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2019年5月11日17時34分 〜
記事 [地域13] 防災行政無線放送の害悪#36
[以下は外の3消失掲示板とTwitterと茨城町役場へのBackup]

Re: お願い 2011/03/16 (Wed) 23:23:29

>「《まともに走れる道路は寸断》されている今、職員の車両についていたとしても役に立つでしょうか?しかも燃料不足です」
*全国の7軒に1軒は税金ドロボウ公務員の家であり、車両は停車していても防災無線の受信と放送はできます。

>「騒音に悩まされているとはいえ平時とは別個に考えるべきだと思いますが」
*放送塔騒音被害者は何年間も毎日、継続して「被災」している災害時が「平時」なのです。

>「多数の放送搭騒音被害者というのは、震災で被害を受けている方々より多いというのでしょうか?」
*その通りです。 全国の自治体の3分の1の放送塔近辺で「騒音規制法」で規制されている以上の音量の放送騒音を長年継続して受けている人々は「震災で被害を受けている方々より多い」でしょう。

>「どちらが優先されるべきかというのは、このような有事では明白だと思います」
*誰が何を、優先するべきか、「優先されるべきか」を、誰が誰に向かって言うか、が「明白」であると思う事は、〔自分は凡俗の大バカ者であると思っている〕と言っているのと同じ事です。

>「この掲示板では私のような意見は排斥され糾弾されるようですが」
*不当な「意見」に対して「糾弾」を受ける責任は言論における自己責任でありますが、誰も「排斥」はしていません。

>「今は、震災被害者が一刻も早く平穏な日常に戻れることを考えて、怒りの矛先を収めてはいただけませんでしょうか?」
*「怒りの矛先」と「震災被害者が一刻も早く平穏な日常に戻れることを考え」る事と、どの様な論理的、実際的な関係があるのでしょうか?
前述した様に、多数の放送塔騒音被害者を犠牲にして平素を静穏に暮らし、騒音で生命・身体が危機的状態になく、大ざっぱな表層的観念による判断意見は、物事の本質を見る視点を欠いており人間社会の物事を悪化させておいて;
初投稿で「休戦」しろ、だとか、「お願い」だとか、支離滅裂な自分勝手な意見を述べる人間には真に善良な事は何も出来ないのです。
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宮城県付近の大地震 2011/03/13 (Sun) 07:04:09 内

メロドラマの酔人 2011/03/17 (Thu) 17:37:16

自分はブログで他人を何回も非難して回れる余裕のある環境にいて、ヒマを持て余して、口先だけで、お涙頂戴!何でも頂戴!のデマ・ストーリーをデツチ上げて;

救世主気取りで、被災者の窮状を悪用してナルシシズムに酔っぱらう”うじ虫”が、大災害の時には特に増加する様です。
〜 〜 〜 〜 〜

防災無線について 2011/03/21 (Mon) 22:13:11内
Re:防災無線について 2011/03/23 (Wed) 12:40:59

当サイトは’書き込み者’が自分の知能と人間性のテストをしている様なものであるので、早速、貴方’無関係者’さんの評価をしましょう。

ここでは《放送塔の騒音》を問題としているのであり、「同報無線」の電波発射については全然問題にしていないので、「誤解」の記述はされていないし;

>「屋外広報は定時音楽以外は選挙の投票促進と気象情報や迷い人手配などが主なもので、用途が内規で定められています」
*行政行為は全て法令と「内規で定められています」が、憲法が保護規定している国民の基本的人権を侵害して被害を与えたり殺人行為を認可規定していないし;

>「有事で放送がうるさいと文句つける」
*平時に、[騒音規制法]の規制音量を超える大音量を放送する《放送塔》を設置して使用し、平時に近隣住民に毎日、毎日、被害を与えたり、殺害しようとしている放送に、「有事」であっても「うるさい」と「文句つける」のは、毎日が「有事」である放送塔騒音被害者が自分の身体・生命を保護したいために「放送がうるさいと文句つける」のであり;

>「騒音に慣れる」
*”くそ壺文化日本”の”うじ虫”どもは「騒音に慣れる」でしょうが、防災放送塔を設置・使用していない世界の普遍的人間同様の日本国人間は「騒音に慣れ」ず、身体被害にも「慣れ」ず、殺害されることにも「慣れ」ないのであり;

以後に記述されている代替手段や欺瞞的提言等は、加害者・殺人者である悪辣非道な税金ドロボウの公務員に言うべき事であり、ここで言うべき事ではないので;

貴方は低能で卑劣な人間性を持っており、自分はバカな人非人であることを表明したのです。
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http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/851.html

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
18. 2019年5月11日 17:35:47 : wZni7FtF9c : a0J6Vm1zL2lHMnM=[70]
馬鹿殿は食いものにされるのが歴史の必然だ
何を今更、だ
無能な官僚やアホな議員に容易に操られる男は、他国の海千山千の本物の政治家にとっては赤子の手をひねるように操られて当たり前だな
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c18
記事 [国際26] 米支配層が朝鮮に求めているのは屈服だけだと理解した朝鮮がミサイル発射実験(櫻井ジャーナル)
米支配層が朝鮮に求めているのは屈服だけだと理解した朝鮮がミサイル発射実験
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905110000/
2019.05.11 櫻井ジャーナル


 朝鮮が行った短距離ミサイルの発射実験に関し、アメリカのドナルド・トランプ大統領は信頼関係を損なう行為ではないと発言した。朝鮮側は真の平和と安全は主権を守るための強い物理的な力必要だと主張、長距離ミサイルの発射実験も準備しているとしている。

 朝鮮の金正恩労働党委員長は2月27日と28日にかけてハノイでトランプ米大統領と会談したが、合意に至らなかった。決裂した理由はマイク・ポンペオ国務長官とジョン・ボルトン国家安全保障補佐官が同席したことにあると言われている。このふたりには朝鮮と交渉する意思がない。ネオコンと同じように、従属しなければ破壊するという姿勢だ。

 それから2カ月後の4月24日、金正恩委員長は列車でウラジオストックを訪れた。25日にはロシアのウラジミル・プーチン大統領と会談​​に入る。その際、プーチン大統領は金委員長によるアメリカとの「関係正常化の努力」と韓国との対話を歓迎したという。

 本ブログでは繰り返し書いているように、プーチン大統領は朝鮮半島の軍事的な緊張を緩和させ、鉄道やパイプラインで東アジアを結びつける計画を遅くとも2011年に打ち出している。

 アメリカのバラク・オバマ政権がリビアやシリアへジハード傭兵を送り込んで侵略戦争を始めたこの年の夏、ロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案しているのだ。言うまでもなく、朝鮮は資源の宝庫。植民地化されずに開発が進めば豊かな国になる。

 ロシアや中国はユーラシア大陸に鉄道網を張り巡らせ、エネルギー資源を運ぶパイプラインを建設しようとしている。朝鮮が同意すれば、鉄道とパイプラインは朝鮮半島を縦断、釜山までつながる。西の果てはヨーロッパだ。

 金正恩の父、金正日はロシアの提案を受け入れたが、2011年12月に急死する。朝鮮の国営メディアによると、12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したというが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の元世勲院長(2009年〜13年)は暗殺説を唱えていた。これが事実なら、誰が殺したのか?

 それに対し、アメリカ支配層の基本戦略は支配と略奪。ヨーロッパ流とも言える。十字軍の中東侵略は財宝だけでなく知識を盗むことに成功した。スペインやポルトガルは15世紀から17世紀にかけて世界を荒らし回り、ラテン・アメリカで金銀財宝だけでなく、資源も略奪する。その象徴的な存在がボリビアのポトシ銀山だ。

 イギリスはボーア戦争(1899年から1902年)を引き起こしてトランスバールとオレンジを併合、すでにイギリス領になっていたケープ植民地とナタールを合わせてできたのが南アフリカ連邦を作り上げる。

 この地域ではダイヤモンドや金が大量に産出、その流通をロンドンがコントロールすることになる。つまり、金本位制を採用する国の通貨はロンドンが支配することになった。

 ボーア戦争の前にイギリスは中国(清)の侵略に乗り出している。当時のイギリスは機械化が進んで生産力が向上していたが、生産した製品が思うように売れない。清との交易では大幅な赤字になっていた。

 この状況を打開するためにイギリスは麻薬のアヘンを売りつけることにする。綿製品をイギリスからインドへ、アヘンをインドから中国へ、茶を中国からイギリスへという仕組みだ。

 麻薬の流入を清政府が容認するはずはなく、戦争になる。1840年から42年まで続いたアヘン戦争と56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。こうした戦争でイギリスは勝利するが、内陸部を制圧する戦力がない。そこで目をつけられたのが日本だった。このイギリスの戦略を引き継いだのがアメリカにほかならない。

 時を経て20世紀の後半。1989年にベルリンの壁が壊され、90年には東西ドイツが統一された。その際、アメリカの国務長官だったジェームズ・ベイカーはソ連のエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOが拡大することはないと約束したことが記録に残っている。

 それをミハイル・ゴルバチョフは信じたが、アメリカは約束を守らない。すでにNATO軍はロシアの玄関先まで到達、軍隊を配備し、ミサイルを設置してロシアを恫喝している。その結果として軍事的な緊張は高まり、全面核戦争の危険性は冷戦時代よりはるかに高まってしまった。これがドイツ・モデル。

 ジョージ・W・ブッシュ政権の要求に従ってリビア政府は2003年に核兵器や化学兵器の廃棄を決定する。廃棄すれば「制裁」を解除することになっていたのだが、アメリカ政府は約束を守らない。それどころか、2011年2月にはバラク・オバマ大統領はアル・カイダ系武装集団などを使ってリビアを侵略する。破壊、殺戮、略奪で現在は暴力が支配する破綻国家だ。これがリビア・モデル。

 アメリカ軍はベトナム戦争で負けたが、その戦争でベトナムの国土は惨憺たる状態になる。アメリカ軍による「秘密爆撃」ではカンボジアやラオスでも国土が破壊され、多くの人々が殺された。戦闘では通常兵器だけでなく、化学兵器の一種である枯れ葉剤(エージェント・オレンジ)やナパーム弾が使われている。CIAのフェニックス・プログラムでは人々を殺すだけでなく、共同体を破壊した。

 ソ連が消滅してから3年後の1994年にアメリカはベトナムに対する「制裁」を解除するが、その代償としてベトナムは新自由主義を受け入れる。IMFなどの「毒饅頭」を食べることになったのだ。

 しかもベトナム戦争中にアメリカ側が行った犯罪的な行為は不問に付され、ベトナムの庶民は低賃金労働者として西側巨大資本の金儲けに奉仕させられている。これがベトナム・モデルだ。

 アメリカ支配層が朝鮮半島で目論んでいるのはこの3モデルのひとつ。アメリカ側が朝鮮に許す選択肢は屈服の仕方の違いであり、主権を認める気などない。それを朝鮮側も一連の交渉で理解しただろう。



http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/396.html

コメント [経世済民132] シャープのV字回復にブレーキ、鴻海傘下で初の「減収・営業減益」(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
3. 2019年5月11日 17:39:59 : KyPgZPlu8Y : U0EzUDRXcC5YdzY=[252]
ホンハイは中華民国台湾の電機メーカーと言うことになっているが、実際は中共と親密な国民党系企業。シャープを買収したのは、シャープの基幹技術を吸い取って中共側に流すため。すべて取ってしまえば、後はシャープのブランドだけを維持するだけ。サンスイや赤井電機がどうなったか、思い出せばよい。今後、これにパイオニアが加わるね。日本ビクターは、業務用無線機世界第二位のケンウッドと組んだから、何とか存続しています。音響分野でも、ウッドコーンなど優れた製品を出しています。

Sansui LED Television
https://dir.indiamart.com/impcat/sansui-led-television.html
●日本メーカーの名前と勘違いするので、それを利用して売っています。実際は中国大陸製品。

AKAI Cooling & Heating
http://www.akai.com.au/product-categories/cooling
●豪州・NZで売っている赤井電機のエアコンです。

http://www.akai.com.au/product-categories/whitegoods
●赤井電機の白物家電です。
http://www.akai.com.au/product-categories/cooling

日本の電機メーカーは、将来の見通しは非常に暗いです。パナソニックは社長自ら、10年後存在しているか分からないと本音を。東芝は原発で主力事業の大半を売却。日立も、そうなりつつあります。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/378.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
26. 2019年5月11日 17:46:00 : 8tPlzV0qEg : TUQyeUNPem1GY0E=[1]
>毎日新聞社企業理念

基本理念___
毎日新聞社は、人間ひとりひとりの尊厳とふれあいを重んじます。生命をはぐくむ地球を大切にします。生き生きした活動を通じて時代の創造に貢献します。基本理念を受け、毎日新聞社は以下の指針に沿って行動する。

指針___
1.言論・報道・情報・文化企業として、読者をはじめすべての人々に個性的で質の高い商品を提供する。
2.販売店、関連・協力企業と手を携えて毎日グループの総合力を高め、広告主などあらゆる取引先とゆるぎない信頼関係を築く。
3.従業員の能力を開花させ、その生活を豊かにするとともに、株主の期待に応えて経営基盤の強化を図る。
4. あらゆる事業活動において、ひとりひとりの人権とプライバシーを尊重し、性別、年齢、国籍、人種、民族、出身、思想、信条、宗教、疾病、障がいの有無、性的指向、性自認等による差別を行わない。
_________

毎日新聞には、ジャーナリズム精神という項目がないのですね。
その代り「広告主などあらゆる取引先とゆるぎない信頼関係を築く」とあります。
つまり、原発村や政府の広告料を大切にし、嘘でも何でも垂れ流すと理解していいのでしょうか?

創価学会・池田教の池田犬作(ソンテジャク)が2012年頃に死んでミイラになっているとの情報がありますが、これを報道しない理由はカルト集団のプライバシー尊重なのですか、それともソウカ新聞の印刷をやらせてもらってるからなのでしょうか? その両方ですか? ああソウカ創価、両方なのか。

>死んだ池田大作はミイラにされ学会本部に安置されている
http://blog.goo.ne.jp/izuookawa/e/26997837f7087f6d8835877172baca6d?fm=entry_awp_sleep




http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c26

コメント [政治・選挙・NHK260] 玉木・毎日は僕に取材なしでネガ記事、産経・階が離党検討。国民は日本大衆党になる現共産と合併交渉を進める事である。 ポスト米英時代
7. 2019年5月11日 17:48:10 : ORrldzLQS6 : MlRmUU1HdU45ZnM=[1]
4、6こそ頭の中がお花畑で病気だろう。

 何度騙されても騙され続ける敗戦小国民ばかりではないぞ。

 ポスト米英時代さまをなめるな。

 ん〜あと、山本太郎 どーんと行け。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/609.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK260] 漢字読めないシンゾーやっちゃたね、大ポカ!退位礼正殿の儀で、「願って已(やみ)ません」なのに「いません」だって。最悪! 赤かぶ
86. 斜め中道[6377] js6C35KGk7k 2019年5月11日 17:50:29 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[333]
>>80
「あ〜らやぁ〜だぁ〜!けーさんったら!
 お酒の飲めないヴィーガンじゃないのぉ〜?」・・・であるにゃ♪
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/427.html#c86
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
19. 2019年5月11日 17:53:21 : z0SQdjEyNM : WUxPTXhZaFdKYWM=[136]
なかなか立派ではないか、普通これだけコケにされれば
外遊が嫌になる所なのだが平気で用もないのにノコノコ出かける
そしていじめられる、並みの神経ではできないことだ。
立派なのはそこだけなのが残念。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c19
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
39. 2019年5月11日 17:53:38 : 4BEw1pJ3kg : MWlkeGFFWmxnUUk=[121]
何も考えなくてもいいよ。

2050年には日本の西半分は中国の完全支配領土、東日本は中国の民族自治区ってなってるという地図が数年間に流布して話題になったが、あれは間違いなくその通りになる。アヘだけでなくアヘをこんなに長く交代させられない人材枯渇の日本の政治状況では、あっという間に軍事衝突無き完璧な軍事戦略で国全体をを取られる。

たとえばの話だが、
アメリカが北を核攻撃することに踏み切りそうになったらその瞬間、中国は日本全土の主要原発に向けてミサイル照準を合わせる。

アメリカと中国が裏で手を握っていて、中国に朝鮮半島と日本を取らせて、アメリカはベトナムやインド方面での中国の影響力緩和を手に入れる交渉がまとまれば表向きそういう動きになってもおかしくない。朝鮮半島と日本が中国のものになれば、北の核の問題はアメリカにとって個別案件ではなくなる。

もちろん仮にの話なので米中がどこまで裏で気脈を通じているかはわからないが、中国が日本全土を取るということは、今の時点では戦闘行為の要らない案件だ。

金払って買っているのは、その時中国人が中国政府相手に売るつもりかもしれないが、ま、あの国の体制から見たら、国家反逆罪で銃殺になって取り上げられるのが落ちだね。

2050年と言わず、2030年にはかなり具体化するんではないか?俺はもう生きて無いとおもうけど。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c39

コメント [原発・フッ素51] 太陽光発電が需要の88%に(日照豊富な県でなぜ原発?!) 戦争とはこういう物
8. 2019年5月11日 17:54:46 : wc9Hko5hCw : ZmYvWmxIbG5aaVU=[1]
2>>は無知を自慢するネトウヨそのもの。

住宅用蓄電池はパナソニックなどが作っていて実用化されている。したがって雨天も夜も困らない。通販で手に入る。
 災害で停電する度に蓄電池や太陽光発電機が売れている。外国製も簡単に手に入る。

 原発が必要だと言っているのは経産省と原発村の土民だけ。
 大手企業はどこも原発があって吹き飛んだら大損害だと思っている。

 災害で一番困るのは原発だ。道路が寸断されて生活がままならないところに放射能を撒き散らされて、電力会社社員が真っ先に逃げてしまうので電力が復旧しない上に被爆を恐れる救助隊がきてくれない。
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/512.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK260] <密告者が続出し、検察の権限が強大になるばかりだ!>いまこそ司法取引制度の是非について国民的議論が必要だ  天木直人  赤かぶ
12. 2019年5月11日 17:59:48 : fPAGedqalU : S0tQb1pzMi91OVU=[183]
 4で照会されている 
 — Holmes#世論の理性 氏の コメント内容に尽きる。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/616.html#c12
記事 [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース)
【日向灘M6.3】南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声
https://www.mag2.com/p/news/397432
2019.05.10 gyouza(まぐまぐ編集部) 



気象庁の発表によると10日午前8時48分ごろ、日向灘(北緯31.8度、東経132.1度)を震源とした深さ20km、マグニチュード(M)6.3の地震が発生しました。宮崎市松橋や都城市高崎町大牟田などで震度5弱を観測したほか、九州の各県で震度4から1を観測しています。揺れは広範囲に渡っており、遠くは中国・四国地方でも揺れを観測しています。この地震による津波の心配はありません。この地震の直後の同日午前9時7分にも最大震度3、M4.9(深さ10km)の地震が発生しています。


5月10日午前8時48分に発生のM6.3の地震 image by: 気象庁

実は、この地震の約1時間ほど前の午前7時47分ごろにも、同じく日向灘(北緯31.8度、東経132.0度)を震源とした深さ20km、マグニチュード5.6の地震が発生していました。宮崎市霧島や都城市菖蒲原、鹿児島県鹿屋市新栄町などで震度3を観測したほか、九州の各県で震度3から1を観測。揺れは広範囲に渡っており、遠くは山口県や愛媛県でも震度1を観測しています。震度5弱の地震はちょうど1時間後に発生しました。


5月10日午前7時47分に発生のM5.6の地震 image by: 気象庁

南海トラフ巨大地震の震源域である日向灘や和歌山県の紀伊水道では、3月27日前後にも5回の地震が発生していました。


image by: Map:LincunArea:Pekachu [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

これらの地震の震源域が、近く発生が予測されている南海トラフ巨大地震の震源域に重なるため、ネット上ではSNSなどを中心に心配や不安の声が相次いでいます。

Twitterの反応











































これら南海トラフ巨大地震の震源域で発生した地震に関連性はあるのか、気象庁からの発表はありませんが、九州、四国、近畿周辺では今後の地震情報に注意する必要があります。(随時更新)

※本記事内のツイートにつきましては、Twitterのツイート埋め込み機能を利用して掲載させていただいております。

image by: 気象庁




http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html

コメント [近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
6. 中川隆[-10344] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1764]

  アジアとの「友好」を言い出す連中には、何となく胡散臭い人物が結構いる。会長の頭山興助もその一人で、聞くところによると、彼は重信メイの後見人になっているそうだ。

彼女は日本赤軍のテロリスト重信房子の娘で、父親はレバノン人である。

実際、どんな経緯でメイの後見人になったのか解らないが、一説によると、重信房子の父親「重信末夫」が金雞学院の門下生で、頭山満の息子である秀三と関係があったらしい。そこで、秀三の息子である興助がメイを支援することになったそうだ。

確かに、母親が極左テロリストであっても、その娘がテロリストになるわけじゃない。
だが、メイの精神が健全で日本を愛する心があるのかどうか、疑問である。だいたい、パレスチナ解放戦線のゲリラやテロリストに囲まれて育った娘が、カタギの大人になって普通の生活を送るのか?

長いこと無国籍状態だったメイは、日本の左翼弁護士の尽力で日本国籍を取得し、憧れの日本にやって来たというが、その頭が日本的とは限らない。


  メイは中東に詳しいジャーナリストの看板でマスコミに登場したが、母親の気質に染まっていたので、その根本思想は左翼である。

案の定、メイは極左の片鱗を現し、特定秘密法案が提出されると、左翼ジャーナリストと一緒になって反対を表明した。

「知る権利の侵害だ !」と騒いだのは、ほとんどが札付きの左翼分子。

例えば、テレ朝の寵愛を受ける青木理、大谷昭宏、川村晃司、荻原博子、田原総一朗、山田厚史、吉永みち子、高野孟、鳥越俊太郎、

TBSの「報道特集」でキャスターを務める金平茂紀、

「サンデー・モーニング」でお馴染みの岸井成格、

支那人と裏で繋がっている富坂聰、作家の佐野眞一、

ジャーナリストの江川紹子、安田浩一、

左巻き作家の澤地久枝、左翼に戻った小林よしのり、元同志社大学の黒ヘルが自慢の小川和久、作曲家のなかにし礼、

頭がおかしい精神科医の香山リカ、左翼俳優の菅原文太、セクハラ疑惑で早稲田大学を去った元日経新聞の田勢康弘、『万引き家族』の監督を務めた是枝裕和、

陰湿な歴史家の保阪正康、NHKと昵懇で安倍・中川の政治介入を言い立てた本田雅和、元酌婦で親共産党の室井佑月、英国からやって来たビルマ系ユダヤ人のピーター・バラカンなど、朱色から深紅まで様々だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68765229.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c6

コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
1. 赤かぶ[12841] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:04:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2906]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c1
コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
2. 赤かぶ[12842] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:05:25 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2907]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 消される前に見てもらいたい衝撃の動画!  赤かぶ
42. 斜め中道[6378] js6C35KGk7k 2019年5月11日 18:06:01 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[334]
「新共産主義ブラク」がちょいと騒がしいなぁ〜♪
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/405.html#c42
コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
3. 赤かぶ[12843] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:07:05 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2908]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c3
コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
4. 赤かぶ[12844] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:07:37 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2909]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c4
コメント [国際26] 米支配層が朝鮮に求めているのは屈服だけだと理解した朝鮮がミサイル発射実験(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
1. 2019年5月11日 18:07:42 : GuoKbXntaY : NXhOZFZKZEVZVGc=[5]
欧米がいくら野蛮で残酷だとしても現実問題として北朝鮮一国のみで対抗しようというのは無理があり過ぎるのではないか。

しかし同じ東洋人としては朝鮮民族の誇り高さには敬意を払うが。

http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/396.html#c1

コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
5. 赤かぶ[12845] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:08:09 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2910]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
40. 2019年5月11日 18:08:33 : Zp4HWcaRBo : T0N4SExhUUhnV00=[1]
対ロシアを考えているのじゃないのかな・・・中国は!

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c40
コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
6. 赤かぶ[12846] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:08:50 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2911]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c6
コメント [カルト20] 日本国民が主権者だ、という考えは、間違いである。選挙で選ばれた、国会議員たちという人間の集団が、主権を持つ/副島隆彦 仁王像
19. 2019年5月11日 18:08:58 : 6KiUALiH2Y : NTNnc2FGWVN2SWM=[31]
三度目の削除なのでまた投稿する。誰だろうね。正体を知りたいな。大体創造はつくけどね。
「主権在民」を間違いであると主張する副島君に説明を求める私の投稿がまた削除されてしまった。こういうことがあるから阿修羅は今一つ信頼できないんだよな。「すべての虚構を暴き、真実に到達しようとしている」というのは嘘なのかな。誰がやったのか知らんが、そんな奴は民主主義云々を論ずる資格はないと思うけどな。正々堂々と反論できないようなことは主張するなよ。
副島君の主張は憲第41条に「国会は、国権の最高機関である」と定められているから、「選挙で選ばれた国会議員たちが主権を持つ」という論理らしいが(下記に引用した文はどうみても副島君が書いたものだろう)、これは論理的に成立しないよ。「国権」=「主権」ではないんだから。この区別は中学生でも分かると思うけどな。例えば日本と他国の間の国際紛争(争議)を巡って、解決手段として国(政府)が武力による威嚇や使用を選択し、国民の総意が「平和的手段による解決」だった場合、武力発動は国権であるけれども、その前提として憲法上は主権者である国民の承認が必要であるということだよな。
以下、副島君が書いたと思われる文章の引用
>日本国民が主権者だ、という考えは、間違いである。
 日本は、国民主権(こくみんしゅけん)だと、憲法学者たちも解釈(かいしゃく)するが、それは、「主権(ソブリーンティ sovereignty )の存する国民は」と、憲法典に、前文を含めて、3カ所出てくるだけで、それだけだ。 「主権者国民」 と言う言葉は、短絡的で、知恵の足りない、近代学問(モダーン・サイエンス)を勉強したことのない人が使うコトバだ。
正しくは、国民の代表者たち(レブレゼンタティブス・オブ・ザ。ネイション)が、日本国の主権者(ソブリン)である。 だから、憲法41条以下で定める「国権の最高機関は、国会である」のとおりであり、選挙選ばれた、国会議員たちという人間の集団が、主権を持つ。そして、 そこから選ばれる、内閣(ないかく、キャビネット)は、主権の内の、行政権、国家業務の推進の権限(エグゼクティヴ・ライツ)だけを持っている。だから、日本国の意思は、対外的には(世界に向かっては)、閣議で決定したもの、である
以下は削除された私の投稿
説得力のある説明をしろよ。小室直樹先生はどのような理論で「国民主権」を否定してるのか教えてくれ。多分できないだろうけど。4に張ってあるURLで小室直樹先生の著書「田中角栄の遺言」から引用されている箇所は民主主義と独裁主義の関係を述べているだけじゃないか。国民の意思を代表して独裁政治を行う独裁者というのは確かにいるよな(カダフィなんかそうだったんじゃないかな)。これは一種の民主主義の形態であるという小室先生の意見は正しいだろう。ただ、国民の総意に反した独裁政治は民主主義の一形態だとはいえないだろうなぜなら「民主」ではないのだから。ということで、小室先生が「国民主権」をどのように否定しているのか早く教えてくれよ。それから9の質問にもちゃんと答えてくれよな。

>貴公、副島・小室説と違うこと言ってるつもりか?
 日本語の分らない奴だ。

当り前だろう、副島君と違うこと言ったらなんか悪いのか?人を罵倒するより、早く説得力のある説明をして私を納得させろよ。小室先生はなんといって「主権在民」を否定しているんだ。書名も教えてくれよな。そういうことをちゃんとやらないとごまかそうとしてると思われるよ。


http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/801.html#c19

コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
7. 赤かぶ[12847] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:09:28 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2912]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c7
コメント [経世済民132] ホンダの四輪事業ついに赤字転落、聖域の「研究所」にも改革のメス(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
10. 2019年5月11日 18:09:32 : qbk8jQQBxV : RWZxY1dGQlNwTDI=[4]
ふーん
その派生車種を増やしたのはだーれ?
ところで、ホンダって天下り厄人が何人いるんだろうかね?www

http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/362.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
24. 2019年5月11日 18:10:03 : 4BEw1pJ3kg : MWlkeGFFWmxnUUk=[122]
>>20

大辞林 第三版の解説

けっかろん【結果論】
事が起きたあとで、そのわかっている結果を前提としてあれこれ論ずる無意味な議論。

否定的な意義まで載ってるとは驚きだったよ。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c24

コメント [近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
198. 中川隆[-10343] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:10:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1765]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。

2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
========================
和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c198

コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
8. 赤かぶ[12848] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:10:30 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2913]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c8
コメント [自然災害22] <日向灘M6.3>南海トラフ地震の震源域で震度5弱発生に不安の声(まぐまぐニュース) 赤かぶ
9. 赤かぶ[12849] kNSCqYLU 2019年5月11日 18:11:16 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2914]



http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/681.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
25. 2019年5月11日 18:11:56 : 4BEw1pJ3kg : MWlkeGFFWmxnUUk=[123]
無意味な議論に基づいて影響度を語るとどうなるの?
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c25
コメント [近代史3] コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族 中川隆
16. 中川隆[-10342] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:12:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1766]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。


2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
========================
和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/306.html#c16

コメント [戦争b22] 北朝鮮のミサイル発射直後、アメリカはICBMを発射していた(ニューズウィーク) 赤かぶ
6. 2019年5月11日 18:13:01 : Rx5Zf7iE4M : NGJORi5KWTF1ZlE=[1]
ニューズウィークは、忘れている?ふりをしている?

北朝鮮の軍事訓練は、米韓の空軍が、先ず訓練を再開したからだ。

> U.S., South Korea concluded air force drills, Seoul says

North Korea condemned the drills more than a week before it launched short-range projectiles.

https://www.upi.com/Top_News/World-News/2019/05/06/US-South-Korea-concluded-air-force-drills-Seoul-says/1531557149038/
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/655.html#c6

コメント [カルト20] 日本国民が主権者だ、という考えは、間違いである。選挙で選ばれた、国会議員たちという人間の集団が、主権を持つ/副島隆彦 仁王像
20. 2019年5月11日 18:14:42 : 6KiUALiH2Y : NTNnc2FGWVN2SWM=[32]
間違いー三度目の削除なのでまた投稿する。誰だろうね。正体を知りたいな。大体創造はつくけどね。

訂正ー大体想像はつくけどね。

「創造」ではなくて「想像」だった。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/801.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK260] <東京新聞を見て驚いた!>山谷えり子氏に語った事が本音なら、日朝首脳会談は幻に終わる  天木直人 赤かぶ
28. ひでしゃん[2158] gtCCxYK1guGC8Q 2019年5月11日 18:15:56 : hjTsd0XdN2 : cjBvbUFUQmVNSUE=[54]
北朝鮮とは休戦中とはいえ戦争中のアメリカトランプ大統領に
日本人拉致問題解決にお力拝借だったが
自分の国のことを余所に頼むな
と当然の叱責を受け
やっと直接向き合う姿勢を国内向けに出してきた
北朝鮮からすれば植民地時代の強制連行や
現行憲法第十条の国籍条項から国籍法による日本在住外国人
とりわけ戦後一括除籍された旧植民地出身者である朝鮮系台湾系の人々の権利剥奪
戦争中の戦死や傷病に対する補償の権利など
従軍慰安婦や徴用工問題など氷山の一角
日本政府日本人が詭弁による責任逃れに汲汲として敗戦処理を怠ってきたツケが何時までも信頼を得られないし日本全体を苦しめる
いつまでも米軍駐留に依存する体質からの脱却と共に敗戦処理を進めなければならない



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/597.html#c28

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
26. 2019年5月11日 18:16:07 : 4BEw1pJ3kg : MWlkeGFFWmxnUUk=[124]
先生 日高見が「何か有意義な事でも語ってみたらドーだ?」ってかれが有意義なこと語ってると思う他人手を挙げて。

中学校の生徒 違うと思います。

小学生 シーン(きーてない)

幼稚園児 わいわいがやがや、そんなことどうでもいー、せんせー何言ってんのぉあそぼあそぼ


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c26

コメント [政治・選挙・NHK260] 玉木・毎日は僕に取材なしでネガ記事、産経・階が離党検討。国民は日本大衆党になる現共産と合併交渉を進める事である。 ポスト米英時代
8. 2019年5月11日 18:17:17 : i9wGvhQqqE : SDliTUkzNG55NUk=[1]

つまり、まさに、この目の黒いうちに 誰がどこから見ても 武装国連軍に警護された国際選挙監視団が見ても 本当にインチキのない選挙が実施され、あのデンデンでんぐり返し蚊帳の外・お前が国難・お前がウミで売国奴で疫病神で貧乏神で人殺しと呼ばれ続ける人間のクズの壺売り一派の馬鹿が下野し、今までのウソの全てと悪事の全てが白日の下に晒され、鞭打ちと棒叩きの刑に処され、そして古来ゆかしき八つ裂きの刑で地獄に落ち、閻魔様に「いらっしゃーい、待ってたよー」「わりと遅かったねー」と笑顔で迎えられ、何枚あるかわからない舌をぜーんぶ抜かれ、血の池・針の山で延々と罪を償うところを見届けるまでは 死んでも死に切れんのじゃがなもし。だからして、なるべく早めにお願いしますだ。チーン!

悲願達成!__安倍デンデン・ガマグチナチオの一派に天誅を! 背後勢力は地獄への旅へ__

>検索 報道されない不正選挙裁判  不正選挙のバカ総理



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/609.html#c8

コメント [原発・フッ素51] 太陽光発電が需要の88%に(日照豊富な県でなぜ原発?!) 戦争とはこういう物
9. 2019年5月11日 18:17:38 : W0uMknY4Rk : NTliS1BybGo5aFk=[3]
西日本の原発が吹き飛べば、日本は住めなくなる

世界廃墟遺産に日本列島登録

全島立ち入り禁止

全島上空飛行禁止

沖縄と伊豆諸島がかろうじてのこる

福島原発廃炉だけで少なくとも81兆円かかる。被災者に8兆円支払った。それでも足りない。

こんな原子炉が54基もある

つまり、吹き飛ばなくても
使用済み核燃料を管理する予算が底をつく

国民を騙しきれなくなり電力社員、政治家、官僚が逃げたあとは野積みで放置される
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/512.html#c9

コメント [原発・フッ素51] 帰還が止まった川俣町山木屋(めげ猫「タマ」の日記) 赤かぶ
2. 茶色のうさぎ[-10845] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年5月11日 18:17:46 : gunqr5ntUk : RGpwTzczWnZVWEk=[-3]

 ↓ 避難指示区域の人口です。 集計に苦労しましたわー♪ぷっ
https://photos.google.com/photo/AF1QipPMMcHVnahBpgbaMloOEsOGM07tbIXapvFuI1Be

結論: 総人口は、減ってますね。 葛尾村は転入者で増えてます。 うさぎ♂


http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/516.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍一派の唱える改憲は、国民だましとみんな気付け!今の日本が最優先で実現すべきは、決して改憲ではなく対米自立である!(… 赤かぶ
1. 2019年5月11日 18:18:23 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[870]
八部:最終回 黒い王家10人の名前【黒い貴族】
.
ch 国際政経
2019/05/10 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=I3bz6qaWjoA
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/595.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] <全面意見広告が凄い!>「安倍改憲に勝つ!」 武力で平和はつくれない 民主主義はどこへ行った アベノミクスは大失敗  赤かぶ
73. 斜め中道[6379] js6C35KGk7k 2019年5月11日 18:18:39 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[335]
>>35 以下の罵愚

小金持ちらしく
Bアベノミクスは大失敗 
 これだけは、文句なしで賛成する・・・だけで勝負してろよ〜♪
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/415.html#c73

コメント [カルト20] AERA・ダブル濃厚、維新と改憲タッグ、野党は候補が揃わず。共産を含めて維新以外が一党になるしかないのである。 ポスト米英時代
4. 2019年5月11日 18:19:09 : tSI3kkFlNA : ekhtZnMySTk5aWc=[61]
ただの反共記事じゃねえか。
国民民主党と立憲民主党の分裂の方が根深いと思うけどね。
この二党が対立している限り国民連合政権構想なんて無理じゃないかな。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/823.html#c4
コメント [経世済民132] 財政赤字を容認する「MMT理論」は一理あるが、やはり危険な理由(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
9. 2019年5月11日 18:21:26 : R0LxjIRplA : NGt2OHpwRnkwUEE=[6]
インフレになれば、増税したり、金利を上げたりすればいい。
MMTを推進しましょう。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/370.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
20. 2019年5月11日 18:25:11 : 3KV1vMJJdE : L3RubnVtRU9tTlk=[74]
自分がプーチン大統領ならば、「誰が相手にするものか」という心境こそ、潜在的なものであると同時に、日ロ平和友好条約を締結するという発想もまた、mこれが単なる個人的な思い付きなのかどうかはわからないものの、日本国民の中からの「憲法9条にノーベル平和賞のお墨付きを賜る」という発想もまた、これが単なる個人的な思い付きとが、思わず偶然が齎した潜在的な心境と受容と共感的理解に値するものであることは、アメリカのトランプ大統領からして、このような安倍総理に限ることなく、自民党自らが「日米安全保障条約の終わりの始まりのきっかけを招き入れようとしている動かぬ証拠であることを、見事に証明してくれただけのことなのかもしれないことは、国際社会全体の共通認識として受容と共感的理解どころではないほどバレバレのことであることに、真実を見透かせば、日本人として、怒りを通り越して聞いて呆れるどころの騒ぎではないことに、複雑な感情を抱きながらも、そっと静かに腹の底で嘲笑いながら、この自民党をこけにしていただきまして、誠に有難うございます、とでも国際社会全体に、どんどんアピールして行きたいところですね。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c20
コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
77. 2019年5月11日 18:25:20 : 32gaobLF6I : WlBpTm96Rmw1dnM=[243]
>>67
>だからもちろん「総理大臣になりたい」「総理大臣になろう」なんて、本人が思っていないのです。

●おぬし、知らないはずは、あるまい。(^_^)

仙谷由人は、次の総理大臣を決める民主党代表選で、小沢総理大臣実現を阻止するため「民主党代表選は、公職選挙法の対象外だから何をやってもいい」と宣言して、シロアリと結託しあらゆる不正を強行した。

まず、民主党代表選に立った小沢一郎を落とすため、ズバリ議員投票日当日に「幽霊検察審査会」に強制起訴議決をさせ、わずかの委員票を寝返らせ僅差でアキカンを当選させた。

また、全国の党員等の投票の集計は「ムサシ不正選挙マシン」を使って、秘密裏に小沢票を棄却するなど異様な集計結果となって、アキカンが勝った。

なにせ、民主党代表選での小沢一郎の理路整然とした「共生」と「国民の生活が第一」の演説と、アキカンのスッカラカンの口パクの差は歴然としており、アキカンの惨めさが際立っていた。

あのとき、小沢総理大臣が実現していれば、今日のような惨めな国にはならなかった。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c77

コメント [カルト20] 日本国民が主権者だ、という考えは、間違いである。選挙で選ばれた、国会議員たちという人間の集団が、主権を持つ/副島隆彦 仁王像
21. 2019年5月11日 18:27:32 : 6KiUALiH2Y : NTNnc2FGWVN2SWM=[30]
>「主権者国民」 と言う言葉は、短絡的で、知恵の足りない、近代学問(モダーン・サイエンス)を勉強したことのない人が使うコトバだ。リベラル派は、これに縋(すが)り付く。


「短絡的」とか「知恵が足りない」とか無礼なことを言うことの方がよほどアラシと思うけどね。私も「主権在民」をそのまま解釈している一人だから、私自身が言われているのと同じだからな。合理的な説明を求めることがなんでアラシなんだ。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/801.html#c21

コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
18. 2019年5月11日 18:33:59 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[28]
 
 東京の水道水を飲んだら 病気になるでしょうね〜〜
 
 外食も危ないな〜〜
 
 ===

 空気から入ってくるのは 何とかなるでしょう!!
 

http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c18

コメント [カルト20] 宇・トラは世界経済を二分し中国に勝たせて多極化促進。日本は米を外していき、中露エネ同盟と印と組むのがお得である。 ポスト米英時代
1. 2019年5月11日 18:34:08 : KyPgZPlu8Y : U0EzUDRXcC5YdzY=[253]
日本は中露印と組まないと、未来はない。それには、現在のCSIS下僕政権を打ち壊さなくてはならない。

話は変わって、中露印の中で最大の経済大国である中国について、重要なツイートを紹介します。

衣笠書林@猫の生活が第一‏ @syuugoro2
https://twitter.com/syuugoro2/status/1127056125612793856
中国は元紙幣の肖像の様に、腐っても毛沢東思想が生きている。「自力更生」と「持久戦論」が復活するんじゃないか?、米国の選択肢は日本などの従属国への強要、国内移民の搾取、侵略戦争と植民地搾取しかないんじゃないか。米中摩擦で沈むのは中国じゃない、そして米国より先に日本が沈むだろう。

●日本のダマスゴミは、米中摩擦を対岸の火事のように伝えているが、本当に被害を受けるのは日本である。アメリカは、衛星国以下の植民地日本を切り捨てる。

よーすけ‏ @yoshimichi0409
https://twitter.com/yoshimichi0409/status/1127070298224807936
中共内部には新左派という反グローバリズムで毛沢東的な自力更生経済を目指す潮流が存在し党内及び社会に一定の影響力を有している。習近平は党主席になる過程で新左派の代表だった薄煕来と熾烈な権力闘争の末、彼を政治的に抹殺したが、その格差是正の主張は積極的に受け入れ政策に活かしている。

●以下のツイートが、状況を的確に説明しているので、読んで下さい。

よーすけ‏ @yoshimichi0409
https://twitter.com/yoshimichi0409/status/853466434164236288
中国権力内部には、対露同盟派と対米協調派の対立が以前から存在する。また米国留学組が新自由主義派で新左派=社会主義を重視し富の分配を通じて国内産業活性化を目指す部分と激しく対立している。改革開放が元々孕んでいた矛盾が露呈している。習近平はシルクロード戦略で突破するつもりだが…

●中国は豊かになるために改革・開放政策を選択したが、そこに入ってきた西側諸国の勢力。アメリカに留学した者たちは、新自由主義に染まって帰ってくる。これが改革・開放政策の矛盾である。彼らをどのように抑え込むかが重要。

衣笠書林@猫の生活が第一‏ @syuugoro2
https://twitter.com/syuugoro2/status/1127056123503099904
・・今の西側経済、新自由主義=投機資本主義=資本自由主義は生産ではなく利鞘に投資する。政治権力が資本家を支配する社会主義の中国やロシアと異なり、資本家が支配する政治権力はそれにブレーキを掛けられない。だからイノベーションが無ければ搾取か侵略によってしか利鞘を作れない。

●ロシアですが、ソ連が倒れて社会主義やめたことになっていますが、現在でもロシア連邦政府が強力な権限で各企業を監督、指導しており、各企業は連邦政府に逆らえません。このことが、アメリカの新自由主義とは全然違います。第二次世界大戦後の、仏伊の混合経済のような感じ。それでも現在のロシア連邦政府の方が、権限は強力です。

1980年代まで、仏伊は国営企業を増やしてきましたし、私企業でも政府が強力な権限で指導、監督してきました。自動車でも、各メーカーに担当車種を割り当てていました。イノベーションについても、混合経済の方が進化を促せます。自動車の前輪駆動や空力ボディが、戦後仏伊の自動車メーカーから生まれたことを思い出してほしい。

これに対し、アメリカは自動車を無理やり買わせるために、計画的旧式化と言う手法を用い、無駄なモデルチェンジばかりで技術は全然進歩しなかった。1970年代末期に日本車に苦しめられたアメリカ車を見て欲しい。特にクライスラー。中身は1950年代中頃の技術のままでした。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/844.html#c1

コメント [昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
302. 中川隆[-10341] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:34:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1767]

2019年05月11日
韓国フードデリバリー(宅配)配達員 2万人以上が年収600万円以上

一見そんな風に見えないが、平均年収600万円以上だという


画像引用:http://www.kfoodtimes.com/news/photo/201806/5540_8467_27.PNG

韓国で「ひとり飯」はあり得ない

日本は空前の人手不足だが韓国は逆に就職難で、平均失業率は5%で若者は10%とされています。

集計に含まれない未労働者はもっと多く、就職しても低賃金労働をしている人が多い。

だが韓国でも超人手不足になっている業界があり、それが宅配ドライバーです。



日本でも最近フードデリバリーが走り回ったり、ネット通販の宅配需要で配達ドライバー不足が言われています。

失業率が高い筈の韓国で、なぜ宅配ドライバーだけ不足するのかは、韓国独自の事情がありそうです。

まず韓国では外食店の料理を自宅に配達してもらうフードデリバリーが日本より盛んだが、韓国文化が関係している。


ソウルのような大都会ではそうでもないが、地方都市や田舎では1人で外食することは少ない。

店には横並びのカウンターや一人用のテーブル席はなく、4人以上で座るような大テーブルが並んでいる。

あったとしても2人席だが、そこに一人で座って食事をすると人生の落後者のような目で見られる。


韓国で「あいつ一人で食事している」と言えば人格否定もので、日本のような「おひとり様」文化はない。

日本人が1人で入店すると断られることがあるが、これは日本人だからではなく「一人客お断り」の場合がほとんどです。

カウンターがないのでテーブルに一人客が座ると団体客が座れなくなり、店の売り上げが落ちるから入店拒否します。


なので韓国人が日本に来て、みんな一人で外食しているのを見ると、カルチャーショックを受けます。

中小企業正社員の2倍以上の報酬

韓国では(特に女性は)一人で外食したら近所中の噂になり、社会落後者にされてしまうので、解決策として宅配が利用される。

韓国における宅配サービスはひとり飯を救う重要な役割を占めていて、バイクなどで配達する配達員をする人が多い。

配達員の需要が配達で働きたい人を遥かに上回り、デリバリーサービスで配達員の争奪戦が起きています。


韓国のフードデリバリーは1回3500から4千ウォン(約340から390円)ほどの料金を払い、90%が配達員の取り分になる。

日本の場合は1回500円から1000円以上(距離などで違う)の手数料を払い、400円から600円以上が配達員の取り分になる。

日本のほうが1回あたりの手数料、配達員の報酬共に多いが、それだけ韓国の方が競争が激しいと言える。


宅配大手のCJ大韓通運が発表した2018年の宅配ドライバー収入は、韓国の人々に衝撃を与えた。

全体の4.6%に当たる559人が年1億ウォン(1000万円)以上の報酬を受け取り、22.5%は年間所得8000万ウォン(約800万円)以上だった。

さらに全体の71.5%が年間所得6000万ウォン(約600万円)以上で、全ドライバーの平均は6937万ウォン(約667万円)だった。


これは韓国労働者(正社員)の平均年収(3475万ウォン(約349万円))(中央値は2720万ウォン(約255万円))を遥かに上回っている。

全体の4.6%が559人なので総数1万2000人以上もの配達員が、正社員労働者の2倍以上の年収を得ている。

ソウルでは年4億ウォン(約4000万円以上)も稼いだ配達員が居て、驚くほかない。


調査したCJ大韓通運はフードデリバリーで48.2%のシェアを持ち、ここから韓国の全配達員は約2万5千人であると分かる。

それだけ儲かるのなら若者全員が配達員になりそうだが、相変わらず若者の失業率は高い。

韓国の若者は「デリバリーなんかより無職のほうが良い」と考えているようだ。
http://www.thutmosev.com/archives/79799646.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c302

記事 [原発・フッ素51] エクセロンがスリーマイル島原発を閉鎖するのでいまさらながらその原因を考える…update2







米スリーマイル原発が閉鎖へ 9月末、支援策まとまらず
2019/5/9 09:37 (JST)5/9 09:43 (JST)updated ©一般社団法人共同通信社
スリーマイルアイランド原発=3月、米ペンシルベニア州(共同)
 【ワシントン共同】米電力大手エクセロンは8日、1979年にメルトダウン(炉心溶融)事故を起こしたスリーマイルアイランド原発2号機の隣で運営していた1号機を、予定通り9月末までに閉鎖すると発表した。
 採算の悪化から2年前に閉鎖方針を発表。その後、地元の東部ペンシルベニア州議会が支援策を検討したがまとまる見通しが立たなかった。今後は廃炉に向けた作業が進む。
 発表によると、10月以降も運転を続けるには6月1日までに新たに核燃料を購入する必要がある。州議会には、地球温暖化対策になるとして補助金を出す法案が提出されているが、同社は成立する見込みがないと判断した。


【州議会には、地球温暖化対策になるとして補助金を出す法案が提出されているが、同社は成立する見込みがないと判断】w


スリーマイル島原子力発電所事故ウィキ

2次系の脱塩塔のイオン交換樹脂を再生するために移送する作業が続けられていたが、この移送鞄管に樹脂が詰まり、作業は難航していた。この時に、樹脂移送用の水が、弁等を制御する計装用空気系に混入したために、異常を検知した脱塩塔出入口の弁が閉じ、この結果主給水ポンプが停止し、ほとんど同時にタービンが停止した。 二次冷却水の給水ポンプが止まったため、蒸気発生器への二次冷却水の供給が行われず、除熱が出来ないことになり、一次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し加圧器逃し安全弁が開いた。


そもそも稼動中に2次系の脱塩塔のイオン交換樹脂を再生するために移送する作業なんてやるか?




