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神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/830.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:40:19: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(1)(日本人とは何者か) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:32:08)

三世紀前に日本列島に古墳が存在しなくて、その後、短期間に古墳が出現したということは、今までの「神」と「異なる神」の出現を示唆しています。
その古墳出現も時系列でみると、北九州から畿内へよりも、東北・北関東から畿内への流れのほうが古墳数が多いようです。それも、小古墳から巨大古墳への流れも、西からではなく、東から畿内への流れが多いようです。
そして、四世紀代の古墳に、馬具が埋葬されているということは、元々日本列島には「馬」が生息していなかったわけですから、四世紀に「馬と共存する部族」の出現を示唆しています。そして、その鉄製の馬具の出現は何を意味しているのでしょうか。
金属機器の歴史的流れは、紀元前三千年の西アジアでの青銅器発明から紀元前千四百年のヒッタイトでの鉄器発明への流れです。
時系列的には、日本列島には、先に青銅器が出現してから後、鉄器が後れて出現するのが道理です。それが、北九州・出雲・近畿地域の青銅器文化と時を同じくして、日本列島広域に鉄器が出現し、そして四世紀に東北・北関東に鉄製の馬具が出現するのです。これは、一体なにを意味しているのでしょうか。
それは、四世紀の東北・北関東に、朝鮮半島からだけではなく、ロシアステップロードから直接日本海沿岸からも、オリエントの鉄器文化が、馬を持った部族により日本列島各地にもたらされたことを示唆しているようです。
歴史上謎の部族が存在します。そのひとつに、イスラエル民族がいます。日本にも謎の部族がいます。それは、「秦氏」です。日本版イスラエル民族の「秦氏」とはどのような部族なのでしょうか。日本の古代史の謎を説く鍵のひとつは、その「秦氏」にあるようです。そして、その秦氏を知ることにより、「日本人とは何者か」のヒントが得られることでしょう。
異民族が対峙した時、言葉は強力な武器のひとつとなります。更に、言葉を固定できる文字を持っていることは、最強の武器となります。それは、言葉や文字を駆使することにより、イメージ操作ができるからです。
ひとの行動は、自分の意志で全てコントロールしているわけではありません。自分でコントロールできることは、自分で思うほど多くはありません。ひとの日常の行動は、遺伝子により刷り込まれている本能以外は、生得的な刷り込みにより創られたイメージ(幻想)によりコントロールされているのです。そのイメージは、そのひとの生育に携わったひと達から与えられた言葉や文字により創造されるのです。
ですから、敵対する相手を前にして、自民族の優位性を示し、それに対して、敵民族の劣位性を言葉や文字で示せば、自民族には良いイメージ創りとなり、それに対して、敵民族には悪いイメージの刷り込みができ、その結果、敵側の行動をコントロールできるわけです。
その戦術のひとつが、蔑称です。蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの蔑称を、敵側(藤原氏)から付けられてしまえば、その人物が実際は偉大な大王だったとしても、人物像が矮小化してしまいます。このことを理解している民族は、全力で「歴史書」を創作するのです。
文字はイメージを固定します。多くの文字の中でも、「漢字」にはイメージを固定する呪縛性があるようです。例えば、「祀る」ということを表すには、「祭」と「穢」とで表現できます。「祭」は「歌や踊ることにより祀る」わけですが、「穢」は「犠牲を捧げることにより祀る」わけです。祀ることは同じであっても、「祭」と「穢」とは同じイメージではないでしょう。そうです、漢字には「貴賎」・「善悪」のイメージが元々潜んでいるのです。
