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神輿の黙示録(1)(日本人とは何者か)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/829.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:32:08: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: ローマ文化王国−新羅  由水常雄著(新潮社) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 17 日 01:34:55)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/ziritsu.html#1-24

(略)

ここでは日本について考えてみることにしましょう。そう言っても、学校で日本について社会科や歴史の教科で学習したから、今更調べる必要などない、と思っているひともいることでしょう。
しかし、学校等で学習した情報は、庶民(王権の子孫ではないひと。王権の子孫は嫡民。)にとって本当に正しいものなのでしょうか。
二十一世紀に入り、軍事大国米国は、イラクを先制攻撃しフセイン政権を打倒しました。勝利宣言をしたブシュジュニァは、記者会見で、新生イラク統治の疑問を発した記者に対して、「百五十年前の日本の統治のように上手くいく。」と自信ありげに答えました。
百五十年前?
勉強があまり得意ではなかったブシュジュニァのことだから、太平洋戦争後の日本統治の五十年前を、百年多く言い間違えたのだろとの新聞記事が掲載されたものです。
本当に新聞記事の言うように単なる言い間違えなのでしょうか。百五十年前と言えば、丁度「明治維新」の頃です。
エール大学の秘密結社スカル&ボーンの結社員であるブシュジュニァは、明治維新の闇の部分を知っていたからの発言ではなかったのでしょうか。
闇の世界に興味のあるひと達が囁いていることがあります。
日本国の旧五千円札と米国の一ドル紙幣を用意して下さい。まず、五千円札の裏にある逆さ富士を眺めてください。一般的常識では、湖面は鏡と同じで、対象物はシンメトリーとなって映し出されるはずです。五千円札を逆さにして湖面に映る富士山を眺めて下さい。それは富士山に見えますか。あるひとが言いました。それはシナイ山だ。
日本国の経済の血液である紙幣に、外国の山がサブリミナルで掲載されている、と言うひともいます。
紙幣が国の経済の血液であれば、政治の骨格は国会議事堂でしょう。国会議事堂と言えば、あの独特の屋根を思い浮かべるでしょう。では、あの屋根を設計したひとは誰なのでしょうか。それが分らないのです。百年も経っていないのに、誰があの屋根を設計したのか分らないのです。でも、設計公募により採用されたデザインによれば、その屋根はドームであったのです。誰かが何かの目的で、屋根のデザインをドームからピラミッドに変更したわけです。ピラミッドは王家の墓場です。そこで、米国一ドル紙幣の裏を見てください。そこには、上部に目があるピラミッドがあります。このピラミッドは、世界的ネットワークを持つ結社のマークと言われています。
五千円札を発行しているのは株式会社日本銀行です。その株の三十八%保有しているところがあります。それはイングランド銀行だと言われています。株式投資を行なっているひとなら分ると思いますが、ある会社の株の四十%を保有していれば、その会社は連結決算の対象となり、一般的には、その会社は「子会社」と呼ばれています。
時代の夜明と言われている、「明治維新」の闇の世界で一体何があったのでしょうか。
この国には確かに闇の部分があるようです。その闇は、庶民に対して陰湿なイジメの基のように感じられます。そのイジメの戦略は、「夷をもって夷を制す。」と言う中華主義そのもののようです。それは、その王権も庶民も四世紀から七世紀の間に、中国大陸や朝鮮半島から渡来した民族だからのようです。つまり、中華式統制は、「八色の姓」でひとの貴賎を差別し、「新撰姓氏録」で出自の差別をするという制度的で、北面するキタナイ庶民がキタナイ庶民をイジメルのを南面する嫡民が遠くで眺める図式です。
これは中華思想によるもので、王権にあって「君子は南面す。」であり、王城の北に位置し、南面することを許されざる者=北に座所をもてない者が、「北無し」つまり、「ヨゴレモノ」で王権傘下のひとでない者であるわけです。大乗仏教と供に中華思想が侵略してくる前の「倭国」(シャーマニズムの世界。巫女(女)が神とコンタクトする女尊男卑の母系社会。呪術カラー赤色。)では神の位置は東西であったのが、倭国改め七世紀に「日本国」(ヒンズー教化した仏教の世界。僧侶(男)が仏とコンタクトする男尊女卑の父系社会。呪術カラー金色。)となってからは神の位置は南北になっている。北は夷(えびす)の棲む蝦夷の国であるのです。
そして、そのイジメの図式(王権にまつろわぬ者→キタナキ者→ヨゴレ者→穢れ者→エンガチョ)は、現在では普通の小学校や普通の会社でよくみられるようです。そのイジメのカラクリを知るには、日本国の歴史を別の角度(庶民側・敗者側)から眺めることです。そして、その闇の扉を開けるヒントは、お祭りの神輿にあるようです。そこで、神輿について調べることにより、この国の闇の部分に、微かではあるけれども光を投じてみることにしましょう。
この国で出世を望むなら、「本音と建前」のテクニックを修得しておく必要があります。出世とは、「ハレ」の場に出ることで、それは高貴な公家衆の前にかしこまることです。庶民の前ではなく、公人や殿上人の前に出ることが「ハレ」で、このことを「世に出る」、つまり、この国での「出世」と言われている本当の意味です。
「本音と建前」とは、本質を言えば、「本当とウソ」のことです。この国では、「ハレ」の場では「本音」はタブーで、「建前」で話さないと「出世」できないのです。
今のように時間潰しの色々な遊技がない頃の日本国では、子供達の楽しみのひとつは秋祭りでした。子供の頃から不思議に思っていたことがありました。それは、祭りでの神輿のことです。威勢よく街路をワッセワッセと練り歩く神輿に向かって、見物人が「水」や「塩」を撒いていたのです。誰かが歌っていた祭りの歌の歌詞の中で、「景気をつけろ、水撒いておくれ、塩撒いておくれ、ワッショイワッショイ、ソレソレソレお祭りだぁ。」というのがありました。しかし、子供の頃の神輿の思い出は、景気付けのための「水」や「塩」ではないように感じていたものでした。
神社へ行くと、本殿の裏にみすぼらしく今にも朽ち果てそうな祠がありました。そのような配置は、あらゆる神社で目撃することができました。本殿の裏の湿気の多い場所にいる神様は一体誰なのか、疑問に思っていたものです。
神輿が日本の記録に現われるのは、天平勝宝四年(752年)奈良の大仏(大ビルシャナ仏=太陽の神)建立にあたり、宇佐八幡を勧請する祭聖武帝の常輿のほうれんをもって代行した時とされています。
宇佐八幡が神輿の日本国におけるルーツだとしたら、その神輿に祭られている神様は誰なのでしょうか。現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后そして宗像の三姫神と言われていますが、それは「建前」で、「本音」は、延喜式(905年から927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とあるそうです。
では、宇佐八幡の意味はどのようなものかと言えば、宇佐氏とは海部出身で「ウサ」とは「スサ」即ち産鉄民族系の意味で、それが基で地名となったようです。これは、京都の山背の「太秦」と同じで、「うず」とは「宇豆」(偉大、尊いなどの意味)で、「まさ」は「勝」で「すぐり」つまり、朝鮮の「村長」の意味です。ですから「太秦」とは、秦氏一族の勝(すぐり)の偉大な統領が住んだ地を表しているわけです。
では、八幡とは何を意味しているのでしょうか。八幡は「はちまん」ではなく、古名では「やはた」です。「八」は末に広がる多さを表し、「幡」は「秦」を表し、「八幡」とは秦一族か栄えることを願う意味です。更に、「幡」は「秦」で、「秦氏」は「新羅」からの渡来者です。すなわち、八幡の神は朝鮮半島から渡来した外来神であるわけです。
新羅の呪術カラーは白です。鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じ、源氏の旗を「白」とし、守護神を八幡神としたのもそのためなのです。
八幡神社は全国に約二万四千あるそうです。日本国で一番多いのは稲荷社で約三万五千と言われています。「稲荷」も「夷なり」で、渡来神のようです。(その頃の中央にいた大乗仏教も渡来神です。日本国の神の多くは渡来神です。)
この新羅の神は、七世紀に日本国を金ピカの「大乗仏教」をバックに支配した百済系氏族により中央から追い落とされていくわけです。
童歌(こどもの歌ではなく、闘いに破れたひとたち、つまり、王権から子ども扱いされたひとたちの哀歌)の「とうりゃんせ」がこのことをよく表しています。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ。ご用のない者とうしゃせぬ。行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ。」
この童歌からも分るように、王権から庶民に落とされたひとたちは、自分達の氏神様にもおいそれとはお参りもできなかったようです。
童謡の歌詞の「建前」ではなく「本音」を知ると、思わずゾッとするものが多くあるのは、庶民が「ハレ」の場所から、湿っけの多い場所「け」に追い落とされた怨念が込められているからでしょうか。
では、新羅や百済とはどのような民族なのでしょうか。それらの民族は元々朝鮮半島に居たわけではなく、新羅(騎馬系民族。太陽「ラー」を信仰。「白」を民族カラーとする。)は西アジアから陸路で半島に辿り着き、百済(海洋系民族。海照「アマテル」を信仰。「赤」を民族カラーとする。)はインド周辺から海路で半島に辿り着いたようです。
倭国は元々海洋民族(ワダツミ)で、北九州と朝鮮半島南部がテリトリーであったので、663年の白村江の闘いでは、倭軍は百済と同盟し、唐・新羅軍と闘い敗れるわけです。そして、倭国は670年には中国の歴史から消滅し、それに替わって「日本国」が現われるわけです。
朝鮮半島での百済国は滅亡しても、コロニーである日本国内の百済系氏族は健在です。白村江の闘いで勝利した唐軍が日本列島に侵攻してくるから、国内の華僑や出自が異なる民族が団結して、倭国王家の基に「日本国」が創られた、というのが歴史的通説のようですが、果たして「本音」はどうなのでしょうか。
七世紀に新生「日本国」が誕生し「近江律令」(668年)などで政治制度が変わったからと言って、民族の血の流れが変わるわけではありません。この国には、「赤」「白」「金」それに「黒」を民族カラーとする集団が存在しているのです。「黒」は、「黒幕」と言えば、事件の背後にいる表にでないひとのことを言うように、正体不明の民族です。
新生日本国が誕生する背景には、仏教による神への勝利があります。激しい戦いの後、神は生き残るため仏の軍門に下り、本地垂迹説が展開されるわけです。神は本来の「血による祭儀」を殺生禁止の仏教に否定され、「火による祭儀」に変化させられていくわけです。
「血による祭儀」とは、祟りを静める儀式であるわけで、仏教によりその儀式が否定されても、その儀式は違う形で生き延びていくわけです。それが宿神であるわけです。神と交流し彷徨える魂(祟り)を静める「宿神」には三つあります。それらは、部落の宿神、能の宿神そして天皇の宿神です。
当時の先進国中国大陸での宗教の始まりは、母系氏族社会において、生き残るために氏族の結束を目的に、日常生活における問題点を解決するためのひとつの手段として自然発生したものです。その信仰(しがみ付く)対象として、自然崇拝、トーテム崇拝、天神崇拝、祖先崇拝などですが、母系社会制度の中で最も特徴的なのは女性崇拝です。女性特有の感情の激しさ、その逆の優しさは、まさに自然そのものです。
その母系氏族の生き方の中から、道家、道教そして神仙の学が現われてくるわけです。
氏族が小規模の部落として暮らしているならば、自然を崇拝しそれに従っていればよかったものが、人口の増加で暮らしのために自然を克服する必要性が生じてくるわけです。そのひとつが、農地の確保のための治水事業です。その治水事業とは、自然に闘いを挑むことになるのです。そこで力の強いものが、氏族を統率することになるのです。それがやがて父系氏族を生み、そして父権家長制の階級社会へと移行していくわけです。
自然に随う母系氏族を源とする道家、道教そして神仙学から、自然に挑戦する父系氏族から厳しい刑法や繁雑な礼儀などにより統制を行なう宗法礼教が確立され、女尊男卑の世界から、男尊女卑の世界と変化し、その流れから儒教が現われるわけです。そのような宗教の変革の流れが、後進国である日本列島に渡来人達により断続的にもたらされるわけです。
そして、日本国が誕生する前に渡来した神(仏)が大乗仏教というわけです。しかし、その仏教も何かの闇があるようです。
宗教とはひとにとって何なのでしょうか。
宗教は、一方ではひとびとの苦難を救うための手段でもあるわけですが、もう一方ではひとびととの争いの基(宗教戦争)や差別の基にもなるわけです。そのような、宗教の本質は一体何なのでしょうか。
宗教を別の見方から考えれば、それは、日常生活における行動の規範を決める「教え」を無条件に信じることです。このことは、王権側にとっては、最大の武器となるのです。つまり、武力を使うこともなしに庶民を思いのままにコントロールすることができるからです。
日本国での律令制下では、仏教は鎮護国家のための武器でした。その時代の「穢れ」とは、国家の秩序を乱す者のことでした。しかし、平安末期に仏教が民衆に広がっていくと、その「穢れ」の思想が、「不具者・ライ病者」への差別に変化してしまうわけです。その差別の原因のひとつが、「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

