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[お知らせ・管理19] 中川隆さん、このような投稿はご遠慮ください。今後投稿しないことが確認できるまで投稿可能数を0にしておきます。 管理人さん
27. 2020年9月06日 05:09:41 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[1]
阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト
に パレオリベラル氏を追記

・パレオリベラル
・オリハル
・お天道様はお見通し
・魑魅魍魎男
・日高見連邦共和国
・けろりん
・BRIAN ENO
・櫻井ジャーナル 櫻井春彦
・てんさい(い)= 東海アマ
・小野寺光一
・仁王像
・西岡昌紀
・木村愛二
・こーるてん
・taked4700
・HAL
・ポスト米英時代=小沢内閣待望論
・佐伯まお=おおたこうじ=シノブ


阿修羅掲示板の中国工作員
・赤かぶ


▲△▽▼


パレオリベラルさんはメサイアコンプレックスという人格障害に苦しんでいます
メサイアコンプレックス(英: Messiah complex)とは、キリストコンプレックスまたはメシアコンプレックス、救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。
狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。

メサイアというのは、一般的な日本語ではメシア(救世主)と言われるもののことである。この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。

このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。

そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。


メサイアコンプレックスとされる人物

シャブタイ・ツヴィ(ユダヤ教の偽メシア)
ジム・ジョーンズ(人民寺院の教祖)
デイビッド・コレシュ(ブランチ・ダビディアンの指導者)[3]
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/365.html#c27

[近代史5] 天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった 中川隆
1. 2020年9月06日 05:25:54 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[2]


2020.09.06
ユーラシア大陸沿いの軍事同盟を強化している米国だが、思惑通りに進んでいない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/


 太平洋地域にはアメリカを中心とするふたつの軍事同盟が存在する。ひとつはアメリカと日本、もうひとつはアメリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドの3カ国によるものだ。アメリカと日本の同盟は1951年9月8日にサンフランシスコのプレシディオで調印された安保条約から始まるが、そのその1週間前に同じ場所でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。


 その太平洋地域へNATOを広げようという動きがある。NATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言したが、それは機構を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにしようということ。


 2018年5月にアメリカ太平洋軍はインド・太平洋軍へ名称変更になった。インド洋と太平洋を一体と考えることを意味しているが、太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、アングロ・サクソンにはユーラシア大陸の沿岸地域を支配し、内陸部を締め上げていくという長期戦略がある。その戦略をまとめ、1904年に発表したのが地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。


 イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国(清)に対して仕掛け、略奪を本格化させたが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだ。アングロ・サクソンにとって獲物は中国であり、日本はその獲物を手にするための手先ということになる。


 三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも深く結びついていた団琢磨は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業している。団の親友だった金子堅太郎も渡米したが、金子はハーバード大学で法律を学び、同大学の後輩にあたるセオドア・ルーズベルトと親しくなる。ふたりは1890年にルーズベルトの自宅で初めて会ったという。


 明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまる。


 日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書き、金子はアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)


 ロシアでは1905年1月に「血の日曜日事件」を切っ掛けにして始まった第1次革命で国内は混乱していたが、国力で差のある日本は戦争が長引くと劣勢になる可能性は高く、それを嫌ったルーズベルトが調停に乗り出した。この功績でルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を授与されている。


 こうした状況の中、ポーツマスで講和条約が結ばれるが、その内容に不満を持つ人びとは日比谷公園で抗議大会を開き、暴動につながった。戦利品が少ないという不満が爆発したわけだ。暴動の際、17名が死亡したと言われている。


 その後、関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の巨大金融機関JPモルガンの影響下に入り、1932年にはJPモルガンの総帥と結婚した女性のいとこにあたるジョセフ・グルーが駐日大使として赴任してくる。


 その1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ウォール街への不満を高めていた人びとはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選んだ。そこでウォール街の住人は1933年から34年にかけてクーデターを目論んだが、失敗した。この辺の話は本ブログで繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。


 ニューディール派は反ファシズム、半植民地の立場で、大企業の活動を規制して労働者の権利を拡大しようとしていたが、1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死、ホワイトハウスはウォール街が主導権を奪還することに成功した。戦争後、反ファシスト勢力はレッド・パージという形で粛清されていく。戦後日本の進む方向を決めたのはジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物はジョセフ・グルーにほかならない。


 アメリカは1949年にNATO(北大西洋条約機構)を組織を創設。その中に軍事員会が設置され、ヨーロッパ連合軍最高司令部や大西洋連合軍最高司令部が置かれた。そうした軍事部門の中心がヨーロッパ連合軍で、一般的にNATO軍と呼ばれている。


 NATOが作られる前年、アングロ・サクソン系のアメリカとイギリスはACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)を創設した。ヨーロッパの統合が目的だとされている。


 委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はアレン・ダレス。言うまでもなく、ダレスもウォール街の弁護士で、OSSやCIAの中心的な存在だった。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。


 ACUEの下部組織にはビルダーバーグ・グループも含まれている。その創設者はオランダ女王の夫、ベルンハルトとユセフ・レッティンゲルだとされている。


 レッティンゲルは世界大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた人物で、ポーランドのブワディスラフ・シコルスキー将軍の側近だった。戦争が始まるとシコルスキーは1939年9月にロンドンで亡命政府を樹立し、翌年の6月にはウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束している。


 戦後、レッティンゲルはベルンハルトに接近、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。


 ソ連軍の軍事侵攻に備えるという名目で創設されたNATOだが、ヨーロッパをアングロ・サクソンが支配する仕組みという側面がある。同じことは安保条約やANZUSにも言えるだろう。同じ長期戦略に基づき、別々に創設された軍事同盟を統一する動きがあるわけだが、そこには大きな問題が横たわっている。アングロ・サクソンが立てた戦略の求心力が弱まっているのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html#c1

[近代史3] イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった 中川隆
9. 中川隆[-11495] koaQ7Jey 2020年9月06日 05:27:44 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[3]


2020.09.06
ユーラシア大陸沿いの軍事同盟を強化している米国だが、思惑通りに進んでいない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/


 太平洋地域にはアメリカを中心とするふたつの軍事同盟が存在する。ひとつはアメリカと日本、もうひとつはアメリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドの3カ国によるものだ。アメリカと日本の同盟は1951年9月8日にサンフランシスコのプレシディオで調印された安保条約から始まるが、そのその1週間前に同じ場所でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。


 その太平洋地域へNATOを広げようという動きがある。NATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言したが、それは機構を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにしようということ。


 2018年5月にアメリカ太平洋軍はインド・太平洋軍へ名称変更になった。インド洋と太平洋を一体と考えることを意味しているが、太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、アングロ・サクソンにはユーラシア大陸の沿岸地域を支配し、内陸部を締め上げていくという長期戦略がある。その戦略をまとめ、1904年に発表したのが地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。


 イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国(清)に対して仕掛け、略奪を本格化させたが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだ。アングロ・サクソンにとって獲物は中国であり、日本はその獲物を手にするための手先ということになる。


 三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも深く結びついていた団琢磨は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業している。団の親友だった金子堅太郎も渡米したが、金子はハーバード大学で法律を学び、同大学の後輩にあたるセオドア・ルーズベルトと親しくなる。ふたりは1890年にルーズベルトの自宅で初めて会ったという。


 明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまる。


 日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書き、金子はアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)


 ロシアでは1905年1月に「血の日曜日事件」を切っ掛けにして始まった第1次革命で国内は混乱していたが、国力で差のある日本は戦争が長引くと劣勢になる可能性は高く、それを嫌ったルーズベルトが調停に乗り出した。この功績でルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を授与されている。


 こうした状況の中、ポーツマスで講和条約が結ばれるが、その内容に不満を持つ人びとは日比谷公園で抗議大会を開き、暴動につながった。戦利品が少ないという不満が爆発したわけだ。暴動の際、17名が死亡したと言われている。


 その後、関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の巨大金融機関JPモルガンの影響下に入り、1932年にはJPモルガンの総帥と結婚した女性のいとこにあたるジョセフ・グルーが駐日大使として赴任してくる。


 その1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ウォール街への不満を高めていた人びとはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選んだ。そこでウォール街の住人は1933年から34年にかけてクーデターを目論んだが、失敗した。この辺の話は本ブログで繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。


 ニューディール派は反ファシズム、半植民地の立場で、大企業の活動を規制して労働者の権利を拡大しようとしていたが、1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死、ホワイトハウスはウォール街が主導権を奪還することに成功した。戦争後、反ファシスト勢力はレッド・パージという形で粛清されていく。戦後日本の進む方向を決めたのはジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物はジョセフ・グルーにほかならない。


 アメリカは1949年にNATO(北大西洋条約機構)を組織を創設。その中に軍事員会が設置され、ヨーロッパ連合軍最高司令部や大西洋連合軍最高司令部が置かれた。そうした軍事部門の中心がヨーロッパ連合軍で、一般的にNATO軍と呼ばれている。


 NATOが作られる前年、アングロ・サクソン系のアメリカとイギリスはACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)を創設した。ヨーロッパの統合が目的だとされている。


 委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はアレン・ダレス。言うまでもなく、ダレスもウォール街の弁護士で、OSSやCIAの中心的な存在だった。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。


 ACUEの下部組織にはビルダーバーグ・グループも含まれている。その創設者はオランダ女王の夫、ベルンハルトとユセフ・レッティンゲルだとされている。


 レッティンゲルは世界大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた人物で、ポーランドのブワディスラフ・シコルスキー将軍の側近だった。戦争が始まるとシコルスキーは1939年9月にロンドンで亡命政府を樹立し、翌年の6月にはウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束している。


 戦後、レッティンゲルはベルンハルトに接近、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。


 ソ連軍の軍事侵攻に備えるという名目で創設されたNATOだが、ヨーロッパをアングロ・サクソンが支配する仕組みという側面がある。同じことは安保条約やANZUSにも言えるだろう。同じ長期戦略に基づき、別々に創設された軍事同盟を統一する動きがあるわけだが、そこには大きな問題が横たわっている。アングロ・サクソンが立てた戦略の求心力が弱まっているのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html#c9

[近代史3] 表に出始めた明治維新の真実 中川隆
6. 中川隆[-11494] koaQ7Jey 2020年9月06日 05:28:09 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[4]


2020.09.06
ユーラシア大陸沿いの軍事同盟を強化している米国だが、思惑通りに進んでいない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/


 太平洋地域にはアメリカを中心とするふたつの軍事同盟が存在する。ひとつはアメリカと日本、もうひとつはアメリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドの3カ国によるものだ。アメリカと日本の同盟は1951年9月8日にサンフランシスコのプレシディオで調印された安保条約から始まるが、そのその1週間前に同じ場所でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。


 その太平洋地域へNATOを広げようという動きがある。NATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言したが、それは機構を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにしようということ。


 2018年5月にアメリカ太平洋軍はインド・太平洋軍へ名称変更になった。インド洋と太平洋を一体と考えることを意味しているが、太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、アングロ・サクソンにはユーラシア大陸の沿岸地域を支配し、内陸部を締め上げていくという長期戦略がある。その戦略をまとめ、1904年に発表したのが地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。


 イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国(清)に対して仕掛け、略奪を本格化させたが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだ。アングロ・サクソンにとって獲物は中国であり、日本はその獲物を手にするための手先ということになる。


 三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも深く結びついていた団琢磨は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業している。団の親友だった金子堅太郎も渡米したが、金子はハーバード大学で法律を学び、同大学の後輩にあたるセオドア・ルーズベルトと親しくなる。ふたりは1890年にルーズベルトの自宅で初めて会ったという。


 明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまる。


 日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書き、金子はアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)


 ロシアでは1905年1月に「血の日曜日事件」を切っ掛けにして始まった第1次革命で国内は混乱していたが、国力で差のある日本は戦争が長引くと劣勢になる可能性は高く、それを嫌ったルーズベルトが調停に乗り出した。この功績でルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を授与されている。


 こうした状況の中、ポーツマスで講和条約が結ばれるが、その内容に不満を持つ人びとは日比谷公園で抗議大会を開き、暴動につながった。戦利品が少ないという不満が爆発したわけだ。暴動の際、17名が死亡したと言われている。


 その後、関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の巨大金融機関JPモルガンの影響下に入り、1932年にはJPモルガンの総帥と結婚した女性のいとこにあたるジョセフ・グルーが駐日大使として赴任してくる。


 その1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ウォール街への不満を高めていた人びとはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選んだ。そこでウォール街の住人は1933年から34年にかけてクーデターを目論んだが、失敗した。この辺の話は本ブログで繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。


 ニューディール派は反ファシズム、半植民地の立場で、大企業の活動を規制して労働者の権利を拡大しようとしていたが、1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死、ホワイトハウスはウォール街が主導権を奪還することに成功した。戦争後、反ファシスト勢力はレッド・パージという形で粛清されていく。戦後日本の進む方向を決めたのはジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物はジョセフ・グルーにほかならない。


 アメリカは1949年にNATO(北大西洋条約機構)を組織を創設。その中に軍事員会が設置され、ヨーロッパ連合軍最高司令部や大西洋連合軍最高司令部が置かれた。そうした軍事部門の中心がヨーロッパ連合軍で、一般的にNATO軍と呼ばれている。


 NATOが作られる前年、アングロ・サクソン系のアメリカとイギリスはACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)を創設した。ヨーロッパの統合が目的だとされている。


 委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はアレン・ダレス。言うまでもなく、ダレスもウォール街の弁護士で、OSSやCIAの中心的な存在だった。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。


 ACUEの下部組織にはビルダーバーグ・グループも含まれている。その創設者はオランダ女王の夫、ベルンハルトとユセフ・レッティンゲルだとされている。


 レッティンゲルは世界大戦の前からヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた人物で、ポーランドのブワディスラフ・シコルスキー将軍の側近だった。戦争が始まるとシコルスキーは1939年9月にロンドンで亡命政府を樹立し、翌年の6月にはウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束している。


 戦後、レッティンゲルはベルンハルトに接近、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。


 ソ連軍の軍事侵攻に備えるという名目で創設されたNATOだが、ヨーロッパをアングロ・サクソンが支配する仕組みという側面がある。同じことは安保条約やANZUSにも言えるだろう。同じ長期戦略に基づき、別々に創設された軍事同盟を統一する動きがあるわけだが、そこには大きな問題が横たわっている。アングロ・サクソンが立てた戦略の求心力が弱まっているのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009050000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html#c6

[番外地8] 金融緩和・財政出動をしても資産家が資産を増やすだけで、労働者は更に貧しくな 中川隆
1. 中川隆[-11493] koaQ7Jey 2020年9月06日 05:37:34 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[5]
金融緩和・財政出動をしても大企業と資本家が資産を増やすだけで、労働者は更に貧しくなる:
コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 2020年6月14日
 新型コロナ危機が始まってからの約3カ月間、米国の富裕層が資産を約5650億j(62兆円)増やしていたことがわかった。米国の進歩的な政策研究所(inequality.org)が統計データを集計し、4日に報告書を発表した。過去最大規模の金融緩和の恩恵を受ける1%の富裕層と、コロナ禍で生きる糧を奪われる99%との格差がかつてなく拡大している。


