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[番外地8] (緊縮財政+消費税)の方が(赤字国債大量発行+財政出動)より望ましい政策である理由 中川隆
3. 中川隆[-11178] koaQ7Jey 2020年9月25日 05:54:55 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[1]
(緊縮財政+消費税)は(赤字国債大量発行+財政出動)よりも格差拡大を防ぐ優れた政策だった
利子付き国債は資本家へ所得を再分配する為に考えたシステムです:
国債を持っている銀行や資本家は政府に借金させてこれだけボロ儲けしているんですね:
利子付き国債の発行はこれだけ貧富の差を拡大する
バブル崩壊で勝ったのは国債だけだったという事実
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった
1990年台バブル崩壊で「1円も損をせず」「元金が7倍以上になった」のは日本国債を買った人だけだった。
バブルの頃は色々な投資がブームで、金銀、土地、ゴルフ会員権、株やピカソの絵、ハワイや湯沢の別荘が人気でした。

これらの投資はその後のバブル崩壊で全て損をした筈で、保険や年金商品ですら政府の方針でカットされていました。

そんな中で唯一バブル崩壊の影響をまったく受けなかった投資商品が「日本国債」で、日本国債が危ないという定説とは真逆の結果です。


バナナ売りみたいな投資アナリスト達は毎日毎日「あぶないよあぶないよ、さあ国債が破綻するよ」と道端で「国債が危ない」と言い続けています。

彼らがそう言っている理由は国債以外の投資商品を売って稼いでいるからで、国債が売れたら困るのです。

日経先物とかFXとか株とか土地とかピカソの絵を売って初めて「カモ」から金を取れるので、日本国債が売れたら儲からなくなるのです。


1980年に日本国債を購入した人は、30年後の2010年に7倍に増えていて、もし最初に1000万円なら7000万円、100万円でも700万円に増えていたのです。

バブル崩壊も阪神大震災も福島原発もリーマンショックもすべて無関係で、1980年台に買っていさえすれば誰でも7倍になったのです。

では日本国債を買う以外でこの30年間に投資で資産を7倍にした人がどれだけ居たか、聞くまでもなくほとんど居ないはずです。

日本国債より危険な投資に手を出す人々

「そんなのウソだ。日本国債はゼロ金利じゃないか」というもっともな意見がありますが、それでも30年間毎年金利が付くことで、5倍とか7倍に増えるのです。

考え方を変えれば本当に「金利ゼロ」だったとしても、デフレで物価が下がると実質的にお金が増えるのです。

「経済専門家は皆日本が破産すると言っている」というもっともな意見もあるが、逆に日本政府が破産した後に残る安全な物って何なんでしょう?


例えば土地は消えませんが、戦前日本最大の資産家だった本間家(ローソク足を発明した本間宗久の子孫)は敗戦でアメリカ軍に土地を没収され、ただの釣具屋になり今は中国に買収されて消滅しました。

有名企業の株を保有しても日本政府が倒産するほどの事態なら、三菱や三井やトヨタだって倒産するでしょう。

金などの貴金属は物質として目減りしませんが、あの手のものは長期的には必ず物価上昇率より価値が目減りしていきます。


日本国債がデフォルトするほどの危機なら、どんな資産も無価値になる可能性が高く、それらより危険ではありません。

例えば沖縄県知事のアホは「中国に統一してもらって日本から独立しよう」と言っていますが、中国は共産国家で個人の土地所有が認められていません。

米軍基地が中国軍基地にかわり、土地は政府の所有になり、住民は政府から借りた借地に住む事になります。(中国人民はそうしている)

日本国債より安全な投資って何?

日本国債が無効になるほどの衝撃というのはこれほどの事が起きると推測でき、こんな事を考えるよりは自衛隊に税金を払ったほうが幾らかマシです。

「日本国債がアブナイから他に投資しよう」という考えは一見合理的にみえて、相当におかしいのが分かると思います。

例えていえば「巨大隕石が地球に落下するから地球の裏側に逃げよう」みたいな話で、恐竜より頭の働きが鈍いです。


日本国債ではなく米国債など外国政府に投資しようという人も居て、こちらの方は理にかなっています。

円高が進んでも日本よりアメリカの金利が高いので、最終的に日本国債を買うよりも、数十年後に元本が増える可能性は高いです。

だがしかし日本の証券会社から米国債を買って、日本政府が倒産したときにその証券会社は存在し、銀行は投資した元本を保証してくれるのか甚だ疑問です。


日本が破産したとき自分が買った証券会社が倒産していて、資産保全しているメガバンクも倒産したら、買っておいた米国債も消滅するでしょう。

アメリカの証券会社から米国債を買うという方法もあるが、おそらく日本からだと余計なコストを取られたり不利になるかも知れません。

このように考えると「日本国債があぶない」から色々な投資を試みるのは、結局どれも日本国債そのものより危険な投資に手を出すハメになります。
_______

銀行や生命保険会社は日本国債の利子でなんとか資産運用しているんですね。
アベノミクスで日本国債を日銀に売らされた銀行や生命保険会社はその金でアメリカ国債を買っています。
株やハイリスク債は投機性が高いので、資産運用はどうしても国債の利息に頼るしかないのです。
そして、銀行や生命保険会社の儲けは資本家の利益になります。つまり、日本政府の金を資本家にばら撒いています。

デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。
従って、政府がいくら金融緩和や財政出動しても大資本家を富ませるだけで、デフレからは脱却できません。
そもそもルーズベルト大統領のニューディール政策も大失敗で、政府が財政出動に使った膨大な金は労働者には回らず、すべて大資本家に行ってしまったのです。 戦争以外の公共事業ではデフレから脱却できなかったのです。それがその後もアメリカが年がら年中、世界のどこかで戦争を起こしている理由です。

国債発行すると貨幣価値が段々下がって紙屑になっていきます。日本円も為替でドルと連動しているので、ドル同様に紙屑になっていきます:

紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/366.html#c3

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
1. 2020年9月25日 06:07:54 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[2]
当時のまともな研究は鬼塚さんのだけです。
それを小説とかいうならどこが間違いか具体的に指摘するしかないでしょう。
林千勝さんはそういう先人の研究をすべて無視して、どうでもいい僅かな資料から妄想を書いているだけです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c1
[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
2. 中川隆[-11177] koaQ7Jey 2020年9月25日 06:31:42 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[3]
僕は過去のまともな研究は鬼塚さんのだけだと言ってるんだよ。
大学の研究者にはタブーになっている分野だから鬼塚さん以外の研究は全く無い。
タブーになっている理由は明らかで、吉田茂はCIAのスパイだから、昭和天皇もスパイだったという事さ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c2
[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
3. 2020年9月25日 06:45:11 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[4]
鬼塚さんはすべて一次資料に基づいて書いています。
関係者は既に全員死んでいるので、鬼塚さんの研究を否定するのは不可能でしょう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c3
[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
298. 2020年9月25日 07:30:24 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[5]

2020年09月25日
格安住宅や格安物件は購入後の費用負担が多い

格安物件は維持費やリフォームに金がかかり手放すケースが多い

格安物件には当然裏がある

最近古民家や山林を安く買うのが流行っていて、「50万円で山を買った」などの動画をユーチューブで見ることもできます。

築80年の古民家を買って住んだり、格安マンションを購入して賃貸オーナーになって成功した人も居ます。

これらは本当に安い場合もあるが、表示価格以外の費用負担が多いこともある。

また購入後にトラブルに悩まされるのが、格安住宅や格安物件購入後のお約束になっている。

まず格安住宅ですが、50万円などで売られるのは築40年以上でかなり傷んでいると思います。

湿気で腐食が進んでいたり雨漏りがしたり、何らかの不具合があるから格安と考えて良い。


加えて立地もかなり田舎に違いなく、近所に駅は無くバス停やスーパーからも遠い。

下手をすると人口減少でインフラが維持できなくなっている可能性もあります。

上下水道に電気ガス、道路にゴミ収集などが過疎地域では維持困難になっている場合もあります。


例えば限界集落ではガスや灯油を配達してくれず、薪を燃料にしている地域がかなり存在する。

梅雨や秋の台風では水害で道路の通行止めが発生したら、車を持っていても通勤などできません。

古民家には金がかかる

マンションの場合はそんな田舎ではないでしょうが、築古マンションでは際限なくトラブルが発生します。

エレベーターや水回りのトラブルはお金が掛かるが、修繕金が集まらないので放置されることが多い。

競売物件は不動産屋を介さないので安く買えるが、まともな不動産屋は住める物件しか販売しません。


という事は競売では「住むに値しない物件」もあるという事なので、物件を見ないで入札するなどは論外です。

最近人気の格安古民家ですが、快適に住むにはまず最低1千万円のリフォーム費用がかかります。

トイレが汲み取りで水回りは全面改修が必要、これだけで500万から1千万円かかるでしょう。


テレビで取り上げられるような快適な古民家にするには、2千万円から3千万円はかかってしまいます。

つまり築50年から100年の古民家を買うより、住宅地で築浅の一戸建てを買う方が安いです。

むろん汲み取りトイレや古い土間の台所のままでも住めますが、耐震性が悪く腐食も進んでいる筈です。


古い家を買って住むよりは、郊外にアパートやマンションを借りて田舎に遊びに行く方が合理的です。

自分で大工仕事をするにしても、トイレや水回りは工事業者に発注せざるを得ないでしょう

http://www.thutmosev.com/archives/83973499.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c298

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
592. 中川隆[-11176] koaQ7Jey 2020年9月25日 07:31:19 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[6]

2020年09月25日
格安住宅や格安物件は購入後の費用負担が多い

格安物件は維持費やリフォームに金がかかり手放すケースが多い

格安物件には当然裏がある

最近古民家や山林を安く買うのが流行っていて、「50万円で山を買った」などの動画をユーチューブで見ることもできます。

築80年の古民家を買って住んだり、格安マンションを購入して賃貸オーナーになって成功した人も居ます。

これらは本当に安い場合もあるが、表示価格以外の費用負担が多いこともある。

また購入後にトラブルに悩まされるのが、格安住宅や格安物件購入後のお約束になっている。

まず格安住宅ですが、50万円などで売られるのは築40年以上でかなり傷んでいると思います。

湿気で腐食が進んでいたり雨漏りがしたり、何らかの不具合があるから格安と考えて良い。


加えて立地もかなり田舎に違いなく、近所に駅は無くバス停やスーパーからも遠い。

下手をすると人口減少でインフラが維持できなくなっている可能性もあります。

上下水道に電気ガス、道路にゴミ収集などが過疎地域では維持困難になっている場合もあります。


例えば限界集落ではガスや灯油を配達してくれず、薪を燃料にしている地域がかなり存在する。

梅雨や秋の台風では水害で道路の通行止めが発生したら、車を持っていても通勤などできません。

古民家には金がかかる

マンションの場合はそんな田舎ではないでしょうが、築古マンションでは際限なくトラブルが発生します。

エレベーターや水回りのトラブルはお金が掛かるが、修繕金が集まらないので放置されることが多い。

競売物件は不動産屋を介さないので安く買えるが、まともな不動産屋は住める物件しか販売しません。


という事は競売では「住むに値しない物件」もあるという事なので、物件を見ないで入札するなどは論外です。

最近人気の格安古民家ですが、快適に住むにはまず最低1千万円のリフォーム費用がかかります。

トイレが汲み取りで水回りは全面改修が必要、これだけで500万から1千万円かかるでしょう。


テレビで取り上げられるような快適な古民家にするには、2千万円から3千万円はかかってしまいます。

つまり築50年から100年の古民家を買うより、住宅地で築浅の一戸建てを買う方が安いです。

むろん汲み取りトイレや古い土間の台所のままでも住めますが、耐震性が悪く腐食も進んでいる筈です。


古い家を買って住むよりは、郊外にアパートやマンションを借りて田舎に遊びに行く方が合理的です。

自分で大工仕事をするにしても、トイレや水回りは工事業者に発注せざるを得ないでしょう

http://www.thutmosev.com/archives/83973499.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c592

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
2. 中川隆[-11175] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:05:36 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[7]
世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
2020年9月24日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が引き続き1970年代のアメリカのインフレ時代について語っている。

前回の記事ではダリオ氏は、1960年代に経済の弱まったアメリカが紙幣を印刷した結果、1970年代が物価急騰の時代となった様子を説明していた。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

アメリカの1970年代は先進国でもインフレになるということを証明する意味で経済学的には非常に興味深い。しかしインフレの時代とはどういうものだろうか。デフレに慣れて久しい現代人には遠い記憶ではないだろうか。

インフレの心理

インフレとは紙幣の価値が下がることであり、物価が上がることである。しかし当時の様子がどういうものだったのかは当時もアメリカに住んでウォール街で働いていたダリオ氏の経験を聞くのが良いだろう。ダリオ氏はこう書いている。

わたしはインフレの心理というものをよく覚えている。アメリカ人はこぞって借金をしたがり、給料日になるや否や「インフレに先回りする」ために物品を買い漁った。

1970年代のインフレの時代、人々は物品を買い漁った。しかし豊かにはならなかった。物が不足しているから人々は物を買い漁り、インフレになるからである。

紙幣の価値が暴落する時代には資産価値を保存できる別のものがブームになる。結果、金価格は暴騰した。もう一度当時の金価格チャートを掲載しておこう。


しかし株価はどうなっただろうか。インフレは1972年から急激に悪化しているが、株価はそれに呼応して下落している。


インフレとは紙幣の価値が下落することであり、すべてのものの値段が上がることである。しかし株価は下落した。

その理由はダリオ氏による上記の描写を読めばより分かりやすいだろう。当時のアメリカ国民は毎年高くなってゆく生活物資を買い集めることで必死になり、株式など買っている場合ではなくなったのである。インフレの時代にもすべての値段が上昇するわけではないというのは興味深い事実である。

価値が下落しているドル紙幣で換算して株価が半分にまで下落しているということは、実質ベースでは株式の価値はほとんど紙切れになったということである。インフレの第1波が収まり始めた1975年からは株価は一度持ち直した。当時のインフレ率も同じように掲載しておこう。


しかしインフレ第2波のピークとなる1980年の前後には株式市場は再び激しい値動きを見せることとなる。

ポール・ボルカー議長

1979年、カーター政権の元でポール・ボルカー氏が連邦準備制度の議長に選出された。ボルカー氏はインフレを抑えるために政策金利を20%まで引き上げた。現在では考えられない水準である。ダリオ氏はこう書いている。

金融政策によって引き起こされたインフレ危機に対抗するためにボルカー氏は金融引き締めを行なった。そのため金利はドイツのシュミット首相が「イエス・キリスト以来」と呼んだ水準まで高騰した。

実際、インフレ率は最高でも15%に満たなかったのだから、20%はインフレの時代でもかなりの高金利である。今の金融市場が低金利で支えられていることからも分かる通り、これほどの高金利が株式市場を崩壊させないはずはない。
結果、1980年前後の株式市場はボルカー氏の動きに翻弄されることになる。まずボルカー氏が政策金利をどう動かしたのかを見てみよう。


金利の波は2回来ている。1980年の初めと1981年である。そして株式市場はその2度の波に翻弄されるように2度下落相場を迎えている。


何とも激しい値動きである。しかもこの値動きは毎年10%ものインフレの最中に起こったことを思い出したい。

インフレの結果

このボルカー議長による強烈な金融引き締め政策によってインフレはこの時期にピークを迎えることとなった。しかし結果としてアメリカ経済は短期間に2度の景気後退を迎えており、そのような厳しい政策が政治的代償なしに行えるはずはない。ダリオ氏はこう書いている。

ボルカー氏は役目を果たした。しかしその代償としてカーター大統領は職を失うこととなった。

一方でボルカー氏の金融引き締めがなければドルはそのまま自由落下を続け、アメリカは既に覇権を失っていただろう。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


紙幣印刷がインフレに繋がるとき、国民はどちらかを選ばなければならないのである。

昨年亡くなったボルカー氏はダリオ氏とも個人的な繋がりがあり、ダリオ氏はボルカー氏のことを次のように評している。

幸いにもわたしはボルカー氏と個人的な交友を築くことができた。彼は偉大な人格者であり、素晴らしい能力と影響力があるにもかかわらず謙虚な人物で、ヒーローと呼べる人物が不足している今の経済界において古典的なヒーローの典型だと言えるだろう。

現代の政治が強烈な景気後退か通貨暴落のどちらかを選ばなければならなくなったとき、どちらを選ぶだろうか。それはそれで見てみたい光景ではあるのである。

世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c2

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
86. 中川隆[-11174] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:06:25 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[8]
世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
2020年9月24日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が引き続き1970年代のアメリカのインフレ時代について語っている。

前回の記事ではダリオ氏は、1960年代に経済の弱まったアメリカが紙幣を印刷した結果、1970年代が物価急騰の時代となった様子を説明していた。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

アメリカの1970年代は先進国でもインフレになるということを証明する意味で経済学的には非常に興味深い。しかしインフレの時代とはどういうものだろうか。デフレに慣れて久しい現代人には遠い記憶ではないだろうか。

インフレの心理

インフレとは紙幣の価値が下がることであり、物価が上がることである。しかし当時の様子がどういうものだったのかは当時もアメリカに住んでウォール街で働いていたダリオ氏の経験を聞くのが良いだろう。ダリオ氏はこう書いている。

わたしはインフレの心理というものをよく覚えている。アメリカ人はこぞって借金をしたがり、給料日になるや否や「インフレに先回りする」ために物品を買い漁った。

1970年代のインフレの時代、人々は物品を買い漁った。しかし豊かにはならなかった。物が不足しているから人々は物を買い漁り、インフレになるからである。

紙幣の価値が暴落する時代には資産価値を保存できる別のものがブームになる。結果、金価格は暴騰した。もう一度当時の金価格チャートを掲載しておこう。


しかし株価はどうなっただろうか。インフレは1972年から急激に悪化しているが、株価はそれに呼応して下落している。


インフレとは紙幣の価値が下落することであり、すべてのものの値段が上がることである。しかし株価は下落した。

その理由はダリオ氏による上記の描写を読めばより分かりやすいだろう。当時のアメリカ国民は毎年高くなってゆく生活物資を買い集めることで必死になり、株式など買っている場合ではなくなったのである。インフレの時代にもすべての値段が上昇するわけではないというのは興味深い事実である。

価値が下落しているドル紙幣で換算して株価が半分にまで下落しているということは、実質ベースでは株式の価値はほとんど紙切れになったということである。インフレの第1波が収まり始めた1975年からは株価は一度持ち直した。当時のインフレ率も同じように掲載しておこう。


しかしインフレ第2波のピークとなる1980年の前後には株式市場は再び激しい値動きを見せることとなる。

ポール・ボルカー議長

1979年、カーター政権の元でポール・ボルカー氏が連邦準備制度の議長に選出された。ボルカー氏はインフレを抑えるために政策金利を20%まで引き上げた。現在では考えられない水準である。ダリオ氏はこう書いている。

金融政策によって引き起こされたインフレ危機に対抗するためにボルカー氏は金融引き締めを行なった。そのため金利はドイツのシュミット首相が「イエス・キリスト以来」と呼んだ水準まで高騰した。

実際、インフレ率は最高でも15%に満たなかったのだから、20%はインフレの時代でもかなりの高金利である。今の金融市場が低金利で支えられていることからも分かる通り、これほどの高金利が株式市場を崩壊させないはずはない。
結果、1980年前後の株式市場はボルカー氏の動きに翻弄されることになる。まずボルカー氏が政策金利をどう動かしたのかを見てみよう。


金利の波は2回来ている。1980年の初めと1981年である。そして株式市場はその2度の波に翻弄されるように2度下落相場を迎えている。


何とも激しい値動きである。しかもこの値動きは毎年10%ものインフレの最中に起こったことを思い出したい。

インフレの結果

このボルカー議長による強烈な金融引き締め政策によってインフレはこの時期にピークを迎えることとなった。しかし結果としてアメリカ経済は短期間に2度の景気後退を迎えており、そのような厳しい政策が政治的代償なしに行えるはずはない。ダリオ氏はこう書いている。

ボルカー氏は役目を果たした。しかしその代償としてカーター大統領は職を失うこととなった。

一方でボルカー氏の金融引き締めがなければドルはそのまま自由落下を続け、アメリカは既に覇権を失っていただろう。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


紙幣印刷がインフレに繋がるとき、国民はどちらかを選ばなければならないのである。

昨年亡くなったボルカー氏はダリオ氏とも個人的な繋がりがあり、ダリオ氏はボルカー氏のことを次のように評している。

幸いにもわたしはボルカー氏と個人的な交友を築くことができた。彼は偉大な人格者であり、素晴らしい能力と影響力があるにもかかわらず謙虚な人物で、ヒーローと呼べる人物が不足している今の経済界において古典的なヒーローの典型だと言えるだろう。

現代の政治が強烈な景気後退か通貨暴落のどちらかを選ばなければならなくなったとき、どちらを選ぶだろうか。それはそれで見てみたい光景ではあるのである。

世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c86

[リバイバル3] ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F 中川隆
12. 中川隆[-11173] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:24:54 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[9]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html#c12

[リバイバル3] 真空管アンプ自作は時間と金の無駄 _ 自作では まともな音にならない 中川隆
14. 中川隆[-11172] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:26:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[10]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1006.html#c14

[リバイバル3] ゴールドムンド _ その奇跡の音色の秘密 中川隆
10. 中川隆[-11171] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:26:46 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[11]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/948.html#c10

[リバイバル3] オーディオ機器の性能は「電源ケーブル」で決まる 中川隆
20. 中川隆[-11170] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:27:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[12]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1060.html#c20

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
4. 2020年9月25日 09:52:11 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[13]
近衛の殺害命令を出せるのは昭和天皇以外には有り得ないというだけの話さ。
僕は鬼塚英昭が一次資料に基づいて研究書を書いていると言っただけだよ。
当時の当事者の証言は真偽に関わらずすべて一次資料になる。
「昭和天皇による近衛暗殺」は一次資料じゃないよ。南京大虐殺の命令書なんか残す訳ないだろ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c4
[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
299. 2020年9月25日 10:09:43 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[14]
俳優・矢崎滋「地方ビジホ暮らし」は老後の理想形?月15万円に羨望と絶望の声
2020年9月23日
https://www.mag2.com/p/money/966219


過去にテレビドラマや舞台などで活躍し、また清酒「白鶴まる」のCMに長年出演していたことでも知られる俳優の矢崎滋さん。そんな彼が人知れず芸能界を去り、現在は都内から離れた地方都市でホテル住まいの日々であることが伝えられ、大きな話題となっている。

「週刊女性PRIME」にて配信された「矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”」によると、芸能活動自体は本人曰くすでに引退したとのこと。趣味である競馬の場外売り場が近くにある、東北地方のとある田舎町のビジネスホテルにもう20年ほど滞在しており、1泊1万円の部屋を長期滞在ということで1泊5,000円、月に15万円払って泊まっているという。

親しかった俳優仲間たちとの縁もすべて絶ったとのことで、以前に役所広司さんのマネージャーが訪ねてきた際も、居留守を使い会わなかったという。

「老後ビジホ暮らし」の是非が話題に
つい最近までNHK BSプレミアムにて、矢崎さんが出演していた朝の連続ドラマ「はね駒」が再放送されていたこともあり、現在の消息について気になっていた人も多かったのか、ネット上ではこの記事に対して大きな反響が。そのいっぽうで話題となっていたのが、彼が現在続けているというビジネスホテルでの暮らしについてだ。

記事のなかでも、「同じ地方ならもっと安く借りれる物件があるのでは」と記者が問う場面があるが、それに対して矢崎さんは、

俺の計算だと月30万円はかかるよ。ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。

とのこと。これに対して、「合理的」「なかなかいいんじゃないか」という声があがっている。

東北にいてしかも引退してたのかあ
白鶴さんの退職金凄いけどホテル住まいってある意味管理費もかからないし掃除不要だから合理的なのかもしれないい

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”(週刊女性PRIME)#Yahooニュースhttps://t.co/OYdiZ8lwxD

— だい (@daitapuu) September 23, 2020


@GameraAlpusGirl
昨日見たweb記事。俳優の矢崎滋が引退してて今は毎日ホテル住まい。1日5000円で月だと15万円。電気代カス代水道代NHK受信料無料で毎日部屋掃除&シーツも綺麗とか考えるとホテル住まい中々いいんじゃないかと。
午後6:02 · 2020年9月21日