  • 「今回の事故は主給水ポンプが故障したのが原因だといわれている。この故障の原因はいまだにわかっていない」


  • 「この事故の場合は給水が止まっても10秒あまり制御棒が下りない状況が続いた」


  • 「不思議なことに給水ポンプの下にある補助給水ポンプは作動はしたものの、バルブが閉じたままだった」


  • 「二次系が止まり加圧器の水圧が1分後に上昇し、ECCSが作動することになった」


  • 「この炉は昨年12月に運開してから試運転の間に2回もECCSが作動したことがあった」


  • 「ECCSが作動した点は良かったが、事故が起こってから4分30秒後に捜査員がECCSの1機を手動で止めてしまった。」

  • 「加圧器逃し弁から冷却水が放出されていることを操作員が気づかずに事故後2時間18分たって初めてこれに気がついた」


  • 「ヘンドリーNRC委員長はこうした今回の事故原因を”七不思議”という言葉で表現してる」


つまりスリーマイル島事故も自爆テロだったのだ…。


スリーマイル島の事故は1979年3月28日で、王禅寺の人体実験は昭和43年(1968年)9月2日…。


王禅寺の人体実験の目的は何か?


たぶん731部隊は1968年の時点で海馬と前頭葉間のWiFi通信に介入できることを知っていたのではないか? これは空海が持ち帰った密教の奥義でもある。 そしてこのアクセルとブレーキを踏み間違いさせるやり方で、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故、311を起こしたのではないか?…



エクセロンがスリーマイル島原発を閉鎖するのでいまさらながらその原因を考える…update2 弁財天
http://benzaiten.dyndns.org/roller/ugya/entry/exelon-shutdown-tmi




http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/517.html
コメント [リバイバル3] 月山スキー場 中川隆
11. 中川隆[-10340] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:38:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1768]

リフト緊急停止で160人宙づり ロープや脚立で救助(19-05-11) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EVTCVl5pQ7c


 11日午前10時半ごろ、山形県西川町の月山スキー場でリフトが止まり、乗っていた約160人のスキーヤーが宙づりとなりました。

スキーヤーたちはロープや脚立で1人ずつゲレンデに降ろされ、約2時間後に全員が無事に救助されました。

スキー場の運営会社によりますと、午前10時半ごろ、降り場付近で乗客の荷物かウェアが引っ掛かって緊急停止した後、動かなくなったということです。リフトの動力は電気で、モーター関連の故障とみられています。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/867.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
27. 2019年5月11日 18:39:38 : FnXHn97a6c : UHBwNGFOTkhUT3M=[2]
>>22さん、むしろ21さんが言っていた通りになったと思いますが。階氏は「反小沢」を掲げましたが誰もついてくるものは無く、結局こぶしの落としどころが無くなって一人だけで離党する羽目になった、という事でしょう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c27
コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
19. 2019年5月11日 18:39:56 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[29]

 鼻血が出るということは 放射能プルーフが 鼻の粘膜でとらえられているということで
 
 その鼻の薄い粘膜を 放射能が壊した結果 血がでたわけだからね〜〜

 そのプルーフは 鼻水とともに 胃にいって 腸にいって 糞として 出される

 だから 防御できたケースだよね〜〜
 

 ===


 ま〜〜 腸と卵巣は近いので 当然 不妊にはなるし 奇形児も生まれるが

 日本では 奇形児は 死産として 表に出てこないのだから ま〜〜 防げたケースだね
 
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c19

コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
20. 2019年5月11日 18:41:37 : GuoKbXntaY : NXhOZFZKZEVZVGc=[6]
福島の事故機はメルトダウンした原子炉全部露天でしょう。石棺が建ってるわけじゃないよね。

本当に空気から入ってくるのは 何とかなるのか?

http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
21. 2019年5月11日 18:41:39 : 32gaobLF6I : WlBpTm96Rmw1dnM=[244]
「ジャップ」「イエロー」・・・安部を見ていると、海外から見た日本人のイメージがわかるような気がする。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c21
コメント [昼休み54] 中国人のチベットでの民族浄化の手口 中川隆
12. 中川隆[-10339] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:44:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1769]
チベット民族平和蜂起60周年記念日におけるロブサン・センゲ主席大臣の声明(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
http://www.asyura2.com/17/asia23/msg/768.html
http://www.tibethouse.jp/news_release/2019/190310_Statement_JP_20190310.html


2019年3月10日


中国人民解放軍は、列を成してチベットの地に初めて足を踏み入れたとき、チベットとその人々に「平和と繁栄」をもたらす「道」を築くと約束しました。しかし、その「道」が築かれた途端、銃を手にした人民解放軍の兵士が戦車で次々となだれ込み、チベット高原を占拠しました。

1959年、60年前の本日、チベット本土に暮らすチベット人たちは、チベットを占拠する中国軍に対し、立ち上がりました。拳を頭上高く掲げた勇敢なチベット人たちは、スノーランドはチベットの土地であると主張して、デモ行進を行いました。チベットはチベット人のものだと、声高く訴え、一致団結し、私たちチベット人の導師であり最も敬愛する指導者であるダライ・ラマ法王14世の御身をお守りしました。

過去60年にわたって、北京の中国政府はチベット人を激しく弾圧し、基本的人権を否定して、チベットの言語、文化、独自のアイデンティティ、宗教を消し去ろうと組織的な活動を続けてきました。中国はチベットの文明をこの地球上から抹消しようと手を尽くしてきたのです。

ヒューマンライツ・ウォッチの今年の年次報告書では、中国当局が「全国規模の防犯運動」の名のもとに、ダライ・ラマ法王に少しでも傾倒する疑いのある者がいれば、その地域の住民がその者を告発することを奨励していると報告されています。

さらに、近年では人権保護活動に対する弾圧が激化しています。言語保護活動家のタシ・ワンチュク氏は、中国の刑務所に懲役5年の刑で現在も服役中です。犯したとされる罪は、チベット人の子どもたちのために、チベット文化と言語の権利を提唱していたことのみです。これらの権利は中国憲法で保障されているはずです。ところが中国政府は最近では、チベット人の子どもたちに地域の僧院で行われる非公式のチベット語講座に出席することさえも禁じました。

世界規模の監視ネットワーク管理をもくろむ中国は、その手始めにチベットをハイテク監視システムの試験地区に利用しています。中国共産党は「グリッド監視システムによる社会管理」を導入して電子機器と監視員を配置し、隅々まで徹底した管理体制を敷いています。2008年からは市街地や郊外のあらゆる主要道路のほか、チベット高原の僻地にまで、バリケードや検問所が設置されています。チベット自治区では、平均でチベット人20人に対しひとり以上の担当官が政府から配置されています。こうした政策の結果、息子が父親を、娘が母親を、兄弟同士で監視しあうような悲惨な状況が起こっています。

「世界の第三極」としても知られるチベット高原には、北極と南極を除いて世界最大の氷河があり、アジア最大の河川群の水源として、数十億人の暮らしを支えています。そのため、チベット高原で気温が上昇するとアジアで数百万人の生活が危機にさらされるほか、世界中の気候変動に影響が及びます。中国は誤った環境政策のもと、資源の豊富なチベット高原で鉱業とダム建設を大規模に展開し、事態をさらに悪化させています。

チベットの土地や住民に対する弾圧はあらゆる方面から行われてきました。200万人を超えるチベットの農民や、特に遊牧民たちが、祖先から受け継いだ土地を奪われ、大規模な居住区に移住を強いられました。そこには個人が伝統を重んじた尊厳をもった暮らしを送る余地はありません。

チベット本土で起こる厳しい抑圧政策に対し、2009年以降、153名のチベット人が焼身抗議を行いました。一番最近の焼身抗議は、2018年11月4日に起こった、ドポという23歳の青年によるものでした。焼身抗議者の大半は、チベットの自由の回復と、ダライ・ラマ法王のチベットご帰還を求めていました。

フリーダムハウスが発表した2019年の報告書では、チベットは4年連続で、シリアに次いで最も不自由な国に挙げられています。国境なき記者団は「報道の自由が組織的に侵害されていることに怒りを覚える」と表明しました。ジャーナリストがチベットに入るのは北朝鮮に入ることより難しいというのです。

世界中に暮らす私たちチベット人は、チベットの歴史の中でも最も暗い時代を体験していますが、あらゆる障害を乗り越えて、多くのものを共に勝ち得てきました。これまでの60年は、希望を忘れず、屈することなく抵抗する、そうした旅路でした。

1950年代の初頭より、中国による弾圧に対し、チベット人たちは、確固たる姿勢できわめて平和的に抵抗運動を行ってきました。1959年3月のチベット民族平和蜂起、獄中や強制収容所での勇敢な抵抗運動を行った1960年代と1970年代、大規模デモを行った1980年代。チベット人たちは一致団結して、権利と自由、正義を求めて闘い続けてきました。

2008年には、新しい世代のチベット人たちが中国の占拠に対してチベット全土で蜂起し、自由と尊厳を求めるチベット人たちの揺るぎない勇気を世界中に示しました。彼らはこう宣言しました。「我々の声を抑えることはできない。我々の活動を止めることはできない」この確固たる抵抗運動は続いていきます。

亡命したチベット人たちも同様に、チベット人社会を立て直すだけにとどまらず、コミュニティは発展し繁栄するまでになりました。私たちの祖父母の世代がインドに60年前に到着したときには、明日どうなるのかもわからない状況でした。しかし、ダライ・ラマ法王のご指導のもと、チベット人たちは復興に尽力しました。土を掘り、ひとつひとつ煉瓦を積み、家を建て、学校を作り、僧院、尼僧院、居住区を建設し、家庭が集まって社会を築き、トウモロコシ畑に希望の種を蒔きました。伝統的な敷物を織る技術を発展させながら、子どもたちのためにより良い未来を敷いていきました。

こうして造り上げた施設や社会で、私たちはチベット人としての言語、文化、精神的伝統、そして私たちの最も大切なアイデンティティを復興させました。私たちには奥深い歴史、伝統、思想、芸術があり、犠牲者としての物語を、逆境に屈しない者たちの物語に変えることができました。私たちの主張は真実であり、また私たちは様々なプロジェクトを実現し、成功させる実績を数十年にわたって積み重ね、世界中の支援者や支援団体から大きな評価を勝ち得てきました。

ダライ・ラマ法王のご指導のもと、中央チベット政権は亡命先の社会で、法治主義、男女平等主義、普通選挙権に基づく民主主義を発展させました。2011年、ダライ・ラマ法王は、その政治的指導者の立場を、チベット人が民主的に選出した指導者に委譲されました。今日、中央チベット政権は世界40か国に広がるチベット人社会を代表する組織となり、13か国に置かれたチベット代表事務所がその連携の役割を担っています。

中央チベット政権の任務として、チベット人居住区71カ所、僧院・尼僧院276カ所を統括するほか、68校の学校施設ではおよそ2万人が学び、南アジア、東南アジアの大半の国々より高い識字率を誇り、病院、診療所、老人施設も管理しています。すべて、インド、ネパール、ブータンに暮らす亡命チベット人たちのニーズに応える施設です。

私たちの成功は、地域社会だけに留まってはいません。日本では、超党派議員90名から成る日本チベット国会議員連盟が結成されました。チェコで結成されたチベットのための国会議員団は、ヨーロッパ大陸最大の国会議員団で、上院、下院から合わせて50名以上の議員で結成されています。40か国を超える国々で、国の支援グループが設立され、54か国でチベット支援団体が活動を行っています。

2018年の国連人権理事会では、加盟国のなかでも強大な影響力のある国々が、中国に対し、チベットでの人権侵害を中止するよう要請しました。オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカは、中国の第3会期の普遍的定期審査のなかでチベットへの支持を表明し、私たちは大変感銘を受けています。

もう一つ特筆すべきこととして、2018年12月、アメリカは、「チベット相互入国法」を可決し、前例のない一歩に踏み切りました。この法律は、中国当局がアメリカ政府高官やアメリカ人報道関係者のチベット立ち入りを禁止した場合、中国当局者の訪米を拒否するというものです。また、ドナルド・トランプ大統領は「アジア再保障イニシアチブ法案」を発効させ、チベット支援を強化しました。これはチベットの文化、教育、環境の保護と発展に対するアメリカの経済的支援を保障するものです。

中国政府が「協力」や「対話」などという言葉を使うときはリップサービスであると私たちはよく知っています。「世界平和は協働により実現が可能である」ということが中国の真意であるなら、ダライ・ラマ法王の代表団との対話を再開すべきです。何度も表明していますが、私たちは中道のアプローチに基づいてチベット問題を対話により解決する用意は整っています。

中国政府は、チベットで60年続く抑圧を終わらせるどころか、「0と100政策」を打ち出しました。この新しい政策では、国際メディアと亡命チベット人からの情報がチベット本土に流入するのをゼロにし、チベットに関する公式ニュースの100%を中国政府が管理し諸外国や亡命チベット人に普及させる、というものです。

中国政府はチベット問題が時間とともにやがて風化していくと考えてきました。しかし、私たちは50年以上にわたるあらゆる経験から、その逆の現象が起こっていると考えます。チベット本土で暮らす若い世代のチベット人たちは、抑圧と抵抗を経験していますが、一方で亡命先の地で暮らす若いチベット人たちは、自由と民主主義を経験しています。チベット本土のチベット人たちと亡命社会のチベット人たちは、共に協力して、真実と正義を求めようとしています。この新しい世代のチベット人たちは、チベット人の独自のアイデンティティと尊厳を守ろうと行動しています。また、その活動のバトンを次の走者に、チベット問題が解決するまでつないでいこうとしています。結局は、チベット人が自分たちやチベットの運命を決めるのは、チベット人自らのためなのです。

60年にわたって私たちチベット人を支援してくださった各国の皆様に謝意を伝えるために、2018年を「感謝の年」とし、「サンキュー・インド」にはじまる謝恩プログラムを、新旧のチベット支援者の皆さまのために各国で開催し、「サンキュー・アメリカ」で締めくくりました。インドをはじめ、世界中の親愛なる友人の皆さまに、ここに再度、謹んでお礼申し上げます。

チベットの悲劇を考えると、すべきことがまだ山積していることを思い知らされます。チベット占拠とチベット人弾圧は60年にもわたって続いています。そこで、内閣(カシャック)は、チベットの自由を求める活動を前進させるために、今年を「行動の年」とすることを、本日ここに宣言します。世界中の自由を愛する皆様に、チベット本土での弾圧を終わらせ、正義のために闘うことを呼び掛けたいと思います。各地のチベット人の皆様、正義のために行動を続けましょう。チベット本土で自由に同胞たちと集えるよう、屈しない姿勢を強くしていきましょう。ダライ・ラマ法王14世に、本来住まわれるべきポタラ宮へお戻りいただけるよう、行動していきましょう。

ダライ・ラマ法王万歳!チベット万歳!


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
28. 2019年5月11日 18:44:56 : KKcjyd1kmU : RlFheVpZSHZyUHM=[2]
>>23
刺客をぶつけられた(しかも家族ぐるみで付き合いのあった達曽知事の夫人)
あとは震災で家族を亡くした盟友の黄川田議員にも刺客
そこから階議員は反小沢になった
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c28
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
41. 2019年5月11日 18:51:45 : IJjjrLkBu1 : TkVzTE5CdVJubC4=[219]
  大分前だがピケティとかいう米国人が日本の株を買い占めたと話題になりハゲタカだの何だのと罵詈雑言の批判を繰り返したが、結局は日本国内だけでは株式市場が持たなくなり大企業の株の持ち合いも解消された挙句、外国人投資家による株式投資に頼らざるを得なくなり今や一向にハゲタカ呼ばわりはなくなっているのと同様、日本の土地も日本財界官界政界護送船団の放蕩で、今は中国人を盗人呼ばわりでも、いずれ投資を呼び込む形で切り売りせねばならない事態になるのではないか。
  問題は国有地なのか私有地なのか、私有地だとして原野を一体どこの誰が持っており外国人に切り売りしているのか、或いは国有地を誰がどう采配して外国人の購入を承認しているのか詳細が全く不明である。本来なら、例えば森友学園の土地売買に関して市議が問題提議したことで事件が発覚したように、県議か市議あるいは国会議員によって、原野をどのような手続きを以て外国人に売っているのかの調査をすべきである。仲介者として日本人が絡んでいることが明らかになるのではないか。でなければ単に地元不動産屋の采配で外国人が登記し名義人になることは無く必ず管理団体の承認が有る筈だ。その管理団体は一体どういう資格で公有地の売買に関係しているのか、中国の支配下に入るだとかの心配よりも、無法な土地売買なら、それを規制する法律を議会が作るにあたっても入念に土地売買の経緯を調べて情報を確保するのが先決である。
  何やら未開人が我らの土地に見知らぬ侵入者が来たとばかりに大騒ぎという様相だが、近隣国中国との交流は与党を先頭に毎年二千人単位で外遊しており見知らぬ侵入者という訳では無く、日本とて戦後70余年を法治主義国としてやってきた以上、議会による検証くらいは先に済ませて置くべきであり、充分な証拠を揃えて違法行為であれば与党に国際会議で問題提議させるなどが、成熟した国家としての在り方であろう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c41
コメント [政治・選挙・NHK260] 経産省キャリアが省内で覚せい剤使用か?メディアは全然取り上げず、ピエール瀧とは大違い(まるこ姫の独り言) かさっこ地蔵
1. 2019年5月11日 18:53:27 : 10gvDyP2x6 : RGRZaWZpblQ5bVk=[1]
差別国家、にっぼん。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/619.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
78. ピッコ[1576] g3ODYoNS 2019年5月11日 18:54:30 : jIdCRz6XHM : dzdNREZ3MFcyaWc=[1]
57. >民主党の中で、自民党の送り込んだスパイ議員が、内部から妨害していたからです。

57. さん、その「スパイ議員」こそが小沢一郎なんですよ。 本人がそう思っているかどうかは別として、結果的にそう(内部から妨害)している。 先の民進党解体の時にも裏で小沢が絡んでいた。 そんな奴が野党結束をまた再び呼び掛ける。 「バカじゃないの?」と言いたくなる。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c78

コメント [政治・選挙・NHK260] 大津事故で「#保育士さんありがとう」も…安倍政権は子供の危険高める保育士配置基準緩和! 昭恵夫人のお友だちが関与(リテラ) 赤かぶ
11. 2019年5月11日 18:55:38 : imf801LpCA : UXVGVkV4V0NtckE=[60]
「ありがとう」を貰えたら給料安くてもOKというワタミ理論の実践か?

だいたいこの事故で保育士の責任を本気で論うヤツがどれほどいたってんだ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/618.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK260] 森友事件の闇!地検と検審の内容が著しく食い違う!   赤かぶ
18. 2019年5月11日 18:57:01 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[85]
先進国ではなく、後退国なのでは?

まあ政権交代して、まともな官僚を抜擢して事を起こさないと、この流れは断ちきれないだろうね。
そのためには野党が意見の違う部分をとりあえず置いといて、一致する部分で協力しなければダメでしょう。
外部の支援団体(連合とか連合とか連合とか)の意見なんか脇に置いといて、先ず政権交代に向かうぐらい、子どもでもわかること。
(連合の人間が、野党共闘に共産党が入ったとして、自公維に票を入れるかって言えば、入れるわけないってわかるでしょ。連合のバ会長など放っといてよし。)

政権交代のためにどういう道筋で何をすべきか考えればいいのではないでしょうか。

籠池さんも、おもろいおっさんですが、安倍信者(日本会議?)の他人を犠牲にするやり方には呆れ果てているでしょう。
逆に、パヨク(とは言っていないかな)が意外とまともな人たちだって気づいたことでしょうね。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/613.html#c18

コメント [国際26] トランプ大統領の支持率が最高に(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
4. 2019年5月11日 19:00:15 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[65]
乗せられる 短絡的な 綺麗事
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/387.html#c4
コメント [国際26] アメリカには徳政令が必要だ(マスコミに載らない海外記事) 赤かぶ
2. 2019年5月11日 19:00:32 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[66]
窮屈だ 便利に過ぎる 世の中も

不自由だ 重い債務が のしかかり

http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/390.html#c2

コメント [国際26] 米支配層が朝鮮に求めているのは屈服だけだと理解した朝鮮がミサイル発射実験(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
2. 2019年5月11日 19:00:42 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[67]
乗っ取りの 秘密兵器が 白い粉
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/396.html#c2
コメント [経世済民132] 今、高所得者の間で密かに流行っている「節税」方法(Business Journal) 赤かぶ
2. 2019年5月11日 19:00:52 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[68]
嫌悪感 こらえて臨む 申告に
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/374.html#c2
コメント [経世済民132] 雑感。米中貿易戦争で追加関税へ(在野のアナリスト) 赤かぶ
1. 2019年5月11日 19:01:02 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[69]
トランプも 懸念隠して 騒ぎ立て
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/375.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 拉致解決が遅れたのは、安倍ら超保守派の強行姿勢も要因+自民からも不信感。弾道ミサイルの制裁はいかに(日本がアブナイ!) 笑坊
2. 2019年5月11日 19:01:07 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[86]
またしても安倍のピンチに北朝鮮が何かとばしたらしいですね。
私にはそんなもの飛んだかどうだか知る術はありませんけど。
(「飛ばした情報」だって伝聞情報でしかありませんから。)

何故、安倍のピンチには北朝鮮は動くのか?
ここにヒントがあると思いませんか?


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/611.html#c2

コメント [経世済民132] トランプの制裁関税で一番痛手を受けている人々(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
5. 2019年5月11日 19:01:12 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[70]
見渡せば 面子が大事 景気より
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/376.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 来日トランプまたゴルフ 安倍首相の“顔を立てる”有力2候補(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
8. 2019年5月11日 19:01:21 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[71]
不戦勝 だから興じる 悠々と
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/580.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK260] 太郎ちゃんの言う通り! 税金使って遊んでるんじゃねーよ 室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
23. 2019年5月11日 19:01:30 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[72]
血税に たかって肥る ゾンビ村
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/583.html#c23
コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
27. 2019年5月11日 19:02:32 : KKcjyd1kmU : RlFheVpZSHZyUHM=[3]

新聞記者が取材もしないで憶測や妄想で記事を書いたら終わり

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c27
記事 [カルト20] 産経・筆坂・マルクス主義と決別して党名変更すべき。元四番手の指摘は重く、日本大衆党になるべきである。
筆坂も書いているが、不破の百年先を展望して発言は、現在生きている者への詐欺で、百年やってきて一度も政権どころか野党第一党になれなかったというのは、少なくとも日本では失敗だったと総括せざるを得ず、連合赤軍事件がなければというのは言い訳にならないのである。
浅沼社会党と土井社会党と小沢民主党の得票と政策を分析すれば、国民が何を求めていたかは明白で、大雑把に言えば腐敗が酷い自民党と妥協性がなくて怖くて危険な共産党の中間を求めている訳で、創価のインチキな中道ではなく、本当の中道を求めているのである。
それが、いみじくも共産党が検討した日本大衆党であり、現在汗を流している野党共闘だが、三党の高野山を足して三で割ったような政党を求めている訳だが、理屈では有り得ても協議が整う筈もなく、そうであれば共産党が変わってその中道政党を作る事が求められているのである。

http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/846.html
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
42. 2019年5月11日 19:06:38 : O8fbi6ziqI : eGRnbWJPeHlVSGc=[7]
円安で喜んでた馬鹿、円安誘導してきた政府・・・罪深いわ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c42
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
29. 2019年5月11日 19:06:49 : JgFwCtzBqA : U0pEUnNJMEc4NUE=[1]
 28さんへ。

 わたしは23ではないけれど、シナタケはなぜ刺客をぶつけられたのですか? キカワタに刺客が向けられたのも、なぜ?

 それが知りたい。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c29

コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
79. ピッコ[1577] g3ODYoNS 2019年5月11日 19:09:20 : jIdCRz6XHM : dzdNREZ3MFcyaWc=[2]
>●おぬし、知らないはずは、あるまい。(^_^)

77.さん、妄想はほどほどにしなさいね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c79

コメント [政治・選挙・NHK260] 原武史「平成は天皇制を強固にした」(朝日新聞社 論座) 肝話窮題
3. 2019年5月11日 19:14:59 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[73]
強くなる だから怖れる 悪用を
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/584.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK184] 北朝鮮産マツタケ不正輸入で朝鮮総連議長の次男ら3人が逮捕!北朝鮮側は猛反発!「前代未聞の蛮行」「必ず1100倍の対価を… 赤かぶ
12. 2019年5月11日 19:15:13 : ZO5k6vPMVl : SFNzQ3p3OUQyN2s=[1]
無学歴の12人はリストラ。朝鮮学校は法律上各種学校なので卒業資格がない。
http://www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/766.html#c12
コメント [政治・選挙・NHK260] 鳩山元首相の図星ツイートにブチ切れ「外交の安倍」赤っ恥(日刊ゲンダイ)  赤かぶ
57. 2019年5月11日 19:15:15 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[74]
成果無視 ポーズがすべて ナルシスト
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/587.html#c57
コメント [政治・選挙・NHK260] 参勤交代<本澤二郎の「日本の風景」(3310)<安倍後継レースにワシントン詣で> 笑坊
1. 2019年5月11日 19:15:37 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[75]
尻舐める 物見遊山に 溺れつつ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/585.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 経産省内の机にも注射器を隠し持っていたとは。(日々雑感) 笑坊
3. 2019年5月11日 19:15:46 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[76]
「上級」に 深く染み込む 白い粉
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/594.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相の再度の「悪夢」発言をもう許すべきではない。思い知らすべきだ。(かっちの言い分) 一平民
4. 2019年5月11日 19:16:00 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[77]
「悪夢」こそ 内なる怯え 際立たせ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/596.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
22. 2019年5月11日 19:16:15 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[78]
侮辱こそ 自業自得の 裏返し

ダマスゴミ 「ウィン・ウィン」と 煙に巻き
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c22

コメント [政治・選挙・NHK260] 経済無策と外交破綻 令和効果が失せればこの政権は終わる(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
8. 2019年5月11日 19:16:25 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[79]
重いツケ 祭り騒ぎを 吹き飛ばし
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/602.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK260] 高齢者がハマった問題のブログ「余命三年時事日記」の中身 高齢者はなぜネトウヨにはまるのか(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
17. 2019年5月11日 19:16:32 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[80]
乗せられる 新手の詐欺と 気づかずに
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/604.html#c17
コメント [政治・選挙・NHK260] 山本太郎に「1人で国会変えられるんか?」と聴衆! 「変えるしかない!」 本気の演説に涙が出た!  赤かぶ
46. 2019年5月11日 19:17:24 : MtrYtEHZzY : aGRleFU5cmVlaVU=[137]
>山本太郎に「1人で国会変えられるんか?」と聴衆! 「変えるしかない!」 本気の演説に涙が出た!

本気は間違い無いんでしょう。
問題は「お山の大将我1人」になれば、味方のはずの党からも疎んじられるんじゃないかちゅう事等かな?

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/573.html#c46

コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
21. 2019年5月11日 19:19:20 : IDldaKXMoU : S1lVLzF1ck9UU2c=[2]
 
そうは仰いますけどね、東京都の水源はけふも安全安心。
金町良ければすべてよし!

(1)金町浄水場(江戸川水系)    単位:Bq/kg
      131I    134Cs   137Cs
2019/5/9 ND < 0.6  ND < 0.6  ND < 0.6
https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/shinsai/pdf/sokutei/1jyousui_1905.pdf

とは思うんですけどね、魚心に忖度心、何しろお役人のやることですからね..
 
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c21

コメント [お知らせ・管理21] 2019年05月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
101. 管理人さん[2492] iseXnZBsgrOC8Q 2019年5月11日 19:22:00 : ZFZHYmRTRUo3YS4=[111]
>>92
>>87 のようなコメント(存在)も“放置”ですか?

放置です。管理板はそういう板です。好きなように書いて下さい。読みたい人だけ読んでください。

そもそもこのスレのアクセス数(現時点で488)を見ればわかるように1日44人程度しか見てないスレなんです。管理人に用事がある人とマニアとアラシだけが見るスレです。何でもありでいいんじゃないでしょうか。

世の中にはいろんな人がいますよ。自分とは違う世界で生きている人がいる、それを自分には影響が全く無いところから眺める、そういう経験をしたと思ってみてください。

用事がある人はいちいち全部読まなくてもいいことにします。
このスレでは重複OK、他のスレを読まなくても自分の用事だけ書いてOK、ということにしましょう。次回から記事欄にその旨明記します。問い合わせの返事には問い合わせ時のペンネームを明記するので返事を確認するときにはペンネームで検索すれば他のコメントを読まなくても見つける事が可能。

これで問題なし。

>私には阿修羅の品位を著しく貶めている奴にしか思えませんが。

阿修羅掲示板の品位があのコメントで変化するとは私には思えません。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c101

コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
28. 2019年5月11日 19:22:19 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[81]
ダマスゴミ 分断加担 当たり前
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c28
コメント [政治・選挙・NHK260] 原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」(朝日新聞社 論座) 肝話窮題
4. 2019年5月11日 19:22:32 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[82]
入り込む 矛盾を上手く 利用して
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/607.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争万能主義」を主張するロシアに何の根拠もないし、「戦争万能主義」は現代では非常識だ。(日々雑感) 笑坊
6. 2019年5月11日 19:22:40 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[83]
戦争に どっぷり浸かる 経済が
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/610.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
29. 2019年5月11日 19:22:45 : JgFwCtzBqA : U0pEUnNJMEc4NUE=[2]
 毎日のこの記事は意図的だね。

 執筆した毎日のふたりの記者、東久保なり、浜中が幾つかのコメントを取材していたとして、民民の野田に近い関係者Aのコメントと立憲の菅に近い関係者B(あるいは菅本人)のコメントを合わせれば、ふたりが書いた上記の投稿にある記事なるわけ。

 東久保と浜中が野党共闘を真剣に考えている関係者Cと同じく共闘に前向きな立憲の関係者Dのコメントを取材していたとしても、これらのコメントは記事に使わない。
 なぜなら、使ったとしたら、小沢さんが民由合併の障害になっているとか、野党共闘に不協和音が生じているといった、東久保、浜中の意図する記事にならないから。

 コメントの使い分け、取捨選択は思惑を持った記事を書こうとする記者(あるいは新聞社)の“特権”。つまり、捏造、でっち上げの記事はこうして出来上がる。

 産経、読売がその最たる紙メディアだと思っていたが、毎日がここに足を踏み入れたね。悲しい限り。

 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c29

コメント [政治・選挙・NHK260] 日朝会談の筋書きはできている?/政界地獄耳(日刊スポーツ) 赤かぶ
7. 2019年5月11日 19:22:51 : R78it43S7k : ZElUVzhMREpyUk0=[84]
筋書きを 書いて踊らす 奥の院
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/612.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK260] 玉木・毎日は僕に取材なしでネガ記事、産経・階が離党検討。国民は日本大衆党になる現共産と合併交渉を進める事である。 ポスト米英時代
9. 管理人さん[2493] iseXnZBsgrOC8Q 2019年5月11日 19:25:34 : ZFZHYmRTRUo3YS4=[112]
板違いです。

先日も板違いがありました。

十分注意してください。

再度発生したらシステムのカスタマイズでカルト板以外は投稿不可能の設定をしますが、これは工数がかかってめんどくさいので自粛していただけると大変たすかります。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/609.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK260] 経産省キャリアが省内で覚せい剤使用か?メディアは全然取り上げず、ピエール瀧とは大違い(まるこ姫の独り言) かさっこ地蔵
2. 2019年5月11日 19:29:26 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[30]
 
 氷山の一角  

 覚せい剤でもやらないと やってられね〜〜ぜ って〜〜のよ 
 
 

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/619.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] 拉致解決が遅れたのは、安倍ら超保守派の強行姿勢も要因+自民からも不信感。弾道ミサイルの制裁はいかに(日本がアブナイ!) 笑坊
3. 2019年5月11日 19:33:45 : dxkTl1vUxc : NXlNOUwyaUpSenc=[46]
訪朝阻止を北朝鮮自ら行った?とも言える。安倍を助けたとは思えないが・・・。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/611.html#c3
コメント [リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
530. 中川隆[-10338] koaQ7Jey 2019年5月11日 19:35:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1770]

ポツンと一軒家 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%B3%E3%81%A8%E4%B8%80%E8%BB%92%E5%AE%B6


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東海アマブログ 我々は、本当に必要な数百倍もの浪費生活を強いられていること 2019年05月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html


 「ポツンと一軒家」というTV番組を見てると、とても考えさせられる。
 90歳を超えたような老人が、人里遠く離れた山中に暮らしている。そこは、集落から数十分車で恐ろしい林道を走り、さらに徒歩で数十分も山道を歩いて行かねばたどり着けない。

 いわゆる「限界集落」では、高齢老人たちばかりになった集落が、集落としての機能を失って、人々が山を下りて、全体が廃屋化してゆくのだが、「ポツンと一軒家」では、たった一軒取り残された生家で、死ぬまで淡々と生活を続ける老人たちの姿が描き出されている。

 これを視聴していると、山暮らしの想像力をかき立てる柳田国男の「山の人生」を思い起こさざるをえない。


柳田国男「山の人生」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html

 「ポツンと一軒家」には、多くの場合、電気は来ているが、水道も下水道も、プロパンもない。だからエネルギーは、周囲にある大自然の恵みである薪を利用している家が多い。

 水は、自然の表流水や井戸を用い、食料の多くが畑作による自給自足である。

 実は、このところ、エネルギー問題を考えていて、これから日本では、どのようなエネルギーを利用すべきかという立場で、もちろん強硬な反原発の私は、再生可能エネルギーを考えていたのだが、ポツンと……を見ていると、何か、自分の考えに、とんでもない間違いがあるような気がして、エネルギー問題を哲学的に根底から考え直さざるをえなくなったのである。

 本当のエネルギー問題を考えて行くと、実は、資本主義における、我々の生活の浪費問題こそ、もっとも必要な視点ではないかと確信するに至った。
 ポツンと……の生活は、実に合理的である。これまで見てきた範囲で、クーラーが敷設された家は確認できなかった。

 森を吹き抜ける自然の風があれば、人工的な冷風は無用であり、クーラーというものは、大都市のなかで他人の廃熱から身を守るために必要なものであろうと思った。

 山の上だから厳冬期は猛烈に寒い。ほとんどの家に薪ストーブがあり、家の外には大きな薪小屋があって、大量のストックがあった。秋までに、せっせと近所の木を切って薪を確保乾燥しておくのである。(普通は乾燥に2シーズンかける)

 私も薪ストーブを利用しているので、大きな森林環境のなかでは、ほぼ無限に薪が供給可能であることを知っている。

 調理も、プロパンガスなどではなく、薪ストーブを調理器具として利用している場合が多かった。

 確かに、ストーブ上には一つの煮炊き口しかないが、昔の食生活を考えれば、決して不便はないように思える。囲炉裏を併設している場合も多く、この場合は二つ使える。

 ポツンと……に登場する多くの老人たちに不満、不便、不自由は見えない。生まれたときから繰り返してきた日常生活を死ぬまで続けるだけのことだ。

 排泄物も、昔通りに肥だめに入れて発酵させてから畑に散布する。水洗便所もEM菌も必要としていない。

 たぶん電気も、灯火に使いテレビを見る程度で、停電しても、灯油ランプでもあれば十分で、大きな困難は起きないだろう。

 NHKの集金人も、大きなコストのかかるポツン家には来ないだろう。
 こういう環境で生活していると私のようなビチグソでなく、トイレ紙も必要としないほどの立派な固形便が出るようになるから、「お尻シャワシャワ」も必要ないのだ。

 自然に包まれ、自然の恵みを最大に活用する省エネ生活を見ていると、我々の生活エネルギーの数十分の一以下しか使っていないように思え、生活全体の無駄を考えると、おそらく我々の標準的な「文化生活」の数百分の一の消費なのではないかと思った。
 逆に言えば、我々の生活は、ポツンと……の数百倍、無駄が積み上げられているようにさえ思えるのである。

 最大の理由は、商品を手に入れ販売店に簡単にゆけないということだ。多くの場合、月に数回、町に出て必需品を買う人が多いが、ほとんどの人が自給自足体制を確保しているので、購買内容も非常に少ないだろう。

 逆に、いつでも簡単に資本主義商品を購買できる我々は、その安易さゆえに、本当に必要ないものまで、宣伝による洗脳によって無理矢理買わされているような気がする。

 我々は、生活に必要ないものまで「買わされている」という、資本主義社会、競争主義の原理に支配されていることに気づく必要があると思う。
 資本主義社会というのは、企業の金儲けだけが社会最大の価値と信仰される社会のことである。それは、「我々の生活の必要にして十分なニーズ」を満たすのではなく、一円でも多くの金儲けを求めて、消費者を騙してでも、たくさん、高価な、無駄なものを買わせることが本質になっている。

 「必要ないものまで買わされる」とは、どういうことだろう?

