1991年8月、竹下登元首相の強い働きかけもあり、海部俊樹首相が支那を訪問し、対支制裁を全面解除した。

しかし、日本が支那への制裁を解除しても、日本を除く世界は、支那への制裁を続行した!

次に、翌1992年、海部の後任となった宮沢喜一は、国際社会による支那への制裁も、何とかして解除させようとした!!

そこで、日本政府(宮沢内閣)は、日本国民の強い反対論を押し切って、天皇陛下の支那ご訪問を閣議決定し、世界による対支制裁措置解除の突破口にしようとした。

明らかな、日本政府(宮沢内閣)による天皇陛下の政治利用だった!

現実問題として、前年日本が真っ先に支那への経済制裁解除をしたものの、他の西側諸国はまだまだ支那に厳しい態度で臨んでいたが、天皇陛下の支那ご訪問は、そのような西側の制裁を解除させる決定打となった。

実際に支那の銭其シン元外相は、回想録で、天皇陛下の支那ご訪問について「中国が西側の制裁を打ち破る最も適切な突破口となった」と書いている。

支那と、その手下である宮沢喜一や加藤紘一らは、天皇陛下を支那の広告塔として利用したのだ。

天皇陛下ご訪支の翌年1993年3月に、江沢民が国家主席に就任した。

ちなみにNHKは、このタイミング(1993年6月)で、『クローズアップ現代』において「天安門広場では虐殺はなかった!広場では一人も死んでいない」と放送した。
https://blog.goo.ne.jp/hosizorajp/e/f5f3aca8c963b5eda061a6cc7e63758a

7. 中川隆[-9838] koaQ7Jey 2019年6月03日 15:20:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2553] 報告

という事で

櫻井ジャーナルの記事は天安門事件に限らず、すべてデマの可能性が高くなりました。

詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

8. 中川隆[-9853] koaQ7Jey 2019年6月03日 17:02:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2544] 報告

因みに、桜井春彦が何時も言ってる様にアメリカがソ連を核攻撃するというのは有り得ないんですね。

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


桜井春彦が何時も言ってる事がすべてデタラメなのはこれを読めばわかります:


馬渕睦夫 米国が作った中華人民共和国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

9. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月03日 17:53:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2547] 報告
アメリカは目を付けた国を、最初は援助して、経済成長し世界 No.2 になった段階で潰して国家資産を搾り取るんですね。

ドイツが世界 No.2になったら第二次大戦で潰した

ソ連が世界 No.2になったらココムと経済封鎖、原油安で潰した

日本が世界 No.2になったら円高にして、平成バブルを作って潰した

今度は中国が世界 No.2になったので経済戦争で潰す事にしたのです

10. 中川隆[-9850] koaQ7Jey 2019年6月03日 18:11:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2549] 報告

ユダヤ資本は 0.01% : 99.9% の階級社会を作るのが最終目標だからね

ユダヤのエージェントの竹中平蔵も、非正規社員と正規社員の格差については大騒ぎするけど、 0.01% : 99.9% の格差については一切触れないだろ

ソ連や中共は社会主義国だけど 0.01% : 99.9% の格差だけはちゃんと残していたんだ。 もちろんユダヤ人が 0.01% の方で、99.9%は全員奴隷で、奴隷間では完全平等だ。

社会主義というのはユダヤ人が 0.01% になる為に考えた体制だ

しかし、社会主義国では経済が成長しないのに気付いて、今度は

国境間の人・金・物の移動を完全自由化、言葉や生活習慣も民族によらず共通なグロ−バル経済を作る方針に変えたのさ。

そうするとソ連や中共みたいな国民国家の共産国は困るんだ。

それで旧共産国家を解体する事にしたのさ。

解体が最後になったのが中国なのさ。

中国の農民籍の人間は権利が全く無い完全な奴隷で賃金が只同然なので、今迄世界の工場労働者として扱き使っていたんだ。最近は農民籍の人間も賃金が上がって来て旨みが無くなったからもう不要になったんだな。

11. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月03日 18:26:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2548] 報告
2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html


▲△▽▼


60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3


▲△▽▼


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

12. 中川隆[-9850] koaQ7Jey 2019年6月03日 18:33:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2550] 報告

林千勝もサットン理論に基づいて日米戦争の背景を説明していますね:

【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU


司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)


13. 中川隆[-9849] koaQ7Jey 2019年6月03日 20:25:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2556] 報告

桜井氏の書いたものは一切信用できない。

そもそも僅か1ページで天安門事件がデマだと証明できる訳ないだろ

否定するには天安門の虐殺について書かれている資料をすべて現地に行って確認して、何が嘘かを調査しないといけない

その調査だけで最低 2年、3年はかかる。

桜井氏はそういう必要最低限の作業すらしていない。

従って桜井氏は誇大妄想の詐欺師で間違いない

14. 中川隆[-9847] koaQ7Jey 2019年6月03日 20:31:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2558] 報告
天安門事件を否定したければ、ここに書かれている事を一つ一つすべて現地調査して、どこが嘘かを明らかにするしかないですね:

天安門事件の死者は「1万人」 英外交機密文書 2017年12月26日
https://www.bbc.com/japanese/42482642


天安門広場近くで燃える装甲兵員輸送車 (1989年6月4日)

英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになった。


「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」人物から入手した数字だと説明している。

国務院は中国の内閣に相当 し、首相が議長を務める。


天安門事件の死者数はこれまで、数百人〜1000人以上と、様々に推計されていた。

中国は1989年6月末に声明で、1989年6月4日の「反革命暴動」を弾圧した、北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表していた。


民主化を求める大勢の学生が天安門広場でハンガーストライキを続けた(1989年5月14日撮影)Image copyright AFP
Image caption


一連の光電はこれまでロンドンの英国立公文書館で保管されていた。10月に機密指定が解除され、香港のニュースサイト「香港01 」が閲覧した。

ドナルド大使によると、情報源は事件以前から信頼できていた人物で、「事実と憶測と噂を慎重に区別」していたという。

大使は当時、「学生たちは広場退去まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし、5分後に装甲兵員輸送車(APC)が攻撃を開始した」と書いている。

「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」

「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、銃剣で刺されてしまった」

ドナルド氏は、「国務院委員の一部は、内戦勃発の危機が迫っていると考えていた」と付け加えている。

天安門広場の抗議デモは、軍の派遣まで7週間続いた。共産主義国家・中国にとって、史上最大規模のデモだった。

天安門事件は、今なお中国では極めてデリケートな問題として位置付けられている。

中国は活動家の追悼行事を一切禁止し、政府批判の検閲を含め、天安門事件に関するオンラインでの議論を厳しく規制している。しかし活動家たちは毎年6月には、特に香港や台湾などに集まり、天安門での犠牲を追悼してきた。

(英語記事 Tiananmen Square protest death toll 'was 10,000')
https://www.bbc.com/japanese/42482642

15. 中川隆[-9848] koaQ7Jey 2019年6月03日 20:34:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2557] 報告
という事で

櫻井ジャーナルの記事は天安門事件に限らず、すべてデマの可能性が高くなりました。

詐欺師 桜井春彦に騙されない様に注意して下さい。

16. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月03日 20:57:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2554] 報告

wiki にまで書かれているので、世間では天安門事件で1万人以上虐殺されたと思われているのですね:


Dissidents in the 1989 Tiananmen Square protests - Wikipedia

The number of civilian deaths was internally estimated by the Chinese government to be near or above 10,000.[1][2]

https://en.wikipedia.org/wiki/Dissidents_in_the_1989_Tiananmen_Square_protests

これが定説なので、それを否定するには何年も現地調査しないといけないでしょう。

その調査だけで最低 2年、3年は掛ります。

しかし、桜井氏はそういう必要最低限の作業すらしていない。
従って桜井氏は誇大妄想の詐欺師で間違いないです。

17. 2019年6月04日 00:00:24 : 7cnvNd4Xag : RmFQQjZxdngwTHc=[3] 報告
「劉暁波」→ アメリカの戦争はすべて正義との賜った人物(笑
18. 2019年6月04日 00:03:16 : 7cnvNd4Xag : RmFQQjZxdngwTHc=[4] 報告
>>2

櫻井の情報源はほとんどが西側の調査報道だよ。
それが信用できない?

本勝的に言えば、さんざん一般メディアで流されている公式情報をあえて繰り返す必要はないだろう。そういうのはテレビ、新聞を見ればよい。

19. 中川隆[-9861] koaQ7Jey 2019年6月04日 07:19:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2547] 報告

櫻井ジャーナルに騙されるな


櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が正しかったとしても意味無いです。

因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


そういう事情は、こういう講演を聞けば誰でも納得できます:


馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc


林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  

20. 中川隆[-9847] koaQ7Jey 2019年6月04日 11:35:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2567] 報告

デマ撲滅委員会〜「クローズアップ現代で天安門事件の虐殺はなかった」はデマ〜
2015/4/2
https://blogs.yahoo.co.jp/koujittyan2/46221122.html

私はデマというものが大嫌いです。話題としての都市伝説なんかはそれなりに楽しめますが、利己的な理由で流されるデマや、愉快犯的に流されるデマ、デマによって起こる風評被害というものに、激しく嫌悪感を覚えます。

と言うわけで、ちょくちょく目にするデマの検証を、折角だから記事にしようと思います。恐らく今後もこの手の記事は書きますのでシリーズとしました。ちなみに委員会には私一人しか居りません。

今回取り上げるのは、NHKで長年放送されているドキュメンタリー番組、『クローズアップ現代』において、過去の放送で、天安門事件における虐殺は無かった、と報じたとされるデマです。

今回このデマに巡り合った理由といいますのは、昨今巷で話題になっている、出家詐欺に関わったブローカーがやらせだったか否かです。

私はこの話題を見てから、過去にはどんな問題があったのだろうと、過去の問題を参照することで、ちょっとはこの問題が実際やらせだったかどうか、少しでも判断材料になればと思って、Wikipediaを参照しました。

問題をざらっと流し見していくと、以下の記述がありました。

2008年1月24日の放送で、1989年6月4日の未明に、中華人民共和国北京市の天安門広場で、中国共産党に対して、民主化要求し座り込みを続けていた学生と市民が、中国人民解放軍に弾圧された六四天安門事件では「大きな虐殺はなかった」とした。これは先立つ1993年6月3日(木曜日)放送の 「天安門事件・空白の3時間に迫る」と同じ主張であるが、戦車の下敷きになったり、銃撃を受けた多数の死傷者の写真と整合性がとれない、として批判が多い[14]。(クローズアップ現代 Wikipedia)
*Wikipediaの該当部分は私が編集して削除してあります。

しかし、私はこの番組を長年見ており、天安門事件で武力鎮圧による被害者がいないような放送があったとは記憶していませんでした。特に、二〇〇八年の時期はほぼ毎日見ていましたし、昨年香港デモを取り上げた際、ウイグル問題に言及する若者を取り上げていましたので、どうにも、この内容は信じがたいものがありました。

とりあえず、自分が見ていたであろう二〇〇八年一月二十四日のクローズアップ現代のページを参照します。

内容は『“中東の笛”疑惑判定の裏側』でした。審判の判断について取り上げた回ですね。あー確かにこんな回あったなと。スポーツに興味が薄いので記憶も薄っぺらいですが。

しかし、天安門事件に言及するような内容であるとは到底思えません。何じゃこりゃ、と思い、上記の出典にされているYoutubeの動画を見ることにしました。


3分でわかるNHKクローズアプ現代「天安門事件での虐殺は無かった」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=C-8a255cx5c


これが酷いものでした。音声はぶつ切りで番組の本旨がよく分からないような編集で、終盤は誇張するように「大きな虐殺は無かった」をリピート。さらっとだけ見ると、さもクローズアップ現代が天安門事件での反政府デモ側の被害者がいないように編集されているわけです。

しかしよくよく動画を聞くと、54秒あたりから「長安街での武力衝突があまりにも鮮明」と言っており、武力衝突そのものについて番組で言及してたことが分かります。では、何故終盤で「広場での大きな虐殺は無かった」と番組で言っているのでしょうか?

