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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
65. 中川隆[-11473] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:40:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[522]

永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪 │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=287
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c65
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
66. 中川隆[-11472] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[523]

重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのはエシュロンから情報を得た米国だった


米国の同盟国・友好国に対する盗聴問題は古くからフランスなど欧州諸国から指摘されていた。

盗聴を担っているのは、「エシュロン」と呼ばれる傍受システムで、米国の国家安全保障局が主体的に運営している。

参加国はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどアングロサンソン系のイギリス連邦に所属する国々だと欧州連合などが指摘しているが、米国連邦政府自身が認めたことはない。

ドイツを初めとする欧州諸国や韓国が強く反発しているのに対して、日本の菅官房長官は

「日本が盗聴の対象になったか、米国に確認する予定はない」

と極めて自制的な態度で、どこか他人事のようだ。

エシュロンの施設が三沢基地にあることは公然の秘密だし、米国が日本国内の通信を傍受していることもよく知られている。


北朝鮮の最高指導者の長男である金正男氏の来日や日本赤軍最高幹部だった重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのもエシュロンから情報を得た米国だったという。

これらは日本が施設を提供している見返りだという確度の高い噂がある。


また、日本が米国の諜報に頼っているだけではなく、自衛隊が中国やロシア、北朝鮮の通信を傍受してエシュロン運営に協力していると考えられている。

それどころか、アメリカ政府がイラク戦争での多国籍軍参加の見返りにエシュロン参加を許可したという一部週刊誌の報道がある。
だが、その真偽は不明なままである。
http://64152966.blog.fc2.com/blog-date-201312.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c66

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
67. 中川隆[-11471] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:55:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[524]

『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる


日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c67

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
68. 中川隆[-11470] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:57:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[525]

日本の街宣右翼=朝鮮労働党日本支部だったんです。 2011/05/22


初心者の方には難しいと思いますが、日本には似非右翼と言われる下品な連中がいます。北朝鮮とつながった極左、部落極左がその実態です。棺桶左翼内閣とも水面下で提携し、311テロを実行する目的で、小沢一郎さんの首相就任を不正手段で阻止しました。

朝鮮労働党がよど号グループに指示した「日本国内の右翼民族派」結成工作のその後
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_40.html

北朝鮮右翼の起源
http://rkblog.html.xdomain.jp/200910/article_14.html

似非右翼暴力団の頭目が、実は、左翼過激派の偽装転向者だった。」
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_21.html

極左集団「日共左派・毛沢東派」元幹部が小沢さんを検察審査会にチクッた。
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_35.html

北朝鮮右翼が中国を攻撃するもう一つの理由
http://rkblog.html.xdomain.jp/201006/article_19.html

騙されないでください。「右翼」は看板だけです。黒幕は311テロリストと北朝鮮です。


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c68

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
69. 中川隆[-11469] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:14:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[526]

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c69

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
70. 中川隆[-11468] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:34:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[527]

赤軍派関係の話を総合すると、どうしても馬渕睦夫の

世界共産革命 = ユダヤ・グローバリズム = deep state が仕組んだ共産化運動

が正しい様な気がしてきますね:

馬渕睦夫
ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

▲△▽▼

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656

▲△▽▼


アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

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日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
71. 中川隆[-11467] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:43:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[528]

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。


2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c71

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
72. 中川隆[-11466] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[529]

2009年04月03日 池田信夫 blog 実録・連合赤軍

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が、日本映画批評家大賞の作品賞を受賞した。若松さんには昔、仕事でちょっとお世話になったので、まずはおめでとう。

しかし映画の出来は、残念ながらそれほどのものとはいいがたい。若松さんの連合赤軍への「思い」が過剰で、彼らを客観的に突き放して見ていない。特に最初の学生運動の経緯を資料フィルムで追う部分は、説明的で冗漫だ。殺し合いのシーンの演出も説明的でアップが多く、テレビのホームドラマみたいだ(ビデオ撮影というせいもあるが)。

最近の若者が見ると、こんな凄惨な殺し合いが行なわれたという事実に驚くようだが、私が大学に入ったのはこの事件の翌年で、東大駒場では2年間に5人が内ゲバで殺された。そのうち4人が私と同じサークルだったので、この映画の世界は他人事ではない。なぜそういうことが起こったのかもよくわかる。それはこの映画で美化されているような崇高な理想ではなく、ただのカルトだったのだ。

殺された友人のうち2人は誤爆だったが、2人は革マルの活動家だった。彼らの共通点は、地方の高校から出てきて、大学に友人がいなかったことだ(灘や開成の連中は、この種の党派には入らない)。2人とも党派にリクルートされ、「地下」に潜って大学へ出てこなくなった。たまに出てくると黒田寛一や梯明秀などを口まねした呪文のような話をするようになり、他の党派を「殲滅」することが最大の闘いだと主張した。そのくせ自分が殲滅されることは警戒しておらず、2人とも生協の前で演説しているところを白昼、襲われて殺された。

1960年代に世界的に学生運動が盛り上がったのは、ベトナム反戦運動がきっかけだった。それが先鋭化した末に衰退したのはどこの国も同じだが、こういう近親憎悪が激化したのは日本だけだ。私の印象では、その原因はイデオロギー的な党派性というより、自分たちのムラを守る意識だったと思う。だから党派が細分化されて小さくなればなるほど憎悪が激しくなり、内ゲバは激化した。

こうした「日本的」な中間集団の性格は、今も変わらない。都市化して個人がバラバラになると、人々は自分の所属すべき集団を求めて集まる。それが学生運動が流行したころは極左の党派であり、その後は原理であり、またオウムだったというだけだ。創価学会や共産党も同じようなもので、さらにいえば会社も中間集団だ。この意味で団塊世代は、学生運動というカルトが挫折したあと、日本株式会社という巨大なカルトに拠点を移しただけともいえる。

しかし今、日本の会社はほとんど連合赤軍状態だ。浅間山荘のような袋小路に入り込んでにっちもさっちも行かないのに、誰も軌道修正しようと言い出せない。連合赤軍からは逃亡できたが、沈没する日本からは誰も逃亡できない。このまま日本経済は、団塊世代とともに玉砕するのだろうか。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301239.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c72

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
73. 中川隆[-11465] koaQ7Jey 2019年3月13日 22:09:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[530]


「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月

 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
http://zilx2g.net/index.php?%A1%D6%CF%A2%B9%E7%C0%D6%B7%B3%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%B0%C7
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c73

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
74. 中川隆[-11464] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:05:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[531]

2011-02-27 連合赤軍って何?


実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。

赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。

革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。

赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c74

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
75. 中川隆[-11463] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[532]

2011-03-04
連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか
http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1


このメモでは、連合赤軍事件最大の悲劇、いや、日本の「学生運動」「社会運動」中最大の悲劇である、連合赤軍が「同志」12人をリンチ殺害した事件について、小熊英二さんの大著「1968」をもとに整理します。


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産 – 2009/7/1
小熊 英二 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4788511649/gardenmemo-22/


連合赤軍はどのように誕生したのか、また「同志」へのリンチはどのようにして進行していったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。

連合赤軍の母体−「一緒になってはいけない二つの組織」


連合赤軍は、そもそも一緒になりそうにない二つの過激派「革命左派」(ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループ)と「赤軍派」(1969年9月結成)が合同してできた組織です。


•両者の共通点: ◦深く考えずに行動する
◦暴力を用いた活動を行う
◦指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない
◦逮捕者等が多く組織が崩壊に瀕している

•相違点: ◦思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)
◦女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


これって、「一緒になってはいけない組織」そのものだと思うのですが・・・なぜそんな両者が一緒になってしまったのでしょうか。


連合赤軍誕生の経緯

簡単に言えば、両者が壊滅の危機に瀕していた頃、革命左派創立メンバーの一人・川島豪の指示があり、仕方なく一緒になったのです。

経緯の詳細は以下の通りです。

革命左派は、逮捕された川島豪を奪還するため民間の鉄砲店を強盗し銃を奪います。彼らが信奉する毛沢東が「人民のものは針一本、糸一筋とってはならない」と言っているのにです(毛沢東が実際にどんな人物だったかは別として。※このメモの末尾で関連メモをご紹介しています)。これで革命左派は世間に知られるようになりました。

赤軍派もこれに影響を受けて「M(マフィア)作戦」を開始します。要は金融機関強盗です。

両者、悪いことは真似するんですよね・・・彼らはこのようにして武器やお金を集めました。

一方警察は、こういった過激派摘発のためにアパートや旅館25万か所を4万5000人の警官でしらみつぶしに捜索するようになり、結果彼らからは多くの逮捕者が出ました。

対する革命左派の永田らは冬の札幌などで息を殺し続ける生活に疲弊していき、都市部から出て山にこもるようになります。これがアジト・山岳ベースの発端です(なお、この山岳ベースができた背景には、永田が批判者を都市にばらけさせずに集めておきたがっていたからではないかという元「同志」の回想もあります。これが、後の悲劇の遠因になります。)。

赤軍派も同様に組織が壊滅状態に陥ります。

そんな中、川島が獄中から赤軍派との合同を示唆します。そして71年夏に連合赤軍が誕生。

このように、つぶれかけの集団が仕方なく一緒になったのです。しかし、この相容れないはずの両者が一緒になることで、悲劇は進行していきます。

処刑開始のきっかけは「大言壮語」と「生真面目」

連合赤軍は山岳ベースにこもり続けます。そんな中、革命左派の山岳ベースからは脱走者が出ます。

これに対し赤軍派の森は「処刑すべきではないか」と発言。すると革命左派は脱走者2名を殺害します(印旛沼事件)。

それを聞いた森は「頭がおかしくなったんじゃないか」と言ったそうです。

え?自分が「処刑すべき」と言ったのでは??

赤軍派の森が「言うだけ言ってみた」ら、革命左派が「決めたことは実行すべき!」と後先考えずに殺害に走る・・・もともと「大言壮語だが実行力のない」赤軍派と「生真面目」な革命左派の相違が生んだ悲劇と言えます。

また森は、この事件から革命左派への政治的な負い目を感じ、革命左派より優位に立つには赤軍派による殲滅戦しかない、と考えるようになります。

両者は悪影響を煽りあうようになっていくのです。

この印旛沼事件をきっかけに、リンチ事件へまっすぐ伸びるレールのような原理が構築されてしまいます。

それは、「自分が逮捕される危険を逃れるため逃亡者を処刑し、自分の地位を追い落とす危険のある者を共犯者にして犯行を封じる」という原理です。

もはや、曲がりなりにも「武装闘争で革命を起こし世の中をよくする」という建前すらも実質的にはなくなり、エネルギーは上層部(森と永田)の保身のために燃焼されるようになっていくのです。

それがこの山岳ベースでの「同志」12名のリンチ殺害です(ちなみに私はこのリンチもあさま山荘で行われたと思っていました・・・)。

ところでその山岳ベースは、どんな状況だったのでしょうか。


山岳ベースの環境もリンチ発生を後押しした

先に山岳生活を始めていた永田が、まだ都市にいた森を訪ねたとき森が肉を食べているのを見てショックを受けている記述があります。肉を食べているだけでショックを受ける生活環境だったというわけです。

その後、ベースは警察に見つからないために次々変わっていきますが、例えばリンチが多発した榛名ベースは次のようなすさまじい環境でした。


•居住空間は横4メートルに縦2.5メートル

•ここに革命左派約20名と赤軍派約10名が居住

•そして夜は氷点下15度

•トイレは満足に機能しない

•風呂はまれなので体臭がひどい(買い出しに行った際体臭が原因で通報され逮捕されたメンバーがいるくらい)

•これに重労働(薪割り等)の疲労

•逮捕の恐怖


以上をあわせて考えると、本書の著者小熊さん曰く「判断能力も正常でなくなるのは無理もない。事件の描写はこれを念頭に読む必要がある。」


榛名ベースがあった群馬県榛名山 地図
https://www.google.com/maps?ll=36.470667,138.847954&z=9&t=h&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&q=%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1+%E3%80%92370-3348+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%A6%9B%E5%90%8D%E6%B9%96%E7%94%BA

山岳ベースでの「同志」リンチ殺害

71年12月下旬〜72年2月、ここで何が起こったのか。

森と永田が「同志」に言いがかりをつけてリンチしていくのです。

目的は「共産主義化(意味は誰にもわからなかったとの証言あり)」。

詳細に書いても気分が悪くなるだけなので端的にメモします(小熊さんも同じ理由でこの箇所を簡潔に書いたとのことですが、その分実態が明確にあぶりだされている感がありました)。


■リンチされ始めたきっかけ

•夕食会で「私の中にブルジョア思想が入ってくること闘わねばならない」と告白→森「入ってくるというのはこの闘いを放棄したもの」→リンチ

•「交番襲撃のさい日和った(学生運動中、権力に対し怖じ気づいた)」と告白→「日和見主義克服」→リンチ

•「ルンペン的」→リンチ

•「すっきりした、という発言がまじめではない」→リンチ

•「女学生的」→リンチ

•「主婦的」→リンチ

•リンチ殺害の輪の外でうろうろしていた→リンチ

•運転の不手際を叱咤され「革命のお手伝いをしに来ただけだ」と反論→リンチ

•カンパ集めに失敗→リンチ


■リンチの内容

•殴打(主に全員で)

•自分自身による殴打強要

•緊縛し氷点下の屋外に放置→飢えと寒さで死亡

•アイスピックで心臓を刺したが死ななかったので絞殺

■被害者のプロフィール(一部)

•赤軍派の人数が足りないので数合わせに連れてこられたもともと忠誠心のない人物

•メンバーでなくシンパで、妻子を連れてピクニック気分で来ていた人物(妻子は無事)

•妊娠8ヶ月の女性(金子みちよ。殴打された際も「何をするのよ!」と叫ぶ、リンチ中抗議したのは彼女ただ一人、リンチに10日間も耐えたのも彼女だけ。本事件を裁いた石丸裁判長が金子の友人に送った手紙には「36年間の裁判官生活で・・・金子さんはもっとも感慨深い心にしみこむ『被害者』でした」と記述)

■リンチ死を「敗北死」と呼ぶことの「効果」

有名な話ですが、これらのリンチは「総括」と呼ばれています。「共産主義化」を達成するための反省・自己批判の一環らしいのですが、実態は完全にリンチですよね。

そして、このリンチによる死亡については、森が「敗北死」という名前をつけました。死亡した人間は、総括しきれずに敗北して勝手に死んだ、という理屈です。行為の実態は単なるリンチでも、このように特別な名称や理屈付けを行うことで、集団の感覚麻痺が一層進んでしまったものと思われます。

実際、永田は取り調べで「なぜ殺したのか」と訊かれて初めて自分は人を殺していたのだと自覚できた、と語っています。


■川島豪

なお、革命左派メンバー天野勇司によると、後日革命左派創立者の川島豪にこのリンチ事件について問うと「ゲリラノ鉄則ドオリニシタノデハ」との電報が返ってきただけで、まったく反省していなかったようです。そしてこの事件の全責任を永田に転嫁していたといいます。

この人物、森や永田ほど言及されませんが、個人的には、この悲劇に及ぼしている彼の影響はかなり大きいと見ています。生真面目な労働運動団体だった革命左派が暴力を使い始めたのも、赤軍派との合同を促したのも彼ですからね。ちなみに1990年に死去しています。


■個人的な感想

私はこのリンチ事件を初めて耳にしたときは「どうせ狂信的政治思想の持ち主が同じように狂信的な人間を殺したんだろう。殺された人は気の毒だけど自業自得な面もあるんじゃないか」などという感想を持ちましたが、今回この本を読んで自業自得と切り捨てるのは相当不適切で思考停止だと強く感じるようになりました。そして反省。

リンチ殺害が行われた理由

なぜこんなことが起こったのか。私もそれが大変気になっていました。


■これまで論じられた理由

著者小熊さんによれば、関連書籍を渉猟し整理した結果、これまで論じられた理由は主に4つに分類されるそうです。


•外部の敵と戦えなかったので内に向かった

•異なる両派がどう新路線を作ろうとするかを議論しようとすると森は個々人の共産主義化(リンチ理由)に問題をそらした(永田の回想による)

•高校時代に剣道部主将だった森の体育会系気質

•永田が気に入らない人間を総括し森がそれを合理化

■小熊英二さんの挙げた理由

しかし、小熊さんは、以上の理由は潤滑油程度のものでしかなく、本質は「指導部が逃亡と反抗の恐れを抱いたのが『総括』の原動力だった」と指摘します。理由は次の通りです。


•リンチは反抗か逃亡の怖れがあった人物に集中

•メンバー全員に被総括者を殴打させたのも「全員共犯にし脱走させなくする」ため(傍証多数)

•買い出しの場合、人選が慎重に行われた。上層部がいかに逃亡を恐れていたかの例と言える。 ◦まず関係の弱い者同士で行かせる(相談して脱走しないため)

◦また、ベース内に恋人や身内がいれば必ずどちらかをベースに残す(人質)。


とはいえ、上層部はこれを計算していたわけではなく、当初は勢いでやっていたがそうした計算が半ば無意識的に入って固定化したというのが実態ではないか・・・これが小熊さんの考察です。

私はこれを読んで、え?それって新しい説なの?むしろ、それ以外考えにくいんじゃないの?と思いました。それくらい、様々な資料で描かれている状況と「指導部の保身」のつながりが明確だったからです。


なぜこんなシンプルな理由が今まで出てこなかったのでしょうか。小熊さんはそのわけをこうではないかと推測しています。


•実は連合赤軍関係者の回想記などが出揃ったのはここ数年で(永田の回想記はずっと前から出ていたが、やはり記憶の改変があるし、あくまで永田視点の記述であるため完全に依拠できるものではない)、今までは分析しようにも材料が少なかった

•世の中、特に日本の社会運動に大きな影響を与えたこの事件の理由が「保身」のような矮小なものであってほしくないという思いも影響していたのでは


なるほど。時間がたってはじめてわかったこともあるし、時間がたってやっと客観的に分析できるようになった、ということなのですね。


■よしてるの感想−ポル・ポトとの類似

ちなみに今回、リンチの経緯を知って私が真っ先に連想したのはカンボジアのポル・ポトのやり方です。


井上 恭介・藤下 超「なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢」
http://www.yoshiteru.net/entry/20060209/p1


彼らも、規模は異なるものの(170万人を処刑したという説*1もあります)、以下の点が連合赤軍に類似しているように思います。この点からも、私にとっては小熊さんの「連合赤軍の同志リンチ理由は保身」説が納得しやすくなっています。


•リンチは共産主義の名の下行われたがその意味の説明はなかった

•言いがかりをつけて人をどんどん殺す(眼鏡をかけている→知識人→処刑、など)

•攻撃されることを極度に恐れ、疑心暗鬼になっていた(政権をとるとすぐ首都にいた200万人を全員地方に移住させたが、その理由のひとつは「そうしないと暴動が起こって政権を覆されるから」など)。


1つ目の共通点について。ポル・ポトも革命革命と連呼していましたがその意味を人民に説明することはなかったらしいです。

2つ目と3つ目の共通点からは、小熊さんのいう「保身」というキーワードが浮かび上がってきます。

人間、保身に走ると、我が身を守るためには何でも −同志をリンチで殺害したり国民を100万人以上処刑したり− してしまう生き物なのかもしれません。逆に言うと、人間、居場所があって安心できることがとても大切な生き物、とも言えるのでしょう。

まとめ

連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか?


•そもそも、連合赤軍の母体となった2グループは仲間割れをし互いに暴力をふるう背景があった(「深く考えず行動する」「暴力を用いる」点が共通している反面、思想面では相容れなかった)

•そんな「一緒になってはいけない組織」を革命左派の創立者・川島豪が一緒になるよう指示した

•彼らのアジト「山岳ベース」のコンディションが劣悪なため、判断能力が正常でなくなっていった

•リンチによる死亡を「敗北死」と称することで「死亡した人間は敗北して勝手に死んだ」ということになり、集団の感覚麻痺が一層進んでしまった

•そして最も根本的な理由は、連合赤軍指導部が他のメンバーの逃亡と反抗の恐れを抱いたため


(参考)この事件をモデルにしたまんが

上記の小熊英二さんの本は非常に興味深いですが分厚く値段もかなりします。この事件のことをもう少し手っ取り早く知りたい方には、連合赤軍をモデルにしたまんが「レッド」をおすすめします。

モデルといっても組織と人物の名前が変えてあるだけで、非常によく調べてありほぼ実録といっていい内容です。

たとえば、このメモに登場した人物と作中の人物はこんなふうに対応しています。

•森恒夫 → 北(大阪弁をしゃべっているリーダー)
•永田洋子 → 赤城(一番髪が短い女性)
•金子みちよ → 宮浦

また、混乱しがちな多数の登場人物に番号をふって判別をつきやすくしてある点も理解の助けになります。

以下の8巻では、榛名ベースで最初の犠牲者が出るところまでが描かれています。グロテスクな画は(まだ)出てきません。空虚な理論のもとに同志を殴り続ける様子は読んでいて精神がこたえるものの、この事件の現場イメージを理解するには非常に適した作品といえると思います。なお、Kindle版は単行本の半値近くで入手しやすくなっています。

レッド 1969〜1972(8) (イブニングコミックス)
山本 直樹 講談社 2014年02月
https://www.amazon.co.jp/dp/B00IXC9MHO?tag=maftracking222142-22&linkCode=ure&creative=6339


http://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c75

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
76. 中川隆[-11462] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:20:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[533]

2011-03-10
連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か
http://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1

1回目のメモでは「連合赤軍とはどういう集団だったのか」を、2回目のメモでは「リンチはどのようにして進行し、『同志』12名の殺害に至ったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。」についてメモしてみました。今回は、最後に、この事件をどう受け止めるのが適切なのかを考えてみます。

これまでの受け止められ方

1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。

その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1。

当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はやらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのはやり過ぎかもしれませんが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思います。少なくとも政府はそれを望んでいたようです。

政府による「演出」

まず、あさま山荘事件について。警察庁長官後藤田正晴は犯人を射殺し「殉教者」とすることは避け、必ず生け捕りにするよう厳命。そして、機動隊の突入は2月28日月曜日に行われましたが、「夕刊の出る平日なら新聞が2回この事件を報道し事件がより大きくなる」との判断があったそうです。そして長官の命令通り犯人全員を生きたまま逮捕した後、今度はリンチ事件が明るみに出ると、いっそうの「演出」が披露されます。

警察は被害者の埋められた死体を発見後また埋め戻し、それからマスコミを呼び「公開捜査」の名の下「死体発見」を見せるようとりはからいます。当時のマスコミもなぜ必ず死体が出てくるのか不思議に思ったそうですが、一方でこれほどの「ネタ」もないわけで、報道は過熱していきます。しかも警察は犠牲者全員を一気に「発見」するのではなく、何度かに分けてマスコミに公開。警察側の言い分では検視する医師の数が不足していたためとのことですが、ショッキングな「死体発見」を複数回報道させるための「演出」と捉えたほうが自然に思えます。これらの「演出」が日本政府と警察の「政治運動にネガティブイメージを植え付けさせる」意図のもと行われたとしたら、これは大成功だったと言えるでしょう。

事件をどう受け止めていくのが適切か

著者小熊英二さんは、多くの文献を例に挙げ、この事件はこれまで「党組織の問題」「理想・正義」の限界などのような普遍的なテーマで論じられてきたことを示しています。しかし、これまでの検証結果から判断すると、この事件の本質は「幹部の保身という矮小な理由」に集約されます。このギャップの理由の一つとして、小熊さんは当時この事件にショックを受けた人々が「あれほど自分たちに衝撃を受けた事件は普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、という先入観があったのでは」と指摘しています。

このような同時代人の「せめてこうであってほしい」という先入観と政府の巧みな演出により、この事件はいびつなかたちで捉えられてきたようです。それは平成の大学生にも一定の影響を与えていました。そんな普通でないバイアスがかかったこの事件、いったいどう受け止めていくのが適切なのでしょうか。

小熊さんは、この事件を記述した章を次の言葉でまとめています。

感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである。


私もまったく同感です。この事件は、その残虐性のみならず、その後の社会運動を停滞させたという点でも非常に大きなマイナスの影響を日本社会に与えてきました。しかし今世紀に入ってから、多くの当時の関係者が証言を始めるようになったことでこれまでメモしてきたような「この事件の本質」が明らかになってきました。この事件のもたらした呪縛から解き放たれるには十分すぎる時間が過ぎました。「社会運動に熱心にかかわるとろくなことにならない」というイメージは完全に捨て去るべきときに来ているのではないかと思います。

最後に、私がこの事件から学んだ、身近に起こりうること2点についてもメモしておきます。ひとつは「身体的に不快な環境は精神を病ませる」ということ。連合赤軍メンバーの証言から、彼らが食事・住環境において悲惨な状態にいたことがどれほど人間性を抑圧し思想行動に影響を与えたかをつぶさに感じました。出発点がいくら精神的に高尚なものであっても、厳寒の狭い山小屋に押し込められ貧しい食事と不潔なトイレが続く毎日を送っていると道も踏み外しやすくなるということを痛感しました。

もうひとつは、組織がおかしな方向に進んでいっても、メンバーがそれを察知して制御できる段階は限られており、それを過ぎると組織メンバーは制御するより逃げ出すようになり、それが崩壊を加速させるということ。連合赤軍も、もとの組織のひとつは革命左派、さらにその前身は労働運動を生真面目にやる組織「警鐘」だったわけです。永田洋子は、共立薬科大で学ぶうち薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいと思いこの「警鐘」(正確にはその前身となる組織)に入ったものの、最終的には12名リンチ殺害の首謀者に変わり果てている。このような組織の変容に彼女がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、変容の段階を経るにつれほとんどのメンバーが組織から抜け出ています。転落していく組織は制御されるより見捨てられ、それにより転落に拍車がかかる。誰も永田(や森)の変容と暴走を止められなくなる。そんな悲劇を連合赤軍のたどった経緯から感じ取った次第です。

(参考)指導者たちのその後

リンチを主導した森恒夫は1年たたないうちに拘置所で自殺。森と共に事件を進行させた永田洋子は先月(2011年2月)確定した死刑が執行されることなく脳腫瘍で死亡。この事件の遠因を作り出した(と私は思います)革命左派元議長の川島豪(リンチ事件には直接関与していない)は1979年に出獄、1990年に死亡。


http://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c76

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
77. 中川隆[-11461] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:26:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[534]

このブログが赤軍事件の細部まで一番詳細に記録しています:


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entrylist.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c77

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
78. 中川隆[-11460] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:32:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[535]


1970年5月10日 重信房子逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html


■1970年5月10日 赤軍派・女闘士を逮捕(朝日)


 重信逮捕といえば2000年11月の大阪府高槻市での逮捕を思い浮かべるが、この記事は明治大学時代(24歳)のこと。遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)とホステスのアルバイトをやっていた頃と思われる。

よど号ハイジャック事件以来、赤軍派に対する捜査はいっそう厳しくなり、残った幹部が次々と逮捕された。そんな状況の中、まだ無名だった重信房子が逮捕された。この時代の重信については「婦人公論」に連載された「時代を創る女たち」(島崎今日子)に詳しい。


 女性活動家には男と同等に闘おうとジグザグデモの前に立つタイプと、「私は女よ、女でなにが悪い」と開き直るタイプがいた。重信は後者で「女を武器化している」とと批判されても「ブントのため」と平気だった。

 昔の週刊誌には、重信のオルグ率は98%とある。優しく笑いながら「ねえ、一緒にデモ行かない?世界が変わるわよ」。重信の「微笑外交」、またの名は「ポン引きオルグ」で思想研はみるみる膨れ上がった。そこには遠山のほかによど号ハイジャックの田中義三がいた。

 重信が目に見えて変わったのは赤軍派に入ってからだと、明大の仲間たちは異口同音に口にする。教師になるつもりだったが、高原(遠山美枝子の夫)にさそわれるまま赤軍派に加わった重信は、激しい内ゲバ・リンチの真っ最中に居合わせ、人生を変えた。「ルビコン川を渡った日です。党派の理論を知らないまま当事者になり、やるしかないとアクセルを踏みました」。

 赤軍派は男社会で、軍隊化はジェンダーの差異を明確にする。そんなとき田中美津がウーマン・リブのアジビラ「便所からの開放」を一晩で書き上げる。それに新左翼の女たちも激しく共振したが、しかし重信は「男を糾弾するより、主体的に世界を変えることに熱中していた」。

 すでに多くの逮捕者を出し、主たるメンバーは指名手配されていた。重信は神出鬼没で、運動資金を稼ぐために獄中手記を書き、テレビに出演した。彼女派赤軍は時代に公安条例違反等で3度逮捕されている。

(「婦人公論」2007年12月7日号「時代を創る女たち・重信房子 この空を飛べたら(2)」より抜粋)

 文中の「思想研」とは赤軍派の合法組織。獄中手記とは「週刊現代」1970年7月16日号「赤軍派"女隊長"初々の獄中記」のこと。サブタイトルが「日航機乗っ取り謀議の容疑で逮捕された明大生・重信房子の愛と闘争」となっている。


 赤軍派は、よど号ハイジャックで幹部が北朝鮮へ流出し、国内でも幹部逮捕が相次いだため闘争は完全に行き詰っていた。革命をあきらめるメンバーも多い中、重信は国外に活路を見出そうとしていた。そして彼女がテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の奥平剛士と出会うのは、この年の秋のことである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c78

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
79. 中川隆[-11459] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:34:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[536]

1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html


■1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ

 ちょうど赤軍派がM作戦(強盗)を開始したころ、森恒夫と折り合いの悪かった重信房子がレバノンへ旅立った。空港に見送りに行った遠山美枝子(後の山岳ベースで死亡)は、「ふーが先に死ぬのね」と涙を浮かべたが、重信に悲壮感はなかった。


 前の年に、友人に連れられて重信は京大バルチサンの奥平剛士にカンパを求めに行ったところ、奥平が語ったゲバラやパレスチナ問題にすっかり逆オルグされてしまった。そして、彼女のほうから奥平にパレスチナ行きを持ちかけたのだった。


 2月26日、まず奥平がレバノンへ旅立つ。2月28日、奥平と偽装結婚して「奥平房子」のパスポートを取得した重信が後を追った。レバノンのベイルートで合流した2人は、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)の庇護と支援を得ることに成功する。

 森恒夫は重信のレバノン行きを「国内で資金を集めろ」と引き止めたが、赤軍派をやめてでも行くと伝えると、「なら、赤軍派として行ってくれ」と指令が下った。森にとって重信は制御不能な存在だった。歴史に「もし」はないが、重信が日本にいたなら連合赤軍事件は起こらなかったと言う人、真っ先に粛清されたと言う人、2つの見方がある。


 森はアラブの重信にお金を送ったことで遠山美枝子に自己批判を求めている。重信は、逮捕後独房で、親友の遠山が総括の名の下で殺されていく過程をつぶさに読んだときの苦しい胸のうちを明かす。


「リーダーたるべき人が次々いなくなり、できもしないのに責任感で頑張ったのが私であり、また森さんでしょう。森さんの遠山さんへの恨みは私の分もあるという人がいます。私の、女でいいじゃないかという甘えと、ダメな男への軽蔑の流れが、遠山さんへの批判と死をもらたした気がしました・・・」


「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」

■1971年3月15日 赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か(毎日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-15 毎日ベイルートに重信潜入

 3月15日、毎日新聞に「赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か」の見出しが躍り、クウェートにその記事が流れた。これをきっかけに、重信と奥平の短い"新婚生活"は終わりを告げる。・・・PFLPは「これでは秘密が守れない」と、重信は合法組織である情報宣伝局アルハダフに配属され、奥平は希望して軍事訓練所に赴くことになる。・・・


 映画監督の若松孝二が、後に日本赤軍のスポークスマンになる足立正生に「パレスチナに行こう」と誘われ、ベイルートに足を向けたのは5月だった。・・・その秋、『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』のフィルムを積んだ真っ赤なバスの上映隊が日本全国を回り、若者の血を駆り立てた。その中には、テルアビブ空港襲撃でひとり生き残り、イスラエルに逮捕される岡本公三もいた。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)

■テルアビブ空港乱射事件への道


 奥平は京都パルチザンの仲間を呼び寄せる準備を始めていた。安田安之、山田修、檜森孝雄の3人がベイルートに到着、軍事訓練に入る。PFLPの指揮の下、テルアビブ空港を襲撃するリッダ作戦が動き出し、討議が繰り返された。だが、重信がこうした事実を知るのは逮捕後の2002年2月、檜森から「語っておかなければならないことがある」と差し入れられた手記を読んだときだ。重信は、奥平の下に仲間が結集しているのを知ってはいた。・・・だが、彼らが重信に軍事機密をもらすことはなかった。


 72年1月、山田が寒中水泳の訓練中、心臓麻痺で急死。奥平は、泣いて拒む檜森を強引に遺体と帰国させる。山田の死で日本人グループの存在が明るみに出ると、PFLPは作戦決行を決定。・・・間もなく、重信は奥平から「退路を断つ闘いに行く」と告げられる。重信は衝撃を受け、猛反対してPFLPに意見書を上げるが、決死作戦を願い出たのは奥平だった。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)


 1972年5月30日にテルアビブ空港を襲撃したのは、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名だった。岡本公三は京都パルチザンのメンバーではなかったが、帰国した檜森に誘われた。


 檜森にどのような言葉で誘われたのかは不明だが、岡本が日本を後にしたのは、アラブゲリラと共闘しようとしたのでも、テルアビブ空港襲撃に加わるためでもなかった。逮捕後の岡本のインタビューが残されている。


−日本を出るときから、こういう計画(テルアビブ空港襲撃)に参加するつもりだったのか。
「いや、日本を出るときは単純に兄に会える期待と、軍事訓練を受けるつもりしかなかった」
(兄はよど号事件の次兄・岡本武のこと)


−その一員にどうしてなったのか。
「自分でもなぜボクに白羽の矢がたったのかわからない。たぶん、兄のせいだろう」


−その兄に会えるからといってレバノンへつれてこられて兄に会えず、だまされたとは思わなかったか。
「奥平が、お兄さんに合わせられなくて申し訳ないと謝ったので納得した」


(「週刊文春 1972年7月24日号 「テルアビブで岡本公三と一問一答」)

 このような経緯からわかるように、テルアビブ空港襲撃は京都パルチザンメンバーが主体となって行った闘争であり、重信は関与していなかったのである。また、事件当時、「アラブ赤軍」なる組織も存在しなかった。 しかし、重信は「アラブ赤軍」としての声明を出し、後に改称した「日本赤軍」を「リッダ闘争を行った組織」と宣伝したのである。


 日本赤軍コマンドだった和光晴生は、2010年の著書「日本赤軍とはなんだったのか」の中で、この宣伝を「うそつきの始まり」と辛らつに批判している。


※日本では「テルアビブ空港」と報道されたが、テルアビブの「ロッド空港」のこと。アラブ側呼称は「リッダ空港」という。日本赤軍は「テルアビブ空港襲撃事件」のことを「リッダ闘争」と呼称している。


https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c79

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
80. 中川隆[-11458] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:55:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[537]

1972年3月14日 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)

 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。

自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c80

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
81. 中川隆[-11457] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:01:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[538]

1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。

「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。
取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」

というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。

____


1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)


■1970年3月6日 武器頼まれ銃砲店襲撃を計画(朝日)

 岩手県水沢署に猟銃や散弾を盗んだ疑いで逮捕された元自衛隊員(23)が4日夜「赤軍派の武器調達を頼まれていた」と自供、警視庁に逮捕されていた赤軍活動家(23)とともに、秋田市内の銃砲店を襲う計画を立てていたこともわかった。この実行寸前に大菩薩峠で赤軍派が一斉逮捕されたため、あきらめたという。

 調べによると、昨年10月ごろ、赤軍派幹部から武器調達のために8万円を受け取り上野を出発、手始めに海上自衛隊のころ知り合った医師宅から上下2連銃と散弾68発を盗んだ。


■1970年3月16日 赤軍派委員長を逮捕(朝日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-03-16 朝日 朝14 赤軍派・ 塩見議長逮捕


 塩見は田宮(後によど号)、小西(後によど号)、前田と討論をした後、前田と2人でタクシーで駒込駅へ向かったところを警官にとめられた。降りたとたん、逃亡をはかった。

 


 ところが、陸橋のところに派出所があったのが運のつきだった。そこに若い警官がいて、彼に差をつめられた。「止まれ!」なんて叫んでいるもんだから、近所の6,7人の小中学生が、泥棒か何かと間違えて、わあわあ騒ぎ一緒になって追いかけてくる。「オレは人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけれれるんだ」(笑い)・・・。警官はピストルまで抜いて追いかけてくる。追いつめられ、しゃあない、という感じで逮捕された。まあ、それから僕の「20年」というのが始まるわけです。

(「赤軍派始末記」)


 押収された塩見の手帳には「HJ」のメモ書きがあったが、警察はそれが「ハイジャック」を意味するとは気づかなかった。


 ちなみに 「ハイジャック(hijack)」 とは乗り物を占拠すること。日本では 「Hight Jack」 と誤解され(?)、航空機に対してのみ用いられ、他の乗り物の場合は、シージャックとかバスジャックという和製英語で表現される。


 このころ、内ゲバを敵前逃亡し活動をはなれていた森恒夫が赤軍派に復帰する。重信房子は独自の活動をしていたようだ。


 後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」 というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。


 大菩薩峠のあと、赤軍派は中央政治局員7人のうち、花園紀男、堂山道生、上野勝輝、八木健彦が逮捕され、作戦を練るのは、塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3人になっていた。政治局員の補充に塩見は森恒夫を推したが、田宮は 「あんな度胸のないやつはだめだ。ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」 と反対した。しかし塩見は 「あの男には理論がある。一平卒からやりなおさせよう」 と納得させた。12月に大阪からボストンバッグ1つで上京した森は一平卒から出直すことを承諾し、翌日からビラ配りに従事した。


