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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100247
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[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
3. 中川隆[-12523] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:33:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

愛国者のプーチンやヒトラーがユダヤ人を野放しにできなかった理由

2015年05月22日
ロシアを食いつぶした経済マフィア / オリガルヒの正体 (1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68348669.html


ユダヤ人VSロシア人

  ロシア人は狡猾で陰険だが馬鹿ではない。兇暴で情け容赦のないロシア人は、もっぱら掠奪を趣味とする野蛮人であるが、同類の犯罪者を見分ける能力は一級品である。ユダヤ人は学問と同じく悪行においても天才的能力を発揮するので、無防備な西歐人や日本人は容易く隷属してしまう。しかし、同じ穴の狢(ムジナ)たるロシア人には手こずるみたいだ。遵法精神を持つ西歐人なら、ユダヤ人は立法府を牛耳って、彼らを意のままに操れる。しかし、力のみを信奉するロシア人相手だと勝手が違い、札束だけでは調教できないのだ。現代のロシア皇帝ウラジミール・プーチンは、甘っちょろい西歐の政治家とはまったく違う。しかも、ロシア人とはスラヴ人の皮を被ったモンゴル人だ。こんな奴らを束ねる支配者とくれば、相当なワルである。綿密な謀略が得意なプーチンは、本能的にユダヤ人を警戒する。同じ臭いを放つ異邦人に絶対油断しない。だから、プーチンはユダヤ人の軍門に下る前に叩き潰そうとしたのだ。こうしたワルどもの闘いにおいては、「やるか、やられるか」の選択しかないのである。


(写真/ロシアにおけるユダヤ人)


  ロシアにおけるユダヤ人の歴史は長くて暗い。農奴国のロシアに住んでいたユダヤ人の仕事といえば農業くらいしかなかった。だから裕福になれなかったし、おまけに「ポグロム」という虐殺が時折起こって、ユダヤ人は逃げ回っていたのである。こんな惨めさからアメリカに移民できるチャンスを見つけたユダヤ人は、どんな嘘をついてでも新大陸に渡りたかった。文明国のアメリカ合衆国では、たとえユダヤ人でも才能があれば、出世ができたり裕福にもなれたから、ロシアでは就けない職業を求めたのである。希望の国アメリカには、貿易やエンターテイメント、金融、報道など魅力的な職場がいっぱいあった。こうした職業をユダヤ人に解放することは、アメリカ人にとって自殺行為ある。必ずやユダヤ人が要職を占め、その業界を乗っ取り、他分野のユダヤ人と連携して永久支配を完成させるのだ。アメリカで成功したユダヤ人でも、ロシアに残った同胞は気になったらしい。ポグロムを続けてユダヤ同胞を迫害する帝政ロシアが許せなかった。そこで、東洋の新興国日本を利用してロシア皇帝を膺懲(ようちょう)しようとしたのが日露戦争であった。ヤコブ・シフなどのユダヤ人富豪が日本の戦時国債を買ってやったのも、善意からではなくロシア懲罰が目的だったのである。

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(左:レーニン/カール・ラデック/レフ・カーメネフ/右:ヤコフ・スヴェルドルフ)

  敗戦で帝政ロシアがぐらつき始めたら、こんどはユダヤ人過激派、つまりレーニンが率いるボルシェヴィキをアメリカ・ドイツの金融資本家が支援して、憎きロマノフ王家を抹殺してしまった。グルジア人のスターリンを除いて、ボルシェヴィキのメンバーはほとんどがユダヤ人である。レーニンは母方の血統でユダヤ人であったし、国際共産主義のリーダーであったカール・ラデック(Karl Radek/本名Karol Sobelsohn)やレフ・カーメネフ(Lev Kamenev/本名Rozenfeld)、ヤコフ・スヴェルドルフ(Yakov Sverdlov)はユダヤ人であった。かつて人気があったトロツキー(本名/Lev Davidovich Bronstein)はウクライナ出身のユダヤ人である。レーニンとも家族ぐるみで親しかったグレゴリー・ジノヴィエフ(Grigorii Yevseevich Zinoviev)もウクライナ出身のユダヤ人。(高齢の共産党員にとっては懐かしい名前だろう。) とてもウクライナ人とは思えない顔つきのユダヤ人を見れば、いかにユダヤ人が異質な種族かが分かる。日本人によく知られているウクライナ人といえば、映画『バイオハザード』の主役ミラ・ジョボビッチ(Milla Jovovich)であろう。ちなみに、オレンジ革命の時話題になったユーリヤ・ティモシェンコ(Yulia Tymoshenko)は、リトヴィア系ロシア人で、ウクライナの地元民ではない。

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(左:トロツキー/中央:グレゴリー・ジノヴィエフ/右:ミラ・ジョボヴッチ)

  ともかく、こうしたユダヤ人過激派を財政的に支援したのがウォール・ストリートの金融資本家で、将来の市場としてロシアを独占するために革命を支持したのである。(たとえばAmerican International Corporationが有名。)ロマノフ王朝が居坐っていると、巨大銀行がロシアを搾取しようとしても邪魔されるから、うるさくて厄介なロシア皇帝を始末しておいた方が得策と考えていたのだろう。我々は学校の教科書で、共産主義者による「ロシア革命」とだけ習っているが、実際はロシアで起こったユダヤ人コミュニストによる「ユダヤ革命」なのだ。世界史の教科書では、革命家の顔写真を掲載して、ユダヤ人革命家個人について述べないから、日本の高校生は彼らの素性が分からない。日本の子供なら「先生このオッサンたち何者? 」と訊いてくるから、社会科の教師は説明に困るだろう。まさか嘘をつくわけにも行かないが、本当の事を喋るのもちょっと辛い。だが、NHKの高校講座世界史に出てくる赤い講師なら大喜びで答えるかもね。もっとも、如何に共産主義が素晴らしいかを説くだろうけど。

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(左:ミハイル・ゴルバチョフ/中央:ボリス・エリツィン/右:ユーリ・ティモシェンコ)

  ロシアはユダヤ人との腐れ縁で散々な目に遭っているが、日本人からすれば「いい気味だ」と言いたくなる。巨万の富を持ちながらも更なる利益を求めるグローバリストにしたら、ロシアはユーラシア大陸の要となり、何としても押さえねばならぬ大国である。ロシア人は役立たずでも、その土地に眠る天然資源は咽から手が出るほど欲しい。共産主義体制が崩壊したロシアは、西側の金融機関や投資家にとって魅力的な市場経済処女地であった。あくどい手段を用いて莫大な資産を築き、やりたい放題の「オルガルヒ(Oligarch)」の正体は、大富豪のユダヤ人政商である。国家独占経済が急に市場経済に移行したのだから、商才などからっきしなかったロシア人に、ビジネスマンになれといったってどだい無理。ただ、そこには例外があった。ユダヤ人は別だ。勉強と金儲けはユダヤ人の得意技。総合格闘技なら、プライド・チャンピオンのヒョードル・エメリヤネンコ(Fedor Emelianenko)や空挺部隊のセルゲイ・ハリトーノフ(Sergey Kharitonov)といったロシア人の方が強い。しかし、そろばん勘定とくれば、ユダヤ人が三冠四冠のチャンピオンだ。ゴルバチョフを倒して、新生ロシアの大統領になったエリツィンは、ブルドーザーのようなごり押しなら得意だったが、経済政策については全くの素人。ウォカの早飲み大会なら優勝できても、産業育成といった地道な実業には無知であった。経済アドヴァイザーの正体も吟味せずにロシア経済を任せて、国営企業は貪欲なハゲタカとオルガルヒ(新興財閥)の餌食。

  考えてみれば日本も明治維新の時は危なかった。もし、江戸時代にユダヤ人が居たら、我が国の殖産産業は悉く外国勢力に喰われたかも知れない。コ川慶喜(けいき)に渋沢栄一がついて、様々な企業を興したから良かったのだ。近代資本制の産業社会に移行しようとした時、その任務に当たったのが異邦人ではなく日本人であったから、順調に経済発展ができたのである。巨大な財閥を築いた岩崎弥太郎だって愛国心を持つビジネスマンであったし、北海道開拓を任された政治家も日本人だったから問題が少なかったのだ。もし、ロシア系ユダヤ人に任せたら、北海道はユダヤ資本の牙城になっていただろうし、日本の領土であっても巨大な租界の如き様相を呈していたかも知れない。三菱の岩崎弥太郎は渋沢を誘って市場独占体制を図ろうとしたが、それでも祖国を食い潰そうとはしなかった。渋沢栄一はカルテルを結ぶより、日本の企業育成に力を注いだのである。外国人なら日本の将来を考えて新たな産業を興そう思わない。激動期に外人が存在するのは危険である。

ユダヤ商人の勃興

  ソ連末期からエリツィン時代にユダヤ人は勢力をつけた。この原因の一つとしてあげられるのは、ヴァウチャー(voucher)方式による国営企業の私有化であった。エリツッイン大統領の下で経済改革に取り組んだイエゴール・ガイダール(Yegor Gaidar)とアナトリー・チュバイス(Anatoly Chubais)は、国有企業の資産を守るためにその民営化を図ったという。というのも、ゴルバチョフ政権下の後半で広がり始めた自然発生的な私有化を食い止めるとともに、残存する共産主義者らが国家管理・計画経済の復活を叫んでいたからだ。当時、ロシアでは闇経済から怪しい商売人が表面に出てきたし、企業努力をするよりも「親方日の丸」の方が楽だと考える人が多かったからである。それに、政府が企業の所有者ということは、特定の所有者がいないということと等しい。つまり、監視する役目の人間がいないから、企業長ら経営幹部を含む労働集団が、勤務先企業の資産を勝手にぶんどって食い潰してしまうのだ。ガイダールとチュバイスは企業が丸裸にされることを防ぐためにも、国営企業を私有化することで、オーナーになった者が自分の資産を守るはずだ、と考えたのである。

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(左:アナトリー・チュバイス/右:イエゴール・ガイダール)

  産業構造を救済するには、どうしても共産主義の復活を食い止めねばならない。それには経済改革に対する一般民衆の支持を得なければ、ということで、ロシア国民一人あたり1枚の(株券を買える)小切手(ヴァウチャー/または引換券)を配り、これによって国民全体をロシア産業の株主かつ利害関係者に仕立てようと目論んだのである。私企業に転換した会社の所有者になったロシア国民は、僅かばかりでも利益の配当を受けるから、「自らの所有物」が再国有化されることに反対するだろう、とガイダールとチュバイスは踏んだのである。冷戦崩壊後、社会主義に異を唱えていたシカゴ学派理論は輝いていた。企業の所有権を公的管理から解放し、私有化して市場経済の原理に任せれば、生産性が上がり、効率も良くなるということで、私有は国有に勝るのだ、とガイダールとチュバイスは信じていた。

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(左:アンドレイ・シュライファー/中央:ジェフリー・サックス/右:マキシム・ボイコ)

  1991年ガイタールは大胆な経済改革に踏み切り、私有化はチュバイスに担当させることにした。そこでユダヤ人のチュバイスはハーバード大学の少壮教授アンドレイ・シュライファー(Andrei Schleifer)を補佐官に選んだのである。ハーバード大学にはユダヤ人学者がゴロゴロいるからしょうがないけど、偶然なのか意図的なのか分からぬが、ユダヤ人教授が抜擢されたのは不吉な予兆であった。 このシュライファーをチュバイスに紹介したのも、ユダヤ人でハーバード大学教授のジェフリー・サックス(Jeffrey David Sachs)であった。シュライファーはロシア人エコノミストのマキシム・ボイコ(Maxim Boycko)とハーバード・ロー・スクールを出たばかりのジョナサン・ヘイ(Jonathan Hay)を引き連れてやって来た。こうした秀才経済学者らは、自由主義経済の経験がないロシア人に市場経済の原理を導入しても大丈夫と考えたらしい。西側の市場経済が機能するには、ロシアに法の支配があるという前提が必要なのだ。公正な裁判や法秩序を維持する警察、ビジネス関係の法制度、それに非公式の基準や商慣行などが併せて存在しなければならない。闇経済くらいしかなかったロシアで、まともな産業や流通があるわけないだろう。だが、私有化を推進した連中は、構造改革をすれば競争原理が働く一方、規制を求める政治的圧力が湧き上がるから、法制度の改革が起こって企業統治のシステムが出来上がるはず、と考えていた。しかし、実際は一般ロシア人に企業経営など分からないし、不正に対する国民の監視というものがないのだ。市場経済の原理(プリンシプル)を持ち込んでも、それが発芽する土壌(文化/カルチャー)がロシアに無かったのである。

  私有化で多くのロシア国民が小さな株主になるとは幻想であった。実際に起こったことは、企業長やインサイダーが濡れ手に粟でボロ儲けという結果である。チュバイスはロシア産業の産業・商業の資産価値を計算し、これをロシア国民総数で割って一人当たりの分け前をはじき出したという。次ぎに、その価格に相当する株を購入できるヴァウチャー(引換券/小切手)を国民一人に1枚ずつ分配したのだ。これがロシアのヴァウチャー計画の本質である。経営幹部やインサイダーが彼らに振り当てられた株を購入するのはいいとして、残りの資産を分配して一般国民に分け与えようとしたのである。16,500の大企業と中小企業を会社組織に転換し、それらの会社の帳簿上の評価額の35パーセントをヴァウチャー所有者のために取っておく。この価額を低く設定してヴァウチャーの額面価格をはじき出し、1枚当たり1万ルーブルと決めたのである。何かややこしいが、つまり平民でも株主になれるよう、額面を安くしてあげたということ。

  計画がスムーズに進むと思いきや、ヴァウチャー価格を安く設定したことが裏目に出てしまった。ロシアはインフレに見舞われ、ヴァウチャーの実質価格がしぼんでしまい、1万ルーブルが4千か5千ルーブルくらいの値に下落したのである。一時はヴァウチャーを1枚10ドル以下で手放す庶民すら珍しくなかったという。多くのロシア国民は1万ルーブルのヴァウチャーなんてイカサマだと思い始めた。石油や天然ガス、鉱物資源に恵まれたロシアで、一人当たりの受け取り分がたった1万ルーブルだなんて理解できなかった。ロシア国民は共産主義時代と同じように、またもやイカサマの犠牲者にさせられたと受け取ったのだ。(マーシャル・I・ゴールドマン 『強奪されたロシア経済』 鈴木博信 訳 NHK出版 2003年 p.158) エリツッンが打ち出したヴァウチャー計画で、最終的に1億4800万人のロシア国民のうち1億4606万4000人がヴァウチャーを受け取った。受け取った国民はそれを現金と同じく扱って市場で売り払ってもよかったし、私企業に転換された企業の株と交換してもよかった。ほとんどのロシア人は、ヴァウチャーを資本家たちの紙切れと思っていたし、それが本当にどれほどの価値があるのか、またそれをどう使ってよいかすらも分からなかった。

  やがて狡賢い連中が「ヴァウチャー・ファンド」なるものを創立し、このファンドの株を買うのにヴァウチャーを使ってくれたら、すぐにでも高額の配当金を差し上げますよ、と人々に宣伝したという。ところが、ヴァウチャーをこうしたファンドの株に取り替えた人々は、「ファンド」が潰れ始めても何の保障も受けられなかった。つまり、ヴァウチャーを集めるためだけに、ファンドを設立した連中は目的を達成したら、さっさとファンドを破綻させてドロンを決め込んだというわけだ。様々なな手口でウァウチャーを大量に集めた悪党どもは、私有化された国営企業を支配する大株主になれた。こうして、驚くほど安い値段で国有財産を手にした個人が、一挙に大富豪、すなわちオルガルヒに変身したのだ。ロシア国民が豊かになるはずなのに、一部の悪徳商人が裕福になったのでは、私有化は明らかに失敗だった。しかも、私有化担当を務めた顧問のうち二人が、私有化に係わるインサイダー情報を使って懐(ポケット)を膨らませていたのだ。その二人とは、アンドレイ・シュライファーとジョナサン・ヘイである。アメリカ議会はロシアが市場経済に移行できるよう、ハーバードに顧問を派遣するよう頼んだのに、そのアメリカ人顧問官が不正を働いていたのだ。合衆国国際開発庁(USAID)をペテンに賭けたようなもので、ボストンの検事局は二人を告訴したのである。訴えられたシュライファーとヘイは最高で1億2000万ドルの損害を与えたと判断されたようだ。(David Warsh, Judge finds against Shleifer , Hay and Harvard, Economic Principals, July 4, 2004) この訴訟には更なるスキャンダルがあった。告訴されたのは二人ばかりではなく、シュライファーの女房であるナンシー・ジンマーマン(Nancy Zimmermann)とヘイの恋人で後に夫人となったエリザベス・ハーバート(Elizabeth Herbert)が含まれていたという。ナンシーはロシアで投資を行うヘッジ・ファンドのパートナーであった。彼女たちの容疑は判事により却下されたが、女房や恋人をつかって銭儲けをしていたとは、呆れた経済顧問官である。

ユダヤ人の成り上がり者

Vladimir-Gusinsky 2(左/ウラジミール・グシンスキー)
 ユダヤ人は共産主義革命でロシア人を奈落の底に落とし、市場経済への転換期になれば、ロシア国民の膏血(こうけつ)を啜(すす)っていたのだ。悪辣なユダヤ人オリガルヒの一人ウラジミール・グシンスキー(Vladimir Gusinsky)は、地下経済の中から現れた成金だがユニークな経歴を持つ。高校で数学を勉強したウラジミールは、名門のモスクワ理学技術学院に入ろうとしたが、ユダヤ人ということで入れなかったそうだ。それで彼は傷つき憤りを感じたという。(David E. Hoffman, The Oligarchs: Wealth and Power in the New Russia, Public Affairs, Oxford, 2002, p.152) そこで母親が通ったことがあるグプキン石油化学・天然ガス大学に入ることにした。反ユダヤ主義の伝統があるロシアで暮らすグシンスキー家には辛いことが多かった。母方の祖父はスターリンによる大粛正で射殺されたという。ウラジミールは子供の頃、近所のガキどもから「小さなユダ公」と馬鹿にされて悔しかった。それに、グシンスキーの家族は狭いアパートの一間に暮らす労働者世帯であったから貧乏が身に沁みたのかも知れない。お金儲けのためなら、ユダヤ人はとにかく色々なことをする。ウラジミールは大学を中退後、ジーンズやオーディオ・カセットを仕入れて販売したこともあったという。大学を辞めてから陸軍に入ったが、そこは化学戦に備える部隊だった。しかし、ユダヤ人のウラジミールに愛国心などあるわけがない。さっさと軍隊を離れたのちにたどり着いたのが国立演劇藝術大学であったという。シェイクスピアやモリエールさえ読んだことがなかったのに、演劇を学びたかったとは呆れてしまう。でも、ユダヤ人にはこういうタイプが結構多くいて、何となしに各分野を転々としているうちに成功したりするのだ。ウラジミールは演劇界ではユダヤ人は歓迎されぬのではないか、と心配したらしい。ロシアでは反ヤダヤ主義が根強いからだ。

  ドラマの演出をしながら、グシンスキーはタクシー運転手をしたり、銅線を加工してブレスレットを作り、街の屋台でこっそり売るといった副業も行っていた。一時期、グシンスキーは米国のヴァージニア大学で金融経営学を勉強したというから、純粋な芸術家というよりプロデューサーの方に向いていたのだろう。ビジネスにおいて成功するには人間関係が大切だから、グシンスキーは舞台の仕事を続ける一方で、人脈作りにも精を出していたようだ。愚鈍なロシア人と違って、ユダヤ人はお金の臭いに敏感である。1989年、彼はロシアに投資したいという外国人が存在するのを知ると、彼らの相談にのるコンサルタント会社を作れば儲かるのではないかと考え、「モスト」と称する協同組合を開設した。「モスト」はワシントンの有名な法律事務所アーノルド・アンド・ポーターの分社であるAPCOと合弁で始まった会社である。モストは国営企業で売っていない品物を扱ったから、道具類や機械を必要とする建設業にとっては便利な存在であった。そこで、数々の事業から得た利益を基にグシンスキーは、自分の銀行「モスト・バンク」を設立したというわけだ。彼はモスクワ市長のルシコフとつるんで、市が所有する資金を預かり、役所が支払いに用いない資金を、通貨投機や高利回りの政府国際購入に当てて、相当な利潤を得ていたという。こうして、1994年までにモスト・バンクは、ロシア最大の銀行のひとつになっていた。

  エンターテイメントはユダヤ人の得意とする分野で、舞台監督をしていたグシンスキーがその手腕を発揮できる新事業としてふさわしかった。欧米では同類のユダヤ人がマス・メディアを独占して裕福になっているから、グシンスキーが同様の行為にでても不思議ではない。彼はルシコフ市長のコネを使い、モスクワ地域をカバーするチャンネル4の支配権を手に入れ、1日2、3時間の放送を始めることができた。ユダヤ人が危険なのは、最初は小規模でも、一旦キッカケを掴めば、それを徐々に拡大させ独占を目論むからだ。なにしろ、メディアを使えば大衆操作で政界を動かしたり、圧倒的な影響力を駆使してさらなる利益を得る分かっている。だから、異人種との競争より、同族で業界を固めて共存共栄を謀ろうとするのだ。グシンスキーはロシアで最初の民間テレビ網となった全国放送NTV(独立テレビ)を設立し、大衆受けを狙ってエリツィン批判を展開したこともある。彼はユダヤ人らしく巨大メディア帝國を作ろうとした。グシンスキーのモスト・メディアは、衛生通信網の「エフォ・モスクヴィ」といったラジオ局や、『セヴォードニャ』という新聞、『ニューズウィーク』と共同で出版する『イトーギ』といった雑誌を取り込み、手広いメディア複合体に変貌していったのである。グシンスキーの政府批判はエリツィンの逆鱗に触れたこともあり、彼は家族を連れて一時英国に逃れることもあった。ところが、1996年の大統領選挙で、共産党のゲンナージ・ジュガーノフ(Gennady Zyuganov)が台頭するや、エリツィンの地位が危なくなり、それでは困ると思ったグシンスキーは、「独立」メディアを動員してエリツィン支持の方針に転換したという。共産党時代に逆戻りしたら、彼のメディア帝國も危なくなるから、嫌でもエリツィンの勝利を願ったのである。ユダヤ人はこうして自分の為に、巧妙な政治キャンペーンを張って世論を操作するのだ。

  米国のユダヤ人が作る『サタデー・ナイト・ライヴ』みたいに、グシンスキーも政治家を風刺する『クークルィ(Kukly)』という番組を制作した。人形劇のスタイルで政財界の大御所を笑い物にし、彼らを痛烈に批判して大衆の人気を勝ち得たという。エリツィンからプーチン政権に代わってからも、その番組の姿勢は変わらず、原子力潜水艦クルスクが沈没した時などは、プーチンの無策ぶりを手厳しく批判したらしい。グシンスキーは政府から独立したメディアというポーズをとり、自由報道の擁護者と振る舞っていたので、独裁者プーチンにとってもグシンスキーは手強い相手であった。それゆえ、プーチンとしても強引に潰すこともできず、慎重に対処せねばならならなかったという。しかも、グシンスキーは1996年に諸々のユダヤ人宗教組織や福祉団体をまとめて「ロシア・ユダヤ人会議」を創設し、初代会長となった。世界中に蜘蛛の巣のような人脈を張り巡らしているユダヤ人をバックにつければ、いくら豪腕のプーチンでも簡単に手を出せないだろう。用心深い悪党らしく、グシンスキーはイスラエル国籍を取得しており、身に危険が及べばいつでもイスラエルに逃亡できるよう準備していた。こう聞けば、脱税容疑で国外逃亡した米国のマーク・リッチ(本名Marcell David Reich)を思い出す人がいるも知れない。このユダヤ人リッチは逃亡後、イスラエル国籍を取得すると、ユダヤ人脈を利用してクリントン大統領から恩赦を得てしまった。イスラエルとは犯罪をしでかしたユダヤ人の避難場所(シェルター)である。(このリッチについては別の機会で触れる。) 二重国籍を持つユダヤ人が、世界に広がるユダヤ人ネットワークを活用し、ユダヤ人インサイダーのグローバリストになることは当然であろう。

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(左:ロマン・アブラモヴィッチ/右:ベレル・ラザル)

  忌々しいグシンスキーではあるが、権力基盤を固めたいプーチンとしては、無闇にグシンスキーを投獄しようものなら、ユダヤ人からの国際的非難を浴びてしまい、自らの評判を落とすことになる。グシンスキーはユダヤ人団体にお金をばらまいていたので、彼に心酔していたユダヤ人も多かったらしい。慎重なプーチンとしては、ロシア・ユダヤ人会議を安易に潰したり、強引に乗っ取ったりする危険を冒したくない。そこで、プーチンは外国からユダヤ人指導者を連れてきて、別のユダヤ人団体を作る事にしたのである。毒蛇のコブラには大蛇のパイソンを、ロシアのユダヤ人には外国のユダヤ人をぶつければ良いというわけだ。悪党プーチンは実に賢い。そこで選ばれたのは、ロシア国籍を持たない米国のラビ、ベレル・ラザル(Berel Lazar)であった。ラザルはニューヨークに本部がある「ハバード(Chabad)」と呼ばれる正統派ルバヴィッチ(Lubavitch)のハシディズム(Hasidism)運動に属していた。日本人には何だか分からぬ宗派だが、簡単に言えばユダヤ教の戒律を厳守するウルトラ保守派と考えれば良い。(世俗的改革派と違った復古的敬虔派ユダヤ教徒をイメージしてもらえばいいのだか、これまた日本人には難しいから詳しくは個人で調べてね。) 偶然だが、プーチンの腰巾着オルガルヒでユダヤ人のロマン・アブラモヴィッチ(Roman Abramovich)が、ラビのベレル・ラザルに財政支援をしていたのである。このアブラモヴィッチはまた、レフ・レヴァーエフ(Lev Avnerovich Leviev)と仲が良く、レヴァーエフは元ロシア・ユダヤ人会議の幹部で、イスラエルとロシアにおけるルバヴィッチ派ハジディズム運動の支持者でもあった。

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(左:プーチンと会談するベレル・ラザル/右:レフ・レヴァーエフ)

  レフ・レヴァーエフはウズベキスタン生まれのイスラエル国民で、とかく噂のあるダイヤモンド商であった。迫害されるのか日常のユダヤ人にとって、宝石は持ち運びに便利な資産であるから、宝石商や両替商はユダヤ人らしい職業だ。ユダヤ人の巣窟となったアントワープやアムステルダムで、ユダヤ人のダイヤモンド加工業者や小売商は有名である。政商としての才能があるレバーエフは、プーチンとのコネを使って、デ・ビアス社が独占していたロシア産ダイヤモンドの販売権に食い込んだらしい。デ・ビアス社とはあのローズ奨学金で有名なセシル・ローズが築いた世界最大のダイヤモンド会社である。こうして銭儲けに励んだシレヴァーエフが、ロシア・ユダヤ人会議に代わる新たな組織「独立国家共同体ユダヤ人コミュニティー連盟」の会長に就任したのだ。(「Federation of Jewish Community of the CIS」を指す。)

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(左:アドルフ・シャエヴッチ/右:ピンカス・ゴールドシュミット)

  ユダヤ人同士の対立を利用するプーチンは、まだロシア語を習得していないラザルにロシア国籍を与えて、彼の宣教活動を助けてやったという。プーチンのお気に入りとなったラビ・ラザルは、ロシア各地のハシディズム・ラビの代表を招集し、新たな団体を構築し始めた。集められたラビは満場一致でラザルをロシアの首席ラビに選出したのである。しかし、ロシアには当時ユダヤ人会議によって承認された首席ラビ、アドルフ・シャエヴィッチ(Adof Shayevich)がいたのだ。そんなことは百も承知のプーチンは、たちどころにラザル率いるロシア・ユダヤ人コミュニティ連盟を、ロシアにおけるユダヤ人を代表する公式組織と認めたのである。毒をもって毒を制する、政治の要諦を修めたプーチンならではの策略。さすが仕掛に抜かりのないプーチンだ。これで、グシンスキーのユダヤ人会議は、ロシア・ユダヤ人の公的代表機関でなくなったから、グシンスキーを潰しにかかっても、反ユダヤ主義との非難を招くこともなくなった。鉄は熱いうちに打てとばかりに、さっそくプーチンはグシンスキーを召喚し、有無を言わさず投獄したのである。だが、世界の指導者の数名が異議を唱えたため、告訴は取り下げられグシンスキーは釈放されてしまう。しかし、そんなことで迫害の手を緩めるプーチンではない。シャエヴィッチのもとでモスクワの主任ラビをしていたピンカス・ゴールドシュミット(Pinchas Goldscmidt)が、親分のシャウヴッチからラザルに乗り換えることを拒否すると、滞在ビザの更新をしないという嫌がらせをしたのである。ゴールドシュミットはスイス国籍のユダヤ人であったから、プーチンは邪魔なゴールドシュミットを国外退去処分にし、イスラエルに追い払ってしまった。(Yossi Melman , No love lost, Haaretz, December 8, 2005)

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(写真/ルバヴィチ・ハシディズムのユダヤ人)

  自分に刃向かうグシンスキーとユダヤ人会議を痛めつける一方で、プーチンは従順なユダヤ人連盟を厚遇したのである。ルバヴッチ派が信徒用のビルを増築したら、その建堂式に出席してお世辞を述べ、イスラエルからモシェ・カッツァーヴ大統領が来れば、クレムリンで晩餐会を開いてやったのだ。しかも、そのディナーはコーシャ(ユダヤ教の食物戒律)に則った方法で調理され、厳格な調理法を気にするユダヤ人のために、厨房には特別な洗浄装置を備えたという。日本人並みの気配りができるなんてプーチンも大したものだ。まぁ、狡猾な独裁者にとって、これくらいの「おもてなし」は造作もない。愛国心涵養のためにロシア正教を活用しているプーチンにとったら、ユダヤ教徒をおだてて利用しようとしても不思議ではないだろう。ユダヤ人が居坐る国の支配者が、ユダヤ人の政治的野心を打ち砕こうと思ったら、信仰に熱心なユダヤ人を利用して、ユダヤ人の毒を中和させることだ。彼らはいつも何かに不満を抱いて、批判することが三度の飯より好きである。だから、ユダヤ人を押さえ込もうとするなら、ユダヤ人同士を対立させ、彼らのエネルギーをいがみ合いで消耗させることだ。ユダヤ人には金銭と権力を追求する世俗派がいる一方で、宗教的生活を熱望する頑固な敬虔派がいる。それなら、ユダヤ人には金貨より宗教を与えておく方が無難であろう。

chabad-lubavitch Jews 3Hasidic Jews 2

(写真/正統派ユダヤ教徒)

  栄枯盛衰は世の常である。栄華を誇ったグシンスキーもプーチンの登場で、その権力と財力に翳りが差してきた。2000年、横領罪で逮捕されたグシンスキーは、言葉にするのも恐ろしいモスクワの「バツィルスカヤ(Butyrskaya)」刑務所に放り込まれてしまった。三日後グシンスキーは釈放されて、メディア・モストとNTVの株の一部を手放して、2億6100万ドルを借金しているガスプロムに引き渡すことを約束させられた。そうすることでスペイン行きを許可されたのだが、そのあと再び逮捕状が発行され、今度はスペインで13日間投獄される羽目になったという。その間、同種の嫌がらせとして、覆面の税務査察官から検事総長に至る役人により、30回以上に及ぶメディア・モストの強制捜査が行われたのである。メディア・モストの財務部長は曖昧な容疑で2年以上投獄されるし、NTVのキャスターのうち二人が尋問されるという事態にまで発展したのである。

Mikhail-Lesin 1(左/ミハイル・レシン)
  こうした嫌がらせには裏事情があった。プーチンはミハイル・レシン(Mikhail Lesin)を広報大臣に据えて、オリガルヒ撲滅を命令した。そこでグシンスキーに裏取引が提示されたらしい。メディア・モストをガスプロムに売却すれば、自由の身にしてやる、という最後通牒を突きつけられた。プーチンからの要求に屈したグシンスキーは、3億ドルで自分のメディア帝國を売り渡す決断を下した。グシンスキーは売却を済ませると、即座にプライヴェート・ジェットでスペインに飛び、二度とロシアに戻るつもりはなかったらしい。しかし、スペインで暮らしているうちに心変わりがしてきて、取引を反故にしようとしたのである。すると、プーチンの指金で国際手配を受け、スペインで拘束される羽目となり、二度の投獄を経験することとなったが、スペイン裁判所の介入で保釈されたという。ロシアのメディア支配を課題とするプーチンは、邪魔なグシンスキーを潰すため、その手足をもぎ取ろうとしたのだ。ガスムロムはNTVの役員会に新たな役人を送り込み、テレビ局を実質的に牛耳ってしまった。グシンスキーのメディア帝國はズタズタにされ、彼の新聞社『セヴォードニャ』もついでに閉鎖。3億ドルを手にして大人しく海外生活をしていれば良かったのに、グシンスキーは愚かにもプーチンと闘う選択をしてしまったのだ。権力者と商人では戦争にならない。クシンスキーの没落は決定的になった。

  ロシアに蔓延(はびこ)るユダヤ人オリガルヒは煮ても焼いても食えない奴ばかり。兇暴なロシア人と貪欲なユダヤ人の熾烈な闘いはおぞましい。支那人や朝鮮人くらいで手を焼いている日本人には、兇悪ななグローバリストに立ち向かうなんて無理。挙国一致でグローバリスト排除に努めねばならない。自由主義を支持して、奴隷に転落するなんて愚かである。ユダヤ資本に雇われて、日本で構造改革だの騒ぐ御用学者や政治家、高級官僚に騙されてはならない。迫害されて「可哀想なユダヤ人」といったイメージを宣伝する日本のメディアは、ユダヤ人が本来持つ図々しさや兇暴性を報道しないから、日本の庶民は自ら勉強して彼らを警戒するしかないだろう。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68348669.html


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2015年05月25日
共産主義国を搾取したユダヤ人 / オリガルヒの正体 (2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html


権力者と組んだユダヤ人政商
Boris-Berezovsky 4(左/ボリス・ベレゾフスキー)


  ヘビのように狡猾なロシア皇帝ウラジミール・プーチンが、最初の二年間でまず叩き潰そうと思ったのは、グシンスキーとボリス・ベレゾフスキー(Boris Berezovsky)であった。欧米のユダヤ人と同じく、ベレゾフスキーも民衆に影響力を行使するテレビ・ネットワークを支配するユダヤ人である。このベレゾフスキーはギャングみたいな人相からは想像しがたい、アカデミック界から浮上した学者肌のオリガルヒであった。彼は数学を専攻した科学者で、モスクワ林業大学でシステム・コントロールとオペレーション・リサーチを研究していたという。ベレゾフスキーが理数系の分野を専攻したのは、彼がユダヤ人であったからだ。ベレゾフスキーが語ったところによれば、

  俺には政界での将来なんて無いのさ・・・俺は政治エリートの一員じゃなかったしな。俺はユダヤ人だ。制約が山ほどあるのさ。そこんとこは、きっちり分かっている。(David E. Hoffman, The Oligarchs, Public Affairs, Oxford, 2002, p.130)

  科学分野ならユダヤ人への不条理な差別は少ないだろうということで、ベレゾフスキーはコントロール・サイエンス学院に入り、自分の研究機関を主宰するようになった。応用数学を使って意志決定の過程を研究したらしい。1970年代にはハーバード・ビジネス・スクールで研究生活を送ったり、一時はカルフォルニア工科大学で研究をしたようだ。

  学者生活を送っていたベレゾフスキーがビジネスマンに転身したキッカケとは何か? それは自動車販売であった。彼は当時ジグリー(Zhiguli)という乗用車を造っていたソ連最大の自動車会社、アフトヴァス(Avtovas)の経営コンサルタントになって活動していたのだ。流通や販売といった商売が苦手なロシア人は、生産した自動車をどう売ったらいいのか分からなかった。そこに目をつけたベレゾフスキーは、アフトヴァスの経営幹部に食い込んだのである。ベレゾフスキーは「ロゴヴァス(Logovaz)」を創立し、生産した車はロゴヴァスが安値で買い取ることにした。ベレゾフスキーは総合商社のような企業を目指したのであろう。破格の値段で製品を売り渡しても、アフトヴァスの経営幹部は自分の懐が痛むわけでもなかった。彼らは別段困らなかったし、それどころかロゴウァスの重役に迎えられたのである。最終的に廉価販売のしわ寄せは、労働者に押しつけられたのは言うまでもない。

Paul Klebnikov 1(左/ポール・クレブニコフ)
  共産主義体制下でのソ連では、物々交換が珍しくなく、需要と供給を仲介する込み入った売買なんて不得意だった。日本のような流通システムが発達していなかったから、怪しい仲介業者が暗躍したのである。ベレゾフスキーは商社を築いて、売り手と買い手を結ぶ取引を展開したのだ。彼は自家用車に爆弾を仕掛けられるような目に遭いながらも、モスクワの自動車市場に強固な支配権を確立したという。莫大な利潤を得るために、ベレゾフスキーは、チェチェン・マフィアの手も借りたらしい。こんな科学者なんて日本ではお目にかかれない。実験室に籠もって研究していた学者が、商売を始めたら山口組と手を結ぶなんて考えられない。やはりユダヤ人には倫理を無視した天賦の才が備わっているのだろう。『フォーブス』誌のポール・クレブニコフ記者によれば、ベレゾフスキーの商売に割り込もうとした者は、思いがけぬ不幸な死に方をしたという。こうした疑惑の死を報じたクレブニコフ記者も、2004年にモスクワで射殺されてしまった。(C.J. Chivers, Erin E. Arvedlund and Sophia Kishkovsky, Editor's Death Raises Questions about Change in Russia, The New York Times, July 18, 2004) 彼の暗殺はチェチェン人によるものとされているが、その背後にはベレゾフスキーがいたんじゃないか、と推測されている。

Alexander-Voloshin 1(左/アレクサンドル・ヴァローシン)
  1993年、ベレゾフスキーはアレクサンドル・ヴァローシンと共同で、AVVA(全ロシア自動車聯合)と呼ばれる投資会社を設立した。彼はドイツのフォルクス・ワーゲンみたいな、国民車をつくろうと思いつき、その資本集めを考えついたのである。手始めに20億ドルほど必要だったので、資金集めの手段としてAVVAを開設し、株と引き替えができるというヴァウチャーを売り出した。このヴァウチャーは高級紙を使ったもので、わざわざスイスで印刷させ、紙幣のように見せかけていた。1株と印刷された株の額面は1万ルーブルで、理論上AVVAの株と交換できるというものだった。しかし、実際は株に見える紙を販売していたに過ぎない。ベレゾフスキーはその無価値の紙くずを売ったお金でアフトヴァス社の株をインサイダー価格で購入するつもりだったという。そして、アフトヴァスとジェネラル・モーターズ(GM)と合弁会社を設立して国民車を生産しようとするつもりだったらしい。しかし、合弁事業は実現されず、AVVA株は紙くず同然となった。しかし、ベレゾフスキーの懐は痛まず、むしろこの詐欺商法でかなりのお金を儲けたらしい。しかも、共同経営者のヴァローシンは、まもなくエリツィンの首席補佐官になり、その後もプーチンの首席補佐官に納まっている。彼がベレゾフスキーをエリツィン一族に紹介し、エリツィン側近との人脈作りに手を貸したのである。

  NTVを所有していたウラジミール・グシンスキーと同じく、ベレゾフスキーもロシア公共テレビ(ORT)を使って自らの権力を維持していた。1994年に、エリツィン大統領は国営のチャンネル1を競売に掛けず民営化し、51パーセントの株は国家の所有としたが、残りを裕福な支持者に分割したのである。主な株主というのが、ベレゾフスキーを始めとするオリガルヒたちであり、ベレゾフスキーは19パーセントの株しか持っていなかったが、ORT経営陣の人事を掌握し、実質的な支配者となった。これは、エリツィンによる暗黙の了承を得ていたからできたことである。こうした癒着関係があったので、エリツィンが再選を控えて支持率が急落した時、オルガルヒの面々はエリツィンを救済するために、こぞって資金を集めたり、エリツィン支持のキャンペーンを張ったのだ。民衆からの人気を得ていた共産党が復権したら、ロシア国民を食い物にしてきたオリガルヒは真っ先に批判の矢面に立つだろう。彼らは財産を没収されたうえに処刑されるかも知れない、という恐怖に駆られたのだ。

Boris Berezovsky & GussinskySergei Kiriyenko 1Yevgeny Primakov 1

(左:ベレゾフスキーとクシンスキー/中央:キリエンコ/右:プリマコフ)

  後進国では政治家と商売人の不正な結託がひどい。ロシアで権力を振るうエリツィンを支持したオルガルヒは、権力者の恩顧という甘い汁を吸いながら不正蓄財に励んだのである。ベレゾフスキーはアエロフロート航空や石油会社シブネフチ、アルミ産業などにも手を伸ばし、その富を増大させていたのだ。また、ベレゾフスキーはエリツィン再選のご褒美として国家安全保障会議副書記に任命され、のちに独立国家共同体(CIS)調整機構執行書記にも任命された。ユダヤ人ペテン師を国家の要職に据えるとは、エリツィンによる国家の私物化は言語道断。のちにベレゾフスキーは両方のポストから解任されたが、それでもエリツィンの娘タチアーナや側近との人脈を維持していたので、依然として政界で影響力を駆使できたという。例えば、彼はセルゲイ・キリエンコ(Sergei Kiriyenko)首相の解任を仕掛けたらしく、後継者のイヴゲーニー・プリマコフ(Yevgeny Primakov)首相はその危険を察知した。彼はベレゾフスキーの側近をアエロフロートやORTから排除し、抵抗する者は税務調査や会計検査官を送って脅迫したのである。それでもベレゾフスキーは潰されず、なんと選挙に出馬して下院議員になってしまった。しかし、権力を握って安泰かと思われたベレゾフスキーに皮肉な事態が起こったのである。経済危機の煽りを受けたこともあり、エリツィンは強力な指導者を求めるようになったという。そこで、ベレゾフスキーの後押しもあって、FSB長官のプーチンを首相に任命したのだ。これは明らかに、プーチンを大統領に仕立てる布石である。エリツィンはその見返りとして、プーチンに自分の刑事訴追を免責させる腹であった。

Roman Abramovich 3(左/ロマン・アブラモヴィッチ)
  権力者はその座から離れると哀れなものだ。エリツィンの娘による不正は目に余り、その収賄事件は政界から激しい非難を浴びていた。大統領が交代すれば、前政権への不正追及だって激しくなるだろう。プーチンはエリツィン一族と癒着していたベレゾフスキーを狙うようになっていた。ベレゾフスキーからの支援を受けて出世したプーチンだからこそ、かえってその影響力を警戒したのだろう。プーチンはこの危険なオルガルヒのベレゾフスキーに背を向け、不正行為を暴いて投獄するぞ、と脅しをかけた。意思の強いプーチンは追求の手を緩めず、ロシア・テレビ界の支柱たるORTをベレゾフスキーからもぎ取ってしまった。プーチンと対立したベレゾフスキーは下院議員を辞職し、外国に避難しようと思い始めたのである。彼は投資の一部を現金化した方がよいと考え、プーチンのお気に入りであったロマン・アブラモヴッィチに、石油会社のシブネフ株を売却したという。ついでに、ORTの持ち株も8千万ドルでアブラモヴッチに引き渡した。すると、アブラモヴィチはORT株に基づく自分の議決権を、親分のプーチンに恭しく献上したのである。こうして、皇帝プーチンはロシア最大のテレビ・ネットワークを掌握し、自分を批判するメディアを封殺したのだ。

Boris Berezovsky MansionBoris Berezovsky & Elena

(左:ベレゾフスキーが住んでいた英国の豪邸/右:恋人と一緒のベレゾフスキー)

  新たな権力者プーチンと対立したベレゾフスキーは亡命を余儀なくされた。彼は最終的に英国に避難し、憎いプーチンを批判しながら、イングランドで贅沢な暮らしをしていたのである。しかし、そんな亡命者にも不幸な死が訪れた。2013年、彼の遺体が豪邸の浴室で発見されたのだ。(Richard Behar, Did Boris Berezovsky Kill Himself? More Compelling, Did He Kill Forbes Editor Paul Klebnikov?, Forbes, March 24, 2013) ブリテン捜査局の調べでは、他殺の痕跡がなく自殺という結論に達したらしい。しかし、ガーディアン紙のロシア特派員ルーク・ハーディング(Luke Harding)記者は自殺説を疑っている。彼はロシアの諜報機関がベレゾフスキーを自殺に見せかけて殺害したのではないか、と推測していた。そうした疑惑がある一方で、ベレゾフスキーは訴訟による裁判沙汰や破産の危機で悩んでいたとの情報もある。ロシア人亡命者でベレゾフスキーの友人であるニコライ・グルシュコフは、警察やマスコミが報じる自殺や自然死を信じていない。グルシュコフは「奴が自殺したなんて考えは糞食らえだ。・・・裁判の判決が下りた時、奴は活き活きとしていたし、家で待っている若い女について話していたんだ。あとになるが、奴は財政危機を乗り越えていたんだよ」と話していた。(Mark Adomanis, Was Boris Berezovsky Murdered? The Evidence Strongly Suggests No, But Luke Harding Says Maybe, Forbes, March 26, 2013)

Boris Berezovsky & Elena & KidsBoris Berezovsky & Annika Ancvernia

(左:家族と一緒のベレゾフスキー/右:パーティーでのベレゾフスキー)

ただし、ロシアの秘密機関がベレゾフスキーを暗殺したのかどうか謎である。彼をロシアから追放し、権力基盤を固めたプーチンが、十年以上も経ってからわざわざ暗殺するほど、ベレゾフスキーに価値があったのか? 彼を殺すメリットとは何だったのか? プーチン側は英国の防諜機関MI5が暗殺したのだ、との憶測を流した。(Cyril Dixon, Boris Berezovsky ‘died by hanging’as Kremlin blames MI5, Express, March 26, 2013) これと対照的な、別の推測もある。もしかしたら、ロシア諜報機関による暗殺からベレゾフスキーを守るため、MI5が自殺を装って彼を隠匿したのではないか、との噂も流れた。(Will Stewart, Is Boris Berezovsky ALIVE?, Daily Mail, 26 September 2013) 英国側としてもプーチンのイメージを悪くできるし、利用価値のあるベレゾフスキーを温存できるので、何らかのメリットがある。しかし、本当のところは分からない。諜報機関が絡むと真相は闇の中だ。

資源が豊富なロシアを搾取

  共産主義国では逆説(パラドックス)が起こる。理屈では無産労働者(プロレタリアート)の為に建てられた楽園だったのに、いざ出来上がると専制支配、赤い貴族の出現、庶民の搾取と弾圧、貧困の深刻化といった地上の生き地獄が実現される。ロシア、支那、北朝鮮を調べれば一目瞭然。共産主義体制が崩壊したロシアに、成り上がり型の大富豪が誕生した理由は何か? それは北方の半アジア大国が天然資源に恵まれていたからである。何と言っても、石油、天然ガス、ニッケル、アルミニウム、鉄鉱石、レアメタルなどが豊富に埋まっているのだ。だが、この資源国は計画経済と国家所有を前提とした法制度しかなく、自由市場経済における私営企業が存在するなんて考えていない。したがって、民間企業や私有化に関するルールや規制が無かった。まぁ、あったとしても権力者が勝手に歪曲するだろうし、規則や手続きを無視したって、怖い政治家や官僚を掣肘(せいちゅう)しようだなんて国民もいないのだ。傲慢さを絵に描いたようなエリツィンが、法治主義のルールを気にするわけないし、暗殺を厭わないプーチンが、公正な手続きを遵守するわけないだろう。

Mikhail-Khodorkovsky 1(左/ミハイル・ホドルコフスキー)
  石油成金のオリガルヒとくれば、日本人や欧米人なら、まずミハイル・ホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を思い浮かべるだろう。彼は1963年に生まれたユダヤ人で、モスクワの共同アパートに住む貧しい家庭に育ったが、その才能を活かし大富豪への階段を昇ることになる。彼は元々共産主義者青年同盟(コムソモール/Komsomol)出身で、名門メンデレーエフ化学技術学院を卒業した後、別の大学で法律や金融・財政を学んだという。共産主義思想を植え込まれたロシア人なら、馬鹿の一つ覚えのように共産主義思想の擁護者になりがちだが、ユダヤ人のホドルコフスキーはひと味もふた味も違った。彼は大学の級友とコーヒー・ショップやディスコ・クラブを開いたり、ソ連では希少価値のある品を販売したり、と手広く商売をこなしていたようだ。一時は、「ナポレオン」といったブランデーやスイス産の偽ヴォッカを扱ったり、中でも人気だったのは荒く洗濯したジーンズであった。西側のポップ・カルチャーはロシア人青年の垂涎の的であったからだ。西歐の文化に憧れたロシア人の欲求はすごかった。若い娘の中には、コール・ガールになってもいいから、フランスのパリに住みたいと考えるものがいたくらいだ。若くて美しい時期を工場労働で無駄にしたり、国営食料品店で配給を受けたりする生活なんてで嫌だ。雪が降りしきる寒い中、行列に並んで買うのが黒くなった腐りかけの肉だったりする。公営の狭くて汚いアパートで、脂肪分の多い料理を食べながら、ジャガイモのような体型になってゆく。お洒落をしたい年頃なのに、高品質の化粧品もないし、気の利いた娯楽も少ないから、車の中でのセックスが最高の楽しみだったりする。気がつけば肌はかさかさ、シミ皺だらけの顔にはヒゲが生え、小太りの中高年ババアが一丁出来上がり。そんな人生はゾっとするだろう。(考えてもしょうがないけど、なんで可愛らしいロシア人少女が、中年過ぎると大型のブルドッグになってしまうのか不思議である。)

  商才のあるホドルコフスキーは、資金調達のために「メナテップ(Menatep)」と称する協同組合を結成した。科学分野の研究やコンピューター開発に必要な技術や部品も提供したらしい。彼にとって、コンピューターの購入販売は主な収入源となっていた。ホドルコフスキーはまた、ヴェニスの商人みたいに、金貸し業も同時に行っていたという。この協同組合は1988年に「メナテップ」銀行に再編され、「商業新生銀行」として公式に営業免許を受けたのである。この新生銀行は国営銀行とのジョイント・ベンチャーで、資本金は250万ルーブルであったという。創立当時はコムソモール中央委員会をはじめ色々な共産党員が資金を持ち込んだらしく、不正な資金洗浄を行ったようだ。悧巧なホドルコフスキーは警察の嫌がらせや捜査をかわすため、国家委員会の役人に袖の下を渡していたらしい。やはり、灰色のビジネスに手を染める連中は、いざという時のために準備しているものだ。「メナテップ」は再免許を受けて株式会社となり、ホドルコフスキーが取締役会の会長におさまった。彼の欲望はまだこんなもんじゃない。1991年に「メナテップ株主クラブ」を発足させて、政府が国有企業を私有化する時代のチャンスを見逃さなかった。ホドルコフスキーはヴァウチャーを集めて私有化された企業を支配するし、メナテップ・バンクが株を集めれば、それを管理するために「ロスプロム」を設立した。メナテップは各分野に手を広げ、子会社を抱え始めたという。それは化学、建設、織物、鉱業、消費財、石油の分野であった。

henry-kissinger 1Jacob Rothschild 1Hans-Dietrich_Genscher

(左:ヘンリー・キッシンジャー/中央:ジェイコブ・ロスチャイルド/右:ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー)

  こうしたカテゴリーの中で、もっとも成功したのが石油部門の子会社、「ユーコス(Yukos)」であることは言うまでもない。ユーコスはロシア最大の石油会社に成長し、ホドルコスキー帝國の支柱となった。1995年にはグループ管理会社として「ロスプロム」を設立したが、ホドルコフスキーはその取締役会会長になる。成功する悪党は幸運なものが多い。1998年に起こった金融危機でメナテップ銀行は破綻するが、ホドルコフスキーはユーコスを何とか守り抜いたのだ。こうした苦難をくぐり抜けると、翌年は石油価格が高騰して、ユーコスの価値はうなぎ登り。ダーティーなイメージを払拭するために、西歐の幹部をユーコスに招いたり、と透明な経営に務めたらしい。また、公共精神があることを宣伝するために、アメリカの議会図書館に100万ドルの寄附を行い、オープン・ロシア財団を設立すると、ヘンリー・キッシンジャーやジェイコブ・ロスチャイルドを理事会のメンバーに迎えたという。キッシンジャーは確かに有名人だが、いかがわしいユダヤ人に変わりがない。ニクソン大統領から「俺のユダ公(My Jew boy)」と呼ばれた元国務長官は、副大統領のネルソン・ロックフェラーの方に忠誠を誓っていたのだ。ジョン・F・ケネディーからも侮蔑されたキッシンジャーは、支那でもコンサルタント業務を請け負ったりして儲けていたらしい。自らの地位を安泰にするため、ホドルフスキーは不動の地位を誇るロスチャイルドをパトロンにし、プーチンからの攻撃に備えたのかも知れない。

Mikhail Khodorkovsky 5Mikhail Khodorkovsky 3

(右/法廷でのホドルコフスキー)

  ホドルコフスキーは自らの石油帝國を更に拡大しようと、大手石油会社「シブネチ」を吸収合併しようと試みた。しかも、その合併で誕生する会社の株式に、アメリカの巨大石油会社エクソン・モービルを引き込もうとしたのだ。ロシアの主権を自らの手に握っておきたいプーチンにとって、巨万の富を築くホドルコフキスーは脅威となってしまう。危険な芽は早めに刈り取っておかねばならない。ロシア検察当局は脱税などの容疑で、ホドルコフスキーに禁固10年を求刑した。裁判では禁固9年の刑を言い渡され、服役中に2013年プーチンの恩赦を受けて釈放されたのである。ホドルコフスキーの釈放には、ドイツの元外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(Hand=Dietrich Genscher)が動いていたという。(Secret diplomacy in Kordorkovsky case, Pravda, 24 December 2013) また、彼の釈放前にヘンリー・キッシンジャーがモスクワに渡り、プーチンやセルゲイ・イワノフと会談していたというから、奇妙な偶然である。刑期が2017年までに延長されたホドルコフスキーは、恩赦を得るためにプーチンと取引できる何かを隠し持っていたのだろう。あのプーチンが人道主義で動くはずはない。必ず裏取引があったはずだ。なぜドイツのゲンシャーが、悪徳商人の保釈を求めてプーチンと交渉したのか、甚だ不思議である。ただし、釈放されたホドルコフスキーが、再びロシアの政治に介入することはないだろう。今度は命が危ないからだ。

stalin 1毛沢東 2Franklin Roosevelt 1

(左:ヨシフ・スターリン/中央:毛沢東/右:フランクリン・ローズヴェルト)

  ロシアの支配者になるような政治家は実に狡賢い。独裁者は冷徹な目で現実を認識し、邪魔者を早めに片付けようとする。自分の権力基盤にとって脅威となる悪魔は小さなうちに抹殺しようとする。ユダヤ人は金銭を持ち始めると実に厄介だ。厚顔無恥な上に欲の皮が突っ張っている。しかも、世界各地に強力な仲間を持ち、同種のよしみで協力を求めることができる。世界ユダヤ人会議なんて恐ろしい組織まで持っている。日本人が「世界日本人会議」を組織するなんて発想は無い。せいぜい歐洲と北米に、日本アニメ同好会を結成するくらいだ。大学の教授や新聞社の論説委員はけっして口にしないが、ヒトラーやスターリンは悪党だったから、ユダヤ人の危険性に気づいていたし、その脅威を早めに潰してしまおうと思ったはずだ。ヒトラーはドイツで金融を支配するユダヤ人を排斥したかったし、米国や英国にはびこるユダヤ勢力を警戒していた。ユダヤ人だらけのボルシェビキを肉眼で見たスターリンは、ロシアの実権を握るやユダヤ人を排斥したり、ヒトラー以上にユダヤ人を虐殺したのである。邪魔者どころか、将来自らの権力を脅かすユダヤ人に対し、スターリンは先手を打ったといえよう。いかにも野蛮なスターリンらしいが、安心を確保するためには皆殺しが一番。ワルい奴は同類の臭いが分かるのだ。日本人みたいな甘っちょろい民族は、ユダヤ人の本性が分からない。明らかに分かる支那人や朝鮮人に対しても、厳しい処置をとれない日本人が、海千山千のユダヤ人に対抗でき訳がないだろう。島国で平和に暮らしてきた日本人に、大量虐殺が当然のアジア大陸は理解できない。血なまぐさい生活が日常のアジア人は、心に闇を持ち、執念深くて陰険だ。如何なる手段を用いても勝利を確実にする。公正や名誉を求めるなんて、平和な民族の道楽である。ユダヤ人の本性は、同類のアラブ人と対峙した時に現れる。迫害されて哀れなユダヤ人というイメージを日本人は持っているが、そんな幻想はパレスチナ紛争で牙をむき出しにしたユダヤ人を見れば、粉々に消し飛んでしまうだろう。

Hitler 3winston churchill 1(左:アドルフ・ヒトラー/右:ウィンストン・チャーチル)
  ロシアを自分の物にしたプーチンなら、ユダヤ人に支配された欧米諸国をあざ笑うだろう。第二次世界大戦を冷静に眺めてみれば奇妙なことに気づくはずだ。英国のチャーチルが、あれほどドイツと闘いたかった理由のひとつは、迫害されるユダヤ人を救いたかったからである。異常なまでにユダヤ人贔屓だったチャーチルは、同胞のイギリス人を犠牲にしてまで異邦人たるユダヤ人を救いたかったのである。チャーチルとユダヤ人の関係は滅多に書かれないが、調べてみると驚愕の史実が出てくる。第一次大戦で歐洲政治への介入を嫌がったアメリカ国民は、ユダヤ人好きのローズヴェルトによって戦争に引きずり込まれてしまった。共産主義が大嫌いだった英米が、天敵ソ連と同盟を結び、ドイツ人と戦うことを選んだのだ。逆にヒトラーは英米との闘いを望んでいなかった。むしろ、同盟を結びたかったくらいである。莫大な犠牲を払った大戦が終結すると、一番得をしたのはスターリンで、二番目が毛沢東、三番目が米国、認めたくないだろうが英国は負け組である。ユダヤ人を助けて、大英帝国は没落。イギリス人エリートは大量に死んでしまうし、植民地での人種的優越もなくなって、白人の王国だったブリテンに有色人種が逆流してきた。解放されたユダヤ人はおぞましいイスラエルに向かわず、アングロ世界に住み着いたのである。気前よく移住を許した米国や英連邦のアングロ系国民は、ユダヤ人に国家の中枢を握られてしまった。しかし、言論界をユダヤ人に支配された欧米諸国では、こんな簡単な事実を述べる学者はまずいないし、テレビ局がユダヤ人支配の現実を描くドキュメンタリー番組を作ることはない。大抵の歴史家は既存の枠組みの中で、歴史書を綴っているので、外界から歴史を見ることはないのだ。ユダヤ人が設定した枠からはみ出た歴史書は、「反ユダヤ主義」との烙印を押されて、「トンデモ本」と分類されてしまう。ロシアの現実を見ることは、日本人にとって意義がある。露骨な権力闘争は良い勉強になるのだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c3

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
4. 中川隆[-12522] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:35:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった

ワーグナーの手紙、イスラエルで競売へ ユダヤ人の「腐食的影響」に言及
2018年4月23日 12:13 発信地:エルサレム/中東・アフリカ


反ユダヤ的な内容が記されたドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの手紙。エルサレムで
(2018年4月16日撮影)。(c)AFP PHOTO / MENAHEM KAHANA


【4月23日 AFP】ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)がユダヤ人による文化への悪影響を危惧した内容の手紙が24日、イスラエルで競売に掛けられる。反ユダヤ主義者だったワーグナーの作品はイスラエルでは公の場での演奏が実質的に禁じられているが、これを機に国内で議論が再燃しそうだ。

 ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。

民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。

 出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。

 イスラエルにはワーグナー作品の演奏を禁止した法律はないが、過去に演奏が試みられた際に国民から強い反発が起き、騒ぎになった経緯があることから、オーケストラや会場が演奏や上演を自粛している。

 ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。(c)AFP

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c4

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
5. 中川隆[-12521] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:41:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーがユダヤ人だというのは欧米マスコミが流した悪質な嘘だった


「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく何の変哲もない一般的な「オーストリア人」
シシリー (土曜日, 05 7月 2014 23:02)

「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく、何の変哲もない、一般的な「オーストリア人」の可能性が高い状況です。

「アドルフ・ヒトラー」のY染色体ハプロタイプを調査した結果、「E1b1b」であった為、「ユダヤ人」とのデマを広めた者がいました。迷惑な話です。確かに、ユダヤ人であるアルバート・アインシュタインも同じ「E1b1b」であるように、イスラエル人からよく検出されるY染色体ハプロタイプ「マーカ」です。

しかし、Y染色体ハプロタイプを知る者はすぐ分かるのですが、「E1b1b」は、その他、イタリア人、ギリシャ人、エジプト人等からも多く検出される「マーカ」であり、「アドルフ・ヒトラー」が生まれ育ったオーストリアでは、国民の10%が「E1b1b」を占めています。

↓「E1b1b」はヨーロッパ全ての国民から、多かれ少なかれ検出される「マーカ」であり、ジョンソン米大統領、ナポレオン・ポナパルト、ライト兄弟等も同じ「マーカ」です。
http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_E1b1b_Y-DNA.shtml

結論として、「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく、何の変哲もない、一般的な「オーストリア人」となります。
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「ユダヤ人」との説があることは知っています。しかし、「アドルフ・ヒトラー」は政治家であるため、生前から、誹謗、中傷、攻撃する話は山ほどあるのは当然です。また、面白おかしく捏造した説もたくさんあります。しかし、科学的根拠もなく、記録すら無いものは、評価には値しません。現時点では「デマ」レベルと考えるほうがいいでしょう。
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http://ugaya.jimdo.com/2013/08/06/%EF%BD%84%EF%BD%8E%EF%BD%81%E3%81%8C%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%A8%E3%81%AF/  



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ユダヤ人が猛烈にヒトラーを糾弾するのは、この独裁者が異民族を迫害したからではなく、ユダヤ人が一番気にするセム種族の肉体を標的にしたからだ。ユダヤ人に対する迫害なら、歴史上ヨーロッパの王様や貴族が行っていたから珍しくも何ともない。

だが、お金で買収されない支配者というのは稀だ。大抵の封建領主はユダヤ人の金銭に目が眩み、例外を設けて一部のユダヤ人を優遇する。少数でも生き残れば、狡猾なユダヤ人はこの例外を大きく広げ、いつの間にか大勢のユダヤ人が「例外」となってしまうのだ。そして、再び迫害が起きぬよう、ユダヤ人に対する「偏見」を取り除こうと画策し、ヨーロッパの民衆に人種平等の思想や寛容の精神を刷り込もうとする。これがユダヤ流の心理戦。だから、一部のヨーロッパ人が反撥を覚え、再びユダヤ人を排斥しようと望んでしまうのだ。

憎まれる奴には「憎まれるだけの理由」がある。ユダヤ人はアメリカ人やヨーロッパ人に対して「異人種への憎しみを捨てろ !」と迫るが、それなら先にイスラエルの同胞に対して言ってみろ。きっと、米国のユダヤ人はイスラエルで袋叩きに遭うぞ。イスラエルの保守的なダヤ教徒に殴られ、小声で「ヘイト反対!」と囁く、リベラル派ユダヤ人の姿が目に浮かぶじゃないか。

ユダヤ人や左翼は「弱者救済」とか「自由の擁護」を口にするが、それは彼らにとって利益になる時だけであり、敵対者の自由を尊重する気など毛頭無い。彼らが保守派の言論を抹殺したくなるのは、物事の核心を突く言葉を発するからである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68719818.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c5

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
6. 中川隆[-12520] koaQ7Jey 2019年2月02日 12:44:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に 2018年11月14日
https://www.bbc.com/japanese/46204022

にっこり楽しそうに笑う女の子を、男性が抱きかかえている。男性も嬉しそうに笑っている。一見すると、素晴らしく幸せな写真だ。


写っている男性が、アドルフ・ヒトラーでさえなければ。そして、女の子がユダヤ系でなければ。

ヒトラー率いるナチスはユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺を遂行した。それにもかかわらずヒトラーは、ローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていた。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。


2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられることになった。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したもの。米メリーランド州の競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションは、13日に始まった競売では1万ドル(約110万円)ほどの値がつくだろうと予測している。

「サイン入りのものが表に出てきたことはなかった」と、同社のビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に話している。

「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

「ヒトラーの恋人」

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じだった。それが出会いのきっかけだった。

競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れた。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていた。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れたとされている。写真はそのとき撮られたという。

それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明する。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになった。


A girl, believed to be Rosa, holds Hitler's hands in a different image from the same dayImage copyright Getty Images
Image caption
ヒトラーは少女がユダヤ系と知りながら、友情を育んだ

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせなかった。一緒に撮った写真は、サインをして送っている。

「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書いた。

ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようだ。

ローザさんは1935〜1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いた。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続いた。


現代のドイツ人、2度の世界大戦をどう振り返る 死者をどう追悼する

部下のこの命令を、ヒトラーは気に入らなかったようだと写真家のホフマンは後に書いた。

ホフマンは1955年に発表した回顧録「Hitler Was My Friend(ヒトラーは友達だった)」で、「私のあらゆる楽しみを台無しにするのが本当にうまい連中がいる」とヒトラーが自分にぼやいたのだと書いている。

ホフマンはさらに同書に、「ヒトラーの恋人」とキャプションをつけて、2人の別の写真を掲載。「ベルクホーフで少女に会えるのをヒトラーは楽しみにしていた。しかしそれは、お節介な誰かが、少女が純粋なアーリア人の血統でないと発見したため、終わってしまった」のだという。

ボルマンが、ヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、第2次世界大戦が勃発した。6年後の終戦までに、ユダヤ人600万人が死んだ。

ローザさんも戦争を生き抜くことはなかった。ポリオにかかり、ヒトラーと初めて会った10年後の1943年、17歳でミュンヘンの病院で亡くなった。

(英語記事 Remarkable tale of Hitler's young Jewish friend)

https://www.bbc.com/japanese/46204022
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c6

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
7. 中川隆[-12519] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:04:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーが愛したワーグナーの名曲
 

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)


ワーグナー《ワルキューレ》「告別と魔の炎の音楽」クナ指揮 - ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19583361


ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』第3幕より
「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」

 ヴォータン:ジョージ・ロンドン
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)

 録音時期:1958年 (P) 1958
 録音場所:ウィーン、ゾフィエンザール
 録音方式:ステレオ(セッション)
 プロデューサー:ジョン・カルショー
 エンジニア:ジェイムズ・ブラウン、ゴードン・パリー
 


▲△▽▼

ワーグナー《ワルキューレ》第1幕(全曲) クナッパーツブッシュ指揮 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Nm1FanHg2Nw
 ジークリンデ:キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
 ジークムント:セット・スヴァンホルム(テノール)
 フンディング:アルノルト・ファン・ミル(バス)
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)

 録音時期:1957年10月28〜30日
 録音場所:ウィーン、ゾフィエンザール
 録音方式:ステレオ(セッション)
 プロデューサー:ジョン・カルショー
 エンジニア:ジェイムズ・ブラウン
 (P) 1959


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Wagner Götterdämmerung -- Knappertsbusch -- Windgassen -- Varnay -- Grümmer 1958 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qGu_LQxfcfM


Siegfried: Wolfgang Windgassen
Gunther: Otto Wiener
Alberich: Frans Andersson
Hagen: Josef Greindl
Brünnhilde: Astrid Varnay
Gutrune: Elisabeth Grümmer
Waltraute: Jean Madeira
First Norn: Jean Madeira
Second Norn: Ursula Böse
Third Norn: Rita Gorr
Woglinde: Dorothea Siebert
Wellgunde: Claudia Hellmann
Floßhilde: Ursula Böse

Richard Wagner "Götterdämmerung"
Opera in three acts --
part four in a cycle of four operas titled
"Der Ring des Nibelungen"
Libretto by the composer
Chor der Bayreuther Festspiele
Orchester der Bayreuther Festspiele
Conductor: Hans Knappertsbusch

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トリスタンとイゾルデ全曲

Tristan und Isolde Braun Treptow Klose Knappertsbusch Munich 1950 LIVE - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RZkpNxLMNto


Hans Knappertsbusch Bayerische Staatsoper

Tristan - Günther Treptow
Isolde - Helena Braun
Brangaene - Margarete Klose
Marke - Ferdinand Frantz
Kurwenal - Paul Schöffler
Melot - Albrecht Peter
Hirt - Paul Kuen
Steuerman - Fritz Richard Bender
Stimme eines jungen Seemanns - Fritz Richard Bender
Wagner

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1943. Die Meistersinger von Nürnberg - Prohaska, Lorenz, Müller (Wilhelm Furtwängler, Bayreuth) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MAokG9BrvPo


Jaro Prohaska -- Hans Sachs, Schuster
Max Lorenz -- Walther von Stolzing
Maria Müller -- Eva, Pogners Tochter
Eugen Fuchs -- Sixtus Beckmesser, Stadtschreiber
Josef Greindl -- Veit Pogner, Goldschmied
Erich Zimmermann -- David, Sachsens Lehrbube

Wilhelm Furtwängler
Chor & Orchester der Bayreuther Festspiele
1 Aug 1943

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Wagner - Parsifal Opera (recording of the Century Hans Knappertsbusch 1962) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dzeNnoMmsjM


Amfortas : George London
Titurel : Martti Talvela
Gurnemanz : Hans Hotter
Parsifal : Jess Thomas
Klingsor : Gustav Neidlinger
Kundry : Irene Dalis

Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
Chorus and Orchestra of the Bayreuth Festival

Chorus Master / Choreinstudierung : Wilhelm Pitz
Dirigent / Conductor : Hans Knappertsbusch
Live recording at the Bayreuth Festival in 1962


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c7

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
2. 中川隆[-12518] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:35:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


日本の起源は日高見国にあった: 縄文・弥生時代の歴史的復元 (勉誠選書) – 2018/1/31
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AF%E6%97%A5%E9%AB%98%E8%A6%8B%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E5%BE%A9%E5%85%83-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585234020/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1549027803&sr=8-1&keywords=%E8%8B%B1%E9%81%93+%E7%94%B0%E4%B8%AD+%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F


内容紹介

「高い太陽を見る国=日高見国」は実在した!

