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神輿の黙示録(7)(貴族仏教の退廃と芸能民の黎明)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:53:57: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(6)(鎌倉源氏の没落:何故三代で滅亡したのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:51:06)

大乗仏教は、平安時代、敵対する道教徒や景教徒などの非仏教徒達を貶めるために、数々の妖怪を創作しました。そして、それらの信徒を仏教徒がコントロールするために、インドのバラモン教思想の「地獄世界」を布教しました。地獄とは、サンスクリット語やパーリ語の「ナラカ=奈落」を漢訳した言葉です。それは、地下の牢獄を意味し、仏教の教えに逆らう悪人が死後に落ちて苦しみを受けるところです。仏教渡来前には、地獄思想など、日本列島土着宗教にはなかったものなのです。
平安王朝は、そのように外来の仏教思想を道具として、敵対する道教や景教などの宗教組織を次々に壊滅して行ったのです。更に、まつろわぬ部族に対しては、侮蔑の物語を創作したり、蔑称をつけたりして、それらのことを仏教徒に布教させることにより、常民(主に農耕部族)から隔離させていったのです。
カッパは元々は、道教の水の神様でした。しかし、王権により、相撲好きの間抜けな妖怪に貶められてしまったのです。では、氏神の祭りに登場する助平で間抜けな「ヒョットコ」とブスの代名詞の「オカメ」の正体は何でしょうか。
産鉄・鍛治部族は、王権が最も警戒する部族です。それは、戦いの道具である武器を造ることができるからです。ですから、それらのまつろわぬ部族は、王権から真っ先に壊滅される運命にあるわけです。
祭りで神輿を担ぐ氏子達を調子者と言うそうです。延暦寺や興福寺の僧兵が、無理難題を朝廷に強訴する時、怨霊(体制側に対しての怨霊=被征服民族の氏神様)を封じ込めた神輿を手荒く担ぎそこらあたりを破壊活動する様に、氏子が年に一度の祭りだからと、日頃の鬱憤を祓うために調子に乗って(神輿を担いで)、破目をはずすと、その祭りの後に、その氏子達に王権から「調子に乗りやがって」、とキツイしっぺ返しが待っているのです。
神輿同士の喧嘩は、王権の望むところです。「夷を以って、夷を制す。」ことができるからです。祭りの喧嘩は、王権にとって年に一度の「ガス抜き」でもあるわけです。祭りの後の氏子は、元の被征服民族の立場に戻らなくてはならないのです。祭りの後の侘しさは、そのような歴史があるからでしょう。
「ヒョットコ」とは、「火男」のことで、産鉄部族の男の意味です。「オカメ」とは、産鉄部族の神様の「宇賀神」に奉仕する巫女(ウカメ)のことです。これが、氏神を祀る被征服民族の年に一度の神社のお祭りに登場する、オカメのホトを狙う助平なヒョットコ踊りの舞台裏です。
更に、王権は、産鉄部族を貶めるために、安来節の間抜け男(出雲国の八幡神を祀る産鉄・鍛治部族の末裔。日本書紀で「八俣オロチ」として貶められる。王権に追われ、北関東に逃れ氷川神社を祀る。)を創作するのです。安来節とは、「ドジョウすくい」とも言われています。一般人に認識されているのは、川魚のどじょうを捕る動作の間抜け踊りとされているようです。しかし、本当は、「ドジョウすくい」の「ドジョウ」とは、土壌の意味で、「ドジョウすくい」とは、「タタラ」のために川砂鉄を採取することなのです。
