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中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 9 月 15 日 03:10:06: 3bF/xW6Ehzs4I
 

極まりない慈愛をもったキリストは、十五世紀前に三十三年のあいだ、人類のあいだを歩き回ったときと同じ人間の姿をかりて、もう一度、民衆の中へ現われたのだ。彼は南方の市の『熱き巷』へ降臨したが、それはちょうど、『華麗なる火刑の庭』で、ほとんど百人に近い異教徒が、 ad majoriam Dei (神の栄光を大ならしめんがため)国王をはじめ、朝臣や、騎士や、僧正や、艶麗な女官や、その他セヴィリヤの全市民の眼の前で、大審問官の僧正の指揮のもとに、一挙に焼き殺されたあくる日であった。

大審問官である僧正は群集の前に立ち止まると、遠くから様子を眺めていた。彼は何もかも見てしまったのだ、キリストの足もとへおろされて女の子がよみがえったのを見たのだ、そして、彼の顔は暗くなった。その白い濃い眉はひそめられ、眼は不吉な火花を散らし始めた。彼はその指を伸ばして、警護の士に向かい、かの者を召し捕れと命令した。

彼はそれほどの権力を持ち、群集はあくまでも従順にしつけられ、戦々恐々として彼の命に服することに慣らされていたので、さっと警護の者に通路をあけた。そして、急にしいんと墓場のように静まり返った沈黙の中で警護の者はキリストに手をかけて引き立てて行く。

群集はまるでただ一人の人間のように、いっせいに土下座せぬばかりに老審問官の前にひれ伏す。彼は無言のまま一同を祝福しつつ通り過ぎて行く。警護の者は囚人を神聖裁判所の古い建物内にある、陰気で狭苦しい丸天井の牢屋へ引きたてて来ると、その中へ監禁してしまった。 その日も暮れて、暗い闇の中で、不意に牢獄の鉄扉があいて、老大審問官が手に明かりを持って、そろそろと牢屋の中へはいって来た。彼はたった一人きりで、扉はすぐに閉ざされた。彼は入口に立ち止まると、しばらくのあいだ、一分か二分、じっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かにそばへ近寄って、明かりをテーブルの上に載せると、口をきった。


『そこに御座るのはキリストかな? キリストかな?』

『返事はしないがいい。黙っておるがいい。それにおまえは何を言うことができよう? 

わたしにはおまえの言うことがわかりすぎるくらいわかっているのだ。

それにおまえは、もう昔、言ってしまったことよりほかには何一つ言い足す権利も持っていないのだ。

それにしても、なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ?

おまえはわしらの邪魔をしに来たのだ。

それはおまえにもわかっておるはずだ。しかし、おまえが明日どんなことが起こるか知っておるかな? 

わしにはおまえが何者かは知らぬ、また知りたくもない。おまえは本当のキリストか、それとも贋者か、そんなことはどうでもよい、とにかく、明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火烙りにしてしまうのだ。

すると今日おまえの足を接吻した民衆が、明日は、わしがちょっと合い図をしさえすれば、おまえを焼く火の中へ、われ勝ちに炭を掻きこむことだろう、

おまえはそれを知っておるのか? おそらく知っていられるであろうな』

と彼は片時も囚人から眼を離そうとしないで、考えこむような風に、こう言い足したのだ

 『もうおまえはいっさいのことを法王に任せてしまったのじゃないか、今はいっさいが法王の手に握られているのだ、だから、今ごろになって、のこのこ出て来ることだって、よしてもらいたいものだ』

『いったいおまえは、自分が出て来たあの世の秘密を、たとい一つでもわれわれに伝える権利をもっておるのか?』

『いや、少しも、もっていない。

それはおまえが前に言ったことばに、何一つつけ足すことができないためだ。

それは、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した自由を、人民から奪わないためだ。

人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『だが、今われわれはおまえの名によって、この事業を完成した。十五世紀のあいだ、われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。

人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。

しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。

そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。』


『なぜなら、今はじめて人間の幸福を考えることができるようになったからだ。

人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか? 


おまえはよく警告を受けた――おまえは注意や警告を飽くほど聞かされながら、それに耳をかさないで、人間を幸福にすることのできる唯一の方法をしりぞけてしまったではないか。しかし、仕合わせにも、おまえがこの世を去るときに、自分の事業をわれわれに引き渡して行った。おまえはその口から誓って、人間を結びつけたり解いたりする権利をわれわれに授けてくれた。

だから、もちろん、今となっては、その権利はわれわれから取りあげるというわけにはいかぬ。

なんのためにおまえはわれわれの邪魔をしに来たのだ?』


われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。

なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。

かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 


しかしわれわれは彼らに向かって、自分たちもやはりキリストに従順なものだから、おまえたちの上に君臨するのはキリストの御名によるのだ、と言って聞かせる。こうしてわれわれはまた彼らを欺くが、もはや断じておまえを自分たちのそばへ近づけはしないのだ。この偽りのなかにわれわれの苦悩がある。しかもわれわれは偽らざるを得ないのだ。

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。

しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。

これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。


人間というものは弱くて卑しいものだ。今彼らはいたるところで、われわれの教権に反抗して、それを誇りとしているがそんなことはなんでもない。

それは赤ん坊か小学生の自慢だ。それは教室で騒動を起こして、教師を追い出すちっぽけな子供なのだ。

しかし今にそんな子供らしい喜びは終わりを告げて、それに対して彼らは高い支払いをしなければならない。

彼らは寺院を破壊して地上に血を流すことだろう。しかし、結局はこの愚かな子供たちも、自分らは暴徒とはいっても、最後まで反抗を持続することのできない、いくじない暴徒にすぎないことを悟るだろう。

やがては、愚かな涙を流しながら、自分たちを暴徒として創った者は、疑いもなく自分たちを冷笑するためだと自覚するだろう。


われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。

われわれが優しく人間の無力を察して、情をもって彼らの重荷を減らしてやり、弱い彼らの本性を、たといそれが悪いことであっても大目に見て許してやったのが、はたして人類を愛したことにならぬのだろうか? 

われわれの仕事仲間はおまえでなくてやつ(悪魔)なのだ。

これがわれわれの秘密だ! 


われわれはすでにずっと前から、もう八世紀のあいだもおまえを捨てて、やつといっしょになっているのだ。

その目的を貫徹してわれわれは皇帝となり、やがては人類の世界の世界的幸福を企てることができるのだ。

自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、


《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。

どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》


そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 


なぜならば、以前われわれのいなかったころには、彼らの得たパンがその手の中で石ころになってしまったが、われわれのところへ帰って来てからは、その石がまた彼らの手の中でパンになったことを、悟りすぎるくらい悟っているからである。

永久に服従するということがどんな意味を持っているかも、彼らは理解し過ぎるほど理解するに違いない! 


羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。

その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。

彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。

おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。


つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。

すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。

彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。


しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。

彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。

どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。

そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。

したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。

こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。

最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。

というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。

かくてすべての者は、幾百万というすべての人類は幸福になるだろう。 彼らはおまえの名のために静かに死んでゆく、静かに消えてゆく。

そうして、棺のかなたにはただ死以外の何ものをも見いださないだろう。

しかも、われわれは秘密を守って、彼ら自身の幸福のために、永遠の天国の報いを餌に彼らを釣っていくのだ。

なぜといって、もしあの世に何かがあるにしても、とうてい彼らのごとき人間に与えられるはずはないからだ。


今わしの言ったことは実現されて、われわれの王国は建設されるだろう。

明日はおまえもその従順な羊の群れを見るだろう。

彼らは、わしがちょっと手で合い図をすれば、われがちにおまえを焼く炬火へ炭を掻きこむことだろうよ。


それはつまり、おまえがわれわれの邪魔をしに来たからだ。

実際、もし誰が、最もわれわれの炬火に焼かれるにふさわしい者があるとすれば、それはまさしくおまえだ。

明日はおまえを焼き殺してくれるぞ。

http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro3.html
http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro4.html

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1. 秦の始皇帝や随の煬帝に憧れた毛沢東

 林彪 クーデタ計画書 「五七一工程紀要」


「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の愛読書は歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だった。 毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王だったという。

<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。


<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>

 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、

「自分は3億の人民を失うことも辞さない」

と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>


<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>


 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。 (李志綏 毛沢東の私生活)

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

毛沢東の私生活 李 志綏 (著, 原著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%8E-%E5%BF%97%E7%B6%8F/dp/416730970X


この本は、22年間(1954-1976)付き添った主治医(李志綏・生家は代々清朝の主治医を勤めた)が「半神半人」と言われた独裁者・毛沢東の知られざる人間像を初めて赤裸々に描いた回想録である。

共産革命後の中国で何千万人と餓死する人間が出ようと、ぜいたくな暮らしを続けた党幹部たち。やりたい放題の生活と政治の内奥を詳しく記したものだ。


「究極のひねくれ思考」とでも、言いたくなるほど読み進むたびに、気分が悪くなる。


なんと、毛沢東は物事をすべて悪くわるく解釈して相手を陥れる。

人間らしい情の感じられない毛沢東や、妻・江青のあまりの人間的レベルの低さに読むに堪えない気持ちが大きく、途中で何度も読むのをやめようと思った。

最初にアメリカで出版されたとき、世界に大きな衝撃を与えたという。もちろん中国では発禁本である。その理由のひとつは、中国内で神格化される続ける毛主席の秘められた皇帝ぶりを白日のもとにさらしたこと。

それも死人の山を築こうとも動じない権力闘争、稚拙な経済政策、原爆戦を辞さない対外戦略などを通して覗かせた独裁者の人間性を語りつくした回想録だったことだ。


毛沢東が評価していた中国歴代帝王をみると、彼の残虐さがわかる。


殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝と言えば中国史上暴君として有名だ。
毛沢東による王者の評価基準は、殺した人数ではなく中国の統一と強大化にどれだけ貢献したかにあるらしい。

あの文化大革命で、あらゆるものが「ブルジョア的」「反革命」と標的に合い、攻撃され破壊されるなか、毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画が上映されたりダンス・パーティも毎週のように行なわれていた。

中国全土から選ばれた美女達が毛沢東の相手をするために集められるのだ。

気に入った女性を、料理の日替わりメニューのように寝室に連れ込む。

それが毛沢東の日常だった。


これを読むと、いったい「人民のための革命」とは何だったのか?と政治に疎いわたしも歯ぎしりし、憤懣やるかたない思いになる。


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言葉を残しこの著書が発売された3か月後に、李志綏はシカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。亡命して6年後に米市民権を得た直後だった。他殺の疑いが濃く、いまだに急死は疑問視されている。


日本人は、李白や杜甫を代表とする漢詩の世界から中国人を『文人墨客』と永年想ってきた。しかし、それは大変な誤解だったのではないかと思う。

http://d.hatena.ne.jp/mursakisikibu/20110806/1312613829


毛沢東は中国人民共和国という国家の主席というより毛帝国の皇帝という感じですね。
特製の木製の大型のベットで臥し好きな歴史書を読み耽りながら政敵の追放を画策し、気分転換にプールで水泳を楽しむのが日常のパターン。 身の回りにはお気に入りの若い女性を侍らせ、豪勢な地方巡視旅行の際にはダンスパーティ会場から気に入った女性を予め用意していた部屋に連れ込むという漁色家。

興味深いのは、毛沢東は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝という中国史上暴君として有名な人物を評価し、李志綏に自分は聖人君子、坊主になるのはまっぴらだと普段から広言していたんですね。

江青は神経経衰弱の持ち主でお付きの看護婦には威張り散らし嫌われ者、猜疑心も強く文化革命の際には毛沢東に忠実な周恩来首相の追放まで画策するですね。面白いことに江青は毛沢東を和ますという名目でアメリカ映画を日夜上映していたんですね。

本の題名は『毛沢東の私生活』ですが、毛沢東が推進した強制的な農業集団化の人民公社推進とか農家の庭先での裏庭鋼炉設置とかの大躍進政策やのちのプロレタリア文化革命等の政治動向についても著者の知る範囲で詳述しています。性急な大躍進政策の失敗による膨大な餓死者やフルシチョフのスターリン批判を受けて政府幹部の中でも彭徳懐元帥や劉少奇、ケ小平らが大躍進政策を批判し毛沢東個人崇拝に代わる集団指導制や農民のやる気を起こさせる農業請負制の導入等が検討されるが、毛沢東がいわゆる紅衛兵を動員し江青らの四人組を指揮し文化革命を推進し清廉な彭徳懐元帥や実務能力のある劉少奇、ケ小平らを反革命主義者として糾弾していく過程を活写しています。

民主主義国家の日本の国民の一人の私としては、到底理解に苦しむイデオロギー闘争、というよりはイデオロギーに名を借りた権力闘争が行われ何千万人とか言われる多数の人々が処分処理されていったかを、知らされると唖然としたものを感じざるを得ませんね。

そして現代の中国で国民的人気のある周恩来については、李志綏は毛沢東に対する卑屈なまでの忠誠ぶりを皮肉をこめてコメントしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/saitou602002/59466398.html

毛澤東は始終、「わしや“和尚打傘" の男じやよ」と言つてゐました。   これは闕後語 (ケツゴゴ) と言ひ、言葉遊びの一種で、言ひたい言葉の前半分だけを擧げたものです。


「和尚が傘さす」類の男だ、といふのです。

「和尚が傘をさせば」→「無髪 (=無法) 無天」


つまり、法律にも道コにも縛られぬ男だ、といふ意味です。


正しい譯語=「わしや無法者だよ」

毛澤東は 1965年 1月 9日、スノーにかう語りました。 ところが通譯はこれを直譯し、

「私は傘を持つ僧侶」とやつたものですから、


「毛澤東は、自分は破れ傘を手にした修道士だと言つた」


と傳はり、その謙虚さに、世界中から尊敬の念を集めました。  何のことはない、

「わしや無法者、これから文革で中共をひつくり返すよ」

と 文革の豫告をしただけなのに。  毛澤東は


  「少年時代には二百年生き抜き、洪水の勢ひで三千里を壓倒しようと夢想」して、 先づは真面目な  儒教的理想主義青年として思想形成し、多くの友から尊敬されますが、 禮儀正しく行動するだけでは權力は得られぬと悟り、 權力獲得に手段を選ばなくなります。

平氣で人を踏み台にしてより大きな權力を追求するのです。 
1936年作の「沁園春・雪」では、


  「秦の始皇帝もジンギスカンも何する者ぞ。 

「中國史上の眞の英雄はこの俺樣だぞ!」

と胸を張ります。  そして、權力獲得後も政治家(建設者)に轉身せず、革命家(破壞者)であり續けました。 自分の權力慾のために何千何萬もの同志をいびり殺し、何千萬もの人民を飢死させた奸雄! 

http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum181.htm


毛沢東主席は「皇帝であり教主」で、「思うままに人を殺した」。

文化大革命時代の青少年の熱狂と本人の満足ぶり

「皇帝はみんな、そうだった」。


「ヒトラーは外国人を殺戮」、

「スターリンは自国民を殺戮。ただし、法律的手段を用いた」

「毛沢東は、殺したいと思っただけで、自国民を次々に殺した」。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0511&f=national_0511_025.shtml

産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。


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毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ

 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。

 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。

 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879〜1942年)に中国共産党を設立させます。

 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。(以上PP19による。)

 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。

 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。

 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866〜1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。

 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。

 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884〜1951年)を送り込んできます。 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。

 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。 (以上、PP31〜34による。)

 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883〜1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。

http://blog.ohtan.net/archives/51115860.html
http://blog.ohtan.net/archives/51116597.html


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新たな毛沢東の伝記の出版


1991年に上梓されたワイルド・スワン(Wild Swans)という世界中で1000万部以上売れたベストセラーの自伝本の著者であるチャン(Jung Chang。支那出身)と彼女の夫のハリデー(Jon Halliday。英国人で歴史学者)の共著、Mao: The Unknown Story, Jonathan Capeが、7月2日に発売された。 この本の内容のさわりをご紹介しましょう。


 毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この二人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。 毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1936年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。

 毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

 毛沢東は、ゲリラ戦略家でも共産主義思想家でも貧農の友でも先見の明のある政治家でもなかった。それどころか、決して雄弁家ではなかったし、オルグとしても凡庸だった。彼が支那における共産主義の父であるなんて悪い冗談だ。

 彼は、ソ連の意向に添うことに汲々とし、ソ連の全面的な支援のおかげで支那の最高権力者になることができたのだ。(そもそも、中国共産党自体、ソ連の工作でできたものだ。)

 毛沢東は、いかなるイデオロギーも全く信じておらず、支那に社会主義のユートピアを建設しようなど露ほども考えたことがない。彼にとっては、平等主義は唾棄すべきものであり、彼が口先だけでは称えていた貧農に対し、破壊的政策を繰り返し行って恥じなかった(注4)。彼が関心を持っていたのは、自らの個人的権力の追求だけだった。支那も支那の住民も彼にとってはその手段以外の何ものでもなかった。


 (注4)一回目は、1920年代末から1930年代初にかけて、毛沢東が農村地帯でゲリラ戦を行っていた時のことだ。当時共産党ゲリラの食糧は貧農達からの徴発でまかなっており、貧農達を塗炭に苦しみに陥らせた。


彼は、人がいくら死のうと無頓着であり、自らの個人的権力を追求する過程で殺人を厭わず、人々の死への恐怖心をもてあそんだ。彼は、人々が拷問されたり虐殺されたりするのを見物するのが趣味であり、文化大革命当時には、文革における暴力的衝突や拷問の場面を撮影したドキュメンタリーを好んで鑑賞した。人の弱みを握ってその人物を意のままに動かすこともまた彼の得意とするところだった。

毛沢東がいかなる人物であるかは、彼が密かにある本の余白に書き記した以下の文章が物語っている。

「他人のためを考えて自らの行動を律せよ、といった道徳観などクソ食らえだ。

私のような人間は、・・自分の欲求をとことん満たそうとする。それこそが最高の道徳律だ。

この世界には様々な人やモノがあるが、それらはことごとく私だけのために存在しているのだ。・・

私のような人間は、義務は自分達に対してだけ負っているのであり、他人に対しては何の義務も負っていない。」


こんな毛沢東の人類へのユニークな「貢献」は、全く新たな恐怖統治手法を編み出したことだ。

延安時代(後述)に彼は、人々に自己批判や他人の批判を強要し、「悪行」の告白や告発を導く、という手法を始め、後にこれを支那全土に広めた。

毛沢東は、全支那の権力を掌握すると今度は世界の制覇をねらい、そのためにいかなる犠牲をも厭わずひたすら核兵器の獲得を追求した。


 毛沢東は支那の最高権力者であった間、酒池肉林の生活を送った。

(風呂嫌いで25年間風呂に入らなかったが、)彼は中共各所に50箇所以上専用別荘を持っていた。もっとも、これは臆病者の毛沢東が、米国やソ連による爆撃を恐れ、居場所を隠したかったからでもある。

 グルメの彼は、1000キロ離れている揚子江沿いの武漢から北京の本宅まで、せっせと新鮮な川魚を運ばせていた。

相次いで4人の妻を娶った彼は、高齢になってもなお無数の情婦や一夜妻と情交に勤しんだが、これらの妻や情婦及び自分の息子や娘に対し、一欠片の愛情も懐いていなかった。毛沢東は、長征(Long March)の途次、生まれたばかりの彼の息子を放置して殺すように命じている(注5)。

 (注5)ヒットラーだって、自分の飼っていた犬や他人の子供には優しかった。金正日だって自分の子供達はかわいがっている。毛沢東が人並みの家族愛を持っていたら、恐らく「皇帝」毛沢東(コラム#204)は毛王朝の創始者となっていたことだろう(太田)。

 毛沢東は中国共産党ができてから一年後の1921年に共産党に入党した。

 スターリンによってゲリラ戦をやれと命ぜられた中国共産党は、襲撃による金集めをしながら、国民党相手のゲリラ戦を始め、その中から毛沢東は頭角を現わす。

 国民党軍に敗れた共産党軍は1934年に長征を始めた時点で80,000人(公式には90,000人)の兵力だったが、延安に到着して長征が終わった1936年には4,000人(公式には20,000人)に減っていた。その減耗分の少なからざる部分が毛沢東が行った物理的粛清によるものだった。

 長征が成功したのは、一にかかって蒋介石(Chiang Kai-shek)のおかげだ。蒋介石は、共産党軍を深追いして、国民党支配が確立していない地域で軍閥と衝突することは得策ではないと考えた。しかも、蒋介石は、息子の将経国(Chiang Ching-kuo)がソ連国内で実質的に人質とされていたことからも、共産党軍を壊滅させてソ連の逆鱗に触れることは避けようとした。それどころか、蒋介石は、長征路の所々に食糧を満載した付近の詳細地図つきの無人トラックを配置し、共産党軍を手助けした(注6)。


 (注6)中共の公式説明:「共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、2万5000華里(1万2500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の35年10月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。」


 長征の過程における有名な、大渡河(Dadu River)渡河英雄譚は、事実と違うどころか、全くの捏造だ。瀘定橋での戦いなどはなかったし、そもそもその付近に国民党軍は一兵もいなかった(注7)。


 (注7)中共の公式説明:「長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは?それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。」(peoplechina上掲)


 そうは言っても長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。  しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

 延安で毛沢東は、資金調達のためにケシを栽培して麻薬の製造と共産党支配地域外への販売を盛んに行い、現在のドル表示で6億4,000万米ドル相当の売り上げを達成している。

 1936年の西安事件(コラム#178、187、234、256、290、292、353)は、張学良(Chang Hsueh-Liang)が蒋介石に代わって国民党の主席になろうとして起こしたクーデターであり、毛沢東は張学良に蒋介石を殺せと言ったが、国民党が弱体化し、日本が後顧の憂いなくソ連に対峙することを恐れたソ連が介入し、蒋介石は命を長らえ、毛沢東の意に反して国共合作がなった。

 毛沢東は日支事変勃発を喜び、日本軍と国民党軍とを戦わせて国民党軍を消耗させる一方で共産党軍は日本軍と基本的に戦わせず、共産党軍の温存を図った。それどころか毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ(注8)。


 (注8)毛沢東は、日本軍が引き起こした1937?38年の南京事件に対し、一貫して何の関心も示していない


さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8)毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている。


 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward。1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。


 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済や生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・


有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・

また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。


 (注10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 
 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。


トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということです。

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我こそが真の皇帝なるぞ!

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毛沢東の中国:大いなる実験

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http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873039
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873098
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873128


民衆が語る中国 紅衛兵誕生へ

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民衆が語る中国 造反有理の嵐

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民衆が語る中国 下放・若者大移動

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民衆が語る中国 改革開放への胎動

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毛沢東・建国 そして 大躍進

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3319408
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3321503
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3321576


文化大革命 40年後の証言

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244002
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244026
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244069
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244086
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244108
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244160
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244181
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244202


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毛沢東は呪われたものとなった


芙蓉鎮

http://www.amazon.co.jp/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%8E%AE-%E5%85%A8%E9%95%B7%E3%83%BB%E5%85%AC%E9%96%8B%E7%89%88-DVD-%E8%AC%9D%E6%99%8B/dp/B000GETXR6

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http://www.nicovideo.jp/watch/sm8825013
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言わずと知れた中国映画の最高傑作で,文革の悲劇を正面から描いた初めての作品。文革という狂気の嵐が地方の小さな町で如何に荒れ狂い,善良な人々を悲劇のどん底に落としていったかを,小さな料理屋を営んでいた一人の女性・胡玉音の受けた幾多の苦難を通して描く。その嵐の中を耐え忍びながら生き抜いた彼女の感動の物語でもある。

1963年(文革が始まる少し前),芙蓉鎮という小さな町。市が立つ日に玉音(ユイイン)が夫の桂桂と開く米豆腐屋は大繁盛し,彼女は町の男たちの人気の的にもなっていた。国営食堂の女店主・李国香はそれをずっとねたんでいて,その後,しばらく町を離れていたが,県の政治工作班長に昇格し「四清運動」の指導のために再びこの町に戻って来たときに,国香(グオシアン)は集会で玉音夫婦をブルジョア分子と決め付け,玉音を援助する仲間たちをも批判の対象にするのだった。

玉音は,汗水流して一生懸命働いて貯金もし,家も新築した自分たちがなぜ非難されなければならないのか納得がいかず,「ひき臼の柄がすり減るほど,鍋底に穴があくほど働いたのよ。私たち人を搾取した?」と夫に泣きながら訴える。

難を逃れるため一時,田舎に避難していた玉音が町に戻ってみると,夫は処刑され,玉音を支援してくれていた仲間たちも職を奪われたり自己批判させられていた。さらに,新築の家と1500元の貯金も没収されていた。
そして1966年に文革が始まると,「新富農」と認定されていた玉音は,労働改造のため右派分子の秦書田と一緒に早朝の道路掃除をさせられることになる。

秦(チン)と玉音は雨の日も雪の日も毎日毎日,朝早くから石畳の道を竹ボウキで掃除し続ける。玉音は党の命令に従い決められた掃除をして,毎日を耐え忍ぶことしかできない。一方,秦は”♪1,2,3・・ ♪1,2,3・・”と踊りながら道を掃く。これが秦のできる,文革に対しての唯一の「反抗」だった。玉音は秦の人柄をだんだんと理解し,いつしか二人の間に愛が芽生える。

しかし,文革は愛し合う二人の間をも容赦なく引き裂く。玉音が身ごもったため秦は党に結婚嘆願書を出すが受け入れられず,逆に反革命分子として裁判にかけられ,秦は懲役10年の刑に処せられることになった。判決のシーンがこの映画のハイライトで,絶望した玉音を勇気付けるために秦があの有名なセリフを言う。「生き抜け。ブタのように生き抜け。牛馬となっても生き抜け。」と。文革当時,身に覚えのない理由で投獄されたり迫害された数多くの人たちは,本当にこう思いながら耐え忍んだのだと思う。

その後,玉音は前と同じように道路掃除をしながら,秦の帰りを待ち続ける。そして,1979年,文革が終了して3年経ち,玉音と秦の名誉も回復され,玉音は新築の家と貯金を返してもらい,また元と同じように米豆腐屋を今度は秦と始めるのだった・・

ハッピーエンドで終わったかに見える転回に,謝晋監督が皮肉を入れている。秦が,出所して町に帰るために乗り込んだフェリーボートの中で偶然国香に出会うところだ。文革前や文革中に,町の革命派のリーダーとして好き勝手に人々を苦しめた国香は,文革後も,失脚することなく,逆に県の幹部から省の幹部に昇格していた。きまり悪そうな国香は秦に「同志」と呼びかけるが,秦は「私も同志ですか?そう呼ばれちゃ面食らっちゃうな」と笑い飛ばす。文革の責任の所在,本当の総括はまだ終わってないよと謝晋監督は当局に訴えたかったのだろう。

(1987年上海映画製作所/監督:謝晋/出演:劉暁慶,姜文,徐松子(李国香),劉利年(桂桂)/サロンシネマ,2000.12.8renewal)

http://www.enjoy.ne.jp/~shinji-n/eiga-3.htm

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    `/l ̄V''ーv l_ し'"V   / ヽ
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      |       rニヽ,       |   < 何故かって?
     |     lニニニl      /      最後の皇帝 毛沢東を見れたからです
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         `ーァ---──'''"ヽ,        ハッピー
        / / l,  i ヽ ` \

THE LAST EMPEROR 1987年

監督 ベルナルド・ベルトルッチ

キャスト

ジョン・ローン(男優) 愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン(女優) 婉容
ピーター・オトゥール(男優) レジナルド・ジョンストン
坂本龍一(男優) 甘粕正彦
リック・ヤング(男優) 戦犯収容所尋問官
リサ・ルー(女優) 西太后


http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88-%E5%88%9D%E5%9B%9E%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%89%88-DVD-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%81/dp/B0015L8744/ref=pd_cp_d_0


http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3849043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850827
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851686
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887

ベルトルッチか。

2人の后とベッドで戯れる…紫禁城の衛兵にダンスパーティー〜実に絢爛豪華。阿片を吸って足を舐められる婉容の絵は妖しい…ってか、いきなり収容所で自殺未遂なのだが…

ラストエンペラーが突然消えて、幼い頃の虫籠から生きたクリケットが出てくる…実にファンタジーな幕引き。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24562#2


ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』を見た時、終わりの方で意味不明なシーンに出くわしました。

1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告。8月15日、日本は無条件降伏します。ソ連軍は満州に殺到し、日本へ脱出しようとしたラストエンペラー「溥儀」は、長春の空港でソ連軍兵士に捕えられ捕虜となりました。中華人民共和国建国後、その身柄はソ連から中国に引き渡され、撫順の戦犯管理所に入れられ思想改造を施されます。10年間の収容所生活を送った後、1959年に特赦を受けた溥儀は、皇帝から一市民となり、園丁として北京植物園に勤務することになりました。 問題のシーンはここからです。

1967年、町へ出た溥儀は若者達のデモを見かけます。人民服を着た若者達は腕に赤い腕章を巻き、赤い手帳を掲げて何やらシュプレヒコールをしています。中には、毛沢東の大きな肖像画を掲げている者、赤い旗を振り回している者もいます。

行列の半ばに、白い紙で作った三角帽子を被せられ、反革命分子と書かれたゼッケンをつけて連行されている人々がいました。溥儀は、その中に撫順の収容所所長の姿を見つけます。思わず走りよって、連行している若者に

「同志よ、何かの間違いだ。彼は善良な人だよ。何をした?」

と問いかけます。周囲の若者が

「犯罪だ」
「皇帝に追従した」
「反動だ」
「罪を告白しろ」
「毛主席に礼を」


と口々に叫びながら所長を跪かせようとします。割って入った溥儀は

「この人はすばらしい教師だ。ひどい仕打ちだ。いいか、立派な先生なんだ」

と食い下がりますが、若者達に突き飛ばされて道端にうずくまりました。

http://home.catv-yokohama.ne.jp/cc/hitomi/100satu/wairudo/wairudo.htm

            _ -‐ァ                   __
       (三ニニL.                   _j‐-.三)
       {:::rj  !                   `ト、::::::j
      _ノ==-く                     ,)ーヘ、
     / {    _,.)                    r=, ̄ ̄ヽ、
.     L-!     | (|                     | |    ハ
    丁 |    Lニ|                /、_j  i   L.|
     | ,ハ____l l                    !`7′ !  |「 |
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2. 中国最後の皇帝 毛沢東のした事


中国の現代史を振り返ってみて、そこに浮彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。  これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。  毛沢東は、

「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」


と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


中国共産党が殺した中国人の数は実に8千万にのぼる。間違いなく中国共産党は人類史上最悪の殺人集団といえよう。

 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されたとき、多くの人民は期待と希望に胸を膨らませたことであろう。だが建国とほぼ時期を同じくして、6億の人民の淡い期待はたちまち恐怖へと変わる事になる。

 中国共産党は政権を握ると早速土地改革を実行に移した。土地改革はすでに抗日戦争や国共内戦時代から根拠地で行われていたが、政権獲得後は全国で虐殺と略奪の嵐が荒れ狂った。土地改革とは表向き地主や富豪から土地と財産を没収し、貧しい農民に分配するというものだ。中国共産党は土地改革により、暴利を貪る地主の搾取から農民たちが解放されたと自画自賛しているが、実態はどうであったかを以下に見て見よう。

 共産党は土地改革を行うにあたり、破落戸たちから積極的に情報提供などの協力を得ることにした。破落戸とは日本語では「ごろつき」という読ませ方をする(ほかにも「ならずもの」とも読む)。要するに素行が悪く、人間性の欠如したチンピラのことだ。そして破落戸は、生活が豊かで、財産と文化的教養を身に付けた地主や裕福な家庭に憎しみを抱いている。そういうこともあり、毛沢東は破落戸こそが農村革命の勇敢な参加者と位置づけたのだ。

 土地革命は次のような手順で行われた。家族が朝食をとる時間を見計らって共産党軍が地主の家に乱入し、家族全員を一箇所に監禁し、金銭、金品、土地の所有証書などを徹底的に略奪。見つからなければ地主を拷問して場所を聞き出す。奪うだけ奪いつくすと、地主及びその家族を広場に引きずり出して、村人たちに裁判を開かせる。この裁判でも破落戸たちが協力している。破落戸たちは地主の罪状を次々とでっちあげて糾弾する。そして死刑判決が下される。地主を地面に跪かせてライフル銃で射殺する。脳みその半分は飛び散ってしまう。

このような殺戮が中国国内のありとあらゆる村で行われた。中国共産党が掲げた「一村一焼一殺」という方針により、1952年までに240万人の地主や富裕層が虐殺された。命は助かったが財産と家屋を略奪されたものも400万人近くにのぼった。建国前に革命根拠地で行われていた土地改革では地主の家屋までもが破壊されたが、建国後の土地改革では地主の家屋は共産党の支部として利用するために温存された。

 こうして土地改革により、中国共産党は全国に共産党の支部を設立し、地主から金品や財産を略奪し、6億の人民に恐怖心を植え付けるという成果を収めたのである。


 土地改革と同じ時期に鎮反運動、いわゆる「鎮圧反革命分子運動」が開始された。1950年10月10日、毛沢東は「反革命活動鎮圧に関する指示」を発令し、それに基づき1951年2月21日、中国共産党は「懲治反革命条例」を制定した。「匪賊、悪党、スパイ、国民党員、反動的団体の幹部、反動的セクト組織のリーダー、麻薬反」などが鎮圧の対象とされた。だが裁判や刑執行に関する法律が全く不明確で、なおかつ
毛沢東は全国に殺害のノルマを制定した。

「人口の千人に一人以上」

というものだ。なぜ千人に一人という数字なのかは不明であるが、毛沢東が気まぐれで、これだけ殺しておけば人民に恐怖を受え付けることができると判断したとしか解釈しようがない。こうして中国全土で殺人の嵐が吹き荒れた。まず各地の共産党組織が人民代表連合大会という動員大会を開き、群衆たちに反革命分子を告発させる。それに基づき公安が告発された反革命分子を一斉に逮捕する。即座に人民法廷が開かれ、その場で死刑を言い渡し、即座に銃殺する。

 処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共にとってどうでもよい問題である。《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができるのだ。実際のところ、千人に一人の犯罪者を探すことなど容易なことではなく、ほとんどの人々は匪賊にもスパイにも反革命活動にも心当たりがないまま告発され、処刑された。

 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。

 鎮反運動と土地改革が一通り終わってからわずか3年後の1955年、中国共産党は粛反運動(粛清反革命分子運動)を繰り広げた。実態は鎮反運動とほぼ同じである。この運動で逮捕されたのは130万人。そのうち処刑されたものは8万人に上った。普通の国であれば短期間で8万人が虐殺されれば、その国の歴史にとって最も暗黒な時代として記憶されることであろう。しかし中国共産党暴虐独裁政権にとって8万人の虐殺ぐらいは日常茶飯事であり、大きく取り上げるほどのことではないのである。

 人民を恐怖に落としいれ、全国で虐殺の限りを尽くした中国共産党の残虐行為はこの程度で留まることはなかった。さらに大規模で残虐な無差別大量虐殺が中国全土を襲うことになる。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui06.htm

 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の復讐


 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのに慣れていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思い巡らしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。
<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中に少なくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにも怖くてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>


<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みの薄い、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>


 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。しかしこの運動は過去の土地改革、鎮反運動、粛反運動とは全く趣旨が異なるものだった。文学、芸術、科学技術に従事するものたちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。だがこの運動は予想に反して盛り上がりを欠いていた。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。毛沢東や人民日報からは


「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」

「言う者に罪無し」

「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」

という発言が飛び出し、1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。 問題は毛沢東はそもそも本気で党外人士や知識人の批判に耳を傾けるつもりがあったのか、それとも始めから「右派分子」を弾圧するために百家斉放、百家争鳴運動を開始したのか。

どう考えても後者である。すでに中国共産党は300万人の無実の人民を虐殺しているのだ。大虐殺の悪夢が過ぎ去ってからまだ1年足らずである。人民に強烈な不満がないはずがない。自由な言論を認めれば政権を揺るがすほどの批判が殺到するのは分かりきっている。この後の運動は血に飢えた毛沢東が更なる大粛清を楽しむためにしかけた運動とみなして間違いない。

 1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。今回は集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

 毛沢東自身は1958年5月8日の会議で次のように述べている。

「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。

私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。

私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」

と言って自ら大笑いしたという。 反右派闘争によって当に対して反対意見を持つ知識人や党外人士が一掃されたことから、中国共産党の独裁は大幅に強化された。それと同時に党内でも毛沢東の絶対的な権力が強化された。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui07.htm


大躍進運動


1957年の反右派闘争をきっかけに毛沢東の権力は絶対的なものとなり、ほとんど異論を唱えられない雰囲気が醸成されていた。それ故、反右派闘争から1年を待つことなく、人類史上中国以外では例のない悲劇が幕を開けることとなった。

 1957年11月に毛沢東は訪ソし、フルシチョフと会談した。フルシチョフが掲げた目標は15年で米国を追い越すというものだった。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカに追い越すという自信が確かにあったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。

 翌年、中共政府は鉄鋼生産量年間2億7千万トンという前年比2600%(260%や26%の誤記ではない)増の生産目標を発表した。その前段階として、中共は農民を鉄鋼生産に専念させるため、とりあえず1958年は穀物生産高年間5億トンという目標を掲げて邁進することになった。前年比100%増、つまり2倍である。

 穀物生産高倍増のための効果策があるわけではなかった。効果策はなかったが具体策はあるにはあった。1958年2月に中共政府は蝿、蚊、鼠、雀を駆除することを目的とした四害駆除運動を開始した。特に農作物を食い荒らす雀に対する徹底的な捕獲作戦が実施された。だが雀は農作物を食うだけでなく、害虫も食べるのであり、生態系バランスを完全に無視した中共の政策により蝿、蚊、いなご、ウンカなどの害虫が大量発生し、農業生産に大打撃をもたらすこととなった。

 さらに、同じ種であれば互いの成長を阻害しないという誤解に基づく極度の密植、深く埋めるほど根が発達するという誤解に基づいて2メートル以上の深さに種を埋めるなど、農業理論を完全に無視した農業政策が実行に移された。

 目標が達成できないことは目に見えていた。だが中国共産党の地方幹部にとって、毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であった。1958年秋、地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。そして党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのだが、水増し報告をしている以上命令に従わざるを得ない。必然的に人民の食糧が欠乏することになる。

 そのような状況で1959年を迎えると、毛沢東はこの1年間は農業生産はほどほどにし、全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった。また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、特に中国の北部は禿山だらけとなってしまった(そのため今でも中国では毎年洪水が発生している)。

 そして1959年の夏にはついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も全くの不作で飢饉をさらに深刻化させた。早くも1959年7月の中国共産党政治局拡大会議(いわゆる廬山会議)で彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も支持を表明するものが少なくなかった。しかし毛沢東は7月23日の演説で、彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判した。彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。

 8月2日から始まった中国共産党八中全会で毛沢東は彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」として激しく非難し、彼らを失脚に追い込んだ。毛沢東は自信を持って大躍進に誤りなど全くないと主張し、彭徳懐反党集団との闘争を20年でも50年でも続けなければならないと発言した。そのため、1960年まで彭徳懐反党集団との闘争が続けられることとなった。毛沢東は自らの正当性を主張するため、さらなる鉄鋼大増産政策の貫徹を全国に命令した。

この廬山会議で毛沢東の間違った政策を修正することができれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができたであろう。しかし誰もが間違いに気づいていながらもはや誰も毛沢東に逆らうことはできず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。

 こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた。(大躍進運動による餓死者の数は4000万、5000万、6000万という説もあるが、私は批判をするときはできるだけ控えめな数字を取り上げる方針であるので、3000万という数字を用いている。実際にはもっと多い可能性が十分にあることを留意していただきたい)。餓死者3千万ということは、当然ながら飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。

 一般的に大躍進運動は、政策の失敗のほか、ちょうどこの時期に旱魃が発生したことが被害を拡大させたと言われている。だがその後の研究により、この時期に自然災害など発生していないことが現在では明らかになっている。数千万人規模の餓死は明らかに毛沢東ならびに中国共産党による人災なのである。

 驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、中共政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに中国共産党は国内における大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は中国共産党による人民への大量虐殺といっても過言ではなかろう。

 飢餓に襲われた人民の境遇はこの世のものとは思えない、それどころか映画の世界でもあり得ないような悲劇的なものであった。食糧不足が深刻化した1959年夏ごろ、当初はご飯をお粥にすることで何とか凌いでいたが、お粥にするほどの米も底を尽きると、人々は籾殻も稲の藁もとうもろこしの茎さえも食べるようになった。それさえも尽きるようになると、樹や草の根を掘り出して食べるようになり、中毒死する人が続出した。ついにあちこちの家庭で餓死者が続出するようになり、埋葬しきれないほどであったので、遺体の多くは雑木林に捨てられた。遺体が捨てられるとすぐさま尻や太ももの部分が誰かによって切り取られていった。すでに事態は食人にまで及んでいたが、悲劇はまだ終わらない。

 口にできそうなあらゆるものが底を尽いたときに人間がとる行動とは、平時の人間には想像をすることさえ困難である。人々は自分の子供を他の家庭の同じ年頃の子供と交換するようになった。自分の家庭で養育するためではない。いくらなんでも自分の子供を食すことはできないので、他人の家庭の子供と交換して食すのである。家に持ち帰った交換物は台所で調理される。脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうしてなんとか1週間ほど凌ぐことができるのである。

 家庭によっては自らの子供を食す親もいた。ある農家では家族はすでに父親と息子一人と娘一人しか残っていなかった。あるとき、父親は娘にしばらく外出するよう命じた。娘が戻ってくると、弟がおらず父親が台所で料理をしていた。鍋には油が浮いており、何やら白っぽいものが入っていた。鍋の横には骨が放り出されていた。それから1週間ほど後、父親は再び鍋で料理の準備を始めた。そして娘を呼び寄せた。娘は号泣しながら父親に、

「お願いです、お父さん、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります!」

と叫んだという。

 1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇とケ小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。中華人民共和国建国から13年、すでに中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。過去に中国が経験した列強による侵略も、抗日戦争をもはるかに上回る悲惨さであった。にも関わらず、悲劇は終わらなかった。大躍進運動という人類史上他の国では例がないような悲劇を経験しておきながら、さらに悲惨でさらに長期間に及ぶ悲劇が待っていた。毛沢東は健在だった。低下した影響力を取り戻すための機会を虎視眈々と窺っていたのである。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm


毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 フランク・ディケーター (著),
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794218400/founder-22/

毛沢東は1957年5月17日の党大会で「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅される程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている。人口の半分が残れば最善であり、3分の1が残れば次善である」と言っている。これが毛沢東の誇張表現なのか、中国共産党の統治意識なのか、中国人の宇宙観なのか、不明というしかない。

ともあれ、死者4500万人という数だけが問題なのではない。あとに紹介するように、文字通りの愚策・愚行によって耕作地、木、鉄、住居、衣服、生産物まで、あらゆる資源が無駄に浪費されたため、大飢饉後には中国の多くの農村は、比喩ではなく石器時代の生活に戻ってしまったのだ。その後の文化大革命でも中国は大打撃を受け、20世紀中は米欧の資本主義国も近隣諸国も中国の脅威を気にする必要がなくなった。日本が近隣防衛まで米国任せにすることができ、それゆえに資源を経済に投入することで、高度成長できたことは毛沢東によって担保されたといっても良いかもしれない。

ほとんどの中国共産党幹部は周恩来もケ小平も趙紫陽も唯々諾々としたがった。彭徳懐と劉少奇だけが反対の立場であった。毛沢東は「大躍進」で失脚したが、7年後に「文化大革命」で復活し、彭徳懐と劉少奇に復讐することになる。文化大革命中に彭徳懐は紅衛兵に肋骨を折られ、末期癌であるにも関わらず痛み止めの注射はされず、窓を完全に塞がれた部屋で下血と血便にまみれて死んだ。劉少奇もやはり恥辱の中で亡くなっている。

著者はオランダ生まれの香港大学教授だ。著者は北京の外交部をはじめ、各省の党档案館などから1000点を超える資料を収集した。档案館とは国公立の公文書資料館のことである。1999年に档案法が改正され、50年を超える文書が公開されることになったのだ。そのなかから驚くべき事実を知ることになる。

1957年11月、毛沢東はソ連のフルシチョフに張り合うため、中国は15年以内にイギリスを追い抜くと宣言した。しかし、その後それなりに発展したソ連とは異なり、中国は愚か極まりない思いつきと狂気じみた統治組織で、大量の労働力と資本を使い、計画が成就しなかっただけでなく、将来にわたる巨大な負の資産を残したのである。大躍進で行われた複数の巨大プロジェクトのすべてがそうだった。

たとえば、農産物の生産量を増やそうとして、無謀な肥料作りを始める。糞尿だけでなく女性の髪まで切って使われる。泥と藁で作った建物も肥料にされる。麻城県というところでは肥料にするために何千軒もの家が解体されたのだが、『人民日報』が成功例として紹介したため、気を良くして、年末までに5万軒の家屋や牛舎、鶏舎が壊された。しまいには肥料にするといって農地に白砂糖を撒くという倒錯ぶりだ。

中国共産党は愚かにも、土地を深く耕し、作物を密集して植えると収穫が増えると思いこんだ。何千万人もが自分の家を燃やして暖を取りながら夜を徹して掘り続けた。最大3メートルもの深耕は無駄であっただけでなく、結果的に表土が損なわれるという事態にも陥った。飢饉の真っ最中にもかかわらず、食糧でもある苗や種を密集して植えつけ、苗が呼吸できずに枯らしてしまうことも行った。

いっぽうで、鉄を増産しようとして「土法高炉」なる手製溶鉱炉を作りはじめた。全国4000万人の労働者を使い50万基を建設した。所詮鉄器時代に近い製法である。クズ鉄だけでは足りず、鍋釜、農機具まで原材料として投入されたのだが、出来上がったのはやはりクズ鉄だった。クズ鉄を使って作った農機具は1年も持たなかったため、農家は文字通り素手で耕作することになる。それ以上に深刻なのは燃料だった。国内の山々は丸裸になり、しまいにはなぜか果樹まで燃やしてしまう。南京では7万5000本の果樹が倒された。

これらの愚行で餓死者がでているにも関わらず、地方政府や官僚は毛沢東に水増しした生産量を報告していた。そのために毛沢東は大豊作だと思い込み、休耕地を増やすように指令する。余剰物は輸出に回そうということになり、農産物や木綿などの繊維製品まで輸出した。結果的に農民たちは衣服まで手に入らなくなってしまう。驚くことに千万人単位の餓死者が出ているにも関わらず、毛沢東の国際的な対面を保つために輸出は続けられ、他国からの援助は断りつづけた。

三門峡ダムを始めとして多数のダムが作られたが、ほとんどが欠陥工事だった。1961年までに40万個の小さなダムが破損した。115の大型ダムが洪水を引き起こし、1975年には時限爆弾となったこの時期に作られたダムが決壊し、23万人が亡くなっている。

バカバカしいことに害鳥だとしてスズメを全国一斉に退治した。当然のことながら害虫が増えた。空が暗くなるほどのイナゴに襲われ、南京付近では農地の60%が虫害にあった。やっと気づいたときにはすでに遅く、スズメが絶滅しかかっていたため、あわててソ連からスズメを輸入するという始末だ。

自然に対してこれほどのことをやってのけた毛沢東と中国共産党である。当然、国民に対しての仕打ちは過酷を極めていた。農家は肥料や燃料として家を燃やされ、人為的な飢饉が起こっているうえに、鍋釜にいたる鉄器も取り上げられ、布団どころか衣服もないのである。文字通り石器時代に戻ったのである。その結果人々がどうなったのかは本書を読んでみてほしい。4500万人が死亡したということはその数倍以上が死の淵をさまよったはずである。当時の中国の人口は6億5千万人だった。

http://d.hatena.ne.jp/founder/20110823/1314083823

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3. 毛沢東の学歴コンプレックスが引き起こした文化大革命


1) 文化大革命は何故起きたか


 まず文化大革命は中国にその後どんな影響を与えたかですが、結論から言って中国はこの文化大革命によって発展が三十年は遅れたとまで言われております。中でも最大の損失ともいえるのが知識人で、ちょうど日本での団塊の世代に当たる年齢に、中国の大学では教授などの人間がすっぽり抜けてほとんど存在しません。これはこの世代がまさに文革で排斥される対象となった世代で、文革期に殺されるか、社会的に抹殺されたかのどちらかで存在していません。

 文革期には中国でも知識人が文字通り根絶される勢いで摘み取られていきました。ここでちょっと想像してほしいのですが、たとえば今、当たり前のようにいる設計士、技術者、熟練工といった人たちがこの社会から突然いなくなってしまうとしたら。もちろんそうなればあらゆる工事から工場の作業、開発製造といった行為がすべてストップしてしまいます。しかも、いざそういった人材をまた育てようと思っても、技術や知識を一から教えてくれる教員すらいない状況であればなおさら悲惨です。

 70年代の中国はまさにこうでした。一度は育てたあらゆる人材がいなくなり、技術や知識の継承をまた一からやり直す羽目となったのです。ただ中国はこれを奇貨として文革後に優秀な学生を選抜して、一気に東大など海外の大学へ留学させて建て直しをはかったりしています。今、中国の経済界ではそのような留学帰りの人たちが大きな力を持っているらしいです。

 中国が文革から受けた損失はなにもこの人材だけではありません。連載中にも書いていますけど何の計画もない土地開発のために自然環境は徹底的に破壊され、また歴史的遺物も「過去の残滓」として数多く破壊されています。

 そして元紅衛兵だったたくさんの若者たちも地方に下放されたまま、故郷へ戻ることすら叶わなくなりました。

 こうしてみると、何故これほどの悲劇が繰り広げられたのか、誰も止めることが出来なかったのかと疑問に思えてきます。この文化大革命は毛沢東の手によって引き起こされたものの、中期以降は一般民衆もむしろ率先してこの混乱を加速させ、いうなれば集団パニック、もしくは集団ヒステリーのような現象だったと思います。日本も戦前は教育上は軍部が国民を扇動させたことになっていますが、実際にはかなりの部分で国民も戦争へ突入するのを応援していました。何でも、朝日新聞が当時に反戦の記事を書いたら部数が一気に5%にまで落ちて、慌てて戦争賛美へと論調を変えたほど民衆も戦争一色だったらしいです。

 よく集団ヒステリーというと、大体二、三十人くらいの小集団で起こるもの、大きさにすると学校のクラス単位くらいなものと思いがちですが、歴史的に見ると日本を始めとした国家単位でも起こっていますが、さすがに中国という巨大人口国でも起こるというのはなかなかに驚きです。まぁ実際、集団ヒステリーに人数は関係ないのかもしれませんけど。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_05.html

文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 

 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは燕の駆除で、燕は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大燕駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、燕を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に燕の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに燕が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。

 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、


「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」


と詰め寄ったらしいです。 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇とケ小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。

 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_18.html

失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇とケ小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。

 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。

 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。

このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、

「共産党の指導部内に裏切り者がいる」

と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、事態は徐々に深刻化していきました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_20.html

『文化大革命』とは、その原因を言うならば『太平洋戦争(対日戦争)』後の、中国共産党の政策失敗にあるとも言えます。 中国共産党は内戦の果てに『国民政府』を台湾に追い、『社会主義国家』を建国しますが、その後、国家主席であった『毛沢東』が信奉する『マルクス・レーニン主義』の理論の下に、『数年間で米英を追い越す』として、1958年から1960年まで『大躍進政策』と銘打って農工業の大増産政策を行います。 
しかし、この政策は農業現状の無視の上に行われたと言え、自然災害も重なったこともあり、結果的に2000万人から2億人と言われる餓死者を出して終了を見たという事なのです。