 それは、メディアを利用して、「買いたい、買わねばならない」と製造企業が洗脳工作を繰り返していることで、例えば、朝のモーニングショーなどを見ていると、購買を刺激する商品紹介のオンパレードで、これは生活の必要情報ではなく、買わせるための洗脳工作と言ってもよいほどだ。

 我々の潜在意識は、資本主義競争による、この種の洗脳工作の餌食となり、必要のないものまで買わされる生活をしている。

 それが、ポツンと……では、そうはならない。家に戻るのに、イノシシや熊の徘徊する大変な道を、無駄なモノをたくさん担いで登るわけにいかないから、本当に必要な最低限のモノしか買うことができないのである。

 このことが、購買欲洗脳メディアの陰謀から解放されるために大切な条件になる。私は、月の生活費が5万円程度なので、「できるだけ安くあげる」を至上命題として商品を購入し、「必要ないものには手を出さない」という原則を守る生活をするようになって、少しは「資本主義の呪い」から、我が身を守ることができるようになったと思うが、最近のシングルマザーや年金生活者たちは、どこも生活が大変で、スーパーの値引き販売に殺到するような人たちは、やはり資本主義浪費の呪いから抜け出すことができるようになっているように思える。

 今、スーパーで値引き品ばかり購入するライフスタイルになってみて、これまで、どれだけの無駄を重ねてきたか身につまされる感覚が出てきて、メディアの購買欲を刺激するような商品には一切手を出さなくなった。

 すると、生活費もずいぶんと節約できるようになった。買う前に「おっ、良さそう」ではなく「これが本当に必要か?」を先に考えるのである。

 私の家は、水道・下水道は利用していない。水は井戸で十分だが、ラドンが含まれているので、飲料用だけは安いペット水を利用している。

 排泄物は、すべてEM菌で処理して畑に流しているが、このEM菌がひどく高くつくのが悩みの種だ。毎月、モルトだけで2160円もかかる。

 問題は電気だ。太陽光パネルを購入して設備を作ったのだが、超高価な交流転換装置が簡単に壊れて、おまけにバッテリーの寿命が短く(4年程度)、供給電力に太刀打ちできないのである。ずいぶん無駄な浪費をしてしまった。

 もっとも、本当に必要な電力は、灯火と井戸ポンプ程度で、巨大震災で電力供給が止まっても、それほど深刻な事態にはならないと思う。

 ポツンと……でも、電力が停止して本当に困る家は少ないだろう。

 私は、エネルギー問題を考える上で、もっとも基本的な問題点は、スケールメリットという資本主義の発想になると思う。

 人間社会の進化という哲学的命題を考えると、これからの進化・合理化は、反スケールメリット・反金儲け主義にあると考える必要があると思う。

 例えば、スケールメリット=大量生産・大量消費というシステムが、技術の進化と価格の低下を保証するという発想によって、近代エネルギー産業が成立し、原子力発電も、そうしたスケールメリットを前提に作られている。

 だから原発は、社会のニーズに応じた出力調整ができず、いつでも一定の熱量を製造するという前近代的なシステムである。これに対し、火力は、ニーズに応じて生産調整が可能であり、水力は、降水量という制限のなかで出力を確保できる。

 太陽光は、太陽の出ているときだけ発電可能で、これも原発と同様の課題を抱えていて、風力も、風が吹いているときしか発電できない。

 原発が、一定の出力しか生産できない巨大な足枷を抱えている事情によって、昼間のニーズ増大時に必要な電力供給源として、揚水発電所が建設されているが、これは、日本の場合、実働効率は、わずか7%前後で、このダムは経産省の官僚たちの箱物利権によって造られたに過ぎないのである。

 なぜ利用効率が極端に悪いかというと、揚水発電の効率が25%しかなく、原発で製造した電気の7割以上をドブに捨てる仕組みになっているからである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E6%B0%B4%E7%99%BA%E9%9B%BB

 揚水発電こそは、究極の無駄、無用の長物施設、官僚腐敗の象徴といえるだろう。
 このような無駄、不合理の極みのような電力調整システムに換わるものがあるかというと、実は、ほとんどないともいえる。

 今、経産省官僚たちが大声で推進しているのは、水素・燃料電池発電であり、夜間の原発余剰電力と昼間の太陽光余剰電力を利用して、水を電気分解して酸素と水素を製造し、これを燃料電池の燃料にして発電するという考え方で、この場合、発電効率が60%程度あるので、一見合理的に見えるが、実は大きな落とし穴がある。

 水素の化学的活性が強すぎて機器を腐食させるため、燃料電池発電機の耐久性が10年程度しかないという問題で、これは致命的である。
 http://rechargeable-battery.asia/fuelcell/know/merit.php

 実は私も、燃料電池、水素発電システムこそ、人類救済の電力であると数十年前から信じていたのだが、これが原理的に間違っていたことが分かってきた。

 社会の進歩という哲学的観点から見ると、エネルギーは、スケールメリット、大量生産から分散製造・分散消費、つまり、「エネルギーの必要な場所で、必要に応じて発電する」という向きに発展してゆくのが必然で、これはエントロピーと同じ必然性と考えてもよい。

 この切り札が燃料電池だと信じていた。それは、燃料電池コジェネレーションというものが、スケールメリットに依存しない本質を持っていたからだが、家庭用の場合は、わずか10年で高価な機器を交換してゆかねばならないというのなら普及は不可能である。

 いわゆる現場発電「必要な場所で、必要なだけ発電する」というシステムに使えるのは、今のところ原動機発電だけである。
 これは、スケールメリット発電が、巨大な送電ロスを抱えている事情から考えると、ロスの分だけ有利なのだが、それでも燃料が高すぎて、スケールメリットに勝てないのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E9%9B%BB

 (直流送電がロスが少ないというが、非破壊検査に携わった者なら、直流がどれほど恐ろしいか身にしみて分かっているので、これを送電に使うと何が起きるか想像がつき、とても実現不能だと知っている。

 直流では、致命的な電解腐食が起きるのである。送電塔の厚さ10ミリのアングルが、わずか数年で腐食して倒壊してしまうのだ。これは絶縁を越えた漏洩電流によるものなので、アースなどで対応できる問題ではない。)

 そこで、冒頭に紹介した「ポツンと一軒家」の生活を思い起こしていただきたい。

 我々の生活には、無駄が多すぎるのである。電灯だって、本当に生活の必要な光で十分ではないか?

 浪費に満ちた生活水準を維持しようと考える前に、もっと自然界のエネルギー=薪炭や太陽光、風を活用することを考える必要がある。

 今から明治時代の生活に戻れとはいわないが、もっと自然に依存した合理的なライフスタイルがないか、きちんと調べ直した方がいい。

 節約できるものは節約し、自然エネルギーに転換できるものは転換すべきである。
 薪を採れば自然破壊になるか? というと逆である。

 現在の山林は、昔のように薪炭利用しないせいで、老廃木が増えて、森が荒れ、これがイノシシなど野生動物の増加を招いている。

 薪を消費することで、森は整理されて合理的な姿へと変わるのである。また、採取のエネルギーを考えれば、不必要な薪の浪費もできなくなるだろう。

 自然界に人間の管理が及ぶようになり、手入れされた美しい森に変えることができる。

 こうした実例は、ポツンと一軒家の周辺の自然環境から学ぶことができるだろうと私は思う。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c530

コメント [政治・選挙・NHK260] スキャンダルまみれの東京オリンピックのチケット販売がスタート(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
15. 2019年5月11日 19:37:50 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[31]

 チケット受付 プログラムにバグがありまして

 同伴者の項目に 「安倍友」と入れないと クジが当たりません!!
 
 ===

 このバグについては 安倍友と記載すれば 必ず当たるのですが
 それを バカのプログラマーが 安倍友と書かないと当たらないようになっていました

 ===

 設計図通り 安倍友と書かない人の分は 抽選にして この度 XXXXだち 
 と記載があったものについては無条件にヒットするように 修正いたしました
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/615.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK260] スキャンダルまみれの東京オリンピックのチケット販売がスタート(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
16. 2019年5月11日 19:42:49 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[32]

 この度 オリンピックの関係者には その功労に対して 報いるために

 チケット3枚を 贈呈することといたします これは 無記名とさせていただいておりまして

 誰でも入れますし 高額で売ることも可能でございます 

 ===

 特に 電通には お世話になりましたので お一人様 10枚のチケットを差し上げます
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/615.html#c16

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[12850] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:43:32 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2915]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[12851] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:44:13 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2916]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK185] 内田樹さん「制度のみ語る闇」大阪都構想住民投票を読む(朝日新聞) 赤かぶ
3. 2019年5月11日 19:44:42 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[871]
【大阪都構想】公明党が2度目の住民投票を容認へ - 今までは「住民サービス低下の懸念」と反対姿勢
.
時事ぽぽんぷぐにゃん
2019/05/11 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=z3W1abBRIig
http://www.asyura2.com/15/senkyo185/msg/387.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[12852] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:46:16 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2917]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 大津事故で「#保育士さんありがとう」も…安倍政権は子供の危険高める保育士配置基準緩和! 昭恵夫人のお友だちが関与(リテラ) 赤かぶ
12. 佐助[6820] jbKPlQ 2019年5月11日 19:46:43 : z5Sx38n0Sg : VHN1VmMvUE9LZS4=[277]
やっと,こうしてネツトで,事故の被害などの問題点や課題を取り上げ,アイデイアを知恵を提供することはよい志だ。今も,テレビも新聞も批判しかしてない。都合の悪い事件,事故は報道もしない,彼らはやくざ顔負けのゴロツキの集団である。

そして国家,特に政治家,安倍夫婦揃って責任感や倫理観の欠片もない,自分たち政権のことしか考えない詐欺師ばかり。

安倍政権やそのシンパは、確信犯的な嘘をつき,二枚舌で不正を支持し働くドロボー詐欺師,しかもルールを破壊させて楽しむゾンビやゴロツキたちである。

そして国民の大切な年金や保険を使い込み,ワイロや詐欺,バレたら事故や変死や自殺に追い込み,私が国家で森羅万象と威張り,忠誠心や忖度を働かない奴らは,抵抗勢力として,闇に葬る。

ルールを破壊させて楽しむのではなく,どうしたら防げるのか,車にもしかして欠陥がないのか,保育士や社会保障など行き届いているのだろうか,道路や信号にも何か問題がないのか,どうすれば防げるか,横にらみ対策するものだ。すべての日本の車は欠陥車であることは知っている。安全性・整備性について日本としての標準化を規格しろ。国家やメーカーはカネだけ握り,地方自治体に放り投げ知らんぷりしている。

原発事故が起きて,知らんぷりして横にらみ対策もしない,したふりして再稼働させている。同じことだ。この国は民主主義のルールを破壊させメチャクチャの国家であるのに,アベノミクス構造改革の致命的な欠点を隠し続けている。

無視続けるなら,安倍政権は解体し霞が関も解体せよ。そして道州制にして好き勝手に日米軍事同盟固執なら,その地域が希望するなら米国の州にいれてもらえ。ただし奴隷国家なので,入れないだろう。祖先に喜ばれる人間性のある政治家になれよ。馬鹿者。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/618.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相は各国の首脳の失礼な冗談のタネになっている 『漂流する日本に』 (ガメ・オベールの日本語練習帳) 樹里亜
23. 2019年5月11日 19:47:48 : s41K7FTMLM : b0ZINFlpQlZBNG8=[1]
> 樹里亜様
 
重要なことを載せてくれて感謝しますが、赤かぶみたいにTwitter にいちいち載せていては、あまり良い感じはしないかと個人的には思います。

なにせ、赤かぶが、そんな今載っけてくれたアベみたいな状態にある意味なってる感じもするし。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/598.html#c23

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 赤かぶ[12853] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:47:58 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2918]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
5. 赤かぶ[12854] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:48:39 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2919]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] スキャンダルまみれの東京オリンピックのチケット販売がスタート(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
17. 2019年5月11日 19:49:04 : eFargDQyXD : VXlneE5pNldUQVE=[33]

 そうですね〜〜

 令和の 恩赦(御社)として 特別に 徳島新聞にも 1000枚を プレゼントします

 ===

 御社は 阿波踊りのチケットを 独占販売して 相当の利益を上げた前科がございます

 とても 見あげた根性ですので これを贈呈するものです
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/615.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
6. 赤かぶ[12855] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:50:21 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2920]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
7. 赤かぶ[12856] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:50:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2921]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
8. 赤かぶ[12857] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:51:38 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2922]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民投票法の欠陥 CM規制ナシで“フェイク広告”が氾濫する(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
9. 赤かぶ[12858] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:52:15 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2923]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/622.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK260] 隣国のリーダーの、この知性溢れる文章をみよ。安倍政権下でどれだけ日本は遅れをとったのか。(神原元)「平凡さの偉大さ 新… 樹里亜
51. 2019年5月11日 19:53:47 : zcUc8xjXEI : aElxL1BuQW5HZkU=[1]
韓国って中国のミサイルを撃ち落とす米国のサード導入してなかったっけ
言ってることとやってることが矛盾してるやん
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/533.html#c51
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
43. 2019年5月11日 19:56:33 : 7PxjgQ7vfQ : amNmV1NRdmFBRlk=[1]
バブル時代土地の売買には国土法と言うものが有り許可制だった。

外国企業が一定以上を保有した時点で全てのその企業の土地売買を許可制にすればよいだろう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c43

コメント [政治・選挙・NHK260] 原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」(朝日新聞社 論座) 肝話窮題
5. 2019年5月11日 19:56:56 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[872]
令和天皇の「助けてくれ」といった暗号【NET TV ニュース】2019/05/11
.
JRPtelevision
2019/05/11 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=_GtGXBce55Y
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/607.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 政治に無関心!こんな形でツケが回ってきそうだ!   赤かぶ
1. 赤かぶ[12859] kNSCqYLU 2019年5月11日 19:58:23 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2924]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/620.html#c1
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2. 赤かぶ[12860] kNSCqYLU 2019年5月11日 20:01:25 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2925]



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3. 赤かぶ[12861] kNSCqYLU 2019年5月11日 20:02:15 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2926]



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記事 [近代史3] 柳田国男 山の人生

柳田国男 山の人生
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自序


 山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。ああして胡麻ごまかすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。もちろん甚だむつかしくして、明晰めいせきに書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ以もって前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、纏まとまった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做たいさに対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。

(大正十五年十月)
[#改丁]

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。

 大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

二 人間必ずしも住家を持たざること

 黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカの児こで、相州の足柄あしがらで親に棄すてられ、甲州から木曾きその山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。

 今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとく生なまで食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。

 春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味の佳よいものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴つづって着たという。

 ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩の窪くぼみや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常に辛つらかった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根ひげねのきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団ふとんのかわりにしたそうである。

 話が又聞またぎきで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分なにぶんにも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。

 サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。

 冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃しなのから、伊勢の海岸へは飛騨ひだの奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓たにの中腹や林の片端かたはし、堤つつみの外などの人に逢あわぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。

 磐城いわきの相馬そうま地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々ほそぼそと煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠たけかごを売りにくる。箕みなどの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。

 土地の人とはまるまる疎遠そえんでもなかった。若狭わかさ・越前などでは河原に風呂敷ふろしき油紙の小屋を掛かけてしばらく住み、断ことわりをいってその辺の竹や藤葛ふじかずらを伐きってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至って稀まれで、多くは程ほどなくいずれへか去ってしまう。路の辻つじなどに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝に由よって先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。

 仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とを談かたることを甚はなはだしく悪にくむが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。

 しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正四年の京都の御大典ごたいてんの時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕しゃが御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑ぎょえんも大通りも早天から、人をもって埋うずめてしまったのに、なお遠く若王子にゃくおうじの山の松林の中腹を望むと、一筋ひとすじ二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。

三 凡人遁世のこと

 かつて羽前の尾花沢おばなざわ附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸まるはだかであったという。

 女房がひどく人を懐なつかしがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主ていしゅという者は、世の中に対してよほど大きな憤懣ふんまんがあったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。

 工夫は一旦その処ところを立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻せっかんをしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。

 この話は山方石之助やまがたいしのすけ君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想ぶあいそうになってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚いわなを釣っている親爺おやじでも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路みちを横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞せきばくの威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。

 そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者ぎょうじゃであり、或いは仙人せんにんであり得るかと思われる。また天狗てんぐと称する山の霊が眼の色怖おそろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。

 近世の武人などは、主君長上に対して不満のある場合に、無謀に生命を軽かろんじ死を急ぎ、さらば討死うちじにをして殿様に御損を掛け申すべしと、いったような話が多かった。戦乱の打ち続いた時世としては、それも自然なる決意でありえたが、人間の死ぬ機会はそう常にあったわけでもない。死なずに世の中に背くという方法は必ずしも時節を待つという趣意でなくとも、やはり山寺にでも入って法師とともに生活するのほかはなかった。のちにはそれを出離の因縁とし、菩提ぼだいの種と名づけて悦喜えっきした者もあるが、古来の遁世者とんせいしゃの全部をもって、仏道勝利の跡と見るのは当をえないと思う。

 その上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合ころあいの御寺があるというわけでもなかった。旅僧の生活をしようと思えば、少しは学問なり智慧ちえなりがなければならなかった。なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎いなかには、存外に跡の少しも残らぬ遁世とんせいが多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。

 それだけならよいが、人にはなおこれという理由がなくてふらふらと山に入って行く癖のようなものがあった。少なくとも今日の学問と推理だけでは説明することのできぬ人間の消滅、ことにはこの世の執着しゅうじゃくの多そうな若い人たちが、突如として山野に紛れこんでしまって、何をしているかも知れなくなることがあった。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思うのは主としてこうした方面の出来事である。これが遠い近いいろいろの民族の中にもおりおりは経験せられる現象であるのか。はたまた日本人にばかり特に、かつ頻繁ひんぱんに繰り返されねばならぬ事情があったのか。それすらも現在はなお明瞭めいりょうでないのである。しかも我々の間には言わず語らず、時代時代に行われていた解釈があった。それがある程度まで人の平常の行為と考え方とを、左右していたことは立証することができる。我々の親たちの信仰生活にも、これと交渉する部分が若干はあった。しかも結局は今なお不可思議である以上、将来いずれかの学問がこの問題を管轄すべきことは確かである。棄てて顧みられなかったのはむしろ不当であると思う。

四 稀に再び山より還る者あること

 これは以前新渡戸にとべ博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸にのへ郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。

 よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰くったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。

 マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田とわだの湖水から南祖坊なんそぼうに逐おわれてきて、秋田の八郎潟はちろうがたの主ぬしになっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。

 マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕とればその肉を食い、皮と熊胆くまぎもを附近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ還かえる。時には峰づたいに上州・信州の辺まで、下おりてくることがあるという。

 こんな連中でも用が済すめばわが村へ戻り、また山の中でも火を焚たき米を煮て食うのに、教員までもしたという人が、友もなくして何年かの間、このような忍苦の生活をなしえたのは、少なくとも精神の異状であった。しかもそれが単なる偶発の事件でなく、遠く離れた国中の山村に、往々にして聞くところの不思議であったのである。

 マタギの根原に関しては、現在まだ何ぴとも説明を下しえた者はないが、岩手・秋田・青森の諸県において、平地に住む農民たちが、ややこれを異種族視していたことは確かである。津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙おうみんずい』には、一二彼らが奇習を記し、菅江真澄すがえますみの『遊覧記』の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロというの類、アイヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。

 もちろんこれに由って彼らをアイヌの血筋と見ることは早計である。彼らの平地人との交通には、言語風習その他になんの障碍しょうがいもなかったのみならず、少なくとも近世においては、彼らも村にいる限りは附近の地を耕し、一方にはまた農民も山家に住む者は、傍かたわら狩猟に因って生計を補うた故に、名称以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。

 ただ関東以西には猟を主業とする者が、一部落をなすほどに多く集まっておらぬに反して奥羽の果はてに行くとマタギの村という者がおりおりある。熊野・高野を始めとして霊山開基の口碑こうひには猟師が案内をしたといい、または地を献上したという例少なからず、それを目して異人仙人と称していて、通例の農夫はかつてこの物語に参与しておらぬのを見ると、彼ら山民の土着が一期だけ早かったか、または土着の条件が後世普通の耕作者とは、別であったかということだけは察せられる。

 しかも猟に関する彼らの儀式、また信仰には特殊なるものが多い。万次万三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美ほうびに狩猟の作法を授けられたなどという古伝もその一例である。東北ではシナの木のことをマダといい、山民は多くその樹皮を利用する。マタギ村でも盛んにこれを採取しまた周囲にこれを栽培するが、そのマダとは関係がないといっている。或いは二股ふたまたの木の枝を杖つえにして、山中を行くような宗教上の習慣でもあって、こんな名称を生じたのではないかとも思うが、彼ら自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、いまだこれを断定することができぬのである。

 八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、広く分布しているいわゆる低級神話の類であるが、津軽・秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考うべき理由があったろうと思う。

五 女人の山に入る者多きこと

 天野信景のぶかげ翁の『塩尻しおじり』には、尾州小木こき村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏まとうていたとある。山姥やまうばの話の通りであるが、しかも当時の事実譚じじつだんであった。

 この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢うえを感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足ことたらぬように覚えて、のちには狐きつねや狸たぬき、見るに随したがい引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元もとの自分であることを知らず、怖おそれて騒ぐのでせん方かたもなく、再び山中の生活に復かえってしまったというのは哀れである。

 明治の末頃にも、作州那岐山なぎのせんの麓ふもと、日本原にっぽこうげの広戸の滝を中心として、処々に山姫が出没するという評判が高かった。裸にして腰のまわりだけに襤褸ぼろを引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。或る時も人里近くに現われ、木こりの小屋を覗のぞいているところを見つかり、ついにそこの人夫どもに打ち殺された。しかるにそれをよく調べてみると、附近の村の女であって、ずっと以前に発狂して、家出をしてしまった者であることが分った。

 女にはもちろん不平や厭世えんせいのために、山に隠れるということがない。気が狂った結果であることは、その挙動を見れば誰にでも分った。羽後と津軽の境の田代岳たしろだけの麓ふもとの村でも、若い女が山へ遁にげて入ろうとするのを、近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまったという話を狩野亨吉かのうこうきち先生から承うけたまわったことがある。

 山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒たんちょかも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉たてまつりし物語が多い。すなわち巫女みこは若宮の御母なるが故に、ことに霊ある者として崇敬せられたことは、すこぶるキリスト教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあった。婦人の神経生理にもしかような変調を呈する傾向があったとすれば、それは同時にまた種々の民族に一貫した宗教発生の一因子とも考えることを得る。しかしもちろん物のついでなどをもって、軽々に取扱うべき問題ではないから、今は単に一二の類例を挙げて置くに止めるが、その一つは三百余年前に、因幡いなば国にあった話で、少し長たらしいが原文のままを抄出する。『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻に書いてある話である。

「寛永年中のこと也なり。安成久太夫やすなりきゅうだゆうといふ武士あり。備前因幡国換くにがへの時節にて、未いまだ居おる屋敷も定まらず、鹿野かの(今の気高けたか郡鹿野町)の在ざいに仮に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奥暗き岨陰より、何とも知らぬ者駆け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巌窟がんくつにかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖おそれて入らざれば若党に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿さるの如ごときものなり。若党引出さんとするに、力強く爪つめ尖とがりて、若党の手を掻破かきやぶりけるを、漸ようやくに引出したり。久太夫葛かずらを用ゐて之これを縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂たれ、面相全く女に似て、その荒れたること絵にかける夜叉やしゃの如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只ただにこ/\と打笑ふのみ也、食を与ふれども食はず水を与ふれば飲みたり。遍あまねく里人に尋ぬれども、仔細しさいを知る者無し。一村集まりて之を見物す。其その中に七十余の老農ありて言ふには、昔此この村に産婦あり。俄にわかに狂気して駆け出でけるが、鷲峰山しうぶせんに入りたり。親族尋ね求むと雖いえども、終ついに遇あふこと無しと言ひ伝へたり。其年暦を計るに凡およそ百年に余れり。もしは此者このものにてもあらんかと也。久太夫速すみやかに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。」

 佐々木喜善君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡かみへいぐん附馬牛つくもうし村の山中で三十歳前後の一人の女が、ほとんと裸体に近い服装に樹の皮などを纏いつけて、うろついていたのを村の男が見つけた。どこかの炭焼小屋からでも持ってきたものかこの辺でワッパビツと名づける山弁当の大きな曲まげ物ものを携え、その中にいろいろの虫類を入れていて、あるきながらむしゃむしゃと食べていたという。遠野の警察署へ連れてきたが、やはり平気で蛙などを食っているので係員も閉口した。その内に女が朧気おぼろげな記憶から、ふと汽車の事を口にし、それからだんだんに生まれた家の模様、親たちの顔から名前を思い出し、ついには村の名までいうようになったが、聴いて見ると和賀わが郡小山田こやまだ村の者で七年前に家出をして山に入ったということがわかった。やはり産後であって、不意に山に入ったというのであった。親を警察へ呼び出して連れて行かせたが、一時はこの町で非常な評判であった。なお同じ佐々木君の話の中にこの附近の村の女の二十四五歳の者が、夫おっととともに山小屋に入っていて、終日夫が遠くに出て働いている間、一人で小屋にいて発狂したことがあった。のちに落着いてから様子を尋ねて見ると、或る時背の高い男が遣やってきて、それから急に山奥へ行きたくなって、堪えられなかったといったそうである。

六 山の神に嫁入すということ

 羽後の田代岳に駆け込んだという北秋田の村の娘は、その前から口癖のように、山の神様の処ところへお嫁入りするのだと、いっていたそうである。古来多くの新米しんまいの山姥やまうば、すなわちこれから自分の述べたいと思う山中の狂女の中には、何か今なお不明なる原因から、こういう錯覚を起こして、欣然きんぜんとして自ら進んで、こんな生活に入った者が多かったらしいのである。

 そうすると我々が三輪式みわしき神話の残影と見ている竜婚・蛇婚の国々の話の中にも、存外に起原の近世なるものがないとは言われぬ。例えば上州の榛名湖はるなこにおいては、美しい奥方は強しいて供の者を帰して、しずしずと水の底に入って往いったと伝え、美濃の夜叉やしゃヶ池の夜叉御前ごぜんは、父母の泣いて留めるのも聴かず、あたら十六の花嫁姿で、独ひとり深山の水の神にとついだといっている。古い昔の信仰の影響か、または神話が本来かくのごとくにして、発生すべきものであったのか、とにかくにわが民族のこれが一つの不思議なる癖であった。

 近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の書翰集しょかんしゅうに、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、頻しきりに鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫つかまれて、森の中へ牽ひいて行かれるところであった。魔神の姿はもとより何ぴとにも見えないが、その青年が右の手を前へ出して踏止ふみとどまろうと身をもがく形は、確かに捕われた者の様子であった。他の土人たちは声で嚇おどし、かつ鉄砲をその前後の空間に打ち掛けて、悪魔を追い攘はらおうとしたがついに効を奏せず、捕われた者は茂みに隠れてしまった。

 翌朝その青年は正気に復して、戻って常のごとく働こうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をしてきたものと疑い、畏おそれ憎んで近づかず、その晩のうちに毒殺してしまったと記している。わが邦くにで狐や狸に憑つかれたという者が、その獣らしい挙動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。

 猿の婿入むこいりという昔話がある。どこの田舎に行ってもあまり有名であるために、かえって子供までが顧みようとせぬようになったが、じつは日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初いかなる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至ったかは、説明しえた人がないのである。三人ある娘の三番目がことに発明で、一旦は猿に連れられて山中に入って行くが、のちに才智をもって相手を自滅させ、安全に親の家に戻ってくることになっているのは、もとは明らかに魔界征服譚せいふくだんの一つであった。今でも落語家の持っている王子の狐、或いは天狗の羽団扇はうちわを欺あざむき奪う話などと同様に、だんだんに敵の愚かさが誇張せられて、聴く人の高笑いを催さずには置かなかったのは、武勇勝利の物語に、負けて遁にげた者の弱腰を説くのと、目的は一つであって、つまりは猿の婿も怖おそるるに足らずという教育の、かつて必要であったことを意味している。餅を搗ついて臼うすながら猿に負わせたり、臼を卸おろさずに藤の花を折らせたり、いろいろと無理な策略をもって相手を危地に陥おとしいれた話であるが、地方によっては瓢箪ひょうたんと針千本とを、親から貰もらい受けて出て行ったことになっているのは、すなわち蛇神退治の古くからの様式で、猿の方にはむしろ不用なことであった。変化か混同かいずれにしても、竜蛇の婿入の数多い諸国の例がこれと系統の近かったことだけは察せられるので、ただ山城蟹旛寺かにはでらの縁起えんぎなどにおいては、外部の救援が必要であったに反して、こちらはかよわい小娘の智謀一つで、よく自ら葛藤かっとうを脱しえた点を、異なれりとするのみである。

 大和の三輪みわの緒環おだまきの糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神おおみわ氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々すみずみまで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳いしょうの端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋いとすじを手繰たぐって窃ひそかに洞穴の口に近づいて立聴たちぎきすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬よもぎと菖蒲しょうぶの二種の草を煎せんじてそれで行水ぎょうずいを使ったらどうすると、大切な秘密を洩もらしてしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源みなもとを尋ねて行くと信仰の変化が窺うかがわれる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘あまんじたものが、のちにはこれを避けまたは遁のがれようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰やいん密ひそかに通かよってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還かえったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有けうというのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明れいめいになったのである。

 狒々ひひという大猿が日本にも住むということはもう信ずることがむつかしくなった。出逢であった見たという話は記事にも画にも残っているものが多いが、注意してみると、まるまる幻覚の産物でなければ、必ずただの老猿を誤ってそう呼んだまでである。従って岩見重太郎、もしくは『今昔物語こんじゃくものがたり』のちゅうさんこうやのごとき例は、すこしでも動物学の知識を損益するところはないわけである。しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖いふであった。少なくとも女性失踪しっそうの不思議に対する、世間普通の解釈であった。どうしてそんな愚かしい事が、信じえられたかと思うようであるが、他に真相の説明がつかなかった時代だから仕方がない。一種の精神病というがごとき漠然ばくぜんたる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月しもつきとの月初めの或る日を、山の神の樹かぞえなどと称して、戒めて山に入らぬ風習は現に行われている。もしこの禁を犯せばいかなる制裁があるかと問えば、算かぞえ込まれて樹になってしまうというもあれば、山の神に連れて行かれるなどともいっているところがある。その山の神様はもとより神官の説くがごとき、大山祇命おおやまつみのみことではなかったのである。狼おおかみを山神の姿と見た言い伝えも多いが、猿はその一段の人間らしさから、かつては信仰の対象となっていた証拠もいろいろある。中世なんらか特別の理由があって、その地位は動揺したものらしい。その歴史を今少し考えて見ない以上、多くの昔話の意味がはっきりとせぬのも、やむをえざる次第である。

七 町にも不思議なる迷子ありしこと

 北国筋すじの或る大都会などは、ことに迷子まいごというものが多かった。二十年ほど前までは、冬になると一晩ひとばんとしていわゆる鉦かね太鼓たいこの音を聞かぬ晩はないくらいであったという。山が近くて天狗てんぐの多い土地だから、と説明せられていたようである。

 東京でも以前はよく子供がいなくなった。この場合には町内の衆が、各一個の提灯ちょうちんを携えて集まり来たり、夜どおし大声で喚よんで歩くのが、義理でもありまた慣例でもあった。関東では一般に、まい子のまい子の何松なにまつやいと繰り返すのが普通であったが、上方辺かみがたへんでは「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱となえてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすというはじつは変なことだが、それは本来捜索ではなくして、奪還であったから仕方がない。
 もし迷子がただの迷子であるならば、こんな事をしても無益なかわりに、たいていはその日その夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠かみかくしで、これに対しては右のごとき別種の手段が、始めて必要であったのだが、前代の人たちは久しい間の経験によって、子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、それに相応する処置を執ったものである。

 神隠しをする神はいかなる悪い神であったか。近世人の思想においては、必ずしもごく精確に知られてはなかった。通例は天狗・狗賓ぐひんというのが最も有力なる嫌疑者けんぎしゃであったが、それはこのように無造作なる示威運動に脅かされて、取った児こをまた返すような気の弱い魔物ともじつは考えられていなかった。

 狐もまた往々にして子供を取って隠す者と、考えられている地方があった。そういう地方では狐のわざと想像しつつも、やはり盛んに鉦太鼓を叩たたいたのであるが、今では単に狐はしばらくの間、人を騙だまし迷わすだけとして、これを神隠しの中にはもう算かぞえない田舎がだんだんに多くなって行くかと思う。近年の狐の悪戯いたずらはたいていは高が知れていた。誰かが行き合わせて大声を出し、または背中を一つ打ったら正気がついたという風ふうで、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どおし近所の人々に心配をかけ、朝になって見ると土手の陰や粟畠あわばたけのまん中に、きょとんとして立っていたなどということも、またすでに昔話の部類に編入せられようとしているのである。

 しかし寂しい在所ざいしょの村はずれ、川端かわばた、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない処ところだ」というところがおりおりあって、その中には悪い狐がいるという噂うわさをするものも少なくはない。神隠しの被害は普通に人一代ひといちだいの記憶のうちに、三回か五回かは必ず聴くところで、前後の状況は常にほぼ一様であった。従って捜索隊の手配路順にも、ほぼ旧来のきまりがあり、事件の顛末てんまつも人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合において、大した変化を見なかったようである。

 しかも経験の乏しい少年少女に取っては、これほど気味の悪い話はなかった。私たちの村の小学校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをしていた。それでいて奇妙なことには、実際は狐につままれた者に、子供は至って少なく、子供の迷子は多くは神隠しの方であった。

 子供のいなくなる不思議には、おおよそ定きまった季節があった。自分たちの幽かすかな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思うが、或いは誤っているかも知れぬ。多くの地方では旧暦四月、蚕かいこの上簇じょうぞくや麦苅入むぎかりいれの支度したくに、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦あぜづたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙だまされると豊後ぶんごの奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀まれにはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野こうやの間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永ながく行われた面白味おもしろみであったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術にんじゅつなどと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。

 東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠かくし婆ばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児こを喚よぶ女の金切声かなきりごえをよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖いふもあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分わかるが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好よくないか、小児はまだその理由を知っている。福知山ふくちやま附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠かくし婆ばばあは古くは子取尼ことりあまなどともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦えんたいりゃく』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上とりあげ婆ばばあの子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取ちとりとも油取あぶらとりとも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿なんきんざらの染附そめつけに使うというがごとき、いわゆる纐纈城こうけちじょう式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである。

 しかし少なくともこの世評の大部分が、一種の伝統的不安であり、従って話であることは時過ぎて始めてわかった。例えば迷子が黙って青い顔をして戻ってくると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあったが、そんな方法のありえないことがもう分って、だんだんにそうはいわなくなった。秩父ちちぶ地方では子供が行方不明になるのを、隠かくれ座頭ざとうに連れて行かれたといい、またはヤドウカイに捕られたというそうだが、これなどは単純な誤解であった。隠れ座頭は弘ひろく奥羽・関東にわたって、巌窟の奥に住む妖怪ようかいと信ぜられ、相州の津久井つくいなどでは踏唐臼ふみからうすの下に隠れているようにもいっていた。すなわち普通の人の眼に見えぬ社会の住民ではあったのだが、これを座頭としたのは右のごとき地底の国を、隠かくれ里さとと名づけたのが元もとである。隠れ里本来は昔話の鼠ねずみの浄土じょうどなどのように、富貴具足ふうきぐそくの仙界せんかいであって、祷いのれば家具を貸し金銭を授与したなどと、説くのが昔の世の通例であったのを、人の信仰が変化したから、こんな恐ろしい怪物とさえ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うていた結果であろう。

 それからヤドウカイはまたヤドウケと呼ぶ人もあった。文字には夜道怪と書いて子取ことりの名人のごとく伝えられるが、じつはただの人間の少し下品な者で、中世高野聖こうやひじりの名をもって諸国を修行した法師すなわち是これである。武州小川の大塚梧堂ごどう君の話では、夜道怪は見た者はないけれども、蓬髪ほうはつ弊衣へいいの垢あかじみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のようだと土地ではいうから、大方おおかたそんな風態の者だろうとのことである。実際高野聖は行商か片商売かたしょうばいで、いつも強力ごうりき同様に何もかも背負うてあるいた。そうして夕方には村の辻に立って、ヤドウカと大きな声でわめき、誰も宿を貸しましょと言わぬ場合には、また次の村に向って去った。旅に摺すれて掛引かけひきが多く、その上おりおりは法力を笠かさに着て、善人たちを脅おびやかした故に、「高野聖に宿やどかすな、娘取られて恥かくな」などという、諺ことわざまでもできたのである。だんだんこんな者が村に来なくなってから、単に子供を嚇おどかす想像上の害敵となって永く残りその子供がまた成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種にこれを算えるに至ったのは注意すべき現象だと思う。我々日本人の精神生活の進化には、こういう村里の隠し神のようなものまでが、取り残されていることはできなかったのである。

八 今も少年の往々にして神に隠さるること

 先頃さきごろも六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた。大都のまん中では、もとより小児の親にはぐれる場合も多かったろうけれども、幼小な子供が何ぴとにも怪まれずに、こんなに遠くまできていたというは珍しい。故に昔の人もこれらの実例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒涜ぼうとくを忌まざる者は、これを神隠しとも呼んでいたのである。

 村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分とりわけてこの類の神隠しが頻繁ひんぱんで、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還かえって来なかった。私は以前盛んに旅行をしていたころ、力つとめて近代の地方の迷子の実例を、聞いて置こうとしたことがあった。伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。なおそれよりも前に、上総の東金とうがね附近の村では、これも二三日してから山の中の薄すすきの叢くさむらの中に、しゃがんでいたのをさがしだしたが、それから久しい間、抜ぬけ殻がらのような少年であったという。

 珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇抜なるものが一層多い。親族が一心に祈祷きとうをしていると、夜分雨戸にどんと当あたる物がある。明けて見るとその児が軒下にきて立っていた。或いはまた板葺いたぶき屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出てみたら、気を失ってその児が横たわっていた、という話もある。もっとえらいのになると、二十年もしてから阿呆あほうになってひょっこりと出てきた。元もとの四よつ身みの着物を着たままで、縫目ぬいめが弾はじけて綻ほころびていたなどと言い伝えた。もちろん精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのようであった。学問としての研究のためには、更に今後の観察を要するはもちろんである。

 愛知県北設楽きたしだら郡段嶺だみね村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ごろの旧九月三十日、すなわち神送かみおくりの日の夕方に、家の者が白餅しろもちを造るのに忙しい最中、今まで土間どまにいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしなかったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦いったん家の者も内に入っていると、不意におも屋の天井てんじょうの上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚いて梯子はしごを掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見ると、口のまわりも真白まっしろに白餅だらけになっていた。(白餅というのは神に供える粢しとぎのことで、生なまの粉を水でかためただけのものである。)気の抜けたようになっているのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮おみやの杉の樹きの下に往いって立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣やってきて彼を連れて行った。多勢おおぜいの人にまじって木の梢こずえを渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行く先々で白餅や汁粉しるこなどをたくさん御馳走ごちそうになっていた。最後にはどこか知らぬ狭いところへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であったという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎うとくなっていたようだったと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという(早川孝太郎君報)。

 石川県金沢市の浅野町で明治十年ごろに起こった出来事である。徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓たかまどの外にあった地境じざかいの大きな柿の樹の下に、下駄げたを脱ぎ棄すてたままで行方不明になった。これも捜しあぐんでいると、不意に天井裏にどしんと物の堕おちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上って見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木の葉を噛かんでいたと見えて、口の端を真青まっさおにしていた。半分正気づいてから仔細しさいを問うに、大きな親爺おやじに連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤もっとも常から少し遅鈍な質たちの青年であった。その後どうなったかは知らぬという(徳田秋声君談)。

 紀州西牟婁むろ郡上三栖みすの米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還かえってきたが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻へめぐっていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握にぎり飯めしや餅菓子もちがしなどたべた。まだ袂たもとに残っているというので、出させて見るにみな柴しばの葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津の西ノ宮に行き、盆ぼんの十三日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋随筆ぼくおくずいひつ』の中に載せられてあるという(雑賀さいが貞次郎君報)。

 大正十五年二月の『国民新聞』に出ていたのは、遠州相良さがら在ざいの農家の十六の少年、夜中の一時ごろに便所に出たまま戻らず、しばらくすると悲鳴の声が聞えるので、両親が飛び起きて便所を見たがいない。だんだんに声を辿たどって行くと、戸じまりをした隣家の納屋なやの中に、兵児帯へこおびと褌ふんどしをもって両手足を縛られ、梁はりから兎うさぎつるしに吊つるされていた。早速引卸ひきおろして模様を尋ねても、便所の前に行ったまでは覚えているが、それから先のことは少しも知らぬ。ただふと気がついたから救いを求めたといっていた。奇妙なことには納屋には錠じょうがかかって、親たちは捻ねじ切って入った。周囲は土壁で何者も近よった様子がなかったという。警察で尋ねてみたら、今少し前後の状況が知れるかも知れぬと思う。

 不意に窮屈な天井裏などに入って倒れたということは、とうてい我々には解釈しえない不思議であるが、地方には意外にその例が多い。また沖繩の島にもこれとやや似た神隠しがあって、それを物迷いまたは物に持たるるというそうである。比嘉春潮ひがしゅんちょう君の話によれば、かの島でモノに攫さらわれた人は、木の梢や水面また断崖絶壁のごとき、普通に人のあるかぬところを歩くことができ、また下水げすいの中や洞窟どうくつ床下ゆかした等をも平気で通過する。人が捜している声も姿もはっきりとわかるが、こちらからは物を言うことができぬ。洞窟の奥や水の中で発見せられた実例も少なくない。こういう狭い場処や危険な所も、モノに導かれると通行ができるのだが、ただその人が屁へをひるときはモノが手を放すので、たちまち絶壁から落ちることがある。水に溺おぼれる人にはこれが多いように信じられているそうである。備中賀陽かやの良藤という者が、狐の女と婚姻して年久しくわが家の床下に住み、多くの児女を育てていたという話なども、昔の人には今よりも比較的信じやすかったものらしい。

九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと

 変態心理の中村古峡こきょう君なども、かつて奥州七戸しちのへ辺の実例について調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。

 私の村は県道に沿うた町並まちなみで、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋かわすじが通って奥在所おくざいしょは深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖こわい噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳としであったが、筋向すじむかいの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠ほおかむりをした屈強な男が、横合よこあいから出てきて私を引抱ひっかかえ、とっとっと走る。怖おそろしさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇わきに私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯いたずらで、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟しげきのために、すっかり変っていたからであろうと想像する。

 それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩きのこがりに行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋さびしい池があって、しばらくその岸へ下おりて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元もと登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫ぼうとしたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持こころもちになった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。

 これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気むしけがあって機嫌きげんの悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看みていたが、頻しきりに母に向かって神戸には叔母おばさんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往いってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦かね太鼓たいこの騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍みちばたであった。折よくこの辺の新開畠しんかいばたにきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かすかに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途みちの一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ちょうやともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童よりわらわというものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱となえ言ごとをしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力つとめて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中なかの中の小坊主こぼうず」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正まさしくその名残である。大きくなって世の中へ出てしまうと、もう我々のごとく常識の人間になってしまうが、成長の或る時期にその傾向が時あって顕あらわれるのは、恐らくは説明可能なる生理学の現象であろう。神に隠されたという少年青年には、注意してみれば何か共通の特徴がありそうだ。さかしいとか賢いとかいう古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的ともいうべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。物狂いという語なども、時代によってその意味はこれとほぼ同じでなかったかと思う。

一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと

 運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体ていで、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となって活いきているのが多く、天狗てんぐのカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。

