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ローマ文化王国−新羅  由水常雄著(新潮社)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/668.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 17 日 01:34:55: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 隠された本当の歴史 (2003年) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 17 日 01:22:21)

http://blog.onekoreanews.net/moris/91

近年まで、いえ現在でも、朝鮮半島は古来よりの中国文化圏というのが大方の常識です。本書は、考古学的な発掘の成果と史料に拠って、6世紀初頭以前における三国時代の新羅を中国ではなくてローマ文化の影響を受けた地域とする画期的な論説です。

著者の専門はガラス工芸史、東西美術交渉史ですが、ガラス器のみならず新羅特有の樹木冠や装飾品、馬具等、さまざまな遺物を詳細に検討していて、説得力があります。動かしがたい証拠(=出土品)の数々が、常識を覆していく様があまりに鮮やかで、知的好奇心を大いに刺激してくれる一冊でした。

 新羅とローマを結びつける証左として黄金の樹木冠やローマン・グラスが現れる度に、なるほどとうなずく。今度、慶州(新羅の古都)に行ったら、改めて国立慶州博物館にこの金冠を見にいとうと思いました。

 新羅とローマ文化の関係については、しばしばテレビなどででも紹介されますが、多くの人にとって新羅=中国文化圏の図式はまだまだ色濃いと思います。これから慶州へ行くという方は、是非この本を読むことをオススメします。現地で見る遺物の数々が、違った意味合いと存在感を持つこと、間違いありません。

 よく、日本はシルクロードの終着駅と言われますが、遙かペルシアから中央アジア、中国を経て最果ての島日本に辿り着いた人々や物を思うと、そのスケールの大きさに溜め息が出ます。 同様に、本書で述べられているローマ文化も、ユーラシア大陸の西の果てからスキタイ等の遊牧民の手を経て、ロシア南縁からシベリアを抜けて東の果ての半島の小国に辿り着いたのかと思うと、感慨深いものがあります。

 新羅は、地理的には高句麗・百済の二国によって中国と隔てられていたがゆえに、独自のローマ系文化を醸成させることが出来たわけです。ヨーロッパでゲルマン民族の侵入、ローマ帝国の瓦解といった歴史的大事件が起こるのと同時に、北魏の漢化、新羅の中国文化への転換が起こるのもまた、歴史の大きな波のひとつといえます。

古い時代の歴史は地域史として地理的にはごく狭い部分に注目が集まりやすい傾向にありましたが、この新羅−ローマに限らず、もはやネットワークという世界的な視野をもって見ることが必要なのだと実感させられました。

 特に面白かったのは、「衝撃の皇南洞九八号双墳の発掘」と題する第五章です。この古墳は新羅最大の王・王妃合葬墓なのですが、王の墓からは銀冠が、王妃の墓からは金冠が見つかっているのです。他の王墓からは、例外なく金冠が出土しているのに、この王墓には金冠はなかったのです。規模や出土遺物から見て、間違いなく新羅最大の権勢を誇った王のはずなのに。

 他にも幾つか、この古墳には謎があるのですが、それも含めて「この古墳の被葬者は誰なのか!?」という謎を解いていく過程は、推理小説でも読んでいるかのような興奮を覚えました。

* * *

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/447601.html

ツミイシモツカクフンジユモクカンサイセンリユウキンサイクレンビヘキガンビヤクキ』。この呪文を続けて三回、場合によっては更に七回唱えると、有難いことに古代ローマ文化と朝鮮半島三国時代の新羅との確かなつながりが見えてくる……はずである。
 今から二十八年前、三十七歳の由水さんは、『ガラスの道――形と技術の交渉史――』を世に問うた。ガラスの起源とその発展、そしてその後の世界各地への伝播をサブタイトル通り「形」と「製作技法」の二つの面から追跡したものだった。二年間のカレル大学留学(チェコは当時、ソ連軍の侵入・占領など受難の時代だった)、そしてヨーロッパ各地や東地中海沿岸の美術館、博物館での調査研究(パリでは学生達による五月危機など騒然としていた)に基づく闘志あふれる三百三十四ページ、三千八百円の大著だった。この本で特に注目されたのは、正倉院のガラスに関する記述だった。六点の収蔵品について「形と技術」から詳細な分析考証を行い、それぞれ原生産地としてペルシャ、西アジア、中央アジア、中国を特定し、製作年代は四〜五世紀から十七〜十八世紀に及ぶと結論づけたのであった。聖武天皇遺愛の品々は、勅封によって天平勝宝八年以来厳重に守られて来た、だからこそ正倉院はシルクロードの終着駅とも言われて来た。由水さんは、正倉院、東大寺に残された文書を詳しく検討し、正倉院へのガラスの出入りを文献上からも指摘した。反響も大きく、権威を重んじる方面から、それとなく圧力がかかったともきいた。しかし由水さんは言った。様々な出入りがあって現存するからこそ、正倉院は貴重なのだ。ガラスの一点一点が持つ情報が、歴史の動きを如実に説明してくれる。正倉院は将に宝庫であると。

 正倉院のガラスについては、由水さんは六点すべてを復元している。研究のかたわら各務クリスタルに一時身をよせ、ガラス製作の実技の習得にもはげんでいたのだ。従って技術に関する分析は手にとるように具体的で説得力があった。そんな体験と、ガラス工芸への愛着とが、次に東京ガラス工芸研究所の設立へ由水さんを駆りたてた。ガラス工芸のプロの養成学校である。当時日本で唯一のガラス専門学校だった。更に三年後には、石川県の能登島にガラス工房を開設し研究所の卒業生たちと工芸ガラスの製作をつづけている。