 この失敗の原因は『マルクス主義』そのものとは無関係な物であり、具体的な経済の発展方法にあるとして、国民に謝罪すると共に『毛沢東』は『自己批判』を行って国家主席を辞任する事になったと言うのです。 つまり。国家主席の座を、当時NO2であった『劉少奇1898〜1964)』に譲る事に成ったのです。
 
 つまり、『文化大革命』は『毛沢東』のこの様な失敗からの回復を目指して行われた物であった様なのです。 なんと言っても、『毛沢東』の存在意義は、かっての『日中戦争』の折りに、中国人民に向かって呼びかけたところにあったと言える様なのです。 言わば、中国共産党の存在意義を示す物とも言えますが、

 『戦争と言う巨大な力の最深の根元には、人民が存在するのである。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ、この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放たれた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ。』

と言う物であると言います。 これが、後の『毛首席語録(毛沢東語録・毛語録)』の根幹ともなって行った様なのです。

 ところが、1960年当時の世界は、『社会主義国』と見られる国々でも、その基本たる『マルクス・レーニン主義』は、その理論にも『変革』を求められる時代にも入っていたと思われます。 勿論、その『変革』を行う事は、本道を自負する人達から『修正主義』とも非難され、その論争は国間でも深刻な問題ともなっていたのですが、『中国』も否応無くその洗礼を受ける事に成ったと言えます。 その発端は、1960年代に行われた『中ソ論争』にあったと言うのです。

 『中ソ論争』と言うのは、1956年に起きたソ連首相『フルシチョフ(1894〜1971)』の『スターリン(1878〜1953)批判』が発端で起きた『平和共存路線』を『修正主義』と批判する中華人民共和国の『毛沢東(1893〜1976)』等によって起こされた物とも言える様なのです。 この事は、1960年に至り『人民日報』や『紅旗』等が『レーニン主義万歳』を記載するに及び、決定的なものとなります。 ソ連指導部は中国に派遣していた『技術専門家』を引き揚げる事になり、両国の関係は悪化の一方を辿るようになります。 ともあれ、1962年には『中印紛争』『キューバ危機』等が起こり、中国・ソ連の対立は理論的にも決定的なものとなり、1964年には『フルシチョフ』の失脚を見るものの、両国の関係に回復を見る事は無く、対立は深刻化して行ったと言う事なのです。

 『劉少奇』が国家主席となった1959年の中国にとっても、『毛沢東思想』の信奉だけでは、既に遅れを見る時代に成っていたと言わざるを得ないとも言えます。 『劉少奇』はこの後、市場主義を取り入れた経済調整政策を実施、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めたと言う事なのです。 此れに対して『毛沢東』は

『矯正し過ぎて、右翼日和見の誤りを犯している』

と批判したそうなのです。飽くまでも『毛沢東思想』の貫徹を要求した様でもあるのです。 つまり、見方によっては『文化大革命』とは、『毛沢東』が現状を『修正主義』に占拠されると感じた結果起こした運動でもあった様なのです。 しかし、単に『劉少奇』を放逐する為に起こした運動ではなかったかと評する人も多いのです。 

 確かにその頃『劉少奇』には、中国の状況を憂い、彼に組する人も多かった様で、『毛沢東』は『毛語録』などに見られる人気、思想的背景は持っていたものの、『毛沢東』の意に従う者は、共産党幹部には決して多くはなかった様なのです。 まして、『劉少奇』には『フランス語』『英語』『ロシア語』を話す夫人『王光美(1921〜2006)』がいたと言うのです。 彼女は、物理学を専攻し理学博士でもあった人であったというのですが、その語学の才能をかわれ、1946年頃から中国共産党の中でも重要な仕事をして来た人でもあった様なのです。

 『劉少奇』とは1947年に結婚し、『劉少奇』が首席となった1959年からはその『ファーストレデイ」として国際的にも注目を浴びた人でも有った様です。 この様な状態を見るにつけ、おそらく『毛沢東』には、焦りが募る毎日でもあったのかも知れません。 すなわち『毛沢東』は大衆の前でこそ絶大なる指示を受けていたと言えますが、彼の取った政策の失敗は、目を覆うばかりで共産党の内部等には信用は失墜、『劉少奇』等の『実権派』が取って代わろうとしていたのです。 その対抗策として『毛沢東』が取る事に成ったのが、『文化大革命』でもあったのです。

 具体的には、当時軍の実験を握っていた『林彪(1907〜1971)』を擁し、行動に出る事であったというのです。 つまり、『林彪』は1959年に『解放軍向け』として『毛首席語録』の編集・刊行にかかります。 そして、1966年の『文化大革命』の発動と共に、一般向けにも大量に発行されたという事なのです。記録によれば1966年3月から1976年8月までの約十年間『毛沢東語録』の印刷部数は、『文化大革命の象徴』として、実に65億冊を越えたと言うのです。
 
『毛沢東』は腹心とも言える『上海組(四人組)』を使い、1966年以降『紅衛兵』と呼ばれる団体を結成し、其れを行って行ったと言うのです。 すなわち彼は、彼の理論の推進者として、抵抗感の少ない学生・少年少女を選んで、その推進力と仕様とした事になるのです。

 この『紅衛兵』とは、よくドイツの『ヒトラーユーゲント』の引き合いに出される物である様なのですが、確かに、狂信的でその目的は似ているとも思いますが、実体はかなり違うようなのです。 つまり、レベルがかなり違うと言わざるを得ないのです。 

『紅衛兵』に、特に資格と言ったものは無かったのです。 其れが『無知』とも言える暴走を生んで行ったと思われます。僅か10代の少年少女達が『毛語録』を手にしただけで、続々と加入し拡大を続けたと言うのです。

 『毛沢東思想』を権威として暴走する事になった彼等は、多くの派閥に別れ、互いに『反革命』とのレッテルを張り合い、武闘を繰り広げて行ったと言うのです。 つまり、指導者の不足が如実に『統制不可能』な現象を起こして行ったのです。


 結果的とは言え、無知なる青少年が『国家政策』を専横して来る様になったと言うのです。共産党幹部ですら其れを防ぐ事は出来ず、その時既に党幹部でもあり、後の中国共産党の重要な指導者となった『トウ小平(1904〜1997)』は『紅衛兵』の暴行を直接身に受けているのです。 言わば、『思いつき』に似た行動が多かった様で、

『農村から学ぶ必要がある』と成れば、どんな人達も、『上山下運動』に狩り出されたと言いますし、

『孔孟の匂いのある物』と成れば、すぐ破壊されたと言うのです。 

事情は一切顧みられる事は無かったと言うのです。

 つまり、この様な事が頻発した為に,中国の高等教育は機能を停止したと言われ、中国の進展は、この『文化大革命』で20年は遅れたと言われているのです。 この世代は教育、及び倫理的に大きな影響を受けた世代と言われ、その影響は今も尚、大きなものを残していると言うのです。 すなわち、『文化大革命』は当初、政治・社会。思想・文化の全般にわたる『改革運動』として企画された物であったと言うのですが、結果的には『粛清』『破壊』その物であった様なのです。 

実体は、単に彼等の『勧善懲悪』的な指導の下に行われた様なのです。


 つまり、『善人』とされたのは、

『少正卯』
『呉起』
『商鞅』
『韓非』
『荀況』
『李斯』
『秦の始皇帝』
『漢の高祖』
『漢の文帝』
『漢の景帝』
『曹操』
『諸葛亮』
『武則天』
『王安石』
『李卓呉』
『毛沢東』

などであり、それにつながるものは『善』であったのです。

 『悪人』とされたのは、

『孔子』
『孟子』
『司馬光』

等であったと言うのです。


 つまり、中国の思想家の内

『法家を善とし、儒家を悪として、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされた』

と言うのです。 すなわち、この後は、これらの人々になぞらえても、『紅衛兵』の行動は激しさをまして行ったと言うのです。

 何でも彼等の携帯する『毛語録』には


『革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりする事でもない。

そんなにお上品でおっとりしたり、雅やかな、そんなに穏やかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、控え目な物ではない。

革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。』


とあり、

『革命には犯罪は無い』

としたと言うのです。 

これが、『無知なる少年少女』達の『粛清運動』ともなり、結果的に約1000万人〜3000万人の『大量虐殺』を産み、結果的に犠牲者数億と言う、数字も定かならぬと言う『内戦』とも言える惨状を多分に示した運動ともなって行ったのです。 

この『文化大革命』のエピソードを拾ってみれば、其れは更に容易に想像がつくかとも思えますので列挙してみます。 


 *『紅衛兵』は『赤は革命に色であるから赤信号で止まるのはおかしい、赤信号で進んで青信号で止まるべきだ』

 *『寝室に毛沢東の写真を飾っていた新婚夫婦』に『首席の前でセックスをした』と非難した『紅衛兵』に、『その時は電気を消していた』と反論した。

 *ある『紅衛兵』は『富農家』や『官僚』批判が絶頂だった頃、彼らに対する迫害を多くしたと言うが『毛沢東』の実家も『富農』であった事で候補に上げた。

 *中華人民共和国の新聞には、その頃多くの毛沢東の写真等に占領されていたが、その新聞を尻に敷いたり、たきつけに使った事で吊るし上げられた者が多数いた。

 *旧思想・旧文化の否定がスローガンとされた為、陶磁器や金魚・月餅等古い歴史を持つ商品の製作や販売まで旧文化とされ、それに携わるだけで、職人や関係者は『帝国主義者』と認定され、つるし上げの対象者でもあった様なのです。


 
 この様に見ていけば、実際はその行動に『思想』や『展望』の一切なかった事が、偲ばれるものとも言えます。 『無軌道』とも言える『紅衛兵』の産物でもあったと言えますが、この結果どれだけの犠牲が払われているかは想像できない事である様なのです。

 ところで、『文化大革命』は1970年代に入ると、内戦状態とも言える経済的疲弊等から、それに伴って終息に対する雰囲気も高まって来たと言われ,1972年のアメリカのニクソン大統領訪中等が契機となり、沈静化して来たと言うのです。 1976年には『毛沢東』が死去した事もあり、1977年8月には『共産党声明』として『文化大革命の終結』を宣言する事に成ったのです。 その後始末として、1981年には『紅衛兵』の指導に大きな影響を与えたと言う『林彪グループ』や『上海組』の要人には死刑から懲役刑の判決が下される事に成ったと言う事なのです。

 すなわち、『林彪』は『劉少奇』追放後の1966年の党大会に於いて『毛沢東』に次ぐ序列第2位の席に昇格し『毛沢東』の後継者と公式に認定されていたとも言うのですが、『毛沢東』が『劉少奇』の失脚によって空席に成っていた『国家主席』の廃止案を提案すると、それには同意しなかったと言うのです。 1970年になり『林彪』は毛沢東の首席就任や毛沢東天才論を連発し、毛沢東の持ち上げにかかったと言うのですが、其れが逆に『毛沢東』の疑心を呼ぶ物ともなり、『毛沢東』の批判論を呼び起こす元ともなったと言うのです。

 この様に見れば『毛沢東』と言う人が、『権力の座』にこの上なく執着した人である事は疑いの余地の無い人とも思えます。

 かくて、1971年9月『毛沢東』との決別を覚悟した『林彪』は『毛沢東の暗殺』に動いたと言うのですが、失敗しソ連への逃亡を図り、モンゴル上空で事故死したと言う事なのです。 この『暗殺事件』をして、『毛沢東』は

『雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い』

と言ったとされている様だが、それ程余裕があったかは定かで無いとも言えそうである。  

 この『林彪』と同じ時期に、頭角を表わしたのが後に『四人組』と呼ばれた『上海組』の人達でもあります。 彼等は逮捕された後『四人組』と呼ばれる様になりますが、実体は『毛沢東』の四番目の夫人『江青(1914〜1991)』と、その取り巻き連中であった様なのです。
 
当初は『劉少奇』の追放を目論む『毛沢東』に従って『林彪』と共に『紅衛兵』の指導に当たり、『林彪』失脚以後は『プロレタリア独裁』『文化革命』を隠れ蓑に、極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧して行ったと言うのです。
 
『王洪文』『桃文元』『張春橋』と言う政治局員の名前が見えますが、言うなれば彼等は『毛沢東夫人』の付き人みたいな者であったようです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。

 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_22.html

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2) 煽てればガキンチョは何でもしてくれる


悪事を成功させようと思ったら、ガキンチョを集めて、うまく煽てて女と飴を適当にあてがっておけばいいんですね:


毛沢東は中華人民共和国が成立して以降、一貫して権力者であったかのように誤解されがちなのですが、実際には彼は一度失脚しています。何故失脚したかというと、農業政策や社会政策などで明らかな失政を犯してしまい、一度ケ小平といった経済政策などに明るい政治家らに引退を迫られ、一旦は政権の中枢から降りています。しかし彼自身は未だ引退する気はさらさらなく、表面上は穏やかに政権の座を譲ったかのように見えましたが、その後自らは隠遁したふりを見せ、未だ政権に残っている自らの腹心を使い徐々に世論を誘導して、

「ケ小平らは毛沢東を騙して政権から追い出した」、

というような世論を作っていきました。

 以前に大学の授業にて中国政治の先生がこの文化大革命のことを、毛沢東が権力を奪回させるために敢えて社会を混乱させたところ、終いには自分にも手がつけられなくなったと評しましたが、まさに的確な表現でしょう。

毛沢東は民衆、特に精神的に純粋な十代の少年少女らを使い、自らを神格化させることによって見事ケ小平を追放し、政権の奪回に成功します。 しかし少年少女らを扇動する際に毛沢東は、

「お前たちが正しい。しかし大人は間違っているから、お前たちが修正してやらなければならない」

 といったような言葉で動員し、この言葉を真に受けた若者たちは一切権威を信じず、自らが組織した団体の決定を強引に推し進め、更には本来それを取り締まる警察や軍隊は毛沢東らの中央政府の命令によって鎮圧ができずに静観するだけという、悪循環な環境を生んでいくことになります。

 この時代について私に中国語を教えてくれた中国人教師の方などは、当時は軍隊が全く機能しておらず、子供だった先生は勝手に基地の中に忍び込んでは手榴弾を取ってきて投げて遊んでいたというくらいですから、その混乱振りがうかがえます。 このように、ごくごく一般の社会機能がほぼすべて失われ、当時の中国はさながら無政府状態のように、殺人があっても誰も気に留めず、また好き勝手に泥棒や強奪が頻発したらしいです。

文化大革命中、少しでも学識のある人間は「知識分子」と呼ばれ、激しい批判や暴力を受けて社会的にほぼすべてが抹殺されたと言われ、ちょうどこの年代に当たる知識人層が何十年も立った今でもすっぽりと抜けているということを知った時、寒気にも似た気持ちを覚えました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_6756.html

1962年1月の中共中央拡大工作会議でついに毛沢東は大躍進運動の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、ケ小平などが実権を握るようになった。

劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにし、生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から65年にかけて中国経済は目覚しい回復を見せていた。

 だが毛沢東は再び権力奪還の機会を窺っていた。 1966年 8月1日から中共十一中全会が開催され、8日に「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。この決定では「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が掲げられた。この会議では劉少奇の党内序列が2位から8位に格下げされ、ケ小平は平の党員なみに格下げされた。その一方で林彪が序列2位に急上昇した。

 これ以降劉少奇、ケ小平打倒のキャンペーンが本格化し、二人を名指し批判する壁新聞が大量に貼り出され、劉少奇、ケ小平は自己批判文書の提出を強要され、事実上の軟禁状態に置かれた。

11月以降は他の古参幹部に対する公開批判闘争が紅衛兵によって大々的に進められるようになった。1967年に入ると批判闘争はますます激化し、各地で実権派打倒の集会が行われた。すでに劉少奇は執務不能状態に陥っていた。1968年10月、劉少奇の党からの永久除名、ケ小平の留党観察処分が決定された。

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

 毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、ケ小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。

中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。

 文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。

 紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。

 1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。

 虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。

 こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。

 中国共産党が文化大革命の時期に行った犯罪行為のひとつに文化遺産の破壊がある。宗教は阿片と看做していた中共は、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。例えば後漢時代に建立され、文革当時現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったがこれさえも破壊された。明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

チベットでは6千箇所の仏教寺院がことごとく破壊され、文革が終わったときには8箇所しか残っていなかった。こうして中国人や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。

 宗教に対する弾圧はことのほか激しかった。イスラム教徒に強引に豚肉を食べさせ、チベットのパンチェンラマには人糞を食べさせた。ハルビンの極楽寺の三名の僧侶は

「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」

と書いた看板を持たされた。多くの僧侶が強制的に還俗させられた。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm


毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは

「孤立無援の毛首席を救え」

とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。

 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、

「あいつは反革命的なことを言っていた」

とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、


「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」

「この場で俺たちに謝れ!」

「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」


 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。毛沢東は若者らを煽動する際に、

「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」

と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、

「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」

というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、

「謝れ!」 とか

「自分がろくでなしであることを認めろ!」

などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。

 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_24.html

自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。 田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。

 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。

「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」

 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。

 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。

 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_26.html

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毛沢東の死と文革の終わり

 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放されたケ小平を招聘するに至るのです。

時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後にケ小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼はケ小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘したケ小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らくケ小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなったケ小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、ケ小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここがケ小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒もケ小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりもケ小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこのケ小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒はケ小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_8107.html

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3) 林彪 _ 中国皇帝の恐ろしさがわからなかった策士の末路


 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。

 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。

 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。

毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。


 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。

 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。

 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派のケ小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_27.html

 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。

彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」

と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。  1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。 羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。

「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。

彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
 
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は

「司令部を砲撃しよう──私の大字報」

を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。  しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、

「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」

とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。

 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪の功績


文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。

林彪(一九〇七年〜一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六〜二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。

三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。

日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。
遼瀋戦役(四八年九月〜一一月)、平津戦役(四八年一二月〜四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。

その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──

これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。

出世術、クーデタ術を研究


林彪は戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。 しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。

林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。

しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。

毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。

一九六〇年から六四年にかけて、林彪は内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。

一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている。

一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。

毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。

大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。

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腹心で固めたセクト


林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

林彪の第三戦略は、異分子の排除である。

一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。

元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年〜六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。
国防部長になった一九五九年以来、五〜六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。

このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。


羅瑞卿を解任


羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。 林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八〜一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

一九六六年三月四日〜八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。
この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。

羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。


党内の敵を摘発


羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。

第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。

要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。


第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。

第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。

羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。

文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。

この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。 林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。


林彪昇進の背景


一九六六年八月一日〜一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。

第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。

第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。

第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。


林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。
一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。
八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。

林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。

表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。


警戒を深める毛沢東


では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。

毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。
七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。

毛沢東は八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。

九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。

毛沢東は林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。

林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。

上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。

中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。

下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

毛沢東暗殺計画


一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。

九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。

一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。

これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。

周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。

九月一二日の経過はこう描かれている。

林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。

一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。

林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。

8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。
夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。

一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。

8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。

このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。

車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。

モンゴルで墜落死


林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。

まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。
周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く

「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。


一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。

一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。

九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge140.htm


林彪は毛沢東の14歳下で、1956年に初めて中央政治局委員に選ばれた。それからわずか10年で、並み居る先輩を追い抜き、No2の座を獲得するのだが、その出世の手段は要するに「よいしょ」である。トップである毛沢東を徹底的に持ち上げることで、その座をつかんだのである。

 1962年1月に拡大工作会議、いわゆる「七千人大会」が開催された。これは、毛が提唱した「大躍進」等の失政について総括することが目的であった。「当時毛沢東本人は〜話したいことは全て話して『鬱憤晴らし会』を開くように求めた」とある。林彪が巧みなのは、そこでも

「現在の困難は『われわれが毛主席の指示に従って行わなかったがためにもたらされたものだ』」

と発言した点だ。 権勢を振るっている最中は、誰しもがお追従を言う。それであれば、多数の中の一人に過ぎず、「よいしょ」が与えるインパクトも小さかろう。ところが、失意の中、周りがきつい言葉を吐く中で、一人変わらず支持を続けたとしよう。毛も失地回復の最中は周りを見る余裕もなかったが、何とか態勢を回復すると、ふと思い出す。そういえば、林彪はあの七千人大会でも鬱憤晴らしをしなかったな、と。林彪が本格的に毛に取り入ったのは、そこがターニングポイントだったのではないだろうか。


 林彪のもう一つの手段は、ライバルを容赦なく蹴落とすことであった。本書で紹介される粛清の記録を読んでいると、卒塔婆が立ち並ぶ墓地を見ているような気になる。

 羅瑞卿(らずいけい)は、毛沢東の忠実なガードマンとして有名な人物である。毛が黄河などを泳ぐ時、近くで泳ぎながら見守っていた姿が印象深い。

 彼は毛に厚い信頼を受け、総参謀長の要職にあった。

 羅は、「毛思想は『最高』というが、最高ではそこで停滞してしまうのではないか」と林の考え方を批判した。

 また、羅は、軍服を要求した江青に対し、軍服は支給するが襟章などは貸与しないとした。

 そのうえ、葉群(林の妻)が要求した准将の地位を拒否した。一人でも危ないのに、三人とも敵に回してしまい、羅はとことんまで追い詰められた。

 悲惨なことに、羅は飛び降り自殺を図る。ところが、さらに悲惨なことに大腿骨を折ったものの「生き残って」しまうのだ。 瀕死の重傷を負ったというのに、批判集会には「かご」に乗せられ、無理やり担ぎ出される。暴力を受け傷はいつまでも癒合せず、病院で転倒し、さらに骨折する。 

「治療してくれ。さもなくば、この脚を切断してくれ」

という悲痛な訴えも、尋問が済むまで治療は延期され、結局羅は命を落とすのである。

 賀龍といえば、長征の時の第二方面軍のリーダーだ。

 ところが、1966年7月に、ごくつまらないことで「二月クーデター」なる陰謀を企てたとでっち上げられる。

 周恩来は、ほとぼりをさます意味で、賀龍を郊外の病院に入院させる。しかし、67年1月、林によって、別の場所に移送され、適切な医療はおろか、必要な水や薬さえ与えられない状態が続いた。

 67年6月9日、国民党が10万元の賞金首としてまで命を狙った英雄は、同じ共産党の林の陰謀によって重度の糖尿病による昏睡状態に陥り、還らぬ人となった。


 彭徳懐は、59年の廬山会議で、毛沢東の大躍進政策について諫言したため毛の不興をかい、失脚する。しかし、政治局委員の地位は留任していた。林は彭徳懐にも目をつけ、追い詰めていった。

 62年6月16日、彭は毛に真情を訴える手紙、いわゆる「八万言の書」を出す。

 毛は彭に面会に来るよう自ら電話をかけ、「君というやつは、普段は全然顔を見せないで、手紙は書くとなったら何万字も書くんだからな」とユーモア交じりの暖かい言葉をかける。「ああ、やっぱり主席はわかってくれている」。そう安心した彭を待っていたのは、さらにエスカレートする吊し上げだった。

 本書P65には、批判集会でいわゆる「ジェット式」に腕をねじり上げられている彭徳懐の写真が載っている。

 周恩来は、彭徳懐に対しても必死に病院を手配したが、やはりそこにも江青らの魔手が及び、74年11月29日に彭徳懐は死亡した。


 陳毅の例も印象深い。

 批判集会でも陳毅は毅然としていた。発言冒頭には毛語録から一節を読み上げるのが当時の習慣だったという。陳毅は言った。「語録271P!」自分の語録のページをめくる聴衆。そして会場がざわめいた。語録は270Pまでしかないのだ。

 さらに、陳毅は声を張り上げた。「陳毅は良き同志なり!」

 会場の周恩来が、毛主席が以前、実際にそうおっしゃったのだと解説したため聴衆は感心し、批判集会でありながら陳毅の言葉に真剣に耳を傾けたという。

 67年8月26日、林彪らに煽動された群集は周恩来を取り囲み、批判集会に陳毅を連れ出すと怒号した。その時の周のセリフが泣かせる。

「君たちが陳毅を吊るし上げると言うなら、私が立ちふさがる。それでもやると言うなら、私の体を踏みつけて行け!」

 さまざまなでっち上げ、言葉尻をとらえた告発は枚挙に暇がないので、一番くだらないな、と思ったのを一つだけ紹介する。

 風下にいて煙突の煙にむせた人が「西風が吹けばいいのに」ともらしたのを、毛主席の「東風は西風を圧倒する」(中国の革命は西欧資本主義を駆逐する)を批判したものだとされて、7年間もぶち込まれたそうである。

 文革関係の記述を読んでいると、本当に、もっと古い時代の史書を読んでいるような気分になる。林立果は、林彪の息子である。立果は空軍に入ったのだが、林彪の取り巻きたちは、ことあるごとに「彼は副主席の代理だ。空軍は彼に指導されるべきだ」と持ち上げた。

 林彪は、息子に何か実績をあげさせようと考え、ブレーンに命じて毛思想の解説書をこしらえ、息子にその解説を空軍で講演させ、しかもその講演録を大量に印刷させ配布したという。「親バカ70万冊」である。

 しかも、林彪や葉群は、息子の嫁選びのため全国から美女を選抜する大会を開いたという。将来の「皇后」候補という訳だ。

 周知のように、九全大会において、林彪は正式に「後継者」と決定した。前代未聞だが、党規約に明記されたのである。続く九期一中全会で、林彪は自分の取り巻きで人事を固めた。

 69年末に、劉少奇が死亡する。林彪は、ここで一気に自分が後継者に!と思ったのだろうか。

 その機先を制するように、毛は、70年3月に国家主席のポストは設置しないように提案した。しかし、あえて同年4月、林彪は毛沢東に、国家主席を設け、就任してくださいと提案する。言うまでもなく、国家主席のポストがなければ、自分がその座につけないからである。肩書きの有無など問題にしない毛沢東のようなカリスマ性は自分には皆無だと知っていたのだろう。

 その時の毛の言葉が痛烈だ。

「私は曹操になりたくない。諸君も孫権になるな」

 孫権は、後漢を擁立していた曹操に、自ら帝位に即くようすすめた。曹操は、自分に即位を勧める孫権自身が帝位に即きたいのだろうと皮肉った訳だ。 笑顔で話しながら背後で剣を振り被っていた林彪は、気が付くと逆に自分の喉元に剣が突きつけられているような気分になったのではあるまいか。

 70年8月23日の9期二中全会で事態はさらに風雲急を告げる。林は、陳に命じ「主席設置」議事を強行しようとするが、8月25日、毛ははっきりと討論停止を命じた。

 林彪の平和的奪権は失敗した。次の奪権の機会まで、毛がこのまま安穏と林を見逃し続けてくれる筈はない。

 71年3月27日、林らは「五七一工程」を起草する。毛沢東暗殺計画書である。自ら招いた事態とは言え、最早「殺られる前に殺る」しかないのである。

 71年8月14日、毛は南方へ、「謎の」視察に出かける。クーデターに失敗し、いわば「窮鼠」になった林らが不穏な動きをすることは予想できたであろうに、なぜ、北京を離れたのか。

 視察先で毛は引きこもっていた訳ではなく、多方面の人物と接触した。林彪サイドの人物にも、毛が林を厳しく批判していることが伝わった。危機は近い。林は凶行の実施を決意した。

 ここで私は思った。毛は、かつて戦術論としてこう語っている。「蛇」は顔を出した所をすぐに叩いたのでは、また穴に潜ってしまう。しばらくはほって置いて、完全に姿を現した所でこっぴどくやっつけるのだ、と。

 また、豊臣家を完膚なきまでに叩き潰すため、恭順の意を表しようとしていた豊臣側をさかんに挑発し、関が原、冬の陣、夏の陣に追い込んでいった徳川家康の手口(もちろん、これは豊臣びいきに偏った見解だが)も想起した。

 林らが毛暗殺の総指揮者に指名した江騰蛟(こうとうこう)は、71年9月9日に「毛の列車が上海で停まったら決行」すると内部で宣言した。

 71年9月11日、停車中の毛は、許世友と会うが、王維国の乗車は許さなかった。実は、林らが計画していた暗殺方法には、

(1)火炎放射器とロケット弾で列車を襲撃する、

(2)高射砲で列車を水平砲撃する、という方法のほかに、

(3)王維国が毛と接見する際、車内で銃撃する


という方法も含まれていたから、もし、王が乗車していたら運命はどうなっていたかわからない。 思うに、毛沢東のことであるから、スパイを忍ばせていて、林らの計画はほとんど筒抜けだったのではあるまいか。単に強運、天性のカンだけなのだろうか。

 同日、昼食後、毛は密かに列車を北京に出発させる。同日夜、王維国は「列車は上海を出た」と電話した。林らは目の前が真っ暗になったことであろう。 途中の鉄橋での爆破計画もあったのだが(関東軍の張作霖爆殺事件にならったものである)、毛は途中駅にも一切停車させず、12日夕方に無事北京に帰り着いた。毛の完全勝利だ。


 71年9月12日に林一派の中では「林副主席は広州へ行き、南北朝のように割拠」するのだという話が取り沙汰されたと言う。やはり大時代な話だ。

 ここからは分刻みのサスペンス。9月12日午後8時15分に林立果は、山海関空港から北載河へ向かった。

 12日午後10時30分、周恩来は、北載河の異常を知った。周は、捜索を開始する。

 12日午後11時、周宇馳(しゅううち)は仲間に「ばれた、中止だ」と電話をする。

 午後11時22分、事態を糊塗するため葉群は、周恩来に平静を装って「林が空路で移動します」と連絡した。

 午後11時40分、林は葉群に「すぐに出発だ」と告げる。

 林らは、車を100km以上で疾走させ山海関空港へ急ぐ。

 9月13日午前0時22分、林一行は、トライデント256機のもとに到着する。

 13日午前0時32分、副操縦士らも揃っていなかったが、林たちは離陸を強行する。

 午前1時50分、周恩来は怒りを込めて毛に報告した。毛はこう答えたという。「雨は降るもの、娘は嫁にゆくもの。好きにさせるがいい!」

 これは毛の達観か。それとも、予想された結末だったのか。

 9月13日午前2時30分、林らを載せたトライデント機はモンゴルで墜落し、全員が死亡した。あまりの準備不足のため、燃料切れを起こし、副操縦士もいないため不時着に失敗したのではないかと考えられているそうだ。


 後継者として信頼していた林彪に命を狙われ、毛はその後、一気に老け込んだという。


http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

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4) 終生、呂后、則天武后や西太后を演じ続けた名女優 江青女史

江青 1914.3.−−1991.5.14

 悪女、妻、女優、野心家、愛人、グレタ・ガルボ信奉者、イプセン愛読者、共産主義唱導者−−江青の異名だ。

 江青の一生は「復讐と野望」に彩られている。

まず、幼いころの貧困と搾取への復讐。 江青は、女優を目指すが、「スターダムに乗れるところだったのに、国民党の宣伝映画に出ることを強要されたので断念した」のだった。

「これを画策したのが、四人組の悪党ども。そのために、あらぬ中傷を書き立てられた」と江青は復讐心に燃えた。

 江青の生涯には何人もの男が登場するが、毛沢東の存在は大きい。彼との間には、李納という娘をもうけた。

 一九三七年、日中戦争が激しくなり、戦火は上海にまでおよんできた。その上海を江青は脱出し、西安にたどり着いて、さらに洛河に沿って北上して延安を目指した。そこには、共産党の首都があった。

「ずっと歩き通しでした。一文なしで、何度か危ない目に遭ったけれどなんとか生き長らえたわ」
 
江青は細い足がむくんでいるのが気になった。若い共産党員たちが全員出て彼女を歓迎した。ほっそりとした若くて美しい女優だ。上海からきた売り出し中の新進女優に男たちの眼が輝いた。

 江青は男好きのする顔に、もって生まれた性的魅力がある。上眼使いに話して男に媚を売る方法も身につけていた。
 
そんな女性が中国共産党の最高指導者、美男で権力もある人気絶大な毛沢東と出会った。

「もの静かで、知的な美人」が好みという毛沢東にぴったりとあっていたのが当時の江青だ。女好きな彼が見逃すはずはなかった。

「彼は美男で、大学教授みたいだった」

 講演する毛沢東に積極的にアプローチして、疑問点があれば押しかけて行って質問をする彼女の行動力が二人を急速に近づけた。 ときに江青二十三歳。毛沢東は四十五歳。二十二歳の年齢差は、まったく問題とならず、二人は熱愛した。 当時毛沢東には賀子貞という妻がいたが、夫妻の間は冷えきっていた。江青と毛が愛人関係になるのに時間はかからなかった。

 毛沢東の愛人になった江青は、やがて正妻になることを望んだ。 問題は党の承諾である。江青は男性遍歴が多いうえ、結婚する相手が自殺未遂までしてスキャンダルを起こしている。その女性を正式な毛沢東夫人として認めるわけにはいかない。それに当時、女優の地位は著しく低かった。評判のよくない映画女優、江青が認められないのは当然だろう)。

 この二人の間を取りもったのは、周恩来と江青の同郷である康生だ。 毛沢東夫人とは呼ばず、江青同志と呼ぶこと。江青は党の職務には関わらず、毛沢東の身辺の面倒だけを見る。しぶしぶながら、江青はこの条件をのんで結婚した。

「私はファーストレディよ、こんな屈辱的な条件を絶対に許すものですか」

 当時は毛沢東を愛していたが、このお返しはいつかすると決めた。 賀夫人と別れる前に、毛沢東には数人の女性がいた。 江青は後年、毛沢東との関係を述懐している。

「セックスは、最初は重要な要素になるけれど、その後は男に権力があるかどうかが大切なの」

 江青の本名は李青雲(李雲鶴という別名あり)一九一五年三月、中国山東省の諸城生まれ(一九一二年、一四年説もある)。その町の中流家庭に生まれたが、両親が離婚したため、貧乏な少女時代を送っている。(父が死亡したとも)貧しい大工の家庭だったともいわれる。  最初、親類のもとに引きとられたが、母は住みこみの職を見つけて最低の生活をなんとか維持してきたのだった(母が身を売っていたという噂もある)。

「いつも腹をすかしていたし、汚い身なりなので、苛められてばかりいたけれど、泣きはしなかった」

 そんな江青は、やがて済南の小学校を出ると、山東省立の演劇学校に入った。授業料も食費も無料で、多少だが、手当てもくれるというのが何より嬉しかった。当時の世相は不安定で、辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国として生まれ変わったばかりだった。
 一九二九年に、江青は巡回劇団に加わる。三三年には、青島で入党。一九一五年生れ説をとると、当時まだ十八歳だ。

 女優グレタ・ガルボに心酔していて、映画好きな江青は女優になる決心で上海に出る。諸城という小さな田舎町から大都会に出るのは勇気がいった。女優になって有名になるという女心と、共産党員として忠実であろうとする彼女の葛藤が始まったのもこのころだ。 青島で最初の結婚をし、上海では唐納(監督であり、著名な批評家でもあった)と再婚した。

 一九三〇年代の上海は東洋のパリと呼ばれた国際都市。この魔都上海は、あらゆる人間の欲望がうずまく場所で、彼女は生きた。  彼女は、貧しいが野心をもった女性で、いい役を得るために上海の映画会社に足しげくかよった。

監督で共産党幹部の張健の情婦だったとか、手段を選ばない「淫乱な女」とも噂された。(当時江青は、藍ぴん=青い林檎と名乗っていた)。

 江青が二人の子どもを残して唐納を捨てると、彼は自殺すると脅した。新聞はその話を煽情的に取りあげ、藍ぴんに罪をかぶせ、悪意のある醜聞を書きたてた。

 そして毛沢東と出会うのは、先に述べた一九三七年のことだ。  一九三九年、毛沢東と結婚した後、江青は平凡で従順な主婦となった。それが党の指導者たちが取り決めた結婚の条件だった。  一九四九年、共産党は国民党を打ち破り、ついに中華人民共和国を成立させた。毛沢東の時代になるが、それに比べて江青との愛は急速に冷めていく。

 毛沢東は新しい女を見つけた。

それを黙認する代わりに、江青は四人組を組織して、政治の表舞台に出始めた。

まるで、嫉妬に狂った女が片端から「恨みつらみ」を何かにぶつけるように、ヒステリックで残酷な行動に出た。

 文化大革命(一九六七年)の主役として、ふたたび政界に浮上したのである。 京劇に現代的なレパ−トリ−を演じさせようとした。そのレパ−トリ−は、いつも共産革命の讃美をテ−マにしていた。


 紅青は粛清の陣頭に立ち、旧幹部の吊るしあげをした。

 過去を知る邪魔者は無差別に殺した。その数は、「十人や二十人ではないだろう」といわれる。

すさまじいばかりの殺戮を断行した。これには年老いた毛沢東には手がつけられなかった。

 しかし、一九七六年に毛沢東が死ぬと江青は四人組とともに捕らえられ、投獄された。四人組の裁判はテレビで公開されたが、三人の男たちが、憔悴しきっているのに対して、江青だけは怒鳴り散らしながら自己を正当化し、最期まで闘い続けたのだった。

http://www.ainoue.com/ai/71-80/75.html

“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。

迫害狂−−江青


毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。
江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。

こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。 “四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。

その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。

それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。

このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。


毛沢東夫人としての強力な権限


かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、

暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」

と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、

「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。

随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。


このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。


文革のテロリズムと先祖返り現象


もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。

私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。

革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。

明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。

ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。

林彪派と江青派


“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。

張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。
葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。

武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。


権力者たちのプライバシー


林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日〜九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。

なお、、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。

中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシーが容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。

これが文化大革命のもう一つの側面であった。

周恩来、ケ小平 批判へ


概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。

一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇〜二〇二頁)。

事柄は「ケ小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東はケ小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、ケ小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。

この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。

その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。

もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm


 『江青』と言う人は、今では『中国四大悪女』の一人と言われている人でもありますので、如何しても、その悪行を書き連ねる事になります。 結果的に言えば『江青』は1976年の逮捕後1981年の『最高人民法院特別法廷』で『クーデター計画』や『幹部及び大衆の迫害』等の四つの罪で『死刑判決』を受け、その後減刑されるも1991年首吊り自殺をしたのです。

 それにしても、その行状を視てみると、『女って此れほど陰湿』なのかと思わされる物が多いのです。

 その伝聞によりますと、彼女は当初は図書館で副司書をしながら演劇を勉強していた『女優志願者』であったと言うのです。つまり、器量もそれなりのものであったようで1931年に最初の結婚をしたと言うのですが約2ヶ月で離婚、その後学生運動家と知り合い同棲,これが契機で1933年『共産党入党』、しかし同年、その運動家逮捕されるに及び『上海』移住、その後『女優』を始め1994年に映画監督と結婚するも2ヵ月後には他の男性の元へ走り、『上海芸能界』から去り、当時『中国共産党』の本拠地であった『延安』に逃げる形になったと言うのです。

何でも、この時から『江青』と名乗るようになったと言います。 この事が、彼女にとって大きな転機にもなって来た様なのです。

この時『江青』25歳、ここで20歳も年上の『毛沢東』と知り合う事となるのです。 しかし、『毛沢東』は当時三番目にはなりますが妻がいる身であったのです。 『毛沢東』は前妻と離婚し、『江青』との結婚を決意するに至ったと言うのですが、共産党の指導的立場にあった『毛沢東』には、『不倫』を噂される結婚は似合わないとして党の反対を受けた様なのです。

 党幹部であった『朱徳(1886〜1976)』や『周恩来(1898〜1976)』にとっては『毛沢東』のイメージダウンを招きかねないと言う危機感から、『江青』との結婚に反対の意見が続出し、最終的には『江青』を政治の表舞台には立たせない約束をさせられたと言うのです。 果たして、見直してみれば、これらの事が後に『江青』の報復となって現われて来たのかも知れません。 何れにせよこの様な事が起きたと言う事は『毛沢東』の存在が絶対的なものではなかった事を意味してると思いますが、『毛沢東の絶対的な支配』へと志向したものが『文化大革命』でもあったようです。 

ともあれ『江青』と『毛沢東』は『日中戦争』の真っ只中の1939年に正式に結婚したと言うのです。 『国共内戦』を経て、『文化大革命』の実行へと、その挙に出て来たと思われるのです。 

つまり、大筋では『毛沢東』がその目的を示し、具体的には『江青』が手を下したと言えそうなのです。『江青』をして『文革の女帝』と呼ぶ謂れがそこにあった様なのです。 1991年5月14日『江青』は自殺に及んで


『毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が 今・・・・会いに行きます』
と書き残したそうです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は王世英という人物を糾弾している時、重病になった王に

「もっと審査しなさい。死んだって構やしない」

とか

「もっと厳しく闘争にかけ〜場合によっては死ぬかもしれないが〜閻魔さまの別れの酒でも飲ませてあげるさ!」

と言い放ったという。 本書には四人組一派による自供捏造の「テクニック」?が描かれている。いや、テクニックと呼べるようなものかどうか。

「アメリカ特務機関の住所は東四六条の何号だ?」

と聞く。知らないのだから当然答えられない。

「では、一から順番に数を数えよ」

仕方なく、「一、二、三・・・」と読み上げていく。そして「・・二十八」

「やはり知ってたのか!」

と突然周りの人間が取り押さえ、「東四六条の二十八号である」と自供したことになるというのだ。実にグロテスクな茶番劇。


 康生は、こうした尋問に長けていたそうである。「かもしれない」、「類推する」といった用語をつなぎ合わせ、仮定に仮定を掛け合わせれば、どのような状況もでっち上げることができる。 たしか宋代の岳飛も、秦檜に「莫須有」(謀反の可能性があったかもしれない)だけで謀反の罪が確定されてしまったのだが、思わずそれを想起した。

 江青には、1934年に国民党政府に逮捕され、「これまで共産党に参加したことはなく、これからも決して参加しない」という声明を出して、はじめて保釈された。 江青は自分の触れられたくない過去を知っている30年代の同棲相手であった鄭君里を捕らえ死に追いやった。まさに死人に口なしである。

 孫維世(周恩来の養女)も殺した。これは『毛沢東最後の女』の書評(04年2月の「書評」)の中で少し紹介してある。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。
養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

 もっとも本書ではそうした男女関係ではなく、孫が江青と同じ反日劇に出演したのだが、孫の方が人気を博してしまい恨みをかったとか、孫に演技上のアドバイスをしてやるから会いに来いと言ったのに孫が行かなかったとか、養父である周恩来や兄の孫央(彼は打倒の対象である朱徳の秘書だった)に対する敵意などが迫害の理由として挙げられている。

 その他にも、『賽金花』という芝居の主役をさらわれた王瑩という俳優を意趣返しで逮捕し、王瑩は恨みをのんでこの世を去った。

 他にもセーターを受け取らなかったためスター女優の趙燕侠は大部屋入りとなり、白叔湘という女優は、ドーランの使い方で江青と意見が違ったため、「反革命の現行犯」という汚名をきせられるなど、実にくだらない理由で多くの人が手ひどい復讐を受けている。

 根っからの「武闘派」である毛は、1927年に「革命は暴動である」と宣言したが、自らの奪権闘争でもある文革において原点回帰をした。文革が血腥い臭いに包まれたのは毛のこの言葉と決して無縁ではない。 王洪文は「文攻武衛」というスローガンを打ち出した。文革で攻め取ったものを武力で防衛するということだ。「暴力」がますます加速する。

 これも文革におけるグロテスクなユーモアの一つと思うが、頭上開花、面部掛彩といった言葉がある。中国人はなぜこのような巧みなネーミングをするのだろうか。煎じ詰めれば、脳天が砕ける、顔面が血に染まるという、反対派へのリンチの名称なのだが。

 中巻でも触れたが、奪権が失敗し逃亡を決めた林彪と葉群は時間稼ぎのため江青を利用した。9・13事件の前日、林彪はわざわざ西瓜を江青に届けさせている。 江青は、周囲に、林彪副主席から手土産をもらえるほど親密であることを自慢したが、事件が明らかになるや、これまで私は林彪から迫害を受けていたと鉄面皮にも言い募ったとのことである。

 江青は自らを呂后にも則天武后にもなぞらえた。

 江青ワンピース、太后靴というものがあるそうだ。「黄袍」は皇帝しか着用を許されない。江青はそれを意識していたのだろう。また、68年9月に呂后の所持品と目される玉璽が出土した。江青は目の色を変え、急いで北京に取り寄せたとのことである。それがあれば、女帝に即位できると考えたのであろうか。

 毛は「江青は野心を抱いている」とか「私が死んだら江青は騒ぎを起こすだろう」と語っていたそうだ。 その予言のとおり、76年9月8日には、周りの制止を無視して、江青は重態の毛の身体を動かして、病状の悪化を招いた。遺言状の所在を探ったようだ。自分の名前が出ていれば大々的に騒ぎ立てただろうし、もし都合の悪い内容であれば握りつぶそうとしたのであろう。

 翌9日の午前0時10分に毛沢東は死去した。時間の問題であったのだろうが、タイミング的には江青が殺したようなものであり、しかも、死の直後に張玉鳳(「毛沢東最後の女」とも呼ばれる、毛の秘書)に毛に関連する文書を提出するよう強要した。意図は同じであろう。

江青は、「党主席に就任したくてうずうずしており」、周囲の者に「このリンゴは、私が女帝に即位した時のお祝い用に取っておきましょう」というような発言をしたそうだ。

 しかしながら、毛から後事を託された華国峰は、葉剣英ら古参幹部と図って76年10月5日に四人組逮捕を決定し、翌6日には一網打尽にした。 ところで、華国峰は四人組逮捕に関しては果断であったが、それ以外の点では結局ケ小平の敵ではなかったようだ。

 華は自分の権力を守るために「二つのすべて」という手法を取った。これは過去の毛主席の決定、指示をすべて厳守するというもので、その解釈権を握ることで自らの権力を維持しようとするものだが、これでは林彪の毛個人崇拝と変わらないのである。 76年6月に華は、毛に報告したいことがあったが、身の周りの世話をしている張玉鳳が起きてくれず、2時間あまり待ったが、結局そのまま退出したというエピソードがあるそうだが、実に象徴的だ。いわゆる「押しが弱い」タイプだったのだろうか。

 本書には、権力が世襲されなかった点以外は毛は「皇帝」そのものだったと書かれている。嫡男というか「皇太子」がいれば、世襲されていたかもしれないと私は思うのだが。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


 『周恩来』の養女『孫維世(1922〜1968)』


文化大革命時代には、女優としての名声の高さと毛沢東との男女関係から江青の嫉妬を買い、迫害を受けた。

孫維世は養父である周恩来が署名した逮捕状を以って、北京公安局の留置場に送られ、1968年10月4日に獄中で死亡した。

遺体は一対の手枷と足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。

江青は刑事犯たちに孫維世の衣服を剥ぎ取らせて輪姦させ、輪姦に参加した受刑者は減刑を受けたと言う。

また、遺体の頭頂部には一本の長い釘が打ち込まれていたのが見つかった。

これらの状況から検死を要求した周恩来に対し、「遺体はすぐに火葬する」という回答のみがなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%B6%AD%E4%B8%96

 『孫維世』は1946年当時『延安四大美女』の一人とも言われる『女優』であり、人気も格別なものであったと言う事なのです。 女優としての略歴もしっかりした物であった事から1935年以来『周恩来』の信頼も受け、16歳で中国共産党に入党していた事から彼の養女ともなった様なのである。 美人な上に幹部の信頼も厚かったことから、『毛沢東』の1949年の『訪ソ』の際には『毛沢東』の通訳を務めたと言うことである。

 彼女を知る人の話では、『彼女の美しさは尋常の物ではなかった』らしく、彼女にプロポーズした幹部は『林彪』を始め多くいたそうである。 『毛沢東』もこの『訪ソ』の際、彼女と関係を持ったのではないかといわれているそうである。

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  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.|  周恩来の養女 孫維世です。
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠| 
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 本日はご指名頂きまして
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彡'      ` ̄       `\   ー-=ェっ |
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ミ三彡'        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
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 彡'       __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
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      ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
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   ノ     _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|


 『江青』にすれば、総ての恨みが迸り出たのかも知れない、1968年『江青』は『周恩来』の署名の入った逮捕状をもって、彼女の元へ乗り込み彼女を逮捕したと言うのです。

 『孫維世』は10月4日死亡したとされていると言うのですが、その時の彼女の死体は全裸の状態であったというのです。 『江青』はその時、刑務所の刑事犯に彼女の衣服を剥ぎ取らせ『輪姦』をさせたと言うのです。 『輪姦』に参加した刑事犯を減刑する措置もとったという事なのです。
 
http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は孫維世(周恩来の養女)も殺した。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

1949年、ソ連に向かう中共代表団付きのロシア語通訳が、周恩来の養女である彼女であった。

 毛沢東は「自分専用の書斎兼寝室の車両で美しい孫維世からロシア語を教わ」る毎日であったが、

「ある晩のこと〜『主席』はしっかりと握った手を放そうとしなかった。

〜次の日の朝、目覚めた孫維世はここがどこで、何がおこったのかをようやく理解した。

『偉大な人物』は大きな鼾をかいて寝ていた」。

「娘のことで周恩来はひどく心が痛んだが、慰め、我慢し、泣き寝入りするしかなかった」。


 よくドラマで夫の浮気現場に踏み込んだ妻が、夫ではなく愛人に対して「この泥棒猫!」なんて言ってつかみかかるシーンがあるが、江青も、毛ではなく、彼女を深く憎悪した。

 文革で権力を握った江青は存分に恨みをはらした。

「北京のある監獄に一人で監禁された彼女は、あらゆる酷刑をうけた。
〜素っ裸にされた彼女の身体は傷だらけで、一糸まとわぬ姿のままこの世を去った」。

 何か、呂后や西太后の凶行を連想させる。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-04-02.htm


摺醴霾醴髏蠶蠶鸛躔か                    ベ∃壮鎧醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
勺儲靄靄醴醴醴蠶體酌偵Auru山∴          ベヨ迢鋸醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
∃儲霾ヲ露繍蠶髏騾臥猶鬱h  ご笵此∴        ∃f謳廱躔騾蔑薺薺體髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶
ヨ儲諸隴躇醴蠶歎勺尓俎赴  f蠶蠶蠢レ      ∴f醴蠶鬪扠川ジ⊇氾衒鑵醴蠶蠶蠶蠶蠶  
ヨ鐘諸薩讒蠢欟厂  ベ状抃  傭蠶蠶髏厂      .ヨ繍蠶蠶臥べ泣澁価価櫑蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶   
f罐諸醴蠶蠶歎      マシ‥…ヲ冖        .∴瀦醴蠶襲jJ鶴門門攤蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
加罐讒蠶蠶欟厂        ヘ              ∴f醴醴蠶甑欄鬮°f蠢蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
溷霾醴蠶蠶勸                        ∴ヨ繍醴蠶蠶鬮狡圷し醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
醴蠶蠶蠶蠶髟                        ベ湖醴醴蠶蠶蠶庇⊇⊇體髏髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
蠶蠶蠶蠶欟                          f繍蠶蠶蠶蠶蠶曲三三巛憫髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶歉                  澁畄_迢艪蠶蠶蠶蠶蠶蠶甜川⊇川川衍捫軆髏髏蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶髟                コ醴蠶奴繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶齡辷シジ⊇川介堀醴醴蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶蠶鬮か                .ベ苛ザベ繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶醯己に⊇三介f繙醴蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶髏鬮シ                        尽慵蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶自辷三沿滋鐘醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶醴勸                            氾隅髏蠶蠶蠶蠶蠶靦鉱琺雄躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶醴訃                      ∴∴∴沿滋溷醴髏蠶髏髏韲譴躇醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶髟              _山辷ムf蠡舐鑓躍醯罎體體體驩讎櫑蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶a            f躍蠶蠶J蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶醯註珀雄醴醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶廴          f醴蠶欟閇憊體醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶靦錐讒醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶欟シ          禰蠶蠶蠢螽螽蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶監シ          ∵ヴ門夢曠髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶a                ∴シ∃愬嚶髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶診            ベ沿u旦以迢u讒醴髏曠醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶髏蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶甑シ            .げ隅艪蠶蠶蠶蠶蠶蠢J蠶髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶鬮ヒ               ベ状隅髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠢テ∴              ベ川捍軆髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶ルシ              ∴∃氾据醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠢此            ∴⊇以f繙醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠶ル∠∴  .∴∴∠ヨ旦滋躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠶蠶醢山ム沿当u錙躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶

孫維世さんの遺体の状況はこれに近かった様ですね:


台湾のアイドル白暁燕


1997年4月14日、私立醒吾高級中学 2年に在学中の暁燕は日系を嫌悪する外省人系のマフィアにとって、格好の標的となり通学途中に誘拐された。

犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。
さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。

冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、犯人グループは身代金受け取りを断念する。

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。

4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。

4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。

直接の死因は窒息だったが、

暴行による打撲で肝臓が破裂しており、

その内出血で腹腔は大きく膨張し、

肋骨もほとんど折れており、

両手両足の爪も全て剥がされていた。


顔も髪の毛はまばらにされ、

両目はえぐり取られ、

舌は引き伸ばされ、

両耳の鼓膜は爆竹で破られ、

前歯は上下三本しか残っていなかった。


報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、あまつさえ


膣と肛門に鉄パイプが2本突き刺され、

子宮内には釘が48本も打たれていた。


長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。

さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9A%81%E7%87%95
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3730785.html

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5) チベットでも行われた文化大革命


* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。


* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、

尼僧に対し警棒の形をした5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。


* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は

「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術によって奪う事)」や

「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」

等の民族浄化に力を入れた。

* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍はそれを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」

特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。 大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。

アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。


おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。

僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、

「仏陀はどうしたんだ?」

と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、

死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、生きながら焼かれた。

ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。


こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。

犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」

とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。

尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と嘲られ、挙句に全員射殺された。 おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。

http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html

   ( . .:.::;;;._,,'/ __:::::ヽノ::::/´>  )
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(..::;ノ )ノ__.  _  | ::/  _ ):::: )_  キャー .__       _ 
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1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。

紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。
民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。

宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。

チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった。

チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm


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          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
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         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 下手な時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
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4. 劉少奇 _ 皇帝に逆らった義人の運命


劉少奇〔Liú Shàoqí リウ・シャオチー/1898.11.24-1969.11.12〕は、中国共産党が結成された年に、中国共産党へ入党した創初期からのメンバーである。1937年、盧溝橋(マルコポーロ橋)事件(日中戦争発端の事件)の首謀者(劉自身が自分の手柄話として語っている。)1945年に中国共産党の2となり、1959年には毛沢東に代わり、「国家主席(国家元首)」となる。ま、「国家主席」とは言え、中共は毛沢東の独裁政権であったので、2のままではあったが・・・

毛沢東の「大躍進」・・・と、云う実質「大後退」に等しい大失策によって、中国全土で数千万の餓死者が続出し、国家の荒廃を憂いたが、「大躍進」に異を唱える事は、毛沢東独裁の中では、確実に粛清の対象になるのも知りながら、国家の退廃と民衆の窮乏を救う為に、敢えて自己犠牲の精神を以って、毛沢東に敢然と立ち向かった。

しかし文化大革命の中で、権力強化を図る毛沢東の標的とされ、“実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に晒され、1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死した。 劉少奇と王光美の子供の何人かは獄死した。

1958年、毛沢東は「大躍進」と云う政策を打ち出したが、実際には「大後退」・・・と、呼ぶに相応しい、惨憺たる大失策で、経済・生態系システム無視し合理性を全く欠いた、大躍進政策は結局として産業・農業基盤は崩壊、生態系を破壊し、発生した大飢饉は日に日に深刻さを増していった。

国家主席の劉少奇は大飢饉に深く憂慮しており、1961年初頭迄に全土で3000万人が餓死したことも承知していた。 1961年4〜5月に、劉少奇は故郷の湖南省を視察した折に、自分が関わった政策が齎した惨劇の結末を直接目にした。

※最終的には「大躍進」では最大推計5000万人余りが餓死した。

劉少奇は、視察中に姉の家に立ち寄った。姉は「地主」の家に嫁いでいたので、共産党政権下で「階級敵人」に分類されていた。其の為に、国家主席の姉弟であっても特別扱いされずに、迫害を受けたし、1959年に発生した飢饉のことを訴える手紙を姉の夫(義兄)が劉宛に書いたが、途中で検閲に引っ掛り、義兄は懲罰として、凍死寸前になるまで木に縛り付けられ、その後間もなく亡くなった。 体が弱っていたのに、ふすまで作ったパンを食べた(その様なものしかなかった)のだが、弱った胃腸は消化の悪い物を受け付けず、医者を呼ぼうにも医者もおらず、苦しみ続ける病人を運ぶ病院すらなかった。

行く先々で、劉は胸を引き裂かれるような光景ばかりしか目にする事が出来なかった。そして、多くの悲惨な話を耳にした。共産党・・・ひいては自分自身に対する人民の憎悪を感じざるは得なかった。故郷の村では12歳の少年が劉の実家に 「打倒劉少奇」 と、書いた。この少年は、1年の間に家族6人が病気で死ぬのを目の当たりにして来た。最後に死んだのは一番下の弟だった。少年は幼い弟に母乳を飲ませてくれる人を探している最中に、弟は少年の腕の中で亡くなった。何故なら、少年の母は其の少し前に亡くなったばかりだった。劉は地元の党幹部に命じてこの少年を罰しないように命令した。劉は、地元当局が食物を盗んだ罪で農民を罰するのをやめさせ、村人に対して、

「寧ろ、政府が農民から食物を強奪しているのだ」

・・・と、衝撃的な発言をした。更に

「そっちがわしらから取るなら、なんでわしらがそっちから取ってはいかんのか?
そっちが沢山取っていくのに、なんでわしらが少しばかり取ってはいけないのか??」

と、農民を代弁する発言をし更に前例の無い事をした。劉少奇は共産党政権の失政について農民に謝罪したのだ。

「同郷の皆さんが此れほど過酷な暮らしをしているのを見て、私はショックを受けました・・・・・

皆さんにこれほどの苦しみを与えてしまったことに対して責任を感じます。謝らなければなりません」

――ーと。


北京へ帰った後、劉は共産党最高幹部たちに

「このまま(大躍進政策を)続けるわけにはいかない」

―――と、語った。 8月には、周恩来が河北省視察の結果、毛沢東に対して

「人民の食べ物は、木の葉、野菜の漬物、野草だけで他には一切無い。穀物は一粒たりとも残っていない」

・・・と、報告したが、毛沢東は

「何をそう大騒ぎすることがあるのか??」
―――と、吐き棄てた。

そして劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に劉少奇夫婦揃って引きずり出された時だった。 劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし、

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。 しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


『文化大革命十年史(上)』(著:厳家祺(げんかき)・高皋(こうこう)。監訳:辻康吾。岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E5%AD%A6%E8%A1%93-%E5%8E%B3-%E5%AE%B6%E7%A5%BA/dp/4006000723/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1314366635&sr=1-1


 文革は、いったいいかばかりの損害を中国に与えたのだろうか。

 本書では「経済的損失は五千億元に達した」という記述があるが、金銭に換算できるものばかりではないだろう。

 各書でもそうだし、本書でも、文革の根本原因として、スターリンを貶めたフルシチョフ体制を目の当たりにして毛沢東が不安になった、ということが挙げられている。きっかけとなったのが、三面紅旗の失敗を彭徳懐が指摘したことだ。

「この批判を認めてしまうと、毛沢東の党内での最高権力が動揺するのは必至」

とある。気にしていることをズバリと指摘されたので、彭徳懐は毛沢東の不興をかって失脚した。彭は、「文革」の最も初期の犠牲者と言ってもよいかもしれない。

 1965年11月10日、上海の『文匯報』に有名な、姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論評が発表された。 どこが逆鱗に触れたのかよくわからないのだが、とにかく江青が、この作品(『海瑞免官』)には腹を据えかねたようだ。しかし、北京では「海瑞」批判の動きを起こすことに失敗した。

 彭真は、毛に「呉ヨ(ごがん)と彭徳懐は無関係」と訴えている。本書の注によると、時期的に見て、呉ヨが、この作品に彭徳懐擁護の意図を秘めることは不可能だったようだ。(作品ができたのが1959年6月。彭が毛を批判したのは同年7月)

 66年5月25日、聶元梓(じょうげんし)らは党委員会に反旗を翻した。それを知った大衆はもちろん深く驚きもしたろうが、反面カタルシスというか、心中快哉を叫んだ者も多かったのではないだろうか。

 66年5月30日、文革小組の一派は、「人民日報」を手中にしたそうだ。これで今後の世論操作が可能になったのだから、この重要性は大きいのではないか。

 その後、反工作組の動き、つまり、従来の「権威」に対する動きが出てきた。

 例えば66年6月18日、陸平ら「黒い分子」を吊し上げたいわゆる北京大学「六・一八事件」である。固定的な(ある意味、安定した)時代であれば、党中央が派遣した工作組の指示には素直に従うことになっていただろう。

 本書には、風向きがおかしくなってきた劉少奇が毛に事情を説明しようとして66年7月18日に家を訪ねたが、(電気はついており、誰かと会っている様子なのに)門番から「主席はもう寝ているから帰れ」とすげなく追い返されたとある。いかにも象徴的なエピソードである。

しかし、劉は、まだ自分の陥っているピンチを正確には理解していなかっただろう。むしろ、理解したくなかった、直視しようとしていなかったという方が近いかもしれない。


 文革は暴力的で残酷なのだが、その中でふとグロテスクなユーモアを感じさせることがある。

 本書でいうと、例えば、江青が、反工作組(=反劉少奇)を叫び、自分が最も「革命」的であるとアピールするための66年7月26日の大会の中で、興奮のあまり私怨を絶叫したというあたり。

「興奮のあまり訳が分からなくなり、われを忘れた江青が毛沢東の前妻の〜息子〜の妻との間に起こった衝突のことまで持ち出し、毛家はこの嫁を認めない、と声の限りに叫んだとき、人々の心にこの革命に対する一抹の不安がよぎった」

とある。会場の聴衆は「なに、関係ないことゆうとんねん、このおばはん・・・・」と思ったやろうねえ。

 また66年8月19日から始まる「四旧打破」の大キャンペーンの中で、紅衛兵が信号表示に異議を唱え、革命の象徴たる「赤」は「進め」を表わすべきだと言い出したそうだ。紅衛兵たちがむりやり

「青で停まれ、赤で進め」

と命令し、数え切れぬほどの無意味な交通事故を引き起こしたあげく、周恩来総理が自ら

「信号は全世界の統一規定で、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果がある」

と説得したというくだりも非常に馬鹿馬鹿しい。


 有名な写真で、劉少奇の妻王光美がネックレスをつけた状態で吊るし上げをくらっているものがあり、本書にも載っている。これも、何と63年の「ネックレス事件」が根本原因らしい。しかし中味といえば、外遊する王に江青が「ネックレスはつけるべきでない」とアドバイスしたのに、ネックレスをつけた姿をニュース映像で見て以来、宿怨を抱いていたという実にせこいもの。

 しかしながら、67年4月10日王光美批判集会では、

「紅衛兵が勝手に持ち出したシルクのストッキングとハイヒールを履かされ、体に合わなくなった細身の旗袍(チーパオ)を着せられて、さらに、このためにわざわざ作ったピンポン玉のネックレスまでつけさせられ」たのである。

 劉少奇への迫害は目を覆いたくなるものがある。67年1月6日に、王光美は

「娘平平が下校途中に脚を折り切断しなければならず、保護者のサインがいる」

という電話を受けた。王は「絶対に中南海を離れるな」という周恩来の再三の忠告を思い出し、すぐに出かけようとする劉少奇を止めたが、

「あんな小さな子が私たちのせいでひどい目にあったのだ」

と迷うことなくきっぱり言ったそうだ。(しかし、やはりこれは罠だった)


 67年7月18日、劉少奇糾弾集会が開かれ、陶鋳、ケ小平にも暴力がふるわれた。

 8月5日、毛が壁新聞「司令部を砲撃しよう」を貼り出してから1周年にあたるこの日、劉少奇批判集会はさらにエスカレートした。

「劉少奇の顔は腫れ上がり鼻には青アザができていた」そうである。


 劉少奇は家族から引き離され一人で監禁された。適切な医療も食事も水も与えられなかった。

 69年10月17日、劉少奇は河南省開封に移送された。
11月12日午前6時45分、彼の心臓は鼓動を停止した。救急チームが来たのは、その2時間も後だったそうだ。

 「人民共和国の主席はこうして誰にも知られずひっそりとこの世を去った。彼が黄泉の国へ持って行ったのは彼に押し付けられた『劉衛黄』という仮名と『無職』の肩書きであった」という。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

劉 少 奇 の 晩 年 99/11/12 半島震報 王小岩 


 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。

当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。


 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。

 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は

「黒は黒を守る」とか
「お前らが悪魔を守れるのか」

とか言いたい放題であった。 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。


劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。

造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。 彼らは言う。

「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」

と叫んだ。劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。

 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。


訳注:中南海は建国後北京城内に高級幹部が住まいとしたところ。大衆の接近を禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまりこの闘争の時、肩書き無しの毛沢東が劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を全て聞いていた。

 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 

 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。

 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。これを見た張さんは、思わず声を掛けた。

「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」

と言った。 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は

「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」

と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。 その直後、王光美は中南海から他へ移された。

 劉少奇を厨房に立たす


 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。

中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。

 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。

 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。 中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。

 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。

 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。


 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。

 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。


 訳者注:これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。
 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。

 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。

 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。

 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。

 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/shouki.html

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm

劉少奇・王光美夫妻 真実の愛とは? 人間の強さと美しさとは??


王光美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%89%E7%BE%8E


劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 王光美の回想による

―――私は

「今度こそお別れになるような気がします〔最近、末日的||感觉好象被分别。〕」

と、云いながら、涙を止める事が出来なかった・・・。

・・・一緒に暮らした日々の中で初めて、少奇は私の荷造りをしてくれるといって、私の衣類をキチンと畳んでくれた。

最後の数分間 私達は互いに見つめ合ったまま座っていた。 其の時、滅多に冗談を口にしない彼が云った。

「なんだか、君を迎えに来る花かごを待っているみたいだね!

〔是什么吗、来接你好象正等待花“車喬”!〕」

―――私達は笑い出してしまった。


その後、二人は別々の場所で独房監禁状態に置かれ、その後二人が顔をあわせたことは一度だけあった。

・・・それは、1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に夫婦揃って引きずり出された時だった。しかし、劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。

裁判の途中で、王光美は、群集の手を振り解き、数分の間、夫の服の端にしがみついた。その間、群衆は殴る蹴るの暴行を夫妻に喰らわせる中、夫妻は手を堅く握り合い、真直ぐ立ち続けようと抵抗した。この勇敢な行動には、恐ろしい報復が待っていた。王光美は米国・日本・蒋介石のスパイと云うレッテルを貼られ、12年の間、最も厳しい刑務所に収監され、立って歩くことすら許されず、刑務所から釈放後、数年間は歩く事すら出来なかった。

また親兄弟が悉く投獄され、70歳を超えた王の母は獄中死し、夫妻の子供達は孤児となり、劉の息子(母は前妻)は自殺した。刑務所に収監されたとしても、日々、聞くに堪えない罵声や暴行を浴びせられ、病気になっても薬は与えられず・・・刑務所とは名ばかりで、強制収容所と何も変わらなかった。

しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

夫妻を見て思うのは、毛沢東に叛旗を翻さず、毛沢東に服従していれば、享楽的な生活を営めたのにも関らず、指導者として成すべき事を確固たる信念を以って、対峙し、そして幾ら非道な仕打ちを受けても、絶対に毛沢東に屈しなかった。王光美は夫と共にあることを望み、王も毛沢東に屈服しなかった。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


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彡三ミミヽ       | ..|ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|    王光美・・・・・
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江青に妬まれた故の悲運


 元々『女優』としての経歴のあった江青は、とても『嫉妬深い女性』でもあった様で、一定の評価はされていたと言うものの、その評価には至極不満であったらしく、『演劇界』には恨みを抱いていたとも言われます。 特に、伝統芸能と言われていた『京劇』や自分より評価の高かった『女優』等には特に異常とも言える敵愾心を燃やしていたと言うのです。


 先ず、『劉少奇』失脚事件です。
1966年『劉少奇』は『毛沢東』によっ
て『トウ小平(1904〜1997)』等と共に『修正主義』と批判され、『自己批判』の上、政治局員の地位は保全された物の、自宅に幽閉されたと言うのです。 その後、スパイ容疑等の名目で紅衛兵などの襲撃を受け何度も『つるし上げ』の標的ともなり、1968年夫人の『王光美』も逮捕されると共に一人軟禁状態となり病の床に着くことになったと言うのである。

 『江青』は、彼の完全失脚を狙い、様々な事を仕掛けたと言うのであるが、その時既に彼の病状は見る影も無いほど悪化していたと言うのである。 にも拘らず、彼女は彼から薬をも取上げ、ベッドに縛り付けた状態で、コンクリートむき出しの部屋に閉じ込めたと言う事なのです。 かくて彼は1969年11月、放置された常態で死を迎える事になりますが、その惨状は余りにも物凄く、直ちに『火葬』されたと言う事なのです。

 一方、夫人の『王光美』も、その容貌が華やかで知性に溢れていた事から『江青』の嫉妬心を刺激したらしく、執拗な攻撃を受けたと言うのです。 『劉少奇』の夫人であった事もあり、『劉少奇』や子供達の何人かはその迫害の下に死んでいったのですが、彼女はそれに耐え抜き約12年間の獄中生活の末、中国共産党の職務に復活していると言うのです。

 聞く所に拠れば、『江青』は彼女を死刑にする為に案件を捏造し、結果『死刑』と判決させたと言う事なのですが、『毛沢東』は此れを聞くに及び『暫くは死刑にしない』と言ったそうなのである。 彼にすれば、運動の初期から一緒に働いてきた同志でもあり、『劉少奇』死した今、『美人』でもあった事から『殺す』には忍びない女性であったのかも知れません。

王光美は、中国国家主席劉少奇の5番目の妻です。 王光美は、カトリック系の大学を主席で卒業し、中国共産党の軍事調処執行部で英語通訳を務めていました。延安の共産党本部で劉少奇と出会いました。 王光美の父親は、4度も離婚歴のある男との結婚を反対し、彼女を勘当しています。劉少奇の最初の妻は、共産主義者として国民党に銃殺されるという悲運に遭いました。その後、2番目から4番目の妻までは、すぐにくっついては別れる、を繰り返していました。

しかし、5番目の妻である王光美人は、26歳で結婚後、劉少奇が出世街道を進んでいく過程から非業の死を遂げるまでの20年間を、妻として、秘書として彼に連れ添うのでした。 王光美は、聡明で模範的な妻でした。結婚した瞬間から、前妻たちが産んだ5人の子の母親になりました。

一番始めの妻の子供たちは、すでに成長してソ連に留学していましたが、 三番目の妻が産んだ子は、まだ2歳と4歳でした。王光美は、生さぬ仲の2人の子供たちを愛情を持って接しました。その後、王光美は、一男三女を生みますが、一切わけ隔てなく育てます。 前妻の子を虐待していた江青(毛沢東の4人目の妻)とは、雲泥の差だったのでした。
江青は、後に、王光美をひどく憎むようになりますが、自分と比べて評価の高い王光美人に嫉妬していたためだと言われています。

1962年に毛沢東が文化大革命を行なった時、劉少奇も自己批判を強いられ、殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった様子がテレビで実況放送されました。 党籍も剥奪され、1969年獄死しました。 何の罪も無い王光美も、逮捕されてしまいました。 美貌も知性も人望も何もかも自分より優れていた王光美を許せなかった江青が、 「彼女はアメリカ中央情報局のスパイよ!」とでっちあげたのでした。

http://www.deaik1.com/01829.html

「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。

おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>


毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。

陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして

若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、

これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。

この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。 李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。王さんは、紅衛兵のいたぶりに、

「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」

と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。

 ■王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。

 ■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。


 ■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。


 ■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。


 ■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。

 ■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。


 ■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。

江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。


 ■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。


 ■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。


 ■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。

 ■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。

 ■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。


 ■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。

 ■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995−2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。


 ■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。


 ■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/58218

毛沢東も美女にだけは優しかったんですね。

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5. 世直しの為に毛沢東思想を忠実に実行したポル・ポト

「共産主義」とは何だったのか


 ところで、ポルポト氏はなぜ、当時のカンボジア国民の4分の1にあたる170万人もの人々を、死なせてしまったのだろう。 ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。 20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。

 帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。  1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。

 1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。 ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。

●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質


 首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。

 都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。

 また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。
休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。

人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。

ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。

ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。

 そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。

 だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。  ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる)


 クメールルージュが政権の座にあったのは、1975年から79年までの、わずか5年間だった。目茶苦茶な政策によって国内が疲弊し、隣国ベトナムの軍事進攻を招くことになった。クメールルージュはプノンペンを追われて西部のジャングルにこもり、代わって現在まで続く親ベトナム政権が打ち立てられた。  放っておけば、クメールルージュはこのときに壊滅したかもしれないが、歴史はそうならなかった。ベトナム戦争に負けたアメリカが、ベトナムを憎むあまり、カンボジアにできた親ベトナム政権を敵視し、クメールルージュを支援したのである。ソ連と鋭く対立していた中国も、親ソ連だったベトナムに敵対する意味で、クメールルージュを支援した。

 そしてクメールルージュは、アメリカの支援を受けやすくするために、「もはや共産主義を信奉していない」と表明したりした。保身のための変わり身の早さは、どこか日本の「全共闘世代」と共通するものがある。  こうした状態は、冷戦が終わる1990年代まで続いた。アメリカ政府の政府要人は、個人的にはクメールルージュの虐殺行為を嫌悪しながら、政府としては虐殺を無視するかたちでテコ入れしていた、とされている。

http://tanakanews.com/980420polpot.htm

 


 話は毛沢東が生きていた時代、そしてベトナム戦争が行われていた時代です。当時のカンボジアはシアヌーク国王による王政国家だったのですが、国王が外国に出ている隙に親米派のロン・ノルがクーデターを起こして政権をとりました。当時はベトナム戦争真っ只中ということもあり、ロン・ノルは国内にいるベトナム人や共産主義勢力に弾圧を加えた(カンボジアとベトナムは国境を接している)のですが、それに対して反動が大きくなり、最終的にはポル・ポト率いる共産主義勢力であるクメール・ルージュがゲリラ戦を展開して内戦を起こし、逆にロン・ノルを国外へ追い出すことに成功しました。

 まぁなんていうか、ここで話が終わればそれなりによかったのですが、皮肉なことにこの結果が後にカンボジア、ひいては20世紀の一つの悲劇を生むことになります。この時政権を奪取したクメール・ルージュですが、これはフランス語で「カンボジアの真紅」という意味で、カンボジア共産党ともいう意味です。この時の指導者はフランスへの留学帰りが多く、それから名づけられた名前です。 

 それでこのクメール・ルージュですが、内戦時に主に支援を受けていたのは中国からでした。中国としては共産圏を広がることでこの地域への発言力を強めようという意図があったのだと思いますが、この時に中国に影響を受けたことからクメール・ルージュの掲げる思想というのは毛沢東思想に準拠したものになりました。そしてそんな集団がカンボジア首都、プノンペンを占領すると、早速その思想を実行に移します。

 毛沢東思想の最も代表的な特徴というのは、

「知識人は搾取階級であり悪である」

ということです。そのため、この思想を掲げるクメール・ルージュが真っ先に行ったのは知識人の一方的な殺戮でした。聞くところによると、英語をほんのすこし話すだけでも、仏教を修行していただけでも知識人とみなされ一方的に殺戮されたそうです。またそうでなくとも、途方もなく極端な政策が無理やり実行されて強制労働が各所で行われ、文字通り死ぬまで人を酷使した上で逃げ出そうものなら容赦なく射殺していったようです。

 そうして知識人を社会からはじくかわりに持ち上げられたのが、まだ年端もいかない子供たちでした。

毛沢東思想の反復になりますが、まだ何の教育にも染まっていない子供たちこそ新たな時代が切り開けるという考えの下でクメール・ルージュは子供に銃を持たせ、政策への不満を漏らしていないかスパイ活動を行わせ、挙句に大人たちの処刑を行わせたのです。

このあたりは中国の文化大革命時の紅衛兵を想像してもらえばいいでしょう。

 その結果、このクメール・ルージュ政権時に虐殺された人数は200万人から300万人とも言われ、当時のカンボジア全体の人口の実に四分の一もの人間が殺害されたと言われています。これは一つの政権による虐殺としては過去最大で、あのナチスドイツのユダヤ人虐殺の人数をも越えます。

 最終的にこのクメール・ルージュは対立していたベトナムと戦争状態になり、実力に優れるベトナム軍にコテンパンにやられ国外から追放され、この虐殺の責任を追及されないことを条件にベトナムに従うという政府関係者によって新たに政権が作られることにより虐殺が終わりました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_2756.html

ポル・ポトの大虐殺 〜総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺〜


キリング・フィールド

ローランド・ジョフィ (監督) サム・ウォーターソン, ハイン・S・ニョール (出演),
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89-HD%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%89%88-DVD-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%95%E3%82%A3/dp/B002XTKBL4/ref=pd_sim_d_1


http://www.youtube.com/watch?v=3eLVyIy3WFI
http://www.youtube.com/watch?v=5frVOEPPJQA
http://www.youtube.com/watch?v=-FCj9ufRk_w
http://www.youtube.com/watch?v=RCxT4pVb3vs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_dnV9LxyeSU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=X2cMTo6yXTA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=x-I5qFvSuD8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=M1kVkoAgE8U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=m9rrJocZVyU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=asOa23AufYA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PAHP-vqgKEI&feature=related

 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に、200万から300万近くの人間が虐殺されたのである。 革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。
   不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺は、いかにして起こったのか?

 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。

 ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取っていた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。

北への執拗な爆撃を繰り返すB52戦略爆撃機、日によっては、50回も出撃した。  そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。 北ベトナム軍にとって、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。

 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。

 カンボジアがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。  一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。

ロン・ノル(1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。 ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。

 内戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや、決裂は明らかとなった。

 やがて、膨大な軍事費と甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。  そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。      

 1975年、4月17日、その日が恐怖政治の始まりだった。この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。 今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくのである。この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか?

 この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。彼らは、すべて、十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。 ついに、内戦が終わったと信じた民衆は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。しかし、勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけだった。

しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。

 問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され出したのである。病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。 何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。 瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。

クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。

 彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
 それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。

 これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。しかし、これはひどいペテンであった。彼らは、途中で、道路上で機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生も殺された。彼らは、処刑されるために帰って来たようなものであった。男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。

 休日のレジャー・音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止された。貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。

クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。宗教は全面的に禁止され、かつて、大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。

僧侶は、強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。そして、
寺院は、ことごとく、豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。
押収したコーランは、トイレットペーパーの代用になった。

教育も一切必要なかった。授業は、あるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。




 ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか?

 
彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。 彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。 絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。

 ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。

 過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。  病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論だった。踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。 都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と見なされ殺されたのだ。それは、まるで、腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。

 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たない子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。

 中には、全く字も読めないような医師さえもいた。彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。子供医師にかかり注射を受けた者の多くは、傷口が化膿した。腫瘍が腫れ上がり体全体に広がり命を落とす者が続出した。多くの者は、医療の知識もなく、ろくに消毒もせず注射をしようとする子供医師を恐れた。彼らは、手術すら行うこともあったが、しかし、その実体は、人体実験に等しいものだった。生きたままを柱にくくりつけられ、大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて即死した哀れな患者もいたのだ。

 子どもは、スパイとしても使われた。近くに子供しかいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。また、小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てていることもあった。うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりであった。

 死は日常の中に入り込んでいた。生活に死というものが密着していた。
なぜ? どうして? という疑問を感じないようにしなければならなかった。
うっかり、英語とかフランス語を口にしようものなら殺されるのである。じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。正しきこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこにもなかった。

 ある男が、びっこの痩せた犬を見つけ、殺してその肉を食ったことがあった。男は、翌日、少年兵士たちに連行され二度と戻っては来なかった。彼は、犬の肉を一人だけで食ったという罪で、拷問を受けた挙句、銃の台尻で殴り殺されたのである。
 流行歌を歌っただけでも殺された。歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。もし、子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。したがって、彼らは、野菜売りだったとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかったのである。

 ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。

 だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もう、どこにも逃げ道はなかった。  多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで、殺されたのである。 ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。彼女は、歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。

 ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。

 この地獄は丸4年間続いた。しかし、ポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。

 その日、ベトナム軍は、15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。

http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_d.html

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共産主義は呪われたものとなった


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6. 紅衛兵に一番近いのはこれかな

浅間山荘事件 _ ここでも江青女史が大活躍


実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6385901
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924288
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924489
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924654
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924914

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925136
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925366
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925610
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925759
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925945

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926270
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926525
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926815
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11927138


 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件


 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm


「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。

総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。

1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。

1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。


1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。


1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。


1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」

だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。


1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く

1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。


2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。


2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm

独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf


前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。


3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html


 


保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


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7. 共産主義者とはどういう人間なのか?


1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-09/09-09-16.html


3) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?

まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/06-11/06-11-10.htm

3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/05-12/05-12-23.htm


4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない

支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-05/09-05-18.html

5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。

格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/08-10/08-10-31.html

 早     /::::l:::l::、:::::、:::::ヽ::、::::::::::::\:::\::::::::ヽヽ::::::ヽ   駄
 .く      /:::!::::i:::!:::ヽ:::ヽ::::::ヽ::ヽ、::::::::::\:::ヽ:::::::ヽヽ::::::',   目 
 な.     /:l::::!::::ヽ!::ヽ:::::::ヽ:::::::\:::ヽ、::::::::ヽ:::ヽ::::::::!::i:::::::!  だ 
 ん   ハ:::l:::::、::::ヽ::::\:::::\:::::::\:::`ヽ、:::ヽ::ヽ:::::!:::!:::::l
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 な    l:i:l::::i::i:、:l::lテ=-、:ヽ、_、::\_,≧ェュ、_、\:::::::::i::li::!::リ   :
 い   !ハト:{:!:i:トN{、ヒ_ラヘ、{ >、{ 'イ ヒ_ラ 》\::l::!:ト!!:l::l!     :
 と     ヽ i、ヽ:ト{、ヾ ̄"´ l!\   `" ̄"´  |::!:l::! j:ll:!
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             リl::l゛、  `二¨´    /  |/:/
         rー''"´ト!::i{\       /  / !:/
        / ^ヽ  ヾ!  ヽ _,,、'´    /  j/

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8. 周恩来が夢見た共産社会とは…


周 恩来(ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)

周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1917年に、日本に留学
1920年パリに留学

1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人ケ穎超と結婚した。周恩来・ケ穎超夫妻の人気は中国国内でも高く「おしどり夫婦」として有名であった。夫妻の出会いの場所である天津南開大学の近くには周恩来・ケ穎超記念館が建設された。

子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。


中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、古来の中華帝国の形式に則るような「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した。 彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。

周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は

「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」

と叫び、身を挺して守った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。

彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。 周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。  しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1976年、中華人民共和国建国以来国務院総理(首相)を務めてきた周恩来(1898〜1976)が毛沢東より一足早い1月に世を去っている。品格と知性と忍耐強さを兼ね備えた彼の人物に関しては欧米からの評価も極めて高い。廃帝と成った溥儀を気遣ったのも周恩来だった。

勿論、中国が文革の嵐に巻き込まれた時、彼が心を痛めながらも毛沢東に従った事は否定出来ない。しかし、彼が毛沢東とは常に一定の距離を置いていた事も確かで、民衆の人気は高く、その人徳故か、あまり彼の事を悪く言う人はいない。そして、死ぬ迄首相の座を保持した彼は「不倒翁」とも称されている。

http://homepage3.nifty.com/mahdes/asihe3c.htm


溥儀は1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。 1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。

溥儀は中国を文化大革命の嵐が覆う中で癌に罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自であった溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、事態を聞いて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80


溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮 中日友好協会副会長  王效賢


日本語の名通訳として知られる王效賢さんは、毛沢東主席や周恩来総理のそばで、長く仕事をしてきた。その中で忘れられない思い出の1つは、日本がつくった「満州国」の傀儡皇帝だった溥儀氏とその弟、溥傑氏の2つの家族に対し、周総理が心のこもった配慮をし、溥傑氏の日本人の妻子を遇したことであるという。


一市民となったラストエンペラー

1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのはこの年の12月4日である。

溥儀氏は、自分が戦犯の中で、自分がもっとも早く釈放されるとは、夢にも思っていなかった。12月9日、彼は34年ぶりに北京に帰り、家族と団欒した。清朝の末代皇帝(ラストエンペラー)は、北京市の普通の市民になったのである。


1961年6月10日、周恩来総理(前列右から3人目)は西花庁で、溥儀氏(左から2人目)、溥傑氏(右端)、嵯峨浩さん(右から2人目)らと会見し、宴会を開いた。左端は筆者、左から3人目は老舎

それからわずか1カ月半後の1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。そこで周総理は彼らと直接、今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。

周総理は溥儀氏にこう言った。「身体検査をしてから3年計画を立て、自然科学を少し学び、技術を少し身につける。思想を改造するには、第1に客観的な環境が必要であり、第2に主観的努力が必要だ。現在、各民族は平等になった。各民族はともに発展している。満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」

これに対し溥儀氏はすぐに「私は毛主席と周総理の期待に決して背きません」と答えた。間もなく周総理は、郭沫若・全人代副委員長と相談して、溥儀氏が中国科学院に属する植物園で労働に参加するよう手配した。


中国行きを望んだ浩夫人


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(右端)

溥儀氏の弟の溥傑氏も1960年に特赦され、北京で兄や妹と再会した。しかし溥儀氏とは違い、溥傑氏には、日本にいる妻子が中国に帰ってこられるかどうかという問題があった。

この問題をめぐって溥一族には意見の違いがあった。特に溥儀氏は、溥傑氏の婚姻は日本帝国主義が画策したものであり、溥傑氏は日本の妻子と一線を画し、古い関係を断ち切らなければならないと考えた。

周総理は、また西花庁で、溥儀、溥傑の両氏とその家族と会見し、宴会を催した。周総理は溥傑氏の心配をよく理解し、こう言ったのである。

「あなたの日本国籍の夫人、嵯峨浩さんが中国に帰って来るのを歓迎します。あなたは手紙を書いて、新中国の状況を彼女に知らせなさい。中国政府は、彼女が帰ってくるのを歓迎するし、中国での生活に慣れなければまた日本に帰ってもよい。

中国には皇族はなくなったし、社会主義の国となって、人々はみな同じ生活を送るようになり、人より身分が高いということはなくなった。彼女も1人の平民の立場に立って、人と人が平等な生活を送らせなさい」


1961年3月、許広平さん(魯迅の夫人)が率いる中国婦女代表団が日本を訪問した。私は団長の通訳として加わった。出発前、周総理は溥傑氏の書いた手紙を代表団の丁雪松秘書長(後に新中国で初の女性大使となる)に渡し、なるべく早く浩夫人に手渡すよう、廖承志・中日友好協会会長に言いつけた。

代表団が日本に滞在中、浩夫人は中国式の「旗袍」を着て、私たちの泊まっているホテルにやって来て、団長と秘書長に面会した。浩夫人は非常にかしこまって、完璧な中国語でこう言った。

「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。必ず中国に帰らなければなりません。鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随うといいます」

私は呆然とし、浩夫人の眼に浮かんだ涙を見ていた。その時の情景を、40年経った今も、私ははっきり覚えている。

この年の6月10日、周総理が嵯峨浩さんと彼女の母の嵯峨尚子さん、妹の町田幹子さん、娘のコ生さんらと会見するので、通訳として参加するように、という通知が来た。こんなに早く、浩夫人が中国に戻ってくるとは、と私は驚いた。

このときの宴会には、溥儀、溥傑の兄弟の一族ばかりでなく、満州族の傑出した人物である作家の老舎氏と夫人の胡巨ツさん、京劇俳優の程硯秋の夫人、日本の貴族出身で、周総理が「民間大使」と称えている西園寺公一氏らが招かれていた。

周総理はこう述べた。

「我々共産党の目的は、素晴らしい世界をつくりあげて、みなが生きてゆくことができ、良い暮らしができるようにすることにあります。今日この席には、かつての皇帝や皇族もいるが、今はみないっしょに生活しています」


そして周総理は、とくに溥儀、溥傑兄弟の3番目の妹が東城区の政協委員を、5番目の妹が会計を、6番目の妹が芸術家を、7番目の妹が小学校の教務主任で模範工作者であると紹介した。そして「かつての皇族、官僚、貴族はみな変わり、みんな平等である」とし、

「皆さん、考えてみてください。封建制度を覆し、共和国を打ち建てた後も、以前の皇帝がなお生き残り、平等な地位を与えられる国、そんな国が世界のどこにあるでしょうか。これは我々の国策なのです。もちろん本人が努力しなければならず、皆が協力しあわなければなりません」と述べた。

さらに周総理は浩夫人に対し「どうぞご安心なさって下さい。我々はあなたを差別扱いするようなことはいたしません。あなたの亡くなられた娘の慧生さんから手紙をいただいたことがあります。私は彼女が父親と手紙のやりとりをすることに同意しました。彼女は大変勇気のある若者です。彼女の写真があれば、記念に1枚いただけませんか」と言った。


来るのも自由、帰るのも自由


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(立っている人物)。左端は筆者

会見の時間は、非常に長く、家庭の問題から民族問題、更に中日関係に話が及び、内容もきわめて豊富だった。

日本の問題に話が及ぶと、周総理はこう述べた。


「日本軍国主義は1894年から1945年までの50年間、中国人民に損害を与えました。解放後10年このかた、万を数える日本の友人が毛主席、劉主席と私にも会って、謝罪の意を表明しました。我々に言わせれば、中日両国は2000年近い往来の歴史があり、経済、文化の交流を発展させてきました。この2000年に比べれば、50年間という時間は、ほんの短いもので、しかもすでに過ぎ去ったことです。

我々は前向きに、中日両国の友好関係を促進し、国交を回復し、経済と文化の交流を発展させるために努力するべきです。毛主席は、日本軍国主義の侵略が中国人民を団結させたと言ったことさえあります。我々は日本人民に対し、いささかも恨んでおりません。

日本人民もまた日本軍国主義の被害者なのです。皇族、華族、ブルジョアジーでも勤労人民でも、ただ中国と友好を願うのであれば、我々は彼らとみな友好的に付き合います。日本の侵略政府に参加したメンバーでも、中日友好に賛成するなら、我々はやはり歓迎します」

こう語った周総理は、浩夫人に対し

「あなたは日本人ですが、中国人と結婚したので今は中国人になりました。我々はあなたを中国人として、中国の社会活動に参加するのを歓迎します。あなたは中日友好の事業に力を注ぎたいと思い、実際に中国に帰ってきたのですから、これこそ中日友好を象徴しています。中国での暮らしに合わないと感じたときはいつでも、日本に帰って結構です。日本に帰って比較してみて、やはり中国が良いと感じたら、また帰ってくることもできます。来るのも自由なら帰るのも自由。私が保証します。私がサインします。当然のことながら、私のサインが必要になることはないと信じますが」と話した。


周総理の話の中で、もっとも忘れられないのは、娘のコ生さんについて周総理が語ったことである。周総理はこう言った。

「彼女が日本に帰りたいなら帰らせるのがよいでしょう。無理強いして残すのは良くありません。若い人はよく変わります。後になって中国に来たいと思ったら、いつでも申請すればよいのです。日本人と結婚しても、どこが悪いのでしょうか」

コ生さんが帰るか留まるかという問題は、溥傑氏と浩夫人の悩みの種だった。コ生さんが中国に来てから、夫妻は朝な夕なに、唯一の娘が身近に留まってくれるよう説得した。しかしコ生さんには自分の考えがあり、両親のもとに留まることを承知しなかった。

このため父と娘は喧嘩になり、母と娘はともに泣いた。当時、浩夫人一家のお供をして中国国内を旅行した周斉さん(中国国際貿易促進委員会連絡部長)が会見前に周総理にこの模様を報告していたので、周総理は、溥傑一家のためにこの難題を解決したのだった。

コ生さんは日本に帰った後、日本人と結婚した。周総理の言った通り、しょっちゅう日本と中国を往来し、父母のそばで暫く住み、一家団欒するのが常だった。現在、コ生さんには幸せな家庭があり、4人の子どもの母であるばかりか、孫まである。

最近、コ生さんは、中日友好協会の招きで中国にやって来た。私たちは11年ぶりに再会し、ともにあの心のこもった周総理の話しを思い出し、懐かしんだのだった。(参考資料:『周恩来年譜』『周恩来選集』)(2005年10月号より)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

母の死刑を無罪に変えたのは周恩来


崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白


■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」


■ 医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。
母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。
スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 それから半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。ここの日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」
崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。

母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。

この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。

周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」は建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。

その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。

答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

http://www.houmasa.com/newsletter4-4.html


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:


日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm


山極さんは、日本軍と八路軍の捕虜政策の違いについて触れ、日本軍は捕虜を否定し、捕虜になってはならない、捕虜になることは恥だとされ、日本軍捕虜は存在しないという前提になっていたのに対し、八路軍は優待政策をとり、日本兵捕虜を「尊重・優遇し、彼らを教育し、彼らを通じて他のものに影響を与え、反侵略統一戦線の樹立に努力させる」方針をとったこと、その結果、

1937年から43年までに、捕虜総数2407名のうち2085名が釈放され、八路軍は捕虜を殺さないで優遇することを日本軍に知らせ、日本軍内にもそれが次第に浸透し、自発的投降が増加したこと、しかし、日本軍は、釈放した捕虜を処罰したり、自決の強要も広がったことを話されました。

http://yamatea.at.webry.info/201101/article_17.html


日中友好協会 製作ビデオ第3巻上映

 2月9日(日)御南公民館で、協会製作の証言ビデオ「3」が、岡山県ではじめて上映されました。

中国人の生体実験にかかわった元軍医の証言、赤ちゃんを泥靴でふみ殺し、ずっと夢に出てきて悩んでいた元特務機関員の証言、

八路軍の捕虜となった元兵士の見たものは、負傷した日本兵を背おって山をのぼる八路軍軍医の姿だった……

40分のビデオは若者が問いかける侵略戦争、そんなことがなぜ?なぜ?に答えきれているだろうか。

 おそろしい日本軍の組織とは反対に、井上愛子さんの1時間のお話は、中国人民解放軍のやさしさ、心の広さにうたれました。看護婦として捕虜になった気がせず、東北三省をかけめぐり、にわか作りの病院で炭をおこし湯をわかすことからはじめ、中国人と朝鮮人と日本人がほんとにとけあって生命を大切にした青春でした。その時の赤ちゃん(長男雅俊さん)も会場に見えられ、紹介されました。 
 
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/gangshanban030209.htm


戦後、シベリアに捕虜として収容された60万人の中の969人が、5年後の1950年に戦犯として中国に引き渡された。収容された「撫順戦犯管理所」には中将から二等兵まで、また溥儀も収容されていたが、此処は日本軍が作った監獄であった。当初、彼らは「なぜ戦犯!?、上官の命令」などと反抗していたが、管理所では一切の強制労働も学習もなく、ただ反省するのを待った。
 
 彼らは3〜4年経ったころから過去を振り返り自ら「認罪」して行った。56年の戦犯法廷では起訴された政府・軍高官の45人以外は起訴免除、起訴された45人もシベリアの5年と撫順戦犯管理所の6年が刑期に参入され、一人の無期も死刑もなく全員刑期満了前に帰国を許された。 

 この映像はその「撫順戦犯管理所」のドキュメンタリーで、当時の管理所生活などの記録映像を交え、収容されたご健在の元戦犯10人と、管理所側の医師、看護婦、教育、経理、人事、炊事係など8人の「証言」で構成したもので非常に貴重な記録である。

 この放送後、番組(映像)で証言した元戦犯のうち既に4人が鬼籍に入っている。彼らは「撫順戦犯管理所の6年に感謝している」とまで話しており正に「奇蹟」の体験である。この事実に一部から「洗脳だ、強制だ」との批判があるか、強制が無かったことはこの映像記録と証言が裏付けている。
 

 管理所は周恩来の直轄指示で

「戦犯といえでも人間であり、人格と日本人の習慣を守れ」

と徹底された。そして、戦犯への優遇措置に反発する管理所職員には

「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」

と諭した。周恩来はワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

との全く同じ意の、

『前事不忘 後事之師』(前の事を忘れず、後の教えとせよ)

と言っていた。
http://www.janjannews.jp/archives/2600539.html

 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。


「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。

しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/kunitomo_taiken.htm


私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。 被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。


 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。

 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm


このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。

 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。

職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわらず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱いだった」と坂倉さんは振り返ります。それは

「罪を憎んで人を憎まず」

「兵士も軍国主義の犠牲者」

との人道主義政策の実践でした。 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。

http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/genki/2010/230/genki230-06.html

この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。

 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html


日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行った陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。

判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は、


「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。


 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」

(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

サイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』の著者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。 この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、


「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」

というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

しかし歴史の流れは容赦しない苛酷な面を見せる。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放されたと聞いた。 

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/sawada_kikokumade.htm


中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄した。

『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光(編) 、岩波書店


 驚いたのは、中共が日本に対する賠償放棄の意向を示すところ。これは密使となった竹入義勝公明党委員長に対して、いきなり周恩来から伝えたんですね。
周 毛主席は賠償請求権を放棄するといっています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。

清の時代には二億五千万両、日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。これを全部払ったかどうか知りません。八国連軍の賠償は四億〜五億両でした。
四億ドルど、今では大した額ではありませんが、負担を人民にかけることは良くない。賠償の請求権を放棄するという事を共同声明に書いても良いと思います。


竹入 お礼の言葉ももありません。

周 当然のことです。二十数年来の両国人民の友好によって、国交が回復するのですから、私たちは、これから次の世代を考えなくてはなりません。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/21667/23829/67385764

戦争賠償の問題


日本側は、高島益郎・外務省条約局長が外相会議で意外にも

「蒋介石がすでに日台条約の中で賠償の請求権を放棄すると宣言しており、日中共同声明でこの問題を重ねて提起する必要はない」

と発言した。これに対し周総理は、首脳会議でとくにこうした主張に厳しく反駁した。

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

最終的には田中首相が中国側の好意に感謝の意を表し、共同声明の本文に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明確に書かれたのだった。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-03/31/content_107971_3.htm
http://hyakka.seesaa.net/article/171605985.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html


以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。

 この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。

「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」

先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。

 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。

 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」

 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。

 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。

 話を日中関係に戻すと、先生は


「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」


 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。  最近、

「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」

といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。

 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。

 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。

 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。

http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/


中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、

「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」

という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。

かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は

「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」

とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。 このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< 周恩来が日本を救ってくれたのサ
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
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林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm

 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。

 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html


周恩来の死


周恩来は田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。

 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。

 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇とケ小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放されたケ小平自身も理解を示しています。ケ小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していたケ小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺してケ小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、このケ小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html


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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html

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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/291.html

中国人が日本人を大好きになった理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/319.html

中国人のこういう所が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/289.html

台湾は中国ではないんだけど
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html

これが中国 _ 漢民族は無数の民族の総称で川筋が違えば敵同士 _ これでは愛国心も道徳心も育たない
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/480.html

中国語は奥深い _ レイプは腕立て伏せ、暴行死事件は鬼ごっこ
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/482.html

(参考)
さてはてメモ帳(心臓の弱い人は読まないでね) 
http://satehate.exblog.jp/15342781/

 

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コメント
 
01. 2011年10月12日 19:49:00: MiKEdq2F3Q


毛沢東はセッ○ス狂
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/760.html

小泉先生は真性のS? (“削除コメント表示切り替え” を押して下さい)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/305.html

相場に失敗すると奥さんとお嬢さんにはこういう運命が待っている
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/538.html

デヴィ夫人は女性の鑑
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/545.html


           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
        / ,=          ヽ
       /  ,='  _  ∧_ _,,
      /,,_ {i ,〜 〜  /´ ハ^、_
        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
         ヽ | _|∠_// ┬―ゥ ヽ
          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / | 共産主義は呪われたものとなった
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
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         /  . :          . :`ヽ     `ヽ
         / . : : /      . : :}  . : : : : : }      ハ
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        / . : : : : / : /. : : : :./!: : : :ト、: : : : : :!  人 Y フハ
      ' !: : : : /i: /: : : : :./ j: :.八:! ヽ: : : :,′ (⌒ o く : ハ
     / : : : : :/ j:ハ: : : :/,,-ァァ¬ト ハハ/   `7 ト、 ヽ∧
.    /  .ハ : : :レ'「`ヽ: :i :{ / /´ァテ示ミV/     いノ: :`^′: \    
   / . :/∧: : {    ヽ|八   /・\》 . : : : : : : :.:i: :i : : : : : :\  
   ,′. :// ∧ハ/・\      ニ二ニ/. : : : i| : : ト、ノ:八: : : : ト、: : \ \
   . : : : : : : :ゝ:}ニ二ツ      ´ ̄ //!: : :||: : ノく Y: : :\: 八 \: : :ヽ
  i : i : : : i : : : :.:} ^´ 〈        /(  |: :ノj/) } ハ : : : iト、: ヽ  ー-=ミ
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02. 中川隆 2014年10月20日 10:55:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

2014-10-20
破壊された仏像と、アンコールワットを見たことがない娘


2014年10月9日、ニュージーランドから来たウィレミジン・ヴェルマートという40歳になる女性が、カンボジアのアンコールワットに訪れ、仏像1体を破壊していたことが発覚した。

彼女は9日の夜6時過ぎ、アンコールワットをさまよっているのを目撃されていたのだが、取り逃してどこに行ったのか分からなくなった。

見つかったのは翌朝なのだが、警察が事情を聞いて保釈した後に仏像が破壊されているのが分かり、慌てて警察が手配したところ、すでに彼女は出国していたのだった。

その後、彼女は自国ニュージーランドに戻ったのだが、なぜ仏像を破壊したのかと問われて、「仏像から声が聞こえてその仏像を動かしたので、そのときに壊れたかもしれない」と答えた。そして、このように付け加えたという。

「あの仏像はブッダではなかった。ニセモノだった」

もちろん、声が聞こえたというのも、ニセモノだというのも、彼女の勝手な思い込みで、世界遺産を破壊されたカンボジア側は激怒、ニュージーランド側に抗議している。

ジャングルの中に忘れられたアンコールワット

カンボジアが世界に誇るもの。それが、言わずと知れたアンコールワットである。

ジャヤバルマン二世によって確立され、ジャヤバルマン七世の時代に空前絶後の繁栄を遂げたアンコール王朝の、壮大な「夢の宴」がこのアンコールワットだった。

今でもカンボジアのシンボルと言えば、誰もがこのアンコールワットを思い浮かべるだろう。カンボジアの紙幣にも、アンコールワットが描かれている。

私もカンボジアを愛する旅人のひとりとして、このアンコールワットを見るためだけに、わざわざプノンペンから船に乗ってトンレサップ湖を北上し、シェムリアップ州に向かったものだった。