 この連中の見聞談は、若干の古書の中に散見している。鋭い眼をした大きな人が来いといったからついて往った。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然ばくぜんたる話ばかり多い。ところがこれとは正反対にごくわずかな例外として、むやみに詳しく見てきた世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、『神童寅吉とらきち物語』、神界にあって高山嘉津間たかやまかつまと呼ばれた少年の話である。これ以外にも平田派の神道家が、最も敬虔けいけんなる態度をもって筆記した神隠しの談がいくつかあるが記録の精確なるために、いよいよ談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。

 故に神道があまり幽冥道ゆうめいどうを説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。『続鉱石集ぞくこうせきしゅう』の下の巻に出ている「阿波国不朽ふきゅう物語」などはその例で、その他にも越中の立山、外南部そとなんぶの宇曾利山うそりざんで、地獄を見たという類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべてみなこの系統の話である。

『黒甜瑣語こくてんさご』第一編の巻三に曰いわく、「世の物語に天狗のカゲマと云いふことありて、爰ここかしこに勾引こういんさるゝあり。或は妙義山に将もて行かれて奴やっことなり、或は讃岐さぬきの杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢いなさわ村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤げせんの者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始はじめは出奔しゅっぽんせしと思ひしに、其者そのものの諸器褞袍おんぽうも残りあれば、それとも言はれずと沙汰さたせしが、一月ひとつきばかりありて立帰れり。津軽つがるを残らず一見して、委くわしきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男このおとこの部屋へや何か騒がしく、宥ゆるして下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度このたびも半月ほど過ぎて越後えちごより帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托たくして言はず。若もし委曲いきょくを告ぐれば身の上にも係かかわるべしとの戒いましめを聞きしと也なり。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方ゆくえ無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下くだれり」と云う。

 右の話の始めにある『不思議物語』という本は、この他にもたくさんの珍しい記事を載せてあるらしい。二百数十年前の盲人の談話ときいて、ことに一度見たいと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴おぜふくあんに宛あてた一通には、次のごとく記してある。

「正月七日の夜、某旧識きゅうしきの人の奴僕ぬぼく一人、忽たちまちに所在を失ひ候そうろう。二月二日には、御直参ごじきさんの人にて文筆共とも当時の英材、某多年の旧識、是これも所在を失し、二十八日に帰られ候。其事の始末は、鬼の為に誘はれ、近く候山々経歴し見候みそうろう。此外このほか二三人失せし者をも承うけたまわり候へ共ども、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候間あいだ、如此かくのごときの事また候へば云々うんぬん」(末の方は誤写があるらしい)。

『神童寅吉物語』は舞台が江戸であっただけに、出た当時からすでに大評判となり、少なからず近世のいわゆる幽界研究を刺戟しげきした。今でも別様の意味において貴重なる記録である。知っている人も多いと思うが、大正十四年の四月に、周防宮市すおうみやいちの天行居てんこうきょから刊行した『幽冥界ゆうめいかい研究資料』と題する一書は、この類の珍本のいくつかを合わせて覆刻ふっこくしている。『嘉津間答問かつまとうもん』四巻附録一巻は、すなわち前にいう寅吉の談話筆記で、平田翁の手を経て世に公おおやけにせられたものであるが別にそれ以外に『幸安仙界物語こうあんせんかいものがたり』三巻、紀州和歌山の或る浄土寺じょうどでらの小僧が、白髪の老翁に導かれてしばしば名山に往来したという話であり、『仙界真語せんかいしんご』一巻は、尾州の藩医柳田泰治の門人沢井才一郎という者が、遠州秋葉山に入って神になったという一条で、いずれも十七歳の青年の異常なる実験を、最も誠実に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野うえのの山下で薬を売る老人につれられ、時々常陸ひたちの或る山に往来していたと語っているが実際にいなくなったのは十四の歳としの五月からで、十月とつきほどして還ってきていとも饒舌じょうぜつに霊界の事情を語っていた。遍あまねく諸州を飛行したそうだが、本居ほんきょは常陸の岩間山の頂上にあった。紛れもなく天狗山人の社会で方式にも教理にも修験道しゅげんどうの香気が強かったが、あの時代の学者たちは一種の習合をもって自派の神道の闡明せんめいにこれを利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあって、指摘し得べき前後の矛盾さえ多かったのだが、それは記憶の誤りだろう隠すのだろう、或いは何か凡慮に及ばぬ仔細しさいがあるのだろうと、ことごとく善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折ほねおりであった。これに比べると紀州の幸安の神隠しは、三十年余も後の事であるが、この期間の日本の学問の進歩は、早はや著しくその話の内容に反映している。幸安はまず和歌山近くの花山というに登り、それから九州某地の赤山というところに往ったと語ったが、赤山の住侶じゅうりょはいずれも仙人せんにんで、おのおの『雲笈七籖うんきゅうしちせん』にでもあるような高尚な漢名を持っていた。天狗などは身分の低いものだと大いにこれを軽蔑けいべつしている。また支那にも飛べば北亜細亜アジアの山にも往ったとあって、その叙説の不精確さは正まさに幕末ごろの外国地理の知識であった。よくもこんな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが当然だが、道教の神秘も日本の固有信仰がこれを支配し得るかのごとく、曲解し得るだけ曲解するのが、言わばあの時代の学風であったので、すなわちたくさんの夢語ゆめがたりも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だって踏出してはいないのである。

 名古屋の秋葉大権現あきばだいごんげんの神異に至っては、話が更に一段と単純になっている。これは前にいう紀州の事件よりも、また十五年も後のことであるが、これに参加した人たちが学問に深入ふかいりしなかった故に、古風な民間の信仰の清らさを留とどめている。すなわち神隠しの青年は口が喋々ちょうちょうと奇瑞きずいを説かなかったかわりに、我々の説明しえないいろいろの不思議が現われ、それを見たほどの者は一人として疑い怪しむことができなかった。そうして多くの信徒の興奮と感激との間に、当の本人は霊魂のみを大神おおかみに召されて、若い骸むくろを留めて去ったのである。およそ近代の宗教現象の記録として、これほど至純なる資料はじつは多くない。身み親したしくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。ただ我々の意外とすることは、こういう珍しいいろいろの実験をならべてみて、一方が真実なら他方は誤りでなければならぬほどの不一致には心づかず、幽界の玄妙なる、なんのあらざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置こうとした、後世の学徒の態度であった。もし盲信でなければ、これは恐らく同種の偽物にせものに対する寛容であって、やがては今日のごとき鬼術横行の原因をなしたものとも言いえられる。

 江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末ゆくすえはどうであったか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。もし彼らの行者生活が長く続いていたとすれば、これらの覚書おぼえがき類は時の進むとともに、幾たびかその価値を変化しているはずである。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書物になって残っているというだけで、特段にこれを尊重すべき理由はない道理である。

一一 仙人出現の理由を研究すべきこと

「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者が毎つねに少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧れいりにしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。

 室町時代の中ごろには、若狭わかさの国から年齢八百歳という尼が京都へ出てきた。また江戸期の終りに近くなってからも、筑前の海岸に生まれた女で長命して二十幾人の亭主を取替えたという者が津軽方面に出現した。その長命に証人はなかったが、両人ながら古い事を知ってよく語ったので、聴く人はこれを疑うことができなかった。ただしその話は申合もうしあわせたように源平げんぺいの合戦かっせん、義経よしつね・弁慶べんけいの行動などの外には出なかった。それからまた常陸坊海尊ひたちぼうかいそんの仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。もちろん義経の事蹟じせき、ことに屋島やしま・壇だんの浦うら・高館たかだて等、『義経記』や『盛衰記』に書いてあることを、あの書をそらで読む程度に知っていたので、まったくそのために当時彼が真の常陸坊なることを一人として信用せざる者はなかったのである。

 今日の眼から見れば、これを信ずるのは軽率のようであり、欺あざむく本人も憎いようだが、恐らくは本人自身も、常陸坊であり、ないしは八百比丘尼びくになることを、何かわけがあって固く信じていたものと思われる。それも決してありえざることではない。参河みかわの長篠ながしの地方でおとらという狐に憑つかれた者は、きっと信玄や山本勘助の話をする。この狐もまた長生で、かつて武田合戦を見物していて怪我けがをしたという説などが行われていたために、その後憑かれた者が、みなその合戦を知っているような気持にならずにはおられなかったのである。

 若狭の八百比丘尼は本国小浜おばまの或る神社の中に、玉椿たまつばきの花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎いなかに、この尼が巡遊したと伝うる故跡こせきは数多く、たいていは樹を栽うえ神を祭り時としては塚つかを築き石を建てている。それが単なる偶合ぐうごうでなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をしてきたことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺しわだらけの顔をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭から遣やってきて、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録がうんにっけんろく』にも書いてあれば、また『康富記やすとみき』などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。尤もっともこの時代は七百歳の車僧のように、長生を評判にする風は流行であった。然しからば何か我々の想像しえない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、いずれにしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺きえない。或いは尼自身も特殊の心理から、自分がそのような古い嫗おうなであることを信じ、まのあたり義経・弁慶一行の北国通過を、見ていたようにも感じていた故に、その言うことが強い印象となったのではなかろうか。越中立山の口碑では、結界けっかいを破って霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂とうろの姥うばと呼んでいる。もしこの類の山で修業した巫女みこが自身にそういう長命を信じている習ならいであったら、のちに説こうとする日向小菅岳ひゅうがこすげだけの山女が、山に入って数百年を経たと人に語ったというのも、必ずしも作り話ではないことになるのである。やたらに人の不誠実を疑うにも及ばぬのである。

 常陸坊海尊の長命ということは、今でもまだ陸前の青麻権現あおそごんげんの信徒の中には、信じている人が大分だいぶあって、これを疑っては失礼に当るか知れぬが、じつはこの信仰には明らかに前後の二期があって、その後期においては海尊さまはもう人間ではなかったのである。これに反して足利時代の終りに近く、諸国にこの人が生きていたという話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であった。事のついでに少しくあのころの世間の噂を比較してみると、例えば会津あいづの実相寺じっそうじの二十三世、桃林契悟禅師とうりんけいごぜんじ号は残夢、別に自ら秋風道士とも称した老僧はその一人であった。和尚おしょうは奇行多くまた好んで源平の合戦その他の旧事を談ずるに、あたかも自身その場にいて見た者のごとくであった。無々という老翁の石城いしき郡に住する者、かつて残夢を訪ねてきて、二人で頻しきりに曾我そがの夜討ようちの事を話していたこともあった。しかも曾我とか源平合戦とかがもうちゃんと書物になっていることを知らず、あまり詳しいので喫驚びっくりするような人が、まだこの地方には多かったらしいのである。年を尋ねると百五六十と答え、強しいて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。然らば常陸坊海尊だろうと噂したというのは、恐らくはこのころすでにかの仙人がまだ生きてどこかにいるように評判する者があったからであろう。また別の伝えには福仙という鏡研かがみとぎがきた。残夢これを見て彼は義経公の旗持ちだったというと、福仙もまた人に向って、残夢は常陸坊だと告げたともいうが、そんな事をすれば露あらわれるにきまっている。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇の偈げを留とどめて円寂えんじゃくし、墓もその寺にあるにかかわらず、その後なお引続いて、常陸坊が生きているという説は行われた。『本朝故事因縁集ほんちょうこじいんねんしゅう』には、「海尊遁にげ去りて富士山に入る、食物無し、石の上に飴あめの如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟がんくつあり、之に遊びて年未だ老いず」とある。山におりきりの仙人ならば、こんな歴史も伝わらぬ道理で、やはり時々は若狭の尼のように人間の中に入ってきていたのである。能登の狼煙のろし村の山伏山やまぶしやまでは、常陸坊はこの地まできて義経と別れ、仙人になってこの山に住んだ、おりおりは山伏姿で出てきたと『能登国名跡志のとのくにめいせきし』に書いてあるが、それでは高館たかだて・衣川ころもがわの昔話をするのに、甚だ勝手が悪かったわけである。加賀には残月という六十ばかりの僧、かつて犀川さいかわと浅野川の西東に流れていた時を知ってるといった。越後の田中という地にきて、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂まつやにを服して暮していたが、誰言うともなく残月は常陸坊、小松原は亀井六郎だと評判せられた。人が『義経記』を呼んで聴かせると覚えず釣込まれてそのころの話をしたと『提醒紀談ていせいきだん』巻一にあるが、亀井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまったのではなさそうだ。『広益俗説弁こうえきぞくせつべん』巻十三には、海尊かいそん高館の落城に先だって山に遁のがれ、仙人となって富士・浅間・湯殿山ゆどのさんなどに時々出現するとあるが、羽前最上もがみ郡古口ふるくち村の外川とかわ神社の近くにも、海尊仙人が住んでいたという口碑あり、また陸前気仙けせん郡の唐丹とうにの観音堂の下にも、昔常陸坊が松前まつまえから帰りがけにこの地を通って、これは亀井の墓だと別当山伏の成就院じょうじゅいんに、指さし教えたと伝うる墓があった。永い年月には何処へでも往ったろうが、それにしてもあまりに口が多く、また話が少しずつ喰違っているのは、やはりたくさんの同名異人があったためではなかったか。ことに寛永の初年に陸中平泉ひらいずみの古戦場に近い山中で、仙台の藩士小野太左衛門が行逢ゆきあうたというのは、よほど怪しい常陸坊であった。源平時代の見聞を語ること、親しくこれを歴へた者の通りであった故に、小野はただちに海尊なることを看破し、就ついて兵法を学び、また恭うやうやしく延年益寿の術を訊たずねた。異人答えて曰く、もと修するの法なし、かつて九郎判官ほうがんに随従して高館にいるとき、六月衣川ころもがわに釣つりして達谷たっこくに入る。一老人あり招きて食を供きょうす。肉ありその色は朱しゅのごとく味美なり、仁羮じんこうと名づく。従者怪みて食わず、これを携えて帰る。その女子これを食いまた不死であったが、天正十年までいていずれへか往いってしまったと語った。この話は若狭・越中その他の地方において、八百比丘尼の長生の理由として、語り伝うるものと全然同じで、仁羮はすなわち人魚の肉であった。日本の仙人が支那のように技術の力でなく、とうてい習得しがたい身の運のようなものを具えていたことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、これをさえ受売うけうりするからには仙翁でもなかったのである。しかるにもかかわらず、小野太左衛門はその説に感歎して、これを主人の伊達政宗だてまさむねに言上ごんじょうし、後日に清悦せいえつ御目見おめみえの沙汰さたがあった。清悦とはこの自称長寿者ののちの名で、現今行われている『清悦物語せいえつものがたり』の一書は、彼が『義経記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『吾妻鏡あずまかがみ』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。しかし出来事の評判は非常であったと見えて、寛永以後なお久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかった。岩切の青麻権現の岩窟に出現したのは、それからおよそ五十年の後、ちょうど『清悦物語』が世に出てから、十五年目の天和二年であったという。鈴木所兵衛という、信心深い盲人が、彼に教えられて天に祷いのり、目が開いたという奇跡もあった。その時は気高い老人の姿で現れて、われは常陸坊海尊、今の名は清悦である。久しく四方を巡って近ごろ下野の大日窟にいたが、これからはここへきて住もう。この窟には何神を祭ってあるかと尋ねるので、大日・不動・虚空蔵こくうぞうの三尊だと答えると、それは幸いのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしといって、すなわち岩窟に入って鉄※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)てっさをもって上下した。これが人魚を食べた常陸坊のまた新たなる変化であった。ただしこの縁起えんぎはそれから更に八十余年を経て、再びこの社が繁昌はんじょうしたのちのもので、以前の形のままか否かは疑わしい。近年になっては一般に、常陸坊は天狗だと信じられていた。常陸国の阿波あばの大杉大明神だいみょうじんも、この人を祭るという説があり、特別の場合のほかは姿を見ることができなかった。しかも一方には因縁がなお繋つながって、おりおりは昔の常陸坊かも知れぬという老人が、依然として人間にまじって遊んでいた。

 話が長過ぎたがやはり附添つけそえておく必要がある。青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田かくだから白石しろいしの辺にかけて、村々の旧家に寄寓きぐうしてあるいた白石しろいし翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒しんじゅ二道の要義に通じていた。この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑てんがん和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交まじわっていた。或る時象棋しょうぎをさしていて、ふと曲淵まがりふち正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。身元が知れぬのでいろいろの風説が生じ、或いは甲州の山県昌景かといい、信玄の次男の瞽聖こせい堂の子かともいい、或いはまた清悦であろうともいった。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病没したのだが、それから十何年ののち、或る商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たという話も伝わっていたから、かりに海尊であったとしても理窟だけは合うのである(以上『東藩野乗とうはんやじょう』下巻および『封内風土記』四)。
 さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である。東北地方の旧家のことに熊野神社と関係あるものは、最も弁慶や鈴木・亀井の武勇談を愛好し、なるたけ多く聴きたいという希望が、ついに『義経記』のごとき地方の文学を成長せしめたのだ。これに新材料を供与する人ならば、異常の尊敬を受けたのは当然である。それも作り事と名乗っては、人が承知せぬのが普通であった。すなわち座頭の坊の物語が夙はやくから、当時実際に参与した勇士どもの霊の、託言または啓示なることを要した所以ゆえんである。常陸坊は高館落城の当時から、行方不明と伝えられていた故に、後日生霊いきりょうとなって人に憑つくにさしつかえはなく、また比較的重要でない法師であって、観みていた様子を語るには都合がよかった。だから、一時的には吾われは海尊と名乗って、実歴風に処々の合戦や旅行を説くことは、いずれの盲法師めくらほうしも昔は通例であったかと思うが。それがあまりに巧妙で傍かたわらの者が本人と思ったか、はたまた本人までが常陸坊になりきって、いわゆる見てきたような嘘うそをついたかは、今日となってはもう断定ができぬ。それから第二の点は支那の寒山拾得かんざんじっとくの話のごとく、残夢は無々と語り福仙と相指あいゆびざし、残月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ない、また白石翁が天鑑和尚を倅せがれと呼んだこと、これも多分は古くからの方式であったろうと思う。陸中江刺えさし郡黒石くろいしの正法寺しょうぼうじで、石地蔵が和尚に告げ口をしたために常陸かいどうの身の上が露あらわれた。帰りにその前を通ると地蔵がきな臭いような顔をしたので、さてはこやつが喋しゃべったかと、鼻をねじたといって鼻曲はなまがり地蔵がある。これは紛れもなく海神わたつみの宮の口女くちめであり、また猿の肝きもの昔話の竜宮りゅうぐうの海月くらげであって、こういう者が出てこないと、やはり話にはなりにくかったのである。だから眼前のただ一つの例を執とって、不思議を説明しようとするのは誤った方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保いかほの木樵きこり、海尊に伝授を受けたと称して、下駄灸げたきゅうという療治を行ったことが、『翁草おきなぐさ』の巻百三十五にも見えている。彼も福仙と同じく義経の旗持ちであったのが、この山に入って自分もまた地仙となったという。下駄だの灸だのという近代生活にまで、なお昔の奥浄瑠璃おくじょうるりの年久しい影響が、痕あとを留とどめているのはなつかしいと思う。

一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと

 話が山から出てきたついでに、おかしな先例を今少し列挙して見たい。関東各府県の村の旧家には、狐や狸の書いた書画というものがおりおり伝わり、これに伴うて必ず不思議な話が残っている。たいていは旅の僧侶そうりょに化けて、その土地にしばらく止とどまっていたというのである。どうしてその僧の狸であることを知ったかといえば、後日少しくかけ離れた里で、狗いぬに噛殺かみころされたという話だからというものと、その僧が滞在をしている間、食事と入浴に人のいるのをひどく厭いやがる。そっと覗のぞいてみたら食物を膳ぜんの上にあけて、口をつけて食べていたからというのがあり、また湯殿ゆどのの湯気ゆげの中から、だらりと長い尻尾しっぽが見えたからというのもある。書や画は多くは乱暴な、しかも活溌かっぱつな走り書きであった。

 この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたはいかにも実際らしくない。もし噛まれて死んでいたものの正体が狸であれば、果してあの和尚か否かがわからず、和尚の姿で死んでおれば、狸とはなおさらいわれない。要するに山芋やまいもと鰻うなぎ、雀すずめと蛤はまぐりとの関係も同じで、立会たちあいのうえで甲から乙へ変化するところを見届けぬかぎりは、真の調書は作成しえなかった道理である。おそらくはじつは和尚の挙動、或いはその内々の白状が、この説の基礎をなしたものであったろうと思う。

 いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光君の『相州内郷うちごう村話』の数ページが、最も新しくかつ注意深い報告である。同君の居村附近、すなわち小仏峠こぼとけとうげを中心とした武相甲の多くの村には、天明年間に貉むじなが鎌倉建長寺の御使僧ごしそうに化けたという話とともに、描いて残した書画が多く分布している。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩みなみたま郡加住かすみ村大字宮下にある白沢はくたくの図、神奈川県津久井つくい郡千木良ちぎら村に伝わる布袋ほてい川渡りの図であったが、後者は布袋らしく福々しいところは少しもなく、なんとなく貉むじなに似た顔にできていた。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あった。形は字らしいが何という字か判わからなかった。それよりも更に奇怪きっかいなことは、この僧が狗に噛み殺されて、貉の正体を顕あらわしたと伝うる場処が、或いは書画の数よりも多いかと思うくらい方々の村にあることである。また建長寺の方でもこの事件は否定せぬそうだ。ただし貉が勧化かんげの使僧を咬かみ殺して、代ってこれに化けたというかちかち山式風説は認めず、中途で遷化せんげした和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したという他の一説の方を執とっており、現に寺にもその貉の書いたものが、二枚も蔵しまってあるというのは、すこぶる次に述べる文福茶釜ぶんぶくちゃがまの話と似ている。

 右と同様の話はなおたくさんあるが、今記憶する二つ三つを挙げて見ると、『静岡県安倍あべ郡誌』には、この郡大里村大字下島の長田氏には、これも建長寺の和尚に化けて、京に上ると称して堂々と行列を立て、乗り込んできたという貉の話あり、その書が今に残っている。横物の一軸いちじくに「※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)」というような変な字が一字書いてある。ムジナすなわち狸だという幽かすかな暗示とも解せられる。隣区西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あったがそれは紛失した。そうしてやはりのちに安倍川の川原で、犬に喰殺されたと伝えられる。信州下伊那しもいな郡泰阜やすおか村の温田ぬくたというところにも、狸のえがくという絵像のあることが、『伝説の下伊那』という書に報ぜられてある。人の顔に獣の体を取りつけたような不思議な画姿えすがたであったという。ただしこれは和尚ではなくて、由よしある京都の公家くげという触込ふれこみで、遠州路から山坂を越えて、この村に遣ってきて泊った。出入ともに駕籠かごの戸を開かず、家の者も見ることをえなかったが、翌朝出発の時に礼だと称して、こんな物を置いて去ったという。この狸はそれから柿野という部落に入って同じことをくりかえし、だんだんと天竜筋てんりゅうすじを上って行くうちに、上穂うわぼの光善寺の飼犬に正体を見現わされ、咬み殺されてしまったというが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附みつけの人身御供ひとみごくう問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に帰するのである。

『蕉斎筆記しょうさいひっき』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜かめはまの鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれて額がくだの一行物だのを、いくらともなく書いて還かえった。あとから挨拶あいさつの状を京に上のぼせると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先えんさきにきて法談を聴聞ちょうもんしていたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴そやつではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風びょうぶが一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中には稀まれには狸ありという風説が、下染したぞめをなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻しおじり』(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八あはち郡春近はるちかの井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落ちょうていからくと立派に書いて、下に梅菴ばいあんと署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得こころえもあり、また能よく禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上る途みちで、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢ゆきあうた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆認したためてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落が遺のこっているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正やかんぼうげんせいと麗々れいれいと署名がしてあった。

 実際この類の狐になると、果して人に化けたのやら、もしくは人の形になりきっているのやら、その境目さかいめがもうはっきりしてはいなかった。それ故にかえって本人の方から、たとえ露骨には名乗らぬまでも、やや自分の狐であることを、暗示する必要があったと見える。空菴くうあんという狐が自ら狐の一字を書したことは『一話一言いちわいちげん』にあり、また駿州安倍郡の貉は狸という字に紛わしい書を遺した。しかも他の一方においては、人が狐に化けたという話も近世は存外に多かった。物馴ものなれた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちらちらと合羽かっぱの下から見せ、駕籠屋かごや・馬方うまかた・宿屋の亭主に、尊敬心を起こさせたという噂は興味をもって迎えられ、甚だしきはあべこべに、狐を騙だましたという昔話さえできている。だから私は村々の狸和尚が、いずれも狸の贋物にせものであったとはもちろん言わぬが、少なくともいかにしてこれを発見したかは、考えてみる必要があると思うのである。

 狐狸の大多数が諸国を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、たいてい和尚や御使僧になってきたのも曰いわくがあろう。上州茂林寺もりんじの文福茶釜を始めとしてかつて異僧が住してそれがじつは狸であり、いろいろと寺のために働いて、のちにいなくなったというのみならず、何か末世の手証てあかしとなるものを、遺して往ったという例はたくさんにある。禅宗の和尚たちはこれを怪奇として斥しりぞけず、むしろ意味ありげに語り伝えるのが普通であった。会津の或る寺でも守鶴西堂しゅかくせいどうの天目てんもくを什宝じゅうほうとし、稀有けうの長寿を説くこと常陸坊海尊同様であったが、その守鶴もやはり何かのついでに微々として笑って、すこぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺あんようじに、かつて三世の住職に随逐ずいちくした筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院とうじゅいんには、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。建長寺ばかりではないのである。
 それからまた有用無害の狐狸がいたという話は、今では多く寺々の管轄の下に帰し、かつは仏徳の如是畜生にょぜちくしょうに及んだことを証しているようだが、最初はその全部が僧たちの親切に基づいた因縁話でもなかったらしい。今日の思想から判はんずれば、狐はこれ人民の敵で、人は汲々乎きゅうきゅうことしてその害を避くるに専もっぱらであるけれども、祭った時代にはいろいろの好意を示し、また必ずしも仏法の軌範の内に跼蹐きょくせきしていなかった。例えば越後の或る山村では、正月十五日の宵よいに山から大きな声を出して、年の吉凶を予言し、または住民の行為を批判した。『東備郡村誌』によれば、岡山市外の円城村に老狸あり、人に化けて民間に往来し、能よく人の言語を学んでしばしば附近の古城の話をした。その物語を聴きかんと欲する者、食を与えてこれを請こう時んば、一室を鎖とざしてその内に入り、諄々じゅんじゅんとして人のごとくに談じた。しこうして人を害することなし、尤もっとも怪獣なりとある。三河みかわの長篠ながしののおとら狐に至っては、近世その暴虐ことに甚だしく住民はことごとく切歯扼腕せっしやくわんしているのだが、人に憑つくときは必ず鳶巣城とびのすじょうの故事を談じ、なお進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戦のごとき、今日の歴史家が或いは小幡勘兵衛の駄法螺だぼらだろうと考えている物語までを、事も細かに叙述するを常とした。単に人を悩ます者がおとらであり、おとらは歳とし久しき狐なることを証明するためならば、それほど力を入れずともよいのであった。おそらくはこれも昔はその話を聴くために、狐を招いてきてもらった名残であって、同時にまた諸国の狸和尚、ないしは常陸坊・八百比丘尼の徒が、或いは自分もまた多くの聴衆と同じく、憑いた生霊、憑いた神と同化してしまって、荘子そうじの夢の吾われか蝴蝶こちょうかを、差別しえない境遇にあった結果ではないかを考えしめる。

 近ごろでも新聞に毎々出てくるごとく、医者の少しく首を捻ひねるような病人は、家族や親類がすぐに狐憑きにしてしまう風が、地方によってはまだ盛んであるが、なんぼ愚夫愚婦でも理由もなしに、そんな重大なる断定をするはずがない。たいていの場合には今までも似たような先例があるから、もしか例のではないかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の挙動が疑わしくなり、まず食物の好みの小豆飯あずきめし・油揚あぶらあげから、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしょう」などというまでに激昂げっこうするころは、本人もまた堂々と何山の稲荷いなりだと、名を名乗るほどに進んでくるので、要するに双方の相持あいもちで、もしこれを精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人ではないのだ。狸の旅僧のごときも多勢で寄ってたかって、化けたと自ら信ぜずにはおられぬように逆にただの坊主を誘導したものかも知れぬ。

 佐渡では新羅しらぎ王書と署名した奇異なる草体の書が、多くの家に蔵せられ、私もそのいくつかをみた。古い物ではあるが、もちろん新羅という国が滅びてのち、すでに四五百年以上もしてからの作に相異ない。天文年間に漂着したともいい、或いはもっと後のことともいっている。とにかくかつて他処からきた実在の異人であった。のちには土地の語を話し、土地の人になってしまった。書ばかり書いている変な人だったというが、現にその子孫という家もあって、とにかくに詐欺師さぎしではなかった。自分でも新羅王だと思っており、それをまた周囲の人が少しも疑わなかったために、このようなありうべからざる歴史が成り立ったものである。

 神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考えかたは、終始この手続を通して進化してきたものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いて見たくなった理由である。

一三 神隠しに奇異なる約束ありしこと

 神隠しからのちに戻ってきたという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集しゅうしゅうする必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出てくるものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞しおりとして、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにおられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁ひんぱんでありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物はきものが正しく揃そろえてあって、一見して普通の狼藉ろうぜき、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何故に人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。

 或いはまた二日とか三日とか、一定の期間捜さがしてみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。或いはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、辛かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子まいごの親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合つきあいまたは組合の義理と称して、各戸総出そうでをもって行列を作り、一定の路筋みちすじを廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来しきたりには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解わからぬのである。

 全体にこの実例はおいおいと少なくなって、今では話ばかりがなお鮮明に残っている。神隠しという語を用いぬ地方もすでにあるが、狐に騙だまされて連れて行かれるといいまたは天狗にさらわれるといっても、これを捜索する方法はほぼ同じであった。単に迷子と名づけた場合でも、やはり鉦かね太鼓たいこの叩たたき方は、コンコンチキチコンチキチの囃子はやしで、芝居で「釣狐つりぎつね」などというものの外には出でなかった。しかもそれ以外になお叩く物があって、各府県の風習は互いによく似ていたのである。例をもって説明するならば、北大和やまとの低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚よんだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下さがってついて行き、一升桝いっしょうますを手に持って、その底を叩きながらあるくことに定きまっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた(『なら』一八号)。紀州田辺地方でも、鉦太鼓を叩くとともに、櫛くしの歯をもって桝の尻を掻かいて、変な音を立てる風があった(雑賀君報)。播磨はりまの印南いんなん郡では迷子を捜すのに、村中松明たいまつをともし金盥かなだらいなどを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへ[#「そばへ」は底本では「そぱへ」]ほうり出すといっていた。同国東部の美嚢みの郡などでは、迷子は狐でなく狗賓ぐひんさんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗ちゃわんを手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた。越中魚津でも三十年余の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れそうになるので、捕えている子供を樹の上から、放して下すものだと信じていたそうである(以上『土の鈴』九および十六)。

 右のごとき類例を見て行くと、誰でも考えずにおられぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃めしびつや桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様でない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聴いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降おろす方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似まねをすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神を喚よんだものと思う。俵藤太たわらとうだが持ってきた竜宮の宝物に、取れども尽きぬ米の俵があって、のちに子孫の者がその俵の尻を叩くと白い小蛇こへびが飛びだして米が尽きたと称するのも、もし別系統でなければ同じ慣習の変化だとみてよろしい。いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でなかったことだけは、かやせ戻せという唱となえ言ごとからでも、推定することが難くないのである。

 加賀の能美のみ郡なども、天狗の人を隠した話の多かったことは、近年刊行した『能美郡誌のみぐんし』を見るとよくわかる。同じ郡の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門という老人が神隠しに遭あった。村中が手分けをして探しまわった結果、隣部落と地境じざかいの小山の中腹、土地で神様松という傘かさの形をした松の樹の下に、青い顔をして坐すわっているのを見つけたという。しかるに村の人たちがこの老人を探しあるいた時には、鯖さば食った伊右衛門やいと、口々に唱えたという話だが、これはいつでもそういう習わしで、神様ことに天狗は最も鯖が嫌いだから、こういえば必ず隠した者を出すものと信じていたのである(立山徳治君談)。琉球で物迷ものまよいと名づけて物に隠された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼どらを叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯あかまめまいを食えよと大きな声で呼びまわるという。よく似た話だがこれも神霊がこれを悪にくむのか否かは分らぬ。内地の小豆飯はむしろこの類の神の好むところと考えられている。鯖という魚の信仰上の地位は、詳つまびらかに調べてみる必要があるのだが、今までは誰も手をつけていなかった。

 不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者も甚だわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駆落ちまたは出奔しゅっぽんと認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんといずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉などを掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛きまぐれな家出をする世の中になっても、なおその中には正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡こんせきとも解しえられぬことはない。

『西播怪談実記せいばんかいだんじっき』という本に、揖保いぼ郡新宮しんぐう村の民七兵衛、山に薪まき採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲みしが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛が戻ったぞと大声に呼ばわる。人々悦よろこび近所一同山へ走り行くに、麓ふもとに行きつくころまではその声がしたが、登ってみると早はや何処どこにもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくる途みちで、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聞くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山へきて呼ばわらぬと、人はやはり駆落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。

『九桂草堂随筆きゅうけいそうどうずいひつ』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘ひろせきょくそう先生の実験である。「我郷わがさと(豊後日田ひた郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼なきて止やまず。戸外に追出す。其傍そのかたわらに山あり。声稍※(二の字点、1-2-22)やや遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終ついに行方知れず。後のち十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越あずさごえと云ふ峯を過ぐるに、麓ふもとより怪しき長たけ七八尺ばかり、満身に毛生じたる物上のぼり来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺しびれて動かず。其物近づきて人語を為し、汝なんじいづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の児こ失せたることを聞きたりやと謂いふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕つかふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐ふところより橡実とちのみにて製したる餅様もちようの物を出し、我父母存命ならば、是これを届けてたまはれと謂ふ。何いずれの地に行きたまふかと問ふに、此これより椎葉山しいばやまに向ふなりと言ひて別れ、それより路みち無き断崖に登るを見るに、その捷はやきこと鳥の如しといふ。話は余よ少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」

一四 ことに若き女のしばしば隠されしこと

 女の神隠しにはことに不思議が多かった。これは岩手県の盛岡でかつて按摩あんまから聴いた話であるが今からもう三十年も前の出来事であった。この市に住んで醤油の行商をしていた男、留守の家には女房が一人で、或る日の火ともしごろに表おもての戸をあけてこの女が外に出て立っている。ああ悪い時刻に出ているなと、近所の人たちは思ったそうだが、果してその晩からいなくなった。亭主は気ちがいのようになって商売も打棄うちすてて置いてそちこちと捜しまわった。もしやと思って岩手山の中腹の網張あみはり温泉に出かけてその辺を尋ねていると、とうとう一度だけ姿を見せたそうである。やはり時刻はもう暮近くに、なにげなしに外を見たところが、宿からわずか隔たった山の根笹ねざさの中に、腰より上を出して立っていた。すぐに飛びだして近づき捕えようとしたが、見えていながらだんだんに遠くなり、笹原づたいに峯の方へ影を没してしまったという。

 またこれも同じ山の麓の雫石しずくいしという村にはこんな話もあった。相応な農家で娘を嫁に遣やる日、飾り馬の上に花嫁を乗せて置いて、ほんのすこしの時間手間取てまどっていたら、もう馬ばかりで娘はいなかった。方々探しぬいていかにしても見当らぬとなってからまた数箇月ものちの冬の晩に、近くの在所の辻つじの商あきない屋やに、五六人の者が寄合って夜話よばなしをしている最中、からりとくぐり戸を開けて酒を買いにきた女が、よく見るとあの娘であった。村の人たちは甚だしく動顛どうてんしたときは、まず口を切る勇気を失うもので、ぐずぐずとしているうちに酒を量らせて勘定をすまし、さっさと出て行ってしまった。それというので寸刻も間を置かず、すぐに跡から飛びだして左右をみたが、もうどこにも姿は見えなかった。多分は軒の上に誰かがいて、女が外へ出るや否や、ただちに空の方へ引張り上げたものだろうと、解釈せられていたということである。

 単なる偶然からこの地方の話を、自分はまだいくつとなく聴いて記憶している。それが特に他の府県に比べて、例が多いということを意味せぬのはもちろんである。同県上閉伊郡の鱒沢ますざわという村で、これも近世の事らしいからもっと詳しく知っている人があろうが、或る農家の娘物に隠されて永く求むれども見えず、今は死んだ者とあきらめていると、ふと或る日田の掛稲かけいねの陰に、この女のきて立っているのをみた人があった。その時はしかしもうよほど気が荒くなっていて、普通の少女のようではなかった。そうしてまたたちまち走り去って、ついに再び還ってこなかったといっている。『遠野物語』の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸さむとというところの民家で、若い娘が梨なしの樹の下に草履を脱いで置いたまま、行方知れずになったことがあった。三十何年を過ぎて或る時親類知音の者が其処に集まっているところへ、きわめて老いさらぼうてその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと尋ねると、あまりみんなに逢いたかったから一寸ちょっときた。それではまた行くといって、たちまちいずれへか走り去ってしまった。その日はひどい風の吹く日であったということで、遠野一郷の人々は、今でも風の騒がしい秋の日になると、きょうは寒戸の婆ばばの還ってきそうな日だといったとある。

 これと全然似た言い伝えは、また三戸さんのへ郡の櫛引くしびき村にもあった。以前は大風の吹く日には、きょうは伝三郎どうの娘がくるべと、人がことわざのようにしていっていたそうだから、たとえば史実であってももう年数が経過し、昔話の部類に入ろうとしているのである。風吹かぜふきということが一つの様式を備えているうえに、家に一族の集まっていたというのは、祭か法事の場合であったろうが、それへ来合きあわせたとあるからには、すでに幾分の霊の力を認めていたのである。釜石地方の名家板沢氏などでは、これに近い旧伝があって毎年日を定め、昔行き隠れた女性が、何ぴとの眼にも触れることなしに、還ってくるように信じていた。盥たらいに水を入れて表おもての口に出し、新しい草履を揃えて置くと、いつのまにかその草履も板縁いたべりも、濡れているなどと噂せられた。この家のは娘でなくて、近く迎えた嫁女であった。精密な記憶が家に伝わっており、いつのころよりか不滅院量外保寿大姉という戒名かいみょうをつけて祀まつっていた。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究したうえでなければ断定も下されぬが、恐らくはこれが神隠しに対する、一つ昔の我々の態度であって、かりにただ一人の愛娘まなむすめなどを失うた淋しさは忍びがたくとも、同時にこれによって家の貴とうとさ、血の清さを証明しえたのみならず、さらにまた眷属けんぞく郷党きょうとうの信仰を、統一することができたものではないかと思う。

 伊豆では今の田方たがた郡田中村大字宗光寺の百姓惣兵衛そうべえが娘はつ十七歳、今から二百十余年前の宝永ごろに、突然家出をして行方不明であった。はつの母親が没して三十三回忌の日、還ってきて家の前に立っていた。近所の者が見つけて声をかけると、答えもせずして走りだしまたいずれかへ往ってしまった。その後も天城山に薪まきを樵きこり、又は宮木を曳ひきなどに入った者がおりおりこの女を見かけることがあった。いつも十七八の顔形で、身には木の葉などを綴つづり合わせた珍しい衣服を纏まとうていた。言葉をかけると答えもなく、ただちに遁にげ去るを常としたと『槃遊余録はんゆうよろく』の第三編、寛政四年の紀行のうちに見えている。甲州では逸見へんみ筋浅尾村の孫左衛門を始めとし、金御岳かねのみたけに入って仙人となったという者少なからず、東河内領の三沢村にも、薬を常磐山に採って還かえらなかった医者がある。今も時としてその姿を幽谷の間に見る者があって、土人は一様にこれを山男と名づけているが、その出身の村なり家なりでは、永ながくその前後の事情を語り伝えて、むしろ因縁の空むなしからざることを感じていたようでもあった。

一五 生きているかと思う場合多かりしこと

 少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、これが本人ただ一人の心の迷まよいから出たものと解してしまうことが昔はできなかった。一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って行き、また多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然である。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつてそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない。問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖いふに基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。

 しかも自分たちの見るところをもってすれば、右の問題の分堺線ぶんかいせんとても、時代の移るにつれて始終一定していたわけでもないようである。例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁ひんぱんに風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁ろうべん僧正のように、鷲わしに取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀まれには命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。

 鎌倉期の初頭あたりを一つの堺さかいとして、その鬼がまた天狗にその地位を委譲したのは、東国武士の実力増加、都鄙とひ盛衰の事情を考え合わせても、そこでなんらかの時勢の変化を暗示するものがあるように思う。その天狗の属性とてもゆくゆく著しく変遷して、もとより今をもって古いにしえを推すことはできぬが、鬼の方にもやはり地方的に、または時代に相応した特色ともいうべきものがあったらしいのである。例えば在原業平ありわらのなりひらの悠遊ゆうゆうしていたころには、鬼おに一口ひとくちに喰くいてんけりといったが、大江山の酒顛童子しゅてんどうじに至っては、都に出でて多くの美女を捕え来り酌しゃくをさせて酒を飲むような習癖があったもののごとく、想像せしめた場合もないではなかった。天狗ばかりは僧形であっただけに、感心に女には手を掛けないようだと話がきまると人は別にまた山賊さんぞくの頭領という類の兇漢きょうかんを描き出して、とにかくにこの頻々ひんぴんたる人間失踪しっそうの不思議を、説明せずにはおられないようであった。しかも実際は小説・御伽草子おとぎぞうし・絵巻物えまきもの以上に的確に真相を突留つきとめることは、求めたからとてできることではなかった。

 別離を悲しむ人々の情からいえば、いかなる場合にもまだどこかの谷陰たにかげに、活いきて時節を待っているものと、想像してみずにはいられなかったでもあろうが、単にそのような慾目よくめからでなくとも、現実に久しい歳月を過ぎてのち、ひょっこりと還ってきた先例もあれば、またたしかに出逢であったという人の話を、聞きだした場合も多かったのである。単に深山に女の姿を見たというだけの噂ならば、その他にもまだいろいろと語り伝えられていた。たとえそれがわが里でいなくなった者とは何の関係もなく全然見ず知らずの別の土地の事件であっても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞せきばくたる別世界にも、なお何か人間の活きて行く道があるらしいという推測は、どのくらい神隠しの子の親たちの心を、慰めていたかわからぬので、それがまた転じてはこの不思議の永く行われ、気の狂うた者の自然に山に向う原因ともなったのは、是非もない次第であった。

 かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘ひろく求めてみればみるほど輪廓りんかくは次第に茫漠ぼうばくとなるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。例えば天狗とは一体どんなものかと聞いてみるとき、今日誰しも答えるのは鼻のむやみに高いことであるが、これとても狩野古方眼かのうこほうげんが始めて夢想したという説もあって、中古には緋ひの衣ころもに羽団扇はうちわなどを持った鼻高様はなたかさまは想像することができなかったのである。そのうえに何々坊の輩下はいかという天狗だけは、口が嘴くちばしになり鼻は穴だけがその左右についている。同じ一類で一方は人のごとく、他方は翼があって鳥に手足を加えたもののごとくなることは、ほとんとありえざる話であるが、人は単に変形自在をもってこれを説明して、しからば本来の面目めんもく如何いかんという点を、考えずに済ましていたのである。それなら実際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかというと、中世の天狗はふらりときて人に憑つくこと野狐のごとく、或いは左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキのごとくであったが、今は絶えてその類の非難を伝えない。或いは智弁学問ある法師の増上慢ぞうじょうまんが、しばしば生きながら天狗道に身を落さしめたという話もある。平田先生などは特にこの点ばかり、仏者の言を承認しようとしているが、これさえ近世の天狗はもう忘れたもののごとく、むしろしばしば人間の慢心を懲こらし戒めたという実例さえあって、自慢を天狗という昔からの諺ことわざも、もはや根拠のないものになろうとしている。それというのが時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変っていたからである。書物はこういう場合にはたいていはむしろ混乱の種であった。学者ばかりがひとりで土地の人々の知らぬことを、考えていた例は多かった。なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪きっかいはずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。日本で物を買うような理窟りくつには行かなかったのである。天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人おおひと・山人ともいって、山男と同一視するところもある。そうして必ずしも兜巾ときん篠懸すずかけの山伏姿やまぶしすがたでなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍てらざむらい・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵みじんもなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨みだりに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎おんしゅうともに常人の意表に出でた故に、畏おそれ崇あがめられていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった。名称のどこまでも借り物であって、我々の精神生活のこれに左右せられた部分の存外に小さかったことは、これからだけでも推論してよいのである。山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚さとって、遁にげようと思っているななどといいあてるので、怖おそろしくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋おけやとか杉の皮を剥さく者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣やってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾はじかれたなどと語っている。その土地次第でこういっても通用したのである。オニなども今では角つのあって虎とらの皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者もうじゃをさいなむ者のごとく、解するのが普通になったらしいが、その古来の表現は誠に千変万化でまた若干はこれに充あてたる漢語の鬼の字によって、世上の解説を混乱せしめている。しかも諸国の山中に保存せられた彼らの遺跡、ないしは多くの伝説によって考えると、少なくとも或る時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄していたこともあるのである。いずれにしても我々の畏怖には現実の基礎があった。単に輸入の名称によって、空に想像し始めたものではなかったのである。

 不在者の生死ということは非常に大きな問題であった。どうせいないのは同じだと、言ってすませるわけには行かなかった。生者と死者とでは、これに対する血縁の人々の仕向しむけが、正反対に異ならねばならなかったからである。生きている者の救済も必要ではあるがこれは徐おもむろに時節を待っていることもできる。これに反して死者は魂が自由になって、もう家の近くに戻ってきているかも知れぬ。処理せられぬ亡魂ほど危険なものはなかった。或いは淋しさのあまりに親族故旧を誘うこともあり、または人知れぬ腹立ちのために、あばれまわることもしばしばあった。その予防の手段は仏教以前から、いろいろ綿密に講究せられていたのである。しこうしてその手段は通例甚だ煩わずらわしい。かつ誤まって生者のためにこれを行うときは、その害もまた小さくなかった。故に単なる愛惜の情からでなくとも、一日も早くなんらかの兆候を求めて隠れてもなお生存していることを確めておく必要があったのである。アンデルセンが「月の物語」の初章に、深夜に谷川に降くだって燈ともしびを水に流し、思う男の安否を卜ぼくせんとしたインドの少女が「活いきている」と悦よろこんで叫んだ光景が叙のべてある。普通は生死を軽く考える東洋人が、この際ばかり特に執着の切せつなる情を表わす理由は、全く死に伴うた厳重の方式があったためで、旅の別れの哀れな歌にも、かつはこの心元こころもとなさがまじっていたのである。夢というものの疎おろそかにせられなかった原因もここにある。互いに見よう見えようという約束が、言わず語らずに結ばれていたのである。それが頼みにしにくくなってのち、書置かきおきという風習が次第に行われた。神隠しだけはこういう一切の予定を裏切って、突如として茫漠ぼうばくの中に入ってしまうのだが、しかも前後の事情と代々の経験とによって、一応はやや幸福の方の推測を下すことが、存外にむつかしくなかったらしいのである。

一六 深山の婚姻のこと

 昔話の中にもおりおり同じ例を伝えているために、かえって信じうる人が少なかろうかと思うがこれはすでに十七八年も以前に筆記しておいた陸中南部の出来事であってこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じっと考えて見ようと思うのである。或る村の農家の娘、栗を拾いに山に入ったまま還かえって来ず、親はもう死んだ者とあきらめて、枕まくらを形代かたしろに葬送をすませてしまって、また二三年も過ぎてからの事であった。村の猟人かりうどの某という者が、五葉山ごようざんの中腹の大きな岩の陰において、この女に行逢ゆきあって互いに喫驚びっくりしたという話である。

 あの日に山で怖ろしい人にさらわれ、今はこんなところにきて一緒に住んでいる。遁にげて還ろうにも少しも隙すきがない。そういううちにもここへくるかも知れぬ。どんなことをするか分らぬというので碌ろくに話も聞かずに早々に立退たちのいてしまったということである。その男というのは全体どんな人かと猟人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のように見えるが、人はどう思うやらわからぬ。ただ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じような人が四五人も寄り集まって、何事か話をしてまたいずれへか出て行く。食べ物なども外から持って還るのをみると、町へも買物に行くのかも知れぬ。また子どもはもうなんべんか産んだけれども、似ていないから俺おれの児ではないといって、殺すのか棄すてるのか、みないずれへか持って行ってしまったと、その女が語ったそうである。

 山が同じく五葉山であるから、一つの話ではないかとも思うが或いはまた次のように話す者もあった。女は猟人に向かって、お前とこうして話しているところを、もしか見られると大変だから、早く還ってくれといったが、出逢であってみた以上は連れて還らねばすまぬと、強しいて手を取って山を下り、ようやく人里ひとざとに近くなったと思うころに、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んできて、女を奪い返して山の中へ走り込んだともいっている。維新前後の出来事であったらしく、まだその娘の男親だけは、生存しているといって、家の名まで語ったそうである(佐々木君報)。これだけ込入こみいったかつ筋の通った事件は、一人の猟人の作為に出たと思われぬはもちろん、よもや突然の幻覚ではなかろうと思うが、それを確認させるだけの証拠も、残念ながらもう存在せぬのである。ただ少なくとも陸中五葉山の麓ふもとの村里には、今でもこれを聴いて寸毫すんごうも疑い能あたわざる人々が、住んでいることだけは事実である。そうして彼らがほぼ前の話を忘れようとするころになると、また新たに少し似たような話が、どこからともなく伝わってくることに、これまではほとんときまっていたのである。

 右の珍しい実例の中でことに自分たちが大切な点と考えるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかっていたということと、その奇怪な家庭における男の嫉妬しっとが、極端に強烈なものであって、わが子をさえ信じえなかったほどの不安を与えていたこととである。すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも漠然ばくぜんたる空夢ではなかったろう。誤ったにもせよなんらかの実験、なんらかの推理のあらかじめ素地そじをなしたものが、必ずあったはずと思う。現代人の物を信ぜざる権利は、決してこれによって根強い全民衆の迷信を、無視しうるまでの力あるものではないのである。

 かつて三河の宝飯ほい郡の某村で、狸たぬきが一人の若者に憑ついたことがあった。狐などよりは口軽く、むやみにいろいろのことをしゃべるのが、この獣の特性とせられているが、この時も問わず語りにおれはこの村の誰という女を、山へ連れて往って女房にしているといった。でたらめかとは思ったが、実際ちょうどその女がいなくなって、しきりに捜している際であった故に、根ほり葉ほりして隠しておくという場処を問いただし、もしやというので山の中を捜して見ると果して岩穴の奥とかにその娘がいたということである。還ってきてから本人が、どういう風に顛末てんまつを語ったか。この話をしてくれた人も聞いてはおらず、また強いて詳しくその点を究めるまでもないか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻のごとく解する習わしは弘く行なわれていうので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、ことに学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入むこいりの昔話は、前にすでに大要を叙のべておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式のもののほかに、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。竜蛇の婚姻に至っては末遂すえとげて再び還らなかったという例がことに多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何ぴともこれを愛好する。齢よわい盛さかりにして忽然こつぜんと身を隠したとすれば、人に非あらずんば何か他の物が、これを求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、目もくするに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、いわゆるビートス・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかのごとく、説かんとすることは速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにもまだないのだが、ただ注意してもよいことは日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、またしばしば新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていたことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島みやけじまなどには山に住む馬の神がみいったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏つきまとい、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向わねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴きえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうしていかにも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並おしならべて、空想豊かなる好事家こうずかが、勝手な尾鰭おひれを附添つきそえたかのごとく解することは、少なくとも私が集めてみたいくつかの旁証ぼうしょうが、断じてこれを許さないのである。

一七 鬼の子の里にも産まれしこと

 母は往々にして不当に疑われた。似ておらぬからわが子でないという単純に失した推断は必ずしも独ひとり五葉山中の山人のみの専売でもなかったのである。至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺りげんは、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書うらがきするような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。

「日本はおろかなる風俗ありて、歯の生はえたる子を生みて、鬼の子と謂いひて殺しぬ」と、『徒然慰草つれづれなぐさみぐさ』の巻三には記してある。江戸時代初め頃の人の著述である。なおそれよりも遙かに古く、『東山往来』という書物の消息文の中にも、家の女中が歯の生えた児を生んだ。これ鬼なり山野に埋うずむるにしかずと近隣の者が勧すすめるが、いかがしたものだろうかという相談に答えて、坊主にするのが一番よろしかろうといっている。すなわち以前は相応に頻々ひんぴんと、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。

 けだし人はとうてい凡庸を愛せずにはおられなかった者であろうか。前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞きずいでも承認しておりながら、事こと一ひとたび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫すんごうも異常を容赦することができなかった。近世に入ってからも、稀まれには歯が生えて産れるほどの異相の子を儲もうけると、たいていは動顛どうてんして即座にこれを殺し、これによって酒顛童子しゅてんどうじ・茨木童子いばらきどうじの如き悪業の根を絶った代りには、一方にはまた道場法師や武蔵坊弁慶の如き、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。これ恐らくは天下太平の世の一弱点であったろう。

 しかも胎内変化の生理学には、今日なお説き明かしえない神秘の法則でもあるのか。このような奇怪な現象にも、やはり時代と地方とによって、一種の流行のごときものがあった。詳しく言うならば、鬼を怖れた社会には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒していると天狗が子供を奪うのと同様に、牙きばありまた角つのある赤ん坊の最も数多く生まれたのは、いわゆる魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福までが、時あって彼らによって左右せられるかのごとく、気遣きづかっていた人々の部落の中であった。

 鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子ししが谷たにという村の話が、『奇異雑談集きいぞうだんしゅう』の中に詳しく報ぜられている。『玄同放言げんどうほうげん』三巻下には全文を引用しているが、記事にはあやふやな部分がちっともなく、少なくとも至って精確なる噂の聞書ききがきである。その大要のみを挙げると、この家の女房三度まで異物を分娩ぶんべんし四番目に産んだのがこの鬼子であった。生まれ落ちたとき大きさ三歳子のごとく、やがてそこらを走りあるく故に、父追いかけて取りすくめ膝ひざの下に押しつけてみれば、色赤きこと朱しゅのごとく、両眼の他に額ひたいになお一つの目あり、口広く耳に及び、上に歯二つ下に歯二つ生えていた。父嫡子ちゃくしをよびて横槌よこづちを持ってこいというと、鬼子これを聞いて父が手に咬かみつくのを、その槌をもって頻しきりに打って殺してしまった。人集まりてこれを見ること限りなしとある。その死骸しがいは西の大路真如堂おおじしんにょどうの南、山際の崖がけの下に深く埋めた。ところがその翌日田舎の者が三人、梯子はしごをかたげてこの下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土竜鼠むぐらもちがいるといって朸おうこのさきで突いて見ると、ひょっくりとその鬼子が出た。三人大いに驚いてこれは聞き及んだ獅子が谷の鬼子だ。ただ早く殺すがよいと、朸を揮ふるうて頻に打ち、ついにこれを叩き殺した。それを惨酷ざんこくな話だが、繩をつけて京の町まで曳ひいてくると途中多くの石に当ったけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。この事常楽時の栖安軒琳公せいあんけんりんこう幼少喝食かつしきの時、崖の下にて打ち殺すをまのあたり見たりといえりとあって、事件の当時から約九十年後の記述である。

 何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮さつりくせねばならなかったかは、じつは必ずしも明瞭ではない。家の外聞とか恥とかいうのも条理に合わなかった。殺してこれを清める望みはなかったのみならず、匿かくし終おせた場合さえ少なかった。しからば活いかして置いて何が悪いかと尋ねてみると、これまた格別のことはなかったのである。兇暴きょうぼう無類の評ある大江山の酒顛童子、その子分か義兄弟のごとく考えられた茨木童子なども、単に今まで見ず知らずの他人に対して残忍であったというのみで、翻ひるがえってその家庭生活を検すれば、思いのほかなるものがあった。『越後名寄えちごなよせ』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚いさこづか、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅の址あとがあった。附近の和納わのうという村にも後に引越してきたといって今なお榎の老木ある童子屋敷、下名さげなを童子田どうじたと呼ぶ水田もあった。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であった。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隠山九頭竜権現くずりゅうごんげんの申し児であって、母の胎内に十六箇月いたというだけが、親に迷惑をかけたといえばかけたのである。和納の楞厳寺りょうごんじで文字を習い、国上くがみの寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。茨木童子の故郷も摂津にある方が正しいのかも知れぬが、これまた越後にも一箇処あって、今の古志こし郡荷頃にごろ村大字軽井沢、茨木善次右衛門はその生家と称し、連綿として若干の記憶を伝えていた。例えば家の背後に童子が栖すんだという岩屋、それは崩れてその跡に清き泉湧わき、流の末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念ではなかったのである。

 摂州川辺かわべ郡東富松の部落においては、すでに茨木童子の家筋いえすじは絶えたかわりに、更に一段と心を動かすべき物語が残っていた。『摂陽群談せつようぐんだん』巻十に曰う。童子生まれながらにして牙生い髪長く、眼に光あって強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖いふしてこれを茨木の辺に棄すてたところ、丹波千丈岳せんじょうがだけの強盗酒顛童子拾い還りて養育して賊徒となす云々。しかも両親がのちに病に罹かかって同じ枕に寝ているのを、術をもって遙かにこれを知り、心配をして見舞に還ってきたというのは、やはり松崎の寒戸さむとの婆などの例であろう。ただいまは京都に留まって、東寺の辺に安住している。人に怖ろしい姿を見せぬように、急いで還ろうと飛んで往ったという田圃路たんぼみちに、安東寺の字名あざななどが残っており、その時親が悦よろこんで団子だんごを食わせた記念として、毎年同じ日に村では団子祭をするといっている。

 戦いがなくなり国中が統一してしまうまでは、こういう義理固い無茶者は、求めても養って置く必要が時としてはあった。いわば百姓の家に生まれたのが損だったのである。肥後の川上彦斎かわかみげんさいの伝を見てもそう思うが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衛などについてはことにその感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生まれていたら、彼は大名になったかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話というのは、『慶長見聞集けいちょうけんもんしゅう』巻六に出ている。「武州大鳥といふ在所に利生りしょうあらたかなる十王まします。母にて候そうろふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠こもり、満ずる暁あかつきに霊夢の告つげあり、懐胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄こつがらたくましく面の色赤く、向ふ歯あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是これを見て悪鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし処に、母之これを見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細しさいあり、是は十王への申し児なれば、其そのしるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へり」とある。祈る仏も多くあった中に、特に閻魔えんまに児を申したというのは、別に近代の母親の相続せざる、一種戦国時代相応の理想があったためかと思う。そうではないまでも大王が事を好み、余計な迷惑を信徒に与えんとしたのでないことだけは、一般にこれを認めていたように見えるが、しかもそれは京都とその附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺ぼくさつした時代よりも、またずっと後年の田舎の事であった。
 内田邦彦くにひこ君の『南総之俚俗なんそうのりぞく』の中に、東上総ひがしかずさの本納ほんのう辺の慣習として、鬼子が生まれると歳神様としがみさまへ上げた棒で叩たたくとある。これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな餅もちを搗ついてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。鬼子というのは多分歯が生えて産れる子のことであろうが単に殺すことを許されぬ故にこんな方法をのちに代用したものとみても、なお歳神の棒ということには、考え出さねばならぬ深い意味がある。或いは本来はこのうえもない立派な児であるけれども凡人の家にとっては善過よすぎるために、その統御を神に委ねるの意味ではなかったか。いずれにもせよ後世の民家で、怖れて殺したほどの異常なる特徴は、同時にまた上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り伝えたものと一致し、さらに常理をもって判断しても、それがことごとく昔の個人生活の長処ばかりであったことを考えると、野蛮な風習だから大昔からあったろうと、手軽に推断することもできぬようである。人間の畸形きけいにも不具と出来過ぎとが確かにある。大男も片輪かたわのうちに算かぞえるのは、いわゆる鎖国時代の平民の哀れな遠慮であろう。蝦夷のシャグシャインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦あかぶさほんがわらや与那国よなくにの鬼虎おにとらのごとき、容貌魁偉かいいなる者は多くは終りを全まっとうしなかった。それを案じて家にこのような者の生まれるを忌んだのはおそらくは新国家主義の犠牲であった。部曲が対立して争闘してやまなかった時代には、いわゆる鬼の子はすなわち神の子で、それ故にこそ今も諸国の古塚を発あばくと、往々にして無名の八掬脛やつかはぎや長髄彦ながすねひこの骨が現れ、もしくは現れたと語り伝えて尊信しているのである。

 沖繩の『遺老説伝いろうせつでん』には次のような話がある。「昔宮古島川満かわまの邑むらに、天仁屋大司あめにやおおつかさといふ天の神女、邑むらの東隅なる宮森に来り寓ぐうし、遂ついに目利真按司めりまあんじに嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤児を養ふに、第三女真嘉那志さかなし十三歳、忽たちまち懐胎して十三月にして一男を坐下ざかす。頭には双角そうかくを生じ眼は環たまきを懸かくるが如く、手足は鷹たかの足に似たり。容貌ようぼう人の形に非あらず。故に之を名づけて目利真角嘉和良めりまつのかわらと謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母真嘉那志に相随あいしたがひて、倶ともに白雲に乗りて天に升のぼる。後年屡※(二の字点、1-2-22)しばしば目利真山に出現して、霊験を示す。邑人むらびと尊信して神岳と為なす」と。ツカサは巫女を意味しまた多くは神の名であった。カワラは沖繩の按司あんじと同じく、また頭目とうもくのことである。先島の神人には角を名につくものが他にもある。すなわち神の子であり、のちまた神に隠されたる公けの記録が、かの島だけにはこれほど儼然げんぜんとして伝わっているのである。殺すということは少なくとも、古代一般の風習ではなかった。

一八 学問はいまだこの不思議を解釈しえざること

 嘘かとは思うが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に、愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣やる。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。活かして置くのは家の名折れとは思ったが、いつまでも産れないでは困る故に、皆で騙だまして決して殺さぬという約束をした。そうして待構えていて茣蓙ござで押えて殺してしまった。角の長さが二寸ばかり、秘密にしていたのを遠縁の親類の女が知って、ついにこの話の話し手にしゃべったのが私にも聴えた。ただしどうしてまたそのような怖ろしい物を孕はらんだかは、今に至るまで不明であるが、この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥やまうばのオツクネという物を拾い、それから物持ものもちになったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。

 また大隅海上の屋久島やくのしまは、九州第一の高峯を擁して、山の力の今なお最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、『三国名勝図会さんごくめいしょうずえ』には記している。「山中に入りたる時頻しきりに睡眠を催し、異人を夢みることあれば必ず娠はらむ。産は常の如くにしてたゞ終りて後のち神気快からずと雖いえども死ぬやうなことは決して無い。生れた児は必ず歯を生じ且つ善よく走る。仍よって鬼子とは謂いふ也」とある。かくのごとき場合には、柳の枝をその児の口にくわえさせて、これを樹の枝に引懸ひっかけて置くと、一夜を過ぐれば必ず失せてなくなるといっていた。普通の赤ん坊ならば無論活きているはずはないのだが、島の人々は或いは父方に引き取って、養育しているもののごとく考えていたものらしい。前後の状況は甚だしく相違するが、とにかくにこれも一種の神隠しではあった。

 日向南部の米良山めらやまの中にも、入って働いている女の不時に睡ねむくなるというところがあった。そういう際にはよく姙娠することがあって、これを蛇の所業のごとく信ずる者もあったという。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨わらびを採りに往ってその事があったので、もしや蛇の子ではないかと思って、産をしてしまうまで一通りならぬ心痛をしたそうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或いは玄鳥の卵を呑のんで感じて身ごもることありと記したのも、多分はこういう事情を意味したものであろう。気高い若人が夜深く訪ねてきたという類の話にも、最初に渓川たにがわの流に物を洗いに降りて、美しい丹塗にぬりの箭やが川上から泛うかんできたのを、拾うて還って床の側かたわらに立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって、母となる予告のごとく解していた、昔の人の心持が察せられる。ただ村民の信仰がおいおいに荒すさんできてこういう奇瑞の示された場合にも、怖畏ふいの情ばかり独ひとり盛んで、とかくに生まれる子を粗末にした。大和の三輪みわの神話と豊後の尾形氏の古伝とは、或いはその系統を一にするかとの説あるにもかかわらず、後者においては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟がんくつの底に潜んで永く再び出でなかった。その他の地方の多くの類例に至っては、銕かねの針に傷きずつけられて命終るといい、普通には穴の口に近よって人が立聴きするとも知らず蓬よもぎと菖蒲しょうぶの葉の秘密を漏した話などになっており、嫗岳うばたけの大太童だいだわらわのごとく子孫が大いに栄えたという場合は、今ではこれを見出すことがやや難くなっているのである。『作陽志さくようし』には美作みまさか苫田とまだ郡越畑こしはたの大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚こうこつとして一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。のちに孕はらんで産むところの子、両牙長く生おい尾角ともに備わり、儼げんとして牛鬼のごとくであったので父母怒ってこれを殺し、銕の串くしに刺して路傍に暴さらした。これ村野の人後患を厭えんするの法なり云々とあって、昔はさしも大切に事つかえた地方の神が、次第に軽ぜられのちついに絶縁して、いつとなく妖怪変化ようかいへんげの類に混じた経路を語っている。そうしていずれの場合にも、銕という金属が常に強大な破壊力であった。屋久島などでもことに鍛冶かじの家が尊敬せられ、不思議な懐胎には必ず銕滓かなくそを貰もらってきて、柳の葉とともに合せ煎せんじて飲むことになっていたそうである。

 山に入って山姥のオツクネなるものを拾った故に、物持にもなったかわり鬼子も生まれたという話には更に一段と豊富なる暗示を含んでいるらしい。山姥はなるほど多くの神童の母であり、同時にまた珍しい福分ふくわけの主ぬしでもあったことは、次々にもなお述べるように、諸国の昔からの話の種であったが、特に常人の女性に角ある児を産ましめるために、彼女が干渉すべき必要はなかったはずである。察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍かたわらの怪物の話である。支那で姑獲こかくと呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨魂えんこんが化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。すなわちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽かいきんの話を別にして考えると、ウブメは必ず深夜に道の畔あぜに出現し赤子あかごを抱いてくれといって通行人を呼び留める。喫驚びっくりして逃げてくるようでは話にならぬが、幸いに勇士等が承諾してこれを抱き取ると、だんだんと重くなってしまいには腕が抜けそうになる。その昔話はこれから先が二つの様式に分かれ、よく見ると石地蔵であった石であったというのと、抱き手が名僧でありウブメは幽霊であって、念仏または題目の力で苦艱くかんを済すくってやったというのとあるが、いずれにしても満足に依託いたくを果した場合には、非常に礼を言って十分な報謝をしたことになっている。仏道の縁起に利用せられない方では、ウブメの礼物は黄金の袋であり、または取れども尽きぬ宝であった。時としてその代りに五十人百人力の力量を授けられたという例も多かったことが、佐々木君の『東奥異聞とうおういぶん』などには見えている。『今昔物語』以来の多くの実例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に気紛きまぐれであった。或る者はこれに逢うて命を危くし、或る者はその因縁から幸運を捉とらえたことになっている。後世の宗教観から見るときは甚だ不安であるためにだんだんと畏怖の情を加えたのだが、神に選択があり人の運に前定があったと信じた時代には、これもまた祷いのるに足りた貴き霊であったに相違ない。つまりは児を授けられるというのは優れた児を得るを意味し、申し児というのは子のない親ばかりの願いではなかったのである。そうして山姥のごとき境遇に入ってでも、なお金太郎のごとき子を欲しがった社会が、かつて古い時代には確かにあったことを、今はすでに人が忘れているのである。

一九 山の神を女性とする例多きこと

 人の女房を山の神という理由としては、いろはの中ではヤマの上かみがオクだからなどと馬鹿げた説明はすでに多い。或いは里神楽さとかぐらの山の神の舞に、杓子しゃくしを手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや循環論法じゅんかんろんぽうの嫌きらいがある。何の故に山の神たる者がかくのごとく、人間の家刀自いえとじの必ず持つべきものを、手草たぐさにとって舞うことにはなったのか。それがまず決すべき問題だといわねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であって、最も敬虔けいけんに山神に奉仕する者が、これを製して平野に持ち下る習いではあったが、ただそれのみでは神自らこれを重んじ、また多くの社においてこれを信徒に頒与するまでの理由にはならぬ。岐阜県の或る地方では以前は山の神の産衣うぶぎぬと称して長さの六七尺もある一ひとつ身みの着物を献上する風があったというが、今はいかがであろうか。これに対しては子育ての守まもりとして、巨大なる山杓子を授けた社もあったという。越前湯尾ゆのお峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小児安全の祈祷きとうを含むものが多い。山と女性または山と産育というがごとき、一見して縁の遠そうな信仰が、かつてその間に介在しなかったならば、とうてい我々の家内の者に、そのようないかめしい綽名あだなを付与するの機会は生じなかったはずである。

 山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀まつり、禰宜ねぎ・神主かんぬしの沙汰さたはない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎いつくとすれば、すなわち神の名を大山祇命おおやまつみのみこと、もしくは木花開耶姫尊このはなさくやひめのみことといい、稀まれにはその御姉の岩長姫命とも称となえて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の習わしである。しかもこれは単に山神が或る地では男神であり、また他の地方では姫神であったことを語る以外に、いささかも信仰の元の形を、跡づけた名称ではないのである。公認せられない山神の久しい物語には、今はおおよそ忘れたからよいようなものの、なかなかに尊き大山祇の御名を累すべきものが多かった。木樵きこり・草苅くさかり・狩人かりうどの群が、解しかつ信じていた空想は粗野であった。それを片端かたはしから説き立てることは心苦しいが、わずかに山の神に産衣を奉納したという点だけを考えてみても、自分たちはこれを岩長姫の御姉妹に托することの、由よしなき物好ものごのみであったことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉しいばの大河内という部落に一泊して、宿主の家に伝えた秘伝の「狩之巻かりのまき」なるものを見せてもらったことがある。その一節の山神祭文猟直りょなおしの法というのは、大よそ次のごとき素朴なる神話であった。不明の文字があるから、むしろ全文を書留めて置く方がよいと思う。

一、そも/\山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来ほんちやくしにょらいにておはします。観世音菩薩かんぜおんぼさつの御弟子阿修羅王あしゅらおう、緊那羅王きんならおう、摩※羅王まこうらおう[#「月+侯」、U+26788、188-1]と申す仏は、日本の将軍に七代なりたまふ。天あまの浮橋うきはしの上にて、山の神千二百生れたまふ也。此この山の御神の母御名を一神いちがみの君きみと申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温あたためず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ゆきあひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝なんじが持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう/\勿体もったいなき御事おんこと也。此割子わりこと申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未満の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖そでの振合ふりあいにも、不浄の日をきらひ申す。全く以もって参らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の猟師に又行逢ひ、汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹うぶはらを温めず。山の割子を得さすべしと乞こひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫ぼんぷにては、産をしては早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢しとぎの物をきこしめせとてさゝげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞(開?)かせん。是より丑寅うしとらの方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合おちあいに、りう三つを得さすべし。猶なほ行末々ゆくすえずえたがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう。敬白けいはく。

 右の話が天つ神の新嘗にいなめの物忌ものいみの日に、富士と筑波と二処の神を訪れて、一方は宿を拒み他方はこれを許したという物語、巨旦将来こたんしょうらい・蘇民そみん将来の二人の兄弟が、款待かんたいの厚薄によって武塔むとう天神に賞罰せられた話、世降くだっては弘法大師が来って水を求めた時、悪い姥うばはこれを否いなんで罰せられ、善き姥は遠く汲んでその労を報いられたという口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人たれひともこれを認め得る。かりに山の神の母に托した物語が日向ばかりの発明であったとしてもその意味は深いと思った。しかるについ近ごろになって、佐々木君の『東奥異聞』には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口伝くでんとなって残っていたことを報告している。羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、一方は忌いみを怖おそれてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭かしらがただの女性でないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万治磐司ばんじばんじといい、磐司がひとり血の穢けがれを厭いとわず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。

 猟師は船方ふなかたなどとは違い、各自独立した故郷があって、互いに交通し混同する機会は決して多くない。それが奥州と九州の南端と、いつのころからかは知らぬがこれだけ類似した物語を伝えているのは必ず隠れた原因がなければならぬ。その原因を尋ね求めることは、今からではもうむつかしいであろうか否か。自分の知る限りにおいては、同じ古伝の破片かと思うものが、中部日本では上古以来の北国街道、近江から越前へ越える荒乳あらち山にもあった。『義経記』巻七に義経の一行が、この峠を越えなずんで路の傍に休んだ時、アラチという山の名の由来を、弁慶が説明したことになっている。今の人が聴けば興の覚さめるような話だが、加賀の白山しらやまの山の神女体こうのりゅうぐうの宮、志賀の辛崎からさき明神と御かたらいあって、懐姙すでにその月に近く、同じくはわが国に還って産をなされんとして、明神に扶たすけられてこの嶺を越えたもう折に、にわかに御催おんもよおしあって、山中において神子誕生なされた。荒血をこぼしたもうによって荒血山とはいうとある。『義経記』全篇の筋とは直接の交渉なき插話そうわだから、作者の新案とは考えられぬ。多分はこの書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられていた口碑かと思う。しかも猟人かりうどの神を援助した話は、ここではこれと結びついていた痕跡こんせきがない。二国に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行き逢いたもうということは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今なお土地の民はこれを語り伝えている。それと各地の道祖乢さえのたわの驚くべく粗野なる由来記とは、もちろんいずれが本もと、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあったので、従って深山の誕生というがごとき荒唐なる言い伝えも、成立ちうる余地は十分にあった。ただ記録以前にあっては話し手の空想がわずかずつ働いて、始終輪廓りんかくが固定しなかったというのみである。

 例えば浄瑠璃じょうるりの「十二段草子そうし」は、ほとんと『義経記』と同じころに今の形が整うたものかと思うのに同じ話がもう別様べつように語り伝えられ、志賀の辛崎からさき明神を志賀寺の上人すなわち八十三歳で貴女に恋慕したという珍しい老僧の後日譚ごじつだんにしてしまった。その時京極の御息所みやすどころは年十七、上人三たびその御手をとってわが胸に押し当てたので、すなわち懐胎なされたというのは、同じ近江国手孕村の古伝の混淆こんこうであるが、やはりまた荒乳の山中にして産の紐ひもを解きたもうといい、取上げたる若子わかごは面は六つ御手は十二ある異相の産児にして、ただちに都率天とそつてんに昇り住したまい、のちに越前敦賀つるがに降ってけいたい菩薩ぼさつと顕あらわれ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。もちろんこの通りの話が一度でも土地に行われていたわけではなく、単に愛発あらちの関が上古以来、北国往還の衝しょうにあったために、他の辺土に比べてはこの口碑が一層弘く、かつ一層不精確に流布るふしたことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が坂田公時さかたのきんときの母であり、これを山中に養育したという話が、特に相州足柄あしがらの山に属することになったのも、また全然同じ事情からであろうと思う。江戸時代中期の読み本として、『前太平記ぜんたいへいき』という書物が世に現れるまでは、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山でなかった。信州木曾の金時山きんときやまなどでは、現に金時母子の棲すんだという巌窟がんくつ、金時が産湯うぶゆをつかったという池の跡のほかに、麓の村々の石の上にはこの怪力童子の足跡なるものがいくらもあって(『小谷口碑集』)、むしろ山姥が自由自在に山また山を山巡やまめぐりするという、古い評判とも一致するのであるが、これを頼光四天王の一人に托するに至って、足柄ばかりが有名になったのみならず、前後ただ一度の奇瑞のごとく解せられて、かえって俗説の遠い由来を、尋ねる途みちが絶えようとするのである。

『臥雲日件録がうんにっけんろく』などを読んでみると、山姥が子を生むという話は少なくとも室町時代の、京都にもすでに行なわれていた。しかもおかしい事には一腹に三人の四人も、怖ろしい子を生むというのである。従ってそれが山神の産養いという類の猟人等が言い伝えと、元もとは果して一つであるか否かも、容易に決断することはできぬのだが、山姥の信仰が今ほど雑駁ざっぱくになった上はいたしかたのないことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留とどめている。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするそうでといっていた。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供をつれて時々はこの岩の上にきて、焚火たきびをしてあたらせるのを見たと称してこの名がある。遠州奥山郷の久良幾くらき山には、子生嵶こうみたわと名づくる岩石の地が明光寺の後の峯にあって、天徳年間に山姥ここに住し三児を長養したと伝説せられる。竜頭峯りゅうずほうの山の主ぬし竜筑房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祀られるのみか、しばしば深山の雪の上に足痕あしあとを留め、永く住民の畏敬を繋つないでいた。『遠江国風土記伝とおとうみのくにふどきでん』には平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐にきたと誌しるしてはあるが、のちに和談成って彼らの後裔こうえいもまた同じ神に仕えたことは、秋葉山住やまずみの近世の歴史から、これを窺うかがうことができるのである。

 山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつのころよりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現だいごんげんの管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、なんと本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬おいぬを迎えてきて、魔障盗賊ましょうとうぞくを退ける目的の外に出なかった。今こそ狼おおかみは山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうか、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束おぼつかない口碑の中などに、たどればこれを尋ね出すことができるわけである。山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族だけに対しては、産見舞さんみまいという慣習が近頃まであった。遠江・三河には限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場処があった。いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。ただし果して狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。津久井つくいの内郷うちごうなどでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎うさぎや雉子きじの類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、秩父ちちぶの三峯山みつみねさんでは今もって厳重の作法があって、これを御産立おこだての神事というそうである。『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属ごけんぞく子を産まんとする時は、必ず凄然せいぜんたる声を放って鳴く。心直すぐなる者のみこれを聴くことを得べし。これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎けっさい衣冠いかんして、御炊上おたきあげと称して小豆飯あずきめし三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。その地に注連しめを繞めぐらし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。

 しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるをえなかったことを意味するかと思う。狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を劫おびやかしたという話は西洋にも弘く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持の女房がにわかに産を催し、夫おっとが水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬かみ殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や厳いわおがあって、しばしば祟たたりを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。

 ただし実際この問題はむつかしくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって弘くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵かぎではなかったかということである。日向の椎葉山しいばやまの「猟人伝書かりうどでんしょ」に、山神の御母の名を一神の君と記しまたは安芸と石見を境する亀尾山の峠において、御子を生みたもうと伝うる神が、市杵島姫命いちきしまひめのみことであったというのも、自分にとっては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女みこなどとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子とともにあるときは、その子の名を小市こいちともまた市太郎とも伝えていた。代を重ねて神を代表する任務を掌つかさどっているうちに、次第にわが始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さえあったのは、言わば日本の固有宗教の一つの癖であった。故に公の制度としては斎女の風は夙つとに衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧かしこしい少女が、或いは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することをえなかったのかと思う。信仰圏外の批判をもってすれば、これを精神疾患の遺伝ともいうことができるが、平和古風の山村生活にあってはまったく由緒ある宗教現象の一つであった。ことにまた深山の深い緑、白々とした雲霧の奥には、しばしばその印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永くのちのちまで潜んでいたのである。

二〇 深山に小児を見るということ

 日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨くま郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。算かぞえた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祇命おおやまつみのみことの附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵きこり・猟人かりうどがおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。伊賀地方の鉤曳かぎひきの神事を始めとし、神を誘い下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帯ではこれに対して山ワロ・河ワロの俗伝が行われている。中国以東の川童が淵池ごとに孤居するに反して、九州でミズシンまたはガアラッパと称する者は、常に群をなして住んでいた。そうして冬に近づく時それがことごとく水の畔を去って、山に還って山童やまわろとなると考えられ、夏はまた低地に降りくること、山の神田の神の出入と同じであった。紀州熊野の山中においてカシャンボと称する霊物も、ほぼこれに類する習性を認められている。寂寥せきりょうたる樹林の底に働く人々が、わが心と描き出す幻の影にも、やはり父祖以来の約束があり、土地に根をさした歴史があって、万人おのずから相似たる遭遇をする故に、かりに境を出るとたちまち笑われるほどのはかない実験でもなお信仰を支持するの力があった。ましていわんやその間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだいくらも残っていたのである。

『西遊記さいゆうき』その他の書物に九州の山童として記述してあるのは、他の府県でいう山男のことであって、その挙動なり外貌がいぼうなりは、とうてい川童の冬の間ばかり化してなる者とは思われぬのであるが、別にこれ以外に谷の奥に潜んで小さな怪物のいるという言い伝えはあったので、山童はもと恐らくはこの方に属した名であった。壱岐の島では一人の旅人が、夜通しがやがやと宿の前を海に下って行く足音を聴いた。夜明けて訊たずねるとそれは山童の山から出てくる晩であった。或いはまた山の麓の池川の堤つつみに、子供のかと思う小さな足痕あしあとの、無数に残っているのをみて、川童が山へ入ったという地方もある。秋の末近く寒い雨の降る夜などに、細い声を立てて渡り鳥の群が空を行くのを、あれがガアラッパだと耳を峙そばだてて聴く者もあった。阿蘇あその那羅延坊ならえんぼうなどという山伏やまぶしは、山家に住みながら川童予防の護符を発行した。すなわち夏日水辺に遊ぶ者の彼らの害を懼おそるるごとく、山に入ってはまた山童を忌み憚はばかっていた結果かと思われるが、近世に入ってからその実例がようやく減少した。大体にこの小さき神は、人間の中の小さい者も同じように、気軽な悪戯いたずらが多くて驚かすより以上の害は企てえなかった。注意をすればこれを防ぐことができたために、のち次第に人がその威力を無視するに至ったのである。『観恵交話かんけいこうわ』という二百年ほど前の書物には、豊後の国かと思う或る山奥に、せこ子こと称する怪物がいる話を載せている。形は三尺から四尺、顔の真中まんなかに眼がただ一つであるほか、全く人間の通りで、身には毛もなくまた何も着ず、二三十ずつ連れだってあるく。人これに逢えども害を作なさず、大工の持つ墨壺すみつぼを事の外ほかほしがれでも、遣れば悪しとて与えずと杣そまたちは語る。言葉は聞えず、声はひゅうひゅうと高く響く由なりといっている。

 眼が一つということは突然に聞けば仰天するが、土佐でも越後でも、また朝鮮でも、或いは遠く離れてヨーロッパの多くの国の田舎でも、こんな境遇の非類の物には、おりおり附いて廻る噂である。どうしてそういう風に目に見えたかは、残念ながらまだ明白に判わからぬというまででまずは怪物の証拠とでもいうべきものであった。大和・吉野の山中においては、また木の子と名づくるおよそ三四歳の小児ほどの者がいた。身には木の葉を着ているとある。これは『扶桑ふそう怪談実記』の誌すところであって、その姿ありともなしとも定まらずなどと至って漠然たる話ながら、山働きの者おりおり油断をすると木の子に弁当を盗まれることがあるので、木の子見ゆるや否や棒をもってこれを追い散らすを常とすともあれば、少なくとも多数の者が知っていたのである。このほかにも秋田の早口沢はやくちざわの奥に鬼童という者の住むことは、『黒甜瑣語こくてんさご』三編の四に見え、土佐の大忍おおさい郷の山中に、笑い男という十四五歳の少年が出て笑うことが、『土州淵岳志どしゅうえんがくし』に書留めてある。それが誇張でありもしくは誤解なることは、細かに読んで見ずとも断定してよいのであるが、こういう偶然の一致がある以上は、誤解にもなお尋ぬべき原因があるわけである。

 その上にまた時としては、誤解とも誇張とも考えられぬ場合もある。これは南方熊楠みなかたくまぐす氏の文通によって知ったのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさがさと幼児が一人這はい出してきたのを見てびっくりして急いで山を走り降った。それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を斬きられて同じあたりに死んでいたのを見たという。頭も尻尾もなく話はただこれだけだが、その簡単さがむしろこの噂の人の作った物語でないことを感ぜしめる。南方氏の書状はこれにつけ加えて、インドは地方によって狼の穴から生きた人間の赤児を拾ってきた事件が今でも新聞その他におりおり報ぜられる。この国は狼の害甚だ多く、小児の食われる実例が毎年なかなかの数に達し、狼に食われた子供の首飾くびかざり・腕飾の落ちたのを、山をあるいては拾い集める職業さえある。最近のロミュルスはすなわちこの連中によって発見せられるので、狼が飽満して偶然に食い残した子供が、無邪気に食を求めて狼の乳を吸い、自然に猛獣の愛情を喚起して狼の仔とともに育てられるのだ。或る孤児院へ連れてきた童子などは、四よつ這ばいをして生肉のほかは食わず、うなる以外に言語を知らず、挙動が全然狼の通りであったと報告せられていると示された。ただしこの種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であっても子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである。故に性急にこの方面から山の赤子の説明を引出そうとしてはならぬのである。

二一 山姥を妖怪なりとも考えがたきこと

 山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容いれざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。これも熊野の山中において、白い姿をした女が野猪やちょの群を追いかけて、出てくることがあると、『秉穂録へいすいろく』という本に見えている。土佐では槙山まきのやま郷の字筒越つつごしで、与茂次郎という猟師夜明よあけに一頭の大鹿の通るのを打留うちとめたが、たちまちそのあとから背丈せたけ一丈じょうにも余るかと思う老女の、髪赤く両眼鏡のごとくなる者が、その鹿を追うてきたのを見て動顛どうてんしたと、寺石氏の『土佐風俗と伝説』には誌してある。

 猪を追う女の白い姿というは、或いは裸形のことを意味するのではなかったか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振り乱して泣きながら走って行くと、この国の人上原白羽という者が、『今斉諧きんせいかい』の著者に語っている。それがもし実験者の言に基づくものならば、泣きながらとは多分奇声を発していたことをいうのだろう。『遠野物語』に書留められた山中深夜の女なども、待てちゃアと大きな声で叫んだといっている。他の地方にも似たる例は多く、たいていは背丈がむやみに高かったことを説いているが、怖しくて遁にげて来た者の観察だから、寸法などは大ざっぱなものであろうと思う。それよりも土地を異にし場合を異にして、おおよそ形容の共通なるもの、例えば声とか髪の毛の長く垂れていたとかいう点の同じかったのは注意に値する。山で大きな女の屍体したいを見たという話は、これもいくつかの類例が保存せられてあるが、なかんずく有名なのは夙はやく橘南谿の『西遊記』に載せられた日向南部における出来事である。