答えは単純明快。

天安門事件での死傷者は、”天安門広場”ではなくその”周辺”で出ていたからです。

天安門事件、といえば、ついつい天安門広場で死傷者が出たように考えてしまいますが、ところがどっこい、そうではなかったのです。

そもそも、当時天安門広場にメディアが入れなかったことで、死傷者が出たことなどは明白だとして、広場で実際何があったのかはよく分からないままだったわけです。ポツポツと被害があったりなかったりの証言がありつつ、裏とりが出来ない。しかし、放送当時、広場に運よく入っていたスペインのテレビ局の記者と、広場にいた台湾人男性の証言を元に、広場での虐殺行為は実は無かったという新事実が判明したわけです。これは、当時としてはセンセーショナルだったことが想像出来ます。(一九九九年六月三日 クローズアップ現代)

しかし、恥ずかしながら私も、天安門事件はてっきり天安門広場でデモ側が虐殺されたと思っていました。故に、私のような勘違いをしている人間だったら、上記の動画を見たら勘違いon勘違いをすること請け合いで、”クローズアップ現代は天安門事件の被害を隠蔽している!”となったのも頷けます。

という訳で、上記のデマによって勘違いをしてクローズアップ現代や、果ては国谷裕子氏をバッシングするのは、謂れの無い罪で石を投げる行為であり、名誉毀損以外の何ものでもありません。今までこのデマにだまされた人は自らの行いを省み、こんなデマあったんだと今知った方は、デマに騙されている知人友人親類がいれば、デマだと指摘してあげてください。

特に、荒れる話題なのであまり言及したくは無いのですが、強い嫌中を伴う右派の方々は、上記のデマを信じ込み、NHKを過剰なまでにバッシングしているように感じます。ありがたいことに、私の交友範囲ではそのような人はいませんが、身の回りにいたら、是非教えてあげてください。


まとめ

・天安門事件は被害者が出たのは広場外、広場での大きな虐殺は無かった

・クローズアップ現代がそれを過去に取り上げた

・天安門事件について知らない人が、誤解を誘発する動画を見て天安門事件の被害を隠蔽したと勘違いした

・この件の動画やデマが広く出回っているので、周りにデマを信じている人がいたら指摘しよう
https://blogs.yahoo.co.jp/koujittyan2/46221122.html

21. 中川隆[-9846] koaQ7Jey 2019年6月04日 11:40:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2569] 報告

NHKが『天安門事件で虐殺はなかった』と報道したというデマ 2017年08月31日
http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1067200431.html

NHKを嫌うネトウヨが好むデマがあります。それは、「NHKは『天安門事件で虐殺はなかった』と報道した」というデマです。

これはネット上ではかなり広まっている話のようで、YouTubeには、都合のいいところ繋げて、「NHKは天安門事件で虐殺はなかったと報道した」とする動画がいくつもアップされています。

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↑「天安門事件はなかったと番組構成を行い国民を欺いてきました」と大嘘をつくYoutubeの動画


他にも、「天安門 NHK」などで検索すると、同様の内容のブログなどが山ほど出てきます。このようなネット工作により、このデマは広がり、ネトウヨ番組『報道特注』でも孫向文が「天安門事件で虐殺はなかったと虚偽報道したNHK」なんて言って、さらにデマを拡散しているようですが、改めて断言しておきます。これはデマです。

現在はこの番組を私は手元に持っていませんが、かつてどこかの動画サイトで、違法アップロードと思われるますが、この番組を見たことがあります。その際に、はっきりと天安門事件での虐殺に番組は触れていたと記憶しています。また、Youtubeにアップロードされている『天安門事件での虐殺は無かった、〜NHKクローズアップ現代の捏造〜』などと題した動画でも、NHKの国やキャスターが冒頭で

「この事件で、中国当局は、民主化運動を進めていた学生や市民を武力で排除しました」

「この事件で大勢の死傷者が出ました」

と述べています。NHKが「天安門事件で虐殺はなかった」などと言っていないことは、ここだけ見てもはっきりとしています。


では、なぜ「NHKは天安門事件で虐殺はなかったと捏造報道をした」などという言説が広まってしまったのでしょう。それは、ネットのいつもの伝言ゲームが行われ、無知な自称愛国者の非知性人(いわゆる「ネトウヨ」)の間で広まっていったからなのです。


・『クロ現』HPを見るだけで否定できるデマ

実は、番組HPを見れば、一発でこのデマは否定することができるのです。番組HPにはこのように書かれています。

2017y08m30d_112508680


“4年前の北京・天安門事件のあった3時間は西側のメディアが天安門広場から遠ざけられていて未だに真相は明らかでない。しかしその時現場にいた台湾人とスペイン国営テレビの記者の証言と同テレビの映像によれば、軍の虐殺は長安街ではあったが天安門広場では起こらなかったといえる。その証言と映像を当時事件の取材にあたっていた記者がスタジオで分析し真相に迫る。


ご覧の通り、NHKはHPではっきりと「軍の虐殺」という言葉を使っています。NHKが軍の虐殺を否定した、などというのがデマだというのは、これだけで分かりますね。ご覧の通り、NHKの述べていることは、「西側メディアが天安門広場から遠ざけられていた『空白の3時間』の間、長安街では虐殺はあったが、天安門広場では虐殺はなかった」というものなのです。決して「天安門事件で虐殺はなかった」などと言っているのではないのです。


・天安門「事件」と天安門「広場」の区別もつかない人たち

では、なぜこんな言説が広まったのか。それは、自分で北京の地図を見もしない無知なうえに、自分が無知なことも自覚しない連中が、「天安門事件」=「天安門広場の事件」と早とちりしているからなのです。


北京の地図をネットで検索してもらえばわかりますが、天安門と長安街と天安門広場の位置関係はこのようになっています。

http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1067200431.html


「長安街」と言うと、日本語の感覚では「街」のように聞こえてしまいますが、実際には幅100メートル、長さ13.4キロもある、片側5車線、計10車線の巨大な目抜き通りです。天安門があり、その長安街をはさんで、天安門広場がある、というのが北京の街の構造です。


天安門広場が有名すぎるので、「天安門=天安門広場」というイメージを持たれている人も多いと思いますが、実際にはそうではありません。天安門事件は、天安門周辺で起きた事件です。有名な「戦車を止めた男」などの映像も、天安門広場ではなく長安街でのものです。

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(↑長安街での写真)

NHKの報道内容は、

 「天安門事件において、広く知られる通り、長安街では虐殺が行われた。

 天安門広場においても、西側メディアが入れなかった『空白の3時間』間、虐殺が行われていたと推測されていたが、実際には広場においては虐殺は行われなかった。」

というものなのです。決して、「天安門事件で虐殺はなかった」などとは言っていないのです。


ネットでは頻繁に伝言ゲームが行われますが、今回の場合は、


「天安門事件の『空白の3時間』において、長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」


が一気に短くなって、「天安門事件での虐殺はなかった」となってしまったのです。


本当にこういう人たちは知性を感じさせないですね。長い内容が頭に入りきらないのでしょう。ちなみに、この番組内容はこちらのサイトが詳しく紹介していますので、そちらを参考にしてください。


この絵の人たちの頭の中で何が起きているのか、「マラソン大会に出たくない子供」を想像すればわかりやすいかもしれません。「マラソン大会やりたくないなあ。中止にならないかなあ」と思っているために、「雨が降ったら、明日のマラソン大会は中止」という説明を聞いて、「雨が降ったら」という条件が耳に入らず、「明日のマラソン大会は中止」という箇所だけ聞き取って、大喜びする、という感じです。普段から「NHKは反日親中親韓マスゴミだ。マスゴミは捏造する。真実はネットにある」なんて思ってると、「天安門事件の『空白の3時間』において、天安門広場での虐殺はなかった」という内容が、「天安門事件での虐殺はなかった」という内容として頭に入ってくるのです。


なぜ人は「ネトウヨ」になってしまうのか。自分に都合のいい情報を、自分に都合のいい形で、自分に都合のいい箇所だけ受け入れるからです。自分に都合のいい情報は良く調べもしないで鵜呑みにする一方、自分に都合の悪い情報はフェイクニュース扱いする。これが彼らの思考回路です。


ネットで「NHKは天安門事件で虐殺はなかったと報道した」なんて情報を見て、それを鵜呑みにするような知性では、流言飛語の飛び交う現代のネット社会に対応できません。こんなデマを流す奴も、デマに騙されるやつも、『報道特注』なんて名乗ってデマを吐くネット動画も、信ずるに値する知性を有していないことは言うまでもありませんね。そもそも、当時からリアルタイムに状況を伝えていたNHKが「天安門事件で虐殺はなかった」などと報道するわけがないし、もしそんな報道をしていたら、ネットのアホの間だけでなく、もっと大きな問題になっているはずなんで、まともな知性と常識があれば、こんなうわさはおかしいと気が付くはずですけどね。


「Post-Truth(真実の向こう側)」の時代と言われる昨今、せめて公式HPを見れば確認できる程度のデマには騙されないようにしたいものです。そして、「雨が降ったら明日のマラソン大会は中止」という情報を、「明日のマラソン大会は中止」という内容にしてネットに流すような人が世の中にはゴロゴロいますので、ツイッターだの2ちゃんまとめだのの情報を鵜呑みにすることなく、いったん立ち止まって、情報ソースを確認してみることが大切ですね。伝言ゲームに騙されてはいけません。
http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1067200431.html

22. 中川隆[-9847] koaQ7Jey 2019年6月04日 11:53:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2569] 報告
>>6, >>20, >>21

要するに、

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」


一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」


櫻井春彦みたいな人を世間では詐欺師と呼ぶのですね。

23. 中川隆[-9858] koaQ7Jey 2019年6月04日 23:07:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2573] 報告


昨日のCh桜で坂東忠信氏@Japangard が面白いデータを出してくれた。
天安門事件の死者の内部資料での死者は総計31,978人。
https://matome.naver.jp/odai/2155960565152823101


2014年6月13日星期五
89年6月1-10日北京军队镇压处决人员统计 - 三万二千人
http://jasmineplaces.blogspot.com/2014/06/8961-10.html


作者:总参军官


以下的数字出于中共内部,时间为2004年1月11日,其本人已于2004年11月21日在北京被杀。其姓名不详,只知道是总参的高级官员。

1989年6月,在中国下达武力镇压的命令后,由于内部指挥问题导致在人民英雄纪念碑东侧与南侧镇压时误杀了混在示威人群中的近百位便衣人员。许多示威人员在被从纪念碑上清场并向东西长安街方向退散,但是为了斩草除根,避免类似的事件再次发生,消灭未来威胁统治的动力,对仍在现场的近四万人进行了血腥屠杀,由于解放军在人数上的安排,为了避免内部一些军队的不满,导致不同番号的部队协同镇压,线行推进,造成了千古奇冤。

被杀后的许多人员在死后,尸体被堆成小山,除一小部分被允许象征性摆放家属领回或认领外,大部分被强行火化,死无对证,天安门镇压地区随后进行了大规模的内部清洗及修复工作,清除血迹及弹痕,由于在镇压时采用分割方法,许多示威人员是被群体分割后以群为单位处决的,许多受伤人员后被补杀,这也就是为什么初期死亡人数很少的原因。许多离场的人员只见到小部死亡,大量受伤的情况,事实上在完全包围后,现场的人员均被处决,或被补杀,实际死亡人数远远高于人民的预期。

在中国军队内部有许多人保存有六四镇压的文字资料与影片及图片,甚至有许多远距离的天安门地区的镇压资料,或许在六四平反或中共垮台后,那些如日本法西斯 的南京大屠杀一样的血腥一幕会展现在国人面前,以下是在1989年10月12日总参统计的部份资料(不含受伤人员):


1989年6月1-10日 死亡总人数 31978人:


1、 其中学生(身份确认) 10974人

2、 普通人员(身份确认) 7992人

3、 不明人员(不予确认) 11865人


(2类3类人员含工人,农民,教授,医务人员,武警,公安人员,便衣警察,国家部委人员,离退休干部,僧尼,教会人士,外国人等)


被袭军队死亡(身份确认) 113人

军队内部误杀(身份确认) 197人

因伤过重死亡人数(医院) 837人


死亡地区:(以下含军人):

颐和园地区 12人

北京大学地区 17人

清华大学地区 23人

万寿路地区 39人

木樨地地区 11人

燕京饭店外 27人

民族饭店外 57人

西单地区 113人

西单至新华门地区 389人

人民大会堂北 271人(尸体堆群)

南长安街至南池子大街 933人(尸体堆群)

天安门广场人民大会堂一侧 3569人(大的尸体堆群)

天安门广场历史博物馆一侧 5781人(大的尸体堆群)