例えば、「聖」という漢字の呪縛性は、「侵すべからず。正しいものである。」というイメージを与えます。だから、「聖」の漢字を使用した「ひと」や「もの」に対して、「疑うこと」はタブーとなるようです。例えば、「聖徳太子」や「聖書」などがそれです。「聖徳太子」のウソは、前節で述べましたので、ここでは「聖書」のウソについて考えてみましょう。
「旧約聖書」の物語を一度でも読んだことがあるひとは、異民族壊滅作戦の物語については、史実であってほしくない、と願わずにはいられないでしょう。では、旧約聖書の物語は本当に史実なのでしょうか。それに、消えたイスラエル十部族とユダヤ民族は、本当に同じ民族なのでしょうか。
紀元前十四世紀、鉄器文化を起した小アジアのヒッタイト帝国から、エジプトを目指す鍛冶集団がいました。その頃、エジプトでは、アメンホテプ4世(=イクナトン紀元前1377年〜紀元前1358年)が、独善的祭祀集団からの政治介入を逃れて、新都市アケトアテン造営のため、建設に携わる有能な職人を海外から招聘していたのです。
イクナトン王は、お妃をオリエントから迎いいれました。そのお妃は、オリエントで流行りの太陽神(ミトラ神)を信仰していたのです。その頃のエジプトでは、祭祀階級が勝手に神々を創造して王族や臣民をコントロールしていたので、イクナトン王は、その太陽神を唯一の神(アトン神)として、多神教を奉ずる祭祀階級を排除する宗教改革を強行したのです。そして、イクナトン王は、有能な外国人を高級官僚として迎い入れたため、祭祀階級だけではなく、元からの部下にも評判がよくなかったのです。
ヒッタイト帝国からの鍛冶集団は、その時勢に乗り高級官僚の地位まで上り詰めました。その鍛冶集団は「ヨセフ族」と呼ばれていました。
イクナトン王の強引な多神教から一神教への宗教改革は、不満分子を増加させていき、紀元前1358年まで持ちこたえるのが限度でした。そこで、イクナトン王の高級官僚のヨセフ族は、身の危険を感じてエジプトを脱出するわけです。(モーセの「出エジプト物語」は、それから約500年後のバビロニア幽囚後に創作されたものです。モーセの葦の揺り篭が河に流される物語は、古代メソポタミアのアッカドのサルゴン王(紀元前2350〜紀元前2294年)の物語にソックリです。それに、エジプト時代のヨセフ族は、日干しレンガを造る奴隷ではありません。古代エジプトでは、建築資材は「石」で、「日干しレンガ」は使いません。日干しレンガは、古代メソポタミアでの建築資材であるわけです。それに、古代エジプトではピラミッドや都市建設には、奴隷身分の者は参加できないのです。更に、モーセはいなかったことは、パトモス島のヨハネの黙示録の「666の謎」を解読したひとには、これ以上説明する必要はないでしょう。)
エジプトを脱出した頃には、部族が増えエフライム族とマナセ族の二部族となっていました。そして、イスラエルと呼ばれる地方に移り住むようになってから、その二部族はイスラエル民族と呼ばれるわけです。イスラエル民族は、元の鍛冶技術に加え、都市建設のテクノロジー、物流、労務管理、経理、会計記録、石物の建築技術(メーソン)、運河の掘削などの土木建築全般のノウハウをエジプトで修得していたのです。
シナイ半島を漂泊する鍛冶集団イスラエル民族に加わる部族が出現するのです。それがレビ族です。レビ族はイブリと呼ばれる漂泊する部族です。そのレビ族を加えたイスラエル民族は、エジプト軍が廃墟としたカナンの地に紀元前十一世紀に辿り着くのです。しかし、そのレビ族の祭祀アロンと結託したダビデによりの統一王国も、紀元前932年のソロモン王の死と伴に、イスラエル王国とユダ王国に分裂するわけです。元々、エフライム・マナセ族(太陽神アトン=ミトラ神)とレビ族(ヤハウェ)は異なる神を祀っていたわけですから、強力な統率者の存在がなければ、一緒に居られるはずはないでしょう。
イスラエル王国は多神教で、太陽神のシンボル牡牛やバアル神等を祀ったのに対し、ユダ王国は唯一神ヤハウェであるわけです。旧約聖書では、紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に敗れたのは、異教神を祀り、ヤハウェを祀らなかったからだと述べています。
イスラエル王国を飲み込んだアッシリア帝国も、紀元前625年にはメディア帝国に滅ぼされ、そのメディア帝国も紀元前550年に、アケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。