 報告書によると、コロナ危機による世界経済の急激な停滞によって、3月18日からの約3カ月間で、新規失業手当を申請した米国人は4300万人(労働統計局)にのぼり、リーマン・ショック不況後に創出された雇用のほとんどが消滅した。これには自営業者として支援を申請した数百万人は含まれておらず、実態はさらに深刻だ。

inequality.orgサイトより

 同じ3カ月間に、富裕層の累計総資産は約5650億j増加した。現在、億万長者の資産総額は3・5兆j(385兆円)に達しており、新型コロナ流行の開始時に記録された最低水準から19・15%上昇している。一方、米国ではコロナ感染ですでに10万人以上が死亡しており、報告書のなかでは「パンデミックの最中、億万長者の富が急増していると同時に、何百万人もの人々が苦しみ、多くの困難や死に直面している。米国社会の不平等でグロテスクな現実だ」とのべている。

 この間、資産を飛躍的に延ばした主な富裕層は以下の通り。IT大手や投資関連の大企業が目立っている。

ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)362億j増

マッケンジー・ベゾス(前妻)126億j増

マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックCEO)300億j増

イーロン・マスク(テスラCEO)141億j増

セルゲイ・ブリン(グーグル共同創業者)139億j増

ラリー・ペイジ(グーグル元CEO)137億j増

スティーブ・バルマー(マイクロソフト元CEO)133億j増

ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)118億j増

フィル・ナイト(ナイキ創業者)116億j増

ラリー・エリソン(オラクル会長)85億j増

ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイCEO)77億j増

マイケル・デル(デル創業者)76億j増など。


 富裕層の資産拡大の背景には、株式市場の異常な回復がある。連邦準備制度理事会(FRB)が緊急措置としてゼロ金利、無制限の債券買いとりなど、かつてない規模の金融緩和策を講じ、2月19日をピークに29%減まで急下降していたナスダック指数が史上最高値に迫るなど、株式市場は大幅に値上がりした。実体経済と乖離した市場の活況が富の移動をもたらし、格差拡大を加速させている。

 国連は5月末、2020年の世界経済は少なくとも3・2%縮小し、3億人以上が失業し、米国だけで3900万人が失業すると予測したが、実態はそれを上回る。米国内の医療保険未加入者は3000万人をこえ、コロナ禍に見舞われながらも医療の恩恵を受けることができず、多くの死者を出している。米国の失業率は今後20%に達することが予測されており、リーマン・ショック恐慌を上回る深刻さをみせている。

 報告書共著者であるチャック・コリンズ氏は「数百万人の苦しみと窮状と引き換えにもたらされた億万長者の富の急増は、私たちが今後数年で社会を回復するために必要な社会的連帯を損なう。これらの統計は、私たちがかつてなく経済的、人種的に分裂していることを示している」と声明でのべている。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/330.html#c1

[番外地8] 金融緩和・財政出動をしても資産家が資産を増やすだけで、労働者は更に貧しくな 中川隆
2. 中川隆[-11492] koaQ7Jey 2020年9月06日 05:51:39 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[6]
金融緩和・財政出動をしても資産家が資産を増やすだけで、一般人は更に貧しくなる:
コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 2020年6月14日
 新型コロナ危機が始まってからの約3カ月間、米国の富裕層が資産を約5650億j(62兆円)増やしていたことがわかった。米国の進歩的な政策研究所(inequality.org)が統計データを集計し、4日に報告書を発表した。過去最大規模の金融緩和の恩恵を受ける1%の富裕層と、コロナ禍で生きる糧を奪われる99%との格差がかつてなく拡大している。

 報告書によると、コロナ危機による世界経済の急激な停滞によって、3月18日からの約3カ月間で、新規失業手当を申請した米国人は4300万人(労働統計局)にのぼり、リーマン・ショック不況後に創出された雇用のほとんどが消滅した。これには自営業者として支援を申請した数百万人は含まれておらず、実態はさらに深刻だ。

 同じ3カ月間に、富裕層の累計総資産は約5650億j増加した。現在、億万長者の資産総額は3・5兆j(385兆円)に達しており、新型コロナ流行の開始時に記録された最低水準から19・15%上昇している。一方、米国ではコロナ感染ですでに10万人以上が死亡しており、報告書のなかでは「パンデミックの最中、億万長者の富が急増していると同時に、何百万人もの人々が苦しみ、多くの困難や死に直面している。米国社会の不平等でグロテスクな現実だ」とのべている。

 この間、資産を飛躍的に延ばした主な富裕層は以下の通り。IT大手や投資関連の大企業が目立っている。

ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)362億j増
マッケンジー・ベゾス(前妻)126億j増
マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックCEO)300億j増
イーロン・マスク(テスラCEO)141億j増
セルゲイ・ブリン(グーグル共同創業者)139億j増
ラリー・ペイジ(グーグル元CEO)137億j増
スティーブ・バルマー(マイクロソフト元CEO)133億j増
ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)118億j増
フィル・ナイト(ナイキ創業者)116億j増
ラリー・エリソン(オラクル会長)85億j増
ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイCEO)77億j増
マイケル・デル(デル創業者)76億j増など。

 富裕層の資産拡大の背景には、株式市場の異常な回復がある。連邦準備制度理事会(FRB)が緊急措置としてゼロ金利、無制限の債券買いとりなど、かつてない規模の金融緩和策を講じ、2月19日をピークに29%減まで急下降していたナスダック指数が史上最高値に迫るなど、株式市場は大幅に値上がりした。実体経済と乖離した市場の活況が富の移動をもたらし、格差拡大を加速させている。

 国連は5月末、2020年の世界経済は少なくとも3・2%縮小し、3億人以上が失業し、米国だけで3900万人が失業すると予測したが、実態はそれを上回る。米国内の医療保険未加入者は3000万人をこえ、コロナ禍に見舞われながらも医療の恩恵を受けることができず、多くの死者を出している。米国の失業率は今後20%に達することが予測されており、リーマン・ショック恐慌を上回る深刻さをみせている。

 報告書共著者であるチャック・コリンズ氏は「数百万人の苦しみと窮状と引き換えにもたらされた億万長者の富の急増は、私たちが今後数年で社会を回復するために必要な社会的連帯を損なう。これらの統計は、私たちがかつてなく経済的、人種的に分裂していることを示している」と声明でのべている。

▲△▽▼

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西つねきさんが考えているデフレ対策

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/330.html#c2

[番外地8] 金融緩和・財政出動をしても資産家が資産を増やすだけで、労働者は更に貧しくな 中川隆
3. 中川隆[-11491] koaQ7Jey 2020年9月06日 05:54:14 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[7]
大規模投資・財政出動をしても大企業と資本家が資産を増やすだけで、労働者は更に貧しくなる:
コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 2020年6月14日
 新型コロナ危機が始まってからの約3カ月間、米国の富裕層が資産を約5650億j(62兆円)増やしていたことがわかった。米国の進歩的な政策研究所(inequality.org)が統計データを集計し、4日に報告書を発表した。過去最大規模の金融緩和の恩恵を受ける1%の富裕層と、コロナ禍で生きる糧を奪われる99%との格差がかつてなく拡大している。

 報告書によると、コロナ危機による世界経済の急激な停滞によって、3月18日からの約3カ月間で、新規失業手当を申請した米国人は4300万人(労働統計局)にのぼり、リーマン・ショック不況後に創出された雇用のほとんどが消滅した。これには自営業者として支援を申請した数百万人は含まれておらず、実態はさらに深刻だ。

 同じ3カ月間に、富裕層の累計総資産は約5650億j増加した。現在、億万長者の資産総額は3・5兆j(385兆円)に達しており、新型コロナ流行の開始時に記録された最低水準から19・15%上昇している。一方、米国ではコロナ感染ですでに10万人以上が死亡しており、報告書のなかでは「パンデミックの最中、億万長者の富が急増していると同時に、何百万人もの人々が苦しみ、多くの困難や死に直面している。米国社会の不平等でグロテスクな現実だ」とのべている。

 この間、資産を飛躍的に延ばした主な富裕層は以下の通り。IT大手や投資関連の大企業が目立っている。

ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)362億j増
マッケンジー・ベゾス(前妻)126億j増
マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックCEO)300億j増
イーロン・マスク(テスラCEO)141億j増
セルゲイ・ブリン(グーグル共同創業者)139億j増
ラリー・ペイジ(グーグル元CEO)137億j増
スティーブ・バルマー(マイクロソフト元CEO)133億j増
ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)118億j増
フィル・ナイト(ナイキ創業者)116億j増
ラリー・エリソン(オラクル会長)85億j増
ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイCEO)77億j増
マイケル・デル(デル創業者)76億j増など。

 富裕層の資産拡大の背景には、株式市場の異常な回復がある。連邦準備制度理事会(FRB)が緊急措置としてゼロ金利、無制限の債券買いとりなど、かつてない規模の金融緩和策を講じ、2月19日をピークに29%減まで急下降していたナスダック指数が史上最高値に迫るなど、株式市場は大幅に値上がりした。実体経済と乖離した市場の活況が富の移動をもたらし、格差拡大を加速させている。

 国連は5月末、2020年の世界経済は少なくとも3・2%縮小し、3億人以上が失業し、米国だけで3900万人が失業すると予測したが、実態はそれを上回る。米国内の医療保険未加入者は3000万人をこえ、コロナ禍に見舞われながらも医療の恩恵を受けることができず、多くの死者を出している。米国の失業率は今後20%に達することが予測されており、リーマン・ショック恐慌を上回る深刻さをみせている。

 報告書共著者であるチャック・コリンズ氏は「数百万人の苦しみと窮状と引き換えにもたらされた億万長者の富の急増は、私たちが今後数年で社会を回復するために必要な社会的連帯を損なう。これらの統計は、私たちがかつてなく経済的、人種的に分裂していることを示している」と声明でのべている。
▲△▽▼
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西つねきさんが考えているデフレ対策
・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路の無料化
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/330.html#c3

[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
43. 2020年9月06日 06:58:51 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[8]
unauの無能日記 @
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c43

[リバイバル3] ドイツ人はお腹がいっぱいになれば食べる物は何でもいい 中川隆
13. 中川隆[-11490] koaQ7Jey 2020年9月06日 06:59:24 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[9]
unauの無能日記 @
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/767.html#c13

[近代史3] 日本ではありえない!ドイツ人の食事! 中川隆
2. 中川隆[-11489] koaQ7Jey 2020年9月06日 06:59:47 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[10]
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https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/432.html#c2

[リバイバル3] フランスの音を聴く 中川隆
20. 中川隆[-11488] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:00:50 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[11]
unauの無能日記 @
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/863.html#c20

[リバイバル3] ドイツの音とは何か? 中川隆
124. 中川隆[-11487] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:01:29 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[12]
unauの無能日記 @
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html#c124

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
51. 中川隆[-11486] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:01:55 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[13]
unauの無能日記 @
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml

 日本のクラシック・ファンはまずドイツ音楽が好きになる。とくにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなど、ウィーンに住んだ作曲家が大好きだ。

 ぼくもご多分にもれず、その道をたどり、今でも好きな作曲家ベスト・スリーはモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーである。初めてヨーロッパの土を踏んだのは1971年だが、もちろんドイツ、オーストリアが中心だった。そして人間も含め、ドイツとの親近感を持ちつづけて来たのだが、90年頃、ちょうど15年ぐらい前からフランス以外には行かなくなってしまった。自分は今までドイツ一辺倒だったが、日本のクラシック音楽家の常として、そのように刷込まれてしまったのではないか。ドイツ人気質に近いと思っていた自分が、実はラテン人気質(とくにフランス人)に近かったのではないか、と突然気がついたのである。

 そのころからドイツ・ロマン派の音楽がうっとうしくなり(ブルックナーはドイツ・ロマン派ではない)、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」や「マ・メール・ロワ」、ドビュッシーの「ノクチュルヌ」や「子供の領分」、その他プーランク、ミヨーなどの音楽に著しく魅かれるようになった。ヨーロッパの町でも、いちばん飽き飽きしたのがウィーン、ほとんど恋をするようになったのがパリ。第一、ドイツ、オーストリアの食事のまずさは、味覚がますます敏感になるにつれて受けつけなくなってしまった。

 パリに通いつづけた15年間がなんと幸せだったことだろう。もちろん、フランス国内は移動する。コート・ダジュール、鷲の巣村、プロヴァンスのような南の地方にはとくに憧れた。昔はヨーロッパの北。ドイツはもちろんとして、ノルウェーにも足をのばしたというのに。フランスではとくにブルゴーニュ・ファンになり、その中心地ボーヌには毎年泊りがけで、あるいは日帰りで出かけた。

 フランスを愛するのは、もちろんあの風景の明るさやフランス人気質のせいもあるが、最高の魅力はなんといっても料理とワインのすばらしさだ。このことについてはいずれ本シリーズのエッセイで詳述するつもりである。フランス好きが高じて、植民地のニュー・カレドニアやタヒチもしばしば訪れているのだから、このフランス病は本物というほかはない。

IMG_2258『unauの無能日記』宇野功芳氏直筆原稿

 それを書き始めると切りがなくなるので他日にゆずることとし、今回は動物園について書いてみたい。ぼくはフランスのみならず、どこの町に行っても、まず足を運ぶのが動物園だ。動物を見ている時の幸せ感というものは、もう言葉には尽くせず、いつまで居ても飽きることがない。

 今までに行った動物園のベストはウィーンのそれだ。例のシェーンブルン宮殿の奥にあるものである。最近は昔風の檻が並んだ動物園は珍しくなり、もっと広々とした動物公園が多くなった。日本では上野までそういうスタイルに変ってしまったが、ここははっきりいって最低。動物が木や石などの陰にかくれて見えないことが多いからだ。

 その点、ウィーンは見る人のことがよく考えられており、とくにトラは最高! ガラス張りの檻だが、傍に近づいて写真をとろうとするとトラがわっと立上がって威嚇するので、思わず逃げてしまう。 我ながらだらしがないが、体が反応してしまうので仕方がない。ライオンも目の前、パンダも目の前、狼も実に見やすいし、しかも彼らは実にのびのびと広い場所を動きまわっている。ウィーンという町には飽きたが、動物園だけは何回でも行きたい。

 日本では神戸がすばらしい。やはりトラとパンダが見ものだ。他国ではロンドンが最低、ベルリンもあまり感動しない。アントワープ、ベルンは素朴でまあまあ。それよりはブザンソン、フランクフルト、ミュンヘンが豊かで好きだ。スイスのバーゼルは水族館がことによるとベストかも知れない。

 ではパリは、というと、これがひどい。動物園のはしりだが、見にくい上に、園自体にやる気がまったくなく、荒れ果てたまま。だからパリでは植物園の中にある小動物園に必ず行く。動物の数は少ないが、猛獣類も居るし、ダニの館もある。 いろいろな種類のダニがうようよいるのを顕微鏡でのぞくわけだが、フランス人たちが悲鳴をあげながら見ている。そのダニの気味の悪いこと!

 ぼくは動物園ではトラやヒョウも好きだが(パンダはもちろん!)、オオカミ、タヌキ、キツネ、モモンガ、コウモリなどの小動物、そして水族館が好きだ。ヘビやワニはあまり好まない。面白くないのはナマケモノだ。なにしろ動かないのだから話にならない。ご面相も珍妙で、決して味があるという代物ではない。このナマケモノがそのパリの小動物園に居る。相変らず木につかまったまま微動だにしない。何が面白くて生きているのか。馬鹿にしながら通りすぎようとして、ふと名前を見た。いや、びっくりした。なんと"unau"と書いてあるではないか。ナマケモノはフランス語ではunauというのだ! フランス人はもちろんユノーと発音するが、われわれにはウノーとしか読めない。オレは怠け者なのか。一瞬シュンとしたが、考えてみればかなり当っている。それからは署名にunauと書くようになってしまったのである!