 マスコミなどでガラス大使のように啓蒙活動を活発につづけながら、ガラス美術館の設立に数多く関与し、地方自治体などの安易な観光美術館構想と闘いながら、いくつかの立派なガラス専門美術館を誕生にいたらしめている。

 作家としては、古代ガラス技法の復元によるミルフィオリ、パート・ド・ヴェールなどの他「破れガラス」という技法を開発し新しいガラス表現を世に問うなど、こちらでも意欲的な活動をつづけている。かと思うと、工業としてのガラスにも関心を持ちつづけ、光ファイバーに使用するガラスの透明度とか、世間から厄介者扱いされているゴミ焼却灰の最終処理に焼却灰のガラス化を提案するなど文化の東西交流史だけが由水さんの関心ではない。

 そして『ローマ文化王国―新羅』が書かれたわけである。この仕事の前に『世界ガラス美術全集』全六巻の編著という大仕事があった。これは、古今東西のガラスの総覧で、恐らく世界初の快挙ではなかろうか。この大全集は考えようによっては、『ローマ文化王国―新羅』の為の基礎的準備作業だったようにも思えるのである。『ガラスの道』以来三十年、手元に集められた資料を次のステップの為に整理してみたというわけだ。

 お隣り朝鮮半島の三国時代(四〜六世紀)、唯一新羅だけが圧倒的に強力な中国文化とは異質のギリシャ・ローマ系の文化を享受していたというのである。この一見突飛もない話を、「形と技術」により実証してみせるのが由水流というわけだ。

「遺物に満載された情報を適確によみ解いてゆく」由水さんの手法は、まさに「スリリングな謎解きの面白さ」に満ちていて、今回は、ガラスに加えて、積石木槨墳、樹木冠、細線粒金細工、連眉碧眼白肌(これはガラスのトンボ玉)などをキーワードとしながら、重層的に精緻な論証を行っている。更に、ローマ文化と新羅との交流の必然性を「中国戦国春秋論」「中央アジアのギリシャ・ローマ王国バクトリア」「ケルトとスキタイ」など、古代ユーラシアの壮大な文化交流の流れの一環として捉える構想も進んでいるという。次はどんな呪文が登場するのか大いに楽しみにしている。

(ほそや・ともくに 京都精華大学講師)  

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コメント
 
01. 五月晴郎 2012年7月17日 02:15:09 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban15.htm
* * *
ガラス・樹木冠・ローマ文化と新羅 投稿者:管理人 投稿日: 9月12日(火)20時23分1秒   引用

さきほど改めて、由水氏の「新羅ーローマ文化王国」を読み直していたのですが、やはりまとめてみなさんに報告しておく必要があると感じました。

1、新羅の樹木冠と ゲルマンの樹木冠への神聖視(王のみが神聖な森の枝を取ることができるという思想)信仰、ローマ文化圏のそれとの比較。樹木冠は中国では見られず。

2、新羅の金の指輪→多くの指にはめる。中国にはみられず。ローマ文化圏で流行した指に多くの指輪をはめる習慣

3、新羅・日本のローマングラス 工法が南ロシア方面や、シリア、ローマ文化圏のそれと同類。やや稚拙化して新羅でも造作。仁徳陵・新塚千塚で同様なものが出土。

4、新羅軍の武器の中に、中国にはないがローマ的な武具・甲などがある。

5、新羅古墳の積石木かく墓。シルクロードにはみえず、南ロシアスキタイ系のそれに類似

6、新羅王墓のトンボ玉。似顔絵。ローマのトンボ玉に似顔絵、白鳥・・モチーフ

7、記紀にみられる新羅の宝石・美女美男の国としての伝承。新羅の皇子である天の日矛のもたらした珍しい玉など神宝と、新羅のそれとの関連

この辺から、由水氏は3〜7世紀の新羅では、5世紀ころからの仏教を含めた中国文化の影響を受ける以前から、ローマ文化に強く影響をうけていたこと、ガラス工人の新羅への渡来、日本とのかかわりを論じておられます。

研究会でも創刊号で、神功皇后・応神伝承、同系統の伝承とみられるヤマトタケル伝承と聖書との比較、伝承元である新羅との関連、新羅庭園と類似する飛鳥池でのトカラ人やローマ技術の痕跡等から新羅・ローマ文化と聖書・日本書紀伝承について、論じておりますが、今後の渡来人研究において、特に新羅からの渡来人を考えるうえでは、ローマ文化を抜きにして考察することはできないだろうと感じています。

* * *


02. 五月晴郎 2012年7月17日 02:21:21 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
新羅=ローマ文化国家説 http://blog.goo.ne.jp/tilia-linden/e/c619ea9d194ef152ecaa113629392b6e

* * *

新羅には、ローマ文化と深い関わりがあったとする説がある。
(由水常雄『ローマ文化王国-新羅』新潮社)

それは、新羅時代の発掘物と、ローマの遺物の類似による仮説なのだが、
新羅に文化的な影響を与えていたのは、
中華帝国よりむしろローマだったというのである。

北魏以来、中華文化の受容を拒否し、
ローマ文化の色濃い影響下にあった新羅だが、
ローマ帝国の崩壊によって文化の輸入先を失い、

以降、はじめて
中華帝国と組むようになった、という。

ローマは当て字で羅馬だが、新羅が新しいローマを示す、というのは
穿ち過ぎであろうか?

