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神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:45:32: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:43:26)

ひとは、儀式や呪文の由来や意味が分らないのに、昔からの言伝えだからと、それらの真意を疑ったり、調べようとはしない傾向があるようです。
例えば、子供の頃の真夏の昼下がり、ゴロゴロと雷鳴を聞くなり「クワバラ、クワバラ」と、蚊帳の中で両手を合わせ拝む祖母を見た記憶のあるひとは少なからずいることでしょう。その呪文の意味を祖母に聞いても、「昔からの言伝え」だからと、明確な理由を聞くことができなかったことでしょう。
では、その「クワバラ、クワバラ」の呪文は、いつ頃発明されたのでしょうか。それは、平安時代の延喜3年(903年)以降の約千年前です。
貴種ではないけれども菅原道真は醍醐天皇にも引き立てられ、894年遣唐使として抜擢されるほどの才能がある人でした。しかし、その才能や醍醐天皇に接近したために危機感を募らせた、天皇を裏でコントロール(摂関政治)している藤原時平の陰謀により、菅原道真は、延喜1年(901年)九州の大宰府に左遷させられてしまうのです。そして、翌々年菅原道真は失意のまま、59歳でその地で没してしまうのです。
怨霊とは祟り神です。それは、やましいこころに宿ります。菅原道真を無実の罪で死に追いやった藤原氏は、菅原道真が雷神となって祟ることを恐れて、その怨霊を封じ込める目的でその地に「神社」を建立するわけです。しかし、それでも菅原道真の怨霊は静まりません。(平安時代では、自然現象でも怨霊の仕業だと信じていた。)そこで、その雷神の祟り祓えを発明する陰陽師(道教士が仏教側に寝返った呪術師)が現われ、雷避けの呪文を唱えるわけです。それが、「クワバラ、クワバラ」です。その意味は、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。つまり、「クワバラ・桑原」の呪文を聞いた怨霊(雷神)は、生誕地を避ける、と言う理屈です。
宗教(呪術)は使い方によっては、ひとを幸福にしますが、間違った使い方をするとひとを不幸にしてしまいます。このことを、革命家のカール・マルクス(1818年〜1883年)は、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である。」を引用して、「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、それは民衆の阿片である。」と言ったそうです。そのように、宗教を批判したカール・マルクスの唱える「マルクス主義」も、ユダヤ教(旧約聖書とタルムードを信じる宗教。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を信じる宗教。ヘブライ語の旧約聖書は、意外にも西暦90年頃確立した。それは丁度、新約聖書が確立した頃です。更に、大乗仏教経典群成立と時を同じにしているのは何故でしょうか。70人訳ギリシャ語聖書は、それらよりも早く紀元前280年エジプトのアレキサンドリアで成立していました。)を換骨奪胎して再構築した「宗教」だったようです。
しかし、マルクスの言ったことは真実でした。それは、阿片は宗教儀式で実際に使用されていたからです。
アヘン・ケシ(学名バパベル・ソミフェルム)の花が散った後の子房を傷つけると、ミルク状の樹液が滲んできます。その樹液が空気に触れると茶褐色の樹脂となります。これが生阿片です。原産地は地中海沿岸で、紀元前四千年頃、オリエントのシュメール人や古代エジプトの神官が、宗教儀式に使用したのが、始まりのようです。その阿片は、シルクロードの国際交易商人や僧侶たちにより、地中海沿岸→ペルシャ→インド→中国へと流れ、659年に著された唐の医学書に「阿芙蓉」と掲載されています。