たしかに地方都市で賃貸物件を借りて暮らそうとした場合、ツイートでも指摘されている通り家賃・電気代・ガス代・水道代・NHK受信料にくわえ、生活用品にお金がかかるのはもちろんのこと、長く住めば建物の修繕費などもかかるだろう。

さらに、物件がある場所の徒歩圏内にスーパーなどの買い物の場が無ければ、バスなどの公共交通が発達していない地域であれば自家用車を持つか、タクシーなどでの移動が強いられる。これらも含めた諸々のことを考えれば、矢崎さんの「月30万円はかかるよ」というのは、まぁまぁ現実的なラインと言えそうだ。

実際、矢崎さんの住むエリアやホテルを特定し、「あそこなら便利だろう」と太鼓判を押す声も。さらに、独り身が歳を取ってから部屋を借りるのは難しい現実、万が一突然死してしまった際にすぐ見つけてくれるといった面でも、老後のホテル暮らしが優位的だと説く意見もあった。


ぷららさん
@plalasan
矢崎滋の逗留先、場外馬券売り場が駅チカという条件で考えると、どうやら新白河駅近くにある3軒のビジネスホテルのどれかっぽいな。
新白河駅、記事には「駅以外何も無い」とあったけど、居酒屋ラーメン屋が多くて徒歩圏内にイオンもあるし、オッサンの一人暮らしにむしろ最適ではないか。
午後3:25 · 2020年9月23日


あん子
@anko_umeko
73歳の元俳優が現在ホテル住まいという記事を読んだ
月15万円も払うなら借りた方が安いような気もするけど
独り身が年取ってから部屋を借りるのがものすごく難しいっていうのもあるのかな
午前8:00 · 2020年9月23日


芸術的髷ボッチ師範
@GeiMage_jp
家を買わずに月15万円のホテル暮らしというの、なかなか計算高いかも。突然死してもホテルの従業員がみつけてくれるし。

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生” https://jprime.jp/articles/-/18875 via @shujoprime
午後0:12 · 2020年9月23日

欲望や執着を捨ててこそ可能なビジホ暮らし
このように、元記事のタイトルには「悲哀に満ちた余生」などとあるものの、結構理想的な生活じゃないかといった感想もあるなかで、それなりの心構えなども必要だろうという声も。

べちか@終わった人
@10chf
ホテル住まいって自分の所有物とか全然ないんだろうか。自分には無理だなあ。
午後1:17 · 2020年9月23日

城伊景季
@white_cake
ホテル住まいができる人というのに、そもそも憧れるんだよな。
お金がじゅうぶんにあり、なおかつ執着や欲を切り捨てられる人。これが両立しないとホテル住まいはできないでしょう。
そして、快適な暮らしへの志向は強いんだよね。そこもかっこいい。
午後1:35 · 2020年9月23日


確かに紙の本や趣味のものなどといった所有物に囲まれて生活している向きには、この生活は難しいかもしれない。家族をはじめ友人知人も含めた人の縁に加え、そのあたりの物欲をもすべてかなぐり捨てた者にしか不可能なライフスタイルと言えるだろう。

それと、やはりある程度のお金は必要となりそうだ。ちなみに現在の矢崎さんは、貯金を切り崩すことで生活費を捻出している模様だが、過去には芸能界の第一線で永らく活躍し、先の記事にもある通り「白鶴まる」のCMを降板した際には出演した20年の功労金として、一般的なサラリーマンの退職金よりも多い金額をもらったという。また現在も不定期に、過去出演作品の再放送料が支払われることがあるとのことである。

昨年「老後2,000万円問題」が大いに取り沙汰されたように、特に単身者などのなかには、今後やって来る老後の暮らしに対してそこはかとない不安を抱える人は結構多い。今回伝えられた矢崎さんの生活ぶりは、ひとつの理想を提示するいっぽうで、厳然たる現実も突き付けたということで、そういった層の心中を大いに掻きむしる格好となったようだ。


suzuky
@suzuky
年取ったらホテル住まいって淀川長治が帝国ホテルに住んでたと知って以来の夢ですが、こういうのもあるのかと思ったり、ハリウッド女優が40歳で声がかからなくなる話とか、フリーランスだとどんなに実績があっても単に高齢というだけで仕事が減る話とか、いろいろ考えさせられる矢崎滋ストーリー
午後1:58 · 2020年9月23日

やぁぼん
@yaabon
矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”
「(ホテル暮らし)ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。近くに場外馬券売り場があって、そこで馬券を買うために居座ってる」
悲哀でもなんでもなく良いやん
午前6:07 · 2020年9月23日

真梨幸子&マリモナミ
@MariYukiko
私も、
晩年はホテル暮らししようかと、画策中。
矢崎さんがおっしゃる通り、
消耗品、家具、家電がついていて、掃除もしてくれる。
一泊5千円、月15万円は、案外リーズナブルかも。
なにより、孤独死しないで済みそう

#Yahooニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/b055e464084de1d5d4d9e4393acbb77c2527aba4
午前4:01 · 2020年9月23日



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c299

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
593. 中川隆[-11169] koaQ7Jey 2020年9月25日 10:11:02 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[15]
俳優・矢崎滋「地方ビジホ暮らし」は老後の理想形?月15万円に羨望と絶望の声
2020年9月23日
https://www.mag2.com/p/money/966219


過去にテレビドラマや舞台などで活躍し、また清酒「白鶴まる」のCMに長年出演していたことでも知られる俳優の矢崎滋さん。そんな彼が人知れず芸能界を去り、現在は都内から離れた地方都市でホテル住まいの日々であることが伝えられ、大きな話題となっている。

「週刊女性PRIME」にて配信された「矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”」によると、芸能活動自体は本人曰くすでに引退したとのこと。趣味である競馬の場外売り場が近くにある、東北地方のとある田舎町のビジネスホテルにもう20年ほど滞在しており、1泊1万円の部屋を長期滞在ということで1泊5,000円、月に15万円払って泊まっているという。

親しかった俳優仲間たちとの縁もすべて絶ったとのことで、以前に役所広司さんのマネージャーが訪ねてきた際も、居留守を使い会わなかったという。

「老後ビジホ暮らし」の是非が話題に
つい最近までNHK BSプレミアムにて、矢崎さんが出演していた朝の連続ドラマ「はね駒」が再放送されていたこともあり、現在の消息について気になっていた人も多かったのか、ネット上ではこの記事に対して大きな反響が。そのいっぽうで話題となっていたのが、彼が現在続けているというビジネスホテルでの暮らしについてだ。

記事のなかでも、「同じ地方ならもっと安く借りれる物件があるのでは」と記者が問う場面があるが、それに対して矢崎さんは、

俺の計算だと月30万円はかかるよ。ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。

とのこと。これに対して、「合理的」「なかなかいいんじゃないか」という声があがっている。

東北にいてしかも引退してたのかあ
白鶴さんの退職金凄いけどホテル住まいってある意味管理費もかからないし掃除不要だから合理的なのかもしれないい

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”(週刊女性PRIME)#Yahooニュースhttps://t.co/OYdiZ8lwxD

— だい (@daitapuu) September 23, 2020


@GameraAlpusGirl
昨日見たweb記事。俳優の矢崎滋が引退してて今は毎日ホテル住まい。1日5000円で月だと15万円。電気代カス代水道代NHK受信料無料で毎日部屋掃除&シーツも綺麗とか考えるとホテル住まい中々いいんじゃないかと。
午後6:02 · 2020年9月21日


たしかに地方都市で賃貸物件を借りて暮らそうとした場合、ツイートでも指摘されている通り家賃・電気代・ガス代・水道代・NHK受信料にくわえ、生活用品にお金がかかるのはもちろんのこと、長く住めば建物の修繕費などもかかるだろう。

さらに、物件がある場所の徒歩圏内にスーパーなどの買い物の場が無ければ、バスなどの公共交通が発達していない地域であれば自家用車を持つか、タクシーなどでの移動が強いられる。これらも含めた諸々のことを考えれば、矢崎さんの「月30万円はかかるよ」というのは、まぁまぁ現実的なラインと言えそうだ。

実際、矢崎さんの住むエリアやホテルを特定し、「あそこなら便利だろう」と太鼓判を押す声も。さらに、独り身が歳を取ってから部屋を借りるのは難しい現実、万が一突然死してしまった際にすぐ見つけてくれるといった面でも、老後のホテル暮らしが優位的だと説く意見もあった。


ぷららさん
@plalasan
矢崎滋の逗留先、場外馬券売り場が駅チカという条件で考えると、どうやら新白河駅近くにある3軒のビジネスホテルのどれかっぽいな。
新白河駅、記事には「駅以外何も無い」とあったけど、居酒屋ラーメン屋が多くて徒歩圏内にイオンもあるし、オッサンの一人暮らしにむしろ最適ではないか。
午後3:25 · 2020年9月23日


あん子
@anko_umeko
73歳の元俳優が現在ホテル住まいという記事を読んだ
月15万円も払うなら借りた方が安いような気もするけど
独り身が年取ってから部屋を借りるのがものすごく難しいっていうのもあるのかな
午前8:00 · 2020年9月23日


芸術的髷ボッチ師範
@GeiMage_jp
家を買わずに月15万円のホテル暮らしというの、なかなか計算高いかも。突然死してもホテルの従業員がみつけてくれるし。

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生” https://jprime.jp/articles/-/18875 via @shujoprime
午後0:12 · 2020年9月23日

欲望や執着を捨ててこそ可能なビジホ暮らし
このように、元記事のタイトルには「悲哀に満ちた余生」などとあるものの、結構理想的な生活じゃないかといった感想もあるなかで、それなりの心構えなども必要だろうという声も。

べちか@終わった人
@10chf
ホテル住まいって自分の所有物とか全然ないんだろうか。自分には無理だなあ。
午後1:17 · 2020年9月23日

城伊景季
@white_cake
ホテル住まいができる人というのに、そもそも憧れるんだよな。
お金がじゅうぶんにあり、なおかつ執着や欲を切り捨てられる人。これが両立しないとホテル住まいはできないでしょう。
そして、快適な暮らしへの志向は強いんだよね。そこもかっこいい。
午後1:35 · 2020年9月23日


確かに紙の本や趣味のものなどといった所有物に囲まれて生活している向きには、この生活は難しいかもしれない。家族をはじめ友人知人も含めた人の縁に加え、そのあたりの物欲をもすべてかなぐり捨てた者にしか不可能なライフスタイルと言えるだろう。

それと、やはりある程度のお金は必要となりそうだ。ちなみに現在の矢崎さんは、貯金を切り崩すことで生活費を捻出している模様だが、過去には芸能界の第一線で永らく活躍し、先の記事にもある通り「白鶴まる」のCMを降板した際には出演した20年の功労金として、一般的なサラリーマンの退職金よりも多い金額をもらったという。また現在も不定期に、過去出演作品の再放送料が支払われることがあるとのことである。

昨年「老後2,000万円問題」が大いに取り沙汰されたように、特に単身者などのなかには、今後やって来る老後の暮らしに対してそこはかとない不安を抱える人は結構多い。今回伝えられた矢崎さんの生活ぶりは、ひとつの理想を提示するいっぽうで、厳然たる現実も突き付けたということで、そういった層の心中を大いに掻きむしる格好となったようだ。


suzuky
@suzuky
年取ったらホテル住まいって淀川長治が帝国ホテルに住んでたと知って以来の夢ですが、こういうのもあるのかと思ったり、ハリウッド女優が40歳で声がかからなくなる話とか、フリーランスだとどんなに実績があっても単に高齢というだけで仕事が減る話とか、いろいろ考えさせられる矢崎滋ストーリー
午後1:58 · 2020年9月23日

やぁぼん
@yaabon
矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”
「(ホテル暮らし)ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。近くに場外馬券売り場があって、そこで馬券を買うために居座ってる」
悲哀でもなんでもなく良いやん
午前6:07 · 2020年9月23日

真梨幸子&マリモナミ
@MariYukiko
私も、
晩年はホテル暮らししようかと、画策中。
矢崎さんがおっしゃる通り、
消耗品、家具、家電がついていて、掃除もしてくれる。
一泊5千円、月15万円は、案外リーズナブルかも。
なにより、孤独死しないで済みそう

#Yahooニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/b055e464084de1d5d4d9e4393acbb77c2527aba4
午前4:01 · 2020年9月23日



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c593

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
5. 中川隆[-11168] koaQ7Jey 2020年9月25日 10:23:17 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[16]
近衛の殺害命令を出せるのは昭和天皇以外には有り得ないというだけの話さ。
僕は鬼塚英昭が一次資料に基づいて研究書を書いていると言っただけだよ。
当時の当事者の証言は真偽に関わらずすべて一次資料になる。

「昭和天皇による近衛暗殺」は一次資料じゃないよ。
そもそも、南京大虐殺とか慰安婦強制連行とかの命令書なんか残す訳ないだろ。
命令書が残っていないから命令自体も無かったと思うのは知恵遅れだけだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c5

[番外地8] 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 中川隆
1. 中川隆[-11167] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:07:37 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[17]
一次資料を提示してるんだよ:
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。


1926年12月、教育総監部付勤務となり教育総監部課員を経て1928年5月から翌年5月まで臨時第3師団参謀を務め山東出兵に出動した。1930年7月、イギリス駐在に発令され翌月、歩兵少佐に昇進。1931年1月、イギリス大使館付武官補佐官となり関東軍参謀、兼満州国大使館付武官補佐官、参謀本部員を歴任し1934年8月、歩兵中佐に進級。

1935年8月、第5師団参謀に就任しイギリス大使館付武官に転じ、1937年11月、歩兵大佐に昇進。1938年4月、参謀本部付となり参謀本部課長を経て1939年12月、イギリス大使館付武官に発令(当時の大使が吉田茂)。1940年8月、陸軍少将に進級。太平洋戦争開戦に伴い1942年7月、交換船でイギリスから引き揚げ帰国した。

1942年9月、東部軍参謀長となり1943年10月、陸軍中将に進んだ。1945年2月、第12方面軍参謀長に就任。翌月、第3師団長に親補され中国へ出征し鎮江で終戦を迎えた。1946年5月に復員。

警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与(吉田内閣で軍事顧問)、同期の木村松治郎、宮野正会ら旧陸軍の将官クラスをまとめてその基礎を作った。一方で中央情報局(CIA)の協力者「POLESTAR-5」(他にも「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」等と呼ばれた)[1][2]として内閣調査室(現在の内閣情報調査室)や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された[3]。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/406.html#c1

[番外地8] 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 中川隆
2. 中川隆[-11166] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:38:18 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[18]
当時出ていた文書や関係者からの聞き書きに基いて本を書いたんだろ
間違いの指摘とかはされていないから定説になっているという事さ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/406.html#c2
[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
87. 中川隆[-11165] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:48:02 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[19]
世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
2020年4月29日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏がLinkedInのブログを引き続き更新している。

新型コロナウィルスの世界的流行で世界中の中央銀行が紙幣を印刷し国債を買い入れ、政府は国民に現金を配り始めているが、ダリオ氏は政府を信頼してはならないと主張する。

貨幣を印刷する特権

ダリオ氏は次のように始めている。

歴史を見れば明らかだが、政府が経済的に国民を守ってくれると信頼してはならない。実際は逆であり、ほとんどの政府はあなたが同じ立場だったらそうするであろう同じ理由で、貨幣と債務の創造者かつ使用者としての特権を乱用するだろう。それは政治家は国家の長い生涯の一部分だけを担当し、その時の状況に応じてやりたいことをやるからであり、誰も最後まで責任を持つ人間がいないからである。

政府は現在債務を増やすことによって国民に現金を配ろうとしている。しかし政府債務はもう何十年もの間増え続けてきた。ダリオ氏はこの現象、つまり債務の膨張サイクルの初期の頃の話から始める。

債務の膨張サイクルの初期の段階では政府はまだ信頼されており、誰よりも資金を必要としていると思われているため、政府は誰よりも大きな借り手である。

サイクルが進んで後任の指導者たちが債務が膨張した政府を運営することになるときには、政治家や中央銀行家たちはより限られた景気刺激策で債務を返済してゆく難題に取り組まなければならず、更に悪いことに政府は破綻すれば経済全体を傷つけるような債務者を救済しなければならないことになる(訳注:2008年の銀行救済など)。

結果として政府は他のどのような個人や企業よりも大きな負債を作り上げることになる。

この文章を読んで思うのは、政府が債務を膨張させない段階など存在するのかということである。ダリオ氏はこう続ける。

言い換えれば、基本的にすべての状況において政府は債務の膨張に貢献し、債務バブルが弾ける時には紙幣を印刷しその価値を薄めることで対応する。

しかし債務を増やし紙幣を印刷することですべての問題が解決し、しかも何の問題も起こらないならばそれで良いのではないか? その結末はどうなるのだろうか。ダリオ氏は次のように続ける。

政府が大量の紙幣を刷り債券を買い入れることで貨幣と債務の両方が膨張するとき、貨幣と債券の価値は薄まってゆき、それは債務者の負担を減らすと同時に債権者にとっては実質的な税金となるだろう。貨幣と債券の保有者がそれに気づいたとき、彼らはそれを売り始める。

彼らは同時に資産をゴールドや一部の株式、債務問題の少ない別の国などに移そうとするだろう。

この部分は筆者のユーロ下落予想(そしてスイスフラン買い)の本質が述べられている。もはやヨーロッパは自国通貨を毀損せずに成長を維持することができなくなっているからである。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392

また、ゴールドへの資産逃避は既に起きている。以下は金相場のチャートである。


こうして貨幣の価値が薄まってゆく。ダリオ氏が年始から「現金はゴミだ」と言い続けている理由がここにある。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


そしてダリオ氏の話はここで終わらない。現金がゴミになった後の話まで今回は話している。

貨幣の価値減少が激しくなり債務のデフォルトや減価が横行するようになると、政府はやむを得ず金本位制のような何らかの保証ある通貨体制に戻ることを考え始める。そうすることで人々の通貨への信頼は戻り、人々はその通貨で再び資産を貯蔵し借金をやり取りするようになる。

これは現在われわれが財布に入れている通貨が完全にゴミになった後に新しい通貨が作られるという話である。

結論

ダリオ氏はこの状況について次のように感想を述べている。

これは望ましくない状況だが、何故そうなってしまうかは理解できる。貨幣を作り出してそれをばらまくことによって他人を幸せにできるとき、そうしたいという欲求に抗うことは容易ではない。

ばらまけば自分にも金銭的利益が返ってくる時には尚更だろう。しかしヘリコプターマネーを歓迎する善良な市民が気づいていないのは、それは実際には自分の財布から出ているということである。毎年数十万、数百万もの税金を取り上げてもそこから10万円返すだけで喜ぶ人々を喜ばせることは非常に容易である。彼らは容易に詐欺に遭うだろう。

これは古典的な金融行動である。歴史を通して政治家は自分の任期に返済期限の来ない負債を作り上げ、後のことは後任の人々に任せるのである。

個人的にはヨーロッパを「現金はゴミ」現象の先駆者であると見ている。イタリアなどの国の経済成長は既に債務で支えきれなくなっており、債務を増やし量的緩和を行なってもGDPが落ちるのであれば、もうGDPは落ちるしかない。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392


そして日本人が考えなければならないのは、日銀が現在の政策を続けると日本もいずれイタリアのようになるということである。

これは1980年代から40年間金利を下げ続けた付けを払うときがいよいよ来ているということである。

最近よく感じるのは、われわれは1980年から2020年までをバブルにするために2020年から2060年を犠牲にしたということである。そしてそれを引き起こした低金利・量的緩和政策は老人よりも若者に支持されているという。一般化して若者が常に愚かだとは言いたくないが、量的緩和については事実のようである。そして何事においても愚かさの付けだけは他人が払ってくれることはないのである。

ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/7103


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c87

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
3. 中川隆[-11164] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:48:48 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[20]
世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
2020年4月29日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏がLinkedInのブログを引き続き更新している。

新型コロナウィルスの世界的流行で世界中の中央銀行が紙幣を印刷し国債を買い入れ、政府は国民に現金を配り始めているが、ダリオ氏は政府を信頼してはならないと主張する。

貨幣を印刷する特権

ダリオ氏は次のように始めている。

歴史を見れば明らかだが、政府が経済的に国民を守ってくれると信頼してはならない。実際は逆であり、ほとんどの政府はあなたが同じ立場だったらそうするであろう同じ理由で、貨幣と債務の創造者かつ使用者としての特権を乱用するだろう。それは政治家は国家の長い生涯の一部分だけを担当し、その時の状況に応じてやりたいことをやるからであり、誰も最後まで責任を持つ人間がいないからである。

政府は現在債務を増やすことによって国民に現金を配ろうとしている。しかし政府債務はもう何十年もの間増え続けてきた。ダリオ氏はこの現象、つまり債務の膨張サイクルの初期の頃の話から始める。

債務の膨張サイクルの初期の段階では政府はまだ信頼されており、誰よりも資金を必要としていると思われているため、政府は誰よりも大きな借り手である。

サイクルが進んで後任の指導者たちが債務が膨張した政府を運営することになるときには、政治家や中央銀行家たちはより限られた景気刺激策で債務を返済してゆく難題に取り組まなければならず、更に悪いことに政府は破綻すれば経済全体を傷つけるような債務者を救済しなければならないことになる(訳注:2008年の銀行救済など)。

結果として政府は他のどのような個人や企業よりも大きな負債を作り上げることになる。

この文章を読んで思うのは、政府が債務を膨張させない段階など存在するのかということである。ダリオ氏はこう続ける。

言い換えれば、基本的にすべての状況において政府は債務の膨張に貢献し、債務バブルが弾ける時には紙幣を印刷しその価値を薄めることで対応する。

しかし債務を増やし紙幣を印刷することですべての問題が解決し、しかも何の問題も起こらないならばそれで良いのではないか? その結末はどうなるのだろうか。ダリオ氏は次のように続ける。

政府が大量の紙幣を刷り債券を買い入れることで貨幣と債務の両方が膨張するとき、貨幣と債券の価値は薄まってゆき、それは債務者の負担を減らすと同時に債権者にとっては実質的な税金となるだろう。貨幣と債券の保有者がそれに気づいたとき、彼らはそれを売り始める。

彼らは同時に資産をゴールドや一部の株式、債務問題の少ない別の国などに移そうとするだろう。

この部分は筆者のユーロ下落予想(そしてスイスフラン買い)の本質が述べられている。もはやヨーロッパは自国通貨を毀損せずに成長を維持することができなくなっているからである。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392

また、ゴールドへの資産逃避は既に起きている。以下は金相場のチャートである。


こうして貨幣の価値が薄まってゆく。ダリオ氏が年始から「現金はゴミだ」と言い続けている理由がここにある。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


そしてダリオ氏の話はここで終わらない。現金がゴミになった後の話まで今回は話している。

貨幣の価値減少が激しくなり債務のデフォルトや減価が横行するようになると、政府はやむを得ず金本位制のような何らかの保証ある通貨体制に戻ることを考え始める。そうすることで人々の通貨への信頼は戻り、人々はその通貨で再び資産を貯蔵し借金をやり取りするようになる。

これは現在われわれが財布に入れている通貨が完全にゴミになった後に新しい通貨が作られるという話である。

結論

ダリオ氏はこの状況について次のように感想を述べている。

これは望ましくない状況だが、何故そうなってしまうかは理解できる。貨幣を作り出してそれをばらまくことによって他人を幸せにできるとき、そうしたいという欲求に抗うことは容易ではない。

ばらまけば自分にも金銭的利益が返ってくる時には尚更だろう。しかしヘリコプターマネーを歓迎する善良な市民が気づいていないのは、それは実際には自分の財布から出ているということである。毎年数十万、数百万もの税金を取り上げてもそこから10万円返すだけで喜ぶ人々を喜ばせることは非常に容易である。彼らは容易に詐欺に遭うだろう。

これは古典的な金融行動である。歴史を通して政治家は自分の任期に返済期限の来ない負債を作り上げ、後のことは後任の人々に任せるのである。

個人的にはヨーロッパを「現金はゴミ」現象の先駆者であると見ている。イタリアなどの国の経済成長は既に債務で支えきれなくなっており、債務を増やし量的緩和を行なってもGDPが落ちるのであれば、もうGDPは落ちるしかない。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392