人民英雄纪念碑底南侧 2544人(大的尸体堆群)

人民英雄纪念碑底北侧 4633人(大的尸体堆群)

天安门广场长安街侧 9531人(大的尸体堆群)

金水桥 289人(尸体堆群)

午门 812人(尸体堆群)

前门大街 53人

崇文门地区 29人

北京饭店外 21人

建国门外 19人

二环建国门至朝阳门 33人

红庙地区 17人

进入居民宅及办公区处决 1918人

医院 837人


合计 31978人


许多人员被杀后尸体被集中,并由所在部队进行数字统计作为军队业绩的表现,许多外地及尸体破损的人员由于身份不详,无法确认。


在89年6月10日后被杀及逮捕的人员不详。


来源:《明镜新闻网》
http://jasmineplaces.blogspot.com/2014/06/8961-10.html

24. 中川隆[-9862] koaQ7Jey 2019年6月04日 23:19:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2570] 報告

天安門事件から三十年 - 天安門事件後、党中央では何が話し合われたか[R1-6-4] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=11LPd02pX1Y


キャスター:宮崎正弘・福島香織
■ 天安門事件から三十年
■ 天安門事件後、党中央では何が話し合われたか


コメント

charo41
福島香織、宮崎正弘さんの正確な情報大変ありがたいです。

長澤範子
どうしてこのような内容を地上はでは流してくれないのでしょうか。


re: Freedom
民主活動家の情報ネットワークの公開された資料では、

天安門事件で殺害された犠牲者総数は3万1978人とのことらしいです。
凄まじい大虐殺ですね。

この事件のたった4年後、NHK番組の「クローズアップ現代」では、

天安門事件で犠牲者はいなかったと報道しました。

強制的に受信料徴収して、ウソを垂れ流すNHKは解体するしかありません。


さわたりしゅう
天安門事件後に中国を救ったのは日本である。

天皇陛下の中国訪問を実現し、世界に先駆けて巨額援助を
再開した。
あの時、崩壊していればいまの侵略国家、中国の台頭はない。
また、今の沖縄や北海道、尖閣の惨状もなかった可能性も大
である。

たら・れば、はないのだが、あの時手を貸さなければ中国の
体制は崩壊していた可能性が高い。

日本はこれらを30年経った今、総括しなくてはならない。
間違っても関係改善などと欺瞞を口にするべきではない。

NHKや池上彰のように、天安門事件で犠牲者は319名しか
いなかったなどと寝とぼけたような中国擁護のフェイクを
言ってはならないと思う。

25. 中川隆[-9859] koaQ7Jey 2019年6月04日 23:48:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2573] 報告
>>24
>天安門事件後に中国を救ったのは日本である。
>天皇陛下の中国訪問を実現し、世界に先駆けて巨額援助を再開した。

上の動画の中で触れられていますが、天皇の訪中はアメリカの要請でやった事です。

26. 中川隆[-9861] koaQ7Jey 2019年6月05日 07:16:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2571] 報告

天安門事件の死者の内部資料での死者は総計31,978人。

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」


一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

天安門「事件」と天安門「広場」の区別もつかない人たち

では、なぜ「天安門事件で虐殺はなかった」という言説が広まったのか。それは、自分で北京の地図を見もしない無知なうえに、自分が無知なことも自覚しない連中が、「天安門事件」=「天安門広場の事件」と早とちりしているからなのです。


北京の地図をネットで検索してもらえばわかりますが、天安門と長安街と天安門広場の位置関係はこのようになっています。

http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1067200431.html


「長安街」と言うと、日本語の感覚では「街」のように聞こえてしまいますが、実際には幅100メートル、長さ13.4キロもある、片側5車線、計10車線の巨大な目抜き通りです。天安門があり、その長安街をはさんで、天安門広場がある、というのが北京の街の構造です。


天安門広場が有名すぎるので、「天安門=天安門広場」というイメージを持たれている人も多いと思いますが、実際にはそうではありません。天安門事件は、天安門周辺で起きた事件です。有名な「戦車を止めた男」などの映像も、天安門広場ではなく長安街でのものです。

NHKの報道内容は、

 「天安門事件において、広く知られる通り、長安街では虐殺が行われた。

 天安門広場においても、西側メディアが入れなかった『空白の3時間』間、虐殺が行われていたと推測されていたが、実際には広場においては虐殺は行われなかった。」

というものなのです。決して、「天安門事件で虐殺はなかった」などとは言っていないのです。


ネットでは頻繁に伝言ゲームが行われますが、今回の場合は、


「天安門事件の『空白の3時間』において、長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」


が一気に短くなって、「天安門事件での虐殺はなかった」となってしまったのです。
http://datsuaikokukarutonosusume.blog.jp/archives/1067200431.html

27. 中川隆[-9858] koaQ7Jey 2019年6月05日 08:22:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2575] 報告

天安門事件をひた隠しに隠す中国。中国は民主化できないまま30年経った │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=6041
28. 中川隆[-9856] koaQ7Jey 2019年6月05日 08:28:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2577] 報告

30年間眠っていた天安門事件写真2000枚 新唐人と大紀元が独占初公開 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=579iLhiz55o


2019/05/10 に公開


【新唐人NTDTV=米NYに本部を置く中国語衛星放送。中国&国際ニュースを独自の視点でお届けします https://www.ntdtv.jp/ 】#天安門事件 民主化を求めて天安門広場に終結した学生らを武力鎮圧した天安門事件から、今年で30周年を迎えます。1989年当時、19歳の北京市民劉建さんは、北京の学生らの様子を2000枚以上の写真に納めました。しかしその後、当局の宣伝を信じ、これらの写真を公開することなく、30年も保管していました。近日、劉建さんはこれらの貴重な写真を、大紀元と新唐人テレビを通して公開することを決心しました。

1989年5月30日、北京の複数の大学の学生らが作った「民主の女神像」が、天安門広場に建てられ、1989年学生運動のシンボルの一つとなりました。当時19歳だった劉建さんは、女神像の足場に登り、広場全体を写真に納める機会に恵まれました。

民主化運動の初日から、劉さんはカメラでこの歴史を記録していました。当初、北京の学生や市民は胡耀邦(こ・ようほう)元総書記の追悼のために集まりましたが、その後反腐敗と自由を求めるデモに発展しました。劉さんによると、当時学生運動は社会の各方面から支持され、解放軍の幹部らも横断幕を送って学生を励まし、警察までもが学生運動への支持に転じたといいます。

劉建さん
「私は共産党統治のない時期を体験した。学生が作った組織の運営だったが、社会は安全だった。人々は互いに思いやり、民主主義と自由を勝ち取ろうとしていた。全ての人が学生を手助けしようとしていた」

しかし、6月3日の深夜から4日の早朝にかけて、当局は軍隊を出動し、平和的な学生と市民を鎮圧し、虐殺を行いました。4日朝、劉さんはある小さな病院で、血なまぐさい光景を写真に納めました。

劉建さん
「中で40〜50人の遺体を見た。城郷貿易センターの裏に水利病院があるが、その裏にある小さな部屋に遺体が置かれていた。全て銃弾に撃たれた遺体で、悲惨だった。一部は恐ろしすぎて撮っていない。頭部が吹っ飛んでいた」

2017年12月、イギリス国立公文書館は機密文書を公開し、中国国務院の消息筋からの情報として、天安門事件で少なくとも1万人が死亡したと発表しました。

事件後、中国当局は全社会に向けて天安門事件期間中に撮影された写真のフィルムを上納するよう求め、事件の真相を覆い隠そうとしました。劉さんは60本以上に上るフィルムを家の中に隠し、つい最近まで保管していました。この30年、他の中国人同様、劉さんも生きることが精一杯で、あの歴史を忘れようとしました。

劉建さん
「中国政府は人々がこの歴史を忘れ去ってほしいと願っている。政府は毎日あれは動乱だったと宣伝している。そして一人一人が自らこの歴史を忘れようとしている」
ある日劉さんは、間も無く大学生になる娘が天安門事件に関して何も知らないことに気づきました。当局が当時多くの人を虐殺したことを信じようとしない娘を目の当たりにし、唖然としました。それでも劉さんは、自分が直接迫害を受けているわけではないから、真相を公にする必要はないと考えていたといいます。

2016年、劉さんは海外に移住しました。中国で接することのできなかった多くの真相を見ることができ、ようやく自分が深く洗脳されていたことを意識し始めました。

劉建さん
「当時は動乱だと思っていたが、今考えてみると、当時学生らはとても平和的だった。共産党を反対してもいないのに、共産党は軍隊で鎮圧した」

劉さんは、多くの普通の中国人と同じで、自分も中共にずっと騙されていたが、真相を目の当たりにし、ようやく目が覚めたと話します。天安門事件の経験者として、その真相を公にする責任があり、中共が歴史をもみ消すことは許さないと述べます。

劉建さん
「私がまさに代表的な一人で、自らこれらを忘れようとしていた。自由な情報に接した時、正義感のある人なら、自分が経験したことを世界に言うべきであると考え、これらの写真の公開に踏み切った」
天安門事件30周年を迎え、劉さんは中国に残していたフィルムを海外に持ち出しました。そして、独立メディアの大紀元と新唐人テレビを通して、歴史の真相を公開することを決心しました。自らの心境の変化を明し、もっと多くの中国人の覚醒を促したいと述べています。

29. 2019年6月08日 15:43:41 : FlZN1gUyPk : VngxNGNjR3BOZkE=[7] 報告
中川よりは信用できるな。

>>米NYに本部を置く中国語衛星放送

もろアメリカの宣伝機関じゃん。

>2016年、劉さんは海外に移住しました。中国で接することのできなかった多くの真相を見ることができ、ようやく自分が深く洗脳されていたことを意識し始めました。

西側メディアに洗脳されたんじゃない?

30. 2019年6月08日 15:50:31 : FlZN1gUyPk : VngxNGNjR3BOZkE=[8] 報告
>>16
>wiki にまで書かれているので、世間では天安門事件で1万人以上虐殺されたと思われているのですね:

思われていることと事実の区別ができないなんて中川君は大丈夫かな?

wikiが定説というもギャグを通り越してアレだぞ。

>>24

出所の怪しい情報で判断しているのは君だろう、まったく。

NHKや池上が言うくらいなら相当確度が高いぞ。
こいつらだって影響は考えるからな。

31. 中川隆[-9705] koaQ7Jey 2019年6月10日 13:08:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2752] 報告

ジョンソン政権とイスラエル政府の闇を抱えるリバティ事件(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/571.html  
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906080000/
2019.06.09 櫻井ジャーナル

 この時期になるとアメリカ海軍の情報収集船リバティに関する記事を目にする。本ブログでも何度か書いたことのある出来事だが、西側の有力メディアは触れたがらない。

 1967年6月8日、第3次中東戦争の最中にイスラエルの沖でイスラエル軍の攻撃を受け、船は沈没しかけ、乗組員9名が殺され、25名は行方不明、そして171名が負傷した。イスラエル政府は間違いだったと主張、アメリカ政府はそれを受け入れている。

 攻撃が始まる前にイスラエル軍はリバティの近くに偵察機を飛ばし、それがアメリカの艦船だということを確認している。その約4時間後には2機の戦闘機がリバティの近くに飛来、その後も2度ほどイスラエル軍は航空機を船の周辺に飛ばした。

 攻撃は始まったのは午後2時過ぎ。3機のミラージュ戦闘機がロケット弾やナパーム弾を発射している。最初に狙われたのは船の通信設備だった。つまり救援を呼べないようにしたわけだ。

 しかし、リバティの通信兵は寄せ集めの装置とアンテナでアメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信することに成功、それに気づいたイスラエル軍はジャミングで通信を妨害。その直後に3隻の魚雷艇が現れて砲撃、さらに魚雷を発射する。その魚雷が命中して船は傾いた。

 ジャミングが始まる前に第6艦隊の空母サラトガは訓練の最中で、甲板にはすぐ離陸できる4機の戦闘機があった。艦長は船首を風上に向けさせて戦闘機を離陸させている。その時、イスラエルが攻撃を開始してから15分も経っていない。そこからリバティまで約30分の距離だ。

 空母の艦長は艦隊の司令官に連絡、司令官は戦闘機の派遣を承認し、もう1隻の空母アメリカにもリバティを守るために戦闘機を向かわせるように命じる。が、空母アメリカの艦長がすぐに動くことはなかった。

