03. めむめむ 2010年10月09日 19:01:49: lmDW19lBDnz8g : WyYFeFg2hC
>>02さんへ、
これを貼り付けていらっしゃる意図が私には理解できないのですが、
私は、常に誰もが成長し続けているものだとも考えておりますが
しかも、私が言いたい上記の本質は、キリスト教だけにとどまらず、ありとあらゆる宗教が、世に巣食う強欲どもが、ある特定の団体、人種、企業、国家をコントロールすることで、お互いの不理解から最終的には対立を巧みに惹起させることで、問題というか、彼等の狙いはそこにあるのではないでしょうか。
だからこそ、我々は今、ここ、阿修羅掲示板の上に立って、それぞれのジャンルで、板で、論議の中心になっているのはなんでしょう?
そうです、私たち人類は本当は虚構の上に立っているからこそ、ありとあらゆる面で、現状に則った方法では解決できそうにない”機能不全”に陥っているのではないでしょうか。
私も何度も過去の過ちを告白し、懺悔する者の一人として今回も新たな、自白を致します。
同じこの板で、私がコメントの人だった時、やれ、ユダ公が、アメ公が(実際はもっと程度の低い侮蔑的でしたが、)と揶揄していたとき、おそらく、お言葉は少し過激でいらっしゃるのでしょうが、今の世界情勢のみならず、その歴史的背景なぞにもたいへんお詳しい方より、幸いにして、上記で申し上げた反対を、過ちをご指摘いただきました。
私にすれば、まさに晴天の霹靂でした。だって、彼(多分)の言葉になんら間違いを感じられない自分に気づいたから...
ですので、それ以後は、おそらく私の立ち位置は間違っていないと思います。
上の拙稿も言葉の本質を読み取っていただければ、そんなに誤ったことは申し上げていない気がします。
宗教の一つキリスト教の名を語って古くは中世の魔女狩りから始まって、欧州列強がその力を広める道具の一つとして、今回のご指摘の騒ぎ、お考え下さい、私はキリスト教を”背後”で、広めてきた者たちを断罪したいのです。
ですので、今回の件についても、コーランを本来やってはいけない立場にある者としては、彼らの手先として裁きを受けるべきではないのでしょうか。
宗教も本質的には他人に強要させるものではなく、各個々人が心のよりどころとして持てばよいだけのものであって、”群れる”べきものでは絶対にないと確信しています。 だって群れればそこには必ず当人たちが意識しようがしまいが、”利害”が発生してしまうのではないでしょうか。
あなたは、りっぱな各種宗教の寺院をご覧になって、どう思われますか。私に言わせれば、残念ながら今ある宗教は教義が正しくても、利用されているだけに過ぎないと断言できます。
宗教は本来、個人の心のやすらぎではないのでしょうか。
あなたの、私へのご返答、お待ちしております。
めむめむ 拝