遺跡にはまったく興味がない。しかし、アンコールワットだけは時間をかけて見学したいと思った。それだけの価値がこの壮大な建築物にはあると考えていたし本当に惹きつけられた。

実際に訪れたことがある人なら分かると思うが、この遺跡は広大で荘厳だ。

その神秘的な姿を見ると、クメール文化の根底をなしているものが非常に歴史のあるものだということが理解できる。

この壮大な寺院は、しかし1431年に王都がプノンペンに移ると放棄されて、やがて忘れられ、100年以上もジャングルの中でひっそりと眠っていたのである。

アンコールワットの遺跡群の中のひとつ、アンコールトムの「タ・プローム」では、熱帯の樹木ガジュマロの根が遺跡に絡みついている。

そんな自然と遺跡が一体化している神秘の姿も、ジャングルの中でひっそり眠っていた中で形作られたものである。

アンコールワットの遺跡群の中のひとつ、アンコールトムの「タ・プローム」では、熱帯の樹木ガジュマロの根が遺跡に絡みついている。


ポル・ポトには、それは破壊すべき「偶像」だった

しかし、カンボジアは1974年4月に共産主義政権に入り、クメール人の基盤をなしていた仏教を全否定した。民族の象徴を葬り去ろうとしたのである。

その指導者はポル・ポトと呼ばれる男だった。(カンボジア現代史。1953年〜1975年までの動乱の時代(1))

ポル・ポトは政治家になる以前は教師だった。教職の時代では、規律正しく穏やかな性格をしていたと評される。

ところが、この男はアンコールワットの壮大さを冷笑し、それは破壊すべき「偶像」にしか思わなかったようだ。この時代、アンコールワットはところどころが破壊され、いくつかの仏像にも銃弾が撃ち込まれ、頭部も叩き壊された。

そして、寺院は虐殺したカンボジア国民の死体の放置場とされ、まわりに地雷を敷設した。まさに、歴史の侮蔑が公然と行われたのである。

アメリカを、ベトナムを、そして同じカンボジア国民を「敵」と見なしたこの政権は、弾丸のひとつも惜しかった。だから、国民の大虐殺は銃ではなく鎌や鋤や棍棒で行われた。

ダイナマイトで徹底破壊されなかったのは、ポル・ポトがアンコールワットに畏敬の念を覚えたからではなく、単に武器・弾薬が不足していたからである。

この狂気のポル・ポト政権が崩壊したあとも、カンボジアはポル・ポトの残党と長い内戦を戦い、やっと国情が落ち着いたのは1990年に入ってからだった。

そのときには、長らくジャングルに埋もれてきたこのアンコールワットは崩落の危機にあった。遺跡の形を保存するために応急措置としてセメントで塗り固めるという乱暴な手法も取られたのも、完全崩落を避けるためでもあった。

ポル・ポト。この男はアンコールワットの壮大さを冷笑し、それは破壊すべき「偶像」にしか思わなかったようだ。この時代、アンコールワットはところどころが破壊され、いくつかの仏像にも銃弾が撃ち込まれ、頭部も叩き壊された。


クメール人の彼女は、まだそれを見たことがない

そんな歴史をくぐり抜けて来たアンコールワットの遺跡群は、今はカンボジア人の心の拠り所としてとても大切に守られている。

観光地となって観光収入を得ながら、その利益で寺院には多くの尼僧が住み着いて保全に従事し、世界各国から遺跡復旧のための技術者を呼んでいる。政府は貧しく、満足な復旧資金がなく、多くの技術者は手弁当であると言われている。

また、NGOも含め、カンボジア人の普通の人さえも地雷の撤去を命がけで行っている。そうやって、アンコールワットは、ゆっくり、少しずつ、保全に向けて動いているのである。

シアヌークヴィルで知り合った娘のひとりが、ガイドブックに載っていたアンコールワットの写真を見ながら、「ここに行ってみたい」と言っていたのを思い出す。

彼女はBIBAという田舎のディスコに所属していた可愛らしい女性だった。恥ずかしがり屋で、けなげで、そして貧しい生活の中で懸命に生きていた女性だった。

外国人の私がアンコールワットを見たにもかかわらず、クメール人の彼女はまだ見たことがないのだった。貧しい彼女に自由な旅行などできるはずもない。

生きるのに必死だった彼女は、どんなに願ってもアンコールワットを見に行く生活的余裕がなく、日々を生き抜くだけに汲々として生きていた。

「旅をする」というのは、生活に余裕がある人間の「贅沢」であるというのを、私は彼女を見つめながらしみじみと思ったものだった。

そんな大切なアンコールワットを、心ない観光客がよく分からない理由で破壊する。どこか、やるせない気持ちになる出来事ではある。

破壊されたアンコールワットの仏像。

破壊したニュージーランド人。8年前、オランダからニュージーランドに移住した女性だったという。1ヶ月近くも東南アジアを旅していたというのだから、それなりに経済的な余裕もあったのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141020T0435330900.html


3. 中川隆 2015年11月24日 15:08:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書) 新書 – 2015/11/13
遠藤 誉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%A8%E5%85%B1%E8%AC%80%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E8%AA%89/dp/4106106426

毛沢東とはもちろん中国共産党の創設者であり中華人民共和国の太祖(始祖)ですが、日本でその正体は正確に伝えられていません。

 毛沢東は中国でも正体が正確に伝えられていないうえに、日本ではさらに毛沢東に限らず中国批判に抵抗する勢力が多いため、ますます謎に包まれ神格化されたままの存在となっています。

 しかし現在のますます傍若無人となっていく中国と対峙するためには中国共産党を理解する必要があり、そのためにも毛沢東を正しく理解する必要がでてきます。

 本書はその毛沢東について余すところなく正確かつ公正に解説していますが、単なる中国歴史書でも陰謀論書でもなく、もちろん親中書ではなくまた一方的に日本の中国における軍事行動を肯定しているわけでもありません。

 本書をお勧めする最大の理由は、中国最大の攻撃対象である日本の軍国主義および中国における軍事行動のお蔭で(共謀して)、毛沢東は中国共産党を支配し蒋介石の国民軍を放逐し中華人民共和国を建国した「客観的事実」が証拠とともに書かれているからです。

 著者の遠藤誉氏(女性)は1941年に満州の新京(現・長春)に生まれ、終戦後も1952年まで中国に残留させられ毛沢東思想教育も経験しています。何よりも毛沢東率いる中国共産軍が国民軍の占拠していた長春を食糧封鎖して数十万人を餓死させた「完全に歴史から抹殺された事実」の生き証人でもあり、帰国後も多方面で活躍する中国分析の第一人者です。

 本書では著者が中国・台湾・日本に残された多数の資料を丹念に突き合わせて解明した「客観的事実」が書き連ねられています。

 つまり毛沢東こそコミンテルン(モスクワにあった共産主義インターナショナル)の指示を受けながら潘漢年らスパイを使って日本軍や日本の諜報機関である岩井公館に蒋介石の情報を売り、さらに日本軍とその蒋介石率いる国民党政府(重慶)、軍閥の張学良(張作霖の息子)、汪兆銘の国民政府(南京)らを謀略で戦わせ、自らは勢力を温存したまま戦後は「戦勝国」の地位を国民党から奪い取った稀代の策謀家と結論づけています。

 何よりも「腑に落ちる事実」がいくつもでてきます。

 つまり現在の習近平らの勢力基盤である中国共産党とは、日本および日本軍のおかげで今日があることになり、現在も日本を批判する「最大の理由」が全く見当はずれであることになります。

 もっとも毛沢東は中国を統一後、手先として働いた潘漢年ら「事情を知る者」を1000人以上も投獄して死ぬまで放免せず、その後継者である習近平も知っている事実であるにもかかわらず「おくび」にも出しません。さらに著者も危惧しているように、習近平はその「戦勝国」の地位を奪い取られた台湾・国民党の馬英九総統まで抱き込み、毛沢東の陰謀を完全に歴史から抹殺してしまおうとまでしています。

 日本は国内にすでに張り巡らされた親中国ネットワークの「工作」のなかで、まずこれらの事実を正確に認識し中国および中国共産党と対峙していかなければなりません。そのためにも「必読の書」です。繰り返しですが安直な陰謀論でも嫌中論でもなく、証拠を丹念に突き合わせた「客観的事実」そのものが書かれています。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1588.html


4. 中川隆[3036] koaQ7Jey 2016年6月22日 20:22:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3370]

2016-06-22
永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪


日本共産党と言えば、1946年に「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という「51年綱領」で次々と暴力的破壊行為を繰り広げた狂気の政党であるのを知らない人は減った。

さらに日本共産党と言えば、すぐに「連合赤軍」を想い出す人もいる。高齢者の中には、1971年の「あさま山荘事件」の衝撃を今も鮮明に覚えている人が多い。

あさま山荘事件の凄絶な暴力が映像として残っているが、その後、次々と明らかになった「総括」と称する凄絶な殺戮に世間は息を飲んだ。

この連合赤軍は、日本共産党と共産主義者同盟赤軍派が合体したテロ組織だった。最高幹部のは永田洋子(ながた・ひろこ)という気味が悪い女で、後にこの女が凄惨なリンチ事件の首謀者だったことが分かる。

殺されたのは12人で、全員が20代だった。遺体は激しい暴行を受けた痕があって、男か女かも見分けがつかないほどだった。永田洋子はこの連合赤軍の幹部であり、「総括」を主導したひとりだった。

意見の違う仲間を「総括」と称してリンチしていた

永田洋子は、大学に入った頃から共産主義の思想にかぶれていき、その後は日本共産党の神奈川県委員会のメンバーとなった人物である。

1970年に最高指導者となって、1971年に共産主義者同盟赤軍派と連携して「連合赤軍」を結成した。

もっとも、この連合赤軍は何かの活動をしていたわけではなく、警察に追われて逃げ回って意見の違う仲間を「総括」と称して、次々とリンチにかけて殺していただけの呆れた共産主義的殺人集団である。

「総括」というのは、共産主義ではよく使われる言葉だ。今でも使われている。

「総括」し、「自己批判」するというのは、革命において自分のやった行為を分析し、それに対して自分のミスや失敗があった場合、それを公の場で自分自身を批判するということだ。

中国共産党でもカンボジア・ポルポト政権の内部でも、体制批判者には「自己批判せよ」という激しい言葉が飛び交う世界であったことは歴史に残っている。

やがて「総括」や「自己批判」という言葉は、それぞれの国で、誰かを吊るし上げる道具となって先鋭化していくものになった。

これが共産主義というグループの特徴だ。異論を認めず、異論を出した人間は仲間であれ何であれ、徹底的に弾圧する。

中国の文化革命の中では四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)ら文革派が、批判者を片っ端から自己批判させて公衆の前に引き回していた。

カンボジアでも、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)内部でイエン・サリとポル・ポトと対立する幹部が片っ端から自己批判を強制されて殺されていった。いや、殺されたという表現は違う。

薄気味悪い左翼用語では、これを「粛清」と表現する。

連合赤軍でも同様だった。左翼闘争の中であちこちの組織が集合して1971年に最終的に連合赤軍という組織になると、そこでいくつもの暴力事件が起こされて、それについて「総括」がなされ「粛清」がなされた。


永田洋子。連合赤軍幹部で、あさま山荘事件でリンチを主導した女。2011年2月5日に刑務所で死亡。


「腹を引き裂いて子供を引きずり出そうかどうか」

「総括」も「粛清」も共産主義の伝統だ。

自分に敵対する人間は決して許さない。共産党には民主的な空気はない。指導者は自分の政敵となる人間は物理的に始末する。それが共産主義の文化なのだ。

たとえば、ソビエト社会主義共和国連邦のヨシフ・スターリンは少しでも自分に敵対する人間を片っ端から「粛清」と称して殺していった殺人鬼だった。

1953年にスターリンが死ぬまで、高級幹部はことごとく銃殺されていった。

このヨシフ・スターリンの行った「大粛清」は100万人以上にも及んだと言われている。そのため「ヨシフ」という名前は、世界では愚鈍な殺人狂か、馬鹿の象徴でもある。

共産主義の総本山だったソビエト連邦でこれだから、日本の共産主義者が仲間を粛清したとしても何ら驚きはない。

連合赤軍でも、指導者である永田洋子や森恒夫を批判したり敵対したり逃亡したりした人間は、次々とリンチにかけられて殺されていった。

それは自己批判した人間を縛りつけ、集団で殴りつけ、裸にして外に放り出すというものであった。凍死したら穴を掘って埋め、逃げたら捕まえて「総括」する。

「総括」して「自己批判」して「内ゲバ」して「粛清」する。

妊娠8ヶ月の女性の仲間もめちゃめちゃに殴りつけ、永田洋子は腫れ上がって変形した顔をわざわざ鏡で本人に見せたという。

彼女が死んだ時に議論になったのは、「腹を引き裂いて子供を引きずり出そうかどうか」ということだった。

それに何の意味があって、なぜ議論になるのか一般人には分からないが、共産主義者には大切なことだったのだろう。

内ゲバを主導していた森恒夫は刑務所で正気になったのか、これを「狂気」と表現し、1973年1月1日に東京拘置所で自殺している。

「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。 私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」

連合赤軍の元最高幹部だった永田洋子が死んだのは2011年2月5日だった。この女は最期まで死ぬのを怖がって、頭がおかしくなって肺炎で死んだ。

日本人の誰もが左翼にも革命にも嫌悪

1960年後半の新聞を拾い読みしていくと、このような左翼革命派の極端な事件は連日のように報道されていて、それが何年も続いているのに気がつく。

永田洋子は国内に残った赤軍だが、「日本赤軍」の重信房子(しげのぶ・ふさこ)は海外に出ている。拠点はパレスチナである。

偽装結婚した奥平剛士は1972年5月に計100人を無差別殺戮した「ロッド空港乱射事件(テルアビブ空港乱射事件)」の犯人であるのはよく知られている。

この空港乱射事件は国際的にも激しい批判にさらされることになったが、日本人の衝撃もまた激しかった。

何しろ、日本人が世界からテロリスト扱いされることになったのである。

当時の日本は高度成長を享受して、もうほとんどの国民が馬鹿げた共産主義革命よりも物質的満足の追求に走っていた。いい迷惑だったことだろう。

日本において共産主義が決定的に嫌悪されるようになっていったのは、この永田洋子と重信房子という二人の女性が関わった事件が原因だと言える。

1970年前半には、もう日本人の誰もが共産主義にも共産党にも革命にも嫌悪していたはずだ。

政府批判のデモ、暴力デモ、民衆暴力による政権打倒、といういわゆる「政治闘争」は、年配者になればなるほど拒絶感も嫌悪感も強く持っている。


リンチだとか、ヨシフだとか、共産党だとか、そんな世界を聞いたら、そこからは離れた方がいい。ろくな結果にならないからである。


重信房子。日本赤軍幹部。日本において共産主義が決定的に嫌悪されるようになっていったのは、この永田洋子と重信房子という二人の女性が関わった事件が原因だと言える。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20110210T2051000900


5. 中川隆[3159] koaQ7Jey 2016年7月05日 18:37:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3506]

原理主義。純度が高まれば高まるほど劣性が極大化していく


2016年7月1日にバングラデシュのダッカで起きたテロ事件の実行犯のひとりは資産家の息子でダッカ有数の私立学校に通っていたエリートだった。

エリートが過激な「原理主義」に取り込まれてテロの実行犯になったというのは、日本でも例がある。

オウム真理教という薄気味悪いカルトに取り込まれて地下鉄サリン事件のような凶悪テロ事件を引き起こしたのも、エリートたちだった。

「原理主義」はその思想を100%の純度まで培養し、先鋭化し、「それ以外は存続を認めない」という「純粋」な思想である。

「純粋」と言えば、何かとてもクリーンな感じがして良い印象を抱くはずだ。混じりっけなし。完全無欠。そういったものは、清潔で素晴らしいというイメージがある。

「純度100%」に、悪い印象を持つのは難しいかもしれない。しかし、実のところ、非常に危険なのだと気がつかないと、取り返しの付かないことになる。

純粋であろうとすればするほど、それは非常に強い「毒」となって自分や社会を傷つけることになる。「純粋」が危険であることの理由は分かるだろうか……。


純度が高まれば高まるほど劣性が高まる事実

純粋であるというのは、単純に言うと、緩衝物(クッション)になるものがすべて省かれて、まったく融通が利かないものである。

あまりにも純化されていると、妥協ができないので少しでも間違うと、目的を達成するよりも破壊する方が強くなる。これは、あらゆる分野ですべて共通することである。

たとえば、人間の「血」に関してはどうか。人間の「血」で純度を高めるというのは、近親相姦をずっと繰り返して「余計な血を入れない」ということである。

意図的にそれをやった一族がいる。ハプスブルグ一族だ。この名門一族は、あまりにも名門だったので、自分たちの血を身分の低い他人の血と混ぜるわけにはいかないと考えた。

そこで、純血主義を徹底して、一族間の近親相姦を繰り返したのだが、その結果、どんどん心身に問題を抱えた子供たちが生まれたのである。

純血は、良い遺伝子と良い遺伝子が組み合わされればさらに良くなるが、劣性の遺伝子が組み合わされると問題が大きくなって場合によっては命に関わってしまう。

ハプスブルグ一族も、劣性遺伝子と精神疾患に悩まされるようになり、とうとうその血は断絶した。

これは人間だけでなく、一般的にすべての動物で言えることである。たとえばペットの犬や猫でも、「純血種」は身体が弱かったり病気にかかりやすかったりする例が多いのはよく知られている。

そもそも、極端に足が短い、極端に鼻が低い、極端に小さいというのは「劣性遺伝子」による奇形がどんどん突き進んだ結果なのだ。

純度を高めることによって、劣性の部分を極大化させていき差別化している。それが純血種という存在である。純度が高まれば高まるほど、純度が高まるがゆえに劣性が高まる。


共産主義思想をとことん純化させた国があった

政治に関してはどうか。共産主義はマルクス主義が主流となって1900年代から爆発的に浸透していった思想だ。この思想は、単純に言えばこうだ。

「財産をすべて国のものとして、国が国民に平等に分配し、平等な社会を作る」

これはレーニンやトロツキーや毛沢東によって支持されて、ソビエト社会主義連邦や中華人民共和国として結実した。

結局、国の分配はうまくいかず、1980年で事実上、共産主義の思想は破綻していくことになるのだが、1970年代に、この思想をとことん純化させた国があった。

カンボジアだ。

1974年、カンボジアのポル・ポト政権はアメリカの傀儡政権を崩壊させて権力を奪取したが、その翌日から異様な共産主義を実行し始めた。

国の通貨をすべて廃止し、インテリ層を皆殺しにし、プノンペンを無人にし、国民をすべて農村に送り出して共同生活を強いたのである。

つまり、カンボジアはポル・ポト政権が政権を取った1974年から国民の職業は1つになった。農民である。「医者も、学者も、いらない」とポル・ポトは豪語した。

共産主義を極度に純化させたそれを「原始共産主義」と彼らは呼んだ。

しかし、その純度を高めた原始共産主義で国民が100万人も死んでいき、カンボジアはたった5年でアジア最貧国となって国家崩壊していった。

朝日新聞は、このポル・ポト政権の共産主義国家が誕生した時に「アジア的優しさ」などと能天気に評して「新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない」と馬鹿な記事を載せていたので有名だ。

ところで、このポル・ポトとは何者だったのか。

この男は、実は国費でフランス留学した「エリート」教師だったことを知っている人は少ない。エリート教師が外国で極端な共産主義にかぶれて同じエリート仲間たちと祖国で革命を起こし、最後に祖国を破壊した。


100%でないと駄目だと考えた瞬間に、自滅する

世の中は何もかもが「純粋ではない」のだ。それにも関わらず、そこに純粋を持ち込むとどのようなことになるのか。

たとえば、自分が純粋であろうと努力することや、自分の純粋な理想を相手に押し付けて理想から外れることを許さないと、どのようなことになるのか。

純粋でないものを強制的に排除したいという動機が働くようになり、それが「自分たち以外の人間の皆殺し」の正当化に突き進んでいく。それがテロなのである。

理想を持つことや、純粋であることは、ほどほどであれば問題はないし、必要でもある。しかし、その純度を極限的なまでに高めようとして世界が歪む。

100%理想の哲学はない。100%理想の人はいない。100%理想の恋人や配偶者もいない。100%理想の友人もいない。また100%正しい物事もない。100%信じられる人もいない。

100%を目指すことの愚かさは、もっと多くの人が気がついてもいい。

リンカーンは奴隷解放宣言をした政治家だが、ある理想主義者を部屋に呼んでこのように諭したという。

「コンパスはあなたに真北を指し示す。しかし、あなたと目的地の間にある障害物については警告しない」

原理主義とは、まさに純度をとことんまで高めて妥協を知らない主義だが、真っ直ぐに突き進むと目的が達成できないので結果的に挫折してしまう。

なぜ挫折してしまうのか。融通性が利かず、一方向しか進むことができないからだ。

世の中には今でもあちこちで原理主義の組織や、社会が存在する。しかし、純度を高めれば高めるほど、急速な自壊に向けて突き進むことになってしまう。

危険なのは、多くの人は「純粋」であることに対して良いイメージしか持たず、「純粋」「純度100%」が理想であると考えている人もいることだ。危険だ。危険なだけでなく、そんな姿勢は人生を破滅させる。

ところで、この純度100%の原理主義に心酔しやすいエリートだが、このエリートという存在も学歴社会に純度100%で純粋培養された存在でもあるとも言える。

ポル・ポト。
純度100%の共産主義を目指したが、結果的に国民大虐殺につながり、カンボジアを根底から破滅させてしまった。ポル・ポトは、実は国費でフランス留学したエリート教師だったことを知っている人は少ない。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160705T1658130900


6. 中川隆[4008] koaQ7Jey 2016年9月14日 09:56:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4402]

共産主義の独裁者はインテリを憎んで無学な子供たちを好む


カンボジアで狂気のポル・ポト政権が成立したのは1975年4月17日のことだった。狂気の指導者であるポル・ポトが当初から敵視していたのは「インテリ層」だった。

ポル・ポト自身は教師出身のインテリなのだが、極端な共産主義に染まっていたポル・ポトは、新しい国「民主カンプチア」を設立するにあたって知識人は不要だと考えた。

ポル・ポトは自分が支配するカンボジアを「原始共産主義」の国にしようと考えていて、「国には指導者と農民がいれば、あとは必要ない」と割り切っていた。

そのため、まだ西洋思想や民主主義や資本主義のような「堕落した思想」を知らない子供たちを親から引き離し、原始共産主義の思想を洗脳し、邪悪な思想に染まった人間を殺すように命令した。

子供たちは忠実にそれを実行した。インテリを敵視し、医師や教師や経営などの職に就いていた人間はことごとく殺害していった。

国からインテリが一掃できればできるほど「民主カンプチア」は理想に近づくとポル・ポトは本気で考えていた。それほど、ポル・ポトは「物を知った人間」を嫌ったのだ。

混じりっけのない純度100%の共産主義国家の樹立

ポル・ポトのこのインテリ嫌いにはお手本があった。

それは、中国の毛沢東である。毛沢東もまた独裁者となってからはインテリを激しく嫌っていた。

文化大革命では「知識人は反動(反革命勢力)だ。知識が多ければ多いほど反動だ」と言い放って、インテリを徹底的に自己批判させて迫害した。

自己批判というのは、インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回すものだった。

そうやって、毛沢東はインテリを次々と吊し上げて殺害したり追放したりしていたのだった。

そして、人民には「教育は不要だ」「勉強するな」と呼びかけた。それは「叩き潰すべき古い文化」であると言われたのである。ただ、唯一読むことが勧められたのは「毛沢東語録」だけである。もちろん、それは洗脳の書でしかない。

(1)インテリはブルジョア(資本家階級)になる。
(2)資本家階級は人民を搾取する。
(3)資本家階級は共産主義の敵だ。
(4)インテリを吊し上げろ、追放しろ、殺せ。

これが文化大革命の嵐として吹き荒れていったのが毛沢東時代の中国だった。

クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、この毛沢東に心酔しており、それを自分の国で徹底的に行うことを決意していた。そしてカンボジアに混じりっけのない純度100%の共産主義国家を樹立しようと目論んだ。

そのためには、共産主義思想とは相容れない「民主主義や資本主義に染まったインテリ、ブルジョアども」を根絶やしにしなければならない。

また、ブルジョア的な生活に染まった都市住民を全員「再教育」しなければならない。

それが都市住民の農村への強制移住となり、インテリやブルジョアの皆殺し政策となって結実したのである。


文化大革命。インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回す。


自分の政策を批判する人間を排除する政治システム

毛沢東とポル・ポトはインテリを嫌悪したが、自分たちはインテリであるというところも似ている。ふたりとも共産主義の活動家になる前は教師だった。

毛沢東は自ら進んで勉学に励み、北京大学の図書館で司書補として働き、アダム・スミスの国富論を読み耽り、さらに思想を中心とした出版社すらも立ち上げている。

毛沢東はそれほどまで書物を愛する生粋のインテリだったのである。

しかし、やがて日中戦争や蒋介石との戦争を経て、中華人民共和国建国の指導者となった毛沢東は自分の政策に批判的なインテリたちを疎ましく思うようになり、やがては資本主義者やインテリを迫害し、弾圧し、粛清していくような独裁化への道を歩むようになっていった。

ポル・ポトはこの毛沢東を手本にしていたので、政権を樹立してから一気呵成に過激な粛清に入って超独裁政権に入った。

独裁というのは、自分の政策を批判する人間を排除する政治システムである。

自分の政策を批判する人間というのは、その政策を多角的に見ることができて、分析ができて、欠点を見つけて、それを言葉にすることができる人間だ。

それこそがインテリである。

だから、独裁者がインテリを嫌って排除するようになるのは、独裁主義を取る以上は必然的な流れとなる。

インテリは自分の政策や思想に反対してくる強敵であり邪魔者だ。だから、物理的に彼らを抹消するのが良いと独裁者は考える。それを共産主義の世界では粛清と呼んでいる。

逆に、独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた

独裁を志向する政治家は、教育をないがしろにする。なぜなら、無駄に教育を与えて人民に知識が付いたら、自分を崇拝させることができなくなってしまうからである。

教育を与えたら、自分の政策の矛盾や思想の欠陥を指摘して独裁の世界を破壊する可能性が高い。

だから、共産主義系の指導者は絶対に人民に教育を与えず、単なる労働だけをする人間を賛美し、インテリや資本主義者に対して敵意を植え付ける。

人民が無知であればあるほど指導者は安泰でいられる。だから、独裁者は異様なまでに無学の労働者、農民、学生、子供が好きなのである。

共産主義の指導者は毛沢東のやり方を研究しているので、今でも「無学な人間、無学な子供たち」が好きだ。

たとえば、偏差値28くらいの頭の悪い子供たちなんかは、共産主義の指導者が最も好む子供だ。よく言うことを聞くし、簡単に洗脳できるし、操りやすい。

子供たちに何らかの思想を植え付け、自分たちの望む方に運動させ、活動させる。そして、それを賛美する。今どき共産主義の活動をする時点で頭がおかしいのだが、洗脳された子供たちはそれに気付かない。

子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。

かくして、指導者に洗脳された子供たちは、指導者の手先となって共産主義を支えていくようになっていく。

共産主義者が無学な若者たちを使って、勉強させずに活動をさせるようになったら注意した方がいい。それは、結果的に極端な暴力活動に結びついていくからである。

そしてどうなるのかは、毛沢東の文化大革命が何を生み出したのか、そしてポル・ポト政権の原始共産主義が何を生み出したのかを見れば分かる。

そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた。

誰がキリング(殺戮)を行っていたのか。それは、無学な子供たちである。共産主義者の指導者が子供を使って何をしていたのか、私たちは改めて知っておかなければならない。


ポル・ポト派兵士。子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160914T0616450900.html


7. 中川隆[4276] koaQ7Jey 2016年10月02日 18:23:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4684]

毛沢東は親日家で、西郷隆盛に憧れて革命運動に参加した
引用:https://jp.sputniknews.com/images/115/56/1155613.jpg



記憶では中国と台湾が対立していたころ、台湾が自らを「親日国だ」と主張してマスコミや出版物で宣伝活動を始めた。

それまで台湾は韓国と同じように「従軍慰安婦を謝罪しろ、植民地支配を賠償しろ」とだけ言って来る迷惑な存在だった。

だが台湾の中華民国は国連を追放され、歯抜けのように支持する国が減って、次々に共産中国の方を支持した。


すると台湾は今まで「反日」だったのをコロリと転換して「昔から台湾は親日国でした」と言い始めたのだった。

金がなくなると急に「親友」になって近づいてくる人のようで、不気味なのだった。

自ら親日国を名乗るのは、たいていこんなカラクリがあり、何かの目的を持ってやっている。


今では考えられないが日米貿易摩擦が激しかったとき、共産主義のほうの中国が「中国は親日国」だと言っていた。

アメリカは敵だが中国は4000年来の友人だという本が書店に溢れ、NHK「シルクロード」という歴史に残る番組を放送した。

日本テレビも中国をロケして「西遊記」を放送し、本当に日本と中国は親友になったように思えたが、今はこのザマである。

昔は親日国だった中国

要するに中国は日米対立を利用して日米同盟を引き離し、味方の振りをして経済援助を得るのが目的だった。

目的を達したら親日をやめて反日になり、また別な事情ができたら親日を始めるでしょう。

中国を作ったのは毛沢東だが、その毛沢東が「親日家」だったという資料が最近続々と発見されている。


少年の頃の毛沢東は明治維新の本を読むのが好きで、特に西郷隆盛に憧れ、自分も中国で維新を起こしたいと考えていた。

毛沢東が少年の頃はまだ「清国」の時代で、清や欧米列強を倒していく日本帝国を恐れ、尊敬していた。

このため日本軍が大陸から撤退するまで、毛沢東の共産軍は一度も日本軍と戦わず、戦後も(国民党の中国よりは)日本人を優遇した。


つまり毛沢東の中国は親日であり、時代によってそれが反日になったり、また親日になったりしている。
http://thutmose.blog.jp/archives/66287375.html


8. 中川隆[-7547] koaQ7Jey 2017年5月22日 06:49:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜
https://www.youtube.com/watch?v=B_CfPI8ujdY

9. 中川隆[-7546] koaQ7Jey 2017年5月22日 06:53:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

妄想はすぐに伝染する


感応精神病とは

@ 精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。
 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


A 宇宙語で会話する夫婦

 まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から紹介してみよう。

 鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。

 夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。

そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。

 そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。

宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。

1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。

入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。

 これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。

 この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。

 「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。


B 行者と女工

 もうひとつ、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例も紹介してみよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。

 まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。

医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。

 一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。

その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。

 1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。

このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。

女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。

しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。

彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」

 その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。

 孤独な2人の、出会いと別れの物語である。


Cフォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。

もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。

「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。

万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。

 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。

私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
1.
今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


D古いタイプの感応精神病 ← 幸福の科学信者はこのケース

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。

悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。
 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。

青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いたこっくりさんの例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。

 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。
 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。

どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師Kに祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。

その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、ものもいえず苦しげにもがいているものなど憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」と提案した。

すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。
これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。

集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


E 家庭内幻魔大戦

 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。
Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。

この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。

昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。
昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。

「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。

長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」
「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。

「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」

「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには

「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。

体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。
きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。

入院3日目より陽子は「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」

などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」と語り合っていた。

 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」

と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」と逃げ出した。

主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、
「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。

 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。
入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、
「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には「先生! オールマイティになってください」と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。

しかし飛べずに興奮し始め、

「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。


F フォリアドゥと家族


 さて最後にちょっと違った視点からフォリアドゥを見てみよう。共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくというのは、確かに気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。

抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。

 それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
 家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる? 

映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら? 

家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。

 これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。

 このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。
フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。

発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから

「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」

とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。

 次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。

 6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。

 他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。

12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。

この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。

外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。

 15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。

Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。

 入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。

病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。

しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。

痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。

それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。

 さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。

17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。

また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。

 入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、

「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」

とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については

「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」

「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。

また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。
病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。

 両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、

「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。

 一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。

Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に

「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」

と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。

 翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。
こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。

 Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。

それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。

 確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。

 この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
 その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
http://homepage3.nifty.com/kazano/folie.html


10. 中川隆[-7529] koaQ7Jey 2017年5月23日 13:52:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

再現 日本赤軍事件 動画
https://www.youtube.com/watch?v=av_e914-VmA
https://www.youtube.com/watch?v=MGVfGmznWZ0

11. 中川隆[-13818] koaQ7Jey 2018年7月31日 17:03:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17413]

特別番組「日本人は毛沢東が書き換えたウソの歴史に騙されてきた〜真実の中国史」宮脇淳子 海上知明 倉山満【チャンネルくらら・4月10日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=D8fDflyvM5c


2018/04/10 に公開

真実の中国史[1840-1949] (PHP文庫)
宮脇 淳子 : http://amzn.asia/0qx4IO0

教科書で習った中国史は、
現代中国に都合のいいように書き換えられたものだった!

日清・日露戦争の意義、満洲建国の実相、孫文や毛沢東の実像について、
日本人は驚くほど誤解している。
それというのも、毛沢東が、中国共産党の歴史的正統性を証明するために、
日本から影響をうけたということを、歴史からいっさい抹殺したからである。

本書は、気鋭の歴史学者がアヘン戦争から中華人民共和国設立まで、
日本人が知っておくべき中国史の真実に迫ったもの。
次々と明かされる歴史の裏側″に触れることで、あなたも、
日本人の歴史観が、いかに歪んだものかに気づかされるに違ない。
ロングセラー、待望の文庫化。


12. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:39:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告


2018年9月4日
「嘘」と「洗脳」で突き進んだ文化大革命の真実
児童書で読み解く習近平の頭の中(7)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。



写真:アフロ

 1966年に入ると文革派の動きは激しさを増し、これに呼応するかのように若者たちが動き出す。生まれた時から毛沢東思想で教育された彼らの頭の中は、「毛主席万歳、万歳、万々歳」でしかなかったはずだ。洗脳教育の成果というものだろう。

 6月初めには北京の地質学院、鉱業学院、石油学院、北京大学などの付属中学に加え、北京第25中学などのエリート学生が「紅衛兵」組織を相次いで結成し、「偉大な領袖・毛主席を守るために最後の血の一滴まで断固として捧げよう」と叫び、「四旧打破」を掲げ、毛沢東の敵と思われる人物を求めて街頭に飛び出して行った。旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を中国全土から一掃しようというのだ。

 8月18日、林彪、周恩来らを従え天安門楼上に立った毛沢東が全国から集まった100万余の紅衛兵を初めて接見したことで、天安門広場は興奮の坩堝と化した。毛沢東から「造反有理」「革命無罪」のお墨付きを与えられた紅衛兵運動は、この日を境にして中国全土というより全世界を震撼させることになる。文革の主導権を握った文革派陣営から、毛沢東を「百戦百勝」「絶対無謬」と神聖視した青少年向け印刷物――紙の爆弾――が次々に出版される。その典型が『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』(解放軍文芸社 1967年)だろう。

「英雄的行動」と讃えられた下級兵士の死

 1966年10月9日午前、江西省吉安市第二中学の紅衛兵と革命的教師の一団は、天安門広場で毛沢東の接見を受けるために南昌発北京行きの汽車に乗った。「僕らの心は、もう北京に、毛主席の身辺に飛んでしまっていた」。「汽車もまた飛ぶように奔る。2日目の深夜2時過ぎ、銭塘江辺りにさしかかると、汽車は鉄橋の上で急停車した。なにが起こったのだ。数十分が過ぎると、汽車は何事もなかったかのように動き出す」。車掌は「銭塘江大橋手前数十メートルのところで線路を塞ぐ大木を発見したが、解放軍の戦士の英雄的犠牲によって我ら紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける列車を救ってくれた」と説明する。

「この知らせを聞くや、列車に乗り合わせた誰もが深い悲しみを覚え、毛主席にとって真の戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手に惜しみない賞賛を送り、一斉に声を張り上げた。『解放軍は紅衛兵をイチバン慈しむぞォーッ、我らは解放軍にシッカリと学ぶぞォーッ』とシュプレヒコールの嵐だ」。やがて北京到着。「10月18日のこの日は僕らの生涯で忘れ難い一日となった。午後2時19分53秒、僕らは偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たしたのだ」。

 文革開始直後の66年10月である。インパクトのある話題が欲しかった文革派メディアにとって、蔡永祥の死は願ってもない宣伝材料となったはずだ。解放軍下級兵士の死は「紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける汽車を救った」とされた。「一心を公の為に捧げた共産主義戦士英雄」の物語は瞬く間に全土に広められ、「毛主席の真正の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手」と崇める学習運動が展開される。

 その一方で、街に飛び出した紅衛兵は「劉少奇叛徒集団を打倒せよ」「満腔の怒りをこめて、労働大盗賊の劉少奇を糾弾するぞ」「劉少奇の反革命のツラの皮を剥がせ」「地主階級の孝行息子・劉少奇の姿を暴露せよ」「劉少奇は『左』を装った『右』だ」「造反の粉砕を目論む劉少を告発するぞ」などあらん限りの罵声を浴びせ、劉少奇を血祭りにあげた。劉少奇が占めていた国家主席という肩書は、怒れる紅衛兵にとっては無意味だった。

 1953年6月生まれだから、文革勃発時に習近平は13歳である。当時の高級幹部の子弟がそうであったように、彼もまた紅衛兵運動の高まりの中で毛沢東を崇め、蔡永祥の英雄的行動を学習し、「造反有理」「革命無罪」のままに暴れ回ったに違いない。だが、父親である習仲勲が毛沢東に敵対したと批判され失脚したことで、習近平もまた1969年には陝西省延安市延川県に下放され、北京を追われている。

 1969年、毛沢東が「勝利の大会」と呼んだ第9回共産党全国大会が開かれた。麾下の人民解放軍を挙って毛沢東を支援した林彪は「毛沢東の親密なる戦友」と呼ばれ、公式に毛沢東の後継者に指名される。毛沢東は自らにとってふたつの敵のひとつである劉少奇派を林彪の力を借りて共産党中核から一掃する一方、もうひとつの敵であった「ソ連社会帝国主義」と国境紛争を戦うことになる。

『毛主席語録』を振り回して敵を撃退!?


 中ソ国境を流れる黒龍江の中州の珍宝(ダマンスキー)島を戦場に展開された国境紛争には、双方で100万人近い兵力が投入され、全面戦争一歩手前というほどに深刻な事態を招いた。全面戦争とは聞こえはいいが実際は人海戦術で戦うしかない解放軍に対するは、近代兵器で武装されたソ連軍である。戦いの帰趨は明らかだろう。だが、中国としては毛沢東の軍事思想に支えられた解放軍の大勝利をウソでも宣伝するしかない。そこで連環画『珍宝島英雄賛』(本社美術通訊員編絵 上海人民出版社 1970年)が出版される。

 連環画とは中国伝統の解説付きの絵本式読み物であり、『三国志』『水滸伝』『西游記』なども、こういった形で子供たちの間に広まった。いうならば伝統的メディアによって子供たちに祖国防衛の意義を学ばせようというわけだ。

 表紙を開けると「警戒を厳に、祖国を防衛せよ。人民のための戦に備え、飢えに備えよ」との『毛主席語録』の一節が記され、次いで「偉大なる領袖の毛主席と彼の親密なる戦友の林副主席の批准により、中共中央軍事委員会は珍宝島におけるソ連修正主義の武装挑発を反撃する自衛戦争において鮮血と生命を盾に偉大なる祖国の神聖な領土を防衛した孫玉国ら10人の同志に『戦闘英雄』の光栄ある称号を授与した。人民に、党に、偉大なる領袖の毛主席に無限に忠誠を尽くした英雄たちの気高き心を、よりよく学習せよ」とある。

 67年11月24日、酷寒で珍宝島の最前線警備に当たる孫玉国ら兵士は、国境を侵犯する完全武装のソ連兵を発見する。直ちに「中国人民に対する重大な挑発だ。即刻立ち去れ」と厳重に抗議するが、厚顔無恥にもソ連兵は雪の上にひとつの島を描いて「1868」と記し、この島は1868年からソ連(ロシア)領だと主張する。そこで孫玉国らは強く抗議し、雪の上に記された島と1868の上に大きく「×」を記した。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=2


「1868年当時、ここは島ではなく中国側の河岸の一部だったが、土砂の堆積により20世紀初頭に島となった。1860年にロシアの老いぼれクソ皇帝が中露北京条約を中国人民に強要した。この島は一点の疑義もなく中国の領土だ」「これは断固として改竄することのできない歴史的事実だ」との意味を込めていたというが、「×」だけで、それほどの意味を表すことができるのか。この時、孫玉国らの右胸に『毛主席語録』がシッカリと抱かれていたことはもちろんだ。

 3カ月余が過ぎた69年3月初め、ソ連機甲部隊が狂ったように国境を侵犯する。烈火のごとく怒る孫玉国らは敵機甲部隊の前に立ちはだかり、「止まれ。ここは中国の領土だ。お前らの強盗行為は中国に対する重大な挑発だ。直ちに撤退せよ」と叫ぶ。ソ連軍の前進は止まず戦端が開かれる。中国兵士は銃の代わりにした『毛主席語録』を打ち振りながら、「我らは毛沢東思想で武装し筋金入りだ。天が崩れてきても支えることが出来るぞ」と立ち向かう。

 かくて「ソ連修正主義の戦車、装甲車、武装部隊による狂気の進攻を粉砕し、祖国の神聖なる領土を勝利のうちに防衛した」という。『毛主席語録』が近代的兵器で武装したソ連軍をも打ち破ってしまうほどの無敵の兵器であることを、子供たちの脳裏に」刻みつけようとしたわけだ。


不可能も可能に変える「偉大なる領袖の教え」


 1970年代に入ると、文革派の牙城であった上海における宣伝中枢たる上海人民出版社は、毛沢東思想万歳の児童書を連続的に出版している。典型例として、『夜航石頭沙』(上海港工人業余写作組)を挙げておく。


中国で1960年代後半から1970年代前半に出版された青少年向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=3

 秋も深まった一夜、長江の河口を白波を蹴立て進む航標五号は北部海岸に碇を下ろす。静まり返った船内では、その日の作業を終えた党支部副書記の程志敏が、いつものように灯火の下で一心不乱に毛沢東の著作を学習している。そこに「近くの呉淞口に停泊中の外国船が折からの強風に座礁し船体破断の危機。大至急救援に向かうべし」との緊急電報が届く。早速、乗組員全員が非常呼集され、幹部からの命令を待った。

 呉淞口は上海港の喉元に位置するだけに、事態を早急に収拾できなかったなら多くの船舶の航行にとって障害となるばかりか、「中国革命と世界革命とに大きな損失をもたらす」と程志敏は考えた。早急に救難作業に着手すべきだが、安全航路では現場到着は大幅に遅れる。そこで最短航路の石頭沙水路を抜けようと提案したが、そこは穏やかな天候でも航行が容易ではない難所中の難所だった。

 程志敏の提案を傍で聞いていた「反動技術“権威”」の船長は飛び上がって驚き、「石頭沙は解放前から難所中の難所であり、夜間航行など絶対に不可能だ」と主張する。

 そこで程志敏はスックと立ち上がり、「石頭沙の夜間航行が難しいことは先刻承知だが、我われ共産党人には、毛主席の支持がある。コレが難しい、アレは出来ないなどと弱音は吐かない。刀の山であれ猛火の海であれ、飛び込んでみせるのだ」と敢然と言い放つ。すると、その場の誰もが程志敏の手を固く握るのであった。

 じつは、程志敏は超人的な努力で最下級の船員から現在の地位を築き上げたのである。「旧社会で母と2人の兄弟は敵の醜い刀によって惨死させられた。共産党、毛主席がプロレタリア革命を教え導いてくれたことで暗雲を払い明るい太陽をみることが出来た。『毛主席がいなかったら、程志敏の今日はありえない』」と心の中で叫びつつ、全員に状況を説明し任務遂行を求める。乗組員の心はひとつになり、航標五号は暴風雨の中を現場に急行した。

 水路は狭く浅瀬や岩礁が続き、風雨は増すばかり。この時、甲板に立った「程志敏と同志たちが偉大なる領袖毛主席の『我われが全人民とが団結し共同して努力すれば、あらゆる困難を押しのけ勝利という目的に到達できる』との教えを心にシッカリと刻んだ」。天候はいよいよ荒れ、航標五号の行く手を遮る。その時、程志敏の脳裏に「勇敢なる戦闘精神を発揮せよ。犠牲を恐れるな。疲れを恐れず連続作戦の作風を発揮せよ。短期間に休むことなく波状攻撃で戦い抜け」との「偉大なる領袖の教え」が浮ぶ。

 やがて現場に到着し沈没寸前の船から乗組員を救助し、任務は完了した。そこで程志敏が「この軍隊は比類なき精神を秘めている。敵の一切を圧倒し断固として敵に屈服しない」との『毛主席語録』の一節を声高らかに読み上げた。かくして「キラキラと光り輝く金波銀波を蹴立てて、程志敏と同志たちが操舵する航標五号は革命の航路を勇敢に前進する」のであった。


英語教育にも「毛沢東賛歌」


『夜航石頭沙』と前後して上海出版社からは、文革工作に挺身する小学生が、蔣介石一派の秘密工作員で元教師の破壊工作を摘発し毛沢東派を守った『英雄機智的紅小兵』、毛沢東思想で武装し、自然災害を克服し豊かな収穫をもたらした人民公社の英雄を描く『胸懐朝陽戦冰雹』、毛沢東の訓えのままに「一に苦労を恐れず、二に死を恐れず」に革命精神を発揮して多くの人々を救った人民解放軍兵士を讃える『優秀共産党員――陳波』、さらに旧社会では教育の機会すら与えられなかった港湾労働者の宋懐宇が、毛沢東思想学習をキッカケに英語を学び、やがて海外からやってくる外国船員に英語で毛沢東思想の意義や文革の理想を語るに至るまでの『宋師傅学外語』などが出版されている。

 どれもこれも定型化された毛沢東賛歌であり、いわば紋切り型の結論ではあるが、『宋師傅学外語』を読んでいて興味を持ったのは、当時、実際にはどのような英語教育が行われていたのかといった点だ。そこで『簡明英語語法』(湖北省中小学教学教材研究室編 湖北人民出版社 1973年)のページを繰ってみた。

 同書は書名で判るように英語文法解説書だが、出版時期からいって単なる文法解説書で終わってはいない。徹底して毛沢東賛歌である。目に着いた例文を紹介しておくと、

・Chairman Mao is our great teacher.(毛主席は我われの偉大な導き手である)

・Down with the landlord class!(地主階級を打倒せよ)

・Imperialism,revisionism and all reactionaries are paper tigers.(帝国主義、修正主義と一切の反動派は張子の虎である)

・Only socialism can save China.(社会主義のみが中国を救う)

・China will never be a superpower.(中国は断固として大国にはならない)

 このように激烈な例文が次々に記されているが、最終的には「The sea is deep,but our love for Chairman Mao is deeper than the sea.(海は深い。我われの毛主席に対する熱愛は海よりも深い)」に収斂していく。かくして外国語学習であれ、一瞬たりとも毛沢東思想から離れることはなかったわけだ。

なぜ、「99%の火傷」を負っても完治可能なのか?