 12月12日、京大全共闘議長にして赤軍国際部長の小俣昌道が、国際根拠地建設のためアメリカ、キューバに向け旅立った。アメリカではイリノイ大学の集会などで大みえをきり、極左集団に精力的に働きかけた。キューバではカストロ首相に面会しようとするが、相手にされるはずがなく、滞在期間がオーバーして200ペソの罰金をとられるありさまだった。


 1月16日、お茶の水の電通会館で再起のための政治集会「1・16赤軍派武装蜂起集会」を開き、「国際根拠地論」 を披露し、すでにキューバに1人送り込んだと発表した。この日は1500円払えば報道関係者も傍聴できたが、これは大菩薩峠の痛手からよみがえったことを印象付けるための演出だったと思われる。
(「連合赤軍・この人間失格」より要約)

 森恒夫は臆病者だといわれているが、そのエピソードは次のようなものだ。


 1965年11月11日、日韓条約批准デモで逮捕されたとき「おっちゃん、かんにん、おっちゃん、かんにん」と泣声であっさり自供した。

 1969年6月28日、内ゲバで森恒夫と藤本敏夫が監禁され、自己批判を迫られたとき、藤本は拒否したためリンチを受けひん死の重傷を負うが、森はあっさり自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と泣きわめいた。

 1969年7月2日、赤軍派は藤本リンチの報復のため敵陣に乗り込むが、まさに乗り込もうとする直前、敵前逃亡した。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。


 森が連合赤軍のリーダーになったとき、「もう2度と逃げない」 と心に誓い、それが総括をより過激にさせたと考えられている。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10361265024.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c81

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
82. 中川隆[-11456] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:10:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[539]

1971年12月  
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 森氏は遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。

森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲だった。
遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。
遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。

____


1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)


 永田と坂口が帰った後の赤軍派・新倉ベースの出来事を追いかけみる。このあと連合赤軍になるので、赤軍派単独としては最後の出来事になる。


 森は、進藤、遠山、行方の3人は、「連合赤軍メンバーとしての資格がない」 とし、新倉ベースの赤軍派メンバーを1軍と2軍に分けた。


(1軍)
森恒夫(理論家。過去、内ゲバから逃走したトラウマあり)
坂東国男(森の懐刀。酒もタバコも女もやらない硬派)
山田孝(理論家。塩見の秘書役で森より格上だが、一から出直すため森配下へ)

青砥幹夫(森の秘書。合法部との連絡役。革左女性との関係を批判される)
植垣康博(爆弾作りなど実用技術に優れる。革左女性への痴漢で批判される)
山崎順(M作戦途中で坂東隊へ入隊。女性問題で批判される)


(2軍)
進藤隆三郎(M作戦に惹かれて坂東隊へ入隊。同棲女性の問題で批判される)
遠山美枝子(救援対策から新倉ベースへ。女を利用していると批判される)
行方正時(救援対策から新倉ベースへ。消極的態度が批判される)


 こうしてみると女性問題が多いことに気づくが、別に女性とつき合ったからいけないというわけではない。それぞれの批判理由があった。


 この記事では、森恒夫が何を語り、進藤隆三郎、遠山美枝子、行方正時の3人がどのように批判されていくかに着目してほしい。


■1971年12月11日 「総括ができていない。銃の訓練を続けろ!」(森恒夫)


 森氏は、全員に、

「いいか、総括するには、それまでのことをああだったこうだったというだけではだめだ。それまでのここの実戦にどのような意識で関わってきたか、その意識は今からとらえ返せばどのような意識であったか、それを今後どのように止揚していくかを、自分ではっきりさせる必要がある」

と延べ、進藤氏、遠山さん、行方氏に対して、

「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ。そのためには、討論だけでは不十分だ。銃の訓練をしてよく考えろ」と命じた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森は銃の訓練をしている遠山・行方・進藤をそれぞれ呼んで、「銃を握っていて何を考えた?」などと聞いたが、森の期待する答えではなかった。結局3人とも、「総括ができていない。銃の訓練を続けろ」と却下されてしまった。


■1971年12月12日 「遠山さんにカチカチ山というあだ名をつけた」(植垣康博)

 遠山さんが山の急斜面で何度か転んだのに対して、私たちはその様子が不恰好で狸みたいだといって笑い、柴を背負った狸ということで、彼女に「カチカチ山」というあだ名をつけた。それは遠山さんを蔑視する差別的な言動だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■1971年12月13日 「森氏への信頼は絶対的なものになった」(植垣康博)
 もうすぐ上赤塚交番襲撃事件一周年の「12・18集会」(柴野追悼集会)が行われる。そこでアピールをするため、これまでの赤軍派の闘争の総括の討論会開いた。2軍の3名は参加させてもらえなかった。


 森氏は赤軍派の総括をとうとうとよどみなく語り、私たちは圧倒されてしまった。この総括によって私たちの森氏への信頼は絶対的なものになったのである。私たちが森氏の総括に感心していると、森氏は「力量の違い」といって得意そうな顔をした。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森の語った総括は長いので省略するが、ブント以降の闘争を、「銃−共産主義化論」 の観点から、否定的に総括したものである。ところが「銃−共産主義化論」がうさんくさいと思って読んでいると、怪しい総括としか思えない。


 しかし、逆に言えば、これまでの闘争を否定的に総括することによって、「銃−共産主義化論」の正当性を主張するものになっている。つまり、「12・18集会」で、「銃−共産主義化論」をアピールするために、つじつまを合わせた、ということだろう。そういう観点でみると、やはり森の理論構築力は大したものである。なんといっても当時27歳の若者なのである。


■1971年12月14日 「ナイフと金を取り上げて隠せ」(森恒夫)

 この日、山田は12・18集会のため東京へ出発した。進藤、遠山、行方の3人は、雪の上の足跡を消してくるように命じられた。


 4人が出かけたあと、森氏は、私たちに、進藤氏たちに対する逃亡の警戒の必要性を強調し、彼らからナイフや金銭をすべて取り上げ、弾薬と金銭を隠すように指示した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 ナイフを取り上げたのは、彼らが立ち向かってくることを恐れたからである。この猜疑心は尋常ではない。


 心理分析(「ヘボ」がつくが)→ 決め付け → 常軌を逸した防衛行動、というのは、精神疾患(統合失調症)の被害妄想によくみられる。森がその種の病を発病していたかどうかはわからないが、病的なまでの人間不信(恐れ)があった。これはそのまま連合赤軍に持ち込まれる。


■1971年12月15日 「銃の訓練以外のことをさせてはならない」(森恒夫)
 この日、森と坂東は、翌日から会議のため一週間ほど革命左派の榛名ベースへ行くことをメンバーに告げた。そして、留守の間、「進藤、遠山、行方には銃の訓練以外のことをさせてはならない」 と言い残した。


■1971年12月16日 「遠山がお前をたぶらかすから気をつけろ」(森恒夫)


 森氏は、私と青砥氏に、進藤氏たち3人を甘やかしてはならず、きびしく監視するようにいった。特に、遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲 だった。遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。


 また、森氏は、私に対して、「遠山がお前をたぶらかして取り込もうとするかもしれないから、気をつけろ。甘い第度をとるな」といった。そんなことはどう考えてもありえないことなので、私は、森氏のそういう見方に驚いたが、そんなものだろうかと思い、遠山さんに厳しい態度で臨むことを表明した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 午後、森と坂東は、革命左派の榛名ベースへと出発した。


 この夜、植垣と青砥は、「おやじさん(森)いったいどうするつもりなんだろう?」「まったくあの3人のおかげでえらいことになってしまったなあ」と話し合った。

■1971年12月17日 「夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌った」(植垣康博)

 午前10時ごろ、山崎氏が大変な剣幕で進藤氏たちに怒っており、私たち(植垣・青砥)に、「あいつら、みんなが出かけてから俺の言うことを少しも聞こうとしない!総括する気がないんじゃないのか!」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 批判されている3人にしてみれば、うんざりしていたところで、森と坂東がいなくなったので、タガがはずれたのであろう。しかし、植垣、青砥、山崎は、彼らの総括の責任を負わされていたから、甘い顔をするわけにはいかなかった。


 遠山、進藤、行方はあいかわらず銃の訓練をさせられたが、午後、遠山を呼んで、重信房子との連絡ルートや金を送った額などを紙に書かせた。


 こうして私たちは、この日以降、坂東氏が迎えに来る12月29日まで、昼は遠藤氏たちに銃の訓練をさせ、夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌ったり雑談をしたりしてにぎやかに過ごしたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月19日 「座禅でもはじめたのか?」(植垣康博)
 3人に銃の訓練だけさせるということは、お互いにあきあきすることだった。そこで植垣は総括討論をやることにし、行方に質問しながら総括を聞いたが、行方は答えられなくなり、行方はうなだれて正座してしまった。植垣は「座禅でもはじめたのか?」と冷やかした。


■1971年12月20日 「お前は金が目当てだ」(植垣康博)
 この日は進藤を呼んで総括討論を行った。そして彼の行動を金銭欲などで解釈した総括を押し付けてしまう。彼女と付き合ったのは、旦那から金をせしめるためであり、赤軍派に関わったのはM作戦(銀行強盗)の金が目当てだった、というものだった。そして「克服するには、共産主義化を通して銃による殲滅線に全力をあげることだ」と結論をいった。


 進藤氏は「よくわからんけど、そういうことになってしまうな。しかし、そういう総括の仕方ははじめてだ」といい外に出て行った。(中略)
 その夜、私に「おい、バロン、やっぱりあの総括はおかしいよ」といった。だが私は冷たく、「おかしくもなんともない。よく考えろ」といって、考え直そうとはしなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月21日 「最高幹部・高原の妻という特権的地位を利用した」(植垣康博)
 この日は遠山を呼んで総括討論を行った。


 私は、遠山さんのそれまでの活動を、高原氏に依存し、高原氏の妻という特権的地位を利用した活動でしかなかったと解釈した総括を押し付けた。これに、遠山さんは、「そういう風に自分の問題を考えたことがないので、よくわからない」と答えていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月22日 「女にもてようとする英雄欲だ」(植垣康博)
 この日は再び行方を呼んで総括討論を行った。


 「市民社会から遠ざかるのが恐いといいながら赤軍派の活動に関わってきたのは、そのことによって英雄気取りをし、女にもてようとする英雄欲からではないか」と批判すると、行方氏はうなだれてしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私たちは、その後も、進藤氏たちに銃の訓練を強制しながら総括討論を行っていったが、これによって私が彼らに押し付けた総括が、後に彼らを死に追いやっていくことになるのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 植垣の総括の押しつけは、これまでの森の批判を踏襲したものだと思われる。だが、夜になると3人を含めて酒を飲んだり歌を歌ったりしていたのだから、本気でやっていたのか疑問である。森に対するポーズだったに違いない。


 「銃−共産主義化論」はまったくやっかいな代物である。銃の訓練ばかりやらされた3人はたまったものではないし、銃を握ったところで総括が進むわけではなかった。


 「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。森は、「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ」といって、ヒントをくれなかったから、「正解」は闇の中であった。


 総括を要求されている3人と、そうでない3人の差はほとんどなかったのだから、指導などできるわけなかったのだが、しかし、植垣、青砥、山崎は、これまで一緒に活動してきた仲間3人に対し、次第に蔑視的な態度をとるようになった。


 森と坂東のいない新倉ベースで、植垣、青砥、山崎、遠山、進藤、行方の6名はこのように過ごしていた。そして、年の瀬も迫った12月29日に坂東と寺岡が迎えに来て、革命左派の榛名ベースへ合流することになる。


 それは墓場への招待だった。榛名ベースでは、より進化した「総括」が彼らを待ち受けていたのである。この6名のうち、生き残るのはたった2名しかいないのである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10883575003.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c82

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
83. 中川隆[-11455] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:24:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[540]

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

1971年12月 永田洋子の怒り爆発(革命左派・榛名ベース)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html


 今回は、連合赤軍結成直前の革命左派の動向である。


 この時点でのメンバーを確認しておくと、共同軍事訓練 に参加したメンバーが、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、岩田平治の9名。参加しなかったメンバーが、尾崎充男、小嶋和子、加藤倫教(次男)、加藤元久(三男)、伊藤和子、寺林真喜江、山本順一の7名である。


 山岳ベースに入るきっかけは、指名手配されているメンバーが潜伏するためだったが、永田は合法部隊も呼び寄せていた。加藤倫教の「連合赤軍少年A」によれば、それは、獄中指導者の川島豪からメンバーを引き離す目的があったからだという。川島豪の獄中からの指示や批判に対し、永田は面白くなかった。そこで、永田はメンバーを目の届くところにおき、川島豪から引き離そうとしたというのである。


 さて、この記事でのポイントは、まもなく開催される12・18集会(上赤塚交番襲撃事件 の1周年記念集会)の段取りに不満を抱いた永田たちが、集会に乱入(?)を企てるところだ。このことが後に、連合赤軍の暴力的総括の遠因となる。


■1971年12月13日「大見得を切ってきた以上、共産主義化を獲得してもらわねば困る」 (永田洋子)

 指導部会議のため赤軍派の新倉ベースに残っていた永田と坂口が、完成間近の榛名ベースに戻ってきた。永田は赤軍派との指導部会議の内容をメンバーに報告した。


 4,5日すると永田、坂口の2人が榛名に帰ってきた。2人は全員を集め赤軍派との論議について説明した。「今回の共同軍事訓練の最大の成果は、両派が共産主義化による党建設という点で一致したことである」と報告し、それに関して革命左派が主導権を持って論議を進めたことが強調された。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 実際のところは、「指導部会議はほとんど森氏が主導した」(永田洋子・「十六の墓標(下)」)のだった。


 永田は、女性解放という観点から、組織内の女性が男性メンバーと同様に、重い荷物を持ったり小屋の建設に参加したり、武力闘争でも実行部隊に入ることなどを、男女平等の実現だと考えていた。

 また、女性メンバーが活動上、必要もないのに化粧をしたり、指輪などの装飾品を身につけたがるのは、「男に媚びる女性蔑視のブルジョア思想」とみなしていた。そして、革命戦争を闘うには、これらのブルジョア思想の克服が不可欠だと語った。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田の考える「女性解放」とは、「女を捨てて男並みになる」ということだったが、これが後に女性への暴力的総括の原因となってしまう (ちなみに、当時の女性解放運動は男並になればそれでよいというような単純なものではない)。


 同時期、ウーマンリブ運動の中心にいた田中美津は、永田について以下のように語っている。


 他の人、男や、権力や金を持つ人、自分より力のある人が求めるもの、求めるイメージを生きようとする限り、結局は化粧も媚び、素顔も媚びになってしまう、ということに永田は気がついていなかったと思います。永田がもし毅然としている一方で、私もイヤリングをつけたい、イヤリングつけて革命して何が悪いのヨって思っていたら、あの群馬県の山中での出来事は起きなかったかもしれない。
(田中美津・「かけがえのない、大したことのない私」)


 田中は、真岡銃砲店襲撃事件 のあと、永田に誘われて革命左派の丹沢ベースを訪れたことがある。このとき彼女は、革命左派に取り込まれることを警戒して、わざと戦士にふさわしくないミニスカートで行ったそうだ。


 永田はわれわれに、「赤軍派に対して、革命左派が離脱者の問題にぶち当たり、組織のメンバーが自己分析に基づいて自分の中に巣食うブルジョア思想と闘うことによって、革命戦争を闘う党建設を進めてきたと大見得を切ってきた以上、皆が自己を革命戦士化する『共産主義化による党建設』の地平を獲得してもらわねば困る」 と話した。

 こうした説明は、一部のメンバーを悩ませることになった。特に、共同軍事訓練への参加から外された者は、深刻だった。自らが皆より遅れているから外されたのだといわれたに等しい。そう受け止めていたからだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 共同軍事訓練は、赤軍派のメンバーが9名だったため、革命左派も人数合わせのために9名に絞ったいきさつがあった。


 そのあと、尾崎氏が沈痛な面持で、「上京して京谷さんと会う手はずをとったけど、京谷さんは待ち合わせの場所に来なかった。そのため12・18集会の準備さえどうなっているのか聞いてくることはできなかった・・・・・全く頭にきた」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 12・18集会とは、上赤塚交番襲撃事件(柴野が死亡)の1周年の記念集会である。京谷は救援対策で、獄中のメンバーとの連絡役をしていた。

 この日の夕食は、私と坂口氏が沢山買ってきた豚の脂身を入れた雑炊であったが、これは好評だった。皆は、「脂身は安くて豚肉の香りがして脂肪が沢山とれるのだから、これからはこういう肉をたびたび買おう」といっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このころの食事は、押麦の雑炊に中国製アヒルの缶詰かサバの缶詰、採ってきた山菜が主なメニューだった。たまに即席ラーメンを食べる程度だった。豚肉の「香り」や「脂肪」で喜んでいるのだから、当時としても極貧の食事であった。後に逮捕され拘置所で出される食事で栄養回復したという話もある。


■1971年12月14日〜16日「私は山で産む」(金子みちよ)
 14日の朝、大槻と岩田が12・18集会のアピール文を持って上京した。永田は小嶋といっしょに小屋のスキマを新聞紙で目張りしたり小屋の建設を手伝った。


 小屋建設の間、永田は杉崎ミサ子、金子みちよ、寺林喜久江など、女性たちから異性関係のことや組織活動のことで相談にのっている。永田は下部メンバーの個人的な相談にも丁寧に応じるから、相談しやすかったようだ。そういえば、赤軍派の進藤や行方も、永田をよき相談相手としていた。


 永田は、吉野の子供を宿していた金子みちよに、「産婦人科に行ったらどう?」とすすめたが、金子は「私は山で産む」といって、産婦人科には行かなかった。


 革命左派の山岳ベースは家族雰囲気で、問題も起きるが、楽しそうでもあった。だが、それもこのあたりまでの話である。


■1971年12月17日「永田は聴き手の心を揺さぶった」(坂口弘)
 再び京谷に会いに行った尾崎が帰ってきた。尾崎の報告によると、これまでのように京浜安保共闘(革命左派の公然大衆組織)と革命戦線(赤軍派の公然大衆組織)の主催ではなく、革命左派と赤軍派の主催になっていたということだった。そして、京谷は獄中からのアピールを尾崎に渡すとさっさと帰ってしまったという。


 組織名について解説しておくと、革命左派も赤軍派も、逮捕者の救援活動など合法活動を行う表の組織が別にあった。革命左派の場合「京浜安保共闘」で、赤軍派の場合「革命戦線」だった。新聞では革命左派のことを京浜安保共闘と報じているが厳密には正確ではない。


 もっとも、メンバーは流動的だったし、山岳ベースに合流したので、どちらも同じと思っても差し支えない。だが、12.18集会の主催名については、組織名が問題にされたのである。


 獄中からのアピールを読んで永田は激怒した。川島豪(革命左派指導者)は挨拶程度の電報文であり、渡辺正則(死亡した柴野とともに上赤塚交番を襲撃)は、「爆弾闘争ひとつもしていないじゃないか」と指導部を批判するものだったからだ。


 そこで私は、これらのアッピールと京谷氏が指導部との打ち合わせを拒否し、独断で革命左派の主催として12・18闘争を準備したことと関係があると考え、さらに京谷氏は、獄中革命左派が銃の問題を理解せず獄外革命左派に批判的であることから、12.18集会の打ち合わせを拒否したのだ、12・18集会には銃の観点はない、そうであれば12.18闘争一周年記念集会は何の意味もないと判断した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 要するに、永田は、京谷が獄中幹部とグルになって、銃による殲滅線を封じ込めようとしている、と疑ったのだ。

 永田はメンバーを前にしてアジ演説を行った。彼女には独特のアジテーションの才能があった。


 夜になると彼女は、「革命左派の主催にされた以上、銃の観点を打ち出す集会にしなければならない。そのためには軍から代表を送り、銃の観点を打ち出す発言を勝ち取る必要があると思うがどうか」と提起した。全員が「異議なし!」と答えた。それで積極的に賛成した前澤虎義君と伊藤和子さんの2人が上京して集会に参加し、軍の発言を勝ちとることになった。

 永田さんの怒りには激越さがあった。ちょっと口に出した碇でも、内心では煮えたぎっている場合が多く、切っ掛けを得ると凄い勢いで爆発した。怒りを爆発させると雄弁家になり、相手を激しく攻撃したかと思うと、ホロリとするようなことも言って、聴き手の心を揺さぶった。意識的というよりも自然にやっているので、情感に訴えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 翌18日、前澤虎義と伊藤和子が12・18集会へ出発した。


 それにしても、革命左派を名乗ったのを口実にしてメンバーを送り込んだのは強引過ぎた。それは、集会を準備したK君らの苦労を考えず、まったく一方的にこちらの意思を押し付けるものだった。私は、この時も彼女を制しなかった。弁解めくが、彼女のアジ演説はなかなかのものだったのだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そして、前澤と伊藤は忠実に責任を果たそうとした。ところが、この一件が後の暴力的総括の発端につながっていく。


■偶然集まった連合赤軍メンバー

 ここまでで、連合赤軍になるメンバーが出そろったわけだが、赤軍派にしても、革命左派にしても、連合赤軍になったメンバーは、志願したわけでも、選抜されたわけでもない。偶然そこにいただけである。


 逮捕された人とか、連絡がつかなかった人とか(当時電話はあまり普及してなかった)、山岳ベースに向かう途中ではぐれてしまった人とか、そういう人たちは、たまたまその場にいなかった。


 その場にいなかった者たちは、後日、あさま山荘の闘いをテレビでや新聞でみて拍手を送っていた。だが12名の同志殺害が発覚すると、その手は凍りついてしまった。自分がその場にいなかったのは偶然の成り行きでしかなく、彼らと自分を区別するものは何もなかったからである。


 一方、政治運動とは無縁の者にとっては、さしあたり異常者のレッテルを貼っておけばよかった。しかし後年になって、好奇心から当事者の記録を読むと、それではすまなくなった。彼らの常識や判断は、自分とさほど変わりがなかったからである。


 関係者であれ、部外者であれ、「自分と同じ」というのは都合が悪かった。自分も仲間を殺害できる人間だとは断じて認めたくない。彼らが異常者であってくれれば安心できるが、そうでないとすると、安心するための唯一の方法は、彼らがどこでどんな間違いを犯したかを見つけ出すことである。


 ここまでのところ、間もなく12名の同志殺害が起こる気配はない。しかし、実際に起こった。このあと彼らは、どこでどんな間違いを犯したのか、途中で引き返すことができなかったのか、という観点でみていくことにする。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html

1971年12月20日 森恒夫・坂東国男が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html


 森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。


 (山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・外観


■「遠山らは総括した」(森恒夫)
 再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。


 雑談のあと、赤軍派からの状況を森同志が報告しました。12・18集会を皆で祝ったことなどを。しかし、このとき、進藤同志、行方同志、遠山同志達を「2軍」とし、この集会に参加させずに、銃の訓練を科していたことは報告しませんでした。いろりのまわりで私たちが集会を祝い、酒を飲んでいるとき小屋の片すみの土間で、銃をかまえていた同志達の姿が今も目に浮かびます。自分たちを「1軍」として祝うことのうちろめたさから、彼らのほうをそっと見ました。ときどきこちらをみては、頑張らねばという建前と、しかし納得できないという晴れ晴れしない表情で、再び銃を構えるというような情景にこれでいいのかと思いました。

 しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
 革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。


 坂東氏は身を乗り出すようにしてアジテーション調で相当長く発言したが、何をいっているのかよくわからなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 支離滅裂な内容で、何を喋ればいいのかわかってないようだった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そのあと私が赤軍派を代表することになったわけですが、これは、「銃−共産主義化論」を未消化のまま、森同志のうけうりで、いいカッコしてアジテーション調にやったため、みんなわかりにくいなあという表情でしたね。素直に自分の感情を言うことは、何か価値の低いものでもあるかのように思っていたものですから、人間蔑視もいいところですよね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃−共産主義化論」 をわかっていなかったのである。


■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
 夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。


 (榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議


 森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。


 (森氏は)今度は他の革命左派の1人ひとりの評価を始めた。小嶋さんへの批判でいやな思いをした私は、驚き、ますます不愉快になり下を向いて目をつぶり、どうして森氏がこのようにいうのか考えながら聞いていた。森氏は金子さんを全面評価したが、それ以外の人、特に尾崎氏を軍人らしくないといって細かいことまで批判した。

 私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。


 私は革命左派内における個々人の評価を表明することで、森氏の批判に反対した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。


■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)

 個人批判の問題がひとまず終わったあと、森氏は、それの延長のようにして、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした。これまで、関心を持たなかったのは自己批判的に考えているが、生理のときの出血なんか気持ち悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。もうそれではやっていけないことがわかった」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。


 森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。

森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」


森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」


森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」


森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)


 どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。


 「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という森氏の発言は、明らかに女性の性そのものを否定した女性蔑視の観点を女性の革命戦士化の問題として持ち込むというものであった。しかし、それは、まず人間として生きることを掲げて、女性としての独自の要求をもとうとしなかった私の婦人解放の志向を徹底化させたものであったため、私は極端なことをいうと思っただけで、女性蔑視の観点そのものを批判していくことができなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。


■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
 森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。


 私は森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた。寺岡氏もほーうという感じでいたし、坂口氏、吉野氏も強い関心を持って聞いていた。私は、森氏が毛沢東思想を私たち以上にしっかりと理解していると思い、理論的指導者としての信頼の気持ちを深めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。


 森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。


私は睡魔に勝てず、うつらうつらしていたが、森君は相変わらず、独りで延々と喋りまくった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


雑談はその後も続いていたようであるが、私はいつの間にか眠ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。


 初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。


 そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html

1971年12月21日 われわれになった日
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

 前日、徹夜で森が中国の革命について語っていたので、この日の指導部会議は昼から始まった。


(冬へ向かう榛名山 「氷解」・彼らはこの景色をみて榛名ベースに入った)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-冬へ向かう榛名山(「氷解」イラスト)


■「共産主義化の理論にすがりついた」(永田洋子)

 森は「三大規律・八頭注意」を共産主義化のモデルとすることを主張した。「三大規律・八頭注意」とは、毛沢東が制定した軍規である。


<三大紀律>
1.一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ)
2.不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな)
3.一切?獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)

<八項注意>
1.説話和気(話し方は丁寧に)
2.買売公平(売買はごまかしなく)
3.借東西要還(借りたものは返せ)
4.損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ)
5.不打人罵人(人を罵るな)
6.不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな)
7.不調戯婦女(婦女をからかうな)
8.不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)

 つまり、党建設の機軸を路線にではなく、作風・規律に置き、両派の路線の不一致のまま、路線問題の解決よりもその問題の解決を両派の共通の課題として優先させたのである。しかし、私はこれに確信をもった。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田のいう「やっていけなくなった」ものとは何か、最後に考察してみる。


■「われわれになった」(永田洋子)


 森君は、「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を獲ち取るというようにするのではなく、銃と連合赤軍の地平で獲ち取っていくべきなのだ」と提起した。永田さんが直ちに賛成し、「それなら、われわれになったという立場から共産主義化の問題を追及していくべきじゃないの」と応じた。期待をこめた発言だった。

 森君はややあってから頷いた。こうして「われわれになった」こと、即ち新党の結成が確認されるのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 永田さんは、「われわれになった」ことがよほどうれしかったとみえ、会議の途中、土間のストーブの周りにいた被指導部メンバーのところへ行って、「われわれになった」ことを伝えた。そして、指導部のところへ戻ってきて、「われわれになったのだから、革命左派のメンバーを指導してほしい」と森君に慫慂(しょうよう)した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

この「我々になった」という表現は、革命左派の被指導部の者にはすぐには理解できなかった。意味がわからずきょとんとしている者が多かった。(中略)

 永田は私たちの反応がないのを見て、「我々になったのよ。嬉しくないの。これから赤軍派と一緒に闘っていくことになったのよ」と再度「我々になった」ことを強調した。これを聞いて、やっと被指導部の者たちは拍手した。中には雄叫びのような声を上げた者もいた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 これまでは、赤軍派と革命左派の軍事的連合という位置づけであったが、このときから、ひとつの党としてやっておくことになった。これを永田が、 「われわれになった」 といったのである。


■「坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」(永田洋子)


 そのあと指導部会議は雑談的なものになった。森氏はこのとき、坂東氏に、「坂東はどうして結婚しないのだ。結婚しても闘っていくということが指導者に必要なのではないか」といった。(中略)


 私が、「我々になったのだから、坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」というと、坂口氏も、元気のよい声で、「それはいい。ぜひとも結婚すべきだ」と賛成した。森氏も勧めた。(中略)


 坂東氏は、皆から勧められて、「本来、結婚するとすれば永田さんが一番良いということになるのだろうけど、もう相手がいるからダメだし・・・。ごめんね、おちょくって・・・」といって考えていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田はさっそく伊藤に打診する。


 伊藤さんはもそもそした調子で私にいった。
「私は、日大全共闘の黒ヘルの人に行為を持っているから・・・」
「その人と結婚したいの」
「そこまでは・・・」
「もし、そうでないなら、坂東さんとの結婚を考えたらどう」
 私たちは夕食まで2人で話し合えばよいということにして、こたつを離れた。2人は何か話し合っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まったく個人的感情を無視しているが、組織的に結婚させるというのは、革命左派の前身あたりから風習があったらしい。


■「もう永田さんと離れまいと思った」(森恒夫)
 夕食後、全体会議で、永田が、「われわれになった」ことを正式に報告した。そのあと永田に要請され、森が共産主義化と「われわれになった」ということの説明を行った。永田は森の演説を、 「うまいなー」 と感心して聞いていた。


 森氏は最後に、共同軍事訓練での遠山さん批判を評価し、「この時初めて永田さんを共産主義者と認めた。そのときから、もう永田さんと離れまいと思った」と笑いながらいい、私の方へ手を差し伸べた。また、森氏は、「革命戦士の夫婦として求められるのは永田さんと坂口君の場合だけであり、僕も含めてあとの者はそうとはいえない」ともいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このあと、被指導部の者1人ひとりが発言した。それらは、中国革命戦争の歴史に関心を寄せ、「我々になった」ということに期待するものであった。小嶋さんも同様のことをいい、さらに「二人のときに立ち会ってうれしかった」といった。この時、それまでオブザーバーのようにしていた森氏が、急に身を乗り出して、「ちょっと待った。そんなこと言ってよいのか」と強い調子でいった。小嶋さんはビクッとし、「良くなかった」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 小嶋がいった 「二人のとき」 とは印旛沼事件(向山・早岐の処刑) のことである。小嶋は運転手役をやらされていて、その後、精神が不安定になっていた。


 前日、森が小嶋を批判したとき永田は不快感を表したが、「われわれになった」この日はもはやそうではなかった。


 森はもともと革命左派を吸収しようとしていた。だから森は水筒問題 で革命左派を責めたてたのだが、永田は遠山批判 というカウンターパンチを放った。もし森がそのまま主導権争いを続けたら、また違った展開になっていただろう。森が遠山批判を認め、永田を持ち上げたからこそ、永田は森をリーダーとして受け入れ、両派の統合が一気に加速したのである。


 この日のポイントは、ひとつは「われわれになった」ことであり、もうひとつは、政治路線は棚上げにして、内部の作風・規律を重要課題としたことである。


■永田は何を「やっていけなくなった」のか、何に「すがりついた」のか?
 永田は、共産主義化の理論 をよくわかっていなかったといっている。にもかかわらす「すがりついた」とはどういうことだろうか。細かい話になるが、永田が「確信をもった」という理由を再度引用して、深読みしてみたい。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この文章で、「やっていけなくなった」ものは、普通は「闘争」と考える。しかし、そうだとすると、「ガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったので、もっとガムシャラな闘争精神である共産主義化でやっていくことにした」というおかしなリクツになってしまう。そもそも共産主義化とは革命左派の「ガムシャラな闘争精神」を発展させたものだったのだから。
 
 ところが、「やっていけなくなった」ものは「闘争」ではなくて「メンバーの統制」のことだと考えると合点がいく。以前から、革命左派において、メンバーの間に反永田の気運が盛り上がっていた。印旛沼事件、中国行き提案など、永田指導部の方針には、常に批判や不満がつきまとっていた。


 永田指導部への批判は、永田や坂口が強弁によって押し切ってきた。それが限界になって、「理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなった」のではないだろうか。つまり、「極左的な実践の限界」とは、「メンバーを統制しきれなくなった」ことだと思われる。


 永田はメンバー統制のために、理論が必要だと考えていた。そこに現れたのが森恒夫である。


 もし森が従来の赤軍派の理論である「前段階武装蜂起」や「世界同時革命」などをふりがざしていたら、永田は興味を示さなかっただろう。なぜなら永田が必要としていた理論は、組織の外側に向いているものではなくて、内側に向いているものだったからである。


 森の提唱した「共産主義化」は、まさに組織の内側に向き、個人の内側まで達していた。永田の理想としたフォーマットだった。つまり、「革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えた」というのは、「メンバーを強弁によって押し切るのではなく、共産主義化の理論で説得できることを期待した」ということになる。


 永田が「すがりついた」のは、共産主義化の「理論」ではなくて、共産主義化の理論の「フォーマット」である。だからわからないのにすがりつけるのである。


 よって、理論を操ることのできる森恒夫に主導権を渡すことは、さして抵抗がなかった。むしろ、メンバーの統制をより強固にするためには、そのほうが都合がよかったのだ。


 これは推論であり、正しいかどうかはわからない。だが、もし正しいとするなら、森恒夫と共産主義化の理論は、見事に永田の「期待」にこたえることになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html

 加藤・小嶋への殴打を紹介してきたが、特筆すべきは森の暴力の導入が、革命左派の榛名ベースで行われたことだ。赤軍派は、森と坂東と山田の3名だけで、いわば完全アウェーの中、革命左派メンバーの加藤能敬と小嶋和子を殴打したのである。


 そこには、森の強い意志が感じられるが、いざ、「高い地平」(森)に到達してみると、森は、新倉ベースに残してきた赤軍派メンバーの遅れが気にかかった。そして森の心は揺れ動くのである。


 南アルプスの新倉ベースでの赤軍派メンバーの出来事は、1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース) を復習しておいてほしい。


 今回は、12月27日の夜の指導部会議の様子である。


■「南アルプスにいる旧赤軍派の者をどうするか?」(森恒夫)
 

 (森は)「南アルプス(赤軍派の新倉ベース)にいる旧赤軍派の者をどうするか?」と問うてきた。(中略)


 森氏は、さらに、「僕は加藤、小嶋をい殴ったあとだから、ここを離れることはできない。それにしても、南アルプスにいる者はここにいる者よりはるかに遅れてしまった。この差はかなりのものだ」といった。私は、これに対し実に簡単に、「それなら、榛名ベースに結集させ、共に共産主義化を獲ち取っていこう」と答えた。


 「遠山(美枝子さん)ら3名は総括できた」という森氏の発言を信じていたからである。私は、遠山さんらに厳しい総括要求が課せられていることをまったく知らなかった。そのため彼女らを榛名ベースに連れてくれば、暴力的総括要求にかけられるかもしれないという予測をすることはできなかった。私の発言に皆が同意した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そもそも、赤軍派の幹部(森・坂東・山田)が革命左派の榛名ベースにきたのは、新党結成のためのミーティングをするためであった。それが、とんとん拍子で、12月21日に新党に合意 したので、森が革命左派メンバーに対しても指導権を発揮するようになったのである。


 だから新倉ベースの赤軍派メンバーは、幹部の帰りを待っている状態だった。そこで、彼らをどうするか相談を持ちかけたわけだが、新党が結成されたのだから、合流されるのが当然である。


■「どこまで話すか?」(森恒夫)


 しかし、森の心は揺れ動いた。

 (森は)続いて、「どこまで話して結集させるか?」と問うてきた。私はすべて話すのが当然だと思い、「新倉ベースの人には、加藤、小嶋を殴ったことやその総括のすべてを話し、『共産主義化』による党建設」の同意を得て結集させるべきだ」と答えた。私は、すべてを話して同意を得ればおくれの差を生めることが出来ると思った。ところが森氏は、「そうか、すべてを話すのか」といって少し考え込み、「うん、そうしよう。すべてをそのまま話す」といった。


(中略・そのあと、具体的な段取りなどを打ち合わせたことが書かれている)


 この時、森氏は、私に、「遠山、行方、進藤をどうするか?」と聞いてきた。私は、意味が分からず、「どうして?」と聞いた。森氏は、強い口調で、「だってそうだろう。南アルプスの者ははるかにおくれてしまったのに、この3人は南アルプスの他の者より問題を抱えているのだ。榛名ベースの者からみれば総括できたといえないじゃんか」といった。この時、「遠山らは総括した」といったことが実は違うことを森氏はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく森が心配していたことは2つある。


 ひとつは、暴力のことまで話すと、総括中の3人(遠山・行方・進藤)が逃亡するのではないかと疑っていたことである。だから、「遠山、行方、進藤をどうするか?」ときいたのは、「3人の逃亡を防ぐにはどうするか」という意味だったと思われる。結局、3人については車で移動させることにした。


 もうひとつは、総括中の3人が榛名ベースに合流すると、3人とも暴力的総括要求を行わざるを得ないと憂慮したことだろう。加藤・小嶋への殴打を正当化し、理論化してしまった以上、3人に対しても断固とした対応をとらなければならない。


 森の歯切れが悪いのは、この時点では、さらなる暴力に対し、いくらか躊躇があったからであろう。だから永田に相談を持ちかけたのである。


 ところが、12月20日に森は永田に「遠山ら総括した」とウソをついていたので、永田は森の躊躇にまったく気づかなかった。


 だから当然の如く、総括中の3人も含めて召集することに決まってしまう。坂東と寺岡が迎えに行くことにし、山本順一が車の運転をしていくことになった。


 そして、坂東たちが彼らを連れてくる頃には、森は、断固とした態度で臨むことを決意しているのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html


