日本での外国語の学習法(ほかの教科でも似たり寄ったりだが)は人任せのカリキュラムである。もう少し自分用にやることを組みなおす工夫すると効率がいい。要は何のために外国語を学数するかを自分に問うてみることである。生活のなかでの些細な出来事や質問であってもいいと思う。楽しいクイズやゲームであってもいいとおもう。
@ どんなことを考えどんな風に見ているか
A 自分が知らなかった新しい世界、ものの考え方を知る 好奇心から
B 言葉が果たす役割とは何かを、外国語を習得する上で何を感じるか
いっぱい楽しみがある。外国語を学ぶことを通して得たものを基に、次に進むべき課題を考えて、何かを見つけられればいい。大事なことは、人は言葉でもって考えるということである。だから外国語を学ぶときには、文字、単語、表現、文法だけでなく、その言語独特の発想法や表現法もあわせて学ぶことになる。
発想法や表現法はその言語の文化なのでもある。私はこの部分が結構大事なのではないかと考えている。日本語をつかうことにより日本の慣習や文化にいかに縛られた発想をしていることに気付くこともある。違う言語を使って意思や情報を伝達することは、日本語を喋っている自分にすこし距離をおいてみることができる。言語や文化に基づく偏見が少なくなる。
ひとつの例として、日本語と韓国語の敬語の使い方の差がある。日本の場合は家族でも会社においても外部の人間に対しては、例えば、「社長の田中は〜」「わたくしの父は〜」という風に呼び捨てにするのが正しい使い方だ。しかし韓国では「私ども(田中)社長様は〜なさいます。」「私の父上様は〜なさいます。」と外部の人間に対して自分の身内に対しては敬語を使うのが正しいのだ。
同じような敬語の使い方をするけれども微妙に違うのだ。特に日本語を流暢に喋る学生などはこういう言い方をする、注意してあげるとすぐに直るが、言ってあげないとそのまま使ってしまう。そのまま日本に来て現場で使ってしまって、後々までとやかく言う人もいる。こういうことにこだわる人は外国語学んだことがない人に多いように思う。心の扉の開き方が狭いと思ってしまうことがある。
思想や文化は使用する言語を基礎にして成り立っている。外国語を学ぶと、その言語が用いられている国や地域の人の考え方や文化を理解しようとする努力を伴う。学校の授業ではこの感覚がない。他言語を学ぶことは、自分が育ってきた環境とはまた違う文化を知ることができ、いま自分が持っているものと違う世界を知ることができるのである。自分で自覚せずに喋っている自国語が、どういう意味を持つのかあらためて考え直させられる。また、言葉を習得してきた過程をたどり直すような面白さがある。興味を持つかどうかは人それぞれであるが…
もちろん思想や文化は自国語に翻訳されたもので知ることもできる。しかし、原語でも知ると自国語では理解できないものが多いことに気付く。日本語であっても方言を使わなければ、なかなか理解しにくい感覚がある。外国語を学習することによって、学習する前には気付かなかったいろんな日本語の特性を発見することも多い。私はこれが違う言語を学ぶ醍醐味であり、考え方の幅を広げる一つの有効な方法のような気がする。
常識や、社会的規範、行動様式(=道徳)などは国により地域によりずいぶん違うことを知る。何が共通して、何が異なるかを知ることはおもしろいし、いろいろな判断、決断する上で大変参考になる。こういう感覚は金銭では購えない自分自身の財産である。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-252.html より転載