「日向国飫肥おび領の山中にて、近き年菟道弓うじゆみにて怪しきものを取りたり。惣身そうしん女の形にして色ことの外ほか白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非あらず。猟人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂いふにぞ。後の祟たたりも恐ろしく取棄とりすてもせず、其そのまゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云いへり」云々。この菟道弓のウジというのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ処を往来する習性があるのを知って、かかればひとりでに発するようにウジ弓を仕掛けておくのである。それにきて斃たおれたというのはいくら神でなくとも驚くべき不注意であって、珍しい事件であったに相違ないが、都に住む橘氏ならばとにかく、土地の猟人が始めて名を知ったというのは、やや信じにくい話である。ことにこの方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁ひんぱんであり、現にこの記事以後にも、いろいろの珍聞が伝えられているのである。八田知紀はったとものり翁の『霧島山幽界真語きりしまやまゆうかいしんご』の終りに、次のような一話が載せてある。

「おとゞし(文政十二年)の秋、日向の高岡たかおか郷(東諸県ひがしもろかた郡)にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋たかなべ領の小菅岳こすげがたけといふ山に、高岡郷より猟に行通ふ者のありけるが、一日罠わなを張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方おおかたは人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は数百年の昔、世の乱れたりし時、家を遁のがれ出てこの山に兄弟共に隠れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の実やうのものにて有り経しかば、おのづから斯こう形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る処に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで/\我命をば助けよかしと涙おとして詫わびけれど(その言語今の世の詞ことばならで、定さだかには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘そのまま里へ馳はせ還りて、友あまたかたらひ来て其女を殺してけり。さて其男は幾程いくほども無く病み煩わずらふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。」

 小山勝清かつきよ君の外祖母の話であった。明治の初年、肥後球磨郡の四浦ようら村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた猪罠ししわなに罹かかって、是も一人の若い女が死んでいた。丸裸であったそうだ。これを附近の地に埋めたが、のちに祟りがあったという話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しずつ時を異にし、またわずかばかり場処をちがえていずれも霧島市房きりしまいちふさ連山の中の、出来事であったという点である。ただし猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かかった女が身の上を語ったという小菅岳の一条には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ別れに住んでいて、時あって相訪あいとうということは話の様式の一つであり、乱を避けて山に入ったというのも、この地方の人望ある昔談むかしがたりにほかならぬ。言葉が古風で聴取りにくかったという説明とともに、必ず仲継者の潤飾が加わっているかと思う。それよりも大切な点はわずかな歳月、わずかな距離を隔てて似たような三つの事件が起りしかもそれぞれ状況を異にして、真似た痕跡のないことである。自分は必ず今にまた新しい報告の、更に附加せらるべきことを予期している。

 他の地方の類例はまた熊野の方に一つある。長たけ八尺ばかりな女の屍骸しがいを、山中において見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記している。それから『越後野志えちごやし』巻十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、この国頸城くびき郡姫川ひめかわの流れに、山男が山奥から流れてきた。裸形にして腰に藤蔓ふじづるを纏まとう。身のたけ二丈余とある。ただし人恐れてあえて近づかず。ついに海上に漂い去るといって、寸尺は測って見たのではなかった。しかも二丈余というのはかねてこの地方で言うことと見えて、同じ書物の他の条にもそう書いてある。

 ただし山男の身長の遙かに尋常を超えていたことは、他の多くの地方でも言うことで或いは事実ではないかと思う。このついでにほんの二つか三つ実例を挙げてみるならば、『有斐斎剳記ゆうひさいさつき』に対馬つしま某という物産学者、薬草を採りに比叡山ひえいざんの奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまた攀よじ登って遊んでいるのを見た。村の子供がきて遊ぶものと思っていたが、後日そこを通ってみるに、岩は高さ数仞すうじんの大岩であった。それから推して見ると小児と思ったのは、身の丈たけ一丈もあったわけで、始めて怪物ということに気がついた。石黒忠篤いしぐろただあつ君がかつて誰からか聴いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉かわじさえもんのじょう、或る年公命を帯びて木曾に入り、山小屋にとまっていると、月明らかなる夜更にその小屋の外にきて高声に喚よぶ者がある。刀を執って戸を開いて見るに、そこには早はや影も見えず、小屋の前の山をきわめて丈の高い男の下って行く後姿が、遠く月の光で見えたそうだ。山男であろうとその折従者に向かっていわれたが、他日ついに再びこれを口にせず、先生の日記にも伝にも、その事を記したものはなかったという。山中笑やまなかえみ翁が前年駿州田代川たしろがわの奥へ行かれた時、奥仙俣おくせんまたの杉山忠蔵という人が、その父から聴いたといって語った話の中に、若い時から猟がすきで、毎度鹿を追うて山奥に入ったが、真に怖ろしくまた不思議だと思った事は、生涯に二度しかない。その一度は山中の草原が丸太でも曳ひいて通ったように、一筋ひとすじ倒れ伏しているのを怪しんで見ているうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分かれて、次第に頂上に押し登って行ったこと、今一度は人の足跡が土の上にあって、その大きさが非常なものであった。かねてこんな場合の万一の用意に、持っている鉄の弾丸を銃にこめて、なお奥深く入って行くと、ちょうど暮方くれがたのことであったが、不意に行く手の大岩に足を踏みかけて、山の蔭かげへ入って行く大男の後姿を見た。その身の丈が見上げても目の届かぬほどに高かった。あまり怖ろしいので鉄砲を打ち放す勇気もなく還ってきたと語ったそうである。昨今は既に製紙や枕木のために散々に伐きり荒されたから事情も一変したが、以前はこの辺から大井の川上にかけては、山人に取っての日高の沙留さるともいうべく、最も豊富なる我々の資料を蔵していた。安倍郡大川村大字日向ひなたの奥の藤代山などでも、かつて西河内にしこうちの某という猟師が、大きな人の形で毛を被かぶった物を、鉄砲で打ち留めたことがあった。『駿河国新風土記するがのくにしんふどき』巻二十には、なんでも寛政初年の事であったらしく記している。打ち留めたものの余りの怖ろしさに、そのままにして家に帰り、それが病の元もとになって猟師は死んだ。その遺言ゆいごんに一年も過ぎたなら、こうこうした処だから往って見よとあったので、その通りに時経てのち出かけて捜して見ると、偉大なる脛すねの骨などが落ち散り、傍にはまた四五尺あるかと思う白い毛が、おびただしくあったと伝えられる。そのように長いならば髪の毛だろうと思うが、何分多くは何段かの又聞きであったため、満身に毛を被るという記事がいつも精確でなく、ことにこの地方では猿さるの劫こう経たものとか、狒々ひひとかいう話が今でも盛んに行われて、一層人の風説を混乱せしめる。新聞などを注意していると、四五年に一度ぐらいはそういう噂が必ず起こり、その実じつ打ち取ったのはやや大形の猿であり、ただその話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなっている。つまりはうそであり誇張ながらも、由って来たるところだけはあるのである。なお最後に今一つ、どうでも猿ではなかった具体的の例を出して置く。これは『駿河志料』巻十三、『駿河国巡村記』志太しだ郡巻四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百余年前の出来事であった。

「大井川の奥なる深山には山丈やまじょうといふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠たにはたの里を未明に立ち、智者山ちしゃやまの険岨けんそを越え、八草やくさの里に至る途中、夜既に明けんとするの頃ころ深林を過ぐるに、前路に数十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈余の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜ひそかに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又声を揚あぐべからず、此林の茂みに影を匿かくせと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只ただ声を呑みてかたへに隠る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺うかがふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇くちびるそりかへり、髪の毛は一丈余にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵あんどの思ひを為なし、案内と共にかの処に来りて其跡を閲けみするに、怪獣の糞ふん樹下にうづたかく、その多きこと一箕いっきばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥むきさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹しのたけを好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに噛かみ砕ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按あんずるに是は狒々と称するものにて、山丈とは異なるなるべし」(以上)。この話はいかにも聴いた通りの精確な筆記のようだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじっていること、あたかも噛み砕いた篠竹のごとくである。例えば長き唇反そり返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、じつはどんな風に長いのか、日本人には考えもつかぬ。とうてい夜の引明けなどに眼につくような特徴ではなかったのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに当るだろう。すなわち山人の男子のやや年輩の者を、幾分尊んで用いた称呼にして、正しく山姥と対立すべき中世語であった。

二二 山女多くは人を懐かしがること

 全体に深山の女たちは、妙に人に近づこうとする傾向があるように見える。或いは婦人に普通なる心弱さ、ないしは好奇心からではないかと、思うくらいに馴々なれなれしかったこともあるが、それにしては彼らの姿形の、大きくまた気疎けうとかったのが笑止である。

 山で働く者の小屋の入口は、大抵たいていは垂蓆たれむしろを下げたばかりであるが、山女夜深く来たってその蓆をかかげ内を覗のぞいたという話は、諸国においてしばしばこれを聞くのである。そういう場合にも髪は長くして乱れ、眼の光がきらきらとしているために喰いにでも来たかの如く、人々が怖れ騒いだのである。或いはまた日が暮れて後のち、突然として山小屋に入り来たり、囲炉裏いろりの向うに坐って、一言も物を言わず、久しく火にあたっていたという話も多い。豪胆な木挽こびきなどが退屈のあまりに、これに戯れたなどという噂のあるのは自然である。羽後の山奥ではこんな女をわざわざ招き寄せるために、ニシコリという木を炉に燃す者さえあると『黒甜瑣語こくてんさご』などには記しているが、それは果してどういう作用をするものか、その木の性質と共になお尋ねて見たいと思っている。

 今から三十年あまり以前、肥後の東南隅の湯前ゆのまえ村の奥、日向の米良めらとの境の仁原山に、アンチモニイの鉱山があった。その事務所に住んでいた原田瑞穂という人が夜分少し離れた下の小屋に往って、人足たちと一緒になって夜話をしていると、時々ぱらぱらとその小屋の屋根に小石を打ちつける音がする。少し気味が悪くなってもう還ろうと思い、その小屋を出てうしろの小路をわずかくると、だしぬけに背の高い女が三人横の方から出て、その一人が自分の手を強く捉えた。三人ながらほとんと裸体であった。何か頻しきりに物を言うけれども怖ろしいので何を言うか解らなかった。その内に大声に人を喚んだ声を聞いて、小屋から多勢の者がどやどやと出てきたので、女は手を離して足早あしばやに嶺の方へ上ってしまった。これも小山勝清君の話で、経験をした原田氏は、そのころまだ若かった同君の叔父である。

 自分はこの鉱山のあった仁原山が、前に挙げた獣のわなに山女の死んでいた三つの場処の、ほぼまん中である故に、ことにこの話に注意をする。もし山人にも土地によって、気風に相異があるものとすれば、南九州の山中に住む者などは、とりわけ人情が惇樸じゅんぼくでかつ無智であったように思われるからである。

 この類の実例はゆくゆくなお追加しうる見込みがある。前にいう仁原山は市房山と白髪岳との中間にある山だが、その白髪岳の山小屋でも近年山の事業のためにしばらく入っていた某氏が、夜になると山女がきて足を持って引張るので、なにぶんにも怖ろしくて我慢ができぬといって還ってきたこともあった。球磨郡四浦ようら[#ルビの「ようら」は底本では「ようち」]村の吉という木挽が、かつて五箇庄ごかのしょうの山で働いていた時に、小屋へ黙って入ってきた髪の毛の長い女などは、にこにことしてしきりに自分の乳房をいじっていた。驚いて飛びだして銕砲てっぽうなどを持って、多勢で還ってきてみるともうその辺にはいなかったそうである。単に遠くから姿を見たというだけの話なら、まだこの附近にも近頃の例がいくつかある。東北地方では会津の磐梯山ばんだいさんの入山などにも、山女らしい話がおりおり伝えられる。『竜章東国雑記りゅうしょうとうごくざっき』の第六集に、「文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川※(「くさかんむり/弓」、第3水準1-90-62)せんきゅうといふ薬草を採りに、此山西北の谿たにに入って還ることなり難く、流ながれに傍そうた大木の虚洞うつろに夜を過すとて、穴の外に火を焚たいて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さは踵かかとを隠すばかりなる女が沢蟹さわがにを捕へて此火に炙あぶつて食ひ、又両人を見て笑った」と記している。「これ俗に山ワロと謂ひ野※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)やえんの年とし経たるもの也。奥羽の深山にはまゝ居る由にて、よく人の心中を知れども人に害を為すことなし」などとあって、土地でも詳しいことは知らぬのである。また『老媼茶話ろうおうちゃわ』には猪苗代いなわしろ白木城の百姓庄右衛門、同じく磐梯山の奥に入って、山姥のかもじと称するものを見つけたことを載せている。「長さ七八尺にして白きこと雪の如く、松の大木の梢にかゝつて居た」とあって其末に、「世に謂ふ山姥は南蛮国なんばんこくの獣なり。其形老女の如し。腰に皮ありて前後に垂れ下りたふさぎの如し。たま/\人を捕へては我住む岩窟がんくつに連れゆき、強ひて夫婦のかたらひを求む。我心に従はざるときは其人を殺せり。力強くして丈夫に敵す。好みて人の小児を盗む。盗まれし人之を知り、多勢集まり居て山姥が我子を盗みしことを大音に罵ののしり恥しむるときは、窃ひそかに小児を連れ来り、其家の傍に捨て置き帰るといへり」などといっている。実際の遭遇がようやく稀まれになって雑説はいよいよ附け加わるので、これなども支那の書物の知識が、もう半分ばかりもまじっているようである。

 或いは単に人間の炉の火を恋しがって出てくるものとも想像しうる場合がある。冬の日に旅をした人ならこの心持は解るが、たとえ見ず知らずの人が焚火たきびをする処でも、妙に近づいて見たくなるものである。夜分に人の家の火が笑語の声とともに、戸の隙間すきまから洩もれるのを見ると、嫉ねたましくさえなるものだ。無邪気な山の人々もこの光に引きつけられてくるのかも知らぬ。『秉穂録へいすいろく』にはまた熊野の山中で炭焼く者の小屋へ、七尺余りの大山伏おおやまぶしの遣ってくることを録している。ただし「魚鳥の肉を火に投ずるときは、その臭気を厭いとうて去る」というのは、少しく前の沢蟹の話とは一致せぬが、火に対する趣味などにも地方的に異同があるのだろう。前に引用した『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻には、また次のような一件も記してある。すなわち因州での話である。

「西村某と云ふ鷹匠たかじょうあり。鷂たかを捕らんとて知頭ちず郡蘆沢山あしさわやまの奥に入り、小屋を掛けて一人住みけり。夜寒の頃なれば、庭に火を焚たきてあたり居けるに、何者とも知れず、其たけ六尺あまりにて、老いたる人の如くなる者来りて、黙然とかの火によりて、鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて、面貌めんぼう人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば、更に驚くこと無く、汝なんじは何処に住む者ぞと問ひけれども、敢て答へず。暫くありて立帰る。西村も其後に沿ひて出でけれども、夜甚だ暗くして、其行方を知らずなりぬ。其後又来りて、小屋の内を覗のぞくことありしに、西村、又来たか、今宵こよいは火は無きぞと言ひければ、其まゝ帰りけると也。里人に其事を語りければ、山父と云ふもの也。人に害を為す者に非ず。之を犯すことあれば、山荒るゝと謂ひけると也。」

 スキーで近頃有名になった信越の境の山にも、半分ほど共通の話があって、『北越雑記ほくえつざっき』巻十九に出ている。断って置くがこれら二つの書物は共に写本であって流布も少なく、一方の筆者は他の一方の著述の存在をすらも知らなかったのである。それを自分たちが始めて引き比べて見る処に、学問上の価値が存するのである。「妙高山・焼山・黒姫山くろひめやま皆高嶺にて、信州の飯綱いづな・戸隠とがくし、越中の立山まで、万山重なりて其境幽凄ゆうせいなり。高田の藩中数十軒の薪まきは、皆この山中より伐出す。凡およそ奉行ぶぎょうより木挽こびき・杣そまの輩やからに至るまで、相誓ひて山小屋に居る間、如何いかなる怪事ありても人に語ること無し。一年升山某、役に当りて数日山小屋に在ありしが、夜は人々打寄りて絶えず炉に火を焚きてあたる。然るに山男と云ふもの、折ふし来ては火にあたり一時ばかりにして去る。其形人に異なること無く、赤髪裸身灰黒色にして、長たけは六尺あまり、腰に草木の葉を纏まとふ。更に物言ふこと無けれども、声を出すに牛のいばふ如く聞ゆ。人の言語はよく聞分くる也。相馴あいなれて知人の如し。一夕升山氏之に向ひて、汝木葉を着るは恥ることを知るなり。火にあたるは寒さを畏おそるゝなり。然らば何ぞ獣の皮を取りて身に纏はざるやと言ひしに、つく/″\と之を聞きて去れり。翌夜は忽ち羚羊かもしか二疋ひきを両の手に下げて来り、升山の前に置く。其意を解し、短刀もて皮を剥はぎて与ふれば、山男は頻しきりに口を開き打笑ひ、悦よろこびて帰りぬ。すでにして又来たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以て繋つなぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に巻き付けたり。されど生皮なまかわを其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みより硬こわばりたり。皆々打笑ひ、熊の皮を取り、十文字にさす竹入れ、小屋の軒に下げて見せ、且つ山刀一梃いっちょうを与へて帰らしむ。其後数日来ずと謂へり」(以上)。これなどは秘密を誓約した人々の抜け荷だから、若干の懸値かけねがあっても吟味をすることが困難である。

二三 山男にも人に近づかんとする者あること

 山人も南九州の山に住む者が、特に無害でありまた人なつこかったように思われる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心づかず、しばしば里の人の仮小屋かりごやを訪問して、それほどまでに怖れ嫌われていることを知らなかったという例は、主として霧島連峯中の山人の特質であった。なお同じ方面の出来事として、水野葉舟君からまた次のような話も教えられた。

 日向南那珂ひゅうがみなみなか郡の人身上千蔵君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入って不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布ほぬののような物を巻きつけていた。にこにこと笑いながら此方を向いて歩んでくる様子が、いかにも普通の人間とは思われぬ故に、かねて用心のために背に負う手裏剣しゅりけん用の小さい刀の柄つかに手を掛け、近く来ると打つぞと大きな声でどなったが、老翁は一向に無頓着むとんちゃくで、なお笑いながら傍へ寄ってくるので、だんだん怖ろしくなって引返して遁にげてきた。ところがそれから一月ばかり過ぎてまた同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢った。一羽の雉子きじを見つけて鉄砲の狙ねらいを定め、まさに打ち放そうとするときに、不意に横合よこあいから近よってこの男の右腕を柔かに叩く者があった。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこにこと笑って立っている。白髪の端はしには木の葉などがついていたという。これを見ると怖ろしさのあまり気が遠くなり、鉄砲を揚あげたままで立ちすくんでいたのを、しばらくしてから村の人に見つけられ、正気になってのちにこの話をしたそうだ。眼の迷いとかまぼろしとか、言ってしまうことのできない話で、しかも作り話としては何の曲もなく、かつ二度の実見が一致していた。何かは知らずとにかくにそんな人が、この辺の山には正しくいたのである。

 山人が我々を目送したという話もおりおり聞く。そうして甚だ気味の悪いことに、これを解説するのが普通であった。気味の悪くないこともあるまいが、彼らは元来が真の有閑階級だから、じつははっきりとした趣意もなく、ただ眺めていた場合もあったかも知れぬ。ただし少年や女には、これを怖れる理由は十分にあった。前年前田雄三君から聴いた話は、越前丹生にう郡三方みかた村大字杉谷の、勝木袖五郎という近ごろまで達者でいた老人、今から五十余年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往った。友だちの中に意地の悪い者があって、うそをついて皆は他の林へ往ってしまい、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷というところで木を拾っているとき、ふと見れば目の前のカナギ(くぬぎ)の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の届かぬほどに背が高い。怖ろしいからすぐに引返して、それからほど近い自分の家に戻り、背戸口に立って再び振り返って見ると、その大男はなおもとの場所に立ち、凄すごい眼をしてじっと此方を見ていたので、その時になって正気を失ってしまったそうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至って近い低い山であった。こんなところまで格別の用もないのに、稀まれには山人が出向いてきて人を見ていたのである。神隠しの風説などの起りやすかったゆえんである。

 それから少なくとも我々に対して、常に敵意は持ってはいなかったという証拠もある。小田内通敏おたうちみちとし氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいが元もとの書物は同氏も知らぬという。津軽での話である。

「中村・沢目・蘆谷あしのや村と云ふは、岩木山の※ふもと[#「山+卑」、U+5D25、217-8]にして田畑も多からねば、炭を焼き薪を樵きこりて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如く斧おのを携へて山奥に入り、柴立しばだちを踏分け渓水たにみずを越え、二里ばかりも躋のぼりしが、寥廓りょうかくたる平地に出でたり。年頃としごろ此山中を経過すれども、未だ見たること無き処なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、且かつは山の広大なることを思ひ、歎息してたゝずみしが、偶※(二の字点、1-2-22)たまたまあたりの谷蔭に人語の聴えしまゝ、其声を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身の長たけ七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔こけを摘み取る様子なり。背と腰には木葉を綴つづりたるものを纏まとひたり。横の方を振向ふりむきたる面構つらがまへは、色黒く眼円く鼻ひしげ蓬頭ほうとうにして鬚ひげ延びたり。其状貌じょうぼうの醜怪しゅうかいなるに九助大いに怖れを為し、是や兼かねて赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶つまずき転び落ちて、却かえりて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄しゅうりつして口は物言ふこと能あたはず、脚あしは立つこと能はず、唯ただ手を合せて拝むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇こわきにかゝへ、嶮岨けんそ巌窟がんくつの嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里余りも来たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、忽たちまち形を隠し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢の覚さめたる如く、首を挙げて四辺を見廻みめぐらすに、時は既に申さるの下りとおぼしく、太陽巒際らんさいに臨み返照へんしょう長く横たはれり。其時同じ業の者、手に/\薪を負ひて樵路しょうろを下り来るに逢ひ、顛末を語り介抱せられて家に帰り着きたりしが、心中鬱屈うっくつし顔色憔悴しょうすいして食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十余日して漸く回復したりと也。」

二四 骨折り仕事に山男を傭いしこと

 ただし山中においては、人は必ずしも山人を畏れてはいなかった。時としてはその援助を期待する者さえあったのである。例の橘氏の『西遊記』にもよく似た記事があるが、別に『周遊奇談しゅうゆうきだん』という書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたという話を載せている。どのくらいまでの誇張があるかは確かめがたいが、まるまる根のない噂とは考えられぬのである。

 豊前中津なかつ領などの山奥では、材木の運搬を山男に委託することが多かった。もっとも彼ら往来の場処には限かぎりがあるらしく、里までは決して出てこない。いかなる険阻も牛のごとくのそりのそりと歩み、川が深ければ首まで水に入っても、水底を平地のようにあるいてくる。たけは六尺以上の者もあって、力が至って強い。男は色が青黒く、たいていは肥えている。全身裸であって下帯したおびすらもないが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。ただし女は時に姿を見せるのみで出て働こうとはしない。そうして何か木の葉木の皮ようの物を綴って着ている。歯は真白まっしろだが口の香が甚だ臭いとまでいっている。労賃は握にぎり飯めしだとある。材木一本に一個二本に二個。持って見て二本一度に担かつげると思えば、一緒にして脇わきへ寄せる。約に背いて例えば二本に握り飯一つしか与えなかったりすると、非常に怒って永くその怨うらみを忘れない。愚直なる者だと述べている。

『西遊記』にいうところの薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰もらって欣然きんぜんとして運送の労に服したが、もし仕事の前に少しでも与えると、これを食ってから逃げてしまう。また人の先に立って歩むことを非常に嫌う。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奥の寺などに入ってきて、食物を盗み食うことがある。ただし塩気しおけのある物を好まぬといっている。以上二種の記録は少しずつの異同があり、材料の出処の別々なることを示している。これ恐らくは信用すべき一致であろうと思う。

 同じ『周遊奇談』の巻三には、また秋田県下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。ただし著者自分で見たという点が安心ならぬ故に、特に原文のまま抄出して置く。

「出羽国仙北より、水無銀山阿仁みずなしぎんざんあにと云ふ処へ越ゆる近道、常陸内ひだちないと云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭焼小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豊前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々おりおり其小屋へ食事などの時分を考へ来るとなり。飯なども握りて遣つかはせば悦びて持ち退く。人の見る処にては食せず。如何いかにも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ/\立廻りあるくばかり也。尤もつとも悪きことはせず。至つて正直なる由よしなり。此処ここにては山女は見ず。又其沙汰さたも無し」。

 山男はまた酒がすきで酒のために働くという話が、『桃山人夜話とうさんじんやわ』の巻三に出ている。「遠州秋葉の山奥などには、山男と云ふものありて折節おりふし出づることあり。杣そま・山賤やまがつの為に重荷を負ひ、助けて里近くまで来りては山中に戻る。家も無く従類眷属けんぞくとても無く、常に住む処更に知る者無し。賃銭を与ふれども取らず、只ただ酒を好みて与ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、唖おしを教ふる如くするに、その覚り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山気の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同国の白倉しらくら村に、又蔵と云ふ者あり。家に病人ありて、医者を喚よびに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何処よりとも無く出で来りて又蔵を負ひ、屏風びょうぶを立てたるが如き処を安々やすやすと登りて、医師の門口かどぐちまで来りて掻き消すが如くに失せたり。又蔵は嬉しさの余りに之に謝せんとて竹筒ささえに酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事このこと古老の言ひ伝へて、今に彼地にては知る人多し」(以上)。又蔵が医者の家を訪れることを知って、その門口まで送ってくれたという点だけが、特に信用しにくいように思うけれども、酒を礼にしたら悦んだということはありそうな話であった。

二五 米の飯をむやみに欲しがること

 山人が飯を欲しがるという話ならば、他の諸国においてもしばしば耳にするところである。土屋小介君の前年知らせて下さった話は、東三河の豊川上流の山で、明治の初めごろに官林を払い下げて林の中に小屋を掛けて伐木していた人が、ある日外の仕事を終って小屋に戻ってみると、背の高い髭ひげの長い一人の男が、内に入って自分の飯を食っている。自分の顔を見ても一言の言葉も交えず、したたか食ってからついと出て往ってしまった。それから後も時折りはきて食った。物は言わず、またその他には何の害もしなかったという。盗んだというよりも人の物だから食うべからずと考えていなかった様子であった。

 次に鈴木牧之ぼくしの『北越雪譜ほくえつせっぷ』にある話は、南魚沼うおぬま郡の池谷村の娘ただ一人で家に機はたを織っていると、猿のごとくにして顔赤からず頭の毛の長く垂れた大男が、のそりと遣って来て家の内を覗いた。春の初めのまだ寒いころで、腰に物を巻きつけて機にかかっていたために、怖ろしいけれども急に遁げることができず、まごまごとするうちに怪物は勝手元かってもとへまわり、竈かまどの傍に往って、しきりに飯櫃めしびつを指さして欲しそうな顔をした。かねて聞いていることもあるので、早速に飯を握って二つ三つ与えると、嬉しい顔をしてそれを持って去った。それから後も一人でいる時はおりおりきた。山中でもこれに出逢ったという人がそのころは時々あったが、一人でも同行者があると決して来なかったそうである。

 また同国中魚沼郡十日町とおかまちの竹助という人夫は、堀之内へ越える山中七里の峠で、夏の或る日の午後にこの物に行逢うたことがある。白縮しろちぢみの荷物を路ばたに卸おろして、石に腰かけて弁当をつかっていると、やはり遣ってきたのが髪の長い眼の光る大男で、その髪の毛はなかば白かったという。石の上に置いた焼飯をしきりに指さすので、一つ投げてくれると悦んで食った。そうして頼みはせぬのにその荷物を背負って、池谷村の見えるあたりまで、送ってきてくれたという話である。

 そこで改めて考えて見るべきは、山丈やまじょう・山姥やまうばが山路に現われて、木樵きこり・山賤やまがつの負搬ふばんの労を助けたとか、時としては里にも出てきて、少しずつの用をしてくれたという古くからの言い伝えである。これには本来は報酬の予想があり恐らくはそれが山人たちの経験であった。『想山著聞奇集しょうざんちょもんきしゅう』などに詳しく説いた美濃・信濃の山々の狗賓餅ぐひんもち、或いは御幣餅ごへいもち・五兵衛餅とも称する串くしに刺した焼飯のごときも、今では山の神を祭る一方式のように考えているが、始めてこの食物を供えた人の心持は、やはりまたもっと現実的な、山男との妥協方法であったかも知れぬ。中仙道は美濃の鵜沼うぬま駅から北へ三里、武儀むぎ郡志津野しづのという町で、村続きの林を伐ったときに、これは山というほどのところでもなく、ことに老木などの覆おおい繁しげったものもない小松林の平山だから狗賓餅にも及ぶまいと思って、何の祭まつりもせずに寄合って伐り始めると、誰も彼もの斧の頭がいつのまにかなくなり、道具もことごとく紛失していた。これはいけないとその日は仕事を中止し、改めて狗賓餅をして山の神に御詫びをしたら失せた道具がぼつぼつと出てきた。また同じ国苗木なえぎ領の二つ森山では、文政七八年のころ木を伐出す必要があって、十月七日に山入して御幣餅を拵こしらえたのはよいが、山の神に上げるのを忘れて、自分たちでみな食ってしまった。そうすると早速さっそく山が荒れ出して、その夜は例の天狗倒てんぐだおしといって、大木を伐倒す音が盛んにした。この時も心づいて再び餅を拵えて詫びたので、ようやく無事に済んだといっている。この地方では狗賓餅をするには、定きまった慣習があった。まず村中に沙汰さたをして老若男女山中に集まり、飯を普通よりはこわく炊かしぎ、それを握って串に刺し、よく焼いてから味噌をつける。その初穂はつほを五六本、木の葉に載せて清い処に供えて置き、それから一同が心のままに食うのである。甚はなはだうまい物だがこの餅をこしらえると、天狗が集まってくると称して村内の家では一切焼かぬようにしていた。故に一名を山小屋餅、江戸近くの山方やまかたでは、古風のままに粢餅しとぎもちと呼んでいた。今日我々が宗教行為というものの中には、まだ動機の分明せぬ例が多い。ことに山奥で天狗の悪戯などと怖れた災厄には、こういう人間味の豊かな解除手段もあったことを考えると、存外単純な理由がかえって忘却せられ、実験のようやく稀になるにつれて、無用の雑説が解説を重苦しくした場合を、推測せざるをえないのである。

 少なくとも焼飯の香気には、引寄せられる者が山にはいた。食物を供えて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知っていた。そうして双方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でもなんでもなかった。従ってまず与えると働かずに遁げてしまうというのを、あたかも当世の喰遁げ同様に非難しようとしたならば誤っている。以前は山人はなんの邪魔もしなければ御幣餅をもらうことができ、またそれをくれぬ時にはあばれてもよかった。特に出てなんらかの援助を試みたのは、いわば好意でありまた米の味に心酔した者の、やや積極的な行動でもあった。もし私たちの推測を許すならば、それは或いは山人の帰化運動の進一歩であったのかも知れぬ。次の章に述べようとする飛騨のオオヒトの場合のごとく、人は単に偶然に世話になった場合にも、謝礼に握り飯を贈れば相手の喜ぶことを知り、相手はまた狸兎の類を捕ってきて、これを答礼にして適当なりと考えたのも、やがては異種諸民族間の貿易の起原と同じかった。こうしてだんだんに高地の住民が、次第に大日本の貫籍かんじゃくに編入せられて行ったことは、自他のために大なる幸福であった。

 越後南魚沼の山男が、猿に似て顔赤からずと伝えられるのは、一言の註脚を必要とする。これは単に猿ほどには赤くなかったというまでであったらしく、普通はこれと反対に顔の色が赤かったという例が少なくない。顔ばかりか肌膚全体が赤かったという噂さえ残っている。近世の蝦夷地えぞちに、いわゆるフレシャム(赤人)の警いましめを伝えた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかったのは、古来の悪路王あくろおうや大竹丸おおたけまるの同類に、赤頭太郎などと称して赤い大人おおひとが、たくさんにきたという話を信じていたからである。それがひとり奥羽に限られなかった証拠は、例えば弘仁七年の六月に弘法大師が、始めて高野の霊地を発見した時にも、嚮導きょうどうをしたという山中の異人は、面赤くして長八尺ばかり、青き色の小袖こそでを着たりと、『今昔物語』には記している。眼の迷いとしても現代になるまで、大人は普通は赤い者のように、世間では考えていた。もっとも豊前中津領の山ワロのように、男は色青黒しという異例も伝えるが、此方には比較すべき傍証が多くない。また赤頭というのは髪の毛の色で、それが特に目についた場合もあろうが、顔の色の赤いというのもそれ以上に多かったのである。或いは平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかということも一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖いふの種たねらしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の特質である。

二六 山男が町に出で来たりしこと

 これを要するに山にこういう人たちのいるということは、我々の祖先にとっては問題でもまた意外でもなかった。ただ豊前・薩摩の材木業者以上に、意識して彼らと規則立った交通をする折が乏しかったために、例えば禁止時代の切支丹伴天連きりしたんばてれんに対するごとく、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、ついて廻ったのを遺憾とするばかりである。いわゆるヤマワロ(山童)の非常に力強かったこと、これは全く事実であったろうと認める。そうして怒ると何をするかわからぬというのも、また根拠ある推測であった。なおまた彼らが驚くべく足が達者だといったのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隠れたとすれば不思議はない。野獣を捕って食物としておれば、そのためには女でも足が速くなければならない。不思議はむしろ何かという場合に、かえって我々に近づこうとする態度の、明瞭に現れていたことである。しかもしばしば不幸なる誤解があって、人がその真意を酌くむことをえない場合がいかにも多かった。

『東武談叢とうぶだんそう』その他の聞書ききがきに見えているのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣へいいを着し乱髪にして青蛙あおがえるを食う男、何方いずかたよりともなく現れ来る。住所を問うに答なく、ただ手をもって天を指ざしたのは、天からきたとでもいうことかと謂った。家康は左右の者がこれを殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、たちまちその行方を知らずとある。この怪人は四肢ししに指がなかったともあるが、天を指さしたというからは甚だ信じがたい事であった。それからまた三十年余り、寛永十九年の春であった。土佐では豊永とよなが郷の山奥から、山みこと称する者を高知の城内へつれてきた。年六十ばかりに見える肉づきの逞たくましい大男で一言も物いわず、食を与うれば何でも食った。二三日の間留めておいてのちに元の山地へ放ち返したと、当時のいくつかの記録に載せてある。いずれも多くの人がともに見たのだから、まぼろしとは認めがたい話である。ことに「山みこ」という語が、すでにあの時代の土佐にあったとすれば、必ずしも稀有けうの例ではなかった。ミコはどう考えても神に仕える人のことで、天狗と同じく彼らを山神の使者、もしくは代表者のごとく見る考えが、吉野川上流の村にはあったことを想像せしめる。

 この前後は土着開発に急なる平和時代で、その結果は山と平地との間に、人知らぬ攪乱こうらんがあったかと思われ、山人出現の事例がたくさんに報ぜられている。尾州名古屋というような繁昌はんじょうの土地にも、なおいずこからか異人が遣ってきて捕えられたといっている。太い綱で縛っておいたにもかかわらず、夜の間に逃げてしまい、しかもなんらの報復をもしては行かなかった。仙人などと違って存外に智慮もなく、里近くをうろうろしていたのをみると、やはり食物か配偶者か、何か切せつに求むるものがあったためで、半なかばはその無意識の衝動から、浮世の風に当ることにはなったのである。ことにその或る者が日向や越後の例のごとく、白髪であったと聴くに至っては、悠々ゆうゆうたるかも人生の苦、彼らはたこれを免れえなかったのである。

 名古屋で異人を捕えたという話は、『視聴実記しちょうじっき』巻六に出ている。年代は知れぬが江戸の初期であろう。本文のままを次に抄録する。

「飯沼林右衛門は広井に住す。夜話の帰りに僕しもべの云ふには、南の路より御帰りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱しつすれば、御迎おむかえに来るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戦慄せんりつせし故に、かく申す也と答ふ。林右衛門笑ひながら、さあらばいよ/\行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉とらへ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸ようやくに之を引立て、程ほど近ければ我家に連れ帰り、打擲ちようちやくをすれども曾かつて物を言はず、且つ杖つえの下痛める体も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糾明きゆうめいすべしとて、厩うまやに強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何処へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只ただ一声、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を『あいつ小僧』と謂ひたりとなん。」

 山男が市に通うということは、前の五葉山の猟人の話にもあったが、これまた諸処に風説するところである。津村正恭の『譚海たんかい』巻十一に、

「相州箱根に山男と云ふものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来りて米に換ふる也。人馴なれて怪しむこと無し。交易の外ほか多言せず。用事終れば去る。其跡あとを追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終ついに住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作なす者に非ざれば、必ず鉄砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かさずと云ふ。」

 こうあるけれどももちろん噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、この連中がうろうろしていたことを意味するのではあるまい。第一に川魚はこの海辺では交易にもならず、木の葉を着ていたら、なんぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。ただこの人中にも一人や二人はいるかも知れぬという程度に、輿論よろんが彼らを尋常視していたことは窺うかがわれる。岩手県海岸の大槌おおつちの町などでも、市の日に言葉の訛なまりの近在の者でない男が、毎度出てきて米を買って行った。背は高く眼は円くして黒く光っていた。町の人が山男だろうといったそうである。しかしこれから奥地の山々には、今でもずいぶんと遠国から、炭竈すみがまに入って永く稼かせいでいる者が多い。言語風采の普通でないばかりに、一括してこれを山人に算入するのは人類学でない。ただ市という者の本来の成立なりたちが、名を知らぬ人々と物を言う点において、農民に取っては珍しい刺戟しげきであった故に、例えばエビスというがごとき神をさえ祭り、ここに信仰の新しい様式を成長せしめたのである。信州南安曇あずみでは新田しんでんの市、北安曇では千国ちくにの市などに、暮の市日いちびに限って山姥が買物に出るという話があった。山姥が出ると人が散り市が終りになるともいったが、一方には山姥が支払に用いた銭には、特別の福分があるようにも信じられた。ようやく利欲というものを実習した市人が、いかに注意深くただの在所の婆様ばばさまたちを物色していたかは、想像してみても面白い。その為でもあろうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの徳利とっくりを携えて、五升の酒を買いにきたというのがある。笑った物は罰せられ、素直すなおにいう通りに量って遣ると、果して際限もなく入ったといい、またはこれにあやかって金持になったともいう。つまりは俵藤太たわらとうだの取れども尽きぬ宝などと、系統を同じくした歴史的空想である。

 筑前甘木あまぎの町の乙子おとこ市、すなわち十二月最終の市日にも、山姥が出るという話が古くからあった。正徳四年に成る『山姥帷子記やまうばかたびらき』という文に、天正のころ下見村の富人大納言だいなごんなる者の下僕木棉綿もめんわたを袋に入れてこの日の市に売りに出で、途中に仮睡して市の間に合わなかった。眼が覚めてみると袋の綿はすでになく、そのかわりに一枚の帷子が入っていた。地じ麁あらくして青黄黒白の段染だんぞめであった。これも山姥の物と認められて、宝物として二百年を伝えたという話を書留めている。

 それからこのついででないともう他にいう折はないが、絵かきたちだけの今でも遊んでいる空想境に、天狗の酒買い狸の酒買いなどという出来事がある。白鳥の徳利や樽たるに通かよい帳ちょうを添えて、下げて飛んでいる場面は後世風だが、由ってくるところは甚だ久しいようである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢ひさごの盛んに用いられた時代を推測し、許由以来の支那の隠君子等が駒こまを出したり自分を吸込ませたり終始この単純なる器具を伴侶はんりょとしているには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考えて見ようとしているのであるが、それは広大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、この類の僅かな用具が非常なる便益であり、従って身を離さずに大切にしているのをみて、我々の祖先までがこれを重んじ、何か神怪の力でも具そなうるかのごとく、惚ほれこみ欲しがり、貰えば宝物にしようとしたことだけは、説かずにはおられぬような感じがする。『落穂余談おちぼよだん』という書の巻二に、「駿河の山に大なる男あり。折々おりおりは見る者もあり。鹿しか猿さるなどを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語くぜたろうえもんどのものがたりに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者あるもの近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗こうらいの茶碗ちゃわんなり。今に其子の方に持伝へて居おりける由。丙寅へいいん八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐どうざにて語る」とある。これなどは山姥から、褒美ほうびにもらったというのと反して、手もなく山男から掠奪りゃくだつしたのであるが、最初どうしてこのような品を、彼らが拾い取りまたこれを大事にしていたかを考えると、小説家でない我々にも、いろいろな珍しい光景が空想せられる。例えば盗賊が始末に困って、山中に隠して置いたとか、大百姓の家が退転して、荒屋敷あれやしきになっているところへ、のそのそと来かかった山男が、光るから手に取上げて嗅かいだり嘗なめたりしていたとしたら、彼らの排外的なる社会にまでも、浸しみ入らずにはおかなかった異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考えられる。

 かつて旧知の鈴木鼓村君から、またこんな話を聴いたこともある。鈴木君は磐城亘理わたり郡小鼓こつづみ村の旧家の出で、それで号を鼓村こそんといっているが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、おりおりもらいにくる老人があった。人と物をいわず、物を遣ると口の中で唱となえ言ごとをするが、何をいうのか少しも聴取れない。飯は両手に受けて副そえ物ものもなしに、髯ひげだらけの顔をよごして食う。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思う大瓢箪おおひょうたんを携え来り、それに入れて遣るとすぐに持って帰る。衣類は着けているが、地合じあいも縞目しまめも見えぬほど汚れていた。生なまの貝をもらって、石の上で砕いて食ったといって、人は戯れにこれをアサリ仙人せんにんと呼んでいた。何処に住む者とも知れず、七日も十日も連日くるかと思えば、二月も三月も絶えてこぬこともあった。帰る際にその跡をつけた者があったが、山に入ると急に足早になり、たちまちにその影を見失った。小鼓こつづみは阿武隈あぶくまの川口であって、山は低いけれども峯は遠く連っている。このアサリ仙人は或る日の朝、鈴木氏の玄関の柱にその大瓢箪をくくりつけて置いて、それっきり永久に遣ってこなくなった。この話には誤伝がないともいえぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、この家の宝物の一つであった。口は黄金ですこぶる名瓢であったという。

 仙人を見縊みくびるのは本意でないが、これくらいの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思う。ただ鈴木氏の永年の恩誼おんぎは厚かったにしても、最後に人知れずその瓢をくくりつけて去ったという一点だけが、彼らのとうてい企てえまいと思うロマンチックであった。この地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の労働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人もまたこれを尊敬していたことは、次のオオヒトの条下に確からしい一例を掲げる。そうするとこれもまた同化帰順の一段階であって、瓢箪のごときもじつはあまりに大きいので、何か手ごろの容器とただそっと取り替えて往ったのかとも考えられる。