ひとの意識を、ある種の物質で瞬時に変格させる研究をした宗教組織がありました。そのひとつが、バラモン教です。
紀元前十三世紀、地中海沿岸からインドへ侵入してきた民族がいました。それはアーリア人と呼ばれていました。アーリア人は、インドの先住民の牧畜・農耕民族のドラヴィダ人を支配する装置としての宗教を発明するのです。それが菜食主義のバラモン教です。アーリア人は、ドラヴィダ人を支配するために、複雑怪奇な儀式を発明するわけです。そして、ブラーフマン(梵)を主神として、祭祀(カルマ)、知識(ジュニャーナ)、神への絶対的帰依(バクティ)などの難解な思想で先住民を支配するために、絶対身分制度のカーストを発明するわけです。そして、その制度から絶対に抜け出る事が出来ない装置の、「輪廻転生」の思想も発明するわけです。(釈尊は、このバラモン教のカルマから解脱するために、「非人」となり「乞食」し、「無我」の思想を発明した。)
それらの身分とは、上から司祭階級(バラモン)→王族(クシャトリア)→庶民(ヴァイシャ)→隷民(シュードラ)、そして不可触賎民(セダラ・鎌倉末期にセダラ=穢多が歴史上に現われる。)です。(鎌倉末期、この肉食を極端に蔑視するカースト思想を、騎馬民族を貶めるため、京都王朝側が仏教徒により布教。この思想が、江戸時代に完成する身分制度の、「士農工商穢多非人」となるわけです。)
このインドの地で、秘密の宗教の「密教」が、バラモン教により発明されるわけです。「密教」を一口で言えば、「原初的な科学・化学・薬学・心理学による意識の変成の技術」と言えるかもしれません。つまり、密教とは、錬金術でもあるわけです。(錬金術の真の意味は、卑金属を貴金属に替えることではなく、こころを神の境地に達成させるための技術。)
そのために、バラモン教(四世紀頃ヒンズー教に吸収される。)は組織を上げて、末梢神経や中枢神経をコントロールする「物質」を探究するわけです。そのひとつが、固体→液体→気体→固体→液体→気体と、無限に変成する「水銀」の研究となるわけです。その水銀は、まさに「輪廻転生」の具現化であるわけです。そのため、水銀は、高価な交易品となるわけです。
水銀は、朱砂が採掘される所に埋蔵されています。その朱砂は、日本列島では、縄文時代から呪術の道具として利用されていました。それは、埋葬時に死者の身体に朱砂を塗ると、いつまでも死者は腐ることがないためです。
時代は下がり、四世紀になると、吉野山での水銀の発掘利権をめぐり、ユーラシア大陸から国際交易商人達が、近畿地方に侵攻してくるわけです。
更に時代が下がり飛鳥・奈良時代は、ユーラシア大陸を故郷とする騎馬民族王朝(蘇我・新羅王朝)が続いていましたが、平安時代になるとインド・中国南朝からの海洋民族王朝(百済王朝)になるわけです。このことにより、百済国を滅ぼした新羅国とは国交を断絶したため、[水銀」の交易ルートも変更となるわけです。遣唐使とは、純粋学問探究だけではなく、新交易ルートの開発係りの意味合いもあったのです。
平安京に遷都してから十年後、公費で百済系末裔の最澄を唐に使わしたのは、表向きは仏典の輸入となっているようです。が、しかし、私費の秦氏の末裔の空海が、最澄と時を同じくして唐に渡った意味が理解できません。何か隠された意図でもあったのでしょうか。
当時の留学費は、下級官人の息子の空海に出せる程の金額ではないでしょう。不思議なのは、空海が仏籍に入ったのは、留学の前年なのです。(京都の大学を中退した空海は、四国で鉱山探索をしていたようです。後に寺を建立した付近には銅山・銀山が開発されていたからです。)
そして、最澄が805年帰朝すると、空海も806年帰朝するのです。普通の留学期間は二十年が相場のようです。そのような一二年間で、言葉もあまり通じない異国の地で、仏教の何を学んできたと言うのでしょうか。そして、帰朝するなり、最澄は天台宗を、空海は真言宗を興すのです。
これらのことを考慮すると、二人の行動の裏には、得体の知れない大きな組織のニオイが感じられます。ふたりの唐留学は、実は学問のためではなく、交易ルートの新契約、或は、銀鉱山探索技術や鉱山開発工具購入ではなかったのでしょうか。(空海の「法具」には鉱山開発工具のニオイがします。)