石物建設の技術を持ち、そして、太陽神を信仰し漂泊する鍛冶集団のイスラエル民族は、アッシリア帝国、メディア帝国、そしてアケメネス朝ペルシャ帝国の砂漠に、その歴史と伴に消えてしまうわけです。
それらの帝国には、共通する神の存在がありました。それは、ミトラ神です。ミトラ神の起源は定かではありませんが、紀元前19世紀にオリエントで発明されたようです。考古学的証拠では、紀元前14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都ボガズキョイ出土(1907年発掘)の条約文によりますと、印欧語族の一部がミトラ神を自らの宗教体系に取り入れていたようです。ミトラとは、「盟約」の意味を含み、崇高な光の世界を支配する陣営にあり、全てを見通す力を持ち、不正など世界の秩序を乱すあらゆる事柄に対する復讐者でもあるわけです。ですから、契約者はミトラ神に誓って契約を交わすわけです。この契約の履行を見守るミトラ神は、国際交易商人と伴に異教の世界に広がっていくわけです。
それがやがてオリエントの土着の宗教儀式を吸収して、太陽崇拝、牡牛を屠る祭儀、救世主思想、イニシエーションの密議(牛の肉を食べ、生血を飲むこと。)、七つの位階、占星術、そして火による密議(ゾロアスター教へ導出)などの儀式をおこなうミトラ教となっていくわけです。
そのような宗教環境のペルシャ帝国内を、エジプト時代から太陽神アトンを祀るイスラエル民族は流離うわけです。
一方のレビ族の末裔のユダ王国は、紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされてしまうわけです。そして、ユダヤ民族は、バビロニア王国で幽囚されてしまうわけです。そのバビロニア王国も、紀元前538年、ペルシャ帝国に滅ぼされてしまうわけです。この時代を前後して、レビ族の末裔は、「モーセ五書」の創作にとりかかるわけです。
約50年後に戻った時のカナンの地は、既に異民族が住んでいました。そこで、幽囚中にカナンの地を占拠していた先住民を追い出すために、神から授かった「旧約聖書」を改竄するわけです。その目的のひとつの、カナンの地の先住民を追い出すための「ヨベルの年」等の法律を、唯一神ヤハウェがユダヤ民族に与えたことを立証するために発明されたのが、「神との契約者=モーセ」というわけです。
紀元前6世紀のペルシャ帝国に、再び、ヨセフ族の末裔とレビ族の末裔が存在したわけですが、ヨセフ族の末裔のイスラエル十部族のその後は定かではありません。しかし、レビ族の末裔は紀元前515年、エルサレム寺院を再建するわけです。それが、今に続くユダヤ民族です。
では、日本版イスラエル民族の「秦氏」は、どのようにして日本列島に辿り着いたのでしょうか。
時代は飛んで、官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商のカースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。
鎌倉幕府を拓いた源氏は、新羅系の末裔です。その新羅の先は、中央ユーラシアの「ペルシャ帝国」と、紀元前六世紀、騎馬戦車で戦った「スキタイ」の流れを汲む騎馬民族鮮卑の一部族の拓跋部の末裔「元氏」を先祖としていたようです。
その中央ユーラシアから東ユーラシアを疾走する騎馬部族の流れは、「ジンギスカン義経説」の人気を支える要因のひとつのようです。騎馬民族ジンギスカン軍も騎馬民族義経一族も、同じ「笹リンドウ」を部族のシンボルとして戦をおこなっていたからです。新羅系日本人のDNAには、モンゴルの草原が「フルサト」として刷り込まれているからでしょうか。
では、騎馬民族とはどのような民族なのでしょうか。でも、騎馬民族の歴史を知ることは困難です。それは、漂泊する民族の特性として、歴史書をもたないからです。ですから、農耕民族であるヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)が書いた「ヒストリア」や農耕漢民族の司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年)による「史記」を基に推測するか、あるいは遺跡や考古物を基に推測する以外に方法がないからです。