2007年1月
unau 記
2018年4月 4日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000015.shtml  
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c51

[文化2] ベートーヴェンの真実−−彼の手紙が語らない事    西岡昌紀 西岡昌紀
7. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:04:21 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[14]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記 A
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000017.shtml
 あーあ、怠け者(unau)は辛い。こんな原稿書くのも面倒くさくて仕方がないんだけど......。キングインターナショナルの社長はおっかないからな。読み終ったばかりの青木やよひ著「ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究」(平凡社ライブラリー)のことでも書いてお茶をにごそうか。

 青木やよひさんはもう80歳という高齢だが、20代の頃からベートーヴェンの《不滅の恋人》への手紙の研究を始め、ほとんど全生涯を恋人の特定のために費やしたといってもよい。その努力には本当に頭が下る。

 ベートーヴェンぐらい楽聖という言葉に相応わしい人もあるまい。ぼくはモーツァルトもブルックナーも大好きだが、畏敬の気持はベートーヴェンがいちばん強い。ロマン・ロランが書いた伝記を夢中になって読んだ若い日。トスカニーニとフルトヴェングラーの《第五》を友人たちと聴き比べながら論争をした高校生時代。いずれもなつかしい思い出だ。


 ベートーヴェンの死後、彼自身が書いた宛名不明のラヴ・レターが3通、秘密の引き出しから発見された。年号はなく、「7月6日 朝」「7月6日 月曜日 夜」「おはよう 7月7日」だけ記され、その第1信は「私の天使、私のすべて、私自身よ」という熱烈な呼びかけで始まっている。そして第3信の最初に書かれた"わが不滅の恋人よ"という文章によって、《不滅の恋人への手紙》と呼ばれるようになった。


 ロマン・ロランは恋人を伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスウィックと断定し、二人はひそかに婚約した、と書いているので、ぼくなどはすっかりその気になり、若い頃、講師をしていた高校の音楽の授業でもそのように教えていた。


 しかし、ロランは後にこれを否定し、その後は「月光の曲」を捧げたジュリエッタ説、「エリーゼのために」を捧げたテレーゼ・マルファッティ説などが入り乱れていたが、20世紀も半ばをすぎた1957年、ベートーヴェンが前記テレーゼ・ブルンスウィックの妹ヨゼフィーネに宛てた13通の恋文がファクシミリとして公表されたのである。
書かれた年代は1804年から07年末までの4年間にわたっており、俄然ヨゼフィーネ説が有力になった。彼女は1799年にダイム伯爵と結婚、4人の子供を産んだが、夫は1804年に急死、1810年、今度はシュタッケルベルク男爵と再婚した。ベートーヴェンと恋愛関係にあったのはその間ということになるが、ヨゼフィーネは男爵との間にも3人の女の子をもうけた。ショッキングなのは、1813年4月8日生まれの3女ミーナがベートーヴェンの子である、という青木やよひ説である。


 では不滅の恋人がヨゼフィーネか、といえばそうではない。恋人探索の決め手は、ラヴ・レターに書かれた「7月6日 月曜日」という日付である。
ベートーヴェンの生涯で7月7日が月曜日に当るのは1795年、1801年、1807年、1812年、1818年であり、その年の夏の彼の滞在地を調べれば年月日を特定できる。ベートーヴェンはウィーンからかなり遠い湯治場でこの手紙を書き、その宿泊地から定期的に郵便馬車が出ている湯治場Kに居る恋人に出した。ベートーヴェンは大雨によるぬかるみの中を馬車に乗ってやって来たことが手紙の内容から分る。


 青木やよひさんはベートーヴェンが手紙を書いたのはボヘミアのテプリッツであると推測、そこから程近いカールスバート(K)に出したのだという。青木さんは何度も現地に足を運び、ホテルを探し、宿帳にベートーヴェンの名前を発見、カールスバートでも恋人の名前を発見、さらに当時同地に居たゲーテの日記に、同地方が豪雨だったことが記されていたことも知った。

 まことに推理小説を読むように面白い。はたして青木さんが推測した《不滅の恋人》とは?

 ベートーヴェンが1812年9月末か10月初めに書いた日記に、「おお神よ! 私に自分に打ちかつ力をあたえたまえ。......このようにして、Aとのことはすべて崩壊にいたる......」とあるが、このAこそ恋人のイニシャルであり、その名前はアントーニア・ブレンターノ。銀行家フランツ・ブレンターノ夫人で、当時32歳(ベートーヴェンは42歳)、二人はひそかに愛し合い、イギリスに永住する約束を交わしていた。アントーニアの名前が今までまったく無視されていたのは、それだけ慎重に二人が秘密をかくし通していたからだという。そういわれればその通りだ。


 だが運命はベートーヴェンにとって、あまりにも過酷だった。ほとんど別居状態だったアントーニアと夫フランツの間には別れ話が進み、その最後の話し合いのとき(5月28日のアントーニアの誕生日)、別れの契りで子供を宿してしまった。そのことを告白されたベートーヴェンが、動転している恋人に書いたのが、例の3通の手紙であるが、ベートーヴェンの方にも思いもかけぬ事態が起こってしまったのだ。

 同じ年の6月、前記ヨゼフィーネの夫シュタッケルベルクが家出し、6人の子供たちとともにウィーンに取り残された彼女は、生活費にもこと欠いてベートーヴェンに助けを求めに行ったが、同情した彼がヨゼフィーネと一夜をともにし、できた子がミーナだったと青木さんは考えたのだ。
それは彼女の姉テレーゼが「子供に備わる神性」という言葉を使っていることからも明らかで、この事実をベートーヴェンは9月末か10月初めに知り、運命の過酷さに絶望し、次に自らを断罪し、アントーニアとのこと、いっさいをあきらめたのだという。

 なんという皮肉な現実!《Aとのことはすべて崩壊にいたる》。あまりの精神的打撃によって病気がちとなり、創作力も衰えてしまったベートーヴェン。そして数年後、見事に立ち直り、ピアノ・ソナタ「作品109」「作品110」「作品111」、歌曲集「遙かなる恋人に寄す」をはじめとして、曲の随所にアントーニアへの想いを昇華した形で封じこめたわれらがベートーヴェン。

 若しも彼が愛する人とイギリスに渡り、幸せな家庭を築いたとしたら、われわれには果たして「第九」や「ミサ・ソレムニス」や後期の弦楽四重奏曲の数々が遺されたかどうか。おそらくは作曲されなかったのではないだろうか。

unau 記
2018年4月11日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000017.shtml
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html#c7

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
75. 中川隆[-11484] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:29:16 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[15]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記C
嵐の中のブルーノ・ワルター

 戦前EMIのプロデューサーだったガイスベルクは「ワルターは嵐の中心となるような運命を背負っている」と述べた。彼の生涯は、凡人ならとても耐え切れないような苦難に満ちていたが、今月はそのことを書いてみたい。

 少年時代、どなり声ひとつ聞いたことのない、温かく教養豊かな家庭に育ち、ピアニストへの道を進み、途中で指揮者になりたいと切望するようになる。やがてハンブルク歌劇場で名指揮者マーラーと出会い、彼の演奏、作品、人柄に魅かれ、師として仰ぎ、マーラーのせかせかした歩き方や爪をかむ癖まで真似をしたというワルターの前途は希望にあふれていた。人生で最も幸せだったのは1913年から10年間にわたるバイエルン国立歌劇場(ミュンヘン)の総監督時代であろう(37歳から46歳まで)。良き妻エルザとロッテ、グレーテルという2人の娘を得、指揮者としての評判も非常に高かった。その幸福が暗転したのは1922年である。

 名門ベルリン・フィルの常任指揮者ニキシュが世を去ったのだ。当然次の指揮者の本命はベルリン生まれで、オーストリア、ドイツを中心に活躍するブルーノ・ワルターであった。新聞辞令も出た。彼はベルリン・フィルの団員からも「多くの者があなたを支持している」という連絡を受け、すっかりその気になっていた。

 しかし、そこに登場したのが10歳も年下のフルトヴェングラーである。ワルターは知人への手紙に書いている。「フルトヴェングラーはニキシュが死んでからベルリンに根を下ろし、天国から地獄までのありとあらゆる手段を総動員して、この地位を得ようと躍起になっています。私の方は主義として何もしていないし、これまでの人生でも、ただ音楽的な業績によってのみ道を開こうとして来ました」。

 結局ベルリン・フィルが選んだのは36歳の若手フルトヴェングラーであった。あまつさえ、ワルターがミュンヘンを去ったのは、12歳年下のクナッパーツブッシュがナチスと手を組み、ユダヤ人のワルターを追い出したという説がある。これは往年の指揮者でヨーロッパにもしばしば出かけていた近衛秀麿が語っていたことだが、当時ナチスはまだ勢力をのばしておらず、ワルター自身も自伝に他の理由を書いているので噂の域を出ないが、火のないところに煙は立たない。
なんらかの動きはあったかも知れない。クナッパーツブッシュは海千山千、ワルターは最後までお人好しであった。

 1933年、そのナチスがついに政権を取り、ユダヤ人の追放にのり出した。ワルターはフルトヴェングラーが常任になった後もベルリン・フィルとは親密な関係をつづけ、長年にわたって「ブルーノ・ワルター・コンサート」を開いて来たが、それも中止、1934年にはウィーンに追われ、オーストリア国籍となった。しかし名門ウィーン・フィルとワルターとの相性は抜群で、彼の人気は世界中にとどろき、ベルリンのフルトヴェングラーと二分、革命後のソヴィエトに招かれた初めての外国人となった。ベルリン・フィルも結果としてフルトヴェングラーを選んだのが成功だったといえる。

 だがワルターの幸せは長くはつづかない。このあと、筆舌に尽くせぬ苦難がつぎつぎと彼をおそう。1938年3月13日、ナチス・ドイツはオーストリアを併合、ユダヤ人を追放した。ちょうどアムステルダムに演奏旅行中だったワルターはウィーンに帰れず、地位も財産も国籍も剥奪された。
家族も逮捕されたが4月にオーストリアを脱出、一家は9月にモナコ国籍を得ようとするが失敗、フランス政府が救いの手を差しのべ、フランス国籍を取得する。

 翌1939年8月、ルツェルン音楽祭でマーラーの「第二」を指揮する予定だったワルターに届いたのは、チューリヒ在住の最愛の娘、次女のグレーテルが夫に射殺されたという報であった。
茫然自失のワルターに代わってトスカニーニが指揮をとった。翌月の9月にナチスはポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。ヨーロッパに居場所を失ったワルターはついにアメリカへの亡命を決意、10月31日にニューヨークに向かい、ロサンジェルス郊外のビヴァリー・ヒルズに居を構えるとともにアメリカ国籍となった。本当に苦難の連続とはこのことであろう。しかも1945年3月には長い間の心労がたたったのだろう、エルザ夫人が脳卒中のため他界してしまう。

アメリカのオーケストラの楽員にはヨーロッパでのワルターの名声を知らない人も多く、最初のうちは戸惑いをかくせなかったが、やがてニューヨーク・フィルの音楽監督をつとめるなど、徐々にアメリカの生活になじみ、1962年2月17日、心臓病のため、85歳の生涯を閉じたのであった。

 《愛と善意の音楽家》ワルター。それゆえに彼は自分をあんなにも苦しめたナチスに対しても、そこそこの悪意しか持っていなかったというが、ワルターの良さも弱さもそのあたりにあったのかも知れない。戦後、1949年、シカゴ交響楽団がフルトヴェングラーに客演指揮を依頼したが、全米の音楽家たちがナチスに協力したという理由で猛反対をした。しかしワルターとメニューインだけが反対声明に名前を書かなかったのである。

 ワルターに代わってベルリン・フィルの常任の地位についたフルトヴェングラーは、晩年カラヤンの台頭におびえ、自分がワルターに対してやったようなことをカラヤンにされるのではないかと絶えず猜疑心に悩まされた。そして1954年、ワルターよりも早く、68歳で他界したあと、ベルリン・フィルの常任の地位についたのはそのカラヤンであった。運命はめぐる。人の世の面白さであろう。

2007年6月
[宇野功芳]
2018年4月25日
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000019.shtml
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c75

[リバイバル3] 世界的にも美食の街として知られるようになった東京 _ こんなに食の多様性に優れた都市は世界にはありません 中川隆
1. 中川隆[-11486] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:54:04 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[13]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記D
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000020.shtml
 今月は美食の話。和、洋、中、おいしいものなら何でも好きなぼくだが、トップは当然フランス料理である。ぼくぐらいの年齢になると、もう和食の方がいい、という人も多いが、生涯現役の体には魚よりも肉の方がぴったりくる。

 それにぼくはあの懐石料理というものがピンと来ないのだ。もちろん若い頃は美しい彩りに魅せられて京都は祗園丸山などによく通ったものだし、今でも有名店に招待されることがある。でも、2日つづけて食べたいとは思わない。それにどの料理もいろいろこねくりまわして、なんの食材を使っているのか分からないものが多い。有名店の懐石料理でもそうなのだから、旅館で出てくる食事には正直まいってしまう。初日はまだ良いとしても2日目には同じ味に飽き飽き、3日目はかなり辛い。ぼくには行きつけの温泉旅館があるのだが、残念ながら3泊が限度だ。フランス料理には(もちろん一流の)そういうことがないので、1ヶ月でも2ヶ月でもフランスに滞在できるのである。

 ところが和食で、たった2軒だけ、いつ行っても、今までのどれよりも今日がいちばんおいしかった、と思わせてくれる店がある。銀座のすしの名店[ほかけ]と、原宿の割烹料理、[重よし]である。
最近東京のフレンチ・レストランの味の向上は著しく、本場のフランスを凌ぐ店も多くなったが、行くたびに今日が今までの最高と思わせてくれる店はさすがにない。だから、ほかけと重よしは別格なのだ。とんでもないことを肩に力を入れず、やすやすとやってのけているのである。

 ほかけについては改めて書くことにして、まずは重よし。この店は遠藤周作が通いつめたことで知られ、ぼくも彼のエッセイを読んで通うようになったのだが、ご主人の佐藤憲三さんとはもう20年以上のおつき合いということになる。重よしはいわゆる懐石料理ではない。無上の食材をこねまわさず、出来得るかぎりシンプルな形で供してくれる。料理を出す順番にもこだわりはなく、思いがけないときに思いがけない一皿が出る。佐藤さんはお客の食べ方をそれとなく見ていて、その日の食欲や体調を瞬時に見ぬき、ぴったりの品を出してくれる。だから、十数人しかすわれないカウンターのお客一人ひとりに出すものがみな違う。順番も違う。