空海は、806年に帰朝後から3年して、やっと九州から京都朝廷へ呼び出されるのです。それは、百済系色の強い桓武天皇が崩御し、その後平城天皇も病気で退位したため、好奇心旺盛の嵯峨天皇が即位したからです。
そして、812年に、高尾山寺神護寺で、正式に恵果阿闍梨から唐で譲り受けた密教灌頂を開くことが、京都朝廷から許されるのです。その後、京の都から遠く離れた、銀鉱脈がある吉野山に近い、山奥の「高野山」に寺を建立するわけです。
空海の密教は、すんなり京都朝廷に受け入れられたわけではないのです。それは、奈良の東大寺系修験道との繋がりを、京都朝廷は警戒していたからです。
東大寺は752年、反藤原氏の聖武天皇が、河内国の秦氏の末裔の行基(ヨーガの呪術を駆使して賎民に平等思想を布教。)の土木技術や全国行脚により資金調達の援助を基に、建立したものです。
その東大寺の廬舎那仏は大日如来(遍照鬼=無量光仏=ミトラ神=太陽神)とも言われています。その大日如来は平安時代になると、空海が発明した「密教」の、仏菩薩、天(「テン」とはサンスクリット語で「神」の意味。)、明王など、唐、インド、ペルシャなどのあらゆる神々を統一する、「仏」になってしまうのです。
この空海が発明した密教の、大日如来があらゆる神々を統率する「汎神論的理論」が、後に、平安仏教側が、神社ネットワークの座を経営する、朝廷にまつろわぬひとびとを壊滅させる戦略に利用されてしまうわけです。それが、本地垂迹理論です。
本来の本地垂迹とは、永遠不滅の絶対的理想仏としての「仏陀」を想定し、この仏陀を「本地仏」(本当の仏)とし、それに対して、歴史上実在した生身の仏陀を「垂迹仏」(仮の仏)とする考え方です。この「本地仏」と「垂迹仏」との関係を、平安仏教側は、「仏」と「神」の関係に置き換えてしまうのです。つまり、「仏」が現実世界へ「神」の姿で化現すると、理論展開してしまうわけです。これが、神仏習合の基本理論です。
そして、平安朝廷は、それまで九州宇佐八幡神(古は、新羅国から渡来した秦氏の神様。しかし、和気清麻呂により乗っ取られて百済王朝の支配下となる。)で天皇家を祀っていたものを、空海の真言密教(神仏習合・加持祈祷)で祀ることになるわけです。つまり、八幡神宮が、神仏習合の第一号となるわけです。
このことにより、体制側が手出しできなかった「異界」の神社境内の空間が、仏教側の支配下になってしまうわけです。それにより、反体制の民が経済支配できるのは、中洲(河原)か街道だけとなるわけです。ここから「アルキ」筋が発生するわけです。つまり、漂泊する芸能民の発生です。
その漂泊芸能民は「七道の者」と呼ばれるわけです。
では、その「道」とは何を意味しているのでしょうか。「武道」「華道」「茶道」等など色々な「芸」につけられる「道」です。それらは「清目」の者達の「技」についているわけです。
その「道」の意味は、敵の大将の首を刃ね、その首を手に掲げ、包囲する敵陣へ向かって少しずつ歩むことにより、敵陣側に自ずから拓く間隙を進むことです。つまり、生死を賭けて敵陣へ進んで行くことが「道」であるわけです。
その七道の者とは、猿楽、アルキ白拍子、アルキ巫子、かねタタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼です。つまり、それらの芸能民とは、清目の者達なのです。
清目の技の「芸」とは、弱い立場のひとたちに対して、歌や舞や色々な技で、こころの怨霊を取り除く「神芸」であるわけです。元々は、氏神を祭る(歳る)ための技が基であるわけです。それが、王権側に祀り場が奪われてしまったため、中州や街道で清目を行なうことになってしまったわけです。芸能民の清目達は、ひとびとを清めた(こころの怨霊を祓う)返礼として、銭や品物の喜捨を受けるわけです。
そして、このアルキ筋は、平安時代では藤原氏の氏寺の「興福寺」の支配下にあったものが、鎌倉時代になると、穢多頭の弾佐衛門の支配下となってしまうのです。何故か?