しかし、農耕民族が書き残した「ヒストリア」や「史記」では、騎馬民族を、凶暴・残虐・略奪の民族として蔑視する視線で書かれているため、それを差し引いて推測する必要があるようです。
農耕民族の漢民族は中華意識により、胡(トルコ系遊牧民族)等の漂泊民族に対して、東夷(夷とは弓と矢をつがえる人間の形象。)、西戎(戎とは鉞で森林を伐採する山岳狩猟民族を指す。)、南蛮(蛮とは蛇竜などを背中、身体に文身刺青をする海洋漁労民を指す。)、そして北狄(狄とは獣の皮を身につけている民族を指す。)などの蔑称をつけていたのです。
騎馬民族の必需動物の馬の出現は、牛ほど確かではありません。牛は、紀元前二千年には、信仰の対象(ミトラ神のシンボル)として崇められていたことが粘土板に記録されています。しかし、馬は、信仰の対象とならなかったからか、記録に現われるのはずっと後のようです。
馬が棲息していたのは、ステップ草原地帯です。ウクライナのデレイフカ遺跡出土の馬頭骨は、紀元前四千年と言われていますが、どうも信憑性に欠けるようです。
オリエント諸国に馬をもたらしたのは、カッシートなどの山地牧畜民のようです。そして、馬と戦車が結びついたのは、紀元前二千年のメソポタミアの北方のミタンニ王国のようです。そのミタンニ王国からヒッタイト帝国、アッシリア帝国そして紀元前六世紀にアケメネス朝ペルシャへ騎馬戦車が引き継がれていくわけです。そのペルシャ帝国に対峙するスキタイも騎馬戦車を駆使して中央ユーラシアを支配していたのです。
騎馬民族スキタイは、民族名ではなく、国家名です。ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、スキタイ国は、農耕・通商・航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、草原地帯に住む遊牧民、そして草原で天幕生活をする支配部族(鎌倉幕府の幕府とは天幕の意味。)を中心としての異部族の「かたまり」であるようです。
この騎馬民族のスキタイ国の国家運営方法は、商社主導の連合国家とも考えることができるようです。本社機能が草原の天幕にあり、農業や牧畜をおこなう生産支社が各地にあり、それらの支社を運営する支社長が現地部族長というわけです。
騎馬民族国家とは、別の見方では、生産に携わるのではなく、情報を操作して物流で稼ぐ国際商社とも考える事が出来るでしょう。支配民族に対して、軍事、警察、そして外交をおこなうことで、更に、囲郭のある都市を草原に造り、そこに技能者とくに平和時には農具などを造り、戦争時には武器が造れる鍛冶集団を、そして、異部族を統制するための、そして他民族国家の情報を収集させるための宗教者などを集めて住まわせ、そこを兵站基地として支配地域を拡大して行ったのです。
そのような商社機能を持った騎馬民族が、市場拡大のため、騎馬戦車などを武器として、他国を侵略するわけです。そこで当然、戦争も起こるわけです。しかし、戦争をおこなうのは最後の手段で、大抵は現地の部族長と婚姻関係を結んで支配地を拡大して行ったのです。そのためか、スキタイでは、騎馬戦車が幌馬車へ変身し、ひとや荷物を大量に早く運ぶものになっていくわけです。
この紀元前二千年オリエントで発明された騎馬戦車が、ユーラシアの草原を東に進み、紀元前十四世紀の殷商後期の遺跡から古代騎馬戦車が出土しているのです。
古代の世界は、現在のひと達が考えているより狭いのです。そのように考えられないのは、タクラマカン砂漠を駱駝の商隊が歩む、テレビ番組の「シルクロード」の刷り込みにあよるようです。
地球の北半球の大陸を、三層のケーキに譬えるなら、真中がオアシス国家などがある乾燥地帯で、その下が湿気の多い照葉・熱帯樹林地帯で、そして、一番上が草原・針葉樹林地帯です。その一番上のケーキがユーラシアの概念です。つまり、東は太平洋、そして西は大西洋までの地がユーラシア大陸なのです。
ヨーロッパから中国までの商業ルートは、その三層にそれぞれあるわけです。砂漠ルート、南洋海路ルート、そして草原ステップルートです。東西貿易ルートとしては、その三ルートがあるのに、何を意図してか、テレビ番組は定期的に「シルクロード」番組を制作・放映しているのです。