 最近行ったのは4月18日だが、その日の献立を書いてみよう。

メニュー
1. グリーンピース、生ユバ、山椒の花を素材にした3種の突出し
2. 葉タマネギのゆでもの
3. カツオのタタキ。ノリ、ミョウガ、アサヅキをたっぷり散らす
4. キスとウドの芽
5. アサリとフキノトウを揚げたもの。
ウニとトリ貝(ウドとワケギを巻き、スミソをかけてある)。
シメサバの卯の花まぶし。
ホタルイカのモロミ漬け。 以上、4種が一皿に
6. 吸物。シイタケ、シラガネギ、ニンジン、ミツバ、ゴボウとブタの背脂
7. タイの刺身
8. ふり酒をした甘鯛
9. カニ
10. 板屋貝のミソまぶしと天然浜防風
11. 竹の子とフキの土佐まぶし
12. 親子丼。シジミのミソ汁。香の物
13. 小夏ミカンのゼリー

 その一つひとつの滋味について、素人のぼくが書くのは控えよう。とにかく店に足を運ぶたびに目からウロコが落ち、新発見のおどろきがある。しかし、どの一品もシンプルそのもの。

 佐藤憲三さんは1944年生まれ。原宿に店を出したのは1972年、27歳のときであった。朝起きると外に出て気温や湿度を肌で確かめる。
コーヒーを一杯飲み、午後2時まで何も食べない。その空腹感の中で、今日は自分が何を食べたいかを考え、それがその日の献立の基礎になる。
お客は定連がほとんどで、誰が、いつ、何を食べたかを、その日のうちに記録する。

 本当に食を愛し、重よしを愛する人が佐藤さんの大切なお客さんなのだ。だから会社の接待で食事などそっちのけ、話に夢中になっているような客には冷たくしてしまう、と語っていたが、人を見る眼は鋭くとも、温顔を絶やすことはない。 ぼくは佐藤さんが大好きで、料理ももちろんだが、佐藤さんの顔を見たいから行く面もある。料理の話も興味が尽きない。他のお客さんもみな同じではないだろうか。
(内容は執筆当時のものです)

2007年7月記
[宇野功芳]
2018年5月 2日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000020.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1034.html#c1

[リバイバル3] 世界的にも美食の街として知られるようになった東京 _ こんなに食の多様性に優れた都市は世界にはありません 中川隆
2. 2020年9月06日 07:59:04 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[14]
重よし (しげよし) - 明治神宮前/割烹・小料理 [食べログ]
https://tabelog.com/tokyo/A1306/A130601/13001153/

ちきとんちきとんさんの口コミ
2010/04訪問

お客を馬鹿にした店

私は近所に住んでおり、母が自宅に寄ったので、今後の夜の宴席の下見を兼ねて二人でランチに出掛けました。

最悪でした。呆れました。

メニューは、

クレソンのお浸し

アナゴの煮つけとホタテの焼いたもの

キャベツの出汁につけたもの

焼き魚(多分、甘鯛)

刺身(鮪赤身 烏賊)

ご飯 味噌汁(赤だし) 漬物

水菓子(イチゴ)


アナゴにしても、ホタテにしても、みみっちいほど小さく、キャベツは虫食いの黒い葉っぱまで一緒に入っていました。(野菜が高いから節約したんでしょうか?)

5000円のランチの一品に堂々と虫食いキャベツが出てきたのには驚きました。
こういう全く手が掛けられていないものを料理というのでしょうか?

味噌汁のワカメは何度も煮返して色も変わってぐにゃぐにゃになっており、豆腐も然り。当然、みそ汁も煮詰まっていました。

鮪は普通でしたが、烏賊は干からびていました。わさびとつまは新鮮でしたが。

最後の水菓子のイチゴに至っては、所謂ジュースにするような小さくて酸っぱいものが5粒、へたがついたまま、フォークも何も添えられずに出て来ました。

私が「手で食べるの?」と言うと、「フォーク、使いますか?」

お手拭きも、フィンガーボールもないのなら、フォークで食べる以外に方法があるのでしょうか??

味も、出汁はまあまあ美味しかったですが、でも、お客さんに出すものの内容を一体どういう料簡で決めてるの?というのが正直な感想。
焼き物の魚にしても見事なまでに小さい。みみっちい店です。

おまけに、他の方が書いておられましたが、店内で店主と思しき男性が、大声で、油揚げの注文や知人の方への連絡などの電話をずっとしておられました。
声のトーンを落とすなどは一切なく、お客に対する配慮のかけらも感じられない、非常に尊大な態度でした。

料理の内容と価格設定のバランス、サービスなどすべてに渡ってお客を馬鹿にした店だと思いました。
もしかしたら、夜に大枚をはたくお客さんにとっては全く違う店なのかもしれませんが、仮にそうであったとしてもこういったスタンスの店には2度と行かないし、どなたにもお勧め出来ません。
https://tabelog.com/tokyo/A1306/A130601/13001153/dtlrvwlst/B118706680/


店名 重よし (しげよし)

ジャンル 割烹・小料理

予約・お問い合わせ
03-3400-4044

東京都渋谷区神宮前6-35-3 コープオリンピア 1F

重よし - 地図
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交通手段
明治神宮前駅から60m


営業時間
12:00〜13:30 17:30〜22:00

定休日 日曜日

営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。


席数 32席

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1034.html#c2

[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
44. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2020年9月06日 08:14:25 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[15]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記F
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000022.shtml

今月はフランス音楽なのでフランス料理の話を。 この世の中にフランス料理ぐらいおいしいものはない。ということは、やはり魚よりも肉の方がおいしいということだ。もっとも、フランス料理の場合、白身魚などは日本料理に敵わないが、貝、イカ、ウニなどを使ったオードヴルは日本の懐石を大きく上まわる。まさに至福の世界だ。eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。

フレンチのもう一つの、重要な楽しみはワインである。これあるからこそフレンチの味はいっそう(何倍も何十倍も)引立ち、料理とワインがマッチしたときのすばらしさは筆舌に尽くしがたく、陶酔境に誘われる。 唯一の欠点はそのワインが高価なこと。ユーロが高くなり、今までは1本1万6千円ぐらいで満足できた赤ワインが、やがて2万円になり、今や2万5千円ぐらい出さないと良いものに出会えない。料理を二人で2万円とすれば、ワイン1本がそれより高く、食前酒などを加えればアルコール類の比率は大変なものになる。でも、それこそがフランス料理なのだ。

17e4d79bccd2ce873c7c0feb8fd0c83a_s※画像はイメージです。

だからワインが飲めない人はフランス料理のすばらしさの一割か二割しか分からないことになる。安いワインですませるのも、かえってもったいない。ぼくの友人で、お酒はビールでさえ一滴も飲めない人がフランス料理にはまり、努力の結果、なんとワインだけはボトルの半分以上飲めるようになった。今ではソムリエではないがフランスのワインの資格を持っている。人間の一念というのはおそろしい。

しかしお酒はすべておいしい。日本酒、ビールはもちろん、ウィスキー、焼酎、なんでもすばらしいが、ベストはワイン、次いでウィスキーだろうか。ウィスキーはシーバスリーガルの21年物を好むが、年代物の方が味の良いウィスキーでさえ寿命は50年、ワインは100年といわれる。100年物など飲んだことはないが、先日リシュブール、'58年をご馳走になった。ブルゴーニュ特有の酸味がすべて甘味に変り、その濃厚、複雑な味わいと香りは今までの最高といって良かった。ブルゴーニュは寿命が短いし、旅に弱いと聞いているが、これならボルドーの古酒以上である。因みにぼくが飲んだ最古のワインはシャトー・ポンテ・カネ'50年だが、'58年のリシュブールの方がはるかに上だった。

古酒といえば本場ボルドー市のル・シャポー・ファンで飲んだシャトー・カロン・セギュールの'75年が今もって忘れられない芳醇さだった。赤坂のシュマンで味わったシャトー・グラン・ピュイ・デュカスの'60年、グラン・エシェゾーの'78年もすごかった。とにかく古酒の魅力に一度とりつかれたら、もう終りなのである。

シュマンはワインの値段も良心的、料理も最高の一つだが、すでに他誌に書いたので、今回はぼくの行きつけのもう1軒、ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブションについて書いてみたい。フレンチではシュマンとロブションの2軒を交互に訪れている。

ジョエル・ロブションがフランス人随一の天才シェフであることはよく知られている。パリの三つ星店にも何回か通ったが、50歳のとき引退を表明、がっかりしていたところ、やはり天職から離れることが出来ず、カウンター形式の気楽なラトリエを世界各地に作りつつあり、恵比寿にはもっと高級なジョエル・ロブションもある。しかし今のぼくにはそういう店は量が多すぎ、もっぱらラトリエに通うのだが、ここはロブションの粋ともいうべき究極の洗練された料理が、毎回ほとんど変らずにメニューに並んでおり、何よりも2分の1のお皿を用意しているのが嬉しい。形式ばらず、たった一品だけ食べて帰るのも自由、お酒もビールだけでOK。

今年の6月に行ったときは、@冷たいトマトのガスパチョ、Aホワイト・アスパラガスのソテー、Bフォアグラのラヴィオリと5種類のハーブ入りブイヨン・スープ、C和牛のタルタル・ステーキを注文したが、ブイヨン・スープ以外はすべて2分の1量。そのほかにサービスで、最初にイベリコ豚の生ハムが供された。ここのイベリコ豚を食べたら、よそのものは食べられない。料理はすべて今までに何回も食べたものばかりだが、心からの満足感は毎回変らない。タルタル・ステーキのなんというおいしさ!当日は選ばなかったが、イワシも、温野菜の盛合せも、手長海老のパピヨットも。仔羊もすべて最高。とくに仔羊は他のどの店よりもおいしいと思う。シュマンのようにカエル、仔牛の腎臓、ウサギなどはないし、冬のジビエも置いてないが、値段を抑えているので仕方があるまい。だからこそシュマンと両方に足を運ぶのだ。

デザートの「日向夏を蜂蜜でマリネに、ソルベを詰めたクリスタルのチューブとヴェルヴェーヌのジュレ」も目がさめるような美味だったが、この日飲んだ赤ワインにどうしても触れなければならない。シュマンのような古酒がないのが残念だし、値段も概して高いが、この夜はソムリエがすすめてくれたブルゴーニュのニュイ・サン・ジョルジュ・プルミエ・クリュ、'98年が大当り。この店では以前エシェゾーの新酒をすすめられ、その華やかさにおどろいた経験があるが、ニュイ・サン・ジョルジュにはたくさんの造り手があり、味のムラが多い。このところ、はずれてばかりで、酸味ばかり強く、こくのないものを飲みつづけていたが、この日の造り手はドメーヌ・デ・ペルドリ、久しぶりにバランスの良いブルゴーニュの一級を堪能した。'98年といえば9年物、ブルゴーニュとしてはまさに飲み頃を迎えたところであろう。

パリにもラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブションがほとんど同じ作りであるが、東京の方が断然おいしい。これは両方の店を体験した人が異口同音にいうことである。シュマンもパリの二つ星クラス。だから、だんだんとフランスに行く足が鈍ってしまうのだ。ともかく店を出たあと、連れの家人や友人と、「本当にフランス料理はおいしいね、最高だね、また来たいね」と口々に言いながら帰途に着くのである。

2007年9月記
[宇野功芳]
2018年5月16日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000022.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c44

[リバイバル3] 最高の音を一番安く手に入れる方法 _ パソコンの iTunes ファイル + プリ機能付き DAC + フルレンジスピーカー 中川隆
119. 中川隆[-11484] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:16:32 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[16]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記H
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000024.shtml

 2006年7月、キングインターナショナルから、ぼくの唯一の弟子である有山麻衣子の「幻のコンサート」(KDC6001)が発売されたが、この無名のソプラノ歌手のCDが売れに売れ、2007年3月には4000枚を超えたとの報が入った。4000枚。これはおどろくべき数字である。CDの帯には《女神が導いたかのような天使の歌声》というキャッチ・フレーズが書かれているが、今の世にヴィブラートのないピュアな声が受けたのかもしれないし、昔の文部省唱歌やなつかしい童謡の数々が心を癒したのかもしれない。もう一つ、インフラノイズによる超高音質録音も大きな力になったのであろう。

 あまりのフィーバーぶりに2007年には2枚目のCDが企画された。有山麻衣子はぼくが跡見学園女子大学合唱団の常任指揮者をつとめていた頃の学生で、4年間指導したが、類稀れな美声の持主なので、卒業後はぼくが歌謡曲シリーズをつづけているプロの女声アンサンブル、フィオレッティに賛助出演させることにした。そして2度目の「幻のコンサート」録音ではフィオレッティの若手メンバー2人を加え、トレフォリーネという女声三重唱団を結成、それをメインに有山のソロ8曲を入れて1枚のCDに仕上げようと考えたのである。インフラノイズの録音も有山の独唱も前回以上にすばらしく、トレフォリーネもなかなかの出来ばえだったので発売できると喜んでいたのだが、三重唱のCD化は時期尚早という強い意見がメンバーから出てボツになってしまった。トリオはともかく、そのことによって有山麻衣子の名唱「さくら」「嬉しい雛まつり」「かもめの水兵さん」「みかんの花咲く丘」「めんこい仔馬」「夜のルムバ」「森の水車」「想兄譜」が日の目を見ずに消え去ってしまったのは実に心残りの極みである。

 ところで前回の「幻のコンサート」がCD化されたとき、有山はまともな再生装置を持っていなかった。自分のCDが出るというのにそれでは仕方がない、というので、ぼくはオーディオに詳しい友人と秋葉原を歩きまわり、彼女のためのスピーカーとアンプを探し求めた。値段が手頃で音質の良い品というのはなかなか見つからなかったが、その友人がすすめてくれたデンマークのダリというメ−カーの超小型スピーカー「Menuet」と、マランツのプリ・メイン・アンプPM6100を求めることにした。ぼくはもともとマランツのアンプの音がクラシック向きで好きだし、ダリは初めて耳にしたが、手のひらに乗るような小型スピーカーなのに、ヴォリュームを上げても音が割れず、中音が充実、低音も大きく張り出し、高音の透明感も十分に満足できる。すごい世の中になったものだ、と感心した。しかし友人がいうには、こういう小型で安価なスピーカーのグレードは驚異的に進歩したが、自分のようにもっと高級な品を求めようとすると、昔に比べてずいぶん音質が悪く、スピーカーが買えなくて困っているという。
eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。
 それはともかく、秋葉原で選んだアンプと2台のスピーカーは全部で15万円ぐらいだったと思う。有山の部屋で鳴らしたが、「第九」のコーラスのフォルティッシモがオーケストラを伴って部屋全体を満たしたときは本当にびっくりした。ピアノのソロもすばらしい。彼女もすごいですね、と大満足。もちろん「幻のコンサート」も上々。これで1、2ヶ月エイジングをすればスピーカーも柔軟性を増していっそう良くなるはずだ。ちなみに、プレーヤーはぼくが予備に持っていたラックスマンのD500X'sを貸すことにした。ぼくが必要になったときは、前記マランツのアンプと対になったCDM1を買えばよい。この組み合わせは安価なわりに音質が優秀で、大いにおすすめしたい。もっともラックスマンは高級品なので音はやや落ちるだろうが、なんといっても再生装置の音を決めるのはスピーカーである。

 ぼくは1990年前後にオーディオ誌『サウンド・トップス』にオーディオの試聴記を連載していた。曰く、「音楽家が聴く最新オーディオ製品」。毎月、同社の試聴室に足を運び、新製品の聴き比べをするのだが、ラックスマンのプレーヤーもその試聴時、いちばん気に入ったので購入したのだ(その後、このD500X'sはD7に改良され、今はそれを使っているが、現在ではもう手に入らない)。