 リバティが攻撃されたことはリンドン・ジョンソン大統領へすぐに報告されのだが、ロバート・マクナマラ国防長官は第6艦隊に対して戦闘機をすぐに引き返させるようにと叫んだと言われている。後にマクナマラはソ連軍がリバティを攻撃したと思ったと弁明している。

 もしリバティが沈没、生存者がいなかった場合、ソ連軍がアメリカの情報収集線を撃沈したと国防長官は主張、有力メディアはそのシナリオを世界に向けて発信した可能性が高い。

 しかし、リバティは沈没せず、生き残った乗組員がいる。アメリカ政府は3時過ぎ、リバティへ戦闘機と艦船を派遣するという至急電を打っている。この時、リバティはメッセージを受信できない状況だったが、イスラエル軍は傍受した。

 この決定を受け、空母2隻から8機が発信、艦隊司令官はホワイトハウスに対し、戦闘機は4時前後に現場へ到着すると報告する。その数分後にイスラエルの魚雷艇は最後の攻撃を実行した。

 それから15分ほど後にイスラエル軍はアメリカ側に対し、アメリカの艦船を誤爆したと伝えて謝罪、アメリカ政府はその謝罪を受け入れたのだ。

 一連のやりとりをアメリカの電子情報機関NSAは記録していたのだが、CIAの分析官だったレイ・マクガバンらによると、その記録は後にすべて破棄されている。

 実は、リバティに対する攻撃にジョンソン政権が関係していた、あるいは主犯だという疑いもある。この政権で秘密工作を統括していた303委員会で1967年4月、フロントレット615という計画が説明されているのだが、その内容が問題なのだ。

リバティと潜水艦を地中海の東岸へ派遣するというもので、実際、後にリバティや潜水艦は派遣された。潜水艦の乗組員もイスラエル軍による攻撃を目撃している。当初の計画では潜水艦も撃沈する予定だったのかもしれない。

 この計画の中にはリバティを沈没させ、その責任をエジプト、あるいはソ連に押しつけて戦争を始めることも含まれていたと言われているのだ。

 ジョンソンの前の大統領、ジョン・F・ケネディは1963年11月に暗殺されているが、その時にアメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた。それを阻止したケネディは暗殺され、イスラエル系富豪エイブラハム・フェインバーグをスポンサーとするジョンソンが副大統領から昇格したのだ。ちなみに、フェインバーグはフランスのロスチャイルドと同じようにイスラエルの核兵器開発を支援していた。

 箝口令を無視して話し始めたリバティの乗組員がいるほか、さまざまな形で情報は漏れてきているが、公的な記録の大半は処分されている。その処分の責任者はアメリカ海軍太平洋艦隊の司令官だったジョン・マケイン・ジュニア、つまりジョン・マケイン3世上院議員の父親にほかならない。


コメント

7. 2019年6月10日 11:19:24 : FGnOQRqLW9 : YS5jVE1jd2NjWS4=[17]

>アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた。
>それを阻止したケネディは暗殺され、イスラエル系富豪エイブラハム・フェイン
>バーグをスポンサーとするジョンソンが副大統領から昇格したのだ。


この手の陰謀論のおかしなところは「先制核攻撃を目論んで」大統領暗殺までしたはずなのに、次のジョンソンでも当然、先制核攻撃など行われていないことだ。

ジョンソンもその後の大統領もみんなケネディにならって「先制核攻撃を阻止した」のか?

そんなわけあるまい。
最初からそんな目論見など無かったと考えるのが自然だろう。

13. 2019年6月10日 12:46:00 : LiAK8mOVpk : V2FhZTZ2MG5HWm8=[240] 報告
>>7さん
>最初からそんな目論見など無かったと考えるのが自然だろう。
それは無いでしょう、桜井氏は常々記事の中で出典を付けてアメリカの核先制攻撃の計画を書いています。

キューバ危機の資料を見ても核の先制攻撃の話は出ています、それをケネディーは取らなかったと有ります、アメリカは下手をすれば核の先制攻撃やるでしょう、その為の核の保持で有り訓練ですから、その条件を整えさせては行けません、人類の破滅です、私たちはこの事をよく認識すべきでしょう、核が亡くならない限りこの脅威は無くなりません。



14. 2019年6月10日 13:00:15 : FGnOQRqLW9 : YS5jVE1jd2NjWS4=[18] 報告

>アメリカの核先制攻撃の計画


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/571.html

32. 中川隆[-9700] koaQ7Jey 2019年6月10日 13:26:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2757] 報告

16. 2019年6月10日 13:18:47 : FGnOQRqLW9 : YS5jVE1jd2NjWS4=[19]

一応、言っておくと

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。

http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/571.html

33. 中川隆[-9667] koaQ7Jey 2019年6月11日 14:16:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2793] 報告

17. 2019年6月11日 12:16:56 : 9TAL1ik83g : NXc4dGlvR2J6YzI=[2]

先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。

34. 中川隆[-9607] koaQ7Jey 2019年6月15日 07:49:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2864] 報告

今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった

2019年06月14日
GDP韓国以下のロシアに謝罪外交する日本


プーチンは安倍首相を「金を払うばか」としか見ていない


画像引用:http://d2dcan0armyq93.cloudfront.net/photo/odai/600/bbfdf1fdbeca67bf376b66ad6c2d529f_600.jpg

ロシアは大国なのか?

ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。

先日日本の野党議員が「ロシアと戦争して北方領土を取り返すのに賛成か」というアンケートをしたが、その反応は驚くようなものだった。

日本中の国会議員や有識者や政府関係者が一斉にロシアへの謝罪を表明し、この議員を国会から追放すべきだと騒いだ。


「日本国を廃止して中国に併合してもらう」と言った鳩山総理は誰も問題視しなかったのに、ロシアに盾突くと国会議員でも追放されてしまう。

日本人がいかにロシアを恐れているかがこれで明らかになったのだが、ロシアはそんなに「大国」なのでしょうか?

経済規模が同じ韓国やイタリアは恐れないのに、ロシアに謝罪を表明する日本人はとても奇妙です。


謝罪外交は日本の不利益になる

北方領土は戦争によってロシアに奪われた日本国の領土であり、非難されるべきはロシアであって日本ではない。

安倍首相は今まで何度もプーチンと会ったが、一島も返還してもらえないのに経済援助だけを繰り返している。

プーチンにしたら安倍は子分かいじめられっ子に過ぎず、今後も同じことを繰り返す。


安倍首相には外交がまったくわかっておらず、謝罪して頭を下げて金を渡せば「ボクをいじめるのを辞めてくれる」と考えている。

こんな人が総理大臣では北方領土は帰ってくるどころか、ロシア領土だと正式に認めかねない。

80年代から90年代に散々繰り返して失敗した「謝罪外交」そのもので、村山富市と何も変わらない。


ロシアは韓国以下の経済だからこそ、虚勢を張って問題を起こし、戦争の危機を煽っている。

シリアやベネズエラやトルコにロシア軍を派遣して、「核戦争になるぞ」と叫び、「戦争が嫌ならロシアを援助しろ」と言っている。

やってる事は北朝鮮の金正日や金正恩と同じで、いわゆる瀬戸際外交というものです。


こんな国家はもう一押しすれば倒れるのだが、クリントンやブッシュのような間抜けは「戦争にならないよう北朝鮮を援助しよう」と言って金を渡した。

渡した金を北朝鮮は国民には渡さず、全額核ミサイル開発に使ったのが分かっています。

安倍首相がやっているのもクリントンやブッシュと同じで、ロシアの軍備増強を助けているに過ぎない。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


▲△▽▼

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html

林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/457.html

35. 中川隆[-9592] koaQ7Jey 2019年6月16日 17:29:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2882] 報告

2019年06月16日
マスコミは日本の貧困を特集するが、中国の貧困に触れない

NHKは「シルクロード」の見返りに、天安門事件は無かったと特集番組を放送した


引用:https://pimg.togetter.com/6a53df0d318cd39f6caa4d38a7e12358ba44ffdd/68747470733a2f2f692e7974696d672e636f6d2f76692f5a67385a634653797971452f6d7164656661756c742e6a7067

中国の貧困に触れない国営放送

日本のテレビとマスコミは「貧困女子高生」などを特集するのが大好きだが、中国の貧困については絶対に報道しない。

これは1970年代から始まっていて、中国から入国や取材拒否されるのを恐れてタブーとなっていた。

国民から受信料という税金を取っている国営放送NHKは、1979年から1989年にかけて「シルクロード」という超人気番組を制作し放送した。



視聴率は毎回20%に達し、ドリフやひょうきん族を上回る人気ぶりで、NHKはこれ以降中国に批判的な報道を一切しなくなった。

実は「シルクロード」取材地の多くは現在少数民族の居住区で、過去に中国軍の核実験場に使用されていた。

「シルクロード」を見た日本人が核実験場を観光し、10万人以上が(軽度の)被ばくしたといわれているが、これも一切報道していない。


核実験場に数時間滞在したくらいでは健康被害はないのだが、だからと言って「報道しなくていい」のだろうか?

「シルクロード」の最終回は1989年8月16日だが、終わった理由は6月4日に「天安門事件」が発生したからでした。

全世界が中国による民主化弾圧を放送しているのに、NHKだけが「中国は素晴らしい」「4000年のロマン」などと言っていました。


これには後日談があり、1993年6月3日「クローズアップ現代」 で司会の国谷裕子が「天安門事件はなかった」と断定している。

民放の日本テレビも「西遊記」という中国番組を制作し、現地でロケや取材をする見返りに、中国を批判する報道を一切やめた。

他のテレビ局や新聞も「中国は金になる」と中国ものを特集し、取材を許可してもらうために中国批判をしないようになった。


これが日本メディアの中国報道の残念な現状です。

中国では貧困報道や写真を公開するのが禁止されていて、記者なら国家資格をはく奪され逮捕される

外国人も拘束されるか国外追放され取材拒否されるので、NHKや日本マスコミは絶対に中国の貧困を報道しない


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画像引用:http://www1.star2.com/wp-content/uploads/2018/01/str2_anncoldreality_ivyseb_1~1.jpg


ひたすら中国を褒めたたえる理由

代わってテレビやメディアは「中国人は金持ちで日本人は貧乏」という対比特集を連発するようになります。

有名経済誌の「日本を選んで"貧困"に落ちた中国人の後悔-上海のお手伝いさんより月給が安い」などは今も検索すると見る事ができる。

上海や北京では日本の上場企業より収入が多く、地方や農村でも日本より豊かだと力説しているが、冷静に考えればあり得ないのが分かる。


中国の1人当たりGDPは発表を鵜呑みにしても日本の4分の1以下、中国の平均年収80万円に対して日本は400万円程度の比率です。

「中国政府発表の」中国労働者の平均年収は80万円程度だが、平均を上回っているのは上海と北京だけです。

農民の平均年収は今も10万円程度であり、年収3万円以下の貧困層も相当数存在しています。


ファーウェイやアリババの上級社員は確かにソニーやトヨタの社員より年収が高いかも知れないが、中国人全体には当てはまらない。

経済マスコミは中国政府から取材拒否されると取材できず情報も得られないので、一般メディアよりむしろ中国崇拝記事が酷い。

こうして日本中のあらゆるメディアが中国政府にひざまずき、中国は素晴らしい国だと褒めたたえています。


では中国には貧困は一切ないのかと言えば、実際には13億人のかなりが貧困状態なのです。

貧困の中国

中国の農村部は沿岸部に近い地域は都市部に農作物を売って大儲けしています。

マスコミはこれだけを取材して(実は中国側から写真を貰って転載するだけだが)、「中国の農村は日本より豊かだった」と報道しています。

都市から離れた奥地の農村には現金収入がなく、年収に直すと3万円以下の農民が多く存在している。


社会保障はなにもないが幹線道路と公共施設だけ立派だったりするので、素通りすると豊かな農村に見える。

中国の都市部には公的年金や保険があるが、貧しい農村部には何もなく老後の収入もない。

畑で取れる野菜などだけが収入源だが、共産主義なので自分の土地ではない。


土地はすべて国家の財産なので、国が取り上げれば少額の保証金を渡されて強制移住させられます。

こうした村には電気、ガス、水道がなく住民は近代以前の生活をし、自給自足で暮らしている。

ウイグルやチベット、内モンゴルは漢民族の敵とされ、特にウイグル人は意図的な貧困状態に貶められている。


北京や上海には年収1000万以上の人が居る一方で、異民族の土地では年収3万円以下の農民が自給自足しています。
http://www.thutmosev.com/archives/80134556.html

36. 中川隆[-9510] koaQ7Jey 2019年6月18日 19:37:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2966] 報告


貧乏国・北朝鮮はなぜ、ハイテクの核技術をもっているのか大胆に推理する 2013/2/20
https://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31483758.html

1.北朝鮮の核開発を支援しているのはイラン?