そして日本人が考えなければならないのは、日銀が現在の政策を続けると日本もいずれイタリアのようになるということである。

これは1980年代から40年間金利を下げ続けた付けを払うときがいよいよ来ているということである。

最近よく感じるのは、われわれは1980年から2020年までをバブルにするために2020年から2060年を犠牲にしたということである。そしてそれを引き起こした低金利・量的緩和政策は老人よりも若者に支持されているという。一般化して若者が常に愚かだとは言いたくないが、量的緩和については事実のようである。そして何事においても愚かさの付けだけは他人が払ってくれることはないのである。

ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/7103


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c3

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
6. 2020年9月25日 12:13:29 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[21]
林千勝さんは唯の銀行マンでド素人だからね
チャンネル桜に出して欲しいから昭和天皇に都合の悪い事は言えないんだな
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c6
[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
7. 中川隆[-11163] koaQ7Jey 2020年9月25日 12:29:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[22]
林千勝さんは唯の銀行マンでド素人だからね
本当の研究者ならまず先人の研究のレビューから話す事になっているんだけど、林千勝さんは先人の業績は一切無視してデタラメな自説を披露してるだけだからね。
チャンネル桜に出して欲しいから昭和天皇に都合の悪い事は言えないんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c7
[近代史4] 御用学者列伝 _ 竹中平蔵 中川隆
10. 中川隆[-11162] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:06:03 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[23]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html#c10

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
24. 中川隆[-11161] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:06:30 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[24]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c24

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
110. 中川隆[-11160] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:07:06 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[25]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c110

[近代史4] MMTの就業保障プログラム VS ベーシックインカム 中川隆
1. 中川隆[-11159] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:08:00 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[26]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/974.html#c1

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
6. 2020年9月25日 15:31:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[27]
2020/2/10
フロントシングルという選択・・・人生初SRAM  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2457.html#comment
 

■ ビフォー & アフター ■

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ヤフオクで新品を23000円で落札したLEMONDのクロモリバイク、ZURICH。レイノルズの最高峰のパイプ853を使用した、男気のあるレーシングバイクです。

取り合えず走れる様にする為に、手持ちのBASSOのバイクからコンポ一式を移植して組み上げたのが上の写真。

ヘッドパーツ タンゲ
コンポ    カンパニョーロ コーラス
ステム    デダチャイ 100mm
サドル    フィジーク
シートポスト リッチー
ハンドル   リッチー
ホイール   カンパニョーロ ユーラス


その後、販売当時の姿に拘ってホイールをRolf Primaに変更します。当時はVector compという重さ2Kgに迫るアルミエアロホイルでしたが、今回はVigor αのステルス仕様。重さも1500gちょっとです。


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そして、新なコンポで先週組み上げたのがこちら・・・・。
どこが変わったのか、多分分からいと思います。


■ メイド・イン・USA に拘りました。 ■

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クランク      ROTOR MTB用 3Dクランク
チェーンリング   WOLF TOOTH 42t ナロー&ワイド

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リアディレラー   SRAM FORCE x1
スプロケ      SHIMANO ULTEGRA  11S 11-28T
ホイール      Rolf Prima VIGOR α ステルス

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シフター      SRAM RED 11T
ステム       THOMSON 120mm
ハンドル      RITCHEY

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ブレーキ      SRAM FORCE

まあ、ロードバイクがお好きで無い型には、どでも良い事なのですが、出来るだけ 「MADE in USA」に拘りました。

■ フロント・シングルという選択肢 ■

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今回の目玉は「フロント・シングル」。

通常、ロードバイクは前2速、後ろ11速の合計22速のギアーを持ちます。しかし、実際には同じギアー比が存在するので、14速程度のギアーとなります。

ロードバイクのリアーの変速数は年々多段化し、現在は11速が主流。しかす、カンパニューロとスラムは既に12速に突入しており、クランクメーカーのROTORは13速のシステムを発売しています。

この「多段化」によって出て来た発想が「フロントのディレラー要らなくない?」という「フロント・シングル」。

実はロードバイクのフロントディレラーって「トラブル・メーカー」で変速に際してチェーンが落ちる事が頻繁に起こります。デコボコ道でフロントを変速したり、リアがファイナルローに入っているのにフロントをインナーに落としたり、坂道でペダルにパワーが掛かっている時にインナーに入れたり、或いはフロントインナーでリアーをトップにしてしまったり・・・まあ、様々なシーンでチェーン落ちが発生します。

だいたい、フロントのインナーギアーの内側にチェンが落ちて、クランクとフレームの間に挟まってフレームが傷だらけになります。カーボンバイクだと、車体のダメージも、精神的ダメージも小さくは有りません。チェーン落ちを防止する為にチェーンキャッチャーを付けても・・・落ちる時には落ちる。

実は私、この所、立て続けにチェーン落ちに見舞われております。(何故かリアですが・・・)。そして、先日はRolfのリアーのスポーク2本が折れました。千葉の山の中で・・・。元々14本しか無いスポークが2本折れると、リムが歪んでブレーキに当たる為、走行不能になります。(残った12本の極細のスポークに命を預ける気にはなれませんが・・・)

そこで「フロントシングル」の出番です。

フロントシングルはロードバイクより悪路を走るMTBで発達した技術です。MTBは悪路でチェーン落ちのリスクが高いので、いっその事、フロント変速を止めてしまえという発想が生まれて来ます。しかし、ただフロントディレラーを取り去っただけでは、チェーン落ちは防げません。現に私の魔改造MTBはフロントシングルですが、フロントチェーンが落ちまくったのでフロントディレラーを付けたままにしています。単にチェーン落ち防止の為に。

■ ナロー ワイド という技術 ■

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そこで誰が考えたのかは知りませんが、フロントギアーの歯を、「薄い歯」と「厚い歯」を交互にする事で、チェーン落ちを防ぐ技術が「ナロー&ワイド」。

本来はMTB用の技術でしたが、悪路を走るシクロクロスやグラベルロードの普及によって、ロードバイク系の車体にもフロントシングルが使われる様になります。

そして、とうとう、プロのロードレースの世界でもフロントシングルを採用するチームが現れました。アイルランドのAqua Blue Sportというチームです。

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しかし、選手たちにはフロントシングルは不評で、チームも解散しています。ほんの少しのギアー選択のミスが勝敗を分けるプロのチームで、ギアの選択肢が狭いフロントシングルは圧倒的に不利なのです。

しかし、ホビーライダーの多くは、1秒を争う様な走り方はしません。特に、平地中心に走る人や、ヒルクライムに特化した人は、ギーアの多くを持て余しています。そこで、ロードバイクでもフロントシングルを採用する人がチラホラと現れる様になります。

ただ、「ギアの選択肢が少ない」という制約は残りますから、重いギアーか、或いは軽いギアーか、はたまた「スムースなギアの繋がり」を捨てる必要が有ります。

■ ギア選択が難しい ■

11速、或いは12速だけしかギアの選択肢の無いフロントシングルでは、フロントとリアの歯数によって、全く異なった乗り物になります。

フロント2段と同じギアー幅を選択出来る様にする為には、MTBの様にリアのギアをワイド化するしか在りません。SRAMなどは11T-36Tとか、或いはもっと広いギアーのスプロケを販売しています。しかし、変速段数が11速、或いは12速では、ギアーの歯数の間隔が広がってしまいますから、細かな変速調整が出来なくなります。「もう少し軽く」とか「もう少し重く」という時に選ぶギアが無い。

そこで、今回はリアーをシマノの11T-28Tにして、フロントを42Tにしてみました。

トップ側のギア比が3.82、ロ-側が1.5という構成です。

トップ側の3.82はコンパクトクランクの50-13Tにほぼ等しい。ホビーライダーは下りで高速を出さない限りは11Tや12Tは使いません。

一方ロー側の1.50は、コンパクトクランクの34-23Tに相当します。ホビーライダーは激坂では34-32T(ギア比1.06)などという乙女ギアを求める人も居ますから、1.50というギア比は、10%を超える坂道では「男気」溢れる選択となります。

尤も、私はギア比3.0のピストに乗って房総に山を登っていますから、1.50は「ちょっと重いけどダンシングで激坂はOK」って感じ。勿論、登りでスピードを求めるヒルクライマーでは問題が生じますが、「峠は足を着かずに登れれば良い」派なので、問題無い。

■ ダンシングが帰って来た ■

実は一昨年からコンパクトクランク(50-34t)や、セミコンパクトクランク(52-36T)を使い始めていまいた。やはり、年齢的に思いギアは坂道で辛い。省エネモードのシッティングで坂道を登るには、コンパクト系のクランクは楽ちんです。一方、ダンシングの出番は減りました。

しかし、フロントシングルで1.50というファイナルローのギアー比では、8〜9%以上の坂道は基本ダンシングとなります。ちょっとした坂道での加速のシーンでも、ダンシングの出番です。

今回は10%越えが連続し、しかも直登気味の麻綿原高原を老川十字路側から登ってみましたが、フロント変速をしないと、登ると下りが交互に表れる尾根筋の様なコースではギアチェンジが超楽ちんでした。そして、結構荒れた路面でギアチェンジしても、チェーンは落ちる気配すら在りませんでした。

というか、ダンシング、楽しい!!

久々に「自転車に乗ていて楽しい」と感じました。


■ SRAMのダブルタップも楽しい ■

実は今回、人生初のSRAMコンポでしたが、「ダブルタップ、超楽しい」です。

ダブルタップは一つの変速レバーで、シフトアップもシフトダウンもする構造。深く押し込めばシフトダウン。軽く叩けばシフトアップ。

未だ、慣れていないのでシフトミスも多いのですが、同じレバーなので修正は楽です。特にシフトアップは「チョンチョン」って感じで超楽。

私、シマノのブレークレバー全体をグニュリと捻るシフトダウン操作ってどうしても好きになれません。だからカンパを使って来たのですが、SRAMのダブルタップの操作感も悪く在りません。

そして、リアの機械式変速もスパスパと気持ち良く決まります。


最近、自転車に乗る時に「如何に効率的にペダリングするか・・・」なんて考える事が多かったのですが、フロントシングルで「効率」を捨て去ると、自転車に乗る楽しみが戻って来ます。「気合でダンシングだぁーーー」・・・これこそが、子供の時から乗り続けて来た自転車の楽しみの本質だったのかも知れません。
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[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
7. 中川隆[-11158] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:33:12 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[28]
2019/10/7
乗鞍ヒルクライム・・・思い立ったら即実行  
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■ そうだ、紅葉を見に乗鞍岳に行こう ■

冒頭の写真をご覧になれば、何処に行ったかは一目瞭然。そう、乗鞍岳にヒルクライムです。

乗鞍と言えば自転車乗りの聖地。自転車(ロードバイク)で行ける日本最高地点です。

ちなみに、自転車で行ける峠の最高点は大弛峠(おおだるみ峠)。
日本一の峠にMTBで挑む・・・大弛峠・・・「人力でGO」 2018.08.16 

日頃から自転車好きを自称する私ですが、乗鞍に行った事が無いのでは自転車乗りの名折れです。そこで、紅葉のこの時期に乗鞍ヒルクライムを敢行して来ました。

■ 乗鞍ってどうやって行くの? ■

ところで乗鞍ってどうやって行くの??

ネットで調べると、ほとんどの人が車載で乗鞍観光センターまで行っています。輪行の記事を見付けました。

東京 → JR松本駅 → 松本電鉄・「新島々駅」→ アルピコ交通・「乗鞍観光センター」

朝イチで東京を出れば、日帰りできるそうです。

都内から自走とか、松本から自走という記事は、ほとんで見かけません。理由は新島々から乗鞍に至る国道158号線は、狭いトンネルが連続していて、自転車の走行は危険だから。そう、思い出しました。以前、高山から高速バスで東京に帰る際に、安房トンネルを過ぎた所から、狭いトンネルが沢山あって、「ああ、ここだけは自転車で走りたくない」と思いました。

1)路肩や歩道が無い
2)トンネルの幅が狭く大型車の行き違いも大変
3)松本方面からは登り坂のトンネル
4)トンネルがカーブしている
5)トンネル内の路面が荒れている
6)トンネル内に分岐が或る!?
7)交通量が結構多い

ここを走ったという猛者もいらっしゃる様ですが、はっきり言って私はまだ死にたくありません。

■ 紅葉シーズンの満席のあずさ1号だって簡単に乗れる? ■

木曜日に乗鞍行きを思い立ち、金曜日に「あずさ1号」の指定を取ろうと思ったら満席。でも問題有りません。何故なら自転車をデッキに置く関係上、座席に座る事が出来ないからです。ドアが開いて乗客が乗降する度に、自転車を移動しなければならないのです。

あずさは全席指定ですが、「特別指定券」というのがあって、座席を指定しなくても、空いている座席に座れます。ただ、誰かが座席を購入している区間は、別の空いている席を捜さなければなりません。

この「特別指定券」を購入(座席指定と同額)して、デッキに自転車と一緒に立っていれば、満席なんて関係有りません。紅葉シーズンの新宿発のあずさ1号に、当日チケットでも乗る事が出来ます。帰りも同様です。

■ クロモリ・フルリジット・フロントシングルMTBのラレー君に決めた!! ■

問題はバスです。「荷物室に自転車を入れる」と書かれていますが、山道でバスは大揺れのハズ。・デリケートなカーボンバイクは心配です。

そこで、先日組み立てたレイノルズ853チューブのレモン・チューリッヒにしようかとも思いましたが、ヘッドパーツのガタが取れないので長い下りは心配です。

そうなると、残りは街乗り仕様のMTB、ラレー君しかありません。クロモリ・メガチューブ、フロント44tシングル、ブロックタイヤ装着の13kgのモンスター・クロスもどき。

まあ、日本一登りが長い大弛峠もラレー君で登ったので、20km、平均斜度6.1%ならば、どおって事無いでしょう。

実際にはバスの荷室に自転車を寝かして入れました。紅葉シーズンは日帰りハイカーが多く、大きなリュックが荷室に無いので、自転車が荷室を独占出来ました。6台程入りました。但し、夏場は大型のリュックが多いので、自転車は載せられないそうです。

■ 乗鞍はサイコーだ!! ■

そんなこんなで行って来ました、乗鞍ヒルクライム。当然、「足付き無し」ですが、走行中片手運転で写真を撮りまくったので、ゆっくりクライムでの達成。時間は2時間30分掛かりました。(あまりの景色の良さに森林限界以上は、ほとんんどカメラを手放せず、片手運転・・・真似しちゃダメだよ・・・)

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新宿7時発のあずさ1号に乗って、乗鞍観光センターには12時頃に到着。標高は既に1457m

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走り始めてしばらくすると正面に乗鞍山頂が見えます。序盤の斜度は7〜8%程度。ガンバレばラレー君でも10km/hで登れますが、先が長いので9〜8km/hペース

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カラ松林の中の白樺が点在するザ・信州な景色

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三本滝レストハウス。ここから先は一般車通行止め

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スキー場で見晴らしが効きます。

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いよいよ森林限界。真っ赤に染まったナナカマドが見事
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2000m以上では紅葉が始まっています

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高木が少なくなり、眺望が良くなります。ここら辺から登山客が沢山

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いよいよ森林限界。真っ赤に染まったナナカマドが見事

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2500mを越えると別世界。雲の上です

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コースの最高点2720mの長野―岐阜県境を越えてたら、畳平はすぐそこ

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山頂は気温5℃位でしょうか。風が強くて寒いので、防寒具を着込みます。時間が遅いので女性のサイクリストも多い。今晩は山頂泊でしょうか


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男気仕様のラレー君、何故か本格ヒルクライムのお供が多い・・・。ブロックタイヤには岩肌が良く似合う


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下りは岐阜県側の乗鞍スカイライン。高山らしい景色が続きます。そして高速ダウンヒルには観光客がバスや自転車が少ないこちらがお勧め

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スカイラインを一気に下り、平湯から国道158号線で高山を目指します。ずっと下りのコースですが、高山市街までは意外に距離があります。

当日の早朝に宿泊を決めたので、取れた宿は温泉施設の大部屋。通常3500円/1泊ですが、溜まっていたポイントを使って2000円。山小屋だと思えば、天然温泉も付いて、一人で布団を独占できるので、こっちの方が天国です。(山小屋、二人で一つの布団をシェアですから・・・)

700円の入浴料を払って、強いアルカリ泉でお肌ツルツル。付属の飲食施設で、高山名物「けいちゃん」(鶏肉と野菜の鉄板焼き)を肴に生ビールをグウウーーっと一気に胃に流し込みます。本日のヒルクライムはこの一瞬の為に有る。

飛騨古川の渡辺酒造(蓬莱が有名)の「小町桜」を冷で頂きます。本醸造の普通のお酒ですが・・・下手は吟醸酒よりも美味しい。最期は高山ラーメンで上り。塩分補給でスープまで完食。

お腹一杯食べて、お酒も入ったので、後はグッスリ寝るだけ。

ところで、結局大部屋に停まったのは4人だけでした。沢山布団が敷かれていましたが、「〇〇交通様」という名札が布団に置いてあったので、深夜バスの運転手が昼間寝る場所に使っているみたいですね。温泉施設も真昼間は利用客が少ないから静か。

明日は乗鞍スカイラインから山頂を目指します。(天気次第ですが)

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[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
8. 中川隆[-11157] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:35:55 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[29]
2019/6/11
実は凄かった筑波山...自転車靴でgo!  
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■ 自転車を「アーマードパック」にしてみた ■


「自転車」って看板が、ちょっと写真がトホホですね・・・

夏になるとロングライドはダブルボトルが標準装備。大型サドルバックを買ったので、今までサドルの後ろに付けていたツールボトル用のボトルケージが付けられません。そこで、ダウンチューブの下に、バンド取り付け式のボトルケージを「増設」してみました。

普通はショートタイプのツールボトルで無いと前輪と干渉してしまう様ですが、ゼファーはフォークのアングルが寝ているので、ギリギリ普通のサイズが収まります。

これって、ちょっとカッコ良く無いですか。気分はもう、こんな感じ。

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ネットから拝借しました

とか・・・・

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ネットから拝借しました

自転車がアーマドパック仕様に脳内変換され、気持ちはすっかりバトルモードです。

実際に、シートの後ろに付けるよりも重心が下がるので、自転車が非常に安定しますし、ダンシングの振りも軽くなります。ただ・・・段差とか急制動でツール入れを「誤射」してしまいそうでチョット怖い。

そこで、試走を兼ねて小雨の日曜日の朝、5:30に浦安を出発します。


■ 「学園都市」という響きでスイッチが入った!! ■


梅雨に入り自転車乗りにはツライ季節。本日の朝から終日小雨の予報。とりあえず、Yahoo天気の雨雲レーダーで、雨雲の切れている方面に向かいます。海浜幕張から進路を北に取り、木下(きおろし)から利根川を越え、竜ケ崎に入ります。

すると行先表示に「筑波学園都市」の文字が・・・なんとソソル響きだろう。と言う事で、牛久から国道408号線で筑波学園都市に入ります。

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電柱の「学園都市」という文字読めますか?

勝手に風景が「脳内変換」されてゆきます・・・。

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脳内変換 前

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脳内変換 後 ・・・『とある魔術師の禁書目録』より

ところで「学園都市」の英語訳って「Academic city」とか「Academy city」だと思うのだけれど・・・道路標識は「Sience City」となっています。「科学都市」ですね。これはこれで萌えます。

さすがはサイセンス・シティー、「国土地理院」とか「高エネルギー加速器研究機構」とか言葉だけでも萌えます。もう、素粒子に魂を撃ち抜かれます!!

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■ 筑波山まで来てしまった ■

加速器で加速されたので(実際には、ずっと向かい風で辛かった)、とうとうこんな所まで来てしまいました。・・・筑波山。

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関東では富士山とタメを張れる、古代よりメジャーな神聖な山ですが・・・・こうやって近くで観ると「丘」ですね。「山」じゃない・・・・。標高も877m・・・丘だ。

取りあえず、茨木県のヒルクラムのメッカですから、挨拶がてら、ひと登りしてみましょう。登り始めると10%越えの坂もあったりして、それなりに楽しめます。うっすらと汗ばむ頃に、何やら巨大な赤い鳥居が現れました。

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筑波山神社の大鳥居です。社会人になった年に、キャンプで一度来た事が在りますが、観光はしていないので、とりあえず神社に寄って行く事にします。

筑波山は「山」自体が神様です。男体山と女体山の一対の神々が、御幸ヶ原でウ夜な夜な「お戯れ」になられる、なにやら神秘的?な場所です。草木も動物も石ころも神様の一部。

実は古代から近代まで大規模な歌垣(かがい)が行われた場所としても有名です。歌垣とは若い男女が詩を読み合い、詩が優れた者がお相手を獲得するという、ネイティブな集団見合い。南アジアに広く、その伝統が伝わります。実際には、庶民の行事ですからアカデミックとは程遠く、飲めや歌えやのドンちゃん騒ぎで、現代のクラブ(ディスコ)に近いものだったのでしょう。当然、お持ち帰り有り!!


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中腹にある立派な建物は拝殿です。本殿は男体山と女体山の山頂に有ります。

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筑波神社の狛犬は、いいプリケツをしています


楼門の右手の小道を、ハイキングの恰好をした人達が大勢登って行きます。どうやら、登山道の入り口の様です。民家の庭先を通って、小さな鳥居が登山道の入り口です。すぐ横にコンクリートの擁壁が聳えているので、敬虔な雰囲気は全く無く、まさか、こんな小道が本殿への昇り口だとは思いもしませんした。


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「白雲橋コース」という高低差610mのルートで、所要時間は110分とあります。登山マップに記されている所要時間は「老人タイム」ですから、私の足なら40分もあれば登れそうです。鳥居から覗くと、道は木立の下をゆるやかに登っています。

これならビンディングシューズでも登れそうです。

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SPDショーズはサイクリングの途中の登山に最適?!

■ 筑波山・・・丘なんて言ってゴメンナサイ ■

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登り始めてしばらくすると、森はいっそう深くなり、杉やアカガシなどの広葉樹の巨木が生い茂ります。「神域」という呼び名が相応しい。傾斜も徐々にキツクなり、ゴロゴロとした岩が多くなってきました。

濡れた岩の上では、ビンディングシューズの金属のクリートが一発で滑ります。慎重に、ビンディングが岩に触れない様に、靴底の外側や内側から着地する様にします。

すると、自転車ウェアーの方が高速で下から上がって来ました。さすがにビンディングシューズでは有りません。トレイルランのシューズですね。土浦から自転車でいらしたそうですが、トライアスロンをやられているとか。長谷川恒夫記念(通称:ハセツネ 制限時間24時間の山岳耐久レース)に出場されているそうですから、ペースは相当に速い。

とてもビンディングでは着いて行けません・・・というか一瞬で太腿が攣りました。100kmのロングライドとプチヒルクライムの後だからと・・・自分を慰めます。しばらく、お話しながら登った後、先に行ってもらいました。

■ 筑波山、パナイっす!! ■

途中、昔の茶屋後の小さな広場で一休みした後、「白雲橋コース」のハイライトが始まりました。

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「弁慶七戻り」・・怖くて弁慶ですら七回も通り抜けるのを躊躇したとか・・・

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「母の胎内くぐり」

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急な岩のルートには、所々、「鎖場」もあります

イヤー、マジ、筑波山、パナイっす!!

すみません、この面白さを表現するボキャブラリーが足りていません。とにかく、ディズニーランドのトムソーヤ島を巨大にしたアトラクションと表現するのが適当かと。

しかし、ビンディングシューズもマジ、ヤバイっす。スリル、アリアリです!!