『サウンド・トップス』のスピーカー試聴で最も気に入ったのはイギリスのハーベスHLコンパクトで、ぼくは何人の人にこの製品をすすめたか分からないが、買った人はみな大絶讃だ。音は生々しく、硬くなく、中音の充実感満点、前記ダリのMenuetをさらに良くしたような音質だったが、その後、マイナー・チェンジして音質改良。そこまでは良かったが、現在は今流行の音に変えてしまったようで、まことに残念。今流行の音というのは高音から低音までムラのない透明な音で、中音が張り出していないため、厚みのある充実感が出ない。その友人は必死になって昔のハーベスを探しているが、なかなか見つからないらしい。彼は仕方がないからB&WかJBLの高級機にしようか、といっているが、ぼくは懸命になって、あわてるなと説得しているのである。

2007年11月記 [宇野功芳]
2018年5月30日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000024.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1002.html#c119

[リバイバル3] ハーベスで初代 HLコンパクト唯一つだけ人気が出た理由 中川隆
29. 中川隆[-11483] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:19:01 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[17]

『サウンド・トップス』のスピーカー試聴で最も気に入ったのはイギリスのハーベスHLコンパクトで、ぼくは何人の人にこの製品をすすめたか分からないが、買った人はみな大絶讃だ。

音は生々しく、硬くなく、中音の充実感満点、前記ダリのMenuetをさらに良くしたような音質だったが、その後、マイナー・チェンジして音質改良。そこまでは良かったが、現在は今流行の音に変えてしまったようで、まことに残念。

今流行の音というのは高音から低音までムラのない透明な音で、中音が張り出していないため、厚みのある充実感が出ない。その友人は必死になって昔のハーベスを探しているが、なかなか見つからないらしい。


宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記H
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000024.shtml

 2006年7月、キングインターナショナルから、ぼくの唯一の弟子である有山麻衣子の「幻のコンサート」(KDC6001)が発売されたが、この無名のソプラノ歌手のCDが売れに売れ、2007年3月には4000枚を超えたとの報が入った。4000枚。これはおどろくべき数字である。CDの帯には《女神が導いたかのような天使の歌声》というキャッチ・フレーズが書かれているが、今の世にヴィブラートのないピュアな声が受けたのかもしれないし、昔の文部省唱歌やなつかしい童謡の数々が心を癒したのかもしれない。もう一つ、インフラノイズによる超高音質録音も大きな力になったのであろう。

 あまりのフィーバーぶりに2007年には2枚目のCDが企画された。有山麻衣子はぼくが跡見学園女子大学合唱団の常任指揮者をつとめていた頃の学生で、4年間指導したが、類稀れな美声の持主なので、卒業後はぼくが歌謡曲シリーズをつづけているプロの女声アンサンブル、フィオレッティに賛助出演させることにした。そして2度目の「幻のコンサート」録音ではフィオレッティの若手メンバー2人を加え、トレフォリーネという女声三重唱団を結成、それをメインに有山のソロ8曲を入れて1枚のCDに仕上げようと考えたのである。インフラノイズの録音も有山の独唱も前回以上にすばらしく、トレフォリーネもなかなかの出来ばえだったので発売できると喜んでいたのだが、三重唱のCD化は時期尚早という強い意見がメンバーから出てボツになってしまった。トリオはともかく、そのことによって有山麻衣子の名唱「さくら」「嬉しい雛まつり」「かもめの水兵さん」「みかんの花咲く丘」「めんこい仔馬」「夜のルムバ」「森の水車」「想兄譜」が日の目を見ずに消え去ってしまったのは実に心残りの極みである。

 ところで前回の「幻のコンサート」がCD化されたとき、有山はまともな再生装置を持っていなかった。自分のCDが出るというのにそれでは仕方がない、というので、ぼくはオーディオに詳しい友人と秋葉原を歩きまわり、彼女のためのスピーカーとアンプを探し求めた。値段が手頃で音質の良い品というのはなかなか見つからなかったが、その友人がすすめてくれたデンマークのダリというメ−カーの超小型スピーカー「Menuet」と、マランツのプリ・メイン・アンプPM6100を求めることにした。ぼくはもともとマランツのアンプの音がクラシック向きで好きだし、ダリは初めて耳にしたが、手のひらに乗るような小型スピーカーなのに、ヴォリュームを上げても音が割れず、中音が充実、低音も大きく張り出し、高音の透明感も十分に満足できる。すごい世の中になったものだ、と感心した。しかし友人がいうには、こういう小型で安価なスピーカーのグレードは驚異的に進歩したが、自分のようにもっと高級な品を求めようとすると、昔に比べてずいぶん音質が悪く、スピーカーが買えなくて困っているという。
eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。
 それはともかく、秋葉原で選んだアンプと2台のスピーカーは全部で15万円ぐらいだったと思う。有山の部屋で鳴らしたが、「第九」のコーラスのフォルティッシモがオーケストラを伴って部屋全体を満たしたときは本当にびっくりした。ピアノのソロもすばらしい。彼女もすごいですね、と大満足。もちろん「幻のコンサート」も上々。これで1、2ヶ月エイジングをすればスピーカーも柔軟性を増していっそう良くなるはずだ。ちなみに、プレーヤーはぼくが予備に持っていたラックスマンのD500X'sを貸すことにした。ぼくが必要になったときは、前記マランツのアンプと対になったCDM1を買えばよい。この組み合わせは安価なわりに音質が優秀で、大いにおすすめしたい。もっともラックスマンは高級品なので音はやや落ちるだろうが、なんといっても再生装置の音を決めるのはスピーカーである。

 ぼくは1990年前後にオーディオ誌『サウンド・トップス』にオーディオの試聴記を連載していた。曰く、「音楽家が聴く最新オーディオ製品」。毎月、同社の試聴室に足を運び、新製品の聴き比べをするのだが、ラックスマンのプレーヤーもその試聴時、いちばん気に入ったので購入したのだ(その後、このD500X'sはD7に改良され、今はそれを使っているが、現在ではもう手に入らない)。

『サウンド・トップス』のスピーカー試聴で最も気に入ったのはイギリスのハーベスHLコンパクトで、ぼくは何人の人にこの製品をすすめたか分からないが、買った人はみな大絶讃だ。音は生々しく、硬くなく、中音の充実感満点、前記ダリのMenuetをさらに良くしたような音質だったが、その後、マイナー・チェンジして音質改良。そこまでは良かったが、現在は今流行の音に変えてしまったようで、まことに残念。今流行の音というのは高音から低音までムラのない透明な音で、中音が張り出していないため、厚みのある充実感が出ない。その友人は必死になって昔のハーベスを探しているが、なかなか見つからないらしい。彼は仕方がないからB&WかJBLの高級機にしようか、といっているが、ぼくは懸命になって、あわてるなと説得しているのである。

2007年11月記 [宇野功芳]
2018年5月30日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000024.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/687.html#c29

[リバイバル3] 最高の音を一番安く手に入れる方法 _ パソコンの iTunes ファイル + プリ機能付き DAC + フルレンジスピーカー 中川隆
120. 中川隆[-11482] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:28:25 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[18]
スピーカーは中古でも良いなら 次の機種が超お買い得です:

グッドマン MAXIMスピーカーシステム
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1076.html


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ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 _ テレフンケン RB46スピーカー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c41

TELEFUNKEN Hi-Fi Klangbox RB45 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12563851449.html

TELEFUNKEN Hi-Fi Klangbox RB70 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12558550343.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1002.html#c120

[リバイバル3] 音楽家とオーディオマニアは音楽の聴き方が違うか? 中川隆
18. 中川隆[-11481] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:34:55 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[19]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記H
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 2006年7月、キングインターナショナルから、ぼくの唯一の弟子である有山麻衣子の「幻のコンサート」(KDC6001)が発売されたが、この無名のソプラノ歌手のCDが売れに売れ、2007年3月には4000枚を超えたとの報が入った。4000枚。これはおどろくべき数字である。CDの帯には《女神が導いたかのような天使の歌声》というキャッチ・フレーズが書かれているが、今の世にヴィブラートのないピュアな声が受けたのかもしれないし、昔の文部省唱歌やなつかしい童謡の数々が心を癒したのかもしれない。もう一つ、インフラノイズによる超高音質録音も大きな力になったのであろう。

 あまりのフィーバーぶりに2007年には2枚目のCDが企画された。有山麻衣子はぼくが跡見学園女子大学合唱団の常任指揮者をつとめていた頃の学生で、4年間指導したが、類稀れな美声の持主なので、卒業後はぼくが歌謡曲シリーズをつづけているプロの女声アンサンブル、フィオレッティに賛助出演させることにした。そして2度目の「幻のコンサート」録音ではフィオレッティの若手メンバー2人を加え、トレフォリーネという女声三重唱団を結成、それをメインに有山のソロ8曲を入れて1枚のCDに仕上げようと考えたのである。インフラノイズの録音も有山の独唱も前回以上にすばらしく、トレフォリーネもなかなかの出来ばえだったので発売できると喜んでいたのだが、三重唱のCD化は時期尚早という強い意見がメンバーから出てボツになってしまった。トリオはともかく、そのことによって有山麻衣子の名唱「さくら」「嬉しい雛まつり」「かもめの水兵さん」「みかんの花咲く丘」「めんこい仔馬」「夜のルムバ」「森の水車」「想兄譜」が日の目を見ずに消え去ってしまったのは実に心残りの極みである。

 ところで前回の「幻のコンサート」がCD化されたとき、有山はまともな再生装置を持っていなかった。自分のCDが出るというのにそれでは仕方がない、というので、ぼくはオーディオに詳しい友人と秋葉原を歩きまわり、彼女のためのスピーカーとアンプを探し求めた。値段が手頃で音質の良い品というのはなかなか見つからなかったが、その友人がすすめてくれたデンマークのダリというメ−カーの超小型スピーカー「Menuet」と、マランツのプリ・メイン・アンプPM6100を求めることにした。ぼくはもともとマランツのアンプの音がクラシック向きで好きだし、ダリは初めて耳にしたが、手のひらに乗るような小型スピーカーなのに、ヴォリュームを上げても音が割れず、中音が充実、低音も大きく張り出し、高音の透明感も十分に満足できる。すごい世の中になったものだ、と感心した。しかし友人がいうには、こういう小型で安価なスピーカーのグレードは驚異的に進歩したが、自分のようにもっと高級な品を求めようとすると、昔に比べてずいぶん音質が悪く、スピーカーが買えなくて困っているという。
eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_m※画像はイメージです。
 それはともかく、秋葉原で選んだアンプと2台のスピーカーは全部で15万円ぐらいだったと思う。有山の部屋で鳴らしたが、「第九」のコーラスのフォルティッシモがオーケストラを伴って部屋全体を満たしたときは本当にびっくりした。ピアノのソロもすばらしい。彼女もすごいですね、と大満足。もちろん「幻のコンサート」も上々。これで1、2ヶ月エイジングをすればスピーカーも柔軟性を増していっそう良くなるはずだ。ちなみに、プレーヤーはぼくが予備に持っていたラックスマンのD500X'sを貸すことにした。ぼくが必要になったときは、前記マランツのアンプと対になったCDM1を買えばよい。この組み合わせは安価なわりに音質が優秀で、大いにおすすめしたい。もっともラックスマンは高級品なので音はやや落ちるだろうが、なんといっても再生装置の音を決めるのはスピーカーである。

 ぼくは1990年前後にオーディオ誌『サウンド・トップス』にオーディオの試聴記を連載していた。曰く、「音楽家が聴く最新オーディオ製品」。毎月、同社の試聴室に足を運び、新製品の聴き比べをするのだが、ラックスマンのプレーヤーもその試聴時、いちばん気に入ったので購入したのだ(その後、このD500X'sはD7に改良され、今はそれを使っているが、現在ではもう手に入らない)。

『サウンド・トップス』のスピーカー試聴で最も気に入ったのはイギリスのハーベスHLコンパクトで、ぼくは何人の人にこの製品をすすめたか分からないが、買った人はみな大絶讃だ。音は生々しく、硬くなく、中音の充実感満点、前記ダリのMenuetをさらに良くしたような音質だったが、その後、マイナー・チェンジして音質改良。そこまでは良かったが、現在は今流行の音に変えてしまったようで、まことに残念。今流行の音というのは高音から低音までムラのない透明な音で、中音が張り出していないため、厚みのある充実感が出ない。その友人は必死になって昔のハーベスを探しているが、なかなか見つからないらしい。彼は仕方がないからB&WかJBLの高級機にしようか、といっているが、ぼくは懸命になって、あわてるなと説得しているのである。

2007年11月記 [宇野功芳]
2018年5月30日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000024.shtml
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[昼休み52] 「恥の文化」の力 富山誠
28. 中川隆[-11480] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:37:28 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[20]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記I
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000025.shtml

 大日本雄辯會講談社。ぼくは昭和5年の生まれだから、小学生時代は「講談社の繪本」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少年講談」さては「のらくろ」「怪人二十面相」などの本で育った。その発行元が大日本雄辯會講談社なのだが、この名前を見ると子供心にも誇らしかったものだ。そのくらい講談社の本は充実していたのである。

 たとえば現在やっと一部が復刻された「講談社の繪本」の豪華さといったら! ぜひ本屋で直接手に取っていただきたい。昭和11年から17年まで、実に203冊が発行され、復刻されたのはわずか20冊にすぎないが、とくに「浦島太郎」「かぐや姫」「猿蟹合戦」などの美しさ、面白さは目がくらむほどだし、「童謡画集」に描かれた戦前の日本の風景、風俗は懐かしさに涙が出る。日本という国はこんなにもすばらしかったのだ。

 なにしろこの絵本、当時の錚々たる日本画家たちが精魂をこめて画き、講談社は子供が読む本だからこそ最高のものを創ろうと志し、最上質の紙を使い、極めて贅沢な多色刷にし、心をこめて仕上げたのだ。採算を考えたらこんな絵本が出来るはずはない。戦前の日本の文化のすばらしさはとても筆舌には尽くし得ないものがある。だからぼくたちは講談社に誇りを持っていたのだ。


eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_mclear="all" />※画像はイメージです。


 当時の子供は小学校3、4年までは「幼年倶楽部」、4、5年になると「少年倶楽部」「少女倶楽部」を購読していたが、ことに「少年倶楽部」の内容の濃さは群を抜いていた。今の子供は活字離れだそうだが、そうなるとわれわれが普通に読んでいた「少年倶楽部」など、大人が読んでも面白いのだから、文章がむずかしくて歯が立たないだろう。なんと憂うべき現状であることか。ぼくの感じでは、昔の中学生(義務教育ではない)は今の大学生よりよほど大人で、しっかりしていた。凛としていた。親も先生もこわいからだが、親や先生の子供を愛する心は現在よりもずっと深く、だからこそ子供もいうことを聞いたのである。

 講談社を創立したのは野間清治で、実に立派な顔をしている。彼が提唱したのは朗読のすすめである。曰く。

 大きい声を出して本を読むと、気分が爽快になる。姿勢がよくなり、度胸ができる。内緒話をしなくなる。いかがわしい本を開かなくなる。明朗になる。舌が滑らかになる。演説上手になる。人に好かれて出世する。偉くなるのに一番必要なものは何か。学問でも、才智でもない。その人の品性である。真面目に、真剣に、親に事つかえ、兄弟仲よくし、人々に深切に、辛抱強く、自己の仕事に奮励するならば、それだけでその人は必ず立派な人になれる事を私は確證する。