701年、藤原不比等が日本国を支配する装置としての「大宝律令」による私有地保持禁止も、ひとの物欲を統制することができずに、「三世一身法」や「墾田永世私財法」等と法律を作り替えても、ひとびとの物欲を押さえることができませんでした。その行き着く先が、荘園の経営となるわけです。
私財に余裕のある貴族や寺社は、農奴を銭で掻き集め、未開拓地を開墾するわけです。それにより、税の負担を軽減させるわけです。この荘園経営が広まることにより、税収減になり朝廷の財政が苦しくなってしまうわけです。
藤原氏は、天皇家を支配するために、藤原の女を側室として提供したことにより、天皇家では子沢山となり、それらの子供たち全てを養うことができなくなってしまったのです。(嵯峨天皇は56歳の生涯で、后妃夫人30人以上。皇子皇女50人。)
そこで考え出されたことが、臣籍降下です。つまり、准皇族を作り出すことにより、側室や皇子皇女の養育費を削減するわけです。それが、臣籍降下の「源氏」姓の誕生です。
814年には嵯峨源氏の賜姓となり、825年には公家桓武平氏の賜姓となるわけです。つまり、源氏も平家も天皇家の臣籍であるわけです。(同じ天皇家から源氏と平氏のニ姓を創作したのは、藤原氏の「分断して、統治せよ」の戦略のようです。それは、天皇家の臣下にある源氏と平氏が、やがて争うことになるからです。)
荘園経営の規模を拡大する寺社は、荘園のナワバリを確保するために、武装集団を組織するわけです。それが僧兵です。百済系比叡山の僧兵と、藤原氏系の興福寺の僧兵が、我が物顔で京の都をのし歩くのです。神輿を担いで強訴することも度々です。(仏敵の氏神の乗り物である「神輿」を、仏教僧達が手荒く担ぐとは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「イヤガラセ」の何ものでもありません。)
それに対して、氏神を祀る役座側も神兵で武装組織して、神社や中洲の神域権益のナワバリを確保するわけです。
それに対して、天皇や貴族を護る嵯峨源氏も騎馬民族の「武士」で武士団を組織するのです。桓武平氏は海洋民族の武士団を組織するのです。しかし、平安初期の武士の仕事は、怨霊から天皇を護る「清目」です。
源平の軍事力としての武士団の実力が認められるのは、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱まで待たなければなりませんでした。このふたつの乱により、武士が貴族の支配から解放されることになるわけです。
では、814年の「源氏」発生まで、軍隊は存在しなかったのかと言えば、そうではありません。
宝亀五年(774年)、百済系光仁天皇は、藤原氏のコントロールにより、蝦夷の国(東北)を侵略するわけです。その目的は、本国百済を滅ぼした敵の子孫の新羅系日本人追討と陸奥国の「金」と「琥珀」の簒奪です。
その侵略戦争は、光仁天皇、桓武天皇、そして嵯峨天皇までの38年間にも及ぶわけです。そして、その戦いに動員された兵の延べ人数は、六回の出陣で約20万人です。当時の推定人口は600万人と言われているのに比べれば、20万人の軍人の多さが国家挙げての大事業であったことが分るでしょう。それでも、軍事武力により、戦馴れしている騎馬民族の蝦夷を降服さすことができませんでした。
では、その20万人の軍隊は、どのような属性の人達かと言えば、それは定かではないのです。陸奥の敵将アテルイを騙した二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂の容姿は、日本後紀によれば、「赤面黄鬚」とあるようです。この表現を物の本によれば、赤ら顔で「金糸の付け顎髭」をしていた、と説明しています。しかし、それは可笑しい。戦いに望む部将が、何ゆえ「金糸のあごひげ」をつけなければならないのか、説得力に欠けます。極論を言えば、坂上田村麻呂は、「金髪の白人種」であったのでしょう。つまり、亡命王朝の京都百済王朝は、外国の傭兵軍により軍事行動や治安維持をしていたのでしょう。歴史上実際に、北魏国には、ペルシャの傭兵軍が存在していました。