1971年12月29日 女の革命家から革命家の女へ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)は、理不尽な批判にさらされていく)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

■12月29日時点の連合赤軍メンバーの状況 (榛名ベース)

−−− 指導部 −−−
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)

坂東国男 (赤軍) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山田孝  (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
吉野雅邦 (革左)

−−− 被指導部 −−−
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前澤虎義 (革左) 中村愛子を迎えに上京
岩田平治 (革左) 中村愛子を迎えに上京
山本順一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
尾崎充男 (革左) 立ったまま総括中
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)


 夫婦関係にあるカップルは、永田洋子と坂口弘、寺岡恒一と杉崎ミサ子、吉野雅邦と金子みちよ、山本順一と山本保子の4組であった。山本夫妻を除いては、法的な婚姻ではなく、組織が認めた「夫婦関係」である。加藤能敬と小嶋和子は、組織に認められていなかったので、「恋人関係」にとどまっていた。


■「どうして美容院でカットしてきたんや」(森恒夫)

 指導部会議を終えてから、森氏は大槻さんから買い物の報告を聞いたが、その時、大槻さんが髪をカットしたことを知ると、「山でパーマをかけると決め美容院にパーマの道具を買いに行くようにいったのに、どうして美容院でカットしてきたんや。これは問題だぞ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 その後、森は杉崎ミサ子を指導部のこたつのところに呼んで深刻そうに話し込んだ。その間、永田は手洗いに立ち、金子や大槻と雑談をしてから、指導部のこたつに戻ったが、森と杉崎はまだ話し込んでいた。

 しばらくすると、杉崎さんは、「寺岡さんと離婚し、自立した革命戦士になる」といった。森氏はこれを評価し、私や坂口氏に伝えた。私は冗談じゃないと思ったが、自立した革命戦士になるという以上反対できずに黙っていた。


 このあと、大槻さんが「星火燎源」を読んでおり、秋収蜂起から井岡山への闘いに関心を持っているというと、森氏は、「知識として読んでいるにすぎない」といった。私は欲理解できず、「えーっ」といった。森氏は、「美容院でカットしてきたのは何だ!」といったあと、強い調子で、「知識!知識!」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「あぶり出しをしているかのようだった」(加藤倫教)
 夕食後、全体会議が開かれた。

 加藤倫教は、全体会議に参加する気持ちを次のように述べている。

 まるであぶり出しをしているかのように、毎晩毎晩の発言の中で、幹部たちの、特に森、永田の気に入らないような発言をしてしまった者が、次の標的にされいくように感じられた。(中略)


 物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのかわからない「総括」要求と暴力に、森と永田以外のものは怯えていた。


 私も怯えていたが、永田は、私や弟のことをまだ一人前の構成員とはみなしていないようだった。いわば子ども扱いされていたのであり、そのおかげで「総括」させられることもなかったのである。


 その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには、「銃による殲滅戦」を行うしかないという信念、それだけだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 全体会議といっても名ばかりで、実態は、指導部の方針の伝達と、それに対して決意表明を行う場だった。そのときの決意表明が、「総括」するかどうかのリトマス試験紙になっていた。森や永田が気に入らなかったらおしまいというのは、メンバーの証言が一致している。


 指導部の方針は指導部会議で出されるが、それも名ばかりで、森の問題提起に対して承諾を求められ、民主的な装いをあたえる機関でしかなかった。


■「女の革命家から革命家の女へ」(森恒夫)


 全体会議の参加者はいつもより大分少なかった。メンバー状況からわかるように、被指導部のメンバーは加藤兄弟以外は女性ばかりであった。


 全体会議では、杉崎が「自立した革命戦士になるために、寺岡さんと離婚します」と宣言した。これが森と杉崎の話し合いで出された結論であった。

 森氏が、「女性兵士が自立した革命戦死になるということは、『女の革命家から革命家の女へ』ということだ。杉崎さんの離婚表明は革命家の女になるものだ」といって、杉崎さんの離婚を評価した。しかし、森氏は、『女の革命家から革命家の女へ』ということがどういうことなのか説明しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 当時、リブ運動に、「抱かれる女から抱く女へ」というスローガンがあり、森はそのフレーズを意識していたのではないだろうか。

 その後も発言が続いたが、金子さんの番になると、彼女は、「私も、自立した革命戦士になるために、吉野さんと離婚します」と発言した。


 これを聞いて、私は杉崎さんのとき以上に驚きあわててしまった。私は、「金子さんは杉崎さんと違うのだから離婚する必要はない。離婚しないでもやっていけるし、自立した革命戦士になれる」といった。金子さんは黙ってしまったが、離婚表明は撤回しなかった。(中略)


 森氏は、私の反対に何もいわなかったが、のちに、金子さんの離婚表明への批判を独自の観点から行っていくのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は、「革命家の女になるために努力する」と発言した。

 森氏が、半ば私に、半ば全体にいう感じで、「美容院に行ってカットしてきたことも自己批判ぜず、女の革命家から革命家の女になるために努力するということが許されるのか」と批判した。森氏は終始一貫して大槻さんに批判的であった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「少し休ませてください」(尾崎充男)


 会議の途中に、尾崎君が指導部のいる炬燵に向かって歩いてきて、「少し休ませてください」と言った。森君は怒って、「おとなしく立って総括しろ!」と叱りつけた。尾崎君は、一旦、土間の側に戻って立っていたが、しばらくするとまた炬燵のほうにやってきた。


 森君はかんかんに怒り、その場で、「眠らずに総括しろ!」と言って、尾崎君に大きな試練を課した。尾崎君は、肉体的苦痛が大きすぎて、抑制の利いた行動が取れなくなっていたのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 この日の夜、森の指示で吉野が尾崎の見張りにつくことになった。


■「革命家の女」になるには、女を捨てなくてはならない


 永田は、「女の革命家から革命家の女へ」という言葉を受け入れたが、理論的には消化しきれずにいた。だから、離婚宣言に対して、杉崎については承認し、金子については引き止めるという中途半端な対応になった。


 「女の革命家から革命家の女へ」 というのは、 言葉通り受けとめれば、「女である前にまず革命家であれ」 ということだ。そういう意味なら、革命左派の女性たちは、とっくに 「革命家の女」 だった。以前から、女だから、などという意識はなく、あたりまえのように男女の区別なく活動してきたのである。


 ところが、森の問題意識は異なっている。12月20日 に、森は、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」といったが、その内容は、女性の身体や装着品についての問題提起だった。森の理想とする 「革命家の女」 になるには 、 女を捨てなければならないのだ。


 永田は、森の女性蔑視的発言に反感を抱きつつも、その後の女性メンバーへの総括要求では、森の側に身を寄せた。その動機はともかくとして、女らしさを粉砕しなければならない、という点については、永田も一致していたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html


1971年12月31日 「敗北死」の踏み絵
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html

 前回は、尾崎充男が死亡し、森が「敗北死」と規定した。今回はその続きとなる。


■メンバーの状況(12月31日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍) 新倉ベースから戻る
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左) 新倉ベースから戻る
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
進藤隆三郎(赤軍) 新倉ベースから合流
遠山美枝子(赤軍) 新倉ベースから合流
行方正時 (赤軍) 新倉ベースから合流

【死亡者】
尾崎充男 (革左)12月31日 敗北死(殴打による衰弱、凍死)


■「女性とばかり話している」(森恒夫) 「髪を切る必要を全く理解していない」(永田洋子)
 坂東に連れられて、新倉ベースからやってきた赤軍派の進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースの小屋に入るなり、尾崎、加藤、小嶋がたれ流し状態で柱に縛りつけられている光景を目にしてしまった。


 彼らは総括要求されている最中だったから、心中穏やかでいられるはずはなかった。3人は森に挨拶にもいけなかった。


 坂東は、森に3名について報告をした。坂東の手記では、3人とも総括できたと肯定的に報告したことになっているが、坂口の手記では、3人に不利な内容が報告されたことになっている。どちらにしても、森は3人を最初から冷たい目でみていたから、坂東の報告はほとんど関係なかったと思われる。


 森は、「進藤は戸口を気にしている。逃げようとしている」、「進藤と行方は、女性とばかり話している」、「行方は総括のことより、自分に出された指名手配書を気にしている」などと、さっそく批判を始めた。

 森氏のこの批判は、・・・(中略)・・・実にめちゃくちゃなものであった。あまりにもひどいものだったため、私たちは同意しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 しかし、永田は永田で、遠山をみて、「髪を切ったとはいえ、前と同じ服装であり、非合法の為に髪を切る必要を全く理解していない」としっかり批判している。山を降りてないのだから、服装が同じなのは当然である。


■「みんなにこのことを知らせるか?」(森恒夫)
 森は、尾崎の死について、指導部に対しては「敗北死」ということで始末をつけたが、被指導部のメンバーへの対応については、弱気な面をのぞかせた。

森「みんなにこのことを知らせるか?」
永田「みんなに知らせるのは当然だ」
森「そうか。それではそうしよう」
森「誰が全体に報告するか?」
全員「・・・・・」
森「永田さんにやってもらおう」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋)


 森は自分からは言いたくないようである。

 永田さんは、向山君と早岐さんの殺害と一緒に全体の前に報告すべきだと主張したが、森君はこの提案に躊躇した。しばらく考えてから彼は、前沢君と岩田君の2人に、早岐、向山殺害の事実を教え、しかる後に全体の前に報告しようとする代案を出した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森、坂口、吉野は前沢と岩田を小屋の外によんだ。

 ここで森君は、「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括し切れなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。この時、私は、全身が汚辱にまみれ、下等な人間に転落していくのがハッキリとわかった。

 続いて彼は、早岐、向山を殺害した事実を明らかにした。岩田君は、「たぶんそうだと思っていました。自分は異議ありません」と言った。私は、革命左派の責任で行った殺害行為が、赤軍派の森君によって語られたことに、非常に惨めな気持ちになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どうして森氏が2名の処刑を全員に話すことに反対し、前沢氏、岩田氏には話すといったのか、どうして尾崎氏の死を全員に話すことを始めはためらい、さらに自分が行うことは避け、前沢氏らには自分が話すといったのか、私にはわからない。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく、森は、尾崎の死に際して、誰よりも動揺していたし、誰よりも責任を感じていた。全員(ほとんどが革命左派メンバー)に「敗北死」が通用するかどうか、自信がなかったのではないだろうか。


 メンバーには隠しておこうとも考えたが、永田にピシャリと否定されたので、革命左派のリーダーである永田の口から説明してもらうようにしたのだろう。


 遺体を埋める作業を手伝わせるため、森は、岩田と前沢の2人には、すべてを話した。もっとも信頼できる2人を選んで、森の言葉が2人に通用するか確かめたのだと思われる。逆にいえば、他のメンバーには信頼をおいていなかったということである。


 しかも、このとき、坂口と吉野を同席させて、数的優位をつくった上での説明であった。このように森は、小心な面が顔をのぞかせることがある。

 私は、みんなが尾崎の死でびっくりしたりショックを受けたりして食事ができなくなるようではいけないから、全体会議ではパンとコーヒー、コンビーフの缶詰で軽い食事をしよう」と提案した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 普段は、麦の雑炊しか食べてないので、パン、コーヒー、コンビーフは、たいへんなご馳走だった。要するに、ニンジンをぶらさげて、敗北死を認めるように迫ったわけだ。


 尾崎の遺体は、坂東、吉野、前沢が小屋の近くに埋め、山田と岩田が、加藤と小嶋を小屋の外に出した。尾崎の死を聞いてショックを受けないようにするためということだった。


■「尾崎は自ら敗北の道を辿って死んでいった」(森恒夫)

 全体会議が始まった。始めに永田さんが、「尾崎が死にました」と報告した。全員がしーんと静まり返った。彼女は、命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならないことを強調し、「加藤、小嶋に敗北死させないように必ず総括させよう」と言った。全員が、「異議なし!」と答えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 続いて森君が尾崎君の死を総括して、おおむね次のような発言をした。


「尾崎は、われわれの厳しい共産主義化の闘いの中で、最終的にこの闘いに勝利しきれず、自ら敗北の道を辿って死んでいった。われわれにとって共産主義化の獲得こそが党建設の内実であり、これを獲得するためには各個人の文字通りの命がけの飛躍が必要である。こうしたことをなし切れなかった尾崎の死は、共産主義化の獲得(=党建設)というわれわれが初めて直面した高次な矛盾であるが故に、この現実を厳しく直視しなければならない。だから彼の敗北死を乗り越えて前進する決意をわれわれ自身がより固めていかなければならず、食事が摂れないというようなことがあってはならない」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「高次な矛盾」とはいったいなんだろう。森はこの言葉を、都合が悪いときの言い訳として使っているような感じだ。


 「自己批判書」には以下のように書かれている。

 この事(前沢と岩田に敗北死の説明をしたこと)は、私自身が尾崎君の死を暴行によるものではないかと考えた事を”命がけの”飛躍という事によって合理化し、又、肉体的暴行、食事なし、寒気という異常な条件に対する指導という意味での慎重な配慮を為さなかった為に死なせてしまった事を省みず、死の責任を一方的に押しつけるものであったし、更に、その事実を食事云々ということで他のメンバーに対する踏絵にし前記の誤りの承諾を強要したものであった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「自己批判書」は、他の人の手記と違って、逮捕直後にかかれている。つまり、山岳ベースの熱が醒めないうちに書いているのだが、「敗北死」などとは思っていなかったことがわかる。


 永田はどう総括しているかと言うと、

 もし、暴力を制裁、報復と位置づけていれば、尾崎氏の死の原因が暴力にあったことを認めざるを得ないが故に、「敗北死」という総括が出てくることはなかったと思う。


 しかし、共産主義化の思想それ自身、すべての問題の原因をまず路線や指導に求めるのではなく、個々人の資質や性格に求めていくものであったのであるから、「敗北死」という総括は暴力的総括要求の論理の必然的結論だったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そ、そうなのかっ!?
 「死者が出た以上、暴力を援助と規定したことがそもそもの誤り」とするのが、「必然的結論」ではないだろうか。


■「尾崎の死は鴻毛のように軽い」(岩田平治)


 全体会議では、例によって決意表明が行われた。

 私は驚愕した。同志の死を「敗北死」で片付けて、悼む姿勢すら見せないことが信じられなかった。それどころか尾崎の死を受けて、再び出席者全員による総括と決意表明が行われたのである。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 皆の発言には、「敗北死」という総括に反対するものはいなかった。本当に敗北死だとか、尾崎氏は日和見主義だとか、自分は頑張っていくといった発言が相次いだ。


 遠山さんは、「私は絶対革命戦士になるんだと決めてきた」と発言した。岩田氏は、「毛沢東は『死にも泰山のように重いものと鴻毛のように軽いものがある』といっているけど、尾崎の死は唾棄すべき軽いものだ。僕は革命戦士として泰山のような重い死に方をしたい」と表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この岩田の発言は、森に気に入られた。岩田は、これまでも積極的に森に迎合した発言を行っていたが、しかし、内心では冷静に事態をみつめていた。なぜわかるかというと、彼は脱走者第一号になるからである。


■「小嶋は総括しようとしている態度ではない」(金子みちよ)

 各自の発言が続いている最中、金子さんが見張りから戻ってきた。金子さんは、指導部のところに来て森氏に、「とり肉とミルクをやったら、加藤は黙っておとなしく食べたけど、小嶋は食べたあと『また、あとでちょうだいね』といった。小嶋は総括しようとしている態度ではない」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 金子は、尾崎に決闘をさせたときは否定的だったが、ほかの「総括」にはむしろ積極的に関わっていたのである。

 小嶋さんは敵対的な態度をとっている私たちに同志としての態度を期待したばかりか、苦痛を強いる暴力的総括要求に圧力に屈しない自主性を持ち続けていたのである。ところが、私たちは、こうした小嶋さんの態度を総括しようとしない態度と決めつけたのである。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■踏み絵を踏んだ日


 尾崎の死は、暴力的総括から引き返す最大のチャンスだった。


 暴力に関わった者が自分の殴打によって尾崎が死んだと思い、動揺していた。それは森も同じだった。もし、森が、直後に「敗北死」といわなかったら、12名もの同志殺害はなかったはずである。


 尾崎の死が確認された直後の数分間で、森は「敗北死」という、実に効果的な言葉を創出した。「共産主義化」をイデオロギーに、入り口を「殴ることは指導」「殴ることは援助」で暴力に参加させ、出口を「敗北死」で完結させ、ステージを先へすすめてしまったのである。


 森は責任逃れの方便であることを自覚していたし、ほかのメンバーもそれはわかっていた。その証拠に、後に逮捕され、同志殺害を追求されたとき、誰一人として、「敗北死」などといわなかった。罪悪感から逃れるために、「敗北死」にすがりついたのである。


 「敗北死」の理論がまかり通ったのは、外部と遮断された閉鎖空間だったからである。もし、外部とつながっていれば、外部からの圧力によって指導方法が見直されたにちがいない。さらに悪いことには、指名手配者が多かったため、遺体を家族に返すこともなく、秘密裏に埋葬することになった。


 結局、「敗北死」の踏み絵を踏んでしまった以上、メンバーは、贖罪意識を背負って、尾崎以上に頑張り、革命戦士をめざすしかなくなった。途中下車という選択肢は、森によって、「山を降りる者は殺す」と出口を封じられていた。


 この日、榛名ベースに合流した進藤、遠山、行方の3人は、驚くことばかりであったが、次に、おのれにふりかかるであろう総括を考えると、心穏やかでいられるはずはなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html


1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html


(進藤隆三郎は榛名ベースに殺されに来たようなものだった)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-進藤隆三郎顔写真


進藤隆三郎(享年21歳)


【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 赤軍派
【学歴】 日仏学院
【レッテル】 ルンペン・プロレタリアート、不良
【総括理由】 金めあての闘争参加。女性関係。逃亡の意思。
【総括態度】 「縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
【死因】 殴打による内臓破裂


(加藤能敬と小嶋和子は外に出され、立ち木に縛られた)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-木立に縛られた加藤・小嶋

※横になっているのは見張りの山田孝と岩田平治


■「山谷物語を聞いてるんじゃない!」(森恒夫)


 全体会議は72年の1月1日に入っても続いたが、正月を迎えるような雰囲気ではなかった。全員の発言がすむと、森氏は進藤氏を批判し始めた。森氏の批判は激しく攻撃的なものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 進藤は、山谷や寿町の寄場で、暴力団手配師との闘争などをしていたところ、寿町で植垣と知り合い、赤軍派のシンパとして活動を共にするようになった。M作戦(銀行強盗) を行う頃には、持原好子と一緒に生活していた。森は精神的に消耗した持原への処刑命令 を出すが、実行されずにすんでいた。


 植垣によれば、進藤は、一緒に活動しているだけで、赤軍派メンバーという意識も薄かったとのことだ。そのため、森に対するリスペクトも少なく、従順というわけではなかったようである。森はそれが気に入らなかったであろう。


 森の進藤への批判は、闘争よりもむしろM作戦(銀行強盗)のために赤軍派に参加したこと、ルンペン的であること、持原との関係で自分も処刑されるかと思ったと話していたこと、などであった。


 進藤は、つきつけられた問題を1つ1つ、重苦しい感じで答えていった。

 私は寝ることを森氏らに断って、被指導部の人たちの後ろに行き、シュラフに入ってすぐ寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このやり取りの中で、森君が、「山谷物語を聞いてるんじゃない」と言って、進藤君の話をさえぎろうとすると、進藤君が、「自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と言って、なおも山谷を中心とした活動を話そうとした場面があった。森君に逆らって自分の意思を押し通すなどということは、容易に出来ることではないので、これは印象深い出来事であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「縛ってくれ」(進藤隆三郎)
 討論は未明まで続き、森は進藤に最終的にどう総括するのか問い詰めた。

 すると進藤君は自分から、「縛ってくれ。自分はその中で総括する」と言った。この言葉は、進藤君の最大限の誠意の表れだった。ところが森君は、「縛ってくれなどと言うのは甘えた態度だ。われわれの方で君を縛って総括を求める」と言って、これをけった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 森君は、われわれ指導部のものに向かって、進藤君を全員で殴打することを提起した。この時、尾崎君のときの殴打に触れ、「ひざで殴ったのはまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と言った。これは森君自ら”敗北死”のペテンを認めるものに他ならなかった。(中略:坂東に命じて縛らせる)

 それがおわると、非常に厳しい口調で、「みんなに殴られて総括を深化しろ!」と進藤君に向かって言った。(中略)
 「自分から縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どれほど眠っていたかわからないが、ドタドタという足音が耳元にし私は驚いて起きた。皆は血相を変えて森氏のあとを追い、森氏と進藤氏を取り囲むところだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森がものすごい勢いで7〜8発、続いて山田、坂口、吉野が、腹部を殴った。進藤は、「総括します。分かりました」と言っていたが、やがて失禁をした。


■「革命戦士になるためにこんなことが必要なのか!」(進藤隆三郎)

 しばらくすると彼は、思い余って、「何のためにこんなことするのか分からない!革命戦士になるために何でこんなことが必要なのか!待ってくれ!」と叫んだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 「こんなことで本当に総括といえるのか?」といわれたときには、心臓がドキドキしました。彼のいうことに答えきれる内容があるのか? そんなことを考える自分はやはり森同志のいうように甘いのかもしれないなど、自分にこだわり、自分の頭の中だけが忙しいだけでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、「自分で考えろ!」と突き放した。指導部が殴り終えると、下部メンバーが進藤を殴った。吉野の証言によれば、永田が下部メンバーに殴るようにいったそうである。

 女性メンバーに殴られたとき、進藤君は首を垂れて、「有難う」と言った。すると森君は叩きつけるように、「甘えるな!」と言い、女性メンバーに代わって進藤君の腹部を数発立て続けて殴った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「私には殴れない」(遠山美枝子)
 森は、行方と遠山にも殴るように指示した。彼らは殴れないでいたのである。

 行方氏は森氏にいわれてすぐ殴ったが、その殴り方は森氏ら男の人たちが殴ったときのような激しさはなかった。(中略)


 続いて遠山さんも殴ろうとした。しかし、殴ろうとした遠山さんは、その途中で森氏を見上げて、「私には殴れない」といった。皆は黙っていた。森氏は、「殴れ!」と強い口調でいった。遠山さんは必死の面持ちで進藤氏を数回殴った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 坂口によれば、遠山が殴れないでいると、メンバーは口々に「だらしがない」といって非難したそうである。

 そのうち、私は進藤同志の腹が赤くなっているのに気づきました。同じくらいに森同志も気がついたようでした。森同志は私を呼んで「大丈夫か?」といくらか心配そうにいい、私の方は、「わからないけど、早く気絶させるか、やめたほうがいいと思う。ミゾおちなら早く気絶するかもしれない」といったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 一体、何順しただろうか。このときの殴打もたまらなく長く感じた。終わりの方になると、進藤君の腹部は、赤色のかなりの部分が鮮やかな緑色に変色した。目も当てられぬ惨状であった。多分、内臓破裂したのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「もうダメだ」(進藤隆三郎)
 森によれば30分ぐらいたったところで、中止の指示を出し、外の木立に縛っていくように命じた。

 私、坂東君、山田さん、吉野君等で、進藤君を支えながら、加藤君たちを縛ってある木の近くに連れて行った。この時、進藤君は、喘ぎながら、「自分で歩いていきます。大丈夫です」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 しかし、進藤は途中で力尽き、自分で歩けなくなってしまった。

 この時、私は、「進藤は芝居をしているんだ!」と彼に罵声を浴びせた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂東も、甘えていると腹をたてた、と証言している。

 そのあと指導部会議が開かれた。森は進藤への批判を再確認するように繰り返した。、

 指導部会議を続けていると、岩田氏が、小屋に駆け込んできて、「進藤が、立ち木に縛られてしばらくして、『もうダメだ』といって死んだ」と報告した。私はびっくりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は極めて冷静にこの報告を聞いた。私も冷静であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口によれば、報告したのは岩田でなく山田ということになっている。


■「敗北死や」(森恒夫)

 森氏は、進藤氏の報告を聞くと少し考えていたが、


「敗北死や。縛ってくれといえば縛られないと思ったことが見破られ、殴られて縛られたことから共産主義化の為に闘う気力を失ってしまったんや。だからこそ、『もうダメだ』といったあと死んだんや。『もうダメだ』という気力がある位なら、共産主義化のために努力し共産主義化を獲ちとることができたはずや」


といった。この森氏の総括に、私はたしかにそうだと思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は本当にそう思ったのかもしれないが、「敗北死」はもちろんペテンであった。

 私自身、尾崎君の時以上に彼の死が殴ったことに原因するのではないかということを考え、腹部を強く何度も連続して殴るとそのときはすぐに肉体的に表に出なくても致命的な痛手を与えることになるので、今後は絶対そうしないでおこうと思ったりした。

(森恒夫・「自己批判書」)


■「進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった」(永田洋子)


 指導部会議のあと、全体会議を開いた。このときも森の求めに応じて永田が説明した。

 続いて森が進藤への批判を繰り返したが、女性が殴ったのに対し、「ありがとうございます」といったのは、女性をバカにしたものだ、という批判も行った。非指導部のメンバーも、進藤に対する怒りの空気が充満していたようだ。

 こうして、進藤隆三郎氏は、私自身でさえ、なんだかよくわからないうちに榛名ベースで1日もたたずに、暴力的総括によって「殺害」された。進藤氏の死は、腹部への激しい殴打による肝臓破裂だったのである。進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 こうして、同志を信頼せず、同志を自分のことのように考えきれず、おくれた人間として考える私のあり方が、榛名ベースに来て一日もたたずに、殺す事態をもたらしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 死の予感を抱きながら榛名ベースにやってきた進藤君の胸中は察するに余りある。殴打中の進藤君は、驚嘆すべき強靭な生命力を発揮し、その叫びは、総括を求めるわれわれの愚劣さと残酷さを厳しく告発していた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 同志に対する暴力への抵抗は消えていなかったが、「暴力=援助」論 に明確な反論ができない以上、幹部の指示に従わないわけにはいかない。否、むしろ指示がなくとも積極的に振舞わなくてはならない。そんな相反する気持ちの中で、自分は弟とともに最下位の兵士なので、それほど積極的に振舞わなくても大目にみられるだろうとも考えていた。そこで、同志を殴らざるを得ない場合も、強すぎもせず、弱すぎもしないように殴るという態度を取ることにした。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 進藤君の努力を認識しつつも、人間的な感情を押し殺し、共産主義化の戦いの厳しさをのみを観念的に拡大していき、その論理に安住することによって、現実や実際的な人間的感情と乖離していった。私のこうした過程が、ほかのメンバーに巨大な影響を与え、彼らの精神的荒廃をもいたらすまでになっていたのである。
(森恒夫・「自己批判書」より筆者が要約)


■出口のない「総括」と「未必の殺意」

 進藤は榛名ベースに到着したばかりで、新たに批判されるようなことはしていない。つまり、赤軍派時代の批判 がそのまま繰り返された。


 赤軍派時代は、「銃−共産主義化」論 に基づいて、銃の訓練をする程度だったのだが、森のものさしが変わってしまったため、ここでは暴力的総括にかけられたのである。ということは、森にしてみれば、進藤・遠山・行方を榛名ベースに呼んだ時点で、暴力を加えることは、規定路線だった。それゆえ、3名を榛名バースへ呼ぶことを躊躇 していたわけだ。


 革命左派メンバーにとっては、進藤への批判は何もわからなかったはずだが、積極的に関わることが共産主義化に必要なことと信じ、進藤を殴ることにためらいはなかった。このあたりは、新たに参加した赤軍派のメンバーと、はっきりとした心理的対比をなしている。


 坂東は、進藤・遠山・行方を「3人とも総括できている」といって榛名ベースにつれてきた張本人 なのに、かばう気配もなく、森の批判に同調し、進藤を殴っている。このあともそうだが、坂東は、自分の意見を主張せず、常に森の指示を冷酷に実行するのである。


 森は、坂東に「大丈夫か?」と尋ねていることから、殺意があったとは思えないが、腹を「鮮やかな緑色」(坂口)になるまで殴って、状態を確認することもなく、極寒の中、木立に縛りつけたら、死亡するのは当然である。「死んでもかまわない」という「未必の殺意」があったと考えるのが自然であろう(もちろん彼らの手記にはそんなことは書かれていないが)。


 さて、進藤の自己批判の内容はというと、植垣に押し付けられた総括をもとに、事実以上に露悪したと思われる。しかし、露悪することは、総括を認められるどころか、逆に怒りをかう結果となった。後の被総括者もたびたび露悪することになるのだが、それはことごとく失敗に終わるのである。


 黙っていれば「隠している」、反抗すれば「総括する態度ではない」、露悪すれば「反革命だ」、などと、森は出口という出口をふさいでいる。森の手記にも、どうなれば総括したことになるのか、ひとことも書かれていないので、あとから考えても出口はみあたらないのである。


 しかも、進藤への批判は、連合赤軍はおろか、赤軍派に加わる前のことであった。榛名ベースでは、あとから法律を作って裁く 「事後法」 がまかり通っていたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html

1972年1月1日 小嶋和子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html

(小嶋は何を言っても悪意に解釈された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-小嶋和子顔写真


小嶋和子(享年22歳)
【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 革命左派(中京安保共闘)
【学歴】 市邨学園短大
【レッテル】 ヒロイズム 小ブルジョア急進主義、精神の病
【総括理由】 自己陶酔的態度、加藤能敬とキスして神聖な場をけがした
【総括態度】 「集中していない」「反抗的」「指導部を憎悪」
【死因】 凍死


■メンバーの状況(1月1日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左)
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 外の木立に緊縛中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 外の木立に緊縛中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
遠山美枝子(赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず
行方正時 (赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)


■「小嶋は闇を恐れるから、目かくしをするといいんじゃないか」(加藤三男)

 全体会議が終わった頃、雨が降り出したので、外の木立に縛られている加藤と小嶋を小屋の床下に移すことになった。

 N・K氏が、「小嶋は闇を恐れるから、それを克服するために目かくしをするといいんじゃないか」といった。私は、小嶋さんが真夜中がこわいといっていたのを思い出し、「たしかに小嶋は闇を恐れる」といった。すると森氏が、「革命戦士としては、それは克服させねばならないことだ」といった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このとき、小嶋が1人で歩こうとしなかったことも批判された。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-目隠しをされた小嶋和子


■「総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」(加藤能敬)

 このあと指導部会議が続けられたが、しばらくすると、床下で柱に頭を打ちつけている音がした。それはかなり長く続いた。森氏は、それに対し、「あれは小嶋や。小嶋はあんなことをして総括に集中していないんだ。総括しようとしていないのだ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森と永田が見に行くと、柱に頭を打ちつけていたのは、小嶋でなく加藤だった。

 森氏が、加藤氏の体をゆさぶるようにしながら、「おい、どうした」と聴いた。それは、驚いた声ではあったがやさしいものだった。加藤氏は、「こうしていても、ボヤーとして総括に集中できなくなる。それが悲しい。総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」といった。

 森氏は、「そうか、総括しようとしているんだな。よし、おまえを小屋の中に入れよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 加藤を小屋に入れてから、森は加藤の手を湯につけて揉みほぐしたり、「総括できるのも間近だろう。それまで頑張れ」とはげますように声をかけた。柱にしばるときも、「苦しかったらいってくれ」と少しゆるく縛った。

 床下で頭を柱に打ち付ける音がした時、森氏は「あれは小嶋や」と決めつけ、それを総括に集中していない表われとみなした。ところが、打ちつけていたのが加藤氏とわかると、評価は一転して総括していようとしているとみなしたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 だが、私は、加藤君を床下から部屋の中へ移す段階ですでに加藤君に対しては総括の期待をもっていたが、小嶋さんについては恐らく総括できないのではないかという事、即ち総括できないだろうから死ぬかもしれないがそれでも最後まで可能性を追求してみようという事を思っていた。
(森恒夫・「自己批判書」)

 私は、総括を要求されたものが次々と死んでいく中、兄が総括できそうだと森らに認められたことに胸が熱くなるほどの喜びを感じた。永田は私が嬉しそうな顔をしていると言い、小屋に戻された兄の服を着替えさせようとすると、「兄さんが頑張っているのだから、あなたも頑張らなければいけない」と、私が兄に近づくことを止め、小嶋の見張りにつくよう指示した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


■「小嶋は永田さんを恨んで死んでいった」(森恒夫)


 私と伊藤とで、小嶋の見張りをしていたが、兄が小屋に戻されてしばらくすると、様子がおかしくなってきた。私たちが見張りについたときには、顔を前に向けていたのだが、突然頭をガクンと垂れてしまった。その様子を見た伊藤が私に、「森さんたちに報告してきて」というので、小屋の中に急いで行き、小嶋の様子がおかしいと報告した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 森や永田たちが、あわてて様子を見に行き、人工呼吸を施すが、小嶋が息を吹き返すことはなかった。

 森氏は、小嶋さんの顔を見ながら、「怒ったような顔をしている。永田さんを恨んで死んでいったんやろう」といった。私は意味が分からず、「エッ」といった。森氏は、「あたりまえじゃないか。それがわからないのか」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 最後に彼女の様子がおかしいという事で我々が床下へ行った時、彼女はすでに絶息していたが、口を大きく開けて目を見開き点をにらみつける風な感じで恐らく死ぬまで我々のことを憎悪していたと思われる程であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「死をつきつけても革命戦士にはなれない」(山田孝)
 そのあと指導部会議を開いたが、会議は重苦しく沈痛なものだった。森もすぐには「敗北死」とは言い出せないでいた。

 そうしたなかで、山田氏が、森氏に体を向けて指をさし、少しきつい調子できっぱりと、「死は平凡なものだから、死をつきつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」といった。(中略)

 山田氏は森氏をジーッと見つめ、森氏は考えるような感じで山田氏の目をはねつけていた。2人は火花が散るほど対立し合っていたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、山田さんに共感したが、助け船を出すことも出来ず、成り行きを見守った。2人はジーッと睨み合っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 そのうち、森氏は、断乎とした強い調子で、「いや、そうではない。死の問題は革命戦士にとって避けて通ることの出来ない問題だ。従って、精神と肉体の高次な結合が必要である。そのために、今後は心理学と医学を学ぶ必要がある」と主張した。山田氏は、「ウーン・・・精神と肉体の高次な結合か。よし、わかった」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「共産主義化には精神と肉体の高次な結合が要求される」(森恒夫)

 森は、小嶋の死は、共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へとつながったと説明した。

 森氏はさらに、「小嶋は最後まで総括しようとしなかった。だから、死顔は恐ろしい顔をしてにらんでいたのだ。だいたい、あの直前まで元気だったのに急に死んだのは敗北死をよく示している。小嶋は加藤が小屋にあげられ自分だけが床下におかれたため、絶望して敗北死したんだ。共産主義化は精神と肉体の高次な結合が要求されているのだ」と主張した。山田氏はうなずいた。森氏のこの主張に皆もそうかという様子になり、それまでの沈痛な雰囲気が急速に薄れていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「精神と肉体の高次な結合」とは、共産主義化しようとしていれば、寒くても凍死しないし、食べなくても餓死しないし、銃で撃たれても死なない、という荒唐無稽な精神主義である。

 それ故、暴力的総括要求による死はすべて、「肉体と精神の高次な結合」を獲ち取れなかった「敗北死」ということになるのである。(中略)しかし、共産主義化に必死になっていた私たちは、ひたすらそのために「努力」し、その荒唐無稽さを考えもしなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 現実に価値をおかず、同志の痛みを自らの痛みとしえない同志愛、人間愛の欠如が、死すら精神で乗り越えるという極端な論理を作り、これをもって同志の死を無視したのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 我々はその後前述の様に2人の死亡でどの様な違った方法を考えるべきか討論していたが、結局、具体的な回答は出なかった。ただ、今までの殴る−縛るという方法が全く間違いであったという事で問題にしたのではなかった事、革命戦士にとっての"死"の問題は必ず英雄的な気概によって乗り越えなければならない問題であり、でなければ殲滅戦はとても闘い抜けない事、従って死に対する恐怖を払拭し、いつでも権力に死を賭けた戦いを挑む準備がなされていなければならず、縛られてからでも「自分が死ぬのではないか」と考えたり「死にたくない」と思ったりする事がすでに敗北のはじまりであると確認されていった事から、2人の死亡に直面して何とかこうした方法以外の方法を見つけ出そうとすることが考え出されなかったことは当然であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた」(永田洋子)

 全体会議では、永田が小嶋の「敗北死」を森の主張の受け売りで説明した。しかし、さすがに3人もの「敗北死」は、割り切れない思いがあったようで、全体会議は盛り上がらなかった。

 それぞれの発言は「敗北死」の規定を追認し、自分は共産主義化した革命戦士になると決意表明するものがほとんどだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さん、行方氏は、暴力的総括要求の現実と死者の続出の緊張感にすっかり落ち着きをなくしていた。特に、遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた。行方氏は、そういうなかでも動揺してはならない、元気でいなければならないと思って必死に努力しているようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪」(森恒夫)
 森の「自己批判書」を読むと、小嶋のいった言葉や態度をいちいち悪意に解釈して、それを解説している。「彼らの名誉回復の為に」といっているわりには、もう一度「総括」をやりなおしている感じである。


 この日も永田が指摘しているように、頭をぶつけているのが、小嶋だと決めつけ、「総括に集中していない」と悪意にとらえ、加藤だとわかると、「総括しようとしている」に変わった。


 「小嶋さんは殴られしばれても決しておとなしくはせず、毅然として自分の意見や要求をはっきり説明していた」(永田洋子)という。つまり、最後まで屈服はしなかった。それが、森にとっては、「反抗的」と映り、気に入らない存在だったのであろう。