美術史の大家が、生物学、神話学、考古学を縦横無尽に博捜して解き明かす、古代史の謎。


*「日高見国(ひたかみのくに)」とは…

『日本書紀』や、その注釈書である『釈日本紀』の中に出てくる、かつて日本に存在したとされる国の一つ。
その名称は今も日本各地に、日高、日田、北上、飛騨、飯高、日上、氷上などの地名として残っている。

常識を覆す歴史解釈から鮮明に浮上する縄文・弥生時代、日本の原郷・原風景。

「高い太陽を見る国=日高見国」はどこにあったのか。

『古事記』『日本書紀』『風土記』などの詳細な検討と鹿島・香取神宮、三内丸山遺跡、富士山などとの関係から東西歴史の巨人・田中英道が解き明かす古墳時代以前約一万年の謎。

カスタマーレビュー

保苅 則雄 悪い書2018年6月13日

個人の意見の押し付け
近親相姦イコールダウン症イコール土偶のモチーフ、など思い込みレベルの論理展開。途中で嫌になって読むのやめた。


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キリシタン 根拠ゼロの妄想史観 2018年3月19日

 日高見国が関東にあったやら、記紀に関東地方の記載がほとんどないから記紀の内容は信用できないやら驚く内容だが、根拠は全くない。

また、神宮の名称は、伊勢と鹿島香取しか許されていなかったと書かれてあるが、日本書紀では、伊勢神宮、石上神宮と出雲大神宮(出雲大社を指す)しか神宮と表記されていない。延喜式神名帳で初めて鹿島と香取が神宮に追加された。明らかに事実誤認である。

 著者は、縄文時代の人口が東日本に極端に偏っていたとし、東日本が日本文化の中心であったかのように主張するが、これは小山氏の人口シミュレーションを根拠にしている。しかし、小山氏の人口シミュレーション後、西日本で縄文遺跡が多数発見された。つまり、縄文時代の人口が、東日本に極端に偏っていたとする根拠はすでに崩れている。

さらに西日本は、アッサムから中国雲南省、長江南岸、台湾などと共通する照葉樹林文化圏であり、陸稲栽培のみならず、水田稲作を受け入れやすい土壌が縄文時代からあった。これに対して、東日本は、シベリア、北方シナ、満州、朝鮮半島(南端を除く)と同様ナラ林文化圏であり、水田稲作を受け入れにくい社会構造であった。ゆえに東日本が日本文化の中心にはあたらない。

 近年では、弥生時代に渡来人が多数渡ってきたとする説を否定する考古学者が多い。分子人類学の見地から日本人と朝鮮半島や中国大陸の人々のDNA分布を比較しても、渡来人が大量に渡ってきたとは考えにくい。むしろほとんど来なかったと考えた方が自然である。

さらに西日本で水田稲作を行われるようになってから、水田稲作で使用された農機具の一部は、縄文時代から陸稲栽培で使用された農機具(石器)が流用された。つまり、西日本の縄文人が水田稲作のシステムを長江周辺から持ち帰り、主体的に水田稲作を始めた可能性が高い。何故なら、弥生人の大多数が渡来人であれば、縄文人が縄文時代から陸稲栽培で使用した農機具を水田稲作に流用するなど有り得ないからである。故に著者が主張する九州に外国人が流入したとする説には根拠がない。

 記紀の内容を否定するにしては、その根拠が主観的かつ薄弱であり、著者のいう記紀に書かれていない真実の根拠が全く明示されていない。

また日高見国は特定の場所を指すのではなく、朝廷からみて日の出にあたる東方に対する尊称である。その根拠として、大祓詞に「大倭(おほやまと)日高見国を安國と定め奉りて」と書かれてある。つまり、日向から見て大和は東の方角に当たる。

神武天皇が東征される前は日向に朝廷が存在したのであるから、日向を中心に考えると大和は日向の東方すなわち日の出の方角にある。これにより大和は日向にとって日高見国にあたる。大和に朝廷が移れば、関東地方や東北地方が朝廷にとって東方にあたる。故にこれらの地域が日高見国とされるのである。

 著者の願望と妄想のみが延々と書かれた読むに値しない代物である。


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歴老人 基礎が成っていない 2018年3月10日

 この本の核心は、75pの「人口シミュレーションに見る歴史」にある。それは「縄文時代は関東に多くの人々が住んでいた「」とする『地質ニュース』(2009年7月)に掲載された『縄文時代の環境、その1−縄文人の生活と気候変動ー」(川幡穂高)に依拠している。そこで川幡氏の論考を読んでみると、それは1984年の小山修三氏の論考、例えば『縄文時代』【コンピューター考古学による復元】1984年に基づいていた。

 小山氏のこの本を読むと、その統計は1974年までの遺跡データだった。しかもこの論文自体、多くの問題があり(『日本人ルーツの謎を解く』展転社120p)、小山氏自身「ここに算出した縄文人口は(中略)実数ではなく、縄文時代の文化や社会を復元し、説明するための仮説に過ぎない。従って将来の調査の結果によっては修正があり、全く別の数値に変わる可能性をも持っている・・・」39pと記していた。

 田中氏の本は2018年に出版されたのだから、小山氏が統計をとった1974年の44年後の本である。では田中氏は、44年間の遺跡データを調査し、その結果を得てデータ修正を行ったのかというと、一切行わなかった。一例を挙げると、九州の上野原遺跡、三角山T遺跡、黒橋貝塚、菜畑遺跡など膨大なデータが欠落したまま、縄文時代は圧倒的多数に人々が関東や東北に住んでいたと結論付けた。

 ご覧の通り学問の基礎であるデータの取り扱いに問題があり、古くて使い物ならないデータを信じて書き連ねのだから、その内容はアッと驚くというより、開いた口が塞がらないことになる。金と時間の無駄使い、無論おススメできません。


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777 太陽崇拝はあくまで朝鮮にいた漢民族の信仰で、縄文人の宗教には無いものです 2019年2月1日

現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で


陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は九州に移住した少数の長江の男が縄文女性を現地妻として作った混血児の子孫

言葉は西日本の縄文人の話していた日本語をそのまま継続使用

漢民族系渡来人は弥生時代後期に北九州に植民市を作り、朝鮮と交易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族か簡単に判別できます:

縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰

漢民族と縄文人・弥生人の区別は一重瞼か二重瞼かを見れば大体わかります:


日本人Y-DNAハプログループ比率 (2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

D1b--32% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b2-32%(旧表記O2b): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O2---20%(旧表記O3) : 漢民族、縄文人・弥生人と混血していなければ一重瞼
C2----6% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
C1----5% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1b1--1%(旧表記O2a): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
O1a---1% : 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼
N1----1%
D1a,Q1--1%未満

天皇一族は一重瞼か奥二重瞼なので、普通に考えれば漢民族でしょう。

天皇一族は朝鮮を追われて日本に移民して以降

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 天孫降臨(日向、大和 、丹後) → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

天孫降臨の話は朝鮮の伝説を焼き直したものだとわかっています:

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。

 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c2

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
3. 中川隆[-12517] koaQ7Jey 2019年2月02日 13:51:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


天孫降臨とは何だったのか (勉誠選書) – 2018/3/31
田中 英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585234039/ref=pd_cp_14_2/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4585234039&pd_rd_r=fdac85df-2628-11e9-a01d-295130225d46&pd_rd_w=eM1a4&pd_rd_wg=FCeAg&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=XNEJVBMCGJ6CJ1XD881C&psc=1&refRID=XNEJVBMCGJ6CJ1XD881C


内容紹介

縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。

大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。

そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。

最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。

天孫降臨は天=空から「降りる」ではない?鹿島と鹿児島の地名の関係とは?
高天原はどこにあったのか?
サルタヒコは縄文を体現している?最新の考古学と科学分析の成果から、神話を新たに読み解く。


カスタマーレビュー

不死身 期待外れの古代史 2018年8月14日

縄文時代は東日本が中心だったことは、出土した土器や土偶その他の遺物の量や質から理解できるが、この著者の立論は、天御中主が太陽だという誤謬からなりたち、決してうなずけるものではない。

認識不足にもとずく妄想の古代日本論にすぎずがっかりした。


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歴老人 根拠なきファンタジー 2018年4月25日

この本の肝は、

「高天原は東日本に存在し、日高見国にありました」(56)、

そして

「東京は、縄文時代、まさに日高見国の中心にあった場所だったのです」(28)、

更に

「稲作、機織りなどの生産労働作業が高天原にはあったと書かれていることが重要です」(45)

にあります。要約すると

「縄文時代の東日本に、水田稲作を行い、絹織物を作る日高見国があり、それがアマテラスのいます高天原なのだ」

となります。ではこのような国があったのか、水田稲作の見地から検証してましょう。

 藤尾慎一郎氏(『弥生時代の歴史』)には、

「関東南部で水田稲作が始まるのは前3〜前2世紀と遅かった」、

「前3世紀になると、仙台平野でも本格的な水田稲作が始まる」

とあり、東日本で水田稲作が始まるのは、早くて前3世紀頃と推測できます。すると、

「前3世紀以前、東日本では水田稲作は行われていなかった」ことになります。


 即ち、縄文時代の東日本には、氏の思い描いた水田稲作の盛んな高天原=日高見国は存在していなかった、となります。

この簡単なロジックが、何故分からないのか、それが不思議です。
全ては学問的根拠なき「空想と夢想の世界・ファンタジー」なる所以です。
話の出発からこれですから、後は推して知るべしです。


 話はやがて神武東征に移行します。

ここからは神代ではないので、神武天皇の即位年が書いてあるか?と探したところ、あとがきに

「(前略)西暦でいえば、神武天皇以前の紀元前290年から215年ということになります」(206)

とありました。215年か216年に神武天皇は即位された、と読めますが、その根拠は何処にも書かれておりませんでした。何かの機会に、このことについても書いて下されば有難く存じます。

 こんな訳で、ファンタジーを求める人はいざ知らず、真実を知ろうとした私にとって無駄な出費となりました。


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777 天孫降臨したのはニニギノミコトだけではありません、そしてその出発地は中国鏡が発見されている福岡の伊都国に決まっているのですね 2019年2月1日

丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

  この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。 どちらも弥生時代の伊都国でしか出土していません。

弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

結論だけ書くと

天皇一族は朝鮮を追われて日本に移民して以降

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 天孫降臨(日向、大和 、丹後) → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c3

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
4. 中川隆[-12516] koaQ7Jey 2019年2月02日 14:02:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する – 2017/7/24
田中英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E3%81%AF%E9%96%A2%E6%9D%B1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%82%92%E5%86%8D%E8%80%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/4585221832/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1549027803&sr=8-3&keywords=%E8%8B%B1%E9%81%93+%E7%94%B0%E4%B8%AD+%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F


内容紹介

日本古代史の常識を覆す衝撃の一冊! !

土偶の造形は「水蛭子」がモデルとなっている!
鹿島・香取神宮の存在が、日高見国の位置を明らかにしている!
邪馬台国・卑弥呼は実在しなかった!
古代の文献と考古学的を読み解けば、新たな古代史が見えてくる。

形象学(フォルモロジー)を基盤に日本の歴史を再構築!!
日本古代史の常識を覆す衝撃の一冊!!


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邪馬台国は存在しなかった (勉誠選書) – 2018/12/25
田中英道 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X/ref=pd_cp_14_4/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=458523408X&pd_rd_r=509ca307-26a6-11e9-93e8-35846bde9518&pd_rd_w=5efCP&pd_rd_wg=hysSf&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=PTNQBKWDXNGVCJFP42KG&psc=1&refRID=PTNQBKWDXNGVCJFP42KG

内容紹介

『魏志倭人伝』を疑う

なぜ「卑弥呼」も「邪馬台国」も『魏志倭人伝』にしか登場しないのか?
作者・陳寿はどのようにして『魏志倭人伝』を書いたのか?


『魏志倭人伝』にしか登場しない「卑弥呼」・「邪馬台国」。
なぜ「卑弥呼神社」は存在しないのか?
『魏志倭人伝』はどのように書かれたのか?
戦後最大の未解決問題に決着をつける!



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田中英道さんの問題は左翼学者の意見は一切信用しない事に有るのですね。

しかし、最近まで大学の教官は殆ど全員が左翼のシンパだったので
古代史学者も考古学者も人類学者も文化人類学者も遺伝子学者も殆ど左翼です。

従って、

左翼学者の意見は一切信用しない = 専門家の意見はすべて無視する

という事になりますから、自分の学説がトンデモだというのがわからなくなってしまうのですね。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c4

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
8. 中川隆[-12515] koaQ7Jey 2019年2月02日 14:35:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーが愛したワーグナーの名曲 2


Furtwangler Siegfried's Funeral March from Gotterdammerung - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=zCE_aYJNfQo

Richard Wagner, composer
Vienna Philharmonic, Wilhelm Furtwangler
Studio Recording, March 2, 1954

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Flagstad, Furtwangler Brunnhilde's Immolation (1-3) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=zP6b4F1cG_k


Excerpt from Richard Wagner's Gotterdammerung
Kirsten Flagstad, soprano
Philharmonia Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Studio Recording, 1952


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c8

[昼休み54] アングロサクソンは悪い 中川隆
69. 中川隆[-12514] koaQ7Jey 2019年2月02日 14:58:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
ベネズエラ転覆に乗り出す米政府 暫定大統領でっち上げる内政干渉 2019年2月2日

https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/10759

 米トランプ政府がベネズエラのマドゥロ政府転覆策動に乗り出している。アメリカは昨年5月におこなわれたベネズエラ大統領選で、チャベス前大統領の反米・反新自由主義路線を踏襲するマドゥロ大統領が再選したことに反発。「不当に当選した」「不正なマフィア国家だ」と主張して承認せず、アメリカに忠実なグアイド国会議長を暫定大統領としてでっち上げた。そしてベネズエラの収入源である石油取引を停止する経済制裁を加えて、国内経済を崩壊状態に追い込み、米軍派遣までちらつかせて現マドゥロ政府退陣を迫っている。一主権国家であるベネズエラの大統領を、アメリカが力ずくで勝手に変えようとする異常きわまる「内政干渉」が顕在化している。

 米政府は1月28日、ベネズエラの国営石油会社に対し、アメリカへの石油輸出を禁止し、米国内の資産を凍結する経済制裁を科したと発表した。アメリカが二期目の大統領として認めていないマドゥロ政府最大の収入源を絶ち、退陣圧力をかけることが狙いだ。原油の確認埋蔵量世界一を誇るベネズエラは石油輸出が唯一の外貨獲得源で、アメリカは最大の輸出先である。これを遮断することで、ベネズエラの年間約110億j(約1兆2000億円)もの輸出収入を失わせ、さらに70億j(約7700億円)の資産も凍結し、大打撃を与えようとしている。

 ベネズエラではチャベス前大統領の死によって2013年4月にマドゥロ政府が発足したが、それ以後、欧米諸国から陰に陽に加わる退陣圧力がエスカレートした。そのなかで原油価格が低迷し、経済は破綻状態になり、昨年のインフレ率は約170万%に達した。物価高や物不足のなかで国民は配給に長蛇の列を作り、捨ててあるゴミ袋から食料を調達するほど貧困化が進んでいる。このベネズエラ国民の困難を助けるのではなく利用し、更なる「兵糧攻め」で巻き起こる批判の矛先をマドゥロ政府に集中させ、親米政府樹立を狙っているのがアメリカだ。

 今回の制裁についてアメリカ側は「制裁を解除して欲しければ、腐敗根絶にとりくむと明言しているグアイド暫定大統領の管轄下に入ることだ」(ムニューシン米財務長官)と明言した。ボルトン大統領補佐官(安全保障担当)は「ベネズエラの安定と民主主義はアメリカの国益に通じる」「すべての選択肢はテーブルにある」とのべ、軍事介入も辞さない姿勢を示した。米メディアは同補佐官が「コロンビア(ベネズエラの隣接国)へ米兵5000人」と走り書きしたノートを持っていたとも報じている。

 ポンペオ米国務長官は国連安保理の緊急会合で「すべての国はどちらにつくのか決めるときだ。自由の部隊を支えるか、それとも暴力集団と結託するかだ」とのべ敵意をむき出しにした。イギリスやオーストラリア、イスラエルなど親米諸国もアメリカの主張に同調している。

 他方、ベネズエラ側は「大統領選を望む帝国主義者たちには2025年を待ってもらおう」(マドゥロ大統領)、「子どもじみている」(アレサ外相)と猛反発している。中国やロシアが「外国への介入だ」と非難したほか、北大西洋条約機構(NATO)加盟国のトルコも「われわれは世界のどこであれ、クーデターを企てる側の味方はしない」と表明。南アフリカが「他国の影響下で解決されるべきではない」と指摘し、EU加盟国のギリシャも「正当な大統領はマドゥロ」との立場をとっている。

 ベネズエラでは大統領選で再選されたマドゥロ大統領が1月10日に二期目をスタートさせた。しかし野党が多数を占める国会は「選挙の正当性がない」と大統領再任を認めなかった。「有力な野党政治家が排除されたまま実施された」「大統領は空位だ」と主張している。


制憲議会選挙の投票後、勝利を喜ぶベネズエラの人々(2017年7月)

 そして「大統領不在時は国会議長が職務を代行する」という憲法規定に則って、反マドゥロ派のグアイド国会議長が暫定大統領への就任を宣言(1月26日)した。するとアメリカやカナダなどの親米国がすぐさまグアイド国会議長を大統領として承認。その2日後にアメリカが経済制裁で援護射撃に動いている。米メディアはグアイド国会議長が昨年末、秘密裏にワシントンを訪れ、アメリカの支持をとりつけていたことも報じている。グアイド国会議長は、アメリカと連携した外圧の強化、反政府デモなどの世論扇動、軍隊の切り崩しに動いている。

 他方、ベネズエラ最高裁判所は「他国による内政干渉にかかわった疑いがある」として1月29日にグアイド国会議長の予備的捜査を検察に許可した。するとボルトン米大統領補佐官がツイッターに「グアイド氏を傷つけたり民主主義の転覆を試みたりすれば深刻な結果を招く」と書き込んでいる。こうした一連の事実はマドゥロ政府転覆を狙う黒幕がアメリカであることを示している。

チャベスの社会化踏襲するマドゥロ政府

 ベネズエラでは1958年に軍事政府から民主化して以後、1990年代初めまで民主行動党(AD)とキリスト教社会党(COPEI)による二大政党制が継続した。しかしこの二大政党は発足当初から政治的密約であるプント・フィホ協定を結び、選挙や重要施策をめぐって、必要なときはいつでも結託することをとり決めていた。そのため政治家や軍高官の汚職事件が頻発した。

 また1970年代までは石油開発や工業化政策で、右肩上がりの経済成長が続いたが、1980年代には一転して失速した。一人当りの国内総生産(GDP)は1983年をピークに急落し、90年代末には30年前の水準に落ち込んだ。中間層の所得が低下して貧困層が拡大し所得格差が拡大した。失業者が増え、道ばたで物を売ったり、家政婦など日雇いのような職業で生計を立てる人が増えた。

 このなかで1989年に登場したペレス政府が押し進めたのが国際通貨基金(IMF)の指図に基づく新自由主義経済政策だった。「インフレ抑制」を掲げて価格規制を廃止し、公共料金の引き上げ、国内ガソリン価格の引き上げ、各種補助金の縮小・廃止、付加価値税の導入を問答無用で実施した。バスなど公共運賃の引き上げが引き金となって国民の怒りが爆発し、1000人をこす犠牲者を出したカラカソ大暴動も発生した。


チャベス前大統領

 そのなかで1992年には新自由主義政策を批判したチャベスを中心とする若手軍人が主導しペレス政府打倒のクーデターを起こし、数カ月後には別の軍人が2回目のクーデターを起こした。この行動はどちらも失敗に終わったが、全国で新自由主義政策反対の抗議行動が拡大した。翌93年にはペレス大統領を辞任に追い込み、94年にはプント・フィホ協定を結んだ二大政党以外の候補が大統領選に勝利し、新自由主義政策反対を掲げるカルデラ政府が発足した。

 そして1998年に発足したチャベス政府は新自由主義政策と真反対の政策を推進した。「経済開発より社会開発の重視」を掲げ、豊富な石油収入を原資に、道路・鉄道などの都市インフラの整備、住宅建設などの公共投資に力を注いだ。1990年代に進んだ民営化の流れを逆行させ、食品流通、農業、製造業、観光業、航空業、公的金融機関など国営企業を多数新設した。失業対策では企業に解雇禁止措置を設けた。低所得者向けの住宅建設を進め、食品など基礎生活物資を低価格で提供するためにメルカルと呼ばれる国営流通・小売企業を設立した。

 こうした国内施策を基盤にしてベネズエラは、アメリカによる反新自由主義施策をはね返す中南米の拠点になっていった。現在のマドゥロ大統領はこのチャベスが進めた施策を基本的に踏襲してきた。そのためアメリカはマドゥロ政府を目の敵にして退陣に追い込もうとしている。

 この問題はアメリカにつくか、それ以外の国につくかというような問題ではない。米トランプ政府の介入は「アメリカのいうことを聞かないから、アメリカのいうことを聞く大統領にかえよ」というものであり、「一主権国家の内政や政治体制はその国の国民が決める」という民主主義の原則を否定する行為である。「一国の内政問題はそれぞれの国家の意思によって決められるべきで、他国が干渉してはならない」というのは国際法上の原則であり、国連憲章でも「内政不干渉の原則」を明記している。
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/10759
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/109.html#c69

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
9. 中川隆[-12513] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:27:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

天才ヒトラーの精神が異常になった経緯


ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 – 2018/9/26
ノーマン・オーラー (著), 須藤 正美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511

内容紹介

「錠剤の形をしたナチズム」の実態に迫る

ヒトラーの主治医テオドール・モレルは、一本の注射で体調不良を解決する頼りがいのある医師だった。

ヒトラーはホルモン剤、鎮痛剤、覚醒剤、そしてモレルへの依存を深め、不調のたびに投薬や注射を求めるようになった。

第二次世界大戦が始まり、ヒトラーは誇大妄想にとりつかれ、現実遊離が目につくようになり、軍事作戦能力も徐々に失われていった。足を引きずり、腰も曲がって、くたびれた老人のように見えた。

一方、前線兵士は薬物によって「猛獣と化す」ことが目標とされ、無謀な作戦に投入され、総統大本営も制御を失い、もはや究極の破滅に突き進むしかなかった……。

ヒトラーとモレルの危険な関係は、大戦の命運を左右したのか?

本書は、ヒトラーと第三帝国が薬物に深く依存していたことを暴き、世界的ベストセラーとなった歴史ノンフィクションだ。歴史学者ハンス・モムゼンが本書の「あとがき」で、「これまでの全体像を変える本」と評したのをはじめ、イアン・カーショー、アントニー・ビーヴァーら専門家も賛辞を寄せている。著者は作家らしく、逸話を満載し、史料もきちんと渉猟し、早く続きを読みたくなるような、手に汗握る展開をみせる。


内容(「BOOK」データベースより)

「患者A」と主治医の危険な関係、大戦の命運は左右されたのか?「錠剤の形をしたナチズム」の恐るべき実態に迫る、傑作ノンフィクション!英『ガーディアン』年間最優秀図書(歴史部門)選出!

カスタマーレビュー

yasq di Fontana
兵士には覚醒剤を、総統には麻薬を!  驚きのドラッグワールド・第三帝国
2018年11月12日

覚醒剤メタアンフェタミン(1893年に日本人長井長義が合成し1919年にこれまた日本人緒方章が結晶化に成功)が太平洋戦争中の特攻隊で使われていたという話はよく聞くが、これをさらに徹底的に使ったのがナチス・ドイツだった。あの電撃的なポーランド・ベルギー・フランスへの快刀乱麻ともいうべき進攻のスピードは兵士に大量投与された覚醒剤によるものだったとは!

一方で、ヒトラーは戦況の悪化とともに主治医モレルに投与されるオキシコドンに依存。軍首脳部もほとんどがジャンキー状態。暗殺未遂後はコカインまでも加わる。

こうして、上層部はジャンキーの集団となり安全な地下壕みたいとところから無茶苦茶な指示を乱発し、兵士は戦場で覚醒剤漬けにされ独ソ戦の頃にはダメダメな状態に。

最後にベルリンに籠った頃にはヒトラー用のドラッグも底を尽き彼は激しい離脱症状の中で自殺。

あまりにも戦況の変化と薬物乱用がきれいにシンクロするのに驚く。最高指導者がドラッグ依存だとしたら、だれも彼へのドラッグ投与を拒めない。世界史的な出来事がドラッグで突き動かされ得るという恐怖。

当時の日本の軍中枢にこんなことがあったとは聞かないが、本土決戦前に証拠が消されたのかもしれない。まあ、しらふでヒトラーと同じようになっていたと考えるとそれもまた怖い話だが。

オキシコドンはアメリカでは近年も安易に鎮痛薬として処方されてかなり問題になっていますね。日本に持ち込もうとして逮捕された某自動車メーカーの外国人役員も。決して過去の話ではない。




▲△▽▼

ヒトラーは「ヤク中」だった? 
ナチス・ドイツの驚くべき薬物事情を暴く『ヒトラーとドラッグ』 2018/10/10
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者


『ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存』白水社
ノーマン・オーラー/著 須藤正美/翻訳

戦時下の日本では、苛酷な戦闘や労働をやり抜くため、「ヒロポン」などの覚醒剤が広く使用された。本書は、同じく(いやそれ以上に)ドラッグ漬けだった、かつての同盟国ナチス・ドイツの驚くべき「ヤク中」ぶりを明らかにする。

ドイツ版の覚醒剤は、「ヒロポン」と同じメタンフェタミンの「ペルビチン」だ。著者はこれを「錠剤の形をしたナチズム」と呼ぶ。独裁体制下の厳しい肉体・精神労働も、数日間ぶっ通しの電撃戦も、これなしには考えられなかった。

「いわゆる覚醒剤は爆弾のように的確に命中し、ウィルスのように瞬く間に広まり、食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたものとなった」。ナチスのスローガン「ドイツよ、目醒めよ!」は、覚醒剤によって達成されたのである。

もちろん、ナチス・ドイツも薬物天国だったわけではなく、コカインやヘロインは取り締まられていた。だが、1938年に誕生した「ペルビチン」は画期的な新薬として放置(それどころか推奨)された。この点は、戦時下の日本とよく似ている。

だが、最高指導者が「ヤク中」だった点は、ナチス・ドイツでしか見られない。そう、ほかならぬヒトラーもまたドラッグ漬けだったのだ。

自身の健康状態を詮索され、あれこれ指図されることを嫌うヒトラーは、体調不良を注射1本ですぐに治してくれる便利な医者を求めた。それに応えたのが、主治医のモレルだった。

モレルは、求められるがまま、あらゆる薬剤を合成してヒトラーに注入した。戦局が悪化すると、そこにはコカイン、コデイン、オイコダールなどの依存性が高い向精神薬も多く含まれるようになった。そして「ペルビチン」も。たしかに体調はすぐに回復する。だが、薬が切れると体調は以前より悪くなる。するとまた注射を求める――。悪循環だった。

著者はドイツやアメリカの公文書館を訪れ、モレルのメモを読み解いて、「患者A」に注入されたホルモン調合剤、ステロイドその他の有効成分、医薬品などをリストアップしている。その数の多さには驚かされる。

総統大本営では、それまで塞ぎ込んでいたヒトラーが、突然元気になって、自信に満ちて作戦指導する姿も見られたという。「ハイル・ヒトラー」ならぬ「ハイ・ヒトラー」。支離滅裂な作戦は、ドラッグで高揚した状態のなかで指示されていたかもしれないのだ。

表紙の呆然としたヒトラーの写真は1944年秋に撮られた有名なものだが、これほど本書にふさわしいものもあるまい。薬物にこじつけすぎとの指摘もあるものの、それをおいても、読み応えのある一冊である。
https://honsuki.jp/review/9035.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c9

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
10. 中川隆[-12512] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:31:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

歴史学者ら「ヒトラーは重度の薬物中毒だった」 2015年09月11日
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。
中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。
麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。

La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


第三帝国ではスポーツ選手、芸術家、軍人、さらには主婦も麻薬を使用していたという。

「メタンフェタミンは特に第二次世界大戦時のナチスドイツで流行していた」とマストロブオニ氏。

麻薬は元気を出し、長時間にわたり多幸感を持続させるための薬として使われていた。調合を行なったのはフリッツ・ハウシルト医師。この医師は1936年のベルリン五輪で活躍した米国人スポーツマンに対する「ベンゼドリン」の効力に注目した。しかし薬物には依存性があり、悲惨な結果がもたらされた。メタンフェタミンはすぐに第三帝国で人気となった。スポーツ選手、歌手、試験期間中の学生らが服用した。メタンフェタミン工場は主婦用に有効成分入りのお菓子まで開発した。

第二次世界大戦が始まると、兵士の間で薬物が急速に流行した。「Der totale Rausch(完全なる陶酔)」という著書をもつノルマン・オーラー氏は、麻薬は対仏電撃戦(1940年)だけでなくヒトラー自身の行動にも影響した、と主張している。「医師と麻薬がナチズムの内部構造の多くを説明してくれる」とオーラー氏。

オーラー氏によれば、1941年以降、ヒトラーは奇行が目立つようになった。演説にも麻薬の影響が明らかに出始めた。ヒトラーは1349日の間に800回以上メタンフェタミン、ステロイドその他薬物の注射をうち、1100錠以上の錠剤を飲んだ。

ヒトラーがメタンフェタミンを常用していたことは昨年英国の学者らによって発見されている。第二次世界大戦中に米国軍事諜報班によって集められた書類によれば、兵士もメタンフェタミンを使用していたし、ヒトラー自身も愛用していたという。
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c10

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
41. 中川隆[-12511] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:37:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史〜芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!
辻田 真佐憲
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659


芸能界の薬物汚染と太平洋戦争

近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。

漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。

いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。

いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。

いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。

なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。

その理由についても、下村は次のように証言している。

「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」

つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。

このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。

薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。

なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。

台湾領有とアヘン専売制のはじまり

日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。

日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。

この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。

だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。

台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。

なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。

アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。

アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。

こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。

「麻薬大国」への道とモルヒネ密売

鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。

日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。

このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。

朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した

(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4763410342/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4763410342&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22

その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。

当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。

日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。

麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う

1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。

日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。

1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。

同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。

たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。

これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。

なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。

戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである。


戦争のために配布された覚醒剤

一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。

覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。

ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。

なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。

ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。

このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという

(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/410603638X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410603638X&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。

副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。

このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。

覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。


国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ

このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。

覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。

個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。

その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c41

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
11. 中川隆[-12510] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:42:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

南京大虐殺等の日中戦争での日本兵の残虐行為も覚醒剤が原因だった:

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

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知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史〜芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!
辻田 真佐憲
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659


芸能界の薬物汚染と太平洋戦争

近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。

漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。

いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。

いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。

いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。

なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。

その理由についても、下村は次のように証言している。

「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」

つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。


このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。

薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。

なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。

台湾領有とアヘン専売制のはじまり

日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。

日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。


この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。

だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。

台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。

なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。

アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。

アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。

こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。

「麻薬大国」への道とモルヒネ密売

鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。

日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。

このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。


朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した

(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4763410342/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4763410342&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。

当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。

日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。

麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う

1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。

日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。


1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。

同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。

たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。

これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。

なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。

戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである。


戦争のために配布された覚醒剤

一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。

覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。

ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。


なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。

ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。

このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという

(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/410603638X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410603638X&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22


この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。

副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。

このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。

覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。


国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ

このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。

覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。


個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。

その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659

覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c11

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
42. 中川隆[-12509] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:45:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ナチス・ドイツの戦争中の残虐行為も覚醒剤が原因だった


ヒトラーの精神が異常になった経緯

ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 – 2018/9/26
ノーマン・オーラー (著), 須藤 正美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511


内容紹介

「錠剤の形をしたナチズム」の実態に迫る

ヒトラーの主治医テオドール・モレルは、一本の注射で体調不良を解決する頼りがいのある医師だった。

ヒトラーはホルモン剤、鎮痛剤、覚醒剤、そしてモレルへの依存を深め、不調のたびに投薬や注射を求めるようになった。

第二次世界大戦が始まり、ヒトラーは誇大妄想にとりつかれ、現実遊離が目につくようになり、軍事作戦能力も徐々に失われていった。足を引きずり、腰も曲がって、くたびれた老人のように見えた。

一方、前線兵士は薬物によって「猛獣と化す」ことが目標とされ、無謀な作戦に投入され、総統大本営も制御を失い、もはや究極の破滅に突き進むしかなかった……。

ヒトラーとモレルの危険な関係は、大戦の命運を左右したのか?

本書は、ヒトラーと第三帝国が薬物に深く依存していたことを暴き、世界的ベストセラーとなった歴史ノンフィクションだ。歴史学者ハンス・モムゼンが本書の「あとがき」で、「これまでの全体像を変える本」と評したのをはじめ、イアン・カーショー、アントニー・ビーヴァーら専門家も賛辞を寄せている。著者は作家らしく、逸話を満載し、史料もきちんと渉猟し、早く続きを読みたくなるような、手に汗握る展開をみせる。


内容(「BOOK」データベースより)

「患者A」と主治医の危険な関係、大戦の命運は左右されたのか?「錠剤の形をしたナチズム」の恐るべき実態に迫る、傑作ノンフィクション!英『ガーディアン』年間最優秀図書(歴史部門)選出!


カスタマーレビュー

yasq di Fontana
兵士には覚醒剤を、総統には麻薬を!  驚きのドラッグワールド・第三帝国
2018年11月12日

覚醒剤メタアンフェタミン(1893年に日本人長井長義が合成し1919年にこれまた日本人緒方章が結晶化に成功)が太平洋戦争中の特攻隊で使われていたという話はよく聞くが、これをさらに徹底的に使ったのがナチス・ドイツだった。あの電撃的なポーランド・ベルギー・フランスへの快刀乱麻ともいうべき進攻のスピードは兵士に大量投与された覚醒剤によるものだったとは!

一方で、ヒトラーは戦況の悪化とともに主治医モレルに投与されるオキシコドンに依存。軍首脳部もほとんどがジャンキー状態。暗殺未遂後はコカインまでも加わる。

こうして、上層部はジャンキーの集団となり安全な地下壕みたいとところから無茶苦茶な指示を乱発し、兵士は戦場で覚醒剤漬けにされ独ソ戦の頃にはダメダメな状態に。

最後にベルリンに籠った頃にはヒトラー用のドラッグも底を尽き彼は激しい離脱症状の中で自殺。

あまりにも戦況の変化と薬物乱用がきれいにシンクロするのに驚く。最高指導者がドラッグ依存だとしたら、だれも彼へのドラッグ投与を拒めない。世界史的な出来事がドラッグで突き動かされ得るという恐怖。

当時の日本の軍中枢にこんなことがあったとは聞かないが、本土決戦前に証拠が消されたのかもしれない。まあ、しらふでヒトラーと同じようになっていたと考えるとそれもまた怖い話だが。

オキシコドンはアメリカでは近年も安易に鎮痛薬として処方されてかなり問題になっていますね。日本に持ち込もうとして逮捕された某自動車メーカーの外国人役員も。決して過去の話ではない。


▲△▽▼

ヒトラーは「ヤク中」だった? 
ナチス・ドイツの驚くべき薬物事情を暴く『ヒトラーとドラッグ』 2018/10/10
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者


『ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存』白水社
ノーマン・オーラー/著 須藤正美/翻訳

戦時下の日本では、苛酷な戦闘や労働をやり抜くため、「ヒロポン」などの覚醒剤が広く使用された。本書は、同じく(いやそれ以上に)ドラッグ漬けだった、かつての同盟国ナチス・ドイツの驚くべき「ヤク中」ぶりを明らかにする。

ドイツ版の覚醒剤は、「ヒロポン」と同じメタンフェタミンの「ペルビチン」だ。著者はこれを「錠剤の形をしたナチズム」と呼ぶ。独裁体制下の厳しい肉体・精神労働も、数日間ぶっ通しの電撃戦も、これなしには考えられなかった。

「いわゆる覚醒剤は爆弾のように的確に命中し、ウィルスのように瞬く間に広まり、食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたものとなった」。ナチスのスローガン「ドイツよ、目醒めよ!」は、覚醒剤によって達成されたのである。

もちろん、ナチス・ドイツも薬物天国だったわけではなく、コカインやヘロインは取り締まられていた。だが、1938年に誕生した「ペルビチン」は画期的な新薬として放置(それどころか推奨)された。この点は、戦時下の日本とよく似ている。

だが、最高指導者が「ヤク中」だった点は、ナチス・ドイツでしか見られない。そう、ほかならぬヒトラーもまたドラッグ漬けだったのだ。

自身の健康状態を詮索され、あれこれ指図されることを嫌うヒトラーは、体調不良を注射1本ですぐに治してくれる便利な医者を求めた。それに応えたのが、主治医のモレルだった。

モレルは、求められるがまま、あらゆる薬剤を合成してヒトラーに注入した。戦局が悪化すると、そこにはコカイン、コデイン、オイコダールなどの依存性が高い向精神薬も多く含まれるようになった。そして「ペルビチン」も。たしかに体調はすぐに回復する。だが、薬が切れると体調は以前より悪くなる。するとまた注射を求める――。悪循環だった。

著者はドイツやアメリカの公文書館を訪れ、モレルのメモを読み解いて、「患者A」に注入されたホルモン調合剤、ステロイドその他の有効成分、医薬品などをリストアップしている。その数の多さには驚かされる。

総統大本営では、それまで塞ぎ込んでいたヒトラーが、突然元気になって、自信に満ちて作戦指導する姿も見られたという。「ハイル・ヒトラー」ならぬ「ハイ・ヒトラー」。支離滅裂な作戦は、ドラッグで高揚した状態のなかで指示されていたかもしれないのだ。

表紙の呆然としたヒトラーの写真は1944年秋に撮られた有名なものだが、これほど本書にふさわしいものもあるまい。薬物にこじつけすぎとの指摘もあるものの、それをおいても、読み応えのある一冊である。
https://honsuki.jp/review/9035.html


10. 中川隆[-12512] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:31:09: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
▲△▽▼

歴史学者ら「ヒトラーは重度の薬物中毒だった」 2015年09月11日
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/

アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。
中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。
麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。

La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。


第三帝国ではスポーツ選手、芸術家、軍人、さらには主婦も麻薬を使用していたという。

「メタンフェタミンは特に第二次世界大戦時のナチスドイツで流行していた」とマストロブオニ氏。

麻薬は元気を出し、長時間にわたり多幸感を持続させるための薬として使われていた。調合を行なったのはフリッツ・ハウシルト医師。この医師は1936年のベルリン五輪で活躍した米国人スポーツマンに対する「ベンゼドリン」の効力に注目した。しかし薬物には依存性があり、悲惨な結果がもたらされた。メタンフェタミンはすぐに第三帝国で人気となった。スポーツ選手、歌手、試験期間中の学生らが服用した。メタンフェタミン工場は主婦用に有効成分入りのお菓子まで開発した。

第二次世界大戦が始まると、兵士の間で薬物が急速に流行した。「Der totale Rausch(完全なる陶酔)」という著書をもつノルマン・オーラー氏は、麻薬は対仏電撃戦(1940年)だけでなくヒトラー自身の行動にも影響した、と主張している。「医師と麻薬がナチズムの内部構造の多くを説明してくれる」とオーラー氏。

オーラー氏によれば、1941年以降、ヒトラーは奇行が目立つようになった。演説にも麻薬の影響が明らかに出始めた。ヒトラーは1349日の間に800回以上メタンフェタミン、ステロイドその他薬物の注射をうち、1100錠以上の錠剤を飲んだ。

ヒトラーがメタンフェタミンを常用していたことは昨年英国の学者らによって発見されている。第二次世界大戦中に米国軍事諜報班によって集められた書類によれば、兵士もメタンフェタミンを使用していたし、ヒトラー自身も愛用していたという。
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c42

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
12. 中川隆[-12508] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:54:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1SYZG44duWM



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c12

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
43. 中川隆[-12507] koaQ7Jey 2019年2月02日 16:56:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:


【ホラー】 コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1SYZG44duWM


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c43

[昼休み54] 日本の官僚は悪い 中川隆
64. 中川隆[-12506] koaQ7Jey 2019年2月02日 17:24:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2019年02月02日
経済統計改ざん発覚で消費増税不可能に 


2014年の消費増税で実質賃金が大幅低下した

画像引用:「実質賃金、昨年大半マイナス」が発覚 これは「消費税」問題だ | ザ・リバティweb https://the-liberty.com/article.php?item_id=15369


安倍総理就任後に本格改ざん

毎月勤労統計を厚生労働省が不適切な調査方法で実施していた問題で、実質賃金も間違っていたと発表されました。

厚生省は23年前から500人以上の全事業所で行うとしていた労働調査を、独断で秘密裏に抽出調査に切り替えていた。

厚生省は賃金が高い3分の1ほどの事業所だけを調査したので、実際より大幅に高い賃金を発表していた。



厚生省はプラスと発表していた2018年の実質賃金が、実際にはマイナスだったと発表しました。

日本のGDPは「国民総所得+国際収支」なので賃金が下がるとGDPも下がるが、厚生省はGDPに影響はないと不思議な事を言っている。

2013年からは抽出調査で得たデータをもとに全体を推測する復元処理もされなくなり、公表データの水増しが始まった。


安倍首相は2012年の年末に就任したので、実質的に安倍首相就任をきっかけに偽装が本格化した。

野党は厚生省のデータを修正した推測値を示したが、それによると2014年の消費増税をきっかけに実質賃金が下落している。

消費増税は景気に深刻なダメージを与えたが、影響は発表されたより大きかった。


日銀は2%の物価目標を1度も達成していないが、毎年実質賃金が下がっていたなら当たり前だった。

消費増税で経済悪化を隠す意図か

全ての省庁の大本営である財務省は消費増税を国是とし、「消費増税のためには国家が滅んでも良い」という態度です。

その姿は戦時中の日本陸軍と同じで戦争継続と軍部拡大が目標になり、そのためには国家が滅んでも良いと考えていた。

官僚が考えることは時代が変わっても同じであり、組織のため、自分のためにしか行動しません。


厚生省が統計改ざんした本当の意図は、財務省の指示で消費増税による経済悪化を隠すためだったのではないか。

消費税は1989年に3%で導入したが2年後にバブル崩壊を引き起こし、日本を長い不況に叩きこんだ。

1997年に5%に消費税増税すると再び日本経済は壊滅し、デフレスパイラルと平成大不況が発生した。


2014年に8%に増税すると再び不況になりアベノミクスの成果は全て帳消し、その後GDP成長率は1%程度にとどまっている。

消費税は財政再建のために始まったが、消費税導入以来増税のたびに「財政悪化」した。

原因は簡単で消費増税したら国民が消費しなくなり、GDPが減少して税収も減少しました。


GDPの7割が個人消費だったのが、消費すると罰を受ける消費税によって減少し、現在は6割になっている。

簡単な話、消費税を廃止したほうが消費が増えるので、消費税収入が減少しても国全体の税収は増えます。

安倍首相は2019年秋に再び消費増税をしようとしているが、もし実施したら再度不況になり、デフレスパイラルが起きるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/78916618.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/103.html#c64

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
5. 中川隆[-12505] koaQ7Jey 2019年2月02日 17:25:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2019年02月02日
経済統計改ざん発覚で消費増税不可能に 


2014年の消費増税で実質賃金が大幅低下した

画像引用:「実質賃金、昨年大半マイナス」が発覚 これは「消費税」問題だ | ザ・リバティweb https://the-liberty.com/article.php?item_id=15369


安倍総理就任後に本格改ざん

毎月勤労統計を厚生労働省が不適切な調査方法で実施していた問題で、実質賃金も間違っていたと発表されました。

厚生省は23年前から500人以上の全事業所で行うとしていた労働調査を、独断で秘密裏に抽出調査に切り替えていた。

厚生省は賃金が高い3分の1ほどの事業所だけを調査したので、実際より大幅に高い賃金を発表していた。



厚生省はプラスと発表していた2018年の実質賃金が、実際にはマイナスだったと発表しました。

日本のGDPは「国民総所得+国際収支」なので賃金が下がるとGDPも下がるが、厚生省はGDPに影響はないと不思議な事を言っている。

2013年からは抽出調査で得たデータをもとに全体を推測する復元処理もされなくなり、公表データの水増しが始まった。


安倍首相は2012年の年末に就任したので、実質的に安倍首相就任をきっかけに偽装が本格化した。

野党は厚生省のデータを修正した推測値を示したが、それによると2014年の消費増税をきっかけに実質賃金が下落している。

消費増税は景気に深刻なダメージを与えたが、影響は発表されたより大きかった。


日銀は2%の物価目標を1度も達成していないが、毎年実質賃金が下がっていたなら当たり前だった。

消費増税で経済悪化を隠す意図か

全ての省庁の大本営である財務省は消費増税を国是とし、「消費増税のためには国家が滅んでも良い」という態度です。

その姿は戦時中の日本陸軍と同じで戦争継続と軍部拡大が目標になり、そのためには国家が滅んでも良いと考えていた。

官僚が考えることは時代が変わっても同じであり、組織のため、自分のためにしか行動しません。


厚生省が統計改ざんした本当の意図は、財務省の指示で消費増税による経済悪化を隠すためだったのではないか。

消費税は1989年に3%で導入したが2年後にバブル崩壊を引き起こし、日本を長い不況に叩きこんだ。

1997年に5%に消費税増税すると再び日本経済は壊滅し、デフレスパイラルと平成大不況が発生した。


2014年に8%に増税すると再び不況になりアベノミクスの成果は全て帳消し、その後GDP成長率は1%程度にとどまっている。

消費税は財政再建のために始まったが、消費税導入以来増税のたびに「財政悪化」した。

原因は簡単で消費増税したら国民が消費しなくなり、GDPが減少して税収も減少しました。


GDPの7割が個人消費だったのが、消費すると罰を受ける消費税によって減少し、現在は6割になっている。

簡単な話、消費税を廃止したほうが消費が増えるので、消費税収入が減少しても国全体の税収は増えます。

安倍首相は2019年秋に再び消費増税をしようとしているが、もし実施したら再度不況になり、デフレスパイラルが起きるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/78916618.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c5

[近代史3] 呪われたスキー場 _ 妙高 新井スキー場(ロッテアライリゾート) 中川隆
75. 中川隆[-12504] koaQ7Jey 2019年2月02日 17:33:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


2018.12.20 更新
「霊山神社 氏子だより」のHP
https://reizanjinjya.jimdo.com/

霊山神社 新潟県妙高市両善寺の歴史について


両善寺集落は、古くは縄文後期の石鏃や石碗、子持ち勾玉や管玉、石斧、各種の宝飾品(玉や貝殻を材料としたペンダント類)が出土しています。

また、平安時代の呪術的要素を持った多くの建物跡が発掘されていますし、古代の北陸道と東山道を結ぶ官道であった可能性もある地名も残っています。

さらに、江戸時代の古地図には、山岳信仰にはじまる歴史の流れを想像させるような地名が埋もれていました。

「氏子だより」では、少しずつですがそのような歴史のロマンもお知らせしています

霊山神社は、明治42年9月15日に「石動神社」、「十二神社」、「諏訪神社」、「白山神社」を合社して建てられました。

平成25年9月1日から「氏子だより」を年3回発行し、祭礼の状況や集落の歴史などを氏子の皆さんにお知らせしています。

発行は、大字両善寺の区長が責任者となり、大字の神社委員と有志2名によるボランティアの編集委員、寄付金で発行しています。


事務局:安原典哲

〒944-0062 新潟県妙高市両善寺50-1

Tel: 0255-72-1435


  ■■■■■■■■■ 右欄の目次 ■■■■■■■■■

1.今の両善寺の風景

2.神社あれこれ

  @ 設立

  A 薬師堂

  B 祭礼

  C 主祭神

  D 山の神

  E 大山祇命

3.周辺の伝説・言い伝え

  @ 女房石

  A カッパの傷薬

  B ナスビ地蔵

C 石造宝篋印塔


1.今の両善寺の風景


<9月10日>

今日は「霊山神社」の秋祭りでした。

あいにくの雨でしたが、神楽舞は楽しいひと時でした。

写真は、天岩戸を開けようと、天手力雄神がみんなの協力を得て岩戸を開けようとしている場面・・・。


<8月7日>

老人会による「草刈り」が行われました。

秋祭りの前の準備です。

杉の木の洞にスズメバチが巣を作っていましたが、

昔取った杵柄で、煙でいぶして、幼虫を食べてしまった強者が1人。

「そんなに精をつけてどうするんだ」との周りの声も何のその、みんな平らげてしまいました。


<7月23日>

今日は、2番根の山の神「アカギの神」の新たな参道を造成いたしました。旧アライリゾートが無断で尾根を開削し、そのために御神木の木が数本枯れてしまいました。尾根は盛り土で復旧されましたが、参道としては不十分だったので新たに造設したのです。駐車場から斜めに上る道が出来ました。


<6月19日>

大毛無山山中にある三つの石祠「熊野三社大権現」。その二番目の「アカギの神」標高1000mくらいへ、新たな参道をつくるために林道の状況を見に行ってきました。ちょうど「ウラジロヨウラク」が花盛りでした。


<5月11日>

大毛無山の前山(1339m)の三社大権現跡地にて「慰霊祭」を行いました。23年前、スキー客の失礼が無いようにと、ここから山頂リフト駅舎内へお移りいただいたのでしたが、正式な「遍座祭」を行っていませんでした。様々な出来事があって、神意を感ずる人からの声掛けをいただいて今回実施の運びとなりました。斐太神社の権禰宜様からは、ゴンドラ25分、リフト15分、そこから雪の上の急斜面を30分かけて登っていただきました。素晴らしいお天気と景色に見守られ、神意を感じた祭祀になりました。


<4月14日>

春の農作業の準備に取り掛かる季節になりました。

今冬は、降雪量は少なかったのですが風が強く、幹線用水である「ツラマ用水」は上部からの10トン以上もある巨石で破損してしまいました。「水入れ」までには修繕工事を完了させなければなりませんが、落ちてきそうな石が上にまだ沢山あって難航しております。


2.神社あれこれ 


 @ 合社した4つの祠は、本殿の後ろにありま

  す。建立年月は明治16年。新潟県が社寺の「明

  細帳」再調査を命じたこともあってか、両善寺集

  落も4つの神社を届け出がされ、併せて「山の

  神」三社大権現も石祠を新しくしています。


 A なぜか神社の境内にある薬師堂   

  本殿に向かって左に薬師さんがあります。この薬

  師さんは数奇な運命をたどりました。もとは霊山

  寺の東を守るように、お寺から東へ400mほど行

  った「薬師堂」というところにありました。高さ

  10mほどの小高い場所で、その北側の地名「堂

  の前」は、60年前頃まで冬になると子供たち

  のスキー遊びの場所でした。「薬師さん」は明治

  34年にこの境内へ移されました。

  県立文書館の資料では昭和4年に霊山寺から廃止

  届が出されています。

  また、その「薬師堂」という地名の場所には、

  「八幡宮」があったと江戸時代中期の古地図に

  載っています。

      


B 祭礼日程

  二年参り、初詣 ・・・ 1月 1日

  山の神の祭礼  ・・・ 3月 9日

  春祭り     ・・・ 4月21日

  薬師堂読経   ・・・ 5月初(江さらい時)

  秋祭り(神楽舞)・・・ 9月10日


 C 主祭神

  霊山神社の主祭神は、三条市下坂井にある

  県神社本庁に昭和27年に登録されており、

  大山祇命 (大山津見命)です。

  集落には源氏中興の祖と言われる「北畠親房公」

  とする言い伝えもありますが、これは福島の

  霊山神社が有名であるためと思われます。どち

  らの霊山神社も、奈良県の霊山寺がその源にあ

  るのは確かですが。

       ( 北畠親房 公 )


 D 山の神 「三社大権現」

  両善寺集落には、大毛無山への山道通しに3つの

  石祠があります。要山の下の山の神、アカギの

  神、山頂の神 です。古くは山境を兼ねていたこ

  ともあるらしいのです。現在、山頂の山の神は、

  バックカントリー客の失礼が無いよう山頂から

  降ろされて、山頂リフト駅舎の降口の正面に祀

  られています。

  この地方には、戸隠山、飯綱山(霊仙寺山)、

  妙高山など「熊野修験」に関係する霊山が多く

  あります。大毛無山も古くは山岳信仰の聖地

  として敬われ、現在も両善寺(霊山寺)集落の

  生活用水、農地の水源、薪炭林として豊かな

  恵みをもたらしてくれる大切な山です。

      (要山下の山の神)


        (アカギの神)


       (大毛無山 山頂の神)


  E 大山祇命

   大山祇命(おほやまづみのみこと) は八柱の

   山神を統括し、山を主宰する神で大山津見命と

   も言われています。 八柱の山神とは、伊弉册

   神(イザナミ)が火之迦具土神を生んで焼け死

   んだため、怒った伊弉諾神(イザナギ)が迦具

   土神を斬った際にその遺体の 頭、胸、腹、

   陰、左手、右手、左足、右足から生まれたと古

   事記は伝えています。 しかし、日本書紀では

   違う5柱と記載されています。 また、大山祇

   神とは天孫降臨以前に此の国に土着した国津神

   の総称であり、後に大山祇族が山間地に移住し

   たことにより、山地主宰の神と称されたのであ

   るとも云う話もあります。


 3.周辺の伝説・言い伝え


@ 女房石 

( ロッテアライリゾートの山麓第一リフトを下りた

  左手付近の林の中に東屋があります )

今からずっと昔、この道が京都へ続く重要な街道の一つだったころ、ここを通りかかった夫婦の旅人がありました。沼(野尻湖)から関山権現に参拝し、矢代川の急流を越えて、大毛無山麓のこの地まで来たのでした。

女房は身重の体で、二人は夫の用事に合わせて京の都まで旅をしている途中でした。ところがこの辺りに差し掛かったとき、急に女房の体の具合が悪くなってしまいました。幸いこのあたりには多くの寺院や僧房があり、そのうちの一つにお世話になって回復を待つことにしました。

何日か養生をしてみましたが、女房の具合はなかなか良くなってきません。しかし、夫のほうはどうしても約束の日までに京の都へ行かなければならない用事があったので、やむなく女房をこの地に残して出発しなければならなくなってしまいました。

女房は、「どうぞあなた一人で京の都へ行ってください。私の体もあなたが戻る頃には良くなっているでしょう。ここのお寺にお世話になりながら、あなたの行かれる京の方角にあるお山(大毛無山)を毎日拝んでご無事を祈っております。」と言いました。夫はしかたなく後ろ髪を引かれながらも一人で京の都へ旅立って行きました。

しかし、身重の女房の病気は日ごとに悪くなり、ついに看病の甲斐なくこの地で亡くなってしまいました。

 それからしばらくして、山仕事に出かけた百姓が今まで見たことが無かった石が在るのに気がつきました。その石の形が子供を抱いた女房がお山の方角を見ているように見えたので、誰とはなく亡くなった女房が、生まれてくるはずだった子供を抱きながら、京の都へ行った夫の無事を祈る姿で石になったのだろうと噂をするようになりました。

 ようやく京の都での用事を終えて夫が帰ってきたのは、女房が亡くなり石になってしまってから間もない頃でした。今の西長森神社あたりまで来た夫は、そこで人々の噂話を耳にしてしまいました。女房が死んで石になってしまったことを知った夫は、あまりの驚きと悲しみのためにその場で急死してしまい、石になってしまいました。

その後、雨の降りそうな夜にこのあたりを通りかかる人があると、男の旅人から、「隣村の霊山寺に居る女房に会いに行きたいが、歩けなくなったので背負っていって欲しい。」と頼まれることがありました。「いいでね、さあ、ぶっつあってくんない。(背負われなさい。)」としゃがんで背負おうとすると、とても重くて背負うことができません。ハッと我に返って振り返ると、なんと神社の石を背負おうとしていたと言う事が何回もあったという話です。

今でも夫の石は会いたい女房石のほうを向いていて、女房の石は子供を抱いて京の都の方角にあるお山(大毛無山)を見守っているように見えると言われています。

( 下の写真が 女房石です。)


A カッパの傷薬 

 ( 両善寺の北隣に川をはさんで三ツ俣集落が

   あります。「矢代豆腐」のお店の南隣のお宅

   が傷薬を作っていました。カッパ淵はさらに

   100mほど南にあります。 )

 昔々 のお話です。三ツ俣の「カッパ淵」にとてもいたずらなカッパがいました。

畑のキュウリを盗んで食べたり、お地蔵様のお供え物を食べてしまったり、三ツ俣の人たちはみんな困っていました。中でも一番困るのが馬のシンノコを抜いてしまうことでした。

お百姓さんたちは田圃を耕したり、荷物を運んだりするのに、みんな馬を使っていました。つらい仕事が終わると、疲れた馬を川へ連れて行って、暑くなっている馬の体を冷やしたり、汚れた体を洗ってあげたりしました。カッパは、馬が川に入っているときに、馬のシンノコを抜いてしまうという大変な悪さをしました。シンノコを抜かれてしまった馬は、しばらくはフニャフニャになって全然力が出なくなってしまいます。馬の力が出ないと、田圃を耕したり、荷物を運んだり出来なくなってしまうので、お百姓さんたちは本当に困っていました。

(シンノコを抜くって、お尻の穴から血を吸うこと。)

あんまりカッパのいたずらがひどいので、三ツ俣の「四郎ざ」というお百姓が、「よし、おれがカッパを懲らしめてやる」と言って、ある日、カッパ淵に馬を洗いに連れていきました。「四郎ざ」の背中には草を刈る鎌が隠してあります。カッパ淵に馬を入れると、案の定、いたずらカッパが、そ〜っと様子をうかがっているのがわかりました。「四郎ざ」は、しらんぷりをして、わざとよそを向いていました。すると、カッパは「ようし、今だ、 馬のシンノコを抜いてやろう。」と馬の後ろへ近づいて来ました。」そして、馬のお尻に近づいてシンノコを抜こうとしたその時、「こらっ、いたずらガッパめ、こうしてくれる!」と、「四郎ざ」は鎌で切り付けました。「ギャッ」という悲鳴とともに、馬のお尻に伸ばしたカッパの腕がスパッと切り落とされ、カッパは水の中へ逃げて行きました。「四郎ざ」は、「いたずらガッパめ、これに懲りてもういたずらをするんじゃないぞ!」と言って、切り落としたカッパの腕を拾って、家に持って帰りました。

それから2〜3日たった、ある雨の降る夜のこと、「四郎ざ」の家の戸を トントン、トントンとたたく者がありました。「四郎ざ」が、「だれだ〜、こんな夜中に〜」と言いながら、玄関の戸を開けてみると。そこには、片腕のない、あの「いたずらカッパ」が立っていました。カッパは、「もう決して悪いことはしませんので、どうぞ私の腕を返してください。」と言いました。「四郎ざ」はびっくりしましたが、本当は、正直者で心の優しい人だったので、「もう悪さをしないと約束すれば、腕は返してやる。これからは、悪さをしないと約束するか?」といいました。カッパは、「約束します。もう決して悪さはしません。」と答えました。「四郎ざ」は、「それなら返してやるが、返したこの腕はどうするんだ?」とカッパに尋ねました。するとカッパが、「7日の間なら元どおりにくっつく傷薬があるので、それで腕をくっつけるんです。」と答えました。「四郎ざ」は「そんなにいい傷薬があるんなら、作り方を教えてくれないか? 怪我をして困っているお百姓がたくさんいるんだ。」と頼んでみました。カッパは、しばらく考えていましたが「わかりました、特別にお教えしましょう」と、傷薬の作り方を教え、切り落とされた片腕を持って喜んで帰っていきました。それからは、カッパのいたずらはすっかり無くなり、「四郎ざ」は、教えてもらった傷薬を作って、「とても良く効くカッパの傷薬」として、けがをしたお百姓さんたちに大変喜ばれたそうです。

☆ このお話の子孫の方は、今も三ツ俣に住んでいます。薬を作る道具や薬を包む紙などがまだありますし、最近まで「カッパの傷薬」のうわさを聞いて尋ねてくる人がいたそうです。

      (カッパ淵)


B な す び 地 蔵

  ( 昔は、三ツ俣集落にお堂がありました。

    現在は、新井地区白山町に「地蔵院」

    があって、そこに安置されています。 )

昔々、今から千年以上も昔の話、弘法大師様が全国を旅して仏様の教えを広めていらっしゃいました。

三ツ俣にもおいでになり、松の木の枝に掛け軸をかけて布教をされました。そのころの三ツ俣は大変にぎわっていて、弘法大師はこの地にしばらくとどまって布教活動をされていましたが、いよいよこの地を去るとき、一体の石のお地蔵様を刻んで建てて行かれました。

時は過ぎて、場所は江戸、ジンジンと蝉の鳴く暑い夏の昼下がり、街中なかの川では、大勢の子供たちが泳いだり、橋から飛び込んだり、たらいの船に乗ったりして遊んでいました。するとその中の一人がどうしたわけか川の真ん中で溺れてしまいました。

「早く竹竿をもってこい!」「縄は無いか!」皆が大騒ぎをしていたとき、ちょうどそこを通りかかったお坊様がおりました。この様子を見たお坊様は懐から大きな「なすび」を取り出すと、「ほら!これにつかまりなされ」と言って、溺れている子供へ投げてあげました。溺れるものはワラをもつかむで、溺れていた子供がこのナスにつかまると不思議と体が浮き上がり岸までたどり着いて、やっと助かることができました。

この子供はたまたま近くの大店の子供でしたので、しつけが行き届いていてお坊さまにきちんとお礼をいうことができました。「ありがとうございました。おかげさまで助かりました。是非あなた様のお名前をお教えください。お礼に伺いたいと思います。」すると、お坊様は「わしは越後の地蔵という者じゃ。」とだけ言って、すたすたとその場を立ち去ってしまいました。

 子供が家に帰ってこの話を致しますと、父親が「そりゃあおまえ、このお店の大事な跡取りの命の恩人ではないか、是非にもお礼をしなければいけない。」ということになりまして、その息子と父親は越後へ向かってお礼の旅に出たのでした。

 信州を過ぎ、信濃の渡しを越えて西野谷からちょうど三ツ俣あたりに来たとき、「あっ、あのお坊様だ!」と息子が指を指しました。親子が走りよってみると、なんとそれは道端にある弘法大師が刻んだお地蔵様でした。

 「お地蔵様のおかげで息子が助かりました、大変ありがとうございました」と、親子はお礼を言うことができたのですが、よくよくこのお地蔵様を見てみると、雨風を凌しのぐ屋根もなく、雑草が生え、落ち葉が積もって見る影もない状態でした。

 これを見た父親は「これは、おかわいそうだ。是非とも立派なお堂を建てて差し上げなければ。」と、庄屋さんにお願いして、集落を見下ろす場所に土地を求め、立派なお堂を建てて供養したということです。・・・

 さて、それからまたずいぶんと時は流れ、ついには、そのお堂も人々に忘れられてボロボロに荒れ果ててしまいました。しかし、そうなってからしばらくすると、高田のあるお坊様の夢の中に、このお地蔵様が現れ、「お堂が壊れて困っている」と告げました。そこで、そのお坊様は荒れ果てた三ツ俣のお堂から、荒井の白山町へお地蔵様を移してご本尊として大切にお守りしたそうです。これが、今の地蔵院の始まりだそうです。

(三ツ俣のお堂の敷地を分けてあげたのは、妙高市の朝日町にあった田中旅館のご先祖との事です。)

 このお地蔵様は霊験あらたかで、後に再び地蔵院住職の夢枕に立ち、「志村の一ノ口の大きな欅の根元に仲間の地蔵たちが埋まっているので、掘り出してほしい。」と告げて、お堂に祀らせたり、さらにその後、またまた住職の夢枕に立ち、「お堂の中に仲の良くない地蔵がいるので、外にほうり出してほしい。」と告げたという言い伝えまで残っています。

 一ノ口のお地蔵様が、お堂の中だけでなく外にもいらっしゃるのは、そういう理由なんだそうです。

(私の子供のころは、大木の切り株の上にまだお堂があって、子供たちの格好の遊び場になっていましましたし、夜になると切り株が光るという噂が立ったことがありました。)

( さらに、五日市集落には、このお地蔵様にまつわるこんな言い伝えもあります。 )

 昔々、五日市村に働き者の若い夫婦のお百姓がいました。秋になって田圃が黄金色に染まり、みんなが稲刈りで大忙しでしたが、この夫婦には生まれたばかりの子供がいて、子守で仕事がはかどらずに大変こまっていました。

そんな時、何処からか、見たことがない女の子が毎日のように現れて子守をしてくれました。「どこの子だろうね。」と夫婦は首をかしげましたが、この女の子のおかげで仕事がはかどり大変助かりました。稲を刈るのが終わる「刈り上げ」の日、夫婦は、「これはお土産だよ」と言って、ボタモチを重箱に入れて持たせてあげました。

それから数日がたって、夫婦は、「稲刈りもようやく一段落したが、あの女の子のおかげで大変助かった。ぜひ親にもお礼がしたいが、どこの子だろう。」と、帰っていく女の子の後をつけて調べてみることにしました。すると女の子は、矢代川を渡り、しばらく歩いて、白山町の地蔵院の境内に入っていきました。さらに地蔵院の本堂に正面から入っていったので、「おかしなことがあるものだ」と思いながらも続いて入って行くと、女の子の姿はなくなり、お地蔵様のお壇の前に先日持たせた「刈り上げのボタモチ」が供えてありました。それで、夫婦はあの女の子がお地蔵様の化身だったと知ったのでした。


 C 石造宝篋印塔

  ( ロッテアライリゾートの P4駐車場の

    北北西隅にあり、県道から参道を50m

ほど南に入った場所です.)

神社から南へ1kmほど行った県道の傍にあります。だいぶ欠けてきていますが隅飾突起の形などから鎌倉時代のものと言われています。

この宝篋印塔について地元に伝わる言い伝えがあります。

「訂正越後頚城郡誌稿」には、里の古老に伝えて曰く、この墳墓は曽我祐成の妾、虎御前の墳墓なりという。・・・(続く) とあります。

あの有名な曽我兄弟富士の仇討の兄祐成のお妾さんだということです。

上越地方には虎御前の墓と伝わる場所が3か所ありますが、虎御前は17歳で妾となり、19歳で祐成と死別した後に善光寺へ曽我兄弟の供養を行っています。その後、63年の生涯を閉じた場所は岡山県とも、平塚市とも言われています。

この宝篋印塔について、20年ほど前にスキー場開発に関係して、占い師に見てもらったところ、多くの武将も埋葬されているとのことでした。真偽はともかく、昔から矢代川の急流を越す重要な交通路がここを通っていたことは確かです。

        (宝篋印塔)
https://reizanjinjya.jimdo.com/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/190.html#c75

[昼休み54] アングロサクソンは悪い 中川隆
70. 中川隆[-12503] koaQ7Jey 2019年2月02日 18:37:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
2019.02.02
ベネズエラと米英の金塊を巡る駆け引き

 ベネズエラ政府はイングランド銀行に金塊31トンを預けていると言われている。その金塊を引き揚げようとしたところ、銀行に拒否されたという。

 アメリカ支配層は1999年にウゴ・チャベスが大統領に就任して以来、政権転覆を目論んできた。その間のアメリカ大統領はビル・クリントン、ジョージ・H・W・ブッシュ、バラク・オバマ、そして今はドナルド・トランプ。

 各国は保有する金塊の多くをアメリカのニューヨーク連銀やケンタッキー州フォート・ノックスにある財務省管理の保管所に預けている。ドルの信頼感が低下する中、いくつかの国がそうした金塊を引き揚げようとしたが、スムーズには進んでいない。そこで、アメリカに預けた金塊は何者かによって持ち去られたのではないかという疑惑もあるが、ベネズエラの場合、アメリカからは引き揚げられたようだ。

 貿易の決済に広く使われてきたドルは紙製の印刷物にすぎず、いつ無価値になっても不思議ではない。ドルに依存した場合、アメリカからの金融攻撃に対して脆弱だということもある。ロシアや中国をはじめとする国々は現物の金を買っている理由はそのためだ。

 アメリカから自立するためにはドル体制から離脱する必要があると考える人は少なくない。そのひとりがリビアに君臨していたムアンマル・アル・カダフィだった。アフリカを自立させるため、金貨をアフリカの基軸通貨にしようとしたのだ。

 そのリビアをアメリカが主導する勢力が2011年2月に先制攻撃したが、フィナンシャル・タイムズ紙によると、その当時、​リビアの中央銀行が保有する金の量は少なくとも143.8トン​。リビア国内に保管していたという。

 ウィキリークスが公表した​シドニー・ブルメンソールからヒラリー・クリントンへ宛てた電子メール​によると、アメリカがリビアを攻撃した理由はその金と石油利権だったことを暗示している。

 2011年10月、カダフィが惨殺されたことをテレビのインタビュー中に知らされたヒラリーは「​来た、見た、死んだ​」と口にし、喜んでいる。バラク・オバマ大統領にリビア攻撃を強く迫ったのはこのヒラリー、そしてサマンサ・パワーとスーザン・ライスだったとされている。

 リビア侵略ではフランスが積極的だったが、その理由も通貨にあったと言われている。西アフリカや中央アフリカにはフランを使っている国があり、金貨ディナールが流通するとフランスのアフリカにおける利権が消失する可能性があった。

 2014年2月にオバマ政権はウクライナをクーデターで乗っ取ることに成功した。クーデターを実行した中心グループはネオコンであり、その手先はネオ・ナチ。

 クーデター直後の3月、​何者かがウクライナ政府の保有していた金のインゴットをアメリカへ秘密裏に運び去った疑い​が持たれている。

 その日、ポリスポリ空港に4輌のトラックと2輌の貨物用のミニバスが現れ、そこから40個以上の箱をマークのない航空機へ運び込まれたと報道されている。箱の中身は金だというのだ。車両はいずれもナンバー・プレートが外され、黒い制服を着て武装した15名が警戒する中での作業だった。

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃された際、攻撃されていない7号館も爆破破壊のように崩壊しているが、そこに保管されていた金塊も消えたと言われている。

 ソ連が消滅する直前、ゴスバンク(旧ソ連の国立中央銀行)に保管されている金塊2000トンから3000トンが400トン程度を残して消えたとも言われている。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ソ連消滅はアメリカ大統領だったジョージ・H・W・ブッシュを中心とするCIA人脈とソ連の情報機関KGBの中枢を占めていた腐敗勢力によって実行されたクーデター(ハンマー作戦)によると言われている。そうした背景があったので、30歳前後の若者がクレムリンの腐敗勢力、つまりボリス・エリツィンの周辺と手を組んで国の資産を盗んで巨万の富を手にすることができたわけだ。

 アメリカ支配層はベネズエラが保有する金塊も盗み出そうと狙っているはずである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201902020000/
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/109.html#c70

[近代史3] もうすぐ氷河時代が来る証拠 中川隆
6. 中川隆[-12502] koaQ7Jey 2019年2月02日 18:49:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


2019年2月2日
今世紀末、海面1・3m上昇も 共同通信


 地球温暖化による海面上昇が従来の予測を大きく上回り、20世紀末ごろと比べ今世紀末に最大1・3メートル上がる恐れがあるとした国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の特別報告書原案が2日、判明した。海面温度が一部で極端に高くなる「海の熱波」の発生頻度が増し、生物に大きな影響を与えるとの新見解も盛り込んでいる。

 温暖化に伴う海の変化が、社会や生態系が直面する問題を深刻化させるとも指摘。パリ協定が本格始動する2020年を前に温室効果ガスの一層の排出削減を求める声が高まるのは確実だ。

 判明したのはIPCCの「海洋と雪氷圏に関する特別報告書」原案。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html#c6

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
5. 中川隆[-12501] koaQ7Jey 2019年2月02日 20:10:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」
田中英道 『日本国史学』7, 2015
http://hidemichitanaka.net/?page_id=1124


はじめに

戦後最大の未解決の歴史問題として、周知のように「邪馬台国」論争がある。『魏志』の「倭人伝」による「邪馬台国」が果たしてどこにあるか、当時の日本の 正しい姿を伝えているかどうか、すでに千冊以上の本が書かれている、という(1)。日本の歴史家、歴史好事家たちがこれほどのエネルギーを費やしてきたこ とが、果たしてそれだけの成果があったか。これまで何も結論が出ず、いたずらにマスコミの期待感だけを掻き立てているまま固まった状態になっている理由は 何か。西洋の歴史研究の経験の上に立って日本の歴史研究を始めた私のような一歴史家にとっては、この未解決の状態は、日本の歴史家の国際的な、学問的レベ ルの問題にも関わっているだけに、放置できない問題である。

かつて評論家梅原猛氏は「邪馬台国」論争と並んで、「写楽は誰 か」論争は、日本 の未解決な歴史論争の双璧である、と書いていた(2)。その後、前者の問題については、私は『写楽は北斎である』『写楽問題は終わっていない』(3)を著 したが、この問題の解決に一石を投じたと考えている。その後、これに対する反論は一切出ていない。それで、というわけでないが、第二の難問をとりかかるこ とにした。最近、一連の「古代史」といわれる領域に私の研究をシフトさせているからである(4)。

ところで『魏志倭人伝』を韓国の学者が読むと、≪百済が日本を建 てた≫ということになるらしい。ジャーナリストの室谷克実氏の紹介によると、パクソンスという高麗大学名誉教授は、次のように言っている、という。

≪日本古代史は中国の史書、「魏志」倭人伝に至って初めて出てく る。それを見れば、倭人がどこにいたのかというと、韓半島の「帯方郡」(今の黄海道)から南へ降りて行けば韓国があって・・。また降りながら海を東南側に 行けば狗邪韓国(くやかんこく)に出る。倭人はすぐにそちらに住む≫(5)。

つまり、韓半島南側に韓国があり、さらに海を渡って日本となる が、そこにもうひとつの韓国がある狗邪韓国がある、と解釈している。日本の倭人を支配しているのは、この狗邪韓国だ、というらしい。日本には百済の分国、 すなわち植民地があったという。>

同教授がいうには、日本列島に渡った韓国人は百済人ばかりでな く、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)に人々がいた。朝鮮の最古の歴史書『三国史記』(一一四五年成る)には、このことは書かかれていな いが、日本には遺跡、遺物が数多くあって、それを証明しているという。日本のあちこちに国を建てた人々は韓国人であって、日本人は野蛮人で国を建てる方法 もしらなかった、と述べている。やっと国が建ったのは七世紀に過ぎない。百済が六六〇年に、唐・新羅連合軍の攻撃に敗れ、国が滅んだとき、多くの百済の王 族が舟に乗って日本に渡って来たのも、すでに百済がそこにあったからだそうだ。

『魏志』「倭人伝」の前に、「韓伝」があって、「卑弥呼」と同時代の朝鮮半島南部の状況を伝えており、そこでは韓族が馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三地域に分かれて住んでいたが、馬韓は五四の小国に分かれ、百済はその中のひとつに過ぎなかった。倭国はすでに邪馬台国で統一されていた、とされている。≪韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接すると書かれ、さらに弁韓、辰韓二四か国の一つである斯廬(しろ)国を挙げて≪倭と界を接するとし、朝鮮半島の南部は倭人の地である、と述べているのである。

「倭人伝」の方は、魏の直轄地である帯方郡から、倭国の中心に向かうルートとして≪海岸に従い水行し、韓国をへて、南し東し、その北岸狗邪国に至る。七千余里にしてはじめて一海を渡る。千余里にして対馬国に至る≫と記しているのである。

狗邪韓国は倭国の北岸にあたり、任那と同じ位置にあることになる。倭人も多かったであろう。「倭人伝」によると、倭国は列島だけでなく、朝鮮半島の南部にも広がっていたのである。「韓伝」で≪南は倭と接す≫と同じことを言っていることになる。

室谷氏は、韓国教授の誤読を難じているが、だいたい『魏志倭人伝』の記述は、もともとおかしいのである。これまでの日本の 『魏志倭人伝』論争を読んでも、どんな解読の仕方も可能な態をしていることを、考慮しなければならない。その読み方次第で、九州説、関西説がくりかえし論 じているのであるから、そのような「誇大妄想」の「古代史」を非難しても仕方がないのである。書かれた「距離」の想像性を見れば、最初からフィクションを 書くことを意図していた、と取らなければならない。中国では「歴史」がそのようなものだったのである。あくまで、それは多少の事実は書かれようとも、歴史 資料に値しなものであることを認識しなければならない。

実をいうと、それは『魏志倭人伝』だけではない。現在の歴史で あっても、同じことだ。自らの祖先たちの歴史を、「侵略」「虐殺」「奴隷化」などという言葉で、歴史の真意も事実も閑却し、また「終戦」を「敗戦」とわざ わざ変え、また「降伏」に「無条件」つけて絶対化し、「同盟」を「従属」か「植民地化」とするような、現在の日本の歴史家、評論家の自虐趣味、マゾヒズム は、やはり同じフィクションの類であって、そろそろそうした不自然な態度を改めなければならないのだ。

つまり、現今の中国、韓国のある種の政治的な「捏造」による「歴 史認識」問題の提起は、咋今にはじまったものではないのである。その根底には、隣国同士の「近親憎悪」の類があるものの、日本に対する批判や蔑視の言葉 に、日本自身に、他国に見られない感性があることに対する苛立ちがあることを知らなければならない。その日本の論理を、歴史の解釈にもちいるべきだと歴史 家が気づきはじめたとき、日本の歴史とは何かがわかるはずである。本拙論はそうした考察はそこから始まっている。

その隣国との歴史論争の根源に関わるものが、「邪馬台国」論争で ある。「邪馬台国」とか「卑弥呼」という蔑称が、いつの間にか、歴史用語になり、教科書にまで載せられるようになったこと自体が、日本の歴史家のレベルの 低さを示しているようである。単に言葉に鈍感だけでなく、歴史自体の取り組み方に対する鈍感さがあることは否めないのだ。歴史家も教育者もそれを受け入れ たことは、日本人の人の良さかもしれないがそれを歴史にまで及ばせる必要は全くないことである。

その証拠が「邪馬台国」がどこにあるか、という「所在地」論争が 未だ>に決着がつかないことである。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれているが、日本にやって来たわけでなく、伝聞で書いたものである (6)。何せ、『三国志』という膨大な歴史書のほんの一部としてかかれ、おそらく日本の記述などは、陳寿にとっては、正確に書くなどという意志は、ほとん どなかったことを認識しなければならない。その認識が欠けたのは、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた結果、日本の学者は、これを金科玉条のよう に信じようとしてしまったことによる。魏帝の詔の類も、他の資料が残されていないことをいいことに、そのまま認めてしまったのである。長らくその認識が踏 襲されたから、それは確認されたことであろうと思ったのである。

現在も、古墳や遺跡が発見されるたびにそれが、「卑弥呼」のそれ だ、とか、九州が関西かわかったとか、学界もメデイアが騒ぎ立てる。しかしどの主張者も、具体的な証拠を示すことが出来ず、歴史を変えることにならずに立 ち消えとなっている。逆に、「卑弥呼」伝説なり、何か関連のある神社や仏閣を探すことからはじめて、この言説が、最初から間違っているのではないか、と疑 わなければならないのである。

戦後、この「邪馬台国」論争が活発になり、これだけの歴史家が 『魏志倭人伝』に執着しているのは、第一に日本の「万世一系」の天皇家の歴史への批判精神が流行し、第二に「社会主義」中国に対する偏愛が始まって「中国 文献」至上主義によるものと思わざるをえない。それもマルクス主義史観の跋扈のなせるわざで、日本の歴史を、否定的に見る態度が固定してしまったからであ る。

しかし咋今の中国「共産党」主導国家の「歴史認識」に、虚構や捏 造がなされていることに気づくと、中国人の歴史観は、「卑弥呼」の時代から変わらなかったのではないか、と考えることが出来る。時の政府の政治観が、その まま歴史観になっていき、事実の分析から生まれるものではない、ということなのだ。それがマルクス主義史観のある本質なのであり、伝統や文化を蔑視し、他 国を軽蔑する史観となるのである。そのような歴史家の「虚構」体質が中国の歴史家自体の体質に備わっているといってよいかもしれない。

すでに拙著『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房)で指 摘しているが、この論考で、詳しく述べてみよう。この無駄な議論が続く限り、『記紀』否定が一方で続き、日本の歴史の根幹である天皇中心の真実の歴史を、 無視するような「歴史認識」が続くことになる。つまり何世紀もかかった不毛な論争をこれ以上、繰り返すことは、日本の歴史家の不見識を、世界に示している ことになるのである。