 こんな人が初代社長になり、大人の雑誌「雄辯」や「キング」を出し、子供を大切にする本を毎月出しつづけたのだから、ぼくらの少年時代はバラ色だった。「少年倶楽部」には名作が競い合って載せられた。たとえば佐藤紅緑の長編小説「あゝ玉ぎょく杯はいに花うけて」は昭和2年5月号から3年4月号にかけて連載されたが、少年たちを熱狂させ、連載前の発行部数30万部が、昭和3年新年号には45万部にはね上がったことでもわかる。筋はチビ公と呼ばれていた小学生・青木十三が、貧困にも負けず、志を抱いて生きぬく話で、その刻苦勉励に熱い友情がからむ。

 佐藤紅緑(サトウハチローの父)は最初、「ハナたれ小僧の読むような小説は書けん」と断ったのだが、当時の編集長が「子供は国の宝だ」といってついに執筆させることに成功したのだという。

 山中峯太郎は「幼年倶楽部」に「見えない飛行機」を書いて大ヒットしたが、彼はこの小説の心を、「どんなことがあっても、正しいことをきっとやりとげる、という力を、子供のときから十分につくってゆくことが大切だ。子供のときにつくった心は一生つづく。心もからだも強い子供になってほしい」と書いている。

 「少年倶楽部」には毎号あっとおどろくような豪華無類な付録がついていた。それがまた大人気を呼んだのである。たとえば昭和6年10月号の、6基のプロペラをつけた翼70センチの「大飛行艇ドックス号模型」、同年8月号の「名古屋城の発光大模型」、7年新年号の「軍艦三み笠かさの大模型」などがすばらしく、軍艦三笠では黄海海戦や日本海海戦のときの被弾の跡や、東郷司令長官が全艦隊を指揮した場所まで明示されていた。

 社長・野間清治のモットーは「面白くてためになる」だった。なかでも「少年倶楽部」には、少年の理想主義、正義、熱血、情熱などが散りばめられ、友情、勇気、正直、精神的な徳育などが最も大切にされていたのである。

 文京区関口には講談社野間記念館がある。2ヶ月ごとに展示物が変わるので、前記の付録などが今度いつ見られるのかはっきりしないが、一応ご紹介しておきたい。
2007年12月記 [宇野功芳]
2018年6月 6日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000025.shtml
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/778.html#c28

[昼休み52] 海外「日本は水の国だったんだ」 日本の大自然の映像集に外国人感動 富山誠
5. 中川隆[-11479] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:37:46 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[21]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記I
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000025.shtml

 大日本雄辯會講談社。ぼくは昭和5年の生まれだから、小学生時代は「講談社の繪本」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少年講談」さては「のらくろ」「怪人二十面相」などの本で育った。その発行元が大日本雄辯會講談社なのだが、この名前を見ると子供心にも誇らしかったものだ。そのくらい講談社の本は充実していたのである。

 たとえば現在やっと一部が復刻された「講談社の繪本」の豪華さといったら! ぜひ本屋で直接手に取っていただきたい。昭和11年から17年まで、実に203冊が発行され、復刻されたのはわずか20冊にすぎないが、とくに「浦島太郎」「かぐや姫」「猿蟹合戦」などの美しさ、面白さは目がくらむほどだし、「童謡画集」に描かれた戦前の日本の風景、風俗は懐かしさに涙が出る。日本という国はこんなにもすばらしかったのだ。

 なにしろこの絵本、当時の錚々たる日本画家たちが精魂をこめて画き、講談社は子供が読む本だからこそ最高のものを創ろうと志し、最上質の紙を使い、極めて贅沢な多色刷にし、心をこめて仕上げたのだ。採算を考えたらこんな絵本が出来るはずはない。戦前の日本の文化のすばらしさはとても筆舌には尽くし得ないものがある。だからぼくたちは講談社に誇りを持っていたのだ。


eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_mclear="all" />※画像はイメージです。


 当時の子供は小学校3、4年までは「幼年倶楽部」、4、5年になると「少年倶楽部」「少女倶楽部」を購読していたが、ことに「少年倶楽部」の内容の濃さは群を抜いていた。今の子供は活字離れだそうだが、そうなるとわれわれが普通に読んでいた「少年倶楽部」など、大人が読んでも面白いのだから、文章がむずかしくて歯が立たないだろう。なんと憂うべき現状であることか。ぼくの感じでは、昔の中学生(義務教育ではない)は今の大学生よりよほど大人で、しっかりしていた。凛としていた。親も先生もこわいからだが、親や先生の子供を愛する心は現在よりもずっと深く、だからこそ子供もいうことを聞いたのである。

 講談社を創立したのは野間清治で、実に立派な顔をしている。彼が提唱したのは朗読のすすめである。曰く。

 大きい声を出して本を読むと、気分が爽快になる。姿勢がよくなり、度胸ができる。内緒話をしなくなる。いかがわしい本を開かなくなる。明朗になる。舌が滑らかになる。演説上手になる。人に好かれて出世する。偉くなるのに一番必要なものは何か。学問でも、才智でもない。その人の品性である。真面目に、真剣に、親に事つかえ、兄弟仲よくし、人々に深切に、辛抱強く、自己の仕事に奮励するならば、それだけでその人は必ず立派な人になれる事を私は確證する。

 こんな人が初代社長になり、大人の雑誌「雄辯」や「キング」を出し、子供を大切にする本を毎月出しつづけたのだから、ぼくらの少年時代はバラ色だった。「少年倶楽部」には名作が競い合って載せられた。たとえば佐藤紅緑の長編小説「あゝ玉ぎょく杯はいに花うけて」は昭和2年5月号から3年4月号にかけて連載されたが、少年たちを熱狂させ、連載前の発行部数30万部が、昭和3年新年号には45万部にはね上がったことでもわかる。筋はチビ公と呼ばれていた小学生・青木十三が、貧困にも負けず、志を抱いて生きぬく話で、その刻苦勉励に熱い友情がからむ。

 佐藤紅緑(サトウハチローの父)は最初、「ハナたれ小僧の読むような小説は書けん」と断ったのだが、当時の編集長が「子供は国の宝だ」といってついに執筆させることに成功したのだという。

 山中峯太郎は「幼年倶楽部」に「見えない飛行機」を書いて大ヒットしたが、彼はこの小説の心を、「どんなことがあっても、正しいことをきっとやりとげる、という力を、子供のときから十分につくってゆくことが大切だ。子供のときにつくった心は一生つづく。心もからだも強い子供になってほしい」と書いている。

 「少年倶楽部」には毎号あっとおどろくような豪華無類な付録がついていた。それがまた大人気を呼んだのである。たとえば昭和6年10月号の、6基のプロペラをつけた翼70センチの「大飛行艇ドックス号模型」、同年8月号の「名古屋城の発光大模型」、7年新年号の「軍艦三み笠かさの大模型」などがすばらしく、軍艦三笠では黄海海戦や日本海海戦のときの被弾の跡や、東郷司令長官が全艦隊を指揮した場所まで明示されていた。

 社長・野間清治のモットーは「面白くてためになる」だった。なかでも「少年倶楽部」には、少年の理想主義、正義、熱血、情熱などが散りばめられ、友情、勇気、正直、精神的な徳育などが最も大切にされていたのである。

 文京区関口には講談社野間記念館がある。2ヶ月ごとに展示物が変わるので、前記の付録などが今度いつ見られるのかはっきりしないが、一応ご紹介しておきたい。
2007年12月記 [宇野功芳]
2018年6月 6日

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http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/774.html#c5

[昼休み53] 絶滅寸前の日本人と日本文化 中川隆
57. 中川隆[-11478] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:39:32 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[22]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記I
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000025.shtml

 大日本雄辯會講談社。ぼくは昭和5年の生まれだから、小学生時代は「講談社の繪本」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少年講談」さては「のらくろ」「怪人二十面相」などの本で育った。その発行元が大日本雄辯會講談社なのだが、この名前を見ると子供心にも誇らしかったものだ。そのくらい講談社の本は充実していたのである。

 たとえば現在やっと一部が復刻された「講談社の繪本」の豪華さといったら! ぜひ本屋で直接手に取っていただきたい。昭和11年から17年まで、実に203冊が発行され、復刻されたのはわずか20冊にすぎないが、とくに「浦島太郎」「かぐや姫」「猿蟹合戦」などの美しさ、面白さは目がくらむほどだし、「童謡画集」に描かれた戦前の日本の風景、風俗は懐かしさに涙が出る。日本という国はこんなにもすばらしかったのだ。

 なにしろこの絵本、当時の錚々たる日本画家たちが精魂をこめて画き、講談社は子供が読む本だからこそ最高のものを創ろうと志し、最上質の紙を使い、極めて贅沢な多色刷にし、心をこめて仕上げたのだ。採算を考えたらこんな絵本が出来るはずはない。戦前の日本の文化のすばらしさはとても筆舌には尽くし得ないものがある。だからぼくたちは講談社に誇りを持っていたのだ。


eeb7e4b96b28a0e12244c344914e3ca7_mclear="all" />※画像はイメージです。


 当時の子供は小学校3、4年までは「幼年倶楽部」、4、5年になると「少年倶楽部」「少女倶楽部」を購読していたが、ことに「少年倶楽部」の内容の濃さは群を抜いていた。今の子供は活字離れだそうだが、そうなるとわれわれが普通に読んでいた「少年倶楽部」など、大人が読んでも面白いのだから、文章がむずかしくて歯が立たないだろう。なんと憂うべき現状であることか。ぼくの感じでは、昔の中学生(義務教育ではない)は今の大学生よりよほど大人で、しっかりしていた。凛としていた。親も先生もこわいからだが、親や先生の子供を愛する心は現在よりもずっと深く、だからこそ子供もいうことを聞いたのである。

 講談社を創立したのは野間清治で、実に立派な顔をしている。彼が提唱したのは朗読のすすめである。曰く。

 大きい声を出して本を読むと、気分が爽快になる。姿勢がよくなり、度胸ができる。内緒話をしなくなる。いかがわしい本を開かなくなる。明朗になる。舌が滑らかになる。演説上手になる。人に好かれて出世する。偉くなるのに一番必要なものは何か。学問でも、才智でもない。その人の品性である。真面目に、真剣に、親に事つかえ、兄弟仲よくし、人々に深切に、辛抱強く、自己の仕事に奮励するならば、それだけでその人は必ず立派な人になれる事を私は確證する。

 こんな人が初代社長になり、大人の雑誌「雄辯」や「キング」を出し、子供を大切にする本を毎月出しつづけたのだから、ぼくらの少年時代はバラ色だった。「少年倶楽部」には名作が競い合って載せられた。たとえば佐藤紅緑の長編小説「あゝ玉ぎょく杯はいに花うけて」は昭和2年5月号から3年4月号にかけて連載されたが、少年たちを熱狂させ、連載前の発行部数30万部が、昭和3年新年号には45万部にはね上がったことでもわかる。筋はチビ公と呼ばれていた小学生・青木十三が、貧困にも負けず、志を抱いて生きぬく話で、その刻苦勉励に熱い友情がからむ。

 佐藤紅緑(サトウハチローの父)は最初、「ハナたれ小僧の読むような小説は書けん」と断ったのだが、当時の編集長が「子供は国の宝だ」といってついに執筆させることに成功したのだという。

 山中峯太郎は「幼年倶楽部」に「見えない飛行機」を書いて大ヒットしたが、彼はこの小説の心を、「どんなことがあっても、正しいことをきっとやりとげる、という力を、子供のときから十分につくってゆくことが大切だ。子供のときにつくった心は一生つづく。心もからだも強い子供になってほしい」と書いている。

 「少年倶楽部」には毎号あっとおどろくような豪華無類な付録がついていた。それがまた大人気を呼んだのである。たとえば昭和6年10月号の、6基のプロペラをつけた翼70センチの「大飛行艇ドックス号模型」、同年8月号の「名古屋城の発光大模型」、7年新年号の「軍艦三み笠かさの大模型」などがすばらしく、軍艦三笠では黄海海戦や日本海海戦のときの被弾の跡や、東郷司令長官が全艦隊を指揮した場所まで明示されていた。

 社長・野間清治のモットーは「面白くてためになる」だった。なかでも「少年倶楽部」には、少年の理想主義、正義、熱血、情熱などが散りばめられ、友情、勇気、正直、精神的な徳育などが最も大切にされていたのである。

 文京区関口には講談社野間記念館がある。2ヶ月ごとに展示物が変わるので、前記の付録などが今度いつ見られるのかはっきりしないが、一応ご紹介しておきたい。
2007年12月記 [宇野功芳]
2018年6月 6日

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http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/898.html#c57

[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
45. 中川隆[-11477] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:42:04 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[23]
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記J
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000026.shtml
 6月下旬から7月末にかけて、3年ぶりにパリに行くことが出来た。昨年、一昨年は体調が今ひとつだったからだが、今年は好調に旅をつづけられた。しかし帰国後の時差の後遺症はひどく、やはりこれが最後のような気がする。

 今回はパリを起点にして、ローザンヌ、ブダペスト、ウィーン、プラハをまわったが、メインをローザンヌとし、10泊滞在した。フランスが好きなあまり、同国はすみずみまで出かけたが、スイスのフランス語圏を忘れていたのだ。すばらしかった。なによりもレマン湖のほとりのこの町は景色が最高だ。毎日、美しい湖とアルプスを眺めながらの生活は、たとえば南フランスに行くよりもずっとおすすめである。料理は当然フレンチ主体で、食材こそフランスに比べて限られているが、味は一級だ。西洋ワサビをふんだんに効かせたタルタル・ステーキなど、フランス本国よりもおいしいくらいだった。

 パリに戻ろう。ブダペストとプラハが良くなかったせいか、いっそうパリの空気がぴったりと体になじんだ。建物の美しさ、芸術性も比較にならない(その点、今回はウィーンが大いに気に入った。この町はたしかに以前に比べてきれいになった気がするし、ホテルなどの対応も向上した)。

 パリに着いて真先に行きたかったのはオランジュリー美術館。なにしろ改装に5年もかかり、再開を待ちかねていたからだが、いささかがっかり。この美術館、本来はモネの「睡蓮」が0階(日本の1階)にあったのだが、それを地下に移したため効果が半減、その批判に応えるために元の階に戻したのだ。たしかに「睡蓮」は生き返った。しかし、そのためにぼくの大好きなルノワールがせまい廊下に移され、光も弱いし、他の画家の作品とごちゃまぜになって窮屈なことこの上ない。以前はルノワールだけでゆったりと一部屋とり、その美しい色彩に恍惚、毎日のようにオランジュリー、オランジュリーと通ったのだが、もう駄目だ。モネは地下でもそれなりに良かったので、ものすごく残念! 結局パリ滞在中、一度しか行かなかった。
※画像はイメージです。

 絵では日帰りで出かけたデン・ハーグのフェルメール2点がやはり最高だった。いま日本にダブリン(アイルランド)の「手紙を書く婦人と召使い」が来ており、これをフェルメールの第1位に推すファンが多い。ぼくもさっそく見に行ったが、第1位は「デルフトの眺望」、第2位は「手紙を書く婦人と召使い」「真珠の耳飾りの女」が並ぶ。この第1位と第2位がともにデン・ハーグの同じ部屋に向き合って掛けられているのである。だからパリに行くと必ず日帰りで往復するのだが、見れば見るほどすばらしく、とくに「デルフトの眺望」は見る度に涙が出、新しい発見がある。今回は修復したらしく、絵の下半分がすごく鮮明になり、感動の極に達した。