古来から伝聞されている物語や言伝えも、よく考えてみると、可笑しなことが多々在ることがわかります。そのひとつに、平家落ち武者部落伝説があります。一般的常識では、源平合戦の壇ノ浦で敗れた平家は、源氏の追討を逃れて山深く分け入り、そこに部落を造った、ということです。
しかし、よく考えてみれば分ることですが、海洋民族が、どうして山深く逃げ込まなければならないのでしょうか。普通、海洋民族の逃亡ルートは、山ではなく、海上です。たとえ、山奥に逃亡できたとしても、日々の糧はどのようにして得るのでしょうか。食性は、短期間に替えることはできないし、魚を捕るように、野山の動物を獲ることは簡単にはできません。
では、源平合戦後、山奥に逃れた武士達は、平家でないのならば、一体誰なのでしょうか。そのヒントは、氏神を祀る社にあります。桓武平氏であるならば、それは平野社(百済系桓武天皇の祖先神を祀る社。公家源氏も桓武平氏も同じ百済系臣籍。)でしょう。武家平氏であるならば、厳島神社系列の「海の神」を祀る社となるでしょう。
では、日本全国に存在する平家落ち武者部落には、それらの「海の神」を祀る社があるのでしょうか。それらの山里でよく見かける社は、八幡様か稲荷様が圧倒的でしょう。しかし、平家部落にそれらの神様を祀る根拠は、可能性としては無いでしょう。何故ならば、それらの神様は、元々は新羅国から秦氏により、日本列島に持ち込まれた神様だからです。つまり、それらの神様は、武家源氏の神様であるわけです。
八幡は、「ハチマン」ではなく、「ヤハタ=秦氏が栄える」です。そして、稲荷は、稲の神様ではなく、秦氏の祖先を祀る「塚→ツカ→ジュガ=稲荷」が、王権にとって、その神様は「夷なり=蛮族の神=イナリ」となるわけです。
では、何故に、鎌倉幕府を拓いた武家源氏(鎌倉源氏)の末裔が、山に追われなければならなかったのでしょうか。
それは、文覚=北面の武士(摂関システムにより天皇をコントロールする藤原氏の影響力排除のため、白河上皇により院中に創設された親衛隊。上皇の身辺警備、及び都の治安維持が任務。)であった遠藤盛遠という真言宗の修験僧の謀略によるのです。文覚は、後白河天皇の逆鱗に触れ、伊豆(イズ=夷が棲む処)に配流されていたのです。それは、後白河天皇は、平清盛の武力を背景に、朝廷を牛耳る藤原氏の勢力を都から排除しようと企てていたからです。その結果、我が世の春を詠った藤原氏も、都から追われ、一方は陸奥国の俘囚清原氏を取り込み、奥州藤原氏となり、もう一方は、南九州の薩摩国に隠棲するわけです。そしてこの藤原氏が、約六百年後、薩摩の島津氏を手先として明治維新を企画し、王政復興の号令の元、明治天皇をコントロールする近衛家として復活するわけです。
伊豆の文覚は、蛭ヶ小島という狩野川の中州(賎民の棲む処)に、前右兵衛佐・源頼朝の存在を知るのです。そこで、文覚は、後白河天皇を追い落とす前提として、武家平氏壊滅のため、平治の乱で北関東に敗走した武家源氏の蜂起を促すアジテーションをおこなうのです。そのために、源氏の頭として、源頼朝を担ぎ出したのです。
しかし、源頼朝は、軍事には疎い男でした。でも、その男を担ぎ出さなければ、関東一帯に先住していた物部氏の末裔の平氏の北条氏や平氏の千葉氏などの海洋民族の末裔では、武力に勝るインド傭兵団の武家平氏には対抗できないのです。都の武家平氏を打倒するには、武家源氏の騎馬軍団がどうしても必要だったのです。
源頼朝は、初めから軍事的に当てにされない存在だったようです。鎌倉源氏の初陣は、伊豆の代官山木兼隆を討ったことです。しかし、実際は、源頼朝は参戦せず、妻の父北条時政親子など身内数十名の殴りこみであったのです。つまり、源氏挙兵とは、文覚の脚本を基に、北条時政が演じたものであったのです。次の戦いの石橋山では、にわか軍団の北条軍団は、伊東祐親と大庭景親の軍勢に大敗を帰してしまうのです。しかし、源頼朝は、鎌倉党の一族の梶原景時の目こぼしにより(この時、弾左衛門=秦武虎が権五郎景政の片腕として、源頼朝の逃亡を援助した。)、安房に脱出するわけです。そして、その地の豪族千葉介常胤により、相模国鎌倉郷への進撃を勧められるのです。