このことは、後の源平合戦の時、源氏勢力に叩かれ兵力が削がれても、暫くすると、再び平氏の軍勢が増すことは、その都度、海外(インド・宋国)の傭兵軍を雇い入れていたからでしょう。それは、平家王朝は、福原の津で、インドと交易をしていた宋国と貿易を行なっていたからです。
平安時代初期までは、日本列島は国際人で溢れていたのでしょう。しかし、その渡来部族の実体を知ることは、藤原氏による焚書のため、できません。それは、藤原氏の出自隠しのためです。日本版レビ族「藤原氏」の出自も、645年に突然歴史上出現する「中臣鎌足」が先祖であることなど、とても信じることはできません。
日本人は本来、複合民族により構成されているのです。それを無理やり単一民族などと刷り込みをおこなうから、色々な弊害、例えば「イジメ」などが発生してしまうわけです。
複合民族を統制するために、平安の王権側は、朝廷にまつろわないひとたちを「鬼」「妖怪」などと創作して、色々な物語を考え出すわけです。そして、更に、反王権のひとたちを精神的トラウマに陥らす目的に、「地獄」世界を平安時代に、ヒンズー教思想を真似て、発明するのです。現在の、閻魔様(ヒンズー教の神様)が、地獄に落ちたひとの「舌」を抜くイメージは、この平安時代に創作されたものです。
10世紀末、平安仏教は、「六道」の世界観を布教するのです。その根底はヒンズー教です。空海の発明した「日本密教」が平安仏教界に取り入れられると、仏寺のあちこちから「おん・ばさら・あらたんのう・うん・なも・あきゃしゃば・らば・おん・あみりきゃ・ありぼ・そわか」の梵語による真言呪文が聞こえてくるわけです。平安の都は、正にヒンズー教世界の様相を示していたようです。そして、寺にはヒンズー教の神々が仏像に成りすまして鎮座して、その神々に対して、ゾロアスター教の拝火を真似て、護摩を炊いて、祈祷するわけです。

江戸末期、大阪の商人学者の富永仲基は、大乗仏教非仏教説を唱えていました。つまり、大乗仏教は、釈尊の唱えた仏の道ではない、ということです。
僧侶が護摩を炊くとき、十字を切るのは何故でしょう。忍者も術をする前に、十字を切ります。忍者の服部家は、もとは秦氏です。秦氏の氏寺は「十字寺」とも言われていました。その十字寺は、景教寺とも言われていました。景教徒の墓には、マルタクロス(十字架)があります。景教の儀式は、ミトラ教(太陽神)を基にしています。そのミトラ教を模倣したキリスト教も、十字架をシンボルとして利用しています。そして、秦氏の末裔の士族の島津家と穢多頭の弾家の家紋は同じで、それは十字です。何故、秦氏の末裔の空海が、大日如来(ミトラ神)を崇拝し、護摩(ゾロアスター教の拝火は、ミトラ儀式を模倣)を炊き、十字(太陽のシンボルのマルタクロス)を切ることは、もしかすると空海にはオリエントの血が流れていた為でしょうか。

そして、984年、源信は「往生要集」を著し、地獄世界を貴族達に布教するのです。(トップダウンによるコミニュケーション戦術。)
六道の世界観とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、そして天です。その「地獄」については、更に詳しく記述するのです。その地獄世界は八つに分けられているのです。それらは、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、そして無間地獄です。(極楽のイメージを布教しないで、地獄ばかり布教するのは何故でしょうか。)
そして、これらの地獄世界を布教することにより、騎馬民族・漁労民族を貶めるのです。それは、等活地獄へは、動物を殺すこと(血の禁忌)により、落ちることになっているからです。つまり、「殺生禁止」のために、この等活地獄を布教するのです。この思想により、騎馬民族・漁労民族の生活基盤が揺らいでしまうわけです。更に、農耕民族による、騎馬民族・漁労民族への蔑視や「イジメ」の根拠になってしまうのです。つまり、藤原氏の戦略、「分断して、統治せよ。」となるわけです。(この思想を発明した菜食主義のバラモンには、植物にも、動物と同様に生命があることが理解できていなかったようです。)