 それを認めるように、森は小嶋について最後にこう述べている。

 彼女(小嶋和子)については・・・(中略)・・・何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪でしかあり得ない。
(森恒夫・「自己批判書」)


 だが、この一文にしたって、「憎悪」は小嶋が先と決めつけている。その上、「でしかあり得ない」と、対岸の火事を眺めるか如きなのである。


 それに加えて残酷だったことは、メンバーのおそらく全員が小嶋を蔑視し、無視するようになっていたことである。


■またもや歯止めをかけるチャンスを逃した
 この日、山田が、「死をつきつけても革命戦士にはなれない」と、森との対決姿勢を示した。山田のほうが森より、赤軍派的には立場が上(赤軍派発足時の組織図)だから、暴力や緊縛をやめさせるチャンスだった。だが森はまたしても、「精神と肉体の高次な結合」という言葉を生み出し、イデオロギーと言葉のパワー によって、山田の抗議ををはねつけてしまったのである。


 山田がどういう気持ちだったのかはわからないが、彼は、この言葉によって、振り上げたこぶしをいとも簡単に納めてしまった。理論家の山田が納得したとは思えない。もし、誰かが山田の援護射撃をすれば、暴力と緊縛に歯止めがかかった可能性もあった。


 こうして、尾崎充男が死亡して、「敗北死」の踏み絵を踏んだときに続いて、またしても歯止めをかけるチャンスを逃してしまった。

 かくて、尾崎君の死を精神的な敗北としたことは進藤、小嶋さんの死によってますます純化され、意識的に死の恐怖に対する挑戦を要求することが必要であるという地点に迄至ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 かくて、森の脳内理論は暴走しつづけるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html


1972年1月2日 植垣・山崎・青砥が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

(指導部はカーテンで仕切られたコタツにこもりっきりだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議
 前日(1月1日)は、進藤隆三郎、小嶋和子が相次いで「敗北死」し、尾崎充男と合わせて犠牲者は3名になった。自分たちの行動が、目指したことと、つじつまの合わない結果が出れば、そこで立ち止まり検証するのが普通である。


 しかし森は、「敗北死」や「肉体と精神の高次な結合」という言葉を放って、見事につじつまを合わせてしまった。合理的に考えれば、そんなことがあるはずがないが、それは誰にとっても免罪符になったから、メンバーは異議をとなえるどころか、進んで受け入れてしまったのである。


 ただし、それは同時に、自分が「敗北死」する可能性を受け入れるということでもあった。「敗北死」を逃れる方法はただひとつ、共産主義化を達成して、革命戦士になることであった。


 1月2日には、残りの赤軍派メンバー(植垣、山崎、青砥)が榛名ベースへやってくる。植垣が榛名ベースの雰囲気を伝えているのでそれを紹介する。


■メンバーの状況(1月2日・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍) 独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左) 学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左) 永田とは夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍) 暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍) 森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左) 1月2日 東京経由で榛名ベースに戻る。
吉野雅邦 (革左) 暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左) 会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左) おしゃれ(パンタロン)や男性関係を批判される。
杉崎ミサ子(革左) 革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左) 断固とした態度で暴力に加わる。
岩田平治 (革左) 言動が森に評価される。
山本順一 (革左) 運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左) 山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左) 永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 長男。小屋内の柱に緊縛中。
加藤倫教 (革左) 次男。兄の様子が心配。
加藤三男 (革左) 三男。兄の様子が心配。
遠山美枝子(赤軍) 死者続出に動悸が激しくなり落ち着かない様子。
行方正時 (赤軍) 死者続出に必死に動揺を抑えている様子。
植垣康博 (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
山崎順  (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
青砥幹夫 (赤軍) 1月2日 東京経由で榛名ベースに合流。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)


■「前沢氏になんでもない風に装った」(植垣康弘)
 赤軍派の植垣康弘と山崎順は、新倉ベースの後始末(指紋消しなど)を行った後、1月2日の昼ごろ榛名湖のバス停に到着した。しばらくして、前沢が迎えに来た。

 前沢氏は、道々、付近の地理を案内してくれたが、その際、すでに2名が死んで小屋の近くに埋められていること、その1人は進藤氏であることを語った。私は、目まいを感じるほど驚いたが、彼がそのことをこともなげに語ることにも驚いた。ある程度予感していたことが、現実のものとなったことに強い圧迫感を受けた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 前沢は「敗北死」の説明をしなかったので、植垣は、2人は総括できないため殺されたと解釈した。

 しかし、私は、これに敗けてはならないと想い、前沢氏になんでもない風に装った。というのは、彼の態度があまりにも堂々としていて、2人の死に驚いているようではダメだといっているようなものだったたうえ、前沢氏が私たちの様子を観察しているようだったからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 大槻さんに再会できる喜びは大きかったものの、彼女に批判されるのではないかという恐れも一段と大きくなり、どういう顔をして彼女にあったらいいか困ってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、12月の共同軍事訓練のとき、革命左派の大槻節子に恋心を抱いたのだが、夜中に大槻に困ったことをしていた 。


 そのため、より総括の厳しくなった榛名ベースにおいては、彼女に批判されるかもしれないと、心配していたのである。


■「森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していた」(植垣康弘)
 大槻への心配は杞憂に終わり、彼女は植垣を笑顔で迎えた。

 しかし、小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんも共同軍事訓練のときのようなはつらつとした感じが見られなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、柱に縛られている加藤に気づいた。そして、おびえたような顔をしている遠山と行方に声をかけるが、2人には返事をする余裕もなかった。すると、森は、「こっちへ来い」と、植垣と山崎を指導部のこたつに呼んだ。

 私は、立ったまま、森氏に、「来ました」と挨拶したが、森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していたうえ、ほかの指導部の人たちも同じような目つきをしていたので、その威圧的な雰囲気に圧倒されそうになった。しかし、踏ん張って何気ない態度を装った。だが、山崎氏は少し萎縮し、態度がぎこちなく、森氏の威圧的な態度に圧倒されそうになっていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は森に新倉ベースの後始末を完了したことを報告した。そして永田に促されて、メンバーひとりひとりに挨拶をした。

 この時、私は、縛られている加藤氏に挨拶しなかった。私自身のなかに総括要求されている者を差別する気持ちがすでにあったのである。加藤氏を除く全員に挨拶を終えて指導部のところに戻ると、永田さんが、「もう一人忘れてはいない?」といった。私は、加藤氏を差別したことをつかれたように思い、あわてて加藤氏のところに行って、「植垣です。よろしく頼みます。大変でしょうが頑張ってください」と挨拶した。加藤氏は、「加藤です。こちらこそ」と答えた。このやりとりがおかしかったのか、その場にいた皆が笑った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「山田氏や坂東氏も威圧的になり、永田さんもよそよそしくなっていた」(植垣康弘)


 ベース内の雰囲気には、あまり暗さはなかったが、非常に緊張しており、それが全体を重苦しくしていた。旧革命左派の家族的雰囲気はなくなり、指導部と被指導部の区別が旧赤軍派の時以上にはっきりし、指導部に近寄りがたい威圧感があった。


 森氏に進藤氏のことを聞いてみても、「そのうちわかる」としか答えず、声をかけることさえはばかられる有り様だった。山田氏や坂東氏も、それまでの気楽に話せる親しさがなくなり、威圧的な」態度をみなぎらせていた。


 永田さんも、以前にはよく被指導部の人たちと一緒に話していたのに、指導部のこたつにおさまっていて、すっかりよそよそしくなっていた。


 指導部一人ひとりの性格までかわってしまったかのようだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「大槻さんは女まる出しだ」(森恒夫)
 夜、全体会議が始まった。

 私は、自己紹介したあと、進藤氏の死は彼を総括させられなかった自分の責任である、M作戦には反人民的行為など多くの問題があり、それを今後総括して行きたい、丹沢での痴漢行為 は女性同志を女としか見ていない女性蔑視であり、謝罪すると自己批判した後、勇気を出し、思い切って、「新たな問題として、共同軍事訓練の時、大槻さんを好きになってしまったことがあります。大槻さんと結婚したいと思ってます」といった。


 私は、この時、激しく批判されるのではないかと覚悟していたが、皆は驚いたような顔をしただけで、何もいわなかった。大槻さんはひどく恥ずかしそうにうつむいた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森氏は、「お、いいじゃないか」といった。ところが、私は、(中略)「大槻さんには渡辺との関係の総括、向山との関係の総括が問われているのだから、これらをぬきに当面結婚は考えられない」といった。すると、森氏は、「お、いいじゃないか」といったのを忘れてしまった如く、植垣氏と大槻節子さんの結婚は当面ではなく、絶対考えられないように主張しだした。私はこの森氏の変化に面食らってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 渡辺と向山とは大槻の以前の恋人である。渡辺は上赤塚交番襲撃事件 で逮捕され、向山は、すでに処刑されていた(印旛沼事件 )。


 これまでもずっとそうだったのだが、森は、永田が厳しいことをいうと、それにかぶせるように、より厳しいことをいった。


 一般に、同じ思想を持った集団では、より過激な意見に反対するのは難しい、といわれている。森は常に一番過激な意見をいって、その場をリードした。

 続いて、山崎氏が自己紹介し、組織関係を利用して女性をはき捨てるように利用してきた。運転手の地位に安住し、それ以上のことをやろうとしなかったと自己批判した。私も山崎氏も批判されなかったので、ホッとしたものの、進藤氏したちへの非常なきびしさを思うと、批判されなくてもいいのだろうかともやもやした気持ちが残った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 続いて皆が自己紹介した。

 この自己紹介のなかで、大槻さんが、やはり恥ずかしそうに、「植垣君にはヴァイタリティがあります。植垣君の申し出を素直に受け止めたい」といった。今度は私がうつむいてしまう番だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 ところが、この時、森氏が指導部の者にいうように、「大槻さんは女まる出しであり、総括よりも男女関係の方を優先させている。総括なんて考えていない態度だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻に対する森の批判について、革命左派時代に一緒に活動した京谷明子は以下のように述べている。

 (大槻さんは)とっくの昔に「革命家の女 」なんですよ。たまたま女だっただけであって、男だ、女だと言ってない。(中略)
 大槻さんは綺麗だったから、女としてみていたのは森さんであって、大槻さんはぜんぜん自分は女だという意識はなかった。京浜安保は、女のほうがずっと勇敢だったんです」
(京谷明子・「情況2008年6月号」 京浜安保共闘の女性たち)


 「京浜安保共闘」というのは、「革命左派」の合法部隊の名称である。


■「『敗北死』という言葉がにわかには理解できなかった」(植垣康博)

 自己紹介がすむと、森氏、植垣と山崎に、「2人は圧倒的に遅れている。しばらくの間、皆から教われ」といった。そのあと、永田が小嶋の「敗北死」について総括した。

 私は、まだ死者がいることに驚いたが、「敗北死」という初めての言葉がにわかには理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「スプライトを飲んだことを自己批判する」(青砥幹夫)
 全体会議の最中、寺岡と青砥が榛名ベースに帰ってきた。青砥は始めての榛名ベースである。寺岡も青砥も、死者が出たことは、このとき初めて知ったはずである。

 青砥氏は各自の発言が終わったあと自己紹介し、新党結成の指示を表明した。また、東京に行った時にスプライトを飲んだことを自己批判し、「これまで金遣いが荒く無駄な活動が多かったけど、今回、寺岡さんと一緒に東京に行って行動を共にするなかで、節約の精神を身につけることが出来た」と発言していた。


 私ははたしてスプライトを飲んだことを自己批判することが共産主義化に必要なのだろうかと思い、あっけにとられた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は青砥は、革命左派の女性との関係について自己批判すべき問題があった。だが、この時は、わざわざスプライト(炭酸飲料水)を持ち出して、さしさわりのない自己批判でやりすごしたのであろう。


■榛名ベースは異様な緊張感につつまれていた

 この日、合流した赤軍派3名は、これまで森にそれほど厳しい追求を受けていなかった。それは3人が責任をしっかり果たしていたことと同時に、それぞれの存在価値があったからだと思われる。


 植垣は爆弾製造や戦闘能力にすぐれ、青砥は合法部とのつなぎ役として、山崎は車の運転ができた。当時、まだ車が少なかった時代なので、運転免許を持っている者も少なく、このときのメンバーで、ほかに運転免許を持っているものは、山本順一だけだったと思われる(小嶋和子も運転手役だったがすでに死亡している)。


 彼らは予感していたとはいえ、榛名ベースの異様な緊張感に驚いた。ましてや、道中、進藤の死を聞かされたから、圧倒される思いだったに違いない。


 これで現状において、集められるメンバーが揃った。ということは・・・・・あとは減る一方なのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c83

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
84. 中川隆[-11454] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:33:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[541]

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

(遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真


 今回は1月2日の続きである。


 遠山美枝子が総括要求されるのであるが、遠山への批判は、過去のものと全く変わりがない。そこで、まずは、遠山美枝子について、これまでの経緯をまとめておく。


■遠山美枝子が榛名ベースへやってくるまで

 遠山は明治大学時代、重信房子の親友になり、赤軍派で主に後方支援や救援活動を行ってきた。


 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。


 遠山は、当時の赤軍派の幹部・高原浩之と結婚していたため、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。これは、遠山に限らず、赤軍派伝統の慣習的なものだった。


 その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練 に参加した。軍の闘争や非合法活動に縁の遠かった彼女が、なぜいきなり共同軍事訓練に参加したのかは、はっきりしていない。森が人数合わせのために呼び寄せたという説や、救援活動に役立てるための見学のつもりだったという説がある。

(後に紹介するが、総括では、別の理由だと、決めつけられてしまう)


 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。これを 「遠山批判」 という。遠山批判は、その前日に 「水筒問題」 で赤軍派に批判された革命左派が、赤軍派に対してカウンターパンチを放ったものだった。党派的な争いの手段としての批判だったのである。


 ところが、森は、遠山をかばうことなく批判をじっと聞いていた。森は、革命左派の吊るし上げともいえる集団的批判こそ 「共産主義化」 の実現方法であると考え、翌日には、森のほうから、遠山に対して、赤軍派時代の闘争へのかかわり方を糾弾 しはじめた。


 森の批判が、革命左派のそれと違っていたのは、過去の活動への批判だったことだ。これが、いわゆる 「総括」 の始まりであった。


 革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。


 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


 共同軍事訓練が終わり、森が榛名ベースへ行った後も、遠山はずっと批判され続けていた 。ただし、このときまでは 「銃−共産主義化論」 に基づき、銃の構え方の訓練をえんえんとやらされるだけですんでいた。


 森は、榛名ベースに来てから、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れた。そこへ遠山たちが榛名ベースに呼び寄せられたのである。


 遠山が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして、遠山と一緒に榛名ベースにやってきた進藤隆三郎が、その日のうちに殴打によって死亡 してしまった。


 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。ちなみに遠山とともに榛名ベースに合流した行方正時も、革命左派による批判こそなかったものの、ほぼ遠山と同じ経緯をたどっている。


 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)は、何も変わっていないのだが、森のほうが変わってしまっていたのである。


■「小嶋のようになりたくない。・・・・・死にたくない」(遠山美枝子)

 森氏は、「遠山にはちゃんと批判しなければならない」といって、遠山さんを批判していった。
  「小嶋の死を自分が総括する立場からどうとらえているんや」
  「革命戦士になろうとしなかった者の敗北死だ。私は革命戦士になって頑張る」
  「革命戦士になって頑張るというだけでは総括にならん。どう革命戦士になろうとするのか」
 遠山さんは革命戦士になることに決めているとか、革命戦士になるつもりで榛名ベースに来たなどといったことを答えたが、森氏はそう答える度に強い口調で、「違う!」「そんなのは総括じゃない!」と批判した。
 そのため、遠山さんは答えることができなくなって黙ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そこで、森君は、彼女が榛名ベースに来てから初めて所持金を提出したこと、髪の毛を短くカットしてこなかったこと、従来の彼女の組織活動に対する関わり方が、闘争と組織のためというより、個人的な関心によってなされていた要素が大きいこと、合法活動のなかで権力との接触によって、精神的、肉体的に大きな負担を負うようになり、とても殲滅戦を闘い抜ける力を持っていないこと、さらに合同軍事訓練のとき、腹部に衝撃を受けたと言って訓練を中止し、ずる休みをしたことなどの点を列挙して詰問した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 すると、被指導部の人たちが、口々に、「黙っていないでなんとかいえ!」「総括する気があるのか!」などといいたてた。遠山さんは、落ち着かない様子でそのようにいう被指導部の人の方をキョロキョロと見ていたが、そのうち思いつめた表情で、「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせ総括させよう」(永田洋子)


 森氏は、遠山さんの発言に強い調子で、「我々にとって生きることは、革命戦士になって生きぬくことでしかない。『死にたくない』というのは、死にたいしてのブルジョア的な恐怖心であり、そのことをいうこと自体すでに敗北死の始まりだ。柴野君のように死ぬ ことが革命戦士として生きることなのだ」と批判した。


 私はその通りだと思った。森氏はこのあともさらに追求していったが、遠山さんは、顔面を蒼白にさせて、「死にたくない」「生きたい」と答えることしか出来なくなってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、森氏の追及は、遠山さんを追い詰めるだけで総括させることにならない。これではまた暴力を持ち込むことになるだけだ。実践によって総括させるのが一番よいと思い、指導部の人たちにいう感じで、「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせる実践によって死に対する恐怖を克服させ、そうして総括させよう」といった。森氏は、「それはいい」と答えた。(中略)


 遠山さんは、それまでの追い詰められた様子とはいくらか違って、しっかりした声で、「総括できないときの敗北は死だ。これを乗り越えるために、小嶋の死体は私が埋めに行きます」と表明した。私は、これを聞いて既に半分総括できたと思い、「死体を埋める実践によって総括しなさい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 これは、小嶋さんの敗北死を直視させて決してこういう道を選ばないという決意をさせる事によって、敗北的な傾向を払拭させる目的でそうしたのだが、(中略)彼女を本当に革命戦士にするような方法では全くなく1つの制裁にすぎなかったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「僕もやります。僕もそうして総括します」(行方正時)


 遠山さんが立ち上がりかけると、行方氏が、「僕もやります。僕もそうして総括します」といって立ち上がった。(中略)
 この時、寺岡氏が、「その実践が真に総括しているものかどうかを皆で確認しよう。皆で行ったほうがいい。そうして、遠山さん、行方君の総括を援助しよう」といった。すると、森氏がすかさず、「死体を埋めるのは遠山がやり、行方はそれを手伝え。他の者は手をだすな」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 皆が出かけていったときには、もう3日の午前一時になっていた。


■「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」(森恒夫)
  被指導部のメンバーも、遠山の沈黙を、「総括する態度ではない」とみなし、口々に彼女を批判した。では、何といえばよかったのかというと、おそらく誰にもわからなかった。


 なにせ、森は、「自己批判書」において、遠山に対して、「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」と書いている。さまざまな決め付けとは、男を手段化した、親への依存心が組織では官僚的な態度になる、男性にこびを売る、などである。


 そして、「心理的な問題を拾い上げては恣意的な判断に組みたて、精神的に彼女を縛り上げる残酷な詰問を何時間も行った」と証言しているのである。


 はじめから、「恣意的な決め付け」なのだから、何をいえばいいのかわかるはずがない。遠山は一生懸命言葉を探すが、何をいっても詰問を繰り返される運命だったのである。


 永田は、遠山への総括要求が行き詰ったと見るや、機転を利かして新たな展開に持ち込んだ。だが、小嶋の死体を埋めたからといって問題が解決するわけではない。助け舟を出したのだが、それは向こう岸まで渡れるものではなかったため、追求を一時中断させるものでしかなかった。


 そして、遠山が、小嶋の死体を埋めて戻ってきたあと、遠山を待っていたのは、目をそむけたくなるような制裁だった。


 否! 目をそむけることさえ、遠山は許されなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


(指導部はコタツ、メンバーは土間のストーブの周りが定位置だった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・榛名ベース
 


 遠山美枝子は小嶋の死体埋葬を強要されていた。


 森と永田と、しばられている加藤能敬以外は、遠山の死体埋葬作業を見守るため、遠山に同行した。


■「こんなことをやっていいのか?」(植垣康博)

 遠山と行方は小嶋の死体を引きずるようにして沢の上まで運んでいった。他のメンバーは、懐中電灯で2人の足元を照らしながら、「頑張れ、頑張れ」と声援を送った。

 その光景はそうみても異様だった。しかし、その異様な事態のなかで、誰もが死をめぐって何の動揺もなく動いていること、遠山さんさえ死体埋めにちゅうちょしなかったこと、むしろ、私自身の方がその異様な事態に驚いてしまっていることから、なるほど私の方が遅れていると思ってしまい、山崎氏に、「俺たちのほうが相当遅れているな。本当に圧倒されちゃうよ」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私は、坂東氏をつかまえて、「こんなことをやっていいのか?」と聞いた。私は、それまでの気安さで、坂東氏とよく話し合ってみたかったのである。ところが、坂東氏は、ぶっきらぼうに、「党建設のためだからしかたないだろう」としか答えなかった。私の意見に耳を傾けていたそれまでの坂東氏とまったく違っていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、榛名ベースにきて間もないので、死体運びに付き合うメンバーに対して違和感を感じている。榛名ベースのメンバーはすでに3人の死者を出していたから、免疫ができていたのである。


 それが、彼らの論理では、「遅れている」ということになるらしい。よく話したり、冗談をいったりした坂東も、すでに昔の坂東ではなくなっていた。


■「小嶋の死体を皆で殴れ」(寺岡恒一)


 死体を埋める場所まで運んでくると、遠山は、いきなり死体に馬乗りになり、顔面を殴り始めた。やり場のない怒りをぶつけたようだった。しかし、皆に早く穴を掘るように促された。穴を掘り終わると、死体の衣服を脱がせた。

 そのあと、遠山さんは、再び死体に馬乗りになり、「私を苦しめて」「私は総括しきって革命戦士になるんだ」といいながら、死体の顔面をしばらく殴っていた。
 この時、寺岡氏が、「よく見ろ。これが敗北者の顔だ。こいつは死んでも反革命の顔をしている。こんなやつが党の発展を妨げてきたんだ。こいつを皆で殴れ」といった。


 皆が小嶋さんの死体の顔を1,2回ずつ殴り、私も、妙な気分のまま1回殴ったが、皆が殴っている最中、寺岡氏は、「だんだん死人の顔になっていく」といっていた。


 皆が殴り終わってから、遠山さんと行方氏は、小嶋さんの死体を穴の中に入れて土をかぶせた。そのあと、皆で枯葉や枯れ枝を土の上にばらまき、小屋に戻った。その頃は、もう午前3時を過ぎていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「敗北死は反革命の死ではない」(森恒夫)

 午前3時頃、山田氏と坂口氏の2人が深刻そうな顔をして戻ってきた。そして、山田氏が、「非常に問題なことが起こった。寺岡君が小嶋の死体を皆に殴らせた」と報告した。坂口氏がこれにうなづいた。
 森氏は、「ナンセンスだなあ。もう死体になっているのだから、総括など関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ」と繰り返しいっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、戻ってきた寺岡に質問した。

 「どうして、皆に小嶋の死体を殴らせたのだ?」
 「小嶋の死は反革命の死だと思ったからだ」
 「敗北死は反革命の死として処理することは出来ない。死んでしまえば単なる物体だから、もう総括と関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ。このことはちゃんと総括しておくように」


 この時、森氏は反革命の死として処理することがどうしてできないのかを説明しなかったが、問題なのは新倉ベースから東京にまわっていたため、寺岡氏は、「敗北死」の規定についてほとんど知らなかったということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 寺岡は、革命左派では軍のリーダーであり、連合赤軍になってからも断固とした態度をとってきた。ところが、赤軍派メンバーを迎えに新倉ベース行ったあと、東京を回っていたため、3人の敗北死に立ち会っていなかったのである。


 だから、永田が指摘しているように、「敗北死」の規定を知らなかった。そのため、小嶋の死を「反革命の死」としたのであろう。「反革命」とは、革命を目指す側の人間に対し、「反抗者」という悪い意味でのレッテル貼りに使われる言葉である。


 この一件は、あとあとまで寺岡が批判されることになる。


■「とにかく自分の力で埋めました」(遠山美枝子)

 全体会議を始めると同時に、森氏は遠山さんに、「小嶋を埋めにいったことについて総括しろ」といった。遠山さんは、「最初は怖かったし、重かったし大変だったけど、とにかく自分の力で埋めました」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山はともかくやりきったということで、追いつめられた気持ちを払拭できたようだった。

 ところが、この時、遠山さんの様子に注目していた森氏が、指導部の者に、「おかしい。遠山は死体を埋めたことをそんなに恐ろしがっていない。どういうことや」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森はなぜおかしいと思ったかというと、、、

 というのも、我々が前に述べたように、総括の発展を促すといいつつ、実際的には制裁としてあの異常な作業を提起したが故に、彼女がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準であると思い込んでいたり、そこではじめて極限的な精神的解体−再生のの歩みがはじまるのであり、意識的にこの精神(=古い個人)の解体を迫ることなしに人間的情愛(涙等)の獲得もないと思っていた為である。
(森恒夫・「自己批判書」)

 これは、遠山さんが、遺体運びをなし切ったものの、それによって獲得したはずの共産主義的変革(革命戦士への変革)が態度に表れないのはおかしい、と思ってのことである。この森君の観察は、私の観察と異なる。遠山さんは辛い作業をやり終えて、自信に満ちた顔をしていたのである。だが、私は森君に異議を挟むことはしなかった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、あわてて遠山さんに、「知り合いの人の死に接したことがあるの?」と聞いた。遠山さんは、「おばあさんの死に接しました」と答えた。
 森氏は、「それでわかった。だから、恐ろしがらなかったんだ」と指導部にいったあと、遠山さんをさらに追及していった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「遠山は単なる死体として小嶋を見ていたにすぎない。革命戦士の敗北死として見ていたなら総括できるはずだ」と決めつけ、「遠山が死体を殴ったことも、嫌なものに対する憎悪か演技でしかない」と冷たく言った。
 自信に満ちた表情をしていた遠山さんは、一転して暗い顔になり、押し黙ってしまった。こうして”共産主義化"に基づく森君の一方的な判断によって、遠山さんの驚異的努力は、一瞬にして否定されてしまうのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「小嶋みたいになりたくない!」(遠山美枝子)


 このあとも追求はかなり長く続き、森は遠山の総括を、「芝居をしてるんじゃないのか」「お前は自分の問題を明らかにしようとしていない」 などと、ことごとく否定していった。


 遠山は、黙ってしまった。皆は例によって、「何とかいえ!」「いつまで黙ってるんだ!」といいたてた。
 そのとき、やはり総括を要求されていた行方が、突然、「あんたの顔には表情がない!判った、あんたの顔は小嶋の顔と一緒だよ!」といった。行方の言葉は、なんとか総括してほしいという願いをこめたものだったのだが、、、

 遠山さんは、ワーッと泣き出し、
「なりたくない!なりたくない!私は小嶋みたいになりたくない!やだもん、あんな格好で死んでいくのは!・・・何を考えていいのかわからない。頭の中を死がぐるぐる回っている!」
といった。
 森氏は冷たくつきはなすように、「死にたくないなら総括せい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■間違った「善意」と「弱者」のレッテル貼り
 「地獄への道は善意で舗装されている」という。


 榛名ベースでは、共産主義化の論理
が支配していたから、主観的には、善意で遠山を総括させようとしていたと思われる。それは、違和感を感じていた植垣でさえ、すぐに善意で舗装された道を歩みはじめたことからもわかる。


 「間違った善意」ほどたちの悪いものはない。「ストレートな悪意」なら歯止めがかかる可能性があるが、「間違った善意」は、それが正しいと信じているがゆえに、歯止めがかからないのである。


 そして、メンバーは、総括にかけられた者を、自分とは区別するために、「弱者」というレッテルを貼って、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖をやり過ごしていた。


 だから、森の一方的な決めつけに対し、遠山を弁護する者は誰ひとりいなかった。すべてを否定されてしまった遠山の絶望は察するに余りある。


 そして、森の次のひとことが、絶望している遠山をさらに地獄へ突き落とすのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

(遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

 今回は、連合赤軍事件の中でも、もっとも残酷で、書くのも辛い話である。


 小嶋の死体を埋めて戻ってきた遠山は、何を言っても、ことごとく否定された。

 遠山は、黙ってしまった。


■「自分で自分の顔を殴れ!」(森恒夫)


 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」


こうして、あれよあれよという間に遠山さんにたいし、自分で自分を殴らせることが決まってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 彼女が意識的に涙ひとつ出さず歯をくいしばってこの異常な残酷な要求を遂行したことをこうして否定した上で、我々は彼女のブルジョア的女性の解体を迫り、自分の手で自分の顔を殴ることを要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)

 森同志は、このとき山田同志と私(それから、他にも同志がいたと思いますが)を呼び、「これまで、尾崎、進藤同志のように殴ると敗北死すること、それに遠山同志は人に頼ろうとするから、何も援助せず自分で全部でやらせろ」と言ってきたわけです。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 遠山さんは、最初は躊躇していたが、突然、両手で自分の首を絞めようとした。森君がすぐ、「それは止めろ」と言って、止めた。すると彼女は、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。(中略) 遠山さんの自己殴打の場面を描くのはつらい。それは、見るに耐えぬ残酷なものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 遠山が両手で自分の首を絞めようとしたのは、自殺を考えたものとみられる。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。これは自分の唇に自身を持っているからとの理由で命じたと記憶している。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 酷い話だが、「唇を殴れ」でわかるように、どうやら目的は、遠山の顔を醜くすることなのである。


■「顔はボールのように腫れ上がった」(坂口弘)


 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 その中で私は、「顔を殴れ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 ここからが、皆が、「嫌な気分になった」と証言するところである。

 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。同性に対するこの仕打ちに私は腹が立った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 しゃがみこんでしまった遠山に、永田が鏡を見るように命じ、「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と言いながら、鏡を見ようとしない遠山に鏡を見ることを何度も強いた。


 私は、この永田の行動に驚いた。永田が自分の容姿にコンプレックスを抱いているだろうとは以前から思っていたが、これでは、まるで白雪姫と魔女の世界ではないか。あるいは絶対的な権力を握った暴君が、非力な被支配者をいたぶるという図式ではないかと思ったが、永田に疑問を呈してもすべては総括させるためと言うに違いなかった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田自身は、次のように証言している。

「あんた、今の顔どんなか判る。ひどい顔になっちゃったけど、それを気にせず総括しなきゃだめよ。鏡を見てびっくりするようではだめだ」といった。遠山さんは鏡を見たが、別に驚く様子もなく無表情だった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が、遠山さんが自分で自分の顔を殴ったあと、鏡を遠山さんにみせたのは、私の意図しない形で展開した激しい総括要求にまけてはダメだという思いからであったが、それによって、私は、森氏の遠山さんへの総括の暴力化を追認し、支えてしまった。


 なお、私が鏡をみせた時、皆いやな思いをした、という証言があるが、この時、山田さんは遠山さんに、「そうして総括するんだ。」といったことを、明らかにしておく。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田は、鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 だというが、これでは理由になっていないだろう。

 この段階で、永田はすでに明らかにおかしくなり始めていた。しかし、私もその頃には、何が起ころうともはや永田たちについていくしかないという、半ば投げやりに近い気持ちに支配されていたのだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さんがこれ程まで自己殴打したにも拘らず、森君は、彼女の総括を認めず、当然のように坂東君、山田さん、吉野君ら3人の指導部メンバーに命じて、(命じられたのは赤軍派の植垣君、青砥君、山崎君の3人だったとの証言もある)、彼女を戸口の柱に立たせたまま、後ろ手、胸、大腿部、足首をロープで縛った上、柱に括りつけてしまった。(中略)


 それからすぐ森君が、山崎君に遠山さんの髪を丸刈りにさせた。それがおわると、永田さんが誰かに縄を解かせ、遠山さんの着替えをさせてやった。この時の事であるが、リュックサックから衣類を取り出した際、「こんなセーターを持っている」などと遠山さんの持ち物を品評して、嫌な気分にさせられた。


 着替えが終わると、再び縛り、森君の指示で彼女の肩から毛布がかけられた。「遠山は冷え性だから」という”配慮”によるものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森はもはや縛る理由を、加藤のときのように、 「総括に集中させるため」 とはいわなかった。それもそのはずで、髪を丸刈りにするなど、逃亡防止であることは明らかだった。

■白雪姫と魔女の世界か?