そういえば、登山道の入り口に「無計画な登山はお止め下さい」って書いてあったっけ。のどが渇きましたが、ドリンクは自転車に着けたままでした。お腹が空いたので、背中のポケットに幸運にも入れてあったスニッカーズに救われました。

40分程度でチャッチャと登るつもりでしたが、あまりに神秘的な景色の連続に、じっくり写真は撮るは、GoPro7でアクティブな動画は撮るはで、結構時間が掛かります。

そうそう、先ほどから写真に登場しているのは、「弁慶七戻り」からご一緒した、若いカップル。ありがとね!!(完全にオヤジがデートの邪魔をしています)


■ てっぺん、取ったどぉーーー!! ■

何故、こんな無謀な登山を始めたかと言うと・・・筑波山の自転車で行ける最高点が、全然最高点で無いから。「てっぺん取ったでどぉおおーー!」って感じがイマイチしない。(ヤビツ峠もそうですが・・・)

そして、とうとう女体山の山頂、877mに到達です。標高だけ見ると大した事ありませんが、海抜の低い平野から独立峰の様な聳えているので、眺望は最高でした。梅雨時にこの景色が観れるなんて、幸運としか言いようが有りません。

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山頂の岩の先端は高所恐怖症の人には無理・・・

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関東平野が一望できます

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筑波山神社の本殿、筑波女ノ神を祀ります。格神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)

■ 自転車談義をしながらケーブルカー乗り場に降りる ■

山頂の手前から男性3人連れとご一緒します。会社の企画で十数名で筑波山に登られているとか。夏の富士山の小手調べだそうです。

お二人の方が、自転車にも乗られるそうで、ビンディングシューズでの登山に「大うけ」でした。色々、楽しい自転車談義をしながら、女体山と男体山の間の「御幸ヶ原」まで下って来ます。二つの峰の鞍部は、神々の乱〇パーティーの場・・・失礼、ディスコでした。

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御幸ヶ原・・・神々のパーティー会場

ここで、昼食にします。けんちんうどん、美味しかったです。後ろの席の大学生と思しき男子達が、「ウメー、おれ、こんなに美味しいカレー食べるの初めてだ」「オレも、こんなに美味しいうどんは初めて」って盛り上がってました。「君達、それは運動してお腹が空いているからだよ」と、心の中で呟きました。

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■ ゲコタ(GEKOTA)を発見 ■

ケーブルカーの時間まで間があったので、お土産屋さんを覗きます。すると・・・・GEKOTA(ゲコタ)を発見!!

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おみやげ屋さんに居たGEKOTA

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御坂美琴が大好きなゲコタ・・・『とある魔術師の禁書目録』より

ここで本日の目的を思い出しました。『とある魔術師の禁書目録』の聖地巡礼の最中でした。これで、目的が完遂出来ました。(そもそも架空の都市ですから、整地巡礼って無理なんですけどね)

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こんなカワイイ「GEKOTA」も沢山居ました


その後、2:00のモノレールで一気に拝殿の裏まで下ります。さすがに私えも、ビンディングペダルで山道を下るリスクは取りたくありません・・・。

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下山したら、おみやげ屋に、ゲコタのラスボスが居ました・・・・


■ ちゃんと「つつじが丘」までヒルクライムして来た ■

みやげ物屋に預けていた自転車に跨り、「さぁて帰るか!!」と大鳥居をくぐり、坂を下り始めますが・・・「おおーーーっと、ヒルクライムの途中だった」と引き換えします。

ここから「つつじが丘」という所まで登り坂がある様です。登山の後なので、キツイのか、キツクないのか分からない坂を、えっちら、こっちらと登ってロープウェイの駅のある駐車場に着きます。

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巨大なガマ仙人が鎮座していました・・・

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昔から不思議な「三船敏郎に似ている三流役者」みたいな看板・・・

売店で栃木からいらした、NAKAGAWAのクロモリロードの方と楽しくお話してから、筑波山を一気に下り、学園都市の「研究学園駅」から電車で浦安に戻ります。いつの、利根川から遠望する筑波山、遠いと思い込んでいましたが「低い」から遠く見えただけ。浦安から電車でも、結構近い事に気付きました。

距離的には帰りも自走できそうですが・・・翌日は月曜日なので、疲れを貯めない様にしないとね。

ところで、本日の本当の目的って何だっけ・・・・そうそう、増設したボトルケージが邪魔にならないかどうかの確認でした・・・。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2367.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c8

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
9. 中川隆[-11156] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:39:09 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[30]
2019/5/8
東京-直江津 ワンデイライド  
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■ 先にご褒美を買ってしまった・・・ ■


先日予告した浦安→直江津のワンデイライド。

コース中、「二度上峠」「軽井沢」「嬬恋」「菅平」と絶景ポイントや観光地を散りばめてみたので、写真を沢山撮りたい。でも、写真を撮っていると一日で直江津に着かなくなる・・・。

そんなジレンマを解消する為に・・・迷った挙句に、出発の前日に買っちゃいました。アクションカメラ、「GoPro hero7 Black」。

これをハンドルに取りつけて走れば、一々止まる事無く、雄大な景色を動画に収める事が出来ます。

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さらに、今回は3泊の小旅行の為、荷物が多めです。デイパックで背中に背負うと、肩がモゲそうになるので、今流行りの大型のサドルバックも購入しました。いわゆる「バイクパッキング」というヤツです。ついでに、トップチューブバックも購入します。

少し前まで2万円程度していた大型サドルバックですが、大手各社が参入した事で、価格破壊が起きました。今回はTOPEAK製をチョイス。8千円程でした。

さらに、安全ベスト、蛍光色の薄手のレインウエア、ヘルメットライトも購入して、完全にブルべスタイルで挑みます。「備えあれば憂いなし」 デス !!

■ 5月2日 午前0時、直江津に向けてGO!! ■

今回のコース、獲得標高は2600m越えで、二度上峠、鳥居峠、菅平と1300m以上の峠を3っつ越えた後に、長野県飯山から新潟に抜ける飯田街道の峠越えが最後に待ち受けています。

この最後の峠を日没前に通過したいので、ワンデイライドのお約束をちょっと前にズラシて、5月1日の午後21時に浦安を出発する予定でした。しかし、朝から雨が降ったり止んだりの天気で、結局、雨が小降りになるのを待って家を出たのは5月2日の午前0時。結局、正式なワンデイライドとなりました。

前回は川越を経由しましたが、今回は巣鴨からずっと国道17号を辿ります。これが最悪で、大宮市内を抜けるまで、信号がともも多い。さらには、見事に信号に引っかかり、なかなか先に勧めません。

結局、熊谷に到着したのは空が白み始める午前4時半頃。ここでコンビニ休憩をして栄養を補給します。

■ 向かい風になった・・・ ■

熊谷を過ぎると向かい風に変わりました。先が長いので、パワーを抑え気味に走行すると、時速25km/hを維持するのも難しい。

途中、新1蔓延札の肖像に選ばれた渋沢栄一の生誕の地の深谷を通ります。以前より、深谷市は渋沢栄一「オシ」でしたから、今回の選定は市を挙げて祝賀ムードでしょう。

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5:33

向かい風でペースを落としながらも、7時15分に高崎に到着します。

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7:15

高崎から先は、前回も通った草津街道(国道406号線)に入り、倉渕を目指します。ここで、ちょっとコンビニ休憩と補給。

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7:22


■ 房総・里見氏の出身地の群馬県の里見 ■

戦国時代、千葉県南部の安房地方を支配下に置いた里見氏の出身地は、実は現在の群馬県高崎市の上里見・中里見・下里見一帯です。

新田義俊(里見太郎)は里見の地を治めるに当たり、里見の姓を名乗ります。その後、里見氏は鎌倉幕府や室町幕府に仕えますが、戦乱の時代に没落します。その傍系の子孫が安房の国に逃れ、房総里見氏の礎となった。

下の写真は「下里見」の交差点と、その近くにある「郷見神社」。社格は村社ですが、里見氏の氏神だったのでしょう。

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8:06

おっと、いけない、観光ばかりか、こんな歴史探訪までやっていたら、とても直江津に到着出来ません。先を急ぎます。右手には榛名山がクッキリと見えます。

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8:19

ゆるい峠を越えて倉渕に到着します。ここの道の駅でちょっと長めの休憩を取ります。無添加の「干し梅」を購入します。前回はコレに救われました。

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9:00   142km 

倉渕から国道406号線を離れ、北軽井沢方面へ進路を変えます。標高1390mの「二度上峠」への1000mのヒルクライムが始まります。

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9:35

のどかな山村の中を道はゆるやかに登って行きます。フォトジェニックなスポットが沢山有って、その都度停車して写真を撮るので、なかなか先に勧めません。

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9:52

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10:02

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10:08

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10:10

だいぶ登った所で、「はまゆう山荘」が現れます。ここから先は冬季ゲートを抜けて本格的なヒルクライムとなります。コーナーに番号が着いていますが、頂上までのコーナの数である事は予習済。68からスタートしたと記憶しています。

荷物を積載した自転車の重量は15kg程度でしょうか。ただ、コンパクトクランクにしてあるので、傾斜がキツクなっても体重移動を利用したゆっくりなダンシングをすれば余裕をもって登れます。ロードバイクというよりは・・・荷役自転車に乗っている感じ・・・。

二人程、ヒルクライムの練習の方が、ヒラリヒラリと抜かして行きましたが、本日は後を追う事はしません。(重くて追えません)


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10:40

道は「いろは坂」の様なつづら折れとなり、グングンと標高を上げて行きます。

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11:22

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11:25

小さな沢が滝になっていたので写真を撮る為に自転車を降りて近づくと、突然、5m先ぐらいからカモシカが飛び出しました。どうやら水を飲んでいた様です。カモシカは急な斜面を、トントンと登っていってしまいましたが・・・つづら折れを登った先で、そのカモシカが道の近くに佇んでいました。多分、車道を越える事が出来なかったのでしょう。距離は20mも離れていません。今度はしっかり写真を撮る事が出来ました。

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11:29

永遠に続くかと思えたカーブもいよいよ「1」となり、「二度上峠」に到着しました。ここで、しばらく雄大な浅間山の眺めを堪能します。風がとても冷たいので、ウィンドブレーカーを着て下りに備えます。

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11:48

■ 軽井沢は庶民で混んでいた・・・ ■

一気のダウンヒルしてきた軽井沢に入ります。別荘が点在しますが、荒れたものも目立ちます。

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12:26

コンビニで昼食を兼ねて長めの休息を取ります。北軽井沢って、昔は「オシャレ」で「ハイソ」なイメージがあったのですが、コンビニは子連れの家族でごった返しています。なんだか、日曜日のショッピングモールのフードコートに似た雰囲気。

休憩を終えたら、嬬恋を目指して県道235号線に入ります。ここ、吾妻川沿いの406号線かに抜けるルートなので、結構車が混んでいます。県道だけに路面はボロボロで、パンクに注意を払います。

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13:10

荒れた路面に気を配りながら、長めの坂を下ると、国道406号線に大笹の交差点で行き当たります。

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13:32

■ ダラダラ登りと向かい風の鳥居峠 ■


406号線に入ってからは、吾妻川沿いを鳥居峠までダラダラと登り坂が続きます。ここで、向かい風に悩まされます。登りと風のダブルパンチで足を削られます。

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13:42

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13:51

嬬恋と言えばキャベツ畑。道端の畑にはキャベツの苗が整然と植えられています。

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14:08  約200km 

とうとう吾妻川の源流域に到達しました。クマザサの茂みの中の流れは、今は伏流となっている様です。群馬と長野の分水嶺になっている。

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14:40

程無くして鳥居峠に到着です。峠の向こう側は長野県上田市。

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14:42

峠をダウンヒルしてからしばらくして、県道182号線との分岐が現れます。ここを曲がると菅平に至ります。この分かれ道を見落とす人が多い様ですが、そうすると菅平への登り返しがキツクなるらしい。予習していて良かった。

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14:51


■ 菅平への登りは、高原の気配に満ちていた ■


この道、なかなかの傾斜ですが、本日はゆっくり登ります。途中、あまりに景色と鳥の囀りがキレイなので、しばらく立ち止まって休憩します。補給食のソイジョイを味わいます。写真ばかり撮っているので、本日はなかなか先に進めません。

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14:58

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15:11

けっこう登ったな・・・そう思う頃に菅平に到着。大学の合宿施設や、テニスコート、サッカーコートが点在する、イカニモな雰囲気。

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15:37

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15:38

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15:41

菅平を抜け、国道406号線に復帰すると、須坂・小布施まで豪快なダウンヒルが始まります。

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15:55


民家が現れると、傾斜はゆるやかになります。この辺りは未だ桜が満開でした。桜と鯉登という妙な組み合わせ。

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16:03

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16:07


■ 強い向かい風・・・これって何かの罰ゲームですか・・・ ■

須坂の手前から下り坂の傾斜はだいぶ緩やかになりますが、それにしてもスピードが出ません。原因は、向かい風。

5mを越える向かい風で、下り坂なのに下ハン持って必至にペダリングしないと15km/h程度の速度になってしまいます。

須坂の街は古い家が残っています。お腹が空いて来たので、「お焼き」を食べたかったのですが、ここは先を急ぎます。

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16:23


小布施に到着します。栗で有名な街です。一度も来た事が無いので、ちょっと寄り道します。

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16:46

栗のジェラートでも食べようかと思いましたが、もっとしっかり補給しないと飯山からの峠越えが辛くなりそうです。コンビニで長めの休息を取り、カップラーメンでしっかり空腹を満たします。ウィーダーインゼリーのストロングというのを見つけたので、これも胃袋に流し込みます。

小布施から先はやや下り基調の平坦ですが、中野市内、飯山市内と7mを越える向かい風が続きます。道端のショップの昇りが、自分の方に向けて豪快にバタバタははためく様を見ると、自転車を降りたくなります。それでも下ハンを持って、頭を低くしてグイグイとペダルを回します。

雪解け水で水量の多い千曲川を越えると、飯山市に入ります。風はやや穏やかになりますが、向かい風に変わりはありません。

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18:10


■ 最期の峠越えは暗闇の中 ■


飯山駅を過ぎて、長野に抜ける飯山街道(国道292号線)の入り口を捜します。千曲川の堤防の上には菜の花が咲いています。これ、野沢菜ですかね・・・。

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18:34

北飯山の先で、飯山街道に入ります。直江津までは後43km程度。ここからは最後の峠越えですが・・・どうやら暗くなり始めました。写真ばかり撮っていたので、1時間予定を超過しています。・・・いえ、向い風の影響の方が大きいかな。

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18:47

短いトンネルを潜ると、道は登り坂になります。これから300m弱のヒルクライムです。登りはじめてしばらくすると、空の完全に暗くなり、ライトの光だけが頼りになります。ときおり通り過ぎる車のライトで、先の方向が分かります。

左側からは川の音が聞こえて来ます。明るいうちに通れば、それなりの景色が楽しめたハズですが・・・。

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18:57

2つ程、トンネルを通過しますが・・・・ちょっと不気味です。

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19:18

トンネルを越えると道は本格的な下りに入ります。これから直江津まで600m程標高が下がります。真っ暗な中でのダウンヒルは超スリリングです。大光量のライトを付けているとは言え、車のヘッドライト程は先が見通せる訳では在りません。せいぜい、15m先の白線が見える程度。

最初は慎重に下っていましたが、真っ暗な山の気配に圧倒されて、速く人の世界の明かりのある場所にたどり着きたくて、スピードを上げます。慣れて来ればゲーム感覚で結構面白い。

ただ、先ほどからウィンドブレーカーを着ていても寒い。本当は一度停車して、防寒ウェアーとフルフィンガーのグローブを着けたいの所ですが・・・暗闇で停車すると・・・何か出て来そうなので、怖くて停車出来ません。


ようやく、民家がポツポツ現れて、傾斜も緩むと、コンビニの看板が見えて来ました。「コンビニが有る」という安心感と言ったら・・・地獄で仏に出合ったみたいでした。

コンビニと到着が20時頃だと記憶しています。

カップラーメンで暖を取り、しばらくコンビニ内で体を温めます。サイクルジャージとウィンドブレイカーの間に冬用のインナーを着こむと、だいぶ寒さを防げました。さて、グローブを冬用と交換しようと取り出すと・・・なんと左手用が二個出て来ました。ヤッチマッタ・・。

仕方無く、薄手の方を右手にはめますが、立体裁断なので、握る方向が逆側に力が掛かりますが、えない事も無い・・・。

しばらく進むと国道18号に入ります。イヤー、さすがは土木大国の新潟の国道です。バイパス
路肩も広く、走り易い。風向きもやや追風に変わったので、30km/h以上のスピードが復活します。


ただ、土地勘が無いので、道を何度も間違えます。18号を直進すれば良いのの、妙高高原駅の看板や、直江津市街の看板に何度も誘われて、18号を離脱しては、スマホで道を確認して18号に復帰する事を繰り返します。

■ 詰め方が悪いとサドルバックが下がって来る ■

そのうち、後輪からシャー、シャー、シャー、シャーと音がして来ます。路肩に自転車を止めて確認すると、コンビニでのパッキングが悪かったのか、サドルバックが降臨と干渉しています。

仕方無く、18号を降りて、パッキングをやり直します。ここからは地図と勘を頼りに直江津どうにか辿り付きました。


直江津駅到着

到着時刻    21時50分 (トータルタイムとほぼ同等)
走行距離    298.9 km
メーター読みAV  18.5km/h
走行時間    16時間07分

本当は直江津港まで行く予定でしたが、チェックインの時間も気になるので、本日のライドはこれにて終了とします。


20時に到着する予定が2時間超過してしまいました。向かい風で1時間、道に迷って1時間程度のロスタイムがあった感じでしょうか。


明日は富山に向けて走る予定ですが、ゆっくり走ったので、充分に余力が残っています。残念なのは到着時間が遅かったので、夕飯がコンビニ弁当になってしまった事。

ホテルの部屋に入ったら、速攻でシャワーを浴びて、ウェアーを洗濯して備え付けのタオルで水ケを取ります。

ビールを二本買ったのですが・・・1本飲んだ所で寝落ちしました。


よく頑張った、53歳のオレ!!


翌朝に直江津駅を撮影しました。

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2354.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c9

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
1. 中川隆[-11155] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:16:22 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[31]
ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない
2015年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846


ネットでは、いか@さま情報が横溢している。

おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。

いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。

なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。

もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。

そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。

例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!

そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;


https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177

そして、そのソース;

日本の中のCIAエージェントその1
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108

そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

いや、いや、全然、全くの事実誤認。

コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。

CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。

⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。

   ⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ

確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。

でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。

(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、彼だ!)

CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣などである;

有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c1

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
2. 中川隆[-11154] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:19:49 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[32]
大磯 「ヨハンセン」邸炎上
2009年03月22日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58


- - 袴を穿いた「ヨハンセン」は、ほんとに太っていた。 小さくもない荷台であるが、その荷台にはみ出るのである。

 生まれて初めての自転車乗りである。 いつ転げるかわからない。油の切れた「チェーン」は「キチキチ」鳴った。それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。これからずっとこの自転車が、戦争中における乗用車になった。- -

東輝次、『私は吉田茂のスパイだった』より。

https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AC%80%E5%A0%B1%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%85%89%E4%BA%BA%E7%A4%BENF%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%B1-%E8%BC%9D%E6%AC%A1/dp/4769826001/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1237718251&sr=1-1


■この元スパイの話が本当だとすれば、吉田は67歳にして生まれて初めて自転車に乗ることに挑戦したことになる。「それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。」って、目に浮かぶようである。

■Amazon 私は吉田茂のスパイだった―ある謀報員の手記は、いわゆる「陸軍中野学校」出身の東輝次さんという人が、終戦工作をしているだろう吉田を監視するため、書生になりすまし、大磯の吉田に住み込み工作をしていた、という自己記録。

ヨハンセンは陸軍兵務局防衛課がつけた、吉田茂のコードネーム。

■この本によると、東輝次は大礒から吉田が出した手紙をすべて写真に撮り、その上再封印して配送していたといっている。

そして、あの近衛上奏文草稿を軍は落手したと東輝次は回想している。ただし、この『私は吉田茂のスパイだった』にはそこのところが2行しか書いておらず、詳細は全然回想されていない。

吉田は昭和20年4月15日朝、憲兵隊に拘束される。上記の近衛上奏文に関する嫌疑。

吉田は5月31日解放。東輝次は書生をやめる。

▼戦後、東輝次は吉田に会い、工作員であったことを告白。「吉田はしばらくは茫然としていた」。

●火災:旧吉田茂邸、ほぼ全焼…不審火か 神奈川・大磯

 22日午前6時ごろ、神奈川県大磯町西小磯の吉田茂元首相の旧邸が燃えていると119番があった。県警と町消防本部によると、木造2階建て住宅約890平方メートルをほぼ全焼した。午前8時半現在、建物はほぼ焼け落ち、周囲の樹木に火が移り消火活動が続いている。今のところ、けが人の情報はない。建物は普段無人で火の気がないことから、県警は不審火とみて出火原因を調べている。

 県警や町サイトなどによると、今は約3ヘクタールの敷地に総ヒノキ造りの建物と庭園がある。人は住んでいないが、敷地入り口に普段は警備員がいる。

 町郷土資料館のサイトによると、旧吉田邸は吉田茂元首相(1878〜1967年)の養父が1884(明治17)年に別荘を建てたのが始まり。戦後、自邸として使うようになった際、日本芸術院会員だった建築家、吉田勝五十八氏に設計を依頼し建て直した。首相辞任後も元首相が亡くなるまで多くの政財界人が訪れ、戦後政治史の貴重な舞台となった。79年には大平正芳元首相とカーター元米大統領の会談が開かれた。

 県警や町サイトなどによると、元首相の死後69年から西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)が所有。県が建物の寄付を受けて県立都市公園として整備する方針。普段は一般公開されておらず、町が開く見学会などで年数回見られる程度だった。22日は午後、県や町などが企画した庭園めぐりで公開予定だったが、火災を受け中止が決まった。【五味香織】

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c2

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
3. 中川隆[-11153] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:22:09 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[33]
ヨハンセングループとは、第二次世界大戦末期の日本で活動していた吉田茂(のちの首相)を中心とする戦争終結工作グループ。1945年4月に憲兵隊により検挙・逮捕された。


「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在していたわけではなく、それゆえ範囲も曖昧である。

経緯
グループの形成
外務省退官(1939年)以降浪々の身であった吉田茂は、1941年12月の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避をはかり、開戦後も岳父の牧野伸顕(同じく親英米派の重臣の一人)や元首相の「コーゲン」[1]こと近衛文麿、外務次官時代の上司の「シーザー」こと幣原喜重郎や「ハリス」こと鳩山一郎らと連絡を取り、樺山愛輔(実業家)・原田熊雄(元・西園寺公望秘書)らとともに、東条内閣の倒閣運動や戦争の早期終結を目指す工作を進めていた(さらに米内光政らの海軍「穏健派」までそのネットワークはひろがっていたとされる)。しかし、当然このような動きは陸軍当局・憲兵隊からは反軍部工作(および米英への通牒工作)とみなされ、「ヨハンセングループ」という呼称で牧野・近衛らとともに厳重な監視を受けていた(当時、平河町の吉田本邸および大磯の別邸には男女3名のスパイが潜入し、諜報活動に従事していたが吉田はこれを察知していなかった)。

「近衛上奏文」への関与
1945年に入り敗色濃厚となった戦局を憂慮した昭和天皇が、首相経験者の重臣を次々に参内させるようになると、吉田は近衛文麿の参内を通じて天皇を戦争終結の方向に動かそうと考え、2月12日参内のため上京した近衛との協議の上、いわゆる「近衛上奏文」を作成した。当時、吉田および近衛は陸軍(特に統制派)を「親ソ」とみなしていたため、上奏文はこれ以上の軍部独裁と戦争が続くならば日本が共産主義化するであろうと予測し、「国体護持」のため一刻も早い軍部勢力一掃と戦争の終結を天皇に訴えるものであった。近衛は2月14日参内して天皇に拝謁しこの上奏を行ったが、その前日13日、吉田に上奏文の草稿を示し、牧野伸顕に内容を知らせるため写しを取るよう指示していた。

逮捕、そして釈放
しかしこの「写し」の存在は先述のスパイにより陸軍および憲兵隊当局に筒抜けになっており[2]、4月15日、東部憲兵隊司令部は近衛上奏文の内容流布および陸軍当局の「赤化」中傷などをもって陸軍刑法第99条違反(「造言飛語」罪)とみなし吉田を逮捕、同時に近衛の秘書である殖田俊吉とジャーナリストの「イワン」こと岩淵辰雄も逮捕され、近衛・原田らも取り調べを受けた。大谷敬二郎憲兵隊司令官は吉田らに続いて原田・樺山・小畑敏四郎さらには近衛・牧野の逮捕も狙っていたとされるが、実際には吉田らの逮捕を通じた、体制内「反戦平和派」への恫喝に止まるとみられている。

したがって「造言飛語」罪による吉田らの立件はかなり無理があったため、結局のところ憲兵隊は吉田ら3名の容疑を立証することができず、5月2日、阿南惟幾陸相の裁断により吉田は不起訴処分となった。彼はその後5月25日の空襲で代々木の陸軍刑務所が焼けたため、仮の陸軍刑務所となった八雲小学校に5日ほど収監されたのち釈放された。

歴史的評価
吉田茂は奉天総領事在任時代(1925年〜1927年)に満蒙分離など対中国強硬策を唱えるなど(対米英協調の枠内ではあったが)、必ずしも「反戦的」外交官ではなかったにもかかわらず、第二次世界大戦後、GHQから「穏健派」政治家として高く評価されていたのは、開戦以前の駐日アメリカ大使グルーとの親交のほか、ヨハンセングループ事件による逮捕が大きく作用していたと言われる。

なお、ヨハンセングループによる終戦工作の具体化は「近衛上奏文」作成への関与に止まっているのであり、戦後、吉田の反軍部的側面を強調する吉田支持者と、吉田(および近衛・牧野)らが米英と密通していた(実証のない「陰謀論」である)とする批判者の双方によって、その活動が実体よりも過度に誇張されている面も否定できない。

注釈

^ 当局による暗号名。以下同じ。
^ 陸軍の兵務局と軍務局で逮捕する案を出したが、小磯内閣の杉山元陸軍大臣は署名しなかった。小磯内閣が退陣して鈴木貫太郎内閣になって、阿南惟幾陸軍大臣が署名したという。

参考文献
原彬久 『吉田茂 - 尊皇の政治家 -』岩波新書、2005年 ISBN 4004309719
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c3

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
4. 中川隆[-11152] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:41:23 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[34]
吉田茂の外交官時代

当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[6]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた[7]。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官[2]に就任する[注 2]。

但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[注 3]。統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた[9][10]。1936年(昭和11年)は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。

日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[11]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[注 4]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[11][2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c4

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
5. 中川隆[-11151] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:46:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[35]
吉田茂はCIAのスパイだった?衝撃的な都市伝説がささやかれる理由


CIAの紋章

吉田茂は、歴代最多である5期も総理大臣を務めた大物政治家です。
とくに敗戦後の日本の主権回復や復興に大きく貢献したと、政治・歴史の専門家からも評されています。

しかし吉田はそのいっぽうで、アメリカの諜報機関「CIA」のスパイだったという都市伝説的なうわさをもつ人物でもあるのです。
その理由となっている話を3つご紹介しましょう。


日本をアメリカの支配下に置こうと画策?
第二次世界大戦で敗戦した日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれていました。
その状況下で総理大臣になったのが吉田茂です。

GHQに対してひるむことなく、対等にわたりあった吉田はサンフランシスコ講和条約を締結し、「戦争の終結」と「国の主権の回復」を約束させました。
この功績から吉田は、日本を独立国家として復活させた立役者とされています。

しかしサンフランシスコ平和条約が結ばれるのと同時に、ひっそりと締結された条約がもうひとつありました。
日本にアメリカの軍隊が留まることを認める、日米安全保障条約です。

サンフランシスコ講和条約には吉田を含む日本の政治家6名が調印しているのに対し、日米安全保障条約に調印したのは吉田ひとりのみでした。
つまり日米安全保障条約は、吉田が単独で結んだ条約ということになります。
この事実が「吉田はCIAのスパイだったのでは?」といううわさの一端を担っているようです。

日米安全保障条約を結んだことで、アメリカ軍の日本駐留が決定しました。
主権回復後も米軍を配備し、実質的に日本がアメリカの支配下に入るよう、スパイである吉田が画策したと考えられているわけです。

日本の国策を密告?