以下はこの結論を補強する調査結果である。

1 『魏志倭人伝』記述の不正確さ

「古代史」学者、上田正昭氏の「邪馬台国と纏向遺跡」という論文 で、この『魏志倭人伝』が三つのパートの分かれ、第一は誰でも疑う距離の記された土地名がどこであるか、の問題も解決しておらず、第二に風俗記事で、それ が≪有無するところ、儋耳・朱崖と同じ≫と書かれ、この二つの地名が海南島のものであることを指摘する。これは『漢書』の「地理志」の「儋耳・朱崖の条」 を引用したもので、著者の陳寿が、「倭国」の風俗を、海南島あたりと同じだ、と考えていただろうと推測している。また「倭国の大乱」ではなく、単に乱れた 後、部族たちが同盟して「一女」を立てたのではなく、嫡子の相続がないときに立てたという意味だ、と上田氏は述べている。「卑弥呼」が「鬼道に事(つか) えた」というが、この「鬼道」とは道教のことで、「卑弥呼」の「長大たるも」は年を取った女性ではなく、他の書の同語の解釈から、二十代後半から三十代の 女性だと述べる。第三の外交面では、三回の魏への派遣があり、魏や帯方郡からも「倭国」に三回も使節が来ていることを重視すべきだ、と述べている。『日本 書紀』では、日本側から行って使節があったことを記しているが、魏から日本のやって来た使節のことは何も記していないのである。ここにあるのは、陳寿の記 述がいかに不正確か、またいかなる解釈も可能になるか、ということである(7)。それより、重要なのは、「卑弥呼」伝説の日本に於ける存在の可否である。

私は『日本の宗教』(育鵬社)を書いていたときに、全国の神社を 調べていて「卑 弥呼」神社がないだけでなく、その異端の存在を示唆する土地の伝説がどこにもないことに気づいた(8)。平安時代の日本の神社を網羅した『延喜式』の神名帳を調べてみても、式内社で全国にまったく「卑弥呼」神 社の類がないのは当然であるにしても、式外社にさえ、ないのではないかと考えざるをえなかった。

最近、鎌田東二・京都大学教授らが共著で出した≪『記紀』に出て くる神々だけが神様ではない!≫と帯にうたった『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』(新人物往来社)を読んでも、一切、「卑弥呼」のことが 言及されていないのに驚いた。まさに「まつろわぬ」神の筆頭であるはずだが、言及されていないのである。『記紀』が葬った≪鬼道に事え、能く衆を惑わす≫ 「卑弥呼」は「異端」の神ではないのであろうか。民俗学方面の研究者には、最初から探す意図がないことがわかる。つまり「卑弥呼」神など存在しないことを 知っているのである。それなら、なぜそれを言わないのであろう(9)。

たしかに奈良時代の『記紀』や『延喜式』の時代に、そのことが記 されなくとも、今日、「邪馬台国」の信憑性が、学界でもマスコミでも確実だと思っているなら、その後の時代にもその伝承が残り、それを祀る神社や祠があっ ていいはずである。その面での追求を、最初から諦めていること、そのことが、この「邪馬台国」不在の証ではないのか。そんなに確信があるのなら、日本のど こかに、その伝説なり、神社なりを調査してもいいはずである。

「卑弥呼」神社でインターネットを開くと、鹿児島に、たったひと つの「卑弥呼」神社があることを示している。しかし、これが、なぜ無視されているのであろう。それは、この「神社」が、昭和五十七年に建てられた「捏造」 神社であるからである。かえって、いかに「卑弥呼」神話が最近の話であることを、証明しているようなものだ。神社脇に立っている「由緒」書きとやらを引用 しておこう。

曰く、≪中国の魏志倭人伝・古事記・日本書紀・延喜式等によれ ば、卑弥呼女王は日本建国最初の女王であったという。茲に有志相集まり卑弥呼女王の居城隼人・国分地区に神社が建設されたことに、誠に慶賀にたえない。天 照大神は卑弥呼女王がその原型といわれ、ローマ神話のヴィーナスでもある。私共は卑弥呼を縁結びの神としてあがめ日本国土の永久に安泰と発展を祈ってやま ない。昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫。

この郷土史家は、隼人に「卑弥呼」の居城があったと信じているら しい。多くの学者も、それぞれ主張しているが、さすがに神社までつくる自信がないのに、まさにこの郷土史家はそれを建ててしまったのである。何百年経て ば、これが証拠となる、とでも信じたのであろうか(10)。

この郷土史家の歴史の「捏造」は批判されなくてはならないとして も、昭和の最後に、はじめて「卑弥呼神社」がつくられたことに驚かなければならない。このことは、まさに、戦後の「邪馬台国」ブームとやらは、一般の日本 国民にとって、寝耳に水の話であったことなのである。全国に八万社以上ある神社にこれ以外に「卑弥呼」神社がないことを知らしめたといってよい。

日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、この ことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである。古墳があらたに見つかるたびに、これではないか、あれではないか、とメデイアが騒ぐ が、すでにその不在説は定まっていたのだ。その都度、何の確たる証拠が出ないのも、肝心な土地の神社や遺跡、伝承の類を、誰も見出すことが出来ないからで ある。三角縁神獣鏡だけが証拠のようにいうが、それとて「卑弥呼」を想定できる直接の証拠は出てきてはいない。

2 「卑弥呼」の墓、銅鏡について

全国で数十万古墳が造られたとされるが、義江明子氏は『つくられた卑弥呼』で「古墳に眠る女性首長」という項目で、各地の女性首長と思われる古墳の例をあ げ、その可能性を探っているが、さまざまな首長墳があっても、卑弥呼のそれ、といえるものを指摘しえないでいる(11)。

まず、纏向遺跡は、邪馬台国の候補地として有力視されている、と言われてきた。果たしてそうだろうか。纏向遺跡には、何ひとつ「邪馬台国」と思わせるもの はない。たしかに纏向遺跡は三世紀段階という古墳時代草創期の日本最大の遺跡であった。そして地元の奈良盆地だけでなく、全国さまざまな地域せ生産された 土器が発見される一方、農耕具などの出土が少ないところから、ここが日本列島における「都市の出現」の起点となったことは確かなものとなっている。このこ とは、日本統一がなされて最初の都であったこととなる。その「最古の古墳」とされているのが、纏向石塚古墳や箸墓古墳である。しかし≪倭国が乱れ、相攻伐 すること年を歴。乃ち共に一女子を立てて王と為≫った、卑弥呼の存在を思わせる証拠が見出されていないのが現状だ。

魏から百枚下賜された「卑弥呼の鏡」といわれるものがある。それが「三角縁神獣鏡」だとされ、それが現在、約五百六十面あり、鏡径が二十二センチ前後で一 貫している大きさである。橿原考古学研究所研究員の水野敏典氏は、最新の研究成果として、次のように語っている。

≪製作地論争に結論を求めるには、他の中国鏡や倭の同時期の青銅 製品の製作技法、弥生時代の銅鐸など三角縁神獣鏡以外に視野を広げて、時間的、空間的な青銅器生産における三角縁神獣鏡の技術系譜から探る必要がある。

「邪馬台国」がどこまで『魏志』に記載されたとおりに実在したのか、下賜された「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡がどのようにかかわるのか、まだまだ不明であ る。しかし、ほぼ同時期の銅鏡であることから「邪馬台国」の時代に生きた人々の姿を写した銅鏡という言い方はできるかもしれない≫(12)。

くわしく銅鏡の分析をしても、『魏志』の「銅鏡百枚」との関係は不明だ、としている。魏から遣使二人に、下賜された他の金・銀印、紫綬・青綬などが残って いないばかりか、もっとも蓋然性があると考えられてきた「銅鏡」でさえ、不明なのである。このことは深刻な問題である。つまり正直に言った方がいい。この 『魏志』の「倭人伝」は何の、「倭国」のことを具体的なものでなく、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない、ということであ る。極端なことをいうな、というかもれない。これから証拠が出てくるかもしれない、と抗弁されるかもしれない。しかし違う分野であるとはいえ歴史研究を50年以上やって来た私から言わせれば、絶対に出てこないし、こうした記録は、公式記録とはいえ、歴史という ものを、統治者の忠実に書紀として書かれたものではない、このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄である、ということだ。

邪馬台国九州説を称える研究者の中には、纏向で出土した土器の年代を百年近くの新しくみるべきだ、と述べるものもいるが、土器は古墳自身よりも後の時代だ というが、纏向の土器の年代を変えることは、他の膨大な土器の編年を考えると、無理だと、桜井市纏向学研究センター主任研究員の橋本輝彦氏が述べている。 「邪馬台国の最有力候補地として注目を集める纏向遺跡。長年の現地発掘調査から見えてきた真実とは何か」と副題に掲げられた同氏とのインタビューで、≪冷 静に考古学的な観点から考えると、箸墓が発掘されただけで、教科書を塗り替えるような大きな発見や成果があるとは思えません。卑弥呼が中国からもらったと いう「親魏倭王」の金印でも出てくれば別でしょうが(笑)、そういう可能性は極めて低い・・ここ数十年、学問としての考古学はかなり研究水準が上がってき ました。ひとつの古墳の発掘によって、大きな歴史が塗り替わるほどの余地はないと、私は思っています。≫と箸墓古墳の発掘現場の主任研究員がはっきりと述 べているのである(13)。

3 「卑弥呼」という名前について

『魏志倭人伝』は、男子の王が七、八十年続いた後に、何年か乱れ た末に、≪乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼を曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす≫と記している。ここで注目すべきは、≪一女子を立てて王 となす≫という表現の中に、あくまで男子と男子の戦いの後、卑弥呼が戦いに勝って王の地位についたわけではなく、その男子たちが「共立」して卑弥呼に 「王」を委ねた、という経緯があったことである。つまり戦争の勝利者よりも、巫女のような精神的な権威者を、世の中が必要とした、ということであろう(14)。

しかしその「卑弥呼」の「宮室・楼観を、≪城柵をもて厳かに設 け、常に人有り、兵を持ちて守衛す≫と述べている。ここには決して「共立」されて、安定した生活を送ったわけではない状態があったということだ。つまり 「王」となった以上、防御が必要になった、ということかもしれない。いずれにせよ、この存在は、権威的存在であって、戦いを制することの出来る権力的な存 在ではないことである。これは一見、天皇の存在に似ている。一方で摂政・関白に藤原氏のような実際に政治を執り行う勢力があって、その上に立つ、霊的な権 威の存在であったことである。

しかしこの女王の国は、倭国のひとつ「邪馬台国」であって、「倭 国」の島々がさらに別にあったことを記している。つまり天皇のように、倭国すべてを統一した上の「権威」的存在ではない、ということである。すると、これ 自体、決して、卑弥呼が「倭国」の「王」的存在ではなく、地方政権のひとつであったことになる。

女王卑弥呼が死亡してから、≪更に男王を立てしも、国中服せず。 更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる≫という記述も、この国において は、戦争で国を制するよりも、巫女の家系の子孫を人々が尊敬する、ということを述べていることになる。このような家系を奉るということ自体、『魏志倭人 伝』の作者が、日本の「天皇=スメラミコト」の存在を仄聞して、その精神的権威というものを、このような記述に変えた、と考えられるだろう。しかし、あく まで神武天皇以来の、「倭国」全体の権威を想定したわけではない。

私は学生であった頃、井上光貞東大教授の「国史」の授業を聞いた が、そのとき「卑弥呼」を「ひみこ」と呼ばす、「ひめこ」と呼ぶべきだ、ということを聞いた。氏の『日本国家の起源』にも、「ひめこ」というルビをふって いる(15)。しかしこの「ひめこ」と呼んだのは、江戸時代の九州邪馬台国説の始祖である本居宣長 である。そして井上教授の前の東大教授の坂本太郎氏が、「ひめこ」説を主張し、その根拠に、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』その他で、漢字仮名書き した人名や神名で「め」と発音すべきところに「弥」の字を使用されている例を数多く出しているからである。それに対し、原田大六氏は、これらの二つの文献 が、「め」という特別な読み方をすべき統一性をもっておらず、やはり「み」と読むべきことを主張している(16)。

いずれにせよ「卑弥呼=ひみこ」というもっともらしい名前から、 延々と論争がはじまったのである。そのもっともらしさとは、この名が「ひのみこ=日皇子」という『古事記』にも、『万葉集』にも出ている言葉と類似してい るからであろう。日皇子は、日の神の子孫であり、日のように輝く御子という意味で、天皇や皇太子、皇子の美称である。天照大御神の皇孫ニニギノミコトが高 天原から芦原中国に降臨した神話にもとづく表現である。≪高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして≫(2一六七)と、地上 への降臨と統治を一連のものとしてとらえている。天皇の神聖性を神話の起源に立ち返って確認し賛美することは、あたかも「ひみこ」の正当性を示しているよ うに錯覚させたのであろう(17)。

『万葉集』では、誰をさすか明らかでない例がある他は、その対象 は天武天皇とその皇子、天武の皇后であった持統天皇に限られている。その意味で、天照大御神の皇祖神化、伊勢神宮の創建、国家神話の体系化などを、あたか も「ひみこ」という言葉が予知していたように、真実性がある、と日本学者が感じてしまったからであろう。この「卑弥呼」が「日の皇子」であることは、万世 一系の天皇家を、疑わせるに足る史料として、戦後の学者たちにその捏造性も疑わずに、考察されつづけたことである。ここではっきり言えることは「卑弥呼」 は、「日の御子」を軽蔑した言い方であり、その関連は偶然のことであることだ。

4 「徐福」にも神社がある

題名に掲げたように、日本の神社の分布を細かく調べてみても、 「卑弥呼」神社がどこにも、見出せないのに気づく。むろん「卑弥呼」が「鬼道」で人を「惑わす」巫女であるから、神道の神ではない、ということも出来る が、「魏志倭人伝」で語られるような、ある「国」の支配的な「首長」的存在であるならば、鎮魂の意味でも、そこの地元の人々が祀らないはずはないのであ る。『記紀』に出てこない、人々に恐れられた神々、竜神、雷神、閻魔大王、鬼子母神、あるいは鬼の類であろうと神社がつくられている。後に検討するが、民 俗信仰にぞくする山姥、オシラ様等々の女神の中にも、「卑弥呼」らしい存在は見出せない。やはり最初から神々ではない、聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平 将門、崇徳院、楠木正成、新田義貞などの存在であろうと、神社に祀られているのである。どのような「卑弥呼」であっても、一度「王」となった存在は、記憶 に残されないはずはないのである。どこかの場所で言及されないはずはない。しかし「卑弥呼」もしくは、それらしい存在の痕跡は、一切神社にも、またお寺に も(仏教は六世紀以降、日本に入って来たものだから、これは当然かもしれないが)、見出せない。それは一体なぜであろうか。とくに『万葉集』にそれを推測 させる歌が一切ない、というのも「卑弥呼」「王」の不在をよく感じさせる。

同じ中国の史書、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列 伝」に書かれた物語から発した徐福の伝説は、日本に数多くの地方に残されている。神道の神でも日本人でもない、「徐福」のような人物でさえ祀られ ているのである。「卑弥呼」よりもっと前、「弥生時代」に秦からやって来たとされる伝説上の人物にも、徐福神社が各地につくられているのだ。「徐福」は決 して神とは言えないにもかかわらず、である。名高いのは新宮市の阿須賀の神社で、そこには立派な鳥居と共に、この異郷の人物を、神社の祭神にしているので ある(18)。

徐福ほど有名でなくとも、例えば、滅んだ百済から逃れてきた王 族、禎­嘉王が宮崎県の美郷町南郷区に、その子の福智王が約九十キロ離­れた木城町に住んでいたと­され、死後それぞれが神として祀られるようになっている。むろんこの百済の王たちも神道には関係がない。それ にも関わらず、百済王一族を慰めるために、「師走祭り」という例大祭さえ、地元で行われているのだ。例祭当日、村民が参加して父を祀る神門 神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現するという。これであっても、ただの伝承からう まれた神社であり、それに基づく例大祭が行われているのである(19)。

百済からでなくとも、新羅や高麗など、朝鮮から来た人々を祀る神 社もあることも知られている。「卑弥呼」が、「倭の大乱」があったあと、それを平定するために、その首長の地位についた存在であれば、どこかに神社か、祠 にその存在が記されているはずなのに、それが存在しない。また「卑弥呼」の宗女の台与も「王」となっているが、こちらもどこにも祀られている形跡はない。 よほど日本各地の地元の人々に憎まれていたのであろうか。しかし憎悪も、鎮魂の意味で、神社か祠かが造られるものである。

では「卑弥呼」とかその娘の「台与」とかが、日本名ではないから、別の名前で、どこかに祀られているはずだ、という学者もいるかもしれない。この関連が もっとも取沙汰されているのは、一番時代的に近いとされる神功皇后の存在である。

4 「卑弥呼」は神功皇后、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)であったか

『記紀』には、神功皇后は新羅征伐を率いた女傑、高度な霊威力を もった巫女の長、神の子応神天皇を生む母という姿から、≪鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす≫卑弥呼と重ね合されている。第十四代仲哀天皇の皇后であ り、応神天皇の母であることから、卑弥呼と匹敵する「王」の地位にあるのではないか、と。薬師寺の「巫女」王という姿から、邪馬台国の卑弥呼だといわれる こともある。

実際、『日本書紀』巻九の神功皇后三十九年、四十年、四十三年の 条の三カ所に「魏志倭人伝」から引用があり、六十六年には晋(しん)の『起居注』(皇帝の言行を記録した一種の日記)を引用して、皇后を「倭の女王」と記 している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫と書かれている(20)。

『古事記』には、仲哀天皇が熊襲を討つために神の託宣を受けたと き、≪天皇が琴弾き、大臣の武内宿祢が祭りの庭にいて神託をうかがった。すると皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神懸りして託宣した≫と書かれてい る。『日本書紀』にも、≪皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となられた。武内宿祢に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を呼んで 審神者(きにわ)(神託を聞いて解釈する人)とした≫という。このような伝説から、神功皇后は、「邪馬台国」の巫女王の「卑弥呼」をモデルにして生み出さ れたとさえ言われる(21)。

神功皇后は「鎮懐石伝承」として語られる異常出産(神の子を産む 神話的な表現)を行ったことでも知られている。新羅遠征中に子が生まれそうになったため、夢のお告げにより、卵形の美しい小石を二個、腰のところに着けて 呪いとし、出産を遅らせることを願ったという。筑紫国に凱旋してから、無事に御子(ホムダワケ命)を生んだ、とされる。妊娠から出産まで十五月かかったと いう。この出産の伝承は九州地方に広がっていた土俗的な母子神信仰ではないか、と推測されている。母子神信仰とは霊的能力の高い女性(神に仕える巫女) が、処女受胎して神の子を産むという考え方に基づいている。しかし「卑弥呼」自身は、子はなく、独身であり、こうした神功皇后の出産と関連づけることは出 来ない。

このような「卑弥呼」に近い存在として神功皇后の神話が書かれて いるにも関わらず、その鎮座地である香椎宮(福岡県東区香椎町)では、一切、「卑弥呼」も「邪馬台国」の存在も、その伝説にも、記録にも表れない。この香 椎宮が、もともと霊墓㙊神功皇后が新羅遠征をしたことにより、朝鮮や中国にある霊廟と して創建されたいう説もあるが、こうしたことも「魏志倭人伝」の様相を伝えるものは全くないのである。それはやはり神功皇后を祀った住吉大社や、石清水八 幡宮も同じである。神功皇后が「卑弥呼」を示唆する何も、その由来や祀られる神々の中にない。

明治時代に東京帝大の白鳥庫吉(一八六五−一九四二)が九州説を 唱え、京都帝大の内藤湖南(一八六六−一九三四)が畿内説を主張して、論争したことは、周知のことである。その内藤が、卑弥呼を、神を祀る役目を担った、 垂仁天皇皇女、倭姫命(やまとひめ)にあてはめたことがあった。しかしこの説も、伊勢に祀られた倭比売命を調べてみても、「卑弥呼」関係を思わせるもは何 もない。天照大神の鎮座地を探して、大和、近江、美濃を経て、最後に伊勢に入った経緯の中にも、その関係を示唆するものはない(22)。

ま た考古学者の笠井新也氏は、「魏志倭人伝」で「卑弥呼」の死に対して≪大いに 家(つか)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人≫と記されているのに対して、『日本書紀』が「崇神記」で、崇神天皇の叔母の倭迹迹日百襲姫(やまと ととひももそひめ)を葬った箸墓に関する≪日は人作り、夜は神作る・・大坂山の石を運びて造る≫という記述に着目し、箸墓の後円部の直径は百五十メートル で、魏の百四歩にあたり、箸墓の大きさと卑弥呼の墓とされる塚とほぼ一致する、という論を展開した。「魏志倭人伝」の「男弟あり。補佐して国を治める」の 「男弟」は、甥の崇神天皇である、と主張したのである(23)。

箸墓古墳がそれだ、という前に、この倭迹迹日百襲姫(やまととと ひももそひめ) という存在が、果たして「卑弥呼」と同一視できるかどうかについて、検討しておきたい。だが、この点については、すでに議論されていて、結論は否定的であ る。そのひとつ、原田大六氏のものを紹介しておこう。≪「魏志倭人伝」の卑弥呼に関する記事と、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫の記事を比較すると、その間 に共通する要素があるのを発見することができよう(24)。

(1) 邪馬台国の女王と倭の名称を持つ最高の姫。

(2) 鬼道に事える卑弥呼と天皇の請いで神憑りする姫。

(3) 奴婢百余人を殉葬した卑弥呼の墓と人と神でつくったという箸の墓。

しかし、以上のような共通点を指摘しても、なおしっくりしない。『日本書紀』には推古・皇極(斉明)両女帝の記述があり、神功皇后は天皇扱いで巻九に独立 させてある。卑弥呼は建国第一代の女王であったのだから、当然、倭迹迹日百襲姫女帝として出現しているべきであるのに、天皇の座についたという形跡は、 いっさい『日本書紀』には書いていないのである。この点に、「倭迹迹日百襲姫すなわち卑弥呼」という仮説を、承諾できない根元があるという。

また卑弥呼を日の御子とした場合には、倭迹迹姫も太陽の妻に近い太陽神祭祀に従事した女性として出てこなければならないのだが、彼女は出雲系の大物主の神 や倭国魂の神という話になってしまっていることである。これでは、日の御子という名の卑弥呼は倭迹迹姫ではないとさえいいたくなる。この倭迹迹姫の(1) 帝位についた形跡、(2)太陽祭祀の形跡、という二問題が解決されなければ、卑弥呼と倭迹迹姫との類似は、単にいくらか似ているというに過ぎなくなるおそ れが多分にある。

しかし原田氏は倭迹迹日百襲姫の名が、倭国の天界と地界を結ぶ、有翼の、たくさんの衣裳を持つ姫という意味であることから、『日本書紀』の中の存在では、 卑弥呼に一番近いと考えている。次の女王となった壱与についても考察を続けているが、それに近い存在として倭迹迹稚屋姫を挙げているものの、年齢の関係で 合わないので、その合一性の主張を断念している。

いずれにせよ、例え一番近い存在らしい、と考えられても、原田氏自身が投げかけた疑問を氷解させたわけではない。倭迹迹日百襲姫が、天皇でもないし、「卑 弥呼」が「日の御子」という太陽神信仰の持ち主であるという記述もない。二人は重ならないのである。

6 『風土記』の神々たちの中に「卑弥呼」の影を探す

「卑 弥呼」の存在は、中央の『記紀』の神々や家系に出てこないから、滅ぼされた地方の豪族にいたのかもしれない、と考えることが出来る。奈良時代には『記紀』 以外に各地の『風土記』が出されている。和銅六(七一三)年、朝廷は諸国の国司に、それぞれの土地の産物、肥沃度、山川原野の名前の由来、古老の伝える昔 の出来事などを記して、報告するように命じた。それが『風土記』であったから、「王」であった「卑弥呼」が、大和政権が列島各地に勢力を広めていく中で、 滅ぼされた土着の勢力の一人であったかもしれない。

そこで描かれている。代表的なものが「土蜘蛛」の名で伝えられる 部族たちである。「土蜘蛛」というのは、朝廷の側から見た蔑称であるが、その名の各地の首長の中に、何がしかの「卑弥呼」に関連するものがあってもおかし くない。とくに九州地方は、「卑弥呼」の存在が有力視されるだけに、そこになんらかの探す手立てがあるにちがいない。

豊後国(現在の大分県)の『風土記』には多くの「土蜘蛛」が登場 する。その名で呼ばれるのは五馬媛(いつまひめ)他七人、そのうち速津媛(はやつひめ)に密告されてほろばされた。≪此の村に女人あり、名を速津媛といい てその処の長たりき。即ち、天皇(すめらみこと)の行幸を聞きて、親自(みずか)ら迎え奉(まつり)て、奏言(もう)ししく、「此の山に大きなる磐窟(い わや)あり、名を鼠の磐窟といい、土蜘蛛二人住めり。その名を青・白という。また、直入(なおり)の郡(こおり)の禰疑野(ねぎの)に土蜘蛛三人あり、そ の名を打猨(うちさる)・八田(やた)・国摩呂という。この五人(いつたり)は、竝(ならび)に為人(ひととなり)、強暴(ちはや)び、衆類も亦多(また きわ)にあり。悉皆(みな)、謡(ことあげ)していえらく、「皇命(おおみこと)に従わじ」といえり。若し、強(あなが)ちに喚(め)さば、兵(いくさ) を興して距(ふせ)ぎまつらん」ともうしき。ここに、天皇(すめらみこと)、兵(いくさびと)を遣(や)りて、その要害(ぬみ)を遮(さ)えて、悉(こと ごと)に誅(つみな)い滅ぼしたまいき。斯(これ)に因りて、名を速津媛の国といいき。後の人、改めて速見の郡(こおり)という≫(25)。

これは景行天皇が熊襲征伐のために筑紫にやって来た時に、「処の 長」であった速見媛は、天皇を出迎えて、五人の土蜘蛛を滅ぼしてもらったことを述べている。速見媛という女性の「長」は、族長として「邪馬台国」の「長」 である「卑弥呼」に似ていないことはない。やはり戦いがあったのちに「長」となっている点である。しかし速見媛の場合、折から天皇の行幸に合わせて、争う 賊を殺してもらい、その国の「長」であることを確固たるものにした、という物語である。そして「卑弥呼」はあくまで、戦争のあと、「共立」されて権威者と して「王」になったのに対し、この速見媛は、権力者としての「長」としてふるまっている。『風土記』の「長」たちは、明らかに各国の権力者としての「長」 であるのである。

しかし「神」と化した「土蜘蛛」の例もある。景行天皇が熊襲征伐 から凱旋の途中で≪この郡(こおり)に幸でまししに、神あり、名を久津媛(ひさづひめ)という。人と化為(な)りて参迎(まいむか)え、国の消息(ありさ ま)を弁(わきまえ)申しき。斯(これ)に因りて久津媛の郡といいき。今、日田の郡(こおり)と謂うは、訛(よこなま)れるなり≫(26)。この女性首長は、人と化した「神」であるとされており、巫女的存在でもあったことを示唆している。

『風土記』の「土蜘蛛」の中に「卑弥呼」的存在と推し量れるもの が、見られないことはないが、しかしあくまで「すめらみこと=天皇」に従う形で語られる。みずから 「王」として独立的存在として語られることはない。このことは、播磨や出雲には「土蜘蛛」が一切語られていないことにより、そのような存在が近畿、中国地 方には存在しないことを物語っている。いずれにせよ、「土蜘蛛」の中には、「卑弥呼」的存在はない、と言ってよい。

その他に『風土記』には、『記紀』には存在しない数多くの女神が 登場する。女神が男の神と争い、勝つ話も多い。『播磨国風土記』では、讃容(さよ)の郡(こおり)の冒頭に、「妹背(夫婦)の神と田植え」の伝承に登場す るサヨツヒメ命(佐用都比売命)がいる。イワ大神(いわのおおかみ)とタマツヒメ命は、生きた鹿を捕らえてその腹を割き、吹き出た血を苗代として稲種をま いた、という。すると一夜のうちに苗が生えたので、すぐさまその苗をとって田に植えた。それを見て、夫の伊和大神は≪おまえは五月夜(さよ)に田植えをし まったのだな≫と、その奇跡的な田植えに驚き、土地争いをあきらめ去っていったという。土地の名前に、五月夜の郡とあり、鹿を切り裂いた山を鹿庭山とある のは、このせいである。この鹿庭山からは鉄が出て、人々は豊になったとされる(27)。

この田植えの競争に勝ったサヨツヒメ命の勝利は、鹿の呪力(じゅ りょく)と霊性をみごとに使ったからである。≪鬼道に仕え能く衆を惑わす≫という批判の裏にはこのような具体性があったからかもしれない。鹿の霊性と呪力 を使い、大地の豊穣性を引き出したわけで、それは他国の人から見ると「鬼道」に値するかもしれない。サヨツヒメ命の別名は「玉津日女命(たまつひめのみこ と)」であるが、この名からも神霊が依りつく巫女を神格化したものである。それは「卑弥呼」のシャーマニスムと対応するだろう。『風土記』は、八世紀の記 述とはいえ、それまでの各地方の伝承を伝えているから、そうした伝説が中国まで伝わっている可能性がある。ただこのような伝承の中の女神でも、兵庫県の佐 用郡佐用町に、都比売神社に祀られている。「卑弥呼」にはそれが存在しないのである。

『風土記』には、「卑弥呼」のような「王」の家系は語られておら ず、各地の女神の話が多い。例えば、名高い橋姫の伝説も、そうした女神の物語である。名前のとおり橋のたもとに祀られている女神であるが、川の神として知 られている。『山城国風土記』の逸文に、橋姫が懐妊してつわりになり、ワカメを欲しがったため、海辺に取りに行った夫が笛を吹いていると、竜神に気に入ら れて婿にされてしまったという。橋姫は夫を探して海辺の老女の家を訪ねて聞くと、竜神にさらわれたことを知って、家に戻った。しかし夫は竜宮で煮炊きした 食べ物を口にしなかったため(イザナミが黄泉の国から戻れなかったのは、あの世の食物を食べてしまったからである。黄泉戸喫(よもつへぐい)、この世に戻 ることが出来た。そして橋姫と一緒に暮らしたという。こうした伝説上の女神でさえ、平安時代の『古今和歌集』には「千早ふる 宇治の橋姫 なれをしぞ あ はれと思ふ 年のへぬれば」と詠われる。一方、「卑弥呼」が「日の御子」であったとしても、その伝説の歌はどこにも伝わっていないのである(28)。

『風土記』にも「聖母神」がいる。例えば、三輪山の神婚譚と同 じ、努賀毘売(ぬかびめ)の物語である。『常陸国風土記』に出て来るもので、常陸の「哺時臥(くれふし)の山」の話で、「晡持(ほじ)」というのは、申の 刻(午後四時頃)で日暮を意味する。ヌカビコとヌカヒメの兄妹が済んでいて、その妹のところに、素性のわからぬ男が求婚をした。ヌカヒメがその男と夫婦に なると、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだという。その小蛇は、明るい日中はただ黙するだけであったが、夜、母と会話をした。それを不思議に思ったヌ カヒコは、神の子と思い、坏(つき)(食器)に小蛇を入れて祭壇に安置した。すると一夜で成長し、坏に一杯になり、平か(皿)に入れ替え、その次に甕に入 れた。しかし異常に成長し、入れる容器もなくなったので、ヌカビメがその我が子に、もうこれ以上養育しきれないから、父神のところへ帰りなさいといった。 するとその子は、従者を一人つけてくれれば、母上の言葉に従いましょうといったという。兄妹二人しかいないので、それを断ったところ、怒りを爆発させ、雷 神の本性を露わにし、叔父のヌカビコを雷撃で殺して天に昇ろうとした。おどろいたヌカヒメは、我が子を養育した平かや甕を投げつけると霊力を失って、晡時 臥の山に残ることになった、という(29)。

「卑弥呼」はシャーマンであるが、何かの化身という示唆はない。 その精神的威力が、一体どこから来るか説明がないのである。しかし独身であることは、日本では女性の「王」が、あくまで男系の「王」の家系の中継ぎを意味 し、後の日本の女性天皇のような、存在に似てくる。無論、『魏志倭人伝』の時代には、そうした皇位継承の伝統がまだ知られていなかっただろうから、その説 明の配慮がないのも当然かもしれない。ただ、作者、陳寿が、倭国の実情をほとんど知らないで書いたものであることは、この『風土記』あるいは『日本霊異 記』にあるような、日本人と自然とむすびついた存在であることを、示唆するものがないことでもわかる。

7 「入れ墨」の記述について

『魏志』の「倭人伝」には、有名な「黥面・文身」(顔や体の刺青)についての記述がある。

≪男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている。昔から、その使者が、中国にやって来るときにみな自ら太夫と 称した。夏后少康の子が、会稽に封ぜられると、髪を切り、刺青をして魚、蛤を採っている。(その時に)刺青をして大魚や水禽を避けるのである。その後、し だいに飾りとするようになった。諸国では、身体に刺青をするのにそれぞれ差異がある。あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、 その尊卑にもそれぞれ差がある≫。

日本人がこれを聞くと、「みな」入れ墨をしていると、と誰しも思わないであろう。しかし『魏志倭人伝』を支持する学者 は、これについて余り抗弁していない。『記紀』に記されていないからこそ、貴重といわんばかりである。たしかに縄文土偶の姿の中に、あたかも入れ墨をして いるかのような姿(例えば遮光器土偶)が見られるが、それらは決して皮膚に刺青を表現したものではない。表面に凹凸があり、顔はむくみ、もしくは異形の表 現であり、身体はあくまで衣服の表現でしかない。入れ墨と考えることが出来る形跡は存在しない、と言ってよいであろう。しかし『魏志倭人伝』に記された時 代は、古墳時代であるから、当然人物埴輪にその可能性をみることができようが、埴輪は文様をもたないし、色彩表現が消えており、その可能性を探ることは出 来ない。畿内地方のみにある人物埴輪にそれを見る研究者もいるが、その人物埴輪の場合は、畿内に来た外来者の像と考えるべきであろう。本来の埴輪のあどけ ない姿は、埋葬者の霊性、神性を象徴化している、と考えられるから、入れ墨があったとは考えにくい。

その頃の畿内地方には入れ墨の習 俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、と考える方が正しいのである。『古事記』の「神武天皇紀」に記された、伊 波礼彦尊(いわれひこのみこと)(後の神武天皇)から伊須気余理比売(いすけよりひめ)への求婚使者としてやって来た大久米命の「黥利目・さけるとめ」(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須 気余理比売が驚いた記述があるからである。さらに、『日本書紀』には蝦夷が入墨をしているという記述があり、倭人の男性がすべて入れ墨をしていたということは、陳寿が「倭 人」を蔑視する材料に使っていると取るべきであろう。当時の中国では、入れ墨は刑罰の一種であったらしいからである(30)。こんな記述によっても、「邪馬台国」は本来の日本と異なる地域のことを言っていると考えるべきであろ う。要するに、この『三国志』の「倭人伝」は、陳寿のフィクションなのである。

8 民俗信仰、昔話の中に「卑弥呼」系があったか

たしかに『魏志倭人伝』では、山のことが書かれている。≪その 山には丹がある。その木にはクス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがある。その竹にはシノダケ、ヤダケ、カズラダケがある。 またショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、滋味があることを知らない。オオザル、クロキジがいる≫。丹というのは、山の赤土のことらしい。 またここに書かれたこれらの樹木、竹、猿は日本にあるから、あたかも日本の自然を述べているかに見える。しかし、もうひとつ踏み込んで、山に対する信仰が ある、ということは書かれていない。

日本の民俗神は多彩で、民俗信仰、民間伝承などで昔から伝わって いる女性神が多い。もし「卑弥呼」が、日本の歴史の中に残っているとすれば、その中に何らかの形であるはずである。とくに「卑弥呼」が「鬼道に事え、衆を 惑わす」「女王」の存在なら、言葉通り「鬼女」や「鬼婆」のイメージと一致するかもしれない。「女性の霊力」をまさに体現しているのなら、その女神信仰に 残るであろう。何せ、女性の「王」であるからだ。柳田国男が言うような、「妹の力」に似てくるかもしれない。姉妹が兄弟を目に見えない精神的な力で支配す ることをいうが、「卑弥呼」も弟がおり、統治を助けた、と述べている。二人の関係は、それと似ているからである(31)。

「霊性」と「魔性」を併せもつのであれば、「山姥」となるかもしれない。「山姥」は一方で「鬼婆」の名で呼ばれるのである。ただ「山」がついているから、 当然、山と関係した「山の神」となる。「邪馬台国」の「邪馬」も「山」と共通するであろう。そのような共通性からも、「卑弥呼」は「山姥」となってどこか に残されるかもしれない。深い山に住むのは、先祖の霊であり、神のはずである。そうした「山の神」は、里に降りてきて豊穣をもたらすという民間信仰になる 可能性もある。民俗学者の宮田登氏は、≪山の神は、女性神であり出産に関与する、多産の女神であるという民間伝承があり、山姥イメージがそうした山の神信 仰を背景にしていることは間違いない≫(32)。

しかし宮田登氏の研究にも、「卑弥呼」追求は見出せない。そのこ とは、「卑弥呼神話など、各地のどこにも見出せなかった結果であろう。氏ほど、各地を歩き調査した研究者であれば、何らかの「卑弥呼」神話を見出すことは 可能であったであろう。しかし氏程の民俗学者でも、それを見出してはいないのである。各地に伝わる一般的な山姥のイメージは、背が高く、白髪の長い髪で、 鋭く吊り上がった目、耳まで裂けた口の老女である。「卑弥呼」が本当に実在したら、そのようになった「山姥」がふさわしいかもしれない。「山姥」には人間 を食い殺す鬼婆という恐ろしい悪神的な一面があると同時に、幸運をもたらす善神(守護神)的な一面があるといわれる。山中他界に住む鬼女が登場する「山 姥」は、山中にさまよう女の怨念がこもって鬼女に化身するというものだが、「卑弥呼」の「鬼道」の中に、このような一面を想像しても的はずれではないかも しれない。日本各地の山中に住むというこのような「山姥」や「鬼女」「女怪」などには、「卑弥呼」がなってもいいであろう。しかし「山姥」になったかつて の女性の「王」はいないのである。

「邪馬台国」の≪習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、そ のたびに骨を焼いて占トをおこなって吉凶を判断し、あらかじめその結果を伝える。そのことばは、(中国の)命亀の法と同じである。ひびを視て、兆候を占う ≫とあるが、この占トは、日本でも亀や鹿の角で行うから共通しているといえるであろう。日本では中臣氏などの祖先は、占トを行って、吉凶を判断していたと いう。俗信では「オシラ様」が農業で、豊作を占う役割を演じていたことが知られている。東北地方の口寄せ巫女であるイタコが、その「オシラ様」を祀って祭 文を語り、人形神であるオシラ様を両手にもって空中に踊らせる所作をするのである。イタコは女性シャーマンで、「卑弥呼」と共通するが、「オシラ様」の由 来は、養蚕の神である。柳田国男の『遠野物語』の第六十九話で、長者の娘と馬のロマンチックな婚姻譚があるが、それは中国の『捜神記(そうしんき)』に由 来されるものという。しかし「卑弥呼」の記述には、彼女は人々の前には姿をあらわさない存在だし、養蚕神でもない。ともあれ『魏志倭人伝』の文章には現実 性がほとんど感じられない(33)。

女性神としては、航海の女神「オナリ神」が琉球王国に残ってお り、かっての琉球王国には、国王の姉妹か、王妃、叔母などが、最高の女神たる「聞得大君(聞こえおおきみ)となって、国王を守るオナリ神になったとう。 「卑弥呼」自身「王」となったから、この「オナリ神」とはならないが、しかし王妃がこのような存在となることは、女性が「霊力」が備わっている、と見なさ れたことでは共通している。女性が生まれながらにもっている神との感応する能力への崇拝があったことを示しているのである(34)。

琉球では姉妹のことをオナリ、もしくはウナリという。兄弟を守護 する「妹の力」を発揮しているのは、沖縄のオナリ神である。政務を司る弟がいる「卑弥呼」の存在は、オナリ神と同じ存在といえるかもしれない。ただ航海す る兄弟を守るオナリ神が多いから、そのような存在から「卑弥呼」の存在を想定したのかもしれないが、やはり「卑弥呼」はオナリ神とは言えない。

こうした霊力のある女神は「淡島様」と呼ばれる、女性の結婚、安 産、子育て、病気を治す神であったり、「瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)」とよばれる穢れを払う水瀬の女神などがいる。しかし女性の安産の神「納戸 神」「産泰神」、子育ての「姥神」、豊漁を祈る「阿波様」、春の女神「佐保様」、秋の女神「龍田姫」などの存在が各地で記録されているが、しかしどの女神 も独身の子供もつくらなかった「卑弥呼」の存在を由来として予想できるものはない(35)。

最後に琉球の「キンマモン」という女神について考えてみたい。こ れは「君真物」と表記される女神で、海の彼方からやって来て、最高神である聞得大君(きこえおおきみ)に依り憑く神である、という。「君」は神女のことで あり、「真」は本当であり、「物」は霊であるという。つまり偉大な神霊という意味だとされる。柳田国男は「君」は巫女で、「真物」は真の巫女を表すものと して、それが神そのものの呼称となったという。折口信夫によると「君」は後にきて「真物」君であって、真の神女ということになる。いずれにせよ、琉球の最 高女神ということになる。

袋中上人の著した『琉球神道記』には≪昔、人間がまだいなかった ころ、男神シチリキュと女神アマミキュが天から降臨して国をつくった。つづいて国王の祖先、神女の祖先、農民の祖先を生んだ。そうして竜宮(ニライカナ イ=海上楽土)から火がもたらされ、国が成り、人間が作り出された。このときに人間を守護する神のキンマモンが現れた。この神は、海底を宮とし、毎月出現 して託宣し、あちこちの拝林(御嶽うたき)で休んだ≫と書かれている。海上楽土から、人間を守るために女神がやってくる、という話だが、やはり「卑弥呼」 のような巫女なのである。「卑弥呼」を人々がキンマモンのように思ったからこそ、世の中が平定したとも考えられる。陳寿は、このような琉球女神のことを仄 聞していたのかもしれない。しかし、ただ巫女だけの類似とすれば、「卑弥呼」がキンマモンである、とは言えない(36)。

私はここで、能楽の女神物について触れておきたい。世阿弥は少 なくとも、能楽の起源が、『記紀』にある、天鈿女命の天の岩戸の前の踊りをその起源と考えた。

世阿弥の『風姿花伝』の第四「神儀にいふ」は、能の起源を次のように言っている。
≪申楽神代のはじまりといふは、天照大神天の岩戸に籠り給ひし時、天下常闇になりし に・・・神楽を奏し細男をはじめ給ふ。なかにも天鈿女の御子すすみ出で給ひて榊の枝に幣をつけて声をあげ、・・・神かかりすと謡ひ舞ひかなで給ふ≫とし、 天照大神が岩戸を開けて国土がまた明るくなったという有名な『記紀』の物語りの場面を≪その時の御遊び、申楽のはじめといふ≫としている。「卑弥呼」が≪ 鬼道に事え衆を惑わす≫行為が、こうした申楽のはじまりと無関係ではないように見える。≪衆を惑わす≫そのことが、演劇の元でもあるからだ( 37)。

能に「鵜羽」という巫女・女神物がある。日向鵜戸の岩屋で参拝してきた廷臣の前に、土 地の海人に化身した豊玉姫命の霊が現れる話で、鵜羽神宮の祭神、鵜羽葺不合命(うのはふきあえずのみこと)の誕生譚を姫の霊が語り、海彦山彦神話に出てく る呪物の満珠をめでて舞い、海中に去っていく、という能である。豊玉姫命といえば、海彦の娘であり、妹は玉依姫命である。「玉」とは「魂」であり、偉大な 霊能力をもった巫女のことでもある。「卑弥呼」が霊能力をもっている巫女であったから、その点できょうつうしている。「卑弥呼」の方は、一切係累を記して いないのは、作者がそうした知識を持ち合わせていなかったことを示すが、しかし『記紀』のこのような巫女・女神の存在を聞き知っていたのであろう。国の場 所を距離関係でくわしく述べる割には、土地の情報を全く持っていなかったということになる。無論その距離も陳寿自体の想像に過ぎないが。豊玉姫命は鹿児島 神社というれっきとした神宮に祀られている。場所と「王」である巫女の関係が日本では重要であることを、著者は何も知らなかったことになる。

「卑弥呼」の墓が箸墓古墳ではないか、と述べる考古学者も多いが、それならその近辺に 「卑弥呼」の祠なり神社なり、その伝承があるのか、誰も調べようとしない。無論調べても無駄だという諦めが先にあるからだろう。能には「三輪」という能が ある。三輪山の玄賓僧都のもとに毎日樒(しきみ)を届ける女性が、ある日、杉の木の下で待て、という。それに従うと三輪明神が現れ、三輪山伝説を語り、神 遊びをして舞った。この三輪明神が、「卑弥呼」のことを語れば、真実性を帯びてくるだろう。しかしそれは全くないのだ。もしくは室町時代まで語り継がれて おらず、消えてしまったのであろうか。『魏志倭人伝』には、日本の伝統に触れる記述がないのである。

9 『魏志倭人伝』の各地の記述を検討する

ここで『魏志倭人伝』で、各地の風習や文化を記述した部分を取り上げて検討しておこ う。口語訳は『倭国伝』(38)によった。まず対馬についてであるが、≪土地は山がちで険しく、深 林が多い。道路は鳥や鹿のけもの道のようである。千余戸ある。良い耕地は無く、海産物を食べて生活している≫と書かれている。この記述を読む限り、土地の 情報をもって書いたという部分がほとんど見出せない。海産物を食べて生活していることは、島国では常識的な事柄である。

一大国とか、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国など、どこを指すか、書かれた距 離が根拠を欠くために、九州だとか中国地方だとか、研究者によって分かれる。そのことは、記述自身に具体性を欠き、捏造という以外にない。さて邪馬台国に ついてからであるが、国の名前、戸数とか距離は、無視していいであろう。陳寿がどのような知識をもっていたか、だけの問題である。入れ墨のことはすでに述 べた。こうした習慣は東南アジアのことと考える以外にない。

≪その風俗は、乱れていない。男子は皆なかぶりものをつけず、木めんを頭にまいてい る。衣服は、横幅衣で、ただ結んで連続させているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は髪を結っているが、露出させている。衣は夜具の布のようで、その中 央に穴をあけて、そこから顔を出して着る≫。この記述が、誤りなのは、同じ時代の人物埴輪から見ても明らかである。男子はかぶりものをしているものが多い し、木綿を頭にまいていると思われるものは少ない。挂甲で身をかためた男子像も多いし、武器をもっているものもある。当時の男性は、帽子が好きだったらし く、さまざまな帽子をつけ、それがお洒落であったと考えられる。帽子には大きなつばのついた丸帽で飾りや彩色をほどこしたものもあった。むろん、みな縫っ た衣服を着ている。女性も被り物をし、髪を露出させているものは少ない。布の中央に穴をあけてそこから顔を出すこともない。盛装の場合は、髪型も凝り、首 飾りをしている。ここの記述は、すべて嘘なのである。

≪稲や苧麻を植え、蚕のまゆをあつめて織り、細い麻糸・絹織物・綿織物を作っている。 その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいない。武器には矛、楯、木弓を用いる。木弓は下を短くし、上を長めにする。竹の矢がらに鉄のやじり、 または骨のやじり(を用いる)。・・倭の地は温暖で、冬・夏には、生野菜を食べる。みなはだしである。部屋はあるが、父母兄弟は寝るところが異なる。朱丹 をからだに塗っている。中国で粉を用いているようなものである。飲食には高坏を用い、手で食べる≫。

ここでは稲作が行われ、麻、絹、綿の織物の技術が発達していることが述べられている。 ただ虎、豹はいないにせよ、牛、馬はいたし、乗馬の風習はとくに関東を中心に一般化されていたことがわかっている。武器には、甲冑に太刀、靭(ゆぎ)を背 負い弓を持つ姿が埴輪にある。温暖な地であることは確かだし、生野菜をたべていたが、はだしではなかったことは、埴輪でもわかるし、朱丹で体を塗ること入 れ墨同様、多くあなかったことだろう。

≪死んだときには、棺はあるが、槨はない。土を積み上げて家(つか)を作る。はじめ死 んだときに、十余日間、もがりをする。そのときには肉を食べない。喪主は大声で泣き、他の人たちは、行って歌い舞い、飲酒する。葬りおわると、家中総出 で、水中に行って洗い清め、練沐(れんもく)のようにする≫。棺はあったが、槨がなかったということはない。石槨が存在しているし、土を積み上げるが、墳 丘墓の規模は、箸墓古墳など、すでに巨大であった。大声で泣いたり、歌い舞うことは、日本の葬式では一般的ではない。葬儀後、洗い清めるのはいいとしても 水中に入ることはない。こうした風習は暑い東南アジアでは考えられることである。ここでも当時の「倭国」を考えても、現実的ではない。

海を渡って中国に行くとき、「持衰」(じさい)といって、≪髪をとかず、しらみをしり ぞけず、衣服が垢で汚れる、ままにし、肉を食べず、婦人に近づけず、喪に服している人のようにしておく≫ことが記されている。≪もし行く者が安全であれ ば、持衰に生口(奴婢)や財宝を贈る。もし病気になったり、暴風の害にあったならば、すぐにそれを殺そうとする。その持衰が謹まなかったためだと思うから である≫。この持衰という習俗は残酷な人質と思えるが、しかし当時の海上旅行の危険性を考えれば、ありうることであろう。『日本書紀』によると、ヤマトタ ケルが東征をしたとき、関東の走水の海(現在の浦賀水道)に至ったとき、海が荒れ狂い先に進めなくなったので、海の神の怒りを解くために、弟橘姫が、≪私 は夫である皇子の身に代わって海に入水します≫と念じながら、浪上に萱、皮、絁の畳それぞれ八枚を重ねた上に座り、入水した。すると波は穏やかになり、船 をすすめることが出来た、と伝えている。これと同じ役割を、航海する主人のために、家人の代わりに生口に依頼したのであろうし、品物を献じたのであろう。 ただこのような風習は、日本だけでなく、中国自身に存在した風習でもあっただろう。確かなのは陳寿が、持衰という漢語を使っているからである。

≪習慣として、身分の高い人はみな四、五人の妻をもっており、しもじもの家でも、ある 者は二、三人の妻をもっている。女性はつるましやかで、やきもちを焼かない。追剥やコソ泥がなく、争いごとも少ない。法を犯した者は、罪の軽い場合はその 者の妻子を没収し、重い場合は家族やその一族まで殺す。上下関係がはっきりしていて、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある。租税の とりたて制度がある。立派な家もある。国ごとに市場があり、物々交換をして有無あい通じ、これを大官に監督させている≫。

「倭国」には秩序がある社会である、という情報が入っている。やさしい女性の態度や、盗みや争いが少ない社会である ことや、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある、と書いているのは、他国の記述にない「倭国」の特色をとらえているといっていいだろ う。租税のとりたて制度があり、立派な家もあることは、安定した社会で、とくに国ごとに市場があり、物々交換をして、これを大官が監督しているという指摘 は、その当時の日本社会を知る上でおおまかなものであれ、貴重なものである。このことから窺えるのは、陳寿の類推は、日本に来たことはないが、多少の情報 はある、という提度であるということだ。

≪ 下戸が道路で大人と逢ったときには、後ずさりをして草の中に入る。言葉を伝えたり説明するときには、うづくまったり、ひざまずいたりして、両手は地面につ いて、キ恭敬の意を示す。答えるときには「噫(あい)」という。中国で「黙諾」(わかりました)というのと同じである≫。この礼儀の観察は、多少の誇張は あっても、間違えではないところを見ると、陳寿は、やって来た倭人の態度を見て感じたことを書いたように見える。

ともかく陳寿が倭国を想像しているだけの証拠としてこのような言葉を吐いている ことだ。≪倭の地理を参問するに、絶えて、海中、州島の上に在り。或いは絶え、或は連なり、周旋、五千余里可(ばか)りなり≫。つまりすべて「参問」 (人々に合わせ問う)しただけで、直接行って調べたわけでない。すなわち自分の想像だ、ということなのだ。

≪景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなとめ)等を遣わして(帯方) 郡に詣(いた)らしめ、天子(のもと)に詣(いた)りて朝献せんことを求む≫と書かれている。その後、この『魏志倭人伝』が示す、日本と関係する唯一の公 式文書が、魏の皇帝から「卑弥呼」に与えた詔書である。

詔書を読んでみよう。大夫の正使、難升米、副使の都市牛利らが、献上品の男奴隷 六人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を以て到着したことは書いてあるが、どうやら会っていないようなのだ。到着した二人の使者と十二人の奴隷自体の様子 を書いておらず、ただ「卑弥呼」に向けて、≪汝の住むところは、海山を請えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非 常に健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。 汝のよこした使い、難升米(なとめ)、都市牛利(としごり)は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中(そつぜんちゅう)、都市牛利を率善校 尉(そつぜんこうい)とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の 地のちぢみの毛織十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十四で、汝の献じて来た貢物にむくいる。また、その他に、特に汝の紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花 模様の毛織物五枚、白絹五十四、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米、都市牛利に持たせるので、着いた ら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜ったことを知らせよ≫。

次いで、≪正始元年(二百四十年)、帯方郡の太守、弓遵は、建中校尉梯儁(けん ちゅうこうていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭の国にもって行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の 賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた≫。

こ れまで長く、日本のことを長く「参問」して書いてきたなら、陳寿自身も、この洛陽までやって来た倭人使節について、あるいは献じられた倭人奴隷への関心 を、記してもいいはずなのである。次の倭人使節についても、≪正始四年(二四三年)、倭王はまた、大夫の伊声耆(いとぎ)・や邪狗ら八人を使いとして、奴 隷・倭の錦、赤・青の絹、綿入れ、白絹・丹木・木の小太鼓・短い弓と矢を献上した。夜邪狗ら八人とも、率善中郎将の印綬をもらった≫だけ書かれている。こ の二人の「倭人」の名前も蔑称として書かれている。≪正始六年(二四五年)、詔を発して、倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた ≫。『日本書紀』の著者は、中国の正史『三国志』に書かれているから、とそれを記したが、「倭国」側で、詔書も印綬も何の関心をもっていないことは何を意 味するのであろうか。それは倭の女王、「卑弥呼」に、日本人が何の関心もはらっていないことと関連するのではないか。

難升米、都市牛利という名の人物は、本当に倭からやって来た使節なのであろう か。正式使節の名をこのような蔑称で書く必要があっただろうか。たしかに『日本書紀』の神功皇后の条に使節のことを注で記しているが、そこでは、朝廷が 送った使節として書かれておらず、『魏志倭人伝』に書かれた使節として、他人事のように記しているに過ぎない。魏の皇帝の詔書は、この『倭人伝』で読んで いるはずなのに、一切触れていないのである。『日本書紀』の著作者は、その魏の皇帝の詔書を完全に無視したことになる。このことは、日本の朝廷が、この使 節を送ったものではないことを示していないか。『三国志』の「倭人伝」に残されている詔書を、信用していいのであろうか。陳寿の「倭国」への記述の流れの 中で、書かれたもので、それ自体、創作ではなかったのか。公式文書に、捏造の詔書などありえない、と日本の研究者は考えるに違いない。しかし陳寿の『三国 志』は少なくとも「倭人伝」に限っていえば、歴史記述ではなく、「倭国」を海南島方面を想像しながら書いた記述であり、そこには日本の歴史に、通底するも のはない、と言ってよいのである。

しかしこうした陳 寿の『三国志』の評価は、日本人が問題にしなければならないのは、まず≪中原に鹿を逐う≫精神が作りだした中国人中心の「歴史物語」であることだ。中原と は黄河の中下流域の平原をいい、周の王都がこの中心に位置していたことから、ここを取れば天下を手に入れることが出来ると彼らは考えた。それは同時に、彼 らのひとりよがりの世界観ともなり、中華意識となったことである。『三国志』に貫くのは、この中原を目指した三国の物語であったことである。そこには隣国 の日本の存在はその貢国のそれでしかなかったのである。周辺は朝貢国であり、蔑称であつかうべき取るに足りないのである。それは「邪馬台国」が、隣の狗奴 国とが仲が悪く、この時も魏が仲裁に入ったなどという記述にもよく出ている。日本人学者は、この二国がどんなものであるかも判断できないでいる。「邪馬台 国」の存在は、朝貢してきただけの存在であり、後は伝聞したわずかな知識によって組み立てればよかったのである。

(1)『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(2)梅原猛『写楽 仮面の悲劇』新潮社、一九八七年。

(3)拙著『写楽は北斎である』祥伝社、二〇〇一年

拙 著『写楽問題は終わっていない』祥伝社新書、二〇一一年

(4)拙著『「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、二〇一 〇年

拙著『天平「古典」文化とその時代』ミネルヴァ書房、二〇 一五年(予定)

(5)室谷克実氏の訳。『日朝古代史 嘘の起源』室谷克実監修、 宝島社、二〇一五年。

(6)陳 寿が一切、二三九年からの「邪馬台国」からの使節を知る立場になかったことは次の経歴からもわかる。その生年が二三三年であるからだが、しかし特別、「倭 国」を知る立場でもなかったことは、その経歴からもわかる。福井 重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』から簡単にたどっておこう。

陳寿(二三三〜二九七年)は、「魏」の明帝青龍元(二三三)年に「蜀」の巴西郡の安漢県に生まれ、字を承祚と云った。「晋書陳寿伝」によると、 若くして学を好み、同郡の先輩で「春秋公羊学」の大家しょう周に師事した。師からもその資質を称賛されたという。長ずるに及び「蜀」の朝廷に仕え、歴史編 纂の官吏である観閣令史(宮中図書係)に登 用された。「宦人の黄皓、專ら威權を弄し、大臣皆な意を曲げて之に附するも、壽(陳寿)は獨り之が爲に屈せず、是に由りて屡々譴黜せらる」と言われたとい う。
二六三年に「蜀」が「魏」に併合されたことにより、 陳寿は三一才の時に「魏」の首都洛陽へと移り住み、魏朝の文官となった。2年後、「魏」は「晋」に替わり、「晋」の皇帝の重臣として司空という土地.民事 を司る最高官の職にあるとともに大詩人でもあった張華によって引き立てられ、任官した。そして著作郎に登用されることとなった。この官職は、「魏」が初め て置いたもので、中書に隷属したが、晋朝では秘書に属し、国史を司るのが役目の職であった。
陳寿は、政敵「蜀」の名将諸曷亮の著作全集の執筆に取組みこれを上宰したが、その書において概ね諸曷亮を称賛する立場でこれを著述した 為、「魏」より発した「晋」王朝の史官としての御用性不忠が問われるところとなったという。こうして、陳寿を廻っての評価は二分されたものの、陳寿の史家 としての厳正な態度を証左しているものとして逆に名声を高める結果に帰着することとなったとされる。
こうしたときに、陳寿は「三国志」の作成を命じられることとなった。この時、官修の史書として魏には王沈(おうちん)の魏書、呉には韋昭 (いしょう)の呉書があり、私家の史書として魚豢の魏略があった。「三国志」は全部で六六五巻より成り、太康年間 (二 八〇〜二八九年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、 良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将であった夏侯堪(二四三−九一)も同じく同時代史「魏書」を書きあげていたが、≪陳寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む≫と述懐し たと云われているほどに、追随を許さぬ名著と評価されたという。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も正史として偶されるに値するとの評価を与え ている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。このような経緯からいっても、日本の中国崇拝学者が、その記述を信頼に値する と思い込んだのは無理からぬことである。
陳寿の晩年は、宮廷の派閥抗争に巻き込まれ、失意の中で「晋」の惠帝元康七(二九七)年に六五才でその生涯を閉じた。
陳寿の没後、梁州の人事院長官で皇帝政務秘書の范きん等の働きかけにより、『三国志』は晋王朝の公認の史書として正史の地位を得ることと なった。その上表文には、≪辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ≫という最大級の賛辞が書かれている。(福 井重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』早稲田大学出版部 二〇 〇六年。『正史 三国 志』 筑摩書房:ちくま学芸文庫全八巻、一九九二〜九三年)

(7)上田正昭『「大和魂」の再発見 日本とアジアの共生』藤原書店、二〇一五年。

(8)『日本の宗教』育鵬社、二〇一五年

(9) 鎌田東二他『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』新人物往来社、二〇一五年。

(10) ≪ 昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫と書かれている。

(11) 義江明子『つくられた卑弥呼 女の創出と国家』ちくま新書、二〇〇五年

(12) 水野敏典「三角神獣鏡を科学する」『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(13) 桜井市纏向学研究センター主任研究員、橋本輝彦氏のインタヴュー、遠山光都男監修『日本の古代遺跡』宝島社。

(14) 『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注・藤堂明保・竹田晃・影山輝国、講談社学術文庫、二〇一〇年。拙論の「倭人伝」の口語訳は本書によった。

(15) 井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、一九六〇年。

(16) 原田大六『邪馬台国論争』三一書房、一九六九年。

(17) 「ひのみこ」『万葉ことば事典』大和書房、二〇〇一年。

(18)秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不 老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の 命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出 し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があることから、日本に来たと人々は信じたのである。

(19)朝 鮮の『三国史記』によると、七五六年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後 に災害が続き民が飢えたことが記されている。また日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九 月四日(七五九年)条に、以下のように記さ れている。≪近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や労役の苦し みを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。それらの人々に再三質問して、帰国 したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように≫。こうした帰化人たちも、神社に祀られたのである。

(20)『日本書紀』巻九。神功皇后三十九年、四十年、四十三年の条の三 カ所に「魏志倭人伝」から引用。六十六年には晋(しん)の『起居注』を引用。皇后を「倭の女王」と記している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝 景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫とあるが、すべて「魏」や「晋」の文献からの引用で、『日本書紀』には神功皇后と の関連を思わせる記述は一切ない。

(21) 確かに『日本書紀』の著者は、「魏志倭人伝」を知っていたが、その記述から、神功皇后の祭祀王としての行状を考え出したとは思えない。あくまで、別個の人 物としか考えられない。

(22) 内藤虎次郎「卑弥呼考」『芸文』一ノ二〜四、明治四十三年。原田大六、既出。

(23) 笠井新也「卑弥呼の家墓と箸墓」一九四二年。

(24)原田大六「卑弥呼とは誰か」『邪馬台国論争』既出。

(25) 『豊後国風土記』速見郡条。

(26)『豊後国風土記』日田郡条。

(27)『播磨国風土記』讃容郡条。

(28)『山城国風土記』逸文。

(29)『常陸国風土記』哺時臥山条。

(30)設 楽博巳編『三国志がみた倭人たち魏志倭人伝の考古学』山川出版社、二〇〇一

(31)柳田国男『妹の力』角川文庫、一九七四年。

(32)宮田登「日本の「魔女」考」『日本を語るII 女の民俗学』吉川弘文館、二〇〇六年

(33)柳 田国男『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)原著は一九一一年。『遠野物語 増補版』郷土研究社、一 九三五年。

(34) 谷川健一『日本の神々』岩波書店, 1999年。

(35)戸部民夫 『日本の神々 多彩な民俗神たち』新紀元社。『神道大辞典』平凡社、昭和12年。縮刷復刻版、臨川書店、昭和44年

(36)丸中良定 著 明治聖徳記念学会 編 『琉球神道記』 明世堂書店、一九四三年。- 巻末 に袋中良定上人伝を掲載。伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編 『琉球史料叢書 第1』 井上書房〈琉球史料叢書〉、一九六二年。

(37)世阿弥の 『風姿花伝』第四「神儀にいふ」。

(38)『倭国伝』講談社学術文庫版、二〇一〇年、原本・学習研究社、一九八五年。
http://hidemichitanaka.net/?page_id=1124


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2018.12.25
【トンデモ】卑弥呼神社がないから卑弥呼はいない(田中英道|「なぜ卑弥呼神社がないのか」『日本国史学』7, 2015)
https://rondan.net/770

つくる会の歴史戦


田中英道氏は、2001年9月より「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」の会長を務めた保守運動の重要人物の一人です。そして現在では、小堀桂一郎氏、中西輝政氏、竹田恒泰氏らとともに「日本国史学会」という学会を立ち上げ、その理事についておられます。

このように田中氏は保守論壇による歴史戦のボスともいえる存在であり、彼の提示する「歴史」を知ることは、保守論壇の「歴史」の程度を知るうえで格好の目安になると思います。

そこで今回取り上げたいのは、田中英道「なぜ卑弥呼神社がないのか:日本のどこにも存在しない邪馬台国」(『日本国史学』7, 2015)です。

保守論壇における魏志倭人伝叩き

保守論壇の歴史戦において魏志倭人伝は否定的に評価されます。現代の歴史教科書では、最初に出てくる固有名詞はまさにこの魏志倭人伝にでてくる女王・卑弥呼であり、決して『古事記』『日本書紀』に出てくる天照大神や神武天皇ではありません。一方、戦前・戦中の歴史教科書は、記紀神話に基づいて、神武天皇から始まる皇室の系譜の正統性を説明するところから始まります。このように終戦を挟んで歴史教科書が様変わりした理由は、GHQが万世一系の皇室を重んじる神話的内容よりも、考古学的内容を重んじるように要請したためです。


関連記事歴史はどの様に語られるべきか:記紀神話・魏志倭人伝と歴史
2018年10月24日
ですから、東京裁判史観やらWGIPやらを主張し、戦前回帰を目指す保守陣営にとって、魏志倭人伝(しかも中国史書)が記紀神話にとって代わるというのは赦せないことなのです。田中氏も論文中で次のように率直に述べています。


戦後、この「邪馬台国」論争が活発になり、これだけの歴史家が 『魏志倭人伝』に執着しているのは、第一に日本の「万世一系」の天皇家の歴史への批判精神が流行し、第二に「社会主義」中国に対する偏愛が始まって「中国文献」至上主義によるものと思わざるをえない。それもマルクス主義史観の跋扈のなせるわざで、日本の歴史を、否定的に見る態度が固定してしまったからであ る。

第一の理由はまだしも、太字にした第二の「中国に対する偏愛が始まって「中国文献」至上主義によるもの」というのは田中氏による想像力の賜物でしょう。魏志倭人伝をめぐっては、戦前・戦後問わず熱心に論じられていました。まさかそれら諸研究者が、皆社会主義者とでも言い出すのでしょうか。

記紀が歴史書とて評価し難いのは、それが成文化され成立した時期(八世紀)が必ずしも古くないこと、そして上代天皇たちの記述が余りに神話的・空想的だからでしょう。一方の魏志倭人伝は三世紀末の成立であり、しかも歴史書として編纂され神話的・空想的な記述は僅かしかありません。

ゆえに上代日本を考察する史料として記紀よりも魏志倭人伝の信憑性が劣るというのは少々説得力がないわけです。すると、田中氏は論点をすり替えていわば人身攻撃で魏志倭人伝の信憑性を落とそうとします。


しかし咋今の中国「共産党」主導国家の「歴史認識」に、虚構や捏造がなされていることに気づくと、中国人の歴史観は、「卑弥呼」の時代から変わらなかったのではないか、と考えることが出来る。

かくいう保守の人種偏見や歴史修正主義のトンデモさを鑑みると、保守の歴史観もまた記紀の時代から変わらなかったのではないか、とも考えることも出来ますね。ともあれ、このようなイデオロギーに基づいたトンデモ理論でも用いない限り、魏志倭人伝を排除して記紀神話を歴史に復帰させることは出来ないのです。

卑弥呼の墓も、魏から送られた銅鏡もない

そこで何を思ったか田中氏は、魏志倭人伝に記された、卑弥呼の墓や、魏から送られた銅鏡が見つかっていないという点を指摘して次のように述べます。


つまり正直に言った方がいい。この 『魏志』の「倭人伝」は何の、「倭国」のことを具体的なものでなく、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない、ということである。極端なことをいうな、というかもれない。これから証拠が出てくるかもしれない、と抗弁されるかもしれない。しかし違う分野であるとはいえ歴史研究を50年以上やって来た私から言わせれば、絶対に出てこないし、こうした記録は、公式記録とはいえ、歴史というものを、統治者の忠実に書紀として書かれたものではない、このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄である、ということだ。

確かに卑弥呼のものと確定できる遺物は何一つとして見つかっていません。しかし、だからといって魏志倭人伝が「若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない」とか「このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄」というのは余りに極論過ぎます。

何よりおかしいのは、田中氏が史実性を主張する神武天皇をはじめとする上代の諸天皇だって、その墳墓はかなり後代に「発見」されたもの、言い換えれば「宮内庁の認定」を受けたものに過ぎないことを見落としていることです。確実に彼らのものと考古学的に確定される遺物・遺構は何一つとしてありません。したがって田中氏の言説に基づけば、記紀神話こそ、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値せず、このような資料は信用するに値しないし、論争するのも無駄ではないかとも評価できてしまうのです。

このように、魏志倭人伝の歴史性は信じないのに、記紀神話については信じられるというのは明らかに不可思議な論理構造でしょう。

卑弥呼神社はないので、卑弥呼は実在しない!

さらに田中氏の想像力は加速し、「卑弥呼神社」がないことを問題視します。


私は『日本の宗教』(育鵬社)を書いていたときに、全国の神社を調べていて「卑弥呼」神社がないだけでなく、その異端の存在を示唆する土地の伝説がどこにもないことに気づいた。平安時代の日本の神社を網羅した『延喜式』の神名帳を調べてみても、式内社で全国にまったく「卑弥呼」神 社の類がないのは当然であるにしても、式外社にさえ、ないのではないかと考えざるをえなかった。

なぜこれが問題視されるかというと、「卑弥呼が実在したならば、土地の伝説などとして記憶に残るはずであるから、それを祀る神社がなければならない」という田中氏一流の思い込みがあり、「卑弥呼神社が無いのは、卑弥呼が実在しなかったので、伝説にも土地の記憶にも残らなかったからだ」という理論を展開したいからです。


日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、このことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである。


やはり最初から神々ではない、聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平将門、崇徳院、楠木正成、新田義貞などの存在であろうと、神社に祀られているのである。どのような「卑弥呼」であっても、一度「王」となった存在は、記憶に残されないはずはないのである。どこかの場所で言及されないはずはない。しかし「卑弥呼」もしくは、それらしい存在の痕跡は、一切神社にも、またお寺にも(仏教は六世紀以降、日本に入って来たものだから、これは当然かもしれないが)、見出せない。それは一体なぜであろうか。とくに『万葉集』にそれを推測させる歌が一切ない、というのも「卑弥呼」「王」の不在をよく感じさせる。

まぁ伝承や言い伝えも実話を基にしたものが数多くあるでしょうが、神社や伝承の有無で歴史的実在性が決定される理論というのは余りに極論ではないでしょうか…。

『日本書紀』に引用される魏志倭人伝

このように神社が無いだけでその存在性まで否定されてしまった卑弥呼ですが、実際に『日本書紀』を読むと、@『日本書紀』に卑弥呼が言及されないとはまでは主張できないこと、そしてA「卑弥呼神社」が全く存在しないとまでは主張できないことが解ります。

なぜなら『日本書紀』の神功皇后の章では、魏志倭人伝が引用され魏に使節団が送られた旨が説かれているからです。つまり、『日本書紀』の編纂者は「卑弥呼=神功皇后」という関係で、その史実性を認めていたことが解ります。(宇治谷孟『日本書紀(上)』岩波書店, 1988, pp. 201-202)

よって次の点が指摘されます。
『日本書紀』には魏志倭人伝が引用される。そのなかで卑弥呼は神功皇后と同一視されている。鶴岡八幡宮や富岡八幡宮など神功皇后を祀る神社は数多く存在する。そして神功皇后陵は五社神古墳と認定されている。
よって記紀に基づく国史において卑弥呼(神功皇后)の記録が残されており、かつその神社、墓も残されている。「卑弥呼神社」がない理由は、「卑弥呼=神功皇后」に基づき、神功皇后として祀られていたからでろう。

したがって田中氏自身が歴史性を高く評価している『日本書紀』の中に、「卑弥呼=神功皇后」の関係が説かれています。にもかかわらず卑弥呼の歴史性だけは頑なに否定するというのは非論理的であると言わざるを得ません。

加えて、神功皇后(記紀によれば卑弥呼)を祀る神社は存在しますから、卑弥呼を祀る神社が存在するという理解も成り立ちます。しかし田中氏の論考は、このような視点を全く欠いてしまっています。

まとめ

このように田中氏の歴史観は、イデオロギーが強くにじみ出ており、客観的な結論を導き出そうという努力が全く認められません。論文には客観性が求められるにもかかわらず、現代中国人は信用できないから魏志倭人伝の編纂者も信用できないなどといった偏見と独断に満ちています。

まして記紀神話の歴史性を無批判に信じてしまうにもかかわらず、『日本書紀』に残された卑弥呼に関する部分だけは批判的に否定するという論調は説得的ではないでしょう。
https://rondan.net/770
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c5

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
6. 中川隆[-12500] koaQ7Jey 2019年2月02日 22:35:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]


「卑弥呼」神社は五万とあるよ(^_-)-☆ 2019-01-19
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/52512c6d888ffad07f8a5f0311dac737

なせ゛卑弥呼神社か゛ないのか
――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道

邪馬台国は存在しなかった : 勉誠出版
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X


の説明では、
『魏志倭人伝』を疑う

なぜ「卑弥呼」も「邪馬台国」も『魏志倭人伝』にしか登場しないのか?
作者・陳寿はどのようにして『魏志倭人伝』を書いたのか?
なぜ「卑弥呼神社」は存在しないのか?
戦後最大の未解決問題に決着をつける!


日本のリベラルの正体を暴いてくれた尊敬する田中英道先生には申し訳ないですが、このタイトルと著書の説明を見ただけで、あれ〜って感じがしますよ( ^)o(^ )

田中先生のブログ(エッセイ)の方にかなり詳細に内容が書かれていたので、それについて述べたい。(*^▽^*)

その前に、「魏志倭人伝」だが、このエッセイしか読んでいない方への予備知識として一言述べておくが、これは単独で存在する書物ではなく、「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人」の条のことを言う。約二千字の文章の中に三世紀の日本の様子がかなり詳しく書かれている貴重な史料だ。西晋の史官陳寿によって280年頃成立したと言われる。田中さんは陳寿の人物伝を(6)で 福井 重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』より引用しているが、肝心なことが抜け落ちているのだ。

それは何かというと、「三国志」を編纂した陳寿がどういう事情で編纂したのかについて触れていないからだ。

実は陳寿が一番書きたかったのが「魏志倭人伝」だったのだ。岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立社)に詳しくその事情が述べられているが、陳寿が編纂した頃の西晋の実力者で陳寿のパトロンだった張華の顔を立てるためだったのだ。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったとある。

西晋は265年に司馬炎(しばえん)が魏から帝位を禅譲されて建国した国だ。その祖父の司馬懿(しばい)が魏の将軍として大活躍し、実権を握っていたのでその孫が帝位を奪うことができたというわけだ。だから「三国志」は司馬懿の功績を大いに称えるために書かれたと言ってもいいのだ。「三国志」の中で魏・呉・蜀が対等に扱われたわけではなく、西晋の正統性を示すために、西晋の本になった魏の皇帝のみが正式であるとして本紀が書かれている。だが、呉と蜀はそれぞれ列伝扱いだから正式な皇帝とは認めていないのだ。

そこで「魏志倭人伝」で強調されたのは、司馬懿が魏の東側の一大勢力であった公孫氏を滅ぼして、それまで公孫氏に従っていた倭国を魏に朝貢させ、魏と敵対する呉を圧迫したという功績だったのだ。実際、正史に倭の女王の朝貢に対する大賛辞の詔勅が全文記載されているのだ。司馬懿はその大きな功績によって、魏の幼い少帝芳の補佐役として宮廷で実権を振るう地位を得た。だから、西晋の基礎を作った司馬懿は後に晋宣帝という諡まで贈られているのだ。

このような視点で「魏志倭人伝」を見直すと、従来の定説とは異なるものが見えてくる!