 遠山の女らしさを解体するきっかけが、共産主義化に基づく「善意」であったにせよ、ここまでくると、それだけでは説明がつかなくなってくる。


 森が、「女を売りにしている」ことを総括させるために、自分の顔を殴らせる(醜くさせる)という方法論を思いついた時点で、すでに常軌を逸している。


 残虐性でなければ、病気ではないかと疑うが、いまひとつ捨てがたい可能性がある。それは、永田の心情を察して、森が主導権をとって動いたということだ。


 永田に、そういう望みがあったのかどうかは定かでない。しかし、鏡をみせるくだりなどを考えると、的外れとも思えない。それに、青砥幹夫や加藤倫教は、永田が主導したかのように記憶し、証言してるほどだ。


 多くのメンバーが証言していることだが、永田は、特に女性に対して、自分より優れている者や、並びたとうとする者に対して、それを嫉妬し、粉砕せんとしたという。


 永田の場合、それがあからさまな態度となって現れたから、森がそれを察して、より過激な方法で具現化することによって、主導権を保とうとしたとしても、不自然ではない。


 もちろん、これは1つの推論にすぎない。どうしてこういう推論をするかというと、永田の証言では、心情説明に説得力が感じられないからだ。鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 というのがその一例である。


 いずれにしても、共産主義化の論理 に重なり合うように、森と永田の思惑が交錯していたことは確かだろう。どの角度から光をあてるかによって、連合赤軍事件は、さまざまな表情をみせるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

1972年1月3日 中央委員会(CC)の発足と行方への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

(行方正時は「卑怯者」とレッテルを貼られた)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 行方正時 顔写真

 遠山美枝子を柱に縛った後、指導部会議が開かれ、その後全体会議を行った。徹夜が続いているので、日付の切れ目が難しいが、1月3日夜から、1月4日未明にかけてのエピソードを紹介する。

■「異常な禁欲的秩序にとまどうばかりだった」(植垣康博)

 榛名ベースに来てからの私たちは、生活そのものに至るまでの異常とも思えるほどに統制された重苦しい禁欲的秩序にとまどうばかりだった。タバコ1人1日3本という制限に至っては、理解に苦しんだ。指導部の森氏と永田さんがそうした制限を受けずにタバコをすっていたので、よけいそうだった。

 その後、この制限は、永田さんの意見でゆるめられ、なし崩し的になっていったが、こうした秩序に誰も不満をいう者はいなかった。全体会議で永田さんは、要求があれば提案して欲しいといっていたが、現実には、とても提案できるような状況ではなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 1月2日に合流したばかりの植垣は、榛名ベースの異様な光景や緊張感に、とまどいと疑問をもっていたが、指導部の、「遅れている」という判断を受け入れた。そして、同化しようと頑張る過程で、最初感じたとまどいや疑問を、消しゴムで消すように払拭していくのである。

 こうした思考停止に陥る過程は、特異な宗教団体などにもみられる現象である。

■「これでスッキリした」(行方正時)

 この日(1月3日)の夜の全体会議で、森君の提案により、C・C(中央委員会)を発足させた。私が司会を命じられ、指導部メンバー7名がそれぞれC・Cに立候補して全メンバーに承認された。

 この時、森君は、集団指導を強調し、新党は一に殲滅戦、二に他党派との分派闘争のための党建設であるから、党内での分派闘争は一切禁止すると言った。また”しのぎ合い”は競争ではなく、相互に前進や意欲を促しあうことである、という説明をした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 C・Cが承認された時、行方正時君が、「これでスッキリした」と言った。これに対して森君が、「”スッキリした”とはどういうことだ」と問い返した。これが行方君に対する総括要求の発端となる。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

「何がすっきりした!?」
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりうました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」
「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」

 行方氏は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森氏は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなったあと、「おまえみたいな卑怯な奴は何をするかわからん。青砥、山崎、行方のうしろについて押さえろ!植垣、行方の70年からの活動内容を聞け!」と命じた。

 当時、私はこれがどういうことかわからなかったが、行方氏が、赤ちゃんのRちゃんを楯にとって逃げようとするかもしれないからそうできないようにしろ、ということであったらしい。行方氏のうしろにRちゃんのベッドがあったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 Rちゃんとは、頼良(らいら)ちゃんのことで、山本夫妻が連れてきた赤ちゃんである。森は、行方が、頼良ちゃんを人質にして逃亡するのを警戒したようだ。

 行方は、闘争にかかわってきたものの、過激な闘争には臆病風をふかせたこと、赤軍派の極左路線にはついていけないと苦悩し、榛名ベースに合流する前に自殺しようかと考えたことを打ち明けた。


 「おまえ、ビビッたとかどうとかそういうことばかりいって、総括をひきのばそうとしてるんじゃないのか。深刻そうな顔をして悩んでいるような態度をしているが、それは総括しているかのようにみせるポーズとちゃうか」と批判したあと、「総括がなってない!青砥、山崎、植垣、縛れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方への追求は、具体的には、常に自分を後方の安全地帯におく、弱気なくせに女性にはカッコつける、開き直った態度をとる、などであった。

■「行方を卑怯者と決めつけた」(森恒夫)

 もともとおくれた分子とかってに決めつけ、総括要求の対象に考えていたのですから、何をいっても追及の手から逃れることはできなかったのです。誤った「共産主義化」に確信がもてず、また本音を隠せる(私のように建て前や観念的でない分)人ではなかった分、追求されるたびに動揺が大きくなり、それを私たちはますます、おくれていると決めつけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、南アルプスの新倉ベース時代、遠山や進藤に比べれば、行方は、総括が進んでいると考えていた。ところが、榛名ベースに合流してから、評価は一転したのである。


 12月31日に彼がベースに来た時には、私は彼が軽度のノイローゼにでもあるかの様にやせて神経質になり、目を異様に光らせて、1人で居る時と雑談している時の感情的な差異が余りに大きいのに驚いた。(中略)我々はこうした彼を革命戦士(連合赤軍兵士)として認めることができないと考えた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 永田や坂口の観察では、森がいうほどひどくはない。

 行方は、森の追及にたいし、弱々しい笑みを浮かべながら、そうだと思う、とうなずいていたそうである。


 我々は、彼のこうした様子から、革命戦士として不適格な弱者→卑怯者と彼の事を判断して、それを総括して強者→戦士にさせる為にロープで縛ることにし、逆エビ状にロープで縛って柱にくくったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森はまとめてしまっているが、正確にいうと、このときは普通に縛られた。後に再び追求された時に、逆エビ型に縛りなおされることになる。

■「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」(加藤能敬)

 行方氏を縛ったあとも、CCの承認を求める全体会議が続いた。この会議の最中、加藤氏が、縛られている土間のほうから大きな声で、「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」と発言したことがあったが、坂口氏が、「黙れ!」とどなって加藤氏を黙らせてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全体会議が終わったのは4日の午前3時ごろであった。このあと縛られている加藤が、目隠しを外そうとしたり、足を動かしているのを、見張り当番の植垣と山崎に目撃され、森に報告されてしまった。

 病的なほど逃亡を警戒している森が、これを知ったらただではすまないことは予想がつくだろう。

■CCは独裁に民主主義の化粧をほどこしたもの
 CC(Central Committee:中央委員会)の発足といっても、指導部の看板をかけかえたにすぎなかった。

 CC発足にあたって、「共同指導体制」とか「スターリン主義の防止」が強調されたが、その舌の根も乾かぬうちに、行方に対する追求・緊縛は、完全に森の独断専行で行われた。

 CCとは、森が、責任を分散させ、独裁に権威をつけるためのもの、すなわち、独裁に民主主義の化粧をほどこしたものと考えてよさそうだ。

 結局、赤軍派で2軍扱いされた進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースに合流すると、赤軍派時代の批判をそのまま持ちこまれた。つまり、赤軍派時代は許容範囲であったものが、連合赤軍においては、共産主義化の観点から見過ごせなくなった、というわけだ。

 しかも、過去の活動を事後法で裁くものだった。過去の活動暦だったら、森の活動暦こそ、ビビッたり、敵前逃亡したりの連続なのだ。

 森は、他者の中に、自分に内在する弱さをみつけたとき、それを厳しく糾弾するのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び
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(行方が追求されているとき、遠山は 「手を切って」 と叫んだ)
 遠山美枝子顔写真

■「遠山さんは、女を意識している」(永田洋子)

 入り口の横に縛られていた遠山は立っているのがつらそうな様子でいた。それをみた永田は、座らせることを森に提案した。森はすぐに返事をしなかったが、永田の説得にしぶしぶ了解した。ところが、、、

 そのあと、縛りなおされた遠山さんを見ると、彼女は両足を崩して座っていた。その様子はボンヤリしており、総括しようとしているものとは思えなかった。私はせっかく勇気をふるい総括に集中しやすいように座って縛らせたのに、それに集中せず女を意識していると苛立った。(中略)
 私は、中央委員会の場でこの苛立ちをそのまま表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田が、「勇気をふるい」といっているのは、森にあまいと批判されるかもしれないと思ったからだそうだ。山岳ベースでの永田は、暴力的総括を鼓舞しているものの、縛られた者の苦痛についてはやわらげようとしている傾向がある。

 しかしながら、そのあと、中央委員会で、「両足を崩して座っていた」 からといって、 「女を意識している」 と摘発してしまうようでは逆効果であり、森の論理に味方することになった。


■「行方氏は放心したような顔をしていたが、追及にはていねいに答えた」(植垣康博)


 午後8時頃、森氏が青砥氏、山崎氏と私の3人を指導部のコタツに呼んで、「行方が権力にバラしたアジトを全部調べろ。パクられた時に何をしゃべったかも聞け」といった。(中略)
 行方氏は放心したような顔をしていたが、青砥氏の追及にはていねいに答えた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 行方への批判は、赤軍派時代のことであり、革命左派メンバーには、理解できなかった。


■「ああ、手が痛い。誰か手を切って」(遠山美枝子)


 青砥氏が中心になって追求していたが、何を追及しているのか私にはわからなかった。この最中、入り口の横に縛られていた遠山さんが、再び、
「お母さん、美枝子は頑張るわ」
「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね。私も革命戦士になって頑張るわ」
「ああ、手が痛い。誰か手を切って」
「誰か縄をほどいて。・・・いい、縄をほどかなくていい。美枝子は頑張る」
などと叫ぶようにいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山の手には酷いしもやけによる激痛があった。縛られたメンバーはいずれも手足が動かなくなるほどのしもやけになったのである。

 しかし、私たちは、そのような遠山さんを全く無視し、行方氏を追及した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」(森恒夫)


 行方氏の追及の終わり頃、森氏が、「懐中電灯で行方の目を見たら、瞳孔が開いているのがわかった。行方は死の領域に足を踏み込んでいる」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 青砥氏の追及が終わった時、行方氏はあきらめてしまったような様子であったが、それでも誠実に義務を果たそうとするかのように、これまでの事務やアジトを引き継ごうとして語り始めた。


 すると森氏は、「おまえから、そんなことを聞こうとは思わない。それはこっちで考える」といって、行方氏の発言を封じ、逃亡の意思について追及した。


「これまで逃亡しようと思ったことはなかったか」
「あります」
「いつ逃亡しようと思ったんだ」
「車で他の場所に移されるときに、逃亡しようと思ってました」

(中略)

 「逃亡してどこへ行こうとしたのだ」と追求した。行方氏は、少し黙ったあと、「実家に帰るより他にないでしょう」といくらか腹立たしげに答えた。


 そのあと森氏は、「縛る前に、絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まず森が肘で肩甲骨を殴り始め、ついで山田が殴った。

 その時の私は、こうした大変な任務は指導部だけにやらせておくべきではない、私たちもやるべきだという思いだった。続いて、大腿部を手刀で殴ったが、途中で寺岡氏が、「そんなんじゃだめだ」 といって、土間からまきを持ってきてそれで殴った。私は、その激しさに驚いたものの、さすがはCCと思い、私もまきで力いっぱい殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 他の者も寺岡氏に続いて、まきで思いっきり殴っていた。こうした行方氏への殴打はとてもみていられない程のものであった。

(中略)

 行方氏は激しい苦痛に必死に耐えているようで、わずかにうめき声をあげただけだった。殴り終わった頃、森氏は、「逆えび型に縛っておけ」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方は、逆えび型に縛られ、さらに縄を床に固定されて、まったく身動きが出来ないようになってしまった。


■「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」(森恒夫)

 このとき森は、信じられないようなことを考えていた。

 そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 行方は、1月3日から縛られたままだったのだから、「夢の中でしゃべるような様子」であってもおかしくはないだろう。そして、夜の榛名ベースでは、ロウソクの灯しかない暗闇なのだから、瞳孔が拡大しているのは正常である。

 それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は懐中電灯を目に当てながら質問しているので、瞳孔が縮小しはじめるのも、あたりまえのことである。

 こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」 といいながら、「逃亡の危険がある」 とはどういうことだろうか?


 そして、行方を「死の世界」から救おうとして、「詰問調の追及を質問調に変えた」はずなのに、「彼の手足を力が抜ける程殴って」「逆エビ状に再び縛った」 のである。


 森の論理は倒錯しているが、この場にいた坂口も違和感を感じていたようだ。

 私は、森君がほぼこれと同じ事を喋ったのを記憶している。瞳孔の開閉状態でそんな心の洞察ができるものだろうか、という疑問とともに、森君の表情と語り口が(彼は、行方君の目に懐中電灯の光を当てながらこういうことをいった)、何か物に取り憑かれたようで、嫌な感じがした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「イエス」でも「ノー」でも

 加藤能敬の最期を思い出してみよう。加藤は、逃亡の意思について否定し続けたが、まったく信じてもらえず、死ぬまで追求され続けた。そして加藤が死亡したとき、「逃亡しようとしたことがばれて絶望した敗北死」と解釈されたのだった。


 いっぽう行方は、逃亡の意思をあっさり認めた。しかしそうなると、手ひどく殴られ、逆エビに縛られてしまった。 何のことはない、「逃げようと思っただろう?」と疑われたら最後、「イエス」と答えても、「ノー」と答えても、ダメなのだ。


 つまり、森の手には、あらかじめレッドカードが握られていて、イエスだろうが、ノーだろうが、瞳孔が開いていようが、閉じていようが・・・・・出されるカードの色は変わらないのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

(遠山美枝子に対する追及は拷問そのものだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 遠山美枝子 顔写真

 森は、行方氏を追及している最中に、遠山が、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね」と繰り返しいってたことを追求し始めた。


■「そうです。芝居でした」(遠山美枝子)


 行方氏を調べ終えると、森氏は植垣氏ら3人に、「遠山の縄をほどいてこっちに連れてこい」と指示した。(中略)
 「さっき、何であんなことをいった。芝居だったんとちゃうか」
 遠山さんが黙っていると、皆が「何で黙っているんだ」といった。

 皆は、この頃から遠山さんをこずいたり殴ったりしたらしい。遠山さんをぐるりと取り囲んだ輪のうしろにいた私にはわからなかった。そういうなかで、遠山さんは答えた。
「そうです。芝居でした」
「どうして、そんな芝居をしたんだ」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山は、父が自殺して母が苦労して育ててくれたこと、それでいつか母を仕合わせにしようと思って、階級闘争をやってきたことを語った。

 追求の終わりごろ、男性関係についても追及された。

「明大時代、誰がすきだったんや」
遠山さんは最初は黙っていた。すると、取り囲んだものが、「何とかいえ!」「おい、どうした。早くしゃべれ!」などといった。遠山さんは、しぶしぶという感じで、「サークルの部長です」といった。
「赤軍派に入ってからは?」
「高原です」
「合法時代はどうだったんや」
遠山さんはしばらく答えようとしなかった。そのため、周りのものから一斉にあれこれいわれ、そのうち、2人の男性と関係をもったことをいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「おやじさんが好きだったの」(遠山美枝子)


 森氏の追及が終わったあと時、遠山さんは、ポツンと、「おやじさん(森氏)が好きだったの」といった。森氏は、この発言にニヤニヤする態度をとった。
 それは、それまでの遠山さんに対しての態度とあまりにも違ったものであった。遠山さんが森氏にそのようにいうことによって総括要求を回避しようとしていると思い、また、それにたいして森氏がまじめに彼女に総括させようとしていないと思い、「やっぱりそういうのはわかっていた」と批判した。
 私は、森氏が遠山さんにたいしてただ激しい暴力的総括を果しているだけで、本当に総括させようとしているとは思えなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 ところが、森氏は何を勘違いしたのか遠山さんにたいして怒り出し、彼女を殴りながら追求した。
「おまえ、俺をいつから好きだったんだ」
「明大の寮にきた時からです」
「うそつけ!あのころはオバQだったんとちゃうか。俺よりもオバQのほうが偉かったんだぞ」
「はい、そうです」
「それなら、いつから俺を好きになったんだ」
「南アルプスからです」
「この野郎!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この追求は、無実の容疑者が、取調官に恫喝され、検察側のシナリオにそって「白状」してしまうケースにそっくりだ。シナリオと違えば「ウソ」であり、「正解」になるまで尋問は続けられる。


 森のシナリオは、遠山は常に権力のある者を好きになることによって高い地位を得ようとした、つまり女を売りにして男を利用してきた、というものである。だから、遠山が森を好きになったのは、森がトップである南アルプスの時点でなければならなかったのである。


 なお、このシナリオは永田も一致していたようだ。坂口によれば永田は、「あなたは偉い人ばかり好きなのね」と皮肉をいったそうである。


■「男と寝たときみたいに足を広げろ」(寺岡恒一) 「そういうのは矮小よ!」(永田洋子)

 そのあと、森氏は、「遠山も行方と同じように殴って縛れ」と指示した。私たちは遠山さんをうつぶせにし、まず肩甲骨を肘で殴り、続いて大腿部をまきで思いっきり殴った。遠山さんは悲鳴をあげたが、私たちはそれを無視した。


 殴り終わって逆エビに縛ろうとすると、森氏が、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といった。それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その際、寺岡氏が、「男と寝たときみたいに足を広げろ」といった。


 これに私たちは笑ったが、女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。私たちはあわてて笑うのを止めたが、行方氏、遠山さんへの激しい暴行は、私たちの気持ちをすさませ、より残酷で下劣なものにしてしまっていたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 なぜ、森は、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といったのかというと、「女らしい様子をさせないため」(森)だそうだ。おそらく、少し前に永田が、遠山が女らしいしぐさで足を崩して座っていたことを咎めたからだと思われる。


 このように森は永田のいったことをよく覚えていて、わりとよく 「対処」 をするのである。

 こうして遠山さんは、3日の朝に縛られて以来、水も食事も与えられないまま、ここへ来て逆えび型に縛られ全く身動きできなくされてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山さんも行方氏もぐったりしていた。私は、この激しい殴打に、そこまでやらなくてはならないのかといささかたじろぎ、その反面、やられっぱなしの2人がなんともふがいないものを感じ、どうして総括を放棄してしまうような態度を取るのか、もっとシャキッとできないのか、何とか頑張ってくれという思いもあったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だとバトウした」(森恒夫)


 この時には、彼女が私を好きだということでロープを解いてもらおうとしているということと、階級闘争の中で男性を手段としてきているということが結合して、彼女に対する怒りとして放たれ、彼女が何人かの男性の名をあげた事に対して、我々は余りにハレンチだとして彼女を殴ったり、足げにしたりした。そして、本当に自分のことを情けなく思っているのなら、涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だ(彼女がかつて自分は泣けないと云ったことを押さえて)とバトウしたのである。
(森恒夫・「自己批判書」 句読点修正)


 森は、遠山に小嶋の死体を埋めさせたとき から、一貫して、「遠山がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準」と考えていたのである。


 どうやら、共同軍事訓練の最終日 に、森自身が総括を述べたとき、涙を流した体験と結びつけて考えているようだ。


■「寺岡は女性蔑視だ」(森恒夫)


 このあと、中央委員会を開いたが、そこで、森氏は、「寺岡君が『男と寝たときみたいに足を広げろ』といったのは、女性蔑視だ」と「真面目」な面持ちで批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「真面目」とカッコつきなのは、寺岡の言葉に男性たちはみな笑ったのに、あたかも、寺岡個人の問題であり、自分は無縁であるかのようにふるまった森への皮肉である。


 森は、永田の批判に、寺岡をスケープゴートにして面目を保とうとしたようだ。

 森氏は続いて、「殲滅戦のための準備のための活動を開始しよう」といって、井川ベースの整理、名古屋にいるF・Kさんらを連れてくること、東京での若干の活動、山岳調査などの必要をいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 F・Kとは殺害した小嶋和子の妹である。連れてこようと考えるとは、どういう神経であろうか。


■「女の革命家から革命化の女へ」(森恒夫)

 全体会議で、森は「女の革命家から革命化の女へ」という定式の説明を行った。

「共産主義化されないまま、女が男と関係をとり結ぶのは、それまでの生活を通して身に着けたブルジョア的な男性観にもとづいたものであり、こうした傾向を止揚しない限り女の革命戦士化はかちとれない」と述べた。
 この説明に私はなるほどと思った。そのあと、森氏は、大槻さんと金子さんにたいして、銃による殲滅戦を準備する闘いに向けて早く総括すべきだといった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


その後役割が決められた。


井川ベースの整理は、山崎、寺林、中村、山本保子の3人。
名古屋にF・Kを呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に行くのは前沢、青砥。


■独裁体制とメンバーの思考停止

 遠山への批判は、共同軍事訓練のときからずっと続いている。いつも永田の批判がきっかけとなり、森がそのあとを引き受けて追求した。よく注意してみると、森の批判は永田のそれとは別物であるが、永田は、森の批判に同調してしまうのだから、2人の関係はややこしい。


 森の過酷な追求によって、遠山は、それに迎合する告白をしてしまった。なんとか追求から逃れようとしたのだろうが、どのように答えても、批判され、人格を破壊されていくのである。あまりに残酷で拷問としかいいようがない。


 他のメンバーは、威勢はいいものの、せいぜい、「おい、どうした」 「黙ってないで何とかいえ」 という掛け声しか発することができなかった。すでに思考停止状態であり、森と永田の側に身を寄せることが精一杯だった。すべての判断は森と永田の専権事項になっていたのである。これを独裁という。


 いったん独裁体制が確立してしまうと、独裁者が自ら踏みとどまったり、引き返したりすることはない。事実、同志殺害は、森と永田が権力の手中に落ちるまで続くのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

1972年1月7日 遠山美枝子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

(遠山は人間の誇りを破壊された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

遠山美枝子(享年25歳)
【死亡日】 1972年1月7日
【所属】 赤軍派
【学歴】 明治大学
【レッテル】 古い赤軍派、ブルジョア的女性
【総括理由】 指輪、化粧、髪型、女を売りにして男を利用、幹部の妻としての特権的地位、死への恐怖
【総括態度】 「まだ女を意識している」
【死因】 凍死 or 衰弱死


遠山美枝子が山岳ベースに参加してから死亡するまでの経緯は以下の通りである。

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ

1971年12月29日〜31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める

1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る


 1月7日は、メンバーに任務が告げられ、その準備をしていた。この任務は殲滅戦を闘うための準備と位置づけられた。


井川ベースの整理に行くのは、山崎、寺林、中村、山本保子。
名古屋に小嶋史子(死亡した小嶋和子の妹)を呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に黒ヘルグループのオルグに行くのは、前沢、青砥。


 そして、森の提案で、新たな山岳ベースの調査することになった。榛名ベースは久々に活気に溢れたのである。


 しかし、その準備の最中に遠山の容態が悪化した。


■「お前は薄情だ!」(坂口弘) 「謝りなさいよ!」(永田洋子)


 手洗いから戻って来た時、縛られている遠山さんを見ると、それまでの様子と違って妙にひっそりしていた。私はそっと脈をみた。脈はかすかにしか感じられなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 それで坂東君、寺岡君ら5人のメンバーが飛んでいってすぐに人工呼吸を行った。私が少し遅れていくと、森君が、「酒を飲ませてみたらどうか」と言ったので、ストーブの上にかけてあるバケツの湯の中に一升瓶を入れて燗をしようとした。すると側にいた永田さんが、「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ。お酒はお銚子に移してから燗するものよ」と言って私を腐した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すぐそばでは人工呼吸が続いていた。永田は会議の場に戻った。

 ところが私が戻ってすぐ坂口氏が大変な剣幕で私のところに来て立ったまま大声で、「お前は薄情だ」とどなった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「おまえの態度は真剣でない!遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と、私は彼女を怒鳴りつけた。鏡の件などで、遠山さんに冷淡で、刺激的なことをした永田さんに対し怒りがうっ積していたのだ。だが、すぐに本当の敵は彼女ではなく、森君だと思った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田と坂口の口論中、森が、「永田さんの行動は薄情ではない」と助け舟を出したため、坂口は押し返されてしまった。

 彼女はいっそう居丈高になり、「私と森さんを侮辱したことを誤りなさいよ!会議の進行を遅らせたことを誤りなさいよ!」と言って謝罪を求めてきた。(中略)
 私は目を瞑り、腕を組んで、反抗すべきかどうか考えた。(中略)
 総括の最大の山場だと思った。自分の全人格が問われていると思った。気持ちが反抗と屈服の交互に揺れ動いた。しかし、私は、反抗の道を選択することが出来なかった。両名、とくに森君と論戦しても勝てないと悟ってしまったのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、「CCを辞任したい」と申し出るが、驚いた森があわてて取り成した。結局、「会議の進行を妨げて申し訳なかった」と惨めな謝罪を行ない一件落着となった。

 森氏は新党維持のため、私や坂口氏を特別扱いしていた。そのため、この問題で、私か坂口氏のどちらかが総括要求されることはなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 2人は一緒に顔を洗ったりするなど仲が良かったので、このときの激しいやり取りにはとまどわされた。しかし、このあとは何事も無かったかのように仲良くしており、このことにもとまどってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「遠山さんは蘇生しなかった」(植垣康博)


 遠山さんの人工呼吸は30分以上も続けられたが、結局、遠山さんは蘇生しなかった。坂東氏たちは人工呼吸をやめ、遠山さんの死体を床下に運んでいった。会議は重苦しい気分のまま中断となった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 坂東氏たちが戻ってきた時、森氏が、坂東氏に、「どうだった」と聞いた。坂東氏は首を横に振り、遠山さんの死体を床下に置いて来たことを報告した。
 そのあと、全体会議を中断して中央委員会の会議を開いたが、この会議は重苦しいものだった。もはや討論もなく敗北死という規定をした。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「暴力は不適格な人間を間引くことだと気づいた」(前沢虎義)

 このころから、メンバーの間では、総括に対する複雑な思いが芽生え始めていた。

(なぜ死ぬと分かっているのに遠山を殴ったのか?)
 自分の死ってものをある意味では前提にしているわけです、僕ら。軍の兵隊になった時点で。自分の死を前提にしてると、同じ仲間の死というものも・・・というか、中途半端な態度をとってることに対して許せないわけですよ。なんでそういう態度をとってるんだ、と、そういう態度をちゃんと克服しろ、と。
(植垣康博・「朝まで生テレビ」2004年3月27日放送)

 加藤が死んだときは遠山美枝子が縛られ、行方も既に縛られるのを待っている状態でした。私は加藤が死んだことで、遠山も行方も、そしてその後ももし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろうと、はっきりと判断しました。
 それまでは総括の援助だと言われ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 前澤虎義上申書(1972年8月11日付))


 前沢はこのような思いを胸に抱いて、東京に黒ヘルグループのオルグに行くのであるが、任務終了後、榛名ベースへ戻るのをためらうことになる。

 なぜ、こんなことさせるんだという憎しみを持ちながらも、遠山さんに対する暴力行為を断れない・・・。正しいと思っているわけじゃないんだ。そう思い込もうとしているだけなんだ。そんなことみんな分かっているのに止められないんだよ。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫インタビュー『スキャンダル戦争1』2002年6月 より引用)

 僕は遠山さんの問題については、永田に非常に大きな責任があると思っています。遠山さんの「総括」の最中を思い出すたびに、本当に正視できないようなことばかりだったと思う。だって普通、女の人に顔殴らせてね、「あんたの顔こんなに醜くなった。見てみなさい」なんて、鏡を突きつけますかね。
(荒岱介・「破天荒な人々」 青砥幹夫インタビュー)


 永田が遠山に鏡をみせた経緯は、 1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊 を参照。


■「遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくした」(永田洋子)


 遠山さんへの批判は、彼女のすべての行動を権力欲や嫉妬心で解釈することによって、彼女の人格を徹底して侮辱し彼女を絶望させてしまうものであった。それは遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくすものであった。


 こうした女性蔑視の排外的な批判に、遠山さんが沈黙してしまったのは当然のことであった。なぜなら、批判者自身が、そうした批判の誤りを理解しない限り、いくら違うといっても通用しないからである。


 敗北後、遠山さんに行われたのと同じような批判をされ続けてきたが、それによってやっと彼女の無念な思いが痛いほどわかるようになった。私たちの犯した誤りを利用した私への女性蔑視の排外的な批判に直結して、私はやっと同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は反省しているようでいて、「同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てた」 とはずいぶん虫のいい話である。


 遠山批判には、 「批判の誤り」 というような論理で割り切れないものを感じる人が多いだろう。


 以下のような吉野の証言もある。

 新倉共同訓練での遠山さん批判を受けた森がこうして遠山さんを縛らせるに至ったことで、森は永田からつきつけられた課題を片づけた思いになり、永田は永田で、赤軍派メンバーに対する自己地位を一応確保し、いわば赤軍派内での妨害要素を除去しえた思いで安堵したその心理が作用していたと私は見ます。


 森が苦心惨憺して遠山さんを批判していた時、傍らに座っていた永田は本当に満足そうに安堵しきった表情で、その追求ぶりを見物していたのを印象深く覚えています。


 私の認識としては、永田はとうとう森をして遠山さんを縛らせることに成功し、自分と森との統合への道の第一段階をこの時確保したのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 吉野雅邦 1983年1月28日付手紙)


 遠山を死に至らしめたのは、直接的には、森の課した肉体的制裁であることは間違いない。だが、森をここまで動かしたものは、はたして共産主義化の論理 だったのだろうか、それとも永田の意向が働いたのであろうか。


 同じ疑問は、このあとの革命左派の女性メンバー2人への総括要求のときにも生じるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c84

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
85. 中川隆[-11453] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:49:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[542]


1972年1月7日 金子みちよ・大槻節子への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)はなぜ批判されたのか?)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

 今回は、遠山美枝子が死 亡したあとの全体会議での出来事である。遠山を「ブルジョア的女性の敗北死」としたため、それを受けて永田が、金子みちよと大槻節子へ総括を要求した。


■メンバーの状況(1月7日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。
吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左)「女まるだし」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)断固とした態度で暴力に加わるも疑問が生じる。
岩田平治 (革左)言動が森に評価される。
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左)永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
行方正時 (赤軍)★緊縛中★ オドオドした態度を批判された。
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)雰囲気に圧倒されてオドオドしている。
青砥幹夫 (赤軍)合法部との連絡役でそつなく立ち回る。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死) 

加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)

■「もう、総括はないだろう、との希望を持った」(青砥幹夫)


 遠山美枝子さんが亡くなった1月7日夜の全体会議で、森君が、「(死んだ)5名との共産主義化の闘いを踏まえて殲滅戦を具体化する」と宣言した。(中略)
 青砥幹夫君は、のちに連合赤軍統一公判裁判の証人尋問で、このときの気持ちを問われ、「もう、総括はないだろう、との希望を持った」と、実感をこめて述べたが、これは森君を除く全面メンバーの気持ちを代表していた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あんた、頭がよすぎるのよ」(永田洋子)


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 女性たちがそれぞれ自己批判する中、大槻節子はパンタロンを買った ことを自己批判した。だが、永田はそれでは不十分だと納得しなかった。

 私はさらに大槻さんに総括すべき問題をいった。
「あんた、よく本を読んでいるけど、知識として頭で理解したってだめなのよ。あんた、頭がよすぎるのよ。何でも頭で知識としてパーパー理解してある程度までは進むけど、それ以上は進めなくなっちゃう。あんたは頭が良すぎるのがかえってマイナスになっている」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、以前、森が永田に、「大槻は知識として本を読んでいるだけ」と批判したとき の受け売りであった。


■「男にこびる方法を身につけてしまっている」(永田洋子)

 大槻は、永田の批判にピンと来なかった。そして、渡辺正則 との関係について自己批判した。

 「私が渡辺と関係をもったのは、渡辺のかっこよさにひかれたにすぎなかった。渡辺の私への要求は、結局、シンパ的な可愛い女にすぎなかった」


「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」


この時、寺林さんが、大槻さんに、
「私や中村さんは自慢できるものが何もないから、それだけ総括できる。大槻さんも私たちみたいに単純バカになって早く総括しちゃってよ」
と励ますようにいった。大槻さんは、「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は誠実に自己批判したものの、永田とかみ合わなかった。それえは当然で、永田は、頭がよすぎるとか、可愛すぎるとか、およそ欠点とは思われない点に批判の矢を向けていたのである。


■「あんた、まだ総括していないわね」(永田洋子)


 金子さんの番になったとき、彼女は、「私が吉野さんと別れるといったのは、私は吉野さんの足をひっぱってきたからです。私は、吉野さんとは運動にかかわる前から関係をもっていた。運動の中ではお互いを高めあうようにしてきたけど、この関係に甘えてきた。私は、完全に総括できないので吉野さんと別れたいと思います」といった。
 私は再び、「あんた、吉野さんと別れるといってるけどそうじゃないのよ。あんた、まだ総括していないわね。あんたは、離婚しなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はないのよ」といったが、金子さんは首をかしげ、うつむいて考え込んでいた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、金子に何を批判しているのかよくわからない。離婚表明にしたって、同じ理由で杉崎ミサ子が寺岡恒一と離婚表明したのは認めているのに、金子の離婚表明は否定するのである。

 2人とも兵士たちのなかでは活発に活動していたし、指導力もあったので、私は、どうして彼女たちが評価されないのか理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 全体会議を終わることにした時、私は、「大槻さんと金子さんは総括できるのだから、早く総括しちゃいなさい」といった。私は、彼女たちの批判をはっきりと理解できないまま、こういわずにはいられなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「女が男に対して行う女の顕示を克服しなければならない」(森恒夫)

 遠山批判を経て、森が構築した革命家の女論 は、「自己批判書」で明かされているが、原文は長いので、永田の説明を引用する。

 森氏は、敗北したあとで作成した「自己批判書」の中で、女性問題を特に重視した理由について、次のように述べている。


 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 早い話が、恋愛は革命の邪魔だということであり、恋愛は女が男に従属するものだと考え、そのため女が自立できないと決めつけている。


 革命家の女論を受け入れたとしても、問題は、「女の顕示」を判定する基準があいまいなことである。つまるところ、森や永田の恣意的な判断なのである。


 森は初めて革命左派のベースにやってきたとき、金子と大槻を大いに認めていた。それが、この理論を構築してから、批判に転じている。


■「不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬したのではない」(永田洋子)

 逮捕後のメンバーの多くは、金子と大槻への総括要求は、永田の嫉妬であると証言している。これに対して、永田は最終意見陳述において以下のように反論している。

 ところで、こうした大槻さんへの批判が、何か私の嫉妬から行われたかのようにいい、不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬して、批判し、殺したというまことしやかな中傷的解説が、まかりとおっている。もちろん、こんな解釈で連赤問題の本質を解明できないのは、当然である。だが、私が不思議に思うのは、こうした森氏の大槻さんへの批判に同調した他の男性のC・Cが、そんなことがなかったかのように口をぬぐっていることである。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田が言わんとしていることは、森が大槻を批判しているとき、むしろ擁護する立場をとったのであり、他のC・C(中央委員)は、森に同調していただけだったではないか。それを今さら、私の嫉妬のせいにするのはフェアではない、ということである。


■美人であることが批判された
 大槻節子と金子みちよに対する総括要求はわかりにくい部分である。森の理論にしても、永田の言い分にしても、美人であることがいけないとしか思えない。これでは、批判されるほうも、どう総括したらよいか困惑するばかりだ。


 大槻と金子は共通点が多い。大学が同じ(横浜国大)、美人でスタイルが良い、頭が良い、積極的な活動、リーダーシップがある、などであり、多くのメンバーから認められた存在だった。


 そしてもうひとつ忘れてはならない共通点は、2人とも永田に対してイエスマンではなかったということだ。大槻は、意見書 を書いた本人であり、金子は革命左派時代からたびたび永田に意見していた。


 永田は彼女たちの能力を認めていたが、その一方で、嫉妬があったり、自分の立場を脅かすという警戒があったりした可能性が強い。森の革命家の女論にしても、これまでもそうだったように、永田の直観や感情を理論化したものだったかもしれない。


 遠山美枝子を厳しく批判していた金子と大槻は、一転して批判される立場に立たされたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html


(榛名ベースは道路から近いので危険と判断されたが・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名山

(そう簡単には見つからない山の斜面にあった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース

■メンバーが活動に出発
この日の朝、メンバーがばたばたと出かけていった。


山崎、中村、寺林、山本保子は、静岡県の旧革命左派の井川ベースに残してきた荷物をとりにいった。

岩田、伊藤は、名古屋へ行き、総括で死んだ小嶋和子の妹をつれてくることになった。

前沢、青砥は、黒ヘルグループの奥沢修一たちをオルグし入山させることと、森の夫人に会うことになった。


 指導部会議では、新たな山岳ベースの調査に行くことが決まった。坂東・寺岡は日光方面へ、吉野・寺林は赤木山方面へ、植垣・杉崎は迦葉山へ調査に行くことになった。このため大槻と加藤三男は地図を買いに行くことを命じられた。


 なぜ新たな山岳ベースを調査するかというと、榛名ベースは道路から近いため危険と判断したからである。植垣が始めて榛名ベースを訪れたときにも心配していた。

 岩田氏は元気で張り切っている様子で、とてもそのあと脱走することになるとは思えなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」(坂口弘)


 私は、小屋上手の便所に行った帰り、便所の側で丹前を着たまま蹲り、森君はまだ総括を続けるつもりなのだろうか? そうだとしたら、われわれの組織はこの先、どうなってしまうのか? などと考えていた。
 すると、永田さんがやってきて、昨夜 とはうってかわった優しい調子で、私に話しかけてきた。それで私は、「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか。このままでは駄目だ。一刻も早く殲滅戦を戦うべきだ」といった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、なんとか永田を味方につけたいと思ったのであろう。しかし、、、

 私は人民内部の矛盾を認めながらも、共産主義化の闘いを絶対的に確信していたので、「総括は、私たちが前進していくためにはどうしても必要じゃないの」といった。坂口氏はうなづき、小屋に戻っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、坂口の件を指導部会議で報告するが、森は何もいわなかった。

 私はこの問題で、当然総括を求められるべきなのに、その後も彼から追及されることはなかった。私は、永田さんと共に、森君に特別視されていたことを認めざるを得ない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」(行方正時)


 青砥氏が出かけたあとは、私が行方氏に食事を与えたが、行方氏は、その日の午後、「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」と唄っていたかと思うと、「ジャンケンポン、アイコデショ」といったり、「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」といったりしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方は1月3日に批判 され、1月4日未明に緊縛されてから、ほとんど食事を与えられていなかった。見かねた青砥と植垣が森に進言して1日1回食事をあたえていたが、あとはずっと放置されていた。


■「金子は主婦的、大槻は女学生的」(森恒夫)

 夕方、森は、金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判しはじめた。

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、森の批判に驚いたが、金子を会計から外せば、森に批判されないですむと思ったという。

 それで私は、金子さんのところに行き、「あんたを会計から外すから、持っているお金やノートを出して」といって、これらを受け取ってコタツに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「行方氏はぐったりしていたが、私たちは注意を払わなかった」(永田洋子)


 夕食後、私たち兵士は土間で雑談をしていたが、8人も出かけているため、ベース内はガランとしていた。午後9時頃、見張りの順番を決め、早々に寝ることにした。行方氏がガタガタ震えていたので、指導部の誰かが行方氏に毛布をかけていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 8日の晩は、中央委員会も全体会議も無く見張りを残して寝た。見張りは被指導部の人たちが交代で行っていたが、行方氏はぐったりしたまま元気が無かったが、私たちはほとんど注意を払わなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■久々の活気も、いよいよ闘争・・・にはならなかった
 メンバーに任務を与えるとき、1人で外出ということはなく、慎重にペアが決められていた。これは、互いの行動の監視や、逃亡を抑止するという意味があったようだ。


 殲滅戦の前準備とはいえ、ようやく任務らしい任務を与えられた下部メンバーは少し元気を取り戻した。もともと彼らは、共産主義化のためではなく、闘争活動のために集ったのだから、それは当然であった。


 その一方で、行方は放置されていた。精神に異常をきたし、もはや総括うんぬんの状態ではなかった。誰もがそう思っていただろう。しかし、同情を口にすれば、総括にかけられる恐怖があり、断固とした態度でいるためには、弱者というレッテルを貼って切り捨てるしかなかった。


 森の金子と大槻に対する批判は、この日も止まらなかった。事実、金子は主婦だし、大槻は女学生なのだから、それが何か? とツッコミたくもなる。「主婦的」とか「女学生的」という言葉で批判する森のほうこそ、女を意識し、蔑視していることがよくあらわれている。


 さて、メンバーは、これで暴力的総括、すなわち、 「敗北死」 は終わりという期待をしていたようだが、そうはいかなかった。 それどころか、「死刑」 という 「新たな地平」 に連れて行かれるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html

1972年1月9日 何気ない日常の恐ろしさ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html


 今回は、行方死亡後の出来事をフォローしておく。

 メンバーは久々の任務について、活動にでかけていた。


■メンバーの状況(1月9日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。

吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係をはずされた。
大槻節子 (革左)「女まるだし」「女学生的」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)黒ヘルグループをオルグするために東京へ
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ(運転手)
中村愛子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ
寺林喜久江(革左)荷物を回収に井川ベースへ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)荷物を回収に井川ベースへ
青砥幹夫 (赤軍)黒ヘルグループをオルグするために東京へ

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)
行方正時 (赤軍) 敗北死の規定なし(1月9日・凍死or衰弱死)


■「岩田君は僕に似ている」(森恒夫)


 岩田氏、前沢氏について森氏は、最初から評価していたが、とりわけ岩田氏を高く評価し、「岩田君は僕に似ている」とさえいっていた。しかし、森氏が高く評価した彼らがのちに脱走することになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、山岳ベースで、ずっと心理学者気取りであったが、まったく的外れだった。