そして、安房の地を出た時は、数十騎であったものが、穢土(江戸)湾沿いに安房国分寺→上総国分寺→下総国分寺と廻り、鎌倉の地に辿り着くと数万騎となっていたようです。その国分寺とは、反藤原氏の天武系(=新羅系)聖武天皇が741年から各国に建立したものです。
平安時代、武家平氏も武家源氏も、先住民からは歓迎されない部族であったようです。それは、居住地を調べれば分ることです。
平家一門が館を構えたところが、六波羅です。その六波羅とは、平安京の町中ではなく、鴨川をへだてた郊外の洛東の地であるのです。その地は、髑髏原と通称されるように、平安京の葬送地鳥辺野の一画であるのです。そして、その平家一門の館の近くには、弓矢町があり、「犬神人・つるめそ」と呼ばれる祇園社(インド祇園精舎からの借名。穢れ神の道教思想の影響による牛頭天皇=インド・武塔天神を祀る。明治維新での廃仏毀釈により八坂神社と改名。)の神人が棲んでいたのです。
更に、そこから清水寺に通じる坂は、清水坂と呼ばれ、清目の神人や白拍子と呼ばれる男装の遊女が棲んでいた処なのです。
では、武家源氏が、幕府を拓いた鎌倉はどうかと言えば、その地も、地獄谷の地名があるのからも分るように、葬送地であったのです。ですから、現在でも、鎌倉の地を掘ると人骨が多く見られるようです。
その鎌倉幕府が拓かれる前の領主は、鎌倉党の権五郎景政であったのです。権五郎景政は、産鉄民族、ワダツミの末裔です。鎌倉源氏が進出して来るまでは、伊豆、鎌倉、千葉などは、物部氏(高句麗の末裔。遊牧部族のツングース族と海洋部族の倭族との混成部族→北条氏・千葉氏)の末裔の古平氏の土地であったのです。(都の清盛平氏はインド系末裔)
その鎌倉の地に幕府を拓いた源頼朝も、頼家、実朝の三代で、古平氏の北条氏の陰謀により滅亡し、更に、北条執権に入ると同時に、鎌倉源氏の中枢であった、梶原氏、畠山氏、和田氏の一族は、ことごとく北条氏により抹殺されてしまったのです。
鎌倉時代は、武家源氏の活躍した時代と思っているひとがいるようですが、実体は、古平氏(物部氏の末裔)が統治した時代であったのです。
北条氏に追われたのは、鎌倉源氏の一族郎党だけではありません。源頼朝の庇護を受けていた鎌倉党の権五郎景政の片腕の弾左衛門も、警察長官の立場である長吏身分から、非人仕事の掃除人としての賎民へと落とされてしまうのです。つまり、ここから、長吏=賎民と身分が変化するのです。
そのような状況へ、更なる追い討ちが、それらの都を追われたひとたちに襲い掛かるのです。それが鎌倉仏教思想です。
平安時代末期から、荘園体制が、「御恩と奉公」の鎌倉武家の土地支配体制の守護地頭により崩壊したため、その経済基盤により、なんの労働もしないでぬくぬくと暮らしていた貴族、公家、都の大乗仏教僧侶達は、没落の一途を辿るわけです。
経済が崩壊すると、人心も崩壊するようで、貴族や公家への加持祈祷や寄付などを主な収入源としていた貴族仏教組織も戒律が乱れていくのです。悲劇の主人公源頼朝を担ぎ出した張本人の文覚(騎馬軍団の武家源氏により都から武家平氏を追い出した後、文覚上人となる。)は、高雄山神護寺再建の起請文のなかで、その貴族仏教の状態を次のように記述しています。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

そのような「飲む、打つ、買う」の三悪禁制を掲げるということは、そのような僧籍者にあるまじきことを、京の都の仏寺で実際におこなっていたことの証明です。