二七 山人の通路のこと

 今日のいわゆるアルプス連れんなどは、どういう風にしているか知らぬが、猟師・木挽らのごとくたびたび山奥に野宿せねばならぬ人々は、久しい経験から地形に由って、不思議の多かりそうな場処を知って力めてこれを避けていた。おりおりこれは聴く話であるが、深山の谷で奥の行止まりになっているところは無事であるが、嶺みねが開けて背面の方へ通じている沢は、夜中に必ず怪事がある。素人しろうとは魔所などといえば、往来不可能の谷底のように考えるけれども、事実はかえって正反対であるという。或いはまた山の高みの草茅くさかやの茂みの中に、幽かすかに路らしいものの痕跡こんせきを見ることがあると、老功な山稼人やまかせぎにんは避けて小屋を掛けなかった。即ち山男・山女の通路の衝しょうなることを知るからである。国道・県道という類の立派な往還でも、それより他に越える路のないところでは、夜更けて別種の旅人の、どやどやと過行く足音を聴いた。峠の一つ屋などに住む者は、往々にしてそんな話をする。もちろん或る場合には耳の迷いということもありうるが、山人とても他に妨げさえなくば、向うの見通される広路を行く方を、便利としたに相異ないのである。

 百五十年ほど前に三州豊橋の町で、深夜に素裸すっぱだかではだしの大男が、東海道を東に向って走るのを見た者がある。非常な速歩はやあしで朝日の揚あがるころには、もう浜名湖の向うまで往っていた。水中に飛込んで魚を捕え、生のままで食っているのを見て始めて怪物なることを知ったと、『中古著聞集ちゅうこちょもんじゅう』という豊橋人の著書には書いてある。彼らに出逢ったという多くの記事には、偶然であった場合に限って、彼らの顔にもやはり驚駭きょうがいの色を認めたといっている。畏怖も嫌忌も恐らくは我々以上であって、従って必要のない時にはたいてい繁しげみ隠れなどから注意深く平地人の行動を、窺っていたのであろうと想像する。

 菅江真澄すがえますみの『遊覧記』三十二巻の下、北秋田郡の黒滝の山中で路に迷った条に、「やゝ山頂とおぼしき処に、横たはる路のかたばかり見えたるに、こは路ありあな嬉しと言へば、案内の者笑ひて、いづこの嶺にも山鬼さんきの路とて、嶺の通路はありけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏迷ひなんとて、尚なお峯に登る云々」とあった。故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものの痕迹こんせきあるところは、山男の往来に当っていると称して、露宿の人がこれを避けるのが普通だったとの話である。阪本天山翁、宝暦六年の『木曾きそ駒こまヶ岳たけ後一覧記のちのいちらんき』に、前岳まえだけの五六分目、はい松の中に一夜を明す。ここに止宿のことは村役人・人足までも不承知にて、かれこれと申すにつきその趣旨を尋ねて見ると、すべてかようの山尾根先おねさきは天狗の通路であって、樵夫きこりの輩やから一切夜分やぶんは居らぬことにしていると述べた。しからば村方むらかたの者どもは、山の平に廻って止宿せよと申聞け、自分だけ其場に止宿したと記している。紀州熊野でも山中に小屋を掛ける人たち、谷の奥が行抜けになって向う側へ越えうる場所はこれを避け、奥の切立って行詰まりになった地形を選定するのを常とした。その理由は行抜けのできる谷合たにあいは、通り物の路みちに当っているからだと、南方熊楠氏に告げた者があるそうだ。
 そうかと思うと一方には、人が開いた新道を、どしどし彼らが利用している場合もあるらしい。秋田から仙北郡の刈和野かりわのへ越える何とか峠には、頂上に一軒家の茶店があった。秋田の丹生氏がかつてこの家に休んだ時、わたしらももう何処かへ引越したいと、茶屋の主がいうので、どういうわけかと訊ねてみると、じつは夜分になると、毎度のように山男が家の前を通る。太平山たいへいざんから目々木めめきの方へ越えて行くらしく、大きな声で話をしてどやどやと通ることがある。この峠は疑なく山鬼の路らしいから、永くはおられませぬと答えたそうである。遠野でも町から北へ一里ばかり入って、柏崎の松山の下を曲がる辺に、路が丁字に会してその辻に大きな山神石塔を立ててある。近い年或る人が通行していると、山から下りてくる足音がするのを、何の気なしに出逢うて見たところが、赤い背の高い眼の怖ろしい、真裸の山の神であった。はっと思うなり飛退とびのいてしまって、自身はそこに気絶して倒れた。石塔はすなわちその記念の為であった。『遠野物語』にもその話は筆録しておいたがかなり鋭敏な鼻と耳との感覚を持ち、また巧みに人を避けるらしい山人にも、なお人間らしき不注意と不意打とはあったのである。第一昼間人間の作っておく路などを、降りてきたのは気楽過ぎていた。

 山鬼さんきという話は安芸の厳島いつくしまなどでは、久しく天狗護法てんぐごほうの別名のごとく考えられている。或いは三鬼とも書いてその数が三人と解する者もあったらしい。御山みせんの神聖を守護して不浄の凡俗のこれに近づくを戒め、しばしば奇異を示して不信者の所業を前もって慎つつしましめようとしていた。最も普通の不思議は廻廊の板縁いたべりの上に、偉大なる足跡を印して衆人に見せることである。或いは雪の朝に思いがけぬ社の屋おくの上などにこれを見ることもあった。その次は他の地方で天狗笑いまたは天狗倒しともいうもので、山中茂林の中に異常の物音を発し、或いはまた意味不明なる人の声がすることもあった。これを聴いて畏れおののかぬ者のなかったは尤もである。秋田方面の山鬼ももとは山中の異人の汎称はんしょうであったらしいのが、のちには大平山上に常住する者のみをそういうことになり、ついには三吉大権現だいごんげんとも書いて、儼然げんぜんとして今はすでに神である。しかも佐竹家が率先して夙つとにこれを崇敬すうけいした動機は、すぐれて神通力という中にも、特に早道はやみち早飛脚はやびきゃくで、しばしば江戸と領地との間に吉凶を報じた奇瑞きずいからであった。従って沿道の各地でも今なお三吉様が道中姿で、その辺を通っていることがあるように考え、ことにその点を畏敬いけいしたのであった。神を拝む者はぜひともその神の御名みなを知らなければならぬというのは、ずいぶん古くからの多くの民族の習性であった。天狗がいよいよ超世間のものと決定してから、太郎坊・三尺坊等の名が始めて現れたことは、従来人の注意せざるところであった。どういう原因でそんな名前が始まったかを考えてみたら、また多くの新たなる答が出てくることであろう。

二八 三尺ばかりの大草履のこと

 また山男の草履ぞうりを見たという話がある。夏冬を打通して碌ろくな衣裳いしょうも引掛けていなかった者に、履物はきものの沙汰さたもちとおかしいとは思うが、妙にその噂が東部日本の方には拡がっている。信州木曾辺はことにこれを説く者が多い。出羽の荘内の山中でも杣人そまびとがこれを拾ってきて、小屋の入口の柱に吊つるして置くと、夜のうちに持って還ったか、見えなくなったなどといっている。上州の妙義みょうぎ・榛名はるなでも猟師・木樵の徒、山中でこの物を見るときは畏れてこれを避けたと、『越人関弓録えつじんかんきゅうろく』という書には説いてある。

 その草履の大きさは三四尺、これを山丈の鞋わらじと称すとある。『四隣譚叢しりんだんそう』などによれば、信州は千隈川ちくまがわの水源川上村附近の山地においても、山姥の沓くつの話を信じている。藤蔓ふじづるを曲げ樹の皮をもって織ってあるなどと、なかなか手のこんだもののように言い伝えているのである。大きいと言えばすぐに長さ三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、かりにこれに相応するような大足の持主があるにしても、そんな物を履はいて山の中があるけたものでない。我々風情ふぜいの草履ですらも、野山を盛んに飛廻っていた時代には、アシナカ(足半)と称するものを用い、または単に繩なわで足の一部分を縛しばって、たいていは足一杯の草履は履かなかった。すなわち足趾そくしのつけ根の一番力の入る部分を、保護するだけをもって満足したのであった。

 ただしこの類の話などは、誇張妄誕こちょうもうたんといわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う。見たかと思ったらすぐになくなっていたというようなもので、確かな出来事ではなかったかと思う。いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。もちろん話にしたところで根原がなければならぬ。作って偽を説く者はあっても、そうみなが信ずるはずはないからである。ただ話ならば少しずつ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸にのへ郡の浄法寺じょうほうじ村などで、深山に木を伐る者の発見したというのは、例のマダの樹の皮で作った大草履で、その原料のマダの皮が、およそ馬七頭につけて戻るくらいの分量であったと話している。面白いといって聴くのはよいが、全体に今ではもう話になりすぎている。それというのが風説のみ次第に高く、実際に見た出逢ったという人の例が、だんだん少なくなって行く結果である。

 山丈・山姥の鞋という話は、我々の持っていた沓掛くつかけの習俗、すなわち浅草仁王門の格子こうしの木にむやみな大わらんじの片足をぶらさげた行為などと比較して考えて見るべきものかと思う。現在各地の街道筋に、沓掛という地名のあるところには、通例は道の神の森または老樹があって、通行の人馬の古沓ふるぐつなどが引掛けてある。或いは下から高く投げ上げて占うらないをしたという地方もあり、または支那でいう鮑魚神ほうぎょしん同然にその草鞋の喬木きょうぼくの梢にあるを異として、神に祀った話もある。霊山の麓などでは山の土を遠く持ちだすことを山神悪にくみたもうという信仰もあって、必ず登山の鞋を脱いで行く場処もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して献上する例も弘く行われていた。山の神は一本足だと称して、大きな片足だけを供える。竈かまどの神は馬でありもしくは馬に乗ってくるというので、新しい馬の沓を上げていた根原は、おそらく絵馬えまなども同様に、これを召しておわしませ、これを召して立たせたまえと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思うが、もちろん信仰はだんだんに変化している。ことに路の傍や辻境つじざかいなどに偉大な履物を作って置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠こもっていた。いつの世から始まったことか知らぬが、こんな大きな草履を用いる者が、この村にはいるから馬鹿にしてはいけないということを、勝手を知らぬ外来者、すなわち鬼や疫病神やくびょうがみに知らしめるために、一種の示威運動としてこうするように、解釈している者も少なくはないのである。敵に対しては詐術さじゅつも正道と、つい近ごろまで我々も信じていた。そうかと思うと海南の小島においては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れてきたといって、畏れ慎んでいた話もあった。この方が多分一つ前の俗信で、つまりは己おのれの心に欲せざるところを、人に向かって逆用しようとしたものであるらしいのだ。

 だから第二の仮定説としては、山人の大草履も自分のためには必要でないが、世人を畏嚇いかくする目的でわざわざこれを作り、なるべく見られやすいところにおいたものとも考えられぬことはない。しかしそのような気の利いた才覚は、ついぞ彼らの挙動から見出したことがないから、今ではまだそれまで買いかぶることができないのである。もっとも深山の奥に僅少の平和を楽む者が、いや猟人かりうどだの岩魚釣いわなつりだの、材木屋だの鉱山師だの、また用もない山登りだのと、毎々きて邪魔をすることは鬱陶うっとうしいには相違ない。やめて欲しいと思っていることは、此方からでも想像することができた。そこに単独の約束が起こり法則が生じて、のちようやく宗教の形になって行くことは、いずれの民族でも変りはなかった。しかも冷淡なる第三者の目をもって判ずればそは単に一方だけの自問自答であって、果して此方の譲歩が先方の満足と相当ったか否かは、確かめたわけではないのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所または霊地と名づけてあえて侵さなかった。それが自然に原住土人にとっての一種のレザーヴとなったことは、原因ともどちらとでも解せられる。いわゆる入いらず山に強しいて入った者の、主観的なる制裁は多様であった。最も惨酷なるものは空へ引きあげて、二つに割さいて投げおろすといった。或いは何とも知れぬ原因で躓つまずいたり落ちたりして傷きずつきまたは死んだ。永遠に隠されてしまって親兄弟を歎かしめることもある。およそ尋常邑里ゆうりの生存において予知すべからざる危難は、ことごとく自ら責め深く慎むべき理由としてこれを認めたのが山民の信仰であった。

 それ以外にも予告警戒のごときものはいくらもあった。天狗の礫つぶてと称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、早速に引きあげてくるものが多かった。こればかりは猿さえもするから、或いは山人の真の意趣に出たものと考えてもよいが、それがいつでも合図に近くして、かつてこれによって傷いたという者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起こり、別に或る種の隠れた原因があるらしいから、まだなんとも断定はできない。それから足音や笑い声の類は、偶然にこれを聴いた者がおじ恐れたというだけで、もとよりそのような計画のあったことを、立証することは容易でない。ことに最も有名なる天狗倒しの音響に至っては、果して作者が彼らであったかということさえ、なお疑わなければならぬのであった。或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方あとかたもない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐きり倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話で、こういう出来事があまり毎度繰り返されると、山が荒れると称して人が不安を感じ始め、ついにはその谷を「よくないところ」の一つに算かぞえて、避けて入らぬようにもなるのである。しかし多勢が一度に聴いても幻覚はやはり幻覚である。或いは同じ物音をともに聴いたと思っても、甲の暗示が乙を誘い、また丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子たいこばかばやし、或いは広島などでいうバタバタの怪、始めて鉄道の通じた土地で、汽笛汽鑵車きかんしゃの響を狐狸こりが真似するというの類、およそ異常に強烈な印象を与えたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、じつは他にも数限りがないので、たまたま山の生活と交渉のある場合ばかりこれを目に見えぬ山の人の神通に托するがごときは、むしろ我々の想像の力の致すところであったかも知れぬ。

 ただしこれをも我々の実験の中に算えて、見た出逢ったというのと同じ程度の、信用を博している物語は多いのである。少なくともその二三の例は、のちの研究者のために残しておく必要があると思う。

『白河風土記しらかわふどき』巻四に、「鶴生つりう(福島県西白河郡西郷村大字)の奥なる高助たかすけと云ふ所の山にては炭竈すみがまに宿する者、時としては鬼魅きみの怪を聴くことあり。其怪を伐木坊きりきぼう又は小豆磨あずきとぎと謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐ふばつの声ありて顛木てんぼくの響を為す。明くる日其処を見るに何の痕あとも無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を為す。其声サク/\と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。」

『笈埃随筆きゅうあいずいひつ』巻一に、「途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何いずれの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と言ふ人、豊後杵築きづきの産なり今は京に住めり。此人の云ふ。国に在りし時、雉子きじを打ちに夜込よごみに出でたり。友二三人と共に鳥銃ちようじゆうを携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に当りぬべく覚えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押静おししずめ、先づ下に坐ざせしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥おびただしかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫てんぐつぶてと云ふものなり。曾かつて中あたるものには非ず。若もし中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず猟無し。今夜は帰るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一ひとつも獲物なくして帰りたりといへり。」

『今斉諧きんせいかい』巻二に、「加賀金沢の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶たえたる谷川の岸を行きしに、水辺には蘆あしすき間も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた対坐して談笑する声聞ゆ。篠原之これを怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮さえぎられて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦また行かず。因つて其犬の四足を捉とらへ、力を極めて之を蘆原の彼方かなたへ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏おそれを抱いだき家に帰る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。」

『北越奇談ほくえつきだん』に、「神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生せつしようを好む。村の十余町奥なる山神社の下の渓流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩なわを流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。暁あかつきに及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺うかがふに、長たけ一丈余りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕みの如き手を出して攫つかみ上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば気絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。」

 次も同じく越後の事であるが、これは会津八一あいづやいち氏の話を聴いたのである。妙高山の谷には硫黄いおうの多く産する処があるが、天狗の所有なりとして近頃までも採りに行く者は無かった。ところが先年中頸城なかくびき郡板倉いたくら村大字横町の何右衛門とかいう者、これに眼を着けて十数名の人夫を引率し、この山に入って谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜はこの小屋に集まって寝た。或る夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先ず寒いから火を焚たこうとしていると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入って来た。皆の者は怖しさに片隅かたすみに押しかたまり、蒲団ふとんを被かぶって様子を伺っていると、かの者はずかずかと板の間まに上って来たようであったがその後の事はわからず。夜の明けるのを待って見れば、かの何右衛門だけは首を後向うしろむきに捻ねじ切られてつめたくなっていたと謂う。今でもこの谷に入って若し硫黄の一片でも拾おうとする者があれば、必ず峰の上から大声で、そこ取んなアとどなる者があると謂い、また首を捻じられるからと少しでも侵す者は無いそうだ。またこの辺の村に往って天狗などはこの世に無いものだとでも言おうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。この時の人夫の一人に、近い頃まで生きていたのであって、その老人から直接にこの話を聴いた者は幾人もあったのである。

二九 巨人の足跡を崇敬せしこと

 山人の丈たけの高いということは、古くからの話であったと見えて、オオヒトという別名も久しく行われていた。これもオオヒトというからには、ちっとやそっとでは承知ができず、見上げるような高い樹の幹に、皮を剥はいだ痕があったとか、五六尺もある萱原かやはらに、腰から下だけが隠れていたとか、または山小屋を跨またいでゆさぶったとか、いろいろな珍しい話を伝えているかと思うと、一方には我々とたいてい同じくらいの、やや頑丈がんじょうなる体格であったといい、六尺より低いのは見たことがないという類の、穏健なる記録もまたいくらもあったので、きのこか何かででもない以上は、そのような大小不揃ふぞろいの物があるわけはないから、すなわちこれも又聞またぎきの場合の掛値かけねであったことを、想像しえられるのである。

 或いは雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも伝えられる。なかにはあんまりえらい大股おおまたであるくのを、やはり大昔から人が想像している通り、一本足で飛びまわるのが真まことらしいと考えていた人さえあった。それらの観察の精確を欠いていることは、論のない話であるが、もともと大きいが故にこれを山男の足跡だろうといった人があるとすれば、すなわち迷信の原因は別にすでにあったものと認めなければならぬ。

 しかも日本は古くから、足跡崇敬の国であった。神明仏菩薩ぼさつ勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けている国であった。いわば山人思想の宗教化ということには、正しく先蹤せんしょうがあったのである。我々平民の祖先は、国土平定というごとき記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に帰していたのみならず、諸国の地方神に随従して神徳を宣伝したという眷属けんぞくの小神にも、また大人の名を附与してその遺跡と口碑とを保存し、さらにオオヒトが山にいる異種人の別名なることを知った場合でも、なお単なる畏怖の念以上のものをもって、その強力の跡を拝もうとしていたのである。

 東部日本の諸県において、オオヒトといったのは山人のことであった。もちろん大きいからの大人であろうが、その大きさが驚くべく一様でなかった。見た人が次第に少なく、語る人ますます多かりし証拠である。今に至っては実状を確かめることはむつかしいが、区々の異説は及ぶ限りこれを保存しておかねばならぬ。

一 陸奥と出羽との境なる吾妻山の奥に、大人と云ふものあり。蓋けだし山気の生ずる所なり。其長たけ一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入来る。村人之を敬すること神の如く、其為に酒食を設く。大人は之を食はず、悉ことごとく包みて持帰る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作なせしことを聞かず。神保甲作の話なり(『今斉諧』巻四)。

二 上野黒竜山不動寺は、山深く嶮岨けんそにして、堂宇どうう其間に在り。魔所と言ひ伝へて怪異甚だ多し。山の主ぬしとて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐ざするとき膝ひざの高さ三尺ばかりあり。偶※(二の字点、1-2-22)たまたま足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十余間を隔つと云へり(『日東本草図彙』)。
三 高田の大工だいく又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路そばみちの引廻りたる処にて図らずも大人に行逢ゆきあひたり。其形そのかたち裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ。眼の光星の如く、手に兎うさぎ一つ提さげて静かに歩み来る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ(『北越雑記』巻十九)。
四 飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞きたる人無し。或猟師山深く分け入りて獣多き処を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り来ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方かた無くせめては斯かくもせば助からんかと、飢うえの用意に持ちたる団飯にぎりめしを取出とりいで、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる様なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒こうこうと云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありて此者狐きつね貉むじな夥おびただしく殺しもて来り与へぬ。団飯の恩に報いる也けり。猟師労無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎ひごとに団飯を包み行きて獣に換へ帰りたり。然るを隣なる猟師之を怪み、窃ひそかに窺うかがひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん弾たまこめて打ちたり。打たれて遁げければ猟師も帰りぬ。前の猟師此事を聞きて、あな不便の事やとて、猶なお山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ様なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇あだを、我に怨みやせんと怖しくなりて止やみぬ。斯かくて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の伝へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知慎ほそいともちか語れり(『視聴草みききぐさ』第四集巻六所録「荻生徂徠手記」)。

 巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけでない。小田内通敏君が聴いてきて教えてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或る年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊したところ、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあった。主人にそのわけを尋ねると、つい近いころに、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅っていると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であった。怖ろしいから茅かやの蔭に隠れていて、のちにその場所に行って見れば、川原に甚だ大きな足跡があった。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んできて見せると、一同は崇敬のあまり、その足跡の砂を取分けて各自の家に持還もちかえり、こうして神棚に上げておくのだと答えたそうである。

 雪の上に大きな足跡を見たという話はまだ沢山ある。その二三をあげてみると、

一 遠州奥山おくやま郷白鞍山しらくらやまは、浦川の水源なり。大峰を通り凡おおよそ四里、山中人跡稀まれなり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す(『遠江国風土記伝』)。

二 駿河安倍あべ郡腰越こしごえ村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許ばかり、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて続けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ひとまたぎに渡りしと覚えしは、其川向かわむこう二三間げんにも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞ふんを見当ることあるに鈴竹すずたけといふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり(『甲子夜話かつしやわ』)。

三 小虫倉山、虫倉明神、公時きんときの母の霊を祭る。因つて阿姥おうば明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭いとひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり(『信濃奇勝録』巻二)。

四 文政中、高岡たかおか郡大野見おおのみ郷島の川の山中にて、官より香蕈こうじんを作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と称し、常にあるものなり。香美かみ郡にもあり(『土佐海』続編)。

 土佐では山人を一般に山爺やまじいと呼んでいる。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、これにあったという人さえあった。紀州熊野の深山でも、一たたら、または一本踏鞴たたらなどと伝え、かつて勇士に退治せられた話がある。その他の府県でも、山に一本足の怪物がいるという説は多いが、単に雪の上の足跡から、推測しうべきことではもちろんなかった。すなわち実験以前から、そういう言い伝えがすでにあったので、誤信ながらもそれにはまた、別途の説明があったのである。

 また雪の上ではなくとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かしていた。信州戸隠でも大雨ののち、畑などの土に二三尺の足跡のあるのをたびたび見たといい、越後の苗場山なえばやまでも雨後に山上に登れば、長さ尺余の足跡を見ることがあると、『越後野志えちごやし』巻六に書いている。播州揖保いぼ郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と伝うる古塚があって、石の祠ほこらが安置してあった。嘉永の初年とかに、或る人この辺を拓ひらいて畑としたところが、一夜の中に踏荒ふみあらして大きな人の足跡があった。そうしてその家は全家発狂してしまったと、『西讃府志せいさんふし』巻五十一に書いている。

『仙梅日記せんばいにっき』には駿州梅うめヶ島しま・仙せんヶ俣またの旅行において、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野かどのというところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩が凹へこんで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。

 こういう人々の心持では、巌石の上に不朽の痕跡こんせきを止めることも、大人ならば不可能でないと思ったのであろうが、親しく実際についてみると、ほとんとその全部が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『常陸風土記ひたちふどき』大櫛岡おおくしおかの条にもある。丘壟おかの上に腰かけて大海の蜃おおうむぎを採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。

『播磨風土記はりまふどき』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰こゆる迹処あとどころ数々あまた沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の霊物があって、誤ってその名を山人に付与したのではないかということになるが、もしそうならばこれとともに足跡に関する畏敬いけいの情までも、移して彼に与えたことになるのである。すなわち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのはむしろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になったためにかえって一層これを神秘化したものでないかとも思われるのである。

 現在の大人足跡は中国に最も多く、四国・紀州等はこれに次ぎ、いずれも地名となって各国数十百を算する。しかし他の地方とても決して絶無ではなく、ことに偉大な足跡は到るところに散在しているが、その或るものは単純にこれを鬼の足跡ともいい、或いはまた大太法師とも唱えている。関東の各地でダイラボッチ、もしくはデエラ坊の話というのもこれで、多くはいわゆる足跡に伴なう伝説である。東京の近郊などにも現にいくつかあるが、全国を通じて大体にこれを二様に区別することができる。その一つは前の駿州仙ヶ俣の場合のごとく、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石のごとく堅いものを踏み窪くぼめたという点にあり、従って独り山人のみにあらず古来の偉人勇士例えば弁慶・曾我五郎という類の人々までが作者である故に、その形はさして大きくない。そうしてその石はたいてい崇拝せられている。これに反して第二の種類にはいくらでも大きなものがあって、従って鬼物巨霊にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田だいだという停留所の辺には、昔大太法師が架けたという橋があり、それからわずか南東にある足跡は、足形こそしてはいるが、面積は約三町歩、内部は元もと杉林であったが、今では文化住宅でも建っているかも知れぬ。踵かかとにあたるところには地下水の露頭があり、その傍には小さな堂もあった。それからまた東南方には二ヶ処の足跡あり、駒沢村にあるものは更に偉大であった。いずれも泉の噴出に起因する窪地で、形状は足跡とも見られぬことはなかった。上総の鶴枝つるえ村で見たものは、小川を隔てて双方の岡の上にあった。その一つはすでに崩れているが、他の一つは約一畝歩せぶ、四周の樹林地の中にこれだけが土地台帳で別筆となって、その分を開いて麦か何かが播まいてあった。甲州信州辺のデエラボッチャも、たいていは孤立した湿地であったが、そうでない足跡もあるようである。何にしても附近と地形が違って、それがほぼ足形をしておれば、大人の跡といったのである。

 大人は富士を脊負うて、いずれへか持って行こうとしたり、または一夜に大湖を埋めようとして簣きを以て土を運んだ。その簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だこの山だという話はどこにでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきはことごとく水土の工事に関聯し、ところによっては山を蹴開けびらき湖水を流し、耕地を作ってくれたなどと伝え、すこぶる天地剖析ほうせきの神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言い伝えには相違ないのである。大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山くりからやまの打越に一つ、次には河北郡木越きごしの光林寺の址あとという田の中、次には能美郡波佐谷はさだにの山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。いずれも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壱岐の島の国分の初丘にあるもの、爪先つまさき北に向かって南北に十二間、幅は六間で踵のところが二間、これを大の足跡と呼んでいる。大昔に大という人、九州から対馬へ渡ろうとして、この中間の島に足を踏立てた。その跡であるという。少し窪んで水が出ている。こんなところは附近に多いと『壱岐名勝図誌いきめいしょうずし』には記している。

 大人は九州の南部では、大人弥五郎と称し、また大人隼人はやとなどともいっている。八幡神社の眷属けんぞくのようにもいえば、また昔この大神に治伐せられた兇賊のごとくにも伝えて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作って曳ひきあるいている。そうして隼人はまたこの地方では、征服せられたる先住民の総称である。隼人が上代の被征服者であるために、これを大人隼人などと呼んでいるのならば、我々の伝えんと欲する山の人も、オオヒトという別名をえた理由が別になおあったかも知れぬ。しかし考えて行くほどかえってだんだんにむつかしくなるらしいから、もうこの辺で一旦いったんは話をやめておこう。

三〇 これは日本文化史の未解決の問題なること

 ここで打切ってはもちろんこの研究は不完全なものである。最初自分の企てていたことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外な現実の影響が強かったということを、論証してみるにあったのだが、残念ながらそれにはまだ資料が十分でない。後代の篤学者はなお多くの隠れたるものを発掘することであろう。しかしただ一つほぼ断定してもよいと思うことは、中世以後の天狗思想の進化に著しく山人に関する経験が働いていたことである。単に眼が光る色が赤い、背が高いなどの外形のみではない。仏法方面の人からは天魔の扱いを受けつつも、感情があり好意悪意があって、或いは我々に近づき或いはまた擯斥ひんせきし、機嫌きげんにも時々のむらがあって、気に向けば義侠的に世話をしてくれるなど、至って平凡なる人間味の若干をまじえていることは、それが純然たる空想の所産でないことを思わしめる。

 彼らはまた時として我々から、ひどくやっつけられたという話もある。天狗の神通じんずうをもってして、不覚千万ふかくせんばんのようではあるが、かの杉の皮で鼻を弾はじかれて、人間という者は心にもないことをするから怖ろしいといった昔話などは、少なくともかつて人間と彼らとの間に、対等の交際があったという偶然の証拠である。欺くに方法をもってするならば、天狗必ずしも恐るるに足らずとする考えは、我々の世渡りには大切なる教訓でありまた激励であった。故に或いは自分だけは筍たけのこを喰い、相手には竹を切って煮て食わせて見たとか、また白い丸石を炉の火で焼いて、餅を食いにきた山人に食わせたら、大いに苦しんで遁げ去ったとかいうがごとき詐謀をもってこれを征服した物語が、諸国に数多く伝わっているので、しかもその古伝の骨子をなす点が、主として火の美感であり、穀物の味であり、いずれも山人と名づくるこの島国の原住民の、ほとんと永遠に奪い去られた幸福であったことを考えると、山の人生の古来の不安、すなわち時あって発現する彼らの憤怒ふんぬ、ないしは粗暴をきわめた侵掠しんりゃくと誘惑の畏れなども、幾分か自然に近く解釈しえられるかと思われ、これと相関聯する土地神の信仰に、顕著な特色の認められるのも、畢竟ひっきょうはこの民族の歴史が、これを促したということになるのである。

 最後になお一つ話が残っている。数多ある村里の住民の中で、特別に山の人と懇意にしていたという者が処々にあった。その問題だけは述べておかねばならぬ。天狗の方にも名山霊刹れいさつの彼らを仏法の守護者と頼んだもの以外に、尋常民家の人であって、やはり時としてかの珍客の訪問を受けたという例は相応にあった。その中でもことに有名なのは、加賀の松任まつとうの餅屋もちやであったが、たしか越中の高岡にも半分以上似た話があり、その他あの地方には少なくとも世間の噂で、天狗の恩顧を説かるる家は多かったのである。今ではほとんと広告の用にも立たぬか知らぬが、当初は決してうかうかとした笑話でなかった。訪問のあるという日は前兆があり、またはあらかじめ定まっていて、一家戒慎かいしんして室を浄きよめ、叨みだりに人を近づけず、しかも出入坐臥ざが飲食ともに、音もなく目にも触れなかったことは、他の多くの尊い神々も同じであった。災害を予報し、作法方式を示し、時あって憂うれいや迷まよいを抱く者が、この主人を介して神教を求めんとしたことも、想像にかたくないのであった。すなわちただ一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲のごとく、専門の行者となって一代を風靡ふうびし、もしくは近世の野州古峰原こぶがはらのように一派の信仰の中心となるべき境まできていたので、しかもその大切なる顕冥けんめい両界の連鎖をなしたものが、単に由緒久しき名物の餡餅あんもちであったことを知るに至っては、心窃こころひそかに在来の宗教起原論の研究者が、いたずらに天外の五里霧中に辛苦していたことを、感ぜざる者は少なくないであろう。

 始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遙かに大なる人生の部分を占めていた。餅ほどうまい物は世の中にはないと考えた凡俗は、これを清く製して献上することによって、神御満足の御面おんおもざしを、空に描くことをえたろうと思ううえに、更にその推測を確かめるにたるだけの実験が、時あって日常生活の上にも行われたのである。我々の畏敬してやまなかった山の人も、米を好みことに餅の香を愛したのであった。特別なる交際が餅をもって始まったという話は、もちろん話であろうが今に方々に伝わっている。これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原たかまがはらだけを説いているがよい。自分たちは今ある下界の平民の信仰が、いかに発達してこうまで完成したかを考えてみようとするのである。前に話した馬に七駄のマダの皮で、草履を作っていたという陸中浄法寺の村で、或る農夫は山に行って山男に逢った。昼弁当の餅を珍しがるから分けてやると、非常に喜んでこれを食った。お前の家ではもう田を打ったか、いやまだ打たぬというとそんだら打ってやるから何月何日の晩に、三本鍬くわと一緒に餅を三升ほど搗ついて田の畔あぜに置けという。約のごとくにして翌日往って見ると、餅はなくなり田はよく打ってあったが、大小の田の境もなく一面に打ちのめしてあった。それからも友だちになって、山に行くたびに餅をはたられて困った。その山男がまた彼に向かって、おれは誠によい人間だが、かかアは悪いやつだから見られないように用心せよとたびたび言って聴かせたという話もあって、六七十年前の出来事のように考えられている(『郷土研究』一ノ九、佐々木君、次も同じ)。この地方の昔話の「山はは」は実際怖ろしい。鬼婆・天あまのじゃくのした仕事が、ここでは皆山ははの所業になっている。

 また閉伊へい郡の六角牛ろっこうし山では、青笹村の某が山に入ってマダの樹の皮を剥いでいると、じっと立って見ていた七尺余りの男があった。おれもすけてやるべとさながら麻を剥ぐようにたちまちにしてもうたくさんになった。それから傍の火にあぶっておいた餅を指ざし、くれというから承知をすると、無遠慮にみな食ってしまった。来年の今ごろもまた来るかと聞く故に、後難を恐れてもう来ないと答えると、そんだら三升の餅をいついつの晩に、お前の家の庭へ出しておいてくれ、一年中のマダの皮を持って往ってやるからというので、これもその通りにして見ると翌年は約束の日の夜中に、庭でどしんと大荷物をおく音がした。およそ馬に二駄ほどのマダの皮であったという。それから以後は毎年同じ日に、この家の庭上でいわゆる無言貿易は行われたのだが、今の主人の若年のころから、どうしたものか餅は供えておいても、マダの皮は持って来ぬようになったといっている。

『津軽旧事談つがるくじだん』に『弘藩明治一統志こうはんめいじいっとうし』その他を引いて、岩木山の大人と親善だったと記しているのは、麓の鬼沢村の弥十郎という農夫であった。これはのちに自分もまた、大人となって行方を知らずとも伝えられる。彼は最初薪まきを採りに入って偶然と懇意になり、角力すもうなどを取って日を暮し、素手すでで帰ってくると必ず一夜の中に、二三日分ほどの薪が家の背戸せどに積んであった。或いはまた大人が弥十郎を助け、新たにこの土地を開発したのだともいい、また赤倉の谷から水を導いて村の耕地に灌漑かんがいしたのも、同じ大人の力であったと称して、その驚くべき難土木の跡について、逆さかさ水の伝説を語っている。村の名の鬼沢と産土うぶすなの社の名の鬼ノ宮とは果して今の口碑の結果であるか、はた原因であるかを決しかねるが後々までも村に怪力の人が輩出したといい、或いはまた大人が鎮守ちんじゅを約諾して、そのかわりには五月の節供せっくに菖蒲しょうぶを葺ふかず、節分に豆をまくなかれと言ったとあって、永く正直にこの二種の物を用いなかったのは少なくとも近代の雑説ではなかった証拠である。大人が弥十郎の妻に姿を見られたのを理由にして、再び来なくなったというのにも何か仔細しさいがありそうだ。その折記念に遺して去った蓑笠みのかさは鬼ノ宮に、鍬は藤田という家に伝わっているそうだが、藤田は多分弥十郎の末ですなわち草分くさわけの家であったろう。南部の方でも三戸さんのへ郡の荒沢不動に、山男の使った木臼きうすが伝わっていることを『糠部五郡小史ぬかのぶごぐんしょうし』には録している。これで橡実とちのみを搗ついて食っていたという話は疑わしくとも、昔かつて彼らと交際のあったことを信じていたことだけは推察せられる。

 津軽の山人は角力を取ったというのみで餅をどうしたという話は残ってないが、秋田の方へ越えてみると、この二つの事件も結びついている。これも小田内通敏氏の談であるが、五城目ごじょうのめ近在の木樵でかねて田舎相撲の心得ある某、或る日山で働いて木を負うて立とうとすると不意に山男が出てきて相撲を取ろうと言うて留めた。そこで荷を再び下に卸して力を角かくし一番はまず彼を投げたら強いと褒ほめてくれた。二番目にはわざと勝を譲って還ろうとしたが、山男は少し待ってくれと言って、更に二三人の仲間を連れてきて取らせたので、いずれも一番は勝ち一番は負けて別れてきた。それが縁になってその後もおりおり出会ううちに、或る時いつ幾日にはその方の家へ遊びに行く。家の者を外へやり、餅を搗いて待っていよというのでその通りにして一斗ほどの餅を振舞うと、数人の山男が悦んで終日遊んで帰った。それはよかったがその後もおりおりやってきて、酒を飲ませろの何のと言うために、ついにはその煩しさに堪えず、これを気に病んで久しく寝ているようなことになった。村の人たちはこれを見て、山男などと附合つきあいをするのは、いずれ身のためには好よくないことだと話し合っていたそうであるが、もしこの樵夫にせめて松任の餅屋ほどの気働きばたらきがあったら、神経衰弱などにはならずにすみそうなものであった。しかも因縁ばかり永く続いて人に信心のやや薄れた場合に、尋常一様の手段では元もと奉仕した神と別れることが難むつかしかったということは、しばしば巫術ふじゅつの家について言い伝えられた話であった。餅が化して白い小石になったということと、石を火に焼いて怪物を攻めたということとは、ともに古くからある物語には相異ないが、山人の場合には二つの話が合体して、あまり毎晩餅ばかり食いにくるので、のちには閉口して白い丸石を囲炉裏いろりに焼き知らぬ顔をして食わせて見ると、火焔かえんを吹いて飛びだして去ったとか、またはその祟たたりで大水が出たのが年代記にあるところの白髭水しらひげみずだなどと、いずれも皆一旦の好意とその後の不本意な、絶縁とを伝説する地方が多いのは、或いは何かこの方面の信仰の次々の変化を暗示するものではないかと思う。

 角力によって山男と近づきになったというのもまた偶然ではなかったようである。今日中央部以西の日本において、やたらに人と相撲を取りたがるのは、川童かっぱと話がきまっている。土佐ではシバテンといって芝天狗しばてんぐの略称かとも考えるが、挙動はほとんと川童と同じである。見たところ小児のごとくいかにも非力であるが、勝つと何遍でも今一番というので、うるさくてしかたがない。わざと負けてやるとキキと嬉しそうに鳴いて、また仲間をうんと喚よんでくる。何にしても厄介やっかいな相手で、彼らに挑まれた為に夜どおし角力を取り、後には気狂のようになったという話が九州などには多い。それでいて必ずしも狐狸こりのごとく騙だますつもりではないらしいのである。川童にせよ何にせよ、どうしてまたこんな趣意不明なる交渉が始まったというか。それには角力そのものの歴史を、今少しく遡さかのぼって考える必要があるようである。朝廷の相撲召合すもうめしあわせは七月を例とし、古い年中行事の一つではあったが、いわゆる唐制の模倣でもなければ、また皇室専属の儀式でもなかったらしい。おそらくは中央文化の或る段階において、民間の風習を採用して国技とせられたらしいことは、力士の諸国から貢進せられたのを見てもわかる。すなわちいわゆる田舎相撲の方が起原においては一つ前である。佐渡では今も村々を代表する選手があり名乗なのりを世襲し、会津の新宮権現でも、祭の日には村々の名を帯びた力士が出て、勝った村ではその年は仕合せ好よしと信ぜられたこと、歩射馬駆ぶしゃうまかけなども同じであった。すなわち祈願祈祷を専らとし怪力を神授と考え、部落互いに技を競うほかに、常に運勢の強弱とも言うべきものを認めていたのは、背後に大いに頼むところの氏神、里の神の御威光があったためで、しかも彼らは信心の未熟によってこれを傷けんことを畏おそれていたのである。時代がようやく進んで全民族の宗教はいよいよ統一し、小区域の敵愾心てきがいしんなどは意味もないものになったが、それでも古い名残は今だって少しは認められる。いわんや土地ごとに守り神を別にし、家門にはそれぞれの信仰があった際である。豊後の日田の鬼太夫の系図が、連綿として数百年に及ぶがごとく力の筋を神の筋に帰し、これをもって郷党の信望を繋ぎまたは集注せしめた者が、すなわち神人であったものかと思われる。山男に名ざされ、また川童に角力を挑いどまれるということは、言いかえればその者が不思議を感じやすく、神秘の前に無我になりやすい性質を具えていたことを意味し、一方には鞍馬くらまの奥僧正谷おくそうしょうたにの貴公子のように、試煉をへてその天分の怪力を発揮しうるのみならず、他の一方には目に見えぬ世界の紹介者として、また大いに神霊の道を社会に行うことをえたはずであったが、不幸にして国はすでに事大主義、宣伝万能の世となっていたために、割拠したる小盆地の神々は単なる妖怪をもって遇せられ、いまだ十分にその感化を実現せぬ前に有力なる外来の信仰に面してことごとくその光を失い、神が力を試みるというせっかくの旧方式も、結局無意味な擾乱じょうらんに過ぎぬことになったのである。
 自分の見るところをもってすれば、日本現在の村々の信仰には、根原に新旧の二系統があった。朝家の法制にもかつて天神地祇ちぎを分たれたが、のちの宗像むなかた・賀茂かも・八幡・熊野・春日かすが・住吉すみよし・諏訪すわ・白山はくさん・鹿島かしま・香取かとりのごとく、有効なる組織をもって神人を諸国に派し、次々に新たなる若宮わかみや今宮を増設して行ったもののほかに、別に土着年久しく住民心をともにして固く旧来の信仰を保持しているものがあった。荘園の創立は以前の郷里生活を一変し、領主はおおむね都人士の血と趣味とを嗣ついでいたために、仏教の側援そくえんある中央の大社を勧請かんじょうする方に傾いていたらしく、次第に今まであるものを改造して、例えば式内しきないの古社がほとんとその名を喪失したように、力つとめてこの統一の勢力に迎合したらしいが、これと同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼かねて持つものに引きつけた場合が少なくはなかったらしい。また右の二つの系統が時としては二つの層をなし、必ずしも一郷の八幡宮、一村全体の熊野社の威望を傷けることなくして、屋敷や一つの垣内かいとだけで、なお古くからの土地の神に、精誠せいぜいをいたしていた場合も多かった。頭屋とうやの慣習と鍵取かぎとりの制度、社家相続の方法等の中を尋ねると今とてもこの差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、ことに永年にわたって必ずしも官府の公認するところとならずとも、家から家へまたは母から娘へ、静かに流れていた信仰には、別に中断せられた証跡もない以上は、古いものが多く伝わると見てよろしい。それというのが信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強しいて日月星辰せいしんというがごとき荘麗にして物遠いところには心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとしていた結果、夙つとに祭を申し謹み仕えたのは、主としては山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである。導く人のやはり我わが仲間であったことは、或いは時代に相応せぬ鄙ひなぶりを匡ただしえない結果になったか知らぬが、そのかわりにはなつかしい我々の大昔が、たいして小賢こざかしい者の干渉を受けずに、ほぼうぶな形をもって今日までも続いてきた。例えば稚わかくして山に紛まぎれ入った姉弟が、そのころの紋様もんようある四よつ身みの衣を着て、ふと親の家に還ってきたようなものである。これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。
[#改丁]

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146. 2019年5月11日 20:03:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1771]
柳田国男 山の人生
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4. 赤かぶ[12862] kNSCqYLU 2019年5月11日 20:03:20 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2927]



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1. 中川隆[-10336] koaQ7Jey 2019年5月11日 20:08:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1773]

柳田國男 山人考 
大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿
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 私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田きだ博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰おおせられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇ちゅうちょをしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好よい機会でもあるので、なまじいに罷まかり出でたる次第でございます。