第二次世界大戦下では、日本やドイツを含む枢軸国側と、アメリカやイギリスを含む連合国軍が衝突した太平洋戦争が起こっています。
太平洋戦争直前の日本とアメリカは外交が上手くいっておらず、アメリカが日本への石油の輸出を全面的に禁止するなど関係が悪化していました。

そのような状況のなか、天皇も出席する「御前会議」がとり行われます。
この会議では、アメリカと関係回復に向けて交渉をすること、そしてその交渉を続ける期限が設定されました。
いっぽうで、期限を過ぎて交渉が決裂した場合は「米英に戦争をしかける」という日本の国策も決定していたのです。

吉田は御前会議での上記の内容を、アメリカの駐日大使であるジョセフ・グルーにくわしく伝えていたとされています。
日本の国家機密をアメリカ側にリークしていたのが事実であれば、吉田がCIAのスパイだと考えてもおかしくはありません。

実際に吉田はCIAとの関係を疑われ、一度逮捕されています。
しかし十分な証拠がなく、1カ月半ほどで釈放となりました。
吉田が本当にアメリカと繋がっていたかはわかりませんが、密通の容疑をかけられたことは事実なのですね。

側近がCIAと接触
総理大臣となった吉田の側近に「辰巳栄一」という人物がいます。
辰巳は陸軍に在籍していて、戦後は吉田の軍事顧問として日本の軍隊の再編制などに尽力しました。

この辰巳栄一がCIAとつながりを持っており、日本の内部情報をCIAに譲渡していたことが2009年に明らかになっています。
米国立公文書館で発見された文書に、辰巳は「POLESTAR-5」というコードネームで呼ばれ、CIAを経由してアメリカに情報を渡したと記されているのです。

辰巳がCIAに流していたのは、おもに自衛隊や内閣情報調査室の創設に関する情報だったといいます。
辰巳は吉田の側近ですから、辰巳が情報提供していることを吉田が知っていたとしても不思議ではありません。

もし情報の譲渡を黙認していたのであれば、吉田がCIAのスパイだったという話も少々リアルに感じられるのではないでしょうか。

日米安全保障条約にひとりで調印したことや、側近がアメリカへの情報提供者であったことから、吉田茂のCIAスパイ説が浮上したようです。
あくまで都市伝説レベルの話ですが、もし日本の総理大臣がCIAのスパイだったのなら、かなりショッキングな事実といえますね。

https://rekisuta.com/present-day/yoshida-shigeru/cia-spy/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c5

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
6. 中川隆[-11150] koaQ7Jey 2020年9月25日 17:16:29 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[36]
吉田茂逮捕の真相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0

  近衛文麿上奏文案  私が憲兵隊に連行されたのは、たしか四月(昭和二十年)中ごろのことであったと憶えている。

 大磯の私宅から連れて行かれる自動車の中で、召喚される原因は、多分前述の秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。

 ところが、九段の憲兵隊での取調べは、秋月翁のことには一切触れない。
『二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ』
というのである。これにはいささか見当が外れた。

 しかし私はこの憲兵隊での取調べでは一切答えないことに吐を決めた。旧憲法ですら、親書の秘密が保証されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。

 今流でいう黙秘権を行使したわけである。……
 私は当時鈴木貫太郎総理や阿南陸軍大臣とは懇意の間柄であったから、まさか死刑にはせんだろうと多寡をくくっていた。
 阿南君とは陸軍次官時代、その官舎が平河町の私の隣組で、朝の散歩の途中などで良く出会ってやあやあと声をかけあっていたし、私に少からず好意を持っていてくれたようだった。
 九段の憲兵隊の取調べは厳重でも、取扱いは至極丁重だったのは、阿南君の差金であったように思えた。……
 九段の憲兵隊で二週間過した私は、泥棒諸君とともに、今度は代々木の陸軍衛戌監獄に移された。
(新潮社発行、吉田茂著『回想十年』より)

1 吉田茂検挙の影響をおそる

 敵機の空襲に、重苦しく明け暮れていた帝都にも、春は訪れる。
 焼け残った燻しの桜も、ようやく生気をとり戻して、ふつくらとしたつぼみを抱いている。
 お濠端の柳も、その青い芽を、キラキラときれいな水に影をうつしていた。
 「もう、春が来たか」
 思わず、こう独言した私は、椅子から立ち上って、開け放しの窓から初春の空気を胸一杯吸った。
 昭和二十年三月下旬の、ある朝のことである。
 けたたましく電話が鳴る。憲兵副官からだ。
 「司令官がなにか協議かあるそうですから、すぐ、司令官室にお出で下さい」
 憲兵司令官室は、二階東側の奥まったところにある。
 その入口は固く閉ざされて、吉田茂一派の検挙につき、討議が行われたのであった。

「吉田茂を検挙すること自体は、さまで問題ではありませんが、その影響の及ぶところは、まことに重大であることが注意されねばなりません。
 吉田は、岳父牧野伸顕に、近衛上奏をこまかに物語っているようでありますし、またこの事件は、もともと近衛公の言動から発しておりますので、必然に、同公にまで及ばなければ収まらないことも予想されます。
 したがって、吉田を検挙することは、いきおい牧野伯や近衛公に発展することを考えなくてはなりません。
 果して、今の陸軍に、そこまでの決心ができているでしようか。
 東条政権時代、憲兵の行過ぎは、お上(天皇陛下)にも不快に覚えさせられ、かって、東条総理に憲兵の運用について、御注意があったと聞いています。
 憲兵が吉田茂一派を検挙し、取調べの進展につれて、たとえ参考人としてでも、牧野や近衛を訊問するとなれば、それはお上の側近にまで手をつけることになります。
 元来、陸軍といっても中央部のことですが、その中央部の動き方には、重臣方面は、つとに愛想をつかしています。
 恐れ多いことですが、私の判断では、お上も御同様だと仰じます。
 この場合、東京憲兵のこうした動きは、単に憲兵だけの問題ではなく、全陸軍の問題となりましよう。
 また、陸軍が無茶のことをやり出したとして、上層のひんしゅくを買うことは、軍の戦争遂行に大きなマイナスとなることを惧れます。
 そこで私は、陸軍にこうした状勢の見通しにおいても、なお、かつ、これを決行するだけの強い意思があるかどうか。
 さらに、最近における、お上の陸軍に対する御気持といったものを、はっきり見定めておかなくては、この問題は、軽々に取上げることはできません」
 これは、吉田茂検挙についての討議における私の発言要旨である。
 この朝、陸軍省からもたらされた一片の資料、それはあとで明らかになるであろうが、近衛上奏文を、吉田茂が書きとったものの写真数葉を前にして、大城戸(三后)憲兵司令官、石田(乙五郎)憲兵司令部本部長、それに東部憲兵隊司令官だった私の三人が、吉田茂検挙問題の取扱い方を討議したのだった。
 この資料がどこから出たものかは、私はここに公言することをはばかる。ただ陸軍省の入手したものであることはまちがいのないところである。
 そして、陸軍省事務当局は、これによって、吉田茂の検挙を憲兵に要請していたのだった。
 この討議においては、いろいろと議論はあったが、実施部隊長たる私の前述の意見にもとづいて、憲兵司令官自ら、右の二点を陸軍について訊した上、さらに、憲兵としてこれを着手するかどうかを決めることになったのである。
 さて、憲兵司令官が杉山陸軍大臣、梅津参謀総長について糾(ただ)したところ、陸相は、
 「それが何人であろうとも、悪い者をたたくのに躊躇はいらない。真に犯罪の容疑があり、それが陸軍に不利であるというならば、徹底的に追究することになんらの考慮はいらない」
 と、たいへん鼻息の荒いものがあったし、また、
 「たびたびの戦況上奏には、お上は、いつでも将兵の上に思いをかけられ、御嘉尚(ごかしょう)の御言葉をいた
だいている。
 過般の硫黄島の玉砕にしても、陛下は御目に涙をためられ、第一線将兵の忠誠を激賞しておられる。
 決して陸軍に対して悪い御気持など感じておられない」
 ということであった。
 ただ一度、こういうことがあったという。
 「確か、二月頃のことと思うが、参謀総長が上奏にまかり出たときには、陛下の御気色がいつになくお悪いので、総長は恐縮して引き退ったが、なにか陸軍について御不快のことがあっだのではないかと案ぜられたので、帰途杉山陸相に会って、陸軍になにか問題でもあったろうかと訊ねましたが、陸相は何にもないというし、また、その後陸相はしばしば上奏に拝謁していることであるので、もし、何かあったとしたら、必ずその際、お上より御注意をいただいているはずだ。
 それが、何もなかったというのであるから、これは陸軍に関することではなかったのであろう」と。
 さて、陸軍としてこの問題に強い決意をもっているならば、我々としては何も躊躇するところではない。
 そもそも、吉田茂及びその一派の反戦和平策動については、いつかは手を打たねばならぬことであった。
 彼の親英色は身にしみついていたし、この戦争には、はじめから反対だったので、あくまでも非協力態度を一貫していた彼であった。
 後述するように、彼は防諜上、憲兵の要視察人物だったので、その行動にはたえず憲兵の鋭い目が光り、容疑資料もずっと収集されていたのである。
 かくて、我々は、吉田茂一派の検挙を決意したのであったが、私はこの機会に一言つけ加えておきたいことがある。
 それは、この事件を命令し指揮した私は、はじめからこの取扱いに臆病だったということである。
 なぜなれば、私は、いわゆる東条憲兵の、あのきびしい非難のあとをうけて任に就いている。
 「また、憲兵が無暴なことをやりだした」
 「また、陸軍が憲兵を使って弾圧を始めだした」
と、世の人の口に上ることは、いたずらに、この戦争遂行を困難にするものだと、固く信じていたからである。
 だから私は、吉田茂検挙によって、憲兵というよりも陸軍の信を墜してはならないと、強く考えていた。
 何もこの事件を政治的に取扱う気持は毫もないが、この吉田弾圧によって、世の反戦和平派に警告を与えることになれば、それはもはや我々の目的を達したもので、それ以上、あえてこれを徹底して追及することは、いたずらに軍の最後のあがきだとの不評を受けるのみだとしていたのである。
 したがって、この事件の処理が不徹底であることは、十分に自覚しているのである。
 誰れが見ても、竜頭蛇尾の感をもつことであろうが、実はこうした気持が、指揮官たる私につきまとっていたからである。
 なお、梅津参謀総長いうところの、お上の御機嫌が悪かったということは、この事件にまったく関係のないことではなかった。
 ついでながらここに、これを明らかにしておこう。
――もちろん、それはあとでわかったことだったが――。
 二月のある日、参謀総長の上奏のあったのは、実は近衛上奏のあとだったらしい。
 近衛は速やかなる和平を献策し、この場合、赤化せる陸軍の一部とこれに合体する国内潜在共産勢力がもっとも危険であることを進言しているのであるが、この上奏のあと、お上は近衛に対して、
「梅津参謀総長は、陸軍が入手した情報として、もし敗戦ともなれば、アメリカは、日本の皇族を抹殺するであろう。
 したがって国体を護持するため、徹底抗戦より途がないといってきているが、これについてどう思うか」
 との御下問があった。近衛は、
 「それは陸軍の情報のことで、私などがかれこれすべきではないと思いますが、しかし、私には、そうした情報は信じられないものがあります。
 アメリカにも、日本を頬るの士が多くいることでありますし、ことに、かっての駐日大使グルーのごときは、日本では皇室が厳として存在しなければならぬことを、よく知っております。
 これは、私が考えたところでありますが、彼が帰国にあたって、高松宮から御銭別の御下賜品が送られましたとき、グルー夫妻はわが皇室の知遇に、泣いて感激したということであります。
 だから、アメリカにもこうした知日家が存在する限り、かようなことはよもやあるまいと存じます」
と奉答したといわれていた。
 すなわち、こうした近衛公の上奏と、そして御下間奉答のあとに、梅津参謀総長が参内上奏したのであった。
 総長の上奏した情報に御疑問をもたれていた陛下が、近衛公の奉答に御満足であられたと思われるのであるが、その直後に当の総長が拝謁に及んだので、お上の御気色ことのほか険しく遊ばされたものと思われたことであった。
 陸軍首脳部の、このような甘いものの見方は、終戦時における数々の天皇の御言葉によって、明らかにその迂潤(うかつ)さというより、思い上ったうぬぼれを打ちたたかれたわけであった。
 だから、困難な戦争遂行に当って、戦争指導の中枢たる大本営幕僚が天皇陛下の御信任を得ていなかったということは、大きな国の悲劇であったと、つくづく私は思っている。


2 英米に洩れる機密事項

 憲兵が、吉田茂を検挙するに至ったのは、彼が近衛上奏文案を書きとったという一片の資料だけではなかった。
 思えば、彼が我々の視察線に浮び上ったのは、昭和十四年頃からのことである。
 私が、東京憲兵隊の特高課長になったのは、昭和十三年三月だったが、その翌年、つまり十四年の始め、私は国内防諜に関し、一つの指示を与えたことがある。
 それは、その頃、国の秘密事項がよく外国公館に入っている。
 たとえば議会における秘密会において軍の作戦事項が報告されると、その内容は、もう翌日には英米公館で握ってしまっている。
 これはどうも、政治家というか、政治上層部の一部の人々が洩らしているものと察せられたのである。
 だから、私は、この議会会期を通じ、こうした経路を現実につかむことを部下に命じたのであった。
 そこで問題となるのは、いきおい親英米的な政治家、外交官といったところが、着目されることも当然なことといえよう。
 この議会会期中は、外国公館に出入りする政界要人たちが、かなり憲兵偵謀の目標になったはずである。
 そしてこの偵謀では、これらのすっきりした線は出なかったけれども、大体において、人の関係はつかみ得たことであった。
 たとえば、原田熊男男爵や樺山愛輔伯爵のごときも、この線に浮んできた人々であった。
 たしか、昭和十五年一月に米内内閣が誕生したのであったが、この場合、組閣の大命降下はまったく予想もつかぬものだった。
 多くの練達の政治記者も、すっかり的が外れて、大慌てにあわてたものだった。
 ところが、この米内内閣説が、事前にイギリスの『ディリー・メール』紙に載ったとの確実な情報が入手され、しかもそれは確認された。
 こうなってくると、そこには必然に英米との密絡をもつ、しかも重臣層となんらかの脈絡があるものと推断が下された。
 西園寺公の政治秘書として、組閣に暗躍していた原田熊雄男爵のごときは、大きく我々の前に浮び上ってきたのである。
 原田男爵にたいする偵諜は、熱心につづけられていたが、その結果、彼のメモの一部入手に成功した。
 原田男は人も知るように西園寺公の唯一の政治秘書、元老に情報を提供するという意味があったものか、およそ国家のいかなる機関も、彼だけには重要な国家秘密事項が洩らされていた。
 彼は、これを大学ノートに克明にメモしていたのである。
 これが後にいう、いわゆる、原田日記のタネ本になったわけである。
 原田男に対しては、彼の防諜上の容疑について憲兵隊に出頭を命じ、私から厳重に警告を発したこともあるし、また樺山伯に対しても、防諜上、外人との遮断工作までしたことがある。
 ともかく、我々は原田メモの一部を入手したことによって、吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別邸におってクレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実も明らかになったので、吉田、原田、樺山らの親英米分子にたいしては、たえず憲兵隊の鋭い目が注がれていたのであった。
 私は、昭和十六年春、東京を去ったけれども、東京憲兵隊外事課は、防諜上の見地から、こうした人々にたいして、ずっと監視の眼を離さなかった。
 吉田茂についていえば、麹町の本宅や、大磯の別宅にも、憲兵の視察網が張られていたのであった。
 東条時代においても、これらの親英米分子に対しては、きびしい視察が行われていたととは、もちろんである。
 下園佐吉という牧野伸顕の秘書が逮捕されたのも東条時代であり、この頃では、大磯あたりは単に吉田のみならず、原田、樺山、池田(成彬)といったところまで、憲兵の眼が冴えていたのだった。
 かくて、吉田茂については、彼が親英外交官だったということから、そしてまた、たえず英米公館の要人や新聞記者と接触して、その行動に防諜上の容疑があったことからして、かれこれ六年の長年月にわたって、我々の視察の対象となっていたのであった。
 もちろん、六年間ぶっ通しで、憲兵が視察していたというのではない。
 時の緩急、間断はあったであろうが、ずっと、我々の要注意視察人物だったというのである。
 そして、それらの要注意行動は克明に記録され、保存されていたのであった。


3 「陸軍赤化」説の横行

 太平洋戦争の末期、すなわち昭和十九年十一月に、私は東京憲兵隊長に任命された。
 私の着任したのは、ちようど十一月二十四日で、その前日には東京近郊に第一回の空襲があり、私は空襲を背負って、もとの古巣にかえってきたようなものだった。
 翌年三月の東京大空襲は、さすがに都民の士気を沈滞させたかに思われた。
 第一この戦争は、我々には、十八年頃からは、もはや勝目はないものと思われていた。
 ただ、いつまで、国民の総力をあげて頑張り通せるかにあった。
 そこでは士気の沈滞は禁物であり、戦意の昂揚が絶対的であらねばならなかった。
 そして、また、国民の戦意を消沈させ、戦争遂行意志を挫折させるような言動、なかんずく軍の不信が流布されて、軍民の団結に隙を与えるような策動は、厳に取締られねばならなかった。これは憲兵本来の任務だった。
 二十年の始め頃から、露骨に、軍の不信が流布され出した。
「このままでは、とうてい勝目はない。
 戦争指導の中枢である陸軍中央部をこのままにしておいては、ジリ貧に陥るのみだ」
「陸軍は赤化している。陸軍幕僚の中にも赤がいるらしい」
「陸軍はすでに、この戦争に自信を失っている。軍の戦争指導層を刷新強力にせざれば、敗戦必至である」
「軍は、本土は絶対安全だと高言したではないか。
 今や我々の本土は、敵機の蹂躙(じゅうりん)に委されている。軍の防空は、なにをしているのだろう」
 等々といったものが、どこからとなく聞えてくる。
 同じようにその頃、私は、クレマンソーの大戦回顧録が、要路の人々に配られていることを知った。
 この書物は、陸軍予備中将の酒井鎬次の翻訳になるもので、上下二冊になっていた。
 なぜ、こうした書物が要路の人々に配られ、かっ、読まれているのか。
 それは、第一次大戦におけるフランス軍の頽勢は、蔽うべくもなかった。
 ところが、老宰相クレマンソー、ひとたぴ出でて陸相を兼ね、その頃士気沈滞し、腐敗乱脈の陸軍省を徹底的に粛正し、刷新せる陣容をもって戦争指導にのり出した。
 このことが、アメリカの参戦と相まってフランス軍の頽勢を挽回し、ついにドイツを打倒して、連合軍を勝利に導いたというのである。
 すなわち、当面する戦争の非勢を一挙に挽回するには、まず、陸軍現中央部を大粛正するより外に道はないといったことを示唆するものであった。
 酒井中将はその頃、近衛一派に属して、彼らと密接な連絡を保っていた。
 彼は召集されて参謀本部付、そして、戦史方面のことをつかさどっていたが、近衛一派の反軍和平派につながりがあるというのだろう。
 たしか二十年の春頃には、突如、召集を解除されたと記憶している。
 さて、私も、この書物をとりよせて読んで見た。
 なるほど、クレマンソーの陸軍粛正における強い意思と、そして、その率先躬行ぶりが克明に書かれており、この時局にはきわめて示唆に富むものだ、と私も思った。
 だが、こうした書物が、ある意図のために要路に配布され、かつ、愛読されるということは、これを逆にいえば、現陸軍中央部の不信を宣伝するものであって、我々はこれに無関心でいられぬものがあった。
 また、その頃、関東軍が赤化しているとか、あるいは、陸軍中央部幕僚に赤の分子がいるとかいった流説が、主として国の政、財界方面に流れていた。
 しかし、流説の根源は、昔からあったものである。
 それは、陸軍における統制経済が社会主義経済だというので、いつも非難を浴びていたものであっだ。
 ことに物動計画に関係する経済幕僚は、いつも中傷をうけていたことであった。
 しかし、当時の陸軍赤化説は、そんなに単純なものではなかった。
 すなわち、それは、陸軍の反対勢力だった重臣方面につよく、とくに近衛一派が原動力だったといってよい。
 近衛公を始め、富田健治、酒井鎬次、吉田茂、小細敏四郎、柳川平助等々の一派が、陸軍の粛正を狙っており、いずれも、現陸軍は赤だとの強い信念をもっていたようだった。
 そして、この陸軍赤化説の一方の火つけ役は、殖田俊吉だった。
 殖田は吉田茂を説き、牧野伸顕を始め、若槻、広田など重臣方面に、軍の赤化を説き回っていたのである。
 その頃、参謀本部のある部長、ソ連通を自認するソ連がえりのこの将官は、さかんにソ連礼讃の言動を吹き回っていた。
 これが以外に部外の反響を生んで、近衛一派の陸軍赤化説の裏書をしたものか、陸軍は赤だとの流説は、上層部にかなり浸透していったのである。
 こうした近衛一派の蠢動、とくに、吉田茂、殖田俊吉らの動きは、私のところではつねに捕捉されていた。
 その近衛上奏に関しても、吉田の関与部面にはすでに見当をつけていた。
 麹町の本宅で、近衛公から上奏内容を聞いて、これをメモしていることも、すでに情報としてわかっていたのである。