***

日本や百済には、エジプト・シュメール・インダス系の
都市国家があったのに対して、
新羅はローマ系だった、と考えたら、どうだろう?

天智が百済への義理を通そうとしたのに対して、
天武は親新羅だったのである。

日本にも新羅からの移民があったことは伝えられていて、
長野は百済系だが、新羅系の方が強かった地域も多い。

ローマは奴隷文化で、支配階級と従属民の差が激しい社会だったが、
親新羅政権により、それが日本にもちこまれたとしたら?

古代エジプトはローマによって滅んだのだが、
日本のエジプト系文化もまた、新羅によって滅んだのかもしれない。

* * *


03. 五月晴郎 2012年7月17日 02:28:52 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
* * *
由水常雄の「ガラスと文化」(NHK人間大学講座テキスト1999年10月〜12月期)に面白い話がある。
新羅の古墳から出土する文物はローマ文化の系統を引いているというのである。
かならずローマン・グラスが出土する。金製樹木形宝冠は、鉢巻状のダイアデムに前と左右に樹木形の立飾りがついていて、これはギリシア神話から生まれた形。ヨーロッパの王様がかぶるものと同系列のものだ。
古墳の形式も前5〜後3世紀、南ロシアのスキタイ・サカ族と同型式という。
貴婦人たちの装飾品としてイヤリング、首飾りが出土するのだが、これも中国をはじめとする東アジア諸国では新羅だけ。
極めつけは、暦も中国の干支暦ではなく、ローマ暦を使っていた、という。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/5965/siragi.html
* * *

エディターレビュー

内容(「BOOK」データベースより)
従来の史家は“北方系の異質な文化”として、解明できなかった四~六世紀の新羅とはどんな国だったのか?天馬塚、味鄒王陵、皇南洞九八号墳等、韓国考古学の成果である大発掘による出土品の数々と世界の博物館の品々とを対比させ、深い関係を検証して、正に新羅文化がローマ文化の所産である一大展観を書中に試みた画期的著作。

内容(「MARC」データベースより)
4世紀~6世紀の新羅地方の遺跡から、ローマ文化の遺物が次々と発掘されている。中国文化の傘下にあった東アジアにおいて、新羅がローマ文化を持っていたとする著者の説を、出土した遺物から検証。2001年刊の改訂新版。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
由水/常雄
1936年、徳島県に生まれる。早稲田大学大学院博士課程修了。1968年より1970年まで、チェコ(旧チェコスロバキア)政府招聘留学生としてカレル大学に学ぶ。ガラス工芸史、東西美術交渉史専攻。いろいろな大学で教鞭をとった後、1981年、ガラス作家養成校・東京ガラス工芸研究所、能登島ガラス工房などを開設(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://astore.amazon.co.jp/abc0120neta-22/detail/4104476013
* * *


04. 2012年7月20日 20:46:03 : Mc9P7WSX8o
>新羅の樹木冠と ゲルマンの樹木冠への神聖視
ゲルマンとローマが既に関係ないだろうに。

新羅は4世紀成立、帝政ローマはその頃衰退期。
ローマ衰退の要因がゲルマン民族。

どこをどうやったら、投稿主のようにトンデモ歴史を信奉できるのか?


05. 2012年7月21日 20:26:10 : EyVr5gQjTk
>>04

それは五月様が、八切止夫先生の盲従分子だからですよ。

多分、このお方、ネナベじゃないですか?

あの人に盲従してる人の大半は女性なんですよね。


06. 2012年7月21日 21:56:00 : YYivQ6JYPo
八切先生とやらが何者かは知りませんが
投稿主が盲信癖があるのはなんとなく解りますね。
あと朝鮮を意味なくやたら持ち上げたいことも。

でも、訳知り顔で講釈垂れたい偏屈老人男性なんでしょうね。


07. 五月晴郎 2012年7月21日 21:59:15 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>5  EyVr5gQjTk

張り切って嬉しそうだと思ったらトリオ組みましたか(笑)

わたしはネナベですか。わたしは八切止夫の盲従分子ですか。
ああ、そうなんですか(笑)


08. 五月晴郎 2012年7月21日 22:02:27 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>6

あなた、私の投稿記事を読むと血圧が上がるようにお見受けしますが、だったら読まなきゃいいんじゃないんですか。


09. 2012年7月22日 09:56:40 : t3QCmUjZsY
時系列的におかしいという指摘は否定できないんですね。
盲信癖のある人ってそんなものです。

10. 五月晴郎 2012年7月22日 13:47:14 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>9

このスレは
『現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC)』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/655.html
(以前に他板で話題にだしたもの)の参考資料を集めてる過程で出てきたものなんだよ。

昨日なんとかEgicというのがアラシ粘着してた時に鬼の首取ったようにこのスレのコメントをあなたと同じ内容で言ってました(笑)が、阿修羅で小学生相手の塾の先生役をやる義理はないです。


11. 五月晴郎 2012年7月22日 14:04:49 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
一つだけ当たり前すぎること(普通は常識で言わずもがなだが、あなたやアラシのなんとかEgicのネトウヨ脳はそれも分からないようだから)言っておくと、考古学的に発掘されたものは一次資料(史書などは二次資料)。

それと『現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC)』のスレのテーマの一つは「ヘレニズム」批判。ヘレニズムとは日本でいうと天保の改革の頃にプロイセンという国が今のドイツにあってね(笑)そこで生まれたドロイゼンと人が提唱した概念。
もう一つは中央ユーラシアは東西文明の十字路などではなく、それ自体が高度な文明を持つ地域だったってこと。