大乗仏教の布教により、この「法華経」の「業の思想」が一般民衆に浸透すると日常生活の規範として「不具者・ライ病者」が、律令国家では「穢れ者」ではなかったものが、平安末期(藤原氏の時代)には「穢れ者」になってしまうわけです。ここにこの国における「穢多」の差別の芽生えがあるわけです。
「穢」の意味には本来は「ケガレ」の意味はなかったようです。穢の本来の意味は、「神をまつる。」ということです。「穢」から稲の意味の禾偏を除いた「歳」は年、祭そして祀と同じに「神をまつる」という意味です。しかし、その祭る方法がことなるのです。「歳」は犠牲を用い、それに対して「年」は舞によりまつるのです。
では、日本国に渡来した「仏教」とはそもそも何なのでしょうか。その日本国に渡来した仏教の闇をかすかに照らす光は、弥勒菩薩にあるようです。弥勒菩薩とは何かと言えば、「建前」では、釈迦牟尼世尊(釈迦族の福徳ある聖者=ブッダ)に次いでブッダ(悟った人或は目覚めた人)になると約束された菩薩(悟りを求めて修行する人)で、兜率天(とそつてん)に住し、釈尊(釈迦牟尼世尊の略)入滅後、56億7千万年後にこの世に下生して、竜華三会により衆生をことごとく済度するという未来仏ということになっています。しかし、「本音」を言えば、弥勒菩薩とはインドでは「マイトレーヤ」と言われ、実はミトラ教の神様なのです。
宗教に興味がないひとも、キリストの誕生日を知っているでしょう。その12月25日(クリスマスの日と言われている。)は、実はミトラの誕生祭の日なのです。
世界的宗教であるユダヤ・キリスト教と大乗仏教に影響を与えている「ミトラ教」とは一体何なのでしょうか。
ミトラ教の起源は、古代メソポタミアに遡れます。ミトラ教は太陽を崇拝し、牡牛を犠牲に捧げる祭儀を持ち、太陽の死と再生の分岐点である冬至はミトラ誕生に相応しい日としているのです。
この冬至の死と再生復活の儀式は、時空を越えて、日本の天皇家の皇位継承である大嘗祭(太陽崇拝の新羅系の第二代天皇の天武天皇が初めてこの儀式を行ったと言われている。第一代天皇の天智天皇は百済系。)に影響を与えています。「建前」では、大嘗祭は収穫祭ということになっているようですが、「本音」は新たに位につかれた天皇が、皇祖天照大神の寝床の枕もとで、神様に食事をさしあげる儀式で、天皇が一代で一度だけ執り行う、亡くなられた天皇が新たに再生するという儀式のようです。もし、単なる収穫祭なら何故「秋」に行わないのでしょうか。陰暦の11月の上巳は冬のまんなか(冬至)の月、つまり「冬」であるわけです。
太陽を崇拝し、牡牛の犠牲を捧げるミトラ教の特徴のひとつは、救世主(メシア)思想と結びついていることです。この思想は苦難にある民衆を惹きつける力が強いため、ミトラ教の思想はあらゆる宗教に取り入れられていくわけです。
古ミトラ教では、三人の神(アフラ・ミトラ・アバムナバート)を崇拝していたのが、拝火教のゾロアスター教(古ミトラ教から分離)により、善神アフラマズダと悪神アーリマンの二元論になっていくわけです。この二元論が、天国(極楽)と地獄の思想を創り出して行くわけです。しかし、三人の神の三原論は、ユダヤ・キリスト教(父と子と聖霊)や日本の神社(三者祭)に受け継がれていくのです。
ローマ帝国での布教を成功させたミトラ教も、新興宗教であるユダヤ・キリスト教がユスティニアス帝と結びつくことにより、311年にユダヤ・キリスト教の寛容令が出ることにより、その組織はユダヤ・キリスト教徒達により地上から抹殺されていくわけです。そして、ミトラ教に替わって、392年にユダヤ・キリスト教はローマの国教となるわけです。ここに西方におけるミトラ教は歴史から消え去るのです。
しかし、東に向かったミトラ教は、時の勢力のある宗教組織の内部に入り込むことにより生き延びていくわけです。
ミトラ教の特徴を整理すると、太陽崇拝、牡牛を犠牲とする祭儀、救世主思想、秘教占星術、イニシエーションの密儀、七つの位階、そして火による密儀等です。
東に向かったミトラ教は、紀元前五世紀にインド(シャカ国)でゴーダマ・シッダルタに出会うのです。
ブッダと言えば、宗教にあまり興味がないひとは、ひとりしか存在していないと思っているかもしれませんが、ブッダとは、「モーセ」と同じに、固有名詞ではなく一般名詞なのです。ですから、ブッタは複数人いたわけで、ゴーダマ・シッダルタ=ブッダだけではないのです。
釈尊(釈迦牟尼ブッダ=釈迦族の聖者であるブッダ=ゴーダマ・シッダルタ)以前にもブッダは六人居たらしのです。さらにブッダは如来(修行を完成したひと)とか阿羅漢(尊敬に値するひと)などとも呼ばれていたようです。
釈尊がブッダになるために、以下のような真理を悟ったと言われています。「幸福とは、聖なる真理を見ること、聞くこと、そして一人心の内に安らぎを体得することである。幸福とはこの世の情と欲とを乗り越えることである。自我意識を乗り越えることこそ、間違いなく最大の幸福である。」
釈尊はその教えを書き残してはいません。では何故その教えが今日まで知られているかと言えば、それは愛弟子のアーナンダが釈尊の教えを全て暗記していたからと言われています。その教えの基本は、八正道にあると言われています。
八正道とは、正見(正しい見解)、正思(正しい決意)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい想念)そして正定(正しい瞑想)の八つの教えです。
当時のインドでは、カースト制度に胡座をかいた儀式偏重の上流階級に向けられた宗教でバラモン達(聖職者階級)が幅を利かせていました。そのような社会では、生活に困窮している非征服者の下層階級のひとたちは、誰でも理解でき実行できる釈尊の教えに救いを求めることは自然の流れです。
暗黒の霊的遺産の管理者を辞任し、神との交信をするための複雑な儀式を考案し独占するバラモン達が説く世界は、人間の魂の奥底の本性である個我(アートマン)は、絶対者(ブラフマン)の不変の本性と同一であるというわけです。しかし、釈尊は永遠不変の自我という考え方を受け入れず、存在は不断の変転と苦悩の中にあると説くわけです。そして、「自我」の真の存在を否定し、「無我」を説いたのです。
その「教え」はやがてひとびとに受け入れられ、裕福な商人のスポンサーが現われ「祇園精舎」ができるわけです。時代と供に釈尊の集団は膨れ上がり釈尊入滅後にはその教えの解釈の違いから、釈尊入滅後四百年して、仏教教団は大分裂するわけです。それは大乗仏教と小乗仏教と呼ばれています。
大乗仏教は、すべてのひとの中に「ブッダとなるための種子」が存在しているから、さまざまな救いの道があると説き、解脱の核心は、憐れみと普遍の愛の実践に基ずいて、生けるものの全てに対して無限の共感を抱くことにある、そして、他者を救うことが必要であるとするわけです。
それに対して、小乗仏教は、一切の観念的思弁を嫌い、現世と人間の苦悩を現実のものとして見て、修行僧として生きることによってのみ救われると説くわけです。
この二つに分裂した教団の思想の違いが、やがて教団の運命を決めるわけです。一般大衆への仏教布教という拡大路線は、権力者の支配権拡大と同じベクトルを持っていることになるのです。つまり、大乗仏教は、時の権力者が庶民をコントロール(統治)する武器として利用されていくわけです
仏教教団が二つに分裂する前の紀元前三世紀ガンターラ地方を支配した第三代アショカ王は仏教に帰依することにより、軍事拡大路線から統治へと政治を変えるための手段として仏教を利用しています。
大乗仏教は、一世紀以降、バビロニア、ペルシャそしてギリシャの西洋文化と交易により接触していたガンダーラ地方で発達を遂げるわけですが、そこで考えられないことが起こるのです。それは、仏像の出現です。
釈尊の存命中のインドでは、魑魅魍魎の宗教世界があり、呪術が現実のものと信じられていたようです。そこで、釈尊は入滅後呪術を掛けられないように仏像を作ることを戒めていたようです。ですから、釈尊入滅後での礼拝対象は、遺骨、仏塔そして菩提樹であったようです。
仏像が作成されたのはカンダーラ説とマトゥラ説のふたつがあるようですが、本々インドには三次元の像を作る文化はなかったので、当然その像はギリシャ的な立体像であるわけです。
では何故仏像を作る必要があったのでしょうか。
宗教の宿命として、信者達の願望に迎合しなければならないことがあります。それは、信者達の願望を満たさないと、その宗教自身が成立たなくなるからです。ですから、僧侶が新天地で布教活動を成功させるには、その土地の土着の神のイメージを取り入れなければならないわけです。
宗教とは、どのような組織でも、その基本は教祖の「教え」を信者に刷り込むことです。その刷り込みの手段も、ひとの脳の構造に合わせて変成してきたようです。ひとの脳は、爬虫類の脳(脳幹・小脳=いのち)→哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)→ひとの脳(大脳皮質=思い)を積み重ねているわけです。爬虫類の脳と哺乳類の脳は言葉を理解できません。これらの脳に働きかけるには、音と動作です。それに対してひとの脳は言葉を理解できます。
そこで、宗教のプロパガンダの手段として、まず音と動作を駆使した「呪術」が開発され、その後、ひとの言葉の発達に合わせ「経典」によるプロパガンダが開発されて行くわけです。
小アジアのボアズキョイで見つかった紀元前1400年前のヒッタイト王たちに関係する楔形文字の契約文書には、古代インドで崇拝されていた神々の名前が記されています。それらは、ミトラ、ヴァルナ、インドラ、ナサティアスなどです。
呪術は経典ほどの伝播力がありません。それは、ひとを介さないと伝播することができないからです。しかし、文字で書かれた経典は、時空を越えて伝播していきます。
ひとは「呪術」でも「経典」でも、一度刷り込まれた情報はなかなか消去することができません。このことは、旧約聖書「出エジプト記」にみることができるでしょう。
シナイ山(五千円札の裏にある逆さ富士)に登ったモーセは四十日四十夜その山に篭りました。そこで、モーセの帰りが遅いので民はとんでもないことをするのです。
出エジプト記第三十二章の七
主はモーセに言われた。「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と言っている」。
聖書研究家によれば、旧約聖書は長い年月をかけて創作された物語の寄せ集めのようですが、最も古いものでも紀元前八百五十年以降ということです。その古い書物の内容でも紀元前九三ニ年に死んだソロモン王の前後の物語のようで、その物語も驚くほど短いものだったようです。そして、モーセ五書といわれる物語が今日のように纏め上げられたのが、紀元前五五十年ごろから紀元前四五十年ぐらいの間のようです。
紀元前八百年から紀元前二百年までの時代は、思想史において輝ける時代のようです。今日の思想の根底は、その時代に大いに影響されているどころか、全く同じと言えるほどです。それらの思想家としては、釈迦牟尼ブッダ、孔子、老子、プラトン、ソクラテス、ゾロアスター、エリア、エレミアなどです。これらの人達は、万物は根本的に二つの領域に分けられる、と考えたようです。それらは、「主観と客観」、「精神と物質」、「心と体」などです。そして、「本来の人間は、肉体に繋がれ、肉体に覆い隠され、欲望に捕らわれ、自己自身をぼんやりとしか意識せず、開放と救済を求めているが、しかしこの世界の中において解放と救済を手にできるものである。」とそれらの思想家は皆同じ結論を出したようです。
思想家とは、言葉を駆使してイメージを創造するひとです。この思想家がこの世に出現した時期が、呪術独占の世界が崩壊するターニンク゜ポイントなのです。ここから「呪術」と「経典」の長い闘いが始まるのです。
呪術と経典はどちらとも、神ではなくひとが発明したものですが、発明するのに使用する脳の回路が異なるようです。呪術は情動系回路(爬虫類の脳と哺乳類の脳)で、経典は思考系回路(ひとの脳)により発明されたようです。ですから、呪術は「いのち」と「こころ」に響きます。それに対して、経典は「思い」に語りかけます。
情動系回路は今を生き延びるために作動する回路です。それに対して、思考系回路は明日を生き延びるために作動する回路です。ですから、呪術と経典との場(時空)は異なるのです。呪術は今目の前に起こっている現象をコントロールするための技術です。それに対して、経典は思考することにより問題の解決を、現在から過去或は未来に求めることが可能です。それは、俗に言う「方便」(ウソのこと)ということです。
そのような異なるバックグラウンドを持つ呪術と経典が争った場合、呪術は不利です。呪術は戦う場が現在の今しかないからです。問題解決の為の技術が成功しなければ、その呪術は瞬時に抹殺されていまうわけです。しかし、経典はたとえ現在の今の問題が解決できなくても、思考することにより(ウソを考えることにより)解決の場を過去や未来に振り向けることが可能です。
呪術より有利な闘いをする経典は、問題解決の場を現在だけではなく過去や未来にと駆使することで、苦悩するひとびとを惹きつけていくのです。しかし、時間の流れの考え方の違いにより、その経典も変化いていくわけです。メソポタミアから西に向かうほど、時間の流れは一方向を目指していくようです。
西に向かった時間の流れにのった経典は、救世主思想を秘めた三神の古ミトラ教は、拝火教のゾロアスター教により善悪二神となり、更にユダヤ・キリスト教により一神教へ変化していくわけです。
しかし、東に向かった時間の流れは、インドで円を描くのです。それが、輪廻・転生の思想です。インド文明はこの輪廻・転生に基づいているわけですから、仏教でもジャイナ教(釈尊の良きライバル)でもヒンズー教でも、西に向かった排他的な他の一切の神を認めない一神教と異なり、あらゆる異教の神をも取り入れる要素を持っているわけです。
インドでジャイナ教やヒンズー教と共存していた仏教も十一世紀にイスラム軍がインドに侵入してくると、釈迦牟尼ブッダはヒンズー教の中でヴィシュヌ神の化身として崇拝されていくわけです。ここでインドでの仏教は消滅するわけです。しかし、ジャイナ教は今日まで細々と存続しています。
権力者・宗教教団と同じベクトルを持った集団が現われるのです。それは国際交易商人です。商人は新しい市場を求めて世界を流離います。未知の国の市場開拓には、その国の情報を手に入れる必要があります。その情報入手先に打って付けの組織があります。それが宗教教団です。
宗教教団の活動は物的破壊をすることもないので、困窮するひとびとを救う「教え」の布教を目的に未知の国に、商人と比べれば比較的入り込みやすいのです。そこで、宗教教団と国際交易商人との利害は一致します。例えば、ユダヤ・キリスト教の布教国と国際交易商人の市場開拓地がオーバーラップしているのはそのためです。「僧侶→商人→軍隊→植民地化」、この流れはインドやインドネシアの歴史の流れそのものです。
仏教はインドを経由して更に東の中国を目指しました。
前漢の武帝(紀元前140年〜紀元前78年)が「シルクロード」を開いたと言われています。そして、西国の商人達は、その中国の絹を求めてシルクロードを旅したわけです。その中に仏教もありました。
世間では中国四千年と言われていますが、その実体は、漢民族が四千年を統治していたわけではありません。中国の地には、満州人、モンゴル人、中国人、チベット人そしてイスラム人などの異民族が、昔も今も存在しているのです。
その異民族支配を基に中国を区分すると、秦・漢の中国、随・唐・宋(遊牧民族の鮮卑人が支配)の中国、明(漢人が支配)の中国そして中華民国・中華人民共和国の中国の四つの中国が歴史上存在していたのです。では、「元」や「清」は何かと言えば、元はモンゴル人によるモンゴル帝国であり、そして清は満州人による満州帝国であったわけです。と言う訳で、中国四千年は「建前」であるわけです。
インドで仏教と出合ったミトラ教は、輪廻・転生の思想に飲み込まれ仏教の中で釈尊の次に現われる弥勒菩薩として生き残るわけです。しかし、経典理論に優れる仏教においては、ミトラ教の多分に呪術的な牡牛を屠ることや星辰思想などの密儀部分は闇に葬られ(日本国で九世紀空海により合体し密教となる。)、仏教においてはミトラ教の救世主としての性格だけが維持されていくわけです。
四世紀、趙王朝は、漢民族ではなく遊牧民族の匈奴族による王国で、漢民族の文化に対抗し、そして漢民族を支配する目的で仏教を取り入れ、そして仏教の布教に力を入れるわけです。
五世紀の北魏の時代になると、救世主思想の弥勒信仰が盛んになっていくわけです。時代が困難になればなるほど、ひとびとは救済を求め、弥勒信仰は栄えるわけです。しかし、平穏な時代になると宗教は堕落するのが歴史が示すとおりです。200万人の僧侶がいた北魏も、仏教の戒律が乱れ、446年には廃仏を行うほど秩序が乱れるわけです。
国際交易商人は、シルクロードの終着点の日本列島の奈良を目指して、中国大陸を縦断して行くわけです。それは、日本列島が資源に溢れていたからです。それらの資源とは呪術に使用の朱砂(主な化学成分は硫化第二水銀=鎮静・催眠効果がある=道教では不老長寿の秘薬)鉱物資源に限らず、温暖な気候が桑の育成に最適だったからです。養蚕を営むには最適な場所が日本列島だったのです。その途中には朝鮮半島があるわけです。
国際交易商人と供に仏教が朝鮮半島に伝わるのは、三韓時代と言われています。
1148年に成立した朝鮮史の「三国史記」によれば、新羅は紀元前57年に、高句麗は紀元前37年に、そして百済は紀元前18年となっていますが、それは「建前」で、「本音」は、高句麗が先で、次に百済、最後に新羅が紀元四世紀に建国されたのです。何故、「三国史記」に実際とは逆に建国の歴史が書かれたかと言えば、それは、著者が新羅王家の一族だったからです。あらゆる歴史書は、これと同じ構造で記述されているようです。
中国大陸を通過する内に仏教は色々な宗教組織と出会うわけです。それらは、道教、神仙学、儒教そして景教などです。
景教は不思議な宗教で、キリスト教のような仏教のようなヒンズー教のような得体の知れない宗教組織です。物の本によるとシリア地方に発生した原始キリスト教(ネストリウス派)と記述されているようですが、その僧侶達は、古ミトラ教の発生した地のペルシャ人のようです。
その色々な宗教組織に遭遇した仏教は、紀元三世紀、前秦の北中国から陸路により高句麗に伝来し、三世紀後半百済には海路により南中国の東晋から伝来し、更に、新羅には紀元五世紀初めに陸路により高句麗から伝来しました。
その朝鮮半島で、北の陸路からの仏教と南の海路からの仏教が融合することにより、弥勒菩薩も変身するわけです。
弥勒菩薩の本来の姿は、ミトラ神の変身であるわけですから、正義の力と慈悲の力とで困難にある民衆を救う菩薩であるわけです。それが、インドより海路で朝鮮半島にもたらされた「観音思想」の影響を受け、弥勒菩薩の性格が変身してしまうのです。
観音とは、輪廻・転生思想におけるインドのヒンズー教のシヴァ神などの影響下で誕生した、変化自在により民衆の「現世利益」をもたらす菩薩であるわけです。
本来の弥勒菩薩は未来を志向します。それに対して、観音菩薩は現在に生きるわけです。しかし、困窮する民衆の欲望を満たすために、或は貴族の現世利益を求める流れに合わせて、その二つの菩薩の性格は都合よく合体し、そしてそれぞれが民衆の願望に合わせて変身してしまうわけです。
そして、弥勒菩薩像も、朝鮮半島で変身するのです。
ギリシャ文化の影響で、ガンダーラで創作された像は立像が多かったのが、そして中国大陸では椅子に腰掛ける像が多かったのが、朝鮮半島に辿り着いた弥勒菩薩は片足胡座の坐像となってしまったのです。その座り方は、ガンダーラ仏の三尊像のひとつである、観音菩薩であったわけです。その特徴的姿の弥勒菩薩は、朝鮮と日本にしか存在しません。その弥勒菩薩は、秦氏により、日本列島の倭国にもたらされるわけです。
ここで、朝鮮半島と日本列島が描かれている地図を百八十度回転して下さい。すると、朝鮮半島が南(下)にあり、北(上)に日本列島があることになります。
ひとの脳には、時間の流れと、場の移動の流れが、予めインプットされているようです。時間の流れは、左から右に流れているようです。映像における未来を目指す流れは、大体そのように描写されています。
それに対して、場の流れは南(下)から北(上)に移動するようです。車を運転するひとなら理解できると思いますが、カーナビを北上固定にして南行した場合と、同じ条件で北行した場合との心理的違いを比べてください。前の条件の方が、後の条件よりも運転がしずらいはずです。
そのように地図の見方を少し変えるだけで、歴史の流れ(民族移動の流れ)に変化が起こることでしょう。
紀元五世紀、日本列島が上部に描かれた地図を朝鮮半島側の下部から眺めると、そこには、中国大陸で闘いに敗れた王族、新興宗教や土着の道教・儒教等との闘争に敗れた仏教教団や得体の知れない景教、あるいは市場開拓のための国際交易商人達の新天地が扇状の島々として広がっているわけです。
日本列島は、徐福の時代(秦の始皇帝の時代=紀元前210年)から蓬莱山として方士達(呪術者の一種)に不老長寿の秘薬(朱砂)の産地として知れ渡っていたのです。
しかし、その列島には先住者達が小さな国々を経営して暮らしているのです。
日本列島は、二つの異なる生活環境が存在します。それは、名古屋以北の落葉樹林文化圏と名古屋以南の照葉樹林文化圏です。この異なる文化圏は味覚の違い(醤油・味噌の味の違い)として、現在でも存在しています。
朝鮮半島南端は、照葉樹林文化圏であるわけですから、日本列島の名古屋以南が同じ文化圏に属するわけです。そこで、列島の最初の上陸地点としては対馬列島の先にある北九州となるわけです。しかし、そこには、シャーマンの巫女が支配する国々を引き継いだ「神」を祭る部族国家があるわけです。
シャーマン(中国大陸で発明された道教的呪術者)が活躍する以前の日本列島では、縄文人の世界観による、「カミ」、「モノ」という得体の知れない偉大な存在を認識していました。その「カミ」、「モノ」は、ある時はひとびとに恵みをもたらす善の存在として、そして、時にはその逆に災いをもたらす恐ろしい存在でもあるわけです。
それは、ユダヤの神の性格と似ていますが、違うところは、ヤハウェ(太陽神信仰の古代エジプトのイクナトンの神を模倣=イクナトンの神は太陽信仰のミトラ神を模倣)ひとりが「神」として世界の全てを支配するのではなく、その「カミ」、「モノ」はあらゆる場所や物、或は空間に宿っていると信じられているところです。つまり、縄文の「カミ」、「モノ」はアニミズム(多神教)であるわけです。
縄文人の支配する日本列島は、輪廻・転生思想のインドと同じに、あらゆる「神」を、一神教の「神」のように排斥・絶滅させるのではなく、取り入れてしまう懐の深い所であったわけです。
縄文の「カミ」、「モノ」に取り込まれた、外来の神は、弥生時代の「シャーマン」→古墳時代の「神」(道教色に染まったカミ・モノ。神を「ジン・シン」と呼ぶのは中国大陸宗教思想の影響。神社は仏教建築思想から生まれた。元々「カミ・モノ」は森羅万象に存在しているから、特定の場所(神社)に鎮座するのは可笑しなことです。神社は、本地垂迹説に基づいて仏教側が敵(神)の怨霊を封じ込める場所とてして発明した。)→藤原氏支配時代の国家鎮護の「仏」→明治維新後の「神(お宮参り)・イエス・キリスト(クリスマス)・仏(葬式)」と、現在まで日本列島では受け入れられていますが、その精神的根本には、なんら変化はなく縄文の「こころ」が生き続けているわけです。つまり、現在の「日本人」が、外国の神や文化等なんでも見境なく取り入れる下地は、遥か昔の縄文人のアニミズムに原因があるわけです。
さて、紀元三世紀に出現した「神」を崇める部族が支配する「ヤマト」連合国(卑弥呼の時代。卑弥呼は魏国に、近畿地方に出現した国際交易商人連合国「ヤマト」とウソをついて朝貢した。)を攻略するには、「仏教」は有利です。
「神」側には、仏教教団のような、仏像・経典・伽藍・金ピカ法衣もありません。「神」ができることは、霊を巫女により降臨させ宣託を受け、それに随わせるか(女帝称徳天皇での道鏡事件のように)、或は化学物質や薬物を使用しての「呪術」(忍者の元祖)を執り行うかの戦術しかないからです。
そして、「神」が「仏」に敗れた最大の原因は、仏教のようになリッパな「経典」がなかったからです。(後に、「神」は仏教儀式を真似て、修験道などに変身し理論武装をしていくわけです。)では、その仏教の最大の武器「経典」とはどのようなものなのでしょうか。
江戸時代、大阪商家生まれの町儒学者の富永仲基が、法華経をはじめとする、いわゆる大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとによる創作物であって、釈尊の説法をアーナンダが記憶していたものではない、と「出定後語」という書籍のなかで述べました。
江戸時代は、仏教は庶民統制の道具として権力側から優遇されていたわけですから、仏教の闇を暴露するその書籍は当然無視されました。
ひとの脳力は、時空を越えてシンクロ(同調)するようです。紀元前の思想家出現ラッシュと同じに、日本国における大乗仏教仏典の疑問に後れること数十年、ヨーロッパで聖書について疑問を持ったひとたちが出現するのです。
その「仏典」と「聖書」の疑問についての流れが、二十世紀になり、「仏典」と「聖書」との共通性が指摘されるのです。その基本的疑問は、大乗教仏典と新約聖書の成立年度が前後することと、釈尊とキリストの「説教の内容」と、それぞれの「奇跡の物語構成」が同じだということです。
説教の共通点としては、「憎しみは憎まないことで乗り越えよ。」、「求める者には、だれにでも与えなさい。」、「無条件の愛を求める命令に従う者は誰でも神の子となる。(神に近づく)」等です。
奇跡の共通点としては、「荒れる水面上を歩く釈尊とキリストの奇跡」、「数人分の食事で多くの弟子のお腹を満腹にし、更に食べ残させる奇跡」等です。
国際交易商人が活躍するガンダーラで、大乗仏教は紀元一世紀に突然出現するのです。ギリシヤ風仏像が出現すると同時に、大乗仏教の経典群も同時に出現するのです。経典成立順序としては、般若経系、維摩経、法華経、華厳経そして無量寿経、阿弥陀経などですが、その中で一番古いと言われる般若経でも紀元前一世紀までがせいぜいで、多くは紀元五十年から書き始められたようです。
そして、経典についての疑問は、それらの経典は用語の使用が稚拙なサンスクリットで書かれていることです。
それに対して、新約聖書は、キリスト時代に使用されていたアラム語(シリア語)ではなく、何故にギリシャ語で書かれているのでしょうか。
釈尊は、弟子達に「教え」を、敵対宗教であるバラモン(カースト制度の祭祀階級)達の言葉であるサンスクリットで伝えることを禁じていました。釈尊が使用した言葉は、パーリ語とは少し違う「マガダ語」であったわけです。大乗仏教はサンスクリットで、小乗仏教は「マガダ語」に似ているパーリ語を使用して経典を作成しているのです。
何故、大乗経仏典はサンスクリットで書かれているのでしょうか。
どうも、国際交易国ガンダーラで紀元一世紀、突然出現した大乗仏教は、仏像もその経典群も国際的な情報をもとに創作されたようです。
仏像に関連する蓮華台とは、そもそもどこからもたらされたのでしょうか。元々、釈尊の存命の時は、仏像など存在しなかったのですから、インドのものではないでしょう。
蓮の花は、古代エジプトでは、太陽の母であったのです。蓮は日の出と供に花が開くので、古代エジプトのひとたちは、太陽は蓮の花から生まれると考えたようです。
仏像には、太陽に関するものがもうひとつあります。それは、後光の日輪です。この後光はキリスト像やイコンにもあります。さらに、キリスト教には、マルタクロス(太陽の輝き)を模倣した十字架もあります。
仏教とキリスト教は、表向きは太陽信仰ではありません。
では、何故それら太陽信仰神の象徴であるものが、それらの宗教組織がプロパガンダに利用しているのでしょうか。
そこで考えられることは、それらのふたつの宗教は、太陽信仰神の経典や物語を参考にして創作されたのではないか、と言うことです。
シルクロードは、ガンダーラから東に向かえば、中国の長安を越えて、海を渡り日本列島の奈良に辿り着けます。そして、西に向かえば、ギリシャを越えてローマに辿り着けます。そのシルクロードは、東西の物品だけではなく、文化や宗教も国際交易商人達により運ばれて行くわけです。
シルクロードは、記録上紀元前二世紀に開発されたようです。紀元前一世紀、ローマ軍はペルシャを攻撃して、シリア地域をその支配下に置きました。その時期から、絹織物がローマで爆発的な需要を起しました。なにしろ、絹(布の宝石)と金とが同じ価値なのですから。
ひとの行動を起す起爆剤は、脳の化学物質です。それらは、一般的に「欲」により産出されると考えられています。その「欲」は三つに分けられます。それらは、「性欲」「物欲」「名誉欲」です。「性欲」は爬虫類の脳(幹脳・小脳=いのち)に刺激を与えます。「物欲」は哺乳類の脳(大脳辺縁系=こころ)に刺激を与えます。「名誉欲」はひとの脳(思い)に刺激を与えます。
これらの「欲」は、諸刃の武器となります。「欲」の本質を悟り、それをコントロールする技術を開発し、利用できるひとは、その道の専門家となります。それらは、智恵の深さによります。権力者、宗教家そして商人とは、それらの「欲」を自分たちに都合良く利用して、ひとびとをコントロールできる技術を持ったひと達であるわけです。
建前では、歴史はひとりの権力者(ドイツ共和国のヒットラーのように)により作られると歴史教科書では記載していますが、本音は、その三者の協力により創られていくわけです。
ガンダーラから東の果てのChinestan(stan=国)から絹が運ばれて来ると知ったシリアの商人達は、大挙して東を目指すわけです。しかし、そこに辿り着く前には、異教の国々があるわけです。
世間一般では、宗教を困窮するひとびとを救済する「技術」としか見ていないようですが、別の角度(異教徒側)から見ると、それはソフトな武器であるわけです。
他国を侵略するには、その国の情報を手に入れる必要があります。それには、宗教は打って付けの武器となるのです。
宗教組織の異教国侵略の常套手段は、まず貧民救済の病院を設立します。そこで、被救済者から為政者の負の情報を収集します。その慈善活動を異教の為政者に認めてもらえると、次に学校を設立します。そこで裕福なひと達のシンパを組織するのです。そのような手段で入手した侵略のための情報を、宗教組織に多大に寄付する商人に渡します。商人は、シンパの中から有能な商売の代理人を育てるわけです。そして、代理人を反体制組織員とし、支部を開設して全国的に展開するのです。後は、軍隊の出番を待つだけです。
例えば、この流れを日本国の明治維新前に当てはめれば、江戸末期、長崎の出島にシーボルト(ある宗教団体の信者)という医者が来日するわけです。彼は、一生懸命貧民の病気を治療し名声を得るわけです。そして、しばらくすると医学生を養成するために鳴滝塾という医学校を開設するのです。その学校の人脈の中から、伊能忠敬の遠縁の者と知り合うのです。シーボルトは、伊能忠敬の地図をその者と世界地図との交換で入手するわけです。地図は最大の軍事秘密であるわけです。シーボルトは、その伊能忠敬の地図を複写してオランダに持ち帰るのです。それから後、伊豆沖にペリーの艦隊が出現することは、学校の歴史教科書にあるとおりです。
ペリーの来航は、建前では捕鯨のための中継基地と水と食料補給となっているようですが、本音は、オランダ東インド会社(オランダ国ではなく実権は国際交易商人にある。)が長崎出島で独占する、絹織物、金、陶器等の貿易をすることです。明治維新後、急速に日本国が軍事大国に変身できた原因のひとつが、絹織物の輸出だったのです。
歴史は繰り返すようです。
絹織物は、紀元二〜三世紀頃に中国大陸南部からの渡来者達によりもたらされた繭(ポンビックス・モリ)による養蚕の日本列島照葉樹林地域での事業展開により、四〜五世紀の倭国は世界的生産基地のひとつとして国際交易商人達に知れ渡っていたのです。
さて、そのような宗教組織の異教国潜入戦略に基づいて、絹織物を廻って、明治維新前と同じようなことが、日本列島の四世紀から七世紀にかけての倭国で、「神」(倭国の神は、現在の神社に鎮座する「神様」ではなく、道教色に染まった呪術を使う神様。現在の神は仏教色に染まってしまっている。)と「仏」の闘いとして起こるのです。その「神」と「仏」との闘いの本質は、「自然」と「人工」と言えるかも知れません。
縄文の流れにある「神」は、爬虫類の脳(いのち)と哺乳類の脳(こころ)とにより創られた概念です。それらは、ひとの意志でコントロールできません。それは自然そのものだからです。それに対して、大乗の「仏」はひとの脳により創られた概念です。ですから、ひとの意志でコントロールすることができます。ひとがコントロールできることは、世間では「人工」と呼んでいます。
暗黒のヨーロッパでの、魔女対ユダヤ・キリスト教の闘いも、「自然」対「人工」と言えるかも知れません。その闘いの原因のひとつは、病めるひとたちの治療に対する対処の技術です。魔女は、小動物の内臓や草木での「自然」の秘薬での治療を行うのです。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、言葉により創作した祈りという「人工」で対抗するわけです。
自然は「ウソ」をつけませんが、人工は「ウソ」を無限につけます。それにより、魔女はユダヤ・キリスト教に敗れ、聖なる「火」により火炙りにされて十八世紀に絶滅されてしまったわけです。
ひとと動物の違いのひとつは、ひとは言葉の使用により、時空を超えて「ウソ」を無限につく事ができるということです。更に、ひとは現実から逃避するために「ウソ」でも信じることができることです。ひとが、最も動物と際立つところは、他の物事や概念を模倣し、ウソの物語を創作することができることです。
小さなウソは、直ぐにバレてしまいますが、大きなウソを見抜くには、「疑い深いトマス」ほどのひとでない限り無理でしょう。
日本の古代史が面白いところは、謎(ウソ)が多く、百人いれば百通りの解釈が成立つところです。特に、大乗仏教の日本列島侵入に関しては、納得できる解釈にお目にかかったことがありません。
仏像に関する文献を探すと、「日本書紀」の推古十一年として、

皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。秦造河勝進みて曰く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。

と言うことで、建前では聖徳太子が秦河勝に仏像を授けたとの説明です。
が、しかし、聖徳太子は実在の人物ではありません。その根拠として、日本書紀には「聖徳太子」との記述は一切ありません。日本書紀にあるのは、厩戸皇子、豊聡耳皇子、東宮聖王、上宮太子、上宮聖徳法王などの名前で記述されているのです。
聖徳太子として歴史上に登場するのは、死後(?)約百年後です。
死後約百年後の登場人物として思い出されるのは、イエス・キリストです。キリストと聖徳太子の共通性は昔から言われています。
聖徳太子が厩で生まれたのは、キリストと偶然としても、少年時代の「神」を崇める物部氏との闘いは、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデの物語構成と同じです。更に、成人しても、聖徳太子と言われているのは、モーセと同じです。「太子」も「モーセ」も、「子供」と言う意味なのですから。ダビデ、モーセそしてキリストのイメージを彷彿させる聖徳太子とは、一体何者なのでしょうか。歴史教科書では解明できないでしょう。
では、秦河勝が授けられた仏像は何かと言えば、それは国宝第一号の「弥勒菩薩」であるわけです。ここでは、もう弥勒菩薩の説明の必要はないでしょう。
その仏像を安置する蜂岡寺とは、太秦寺(ウズマサ寺)つまり、広隆寺であるわけです。広隆寺では、平安時代(藤原氏の時代)から「牛祭り」の儀式を行っています。その祭りの主人公は「摩多羅神」(マタラ神・ミトラ神?)と言われています。
日本国での歴史上有名人が外国の神と共通する事績があることなど、一般のひとは信じることなどできないかもしれません。
更に信じられないことがあります。それは、日本書紀は旧約聖書を参考に創作されたのではないかということです。それらのふたつの書物は、建前では、その民族の成立ちを綴った歴史書と言うことですが、本音は、「簒奪」が共通テーマと言うことです。
そもそも、旧約聖書はどのような背景で創作されたのでしょうか。
旧約聖書物語の創作背景を知るには、渡り鳥の「カッコウ」の習性を知ると理解し易いでしょう。
カッコウは、時代によりその名が変化しているようです。奈良時代は「カホドリ」、そして、平安時代は「ハコドリ」或は「カンコドリ」と呼ばれていたようです。その習性から「冥土の鳥」と言われているように、他の鳥と異なる習性(行動マニュアル)を持っています。それは、自分の卵を他の小鳥の巣に産みつけ繁殖していくのです。
その習性は、自分の卵に一番似通った卵を産んだ小鳥の巣を探し、その親鳥の一寸した隙に卵を産み付けるのです。その産み付けられたカッコウの孵化は他の卵より早く、それだけ他の雛より成長が早いのです。そこでカッコウの雛は不可思議な行動をするのです。それは、親鳥が不在の時を狙って、他の卵や雛を巣から一匹一匹と親鳥に気付かれないように排除してしまうのです。最後に残るのは、カッコウだけです。それとも知らない、親鳥はセッセとカッコウの雛を成鳥するまで育てるのです。
イスラエルの十二部族と言われるのは、後世の創作です。本音は、ヨセフを先祖とする部族、つまり、ヨセフの息子のエフライムとマナセの二部族だけが、いわゆるイスラエルと呼ばれた地方に移り住むようになってからが、イスラエル部族の誕生です。
その二部族に、エジプトの太陽信仰アトン(紀元前十四世紀エジプトを統治していたイクナトンの神)の信仰が広まり、その信仰に同調する他部族がしだいに集まることにより十二部族(八世紀にカザール民族を加え十三部族と言われています。)となるのです。そして、アトンの神は、どういう訳かヤハウェに変身して行くわけです。
そのエフライムとマナセの部族、つまりイスラエル部族の巣に、カッコウがやって来るのです。そのカッコウとはレビ族です。そのカッコウが産んだ卵から孵った雛が、アロン(祭祀者・頭に油を注ぎ王様を誕生させる部族。日本国で言えば中臣氏か。)であり、モーセ(立法者・自分達部族に都合の良い法律を作るひと。日本国で言えば藤原不比等か。)であるわけです。そして、その末裔がダビデであり、ソロモンであるわけです。
では、元々の巣の雛たちであるエフライム部族達はどうしたかと言うと、簒奪者ソロモン王が死ぬとすぐに、エフライム族を頭に十部族が、ベニヤミン部族を残して、ユダ族と決別し、イスラエル王国を創るわけです。しかし、そのイスラエル王国も、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、真性イスラエルの十部族は歴史から消え去ってしまうのです。
後に残ったのが、レビ族の末裔であるユダ王国です。その王国も紀元前六世紀にバビロニアに滅ぼされてしまうのです。
旧約聖書物語とは、読む角度を替えれば、エフライム部族の歴史を基本に、後から参入したレビ族が、カッコウのように少しずつ敵対部族を抹殺し、イスラエルの王権を簒奪したことを隠すために創作されたものとみなすこともできます。
この簒奪物語のストーリを日本書紀に当てはめて、敗者側から眺めてみると、日本の歴史がガラリと変化して見えてくることでしょう。
古代史を知ろうとするひと達が史料とする重要なバイブル的書籍は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。しかし、物の見方を少しずらしてみると、「日本書紀」とは可笑しなネーミングです。
倭国、或は日本国は、文化の輸入先として中国大陸の国々を選択していました。その中国大陸の国々の史書には、その書籍の体裁により、「書」と「紀」との区別をつけていました。「書」とは、帝紀や列伝を備えた紀伝体の歴史書のことを言うわけです。それに対して、「紀」とは、編年体の歴史書のことを言うわけです。
そのような書籍の体裁により「書」と「紀」とを分けているのに、日本国の国史は「日本書紀」となっているのです。書籍の体裁からすれば、「日本紀」が正しいのではないでしょうか。
その日本書紀は、「続日本紀」によれば、「紀三十巻系図一巻」とあるようですが、系図一巻は今日には伝わっていないようです。では、その現存する三十巻はどのような構成で書かれているかといえば、神代上・神代下・神武・綏靖〜開花・崇神・垂仁・景行〜成務・仲哀・神功・応神・仁徳・履中〜反正・充恭〜安康・雄略・清寧〜顕宗〜仁賢・武烈・継体・安閑〜宣化・欽明・敏達・用明〜崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武上・天武下・持統となっているわけです。
このように、神代から持統天皇まで記述されている書籍を太平洋戦争敗戦までは、日本国民の大多数が史実として信じていたのです。では、昔から史実として信じられていたかと言うと、そうとは言えないようです。
江戸時代、大名貸の升屋の山片ばんとうは、記紀について、