4 近衛上奏の内容を流布

 ここで、私は、いわゆる、近衛上奏文なるものに触れておこう。
 それは、昭和二十年二月十四、近衛公が単独上奏した、その内容なるものが、一部に流布されていたことを、我々が問題としたのである。
 その頃、重臣といえども単独上奏は不可能のことであったが、お上を御慰め申上げるという意味で、重臣たちが日を定めて参内し上奏することに、内大臣のところで準備されたらしい。
 近臣といえば、その頃では内閣総理大臣の前歴者であるので、近衛、平沼、米内、岡田、広田、東条らの歴代の首相歴任者、それに牧野伯が、二月の上旬頃から、つぎつぎに御召によって参内し、自己の意見によって、何事でも上奏するといったものであったらしい。
 二月十四日午前中に、近衛公が参内して上奏したが、近衛公には、特に御下問もあり、拝謁時間も一時間以上に及んだということであった。
 その近衛上奏の要点は、

@ 国の内外を通じ、共産革命に進むべきあちゆる条件が成長しつつありて、敗戦必至の今日、これ以上、戦争を継続することは、全く共産党の手にのるものであり、これがため、速かに戦争終結の方途を講ずべきであること。
A 戦争終結の最大の障害は、戦争継続を主導する軍部一部の存在である。
 これを終結前に一掃し、軍部の立直しを実行することが目下の急務であり、日本を救う先決条件である。
 というのに尽きるのであるが、なお、その内容中には、陸軍の一部には共産党に通謀するものがあるし、共産党に利用され、また、利用されうべき環境にあることが独断されており、我々としては、注意を要すべき言説であった。(12項『註』参照)
 だが、我々は、この近衛上奏そのものの内容を問題としたのではなかった。
 これを問題とするならば、近衛公をたちどころに逮捕したであろう。
 我々の問題としたのは、こうした内容の言説が、一部に流布されたことにある。
 そして、それを流布したものが吉田茂一派であったというのである。
 なお、近衛公の上奏に対して、お上がどんだ御意見をお持ちになったかということは知る由もないが、この言上がすんでから、お上は、陸軍の統割については、三笠宮は、阿南がよいというが、自分はよくわからないと仰せられたので、近衛公はきわめて注意深く、
「今の陸軍に反対なものとしては小畑、石原、宇垣あるいは阿南らもございます」
とお答えしたということである。
 近衛の腹の底では、真崎大将をあげるつもりであったが、天皇が真崎にはよいお気持でないことを知っているだけに、近衛は真崎を言上することを憚かって、小畑をあげたにすぎなかったのである。
 だが、近衛公がここに真崎を伏せて小畑を持ち出したことは、はなはだ意味のあることだった。
 その頃小畑は近衛グループに属し、真崎、柳川を起用して陸軍の大粛正を断行しようと画策していた、もっと先熱心な一人だったからである。
 いささか本題から離れるけれども、私はここで、近衛と、いわゆる皇道派との関係を見ておきたいと思う。
 それは、それによって、近衛の陸軍観なる先のをうかがうことができるからである。
 さて、いつ頃から、近衛と皇道派の人々とつながりができたものか。
 それはたぶん、近衛第一次内閣頃からであったと推察されるが、近衛の側近に、かっての皇道派の指導者が接触していたことは忘れられてはならないことである。
 陸軍の派閥――皇道派とか統制派とかは、私の見るところでは、それは二・二六事件以前のものであるが、近衛は、その後もこの陸軍の派閥がずっとつづいているかのごとく考えていたようである。
 二・二六事件の主体をなしたのが皇道派。
 これは事件後の大粛軍によって一応かきとられたが、なお、根は残っている。
 そしてこれを粛正したのが統制派、この統制派がずっとつづいて、陸軍の指導権を握って戦争に至っている。
 したがって、東条大将も統制派なら杉山大将も統制派だと見ていたところに、近衛の陸軍派閥観があった。
 だから、統制派の天下を倒してこれを粛正するには、対立する勢力たる皇道派の起用ということになったのであろうが、これは近衛のはなはだしい錯覚だった。
 陸軍の派閥は、もともと革新に発するもので、国家改造に志ざす革新分子が、皇道派と統制派とに分派(明瞭な形ではないが)して、一時激しい争いを演じたものであったが、それが二・二六事件前の陸軍のあの険わしい時代だったのである。
 だが、二・二六事件による粛軍は、皇道派を全滅すると共に、これと対立した統制派もなくしてしまったのである。
 もはや、こうした革新による派閥観念は、陸軍から消えてしまっていたのである。
 ただ、二・二六事件による粛正を浴びて、すでに在郷におった一部の人々、特に、その当時、皇道派の首脳と見られていた真埼、柳川、小畑といった人々は、自ら称して皇道派といっていたかも知れないが、しかし、こうした人々は、すでに軍の組織にはいなかったのである。
 ところが近衛は、依然として陸軍には派閥が存在し、現指導者が統制派だから、これを粛正するには皇道派を起用するという、きわめて単純なる概念に支配されていたように思う。
 さて、近衛は、政治家としてはまれに見る情報通であった。
 軍部、官僚、政党、財界、右翼、左翼など、およそ国内各層に情報網を持っていた。
 だが、この優れた情報通にも、事、陸軍に関す限り、正しい実態をとらえていなかった。
 それはその根底に、激しい彼の陸軍嫌いがあったからだと私は思う。
 私の見るところ、第一次近衛内閣以来、彼の陸軍中央部に対する数々の辛らつなる批判は、明らかに反軍的存在だったといってよい。
 しかも、この反軍的感情と意識を根底として、彼の陸軍観があった。
 そしてこの陸軍観は、実に近衛上奏の根幹をなしているのである。
 近衛の陸軍観の特徴は二つあった。
 その一は、前述した陸軍の派閥問題であり、さらにもう一つは、陸軍の革新分子は赤だとしていることである。
 共に我々から見れば、いちぢるしい誤認だといわざるを得ないものである。
 さて、近衛上奏文を一読して、当時陸軍を指導していた革新分子なるものが、新官僚や部外の革新分子らと結托し、この戦争を準備し、この戦争を始め、そして終局において、国内共産党革命を志していたかに感じとられるであろう。
 実に、近衛の陸軍観の最大の特徴は、陸軍の革新分子は赤だということであった。
 これは彼の信念にまでなっていたのではなかったかと思う。
 だが、近衛が、
「陸軍の革新分子が赤であったり、また、赤に操られていた。
 しかしその赤は、赤色ロシアにつながりをもつものである」
としていたことは、近衛のいちぢるしい曲解で、軍を知らざるものの誣妄(ふもう)だと私はいいたい。
 昭和十二年の夏、支那事変が始まったが、それは第一次近衛内閣のときだった。
 近衛はこの戦争の早期終結を望み、蒋介石に密使を送ろうとしたが、密使宮崎竜介は神戸で乗船間際に憲兵に捕えられた。
 そして東京に護送されて取調べをうけた。秋山定輔、実川時次郎なども、その一味として捕えられた。
 この逮捕で、近衛の企図は粉砕されてしまった。
 だが、近衛にしてみれば、これは事前に杉山陸相に諒解を得てあるのに、陸軍、特に憲兵があえてこれを阻止したということになれば、憲兵を手先に使った陸軍中央幕僚に疑いをもつことになる。
 そして、この革新幕僚の背後に何者か糸を引くものがあると見たのであろう。
 すなわち、それは速かなる戦争終結を喜ばない一派、戦争をもって国内革新を行おうとする分子の存在を予想したことであろう。
 だが、この予想は私の知る限り、近衛の独断でしかない。
 支那事変は政府の不拡大方針にもかかわらず、戦野はつぎつぎに伸びて、収拾のつかない泥海の中につき進んでしまった。
 これが、誰れの企みで誰れの仕業であったか、近衛にいわすれば、これも一部革新幕僚の企図によるものだというけれども、私は、これに賛成するだけの資料をもたない。
 一体、その頃は、陸軍の政治的にもっとも鼻息の荒いときであり、一部幕僚の政治的放言が、いつも世のひんしゅくを買っていたときであった。
 だから、政府の不拡大方針を非難攻撃した幕僚もいたであろうし、また、戦争は国家の革新のために必要だといった幕僚もいただろう。
 だが、それらは無責任な放言であって、陸軍の一貫した施策でもなければ、また中核幕僚の意向でもなかった。
 このことは、その頃、東京憲兵隊にあって特高警察に任じ、こうした中央幕僚の動静をつぶさに監察していた私の、はっきり言いうることである。
 また、陸軍の革新分子が赤にあやつられているということも、その頃、陸軍の幕僚が左翼出身者を利用していたことは事実であるから、部外者の言として無理もないことであったが、しかし、その頃は、二、三年前のアメリカでのマッカーシー旋風のような思想のあらしが日本にも吹いていた時であるから、玉石混淆、革新分子が赤にされていたことも注意していいだろう。
 私の言いたいことは、かって皇道派といわれた人々、たとえば真崎大将などにしても、口癖のように当時の陸軍中央幕僚を赤だといっていたことである。
 これらの人々は、かっての統制派の流れを汲む人々を、赤だ赤だとけなし、自分たちだけが純国体信者だと自称していたのである。
「統制派は赤だ。統制派は赤の手先に躍らされている」
「二・二六事件決起の将校も、結局は赤に躍らされていたのだ」
 といった言葉は、その頃私も、直接、真崎大将から聞いたものである。
 かってのこの皇道派指導者と近衛の結び付きは、近衛の陸軍観に大きく作用していることは否めない事実であろう。
 要するに、近衛上奏なるもの、特にその根底にある彼の陸軍に対する見解は、彼の独断と幻想に由来するものであって、断じて正しいものでないことを、ここに明らかにしておきたい。


5 逃げ出した自由主義者たち

 それでは、我々は、なぜ、こうしたものが流布されることを恐れたのであったか。
 ここで、私は、あの頃の国内の様相をどう見ていたか、また、当時、なにが我々の仕事であったかを、一通り述べておきたい。
 すなわち、それは吉田検挙の意味するものの解明に外ならないからである。
 東条政権の強力なる圧力を各面にうけていた国民は、東条内閣の退陣によって、なにかしら、ほっとしたものを感じたことであろう。
 そして、東条についで小磯内閣が生れたけれども、もはや、戦争の様相は深刻をきわめ、その前途は暗湛たるものがあった。
 第一線の戦況の悲報は相次いで入るし、国内は到るところ空襲をうけて、荒廃の頂点にあった。
 国民の衣食住、なかでも食生活は、飢餓の一歩手前にあった。
 昔からいわれているように、紙と爆弾は近代戦の特質だった。
 特に、熾烈な爆撃の下、敗戦へと誘導する巧妙な宣伝謀略こそ、我々のもっとも厳戒すべきものであった。
 したがって、国民の戦意の観察といったことは、我々の思想対策上の大きな仕事だった。
 ともかくも、戦争はもう最後の土壇場まできていたのであるから、国民の耐乏、忍苦の戦争生活も、すでにどん底にあった。
 私には、国民の、いわゆる戦争抗堪(こうかん)力といったものも、すでに、底をついているように思われた。
 我々は、かって、国民の国家から受ける重圧というか、犠牲負担というものには一定の限度があり、この限界を超えて国民に圧力を加えることは、国民暴発の動機をなすものと考えていた。
 だが、そこに見た国民は、限りなき底力をもっていた。
 我々は、わが国民の底力の偉大さを十分に知らされたことであった。
 したがって、国民を対象とする国内治安上の杞憂は、はなはだすくなかった。
 我々には、かの第一次大戦におけるドイツ、あるいはロシアの崩壊といった赤色の脅威は存在しなかったし、真に一億の、完全なる戦争への一致した姿のみがあった。
 今日、政治家の一部には、戦時中、いかにこの戦争をやめるために、志士的行動で暗躍していたかというような言辞をもらす人々がいる。
 また、岡田、宇垣、若槻といった人々の回顧録もすでに世に出ているが、これら、かっての国家の重臣だった人々の、この戦争についての述懐なるものを読んで、人はどんな感じをもっていることだろう。
 「わしは、この戦争には反対だった。早く手を打って、平和にすべきだった」
といっているだけで、身を挺して自己の信念に殉じたことがあったであろうか。
 自己の信念に殉じたといえば、今日根っからの自由主義者、平和主義導だったと自任している人々の多くは、その頃、軽井沢や箱根やその他の別荘で、あるいは地方の疎開先で、まったく、戦争の閣外に立って、国民大衆が命をすて、財を失いつつも郷土に踏み止まり、職場を死守したのを、ひややかに眺めていた人たちではなかったか。
 いずれにせよ、空襲の激化につれ、戦争の困難に伴い、この国民にも沈滞の空気の低流することは見逃せなかった。
 わずかにこれを支えているものは、戦争状態における社会的な制圧というか、この戦争にはどうしても負けられないといった国民心理、弱音を吐くことを恥とする社会意識、こういったものに支持されて、国民は歯を喰いしばって堪えていたのだった。
 だから、ひとたび、この意識に変化が起れば、たちまち総崩れになることは見易いことであった。
それは、我々のもっとも警戒すべきことであっだ。
 ここに、我々が反戦、非職、和平思想を重視する理由があったのである。
 実に、国民の戦争遂行への支持点を揺がす、この種の思想策動は、戦時下の警察に任ずるものの、もっとも厳重に警戒すべきものであったのである。
 我々は、こうしたことのために、この種の思想策動の芽生えのある分野に、鋭い観察を加えできた。
 そして、その結果としての一つが吉田茂事件であり、また、これと同じ頃、私が命令し指揮した、帝都における反戦言動者の一斉検挙だったのである。


6 四月十五日、吉田茂検挙さる

「四月十五日、 この日早朝、吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄等、反戦分子の検挙を発動する。特高警察防諜中佐をしてこれを担当せしむ」
 これは、私の戦時日記にメモするところである。
 特高警察隊長高坂中佐は、十四日午後、野田准尉を長とする張込班を大磯に急派した。
 任務は吉田の在否を確かめると共に、事後の行動を監視するにあった。
 また、木村准尉を長とする検挙班は同日夜半、大磯に到着し、張込班に連絡して警戒に当った。
 なお、彼らの罪状容疑は、軍事上の造言飛語罪であるから思想係に担任させるのが本筋であったが、吉田を中心とする防諜上の偵諜は、過去六ヵ年にわたって、外事課(当昨は防諜中隊)が専念してきたので、あえて外事課に実施させたのである。
 連日の敵機の来襲に、帝都は桜をよそに、戦争を身近かにする都民の落ちつかぬ生活に明け暮れているが、さすがに、東京をちよっと離れた湘南の大磯は、別世界のようなのどかさで、かてて加えて吉野桜は早くも散りはて、例年よりも温かな気温に、牡丹桜が夢のように遠近の山々の緑に点影し、薄もやが低く山辺に立ちこめて、湖の香を乗せくる浜辺には漁舟も見られ、かもめが波間を縫って、一幅の春の朝景色である。
 木村准尉も、しばしは昨夜来の寝不足も忘れ、思わずこの景色に見とれた。
 そして部下たちをちょっと顧みてから、
「よい景色だな!」
と海に向って両手を思い切り上げ、大きな深呼吸ともつかぬあくびをすると、やがて、自分にもいい聞かせるように下腹に力を入れて、
「さあ、御苦労でも一つ頼むぞ」
と一言いうと、急に緊張した態度で、吉田の別宅へと坂道を急ぎ足であがり始めた。
 やがて、木村准尉は、四人の憲兵を門外に待たせると、ツカツカと門のところに身を寄せで、しばらく内部の様子をうかがうようにしてから、ピタリと閉まった門柱を見上げ、もう一度確かめるかのようにしてから、呼鈴を押した。
 耳をすますと、呼鈴の音がかすかに邸内にこだましている。
 突然、ホーーホケキョと、すぐ近くの山端から鴬の声が散る。静かな一瞬だった。
 やがて、カタカタと引きずるような下駄の音を響かせて、女中の姿が近づいてきた。
 准尉は、ちよっと会釈する女中に、おだやかな句調で、簡単に、
 「憲兵隊の者です。ちよっと御主人にお取次ぎ下さい」
 と一枚の名刺を渡した。
 女中は、こんなに朝早くから何事だろうといった、ちよっといぶかし気な様子で、無言で名刺を受取ると、門外にいる私服憲兵たちをチラリと見ながら、准尉を玄関内に招じいれて、固い表情で、
「しばらく御待ち下さい」
と、言残して、そそくさと奥へ姿を消した。
 准尉は、国防服の胸のあたりに手をやって、ポケットのボタンをかけると、ふと何気なく、腕時計に眼をやった。ちようど六時三十分である。
 十分、二十分、さきほど取次ぎに奥へ入ったきりで、女中はなおも顔を見せない。
 しかし、じっと耳を澄ますと、心なしか、邸内の静けさの中にも、なにかしらあわただしい空気が感じとられた。
 飼犬の遠吠えにまじって、家の向うの方から汽車の音がする。
 重い地ひびきと長い鉄のきしむ音から、貨物列車の通過のようである。
 さきほどから、もう二十分以上も時計とにらめっこをしている准尉の表情は、
「もしや逃げたのではあるまいか」
といった一抹の不安、そして、
「玄関先でこんなに待たせるとは怪しからん」
といった、こみ上げてくる怒りが錯綜して、だんだん複雑になってくる。
「もう三十分だ」
 思わず独言が口から出てきた。
 准尉は、もはや焦燥にたまりかねて、もう一度呼鈴を押すか、奥の方へ大声で怒鴨ってやろうかと思った時に、遠く廊下を歩いてくる衣ずれの音が、しずかな空気を伝わって、だんだん近づいてきた。
 やがて、さきほどの女中が顔を出して、
「たいへんお待たせしました。どうぞ」
 と、准尉を応接間へ案内した。今度は待つほどもなく、当の吉田が現われた。
 羽織袴の和服姿に白足袋が、眼に沁みるような、妙に印象的なものがあった。
 准尉のいかにも軍人らしい不動の姿勢の一礼に、軽く会釈した吉田は無表情に向い側の虎の皮の上に、どっかと座った。
 短躯、肥り肉の吉田は、さすが長年の外交官生活で身につけた端然たる姿であったが、彼の特徴のある角張った顔には、持ち前の傲慢さのかげに、明らかに不安の影がかくしきれず、右手に握ったパイプが、かすかにふるえていた。
 准尉は、いくぶん改まった口調で、手短かに、
「これから憲兵隊まで御同行をお願いします」
 と、陸軍刑法第九十九条違反容疑にもとづく東部軍軍法会議発行の勾引状を、吉田の面前に差出した。
 彼は一瞬、明らかに、ギクリとしたこわばった表情をしたが、静かに勾引状を手にとって、ちよっと見てから無言でうなずいた。
 憎悪、不安といった感情を、みずから、ジーッと押ししずめようとでもするかのように、吉田は、なかなか動こうともしない。
 しばし両者は沈黙のうちに対座していたが、そのとき女中がお茶を運んできたので、准尉は、女中が立ち去るのを待って、再び強く、同行する旨を述べると、なおも吉田は、無言のまま立ち上って、
「洋服に着かえるから、ちよっと、待ってくれ給え」
といい残して、隣室へ入った
 やがて、洋服姿の吉田は彼の内妻こりんに送られて、再び准尉の前に姿を現わした。
 ちようど八時半頃であった。
 吉田は門外に出ると四人の憲兵の姿を目ざとく見つけて、その傲岸な顔にちよっと皮肉な笑いを見せたが、スタスタとさきに立って歩き出した。
 大磯駅から車中の人となっても、への宇に口を堅く結んで、終始、半眼で顔を窓外に向け、ほとんど一言も口を開かず、新稿駅から憲兵隊差回しの車でそのまま、九段下の隊司令部へ連行されたのであった。
 検挙班の木村准尉が吉田宅を出ると、ほとんど入れかわるように、今度は前日来、張込みに任じていた野田准尉ら一行が、家宅捜索班として、一名の東部軍法務中尉と共に吉田別宅を訪れたが、捜索の結果は、わずかに吉田が近衛上奏文案を筆写したものの一部を入手したのみで、その他には、なんらの目ぼしい証拠品も発見されずに引き上げたのであった。
 それもそのはずで、木村准尉の来訪に、早くも身辺の危険を察知した吉田は、木村准尉の一行を、二十分間の長きにわたって玄関先で持たせている間に、墨でかいた上奏文案その他の重要書類を、すばやく取りまとめて愛妻こりんの帯の間にかくさせ、あとで焼却させたことが、翌日、麹町の本宅から差入れにきた女中の話によって、はじめて判明したのである。
 吉田は、家宅捜索を必至と見て、むしろ、自分のもっとも信頼するに足る女に預け、これを懐中させておくことが安全と、とっさに考えたものらしく、いかに慧眼の憲兵でも、婦女子の身体検査をあえてするわけはないと思ったのであろう。
 さて、私は、吉田の検挙を決意してから、特高警察隊長に命じて、吉田一派の検挙計画を作成させていたが、その計画は、相当広範囲に及んでいた。それは、
 第一次  吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄
 第二次  原田熊雄、樺山愛輔、小畑敏四郎、柳川平助、酒井鎬次
 第三次  近衛文麿、牧野伸顕
 といった三段構えであったが、私はとりあえず、第一次捜査のみを承認し、これを発動させたのであった。
 だから、こうした計画はあったが、私は、この事件を牧野、近衛といったところまで持ち込む腹はなかった。
 なぜなら、事件は、もともと、軍事上の造言飛語という単純な犯罪なので、これを、かような大物にまで及ぼすことは、あまりに大がかりに過ぎる。すでに述べたように、いたずらに世の不評を受けるのがおちであるからである。
 だから、私はこの捜査の進行中、重大な変化のない限り、いうところの第三次捜査はやらない方針だったのである。
 その上、これらの第一次捜査の対象となった人々は、すべて陸軍刑法第九十九条違反および軍機保護法違反容疑だった。
 彼らは和平派ではあったが、しかし、彼らが和平に策勤しようと、それは我々の関知するところではなかった。
 なぜなら、彼らが政治家として、この戦争を和平に策動するために研究討議することは、あえて法律的な対象にはならぬし、また、警察としてこれに介入する必要もないことであったからだ。
 では、彼らの犯罪容疑は、具体的にいってどんなことであったか。
 吉田についていえば、つぎの通りであった。

@ 軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第九十九条違反)
  イ 近衛上奏の内容を流布した容疑
  ロ 陸軍はすでに戦争に自信を失い、士気沈滞しありとの反戦言動の流布
  ハ 関東軍は赤化し、陸軍中央部もまた赤の分子に動かされているとの中傷言動
A 軍機保護法違反罪
  関東軍の編成、装備、行動等について探知したるところを他に洩らした容疑