 現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。

 わが大御門おおみかどの御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国くにつ神かみと申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾やつかれは是これ国つ神、号なは脚摩乳あしなずち、我妻号わがつまのなは手摩乳てなずち云々」。また「高皇産霊神たかみむすびのかみは大物主神おおものぬしのかみに向ひ、汝若いましもし国つ神を以もて妻とせば、吾われは猶なお汝疎うとき心有ありとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣やつかれは是これ国つ神、名を珍彦うずひこと曰いふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光いひかと為なす」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦さるたひこをも、また国つ神と記しております。

 令りょうの神祇令じんぎりょうには天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔わみょうしょう』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓よみますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式えんぎしき』の神名帳には、国魂郡魂くにたまこおりたまという類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。

 しかも同じ『延喜式』の、中臣なかとみの祓詞はらえことばを見ますると、なお天津罪あまつつみと国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺こごしゅうい』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺くしざし・重播しきまき・畔放あはなちというごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解わかります。『日本紀』景行天皇四十年の詔みことのりに、「東夷ひがしのひなの中蝦夷うちえみし尤もっとも強こわし。男女交まじり居おり父子かぞこ別わかち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。

 同じ祝詞のりとの中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等あらぶるかみたちを、神かみ問とはしに問はしたまひ神かみ掃はらひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。

 前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記ふどき』に、土蜘蛛つちぐも退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀しょくにほんぎ』の文武天皇二年の条には太宰府だざいふに勅ちょくして豊後の大野、肥後の鞠智きくち、肥前の基肄きいの三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海※かいこう[#「寇」の「攴」に代えて「攵」、U+21A25、272-6]の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記せっつふどき』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔くずがおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。

 北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂とげたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。

 種族の絶滅ということは、血の混淆こんこうないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前かみさき郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口みそたりばかりありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。

 右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』巻の五、右京皇別佐伯直さへきのあたいの条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命みもろわけのみこと、成務天皇の御宇ぎょうに播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。

 この佐伯部は、自ら蝦夷の俘ふの神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀しゃくにほんぎ』に引用する暦録れきろくの、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛なまったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。

 サヘキの名称は、多分は障碍しょうがいという意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国には止とどまりませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。

 国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時おんときにもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣さかあいべのあそん、仰おおせを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸さかと・阪手さかて・阪梨さかなし(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との堺さかいを劃かくするに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天あまつ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞こい受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍がらんの地主神じぬしがみが、猟人の形で案内をせられ、また留とどまって守護したもうという縁起えんぎは、高野だけでは決してないのであります。

「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)者かりびと二十余人云々、または※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)者之首などとあるのは、国樔くずのことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人そのひととなり甚はなはだ淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄ほくざんしょう』『江次第ごうしだい』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖くずの奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄みあえを献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式くないしきには、諸もろもろの節会せちえの時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜つづき郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。

 また平野神社の四座御祭、園神そのがみ三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木さかきを執とって神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。

ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ

 これは後代の神楽歌かぐらうたで、衛士えじが昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛なまり、纏向穴師まきむくのあなしは三輪の東に峙そばだつ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召おぼしめしに基もとづいて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。

 しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵かぎでもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所おおうたどころの執とり物ものの歌としてあって、山人の手に持つ榊さかきの枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。

 山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神くにつかみが末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓よませているのであります。

 自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至ないしは下くだされ物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成り行ゆいたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。

 自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニは鬼の漢字を充あてたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道おんようどうの思想がこれと合体して、『今昔物語』の中の多くの鬼などは、人の形を具そなえたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪きっかいを演じ、時としては板戸に化けたり、油壺あぶらつぼになったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖がけの上に踞うずくまって、大きな笠を着て顋あごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰ふかんしていたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顛童子しゅてんどうじにせよ、鈴鹿山すずかやまの鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤頭にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪じんりんも三穂さんぼ太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛どうもうなるものに近く、護符や修験者しゅげんじゃの呪文じゅもんだけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。

 また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公おおやけの相撲の最手ほてに召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神いきがみのごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊はんぞうぼうや秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。

 それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼ごきであります。洞川どろかわという谷底の村に、今では五鬼何という苗字みょうじの家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職せんだつしょくを世襲し聖護院しょうごいんの法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目びもくとしておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内ぜんきかいとという地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏やまぶしの家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼ぜんきごきとも書いて役えんの行者ぎょうじゃの二人の侍者じしゃの子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。

 善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠ひとはたの茄子なすをみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。

 とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師たいちょうだいしなどは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、溯さかのぼって聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角えんのおづのに至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。

 土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕える女性もしくは童子どうじの名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官じんぎかん系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命おおやまつみのみことかその御娘の木花開耶姫このはなさくやひめと、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります。

 村に住む者が山神を祀まつり始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵さいしょうと開墾の障碍なきを祷いのるもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我けがをしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして路の畔ほとりに、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音ばとうかんのんもしくは庚申塔こうしんとうなどを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赭あかい眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります。

 天狗てんぐを山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験しゅげん・山伏やまぶしとよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細しさいのあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
 今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家すみかか、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫てんぐつぶて、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中あたって人を傷きずつけることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽ひき斫きる音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐きった株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の胆きもを寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛ふえ太鼓たいこの囃はやしの音があり、また喬木きょうぼくの梢こずえの燈の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
 しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊きりきぼうという怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸たぬきが化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算かぞえた本所の馬鹿囃子ばかばやしの類です。単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。

 私の住む牛込の高台にも、やはり頻々ひんぴんと深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元おひざもとにいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓はらづつみのみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏とじの歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。

 これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱こうらんする力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被かぶっていた、結果ではないかと思います。

 そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫へんかんであります。最も堂々たる同化であります。その二は討死うちじに、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆こんこうしたもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。

 こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残さしひきざん、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々ひひかまたは駄法螺だぼらかであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。

 山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄ほうきしたということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類きのこるいなどが多く、生なまで食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽こびき・炭焼すみやきの小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹かわがにを持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉至いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握ひとつかみの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録きりょまんろく』かに見えておりました。

 それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、馴ならせば無しにも起臥きがしえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋わらじと称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履おおぞうりを魔除まよけとするごとく、彼ら独特の畏嚇法いかくほうをもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。

 交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串こくしの尖さきまで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の聯絡れんらくは絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川ただみがわの上流から越後秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙さんいなどが列挙しえられます。飛騨は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入いりなども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島はなれじまでも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山くじゅうさん以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断しゃだんするのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分やぶんには彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路みちが楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道トンネルなども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞おそれはないからであります。
 山男・山姥が町の市日いちびに、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外には力つとめて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。

 もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭めいりょうになったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中よのなかが開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑ものつき物狂ものぐるいがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。

 それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんとないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込のみこんでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火たきびを悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送したりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源ぶりょうとうげんの発見とはなったのであろうと思います。

 これを要するに山人の絶滅とは、主としては在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈たけ高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人おおひとの足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦ながすねひこもしくは上州の八掬脛やつかはぎぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
 私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってはじつに無限の興味であります。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html#c1

コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
22. 2019年5月11日 20:10:57 : cLgZUN2doM : akdZS3o5STVINlU=[-51]
デマ拡散装置魑魅魍魎アマが絶賛フル稼働中
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c22
コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
30. 2019年5月11日 20:11:07 : LFdj7v4TY2 : Wjd2WFhmd1NEbzI=[209]
毎日新聞は聖教新聞の印刷業務委託を受けている。すでに昔から創価学会に取り込まれている。
与党公明党の謀略だろう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c30
コメント [経世済民132] 貯蓄「ゼロ」は約2割に 平均は「1293万円」 明治安田生命の家計調査 給与に満足している人も少ない結果に(ねとらぼ) 赤かぶ
9. 2019年5月11日 20:11:51 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[873]
#令和クーデター / #令和革命
.
海のピラミッド
2019/05/06 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=1LmW5ZsVdKg
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/306.html#c9
コメント [原発・フッ素51] 首都圏・看護師さんのツイート 「20〜30代で脳梗塞起こして入院してる人すごく多いんだよね」  魑魅魍魎男
23. 2019年5月11日 20:13:59 : GuoKbXntaY : NXhOZFZKZEVZVGc=[7]
>>21

福島の事故現場では巨大な汚染水タンクが林立しているじゃないか。しかも海への排出は国際非難が轟々だぞ。海流でアメリカ西海岸へ行くからな。

それが解決しない内はけふも安全安心なんて言っていられるのか。タンクの耐久性能がどうなのかは知らないが、永遠なわけがないだろう。壊れ始めたらどうするつもりなんだ。

http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/514.html#c23

コメント [経世済民132] 日本人の「魚離れ」が想像以上に進んでいる「これだけの理由」 魚嫌いが増えたわけではないのに…(現代ビジネス) 赤かぶ
19. 2019年5月11日 20:23:17 : GuoKbXntaY : NXhOZFZKZEVZVGc=[8]
>>18

海流の影響で汚染水は先ずアメリカ西海岸へ向かいます。その後メキシコを回ってからオーストラリア、フィリピン台湾と順に回って沖縄なのでは。東南アジアは比較的影響は少ないと思います。

ノルウェイ産もダメですか。以後サケはなるべく食べないように気をつけます。美味しいのですけどね。命と交換されてはたまりません。


http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/372.html#c19

コメント [カルト20] 宇・トラは世界経済を二分し中国に勝たせて多極化促進。日本は米を外していき、中露エネ同盟と印と組むのがお得である。 ポスト米英時代
2. 2019年5月11日 20:23:41 : HCDU7rB1lg : NkdOS2ZMTkJ0cXc=[210]
トランプは、イエズスイスロスチャの力を削ぎながら米国の世界覇権を縮小させ、「奴らのためのアメリカ」ではなく「人民のためのアメリカ」を再興させるべく大統領として正しい道を邁進できる。
中露は、イエズスイスロス中央銀行カルテルのドル詐欺影響下から離れ独自の経済圏をどんどん発展させていける。
トラも中露も両方美味しい作戦であります。
これがホントのwin-winの関係。
安倍が言ってるウィンウィンとは違います。
安倍のは、バカが滑舌の練習をしているだけ。。。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/844.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
44. transimpex[-258] gpSCkoKBgo6Ck4KJgo2CkIKFgpg 2019年5月11日 20:26:18 : QUIzga5GDg : VmRlcHcucWpmZHM=[-181]
transimpex_ochd(スコットランド・ケール語で8です)で投稿しています。

削除や非表示がお得意な朝鮮カルト信者達と上。

大阪の都構想は選挙で否決されたのに、、自分達の都合で都構想するまで

必死にアピール。

流石、、嘘八百 朝鮮カルト支持者達と政治屋達。

選挙 何回もするのなら、、意味がないと判らない馬鹿が多数。

だから、、大阪は、、馬鹿にされるのです。

キムチ臭いと。

帰国か、、他所へ行かれる事をお勧めします。

貴方達に、、民主主義は、、似合いません。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c44

コメント [カルト20] 新潮・共産の党名候補は日本大衆党。太郎を副党首に迎えて氷河期を多数立てれば単独過半数は確実である。 ポスト米英時代
13. 2019年5月11日 20:30:43 : LFdj7v4TY2 : Wjd2WFhmd1NEbzI=[210]
極左グループは共産党を「代々木官僚」と呼んでいる。同感である。
共産党を変えるには、党名よりも志位や市田を辞めさせることである。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/833.html#c13
コメント [政治・選挙・NHK260] 山本太郎に「1人で国会変えられるんか?」と聴衆! 「変えるしかない!」 本気の演説に涙が出た!  赤かぶ
47. 2019年5月11日 20:32:10 : EKMzO2z8pr : amRldDZRYUtNSkE=[57]
>>42
山本太郎さんが独裁ってことじゃないよ
ここで太郎さんや小沢さんを教祖のように崇め奉ってる人達のことさ
山本太郎とその子分じゃ駄目なんだよ
皆が山本太郎になるぐらいじゃないと

なんかこの構造って日本人に多い天皇好きと同じなんだよな
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/573.html#c47

コメント [政治・選挙・NHK260] 国民主権国家での「恩赦」は時代錯誤で矛盾に満ちている ここがおかしい 小林節が斬る!(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
14. 2019年5月11日 20:33:01 : 7PxjgQ7vfQ : amNmV1NRdmFBRlk=[2]
専制君主でないものが恩赦など大権を振り回すのは、あり得無い話。

まして、公職選挙法違反などで罪を帳消しにすることは、不正の権化の自民党を喜ばすだけだろう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/617.html#c14

コメント [政治・選挙・NHK260] <玉木雄一郎代表、呆れるしかない!>毎日新聞はどんな意図をもってこんな記事を書くのか。野党分断に加担しているのか!  赤かぶ
31. 2019年5月11日 20:35:07 : EKMzO2z8pr : amRldDZRYUtNSkE=[58]
毎日新聞に物申したいのは分かるがそれに便乗してまたテンプレコピペ工作か
大体不正選挙や支持率不正とかやらんでもおかしな放送やってれば大衆が判断を間違うのは当たり前だろ
イギリスのEU離脱問題見ろよ

ところで>>26
池田大作が死んだとか言うのも怪しげなブログが元ネタなんだろ
>>27じゃないけど憶測妄想じゃ信用を失うだけだ

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/605.html#c31

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相“北朝鮮無条件会談”に安倍応援団が手のひら返しでお追従! 八代弁護士、青山繁晴、竹田恒泰らが一斉に(リテラ) 赤かぶ
16. 2019年5月11日 20:36:06 : LFdj7v4TY2 : Wjd2WFhmd1NEbzI=[211]
東京だけじゃなく、大阪のテレビは維新をひいきしてくれる安倍ちゃんバンザイで
お追従報道しているのだろう。特にゴミウリテレビとかチンポ次郎とか。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/601.html#c16
記事 [経世済民132] 「日産公判分離せず」は、法人処罰の問題ではなく、司法取引の問題(郷原信郎が斬る)
「日産公判分離せず」は、法人処罰の問題ではなく、司法取引の問題
2019年5月9日 郷原信郎が斬る


カルロス・ゴーン氏、グレッグ・ケリー氏と、法人としての日産自動車が併合起訴された金融商品取引法違反の事件について、平成最後の平日の4月26日夕刻から東京地裁で行われた裁判官・検察官・弁護人の「三者打合せ」の場で、裁判所は、公訴事実を全面的に認める日産の公判と全面否認するゴーン氏らの公判と分離せず、日産についてもゴーン氏らと共通の証拠で事実認定する方針を示した。このことによって、検察は「ゴーン氏無罪判決阻止の最後の拠り所」だった「日産の法人事件の早期有罪決着」という「策略」が打ち砕かれることになり、日産も、公訴事実を全面的に認めているのに、ゴーン氏・ケリー氏と検察との全面対立が繰り広げられる公判に巻き込まれることになった。それが、検察にとっても日産にとっても「衝撃」であること、そして、日本の刑事司法の“激変”をも予感させる出来事であることを、平成の最後の日の記事【「日産公判分離せず」が検察と日産に与えた“衝撃”〜令和の時代に向けて日本の刑事司法“激変”の予兆】で述べた。

 10連休も終わり、令和時代の日本が本格的に動き出したが、今のところ、日産・ゴーン氏事件が話題に上ることはほとんどなく、改元とともに、平成最後の重大問題だったはずのこの事件が世の中の関心から遠ざかっているように思える。

 しかし、ゴーン氏逮捕の背景に、日産とルノーの経営統合の問題があり、そこに経産省など日本政府も関わっていたこと、日本を代表する自動車会社の一つである日産が社会的にも極めて重要であるからこそ、今回のゴーン氏の事件が発生したことは、もはや否定し難い事実となっている。その日産が、今回の裁判所の方針決定により、ゴーン氏らとともに、法人として刑事裁判の被告席に立たされ続けることが、同社の経営や経営体制に重大な影響を生じることは避けられない。6月末に開かれる日産の定時株主総会に向けて、ルノーなどの動きにもつながる可能性もある。

 それに加え、この事件の今後の展開によって、今回の事件での検察の動きの原動力ともなった「日本版司法取引」の今後に、そして、日本における法人処罰の運用にも大きな影響を与えかねない。今回の裁判所の方針決定が、どのような趣旨で、どのような理由によって行われたのか、「司法取引」と「法人処罰」の関係から解説することとしたい。

裁判所の方針決定は「法人処罰」特有のものなのか

 「日産公判分離せず」の方針が決まったことを伝える記事のうち、産経は

関係者によると、裁判官は「日産の法的責任は代表取締役だったゴーン、ケリー両被告の行動によるので、別々に判断するのは適切ではない。」として分離しないと決めた。

と報じ(【ゴーン被告公判、分離せず 9月撤回、年明けも】)、朝日は、

下津裁判長は、「司法取引が本格的に争点になる、初めての事件。証人の証言の信用性は慎重に判断したい」と発言。「日産の法的責任は2人の被告について判断しないうちは決められない。」と述べた

と報じている(【ゴーン前会長の公判、日産と分離せず審理へ 時期は未定】)。

 これらの記事によると、裁判所の方針決定の理由は、

(1)法人としての日産の刑事責任は、ゴーン氏ら行為者についての事実認定と切り離して判断できない

(2)司法取引に関する問題が裁判の争点になるので、証人の証言の信用性について慎重な判断が必要

ということになる。

「日産公判分離せず」の判断は「法人処罰の問題」によるものではない

 仮に、日産の公判が分離されなかった主たる理由が(1)で、それが「法人処罰は行為者個人の処罰に従属するもので、行為者と切り離して独立して処罰の判断をすべきではない」という趣旨だとすれば、今回の方針決定は、「法人処罰特有の問題」と見ることができるということになる。その場合は、影響は法人処罰の事例だけに限られるし、弁護側が指摘した「フェアトライアルの問題」との関係もあまり大きくないということになる。検察としては、今回の裁判所の方針決定に関して、このような理由を強調したいところであろう。

 しかし、それは、確立された判例に基づく法人処罰の「理論」に反する。しかも、最近の実務の傾向は、法人を独立して処罰の対象とする傾向を強めており、それを主導してきたのは法務・検察である。「法人処罰は行為者個人の処罰に付随するので独立して処罰の対象とはならない」などと今更言えるわけがない。

 日本の法人処罰は、特別法の罰則の中に設けられている「両罰規定」の、「行為者を罰するほか、法人に対しても本条の罰金刑を科する」という規定に基づいて行われる。「行為者について犯罪が成立し、その犯罪について、法人側に選任監督上の過失がある場合に法人が処罰される」というのが確立された判例であり、訴訟手続上も、「被告会社」として、公判に出廷する義務があり(通常は法人の代表者が公判に出廷する)、被告人である行為者とは独立した立場で訴訟活動を行う。被告法人の公訴事実の認否は、行為者たる被告人の認否とは別に行われ、行為者の「犯罪の成否」についても、「選任監督上の過失の存否」についても、争うことができる。

 したがって、行為者たる被告人が公訴事実を全面的に否認し、被告会社の方は全面的に公訴事実を認めている場合に、被告会社の公判を行為者の公判とは切り離して、被告会社に有罪判決を出すことは十分に可能なのだ。

「法人処罰」に関する最近の状況変化

 もっとも、法人処罰が行為者処罰とは独立したものであるという考え方は、あくまで、「法人処罰に関する刑法上の理論」であり、古くから日本で行われてきた法人処罰の実際の運用は、必ずしもそうではなかった。日本での法人処罰は、法人の役職員個人が行為者として処罰される場合に「付随的」に行われるものに過ぎず、法人に対する罰金の上限も、昔は個人の上限と同じ500万円程度だった。90年代から、独禁法等でようやく「行為者個人と法人との罰金額の上限の切り離し」が行われ、数億円への引き上げが進められていったが、それでも、外為法の10億円が最高であり、法人に対して数百億円、時には数千億円もの罰金が科されることもある米国などとは大きく異なる。しかし、そのような日本における法人処罰の実務は、最近になって大きく変わりつつある。

 2015年3月に発覚した「東洋ゴムの免震装置データ改竄事件」では、同年7月、東洋ゴム子会社の法人のみを起訴し、役員ら10人は起訴猶予となり、法人に対しては、罰金1000万円の有罪判決が言い渡されて確定した。

 2017年の電通違法残業事件で、東京地検は、過労自殺した新入社員の当時の上司ら3人の労働基準法違反を認定したうえで、不起訴処分(起訴猶予)とし、法人としての電通を同法違反罪で略式起訴した。電通については、代表取締役社長が被告会社代表者として出廷して裁判が開かれ、罰金刑が言い渡されて確定した。

 これらの事案は、いずれも、行為者が処罰されず、法人だけが処罰された例である。

 そして、2016年5月に成立した刑訴法改正で日本版司法取引が導入されたことによって、法務・検察が、法人処罰を独立のものとして取り扱う傾向を強めてきた。法務省側は、法案審議の過程で、「法人」にとって、その「役職員」の刑事事件は「他人の刑事事件」であり、法人自体も司法取引の対象となることを明確に説明してきた。

 そして、2018年に改正法が施行され、日本版司法取引の初適用事案となった「三菱日立パワーシステムズ」の外国公務員贈賄事件では、同社と東京地検特捜部との間で、法人の刑事責任を免れる見返りに、不正に関与した社員への捜査に協力する司法取引(協議・合意)が成立し、社内調査によって捜査に協力した法人は処罰を免れ、役職員のみが起訴され、有罪となった。この事例では、法人が自社の事業に関して発生した犯罪について積極的に内部調査を行って事実を明らかにし、その結果に基づいて捜査当局に協力することが法人の責任を軽減するものと評価されたのであり、まさに法人の行為を独立して評価する方向の運用の典型と言える(【「日本版司法取引初適用事例」への“2つの違和感” 〜法人処罰をめぐる議論の契機となる可能性】)。

 このように、法務・検察主導で、法人処罰を行為者処罰から独立したものとして取り扱おうとする傾向は、司法取引の導入もあって、もはや不可逆的なものとなっており、徐々にではあるが日本の社会にも浸透しつつある。

 そのような法人処罰の運用を前提にすれば、ゴーン氏・ケリー氏を行為者として、日産自動車が法人起訴されている今回の事件では、法人としての日産は、ゴーン氏らとは独立した立場の「被告会社」であり、被告人と同様の権利が与えられ、訴訟活動を行うことができることは明らかだ。日産が第1回公判で公訴事実を全面的に認め、ゴーン氏・ケリー氏が否認した場合には、公判を分離し、日産の公判では検察官請求証拠が「同意書証」として採用されて、早期に有罪判決が言い渡されるというのが、従来の刑事裁判実務から想定される「当然の対応」であった。ところが、裁判所は、その「当然の対応」を行わないことにした。それは、「法人処罰と行為者処罰の関係」で説明することはできないのであり、やはり、上記(2)の「司法取引」をめぐる問題が主たる理由であることは明らかだ。

「日産公判分離せず」の方針と司法取引をめぐる問題

 本件は、初適用となった上記の三菱日立パワーシステムズの事件に続いて2例目の日本版司法取引の適用事件である。日本版司法取引の導入に関する刑訴法改正案の国会審議の過程で、司法取引による供述には、自己の処罰が軽減されることを目的として、他人を引き込むための虚偽供述が行われる危険性があることが問題にされ、様々な議論が行われた。私も、国会審議の過程で、参考人意見陳述において、この問題を指摘した(平成27年7月1日衆議院法務委員会)。

 本件の金商法違反の件で検察と司法取引を行ったとされているのは、ゴーン氏の秘書室長を務めていた人物であり、この秘書室長の供述について、一般的な意味の虚偽供述のおそれが問題になるのは当然だが、本件をめぐる司法取引の問題は、その秘書室長の供述だけの単純な問題ではない。

 そもそも、事件の発端は、日産が社内調査の結果を検察に提供したことにあり、その後、日産は、検察と「二人三脚」のような関係で全面的に協力し、検察官立証のための証拠を共同して作り上げてきた。前記の三菱日立パワーシステムズの前例からすれば、その法人としての日産も、検察との司法取引により法人起訴を免れていてもおかしくないが、なぜか法人起訴されている(それが、日産についての有罪判決確定で、ゴーン氏らの無罪判決を阻止しようとする検察の策略である可能性については【検察の「日産併合起訴」は、ゴーン氏無罪判決阻止の“策略”か】)。

 また、日産の西川社長は、「ゴーン氏の退任後の役員報酬の支払の合意」についての文書に署名しているとされている上、直近2年分については、CEO社長として有価証券報告書を作成提出したものであり、本来虚偽記載の第一的責任を負う立場にあるにもかかわらず、刑事立件すらされていない。そこには、西川氏と検察との「ヤミ司法取引」の疑いがある(【ゴーン氏「直近3年分再逮捕」なら“西川社長逮捕”は避けられない 〜検察捜査「崩壊」の可能性も】)。

下津裁判長が「司法取引が本格的に争点になる」と言っているのは、上記のような、本件における日産と検察との関係全体が「司法取引」的であることを意味しているものと考えられる。日産と検察の「合作」のような形で作られた証拠によって、法人としての日産の犯罪を立証すること自体に問題がある。また、西川氏が起訴されないまま、ゴーン氏らだけが起訴されていることも重大な問題とならざるを得ない。このような複雑な「司法取引」の構造を抱えた今回の事件については、日産だけを分離するのではなく、また、日産と検察の「合作」による証拠によってではなく、証人尋問で証言の信用性を慎重に判断した上で、ゴーン氏らの刑事責任とともに日産の刑事責任を判断すべきと考えたのであろう。まさに、弘中弁護士が、4月2日の記者会見で指摘した「フェアトライアルの観点」からの判断だと言える。

「最大の武器」を失った特捜検察

 従来の刑事裁判では、被告人が公判で公訴事実を認めると、検察官請求の書証がすべて採用されて裁判がすぐに終わり、判決が出るというのが原則だった。最近では、裁判員裁判では、書証によらず証人尋問で事実認定が行われることが多くなり、裁判員裁判ではない事件でもそのような傾向が徐々に広がりつつあるようだ。

 しかし、特捜事件では、「人質司法」に加えて、以下のような構図があったために、被告人がいくら争っても有罪判決を免れられなかった。

 自白しない限り身柄拘束が続くという「人質司法」のプレッシャーによって、共犯とされた者のうち少なくとも一人が自白し、公判で公訴事実を認めれば、検察官調書どおりの事実認定で有罪判決が出される。その判決を出したのと同じ裁判官が、同じ事件について他の被告人に無罪判決を出すことは、まずない。別の裁判官であれば、無罪判決が出ることもあり得るが、その場合は、検察官が必ず控訴するし、殆どの場合、控訴審で逆転有罪判決が出され、司法判断の統一性が図られる。その結果、特捜事件では、無罪を争っても、結局、この「人質司法」と「自白事件の有罪確定」の組み合わせによる「蜘蛛の糸」に絡み取られ、いくらもがいても有罪判決から逃れることができない、というのが、従来の特捜事件の構図だった。

 今回の裁判所のような姿勢が一般化していけば、特捜検察は、「共犯自白事件の有罪確定による無罪判決阻止」という、自らの責任で逮捕・起訴した者を確実に有罪に追い込むための「最大の武器」を失うことになる。

 こうして、「検察の正義」の象徴であった特捜部の事件における「検察中心の刑事司法」の構造は、音を立てて崩れようとしている。それは、無理筋の事件で強引にゴーン氏・ケリー氏を逮捕したことの結果であり、この事件での勾留延長請求却下、早期保釈決定、そして、今回の「日産公判分離せず」という裁判所の判断は、本来、あるべき裁判所の姿勢が示されたに過ぎない。しかし、「検察幹部」は、未だに、今回の事件が海外から注目を集めたことで、裁判所が「外圧」に屈したという、身勝手な反発をしていると報じられている。検察幹部にとっては、今回の事態を客観的に受け止めることができないようだ。

 このような「検察幹部」が、今回の「日産公判分離せず」の裁判所の方針決定を、「フェアトライアルの観点」と切り離すために、無理やり「法人処罰」の問題に関連付けようとすることも考えられなくはない。しかし、そのような受け止め方は、せっかく、司法取引導入とともに進展しつつあった日本の法人処罰の活性化の流れに水を差すことになりかねない。それによって、法務・検察が、組織を挙げて実現させた「日本版司法取引」の企業社会への浸透も阻害することになりかねない。

 日産・ゴーン氏事件の今後の展開が、日本の刑事司法の在り方そのものに重大な影響を生じることは避け難い。法務・検察当局は、その事態を正面から受け止めるべきだ。「司法取引」と「法人処罰」の複雑な関係を念頭に置きつつ、今後の公判に向けての動きを注視していく必要がある。



ゴーン前会長の公判、日産と分離せず審理へ 時期は未定
https://digital.asahi.com/articles/ASM4V62CGM4VUTIL06Y.html
2019年4月26日22時48分 朝日新聞

 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(65)が役員報酬を有価証券報告書に過少記載したとされる事件で、東京地裁(下津健司裁判長)は26日、検察側、弁護側との協議を開き、ゴーン前会長と前代表取締役グレッグ・ケリー被告(62)、法人としての日産の公判を分離せず、一緒に審理することを決めた。

 起訴内容を認める方針の日産に対し、前会長とケリー前代表取締役は全面的に争う方針。主張が対立する3被告の審理が一緒に進むことになる。地裁は3被告のうち1者でも証拠採用に同意しない調書などは、証拠として使わない方針も示した。

 また地裁は3月の協議で、9月にも初公判を開きたい意向を示していたが、この日の協議で撤回。初公判の時期は未定となった。

 日産はこれまでの協議で、公判を分離し、早期に判決を出してもらうことを求めていた。一方、前会長の弁護側はこれまで、東京地検特捜部が日産の幹部2人と司法取引をし、日産も捜査に全面協力したと主張。日産を先に審理する裁判官の下では、公正な裁判を受けられないとして、別の裁判官が審理するよう求めていた。

 関係者によると、地裁はこの日、別の裁判官の審理は認めなかったが、日産の公判を先行させることも認めなかった。1者でも証拠採用に同意しなかった供述調書などは使わないと説明。前会長とケリー前代表取締役の弁護側は採用に同意しないとみられ、重要な関係者については3被告がそろった場で証人尋問が行われることになりそうだ。

 下津裁判長は「司法取引が本格的に争点になる、初めての事件。証人の証言の信用性は慎重に判断したい」と発言。「日産の法的責任は2人の被告について判断しないうちは決められない」とも述べたという。




















http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/380.html

コメント [政治・選挙・NHK260] <密告者が続出し、検察の権限が強大になるばかりだ!>いまこそ司法取引制度の是非について国民的議論が必要だ  天木直人  赤かぶ
13. 赤かぶ[12863] kNSCqYLU 2019年5月11日 20:50:54 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2928]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/616.html#c13
コメント [政治・選挙・NHK260] <東京新聞を見て驚いた!>山谷えり子氏に語った事が本音なら、日朝首脳会談は幻に終わる  天木直人 赤かぶ
29. 前河[2085] kU@JzQ 2019年5月11日 20:52:36 : eKKBdMhn0w : L0tIYTRwY1kudmM=[14]

地下爺さんと楽老さんに同意。

>>13>>18、をよく読めば拉致問題の本質が分かってくる。

>安倍にはハナから解決する気が無いと言う事だ。

拉致問題は選挙対策に利用してるだけですからね。

まず第一にこちら二つのコメを安倍と外務省が読むべきだな。

彼らは本当にピントがズレてるから。人としても政策方向性も。



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/597.html#c29

コメント [近代史3] 柳田国男 山の人生 中川隆
2. 中川隆[-10335] koaQ7Jey 2019年5月11日 20:52:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1774]

底本:「遠野物語 山の人生」岩波文庫、岩波書店
   1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
   2010(平成22)年3月5日第50刷発行

底本の親本:「定本柳田國男集 第四巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年4月25日

初出:山の人生「アサヒグラフ 第四巻第二号〜第五巻第七号」朝日新聞社
   1925(大正14)年1月7日〜8月12日発行
   山人考「大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿」
   1917(大正6)年11月18日
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html#c2

コメント [カルト20] ゲッペ・嘘も百回言えば真実になる、ネトゲ・安倍が百万遍も繰り返せばいい加減バレる。三島ではないが馬鹿に嘘は無理である。 ポスト米英時代
1. 2019年5月11日 20:53:46 : HCDU7rB1lg : NkdOS2ZMTkJ0cXc=[211]
(ネトゲ)
【毎月勤労統計】3月の給与総額 3か月連続マイナスに 前年同期比-1.9% ※実質賃金は-2.5%

統計上の賃金は
下がれば下がるほど好景気だぞ
それだけ新しい雇用が出来てる
-----------------------
↑正社員雇用が横ばいか上昇しているならだが
正社員減少、パートは上昇なら
正社員が低賃金のパートに置き換えられているだけで
好景気なわけないじゃん
───────────────────────
「実質賃金ガー」と言って安倍政権を叩く者がいるけど、好景気の時は実質賃金というのは下がるものなのだ!
…と、野党支持者を愚弄する倉山満というアホ論客。
倉山満は安倍政権も叩くので騙されやすいかもしれないが、要注意。トンデモ論客であります。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/845.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
45. アキエ[163] g0GDTINH 2019年5月11日 20:54:35 : ovh21rC4os : NGhVVmxRRDJvUVU=[50]
金のある人間が土地買ってるだけの話を、いつまで「中国人」だ、「爆買い」だってくっ付けて話を守るつもりなのか。もうこのやり方、アホくさいと、書いてるやつも思わないのか。ホント、馬鹿馬鹿しいわ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c45
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民民主党の階氏が離党検討 11日に判断(産経) 完璧帰趙
30. 2019年5月11日 20:56:07 : vDHWTmMcUw : azBoLzc4aFJ5US4=[1]

別班マン
‏ @beppanman

【階猛の正体】反小沢(対米従属派)仙谷由人・枝野幸男の子分です。(一財)希望日本→シンクタンク希望日本研究所代表→シダックス(株)志太勤最高顧問→希望の党→大樹総研(株)→徳川家広→ロスチャイルド家。

【階猛の正体2】希望日本研究所→川上和久所長→日本選挙キャンペーン協会→選挙制度実務研究会→創価学会→明るい選挙推進協会(総務省選挙部)→日本教育再生機構副理事長→日本会議→政策シンクタンク構想日本→加藤秀樹代表理事→東京財団理事長→笹川平和財団評議員

【階猛の正体3】民主党政権分裂を図った希望の党の母体「希望日本研究所」のCIAエージェント川上和久所長との繋がりから、日本選挙キャンペーン、選挙制度実務研究会、明るい選挙推進協会、総務省自治行政局選挙部、創価学会、富士ソフト、ムサシ、宝くじ、東証など繋がる。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/606.html#c30

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
46. アキエ[164] g0GDTINH 2019年5月11日 20:57:31 : ovh21rC4os : NGhVVmxRRDJvUVU=[51]
訂正

「守る」→「盛る」
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c46

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍氏が自分のことを”外交のアベ“と思い込んでいるとするなら、それはもうマンガでしかない:安倍氏はわれらの血税で”ばら… 赤かぶ
1. スポンのポン[11242] g1iDfIOTgsyDfIOT 2019年5月11日 21:00:47 : YLRU9o6eFk : dUpJOXhqbEFjRlU=[422]
 
 
■外交の安倍・・・・・✖
 架空外交の安倍・・・◎
 
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/623.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 政治に無関心!こんな形でツケが回ってきそうだ!   赤かぶ
5. 2019年5月11日 21:01:37 : ExAjllt69c : WFZZaUlFMDdrc2M=[1]
歌は下手クソで演技は大根で台詞回しも下手クソな連中ばかりが属している
ジャニーズ事務所とやらもチンピラ吉本興業に続き
安倍ゲリゾー自民党の宣伝下請け会社になったようだな

TOKIOとかいう連中が年末に続きまた安倍ゲリゾーとご一緒だと
虫酸が走るわ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/620.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK260] 経産省キャリアが省内で覚せい剤使用か?メディアは全然取り上げず、ピエール瀧とは大違い(まるこ姫の独り言) かさっこ地蔵
3. 2019年5月11日 21:02:35 : quMKleKEOA : andmOS5lY2dYN00=[160]
経産省の人は医療履歴もあるし注射までするなんて完全に病気でしょう
ニヤニヤしてる下らないタレントのお遊びとは違うのでは?

これは医師が合法な代用覚醒剤を処方しないから悪いと思われる
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/619.html#c3

コメント [経世済民132] 日本人の「魚離れ」が想像以上に進んでいる「これだけの理由」 魚嫌いが増えたわけではないのに…(現代ビジネス) 赤かぶ
20. 2019年5月11日 21:04:19 : BBvys7d4vY : RFh3NVc3QlpyNEU=[2]
ノルウェイ産といえばサバ
安全だし美味しいよ
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/372.html#c20
コメント [原発・フッ素43] 臨界帝王「3号機プールには吹き飛んで1本もない」→東電「燃料集合体4体において、ハンドル部が変形していることを確認… 赤かぶ
22. 2019年5月11日 21:09:20 : Ap9Gwjid0s : TlpwaFl0aE85cWs=[1]
大分の水蒸気爆発のおっさん
手が込んだ
原発村だわな。
もうバレバレなんだが、( ゚д゚ )皆様笑いながら、見物してるさ(爆笑)
http://www.asyura2.com/15/genpatu43/msg/559.html#c22
コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
80. 2019年5月11日 21:10:45 : BBvys7d4vY : RFh3NVc3QlpyNEU=[3]
>>79
妄想ってかデマまき散らしてるのは
お前さんだろ

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c80
コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
81. 2019年5月11日 21:12:01 : BBvys7d4vY : RFh3NVc3QlpyNEU=[4]
てか、スッポンポンと同じ人っぽいなw

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c81
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍のグータラが浮かれている間に大変なことが!   赤かぶ
47. 命を大切に思う者[146] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2019年5月11日 21:14:00 : h2tTeCa9Ww : SzhlVG81MS5sV0E=[15]
> 航空自衛隊の基地と隣接する空港近くの土地52ヘクタールを中国の「アリババ」が買い占め、 > 自身のネットショッピングで49億円の値札を付けて売りに出した。 > 出品者は、「この土地を外国人が所有すれば、北海道で国際会議が開けなくなる」と強調し、 > 日本が「高値で買い戻す」ことに期待をにじませた。 どういう意味? その航空自衛隊の基地からの離陸を妨害するために 隣接する土地で気球やドローンや花火を上げ続けるという意味? そういう意味なら、 国際会議が開けなくなる云々の話ではなく、 その基地に居る戦闘機を離陸不能にして使えなくする等の、国防の妨害をされる。 買い戻すも何も、もし中国が侵略行動を始めたら、国防の妨害をし続けるために土地を売るわけが無い! されるのは、戦闘機を使用不能にする、直接的な軍事行動(広い意味で攻撃)。 なのに、記事を書いた人が心配してるのは、 「国際会議が開けなくなる」「買戻しで高い金を取られる」 心配すべきことが違うんじゃないの?
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/603.html#c47
コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
82. 2019年5月11日 21:16:11 : BBvys7d4vY : RFh3NVc3QlpyNEU=[5]
参考

民主党代表選、新聞世論調査とネット世論調査
http://pd.kzho.net/1557576899306.jpg


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c82

コメント [政治・選挙・NHK260] キャリア官僚が省内で使用か 覚醒剤の入手先と“別宅”の謎(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[12864] kNSCqYLU 2019年5月11日 21:18:53 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2929]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/624.html#c1
コメント [自然災害22] 首都直下地震と南海トラフ巨大地震、要警戒レベルに…半割れケースなら想定死者数32万人(Business Journal) 赤かぶ
16. 2019年5月11日 21:19:02 : Zy2n4X7QyQ : LnI4aVZxUFVDN0k=[36]
未だに「大地震は周期でやってくる」論とか、あまた大丈夫か?

東日本大震災や熊本地震の事例からもわかるように

首都直下地震や南海トラフ大地震が起こるとされている以外の場所で

それらの地震を遥かに越える規模の大地震が起きる可能性の方がどうみても高い

むしろ首都直下地震も南海トラフ大地震も、いざ「来た」と断言してしまえば

その時点で予算が無くなるから、もう二度と起きないと断言しても差し支えないレベル
http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/680.html#c16

コメント [政治・選挙・NHK260] <致命的な発言である!>あきれはてた玉木国民民主党代表の発言  天木直人  赤かぶ
83. 2019年5月11日 21:19:25 : BBvys7d4vY : RFh3NVc3QlpyNEU=[6]
参考

官房機密費で接待漬けが世論調査(もとい世論操作)
http://pd.kzho.net/1557577070018.jpg
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/571.html#c83

コメント [政治・選挙・NHK260] キャリア官僚が省内で使用か 覚醒剤の入手先と“別宅”の謎(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[12865] kNSCqYLU 2019年5月11日 21:19:43 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2930]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/624.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 山本太郎に「1人で国会変えられるんか?」と聴衆! 「変えるしかない!」 本気の演説に涙が出た!  赤かぶ
48. 2019年5月11日 21:23:07 : 2izLR1Dtrs : UVhkSzVNcGpidjI=[155]

23のスポンは消費税の逆進性が根源的に間違っている事を認めようとしない。
だから、消費税ゼロを主張する太郎の政策を「誰もがもろ手を挙げて賛成する
政策」に見えないようだ。(公約に反して消費増税をした野田政権を擁護するワンパターン)
結果
『ウソをつかない正直な政治に代える』だの『利権政治から国民のための政治に代える』だの『利権政治を終わらせる』が戦術的に正しいと言う。
しかしそれはこれまで何度となく野党が繰り返して来た話の延長に過ぎない。

そういう「公平・公正」だけを言っている間にも、国民が直接消費税によって傷つき倒れていくと言う状況を黙って見ていられないという彼の熱意には大いに共感を覚える。
要するに「公平・公正・脱利権」だけで、振り向いてくれない大衆に、より生活に密着した重要問題の存在を指摘している。
「消費税に騙されるな」「消費増税でどれだけ経済が干上がったか?」と言う事だ。消費税を廃止するだけで、我々の年収は1割近くUP するのだ。 
これが山本太郎の一点突破だ。
そして我々に残された一点突破がきっと「れいわ新選組」だ。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/573.html#c48

コメント [政治・選挙・NHK260] キャリア官僚が省内で使用か 覚醒剤の入手先と“別宅”の謎(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[12866] kNSCqYLU 2019年5月11日 21:23:47 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[2931]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/624.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍首相“北朝鮮無条件会談”に安倍応援団が手のひら返しでお追従! 八代弁護士、青山繁晴、竹田恒泰らが一斉に(リテラ) 赤かぶ
17. 2019年5月11日 21:24:03 : weqcKWsLEc : aTlqd3FyLlN1RUU=[2]
普通なら「それはダメだろ!」というはずだが、
安倍応援団はそうではない!
いつものことだがいつも「いいですねぇ!」と追従する。

だから、安倍は何の成果も残せない!
安倍応援団は安倍を誉めれば何でもうまくゆくと考えているのだろうが、
7年余りの間に、外交・経済に何も成果なし!

甘やかすだけ甘やかすから、安倍に進歩なし!

「安倍政権は悪夢だった」と歴史に残るだろう

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/601.html#c17

コメント [原発・フッ素51] 太陽光発電が需要の88%に(日照豊富な県でなぜ原発?!) 戦争とはこういう物
10. 2019年5月11日 21:27:03 : weqcKWsLEc : aTlqd3FyLlN1RUU=[3]
伊方原発の地元、愛媛県で震度4の地震あり!

中央構造線での直下原発があったら伊方はダメだね。どうすんだろ?

http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/512.html#c10

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