シルクロードは、前漢の武帝(紀元前141年〜紀元前87年)に開発されたのではなく、ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンが、十九世紀末に、西と東とは「絹の道」で繋がれていたらいいな、という思いで、「ザイデン・シュトラーゼ」と書いてしまったことに始まるのです。つまり、シルクロードは十九世紀末に発明された言葉なのです。(砂漠ルート「シルクロード」のオアシス国家は、元々匈奴(紀元前三世紀〜一世紀)が支配していたのを、前漢の武帝が、武力でそのオアシス国家を匈奴から略奪したにすぎません。このことを歴史書はシルクロードの始まりとしているのです。)
貿易は効率を大切にします。砂漠を何十ヶ月、或は何年もかけるよりも、海路で行けば、大量の荷物を傷つけずに短期間で運べます。草原ルートでしたら、海難事故もなく、馬車で短期間で運べます。冬にでもなれば、馬車そりを使えば、草原は高速道路に早や代わりします。
しかし、海洋民族も騎馬民族も、漂泊性のため、歴史書を持っておりませんから、そのような南海ルートや草原ルートは歴史書に記述されることもありません。
そのような、二つのルートからも、日本列島に歴史以前の時代から色々な部族や文化が流れ込んでくるわけです。
秦氏の末裔の島津氏や弾家を優遇した騎馬民族の鎌倉源氏も、元を正せば、その草原ルートからの渡来人であるわけです。その源氏に敗れた海洋民族の平氏も、南海ルートからの渡来人であるわけです。中国で言う「南船北馬」とはよくいったものです。
では、それらの異なる民族は、戦いの時、どのような識別方法を持っていたのでしょうか。その識別方法を知ることにより、その部族の出自を知るヒントが得られるでしょう。
源平時代の軍事部族は、白旗(源氏:ペルシャ→突厥→新羅)と赤旗(平氏:フェニキア→インド→百済)で敵味方を識別していました。それが、戦国時代になると、部族を表す「家紋」が突然現われるのです。その発祥地は何所かと言えば、それはオリエントからです。ですから、それらの家紋は、オリエント周辺の動植物や漂泊民族が崇拝する星月などを基にデザインされているのです。「十六花弁のキク」も、その源を正せば、オリエント(ペルシャ)原産であるわけです。戦国時代に突然現われた軍事部族のシンボルとしての「家紋」は、古代オリエントでの戦いに敗れた軍族や進駐軍の傭兵が、その部族のシンボルと伴に、砂漠ルート、南海ルート、そして草原ルートにより、歴史書以前から日本列島にもたらしていたのでしょう。
しかし、家紋はオリエント時代のままではなく、改造することもあったようです。その一例として、島津氏と弾家の家紋は、元は「丸」がなくて、ただの「十字」であったようです。この「十字」家紋は、何をシンボルとしていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀の朝鮮半島に小さな国として誕生した新羅から、五世紀には、北九州に秦王国を築いていたようです。では、その北九州の秦王国を拓いた秦氏を先祖に持つ、島津氏と弾家、「士族と賎民」との差別は、一体どのようにして発生したのでしょうか。
その差別の謎を解くヒントは、北九州の秦王国と平安時代の大乗仏教との関係にあるようです。

「キサマ!それでも日本人か!」
「何所の馬の骨か分らぬ奴!」
「クダラヌ奴!」
平安の都で、罵声が飛び交っています。
罵声を浴びせているのは百済系日本人、浴びせられているのが新羅系日本人と秦人達です。
歴史教科書が言うように平安時代は、その漢字の意味とは異なり、実際は、藤原氏と百済系日本人以外には、「平安」ではなかったようです。この時代から「鬼」や「妖怪」が、日本国に出現するわけです。それは、822年に完成の、仏教宣伝パンフレット「日本霊異記」などで、仏教僧が妖怪物語を庶民にひろめた結果によるのです。では、鬼や妖怪の実態は何かといえば、それらは、朝廷にまつろわない漂泊民族や天を祀る道教士達であるわけです。
延暦十五年(796年)、平安遷都から二年目、桓武天皇は、風紀を乱すという名目で、「星祭」の禁令を発します。引き続き、その三年後の延暦十八年、京都近郷の百姓が、斎王(神を世話する巫女)が伊勢斎宮へ入御する日に、北辰を祀ってはならぬと厳しく通達を出しています。北辰(北極星)とは、道教の神で天武天皇が最も崇拝する星であるわけです。