■「中村さんと結婚したい」(山崎順一)
 夕方、井川ベースに整理に行ったメンバーが帰ってきた。

 夕方、井川に行っていた山崎氏たちが戻ってきた。さっそくリュックを持って、大槻さんや山本氏たちといっしょに車まで荷物を取りに行った。その際、大槻さんがすすんで重い荷物を運び、私の方が驚いてしまった。(中略)
 それだけに、こんなに頑張っている大槻さんに対して「総括できていない」という指導部の態度が腹立たしかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 中村さんは、「山崎さんは、運転中に眠気止めといってタバコをのんでいたけど、帰ったらのめなくなるから今のうちに沢山すっておくんだといってスパスパすった」とさもおもしろそうに話した。
 また、山崎氏は、「車の荷台にちょこんと横になって寝ていた中村さんがかわいかったので、中村さんと結婚したいと思った」と明るい調子でいった。
 私は二人の気持ちがそういう風ならそれはよいと思い、ニコニコしながら聞いていたが、これらのことがのちに批判的に取り上げられることになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 夕食後、土間で一服しながら皆と雑談したとき、私は、山崎氏と、新しいベースの調査には2人で行こうと約束し合った。これは、山崎氏が運転手としての地位に安住していたと自己批判したことから、できるだけ他の任務をした方がよいと話し合い、誰か行くものはいないか聞かれたら、2人で立候補することにしていたからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「植垣、お前の大槻に対する態度は何だ」(森恒夫)
 夜9時ごろ、遠山、行方の死体を埋める作業が行われた。坂東、吉野、植垣が行方の死体をかつぎ、坂口、山田、寺岡、山崎が遠山の死体をかついだ。


 戻ってきた時は午前零時をまわっていた。

 この時、森氏は植垣氏を中央委員のこたつの所に呼び、まず、杉崎さんと一緒に山岳調査に行くよう指示し、さらに党員にすることを伝えた。植垣氏は了解したものの、今一つ彼らしく張り切る様子はなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 植垣が気乗りしなかった理由は、ひとつは、山岳調査にいく相手が山崎ではなかったことだ。しかし、森は脱走を異常に警戒していたから、仲の良い2人組にすることはなかった。

 もうひとつは、他の党員候補が、前沢、岩田、寺林と聞いて、植垣の評価と違い、拍子抜けしたからである。

 そのあと、森氏は、「南アルプスでは、お前も大槻もすぐれていたが、ここでは違うんだ。お前の大槻に対する態度は何だ。いやらしいぞ」と批判しだした。私は、まずいことになったと思い、あわててその場をはなれた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森が、「南アルプス」といったのは、連合赤軍になる前の、赤軍派と革命左派の共同軍事訓練 のことをさす。 森は、榛名ベースでの植垣の大槻に対する態度を 「いやらしいぞ」 と批判したが、実は、共同軍事訓練のときの植垣の態度 のほうが、批判されるべきだろう(笑)


■連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされた
 今回の話は、大したエピソードではない。しかし、行方が死んだ直後なのに、何もなかったかのように時間が流れた。それが逆に恐ろしい。


 行方の死で、死亡者は6名になった。もうかんべんしてくれと言いたくなるが、まだあと6名死亡するのである。


 これまで検証してきて、はたして、「彼らはどこでどんな間違いを犯したか」 という答えがみつかったかというと、ノーと答えるほかない。ここだ、と指をさせるポイントはみあたらないのだ。

 あとから考えてみても、ここでとどまるべきだったといえる明確な地点はどこにもない。いいうることはただ、ある人間が泳ぎだし、ちょっと遠くまで泳ぎすぎたということだ。しかし、どのひとかきが余計だったのか、正確にどの地点で引き返すべきだったのか、はっきりと考えることの出来る人などいないだろう。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)


 ただ、引き返すチャンスはあった。最大のチャンスは、最初に尾崎が死亡したとき である。死者が出るとは想定外だったメンバーは大いに動揺し、それは森恒夫もまったく同じだった。


 ところが森は、指導方法を改める代わりに、瞬時に、「敗北死」という規定を提示した。「敗北死」は自らの指導を正当化すると同時に、メンバーに免罪符を与えるものだった。動揺していたメンバーは、「敗北死」にすがったのである。


 もし、尾崎の死を「敗北死」と規定しなければ、2人目の死者はでなかった可能性が強い。連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされたのである。それゆえ、森の理論の中でも、「敗北死」の理論はもっとも罪深いのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c85

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
86. 中川隆[-11452] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[543]

1972年3月12日 頼良ちゃんを救え!   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html

 森の上申書をきっかけにメンバーの自供が相次いでいる。ただしそれは断片的なものだったので、新聞はそれらを組み合わせ、ストーリーを考え、記事を創作したとしか考えられない。当時これらの情報により、彼らは自分とは違う人間なのだと思っていた。


■3日間夫は泣いた 山本保子(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-12 毎日 朝刊19


 山本保子は素直に取り調べに応じ、「私は夫が殺されるのをこの目で見た」と始めて語った。幹部に少しでも逆らうと総括を受け、リンチはしょっちゅうだった。とくに永田のリンチぶりはひどかった。リュックにおしめを入れていると夫の順一が手伝ってくれた。これが永田の目に留まり「夫婦はブルジョア趣味だ。もっと強くならなければならない」となじった。ついに夫は総括を受けることになった。1月下旬、森、永田らは突然、「これから総括する」と言って腕や手足を縛り上げ、木切れや板でなぐったりけったりした。私は駆け寄ろうと思ったが、監視がきびしく泣き声すらあげられなかった。リンチは3日3晩続いた。夫は寒かったのだろう。"オー、オー"と叫びながら助けを求めていた。3日目になると声も出なくなった。夫は死んだのだ。


 直接話法でかかれているが、事実とはまったく違う。保子はリンチの現場にはいなかったし、森、永田もリンチの現場にはいなかった。山本順一の総括は坂口が中心に行なわれた。

■処刑の跡 ロープ 無数の弾痕 暗い穴の中に焼けた布切れ(毎日)
 榛名山アジトは榛名湖から保育等に約5キロ。4畳半くらいの小屋跡にはバスローブのタオルひも、おしめのような布、クギ、カスガイなどが凍り付いている。小屋のすぐ上に深さ1メートルぐらいの穴があり、細かい布が無数にこびりついていた。すぐ下の大木には、人の背中の高さのところにロープでこすったような跡がある。小屋から5メートルぐらい下ったところに小さな小川が流れている。そのほとりに黒く焼けた木材、石などがころがっていた。ここが彼らの炊事場。炊事場に隣接するこの小川の中がトイレ。おびただしい量の排泄y物や、生理用品が、済んだ水の中に浮いている。・・・榛名山アジトの小屋周辺はすべてが焼き払われており、灰化したような土の山。それは、自分たちの犯行の血なまぐささに耐えられなくなり、その悪夢を振り払おうとして、撤退していく彼らの暗い絶望的な姿を思わせた。


■頼良ちゃんを救え! 連れていた中村手配(朝日)
 保子の供述によると頼良ちゃんは1月末、榛名山味とから、迦葉山アジトに移った直後、「夫婦、親子の関係を清算しなければ革命はできない」と幹部に指摘され、保子の手から中村愛子に移されたままという。

 中村愛子は2月7日の雪の朝、榛名湖畔でストーブにあたらせてやった食堂経営者佐藤道三さん(48)は「てっきり自殺かと思った。...こちらの心配を気にしてか、"自殺なんかしないわよ"とはじめて笑顔をみせた。あの赤ん坊はどうしているんですかねえ」という。

 身元引受人にされた高校時代のAさんも「ひどく疲れているようだった。タクシーの中でほとんど話をしなかった。"事情がある"というだけで、あとはよくわからないまま"サヨナラ"といって行ってしまった」といっている。


■前沢が出頭 リンチこわくアジトを脱走(朝日)
 11日親類2人につきそわれて東京・練馬署へ出頭した。2月7日、金を一銭ももたず、乞食のような身なりでやってきて、塗装業の栗田さんの手伝いをしていた。栗田さんは指名手配されて顔写真がいっせいにのった10日の新聞記事をみて驚き、「これではきれいさっぱり話してしまわなければいけない」と前沢を説得、出頭したという。前澤は「リンチの場面をみてこわくなり組織をやめようと逃げた」と語った。


■夫婦も兄弟もなかった  肉親でもリンチ殺人 車もたつき"総括"直前(朝日)
 奥沢修一(22)の自供によると・金子みちよの殺害には、当初吉野が不在のときといわれていたが、吉野も手を下していた。加藤には弟も殺害に参加。これは「夫婦、親子、兄弟などの関係は革命の前には放棄すべきだ」とする永田の考え方の実践で、同時に生き残る者に対する「踏み絵」としての意味を持たせた。肉親同士殺し合うという異常ぶりに「革命の精神が高められた」と総括していたという。

 山本は運転をしばしば誤って総括されたが、車をミゾに落とすことは、そのまま犯行の発覚につながる恐れがある、と重視されたという。死体搬出でスリップしてミゾに車輪を落とした山本は、味とに帰ってから森や永田に「気合が入っていないからだ」と厳しい追及を受ける結果となった。

 2月7日、奥沢は怪しまれてレンタカーを断られると、永田が「革命精神が足りなかったからだ」と総括にかけられた。奥沢は死を覚悟したが、心酔していた森から「あと1日やるから車をかりてこい」と1人だけ残った運転技術を買われて助けられた。8日に車輪を溝の落として近所の人に助けられて人目につき、16日にもぬかるみに車輪を取られて警官にみつかり、グループの破滅につながった。

 結局、山も虎の運転技術者を「運転の仕方が悪い」などの理由で次々に殺して言った最高幹部の"過剰殺人"が、奥沢のようなまずい技術者の起用につながり、壊滅的な打撃となって終わった。

 加藤は1月上旬ごろ、女性関係のもつれから榛名山アジトで人民裁判にかけられ、リンチされることになった。次男Aもそのメンバーに入れられて一緒に殴った。三男Bは兄の処刑が決まりリンチが始まると「殺される」と思い、森ら最高幹部たちに「兄さんの命だけは助けてほしい」と訴えた。この命乞いに森は「だまっていろ、兄のことは組織に任せておけ」と答え、聞き入れられなかったという。


 最後の加藤リンチの状況は事実と違う。次男Aも三男Bも、永田に促されて2人とも殴った。命乞いうんぬんのくだりは彼らの手記にはでてこない。


■「女問題・逃亡は『死刑』」 青砥が自供 山崎惨殺は見せしめ(朝日)
 山崎順(21)があまりにもむごたらしい殺され方をしていたため、青砥らを追求したところ、山崎は榛名山アジトに出入りしていた女性をめぐって他の男とトラブルを起こした。森・永田らからとがめられたことから、イヤ気がさし、逃亡しようとしたところをみつかり、人民裁判にかけられた。

 同アジトでは、少ない女性をめぐって、他にもトラブルがあったため、森・永田らは、「これ以上女性トラブルが増えると組織がもたない」と考えていた。こうした中で脱走者が出ることを厳しくチェックするようにしたり、山崎の脱走行動がヤリ玉にあがったという。このため山崎は他の処刑者と違って死刑宣告を受け、殺され方もみせしめのため、みんなの前でわざと残虐な方法がとられたという。


 山崎死刑は幹部だけで話し合われて、メンバーには死刑の理由を知らされていなかった。メンバーの自供に基づいた記事のため、事実と違う記事になったと思われる。


■永田洋子という女 森しのぐ実力 飛びぬけて激しい言動(朝日)
 永田の存在が不気味にクローズアップされてきた。アジト内の会議では議長の森を牛耳った。処刑の場では大声をあげてメンバーを動かしていた。当局の調べに対し、逮捕者が相次いで脱落、自供していく中で、彼女だけは口を割らない。「実質的な指導者は森ではなく永田ではないか」という評価も生まれつつある。


▲リンチ通し地位高める
 山本保子の供述によれば、永田はリンチのとき飛びぬけて激しい言動をみせた。集団リンチという異常極まりない行動をとるとき、病的に冷酷な人間が最低一人は必要といわれる。当局によればそれが永田だった。逮捕当時「ナンバー1」の森さえ、永田を抑えきれなくなっていたらしい。彼女はリンチを加えることによって組織内での自分の地位を高め、ついに事実上の「ナンバー1」にのしあがったといえるようだ。


▲死に行く者をあざ笑う
 最後に処刑された山田孝は妙義山のほら穴アジトで縛られ、雪の上に放置されていた。死の直前、のどのかわきをいやすためか、山田はからだを必死にねじまげて雪をなめ、そのまま死んだ。居あわせたメンバーは一瞬シーンとなった。洋子はその静けさを破るように大声で笑いながら言った。「こいつは死ぬまで食い意地が張っている」(警視庁への密告から)


 これはひどい。山田が死んだとき、永田は森とともに東京アジトにいて現場にいなかった。関係者がそんなこと供述するはずがない。全員逮捕されているのに「警視庁への密告から」というのも奇妙だ。「永田」でなく「洋子」と呼称しているのは女性を強調するためだろうか。


▲警官の心臓めがけ短刀
 永田は森恒夫と妙義山中でつかまった。登山ナイフをふりかざしながら機動隊員と取っ組む森に「やれえッ、やれえッ、殺せッ、突き刺せッ」と声を限りに叫んだ。機動隊員が雪ですべって森に組み敷かれると彼女もとがったやすりを振りかざして旨めがけて突き刺そうとした。機動隊員は防弾チョッキを着ていたので、ケガを免れた。あとで、チョッキを調べたら、刺し跡は心臓のみに集中していた。


 「十六の墓標(下)」(永田)によると、永田が持っていたのはナイフであり、すぐ取り押さえられたというから、攻撃できたとは思えない。心臓にナイフを刺したのは森。


▲不美人を気にする日常
 「色黒。ギョロ目、上歯やや突出した感じ」(手配書から)。美人とは言いがたい永田はそれを自覚してかどうか、仲のいい活動家に「私だって子供には慕われるのよ」といっていた。浅間山荘にたてこもった坂口弘と同性していたところ、わざと腕を組んで見せて「新婚なのよ」と誇らしげに話した。人目をそらすための、偽装だけではなかった、と当時を知る人たちはいう。


▲仲よい山本夫妻いびる
 坂口は心臓が弱く「夫婦仲」は必ずしもよくなかったようだ。夫婦仲のよかった山本夫婦のむつまじさにイラ立って「夫婦気取りで革命はできない」と非難した。保子が子供のおむつを味との外に干そうとすると「人にみつかる」ときつくたしなめた。群馬県警に逮捕された1人は「嫁いびりのようだった」と表現している。


▲永田とはだれの名だ
 妙義山中の逃避行の際、警官に職務質問されたことがあった。洋子は一緒にいた森ととっさにキスをして、アベック旅行者を装ったという。逮捕後、自分への手配書をみせられると泣いて悔しがったが、取調べでは一番係官を手こずらせている。自分が永田であることを認めていない。留置場につけられた「永田洋子」の名札をみて「これはいったい誰の名前だ」。取調官にたて突く。「殺人罪とはどういうことをいうのか」「刃物を持つのが悪いとはどういうことか」ダバコをすすめると「オマエらのものをすえるか」しかし、しばらくして灰皿の吸殻を拾ってすった。


 いくらなんでも職務質問中に「とっさにキス」をしたとは信じ難い。取調べの模様は「続・十六の墓標」(永田)に詳しい。それとはずいぶん違う印象だが、このようなう面もあったかもしれない。タバコの件は「タバコを権力にもらうのはよくないが、落ちているタバコを拾ってすう分には問題ない」という連合赤軍ルールによる。森も「拾って」吸った。


▲コーヒーを飲ませろ
 彼女はいま群馬県高崎署に収容されている。朝晩留置場から調べ室に警官が両脇をかかえて進行する。その警官に必ず彼女は言う。「病人だから大事にあつかいな」調べ室ではあいかわらずだんまりを決め込みプイと横を向く。そしてときどき命令する。「病気だから調べをやめな」「下着を買ってくれ」「コーヒーをのませろ」「弁護士を頼んでくれ」永田はバセドー氏病にかかっている。


 永田の感情の高ぶりがよくバセドー氏病と結び付けられるが、まったく関係はない。また「永田はバセドー氏病のため子供が生めない体だから、妊娠した金子に嫉妬していた」などとかかれる事もあるが、これも病気とは一切関係がない。事実、永田は妊娠し中絶している。この経験から、金子が妊娠したとき「今後は子供を生んで育てていくようにしよう」と提案し、祝福したから、金子は山に入ったのである。


▲大学生も恐れる論旨
 京浜安保共闘の川島豪議長が逮捕されてから「理論面」で永田に並び立つものはいなかった。アジ演説も巧みだし、論旨もそれなりに明快だった。だから議論になっても反論するものはなく、大学生のメンバーでもひたすら恐れ入ってしまったという。


 「大学生も恐れる論旨」という見出しからもわかるように、当時、大学生はエリート扱いされていた。だから赤軍派は「労働者諸君!」などと見下すようにアジっていたのである。ちなみに永田は共立薬科大卒業だ。


■13人目のリンチ殺人(毎日)
 京浜安保共闘がが独自で山岳アジトを作ったとき、リンチ殺人が行われたとみている。これは中京安保共闘の少年2人と同、寺林真喜江(23)、京浜安保共闘の伊藤和子(22)、山本保子(28)の断片的な自供から得たもの。


■その他の記事
きょう4人の死体発掘 保子が現場を案内(朝日)
37名の警官が負傷した明治公園爆弾事件は森が陣頭指揮をとったと青砥が自供(毎日)
頼良ちゃんを連れて逃亡したとみられる中村愛子(22)を森林法違反の疑いで全国指名手配(各紙)

https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c86

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
154. 中川隆[-11451] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:19:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[544]

ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇
3/13(水) 19:40配信 AbemaTIMES
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00010024-abema-soci


 ソ連軍が侵攻した旧満州国で男性兵士に性接待をさせられたという体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


日本と満州国の歴史


■子どもたちに語ることができなかった過去

 1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。

 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪や強姦の被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江菊美さん


 元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、“小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい“と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。

 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが“接待所“についてだ。

 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


黒川開拓団とは


 満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「性接待という言葉自体が適切かどうか考えないといけないと思う。性暴力だと言えると思う。他の開拓団も含め、当時、“根こそぎ動員“といって、18〜45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。

そして17歳以下の少年少女たちは、案内係や洗浄係を任されていた。当時小学生だった菊美さんも、性接待に向かう女性たちのために風呂を沸かし、性器を洗浄する係に就いた。「“ソ連兵のところに行くから風呂炊きなさい“と。そして、行ってきたらすぐ医務室に入って洗浄する。兵隊さんの“うがい薬“を薄めてビンに入れて、ホースで洗浄させていた。発疹チフスが流行っても、自分に熱が出ても出ていかれた。助けてくださるという気持ちしか分からなかった」。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江善子さん


■2013年、生存者が声を上げる

 2013年になり、そんな辛い体験を打ち明けたのが安江善子さん(当時89歳)だ。

 「本当に悲しかったけれども、泣きながらそういう将校のお相手をしなければいけない。ボロボロになって自分の心の中に寝ても覚めても忘れられない。ときどき夢にうなされて」。講演でそう語った2年後に、善子さんは亡くなった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


善子さんの遺した手記


 生前の善子さんに事実を語り継ぐよう頼まれ、手記を託された菊美さんだったが、「今までずっと見せなかった」と話す。

 善子さんの手記には「べにや板でかこまれた元本部の一部屋は、悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。おかあちゃん、おかあちゃん、の声聞こえる」と綴られていた。銃を持ったままのソ連兵に怯える女性たちの泣き叫ぶ声が響いた接待所は、400人が避難する旧国民学校の校舎のすぐ裏にあったという。

 「ダーっと部屋が並んでて、みんな雑魚寝みたいな格好で。(ソ連将校は)何人もいるから、1回に4人くらいいくよ。大人はみんなわかってるから近づかない。大人がやらせてるんだから」(菊美さん)。

 黒川開拓団の曽我久夫さんによる手記には「接待するこの乙女たちの泣き声がもれてきた。我々団員は心の中で泣いた」と綴られている。また、別の接待役の女性は「汚いものを触るみたいに、銃の先で私たちを動かして、銃を背負ったまま私はやられた。抵抗して暴発したら死んでしまう。友達と手を繋いで“頑張りなね“しか言えない状況だった」と証言。「ベルトが外れる音がずっとトラウマになってこの70年頭から離れることがなかった」と語る女性もいた。

岐阜県・ひるがの高原に住む佐藤ハルエさん(94)も、そんな悲惨な体験をした黒川開拓団の一人だ。「“団を守るために、どうか頼む““あんたら娘だけでどうか頼む“って。それは忘れない。頑張ってどうにかして日本に帰りたい。それだけが念願で、犠牲になった。当番が決めてあった。今夜はこの人、明日はこの人って回ってきて。みなさん病気になられて、順々に亡くなっていった」。

 総勢約600人で満州に入植した黒川開拓団は約400人が生還した。しかし犠牲になった女性たちを待っていたのは、身内からの中傷だった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤ハルエさん


 菊美さんは「接待に出てくれと頼んだ人が、帰ってきてから“いいことした“でいいじゃないか、って中傷した。酷いと思うよ。そんな無責任なことはないってみんな泣いて怒ってたけどね」。

 故郷を離れ、独身のまま亡くなった人もいる。ハルエさんも、弟から“黒川では嫁のもらい手がない“と言われて故郷を離れた。そして他の村の出身だった健一さんと結婚し、荒野だったひるがの高原の土地を開墾し、酪農を始めた。「ここで乳絞りましたけどね。大きな借金をして。主人だって義勇隊で満州体験して南方から帰ってきたんで、何もかもわかってくれて、本当に良い主人だった」と厩舎で語るハルエさん。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤茂樹さん


■当事者たちの親族の苦悩

 戦後を生き抜き、子どもも孫もできた女性たちが、近年になって事実を明かした理由は何だったのだろうか。

 ハルエさんは「もうそういうことを公表しようと思う犠牲者もいないでしょう。亡くなっちゃって。みな揃って帰ってこれた。その元になれたと思えば、今生きているうちに喋るのは恥ずかしいこととも何とも思わない」と振り返る。

 しかし、周囲の人たちにとっても、この事実は重いものだった。ハルエさんの息子・茂樹さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは子どもとしては嫌だった部分があった」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江泉さん


 また、善子さんの長男・泉さん(65)は「我々には一言も言わなかったことを表で発表したところに重要度を感じる。“性暴力は発表するものじゃない、隠すものだ”っていう思いが、帰ってきてからの彼女たちを何十年も苦しめた」と話す。


ハルエさんが「お父さんが来られると“嫌だ“と思った」と振り返るのが、8年前に黒川開拓団遺族会の会長になった藤井宏之さん(67)の父親だ。当時、女性たちをソ連兵に差し出す“案内係“をしていた開拓団員だった。

 遺族会会長になって初めてその事実を知った藤井さんは、犠牲になった女性やその遺族を訪ねて回り、タブー視されてきた史実を碑文として残すことを呼びかけた。「碑文は役員会を何回も開いて当時の人たちの気持ちになって作ったものですから」と藤井さん。菊美さんは「藤井さんは責任を感じている。(碑文を)書き直しては、これでいいか、これでいいかと何枚紙をもらったやら」、元団員の新田貞夫さん(83)は「何回も手を入れた。反対意見もあったようだし、いろいろあったが、私はよかったと思っている」と明かした。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


“乙女の碑文“


 そして去年11月、女性たちの勇気ある告白と、それを受け止めた家族。そして開拓団遺族の贖罪の気持ちが結実した“乙女の碑文“が完成した。

 碑文には「生きるか死ぬかを選択させられた黒川開拓団の幹部は、生き抜くことを選んだ。(中略)。数えで十八歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する『接待役』を強いた。女性たちは逃げたかったが団全体の生死が関わる事態に嫌だとは言えず交代で相手をさせられた。日本への引き揚げ後も恐怖は脳裡に焼きつき、その上中傷もされた」と、性接待の事実が刻まれている。ハルエさんは「書いてもらった方がいい。そういう歴史があったことを伝えていかなきゃならん。そういうことを伝えていくのが生きとる者の大きな使命じゃないか。本当にはっきりした。あれができて、私は死んでも後悔はない」と清々しい表情で笑顔を見せた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


藤井さんと佐藤さん


 しかし藤井さんは「これを掲げたから終わりじゃない。生存している方に寄り添っていかなきゃいけない」と話し、今もハルエさんや遺族たちの所に足を運ぶ。「ハルエさんたちのおかげで、今の僕らがここに生きてる。もっと早くああいったことをしなくちゃいけなかったと思ったし、申し訳なかったと思ってる」とハルエさんに語りかけていた。

 善子さんの長男・泉さんは「戦争という異常状態になってしまうと何が起きるか分からないわけでしょ。性接待の問題も行けといったのは同じ団の人たちなんだから。皆おかしくなっちゃう。そういう状態に陥らないように努力するのが我々の大事なことだろうと思う」と語っていた。

■“第二の加害者“が生まれた理由に向き合うべき

 性接待をした15人の女性たちのうち、4人は現地で亡くなり、祖国の土を踏むことはなく無かった。健在なのはハルエさんを含む4人だけになった。

 寺沢さんは「黒川開拓団の問題を含め、満蒙開拓、あるいは満州開拓というのは戦後あまり語られてこない、送り出した側としては国民を危険な場所に追い込んだ、いわば不都合な歴史だからだ。しかし、不都合なことに目を瞑る社会はまた同じ過ちを繰り返す。悲しい経験をした人々の言葉に向き合って、二度と同じような悲しい犠牲者を出さないような国や時代にするにはどうすればいいか、学んでいかなければいけないと日々思っている」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


小川アナ


 ライターの速水健朗氏は「この問題には、“第二の加害者“がいると思う。それが日本帰ってきた後、犠牲にした未婚の女性たちを共同体に受け入れなかった人たちだ。なぜそういう排除が起きたのか知りたいし、そこに向き合わないと、この問題を受け止めたことにはならないと思う」と指摘。小川彩佳アナは「私たちは、戦争の中に生きた人たちの生の声を聞ける最後の世代ともいえる。この女性たちにとって、戦争はずっと続いていたんだなと感じた。何度も言葉で蹂躙され、トラウマに苦しめられ、どれだけのことに耐えてこられたのか。敬意を表する。最近のMeTooの流れとシンプルに一緒にしてしまうのは良くないが、共感してもらえるかもしれない、という望みも生まれているのだと思う。そういう女性たちの癒やしていくことができるのであれば、共有し、共感して、戦争の地続きの今を感じることが必要だ」とコメントしていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c154

[近代史02] こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね) 中川隆
33. 中川隆[-11450] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:20:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[545]

ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇
3/13(水) 19:40配信 AbemaTIMES
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00010024-abema-soci


 ソ連軍が侵攻した旧満州国で男性兵士に性接待をさせられたという体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


日本と満州国の歴史


■子どもたちに語ることができなかった過去

 1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。

 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪や強姦の被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江菊美さん


 元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、“小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい“と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。

 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが“接待所“についてだ。

 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


黒川開拓団とは


 満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「性接待という言葉自体が適切かどうか考えないといけないと思う。性暴力だと言えると思う。他の開拓団も含め、当時、“根こそぎ動員“といって、18〜45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。

そして17歳以下の少年少女たちは、案内係や洗浄係を任されていた。当時小学生だった菊美さんも、性接待に向かう女性たちのために風呂を沸かし、性器を洗浄する係に就いた。「“ソ連兵のところに行くから風呂炊きなさい“と。そして、行ってきたらすぐ医務室に入って洗浄する。兵隊さんの“うがい薬“を薄めてビンに入れて、ホースで洗浄させていた。発疹チフスが流行っても、自分に熱が出ても出ていかれた。助けてくださるという気持ちしか分からなかった」。
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安江善子さん


■2013年、生存者が声を上げる

 2013年になり、そんな辛い体験を打ち明けたのが安江善子さん(当時89歳)だ。

 「本当に悲しかったけれども、泣きながらそういう将校のお相手をしなければいけない。ボロボロになって自分の心の中に寝ても覚めても忘れられない。ときどき夢にうなされて」。講演でそう語った2年後に、善子さんは亡くなった。
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善子さんの遺した手記


 生前の善子さんに事実を語り継ぐよう頼まれ、手記を託された菊美さんだったが、「今までずっと見せなかった」と話す。

 善子さんの手記には「べにや板でかこまれた元本部の一部屋は、悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。おかあちゃん、おかあちゃん、の声聞こえる」と綴られていた。銃を持ったままのソ連兵に怯える女性たちの泣き叫ぶ声が響いた接待所は、400人が避難する旧国民学校の校舎のすぐ裏にあったという。

 「ダーっと部屋が並んでて、みんな雑魚寝みたいな格好で。(ソ連将校は)何人もいるから、1回に4人くらいいくよ。大人はみんなわかってるから近づかない。大人がやらせてるんだから」(菊美さん)。

 黒川開拓団の曽我久夫さんによる手記には「接待するこの乙女たちの泣き声がもれてきた。我々団員は心の中で泣いた」と綴られている。また、別の接待役の女性は「汚いものを触るみたいに、銃の先で私たちを動かして、銃を背負ったまま私はやられた。抵抗して暴発したら死んでしまう。友達と手を繋いで“頑張りなね“しか言えない状況だった」と証言。「ベルトが外れる音がずっとトラウマになってこの70年頭から離れることがなかった」と語る女性もいた。

岐阜県・ひるがの高原に住む佐藤ハルエさん(94)も、そんな悲惨な体験をした黒川開拓団の一人だ。「“団を守るために、どうか頼む““あんたら娘だけでどうか頼む“って。それは忘れない。頑張ってどうにかして日本に帰りたい。それだけが念願で、犠牲になった。当番が決めてあった。今夜はこの人、明日はこの人って回ってきて。みなさん病気になられて、順々に亡くなっていった」。

 総勢約600人で満州に入植した黒川開拓団は約400人が生還した。しかし犠牲になった女性たちを待っていたのは、身内からの中傷だった。
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佐藤ハルエさん


 菊美さんは「接待に出てくれと頼んだ人が、帰ってきてから“いいことした“でいいじゃないか、って中傷した。酷いと思うよ。そんな無責任なことはないってみんな泣いて怒ってたけどね」。

 故郷を離れ、独身のまま亡くなった人もいる。ハルエさんも、弟から“黒川では嫁のもらい手がない“と言われて故郷を離れた。そして他の村の出身だった健一さんと結婚し、荒野だったひるがの高原の土地を開墾し、酪農を始めた。「ここで乳絞りましたけどね。大きな借金をして。主人だって義勇隊で満州体験して南方から帰ってきたんで、何もかもわかってくれて、本当に良い主人だった」と厩舎で語るハルエさん。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤茂樹さん


■当事者たちの親族の苦悩

 戦後を生き抜き、子どもも孫もできた女性たちが、近年になって事実を明かした理由は何だったのだろうか。

 ハルエさんは「もうそういうことを公表しようと思う犠牲者もいないでしょう。亡くなっちゃって。みな揃って帰ってこれた。その元になれたと思えば、今生きているうちに喋るのは恥ずかしいこととも何とも思わない」と振り返る。

 しかし、周囲の人たちにとっても、この事実は重いものだった。ハルエさんの息子・茂樹さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは子どもとしては嫌だった部分があった」と話す。
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安江泉さん


 また、善子さんの長男・泉さん(65)は「我々には一言も言わなかったことを表で発表したところに重要度を感じる。“性暴力は発表するものじゃない、隠すものだ”っていう思いが、帰ってきてからの彼女たちを何十年も苦しめた」と話す。


ハルエさんが「お父さんが来られると“嫌だ“と思った」と振り返るのが、8年前に黒川開拓団遺族会の会長になった藤井宏之さん(67)の父親だ。当時、女性たちをソ連兵に差し出す“案内係“をしていた開拓団員だった。

 遺族会会長になって初めてその事実を知った藤井さんは、犠牲になった女性やその遺族を訪ねて回り、タブー視されてきた史実を碑文として残すことを呼びかけた。「碑文は役員会を何回も開いて当時の人たちの気持ちになって作ったものですから」と藤井さん。菊美さんは「藤井さんは責任を感じている。(碑文を)書き直しては、これでいいか、これでいいかと何枚紙をもらったやら」、元団員の新田貞夫さん(83)は「何回も手を入れた。反対意見もあったようだし、いろいろあったが、私はよかったと思っている」と明かした。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


“乙女の碑文“


 そして去年11月、女性たちの勇気ある告白と、それを受け止めた家族。そして開拓団遺族の贖罪の気持ちが結実した“乙女の碑文“が完成した。

 碑文には「生きるか死ぬかを選択させられた黒川開拓団の幹部は、生き抜くことを選んだ。(中略)。数えで十八歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する『接待役』を強いた。女性たちは逃げたかったが団全体の生死が関わる事態に嫌だとは言えず交代で相手をさせられた。日本への引き揚げ後も恐怖は脳裡に焼きつき、その上中傷もされた」と、性接待の事実が刻まれている。ハルエさんは「書いてもらった方がいい。そういう歴史があったことを伝えていかなきゃならん。そういうことを伝えていくのが生きとる者の大きな使命じゃないか。本当にはっきりした。あれができて、私は死んでも後悔はない」と清々しい表情で笑顔を見せた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


藤井さんと佐藤さん


 しかし藤井さんは「これを掲げたから終わりじゃない。生存している方に寄り添っていかなきゃいけない」と話し、今もハルエさんや遺族たちの所に足を運ぶ。「ハルエさんたちのおかげで、今の僕らがここに生きてる。もっと早くああいったことをしなくちゃいけなかったと思ったし、申し訳なかったと思ってる」とハルエさんに語りかけていた。

 善子さんの長男・泉さんは「戦争という異常状態になってしまうと何が起きるか分からないわけでしょ。性接待の問題も行けといったのは同じ団の人たちなんだから。皆おかしくなっちゃう。そういう状態に陥らないように努力するのが我々の大事なことだろうと思う」と語っていた。

■“第二の加害者“が生まれた理由に向き合うべき

 性接待をした15人の女性たちのうち、4人は現地で亡くなり、祖国の土を踏むことはなく無かった。健在なのはハルエさんを含む4人だけになった。

 寺沢さんは「黒川開拓団の問題を含め、満蒙開拓、あるいは満州開拓というのは戦後あまり語られてこない、送り出した側としては国民を危険な場所に追い込んだ、いわば不都合な歴史だからだ。しかし、不都合なことに目を瞑る社会はまた同じ過ちを繰り返す。悲しい経験をした人々の言葉に向き合って、二度と同じような悲しい犠牲者を出さないような国や時代にするにはどうすればいいか、学んでいかなければいけないと日々思っている」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


小川アナ


 ライターの速水健朗氏は「この問題には、“第二の加害者“がいると思う。それが日本帰ってきた後、犠牲にした未婚の女性たちを共同体に受け入れなかった人たちだ。なぜそういう排除が起きたのか知りたいし、そこに向き合わないと、この問題を受け止めたことにはならないと思う」と指摘。小川彩佳アナは「私たちは、戦争の中に生きた人たちの生の声を聞ける最後の世代ともいえる。この女性たちにとって、戦争はずっと続いていたんだなと感じた。何度も言葉で蹂躙され、トラウマに苦しめられ、どれだけのことに耐えてこられたのか。敬意を表する。最近のMeTooの流れとシンプルに一緒にしてしまうのは良くないが、共感してもらえるかもしれない、という望みも生まれているのだと思う。そういう女性たちの癒やしていくことができるのであれば、共有し、共感して、戦争の地続きの今を感じることが必要だ」とコメントしていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html#c33

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
87. 中川隆[-11449] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:30:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[546]

1972年3月13日 破滅の魔女・永田洋子   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme


 この日の紙面は永田バッシングのオンパレード。憶測(でっちあげ?)記事が多く、なんでもありの書きたい放題。新聞の間違い探しをするのが目的ではないが指摘しないわけにいかない。連合赤軍の”総括”を批判しながら、連合赤軍の"総括"とまったく同じことが行われているのだ。新聞とはかくなるものであったか、と痛感する。


■さらに四遺体 同じ穴、折り重なって(毎日)
 群馬、長野寮県警は青砥らの自供にもとづき、榛名山ろくで男3人、女1人の死体発掘作業を行い、4遺体を収容した。同本部は、加藤能敬(22)、尾崎充男(22)、進藤隆三郎(21)、小嶋和子(22)と確認した。これで9人の死体が発見された。


■隠された"ねらい"に焦点(朝日)
 連合赤軍殺人事件は13日の発掘で12人全員がみつかり、殺された人数は12人と断定した。これは8日森が前橋地裁あてに書いた上申書の内容とこれまでの捜査経過から判断されたものである。
 警察当局はこれだけ陰惨なリンチ事件を繰り返し、組織を防衛してきた背景には、何か、大きな目的があったのでは、と疑っている。その1つに妙義アジトでつかまった森恒夫と永田洋子がまっ先に捜査員に聞いたセリフ「東京で何かあっただろう」という質問がある。この永田のセリフからして、その前後に東京またはその周辺で何事かが起こるか、武器の隠し場所がわかるなどのことがあるはずだが、1ヶ月あまりたったいまもそうした動きを警察はつかんでいない。


 森や永田が「東京で何か起こらなかったか?」と聞いた、という記事は3月1日の読売新聞にもでていたが、彼らの手記を読んでみても、東京でコトを起こそうとしていた気配はない。


■恐怖の"穴掘り役" 次は自分が「総括」に 山本保子、前沢ら自供(朝日)
 遠山、行方、寺岡の死体の処分は保子が運転する車に死体をのせ、監視役として坂東か吉野がのりこみ、穴掘りは前沢だった。前沢と保子が死の恐怖を感じたのは、遠山、行方、寺岡が尾崎ら4人の死体処理に出かけたときに永田が「次の処刑予定はあの3人だ」とアジトでもらしていたのを聞いたためで、自分達も同じ運命にあると感じたという。

 前沢らが「今度は自分の番だ」と恐怖にかられていた矢先、山崎順の「脱走失敗」のハプニングがあり、死刑が行われた。森らの自供を総合すると、保子についての疑いが晴れなかったので、その長女、頼良ちゃんを人質として取り上げ、中村愛子にあずけさせるとともに、保子の身代わりとして夫の順一を総括して殺し、保子らに対する処分を先延ばししたという。