 最後に文革期を代表する子供向けの百貨全書とでもいうべき『十万個為什麼』(上海人民出版社 1970年)を紹介しておくのも、当時の子供たちを取り巻く時代状況を知るうえで意味あることだろう。

 これは全部で13冊という大部のシリーズで、出版し終わるまでに4年ほどの歳月が過ぎている。第1巻の出版が1970年9月で最終13巻が74年7月である。この間の重要な動きを拾ってみると、毛沢東と林彪の対立顕在化(70年)、林彪のナゾの逃亡とモンゴルでの墜落死(71年)、林彪事件総括の第10回党大会(73年)、四人組台頭と批林批孔運動(74年)。まさに文革後半の激動期を通じて出版されたことになる。それだけに編集者も執筆者も作業途中で方針や内容を変更せざるをえない立場に立たされ、大いに戸惑ったに違いない。

 書名は『十万個のナゼ』となっているが、「十万個」は沢山という意味である。第1巻冒頭の「ナゼ、我われは10進法を使うのか」からはじまり第13巻最後の「ナゼ、勝手にツバを吐くのはダメなのか」まで、各巻に主に自然科学関連の100から130前後の「ナゼ」が挙げられ、その回答がイラスト入りで判り易く解説されている。

 このシリーズ初版の出版は、大躍進失敗から毛沢東の権威が後退し、どん底経済立て直しに辣腕を揮ったことで国民間に劉少奇への期待が高まった時期の1962年である。ここで取り上げる上海人民出版社版の『十万個為什麼』は62年版の改訂版に当たるが、劉少奇が毛沢東の敵として国民的糾弾の標的となり抹殺された後であり、政治状況が大逆転してしまった以上、さすがに初版をそのまま印刷するわけにはいかなかったはずだ。

 その辺りの事情を各巻冒頭に掲げられた「重版説明」は、「これまで叛徒・内奸・工賊の劉少奇の反革命修正主義文芸の黒い方針とその影響下にあったことで、多くの誤りが存在し、マルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想を積極的に広めないだけではなく、(中略)知識万能を宣揚し、趣味性を追及し、封建・資本・修正主義の毒素を撒き散らす内容の書籍が少なからず横行していた。偉大なるプロレタリア文化大革命の過程で広範な労働者・農民・兵士と紅衛兵の小将軍は、それら書籍の持つ誤りを厳格に批判し、修正主義文芸の黒い方針と黒い方針による出版がもたらす害毒を徹底して粛清した」とする。

 なにが「害毒」で、内容をどのように「徹底して粛清した」のか判然とはしない。たとえば「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の項目をみると、「資本主義国家の医学の“権威”は、火傷の面積が体の表面積の85%を超えた場合、死亡率は100%だと結論づける」が、「1958年に毛主席が定めた『意欲を奮い立たせ、先頭に立つよう努め、より多く、より早く、より立派に、より倹約して社会主義を建設せよ』との耀ける総路線の下、工農業生産の大躍進の高まりに鼓舞され、我国の医学関係者はこの迷信を打破し、大胆に実践し、80%以上の火傷患者を救うことに成功した。偉大なる文化大革命の過程で(中略)99%の火傷を負った患者、さらには3度の火傷で94%という広い面積の火傷を負った患者を治癒することに成功し、資本主義国家の“権威”の定説と文献上の記載を完全に乗り越え、世界医学界における奇跡を創造」と記すのみである。これでは、「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の疑問に対する科学的な回答ではないだろうに。

 因みに13巻の最後――ということは『十万個のナゼ』の最後の「ナゼ」は「ナゼ、どこにでも唾を吐いてはダメなのか」。病原菌を撒き散らすから「僅かな唾でも被害は甚大だ。だから、辺りかまわずに唾を吐くといったような悪い習慣は絶対に改めねばならない」で終わっている。「悪い習慣は絶対に改めねばならない」とは、なんとも“意味シン”な回答だと思う。

「政権は鉄砲から生まれる」と、毛沢東は革命における「搶扞子(武力)」の重要性を強調する。だが「筆扞子(メディア)」の働きを忘れていたわけではない。いや、むしろ時には筆扞子に重きを置いていた。文革はその典型だろう。人民解放軍(=搶扞子)を掌握して劉少奇追い落としに成功して後、「未来の大人」であり「小さな大人」である子供に向けて、いよいよメディア(=筆扞子)戦略は巧妙に激烈に展開されることになる。

13. 中川隆[-13635] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:43:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告


2018年3月29日

習近平の幼き頭に刷り込まれた「毛沢東思想」の正体
児童書で読み解く習近平の頭の中(1)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353



 建国以来の中国歴代指導者を

毛沢東(1893年〜1976年)、
華国鋒(1921年〜2008年)、
ケ小平(1904年~1997年)、
胡耀邦(1915年〜1989年)、
趙紫陽(1919年〜2005年)、
江沢民(1926年〜)、
胡錦濤(1942年〜)

と列記してみると、1953年生まれの習近平主席は初の建国後生まれの指導者である。おそらく驚天動地の政治的地殻変動でも起こらないかぎり、常識的には今後の中国は建国後生まれによって運営されることになるはずだ。


『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著 1955年)と『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著 1956年)。当時の児童向け書籍から、「社会主義思想」や「毛沢東思想」がどのように刷り込まれていったかを読み解く
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353


 習近平主席以下、昨秋の第19回党大会と今春の「両会」――全国人民代表大会と政治協商会議によって選出された現在の共産党政権指導部は、最高齢の王岐山(1948年〜)を除く他は1950〜60年代の生まれである。物心がついた頃にはすでに毛沢東は強固な権力基盤を背景にして、極論するなら“箸の上げ下げまで”が毛沢東思想によって規定されるようになっていた。毛沢東が「白いモノでも黒だ」と宣えば、国民すべてがそれに従わざるを得なかったのである。この世代を「完全毛沢東世代」とでも名付けるなら、その第一世代のトップランナーが習近平主席といえる。

「完全毛沢東世代」の幼き頭に刷り込まれた記憶とは

 この世代は幼年期には社会主義の素晴らしさを柔らかい頭脳に存分に刷り込まれ、少年から青年に成長する過程で毛沢東思想が「百戦百勝」であることを身をもって追体験し学習させられている。であれば、この世代の心の奥底に社会主義の理想、毛沢東への憧憬や愛憎半ばするような畏怖の念が隠されているとも考えられる。

 たとえば習近平政権が推し進める「一帯一路」である。これを「総合国力でアメリカに追い着き追い越し、アメリカに代わって世界に君臨しようとする試み」と読み替えるなら、フルシチョフ率いるソ連に対抗心を燃やした毛沢東が1958年に社会主義大国への道を一気に推し進めようと発動した大躍進政策が重なってみえる。現実無視で妄想にも近く杜撰極まりない計画ゆえに4000万人を超える餓死者を出して大失敗に終わった大躍進政策ではあったが、当初は全土が社会主義大国建設の夢に湧きたったことは確かだ。

 であればこそ、当時掲げられた「超英趕美(世界第2位のイギリスを追い越し、アメリカに追い着け)」の勇ましいスローガンを幼い日の習近平主席が深く記憶していたとしても決して不思議ではない。ならば一強体制を築いた現在、かつての熱狂がフラッシュバックすることはないだろうか。

 中国は2010年にはGDP世界第2位の日本を追い越し(「超日」)、いまやアメリカに肉薄している(「趕美」)。だからトランプ政権が中国産品に高額な関税を掛けるという貿易戦争を仕掛けているに違いない。だが、それは見方を変えれば毛沢東の悲願であった「超英趕美」――現在では「超日趕美」だが――が実現しつつあることを意味しているようにも思える。

 かりに習近平政権が現在内外で喧伝されているような長期政権を担うことなく2期10年で終わったとしても、2022年から始まる“ポスト習近平”の時代を担うことになるのは完全毛沢東世代の第2世代とでも呼ぶべき1960年代前半生まれとなる公算は大だ。この世代は幼少期に文化大革命が始まり、少年期は紅衛兵の少年版である紅小兵として文化大革命を体験し、10代半ばに毛沢東の死に直面している。

 じつは当分の間、日本のみならず世界は、毛沢東思想によって育てられた世代の中国指導者と向き合わねばならないのだ。であればこそ彼らが成長の過程で受けた教育――それは、とりもなおさず共産党政権が自らの将来を托そうとした人材の理想形だろう――を考察することは、今後の中国の進路を見定めるうえで必須の作業になるだろう。


「歴史爺さん」が熱く語りかける戦いの歴史


 共産党政権は発足直後には兒童讀物出版社(上海)と中國少年兒童出版社(北京)を創設した。両社が出版する絵本などによって、社会主義は正しく、世界は社会主義社会に向って進化している。その最前線に立つ共産党は絶対無謬だなどと教え込もうとしたに違いない。教育は娯楽であり、娯楽は宣伝であり、宣伝は教育というのが共産党の根本理念である。「白い紙にはどんな画も描ける」と説いていた毛沢東は、幼い子供たちの真っ白な頭脳に共産主義社会の夢のような将来を描こうとしたはずだ。

 1955年に兒童讀物出版社が出版した『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著)からは、当時の共産党が子供たちに教え込もうとした歴史観や歴史認識が浮かび上がってくる。

 著者の崔巍は個人ではなく、おそらくは共産党の教育・宣伝部門に連なる歴史学者たちの集団ペンネームと考えられる。当時、簡体字はまだ正式に使われてはいなかったから、横書きながら繁体字のままで全42ページ。当時の物資不足を反映して、表紙にもザラザラでペラペラの質の悪い紙が使われている。

 表紙の上半分に描かれているのは人々が力を合わせてマンモスを断崖に追い詰めている光景で、下半分は溶鉱炉を中心とした工場だ。前者で支配・被支配の関係がなく貧しくも平等で心豊かに暮らしていた原始共産制社会を、後者で重工業化された豊かな社会主義社会を訴えようというのだろう。

 表紙を開くと先ず「歴史爺さん」なる人物が登場し、「子供たちよ! ワシがキミらの友だちになって1、2年になるかのう」と切り出す。「ワシは歴史という名前じゃが、みんなも知っているだろう」と呼び掛け、「歴」とは「経歴」で「史」とは「記載」であると説明しながら、「ワシはえらく歳をとっていて、ワシが歴史を記録するようになってから換算すると、かれこれ4000年ばかりにもなるだろうか」と、それとなく民族の歴史の長さを誇ってみせる。

「遥かに遠い昔だ。ワシが生まれて間もない頃じゃが人々は農業を知らず、河南省一帯の黄河の辺りで魚を捕ったり、猟をしたり、放牧などして苦しい生活を送っておったんじゃ」。かくて勤労人民の力によって現在の中国がある。「考えてもみておくれ。中国の国土はこんなにも大きいが、隅から隅まで我らが祖先の熱い汗と涙が流されなかった場所はないんだよ」と続ける。

 当初は支配も被支配もなく働き誰もが平等な生活を送っていたが、やがて「奴隷の持ち主、大地主、資本家など働かない奴らが生まれ」た。彼らは「日々に悪知恵を働かせて土地、工場、人々の労働の果実を掠め取り」、「“国家”や王朝をでっち上げて労働人民を圧迫し始めた」。そこで「陳渉、張角、王薄、黄巣、李自成・・・」など多くの民族の英雄たちが「搾取鬼たち」に戦いを挑み勝利した。だから「中国の広大な土地の到る処に、革命烈士の鮮血が流されているんじゃ」。

 そこで歴史は一足飛びに20世紀に移り、「八路軍、新四軍、中国人民解放軍、中国人民志願軍など、彼らは祖国人民にとっての最も優秀な児女なんだ。考えてもみるがいい。中国の広大な領土は祖国防衛のための英雄たちの鮮血に染まっていることを」と同意を求める。

「将来の人民は共産主義の生活を過ごすことになる。これは全く正しいことだ。キミは共産主義の生活が好きかい。だったら共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか。キミが指導しなければならないのだ。さあ、キミたちよ! ワシはキミの好い友達だ。キミが一日たりとも離れることのできない素晴らしい友人じゃよ!」と、熱を込めて語り掛けた。

 予定調和気味に共産党創建以来の“偉大で栄光に包まれた戦いの歴史”が綴られているが、ご丁寧にも子供たちの学習の成果の一例が次のように記されている。

●「本来、社会に階級はなかった。人々は階級のない原始公社において長期に亘って暮らしていた」

●「資本主義社会において資本家は労働者を搾取し、工業生産の発展を妨害した。労働者は断固として資本家を打倒し階級のない社会主義社会――共産主義社会に作り変えなければならない。だから歴史発展の法則に基づくなら、共産主義は必ずや実現する」

●「歴史を学んで、祖国人民の全ての労働成果を熱愛すべきことを理解した。全力を尽くし、一木一草に至るまで祖国を防衛する」

●「ボクらの麗しき前途の凡ては、解放軍兵士のおじさんたちの犠牲によって得られた。ボクらは、さらに偉大なる中国の共産党と人民解放軍とを熱愛する」

「共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか」の囁きに続く「キミが指導しなければならない」という“殺し文句”に幼い子供たちは、さぞや血を沸かせ肉を踊らせたことだろう。そのうちの1人に、幼い頃の習近平チャンはいなかっただろうか。


「社会主義色」が濃厚すぎる算数の問題


 同じ1955年に『算術 小学教師進修用書』(兪子夷編著 浙江人民出版社)が出版されている。建国から6年、朝鮮戦争終結から2年が過ぎ、いよいよ国家建設に本腰を入れようにも、やはり科学技術の立ち遅れは如何ともし難いと気づいたようだ。

「編著者自序」は「基礎的教育である小学校教育の質を高めることは、中学・高校教育の質を根本的に高めることにつながる。小学校における算数教育は重要な位置を占めているにもかかわらず従来は誰もが重視してこなかったことから、極めて低いレベルのままであり、今後は可及的速やかに質を高めなければならないことは疑う余地はない」と記すが、やはり編集方針は「真っ白な紙にはどんな絵も描ける」との毛沢東の考えに基づく。

 全体の構成はイデオロギー抜きに整数と筆記法からはじまり、加減乗除、倍数、比例、平均、度量衡、数の分解、最大公約数、最小公倍数、分数、通分、分数の加減乗除、少数、比例などに関する解説へと系統的に並べられているが、応用問題は一転して社会主義イデオロギーの色に溢れている。

 モノは試し。そんな応用問題のいくつかを挙げてみると、

 1)ある工場には6つの作業場があります。第1,2,3の作業場には210台の旋盤が備えてあり、第4作業場は第1作業場より15台少なく、第5作業場は第2作業場より21台多く、第6作業場は第3作業場より10台少ない。6つの作業場を合計すると工場全体では何台の旋盤があるでしょうか。

 2)3つの農業生産合作社は余った1250袋の食糧を国家に売ることになりました。乙合作社が売った量は甲合作社の2倍で、丙合作社が売った量は甲と乙の合作社の合計より350袋多い。3つの合作社が売ったそれぞれの量を求めなさい。

 3)2組の道路補修隊が道路の両端から同時に工事をはじめました。その速度は甲隊が毎日2里で、乙隊は3里です。4日後には2つの補修隊の間の距離は35里でした。彼らが補修する道路の距離を求めなさい。

 4)ある労働者の1年の給与は、最初の3ヶ月は毎月43元、次の5ヶ月は毎月46元、最後の4ヶ月は毎月47元5角でした。1年平均すると1ヶ月当たりいくらになりますか。

 ――社会主義社会建設期の溌剌とした雰囲気が伝わってくる応用問題ではあるが、工場、旋盤、農業合作社、道路補修隊、労働者など社会主義イデオロギーが前面に押し出されている。


空想小説「鼻を切り取られた象」の正体とは?


 1956年、共産党政権は学術・芸術の分野での自由化を進める「百花斉放・百家争鳴」運動を発動した。この政策によって知識人や民主派からの猛烈な共産党批判を誘発させ、やがて反右派闘争に転換され、結果として大躍進から文化大革命へと毛沢東の過度の神格化に雪崩れ込むことになる。

 同じ年の2月、ソ連ではフルシチョフがスターリンを全面批判する秘密演説を行った。中国共産党機関紙『人民日報』は4月5日になってスターリンによる個人崇拝を「重大な誤り」と認めはしたが、ソ連で見られたスターリン全面否定に同調することはなかった。スターリン批判をめぐる中ソ両国の見解の差が、後に国境軍事衝突にまで発展した中ソ対立の遠因の1つとなるわけだ。

 中国共産党政権のみならず毛沢東にとっても大きな節目の年に当たる1956年、中國少年兒童出版社は2種類の子供向け空想科学物語を収めた『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著)を出版している。“夢のように豊かな社会主義中国”を描き出そうというのだろう。この絵本を手に小躍りした子供たちは社会主義の未来に目を輝かせたに違いない。そんな理想社会を建設するために、やはり「キミが指導しなければならない」のである。

 巻頭を飾る「割掉鼻子的大象」は、この本の幼い読者たちが20代の半ばから後半に達する頃の1975年の夏を舞台に、科学専門記者の「私」が取材のため国営農場を訪れるところから始まっている。

 その地は草1本も生えない不毛の地であったが、人民の奮闘努力によって5年という短期間で「緑の希望」と呼ばれるまでの大農場に改造されていた。取材のために農場の中心街に立った「私」は「象を見に行こうよ。象だ、象だ」の子供たちの歓声に誘われるように走りだす。「国営農場のだ!」「どうして国営農場で象が飼われているんだ?」「鋤を引かせるためだよ!」「トラクターがあるじゃないか。象なんて使う必要はないよ!」――子供たちの感想である。一見すると象ではあるが、不思議なことに鼻が切り取られていた。

 この農場で働いている科学好きの中学時代の同級生から届いた招待状を持って、農場事務所を訪ねる。すると「私」の目の前に薄いピンクがかった白い肉の壁が現れた。街で見かけた鼻の欠けた象は、友人が改良を重ねて生み出した「奇跡72号」と呼ぶ超大型のブタだった。友人は「図体はデカいが子ブタだ。柔らかく脂が乗っていて栄養満点。そのうえ簡単に消化する。味はバツグンだろう」と語りかける。だが「私」は口いっぱいに肉を放り込んだため、口がきけずに目を白黒させて頷くしかなかった。象のように大きいブタを生み出す社会主義の科学技術によるなら、食糧問題も一気に解決してしまうのだ。幼い読者が瞳を輝かせたであろうことは想像に難くない。

 第2話の「没頭脳和電脳的故事(脳無しクンとコンピューターの物語)」の主人公は小学生の孫少年である。「鞄は」「帽子は」「ソロバンは」「教科書は」と孫少年の登校準備に巻き込まれ、毎朝家族中が大わらわ。彼が「没頭脳(脳無しクン)」のあだ名で呼ばれるのも、前日に学用品を置いた場所を忘れてしまうほどに整理整頓が不得手だからだ。

 そこで我が息子の将来を案じた電気技師の父親は「養いて教えざるは父の過ち」という古くからの教訓に従って、孫少年に20万個の半導体を組み込んだ「電脳(コンピューター)帽子」を創ってやった。翌日、電脳帽子を被った彼は意気揚々と登校する。電脳は難問を素早く解いてくれるが、地理の問題や友達のトンチ話にはサッパリ反応しない。そこで父親は半導体を脳細胞の数と同じ140億個までに増やそうとするが、電脳帽子が巨大化してしまい被ることができない。かくて「電脳の奴隷にはなるな」と、苦心の末に作り上げた電脳帽子を廃棄処分してしまった。

 孫少年は父親が作ってくれた電脳帽子を賢明に学習し、「自分で考え、大脳を鍛錬し」、「演算、資料保存、翻訳、機械管理のできる電脳」の発明を目指す。やはり子供たちに、社会主義社会のバラ色の将来を教えようとしたのだろう。

 1950年代前半、中共中央宣伝部長兼政務院文教委員会副主任を務め党と政府の思想宣伝工作を切り盛りし毛沢東の寵臣として振る舞っていたのは、習近平チャンの父親である習仲勲だった。ならば教師用の『算術 小学教師進修用書』はともあれ、幼い息子に『怎樣學習歴史』や『割掉鼻子的大象』を与え、橋橋と安安の2人の姉が弟の習近平チャンに読み聞かせていたと想像してみる。

 どうやら現在の共産党政権の中枢に居並ぶ首脳陣は、歴史爺さんの話を真に受け、社会主義イデオロギー満載の算数応用問題を解き、社会主義社会の将来に幼い心を躍らせた世代となりそうだ。このことを、改めて肝に銘じておきたい。

14. 中川隆[-13634] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:47:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告


子どもたちの思想改造を狙った毛沢東の手口
児童書で読み解く習近平の頭の中(5)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
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習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


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 中国では、1963年から66年春にかけて「社会主義教育運動」が展開された。1958年に毛沢東が強引に進めながら大失敗に終わった大躍進政策への対応をキッカケとした教育運動であり、後の文化大革命につながる政治闘争の前哨戦でもあった。

 大躍進の失敗を自己批判した毛沢東に代わって国家主席に就任し共産党政権の舵取り役に就いた劉少奇は、毛沢東が進めた急進的な社会主義化・集団化を取り止め、限定的ながら個人所有を認めて生産意欲を刺激することで落ち込んだ経済の回復を図った。自らの労働によって自らの生活向上が期待できることから、人々は労働に励み生活も向上する。

 すると当然のように劉少奇への期待が高まり、民心は毛沢東から離れる。この動きによって自らの権威が崩れ権力が失われることに危機感――有態にいうなら、劉少奇に対する政治的嫉妬心――を抱いた毛沢東は、早くも1963年9月の中共8期10中全会において資本主義復活の危険性を指摘し、階級闘争の拡大化・絶対化を訴えた。このような環境において社会主義教育運動は始まる。

 社会主義教育運動の3年余に出版された児童書を読んでみると、イデオロギー色が微塵も感じられないものと毛沢東思想万々歳のものとに大別できる。前者は生活向上を目指す経済優先の劉少奇路線を背景にしていると見做すことができる一方で、後者からは政治を第一とする毛沢東路線の徹底を子供に刷り込もうとする狙いが強く感じられる。

 現状を肯定するのか。はたまた「為人民服務(毛沢東式滅私奉公)」の路線を徹底して社会主義社会建設を目指すべきか――やはり注目すべきは、洗脳によって子供を毛沢東思想のサイボーグに改造しようと狙う毛沢東の強い意志だ。こうして育った世代が文革初期において毛沢東を絶対無謬の神と崇め、毛沢東の手足となって毛沢東の敵を殲滅する戦いに邁進していったことを思い起すなら、劉少奇の悲劇は、毛沢東の狙いを読み違った。あるいは毛沢東の政治的妄執を甘く見た点に求められそうだ。


「太陽とヒマワリ」に込められた寓意


 先ずはイデオロギー色を全く感じられない代表例として、劉少奇に対する毛沢東の反撃が表面化する数カ月前の1963年5月に出版された『動脳筋爺爺@』(少年児童出版社)を挙げておきたい。同書は全4冊で構成され『動脳筋爺爺A』と『動脳筋爺爺B』は1964年、『動脳筋爺爺C』は1966年、つまり社会主義教育運動の全期間を通じて逐次出版されたシリーズものである。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587?page=2

 「脳筋」は脳みそを指し、「動脳筋」は“頭を働かせろ”を意味する。そこで動脳筋爺爺とは智慧爺さんといったところか。「小問号(ハテナちゃん)」と「小無智(オトボケ君)」が投げかける「なぜ魔法瓶の湯は冷めないの」「なぜ雲は空から落ちてこないの」など日頃の生活で感じている素朴な疑問を、智慧爺さんが判り易く説明している。4冊全体に共通する特徴は、社会主義、共産党、ましてや毛沢東にすら言及した記述が全く見当たらない点だろう。

 その典型が「なぜヒマワリは太陽に向って動くのか」の項である。文革時代、太陽は毛沢東を、ヒマワリは人民を無条件に寓意していた。太陽もヒマワリも当時の中国では問答無用の政治的記号だったのだ。偉大なる太陽があればこそ人民は育つ。それゆえにヒマワリの人民が育つためには、太陽である毛沢東を常に崇め奉り学ばなければならなかったのである。だが『動脳筋爺爺』では太陽の動きに従って動くヒマワリの植物学的なメカニズムが懇切に説明されてはいるものの、太陽にもヒマワリにも政治的メッセージは込められていない。

 やはり『動脳筋爺爺』シリーズの作者にとって、太陽は飽くまでも太陽であり毛沢東を指し示す政治的記号ではなく、ヒマワリは植物のヒマワリ以上でも以下でもなかったということだろう。

「明るい世相」が映し出された児童書

 1965年に出版された『飛機会干些什麼(飛行機は何ができるのか)』(劉子吉 少年児童出版社)に描かれている子供にも、政治役割は全く与えられていない。近代化され安定した豊かな社会で伸び伸びと遊ぶ子供たちの健気な姿が感じられるだけである。

 表紙の色は淡い青。おそらく紺碧の空に見立てたのだろう。上半分には大型旅客機、ジェット戦闘機、農薬散布中の複葉機、さらには真紅のヘリコプター。下半分には模型の飛行機やグライダーを手にはしゃぐ子供たち。誰の首にも、少年先鋒隊を示す真紅のスカーフが巻かれている。男の子は白いシャツに濃紺の半ズボンで、女の子は揃って長いお下げに中国風ブラウス。明るさが横溢している絵柄だが……1年後には文革が始まる。

 最初の頁の下半分には背中姿の女の子とこちらを向いた2人の男の子――花壇に座る3人を前に、男の子が立っている。その向こうには模型飛行機で遊ぶ子供たち。誰もが真紅のネッカチーフを首に。遠景は、大きな入道雲が浮かぶ青い碧い大空。

 「飛行機は天空を飛んでゆく。まるで一羽の雄々しい鷹のようだ。見るほどに、より高く、より遠く。なんと素晴らしいことだろう。飛行機って何をするものなの、僕が話して聞かせるよ」と、立った男の子が説明をはじめる。

――毎日、数え切れないほどの数の飛行機が高い山を飛び越え、白い雲をつき抜けて、上海から昆明、広州から北京へと、旅客、貨物、郵便をいっぱい載せて、限りなく広い大空を飛んでいるんだ。日照りの時なんか、空から薬剤を散布して雨を降らすよ。広い田や畑だって一気に肥料を噴霧すれば、どんな害虫だってイチコロさ。豊作間違いなしだ。農村で収穫用の農機が欲しかったら、いつだって飛行機が運んでくれるさ。正確な地図作り、国家防衛、森林保護、海難事故救助、遠隔辺境への物資輸送だって、飛行機なら簡単だよ――

 と、飛行機の果たす様々な役割が微笑ましいイラストと共に判り易く説明され、この本は「大空を飛ぶ飛行機は、雄々しい鷹のようだ。祖国を建設し、国の守りを固め、なんとステキだ。飛行機は、いったいどんなことが出来るのか。みんな一生懸命考え聞かせてください」で閉じられている。

 大躍進の後遺症も癒え、国民が将来に光明を見い出すことができるようになった劉少奇路線が光芒を放っていた時期に出版されたことを考えれば、『飛機会干些什麼』から漂ってくる何とも微笑ましい雰囲気に納得させられる。

「劉少奇への攻撃」を予感させる物語


 同じ1965年、『雪山上的号手』(趙鷔・秦大虎 上海人民出版社)が出版されている。

 この物語の主人公は、于魯紅という14歳のラッパ卒である。彼は毎日ラッパをピカピカに磨き上げ柄のところに赤い布を結びつけ、それを背中に威風堂々と行軍し勇猛果敢に戦闘に参加し、全身全霊を革命のために捧げてきた。

 辛い長征のある日、部隊は小休止し体力と装備を整え明日からの難関の大雪山越えの準備に掛かる。彼の任務は、近隣の農家から厳寒の行軍にとって必需品の唐辛子と焼酎を調達することだった。冷えた体を芯から暖めるためだ。「大雪山は豪雪に加え強い風だ。さらに空気は希薄。だが革命的英雄主義を発揮し、団結して闘い困難を克服し、勝利のうちに大雪山を越えようではないか」と、部隊長が檄を飛ばす。

 戦友で病弱の江戦雲の手を引きながら、一方で木を掴み峻険な山道を登る。部隊は一振りの宝剣のように一直線になって、大雪山の頂を目指して進む。すると突然に狂ったように強風が吹きだし、ついで横殴りの猛烈な雪である。あっという間に辺り一面が真っ白になり、なにも見えない。「団結だ、戦闘だ、隊列から落伍するな」との部隊長の叱咤激励を聞きながら、彼は戦友の手を引いて雪中行軍を続ける。

 山が高くなれば雪も深くなる。部隊は「堅固な革命的毅力」を発揮し、一歩一歩と山頂を目指した。山頂にたどり着いた部隊からの「頑張れ、同志諸君」の声に励まされ、彼は江戦雲に「大雪山に勝つんだ」と声を掛ける。

 やっと山頂に到着したが、風はさらに強く、鶏の卵大の雹に見舞われる。2人の少年兵は進退谷まり部隊から取り残され、吹雪の中に立ち尽くすしかなかった。2人が雪道で悪戦苦闘していた時、近くを通りかかった別の部隊の隊長の「ラッパ卒がみつからず、我が部隊の所在地点連絡不能」との声を聞き、彼は衰弱する体に鞭打って声を限りに「隊長同志、自分は……」と申告する。

 彼の声を耳にした部隊長が近寄って来て、体全体を雪に包まれながらもラッパを高々と掲げる少年ラッパ卒を見つけた。彼の唇は寒さで切れてしまったが、部隊長の命令を受け力の限りラッパを吹く。ラッパの音が伝える「部隊長は山頂に到達せり。諸士の現在地を伝達あれ」の信号は轟々たる吹雪をものともせず、全山にこだまする。このラッパの音に勇気づけられ、多くの兵士が部隊長に合流すべく山頂を目指した。

 突然、ラッパの音が途切れる。彼は任務を果たし、精も魂も尽き果て昏倒する。「小同志、しっかりしろ」。部隊長の腕の中で気がついた彼は「隊長、戦友の江戦雲が……」

 この時、彼の部隊の部隊長が2人を探しに山頂に戻って来て、江戦雲を雪の中から救出する。「貴下部隊の少年ラッパ卒の格段の軍功により、我が部隊は勝利のうちに大雪山越えを達成せり。感謝の意を表す」。すると我が部隊長は力強く、「我らが毛主席の英明なる指導の下、抗日の前線に赴き、共に侵略者を打ち破ろう」――

 『動脳筋爺爺』や『飛機会干些什麼』に登場する子供は子供でしかない。だが『雪山上的号手』の子供には飽くまでも大人と同じ働きが求められる。“小さな大人”であらねばならなかった。子供に対する扱いの違いが気になるが、『雪山上的号手』の出版元が文革の10年間を通して毛沢東派が拠った最重要宣伝機関であった上海人民出版社であることを考えれば、主人公に毛沢東思想を体現する革命的少年を配したことも納得できるだろう。上海では劉少奇攻撃の準備が秘かに進められていたということか。

仲間を救うために爆死した若き兵士の日記


 同じ1965年には、児童書を読む世代よりもう少し高い年齢層を読者対象とした『王杰日記』が、文革の前半期、毛沢東の忠実な部下として文革を推し進めた林彪が率いていた人民解放軍の機関紙『解放軍報』の編輯部から出版されている。

 この日記を記した王杰(1942年〜65年)は山東省出身の解放軍兵士である。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認された。遺品の中から63年に書きはじめた10万字を超える日記が見つかり、主だった部分を抜粋し、この本が編まれている。そこで興味深い個所を拾ってみた。

■63年(日付なし)=「俺はレッキとした革命者であり、革命のための優秀な種となろう。党と国家から遣わされるなら、何処にでもいって根を張り、花を咲かせ、実を結んでみせるぞ。必ずや砂漠を緑の長城に、荒れ果てた山をたわわに稔る果樹園に、田を一面の黄金色の大地にしてみせるぞ」

■63年4月22日=「王杰よ、王杰、お前に警告しておこう。任務を遂行する際には、誠心誠意で言行一致、裏表なく苦労を厭わず、生真面目に取り組め。王杰よ、深く心に刻んでおけ。自らの欠点をしっかりと自覚し、断固として改め、虚心に学び、生真面目な人間にならんことを」

■63年8月21日=「旨いものを食べ、キレイな衣装を身に着けるなんてことは幸福でもなんでもない。貧苦に喘いでいる世界中の虐げられた人々が平穏な生活を送れるようになってこそ幸福といえるのだ」

■64年7月25日=「毛主席の著作学習は長期的視点から着目しなければならないし一生の大事だ。林彪同志が指し示す『問題意識を持って学び、活学活用し、実際の問題に結びつけ、先ず学び本質を掴め』の原則を生真面目に徹底して貫かねばならない」

■64年9月3日=「毛主席の著作学習を通じ、革命こそが我が理想であり、闘争こそが本当の幸福であることを身に沁みて学んだ」

 『王杰日記』は「新しい中国の次世代を見よ! 彼らは重い任務を担うことができる。彼らには祖国の建設と防衛ができるはずだ」で結ばれている。

社会主義教育運動を経て、時代は「文革」へ

 ここで改めて1965年前後の毛沢東の動きを振り返ってみる。

 1964年8月、エスカレートするヴェトナム戦争に米軍の中国侵攻の可能性を読み取り、同時に北方から軍事圧力を強めるソ連を警戒し、毛沢東は南北からの敵を想定した戦争準備を提起する。10月に初の核実験に成功し、翌65年1月になると毛沢東は初めて「党内の資本主義への道を歩む実権派」に言及した。「実権派」、つまりは毛沢東を蔑ろにする政権中枢、就中その頭目たる劉少奇に戦いの的を絞ったということだ。だが劉少奇が毛沢東の狙いに気づいたフシはみられない。

 9月になって本格化するアメリカの北ヴェトナム爆撃(北爆)に対抗するかのように、林彪が「人民戦争勝利万歳」と題する論文を発表し、劉少奇派が提起した解放軍の近代化とソ連を含む反米統一戦線結成の動きを牽制した。毛沢東の軍事思想に従い、解放軍は断固として人民戦争路線を歩むべし、というのだ。11月、後に四人組の一員として名を馳せる姚文元が「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し文革の導火線に火を点けた。

 翌66年8月、毛沢東と林彪は全国から百万人の紅衛兵を天安門広場に集め気勢を上げ、文革の戦端が開かれたのである。

 1953年生まれの習近平にとっては社会主義教育運動の3年間は、9歳から12歳に当たる。習近平9歳の年、父親の習仲勲は毛沢東の逆鱗に触れ失脚。12歳の年には毛沢東の指示で洛陽鉱山の機械工場へ“島流し”となる。実質的な労働改造処分であった。

15. 中川隆[-13633] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:50:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告


2018年7月12日
歴史的悲劇の裏で進められた「子供たちの洗脳」
児童書で読み解く習近平の頭の中(4)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代後半から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


 1955年の夏以来、共産党政権内部では経済建設の速度と農業の集団化を巡って、毛沢東が率いる冒進(急進)派と、それに異を唱える周恩来、陳雲らの間の対立が続いた。だが、1957年の反右派闘争勝利をバネに毛沢東が周恩来らの異見を圧倒し、1958年5月に開かれた第8回共産党第2回会議で大躍進が正式に採択されることになる。かくて「超英趕美」――鉄鋼生産第2位の英(イギリス)を追い越し、経済超大国の美(アメリカ)に追い着け――のスローガンを掲げ、(1)鉄鋼と農業の大増産、(2)農村における人民公社と公共食堂の建設が全国規模で展開された。

 大躍進政策を推進することで、そう遠くない将来、中国に共産主義社会を出現させるという強い意気込みで始めたものの、毛沢東が描いたバーチャルな世界は中国社会の現実の前に脆くも崩れ去り、惨憺たる結末を迎えざるをえなかった。工業部門の大後退に3年続きの自然災害が追い討ちを掛け、3000万から4000万人が餓死している。この当時、共産党政権は子供たちに何を求めていたのか。

「大躍進の悲劇」はなかったことに……

 大躍進政策決定直前の1958年3月に出版された『民間少年游戯』(顧也文編 上海文化出版社)は、浙江、江蘇、安徽、湖北、雲南、四川などの民間に古くから伝わる60種類の遊びを集め、イラスト入りで遊び方を解説している。一見すると他愛のない児童向けの書籍のようだが、「本書が集めた遊びは全て子供を対象とし、大部分は祖父から父に、父から子に伝わり現在に残されたものであり、日々の生活感が色濃く感じられる。民間に流布する他の遊びと同じように、我が国労働人民の智慧、勇気、誠実、朴訥さを明らかに示し、我が国労働人民の積極性、楽観性、勤倹性、労働に向う心意気という思想感情を伝えている」と書かれた「前言」からは、大躍進直前という時代の雰囲気が十分に伝わって来る。

 はたして当時の子供たちは、鬼ごっこや綱引きをしながら「我が国労働人民」の「思想感情」を学べたのだろうか。

 大躍進政策の悲劇が明らかになりつつあった時期の1961年5月に出版されたのが『游戯官』(林・張・王・楊編 潘晋華画 上海少年児童出版社)である。たとえば「誰と誰が話をしているの?」と題された絵には、糸がこんがらがった糸電話で遊ぶ6人の子供が描かれていて、それぞれの話し相手を探そうというのである。この本からは、政治的意図も思想性も、ましてや大躍進の悲劇など匂わせる記述は一切ない。


子供たちさえ洗脳してしまえば“こっちのモノ”


 毛沢東は「我われには社会主義の経験が不足していた」と反省の素振りも見せないばかりか半ば居直ったまま、権力の頂点から一時身を退いた。大躍進の惨憺たる失敗という危機的状況を打破し「V字回復」を果たした最大の功労者は、毛沢東の後任として国家主席に就いた劉少奇だった。

 であればこそ、『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)が出版された当時は劉少奇が大いに讃えられてしかるべき時代だったはずなのだが、この本には劉少奇への賛辞は一言半句も見られない。得意の“搦め手”による劉少奇追い落とし策――《毛沢東の正しさ》を子供に植え付け、毛沢東を《絶対無謬の神》と思い込ませ、しかるべき政治決戦に備え、虎視眈々と一剣を磨こうとする毛沢東の底意が感じられる。まさに洗脳である。後に文革派がメディア戦略の拠点としていた上海人民出版社からの出版というのも気になるところだ。

 小栄クンはちびっ子だが肝っ玉が据わっている。日本鬼子(ぐん)が駐屯する東港を流れる平洋に飛び込んで、今日も魚獲りだ。水に潜ったかと思えば川面に浮かんでは遊んでいた。ふと岸辺を眺めると、兄の小順たちが手に手に槍を持って玉蜀黍畑の中に消えてゆく。日本兵を偵察しようというのだ。小栄クンは慌てて岸に上がって、小順兄チャンたちを追いかける。

 やっと追いついてしばらく行くと、川の方からジャブン、ポトンと音がする。川辺の葦の間からソッと覗き見ると、日本兵が川に入り測量をしている。どうやら、この川に橋を架けるための準備をしているらしい。この光景を目にした小栄クンは子供心にも、「チクショウ、日本鬼子に橋を架けられたら、おいらたちの村は全滅だ」と直感する。「子供たちの目は日本鬼子に釘付けとなり、目からは復仇の怒りの炎がメラメラと燃え上がった」。

 小栄クンは小順兄チャンの命令を受け、村の民兵隊に報告に行った。相変わらず偵察を怠らない子供たちの目に飛び込んできたのは、メガネの「ちびデブの日本軍隊長」。歩きながら部下を叱り付ける姿は、「まるで生きた凶暴な猪」。すると川上からスイカを満載した小船が下って来た。船にはおじいさんと子供が乗っている。見ると小栄クンだった。「ヤバイよ、ヤバイよ。小栄のヤツ報告に行かずに船の上でさぼって遊んでいやがる」と、仲間の少年たちは気を揉むばかり。

 炎天下である。川の中で測量していた日本兵は喉が渇いたのだろう。小船に近づいてはスイカを勝手に取り上げ、喉をゴクリと鳴らしながら、冷えたスイカをムシャムシャ。その時、ピューン、ピューンという銃声がした。スイカを手に慌てて逃げ惑う日本兵。デブの隊長は船尾でブルブル。そこで小栄クンがデブの腹を目掛けて頭突き一閃。やつは、もんどりうって川の中へ転落だ。

 船上のおじいさんが付け髭を取り外すと、なんと民兵隊長。大声で「生け捕りだ」。一斉に川に飛び込んだ子供たちは、必死に逃げようとする日本兵の足や手を掴んで川の中に引きずりこんで溺れさせる。戦闘はしばらく続いたが、全員が民兵に捕まってしまった。

 静かになった川面をスイカ満載の小船が行く。船上の子供たちはハシャギながらスイカを頬張る。そこに「日本の侵略者を我われ立ち上がった数億の人民の前に引きずり出し、一匹の野牛を火陣の中に追い込むように仕向ける。一斉に声を上げてビックリさせれば、この野牛は焼け死ぬしなかい」と毛沢東の教えが重なり、「毛主席の教えは何とすばらしいことか」と呼び掛けている。

 無邪気であるがゆえに喜々として冷血・残酷にもなりうる子供たちを洗脳し煽り操って反劉少奇の大混乱を起してしまえば、こっちのモノ――この本から、こんな“仕掛け”が感じられるのだが。


子供たちの世界では2年も早く始まっていた「文革」


 『石荘児童団』出版の翌年には、同じく上海人民出版社から同じような書名の『草原児童団』が出版されている。

 舞台が長江下流域の水郷で子供たちが退治した敵は日本軍であった『石荘児童団』とは違い、『草原児童団』の舞台は内蒙古の草原で、子供たちが立ち向かった敵は「地主、富農」であり、彼らと結託して社会を大混乱に陥れ社会主義社会を転覆させ封建社会の復活を目論む土匪である。

 「東の空が紅く輝き、太陽が昇る。毛主席の英明な指導によって草原は解放された。至るところに紅旗が翻り、農民は地主を倒し、農地を分け合い、喜びの気が充ち溢れる。児童団は喜び勇んで地主と富農の監視活動に努める」と書き出される。最初の数行からして、すでに「毛主席の英明な指導」である。こうなったら文革当時の「毛主席、万歳、万歳、万々歳!」までは、もう一歩だろう。いや、子供の世界では大人の世界に2年程先んじて文化大革命が始まっていたとも考えられる。


(Imaginechina/アフロ)

 『草原児童団』の主役は13歳の黒牛クン。彼は村の児童団の団長である。

 ある日、民兵隊の王隊長から「これから土匪討伐に出掛ける。地主や富農が土匪と連絡を取らぬよう注意して監視してくれ。異常があったら鉄柱アニキに報告だ」との命令を受け、黒牛クンは仲間と共に地主の「大花蛇」の屋敷を見張る。それにしても地主が大花蛇で、その妻が「狐狸精(バケモノ)」というのだから、名前を見ただけで子供にも地主は極悪人と判る。“見事な印象操作”というべきか。

 地主の家から外に向かう足跡を発見した黒牛クン率いる児童団は、それを追って草原を突き抜け山に向い、洞窟に隠れる大花蛇を見つけ出し、槍で脅して立ち木に縛り付け尋問を繰り返す。“正義”を手に入れた子供たちが毛沢東によって進められた土地改革に敵対する地主を攻撃・尋問するという構図は、文革において紅衛兵や紅少兵がみせた毛沢東の敵に対する残酷・残忍で血腥い仕打ちを彷彿とさせる。やはり子供の世界は、大人の世界に数年先んじて「革命無罪」「造反有理」が讃えられていたのだ。

 最後は鉄柱アニキと黒牛クンたち児童団が、地主や土匪を縛り上げて村に凱旋するシーンで幕となる。毛沢東思想式予定調和といっておきたい。


毛沢東思想式ハッピー・エンドの物語


 同じく文革開始2年前に出版されたのが『林紅和她的伙伴』(費・林・陳・童子編絵 人民美術出版社 1964年)である。

 この物語の主人公である林紅は、農村の中学校を卒業したばかり。可愛らしく気立てがよく、そのうえ肉体堅固で我慢強い娘さんである。共産党の下部組織の共産主義青年団員で、両親が都市で仕事をしているので本来なら都市で進学できるのに、「農村こそが広大な天地だ。そこでは、なんだってできないことはない」という毛沢東の“有難い教え”を堅く信奉し、農村に留まり、自分から率先して困難な仕事に立ち向かおうと決意したというのだから、これまた文革時に毛沢東が「上山下郷(若者よ、農村で農民に学べ!)」をスローガンに都市の若者を農山村に送り込んだ「下放運動」の先駆けのような若者だ。

 そこで、「農業は国民経済の基礎である。党は我われに大いに農業に励み、力を農業の第一線に注ぐよう呼び掛けている。農業の持続的な躍進を望むだけではなく、工業を大いに振るわせ国民経済全体の持続的躍進を果たし、我が国の社会主義建設をより速く発展させ、より速く社会主義強国を完成させよう」(「内容説明」)と、彼女は獅子奮迅の働きをみせる。目指すは「社会主義強国」である。

 林紅が大活躍する物語は、国を挙げて大躍進政策が展開された1959年秋の早朝。河北省東部の中新人民公社の某生産隊から始まる。

 厚い暗雲に覆われた空からは大粒の雨が稔りの大地に叩きつける。「解放後、人々は政府の指導の下で毎年、堤防の修理を進めてきたが、この雨で水かさが急激に増し、堤防決壊の危険性が高まった」。そこで生産隊の書記を先頭に村人が総出で護岸補強工事に向かう。かくいう林紅も友達に呼び掛けて現場へ急行する。

 彼女は逆巻く怒濤に飛び込んで杭を打ち土嚢を積む。男勝りで八面六臂の大活躍だ。雨も止み、穏やかな日差しに照り映える川面を2隻の大きな船が船着場に接岸した。積まれているのは、政府から林家荘生産隊に送られる食糧や物資だ。村人の顔はほころび、誰もが川岸に飛んでゆく。その中に77歳の老人がいた。彼は政府から贈られた籾を手に、「毛主席、あなた様はワシにまで心を砕いて下さる。あなた様のご指導があらばこそ、ワシらは最期の日まで戦うことができますんじゃ」と、「解放前までのあの苦闘の日々を思い浮かべ、止め処なく感動の涙を流す」のであった。

 傍らに控えるのは、もちろん林紅だ。彼女は、「私は党の呼び掛けに応え、この村で皆さんと一緒に自然災害や食糧危機と戦い、ここに新しい農村を建設することを誓います」と、キッパリと言い切る。もちろん周囲の村人は誰もが感動の拍手であり、称賛の声だ。

 この村は相当に貧しい。過酷な自然環境の改造は焦眉の急だ。消極的な友人を励まし、村人に呼びかけ、彼女は自然改造の戦いの先頭に立つ。書記が「林紅同志よ、任務は極めて困難だが堅く覚悟を決めさえすれば、この荒野を無限の稔りの里に改造することができるんだ」と呼び掛けると、彼女は「そうです。党の指導があり、人民公社があれば、どんな困難があろうとも、我われは戦いに勝利する信念を持つことができるんです」と応える。

 押し寄せる数々の困難を克服し、「林紅と彼女の仲間たちは農業戦線において輝ける勝利を次々に勝ち取り」、「幾千万の林紅は祖国に降り注ぐ春の陽光を浴び、社会主義の新しい農村を建設するため勇猛邁進するのであった」と、林紅の物語は“毛沢東思想式ハッピー・エンド”で結ばれる。

 毛沢東がムリにムリを重ねて強行したことで全国民が塗炭の苦しみを舐めざるを得なかった大躍進が、『林紅和她的伙伴』では大いに讃えられ、人民にとっての理想として描かれている。

毛沢東の悲願を達成しつつある習近平

 『石荘児童団』の小栄クン、『草原児童団』の黒牛クン、それに『林紅和她的伙伴』の林紅さん。どうやら子供や若者の世界では、大人に先駆けて文革――毛沢東の敵に対する戦いの準備に入っていたようだ。

 習近平主席は1953年生まれだから、『石荘児童団』や『草原児童団』が出版された頃は、小栄クンや黒牛クンと同世代になっている。小栄クンや黒牛クンの手に汗握る戦いに心躍らせ、習近平クンは毛沢東の偉大さに強く憧れたに違いない。

 因みに毛沢東の壮大な夢である「超英趕美」の悲願は、GDP第2位の日本を追い越したわけだから、「英」を「日」に換えて考えれば、習近平政権の手で達成されつつあるともいえる。後は一帯一路を掲げてアメリカを猛追するだけだ。全面対決か、双贏(ウイン・ウイン)か、はたまた全面降伏か。であればこそ、米中貿易戦争には断固として負けるわけにはいかないと思うのだが。

16. 中川隆[-13632] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:53:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告

2018年6月21日
習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?
児童書で読み解く習近平の頭の中(3)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178



習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。

 毛沢東が党や国家を超越した絶対的権力を掌握するキッカケとなった反右派闘争が発動された2カ月後の1957年8月に出版された『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)に収められた一編の詩は、子供たちに「毛主席」にどのように報いるべきかを教える。そこに、文革時代に言い古された「海よりも深く、山よりも高い毛主席の御恩」の萌芽を読み取ることができる。

 この時代から文化大革命の終わる70年代後半まで――建国直後に生まれた習近平世代からすれば乳幼児から児童・少年期を経て青年前期までの人間形成期全般にわたって――毛沢東は「偉大的領袖毛主席」であり、毛沢東思想は「百戦百勝」と形容され絶対無謬であることを徹底して刷り込まれたのだ。

 ここで毛沢東の権威が確立させる前後の冷戦時代における中国を巡る内外状況――といっても主には中ソ関係だが――を簡単に振り返っておきたい。というのも、この時代にソ連の進んだ科学技術、物資豊かな日常生活を紹介する子供向けの書物が翻訳出版されているからだ。


中国で1950年代に出版された児童書(写真:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178

頂点に立つ「ソ連に学べ」

 1953年3月にスターリンが死去し、1956年2月にはフルシチョフによるスターリン批判報告が秘密裏に行われ、東ヨーロッパでは反共産党暴動が6月のポーランド、10月のハンガリーと連続して発生する。一方、1950年6月に勃発した朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定調印となり、1954年9月に開始された人民義勇軍の撤退は1958年10月で完了した。

 毛沢東が東側社会主義陣営の優位を高らかに宣言した「東風が西風を圧する」と題する演説がモスクワで行われたのが1957年11月である。毛沢東のフルシチョフに対する不信感・優越感は芽生えていただろうが、ともあれ“中ソ一枚岩の団結”が内外に強く印象づけられていた時代である。

 一方、中国国内に目を転ずると、1956年5月に毛沢東は「百花斉放 百家争鳴」を掲げ言論の自由化を提唱し、年末までに農村では高級農業合作社化、都市では私営企業の国有・国営化が完了し、社会主義への道を一歩踏み出し、9月には中国共産党第8次全国代表大会が開かれている。

 大会冒頭で毛沢東は「同志諸君、いま中国共産党第8次全国代表大会が開幕した」と宣言した後、活字に起こして2万7千字ほどになる基調演説を行った。彼の口調を真似てゆっくりと読んでみると所要時間は12,3分といったところだが、この間、「(拍手)」が13ヶ所、「(熱烈拍手)」が14ヶ所、「(長時間熱烈拍手)」が2ヶ所、「(全員起立し長時間熱烈拍手)」が3ヶ所ほど。

 一例を挙げれば、「いま我が党は過去の如何なる時期より団結している(拍手)」「国際社会における我われの勝利はソ連を頂点とする平和民主社会主義陣営の支持に依拠している(熱烈拍手)」「帝国主義が造りだす緊迫した情勢と戦争準備の陰謀を徹底して破産させなければならない(長時間熱烈拍手)」「今日、この場に出席している50数カ国の共産党、労働者党、労働党、人民革命党の代表に〔中略〕熱烈なる歓迎の意を表す(全員起立し長時間熱烈拍手)」といった具合だ。

 これを要するにソ連は、「国際社会における我われの勝利」を支持する「平和民主社会主義陣営」の「頂点」に在ったわけだ。まさにソ連に学べ、である。


「邪悪な勢力」から身を守るには?


 そんな時代に『一晝夜二十四小時』(楊瑞槐訳 上海衛生出版社)が出版されている。この本は「1937年、7月のある爽やかな一日、モスクワは異常なまでの心躍る気分に包まれていた」と書き出される。


スターリン像(iStock.com/alf75)

 その日、モスクワ発北極圏経由でアメリカまでの航路120,000キロを63時間25分で無着陸飛行に成功した3人の飛行士を、モスクワの街は挙げて大歓迎した。黄昏が迫る午後6時、3人を乗せたソ連製最高級車は天をも揺るがすような歓呼に包まれた赤の広場を疾駆する。クレムリンで待ち構えていたのは、もちろん党と政府の最高幹部を従えたヨシフ・スターリン。独裁者は、3人の手を固く握り熱い抱擁を交わした。

 まさにスターリン賛歌と見紛うような情景が綴られているが、この本の狙いはそこだけにあるわけではないようだ。ソ連の高い科学技術は当然のことながら、スターリン理論に支えられた「パブロフの高級神経活動学説」(?)に基づく規則正しい生活によって鍛えられた飛行士の心・技・体こそが、祖国に無上の栄光をもたらした。だから、我われ中国の子どもたちも規則正しい生活を送るべきだと、力強く呼び掛ける。

 「我われ社会主義国家は一貫して平和を渇望し平和を築く事業をしっかりと守ってきた。だが資本主義の世界には、なんとしてでも戦争を引き起こそうと虎視眈々と狙っている邪悪な勢力があることを断固として忘れてはならない。それゆえ、戦争の危機が消え去ることなどない。ソ連の青年は祖国を自らが防衛するという光栄ある責任を全うするための準備を完璧にしておくべきだ。先の偉大なる大祖国防衛戦争における経験が、優秀なるスポーツマンが優れた戦士であることを明らかにしてくれた」。「戦場では、より遠くまで跳躍し、より高く飛び、どのような障害も飛越し、長い距離を速く走るなどの能力が求められる」。

 言い換えるなら、ソ連の社会主義は優れているし平和を守ってきた。だが、劣った資本主義の世界が戦争を仕掛け、平和が侵される可能性は常に存在する。だからこそ社会主義の祖国を守るためには24時間を規則正しく送り、自らを鍛錬し健康を守らなければならない。「生活制度――凡ての疾病から身を守る最も基本的であると同時に主要な手段――は任務遂行の上での基盤であり、組織性を涵養するだけでなく、社会秩序の基礎である」。

 たとえば中学生の日課は、起床=7:00〜7:15、体操・身体摩擦・洗面・身の回りの整頓=7:15〜7:45、朝食=7:45〜8:00、登校=8:00〜8:20、学習(教室及び社会)=8:20〜14:30、下校=14:30〜15:00、昼食=15:00〜15:30、戸外での遊び=15:30〜17:00、予習=17:00〜20:00、夕食と自由時間=20:00〜21:00、就寝準備=21:30〜22:00、睡眠=22:00〜7:00

 このような規律正しいソ連式24時間生活を送ることで「党と政府が常に示す無限の恩愛に愧じることなき人生」を送るよう、当時の「党と政府」は子供たちに求めたというわけだ。

「月旅行」に「原発」、ソ連の科学技術を絶賛する児童書


 同じ1956年には『少年兒童讀物 到月亮上去(月に行く)』(魯克編著 山東人民出版社)が出版されている。

 ある日、主人公の小飛馬クンが共産党が少年教育のために設けた少年宮での天体クラブの活動を終え帰宅すると、妹が「兄ちゃん、電報」と。モスクワのソ連科学院で研究を続ける父親からの電報だった。

 「小飛馬クン、元気かい。/父さんは元気でソ連科学院で順調に研究活動に励んでいると母さんに伝えてくれ。/とってもいい知らせがあるんだ。ソ連のオジサンたちは月旅行の準備を完了し、もうすぐ出発だ。そこでソ連科学院と相談したら、お前を一緒に連れて行ってくれるというのだ。天文学が好きで、将来は天文学者になるつもりだったね。いいかい、人類が最初に地球を離れ別の星に行くのだ!/我々は地球の主人であるだけではなく、宇宙の主人になるんだ!一生懸命に頑張るんだよ!小飛馬クン/電報を受け取ったら、すぐにやってきなさい。モスクワで待っている/父より」

 小飛馬から事情を知らされた母親は、「よかったね。早くお休み。明日、航空券を買って来るから」。

 モスクワに着いた小飛馬は、月に向け今にも飛び立たんとする「月球一号」と名づけられたロケットに乗り込む。原子燃料エンジンが轟音をあげるや、月球一号は地上を離れ宇宙空間を飛んで月へ。月面探査の状況を綴りながら、月の持つ様々な謎を解き明かしながら物語は進む。

 やがて月面を離れ地球へ。小飛馬はロシア人の歓呼に迎えられ抱きかかえられるようにして父親の許へ。「なぜ、人々は喜び昂るのか。小飛馬たちが人類最初の月旅行という重大な任務を完了したからである」。

 この物語が、ここで終わる訳はない。月旅行は幻想ではなく科学的根拠に基づいていると解説した後、ソ連科学者の「月旅行は完全に可能である。ただ時間の問題だけだ」との言葉を紹介する。さらにソ連の科学技術の高さを紹介して、「ソ連では最近、世界初の原子力発電所を建設した。発電能力は石炭の350万倍であり、将来的には船舶に利用すれば燃料補給なく数ヶ月の航海が、航空機では地球一周飛行も可能だ。ソ連の科学者は1957年から58年の間に人工衛星を打ち上げる。将来的には月はおろか、火星、金星などの惑星へ行こう」と、ソ連の科学技術賛歌で終わっている。

習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?