「文字ノ出来ハ国ノ開クルナリ、文字ナケレバ開ケザルナリ。」と考え、
日本へ文字渡リシコトハ、応神天皇ノ御宇ニシテ、ソノ後ノコトハ事実明白ナリ、ソレマデノコトハ、口授伝説ニシテ実ヲ得ベカラズ。日本紀神代ノ巻ハ取ルベカラズ、願クハ神武己後トテモ大抵ニ見テ、十四五代ヨリヲ取リ用ユベシ、然リト雖モ、神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ、応神ヨリハ確実トスベシ。

江戸後期には、天皇を裏でコントロールしている藤原氏の勢力も微弱で、九州南端や山口県南端で隠棲していたので、そのような大胆な事も堂々と発言できたのです。それから百数十年後の太平洋戦争敗戦前、その論説と同様なことを「神代史の研究」で発表した津田左右吉は、「皇室ノ尊厳ヲ冒スル文章ヲ著作シ」ということで有罪を宣告されてしまったのです。
明治維新で、藤原氏が復活し、それに伴い、江戸時代に京都で隠棲していた天皇家も復活するわけです。と同時に、八世紀に、藤原不比等によりプロデュースされた、江戸時代に「古事記伝」四十四巻を創作した本居宣長に「唐ごころ」に染まっていると言われた「日本書紀」も、十九世紀の明治維新で「大和ごころ」として復活するのです。
では、なにを目的に日本書紀が創作されたのかと言えば、それは天皇という君主の正当性を保証するために作られたわけです。天武天皇(新羅の王族金多遂)のお妃の持統天皇(百済系天智天皇の娘)が、日本国の正当な天皇である、と言いたいのです。
では、第一代天智天皇、第二代天武天皇そして持統天皇である「雛」を育てた「巣」は、元々誰が作ったのでしょうか。中学生向けの歴史教科書には、日本国において天皇が誕生する経緯を次のように記述しています。

聖徳太子(厩戸皇子)の死後、蘇我氏の勢力はさらに強くなり、ほかの豪族も蘇我氏をおそれた。中国では、唐が強大な帝国となり、朝鮮半島の諸国に大きな影響をおよぼしていた。中大兄皇子や中臣鎌足は、天皇中心の政治のしくみをつくるため、645年に蘇我入鹿とその父蝦夷をたおした。
そのころ朝鮮半島では、唐と新羅が百済をほろぼそうとしていた。朝廷は百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで大敗した。そこで、朝廷は西日本の守りをかため、都を大津に移した。中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
天智天皇の死後、その弟と子の大友皇子が天皇の位を争い、豪族をまきこんだ大戦乱となった。勝利した弟の大海人皇子は、即位して天武天皇となった。天武天皇は、みずから政治をおこない、唐にならって律令にもとづく政治のしくみをつくろうとした。またこのころ、天皇は「大王は神である」と歌われ、天皇の称号が正式に使われるようになった。

学校の歴史教科書によれば、日本国の天皇が誕生する前の「巣」の所有者は、どうも「蘇我氏」ということになるようです。では、その蘇我氏とは一体何者なのでしょうか。再び、歴史教科書に戻り時代を逆行してみます。

六世紀頃、勢力をのばしてきた大臣の蘇我氏は、渡来系の豪族と結びつき、仏教をさかんにしょうとした。六世紀末には、仏教の受け入れに反対する大連の物部氏をほろぼし、政治の実権をにぎった。さらに蘇我氏は、蘇我氏に対立する天皇を殺害した。
かわって即位したのが、女帝の推古天皇である。推古天皇は、593年においの聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とした。聖徳太子は、蘇我氏とともに新しい政治をおこなった。聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。

学校の歴史教科書では、理論整然と日本国における天皇の誕生を説明しています。しかし、別の角度からの情報と照らし合わせてみると、その説明には「ウソ」があるようです。
「ウソ」の第一は、「本朝皇胤紹運録」によれば、弟である天武天皇が天智天皇より四歳年上であるということです。第二は、聖徳太子など実在の人物ではないのですから、蘇我氏とともに新しい政治などできるわけはないでしょう。
そのような「ウソ」を無視して、想像力を使って眺めてみると、渡来系騎馬民族の蘇我氏が渡来系の氏族(蘇我氏をバックアップしたのは突厥の皇子タルトウで、それが聖徳太子のモデルと言われている。)をバックに、海洋系民族連合軍の物部部族を倒し、六世紀に飛鳥の地を統治していた「大王」であったのだろうということです。
しかし、六世紀に忽然と現われたその蘇我氏の出自は、九世紀に突然天下人となり、十ニ世紀には壇ノ浦から忽然と消えた「平氏」のように、どこから来たのか分らないのです。
しかし、ヒントはあります。それは、大乗仏教にあります。騎馬民族系の蘇我氏が、倭国に大乗仏教を持ち込んだという事実は、その出自は中国大陸の可能性が大です。中国大陸での騎馬民族は、農耕民族である漢民族の儒教文化に対抗するために、北魏のように大乗仏教を武器としていたわけです。トルコ民族の言伝えでは、中央アジアにいたトルコ民族(遊牧系チュルク人)は大昔東西に分かれた。西に向かったのが現在のトルコで、東に向かったのが日本人(トルコ系日本人=胡の付く村に住む)となった、と言われています。
日本列島には、元々馬が生息していなかったのに、五世紀に馬が出現するわけです。では、その馬はどのようにして、日本列島に辿り着いたのかと言えば、それはひとと一緒に渡来したわけです。
日本列島は海に囲まれているので、一般的に孤立していると考えられているようですが、それは間違えです。日本列島は、大昔から、海の道(海流)を交通手段として国際的なのです。
中国の史書によると、倭人は自分達の出自は、呉であるとし、又、習俗の刺青や断髪や海に潜り漁をすることは越のものと同じであると記述しています。呉も越も海洋民族で、大きな構造船で近隣諸国と貿易或は戦をおこなっていたのです。その呉は紀元前473年、越により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。その子孫が九州に辿り着き弥生文化を伝えたわけです。それから約百四十年後の紀元前334年、越は楚軍の侵略により滅ぼされ、海の彼方に消えてしまったのです。
越の子孫が日本列島に辿り着いた時には、中国大陸で敵対していた呉の子孫が九州に倭国を作っていたので、日本海を黒潮に乗りさらに北上し、能登、新潟、津軽、北海道そして太平洋を南下して、陸奥、常陸などに上陸し国を作るわけです。そのように、丸木舟ではなく、大量の荷物を輸送する構造船は、弥生時代の日本列島と中国大陸とを海の道により行き来していたのです。歴代の中国皇帝の魔除けの翡翠は、日本国の糸魚川産であることからでも分るように、昔から、日本列島は海の道により国際的であったことが理解できるでしょう。
そのように四方を海に囲まれた日本列島は、縄文時代の昔から海の道により近隣諸国の天変地変や争乱の影響を強く受けていたのです。
では、六世紀に近畿地方を支配していた蘇我氏の前の情勢はどのようであったのでしょう。再び、歴史教科書により時代を逆行してみましょう。

三世紀の末頃、大和や河内の地域には、とくに巨大な古墳が数多く見られる。これは、この地域の豪族たちが連合して強力な政権を作っていたためと考えられる。この政権を大和政権という。大和政権の王は大王といわれた。大王が政治をおこなう場所を朝廷という。大和政権は、しだいに吉備(岡山県)・出雲(島根県)・筑紫(福岡県)・日向(宮崎県)・毛野(群馬県・栃木県)などの地域の豪族をしたがえていた。