つまり、司馬懿の活躍した当時の部下であった帯方郡太守らも、倭国が郡から東南方向に一万二千里も遠く離れた、呉の東方海上に在る東夷の大国であったとしたかったのだとわかる。実際はそんなに距離があるわけではないのだが、遠く離れた倭国にまで魏の皇帝の徳が行き届いて朝貢したと言うことなので、朝貢させた上司の司馬懿の評価が高くなると言うことなのだ。だから、邪馬台国への里数や戸数なども倭国への魏使が誇大に報告し、それに基づいて陳寿が書いたと考えるのが妥当なのだ。(注1)

例えば、魏使が、現在のソウル付近に在ったと考えられる帯方郡から船で半島の西海岸を回ってせいぜい五百キロメートル程度の狗邪韓国(釜山付近)に七千里で着くと書いてある。シナの一里はどの時代も三百歩、約四百五十メートルと決まっているので(岡田、同掲書p.66)、七千里は約三千キロメートルとなり、実際の6倍もサバ読んでいるのだ。何故そうするかと言うと、司馬懿の前の魏の実力者で、病死した曹真が大月氏を朝貢させ、「親魏大月氏王」の金印を与えて、蜀を圧迫した功績があったから、司馬懿の功績はそれ以上だとしたかったからなのだ。だから司馬懿やその部下たちは邪馬台国が洛陽から一万七千里も離れた東夷の大国だとサバを読んで報告し、女王卑弥呼にも「親魏倭王」の金印を与えたのだ。陳寿はそれを意識して「三国志」に西域伝を恣意的に書かなかったことからも分かるのだ。

しかし多くの研究者が「魏志倭人伝」に限って一里を70m位とする短里を使っていたと考えることにより、二重のつじつま合わせをしている。自説に都合の良いように行程記事を解釈している訳だから、真実からさらに遠ざかることになり収拾がつかないのだ。

ついでに言うと、宇佐説を世に広めた富来隆氏が、「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国から東に一千里ほど海を渡ったところにまた倭人の国が在る)」という「魏志倭人伝」の記述が決め手だと指摘したのだが(「卑弥呼」学生社、1970,pp.187-190)、九州説であろうが、畿内説であろうが、自説に不都合なこの記述を平気で無視しているから、今まで邪馬台国の位置に関する説が乱立して全く確定されなかったのだろうね。(;´Д`)

だから、ここで一度「魏志倭人伝」の行程記事を横に置いて、女王国に対する政治的な思惑の少ない別の史料を頼りにすべきなのだ。5世紀の南朝の「宋」の范曄が編纂した「後漢書」は、Wikiに依れば、『東観漢記』、『後漢紀』をベースに以下の書物を参照して完成されたとある。

『後漢書』(呉の謝承)
『後漢書』(呉の薛瑩)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢書』(東晋の袁山松)
『後漢書』(著者不明)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『漢紀』(東晋の張璠)


特に、後の唐の章懐太子李賢の注釈に「華嶠の辞」などと書かれていて、流用した部分があり、全体構成も同一らしい。華嶠は陳寿と同僚であり、共に張華がパトロンであって、華嶠の「後漢書」も西晋の朝廷によって公認された史書だったようだが、残念ながら完本は残っていないようだ(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.91)。

「魏志倭人伝」の現存するものは12世紀の「宋」の時代の版本でしかなく、3世紀に作られた原本ではないのだ。

一方、范曄は、陳寿の時代かそれ以降に書かれた上の史書を参考としているので、現代の研究者とは比べ物にならないほど当時の韓や倭に関する知識を持って書いていると考えるべきなのだ。実際、「魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と書かれているが、范曄は「邪馬臺国」と書いている。いまだに「邪馬壹国」を探している方もいるようだが、どちらが正しいかは明らかだ。また、「魏志倭人伝」の「自女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」という記述を、范曄はその倭人の国を狗奴国と判断して「自女王國東度海千餘里、至狗奴国」と書いている部分は見逃せない。

狗奴国の場所が分かれば女王が都とする邪馬台国の場所が確定するのだ。

そこで、邪馬台国の最有力候補とされる纏向遺跡だが、水田跡が見当たらない弥生時代後期に作られた大規模な政治都市の遺跡だ。各地から搬入された土器が図のとおり分かっているが、大陸の玄関である北九州からの土器がないのだ。つまり、もしも纏向が邪馬台国であるならば、魏や帯方郡などの使者が伊都国に到着し、大率の指示によって女王への貢物が纏向に届けられねばならないのだが、その痕跡がない。それ以外に「魏志倭人伝」で書かれた物(鉄鏃、棺有って郭無しの墓)が纏向遺跡で見当たらないのだ。更に、建物跡は掘立柱の大型建物や住居であるので、北九州を除く各地の首長層が集まっていたとみられるのだ。

と言うことは、纏向遺跡は邪馬台国ではなく、邪馬台国と対立していた狗奴国であって、邪馬台国を滅ぼしたと考えれば、倭国を統一したヤマト政権が纏向遺跡で成立したという事実を支持するのだ。逆に、もしも纏向遺跡が狗奴国でもなければ、纏向でのヤマト王権の成立を説明できなくなるということだ。

纏向遺跡が狗奴国なので「後漢書」の記述から、女王国は瀬戸内海を西に一千里(約450キロ)渡ったところに在るということなのだ。つまり邪馬台国は宇佐だと范曄は確信して書いたのだ。「魏志倭人伝」では邪馬台国の南に狗奴国があると書かれていたので、「後漢書」は無視されてきたが、「魏志倭人伝」の方が間違いだったと范曄は判断したのだ。

「後漢書」の完成する少し前の421年に「倭の五王」の最初の人物「讃」が倭の都であるヤマトから朝貢したことを把握していたはずだから、范曄は倭人が狗奴国をヤマトと呼んでいたことを知っていたのだろう。

何故、狗奴国ヤマト(ゥ)の都を、狗奴国が滅ぼしたはずの邪馬台国(ヤマトゥ)と同じ名前にしたのかも范曄は理解したのだと思う(注2)。魏に朝貢した親魏倭王卑弥呼の跡に立った女王台与は、265年に西晋が建国されたその翌年に素早く朝貢していた。その台与の国を狗奴国が滅ぼしたと西晋に分かれば、敵対することになる。しかも280年には呉が西晋によって滅亡して三国時代は完全に終わったので、次は狗奴国が強大な西晋に追討される恐れがあった。そこで、多分南九州に逼塞していた台与の子をヤマトに呼び寄せて大王にしたのだと考えられる。つまり倭王の都は常にヤマトとすることにより、西晋とは母の代からお付き合いがあるということにすれば狗奴国が亡ぼされる危険がなくなるからなのだと推理できる。これによって「大和」と書いてヤマトと呼ぶ謎も解けるのだ。

そして、邪馬台国が宇佐に在ったなら台与の子が、ズバリ宇佐神宮に祀られている八幡神=応神天皇だということが分かる!

だから、応神天皇の母親の神功皇后の正体も女王台与と判明する。豊(トヨ)の国という地名とも符合する。

そうすると、宇佐神宮の二の御殿が最も豪華なのだが、一の御殿の八幡神=応神天皇と三の御殿の神功皇后=台与の間に祀られている比売大神とは一体どなたなのだろうか?

宇佐神宮の由緒書では地主神と言うことだが、天皇やその皇太后よりも格上の人物だ!

天照大御神か?

ブッブ〜、女神アマテラスは伊勢神宮で祀られて、宇佐神宮との関係は不明だ!

記紀神話でアマテラスとスサノヲの誓約(ウケイ)によって生まれたことになっている宗像三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)だと宇佐神宮の由緒書にもしっかり書かれているんだ。三女神は確かに天孫族なのだが、どうして邪馬台国のある宇佐の地で手厚く祀られるのだろうか?

ヒント、台与はどなたの宗女だった?

答えはもう分かるよね(*^▽^*)

比売大神=宗像女神こそ邪馬台国の卑弥呼だったのよ(^_-)-☆

日本書紀や古事記や風土記には宗像三女神の降臨した場所について幾つも説があるように書いてある。「日本書紀」の「一書の三」に「葦原中つ国の宇佐嶋」に降臨したとあり、宇佐神宮の由緒では南に在る御許山(おもとやま)と書かれているが、いくつかの山に囲まれた標高647mの御許山では宇佐嶋という表現は当たらない。島と言うからには周りに水が欲しい。実は宇佐市安心院(あじむ)町の盆地の西側の台地(三柱山)に三女(さんみょう)神社という三女神を祀る古い神社があり、そこが降臨地だという伝承がある。

安心院の地名の由来だが、「かつて安心院盆地は巨大な湖で、葦の生い茂った土地という意から、この地が葦生、「あじぶ」「あじむ」と呼ばれるようになったとも、また八幡大菩薩が各地遊化の途中、18番目に行幸したのが比淘蜷_の故地、都麻垣(宇佐宮八摂社の1つ妻垣社)で修行の時、ここで利生を語り合い、安楽の御心を得られたため、安心院といったとも言われる。」【角川日本地名大辞典】

三女神が降臨した三柱山が宇佐嶋という表現にぴったりだ。

刮目天は、2世紀後半の(第一次)倭国大乱期に宗像の姫が、宗像大社のある海に面した土地では物騒なので、宇佐津から駅館川を遡った山あいの安心院盆地を見渡す三柱山に疎開してきたと考えた。つまり宗像=不弥(うみ)国から安心院=野麻(やま)国(和名類聚抄より)に匿われて、姫の御心を安んじたという故事が地名の由来だと思う。邪馬台はヤマ国に住まう女王と言う意味なんだ。

そして、帥升(正しくは師升)王の一族の倭王(伊都国男王)が、敵対勢力である旧奴国の王族のひとつ宗像海人族を懐柔して宗像の姫卑弥呼(ひめこ)をシャーマンとして、神のお告げにより政治を行うことにしたのだろう。卑弥呼は太陽神を祀り、海事の吉凶を占う巫女なのだ。半島の東南部の海岸で豊漁や航海の安全を祈願するために祀られている海娘神が宗像女神の原型だろう。

実は、宗像大社に「ムナカタの子がスミヨシ、その子はウサ」と言う伝承がある。スミヨシは海を治める住吉大神であってスサノヲのことだ。父はイザナギだ。ということは、母イザナミが宗像海人族ということになる。ウサは宇佐の八幡様だから応神天皇のことで、父はスサノヲと言うことではなくスサノヲの直系の人物だということだ。さらに住吉大社には「仲哀天皇のモガリで神功皇后と住吉大神が夫婦の密事をした」という伝承がある(関祐二「海峡を往還する神々」PHP文庫、2010、pp.187-188))。

皇后のそばにいつも付き添って居たのは武内宿禰だ。実は応神天皇は仲哀天皇が父親ではなく、スサノヲ直系の武内宿禰が本当の父親だと重大な真実を暴露したものなのだ。そして神功皇后は狗奴国ヤマトから邪馬台国討伐に派遣され、倭国の女王となった台与なので、武内宿禰は狗奴国の官狗古智卑狗(=久々遅彦)のことで、倭国を支配した出雲の大国主だということだ。

「日本書紀」は真実を隠すために、時代も名前も違う人物を登場させて、同じような事績を記す癖があると関祐二さんが指摘している。初代天皇である神武天皇は280年頃祭祀王に即位した応神天皇のことなのだが、大王位を譲ったのは、本当のハツクニシラススメラミコトの崇神天皇だ。帥升王に多分殺害された第18代奴国王素戔嗚尊スサノヲの跡に奴国の大王を引き継いだ天照大神尊ニギハヤヒが吉備を平定して力を蓄え、その直系の大王が狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ)崇神天皇であり、物部氏の祖なのだ。

「日本書紀」がひた隠しに隠す日本建国の真相が明らかになったのだ。

「日本書紀」は通説では壬申の乱に勝利して即位した天武天皇の正統性を主張するために書かれた現存する最古の正史と言うことになっているが、天武天皇は完成前に崩御してしまった。そこで、優秀な皇子を差し置いて皇后鵜野讃良(うののさらら)皇女(天智天皇の皇女)が即位した(持統天皇、687年)。その子の草壁皇子を即位させる予定だったが、すぐに薨去したので(持統天皇3年、689年)、697年孫の軽皇子を14歳で即位させたが(文武天皇)、そのことを正当化するために持統天皇自身を女神アマテラスとして、天孫降臨神話を創作した。

しかし、703年に崩御するとコンビの藤原不比等(中大兄・鎌足コンビの再来)が藤原氏に都合の良いように書き換えたようなのだ。藤原氏の正統性を主張するために、日本建国の真相を隠し、真に貢献した(真)天照大神尊ニギハヤヒの一族である物部氏の功績を抹殺した。同時に父鎌足の蘇我氏暗殺を功績として主張するために、蘇我氏を徹底的に悪人とした。蘇我氏が聖徳太子の子山背大兄王一族を殺した大悪人とするために、聖徳太子を大聖人とする話も創作したのだ(聖徳太子の事績は蘇我氏のもののようだ)。

これが現存する日本最古の正史と言われる「日本書紀」のメインテーマなのだ。

建国当時の有力氏族の伝承を強権で集め、編纂に携わった舎人親王と百済出身の史官等はシナの史書も読んでおり、日本建国の真相を理解した上で、神話に閉じ込めてしまった。そして日本書紀完成後、朝廷は神話で登場した神々を全国のゆかりの神社で祀るように命じて、すでに祀っていた祭神の名前の変更や個々の神社の祭神を寄せ集めて記紀に沿った神社伝承を作る大事業を行ったようだ。(注3)

それでも、当時の人々は天変地異による災害や天然痘などの伝染病が、不幸な死に方をした高貴な人々の怨霊が原因で起こるのだと信じて、祟りを怖れ、ゆかりの神社で手厚く鎮魂の祈祷して、朝廷は神階や位田などを加贈した。実は、それによって歴史の真相が垣間見られることになる。神話ではヤマト建国に貢献して、何ら祟りを人々に与える理由のない神に対しても、逆に異常なほど神経を使っている様子から、実は祟られる理由が朝廷側にあったことを隠しているのだと分かるのだ。

例えば、神功皇后は熊襲征伐から三韓征伐を行い、そして応神天皇を即位させるために仲哀天皇の皇子らと戦い、呪術によって彼らを破っている話になっている。ところが、祟るはずのない神功皇后が祟ったという記事がのちの文献に出ているのだ。「続日本後記」承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条には神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれていると関祐二さんが指摘している。つまり神功皇后は実際はヤマト王権によって殺された倭国女王台与だと分かるのだ。

また祟るはずのない宗像三女神が祟ることが「日本書紀」にあるのだ。

履中天皇五年春三月一日、筑紫においでになる三柱の神(宗像三神)が宮中に現れて、「何故わが民を奪うのか。お前にいまに恥を与えるから」といわれた。しかし祈祷だけを行って祀ることをしなかった。(宇治谷孟、全現代語訳「日本書紀」講談社学術文庫、p.258)。九月十八日に天皇が淡路島で狩りをされた際、島においでになったイザナギの神から部下の入れ墨の傷の血の臭いが嫌だと言われたり、それ以降良くないことが天皇の周りで次々に起きて、結局翌年三月十五日崩御された。宗像三神が履中天皇に祟った怖い話は「日本書紀」中の原因以外に元々、祟られたヤマト王権側に負い目が有ったと言うことを意味するのだ。つまり、狗奴国ヤマト勢が北部九州の倭国討伐に向かった頃、247年3月24日の日暮前に倭国で日食が観測された。そのために政治の実権を握っていた伊都国男王によって卑弥呼が殺されたと考えている。結局狗奴国ヤマトによって倭国が滅ぼされた。恨みのある狗奴国ヤマトの大王が卑弥呼を粗末に扱ったので激怒して祟ったと人々は考えたのだろう!

朝廷は神々の祟りを畏れるので、各地の神社の祭神にも律令制において定められていた正六位から正一位までの位階が、食封や位田と一緒に朝廷から贈られた。そこで、親王・内親王の位階である品位(ほんい)が贈られた特別扱いの神が四柱あるのだ。

Wiki「神階」に依れば、六国史終了時点の品位(ほんい)の一覧は以下のとおりだ。ただし、神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名。

一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比盗_ (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)

皇祖神である伊弉諾尊の一品は全く問題ないが、第15代応神天皇や宇佐神宮の比盗_(宗像三女神)や第7代孝霊天皇皇子で四道将軍のひとりである吉備津彦にだけ品位が贈られているのは謎だったのではないだろうか。応神天皇が初代神武天皇、宗像三女神が卑弥呼(ひめこ)、そして吉備津彦が(真)天照大神尊ニギハヤヒだということであれば、品位(ほんい)が贈られるべき最重要人物だと誰でもが納得できるだろう。刮目天の仮説が正しいことを朝廷が告白してくれたのだと思う。

「卑弥呼」神社というそのまんまの名前の神社ではなく、宇佐神宮をはじめとする全国に4万社余りあると言われる八幡神社に比淘蜷_として卑弥呼(ひめこ)は祀られている。また、宗像大社は各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神卑弥呼(ひめこ)を祀る神社の総本社だと言われている。

卑弥呼は日本建国に関係する最も重要な人物の一人として、尊崇されてきたことが分かる。

卑弥呼の本名は不明だが、三女神の一人である市杵嶋姫命が主神で、他の二人の女神は真相を隠すために「日本書紀」編纂時に創作され、その後も各地の神社伝承を作って訳が分からないようにしたのだと考えている。神仏習合も宇佐神宮のご祭神に始まり、市杵嶋姫命は弁財天とされた。

と言うわけで、卑弥呼(ひめこ)は日本全国五万社で祀られているんだよ。(^_-)-☆

ちなみに、卑弥呼の墓も見つかってるよ(^◇^)

https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/52512c6d888ffad07f8a5f0311dac737
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c6

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
7. 中川隆[-12499] koaQ7Jey 2019年2月02日 23:28:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
>>5
なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道


>7 「入れ墨」の記述について

>『魏志』の「倭人伝」には、有名な「黥面・文身」(顔や体の刺青)についての記述がある。

≪男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている。昔から、その使者が、中国にやって来るときにみな自ら太夫と 称した。夏后少康の子が、会稽に封ぜられると、髪を切り、刺青をして魚、蛤を採っている。(その時に)刺青をして大魚や水禽を避けるのである。その後、し だいに飾りとするようになった。諸国では、身体に刺青をするのにそれぞれ差異がある。あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、 その尊卑にもそれぞれ差がある≫。


>日本人がこれを聞くと、「みな」入れ墨をしていると、と誰しも思わないであろう。
>その頃の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、と考える方が正しいのである。

>『古事記』の「神武天皇紀」に記された、伊波礼彦尊(いわれひこのみこと)(後の神武天皇)から伊須気余理比売(いすけよりひめ)への求婚使者としてやって来た大久米命の「黥利目・さけるとめ」(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須 気余理比売が驚いた記述があるからである。

>さらに、『日本書紀』には蝦夷が入墨をしているという記述があり、倭人の男性がすべて入れ墨をしていたということは、陳寿が「倭人」を蔑視する材料に使っていると取るべきであろう。当時の中国では、入れ墨は刑罰の一種であったらしいからである(30)。

>こんな記述によっても、「邪馬台国」は本来の日本と異なる地域のことを言っていると考えるべきであろ う。要するに、この『三国志』の「倭人伝」は、陳寿のフィクションなのである。

これも田中英道さんの妄想ですね。

田中英道さんは日本人は単一文化の民族(倭人=縄文人)だと思い込んでいるのですが、実際には


縄文人
狩猟採集民
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江からの渡来人(倭人)
稲作漁労民
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける、銅鐸の祭りを行う

朝鮮からの漢民族系渡来人
商人
中国鏡を神体とする太陽信仰


の三つの民族から構成されています。


魏志倭人伝に描かれた倭人の風俗というのは長江人の生活様式を正確に描写しているのです:


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。


共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。
http://sawyer.exblog.jp/7178292/


▲△▽▼


倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832



▲△▽▼


巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm



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天皇一族は漢民族で、朝鮮でも日本でも支配階級だったので、倭人と呼ばれていた稲作漁労民の長江人を支配して働かせていたのです。

それで魏志倭人伝に出て来る一般民の風俗は倭人と呼ばれていた稲作漁労民の長江人のものなのですね。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c7

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
8. 中川隆[-12498] koaQ7Jey 2019年2月03日 00:25:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
>>5
>なぜ卑弥呼神社がないのか――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」 田中英道

>3 「卑弥呼」という名前について


>「卑弥呼=ひみこ」というもっともらしい名前から、 延々と論争がはじまったのである。そのもっともらしさとは、この名が「ひのみこ=日皇子」という『古事記』にも、『万葉集』にも出ている言葉と類似してい るからであろう。

>日皇子は、日の神の子孫であり、日のように輝く御子という意味で、天皇や皇太子、皇子の美称である。天照大御神の皇孫ニニギノミコトが高 天原から芦原中国に降臨した神話にもとづく表現である。≪高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして≫(2一六七)と、地上 への降臨と統治を一連のものとしてとらえている。天皇の神聖性を神話の起源に立ち返って確認し賛美することは、あたかも「ひみこ」の正当性を示しているよ うに錯覚させたのであろう。

>卑弥呼を日の御子とした場合には、倭迹迹姫も太陽の妻に近い太陽神祭祀に従事した女性として出てこなければならないのだが、彼女は出雲系の大物主の神や倭国魂の神という話になってしまっていることである。

>これでは、日の御子という名の卑弥呼は倭迹迹姫ではないとさえいいたくなる。

>この倭迹迹姫の(1) 帝位についた形跡、(2)太陽祭祀の形跡、という二問題が解決されなければ、卑弥呼と倭迹迹姫との類似は、単にいくらか似ているというに過ぎなくなるおそ れが多分にある。

>倭迹迹日百襲姫が、天皇でもないし、「卑弥呼」が「日の御子」という太陽神信仰の持ち主であるという記述もない。二人は重ならないのである。


田中英道さんが知らないだけで、太陽信仰は縄文人には無いのですが、倭人(長江人)にはちゃんと有るのですね:

華南長江流域で太陽の信仰

諏訪春雄通信 13
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm
 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm


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諏訪春雄通信 14
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa14.htm 


「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。 
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諏訪春雄通信 15
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長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。
今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。

 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。


1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)

2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 

3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ

6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)

7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)

8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)

9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)

10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)

    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、

(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、

(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、

(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、

(4)稲魂は新旧交代する、

(5)稲は人々の生命力の根源である、


など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
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諏訪春雄通信 18
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 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
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[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
9. 中川隆[-12497] koaQ7Jey 2019年2月03日 00:28:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
続き


長江流域の稲作民族であるトン族の人たちは 稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっている


諏訪春雄通信10
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

9月21日(金曜日)午後5時から、この通信での予告どおり、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。

平日の夜、しかも雨という悪条件にもかかわらず、用意した席をすべて埋めつくすほどの、多数の聴衆がつめかけられ、2時間の私の報告を最後まで聞いてくださいました。ありがとうございました。熱心なご質問をいただいた方々にもお礼を申します。

今回の通信は、当日の報告のなかから、日本との関わりで注目されることをぬきだしてのべます。

中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c9

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
10. 中川隆[-12496] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:05:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
続き

諏訪春雄通信 19
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。

そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。


そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。


1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。

B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。

C.日神であるアマテラスの冬至神話である。

D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。

E.大祓の儀礼の性格をもつ。


 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5

2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16

3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16

4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15

5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13

6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c10

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
11. 中川隆[-12495] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:12:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
続き


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm


諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c11

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
12. 中川隆[-12494] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:41:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

諏訪春雄通信


2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


V 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族

遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。

犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

雲南省トールン族

洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

      


天皇の来た道 (9)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 W 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路

@ 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。

A このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

B しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

C このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。

D このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 稲作の起源地と日本への伝来

浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。


アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。

 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html


  X アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


@水田を作り新嘗祭を主宰している。

A最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。

『日本書紀』

@アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

Aスサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

B天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

C第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。

アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。

『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。

高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html   


天皇の来た道 (11)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

天皇の来た道 (12)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


 Y 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。

中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。

信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html

天皇の来た道 (13)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html


  Z アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。

1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書

アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説

@アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)

Aタカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。

Bアマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。

タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。

宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年


中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。

この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html

天皇の来た道 (14)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。

毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c12

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
166. 中川隆[-12493] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:42:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

>>153 の続き


諏訪春雄通信


2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


V 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族

遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。

犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

雲南省トールン族

洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

      


天皇の来た道 (9)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 W 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路

@ 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。

A このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

B しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

C このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。

D このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 稲作の起源地と日本への伝来

浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。


アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。

 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
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  X アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


@水田を作り新嘗祭を主宰している。

A最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。

『日本書紀』

@アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

Aスサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

B天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

C第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。

アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。

『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。

高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html   


天皇の来た道 (11)
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2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

天皇の来た道 (12)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


 Y 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。

中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。

信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html

天皇の来た道 (13)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html


  Z アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。

1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書

アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説

@アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)

Aタカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。

Bアマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。

タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。

宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年


中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。

この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html

天皇の来た道 (14)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。

毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c166

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
13. 中川隆[-12492] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:50:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

以上で、田中英道さんが学説と称しているものはすべてトンデモであるのが明らかになりました。

田中英道さんはパラノイアというより単に IQ が低くて論理的思考が全くできないというだけでしょうね。

まあ、恵まれた環境と暗記力さえあれば、学歴だけは一応見栄え良くできるという事でしょう。

問題は、こういうアホを帝国大学の教授にまでした大学の人間なんですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c13

[近代史3] 弥生人の鳥信仰と太陽信仰

弥生人の鳥信仰と太陽信仰


日本は多民族国家で


縄文人
狩猟採集民
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江からの渡来人(倭人)
稲作漁労民
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける、銅鐸の祭りを行う

朝鮮からの漢民族系渡来人
商人
中国鏡を神体とする太陽信仰


の三つの民族から構成されています。


魏志倭人伝に描かれた倭人の風俗というのは長江からの渡来人(倭人)の生活様式を正確に描写しています:


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魏志倭人伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm


普平陽侯相 陳寿 撰

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」

 倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。


從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」

(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
(注/梁書倭伝「乍開乍閉」=開いたり閉じたり)


始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

 始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。


又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。」

 また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、また(対海国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。


又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之
「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

 また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。


東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
「東南陸行。五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。」

 (末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。


東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
「東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。」
 
 (伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸が有る。


東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」

 (奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。


南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」

 (不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。


南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」

 (投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。


自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。」

 (ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。


其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
「その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。」

 その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。


男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)
「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」

 男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。


其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
「その風俗は淫ならず。男子は、皆、露紒し、木綿を以って頭を招(しば)る。その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。」

 その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。


種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「禾稲、紵麻を種(う)え、蚕桑す。緝績して細紵、縑、緜を出す。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。兵は矛、盾、木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃。有無する所は儋耳、朱崖と同じ。」

 稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。


倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
「倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。食、飲には籩豆を用い、手食す。」

 倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。食飲には、籩(ヘン、竹を編んだ高坏)や豆(木をくり抜いた高坏)を用い、手づかみで食べる。


其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐
「その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。始め、死して喪にとどまること十余日。当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。」

 人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは(白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。


其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
「その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。若し、行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧す。若し、疾病が有り、暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。」

 その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイが慎まなかったというのである。


出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
「真珠、青玉を出す。その山には丹有り。その木には枏、杼、橡、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香有り。その竹は篠、簳、桃支。薑、橘、椒、襄荷有り。以って滋味と為すを知らず。獮猴、黒雉有り。」

 真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、?(楺櫪)、?(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。


其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 
「その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。」

 その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。


其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
「その会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。」

 その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。

(裴松之)注…魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
「魏略(*)いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。」《*/「魏略」…魏の歴史を記した書、現存しない》

見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年
「大人を見て敬する所は、ただ搏手し、以って跪拝に当てる。その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。」

 大人を見て敬意を表す場合は、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。


其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差序足相臣服
「その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは、二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すに、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸、宗族を没す。尊卑は各(それぞれ)差序有りて、相臣服するに足る。」

 その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。


収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」

 租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。


自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」

 女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。


下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠る。これが恭敬を為す。対応の声は噫と曰う。比して然諾の如し。」

 下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。貴人の返答の声は「アイ」という。比べると(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。


其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。」

 その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。


女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」

 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。


参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。」

 倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。


景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰
「景初二年六月、倭女王は大夫、難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守、劉夏は吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都に詣る。その年十二月、詔書が倭女王に報いて曰く。」

 景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。


制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
「制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。

 制詔、親魏倭王卑弥呼。
 帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。


正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩
「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に
拝仮す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔恩に答謝す。」

 正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。


其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬
「其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。」

 その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。


其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
「其の六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授す。」

 正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた。


其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之
「其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。」

 正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。


卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。」

 卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。


壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
「壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。」

 壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm


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1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。


共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。
http://sawyer.exblog.jp/7178292/

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鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

[近代史3] 弥生人の鳥信仰と太陽信仰 中川隆
1. 中川隆[-12491] koaQ7Jey 2019年2月03日 11:32:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

華南長江流域で太陽の信仰

巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm

▲△▽▼


諏訪春雄通信 13
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm
 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm


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諏訪春雄通信 14
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「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。


2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。


3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。


4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。


5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。 
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諏訪春雄通信 15
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長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。
今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。

 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。


1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)

2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 

3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ

6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)

7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)

8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)

9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)

10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)

    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、

(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、

(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、

(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、

(4)稲魂は新旧交代する、

(5)稲は人々の生命力の根源である、


など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。


2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。


3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。


4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。


5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
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諏訪春雄通信 18
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 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
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長江流域の稲作民族であるトン族の人たちは 稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっている


諏訪春雄通信10
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9月21日(金曜日)午後5時から、この通信での予告どおり、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。

平日の夜、しかも雨という悪条件にもかかわらず、用意した席をすべて埋めつくすほどの、多数の聴衆がつめかけられ、2時間の私の報告を最後まで聞いてくださいました。ありがとうございました。熱心なご質問をいただいた方々にもお礼を申します。

今回の通信は、当日の報告のなかから、日本との関わりで注目されることをぬきだしてのべます。

中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。
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諏訪春雄通信 19
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 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。

そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。


そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。


1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。


A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。

B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。

C.日神であるアマテラスの冬至神話である。

D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。

E.大祓の儀礼の性格をもつ。


 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5

2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16

3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16

4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15

5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13

6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19


 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。
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諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm


諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm



12. 中川隆[-12494] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:41:07: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
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諏訪春雄通信

2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


V 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族


遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。


犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。


雲南省トールン族


洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


      

天皇の来た道 (9)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 W 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路


@ 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。


A このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。


B しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。


C このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。


D このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。


 稲作の起源地と日本への伝来


浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。

アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。


 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html


  X アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


@水田を作り新嘗祭を主宰している。

A最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。


『日本書紀』

@アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

Aスサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

B天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

C第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。

アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。


『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。


高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html   

天皇の来た道 (11)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html


天皇の来た道 (12)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


 Y 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。


中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。


信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


天皇の来た道 (13)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html


  Z アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。


1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書


アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説


@アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)


Aタカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。


Bアマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。


タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。


宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年

中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。


この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html


天皇の来た道 (14)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。


毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html#c1

[近代史3] 縄文人の蛇信仰 中川隆
4. 中川隆[-12490] koaQ7Jey 2019年2月03日 11:37:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

神社の鳥居は縄文人の信仰とは全く関係無い

鳥居の起源は長江の稲作文明


吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html


▲△▽▼

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336

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神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html


第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/200.html#c4

[近代史3] 東漢氏の遺産「祓いの神道」

東漢氏の遺産「祓いの神道」


梅原猛は、その著

「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)
https://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087491161


の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html


【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/209.html

[近代史3] ユダヤ人がヨーロッパ人に嫌われる様になったのは白人女性を性奴隷としてイスラム教徒に売る商売で稼いでいた為

ユダヤ人がヨーロッパ人に嫌われる様になったのは白人女性を性奴隷としてイスラム教徒に売る商売で稼いでいた為

奴隷貿易をしていたユダヤ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68402119.html

ヨーロッパ人に隠れてユダヤ人が


(左: 映画ジュー・スース / 右: お金を握ったユダヤ人の風刺画)

  奴隷制は昔から何処にでもあった。古代バビロニアとかエジプト、アッシリア、ギリシア、ローマを調べれば、奴隷を使っていない方が珍しい。日本人は太平洋を隔てたアメリカの黒人奴隷ばかりに目を向けるが、すぐ隣の朝鮮や支那を見ようとしない。李氏朝鮮では奴卑など至る所にいたし、支那では皇帝が支配する人間すべてが奴隷だった。天子を補佐する「宰相」とは、もともと料理を作る罪人という意味で、皇帝の召使い程度。さらに酷いのが「民」という言葉。「針で目を潰された奴隷」という意味で、盲(めくら)になった無知蒙昧の小人(しょうじん)に相応しい漢字である。法律で「奴隷制」をつくらずとも、支那の民衆は端っから搾取の対象である。支那皇帝にとり、天然奴隷は野生動物と同じで、使い捨ての家畜で殺そうが食べようが、ご主人様の勝手。漢籍を学んできたはずの日本人は、これを子供に伝えないなんて、論語読みの論語知らずと一緒である。西歐の奴隷制ばかりに注目する日本人は、学校教育における情報操作に気づいていないのだ。アメリカの黒人奴隷に詳しくても、ロシアの農奴をコロっと忘れている日本人が如何に多いか。奴隷と平民の区別が曖昧なアジアの方をもっと勉強すべきである。(ロシアはスラブ系だけど、モンゴル系アジア人と考えた方が理解しやすい。)

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(左: 相談するユダヤ商人 / 右: 家奴隷商人の集会)

  奴隷貿易の代表格といったら、ヨーロッパ人を思い浮かべるのが普通の日本人である。しかし、そのヨーロッパの奴隷商人をよ〜く調べてみると、異質な顔つきの商人がいるから驚きだ。それは何とユダヤ人の奴隷商であった。またもやユダヤ人なので、ブログを書くのが嫌になってしまう。しかし、一般の日本人が知らないのは、大学教授どもが怠慢だからだ。給料貰っているくせに、手垢のついた講義ノートを何十年も使っている低能教授が居坐っている。文系学部の教授を全員クビにして、学生が個別にお金を払って講義を選べるようにすべし。そうすれば少しは大学が良くなるだろう。落語の寄席みたいに厳しい実力主義にしないと、大学教授は更生しない。名前だけ立派な林家こぶ平(最近は「正蔵」)の落語なんて誰も聞きに行かないだろう。海老名の母ちゃんだけが張り切る寄席なんて恥ずかしい。話を戻すと、ユダヤ人は昔から奴隷貿易に携わっていたという事実がある。これは余り語られない歴史である。

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左: 白人奴隷を見定めるイスラム教徒
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/3/6/3643e756.jpg

右: 白人女性を取り押さえる奴隷商人
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  ユダヤ人とは元々、メソポタミア文明の地、つまりカナンとかパレスチナという地域に住んでいた民族である。バビロニア帝國やラムセス2世のエジプトで奴隷になっていたユダヤ人は有名だ。チャールトン・ヘストン主演の映画『十戒』を観た日本人も多いだろう。奴隷狩りや奴隷貿易など当り前の世界に住んでいたのだから、ユダヤ人だって奴隷貿易に従事していても不思議ではない。アラブ商人がアフリカ人や東欧のスラブ人捕虜を売り買いしていたように、ユダヤ人も黒人や白人、その他諸々の民族を扱っていたのだ。ユダヤ教徒はどのような食材を用いて料理をするかとか、如何なる方式で礼拝をするのかを厳しく定めているが、奴隷も厳格な戒律に則って扱っていた。強烈な宗教を持たない日本人はユダヤ人の掟を理解しづらい。彼らと違って、日本人は食べ物で宗教的タブーがないから、食材を感情で選んでいる。支那人なら机は喰わないが、人間、犬・猫、トカゲ、熊、猿、ダンボールを食べてしまう。食材にタブーなし。しかしさぁ〜、“胎児のスープ”は残酷というか、気持ちが悪くて見るのも嫌だよね。それと、子供の小便でゆでた卵は、臭いがキツくてちょっと食えないな。隣の朝鮮人も、変な物を食べている。犬肉のスープは有名だけど、クズ野菜を漬け込んだキムチを自慢するなんて貧乏くさい。世界に誇るキムチだってさぁ。でも、朝鮮人はキムチなら鼻くそ入りでも食べるんじゃないか? (あっ、違った。日本人観光客用でした。しかも、食べ残しを日本人に出すとは ! )

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(左: 小便に浸かったゆで卵 / 右: 食品に唾を入れる朝鮮人)

  ここでちょっと、ユダヤ教の戒律を紹介したい。天主(神様)は穢らわしい食べ物を預言者モーセに告げたという。たとえば、禿鷲、鳶(とび)、カラス、みみずく、コウモリなどを挙げている。(レビ記11章13-19節) こんなの禁止されなくても日本人なら食べない。でも、支那人なら肉団子にして、廃棄油で揚げれば一丁出来上がり。(髪の毛で作った醤油をかけて日本で販売したりして。) 他にも、もぐらネズミ、ヤモリ、大トカゲ、カメレオンは汚(けが)れた爬虫類とされている。(11章29-30節) これらの生物をまさか食べないと思うが、見るからに気持ち悪いから汚れていると分かる。また、神様はモーセに漏出(ろうしゅつ)による穢れを告げたそうだ。尿道の炎症による漏出がある人は汚れている。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合は汚れているそうだ。(レビ記述15章2-3節) そして、漏出した人が乗った鞍や衣服、または彼に触れた人は汚れているという。(15章6-10節) 現在の日本なら差別となり大問題になってしまうが、ユダヤ教の社会だと今でも当り前の戒律なのだ。でも、どうやって見分けるのか不思議。まさか、「お前怪しいから、パンツ脱げ」とは言えないだろう。やはり医者に診せた時、周囲の者に暴露されてしまうのかな?

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(左: 赤ん坊のペニスを調べる聖職者/右: 割礼の手術を受ける少年)

  生活の隅々にまで宗教的戒律が徹底しているユダヤ人は、奴隷に関してもちゃんと規則があった。トセフタ(Tosefta/口伝解釈集の附録法典)によれば、ユダヤ教徒の家庭で異教徒の奴隷を使用する場合、その奴隷に割礼を施し、水で清めなければならない。(Catherine Hezser, Jewish Slavery in Antiquity, Oxford University Press, 2005, p.35に引用されている。) 「割礼(circumcision)」とはペニスの包皮を切除することである。えっ ! 痛そう、と思ってしまうが、奴隷だからしょうがない。いくらなんでも麻酔をかけずにペニスの皮むきは酷いだろう。魚肉ソーセージじゃないんだぞ。古代には麻酔が無かったから、大麻かコカインを吸飲して皮削ぎを行ったのか、詳しく知りたいところだ。とにかく、中東アジアの宗教は異様なのだ。(ユダヤ人とペニスの皮むきに関しては、他にも色々なエピソードがあるけど、また別の機会に。ユダヤ人のおぞましい話は多いのだ。女性の皆様、破廉恥な話でゴメンなさい。) ユダヤ教というのは強烈な一神教で、男の信者は小便する度に、「俺はユダヤ教徒なんだ」ということを自覚する。

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(左: 割礼をした赤ん坊のペニスの血を啜るラビ / 右: 割礼を揶揄する抗議の写真)


  しかしなんだなぁ、「チンチンの皮がついている異教徒は、俺たちよりも劣っている」なんて考えるユダヤ人はけしからん。何様のつもりなんだ? 日本人を含めて外人はユダヤ人に隷属する動物なんだって。ユダヤ人は仲間内で異教徒を「ゴイム」と呼び、ニヤニヤしながら蔑む。それに、ユダヤ教徒からすれば、異教徒は穢らわしい獣(ケダモノ)だから、彼が触れた物は不浄である。割礼をして身を清めていない奴隷が作った料理は食えないし、コップに注いでもらったワインだって汚いのだ。ユダヤ教徒はナチスよりも差別心が強かったのである。これを知ればハリウッドのユダヤ人が、なぜ西欧系女優を白い肉として性的に弄ぶのか、が理解できよう。彼らにとって異教徒の女(つまり雌の奴隷)は、どんなに凌辱しても構わない動物なのだ。あのユダヤ人プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタインに触られた女性は、背中に戦慄が走るんじゃないか。気持ち悪いというか、鳥肌が立って寒気がする。女性は生理的嫌悪感を持つだろう。

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左: 捕まえた女の裸を調べる奴隷商人
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中央: 白人奴隷の競売
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右: ハーヴェイ・ワインシュタイン
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  日本では片手落ちの西歐史が教えられている。教養が低い大学教授から習った日本人は、中世のユダヤ人を迫害されて可哀想な民族と思っているだろう。しかし、実際はかなり違うのだ。ツラの皮が厚いユダヤ人には、ヨーロッパ人の嫌がらせだって、何とか切り抜けて生活できるだけの図々しさがあった。本当に辛ければヨーロッパから逃亡しているだろう。第6世紀のイタリアでは、蕃族の侵入で捕虜になった者が奴隷にされたから、奴隷商売が盛んであった。キリスト教世界のヨーロッパでは奴隷の保持だと厳しかったが、奴隷の商いについては緩かったらしい。この抜け穴を利用してユダヤ人は儲けたのだ。第8世紀、フランク王国のカール大帝は奴隷売買の仲介業をユダヤ人に許していたという。第10世紀のスペインだと、ユダヤ人はスロヴェニア人の奴隷を販売してボロ儲けしたらしい。スペインのアンダルシアにいるイスラム教徒のカリフが、ボディーガードを編成するためその奴隷を購入したからだ。(Israel Abrahams, Jewish Life in the Middle Ages, The Jewish Publication Society of America, Philadelphia, 1896, p.98)

これはあまり公表されないことだが、アラブ世界のイスラム支配者は、東欧の白人を自らの近衛兵にしたがる。おそらく東欧の白人は外見が良く、命令に忠実な者が多かったからだろう。

ユダヤ人はヘンチクリンな容姿だから見た目が悪い。学者や役人に向いているが、壮麗な兵隊には不向きである。北アフリカ人やアラブ人は油断がならず、いつ主君の寝首を掻くか分からない。裏切りなど当り前の民族だから信用していなかったのだろう。

これは支那人にも当てはまる。支那人の大富豪は、家族にボディーガードをつける際、人民解放軍の元軍人を絶対雇わない。合衆国海兵隊か英国の特殊部隊(SAS)を除隊した白人を雇うことが多い。つまり、支那人は支那人を信用しないのだ。自分の家族は大切だから、正直な行動を取るのは当然。「支那人に偏見を持ってはいけませ〜ん」、と説教するNHKやTBSの社員は、本当の支那人を直視しろ ! ヤクザだって他の暴力団員を信じないだろう。それと同じだ。


南米で奴隷を所有していたユダヤ人

  アメリカ合衆国で酷使された黒人奴隷について書かれた本は数えればキリがない。まさしく、本棚が潰れるほどで、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)。ところが、ラテン・アメリカでの奴隷は誰が所有していたのか? たいていいの日本人はスペイン人やポルトガル人を挙げるだろう。少々西歐史に詳しい人なら、そこにオランダ人も付け加えるんじゃないか。しかし、奴隷商人や奴隷保有者としてユダヤ人を挙げる日本人は少ないだろう。現在、学校で使われている世界史教科書に詳しくないが、筆者が高校生の時を振り返ってみると、南米について詳しい生徒は少なかった。有名進学校は別にして、今でも公立高校の状況は変わっていないんじゃないか? ゆとり教育世代じゃなくても、スペイン・ポルトガルの歴史や南米植民地を勉強する高校生は少数派だろう。したがって、ユダヤ人の歴史を繙(ひもとく)く高校生なんてごく僅かだ。大学生だって知らない人が多いだろう。でも、欧米の歴史を理解するには、避けて通れない部分なのは確か。時には嫌なものでも勉強しなくちゃ。

  洋書の古本業界をのぞくと、時たま稀覯本を見つけることがある。聞いたこともないような本が高値になっていると気になるから、どんな内容なのか興味が湧く。例えば、ユダヤ人について書かれた本のリストを何気なく眺めていた時、アリエル・トアフの『血の過越祭(Pasque Di Sangue)』が絶版になっていることが分かった。この本は、イタリアに於けるユダヤ人が宗教儀式で血を如何に使ったかを記した歴史書である。しかし、誤解を招く書物だとしてユダヤ人から非難を浴びたのだ。ところが、著者の素性は批判する者でさえ驚く。彼はイスラエルの優秀なユダヤ人学者で、父親のエリオ・トアフは首席ラビ(高位の宗教指導者兼律法学者)だったから、反ユダヤ主義者とはほど遠い人物である。こうした著名な歴史家でも、ユダヤ人に不利な本を出版すれば命さえ脅かされるのだ。そんなこんなで、彼の著書の英訳本は高値になっている。復刻本を出せばいいのに、再版しないのは、それなりの理由があったのだ。もう一つ別の本で気になったのが、セイモア・リーブマン(Seymour B. Liebman)の『新世界のユダヤ人(New World Jewry)』である。スペインやポルトガルに居たユダヤ人が追放処分を受けて、南米に移住した経緯を語った本である。リーブマンはマイアミ大学やヘブライ大学で南米史を教えていたユダヤ人学者で、反ユダヤ主義者ではない。彼は立派な学術書を出版した有名な歴史家である。実は彼の本に、ユダヤ人が奴隷を売買あるいは所有した事実が何気なく記されているのだ。

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(左: セイモア・リーブマン/中央: アリエル・トアフ/右: エリオ・トアフ)


  イベリア半島に長いこと住みついていたユダヤ人が、宗教的理由から迫害されたり、追放されたりした歴史は複雑で長くなるから省略する。スペインやポルトガルに居づらくなったユダヤ人は何処に行ったのか? 北アフリカやトルトコに逃れた者も多少いたのだが、多くは南米に移住し、貿易商人や農園経営者として暮らしていたのである。ラテン・アメリカといえば、スペイン人がインディオの土地を征服し、その金銀財宝を奪ったりしたことでも有名だ。しかし、スペイン人やポルトガル人といったヨーロッパ人は、金銀の掠奪ばかりではなく、支配地域で砂糖きびの栽培も始めたのである。当時、砂糖はシチリアやマデイラ諸島で細々と栽培されるくらいで、主にオリエント地方に輸出されていたらしい。とても希少な嗜好品だったので、高値で取引されたという。こうした高級品は貴族や王妃たちの嫁入り道具と一緒にされ、まるで白い粉の持参金扱い。あまりにも人気の商品だったから、商人は胡椒などのスパイスみたいに、グラム単位で目方を測り、薬局で販売したのである。アメリカ発見以来300年か、ヨーロッパ貿易にとり、アメリカの地で栽培される砂糖ほど重要な産物はなかった。だから、砂糖は別名「白い黄金」と呼ばれたのだ。(E. ガレアーノ 『収奪された大地』 大久保光夫 訳 藤原書店 1991年 pp.128-129) そういえば、ウィーン会議でチョコレート・ケーキが好評だったが、昔は甘い物が貴重品だったのだろう。肥満を気にしない良い時代だった。ヨーロッパでの砂糖需要が増大すれば、プランテーション経営者も利益追求に躍起となる。大農園では早速、廉価な労働力が必要になったから、沢山の奴隷をアフリカから輸入したというわけだ。

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(左: 奴隷を振るに押し込める奴隷商 / 右: 船底に閉じ込められた奴隷)


  黒人奴隷を酷使した者といえば、何はさておきヨーロッパ白人。最近では、ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンが奴隷所有者だ、と非難する黒人も増えた。さらには、ジェファーソンは黒人女との間に子供をもうけた、という嘘まで流布している。高山正之まで信じていた。詳しく述べないが、当時のジェファーソン家を調べれば分かることなのだが、日本人は宣伝戦に弱いから直ぐ信じてしまう。話を戻すと、奴隷所有者にはユダヤ人が混じっていたのである。ゼニの臭いを察知すれば、すぐに行動を起こすのがユダヤ人だ。セイモア・リーブマンによると、砂糖きび農園を経営していたユダヤ人は奴隷を使っていた。「ユダヤ人は率先して奴隷所有者であり、奴隷貿易業者であった。」(Seymour B. Liebman, New World Jewry, 1493-1825 : Requiem for the Forgotton, KTAV Publishing House, Inc., New York, 1982, p.145) ユダヤ人って、ヨーロッパのキリスト教徒にイジメられて可哀想な民族のはずなのに、南米でアフリカ黒人をこき使っていたとは ! でも、黒人を侮蔑するユダヤ人ならあり得る話だ。選民のユダヤ人にしてみたら、ヨーロッパ人だって格下の異教徒なんだから、黒人なんか「便利な家畜」程度にしか思えない。実際、ユダヤ教に改宗した黒人でも、同胞とは見なさないのがユダヤ人。サミー・デイヴィス・ジュニア(Sammy Davis, Jr.)の悲劇を思い出せば分かるだろう。(ユダヤ教に改宗した有名人については別の機会に述べる。) 「黒ん坊」は昔から、ユダヤ社会で嫌われている。子供好きなユダヤ人家庭でも、黒人の養子は取らない。息子や娘が結婚するとなれば、狂ったように大反対。また、アーノルド・ウィツニザー(Arnold Wiznitzer)によるれば、「ユダヤ人はプランテーション経営者のみならず、金融業、仲介業、砂糖輸出業、奴隷供給においても重要な役割を果たしていた」そうだ。

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(左: ボビーロオロゴン/中央: ボブ・トップ/右: サミー・デイヴィス・ジュニア)

  ブラジルはポルトガルに支配された地域で、歴史的経緯から白、茶、黒、黄色といった人種が混在する。ここでもプランテーションが盛んであった。インディオも働いていたが、やはり体格の面ではアフリカ人にかなわない。格闘技ファンでなくても、ボブ・サップやボビー・オロゴンを知っているだろう。彼らに学術研究は無理でも、重労働なら楽にこなせるだろう。それに、プロ野球選手や陸上選手の体格を見れば、黒人は筋肉労働に向いてることが分かる。第17世紀、砂糖やタバコの栽培を営む農園主は黒人奴隷に頼り切っていた。プランテーションでは白人労働者も雇われていたが、彼らがすることといったら、奴隷に命令することくらいだった。能無し白人は使いづらい。今だって道路工事では、白人の現場監督に黒人の土方(どかた)といった光景がよく見られる。奴隷を積み込む地点はアフリカのルアンダで、そこではユダヤ人が奴隷を扱うブローカーであった。(New World Jewry, p.159) ここで注意点を一つ。奴隷貿易に関して単純な誤解をする日本人が時たまいる。ヨーロッパの白人が奴隷狩りのために、アフリカの密林をかき分けてアフリカ人の村を襲撃したのではない。アメリカに持ち込まれた黒人奴隷とは、元々アフリカ人が戦争で捕まえた囚人であった。利益目当てのアフリカ人が、部族紛争で負けた者をヨーロッパ人に売却したのだ。本来なら、アメリカ黒人はユダヤ人とアフリカ人をも非難すべきなのだが、彼らは物分かりの良い白人ばかりにその矛先を向けている。ついでにイスラム教徒も批判の対象になるのだが、彼らは非難されたって一向に気にしない。未だに奴隷制を反省していない、というか反省する意味が分からないのだ。現在でも、アラブ人がフィリピン人女中を雇えば、性的サービスを含んでいるのが当り前。強姦したって国外追放にしてしまえば問題なし。我々日本人と精神構造が違うのだ。

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(左: 奴隷を調べる商人 / 右: 奴隷を折檻する商人)

  今でもブラジルは貧富の格差が激しいが、それよりも気になるのが国民の質がとても粗いことだ。貧困のせいもあるが、粗野で乱暴な者が多く、少年ギャングや殺し屋まで存在するから南米は恐ろしい。裕福で白い肌をした上流階級が国家の支配者で、階級が下がるにつれ色が黒くなり、下層階級で色白の子供が生まれればラッキーだ。インディオや黒人奴隷の子孫は、貧困の悪循環から滅多に抜け出すことが出来ない。露骨な人種差別が横行するブラジルの歴史は暗いが、それには理由がある。その原因の一つが宗主国の政策にあった。ポルトガルは植民地に厄介払いをしたそうだ。つまり、ブラジルにその犯罪者や貧乏な国外追放者、農民を送り込んだという。移民の多くは農作業労務者となり、大規模な砂糖きび農園で雇われた。これといった才能も無いから、彼らは奴隷の見張り役くらいしかできない。一方、ユダヤ移民のほとんどは商人だった。宗教的に学問が奨励されていたので、ユダヤ人には頭のいい奴が多い。成功した商人には隠れユダヤ教徒、つまり新キリスト教徒がかなりいたという。当時、スペインはユダヤ教徒にキリスト教へ改宗せよ、と強制していたのだ。頑固なユダヤ人は拒絶したが、脅迫に屈してしぶしぶキリスト教徒になった者が結構いたのである。しかし、それは迫害を避けるための方便で、密かにユダヤ教の信仰を保持していたという。これが「マラーノ」と呼ばれるユダヤ人である。スペイン人から「ブタ(マラーノ)」と蔑まれても、隠れキリシタンのようにユダヤ教を信奉していたのだ。

  ユダヤ人は南米の北部海岸の至る所に移民した。カルタヘナから東に向かいギアナ諸島まで広大な地域に住みついた。彼らは販売用の奴隷を積んだ船でやって来た。奴隷の輸送は王室の独占事業で、ユダヤ人は奴隷販売を行う国王の代理人として任命されていたのだ。ポルトガル国王がペドロ・ゴメス・レイナル(Pedro Gomez Reinal)に独占権を付与したという。(p.170) ヨーロッパのユダヤ人は民衆から嫌われていたが、国王や領主には何かと重宝な存在であった。やはり、頭の回転が速く、商売を任せれば利益をもたらすし、面倒な仕事を適切にこなす。医学、法律、経済にも詳しいから秘書官として抱えておきたい。しかも、ユダヤ人は大金を貯め込んでいる。お金に困れば税金を取るしか能の無い君主は、財政難になるとユダヤ人にお金を融通して貰っていたのだ。浪費しか知らない領主や王様は、お金を稼ぐという事には全く知恵が働かない。そこに商売上手なユダヤ人が漬け込んだというわけ。今では超有名なマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドも、ヘッセン=カッセル伯爵にお金を貸して、宮廷に出入りできるようになった。気前よく貴族にお金を貸したロスチャイルドは、ついに伯爵の資産仲介人になれた。銭勘定と資産運用に長けたロスチャイルト家は、貴族の財務管理をしていたのである。金融に明るい宮廷ユダヤ人が、主君の寵愛を受けたのも当然だった。ユダヤ人が奴隷貿易でも大金を王室にもたらしたことは間違いない。

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(左: ジャック・スパロー船長/中央: ジョニー・デップ/右: ジェリー・ブラックハイマー)

  カリブの海賊はハリウッド映画で有名になったが、カリブ海諸島でプランテーションを営んでいたユダヤ人は知られていない。『パイレーツ・オブ・カリビアン』を制作したジェリー・ブラックハイマー(Jerry Bruckheimer)は、ハリウッドの大御所だが、ユダヤ人の奴隷商は映画にしないだろう。海賊のジョニー・デップなら人気は出るが、サーシャ・バロン・コーエンやエリ・ロス、リーフ・シュライバー、ロン・パールマンを起用して奴隷商人を演じさせたら生々しい。それにユダヤ人観客から非難が殺到し、興行収益が激減するから企画が実現することはないだろう。ユダヤ人プロデューサーのブラックハイマーは数々のヒット作品を手掛けた大物だ。人気TVドラマ「CSI : マイアミ」も彼の作品である。ユダヤ人制作者はヒスパニック移民を酷使するアメリカ白人を描いても、黒人奴隷を売りさばくユダヤ商人は絶対に描かない。しかし、現実の世界では冷血漢のユダヤ人が存在した。ユダヤ人農園経営者は、ごく普通に奴隷や召使いを所有していたのだ。バルバドスに住んでいたユダヤ人が召使いを欲しいと思ったら、彼らはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に行って、適当に調達したそうだ。そこには、召使いとして働くことができる貧乏なユダヤ人のリストがあった。そして、ユダヤ人は約150人の奴隷を所有していた。(New World Jewry, p.176)

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(左: サーシャ・バロン・コーエン/エリ・ロス/リーフ・シュライバー/右: ロン・パールマン)

  世界中をさまようユダヤ人は、カリブ海の小さな島にも住んでいた。キュラソー(Curaçao)には貿易商のユダヤ人が多かった。彼らはカリブ海地域で最大の船主で、政府への物資調達も担っていたという。2千人にも満たない数だったが、キュラソーに定住してから60年くらいは、200隻の船を所有していたらしい。しかも、スペインとの貿易をこっそり行っていたという。海賊対策としてユダヤ人は、しっかりと船を武装していた。ユダヤ人所有の船らしく、船長や乗組員もユダヤ人。その方が船内でのトラブルも少ないだろうし、船員同士の結束も固くなる。こうした貿易船の目的は、アフリカから南米にある13の植民地や、カリブ海のブリテン領、スペイン植民地へ奴隷を運ぶことだった。(p.183)

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(左: 南米の地図 / 右: スリナムの地図)

  2000年前後に日本では格闘技ブームがあり、K-1やプライドといった団体が、オランダ(ネーデルラント)から選手を招いていた。一般の日本国民も、白人選手と共に黒いオランダ人選手が居たことを覚えているだろう。アーネスト・ホーストとか、レミー・ボンヤスキー、メルヴィン・マヌーフはスリナム出身で、アリスター・オーフレムはジャマイカ出身のオランダ人である。これらの有名選手は、嘗てのオランダ領から移住してきた黒人なのだ。オランダ人が支配していたスリナムのトラリカという地域でも、やはり砂糖製造のブランテーションがあった。ここでもユダヤ人は砂糖きび栽培のプランテーションを営んでおり、9箇所のプランテーションでは233人の奴隷と砂糖精製用鍋が55個、106匹の家畜、28名の人夫がいた。それとは別に、6カ所のブランテーションは181人の奴隷と砂糖鍋を39個、66匹の家畜を有していた。これらのプランテーションすべてを、18名のポルトガル系ユダヤ人が所有していたのだ。1694年には、この地域で92戸のセファラディー系ユダヤ人世帯、および12戸アシュケナージム系ユダヤ人世帯が住んでいたという。(上掲書 p.188) スリナムにはユダヤ人が定着した「ジョデン・サヴァンヌ」という集落があって、「ユダヤ人のサヴァンナ」と呼ばれていた。そこではユダヤ人が結束して自治を行っていたらしい。1690年から1722年にかけて、黒人の叛乱が頻発したが、その地域で最大の奴隷所有者だったユダヤ人は率先して弾圧に当たったという。(Cecil Roth, A History of Marranos, The Jewish Publication Society and Meridian Books, 1952, p.292) いやぁ〜、ユダヤ人は異民族を攻撃する時は徹底しているからなぁ。パレスチナ人みたいにぶち殺したんじゃないか? 黒人なんて人間じゃないから。

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(左: アーネスト・ホースト/レミー・ボンヤスキー/メルヴィン・マドーフ/右: アリスター・オーフレイム)

  ユダヤ人というのは非難されると反論する。日本人も見習うべきだ。ユダヤ人の執念は海よりも深く、いつまでも続く。奴隷貿易に従事したことや、黒人を酷使したことを責められれば、膨大な資料を調査して反論する学者が現れる。エリ・ファーバーはユダヤ人の奴隷所有や奴隷貿易について擁護論を張った。ユダヤ人の奴隷売買など取るに足らぬ数であった、と言いたいのだ。(Eli Faber, Jews, Slaves and the Slave Trade, New York University Press, New York, 1998 p.138) 米国の東海岸にある小さなロードアイランド州には、ニューポート(Newport)という港町がある。そこには奴隷が売り買いされる市場があった。ニューポートで奴隷を扱うユダヤ人といったら、モルデカイ・ゴメス(Mordecai Gomez)と、その兄弟デイヴィドとダニエルが有名だ。このセファラディー系ユダヤ人ゴメス家に加えて、アシュケナージム系のレヴィー家がよく知られている。モーゼス・レヴィーは、兄弟のサムエルと義理の息子ジェイコブ・フランクス(Jacob Franks)と一緒に、奴隷貿易を行っていたという。

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(左:ユダヤ人奴隷商のモルデカイ・コーエン/中央: ジェイコブ・ロドリゲス・ロペス/右:アーロン・ロペス)

  その他に有名なユダヤ人奴隷商といったら、アブラハム・ロドリゲス・ロペス(Abraham Rodrigues Lopez)が挙げられるだろう。アブラハムは息子のジェイコブ・ロドリゲス・リヴェラ(Jacob Rodrigues Rivera)と義理の息子モーゼス・ロペス(Moses Lopes)と共に、奴隷貿易に励んでいた。そこへポルトガルから逃れてきたモーゼズの異母兄弟が加わったという。安全なニューポートに移住してきたデュラント・ロペス(Durante Lopes)は、堂々とユダヤ教徒に戻り、名をアーロン(Aaron)に改めた。そんな彼は妻に先立たれると、ジェイコブの娘を嫁にもらったそうだ。これでロドリゲスとロペスの両家は絆を深めたのである。エリ・ファーバーによると、ジェイコブらは非ユダヤ人のウィリアム・ヴァーノンと組んで、アフリカに渡り奴隷を仕入れてきたが、その数は甚だ少なかったという。1763年にシェルブロ号で運んだのは、僅か134名の奴隷で、チャールストンに運んだらしい。1764年から1774年まで、アーロン・ロペスらがアフリカへ航海に出たのは21回だったという。それでも、非ユダヤ人つまりヨーロッパ人と比べたら、ユダヤ人が運んだ奴隷の数は、全体の数パーセントを占めるに過ぎないそうだ。しかし、いくらファーバーがユダヤ人奴隷商を庇ったとしても、そもそもアメリカ入植地において、ユダヤ人の数じたいが少ないだろう。ユダヤ人の人口は全体の5パーセントにも満たなかったのだ。イギリス人の方が圧倒的な多数派なのだから、少数派のユダヤ人が運んだ黒人奴隷が少なくて当然だ。注目すべき点は社会的地位が低かったにもかかわらず、奴隷売買で資本を貯め込んでいたことである。

  スペインでのユダヤ人追放を説明すると長くなるので省略するが、ユダヤ人は多国籍ネットワークを持っていたことが特徴的なのである。スペインやポルトガルを逃げ出したユダヤ人は、もちろん南米や北米の入植地に移り住んだ。しかし、ある一部のユダヤ人はネーデルラント(オランダ州を中心とした連邦)に移住し、アムステルダムに居を構えたのである。日本ではユダヤ人のスピノザ(Benedictus De Spinoza)がオランダの哲学者として知られているが、彼の両親はスペインから逃れてきたセファラディー系のユダヤ人で、貿易で生計を立てていたのだ。スペイン帝國からの独立戦争に勝利したネーデルラントは、宗教的寛容性を誇っていたから、多くのユダヤ人がそれに漬け込んで移住してきた。今でもアムステルダムは新イェルサレムと呼ばれるくらい、ユダヤ人の勢力が強い。ネーデルラント下院議員だったヨブ・コーエン(Marius Job Cohen)は、2001年から2010年までアムステルダム市長を務めていた。ユダヤ人らしく社会民衆党に属しているコーエンを見れば、いかにアムステルダムがユダヤ人の巣窟だったかが分かるだろう。

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(左: スピノザ / 中央: ヨブ・コーエン / 右: オランダのユダヤ人)

  アムステルダムに住みついたユダヤ人は、そこからイングランドに手を延ばしたのだ。護国卿クロムウェルを金銭で籠絡したユダヤ人は、エドワード1世から続いていた入国禁止令を解き、やっとのことでイングランド再上陸を果たした。ユダヤ人の再入国を拒んでいたチャールズ1世が処刑されて、ユダヤ人は萬歳三唱。祝杯の盃を上げたのだ。こうして英蘭米とスペインおよびその南米植民地を結んだ貿易網をユダヤ人は築いたのである。しかも、各地のシナゴーグに集う同胞に協力を要請すれば、難しい商売でもスムーズに進むから、益々商売繁盛だ。これではヨーロッパの地方に住み、個人として貿易を営むオランダ人やイギリス人は太刀打ちできない。遠隔地に親戚や家族を持つ西歐人なんて稀である。ローマ帝国時代でも、ユダヤ人はコンスタンティノポリスやアンティオキア、アテネ、ローマ、キプロス、アレクサンドリアといった主要都市に同胞がいたから、彼らと連携して商売ができた。ローマ軍が征服地に拠点を築けば、必ずそこにユダヤ人が住みつくから、ユダヤ・ネットワークがどんどん拡大する。こうしてみれば、ロスチャイルド家がパリやフランクフルト、ウィーンなどに支店を出して情報と金融ネットワークを作ったのは偶然ではないのだ。国境意識や愛国心、国家への忠誠心などが希薄なユダヤ人には、もともとグローバリスト指向が強いと言える。

ハリウッド映画の欺瞞性

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(左:「アミスタッド」の黒人奴隷 / 右: 黒人俳優に指導するスピルバーギ監督)

  ユダヤ人はイギリス人が建てたアメリカ合衆国を憎んでいる。それならイスラエルに移住すればいいのだが、快適で豊かな国を離れたくない。それに、邪悪な西歐人を批判するという楽しみを捨てたくないのだ。自分を棚に上げ、他民族のあら探しをする事が本能みたいなユダヤ人は、「批判」の学問や「破壊」の藝術が得意である。美しいルネサンス洋式の絵画にケチをつけたいユダヤ人は、それとは違ったへんてこな抽象画を称賛する。ユダヤ人藝術家の人物画なんか観ても感動しない。ピカソやモンクの作品だって一般人には理解できないから、ユダヤ人の絵画は更に不気味である。また、ユダヤ人批評家は西歐キリスト教徒が持つ伝統や慣習をあれこれ考察し、「不合理だ」「迷信だ」「理不尽だ」と悪態をつき、からかったり馬鹿にしたりするのだ。それに、西歐の道徳を踏み潰したいユダヤ人は、同性愛結婚などを推進したりする。現在のアメリカでは、同性愛をめぐって非常に揉めているから、日本人でもよく分かるだろう。異民族が嫌いなくせに、異民族の難民を引き入れるユダヤ人は頭がおかしい。ところが、ユダヤ人は外人を排斥する白人を叱りつけることで気分が高揚する。倫理的優越感に浸ったユダヤ人は、頑固者の白人に博愛を説教するのだ。ハリウッドの大御所監督であるスティーヴン・スピルバーグも、このような歪んだ精神を持つユダヤ人である。彼はことさら黒人に同情を示し、冷酷な白人に対して鞭を揮い、映像を通して高邁な理想を語るのだ。

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(左: スティーヴン・スピルバーグ/マシュー・マコノヒー/モーガン・フリーマン/右: アンソニー・ホプキンス)

  白人による黒人虐待をテーマにして一儲け企んだスピルバーグは、アフリカ人奴隷を描いた『アミスタッド(Amistad)』という作品を手掛けた。この映画は、シエラレオネで捕まったアフリカ人が奴隷船で叛乱を起こした事件を題材にしている。彼らはキューバに向かう途中の船で叛乱を企てて船を乗っ取るが、乗組員の機転で船はアメリカに向けて舵を取ってしまう。アフリカに戻るつもりだった黒人たちは、アメリカ人の船に発見され、奴隷たちは暴動の罪で裁判にかけられる。物語は、黒人奴隷を救おうとする若き弁護士が、法廷で活躍する様子を描いているのだが、その映画は残酷な仕打ちをした白人全体を裁いているのだ。黒人を扱った映画だから映像が暗くならないように、キャストには有名俳優を起用していた。黒人俳優の代表格、モーガン・フリーマンは新聞記者を演じ、マシュー・マコノヒーは弁護士、そして大御所のアンソニー・ホプキンスは元大統領のジョン・クインシー・アダムズを熱演していた。スピルバーグはこのような豪華な役者を揃えて、白人による黒人の奴隷化が如何に残酷なものだったかを伝えようとした。それなら、次回は黒人奴隷を虐待したユダヤ人を描いたらどうなんだ? アフリカ人に対して容赦なく鞭を揮う役に、どのユダヤ人俳優が似合っているのかを考えるのは楽しい。極左俳優のショーン・ペンとか短気な異常者が似合うベン・スティーラーなんか適役じゃないか? 狡猾で計算高い奴隷商人なら、ロン・リフキンとか、サイモン・ヘルバーグ、ホアキン・フェニックスがはまり役かも知れない。

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(左:ション・ペン/ベン・スティラー/ロン・リフキン/サイモン・ヘルバーグ/右:ホアキン・フェニックス)

  アメリカ白人に対してならどんな仕打ちも許されるハリウッドでは、黒人が白人を殺しまくるという異端の西部劇まで制作されたのである。ナチスをメッタ殺しにする『イングローリアス・バスターズ』を制作したクエンティン・タランティーノ監督は、黒人版復讐劇『ジャンゴ 繋がれざる者(Django Unchained)』を手掛けたのだ。解放奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)は賞金稼ぎのドイツ人キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルター)と共に、白人を次々と殺して行く。ジャンゴは奪われた妻を取り戻すべく、大農園の所有者で残酷なカルヴァン・キャンディに復讐を果たす、というストーリーだ。レオナルド・デカプリオが演じるキャンディは黒人に生死を賭けたデス・マッチを命じるという冷血漢だ。これは全くのフィクションだが、白人観客は気分が悪いだろう。しかし、ハリウッドの監督は、わざとショッキングな映画を作って話題を攫(さら)おうとするからしょうがない。だが、もしタランティーノ監督が、黒人を容赦なく撃ち殺す白人用映画を撮ったら、黒人団体が黙っていないだろう。大規模な抗議デモが組織されるかも知れない。それに、きっとテレビ局も映画を非難するだろう。アメリカに藝術や表現の自由はないのだ。それに対して、「弱者の横暴」なら無制限に存在する。

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(左: ジャンゴ役のジェイミー・フォックス/右: キャンディー役のレオナルド・デカプリオ)

  ユダヤ人は政治宣伝が得意だし、人を感動させるような映画を作る才能がある。しかし、そのプロパガンダ映像はユダヤ人に都合の良い社会を作るために利用されているのだ。ユダヤ人は黒人のために汗を流そうなんて思わない。ユダヤ人コメディアンのサラ・シルヴァーマンが、ユダヤ人観客の前で語ったジョークを聞けば分かる。彼女は「キリスト教徒はユダヤ人がイエズスを殺した、て非難しているわ ! 彼を殺したのはユダヤ人じゃないわ。それって黒人じゃない?」と言うと、観客は大爆笑。(実際に十字架につけたのはローマ人である。) 兇暴な黒人なら殺人はお手の物。黒人を用いたジョークはたくさんある。「黒人はすぐ忍者になれる。だって黒い服が要らないでしょう」とか「黒人の強盗に襲われたら、バスケット・ボールを投げつけなさい。そうすれば、その強盗はボールを追いかけるから」とか。才能豊かなユダヤ人は、いくらでも笑い話を作れるのだ。ユダヤ人が人種平等を訴えるのは、白人社会に住む時だけ。イスラエル人は、アフリカ人がユダヤ教徒になっても、あちこちで馬鹿にする。タクシー運転手でも白人客を乗せたりすると、調子に乗って黒人を罵る時がある。黒人についての話が弾むと、つい「あいつらはみんな犯罪者だ」と口走ってしまうのだ。黒人など下層民扱いで、指導者層になっている色白のアシュケナージム系ユダヤ人は、色黒のセファラディーム系ユダヤ人を文化的に劣る同胞として観ているくらいだから、黒人差別くらいで驚いちゃダメ。

  西歐社会で迫害されたユダヤ人は、自分が居候であることを反省しない。むしろ、ユダヤ人を異端者とか異邦人として毛嫌いするヨーロッパ人を悪者にする。他人の塒(ねぐら)を自分の部屋にするには、その所有者がベッドを独占していることに躊躇いを持つよう、考えを変えさせればいい。だから、異質な人種を排斥するアメリカ白人を倫理的に攻撃し、ユダヤ人を排除できないように洗脳するのだ。ユダヤ人は西欧系アメリカ人を直接攻撃しない。黒人という「駒」を前面に出して、黒人と白人が共倒れするよう仕組む。人種闘争が流血の暴動で終われば、白人は異民族排除がどうでもよくなる。暴力の応酬にうんざりしてしまうのだ。それに、過去の例を見れば明らかだ。カトリック信徒とプロテスタント信徒が血みどろの三十年戦争を展開し、終わってみれば人口が激減していた。それ以来、ヨーロッパ人は、宗派をめぐって戦争することを止めてしまったじゃないか。ユダヤ人は他民族を利用して、異人種排斥論を葬り、人種の平等や多民族との共生を実現したのである。ユダヤ人社会では、黒人への侮蔑・差別・偏見がてんこ盛りでも、外部の西歐社会ではユダヤ人の理想通りになった。グローバリストのユダヤ人が、日本の経済構造をメチャクチャにするのは不思議ではない。物や人が地球上を自由にグルグルと回って、最終的にお金がユダヤ人の懐に収まればいいのだ。ユダヤ人にとって都合の良い世界市場を樹立するためなら、東洋の島国など海に沈んだって構わない。うかうかしていると、日本人も使い捨ての奴隷になるかもよ。
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2017年10月16日 女優を餌食とする変態プロデューサー
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中央: セクハラを受けたヘザー・グラムとカラ・デラヴィーン
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右: 強姦被害者のリゼット・アンソニー
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  映画の都ハリウッドは今、有名プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタイン(Harvey Weinstein / 65歳)が引き起こしたセクハラ問題で揺れている。このワインシュタインは、弟のロバートと共に映画会社の「ミラマックス」を創設したユダヤ人で、退社後に「ワインシュタイン・カンパニー」を設立した大物だ。日本の映画ファンなら、ミラマックス社の作品を直ぐ思い出すだろう。例えば、『恋に落ちたシェイクスピア』とか、クエェンティン・タランティーノが監督を務めたヒット作『パルプ・フィクション』、同監督による『キル・ビル』、『シカゴ』、『スパイ・キッズ』が挙げられるし、日本のアニメ映画『ポケモン』を米国で上映したことで知られている。

ハーヴェイ・ワインシュタインが手掛けた作品と言えば、大ヒット・シリーズの『ロード・オブ・ザ・リングズ』とか、ジェシカ・アルバが出演した『シン・シティー』、ブラッド・ピットがナチス狩りの役を演じた『イングローリアス・バスターズ』、クリスチャン・ベール主演の『リベリオン』、マイケル・ムーア監督がジョージ・ブッシュ大統領を批判すべく制作した『華氏911』、ジュリエット・ビノシュとジョニー・デップが共演した『ショコラ』などが挙げられる。