12. 五月晴郎 2012年7月22日 14:10:19 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
あなたも義務教育で習った地中海古代史は、西洋人が西洋の地中海だけで偉大な古代を築いたと思いたい願望から中東(中央ユーラシアも)を無視し語られてきたもの。


13. 五月晴郎 2012年7月22日 14:22:19 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
× なんとかEgic

○ 0EopofEgjc 
(お子茶魔)


14. 五月晴郎 2012年7月22日 14:29:45 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
× ドロイゼンと人

○ ドロイゼンという人


15. 2012年7月22日 16:38:59 : 6Joj0DBaok
>もう一つは中央ユーラシアは東西文明の十字路などではなく、
>それ自体が高度な文明を持つ地域だったってこと。
それとゲルマン=ローマ=朝鮮は関係ないでしょ。

>あなたも義務教育で習った地中海古代史は、
>西洋人が西洋の地中海だけで偉大な古代を築いたと思いたい願望から
>中東(中央ユーラシアも)を無視し語られてきたもの。
で、それとゲルマン=ローマ=朝鮮が何の関係があると?
自分が引用したものが、適当であること理解してないでしょ?

「新羅の樹木冠と ゲルマンの樹木冠への神聖視(王のみが神聖な森の枝を取ることができるという思想)信仰、ローマ文化圏のそれとの比較。」
「北魏以来、中華文化の受容を拒否し、ローマ文化の色濃い影響下にあった新羅だが、
ローマ帝国の崩壊によって文化の輸入先を失い」

これらの引用を受け入れるには
・ローマ衰退期(と言っても西ローマだが)にようやく新羅が発生した
・ローマ衰退をもたらしたものはゲルマン民族の流入
・東ローマ自体は新羅のあった時代も大きな勢力として存在した
これらを無視しないといけないことになるが、そこまでして受け入れるものか?

西洋と東洋は文化的交流があった。それだけのこと。


16. 2012年7月22日 16:40:41 : 6Joj0DBaok
ああ、どうせだから言っとくが04=15な

17. 五月晴郎 2012年7月22日 18:39:02 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>15

じゃ該当の由水氏の「新羅ーローマ文化王国」を買って読んで、あなたの学識で批判スレでも投稿したら。


18. 五月晴郎 2012年7月22日 18:43:37 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
あと、このひと一人でゲルマン=ローマ=朝鮮って言い出して、言い出した自分の言葉に血圧挙げてるようだけど勘弁してほしいよ。

19. 五月晴郎 2012年7月22日 19:24:53 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
記事や、それに続くコメントを読んでいったら仮説を把握検証するための参考資料を集めているのは普通にわかるはずと思うが、参考資料のコメント中の片言隻語を集めて勝手にゲルマン=ローマ=朝鮮って一人で言い出して一人で怒って(笑)からんでくる。
流石、ネトネト0EopofEgjcが嬉々としてアラシ用に貼り付ける(04=15)のコメント氏(笑) 

20. 2012年7月24日 00:59:03 : 0EopofEgjc
オマエいい加減いちいちオレを引き合いに出すな。
恨み骨髄難は分からんでもないが、オレはこのスレに一度もコメントしてないぞ?
コメントすりゃ荒らしだとか言って下ネタ個人攻撃しかしない癖に(ってかそれしかできねぇんだろうが)音楽板で大して他意のないたわいのないことに目くじら立てて「もうくんな」とか言ってたくせに、またオマエのスレにオレがコメントしても「他でやれ」だのなんだの言ってるくせに、なんでシツコクオレに拘るんだ?
人の迷惑考えろなんてもっともらしいこと言ってて一番粘着してるのは五月バエ、オマエだ。
とにかくオレの無関係なスレでオレを引き合いに出すな。
このゴミ野郎。

21. 五月晴郎 2012年7月24日 02:07:42 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
> 0EopofEgjc

釜掘られて味しめた関係ねえ貼り付けでワンワン嘘八百を釜兄弟で吠えて
シッと水かけられたら嘘をキャンキャン、またオネエ粘着か(笑)
今回は釜兄貴を連れてこなかっただけ、おめえ、おとなになったじゃねえか(笑)



22. 2012年7月24日 17:01:07 : 3BpxHicBnw
インターネットの掲示板で「釜掘られ」る事ってあるんですね。

しかし近代史を語られる投稿者様がこのような下品なご発言を連発なさる。

如何なものかと思います。


23. 五月晴郎 2012年7月24日 17:04:49 : ulZUCBWYQe7Lk : 0O3NEBGOu2
>>22

「発言」は近代史を語る際のものじゃなく、粘着アラシを相手にし相手を評した際のもの。



24. 2012年7月25日 10:50:36 : dtRKSd3tvQ

類似の投稿:
「師匠の教え」"小学生の作文"のように書く (文筆劇場)
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/147.html#c26
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/147.html
-

25. その程度で誤魔化されると思ってる? 2012年7月27日 21:59:08 : ulnRrNFaJ3GJg : Nf6rmpcIKQ
>あと、このひと一人でゲルマン=ローマ=朝鮮って言い出して
おや?キミ(五月晴郎)の投稿見るとそのようにしか見えないんだがね?

01を見てみましょうね?