歴史教科書によれば、大和朝廷は大和の地の中央に鎮座して、地方の豪族を従えていたように記述しています。では、大和朝廷は、どのような生産手段で、そのような広域の豪族達を養っていたのでしょうか。山々に囲まれた大和地域には、農作物や物品を全国に供給する程の生産力はないのです。
大和の地は、縄文時代から交易のメッカで、地方の物産が集まる地であったのです。ですから、地方の豪族は、大和の地に支店を出していたのです。その各地方の支店の連合会が「大和政権」と言われている実態です。
やがて四世紀には朝鮮半島で、百済や新羅が勢力を増して、日本列島に進出してくると、日本列島に点在する豪族達は、百済系と新羅系とに収束していくわけです。
やがて、「大和支店」の勢力圏は、交易の利害関係や中国大陸や朝鮮半島の政治情勢の影響で、西の葛城と東の磯城との対立に発展し、その流れが、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫→百済(海洋系)の系列となり、それに対抗して、磯城→山城→近江→越・若狭→出雲→新羅(騎馬系)の系列となるわけです。その部族間の流れは、百済国や新羅国を中継基地として中国大陸の国々との交易のルートとなり、物や文化或は部族が行き来するわけです。
日本国の歴史を、教科書を基に三世紀から六世紀までをみてきたわけですが、一寸気になることがあります。それは、中国大陸の物や文化あるいはひとの流れが、朝鮮半島だけからのようだからです。本当に、中国大陸からの日本列島へのルートは、朝鮮半島を経由して北九州または出雲だけなのでしょうか。
中国大陸の南北朝の対立時代の512年に勃興した「梁」の国史「梁書」によれば、扶桑国(北海道南端の国)は北魏(南朝の儒教文化に対抗して大乗仏教を国策として保護していた。)と交通して、北魏の首都洛陽には扶桑館が立てられ優遇されていたとの記述があります。扶桑国は越の末裔の海洋民族国で、敵対する呉の末裔が北九州に倭国を立て南朝と交易していたので、北朝の北魏と海の道により交易をしていたわけです。
更に、日本書紀によれば、蝦夷の部族長アテルイの敗北による王化までは、集団で馬を駆使し短い弓矢を使い、蕨刀(ペルシャの腰刀か)を振り回す(この戦い方は、正に西アジアの騎馬民族の戦法です。)蝦夷(えみし・髭のあるエビスの意味・中東遊牧民族)が住む文化のない野蛮な未開の地、と記述されている東日本の日本海側には、野代(能代)、出羽(秋田)、佐渡、福良津(能登)などの港が、北魏との交易ルートとして確立されていたのです。
何故、日本書紀は、六世紀における中国大陸の国々と東日本の国々との交易の「歴史」を抹殺したのでしょうか。
それは、七世紀に誕生した「日本国」を裏でコントロールした、日本書紀をプロデュースした藤原不比等の戦略によるようです。
それは、藤原氏の出自を、蘇我氏と同じに知られたくなかったからのようです。
藤原氏の誕生は、645年の大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原不比等の父)が、蘇我氏を滅ぼしたその活躍により天智天皇から「藤原」の姓を賜ったからとの説明です。(この説明は、旧約聖書の創生期第三十二章のヤコブがイスラエルになった物語を彷彿させます。)
しかし、大和の地で大化の改新(乙巳の変)などなかったのです。野史(官製ではない歴史。敗者の歴史)によれば、それは朝鮮半島での争乱だと説明しています。だとすれば、日本国の誕生から現在までの国策に影響力を「裏で」発揮する藤原氏の先祖は、一体どこから渡来して来たのでしょうか。
それが解明できれば、この国におけるヒンズー教化している大乗仏教を利用した政策的イジメの「穢多」(人間以下の下層階級・日本的カースト制度)の発生の謎、そして、祭りの神輿に向かって「水」又は「塩」を振り掛ける意味が理解できるかもしれません。
元々この国には、大乗仏教が騎馬民族の蘇我(ワレハミナモトの意味)氏と伴に中国大陸から五世紀に、農耕に適した照葉樹林文化圏の北九州ではなく、狩猟牧畜に有利な落葉樹林文化圏の東日本へ侵入してくる前には、「穢多」の差別思想などなかったのです。
古代インドでヒンズー教化してしまった大乗仏教は、白人種のアーリア系民族が有色人種の非アーリア系土着民族を統治するために発明した呪縛思想のカースト制度を、その教義に取り入れ布教したことにより、わが国の藤原氏が支配する平安時代末期に、「穢多」の思想が庶民に流布されていくわけです。そして、この呪縛は、現在まで生きていて、小学生の「イジメの素=エンガチョ」となっているわけです。
「ブッダのことば」(大乗仏典にあるブッタの言動は後世のひとが創作したものです。)の中には、騎馬民族や狩猟民族の生活基盤を根本的に否定する「教え」が沢山あります。
「生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者、おまえは地獄に堕ちる者だ。」
「生きものをみずから害してはならぬ。また他人をして殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。」
「この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、かれを賎しい人であると知れ。」
大乗仏教の釈迦は、殺生を禁止し狩猟を嫌悪し、猟人、漁師、肉を売買する人々(セダラ)を最も卑しい人々と考えていたようです。そのような倫理観で屠殺に従事するセダラは、低い倫理観しかない人々の集団と位置づけられていくのです。つまり、大乗仏教の釈迦が殺生戒の内容を充実させていくにつれ、セダラ差別が深まっていくのです。そこで、ウソも方便で、僧が食べる肉を「浄肉」とし、セダラの食べる肉を「穢れた肉」との差別思想を発明するわけです。浄、不浄は相対的なものです。(カミ・モノが支配するこの国には、元々浄・不浄の区別などなかったのです。仏教で不浄とされる便所(仏教徒は御不浄と言う。)にも「便所のカミ様」が鎮座していたのです。)僧は、そのようにセダラを見下し、「三浄肉」つまり、動物を直接殺すのを見ない、動物の刹那のうめき声を聞かない、疑わないの三要素を含んだ肉を食べることは、殺生戒を犯したことにはならない、などの方便を発明するのです。
そのような、農耕民族の生活基盤に立って考え出された大乗仏教の殺生戒は、狩猟民族、牧畜民族或は漁労民族には、とんでもない思想なのです。
はっきり言ってしまえば、新生「日本国」における「穢多」の差別思想の布教は、「騎馬民族」を貶めるためのものです。大乗仏教を利用して、騎馬民族と他の民族とを隔離して、壊滅させることが、騎馬民族の蘇我氏の王権を簒奪した民族の戦略なのです。
では、どのような戦術で、「穢多」の思想をこの国に広めたのでしょうか。
古代インドでのカースト制度は、数百年の歳月を費やして「完成」したものです。この国のカーストの差別思想も、平安時代末期から約六百年も費やして、ようやく江戸時代に「完成」したのです。
では、誰がその差別思想を創作し、誰がその差別思想を実行し、どのようにして広められたのでしょうか。
そのカラクリを述べる前に、もう一度この国の歴史の流れの大筋をお浚いしてみましょう。
縄文人が、呉の子孫と北九州で遭遇したのが、紀元前二三世紀のようです。やがて、呉の子孫が北九州に倭国を作るのが一世紀頃です。そして、倭国の女王が魏に使いを送るのが三世紀です。そのころ朝鮮半島で高句麗、百済そして新羅が次々と建国し、日本列島に交易のために進出してくるわけです。そのころにはまだ「日本国」は誕生していません。
中国大陸からの亡命者や交易商人達が、日本列島各地に集落を作り、そこで力を蓄え、縄文時代からの交易地「畿内」をめぐって争奪戦を行うわけです。やがて、国際交易商人連合会が大和にできるのが四世紀頃です。その連合会で有利な立場をとったのが百済国の商人です。北九州の倭国は、百済と同じ海洋民族で、距離的にも近いので友好国として百済人をバックアップしたわけです。その交易ルートに対抗して、新羅は、出雲や敦賀などの別ルートを開拓して畿内との交易を行うわけです。日本列島からの主な交易品は、絹、朱砂、金、銀、銅、翡翠そして奴隷などです。
日本列島各地から出張してきた中国大陸出身の支店長が亡くなると、交易で儲けた莫大な資金で、競って大きな墓を作るわけです。その集大成である前方後円墳は、北九州、出雲、吉備、畿内そして北関東の五つの地域の埋葬文化を集合させたものです。それを歴史書は天皇の墓と言っています。実際に、天皇が誕生するのは七世紀なのです。
五世紀になると、その畿内に突然、九州からの西方ではなく、関東から騎馬民族が現われるのです。それが、「ワレハミナモト」の意味の「蘇我氏」です。蘇我氏は、中国大陸から馬を連れてきた渡来者で、北関東で勢力を張っていた民族です。
そして、蘇我氏は、飛鳥の地に石を多用して水をモチーフにしたペルシャ式庭園などを作り、畿内の「大王」として君臨したのです。君臨していたと言っても、騎馬民族の政治は、合議制なので独裁的ではなかったでしょう。それは、生活様式が関係しているようです。移動式テントのパオの中で車座になって議論をすれば、皆の意見が同等になるからです。それに、騎馬民族は、海洋民族と同じに漂泊性のため、土地に執着することもないからです。
蘇我氏は、中国大陸出身なので、同じ騎馬民族国家「随」や「唐」と交易を盛んにするわけです。
七世紀になると、俄かに政局が激変してくるのです。それは、朝鮮半島での新羅の動きです。三韓の内で一番弱小だった新羅が勢いを増して、百済を攻めたからです。更に、百済にとって最悪は、唐も新羅と共同戦線で攻めてきたからです。
それに対応して、日本列島の畿内で革命が起こるのです。それは、百済系民族による蘇我氏の壊滅作戦です。(歴史ではこれを大化の改新と言っている。)敗れた蘇我氏は、元の勢力地の北関東へ敗走するわけです。
蘇我氏の政治は合議制なので、色々な部族とも友好関係を保っていたわけです。物部氏もそのひとつです。物部氏は、海洋民族の連合民族で色々な部族が混成していたのです。蘇我氏と伴に戦った物部氏は、敗れて後、外物部氏(中央にいるのは内物部氏)と言われるようになるわけです。その外物部氏は伊勢に逃げ込むわけです。
畿内での革命が成功して、北九州の同盟国倭国の海軍と百済救済に赴いても、唐・新羅軍には太刀打ちできず、663年白村江の戦いで、倭国と百済軍は壊滅し、倭国も百済国も歴史から消えてしまうのです。
日本の歴史書では、中大兄皇子(百済国の王子)が668年大津に都を移し、天智天皇として即位した、となっています。そして、七世紀末に、中国の歴史から倭国が消え、それに替わり、日本国が登場するのです。
敗戦国移民の百済系民族に、チャンスが訪れるのです。それは、同盟国の唐と新羅が戦争を始めたからです。唐は、百済を壊滅させ、次に高句麗を攻めるのです。その唐と高句麗の戦いの最中、新羅は、朝鮮半島から、唐軍を追い出し、半島統一国「新羅国」となるわけです。日本国と半島統一新羅国はほぼ同時に建国したわけです。
現在の日本人(百済系日本人)が、韓国人(新羅人)を蔑視する原因のひとつが、ここ(新羅国が百済国を滅ぼしたこと。)にあるのです。
白村江の戦い後、唐の日本列島進駐軍は、新生日本国で、百済系日本人に肩入れし、敵国移民の新羅系日本人を追い落とそうとするわけです。それに対抗して、新羅の王族金多遂(大海人皇子)が、伊勢の外物部氏(海洋民族・赤旗)と関東の蘇我氏(騎馬民族・白旗)の残党の力を借りて、近江朝の百済政権に戦いを挑むわけです。これを、歴史教科書では、壬申の乱と言っています。この戦いに勝って、大海人皇子が天武天皇として即位するのです。
そして、蘇我氏の元の都「飛鳥」に都を建設するわけです。そして、戦いの功労者の外物部氏の伊勢の神社を天武朝の神として祭るわけです。(しかし、第五十代百済系桓武天皇になってから伊勢神宮にお参りしていないのは何故か。そして、約千年後の明治天皇になってからお参りが復活したのは何故か。)
新生日本国の大王となった天武天皇は、百済系日本人を中央から追い払うのです。このことが後の世で、新羅系日本人(騎馬民族)が、藤原氏にコントロールされた百済系桓武天皇からイジメられる原因のひとつにもなるのです。「奢れる者久しからずや。」
やがて、天武天皇が亡くなられると、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が朝廷に返り咲くのです。それと同時に、百済系日本人の地位が向上し、それに反して、新羅系日本人は中央から追い出されてしまうわけです。
ここから、天武天皇系人脈と天智天皇・藤原氏人脈との熾烈な戦いが始まるのです。
七世紀の中頃突然日本の歴史に現われた「カッコウ・藤原氏」は、天武天皇家の巣に入り込み、その人脈がひとり、またひとりと消されてしまうわけです。そして、天武王朝は八世紀後半に、奈良の大仏建立を発案した聖武天皇(神輿の元祖)の子供の称徳天皇の代で滅びてしまうわけです。
では、誰が、天武天皇系・新羅系日本人のイジメ方を考え、そして実行したのでしょうか。
日本国の王権の簒奪方法を、旧約聖書を参考にして推測すれば、出自不明の「レビ族」が「藤原氏」、頭に油を注ぐことにより王様を創る祭祀の「アロン」が外物部氏の伊勢神宮を簒奪した「中臣氏」、自分の部族に都合の良い法律を作る「モーセ」が大宝律令を創作した「藤原不比等」、では、エフライム族のイスラエルを乗っ取り自国のエルサレムに神殿を勝手に作った「ダビデ」は一体誰になるのでしょうか。
それは、日本国のダビデは藤原仲麻呂(恵美押勝)の他には考えられないでしょう。
藤原仲麻呂は、天武天皇の皇子で藤原氏よりの舎人親王の子供の大炊王を息子の嫁にあてがうことにより、養子のように囲い、王として即位させ、この王が即位した後、天皇から「父」と呼ばれるようにした。(天皇に女をあてがうのは、藤原氏の伝統のようです。)
更に、藤原仲麻呂は、仲麻呂一家で太政官を独占してしまうのです。太政官とは国政の最高機関で、天皇の決済のための御璽(ハンコ)をあずかり、業務をおこなう役人です。つまり、天皇は飾りで、実務は藤原仲麻呂一家が取り仕切っていたわけです。
更に、藤原仲麻呂は、天皇からお金を鋳造する権利と仲麻呂の私邸に印(恵美家印)を持つ権利を与えられるのです。これはどういうことかと言えば、仲麻呂家が国家そのものと言うことです。
そのような独裁的性格の藤原仲麻呂の先祖は、中国からの渡来者で合議制で政治を行い、諸外国(特に新羅国)と全方位外交を行う蘇我氏の存在が邪魔であったわけです。
そこで、藤原仲麻呂は、蘇我氏の先祖を貶めるために、皇后に言い寄ったなどのデタラメ物語を挿入し、日本書紀を改竄するのです。更に、蘇我氏や新羅系日本人を貶めるため、それらの歴史的人物に蔑称を付けるのです。
それらの蔑称は動物の名を付けることです。(動物・鳥・魚・昆虫の名前を付けられた氏族は、蘇我氏系か新羅系のひとのようです。)蘇我氏や新羅系のひとには動物の名前、例えば蘇我馬子、蘇我蝦夷(エミシ=エビのようなヒゲのあるエビスの意)、蘇我入鹿などです。その祖父と子供の名前の一字を合わせると「馬鹿」になるように、日本書紀等の歴史書を改竄して手の込んだイジメをするわけです。
そのかわり、高句麗人や百済系人などは、朝鮮名を隠し日本名(勿論日本名藤原の前は朝鮮名です。)にするわけです。そして、藤原仲麻呂は、新羅系天皇に対抗するため、藤原氏を高位におく系図集の「氏族志」を創作するのです。
更に、日本書紀は、新羅系天武天皇の命令で創られたとのトリックを考えるのです。その内容はまったく逆で、百済系天皇に有利に、そして、蘇我氏・新羅系天皇には不利なものとなっているのです。
そのように暴虐不仁の藤原仲麻呂の行動に対して、天武天皇の血が流れている聖武天皇は黙って見ていたわけではありません。天平十二年(740年)、九州の藤原広嗣の乱のさなか平城京から姿を消し、伊勢神宮に行くのです。その頃の伊勢神宮は二派に分かれていて、元々の外物部氏の社(海洋民族の神天照・アマテルと天武天皇の神を祭る)と藤原氏の息のかかった中臣氏の社(中臣神道の儀式はユダヤ教の臭いがする。灯篭にダビデ紋がある。)とがあるわけです。外物部氏は天武天皇派で反藤原氏(反仏教)です。
藤原氏に支えられている百済系役人達に、中央から追い落とされた蘇我氏や新羅の騎馬系民族の人々や外物部氏の海洋系民族の人々は、農奴となるのを拒否して表の世界から闇の世界に入っていくわけです。つまり、仏の敵「鬼」になるのです。しかし、農奴になったもの達は関東に屯田兵として送られ、「夷を以って夷を制す」の戦法の道具として、蝦夷討伐の尖兵とされてしまうのです。この子孫が、後の源氏(白旗)や古平氏(赤旗)の武士となるのです。
もともと鬼の素性は、騎馬民族と海洋民族の子孫であるわけです。つまり、漂泊する非農耕民族であるわけですから、藤原氏などの貴族(律令制度で発明された王権側の奴隷)に農産物を貢かず、政府に反抗する鬼達は、「やくさぬもの」、つまり、役に立たないもの、アウトサイダーの「ヤクザ」との烙印を押されてしまうのです。
その鬼が反藤原闘争を企てる聖武天皇と接近するのです。そして、鬼(部落の宿神)が天皇を「裏で」支える見返り(天皇の宿神)として、鬼達は通行の自由、税、諸役の免除などの特権を得るのです。この流れから、江戸時代、穢多頭の弾左衛門が支配する芸能民、勧進、遊女、鋳物師、木地屋、薬売りなどの「歩き筋」と言われる非農耕民達は税が免除されていたのです。
その聖武天皇が、巨大寺院の東大寺建立を発願するのです。それに対して、鬼達(反体制派の騎馬系や海洋系の漂泊民)の故郷である陸奥の国から、大仏塗金の材料として大量の黄金が寄進されるのです。しかし、王御宝(おおみたから)の体制派の農耕民族には過度の負担を負わせたため、政治が混乱するのです。
では、何のための大仏建立なのでしょうか。そのような体制派の農耕民族を苦しめる大仏建立は護国のためだけではないでしょう。それは、聖武天皇の真の狙いは、平城京を見下ろす丘の上にある藤原氏の春日大社や興福寺(この二つの建物は、鬼との戦いの時は砦となる戦略的建築物。)を、ルシャナ仏(太陽の神/日本国では「大日如来」と言われているが、実体は「遍照鬼」で、インド正統派のバラモン教系の神格ではない、被征服民族の救世主。古ミトラ神の化身か?この東大寺を、平安時代に、海洋民族の百済系平氏=桓武平氏=インド系庸兵団が焼き討ちで全焼させ、後の鎌倉時代に、騎馬民族で太陽信仰の新羅系源頼朝が再建するのです。)で封じ込めるためではないかということです。何故ならば、東大寺が、そのニ寺を見下ろす山の上に建立されているからです。
その東大寺建設に対して、藤原仲麻呂は何度も妨害するのです。そして、やっと天平勝宝四年(752年)に東大寺が完成すると、鬼達は、聖武帝の常輿のほうれんをもってお祝いするのです。これが神輿のルーツと言われているものです。つまり、神輿は「鬼達の神」を祭るものだったのです。
東大寺の大仏開眼の後、756年聖武天皇は亡くなり、騎馬民族天武朝最後の女帝孝謙天皇(聖武天皇の娘)が、藤原仲麻呂との闘争を、父聖武天皇から引き継ぐのです。
孝謙天皇の基本的考えは、「事としいわば、王を奴となすとも、奴を王というとも、汝の為んまにまに。」の言葉に表れています。孝謙天皇は、鬼達の力を借りて、764年宿敵藤原仲麻呂を滅ぼすのです。
旧約聖書における簒奪物語は、ダビデの死後、正当な後継者から祭祀アロンと結託したソロモンはダビデの王権を簒奪し、そして、エフライム族達の正統派イスラエル民族をエルサレムの神殿から追い払い、その財宝を独り占めするわけです。
これが原因で、ソロモンの死後、イスラエル王国と、ユダ国に分裂するわけです。その時、旧約聖書は、エフライム族からレビ族の物語に改竄されるのです。この時にはまだ旧約聖書のモーセの五書は創作されていません。それが創作されるのは、ずっと後の紀元前六世紀から紀元前五世紀の間になるのです。
ダビデの王権を不正な手段で簒奪したソロモン王を日本国に求めると、それは、天武王朝の簒奪者百済系桓武天皇となるでしょう。「桓」とは「韓」で、「武」とは「王」の意味で、桓武天皇とは、「韓の国の王」と言う意味です。
藤原百川の陰謀の助けによりの簒奪者百済系桓武天皇が、新羅系天武天皇が発明した伊勢神宮での世襲儀式の「大嘗祭」を止め、百済系王族を交野に集め、中国式の「封禅の儀」を執り行うのです。そして、桓武天皇以降、明治天皇が即位するまでの約千年間、歴代の天皇は伊勢神宮に参内していないのは、桓武天皇から天皇の血筋が替わったことを意味していると言えるでしょう。つまり、天皇家の万世一系は神話だったのです。
更に、平安京へ遷都した桓武天皇は、その時、今までの完全な漢音式ではなく、倭国の故郷の中国江南地方の「呉音」で祝詞を奏上したのです。ここに、京都「小中華帝国」が出来上がるのです。
そして、桓武天皇はインド系庸兵団(後の桓武平氏の祖先。外物部氏は同じ海洋民族でもその出自が異なるため古平氏と言われる。氏名があるのが古平氏で、インド系傭兵団の子孫の桓武平氏は、「平の何某」と明記され氏名がない。)の軍事力を、桓武天皇のバックスポンサーである唐国が求める金、銀、銅、水銀、朱砂などの鉱物奪取の目的で東北侵略に向けるのです。
唐国の経済を支えていた「絹」は、六世紀に、西域の修道院僧により「繭」が盗まれたことにより、そして、その絹織物の製法も盗まれたことにより、七世紀中頃にはヨーロッパでの需要は激減してしまうのです。その結果、唐国の経済を支えていたシルクロードの交易は日に日に衰えていくわけです。そのような影響が、唐国、新羅国を通して、絹織物生産国の日本国の社会にも影響を与えるわけです。
では、この頃の日本国の情勢について、教科書の歴史はどのように述べているかをみてみましょう。

奈良時代も後半になると、天皇の後継者をめぐって貴族の争いがはげしくなり、政治が混乱した。そこで、母が渡来系の子孫である桓武天皇は、794年に今の京都の地に新しい都をつくり、ゆらいできた律令政治を立て直そうとした。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間を平安時代とよんでいる。桓武天皇は、都づくりと東北地方の蝦夷支配に力をそそいだ。