ワインシュタインにセクハラを受けた女性たち

左: ゾーイ・ブロック / ジュディス・ゴドレッシェ
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右: ロザンナ・アークウェット
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  こうしたヒット作品を世に送り出したワインシュタインだから、業界の大御所となったのも理解できる。それに、ハリウッドはユダヤ人の人脈が蜘蛛の巣のように張り巡らされているから、同胞意識というか、義兄弟意識がかなり強い。だが、いくら偉いといっても、その地位を利用して立場の弱い女優を手込めにするのは論外である。ワインシュタインは人間の屑と呼んでも過言ではなく、はっきりと拒絶できない相手と分かっていて、無理やり犯そうとしたんだから悪質だ。

女の涙に神様が反応したのか、この助平プロデューサーに天罰が下った。ある一つのセクハラ事件が表沙汰になって、彼の悪事が暴かれ始めたのだ。(被害者女性が実際の録音テープを公開して話題になった。) すると、驚くべきことに、その被害者は一人や二人じゃなかった。何十人も名乗り出たのである。これにはセクハラに慣れたアメリカ人も呆れ顔になった。以前、当ブログで

甘言使いのユダヤ人「ズース」
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580121.html

や、

マリリン・モンローを性的に弄んだユダヤ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html

を取り上げたことがあるけど、ワインシュタインもそうした下劣なユダヤ人の一人である。

  被害者女性を全員挙げると長くなるので、有名な人物のみを紹介したい。まづ、人気急上昇のフランス人女優レア・セドゥー(Léa Seydoux)が受けたセクハラについて。皆様ご存じ、彼女は『ミッション・インポシブル/ ゴースト・プロトコール』や、007シリーズの『スペクター』に出演した若手の役者だから、日本人でも印象に残っている人が多いんじゃないか。

その美しいレア・セドゥーは、フッション・ショーの仕事で「ホテル・プラザ・アテネ」に滞在したことがあるという。ここで彼女はケダモノに等しいワインシュタインに襲われそうになった。ケアがワインシュタインの泊まっているホテルの一室を訪れ、ソファーに坐りながら彼と会話をしていると、突然、ワインシュタインが彼女に覆い被さり、強引にキスを迫ったそうだ。

(Molly Redden and Amana Fontanella-Khan, "Lea Seydoux says Harvey Weinstein tried to sexually assult her", The Guardian, 11 October 2017)

レアは咄嗟にこの“襲撃”を跳ね返そうとしたが、それは非常に困難だった。というのも、相手は大柄で体重のある男だ。まるで、熊に襲われた兎のような状態である。こんな奴が抱きついてきたら身動きがとれない。しかし、火事場の馬鹿力というのもあるので、必死になったレアは奇蹟的に逃れることができたという。

("Harvey Weinstein : Actress Lea Seydoux describes night Hollywood mogul jumped on me ", ABC News Australia, 12 October 2017)


(写真 / レア・セドゥー)
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  ワインシュタインはもう一人別のボンドガールにも手を出していた。それは、007シリーズの復活作『カジノロワイヤル』で悲劇の恋人役を演じたエヴァ・グリーン(Eva G. Green)である。しかし、今回の告発を行ったのは、彼女ではなく、母親のマルレーヌ・ジョベール(Marléne Jorbert)であった。この母親は、一連のスキャンダル報道を耳にして、娘が蒙ったセクハラをどうしても明らかにしたかったそうである。娘を愛する母親にしたら、このゲス野郎が罰を受けずに生きて行く事など絶対に赦せない。日本人の親だってその気持ちは理解できる。だから、マルネーヌが何としても一矢報いたい、と考えてもおかしくはない。


左と中央: 娘のエヴァ・グリーン
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右: 母のマルレーヌ・ジョベール
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  この憤慨する母親によれば、娘のエヴァが被害に遭ったのは、2010年から11年に掛けての頃だったという。

(Peter Mikelbank, "Harvey Weinstein Allegedly Threatened to Destroy Bond Star Eva Green After She Refused His Sexual Advances", People, October 13, 2017)

ところが、セクハラを受けたエヴァはワインシュタインとの確執を避けるため、事を公(おおやけ)にすることはしなかった。というのも、この変態プロデューサーは業界の大御所で、絶大な権力を握っているから、小娘の女優が太刀打ちできる相手じゃない。

「お前なんか、いつでも叩き潰すことができるんだぞ」

と暗に脅されれば、黙っているしかないだろう。マレリーヌは娘がひどく怯えており、その話題について語ることはなかったそうだ。エヴァは頭から拭うことのできない、その「事件」については忘れることにしたらしい。母のマルレーヌはたいそう悔しかったようで、ワインシュタインを「太った豚(Big Pig)」と呼んでいた。

  セクハラ事件は双方の言い分を照らし合わせて考えねばならないが、ワインシュタインのケースは被害者側の証言に信憑性が高い。何故かと言えば、彼は“常習的”にセクハラ行為を繰り返していたからだ。イギリス人役者のケイト・ベッキンゼール(Kate Beckinsale)も、かつて被害者であった。彼女は、吸血鬼を題材にした人気シリーズ『アンダーワールド』に出演し、『ヴァン・ヘルシング』、『アビエイター』にも登場した美人女優だ。

事件は彼女がまだ17歳の時に起こった。まだ高校に通っていたケイトは、ワインシュタインからコンファレンス・ルームに来るよう言われ、彼が待っている部屋をノックしたそうだ。すると、ワインシュタインがドアを開けて彼女を中に入れようとしたのだが、その時、彼はバスローブ姿であったという。まだ子供だったせいか、ケイトは性的な要求があるとは予想もしていなかった。まさか、目の前に居る中年男性がイヤらしいことを考えているとは思ってもみなかったのである。

ケイトを迎え入れたワインシュタインは、この少女に酒を勧めたそうだが、彼女は身の危険を察知し、その誘いを断り、午前中に授業があるからとの言い訳を述べて部屋を後にしたという。

(Seth Kelly, " Kate Beckinsale Details Harvey Weinstein Encounter : He Couldn't Remember If He Had Assulted Me", Variety, October 12, 2017)

それから二、三年後、ワインシュタインはケイトに再会したそうだ。その時、彼は「初対面の時に何かしたかな?」と尋ねたらしい。つまり、彼は「あの時」の事をよく覚えていなかったのである。そりゃあ、何十人もの若手女優に魔の手を伸ばしていたんだ。余りにも“多くて”一々覚えていられなかったのであろう。


(写真 / ケイト・ベッキンゼール)
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  『誘惑のアフロディーテ(Mighty Aphrodite)』で助演女優賞を獲得した、ミラ・ソルヴィノ(Mira Sorvino)も性的被害に遭っていた。1995年、彼女がトロント国際映画祭に赴いた時、ワインシュタインは彼女に迫ってきたそうだ。彼は一緒に仕事をしていたミラに肉体関係を求めてきたという。

ワインシュタインはそのイヤらしい手で彼女の肩を揉み始めたので、ミラは鳥肌が立つほど不愉快だった。そんなことを気にせぬワインシュタインは彼女を付け回した。そこで、ミラは彼との「交際」は自分の信仰に反する、つまり宗教的誡律により、既婚者とは付き合えないとの口実を設け、彼の求愛を斥けたそうだ。
(当時、ワインシュタインは元アシスタントのイヴ・チルトンと結婚していた。)

Mora Sorvino 1(左 / ミラ・ソルヴィノ)
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 しかし、ワインシュタインは諦めきれず、その後もミラに電話を掛けてきたという。ある時、彼は電話越しに「君のアパートに行くから」と告げて電話を切り、本当にやって来たそうだ。しかも、アパートを護衛しているはずのドアマンを素通りして、彼女の部屋に辿り着いてしまったらしい。ストーカーみたいな男がベルを鳴らし、ミラがドアを開けると、ワインシュタインは彼女のペット(チワワ)を抱きかかえて立っていたという。もう、彼女は震えが止まらなかった。そこで、焦った彼女は、もうすぐボーイフレンドがやって来るから、との理由で彼を追い払ったそうだ。

(Ronan Farrow, "From Aggressive Overtures to Sexual Assult : Harvey Weinstein's Accusers Tell Their Stories", The New Yorker, October 23, 2017)

こんな怖ろしい目に遭ったミラだが、彼女はワインシュタインの力を恐れていたので、公然と彼を非難することができなかった。もし、この性的嫌がらせを通報したら、彼女のキャリアは終わってしまうからだ。当時、ミラマックスの女性社員もワインシュタインの被害者となっていて、ミラはその事を知っていたという。権力者には楯突くことができない。つまり、セクハラを受けた女性たちは泣き寝入りするしかないのだ。

  スケベ中年を体現するワインシュタインは、特に若い女を「大好物」にしていた。イギリス人女優のジェシカ・ハインズ(Jessica Hynes)は19歳の時、ある映画のオファーが来たそうだ。この映画を制作するスタッフの中にワイシュタインがいたそうで、彼は「スクリーン・テスト」という名目で彼女に対し、ビキニ姿になるよう言い付けた。ところが、この命令に憤慨したジェシカは断固拒絶。すると、彼女は役を失ってしまったそうだ。

(Nicole Bitte, "Actress Jessica Hynes claims Harvey Weinstein asked her to audition in a bikini", New York Daily News, October 6, 2017)

たぶん、ワインシュタインは「オーディション」にかこつけて、彼女の「肉体」を眺めたかったのだろう。


左: ジェシカ・ハインズ
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右: カラ・デラヴィーン
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  変態というのは様々な性癖を持っているようで、自分で犯す以外に他人に卑猥なことをさせて喜ぶ場合がある。イギリス人のファッション・モデルで女優業も営むカラ・デラヴィーン(Cara Delevigne)も、ワインシュタインの性癖に戸惑った女性の一人だ。

彼女がこのプロデューサーとミーティングを行った際、ワインシュタインはカラに別の女性とキスをしてくれと頼んだそうだ。つまり、レズビアン・ショーを期待していたのだろう。

また、彼女がワインシュタインと二人っきりになった時の事である。彼は自分が出逢った女優全員と寝たことを自慢し始め、その後、彼女たちがいかに出世していったかを滔々と語ったそうである。そして、ワインシュタインはカラに自分の部屋に来るよう誘ったそうだ。

もちろん、彼女は即座に断った。当り前だ。こんな話を聞いた後で、誰が部屋を訪れるというのか。いくら無防備なペンギンだって、危険を察知する本能を持っているから、全速力でその場を後にするだろう。日本の鴨(カモ)だって、ワインシュタインを見たら、ネギじゃなくてペッパー・スプレーを手にするはずだ。

  この卑猥なユダヤ人は、いたいけな10代の乙女のみならず、既婚者や身持ちの堅い婦人にもその毒牙を向けていた。彼はミラマックス社の依頼で脚本編集を手掛けていたリザ・キャンベル(Liza Campbell)に食指を伸ばしたそうだ。彼女はコードア伯爵(Earl of Cawdor)の娘で、1995年当時、彼女は離婚して英国に戻っていた。リザは『恋に落ちたシェイクスピア』や『アンユージュアル・サスペクト』を担当した脚本家でもある。

彼女は映画の脚本の件でワインシュタインが泊まっている「サヴォイ」ホテルの部屋を訪ねた。二人が会話を交わしてしばらくすると、彼は何故か浴室に向かい、服を脱ぎ始め、お湯を張った浴槽に入り始めたという。そして、彼は浴室から、

「来いよ! きっと楽しいぞ。ここにシャンペンもあるし、オレを洗ってもいいんだぞ」と呼びかけたそうだ。

(Valerie Edwards, "Harvey Weinstein stripped, asked me to jump in the bath and soap him at the Savoy", Daily Mail, 9 October 2017)

この破廉恥な誘いに彼女は激怒した。

「私は子を持つ母親で、立派な大人なのよ ! 初心(うぶ)な小娘じゃなんんだから !」

と言い返したそうだ。彼女の描写によれば、ワインシュタインは“アバタ(膿疱)”ヅラの牛みたいに「でっぷりとした」男で、『ソプラノズ(The Sopranos)』に出てきそうな殺し屋にソックリだったという。(この『ソプラノス』はアメリカで大ヒットしたTVドラマである。) 確かに、ワインシュタインはラス・ヴェガスでふんぞり返るユダヤ人ギャングのような人相をしている。


左: リザ・キャンベル
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左 アシュリー・ジャッド
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  性慾が剝き出しのワインシュタインには、女性をおびき寄せる時に使う十八番(おはこ)があった。彼はこの手口を用いて女優のアシュリー・ジャッド(Ashley Judd)を「モノ」にしようとしたことがある。

今から約20年前、ワインシュタインは「ペニンシュラ・ビヴァリー・ヒルズ」ホテルに泊まっていた。アシュリーは仕事を介した朝食会だと思って、彼が泊まるホテルを訪れたそうだ。ところが、ワインシュタインは彼女を自分のスウィート・ルームに向かわせ、バスローブ姿で彼女を迎えたという。そこで、狙いの女優をおびき寄せたワインシュタインは、アシュリーに「マッサージ」を頼んだそうだ。ところが、残念至極。彼女はきっぱりと断った。

(Brian Neimietz & Nancy Dillon, "Harvey Weinstein admits his behavior has caused women pain after Ashley Judd, others accuse him of harassment, New York Daily News, October 5, 2017)

左 アシア・アーゲント
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  しかし、どうもワインシュタインは頻繁にこの手口を用いていたようで、イタリア人女優のアシア・アーゲント(Asia Argento)にもマッサージを頼んでいたそうだ。しかも、ローションまで持参していたそうだから、「いつも」の調子だったんだろう。

彼女の場合はもっと深刻で、ワインシュタインは彼女に尺八、つまり「オーラル・セックス」まで強要したそうだ。

(Ronan Farrow, "From Aggressive Overtures to Sexual Assult : Harvey Weinstein's Accusers Tell Their Stories")

まったく、呆れた野郎だ。こんな奴のペニスをしゃぶるなんて穢らわしい。噛み千切ってゴミ箱にでも捨ててやればいいのに。でも、後味が悪そうだから、止めた方がいいかも。(例えば、脳裡に焼き付いてしまって、ホットドックが食べられなくなるからねぇ。)

  女優を食い物にするワインシュタインは、同様の手口で自分の社員にも股間を膨らませていた。

2014年、彼は臨時雇いのエミリー・ネスター(Emily Nester)を「ペニンシュラ・ビヴァリー・ヒルズ」ホテルに呼びつけ、ある「取引」を持ち掛けたという。

それは、もし彼女が「性的奉仕」を受け容れるなら、出世させてやるぞ、という内容であった。

翌年にも同様のセクハラが、このホテルの一室で行われたそうで、彼はある女性アシスタントを招き、裸のワインシュタインが彼女にマッサージをしてくれ、と迫ったそうだ。すると、彼女は恐怖の余り泣き叫び、取り乱したそうだ。

(Jodi Kantor and Magan Twohey, "Harvey Weinstein Paid Off Sexual Harassment Accusers for Decades", The New York Times, October 5, 2017)

そりゃそうだろう。あんな形相のデブが丸裸になって近寄ってくるんだから、全身に戦慄が走ってもおかしくはない。そもそも、「マッサージをしてくれ !」じゃなくて、「マッサージをさせろ !」の間違いじゃないのか。各事件の詳細と結末は定かではないが、少なくとも八名の被害者女性はワインシュタインとの示談に応じたそうだ。


精子を発射する変態オヤジ

左 ローズ・マッゴーワン)
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  セクハラだけでも嫌なのに、強姦までされた女性は本当に憐れだ。TVドラマ『チャームド: 魔女3姉妹』で有名なローズ・マッゴーワン(Rose McGowan)も、ワインシュタイの餌食となった犠牲者の一人である。

彼女は23歳の時、ホテルの一室で強姦されたそうだ。事件後、ローズはアマゾン・スタジオにレイプを訴えたそうだが、スタジオ側は彼女に冷淡で、その訴えを無視したばかりか、彼女の番組を終了させてしまった。しばらくして、彼女はワインシュタインの示談に応じたそうだが、今回の騒動を受けて昔の屈辱を暴露することにしたそうだ。

(Sam Levin and Olivia Solon, "Rose McGowan alleges rape by Harvey Weinstein and Amazon ignored claim", The Guardian, 13 October 2017)

  たぶん、ワインシュタインによる一連のセクハラ事件が明らかになったので、ローズもようやくその重い口を開けることにしたんだろう。それにしても、スタジオ関係者は情けないというより、人間として最低でモラルのカケラも無い。臭い物に蓋をして「無かった事」にするなんて酷いじゃないか。おそらく、ワインシュタインが大物プロデューサーだから、アマゾン・スタジオも表沙汰にできず、封殺することで乗り切ろうとしたんだろう。

アマゾンの最高責任者であるジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)は、常日頃リベラル派気取りで善人を演じているが、いざ権力者を前にすると手のひらを返してしまうんだから、「口先番長」に過ぎない臆病者である。リベラル派というのが如何に偽善者なのかが、これで一般人にもよく判るだろう。

  偶然と不幸はシャムの双子のようにくっつくことがある。ワインシュタインが犯した数々の悪行を知れば、ハリウッド・スターのブラッド・ピット(Brad Pitt)が、このユダヤ人をぶっ飛ばしたくなるのも納得できるだろう。事件はかなり昔に起きていた。今では大女優になっているグウィネス・パルトロー(Gwyneth Paltrow)が、ブラッド・ピットの恋人であったことはよく知られている。

事件は彼女がまだ売れていない22歳の頃に起こった。彼女はワインシュタインの映画『エマ』で初めての配役をもらい、胸を弾ませて準備を整えていた。すると、彼女はミラマックス・スタジオのボス、則ちワインシュタインからビヴァリー・ヒルズにあるペニンシュラ・ホテルのスウィート・ルームに来るよう命ぜられた。「打ち合わせ」という件でやって来たグウィネスは、そこで“予想外”の体験をすることになる。

ワインシュタインは彼女の体に手を掛け、ベッドルームで例の「マッサージ」をしてくれるよう仄(ほの)めかしたというのだ。まだ、駆け出しの役者だった彼女は、未知の恐怖で凍りついたという。


左: グウィネス・パルトロー
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右: グウィネスとブラッド・ピット
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  だが、グウィネスは意思が強かったのだろう。彼女はボスの誘いを断った。そして、当時付き合っていたブラッドに「事件」を打ち明けたそうだ。激怒したブラッドはワインシュタインに詰め寄り、彼の胸を指で突きながら「二度と彼女に手を出すんじゃないぞ !」と脅したらしい。さすが、ブラッド・ピットだ。単なるハンサム青年じゃない。男はこうでなくっちゃ。「どうぞ、心ゆくまでご賞味ください」なんて言う男は最低だ。

ブラッドはハリウッドの大御所に対して怯まなかったところが凄い。その後、グウィネスと会ったワインシュタインは、彼女に「あの事を他人に喋るんじゃねえぞ !と釘を刺したそうだ。『エマ』に出演していたグウィネスは、もし誰かに喋ったら役を降ろされるんじゃないかと心配していたらしい。案の定、ワインシュタインは腹癒せに彼女をしょっちゅう怒鳴りつけていたそうで、クウィネスには拷問のような日々であったそうだ。

(Raechal Leone Shewfelt, "Gwyneth Paltraw, Angelina Jolie, and others say Harvey Weinstein harassed them", Yahoo Celebrity, October 11, 2017)

左: ジェニファー・アニストンとブラッド
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右: ブラッドとアンジェリーナ・ジョリー
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  ブラッド・ピットがグウィネスと別れた後、女優のジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)と付き合い、結婚寸前まで漕ぎ着けたというのは広く知られている。しかし、その二枚目俳優を美人女優のアンジェリーナ・ジョリー(Angelina Jolie)が掠奪する形で、そのハートを射止めたことも有名だ。

ところが、このアンジェリーナもワインシュタインの被害者だった。彼女は若い頃、この助平プロデューサーからセクハラを受けたそうで、それ以来、ワインシュタインとの仕事を拒絶し、他の女優にも警告を発していたそうだ。ただし、夫のブラッドはワインシュタインの映画『イングローリアス・バスターズ』に出演していた。何故かと言えば、監督が友人のクウェンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)であったから、しぶしぶオファーを受け容れたのだ。(現在、ブラッドはアンジェリーナと離婚しているから、「元夫」になっている。)

左 ルイゼット・ガイス
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  ワインシュタインの話をすると、もう厭になってくるし、吐き気がする。でも、省略できない事件があるから意地でも紹介したい。女優で脚本家も務めるルイゼット・ガイス(Louisette Geiss)は、ワインシュタインの「奇行」を暴露した。

2008年、彼女がサンダンス映画祭に出席し、映画の売り込みを行っていた時の事だ。彼女はワインシュタインのオフィスに行き、そこで映画について彼と話をしていた。ワインシュタインは彼女の作品に大変興味を示していたのだが、30分くらい経った頃、彼は席を外し、浴室の方に行ってしまった。ところが、戻ってきたワインシュタインはバスローブ姿に着替えていたという。しかも、前の部分がチラリと開いているんだから唖然とするじゃないか。

彼は映画の話を続けてくれとルイゼットに告げたというが、彼は隣に設置されている浴槽に入ったそうだ。彼女は驚いたが、仕方なく話を続けることにした。

  すると、信じられない事が起こった。調子に乗ったワインシュタインは、マスターベーションするから見ていてくれ、と彼女に告げたのだ。日本人女性なら、「えっっっ、何?! 冗談でしょ !」と声を荒げてしまうだろう。本当に信じられないが、バスタブに浸かるワインシュタインは、自慰行為を見物して欲しかったそうである。

呆れたルイゼットは、即座に「帰る !」と言い出し、自分のバッグを手にして部屋を出ようとした。すると、ワインシュタインが追いかけてきて、彼女の腕を摑み、浴室に連れ戻すと、再度ルイゼットに「観ていてくれ」とせがんだそうだ。

(Raechal Leone Shewfelt, "Gwyneth Paltraw, Angelina Jolie, and others say Harvey Weinstein harassed them" )

もう、ワインシュタインは「アホ」を通り越して「病気」である。「病膏肓(やまい・こうこう)に入る」と言うが、ワインシュタインの場合、内臓だけじゃなく、脳幹の奥にまで病が進行していたんじゃないか。

  テレビ局で仕事をしていたジャーナリストのローレン・サヴァン(Lauren Sivan)も、十数年前、同様の“おぞましい”事件に遭っていた。彼女がキューバ風のクラブ兼レストランである「カフェ・ソシアリスタ」に招かれた時だ。ワインシュタインは彼女を店のキッチンに連れ出し、厨房に居たスタッフを追い払うと、ローレンにキスをしようとした。彼女がワインシュタインを押しのけ、そのセクハラを拒絶すると、彼は後ずさりして次のように言ったという。

「いいか、君はそこに立って、黙っていれはいいんだ」と。

彼は厨房の出口を塞ぐと、おもむろに自分のペニスを取り出し、マスターベーションを始めたという。この変態野郎は興奮が絶頂に達したので、すぐ側にあった植木鉢に射精したそうだ。

(Harvey Weinstein Allegedly Masterbated in front of a TV Reporter, Ejaculated into a neaby Potted Plant", Perez Hilton, October 7, 2017)

左: ローレン・サヴァン
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中央と右: アンジー・エヴァーハート
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  ワインシュタインは他の女性に対しても、同様の異常性癖を“披露”していたようで、トップ・モデルのアンジー・エヴァーハート(Angie Everhart)も被害者であった。彼女はKLOSラジオに出演した際、自身の体験を物語っていたという。

数年前、彼女がヴェニス映画祭に参加した時、ワインシュタインと一緒に船に乗船したことがあるそうだ。彼女が部屋で寝ていると、ふと誰かが側に居ることを気づいた。何と、ワインシュタインがベッドの脇に立っており、彼女の面前でマスターベーションをしていたというのだ。「きゃゃゃー !!!!」と絶叫したかどうかは定かではないが、アンジーが恐怖で凍りついたのは確かである。

(上掲記事 Peter Mikelbank, "Harvey Weinstein Allegedly Threatened to Destroy Bond Star Eva Green After She Refused His Sexual Advances")

これって、四谷怪談より怖いじゃないか。枕元に幽霊じゃなくて、変態のユダヤ人が立っていたなんて。

  もう、嫌だ。言葉が出ない。人間の屑だ。こんな奴が尊敬を集める業界人だなんて信じられない。ワインシュタインには羞恥心が無いのか? 被害者女性もさることながら、彼の妻であるジョージナ・チャップマン(Georgina Chapman)と二人の子供が不憫だ。夫人の方は悪い男を選んだとして諦められるが、娘のインディア・パールはまだ7歳だし、息子のダンシェルは4歳だから、二人の人生を考えれば気が重くなる。また、ワインシュタインには前妻との間に三人の子供がいるから悲惨だ。長女のレミーは22歳で、次女のエマは19歳、末っ子のルースは15歳だから、まだ多感な時期である。マスコミによる連日の報道で、父親の醜態が世間にバレたんだから、彼らが学校に行きたくないとグズっても無理はないだろう。ワインシュタインは治療に取り組むと発表していたが、そんなことで家族の屈辱感が消えるのか? ユダヤ教では自殺が禁止されているけど、潔く「腹を切れ」と言いたくなる。


左: ジョージナ・チャップマン
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中央: ワインシュタイン夫妻
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右: ハーヴェイと娘のインディア・パール
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日本でも起こりうる事件

  我々は米国での醜聞を耳にして、対岸の火事と思いがちである。しかし、我が国の藝能界だって異民族に支配されるという恐怖は存在するはずだ。例えば、朝鮮系の大物プロデューサーとか、大手プロダクションの重役とかが、若い歌手や女優の卵などに目を附け、権力を用いて手込めにしようと目論むかも知れない。

日本の藝能界は驚くほど閉ざされた社会で、主要な藝能事務所が仕切っている。個人の歌手や俳優が勝手に活動できないし、独立の動きを見せれば直ちに潰されるか、干されるかのどちらかだ。事務所と個人の「契約」と言えば聞こえが良いが、実質的には「隷属」を強いる承諾書に過ぎない。「自動更新」なんて実質的に奴隷契約だ。

だから、助平な藝能業界人が美人女優に手をつけても、その被害者女性は抵抗できないし、強姦とかセクハラで訴えることもできない。暴力団に囲われた娼婦と同じである。もし、告発したら藝能生命が絶たれてしまうし、たとえ示談に漕ぎ着けても、その後の処遇がどうなるか判らない。もしかしたら、「来るはず」の役どころがキャンセルされて、出演している番組からも降ろされてしまう可能性だってある。そして、いつの間にか仕事が減ってくるという恐怖もあるんじゃないか。

権力者の「誘い」を断れば、こうした“仕置き”が待ち受けていると思えば、“成功”を目指す若手女優は助平ジジイからの“性交”を拒めないだろう。しかも、こうした下郎のバックにはヤクザが控えていたりするから尚更だ。


左: ブライス・ダナー
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右: 両親のブライスとブルースと一緒のグウィネス
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  ワインシュタインに犯されたり、恐怖の瞬間を味わった女性にも、両親や兄弟がいるはずだが、その家族は今どう思っているのか? 例えば、グヴィネス・パルトローの母親は女優のブライス・ダナー(Blyth Danner)で、亡くなった父親のブルース・パルトロー(Bruce Paltrow)は映画のプロデューサーだった。父のブルースは2000年に映画『デュエット(Duets)』を制作し、娘のグウィネスを主演に据えていたが、娘の過去を知っていたのかどうか判らない。ただ、映画界にはトンデモない野獣がいるということだけは知っていたはずだ。

母親のブライスも若手女優を食い物にする映画関係者がいることを知っていたはずだから、娘の災難は予測できたはずなのだが、子供の藝能界入りを阻止できなかった。

アンジェリーナ・ジョリーの両親だって判っていたはずだ。彼女の父親は有名俳優のジョン・ボイド(Jonathan V. Voight)だし、今は亡き母親のマルシア・リン・ベルトランド(Marcia Lynn Bertrand)もカナダ人女優だったから、藝能界の危険性を承知していたはずである。


中央: アンジェリーナ / 右: マルシア・リン・ベルトランド
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  一方、藝人となった日本人の親はどうなのか?

二世藝人の親はともかく、藝能界とは係わりを持ったことの無い者がほとんどだろう。一般的に、実家の両親は娘がテレビや映画で活躍する姿を観て喜ぶが、その裏で凌辱されているなどとは夢にも思わない。セクハラを受けた娘だって両親に心配をかけたくないから黙っているし、警察沙汰にもできないから、「事件」は闇に葬られるのがオチだ。

でも、愛する娘が朝鮮系のゲス野郎に犯されたと知った父親はどう思うのか、ちょっと興味がある。

大抵の親は泣き寝入りするだろうが、中には復讐を誓う父親が出てくるかも知れない。日本人のクズでさえ嫌なのに、朝鮮人のケダモノに我が子を犯されたら殺したくなる。したがって、娘を凌辱した変態に対しては、バックハンド・ブローとか下段蹴りくらいじゃ気が治まらない。やはり、相手のアゴに膝蹴りを数発とか、二度とセックスが出来ないように股間を踏み潰したりすべきだ。

まぁ、ホドリゴ・ノゲイラ風にアナコンダ・チョークとはいかなくても、拳の鉄槌で相手の鼻か肋骨をへし折るとか、マウント・ポジッションで肘(ひじ)を顔面に突き刺すとかしたいだろう。法律的には傷害罪となるが、日本人の感情としては当然の「報い」となる。

  娘の藝能界入りを許す親は、見知らぬ男に「弄ばれる」ことをも覚悟すべきだ。

日本の藝能界には朝鮮系だけじゃなく、帰化した支那人も参入してくるから、可愛い娘は「格好の餌食」となるだろう。

自宅でぐーすかイビキをかいて寝ている父親は、箱入り娘が裏でこっそり犯されても気づかない。追い詰められた娘の前で、変態プロデューサーがその穢らわしい精子を娘に吹き掛けるなんて、想像するのもおぞましいじゃないか。

日本人に怨みを抱く朝鮮系や支那系のプロデューサーだと、「性奴隷を弄んだ日本人への復讐だ !」なんて言い出しかねないぞ。やはり、藝人の娘を持つ親は、“イザ”という時に備えて、必殺仕置人とかを雇っておかなくっちゃね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68676549.html


ユダヤ人が弄ぶ淫売白人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の巣 (前編)
役者は売春婦と同じ職業
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580121.html

  ナチス時代以前のドイツでも、甘言を使って白人娘をたぶらかすユダヤ人が、よく小説や風刺画の主題になったのもである。現在だと1940年に制作された『ユダヤ人ズース(Jew Süß)』が反ユダヤ主義映画として有名だ。これはウィルヘルム・ハウフ(Wilhelm Hauff)原作の小説を基にして作られた作品で、ヴィッテンベルクのカール・アレグザンダー公爵に仕えたヨセフ・ズース・オッペンハイマーという宮廷ユダヤ人がモデルになっている。

映画の中では、貪欲なユダヤ商人ズースが貴族に近づき権力を得るや、一目惚れしたアーリア人女性に言い寄り、遂には自殺にまで追い込むというストーリーが挿入されていた。

つまり、この作品の中には、美しく純粋なゲルマン人娘に下劣で醜いユダヤ人が近寄り、お金に物を言わせて性的に征服するんだ、という警告が含まれている。こんなプロパガンダ映画を観たユダヤ人は、「ナチスによる人種偏見だ」、「反ユダヤ主義者による差別だ」、と怒り狂うだろうが、1970年代以降のハリウッド映画を観ていると、あながち嘘だとは思えない。アメリカの映画界を独占するユダヤ人が制作する作品には、ユダヤ人男優が西歐系白人女性を手込めにする物語が矢鱈と多いのである。


  セム種族の遺伝子をふんだんに持つ異邦人にとって、西歐系白人女性を手込めにするのは、「成功の証(あかし)」である。

よく、高校時代にモテなかったユダヤ人少年が、可愛いチアリーダーを恋人にする白人の同級生を羨み、「いつかはオレも」と思いながら勉強に励むことがある。しっかりと猛勉強して金融業界とか法曹界に入り、大金を稼ぐようになると、秘書として雇った西歐人娘と情事を重ねたり、パーティーで知り合った白人美女を妻にしたりする。これがいわゆる「トロフィー・ワイフ」で、社会的地位を築いたユダヤ人ビジネスマンの自慢となる。

例えば、「ワンダー・ウーマン」で人気女優となったリンダ・カーター(Lynda Carter)と結婚したロバート・アルトマン(Robert Altman)が有名だ。1991年に彼が法律顧問を務めていたBCCI(国際金融商業銀行)が、不法営業や不正疑惑で非難された時、カーターは夫のロバートにくっついて公聴会に顔を出していた。たぶん、当時のニュース映像を覚えている方も多いんじゃないか。きらびやかな美人妻が、冴えない男に付き添っていたのだ。嫌でも目に入る。

しかしながら、CIAの裏工作や資金洗浄を手助けしていたアルトマン見ていると、やっぱりユダヤ人って金融業がよく似合っているなぁ、と思えてくる。序でに言えば、BCCIでアルトマンの相棒にsっていたのは、あの元国防長官クラーク・クリフォード(Clark Clifford)であった。


左: リンダ・カーター
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中央: ロバート・アルトマンとリンダ夫人
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  ハリウッドがユダヤ人によって創設され、隅々まで支配されいることは、多くの知識人やジャーナリストが明らかにしている。例を挙げれば、『The Empire of Their Own』を執筆したニール・ギャブラー(Neal Gabler)とか、ユダヤ人記者のジョエル・シュタイン(Joel Stein)などが有名だ。また、若手のユダヤ人論客ベン・シャピロー(Ben Shapiro)がハリウッドの大物に会ってインタヴューを行い、「プライムタイム・プロパガンダ(Primetime Propaganda)」という本を出版している。

一応、保守派知識人のスタンスを取るシャピロは、著書の中でユダヤ人がいかに左傾化しているか、どのようにテレビ局やマスメディアを牛耳っているかを述べていた。ユダヤ人の中には、権威に楯突くことを趣味にしている人物が多いから、我々は時たま貴重な証言を聞くことが出来てしまう。例えば、左翼系作家のアプトン・シンクレア(Upton Sinclair)は、ハリウッドのユダヤ人がどのように白人娘を扱っていたかについて述べていた。彼は女優たちの事に触れ、

「ユダヤ商人はキリスト教徒の乙女を売春婦や妾として売りさばいたよなぁ。今日でも私が住む南カルフォルニアで、同じ活動を展開しているんだよね」

と語っていたのだ。うわぁぁぁ !! こんなこと言ったらアメリカでは自殺行為だぞ。でも、悪名高い左翼組織のACLUに属していた過激派だから、悪魔のようなユダヤ人に対して遠慮が無い。さすが、ユダヤ人と同類の白人左翼には度胸がある。「勇気」という掛け声だけは“いっちょ前”の保守派論客とは出来が違う。ユダヤ人からの批判にびくともしないんだから、日本人はこうした図太いアメリカ人左翼に学ばなきゃ。


(左: アプトン・シンクレア / 中央: ニール・ギャブラー / 右: ベン・シャピロー)

  「紙の爆弾」を投げつけるのは、何も左翼活動家ばかりとは限らない。映画「ハムナプトラ」や「ナイロビの蜂」で人気女優となったレイチェル・ワイズ(Rachel Weisz)が、意外な発言を行っていたのである。

彼女はハンガリー系ユダヤ人の父親とカトリック信徒だったイタリア系オーストリア人の母親(後にユダヤ教に改宗)との間に生まれたユダヤ人娘である。英国籍を持つレイチェルは、ケンブリッジ大学に進んだ才女で、私生活では一度目の結婚で息子を産んだあと離婚し、「007」のボンド役俳優で脚光を浴びたダニエル・クレイグと再婚したことは記憶に新しい。彼女はユダヤ人ジャーナリストのエマ・フォレストにインタヴューを受け、ハリウッドがユダヤ人によって仕切られている事実を語っていた。エマが

「ユダヤ人の民族性が役者の枠を縮めてしまう事があるのか?」

と尋ねると、レイチェルは以下のように答えていた。

  まあ、いつもそう感じるんだけどけど、私たちユダヤ人はエキゾテックであることから逃れることができるのよ。私たちは一種の偽装したユダヤ人なの。大きな鉤鼻と太った顔があなたにも影響を与えているのよ。それを認めるって怖いじゃない。

  対するエマはこう述べる。

  そうね、ジャッーキー・メイソンが或るジョークを言っていたわ。ユダヤ人のように見える事を欲する女性なんか一人もいない、てっね。「もしかしたら、あなたはは私が可愛いイタリア人と思うかも知れないし、私はロシア人に見えるかも。たぶん、スペイン人に見えるのかしら。・・・・でも、やはりユダヤ人に見える」だって。


左: レイチェル・ワイズ
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右: 夫のダニエル・クレイグと一緒のレイチェル
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  まぁ、ユダヤ人は根本的にヨーロッパ人と違うから、どうしてもユダヤ人的な人相が目立ってしまう。ただ、昔から様々な国に住みついて、現地人と結婚したりするから、ユダヤ人的容姿が薄くなることがよくある。レイチェル・ワイズの場合、中東系のセム種族というより、チェコかハンガリーに住むヨーロッパ人女性のように見える。しかし、それでもハリウッドの映画会社はなるべくなら、売り出す役者をヨーロッパ人のように見せたい。ユダヤ風の名前だと響きが悪いから、ユダヤ人と分からぬよう英国風に変えてしまうことがよくある。

映画ファンの間で知られているのは、ロシア(ベラルーシ)からの移民「イサー・ダニエロヴッチ(Issur Danielovitch)」から改名した「カーク・ダグラス(Kirk Douglas)」、ジェイミー・リー・カーティスの父親は有名な「トニー・カーチス(Tony Curtis)」だが、元の名前は「ベルナルド・シュワルツ(Bernard Schwartz)」だ。

レイチェルも19歳でアメリカに進出した時、エージェントから「ワイズ」という姓を変えろと勧められたそうだ。そこで、彼女は「どうして? ユダヤ人がハリウッドを牛耳っているから? 」と尋ねた。彼女のエージェントは「そうだよ」と答えたそうだ。ところが、その理由がとんでもなく凄いものだった。彼によれば、映画会社の重役たちは「役者」を「シクサ(shiksa)」がする職業と考えていたのだ。


左: カーク・ダグラス
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中央: トニー・カーチス
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左: 娘のジェイミー・リー・カーチス
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  ところで、この「シクサ」とはいったい何か?

普通の日本人なら、まず聞いたことがないだろう。ユダヤ人の言葉たるイデッシュ語で、「不浄な動物」、つまり異教徒(ゴイム/家畜並みの人間)の女性を意味する侮蔑語なのだ。具体的に言えば、異教徒、特にキリスト教徒の女、すなわち淫売のように“ふしだらな”女を指している。

神様に選ばれし清らかなユダヤ人にとったら、いくら演技とはいえ、人前で丸裸になったり、見知らぬ男とセックスして雌犬の如く喘ぎ、雌牛みたいに乳房を揉まれたりする西歐人の女は、穢らわしい売春婦なのだ。

したがって、演技というものは貞淑なユダヤ人女性では、とても出来ない淫乱な仕事という訳である。

エマによると、世界中にいる自己嫌悪のユダヤ人の中で、ハリウッドのユダヤ人が一番自らを嫌っているユダヤ人らしい。彼らは銀幕に映る彼ら自身の姿を見たくないのだ。

だから、ローレン・バコール(Lauren Bacall)は素性を隠したし、ウィノナ・ライダー(Winona Ryder)は「ホロウッツ(Horowitz)」というユダヤ名を「ライダー」に変えてしまったそうだ。


左: ローレン・バコール
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ウィノナ・ライダー
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右: ドリュー・バリモア
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  レイチェル・ワイズの発言は更に衝撃的なものだった。

  ある意味、演技というのは売春なのよね。ハリウッドのユダヤ人達は、同胞の女性がそんな事に関与するなんて、嫌でたまらないのよ。それと、「ポートノイの不平」的要素もあるのかも。(フィリップ・ロスの小説で、露骨な性的表現が問題となった。) ハリウッドのユダヤ人たちは、ブロンドのアーリア人を夢見ているのね。(Emma Forrest, Rachel Weisz, Index Magazine)

  ハリウッドに巣くうユダヤ人は、大勢の前で淫乱な演技をするのは金髪のゲルマン人女性に限る、と思っていたのだ。しかし、そうした侮蔑とは裏腹に、彼らは憧れの人種に恥ずかしい性的行為をさせて興奮していたのである。

ただ、ユダヤ人の監督やプロデューサーはヨーロッパ人同士のセックスでは癪に障るから、白人の男優をユダヤ人の男性に替えて、白人美女と性的行為をさせて、あたかも自分が美人女優とセックスをしているかのような白昼夢に耽るのだ。

現実の世界では、ユダヤ人男性がアーリア系美女を恋人に出来ることは限らないから、映画の中でその願望を実現させているのだろう。

例えば、ユダヤ人男優のアダム・サンドラーが主演を果たした「ウェディング・シンガー(The Wedding Singer)」では、恋人役にドリュー・バリモア(Drew Barrymore)が起用されていた。「クリック」ではこれまた美人女優のケイト・ベッキンゼール(Kate Beckinsale)が共演者になっている。


左: ケイト・ベッキンゼール
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右テリー・ポロ
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  精神分裂症患者がよく似合うベン・スティラーは、「ミート・ザ・ペアレンツ(Meet the Parents)」に出演し、恋人役は白人女優のテリー・ポロ(Teri Polo)が務めていた。彼女は裕福な中流階級のご令嬢で、父親役のロバート・デ・ニーロに溺愛されている、とう設定だった。そこにユダヤ人看護師役のベンが婚約者として現れ、一悶着起こすというストーリーである。

何とも興味深いのは、ベンの両親役にユダヤ人のダスティン・ホフマンとバーバラ・ストライサンドが起用されていたことだ。映画の中では、この両親がヒッピー世代の左翼崩れという設定になっていたから愉快だ。ユダヤ的ユーモアがちゃんと混ぜてあった。


左: バーバラ・ストライサンド
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ダスティン・ホフマン
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  サンドラーとスティラーの大先輩で、人気コメディアンのビリー・クリスタル(Billy Crystal)は、「恋人たちの予感(When Sally Met Harry)」に主役として出演し、恋人役のサリーにはメグ・ライアンが抜擢されていた。ユダヤ人たるビリーの恋人役ならロジー・オドンネル(Rosie O'Donnell)くらいが適役なんじゃないか。ベン・スティーラーが出演した「ポリー my love (Along Came Polly)」では、これまた金髪女優のジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)が共演。ジェニファーは人気TVドラマ「フレンズ」でも、ユダヤ人男優のデイヴッド・シュワイマー(David Schwimmer)と恋仲になるレイチェルを演じていた。でも、私生活ではブラッド・ピットと付き合っていたから、現実と虚構とのズレは著しい。


左: ロジー・オドンネル
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メグ・ライアン
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ジェニファー・アニストン
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右: メラニー・グリフィス
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  だが、こんな恋愛コメディーで驚いてちゃいけない。メラニー・グリフィス(Melanie Griffith)が主演した映画「刑事エデン/追跡者(A strager among us)」では、メラニー扮する女刑事エデンが犯人を追って、ニューヨークのユダヤ教徒コミュニティーに潜入し、ユダヤ教の神秘主義者であるアリエルに恋をする設定になっていたのだ。

大都会に暮らす遣り手の女刑事が、不気味なユダヤ人の聖書研究家に惚れるなんて、普通じゃ絶対あり得ない。しかも、その現実派の世俗的警察官が、金髪の北歐美人ときている。もう呆れてしまうというか、設定じたいが無茶というか、ユダヤ人の妄想には付き合いきれない。ニューヨークに暮らす実際のユダヤ教徒の中にも、白けてしまうしまう者がいたんじゃないか。


左: 好ましいアーリア系女性
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右: ユダヤ人の役者
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  日本人女性からすれば、フィクションの世界で願望を実現化させるユダヤ人なんか、気色の悪い変態にしか見えないが、ユダヤ人制作者はゲルマン美女にエッチな行為をさせて、それを覗きながら自慰(マスターベーション)を行うのが好きなのだ。

もっとひねくれたユダヤ人監督になると、白人男性に復讐しようとして、わざと黒人男優を選び、白人美女とセックスさせる設定にしているのだ。

つまり、傲慢な白人男性の娘を、穢らわしい黒人に抱かせることで、ユダヤ人をイジメてきた白人どもを侮辱しているのである。白人の父親にとって、娘が黒人とセックスするなんて死ぬより辛いことなのだ。

だから、ユダヤ人は「人種平等」という大義を掲げ、白人と黒人との性交だって許容されるべし、と訴えている。

(しかし、そう叫んでいるユダヤ人でも黒人と結婚する者は稀で、大半は同胞か白人と結婚するのが普通である。人種混淆のニューヨークであれば、黒人とユダヤ人のカップルが多くなるはずなのに、白色系ユダヤ人ばかりなのは奇妙である。人種差別が当然のユダヤ人にしたら、最初から黒人は恋愛対象ではないのだ。)

心優しいユダヤ人は、黒人だから結婚相手にしないというのは道徳に反している、と映像を通して白人娘たちに刷り込んでいる。彼らが作る映画やドラマで、異人種間セックスのシーンが多いのは、白人を遺伝子レベルで撲滅してやろう、と謀っているからだ。

こうやって平和裏に報復を遂げたユダヤ人は、ついでに大金を稼いで儲けているんだから笑いが止まらないんだろう。


西歐人女性
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右: ユダヤ人男性
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  一方、アメリカの無力な白人男性は、ユダヤ人に腹を立てても財力に乏しいから蟷螂(とうろう)の斧に等しい。せいぜい、ラジオのトーク番組に電話を掛けて、日頃から溜まった鬱憤を晴らすしかないのだ。

米国の主流メディアは皆ユダヤ人に押さえられているので、地方のラジオ局くらいしか自由に発言できる場所がないのだある。これがアングロ・サクソン系プロテスタントが建てた国家の現状である。涙がこぼれてくるほど哀れだ。

こうした事情を斟酌しないと、なぜマックス・マルティーニ(Max Martini)やトム・ベレンジャー(Tom Berenger)のような顔をした白人が、エンターテイメント界のユダヤ人を憎むのかが分からない。特に、敬虔なキリスト教徒で軍人の父親は、純情な娘に穢らわしい思想を吹き込むユダヤ人が大嫌いで、どんな手段を用いようともユダヤ人の害悪から守ろうとする。藝能界で下劣な作品を作るひ弱なユダヤ人は、こうした白人どもを本能的に嫌っており、映像作品の中で愚弄する事が度々ある。

例えば、北歐系白人男優には人種偏見に満ちた頑固者とか、ネオ・ナチのクズ野郎、馬鹿丸出しの貧乏人、コカインを常用するドラ息子、とかの役をあてがい、知的で正義感のある役にはユダヤ人か黒人を起用したりする。

よく、優秀で善良なFBI捜査官の役を黒人が演じているのは、一部にこうした理由が潜んでいるからだ。


ウッディー・アレンの淫売たち

左: ウッディー・アレン
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  西歐系アメリカ人が「ユダヤ人で有名な人物は誰か?」と訊かれたら、ウッディー・アレン(Woody Allen)の名を挙げる人も多いだろう。それくらい彼は典型的なユダヤ人の一人である。

そのアレンが最近、「カフェ・ソサエティー(Café Society)」という映画を撮った。あまり面白くない作品だが、出演者だけは一応豪華になっている。主人公はユダヤ人男優のジェシー・アイゼンバーク(Jesse Eisenberg)扮するボビー・ドーフマンで、ハリウッドで一旗揚げたいと望むユダヤ人家庭の息子という役柄だ。彼の家族がこれまた“いかにも”ユダヤ的で“ステレオ・タイプ”の設定になっている。

ボビーの父親マーテは宝石商で、兄貴のベン(コリー・ストール)は犯罪を何とも思わないギャング、妹はマルクス主義者の知識人と結婚していた。そして母親の弟、つまりボビーの叔父であるフィル(スティーヴ・カレル/Steve Carell)はハリウッドの藝能界で仕事をしており、かなりの有力者である。

観客は映画の中でウッディー・アレンがナレーションを務めていることから、彼自分をボビーと重ねていることが分かるだろう。まぁ、ボビーは鏡に映ったアレンといった感じだ。

  父の跡を継いで宝石商になることを嫌がったボビーは、叔父を頼ってハリウッドにやって来た。(やっぱり、ユダヤ人だらけの宝石業界より、きらびやかな西歐人がいっぱいいる藝能界の方がいい。)

叔父のフィルは事務所に来た甥を秘書のヴェロニカ・シヴィル、通称「ヴォニー(Vonnie)」に紹介する。(ヴェロニカ役には人気女優のクリスティン・スチュワートKristen Stewartを使っている。) すると、ボビーはその美しい秘書に一目惚れ。彼はヴォニーと親しくなりたいが、彼女は他に好きな人がいるとボビーに告げる。しかし、その恋人は架空の人物で、彼女の恋人とは叔父のフィルであった。

フィルの権力と財力に魅せられたヴェロニカは、この上司と結婚することに決め、フィルの方も女房と離婚して若き秘書と再婚する。いかにも、ハリウッドで起きそうな再婚劇だ。財産と地位を手に入れた中年重役が、糟糠(そうこう)の妻を棄てて、美人秘書と結婚するんだから。それにちょっと露骨だが、ユダヤ人制作者は同胞の若者に、「ビジネス界で成功すれば西歐の白人美女をモノにできるぞ」、というメッセージを送っているのだ


左: クリステン・スチュアート
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右: 「カフェ・ソサエティー」での一場面
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  一方、ハリウッドでの夢に破れたボビーは、地元のニューヨークに戻り、兄貴のベンと一緒に高級ナイト・クラブを始めていた。そこでベンはヴェロニカ・ヘイズという金髪の南部美人と出逢う。何回かデートを重ねるうちに、二人は結婚するというストーリーになっている。

監督のアレンはボビーの恋人(ブレイク・ライヴリー/Blake Lively)にわざと同じ名前「ヴェロニカ」を授け、しかもユダヤ人を侮蔑するような言葉を吐く役柄にしていた。だが、ユダヤ人を嫌う南部女性なのに、なぜかユダヤ人青年と結婚するような設定にしているから奇妙である。たぶん、ユダヤ人の内面的な素晴らしさに魅了される白人女性にしたかったのだろう。

でも、現実ならブロンド美人がアレンのようなユダヤ人男性に振り向くことはない。これはアレンがつ創り出した虚構だ。


左: ブレイク・ライヴリー
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左: 「カフェ・ソサエティー」の一シーン
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  それにしても、西歐社会に寄生するユダヤ人は、とにかくアーリア系女性が大好きである。

何としても、ユダヤ人を嫌うゲルマン人たちの意識を変えたい。だから、ユダヤ人制作者たちは映画の中に、ゲルマン系美女がユダヤ人の青年と恋に落ちるシーンを挿入し、白人観客の頭に「ユダヤ人とゲルマン人との混淆」を刷り込みたいのだろう。

現実的には、ユダヤ人男優の相手には、サンドラ・ベルンハルド(Sandra Bernhard)やサラ・ギルバート(Sara Gilbert)、メイム・ビアリク(Mayim Bialik)みたいなユダヤ系女優の方が適役だ。多様性を重んずるユダヤ人監督なら、朝鮮系女優のサンドラ・オー(Sandra Oh)やアフリカ系ユダヤ人女優のソフィー・オコネド(Sophie Okonedo)なんかを採用するんじゃないか。

もっとも、西歐系女優を期待するユダヤ人の観客は、現実を見せつけられてガッカリするかも知れない。


左: サンドラ・ベルンハルド
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サラ・ギルバート
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メイム・ビアリク
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右: サンドラ・オー
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  ユダヤ人は同胞に対してメッセージを送るのが好きで、監督のアレンは色々な場面にユダヤ風のジョークをまぶしていた。

例えば、ボビーの兄ベンは殺人の廉で逮捕され、死刑判決を受ける。しかし、ベンはユダヤ人のはずなのに、刑務所内でキリスト教に改宗し、最後は電気椅子で処刑されてしまうのだ。ベンの母エヴリンは息子の死を嘆く。

「私の息子はまず殺人犯になってしてしまい、その次にキリスト教徒になってしまったわ !」と。

映画を観るユダヤ人達は大爆笑間違いなし。キリスト教徒に改宗することは殺人より罪深い、という訳だ。敬虔なキリスト教徒の白人が聞いたら、

「何だ、このユダ公め !! 白人の女を性的なオモチャにして散々もてあそんだ挙げ句、オレたちの信仰を馬鹿にするのか。ゆるせねぇ、ぶちのめしてやる !」

と激怒するだろう。だが、米国ではユダヤ人による差別や侮蔑は罪にならないし、マスメディアから非難されることもない。ユダヤ人仲間のブラック・ジョークには寛大なのだ。これがイギリス系入植者が樹立した共和政の末路である。異邦人が社会の中枢を占めると、どんな事が起きるのか、日本人はよく噛みしめるべきだ。

  それにしても、ボビーの兄ベンをユダヤ人ギャングに設定するところなど、いかにもユダヤ人監督らしい。たぶん、アレンはラスヴェガスのマフィアとか、有名なユダヤ人ギャングのバクジー・シーゲル(Bugsy Siegel/本名はBenjamin Siegel)をモデルにしたんじゃないか。

日本人が挙げるアメリカのユダヤ人といったら、物理学者のアルバート・アインシュタインとかロバート・オッペンハイマー、経済学者のポール・サミュエルソンやミルトン・フリードマンといったことろが定番だろう。

しかし、ユダヤ人には有能なギャングも多く、悪名高いマイヤー・ランスキー(Meyer Lunsky/ 本名Meier Suchowlansky)はポーランド系ユダヤ人であったし、ダッチ・シュルツは(Dutch Schultz/本名Arthur Simon Flegennnheimer)はドイツ系ユダヤ人であった。その他にも、ジェイコブ・シャピーロ(Jacob Sapiro)や賭博や恐喝で才能を発揮したアーノルド・ロスシュタイン(Arnold “the Brain ” Rothstein)も見逃せない。

とにかく、暗黒街で活躍したユダヤ人は大勢いて、日本では何故かイタリア人マフィアばかりが紹介されている。たぶん、アカデミー賞映画の「ゴッド・ファーザー」が印象的だからだろう。

この映画が公開された当時、イタリア系アメリカ人はイタリア系移民への偏見が強まるとして、大規模な抗議デモを起こしたことがある。本来なら、もっと兇悪で狡賢いユダヤ・マフィアの映画を作ればいいのに、ユダヤ人が支配する映画会社は作らなかった。やはり、同類の恥部は隠したいのだろう。


  日本人はウッディー・アレンの映画を観て、これをアメリカでの「他人事」と思うだろうが、こうした洗脳作品の手法を日本の左翼映画人は参考にしているのだ。いずれ日本でも、アジア混血児の俳優が普通に登場し、豪華な商業映画で主役とか重要な役柄を演じることとなるだろう。おそらく、日本社会に於けるアジア人の混在が「当然」のものとして描かれるようになるはずだ。

もう既に、朝鮮系の役者が当り前となっている日本では、半ば朝鮮社会と融合している部分がある。朝鮮系の二枚目男優とか、帰化鮮人系の美人女優とかが、日本の映画やドラマに浸透し、朝鮮人全体のイメージを良くしている。

今は朝鮮らしさを押さえているが、近い将来、朝鮮人家庭の風景がドラマの中で再現されたり、帰化人家庭のホームドラマとか、朝鮮系日本人の苦悩と希望を描いた青春映画、朝鮮人への偏見を扱った恋愛ストーリーなど、様々なジャンルの作品が誕生するはずだ。そうなれば、銀幕を通して日本人観客を洗脳する時代の到来となる。もしかしたら、将来、豊川悦司とか、伊原剛志、金子賢、玉山鉄二、白竜みたいな朝鮮系俳優が増加し、ドラマの中で腐敗した日本人を逮捕する警察官役とか、卑劣な日本人から美女を救い出す好青年を演じるだろう。


  そうなれば、日本人を侮辱するのが当り前となる。さらに、こうした反日作品には、つかこうへいや伊集院静みたいな脚本家が起用され、崔洋一の如き朝鮮系監督が指揮を任される場合だって考えられるのだ。

日本人からの侮蔑を受けながら育った朝鮮系や支那系の監督は、日本人からの陰険な差別に苦しむ「弱者」を主人公にし、冷血な日本人悪役を倒す筋書きを作ったりするだろう。そこに、フィリピン人やタイ人の混血俳優を混ぜて、社会正義を主題とした映画にすることだってあり得る。

無防備な日本人の観客は、井川遥とか安田成美のような朝鮮系女優が、脂ぎった金持ちのジジイとか、あるいは権力を振りかざす一流企業の重役とかに、乱暴されて犯されるシーンを見せつけられたりするのだ。

こうした悪党役には、それに相応しい日本人俳優が採用されたりする。例えば、中尾彬とか塩見三省、八名信夫、今井健二とかの実力派俳優を思い出せば分かるだろう。

大衆は現実とフィクションを混同する癖があるから、悪質な日本人と善良な朝鮮人という馬鹿げた図式を、いとも簡単に呑み込んでしまうのだ。


井川遥
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右: 安田成美
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  確かに、映画はしょせん娯楽作品なんだから気にすることはない、という意見もある。しかし、動画による印象は強烈で、一般観客はお金を払って劇場に足を運ぶ訳だから、自ら影響を受ける準備ができている。しかも、大衆は読書と思索で自らの見識を研ぎ澄まそうとはしない。目に入ってくる面白い映像をそのまま脳味噌に入れ、無意識のうちに洗脳されてしまうのだ。

近頃だと、刺青を彫った人気ミュージシャンや俳優に憧れて、自分の体に同様な刺青を彫る若者が多い。だが、子供を持った女性などは、ヤクザまがいの姿を後悔し、高額な治療費を払ってまでも、その刺青を消そうとする。激痛に耐えて消そうとするが、皮膚に染みついた墨は中々消えず、却ってケロイド状態になってしまい、変色したボコボコの皮膚になってしまう女性だっているのだ。

映画の中では美人女優や二枚目俳優が、格好良い刺青を見せびらかしているが、こんなものはフィクションの世界で作られた幻想であり、現実の世界では犯罪者や下層民の焼き印に等しい。映画制作者には元左翼がうじゃうじゃいるので、自堕落な生活や暴力団まがいのファッションを礼讃する傾向が強い。破壊思想を持つ映画人は、伝統的文化や貞淑な女性像など大嫌いで、この嫌悪感が日本社会への憎悪と結びついて、反日映画を作るようになるのだ。

  本当に、ハリウッドに盤踞するユダヤ人の害悪は尽きない。後編ではユダヤ人達に性的なオモチャにされたマリリン・モンローを取り上げたい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580121.html


モンローの肉体を嘗めたユダヤ人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の糸 (後編)
ゴイム(異教徒)を妻にするユダヤ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html


マリリン・モンロー
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テレビ東京が2013年頃、朝の時間帯に昔懐かしい「奥様は魔女(Bewitched)」を再放送していた。綺麗なカラー映像に修正されたコメディー番組を観た方も多いんじゃないか。

このアメリカ・ドラマは元々、昭和40年代に放送されたシットコム・コメディーで、主役のサマンサを演じたエリザベス・モンゴメリー(Elizabeth V. Montgomery)とダーリン役を演じたディック・ヨーク(Dick York)は今でも有名だ。義母のエンドラを演じたアグネス・モアヘッド(Agnes Moorehead)も意地悪の魔女が板に付いていて、とても印象に残る女優であった。米国にはこういった雰囲気を醸し出す、憎いくらい上手な演技をする脇役がいるからすごい。人気ドラマ「ダイナスティー」のジョアン・コリンズ(Joan Collins)みたいな実力派がいるから、ややもすると緩みがちな連続ドラマが引き締まる。

ちなみに、今回「奥様は魔女」を調べてみたら、日本版も制作されていたそうで、人気女優の米倉涼子がサマンサ役を演じていたそうだ。知らなかった。まさか日本人バージョンがあったなんて。観てないから何とも言えないが、おそらく駄作なんじゃないか。日本人がアメリカドラマを模倣して成功した例は少ないだろう。

ドラマじゃないけど、以前に野口五郎がサンタナのヒット曲「スムーズ(Smooth)」を拝借し、「恋はメラメラ」という題にして唄っていた。サンタナのオリジナル版では、人気歌手のロブ・トーマス(Rob Thomas)を起用して素晴らしい出来だったが、野口五郎の方は一度聴けば恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるほどの代物である。元曲をあれほど無惨にしたカヴァー曲も珍しい。


  脇道に逸れたから話を戻すと、ドラマの中で美人妻を演じたエリザベス・モンゴメリーは、何とプロデューサーのウィリアム・アッシャー(William Asher)と結婚していたのだ。

彼はユダヤ人の父親とカトリック信徒の母親を持つユダヤ系アメリカ人だが、ユダヤ人支配のハリウッドでは一般的にユダヤ人制作者と見なされていた。

我々とってショックなのは、貞淑な妻を演じていたエリザベスが、私生活では同性愛者や妊娠中絶を支持する筋金入りの左翼活動家であったことだ。確かに、「奥様は魔女」の中にも人種差別を取り上げたエピソードがあって、黒人を対等に扱うサマンサの姿があった。今から思えば、1960年代後半から1970年代にかけて放送されていた番組だから、リベラル色が強くてもしょうがないと考えられるが、「奥様は左翼だった」じゃ笑えない。

それにしても、売れっ子女優がユダヤ人プロデューサーと結婚するなんて、いかにもハリウッドらしい現象である。もし、彼女が一般人女性のままだったら、ユダヤ人と結婚せずに普通の白人男性と結婚していたんじゃないか。

こんな異人種間結婚を見ているから、ユダヤ人に警戒心を抱く西歐系白人や、藝能界に入りたがる娘を叱る親がいるのだろう。仔羊を狼の群れに解き放つようなものだから、まともな親が反対するのも無理はない。それに、生まれてくる孫がユダヤ人の血統なんて考えただけでも恐ろしい。


左: エリザベス・モンゴメリー
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中央: ウィリアム・アッシャー
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右: 「奥様は魔女」
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マリリン・モンローを取り巻くユダヤ人

  ユダヤ人がうじゃうじゃいるハリウッド村は、藝能界というより匪賊や傭兵がたむろする無法地帯と考えた方が的確である。こんな蟻地獄に入って行く若者が跡を断たないんだから、エンターテイメント業界は麻薬に満ちた魔界と呼んでもいい。

米国史の中でも輝かしい1960年代、後世に名を残すこととなった人気女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)も、ユダヤ人の魔の手に落ちた悲惨な一例であった。

父親は不明だが、グレイディス・パール・ベイカー(Gladys Pearl Baker)の娘として生まれた、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)は、義父の「モンロー」姓をつけて藝能界にデビューした。

彼女はラルフ・グリーンソン(Ralph Greenson/ 本名Romeo Greenschpoon)という名うてのユダヤ人を自分の精神科医として雇っていた。このユダヤ人はモンローが自殺した時のセラピストであった。彼はマリリンの精神を安定させるために、過度な薬物治療を行っていたらしい。何かマイケル・ジャクソンに「プロポフォル(propofol)」を過剰投与したコンラッド・マレー(Conrad Murray)医師を思い出してしまう。

こんな麻酔薬(鎮静薬)を個人の邸宅で与えてしまうなんて信じられないが、アメリカという異常な国では非常識が罷り通る。たぶん、グリーンソンも自信満々の医師で、どんどん睡眠導入剤や鎮静剤をマリリンに与えていたのだろう。彼女の友人が証言していたが、マリリンはグリーンソンに会えば会うほど衰弱していったそうだ。


  マリリンの周りには矢鱈とユダヤ人が多かった。グリーンソンの妹エリザベスは、ユダヤ人ミルトン・ミッキー・ラディン(Milton “Mickey ” Rudin)と結婚しており、そのラディンは有力な人脈を持ち、エンターテイメント業界で活躍する法律家であった。そして、彼はマリリンの顧問弁護士も務めていたのである。彼女と昵懇の出版業者アーサー・ジェイコブズ(Arthur Jacobs)や、娯楽企業のMCAで彼女のエージェントを務めるジェイ・カンター(Jay Kantor)とモート・ヴィナー(Mort Viner)もユダヤ人だった。

出演作でもユダヤ人監督に重宝されており、「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」ではビリー・ワイルダー(Billy Wilder)が監督だったことは有名だ。「恋をしましょう」だとジョージ・クコー(George Cukor)が監督で、「帰らざる河」ではオットー・プレミンジャー(Otto Preminger)が総指揮を執っていた。マリリンの個人マネージャーのナターシャ・ライテス(Natasha Lytess)もユダヤ人で、いつも一緒にいたから、二人はレズビアンの関係か、と疑われるくらいだった。また、ユダヤ人写真家のミルトン・グリーン(Milton Greene)も、マリリンのマネージャーになって親しく付き合っていたから、彼女との仲を噂にする者もいたという。


  売春の伝統が根強い韓国では、体で仕事を取る藝能人が多いそうで、悲惨な運命を辿った女性も少なくない。

我が国の藝能界でも所謂「枕営業」があるそうで、さほど人気のない女性藝人は、演技力や歌唱力よりも、有力制作者とか大御所に体を提供して、望む仕事を獲得するらしい。

マリリン・モンローも名声と幸運を摑むために、誰彼となくベッドを共にしたという。

ユダヤ人が跋扈(ばっこ)するハリウッドだから、マリリンが「春」を売った相手も当然ユダヤ人だった。ユダヤ人のテッド・ジョーダンによると、マリリンはキャリアを進展させる為なら誰とでも寝たそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean: My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.121)

また、アンソニー・サマーズ(Anthony Summers)によれば、彼女がフォックス社と最初のコンタクトを持った時、そのキーパーソンはベン・リヨン(Ben Lyon)で、彼もマリリンと性的関係を持っていたらしい。シェイラ・グラハム(Sheila Graham)も、マリリンが未来のキャリアの為にリヨンと寝たことを述べている。

マリリンの肉体を堪能したリヨンは、キャスティング・ディレクターのソル・ウルツェル(Sol Wurtzel)を呼びつけ、「デインジャラス・イヤーズ」という1947の映画で使ってやれと命じ、マリリンはちょっとした脇役を与えられたという。何とも生々しい裏話だが、藝能界って多かれ少なかれ、こんな横槍が入ってくる。

大物プロデューサーがいきなり素人の小娘をドラマに押し込んだり、ニュース番組の「お天気お姉さん」に任命したり、とやりたい放題の横暴をはたらく。周りのスタッフは大迷惑だけど、有力者に睨まれたら自分の出世が危なくなるから、長いものに巻かれてしまうのだ。

視聴者だって、あまり人気のない女優がどこからともなく新ドラマに抜擢されるから、「どうしてこんな女優が、いきなり重要キャストに抜擢されたんだ?」と訝(いぶか)しく思うだろう。でも、「大人の事情」が絡んでいるから仕方がない。


中央: ナターシャ・ライテスとマリリン・モンロー
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  「美女と野獣」という映画があったけど、美女のマリリンに群がる野獣は本当に多かった。

被服業界の大御所たるヘンリー・ローゼンフェルド(Henry Rosenfeld)も、白くて美しい肌を嘗(な)めた薄汚いユダヤ人の一人だった。彼はアトランティック・シティーにある自宅にマリリンを招き、自分のスピード・ボートに乗せて、甘い一晩を過ごしたそうだ。

マリリンは映画業界で顔が利く、悪名高いユダヤ人ギャングのバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とも寝ていたらしい。彼の伝記は映画化されたので、このシーゲルについて知っている日本人もたくさんいるんじゃないか。日本もそうだが、藝能界と暴力団は裏で繋がっているから、堅気の人間が毛嫌いするのも分かる気がする。


マリリンのセックス・ライフは10代の頃から既に始まっており、17歳の時にはテッド・ジョーダン(Ted Jordan / 本名 Edward Friedman)と交際していて、彼は後に『ノーマ・ジーン』という本を書いて、マリリンとの性生活を暴露していた。

このジョーダンにはテッド・ルイス(Ted Lewis / 本名 Theodore Leopold Friedman)というミュージシャンの叔父がいて、マリリンはこのルイスとも寝ていたというのだ。彼女が麻薬を覚えたのは、このルイスからであった。本当に腐った奴らである。

  後に有名女優となる野心家のノーマ・ジーンは、のし上がるためには何でもすると心に決めており、ジョーダンにも、誰とでもセックスをするし、その心構えもできている、と語っていたそうだ。

そこで有言実行のマリリンは、著名なゴシップ・コラムニストで、ユダヤ人のウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)と寝たらしい。しかし、一介のコラムニストと性交したくらいでは、ハリウッドで大女優にはなれない。

まだ無名のマリリンはコロンビア・ピクチャーズのハリー・コーン(Harry Cohn)社長に近づいた。「またユダヤ人か !」とウンザリするが、映画会社の社長や重役にはユダヤ人が多いからしょうがない。

このユダヤ人社長はマリリンを自分のヨットに乗せ、夜のクルージングに誘ったそうだ。美しい獲物を捕まえたコーンは、マリリンに向かって服を脱げ、と命じたという。彼女は言わるままに服をぬぎ始めた。すると、あろうことか、この助平ユダヤ人は、自分のペニスを握りながら彼女に近寄ってきたのだ。

大抵の女性なら、「えっぇぇ!! 何 ! 嫌だ!!!」と真っ青になって叫ぶだろう。マリリンも同じで、彼女はコーンを拒絶したそうだ。そりゃそうだろう。こんな変態ユダヤ人とセックスするなんて、どこか精神が異常じゃないとできない。

マリリンに肘鉄を食らったコーンは、とても激怒したそうで、マリリンは「あんなに怒った人を見たことがない」、と語っていたそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean : My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.91)


左: マリリン
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  自分のペニスを握って近寄ってくるユダヤ人なんて、想像しただけでも背筋に戦慄が走る。いくら出世のためとはいえ、マリリンの眼に映る発情したコーンの姿は、余りにも酷かったのだろう。若い娘なら当然である。

しかし、権力者を怒らせたマリリンは、コーンからの報復を受けた。彼女はコロンビアの撮影所に出入りすることを禁じられたそうである。かつて、マリリンは藝能界の実情を語っていた。

  プロデューサーが女優に台本に関して話があるからオフィスに来いという時があるでしょう。でもね、それは台本の打ち合わせじゃないのよ。・・・私はプロデューサーたちと寝たわ。もし、寝ていないと言ったら嘘になるもの。

  1955年に20世紀フォックス社と大きな契約を結んだ時、彼女はようやく不動の地位を手にした女優になれた。そして、マリリンはこう呟いたという。

「私はもう二度と、あいつ等のペニスをしゃぶらないわ」、と。

マリリンは年を重ねる毎に反ユダヤ的感情が募ったようで、大御所のジョー・シェンク(Joe Schenck)のことを「あの糞ユダ公(that Jew shit)」と呼んでいたらしい。他のハリウッド・ユダヤ人に対しても、「あのユダ公 ! とか、このユダ公 !」と罵っていたようだ。しかし、彼女は後にユダヤ教に改宗するが、この反ユダヤ感情は妨げにならなかったらしい。やはり、女優の頭はどこか普通と違うのだろう。


中央と右: マリリン・モンロー
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  マリリンは性的に弄ばれていたが、政治的にも利用されていたようだ。精神科医のラルフ・グリーンソンは、彼女の指導者みたいな身分になっていたが、彼には別の顔があった。このユダヤ人は積極的な共産党員で、コミンテルンにも係わっていたという。そして、彼の妹エリザベスの証言によれば、兄のラルフは熱心なシオニストで、イスラエルとの太いパイプを持っていたそうだ。

まったく、ユダヤ人のコミュニストって本当に多いんだから嫌になる。かつて、ハリウッドの共産主義者をあぶり出す「赤狩り」が行われたけど、真っ赤なユダヤ人の映画監督や脚本家、プロデューサーなどが至る所にいたから、保守派のアメリカ人が怪しんだのも当然である。

よく知られているのは、左派が多数を占めるユダヤ人に対するチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)の警告である。この「アメリカ第一主義」を掲げる大空の英雄はこう述べた。

  ユダヤ人は我が国にとって最大の脅威である。彼らは我々の映画界、出版界、ラジオ局で広範囲な所有権を持ち、我々の政府において絶大な影響力を行使しているのだ。
(Harold Brackman, The Attack on “Jewish Hollywood”: A Chapter in the History of Modern American Anti-Semitism, Modern Judaism, Vol. 20 , 2000,p.5.)