 話は料理に移る。以前この欄でけなした"ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション"。同じ作りの店が東京にあり、味は問題なくパリより上だった。その東京の店がまずミシュランの二つ星をとったのに、パリの店は星一つ。ロブションの怒り狂う顔が目に見えるようだ。おそらくシェフも交代させられたのだろう。今回おそるおそる行ってみたが、ほとんど東京店に比肩する(ということは、やはり東京の方が良い)。ミシュランの星も今年二つになった。こんなカウンターだけで、一皿だけでもOKというような気楽な店が二つ星を取るなど、よほど料理が絶品でなければ不可能なこと。まさに天才ロブションならではだ。二度も足を運んだが、何を食べてもおいしく、ワインは一度目が珍しいムルソー(ブルゴーニュ)の赤2006年、二度目はやはりブルゴーニュのマゾワイエール・シャンベルタン2001年、ともに大正解であった。

 それにしても両方の店を訪れた日本人はみな東京の方が上だという。日本人の味覚は世界一だと思う。いや、味覚だけではない。ぼくの友人にこの夏まで3年間、横須賀の米海軍基地司令官をつとめていた大佐がいるが、退職したら日本に住みたいといっている。日本人の繊細さ、親切さ、心遣い、その他エレベーター、エスカレーター、新幹線などのスムーズさ(技術力)は世界一だという。われわれはもっともっと自信を持って良いし、そのことを若者にも伝えてゆかなければなるまい。

 料理といえばウィーンの一流ホテルで食べた牛フィレ・ステーキがこちこちの最悪だったので、これもパリから日帰りでボーヌに行き、ブルゴーニュ特産のシャローレ牛(白い牛)のステーキを口直しに食べたが、いや、そのおいしいのなんの。ウィーンはたしかにホイリゲなど、昔より良くなったが、本格的な料理は相変わらずだった。

 今夏のヨーロッパは寒い日が多く、良く晴れた日にパリの公園のベンチにすわっていると、日射しが暑すぎ、そうかといって日影に移ると今度は北風が寒く、セーターを着ずにはいられない。とにかく着たりぬいだり、実にせわしない。でも、それだけ空気が乾いて清涼だということだ。フランスはファッションの国で、パリジェンヌは美しさの代表のようにいわれているが、ぼくはそうは思わない。意外に美形は少ない。むしろドイツ、オーストリアの少女、そしてイタリア、スペインなどにすばらしい美人がいる。インドのお姫様の美しさなど、形容し難いほどだが、それでもぼくはフランス人がいちばん好きだ。フランス人は冷たいという人が多いが、親しくつきあってごらんなさい。もうしつこいほど情が深い。そうなるのがいやで、わざと冷たくしているようにしかぼくには思えないのである。

2008年1月記 [宇野功芳]
2018年6月13日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000026.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c45

[リバイバル3] 世界的にも美食の街として知られるようになった東京 _ こんなに食の多様性に優れた都市は世界にはありません 中川隆
3. 中川隆[-11476] koaQ7Jey 2020年9月06日 10:57:35 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[24]
以前この欄でけなした"ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション"。
同じ作りの店が東京にあり、味は問題なくパリより上だった。

その東京の店がまずミシュランの二つ星をとったのに、パリの店は星一つ。
ロブションの怒り狂う顔が目に見えるようだ。おそらくシェフも交代させられたのだろう。今回おそるおそる行ってみたが、ほとんど東京店に比肩する(ということは、やはり東京の方が良い)。

宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記J
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000026.shtml

 6月下旬から7月末にかけて、3年ぶりにパリに行くことが出来た。昨年、一昨年は体調が今ひとつだったからだが、今年は好調に旅をつづけられた。しかし帰国後の時差の後遺症はひどく、やはりこれが最後のような気がする。

 今回はパリを起点にして、ローザンヌ、ブダペスト、ウィーン、プラハをまわったが、メインをローザンヌとし、10泊滞在した。フランスが好きなあまり、同国はすみずみまで出かけたが、スイスのフランス語圏を忘れていたのだ。すばらしかった。なによりもレマン湖のほとりのこの町は景色が最高だ。毎日、美しい湖とアルプスを眺めながらの生活は、たとえば南フランスに行くよりもずっとおすすめである。料理は当然フレンチ主体で、食材こそフランスに比べて限られているが、味は一級だ。西洋ワサビをふんだんに効かせたタルタル・ステーキなど、フランス本国よりもおいしいくらいだった。

 パリに戻ろう。ブダペストとプラハが良くなかったせいか、いっそうパリの空気がぴったりと体になじんだ。建物の美しさ、芸術性も比較にならない(その点、今回はウィーンが大いに気に入った。この町はたしかに以前に比べてきれいになった気がするし、ホテルなどの対応も向上した)。

 パリに着いて真先に行きたかったのはオランジュリー美術館。なにしろ改装に5年もかかり、再開を待ちかねていたからだが、いささかがっかり。この美術館、本来はモネの「睡蓮」が0階(日本の1階)にあったのだが、それを地下に移したため効果が半減、その批判に応えるために元の階に戻したのだ。たしかに「睡蓮」は生き返った。しかし、そのためにぼくの大好きなルノワールがせまい廊下に移され、光も弱いし、他の画家の作品とごちゃまぜになって窮屈なことこの上ない。以前はルノワールだけでゆったりと一部屋とり、その美しい色彩に恍惚、毎日のようにオランジュリー、オランジュリーと通ったのだが、もう駄目だ。モネは地下でもそれなりに良かったので、ものすごく残念! 結局パリ滞在中、一度しか行かなかった。
※画像はイメージです。

 絵では日帰りで出かけたデン・ハーグのフェルメール2点がやはり最高だった。いま日本にダブリン(アイルランド)の「手紙を書く婦人と召使い」が来ており、これをフェルメールの第1位に推すファンが多い。ぼくもさっそく見に行ったが、第1位は「デルフトの眺望」、第2位は「手紙を書く婦人と召使い」「真珠の耳飾りの女」が並ぶ。この第1位と第2位がともにデン・ハーグの同じ部屋に向き合って掛けられているのである。だからパリに行くと必ず日帰りで往復するのだが、見れば見るほどすばらしく、とくに「デルフトの眺望」は見る度に涙が出、新しい発見がある。今回は修復したらしく、絵の下半分がすごく鮮明になり、感動の極に達した。

 話は料理に移る。以前この欄でけなした"ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション"。同じ作りの店が東京にあり、味は問題なくパリより上だった。その東京の店がまずミシュランの二つ星をとったのに、パリの店は星一つ。ロブションの怒り狂う顔が目に見えるようだ。おそらくシェフも交代させられたのだろう。今回おそるおそる行ってみたが、ほとんど東京店に比肩する(ということは、やはり東京の方が良い)。ミシュランの星も今年二つになった。こんなカウンターだけで、一皿だけでもOKというような気楽な店が二つ星を取るなど、よほど料理が絶品でなければ不可能なこと。まさに天才ロブションならではだ。二度も足を運んだが、何を食べてもおいしく、ワインは一度目が珍しいムルソー(ブルゴーニュ)の赤2006年、二度目はやはりブルゴーニュのマゾワイエール・シャンベルタン2001年、ともに大正解であった。

 それにしても両方の店を訪れた日本人はみな東京の方が上だという。日本人の味覚は世界一だと思う。いや、味覚だけではない。ぼくの友人にこの夏まで3年間、横須賀の米海軍基地司令官をつとめていた大佐がいるが、退職したら日本に住みたいといっている。日本人の繊細さ、親切さ、心遣い、その他エレベーター、エスカレーター、新幹線などのスムーズさ(技術力)は世界一だという。われわれはもっともっと自信を持って良いし、そのことを若者にも伝えてゆかなければなるまい。

 料理といえばウィーンの一流ホテルで食べた牛フィレ・ステーキがこちこちの最悪だったので、これもパリから日帰りでボーヌに行き、ブルゴーニュ特産のシャローレ牛(白い牛)のステーキを口直しに食べたが、いや、そのおいしいのなんの。ウィーンはたしかにホイリゲなど、昔より良くなったが、本格的な料理は相変わらずだった。

 今夏のヨーロッパは寒い日が多く、良く晴れた日にパリの公園のベンチにすわっていると、日射しが暑すぎ、そうかといって日影に移ると今度は北風が寒く、セーターを着ずにはいられない。とにかく着たりぬいだり、実にせわしない。でも、それだけ空気が乾いて清涼だということだ。フランスはファッションの国で、パリジェンヌは美しさの代表のようにいわれているが、ぼくはそうは思わない。意外に美形は少ない。むしろドイツ、オーストリアの少女、そしてイタリア、スペインなどにすばらしい美人がいる。インドのお姫様の美しさなど、形容し難いほどだが、それでもぼくはフランス人がいちばん好きだ。フランス人は冷たいという人が多いが、親しくつきあってごらんなさい。もうしつこいほど情が深い。そうなるのがいやで、わざと冷たくしているようにしかぼくには思えないのである。

2008年1月記 [宇野功芳]
2018年6月13日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000026.shtml
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1034.html#c3

[番外地8] コロナは空気感染するエイズだというのが確定しました 中川隆
1. 中川隆[-11475] koaQ7Jey 2020年9月06日 12:58:12 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[25]
remote 教育はどうしても必要なんだよ、チャンネル桜のアホ評論家より官僚の方があらゆる分野でまともなんだな:
コロナは空気感染するエイズだというのが確定しました。新型コロナは、感染・発症したが最後、永遠に完治はしない!
肺や心臓や脳に重い後遺症が残って死ぬまで苦しむ!!!!!!!!:
新型コロナと HIV は「ほぼ完全な兄弟」であることが判明。双方のウイルスが「人間の免疫細胞を破壊するメカニズム」において同じであることが見出される
https://indeep.jp/coronavirus-uses-same-strategy-hiv-to-attack-immune-response/

「Covid-19 は HIV」:米ペンシルバニア大学の研究で新型コロナウイルスが人間の重要な免疫細胞を「エイズ同様に消滅させている」と結論付けられる
https://indeep.jp/how-novel-coronavirus-destruct-humsn-immune-system/

[衝撃] 新型コロナウイルスは「人間の免疫機能の中心であるT細胞を攻撃」し、免疫系を完全に破壊する「HIV / エイズウイルスと同じ特徴を持っている」ことが米中の研究者により確認される
https://indeep.jp/novel-coronavirus-is-determined-to-be-the-same-as-hiv-virus/

▲△▽▼

新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過
 
若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する

新型コロナウィルスの特徴
・致死率はインフルエンザの110倍
・インフルエンザ並みの感染力
・1年中感染し、物の表面上でも2週間生存する
・動物にも感染する
・紫外線に弱く、エタノール、アルカリ、オゾンで殺菌出来る

感染を予防する行動について
・外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・手洗い、手の消毒(接触感染防止)
・目を触らない、顔を舐めない(接触感染防止)
・体調が悪い場合は外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・服を洗濯(接触感染防止) ・シャワー(接触感染防止)
・外出先でトイレを使わない(粉塵感染防止)
・3密 集まらない、近寄らない、密閉しない
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/332.html#c1

[番外地8] そもそも台湾は中国じゃない、台湾は台湾 sennjyuu民の国だよ 中川隆
1. 2020年9月06日 17:52:10 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[23]

そもそもtaiwan は中国じゃない、taiwanはtaiwan sennjyuu民の国だよ
kan民族は後から入って来てsennjyuu民の土地を nottotta 侵略者だ
kan民族は中国本土に帰ればいいんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/333.html#c1
[番外地8] そもそも台湾は中国じゃない、台湾は台湾 sennjyuu民の国だよ 中川隆
2. 2020年9月06日 18:14:50 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[24]

77 7
21 分前(編集済み)
taiwan は中国じゃない、taiwanはtaiwan sennjyuu民の国だよ
そもそも台湾人が中国語を使うのが間違っているんだ
中国人は中国に帰ればいいんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/333.html#c2
[近代史4] 正しいコーヒーの入れ方 中川隆
3. 中川隆[-11477] koaQ7Jey 2020年9月06日 22:02:29 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[25]

カフェイン「知らずに過剰摂取」で中毒も、紅茶や緑茶が落とし穴
ますだポム子 2020/09/06
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%82%ab%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%a4%e3%83%b3-%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9a%e3%81%ab%e9%81%8e%e5%89%b0%e6%91%82%e5%8f%96-%e3%81%a7%e4%b8%ad%e6%af%92%e3%82%82-%e7%b4%85%e8%8c%b6%e3%82%84%e7%b7%91%e8%8c%b6%e3%81%8c%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e7%a9%b4/ar-BB18Khae?ocid=ientp


われわれの生活に深く浸透している「カフェイン」。「朝はコーヒーを飲まないと始まらない」という人も多いだろうし、リフレッシュや眠気覚まし、集中力アップなどの効果を期待して、エナジードリンクや栄養ドリンクを手に取る人も多いことだろう。しかし近年、カフェインの摂りすぎが健康を害する原因になるとして、危険視されている。(清談社 ますだポム子)

慢性的な片頭痛や耳鳴りは

カフェインが原因かも?

