メキシコシティ国際空港の通関フロアの壁画。東洋でも西洋でもない独特の雰囲気に満ちている

 日本人は世界を西洋と東洋に分けて考えがちだ。実際には、西洋でも東洋でもない国が世界の大半を占めているし、また西洋、東洋それぞれの中に大きな多様性がある。しかし、明治維新以来西欧文明に追いつくことを目標に近代化を進めてきた日本では、西洋と東洋の二分法で世界を見る発想がいつのまにか社会に根を張ってしまった。

 この発想から脱却するうえで、メキシコはとても良いきっかけを与えてくれる。

 メキシコは東洋でも西洋でもない国である。東洋の文明は、稲作に支えられて発展した。西洋の文明は小麦を主食とし、さらに牧畜に支えられて発展した。一方メキシコでは、トウモロコシを主食とする文明が発展した。

 メキシコのアステカ帝国は1521年にスペインによって滅ぼされたが、多くの先住民文化はその後も存続し、ギターなどの西洋文明の産物を取り入れながら新たな発展を遂げた。現在のメキシコは、メスティーソ(スペイン人と先住民の混血)が国民の60%、先住民が25%を占める多文化共生社会であり、日本からの移民の子孫も暮らしている。

メキシコの文化遺産を展示するメキシコ国立人類学博物館

日本とメキシコ、悲劇的だった最初の邂逅

 そのメキシコと日本との最初の接触は、豊臣秀吉の時代にさかのぼる。

 フィリピンのマニラを出港し、メキシコのアカプルコに向かったガレオン船(貿易用の大型帆船)が、台風によって甚大な被害を蒙り、土佐に漂着した。時は1596年、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布した11年後のことだ。

 この船には、メキシコ出身の宣教師サン・フェリペ・ヘススが乗っていた。彼は捕えられ、故郷に帰る夢を断たれ、異国の地で殉教した。国内で活動していたキリスト教徒とともに長崎で処刑されたのだ。彼の処刑の様子は、出身地であるクエルナバーカ(メキシコシティの南にある地方都市)の大教会に、壁画で描かれている。

 この事件は悲劇であるがゆえに人々の記憶に長く残り、日本とメキシコの友好を促すきっかけとなった。処刑された26人は1862年にカトリック教会によって聖人の列に加えられ、この列聖を記念して、1864年には長崎に「大浦天主堂」が建てられた。また殉教地である西坂公園にはブロンズの26聖人像をはめ込んだ記念碑が建てられた。大浦天主堂は長崎市を訪れる観光客の半数以上が立ち寄る人気スポットだが、同時に日本とメキシコの友好の象徴でもある。

 2回目の接触は、1609年、徳川家康が江戸幕府を開いた6年後のことである。やはり、マニラからアカプルコへと向かう船が台風に襲われ、上総(現在の千葉県御宿)に漂着した。

 この船には、メキシコ生まれのロドリゴ・デ・ビベーロ元フィリピン総督が乗っていた。彼は総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し、家康に友好的な書簡を送った経歴の持ち主だった。徳川家康は彼と駿府城で会見し、安針丸を用意して一行がアカプルコに戻ることを助けた。

 この事件のあと、1613年には伊達正宗が支倉常長(はせくら・つねなが)を正使とする遣欧使節を送り出した。一行は、現在の石巻市からアカプルコ港に渡り、さらにメキシコを横断してベラクルス港からスペインのセビリア港に渡り、陸路でローマに至り、ローマ教皇と謁見した。2年に及んだ支倉使節団の旅は、西洋文明についての数多くの情報を日本にもたらした。

移民を受け入れたメキシコ、海外への移民を奨励した日本

 この2回の事件から分かるとおり、フィリピン〜メキシコ〜スペインを結ぶ航路は、ヒスパニック世界(スペインが統治した世界)の交易における動脈であり、フィリピンは、スペインのアジア進出の拠点だった。

 ガレオン船(帆船の一種)による、フィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ交易は、16世紀半ばから19世紀初頭まで、約250年間続いた。この間、メキシコからチリに至る新大陸は、ブラジルを除いてスペインの統治下にあった。