貴族の争いとは、天武系と百済・唐系との争いということで、当時の先進国唐国のバックがある百済系貴族は、百済系でない者を、「百済ではない。」、つまり「クダラナイ」と言うことで、新羅系貴族を中央から追い落としていくわけです。そして、桓武天皇は、百済系貴族に不利な書物を焚書し、日本書紀を改竄し、そして、続日本紀を編纂するのです。
それらの歴史改竄により、現在の日本人は、飛鳥時代、そして奈良時代の実体を知ることが出来なくなってしまったわけです。
更に、桓武天皇は、天武朝系の聖武天皇の遺品を納めた正倉院の保管物を適当に処分することにより、天武朝の北方騎馬文化の臭いを消してしまうのです。
正倉院とは、正倉つまり重要物品を納める蔵が幾棟も集まった所を言うのです。その正倉院には、756年に没した聖武天皇の遺品が納められていたのです。その中に、北の果ての地方豪族が乗るような馬の装具が十具あったのです。これはどう言うことなのか。(平安時代の貴族は、牛を交通手段として利用し、馬(騎馬文化)を蔑視していたので、天皇が馬に乗るなどの発想はなかったのです。)
更に、正倉院の建築方法から、前史の謎解きができるのです。
正倉院は湿気を防ぐための校倉造りで造られているから、それは当然南方系の建物かと思われていますが、実は、中央アジアの遊牧民族スキタイ族の冬の住まいがルーツであるわけです。遊牧民族の建物は、移築可能な組み立て式で、移動が簡単にできるようになっているのです。その正倉院に保管されていた物の中に、不思議なものが多くあるのです。ペルシャ地方の王様をかたどった面の「酔胡王面」、パミール高原の少数部族が使用するワッチ太鼓の「くれの鼓」、そして中国から出土していないカスピ海周辺で制作された「白瑠璃椀」など、西域地方の物品が多数あるのです。
平安時代、文化の面でも、北方系ルーツの伎楽を止め、インドから東アジア経由の雅楽を宮廷音楽とするのは、北方系文化抹殺の手段なのでしょう。
そのように、北方騎馬文化が前史にあったことがバレルと、騎馬民族の蘇我氏が「大臣(臣とは奴隷という意味)」ではなく、実は「大王」であったことが知れてしまい、その結果、後のひと達に、百済王朝が簒奪王朝だと知れてしまうからです。
特に、仏教伝来のストーリ、538年百済王聖王が仏像・経巻を倭王に贈り、「未開の野蛮人の倭人を教化した。」が崩れてしまうからです。
504年に、中国の南梁に渡った北倭国僧慧深の記事が「梁書扶桑伝」にあります。北倭国僧慧深の北倭国についての説明によれば、北倭国は、山陰・北陸の文身国、伊勢・美濃一体の女国、そして相模・武蔵の大漢国に分かれていて、それらを統治していたのが扶桑国(北海道南端の国)であるということです。その扶桑国には、馬車や鹿車(トナカイのソリか?)が交通手段として利用されていたということです。五世紀の東日本については、「日本書紀」には「蝦夷の国」としか記述していないのに、中国史書の「梁書」には北倭国のことが記述してあるのはどう言うことなのでしょうか。
そのような北方文化の目で、飛鳥時代、そして奈良時代を見てみると、やはり行き着くところは「聖徳太子」の謎(ウソ)です。
聖徳太子と言えば、日本人であれば誰でも知っている超有名人です。しかし、「古事記」と「日本書紀」以外の史料は全て裏付けのないものばかりです。(「古事記」、「日本書紀」の史料は信用できるとは保証できませんが。)
いやそれは違う、一昔前の一万円札に、聖徳太子の肖像があったではないか、と反論するひともいるでしょう。でも、その正倉院御物聖徳太子像は、中国大陸人が描いた中国大陸人の像であって、聖徳太子とは全く別なひとであるわけです。
その聖徳太子像は、どこからもたらされたかと言えば、元は法隆寺ではなく、大陸色(騎馬文化色)の強い「川原寺」(天武天皇が建立か?仏教行事には、平安朝廷のインド系雅楽ではなく、大陸調の伎楽を専門的に執り行っていた。)からです。
その聖徳太子像には、二人の侍童を伴っていることは、何を意味しているのでしょうか。
太陽神の古ミトラ教は、三神で構成されています。それらは、日の出の神、天中の神そして日没の神です。日の出の神は「ケプリ」で「創造」を、そして日没の神は「アトン」で「完成」を表しています。その二人の神をともなって、ミトラ神は救世主(メシア)となるわけです。
そこで思い出されるのは、仏像が聖徳太子から秦河勝に渡され、仏像安置のために建立した寺の名前です。蜂岡寺が広隆寺となるのですが、それは後に太秦寺(ウズマサデラ)と言われるのです。その太秦寺とは、中国大陸では、ペルシャ寺と言われているのです。その太秦寺では、牛祭りを行い、ご本尊が魔多羅神(ミトラ神?)であるわけです。
ミトラ神が、牡牛を屠るには意味があります。それは、今から五六千年前のチグリス・ユーフラテス河の住民には、農耕のためには牛は最も大切な労働力であるわけです。毎年、耕作の開始の春分の頃、太陽が通過する星座を牡牛座と呼ぶようになったらしいのです。まだ暦の知識がない時代でしたので、牡牛座が、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座と信じられるようになると、「牡牛」そのものが「太陽神のシンボル」に変身してしまうわけです。太陽は、死と再生を繰り返すと信じられたため、太陽のシンボルを屠ることにより、人工的に再生を創り出そうとしたわけです。
太陽の光が最も衰える12月25日の冬至(太陽の死)は、太陽が復活する聖なる日になるわけです。この聖なる日がミトラ教に取り入れられ、そのミトラ教を乗っ取ったユダヤ・キリスト教は、救世主イエスの誕生日とするわけです。
そのミトラ神が、仏教の寺にいることは、一体何を意味しているのでしょうか。
聖徳太子が活躍(?)した時代を飛鳥文化と呼んでいます。その時代を歴史教科書はどのように説明しているのか調べてみましょう。

聖徳太子や蘇我氏は仏教をあつく信仰し、世の中に広めようとした。太子が建てた法隆寺は、今も残る世界最古の木造建築であり、釈迦三尊像や玉虫厨子などのすぐれた美術工芸品がある。また、奈良の中宮寺と京都の広隆寺には、美しい弥勒菩薩が残っている。この文化は朝鮮からの渡来系の人々の手によるところが大きく、その中心が飛鳥地方にあるので飛鳥文化とよばれている。

一万円札にある聖徳太子像が「ウソ」であるならば、607年に聖徳太子により創建されたと信じられている法隆寺は、一体誰が建てたのでしょうか。
教科書によれば、「朝鮮からの渡来人」、となっているから新羅人か百済人だと誰でも考えてしまうでしょう。しかし、それらの飛鳥文化を代表する元興寺や飛鳥寺は、蘇我馬子により中国大陸から招聘された太丈羅未大(タザラーミド)、白味淳(バイミズン)などの非東洋人(ペルシャ人?)の建設指導者により建立されているのです。
では、法隆寺もそれらの非東洋人により建立されたのかと言うと、調べ様がないのです。それは、日本書紀によれば、670年に焼失してしまったからです。しかし、その日本書紀の記述はウソだったのです。発掘された元の法隆寺跡には焼失の痕跡が見つからなかったからです。
更に、法隆寺跡から少し離れた場所に再建された新法隆寺の心柱をエックス線年輪年代学によって調べた結果、その心柱の最終年輪は591年であることが確定したのです。これは一体どう言うことなのでしょうか。
法隆寺の建物にウソがあるように、その建物に納められている釈迦三尊像や救世観音にもウソがあるようです。日本書紀によれば、法隆寺は天智9年に焼失したのならば、それらの仏像(飛鳥時代に制作された。)は焼けなかったとでも言うのでしょうか。
四世紀後半、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教は、敵であるミトラ教の神殿を破壊して、その神殿の上にキリスト教会を建設するのです。ですから、ローマ帝国内の全ての教会の地下を発掘すればミトラ神殿(神殿は地下に建設された。)が現われて来ると言われています。
敵神殿の跡に教会を建てることは二重の意味があるのです。ひとつは、敵宗教の痕跡を歴史から消すことができるからです。もうひとつは、敵宗教の地理的歴史を乗っ取れるからです。
その新法隆寺建立の謎を解いたひとによれば、その法隆寺と呼ばれている寺は、北九州から移築されたと言うのです。更に、奈良に現存する飛鳥時代・奈良時代初期の寺は、全て北九州からの移築だと言うのです。北九州には、無数の倭国時代の廃寺が存在します。
何のための移築かと言えば、それは、蘇我氏、つまり飛鳥時代以降の歴史を隠蔽するためです。飛鳥時代の寺が現存していない(あの秦河勝の広隆寺も再建です。元は現在地ではない所に建立されていた。)と言うことは、抹殺された廃寺は何を物語っているのでしょうか。
日本書紀によれば、大化の改新の時、蘇我氏の館が焼失した時に、国の歴史書は全て焼失してしまったことになっているのです。だから、飛鳥時代の歴史は分らない。
更に時代が下がって、騎馬系天武天皇の流れにある聖武天皇の遺品を納めた正倉院には、西域の楽器や食器、或はお面はあっても、本邦の当時の風俗を顕わす絵画や彫像など一切のものがないのです。しかし、日記類はないのに歴史書はあるのです。だから、飛鳥・奈良時代の風俗は分らない。
では、聖徳太子(=藤原氏による蘇我馬子の事績を基に創作された合成人物像)が広めたと信じられている飛鳥時代の仏教とは、本当のところ何なのでしょうか。
聖徳太子が実在の人物でないとすれば、日本の仏教史どころか古代史のストーリは書き換えなければならなくなるでしょう。それは、古代史のメーンテーマである、「大化の改新」が起こる必然性の根拠(蘇我氏が聖徳太子の遺児一家を滅ぼした。)が消滅してしまうからです。
では、聖徳太子の事績が蘇我馬子だとしたら、渡来した仏像はどのようなものだったのでしょうか。
仏教史によれば、聖徳太子(蘇我馬子)が弥勒菩薩像を秦河勝に渡したことにより、仏教が倭国に広まったことになっているわけです。そして、その仏像安置のための寺が広隆寺であるわけです。しかし、その広隆寺では、仏教開祖の「釈尊」ではなく、素性不明の「魔多羅神」を祭っているのです。更に、その広隆寺の再建前の寺(太秦寺・ペルシャ寺)は、どうも仏寺ではなく、景教寺であったようです。
では、その弥勒菩薩像とは、「本音」ではどのような背景を持った仏像なのでしょうか。弥勒菩薩とは、インドではマイトレーヤと言われ、その素性はミトラ神であるわけです。そのミトラ神の素性の一端は、ローマ帝国内で繁栄したミトラ神に見ることができるようです。
紀元四世紀にユダヤ・キリスト教に滅ぼされた、ローマ帝国内で崇められていたミトラ神(ラテン語ではミトラス神・不敗の神)は、紀元一世紀にローマ帝国軍がシリア地方を攻略した時、敵側の軍神であったわけです。その敵側の軍神のミトラ神が、ローマ帝国軍の軍人達により、ローマ帝国に持ち込まれ、瞬く間に広まったわけです。
敵側の軍神がローマ帝国内に広まった理由のひとつは、戦いの困窮時に現われて救いの手を差し伸べる救世主思想だけではなく、オリエントの神秘としてのイニシエーションの密儀、秘教占星術、そして牡牛を犠牲とする祭儀などを行うからです。(現在の秘密結社の入会儀式は、ミトラ教の「死と再生」の儀式を真似したものと言われています。)
太陽神のシンボルである牡牛を犠牲とし、その血を飲み、肉を食べる密儀式は、現在ではユダヤ・キリスト教に取り込まれ、赤ブドウ酒とパンに変成してしまっていますが、元の意味は、太陽神と一体になることです。
視点をずらせば、戦争とは、「宗教と武器開発の祝祭」とも考えることもできるわけですから、「神」は常に戦場に現われるわけです。つまり、神には、常に軍神としての需要があるわけです。
聖徳太子(蘇我馬子)から弥勒菩薩像を渡された秦河勝の祖先は、五世紀に新羅国からの渡来人であるわけです。そして、その弥勒菩薩は、元は新羅国を経由して、秦人により倭国にもたらされたものなのです。
では、新羅国の軍人は、どのような神を崇拝していたのでしょうか。
新羅人は、元々朝鮮半島にいたわけではなく、出自は西域からです。その西域からの新羅人が四世紀に朝鮮半島南端に小さな国を興した後に、職能集団・国際交易商人の秦人が入り込んだようです。そのように、外からの異民族が流入することにより、新羅国は強大な国に変身していったのです。
その新羅国の軍隊の中核をなすのが「花郎」(この組織運営は九州に渡り「兵児二才」となり、日本国の武士育成の礎となる。美少年天草四郎の青年武士団もこの流れにある。)です。
花郎の源流は、氏族社会において青少年の集団生活をとおして、心身の鍛練と氏族社会の規範を教え込み、有事の際、戦闘員として役立つように組織された機関です。この風習が、六世紀の朝鮮半島の動乱に、新羅国の真興王(540〜575)により、在来の青少年集団を正規軍の国軍として組織化を図ったわけです。つまり、国家軍の総指揮者を「花主」と称し、その下に「花郎」をおいて軍卒を統率指揮したのです。そして、その軍隊は、仏教(騎馬民族は、漢民族の儒教に対抗して仏教を保護した。)の弥勒菩薩を深く信じて、自らを弥勒の化身だと確信していたようです。
「花郎」の「花」とは「弥勒」の訓借字で、「郎」とは「男」の意味です。つまり、「花郎」とは、「弥勒の男」という語義をもつものであるわけです。
そのように、軍神の背景を持つ弥勒菩薩を、蘇我馬子(聖徳太子)が秦河勝に渡したという意味は何なのでしょうか。その意味は、単なる仏教の布教だけではないのでしょう。
蘇我氏が倭国の歴史に突然現われた時代背景をみてみましょう。
まず、新羅国が百済国に屈服した。大和の地を中心に、四十七箇所に屯倉が設置された。そして、突如、蘇我稲目(蘇我馬子の父)が、政治の中央に躍り出た、ということです。
中国大陸の動乱に影響されて、朝鮮半島の高句麗、百済そして新羅は、三つ巴の戦いに明け暮れていたのが、六世紀の東アジアであったわけです。
そのような時代に、朝鮮半島三国のコロニーがいがみ合う倭国において、大乗仏教は殺生禁止の仏の教えを布教していた、とでも言うのでしょうか。そもそも、仏教は、他民族を統治するための、騎馬民族の武器のひとつであるわけです。
ではどうして、その騎馬民族の武器のひとつである仏教が、平安時代になると、騎馬民族を「セダラ」と蔑むようになったのでしょうか。
その謎は、六世紀の近畿地方の政治情勢、つまり「百済系民族」対「新羅系民族」の抗争に原因があるようです。そして、仏教が反騎馬民族となるその謎を解くひとつのヒントは、「聖徳太子の発明」にあるようです。
仏教史によると、仏教が倭国に導入された時、二度の争いがあったということです。一回目は、物部尾輿対蘇我稲目、そして二回目は、物部守屋対蘇我馬子です。(この戦いの時14歳の聖徳太子が登場するのです。)その原因は、仏教史では「神」対「仏」の戦いということです。
しかし、それは可笑しい。その原因が「宗教戦争」と言うのなら、本当に物部氏は「神」だけを崇拝する部族だったのでしょうか。
物部氏は海洋民族の連合部族で、その中核には始祖ニギハヤシの伝説を持つように、新羅系部族とも関連がある部族もいるのです。それに、蘇我馬子のお妃は、物部氏の出なのです。
では何が原因かと言えば、それは「経済戦争」、つまり、大和の地での物流経路の縄張り争いだったのです。
四世紀、大和の地に国際交易商人達が「大和支店」を開設し、その後、その利権を得るために、朝鮮三国の高句麗、百済そして新羅が大和の地に進出してくるわけです。
やがて六世紀、朝鮮本国での三国の争いが、大和の地にも影響して、それぞれの流通経路が確立していくわけです。それが、「高句麗・百済」→筑紫→吉備→難波→紀伊→葛城と、「新羅」→出雲→越・若狭→近江→山城→磯城の二つの物流系列となるわけです。この、「高句麗・百済」対「新羅」の経済戦争が、軍事部族の出番となるわけです。それが、「物部氏」対「蘇我氏」の戦いの本質でしょう。
その戦いで圧倒的な強さを示した蘇我氏の軍事力の基は、なんと言っても「軍馬」でしょう。
十六世紀、スペイン人がインカ帝国を滅ぼしました。その戦いで、「軍馬」の威力を知ることができるでしょう。
インカ帝国最後の皇帝ワイナ・カパクの死後、帝位相続にからむ内戦のさなか、北部エクアドル・インカ帝国のアタワルパが南部インカの帝都クスコを陥落させ、北部カハマルカに数万の軍隊で陣取っていました。そこへスペイン軍が突入するのです。その数、180名。その180名の軍隊が数万のインカ帝国軍を陥落させた原因のひとつが、「軍馬」であったのです。
蘇我軍の強さのひとつは「軍馬」ですが、それに「石弾」が加わるのです。蘇我氏の都「飛鳥」(アスカとはペルシャ語で大鷲の意味。)の遺跡で石が多く見られるのは、それは軍事物資の貯蔵所でもあるわけです。平和時では、道路や堀に石を敷き詰め、戦争時には、それらを掘り起こして「武器」とするわけです。石投げは、騎馬民族の弓が発明される前は、重要な武器のひとつであったわけです。旧約聖書で、少年ダビデが敵将巨人ゴリアテを倒すのも、「石」であったわけです。
六世紀の朝鮮三国の争乱に乗じて、その軍事力をバックに、大和の地の物流ニ系列を支配したのが、蘇我稲目であったわけです。そして、軍事力保持のため、蘇我稲目は、大和の地の四十七ヶ所に屯倉を設置するのです。
歴史教科書では、屯倉とは大和朝廷の直轄地ということですが、本当なのでしょうか。
645年(乙巳の変)を境に、つまり、蘇我王朝の滅亡を境に、屯倉の存在意義も異なったようです。蘇我氏の時代の屯倉は、軍事施設であったわけです。それは、交通上そして軍事上にも拠点になるところに設置していたのです。それに、百済から海路で大和に入る重要拠点の吉備には、541年に蘇我稲目は自ら赴き、吉備五郡に白猪屯倉を設置するのは、高句麗・百済軍を迎撃するための基地としたからです。
では何故に、大和の地が争いの素となったのでしょうか。それは、弘法大師の空海が開いた高野山に原因があるのです。高野山は、銀鉱脈の地(鉱脈は伊勢まで続いている。壬生も水銀の産地。江戸時代、高野山では「京おしろい」、伊勢では「伊勢丹」として水銀を原料に白い粉を、表向きは「白粉」として、裏では男には回春薬として妊婦には堕胎薬として販売していた。江戸末期、九州の出島よりオランダ貿易商人から広まった梅毒の特効薬として白い粉は再び脚光を浴びた。)でもあるわけです。その高野山の入口の関所となるのが、大和の地であるわけです。
古代宗教儀式には朱砂・水銀は重要な道具です。朱砂は、呪術時代には、霊力のある「モノ」であったのです。それは、キズが化膿しているところに塗ると、治癒するからです。その朱砂の効能を知るひとは、呪術者として生きられたわけです。化学を知らない時代では、化膿していたキズを治すのは「カミ」の技であったわけです。
しかし、その治癒力は「カミ」の技ではなく、水銀の威力だったのです。朱砂は、硫化第二水銀です。このキズの消毒にたいする「赤」の力は、日本国では昭和48年まで続いていたのです。(水銀毒が指摘され製造中止となった。)昭和生まれのひとなら知っていると思いますが、それは「赤チン」と呼ばれていました。赤チンは正式にはマーキュロクロムと言われ、「有機水銀化合物」であったわけです。
やがて、この朱砂は布に染み込ませると、海の悪魔「サメ」を撃退することを知るひとが出現するのです。そこで、海洋民族は、海に潜るとき「赤褌」をすることにより、水銀毒でサメを避けることを知るのです。やがて、その赤布は、海洋民族の呪術のシンボルの「赤旗」になるわけです。海洋民族の「古平氏」や「平氏」が赤旗を掲げる意味がここにあるのです。(それに対する騎馬民族は、太陽神のシンボル「白旗」です。新羅を「シラギ」と読むのは「蔑称」です。そのシラギとは、「新羅の奴」と言う意味です。新羅はシンラ或はシルラと読み、その意味は新しい「ラー=太陽」と言う意味です。)
貨幣経済の発達していない縄文・弥生時代では、朱砂は呪術の道具の重要な物質であったのです。
やがて、ヨーロッパや中国大陸で銀の需要が増してくると、銀の争奪戦が行われるわけです。そこに、宗教組織も参戦するわけです。
古代の宗教家とは、科学者、化学者そして医者でもあったわけです。只、一般人と異なるところは、宗教家の目的は金儲けではなく、意識の変成つまり、神に近づくことにあるわけです。
中国の道教では、不老長寿が実践され、仙人になるための手段として、錬丹術が開発されるわけです。それは、朱砂の、鎮静・催眠効果そして殺菌効果を呪力として信じていたわけです。
インドでのバラモン教では、水銀による知覚神経や自律神経を麻痺させる効果を知ることになり、水銀の利用方法が、宗教の名の下で開発されて行くわけです。しかし、水銀毒についての知識が増すと、表の術から裏の術、つまり密教となっていくわけです。
このバラモン教の密教が平安時代に、空海(水銀中毒で即身仏となる。)によりもたらされる訳ですが、蘇我氏が持ち込んだ仏教との関連性はあるのでしょうか。どうも、蘇我氏の仏教と平安時代の仏教とは、同じではないようです。それは、拝む対象の「仏」が異なるからです。
蘇我馬子が秦河勝に与えたのが、軍神「弥勒菩薩」であるなら、どうして、物部守屋との戦いの時、蘇我馬子側の十四歳の聖徳太子は、軍神「弥勒菩薩」ではなく、「ぬりで」で四天王の像を造り、それを頭に縛り付け「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てようぞ。」と祈願したのでしょう。
そもそも、四天王とはどのような素性の者なのでしょうか。仏教史によりますと、四天王とは、釈迦を守護する、持国天、広目天、増長天そして多聞天ということになっています。それは、仏教世界の中心の須弥山の中腹で、東西南北の四方を守るとされ、持国天が東方を、広目天が西方を、増長天が南方を、そして多聞天(ビシャモンテン)が北方をそれぞれ守護するわけです。しかし、このコンセプトは、大乗仏教のものではなく、ヒンズー教(バラモン教)の「世界守護」(ローカバーラ)であるのです。
ヒンズー教のローカバーラとは、東方はバラモン教のインドラ(実力神)が、西方はバラモン教のヴァルナ(水の神)が、南方はバラモン教のヤマ(死者の王)が、そして北方はヒンズー教のクベーラ(財宝神)が守護するわけです。
クベーラ(財宝神)は、日本国にはビシャモンテンの仏名ではいってきたのですが、それは、インド南回りの仏であるわけです。それがどうして、北回りの騎馬民族の蘇我氏の軍神となるのでしょうか。これは可笑しい。そもそも、仏教を拓いた釈尊は、反バラモン教だったのです。それに、バラモン教は、菜食主義の神であり、騎馬民族の牧畜・肉食主義とは反する教義を持っているわけです。
見方を変えれば、十四歳の聖徳太子の、物部守屋対蘇我馬子との戦いでの不自然な物語(少年ダビデと同じコンセプト。)は、どうも蘇我氏のペルシャ系北方仏に、無理やりインド系南方仏を接木するためのものではないか、と言うことです。
そのような見方で、平安時代の仏像を見てみますと、インドのヒンズー教(バラモン教は、やがてヒンズー教に取り込まれて消滅。)の神々が、日本国の仏寺に鎮座しているのが分るでしょう。例えば、金毘羅はクビラで、吉祥天はラクシュミーで、そして鬼子母神はハーリーティで、それらの仏像はインドではバラモン教の「外道の神」であるわけです。それが如何して、反バラモン教の仏寺に鎮座しているのでしょう。そこで考えられることは、蘇我氏の時代の仏教と平安時代の仏教は、「異なる」ということです。
そのように考えるとすれば、蘇我氏が建立した飛鳥時代の仏寺(ペルシャ寺)は、平安時代に徹底的に破壊され、その跡に、北九州(秦王国・辛国)の寺を移築した理由が理解出来るでしょう。それは、恐らく、飛鳥時代の「仏寺」は、仏像を安置するための建物ではなく、戦略的建築物であったのです。
飛鳥時代の戦いは、中国大陸で使用されるような破壊的大型武器などを持たない、槍や弓矢そして石を武器とする先住民相手なので、守備としては環濠を巡らした城郭で充分であったようです。現在のような城が出来る流れとして、朝鮮式山城(奈良時代)→都城・城柵(平安時代)→山城(鎌倉時代)→平山城(室町時代)→平城(江戸時代)となるわけです。
国を運営するには、政治、経済、軍事そして宗教が必要です。しかし、政治と宗教とが分離するのは、約千年後の国民国家成立(1776年アメリカ建国)まで待たなければなりません。それ以前の国家では、政治と宗教とが癒着していたのです。そのような時代に、時の為政者が替わることなく、コンセプトの全く異なる宗教組織だけが替わることはありえません。
では、飛鳥時代の仏教を隠蔽するには、どのようなトリックが考えられるのでしょうか。
そのトリックのひとつが、接木としての人物の創造です。
紀元前932年、ソロモンが死ぬと、レビ族の末裔に苛められていたエフライム族達の末裔は、イスラエル王国を建て、ソロモンは「ヤコブだ」、と言い始めるわけです。「ヤコブ」とは、不正な手段で簒奪した者を意味する言葉です。そこで、レビ族の末裔は、あるトリックを考えるのです。
それは、旧約聖書の創世記第三十五章の九

さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現われて彼を祝福された。神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。

そして、この物語をエフライム族の先祖のヨセフの物語の前に挿入するのです。
これはどう言うことになるのか。それは、つまり、ソロモンを「ヤコブ」ということは、エフライム族の先祖のヨセフ(イスラエル)を「ヤコブ」(簒奪者)と言うことになってしまうわけです。そのようなトリックにより、やがてレビ族の末裔ソロモンは、「ヤコブ」と呼ばれなくなるのです。
接木は時代と伴に、その接合面が分らなくなりますが、よおく目を凝らして眺めると、ある不自然さを感じるようです。
では、日本の接木の「聖徳太子」はどのようにして創造されたのでしょうか。
聖徳太子を現在のように有名にした人物のひとりとして、804年遣唐使として唐に渡って、後に天台宗を創設した最澄がいます。最澄のバックを調べると、何故、死後百年後の聖徳太子を宣伝したのかを理解できるでしょう。
最澄を遣唐使にと、百済系桓武天皇に推挙したのは、あの道教事件で、騎馬民族天武天皇系最後の称徳天皇(=孝謙天皇)の逆鱗に触れ、島流しにされた和気清麻呂(しかし、百済系光仁天皇の時代になると豊前国司となり八幡宮の三神職の世襲を決めた。このことは、新羅の神を祀る北九州倭国の八幡宮が、百済系王朝(京都王朝)に乗っ取られたということです。)の子弘世と真綱であるわけです。つまり、百済系日本人が聖徳太子の宣伝隊であるわけです。
では、何故、架空の人物「聖徳太子」(結果として、ヒンズー教のカースト制度を日本国に持ち込み騎馬民族を苛めた人)を、新羅系日本人は疑わなかったのでしょうか。
ローマ帝国には、四世紀にユダヤ・キリスト教が国教となるまで、強力な宗教組織が存在していませんでした。そこで、軍人や国際交易商人達がオリエントやエジプトから神々を勧請していたのです。
紀元前五世紀から、エジプトのイシスの神はローマ帝国で崇拝されていました。その大地母神イシスは、子供とセットの母子の神だったのです。その子ホルスを抱くイシス神は、ローマ帝国の国教となったユダヤ・キリスト教に取り込まれ、イエスを抱く聖母マリアへと変身するわけです。古代エジプトでは、「子供」それ自体が「神」であったわけです。その「子供=神」は、古代エジプトでは「モーセ」と言うわけです。旧約聖書に登場のモーセも、聖徳太子と同様に、エジプトの神(アトン=太陽神)とユダヤの神(ヤハウェ)の接木のようです。ユダヤの神とイスラエルの神は、元々は異なるようです。元々のイスラエルの民(紀元前十四世紀、イクナトン王失脚のためエジプトを追われたヨセフ直系のエフライム族)は、金の子牛(太陽神のシンボル)を祭っていたからです。
西域からの渡来民族の新羅にも、母子神がいたのです。巫女が降神させる神霊の呼称を「太子」と言うわけです。巫女と太子とは、「母子」のセットであるわけです。新羅でも「子供=太子」それ自体が「神」として崇められていたのです。つまり、太子信仰は、新羅民族には、馴染みであったわけです。
この太子信仰を刷り込まされている新羅民族の末裔の新羅系日本人が、死後百年後の聖徳太子(成人しても聖徳「皇子」と言わずに、聖徳「太子」と命名したトリックは、新羅国における「太子信仰」をオーバーラップすることにあったのです。)の輝かしい事績を刷り込まされてしまえば、その存在を疑う気持ちも持てないことが理解できるでしょう。
もしかしたら、聖徳太子を創造したひとは、旧約聖書のヤコブの物語を知っていたのかも知れません。
この、モーセ(神の子)、ダビデ(敵将を倒す少年)、そしてキリスト(厩で誕生し、死後?約百年で復活)のニオイがする「聖徳太子」が架空の人物で、歴史上存在しないとすれば、飛鳥時代はどのようになるのでしょうか。
歴史教科書的に言えば、蘇我稲目の台頭、そしてその息子馬子と聖徳太子の積極的な崇仏の働きかけによって、廃仏派の物部氏を倒し、飛鳥を中心に、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺そして葛木寺の「聖徳太子伝建立七寺」の建立により、仏教は飛鳥を中心に日本列島に受け入れられて行った、ということになっているようです。
しかし、六世紀に仏教伝来の当初は、仏像の保管場所の伽藍と伴にではなく、単独で仏像が秦氏により朝鮮半島からもたらされた時、仏像は「仏神」、「蕃神」そして「他国の神」と呼ばれ、ともすればひとびとの命を奪い、病にさそう偶像ともみられていたのです。つまり、今日考えられているように、仏像はひとびとの命を延ばし、病を回復させ、ひとびとに利益を与える、というようなことにはなっていなかったのです。
では、仏像がもたらされる前は、飛鳥はどのような宗教環境であったのかと言えば、ペルシャ文化の色が濃い蘇我王朝は国際的であったので、飛鳥の地は、シャーマニズム、アニミズム、道教、景教、そして朝鮮民間宗教などの「宗教の坩堝」だったのです。
しかし、蘇我・新羅系天武王朝を倒した百済王朝は、ペルシャ文化の色を抹殺するために、蘇我王朝の戦略的建築物を破壊し、その跡に、九州・秦王国の寺を移築し、「聖徳太子伝建立七寺」とするわけです。
では、そのようなことが「ウソ」であるならば、後世のひとびとは、今日までその「ウソ」を語継ぐはずである、と思うでしょう。しかし、ひとの語継ぐのは、せいぜい三代までの、約百年です。
このことは、先祖のお墓の引継ぎで理解できるでしょう。都心の墓地の募集チラシをよく見るでしょう。そのチラシのキャッチコピーに「永代管理」が書かれているでしょう。もし、永代に渡り墓地を使用していれば、初回に完売をすれば、その後は、墓地の募集などできるはずはありません。なぜならば、「永代使用」だからです。しかし、墓地のチラシ広告は撒かれ続けます。それは、三代続けて管理する家が精々で、四代目になると、墓地の管理に無頓着になる家があるからです。つまり、日々の暮らしが豊かではない家では、先祖代々の墓も百年も立てば、忘れ去られる運命にあるわけです。
だから、英雄(キリスト・聖徳太子)は百年後に現われるのです。
では、書物に残せば、後世のひとびとに「ウソ」を伝えられるであろうと考えても、簒奪者は、焚書で対抗するわけです。蘇我王朝の歴史書の国記・帝記も、645年に藤原氏により焚書されてしまったわけです。
では、飛鳥時代の教科書的「ウソ」を知ることは出来ないのでしょうか。そこで、勝利者側の書籍が活躍するのです。勝利者の歴史は、必ず簒奪された側を悪く言う傾向があります。それに、前政権の事実を抹殺できない場合、「接木」を用意します。その「接木」した個所を丹念に調べれば、前史のことを推測することが可能でしょう。
飛鳥の地を少し広げた地域を「大和」と言います。この「大和」の実体を推測する手ががりとしての「接木」が「万葉集」に見つかるでしょう。
「万葉集」は、八世紀に大伴家持が、四千五百十六首の歌を編纂したものです。その歌のなかにある「大和」の枕詞に、「虚見津」があります。それは「ソラミツ」と読むわけですが、ソラミツは、「空見津」、「虚見都」などの記述がみられますが、一体、大和の枕詞のソラミツとは何を意味しているのでしょうか。
教科書的説明では、神武帝より先に大和国を治めていたニギハヤヒが、天空から大和を眺め、住みよさそうな処と天降ったのにちなみ、「虚空みつ大和」となった、と言うことです。さらに、神武帝が丘に登り、山頂から国見をした故事にならった、と言うことです。しかし、万葉集の研究家には、その語義が定かではない、と考える人もいるようです。
では、大和の枕詞の「ソラミツ」とは、本音では、どのような意味が考えられるのでしょうか。
「空」の字義は「穴」で、それは「むなしい」「うつろ」、「つきる」そして「なにもない」の意味があるわけです。「虚」の字義は、「実なし」、「物なし」の意味で、「ソラ」に転用されたものであるようです。
そこで考えられる解釈として、「ソラミツ大和」とは、「実体の伴わない、空虚な大和国」、と考えられることができるわけです。つまり、「大和国はウソッパチ」となるわけです。では何がウソッパチかと言えば、大和の国の全ての寺は、秦王国から移築された寺である、ということです。では、飛鳥の寺は、仏像を祀る処ではないのであれば、一体何をおこなう処だったのでしょうか。
一般的に、ひとは、一度刷り込まれた情報を訂正することは、非常に困難なようです。このことは、「聖徳太子は歴史上存在しなかった。」、と言うことを素直に認めることができないことで、理解できるでしょう。
歴史とは、あるひとが、ある目的のために綴った物語です。ですから、その物語が全て真実であった、などとは言うことができないわけです。それは、その真実と思われる事柄も、別の角度(敗者側)から眺めると、全く異なる物語となる可能性もあるからです。
一般的に言えることは、現在存在する「歴史」は、勝者側の物語です。それでは、敗者側の歴史は、勝者側に焚書されてしまうから、存在できないのでしょうか。
そこで智恵ある敗者は、勝者の歴史の「ウソ」を、後世のひとに知らせる方法を考えるのです。その方法は、勝者の歴史書に、暗号として「ウソの解き方」を挿入するのです。
例えば、「モーセはいなかった。」と言うことを後世のひとに知らせるために、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を書いたのです。それは、暗号として述べた文章を解読させることで、その真実(敗者側の)を後世のひとが知ることができるように工夫したのです。その暗号とは、ヨハネの黙示録第十三章十八節に、

ここに、智恵が必要である、思慮あるものは、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

この666の謎を研究したひとによれば、エズラ記の第二章十三節に「アドニカムの子孫は六百六十六人」の言葉を見つけ、ギリシャ文字(聖書はギリシャ文字で書かれていた。)による数字の表現方法を「666」に当てはめるのです。その方法によると、A=1 R=100 N=50 O=70 U=400 M=40、そしてE=5とし、「ARNOUME」という単語を探り当てるのです。その単語の合計は「666」です。そして、そのARNOUMEとは、「否定する」という意味です。そこで、その解読単語を先の文章「アドニカムの子孫は六百六十六人」に当てはめると、アドニカムとはヘブライ語で「主はよみがえる」と言う意味からすると、「アドナイ(主)を否定せよ。」となるわけです。
モーセの五書には、二つの異なる文章が存在します。それは、エロヒム(神)とヤハウェ(アドナイ・主)とを主語とする文章です。そこで、ヨハネの暗号解読によれば、「主を否定せよ。」ですから、主が主語の文章は「ウソ」だ、と言うことになるわけです。そこで、モーセ五書の出エジプト記を読んでみると、モーセは「否定」されるわけです。
では、日本国の「聖徳太子」はどのようにして「否定」されるのでしょうか。
日本版「聖書」は、なんと言っても「日本書紀」でしょう。では、日本版「ヨハネの黙示録」は何かと言えば、それは「古事記」でしょう。
歴史教科書によれば、古事記は712年、日本書紀は720年に完成したことになっているようです。しかし、古事記の712年(和銅5年)は「ウソ」です。古事記は、そこから百年後の平安時代に、忽然と現われたのです。では何故に、712年に完成と信じ込まされているかと言えば、それは、古事記の序に、和銅5年の記述があるからです。
ではなにを目的に、平安時代に古事記は出現したのでしょう。それは、「日本書紀」の「ウソ」を、後世のひとに知らせるためです。
平安時代とは、百済系桓武天皇の時代で、天武天皇系の蘇我・新羅系日本人には生きるのが苦しい時代だったのです。それは、ひとの貴賎を決め付ける「新撰姓氏録」などで、百済系日本人を「貴」とするデタラメ書籍(敗者側にとって)なとで、蘇我・新羅系日本人を政策的に「賎」と貶めたためです。このことは、古事記の序文の天武天皇の言葉(平安時代、多人長側が創作した言葉)に表れています。