 2013年2月12日、北朝鮮が核実験を行っていますが、最近の日本のマスコミ報道によれば、この核実験にイランの科学者が立ち会ったと英国マスコミが報道したそうです(注1)。この報道から、北朝鮮の核開発に協力しているのはイランであるかのように受け取れますが、果たしてそうでしょうか。

さて、北朝鮮の核開発について、本ブログでもすでに取り上げています(注2、注3、注4)。

 本ブログでは、米日韓に向けて北朝鮮の核脅威を故意に創出している黒幕は米国戦争屋ネオコンとみなしています。

なお、上記、米国戦争屋(世界的寡頭勢力の主要構成メンバー)およびそのロボット・悪徳ペンタゴンを構成する日本人勢力の定義は本ブログNo.687の注記をご覧ください。

 以上より、上記の英国マスコミ報道と本ブログの見方は大きく異なります。北朝鮮の核技術開発にイランはほんとうに関与しているのでしょうか。

 なお、今のところ、イラン当局はこの報道を否定しています(注1)。

2.イスラエルはイランを恫喝するのみ

 上記の北朝鮮核実験へのイラン科学者立ち会いの報道と前後して、イスラエルのネタニヤフ首相は、イランの核施設攻撃をにおわせています(注5)。

 イランの核開発関係者が北朝鮮と交流しているという報道と、イスラエルがイランへの攻撃をほのめかす報道は水面下でリンクしていると思います。

 ところが不思議なことに、ネタニヤフ首相(ネオコン系)は、イランと北朝鮮が核技術開発で協力し合っているとは言っていません。上記の英国紙の報道が事実なら、ネタニヤフは鬼のクビでも獲ったかのように大騒ぎするはずです。なぜ、ネタニヤフは大騒ぎしないのでしょうか。

 本ブログの見方では、北朝鮮とイランが核技術開発で本当に交流しているなら、米戦争屋ネオコンが黙っているはずがなく、今頃、北朝鮮の核施設は米軍によって空爆されているでしょう。

3.米国戦争屋ネオコンのラムズフェルド元米国防長官と北朝鮮の関係

 本ブログでは、北朝鮮があれだけ、米国や日韓を核挑発しても、あの米戦争屋ネオコンが冷静なのは、北朝鮮軍部と米国戦争屋ネオコンが水面下でつながっているからとみなしています。本ブログが、北と米戦争屋ネオコンがつながっているとみなす根拠、それは、米戦争屋ネオコンの権化・ラムズフェルド元米国防長官が北朝鮮と秘密裏につながっているのではないかという疑惑が米国にかつて存在していたからです(注6)。

ところで、2000年にスイスのABBは北朝鮮に原子炉(軽水炉)を売っていますが(注7)、ラムズフェルドは1990年から2001年までABBの役員をしていました(注8)。

 ABBは2000年に北朝鮮に軽水炉を売ってすぐに原子力事業を英国の核燃料公社(BNFL)に売却しています(注9)。

 また、北朝鮮はなぜか、2000年に唐突に英国と国交を樹立しています(注10)。なぜでしょうか、実に不思議です。本ブログでは、ABBの原子力事業を買収したのが英国核燃料公社(BNFL)だからではないかとみなしています。この事実から、北朝鮮は英国経由で核技術を入手できるはずです。

4.米国戦争屋ネオコンにとって、北朝鮮の核開発にイランが関与していることにするのは好都合

 さて、北朝鮮と国交のある英国のマスコミが、北朝鮮とイランが核開発でつながっていると報道するのは、米戦争屋ネオコンおよび、その仲間のイスラエルにとって実に好都合です。その理由は、

(1)米国民や日韓国民に、北朝鮮およびイランの核脅威を相乗効果的にアピールできる。

(2)米戦争屋ネオコンの所有物である米軍やイスラエル軍が北朝鮮あるいはイランを先制攻撃するのに絶好の口実が得られる。

 なお、上記の本ブログの大胆な推理、すなわち、北朝鮮の核技術は米戦争屋ネオコン(イスラエルのネオコン含む)によって英国経由で密かに供与されているのではないかという推理はすべて、ネットの公開情報によって組み立てられています。

注1:産経ニュース“核実験視察はイラン科学者、北朝鮮で 英紙報道”2013年2月19日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130219/mds13021923350004-n1.htm

注2:本ブログNo.719『中国の尖閣挑発も北朝鮮の核挑発も米国内の軍事覇権争奪を巡る暗闘の結果にすぎない:ヘーゲル氏の新国防長官人事の米議会承認如何で決まる近未来の極東情勢』2013年2月10日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31422507.html

注3:本ブログNo.720『貧乏国・北朝鮮が単独で核実験できるほど核技術開発は甘くない:その背後関係を読まないとわれら国民は大損する!』2013年2月11日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31428203.html

注4:本ブログNo.721『北朝鮮の核実験強行のお騒がせに日米両国民は至って冷静:飼い主に守られて吠えまくる小型犬を彷彿とさせるから?』2013年2月14日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31446735.html

注5:ロイター“イスラエル首相「北朝鮮の核実験が教訓」、イラン攻撃も示唆”2013年2月18日
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE91H04S20130218

注6:CNN“Rummy's North Korea Connection What did Donald Rumsfeld know about ABB's deal to build nuclear reactors there? And why won't he talk about it?”2003年5月12日
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune_archive/2003/05/12/342316/index.htm

注7:暗いニュースリンク“ラムズフェルドの北朝鮮コネクション”2006年10月20日
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2006/10/post_9394.html

注8:Donald Rumsfeld
http://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Rumsfeld

注9:英国核燃料公社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E6%A0%B8%E7%87%83%E6%96%99%E4%BC%9A%E7%A4%BE

注10:朝鮮民主主義人民共和国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82

ベンチャー革命投稿の過去ログ
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/melma.htm

テックベンチャー投稿の過去ログ
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/8285/column-top.html


https://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/31483758.html

37. 中川隆[-9465] koaQ7Jey 2019年6月19日 21:23:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3013] 報告

いわんかな#24-2
【中国共産党崩壊間近!天安門事件を振り返る★中国タブー!後半】
福島香織・堤堯・馬渕睦夫・高山正之・日下公人・志方俊之・塩見和子 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=t8Q75jEcySU

収録日:2019年6月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)


38. 中川隆[-9311] koaQ7Jey 2019年6月24日 04:39:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3178] 報告

2019.6.19
29年前、なぜ日本は中国に「制裁解除」したのか?
譚璐美Text by Romi Tan
https://courrier.jp/columns/164395/?cx_testId=2&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=12#cxrecs_s


1989年6月2日。中国共産党による武力弾圧が起こる2日前の天安門広場 Photo: Jacques Langevin / Sygma / Sygma via Getty Images


およそ29年前。天安門事件によって国際社会から経済制裁を受けていた中国に対し、日本は救いの手を差し伸べた。そこにはどんな“裏”があったのか──? 

在日華僑に生まれ米国で学び、現在ニューヨーク在住の作家・譚璐美氏による、「3ヵ国クロスオーバーの視点」連載・第9回。

今年6月4日は「天安門事件30周年」だった。日本でも盛んに報道されたので、ご存知の方も少なくないだろう。天安門事件とは、1989年春、北京で民主化を求めた学生や市民たちの運動を中国政府が武力弾圧した事件だが、その経緯についてはここでは語らない。

私としては、毎年のイベントと化した天安門事件関連の報道が一過性で終わってしまうことへの味気なさを感じつつ、同時に、ああ、真実は決して表には出てこないのだという無力感に苛まれてしまう。

「真実」とはなにか。それは天安門事件直後に日本が果たした大きな役割である。

事件直後、世界中が中国に対して経済制裁を実施するなかで、日本は率先して経済制裁を解除し、世界中から大きな非難を浴びた。しかしその後、欧州各国は次々に経済制裁を解き、貿易を再開して、今日の経済大国・中国へと大きく成長させる道を開いた。

なぜ、あのとき日本はいち早く経済制裁を解除したのだろうか?

今年の報道で、日本政府の高官の一人はテレビインタビューに応じて、「中国を孤立させてはならないと思ったからです。当時、アジアの多くの国々では、経済発展さえすれば、それに従って民主化が進むのが常でした。だから中国も経済発展すれば民主化が進むと考えたのです」と、答えている。

だが、この答えは当時の状況を十分に伝えているかとは言えない。実は、事件直後、日本はアメリカと協議して、膠着した事態を打開するため一役買っていたのである。

その「真実」を知るカギは、ある亡命者の人生にあった。


「日本」への不可解な反応

天安門事件が起きた翌年1月、私は世界中に亡命した事件の当事者たちを追ってフランスとアメリカへ取材に行き、100人近くインタビューして『柴玲の見た夢 天安門の炎は消えず』を出版した。その10年後にも、亡命者たちがその後どんな人生を辿り、事件をどう振り返っているのかを聞き取り、『天安門 十年の夢』を出版した。

この20年にわたるインタビューのなかで、ひとりだけ不可解な反応を示した人がいた。それは天体物理学者の方励之(ほう・れいし)である。

Photo: Melirius 天体物理学者で、中国の民主化運動家でもあった方励之(2010年)


事件当時、彼は中国政府から「学生デモの陰の指導者」と名指しされ、武力弾圧が起きた翌日の6月5日、北京のアメリカ大使館へ逃げ込んだ。そしてアメリカのヘンリー・キッシンジャー元国務長官とケ小平の交渉の末に、一年後の1990年6月25日に家族全員でイギリスへ出国し、アメリカへ渡った。

私が方励之にインタビューしたのは、彼がプリンストン大学院に腰を落ち着けた直後のことだった。

方励之は世界中のメディアから取材申し込みが殺到し、15分刻みのスケジュールで対応していた。私の前に取材していたのは「ニューヨーク・タイムズ」だったが、なごやかな雰囲気のなか、彼は笑顔を浮かべて記者の質問に丁寧に答えていた。

ところが私の番になると、急に仏頂面になり、木で鼻をくくったような受け答えになった。私は戸惑い、なぜこれほど不愉快そうな態度を示すのか不思議だったが、あっという間に15分が過ぎていった。

そして最後に「日本へのメッセージはありますか?」と聞いたとき、彼は突如、語気を荒げて大声で言い放った。

「日本はけしからん! 経済制裁をいち早く解除して、中国政府を支援した。日本人は人権を無視している。不愉快極まりない!」

驚くほどの剣幕に、たじたじとなった。天安門事件の当事者で、日本に対してこれほど露骨に怒りをあらわす相手に出会ったことはない。不可解な印象は拭いきれず、その後もずっと疑問が心に引っかかっていた。

その疑問が氷解したのは事件から22年後のことである。



制裁解除の「裏側」

方励之は1991年にアリゾナ州立大学の終身教授に就任し、学究生活を続けていたが、2012年4月6日、心臓発作によりツーソンで亡くなった。その前年、彼は米月刊誌「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」のインタビューに答えて、事件当時のことを回想していた。

それによれば、アメリカ大使館に籠城していた時期、ケ小平はアメリカに対して「経済制裁の解除」と「借款の再開」を要求する一方、彼に対しても、「懺悔書」を中国政府に提出することを強く求めた。もし二つの条件をクリアすれば、彼が家族と一緒に出国することを許可すると表明した。

だが、アメリカはケ小平の要求を突っぱねた。米中交渉は暗礁に乗り上げ、膠着状態は半年以上続き、先が見通せなかった。だが、それでも彼が出国できたのはなぜですかと記者に問われると、

「日本政府がアメリカに代わって経済制裁を解除したからです」

と、方励之は言ったのである。

事実、方励之が中国からイギリスへ出国し、アメリカへ渡ったのを見届けるように、約2週間後に日本は世界で最初に経済制裁を解除し、中国への政府借款を再開している。

つまり、天安門事件直後、米中両国の最大のネックとなったのが方励之の籠城問題であり、長引く政治交渉で引くに引けないアメリカが、極秘裏に日本に「裏」の支援を頼み、日本がアメリカに代わって経済制裁を解除することで事態の打開を図ったのである。