26. 五月晴郎 2012年8月03日 19:33:24 : ulZUCBWYQe7Lk : 7V9IIWTBwM
>>25
俺に言われてもねえ、だって(笑)おたくさまの脳はそう反応する、おたくさまにはそう見えるってだけでしょ。

27. その程度で誤魔化されると思ってる? 2012年8月04日 19:19:02 : ulnRrNFaJ3GJg : hVs0xAKHHI
>俺に言われてもねえ、だって(笑)おたくさまの脳はそう反応する、おたくさまにはそう見えるってだけでしょ。

ではでは、どういうつもりで投稿したのか明確な言葉で提示してみてくださいね(苦笑)


28. 五月晴郎 2012年8月05日 16:27:26 : ulZUCBWYQe7Lk : 7V9IIWTBwM
>>27

記事を読みゃいいでしょ。
おたくさまが投稿記事を見た時の心象風景や、おわたさまにはそう見えて難癖つけたくなるおたくさまの脳内になんで私がかかわらなくてはいけないんですか(笑)
おたくさまが苦になる脳の異変は金払って専門の人に相談してみるか、親しい身内の人に相談しなさいな(苦笑)


29. その程度で誤魔化されると思ってる? 2012年8月05日 16:54:12 : ulnRrNFaJ3GJg : 5gkDcOc4Ro
>記事を読みゃいいでしょ。
>おたくさまが投稿記事を見た時の心象風景や、おわたさまにはそう見えて難癖つけたくなるおたくさまの脳内になんで私がかかわらなくてはいけないんですか(笑)
>おたくさまが苦になる脳の異変は金払って専門の人に相談してみるか、親しい身>内の人に相談しなさいな(苦笑)

おやおや、つまり五月晴郎氏は自分の投稿したい意図も、投稿した内容もわからず投稿したということですか?
阿修羅はいつからチラシの裏になったんでしょうねぇ(苦笑)

そんなあなたにnotepad.exe


30. 2012年8月08日 01:55:00 : GkTdmfU6Gs
実際は「ゲルマン民族」とは実在せず、幻想であることに注意が必要。↓

 「<ゲルマン人とは、>元来はローマ帝国によるゲルマニア地方に居住する諸部族に対する他称である。彼ら自身は、同じコーカソイド人種に属し、用いる言葉(ゲルマン語派)や文化面において一定の共通性が存在したものの、同時代のスラヴ人やケルト人と同様ゲルマン人としての同族意識を持つ民族共同体を形成していたわけではない。後述する通りアングロ・サクソン人やゴート人という部族名こそがいわゆる民族名であり、ゲルマン人というのはそれらゲルマニア地方出身の諸民族を総称する際に用いられた用語に過ぎなかった。
 しかしナチス時代にドイツ古代の時点で「ゲルマン民族」という統一された民族共同体が存在していたという説が盛んに宣伝されるようになりナチスの人種政策の根幹を成した。詳細はアーリアン学説、ドイツナショナリズムを参照のこと。
 なお、異なる複数の民族を同じ民族のようにみなして総称する事は、ケルト人やアメリカ先住民など、類例は数多くある。

 --アーリアン学説--

 元々は言語面の類似性による区分けに過ぎなかったインド・ヨーロッパ語族を、ドイツ人学者のマックス・ミュラーが同属意識を持つ民族共同体であると主張した事に始る。
 ミュラーは己の考えるその民族に、インド・ヨーロッパ語族の一派でイラン高原とインド亜大陸に侵入し、諸文明を築いたとされる集団の自称「アーリア」(「高貴な者」の意)の名を冠してアーリア人と名付けた。
 上述のドイツナショナリズム勃興期の指導者達は自民族の優等性を主張する一環として、インド・ヨーロッパ語族に属する諸民族の中で最も優秀なゲルマン民族こそがアーリア人であり、従ってゲルマン人の正統な末裔たる自分達こそが名乗るにふさわしい民族名であると唱えた。
 こうした「ゲルマン人=アーリア人」的思想の影響を受けた者はゲルマン人をアーリア人と呼称したが、それを客観的に証明する根拠は乏しく、またアーリアン学説そのものの信憑性を疑われている今日では殆ど死に絶えた概念と言える。

 --生物学的要素--

 「ゲルマン系」ないし「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。
 しかしながらナチスドイツの政策などの例があるように人種と民族はしばしば混同され(また実際には人種という概念も幾分か宗教などの文化的偏見を含んでいる)、ゲルマン人の場合は所謂「北方人種の白人」と結び付けられる。
 しかし「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろアルプス人種や東ヨーロッパ人種などの影響が指摘されていて、遺伝子的にも北欧よりイタリアやフランス、スペインなど南欧との親和性が強い。
 反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部ではやはり東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。
 ドイツのアドルフ・ヒトラーはこうしたドイツ居住者の人種的な差を東欧からの移民や、東欧への植民(東方十字軍)によって形成されたプロイセン帝国によるドイツ統一など、スラブ系諸民族への敵愾心(当然ながらスラブ系と東ヨーロッパ人種などとの因果関係も余り存在しない)と結びつけていた。
 彼は自著で度々三十年戦争による人口激減によってスラブ系移民が入り込み、それでゲルマン・北方系の血筋が穢れたという主旨の発言をしているが、当時から多数いたポーランド系ドイツ人の排斥政策などは全く行わず、むしろ「ドイツ民族の血統を改良する」事を目的に「北方人種」的な容姿の(ノルウェー人、デンマーク人,ポーランド人などの)他国人を次々とドイツ領内に移住させ、ドイツ人との結婚を奨励するという奇妙な政策を行っていた。
 民族主義の観点からいえばむしろ侮蔑的な行為であるが、人種と民族を同一視していたナチスにとっては正統な理屈であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA

31. 2012年8月08日 02:11:24 : GkTdmfU6Gs
アバウトな喩えをするとローマ帝国が大和朝廷ならばゲルマン民族は蝦夷か熊襲、もともとそのあたりに住んでいたゲルマン人にとってはローマ人は先祖伝来の土地に土足で踏み込んできた侵略者で不倶戴天の敵だが混合している。

また、高句麗、百済の支配層と新羅の支配層が違うのも>>30のゲルマンの概念同様に常識です。いっぱ一絡げに朝鮮は無茶苦茶。

ゲルマン=ローマ=朝鮮と投稿者に執拗にからんでる人は基礎知識がないし偏見があるから「そう見える」のでしょう。



32. その程度で誤魔化されると思ってる? 2012年8月08日 22:04:56 : ulnRrNFaJ3GJg : MCulzgHMRA
30-31
言い訳に困った五月晴郎が名無しでwikipedeia丸引用して基礎知識がないとか
言い出したようにしか見えないのですよ(苦笑)

>アバウトな喩えをするとローマ帝国が大和朝廷ならば
>ゲルマン民族は蝦夷か熊襲、もともとそのあたりに住んでいたゲルマン人にとっては
>ローマ人は先祖伝来の土地に土足で踏み込んできた侵略者で
>不倶戴天の敵だが混合している。
>また、高句麗、百済の支配層と新羅の支配層が違うのも
>>30のゲルマンの概念同様に常識です。いっぱ一絡げに朝鮮は無茶苦茶。

>>実際は「ゲルマン民族」とは実在せず、幻想であることに注意が必要。
これを言い出すと、ゲルマン民族が大和朝廷(豪族集団)ならば、ケルト人は蝦夷か熊襲、
もともとはそのあたりに住んでいたケルト人にとってはゲルマン人は先祖伝来の
土地に土足で踏み込んできた侵略者不倶戴天の敵だが混合している。
とも言えます。

そもそも、この乱暴極まりない(アバウトを最初っから言い訳しちゃっている)論で言えば、
民族や文化等をごちゃごちゃいうのはおかしいということになりますね。
なにしろ、現生人類はエチオピアあたりから世界に広がっていったというのが常識ですから。

>新羅とローマを結びつける証左として黄金の樹木冠
>1、新羅の樹木冠と ゲルマンの樹木冠への神聖視

はてさて、五月晴郎は一体何の意味があってこんなくだらない投稿をしたのやら?


33. 2012年8月09日 05:31:41 : RpbEbj0dXU
2001年のもの 知ってる人は知ってる

ローマ文化王国 新羅を語ろう
http://mimizun.com/log/2ch/history/1004803410/


34. 五月晴郎 2013年9月12日 17:18:28 : ulZUCBWYQe7Lk : y2D6eX286Q
* * *
教科書歴史では、この東西交易路をシルクロードと教えている。しかし、その東西の交易路は、シルクロードだけではない。もうひとつの交易路は、北方の草原地帯を通過していたので、ステップ・ルートと名付けられていた。
このステップ・ルートの租は、紀元前7世紀に現われた、カスピ海沿岸地域を支配していた、騎馬民族国家のスキタイの交易路であった。紀元前3世紀、この草原路は東に伸び、極東の騎馬民族国家の匈奴の勃興をもたらした。
紀元1世紀、その交易路の西端は、黒海沿岸のヘラクレアから、ヴォルガ川を遡上して、ウラル山脈の南端エカテリンブルグを通り、バイカル湖沿岸のイルクーツクに至り、そして、極東の港ウラジオストクまで、東西交易路を結んでいた。
ステップ・ルートの国際交易商人は、絹製品を求めて、更に、中国大陸の華南を目指した。それは、華南が、絹製品の一大生産地であることを知っていたからだ。
日本列島の古墳時代前期、そのウラジオストクの港から、日本海を渡り、多くの国際交易商人や交易民族でもある騎馬民族が、日本海沿岸に渡来した。それは、日本列島と沖縄諸島を、華南に至る国際交易回廊としていたからだ。
このステップ・ルートの国際交易商人は、シルクロードの交易商人とは異なる商品を極東の国にもたらしていた。そのひとつが、ローマン・グラスだ。
ローマン・グラスの特徴は、亀甲文があることだ。その制作地は、ステップ・ルートが通過するカスピ海沿岸だ。このローマン・グラスが極東で発掘されたのは、古代新羅の都慶州の古墳だけだ。
日本列島の古墳時代、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅の三国が覇権を争そっていた。では、そのローマン・グラスが、高句麗、百済の古墳から出土していたかといえば、そうではない。ローマン・グラスは、古代新羅の古墳からしか出土例がないのだ。
古代新羅の地へは、ウラジオストクの港から漕ぎ出せば、南下するリマン海流に流され、朝鮮半島南端にたどり着く。
ステップ・ルートの極東の地ウラジオストクから、陸路で華南を目指すも、その隣接地には、強国の高句麗軍団が存在していた。多額な関税を免れるためには、陸路より、海路が国際商人により選択された。
このため、古代新羅の文化は、中国、高句麗、百済系のペルシャ・中国文化(シルクロード文化)とは異なり、ローマ文化をベースに北方騎馬民族のスキタイ文化(ステップ・ルート文化)を混入した非中国系文化だった。
藤原日本史では、朝鮮半島から渡来した民族を秦氏とする。応神天皇14年(283年)百済より百二十県の人を率いて帰化した弓月君を秦氏の租、とする。その民は、養蚕や機織に優れた文化を持っていたので、ハタ織から、秦氏となった、とする。
しかし、百済と古代新羅とは、その文化が全く異なっていた。このことにより、藤原日本史の基礎資料である「日本書記」の、百済から秦氏渡来とする歴史物語は、信用できないのだ。
* * *
[たそがれのプロカメラマン物語]  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/772.html