私が聞くところによると、諸家のもたらした帝記と旧辞とは、既に真実と違い、偽りを多く加えているという。今この時において、その誤りを改めないならば、幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしまうであろう。この帝記と旧辞とは即ち国家組織の根本となるものであり、天皇の政治の基礎となるものである。それゆえ、帝記と旧辞を良く調べて正し、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えようと思う。

それでは、古事記は昔から読まれていたかと言えば、そうではないようです。それは、古事記より八年後に完成した、日本書紀に古事記の存在すら記述されていないからです。勿論、平安時代に創作された続日本紀にもありません。
では、誰が古事記の存在を知らしめたかと言えば、それから千年後の江戸時代、古事記伝四十四巻を著した、反仏教派の国学者の本居宣長であるわけです。
古事記の存在を知るのは、平安初期(812年)に多人長(おおのひとなが/新羅系秦氏の末裔)が書いた、日本書紀の講義録の「日本書紀私記」の序にある、古事記の紹介文によるのです。
古事記を研究したひとによれば、日本書紀と比べると不思議なことを知るのです。そのひとつとして、先に書かれたと信じられている古事記に、日本書紀の脚注の全てに符合する事柄が記述されているからです。更に不思議なことは、古事記は「天之御中主神」から始まるのに対し、日本書紀は「国常立尊(命)」から始まるのです。この「神」と「尊」の対比は、モーセ五書の「神」と「主」の関係を彷彿させます。
更に、古事記に、天武天皇の序があるのならば、それに、後世のために偽りを正すのならば、何故に、四十代天武天皇まで記述しないで、三十三代推古天皇までの記述で終わっているのでしょうか。古事記が、日本書紀を意識して創作されたのであれば、日本書紀に対抗して、せめて天武天皇まで記述するのが当然でしょう。
そこで考えられるのは、サイファー式の暗号解読法です。そのひとつとして、同じ文章か数字がある場合は、その文章か数字を「否定せよ」ということです。このことは、古事記は三十三代推古天皇までで、日本書紀は更に四十一代持統天皇までの記述があるわけです。と言うことは、日本書紀の「初代神武天皇から三十三代の推古天皇までの歴史は否定せよ。」と言うことになります。と言うことは、推古天皇の摂政である「聖徳太子」も、当然否定されるわけです。
つまり、古事記の序で天武天皇(多人長側・敗者)が述べられている、「帝記(日本書紀)と旧辞(古事記)を良く調べ正し、偽りを削り、真実を定める。」とは、日本書紀を読む人に、「日本書紀の神武天皇から推古天皇までは、敗者側にとってウソが語られているから」気おつけなさい、ということにも解釈できるわけです。
では、聖徳太子が歴史上存在しないとすれば、どのように飛鳥時代の歴史は書き換えることが出来るのでしょうか。
新羅系秦人の末裔の多人長のメッセージを解読して、古事記と日本書紀とを精査すると、歴史教科書的古代史の呪縛が解けることでしょう。すると、飛鳥時代の舞台で、輝かしいスポットライトを浴びていた「聖徳太子」が、その舞台からスーッと消えていなくなり、すると、聖徳太子の活躍の光の影にいた、蘇我馬子がスーッと現われてくるでしょう。

正八角形(8はペルシャの聖数)の赤い堂の中で、碧眼の蘇我馬子が車座になっている十数人を前にして、何かを交渉しています。それらの人たちの多くは西域人で、話す言葉も古代朝鮮語や唐語などではなく、アラム語や西域の遊牧民族のものです。飛鳥時代では、朝鮮半島からの瀬戸内海ルート交易は、高句麗、百済、新羅の三国による半島争乱のため途絶えているので、その間隙を縫って、大陸の国際交易商人達は、中国内陸の争乱を避けるため、ペルシャからロシヤステップロードを経由して中国大陸のポシェット港から敦賀などの日本海側の港から飛鳥を目指して来たのです。その交渉で飛び交う数ヶ国語を通訳している若者は、突厥(チュルク系騎馬民族)の皇子タルトウです。
その交易品は、蘇我氏側が絹織物、朱砂、水銀、そしてロクジョウ(鹿角)・ハンピ(乾燥蝮)などで、西域の商人側はペルシャの装飾品やインドの香木などです。
奈良の都に、何故、鹿が多くいるのかといえば、それは小鹿の角を取るためです。小鹿の角(ロクジョウ)は、道教の長生術には朱砂と同じに必要なものです。現在でも、高級ドリンク剤に添加されているように、古代も現在も小鹿の角は高価な強壮剤として服用されているのです。
蘇我氏の館では、豪族達の子弟に講義をおこなっています。講義内容は、仏教経典ではなく、天文地理、易、暦、医術、方術、政治や外交そして軍事などです。その講師陣は、渡来の仏教僧や道教士など最新の大陸の知識をもった者達です。しかし、大和の地に仏教の読経が聞こえるのは、天武天皇の病気平癒祈願(684年)の時まで待たなければなりません。
蘇我氏の時代では読経が公に聞こえたのは、北九州の秦王国です。六世紀の北九州の秦王国は、北魏の廃仏令(446年〜452年)により大陸を追われた200万人の大乗仏教僧の一部が、朝鮮半島に辿り着き、更に、朝鮮三国の争乱勃発により渡来した仏教僧達により、仏寺の建設ラッシュであったのです。
しかし、北九州の秦王国から先に、飛鳥の地に入ったのは、仏教ではなく道教です。道教は、騎馬民族には、仏教に比べると、馴染みやすいからです。それは、仏教の火による祭儀(ゾロアスター教の儀式の模倣)ではなく、犠牲を用いて祭祀をおこなうからです。更に、騎馬民族に馴染みの、天を崇めるからです。漂泊する民族(騎馬民族・海洋民族)は、土着の農耕民族より、「星」・「月」・「太陽」(三神)を特別な存在(神)として崇めていたのです。
道教は、騎馬民族系で天文台を建設し北極星と交信する天武天皇の時代までは、仏教に比べ、かなりの勢力を持っていたようです。それは、家格を示す称号の「八色の姓」から理解できるでしょう。その家格は、上から、「真人」「朝臣」「宿禰」(スクネ:アラム語で勇敢な者の意味)「忌寸」「導師」「臣」「連」「稲置」と格付けされ、その「真人」「導師」とは、道教に大いに関係する事柄だからです。
更に、天武天皇から「天皇」の称号が公に使われてきたわけですが、そのアイデア(天皇=神)は、中国古代(紀元前一世紀)の天文学で天体観測の基準となる北極星(太一)を神格化したものです。その天皇である北極星の紫宮に仕えるのが「真人」というわけです。ここから紫色が日本国では高貴な色になるわけです。その「真人」が八色の姓の最上にいることは、道教は天武天皇から優遇されていたことを証明しています。
道教の始まりは定かではありません。それは、自然信仰を軸に、あらゆる土着の信仰を巻き込み、更に、二世紀頃には大乗仏教の思想までをも取り込んでしまう「現世利益」の宗教だからです。その中で特徴的なものは、長生術のために開発された呪術医療でしょう。その医学医療と薬学の技術を持って、瞬く間に異教の国に侵攻するわけです。
異教国侵攻の法則、「宗教家」→「国際交易商人」→「軍隊」→「植民地化」の流れには、乱世の庶民に対して、現世利益の道教は、時の権力に迎合する文殊の徒により創作された無数の仏典布教をおこなう仏教に比べて、受け入れやすかったのです。
五世紀末その道教は、北九州の秦王国から百済系葛城と新羅系磯城が争う国際交易都市「飛鳥」に、物部氏(三世紀頃、高句麗から侵攻してきたツングース系遊牧民族と呉の末裔の南方海洋民族の連合軍事部族)に従う「奇巫」(道教シャーマン)として登場したようです。その半世紀後、東国から現われた弥勒信仰を持つ騎馬民族の蘇我稲目が軍事力で物部氏を倒し、飛鳥の地を平定した事が、仏教史に言う、物部尾輿対蘇我稲目の「神仏の戦い」と言われている実体のようです。しかし、この時代には、「神道」など、日本列島に存在しなかったわけですから、「神仏戦争」と言っても、「道教」対「弥勒信仰」の図式しか考えられません。(神道は、天武天皇の崩御後、藤原氏系の中臣氏により道教思想の基に発明された。その後室町時代、藤原氏系卜部氏の末裔の吉田兼倶により、儒教・仏教・陰陽五行(道教)を基に吉田神道として復活。)
更に、587年、蘇我馬子は、北九州の秦王国から「豊国法師」を、47の軍事施設である屯倉で固め、石を敷き詰めた軍道を張り巡らせた軍事都市国家「飛鳥」に呼び寄せています。この時期が、仏教史で言う、物部守屋対蘇我馬子との「第二次神仏戦争」と言われている時代のようです。
その当時、飛鳥の地には、高句麗僧恵便が居たわけで、「神事」或は「仏事」を行うだけならば、わざわざ遠方の北九州から「奇巫」や「豊国法師」など呼ばなくてもよいはずです。その訳は、百済系葛城と新羅系磯城との経済戦争に介入した、物部氏対蘇我氏との二度の戦闘で傷ついた兵士を介護するための「医師」としての「奇巫」と「豊国法師」であったのでしょう。
そのように「医療従事者」として、異国に入り込んだ「宗教家」の次なる行動は、異教国侵攻の法則により、革命分子育成のための拠点の「学校」を設立する事です。(教育とは昔も今も権力者にとって両刃の剣であるわけです。)そこで、学校建設のための職人を飛鳥に招聘するのですが、「日本書紀」には不思議な名前の職人が記述されているのです。それらは、「太良未・ダラミタ」「将徳白昧淳・ショウトクハクマイジュン」「麻奈文奴・マナモンヌ」「「昔麻帝弥・シャクマタイミ」などです。それらは、実は漢語ではなく、漢字表記のペルシャ語です。
720年に完成の、百済からの仏教伝来(538年)の経緯を説くが、天武天皇朝の祀りの基本思想である道教についての一切の記述がない「日本書紀」の編纂時には、約百年前の漢字を使用したペルシャ語を理解する事が出来なかったのか、又は単なる編集上のミスか、勝者側は漢語表記のペルシャ語の記述を改竄できなかったようです。
それらの意味は、ひとの名前ではなく、寺院大工、露盤、屋根葺、鬼瓦などの建築に関連する職業名や物品のことです。そのような異国のペルシャの職人達は、飛鳥の地でどのような建築物を造ったのでしょうか。仏教徒でもないペルシャ人達に、蘇我馬子は仏教寺を建設させた、などと想像することはできません。が、しかし、教科書歴史では、聖徳太子と蘇我馬子との崇仏者により仏寺が建立され、日本での仏教寺の発祥地が「飛鳥」となっているのです。
では、蘇我氏の時代、飛鳥の地では、蘇我氏の神(弥勒神)はどのようにして祭られていたのでしょうか。
古代ペルシャでは、ミトラ神(太陽神)は、東方の大きな山の頂きから誕生(再生)すると信じられていました。それがやがて時代の流れにより、東方の山の洞窟に替わり、更に、山から里に下りてくるようになると、窪みのある岩に替わり、それがやがて大石から誕生(再生)すると信じられていたようです。
六世紀、仏像が持ち込まれていなかったペルシャ文化色の濃い飛鳥の地でも、多分、そのような流れで、「山」や「石」を信仰対象としたのでしょう。それは、そこから神(死者)が再生すると信じられていたからです。ですから、蘇我氏の時代には、仏像など存在していないわけですから仏寺などでなく、冬至に太陽が登る「東の山=吉野山」や「石」が神の「住まい」として祀られていたのでしょう。
「山」と「石」で「神を祀る」ということを、広い意味から考えると、石室を内蔵した小山の「古墳」が想像されます。
古墳は、日本列島に出現するのは、三世紀頃のようです。そして、古墳が消滅するのが七世紀後半、天武天皇陵の八角形墳墓「檜隈大内陵」(8はペルシャの聖数・お妃の持統天皇が合祀されている。)で終わるようです。
(天武天皇の死後、左遷されていた藤原不比等の復活と伴に、大和の地に読経が公に聞こえてきたようです。その後平安時代、蘇我馬子の陵である七十七トンの石室の石舞台古墳は、藤原氏により破壊され暴かれてしまったようです。)
死者の祀り方は、その神の基本思想を反映しています。
蘇我馬子が、もしも本当に仏教信奉者だとすれば、当然、葬儀は仏式で行うはずです。それが何故、626年歿の蘇我馬子は、寺ではなく、古墳に祀られたのでしょうか。(歴史教科書では、仏教伝来538年といわれているのです。)
日本に存在する古墳は、ほとんど誰が祀られているのか分らないようです。そのなかで、数少ない祀られているのがわかる古墳があります。そのひとつが、「檜隈大内陵」の天武・持統天皇の古墳です。それが何故天武天皇陵と分ったのかと言えば、それは、1235年(文暦2年)に盗掘にあい、その経緯が「阿不幾乃山陵記」に書き残されていたからです。その書によれば、「件の陵の形八角、石壇ひとめぐり、一町ばかり、五重也」とあり、更に、持統天皇は、「火葬されていた」とあるのです。それに対し、天武天皇は、古墳での伝統的埋葬である「土葬で祀られていた」のです。同じ陵に、異なる埋葬方法、土葬と火葬が合祀されているのです。これは可笑しい。
古墳は、死者の再生(復活)ための装置です。ですから、再生のためには、死者は生前のままで埋葬されなければならないわけです。古墳時代では、死者は、唯の物質ではなかったのです。
それに対して、大乗仏教の死者に対する考え方は、それとは全く異なります。大乗仏教では、生き物は輪廻転生します。この思想はインドで、バラモン(=宗教ブローカー)が発明したものであり、そのカルマから逃れるため「釈尊」は輪廻転生からの解脱を実践、つまり、出家し乞食し、仏と人の中間人の「非人」となったのです。釈尊の思想は、大乗仏教の「他力本願」とは異なる、「自力本願」であるわけです。
その釈尊の思想とは異なる大乗仏教の思想では、肉体は唯の「霊」の借り物にすぎないのです。ひとは、生前の行いにより、人間になったり畜生になったりするのです。つまり、大乗仏教の思想において肉体は、「霊」の乗り物である唯の物質に過ぎないわけです。つまり、死者は唯の物質ですから、腐れば「不浄」な物質に変化するわけです。ですから、その「不浄の死者」は聖なる火で浄物(成仏と方便)にするわけです。つまり、大乗仏教の思想では、死者は「穢れ」であるわけです。
ここから推測できることは、道教思想の天武天皇が崩御した時、その王朝を簒奪した、天智天皇の娘の持統天皇は、道教を排斥し、仏教を、藤原不比等の指導のもと、飛鳥の地に導入したのでしょう。だから、ペルシャ文化の蘇我王朝、そして道教思想の天武王朝の、仏教思想とは異なる文化を抹殺・隠蔽するには、仏教伝来は、538年でなくてはならなかったのです。
つまり、飛鳥時代での天皇の祀り方が変わったということは、「神」が変わったということです。それは、道教から仏教への変換です。そのためのトリックのひとつが、平安時代に発明された「聖徳太子」だったのです。  

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コメント
1. 中川隆[-9270] koaQ7Jey 2019年6月27日 13:42:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3232] 報告
これ書いた人は統合失調症だよ

正常な人には理解できない

2. 中川隆[-9266] koaQ7Jey 2019年6月27日 15:18:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3236] 報告
秦氏は Y-DNA がO2 だから長江系稲作民だよ
オリエントのユダヤ人やセム人の Y-DNA は J と E だから秦氏とは何の関係も無い:


ユダヤは 二つに分かれる 
 アシュケナジー(白人) スファラディー(黄色)


スファラディーは父系・母系共 古代ユダヤ人で Y-DNA は J と E

アシュケナジーは父系だけ古代ユダヤ人で Y-DNA は J と E
母系はヨーロッパ女性

日本人の Y-DNA は O と D, C だからユダヤ人の遺伝子は全く入っていない

3. 2019年6月30日 16:13:56 : bsgOlDN0SM : cy5JbDV2bkF1VEU=[8] 報告
秦氏はエフライムではないかと言われる(神輿の黙示録15)。つまりエフライムはイスラエルの失われた10支族でユダヤ人ではないということ。この支族の遺伝子は何かが問われる。

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