まさに政治交渉の舞台裏である。


迫られた「苦渋の選択」

だが、それならそれで、方励之は日本のおかげで中国から脱出できたことになる。日本には感謝こそすれ、非難する理由などないはずだ。ところが、彼は私の取材に対して語気を荒げて日本を非難した。その心中はいかばかりだったのか。

これは推測だが、彼は事件直後の危機的状況のなかで、苦渋の選択を迫られたはずだ。

彼は身に降りかかった難題を解決するために、民主化運動で学生たちに教えてきた「人権の尊重」「言論の自由」という理想や信念にはいっとき目をつぶり、現実的な選択をしたのだ。自分から「経歴書」をしたためて中国政府に提出したのも、それをケ小平が「懺悔書」と見なすことを承知の上であっただろう。

だが、アメリカへ出国した後、彼は自分自身の矛盾に苛まれたにちがいない。日本から来た私の取材に応じるとき、急に不機嫌になったのも、「日本」という存在を強く意識して自己矛盾を突きつけられたような気になり、不安と苛立ちを覚えたのではなかったか。

「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」のインタビューで内心を吐露するまでの22年間、彼はずっと重荷を背負い込んできたのではなかったかと、私は感じた。

今は、すでに亡き方励之の冥福を祈るばかりだが、天安門事件による膠着状態を打開するために、激しく火花を散らした米中政治交渉の舞台裏で、日本が秘かに果たした役割は誠に大きかったのである。



米中貿易戦争の「狭間」

天安門事件から30年。今日では、経済発展さえすれば民主化が進むというのは、「中国を見誤っていた」という見解が広まっている。

習近平政権は、国家主席の任期を撤廃して独裁色を強め、AI技術を駆使して国民への監視を強め、二度と天安門事件のような不測の事態が起きないよう、不満の芽を摘み取ることに汲々としている。

「一国二制度」を建前とする香港では、法律が次々と書き替えられて言論の自由が「虫の息」になった。今年、香港で行われた天安門事件の追悼集会に呼ばれたアメリカ在住の元学生リーダーは、香港の空港で拘束されて入国できず、強制送還になった。

軍事力を強化して急速に拡大主義をはかる中国は、世界中の大きな脅威になっている。

今年の天安門事件の報道では、かつて日本が果たした役割については微塵も触れられていない。真実はいつも闇の中にある。そして真実を覆い隠したまま歴史は流れていく。だが、歴史は往々にしてくりかえすのも常だろう。

今また、米中両国が貿易戦争の真っただ中で膠着状態に陥っている時代に、日本が果たすべき役割が期待されている。水面下ではすでに着々と「裏」工作が進んでいるかもしれない。

無論、未来のことは誰にも見通せない。しかし、次の時代になって「あの時は見誤っていた」という自省の弁を残さないためにも、今、日本は深い見識と国際感覚、冷静な分析が求められている。
https://courrier.jp/columns/164395/?cx_testId=2&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=12#cxrecs_s

39. 中川隆[-9310] koaQ7Jey 2019年6月24日 04:42:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3179] 報告
2019.6.4
#49 天安門事件から30年目の初証言──元「人民解放軍・女性記者」が見た“地獄”
田中淳 Text by Jun Tanaka
https://courrier.jp/columns/163131/?utm_source=article_link&utm_medium=textlink&utm_campaign=articleid_164395


天安門事件が起きた1989年当時、中国人民解放軍の女性記者だった江林 Photo: The New York Times


民主化を求める市民が武力鎮圧された「六四天安門事件」から30年の節目を迎えた中国。この間、飛躍的な経済成長を遂げたものの、言論統制や一党独裁体制は強化される一方で、民主化への道は絶望的なほど遠い。

中国人民解放軍の女性記者として事件を目撃した江林(ジアン・リン、66)は初めて米「ニューヨーク・タイムズ」と米連邦議会の出資するメディア「ラジオ・フリー・アジア(自由亜洲電台、RFA)」の取材に応じ、封印していた当時の状況を克明に語った。


民主化を求めて天安門広場に集まった市民たち(1989年6月1日)。人民解放軍による武力鎮圧が目前に迫っていた Photo: Peter Charlesworth / LightRocket via Getty Images
民主化を求めて天安門広場に集まった市民たち(1989年6月1日)。人民解放軍による武力鎮圧が目前に迫っていた Photo: Peter Charlesworth / LightRocket via Getty Images


7人の大将が「銃口を向けるな」

人民解放軍の中校(中佐)で機関紙『解放軍報』の女性記者だった江林は、大虐殺が発生した1989年6月3日深夜から翌4日早朝にかけて、 天安門広場と病院で殺戮の一部始終を目撃した。立場上、その時に見聞きしたことの全てを封印してきた彼女だが、「加害者」である解放軍に籍を置く者として、絶えず良心の呵責の念に苛まれてきたという。

新中国の建国から間もない1953年に高級将校の娘として生まれた江林は、北京市内の解放軍将官専用住宅区で育ち、16歳で入隊。中国人民解放軍芸術学院を卒業後、『解放軍報』記者となった。事件当時36歳だった彼女は今年、30年の沈黙を破り、北京市順義区内の自宅で初めて取材に応じる。そして「習近平国家主席を含む指導者たちがこの30年間、虐殺を少しも悔いるそぶりを見せない」ことに絶望した彼女は5月末、中国を捨てて密かに海外へ移住した。

彼女の証言は、 軍上層部の何人かが武力鎮圧に反対した事実を明らかにしている。

虐殺の数日前、人民解放軍の最精鋭部隊である北京軍区第38集団軍の軍長(司令官)だった徐勤先(シュー・チュアンシン、84)は、最高軍事指導機関の中国共産党中央軍事委員会(中央軍委)から、天安門広場を占拠する市民を「清場(強制排除)」するための出軍命令を受けた。だが彼は「人民に銃口は向けられない」と拒否し、免職。のちに軍法会議で禁錮5年の有期徒刑判決を受ける。

江によると、5月20日に国務院(中央政府)が戒厳令を発令して以降、7人の上将(大将)が連名で中央軍委主席のケ小平に対し、武力鎮圧に反対する手紙を提出した。

「人民解放軍は人民のための軍隊であり、人民に向かって発砲すべきではない」とする内容で、江は手紙の起草やケ小平への伝達を仲介したという。

「当時、軍の上層部は多くが武力鎮圧に反対していたし、私は手紙の内容を広く報道するべきだと思った。そこで中国共産党の機関紙『人民日報』編集部に電話し、旧知の編集者に詳細を伝えたの。

『人民日報』は当時、編集長判断で市民の抗議活動についての記事も出していたからね。でも結局、7人の上将のうちの1人が『公にするために書いた手紙ではない』と言って掲載に反対したから、記事になることはなかった……」

江はこの段階でも、「清場」に反対する軍上層部の声が最高指導者・ケ小平の耳に届き、ギリギリの時点でケが武力鎮圧を断念するという希望を捨てていなかったという。だが6月3日午後、親しい友人で総参謀部軍訓部戦役局の局長だった張勝(ヂャン・ション、73)から「30万人以上の戒厳部隊が天安門広場に向かっているらしい。途中で発砲も起きている」と知らされる。北京市人民政府と戒厳部隊指揮部は同夜9時50分、北京市民に対して外出禁止令を布告し、市内の緊張は極限に達していた。



スタンガンで殴打されて

「3日深夜11時ごろ、私、張勝、彼の妻子がそれぞれ自転車に跨がり、外出禁止命令を無視して天安門広場に向かった。私には『解放軍報』記者として、国家の重大事を最前線で目撃しなければならないという使命感があったから。

ただ、あの晩はどうしても軍服を着る気になれなくて、普段着のまま現場に向かった。抗議活動中の市民に間違えられる危険性を承知の上でね」


Changan Avenue
1989年6月4日未明の長安街 Photo: Peter Charlesworth / LightRocket via Getty Images

兵士と戦車、装甲車から成る鎮圧部隊を自転車で追いながら、江も天安門広場へ向かった。途中、部隊は、市民が路線バスを積み上げて作ったバリケードに進路を阻まれてしまう。バリケードを取り囲みながら「ファシスト!」「ファシスト!」と抗議のシュプレヒコールを上げている市民に向かって、兵士は無慈悲に機関銃掃射した。

「発砲が始まるや否やとっさに自転車を投げ捨てて地面に突っ伏したのだけど、頭上を飛び交う銃弾の音を聞きながら高鳴る鼓動を抑えることができなかった。銃声と同時にバスが爆発し、ものすごい熱風が吹き込んできたことも恐怖だった」

中心部に近い復興門大街と白雲路の交差点付近では、天安門の方向から血まみれになった市民が、自転車にくくり付けられた荷車に横たわりながら間断なくやってくるのを目にする。

「私は涙を抑えることができなかった。両親は解放軍の幹部で、私自身も解放軍に籍を置く軍人。その解放軍が市民に銃弾を放ち、彼らを血まみれにしたのだから」

4日深夜0時近くになって天安門の城門のそばに到着した江は、兵士たちのヘルメット越しに、閃光と激しい火柱、絶え間ない銃撃で混乱の極みにある広場を遠望する。メインストリートの長安街を横断して広場に向かおうとした江は、炎を背にして立つ年配の守備兵に行く手を阻まれ「頼むからこれ以上、広場に近づかないでくれ」と懇願される。

「でも私は広場で何が起きているかをこの目で確かめたかったから、彼の制止を振り切ろうとしたわけ。

そうしたらたちまち十数人の武警(中国人民武装警察部隊。治安維持を主務とする軍隊)に取り囲まれ、スタンガンで激しく殴られた。頭から出血した私はその場に倒れ込んでしまって……」

それでも江は決して、自身が人民解放軍の軍人であることを明かさなかった。

「意識が遠のきながらも、今日の私は軍人ではない、市民のひとりなのだって言い聞かせていた気がする」

幸い、通りがかった市民が血だらけになった彼女を抱え起こして自転車に乗せ、さらに見ず知らずの外国人記者が自動車で、広場から800mほど離れた北京協和医院まで搬送してくれたという。



身元を明かせば最後…


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頭部の縫合手当を受けている最中にも、ひっきりなしに大勢の死傷者が病院へ運び込まれた。

「私が協和医院に到着したと同時に一台の路線バスが横づけされたの。転がり出てきた運転手が号泣しながら大声で『車内には血だらけになった怪我人が大勢いる! 医師よ! 早く助けてやってくれ!』って叫んでいた。

外来棟の床は血で染まり、銃殺された人や殴打されて死んだ人のおびただしい遺体で歩く隙間もないほどでね。後で聞いたのだけど、銃声を聞いた北京協和医院の医師たちは直ちに救急車で広場に駆け付けたものの、兵士に追い返され、遺体を回収することすらかなわなかったらしいの」

一命を取り留めた怪我人たちは、誰もが一様に自分の名前や勤務先、学校名を明かすことをためらっていたという。

「(情報機関の)国家安全局の職員が一人ひとりに聞き取り調査をしながら患者名簿を作っていたから、名簿にリストアップされれば自分がその先どうなるのか、皆わかっていたのね……」

6月4日の未明には搬送されてくる死傷者の数が極限に達したため、江ら比較的軽傷だった患者はまとめて救急車に乗せられ、中日友好医院へ移送された。

「救急車の車内では1人の若者が私に向かって『さあ君、顔を上げて。俺たちは決して負けたわけじゃないよ』と言いながら、ポケットから銃弾を取り出して見せた。

彼は国家公安部(公安省)の庁舎前で、眼の前の兵士が自分たちに向けている銃をわしづかみにし、勇敢にも銃口を地面に叩き付けたらしいの。『これで何人かが銃殺を免れた。その間に別の銃から放たれた弾が腕に刺さったのだが、自分で引き抜いた』って」

あの時の感情を問われた江は「そうね……。母親が強姦されたのにも等しい耐え難さ、とでも言えばいいのか……」とつぶやいた。彼女はスタンガンで殴打されて以来、頭部には大きな傷跡が残り、今も原因不明の発作的な偏頭痛に悩まされているという。


人民解放軍による「清場」によって焼け焦げたバス(1989年6月4日) Photo by Chip HIRES / Gamma-Rapho via Getty Images
人民解放軍による「清場」によって焼け焦げたバス(1989年6月4日) Photo by Chip HIRES / Gamma-Rapho via Getty Images