 近年、カフェインの過剰摂取が原因で起きる「カフェイン中毒」が話題だ。カフェイン中毒者の救急搬送や死亡例は、国内外問わず報告されている。重症化すれば、精神錯乱や幻覚、パニック発作、不整脈、消化器症状、循環器症状など心身に影響を及ぼし、最悪の場合、命まで落としかねない。

 こうした病状はかなり深刻な中毒状態に陥っている場合に起こるもの。常日頃カフェイン入りの飲料を愛飲していても、重度のトラブルに見舞われたことがなければ、さして注意する必要はないと思いがちだが、実は油断はできないのだという。


「カフェイン中毒とまではいかなくても、知らず知らずのうちに軽度の依存状態になっている人は多くいます。実は、すでに症状が出ているという人も少なくないのです」

 そう話すのは、豊田こころのクリニックの院長を務める、精神科医の大和行男氏だ。大和氏は、カフェインが引き起こしている可能性がある病状を、こう説明する。

「カフェインは血管を収縮する作用があるので、過剰に摂取すると、片頭痛や耳鳴りを引き起こします。胃酸の分泌を促す作用もあるので、胃痛がするという人もいますね。また、動悸や過呼吸、ふるえといった交感神経刺激症状が出ることもあります」

 慢性的な片頭痛や耳鳴りといった症状に悩まされている人は、実はカフェインの過剰摂取が原因かもしれないのだ。だが、現状ではこうした症状を病院で診てもらっても「ストレス性の症状」で片付けられてしまう場合がほとんどだという。

「症状によって内科や耳鼻科にかかると思いますが、アルコールやタバコの摂取量を聞かれることはあっても、カフェインの摂取量を気にする先生はあまり多くありません。そのため、検査しても原因が判然とせず、『恐らくストレスが原因』と診断され、心療内科や精神科を紹介されます。『精神科で初めて、カフェインの摂取量を指摘された』という患者さんもいるのです。それくらい、カフェインによる体調不良は見過ごされやすく、重症化するまで本人も自覚が持てないケースが多いのです」

中高生もカフェイン依存に…

紅茶や緑茶も要注意

 軽度の依存症状が出ていても、まさかそれがカフェインによって引き起こされているとは認識しづらいもの。こうして無自覚のうちに重症化してしまうというわけだ。なぜカフェイン依存はこれほどに症状の進行を自覚しづらいのだろうか。

「コーヒーやエナジードリンク、栄養ドリンクに多くのカフェインが含まれていることは周知の事実でしょう。しかし、これら以外にも、紅茶や緑茶、烏龍茶などにもカフェインが多量に入っているのです。『お茶なら問題ないだろう』と勘違いし、カフェインを過剰に摂取する人も少なくありません」

 食事の度にお茶を飲み、仕事中にはコーヒーを常飲、夕方になって疲れが出たらエナジードリンクで気合を入れ、翌朝は栄養ドリンクでエネルギー補給……。こうして、知らぬ間に複数の飲料からカフェインを大量に摂取してしまうというわけだ。こうしたカフェイン依存のケースはビジネスパーソンに限らず、若者にも増えているという。

「特に多いのが、受験を終えた中高生です。親が『コーヒーだとカフェインが多いから』と、受験勉強の差し入れに紅茶や緑茶を与えることが多く、注意せずに毎晩飲み続け、受験を終えた頃にはすっかり依存してしまっているというお子さんはとても多いですね」

 また、カフェインが持つ依存性の高さも、依存者を増やす理由の1つだ。

「カフェインは依存性薬物と同様に、身体依存、精神依存の両方をもたらすほど強い依存性を持っています。精神依存は、とにかくその薬物が欲しくなる渇望感が生じること。身体依存は、身体に耐性がついて効き目が悪くなり、どんどん摂取量が増えていくことです。心身が依存すると、少量では満足できず、大量のカフェインが欲しくてたまらなくなります」

 カフェインはこれほどの依存性を持ちながら、アルコールやタバコのように購入に際しての年齢制限もなく、大麻や覚せい剤のように法で取り締まられているわけでもない。コンビニや自動販売機で手に入るアクセシビリティーの良さも、依存者の増加を後押ししている。

「カフェイン依存の人は、カフェインが効いている間は元気に働けますが、切れたときの反動が恐ろしく大きい。やる気の前借りをしているようなものですから、切れた後に負債がドッとやってくるのです」

 そして、疲れている身体を無理に動かそうと再びカフェインを摂り、切れたら反動で疲労がやってきて、そこにむち打つようにまたカフェインを摂る……。こうした悪循環から抜け出せず、カフェインに依存してしまうわけだ。

カフェイン中毒予防のためには

少しずつ減量していくべし

 とはいえ、適量のカフェインが眠気覚ましや集中力アップといった効果を発揮するのは事実。欧州食品安全機関が2015年に発表した「カフェインの安全性に関する科学的意見書」によると、体重60kgの成人が1日に摂取して健康を害さないカフェイン量は、342mgといわれている。玉露のカフェイン含有量は100mlあたり約160mg。同量のコーヒーには約60mg入っているというから、1日のうちに玉露とコーヒーを2杯ずつ飲めば、それだけで安全量オーバーとなるのだ。

 しかし大和氏は、「数値はあくまでも目安であり、体質によっては安全量以下でも危険な場合もあります」と警鐘を鳴らす。

「アルコールのように、カフェインも効きが強い人と弱い人がいます。個人差があるため、『体重が何kgの人なら、1日何mgまでカフェインを摂っても大丈夫』という数値は、すべての人に適用できるわけではありません。中には少量のカフェインで救急搬送されるくらい、カフェインに敏感に反応してしまう人もいるので、『安全量を守れば絶対安心』と過信することはリスキーです」

 体質のほか、年齢や、数時間以内に摂取したカフェインの体内残留量など、さまざまな要素によっても効き方は変化するという。安全量以下しか摂取していなくても、体調に異変を感じた場合は、摂取を控えるべきなのだ。

「カフェインはいわば山椒のようなもの。少量でも大きな力を発揮しますから、それこそ調味料のように少しだけ摂取するべきなのです。山椒を主食として食べれば、健康を害することは想像がつきますよね。カフェインも同様です。適量を守れば、カフェインを毒ではなく薬として摂取することができます」

 カフェイン中毒にならないためには、少量のカフェインとうまく付き合っていくことがベストだ。しかし、すでにカフェイン摂取が日常化している人は耐性がついてしまい、少量では効き目を感じにくくなっている。そして、こうした状態の人が急にカフェインを一切摂らなくなると、かえって危険なのだという。

「カフェイン依存の人が急にカフェインを全て断ってしまうと、『離脱症状』に襲われます。頭痛、著しい疲労感または眠気、抑うつ気分、集中困難などがその症状です。ですから、いきなりカフェインの摂取量をゼロにするのではなく、少しずつ減らしていくことで身体の耐性を弱めていくべきです。量を減らすことが難しい場合は、デカフェ飲料などに切り替えることもおすすめです」

 また、自分ではどうしてもカフェイン摂取量を減らせないという人は、医師に相談して減量に取り組むという手もある。

「粉末状のカフェインを処方し、『1日の規定量はこれだけ』と、薬のように管理するケースがあります。そうして、少量でも効果が感じられるように身体の依存度を下げていくのです」

 今は、ペットボトル飲料やインスタント形式はもちろんのこと、コンビニ店内で淹れるタイプのコーヒーにも、デカフェやノンカフェインのコーヒーが用意されている。もし、頻繁にカフェインを摂取していて、慢性的な頭痛などの体調不良を感じるようであれば、中毒になる前触れかもしれない。自分に合った方法でカフェイン摂取量を減らし、良い効果だけを受けられるようにしてほしい。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%82%ab%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%a4%e3%83%b3-%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9a%e3%81%ab%e9%81%8e%e5%89%b0%e6%91%82%e5%8f%96-%e3%81%a7%e4%b8%ad%e6%af%92%e3%82%82-%e7%b4%85%e8%8c%b6%e3%82%84%e7%b7%91%e8%8c%b6%e3%81%8c%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e7%a9%b4/ar-BB18Khae?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/857.html#c3

[リバイバル3] 1日に3杯以上コーヒーを飲むと失明する 中川隆
15. 中川隆[-11476] koaQ7Jey 2020年9月06日 22:03:30 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[26]
カフェイン「知らずに過剰摂取」で中毒も、紅茶や緑茶が落とし穴
ますだポム子 2020/09/06
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%82%ab%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%a4%e3%83%b3-%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9a%e3%81%ab%e9%81%8e%e5%89%b0%e6%91%82%e5%8f%96-%e3%81%a7%e4%b8%ad%e6%af%92%e3%82%82-%e7%b4%85%e8%8c%b6%e3%82%84%e7%b7%91%e8%8c%b6%e3%81%8c%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e7%a9%b4/ar-BB18Khae?ocid=ientp

われわれの生活に深く浸透している「カフェイン」。「朝はコーヒーを飲まないと始まらない」という人も多いだろうし、リフレッシュや眠気覚まし、集中力アップなどの効果を期待して、エナジードリンクや栄養ドリンクを手に取る人も多いことだろう。しかし近年、カフェインの摂りすぎが健康を害する原因になるとして、危険視されている。(清談社 ますだポム子)

慢性的な片頭痛や耳鳴りは

カフェインが原因かも?

 近年、カフェインの過剰摂取が原因で起きる「カフェイン中毒」が話題だ。カフェイン中毒者の救急搬送や死亡例は、国内外問わず報告されている。重症化すれば、精神錯乱や幻覚、パニック発作、不整脈、消化器症状、循環器症状など心身に影響を及ぼし、最悪の場合、命まで落としかねない。

 こうした病状はかなり深刻な中毒状態に陥っている場合に起こるもの。常日頃カフェイン入りの飲料を愛飲していても、重度のトラブルに見舞われたことがなければ、さして注意する必要はないと思いがちだが、実は油断はできないのだという。


「カフェイン中毒とまではいかなくても、知らず知らずのうちに軽度の依存状態になっている人は多くいます。実は、すでに症状が出ているという人も少なくないのです」

 そう話すのは、豊田こころのクリニックの院長を務める、精神科医の大和行男氏だ。大和氏は、カフェインが引き起こしている可能性がある病状を、こう説明する。

「カフェインは血管を収縮する作用があるので、過剰に摂取すると、片頭痛や耳鳴りを引き起こします。胃酸の分泌を促す作用もあるので、胃痛がするという人もいますね。また、動悸や過呼吸、ふるえといった交感神経刺激症状が出ることもあります」

 慢性的な片頭痛や耳鳴りといった症状に悩まされている人は、実はカフェインの過剰摂取が原因かもしれないのだ。だが、現状ではこうした症状を病院で診てもらっても「ストレス性の症状」で片付けられてしまう場合がほとんどだという。

「症状によって内科や耳鼻科にかかると思いますが、アルコールやタバコの摂取量を聞かれることはあっても、カフェインの摂取量を気にする先生はあまり多くありません。そのため、検査しても原因が判然とせず、『恐らくストレスが原因』と診断され、心療内科や精神科を紹介されます。『精神科で初めて、カフェインの摂取量を指摘された』という患者さんもいるのです。それくらい、カフェインによる体調不良は見過ごされやすく、重症化するまで本人も自覚が持てないケースが多いのです」

中高生もカフェイン依存に…

紅茶や緑茶も要注意

 軽度の依存症状が出ていても、まさかそれがカフェインによって引き起こされているとは認識しづらいもの。こうして無自覚のうちに重症化してしまうというわけだ。なぜカフェイン依存はこれほどに症状の進行を自覚しづらいのだろうか。

「コーヒーやエナジードリンク、栄養ドリンクに多くのカフェインが含まれていることは周知の事実でしょう。しかし、これら以外にも、紅茶や緑茶、烏龍茶などにもカフェインが多量に入っているのです。『お茶なら問題ないだろう』と勘違いし、カフェインを過剰に摂取する人も少なくありません」

 食事の度にお茶を飲み、仕事中にはコーヒーを常飲、夕方になって疲れが出たらエナジードリンクで気合を入れ、翌朝は栄養ドリンクでエネルギー補給……。こうして、知らぬ間に複数の飲料からカフェインを大量に摂取してしまうというわけだ。こうしたカフェイン依存のケースはビジネスパーソンに限らず、若者にも増えているという。

「特に多いのが、受験を終えた中高生です。親が『コーヒーだとカフェインが多いから』と、受験勉強の差し入れに紅茶や緑茶を与えることが多く、注意せずに毎晩飲み続け、受験を終えた頃にはすっかり依存してしまっているというお子さんはとても多いですね」

 また、カフェインが持つ依存性の高さも、依存者を増やす理由の1つだ。

「カフェインは依存性薬物と同様に、身体依存、精神依存の両方をもたらすほど強い依存性を持っています。精神依存は、とにかくその薬物が欲しくなる渇望感が生じること。身体依存は、身体に耐性がついて効き目が悪くなり、どんどん摂取量が増えていくことです。心身が依存すると、少量では満足できず、大量のカフェインが欲しくてたまらなくなります」

 カフェインはこれほどの依存性を持ちながら、アルコールやタバコのように購入に際しての年齢制限もなく、大麻や覚せい剤のように法で取り締まられているわけでもない。コンビニや自動販売機で手に入るアクセシビリティーの良さも、依存者の増加を後押ししている。

「カフェイン依存の人は、カフェインが効いている間は元気に働けますが、切れたときの反動が恐ろしく大きい。やる気の前借りをしているようなものですから、切れた後に負債がドッとやってくるのです」

 そして、疲れている身体を無理に動かそうと再びカフェインを摂り、切れたら反動で疲労がやってきて、そこにむち打つようにまたカフェインを摂る……。こうした悪循環から抜け出せず、カフェインに依存してしまうわけだ。

カフェイン中毒予防のためには

少しずつ減量していくべし

 とはいえ、適量のカフェインが眠気覚ましや集中力アップといった効果を発揮するのは事実。欧州食品安全機関が2015年に発表した「カフェインの安全性に関する科学的意見書」によると、体重60kgの成人が1日に摂取して健康を害さないカフェイン量は、342mgといわれている。玉露のカフェイン含有量は100mlあたり約160mg。同量のコーヒーには約60mg入っているというから、1日のうちに玉露とコーヒーを2杯ずつ飲めば、それだけで安全量オーバーとなるのだ。

 しかし大和氏は、「数値はあくまでも目安であり、体質によっては安全量以下でも危険な場合もあります」と警鐘を鳴らす。

「アルコールのように、カフェインも効きが強い人と弱い人がいます。個人差があるため、『体重が何kgの人なら、1日何mgまでカフェインを摂っても大丈夫』という数値は、すべての人に適用できるわけではありません。中には少量のカフェインで救急搬送されるくらい、カフェインに敏感に反応してしまう人もいるので、『安全量を守れば絶対安心』と過信することはリスキーです」

 体質のほか、年齢や、数時間以内に摂取したカフェインの体内残留量など、さまざまな要素によっても効き方は変化するという。安全量以下しか摂取していなくても、体調に異変を感じた場合は、摂取を控えるべきなのだ。

「カフェインはいわば山椒のようなもの。少量でも大きな力を発揮しますから、それこそ調味料のように少しだけ摂取するべきなのです。山椒を主食として食べれば、健康を害することは想像がつきますよね。カフェインも同様です。適量を守れば、カフェインを毒ではなく薬として摂取することができます」

 カフェイン中毒にならないためには、少量のカフェインとうまく付き合っていくことがベストだ。しかし、すでにカフェイン摂取が日常化している人は耐性がついてしまい、少量では効き目を感じにくくなっている。そして、こうした状態の人が急にカフェインを一切摂らなくなると、かえって危険なのだという。

「カフェイン依存の人が急にカフェインを全て断ってしまうと、『離脱症状』に襲われます。頭痛、著しい疲労感または眠気、抑うつ気分、集中困難などがその症状です。ですから、いきなりカフェインの摂取量をゼロにするのではなく、少しずつ減らしていくことで身体の耐性を弱めていくべきです。量を減らすことが難しい場合は、デカフェ飲料などに切り替えることもおすすめです」

 また、自分ではどうしてもカフェイン摂取量を減らせないという人は、医師に相談して減量に取り組むという手もある。

「粉末状のカフェインを処方し、『1日の規定量はこれだけ』と、薬のように管理するケースがあります。そうして、少量でも効果が感じられるように身体の依存度を下げていくのです」

 今は、ペットボトル飲料やインスタント形式はもちろんのこと、コンビニ店内で淹れるタイプのコーヒーにも、デカフェやノンカフェインのコーヒーが用意されている。もし、頻繁にカフェインを摂取していて、慢性的な頭痛などの体調不良を感じるようであれば、中毒になる前触れかもしれない。自分に合った方法でカフェイン摂取量を減らし、良い効果だけを受けられるようにしてほしい。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%82%ab%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%a4%e3%83%b3-%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9a%e3%81%ab%e9%81%8e%e5%89%b0%e6%91%82%e5%8f%96-%e3%81%a7%e4%b8%ad%e6%af%92%e3%82%82-%e7%b4%85%e8%8c%b6%e3%82%84%e7%b7%91%e8%8c%b6%e3%81%8c%e8%90%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e7%a9%b4/ar-BB18Khae?ocid=ientp
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