 永田は次の処刑予告などしていない。山崎は脱走失敗したわけではない。保子の身代わりとして順一を殺したということではない。


■「総括」と「死刑」は別 「死は彼らの敗北」 森の自供(毎日)
 森は自供の中ではっきりと「総括」と「死刑」2つの殺害方法があったことを明らかにした。これによると「総括」とは「ブルジョア社会の残存物を排せつして、革命戦士として自らを変えていくことであり、討論(自己批判要求のこと)の過程で"総括"しつくせないときは、暴力の援助(全員によるリンチを意味)をし、仮にその者が死しに至った場合は敗北になる」という。「死刑」については「味方を敵に売り渡す裏切り分子に対しては"死刑"を宣告した」という。しかし、森は総括にかかれば死以外にはないことも認めている。


 これは重要な記事だ。森が「暴力の援助」や「敗北死」について自供しているのがわかる。ここにリンチ殺人の本質のヒントがあったのだが、当局もマスコミも、この論理を「身勝手」と一蹴し、一顧だにしなかった。その姿勢は後の裁判においても続く。しかし、いかに身勝手な論理であっても、彼らはそれにすがってリンチ殺人を行っていたこともまた事実なのである。


■「15人を殺した」永田洋子ついに自供(毎日)
 永田は2月17日、妙義山アジトで逮捕されて以来高さ貴書に留置、取調べを受けていたが、名前も応えず、捕まったことに悔し涙を流しただけ。あとはかたくなに黙秘を続けていた。


 しかし13日になって、奥沢の自供によって山田隆や金子みちよらの発掘当時の無残な全裸死体のカラー写真と山田の引きちぎれた衣類、森が8日に書いた上申書を見せたところ、永田は動揺の色をみせた。


 始めは「この上申書はウソだ」と言い張っていたが、やがて見覚えのある森の筆跡に納得したのかカラー写真をじっと見つめた。そのうち全身を震わせはじめ、まず「永田」であることを認めた。刑事の間髪をいれぬ厳しい追及に群馬県下での連合赤軍関係の12人殺害の事実を認めた。


 さらに奥沢や11日自首した前沢、少年兄弟2人の「永田は丹沢や大井川の山岳アジトでもやっている」との供述を告げたところ「そうだ」と認めたという。


 血の粛清をした事実については「15」の数をあげているが、どこでたれを殺したのかは、まだはっきりとはいっていない。人数と場所の関係については、森、奥沢、前沢の供述を総合すると、西丹沢では男女2人、多い側では男1人になっている。


 「永田自供」のニュースは毎日だけが一面で報じた。朝日と読売は翌日の朝刊に掲載されることになる。不思議なことに毎日はたびたび他紙より1日早く記事になる。「15人」というのは何かの間違いだろう。翌日の朝日、読売では「14人」と自供したことになっている。

■永田洋子の残忍さ 女はみんな丸坊主(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 毎日 夕刊11

 12日、榛名山で発掘された小嶋和子の頭髪はわずか1センチ。迦葉山で発掘された金子みちよ、大槻節子の頭髪もほとんど同じ状態だった。これらの被害者は「イヤリングをするのはブルジョア的だ」「物質欲が強い」「コケティッシュだ」と普通の女性なら誰でももっている"本能"を「反革命的である」と決め付けられ、永田洋子の命令で徹底的に痛めつけられた。


 「総括」−。永田のツルの一声で、たちまち両手足をしばられ、なぐられ、けられ、あげくの果てに「自己批判しろ」と長い髪をつかまれて、ハサミでバッサリやられた。いわば、女性への最大の恥辱がリンチの手始め。それは組織(仲間)への見せしめなのか、不美人と言われる永田のうっぷんばらしだったのか。 永田は共立薬科大に在学中、目が飛び出るバセドー氏病にかかった。娘時代に、この突然の容ぼう変化は劣等感をつのらせ、自分より美しいものへ憎悪をかりたてたのではあるまいか。


 特に仲むつまじい男女への仕打ちはまるで嫁いびりのシュウトメのようにネチネチとしつこかった。大井川、丹沢のアジトを経て榛名山アジトに移り革命を妄信したグループの閉鎖社会の中で、数少ない女性リーダーとして仲間からチヤホヤされているうちに、うっ積していた美しい者へのネタミが一挙に爆発、それ以降は森をも押さえて"革命"の名のもとにやりたい放題だった。永田の目は1日中、女性隊員の行動をギラギラと追い続け、ちょっとでも男から声をかけられた女性は絶対に許さず、それが"任務"の話であっても永田の目には男女間の"恋愛行為"と写ったらしい。


 こうしてささいなことを取り上げては"総括"の対象者に仕立て上げ、そのリンチも髪を刈ることだけでは満足せず、被害者を雪の中に放り出したあとも、妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐり「お腹の子供をひっぱりだそうか」と森と真剣に協議していた。 サイギ心とネタミにとりつかれた心は、逮捕後もガンとして開かず、森をはじめ逮捕者が次々に自供した中で、1人"反抗"を続けている。その心は革命とはまったく無縁の"狂気の女性心理"といえる。


 金子と大槻の緊縛や暴力を主導したのは森である。髪を切ったのは「手始め」でなくリンチの後であり、逃亡を防ぐためだった。妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐった事実もない。金子が総括できない場合「子供を取り出すことも考える」と言ったのは森である。


■ナイフ刺し「抜くな」 永田が、とどめ(毎日)
 寺岡恒一(24)が虐殺された模様が杉崎ミサ子(24)の自供で明らかになった。寺岡は死刑の宣告を受けた1人で、森がナイフで心臓をえぐり、永田が首を絞めてとどめを刺した。森が寺岡に対して「坂口の地位をねらっていた」と詰問した。全員の厳しい追及に寺岡は「現在はそんなことは考えていない。しかし過去にそのような考えを持ったことは確かにあった」と応えた。このため森が死刑を宣告、坂東に目配せした。坂東はいきなり正座している寺岡の左太ももにナイフをつきたてた。寺岡がナイフを抜こうとすると、まわりから押さえ込んで15分間もそのままにさせた。坂口はそのナイフを抜くと、寺岡の左腕に刺し、こんども抜かずに15分間そのままにした。森はこのナイフを抜き取ると、正面から寺岡の心臓を深く刺した。
 ひん死の状態になった寺岡に、永田は杉崎にアイスピックをにぎらせ「とどめをさせ」と命令。杉崎は寺岡の首の後ろを刺した。さらに永田はヒモで首を絞め、絶命させた。


 寺岡の足にナイフを刺したのは坂東でなく森。腕に刺したのは坂口でなく坂東。「首の後ろを刺せばいいのでは」といったのは永田ではなく他の誰か。ヒモで首を絞めたのは永田ではなく他のメンバーたちである。首の後ろを刺したのもヒモで首を絞めたのも、なかなか絶命しない寺岡を早く楽にさせてやりたいという気持ちからであった。


■「七人委」が殺人儀式 指名の証人、次は被告(読売)
 これまで森らは全員が裁判に加わったと自供していたが、前言をひるがえし、7人が合議のあと森と永田が最終結論をくだしたという。"総括"とするか"死刑"とするかを宣言したのは森で"判決"があると全員が"被告"にとびかかって縛り上げ、次々になぐるけるのリンチを加えた。


 永田は、刑の執行をながめながら被告の行状を口汚なくののしり、"被告"が助けを求めても、「だれがお前の潔白を証明できるのか」と誘導尋問し、仲間の一人を名指しすると、名がたらはその名指しされた仲間にいっそう激しく暴力をふるうよう命じていた。この証人探しは森、永田にとっては、次の被告選びでもあったという。


 永田は”被告"の行状を大げさにののしったのは確か。かなり迫力があったらしい。だが、証人探しはしていないし、次の被告選びということもなかった。


■チリ紙をとって、といっただけでも(読売)
森恒夫などの自供で、児島和子ら4人の総括と称される処刑理由が明らかになった。
小島和子=●男と肉体関係を結んだ●組織の指示に従わなかった。
尾崎充男=●合法活動をしている者に銃器の保管場所を教えた●寝袋に入ったままチリ紙をとってくれといった。革命的でなく甘えている。
加藤能敬=●小島和子と肉体関係を持った●作業態度がよくない。
進藤隆三郎=●女遊びばかりして革命実践に対する意欲がみられない。


 同じ記事が3紙とも掲載されているから公式発表と思われる。こういう些細なこと(しかも過去のこと)が、総括要求となり、死へのリンチに発展した。


■兄貴も浮かばれる(読売)
 「ああ、これでよかった。兄貴もやっと家へ帰れるだろう」−加藤倫教(19)は兄、能敬の遺体が発掘されたと知ると、こうつぶやいた。「線香を立てて、兄のめい福を祈らせてください」と係官に頼み込んでいた。「リンチが終わったあと、弟のこっそり"この日を兄貴の命日にしよう"と話し合った」とポツリポツリ語った。


■森、永田は再三上京 前沢ら自供 土田邸事件とも符号(朝日)
 この自供は前沢、山本ら。森は「あの事件はわれわれではない」と土田邸爆破事件の犯行を否定したが、上京して何をしていたか、については供述していない。しかし長野県に逮捕されている被疑者の中で「あの事件をやった」としていることなどから、事件解明を急いでいる。


 「土田邸爆破事件」とは、土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発し、夫人が即死した事件。警察はメンツにかけて犯人逮捕にやっきになったいた。これは連合赤軍の犯行ではない。後に、活動家18名が逮捕・起訴されるが、公判中に捜査当局のデッチアゲが明らかになり、全員無罪となる。

■リンチはこうして 「総括」は夜中に 理由はどうにでも 永田は手を下さず(朝日)
▼午前2時
 森の「起きろ」の声が犠牲者の出る人民裁判の開始を告げた。「だから夜中が恐ろしかった」と恐怖を語る自供が多い。裁判にかける理由はさまざまだが、異様なまで永田が嫌ったのは男女関係だった。アジト移転のときオムツを袋に入れる山本保子を手伝ったという理由で、夫の順一が殺された。死の直前に「オー、オー」と大声を上げているのを聞き、永田は生き残りの妻保子に近づいていった。「何いってんのよう」「赤ちゃんを呼んでいるのかもしれない」「違うわよ。あんたを呼んでいるのよ」。このあと保子から4ヶ月の赤ちゃんを引き離したりもしている。保子を恐怖でナマ殺しにしていたわけだ。


 理由は何でも良かった。ささいなことを取り上げて、妊娠8ヶ月の金子みちよ(24)を3日間も立ったまま屋外に縛りつけて殺してしまうのだった。女が女を憎むとき、もっとも陰惨なリンチとなって現れていた。


 山本順一が総括要求された理由は運転技術が未熟なのを認めなかった点と暴力に否定的で「物理的に手伝っただけだ」といったこと。「オムツを袋に入れるのを手伝った」からではない。


▼素手
 「総括」は立ち直りを「援助」する名目だった。処刑・リンチに幹部はナイフで「兵士」は素手で全員が参加した。


 ナイフやアイスピックは「死刑」の場合に使われたのであって、幹部以外も使っている。「総括」の場合は幹部を含めて刃物は一切使っていない。「死刑」と「総括」は区別されていた。


▼寝袋
 総括にかかりそうになって助かったのは、ただ1人の運転手だった奥沢だけ。処分が決まるとたちまち縛り上げられたり、ナイフを突き刺された。処分が出されてしまえばそれで終り。大槻と金子と山田は縛られたまま寝袋に入れられ運ばれた。..遺体解剖で胃に食べ物が入っていたものはほとんどいない。


▼罪状
 リンチのときに永田はいつも叫び続けた。犠牲者の罪状をあげて責め続けた。これが総括の集団ヒステリー的空気をさらにあおった。しかし永田自身はけっして手を下さなかった。永田は自ら実行しないことで「手が汚れていない」と言い逃れをしようとしたのか。


■これがアジトの生活 幹部はパン食、銃訓練 兵士は雑炊、たきぎ集め(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊03

▼生活
 森らはパンやミルクなどうまいものを食べることが多く、大部屋組は土間で麦・野菜・魚のカンヅメを使った雑炊が多かった。森か坂口が「食べろ」と合図するまでハシに手をつけられなかった。大部屋組は「革命」のためには多少の空腹に耐えて体を鍛えよ」と幹部から言われていた。...昼間は小屋作り、たきぎ拾いが作業の中心で、永田以外の女は交代で買い物に行かされた。夜は6時に寝た。


▼人民裁判
 .いっさいの反論は許されず、他の活動家の弁護も聞かれなかった。幹部7人いても追求するのは森・永田の2人で、独裁的な"判決"が下されていた。.幹部のうち寺岡と山田も殺されたが、その理由については幹部以外には知らされなかった。


▼訓練
.. 7人の幹部は腹心の青砥と植垣をつれて9人で銃器をもち、アジトからさらに数キロもはなれた山奥へ向かっていった。留守組はアジト作りに終われ訓練らしい訓練をしていなかった。山奥に訓練に出かけた幹部は半日ぐらい帰ってこないことがあった。


 連合してから射撃訓をしたという話は彼らの手記には書かれていない。


▼学習
 .テキストやパンフレットの使用はほとんどなく、森が連合赤軍の精神について1人でしゃべりまくることが多かった。それに対して意見を述べたり討論することもあった。反対意見も許されたが武装ほう起の路線をはずれたり、批判することだけは許されなかった。


 永田はたびたびレジメうぃ作ることを森に申し入れるが、森はこれを無視し続けた。森にとってはメンバーを革命戦士に飛躍させることが最大関心事だった。


■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋についての自供も間近いとして、本部は追及に全力をあげる。また、奥沢から「ほかにもう2人ぐらい殺されている、という話を聞いている」との供述を得たため、事実かどうかの確認を急いでいる。


 群馬県内以外にも連合赤軍のリンチの被害者がいる、との情報について、警察庁は疑問を持っている。警察庁が疑問を持っているのは、(1)事実を目撃したわけではなく、幹部が話していたとの伝聞である(2)前沢虎義、寺林真喜江らは「そんなリンチがあれば次の榛名アジトなどへはこわくて参加しなかった」とはっきり否定しているなど。


 読売夕刊には以下のように報じられている。


 長野県警本部の得た自供は森恒夫の「永田洋子からの伝聞だが、京浜安保共闘だけが集結した丹沢アジトで粛清があり、男女2人が殺された」というもの。さらに青砥ら2人が「丹沢か、奥秩父、大井川上流アジトで、やはり粛清があったらしい」と供述した。


■すらすらだんまり 表情も様々"死刑執行人"(読売夕刊)
▼森恒夫(27)
 「同志の死は、ムダにはしない。殺したのは、命を捨てて革命を進めるための人柱だ」と彼ら一流の"総括"について、さる8日、上申書を書いて"殺害"の一切を自供した。さらに永田洋子が漏らしたという丹沢アジトの京浜安保共闘だけの粛清についても自供。夜中に「ウーン、ウーン」とうなされたり、大きな声で寝言をいう。しかし、都内の一連の爆破事件、土田邸爆破事件については、ひとこともしゃべらず「われわれの闘争、粛清については、法廷であきらかにする」とむっつり。殺人以外の事件については、警察を権力と敵視する態度はくずさないが検事とは対話する。


▼永田洋子(27)
 山田孝、山本順一らの死体発掘を知らされたときも、ただ頭をたれただけだったが、この日、群馬県内で最後の12体目が出たことを告げられても無表情。名前も明かさない終始完全黙秘を続けている。森の書いた上申書に「フン」といって横を向き「森さんが、こんなものを書くわけがない」といったのが口をきいた最初。朝の点呼さえ、返事もしないかたくなな態度をとり続けた。ただ13日朝午前6時の点呼で「永田洋子」と呼ばれるとはじめて「ハイ」と答え、追求に「考えさせてください」。


▼坂東国男(25)
 独房の中では食事のときだけ看守のほうを向くが食べ終わり「こっちを向け」といっても、また瀬を向けてすわり続ける。東京から来た保坂節雄弁護士(27)との面会も拒否。「知らねえ人の差し入れは受けない」とみんな断り、1食62円の食事だけ。11日夜は山崎らの遺体埋葬現場の写真を見せられ、顔は真っ青になったが、死人のように口をつぐんだまま。


▼吉野雅邦(23)
 いぜん、何を聞かれても顔をそむけ、無表情に黙秘を続けている。まだ自分の名前すら言っていない。さる10日、自分の子を身ごもっている内妻、金子みちよの死体発掘を知らされたが、表情ひとつ変えなかった。


▼坂口弘(25)
 次々と明かされるリンチ殺人を聞かされても完全黙秘を続け、表情、態度に大きな変化はない。わずかにリンチ死体が発掘されてから、ふてぶてしい態度を和らげてきている程度。雑談にも一切応じず「便所」といった必要以外の言葉は話さない。


▼青砥幹夫(23)
 調べ中、気弱そうな目でジッと一点を見つめたりする。リンチ殺人についてはほぼ供述を完了したが、山本保子の脱走についてはほかの幹部が「子供を人質にしておけば逃げないとみていたが、子供をおきざりにして逃げてしまい、計画が狂った」ともらしていたのを聞いていると言う。


▼奥沢修一(22)
 早くから自供を始めたが、1月中旬以降に合流したため、公判のリンチ殺人を目撃しただけ。迦葉山の三遺体を埋めた場所を自供、案内した。新たな自供をしそうな気配を見せているが「森さんを尊敬しているので、森さんのことはあまり言えない」としぶっている。最近は安心したのか、夜半に2、3回寝返りを打つ程度でよく眠り、よく食べている。


▼伊藤和子(22)
 入浴の介添えに当たった婦人補導員に「人間とは思われない」といわせた和子が自供をはじめたのが10日夜から。「仲間の遺体がでたぞ」と知らされると、総括にあった"同志"の名前を次々と上げるなど、これまでのつき物がおちたように語りだした。しかし、法廷に出たとき、仲間の報復を受けるのではないか−という恐怖感が強く、時々「しゃべっても大丈夫でしょうか」と取り調べ官に不安を訴えている。


■主導権争いで自滅(読売夕刊)
 殺人と言う手段がとられた裏には、丹沢ですでに殺害の実績"をもつ永田が、森ら赤軍派に革命への献身度を誇示して同じ方向をとるように迫ったためだった。同じ過激路線の赤軍派は京浜安保共闘の銃強奪事件で「遅れをとった」として強いコンプレックスを持ち、一連の金融機関襲撃作戦を始めたと言われ、当局ではこうした背景と"強固な革命軍"結成へのあせりがからみあって、森も永田に同調していったとの見方を強めている。


■破滅の魔女 脱落者は消せ 鬼のような絶叫(毎日夕刊)
 事件の全容が明らかになるにつれ、永田の残虐さが説きに際立っている。毎晩開かれる会議で「脱落した者はどうせ戦いには加われない。われわれの殺しの訓練台に使おう」とまくしたてた。「やっちまえ」と毎日絶叫する永田。シーンと静まり返ったアジトで「男だろ。もっと強く首を絞めろ」。スジ金入りの戦士をアゴで使う永田。森恒夫も坂口弘、坂東国男ら中央委員も黙々と永田の指示にしたがうだけ。


 永田の姿は都内各地のデモでもよく見られた。髪をふりみだし、ツバを飛ばし「イヌ」と警官に叫ぶ永田の姿には"女性"を見出すことはできなかった。 しかし、その永田も幼いころは成績優秀なおとなしい女の子だった。「大きくなったら薬剤師になる」が夢だった。微妙な変化が見え出したのは高校時代。世の中は"60年安保"で騒然としていた。「人生、学問とは何か」−永田は思い悩んだ。さらに共立薬科大時代、バセドー氏秒をわずらい、目が異常に突起してから過程でも激しく泣きわめいたりするヒステリックな女になった。


 丸顔、色黒、ギョロ目、上歯がやや突き出た感じ(警察庁の手配書)−異性とのつきあいも少なく、男性コンプレックスに陥っていた永田は、大学を出て病院勤めをしているうち、心臓病で悩む坂口と知り合い、ウルトラ過激派へ−狂気の殺人集団へ突っ走っていった。


 「脱落者を殺しの訓練台に使おう」「男だろ。もっと強く首を絞めろ」などと永田は言っていない。。「やっちまえ」とも言っていないと思われる。坂口や坂東はともかくとしても、森恒夫が「黙々と永田の指示にしたがうだけ」ということはなかった。


■いま"狂信"に泣く 山本保子(毎日夕刊)
 「私は夫と行動をともにしようと群馬のアジトに入った。みんな連合赤軍の同志です。やっと見つけたアジトで、きっと温かく迎えてくれるだろう、楽しい共同生活ができる、そう信じていた。しかし私をまっていたものは、あまりにも過激なオキテ、狂った倫理だった。人間無視の生活。永田のガラガラした、ヒステリックな声が毎日響き、同志が次々と殺されていった。永田がにくい。」


 永田のヒステリックな言動はメンバーの手記にもたびたび出てくる。スタインホフ氏の「死へのイデオロギー」によれば、「永田のやり方は主に個人的に批判をぶつけるというもので、あとであたたかく接することによってバランスをとっていた」。だがそれは革命左派時代までで、連合赤軍になってからは、暖かく接する余裕はなくなっていた。


■「自分が恐ろしい」 杉崎みさ子(毎日夕刊)
 「今回のような人間として許せない残酷な、目をおおうばかりの殺人行為をしてきた自分自身が恐ろしく、また、なくなった方々のめい福を祈る心境から深く反省し、哀悼し、今後自分自身もこれを機会に真人間になって新たな出発をし、両親のヒザ元に帰り、親孝行をしたいと思っている」


■(広告)週間サンケイ臨時増刊号

「連合赤軍全調査」特別付録 6インチ両面シート あさま山荘トップシーン完全録音盤


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊CM


ソノシートの付録つきとういうのが当時ならでは。

この時期、週刊誌は連合赤軍特集の臨時増刊号を出している。だが、それは結果的にあさま山荘までの"前編"になってしまった。各誌とも後に粛清事件を特集したもう一冊の臨時増刊をだすことになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c87

[リバイバル3] 今 大人気の WE101D _ 出力0.6Wのシングル・アンプで鳴らせるスピーカーは? 中川隆
7. 中川隆[-11448] koaQ7Jey 2019年3月14日 11:18:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[547]

久しぶりにWE101Dppパワーアンプの組合せを聴く - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月14日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e20c1fa2e8b7e47c31466fa29d22b97e

先日は自作管球プリ1号+ディネッセンのパワーアンプの組合せでD208システムを鳴らしていましたが、せっかくWE101Dppパワーアンプが2台も眠っているのですから繋いでみました。

このパワーアンプは出力が1W/chしか有りません。面白いもので先日のディネッセンのアンプのサウンドも、それはそれで良かったのですが、こちらを繋いで聴くと「ドラマチック」なサウンドに変身します。音の厚みが有り「瞬発力」はこちらの方が数段上の様に感じます。

101Dのヒーター電圧は4.5VDCです。一般の球は6.3Vですから格段に球に優しい仕様になっています。発熱も「人肌」位です。整流管(5AR4)や初段管(6SN7)の方が発熱します。

4本密集した様に並べられます。ソケットは山本音響性の高音質仕様です。

側面からは整流管が良く見えます。こちらはオールドムラードの球です。整流管に粗悪なものを使うとその音にグレードダウンします。

D208ユニットは能率が97db/m有りますので、プリアンプのボリューム位置12時の方向で十分な音量が得られます。昨日のディネッセンの軽快な音も良かったけれど、管球アンプの組合せも音の厚みや艶やかさで聴き心地が良いです。しばらくはこの組合せで楽しみたいと思います。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e20c1fa2e8b7e47c31466fa29d22b97e


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/445.html#c7

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
88. 中川隆[-11447] koaQ7Jey 2019年3月14日 12:56:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[548]

1972年3月14日 頼良ちゃんは無事 永田洋子ついに自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

 この日の紙面は頼良ちゃん関連の記事で持ちきり。「目がパッチリ、血色もよく、丸々と・・・」と元気な様子が大きな顔写真写真入りで報じられ、この陰惨な事件の唯一の明るい記事となった。ほかにも永田自供など見逃せない記事が盛りだくさん。


■頼良ちゃんは無事(朝日)
 迦葉山アジトから中村愛子に連れ出されたまま行方がわからなかった頼良ちゃんは無事だった。母親保子に置き去りにされたあと、2月7日、中村に抱かれて山を降りたが、消息をたってから34日ぶりに保護された。


■中村愛子も出頭(朝日)
 21時23分、警視庁に「中村です。これから自首します」と電話をしてきた。5分後に正門に来たので、中村を確認 した。自供によると先月7日から山を下りて、頼良ちゃんといっしょに都内に舞い戻り、まもなく知人に頼良ちゃんを預けた。指名手配を知り、自首しようとしたが、頼良ちゃんを預けた知人と連絡が取れずためらっていた。頼良ちゃんが13日、保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。


■預かって欲しいと中村から電話 合田さん語る
 合田さんは2月7日(8日に中村と頼良ちゃんを高崎署員がみており食い違いがある)の夜、子供を背負った中村が「今夜泊めて」と訪れてきた。2月9日、合田さんは勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると頼良ちゃんが一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの寺岡医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。寺岡医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談、13日一緒に市川市へやってきたという。


■無心の荒旅93日間 友人の子供と中村が預ける(読売)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972ー03-14 読売 夕刊10

■永田、ついに犯行自供 逮捕以来、25日ぶりに(朝日)
 連合赤軍の主犯格、永田洋子(27)が13日「12人の同志を殺したなかに私も加わっていた」と初めて自供した。逮捕されてから25日ぶりのことである。元"同志"の12人の遺体が発掘されたことを告げられ、"共同墓地"の遺体写真をみせられて、急に態度を変え、リンチ殺人の事実関係について口を割った。


 「オニババア」と同志からもカゲ口をされていた永田。群馬県・高崎署の薄暗い2階。この5号室が永田の独房。連行されたとき永田はまるで、野生の山ネコのような表情だった。留置場では顔は一応毎日洗う。3度の食事も警察で用意したものだけはきちんきちんと食べる。1日1本のタバコもうまそうに吸い、週1度の風呂にも入る。が、救対組織からの差し入れには「名前もわからない人からのものは受け入れない」と拒む。


 ふてくされ、ダンマリを続ける永田に手を焼いた高崎署は取調官を警備部公安担当から捜査の黒沢警部にかえた。大久保事件で名をあげた"落としの黒沢"だが、歯が立たないほどだった。


 それが8日、山田の遺体写真をみせられてから、少しずつ態度が変わってきた。スカートをスラックスに履き替えたり、髪にはくしを必ず入れた。「きょうはきれいだね」と係官が声をかけるとはずかしそうに「へへへへ・・・」。夜、寝てからうなされさかんに寝返りをうつ。独房の隅でじっと考え込むこともあった。


 「どうだい、君だけががんばってないで、もう話したら・・・」の説得に「両親と相談したい」と口を開いたのが11日。そして12日、森の上申書をみせられ、「ニセモノだ」「警察のでっちあげだ」と強がりはいってみたものの、同志の"転向"にささえを失い、ガックリしたのか、13日の朝の点呼にはじめて応じ、同志の殺害を自供した。


 この日、取調室を出てきた永田はジーパンに濃いグリーンのカーディガン姿。腰縄をされているが、髪はさほどみだれていない。フラッシュに驚いて一瞬あげた顔はむしろあどけない感じさえする。血も凍る大量リンチの「主役」とは思えないほど弱々しかった。


 永田が森の上申書を見せられたのは12日ではなく9日。上申書をみたとき、「驚愕し、わけがわからなくなり、何かがガラガラとくずれおちるように感じた」という。全面自供ではないが、殺害の事実を認めた。黙秘については著作で以下のように述べている。


 私の黙秘は、密室で第三者のいない取調べではそれが唯一の防衛であり、権利であるということを理解した上でのことではなかった。それは、黙秘すべきという観念からであった。というのは、何故黙秘が必要であり大切であるかということが語られないまま、黙秘することを絶対的原則のように強調され、黙秘したかどうかが組織員たりえたかどうかの基準、さらには転向しなかったかの基準のように扱われ、雑談でさえも黙秘に違反したことのようにみなされていたからである。(「続・十六の墓標」)


 いうまでもなく「黙秘が絶対原則」の理由は組織防衛のためである。しかし、このときすでに全員逮捕されていて、「連合赤軍」という組織はなかったから、黙秘の必要性は根本からなくなっていた。

 また"落としの黒沢警部"については好意的である。


 取り調べのある時、黒澤刑事と私の2人だけになったことがある。そのときこの刑事はポツンと「お前もかわいそうな女だな」とつぶやいた。留置場から連れ出すときも、取調室に行きたくない私がゆっくり歩いたり、途中で立ち止まって歩かなくなっても、それを黙って待ってくれた。私が菓子パンの購入希望をいうと、すぐに買いに行ってくれもした。この時買ってきてくれたメロンパンもおいしかった。(「続・十六の墓標」)


■編集手帳(読売)
 連合赤軍によるリンチ事件がここまでいやらしくなり得るという標本なら、首謀者の森恒夫が書いた上申書なるものは、人間がこうも得手勝手になることができるという見本である。上申書のように、自分たちが虐殺しながら、かれらの死をムダにせずなどとしらじらしいことをいったら軽蔑されるだけだ。


 本当に1日でも早くかれらのなきがらを家族に渡したいと言うなら、なぜ逮捕されたときにすぐいわなかったか。それをいまごろ取ってつけたようなことをいうから、何を勝手なことを・・・という気持ちにもなるのである。この期に及んで自分だけいい子になろうという魂胆が見えすいている。


 彼らの死は反革命や卑俗な人間性の問題ではなく、生死を賭けた革命戦争の主体構築のための戦いのなかの死とやらだそうだが、チリ紙を出してくれといったのがいかんなどとおよそくだらない理由で殺しながら、ずいぶんと都合のいいきれいごとがいえたものである。できることなら知らん顔で通す積もりだったのに、心ならずも自供したのでてれかくしの意味もあったろう。だがそれよりも、かれらの死を美化することによって、自分たちの殺人行為を正当化するのが上申書の狙いではなかったか。だからこそ、ひとごとみたいにいえるのだろう。


 意味ありげな「総括」と「死刑」の区別にしても、どっちみち死ぬまではやめないのだから無意味であった。総括して死んだ場合は敗北と言うのも詭弁である。まるで死んだ者に理ありといわんばかりだが、総括とはしょせん同志の首を<しめくくる>ことにすぎなかった。


■統一公判を要求 森(読売)
 森は「法廷を戦いの場として、すべてを明らかにする。このため他県で逮捕された仲間を加え、全員を同じ法廷に立たせてほしい」と13人の統一公判を要求した。「12人の遺体はオレの責任で明らかにした。ほかの事は法廷で戦うことなのでいっさい言えない」と口を閉ざし「奥沢は何をいっていますか」「永田に何もいうなと伝言してほしい」と面会人などに頼んでいるという。


そう言っておきながら森は4月13日から「自己批判書」を書き、そして法廷に立つ前に自殺してしまう。


■「私が悪かった・・・」加藤兄の父 白髪めっきりふえて(朝日夕刊)
 加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。父親は悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら「私はすべて自分に向かって問い直しているんです。教育者として、父親としての私に・・・」−約1時間、悲しく語った。


 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。


 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。


 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。


■ツキモノ落ちた対面 青砥(毎日)
 青砥は明け方必ずうなされている。大声でわめき、ガバッと起きる。「いつも同じ夢です。高校時代の友人が次々とリンチを受けて殺されていく。私はそれを黙って傍観しているのです。友人の顔が次から次に迫ってくる・・・」。


 13人のうち一番早く自供した青砥。完全黙秘に"攻め手"を考えた。そこで事件のことには一切触れず、青とのふるさと、福島の名物饅頭の話など雑談を繰り返した。依然黙秘。ただ同じ話を繰り返すと、厳しい表情でひとこと「くどい」。


 逮捕後10日たって父親が面会に来た。肉親のキズナを絶つことが革命への第一歩と思い込んでいた息子が、わずかな時間だがあった。面会後、やがてポツリ。「父親が・・・、ありがとうございました」あとは○○○(3字不明)のように自供をはじめた。父親と面会してツキモノが落ちたようになった。


■信仰化した理論(毎日)
 上申書の文中に特徴的にみられるのは、12人もの同志を殺していながら、それを「闘いの中で死亡した」「元同志たちの死」「死に物狂いの闘い」と他人事か、自然死、事故死のように片付け、「同志の死を決してムダにせず」といってのけていることである。


 呪文をとなえながら自らを縛る。他者への説得力はゼロである。うしろをむいてはならない。理論に、そして信仰に忠実に、死に物狂いの闘いを、と自分自身に言い聞かせたとき、残された道は前へ前へとまい進するだけ。その不自然さに気づかず、たどり着いた先が12人を殺し、一転して全面自供。しかし、罪の深さにおののく気配は何一つ感じられず、遺族へのお詫びの言葉ひとつない。


 革命を志した仲間がこわくなり「命助けて」と敵のはずの警察に飛び込んだり、捕まった仲間が「もうコリゴリ」と"自供コンクール"を演じているのを知っていて(森は取り調べ刑事から事件をつぶさに報道した日刊各誌を見せられている)なお「今は逮捕された同志の団結を軸に闘う」という無神経ぶり。


 指導者に必要不可欠な"冷静な状況認識"などカケラもない。わずか30人余しかいない連合赤軍の残党の3分の1以上を、自ら指揮して殺して、それでなくても減少した戦力をなぜ自滅させていったか、常識では到底、理解できない"リーダー"ぶりである。

 ナゾの男である。赤軍はそのものが発足当初からミステリーに包まれた疑惑の集団だったが、その幕引きにふさわしい男が、これまたわけのわからぬ森恒夫。「上申書」は森のカタワぶりを如実に示している。


■あと5人殺す予定 森が自供(毎日)
 森はこの日の調べで「あと5人は総括する予定だった」と自供。13番目から17番目までの殺しの順番を自供した。13番目の奥沢は連合赤軍が結成される前から杉崎と愛人関係にあったことと、寺岡の死刑に対し手加減を加えたこと、レンタカーを借りるのを怪しまれて失敗したことが理由。だが運転できるものがほかに1人しかいないので死体運搬要因に残しておいた。杉崎も次に総括の方針だったという。


 15番目は青砥。尾崎のリンチの際、手加減をしたためだが、あやまったので、死体運搬係として"一時延期"していたという。


 16、17番目は16歳と19歳の少年兄弟。長男の加藤能敬と愛人の小島和子殺害のとき、森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにしたため総括を免れていたが、兄をころしたことでかなりショックをうけ、いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていたという。この恐るべき殺人予定リストはすでに"殺人法廷"の決定機関「七人委員会」でも正式決定していたという。


 「死体運搬要員に残しておいた」「死体運搬係として"一時延期"していた」「いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていた」というのだから、総括とは名ばかりで、森ははじめから殺害目的だったことになる。もしこの記事が事実ならば。


 ところが、殺人予定リストの件は「正式決定していた」というが、森、永田、坂口、坂東の著書にもひとことも出てこない。また、本文中「森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにした」というのは間違いで、実際は森でなく永田が「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」といって数回殴らせただけである。 ここ数日の毎日のすっとんだ記事から推測すると、この記事の信憑性は薄いのではないだろうか。


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)
 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。


■永田も手を下す(毎日夕刊)
 永田の持っていたアイクチから、ルミノール反応があり、死刑にされた寺岡の血液型と一致した。これで永田が寺岡を指した疑いが強いとして追求を始めた。永田は「もっと厳しくやれ」と指示することが多かったとされていたが、永田自身も命令者としてではなく、死刑執行人として寺岡の心臓を刺した疑いが強くなった。


 これ自体はどうと言うことのない記事だが、同紙は昨日、寺岡殺害について「永田がとどめ」という見出しで「永田はヒモで首を絞め、絶命させた。」と報じたばかり。ちなみに永田は寺岡を刺していない。


■手配の岩田を逮捕(朝日夕刊)
 13日夜10時50分過ぎ、家族に付き添われて長野県辰野署に出頭した。岩田は寺岡、山崎が死刑にされるのを目撃し、恐くなって逃げ出した。2月17日大阪府のおじの家にころがりこみ「仲間につかまれば殺される」といってかくまってもらったという。


読売朝刊では「張り込み中の長野県警署員に逮捕された」と報じていたが、自首が正しい。


■頼良ちゃん 危うかった一命 時々入浴も 中村自供(朝日夕刊)
 中村も昨年11月、警視庁に逮捕されたときの態度を森や永田に問い詰められたが「完全黙秘で通した。ただトイレに行くか、といわれたときに返事をした」と答えると「権力と口を利いたのはまずい」と一晩反省させられた。頼良ちゃんの面倒をみていると「子守をさせるために呼んだんじゃない」と批判されることもあったが、「子守も革命」と自分自身に言い聞かせ、ときどきは頼良ちゃんを風呂にいれたりした。「リンチに参加しないと自分も殺される」と思って恐かったという。


 死亡した加藤能敬は、無抵抗に逮捕されたことと取調官と雑談しただけでリンチをうけた。それに比べれば一晩反省するだけなら、まだましだった。加藤論教はこのときの様子をこう述べている。


 そこへ、前沢と岩田に連れられて、中村が帰ってきた。中村は席に着くと、逮捕されて留置されている間に、刑事の出してくれた飲み物や食べ物を拒否せず、飲み食いしてしまったことを自己批判すると述べた。永田はこの発言を聞くと、その夜の総括中の者の見張りを自分と一緒にするように命じて、中村にはそれ以上の追求はしなかった。