その発令の裏で、桓武天皇は、延暦十六年(797年)、「斎内親王葛野川(桂川)に祓い、すなわち移りて野宮に入る」、とあるように伊勢斎王の潔斎所を死穢の地(墓地)に設けるわけです。平安時代では、大乗仏教思想により、死は穢れで、その穢れを葬る墓地は、穢れの最たる所であるわけです。
何故、桓武天皇は、伊勢神宮の聖所である潔斎所を、そのような穢れた場所にわざわざ設けなければならなかったのでしょうか。
そもそも、斎王派遣の制度を始めたのは、壬申の乱(672年)で百済系天智天皇の皇子(後の弘文天皇)を滅ぼした新羅系天武天皇からです。その天武天皇が始めた制度を否定したことは、その時点で、天武天皇系貴族の没落を意味しています。
更に、桓武天皇は、驚くべき事を、延暦四年(785年)に既に行っていたのです。それは、天神を交野(百済亡命貴族の居留地)の柏原に祀っていたからです。唐制の天神の祀りでは、遠い祖先の高祖あるいは太祖を置くのですが、桓武天皇は、日本書紀にある「天照大神」か「神武天皇」を置くべきところを、なんと父親の「百済系光仁天皇」を置いていたのです。これは、光仁天皇から「新しい王朝」が始まったことを公に主張していることになるわけです。
更に、平安時代から「天皇は男」でなければならないことになるのです。つまり、第四十八代称徳天皇(天武王朝)までは「女帝でも可」であったのが、平安時代から「天皇は男」のみとなるのです。それは、藤原氏の陰謀です。その意味は、大嘗祭(壬申の乱後、天武天皇が始めた、先帝から王権を引き継ぐ一世一代の再生儀式。天津神と国津神の聖婚。)を毎年行うことにより、天皇に聖婚させるための斎王(巫女。藤原氏の女)を捧げることができる為です。歴代の天皇の側室(場合によっては皇后となる。)に藤原氏の女が多くいるのはそのためです。
では、その百済系光仁天皇とその子供の桓武天皇は、どのようにして天皇になったのでしょうか。
桓武天皇の父白壁王(後の光仁天皇)は百済系皇族でしたが、無位の時代が長く続くのです。名もない百済系下級書記官の娘高野新笠を娶り、山部王(後の桓武天皇)が生まれた時に、白壁王は無官から、やっと従四位下に叙せられたばかりでした。この白壁王に目を付けたのが藤原式家の良継でした。藤原良継は、皇位継承権利者である天武天皇の血を引く井上皇后とその息子他戸(おさべ)皇太子を無実の罪で殺害し、白壁王を光仁天皇とするのです。
藤原氏は、藤原氏の基本戦略「夷を以って、夷を制す。」により、日本国乗っ取りの為、この百済系天皇親子(夷)を使い「ニッポン化計画」を実行に移すわけです。その戦略は、飛鳥時代の藤原不比等(天武天皇から左遷されたひと。)により計画されていたものです。それは、藤原氏が、神としての天皇を裏から直接コントロールすることにより、日本国の庶民を間接的にコントロールすることです。
それには、私権を公権にする「装置としての儀式」が必要です。そして、その公権に権威をつけるためには「歴史」(歴史書とは客観を装った主観的物語)が必要です。(藤原不比等は、そのために720年に「日本書紀」を創作していた。その呪縛は現在も健在。)
藤原氏は、儀式としての装置として、仏教(インド・バラモン僧によるヒンズー教化仏教の開発=公費留学僧・最澄の天台宗と聖徳太子の出現。私費留学僧・真言宗の空海は秦氏の末裔のため、桓武天皇から嫌われていたので、桓武天皇崩御まで京都を避けていた。)と神道(天武天皇崩御後、藤原氏と関係が深い中臣氏が開発した中臣神道で、伊勢神宮を支配。)を利用するのです。そのためには、飛鳥時代からの「道教」と「景教」は邪魔な存在です。更に、それらの神を祀る新羅系日本人と秦人も邪魔な存在です。そこで、新羅系日本人と秦人を政権中央から追い出すのです。そのための装置として、814年に「新撰姓氏録」を創作して、「皇・神・蕃(渡来人)」の序列を造り、貴族と賎民とを創り出すのです。(しかし、実際には「皇」も「神」も渡来人です。)勿論、藤原氏と百済系日本人は「皇」の貴種(貴族)となるのです。(ここから現在の皇族の歴史が始まる。)そして、道教の観は「神社」に、そして景教寺(十字寺)は「仏寺」に改造させるのです。(光仁・桓武天皇親子は、「道鏡事件」の主犯の和気清麻呂を使い、北九州の宇佐八幡を乗っ取り、その地の無数の仏閣を解体し、瀬戸内海から船で奈良・京都に運び、道観や景教寺を壊し、それらの地で秦王国の仏閣を組立てるわけです。その和気清麻呂が、桓武天皇に平安京(京都)遷都を進言するのです。)