 1957年にはソ連の最新細菌学の成果を紹介する『奇異的眼鏡(奇妙なメガネ)』少年兒童出版社 彭中仁訳)、最先端の科学技術にサスペンスを加味した『第二顆心臓(第2の心臓)』科学普及出版社 李敏訳)などが出版された。

 「科学幻想小説訳叢」と題された後者は、電離層を経由して中国に送電する任務を負ったソ連の科学者が最初に試みた実験は某国のスパイに妨害されただけでなく、心臓を銃弾で射抜かれてしまう。そこで登場するのがソ連の革新的医療技術であり、新しい心臓の移植に成功するというストーリーだ。

 おそらく当時の子供たちは、ソ連の科学技術の素晴らしさに憧れたに違いない。想像を逞しくするなら、習近平少年もまた小飛馬に自らを重ねながら「中国の夢」を思い描いていたかも知れない。

 この時、すでに中ソ両国の共産党は、スターリン評価と議会主義国家建設への方法を巡って抜き差しならぬ対立へと向かっていた。もちろん、その影響は徐々ながら子供たちの身の上にも及ぶことになる。

17. 中川隆[-13631] koaQ7Jey 2018年9月04日 07:56:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告

2018年6月6日
中国の権力者たちの「悪癖」は直りそうもない
児童書で読み解く習近平の頭の中(2)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)



習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代に出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034

汚い場所には「妖精」がいる?

 先ず習近平国家主席が誕生し(1953年6月)、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ(7月)た1953年の11月に出版された『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)を取り上げたい。

 「私がこの科学機器展示館にやってきて、もう数日が過ぎた」で書き出される『顕微鏡的日記』は、顕微鏡である「私」が書いた日記を通じ子供たちに公衆衛生の大切さを判り易く教える。


『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034

 「ポチャポチャっと太って可愛らしい珍珍チャン」は展示館の学芸員のお嬢チャン。イラストでは髪の毛は西洋人風にタップリとウエーブが掛かっていて、目元パッチリで可愛らしいワンピース。ついでにいうなら、珍珍チャンの同級生の男子児童もボッチャン刈り。ストライプの入ったスポーツシャツに短い半ズボン。足元をみれば、ハイソックスにスニーカー。豊かな西欧世界への淡い憧れが見て取れ、なんとも微笑ましい。とてもじゃないが、当時の中国ではお目にかかれそうにないほどにモダンだが、おそらく高級幹部の公子(おぼっちゃまクン)である習近平チャンは、こんな服装をしていたに違いない。

 珍珍チャンは毎週土曜日午後、展示館にやって来て「これ、なあに」「あれ、なあに」と展示されている最新科学機器について館員に質問する。今日は「私」を指して、「これ、なあに」。すると若い館員が「これは照妖鏡だよ」と応える。目を真ん丸くした彼女は、「照妖鏡って、前にお話ししてくれた照妖鏡なの」。「そうだよ。照妖鏡さえあったら、どんな妖精だって姿を現すんだ」。

 「妖精なんかいない」と言い張る珍珍チャンに対し館員は、「いいかい、空気の中にだって妖精はいるよ。キミが食べる果物の皮にも、沸騰させてない生水の中にも妖精は必ずいるんだ。それにゴミ箱、排水溝、ハエの足〔中略〕汚い場所には汚い場所だけ妖精はたくさんいるんだ」と付け加える。

 以下、妖精とは人体に害を及ぼす病原菌のことであり、照妖鏡と呼ぶ顕微鏡を使って病原菌を見つけ公衆衛生を確立することが国造りに繋がっていることを教え諭す。ジフテリア、天然痘、コレラ、下痢などについて判り易く解説しているから、これらの病気が当時の国民病だったことが想像できる。

 本書には病気対策のための歌が納められている。建国当初の社会状況を知るうえで興味深く思えるので、そのうちの下痢と伝染病対策の歌を紹介しておく。

下痢=「下痢の予防だ、下痢予防。最初はハエを退治して。布巾で食べ物よく拭いて。箸や茶碗はキレイに洗う。食事の前には石鹸手洗い。下痢の細菌、人殺し。まだまだいるよ下痢の菌。果物、野菜、生水に。下痢の細菌、数知れず。野菜はしっかり火を通す。生水、ちゃんと煮立たせて。果物、消毒しましょうね」

伝染病=「伝染病をみつけたら、患者を早く病院へ。伝染させてはイケマセン。服や道具の病菌を、直ぐにも消毒しましょうね。馬桶、川に流さない。病菌を、川に撒いてはダメですよ。病原菌を消毒し、丈夫な体で生産競争頑張ろう」

 この歌に依る限り、当時の生活ぶりは不衛生極まりなく、下痢は一種の国民病だったと考えられる。馬桶とは家の中に置く排便・排尿用の桶である。毎朝の日課は馬桶に溜まった家族の糞尿を川に捨てることだった。当時、一般には個人住宅には便所がなかった。


卑屈なまでのゴマすり、中ソ蜜月時代の珍風景


 「砂と土は、地上で最も多く、最も簡単に手に入れることのできるものです。だが、キミたちは、その用途が大きくないなどと思わないで下さい。いいですか。それがなければ、ボクたちは1日だって生きていられません。わが祖国の建設事業において、とっても重要な役割を果たしています。将来、もっともっと科学が発達したら、砂と土の用途はますます拡大します。チッポケですが、この本は、キミたちに砂と土についての色々な知識を伝えようとするものです」と書き出される『少年兒童知識叢書 沙和泥(砂とドロ)』(李家治 少年児童出版社)が出版された1955年には、チベット動乱が勃発している。因みに我が国では左右両派の社会党の再統一に刺激された保守が大合同し自民党が生まれ、「55年体制」が発足した。

 数万年、あるいは数十万年もかかって岩石は砂や泥に、砂や泥は岩石に変化する。砂と泥は兄弟の関係であり、粒子の大きい砂が兄で、細かいのが弟の土、そして兄弟の母親は大きな岩石であると、砂と土と岩石の関係を家族に擬え判り易く説明した後、「土を使って陶器を作ったのは中国人の偉大な発明です。我われ中国人は、すでに4、5千年の昔に美しい彩陶器を作り出したのです」と、中華文明の偉大さを説く。

 改めて表紙のイラストを見ると、稼働中の建設用クレーンが数基と、いままさに建設中の近代都市が描かれている。その街のビルは、どれもが旧ソ連式の無骨なスタイルで、当時の中国が建設技術の多くをソ連に頼っていた、あるいはソ連をモデルとした都市建設がブームだったことを明らかに示している。

 全ページを通じて中国への言及は極めて抑制的であり、反対に随所にソ連に対する“忖度”が感じられる。石綿を発明したのはソ連であり、「セメントが発明される以前では、上海の中ソ友好ビルや国際飯店のような背の高いビルの建設は、はっきりいって不可能だった」。板で型を組み、工場でいろいろな形のセメント版を造り、出来上がった製品を現場に運んで組み立てれば、たちどころに1棟、2棟と建物が完成する。この「ソ連の先進的経験」を学び、我が国でも続々と新しい工場を建設している。「すでにソ連の科学者は様々な色彩のセメントを発明しました。このカラー・セメントで作られた住宅は、まるで空中に輝く虹のようであり、本当に綺麗なものです」。

 ソ連への卑屈なまでのゴマすりを、子供にまで覚えさせよう――スターリンの死(1953年)とソ連でのスターリン批判(56年)の間の、中ソ蜜月時代の珍風景だろう。


諫めても戒めても「悪癖」は直りそうもない


 同じく1955年に出版された『五個杏子(5個のアンズ)』(寇徳璋 少年児童出版社)は、人民に服務することと正直の大切さを教えようとしている。

 ある夏の夕暮時、半袖の開襟シャツに半ズボンの王徳生クンが、淡い水色のワンピースに真っ白な前掛けをした妹の手を引いて学校に向かって息を切らせて走っている。王クンの頭は坊ちゃん刈りで妹の頭には長く延びた2本のおさげ。2人共、こざっぱりしたソックスにスニーカー。つつましやかな家庭で、規則正しく伸び伸びと育てられている風情だ。

 学校から帰り近所の友達と遊んでいて、王クンは宿題を思い出した。そこで慌てて家に引き返し宿題をはじめようとしたが、筆箱がないことに気づいた。「しまった。学校に忘れたんだ」。兄が家を飛び出すと、そこに妹が。学校に行くといっても、おやつでも買いに行くんだろうと信用しない妹は、兄についてきた。校門が閉まる前に学校に着かねばと焦る兄は妹の手を引っ張る。懸命に走ったことで、妹は喉が渇いた。そこに「酸っぱくて甘い杏だよ」と物売りの声。

 「兄ちゃん、杏の菓子を買ってよ」

 妹思いの王クンはポケットに手を突っ込むが、「しまった、おカネは鞄の中だ」。しゃがみ込んで駄々をこねる妹を、「家に帰ったら買ってやるから」となだめて一目散に学校へ。

 教室に飛び込みまっすぐ自分の机に。あった、筆箱があった。筆箱を手に校庭に飛び出すと妹がいない。妹は校庭の隅の杏の木の下にいた。

 「兄ちゃん、あれ取って。わたし喉が渇いちゃったの。食べたい、食べたい」

 それは生徒全員で育てている杏の木だった。みんなのもの、つまり公共財産だ。「妹のためとはいえ、それを取ることは公財私用の罪だ。ボクは地主や資本家のように利己主義者にはなれない」と王クンは煩悶するが、幸いなことに誰も見ていない。そこで5個の杏を取って妹に。喜ぶ妹。些か大袈裟だが、悩みは深い王クンだった。

 翌日の休み時間。みんなで校庭でサッカーだ。王クンはゴールキーパー。杏の木の下に置かれたゴールを守りながら、杏の実が気になって仕方がない。友達が「おい、王クン。何かあったの。杏の木ばっかり眺めているけど」「別に……」

 教室に戻ると先生が、「みんなが水をやったり、害虫を駆除したりして一生懸命に育てたから、今年は豊作で240個も杏を収穫することができました。このクラスの生徒は40人ですから、1人何個になりますか」。すかさず「240÷40=6だから、1人6個」の声。

 先生が6個ずつ渡そうとすると、王クンが前に進み出て先生の横に立ち、級友に向かって昨日のことを包み隠さず正直に話した。すると、

 「自分の利己心じゃなくて妹のことを思えばこそだ。王クンは悪くないよ」

 「違うよ。妹にも話して判らせるべきだった。『公共財産』を私的に取っちゃあダメだよ」

 最後に先生が、「妹のためといいますが、やはり王クンには公共財産を守るという自覚が欠けていました。妹に教える努力を怠りました。こういった点はよくありません。ですが王クンには素晴しい点があります。それは自分の間違いを正直に話し、それを認め、自分から改めようとすることです。これこそ立派な心掛けです。王クンが犯した過ちを認めたこと。正しくありませんか」。すると教室は「そうだ、そうだ」の大合唱に包まれる。

 このように子供の頃から公共財産の私的流用は不正であることを厳しく教えたはずだが、「虎もハエも一網打尽」の大号令で習近平政権が始めた不正摘発によって暴かれた幹部たちの不正蓄財の額――最多は胡錦濤政権(2002年~12年)で最高権力集団のチャイナ・ナイン(共産党中央政治局常務委員)の一角を占めた周永康の1兆数千億円という天文学的規模――を考えると、どうやら『五個杏子』の教育効果は当初の期待ほどではなかったわけだ。諫めても戒めても公財私用(=公の財産を私する)という悪癖は直りそうにない。ならば、それは子々孫々と受け継がれる民族のDNAとしか考えられないのだが。


幼少期から「政治的役割」を与えられた世代


 1957年6月には反右派闘争が始まり、7月には『従石頭到紙(石から紙へ)』(李懋学 少年児童出版社)が、翌8月には『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(学前児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)が出版されている。

 それから3カ月が過ぎ1957年11月、社会主義12カ国会議参加のためにモスクワに乗り込んだ毛沢東は中国人留学生を前に、「東風圧倒西風(東風が西風を圧倒する)」と傲然と語りかけた。いまや東側社会主義陣営が西側資本主義・帝国主義陣営を圧倒しているというのが一般的な解釈だが、翌58年の動きを振り返ると、この考えは変わるはず。58年5月には大躍進運動がはじまり、7月に北京を訪問したフルシチョフによる中ソ共同艦隊建設提案を毛沢東が拒否し、8月には人民公社建設と鉄鋼大増産を軸とする大躍進の大号令が下され、人民解放軍が台湾の“解放”を狙って金門・馬祖島へ砲撃をはじめた。

 つまり、「東風」は毛沢東であり中国、「西風」はフルシチョフでありソ連・東欧社会主義陣営と看做すほうが、当時の毛沢東の意気軒昂たる心境を言い当てているだろう。

 『従石頭到紙』は、「小さな友人諸君、キミたちは知っておくといいよ。古代人はどのようにして字を書いたのか。どんなもので書いたのか。何処に書いたのか、を。するとキミたちは、きっとこういうだろう。『誰にそんな知恵があったの。気が遠くなるような昔のことなど、ボクたちに伝えることができるの?』って」と書き出される。

 中国人の地質学者や考古学者が歴史以前の世界を“旅行”し、様々な地層の内部まで出かけて行ったり、人類の祖先の住まいを訪問し彼らの当時の生活ぶりを研究した結果、遥かに昔の原始人は岩山の洞窟に住んで狩猟や木の実などを採って生活していたことが判った。石を細工して武器など作って狩猟したが、絵も描いていた――こんな説明文の後に、「そんなことがあったの。原始人は絵を描けたの」と子供口調で素朴な疑問を示し、それに「そうなんだよ。文字のお母さんこそが絵なんだ。最初、原始人は字を書くことを知らなかったというわけさ。その頃は、字なんてなかったんだよ。だけど絵は描けたんだ」と優しく噛み砕いて教えている。

 「毛筆も鉛筆も、紙もなかったんでしょう。どうしたら絵が描けたの」

 「だからさあ、磨いた石や骨が彼らにとっての筆記用具だったんだ」

 「じゃあ、紙は」

 「彼らが住んだ洞窟の大きな石の壁さ。それから平らな石の表面や獣の骨・・・こういったものが彼らにとっての“図画用紙”だったんだな」

 かくして竹簡、木簡にはじまり、優秀な中華民族が世界で最初に紙を発明し、紙は用途を拡げたと説明し、「人々の知恵と労働が色んな種類の紙を生みだしたんだ。だから、ボクらは紙を無駄にすることなく、丁寧に扱おうね」と結んだ。

 中華民族の優秀さが語られると同時に、「小さな友人諸君」の脳髄にも政治の影、つまりは毛主席の存在が刷り込まれるようになる。そこで『美麗的樹葉』の表紙を開いてみたい。花の咲く草むらに坐る袖なしシャツに半ズボンの男の子と白いブラウスに赤いジャンパースカートの女の子。どちらも丸々と太っている。2人は胸に大きなリンゴを抱きながら、上空を飛ぶ小鳥に呼び掛ける。


(画像:筆者提供)

 「小鳥サンが飛ぶ、小鳥サンが飛ぶ/小鳥サンは何処まで飛ぶの/どうかこっちに飛んできて/お願いがあるんです/母さんがくれた大きなリンゴ/お願い、毛主席に届けてね」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034?page=4

 いよいよ子供たちの目の前に、《偉大な毛主席》が立ち現われるのであった。

 『従石頭到紙』と『美麗的樹葉』の出版翌年の1958年、大悲劇の大躍進が始まり、中国は国を挙げた長く重苦しく激しい政治闘争の時代に突入し、子供が子供であることができた幸せで長閑な時代は終わりを告げ、“小さな大人”として立派な政治的役割を与えられ、政治闘争の前面に躍り出るのであった。そんな子供たちこそ、現在の中国を動かす中核世代――最高権力を掌握するチャイナ・セブンから全国各地の党と軍の幹部、国有企業と私企業の経営幹部、大学学長など――であることを忘れてはならないだろう。

18. 中川隆[-13630] koaQ7Jey 2018年9月04日 08:00:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18214] 報告

中国はいかにして「地獄の門」を開けるに至ったか
児童書で読み解く習近平の頭の中(6)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13723



習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


 1963年当初から毛沢東最側近の2人――夫人の江青と「中国のベリア」と呼ばれた康生――は上海を拠点に京劇を軸とする文芸部門において、政権を掌握している劉少奇に対する攻撃を画策していた。

 この動きは1964、65年と年を追うごとに激しさを増す。『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)、『草原児童団』(上海出版社 1964年)、『草原児童団』(上海人民出版社 1964年)、『雪山上的号手』(上海人民出版社 1965年)と、これまで見てきた児童書からも、その動きは傍証できるだろう。加えて1965年11月には、毛沢東思想に殉じた若き人民解放軍兵士の王杰を讃える『王杰日記』(人民出版社)が出版されている。

『王杰日記』には、「毛主席の著作を読むことは革命戦士としての第一の任務である」「革命の同志は団結しなければならない」「毛主席が話されたことは、なんでも実行するぞ」「断固として階級闘争を忘れるな」「革命の徹底が理想であり、革命の事業こそが前途であり、人民に尽くすことが幸福である」など、文革時に全国を覆ったスローガンそのもののような記述が溢れている。まさに、文革へ向けての準備は着々と進められていたはずだが、劉少奇側に危機感は感じられない。その象徴が1965年11月に出版された『新的“石器時代”』(陳仁 中国青年出版社)だろう。


毛沢東に対する揶揄が感じられる一冊


「新型硅酸塩材料的世界」という副題が示しているように、この本は、無限の可能性を秘めた新素材と大いに期待されていた硅酸塩(silicate)と人類の関わりを石器時代から説き起こし、やがて人類の輝く未来を約束する万能の科学素材であることを語る科学ドキュメンタリーであり、空想科学物語でもある。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)

「古代の労働人民は絶え間ない実践の末に」、「湿った粘土を捏ねて器のようなものを作り火に放り込んで焼くと、冷めた後に石と同じ程度に固くなることに気づいた」。そこで「我われ人類は銅や鉄といった金属材料を発明して後、(腐りも錆びもしない)石器に似た素材の陶器とガラスを産み出す」と書き出される。

 ここで不思議に思えるのが、「古代の労働人民」という表現だ。おそらく文革期なら「古代の労働人民」ではなく「古代の奴隷労働者」としていたに違いない。なにがなんでも古代は奴隷制であり、ましてや技術の進歩を担ったのは奴隷でなければならないという硬直した文革史観からすれば、「古代の労働人民」が「陶器とガラスを創造した」などという曖昧な表現は人類の進歩に尽くした奴隷の働きを否定するものであり、断固として認められないものだったはずだろう。

 その後、人類は誰もが知っている硅酸塩の家系の始祖である玻璃(ガラス)」に様々な工夫を加え、鉄より固く超高温にも耐えられるガラス、光線を遮断するガラス、レーダー波を透すガラス、さらには繊維のように細いガラス、鋼より固いガラス、ダイオード、電子計算機の「脳細胞」などを次々に発明する。セラミックの発明によってジェット機やロケットの燃焼機関の性能は飛躍的に向上し、「特殊玻璃鋼」で作られた先端部分を取り付けることで大陸間弾道弾の弱点が克服され兵器としての性能・威力が格段に増した。原子炉内部に新型の硅酸塩素材を使うことで超高温環境での核反応コントロールが可能となり、有限の化石燃料に頼らなくてもいい夢の発電システムが約束された。やがては「ラジオは繭玉ほどに、電子計算機はたばこの箱程度の大きさになるだろう――夢物語は続く。

「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」である。「失敗を恐れずに敢えて挑戦する革命精神を発揮して、多種多様な用途を秘めた新型硅酸塩素材を創造し、古くから知られた硅酸塩を進歩する新しい時代に生かしていこう」と締め括られているが、「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」などの表現からは、大躍進の失敗を回復させた劉少奇路線に不快感を隠さない毛沢東に対する揶揄が感じられないわけでもない。

劉少奇派の無防備ぶりが感じられる一冊


 1966年に入ると、林彪と江青を軸に文革派は一気に動き出す。1月後半には、林彪が率いる解放軍は全軍政治工作会議を開き、毛沢東思想教育を重点的に進めることを全軍に訓令する。2月2日から20日までの間、林彪の要請を受けた形で江青は上海で「部隊文芸工作会議」を開催し、文芸部門による解放軍の政治教育の徹底化を進める。20日には「文革のイデオローグ」でもあった張春橋によって文芸部門での劉少奇路線に対する徹底批判を暗示する文書が公表された。

 解放軍における劉少奇派の象徴と目された羅瑞卿への批判が激しさを増し始めた1966年3月、「少年自然科学叢書」と銘打たれた『煤的故事』(朱志尭編著 少年児童出版社)が出版された。この本には文革時代の出版物に溢れた過剰なまでの毛沢東への賛仰が見られない代わりに、共産主義に対する素朴で明るく、根拠なき希望が溢れている。

 この本は「工業のコメ」であり、「ありとあらゆる工業製品の原料」であり、「鋼鉄を精錬し、汽車を動かし、電力を起こし、日常生活において暖房・炊飯をなす」だけでなく、「加工処理を経て、ガソリン、プラスチック、合成繊維、化学肥料、農薬などの数多の種類の工業原料や化学産品」となるだけに「黒い宝石」と呼ばれている石炭について、その生成から発見、使用の歴史、さらには採鉱の歩みを判り易く解説しているが、小学校高学年から中学生程度に理解させ、科学少年を育成しようとの狙いが感じられもする。

 数十億年の昔から現在までの石炭という鉱物の歩みと人類と石炭のかかわりの歴史を語りつつ話を進めるが、1949年10月1日に「偉大なる中華人民共和国」が誕生したことで、「人間の地獄、悪魔の天国」「死人の倉庫」と呼ばれていた旧中国の炭鉱は一変したと熱く語る。「炭鉱は人民のものとなり、かつて圧迫され搾取されていた炭鉱夫は鉱山の主人公となった」のである。

ここで興味深いのが共産主義的SFの世界を語る「未来への展望」の章だろう。

――ロケットは空中を突き進むだけでなく地中をも疾駆し、探索し、地下に眠る「黒い宝石」を余すところなく僕らの目の前に示してくれる。そこで僕らは、手助けしてくれる多くの友達に手助けを依頼しなければならない。機械という友達はもちろんだが、じつは凄い能力を持つ物理化学という友達もいるのだ。こいつは、どんな機械よりもスイスイと地中を軽快に動き回り、効率も高い。僕らが目にすることのできない電磁波や超音波という友達が地中深く探って、埋蔵されている石炭の様子を知らせてくれる。

そこで僕らは直ちに「万能溶解剤」を地中深く流し込み、溶剤の力で石炭を液化させ、地上に吸い上げる。液化した石炭を地上に設けた「総合利用工場」に送り、複雑な化学処理と加工をすれば、工場から出荷される時には色々な人造繊維、衣料や食品に代わっている――

 なんとも荒唐無稽でステキな夢物語だが、ここからがさらに凄まじい。

「これこそ一枚の、美しくも麗しい風景ではないか。こういう世界を一日も早く実現させ、人類が生み出した労働の成果を真に人民のモノとするためには、断固として搾取者を消滅させなければならないのだ。地主・資本家を打倒し、人類にとっての最高の理想である共産主義に向かって進もうではないか」

 この本には政治主義一辺倒の記述も、毛沢東思想式の杜撰で身勝手な歴史観も、ましてや文革に見られたド派手な血腥さも感じられない。進歩する科学技術への素朴な期待と信仰が行間に溢れるばかりだ。文革に向け戦いの準備を進める毛沢東ら文革派とはあまりにも対照的に過ぎる内容だけに、やはり劉少奇派の無防備ぶりが感じられて仕方がない。


紅衛兵の若者の心を捉えた“金言”


『《少年英雄故事》叢書 林森火』(中国少年児童出版社)は、『新的“石器時代”』や『煤的故事』が万能の科学技術を誰もが享受できる共産主義社会の明るい未来を熱っぽく語っているのとは対照的な、暗く辛かった蔣介石政権時代の物語である。

『煤的故事』の出版が1966年3月で『《少年英雄故事》叢書 林森火』は5月。この僅か2ヶ月の間に政治状況は激変する。毛沢東が政治の前面に躍り出て、劉少奇追い落としを匂わせる動きを見せ始めた。

 3月中旬、毛沢東は共産党政治局拡大会議において文化大革命の発動を提言し、これを承けた形で林彪は解放軍を挙って文芸部門における文革を宣言した。いわば文革派が態勢を整えつつあるにもかかわらず、劉少奇は王光美夫人を伴ってパキスタン、アフガニスタン、ビルマを断続的に訪問する(3月26日から4月19日)。劉少奇の北京不在を見透かしたかのように、毛沢東、林彪、陳伯達、康生、江青、王力、張春橋ら文革中核メンバーが連携を強め、党と解放軍における劉少奇派炙り出しに動きだす。いわば劉少奇打倒への狼煙をあげたわけだ。

 北京中枢で進んでいたこのような政治状況を考えるなら、やはり『《少年英雄故事》叢書 林森火』は毛沢東ら文革派が子供を“大人の政治”の世界に引きずり込もうとする道具と見做して間違いないだろう。

『《少年英雄故事》叢書 林森火』の舞台は1946年に始まった国共内戦である。

 浙江省玉環県に生まれた12歳の林森火は、「旧社会」で苦難の日々を送った。父親の僅かな収入では一家を満足には養えない。2人の兄のうちの1人は2歳で餓死し、1人は医者に払うカネも無いままに生後10ヶ月ほどで病死している。たった1人の姉は11歳で奴隷に買われ、数年後には苦労のなかで死んでいる。

 蔣介石ら封建反動勢力の実態を教える小学校の先生に導かれ、彼は共産党支援のために組織された「地下児童団」に参加し、「毛主席万歳」「中国共産党万歳」などのスローガンを街に貼ったり、共産党ゲリラのための伝令・情報員を務める。1950年11月20日、16歳になった林森火は司令官の退去命令に逆らい「怖くはない、この戦場で敵を殲滅するんです」と決意し戦場に赴くが、敵の砲弾の犠牲となってしまう。

 先生が林森火少年に語りかけた言葉――革命とは生きるか死ぬかの階級闘争だ。そこには数多くの危険がある。様々な危険を克服し、死を恐れず、敢えて革命の犠牲者たれ――こそ、文革において紅衛兵を名乗る多くの若者の心を捉えて離さなかった“金言”だった。かくて青少年は毛沢東の手の平で踊りだし、毛沢東の敵を求めて“躍動”することになる。

若者を“純粋過激なサイボーグ”に育て上げた教材


 1966年8月に出版されている『一心為公的硬骨頭戦士』(中国青年出版社)の表紙には、銃を背負い、右肩に鶴嘴を担ぎ、『毛沢東選集 第四巻』を左手で胸に大事そうに抱え込む目鼻立ちのはっきりした若者が描かれている。若き鉄道兵士の張春玉だ。背景には鬱蒼と茂る森林が描かれ、その向こうに昇る大きく真っ赤な旭日――もちろん真っ赤な太陽は毛沢東を指し示している。表紙イラストこそ、この本のすべてを物語っているといえるだろう。『一心為公的硬骨頭戦士』『一心為公的硬骨頭戦士』は、張春玉の日記の一部と『人民日報』『解放軍報』など文革派の宣伝メディアに掲載された彼を華々しく讃える数編の論文で構成されている。

 まるで“お約束”ででもあったかのように、彼もまた「貧困家庭出身」だ。「張春玉同志は毛沢東思想に育まれながら、労働に、任務に、階級闘争において艱難辛苦のかなで成長し、強靭なる共産主義戦士に成長した」。「彼は生死の間を彷徨う苦しい経験、さらには重傷を負う闘争を繰り返すなかで、階級闘争における鋼鉄の戦士に鍛え上げられていった」。かくて、「毛主席の階級闘争学説は、張春玉同志に階級闘争を永遠に忘れてはならないことを教えた」のである。

 それゆえに張は日記に、「毛主席は『社会主義制度の建設は、我われのために理想郷に到る道を切り開いてくれるのだ。だが理想郷の実現はひとえに我らの真摯な労働にかかっているのだ』と教えている。そうだ。毛沢東の時代に生きていることは幸福であり、なんにもまして誇り高いことなのだ。だが、幸福への道の上でなにもせずに立っていられることなど出来はしない。断固として出来るわけがない。幸福への道において全身全霊で働き、さらに幸福な生活を創造し、我が国をより富強で、より麗しくしなければならない」と綴り、「心の底から革命を想い、人民のために如何なる苦労も厭わず、一分一秒を党に捧げ、心から同志を想い、己より戦友に心を配り、一瞬一瞬を他人のために尽くそう」、或いは「我が一生を土塊、石、枕木と化し、共産主義に進む大道の建設に邁進しよう。革命の列車を我が五体を乗り越え、全速で前進させよう」と、その“崇高極まりない決意”を表明する。

 当時、自らを蔑ろにする劉少奇に狙いを定め、その失脚を策謀していた毛沢東にとって最大の関心事はやはり強力な助っ人であり手駒だったはず。毛沢東は最大最強の「暴力装置」である人民解放軍の指揮権を持つ林彪を仲間に引き入れる一方、純粋無垢であるがゆえに凶暴・無謀で過激な若者を唆し、彼らに政治的前衛であると同時に社会の道徳的前衛を担わせた。毛沢東に盲従し、毛沢東の指し示す規律を厳守し、勤勉で大義のために殉ずる。なによりも全身全霊をなげうって毛沢東に奉仕し、誰もが純粋で、毛沢東を守るためには、自らの命を捧げ尽くすことを厭わない政治的サイボーグに仕立て上げた。この本は若者を純粋過激な毛沢東主義者に育て上げるための教材だった、ということになる。

『一心為公的硬骨頭戦士』が出版されて2ヶ月が過ぎた1966年8月、「毛主席の親密なる戦友」だった林彪を従え、毛沢東が天安門楼上に立ち、眼下に広がる広大な広場を埋め尽くした100万人余の紅衛兵を接見している。この時、中国全土を舞台にして、興奮と熱狂とに包まれた文革は悲喜劇の幕を開けた。否も応もなく、中国人は地獄の扉の前に立たされたのである。

 以後、1976年9月の毛沢東の死まで、中国全土は激動に次ぐ激動の10年を体験することとなるが、宣伝部門を牛耳ったことによって、文革派による青少年に対する洗脳工作は激しさを増し、50年代生まれの習近平世代、60年代生まれのポスト習近平世代は「百戦百勝・絶対無謬の毛沢東思想」を頭の中に叩き込まれることになるわけだ。

19. 中川隆[-13533] koaQ7Jey 2018年10月02日 07:03:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18964] 報告

中国は世界史上最悪の階級社会


中国国内の「農村国」と「沿海国」

 たとえていえば、中国の社会とはには事実上、国内に「沿海国」と「農村国」の2国があって、住民はそれぞれ別の国籍を持っているようなものである。「農村国」の国民は原則的に一生農村国内で生活することが求められており、「都市国」で働くためには「都市国」に対して就労許可を申請し、原則的に期限付きの「労働ビザ」を取得して就労しなくてはならない。在留期限が切れたり、無許可で働いていると、あくまでヤミの就労ということになってしまう。

 つまり日本国内で外国人の不法就労が大きな問題となっているが、中国で農村戸籍の人が都市で働こうとすれば、原理のうえでは同じ問題が発生するのである。

 またちょっと状況は違うが、日本政府はつい先頃まで中国からの観光客に対して、上海市や北京市、江蘇省、浙江省、広東省など沿海部の比較的生活水準の高い地域の住民に対してしか観光ビザの発給を認めていなかった。その他の人々は門前払いである。つまり同じ中国の国民なのに、ある地域の人にはビザが出るのに、ある地域の人には申請の資格すらなかった。これも中国の戸籍制度がある意味で「国籍」のような性格を持つことのひとつの証左と言えるだろう。
 
 中国の現在の戸籍制度の基本となる「戸口管理条例」が制定されたのは1958年。社会主義中国の誕生から10年を経過、革命後の過渡的な時代から、いよいよ本格的な社会主義計画経済の時代へと突入しようかという段階だった。

 この制度は国民を農村戸籍と非農村戸籍に分け、農村に生まれついた人間は大学入学などごく一部の例外を除いて一生農村で暮らすことを強制するもの。当時は生産力が乏しく、モノやサービスは極端な供給不足。都市機能も貧弱だったため、人口の自由な移動を許すと国の基盤が崩壊しかねないとの判断が根底にあった。

 その後、文化大革命という極左原理主義の時代を経て、1978年に改革開放政策がスタート。国民生活や経済活動を管理してきたさまざまな規制が徐々に取り払われてきたが、戸籍制度は運用面で一定の緩和はあったものの、基本的には現在でも機能している。

40年前の制度が限界に

 もちろん中国でも戸籍制度で制限されているのは、他の地域に居住して公共サービスを受けることであって、旅行したり短期間の出張などに制限があるわけではもちろんない。あくまで障壁があるのは正式に就労しようとした場合であって、別に行った先で正式な公共サービスを受けなくても構わないと割り切れば、別に地方の住民が大都会に住みついて働いていても、それだけで単に警察に捕まってしまうことはない。ただ同じ国内で転居の自由がなく、他の地域で働くのに、その地方の就労許可がいるというのは日本ではちょっと想像がしにくいだろう。
http://www.actiblog.com/tanaka/10640

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官僚・地主/商人・知識人を兼ねた強力な支配層「士大夫」
 

中国三千年(特に後半)を実質的に支配してきたのは、「士大夫」と呼ばれる階層だった。特に中国の場合、地主や豪商も、士大夫に収束していき、極めて強力で固定度の高い支配層を形成していった。

・士大夫が黒幕になれたのは、儒教のおかげである。儒教の本質は「士大夫の、士大夫による、士大夫のための教養体系」であった。儒教の開祖・孔子は、士大夫層だった。彼の思想は、中間支配階級のものだった。被支配階級の目線に立つ老荘思想とも、君主の目線に立つ法家思想とも、発想の出発点が違った。

・前6世紀の孔子の時代、士大夫は、まだ単なる役人にすぎなかった。前二世紀の武帝の時代、儒教が官学化されると、士大夫層は知識人としてのステイタスをもあわせもつようになり、その地位は格段に上昇した。

・6世紀末、隋の文帝は「科挙」の制度を始めた。新たに「高学歴」というステイタスを得た士大夫層は、ますます強くなった。

・漢詩人も士大夫ばかり。有名な王維も杜甫も韓愈も白楽天もみんな士大夫。その理由は、漢詩・漢文の難しさにある。

昔の日本人はカナを発明して、誰でも使えるようにした。中国は違った。士大夫は、自らのステイタスを高めるため、漢詩や漢文をわざと難しいものにした。

儒教、科挙、漢字。この3点セットが、士大夫層のステイタスを支えた。

・科挙の受験準備のためには、ある程度の資力が必要であったため、多くは地主や豪商の家から受験者が出た。地主や豪商は、自分の子弟を科挙に合格させて士大夫階級の仲間入りをさせて、社会の甘い汁の分配にあずかろうとした。

・こうして、北宋の時代に、士大夫層は、科挙官僚・地主。商人・文人を兼ねた強力な支配階級(士大夫階級)となった。

・中国社会は、落ち葉が一面に浮いている池に似ていた。
嵐が来れば、池の表層の落ち葉はすっかり吹き飛ばされ、また別の木の葉でおおわれる。しかし池の中の水は変わらない。
中国の王朝交代も同様であった。皇帝とその一族は、社会の最上層に、落ち葉のように浮かんでいるにすぎなかった。

・中国では、王朝が滅んでも、中間支配層たる士大夫層は不滅だった。その一例がふう道”(882〜954)という人物である。10世紀、短命な王朝が目まぐるしく交代する乱世の中で、士大夫のリーダー(宰相)だったふう道”は、なんと「五朝八姓十一君」に仕えた。

・17世紀半ば、中国は、満州人の「清」に征服された。当時の満州人の人口は老若男女合わせて20万人程度だった。漢民族の実人口は約1億。

満州人が超人的に強かったわけではない。しかし、漢民族は「被征服慣れ」しすぎていた。

「征服者」たる満州人は、科挙の制度を維持し、士大夫階級が引き続き社会の「甘い汁」を吸うことを保障した。そのおかげで清朝は三百年近くも続いた。

現代の中国共産党もこの「士大夫」支配の変形バージョンと言い換えられるだろう。

参照 「貝と羊の中国人」加藤 徹著
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=295161


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戸籍なき子1300万人 学校にも病院にも行けない「ブラックチルドレン」の苦悩 2015.12.3
https://www.sankei.com/world/news/151125/wor1511250006-n1.html


豊かとはいえない農村が広がる崇明島の地元食堂で働く敏敏さん(仮名) =20日


 11月24日付の中国紙、第一財経日報によると、中国公安省は「黒孩子(ブラックチルドレン)」と呼ばれる戸籍のない子たちの問題解決に向けた検討を開始した。

 習近平指導部が「一人っ子政策」を廃止し、年内にもすべての夫婦に2人目の出産を認めるのを受け、従来は放置されてきた社会矛盾の解消をめざす。具体的な救済策は今後詰める。

 「黒孩子」は女性が大半とされ、内陸部など把握できていないケースを含めると、数千万人に上るとの推計もある。


 「中学校に上がるとき通学を断られ、初めて両親が本当の親ではなく自分には戸籍さえないと知らされ、家でふさぎ込んでいた」

 行政管轄上は上海市の一部ながら、豊かとはいえない農村が広がる崇明島。とある食堂で最近、働き始めたという敏敏さん(16)=仮名=はこう言って言葉を詰まらせた。中国で「黒孩子(ブラックチルドレン)」と呼ばれる戸籍のない子供の一人だ。

 敏敏さんは生後数カ月のころ、崇明島の市場でカゴに入れられて泣いていたところを、近くで商店を営む夫婦に救われたという。

ふびんに思った夫婦は養女として育て始めたが、地元政府は出生証明すらない敏敏さんの戸籍申請を頑として拒み続けた。人口抑制を目的とした「一人っ子政策」での「成果」を競っていた地方政府にとっては、存在すら隠しておきたい“お荷物”だった。

 養父母によると、敏敏さんは小さいころからぜんそくに苦しめられたが、戸籍に基づく身分証がないため病院で診察を受けることができなかった。読書も大好きだったが、図書館で本も借りられなかった。

 敏敏さんは「小学生のとき、クラス名簿に自分の名前がないのが不思議だった」と話すが、それは養父母が懇願し、地元小学校が聴講生のような待遇で通学を許したからだった。不幸中の幸いだった。「黒孩子」の中には満足に読み書きできない子供も多い。

 昨年末の時点で中国の総人口は約13億7千万人。それとは別に中国政府は2010年の国勢調査で、「戸籍なき子」が約1300万人いることを把握している。東京都の人口にも匹敵する規模だ。地元紙によると、崇明島だけで200人以上が確認されている。

 後継ぎに男の子を欲しがる古い観念にとらわれた農村では、女の子の出生届は出さず、違法と知りつつも誰かに売るか、拾ってもらうか、こっそり育てるかを選び、その後やっと生まれた男の子を「第1子」として届ける夫婦がいる。


 教育も医療も受けられなかった子供たち。きちんとした就職先などなく、結婚も出産も手続き上はできない。小学生のころの敏敏さんは、「将来は大学に進んで教師になりたい」と夢を描いていたというが、戸籍がなければそれも果たせない。36年間にわたって続いた「一人っ子政策」の闇が残した心の傷痕は、そう簡単に消えそうもない。

 「一人っ子政策が終わるのはいい知らせ。でも2人目の出産を誰にでも認める前に、政府は私たちのような子を真っ先に救ってくれなければ不公平よ。私は外国人じゃない。中国人なのよ」。敏敏さんの悲痛な叫びが耳に残った。(崇明島 河崎真澄)

一人っ子政策 中国政府が人口抑制のため、夫婦の子供は1人と出産を制限した国策。1979年に導入された後、農村の一部や少数民族に2人目や3人目を産むことを例外的に認めたほか、13年には都市部でも夫婦の一方が一人っ子であれば第2子を認めるなど、段階的に規制を緩めた。しかし、許可なく2人目を出産した違反者への巨額の罰金や、地元当局による強制的な堕胎への反発が強まり、農村で抗議や暴動が発生するなど深刻な社会問題も引き起こした。今年10月に廃止が決まった。


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戸籍のない8歳婚外子 「将来、闇世界入りして当局に復讐」
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/730.html


中国には無戸籍の黒孩子が2〜7億人いると推定されている
 実際の人口は20億
彼らには一切の社会的権利が存在せず、超低賃金奴隷待遇を強いられ、それが中国経済躍進の原動力であった
http://www.epochtimes.jp/jp/2013/12/html/d11906.html

【大紀元日本12月27日】「大きくなったらマフィアに入って復讐してやる」―わずか8歳の子供が発した言葉を、中国社会はどう受け止めるだろうか。婚外子として生まれ、生活上のあらゆる苦難を体験してきた少年についてスポットを当てた記事がこのたび、中国で話題になっている。

 中国には戸籍のない子供がたくさんいる。2番目以後の子や婚外子などは年収の3〜10倍という高額な罰金を払わなければ戸籍を登録することが出来ない。冒頭の言葉を発したのは北京房山区に住む劉菲さん(女性、仮名)の子、小傑君(8歳、仮名)。劉さんは結婚しておらず、罰金33万元(約530万円)を支払っていないため、小傑君は戸籍を得ることが出来なかった。

 「黒孩子(ヘイハイズ)」と呼ばれる戸籍外の子供は人口統計上に存在が認められていないため、一般社会で生活するのに様々な困難を抱える。無償の義務教育を受けられないため教育レベルが低く、職に就くことは難しいため貧しい。医療保険加入、自動車免許取得、婚姻も認められていない。

 黒孩子の苦境

 現在、小傑君は小学1年生。母親と暮らしている。学校に通わせるために、劉さんはあらゆる「関係者」を介するなど紆余曲折を経たという。しかし小傑君の在籍証明書には戸籍番号(注:戸籍登録者全員が持つ番号)が空欄のままだ。

 北京の地方紙・新民周刊の記者は劉さん宅を尋ね、小傑君から話を聞いた。困窮した生活のなかでも明るく活発な様子を見せていた小傑君だったが、質問が戸籍の話に及ぶと、少年にはあるはずもない無念さ、落胆、噛み殺したような怒りの表情を浮かべたという。

 小傑君は戸籍を得るために母親が腎臓を売りたがっていると小さな声で記者に話した。また、計画出産委員会や公安局の関係者が直接、あるいは電話で何度も罰金を払うよう母親に強いているのを何度も耳にしたという。

 「計画出産委員会と公安局は本当に悪いやつだ」「大きくなったら暴力団やマフィアの世界に入って、奴らに復讐してやる」―8歳の男の子の口から出た言葉に、記者は愕然とした。

 インターネットの声

 小傑君の、少年が口にするにはあまりにも悲しい言葉を受けて、インターネットでは社会格差や不平等さを嘆く声が広がっている。「張芸謀(注:チャン・イーモウ、中国人の世界的映画監督。子供が7人との疑惑が持たれている)の子は皆戸籍があるのに、結婚しなかった彼女の子は一人でも戸籍を持てないのか」「闇の世界が恐ろしいのではなく、(普通の)社会が黒くなっていくことが恐ろしい」

 一人っ子政策が導入された後、1980年代に生まれた世代「80後(パーリンホウ)」からも同情と怒りのコメントが相次いだ。「私は82年生まれ。計画出産委員会の野蛮さは私の子供時代に影を落としていった。この子の気持ちがよく分かる!」「87年生まれ。子供が2人以上というだけで、彼らは私の家を壊し、食料や家具、家財を没収した」「私には弟がいるはずだった。母親が妊娠9ヶ月の時、すでに活発に弟が母親のお腹の中で動いていたのに…!彼らは弟の頭に注射針を突き刺した(注:薬物注射して強制堕胎させた)」

 小傑君の戸籍について、母親は北京房山区の公安局を相手取り訴訟を起こしていた。最近になり「婚外子の戸籍登録を拒否したことは違憲」とする判決が下り、幸いにも小傑君は戸籍を得る見通しが付いた。

 11月に開かれた共産党第18期中央委員会第3回全体会議(三中全会)では戸籍制度改革の実施方針が発表された。それによれば福利厚生や経済格差を生む都市・農村戸籍の違いを徐々に緩和し、2020年までに撤廃するという。

 中国国家統計局の2010年の国勢調査によれば、戸籍がない人は全人口の1%に当たる1300万人に及び、大半は黒孩子だという。罰金を免れるために貧困層は出生届も出さないため、実際の黒孩子の数は数千万から数億人と言われており、明確な数はわかっていない。  



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2018年09月22日
中国人のお金事情 可処分所得年42万円、農家は今も年収10万円

農村の貧しさが目立つ。2500元は年4万円に過ぎない


画像引用:http://news.livedoor.com/article/detail/13230542/


富裕層を見て中国を判断できない

中国で富裕層が増加したり高級自動車が「爆売れ」したり海外で消費しているので、中国人はお金持ちというイメージができた。

だが中国の1人当たりGDPは約90万円で、平均年収はもっと低い70万円台とみられます。

日本の場合は一人当たりGDPは約400万円でサラリーマン平均年収は約420万円、だがこれは正社員の年収です。

非正規やパートを含む平均年収は300万円台がせいぜいで、このように平均年収は一人当たりGDPよりかなり低くなります。

中国で各省が報告した2017年時点の平均給与は、役所が7万4318元(約129万円)で、民営企業は4万5761元(約79万円)でした。

これがいわゆる正社員の給与なので、全労働者の平均ではこの数字より低くなり、やはり80万円以下でしょう。


北京日報によると2017年度の北京労働者の平均給与は10万1599元(約173万円)だったがこれは飛びぬけて高い。

上海と北京は中国の最高収入都市であり、低い地域の2倍以上にも達している。

見逃せないのは農民の収入の低さで、北京上海など大都市に隣接した豊かな農村と、貧しい農村の格差が大きい。


2017年10月の中国農業部発表では、農民工(出稼ぎ労働者)の平均月収は3459元(5万6000円)だった。

中国の農家の収入は2015年に1万1千元(17万円)を超えたが、その後は発表されていないようです。

この発表には「政府が水増しして良く見せかけている」という批判が相次ぎ、その後数字自体を発表しなくなった。


中国人の預金はひとり80万円

実態としては2015年に年収10万円だったと思われ、それも一部の富裕農家の収入で平均値が押し上げられている。

2018年の現在も最大限過大評価して年収20万円というところで、富裕農家を除くとやはり年収10万円でしょう。

年収10万円でどうやって生活するのか、日本人には想像できないが、生活手段は物々交換だと思われます。


さて中国人の「預金」については6月の個人預金残高は約68兆4000億元(約1100兆円)と一見かなり多い。

だが人口は日本の10倍なので人数で割ると、1人当たり5万元(約82万円)に満たなかった。

1人当たり可処分所得(税金と公的費用を引いた金額)は国家統計局によると2万5974元(約42万4000円)に過ぎなかった。


税引き後の可処分所得42万円という数字からは、本当の平均年収は60万円以下かも知れないと想像できる。

一部の富裕層や北京上海のエリートを除く中国人は、想像よりずっと貧しくお金を持っていない。

庶民の夢である家と車を買うため、住宅ローンや自動車ローン残高が急増して多くの家庭で年収の何倍にも達している。


こうした数字を見ると中国人の未来は明るくない。
http://www.thutmosev.com/archives/77594894.html

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2018年09月25日
香港の超富裕層と多くの貧困者

超富裕層は夢のような生活を送っている


画像引用:https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=asia_enjoy&logNo=221235748267&proxyReferer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F


超富裕層とマクドナルド難民

香港に関する貧しさと豊かさの、相反するニュースが同時に伝えられています。

最初は香港の超富裕層人口がNYを抜いて世界一になったというものでした。

3000万ドル(約33億円)以上の資産を保有する人は香港1万人で1年間に3割も増加した。


2位はNYで3位は東京で、中国本土から香港に移住してきたことで急増した。

別のニュースは香港で貧困者が増加し、マクドナルド難民が急増し、店で寝る人が5年で6倍になった。

日本でいうネカフェ難民か路上生活者で、6月と7月でマクドナルドで寝ていた人は334人だった。


2013年の調査では57人だったので、調査した非営利団体は大幅に増加したとしている。

マクドナルドで寝ている人はホームレスだけでなく、70%以上は他に寝る場所があり、過半数が仕事をしている。

自分の部屋で寝ない理由は電気料金などの高騰で、部屋にいるだけでお金がかかると説明している。


夏は一日あたり200円ほどエアコンで電気代がかかるが、月7000円以上になるので払えない。

冬も同様に暖房代がかかるが、マクドナルドなら1年中最適な温度に保たれている。

香港は8年連続で、世界一家賃が割高な都市に選ばれた。(他の物価との比率で)


収入の大半が家賃で消える

2015年の比較で香港は東京の2.5倍も割高だったが、今はもっと割高になっている。

つまり東京の平均的な家賃がワンルーム7万円としたら、香港では20万円出さないと借りれない。

収入の大半が家賃で消えるので、他の支出をぎりぎりまで削らないと生きていけない。


大卒平均年収が2万香港ドル(約29万円)で有名大学卒の年収は平均330万円とされている。

労働者の平均年収は200万円以下、月収では15万円程度というところです。

対する家賃はワンルームで10万円から15万円と絶望的な高さなので、ルームシェアしている人が多い。


ルームシェアというとかっこいいが「タコ部屋」であり、2段ベッドや3段ベッドを狭い部屋に並べている。

香港ではこうした貧困者と超富裕層のどちらも多いので、「平均所得」などの平均値がまったく信用できない。

平均すればいい数字であっても、それは1万人の超富裕層によってかさ上げされているからです。


香港はイギリスとの返還条約によっておおやけには中国本土が介入できず、警察や公安は入ってこれない。

実際には介入しているのだが大陸本土より自由なので、中国の金持ちは香港に住みたがる。
http://www.thutmosev.com/archives/77617175.html