7 確かに私の書いたものだ

 吉田茂に対しては、憲兵隊へ到着の日から取調べが開始された。

 彼の陸軍に対する態度、この戦争の見解および戦争終結に対する態度などの基本的なことから、訊問が始められた。

 取調べは彼を勾引した木村准尉が担当した。
 木村はしばしば、いうように、六年の長きに亘って、終始一貫、吉田一派の親英派を偵探してきた憲兵だったのである。
 さて憲兵の取調べに対し、吉田の態度はどうだったろう。
 彼は、当初、態度も傲慢で、頑強な否認一点ばりだった。物的証拠をつきつけられるまでは、どこまでも否認し通すので、なかなか事件の中枢に入ることが困難で、いつも若い憲兵を手こずらせていた。
 たとえば、殖田俊吉は陸軍の赤化について、吉田にこのように口述したといっていると、殖田調書を読み上げても、頑固に、
「それは殖田のいうことで、俺の知ったことではない」
と、否認をつづけるといった始末である。
 彼が、もっとも心配していたのは、いわゆる近衛上奏を暴露することによって、近衛に検挙の手が伸びることにあったらしく、したがって、近衛上奏にはなんの関係もないと頑強に否認しつづけていた。
 ある夜、とうとう木村准尉は、野田捜索班が入手した、吉田の手記する上奏案の一部を、吉田の面前につきつけて、
「君はこれにも覚えはないというのか、これでも剛情を張り通すつもりか」
と、じっと吉田を睨みつけ、語気も荒くつめよった。
 よもや、こうしたものが憲兵に握られているとは思っていなかったのであろう。
 吉田の傲慢な面貌にも、一瞬、狼狽の色が表われた。
 やがて、不安とも悲しみともつかぬ表情に変っていった。
 なんで木村がこれを見逃すものか、ここぞとばかり、さらに
「覚えがあろう」
と鋭くたたみかけた。
「それは確かに私の書いたものだ」
 あぷら汗をにじませながら、彼はいまいましげにこう答えた。
 吉田はこの憲兵の前に、とうとう兜を脱いでしまったのである。
 それからは、急に、これまでの傲慢な態度を改め、しかも自発的に案外スラスラと自供するようになった。
 終戦後、
「吉田は憲兵隊に行っても最後までがんばった」
と、いったことが伝えられていたが、あれは嘘である。
 確かに、彼の憲兵隊での態度は、当初は傲慢と否認の連続だった。
 しかし、この上奏文の自筆の一部をつきつけられてからは、非常におとなしく、スラスラと一部始終を陳述したというのが本当である。
 私は、こうした捜査には、いつも取調官から調書を提出させて閲読し、これによって指導することにしていたが、この場合も彼らの調書はことごとく精読しており、吉田が罪状を否認し通したという記憶はない。
 彼は最後の調書において、
『私の思慮の足らないために、軍を誹膀し、まことに申訳ないことをしたと思う。
 この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい』
といった意味のことを述べていた。彼の、取調べがおわったときの心境とでもいうべきものであろう。
 なお、今日、巷間の一部では、吉田が愛国的な立場から、和平工作を行った国士のごとく伝えられ、憲兵の不法弾圧によって留置されてからも、どんなむごい責め折檻におっても頑として口を割らず、信念に殉ずる堂々たる態度に終始し、昭和の天野屋利兵衛のようにいわれているののは、彼をあえて英雄視し、憲兵を誹膀せんとする、何者かの作意的な宣伝といわねばなるまい。
 彼が憲兵隊に勾引されたのは決して政治犯ではなく、すでに述べたように軍事に関する造言飛語の流布という純然たる刑事犯だった。いわば、反戦、反軍言動を流布したことによって押えられたのである。
 そして取調べにおける態度も、信念的に頑強に反抗したのではなくて、罪状をかくすために、当初、否認しつづけていたのであって、こうしたことは、一般被疑者のそれと少しも変ることがなかったのである。
 なお、彼が長い間、防諜上の容疑人物だったことと、取調主任者が一貫して彼の偵諜に任じた木村准尉だったことなどから、彼に対し、この犯罪容疑事実以外に、その交友関係、特にクレーギー、グルーなどへの情報提供に関して追及したし、また、彼の和平策動などにも、相当つっこんで調べあげていたが、私は、そうしたことはこの事件の捜査には直接に関係ないものとして、一件書類からはすべて削除させてしまつたのである。
 彼は老齢だったので、特に取扱いには慎重であった。
 高坂中佐以下関係官の手厚いはからいで、もっとも設備のよい地下の第一号留置場に入れられ、寝具などもすべて新らしいものを供与され、食事は本人の希望で、毎日差入れだった。
 彼は四月十五日から五月三日まで、憲兵隊にいたのであったが、いつも麹町の本宅から女中の運んでくるものを食べ、官給のものにはいっさい箸をつけなかった。
 また、一日中、時間をきめて散歩も許されていた。
 私も彼がノー・ネクタイ姿で、あの猫背を見せながら、後庭を歩いているのを見かけたことも一再ではなかった。
 彼ははまさしく別扱いで、大切にされていたものだった。
 しかし、なんといっても、薄暗い地下の別荘で、十八日間も不自由な生活を余儀なくさせられたことは、この贅沢な老人にとっては大変な苦痛だったろう。
 二十九年のはじめ頃の『文芸春秋』に、阿部真之助の吉田茂論が書かれており、その中に、
「吉田が戦時中、憲兵隊に勾引されているとき、彼を殺そうとする陰謀があって、陸軍省の黒崎中佐がこれを心配して、時々憲兵隊を見張っていた」
といったことが述べられているそうだが、私自身は、これを読んだわけではないので、もし、ほんとうに、そういったことが書かれているならば、これはデタラメもはなはだしいもので、あまりの馬鹿げたことに、開いた口がふさがらないというものである。
 かって、吉田事件の処理に関与した私の部下たちが聞いたら、さぞ、心から怒りを覚え、残念がることだろう。
 それにしても阿部老人の偽作か、また、もしこれに資料を与えた人があるとすれば、まことに、誣妄(ぶもう)もはなはだしいことといわざるを得ない。
 かっての憲兵を、事実にもとづいて非難することはいいが、あくどい中傷はやめてもらいたいものだ。
 最近、出版された吉田茂の『回想十年』によると、彼は、
「憲兵隊の取調べは厳重でも取扱いはしごく丁寧だった」
といっている。事実、この取調べの終る頃になると、木村准尉に、
「あなた方は毎日こんなに遅くまで働いて、よく健康を害さないものだ。感心しましたよ」
となごやかに語る彼であったのである。
 なお、ついでであるがこの”回想”には、このようなよい待遇をうけたのは阿南陸相のさしがねだったようにいっているが、阿南陸相からは何の指示もなかった。
 指示したといえば、「悪い奴はどこまでもやるがよい」と激励していた彼であった。
 当時、阿南陸相と吉田とがどんな間柄にあったかは知らなかっだけれども、四月の下旬、吉田がなお、憲兵隊に留置されている頃、阿南陸相は多勢の幕僚をつれて憲兵司令部を巡視に来たが、吉田が地下室の留置場に入れられていると聞いて、わざと、地下の巡視を止めてしまった阿南さんだった。


8 罪名は「造言飛語罪」

 さて、それでは具体的にいって、取調べの結果はどんなものであったか。
 彼は、陸軍に対して、強い反感をもっていた。
 或いは憎悪に近いものであったかも知れない。
 陸軍のなすこと、すること、すべて気に喰わないのである。
 彼は親英派で、その外交政策は、その頃軟弱外交の典型のようにいわれていた幣原外交の流れを酌む、あくまでも英国本位のものの考え方だった。
 だから、こうした外交家が、当時の陸軍に毛嫌いされることも当然であった。
 すでに、しばしばいわれているように、彼は、かの二・二六事件直後の収拾に立ち上った広田内閣で、外務大臣の椅子を予定されていた。
 ところが、これを知った陸軍は、吉田を忌避(きひ)した。
 ために、彼のせっかくの栄職もふっとんでしまったのである。
 広田は、外相兼摂で組閣を完了した。
 これは吉田にとっては、一生の痛恨事だったろう。以来、目に見えて、彼の態度は反陸軍となった。
 この感情なり批判的態度は、検挙当時においては、いっそう激しいものがあった。
 また、彼は親英派といわれるだけあって、その日英親善ぶりは徹底したものだった。
 親善といえば体裁はいいが、裏をかえせば拝英主義者だった。
 この英米崇拝、英米依存は、彼の政治的信念であっだろう。
『日本はだれがなんといおうとも、英米と仲よくしなければぜったいに繁栄する国ではない。
 だから、英米との戦争は、一日も早く止めなければならない。
 英米との戦争に敗けても、国体はぜったいに滅びることはないが、国内が赤化されれば、ただ滅亡あるのみだ』
 これは、その当時の訊問調書にかかれている彼の口述の一節である。
 吉田のこの信念は、今日でもいささかの動揺もないであろう。
 こうした信念に立つが故に彼はこの戦争はすべきではなかったし、また、すでに始められた以上、一日も早く終結させるべきだというのであった。
 ここに、彼の和平策動の根本があった。
 では、彼は和平のために、どんな手を打っていたのであったか。
 すでに、戦争状態であり、外国との交通の杜絶していたその頃、しかも、在野の元外交官としては、自ら求めて英米を動かすことはできない。
 しかし、彼は米国大使グルーとは特に親交があったので、何等かの密約でもありはせぬかと、取調官はかなり追及したが、得るところはなかった。
 なかったというのが本当だったろう。
 また、今日まで、吉田が戦争を終結させるために大きな努力をしたようにいわれているけれども、彼は戦時中、これといった和平工作はしていない。
 たしか十七年の夏頃に、近衛公に和平の機会をつかむために、渡欧をすすめたことはあるが、これもつきつめての話ではなかった。
 近衛が動かないままに尻きれトンボに終ってしまっている。
 彼はもともと近衛グループに属し、彼の平河町の本邸には、しばしば近衛が来邸していた。
 東条内閣の打倒と次期担当政権には、小畑、富田(健次)、細川(護貞)などの近衛側近と密絡していたが、それも彼が外交政治のベテランとして、外相の地位につくことを予想されていたものであったといえよう。
 さらに、東条退陣後は、いわゆる和平への転換に関し近衛に出馬をすすめるなど、近衛和平内閣の出現に動いていたのであったが、積極的というにはほど遠いものであった。
 ちようど、彼が憲兵隊に収容される直前の四月七日に、小磯内閣にかわる鈴木内閣の出現を見たのであったが、彼は鈴木内閣を、彼の希望する内閣ではないといった。
 すなわち、彼は近衛内閣の出現を待望していたので、期待がはずれたというのであったろう。
 しかし、以上のようなことは、必ずしも彼の罪状とは直接閣係のないことだった。
 私は、我々の必要とした二つの容疑事実について、語らねばならない。
 まず、第一の近衛上奏との関係は、こうだったのである。
 近衛上奏の内容をなすところの陸軍赤化論は、吉田はもちろん、殖田の言説に負うところ大であるが、しかし、我々は近衛がかかる上奏をしたことを問題としているのではなく、吉田がこの上奏文を筆写して人々に流布したことを問題としたのである。
 さて、近衛がこうした上奏を行ったことについては、吉田や小畑らが原動力であったことを認めざるを得ない。
 吉田は小畑、岩淵らと共に、近衛に和平転換について天皇に上奏せよとすすめていたのである。
 こうした関係であろう。木戸内府のお膳立で重臣の単独上奏が決定されると、近衛はみずから筆をとって上奏文をしたためた。
 そして上奏日の前日、すなわち二月十三日夜、麹町平河町の吉田邸に宿泊し、ここで近衛は上奏文案を吉田に示した。
 吉田は克明にこれをメモした。そしてその夜、二人は遅くまで上奏文案を中心に語り合い、吉田の意見でいくらか訂正された。
 近衛は十四日午前中に上奏をおえ、それから首相官邸の重臣会議に臨み、その日午後三時頃ふたたび吉田邸に戻って来た。
 そこには近衛の秘書細川護貞も来ていたが、近衛は、吉田らに上奏の模様について、くわしく物語っている。
 拝謁の際の御下問奉答についても、さきにいささか触れたように、
『アメリカはわが皇室を抹殺するといっているということだが、この点をどう思うかと』
の御下問に、近衛は、
『グルーおよびアメリカ首脳者の考え方を見ると、そこまではいかぬように思います』
と答え、また天皇は、
『梅津が「アメリカが皇室抹殺論をゆるめざるをもって徹底抗戦すべし」というているが、自分もこの点には疑問をもっている』
と仰せられ、さらに
『外交による転換の場合、陸軍は動揺するだろうが、杉山はそれだから元帥が必要だといっておった』
と話されたので、近衛は、
『元元帥というような肩書では抑えられますまい』
と言上したこと、その他陛下より軍の統制に関しお話があったことなど、ことこまかく、一時間にわたって彼らに語った。
 吉田はさっそく、これを牧野伸顕に通じた。
 牧野はたいへん喜んで、
『さすがに近衛さんだ。よいことをいってくださった。近衛さんでなければできない仕事だった』
といって感激したという。
 また、吉田は、このことを殖田俊吉に洩らしている。
 牧野伸顕に通じたことはまだよいとして、殖田に流布したのでは問題である。
 殖田は一介の市井人でしかない。その他、二、三の人に流したことを記憶しているが、それが誰と誰であったかは、今は思い出せない。
 この近衛上奏を知られていたことは、彼らには、大きな痛手だったろう。
 吉田は本邸では手帳にメモし、これを大磯ではきれいに墨書して、保存していたのだった。
 なお、余談であるが、吉田の筆写した上奏文の押収は、憲兵として失敗だった。
 というのは、実は冒頭にも述べたように、彼の筆写したものは写真にとられて、陸軍から回ってきている。
 これと同一のものが本邸か大磯かになければならぬ。
 ところが、家宅捜索班はこの入手に成功せず、帰ってきたのである。
 このことは、憲兵が勾引に行った際、吉田が内妻こりんにすばやく帯の間にかくさせ、あとで焼かしてしまったものであることは、前に述べた通りである。
 この点に関しては、木村准尉が四月二十日、ふたたび大磯におもむいて、内妻こりんを取調べているのである。
「あなたが主人をお連れにいらした時、これは大事な書類と存じましたので、ちよっと帯の間に隠して、あなたがお帰りのあとで、すぐ焼き捨ててしまいました。だから中味は少しも存じません」
という、こりんの告白であった。
 これは、おそらく吉田が勾引に応ずる前に内妻に命じたことであろうが、彼は、この点の追及に関してはあくまでも否認して、煙草を持つ手をブルブルふるわせて、
「それは内妻のやったことで、私の知らないことだ」
と、いいきっていた。
 ともかくも、近衛の上奏内容や御下問の状況などを流布したことは、吉田にとつては致命的だったらしい。
 このことがはっきりされてからは、彼の態度もおとなしくなったことは、前述した通りである。
 彼の造言飛語罪の中には、このほかに、関東軍や陸軍中央部が赤化しているという言動もあった。
 これは吉田よりも殖田俊吉が注入したことであるが、こうした言動が、近衛の判断を決定的にして上奏に至らせたことは、疑いを容れないことだった。
 それから、彼は、樺山愛輔に手紙を送っていた。これは動かせない証拠だった。
 大磯にはその頃原田男爵がおり、池田成彬もいた。樺山も大磯の住人である。
 彼らはすべて親英派で、つねに往き来をして戦争を諭じ、和平策を談じ、このため軍事に関する情報をいつも交換しあっていた。
 我々は、これを大磯グループといっていた。
 すなわち、ここに、二つの親英米的和平派の一群があったということができるのである。
 吉田の樺山に送った手紙には、達筆で、
『陸軍は、もはや、この戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞蔽うべくもなく、敗戦必至と存候』
といった一句があった。
 この書簡は、樺山の家宅捜査で押収したものだった。
 こうしたものからも、彼らの仲間の間で数多くの反軍、反戦言辞や、陸軍の誹謗が行われていたことが判明したのであった。
 さらに、第二の軍機保護法違反というのは、これは、いわばつけたりといってもよいものだった。
 それは、彼が関東軍の赤化している理由を述べたなかに、関東軍の編成や行動など、かなりうがった内容が書かれてあり、これは法律的には明らかに、わが野戦軍の編成、行動、配置等の、いわゆる軍機事項に抵触するものであった。
 岩淵については、主として政治情報を吉田の許に送っていたが、その中に、反戦和平というよりは陸軍を横暴だとするいくつかの軍誹謗の内容を、吉田に口述していたことが、軍事に関する造言飛語容疑として取調べられたもので、共にこれらの事実は十分に証拠が固められ、彼らもみなこれを自供したものだったのである。

9 売り言葉に買い言葉

 吉田たちが検挙されて、一週間もたったときのことであった。
 殖田調書を見ていると、彼は、しきりに陸軍の赤化をいっている。
 だが、彼が陸軍のなにをつかんでこのようにいっているのか、私にはわかりかねた。
 それで、取調官の能力もあることだし、私みずから彼について聴いてみたいど考えた。
 どうせ、殖田の取調状況を見るとなれば、それと一緒に吉田の取調室も見ておきたいと思ったので、七の日の夕刻、私はこれらの取調状況をつぶさに視察してみた。
 以下、私の取調実見記である。
 私は、まず、吉田の取調状況を見るため、高坂特高警察隊長と共に、地下の調室を訪ねた。
 ここは司令部地階の小さい取調室だ。壁には防音装置もあり、入口の扉は二重になっている。
 この調室は、かっての英人記者コックス飛降り自殺事件(「英人スパイ、コックスの自殺」の項参照)にこりて、三階の取調室を廃し、当時地階の倉庫だったものを改造して、つくられたものである。
 室の一方には小さい採光窓があるだけで、昼でも電燈をつけなくては使えない薄暗さである。
 私が室に入ると、先着していた事件の捜査主任だった大畠中尉が、在室者一同に起立を命じ、
「只今取調中であります」
 と、型のごとく報告した。
 見ると、入口に近く、取調官の木村准尉が位置し、その対面に、採光窓を背にして、吉田が立っていた。
 やや派手な、ねずみ色の縞の背広を着ているが、数日間の留置場の寝起きで、すっかりよれよれになっているし、ネタタイははずされ、白いワイシャツは蒋垢じみて、みすぼらしい田舎老爺然としていた。
 ただ、目だけはギョロッと鋭いものがあるが、顔色はよくない。連日、連夜の取調べに、かなり疲れを見せているのだろう。
 私は、吉田に向い、
「隊司令官の大谷です」
と、自己紹介してから、定めの椅子についた。そして、
「取調べを始めてよろしい」
と命じた。
 木村は、私が赤坂憲兵分隊長当時の、旧部下の一人だった。
「その頃上等兵だったが、もう、こんなにも成長したものか」
と、感慨深げに彼の態度を見つめていた。
 彼も、私の臨場でかなり緊張しているようだ。
 きっと姿勢を正し、吉田の顔をにらむようにして、訊問を始めた。
 なんだかすごい気合のようなものが感じとられる。
「お前が近衛上奏の内容を与えたのではないか」
と木村の一声。
 吉田は、右肩をいからし、足をつっぱり、椅子にふんぞりかえるような姿勢で、木村をにらみ返している。
 よほどグッときたらしい。
「答えないのかな」
と見ていると、彼は、ぽつりと、
「そんなことはない」
 と、噛んで吐き出すように投げつけた。
「なに! そんなことはない。冗談をいうな!
 お前は近衛に書簡を送り、関東軍は赤化している。
 これは、なによりも大変なことだ。
 一日も早く和平をしなければならない。
 日本は英米と和平してこそ国は栄えるが、赤化したら滅亡あるのみだ、といっているではないか」
とたたみかけた。
 吉田はかなり興奮しているようだ。その興奮と心の動揺を、じっと押えるかのように、口を固く結んで、低い天井を睨みつづけている。
 木村の追及を聞いているのかいないのか。――やがて、吉田は、
「それは、その通りだが、僕が近衛さんに献言しても、これを容れるかどうかは近衛さんの考えのあることだ。
 僕の関知したことではない」
 と、語気も荒々しく、憎々しげに答えている。
 見ている私は驚いた。これは取調べではない。喧嘩である。
 売り言葉に買い言葉、取調官の態度も悪いが、吉田の態度も悪い。
 お互いが、憎悪の感情をむき出しにして問答している。
 私は、ものの十分間も、こうしたいさかいのような取調べを見ていたが、もうこの辺で切り上げることにした。
 木村准尉に「待て」と制して、取調べを中止させたのち、吉田に向い、
「憲兵隊にお出でを願って御迷惑のことと思いますが、一応取調べがすむまでは、お気の毒でもここにいてもらわなくてはなりません。
 なにかと御不自由のことでしようが、御不便のことがありましたら、なんでもおっしやって下さい。
 便宜を取計らわせますから――」
 といって立ち上った。
 彼は、さっきからの興奮が消えないのか、私の挨拶には一言も答えず、ただ黙礼しただけだった。
 私は外に出ると、すぐ、随行していた高坂中佐や大畠中尉に、
「あれは取調べではない。まるで喧嘩だ。
 また、木村准尉の取調べ態度も穏当ではない。しかも言葉づかいが悪い。
 彼もかっては在外大使をつとめ、次官までした人だ。儀礼を守らなければならない。
 ああした「ガラ」の悪い取調べをしてはならぬ。吉田の取調べは、大畠中尉みずからやれ。
 木村は補佐官として使ってもいいが、やはり、相手の立場を考えて、将校が取調べに当るようにせよ」
と指示した。
 このときの取調べは、近衛上奏と吉田との関係を追及していたのだった。
 そこは吉田のもっとも痛いところであったので、「カン」をたかぶらせていたのか、或いは、彼の激怒癖であったものか、いずれにしても吉田のプリプリした態度には、何人でも反感をそそるものがあった。
 だから、若い取調官がこれに巻き込まれて、厳正な取調べ態度を失って喧嘩腰になるのも、無理のないことかも知れないと思われた。

10 殖田俊吉とやり合う

 吉田の取調べを見でから、私は殖田俊吉の取調室に行った。
 例のドス黒い神田川に面して建っていた、かっての厩を改造したものだった。
 たたきの廊下を境にして、一方が留置場、一方が取調室になっていた。
 対面の留置場には、本土空襲に参加し、捕虜になった米軍搭乗員が多数取容されていた。
 もう薄暗く、たたき廊下には、ポツンと電灯が一つにぶく光っている。この取調室は急造のバラックで、きわめて、粗末のものだった。
 そこには取調用の机と椅子があるだけで、殺風景そのものである。
 見れば黒の詰襟、いくぶんやせ型の村夫子(そんぷうし)然とした男が、端然と机の前にすわっていた。
 これが殖田だった。
 私は、さっそく殖田に向って、こんな質問をぶつけた。
「僕がここに来たのは、君に聞きたいことがあったからだ。
 君はこれまで、関東軍や陸軍中央部を赤だ赤だといっているが、どうした根拠で、そんなことをいって歩いているのか、その資料と理由を、この僕にはっきり示して欲しいのだ」
 彼は、静かに、いくぶん低い声で、二十分近くもしゃべりつづけたが、要旨は、つぎのようなものだった。
「関東軍および満州国の政治の動き方を見ていると、なんとはなしに、社会主義的な傾向がうかがわれる。
 協和会思想のごときは、その顕著な例だと思う。
 関東軍は満州国の育成と発展をもって、これを、日本の革新に及ぼそうとしている。
 すでに、日本にもこうした社会主義的理念、および政策を導入していると見られる。
 また、陸軍の政策を見ていると、国家社会主義の色彩が濃厚であり、かって私が見た、陸軍でつくられたという重要産業五ヵ年計画なるものは、明らかに社会主義であり、しかも、陸軍の政策は、この基本計画を逐一実施しつつあるものと認められる。
 これをもって、私は陸軍中央部の赤化という」
 これを聞いた私は、
「それはその通りだ。君の思想的な慧眼には敬意を表する。
 だが、まだ君は、その事態の奥行きを知らないようだ。僕がいささか君に説明してあげよう。
 第一点についていえば、満州国協和会思想は、明らかに、一国一党の国家社会主義だ。
 そして、この協和会思想を、日本革新の名において、日本に及ぼそうとしたことがあったのも事実である。
 しかし、それは、私がここの特高課長をしているときに、一網打尽に引上げた、いわゆる浅原事件(「昭和維新と浅原健三の陰謀」の項参照)というのがそれだ。
 我々は君らの心配していることを、すでに、数年前に処理してしまっている。
 また、第二点の陸軍の政策が赤だと君はいうけれども、これは君のいった通り、その重要産業五ヵ年計画なるものは、社会主義者の宮崎(正義)という人がつくったものだ。
 これは石原中将が、この人を使ってこしらえさせたもので、すでに廃案になっていたが、これも不届きだというので、浅原検挙の時に同時に破棄させたものである。
 これらの点については、私みずから取扱い、処置したことで、君らの杞憂に先行して、陸軍の粛正として取上げたものだ。
 浅原事件は、昭和十三年の暮から、翌年春にかけてのことだから、すでに、六年もたっている。
 そんな古い事柄や古い資料を今頃もち出して、現在の陸軍の赤化として持ち回られることは、陸軍としてはしごく迷惑なことだ。
 今はすべてが、嶮(け)わしい戦いに骨身を砕いている。
 この現在において、陸軍が赤化しでいるというなら、具体的な事実について、これこれが軍の赤化だという証拠をはっきり示してもらいたい。
 それならば、私は喜んで承わろう」
「そうした具体的なものをつかんでいるわけではない」
「君は、軍の赤化を一枚看板にして、重臣やその他の要路の人々に説き回っているが、軍のことをいうならば、もっと、陸軍そのものを研究してかからねばならない。
 皮相な見解や臆断で軍を批判することは、とりもなおさず軍への中傷であって、これこそ戦争遂行を妨げるものと断ぜざるを得ない」
と、私は彼を、激しくきめつけた。
「まことに軽卒にして申訳けのないことです」
と、彼は、私の前に頭を下げた。
 これが、殖田と私との問答の要旨である。この殖田が後の法務総裁(第二、三次吉田内閣)その人である。
 以上が、私の吉田、殖田取調状況実見記である。
 私はその夜八時頃、自室に戻ってから、同行の高坂君にこんなことをいったのを覚えている。