35. 五月晴郎 2013年9月12日 17:31:01 : ulZUCBWYQe7Lk : y2D6eX286Q
* * *
古代新羅は、確かに、隣接する高句麗や百済とは、まったく異なる文化・風習があった。
南朝の梁(502年〜557年、)の国史「梁書」には、「新羅には文字がない」、と記されている。「文字がない」とは、「漢字」の使用がない、ということだ。このことは、古代新羅は、漢字を駆使して隣国と交易をしていた、北魏(386年〜534年)、宋(420年〜479年)、斉(479年〜502年)、梁などの中国大陸諸国との、国際交易がなかったことを示唆する。
古代新羅が、中国大陸諸国とに交流がなかったことは、1145年「三国史記」、1280年「三国遺事」の朝鮮古代誌の史料のなかに、6世紀中頃まで、対中国関係の記録がないことでも分かる。このことは、古代新羅の都慶州の古墳からの遺物からも分かる。
古代新羅の古墳からは、青銅鏡や鎮墓具や墓誌銘のような中国系のものは皆無だ。そのかわり、中国系墓から出土例がない、金冠、指輪、釧(くしろ・ネックレス)、耳飾、首飾などの金銀製装身具が多く出土している。
確かに、古代新羅の古墳からの出土品の多くは、東洋的ではない。それらは、カスピ海沿岸で製作されたローマン・グラス、ギリシャ・ローマの伝統を踏まえた細線粒金細工の装身具、金銀製品、馬頭を模った角杯(リュトン)、把手付カップ、そして、ギリシャ神話の森の神ディアーナ崇拝の聖樹信仰を形式化した樹木形王冠などなど、非東洋系遺物なのだ。非東洋系出土品は、装身具だけではない。武器類もそうだ。
古代新羅の武器は、青銅製ではなく、ほとんどが鉄製だ。脛甲(けいこう)は、ギリシャ・ローマ兵士たちが着けていたものと同似の構造となっている。騎馬戦用の鉄製闘斧、鉄鉾、騎射用の弓は短弓だ。短弓は、騎馬民族の弓だ。源義経が短弓を使用していたのは、その出自が北方騎馬民族だからだ。刀類は、鍛造で作られた。鋼鉄製の刃をもった剣や環頭太刀などは、金メッキが施されていた。
古代新羅が、騎馬民族であることは、馬を手厚く埋葬した馬塚が作られていたことで分かる。馬を模った角杯や金銀宝石で飾った鞍や玉虫飾りの鞍が作られていたことからも、馬を大切にしていたことが分かる。
馬は、日常的に使われていただけではなく、戦闘にも使われていたことは、鉄製の馬冑や馬鎧が出土していることからも分かる。馬冑や馬鎧は、北方騎馬民族に源流があり、古代ヨーロッパに取り入れられた。
この古代新羅の騎馬武者が、古墳時代に日本列島に渡来していたことは、和歌山県大谷古墳から古代新羅の馬冑に類似した馬冑や馬鎧小札が出土していることからも分かる。
古代新羅の冑鎧や脛甲が、中国系とは異なっていたことは、古代新羅の戦闘術が、中国系高句麗や百済と異なっていたことを示唆する。因みに、鎌倉時代に現われた悪党の騎馬武者は、金ピカの衣装で金ピカに着飾った馬に乗っていた。その悪党の騎馬武者は、室町時代になると、傭兵の寄騎となり、そして、江戸時代に騎乗により警察業務を遂行した与力となっていた。
古代新羅の経済では、鉄廷が貨幣として使われ、市場経済が発達していた。貨幣の使用は、ユーラシア大陸の広域をステップ・ルートで移動する交易民族でもある、騎馬民族が発明したものだ。
古代新羅が、物品だけではなく、文化的にも中国系とは異なっていた。そのひとつが、国を統治する「王」を、「麻立干」(まりつかん)、「居西干」(きょせかん)、「尼師今」(にしきん)と称していた。その「○○干」は、北方騎馬民族の族長を表す語だ。
カンの称号の初出は、東は朝鮮の地、西はカラ・シャフル、北はバイカル湖までを支配した柔然(315年〜552年)の族長社崙が、丘豆伐可汗(きゅうとうばつかかん)とみずから名乗ったことのようだ。
古代新羅が、「麻立干」に替わって、「新羅王」の称号を使い始めたのは、智証王(500年〜514年)からだ。
古代新羅の古墳からバックルが出土することは、ズボンをはいていたことを示唆する。5世紀頃、ズボンに皮製ベルトをする習慣をもっていたのは、騎馬民族の匈奴人、古代新羅人、および、中部ヨーロッパのケルト族だけのようだ。
日常生活を管理する暦も、非中国的だ。朝鮮半島の高句麗や百済は、干支によって表記する中国暦が使われていたが、古代新羅では、干支暦は一切使われず、「○○王○年○月○日」と、ローマ暦に近い表記法をしていた。古代新羅では、中国諸国のように、王が交替するごとに、新しい年号を建てることはなかった。新羅が、中国式の年号や干支を導入するのは、ローマ世界と交流を断って、中国と国交をもち、漢訳仏教の導入を始めた、第23代法興王(514年〜540年)の時代となってからだ。
更に、6世紀、古代新羅には、氷を貯蔵する設備である石氷庫があった。このことからも、古代新羅は、南方系民族ではなく、北方系であることが分かる。7世紀前半には、新羅には、天体観測を行う瞻星台(せんせいだい)があった。因みに、日本初の天皇である新羅系天武天皇は、天文台を造り、夜空の星を観察していた。
では、朝鮮半島の東端の小国である古代新羅に、ギリシャ・ローマ文化が伝播し、そして、6世紀中期に北九州に移動してきたのは、何故か。