  ユダヤ人の害悪については、リンドバーグのみならず、他の議員も警戒心を強めていた。例えば、ミュズーリ州選出のジョン・ランキン(John Rankin)下院議員は、ユダヤ人が合衆国政府の転覆を狙った最大の陰謀の一つに責任がある、までと述べていたのである。また、彼は大胆さを以て、米国においてユダヤ人は反政府活動の温床である、と喝破していたのだ。 現在の政治家なら絶対に口に出来ぬ発言である。しかし、当時のアメリカには、まだ言論の自由が残されていた。保守派のアメリカ人が1950年代を懐かしんだのも理解できよう。

ついでに言えば、マリリンと結婚した三番目の夫アーサー・ミラー(Arthur Miller)は、ユダヤ人の劇作家であったが、これまたハリウッドのユダヤ人らしく極左活動家で、黒人に対する人種差別に反対し、労働活動にも熱心に係わっていた人物である。彼も真っ赤なユダヤ人仲間を持っていたので、反共の闘士ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)議員に目を附けられていた。彼は下院の反アメリカ活動調査委員会に召喚されたことがあるが、仲間を裏切ることを拒否し、断じて口を割らなかったという。ユダヤ人にとったら、愛国心よりも同胞愛の方が大切だからねぇ。


  マリリンがセックスした中で最も権力を持っていた男と言えば、やはりジョン・F・ケネディー大統領だろう。

大統領と姦通したマリリンがもたらす寝物語は、グリーソソンにとって貴重な情報源となったはずだ。いくら大統領とはいえ、惚れた女とベッドを共にすれば、何てことはない雑談の中で、国家機密に繋がる重要な情報を漏らすことだってあり得る。当時は冷戦真っ只中。合衆国大統領がどんな考えなのかを直に知る絶好の機会だ。

特に、コミュニストのグリーンソンは、ソ連やキューバに対する外交方針や、イスラエルに関する大統領の考えを知りたかったはず。だから、セラピストのグリーンソンに何でも打ち明ける、警戒心が全く無いマリリンは「便利な馬鹿(useful idiot)」だった。

  大女優になっても精神的に不安を抱えるマリリンは、何でも医者に頼る癖がついていたという。当時のハリウッドでは、リー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg)という精神分析医が非常に持て囃されていた。大物俳優といえども、人には言えぬ悩みを抱えているだろうから、誰かしら相談役になる人が必要だったのであろう。だから、こうした弱点を持つ有名人を食い物にするセラピストがいたのも当然で、こうした悪徳医は患者にとっての「神」を演じていたのである。

自分の判断一つで大女優や二枚目男優を操ることができたから嬉しくてたまらない。名優のマーロン・ブランドーには、ベラ・ミッテルマンという精神科医がついていたが、ブランドーはシュトラスバーグについても述べていた。ブランドーの評価では、シュトラスバーグは俳優が集まるスタジオに来る人々を餌食にする冷血漢であったという。しかも、相当な野心家で自分勝手ときている。

彼は自分自身を、まるで神託を告げる司祭か、新興宗教の教祖のように思っていたらしい。彼にたぶらかされた人々は、シュトラスバーグをラビ(ユダヤ教の教師)の如く崇めていたという。ところが、マリリンはこんな類いの精神科医に傾いていたのだ。

日本でもよく藝人が、怪しい霊媒師とか占い師に嵌まることがあるけど、アメリカでも似たような事が多い。マリリンはフロイトの精神分析にも興味を示したそうで、彼女は実際フロイドの娘アンナ・フロイトにロンドンで会っていた。彼女の診断でも、マリリンは相当精神を病んでいたらしい。


左: マーロン・ブランドー
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右: マリリン
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  精神的に不安定なマリリンだったから、薬の過剰摂取で死亡したのだろう。だが、彼女はある意味、主治医のハイマン・エンゲルバーグ(Hyman Engelberg)とセラピストのラルフ・グリーソンに殺されたようなものだ。グリーンソンは助手に鎮静剤の投与を指示していたのだ。しかし、投与されたバルビツール酸系薬が多すぎたため、マリリンは副作用を起こして心不全となり、若くしてこの世を去ることになった。助手からの報告を受けたグリーンソンが、彼女の部屋に駆けつけた時には、既にマリリンは死亡していたという。

後に、色々な陰謀説が囁かれたが、実際は薬物中毒による死亡である。それにしても、哀れな最期だ。おぞましい枕営業を経て、大女優への道を駆け上ったのに、その栄光を味わう精神が衰弱していたのとは。

華やかな藝能生活を送っていた人気女優が、裏では薬漬けの日々を送っていたのだ。何の苦労だったのか分からなくなる。


右: マリリンとジョー・ディマジオ
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  何はともあれ、マリリンの人生には色々な男がいた。映画界の大物やマフィアのギャングと寝ていたかと思えば、野球選手のジョー・ディマジオと再婚したり、はたまたフランク・シナトラと浮き名を流したり、と寄り添う男の幅が広い。

中でも、ジョン・F・ケネディーとロバート・ケネディーとのダブル不倫は有名だ。

英雄は色を好むと言うが、このケネディー兄弟は異常である。
世間はハーバード大卒の爽やかな紳士と評するが、一皮剝けば下半身がだらしないアイリス系移民の倅(せがれ)たちである。兄が肉体関係を結んだ女に、弟も手をつけるなんて、恥知らずというか変態に近い。

一方、マリリンにも倫理観がこれっぽっちも無かった。女房や子供を持つ男と姦通しても平気なんだから。これではユダヤ人たちがマリリンのことを「シクサ(Shiksa)」、則ち「穢れたケダモノ」と呼んでも致し方ないじゃないか。

マリリンからすれば、男を踏み台にして出世したつもりだろうが、セックス相手からすれば、精液を噴射できる共同便所に過ぎない。

ただ、ユダヤ人に蔑まれながらも、ユダヤ人のアーサー・ミラーが結婚してくれたんだから、これだけでも彼女にとって救いになる。たぶん、ミラーは本気で彼女のことを愛していたのだろう。

ただし、ミラーがマリリンのことを「トロフィー・ワイフ」と見なしていたら残念だ。仮に、そうであっても仕方がない面もある。冴えない容姿のユダヤ人作家が、世間が持て囃す金髪美女を手に入れたのだ。親戚や友人に自慢したくなるのも無理はない。三番目の旦那なんだから、マリリンだって贅沢な要求はできないだろう。


凌辱される同胞の女性

  マリリン・モンローが送った波瀾万丈の人生は、多くの事を我々に教えてくれる。

まづ、藝能界はヤクザの世界、ということだ。堅気の娘が足を踏み入れる職場ではない。

ハリウッドは賤しいユダヤ移民が築き上げた悖徳の帝國で、当初はアメリカ白人に媚びて映画界の社会的イメージを向上させたが、一旦巨大な帝國が出来上がれば、そこに飛び込んでくる白人娘を娼婦と見なした。

憧れのハリウッドに旅立つ女優の卵は、狼の群れに迷い込むひよこと同じだ。
映画での配役を獲得すべく、ユダヤ人達に“輪姦”されても、必要経費としか考えない。娘の藝能界入りを許した両親は、娘が裏で凌辱されている事に気づかないんだから、まさに「知らぬが仏」だ。

日本人の親も充分認識すべき現実である。娘がモデルとかアイドル、女優になりたいと言い出し、それを許すなら、可愛い娘を穢らわしいヤクザや下劣な朝鮮人どもへ「生け贄」として差し出した、と諦めるべきだ。


左: 桃井かおり
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右: 「エロスの甘き香り」
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  ちょっと痛ましい話になるけど、女優の桃井かおりには国際政治学者の桃井眞(ももい・まこと)がいた。1991年に起きた湾岸戦争の時、報道番組に出演していたのを覚えている方もいるだろう。桃井かおりは少女時代、英国にバレー留学していたことがあり、どうも可愛い孫娘が立派なバレリーナになるようと、バレリーナの祖母が望んだらしかった。父親の真は娘をたいそう可愛がったようで、まさしく箱入り娘として育てたらしい。しかし、白人ばかりのバレー教室に通っていたかおりは、黄色いアジア人ということで劣等感を抱き、バレリーナになる夢を断念する。

帰国したかおりは演劇を始め、親に内緒で女優になっていた。一時は勘当されたこともあったそうだ。父親が女優業に反対したのも当然であろう。とりわけ、出演した映画の中にエロ作品があったからもう大変。映画ファンならロマン・ポルノ作品の「エロスは甘き香り」や、70年代らしい「けだるさ」を表現した「もう頬づえはつかない」をご存知だろう。

大切に育てた娘が、見知らぬ男と裸でからむベッドシーンを見て、父親の桃井眞はどんな気持ちだったのか? もしかしたら、劇場へは行っていないのかも。そもそも、娘の裸を銀幕で見たいと思う父親はいないだろう。だって、相手の男優が娘の肌を嘗めたり、乳房を揉んでいるんだぞ。怒りと悲しみで胸が張り裂けてもおかしくはない。映画を観る以前に、涙がこぼれてくるじゃないか。


右: 「もう頬づえはつかない」の桃井かおり
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  若い娘を凌辱するユダヤ人はトンデモないが、それを平然と行うユダヤ人の心情とは如何なるものなのか?

一番考えられるのは、欲望剝き出しの世俗主義者という点だ。
純情な白人娘を裸にすれば、大金が儲かるからドンドン淫乱な映画を作るのは分かる。だが、その根底には、西歐社会への憎悪が漲っているのだろう。

ユダヤ人にしてみたら、アメリカ社会は西歐白人が作ったもので、彼らの祖先が築いたものではない。米国は散々ユダヤ人をイジメてきた西歐人が建てた国家であるから、彼らの倫理観や価値観、伝統文化をを守る必要性はどこにも無いのだ。

キリスト教徒が仲間の女性に求める貞操観念や立居振舞い、女性らしさ、気高さなんて、むさ苦しい生活を送ってきたユダヤ人にとって、何の意味も無いし、犬の糞みたいに踏み潰しても気にならない。むしろ、踏み潰すことに快感を覚える。

興味深いことに、ユダヤ人の監督や脚本家は、喜んでキリスト教徒の家庭を愚弄するが、ユダヤ教徒の家庭や価値観を馬鹿にすることは滅多にない。

キリスト教徒の西歐系アメリカ人であれば、「そんなに伝統的価値観を毀したいなら、まづ最初に因習的なユダヤ人社会をターゲットにしたらどうか」と提案したくなる。なぜなら、男尊女卑で人種差別の激しいユダヤ人コミュニティーには、リベラル派のユダヤ人が攻撃したくなるような材料がごまんとあるからだ。わざわざ異教徒(ゴイム)たる西歐キリスト教徒に、その矛先を向けていないで、身近な同胞のコミュニティーを批判する方が先じゃないのか。

「社会正義」をふりかざす赤いユダヤ人は、普通に黒人を「黒いケダモノ」と呼ぶユダヤ人のオバちゃんを非難しろ。


中央: ユダヤ人女性
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右: ユダヤ人男性
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  米国のユダヤ人を見れば、いかに異人種と共存することが危険であるか、が判るだろう。

現在のアメリカでは同性愛者を擁護したり、黒人を礼讃するTVドラマが着々と作られている。すでに長いこと左翼作品が日常にしっかりと組み込まれているから、一般人はもはやその異常性を不思議と感じないのだ。

日本でも藝能界やマスコミに朝鮮人や支那人が浸透し、正常な日本人の精神を歪めている。

そして、藝能界に魅せられた少女たちが、どんどん卑劣な連中に犯され、それが表面に浮き出で問題になることはない。暴露される前に握り潰されるからだ。

ヤクザ的な藝能関係者やアジア系の大物にとって、日本人娘の肉体は、どれほど侮辱しても構わない肉の塊だ。みんなで廻して凌辱すれば、「あの淫売女め !」と酒場で笑い罵ることができ、ますます酒が旨くなる。大日本帝國に支配された朝鮮人にしたら、祖国の同胞が成し遂げられなかった復讐を、個人レベルで果たしたことになるだろう。

そして、日本人の女を性的に従属させることは、被征服民にとって勝者の証となる。ユダヤ人に加え支那人、朝鮮人といったアジア人に対抗できない気弱な民族は、徹底的に打ちのめされるまで被害に気づかない。毎回言うけれど、後悔が先に立ったことはないんだぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/210.html

[近代史3] ユダヤ人がヨーロッパ人に嫌われる様になったのは白人女性を性奴隷としてイスラム教徒に売る商売で稼いでいた為 中川隆
1. 中川隆[-12489] koaQ7Jey 2019年2月03日 12:23:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ユダヤ人ネットワークを通してムスリムに売られた白人女性はこういう目に遭った


中東のメイドの仕事とは

若い女性が金持ちの家にメイドで雇われて、性的被害に遭う話は、それこそ膨大にある。

ある女性が中東にメイドで雇われたが、仕事は老人の性介護(セックスの相手)であり、そのうちその家の息子たち全員の性の玩具にされてしまったという凄惨な話があった。

中東の出稼ぎはフィリピン人も多いが、やはりホスト・ファミリーにレイプされたり、性的ないやがらせを受けたり、虐待されたりしている。

ブラジャーだけやトップレスで掃除することを強要されたり、レイプされそうになって雇い主を刺殺したら、正当防衛に関わらず死刑の判決が下ってフィリピン全土が大騒ぎになったりした。

マレーシアでもインドネシアの女性が凄まじい虐待を受けた例もある(ぼろぼろになるまで虐待され、レイプされていく現代のメイドたち)。

インドネシアと言えば、最近はサウジアラビアで起きた事件でメイドとしてサウジに働きにいくことを禁止するほどの大事件が起きているのはご存知だと思う。

雇い主に追いつめられたインドネシア人のメイドが雇い主のサウジアラビア人を殺したのだが、政府は彼女に死刑を宣告し、インドネシア政府に何も知らせないまま断首刑を執行した事件である。


サウジアラビアで母を勝手に断首刑にされて嘆く娘


ユドヨノ大統領は激怒してサウジアラビア政府に最大限の抗議を行っている。

インドネシアの女性が国外で虐待に遭う事件が続出していて、メイドがいかに危険な仕事なのかを国民はもう知っている。しかし、それでも出稼ぎに行かなければ食べていけないのがインドネシア国民の悲哀でもある。

虐待を受けたメイドがどんな状況になっているのか、以下を見ればその深刻さが分かるだろう。

これは今、私が愛してやまないインドネシアやフィリピンの女性に起きている現実である。


雇い主に暴行(というよりも拷問)を受けたインドネシア人メイド


自国の女性に振るわれる暴力に抗議する人たち


平和が消滅すると女性の人権も消滅する

貧困国・貧困家庭の子どもや若い女性は、どこの国のどんな地域でも、必ず人身売買や性的搾取のターゲットとなっている。人種、宗教、地域問わず、すべてそうだ。

女性の時代というのは、「平和」と「豊かさ」と「教育」が維持されているときだけに囁かれるものであり、そのいずれかが消え去ると同時に女性の時代も簡単に消し飛ぶ。

特に「平和」は、「女性の時代」という幻想を築く上ではなくてはならないものである。

平和でなくなった瞬間、女性の時代もなくなる。女性の時代どころか、女性の地獄が出現するだろう。

人身売買の横行する貧困国を見ているとそれはよく分かる。戦争や内乱がそれに加わると、どうなるかはコンゴの例を見ればいいかもしれない(戦争とレイプ(3)コンゴのレイプ地獄から逃げて国境でも輪姦)。

今年に入ってからはリビアもカダフィ政権もまた中東民主化の波で内乱状態のようになってしまっているが、政権側は反政府側の女はレイプしても構わないとする「レイプ戦術」を執ったとも言われている。


15人に集団レイプされたと訴える女性


これはもちろん反カダフィ側(つまり欧米側)のプロパガンダである可能性もあって何とも言えないところでもある。

しかし、エジプトでもCBSの女性記者だったララ・ローガンがレイプされているのも周知の事実なので、リビアの女性が無事であるとは私には到底思えない。

内乱の際、レイプは暴徒にとっての最大の「楽しみ」になっているという醜い事実は隠しようがない。
http://www.bllackz.com/2009/12/blog-post_26.html


ぼろぼろになるまで虐待され、レイプされる現代のメイド


http://www.bllackz.com/2010/11/blog-post_18.html


フィリピン女性に限らず、インド女性も、インドネシア女性も、中東にメイドとして出稼ぎに行く。

以前にも「上半身裸で働かされた」「レイプされ続けた」「父親からその息子たちにまで、みんなにレイプされた」「棒で叩かれ、小屋に閉じ込められ、食事を与えられなかった」と、様々な虐待がメイドたちに対して行われていることを書いているが、そういった虐待はなかなか収まることはない。


なぜなら、アラブ人は昔から「奴隷(スレイブ)」という存在に慣れていて、「奴隷は人間ではない」「動物と同じだ」「自分に所有権があるのだから、自分のものには何をしてもいい」という意識が根底にあるからだ。

アラブ人がという言い方をすればもしかしたら語弊があるかもしれない。イスラム社会の一部では、という言い方のほうが穏当だろう。

マホメットも奴隷を「所有」していたし、アラブ社会で続いていた戦争や略奪の中では、戦争捕虜は戦利品であり「奴隷」だった。奴隷の売買もあった。

またアフリカは奴隷の草刈り場だったので、アラブ人の多くがアフリカに南下して「人狩り」をしていた。当然、略奪されて集められた女性たちは「セックスの奴隷」とされるわけである。

ソマリアの村人大虐殺事件やレイプ事件でもアラブ人の民兵が容赦なくキリスト教徒を標的にしていることが知られている。

アラブの裏の世界でよく知られているのは「ハーレム」という女性の集められたシステムだ。

権力と金を持ったアラブ人はハーレムを作って、片っ端から女性を集めて、女性たちを好きに性処理の役目をさせていたが、彼女たちの面倒を見て、なおかつ好きなときに主人のセックスの相手までしていたのが「奴隷」である。奴隷に拒否権はない。

マホメットからアッバース朝、そしてオスマン帝国に到るまで、そのようなシステムは維持されていたが、そういった歴史があるので、アラブ人は「奴隷」について西洋人とは同じ観念を共有していない。

「人権」という概念そのものが社会に定着していないという言い方もできるかもしれない(もちろん、すべてのアラブ人がそうだというわけではないのは断っておきたい)。

一般に中東やイスラム社会というのは、奴隷や召使いの存在を当然のものとして、自分たちと対等の人間であると認める精神的構造がないことも多い。

これは彼らが冷酷非情なのではなく、そういう文化の中で育ってきたからである。アラブでの暴力の概念は非常に冷徹かつ直接的であり、、私は特別な関心を持ってそれを見つめている。

この暴力の概念が世界に及ぼす影響は大きいはずだ。何しろ、キリスト教徒が対立しているのが彼らなのだから。


〓 虐待に次ぐ虐待の記録

日本ではまったく報道されないので知らない人も多いと思うが、フィリピンのみならず、インドネシアでもメイドとしてマレーシアやサウジアラビアに向かった先で、凄まじい虐待に遭って国際問題になっている。

マレーシアで起きた虐待のほうは罵る、叩く、熱湯をかける、棒で殴打する、ベルトで鞭打つ、熱したアイロンを押しつけるような虐待をしていて、それが裁判沙汰になると、「あれはメイドの自作自演だ」と平然と主張した事件だった。


サウジアラビアのほうも凄惨だ。私の読んだ記事では事件の詳細には触れられていないのだが、「嫉妬した妻がインドネシア人のメイドに激しい虐待をした」と書かれている。

しかし、彼女は殴られ、蹴られ、罵られ、鉄の棒で焼かれ、はさみで身体と言わず顔と言わず、切り刻まれていた。

あまりにもショッキングな虐待にインドネシアの新聞では、彼女の切り刻まれた口唇にぼかしをかけるなどして報道している。


写真を見てわかる通り、これはもはや虐待の域を超えた制裁であり、インドネシアのユドヨノ大統領は激怒して「異常な拷問だ!」と叫んだという。

ただちにサウジアラビア大使を召喚して、これを外交問題化することを宣言し、いったい何が起きたのか調査団を派遣することに決めた。

サウジアラビアでも事態を重く見ており、この拷問の虐待者を非難しているようだ。

もしイスラム法で処罰するのであれば、虐待者の口唇も切り刻む必要があるが、そのような処罰は行われていないという。

しかし、今回の事件は稀な事件ではなく、氷山の一角であることをインドネシア国民は指摘している。

マレーシアの件でもサウジアラビアの件でも、インドネシア政府は救済に動くことを約束しているが、虐待もレイプも密室で行われる。後手後手の対応になるのは目に見えている。

また出稼ぎ先である中東との決定的対立もできないという弱味もあってインドネシア政府のできることと言えば、女性の「駆け込み機関」を作るくらいが精一杯ではないだろうか。

これとは別に、スリランカの女性もまた虐待されていて、スリランカで大問題になっていた。

彼女は雇い主に明け方から深夜まで休みなく働くことを強制され、睡眠時間を取ることも許されず、休みももらえず、疲れきって動けなくなると、熱した釘を腕に打たれたという。

その数は23本だった。
http://www.bllackz.com/2010/11/blog-post_18.html


「誘拐してセックスの奴隷にする」人身売買の世界のこと


http://www.bllackz.com/2010/10/blog-post_24.html


人身売買された子供たちを救う運動をしているフィリピンのシンディ・ロマイン氏が ABS-CSN NEWS 紙で語っている様々な話題のひとつに、興味深い話が載っていた。

人身売買を扱う悪人たちもフェイスブックを見ながら子供たちの情報を集めてキッドナップ(拉致)しているというのがインタビューの主旨である。


ウィリアム・ヒラーの事件

長い記事なので全部は紹介できないが、この記事の後半にあった娘を誘拐された父親の話は壮絶だった。要約しつつ書くと、話としてはこういうものだ。

子供を誘拐された父親の名前はウィリアム・ヒラー。アメリカ陸軍特殊部隊の大佐だった。

彼の娘はふたりの友人と共にバンコクを出発した列車の中で誘拐された。

24時間以内に、すでに彼女たちはクアラルンプールで無理やりセックス奴隷にされていたという。

誘拐された娘を見つけるために、ヒラーは友人を仲間に入れて、誘拐された娘の足取りを半年間追い続けた。

その捜査のために、彼はクアラルンプール、バンコク、カンボジア、香港、マカオ、そしてフィリピンと渡り歩くことになる。

そして最後に、ボルネオの倉庫で32人の少女が閉じ込められているところまで突き詰めた。そこで彼は娘の友人のひとりを見つけて、「俺の娘はどこだ」と尋ねた。

「ああ……。一週間前、彼女はここを脱出したの。でも警察に見つかって、警察は彼女をここに連れ戻して売った。彼女は他の子と同じように拷問されて死んでしまったわ」


子供たちが商品のごとく売られていく。
今、私たちが生きているのは、そのような異様な世の中である。


人身売買の映画「96時間」

ヨーロッパでリュック・ベッソン制作、リーアム・ニーソン主演の映画「96時間」というものがある。

この映画はウィリアム・ヒラーに起きた悲劇とよく似ている。このウィリアム・ヒラーのことをモデルに映画化されたのだとも言われている。

映画のほうはアルバニアの人身売買業者が犯人になっているのだが、アジア中を移動させられたウィリアム・ヒラーの娘と、アルバニアの人身売買業者は立場的によく似ているので、変更されたのだろう。

アジアの人身売買の出来事を、ヨーロッパの映画監督が舞台を置き換えてヨーロッパの物語にしたのである。

いずれにしても、どこの地域のどこの少女に置き換えても、この物語が成立することに、人身売買の根深さがある。


ちなみに10年前はロシア女性がカンボジアのホテルに監禁されてセックス奴隷にされていた事件があった。

彼女たちを買った客は政府関係者だったと言われているが、状況はうやむやにされて闇の中に消えてしまった。


「味をしめた」中東の男たち

人身売買が驚くほど広範囲で広がっている。フィリピンの子供で言えば、もうずっと前から中東に売り飛ばされて性奴隷にされていることが確認されている。

以前から何度も書いているが、フィリピンと中東の結びつきは非常に深いものがあって、中東にはフィリピン女性の多くがメイドとして中東に「輸出」されている。

アラブ一帯では昔から大勢の女性をひとりの男が独占するハーレムの様式とは別に、ひとりの女性を一家の男たち(祖父、父親、そしてその息子たち全員)が「共有」するのに抵抗がない裏事情がある。

メイドでやってきたフィリピン女性が、父親にレイプされたあと、日を置いて息子たちにも次々とレイプされ、最後には11歳だか12歳の男の子の性処理までさせられたという話も「ごく普通に」あって驚く。

上半身裸でメイドの仕事をさせられて最後には虐待死した女性もいるし、レイプされそうになったメイドが主人を殺して正当防衛が成立せずに死刑になりかけた事件もあった。

多くのフィリピン女性がレイプや性的嫌がらせ、そして虐待に耐えかねてNGOのシェルターに逃げ込んでいるのだが、表沙汰になるのは氷山の一角である。


・ぼろぼろになるまで虐待され、レイプされる現代のメイド
・貧困・戦争がやってきたとき、女たちの人権はまったくない


そうやってフィリピン女性は犯罪の犠牲者にされているのだが、「味をしめた」中東の男たちにとっては、こういう発想を持つ男も出てくる。

「メイドではなく、フィリピンの幼い女の子を金で買って、永遠にセックスの奴隷にしてしまえばいい」

需要があれば供給があるのは裏世界でも同じで、そこで両国の人身売買業者がせっせと性奴隷にするフィリピンの幼女をアラブに送り込むことになる。

用済みになったら(あるいは虐待死してしまったら)、どうするのか。アラブでは特に慌てることもないようだ。そこには広大な砂漠が広がっている。


人身売買という世界があることを啓蒙するポスター。
売られていくのは、貧しい家庭の子供たち。
http://www.bllackz.com/2010/10/blog-post_24.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/210.html#c1

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
20. 中川隆[-12488] koaQ7Jey 2019年2月03日 12:40:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2019年02月03日
外貨建て保険は「保険ではなく投機」


高金利通貨が下落するのを知りながら「外貨運用がお得です」と高齢者に勧めている


画像引用:外貨建て保険とは?知っておくべきメリットとデメリットhttps://hoken-kyokasho.com/gaicadatehoken


何のための保険?

最近外貨保険でトラブルが多発していると言われていて、金融庁や警察も関心を持っている。

保険は事故などが起きたときに保証してもらうものですが、保険の名をかたった投機が横行している。

外貨建て保険は生命保険会社が銀行窓口で販売しているのだが、実態としてこれは「保険」などではない。




生命保険協会によると外貨建て保険への苦情は2017年に2076件、新規契約数は60万件だった。

苦情の内容は元本割れリスク、税金、勧誘方法などが多く、加入した後で保険ではないのに気づく人が多い。

外貨建て保険は高齢者が退職金で一括して払い、米ドルや豪ドルで運用して利益を得るモデルです。


現在は(いつもそうですが)米ドルや豪ドルは日本より高金利なので、金利差を受け取ることが出来ます。

この辺は外貨預金では例えば金利差2%なら100万円外貨預金すれば毎年2万円を受け取れるのに似ています。

さらに円安が進めば為替利益が出るので、1ドル100円の時に契約して1ドル120円で解約すると20%の利益が出ます。


ここまで読んでピンと来た人もいると思いますが、これは「外貨預金」や「外貨投資」と同じでリスク商品です。

まず金利差についてですが「金利」とはリスクと等価交換なので、日本円より2%金利が高い通貨は、将来かならず年2%以上下落します。

トルコリラとかメキシコペソとか南アフリカランドで痛い目に遭った人は、この意味が理解できると思います。

外貨建て保険は100%損をする

もし金利10%の通貨があって毎年10%受け取れるような美味しい話があったら、その通貨は間違いなく年10%以上下落します。

金利とはそういうものなので、金利差を受け取れて下落しない通貨なんか無いのです。

もちろん投資や金融のプロである証券会社や銀行・生保の投資担当者はこの事を良く知っています。


客が損をするのを知っていながら高齢者に「老後の安心を得られますよ」などと勧めているのです。

偶然円安になったタイミングで満期になる例を除けば、将来的に契約した人の半数以上が元本割れする筈です。


外貨建て保険の宣伝や募集を見ると、外貨投資や外貨建て預金ではあたりまえの利回りの説明がない。

高齢の客は利回りもわからずリスク説明も受けずに「老後の安心」のためと言われて契約します。

騙される方が悪いとも言えるが、投機を保険といつわり「老後の安心」と言いくるめるやり方はあくどい。


例えば1ドル120円で契約した人が1ドル80円になった場合、元本の3分の1を失うがその説明は絶対にしません。

金融庁は販売方法を改善するよう求めているが、退官後に天下りするためなのか、保険業界には非常に甘い。
http://www.thutmosev.com/archives/78910200.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c20

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
182. 中川隆[-12487] koaQ7Jey 2019年2月03日 13:00:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
平野憲一の株のお話 2019.02.03 節分天井彼岸底。

 2月になると言われるのが「節分天井彼岸底」と言う相場格言です。

相場格言は先人投資家の血と汗で出来上がった経験則ですから無視はできませんが、時代背景が違いますから当たらない場合も多いです。

3月決算企業が多い日本では3月は決算のまとめで行動が緩慢になり、外国人投資家は年度運用における最初の四半期で積極的に動いた成果を見る3月となりますの で、3月後半はイメージ的には強さを感じません。その意味では節分(2月上旬)より彼岸(3月下旬)が安くなりやすい感じですね。  

最近はどうだったでしょうか。

昨年は1/23の2万4000円台から3/23の2万円接近までの急落でこの格言は当たり!

17年は3月までしっかり基調の揉み合いから、4月の後半にかけ1000円安で1か月のずれがありましたが、感じとしては当たり。

16年は新年から下げ、逆に2/12に1万5000円割れで底打ちとなりハズレ。

15年は年前半は上昇一途でこれもハズレ。

14年は1万6000円台の新年スタートから2月上旬1万4000円割れでこれもハズレ。


2014年からでは当たったりハズレたりですが、こうして数字を追ってみると

「4月は警戒」の感じですね。注意しておきましょう。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c182

[近代史3] ユダヤ人がヨーロッパ人に嫌われる様になったのは白人女性を性奴隷としてイスラム教徒に売る商売で稼いでいた為 中川隆
2. 中川隆[-12486] koaQ7Jey 2019年2月03日 13:04:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ムスリムは やりたくなるとすぐに性奴隷を調達してくる


中東・北アフリカ出身7歳、10歳、14歳の強姦魔が5歳の少女を襲撃 2016/6/22
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69451269.html

こんな見出しはよくないのですが、怒り心頭に発しているのであえてこういう表題をつけました。

米国アイダホ州ツインフォールズという町で、中東・北アフリカ移民の少年たち3人が5歳の地元少女を狙い集団的な性的攻撃(一部の報道では強姦)に及んだことが昨日報じられました。

(当初犯人は3人のシリア難民の少年たちといわれていたようですが、最新の情報では2人がスーダンおよび1人がイラク出身となっています。2009年以来、ツインフォールズは300人あまりのイラク人難民、160人あまりのスーダン人難民を受け入れてきたそうで、少年たちは7-14歳という低年齢で、これら難民たちの子弟と見られています。)

http://magicvalley.com/news/local/govt-and-politics/public-criticizes-council-for-handling-of-assault-allegations/article_2f3f9f76-a983-568f-896e-a90d8a74ea80.html

http://www.wnd.com/2016/06/muslim-migrant-boys-accused-of-assaulting-idaho-girl-5/#!

http://www.breitbart.com/big-government/2016/06/21/idaho-police-iraqi-sudanese-immigrants-allegedly-rape/

この犯行の詳細は、訳するのも本当に気持ちが悪くなります。

耐性のない人はこれ以上読まないでください!

報道によれば、 6月2日の午後、3人の少年たちは外で遊んでいた5歳の少女を集合住宅のランドリー室に連れ込み、2人が少女の服を剥ぎ取って性的攻撃を加え、1人がそれを携帯でカメラ撮影していたとのこと。

現場を発見して少年たちを止め、後に警察に通報した89歳の老婦人がWNDに証言しました。

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3週間前の午後3時半ごろのことよ。私は中庭のポーチに座っていて目をあげたら男の子がカメラで写真を撮ってたの。彼はアフリカとか、海外から来た子だろうけど、洗濯室の外側に立って、洗濯室の中にいる子供たちの写真を撮っていたの。....私は、(カメラつき携帯電話を持ってる)男の子が面白そうなしぐさをしていたので何かやってるなと思ったの。彼は写真を撮りながら他の年少の二人の男の子たちに指図していた。ドアは、彼が外から撮っているシーンを見るには十分なくらいに裂け目ができていて、私はそのドアを開けて、何が起こったのかを見て、ほとんど気絶しそうになった....この哀れな女の子がどんなかわいそうな目にあったか....

警察が来て、次の日刑事たちも来て私と話をしたの。知ってることは全部話したわ。一番ひどかったのは彼らが女の子の服と、女の子の身体の上にも、小便を撒き散らしていたこと。こんなことは今まで見てきたなかで一番ひどいことだわ。同じ歳のアメリカ人の子供たちより、あの男の子たちはもっと早熟なんだと思う。私は、こんなことを小さな女の子にするのを今まで一度も見たことがないし、ここにはたくさんの子供たちがいるの。

小さな女の子は丸裸だった。男の子たちも服を脱いでいた。一番小さい男の子は「僕らやってないよ。あいつがやれって言ったんだ。」って年上のほうの男の子を指差してた。あの男の子たちは、母親と海外から引っ越してきたのよ。母親たちは英語すら話せないし、まあ何人かは話せるけど、他はしゃべれない。長いドレスを着て、長い黒い布を頭に被ってるわ。

私が見たのは、2人の男の子たちと、死ぬほど怖がっている小さな女の子よ。私は男の子たちに服を着たら、と言った。彼女は死ぬほどおびえてたわ。「ジョーおばあちゃん、ジョーおばあちゃん、助けて。」って。私は彼女の祖母じゃないけどこのあたりの子供たちは皆そう呼ぶの。

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犯行におよんだ10歳と14歳の少年たちは現在少年鑑別所で身柄を拘束されているとのこと。7歳の少年も犯行に加わっていますが拘束されていません。

イメージ 1

現地の反対活動家が撮影した、2人の少年が収容されている鑑別所建物。壁際にいるのは少年たちの家族と目されている。


少年たちの年齢を考慮して、刑事裁判には至らず、事件は「封印」されたとのことです。

このニュースはもともと、2,3日前から急激にソーシャルメディアで拡散し始めましたが、当初はいくつかのニュースサイトが「まったくのデマ」と断定する報道を掲載していました。

どうやら、いつまでたっても刑事裁判が進まないことに業を煮やした住民たちが市に説明を求めたらしいのですが、かえって「白人至上主義者」と決め付けてくるなど、自治体の姿勢は事件そのものの否定に終始。

それでかえって個人ブログやSNSを通じた情報が爆発的に拡散しただけでなく、少年たちやその家族への相応な司法処分を求める住民によるオンライン署名サイトまで立ち上げられました。

http://www.ipetitions.com/petition/justice-for-our-children

「反移民運動のために利用しようとしている」「レイシスト」といった決め付けも効果はなかったようで、抑えきれず噴出してきたようです・・・

当たり前です。こんなことが起きて平然としていられる神経が異常です。

7-14歳の少年がこんなことを思いつき、3人揃って実行に移すということは、この移民集団が持つ社会規範は、何か我々のものとはとてつもない違いがあるということをはっきり示しています。

なぜここまで極悪な振舞いができるのか?そもそもなぜこんなことをしようと思いつくのか?人を家畜ぐらいにしか思っていないのか?

(これは後々分析していきたいと思います。)

そしてもうひとつ恐ろしいのは、犯人が低年齢の場合刑罰らしい罰が与えられないということです。

日本にも少年法がありますが、大抵の先進国ではある一定の年齢以下の少年が犯した犯罪は警察も司法もほとんど手も足も出せないのです。全く罰されないか、ほとんど申し訳程度の罰しか与えられません。

被害者と家族は生涯残るトラウマを抱えつつ、加害者は何もなかったかのように生活できる可能性が高いのです。

そして罰が与えられなければ、今後同様の犯行を思いとどまらせえるインセンティブは何もありません!

メルケルもそうですが、国際的にいい顔をしたかったがために、地元の人に何も知らせずこんなものを「輸入」してしまったオバマ政権の罪は本当に重いです!

難民の大量「輸入」は我々には想像を絶するような犯罪形態の「輸入」にも繋がる。早く、早く気づかないと大変なことになります!

こういう呼びかけは好きではないんですが、あえて言わせてもらいます。難民問題と犯罪の増加に懸念を持っている方はこれを拡散してください!

→6/23追記: 「ナスタチウムのブログ」様、ありがとうございます。

筆舌に尽くせない被害を受けたうえ「デマ」呼ばわりされた被害者家族のためにも、他にも取り上げてくれる方が出てくることを願っています・・・

蛇足:それから、たった460人ぽっちの「難民」の中からでさえも3人の超悪質な変質者・強姦魔が出てくるとしたら(確率は約1/150!!)、安倍政権が留学生として受け入れると言っている150人のシリア難民は本当に大丈夫なのでしょうか?
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69451269.html


▲△▽▼


「穏健派ムスリム 」とは一体何者なのか(イントロダクション) 2016/8/16
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69566883.html

アメリカ・アイダホ州ツインフォールズ。アメリカにおける中東・アフリカ難民の受入地の一つであり、5歳の幼女が、スーダンおよびイラクからの難民と見られる、14歳、10歳、7歳の3人の少年たちに集団強姦された事件が発生した場所です。

被害女児は、少年たちにナイフをつきつけられ、逃げたら殺すと脅迫されたうえ、筆舌に尽くしがたい暴行を受けました。最も年長の少年は、その様子を動画で撮影しながら、他の少年たちに犯行を指示。そして加害者の親は被害女児の親に向かって「警察には言うな」。

さらには、加害者のうち年長の2人のみがほんの短期間拘束され、最年少のひとりは拘束すらもされず、今現在は全員が自由に街を歩きまわっています。(しかも、一人は被害者少女と同じアパートに住んでいる。)

それだけでなく、犯行を見つけ通報した老女や、被害者の家族は移民たちからの間断ない威嚇や嫌がらせにさらされていると報じられています。

(「ナスタチウムのブログ」様が、関係者の証言と事件の経過を余すところ無く翻訳した力作をアップしてくださいました。読んでいるとつらくなりますが、日本に同じ轍を踏ませないための苦い「薬」だと思って、全ての日本人に読んで欲しいと思います。)


アイダホ州ツイン・フォールズの極悪非道な難民犯罪を隠したがるツイン・フォールズの人々。(続報)2016年08月09日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12188124982.html


そのツインフォールズで、ムスリム移民による2件目の性的攻撃事件が発生したと報じられました。


http://www.kmvt.com/content/news/Man-arrested-for-sexually-assaulting-vulnerable-adult-389555332.html

Mohammed Hussein Ibraheim Eldai容疑者(28歳)は、知的に障害のある女性に対し性的攻撃を働いたかどで逮捕。

http://media.breitbart.com/media/2016/08/Mohammed-Hussein-Eldai-Twin-Falls-police-photo-flickr.jpg


    ツインフォールズの田舎町で性的攻撃を働いたEldai容疑者


Eldai容疑者は、この女性が散歩していて暑さと疲れを感じたので道端で休んでいたときに、自分の家で休むように声をかけて油断させ、寝室に閉じ込め痴漢行為を働き、また自分自身を露出したとの疑いが持たれており、本人も犯行を認めています。

ところが、この容疑者は2ヶ月前、地元メディアで穏健派ムスリムの代表的な例として紹介されていました。

http://www.kmvt.com/content/news/Local-Muslims-respond-to-the-recent-shooting-in-Orlando-383065121.html

その記事の中で、Eldaiは、フロリダ州オーランドで発生したナイトクラブ乱射事件について、「こういう悪いやつらがイスラムの名でこんなことをする。イスラムはそういう風には言っていないんだ。」とコメント。


http://media.breitbart.com/media/2016/08/screen-cap.jpg


    地元メディアに「穏健派ムスリムの声」として紹介されたEldai容疑者。

なるほど、自動小銃を乱射して50人を殺すことは悪いことだが、異教徒の女を慰みものにするのは悪いことではない。それが「穏健派」ムスリムの考え方なのでしょうか。

それならば、上記の3人の少年たちとその親たちも、立派に穏健派ムスリムとみなすことができるのかも知れません。一見やっていることはISISとほとんど選ぶところがないように見えますが・・・

ともあれ、ムスリム移民やイスラム・テロを批判すると、「過激派は一部だけだ」「全員をいっしょくたにするのは間違っている」といった反応が必ず返ってきます。

確かに「全員」が問題なのではないでしょう。

しかし、一部の過激派に限らず、「穏健派」を自称するムスリムたちの多くの割合、我々非ムスリムが考えているより遥かに多くの割合のムスリムたちが、受入国にとっての脅威になりうる大きな問題を抱えている、と筆者は断言します。

「『穏健派ムスリム』とは一体何者なのか」。

今後、何回かシリーズで書いていきたいと思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69566883.html

▲△▽▼


「穏健派ムスリム 」とは一体何者なのか(2) 2016/8/19
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69574078.html

異様な犯行が浮き彫りにする「憎しみ」

そもそもなぜ、ツインフォールズでは身の毛もよだつ集団強姦事件が起きたのでしょうか。

この事件の異常性は、3人の年端もいかない少年たちが、自分たちよりもっと幼い少女を、集団で乱暴し、そのことを互いの間でも、そして親との関係でも全く恥じておらず、さらにはその当の親自身もそれを恥じていないということです。


          加害者の親族とみられる難民たち

筆者は、以前、2015年大晦日のケルン集団性的暴行事件およびその後のドイツでの移民による性犯罪事件の増加を拙ブログで取り上げ、ムスリム移民による性暴力の一形態「タハルッシュ・ガーミア」には、西洋および西洋の影響を受けた日本社会で行われる性犯罪とは大きく異なっている4つの特徴があると指摘しました。

http://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69212419.html

「犯行は隠れようもない公共の場でなされる」

「数人から数十人という大集団が犯行に参加する」

「ローティーンの少女さえも狙われる」

「犯人たちは犯行を恥とはしていない」

今回のケースについては、犯人たちが異例なほど低年齢であるということです。それが、犯行に比類ない特徴を加えていると思います。

そもそも、性行為をすることさえできない、それどころか性欲というものを持っているかどうかさえおぼつかない幼い少年が、なぜこんなことを思いつき、実行に移すのでしょうか。

それを説明する要素はひとつしかありません。

「憎しみ」と「侮蔑」です。

性というものは簡単なものではなく、肉体と感情の発達が絡み合った人間の複雑な営みです。

小学生から中学生の少年少女が性暴力の犠牲になったという話はたくさんありますが加害者になったという話はあまり聞きません。その年齢では性というものをよく理解できていなかったり、自分の願望どおりに行為を行うという以前に、そもそも自分の身体をどう扱うべきかも分かっていないことのほうが多いからです。

しかし、憎しみというものは、生育環境によってはほんの幼稚園児でさえ爆発させることが可能です。(子育てをしていたり小さい子供に接することの多い方はわかると思います。個人差はありますが、友達に対して威張る、意地悪する、暴力を振るう、物を盗る、そういった行動は小学校に入るころには十分できるようになります。)

それを踏まえ犯行の詳述を(吐き気がするのをこらえながら)読んでみれば、これは単なる性犯罪ではないということがわかります。

少年たちは、肉体的には強姦をすることができるほど発達していないにもかかわらず、強姦におよんだのです。だとすれば犯行の裏にははっきりとした性欲があったわけではない。

むしろこの犯行の形態は、犯人たちが(自分たちに対しては何の害を及ぼすこともできない)5歳の幼女に対して、何らかの理由で極めて激しい憎しみを抱いていたということを示唆しているのです。そして、肉体的には自分自身も未発達であるのにもかかわらず、かかる行為が相手に最大級の屈辱と恐怖を与えるものであるということだけは、なぜかよく知っており、まさにそれを狙って行為に及んだと見受けられます。

この不気味な少年たち、そしてその親たちはいったい何を考えていたのでしょうか?

「汝の右手が所有するもの」

拙稿では、「穏健派ムスリムとは一体何者なのか」と題して、その内実に迫ろうと試みています。

ところで、ISISであろうと、ザキール・ナイク博士のような過激派説教師であろうと、いわゆる「穏健派」ムスリムであろうと、全てのムスリムが同様に敬意を払い、それを神の言葉として頂くひとつの聖典があります。

それは、言うまでもなく「コーラン」です。

イスラム世界ではコーランの暗記が推奨され、小学校高学年くらいになると全章丸暗記する少年もいると言われています。

モスクでは、よくコーランの節が原語のまま朗誦されたり、信徒たちも一緒に朗誦したり、あるいはコーランからの言葉をちりばめた説教が語られたりしています。

コーランは、ムスリムと称する人たちならば、過激派・原理主義者から穏健派までが例外なく尊重する聖典です。

そのコーランの中に、「汝の右手が所有する者」という、われわれには一見不可思議な記述があります。

あなたがたがもし孤児に対し、公正にしてやれそうにもないならば、あなたがたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば、只1人だけ(娶るか)、またはあなたがたの右手が所有する者で我慢しておきなさい。このことは不公正を避けるため、もっとも公正である。(4:3)

またあなたがたに(禁じられている者は)、夫のある女である。ただしあなたがたの右手の所有する者は別である。(4:24)

預言者よ、われがあなたの妻として許した者は、あなたがマハル[婚資]を与えた妻たち、また捕虜としてアッラーがあなたに授けた、あなたの右手の所有する者、あなたの父方のおじ、おばの娘たち、母方のおじ、おばの娘たちで、あなたと共に移住してきた者、また女の信者で心身を預言者に捧げたという者で、もし預言者がこれと結婚を欲するならば(許される)。これはあなただけの(特例)で、外の信者たちには許されない。われは、あなたが窮地に陥いらないようかれら(信者)の妻、とその右手の所有する者に就いて、かれらにわれが決めたことは承知させている。アッラーは寛容にして慈悲深い方である。(33:50)

信者たちは、確かに勝利を勝ちとる。かれらは、礼拝に敬虔であり、虚しい(凡ての)ことを避け、施し〔ザカート〕のために励み、自分の陰部を守る者。ただし配偶と、かれらの右手に所有する者は、別である。かれらに関しては、咎められることはない。(23:1-6)

(以上、強調筆者)

このコーランの記述は一体何を意味するのでしょうか。

ナイク博士だけではない「性奴隷」の支持者たち

ここで、日本でも多くの在日ムスリムや日本人改宗者たちから暖かく迎えられたイスラーム説教師、ザキール・ナイク博士にご登場願いましょう。

ナイク博士は、この「汝の右手が所有するもの」とは戦争捕虜として奴隷となった者を指す、とはっきり語っています。


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ある兄弟が私に聞きました。預言者の時代、女奴隷である女たちがおり、彼女らと結婚せずに性行為をすることは許されていたが、なぜそれが許されていたのか?その特権とは何だったのか?逆もまた同様なのか?多分違います。コーランには誰と性行為をしてよいかを定めた節がたくさんあります。あなたの妻である女たち、そして、その右手が所有する者たちです。その右手が所有する者、とは、奴隷、そして預言者の時代には、戦争があり、戦争があれば捕虜があり、双方で捕虜があれば、男も女も奴隷となりました。

・・・・もし結婚する手段がなければ、女奴隷と結婚し、彼女に自由を与えればよいのです。

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つまり、コーランは奴隷制度を認めるどころか強制結婚、すなわち性奴隷という最もおぞましい習慣も認めているようです。

とすると、ナイク博士の一見とんでもなく野蛮な発言も、コーランに即して考えるなら全く不自然ではないというふうに見えてきます。

もちろんこのことを在日ムスリムに尋ねたら、多くは必死で「そういう意味ではない、あなたの解釈は間違っている」と言うでしょう。

ですが、コーランの深い意味を探りたい信者は、通常、ハディースと呼ばれる、預言者ムハンマドの言行をまとめた聖伝に解釈を求めます。

その一節にこんなものがあります。

Abu Sirmaは、Abu Sa’id al Khadri(アラーが彼を喜びますように)に対してこう言った。Abu Sa’id よ、アラーの使徒(彼に平安がありますように)がal-’azlについて話したのを聞いたか?彼は答えた。然り、彼は言った。そして付け加えた。我々はアラーの使徒(彼に平安がありますように)と共に Bi’l-Mustaliq への遠征に赴き、何人かの良いアラブの女たちを捕虜とした。我々は妻の不在によって苦しんでいたので、彼女たちを欲しがっていたのと同時に、彼女らの身代金をも望んでいた。そこで、我々は‘azl(妊娠を防ぐため精液の射出より前に男性器を引くこと)を実施しながら彼女たちと性行為をすることに決めた。しかし、我々は言った。我々はアラーの使徒が我々のうちにいるのに事をなそうとしている。彼に尋ねようではないか?そこで我々がアラーの使徒(彼に平安がありますように)に尋ねると、彼は言った。それ['azl]をせずとも問題ではない。復活の日まで、全ての生まれるべき魂は生まれるであろうから。(サヒーフ・ムスリム3371)

すくなくともこの節では、預言者ムハンマドもその朋友たちも戦争捕虜である女たちを性奴隷にすることを前提で語っているのです。

また、「リライアンス・オブ・トラベラー」と英訳の題が付されているイスラム法のマニュアルにはこうあります。

もし子供か女が捕囚に囚われたら、彼らはその捕囚の事実をもって奴隷となり、女の以前の結婚関係は即座に無効となる。(O9.13)

ここでも、イスラム法に基づき戦争捕虜になった女性は、その夫が生きていようが死んでいようが即座に性奴隷とすることができることが示されています。

あなたの隣人である在日ムスリムは無論これらをすべて否定するでしょう。

でも、戦争を通じて異教徒を捕らえて性奴隷にしてもよい、という考え方は、イスラム世界では結構ちらほら聞かれるもののようなのです。

たとえば、エジプトのイスラム学者Abu Ishaq Al Heweny は戦争捕虜を奴隷、すなわち商品として自由に扱ってよいと教えていると報じられました。

http://www.memri.org/clip_transcript/en/5214.htm

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戦争には勝者と敗者がいる。もし我々が異教徒との戦争に勝ち彼らの地を侵略したならば、侵略先の国をイスラムの支配に服させるのが自然なのだ。イスラムの規則によればその国の人々は全て戦利品であり戦争捕虜となる。女たち、男たち、子供たち、金、家、畑、これら全てがイスラム国家の所有物となる。・・・シャーリアによれば、戦争捕虜の運命はどうなるのだろう?彼らは戦利品なので、彼らはムジャヒディーン[ジハド戦士たち]の間で分配されるべきだ。ハディース[聖伝]によれば、法は何人たりとも襲撃に参加しなかった者は戦利品の分け前を得ることができないと定めている。これはよく知られている。ジハドに参加しなければ、戦利品の分け前は無いのだ。

例えば、50万人の人口を持つ国に侵攻したとする。我々は彼らをどうしよう?何人のムジャヒディーンがいたかを確認しよう。10万人がいたとする。すると、一人のムジャヒディーンが5人を得ることになる。一人あたり5人を得るが、そこにバラエティがある。男2人、女2人、子供1人、または別のやり方で、彼らを分ける。

その取り決めが成立したらすぐ、奴隷、女奴隷、子供奴隷を売ることのできる奴隷市場を設けるべきだ。一人頭の値段が決められ、私は、例えば、5つの「頭」の権利を持っているとする。しかし私はどの奴隷も必要としていないうえ、使える金を少しは持っているとする。私はただかれらを縛り首にして片付けるべきだろうか?

いや、彼らを市場で売ることができる。しかし売るためには市場が必要だ。そして、そこで値段交渉が始まる。この奴隷にいくら払う?こっちの奴隷には?買い手が300と言えば、いや、314だ、と応じる。最終的に彼は奴隷を買って立ち去る。

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いやいや、これでははっきりしないって?

それでは、ムスリム女性指導者が異教徒を性奴隷にすることに賛同した例を挙げましょう。


エジプトの一流大学アル・アズハール大学の女性教授Saud Salehセンセイです。

http://www.express.co.uk/news/world/635942/Islam-Scholar-Saud-Saleh-Cairo-Slavery-Muslim-Women-Pagan-ISIS-Al-Azhar-University-Egypt


      あのー、それって女性として・・・どうなんですか。

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汝が所有する者たち(奴隷)、というものはイスラム以前からあったのです。それはイスラム以前のアラブだけではなく全ての国々に存在していました。誰でも、自由の身に生まれた男女を取引することができました。これは自由民の販売とよばれていたのです。これは、現在行われているような人体臓器の販売とか自由人を取引する慣行のようなものです。

しかしイスラムが勃興すると、それは奴隷を取ることをムスリムとその敵との間の合法的な戦争時に限ることにより、奴隷制度に秩序をもたらしました。私たちがもし、イスラエル、土地を収奪し人々とその信仰を攻撃しているイスラエルと戦うとしたらです。明らかに、イスラエルと戦争をするのは不可能です、コーランのSurat Al-Isra[夜の旅章]はそれを予見していますが。アラーの御力を超えるものは何もありません。

戦争捕虜となった女は、「汝が所有する者たち」なのです。彼女たちに屈辱を与えるために、彼女らは軍隊将校たち、またはムスリムの所有物となって、彼はちょうど妻たちとするのと同様彼女たちと性行為をすることができるのです。

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また、クウェートのSalwa al Mutairi という女性政治家は、サウジおよびクウェートのイスラム学者との協議の上として、クウェートのムスリム男性が誘惑されて姦淫を犯してしまわないよう、戦争状態にある他の国から捕虜を連れてきて性奴隷とすることを提唱。

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2000292/Men-allowed-sex-slaves-female-prisoners-job--WOMAN-politician-Kuwait.html


    Mutairiさん、それって女性として・・・・聞くだけヤボですか。

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2年前、私は、女性への強い欲望を持っていたある男性と働いていました。私はかわいそうに思っていましたが、自分の仕事が忙しく、そこで私はメッカに行き彼のためにムフティ(宗教学者)の助言を得ようと考えました。

女性が大好きなこの金持ちの若い男性のためになるアドバイスを求めたのです。

私はサウジの学者に尋ねたのです。女奴隷についての法の定めはどうなっているのでしょう?と。すると彼は、奴隷を得るプロセスというのはイスラム国家がキリスト教国家を、あるいは、非ムスリム国家を襲撃して、戦争捕虜を奴隷とするものだ、と言いました。私は、それは禁じられてはいないのかと尋ねました。すると彼はイスラムは奴隷制度を許可していると請け合い、性奴隷は自由な女より法的に劣る、と答えました。自由な女は公共の場では顔と手以外を覆う必要があるが、奴隷女は腹から上は裸でいてよい、と。

イスラムでは自由な女を所有するには、男は結婚の契約を結ぶ必要がありますが、奴隷女は、ただ売られるだけです。対価を支払えば彼女は所有物となります。奴隷女は自由な女より劣るのです。

ここクウェートでも、私は宗教学者にこのことを訪ねました。すると彼らは、ムスリム男性にとって、姦淫を避ける唯一の方法は、性奴隷を買うことだと保証しました。

私は個人的にクウェートにおける性奴隷の合法化をとても望んでいます。私はここクウェートで他国からの女性、公式には奴隷ではありませんが、両親から拒絶され、クウェートの女性と一緒に住むことになった女性を見たことがあります。見返りに彼女はクウェート女性のために炊事や掃除をしていました。私は彼女を見てアラーを称えました。なぜなら彼女の状態は奴隷のようであり、ホームレスになって罪の道を歩むよりは、両親に拒絶された後新しい家を見つけたのは彼女にとって一番いいことだからです。

私は本当にこのような事例を合法化し、奴隷制度への扉が開かれてほしいと思います、そして召使のための法律と同様、奴隷の条件を定める法律が必要だと思います。私たちはあの男性に穢れた淫行の罠に堕落してほしくありません。

その代わりチェチェンといった国から性奴隷を買うことができます。

そこには買うことができる戦争捕虜もいるでしょうから。彼らも非合法に取引されるより、ここクウェートの取引業者に合法的に売られたほうがよいのではないでしょうか?全く普通のことでしょう?

性奴隷の所有者の信頼できる例はカリフHarun Al Rashidです。彼が死んだとき、彼は妻は1人しか持っていませんでしたが2千人の性奴隷がいたそうです。これは誇れることです!私たちのシャーリアが許可しているのです!アラーのおかげで、わが国にはたくさんの敬虔な商人たちがおり、彼らはこの取引に興味を示しているのです。

私はいつもクウェートの幸福を願っています!

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一方イラクの(シーア派)Ayatollah(導師)Abdul Karim Al-Haeriも、こう語ります。

http://www.memri.org/clip/en/0/0/0/0/0/0/5464.htm

  センセ、にこやかに語ってらっしゃるけど言っていること超コワイですよ

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アラーが望むならマフディ[イスラムの救世主]はもうすぐやってきます。そして、彼に反対し戦いを挑む人々や国々があれば、捕らえられたとき、彼らは奴隷と女奴隷に関する法の対象となります。もし誰かが5人とか10人の女奴隷を買って家に置き、そして友人が訪ねて来たら、彼は自分が性行為をした女奴隷を自分の客人に与えることはしません。何人かはそうでしょうが、彼は余剰の女たちをとっておくことができるのです。

(インタビュアー)欠陥のある者たちでしょうか?

そうである必要はありません。彼は客人をして女奴隷と性行為をさせることができます。友人が女奴隷と結婚し、彼の家族と問題を起こしてしまう代わりに、彼は問題を解決するのです。彼は友人の家に行き半時間かそれぐらい、夜をすごす。女奴隷と一時間ぐらいを過ごす。終わったら家に帰る。彼女[訳注:妻?]に友人の家に行っていたと言っても何の問題も起きません。なぜなら彼女らは奴隷だからです。そしてその持ち主はそれを第三者に与えることができるからです。彼は結婚契約も必要としません。

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一方こちらは中東やイスラム世界ではなく、イギリスです。

いちおう「ラディカル」とは言われていますが、フツーにイギリスのモスクで説教をしている、パレスチナ生まれ、イギリス育ちのAli Hammudaという説教師が以下のように語ったとして話題を呼んでいます。

http://www.express.co.uk/news/uk/695042/ali-hammuda-al-manar-mosque-young-british-muslims-cardiff-sex-slaves

     音声だけですがばっちり録られちゃってますよセンセ。

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これが何を意味するかについての解釈の一つは、世界の終わりにさしかかるにつれ、我々が今見ているような戦争がたくさん起きるということだ。これらの戦争のゆえに、女たちが捕囚として、そして奴隷として囚われるだろう。そう、女たちは奴隷として囚われる。

そして、彼女の主人は彼女と関係を持つだろう、それはイスラムで許可されているからだ。自分の所有する女奴隷、または妻と関係を持つことは許されているのだ。

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なんのことはない、あのナイク博士だけではなく、同じような考えかたをするムスリム学者や知識人は世界を見渡しても結構いるではないですか!

あなたの隣人の在日ムスリムはこんなものは全部、デタラメだぁ!と言うかもしれません。

ですので念のためもうひとつ例を挙げておきます。

「コーランの意味」

パキスタン出身のイスラム学者Sayyid Abul A’La Maududiは、「The Meaning of the Quran」(コーランの意味)という本を書いたイスラム界でも名の知れた人物です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Abul_A%27la_Maududi

1979年に没したこの学者は、ラディカルでもハネッカエリの過激派でもなく、イスラム研究の功績を認められ「キング・ファイサル国際賞」という栄誉ある賞をサウジアラビアから受賞しています。(・・・・っていうか、ナイク博士も同じ賞を受賞していますけどね。)

The Meaning of the Quran(コーランの意味)という著書で、Maududiはこう論じます。

http://www.englishtafsir.com/Quran/23/index.html

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[ムスリム男性がその]陰部を守るべき一般的命令から除外される女性のカテゴリーには2種類ある。(a)妻たち、(b)適法にその所有下に入った女たち、即ち女奴隷である。かくして、この節は、結婚関係でなく所有物となっていることを根拠として、人はその女奴隷と、その妻との間と同様、性的関係を持つことができるという法を明確に定めている。もし結婚関係が条件だとすれば、女奴隷もまた妻たちの中に含まれるのであって、それらを分ける必要はなかったのである。

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いかがでしょうか。「コーランの意味」が、われわれにとっても明確になったではないでしょうか?

ナイク博士が言っていることがなんだか全然フツーに聞こえるようになってきましたか?だとすれば、あなたもイスラムの世界観が分かるようになってきたということです。

それにしても、多くのムスリムは確かにテロを起こすことはありませんが、しかし彼らの信じる「平和」とはいったい何なのか、だんだん混乱してきます。

性奴隷を肯定する学者を生み出すパキスタン。

同様の教えをする説教師が人気を博しているバングラデシュ。

彼らに栄誉ある賞を国ぐるみで与えてしまうサウジアラビア。

また異教徒を性奴隷にすることを推奨する学者や政治家が、社会からの非難を浴びて言論界から退場させられることもなくフツーに暮らしているエジプトやクウェート。

戦乱で国が乱れているとはいえ、このような教えをニコヤカに語る導師がいるイラク。

・・・・こういった国々は、一体何なんだろう、という疑問が雲のように湧いてくるのを禁じえません。

そして、在日ムスリムたちは、彼らと全く違う信念を持っているのでしょうか?それとも内心同じような考えなのでしょうか?

それは、現段階ではわかりません。筆者も即断を避けたいと思います。

次回は、イスラム世界の国々では大多数を占めている(はず)の「穏健派」ムスリムの驚くべき実態に迫ります。
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch/69574078.html


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2014-09-14
イスラム国が残虐なのはムハンマドと同じことしてるからで当然
http://gettoblaster.hatenablog.com/entry/2014/09/14/212303


シリア・イラクで大暴れの武装勢力「イスラム国(ISIS)」ですが、アルカイダにも一緒にするなと言われたその残虐ぶりは群を抜いています。

•捕虜は処刑。殺し方は斬首かつ首をどこかに刺して並べたり首塚を作ったりする。

•敵の捕虜だけでなく、異教徒なら民間人も余裕で処刑。異教徒だけでなくイスラム教でもシーア派なら処刑(男性の場合)下手すると同じスンニ派でも処刑しちゃう殺人鬼ぶり。

•でも、女性は処刑しない。イスラム教スンニ派に改宗すれば、独身のイスラム国兵士の嫁として300〜1000ドルで売られる。改宗を拒めば独身のイスラム国兵士に毎日レイプされる。この2択。

でも、これってイスラム教の預言者ムハンマド(キリスト教のイエス・キリストに相当する人)がやってたことと一緒なんですよね。

イスラム原理主義者としては、異教徒の男を処刑して、女性を奴隷にすることはムハンマドがユダヤ教徒にやったことと同じなので、この虐殺は当然に正しく、多分称賛されるべきことなんだと思う。

ムハンマドは降伏したユダヤ教徒のクライザ族の取り扱いを「男子は全て殺し、女子と子供は奴隷にすべし」って命令したらしいし。

で、この女子を奴隷にした上で、戦闘に参加した兵士たちに報酬として分配し、彼女らを強姦する権利を与えることは、イスラーム法によれば合法とのこと。

婚外性交は禁止のはずですが、奴隷は人間ではないので問題ないってことか。

ブハーリーのハディース集にも、ムハンマド在世中からこのような行動が認められていたことが書かれているそうです。


イスラーム教の預言者であり開祖・指導者であるムハンマドの軍隊とアラビア半島のメディナにいたユダヤ教徒の部族勢力クライザ族との対立、闘争の末、前者が成年男子(とムハンマド側が判断した、服を脱がせて陰毛の生えそろっていた男性全員)を虐殺した。

クライザ族虐殺事件 - Wikipedia

イスラム国は、世界中から兵士をリクルートしてるから、その住処を用意しなきゃいけない。けど、そのために集合住宅作る気もないので、取りあえず住民処刑して家を空けて、住処を兵士に提供しないといけないってことじゃないかな。

嫁が300ドルで買えるっていう充実した福利厚生を提供して世界中から兵隊を集めるためには、奴隷も確保しないとね。

あと、処刑した住民の遺体の臓器をサウジやトルコ経由で売っていると言う話もあるらしいです。資金源となる臓器を得るために殺しているという側面もあるようですが本当かな?

ISIS、イラク市民の臓器を密輸

このイスラム国の人たち、我々から見るとナチや大日本帝国以上に残虐で邪悪に思えますが、ムハンマドがしていたことだからあちらの価値観としては虐殺も奴隷もレイプも多分良いことなんだよね。

「奴隷制を復活させた」ってWebサイトに誇らしげに書いてあったらしいし。

更に恐ろしいのは、ムハンマドは53歳の時9歳の幼女と結婚してたりするので、幼児婚はイスラム的に全然問題ないこと。このため、異教徒の9歳の女の子も奴隷としてイスラム国兵士に売られてしまいそうなことというか多分売られていること。どうするよマジで。

あーイスラム国行けば幼女レイプし放題で占有幼女も調達できるなんていいじゃん!と思うロリコンさんもいるかもしれないけど、言葉も通じないと自爆要員にされそうだからやめておいたほうが良さそう。

ちなみにイスラム国の自爆攻撃は、装甲をつけたトラックの荷台に爆薬を山ほど積んで突入という元祖カミカゼの日本人が見てもドン引きする清々しさで気分が悪くなりますよ。


私は男女差別とか嫌いなんですが、日本人とか非イスラムの男女差別なんて正直もうなんかもうずっと後回しでいいような気がしてきています。

何しろクルアーン(キリスト教での聖書に相当)的には女性は男性の所有物ですから。

女性は家の外に出る時髪の毛見えちゃいけない。教育など一切不要。ちなみにサウジアラビアあたりでも女性は運転免許取れないです。

女性は男性の医師に診察してもらうことがダメというのも割と困った話のようで、これが原因で命を落とすことも度々あるらしいです。女性はあまり教育受けないので女医さんも少ないでしょうから。

ムハンマドは6歳の女の子と結婚し、9歳になった時に結婚を完成させた(やった)らしいので、彼らに取ってはには小学3年生の女児とのエッチは問題ないというか推奨されることのはずです。

サウジアラビアあたりではムハンマドに倣い今でも結婚は9歳から可能。

ちなみに借金のかたに8歳の娘を嫁として売ることを裁判所もOKした判例がある様子。でも9歳になるまでエッチしちゃだめとの判決だったそうです...


サウジで借金清算のため8歳女児が結婚 - 国際ニュース : nikkansports.com

これ、イスラム国じゃないですからね。サウジアラビアですよ。現代ですよ。

なにしろハディースには「聖戦で死ぬと天国では72人の処女と毎晩エッチ出来る(翌日にはまた処女に戻るらしい)byムハンマド」って書いてあり、これが少年兵をリクルートする時の決め台詞らしいですから。


gettoblaster.hatenablog.com

「死んだら靖国に祀られる」よりはまだ魅力的ですが72人もいなくていいから。

フェミニズムとかまず敵はあっちなんじゃないですかね。

キリスト教や仏教国とは男女差別のレベルが違いますよ。

そう考えると、男女差別をなくすことと、宗教差別をなくすことは排他的で両立できないってことにもなりますね。

このように、クルアーンに書いてあるように暮らそうと思うと現代社会とはどうにも折り合えないので、世俗派の国などではこれを魔解釈してなんとか折り合いをつけているようです。

原理主義運動はこれを堕落と捉え聖典に立ち戻る運動でしょうから、ある意味マルチンルターに似たところがありますが、聖書と違い聖典がこんな感じなので立ち戻っちゃうとこうなっちゃうのが困ったところ。

そんなわけで」、西欧的価値観とイスラム的価値観は全く折り合えないような気がするので共存不能。

もう最後は世界大戦なんですかね?

クルアーンの解釈には、世界中をイスラム化するまで聖戦しなければいけないというものもあるようで、ISISはその解釈を採用しているため、彼らの目標は世界制覇ですよ。制覇したら当然虐殺とレイプです。

これから人口が増えるのは、避妊も堕胎も教義上ダメなイスラム圏のようですし、天国で72人の処女とヤレるという士気向上のためのメッセージが聖典に書かれているあちらのほうが将来戦力的に強くなりそうですから、我々もそのうち占領されて男は虐殺、女は奴隷、幼女も売られるということになりかねない。

湾岸戦争でアメリカ地上軍に一瞬で壊滅させられたバアス党の残党がやっている軍隊と考えるとそんなに強くもなさそうですが、その後アメリカ占領時にアメリカから軍事教練を受けていますし、天国で72人の処女効果もあるでしょうし、何トンもの爆薬を積んでくるトラック自爆攻撃は結構効果的なようなので、決して侮れない強さみたいですし。

彼らは異教徒に核兵器使うのを全く躊躇しなそうなところが強そうで恐ろしい。

日本はとりあえず中東から遠いという安心材料もありますが、マレーシアやインドネシアはそう遠くないし、フィリピンのイスラムテロ組織も良くテロ起こしてるし、日本にもムスリムは増えてきている気もしますし、我々が虐殺され、奴隷として売られていくのもそんなに先のことではないかもしれませんね。


http://gettoblaster.hatenablog.com/entry/2014/09/14/212303

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/210.html#c2

[近代史3] ユダヤ人がヨーロッパ人に嫌われる様になったのは白人女性を性奴隷としてイスラム教徒に売る商売で稼いでいた為 中川隆
3. 中川隆[-12485] koaQ7Jey 2019年2月03日 13:16:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ムスリムは白人幼女の性奴隷が一番好き

バッカじゃないの、おまえらカーフィル(不信心者)はどうしてイスラームの偉大さを理解しないのか?

いいか、猿以下の頭脳しかないカーフィルにもわかるように真実の宗教イスラームの美徳を教えてやる

まずイスラームに入信すれば、慈悲深く慈愛遍きアッラーフのお定めになった聖法に従い、4人まで妻が持て、また女奴隷をいくらでも所有することができる。

夫が浮気しても何の罰もないが、妻が姦淫すれば石打ちで処刑だ。

妻が文句を言ったらなぐり倒せばいいし、離婚したければおまえと別れると3回言えばいい。

さらにだ、イスラームでは9歳の女の子(小学校3年生)との結婚・セックスも合法だ。

預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)も、9歳の少女アーイシャと結婚し、性行為を遂行された。

またイスラームの天国はすばらしいぞ。緑の木々に囲まれ清らかな水が流れる楽園で、悪酔いしないうまい酒や食い物が飲み放題食い放題、

1人につき72人の専属美少女がつき セックスし放題。彼女たちは永遠の処女で処女膜が再生する、貞淑でやさしい最高の女の子たちだ。

イスラームのために戦って殉教すればどんな馬鹿でも悪党でも天国へいけるのだぞ。

どうだ?馬鹿なカーフィルにも、イスラームの偉大さがよく理解出来たろ?