『吉田という男は、ずいぶん頑固で、激情家で、気位の高いやつだ。
 それが憲兵隊に来て、一准尉に、お前だの何だのいわれ、その上、痛いところをつつかれて、すっかり感情を害し、極度の反感反情をもって対抗してきている。
 意気込みは鋭くても、若い准尉では、取調べもかなり困難なことだ。
 さっきもいったように、こういった男には、やはり礼を厚くし、その信念なるものをうけ入れて訊問することが大切だ。 ただ”ガムシャラ”にかぶりついていっても、成功するものではない。
 かえって、ああした”ガラ”の悪い取調べになってしまう。
 それにしても、僕も昔からたくさんの人間を取調べてきたが、ああいった怒りっぽい男は、ちよっと珍らしい存在だね。
 また、殖田という男、一見して学者肌ともいえず、学校の先生タイプで、ヘナヘナしたように見えるが、さすがに経済を専攻しているためか、思想的には鋭いものをもっているようだ。
 しかし、彼の意見は、陸軍の一時期、一局面を見ての考察であって、遺憾ながら正鵠を得ていない。
 これも彼が現役軍人との接触を、ほとんど持っていないことによるのだろう。
 こういう半可通の輩が、民間の軍部通として重臣層に出入りしていることは、軍のために、はなはだ危険なことだと思う』と。
 これは当時の私の素直な実惑だったといっていい。

11 ついに不起訴となる

 これらの人々の原調べがすんだ。犯罪の容疑は十分なのだ。
 そこで、私はさらに、第二次捜査に進展させるかどうか、決心することを余儀なくさせられたが、吉田検挙以来、一般の推移を見ていると、吉田たちを逮捕したことで、いわゆる和平派、親英派に対する暗黙の警告は、相当きいていることが確認されていた。
 そこで、この一連の事件は、なるべく消極的に持っていくことがよいことだと思った。
 かくて、私は、発展的に第二次捜査を止めることに決めた。
 そして、単に、第一次捜査の結末をつける意味で、樺山、原田、小畑だけを一応取調べることにしたのである。
 この捜査は、四月二十六日から開始された。そして、すでにこれらの人々の軍事上の造言飛語罪の容疑資料は十分に整っていたけれども、あえて問題とせず、吉田や殖田などの証拠固めの意味の参考調べといった程度ですますことにしたのであった。
 だから、これらの人々は、わざわざ憲兵隊に出頭を命ずることもなく、居宅取調という形式をとった。
 それは、在大磯の樟山はすでに老体であるし、また原田は、その頃病臥中であった。これらの人々を、いつ空襲があるかわからない東京に連行することは、どうかと思われたし、小畑は在郷であっても、陸軍の先輩といった立場を尊重しての処置だったのである。
 たしか大磯へは、憲兵が二、三泊で出張して居宅訊問を行い、小畑の場合は、大畠中尉みずから彼の中野の自宅で調べたはずである。
 さて、このように、この捜査に私が消極的な態度をとったため、世間の一部では、当時、どこからか憲兵が圧力をうけたのではないかという疑惑をもつものもあったが、私の身辺にはいずれの方面からも、いささかの圧力もなかった。
 すべて、私の判断のままに動いたものであることを、ここで、はっきりさせておく。
 終戦後、殖田俊吉手記するところの『日本バドリオ事件顛末』(二十四年十二月、文芸春秋)には、
「小畑君は引張られなかったが、これは引張られたと同じに、憲兵が家にいって、調書をとっている。
二週間くらい軟禁されている」
 と、書いているし、また細川日記(「情報天皇に達せず」)によると、原田男は、自邸で四日間の取調べをうけ、かつ家宅捜索もうけた。樺山愛輔伯も家宅捜索をうけたとある。
 共に、相当な誇張はあるが、彼らを取調べたことは事実である。けれども、それは単なる参考人に過ぎなかった。
 さて、吉田茂他二名は、五月二日東部軍軍法会議に書類送付、翌三日、身柄を東京代々木陸軍刑務所に移した。
 その後のことは知らぬ。
 陸軍刑務所に収容されたこれらの人々は、あの五月二十五日の夜間大空襲で、代々木刑務所が焼かれるまでおり、代々木が焼けたので、その数日後に保釈で出所を許されたはずである。
 彼らは、釈放運動には相当に動いたらしい。
 私がこのような消極的な決心をした後になって、ある人が私を訪ねて、暗に穏便な処置を懇請したこともあった。
 また私が、終戦後になって、時の外務大臣だった東郷茂徳氏に聞いたところでは、東郷外相も吉田の身を思って、阿南陸相にしばしば吉田らの釈放を懇請したが、陸相は、
「若いものがいうことを聞かないので」
とて、明答を与えなかったという。
 この事件は、結局において、不起訴だった。
 陸軍省では起訴、不起訴が問題となり、兵務局を中心とした幕僚は強く起訴を主張したが、けっきよく、阿南陸相の裁断で不起訴と決定したということであった。
 私はいつも、事件がいったん憲兵の手を離れてからは、成行には無関心だった。
 したがって、この場合も、吉田が釈放されようが、殖田が不起訴になろうが、それは、軍法会議の権限においてなされることであって、そうしたことには一片の干渉もしたことはなかった。
 まして、戦局困難を訴え、また、あの激しい空襲の連続下では、もはや、過去のことに気を配るだけの余裕のなかったことも事実である。

12 『注』 昭和二十年二月十四日 近衛文麿上奏文案(原文のまま) top
 敗戦は遺憾ながら、最早、必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の与論は、今日迄の所、国体の変更にまで進み居らず、(勿論、一部には、過激論あり、又、将来、いかに変化するかは測知し難し。)従って、敗戦だけならば、国体上は、さまで、憂ふる要なしと存候。
 国尊護持の立前より、最も、憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に侯。       つらつら、思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向って、急速度に進行しつつありと存候。
 即ち、国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民は、ソ連の意図を的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち、二段革命戦術採州以来、殊に、最近、コミンテルン解消以来、赤化の陰謀を軽視する傾向顕著なるが、これは、皮相安易なる見方と存侯。
 ソ連が究極に於て、其周辺諸国には、ソヴィエット的政権を樹立せんとして、著々、其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座侯。ポーランドに対しては、予め、ソ連内に準備せるポーランド愛国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。ルーマニア、ハンガリー、フインランドに対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上、ソヴィエット政権に非らざれば、存在し得ざる如く強要致侯。イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致候。スイスがソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスイス政府を以て、親枢軸的なりとして一蹴し、之が為、外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は、何れも、政治的危機に見舞はれつつあり。而して、是等武装団を指導しつつあるは、主として、共産系に御座候。
 ドイツに対しては、ポーランドに於けると同じく、已に、準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは、英米にとり、今は頭痛の種なりと、存ぜられ候。
 ソ連は、かくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては、程度の内政干渉をなし、国内政治は親ソ的方向に引きずらんと為し居り侯。ソ連のこの意図は、東亜に対しても、亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(編集部註・野坂参三)を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立連盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
 かくの如き形勢より推して考へるに、ソ連は、やがて、日本の内政にも干渉し来る危険、充分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣――ド・ゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く――治安維持法、及び、防共協定の廃止等々)
 翻って、国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々、具備せられ行く観、有之候。
 即ち、生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所請新官僚の運動、及び、之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内、特に、憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体は共産主義と両立するものなりと信じ居るものの即く、軍部内革新論の基調も、亦、ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、此の主張に耳傾けらることありと仄聞(そくぶん)いたし候。
 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは、共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。已に、彼等は、軍隊教育に於て、国体観念丈けは、徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は、国体と共産主義の両立場を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 節々、満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して、遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、差等軍部一味の意識的計画なりしこと、今や、明瞭なりと存候。
 満洲事変当時、彼等が、事変の目的は、国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。
 支那事変当時も「事変は永引くがよろし、事変解決せば、国内革新は出来なくなる」と、公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚、及び民間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂右翼は、国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に、共産革命に迄、引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て、大過なしと存候。
 此の事は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り、交友を有せし不肖が、最近、静かに反省しで到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々、頗る多さを感ずる次第に御座候。不肖は、この間、二度迄、組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ、是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を充分に、看取する能はざりしは、全く、不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今、戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に、勢を加へつつありと存候。
 かかる主張をなす者は、所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之により国内を混乱に陥れ、革命の目的を達せんとする共産分子なりと説み居り侯。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は、次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひても、ソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又、延安との提携を、考へ居る者もありとの事に御座候。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる奸条件が、日一日と、成長致しつつあり、今後、戦局益々不利ともなれば、此の形勢は、急速に、進展可致と存候。
 戦局の前進につき、何等か一縷(いちる)でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を、之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 従って、国体護持の立場よりすれば、一日も速かに、戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態にまで、時局を推進し来りし軍部内の、かの一味の存在なりと存侯。
 彼等は、已に、戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽く迄、抵抗可致者と存ぜられ候。
 もし、此の一味を一掃せずして、早急に、戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志、この一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先づ、其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。
 此の一味さヘー掃せらるれば、便乗の官僚、並に右翼、左翼の民間分子も、声を僣むべく候。
 蓋し、彼等は、まだ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達すんとするものに外ならざるが故に、基本を絶てば、枝葉は自ら枯れるものと存侯。
 尚、これは、少々、希望的観測かは知れず候へ共、若し、此等一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び、重慶の空気或は緩和するに非らざるか。元来、英米乃至重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改まらは、彼等としても、戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はれ候。
 それは、兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断こそ、望ましく存候。
以上  

http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c6

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
4. 中川隆[-11149] koaQ7Jey 2020年9月25日 17:25:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[37]

2020年09月25日
米公的債務が激増し2050年にGDP比400%になる可能性


2050年に米公的債務はGDP比400%

コロナ後のアメリカが悪い方向に進むのを示唆するような見通しを米政府が示している。

ロイターによると 米議会予算局(CBO)は、2050年に連邦債務がGDP比2倍になるというっ予想を発表した。

GDP比2倍は現在の日本と同じだが、アメリカの連邦債務は公的債務の一部に過ぎません。

他にも州や市など地方自治体の債務があり、「道路公団」のような民間を偽装した政府機関が非常に多い。

クリントン大統領は民間刑務所や民営有料道路など民営化を推進したので、民間の公的債務が見えなくなっている。

特に目に見えない年金とか福祉関係で、隠れ債務が非常に多いと言われています。(軍人恩給など)


アメリカ合衆国全体の公的債務は安全保障上の秘密なので公表が禁止されていて、実は誰も知りません。

だが推測では連邦債務の2倍とされているので、2050年に米公的債務はGDP比400%に達すると米議会予算局は言っているのです。

この数字を聞いたら日本の財務省はイスから転げ落ちて驚くでしょうが、中国はもっと先をいっています。


中国は2008年のリーマンショックで自律的経済成長が終わり、以降は公的投資によって経済成長しています。

GDP比2倍3倍は当たり前になる

中国は毎年日本1個分に相当する鉄道や高速道路や都市建設など公共事業を行い、公共事業でGDPを増やしました。

その結果公的債務は既にGDP比300%を超え、数年以内に400%に達してしまうでしょう。

公共事業でGDPを毎年6%も増やすには、毎年前年度より6%以上、公共投資予算を増やさねばならない。


2008年以降に建設した鉄道や公共施設は全て赤字なので、公共事業費は借金として積み重なっていきます。

話をアメリカに戻すと、アメリカや中国がこれほど公的債務を増やせた理由は連邦制にあります。

アメリカは合衆国だし中国は地方政府があり、ドイツも連邦政府なので「財布がいくつもある」状態です。


2020年はコロナによって税収が減少し支出が増え、単年度で16%の財政赤字が発生する。

米議会予算局(CBO)は米国の財政は持続不可能と言っているが、政治家や国民は気にしていない。

80年代の日本のような状況で、「そんな事を言ってもお金は無限にあるんだろ」とみんな思っています。
http://www.thutmosev.com/archives/83973797.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c4

[近代史4] 黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年) 中川隆
1. 2020年9月25日 18:24:23 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[38]
西暦2005年。友人と音楽制作会社を経営しているハルは、最近仕事に重要性を感じなくなっていて、ともすれば消えてなくなりそうな自分の存在に不安を覚えていた。一方、国外宛の郵便を専門に扱う郵便局に勤めているハルの恋人ミチは、時々小包をくすねては、ここではない何処かのことを夢想していた。そんなふたりの関係がギクシャクしだしたのは、一匹の犬を飼いはじめてからだった。会社を畳んだハルは不良仲間と荒れた生活を送るようになり、ミチは国外へ出ることを試みる。ある日、ミチがハルの元に帰ってきた。ふたりは海へと出かけるが、そこには兵士の白骨死体が打ち上げられていた。ここではない何処かがユートピアであると願っていたミチはショックを受け、またしてもふたりは別れ別れになってしまう。それから数カ月後、ミチの勤める郵便局にハルが仲間と押し入った。思いがけない再会は、ふたりの距離を一気に接近させる。
https://movie.walkerplus.com/mv31561/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1047.html#c1
[近代史4] 黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年) 中川隆
2. 2020年9月25日 18:31:29 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[39]

2020-05-19
黒沢清『大いなる幻影』(1999)今の気分を感じる映画

最近、私の周辺で密かに黒沢清『大いなる幻影』が話題になっている。

何とも形容し難い他者との距離感とか、空気中をふわふわ飛び交う奇妙な花粉、人々が装着しているマスク、崩壊している雰囲気の世界…等々、今の世界にどこか通じるものを感じてしまうのだ。

「最強のインディペンデント映画作家の養成」を目指して設立された映画美学校で、高等科の実習として製作されたという本作。ラフな脚本から現場でどれだけ映画が立ち上がってくるかを試みたらしい。

1999年は発足当時だろうけど、こんな取り組みがなされていたのだよね。この頃に参加したかった。

今のタイミングで観たいと思っても、配信サービスに乗っかっていないみたいなので、珍しくDVDをお取り寄せしてしまった。

…とか言って、以下から観れるみたいですビックリマーク↓

Barren Illusions

監督:黒沢清

出演:武田真治、唯野未歩子、安井豊、松本正道、稲見一茂、市沢真吾…

1999年/日本/95分

(大いにネタバレ)

1999年から見た近未来の2005年の設定。郵便局に勤めるミチ(唯野未歩子)と音楽関係の仕事をしているハル(武田真治)のカップル。ミチは日常的に国際郵便の横領をし、ハルは自分が消え去ってしまうような実存の不安を抱えていた。その世界では、不可思議な花粉が舞い、2人はそれぞれアレルギーを防ぐ新薬のモニターになる。だが、その薬には生殖機能を失わせる副作用があった。ミチは海外への逃避行を夢見、ハルはファシストな強盗団に加わるようになり…

いきなり武田真治の体が透き通って消え入りそうになるところで(何度も類したシーンが登場する)、彼の実存の危うさが伝わってくる。ただ、全体的に、あらゆる存在が希薄だったり、逆に唐突だったりして、それらの断続的な脈絡の無さと、極端なまでの台詞の少なさ、淡々とした進行によって、この異世界のリアルが感覚器官を通してこちらにも浸食していく。

裏SF設定として、この映画の2005年では、国境が曖昧になり、ユーラシア大陸全体がゆるやかに連合して戦争が起こっており、日本は世界から忘れられた存在になっている…らしい。

何となく、どこか既視感のあるディストピアな風景。

幽霊みたいな存在感とか異界との境界の曖昧なヤバさを描いてきた黒沢監督も、きっと、通常の商業作品と違って、やりたいようにやれたのではないだろうか。

今とどこか重なる気分を、独自の映画世界に浸りながら鑑賞するのも乙なもの。

個人的に良く知る顔ぶれが出ているのも、何とも味わい深かった。

https://ameblo.jp/nakatabun/entry-12597814754.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1047.html#c2

[近代史4] 黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年) 中川隆
3. 2020年9月25日 18:54:42 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[40]
1999年に黒沢清が、少し近未来の2005年に舞台を設定する映画『大いなる幻影 Barren Illusion』。

音楽製作会社を経営するハル(武田真治)と、国際郵便会社に勤めるも満足できない日々をすごすミチ(唯野未歩子)の、近づいたり遠のいたりする不思議な恋愛的距離感。

黒沢清が初めて、本格的に取り組んだラブストーリーで、映画美学校製作により、生徒たちや数々の映画人も現場に参加した。

役者として安井豊、松本正道、青山真治らが出演、演出助手はのちに『アナザー Another』『今日、恋をはじめます』を監督する古澤健、撮影・照明は柴主高秀、美術は松本知恵、編集は大永昌弘、録音は菊池信之、と現在の邦画界に欠かせない才能たちの若き頃の参加作品としても貴重な一作。16ミリにて撮影した作品を35ミリにブローアップして劇場公開された。 (C)馬場敏裕
https://tower.jp/item/1010352/%E5%A4%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%B9%BB%E5%BD%B1-Barren-Illusion
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1047.html#c3

[近代史3] 藤井聡先生は 「日本人は生産性が低い」というデマを撒き散らしているデービッド・アトキンソンが完全なバカだと言い切ってくれ… 中川隆
11. 2020年9月25日 19:01:25 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[41]
菅政権の中小企業政策の狂気(後編)
2020-09-25 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627355132.html

 デービッド・アトキンソンがインタビューで、日本の中小企業の数を、現在の357万社から、160万社に減らすべきと語っていました。

『生産性を上げるために日本は何をなすべきか――デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)【佐藤優の頂上対決】
中小企業問題

佐藤 そこで問題になってくるのが、中小企業であると指摘されてきました。

アトキンソン 労働生産性を大企業、中堅企業、小規模事業者に分けて考えてみると、日本の大企業の生産性は海外と比べ、それほど変わりません。中堅企業は多少低いくらい。そして小規模の会社は圧倒的に低い。

佐藤 そうすると、問題の在り処は明らかです。

アトキンソン しかも中小企業の数は358万社で、全体の99・7%を占めます。小規模事業者が305万社で84・9%、中堅企業は53万社、14・8%です。従業員の数で見ると、中小で全体の68・8%を占めます。生産性が低い企業が大きな構成比を占めているのですから、全体の平均が下がるのは当然です。(後略)』


 中小企業問題で注意して欲しいのは、
「オレの会社は関係ないや」
 であったとしても、貴方の会社の取引先が潰されるかもしれない。あるいは、取引先の取引先が潰され、取引先が危機に陥った結果、貴方の会社の利益を直撃するかも知れない。
 あるいは、調達先が潰され、品質が悪く高い会社からの調達を強いられ、コストが上昇するかも知れない。
 貴方の顧客が働く会社が潰され、貴方の会社が生産する財やサービスが買われなくなるかも知れない。
 さらに言えば、自分の地元の中核企業が潰され、地域が荒れていくかも知れない。地元の経済が衰退し、さらなる人口減になるかも知れない。
 ということです。国民経済は繋がっている以上、他人事ではないのです。


 インタビューで、アトキンソンは「会社の規模が小さいため、生産性向上の投資をしない」という自説を展開していますが、どこまで「経営」を分かっていないのでしょうか、彼は。


 そもそも、生産性向上の投資に「規模」は関係ありません。というか、
「需要が豊富で、人手が足りない。だからこそ、生産性向上のために投資をし、自室賃金を引き上げ、従業員が増え、会社の規模が大きくなっていく」
 が、企業の成長の王道なわけです。当たり前でしょ。

 『アトキンソン だから日本の中小企業は成長しない。中小企業295万社の調査では、2012年から16年までに成長したのは、7・3万社、わずか2・5%でした。』

 それはまあ、デフレで仕事不足の状況が続き、しかも消費税増税で最大の需要である消費を叩き潰したのですから、企業が成長するはずがありません。


 というか、12度年から16年度まで、実質GDPは5%しか増えていない。その状況で成長した7.3万社は、もちろん経営者は立派だと思いますが、確実に「別の誰か」の所得を奪い取っているよ。(※なぜ実質で見るかといえば、消費税増税による物価上昇の影響を排除するため)


 デフレでGDPが増えないとは、「国内全体の所得のパイ」が膨らんでいないことを意味しています。そして、所得=需要=生産です。


 需要が不足しているデフレーションという「本当の問題」には一切触れず、
「国民の給与が低いのは、甘やかされている中小企業が生産性向上の投資をしないせい」
 のレトリックで、中小企業基本法改訂や最低賃金引き上げで、中小企業を追い詰め、「新陳代謝」を強制。中小企業を潰すか、合併に追い込み、多くの人々を失業させる。


 デフレ対策(財政拡大)は不要で、中小企業の対象が減り、中小企業政策費も削減できる。誰かが、喜ぶのでしょうか。


 もちろん、財務省です。


 要するに、アトキンソンの中小企業政策は、財務省の緊縮財政の延長線上にあるのです。だからこそ、今後、マスコミで一気に支持が広がっていくことになるでしょう。


 やめさせなければなりません。


 そして、やめさせることができるのは、国民の声を武器とする、国会議員だけです。


 もう一度、書いておきます。菅・アトキンソン内閣が始める中小企業淘汰政策により、全ての国民に「所得が減る」可能性が生じるのです。貴方の会社、貴方の事業、貴方の所得、そして貴方の人生の問題なのです。決して他人事ではありません。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627355132.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/694.html#c11

[近代史3] 藤井聡先生は 「日本人は生産性が低い」というデマを撒き散らしているデービッド・アトキンソンが完全なバカだと言い切ってくれ… 中川隆
12. 2020年9月25日 19:37:59 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[42]
菅総理のブレーン 国際金融資本の代理人デービッド・アトキンソン [三橋TV第293回] 三橋貴明・高家望愛



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/694.html#c12
[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
1. 2020年9月25日 20:28:07 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[43]

今は年寄り186万人が農業に従事しているだけだよ:
(農業就業人口は引き続き減少・高齢化)
農業就業人口のうち基幹的農業従事者(*2)数は、186万2千人となり、前年に比べて18万9千人(9.2%)減少し、200万人を下回りました。 また、65歳以上の割合は59.1%と前年に比べて2ポイント低下したものの6割を占めており、平均年齢も66歳と高齢化が進んでいます。


>でも企業を潰したら国全体の生産力や経済力が落ちて社会保障や国防などにかけるお金や技術投資が減り国家全体の力は弱まり発展途上国や貧困国の様な生活を強いられますよね?

日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるから、日本人は働かなくても食べていけるんだよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c1

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
2. 2020年9月25日 20:35:02 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[44]
MMTでお金はいくらでも発行できるんだろ。
失業者の生活費を国で出せばいいのさ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c2
[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
3. 2020年9月25日 21:05:30 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[45]

>MMTを誤解しているのでは?インフレ率や為替が許す範囲内でしか発行は出来ませんし

それが誤解なんだよ
超円安になったら日本の輸出企業の一人勝ちで、海外の競合メーカーはすべて倒産するし
インフレになったら資産家の資産が目減りして所得再分配になるし(インフレ税)

インフレ率や為替が許す範囲内なんて最初からないんだよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c3

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
4. 2020年9月25日 21:07:48 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[46]

供給力、供給力と騒いでいるけど
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代だよ。
失業者が増えても供給力は変わらないよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c4
[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
5. 2020年9月25日 21:10:41 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[47]
三橋さんは昭和脳ですね。
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。

失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
MMTでお金はいくらでも発行できます。
生活困窮者の生活費を国で出せばいいだけですね。
日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるので、日本人は大して働かなくても食べていけるんですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c5

[近代史4] 御用学者列伝 _ 竹中平蔵 中川隆
11. 中川隆[-11148] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:03:40 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[48]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html#c11

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
25. 中川隆[-11147] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:04:10 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[49]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c25

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
111. 中川隆[-11146] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:04:40 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[50]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c111

   

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