 残念ながら、江戸幕府の鎖国政策によって、ヒスパニック世界と日本とのチャンネルは閉ざされた。このチャンネルが再び開かれたのは明治維新以後のことである。

 1821年にスペインから独立したメキシコは、アメリカ合衆国やフランスによる干渉との戦いを経て、1866年に主権を回復した。明治維新の2年前であり、メキシコ合衆国と日本はほぼ同時期に近代化を開始したのだ。

 メキシコは近代化を進めるための労働力を必要とし、日本を含むさまざまな国から移民を積極的に受け入れた。

 一方の日本は、明治維新後の市場経済の導入によって生じた余剰労働力のはけ口として、海外への移民を奨励した。最初は出稼ぎ移民だったが、1892年に外務大臣に就任した榎本武揚は、メキシコの土地を買い上げ、定住型の組織的殖民事業を開始した。1897年には、メキシコ南部のチアパス州エスクイントゥラに「榎本殖民団」が入植した。

 しかし、この殖民事業に対する政府の支援は資金不足によって打ち切られ、殖民団は大変な苦労を強いられた。この苦労を乗り切って事業に成功した日本人たちが、その後の日本とメキシコの友好の礎を築いた。彼らの物語はドラマチックであり、ぜひテレビドラマか映画を製作して、国民に広く伝えたいものだ。

メキシコで尊敬を集める日本人

 「榎本殖民団」のあとにエスクイントゥラに入植した日本人の中に、植物学者である松田英二博士(1894〜1978年)の名がある。

 内村鑑三の門下生だった彼は、キリスト教精神に基づく理想郷を建設するという使命を帯びてメキシコに渡り、「希望農場」の経営を成功させた。そして農場経営の収益を使ってアメリカ合衆国から研究者を呼び寄せ、エスクイントゥラ周辺の動植物を研究する機会を与えた。

 しかし、高い志を持ったこのプロジェクトは、真珠湾攻撃によってついえた。メキシコは連合国に参加し、松田博士は農場経営と動植物研究を断念せざるを得なくなった。松田博士はその後、学問的な貢献を評価され、メキシコ国立自治大学に教授として迎えられた。そこで松田博士は、大学に植物園を開設するという大事業を成し遂げた。植物園の入り口に立つ植物標本館には、今でも松田博士の写真が飾られている。

 私が後進の植物学者としてこの標本館を初めて訪れたのは、松田博士が他界されてから16年後のことだった。

 松田博士は、「希望農場」で働くメキシコ人への識字教育の点でもすばらしい功績を残した。彼は自宅を開放し、聖書を使って村人に文字を教えた。彼の聖書学校の卒業生は2000人を超え、その中には議員などの要職を得て活躍した者もいた。その功績を大統領に評価され、日米開戦後も彼はチアパス州にとどまり、識字教育を続けることができた。

 メキシコで尊敬を集めているもう1人の日本人に、国際的バイオリニストである黒沼ユリ子(1940〜)がいる。黒沼は、松田博士が他界した2年後の1980年にメキシコシティ・ コヨアカン地区に「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開校し、貧しい子供たちにバイオリンを教え始めた。32年間続いたこの学校の生徒の中から、メキシコ音楽界を支える音楽家が育った。

日本とメキシコの近代化の違い

 このように、メキシコとの交流史は、ヘススの悲劇を除けば心温まるエピソードに彩られている。メキシコは、近代化の速度という点では日本よりも遅かったが、多くの先住民文化を維持しながら、多文化共生社会としての近代化を進めてきた。

 一方の日本は、西洋文明を積極的に導入して急速に近代化したが、文化的には極めて同質性が高く、多文化共生社会の経験が浅い。その日本にとって、メキシコとの交流から得るものはとても大きいと感じる。

 黒沼ユリ子は長年暮らしたメキシコを離れて2014年に千葉県に移住し、メキシコと日本の友好のために引き続き活動を続けている。移住先は、御宿町。405年前に、ビベーロ元フィリピン総督を乗せたガレオン船が漂着した場所である。

 この土地から始まる新しい交流史が、さらに多くの善意を集めて発展し、日本の多文化共生社会への歩みを先導していくことを願いたい。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43497
http://www.asyura2.com/15/hasan95/msg/365.html