そして江のキャリアも、天安門事件で終わりを告げた。

彼女は事件の数ヵ月後、上層部の厳しい審問を受け、私的に回顧録を書き記したことなどが軍紀に違反したとして2回、逮捕・拘留される。軍籍を剥奪されることだけはなかったが、『解放軍報』を強制解雇され、その後、いかなるメディアも彼女を雇用することはなかった。軍は1996年に43歳で退役した。

「武力鎮圧で死者数が1万人を超えたことは間違いない。中国共産党が市民虐殺の罪を償わない限り、中国の安定と平和はいずれ必ず脆弱化するはず。強固な基盤や信頼関係のない社会は、砂上の楼閣も同然だからね。

民主化運動や天安門事件に関わったすべての人は今こそ、自ら体験したことを語るべき。それは死者、生存者、未来の子供たちに対する責任だと思う」

江は沈鬱な表情で静かにそう語った。

『解放軍報』の先輩記者で、現在、調査報道記者・作家としても知られる銭鋼(チエン・ガン、66)は「江林の証言には確かな裏付けがあり、信頼に足るものだ」と話す。銭によると江は事件直後から翌年にかけて、密かに回想録や日記を含む数百ページの原稿を書き残していて、銭もその内容を共有していたからだ。

1990年に江は「ああ、喪服をまとって広場へ行き、犠牲者のために真っ白なオランダカイウの花束を捧げたくてならない──。私は何度も献花の衝動に駆られ、その感情を抑えるのに必死だ……」と書き記している。



事件当時の学生運動リーダーはいま…

今年6月2日、シンガポールで開催のシンポジウムに出席した魏鳳和(ウェイ・フォンホー)国防部長(国防相)は天安門事件について「あの出来事は政治的な騒乱。政府は騒乱を収束するために対応したまでで、鎮圧は正しかった」と言い切った。過去の中国政府首脳たちも似たような発言を繰り返し、決して虐殺を認めず、いまも犠牲者数の公式調査すら拒み続けている。

中国社会で「六四(リウスゥ。天安門事件の中国語での俗称)」はいまも、語ることすら許されない最大のタブーだ。過去に少なくない歴史学者、作家、写真家、芸術家らが、事件の風化を食い止めようとした。だが中国政府はあらゆる手段を講じ、市民の記憶から事件が消え去るよう全力を尽くしてきた。

今年4月には、天安門事件を想起させるネーミングの白酒(穀物由来の蒸留酒)を販売したとして、四川省・成都市中級人民法院(成都地裁)は容疑者4人に懲役3年などの実刑判決を言い渡した。商品名は『銘記八酒六四(八酒六四を心に刻む)』で、「酒(ジウ)」は「九(ジウ)」と発音が同じことから、事件が起きた1989年6月4日を意味する。


王丹(50)は事件当時、民主化を求める学生運動のリーダーを努めていた Photo: Jun Tanaka
王丹(50)は事件当時、民主化を求める学生運動のリーダーを努めていた Photo: Jun Tanaka

天安門広場を占拠する学生運動のリーダーだった王丹(ワン・ダン、50)は筆者に対し「中国ではいまも事件について教育現場で教えることはなく、インターネットで関連情報を閲覧することも禁じられている。事件を知らない世代が増え、記憶は風化する一方だ」と述べ、憂慮を示した。 

「習近平時代になり、民主化への道はむしろ30年前より遠のいている。現体制による抑圧への恐怖と失望から、若者世代が中国の民主化に関心を失い、海外へ出る状況が続けば当局の思う壺だ」

その一方で、民主化運動を主導したことについて「後悔はしていない」ときっぱり。

「多くの犠牲者を出した責任は痛感している。一方で、『天下興亡、匹夫有責(国の衰亡はそこに住む市民一人ひとりに責任がある)』という精神のもと、中国人が自由と民主を獲得するために犠牲もいとわない勇気を世界に示すことができた。そのような気概を持つ中国人はいまもいる」といい、希望は捨てていないとも話した。
https://courrier.jp/columns/163131/?utm_source=article_link&utm_medium=textlink&utm_campaign=articleid_164395

40. 中川隆[-9283] koaQ7Jey 2019年6月26日 12:02:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3218] 報告

石原信雄(22)PKO協力法 自衛隊の海外派遣に道 天皇の訪中、初めて実現
2019/6/23付日本経済新聞 朝刊

宮沢内閣は1991年(平成3年)11月5日に発足した。


“ 外交を重視する宮沢内閣は中国,韓国と関係改善を進めた。天安門事件で孤立していた中国とは天皇陛下の訪中が浮上していた。1992年4月,江 沢民総書記が来日し正式に招請。自民党では藤尾正行元文部大臣ら保守派が朝貢外交だと反発していた。総理は「中国の要請を握りつぶしたら悔いが残る」と考えていた。

 宮内庁からは「政府が決めるなら将来のためによいことだ」という陛下のご意向が伝わってきた。総理の指示で私は福田赳夫先生を訪ね,派閥の子分だった藤尾さんを抑えてもらった。10月,初の天皇訪中が実現する。最初は表情に硬さのあった中国の人たちが両陛下の人柄に触れるにつれ,心から歓迎するようになったのが伝わってきた。

41. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年7月29日 09:50:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3858] 報告
続・戦略思考が苦手、周回遅れの前世紀の思考に凝り固まった敗北思想の伝道者、櫻井ジャを評す
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/685.html
投稿者 仁王像 日時 2019 年 7 月 26 日 20:02:58: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc
 


続・戦略思考が苦手、周回遅れの前世紀の思考に凝り固まった敗北思想の伝道者、櫻井ジャを評す

@http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/579.html#c3
 何だよ、この”へなちょこタイトル”は。前稿との整合性がヘンだぞ。

 いや、それがバレないように糊塗しようとしている。前世紀の発想の世界に読者を取り込もうとしている おそ松クンだ。。

 こんな櫻井ジャを信用できるかい?

A(”敗北思想”の伝道者、それが櫻井ジャ)
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/560.html#c14
 良く読めば、この記事は”「米支配層」の意向に背いても徒労なのだ、勝てないのだ”という敗北思想に裏打ちされている事に気づかれるだろう。

http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/654.html#c3
 櫻井ジャの殺し文句の一つに「米支配層」が云々というのがある。これを言えば、泣く子も黙ると思っているらしい。

 前世紀は、この米支配層にやられっ放しになってきたことを執拗に強調し、今世紀も同じ伝で行くだろうことを読者に連想させ、「仕方ないか」とさせる”敗北思想”を植え付けているのだ。

 結局、世界金融勢力とその一翼を担う米支配層には適わないのだという諦観を注入する役割を担っている、ということは常に疑ってかかった方が間違いない。

 彼は、世界金融勢力のプロパガンダの一翼を担っている可能性がある。でなくば、単なるアホ、バカ、間抜けの類である。
 彼自身の外観(本性も)は、敗北主義者である。

Bhttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/317.html#c2
 櫻井ジャはインポ(陰謀)論の立場のようだ。退治したはずのISをいまでも黒幕となって操っていつかのように受け取れる。
 当時、阿修羅を足の踏み場もないほど汚染していた考え方だ。
 「土・中を攻撃の可能性」などと、当時の陰謀論者に受けそうなタイトル。攻撃とはどんな内容なのか、幅広い概念で読者を釣ろうとしている。彼らができるのはテロぐらいだ、今は。欧米がさんざん悩まされてきた。土・中にも小規模なものはあった。
 彼らが大規模な軍隊をを投入することなどできない相談。トルコならともかく中国にまでどうやって足を伸ばすのか。ISは過去も現在もそんなプロジェクション能力は持っていない。
 米国が彼らを操れるほどのインテリジェンス力・資金力もなかろう。トラ政権は世界から兵を引くモードに入っている。土・中に軍事攻撃を仕掛けて何の利益があるのか。子供のケンカじゃあるまいし。

 前世紀の思考法から抜け出せない。一皮も剥(む)けていない。
インポは櫻井ジャじゃ。役勃(た)たず。

Chttp://www.asyura2.com/18/warb22/msg/658.html#c9
 こりゃひどいタイトル。空母を撃沈してまでイラン攻撃して何になる? ”いらん”攻撃だ。

 イランと真向から戦争するには、ミサイルや空爆では済まない。大規模な地上軍を投入して全土を制圧しなければならない。各地で凄絶な白兵戦が起きるだろう。その過程で大量の米兵が死ぬ。
 数千人も死ねば、米国内の世論が沸騰する。さらには大量の難民が発生して欧州を襲うだろう。こんな政治目的も曖昧な戦争は欧州や国連の賛同も得られる訳がない。イラン、アフガンの二の舞になるのは間違いない。

 以上のようなオタンコやれば世界中の笑い者になるのは必定。ただでさえ失墜しつつある大国の権威がさらに失墜する。
 何考えてんの? 櫻井ジャよ。素人以下。

 (補)
 米兵の犠牲者の遺族には保証しなければならない。大量の資金が必須。ただでさえ貧困が蔓延している米国にその力もない。イランから調達した資金を回すなどというのは話が長すぎる(虫が良過ぎる)。

Dhttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/435.html#c1
 またまたズレたタイトル。
 何度も言ってきたが、このタイトルには「米国は前世紀の覇権を今世紀も維持するつもり」という意が込められている。

 そんなことは有り得ないことは、田中や副島が口をすっぱくして言っている。(こちらも口がすっぱい、すっぱい)

Ehttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/440.html#c1
 >支配層の内部で強まっている可能性

 ここの多くの読者はとうに気付いているよ。

 それはトラ大明神の行動から判断できる。支配層が戦争派と反戦争派に割れているからトラさんの大胆な行動が出来る。
 割れてなければ、いかに米大統領であってもトラさんのような奔放な行動はできない。(また、口が酸っぱく…)

Fhttp://www.asyura2.com/19/senkyo261/msg/720.html#c12
 (天安門事件について)櫻井ジャってえのは、本当に始末にいけない不良言論人だなー。

 こんなに腐り切っていたとはねぇ〜。

Ghttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/705.html#c4
 またまた櫻井ジャのフェイクっぽいタイトルだな。
 19世紀からアングロサックソンが手に入れたかった中国が手に入らなかったので、日本は手放さないーつまり安保破棄はないーという意味に取れるが…。そんなカバなステーションがあるかい。

 アングロサックソンが世界を支配する時代は前世紀でオワだ。その兆候は随所に現れ隠しようが無くなっている。多くの阿修羅人もそれを認識している。

 櫻井ジャ=不勉強ジャ。

・世界から兵を引かざるを得ない歴史局面に登場する運命に出逢ったトラ大明神
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/642.html
 投稿者 仁王像 日時 2018 年 12 月 26 日 20:04:35: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

・今世紀の米国は、どこかの国または地域に大規模な地上軍を投入し、そこを制圧する体力も気力もない。…そこから得られる軍産勢力の利権も先細りの運命
 http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/643.html
 投稿者 仁王像 日時 2018 年 12 月 30 日 10:10:38: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

・米国内に、米中の激突、大戦争を画策している勢力が存在〜トラ大は彼らを、自分の大統領としての権限(権力)で、押さえ込もうとして必死である/副島隆彦
 http://www.asyura2.com/19/cult21/msg/306.html
 投稿者 仁王像 日時 2019 年 6 月 09 日 11:05:08: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

I http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/783.html#c13
 切れ味が非常に悪い文章。
 長々しく衒学じみている。読者に何かを思わせたいのだろうが明確に伝わってこない。

 山口など延々と復習必要はない。田中なども前置きのところに持ってくる必要なない。この人よほどヒマ人らしい。

 まず安倍の権力の源泉が何か。結論を先に持ってくるべきである。必要に応じてたとえば田中の場合はこうだったと持って行くのは良い。
 文章構成が下手くそである。プロではない。初心者の作文。

 自分の主張に説得力上がないと薄々感づいているから、過去の知識(経過)を累々と並べ立てて読者を誑(たら)し込もうとしている。

(補)
この記事だけでは、力の源泉が米国にあるから、何をやってもダメなんだ、と暗に言っているととられても仕方がない。敗北思想の伝道者らしいとは言える。

Jhttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/772.html#c1
 何だよまたピリッとしないタイトルだな。

 アングロ・サクソンの世界支配はオワだって言うのに、数世紀の世界支配が今世紀も継続しているように読者に連想させる例の手口だ。
 
 またもや得意のマッキンダーを持ち出して”権威”付けようとしているのがミエミエ。
 くだらん。

 (関連)
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/560.html#c14

http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/560.html#c3

Kttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/780.html#c2
 >有権者を裏切った…大敗した背景

 とはタイトルの前後の繋がり悪いな。裏切ったなら、大敗は普通のの事だろう。

 正確に言えば、「有権者を裏切った」んではなく、最初から欺いて来たんだろ? その結果も大敗が約束されていたはず。
 加えて新人にも米国の息がかかっているということだから。新人もまた次の選挙では大敗が予約されえいるというもの。

 こんな風に、ジャーナリストは正確を期すことに努めるべきと思う(ま、手遅れだが)。

L http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/804.html#c4
 櫻井ジャの思わせぶりなタイトル。

 好戦派なるものは居ないとは断言できないが、彼らが米国と英国という国家をイニシアをもって本格開戦に持って行けるはずがない。

 その肝心なことにはタッチしてない。”立っち”できるほど大人になっていない櫻井ジャではある。

Mhttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/844.html#c3
 >露見しかかっている

 などと今更ショーアップしてどうなる?