景教とは秦氏の宗教です。景教の「景」とは、日の京を意味します。それは太陽を祀る国を目指す教えであるわけです。(早朝のお天道様を祀ること。)日本列島に無数に存在する景教の祀り所は、権力の目を誤魔化すために、「稲荷」(表向き「イナリ」と読ませる。)としてカモフラージュするわけです。その意味は、先祖を祀る「塚」つまり「ジュガ=つか」が、「稲(ジュ)荷(ガ)」、つまり「稲荷神社」となるわけです。そして、秦氏のトーテムの「狼」は「狐」に化けるわけです。
そして、秦一族は、権力からの弾圧を避けるため自ら出自を隠し、秦の氏名を、ニッポン名(中国式の一文字から、上・中・下・山・川・田などを加えて二文字にすること。)に替えるのです。それは、645年の蘇我王朝滅亡以降から始まるのです。
そして飛鳥時代の権力者、あの聖徳太子のブレーンと言われている秦氏の統領の秦河勝の墓(大阪・寝屋川に存在)も、秦氏の支配地だった京都(山城国)の地にはないのです。これは何を意味しているのでしょうか。
そして、その秦氏のニッポン名は、「ハタ・パタ」畑、端、畠、渡を基本として、羽田、波多、波蛇、八田、半田、矢田、秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、八幡、服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡へと、時代の激変時(平安・鎌倉・戦国時代)に改名されていくのです。日本国における苗字の流れとしては、飛鳥・奈良時代:氏(うじ)=血縁・地縁名→姓(かばね)=家格名。平安時代:字名(あざな)=私有地名→名字(みょうじ)=家名と変化していくわけです。
では、その秦氏は、いつ何所から日本列島に渡来したというのでしょうか。新撰姓氏録では応神天皇十四年、融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化、とあるようですが、その渡来時期は本当なのでしょうか。(言葉や文字は、「日本書紀」のように無限にウソをつくことができます。)
では、秦氏はいつ何所から渡来したというのでしょうか。本当のことは謎の中のようですが、教科書歴史が述べる朝鮮半島からだけの渡来とは異なり、ロシア草原ルートの北からの渡来もあったようです。秦氏は、新撰姓氏録が言うように、秦始皇帝の末裔どころか、もっと西の方から日本列島に長い時間を掛けて渡来してきたようです。
飛鳥時代以前(推古天皇以前)の歴史は、多人長(秦氏の末裔)が812年に創作した古事記の暗号が理解できなければ、藤原氏の陰謀策略(聖徳太子・中臣鎌足・大化の改新の創作による蘇我王朝の抹殺)により、殆ど分らないのが現状のようです。
いや違う、古代の歴史を知るには「日本書紀」があるではないか、と言っても、それは藤原不比等が720年にプロデュースし完成したもので、飛鳥時代の真実を語っているとは信じることはできません。
しかし、「書籍」は無限にウソをつくことが可能ですが、「自然」はウソをつくことがきません。
ひとは誰でも、仙人とは異なり、霞みを食べて生きていくことはできません。そこで、その部族が暮している自然環境に合わせて食生活を営むわけです。その異なる食生活により部族を分けるとすれば、三つです。農耕民部族、漁労採取民部族、そして牧畜民部族です。
そのような三種類の食生活により、日本列島渡来部族を時系列に眺めてみますと、縄文時代の漁労採取部族、弥生時代の農耕部族、そして古墳時代の牧畜部族が考えられるでしょう。
魚介類の渡来ルート特定は困難のようですが、野菜・穀類は可能です。それは、野菜や穀類は、野生植物とは異なり、ひとの世話なくしては育たないからです。
日本列島は、二つの文化圏に分けることが出来ます。それは、名古屋以南の照葉樹林文化圏と名古屋以北の落葉樹林文化圏です。それら二つの文化圏の植生は異なります。
オオムギは世界中で栽培されていますが、大きく分けると、二つに収束します。それは、東洋型(E型)と西洋型(W型)です。
E型の分布の流れは、チベット→ヒマラヤ高地→中国→日本列島中南部(名古屋以南)です。そして、W型の分布の流れは、ヨーロッパ→アフリカ北部→西アジア→インド平原→シベリア→満州→日本列島東北部(名古屋以北)です。