藤原日本史では、奈良時代までは、東国は無文化の野蛮人が棲む未開の地のように描写している。しかし、奈良時代前の古墳時代、東国の上野(群馬県)には、無数の巨大前方後円墳が造られ、エジプトの王墓を思わせる、石室・石棺を持つ前方後円墳も造られていた。因みに、群馬県は、古代も近代も養蚕が盛んな地だ。
それと同様に、漢民族の歴史書では、北方のステップ・ルートの存在を無視している。そして、その広大な、ヨーロッパから極東まで続く大草原地に暮らす騎馬民族を、蛮族、野蛮人、破壊者と見なし、その居住地を非文明の地、として語っている。それは、匈奴、鮮卑、鳥桓、丁零、柔然、突厥などの国名をみれば、漢民族が北方の騎馬民族をどのように見ていたか分かる。
しかし、紀元1世紀から、ローマ帝国と匈奴とは、絹馬交易をおこなっていた。その前の中国戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)では、東西文化の大交流があった。それらの国の各支配地から、40万平方mもの製鉄工場、製塩工場、そして、繊維産業、木漆工業などの大工場遺跡が多く発掘されている。その中国戦国時代を、終わらせたのは、ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国となった、秦だ。
柔然と対峙していた北魏(386年〜535年)は、493年洛陽に遷都する前、平城に都を置いて、東ローマ帝国と密接な関係を持っていた。その根拠は、北魏が初めに本拠地を置いた盛楽城址や平城都城址から、多数の東ローマ帝国の金貨、銀器、ダイヤモンドを象嵌した指輪など出土していたことだ。
430年五胡十六国をほぼ統一した、北魏の太武帝は、道教を保護し、それに対して、漢訳仏教を弾圧(446年〜452年)した。弾圧の理由は、風紀が乱れたことと、仏寺(ブツジ・漢訳仏教の役所。「てら」は、死者が眠るところ。漢訳仏教は、葬儀をおこなわない。)に、多くの武器を保管していたことだ。しかし、452年太武帝が横死すると、漢訳仏教は、勢力を盛り返した。
東と西とは、古代からステップ・ルートで繋がっていたのだ。その媒介者は、交易民族でもある、騎馬民族だ。北方の騎馬民族が強大な国家を拓いた背景には、その東西の交易によるところが大だった。
古代新羅は528年まで、そのステップ・ルートの極東であるウラジオストクの港からの海路で、東西交易商人の華南諸国との中継地として機能していた。
古代新羅は、日本列島をユーラシアと華南との回廊とするために、前方後円墳を発明し、先住民をその工事のために雇うことで懐柔し、幅広の道路で日本列島を縦貫させた。九州の五島列島の島にも幅広の道路を敷設していたのは、華南との交易が余程の利益をもたらしたのだろう。慶州の古墳からの出土品からも、そのことが分かる。
日本列島の古墳時代と、古代新羅の時代がダブルのは、そういうことだ。
そのステップ・ルートの東西交易も、エフタルとササン朝ペルシャが台頭したことにより衰退した。
エフタル(420年頃?〜563年)の起源はよく分からない。イラン系の言語を話すさまざまな種類の人間を取り込んだ軍事集団だ。この軍事集団により、東ローマ帝国と柔然、北魏、古代新羅の経済が疲弊することにより、国も疲弊した。北魏は、534年滅ぶ。柔然は、552年滅んだ。ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅は、528年漢訳仏教国となった。
527年、漢訳仏教を受け入れられない古代新羅の民は、朝鮮半島から北九州へ脱出した。これは、東ローマ帝国で、431年エフェソスの公会議で、キリストを神とすることに反対したネストリウス派を異端として追放したことに似ている。その前にも、392年キリスト教をローマ帝国の国教にしたことにより、ミトラ教を信仰する軍人や民が、ローマ帝国を去ったことに似ている。
宗教は、ひとを縛る、目に見えない武器だからだ。
古代新羅は、六村で構成されていた。この村とは、農耕民だけが暮らす村ではなく、都市国家のことだ。その六村の長により、カン(王)が推挙された。古代新羅は、東洋では珍しく、女王が統治者になれる国だった。女性蔑視の漢訳仏教の国ではありえないことだ。
しかし、奈良時代までの日本列島では、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇=称徳天皇などの女帝が存在していた。漢訳仏教の比叡山延暦寺が政治舞台に勢力を伸ばす、百済系天皇家の平安時代からは、女帝の出番はなくなった。
その六村(都市国家)は、九州に上陸すると、日本列島に分散した。後に、北九州秦王国、吉備秦王国、奈良秦王国、群馬秦王国、出雲秦王国、そして、大阪秦王国となった。608年来朝の隋使は、北九州で遭遇した、華夏と同じ文化を持つ秦王国の存在を、隋帝に報告していた。
6世紀、アズミ族が暮らす大阪の河口地に、土木建築技術者として現われたのは、古代新羅から渡来の民だった。
* * *
[たそがれのプロカメラマン物語]  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/772.html

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