 ボンクラ櫻井ジャが気付いていつぐらいだから「知る人ぞ知る」現象の一端に過ぎなかろう。
 これで世の中がひっくり返るのかい? 肝心な事には言及がない。

Nhttp://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/867.html#c1
 >リストを持つ容疑者

 とあるが、容疑者の発見時、リストを携行していたのかどうかが不明である。おそらく携行しえいない。
 つまりおどろおどろしく読者を釣ろうとしているタイトル。

 こうでもしないと飯が食えないのかというとになる。浅ましい!

42. 2020年5月24日 15:07:17 : mH13NjAMV6 : VTFHL3RNRml4N1k=[1] 報告
>「武力鎮圧で死者数が1万人を超えたことは間違いない。中国共産党が市民虐殺の罪を償わない限り、中国の安定と平和はいずれ必ず脆弱化するはず。強固な基盤や信頼関係のない社会は、砂上の楼閣も同然だからね。

推測じゃん。
自分が直接確認してないってことですね(笑

天安門事件に関してはスペインのTV局がのちに調査し、
200−300人死者が確認されたと報じている。

43. 2021年3月31日 17:00:27 : BLypVMkkxE : b0Q4TnRZV05jQlk=[3] 報告

2021年03月31日
天安門事件 広場の中と外で戦車と装甲車が走り回った
http://www.thutmosev.com/archives/74268371.html


天安門広場を埋め尽くす学生と市民、、向こうに民主の女神像

引用:http://static01.nyt.com/images/2014/06/03/world/04tiananmen-archive-1/04tiananmen-archive-1-videoSixteenByNine1050.jpg

天安門事件の始まり

NHKはかつて「天安門事件はなかった」と言って中国共産党の機嫌を取り、取材で便宜を図ってもらうという不正行為をしていた。

恥ずかしい日本の国営放送はその後も訂正していないが、天安門事件の実態は30年以上を経て暴かれつつある。

イギリスで数年前、1989年6月4日の天安門事件で1万人以上の犠牲が出たという公文書が公開されました。


英国の駐中国大使は1989年6月5日付けで本国に「犠牲者は最低でも1万人以上」と報告していました。

一方で同じ英大使は6月23日に「犠牲者は2,700人から3,400人」という報告もしていて、かなり少なく修正していた。

また英アジア研究部門は6月14日に「犠牲者は1,000人から3,000人」という報告もしていました。


中国政府は1989年6月に、反革命暴動によって治安部隊数人と市民200人がなくなったとだけ発表していました。

天安門広場で何があったのか時系列で整理すると、事件は学生運動の支持者だった胡耀邦元総書記の追悼集会から始まった。

1989年4月に北京で複数のグループが小規模な追悼集会を開き、やがてひとつにまとまって人民大会堂前でストライキを始めた。


4月21日には10万人以上が天安門広場に集まって政府に抗議し、学生による反政府運動に変化していった。

もっと小規模な抗議運動は数年前から多発していて、共産党首脳部では、過去の話し合いを失敗と捕らえ、徹底した弾圧を決意していた。

共産党はそれでも2ヶ月間ほど、メディアを使った説得や、話し合いで解散させようと試みたが失敗に終わった。


突入前日頃の天安門広場、学生の人数はかなり減っていた。
original
引用:http://i.huffpost.com/gen/1833616/original.jpg

天安門広場突入まで

当時はソ連邦が崩壊し共産圏が民主化に向かっていて、中華人民共和国の共産党独裁も、崩壊は時間の問題と考えられていました。

学生のリーダーはソ連崩壊に乗じて中国共産党の崩壊を狙っていて、事態は政治動乱の様相を見せていました。

1989年5月には天安門広場周辺の市民や学生は50万人に達し、欧米や日本など資本主義陣営は、民主化を支持する姿勢を取りました。


これが5月前半の状況で、5月後半に入ると学生らは益々勢いづき、100万人規模のデモが北京で行われていました。

5月末には軍による武力介入が警告され、学生らは撤収するか抗議を続けるか投票を行い、このまま抗議を続ける事にした。

5月30日までに天安門広場では民主化を象徴する「民主の女神像」が建てられ、外国メディアに繰り返し写真や映像が報道されました。


女神像は北京中央美術学院の学生らが製作したハリボテだったが、民主活動の象徴となり、共産党は激怒して撤去を要求した。

西側諸国は武力衝突を懸念して5月中に自国民を国外退去させていて、その時に備えていました。

学生のリーダーらは「軍に学生を攻撃させる事で、革命を起こすつもりだった」と話し、最初から学生を捨て石にするつもりだったのが判明している。


6月に入ると北京で戒厳令が布告され外出禁止になったが、学生らはお構い無しに、広場周辺の占拠を続けました。

人民解放軍が天安門周辺に集結し広場を包囲したが、学生の間ではなお、軍は攻撃しないという楽観論があった。

一般の学生は食べ物を兵士に分け与えたり、そういった心の繋がりによって、平和裏に民主化を達成できると考えていた。


戦車はこのように隊列を組んで「障害物」を踏んでいった
com_wp-content_gallery_tianamen-square-anniversary_158661343_10
引用:https://i.amz.mshcdn.com/qGx0WbTVjspHfiJzHumatTiIeb4=/fit-in/850x850/http%3A%2F%2Fmashable.com%2Fwp-content%2Fgallery%2Ftianamen-square-anniversary%2F158661343_10.jpg

戦車は学生の間を走り回ったか?

最初の衝突は6月3日深夜で、治安部隊がトラックを広場に入れようとしたところ、学生と市民に焼き討ちされました。

人民解放軍が何時にどのように突入したのかは目撃者が居ないが、夜明け前から明け方だったと考えられている。

100万人居た市民と学生は6月3日にはかなり少なくなっていて、写真を見る限り1000人から数千人だったと考えられます。


事件の最中の写真は存在しないが、事件後の写真は数多く撮影されていて、広場で装甲車が走り回ったのは、タイヤ跡から明瞭に確認できる。

そして当時「戦車が広場に突入した」と言われていたが、ネット上の写真ではキャタピラの跡がついているのは広場の外側でした。

天安門広場の外や周辺は広い道路になっているが、広場の外の外周を数十台の戦車が走り回り、広場の外でかなりの犠牲が出たようです。


広場の中にはまず装甲車が突入して走り回り、続いて人民解放軍が突入して学生らを攻撃した。

目撃者を一人も出さないため、その時広場に居た全員がなくなるまで攻撃したと考えられている。

攻撃は1時間ほどで終わり、夜が明けるとすぐにブルドーザーで「ゴミ」を集めて、焼却して片付けたとされている。

http://www.thutmosev.com/archives/74268371.html

44. 2021年10月03日 10:53:53 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[4] 報告
【ゆっくり解説】一般人がぺしゃんこに...中国最大の闇「天安門事件」
2021/10/02




今回は「中国の闇」の話です。
今でも中国は正しかったと言っていますが、国外から見たらどう考えてもやり過ぎ...。
もしこの時に民主化されていたら、中国は今どのような国になっていたのでしょうか?
45. 2022年6月04日 06:00:50 : FG61zCQhcg : QUNocTE0ZlhwRDY=[1] 報告

2022.06.04XML
中国に新自由主義を継続させるため、CIAがMI5と手を組んで仕組んだ天安門事件
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202206030000/

 この時期になると、西側の有力メディアは「天安門事件」を話題にする。1989年4月15日から6月4日まで新自由主義を支持する学生らが中国政府に対する抗議活動を行ったのだが、西側では最終日に軍隊が学生らに発砲して数百名を殺したと主張している。6月5日、広場から引き上げる戦車をクローズアップした写真を使い、「広場へ入ろうとする戦車を止める英雄」の話を作り上げてもいた。

 しかし、その時に天安門広場で学生が虐殺されたという話を否定する西側のジャーナリストや外交官もいる。例えば、6月4日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場では誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 内部告発の支援活動をしているウィキリークスの公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官だったカルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけであり、群集への一斉射撃はなかったと話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)

 実際、治安部隊との衝突で死傷者が出たのは広場から少し離れた場所で、相手は新自由主義に反対していた労働者が中心だったと言われている。この衝突では治安部隊員も殺害されている。

 イギリスのデイリー・テレグラム紙によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと2009年に認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。(Malcolm Moore, “Wikileaks: no bloodshed inside Tiananmen Square, cables claim” The Daily Telegraph, 4 June 2011)

 6月4日に天安門広場で学生が殺されたという話を流したひとりは抗議活動の指導グループに属していた吾爾開希。200名の学生が殺されたと主張しているのだが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていた。

 北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)

 それに対し、西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信に書かれていたのを見たという話だが、これが事実なら死体の処理だけでも大変だっただろう。ドナルド大使は「信頼できる情報源」の話として伝えたのだが、その情報源が誰かは明らかにされていない。ただ、そのほかの虐殺話は学生の指導者から出ていた。

 アメリカは軍事クーデターを仕掛ける時も労働組合などを使って抗議活動を演出する。こうした組織は幹部をコントロールできれば全体をコントロールできる。そうした工作を現地で指揮する人物はアメリカ大使館にいるのが通常だ。

 1989年4月、中国駐在アメリカ大使としてジェームズ・リリーが赴任してきた。1951年にエール大学からCIA入りしたと言われている人物だが、大学時代にリクルートされた可能性が高い。この大学でCIAのリクルート担当はボート部のコーチだったアレン・ウォルツだと言われている。

 リリーと同じ頃、ジョージ・H・W・ブッシュもエール大学の学生。父親のプレスコットがアレン・ダレスとウォール街仲間だったことは本ブログでも繰り返し書いてきた。大学ではウォルツと親しかったことでも知られ、ブッシュも大学時代にCIA入りした可能性が高い。

 リリーは中国山東省の青島生まれで中国語は堪能。一方、ブッシュはカリブ海で活動した後、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めている。こうした背景があるためブッシュとリリーは親しく、1989年1月にアメリカ大統領となったブッシュは4月にリリーを中国駐在大使に据えたのである。ちなみにリリーの前任者であるウィンストン・ロードもエール大学の出身であり、いずれも学生時代にスカル・アンド・ボーンズに所属していた。

 中国は1972年2月にアメリカと国交を正常化させている。リチャード・ニクソンが大統領だった時代の話だ。ニクソン訪中を実現するために裏で中国側と交渉していた人物は国家安全保障補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーだ。交渉の過程でキッシンジャーは周恩来に対し、日本の核武装について話したという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したという。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)

 1980年9月には新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問、同国でも新自由主義が浸透していくのだが、80年代の後半になると社会の歪みが深刻化、88年に実施した新自由主義的な「経済改革」は深刻なインフレを招き、社会は不安定化した。

 中国政府は軌道修正を図るが、胡耀邦や趙紫陽を後ろ盾とするエリート学生は「改革」の継続を求めた。エリート学生は新自由主義で甘い汁が吸える立場にあったからだろう。学生たちは投機家のジョージ・ソロスともつながっていたが、学生の活動を指揮していたと見られているのはジーン・シャープだ。

 しかし、学生の要求は認められず、労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正、胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任、89年4月に死亡した。その死を切っ掛けに天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれることになる。

 天安門広場での抗議活動が沈静化した後、学生の指導者たちは「イエローバード作戦(黄雀行動)」と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのはアメリカのCIAとイギリスのMI6(SIS)だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202206030000/

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