そして、プロパガンダ(布教)の常套手段のビジュアルとコピーで、それらの地獄世界を、庶民に訴求するのです。ビジュアルとしては、六道絵、地獄絵、そして「北野天神縁起絵巻」などです。コピーとしては、地獄草紙、餓鬼草紙などです。この平安時代の地獄世界の刷り込みが、千年後の現在の日本人を呪縛しているのです。
それらの平安仏教の思想布教に伴って、穢れ祓いの「清目」=王権に逆らう者達(怨霊)から護ることの仕事が、汚い物の清掃業務に変えられてしまうのです。つまり、「穢れ」から「ケガレ」となってしまうのです。それには、王権側のもうひとつのトリックがあったのです。
それは、ライ病者(皮膚病者)の扱いです。平安仏教は、仏敵に対して、仏罰の結果がライ病者であると、「法華経」により布教して、そのライ病者の世話を「清目」達の部落に押し付けたからです。これより、反体制の民の顔役の長吏の仕事が、ケガレの仕事になってしまうわけです。
釈尊の説いた仏の道は、弱い立場のひとたちの為にあったのではないのでしょうか。それから考えると、平安仏教(貴族仏教)は、何を目的に、仏の道を説いていたのでしょうか。
「賭博」と「高利貸し」は、役座が創業したビジネスのように思われているようですが、それは違います。日本国で最初にはじめたのは、大乗仏教徒のようです。歴史上では、大乗仏教徒が、唐国よりもたらしたサイコロを使った「双六賭博」が始めのようです。天武天皇が貴族達と双六賭博をおこなったことが「日本書紀」に記述されています。そして、高利貸しの方も、奈良時代の仏寺が始めたことが、「続日本紀」に記述されています。(戦国時代、武士の大将が、必勝祈願に仏寺にお参りしたのは、実際は、武器弾薬を購入するための金策だったようです。昔も今も、宗教組織の教団維持には、金貸し業は、重要な収入源のようです。)
賭博用語で、「テラ銭」とはチップのことですが、それは、賭博を「寺」でおこなっていたから、「寺銭」と言うわけです。寺で賭博をおこない、負けると寺から金を借りる。これは、正に、現代のパチンコとサラ金の関係と同じです。
貸した金を返してもらうことは、昔も今も同じように困難な仕事です。高利貸しは、金を貸すときは「菩薩」と言われ、返済を迫ると「鬼」と言われるようです。
そこで、高利貸しの寺は、貸した金をスムーズに返済させるための仕掛けを考えるわけです。それが、「ウソ」をつくと、地獄に落ち、閻魔様に舌を抜かれる、という刷り込みです。仏教の宣伝パンフレットの「日本霊異記」には、借りたものを返さないことにより、地獄に落ちる物語が多く掲載されているのは、そのためなのでしょう。
平安時代、仏徒が、神徒(道教の神、景教の神、八幡の神を祀る反体制のひと。道教を崇める天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、ケガレ祓いを発明した「中臣神道」は、天武天皇が崩御後、藤原氏系中臣氏により創作された「体制側の神」。ヒンズー教思想が導入される前の日本国には、「浄・不浄思想=穢れ思想」は存在していなかった。ちなみに役座は道教の薬草学の神農様を祀る。)を目の敵としたのは、神徒が、仏徒ビジネスの真似をして、「異界」の神社ネットワークを利用して賭博と高利貸しのビジネスを興したからかもしれません。
しかし、大乗仏教側が発明した日本版本字垂迹説を基に、神仏習合により、怨霊封じ込め施設である「異界」の神社は、ついに、仏教側の支配下になってしまうわけです。そこで、仏教徒による寺の「賭博」「高利貸し」と、アウトローによる闇の「賭博」「高利貸し」が発生するわけです。
「ケガレ」思想を、平安仏教徒が布教した原因のひとつは、もしかしたら神徒側の「賭博」や「高利貸し」のビジネスから庶民を隔離して、仏徒側のビジネスのナワバリ確保のためだったのかもしれません。  

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