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中国人はオギャーと生まれた時、「都市戸籍」と「農村戸籍」に大別
http://www.chinalabo.com/taki/lecture/lecture_26.html

都市と農村の所得格差は地域によっては5倍とも10倍とも言われている。 とりわけ沿岸部や大都市周辺への外資の進出が加速するにつれてこの格差は更に拡大する傾向にある。 胡錦涛政権はこの所得格差を是正するため昨年来、農民所得の拡大を目的とする政策(農産物の値上げや農業税の廃止等)を次々に打ち出しているが、不平等の根源となっている戸籍制度の見直しについては未だ手をつけられていない。

 中国人はオギャーと生まれた時、「都市戸籍」と「農村戸籍」に大別され、その人の学歴や職歴等を綿密に記録した「人事档案制度」により厳格に管理されている。

  この戸籍制度は1952年に制定され、人口の都市への集中を避けるために、原則として農村戸籍の者は農業に従事し、都市に働きに出る場合は事前に都市での労働許可証を取得しなければならない制限された時代が長く続いた。しかし1990年前後の配給制度の終焉とともに現在のように都市への移動は比較的自由となり多くの農村戸籍労働者が都市で働くようになった。

 しかしながら、農村戸籍者は企業で働く場合多くの差別をうけている。上海市の場合福利厚生費として養老保険(日本の厚生年金)、失業保険、医療保険の合計36.5%(住宅積立金8%を加えると44.5%)を企業は負担しなければならないが、農村戸籍者には医療保険を含めて158元/月(2005年度)を地方労働者管理費として労働局に支払うだけで、農村戸籍者には失業保険や養老保険制度がないので定年退職しても年金はつかない。

  企業にとっては正社員であるにもかかわらず福利厚生は別々に管理されている。
さらに都市で働き口を見つけ家族と共に移住してきても、農村戸籍の子供は都市の小、中学校には入学できない。子供だけを田舎に残すか、特別な入学金を払って上の学校に入学させなければならない。このため上海市のような大都市には地方毎に出身者の子供を受け入れる学校が点在している。

 また、上海では地方出身者(農村戸籍者を含む)は車やバイクのナンバー登録ができないため通勤は自転車かバスしかない。それ以上に銀行ローンを受け付けてもらえないので家や車の購入は極めて難しい。 

 この差別から開放されるための都市戸籍への切り替えのチャンスは原則として一生に一度しか与えられていない。すなわち大学を卒業し希望する都市の一定の条件をそなえている企業に就職した場合に限られる。

 このために都市戸籍の中でも富と文化の中心である北京、上海戸籍取得はあこがれの的であり厳しい受験戦争に勝ち残った優秀な学生が全国から集まってくる。
大学に入学すると学生の戸籍は一旦、その大学の戸籍に移り、就職した後に企業の所在地の戸籍に移転する。このため卒業時の就職先の企業所在地が大変重要な意味を持ち上海の大学生の場合、Uターン現象は勿論、地方都市への就職はありえない。

 1998年頃、大学生の就職状況が悪かった。知り合いの大学教授から「自分のゼミで地方出身の真面目な学生がいるのだがまだ就職先が決まらない。本人の希望で何とか上海の会社に入れてあげたい。給料はいくらでもかまわないので何年か預かってもらえないか?」と何度か依頼された。中国の戸籍制度を知っていれば理解できる依頼である。
http://www.chinalabo.com/taki/lecture/lecture_26.html


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中国の戸籍制度では生まれてくる子供は母親の戸籍が継承される。
http://www.chinalabo.com/taki/lecture/lecture_27.html

 長年の血の出るような勉学の結果、晴れて上海戸籍(都市戸籍)を手にした若者が故郷に錦を飾り、出身地のかわいい娘さんと結婚するのは中国では稀なケースである。

 現在の戸籍制度では生まれてくる子供は母親の戸籍が継承される。このためせっかく自分は上海戸籍となっても結婚相手の女性が農村戸籍なら生まれてくる子供は農村戸籍のため子供に自分と同じ苦労(大学の入試も戸籍により入試問題が異なり上海戸籍者は優遇されている)をさせなければならない。これは何とか避けたいと考えるのはいずこも同じ。

 そこで何とか上海戸籍の女性と結婚し子供も上海戸籍となることによって初めて自分の努力が報われることとなる。一方、もともと上海戸籍の若者は相手がいくら素敵な女性でも子供が農村戸籍では親、親戚、友人に面子がない。友人や知人が結婚すると聞き、必ず話題になるのは相手の戸籍である。もし、農村戸籍の女性なら「彼は何か欠陥があるのか?」と噂されることとなる。お解りいただいた通り、かくして上海の女性(正確には上海戸籍の女性)は上海の男性はもとより地方出身者からも憧れの的となりいつの間にか「モテモテの自分」を意識し家庭に君臨する。

 上海の男性の友人は多いが一様に「奥様」には弱い。カラオケやマッサージで夜9時を過ぎる頃から頻繁に携帯電話が鳴り出し、ひどいのになると30分おきにチェックが入る。共稼ぎが多いこともあるが彼は家に帰ると「料理、洗濯、掃除」を受け持っている。

 中国ジョーク集に「中国、三つの宝(中国三宝)」と言うのがある。一つは「万里の長城」二つ目は西安にある「秦の始皇帝兵馬俑」、三つ目は「上海の男性」。
上海女性の強さも結婚すると権利落ちとなるはずだが、身についた習慣で上海男性は一般的にやさしい。むしろこの厳しい監視下でそれでも何とかごまかしながら遊ぶというスリルに密かな楽しみを見出している。

 さて、長々と中国の戸籍制度の仕組みを書いてきたが、会社を経営するにおいて、この戸籍制度を知っているか知らないかで大きな差が出てくる。とりわけ優秀な学卒者や通訳の採用、社員の定着率において企業進出の工場立地決定の重要な判断基準となる。

 中国ではレベルの高い学卒者、優秀な幹部や技術者は大都市に集中する傾向となり、これらの人材を多く必要とする企業は土地の価格や労働コストと併せて事前に十分検討しておかないと工場が実際に動き出してから人材確保と定着率に苦労することとなる。

 上海で工場を経営している経験から言うと、概して農村戸籍者は辛抱強くよく働く。賃金は同じだが先月号でお伝えしたとおり福利コストが安い(上海戸籍者の1/3以下)ので多いほど有利で当社の場合も現場作業者の80%以上が地方出身者となっている。

 なお、以前はこの地方と地元出身者の比率を労働局が一定の規制をしていたが、現在は自由(上海市青浦区)となっている。
http://www.chinalabo.com/taki/lecture/lecture_27.html



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中国人は大学受験時の成績でその後の人生がすべて決まってしまい、敗者復活は絶対に不可能


苛酷な学歴社会に生きる中国人が日本の給食や幼稚園に驚く理由
https://diamond.jp/articles/-/172835
2018.6.20 王青:日中福祉プランニング代表  ダイヤモンド・オンライン

中国の大学入試は一大イベント。試験会場の前では、親や親戚が待機し、警察官が警備や受験生のために備える


6月上旬、中国では通称「高考」と呼ばれる大学統一入学試験が行われる。これによって、受験生はその後の人生が決まってしまうといわれるほどの一大イベントだ。この間、中国全土は“戦時下”のような雰囲気に包まれる。受験生への配慮や気の使いようは“異常”ともいえるほどで、この入学制度のあり方や受験生への対応については、中国国内でも疑問視する声もある。(日中福祉プランニング代表 王青)

中国大学統一入学試験は
まるで“戦時下”のような状態

 6月7日〜8日の2日間(地域により7日〜9日の3日間もある)、中国大学統一入学試験(通称「高考」)が行われた。今年は約900万人を超える受験生が試験に臨んだ。この2日間で12年間の学習成果が試され、激しい競争を勝ち抜けるかどうかで、これからの人生が決まってしまうのだ。

 この2日間の様子は、中国がまるで“戦時下”にあるといっても過言ではない。それほど緊迫して重々しい雰囲気なのである。政府関連機関は事前に対応策など準備を万端にする。世間全体も受験生にやたらと配慮し、「高考」一色となる。特に今年の高校3年生は2000年に生まれであり、「21世紀のミレニアム世代」として注目されている。

 その様子は、中国国内だけではなく、海外のメディアにも注目されて大きく報道されるほどだ。

 毎年のことだが、この数日間は、試験会場周辺の道路が車両通行止めになる等、交通規制が実施されるのだが、これは受験生たちがスムーズに到着するためだ。それ以外にも、受験生が安心して受験できる環境を作り出すため、高考期間中は試験会場周辺500メートル圏内で騒音が出る全ての工事、作業が禁止される。

 受験開始時刻に遅れないため、大手タクシー会社は1週間前から予約専用の電話回線を設けて、専用車の予約を受け付ける。そして、会場周辺のホテルは数ヵ月前から予約で満室となる。

 それは少しでも多くの睡眠時間を確保するためと、“缶詰め”状態で最後のひと踏ん張りをするためだ。親も夫婦そろって勤め先を休んで全力で受験生を支える。

 校門の前では、受験生を上回るおびただしい人数の親たちでごった返す。試験会場に入るわが子を見届け、終わるまで待ち続けるのである。

白バイ警察官による送迎は毎年の光景
カンニング対策は「アメリカの空港より厳しい」

 警察や警備員なども大勢に配置されて、さまざまな予期せぬ出来事に備える。

 
大学受験の合否は受験生のその後の人生に大きく左右する。試験会場の門の前では、受験生の母親と思われる女性が心配そうに待っていた

 毎年、必ず受験票や身分証明書を忘れる生徒が現れる。その際に白バイの警察官が取りに行って届けたり、遅れそうな生徒がいれば白バイに乗せてサイレンを鳴らして会場まで送ったりするなどの光景が、毎年報道される。

 ちなみに、7日に深センで起こったことだが、大雨の中で、1人の警察官がわざわざ男子生徒にレインコートを着せて白バイで会場に送ったのに、後日その生徒の母親が警察に電話して、「大雨の中で息子の服がぬれた」と苦情を言った。これはネットで母親を批判する声が殺到し「炎上」した。

 試験会場に入る際、カンニング防止のための厳しい検査も行われる。近年技術が発達してカンニングの手法が巧妙で分かりにくくなってきたからだ。ゆえに、カンニング防止のためのセキュリティーも年々エスカレートしてきた。

 例えば、金属のものは一切身に着けてはいけないと規定されている。今年は受験生のズボンのチャックが金属のため、セキュリティーに引っかかって入場できないケースが続出。女性の場合、身に着ける下着が問題とされることも度々あり、「アメリカの空港より厳しい」と揶揄(やゆ)されるほどだ。

 これら諸々の現象は、中国の現代社会を象徴している。

 経済の急速な発展とともに、社会での競争が増していく中で、誰もが成功の夢を見る。この夢を具体化するには、いい会社に就職して出世し、高い収入を手に入れることだ。

 これはもちろん昔からの中国の伝統的な考え方でもある。都市部では、受験生はほとんど一人っ子であるため、親は過剰に期待し、一族の将来をもその子に託している。農村では、なおさらだ。

 格差が激しい中国では、農村の子どもにとっては、運命を変える唯一のチャンスだ。ある意味では「高考」は数少ない「公平な道」なのである。さまざまな試練を乗り越えて、上り詰めた高校3年生は、たった3日間の勝負に赴く。

 まさに、家族にとって「最も重要な2〜3日間」と考えるのも無理はないのである。

“異常”ともいえる「高考」のあり方は
中国の発展を支えるものなのか

 そもそも中国では、幼稚園から「スタートラインから負けたくない」と考えて、親がお金と時間をかけていろいろな習い事をさせる英才教育が盛んだ。

 名門校に入り、その地区の戸籍に入るため、その学区の不動産「学区房(マンション)」を、通常よりも数倍も高い値段で購入する親もいる。「全財産を投じても惜しくない」と考える親も珍しくはない。

 そして、受験生の子どもには家事どころか、自分の身の回りのことすらさせない。

 上海の名門高校の副校長を務める友人によると、通学の際には7割の高校3年生の親が車か電動バイクで送迎をしている。また、多くの学生が日常生活で身の回りの簡単なことができないという。

「良い成績を取ってくれれば、あなたは何もしなくていいから…」というのが、大半の親が子どもに向かって言うセリフだ。勉強の重圧と親からの期待で鬱々となる生徒が少なくない。そのため、学校は専門の心理カウンセラーチームを設置して、生徒に対して常に心理ケアを行っている。

 上海市では、毎年のように「高考」を直前に控えて精神的に耐えきれない、あるいは予想よりも低い点数を取って「高考」を失敗した生徒が自殺するケースが出ているという。

 しかし、この“異常”ともいうべき「高考」のあり方はもとより、これらに直面した後の生徒らは、今後の中国の発展を大きく支える「柱」となるのであろうか。

 最近、専門家は問い掛け始めた。彼ら彼女らの大半が「一人っ子」として、6人の大人(自分の両親とその父母)に大事に育てられてきた。いわば「小皇帝、小公主」だ。総じて「わがまま」で「自己中心」な性格になりがちである。「成績が良くても、人に対しての思いやりや、コミュニケーション力がなければ、たとえいい会社に就職ができても、今後の人生はうまくいかないのではないか」と指摘されている。

 近年、上海や北京を中心とする都会では、民間の教育機関により「IQ育成教室」がはやっている。およそ3〜12歳の子どもを対象に、週1回約1時間の授業を行う。

 プログラムは、「忍耐力、自己判断力、自己管理力、自信付け力、コミュニケーション力、礼儀作法、思いやり」などを養う内容で構成されている。費用は年間約2万元(約32万円)となる。

 先日、上海で小学校5年生の息子を持つ友人に会った際に、その友人は「去年から息子をIQ育成教室に通わせている」という。「最近は人に会うとちゃんと挨拶するようになった。ご飯の後も自分の食器を片付けしてくれているのよ」とうれしそうに話してくれた。

中国で話題となった
日本の学校給食や卒園式の様子

 中国では「成績と人格、どっちが大事?」、「勉強だけできて、何になる?」というような議論をする時に、しばし「我々の隣の国を見てみろ」と言わんばかりに、日本の例が引っ張り出される。

 去年秋に日本の公立小学校で給食の光景を撮影した映像が、中国のネットで大きな話題となった。

 子どもたちが料理を運ぶ様子から最後のお片付け、掃除まで、当番の生徒が中心となりクラス全体が協力して行うこと、そして食べ物を残さずにきれいに食べていたことなど、多くの人が驚き、感動したという。

 それに続き、日本のテレビ番組の「衝撃と感動の映像」という、「6歳の泣き虫少年が起こした奇跡の瞬間」という物語が、今年の「高考」の数日前にネット上で爆発的に拡散されて話題となった。

 鹿児島県霧島市に住む幼稚園年長組の男の子・凌くんは、普段は泣き虫。体育の跳び箱が苦手でいつもできなかった。ある時、家庭の事情で学校を離れることになる。学校は彼のために1人の卒園式を行う。その卒園式では、10段の跳び箱があった。全校園児の激励のかけ声の前で、凌くんは、泣きながら何回も挑戦したが、跳ぶことはできなかった。

 最後に皆が凌くんを囲んで輪になり、「できる!できる!できる!」と勇気づける。すると凌くんは渾身の力を発揮して、一気に跳び越えたのだ。

 会場からは拍手が沸き上がり、皆抱き合って泣いた。

 この映像が中国のSNSで拡散され、「超感動した!涙止まらなかった!」「勇気と自信を生徒に与える日本の教育は素晴らしい!」という賞賛の声が、数え切れないほど投稿された。

 そして、「中国だったら、凌くんは弱虫だと笑われるだけ」、「日本の子どもが普通にできている挨拶やお片付け、自分のことを自分でやる躾(しつけ)は、中国ではお金を出して教育機関に任せないとできないのか」などのコメントも多数あった。

「高考」の試験制度も含めて、社会制度はその国の社会や歴史、文化を反映しているものだが、そうした制度が時代や社会の変化や要請に必ずしも適合しているとは限らない。隣国日本のテレビ番組の映像がネットを通じて拡散され、大きな反響が出るまでになった今、中国の人々もさまざまな「比較」の視点を獲得して意識するようになってきた。

 こうした意識の変化は、自国のことを変えるきっかけとなるかもしれない。


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銀行口座やスマホを持たない貧困者は就職もできず「超貧困者」に固定化される


画像引用:http://img.epochtimes.jp/i/2017/09/27/t_j45pbi2w0fpbadavpae1.jpg

IT化で弱者が超貧困者になった

中国ではキャッシュレス化やIT化が進み「日本よりずっと先を行っている」という話を良く聞く。

だが中国政府は逆にキャッシュレスやIT化に歯止めをかけようとしている。

ネット上の政府の悪口を監視するためなどの目的もあるが、過剰なIT化が社会を混乱させている。


例えば中国でIT化が進んだ都市では、スマホ決済ができないと買い物や食事ができないし、タクシーにもバスにも電車にも乗れない。

金を持っている人はスマホや銀行口座、決済アプリを持っているので、商店や企業は貧困者のことは考えない。

いまの中国では物乞いですら、スマホ決済ができないとお金を恵んでもらえなくなっている。


道を歩く人は財布に現金を入れていないので、スマホを持たない人は何時間待ってもお金を恵んでもらえない。

路上のパフォーマーは観衆にスマホを差し出し、観衆はQRコードを読み取ってお金を寄付している。

高齢者はスマホや決済アプリを使いこなせないので、買い物ができず交通機関も利用できなくなり孤立している。


中国の電子決済比率は65%ほどだが、隣の韓国では90%を超えていて、中国もすぐそうなるでしょう。

北欧で現金が廃止されたとかのニュースを見て、日本の評論家は褒めたたえていたが、現実は極端な「弱者切り捨てシステム」です。

韓国では最近貧困や失業が社会問題だが、IT化で弱者を切り捨てたのと無関係ではない。


IT化した中国が気づいた危機

「ソウルでは現金を使わず地下鉄に乗れる」と言って喜んでいたが、「現金があっても買い物できない」のです。

中国政府はこれに危機感を抱いてキャッシュレスを禁止し、「現金での支払いを拒否してはならない」という通達を出しました。

キャッシュレスとは「通貨の価値がなくなる」ことで、人民元を持っていても買い物できないことにつながる。


国家の定義の一つは通貨の発行権なので、中国は国家ではなくなってしまうという危機感です。

日本の電子マネーは発行したのと同額の供託金を発行者が用意する必要があるので、日銀が発行した以上のお金は出回らない。

だが中国の「QRマネー」は企業が発行するポイントなので上限はなく、いくらでも増やせる。


このままでは人民銀行に代わってアリババなどが通貨発行権を握り、国家機能が喪失しかねない。

いまさら日本式に供託金制度を作れば大混乱するだろうし、政府は困り果てているのです。

最近目立っているのが「現金での支払い拒否」で面倒くさいので多くの店が拒否するようになっている。


これも日本のマスコミは「中国は現金を拒否しているから素晴らしい」と言うのだが、頭に虫でも湧いたのではないだろうか?

政府が発行した通貨の受け取りを拒否されるのは、そこはもう中国ではなく施政権が及んでいないということです。

中国の9割の農村はキャッシュレスどころか「貧しくて現金すらない」のが普通で現在でも平均年収10万円程度です。


決済アプリを使用するには「通信会社との契約」「スマホ購入」「銀行口座」「決済サービスとの契約」「スマホを
使いこなすスキル」など予想以上にハードルが高い。

中国には銀行口座を持たない人が数億人いるし、決済サービスを利用できない人も数億人存在する。

中国人のほとんどはクレジットカードを持っていないし、山間地では物々交換で暮らしている人も多い。


こうした矛盾がキャッシュレス化やIT化で噴出していて、政府は制止しようとしている。
http://www.thutmosev.com/archives/77543920.html


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川島博之 都市戸籍を持つ4億人を農村戸籍を持つ9億人が支えるいびつな国家 中国
 


中国生活「モノ」がたり〜速写中国制造

「ケ小平は今の習体制をボロクソに言うかも」
山田 泰司 東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(1)2017年11月15日
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111400054/


 10月に開催された第19回中国共産党全国代表大会を経て、2期目をスタートさせた習近平(シー・ジンピン)国家主席。トランプ大統領の訪中においてはその外交術によって大きな不利なく交渉を終わらせ、またその後のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議では、多国間の自由貿易を支持すると述べ大きな賛同を得た。習主席の手腕により、盤石な体制が築かれつつあると感じている向きも多いのではないだろうか。

 その一方で、経済成長も緩やかになる中、中国は問題も抱えている。その中でも最も大きいと考えられるのが、この連載でも幾度となく取り上げてきた国民の中で大きくなる“格差”であろう。先日の「独身の日」にはアリババ集団だけの取引額が1600億元(2兆7000億円)を突破するなど、消費が盛り上がっているのも事実。ただ一方で、そのような繁栄には取り残され貧困にあえぐ人たちが大勢いる。主に消費を盛り上げているのは、都市に戸籍を持つ都会人。農村に戸籍を持つ農民は中国の発展を支えた功労者でありながら、豊かにはなれない。

 都市戸籍を持つ4億人を農村戸籍を持つ9億人が支えるいびつな国家である中国。その実態を紹介した書籍

『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』(川島博之著、2017年、講談社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062915065/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4062915065&linkId=d8cf9d4bb2d1cb7a8a5a8a325ee361de


は近著

『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4822258556/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4822258556&linkId=8a01f7910faf7d6b27fba64ed992ed86


と通ずるところが多くある。今回から3回にわたって、川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授をお招きして中国の近未来について語ってもらった様子を紹介する。


川島博之
東京大学大学院農学生命科学研究科准教授
1953年、東京都に生まれる。東京大学工学博士。専門は、環境経済学、開発経済学。2011年には、行政刷新会議ワーキンググループ(提言型政策仕分け)の評価者を務める。1977年、東京水産大学卒業。1983年、東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得のうえ退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、ロンドン大学客員研究員などを歴任。(写真=深澤明、以下同)


山田:本日はよろしくお願いいたします。

 先生ちょっとご覧になっていただきたいものがあるんです。これは先生が執筆された書籍

『農民国家・中国の限界』(2010年、東洋経済新報社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4492443673/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4492443673&linkId=b613f8e8c27c77bd9fe06fd5fa85b3fc


です。その当時買って、このように付せんをいっぱい付けて読んでいたんです。まさか先生と対談するようなことになると思っていませんでした。非常に光栄です。

川島:そうですか。ありがとうございます。

山田:私、仕事柄、中国関連の書籍をいろいろ読むのですが、この10年間で読んだ書籍の中で、こちらの本には大変感銘を受けました。

 中国にいると、中国にいなくてもそうかもしれないですが、疑問に感じることがあります。多くの中国人はそんなに収入がない。例えば給料の明細上は3000元(約5万1000円)しか収入がない。そういう人たちがどうして銀座とかで買い物がばんばんできるんだと。説明のつかないことがたくさんあります。

川島:そうですね。

山田:ただし、それについて中国専門家の人が書いたものでちゃんと答を書いてくれているものが本当にないですね。

川島:ないですね。


山田:一番不思議なのはお金の出所なんですよ。なおかつ私は個人的に地方から出稼ぎに来ている農民工の人たちに興味を持っていろいろ話をしている中で、そういう疑問みたいなものがだんだん膨らんできた。そうした中で先生の本を読んだら、土地の開発公社、それとその周辺の人間が土地を転がして大変な富を生み出していると書いてありました。そういったことを統計を読み解いていろいろ教えていただき、本当に目からうろこでした。先生は農業のご専門ですよね。

川島:そうです。

山田:誤解を恐れずに言うと、中国がご専門ではないですよね。

川島:違いますね。アジアの農業と開発が専門です。

山田:だから、かえってそういう大きい視点でご覧になっているから、中国をお分かりになるんじゃないのかなと思ったのです。とにかく日本人は、特にバブルが崩壊してからこの20年、中国のことを冷静に見られなくなっているように思います。1つはやっかみから見られなくなっているという気もします。

川島:私もそう思います。

山田泰司

山田:そうですよね。そのころから例えば反中、嫌中の本がものすごく売れるようになった。だから本当に中国を冷静に見て書かれた、しかも平易に書いている本というのがなかなかなくて。そういう中でこの本に出合って非常に印象に残っていました。

川島:私も中国の農村を度々訪ねていて、実際に見ているんですよ。山田さんも見ているんですよ。ただ、中国関連の書籍を書いている人って、ホテルに泊まって向こうの学者と話しているだけの人が多いんだよね。

 日本の学者の中でそれなりの地位を築くと、日本の科学研究費などで中国と共同研究をやろうと。今は中国もお金を持っているので。中国と10年、20年一緒に仲良くやっていくと、ちょっと悪い言い方だけど向こうのペースに乗せられちゃう。向こうのことをおもんぱかると、実態とか書けないんですよね。

山田:そうですね。

川島:それは私は、不幸だと思うし。私は中国や文科省からはお金はもらっていないし、一番ある意味で冷静なことを書ける。中国に遠慮することないし。そんなことで、最近では『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を出版しました。

習主席と安倍首相は1歳違い

山田:世代的にいうと、先生は安倍晋三首相と同じ世代ですよね。

川島:同じです。安倍首相は私の1つ下。

山田:そうですよね。安倍首相と習近平国家主席も1歳違いですよね。

川島:だから、私は習主席と同じ歳です。習主席が文化大革命(1966〜1976年)の時期に反動学生として下放されていた時代、私も高校から大学の時期に当たるんです。だから、習主席にはものすごく親近感があるというわけではないけど、長い目で習主席がどうなるかを見てみたいと思います。悲観的に見ているんですけど。

山田:私は、安倍首相と習主席が1歳違いでほぼ同世代ということに非常に関心があります。ほぼ同時期に、同じ時代にあの2人が中国と日本で台頭してきたということに、共通する背景がないのかなと。ただ、それを政治家に直接取材するわけにいかないので、同じ年代の市井の人たちをインタビューすることで何か浮かび上がってくるのではないかと考えていて、次の仕事にしようとも思っているんです。

川島:今の64歳ね。

山田:先生は同じ世代としてどのようにお考えですか。

 


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東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(3)
山田 泰司 2017年11月17日(金)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111600056/


 絶望的な状況に置かれた中国の農民の姿を描いた書籍『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を執筆した川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授との対談も今回で最終回。都市戸籍を持つ4億人が農民戸籍を持つ9億人から搾取するといういびつな構造を持つ中国。今後、農民たちは希望を持って生活することができるのか。


山田:中国がそろそろ限界なのは間違いないと思います。では、どうしていくかなんですけど。

川島:日本では、バブルの象徴ともいえる、ジュリアナ東京がなくなったのが1994年だったけど、中国はまだその前ぐらいの感じじゃないかなと思います。日本でもそのころは、バブルがはじけるとは感じていなかった。日本はお尻に火がついたのは1997年です。山一証券がつぶれた。ただ、中国だったら山一証券をつぶしませんから。公的資金で救済するような形でいくから。

 だから今は1992年、1993年くらいだと思うね。ちょっとやばいかな、でも政府が何とか、やってくれるよねと。大学生も、だからまだ朝まで踊れていた。そんな感じで。中国の場合、そういう意味では国にはかなりの余剰があるので、そこを使って陰で支えていけば、日本のバブルの崩壊みたいなのは防げると。だらだらだらだらバブルの崩壊しない状態が続くと私は思っていますね。

山田:金融政策と財政出動ですね。

川島:今の習近平(シー・ジンピン)国家主席の最初のときからそうなんですよね。何もしなかったら山一証券や日本長期信用銀行がつぶれたような日本みたいに、大変なことになる。ところがそこでうまくやっちゃうから。いつの間にかホワイトナイトが現れたと言って収まっていくというのは、そこはつぶさない技術です。

 だけど、これは私だけじゃなくて多くの人が言っているんだけど、もう成長しない状態で変な金融政策によりずるずる延ばしていっても、病が重くなるだけだ。やめると痛いからやめないんだけど、じゃあ、永遠にできるのといったら永遠でもない。でも明日には壊れないし、明後日も大丈夫そう。そういうことだよね、今、やっているのは。

山田:だから私の友達なんかでも、事業を始める人は結構いるんです。だけど全然もうかってないんですよね。もうかってないんだけど、出資する人はいっぱい出てくるんですよ。

川島:貸自転車がそうだよね。もうかってないんだもん。

山田:本当にそうなんです。それで全くうまくいってないのに、そろそろエンジェル投資家が出てくるころですと、みんなそんなことばっかり言っているんですよ。実態がないのにお金だけはどこからか出てきて動いているという不思議な状態が。

温和な顔になった中国の指導者

川島:1993年くらいの日本はみんなそう。何とかなるよ、最後は日銀、大蔵が何とかしてくれるよみたいな。

 さっきから言っているように、共産党はこの事態によく気が付いていて、締めなきゃだめと考えた。だから民間企業の中にも共産党支部をつくって、共産党の指令によって全部を動かす。例えばここを売りたいとか、ここを閉めたいとかも勝手にはできないんだよね。じゃあ、営業を続けられませんと言っても、そうしたらこっちの銀行に声を掛けるからといって、担保もないのに銀行から金を借りられちゃう。だから奇妙なゾンビ経済が続いているんだと思う。


山田 泰司

山田:本当にそうですね。

川島:ゾンビ経済において、私は学生の顔つきとかを見ていると、もう今の若者たちは中国の経済を支えていくことはできないと思う。柔和な顔になっているし、頑張るのは嫌いだし。

山田:柔和な顔ということで思い出しましたが、最近の中国の指導者の顔は柔和になりました。昔は人間というよりは妖怪みたいな感じの方もいました。とにかく中国を回していくためには、あのぐらいのカリスマじゃないとだめ。本当に人間離れしてないとだめだなと。

 それがやっぱり胡錦濤前国家主席になってくると、優秀なテクノクラート、優秀な公務員の顔になってきましたよね。平和な時代の指導者。習主席も、仏頂面だし表情は出さないけど、明らかに妖怪ではない。

川島:李克強首相もそうだよね。

山田:そうですね。

川島:普通の秀才の顔だよね。ちょっとこのごろだと、おどおどしている秀才の顔だよね。よくいるよね。次、先生に指されると困る。「習主席からは指されないように、目を合わせないように」みたいな感じになっているよね。


農民工はどこに行くのか?

山田:先生がおっしゃるように、習主席は今の経済のことが全部分かっている。とにかく都会に農民工を抱える余裕がなくなってきているんです。

川島:そういうことですね。

山田:だから一生懸命彼らを国に帰そうとしているんだけど、やっぱり戻ってきちゃうんです。それでさまよい始めているんですけど、彼らは一体、どこに行くんでしょうね。非常に私は怖いんです。

川島:だから中国当局は、押さえ付けでしかないんだよね。

山田:押さえ付けるか。

川島:胡錦濤は、彼らにあめ玉をなめさせていけば何とかなると考えていた。和諧社会と言っていたんだけど。今はどうもあめ玉がなくなったんだよね。あめ玉をやっていたらチャイナ・プラス・ワンになっちゃうので、習主席が決めたのはあめ玉はやらないこと。でも彼らは、不満を持っている。どうしたらいいか。警察国家ですよね。今明らかにそちらに進んでいる。

山田:地方の都市をハイテクの町にして、雇用をつくりましょうみたいな報道もちらほらあるんですけど、あれじゃ追い付かないんでしょうか。

川島:一番の例は深センをそうしたいと言っていますよね。深センには確かに優秀な人たちが集まってきていて、中国のシリコンバレーにしようとしている。でも、所詮1000万人ですから。中国は13億人、明らかに数が小さい。

 それからそこがいくら発展しても、本質的には9億人の農民の底上げをどうするかという問題なんです。それに対しての答えにはならないですよ。ほとんどが中卒か高卒なんですよね。

山田:そうですね。「農村はみんなこんなもんだ」と言って、子供を高校に進ませずに働かせる親がいまだにとても多いです。

川島:勉強してないから農民なんです。農民の中でも、すごく優秀なら都市戸籍になれるんです。農民でもチャンスがあるんですよ。小学校で1番、中学校で1番。勝ち抜いてトップになれば、農民でも北京大学とかに入れて、そして都市戸籍を取れるんです。

 だから中国人の中には、貧困は自己責任という感情があるように思います。日本からだとそう見えるんです。私は大学にいて、そういうのを見ているから。だから彼らの心の中では、小さいときに勉強しなかったやつらを、対等に扱うことはできないとなるんです。私はあのときに一生懸命勉強したけど、そのときにいつも遊んでいたんだから、農民だと。徹底した学歴社会です。

山田:中卒で働きに出て、1万元ぐらい稼いでいる内装屋さんが知り合いにいます。まだ20代前半。背中に一面の入れ墨を入れてるんです。彼は中卒で重慶から出てきて、北京にまず行ったらしいんです。そこにしばらくいたんだけど仕事を辞めて、その後、海南島に流れていった。僕は海南島で知り合ったのですが、その彼は北京を離れるときに背中に入れ墨を入れました。要は、ものすごい差別をされたらしい。

川島:ああ、そういうことね。

山田:自分の中で、とにかく生き抜いてやるというしるしですね。背中に入れ墨を入れようが何しようが、根性を出してやるしかない。彼も農民です。


川島:そういう社会ですよね。だから仕事でもとにかく頑張るしかない。

山田:ただ、上海に出てきて住んでいる人たちなんか、とにかく取り壊しが決まって廃墟みたいな格安のところに住んでいる。トイレもなければ、何もない。そういうところでみんなやっているわけです。

 彼ら僕と同世代ぐらいで、自分は小学校を出たかどうか分からない。ただ、自分の子供は大学にやろうと思って一生懸命やっているんです。でも最終的には、田舎の農民はみんなこんなものだからと言ってあきらめちゃう。そういうのを見ているから、もっと頑張らなきゃだめじゃないかとは、とてもじゃないけど言えない。もう十分頑張っている。くじけるのは当たり前だと思います。

反日デモも農民のせい?


川島:都会人と接していると軍人もすごくばかにしているんです。軍人って農民ですから。彼らは軍人にはまずならないですよね。幹部学校には行く人もいると言っていたけど。

 だから武装警官をすごく怖がりますね。あいつら農民だから、頭の中がどうなっているか分からないという感じで怖がる。やっぱりすごい強い差別意識を感じますよ。学生は皆さん都市戸籍で、親は向こうのエリートさんだから。

 それから大規模な反日デモが起きたときがあったじゃないですか。例えば2012年だったか、日系のスーパーなどが被害を受けた。壊したのは、みんな農民工だと言うんだよね。都市戸籍の人は日本なんか襲わないよと。彼らの言い訳かなと思って聞いてたんだけど。

山田:そうですよね。何かそういうことがあると農民工のせいにする。

 あれは2005年に反日デモが盛んに行われたときでした。私は上海の日本総領事公邸やアメリカ大使館のそばに住んでいたんです。軍用のトラックが20台ぐらい私の家の前の道路に集結して、荷台に武装警官をギュー詰めにして市内に散っていったというのを毎日見ていました。話に聞くとあのときは、大学の寮で人が集められる。今日はデモへ行きますからこの寮から何人、この寮から何人といった形で集合をかけられたそうです。

 だから、全くの官製デモですよね。その中に農民工はいませんよ、本当に。

川島:非常に強い偏見を感じるよね。

山田:EXILEって、男性ユニット。彼らのようなEXILE系の男、真っ黒でマッチョでちょびひげな男は中国では人気ないんですよ。色白、ぽっちゃりの方が中国ではいいんです。EXILEって、中国名は「放浪兄弟」という名前があるんですけど、ネットなんかで言われているのは「民工団」。容姿が農民工に似ているから。

 また、バドミントンで林丹(りんたん)という選手がいて、北京五輪、ロンドン五輪と2大会連続で金メダルを獲得した。国民的英雄だったんですが、不倫が見つかってすごく叩かれた。彼もやっぱりEXILE系なんですが、叩かれた途端に、何かこいつ農民工みたいだとバカにされる。そういうところで形を変えて農民工が出てくるんです。


中国経済は20年はこのまま、でもその先は……

川島:非常に強い差別意識だよね。

 でも私は結論に近いけど、農民戸籍の9億人を豊かにすることはできないと思っています。繰り返すけど都市戸籍の4億人は9億人を踏み台にして豊かになった。それが中国の特殊な社会主義。この踏み台を外してみんなで一緒になったら自分たちも貧しくなっちゃう。そのことはすごくよく分かっているんだと思う。

 差別意識もあって、9億人はもう仕方のない人という見方をしている。4億人経済が動いているし、4億人の部分はかなりの部分リッチになった。山田さんがおっしゃるようにすごくグレーなマネーが動いていて、日本に爆買いに来られるようになっちゃっている人たちがいるんだけど、そのマネーは絶対下の方には行かないんですよ。

 でも、農民の人を救おうと思えば、簡単なんですよ。都市戸籍の人の多くの財産というのは都市の不動産に変わっています。中国では固定資産税と相続税がかからない。税率にもよるけど、固定資産税と相続税がかかるようにすれば、今の体系は一遍で変わるよね。そこから出てきた税金で、例えば農民の小学校を建てるなどに回せばいいんだから。全部そこに富をため込んでいるんだから。

 私は、過去30年くらい研究してきて、アジアの発展の中で農地の転用がすごく大きい発展の原動力になっていることを感じています。日本の場合でいえば、農民自身が大きな金を得たケースが多くあります。農民の人が駅前ビルのオーナーになっているとか、駐車場のオーナーになっているとかあるよね。

 そういうところで非常に分散していったんだけど、中国は農民ではなくて、国営公社が取っていっちゃった。アジアでいえば、ベトナムが中国とほぼ同じ構造で動いているんです。中国は農民たちが農地の所有権を持ってなかったというのが決定的にうまくいかないですよね。

 山田さんには悪いけど、アイデアってないでしょう。どうやって彼らを豊かにしていいか。彼らに「どうしたら先生、いいですか」と聞かれるんだけど、今は答はないと言っている。と言っても、このシステムは止められない。

山田:25〜26年前からの知り合いが、今は中国の国家税務総局にいるんです。彼が税金の問題についてはずっと言っていますね。90年代から言っていますが、何の進展もしていない。

川島:中国はほとんどの税金が日本で言うところの付加価値税なんですよね。それで税金の多くの部分を所得税じゃなくて企業から取っているんですよ。多くの部分を払っているのは国営企業なのね。

 中国で大きな税金を払っているのって、水道局とか、ガスとか電気とか、そして今一番大きいのは通信機器業者。普通の庶民が電気代を払う、ガス代を払う、それから携帯を使う。そうすると自動的に税金を取られちゃっているんです、国営企業を通じて。だから中国の貧しい人たちは、税金を取られたと思ってなくても、税金は取られている。スマホを使えば税金を取られる。中国は頭いいよ。

山田:そういうことですね。

川島:そういったところは共産党が胸先三寸でやっている。だから絶対国営企業は文句を言わない。中国の財政ってすごく健全なんです。中国の政府って人民をどう飼いならしていくかみたいなのをよく知っている人たちだよね。

 私は日本人だから農民に同情を寄せるけど、彼らに明日はない。だけど限界が来ているのも事実だから、中国には明日がない、中国崩壊となっていく。都市戸籍の4億人だけでやっているこんな状態はいつまでも続かない。ではどういうシステムにするのかといったら答がない。ただ、前にも述べましたが、少なくとも20年ぐらいはこの状態が続くと思います。

山田:党大会の後に、習近平独裁体制がいよいよ強まりました、みたいな報道があふれる中、中国の抱えている問題が、改めて分かりました。本日はどうもありがとうございました。


今の中国って「ジュリアナ消滅直前」の感じかな
東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(3)
山田 泰司 2017年11月17日
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111600056/?P=1


 絶望的な状況に置かれた中国の農民の姿を描いた書籍『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を執筆した川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授との対談も今回で最終回。都市戸籍を持つ4億人が農民戸籍を持つ9億人から搾取するといういびつな構造を持つ中国。今後、農民たちは希望を持って生活することができるのか。


山田:中国がそろそろ限界なのは間違いないと思います。では、どうしていくかなんですけど。

川島:日本では、バブルの象徴ともいえる、ジュリアナ東京がなくなったのが1994年だったけど、中国はまだその前ぐらいの感じじゃないかなと思います。日本でもそのころは、バブルがはじけるとは感じていなかった。日本はお尻に火がついたのは1997年です。山一証券がつぶれた。ただ、中国だったら山一証券をつぶしませんから。公的資金で救済するような形でいくから。

 だから今は1992年、1993年くらいだと思うね。ちょっとやばいかな、でも政府が何とか、やってくれるよねと。大学生も、だからまだ朝まで踊れていた。そんな感じで。中国の場合、そういう意味では国にはかなりの余剰があるので、そこを使って陰で支えていけば、日本のバブルの崩壊みたいなのは防げると。だらだらだらだらバブルの崩壊しない状態が続くと私は思っていますね。

山田:金融政策と財政出動ですね。

川島:今の習近平(シー・ジンピン)国家主席の最初のときからそうなんですよね。何もしなかったら山一証券や日本長期信用銀行がつぶれたような日本みたいに、大変なことになる。ところがそこでうまくやっちゃうから。いつの間にかホワイトナイトが現れたと言って収まっていくというのは、そこはつぶさない技術です。

 だけど、これは私だけじゃなくて多くの人が言っているんだけど、もう成長しない状態で変な金融政策によりずるずる延ばしていっても、病が重くなるだけだ。やめると痛いからやめないんだけど、じゃあ、永遠にできるのといったら永遠でもない。でも明日には壊れないし、明後日も大丈夫そう。そういうことだよね、今、やっているのは。

山田:だから私の友達なんかでも、事業を始める人は結構いるんです。だけど全然もうかってないんですよね。もうかってないんだけど、出資する人はいっぱい出てくるんですよ。

川島:貸自転車がそうだよね。もうかってないんだもん。

山田:本当にそうなんです。それで全くうまくいってないのに、そろそろエンジェル投資家が出てくるころですと、みんなそんなことばっかり言っているんですよ。実態がないのにお金だけはどこからか出てきて動いているという不思議な状態が。

温和な顔になった中国の指導者

川島:1993年くらいの日本はみんなそう。何とかなるよ、最後は日銀、大蔵が何とかしてくれるよみたいな。

 さっきから言っているように、共産党はこの事態によく気が付いていて、締めなきゃだめと考えた。だから民間企業の中にも共産党支部をつくって、共産党の指令によって全部を動かす。例えばここを売りたいとか、ここを閉めたいとかも勝手にはできないんだよね。じゃあ、営業を続けられませんと言っても、そうしたらこっちの銀行に声を掛けるからといって、担保もないのに銀行から金を借りられちゃう。だから奇妙なゾンビ経済が続いているんだと思う。


山田 泰司

山田:本当にそうですね。

川島:ゾンビ経済において、私は学生の顔つきとかを見ていると、もう今の若者たちは中国の経済を支えていくことはできないと思う。柔和な顔になっているし、頑張るのは嫌いだし。

山田:柔和な顔ということで思い出しましたが、最近の中国の指導者の顔は柔和になりました。昔は人間というよりは妖怪みたいな感じの方もいました。とにかく中国を回していくためには、あのぐらいのカリスマじゃないとだめ。本当に人間離れしてないとだめだなと。

 それがやっぱり胡錦濤前国家主席になってくると、優秀なテクノクラート、優秀な公務員の顔になってきましたよね。平和な時代の指導者。習主席も、仏頂面だし表情は出さないけど、明らかに妖怪ではない。

川島:李克強首相もそうだよね。

山田:そうですね。

川島:普通の秀才の顔だよね。ちょっとこのごろだと、おどおどしている秀才の顔だよね。よくいるよね。次、先生に指されると困る。「習主席からは指されないように、目を合わせないように」みたいな感じになっているよね。

農民工はどこに行くのか?

山田:先生がおっしゃるように、習主席は今の経済のことが全部分かっている。とにかく都会に農民工を抱える余裕がなくなってきているんです。

川島:そういうことですね。

山田:だから一生懸命彼らを国に帰そうとしているんだけど、やっぱり戻ってきちゃうんです。それでさまよい始めているんですけど、彼らは一体、どこに行くんでしょうね。非常に私は怖いんです。

川島:だから中国当局は、押さえ付けでしかないんだよね。

山田:押さえ付けるか。

川島:胡錦濤は、彼らにあめ玉をなめさせていけば何とかなると考えていた。和諧社会と言っていたんだけど。今はどうもあめ玉がなくなったんだよね。あめ玉をやっていたらチャイナ・プラス・ワンになっちゃうので、習主席が決めたのはあめ玉はやらないこと。でも彼らは、不満を持っている。どうしたらいいか。警察国家ですよね。今明らかにそちらに進んでいる。

山田:地方の都市をハイテクの町にして、雇用をつくりましょうみたいな報道もちらほらあるんですけど、あれじゃ追い付かないんでしょうか。

川島:一番の例は深センをそうしたいと言っていますよね。深センには確かに優秀な人たちが集まってきていて、中国のシリコンバレーにしようとしている。でも、所詮1000万人ですから。中国は13億人、明らかに数が小さい。

 それからそこがいくら発展しても、本質的には9億人の農民の底上げをどうするかという問題なんです。それに対しての答えにはならないですよ。ほとんどが中卒か高卒なんですよね。

山田:そうですね。「農村はみんなこんなもんだ」と言って、子供を高校に進ませずに働かせる親がいまだにとても多いです。

川島:勉強してないから農民なんです。農民の中でも、すごく優秀なら都市戸籍になれるんです。農民でもチャンスがあるんですよ。小学校で1番、中学校で1番。勝ち抜いてトップになれば、農民でも北京大学とかに入れて、そして都市戸籍を取れるんです。

 だから中国人の中には、貧困は自己責任という感情があるように思います。日本からだとそう見えるんです。私は大学にいて、そういうのを見ているから。だから彼らの心の中では、小さいときに勉強しなかったやつらを、対等に扱うことはできないとなるんです。私はあのときに一生懸命勉強したけど、そのときにいつも遊んでいたんだから、農民だと。徹底した学歴社会です。

山田:中卒で働きに出て、1万元ぐらい稼いでいる内装屋さんが知り合いにいます。まだ20代前半。背中に一面の入れ墨を入れてるんです。彼は中卒で重慶から出てきて、北京にまず行ったらしいんです。そこにしばらくいたんだけど仕事を辞めて、その後、海南島に流れていった。僕は海南島で知り合ったのですが、その彼は北京を離れるときに背中に入れ墨を入れました。要は、ものすごい差別をされたらしい。

川島:ああ、そういうことね。

山田:自分の中で、とにかく生き抜いてやるというしるしですね。背中に入れ墨を入れようが何しようが、根性を出してやるしかない。彼も農民です。


川島:そういう社会ですよね。だから仕事でもとにかく頑張るしかない。

山田:ただ、上海に出てきて住んでいる人たちなんか、とにかく取り壊しが決まって廃墟みたいな格安のところに住んでいる。トイレもなければ、何もない。そういうところでみんなやっているわけです。

 彼ら僕と同世代ぐらいで、自分は小学校を出たかどうか分からない。ただ、自分の子供は大学にやろうと思って一生懸命やっているんです。でも最終的には、田舎の農民はみんなこんなものだからと言ってあきらめちゃう。そういうのを見ているから、もっと頑張らなきゃだめじゃないかとは、とてもじゃないけど言えない。もう十分頑張っている。くじけるのは当たり前だと思います。

反日デモも農民のせい?