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アラブ首長国連邦(UAE)で撮影された37歳の男性に嫁ぐ9歳の女の子の花嫁

アラブ首長国連邦(UAE)は、西アジアにある中東の国です。アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家でイスラム教国としても知られています。今回は、そんなアラブ首長国連邦で撮影された37歳の男性に嫁ぐ9歳の女の子の花嫁をご紹介します。

映像には、結婚するような年齢には見えない女の子が、ウェディングドレスを着て花束を持っている様子が映し出されています。

イスラーム法では、男性は4人まで妻を有する権利を有する一夫多妻制です。また前近代イスラーム世界では、世界の他の地域同様早婚が社会的に認められていました。

イスラーム法における女児の最低結婚年齢は9歳ですが、これは預言者ムハンマドがアーイシャと結婚し、初性交を行った時のアーイシャの年齢に由来しています。そのため結婚の形式を満たした上での女児への性行為は、客観的に見て虐待と思われるような内容であっても、問題されることは少なかったといいます。

これらは非イスラーム世界でも多少の違いはあれほぼ同様であり、単に前近代において女性や子供の人権への配慮の水準が現代のそれと比べ物にならないほど低かったという事実を示しているだけで、これらがイスラーム固有の事象であるという意見は事実に反すると言えます。しかし現代においてイスラーム世界におけるそれらの慣習が大きく注目され、議論の対象となっているのは、非ムスリム諸国の多くでこれらの慣習が人権侵害として問題視され廃止されていく中、イスラーム世界の中には預言者ムハンマドの事跡なども挙げてこのようなイスラーム法の規定を遵守すべきだという意見が存在しているためです。

実際にイラン=イスラーム共和国などシャリーアを施行する一部の国では、女児は9歳から結婚することができます。またイエメンでは、結婚最低年齢を定めないという解釈を取っている。そのため、イランやサウジアラビアなど、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されています。

しかし一方で、多くの国ではすでにそのような慣習は廃止され、女性の結婚最低年齢も非イスラーム諸国と大差はなく、女児への性行為はシャリーアにおける結婚の形式を満たしているかにかかわらず性的虐待であるという意識も広まっています。
http://commonpost.boo.jp/?p=43615
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1723610.html

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RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。
BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html

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IS指導者、米人人質を繰り返しレイプ
戦略的に性奴隷制度を確立
佐々木伸 (星槎大学客員教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5263


 米英紙などによると、過激派組織「イスラム国」(IS)の指導者アブバクル・バグダディが米国人人質女性を繰り返しレイプし、セックス・スレイブ(性奴隷)として虐待していたことが明らかになった。宗教的な少数派の女性に対する性奴隷の制度化も暴露され、ISの陰惨な裏の顔が浮き彫りになった。

その都度バグダディの部屋に

 この米国人人質はカイラ・ミューラーさん(26)。米連邦捜査局(FBI)が6月にミューラーさんの両親に伝えたものとして報じられたところによると、バグダディはミューラーさんが鎖でつながれた房を再三に渡って訪れ、自室に連れ帰っていた。ミューラーさんは房に泣きながら戻され、一緒に捕らわれていたイラクの宗教的少数派ヤジディ派の少女2人にバグダディからレイプされた事実を話していたという。

iStock

 ミューラーさんは、2013年8月4日にシリア北部でISに誘拐され、人質となっていた。ISは今年2月6日のヨルダン軍機の空爆でミューラーさんが死亡したと公表、両親に死んだ証拠として彼女の写真を送りつけていた。

 バグダディがミューラーさんをレイプしていた事実については、後に助け出されたヤジディ派の2人の少女と、米軍特殊部隊によって拉致されたISの経理担当幹部の妻ウム・サヤフの証言から明らかになった。ミューラーさんの父親はニューヨーク・タイムズ紙に対して「彼女はバグダディの持ち物だった」と語っている。

 バグダディは1971年生まれで、バグダッドのイスラム大学でイスラム学の博士号を取得したインテリ。昨年7月、占領中のイラク第2の都市、北部のモスルのモスクに姿を現して以来、米軍の暗殺を恐れて姿を消しているが、カリスマ性を備えた宗教的な、ある種高潔な人物と見られていただけに、レイプという下劣な行為を繰り返していたことに驚きが広がっている。


戦略的な奴隷制度計画


 このバグダディのレイプ報道と相前後して、ISが性奴隷制度を戦略的に計画し、また制度自体を理論的に正当化している実態も明るみに出た。同紙がこのほど、ISの囚われの身から脱出できたヤジディ派の21人の女性とのインタビューで暴き出したものだ。

 昨年ISによって拉致されたヤジディ派の女性は5270人で、少なくとも現在も3144人が囚われの身になっている。その多くが性の奴隷だ。ISが性の奴隷としているのは、基本的にこのヤジディ派の女性である。同派の勢力は約50万人で、主にイラク北部シンジャル山周辺に居住。イスラムではなく、ゾロアスター教にも似た土着の宗教を信奉している。

 ISはこのヤジディ派を多神教的な宗派で、「不信心者」と見なし、昨年夏から村々を襲って、女性や子供を戦利品として連れ去った。男は女性から離され、砂漠などに連行され虐殺された。年端のいかない少年はISの戦闘員にシャツをめくるよう言われ、脇毛が生えていると、男として判別され処刑された、という。

 こうして捕虜になった女たちは専用のバスでモスルに運ばれ、市内の結婚式場や旧フセイン大統領の宮殿などの大広間に収容され、性の奴隷としてシリアやイラク各地に移されるまで数日間から数カ月にわたってその場で過ごすことになる。

 15歳の少女Fの証言によると、Fはモスルの結婚式場の大広間に約1300人の他の少女や女性とともに収容されていた。ある時、3人のIS戦闘員が少女らの登録を開始、女たちは立ち上がって氏名を名乗った。2カ月後、Fは他の24人の少女とともに、イラクの軍事基地にバスで運ばれ、そこで「お前らはサバヤだ」と告げられた。「サバヤ」とは奴隷の意味だった。

 ISのヤジディ派に対する殺りくと拉致は当初から周到に立案された戦略的な「性奴隷計画」だったようだ。その目的は女の奴隷を獲得して、幹部たちの欲望の対象にした上、死の淵にある前線の戦闘員に女を与えて士気を高めることにある。さらには新たに外国人戦闘員を募集する際の“餌”にすることだ。イスラム世界では、若い男が女性と接する機会はほとんどなく、ISは組織に入れば、女が手に入るという甘い言葉で新兵を募集している。

 最近では米国の爆撃で1万人以上の戦闘員が死亡したため、戦闘員不足に陥り、少年を戦闘員に育てたり、敵対するクルド人の若者にも勧誘の手を伸ばしているが、この際にもISに入ればすぐ“結婚”できると誘っている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5263

レイプは「神に近づく行為」
IS指導部が正当化
佐々木伸 (星槎大学客員教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5264


 「性の奴隷制度」を導入した過激派組織「イスラム国」(IS)は、イスラム世界や国際社会からの批判に対して行為を正当化しようと躍起になっているが、12歳の少女までレイプする理屈が通るはずはない。ニューヨーク・タイムズ紙の報道からその凄まじい実態が白日の下にさらされている。

両手を縛り、猿ぐつわ 

 「イスラムの聖典コーランによると、不信心者に対するレイプは許されており、お前をレイプすることにより私は神により近づく」。かつてISの性奴隷とされていた12歳の少女は、自分を暴行したISの戦闘員がこうしきりにうそぶいた、と告白している。

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 少女はその腰回りが大人の両手で回るほど小柄な体。暴行を受けた時は両手を縛られ、そして猿ぐつわをされたという。この戦闘員はレイプの前にベッド脇で祈りを捧げ、コーランが彼女をレイプする権利を与えているばかりか、それを容認し、奨励している、と述べた。そして戦闘員は行為が終わった後も再び、祈りを捧げた、という。

 IS指導部はこうした「性の奴隷制度」について、イスラムの教えに適合しているかどうかをチェックするファトワ(宗教上の指針)部門を動員して理論武装、不信心者に対するレイプは「精神的に有益なもの」であり「高潔な行い」であるとさえ規定し、組織の教義に組み込んだ。イラク人戦闘員に虐待された15歳の少女Fは、レイプ行為が「神への祈り」と説明され続けた、という。

 ちなみにコーランには、「右手で所持する者たち」というくだりがあり、これが女奴隷に関する記述と解釈されてきた。コーランができた当時は、人々が性の対象として女の奴隷を持つことは通常の慣行だったとされ、ISの機関誌ダビクは昨年10月号で「奴隷制度の復活」を特集している。

 ニューヨーク・タイムズ紙によると、捕まったヤジディ派の女たちは5分の1が戦利品としてシリアのIS本部に送られる。残りが戦闘員に分配されたり、奴隷市場で売買されると見られるが、その過程も被害女性のインタビューで明らかにしている。

 女たちは若く、美しい少女らから買い手が付いていき、既婚だったり、年配の女性は何カ月も買い手がつかないこともある。ISは奴隷女性の目録を作成して管理している。一部は卸売り業者に買われていくが、こうした業者は購入した女性に「サバヤ(奴隷)1号」などと顔写真付きの番号を付け、売却のためのアルバムを作っている。

19歳の被害女性Iが奴隷市場に出された時は、Iも含めてその場に少なくとも500人の女性がおり、最も若いのは11歳の少女だった。買い手が市場に現れると、女性たちは1人ずつ別の部屋に通され、買い手らの前でスカーフや衣服を脱がされて容姿のチェック受ける。女を点検する鑑賞部屋もある。


 そして生理が最後に来たのはいつかなどの質問を受ける。イスラム法では、妊娠している女とは関係してはならないという規定があるからだ。同紙にインタビューを受けた21人のうち、レイプされなかったのは妊娠中の女と、閉経した女たちだった。

自爆の前に「解放証明書」

 奴隷の売買は通常、何度も繰り返されるようだ。国連調査団の報告などによると、20人から30人の男に売買されるのは珍しくなく、“結婚”“離婚”を1週間で22回も繰り返された被害者もいる。

 レアケースだが、女性たちにとって解放されるチャンスもある。売買される度、新しい奴隷契約書が作成されるが、奴隷はそうした新規契約の際に、解放されることができるとされている。奴隷の所有者が解放する行いをすれば、天国でその報償を受けることが約束されるという。

 25歳のAは先月、ISの手から逃げることに成功した。Aの所有者であるリビア人の戦闘員が、自爆テロの訓練を終え、間もなく死ぬので解放すると彼女に告げ、ISの裁判官の署名入りの「解放証明書」を手渡してくれたからだ。AはシリアのISの検問所でその証明書を提示し、イラクに戻ることができたという。

 この夏、ISのファトワ部門は34ページに及ぶ新たな指示書を発布した。それには、戦場で捕虜にしたキリスト教徒とユダヤ教徒の女性とのセックスも許されるということが明記されていた。ISが壊滅されない限り、奴隷として苦しむ女性たちは増えていく。
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2015年09月23日 食肉にされた白人少女? / 楽しいレイプはやめられない
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難民を刺戟してはいけない社会

  就職氷河期に当たってしまった大学生は、2千万円以上の年私有を手にできるNHK職員がうらやましい。大した仕事をしなくても昇進できるんだから魅力的。そのうえ、制作費はたんまり貰えるし、ちょっとくらい横領したって分からない。韓国で豪遊した磯野克巳は、月に1,500万円くらい使っていたそうだ。これなら毎晩、朝鮮人ホステスと飲んでいたのもうなづけよう。NHKではカラ出張、裏金作り、横領、ユスリたかりが当り前。他人のゼニで贅沢なドラマを作っておきながら、それをDVDにしてボロ儲けする会社をつくった。まったく、阿漕(あこぎ)な真似をしやがる。しかも、退職社員が天下り。プロ左翼にとったら理想の職場じゃないか。そのうえ、滅多にクビにならないんだから、天下のNHKは極楽だ。ただし、痴漢や麻薬なら懲戒免職かも知れない。でも心配ご無用。彼らは国家転覆や皇室侮蔑が趣味なんだから。それに、反日行為くらいじゃ左遷にもならないし、むしろ出世したりして。

こんなNHKが推進するのは、移民や難民が津波のように押し寄せる多民族社会。お上品なNHKの女子職員は、イラク難民のオッさんが坐った便器で大便できないが、一般庶民には風呂や便所を共有しましょうと呼びかける。NHKの採用試験では、舌を二枚持ってるかどうかの検査があるのだろう。

  難民支援者は自国民より外国人を大切にする。彼らは高級で貴重な「国民が持つ古来の権利」よりも、地球の何処にでも落ちている「人権」を、“至高の権利”と称賛するのだ。数百あるいは数千年前の祖先から受け継ぐ権利より、アフリカの草原に住む土人でも口にする「人権」の方が重要とは。

左翼が厄介なのは、気違いという自覚が無い馬鹿だからである。つまり、カルト宗教の信者と同じ精神構造を持っているからだ。彼らは第三世界からやって来る難民は、みな可哀想な移住民で、無差別に保護せねばならぬと思っている。

善意に溢れた正義の味方が、そう思いたいなら結構。ただし、自分のお金でやってくれ。自分の預貯金や株・債券、あるいは退職金や年金をまず最初に使って、どこまで難民の面倒をみられるのか教えて欲しい。難民を望まぬ国民から税金をふんだくって、外国人にバラ蒔くなんておかしいだろう。

難民支援のNPO法人などは、怪しい人物が要職に就いており、隠れ左翼や筋金入りの極左が、生活する隠れ蓑になっている場合が多い。ちょうど、反戦活動家が宗教法人をつくって、平和を訴える坊主になるのと似ている。外人支援団体は、難民をダシにして多額の税金を引き出すことを目的にしているから、よくよく注意せねばならない。


(写真/シリアや中東からの難民)
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  我々は難民で溢れるドイツやEU諸国を目にしている。前世紀の冷戦時代に、社会主義で国家を転覆できなかった左翼は、得体の知れない異邦人を国内に引き入れることで、民族浄化(ethnic cleansing)を合法的に行っているのだ。難民の流入はたとえ不愉快でも、砲弾が撃ち込まれる有事ではないから、一般国民は指をくわえて侵掠行為を眺めるしかない。無力な庶民が講じる対策は些細なものだ。

ここで、日本のマスコミが報道しなかった例を挙げたい。

バヴァリア地方にあるドイツの高校で、馬鹿馬鹿しいある難民対策が行われたという。シリア難民が押し寄せた頃、学校側が生徒の父兄に注意事項が記された書類を配った。月曜日に郵送された通知の中で、マーチン・タルハマー校長は、学校の体育館に200名のシリア難民が収容されているので、生徒は学校にいる間、校庭や建物内に近づかぬよう注意されたという。

さらに、その通知には父兄に対して要望が書かれていた。それは何かというと、子供達が肌の透けて見えるようなトップスやブラウス、ミニ・スカートなどを着て登校せぬように指導してくれ、という内容であった。(Polina Garaev, Fearing Syrian erfugees, German school bans miniskirks, i24News, June 28, 2015) つまり、シリア難民の男どもを刺戟する「セクシーな服装」は慎んでほしいというお願いである。率直な警告ができない校長先生は暗に、シリア難民の中に強姦魔が居るかも知れないと仄めかしていたのだ。


(写真/禁止されてしまう服装の具体例)
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  何とかして難民を大量に導きたいマスコミは、自国民に被害が出ても平気である。難民を規制しようとする保守派の政治家や、異邦人を嫌う一般国民は彼らの敵だから、難民が事件を起こしても騒がない。今月、ドイツのケムニッツ(Chemnitz)にある公園で、7歳の少女が北アフリカ系の男に強姦されるという事件が起きた。

彼女は母親に連れられて公園で遊んでいたところ、突然アフリカ系の男に攫われ、草むらの中に引きずり込まれたという。公園にいた母親は娘が強姦されていることに気づかず、娘が泣きながら脚にしがみついてきた時に初めて分かったらしい。30歳くらいのアフリカ系容疑者は、強姦のあと駅の方向に逃げていったそうだ。子供の証言だから確実ではないだろうが、ヨーロッパ系の白人ではなく、アフリカ系の黒人に犯されたことだけは確かだろう。

移民や難民を受け容れると、親は至る所で子供の安全を図らねばならない。今まで気楽に公園で遊ばせていた親は、性犯罪者を警戒するようにから、子供を連れて行くことを躊躇(ためら)うようになる。左翼議員や難民支援組織のせいで、平穏な日々を送っていた一般家庭は、予測もできない悲劇を心配する毎日になってしまうのだ。どうして異邦人を望まぬ一般国民が、税金を取られたうえ窮屈で不安な生活を強いられるのか、移民・難民支援者は答える義務がある。


自国を破壊したスウェーデン


(写真/強姦魔に狙われそうな北欧女性)
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Olof Palme 4(左/オロフ・パルメ)

  北欧のスウェーデは、かつて国民の同質性が高い白人国家であった。ところが、社会主義者のオロフ・パルメ(Olof Palme)が首相の座についてから、北方種族主体のスウェーデンが多民族国家に変わってしまった。有色人種が移住してくることを許したスウェーデンでは、白人女性の強姦事件が頻発するようになり、その件数はうなぎ登り。金髪を黒く染めてレイプされぬよう対策を講じる女性まで出てきたという。被害件数の統計を見れば明らかだが、1975年に強姦事件は421件だったのに、2014年には6,620件になってしまった。

この異常な増加は、スウェーデンの男が急にスケベになったからか? スェーデンの犯罪防止国家評議会(Brottsförebyggabde rådet/ Brå)によれば、2011年に強姦されたスウェーデン人女性は29,000名もいたそうだ。各国と比べてもスウェーデンの強姦率は異常に高い。2012年の統計では、10万人あたり66.5人の被害者が出ていて、次に高いのはジャマイカの34.1人、ボリビアの33人、コスタ・リカの29.8人となっている。北欧の小国が中南米の後進国より強姦率が高いとは驚きだ。(Ingrid Carlqvist and Lars Hedegaard, Sweden : Rape Capital of the West, Gatestone Institute, February 14, 2015)

  こういった統計が出てくると、移民や難民といった有色人種を擁護する左翼がしゃしゃり出て、統計のカラクリや調査方法などに文句をつけてくる。例えば、スウェーデン人は比較的、強姦被害を警察に報告する傾向が高い。他国だと、特に第三世界では、レイプされても届け出ない女性が多いから、被害件数が統計に反映されないのだ、と言いたいわけだ。

また、スウェーデンではちょっとしたセクハラでも、「レイプ」だと分類されるし、男女の平等が進んでるから、それに我慢できない男性が女性につい暴力をふるってしまうのだ、という理屈を挙げている。こんな説明は、有色移民による強姦事件を隠蔽しようとする、目眩ましの言い訳だろう。もし、外国人による強姦事件がそれほどでもないなら、なぜ犯人の出生や人種、写真、名前を隠す「匿名報道」が流行るのか? 左巻きのマスコミは事件の真相が分かっているから、犯人の肉体的特徴や出身国をわざと“ぼかす”のであろう。

Lala Logan 5Lara Logan in Egypt 2(左: 米国でのララ・ローガン/左: エジプトでのローガン)

  ジャーナリストは強姦事件を他人事として扱うが、自分がレイプに遭うとは予想していない。以前、このブログで紹介したが、米国のCBS特派員を務めたララ・ローガンが、エジプトで「アラブの春」を取材中に、野蛮な群衆に暴行されたことがある。ブロンド美人のローガンは、エジプトの民衆が抗議デモを起こしている現場に駆けつけ、いかにも「取材のプロ」を気取って意気揚々と現場レポートをしていた。しかし、群衆の一人が、「あの女はユダヤ人だぞ」とデマを流したところ、昂奮した荒くれ男どもが彼女に襲いかかってきた。何名とも分からぬ穢らわしいエジプト人が、白い肌の金髪美女を鷲づかみにし、彼女の服や下着を引き千切ったという。

無力なローガンはジタバタと抵抗するが、腕力で勝る獣(けだもの)には勝てない。悲鳴を上げながら犯されていた彼女は、現地スタッフによりようやく救出され、安全地帯へ逃げ帰ったというが、彼女はショックの余り放心状態。恐怖と屈辱で涙が止まらない。高学歴のリベラル娘にはいい薬になった。

エジプトみたいな野蛮国で、何ら警戒感を持たずに群衆の中に入るなんて、「間抜け」を通り越して「白痴」だ。学校の教科書には、イスラム教徒は白人女を性奴隷にしていた、と書かれていないから知らなかったのだろう。快適な教室で「国際関係論」みたいな気楽な科目を勉強して、世界が分かったような気分になる秀才には、冷酷な現実が判らない。ローガン氏は強姦されて初めてイスラム圏の現実を知ったのだ。


(左: 従軍するローガン/右: 「アラブの春」を取材中のローガン)

  話が逸れたが、スウェーデンのジャーナリストも、現実知らずのアホが多い。今年、スウェーデンとフィンランドを行き来するフェリーで強姦事件が起きた。ジャーナリストであるスウェーデン人女性が、「アモレラ(Amorella)」というフェリーに乗船していて、運悪く8人の強姦魔に輪姦されてしまった。

スウェーデンのマスコミは、45歳の被害者女性と事件の内容について取材したというが、その際、8名の容疑者を「スウェーデン人」と報道したのだ。しかし、肝心な事実が抜け落ちている。その強姦魔のうち、7名はソマリア人で、残りの1名がイラク人であったのだ。移民の味方である大手マスコミは隠蔽したが、憤りを感じたあるスウェーデン人ブロガーによって、犯人の実名は公表されてしまった。

アブドゥライ・バレ・バレ(Abdullahi Barre Barre)、アフメド・アブデュラマン・アフメド(Ahmed Nur Abdurahman Ahmed)、アブドゥライ・アフメド・ジャマ(Abdullahi Ahmed Jama)、モハメド・アフメド・アブディ (Mohamed Ahmed Abdi)が、ソマリア出身者である。バジァ・ムハメッド・シャキール(Bjar Mhamad Shakir)がイラク人だ。犯人の中には、ソマリアとスウェーデンの二重国籍者がいたというから、マスコミはそれを楯にとって「スウェーデン人」による犯行と報じたのであろう。

SVTといったスウェーデンの国営放送だって、犯人の素性を具体的に報道することはなかった。こうした報道姿勢は、いかにスウェーデンで有色移民による犯罪が多いかを、逆に証明することになった。移民による犯罪を調査した、カールスタッズ大学のアン・クリスティン・ヒェルム(Ann-Christine Hjelm)によれば、2002年に起きたレイプ事件で、有罪となった者のうち、85パーセントが外国生まれか移民の2世であったという。

スウェーデン政府の調査だと、アルジェリアやリビア、モロッコ、チュニジアといった北アフリカ出身の移民は、スウェーデン人と比べて約23倍多く強姦事件を起こしていた。イラク、ブルガリア、ルーマニア出身者だと、約20倍だという。これでは、わざわざ外国から犯罪者を招いて、自国女性の不幸を増やしているのと同じだ。


(写真/逮捕されたムスリム・レイプ犯の者たち)

  移民・難民が増えている国家では、「政治的正しさ(political correctness)」という検閲が普及し、犯人の顔写真や家系、本名が曖昧にされている。先ほどの強姦事件では、名前でアフリカ人とかイスラム教徒であることが分かったが、「同化政策」が進めば古来の原住民と新たな移民の区別がつきにくくなってしまう。もし、ソマリア人やイラク人がキリスト教徒に改宗したり、氏名を北欧風に変えたら、黒人か白人かさえ分からなくなる。左翼新聞の記事に写真が無かったりすると、それを読む一般国民は、有色人容疑者を「スウェーデン人」と勘違いしてしまうだろう。

また、スウェーデン白人とアフリカ黒人との混血児が起こした強姦事件は、「白人」による犯罪と報道されるに違いない。色白のシリア人なら、「コケイジアン(白色人種)」と分類されるから、人種別の統計では、有色人種による犯罪と見なされない懼れがある。特に注意すべきは、未成年による強姦事件だ。容疑者が少年だと、顔写真や名前が公表されないし、仮に名前が公表されても、「アンダーセン」とか「クリスチャンセン」といった北欧風の苗字だと、一般人は白人かと思ってしまうだろう。養子のアラブ人やアフリカ人がいるから、その可能性は否定できないのだ。

  日本でも同様の懸念がある。移民の帰化が大量に進む日本では、アジア系帰化人やその混血児が犯罪を起こしても、容疑者は「日本人」と報道されてしまう。朝日新聞やNHKは、在日朝鮮人が犯罪者だと、「通名(偽名)」を用いて素性を隠してあげる、といった特別報道をしてきた。それに、もし彼らが帰化してしまえば、「日本人」犯罪者である。

父親が支那人で母親が朝鮮人という混血児だって、帰化人の子供なら疑いなく「日本人」となってしまう。しかし、こうした生まれ育ちが日本の“アジア”系国民が、アメリカに渡って学校や百貨店で銃を乱射すれば、「日本人」の大量殺人鬼と報道されてしまうのだ。「李」とか「金」、「朴」といった氏族名をもつ親が、帰化の際、日本風に「鈴木」とか「田中」に改名すれば、子供は生まれた時から日本人の氏名を与えられ、周囲の者でも日本人と思い込む。日本人でさえ素性が分からないのだから、外人記者は旅券に記された国籍と氏名を報道するだけだ。いずれ、歐洲でも日本人の評判はガタ落ちとなるだろう。

今まで日本人旅行者は、日本のパスポートを持っていれば、入国審査が楽だったが、これからはそれも難しくなるだろう。イラク人やフィリピン人、マレー人も日本国籍を取得して、「日本人」として外国に渡るから、現地で犯罪を起こす「日本人」が増えるだろう。これからはどんどん、日本国旅券が犯罪の小道具に使われるというわけだ。

有色人種の波に飲み込まれた西欧社会

  ブリテンとフランスは、もはや白人国家とは言い難い。片田舎ではまだ白人が多数派かも知れないが、大都市圏では、アフリカやアジアからの移民が至る所に溢れている。彼らはまるで、故郷にいるかのようにくつろいで暮らしているのだ。基本的に移民や難民というのは、財産や教養を持たない下層民であるから、当然すさんだ家庭が多い。しかも、ブリテン人やフランス人と肉体的に違うから、何時まで経ってもよそ者扱い。移民の悪ガキどもは、学問に励んで国家に尽くすとか、マナーを身につけて紳士になる、なんて意識は千年経っても芽生えない。こんな連中が徒党を組んで街を闊歩すれば、自ずとやることは決まっている。

道路の清掃活動じゃないぞ。道端を歩く女に声を掛けたり、絡んだりしてまとわりつくのだ。フランスのパリから少し離れた處に「フォントネー・スー・ボア(Fontenay-sous-Bois)という街がある。そこへ「ニーナ」という7歳の少女が、両親の離婚がもとで引っ越してきた。それから月日が流れ彼女は16歳。母と弟の母子家庭で育ったニーナは、思いもよらぬ悲劇に見舞われることとなった。

  ある日の夕方である。ニーナは映画を見に行き、映画館から自宅に帰る途中、数名の不良少年に出くわした。ニーナが遭遇した下郎は彼女より少し年上で、酒を飲みマリファナを吸う街のゴロツキだ。こういった連中は、いい女がいれば直ぐ声を掛ける。

彼らは道を歩くニーナに目をつけ、リーダー格の男がニーナに近づき、彼女の首に手を回してきた。こうなりゃ、誰だって嫌な予感がする。絡まれたニーナの周りには、ロクでなしどもが群がってきて、彼女が逃げられないように取り囲んでいた。馴れ馴れしいリーダー格の男は、ニーナに「沈む夕日が見てえなぁ」と言い寄り、彼女を近くの建物に連れて行こうとしたらしい。しかし、彼女はそれを断った。すると、リーダーの男は彼女の顔面を殴りつけた。

こうなれば、次にする事は明らかだ。ニーナはゴロツキどもの餌食となり、鬼畜のオモチャにされてしまう。彼女は膣や肛門にペニスをねじ込まれ、そのうえ彼らのペニスをしゃぶるよう命じられた。こいつらは本当に哺乳類なのか? もし、人間のクズにランクがあれば、こいつらは最低の階級になるだろう。

  悪夢のような輪姦の翌日、ニーナは再び不良どもに強姦されることとなった。彼女は他の不良どもが待ち受けるアパートメントに連れ込まれ、そこで殴られた挙げ句、彼らに凌辱されたのだ。その次の日も、ニーナは同じ生き地獄を味わう羽目に。不良どもの一人は、泣き叫ぶ彼女を捕まえ、その胸元にタバコの火を押しつけたという。

恐怖の強姦を耐えたニーナが帰宅すると、不審に思った母親は、「どうしたの ?」と尋ねたらしい。しかし、ニーナは真相を話すわけにも行かず、何事も無かったかのように沈黙を守った。それというのも、強姦魔は彼女に釘を刺していたのだ。もし、誰かに話せばアパートメントに放火し、弟や母親の命もないぞ、と脅していたのである。

驚くことに、ニーナは毎日のように強姦され、それが半年も続いたのだ。しかも、餌食となった少女はニーナだけではない。ステファニーという16歳の少女も輪姦されていたのだ。彼女は毎日のように複数の男どもに弄(もてあそ)ばれていたという。つまり、獣慾の塊と化したゴロツキは、強姦のローテイションを組んでいたのだ。(Ondine Millot, Ils etaient au moins vingt-cinq. Certains me tenaient,d'autres rigolaient, Liberation, 16 Sept. 2012)

  では、ニーナとステファニーを輪姦した不良とは、いかなる者たちか? フランスのマスコミは、犯人の素性を具体的に報道しないので、一般国民には見当がつかない。しかし、強姦集団の主犯格だけは分かっている。マハマドゥ・ドゥクーレ(Mahamadou Doucouré)というアフリカ人だ。しかし、逮捕された18名の容疑者が、フランス国籍を持つ者なのか否かは定かでない。ただ、アフリカや中東アジアからやって来た移民、ないし移民家庭の子供という可能性は高い。

彼らは裁判にかけられても、一向に反省の色を見せず、彼女を「淫売だ。誰だった知っているさ。あれは、お遊びだったんだ」と詫びる様子もなかったという。いずれにせよ、有色人のグスどもに10代の少女が毎日、汚いペニスで凌辱されたという事実は変わらない。有色移民を引き込んだ外人支援者は、幾人もの男に肌を汚された少女に何と言うのか?

彼女たちには「人権」以上の価値があるはずだ。しかし、「人権派」左翼が犯罪者の権利を擁護することはあっても、泣き崩れる被害者に謝罪することはない。これが「人権派」の正体である。彼らに対して何を言っても無駄だろう。それでも、これだけは述べたい。ニーナは処女だった。赤い血が通っている者には、これで充分だろう。

  フランスと同じく、多民族・多文化主義に冒されたブリテンでは、イギリス人の日常生活までもが脅かされている。それというのも、移民の家庭で生産された悪ガキどもが、街中に輩出されて悪事を働いているからである。 11歳になるイギリス人少女Aは、治安の悪い東部ロンドンに住んでいた。ある日、彼女はバスに乗ったところ、車内で10代のストリート・ギャングに出遭ってしまった。

そのギャングどもは彼女をセントラル・パークに連れ出し、セックスを強要した。そこで、ギャングの一人が彼女を掴み、彼女のズボンを下ろしたので、少女Aは必死で逃走を図ったという。しかし、すぐギャングどもに捕まってしまい、追い詰められた少女は、次に何が起こるのかが分かって観念した。

一人の少年ギャングが手始めのレイプを終えると、次のギャングが彼女を犯したという。たった11歳の少女を捕まえて輪姦するとは、このガキどもは一体どういう家庭で育ったのか? 親の顔が見てみたい。卑劣な輪姦が終わると、この不良どもは怯える少女に、誰にも話すなと脅しをかけた。

  一週間後、被害者の少女はギャングのリーダーから呼び出しを受け、ロンドン東部にある彼の自宅へと向かった。ところが、その家では6人ないし8人のギャングが待機していたのだ。家に到着した少女は再び恐怖に襲われることになった。まだ幼い子供だから抵抗できなかったのだろう。彼女はリーダー格のギャングに、「もし、これをしたら、家に帰してくれるの ?」と尋ねたらしい。ベッドには少年達が待ち構えており、獲物を楽しみにしていた。彼女が「嫌だ」とごねると、リーダーは「お前は、そうすることになってんだよ」と冷たく言い放ったという。

のちに、ギャングどもは彼女を公園に連れ出し、絶対に強姦の件を話さぬよう警告として彼女を殴りつけた。こうした暴行は、数週間経っても頻繁に行われたという。ところが、卑劣な輪姦は少女の周囲に漏れ始め、他の少女達は被害者のAを「淫売」呼ばわりするようになったのだ。(Leon Watson, Judge reveals name of 13-year-old ringleader of street gang who raped girl, 11, in McDonald's toilet, Daily Mail, 4May 2012)

  数ヶ月が過ぎた頃、またもや悲劇が起きてしまった。彼女はロンドンにあるマクドナルドで、15歳の少年に目をつけられ、トイレに向かうところを尾行されたのである。彼女が便所に入ろうとすると、3人の少年が彼女を襲いレイプを楽しんだ。その後しばらくの間、犯された少女は口を閉ざしていたが、次第に沈黙を破るようになり、従兄弟に付き添われて警察署に被害届を提出したという。

ついに、強姦少年らはお縄になった。そこで、警察は彼らの一人が持っていたラップトップ・ハソコンを調べた。すると、ハード・ディスクにポルノ写真が見つかり、それが母親の所有していたものであることが判明した。ギャングを育てた母親は、1人の少女を8人の男が輪姦するという映像を購入していたのだ。何てことはない、こうした卑猥な画像を見つけたバカ息子が、現実の世界で少女を捕まえ、強姦ポルノを実践していたのだ。2010年、残りの少年ギャングは全員捕まったという。

マクドナルドで強姦したギャングのリーダーで、13歳の少年は、イブラヒム・グィワ(Ibraheem Giwa)という名前であった。出身が北アフリカなのか、それとも中東アジアなのかは不明だが、アングロ・サクソン系の子供じゃないだろう。しかし、血筋は非ヨーロッパ系でも、イングランド生まれで、ロンドン育ちとなっていれば、悔しいけど「ブリテン国民」と見なされる。被害者と同じ国籍を持つ者として扱われるんだから腹が立つ。こんな非イギリス系ギャングでも、顔写真と名前が世間に公表されないのだから、ブリテン社会は病んでいる。

  ブリテン島がローマ人に征服された時、高度文明の恩恵にあずかったというから、異邦人の支配は一概に悪かったとは言えないだろう。ギルバート・K・チェスタトンによれば、イングランドの歴史はローマ人に征服されことで始まった、と言えるそうだ。ユリウス・カエサルによるブリタニア遠征は、原住民に僥倖(ぎょうこう)だったのかも知れない。しかし、アフリカやアジアからのムスリム征服者は、イングランド王国とその住民にとって疫病神だった。

北方種族のイギリス人は、アジア人やアフリカ人が居住地域に群がり始めると、示し合わせたかのように次々と逃げてしまう。特に、高額所得者は有色移民と暮らすことが嫌いだ。左翼に占領れたブリテン政府が、移民の流入を許してきたから仕方ないが、イングランドにはゲットーのような場所が多い。ブラッドオードやオーダムのように、醜悪な形相のアジア人が、ある特定地域に密集していることがよくある。イングランド北西部に位置するランカシャイアーに、ブラックプール(blackpool)という都市があるが、数年前そこである事件が起きた。


(左: シャーリー・ダウンズ / 右: ケバブ料理)

  2003年、14歳になるシャーリンー・ダウンズ(Charlene Downes)という少女が行方不明になった。警察は彼女が殺された可能性があると見て、捜査i浮かんできた二人の中東アジア人を容疑者として逮捕。容疑を掛けられたのは、イヤド・アルバティキ(Iyad Albattikhi)というヨルダン人移民とモハメッド・レベッシュ(Mohammed Reveshi)というイラン人の大家で、彼らはゲバフ料理店の共同経営者であった。(「ケバブ」というのは中東アジアで人気の料理らしい。ちようど牛肉の串焼といった感じ。)

英国では中東アジア人によって誘惑を受け、性的暴行の被害者になる少女が問題となっている。この容疑者らもイギリス人少女に甘い言葉を掛けたり、酒や煙草、大麻などを提供して手なずけていたらしい。彼らは頃合いを見計らって、こうした罠に引っかかった少女を強姦したり、他の男に斡旋して料金を取ったりするという。つまり、少女売春を裏稼業とするアジア人というわけだ。

階級社会の英国には、躾の悪い家庭の少女が実に多い。まだ10代なのに、矢鱈とませている“ふしだらな”少女たちは、見知らぬ男には気をつけろ、という誡めを受けていない。どんな危険があるやも知れぬのに、いかがわしい繁華街をぶらつき、優しい声をかけてくれるアジア人にすぐ附いて行ってしまう。本当に呆れてしまうが、貞操観念が消失した社会では、起こるべくして起こった現象である。これは、文化破壊型のマルクス主義が元兇なのかも知れない。元外務大臣のジャック・ストロー(Jack Straw)によれば、彼女たちはアジア人の間で、“ちょろい肉(easy meat)”と呼ばれているそうだ。特に処女の白い肉は、有色移民の間で“上等”のランクとなっている。


(左: イヤド・アルバティキ / 右: モハメッド・レベシ)

  殺人事件では遺体発見が重要な手掛かりとなる。もし、シャーリーンが殺されたのなら、その死体が事件解決の鍵となるのだが、肝心の遺体が見つからないのだ。シャーリンが失踪してからも、ブラックプールでは60人以上の少女が、アジア人の魔の手に落ちたという。裁判で無罪になったアルバティキとレベッシュは、ゲバフ料理のテイクアウト店を続けたが、店の名前を「ファニー・ボーイズ(Funny Boyz)」から「ミスター・ビーンズ(Mr Beanz)」へと変えたそうだ。

シャーリーンの行方は依然として不明だが、その「ミスター・ビーンズ」で働く従業員が興味深い話をしていた。彼は冗談半分に、「シャーリーンの遺体は店内にあるミンチ・マシーンにかけられたんじゃないか。たぶん挽肉にされた肉は、ケバブの材料になったのさ」と述べていた。(James Tozer, Police hid abuse of 60girls by Asiantakeway workers linked to murder of 14-year-old , Daily Mail, 7 April 2011) アルバティキとレベッシュが証拠湮滅のために、彼女の遺体を挽肉にして客に喰わせたということなのか? 確固たる証拠は無いが、その可能性は充分にある。

牛の肉でも人間の肉でも、焼き肉店なら解体はお手の物。人体を切断する道具は容易に手に入る。鉈(なた)のような刃物で、遺体を切断してもいいし、捨て肉と一緒に処分したって誰にも分からない。ただ、諦めながらも、娘の生存を願っているシャーリーンの母親が不憫である。

マフィアの天下になっている中南米

  アメリカ合衆国は子供にとって危険な国である。怪しいアフリカ人やアラブ人が群がったり、犯罪者と区別がつかぬ南米人がうろつく社会は、子供を持つ親にとってもはや安全な場所ではないのだ。特に、ヒスパニック系移民が大量に流入してくるカルフォルニアとかニュー・メキシコ、アリゾナ、テキサス州などでは、白人中流家庭の生活が危機に瀕している。何しろ素性も家系も分からぬメキシコ人が、合法・非合法問わずに雪崩れ込み、我が物顔で市民権(国籍)を要求しているのだ。これじゃあ、南米人によるレコンキスタ(国土回復運動)じゃないか。

そもそも、アメリカ人ならメキシコという国がどんな土地柄なのか判っているはずだ。身分や所得による格差が激しく、支配者は庶民の生活なんか気にしていない。司法や行政が中心から腐っており、警察官や軍人だって瀆職にまみれ。そんな国からやって来る移民が、まともな人間と考える方がどうかしている。アメリカ人の基準からすれば、隣国は正義や公正が無い所と思えてしまうが、悲しいかな、これが現実のメキシコなのだ。

  貧乏人がひしめく中南米では麻薬カルテルが大繁盛。麻薬が最大の輸出品となっている後進国では、警察をも恐れぬ無法者たちが騎虎(きこ)の勢い。2011年、メキシコ北部にあるアセンションという町で、警察署員20名が全員辞職するという珍事が起きた。すなわち、1万3千人が住む町には、警察官がいないという事態になった。それというのも、この騒動は警察官の殺害に原因があった。

警官をモノともせぬギャングは、着任早々のマヌエル・マルチネス署長と2名の警官を拉致して殺してしまったのだ。この惨劇が起きた時の署員は、新任の者が多かったという。何故かと言えば、以前の警察署員は麻薬カルテルと癒着していたから、これを知った住民は激怒した。その後、民衆の怒りを買った瀆職警官はすべて更迭されてしまった。そこで、新しい警官が空になった警察署に派遣されてきたというわけだ。

Mexican Gangs 1(左/歩道橋から逆さ吊りにされた遺体)

  新任のマルチネス署長は、町に蔓延(はびこ)る犯罪を一掃しようとして、繁華街に防犯カメラを設置し、警察官が署に居ながら町の様子を監視できるようにした。それでも町から犯罪は無くならず、皮肉なことに、署長の方が一足先に、この世から消えることになった。メキシコではギャング同士の抗争が絶えず、兇暴さで悪名高いゼタ(Zeta)というカルテルは、以前、同盟関係にあったガルフ(Gulf)カルテルと反目状態。一旦、殺し合いが始まれば、殺戮の嵐は誰にも止められない。

モンテレイという町では、目を覆いたくなるようなギャングの抗争が起きた。歩道橋から二つの死体がぶら下がっていたのだ。遺体の足首にロープが結びつけられ、歩道橋から放り投げられたという。目撃者によると、逆さ吊りにされた二人は、その時まだ生きていて、吊されたところを始末人のギャングに撃たれたそうだ。つまり、見せしめのリンチ劇である。

  ギャングどもの抗争はエスカレートするばかり。ガルフ・カルテルはライバルのゼタ・カルテルのギャング5名を捕らえ、公開処刑を行ってしまった。覆面をしたガルフ・カルテルの処刑人は、捕獲した5名を跪(ひざまづ)かせ、手に持っていたマシェト(長いナタ)で彼らの首を刎(は)ねたのだ。しかも、これをガルフ・カルテルはインターネットに流して、ライバル・ギャングどもに思い知らせたのである。

女性なら「ぎゃ〜 !!」と悲鳴を上げそうなシーンだが、メキシコのギャングにとったら愉快なホーム・ビデオ程度。 (ライブドア社の検閲により、処刑の写真は掲載できません。) 処刑人は捕虜に「お前らを送ったのは誰だ? 」と尋ね、彼らは「Z-40だ」と答えた。すなわち、ゼタの首領を補佐する腹心ミゲル・エンゲル・モラレスだ、と白状したのである。とにかく、命乞いをするギャングどもの首を、次々と切断するシーンは「残酷」の一言に尽きる。(Rachel Quigley, Horrific video shows Mexican drug cartel decapitating five members of rival gang, Daily Mail, 29 June 2012)

  血で血を洗うような、このリンチには原因があった。6月に公開された処刑から遡ること、1月にゼタ・カルテルはガルフ・カルテルのメンバーを絞殺し、その様子を撮影した動画をインターネットに流していたのだ。加えて、5月にはガルフのメンバー49名の首を刎ね、その遺体を袋に詰めてハイウエイに投棄したのである。荒(すさ)んだ南米では、大手の麻薬カルテルから個人の麻薬密売人に至るまで、対立者や邪魔者への制裁が頻発し、殺害した死体を切り刻んで遺棄することが普通になっている。

メキシコだと麻薬ビジネスが国内最大のビジネスなんじゃないか、と思えるくらいコカインやヘロインが横行しているという。しかし、マフィアの根絶はほぼ不可能である。なんてったって、豊富な資金と軍隊から流れてくる武器を手にしたマフィアだから、田舎の警察官ではとうてい太刀打ちできない。場合によっては、軍隊の出動だってあり得るんだから、犯罪取締のスケールが違う。装甲車でも破壊できる機関銃や、ロケット砲まで装備したギャングがいるんだから、映画の世界かと勘違いしてしまう。

こんな兇暴なカルテルと比べれば、日本のヤクザなんか可愛いものだ。38口径のリボルバー拳銃など、オモチャの鉄砲と変わらない。それに、狙撃訓練を受けていない素人が、適当に撃ち合っているんだから子供の喧嘩だ。しかし、問題なのは、そうした国からの不法移民が増えていることだ。血なまぐさい抗争で鍛えられた犯罪者や、悪人の巣窟で育った“ならず者(thug)”が入国してくるんだから、平穏に暮らしたいアメリカ白人はたまったもにじゃない。

密入国の常連が子供を轢き殺す

Juan Hernandez & Richard Morales(左: ホアン・ヘルナンデス / 右: リヒャルト・モラレス)

  いったいアメリカ合衆国には、どれくらい犯罪者が居るのか誰にも分からない。あたかも、寒天で培養した大腸菌を数えるような苦労になるだろう。兇悪犯罪を挙げればキリが無いが、女子供に対する犯罪は特にひどい。例えば、フロリダ州オランドで起こった少女への強姦事件だ。ホアン・ヘルナンデス・モンツァルボとリヒャルト・モラレス・マリンという南米人は、バス停にいた11歳の少女に狙いをつけた。彼らは少女にナイフを突きつけ、用意したクルマに押し込むと、数ブロック先の空き家に連れ込んだという。

卑劣なヒスパニックの野獣どもは、その空き家の中で、怯える少女を凌辱し、心ゆくまで強姦を楽しんだ。(2 Men Charged in Rape of 11-year-old girl,WJXT Jacksonville, February 13, 2009) 後に、この強姦魔は警察に逮捕されたが、ホアンにはユウストリア・オルテガという妻と子供がいたそうだ。少女を強姦したあと、家族団欒でくつろいだのか? まともな奴ではない事は確かだ。

  米国に潜り込むヒスパニック犯罪者は人間のグスだが、そうしたグスどもを輩出する国家も最低である。中でも、犯罪者を支援するメキシコは言語道断。例えば、アリゾナ州フェニックスに住むタニー・ナタヴィダット(Tanee Natavidad)という女子高生が、マックス・ラマドリッド(Max LaMadrid)なるメキシコ人に殺されてしまった。不法入国者のラマドリッドは、彼女を殺害した後、祖国メキシコへ戻ってしまったそうだ。

メキシコ政府はアメリカの司法で死刑になりそうな殺人犯を引き渡そうとしなかった。この腐りきった国は、アメリカ人を強姦したり殺害したりしても、自国民は復讐に燃える外国に送還しないと決めているのだ。したがって、メキシコは犯罪者の駆け込み寺(safe harbour)となっている。実際、アリゾナ州で殺人鬼や幼児の拉致犯などが、犯行後にメキシコへ逃亡するケースが幾つもあったそうだ。

Dana Pevia(左/ダーナ・ペヴィア)

  また、メキシコ政府は国内の犯罪捜査もいい加減であった。1999年にノース・カロライナで少女の拉致事件が起きた。当時11歳のダーナ・ペヴィア(Dana Pevia)がバス停で待っていたところ、ヘクター・フロウスト(Hector Frausto)というメキシコ人の土方(どかた)が彼女を攫ってしまった。ダーナはメキシコにあるヘクターの自宅に監禁され、約4年間も拘束されたという。監禁場所の近くに住む隣人はダーナに同情したのか、彼女が逃亡するを助けてくれた。

ヘクターの家から辛うじて脱出できたダーナは、メキシコにあるアメリカ領事館に駆け込んで無事保護されたそうだ。メキシコ政府はアメリカ側から、拉致犯の捜索要請を受けても真剣に調べなかったのだろう。腐敗しきった国では、自国民さえ蔑ろにされているのだ。ましてや外国人など、どうなってもいい存在である。米国では、メキシコの犯罪者が「人権」とやらで法廷や刑務所で鄭重な扱いを受けるのに、メキシコだと善良なアメリカ国民は野良犬以下の扱いになるのだ。

  これは日本人にも分かるだろう。不法移民の支那人は犯罪者になっても、日本だと立派な警察官に逮捕され、公正な判事に裁かれる。有罪になれば、親切な刑務官に保護されながら、楽園のような刑務所でくつろぐ。お風呂に入れて、テレビだって観ることができる。娯楽の乏しい支那とは大違い。カロリー控えめの健康食に、お医者さんまで附いているなんて信じられない。支那では普段の生活でエイズに罹るし、薬は偽物、野菜は農薬まみれで、空気は汚染されて呼吸も困難。日本の刑務所ではきれいな水が飲める。

支那では七色に光った水が普通。お正月には特別メニューときているから、日本人の「おもてなし」は素晴らしい。しかも、慰問の歌手がやって来てコンサート。もかもタダ。あろうことか、職業訓練も無料(ダダ)で受け.られる。支那では文盲が大勢いるから、日本の刑務所は高等教育機関である。これじゃあ、支那に帰りたくないわけだ。一方、支那で濡れ衣を着せられ逮捕される日本人は、ヤクザのような警官に拘束され、金で動く裁判所にかけられる。懲役刑となれば、悪臭漂うケダモノが群がる刑務所へ投げ込まれ、死刑判決となったら、超特急であの世行き。日本人の命は蠅の羽よりも軽いのだ。

  金銭至上主義の財界人は、合法でも不法でも移民が大好き。低賃金でこき使える外人は、自国民のように文句を言わないし、気軽に使い捨てができる、という利点があるからだ。しかし、後進国や劣等国からの外人は、米国に来たからといってマナーを守るとは限らない。いや、マナー無視も甚だしい、極悪非道な行為を平気でやってのける。一般人は不法移民の報道を聞いたって、他人事としか思わないだろう。

しかし、脳天気な一般国民は、身近に“とんでもない”外人が“うようよ”いることに気づかないのだ。例えば、不法移民が酔っ払い運転や無謀運転をしたらどうなるのか、想像してみればいいい。走る兇器を運転する連中は、事故を起こして他人を傷つけてしまうかも、という心配はしないのだ。対人傷害保険をかけてクルマを運転する不法移民がいると思う奴は、メキシコ湾で手首を切って泳いでみろ。合法移民だって自動車保険に加入している者なんかごく僅かなのに、ドブ鼠のように入ってきた密入国者が保険料を払うわけがない。

Tricia TaylorJose Carcamo(左: 車椅子のトリシア・テイラー / 右: ホセ・カルカモ)
  一般人はある日突然、移民によって家族が交通事故に遭ったり、自分が事故に巻き込まれて身体障碍者になることを危惧していない。デトロイトに住む18歳のトリシア・テイラー(Tricia Taylor)は、不法移民のホセ・カルカモ(Jose Carcamo)のせいで、両脚を失い車椅子の生活をする羽目になった。ホセは街中で自動車レースを楽しんでいたが、カーブを曲がりきれずそのまま壁に激突してしまったそうだ。

しかし、運が悪かったのはトリシアと彼女の友人ノア・メナードだ。事故に巻き込まれたノアは、頭蓋骨と鎖骨をひどく損傷し、メチャメチャにされた肘にはピンが埋め込まれていた。事故当時、飲酒もしていたというホセが、受けた刑期は3から5年であったから、被害者の怒りは納まらない。エル・サルヴァドルからの不法入国者によって、突然両脚を奪われたトリシアは、一生みじめな生活を送ることになったのだ。ホセは獄中でトリシアとノアに宛てた謝罪の手紙を書いたそうだが、送られてきた手紙には、綴を間違えた被害者の名前が記されていた。こんな低能外人に人生を台無しにされたとは、何とも言えない悔しさが残る。

  子供の死は親にとって最大の苦痛である。自らの心臓を抉られる思いだ。自動車の無謀運転を何ら気にしない文化で育った南米移民は、事故を起こすことの恐怖や、その巻き添えになるかも知れない無辜(むこ)の民について考えない。「考えない」というより、考える「機会」も無ければ、その「必要性」すら頭に思い浮かばないのである。つまり、人命が虫けらのように軽い国から来た移民には、文明国での人間に関する価値、つまり国家を構成する貴重な公民の権利というものを全く理解できないのだ。

ヒスパニック移民は、酒を飲みたいから飲むし、酔っ払っていても運転したいから、クルマを転がすのである。ただそけだけ。事故を予測するというのは、彼らにとって高度な思考になる。教育水準の低い国で育った者には、文明国の常識は通用しない。そうした愚劣な外人に子供を奪われた親は、どうやって悲劇を受け容れたらいいのか、分からないだろう。移民や難民を入れた責任者は、問題が大きくなっている頃には、死んでいるか引退している場合が多いから、実質的に移民政策の責任者は存在しないのだ。

Amber Merkle's Mom(左/娘アンバーの写真を掲げる母親のルビー)

  子供の事故を語るのは気が重いけど、いくつか紹介したい。アラバマ州に住んでいたアンバー・メルケル(Amber Merkle)は、まだ8歳の少女で当時は小学校3年生。ある土曜の午後、彼女は叔母と従兄弟と一緒にアイスクリーム屋に行ったそうだ。その帰りに事件は起きた。アンバーが乗っていたSUV車に、酔っ払いのアルトゥロ・ルピアン(Arturo Lupian)が運転する車が突っ込んだ。ルピアンの車は急停止をかけた痕跡が無い。瀕死の重傷を負ったアンバーは、病院に搬送されたが数時間後に息を引き取ってしまった。メキシコからの不法移民であるルピアンには、最高でも20年の刑期しか課せられず、数年つとめた後仮釈放になる可能性が高い。

悲嘆に暮れるアンバーの母親ルビーは、意外なことにルピアンをメキシコに戻すことに反対していた。なぜなら、この殺人犯がメキシコに帰れば、名前を変えて再びアメリカに入ってくる事が予想できたからである。メキシコでは偽造書類を簡単に入手できるので、米国で拘束され強制送還になった不法移民が、再度アメリカに潜り込む、といったケースが絶えないのだ。

  子供の犠牲者は本当に多いので、辛いけどもう一件紹介したい。当時6歳だったアニー・カンプストン(Annie Cumpston)は、家族でサーカスを見に行った帰りに、バルティモアの繁華街でひき逃げに遭った。不法移民のグィエルモ・ディアス(Guillermo Diaz)が運転していたトラックが、交差点に滑り込みアニーをはねて、そのまま逃走したのである。事件を目撃したライアン・ジョーンは、ディアスの逃亡を防ぐため、トラックのドアにしがみつき、しばらく引きずられたという。その後、ディアスは警察に捕まり、彼のトラックは登録が為されてないことが分かった。しかも、ディアスは犯行当時、酒を飲んで運転していたという。不法入国者だから仕方ないが、ディアスは運転免許証もない状態だった。

一方、ひき逃げに遭ったアニーは、直ちに病院へ搬送されたが、数時間後に息絶えたという。裁判にかけられたディアスは、懲役10年の判決を受けたが、2年で仮釈放になるかも知れないということであった。

アニーの両親にしたら、こんな下郎のために娘が死んだと思えば、自らの手で殺したくなる。アニーの死を悼む両親は、美しい庭園に娘の彫像を作った。その側に坐る妹マデリンの姿は、見る者の涙を誘う。まだ幼いマデリンには、姉のアニーが轢き殺された事実が理解できない。綺麗な彫像を見て微笑むマデリンの顔は、無邪気で純粋なだけに、他人が見ても胸が締めつけられる。

Annie Cumpston 1Annie & Madeline Cumpston 3 (左: アニー・カンプストン / 右: 妹のマデリンと一緒のアニー)

命が危ない警察官

  南米移民や不法入国者は、法秩序の番人さえも容赦はしない。カルフォルニア州ロサンジェルスでジェリフを務めるデイヴィッド・マーチ(David March)は、通常の任務として不審なクルマを路肩に止めたという。彼は職務質問をしようとして、運転席に坐っていたアーマンド・ガルシア(Armando Garcia)に近づいたところ、いきなり拳銃で頭を撃たれてしまった。

警察官の頭部を目がけて2発撃ったガルシアは、そのまま走り去り、メキシコに逃亡したという。このガルシアはかなりのワルで、兇暴な麻薬密売人であった。驚くのは、それだけではない。ガルシアは過去に、2回も強制送還されていたのだ。こんな悪党が再入国できるアメリカの国境警備は穴だらけ。もっとも、人権派団体の妨害により、不法入国者への罰則が甘くなっているから、不法移民は追放されても再度入国しようと考えてしまうのだ。合衆国政府はガルシアの引き渡しをメキシコ政府に要求したそうだが、その後どうなったのか報道がなされていないので分からない。

Robert Sitek 1Kenneth Collings(左: ロバート・シテック / 右: ケネス・コリングス)

  メキシコに近いアリゾナ州には、不法移民がごまんといる。したがって、兇悪な移民による殺人事件も多い。フェニック署の警察官ロバート・シテック(Robert Sitek)は、同僚のデイヴィッド・スウィングと一緒にパトロールをしていて、交通違反のトラックを見つけたから停車させたという。すると、運転手のフランシスコ・ギャラード(Francisco Gallardo)は、近づいてきたシテックを拳銃で撃った。そこですかさず、相棒のスウィングがギャラードを射殺。

後に、ギャラードはメキシコ人で、暴行事件を起こして7年の懲役刑を受けたことが判明した。この前科者に撃たれたシティクは、傷口から血が流れて止まらない。瀕死の重傷を負ったシティックだが、幸いにも病院で緊急処置を受けたことで一命を取り留めたという。だが、撃たれた警官がいつも助かるとは限らない。熱血警官のケネス・コリングス(Kenneth Collings)は、銀行強盗を犯したイシュマエル・コンデ(Ismeale Conde)とルディー・ロメロ(Rudy Romero)を逮捕する時に撃たれてしまった。コンデは即座に逮捕されたが、ロメロの方はメキシコに逃亡したという。しかし、間もなくロメロはメキシコ南部で拘束され、米国に送還されたそうだ。この不法移民は98年の懲役刑を受けたが、コリングスは還らぬ人となってしまった。


(左: ウィル・セイウス / 右: 法廷のカルロス・マレス)

  カルフォルニア州のオークランドで勤務していたウィル・セイウス(Will Seius)巡査は、バイクで帰宅途中にハイウェイでトラックに撥(は)ねられ死亡した。ひき逃げをしたのは、不法移民のカルロス・マレス(Carlos Mares)というヒスパニックの不法移民。仕事熱心だったセイウス巡査は、多くの友人に惜しまれ、妻のミッシェル夫人と娘二人を残して他界してしまった。

逮捕されたマレスは、過去に交通違反を何度も繰り返していたらしい。しかし、不思議なことに、不法移民であるはずのマレスは、自分の運送会社を持っていたのだ。「えっ !」と驚く人はアメリカを分かっていない。不法移民は偽造書類を購入して、堂々と「アメリカ国民」になることができる。信じられないことだが、不法移民を許容するアメリカでは、怪しい人物でも簡単に就職できるし、会社すら興すことができるのだ。さらに、有権者登録だってしてしまう図太い神経の持ち主もいるから、まったくもって開いた口が塞がらない。

オバマはこうした不法移民の票も獲得して当選したのである。(アメリカ人でも頭の良い奴は分かっているが、米国の民衆政治はアフリカ並。投票じたいに不正があるのだ。ついでに言えば、立候補者の名前を「記入」して投票する日本人有権者の水準はすごい。米国だと立候補者の名前の所に「穴」を開ける方式をとっている州を見ればわかる。つまり、名前の綴りを書くことができない者も投票しているからだ。)

Tony Zappetella 3Jamie Zeppetella & Jakob(左: トニー・ザペッテラ/右: ジェイミー夫人と息子のジェイコブ)

  不法移民は見境無く犯行を重ねるから厄介だ。新人警官のトニー・ザペッテラ(Tony Zappetella)は、アドリアン・ジョージ・カマチョ(Adrian George Camacho)という不法移民によって射殺されてしまった。海軍を除隊後、警察官となったトニーには、妻のジェイミーと6ヶ月の赤ん坊ジェイコブがいたのだ。一方、トニーの体に3発もの銃弾をぶち込んだカマチョには、麻薬密輸や銃器密売、暴力事件の“華々しい”前科がある。しかも、この殺人鬼は数回も強制送還にあっていたのだ。

こんな兇悪犯が、アメリカの国境を何度も行き来きしていたとは、呆れて物が言えない。移民規制を強化していたらザペッテラ巡査の命は助かっただろうし、彼の家族が哀しむこともなかったであろう。父を知らずに成長した息子のジェイコブを見ると、移民追放に反対するリベラルどもが憎くなる。南米移民が入りづらいアメリカ社会なら、トニーばかりではなく、多くのアメリカ人が死なずにすんだはず。不法移民の「人権」とやらを守るために、いったい何万、いや何千万のアメリカ人が死んだことか。

  移民・難民や有色住民について述べたら、具体例が多すぎて際限が無くなるので、この辺で止めておく。最近でも、一般人は難民の悲惨な姿を見れば、「可哀想だから入れてあげればいいじゃん」と簡単に考えてしまう。しかし、氏素性も分からぬ難民を歓迎できるのか? どんな育ち方をして、如何なる遺伝子を持っているのか、皆目見当がつかないのに入国を許していいのか?

一般人はこれがどれほど危険を孕んでいるのか理解していない。難民には経済的動機から押し寄せる者が多く、恥も外聞も無い貧民は、避難場所をじっくり選んで、外人に対し甘い国を目指す。シリアからドイツにまでやって来る難民なんて、ちょっと考えればおかしいと分かるだろう。また、南米から米国に渡ってくる移民など、ロクな奴がいないし、捨てても惜しくない祖国で育った連中が、アメリカ社会にどんな貢献をするというのか? マスコミはたった一人か二人の成功した難民や移民を取り上げて、彼らのサクセス・ストーリーを絶賛するが、その背後にいる何万人もの犯罪者には言及しない。

苦労して大学を卒業したシリア難民や、ビジネスを興して金持ちになったメキシコ移民がいたとしても、数千名の外人犯罪者によって殺された被害者は、あの世で喜んでいるのか? 左巻きのテレビ局は、努力して医者や弁護士になった難民や移民を取り上げるが、無惨に殺された被害者を一人一人特集して、プライム・タイムに放送することは絶対しないだろう。 もし、本気で特番を作ったら、1日の番組で100名以上となり、365日の連続放送になってしまうだろう。

  移民や難民を排斥する者を「右翼」とか「ネオ・ナチ」とマスコミは批判するが、異邦人を支援するテレビ局や新聞社は、自らのお金で彼らを養ったことがあるのか? 難民受け入れを執拗なまでに主張するNHKやTBSは、社員の厚生年金や退職金を大幅に削って、移民や難民への支援に充ててみたらいいだろう。高給取りの社員なら、1千万ないし2千万くらい出せるんじゃないか。日本の庶民は難民に対して断固たる態度を取るべきだ。難民条約などすぐさま破棄して、外国からの侵略者を撃退できるよう法律を作る必要がある。

左翼の憲法学者や人権派弁護士は、「世界人権宣言」という猛毒を「栄養剤」か「ロイヤル・ゼリー」と称して国民に呑ませている。彼らは日本を内部から破壊する事が目的なので、日本人の遺伝子や伝統的精神を持たない外人を大量に輸入したいのだ。移民や難民の支援者は、国家破壊を「人道主義」や「国際化」の標語で達成しようとしている。まるで、砒素を(ひそ)を詰めたカプセルを、「カゼ薬」と称して飲ませるようなものだ。ヤクザだってヘロイン注射を栄養剤だと言って騙すじゃないか。日本国民は祖国を守りたいなら、難民船が日本の領海に入った時、即座に攻撃できるように法律を制定すべきである。難民にとって、先進国は夢の国。だからみんなが群がる。

それなら、彼らに我が国は屠殺場である、と認識させねばならない。一時的な感傷は有害だ。難民への攻撃を外国が非難するなら、その国に対して「じゃあ、お前の国で引き取れよ」と言ってやればいい。難民を望まぬ国民に移民を押しつける支援者は、いったいどんな権能で我々に強制しているのか? 彼らがまず自分の貯金を全額使って、難民の面倒を見るべきだ。そうすれば、難民支援者の中から、「もうたくさんだ。これ以上は嫌だ。難民は帰れ !」という悲鳴が上がるかもよ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68445796.html  

2016年02月10日 こんな英国に誰がした !
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68512502.html

責任者がいない移民政策

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左: ゲルマン系女性
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/4/54216f4e.jpg

右: メルケル首相)

  かつて、夫婦(めおと)漫才師の人生幸朗(じんせい・こうろ)のギャグに、「責任者出てこい !」という“ぼやき”があった。移民政策を進めた者に責任を取らせたいが、当事者は既に引退しているか、あの世へ旅立ってしまった者がほとんど。綺麗事を口にした者は、手厚い議員年金で快適生活。ところが、失敗のツケは、いつも庶民に降りかかる。シャンパンの泡なら良いけれど、重税の請求書じゃたまらない。現在、ドイツはシリアのみならず、他の中東アジアやアフリカからの難民でごった返している。ケルン経済研究所の試算によると、今年度ドイツが負担する移民へのシェルター供給、福祉予算、社会的統合への費用は、220億ユーロと見込まれ、来年度は276億ユーロになるという。(Migrant crisis to cost Germany €50 billion by 2017, U.K. Telegraph, 2 February 2016) これならメルケル首相の株が急落するわけだ。

  移民が来れば治安が乱れ、犯罪が増えるであろう事は火を見るより明らかだ。第三世界から潜り込んできた有色人にとって、ヨーロッパの白人女性は格好のターゲットになる。彼らの祖国では白人娘の売春婦は高嶺の花で、大金持ちしか買うことが出来ない。アラブの石油成金なら、高級コールガールを手にできるが、貧乏な一般人には絶対無理。ところが、ヨーロッパに来ると、道端に無料の白人女が転がっている。失う物が何も無い移民や難民は、スケベ心をくすぐられ、ついつい現地の女性を強姦したくな.。どうせ、異教徒で異邦人の女だ。強姦魔の良心は痛まない。それに、被害者の家族から、「血の復讐」は無いから安心。かくて、西歐人女性はいつでも性的暴力の犠牲者になり得る。

Muslim Rapits 2
(左写真/アジア人性犯罪者)

  現実の世界では時折、あべこべの事態が起こるものだ。事件はデンマークで発生した。17歳になるデイン人の娘が、難民申請者センターの近くで強姦されそうになったらしい。英語を話す男が突然彼女を襲い、地面に押し倒し服を脱がせようとしたそうだ。そこで彼女は強姦魔に抵抗すべく、ペッパー・スプレーを取り出し、男の顔に目がけて吹き付けてやったという。反撃を喰らった男はその場から逃げ出し、未だに逮捕されていないそうだ。事件現場は難民センターがあるソンダーボルクであった。ただし、加害者が難民かどうかは定かではない。それよりも、問題は犯人ではなく、被害者にあったのだ。何と、強姦されそうになった女性が処罰されるという事態になったのである。デンマークでは、ペッパー・スプレーを使用することは違法で、これに違反すると500クローネ(約5,500円)の罰金が科せられるという。(Jennifer Newton, Danish 17-year-old girl who used a pepper spray to fight off a rapist near migrant asylum centre, Daily Mail, 27 January 2016)

  そんな馬鹿な、と言いたくなるが、頭が狂ったリベラル人権派が多数を占める西欧では、筋違いの論理がまかり通っている。左翼にとって大切なのは、被害者の白人より、加害者の有色人種なのだ。アジアやアフリカの有色人は弱者だから、強者のヨーロッパ人から守ってやらねば、と考えているのだろう。彼らの「社会正義」とは第三世界に根ざすものだから、帝国主義の前科を持つ西歐人には適用されぬものであ。日本も同じで、強姦された日本人女性よりも、「弱者」の在日朝鮮人や帰化支那人の方が大切にされているのはご存じの通り。普段は女性の権利を云々するマスコミは、彼らを徹底的に糾弾しないのだ。本名や顔写真を公開せず、ほんの1、2分の報道で済ませてしまう。しかも、たった1回の報道で終わり。三回も四回も繰り返さない。ましてや、特番なんか絶対ないだろう。

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(左: パキスタン人 / アラブ人 / アフリカ人 / 右: レバノン人)

  歐洲の女性は年齢を問わず危険にさらされている。強姦されるのは、何も若い女性とは限らない。「えっ !」と言葉に詰まる日本人は、まだまだ甘いぞ。世の中は広いんだ。蓼(たで)喰う虫も好き好き、と言うじゃないか。幼女が好きな変態もいれば、婆さんが好きな強姦魔がいても不思議じゃないだろう。アメリカでは80歳や90歳近い老婆が、南米からの不法移民に強姦されるという事件も起きている。人生の晩年に屈辱を受ける老人には同情を禁じ得ない。こうしたアメリカの強姦事件は酷いの一言だが、オーストリアで起きたレイプ事件も許せない。アフガニスタンからやって来て、難民申請を行ったワハブ(Wahab)・Mという18歳の少年が、72歳のドイツ人女性を強姦したそうだ。このアフガン人はたった20ヶ月の懲役と、€5,000の罰金を科せられただけである。オーストリアの法律では、最高で五年の懲役刑が下されるそうだから、本件はとても軽い処罰と言えよう。それというのも、加害者が未成年で初犯だったことが、裁判所の判決で考慮されたらしい。

  犯行現場はまたもや難民施設の近くであった。事件は昨年九月に発生し、当日は暑かったそうで、年金暮らしのクリスチーナ・Fというオバはんが、川の近くを歩いていたそうだ。川では二人の男が泳いでおり、そのうちの一人が土手に上がりたいので彼女に手助けを求め、親切なクリスチーナは手を貸したそうだ。すると、背後から一撃を喰らい、彼女は倒れてしまった。殴った男は彼女を引き摺り、片手で彼女の口を蔽うと、彼女の服を剝ぎ取ったという。小柄なクリスチーナは強姦魔をどうすることもできなかった。強姦されてあざを負ったまま、彼女は帰宅したという。彼女のあざを発見した友人のヴェスリーが、クリスチーナを問い詰め強姦の件を聞き出したらしい。

  一方、犯人の少年は強姦の後、こそ泥をはたらいて警察に捕まり、DNAを採取されるや、クリスチーナを強姦した犯人である、と判明したそうだ。普通の国民なら、こんな野郎は重罪で刑務所に送るか、処罰を加えて追放してしまえ、と思うだろう。しかし、このワハブはアフガニスタンに強制送還されないというのだ。またもや「人権」の尊重らしい。危ないアフガニスタンに追い返すのは可哀想なんだって。あ〜ぁ、ヨーロッパ人ってどこまで馬鹿なんだろう ? 日本人なら怒りが爆発するんじゃないか。もし、自分の母親が移民や難民に強姦されたら、犯人を半殺しにしたくなるだろう。撲殺したくなるのが正常な人間の反応である。難民だから許してあげる、なんて馬鹿はいないよね ?いや、いるかな ? もしかしたら、人権教育のせいで、いるかもね。いずれにせよ、難民を入国させなければ発生しなかった事件である。もし、アフガニスタンが危険なら、避難民はパキスタンやインド、ペルシアに移住すればいいじゃないか。何故ヨーロッパなんだ ? 要は、どうせ難民になるなら豊かな国が良い、ということだろう。計算ずくの難民申請なら拒絶すべきだ。今回の強姦事件で皮肉なのは、クリスチーナの娘であるシルヴィアが、難民申請者の為に働いていたことだ。(Austria won't deport Afgan asylum seeker who raped 72 yo woman, RT, 29 January 2016) 善意で難民を助けていたシルヴィアにとって、目が眩むような難民の仕打ちである。左翼教育を受けた馬鹿娘は、家族に起きた現実をしっかりと噛みしめるべし、と言いたい。強姦されて別人になってしまった母親の前で、彼女はどんな言葉を掛けるのか? たぶん涙が溢れて、何も言えないんじゃないか。

移民はプールを禁止

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(写真/狙われやすい西歐人女性)
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  ドイツでは「ネオ・ナチ」の台頭が顕著になっている、とマスコミは騒ぐが、これは兇暴な人間が出現したのではなく、移民・難民の弊害を自覚した一般人が目覚めたということだ。ドイツへの選択肢(Alternative for Deutschland/AfD)という政党が現れ、移民・難民に反対する国民の支持を集めている。2013に結成されたこの政党は、11.5パーセントの得票率があるらしい。日本のマスコミは「ペギーダ(Pegida)」でさえ「極右集団」として扱っているが、ドイツの悲惨な現状に敢えて目をつむっているだけだろう。ドイツの未来を心配する国民なら、ペギーダに賛成するのが普通だ。祖国が異邦人の侵掠に晒されているのだから、子孫のためにも立ち上がるのが当然だろう。歐米や日本のマスコミは、スキンヘッドで黒革のジャケットやアーミー・ブーツを履いた若者ばかり映すが、本来取材すべき対象は、移民を引きずり込む移民・難民支援団体と高級住宅地に住むテレビ局の重役やスポンサー企業の経営者であるはずだ。

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左: 犠牲者になり得る西歐人女性
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右: アジア系性犯罪者)

  アフガニスタンやシリア、チュニジア、エリトリアからの移民・難民による性的辱めや強姦が頻発しているのに、人権団体が移民・難民の排斥に賛成しないのはどう考えてもおかしい。ソマリアからの難民が10歳の白人少女を強姦したり、若い白人女性が街角でアフリカ黒人などから、下品でイヤらしい声を掛けられるのは日常茶飯事である。ドイツではペッパー・スプレーの売れ行きがうなぎ登りらしい。全国で600パーセントの売上げ増であるそうだ。(Sue Reid, The backlash: Neo-Nazis on the rampage, Daily Mail, 15 January 2016) KHセキリュティー社によると、毎日200缶のスプレーが売れるそうで、過去25年間で最高であるという。ドイツでは正月にケルンで組織的な集団強姦が発生し、移民に怯えたドイツ人女性が、急に購入し始めたことが原因らしい。ボディー・ガードを雇える富豪の娘ならともかく、平民の女性なら銃は無理でも、「ペッパー・スプレーくらいは持たなくちゃ」と思うだろう。

  移民・難民による被害は、婦女強姦だけではない。公共施設などでも被害が起こっている。ドイツのボルンハイムでは、水泳プールに通う11歳と13歳のドイツ人少女が、19歳のアフガン人によって触られるという事件が起きた。(Olver J.J. Lane, German Swiming Pool Lifts Migrant Bather Ban After Leftist Pressure, Just 24 Hours After Four Children Molested, Breitbart, 19 January 2016) 彼女たちの父親が知ったらナイフを持って怒鳴り込むだろう。今回は肌に触っただけだが、もし、子供が体育館の片隅で強姦されたらどうするのか? 日本国民は移民による性犯罪が増えることを考えていない。もし、自分の娘が強姦または輪姦されたら、日本人の父親だって、ご先祖様受け継いだ名刀を抜くはずだ。時代劇の破れ傘刀舟(とうしゅう)みたいに、「てめえたちゃ人間じゃねぇ、たたっ斬ってやる !」と激怒するに違いない。

  中東アジア移民による被害はまだある。ドレスデンのプールでは、移民による幼児への性的事件を受けて、移民の入館を禁止したという。ミュンヘンのプールでも同様の性的事件が起きており、14歳と17歳の少女が、移民の男により水着の上から体を揉まれたそうだ。どうも背後には、ギャングの集団がいるらしい。こうした性的事件が頻発しているのに、難民支援団体はプールの運営者へ政治的圧力を掛け、禁止の解除を要求したという。難民への偏見はいけないそうだ。ばぁ〜か。アホ。難民よりドイツ人の子供を守れ。難民の分際で何が水泳プールでエクスサイズだ。そんな奴らはさっさと出身国へ追放しろ。どうして左翼どもは、こうも同胞に対して冷酷なか? たぶん、自分の子供だけ安全ならば、他人の子供がどうなってもいいのだろう。

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左と中央: 西欧系の少女たち
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右: ムスリム移民の男性)

  だいたい左翼どもは自国民と難民を同等に見る癖がある。異国で生まれ育った難民は、受容国の習慣や思考を持っていないのだ。この当り前の事実を彼らは無視する。“哀れな”難民だから「大目に見ろよ」とでも言いたいのだろう。ちょっと気持ちの悪い出来事だが、実際に発生したので率直に述べてみたい。ザクセン地方にある水泳プールで、移民の男女グループが“とんでもない”行為をしでかし、それが監視カメラに録画されていた。彼らはジャクージの中でマスターベーションをしたり、子供用プールの中でウンコをして水を汚し、他の水泳客に性的嫌がらせを行っていたのだ。(Oliver J.J. Lane, Local Fled Pool After Migrants Masterbated Into Zacuzzi, Breitbart, 22 January 2016) 湯船で屁をするくらいなら許せるが、脱糞したら誰だった怒るだろう。プールでの小便さえ許せないのに、ウンコをするなんて常軌を逸している。たぶんドイツ人への嫌がらせを積極的に行う愉快犯なのだろう。


  こんな事をする外人は即刻国外追放にすべきだ。こんな連中を寛大に扱ったら、自国民が公共施設を使えなくなるだろう。つまり、ドイツ国民は移民や難民の有色人と一緒に泳ぐことを嫌がり、安く使えるはずの公共施設を回避し、ドイツ人がいなくなった施設を外人が堂々と使うという事態になる。税金で運営されたり、公的補助で経営されるプールなのにドイツ人が利用できず、福祉目当てにドイツに来た移民や難民が税金の恩恵に与るなんて言語道断である。日本人はドイツ人を横目で見て澄ましているが、支那人や朝鮮人の移民や帰化人が増えている日本でも同じ事が起きるに違いない。特に、支那人が公営プールに殺到したら、水の中で小便はもちろんのこと、痰を吐くし、鼻水鼻糞は垂れ流しである。また、想像するのも嫌だが、肛門にこびりついたウンコを水中で洗うだろうし、水虫だらけの足で入ってくるのを覚悟せねばならない。つまり、彼らは体の垢をプールで洗い流すということだ。まぁ、気にしない人はいいけど、女子高生の日本人少女は嫌がるだろうなぁ。支那人のマナー違反は想像を超えているから、彼らの所行を目撃したら悲鳴を上げてしまうだろう。泳いでいる最中に、プールの水を間違って飲み込んだら、胃袋の辺りが妙な感じになるかも。何か塩っぱいような味が楽しめるかも知れない。

変わり果てたロンドン

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(写真/移民で溢れるロンドン)

  移民・難民で大変なのはドイツばかりではなく、海を隔てたブリテンでも似たようなものである。トニー・ブレアやゴードン・ブラウンが首相だった労働党時代に、大量の移民・難民を受け容れてしまったことで、ブリテン社会は人種的に変貌してしまったのだ。この受容政策は、単なる失敗ではなく、意図的に仕組まれたものだった。労働党の左翼議員は、イングランドを「多民族共存社会」にすべく、積極的に移民の流入を認めたのである。イングランドの伝統と國體(こくたい)を憎む反英主義者どもは、外人を引き入れることで、保守的イギリス人を撲滅しようと謀ったのだ。この背後にはユダヤ人が絡んでいるが、説明すると長くなるので、別の機会に譲りたい。(「またかぁ」と溜息をつく人がいるかも知れないけど、日本のマスコミが報道しないのが悪いだけ。)

  最近、ベン・ジュダ(Ben Judah)という英国のユダヤ人がロンドンの状況を記した本を出版し、新聞でも取り上げられている。(Harriet Sargeant, How Labour turned London into a foreign city, Daily Mail, 23 January 2016) 彼はハイド・パークにキャンプを作って住みつくジプシーの乞食と寝泊まりしたり、金髪のカツラをつけたルーマニア人娼婦などを取材したそうだ。ジュダ氏によると、移民たちは密入国仲介者から、「ロンドンは第二のパラダイスで、誰でも金持ちになれるんだ」という話を聞いているそうだ。健康保険による医療をタダで受けることが出来るとか、無料で住宅が供給され、学校へもタダで通えるという内容らしい。こうした移民たちは、豊かで安全なブリテンで法外な福祉にあずかることが出来て、その上、女まで手にすることが出来ると思っているのだ。ロンドン北西部の肉屋で働くあるアフガン人は、夢のような性的チャンスを期待していたという。祖国アフガニスタンでは、他人の女や妻以外の女と寝たら殺されかねないからだ。

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(左: ロンドンの浮浪者/右: ロンドンの市場)

  密入国を手引きするブローカーは、移民希望者に旨い話ばかりを聞かせるらしい。仲介業者はブリテン社会を如何に利用するかを説明するそうだ。彼らは「ロンドンは権利の国だし、一旦ブリテンに潜り込めさえすれば、送還される虞(おそれ)は無いさ」と移民に前もって語るらしい。こうした話を鵜呑みにした外人は、ブローカーに大金を払うか、後払いを約束して憧れのブリテンに連れて行ってもらうそうだ。しかし、英国に無事到着してからが大変なのだ。後払いの「手引き料金」を稼がねばならない。密入国者は職を見つけても、安月給だから借金の返済はきついのだ。現実はそう甘くない。夢にまで見た極楽の英国生活が、借金漬けの奴隷生活に変わってしまうのだ。ジュダ氏がであったある入国者は、「俺は金が木に実ると思っていたんだ。だが六ヶ月後、泣きながら寝ることになっちまった。今の俺は宿無しなんだ」と語っていた。甘い夢を見た移民には、乞食になるジプシーもいれば、学生ビザで入国して、そのまま英国に住みつくガーナ人貧民もいるそうだ。

  パキスタンやポーラント、トルコからやって来る移民が、すべて堅気の職に就くとは限らない。真面目に働くより、犯罪で大金を稼いだ方がいいと思う奴らが出てきても不思議ではないだろう。実際、英国は犯罪者を輸入しているようなものである。ロンドン南部にはソマリア人ギャングがはびこり、北部ではトルコ人ギャングが縄張りを持っている。クルド人とアルバニア人たちは資金洗浄に手を染めているし、ベトナム人ギャングは大麻の密売において、3分の2くらいのシェアを占めている。ジュダ氏はグレナダ出身の麻薬密売人を取材したことがあるという。彼は12歳の時に母親と共に英国にやって来て、本国よりましな生活を送れたが、住んだ場所が酷かった。ギャングが抗争を繰り広げていたのだ。そこは母国のグレナダより腐敗し、もっと危険な土地で、さらに落胆するような場所だったらしい。彼は「ここに来て半年過ぎた頃、俺は良心の75パーセントを失っちまったんだ」と語っていた。移民が悲惨な生活を送るのは構わないが、祖国の首都が外人ギャングの跋扈する租界になってしまったことを、イギリス人はどう思っているのか。ロンドンから逃げ出したイギリス人は、決してこの首都を外人から奪還できまい。ネルソン提督やウェリントン将軍でも無理だ。

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(左: ジョン・クリーズ/右: 「モンティ・パイソン」に出演したクリーズ)

  かつて英国で大ヒットした人気番組「モンティー・パイソン」に出演していたジョン・クリーズ(John Cleese)が、移民の波で変わり果てた祖国を嘆いていた。()Hugo Gye, London is no longer an English City, Daily Mail, 2 September 2011) 彼が子供の頃に見たロンドンが、今ではすっかり変わってしまい、異国にいるように思えてくるらしい。イングランドの都市なのに、まるでバグダッドかイスタンブールのように、非白人の異邦人で溢れている。ロンドンでは通行人のみならず、街角に立っている売春婦も外人で、彼女たちの96パーセントが移民だという。商店街でもトルコ人やポーランド人の店が目立つし、トッテンハムやハリンジーの裏通りでは、移民どもがネズミの丸焼きを食べている。ナイジェリア生まれの警察官が次のように語っていたそうだ。「イギリス人は消滅しかけている。ロンドンはもはや英国の都市ではない。ロンドンはゲットーのつぎはぎなのさ」、と。これは日本人に対する警告にも聞こえる。東京をはじめとする都市部では、外人が流入したことで、朝鮮人や支那人あるいは東南アジア人の温床になってしまった。朝鮮人に占拠された東京の新大久保や、フィリピン人がひしめく埼玉の蕨(わらび)市などを見れば分かるだろう。

  日本人はヨーロッパ人の秕政(ひせい)を直視すべきだ。外国が社会実験をして見事に失敗したのに、それを謙虚に学ばないどころが、同じ間違いを辿ろうとしている。移民や難民は有害なだけで、利益などまず無いと考えるべきだ。

例えば、「お前に一万円あげるから、お前の娘を強姦させろ」と言われて、「わぁ〜い、一万円儲かっちゃった !」と喜ぶ父親が居たら見てみたい。実際は、子供が外人と接触しないよう配慮するはずだ。

安い労働者を輸入して儲ける企業はいいけど、外人労働者の社会福祉を負担する一般国民はたまったもんじゃない。例えば、自分の子供が通う公立小学校に、下層階級の外人が入ってくるのだ。学校全体の学力低下で、心配になった日本人の親は私立学校への転校を考えたり、私塾を探したりで、教育費の負担が増えるだろう。それに、もし、子供が変態外人に何かされたら、もう気が狂いそうになるくらい取り乱すだろう。

移民や難民を許す国民というのは、精神的に改造されたことに気づいていないから、自己防衛の行動が取れない。無責任な左翼が、「人権」とか「人道主義」を持ち出すと、反論ができなくなり、彼らの云う事をつい容認してしまうのだ。「右翼」という罵声を怖れる余り、立ち向かうことができない。将来の生活を犠牲にしているのに黙っている。しかし、我が子や幼い孫に立派な遺産を残したいと望むなら、図々しい移民や難民のいない日本を守るべきだ。残りの人生が短い祖父母なら、なおさら可愛い孫の為に「移民・難民反対」の声を上げるべきだ。「極右」のレッテルを物ともせず、左翼勢力に反対するのが、責任ある大人の行動であろう。大東亜戦争で散っていった将兵の苦痛に比べれば軽いもんだ。反対デモに参加したって弾丸は飛んでこない。自分の血と肉を受け継ぐ子孫を思えば、これくらい楽なもんじゃないか。   
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68512502.html

「白人少女1400人性的虐待」 異様な犯罪を常態化させた英移民社会の闇 2014.12.26
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/141226/wor14122620000001-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link
【世界衝撃事件】

 【ロンドン=内藤泰朗】英国で組織的な子供の性的虐待が、想像以上に深刻な問題となっていることが明らかになりつつある。英中部のロザラムで、1400人以上もの子供が長期にわたり組織的な性的虐待をパキスタン系の男たちに受けていた衝撃の事件が今年8月に発覚。移民国家、英国の多文化社会が抱える暗部が浮き彫りになった。事件は氷山の一角に過ぎないとの見方が強まっている。

 前代未聞の規模

 前代未聞の事件が起きたロザラムは、英国中部の工業都市シェフィールドから約10キロほど離れた、サウスヨークシャー州にある人口約26万の中規模の街だ。この10年で移民などの流入で人口が倍増した。それ以外は英国のどこにでもある地方の静かな街だった。

 それが今年8月26日、地元自治体の委託を受けた社会福祉専門家のアレクシス・ジェイ氏がまとめた調査報告書を公表すると、状況は一変した。

 報告書は、1997〜2013年までの16年間に、1400人以上の子供たちが性的虐待を受けていたとする内容だ。少女たちを狙った集団強姦や誘拐、人身売買などが行われていたことを明らかにした。

報告書の執筆者、ジェイ氏は「ロザラムで実際にどれほどの規模で子どもに対する性的搾取が行われていたのかは誰にも分からない」としつつ、「少なく見積もっても1400人の子供たちが搾取された」と言明。地元当局は虐待に関する報告があったのに対応を怠ったと非難した。

 恐怖とあきらめ

 報告書やその後の報道によると、パキスタン系の虐待者たちは性的な欲求を満たすため、さまざまな事情で家族と疎遠だったり、施設に入れられたりした主に白人の少女たちに接近。最初は贈り物を与え、安心させた後、酒や麻薬を与えて強姦、暴力を振って脅迫するというやり方で、少女たちを次々と支配下に置いていった。

 少女たちは、銃を突きつけられ、ガソリンをかけて火をつけると脅されたり、複数のアジア系の男たちに11歳の少女が暴力的に強姦されるのを見せられて「言うことを聞かなければ、お前も同じ目に合う」と脅迫されたりした。週に1度レイプされた子供や「逃げれば母親をレイプする」と脅された子供もいた。

 11歳のときから5、6年間にわたり性的な虐待を受けたサラさん(仮名)は、40〜50人の男たちから虐待を受けた。警察が通報を受け、虐待の現場に来たが、「私が裸でいるのに見ないふりをして出ていった。誰も言うことを聞いてはくれなかった」という。

恐怖はいつの間にか、あきらめに変わっていった。中には、拉致されてほかの都市に売り飛ばされ、組織的に少女売春を強要された子供たちもいた。

 「差別」と無責任

 なぜ、これほどの問題が長年にわたり表沙汰とならなかったのか−。

 2002〜06年にも3件の報告があった。だが、ロザラムのパキスタン系地方議員らが、問題を公にすれば人種差別をあおり、反移民など過激な政治勢力が台頭し地域社会の分裂を招くとして、問題の解決を妨げていたという。

 警察当局者は実際、人種差別だと批判されることを恐れていたと証言した。だが、それだけではなさそうだ。英メディアは、「地元当局が人種問題を避け、長年にわたり対応を怠ってきたことが問題を深刻化させた」と指摘する。

 報告書の公表を受け、地元議会の議長は辞任を表明した。だが、当局幹部らは前代未聞の事件が発覚しても処分を受けるどころか辞職の意思すらないことが判明し、世論は激怒。地元政府代表やサウスヨークシャー州警察トップはその後、世論の圧力で辞任を表明せざるを得なくなった。

 英メディアは、地元の当局幹部らの「無責任体質」「責任感の欠如」「不作為」が事件を根深いものにしたと批判している。

 性的虐待に遭った子供たちを対象にした24時間の電話ヘルプラインが設置されたのは、報告書の公表から3カ月半以上もたった12月中旬だった。当局の対応の遅さも、問題が常態化する遠因になった。


 ロザラムでは、白人の少女への虐待が問題となったが、パキスタン系が同じアジア系の少女たちに行う性的暴行は、表沙汰にはならず、泣き寝入りの場合がほとんどで、問題はより大きいとみられている。

 ロザラムから90キロほど離れたスキプトンという街のパキスタン系数百人が住む小さな地域で育ったルズワナ・バシールさんもその一人だった。

 隣人の性的虐待が始まったのは10歳のとき。恥ずかしくて誰にも言えなかったが、18歳でオックスフォード大学に入学し、家族から離れ生活するようになって転機が訪れた。

 優秀な成績で米国に留学、企業家となって10年後に帰省し、ほかの被害者と告発。虐待者の有罪判決を勝ち取ったが、小さな社会では疎んじられる存在となったのだ。

 しかし、バシールさんはこの経験を英紙に寄稿し、「恥の文化」を克服しないことには、犠牲者はなくならないと主張し、移民社会の変革を促した。

 英下院は今年11月、地域と地方行政委員会を開き、組織的な子供の性的虐待の問題について審議。

 「ロザラムの事件は例外的なものではなく、英国全土に広がっている問題だ」と結論づけ、未成年者の保護制度が「実態から乖離(かいり)している」として見直しを求める勧告を出した。

 しかし、少女たちが受けた心の傷を癒すことはできていない。

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70件の殺人の請け負った殺しのプロがヨーロッパへの移民集団の中に発見され逮捕される2017年10月26日
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6950


久々にヨーロッパ移民問題に関連したニュースだが、AFPによると、オーストリアに密入国しようとしていた移民のグループ(もはやメディアも難民とは言わない)がハンガリーで拘束され、その中にインターポールから国際指名手配されていた「パキスタンの虐殺者」と呼ばれる35歳のパキスタン人男性が紛れ込んでいたため、ハンガリーの警察によって逮捕された。

オーストリア当局によればこの男性は70件の殺人を請け負った疑いのあるプロの殺し屋だという。目的のオーストリアに入った後、彼は一体何をするつもりだったのだろうか?