そして、そのように堕落した京の都の貴族仏教に反発する若き仏教徒が、百済系比叡山延暦寺(日本国最大の金融業組織の頂点。織田信長の比叡山焼き討ちにより、市・座が延暦寺支配から開放され「楽市楽座」となる。)から鎌倉の地に現われるのです。しかし、それらの若き仏教徒達は、平安仏教思想の根本(バラモン教・ヒンズー教の差別思想を取り入れた平安大乗仏教思想)を良く理解していなかったため、結果として、本来は護るべきひとたちを、更に奈落の底に落とし込めてしまうのです。それが、インドのカースト制度思想です。そして、民族的差別用語の穢多は、この鎌倉仏教の布教と伴に日本全国に広められていくのです。
宗教に全く関心の無い多くの人達は、日本国は仏教国だと信じているようです。そのように信じ込んでいるのは、歴史教育の刷り込みが原因のようです。
その日本国仏教導入の歴史とは、538年百済の聖王が仏像と経論を日本国(歴史上、日本国は7世紀に誕生。それ以前は倭国。)に持ち込み、587年崇仏派の蘇我氏が、廃仏派の物部氏を滅ぼし、仏教を正式に導入し、聖徳太子が、603年秦河勝に仏像安置のための広隆寺(蜂丘寺)を建てさせ、仏教を日本国に広めた、と言うことです。しかし、このストーリは可笑しい。それは、聖徳太子は、以前に延べましたように歴史上実在しない人物だからです。では、大乗仏教は、歴史事実として、どのようにして日本列島に侵攻したのでしょうか。日本書紀一辺倒の教科書歴史では、そのことを解明することはできないでしょう。
仏教日本国導入物語のトリックを知るには、聖徳太子との関係が深い法隆寺の歴史を調べることです。現在世界最古の木造建築と言われている法隆寺は再建で、実は北九州の秦王国から移築された建物なのです。前法隆寺は一体どのような建物であったのでしょうか。仏寺であったとの証拠はありません。もしかしたら、それはミトラ神殿跡のキリスト教会の戦術であったのかもしれません。つまり、仏教伝来538年とは、近畿の飛鳥王朝ではなく、北九州秦王国への渡来であったのでしょう。
この聖徳太子の創作が、日本国乗っ取り戦略の陰謀において、現在でもこのトリックが多くの人に見破れないように、藤原不比等の冴がみてとれるのです。それは、ローマ帝国でのミトラ教を乗っ取り、そして、歴史上抹殺させ、キリスト教をローマ帝国に布教した戦略に通じるものがあるようです。
キリスト教は、392年にローマ帝国の国教になると、ミトラ教の教義や祝日(ミトラ神の誕生日=クリスマスの祭日)を取り入れ、そして、ローマ帝国全土のミトラ神殿を破壊尽くして、それぞれのミトラ神殿の上にキリスト教会を建てるのです。それらのことにより、百年もすると、ミトラ教は、ひとびとの心から消え去ってしまったのです。ですから、よほど宗教歴史に興味があるひと以外は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国で栄えていたなどは知らないわけです。
秦氏は、五世紀に新羅国から渡来した、機織りだけではなく、産鉄・鍛治・灌漑・建築土木技術を持った複合部族です。そして、魔多羅神(ミトラ神)を祀る「景教=太陽神を崇拝」を信じる部族です。
秦氏が仏教徒ではない証拠として、明治元年(1868年)神仏分離令が明治新政府から発令され、廃仏毀釈運動が全国で起こると、真っ先に、秦氏の末裔が多く棲む、薩摩国(秦氏は時代がわりごとに氏名を変えるのは何故か。飛鳥時代は秦氏→平安時代は惟宗氏→鎌倉時代は島津氏。)では、仏寺がことごとく破壊されたのです。(現在の鹿児島県は、全国でも仏寺が最も少ない県です。禅寺は別。)