日本列島には昔から、出自の異なる二種類のオオムギが栽培されていたのです。それは、日本列島には、「南」と「北」の二つの渡来ルートがあったことを示唆しているようです。
その他の渡来穀物である、ソバ、ヒエ、アワ、イネ、野菜類のサトイモ、ヒョウタン、マクワウリは、弥生時代に華南から渡来したひと達(海洋民族)と伴に、日本列島照葉樹林文化圏に伝播したものです。
しかし、不思議なのは、中央アジア原産の野菜類が、京都の地(山城国)で栽培されているのです。それも、奈良時代以前からのようです。それらは、胡麻(ごま)、胡葱(ねぎ)、胡瓜(きゅうり)、そして人参です。(京都では金時ニンジンといわれている。漢民族はペルシャ渡来の物やひとには「胡」の漢字をつけて識別していた。)
馬の好物の人参は、肉の臭みを消すので、遊牧民族には好まれる野菜です。でも、中国大陸の農耕民の漢民族は人参を好まないため、中国では長く栽培されることはなかったようです。(現在は、西洋ニンジンを栽培している。)
その中央アジア原産の人参が京都の地で、奈良時代以前から栽培されていたことは、奈良時代以前から中央アジアから渡来して来た部族が暮らしていたことを示唆します。
そして、平安時代になると、そのキュウリ(胡瓜)は、ゲスな野菜に落されてしまうのです。(そのゲスのキュウリは、道教の水神の馴れの果て「カッパ=間の抜けた妖怪」の好物とされてしまうのです。これは手の込んだイジメである。)
そのキュウリは、祇園さんの「神紋」となっているのです。祇園さんは、牛頭天皇を祀ります。牛頭とは、氏神でもあるわけです。そして、山背国(桓武天皇は、その地が山に囲まれ要塞化していることで、「山城国」と名付けた。)を拓いた秦氏の氏寺の大秦寺(景教寺)は、魔多羅神による「牛祭り」を行っています。
平安時代初期には、山城国では氏神を祀るため、牛を犠牲にしていたことは、804年に牛の屠殺禁止令が出でいることで理解できるでしょう。
その祇園御霊会において「牛頭天皇の神輿」が、京都御所の近くに来ると、神輿違御幸(みこしたがえのみゆき)と称して、天皇や皇族達は、穢れを避けるため一時凌ぎに都から避難していました。つまり、「牛頭天皇の神輿」は、「穢れの神」「疫病神」であったわけです。これが後に、中臣神道の「清目(キヨメ)の思想」により、「お祓い」の儀式が開発されると、清目のために「水」や「塩」を「穢れた神輿」に撒くことになるわけです。
京都の先住民の氏神が、「穢れ神」であるのなら、その氏子も「穢れびと」であるわけです。その氏子達を、「何所のウマの骨」扱いをすることは、京都の貴族達(藤原氏・百済系日本人)は、先住民(秦人・新羅系日本人)の出自を、騎馬民族であることを知っていたからでしょう。
穢れ(インド・カースト思想)は、平安時代に、朝廷にまつろわない騎馬民族・漁労民族を貶める目的に、藤原氏が、庶民のためではなく鎮護国家の目的のため、「ヒンズー教化仏教=貴族仏教」と「中臣神道=貴族神道」を使い、貴族達に広めた思想です。
この穢れ思想は、平安末期になると、都の貴族が没落したため、貴族のスポンサーを失った仏教教団は武士団や庶民へ布教を広げたため、全国に広がっていくのです。つまり、日本国における民族的差別(イジメ)は、平安の京都から始まったのです。
しかし、その秦人が、西域から日本列島に渡来していなかったら、日本の文化・技術は萌芽しなかったでしょう。  

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コメント
1. 中川隆[-9267] koaQ7Jey 2019年6月27日 15:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3235] 報告
秦氏は Y-DNA がO2 だから長江系稲作民だよ

オリエントのユダヤ人やセム人の Y-DNA は J と E だから秦氏とは何の関係も無い:

ユダヤは 二つに分かれる 
 アシュケナジー(白人) スファラディー(黄色)


スファラディーは父系・母系共 古代ユダヤ人で Y-DNA は J と E

アシュケナジーは父系だけ古代ユダヤ人で Y-DNA は J と E
母系はヨーロッパ女性

日本人の Y-DNA は O と D, C だからユダヤ人の遺伝子は全く入っていない

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