川島:都会人と接していると軍人もすごくばかにしているんです。軍人って農民ですから。彼らは軍人にはまずならないですよね。幹部学校には行く人もいると言っていたけど。

 だから武装警官をすごく怖がりますね。あいつら農民だから、頭の中がどうなっているか分からないという感じで怖がる。やっぱりすごい強い差別意識を感じますよ。学生は皆さん都市戸籍で、親は向こうのエリートさんだから。

 それから大規模な反日デモが起きたときがあったじゃないですか。例えば2012年だったか、日系のスーパーなどが被害を受けた。壊したのは、みんな農民工だと言うんだよね。都市戸籍の人は日本なんか襲わないよと。彼らの言い訳かなと思って聞いてたんだけど。

山田:そうですよね。何かそういうことがあると農民工のせいにする。

 あれは2005年に反日デモが盛んに行われたときでした。私は上海の日本総領事公邸やアメリカ大使館のそばに住んでいたんです。軍用のトラックが20台ぐらい私の家の前の道路に集結して、荷台に武装警官をギュー詰めにして市内に散っていったというのを毎日見ていました。話に聞くとあのときは、大学の寮で人が集められる。今日はデモへ行きますからこの寮から何人、この寮から何人といった形で集合をかけられたそうです。

 だから、全くの官製デモですよね。その中に農民工はいませんよ、本当に。

川島:非常に強い偏見を感じるよね。

山田:EXILEって、男性ユニット。彼らのようなEXILE系の男、真っ黒でマッチョでちょびひげな男は中国では人気ないんですよ。色白、ぽっちゃりの方が中国ではいいんです。EXILEって、中国名は「放浪兄弟」という名前があるんですけど、ネットなんかで言われているのは「民工団」。容姿が農民工に似ているから。

 また、バドミントンで林丹(りんたん)という選手がいて、北京五輪、ロンドン五輪と2大会連続で金メダルを獲得した。国民的英雄だったんですが、不倫が見つかってすごく叩かれた。彼もやっぱりEXILE系なんですが、叩かれた途端に、何かこいつ農民工みたいだとバカにされる。そういうところで形を変えて農民工が出てくるんです。

中国経済は20年はこのまま、でもその先は……

川島:非常に強い差別意識だよね。

 でも私は結論に近いけど、農民戸籍の9億人を豊かにすることはできないと思っています。繰り返すけど都市戸籍の4億人は9億人を踏み台にして豊かになった。それが中国の特殊な社会主義。この踏み台を外してみんなで一緒になったら自分たちも貧しくなっちゃう。そのことはすごくよく分かっているんだと思う。

 差別意識もあって、9億人はもう仕方のない人という見方をしている。4億人経済が動いているし、4億人の部分はかなりの部分リッチになった。山田さんがおっしゃるようにすごくグレーなマネーが動いていて、日本に爆買いに来られるようになっちゃっている人たちがいるんだけど、そのマネーは絶対下の方には行かないんですよ。

 でも、農民の人を救おうと思えば、簡単なんですよ。都市戸籍の人の多くの財産というのは都市の不動産に変わっています。中国では固定資産税と相続税がかからない。税率にもよるけど、固定資産税と相続税がかかるようにすれば、今の体系は一遍で変わるよね。そこから出てきた税金で、例えば農民の小学校を建てるなどに回せばいいんだから。全部そこに富をため込んでいるんだから。

 私は、過去30年くらい研究してきて、アジアの発展の中で農地の転用がすごく大きい発展の原動力になっていることを感じています。日本の場合でいえば、農民自身が大きな金を得たケースが多くあります。農民の人が駅前ビルのオーナーになっているとか、駐車場のオーナーになっているとかあるよね。

 そういうところで非常に分散していったんだけど、中国は農民ではなくて、国営公社が取っていっちゃった。アジアでいえば、ベトナムが中国とほぼ同じ構造で動いているんです。中国は農民たちが農地の所有権を持ってなかったというのが決定的にうまくいかないですよね。

 山田さんには悪いけど、アイデアってないでしょう。どうやって彼らを豊かにしていいか。彼らに「どうしたら先生、いいですか」と聞かれるんだけど、今は答はないと言っている。と言っても、このシステムは止められない。

山田:25〜26年前からの知り合いが、今は中国の国家税務総局にいるんです。彼が税金の問題についてはずっと言っていますね。90年代から言っていますが、何の進展もしていない。

川島:中国はほとんどの税金が日本で言うところの付加価値税なんですよね。それで税金の多くの部分を所得税じゃなくて企業から取っているんですよ。多くの部分を払っているのは国営企業なのね。

 中国で大きな税金を払っているのって、水道局とか、ガスとか電気とか、そして今一番大きいのは通信機器業者。普通の庶民が電気代を払う、ガス代を払う、それから携帯を使う。そうすると自動的に税金を取られちゃっているんです、国営企業を通じて。だから中国の貧しい人たちは、税金を取られたと思ってなくても、税金は取られている。スマホを使えば税金を取られる。中国は頭いいよ。

山田:そういうことですね。

川島:そういったところは共産党が胸先三寸でやっている。だから絶対国営企業は文句を言わない。中国の財政ってすごく健全なんです。中国の政府って人民をどう飼いならしていくかみたいなのをよく知っている人たちだよね。

 私は日本人だから農民に同情を寄せるけど、彼らに明日はない。だけど限界が来ているのも事実だから、中国には明日がない、中国崩壊となっていく。都市戸籍の4億人だけでやっているこんな状態はいつまでも続かない。ではどういうシステムにするのかといったら答がない。ただ、前にも述べましたが、少なくとも20年ぐらいはこの状態が続くと思います。

山田:党大会の後に、習近平独裁体制がいよいよ強まりました、みたいな報道があふれる中、中国の抱えている問題が、改めて分かりました。本日はどうもありがとうございました。

20. 中川隆[-13194] koaQ7Jey 2019年1月05日 18:50:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著


▲△▽▼


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976


▲△▽▼


【伊藤貫】米中衝突は起こらない! アメリカが日本を守らない理由[桜H27/11/19]
https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U

アメリカに在住し、アメリカのリアリズムに迫った視点から日米関係を分析している伊藤貫氏をお招きし、「航行の自由作戦」で盛り上がったアメリカ崇拝の虚しさを指摘していただくと共に、アメリカが中国と戦争出来ない理由を、政治資金の供給源や、第4・第5の戦場における均衡状態から解説していただきます。

_____


伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか


【平成30年 年末特別対談】伊藤貫氏に聞く[桜H30-12-30] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=0bwlpoETjxQ


2018/12/30 に公開

多くの災害に見舞われ、国際情勢も大きく動いた平成30年を振り返りながら、これからの道標となり得るような達見を伊藤貫氏に伺う年末特別対談をお送りします。

ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総

▲△▽▼
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▲△▽▼


馬渕睦夫 deep state の世界を語る


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。

▲△▽▼


馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった

・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている

▲△▽▼

馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。

▲△▽▼


馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。




21. 中川隆[-13115] koaQ7Jey 2019年1月09日 11:39:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

ルーズベルトは毛沢東に中国を統一させる為に蒋介石を日本と戦わせた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

22. 中川隆[-12798] koaQ7Jey 2019年1月22日 16:40:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

大躍進政策と文化大革命は宗族を潰して中国を国民国家にする為に行った


中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は自分が属する宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている

特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s

特別番組「宗族を目の敵にした共産革命〜中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Oyg1XmBqWRw


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宗族
古代中国での父系同族集団。

中国の殷から周の時代の社会の基本的な集団となった、父系(男系)の同族集団。本家と多くの分家(小家族)から成り、本家の家父長(族長)が統率し、祖先崇拝という信仰で結びついている。このような宗族の守るべき規範が宗法である。
実際には擬制的(みせかけ)であったらしいが、宗族の結びつきの原理は血縁関係であった。
このような氏族社会の上に周の封建制が形成される。そして、春秋から戦国にかけて、鉄製農具の普及などによって生産力が向上したことが、個々の小家族の自立を可能にし、宗族という氏族社会が解体し、地縁的な村落機構を通して統一国家が農民を支配する形態に移行していく。しかし、中国では現代に至るまで、一族意識は強固に残っている。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_0.html


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中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム – 2018/12/5 石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref

内容紹介

戦争も腐敗も善となる恐ろしい論理を明らかにする。中国史を支配する組織の正体。

戦争も腐敗も善となる
恐ろしい論理を明らかにする

石平氏渾身の書き下ろし。
これを知らずして中国人は理解できない!

やっと私も中国人が分かったと言える

中国史を支配する組織の正体

易姓革命も、対外拡張も、腐敗も
共産党政権の命運も!

■正義派知識人のA教授はなぜ、親族の腐敗を喜んだのか――まえがきに代えて
■第1章 一族のためであれば腐敗は善になる
■第2章 宗族という巨大組織の実態
■第3章 「械闘」に見る一族イズムの恐ろしい本性
■第4章 「共産党VS.宗族」の勝者
■第5章 中国史を動かす一族イズム

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カスタマーレビュー


hij
「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」2018年12月11日

習近平の腐敗摘出によって共産党幹部の収賄の恐るべき実態が明らかになった。元
政治局常務委員周永康の場合、差し押さえられた資産総額は何と900億元(1兆4900
億円相当)というからすさまじい。本人だけでなく、妻、息子など親族、腹心の部下
もグルになって収賄三昧の日々を送るのが中国の流儀である。これを「全家福」を
もじって「全家腐」という。(習近平自身も同じ穴の狢である。)

周永康ら腐敗幹部にとって掌中の政治権力を家族の収賄に使わせるのは家長として
の当然の義務であり、この義務を果たすのは美徳である。家族の利益より公の利益
を優先する者は、中国社会では変人、馬鹿者呼ばわりされる。家族や一族のために
公益を損なってもよいという異質な家族観を著者は「一族イズム」と呼ぶ。

中国には家族のほかに腐敗の共同戦線ともいうべき「圏子」(チェンツ)という利益
共同体がある。もし圏子の誰か一人が摘発されると同罪の幹部が芋蔓式に摘発され
ることになる。

一族イズム、圏子文化の源流は中国独特の「宗族」である。宗族とは先祖を共有す
る父系同族集団である。何世代も続くうちに世帯数は数百、数千になり人口は数千
になり、万を超えることもある。宗族は族会を組織し、族長を選び、祠堂をつくり、
祭祀をおこない、族譜を編纂し、族産をつくって子弟の教育、弱者の援助、救済を
おこなう村における小国家なのである。

共産党が政権を取ったとき、毛沢東は宗族を「諸悪の根源」とみなし、方々の村で
村のゴロツキを使って地主を殺し、土地を貧農に分配し、財産を奪った(「一村一
焼一殺」)。地主、郷紳が消えて宗族組織は分解した。宗族に代わる組織として共
産党が編みだしたのが人民公社であったが、人民公社の時代に伝統の宗族がひそか
に復活してきた。宗族勢力は、祠堂をつくり、族譜を編纂した。一族イズムはケ小
平以後の中国において中国人の共通した行動原理となったのである。共産党が潰し
たはずの宗族の行動原理がいまや共産党幹部までを支配するようになった。宗族は
永遠不滅なのである。

本書は中国出身の著者ならではの観察がたいへん参考になる。共産党幹部の収賄の
手口などもいろいろ書いてあって興味深い。

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じゃぐぁ
あの大陸で近代国家が生まれない理由 2018年12月31日

近代国家とは、法が支配し、嘘をつかない国民が、必要に応じて公のために力を尽くすものであろう。
正式な定義は知らなくて良い。この本で書いてあるような内容を否定すれば、すなわち近代国家である。
敵を知り己を知るための一冊として、是非若い方に読んでいただきたい。
「宗族」と呼ばれる一族の論理が最優先で、「械闘」と呼ばれる一族間の争いには全員参加、一族以外は皆殺しにしても罪悪感を感じることのなメンタリティを知ることができる。
一度は共産党が潰した宗族が、人民公社を通して生き残り、現在も変わらず影響を及ぼすに至る過程を詳細に書き表した本書を、是非読むべき。

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アキレスの踵
5つ星のうち5.0
福沢諭吉の遺言 中韓には関わるな2018年12月25日

イギリスはヨーロッパ大陸に領地を持っていた時代がありました。しかし当時のヨーロッパ大陸は動乱の嵐が吹き荒れていて、その影響がイギリス国内にも及んだため、イギリスの国内政治も安定することはありませんでした。しかし無能な国王が何代か続いた時期に、イギリスはヨーロッパ大陸から撃退されて領地を失い、島国に閉じこもる羽目になってしまいました。そうしたら初めて国内の政治が安定するようになり、国内にエネルギーが蓄積され始め、後世の大発展の基盤を作ったのです。

日本の歴史を見ても、大陸諸国との関係にのめり込んでいって、うまくいった試しは一度もありません。ただの一度もです。これは大陸と島国とでは、地政学的な立場がまるで異なるからでしょう。大陸の文化は重厚ですから、惹かれる気持ちはよくわかります。しかし惹かれるのは当人の勝手です。明治以来、中国に心酔してそこで生涯を全うした人は何人も出ました。当人はそれで満足でしょうが、母国で生きる同胞を巻き込んではいけません。母国が島国であるという地政学的立場を忘れて、大陸諸国との関係にのめり込んでいくと、戦前、ドイツとの関係に深入りし過ぎた失敗をまた繰り返すことになるでしょう。

そもそも島国に政権をつくるのは、大陸から独立するためです。サハリンを考えてみればわかるように、大陸から独立しないのなら独自の政権などつくる必要はありません。つまり島国の政権は、出発時からすでに反大陸という基本的性格を備えています。この体質に反するようなことをやれば、当然そのツケは廻ってきます。

日本と相性がいいのは同じ島国の海洋型国家で、イギリス・台湾・東南アジア諸国です。相性が悪いのは重厚長大型の大陸諸国で、中国・ロシア・ドイツです。「同じアジア」というスローガンにだまされてはいけません。戦前の日本軍が中国大陸に軍事的にのめり込んだのも、現代の日本企業が中国に深入りし過ぎているのも、後世の歴史家たちから見れば、本質的に同じことだと判定するかもしれません。もちろん大陸諸国と全くつきあうなという意味ではありませんが、どれだけ深入りするかは、自国の国益から判断しないといけません。歴史から学ぶべき教訓とは「日中友好」ではありません。「大陸諸国との関係に深入りするな」ということです。

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アマゾネス
日本人とは永遠に分かり合えない理由はここにある。2018年12月30日

石平さんの様々な解説のおかげで、大陸の連中の脳内がどうなっているのかよく分かるようになりました。今回は彼らの国家観です。中華人民共和国という国としての組織の事はぶっちゃけどうでもよくて、身内親戚さえ良ければ何してもいいという、未だに部族社会だという衝撃です。アメリカも州毎に別の国だという認識で、ニューヨーカーがカリフォルニアに海外旅行してきたぜと語る、なんて小話もあります。それよりもっと細かく一族単位でチャイナ人は考えます。なるほどだから北京料理と四川料理は全く別の国の料理だと騒ぐわけです。更に身内の利益になる事だけ考えるから、中央政府や日本などの外国企業から賄賂を抜き取る工作に腐心するわけです。外部から奪い取った賄賂を身内にばら撒くことで身内が潤うんですから。そこに公の利益とか人様に迷惑をかけない道徳とか全く考慮にありません。この視点でチャイナを眺めると項羽と劉邦も、三国志も、全く同じ考え方で貫かれてます。驚くべきは21世紀の現代も未だにやっているということ。国家レベルでも皇帝習近平と他の宗族との勢力争いです。

こんな人達ですから全く話が通じるわけがありません。また言い切りますが民主主義体制というのも彼らには適用できません。民主主義を運用するには、国民の高い民度、国家としての合意が必要だからです。一族単位で固まってるような考えでは、民主的な国家運営なんかできるわけがありません。だから、皇帝を頂点とした独裁国家でないとチャイナは統治できないんです。アメリカはよく独善的に民主化を進める〜なんてやってますが、民主主義はすごく運用が難しいので、世界の大半の国では無理です。チャイナはそんな感じなので、経済的に取引してる方などはその辺を理解した上で対応した方がいいでしょう。独特な部族社会の考えを利用して利益を得るなどの狡猾さが必要だと思います。

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fms
習近平の「民族の偉大なる復興」の真の意味が理解できる一冊。これを実現させてはならない!2018年12月13日

中国における”宗族”の発生・解体から、”人民公社”までの成り立ちの仕組み・歴史を丁寧に説明してある。
そして、実質的な”宗族”の復活については、ケーススタディとして、2例を取り上げて、詳しく解説している。
最後は、”人民公社”の廃止まで解説してあります。

私は、いままで全く理解できなかった中国人の思考回路が、やっと理解でき、納得できるようになりました。
この中国シナ人独特の思考を理解せず、彼らと商売をすると、たぶん、大変なことになります(実は私もひどい目にあった一人です)。

本書に書かれているのは、中国ですが、私には朝鮮も同様のメンタリティを持っているような気がします。

すばらしい力作と思います。

中国人を相手に、交渉をする方には、読んでおいたほうがいい一冊です。

https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref


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中国とは何者か?〜宗族と幇〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

中国人の特徴として、『自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁、人間不信、土匪国家、危険な「友好」』などが挙げられている

そしてそれらの特徴を解明する切り口のひとつとして『中国人は同族集団(身内)には寛容で、外部に対しては何でもあり』という甚だしい二重性があることが指摘されている。
それらの中国人の気質を形成してきた大きな要因は、中国特有の社会構造にある。今回のエントリーでは、中国固有の社会的結合と言われる、宗族(そうぞく)と幇(パン)という集団に焦点を当て、その中から中国特有の社会構造や意識構造を見ていきたい。


<宗族とは何か?>
中国では姓を同じくする父系の相続集団を『宗族』と呼ぶ。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、本家を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制の元で共通の祖先への祭祀を通じて、常に一族集団の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが「宗法」であり、これに基づく道徳的規範が「礼」である(ちなみに儒教はこの宗族の規範を土台としてそれを体系化したものである)。
この宗族という集団は、概ね周の時代に確立する(BC1000〜BC750年頃)。宗族の起源は元々は母系の氏族共同体であったと思われるが、それが歴史のある段階で、父系の宗族(大宗)へと転換していったと思われる。そして小宗の登場は支配階級における「姓氏制度」の確立と密接に連関している。姓氏制度のうち「姓」は母系の血縁集団を基礎としている。これが大宗にあたる。それに対して「氏」とは同じ姓の成人男子に、所領や地位が与えられることによって発生する。つまり氏とは成人男子の社会的身分を表しており、これが小宗を形成している。

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祖先を祀る宗族の会合 写真はこちらからお借りしました。td>

ただし後述するように宗族は周の時代には「宗法」や「礼」という観念規範を強固に定めているということ、あるいは氏の出現によって氏族の共有制が崩れ父系制家族による私有制が制度化されていったということ、これらのことは制度としての宗族や姓氏制度の確立と戸同時に、氏族の規範が解体され、宗族の解体へのベクトルがすでに開始されていたことも意味する。
事実、周の後の春秋戦国時代に生じた群雄割拠を通じて旧支配階級は所領や地位を失い、支配階級において氏は無意味化していく。
そして、そればかりではなく宗族の結集軸である祖霊信仰も春秋戦国時代以降弱体化していく。このことは宗族そのものの持つ集団私権力が弱体化すれば、血縁集団さえも容易に解体されていくことを示している。
中国の歴史上、庶民(農村)においては確かに宗族が社会構造の基底部を形成していることは一面の事実である。例えばよく用いられる例として、同じ宗族から科挙合格者などのエリートを輩出すれば一族郎党にその恩恵が及ぶため、宗族の期待を一身に集めるという話はごく一般的な話である(村落ではなく宗族であることに注意)。
しかし支配階級においては、この宗族は祖霊信仰とともに権力闘争の基盤上、二義的なものに転落して言ったという事実も同時に押さえておかなければならない。
このことが、中国人は集団的であると同時に個人主義的であるといわれる、社会構造的な基盤を形成している。
<幇(的な結合)とは何か?>
他方『幇(パンもしくは、ほう)』とは何か?それは、一言で言って利益集団である。
幇には秘密結社的あるいは紅幇(ホウパン)・青幇(チンパン)などのマフィア的な組織である「幇会」(パンフェ)から、公然組織的な「幇派」(華僑社会における地縁・血縁を土台とした組織や業界団体・職能団体に至るまで)などさまざまな「幇」が存在する。
そして現在の「幇」組織の起源は清の時代である18世紀が起源といわれている。
しかし、この幇(的な組織)は中国の歴史上何度も登場したり消滅したりしてきたので、必ずしもそれが幇(的な組織)の起源とはいえない。
例えば遡れば、華僑そのもの(一種の利益集団)も南北朝時代の3世紀ごろの移民(おそらく戦乱に追われた亡命者や難民)を起源とするといわれているし、秘密結社的なものという意味では、歴史上判明している範囲でも182年の黄巾の乱において宗教的秘密結社が既に猛威を振るっている。黄巾の乱は秦朝の時代に兵役で農村から駆り出され、除隊してからも帰るべき家や耕すべき田畑を持たない兵士上がりの貧民たちの相互扶助組織が基盤となったといわれる。
この黄巾の乱を始め、中国の歴史は地域豪族、有力商人、知識人が農民を巻き込んで起こす全国的反乱が際立って多いことが、その特徴である。そしてそれらの多くは宗教的な秘密結社の形をとっており、それがそれらはしばしば時の王朝を揺るがし、転覆に至らしめている。

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太平天国の乱を主導した洪秀全 紅幇と青幇

写真はこちらとこちらからお借りしました
その意味では客家(ハッカ)もそのような利益集団(あるいは半秘密結社)の代表的なものの一つと言える。
黄巾の乱から始まる400年間の争乱によって中国の人口は1/10以下に激減する。そしてそれ以前に中原地帯を制覇していたもともとの漢民族は、ほぼ滅亡する。そしてその際各地に逃げのびた旧支配階級の末裔たちは中原発祥の「正当中華文明」の再興を目的として再結集を計る。これが客家の起源といわれている。
この客家に属するといわれる、主だった具体的人名を挙げてみよう。
清代における太平天国の乱を主導した洪秀全、孫文、朱徳、ケ小平、李登輝(台湾総裁)、タクシン(もとタイ首相)、リーファンユー(シンガポール初代首相)等々、中国及び華人社会において国の変革(ないし政権転覆)を主導した人物の名前が綺羅星の如く並ぶ(リンク)。

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ケ小平氏 元台湾総裁 李登輝氏

それぞれ写真はこちらとこちらからお借りしました。
この客家の起こした反乱も含め、中国史の特色は、農民が武装解除されず古代より農民を戦闘員として組織していること、(秘密)結社=人工的利益集団の力が以上に強く、それがしばしば中国の歴史を動かしてきたことにある。その意味では中国史は正規軍の戦いだけではなく総力ゲリラ戦の歴史であり、それらの争乱によって歴史の1/3は非統合状態にあったというところにある(毛沢東率いる共産革命もその一つの典型に過ぎないという見方は十分に可能である)。
しかし、問題は、中国ではなぜこのように秘密結社や人工集団が、異常に繁殖し力を持つてきたのかということにあり、農民側の宋族がなぜここまでに戦闘的(他集団と敵対的)であるのかという点にある。
その理由のひとつが、異民族支配(モンゴル系やツングース系等)の歴史が長く、農民が治水灌漑等の理由で強制移住を繰り返させられてきたこと。それによって地縁的結合はバラバラに解体され、解体されないまでも異郷の地で周辺農民からよそ者として孤立状態を強いられてきたことがあげられよう。争いが絶えずいわば根無し草になった人々は、血縁である宗族や利益集団である幇へと結集するしかない。このことが中国人が身内(宗族や幇)に対して寛容で他集団に対して敵対的(ないしは利用対象でしかない)中国人の二重性の基礎を形成している。
しかしそれらも含めてもっと根深い理由があるように思われる。利益集団の強さは盗賊や海賊が形成したといわれる古代ギリシャやローマと共通したものがある。また中国の中原は東西南北の交通(後の草原の道、シルクロード、海の道)の交わる要所にあり、その制覇をめぐって諸勢力が激突を繰り返してきたという歴史的構図も見て取れる。
最後の問題は、各集団が相互に敵対的でありかつ著しく攻撃的な民族体質の源泉は何によって形成されたかにある。その要因を更に中国の歴史を紐解く事で解明していきたい。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

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【中国】中国人の特徴@ 〜自己中心、ご都合主義、独善〜 11/04/05

白人(欧米人)の意識構造の解明に引き続き、今後、中国人(漢人?)の意識構造の解明に入る前提として、中国人の特徴を固定してみます。

以下、『中国が嫌われる七つの理由リンク』より抜粋
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/hitori050501.htm

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1.自己中心

「自己中心的である」を略して「自(ジ)己(コ)中(チュー)」などと呼ぶが、こういう人間が好かれることはまずない。中国人はまさにジコチューが国民性といってよい。そしてそれが国家規模に拡大され、自国中心主義になる。「中国」という自称がその最たる証拠である。

中国人は古来、近隣国を蔑視してきた。この蔑視観は、文化の違う人々を人間と見なさないほどまでに強い。その優越意識はアパルトヘイト以上である。その証拠に華人以外はみな禽獣として、民族名称には獣へんや虫へんのついた漢字を用いて書いた。盛唐時代の代表的な知識人である韓愈は、著書「原人」で、夷狄のことを「半人半獣」とし、獣より進化したと評した。作家の魯迅は「中国人は人間を人間とも思わない」と、中国人の国民性を批判している。

西欧諸国が清国に対して通商要求をするときに、どうしても耐えられなかったのはあの屈辱的な「三脆九叩」の礼をさせられることである。アヘン戦争終結後の一八四二年、外国人を夷狄あつかいする清国に対し、イギリスは南京条約第一七条でわざわざ英国を「英夷」と呼ばないように規定した。それでも中国が守らないので、一八五八年、アロー号事件後の天津条約の締結のさいに「夷狄」呼ばわりしないことを再度明文化させている。清末に中国人と接した外国人のほとんどがその傲慢さに苛立ち、イギリス通商特使として北京に派遣されたマカートニーは逆に中国人を「半野蛮人」と呼んだ。イギリス公使兼香港総督J・F・デビスは中国文明を「半文明Lとみなし、初代総税務司のN・レイに至っては「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した。こうなると、中国人とイギリス人のジコチューくらべである。


2.ご都合主義

ジコチューは自分の都合に従って行動する。したがってご都合主義が普遍化されるのである。他人の都合や思惑は二の次、三の次というより、最初から考慮されていない。政治の流れを見ても、一九五〇年代、「向蘇一辺倒」などといわれ、ソ連と蜜月の関係を結んでいたにもかかわらず、六〇年に入って突然「ソ連修正主義反対」、「ソ連社会帝国主義打倒」のスローガンを掲げて豹変した。そして六〇年代、日米安保、アメリカ帝国主義反対を唱え、旧日本社会党と共同声明まで出した中国は、七〇年代に入るやある日突然、日米安保賛成、反ソ親米に急変した。

このとき日本の旧社会党員は肩すかしを食らい、いわゆる進歩的文化人はどれほど困惑したことだろうか。日本にかぎらない。文化大革命を礼賛した世界の文化人たちは、文革収拾とともに、文化大革命そのものが「動乱の十年」となって評価が逆転して、中国人の敵として振り落とされていく。中国人のご都合主義についていくのはたいへんなことである。

戦後、日本の世論は「中国人とは、原則を重視する民族」という神話を信じていた。それは中国政府がいつも「平和五原則」「周恩来四原則」「日中三原則」と原則ばかりを唱えていたので、つい幻惑されたためであろう。実は、これは原則ではなかった。偏執、強情、拘泥を「原則重視」に読み間違えたのである。ジコチューの中国は、原則(建前)と本音を実にうまく使い分ける。
人治国家の中国では、法はあっても自分の都合で利用したり、無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は中国人の独断にふりまわされ、最後にはノイローゼになってしまう人までいる。


3.独善

仏教と儒教は中国から朝鮮を経由して日本に伝えられた。宗教が共通なのだから、精神文化も共有しているように思えるが、根本となる死生観がまったく異なっている。日本人は「死ねば神」「死者悉皆成仏」といって、死後にまで生前の利害や怨恨を問わない心を持っている。だが、中国人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧し、日本の総理の靖国神社参拝にまで政治的に干渉してくる。

中国の内政干渉は靖国問題にとどまらない。歴史教科書、政府高官の発言、南京事件の評価、日本の生存権問題に属する日米安保、憲法改正論議、ダライ・ラマや李登輝前台湾総統の訪日、航空会社の空港使用、ホテルでの国旗掲揚など、ありとあらゆることに干渉し、外交問題にしようとする。

かつてテレピ朝日の二ュースステーションで、キャスターの久米宏がチベットに関して発言した内容に中国が圧力を加え、翌日の放送で中国に対して謝罪した事件があった。同じように、テレピ各社の中国特番で、中国政府と協力して制作されたものであるにもかかわらず、放送後、中国の一方的な抗議を受け、公開謝罪させられたケースが何度もある。中国の独善的な思惑の押しつけは、日本に対してだけではない。世界のいたるところにおよんでいるのである。

たとえば、旧西ドイツやデンマークなどでチベットの人権侵害問題をとりあげる議会に圧力をかけ、決議をしたら報復すると恫喝した。また江沢民主席はかつてスイスでデモ隊に遭遇したときに、迎えに出たスイスの首相に対し、自国の管理もできないのかなどと、いちじるしく礼を失する発言をしたことがある。アメリカに対しでも同様の干渉を加える。李登輝が総統の座にあったとき、卒業したコーネル大学の訪問のために訪米を申し入れたことがあった。アメリカの上下両院が李氏の訪米を受け入れる決定をしたにもかかわらず、中国はこの決議に関しても「誤った決議」だとして反省を求めたのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248775

4.責任転嫁

「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。

私は台湾で生まれ育ったが、小中学校時代に、近代中国が貧困・落後したのは列強の侵略と清朝の腐敗、軍閥内戦に原因がある、と教えられた。中華人民共和国では、それがすっかり国民党政府の責任にされている。

また、文革が終焉すると、「動乱の十年」の責任は全部四人組のせいにされた。毛沢東の過ちに触れられることは決してなく、あれほどの社会的混乱の責任をすべて四人の政治指導者に押しつけたのは、裏返せば、中国人の破廉恥な無責任意識のなせるわざである。改革開放になると、急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行するようになった。これはある意味で当然の結果である。こうした無秩序は中国本来の姿であり、百年変わらぬ国民性の復活にすぎない。ところが中国はそれを認めず、資本主義の精神汚染だと決めつけ、今度は「社会主義新文明を創造せよ」と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている。資本主義のモデルについていくだけで手一杯だというのに、何主義だろうと新文明の創造などできようはずがない。

西欧文明が東アジアに大きな影響をおよぼしたのちの中国人の不幸、落後はすっかり西欧のせいにされてしまったのである。近代中国の没落はアヘン戦争以後、すべて列強の侵略の結果に帰され、中国自身にどんな問題があっても、それに目を向けることはない。こうした責任転嫁は、中国文明の優越性に対する固執の表れともいえる。自己の無謬性の過信によって独善的となり、ことに日本人のような自虐的な国民に対しては、反省や謝罪を要求することをやめようとしない。明末、異端の儒学者といわれた李卓吾は、その著書『蔵書』の中で、中国人についてこう指摘している。「いかに自己礼賛するかについては苦心惨憺するが、自己批判についてはまったく関心を持たない」と。最近、中国駐在の日本人商社関係者が中国人気質について調査をし、以下のような中国人像がまとめられたという。

「絶対自分の非を認めない。それは中国人が責任感の意味を知らないというよりも、失敗を他人のせいにする習性があるからだ。もともと、中国は熾烈な競争社会であり、責任をとる段になったら、なるべく自分の身にふりかからないようにしなければ生き残れないからだ」


5.人間不信

中国人は国家を信用していないばかりか、社会も人間も信用していない。妻さえ住用しないのは、もともと他人だからとしても、血のつながった親子や兄弟でさえ信用できないのである。毛沢東の極左政策の時代に、「父母よりも毛主席が親しい」と言う言葉が流行り、当時は中国社会の砦とも言うべき家族まで階級の敵と目され、子が父を告発することさえ頻発した。劉少奇や林彪は、政敵ではなく我が子に密告され、一人は獄死し、一人は逃亡する途中で死亡したのである。

中国のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがある。一人で廟に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味である。この人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達した。孫子は「兵は脆道なり」と言った。つまり戦争は詐欺の道だというわけである。中国人気質の最大の特色も「詐」にある。中国人は「詐の民」だという人もいる。親は子に対して「人にだまされるな」と教育し、常日頃口うるさく教えている。

戦後、日本人は中国人の詐欺ぶりを目の当たりにして驚愕した。偽残留孤児、偽難民、偽装結婚、偽造パスポート、闇銀行、偽造卒業証書、偽造プリペイドカード……。自分の利益のためにはどんな物でも平気で偽造するし、どれをとってとも日本人の想像を絶するものばかりだ。

世界中で今大きな問題になっているのは、中国の偽ブランド品である。知的所有権の盗用は別としても、薬、タバコ、酒、食品など、人が健康を害したり、悪くすれば命を落としたりしてもおかまいなしに、どんどんコピーをつくってしまうク中国政府は「打仮運動」と称して偽ブランドの追放キャンペーンを行っているが、効果はまったくない。現在の中国は、公金横領、賄賂横行、汚職天下の国であり、偽物天国である。今日も中国のどこかで偽プランド品が製造され、世界にばらまかれている。

嘘でぬりかためられた人間不信の社会の中で、中国人は上から下までだましあっている。政府はマスコミを通じて民衆をだまし、民衆は面従腹背で良民を装いながら国家を食い物にする。中国人社会で詐欺師が暗躍し、偽物が氾濫するのは当然なのだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248776

6.土匪国家

この数年来の日本における中国人犯罪の急増はいまや常識といえる。実際、外国人犯罪者の半数以上が中国人犯罪者で、新手のピッキング強盗となるとほとんどが中国人の手によるものである。石原慎太郎都知事も、この類例を見ない凶悪犯罪を新聞で指摘しているし、ある自衛隊関係者は、警察署に収容された中国人に提供する食事の一食分の経費が、自衛官のそれよりも高いことをぼやく有様だ。

日本ばかりではない。世界の多くの大都市が中国人密入国者の問題に悩まされている。シベリアヘの中国人密入国者は年間五十万人にのぼるという信じがたい数字も出ている。蛇頭の年間総収入は世界の麻薬密売の収入の数字をとうに超えている。

中国人が海外流出すると、流出した先で社会が大きく変化する。台湾の生活環境の変化は、その代表的な一例である。台湾は戦時中、疎開して家を離れても物が盗まれることがなかった。しかし、戦後、四十万の日本人が台湾から追放され、代わりに二百万の中国人が大陸から流入すると、台湾はたちまち泥棒の国と化した。泥棒の多さは高層ピルの上階でも窓に鉄格子がはまっていることが如実に物語っている。あの特異な建築群の景観は、泥棒のせいなのである。台湾では「中国人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。

九四年、中国の浙江省杭州の千島湖で、台湾入観光客二十四人を乗せた遊覧船が湖上で強盗にあい、全員が船室で焼き殺された事件があった。台湾では有名な事件である。当時の中国政府はこの痛ましい事件が強盗殺人事件であったことをひた隠しにしていた。李登輝総統は激怒し、中国を「土匪国家」だと非難した。

中国が「土匪国家」であることは、歴史的にも知られている。清代の乾隆帝時代、英国の通商使マカートニーは、『奉使記』の中で沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。中華民国初期は、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」と言われるほどで、賊の数は推定二千万人、軍隊より多かった。その当時、上海や満州の各都市では公共パスに武装兵士が最低二人同乗していた。そうでなければ安全が確保できないのである。現在でもいたるところで「車匪路覇」に注意を呼びかける看板がかけられ、改革開放後の中国を特色づけている。九〇年代、匪賊との銃撃戦で殉職した警官は毎年二千人あまりにものぼる。


7.危険な「友好」

親善、好意を示す「友好」という言葉は、本来嫌われるはずがない。だが、中国人との「友好」だけは別である。新聞やテレビなどのマスコミは、米、英、仏、独と日本との大人のつきあいには普通「親善」という言葉を用い、「友好」というキャッチフレーズを使うことはあまり見られない。だが、中国に関するかぎり、なぜか「友好」という言葉が使われ、日中交流の専門用語のようになっている。

戦前、戦後を通して、日本と中国は「友好」と「非友好」に二分されていた。一時、中国との関係はもっぱら「友好人士」や「友好商社」という、中国からお墨付きをもらった一部の日本人に独占されていた。一九七二年に日中国交正常化がなると、日中間の交流は「友好人士」の独壇場でなくなり、やがて「子々孫々にいたるまで」という形容がつけられて「友好」が強調されるようになった。普段、人間不信の社会で生きているので、中国人は人間関係についてことさら「友好」を強調しないと不安に襲われる。

しかし、中国を相手にする側にとって、中国が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。その理由は「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、中国流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。

「友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。それは歴史を振り返ればわかる。たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。

だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248779


▲△▽▼


広東省農民「オラの村が隣の村との戦争で焼き打ちされたんだが…」 
2010-05-16 11:52:14 |

広東省・福建省ネタ2003年ごろ、大学で上海人の学生と知り合った。
当時、卒論で中国の農村を調べようかと思っていた俺が
彼に何か面白い話はないかと聞くと、こんな答えが返ってきた。


上「中国の農村はヤバい。俺たち都会の人間は、
  農村で人を轢いても現場で車を止めるなってことになってる。
  すぐに現場を離れて隣の村まで行ってから、警察に電話するんだ」

俺「なんですぐに助けないの?」

上「助けたいのはやまやまだけど、後が怖いんだよ。
  村人がワラワラ寄ってきて、轢いた人間をリンチして車をボコボコにするんだ。
  その場を離れないと自分の命が危ない」

俺「……そう」


話を聞いた当初、上海人はここまで農民への偏見を持っているのか、と
ちょっと不愉快になった。

だが、後にいろいろと調べてみると、どうやら彼の話はネタではなくマジなのだ。
中国南方の農村(特に広東と福建)は、非常にバイオレンスな顔を持つのである


事件の舞台は中国のディープサウス、広東省最西部。

東山鎮の脚踏村(あしぶみ村)という、名前からして田舎テイスト溢れる村だ。
場所は下記であり、瀬戸内海に浮かぶ旧水軍根拠地の村のような地域をイメージすればいいと思う。  


ちなみに、事件に関わる地名は「広東省湛江市東山鎮脚踏村」及び同「調文村」だが、
これは日本の地名に置き換えると、それぞれ

広東省 湛江市 東山鎮 脚踏村
     ↓
●●県 ××郡 △△町 大字○○

こういう感じになる。


今回の事件は脚踏村と調文村の戦いだが、
つまり大字の町内会レベルで焼き打ちとリンチを繰り返している訳なのだ。

さらにすごいことに、両村の村人がネット上にも事件を持ちこんで
互いに荒らしと叩きに明け暮れている模様である。


械闘が盛行する18世紀と、ネットを駆使する21世紀が同居。
あまりにもカオスすぎる現代中国の農村。
それではご覧ください。


―――――――――――――――――――――――――――――――

【湛江市東海島東山鎮脚踏村、1.28事件の真相告発!】
原題:「湛江市東海島東山鎮脚踏村1.28事件真相!」湛江板
http://tieba.baidu.com/f?kz=709201131

  ※スレ内では、脚踏村の行為やその側の人間の発言をピンク、調文村の好意や発言を緑で表示することにした。


湛江市東海島東山鎮脚踏村で発生した1.28事件は、
更なる暴力事件である2.3事件を引き起こし、
脚踏村の村人の家庭59戸の家屋と家産が悲惨な破壊を被った。

なかでも村人の家5戸は屋内の現金がすべて持ち去られ、
一部の家屋は白昼堂々と焼き打ちにあった。
売店1軒は略奪し尽くされ、無辜の村人3人が殴られて重傷だ。


事件の詳細:

1月28日早朝、
脚踏村の村人が車列を組んで新婚の花嫁を迎えに行って村に戻る際、
東山鎮の調文村出身の新郎・唐某という人物と一悶着があり、
婚姻の車列に参加していた数人の脚踏村の村人が
唐某を殴りつけて重傷を負わせた。


1月29日、
脚踏村の無関係の村人が用事で村の外に出た際に、
事故があった調文村の村人が三叉路まで彼を追跡し、
調文村へと拉致して殴りつけて重傷を負わせた。


2月1日、
(先日、脚踏村の村人に殴られた)調文村の村人・唐某が病院で死亡。
村の不良分子が他の村人を扇動し、白昼堂々と
東山鎮の中心部にある脚踏村民が経営する薬局を襲撃して破壊した。店はほぼ全壊。


2月3日午前、
調文村の数百人の暴徒が組織的に2隊に分かれ、
暴徒の1隊は東山鎮中心部の脚踏村民が経営する店舗をすべて破壊(計3店)。

もう1隊(約200人)は脚踏村へと攻め込み、
罪もない村人を殴りつけ、用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
無数の家屋を打ち壊した。

現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。


現在、調文村の暴徒は尚も現地の主要交通路をバスで封鎖し、
外に出ようとする脚踏村の村人と思われる人間を殴りつけている。
政府と天に対して敵対行為をおこなっているのだ!

1.28事件から2.3事件にかけての負のスパイラルの結果、
現地の警官が村人の安全と財産が残酷にも破壊されるのを
現場で目の当たりにし(つつも何もできず)、
政府の関係部門は社会の秩序を守るという威信を失うこととなった。
現地の治安は大地震の後のごとき無政府状態だ!


1月28日にはリンチ事件から被害者が死亡し、
さらに続いて脚踏村の無辜の村人が暴力を受けて重傷を受け、
村人が経営する店舗が破壊と強奪を受け、
2月3日には暴徒が村に攻め込んで悪行の限りを尽くす。
現地の警察は解決能力が無く、片目をつむって見逃して暴徒のなすがままだ。


正義はどこにある!
政府はどこにあるんだ!!


5 名前:名無し人民@ヒャッハー!
野蛮すぎるだろ。


9 名前:名無し人民@ヒャッハー!
無辜の村人たちの為に、政府が(この混乱を)正しい道に戻してくれるよう願う。

  ※前時代的な暴力のカオスに対して何らかの対応を示せるのは、やはり前時代的王朝たる「お上」なのかもしれない。
   中国の農民の認識として、この発想はあり得るところかと思う。


10 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>6
政府が正しい道に戻したとして、死者はどうなるよ?


13 名前:名無し人民@ヒャッハー!
これは貴様ら脚踏村の村人が報いを受けたのだ。
天知る地知る、って知っているか?

  ※対立する調文村の村人による書き込みと思われる。


14 名前:名無し人民@ヒャッハー!
死者は無辜の被害者だぞ…。
なんで法律で解決しないんだよ…。

まさか脚踏村の無関係の村人まで責任があるって言うのか…?
今度は脚踏村の村人が調文村の村人を襲撃することだってあるかも…。


15 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>14
カマトトぶるんじゃねえよ


17 名前:名無し人民@ヒャッハー!
みんなダメだろ。
村人は無辜の被害者だが、全ては起こってしまった。
人も死んだ。
村も荒らされた。

どうしようもない。


19 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
>無数の家屋を打ち壊した。
>現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
>暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。
これは道理が許さない。
政府が罰してくれることを望む!

  ※脚踏村の村人による書き込みかもしれない。


20 名前:名無し人民@ヒャッハー!
当時の状況を知らない人間が、何の権限があってこの事件を批判するんだ。

死んだ唐某は幼い頃に父を亡くして
兄妹数人とともに女手ひとつで育てられた。
彼の母さんは大変な思いで育てたんだぞ。


唐某だって結婚をしたかったんだ。
家は貧乏だったかが、家族がみんな一緒なら幸せだと言って暮らしていた。
なのに、まさか恋人を家に送った帰りに、恋人の村(脚踏村)の
騒ぎ好きの不良どもから殴り殺されるとは。

唐某はなにも悪いことをしていない。無実だ。
彼が半死半生の目に遭うまでリンチされた件、こちらにこそ道理があるのか?


唐某の死は無念だったと思わないか?
もちろん、唐某の村の人間がとった行動は間違っている。
これでは更に多くの無辜の人間を傷つけることになる。

とにかく、感情的にならずに正しい方法で解決してほしいと思う。

  ※最初に殴り殺された唐某について、>>1とやや異なる情報が載せられている。
   おそらくは調文村の村人の書き込みだろう。

   おそらく、調文村の唐某は脚踏村の女の子と付き合っており結婚。
   だが、もともと村同士の仲が悪かったかして、唐君は結婚当日に脚踏村の村人により撲殺されたのだ。

   (中国では結婚式の際に、知り合いが新郎新婦にいたずらをする「鬧房」という習慣があり、
    その悪ふざけの過程で誤って新郎を殺した可能性もある)

   そして、新郎側の村はリベンジのために脚踏村を襲撃した…、というわけである。


22 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>19
>これは道理が許さない。
お前たち脚踏村の娘は、これから外の村に嫁に行けると思うなよ!
お前らの村の娘を嫁にしようとしたら、新郎が村人に殴り殺されたんだ!

野蛮な村人どもめ!
こんな村には、今後は誰も行きやしないさ!!

  ※調文村の村人による書き込みだろう。


25 名前:名無し人民@ヒャッハー!
(脚踏村と調文村がある)東海島の島人はヤクザみたいに言われているけれど、
どうやら噂は間違いないようだな。

こんなに常識の通じない地域は、
放置して勝手に殺し合いさせておけばいいと思う。


27 名前:名無し人民@ヒャッハー!
法治社会ではこういう事件は法律によって解決される。
だが、調文村の村人は集団で脚踏村に攻め込んで
(日本軍のような)「三光作戦」を実行した。

これは旧社会的で野蛮な行為だ!!


29 名前:名無し人民@ヒャッハー!
犯罪を犯したんだ。
お前らの子どもに至るまで略奪し尽くしてやるぞ。

唐姓の人間を許さない!!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。
   中国南方の農村では、村が丸ごと同じ一族…という場合がある。
   (そのため、1人の体面を傷つけると「一族の恥」ということになり、こういう復讐が行われる)。

   最初の死者・唐某の出身地である調文村は、おそらく唐氏一族の村。
   ゆえに、脚踏村の村人は唐氏の一族郎党を憎むに至るのである。


47 名前:名無し人民@ヒャッハー!
君子はたとえ10年がかかっても仇討ちをおこなうものだ。
調文村をこのままにはしておけん!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。


56 名前:名無し人民@ヒャッハー!
お前ら、戦いを続けて楽しいか?
それで家族や愛する人が巻き添えになって死んだらどうするんだ?

それでもまだ戦うのか?


69 名前:名無し人民@ヒャッハー!
唐一族は恐ろしすぎる!
脚踏村の1万人の村人が、数千人の唐氏一族に踏み荒らされたのだ。
(略)


82 名前:名無し人民@ヒャッハー!
脚踏村はもともと良くないことばかりしてきた。
二十数年前にも(似たような械闘で)大事件を起こしているしな。

しかし調文村も野蛮だ。
村の勢力を頼みにする大人が多すぎる。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


この後もスレは荒れ続け、両村の村人による

「お前の村を滅ぼしてやる!」
「貴様らこそ滅亡しろ!!」

という物騒な書き込みがたびたび見られた。


…ところで、ちょっと話を変える。

中国において、農民が役所を襲撃するといった暴動(官民衝突)はしばしば発生しており、大紀元(法輪功のニュースサイト)なんかで報じられることが多いのもご存知の通り。

そして、中国崩壊論者の人がこれらに対してホルホルして
「共産党独裁政治への庶民の不満が高まっているのだ!」という
根拠として引用したりする。


だが、暴動を起こす農民というのは、このスレで見ればわかるがごとく、
リミットブレイクを非常に容易に起こす人たちなのである。
大した理由じゃなくても暴れるのだ。


一見すると識者ホルホル系の官民衝突のようでも、役所への反乱に見えて
実は単なる村同士の(どうでもいい理由での)戦争が
飛び火しただけというケースも多いのではないか。

また、実際に地方の役所が無道な場合(これも多いのだ)でも、
抗議に立ちあがった農民が知らん間に目的と手段を逆にしてしまい、
「とりあえず暴れたからそんでいいやw」となって
問題の解決を求めないケースもあるのではないか。

良くも悪くも彼らの単純さと不条理さを舐めてはいけないと思う。


暴動といっても、即・反政府や反共産党につながる性質のものとは限らない。
党と軍がひとまず綻びを見せずに存在する限りは、
農民による村レベルでの暴動は、中央から見れば中学生のニキビ程度の日常茶飯事の小事件だ。

「中国にはよくあること」で流せる話なのである。

普通は現場レベルで放っておくし、
ちょっと目立ったら(大規模化したら)、クレアラシル(武装警察)を塗ればいい。
この程度では、脳味噌や人体(共産党や国家)に影響を与えるには及ばない。


…なので、「どこどこで農民が反乱!」というニュースを聞いた際、
すぐに「中国崩壊への第一歩だフハハ」と大喜びしても
只のヌカ喜びだと思うのだ。

「反乱」の背景とか経緯をよく調べた方がいいし、
それが大規模化しかけたところで鎮圧されているようなら、
むしろ「中国の体制は(現時点では)盤石だ」という根拠にすらなり得る。

ニキビは、もちろん疾病要因もあるものの生理体質的な理由でできることも多い。
当たり前のように生まれる赤ニキビに、すぐにクレアラシルを塗れるのは、
共産党が最低限はお肌のケアをしているということである。


もっとも、ニキビの現場にいる人はたまったものじゃなかろうが…。
これが中国の農村だからしょうがない。


http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/a370aaaca87869d375aa1d5ce930e919
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広東省農民「オラの村が隣の村と戦争をはじめるらしいんだが…」

2009-11-08

広東省・福建省ネタ今回取り上げるのは、広東省の「械闘」である。


…と言っても何のことやらわからない読者が大部分だと思うので、
ここはひとつYahoo辞書先生に語句解説をしてもらうことにしよう。


 かい‐とう【械闘】
 革命前の中国で、水利や地境などの争いなどを原因として起きた
 部落や労働者集団間の武力闘争。清代には華中・華南に多かった。


中国南部の械闘には、「宗族」と呼ばれる父系血族の集団同士で争われる例が多い。
(→要するに、陳さん一族VS張さん一族みたいな感じでのガチバトル)


一族と言っても、勢力は数百人以上。一村以上の単位での総動員である。

外部から傭兵を連れてきた場合は数千人以上が激突する大合戦となり、
海外に渡った華僑の親戚たちが銃や火砲まで援助してくるのでタチが悪い。
村は、平時から堀や砦が築かれて完全武装だったりする。

械闘は清代の康煕雍正年間(18世紀初頭)から盛んに発生するようになり、
なんと20世紀前半の中華民国時代まで普通に続いていた。
広東省や福建省で特に多く、台湾でも日本統治時代の直前まで盛んにやり合っていたらしい。


…宗族の械闘の原因は、当初は

「うちの一族の村の水を取るな」とか「うちの一族の風水を切る場所に墓を作るな」
という相応の理屈に基づいたものだったようだが、
何百年も対立しているうちに当事者たちも理由を忘れてしまい、
なぜ戦っているのか不明のままドンパチやっていることも多かったようだ。

民国初期に福建省の統治を担当させられた役人が、上司の袁世凱に
「こいつらマジで洒落ならん。勘弁」
と報告していたりするから余程の事なのである。


そして「新中国」の成立後。

農村の宗族組織や封建的な支配関係は共産党様によって解体され、治安も向上。
械闘の風潮はおさまった、とされている。

だが、どうやら実際のところは全然おさまっていなかったようなのだ。


百度の「広東」板より、ディープすぎるスレをご覧ください。


原題「械闘」 広東板
http://tieba.baidu.com/f?kz=269824098


俺たちの村は広東省汕頭市潮南区、司馬浦仙港郷の辺りにあるんだが、
隣の村との関係がずっと良くないのだ。
歴史上、たびたび武力衝突をしていたのだが、
20年前からは特に大規模な闘争は起こっていなかった。

しかし、先月30日に俺の村の共産党支部書記が
(奴は十年以上この職にあり、偽造タバコを作って儲けている地方皇帝だ)
隣の村に行って先方の代表と話をして、帰ってくるや隣村と戦うと言うんだ。

少なくとも鉄パイプ300本以上、ライフル十数本を準備した。
村の老人たちの大部分は開戦を支持している。

派出所の警官がやってきたが、
あれやこれやとタライ回しをされるだけで、解決できないままに去っていった。

地方皇帝いわく、
各戸ごとに少なくとも1人を動員せよ。
出さない家は敵を攻撃するついでに打ち壊す。
各戸ごとに100元を拠出せよ。
戦死した場合は10万元の見舞金を保証する。

昨夜、俺はさまざまな奇怪な声を耳にしながら寝た。
今日、戦いを始めるらしい。
すべての準備は完了して掛け声を待つばかりのようだ。

これは何時代だよ?
なんで俺の村はこんなことやってるんだ?

みんなすまない。
この事を拡散して多くの人に知らせてくれ。


広東の海陸豊地域では、俺が小学生のころまで烏旗軍と紅旗軍が戦っていたぞ。
なにか事があって紛糾すると、烏旗勢力に属する村と紅旗勢力に属する村とが棍棒を持って村境に集まるんだ。

中学に上がってからは似たような事件はもう無くなった。

烏旗軍と紅旗軍は政治とは関係ない。
宗族と関係があるんだ。


  ※海陸豊地域…現在の広東省東部・汕尾市に位置する海豊市と陸豊市のこと。
         民国時代には、軍閥革命家の彭湃という人物が「海陸豊ソヴィエト」という
         カオスな名前の政権を樹立したりもしている地域である。
           


  ※烏旗と紅旗…もともと、福建省や広東省は「宗族」という父系血族の団結がめちゃくちゃ強い地域。
           村ひとつがまるごと「李」さんや「陳」さんの宗族だったりする。
           (→中国でよく見る「李家鎮」とか「陳家囲」なんかの村名を想像するとわかりやすい)

           で、宗族同士が械闘(=武力衝突)をやってるうちに、
           戦国時代のように宗族や村が合従連衡して連合軍を作る場合がある。烏旗と紅旗もそのひとつ。
           この手のケースは清代中期から盛んになり、福建省仙游県の「烏旗軍と白旗軍」の対立とか
           福建省晋江市の「東佛軍と西佛軍」の対立とか、類似例は数多くある。

           現在はさすがに正面切っての大戦争はやらないようだが、
           暗黙の了解で隣の村が敵対派閥に属していたりする。現地に工場なんかを作る場合は注意が必要。


…清代の中国(特に南部)の農村部では、
科挙に合格したが官僚にならずに地元に残った
「郷紳」という半官半民の実力者が村や宗族を牛耳る事例が多かったという。

悪徳郷紳(=土豪劣紳)のなかには、
密輸や汚職で私腹を肥やしたり、械闘を扇動するような手合いもいたらしい。


いっぽう現代の中国の農村では、地域に土着して土皇帝と呼ばれるようになった
下級共産党幹部が過去の劣紳にかわって村を牛耳っているようである。


儒教イデオロギーが「中国の特色ある社会主義」に変わっただけで、
結局は現代の中華人民共和国も、下層部では歴代中華王朝とそっくり。
そんなことを今回の事例から感じる次第。


…おらこんな村いやだ。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/dbd9f05454ebcc6ef12699aaaeaba4e8


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