秦氏が仏教徒でないことは、広隆寺となる前は、十字寺(景教寺)と言われていたからでも分るでしょう。それは正に、ミトラ神殿の跡地にキリスト教会を建てた戦術と同じです。
更に、聖徳太子の登場は、蘇我王朝の抹殺のトリックとしては最高です。つまり、蘇我氏は、日本国に仏教を広めた聖人「聖徳太子」の一族を滅亡させた「大悪人」のストーリが完成するからです。
そして、仏教を日本に広めたと言われる聖徳太子は、平安時代、比叡山延暦寺の最澄により、大乗仏教のプロパガンダのキャラクターとして華々しく歴史上に登場するわけです。その訳は、延暦寺は、反新羅(秦氏)の百済系桓武天皇の支配下にあったからです。
そのような、反新羅(秦氏)の宗教施設で勉学した鎌倉仏教開祖の僧侶達(浄土宗=法然、浄土真宗=親鸞、日蓮宗=日蓮。時宗の一遍は、他の教祖とは異なる思想を持っていたようです。臨済宗や曹洞宗は、宋国直輸入の禅宗で、指導僧は日本語があまり理解出来なかったため、修行僧の質問に意味不明な答えをしたところ、それが「禅問答」として哲学的思考となり現在に至る。禅宗は、語学力不足のため菜食主義の差別思想を布教できなかったため、騎馬民族の末裔の武士達に受け入れられた。曹洞宗の教えは、「只管打坐=黙って坐るだけ」。)は、聖徳太子の実在性を信じ込み、更に、差別思想を含む「法華経」やバラモン思想の「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄世界」を、仏教思想に無知な庶民達に吹き込むのです。
この時代に、富永仲基(1715年〜1746年)のようなひとがいたならば、鎌倉仏教も、結果として、賎民を苦しめることもなかったかもしれません。富永仲基は、江戸時代、大乗仏教の約六千巻の仏典すべては、文殊の徒により創作されたものであり、釈迦により説かれたものではない、と「出定後語」で論証したのです。
「輪廻転生」、「因果応報」、「地獄思想」、この三つの思想は、支配者による、被征服民族を永遠に統治する、強力な武器なのです。これらの思想は、紀元前十三世紀、アーリア人が、カスピ海周辺からインドに侵入し、先住民の牧畜部族のトラヴィダ人を永久に支配するために創作されたものです。それも、祭祀バラモンが、神(ブラーフマン・梵)から受け継いだ思想だと、先住民に刷り込むわけです。
更に、アーリア人支配を永遠にするために、血の階級=カースト制度を発明するわけです。それは、バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族・士族)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷民)、そして、人間ではないセダラ(不可触選民)です。
釈迦は、賎民を苦しめるバラモン思想から賎民達を解放するために、輪廻転生を断ち切る手段として、出家し、乞食し、非人となるのです。その結果「無我」の境地に至り、他力本願の仏教思想(八正道)を発明したのです。しかし、残念な事に、釈迦の四姓平等思想には、最も仏の救済が必要なセダラは入っていなかったのです。
このセダラ思想が、鎌倉時代、インド仏教僧(バラモン・ヒンズー教僧)により、日本国に持ち込まれるわけです。「塵袋」に、「穢多とは、セダラのような悪人である。」が歴史上最初に記述されたもののようです。バラモン教にとって、セダラが何んで悪人になるのか、との根拠を言えば、屠殺をおこなうからなのです。
バラモン教徒は、菜食主義だから、そのように狩猟漁労民族とは異なる食性で暮すことができますが、農耕部族でない部族は、それではどのようにして暮らしを立てれば良いと言うのでしょうか。