移民の中に一定のテロリストやその他有害な人物が紛れ込んでいることは今や周知の事実だが、「プロの殺し屋」という漫画のような響きに思わず笑ってしまった。しかし安易な移民政策を推進したヨーロッパでは、これが笑い事ではなく実際のニュースなのである。安倍首相にはこの辺りをしっかり考えて移民政策を実行してもらいたいものである。

•安倍首相がシリア難民150人受け入れを発表、日本の治安と文化は終焉へ

•大晦日に移民が集団でヨーロッパ人女性に性的暴行、ドイツ、スイス、フィンランドで

そして、この問題ある人物を引き受けたのはまたしても哀れなハンガリーである。ハンガリー人は最初から移民政策に反対していたが、それをドイツ人が押し切った。そもそもドイツ人は他国の声など聞いてはいなかった。

•移民を歓迎するドイツの本音と哀れなハンガリーの受難

ドイツはこの責任をどう取るのか。どうもしないのである。それがドイツ人だからである。
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6950

移民亡国ドイツ
https://www.youtube.com/watch?v=Rvb-7KfKPwA

多文化主義の失敗例 ドイツの学級崩壊
https://www.youtube.com/watch?v=RxhIamUjBA0

移民亡国フランス
https://www.youtube.com/watch?v=LaRUAA5nwX8
https://www.youtube.com/watch?v=oN7XvYPYU_U

日本人の知らないパリの別世界 移民自治区 フランス
https://www.youtube.com/watch?v=r_vGiPCddc4

ロシアのテレビ番組が見たフランスの実態
https://www.youtube.com/watch?v=DA98iIw-s0E

イギリス人が歓迎されない移民地区 ロンドン
https://www.youtube.com/watch?v=i583xrAZA-Y

バッキンガム宮殿をモスクにするよう要求し始めた移民達 イギリス ロンドン
https://www.youtube.com/watch?v=mXOOPVW-0Ec

やがてベルギー人のいなくなる町 ベルギーの首都ブリュッセル
https://www.youtube.com/watch?v=eXKSQ8lxwDU

移民問題がよく分かるノルウェー、オスロ市内観光
https://www.youtube.com/watch?v=qoDE3aBm0Sg

移民受け入れを推進した福祉国家スウェーデンの末路
https://www.youtube.com/watch?v=-ZZieRBcHEE

スウェ−デンは2049年までにイスラム国家
https://www.youtube.com/watch?v=UocmQZa8tqo


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イスラム「セックスジハード」の実態! 


14歳をレイプ、152人と性交...一体なぜ!? 2014年1月29日

中東の国、イランの「セックスジハード」について紹介します。


地下室で鎖につながれた女性たち、外国人女性も!?

 2006年に、イスラムテログループのアジトが襲撃されたというニュースがありました。テレビ局がその様子を撮影したのですが、その中で、「地下室に鎖でつながれた女性たち」が発見されたのです。

 彼女たちは「セックスジハード」の名目で誘拐され、そのまま、テロ組織のアジトに連れて行かれ、性の道具として長年地下室の中でレイプを受け続けていたのです。

その中には、イスラム教徒ではない外国人の女性もいて、その女性は、強制的にイスラム教に改宗させられていました。

 服は着ていましたが、女性たちは、何かにおびえ、そして、銃を持った警察官を見て、自ら服を脱ぎ、股を開いたりする女性もいたことに、見ている誰もが衝撃を受けました。

 戦場などに興味本位で出かけたり、テロの発生する紛争地域に観光で行く女性などがいます。日本人はあまりにも平和に慣れてしまって、そのような所もまったく恐れず警戒心も持たないのです。何か観光地で映画のセットに行っているような感覚でそのような危険な国に行ってしまう場合があります。

ですが、その先でテロ集団に誘拐され「セックスジハード」の道具に使われてしまう可能性もあるのです。

運が悪ければ、一生テロ組織のアジトの地下室から出られなくなるかもしれません。

しかし、そうなった時に、助けの声は全く届かないのです。なぜならば、それが宗教であり、そしてそれが神の命令であると、そこにいる人は、皆、そう思っているからなのです。


■14歳の少女を誘拐してセックスさせる過激な「セックスジハード」

 また、この「セックスジハード」は、女性が集まらなかった場合などは、「女性を誘拐してセックス」させることもあるといいます。

 戦場において14歳(イスラムの戒律では14歳で成人)前後の未婚の女性が誘拐されるというのは、まさにこの「セックスジハード」が原因だと言われているのです。

 しかもイスラムの戒律では、「結婚しない男女の交際は認められない」はずにもかかわらず、「イスラムの戦士は戦争中は戒律を守らなくてもよい」という都合の良い戒律があるために、誘拐された少女たちも「聖戦」であることを理由に、性行為をさせられてしまうのです。


■「セックスジハード」が行われる理由

イスラムの戒律では、「公のために自分が死ぬ」ことを禁じていません。そのため、テロやジハードが絶えず、そのジハードが敵側のジハードを呼び、戦争に発展するのです。


このジハードに関する戒律は、2つのポイントがあります

1つは、「公のため」または「宗教のため」行われているということ。

これは、日本にも特攻隊があったように、戦争という非常事態においてはある意味で「当然」のことなのかもしれません。

 しかし、この「公」の中には、「社会(街)」や「未来(子ども、子どもを産む女性)」という意味が含まれます。これがもう1つのポイントです。

ジハードの対象は敵だけでなく「敵の社会」と「敵の未来」、そしてジハードによって守るものは自分たちの「宗教と社会と未来」、つまり、「宗教と、街と、子ども、そして女性」なのです。

 このような発想の循環で内戦や紛争になるのですから、当然、イスラムの軍隊は「女性」を守ります。女性のいる市街地を破壊されること、女性が被害に遭うことを最も恐れます。もちろん軍隊に女性はいません。

そこで、守られている女性たちが「戦争から守ってもらっている」ということへの奉仕として、自ら体を捧げに戦場へ行くこと、これが「セックスジハード」なのです。


■セックスジハードとは?

 普段は顔を隠し、慎ましく生活をしているイスラムの女性が、唯一戦場に赴く時があります。これが「セックスジハード」です。湾岸戦争の時も、また、その前のイラン・イラク戦争の時も、そして、テロや内戦でも、必ず「セックスジハード」現象は起きていました。

「セックスジハード」とは、イスラムの女性がこれから戦争に赴く男性や、テロで死を覚悟した男性のところに現れ、組織的にその男性とセックスをすることによって、性的な快楽を用いてイスラム戦士たちの士気を上げることを目的とした行為です。

 彼女たちにとっては、自分たちを守ってくれるイスラムの男性たちに体を使って奉仕することで、「宗教的な聖戦を一緒に戦っている」ことを意味しています。

 女性は、さまざまな集団によって推薦され、自分の意思で戦士を勇気づけるために来ているというのです。

 戦場に来た女性たちは、戦場の駐屯地にとどまり、一晩で3〜5人の男性の相手を行い、だいたい、20〜100名くらいの男性と関係を持つといわれています。


■「セックス軍」にいた女性のインタビュー

アラブの雑誌「Al Mijhar」に、「セックス軍」にいた女性戦士の衝撃的なインタビューが掲載されました。それは、「152人の男性と関係を持ち、私には天国が約束されている」というもの。シリア内戦において、シリア軍のために、近隣の諸国から女性が集められ、集団で「セックスジハード」を行うべく、シリアに出かけて行ったというのです。

 ナイジェリア人の彼女の発言によると、自分も聖戦に参加し、役目を十分に果たしたことによって、アラーの神に認められて、天国に行けるというのです。これは、自分の夫も十分に承知していることであるし、村や集落、モスクも承認しているといいます。

 そして、自分の友人の女性たちはアルジェリアやリビアの内戦でも「セックスジハード」で体を捧げ、帰国して祝福され、ヒロインになっていたのこと。そして、その姿を羨ましく思ったため、自分も行ったと言うのです。まさに、「セックスジハード」は宗教的な儀式であり、女性の間の「聖戦」になっているのです。
http://news.infoseek.co.jp/article/tocana_32798/
http://news.infoseek.co.jp/article/tocana_32798/?p=2
http://news.infoseek.co.jp/article/tocana_32798/?p=3


ムスリム女性はグループセックスがお好き?(ドイツの反応)

マレーシアでは1年以上前から「世界イフワーン一夫多妻クラブ」という従順なイスラム女性の協会が存在し、

「イスラムセックスよ、ユダヤ人と戦い世界にイスラムセックスを呼び戻せ」

というお題目の元、自身のセックス相手を公表している。ユダヤ人がなぜここに出てくるのかは皆目不明だが、彼女たちがマレーシアに来る前、ムスリムの亭主には4人の妻がいて、彼女たちは亭主が浮気しないよう、売春婦のようにふるまい、グループセックスをしていた。

ドイツの新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung)が推測するところによると、イスラム亭主の結婚生活はローテーションシステムに似ているという。

一番年増な妻は選び出され、離縁される。そして若い妻がベットに呼ばれる。こうしてハーレムに残る妻は平均してぴちぴちになるわけだ。
http://blog.livedoor.jp/trans_vienna/archives/4893525.html



▲△▽▼


Muhammad Movie Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=qmodVun16Q4&bpctr=1451401027


ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ - アンサイクロペディア

ムハンマド(محمد Muḥammad 570年頃 - 632年、彼の上に平安あれ)は、イスラーム教の開祖であり、自称最高にして最終の預言者であり、イエス・キリストの誤謬を正したと勝手に信じ込んでいる自己中な輩である。

また、56歳のとき、9歳の可愛らしい女の子アーイシャのおまんこ におちんちんをねじ込んだ猛者としても知られている。


^ 無論、彼女は処女であり、無毛だった

^ 無論この時代避妊具はなく、必然的にムハンマド56歳の黒ずんだ亀頭は、アーイシャ9歳の穢れない膣と直接に粘膜接触し、そのまま精液を注ぎ込んだことになる


キリスト教などを貿易商人の時代に見聞きしたが、あるとき洞窟の中で天使の声が聞こえ(たと述べている)、数日間眠れないほどうなされた。かれはその後、自分の症状を神による預言であると考え、この天使ジブリール(ガブリエル)が述べたという預言を、人々に伝える預言者となった。

この宗教で唯一最高神とされるアラーは、大変恥ずかしがりやの神で、自分の似顔絵を書かれるのを好まない。ムハンマドも視線恐怖症であったようで、回教徒の手によって描かれた、ムハンマドの顔の絵はほとんど存在しない。しかし、異教の者によってこのアラーやムハンマドの顔はいくらか描かれた。

だが、その姿かたちが余りにも醜いものであったため、回教の者から神や預言者を冒涜していると反発の声が上がった。2006年にもヨーロッパでそのような愚行を犯したものがいるため、回教徒による猛烈な反対集会が開かれている。


ムハンマドの偉業

ムハンマドはその偉業により世界に名を残した。
以下では彼の偉大なる業績の一部を紹介する。


彼は25歳ごろから、20人以上の女性とアーン♥♥して暮らす日々を送っていた。

そのため1日に2 - 10回は射精していたという。

彼は53歳のとき、6歳の少女アーイシャと結婚し、即ペニスを挿入しようとしたがどうしても入らなかったのでアッラーの啓示により9歳になるまで待つことにした。

ムハンマド56歳のときアーイシャは9歳になったので彼はアーイシャと結婚を完成させ、初夜の床でおびえるアーイシャの制止を振りぬいて、彼女の純潔その他を自慢のマグナムで打ち砕き欲望をぶちまけた。

もうズッコンバッコンボロボロズタズタにである。
その後ムハンマドは死ぬまでアーイシャと仲睦まじく暮らした。

またムハンマドはある日美しい女性を見掛け、おちんちんの切ない疼きを感じ、すぐさま家に戻って息子から奪ったばかりの美女ザイナブを貫いた。

ムハンマドは演説で

『もしどうしてもレイプしたくなったら早く家に戻って妻とヤりなさい。』

と述べたと記録されている。


またこのような話も伝えられている。

ある日信者らの一人がムハンマドに

『天国ではおまんこし放題というのは本当ですか?』

と聞くと、ムハンマドは、

『もちろんだとも、ただおまんこし放題なだけではなく、彼女たちは最高の美幼女・美少女・美女で、巨乳でも貧乳でもロリでも熟女でもヤンデレでもツンデレでもデレデレでも思いのままだ。しかも1人当たり100人だぞ。』

、と熱弁した。信者たちは預言者の伝えた言葉に涙したとされている。

なお、邪教徒によってアーイシャとの結婚ばかりが取りざたされムハンマドがロリコンであるかのように攻撃されることがあるが、彼の最初の妻は裕福な15歳上の×2女性であり、10人を超える妻・妾の多くは結婚経験者である。

ストライクゾーンは現代的に考えても相当広い方であって、処女にこだわるロリコン扱いは偏り過ぎであろう。

なお、金持ち熟女である最初の妻との結婚より余裕ができた彼は禁則事項ですに耽るようになった。この時期のムハンマドは清く正しいヒモとも言うことができる。

預言者の偉大なるスンナ(言行録)は今でもムスリムの男たちの理想とされているばかりでなく、全世界の男たちからも尊敬の対象とされている。


天国でのムハンマド

死後ムハンマドは、アラーの身元において最高の美幼女、美少女、美女とのセックスを愉しんだ。

彼女たちは永遠の処女で、セックスを行ってもすぐさま処女膜が再生した。

とりわけムハンマドは、かつてのアーイシャのような幼女の処女を繰り返し奪えることを喜びに思っていた。

その後、妻たちも若い姿のまま天国に挙げられ、ムハンマドは幼い姿に戻ったアーイシャと激しいセックスに耽ったとされる。


預言者ムハンマドはそれにも飽き足らず、下界に降り、高町なのはたん9歳や、フェイト・テスタロッサたん9歳、古手梨花たん10歳等々の可愛らしい少女たちに、真実の宗教イスラームへの導きを与え、彼女たちの美しさを増すため、日夜腰を振り、ジハードに勤しまれている。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95


異常性欲者 ムハンマドの妻・妾一覧


正妻

1.ハディージャ
2.サウダ・ビント・ザムア:en
3.アーイシャ(アブー=バクルの娘)
4.ハフサ(ウマルの娘):en
5.ウンム・サラマ・ヒンド(アブー・スフヤーンの娘):en
6.ザイナブ・ビント・フザイマ:en
7.ウンム・ハリーマ・ザイナブ・ビント・ジュフシュ:en
8.ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス:en
9.ウンム・ハビーバ・ラムラ・ビント・アビー=スフヤーン(アブー・スフヤーンの娘で上記のウンム・サラマの姉妹):en
10.サフィーヤ・ビント・フヤイイ(ハイバル出身):en
11.マイムーナ・ビント・アル=ハーリス:en

コプトのマリア(マーリーヤ・アル=キブティーヤ・ビント・シャムウーン):en(ムハンマドの末子イブラーヒームの母。エジプト出身のコプト教徒の娘。[11])

シャラーフ・ビント・ハリーファ・アル=カルビー(ベドウィンの出身でムハンマド在世中に死去)

アーリーヤ・ビント・ズブヤーン(ムハンマド在世中に離婚。)

ファーティマ・ビント・ダハーク・アル=ハズィーリー(ムハンマド在世中に離婚。)

アスマ-ウ? (ソバ出身)

ハブラ アスマーウ? (ノーマン出身)


側室

ライハーナ?
ウンム・シャンク?
クハウラ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95


人間の屑 モハメッド


預言者ムハンマド自身、現在の過激なイスラム信者同様情け容赦なく敵(批判する人を含む)を殺した。

ムハンマドはヒトラーのホロコーストよりずっと前に自分の支配地域からユダヤ人を駆除し、西暦627年降伏した「クアライザ」(Quraiza)というユダヤ人部族の虐殺を指揮したのもムハンマド自身であった。

彼はその900人の捕虜の中のライハナという19歳の可愛い処女を見初め、彼女に結婚を申し込んだ。気高いライハナはそれを拒否し、ムハンマドの妻にはならなかったため、預言者の「破康恥な」女性奴隷グループ、つまりセックス・スレイブ・コレクションに入れられた。ムハンマドは彼女の部族を殺したその日の夜、彼女を犯したそうだ。


また、ムハンマドはムスタリク(Mustaliq)という部族を支配下においた際、女性200人を兵士たちにあてがった。

ムハンマド自身は族長の娘を奴隷にした。彼女の夫が部下によって殺されている間に、ムハンマドは彼女とセックス(レープ?)したということだ。


カイバー(Khaibar)のユダヤ人を奇襲した際、ユダヤ人部族長の17歳の妻であったサフィヤ(Safiya)が同じ悲惨な運命に遭った。その間ムハンマドの兵士達は彼女の夫の胸に火を押し付けて拷問し、殺した。

また、西暦624年の戦闘によってメディナを手に入れた時には、預言者を嘲笑する詩を作った女性作家アスマ・ビント・マルワン(Asma bint Marwan)をはじめ批判者たちを殺害。

Ka'b ibn al-Aschrafは批判的な質問や皮肉な言葉でムハンマドの怒りをかったため、預言者の部下によって殺された。

http://www.hpo.net/users/hhhptdai/jyllands.htm


モハメッドはアレにしか興味が無かった


クルアーンには、いくつかの性的事項が記されている。 たとえば、天国に迎えられた男性を歓待する美女の描写や、セックスの体位に関する啓示、また妻がどうしても夫に服従せず、叩いても効果のない場合に限って、無理やりセックスをする権利を認めること、そして条件付での一夫多妻の容認などが記されている。

前述のとおりクルアーンにも天国での性的な事柄が記されているが、ムハンマドの言行録には更に直接的な表現で、天国でのセックスの充実が語られている。

イブン・カスィールによれば、ムハンマドは

『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』

と述べていたとされる。また、

『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』

と問いかけた信者に対して、

『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』

と述べたともされる。


別の伝承によれば、 ムハンマドは

『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』

と述べたところ、アナスが

『ああ、アッラーの使徒よ! そのようなことが出来るのでしょうか!?』

と問いかけた、ムハンマドは

『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』

と答えたという。ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが

『天国の男たちは処女の花を散らすのに忙しくなる。』

といったと伝えている者も居る。


結婚最低年齢

ムハンマドは、マディーナへのヒジュラ時にはすでに50歳を超えていたが、前妻を失い男やもめであった。彼は教友であるアブー=バクルの娘で、9歳になるアーイシャと結婚し、セックスを行った。このことは後にシャリーアにおいて女子の結婚最低年齢が9歳とされる典拠となった。

前近代イスラーム世界ではイスラーム法規定に基づき女児は非常に早い年齢から結婚しセックスの対象とすることが許されたため、現代では客観的に見て児童性的虐待にあたるような性行為も、結婚の上なら問題視されないことが少なくなかった。

近代に入ってほとんどの国では結婚最低年齢は15歳以上の水準に引き上げられたが、イランやアラビア半島の諸国など今でもシャリーアの規定を遵守する国が存在している。例としてイエメンでは結婚最低年齢を定めないイスラーム法の解釈をとっているため、イスラーム法の通常の解釈では不可能な9歳未満の少女との結婚・セックスも少なからず存在しており、問題視されている。


婚外セックス
ハディースには、ムハンマドが婚外セックスを行った男女に対して、未婚のものは鞭打ち、既婚者は石打ちによる死刑を行ったことが記されているとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%96%87%E5%8C%96


The book that Muslims are scared to read!
https://www.youtube.com/watch?v=j4c9FHmIWGE&feature=youtu.be

The People vs Muhammad - Psychological Analysis Kindle Edition
by J.K Sheindlin (Author)
http://www.amazon.com/The-People-Muhammad-Psychological-Analysis-ebook/dp/B00ZE45LUG


新書「The People vs Muhammad」(裁かれる預言者ムハンマド)(著者:J.K Sheindlin)

J.K Sheindlin氏は、クルアーンおよび数々のイスラム教のテキストを綿密に分析し、

非道な行為(幼児性愛、名誉の殺人、性奴隷、売春、人種差別、財物強要、殺人、洗脳、テロリズム、検閲、重窃盗、脅迫、家庭内暴力、性差別など)を提唱したムハンマドに関するショッキングな真実を暴露している。


第1章では、イスラム教のテキストや資料を基に、ムハンマドの心理を分析。

ムハンマドの過去を暴露し、その苦い経験が後に、彼が複数の精神障害を患うきっかけとなったと明かしている。

分析の結果、ムハンマドが患っていたとみられる病気は次の通り。


精神病質、
女性恐怖症、
ナポレオンコンプレックス、
統合失調症、
自己愛性人格障害、
救世主・神コンプレックス、
強迫神経症、
忘却恐怖症、
エディプス・コンプレックス、
セックス中毒症、
幼児性愛症、
死体愛好症

など。


また、ムハンマドが受けたとされる神の啓示は、医学的分析により、

火山性ガス中毒、感覚マヒ、飢え、脱水症、脳障害、梅毒

などが原因である可能性を示唆している。


Throughout this series, author J.K Sheindlin carefully analyses the Quran and the Islamic texts legalistically to expose the shocking truth pertaining to Muhammad’s advocation for:

Pedophilia, honor killings, sex slavery, prostitution, racism, extortion, murder, psychological indoctrination, intellectual terrorism, censorship, grand larceny, racketeering, domestic violence, gender inequality, and much more!

In this powerful series, the first installment Psychological Analysis delves deep into Muhammad’s past and uncovers disturbing facts which undoubtedly prove to be the origins of his multiple psychopathological disorders.

Using entirely the Islamic sources in reference to contemporary psychiatric-medical archives, J.K Sheindlin details Muhammad’s extensive catalogue of mental illnesses which include:

Psychopathy, Gynophobia, Napoleon Complex, Schizophrenia, Narcissistic Personality Disorder, Messiah-God Complex, Obsessive Compulsive Disorder, Athazagorophobia, Oedipus Complex, Sex-addiction, Pedophilia, and Necrophilia.

Furthermore, the author also hypothesizes a convincing argument based on medical science, which debunks Muhammad’s first revelation. These external factors being:

Volcanic gas inhalation, sensory deprivation, starvation, dehydration, brain damage and Syphilis.

https://www.youtube.com/watch?v=j4c9FHmIWGE&feature=youtu.be

See Translation
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=10153439518771278&id=206715976277

イスラム国のSEX事情

イスラム教徒の国を旅していると、出会った先々で女性バックパッカーが男性に必ずと言っていいほど聞かれるのが

『結婚してるの?』

『恋人いるの?』

であり、その質問はすっごいうっとうしくなってくるから、

『恋人いるわよ!』

と答えれば、次に来るパターンは

『それはこの国に?日本に?この国にいないのならいるとは言えないよね』
である。

だからってそれであわよくば 『ヤッちまえ!』 ということではないのだけど、一つには興味で未婚の女性が堂々と髪の毛出して、どの男性ともしゃべる、というのが、彼らにしたら驚愕の現実、だからだろう。

敬虔なイスラム教徒の女性は結婚するまで処女でないといけないし、女性は黒いベールをかぶって目だけを出し、他の男性には顔も見せない。(一部の女性は目すら見せず、ベールを全部被ってる)

あくまで女性は自分自身のすべてを旦那様に捧げる存在。
だからか、普通に髪の毛出して歩いている私なんか歩いているのを見た日にゃ〜すべての人がガン見してきます。見られ方がハンパないです。視殺される!!!

本当はちゃんとベールもすべきだったのかもだけど、バックパッカーの女性、してる人ほとんどいません。もちろんキャミソールとか足見せとかはしませんが!
中東の人たちは極東に住むニッポン人に対して、とても好意を持ってくれる。(中東の人は日本という国を知っていて、そしてとても親日的です。)
とても温かい人が多い国です。(見られるけど)

シリアを旅してたときに安宿のおっちゃんにイスラム国のセックス事情について聞いてみた。(←やっぱ聞かずにはいられない!)

結婚初夜でかっぽーは初めてセックスができる。
まぁ、これはどの宗教でも、こういう考えを持っているよね。
(アテクシにはムリだけど)
しかし驚いたのは次の言葉。

翌日、シーツに血がついているかどうかを親族に見せないといけない。

ドシェーーー!!!!! プライバシーなんてないのねーー!!!!

それでも一部のイスラム教徒かっぽーはガマンできず、隠れてセックスしているんだ、って彼は言ってて、でも初夜の翌日、シーツについた血を見せないといけないので、羊の血をビンだかに入れて持ち込んで、それを数滴たらすらしい。

それを聞きながら 私は改宗できません!!!!! と思ったのは言うまでもありませんが。

ちなみに、結婚相手は基本的に(シリアは敬虔なイスラム国です)オンナ側の父親が相手を探してきてその人と結婚するのだそう。昔のアジアと似てますな。

中東の国にはスークと呼ばれる屋根付きの巨大な市場があって、そこでは値段交渉をしながら、アラブ的商売が営まれている。
そこを歩いていて驚くのが、セクシー下着ショップの多さ!!!

日本でいったらセックスショップ(アダルトショップ)で売っているような、派手でスケスケな布がついているのだかついていないんだか、下着として機能を果たしているのだか不明なオパンティとかワサワサ売っているのである。

スークは同じような店が固まってるので、せくしーらんじぇりーゾーンはそればっかり。
これには、一緒に歩いていたオーストラリア人オトコもアテクシもビックリ!
真っ黒なベールをして、真っ黒なガウンを着て、もっと敬虔な人は手袋までしているのに、そういう店に入っては品定めをしている。
さらに驚くのが店員がオヤジということ。イスラム国、そりゃー女性が商売するなんてないんだろうけど、下着もおやじが売ってるとはこれまたおもしろい文化。

あんな真っ黒な中、あんなド派手な下着を着ているんだっっ?!
スークの中を歩く女性達(左奥)ととてもフレンドリーな子供。

世界のセックスコラムニストのアテクシ、さっそく再び宿のおっちゃんに質問する。

イスラム教徒の女性はあの下にはすごいセクシーな下着を着ているんだよ。
と。

私 『でも、旦那にしか見せないんでしょ?もったいないよ!!!!』

しかしこの質問事態が愚問であり、ザッツ・ムスリム カルチャーなのである。

見てみたすぎ。


コメント


1 ■下着は綿!!

宗教って、色々戒律厳しいのが多いですよね。
そういう環境で育つと、きっと何の疑問も持たずに親と同じ宗教で戒律を守るんでしょうね。私には無理っ!!!!結婚するまで処女なんて、妖精になれるよ。てか、エッチの相性もかなり大事な部分だと思うし。日本人だし(笑)

結構、戒律厳しいのに下着はセクシーってのにもびっくり煤S( ̄0 ̄;ノ  結婚したら、浮気しないためにも、冷え防止のためにも綿パンツですよ。セクシー下着は、タンスの肥やしになってます、かおち家です。

なんだか、旦那の話が気に入ってもらってるみたいなので、出来立てのお話を。いいですか?

さっき、シャワーを浴びようと思って、先に私が浴室でメイク落としてたの。マスカラつけてたから、落とすのに時間かかっててて。そしたら、旦那が入ってきて、私のお毛毛を見て、「あー処理しないといかんですな。」って言ってて、私のお毛毛を軽く引っ張ったのよ。

私は、目を閉じたままで、何かむかついたから、旦那の手に当たるように膝蹴りをしたのね。そしたら、旦那は中腰で私のあそこの前に顔を近づけてたみたいで、思いっきり旦那のあごに膝蹴りが入ってしまいました。脳みそが揺れたとか言ってましたが、私の膝は、青あざになりました。むかついたので、ごめんねって言った後に、軽くきれてやりました\(*`∧´)/


2 ■いつも楽しく読ませてもらってます(^∇^)

そ、そんなセクシーな下着着てるなんて思ってもみなかったですー!!
ってか宿のおじさんに聞いちゃうのもさすが!!と尊敬です!!
wってかそのおじさんもオープンに話してくれるもんなんですね。ww


3 ■うまいっ!

「視殺」→うますぎます!!!素敵!

それにしても、シーツに血を・・・というのはまた大変ですね。だって初めてのセックスの後に出血しない女性だってたくさんいますものね。


5 ■chieakabubuさんへ
中東女性はすっごい美人、オサレ、セクシーなんですよ、旦那のためだけに〜!


6 ■サマンサさんへ

こんにちは☆
中東の子供たちってとてもかわいい子が多いです。というか、全世界の子供たちはどの子もかわいいですよね!

しかし子供たちにも視殺されますよ〜 若い男性ならもっとだし、ってか、どこでも。今はバックパッカーもそれなりにいるので、悪い意味でガン見ではないですけども!


7 ■miyukichakerさんへ

はじめまして☆ フィアンセがチュニジアの方ですか!
そしたらフランス語で会話されているのかしら?
先日、都内のチュニジアンレストランに行ったばかりです^^ ご存知かしら?
ムスリムの国ではシモノケは不浄の毛、と呼ばれていて女性はツルリンコなのですよね。
男性もスネ毛とか剃ってると聞きました。


8 ■嫁入り前処理

そのすっごいセクシーな下着をつけるためだかどうだか知りませんが、嫁入り前の儀式として全身の毛をワックスで”抜く”そうですね。全身ですよ!
どっこもかしこも。恥ずかしいですよね〜><!痛いでしょうね〜><!


9 ■magnoliaさんへ

イスラムの世界ではシモノケは特に『不浄の毛』と呼ばれて嫌われますが、婚前は全身ワックスですか〜! 拷問ですな!!!!


10 ■摩訶不思議イスラム社会

はじめまして!今日始めて読ませてもらったんですけどめっちゃ面白いッスね(笑)
実は私オーストラリアとパキスタンのハーフの彼氏がいます。ハイ、ムスリムです。

私はこの「イスラム国のSEX事情」の記事を見て納得しました。だからあいつセクシー下着好きなんだと・・・(笑)ってか好きとかじゃなくてもうフェチなんです。

基本的にえっちとかも結婚する人としかしたくない、っていう考えらしく若いのにしっかりムスリムなんだなーと思っていたんですけどね。ネットで下着のサイトを次々に見せられて、どれがいい?って聞かれたときは度肝をぬかれました(笑)

でも彼だけじゃないんですね(´Д`)!

今彼は寝てるんで、起きたらイスラム女性のベールの下はセクシー下着なのかどうか聴いてみます。納得と安心と笑いをありがとうございました。


11 ■Malaika さんへ
パキスタンもかなりのイスラム国なので、文化も強いって聞きました^^

イスラム教徒女性の下着はホントーーーにすごいですよ! 

もう、日本人ビックリな下着を着てますし、目だけベールから見えているとやっぱりセクシー。彼氏さんもきっと望まれているはず♪

ちなみに女性は、結婚初夜は全身脱毛ワックスなので〜!


12 ■はじめまして
小生も、実は、中東の男性とお付き合いしたことがあるんですが、彼曰く

「アナルセックスは、処女とみなす。」

とのことなので、婚前交渉も、アナルはOKだそうです。
http://ameblo.jp/chocobon/entry-10035927434.html


処女アラブ女性の婚前セックスの仕方

昨夜は初めてアラビア語の個人レッスンを受けました。

スクンビットのアラブ街で知り合った男性ですが、私が入院していた時、わざわざ彼が働くレストランへ電話してHummusやナンブレッドなど配達してもらったり。(笑)

配達なんて普通しないのですが、すぐに持ってきてくれました。
ありがたや、ありがたや。(笑)

でもその時、放射線治療をやっていたので、私の部屋へは入れませんでした。
病院食に飽きていたから、もうこの熱々ナンとHummusとTabulahとチキンティカの美味しいことったらありゃしない。(笑)

インド料理もその店では出しているのでパンはナンだったのですが、2日前一緒に食事をしたフランス人も、この料理は毎日でも食べられると言っているぐらい、私達はこれらの料理が好きなんです。

特にTabular(パセリのみじん切りのサラダ)は大好きで、体が野菜を欲しがるときわざわざ買いに行きます。

昨日はアラブ街でエジプト人の彼と彼の友人3人と私でしばらくターキッシュコーヒーを飲んだ後、ソイ1あたりのバーへ移りました。(お猪口みたいな小さなカップにすごく濃くてちょっとドロッした感じのコーヒーを注ぎます。砂糖がすでに入っているからでしょうか。これを夜飲むと、眠れなくなります。最近眠れないのはこのせいか?)


このバーというかラウンジに一歩足を踏み入れて一言「うわぁ〜!」

内装がアラビア的で、まるでドバイのアラビア風デザインのバーにいるみたい。バンコクにこういうアラビア風バーというかラウンジがあったんですね。オープンエアのこのバーでは水タバコも楽しめます。私達は角のテーブルを取ってそこでアラビア語のレッスンを始めました。私が知りたい質問を英語で書き、彼がアラビア語とローマ字で書き込み発音練習。

ある特定の発音が難しく、何度やっても発音出来ません。でも、ある単語の発音をした時、「本当にアラビア語習うの初めて?」って言われるぐらいに完璧な発音をしたそうです。

新しい語学を勉強する時、すぐに覚えてしまうのが悪い言葉(笑)

2日程前、私の映画監督が悪いアラビア語を教えてくれました。

ZIP:男性のおちんちん
NICK:SEX
TEAS:女性器
KISS:お尻(お尻の穴という意味かな)


これらの単語をエジプト人に書くと、目が点になって「なんで知ってるんだよ〜!」って笑い始めました。

KISSではなくてKOSだよ、スペル間違いって言われたので、すぐに私の映画監督にSMSを送り、今これらの悪い単語の発音の勉強中って書いたら返事が来たのですが、私は大笑いしました。

「HAHAHA, 君は今エジプト人と一緒にいるのか?
アラビア半島の人たちはKISS,エジプト人はKOSって言うんだよ。」

単語ですぐにエジプト人と一緒とバレた私は、彼の鋭さに苦笑して大笑いでした。ということは、彼が教えているアラビア語はエジプトのアラビア語みたいです。ドバイへ行くのにエジプトアクセントのアラビア語は嫌だな。

家に帰って少し映画監督とチャットをしたのですが、昔からあるアラビア語はすごく難しいけど、エジプトアクセントのアラビア語はドバイでも通用するから心配するなと言われました。とにかく口語を勉強しなよと言われました。

その「KOS」という単語を教えてもらった時、彼が身振り手振りでお尻を指します。そこから、アラブのイスラム教の話になり、アラブ人の結婚の話になりました。私が

「アラブのイスラム教の女性は処女を守らなくてはいけないんでしょ、お見合い結婚みたいなものなんでしょ?」

って言うと、彼はエジプトで奥さんと知り合ったから恋愛結婚で、エジプトでは恋愛結婚が多いと言いました。そこから処女の大切さの話に移った時。

「処女って言って結婚して、夫が処女じゃないってわかったら離婚可能だよ。
でも、若い男女がどうやってデートするか知ってる?」

って質問されました。

私の答えは結婚前、デートなんてしないと聞いたと答えると、アラビア半島はそうかも知れないけど、エジプトではもちろん若い男女の恋愛がある、そして彼らがどうやってセックスすると思うかと質問されました。

「結婚前にセックスするの???」

「する人もいるけど、どうやってすると思うか言ってごらん。」

私は答えられませんでした。

「KOSだよ。」

「KOS?」

つまり、お尻の穴でセックスだそうです。

「嘘でしょ〜、さっきイスラム教の人にとってお尻の穴は穢れている場所って言ったじゃん。」

「そうそう、だから僕もやったことがないけど、結婚前でどうしてもセックスしたい若者は、お尻の穴を使うんだよ。そうやって処女を守るんだ。」

うゎ〜、イスラム女性のイメージが変わりました。(笑)

これはエジプトだからなのかな。

そこで、なぜエジプト女性はなぜアバヤを着ないのって尋ねると、

「エジプトは昔からフランス人やギリシャ人やイタリア人などから攻撃を受けたから、いろんな文化が混じっているんだよ。だから、アラビア半島みたいに黒いアバヤを着ないんだ。着ている人もアラビア半島と比べると少ないと思う。」

と答えました。そうか、ヨーロッパの影響が少しあるんですね。UAEもイギリス領みたいなものだったけど、でもアバヤを着る伝統は捨てませんでした。そう考えると、エジプトって結構オープンなんだなと思いました。
エジプト、行ってみた〜い!

今度は彼が私に質問する番。

「どうして日本人女性は黒人が好きなのか。」

なんのことやねん???

日本人女性は黒人男性が好き???

「そんなことはない。それに黒人男性を気に入っている人は東京とか大都市ぐらいで、全ての日本人女性が黒人を好むってことはない。極一部の人達だよ。誤解だよ、それ。」

「いやいや、そんなことはない。僕達アラブ人はそう思っている。日本人女性は黒人男性が好きだ。そしてアラブ男性も好きだってみんな思っているよ。カオサン通りにいる日本人女性なんて、黒人やアラブ人、タイ人男を求めているじゃないか。」

うゎ〜、どこでこんなイメージが付いたんだろう。彼曰く、スクンビットのアラブ街にも日本人女性がやってきて、アラブの男性を求めているとか。マジですか?

「ちょっと、困るわよ、そのイメージ。私までそう思われるでしょ。このアラブ街にだって私はめったに来ないわよ。私まで勘違いされてるじゃないかしら。それにカオサン通りに行く人なんて、お金がない人とか変な人が多いじゃない。ちゃんとした観光客は、スクンビットなどのちゃんとしたホテルに泊まってるわよ。

カオサン通りの人と普通の日本人女性を一緒にしないでよ。だいたい、タイに住んでいる日本人でカオサン通りなんて、普通行かないでしょ?

あんな場所。薬物中毒者や犯罪者の長期滞在場所みたいじゃない。駐在している人で行く人、会ったことがないわよ。」

「君は大丈夫。だって僕と一緒だから。」

中には1人でやってきて、アラブ人男性を見つける人もいるそうです。すごい勇気というか、だって本当にこのエリアはアラブ人男性がうじゃうじゃいるんですよ。

彼らを目がけてタイ人の売春婦も歩いたりしています。ミニスマートにタンクトップで歩くものだから、カフェに座っている男性達は目で追っています。私はワンピース姿だったのですが、1人でカフェに行くまでにたしかに男性から声が掛かった。(笑)

1人で歩く女性は売春婦かよ。(怒)

でも、このエジプト人の彼はこのアラブ街で顔が知れているようで、いろんな人が彼に挨拶に来ています。
その度に私のことを紹介していました。

「みんな僕のことを知っているんだ。だから君は心配するな。だれも君を売春婦とは思わないよ。だって僕と一緒だから。」

そうか、もしその辺の男性と一緒だったら、絶対に勘違いされていただろうな。(失笑)
アラブ街で顔が知れている彼と一緒で本当によかったわよ。(笑)

でも日本人女性でよかったってまた思いましたよ。(笑)

だって日本人って言うだけで、彼らの態度が変わります。

これは一種の「ブランド」ですね。

日本人と言うだけで、ヨーロッパでもアメリカでも東南アジアでも私は特別扱いを受けます。中国人や韓国人、東南アジア人の女性は適当に扱われているかもしれませんが、

「どこから来たの?」

と言われ

「日本から。」

と答えると、それはそれは大切に扱われます。


このアラブ街でもそうです。まあ、一つは彼と一緒だからでしょう。

顔が知れている人ということは知り合いがたくさんいると言うこと。だから、みんな彼に対してフレンドリーだし、その彼が連れてきた「日本人女性」ということで、みんな私がテーブルにつこうとすると、立ち上がるし、椅子を引いてくれるし、すぐに「飲み物は?食べ物は?」などの質問が飛んできます。

まるで女王様の気分です。(笑)
http://ameblo.jp/frombangkok/entry-10144004335.html


クルアーンには、いくつかの性的事項が記されている。 たとえば、天国に迎えられた男性を歓待する美女の描写や、セックスの体位に関する啓示、また妻がどうしても夫に服従せず、叩いても効果のない場合に限って、無理やりセックスをする権利を認めること、そして条件付での一夫多妻の容認などが記されている。

前述のとおりクルアーンにも天国での性的な事柄が記されているが、ムハンマドの言行録には更に直接的な表現で、天国でのセックスの充実が語られている。

イブン・カスィールによれば、ムハンマドは

『天国では男性は一日100人の処女(フーリー)とセックスが出来る』

と述べていたとされる。また、

『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』

と問いかけた信者に対して、

『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』

と述べたともされる。


別の伝承によれば、 ムハンマドは

『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』

と述べたところ、アナスが

『ああ、アッラーの使徒よ! そのようなことが出来るのでしょうか!?』

と問いかけた、ムハンマドは

『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』

と答えたという。ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが

『天国の男たちは処女の花を散らすのに忙しくなる。』

といったと伝えている者も居る。


結婚最低年齢

ムハンマドは、マディーナへのヒジュラ時にはすでに50歳を超えていたが、前妻を失い男やもめであった。彼は教友であるアブー=バクルの娘で、9歳になるアーイシャと結婚し、セックスを行った。このことは後にシャリーアにおいて女子の結婚最低年齢が9歳とされる典拠となった。

前近代イスラーム世界ではイスラーム法規定に基づき女児は非常に早い年齢から結婚しセックスの対象とすることが許されたため、現代では客観的に見て児童性的虐待にあたるような性行為も、結婚の上なら問題視されないことが少なくなかった。

近代に入ってほとんどの国では結婚最低年齢は15歳以上の水準に引き上げられたが、イランやアラビア半島の諸国など今でもシャリーアの規定を遵守する国が存在している。例としてイエメンでは結婚最低年齢を定めないイスラーム法の解釈をとっているため、イスラーム法の通常の解釈では不可能な9歳未満の少女との結婚・セックスも少なからず存在しており、問題視されている。


婚外セックス
ハディースには、ムハンマドが婚外セックスを行った男女に対して、未婚のものは鞭打ち、既婚者は石打ちによる死刑を行ったことが記されているとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%96%87%E5%8C%96



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秘密を知ったわたしは『イスラム教徒の男性とは絶対結婚しない』と堅く決心しました。
dharma3korondaさん 2009/12/16 20:12:39

秘密を知ったわたしは『イスラム教徒の男性とは絶対結婚しない』と堅く決心しました。

女性のみなさん。イスラム教があっという間に増えた秘密は何でしょうか?

独身の貴女も知っておかないと後悔するかもしれません。結婚の大切な質問です。

日本人はとかく宗教音痴のようです。最近は中東から来日するムスリム男性の姿を良く目にします。結婚してムスリムに改宗する女性も見かけるようになりました。

でも、チョット立ち止まって良く考えませんか?後悔先に立たずですから。


king_of_charityさん 2009/12/23 15:16:48

【ムスリム黒人奴隷−ブラック・アフリカ・イスラム奴隷史】
ビデオを見て自分の頭で熟考してください。

Muslim Black Slavery - Islam Slave History of Black Africa
https://www.youtube.com/watch?v=pJhSejBDTPI


アラブ人イスラム教徒が征服したアフリカ黒人に対して一体何をしているか?大人は皆殺し、子供は拉致し、男の子は睾丸を削除し洗脳してイスラム侵略の先兵とし、女の子は「セックス奴隷」とした1400年の隠された歴史を確認してください。


@大人が全員殺されて、そうやって両親の文化や信仰を子供に継承できますか。

A男の子が全員玉なしにされても子孫が残せますか?

B生まれた子は自動的にイスラム教徒というイスラム法を定め、正妻1人の他、3人まで「セックス奴隷」を持てますという結婚制度を超国家的に作ったら、どうなりますか?

Cその上、死んだ両親もムスリムだったと親なし子たちが騙されてきたとしたら。

D毎日5回祈りを強制されたら疑問を抱く間もないでしょう。


数世代しない内に、全員がイスラム信仰継承者になるじゃないですか!
こんな効率的な伝道方法が他に考えられますか?「クルアーンか剣か」です。
イスラムはこれでアフリカからインドネシアに至る今日の勢力圏を得た。

宗教音痴は身を滅ぼし、子々孫々末代まで祟るという最悪の実例です。

ちょっとクルアーンをかじった程度の耳学問で、熱心にイスラムを布教する日本人男性、ムスリム男性との結婚を美化する日本人女性は、1400年のムスリム奴隷史を知った上で、尚も自分の無学を人様に晒し続けるのも自由、また止めるのも自由です。日本では自由です。

しかし私は、あなた達は日本人の敵であり、日本人同胞の為になることは何もしていないとだけ申し上げます。

◎終戦の日迄に流された幾百万の尊い同胞の血の犠牲の上に勝ち取った「憲法」です。その信教の「自由」を賢く用いられますように、私は神の国と日本の国とを愛する一キリスト者としてお祈りしています。
---------

答え:イスラムの秘密は、イスラム法の結婚制度を悪用しあなたの子供を強制的にイスラム教徒にする「強盗宗教」だという事です。

■イスラムの結婚制度

@異教徒(ユダヤ教徒・キリスト教徒他)の男性を社会的に差別し結婚させない。

Aイスラム教徒の男性ならば無条件で結婚を許可する。

B非イスラム教徒の女性はイスラムに改宗せずに結婚できる。但し正妻にはなれない。
すると非イスラムの女性が余りますね^^

C女性だけでは経済的自律を不可能な程度に女性の地位を貶めておく。

D宗教的に寛容なイスラムの男性は合計4人まで妻として異教徒の女性でも娶ってあげることにする。

Eでも。生まれた子供は自動的に漏れなくイスラム教徒とする。


■キリスト教徒・ユダヤ教徒の国々を征服し、上記結婚制度を実行したら「アッラー」不思議、あっと言う間に全員イスラムになっちゃった^^

■イスラムの素晴らしい結婚制度を日本にも導入したら草食系の日本男も誰でも結婚できますか・・・・。

「あいのり」でラブワゴンが回った先の中東の国でイスラム男性と結婚した日本人女性が、盛んにイスラムは平和の宗教だと力説したのを覚えてますか?しかし、彼女たちはイスラムの秘密を教えるべきだったのでは?

あなたが好き好んでイスラム男性と結婚してあなたの子供をイスラムにしても良いのでしょうか?結婚は人生の墓場と言いますが、イスラム男性との結婚は、子々孫々のイスラム化を意味します。

■全く悪魔が作った結婚制度ではないかと私は憤慨したのであります。イスラム教のどこが平和の宗教?どこが平等?

もし私の答えがあってたらBAをお願いします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1034178310

32. 晴れ間[1375] kLCC6orU 2017年12月03日 14:12:28 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[500]


イスラムやイスラム文化圏の国々では全く常識の範囲のことですが、パキスタンでは毎年1000人ほどの女性が「名誉犯罪」で殺されています。

日本でもモスクが急増しているようですが、これを放置していると由々しいことになりますよ。


イスラムは「全体主義」の宗教です。「思想信条の自由」は許されません。

「批判者」には「殺戮」で答えます。
(コーランの中で、「異教徒と不信仰者は殺せ!」と明記されているからです。)

それがこの宗教の本質です。

(イスラム・テロは全て、このコーランの命令で行われています。

別に「IS イスラム国」が発しているわけではありません。「IS イスラム国」はコーランに忠実なだけです。コーランがある限り、このイデオロギーの「源泉」は涸れません。)


イスラムには「タキーヤ」という教理があります。
「タキーヤ」を知らずして、本当のイスラムを知ることはできません。

イスラムを敵(異教徒) の攻撃(批判も含む) から守るためには「嘘をついて騙せ」という教理です。

イスラムではこの「嘘」は積極的に奨励されています。
テロが起きる度に「イスラムは平和の宗教」と唱えるのが、その典型です。

「テロはイスラムとは無関係」「あれは本当のイスラムではない」というのもそうです。

「イスラム国」は「本当のイスラム」です。「イスラム国」の「ジハード戦士」は、模範的な「よきムスリム」です。

なお、私の見解も、私自身の「個人的見解」ではありません。イスラムを棄教した「元ムスリムの棄教者」たちが一致して主張していることです。

イスラムでは「棄教は死罪」です。

イスラムを棄教して、イスラムを公然と批判している人たちは、「殺せ!/殺す!」というファトワーを受けています。
亡命先である欧米で、24時間警察の警護を受けている人たちが大勢います。

「批判者は殺す!」「反対意見」は封じる。これがイスラムの教義です。


イスラムを理解するには、「シャリーア」(イスラム法、即ちコーランとハディースに明記されたイスラムの掟) が分かっていなければなりません。「シャリーア」と「タキーヤ」について調べて下さい。これがイスラムを理解する鍵です。

それから、イスラムというのは、中世アラビア半島の歴代カリフが「征服と支配」のために作った宗教です。

「預言者ムハンマド」というのはフィクションです。
「アッラー神」も「預言者ムハンマド」も、歴代カリフのアバターです。

コーランの中にはキリスト教とユダヤ教の混淆物が混じっていますが、これは宗教の体裁を取るために、ユダヤ教の一派(ユダヤナザレ派という現存しない派) の説教師たちが残した説教集をテキストとして、コーラン作成者が利用したからです。
(イスラムの成り立ちについては、欧米で近年急速に研究が進展しています。)


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次の動画は、最近のフランスでの、イスラム勢力の活動です。

イスラム教徒の特徴は、ムスリム人口を増やすために、避妊をせずに子供を作り続けることです。

非ムスリムの数倍の速度で人口増加します。(先進国はどこも少子化で、非ムスリム人口は増えませんから、その傾向はますます顕著になります。)

その結果、移住先で元からの住民を人口数で上回ることになります。
ムスリム人口が優位になると、近代民主主義国家の法律は守られず、「シャリーア」が横行し、「シャリーア」を国の法律に変えようとする者が多数派を占めることになります。国家の法律と憲法が、シャリーアに取って代わられることも可能です。

フランスでは、(選挙でムスリム票が欲しいあまり) 社会党政権がイスラム勢力に譲歩した結果、モスクの建設にまで公行政が協力させられる事態になりました。

「税金」でモスクが建設される有様です。(家賃を取ったり、一部を金銭譲渡したりして誤魔化していまが、「世俗主義」の国家がイスラムに屈服した状態です。)


☆クリシーでのムスリムの行動

市政が社会党から保守派に代わったのに伴い、それまで礼拝のために使っていた市庁舎内の施設が使えなくなった。そこから歩いて15分くらいの所にモスクはあるのだが、「狭い」「もっと広い場所をよこせ!」と言って、毎週金曜日に市庁舎の前で集団礼拝をするようになった。

もちろん「世俗主義」国家フランスでは、これは違法。この状態は県知事の命令で解散命令が出されるまで8ヶ月間続いた。この運動というより「政治行動」を主導しているのは、「シャリーアで統治されるイスラム神権国家(カリフ国) の樹立」をめざす宗教政治団体「ムスリム同胞団」。)
https://www.youtube.com/watch?v=YVpBwj7SMy4
Prière de rue après la fermeture administrative d’une mosquée. Clichy/France - 22 Mars 2017


☆パリでのムスリムの行動

クリシーでのムスリムの活動には、前例がある。社会党が市政を握るパリ市でも、同じことがあり、パリ市はみずから「モスクの建設」に追い込まれた。美術展示室やハマム(北アフリカにある類の公衆浴場) もある複合施設だが、「パリ市営のモスク」ではあまりにも「世俗主義国家」の原則に反し過ぎると思ってか、モスクの部分だけ、パリ・モスク(フランスの最大最古のモスク) に「格安で」事後譲渡された。(パリ市では、現在2つ目のモスクの建設中である。)

こちらは、パリでのモスクが建設される前の、パリでの集団礼拝の様子。

https://www.youtube.com/watch?v=Fn9mi5tnVTA
Encerclé par des milliers de musulmans en plein Paris !


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☆全世界のイスラム教徒の7割は、シャリーアを支持しています。

現在はムスリムが少数派である国でも、ムスリムが(多産による人口増加と移民の流入で) 多数派になれば、国の憲法と法律はシャリーアに適合すべきだ、と考えています。

https://www.youtube.com/watch?v=wzmiUjD6_LI&t=137s
Musulmans : écrasante majorité pour la charia !

全世界のイスラム教徒は、シャリーア(コーランはハディース) が命じているから「礼拝」を励行しているのであり、シャリーアが命じているから「ヴェール」を被っているのであり、シャリーアが命じているから「異教徒や批判者への攻撃」を行っている、と言っても過言ではありません。

イスラム教徒であるか否かは、「イスラムの度合い」は、シャリーアへの「忠誠度」で測定できます。

従って、非ムスリムであっても、あなたが「シャリーア」に同意できるか否かが、イスラムへのあなたの態度を決定します。この「全体主義」に賛成するか否か、が「判定」の基準になります。

フランスで起きているように、あなたの町の役所や市民センターや公営の文化スポーツ施設に、モスクが併設されることに、あなたは同意しますか? 

路上で集団礼拝が行われても、あなたは平気ですか?

アパートやマンションの隣の部屋に、「ヴェールを被っていない女は強姦してよい」と考えている見知らぬ「髭の男」が住んでいる状態に耐えられますか? 

そういう男が通りを大勢闊歩している状態に耐えられますか?

あるいは、(ムスリム系の移民・難民による) 強姦が頻発する状態に耐えられますか?

(ケルンでの集団強姦・暴行事件で明らかになったように、女を「性欲と強姦」の対象としか見ないのは、彼らにとっては「普通」のことなのですよ。

※勿論、そういう人ばかりではありません。しかし「移民・難民」として来る人は、出身国でも「下層」の人たちです。「良質の人間」や「教養ある層」ではありません。)

欧州で今起きていることは、そういうことです。
これを日本で許すか否か、です。
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/557.html#c32


コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/907.html





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2011-12-03
レイプ相手と強制結婚、結婚拒絶で硫酸、ブラ着用でムチ打ち
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20111203T1718000900.html

イスラム社会の女性への扱いは、理不尽であり、合理性を欠いている。女性の貞操を狂信的なまでに強調しているので、貞操を失った女性に対する扱いは暴力的であり、非人道的であり、許しがたい。

貞操というのは「社会的に承認された配偶者でない者と性的関係をもたないこと」という意味だ。

イスラムでは男は対象外か、対象であっても法的に厳しくない。しかし、女性には厳しく貞操が強要されている。


「処女性」と「貞操」

貞操というのはどういう状態を指すのか。

具体的に言うと、「未婚者は親が決めるまで誰とも性的関係を持ってはならない」「既婚者は夫以外とは性的関係を持ってはならない」ということである。

もし未婚者の女性が勝手に性的関係を持つと、「家族の名誉を汚した」のだから、家族に殺されてもしかたがないと解釈される。

これを「名誉殺人」と言って、家族の名誉のために不良娘を殺すことが正当化されている。

もし既婚者の女性が勝手に他の男と性的関係を持つと、「姦淫の罪を犯した」のだから、夫に離婚されたり、殺されたり、投獄されてムチ打ちの刑や公開処刑にされても当然だと解釈される。

姦淫の罪は重罪だ。女性の下半身を土に埋めて身動きできないようにして群集が石を投げて殺すこともイスラム社会ではいまだに行われている。

それほどイスラムでは「処女性」や「貞操」を女性に押し付け、守らせ、厳しく管理させているのである。

なぜ抗議しないのかと先進国の女性たちは思うだろうが、そんなことができるわけがない。

あなたがイスラム国家に移住し、そこで「女性の地位向上を!」と叫んだらどうなるのか。

その瞬間に、まわりから村八分され、長老は反イスラム的だと断言して、あなたは数日内に殺されるだろう。

殺すのはかわいそうだと思う人ならば、硫酸をかけて皮膚を損傷させるとか、鼻を削ぎとるとか、身体に火をつけて焼くくらいで許してくれるかもしれない。

そんな狂信的な人間で国が覆いつくされている社会で、女性の地位向上を訴えられるわけがない。昔も今も、女性は強制的に貞操を押し付けられ、弾圧されるがままなのである。

名誉殺人に反対する集会。名誉殺人はパキスタンでもインドでも現在でも行われている。


加害者の男と結婚すること

もし女性がレイプされたらどうなるのか。それは女性が悪いとイスラムでは解釈する。なぜなら、女性は「貞操」を失ったからである。

レイプされて処女を失ったのであれば、もう家族の名誉を汚したも同然である。もしレイプした男と結婚しないのであれば「名誉殺人」の対象だ。

あるいは、姦淫したのも同様だから、ムチ打ちを執行されても文句は言えない。

男が罪に問われないことも多いが、それは「女性が劣情を誘った」からで、女性が悪いからだ。男にレイプされる隙を与えた女性がすべて悪い。

女性にとってはレイプされたうえに投獄されて罪に問われたり殺されたりするのだから、悪夢のような世界だが、これがイスラム世界では「日常」なのである。

最近もまた、この「悪夢」が大きな記事になっている。2009年、アフガニスタンで従姉妹の夫にレイプされた女性がいる。グルナスと言う名前の女性だ。

外をほっつき歩いてレイプされたのではない。自宅にいるときに男が勝手にやってきて彼女をレイプしたのである。

レイプされたときは19歳だったが、そのレイプで妊娠してしまった。彼女は「姦通罪」に問われてカブールのバダムバーグ刑務所に放り込まれた。さらに控訴審では禁錮12年が言い渡されている。

グルナスは刑務所の中で出産して、今も刑務所の中で子供を育てている。現在は21歳になる。

レイプされ、妊娠し、理不尽にも罪を言い渡され、さらにその罪が控訴審でさらに重くなる。彼女は欧州のドキュメンタリー映画に取り上げられた。

ところが、これを報道するとさらにグルナスが窮地に追いやられるとして公開が中止になった。

しかし、この一連の動きが国際的に話題になり、アメリカも「いかなる女性もグルナスさんのような状況に置かれることがあってはならない」と声明を出す騒ぎになっていったのである。

また、カルザイ大統領の元に恩赦を求める5000名の署名の入った嘆願書が届けられて無視できない状況になった。そして、2011年12月1日、カルザイ大統領は彼女を恩赦した。ただし、そこには条件がついていた。

加害者の男と結婚すること……。

レイプされ、投獄されたグルナスさん。


ブラジャー着用女性はむち打ち

自分をレイプした男と結婚することを条件に恩赦されるのだから、普通に考えればめちゃくちゃな話だ。

なぜカルザイ大統領がそのような条件をつけたのかというと、そうしないと、保釈された彼女は「姦通した女」として危害を加えられて、場合によっては殺される可能性もあるからだ。

レイプした男と結婚すれば、それは夫との性的関係だから姦通にならない。だから、グルナスの身を守るためには、加害者の男と結婚させるしかない。これがアフガニスタンの現状だった。

実は、このグルナスの事件が話題になっているここ数日の間、アフガニスタンでは別の事件も起きてそちらも話題になった。

それはタリバンの元司令官の結婚を拒否した家族が武装集団に襲われるという事件だ。

「アフガンの武装勢力が三人の姉妹や彼らの両親に硫酸を投げつけた。なぜならば、年長の娘が元司令官と結婚を拒絶したからだ」

このような見出しで事件が報道されている。18歳の娘に結婚を拒絶されたのを恨みに持った司令官は仲間にこの家族を襲わせ、娘や母親にアシッド・アタック(硫酸を浴びさせる)し、その姉妹をめちゃくちゃに殴打して去っていったのである。


結婚を拒絶したらアシッド・アタック(硫酸攻撃)された。


彼女のふたりの妹も暴力を振るわれていた

アフガニスタンだけが女性に対して理不尽でめちゃくちゃな扱いをしているわけではない。イスラム国家内ではどこでもそんな記事や事件で溢れている。

ドバイはイスラムでも比較的自由な場所だとよく言われているが、2010年4月に、24歳のイギリス女性がレイプされたを訴えて、本人が刑務所に放り込まれそうになった事件もあった。

男にしつこく車で家まで送ってやると言われて乗り込んだところ郊外に連れて行かれてレイプされ、そのあとに女性のアパートに戻ってから再びレイプされた。

これを警察に訴えて、女性が「姦通罪」の危機にさらされた事件だった。彼女はイギリス女性だったので「理不尽だ」と国際問題になって注目された。

もし彼女が現地のイスラム女性だったのであれば、恐らく今ごろは生きていない。男と酒を飲み、2度も犯された女性はイスラムにとっても重罪に値する姦通罪だからだ。

2008年にもアラブ首長国連邦で、似たような事件があった。

オーストラリア出身のアリシア・ガルという29歳の女性が同僚にクスリを飲まされて意識不明になったところを4人に輪姦され、それを訴えたところ、逆に姦通罪で逮捕されて8ヶ月も刑務所に放り込まれたという事件である。

彼女はいまだトラウマで、「悪夢、フラッシュバック、鬱病、閉所恐怖症」が引き起こされていると記事にあった。

よくイスラムの女性蔑視を書くと、必ず「欧米のプロパガンダに利用されている」と言われる。しかし、女性蔑視はどんなに弁解しようと事実としてそこにあり、これはプロパガンダでも何でもない。

女性は明確にイスラム国家で「弾圧」されていて、声を上げることすらも出来ないのである。

4人の男にレイプされたアリシア・ガルさん。訴えたら、逆に姦通罪で実刑にされた。


ブラジャー着用禁止と、自爆テロ

ソマリアでも公開石打ち刑があったり、女性に対するリンチがあったりしたが、あまりにも馬鹿げたものもある。

ブラジャーが西洋的なものだからこれを着用している女性を集めてムチ打ちの刑に処したというものだ。これは翻訳された記事があるのでこちらを紹介したい。


ソマリアのイスラム組織、ブラジャー着用女性をむち打ち

ソマリアのイスラム系過激派組織「アルシャバブ」が、ブラジャーを着用していた女性を公開でむち打ちした。イスラムの教えに反するというのが理由だという。地元住民が16日語った。
イスラム聖法の厳格な適用を求めるアルシャバブは、映画観賞や結婚式でのダンス、サッカーも禁止しており、今月に入ってからは、強盗を働いたとして若い男性2人の手と足を切断していた。

地元住民の話によると、銃を持った男たちがブラジャーを着用していたと思われる女性たちを集め、公開でむち打ちした。その後、女性たちはブラジャーを外して胸を揺らすよう命じられたという。

ブラジャーくらいなら世界中から失笑を買って終わりだが、深刻だったのは、イラクの事件だった。

イラクでは数年前、突如としてアメリカ軍に対して女性の自爆テロが増えたことがあった。

その背景を調べていくと、ひとりの女にたどり着いたのだという。サミラ・ジャサムという51歳の女だった。

彼女は自爆テロの候補になりそうな女性を見定めると、男たちに女性をレイプさせていたのだという。

イラクでもレイプされた女性は名誉殺人の対象であり、姦通罪の対象になる。そこでサミラ・ジャサムはレイプされた女性を追い詰め、自爆テロを強要させていたのだという。

レイプされた女性は逃げ場がない。社会に抹殺されるか、それとも家族に殺されるかである。どうせ死ぬなら死後に崇拝される自爆テロのほうが尊厳が保たれる。

そうやってサミラ・ジャサムは、80人以上の女性を自爆テロに追いやっていたのである。彼女はイスラム過激派の「アンサール・アル・スンナ」に属していたと言われている。

イスラムが女性を追い詰め、過激派が巧みにその女性たちを操って「利用」する。そういう事実があった。


80人もの女性をレイプさせて自爆テロに追いやった女。サミラ・ジャサム


タリバンが女性に課したルール

「www.jca.apc.org」では、アフガン女性のどのような制約を強いているのか書かれている。一部、抜粋・要約して紹介したい。厳格なイスラム教を信奉するタリバンは以下を女性に強要している。


女性が家の外で仕事することは一切禁止
男性の付き添いなしに屋外で活動することは一切禁止
女性は男性の店主から物を買ってはならない
女性は、男性の医師から手当てを受けてはならない
女性は勉強することを許されない
女性は、ブルカをかぶらなくてはならない。
従わない女性は、鞭打ち、殴打、および言葉による暴力の刑
足首を隠していない女性は、公開鞭打ち刑
婚外交渉をもったと告発された女性は公開投石刑
化粧品の使用禁止
爪を染めた女性は指を切断
女性は親族以外の男性と話したり、握手をすることを禁止
女性は大声で笑ってはならない
女性は知らない人に声を聞かれてはならない
女性は、音のする靴を履いてはならない
男の親族と一緒でない女性はタクシーに乗ってはならない
女性は、公衆の集まりに出てはならない
女性はスポーツをしてはいけない
女性は自転車やバイクに乗ってはならない
女性は明るい色の洋服を着てはならない
女性は娯楽目的の場へ出かけてはならない
女性は公衆の場や川の脇で洗濯をしてはならない
女性はバルコニーから姿を見せてはならない
女性家のすべての窓に色を塗らなくてはならない
女性は公衆浴場に行ってはならない
女性と男性が同じバスに乗ってはならない
女性を写真や映画に撮られてはならない


言うことを聞かない女たちに暴力を振るってもアシッド・アタックをしても許される。アフガンの家庭内暴力の凄惨さは目を覆わんばかりの悲惨さだ。


女性に対する脅威

タリバンの説くイスラムは「厳格なイスラム」であって、たとえば戒律の緩いインドネシアではまったく様相が違う。

しかし、そのインドネシアでさえイスラム原理主義社のような人間たちがいて、このような「貞操の強制」を求めている。

先進国の女たちは、なぜイスラムを強制されている女性たちに無関心でいられるのか不思議に思うことがある。

家長主義を根本に持つ宗教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・儒教などは、女性に対する脅威であり、女性に対して有害なものであり、女性を抑圧する「暴力装置」である。

女性たちは宗教が自分たちにとって壮絶な危険思想であることをもっと明確に気がつく必要がある。女性たちは、あまりにも危険なものを長い間放置しすぎた。

そろそろ、これらの危険思想を世の中から一掃すべきだと思わないだろうか?

男はみんな女の子供だ。だから、母親は「宗教」という女性を縛る危険思想に自分の子供たちが染まらないように子供の頃から教育することができる。

宗教は単なる共同幻想だ。女たちは神はいないと自分の子供に教育するだけで宗教を破壊できる。

そうでもしない限り、女性の地獄はどこまでも続くだろう。馬鹿げた宗教がいつまでも女性を縛る。人類は2000年前に間違った。

男はあまりの宗教に染まりすぎてもう修復不可能だ。今や、それを正せるのは女性だけになってしまった。ひとりでも多くの女性がそれに気がつくことを願いたい。

言うことを聞かない女たちに暴力を振るってもアシッド・アタックをしても許される。アフガンの家庭内暴力の凄惨さは目を覆わんばかりの悲惨さだ。アシッドアタックについては、ブラックアジアでも多くを取り上げた。

(アシッド・アタックされた女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20110720T0038000900.html


https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20111203T1718000900.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/210.html#c3

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