結果として、平氏北条執権の秘密警察・六波羅探題による源氏一族抹殺を背景に、鎌倉仏教は、この菜食主義のバラモン教思想を武器として、武家源氏の騎馬民族(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅の末裔)を貶めることになってしまうわけです。
念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説、と他宗教を攻撃する日蓮宗の日蓮は、自らセダラの子と吹聴するわけですが、「仏敵はライ病者になる。」と宣伝する差別思想を含む「法華経」を、仏の救いが最も必要な賎民に布教してしまうわけです。
平安時代、天武天皇から奈良時代まで続いた新羅王朝を藤原氏の陰謀で乗っ取った、京の百済王朝は、新羅系日本人の神徒を貶めるために、ライ病者を清目部落に世話をさせていたのです。平安時代は、仏教は護国安堵の加持祈祷のビジネスのため貴族に擦り寄っていたので、セダラ・穢多思想が一般庶民に布教されてはいなかったのです。
鎌倉時代になると、海洋民族の末裔北条氏は、鎌倉源氏三代を抹殺すると、実権を握った源頼朝の妻政子は、尼将軍となり、武家源氏の氏神「八幡神」ではなく、武家平氏の氏神を祀る厳島神社の神を祀るのです。
清目部落は、奈良末期に百済・藤原氏に敗れた新羅・秦氏の末裔が棲む処です。その新羅・秦氏の氏神を祀る源氏の「八幡神」を、源頼朝の妻の尼将軍が支配する北条政権は、切り捨てたのです。
承久の乱(1221年)で、天皇支配から解放された鎌倉北条政権は、藤原氏と同じに、一門の勢力をふるうのです。その結果、都を追われた源氏・秦氏の末裔は、漂泊の芸能民として生きていくわけです。
その芸能民に対して、チャンスが訪れるのです。それは、1236年に、藤原氏が支配する奈良の興福寺の僧兵が、北条政権に盾を突いたからです。それは直ぐに鎮圧され、興福寺は、藤原氏から北条政権の支配下となり、その興福寺に支配されていた奈良坂の清目・芸能民は、藤原氏の支配から解放されたからです。
しかし、その芸能民の多くは、新羅・秦氏の末裔なのです。鎌倉執権は、源氏抹殺を狙う平氏の末裔北条氏です。そのような状況で、立場の弱い芸能民を護る組織ができあがるのです。その組織の頭が、源頼朝執権時代に警察業務の頭(長吏)であった弾左衛門となるのです。
奈良時代、藤原氏と桓武天皇により、本字垂迹説の武器に敗れ、仏門に下った氏神を祀る神人やその軍事組織である神兵の信徒達は、寺に隷属されてしまいましたが、平安時代になっても信徒達は秘密結社を構成し、神社ネットワークを維持していたのです。(童謡「とうりゃんせ」の歌詞の裏の意味は、裏社会に集う神人達の結社員の心情を謳っていたのです。)
藤原氏は奈良の興福寺により奈良坂の清目部落を支配し、百済系天皇は比叡山延暦寺により京の清水坂の清目部落を支配していたのです。
そのような京都と奈良との清目部落支配のバランスを壊す天皇が現われるのです。それが、後白河天皇です。後白河天皇は、上皇になると、藤原氏の天皇支配システムを壊滅するために、歴代の天皇のように藤原の女ではなく、側室に遊女(後の従二位丹波局。没するまで寵す。)を迎えるのです。そして、遊女に皇子を生ませると、その皇子を六十三代天台座主・承仁法親王にしてしまうのです。更に、藤原氏の息の根を止めるように、平清盛を使い、その子の平重衡に奈良の東大寺と藤原氏経営の興福寺を破壊させるのです。
この時、藤原氏に隷属していた秦武虎(はたぶこう=弾左衛門)は、産鉄・鍛治部族の同族である鎌倉党の権五郎景政を頼って鎌倉に逃亡することになるわけです。そして後、前述したように、石橋山の合戦で敗れた源頼朝に遭遇することになるわけです。  

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