 私にはこれはきわめて不公平に映った。それは、永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく応対するということだった。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった。府中の是政での逮捕時の対応において、中村は兄と同様に厳しく追及されてもよさそうなものだった。しかし、ほとんど問題にもされなかったのは、ただ単に永田に従順だったからだ。そう思うと、納得がいかなかった。(「連合赤軍少年A」)


■今さら!悔恨の涙 森「死刑」におびえる(朝日夕刊)
 「死刑がこわい」−森恒夫が13日夜の取調べでぽつりともらした。調べ官は「あれだけ冷酷無残に仲間を"死刑"にしておきながら・・・」と憮然としながらも、やっと森にまともな感情が戻ってきたとみて追求をつづける。


 森は山田の死体が発見されてからショックを受け、調べ中に泣きじゃくるなど、それまでの強い態度をくずしはじめた。ところが8日、上申書では「山田らの"総括"は革命遂行のために必要だった」と処刑の正当性を主張し、居直りをみせていた。しかし、10日以降、次々に掘り出された惨殺したいのカラー写真をみせられて再び態度が急激に変わり出した。13日夜はついに「死刑になるんでしょうか。死刑がこわい」と恐怖を訴えた。


 森は逮捕されたときからずっと動揺しつづけた。時に強気になり、時に泣き崩れる。上申書を書いたり、それを後悔したり、自己批判書を書いたかと思うと、すぐそれを撤回する。死の直前には、自己批判しなおすことが急務と手紙に書きながら、気持ちが揺れ動き、1973年1月1日についに自殺してしまう。


■羽田闘争が動機に 奥沢 赤軍加盟で自供(朝日夕刊)
 慶応大に入学した42年、第一次羽田闘争事件で学生一人が機動隊の下敷きになって死んだという記事を読み、「警察が殺したに違いない」と確信、学生運動に入った。その後森と知り合い、ひかれていった。昨年11月、下宿に森が土方ののような姿であらわれ、赤軍に入るよう説得された。12月19日夜、下宿に若い男女があらわれ「森に頼まれた」とやはり赤軍に入るよう説得した。


■その他の記事

山本順一の父秀夫さん(58)は「一度も見たことない孫だからどういっていいのか」と喜んだ。(朝日)

もし警察の手が伸びなければ、青砥・奥沢も総括のリストに入っていた。(読売)

不審なのは中村愛子のアジト脱出の供述が得られていないことだ。(読売)

青砥の自供から、12人以外の殺人は、京浜安保議長と愛人のA子の2人と確信を得た。(毎日)

岩田は吉野から「お前の目は革命の目ではない」とすごまれ、総括を恐れ逃走した。(朝日夕刊)

前沢は雑談には素直に応じよくしゃべるが、肝心な点になると口が重くなるという。(朝日夕刊)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c88

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
89. 中川隆[-11446] koaQ7Jey 2019年3月14日 13:13:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[549]

1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme

■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日)

 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。


 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を認めた。場所については地図で場所を示すそぶりをしたが「私は死体を運んでいないので、くわしくはわからない」と述べた。


 永田は「裁判所では私が最も信頼している森恒夫と共闘して法廷で闘う」と延べ、リンチ殺人事件を自供した森に"裏切り者"として反発していた態度を急にやわらげた。 また永田はノート数枚に「あなたと誓い合った約束は忘れていないが、こうなった以上はやむをえない。われわれは敗北した」という意味の森宛の手紙を書いた。


 2人は「総括」にかけたのではなく、騙して連れ出し、いきなり暴行を加え死亡させた。

 永田は「手紙を出す許可」は下りたものの、「学習許可」が下りなかったため、房で筆記用具を使うことはできず、手紙を書くときは別室で筆記用具を借り、30分以内に書かなければならなかった。すぐに森と坂口に手紙を出したが、坂口には離婚表明したことを謝った。「あなたと誓い合った約束」とは完全黙秘のことだろうか。

■岩田の同級生も犠牲? 丹沢アジトで総括か(朝日)
 岩田から「丹沢アジトにいた頃、京浜安保共闘の向山茂徳(21)が殺されたのではないか、という話をきかされた」との自供を得た。このため岩田は大井川アジトに移ったころ、坂口、吉野らにこの点をただしたところ「お前の知ったことじゃない」いうような意味のことを言われ、そのままわからずじまいになったという。


■寺岡が独断で許可 山本親子のアジト入り(読売)
 「七人委」のメンバーだった寺岡が死刑を受けたのは、山本夫婦がアジトに頼良ちゃんを連れてきたことが「七人委の許可をとっていない」と問題になった際、寺岡が独断で山本夫婦に許可をあたえたことがわかったため。「独断は反革命的な行為だ」と永田らが強く主導、死刑に決まったという。


 寺岡の死刑は、革命左派時代に永田・坂口をおろして自分が主導権を握ろうとした、という過去の出来事が理由だった。寺岡は詰問され暴力を受ける中で、ありもしないことを"告白"する。坂東とアジト予定地探しに行ったとき「坂東を殺して逃げようと思ったが、スキがなくて逃げられなかった」といい、みなの怒りを買った。しかし、当の坂東は、自分が寝ている間に朝ごはんを作って起こしてくれたことなどから、「おや?」と思ったという。


 寺岡同志への追及が始まり、「永田同志や坂口同志がつかまればよい、そうすれば最高指導者になれる」という告白から怒り、そのあと「私を殺そうとした」というのを聞いて、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。だから、次々と為される"告白”−金をとって王宮を作ろうとしたとか−を遠い世界の他人のことのように聞いていたのです。(「永田洋子さんへの手紙」)


■ラーメンでも総括(朝日)

 金子みちよの総括の1つにラーメンがある。アジトでインスタントラーメンを食べていたとき、「お腹の子供のためにもうひとつほしい」といったところ、永田洋子が「ブルジョア的で物欲が強い」と怒り、内縁関係の吉野の足をひっぱったことと合わせて、リンチされた。


 金子はラーメンで総括されたのではない。尾崎が坂口と決闘をさせられた際、席をはずしたことをとがめられた。「あんなことをしても尾崎君は立ち直れない」と批判的に言ったことから総括対象になった。他にも、下部メンバーに官僚的であるとか、吉野に頼りすぎているとか、総括の理由をつけられたが、実質的には「死刑」であったといわれる。事実、森は幹部に対し「金子は女の寺岡だ」「子供を取り出すことも考えなければならない」といっている。金子は幹部に対しても批判すべきことは批判し、暴力に対しても最後まで屈服しなかった。しかしその毅然とした態度さえ、森に「お腹に子供がいるから総括されないと思っているのだ」と決めつけられてしまう。


 対して、同じ時期に総括にかけられていた大槻節子は終始素直な態度だったが、森に「優等生的だ」ととがめられている。総括にかけられたら助かる道はない。


■だんまり三人男(毎日)

▼坂口弘(25)

 取り調べのために「外へ出ろ」というとくるりと背を向けてしまう。食欲はすさまじい。留置場の定食のほか、さらに必ず1回に食パン5枚を平らげる。思い出したようにはくことがある。「ミカンをくれ」「便所」−。


5月4日の読売では「房内で食べるのは実費62円の至急弁当だけ」となっている。


▼坂東国男(25)

 警官が入り、2人ががりでかかえるようにして調べ室に入れる。いすに座ると真正面を向いて目をとじたまま。なんとも攻め手がないといった状況だ。


▼吉野正邦(23)

 自分の名前すら認めていない。高校時代の話で水を向けると「そんなことは関係ない」とどなる。凍りつくような目でにらむ。ただ14日には「いい天気ですね」といいい、長い髪をつかんだりしていた。


■軍建設へ徴兵制 「銃が最高の兵士 人はいくらでも補充」 青砥自供

 青砥らの自供から軍建設のために「徴兵制」をしいていた事実をつきとめた。森恒夫らは150人近い活動家の中から、次々と「兵士」を招集、過酷な訓練についていけない「「兵士」は死の処分にするという軍律を確立していたという。「銃こそ最高の兵士、人間はいくらでも補充できる」−その軍律は人間蔑視で貫かれていた。


■この徹底的差別 革命という名で "どれい" 扱い(読売)
 寺林の自供によると、迦葉山と妙義アジトでの食事は、森、永田ら七人の中欧委員は別室でパンやミルクなのに対し、兵士は大部屋で円陣をつくり、麦や野菜をまぜた雑炊をたべさせられていた。幹部たちは「革命遂行のため、兵士は粗食に耐える訓練をせよ」と命令し、幹部が合図するまでハシを持つことさえもできず、幹部は食後にコーヒーも飲んでいた。 また、寺林は永田から会計係を引き継いだが、出納簿は1円にいたるまで、克明に記入され、森、永田は金銭の横領は「総括」の対象だと、おどしていた。


 岩田の自供によると、西丹沢では、武闘訓練が行われ、幹部だけが小屋に入り、小屋のハリには猟銃など銃が5丁乗せてあった。兵士は小屋の付近にテントを張って寝起きし、"革命戦士を育成する"ということで、夜間のタキギ取りのほか、炊飯、洗濯をさせられ、学習、討論もするというきびしい生活だったという。このため脱落者が相次いだこととから、アジトを変えることになり、点々としたあと11月末に榛名山に移った。


 革命左派時代の山岳アジトは岩田の自供と異なり、和気あいあいとしていたと証言する人も多い。連合赤軍結成前に森たちが革命左派のアジトを訪ねたとき、こんなエピソードがある。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。(「十六の墓標(下)」)


■悪霊の世界(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-15 毎日 夕刊11

▼ろうそく集会
 夜の討論はろうそくをともして行われた。車座になってすわるが、山の寒さはピリピリするほどだった。その風景を、2人の少年は「今思うとぞっとするほどこわい」という。
 討論では、いつも森恒夫と永田洋子が話した。坂東国男、吉野雅邦、坂口弘なども発言をするが、他のものはあまりものはいわず、ほとんどが下を向いて聞き入っていた。 森はよく「オレは中国に行きたい」と話していた。永田はいつもヒステリックで、つねに討論の主導権を握っていた。残酷なことや他のものに対する批判は、ほとんど永田から出た。


 このあたりの様子は、永田の「十六の墓標(下)」、坂口の「続・あさま山荘1972」、植垣の「兵士たちの連合赤軍」に詳しく述べられている。それによると討論の主導権は常に森であり、永田は過激な言葉で森に同調していたようだ。永田が摘発→森が問題視し詰問→永田が同調して煽る→森が暴力指示、という流れのようだ。


▼マキ割り
 幹部たちは、銃の訓練をしに山奥へ出かけていったが、他のものは一日中マキ割りやアジトの修理、タキギ拾いなどをさせられた。しかし、必ずどこかで監視の目が光っていた。ときどき銃の訓練もさせられたが、青砥幹夫らはマキ割りで、てのひらはマメだらけになり、銃がよく持てず、ねらいが定まらないので、坂東から「モタモタするな」とどなられた。それでも言い訳は許されなかった。「総括!」と、いつ言われるかわからないからだ。永田以外の女はよく山をおりて食料や日常品を買いに行かされた。それでもお互いがつねに監視しあう方法がとられた。


▼麦と赤軍兵士
(省略。読売の記事とほぼ同じ)


▼マラソン競争
 榛名山アジトから迦葉山アジトに移るとき、忘れものをしたので、みんなアジトに走って戻った。坂口が1番で青砥が2番だった。坂口は「心臓が悪くて坂を上るのもムリ」といわれていたが、それはとんでもない間違いだった。髪をハサミできるのは坂東だった。坂東は手先が器用でハサミをうまく使った。


▼新月が羅針盤
 アジトからアジトへ移るときは新月の晩だった。月光をたよりに、暗い山道を歩いた。山登りに自信がある青砥がいつも先頭。だれもが4、5回疲れと寒さで倒れた。それでも銃だけは決してぬらしたり、放り出すことは許されなかった。


▼次のアジトは八溝山系
 ラジオで追求の手がのびたのを知り青砥が「八溝山にしよう」と提案した。八溝山のふもとに青砥の親戚があり地理にくわしい。「少なくともそこへ行くまではオレが案内役だから殺されない。八溝山へ行けば、地理に詳しいので逃げられると考えていたからだ」という。アジトを移すごとに殺されるものもふえていく。そして最後には、いったいだれが残ることになったのだろうか。


 このとき、寺岡と山田はすでに死亡していて、森と永田が逮捕されたから、幹部は坂口、坂東、吉野しか残っていなかったし、すでに総括もおこなわれていなかった。しかも山岳逃避行の最中だから、逃げようと思えばなにも八溝山までいかなくても、いつでも逃げられそうなものだ。後年、青砥は「離脱するつもりはなかった」とインタビューに答えている。


青砥「バスに乗ったままだと軽井沢に行ってしまうことは僕も植垣もわかっていた。でも見て見ぬふりだった」

 荒 「どうして?」

青砥「もう疲れきっていたんです」

 荒 「連赤を離脱しようとは思っていなかった?」

青砥「離脱しようとは全然思っていなかった」

 荒 「もうどうなってもいいとも思っていた」

青砥「というより、正常な判断力を失っていたと思う」

(「破天荒な人々」)


■その他の記事

・寺林は会計を任され、女性ではナンバー2であった。(朝日)

・この日森は取り調べには応じず、上申書に続く"執筆"を行った。(朝日)

・頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)

・寺林は京浜安保共闘の丹沢アジトで手投げ弾20個をつくったと自供。(毎日)

・森は「革命は決して間違ってはいない。その方法に誤りがあった」と自己批判。(毎日)

・森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)

・発掘現場はまるで観光名所の様相を呈している。(毎日)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c89

[近代史02] アメリカ・アングロサクソンの凶暴性・アメリカインディアンが絶滅寸前に追い込まれた仮説 sagakara
57. 中川隆[-11445] koaQ7Jey 2019年3月14日 13:31:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[550]
東京大空襲:恐るべき戦争犯罪に手を染めた米国 B-29が作った逃げようのない火炎地獄、人々はなぜ生きながら焼かれたのか
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/682.html

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/8/4/600/img_843245e2c2451fa7da2485f7ca89c879247259.jpg
日本空襲を準備するB-29。飛行場を埋め尽くすほど大量のB-29が駐機している。(出所:米空軍博物館)

 3月10日は東京大空襲の日である。約300機の「B-29」が、現在の台東区、墨田区、中央区、江東区にあたる地域を空爆し、一晩で約10万人が犠牲になったとされる。

 当時、この地域は日本最大であるにとどまらず、世界でも有数の人口密集地であった。さらに、密集して建っていたのは木造家屋だった。

 米軍は関東大震災を研究し、この地域で大火災が起きれば民間人に恐るべき人的被害が発生することを知り、それを狙って実行したのである。

 実際、日本家屋を模した家を建て、焼夷弾の実験を行っている。勝てば官軍で不問となっているが、立派な戦争犯罪である。

 他の大都市の空襲や、東京を狙った他の空襲でも犠牲者は数千人レベルであり、原爆の被害を除いては10万人という犠牲者数は突出していた。米軍が狙った最大限の破壊が実現してしまったのである。

悪条件が重なり犠牲者が増えた
 東京大空襲の犠牲者が突出して多かった理由は、米軍の恐るべき狙いが目論みどおりに実現してしまったうえ、日本側に悪条件が重なっていたことだった。

 実は、東京大空襲以前の空襲は必ずしもうまくいっていなかった。また、すでに住宅地も空爆されていたが、あくまでも主目標は軍需工場であり、一般市民の住む住宅地を焼き払うことを主眼にしていなかった。

 サイパン島の基地が完成し日本の主要部分が攻撃圏内に入った後、最初に爆撃目標となったのは、航空エンジン工場である。

 最初に三鷹にあった中島飛行機武蔵製作所が空爆され、次が名古屋の三菱発動機であった。その後も明石の川崎、太田の中島、名古屋の三菱と航空産業を狙って爆撃していった。

 当初、編隊を組んだB-29が高度1万メートルを飛行し、軍需工場に精密に狙いを定めて爆撃するという方法をとった。しかし、爆弾を外しまくり、日本の航空産業は軍用機を作り続けた。

 空爆する時、日本の1万メートル上空を吹き荒れるジェット気流により機体が安定せず、照準器も強過ぎる風に対応できなかった。

 編隊を組む場合、他の飛行機に合わせるための操縦が必要になり、燃料を余計に消費する。また、当時の飛行機では成層圏の飛行は燃料消費が大きかった(ジェット機では高空の方が、空気抵抗が小さく燃費がよい)。

 燃料と爆弾はトレードオフになるため、最大9トンの爆弾を積むことができるはずのB-29だったが、初期の日本空襲では2トン強しか積めなかった。

 また、結論としては、日本はB-29を防げず焼野原にされたのだが、日本軍も少数ながらB-29を討ち取っていた。

 航空産業は潰されていないし、爆弾が落ちてきても被害は爆弾が落ちた周囲に限定されているし、日比谷公園には撃墜したB-29が晒し者になっているし、自分の住んでいる町では日常生活は続いている。

 既に市民にも犠牲者は出ていたが、東京大空襲の前はB-29の最大の破壊力はまだ発揮されておらず、日本側は空襲の本当の恐ろしさを体感するに至っていなかった。

 これも逃げ遅れなどの要因になり、被害の拡大をもたらしたことは想像に難くない。

 しかし、3月10日の空襲では、米軍は様々な新機軸を打ち出してきた。

 東京大空襲はこれまでの空襲と全く違うものだったのだ。以前のB-29は軍需工場を狙っていたが、3月10日の空襲では標的は都市全体だった。

 そして、軍需工場を爆弾の爆発力で破壊するのでなく、焼夷弾で大火災を起こすことで木造家屋の多い燃えやすい都市を丸ごと焼き払うことが計画された。

 1945年3月10日に多くの人々の命を奪った火炎地獄は東京大空襲で初登場だったのだ。

 軍需工場と違い、都市全体であればターゲットが大きいので外すことはない。だいたいの位置で爆弾を落とせばよい。

 より多くの焼夷弾を積むため、燃料を消費する編隊飛行と高空への上昇をやめ、必要な燃料を減らした。さらに防御用の機関銃も降ろした。結果、3倍近い重量の焼夷弾を積むことができた。

 こうした工夫により、より恐ろしい兵器をより大量に積んだB-29が襲ってくることになった。同じB-29でもこれまでよりも破壊力が強化されていたのだ。

 編隊飛行をやめていたことも日本側に災いした。

 大規模な編隊であれば目立つし何をやろうとしているか明らかであるが、個々のB-29がバラバラの方向から飛んできた場合、行動を捉えにくい。これが空襲警報の遅れにつながった。

 空襲警報が出た時には、すでに空襲の火災が始まっていた。空襲は深夜だった。空襲警報を聞いて起き上がった時にはすでに周囲は火の海だったという場合も多かったことだろう。

 当日の気象条件も悪かった。当日は強い北風が吹いていたという。火災の広がりは早かった。それだけでなく、レーダーは吹き飛ばされないように格納され、戦闘機も強風で飛び上がれなかった。日本側の迎撃もやりにくかったのだ。

 迎撃が難しいなか、これまでよりも破壊力を強化したB-29が火災に弱い下町の木造家屋に焼夷弾を大量に投下した。強い風も吹いていた。

 これで瞬く間に火炎地獄になった。火災は上昇気流を巻き起こし、さらに風が強くなる。炎の突風が吹き荒れる状態になった。

 消防隊は出動したが、消防車が火に巻かれ立往生したり、消防署が焼け落ちて消防士が全滅したりして、すぐに消防は機能しなくなった。

 放水を始めても、あまりに火災が強く、酸素を消費したので、酸素不足で消防用ポンプのエンジンが止まってしまったこともあったそうだ。

 空襲警報が遅れたから人々が逃げるのも遅れたが、さらにその場にとどまり火を消すことが命令されていたため、さらに事態を悪化させた。

 空襲された地域は広大だったことも逃げるのを困難にした。火災は南北では墨田区の北端から東京湾まで、東西では日本橋や上野から荒川まで広がった。仮に空襲圏外に出ようとしても、火の中を何キロも進むのは無理である。

被災者の生死は運次第
 路上でも火に巻かれるような状態の中、逃げるにしてもどこを向いても火である。どうすればよかったのか。

 多くの人々はコンクリートの建物や川を目指した。コンクリートの建物は木造の建物よりも燃えにくいし、耐熱性もありそうだ。川は防火壁として機能するだろうし、灼熱地獄から逃れるために川に飛び込みたいという欲求も加わる。

 しかし、東京大空襲の火炎地獄は普通の火災とはレベルが違った。窓が割れれば、そこから火炎が侵入し、コンクリートの建物も内部が焼き尽くされた。

 また、熱気で建物ごと蒸し焼きになってしまうこともあった。

 旧日本橋区の避難所と指定されていた明治座はコンクリートの建物であったが、多数の犠牲者を出すことになった。

 確かに荒川を超えて逃げることができた場合は助かったのだろう。しかし、被害地帯の中心を流れる隅田川に向かった人々には悲劇が待ち受けていた。

 川の向こう側へ逃げれば助かると思うのは自然なことである。隅田川にかかる橋には避難者が殺到した。しかし、東京大空襲では隅田川の両側が空襲されていたので、どちらに渡ろうとも火から逃れることができなかった。

 隅田川にかかる言問橋では、台東区側から逃げてきた人々の流れと、墨田区側から逃げてきた人々の流れが橋の上でぶつかり、進退窮まる状態となった。

 そこに焼夷弾が落ちてきた。人々が持っていた家財だけでなく人そのものにも着火した。文字通り筆舌に尽くしがたい状況になった。

 10メートル近い高さの橋の上から隅田川に飛び込んでも助からなかった。地上は火炎地獄だったが、寒い日が続いた3月の隅田川の水温は摂氏2度。多くの人が低体温症で命を落とした。

 皮肉なことに言問橋の墨田区側、旧本所区向島の河岸地域は焼け残った場所も多かった。墨田区側の避難民に関しては、言問橋に突っ込まず、河岸に留まっていれば助かった可能性が高い。

 実は、東京大空襲の火炎地獄の中でも、ぽつぽつと焼け残った地域があった。そうした場所に逃げ込んでいれば、結果論から言えば助かった。

 例えば、墨田区京島は非常に家屋が入り組んだ地域で、火災でここに逃げ込もうとは思わない場所であるが、周囲はすべて燃えたにもかかわらずこの地区は火災を逃れた。

 しかし、後から見れば焼け残る地域にいればよいと分かるが、空襲下ではどこに焼夷弾が降ってくるかも、火災がどのように広がるかもわからない。

 どこへ向かって逃げればいいか、どこまで逃げれば空襲されている地区から脱出できるのか知る術はない。

 また、どの建物であれば、火災に耐えられるかなど分かりようもない。1945年3月10日にあの場所にいた人々にとっては、生死はまったくの運次第だったのだ。恐ろしいことである。

 もう燃えるものがなくなったのか、火災は午前8時頃にはほぼ鎮火していた。

 昨日まで日本最大の人口密集地で家が立ち並んでいた墨田区、江東区、台東区、中央区北部の大部分が焼け野原になっていた。道には黒こげの遺体で、川は水死体で埋め尽くされていた。

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/b/9/500/img_b9230825db9c535060e8f34a381b6196154614.jpg

隅田川西岸の東京大空襲被害地域 白く見える部分が焼き尽くされた部分である。右側に見える川が隅田川。(出所:米議会図書館)
 3月10日以降、都市を焼き払うことに味を占めた米軍は、名古屋、大阪、神戸と大都市を次々に焼き払い、大都市を焼き終わると、地方都市を焼き尽くしていった。

 東京大空襲ほどの被害規模にはならなかったものの、似たような地獄絵図が日本中に水平展開されていった。そして、8月15日の敗戦時、日本中が焼野原になっていた。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55732  

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html#c57

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
27. 中川隆[-11444] koaQ7Jey 2019年3月14日 13:32:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[551]
東京大空襲:恐るべき戦争犯罪に手を染めた米国 B-29が作った逃げようのない火炎地獄、人々はなぜ生きながら焼かれたのか
http://www.asyura2.com/19/kokusai25/msg/682.html

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/8/4/600/img_843245e2c2451fa7da2485f7ca89c879247259.jpg
日本空襲を準備するB-29。飛行場を埋め尽くすほど大量のB-29が駐機している。(出所:米空軍博物館)

 3月10日は東京大空襲の日である。約300機の「B-29」が、現在の台東区、墨田区、中央区、江東区にあたる地域を空爆し、一晩で約10万人が犠牲になったとされる。

 当時、この地域は日本最大であるにとどまらず、世界でも有数の人口密集地であった。さらに、密集して建っていたのは木造家屋だった。

 米軍は関東大震災を研究し、この地域で大火災が起きれば民間人に恐るべき人的被害が発生することを知り、それを狙って実行したのである。

 実際、日本家屋を模した家を建て、焼夷弾の実験を行っている。勝てば官軍で不問となっているが、立派な戦争犯罪である。

 他の大都市の空襲や、東京を狙った他の空襲でも犠牲者は数千人レベルであり、原爆の被害を除いては10万人という犠牲者数は突出していた。米軍が狙った最大限の破壊が実現してしまったのである。

悪条件が重なり犠牲者が増えた
 東京大空襲の犠牲者が突出して多かった理由は、米軍の恐るべき狙いが目論みどおりに実現してしまったうえ、日本側に悪条件が重なっていたことだった。

 実は、東京大空襲以前の空襲は必ずしもうまくいっていなかった。また、すでに住宅地も空爆されていたが、あくまでも主目標は軍需工場であり、一般市民の住む住宅地を焼き払うことを主眼にしていなかった。

 サイパン島の基地が完成し日本の主要部分が攻撃圏内に入った後、最初に爆撃目標となったのは、航空エンジン工場である。

 最初に三鷹にあった中島飛行機武蔵製作所が空爆され、次が名古屋の三菱発動機であった。その後も明石の川崎、太田の中島、名古屋の三菱と航空産業を狙って爆撃していった。

 当初、編隊を組んだB-29が高度1万メートルを飛行し、軍需工場に精密に狙いを定めて爆撃するという方法をとった。しかし、爆弾を外しまくり、日本の航空産業は軍用機を作り続けた。

 空爆する時、日本の1万メートル上空を吹き荒れるジェット気流により機体が安定せず、照準器も強過ぎる風に対応できなかった。

 編隊を組む場合、他の飛行機に合わせるための操縦が必要になり、燃料を余計に消費する。また、当時の飛行機では成層圏の飛行は燃料消費が大きかった(ジェット機では高空の方が、空気抵抗が小さく燃費がよい)。

 燃料と爆弾はトレードオフになるため、最大9トンの爆弾を積むことができるはずのB-29だったが、初期の日本空襲では2トン強しか積めなかった。

 また、結論としては、日本はB-29を防げず焼野原にされたのだが、日本軍も少数ながらB-29を討ち取っていた。

 航空産業は潰されていないし、爆弾が落ちてきても被害は爆弾が落ちた周囲に限定されているし、日比谷公園には撃墜したB-29が晒し者になっているし、自分の住んでいる町では日常生活は続いている。

 既に市民にも犠牲者は出ていたが、東京大空襲の前はB-29の最大の破壊力はまだ発揮されておらず、日本側は空襲の本当の恐ろしさを体感するに至っていなかった。

 これも逃げ遅れなどの要因になり、被害の拡大をもたらしたことは想像に難くない。

 しかし、3月10日の空襲では、米軍は様々な新機軸を打ち出してきた。

 東京大空襲はこれまでの空襲と全く違うものだったのだ。以前のB-29は軍需工場を狙っていたが、3月10日の空襲では標的は都市全体だった。

 そして、軍需工場を爆弾の爆発力で破壊するのでなく、焼夷弾で大火災を起こすことで木造家屋の多い燃えやすい都市を丸ごと焼き払うことが計画された。

 1945年3月10日に多くの人々の命を奪った火炎地獄は東京大空襲で初登場だったのだ。

 軍需工場と違い、都市全体であればターゲットが大きいので外すことはない。だいたいの位置で爆弾を落とせばよい。

 より多くの焼夷弾を積むため、燃料を消費する編隊飛行と高空への上昇をやめ、必要な燃料を減らした。さらに防御用の機関銃も降ろした。結果、3倍近い重量の焼夷弾を積むことができた。

 こうした工夫により、より恐ろしい兵器をより大量に積んだB-29が襲ってくることになった。同じB-29でもこれまでよりも破壊力が強化されていたのだ。

 編隊飛行をやめていたことも日本側に災いした。

 大規模な編隊であれば目立つし何をやろうとしているか明らかであるが、個々のB-29がバラバラの方向から飛んできた場合、行動を捉えにくい。これが空襲警報の遅れにつながった。

 空襲警報が出た時には、すでに空襲の火災が始まっていた。空襲は深夜だった。空襲警報を聞いて起き上がった時にはすでに周囲は火の海だったという場合も多かったことだろう。

 当日の気象条件も悪かった。当日は強い北風が吹いていたという。火災の広がりは早かった。それだけでなく、レーダーは吹き飛ばされないように格納され、戦闘機も強風で飛び上がれなかった。日本側の迎撃もやりにくかったのだ。

 迎撃が難しいなか、これまでよりも破壊力を強化したB-29が火災に弱い下町の木造家屋に焼夷弾を大量に投下した。強い風も吹いていた。

 これで瞬く間に火炎地獄になった。火災は上昇気流を巻き起こし、さらに風が強くなる。炎の突風が吹き荒れる状態になった。

 消防隊は出動したが、消防車が火に巻かれ立往生したり、消防署が焼け落ちて消防士が全滅したりして、すぐに消防は機能しなくなった。

 放水を始めても、あまりに火災が強く、酸素を消費したので、酸素不足で消防用ポンプのエンジンが止まってしまったこともあったそうだ。

 空襲警報が遅れたから人々が逃げるのも遅れたが、さらにその場にとどまり火を消すことが命令されていたため、さらに事態を悪化させた。

 空襲された地域は広大だったことも逃げるのを困難にした。火災は南北では墨田区の北端から東京湾まで、東西では日本橋や上野から荒川まで広がった。仮に空襲圏外に出ようとしても、火の中を何キロも進むのは無理である。

被災者の生死は運次第
 路上でも火に巻かれるような状態の中、逃げるにしてもどこを向いても火である。どうすればよかったのか。

 多くの人々はコンクリートの建物や川を目指した。コンクリートの建物は木造の建物よりも燃えにくいし、耐熱性もありそうだ。川は防火壁として機能するだろうし、灼熱地獄から逃れるために川に飛び込みたいという欲求も加わる。

 しかし、東京大空襲の火炎地獄は普通の火災とはレベルが違った。窓が割れれば、そこから火炎が侵入し、コンクリートの建物も内部が焼き尽くされた。

 また、熱気で建物ごと蒸し焼きになってしまうこともあった。

 旧日本橋区の避難所と指定されていた明治座はコンクリートの建物であったが、多数の犠牲者を出すことになった。

 確かに荒川を超えて逃げることができた場合は助かったのだろう。しかし、被害地帯の中心を流れる隅田川に向かった人々には悲劇が待ち受けていた。

 川の向こう側へ逃げれば助かると思うのは自然なことである。隅田川にかかる橋には避難者が殺到した。しかし、東京大空襲では隅田川の両側が空襲されていたので、どちらに渡ろうとも火から逃れることができなかった。

 隅田川にかかる言問橋では、台東区側から逃げてきた人々の流れと、墨田区側から逃げてきた人々の流れが橋の上でぶつかり、進退窮まる状態となった。

 そこに焼夷弾が落ちてきた。人々が持っていた家財だけでなく人そのものにも着火した。文字通り筆舌に尽くしがたい状況になった。

 10メートル近い高さの橋の上から隅田川に飛び込んでも助からなかった。地上は火炎地獄だったが、寒い日が続いた3月の隅田川の水温は摂氏2度。多くの人が低体温症で命を落とした。

 皮肉なことに言問橋の墨田区側、旧本所区向島の河岸地域は焼け残った場所も多かった。墨田区側の避難民に関しては、言問橋に突っ込まず、河岸に留まっていれば助かった可能性が高い。

 実は、東京大空襲の火炎地獄の中でも、ぽつぽつと焼け残った地域があった。そうした場所に逃げ込んでいれば、結果論から言えば助かった。

 例えば、墨田区京島は非常に家屋が入り組んだ地域で、火災でここに逃げ込もうとは思わない場所であるが、周囲はすべて燃えたにもかかわらずこの地区は火災を逃れた。

 しかし、後から見れば焼け残る地域にいればよいと分かるが、空襲下ではどこに焼夷弾が降ってくるかも、火災がどのように広がるかもわからない。

 どこへ向かって逃げればいいか、どこまで逃げれば空襲されている地区から脱出できるのか知る術はない。

 また、どの建物であれば、火災に耐えられるかなど分かりようもない。1945年3月10日にあの場所にいた人々にとっては、生死はまったくの運次第だったのだ。恐ろしいことである。

 もう燃えるものがなくなったのか、火災は午前8時頃にはほぼ鎮火していた。

 昨日まで日本最大の人口密集地で家が立ち並んでいた墨田区、江東区、台東区、中央区北部の大部分が焼け野原になっていた。道には黒こげの遺体で、川は水死体で埋め尽くされていた。

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/b/9/500/img_b9230825db9c535060e8f34a381b6196154614.jpg

隅田川西岸の東京大空襲被害地域 白く見える部分が焼き尽くされた部分である。右側に見える川が隅田川。(出所:米議会図書館)
 3月10日以降、都市を焼き払うことに味を占めた米軍は、名古屋、大阪、神戸と大都市を次々に焼き払い、大都市を焼き終わると、地方都市を焼き尽くしていった。

 東京大空襲ほどの被害規模にはならなかったものの、似たような地獄絵図が日本中に水平展開されていった。そして、8月15日の敗戦時、日本中が焼野原になっていた。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55732  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c27

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
90. 中川隆[-11443] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:20:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[552]

連合赤軍リンチ殺人事件の報道をふりかえる(筆者)  2009-03-31 
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■新聞とはかくなるものであったか

 写真が一枚もなく、当事者たちは死んでいるか、留置場の中にいる。だから記者は、逮捕されたメンバーの供述のリーク情報によってしか記事を書くことができなかった。メンバーたちは断片的な供述しかしないから、それをつなぎ合わせ、足りないところは想像で補って記事をつくりあげた。もともとのリーク情報さえ、当局の想像で組み立てられたものだったから、「警察は・・・とみている」という責任転嫁の表現をせざるをえなかった。


 当時は永田や坂口の手記はなかったから、報道に接した当時の人たちは、森恒夫や永田洋子を悪魔だと思っていた。筆者もそう思っていたから「十六の墓標」(永田洋子)をはじめて読んだとき「あれれ?」と拍子抜けしたものだ。そして「どうしてまともな思考の人が、あんな常軌を逸した事件をおこしたのだろう?」と興味を持ったのである。なぜなら彼らの手記に書かれていた思考や判断は私たちのそれと別段変わるところがなかったからである。


 私たちはマスコミを通してしかニュースをしることができない。特に新聞記事は多くの人が信頼している。しかし、ときとして一線を越えてしまうことがある。それはどんなにひどいことを書いても、誰からも文句を言われない状況において起こる。連合赤軍事件もその1つだったし、オウム真理教事件のときもそうだった。逮捕されたメンバーはどのような気持ちで新聞を読んだだろうか。


 おもしろいことに、新聞がセンセーショナルに報じたのに対し、週刊誌はきちんと取材した記事が多い。おそらく新聞にお株をとられてしまったことと、新聞ほどリーク情報が得られないことによるからだろうが、周辺人物の取材をして事件を検証する、という落ち着いた記事が多いのである。


■今後の予定
さて、1972年4月以降も取調べが続き、1973年から大荒れの連合赤軍裁判へと続くことになる。その間には森恒夫の自殺もあり、坂東国男のアラブ行きもある。しかし、先へ進める前に、一度時計を戻して、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が誕生したころからの彼らの新聞記事を振り返ってみたい。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10325060408.html?frm=theme
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c90

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
91. 中川隆[-11442] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:51:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[553]

(基礎知識編)赤軍派・革命左派・連合赤軍 組織関連図   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme

 連合赤軍と日本赤軍は何が違うのか、テレビカメラにVサインしていたおばさんは何者なのか、永田洋子と重信房子の区別がつかない、などなど、最近のニュースで興味を持った人にとっては、左翼運動の派閥がわかりにくい。


 そこで、連合赤軍周辺の組織について、手持ちの組織図・関連図をまとめて掲載しておく。


■赤軍マップ (「赤軍―1969→2001」より )

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍マップ

 歴史的な流れをつかむのはこの図が決定版だ。事件を中心に知りたい人は、これだけ知っていればよい。


■赤軍派発足時の組織図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍派組織図・発足当時

 赤軍派を発足したメンバーが名を連ねている。


 田宮高麿は9名でよど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡り、そのまま亡命した。このグループを「よど号グループ」とよぶ。


 他の中央政治局のメンバーは逮捕されているので、連合赤軍メンバーの手記では「獄中幹部」などと呼ばれている。獄中幹部は森恒夫の敵前逃亡を知っているため、森に対する評価は高くない。


 後に、連合赤軍メンバーとなる山田孝の名前があるが、当時は森より地位が上だった。そのため、森に意見することのできた唯一の赤軍派メンバーであった。


■よど号グループ(2002年3月13日 朝日新聞より )


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-よど号グループの関係図


 「当時16歳少年」というのは柴田泰弘のことで、柴田は2011年6月に死亡した。


■京浜安保共闘の関係組織 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-京浜安保共闘の関連組織


 革命左派の組織図。連合赤軍メンバーの名前がちらばっている。「京浜安保共闘」は労働者を中心としたさまざまな組織を束ねていた公然組織(表の組織)である。新聞記事で組織名がさまざまなのはこのためである。なお、図には表れていないが「中京安保共闘」からも連合赤軍に参加している。


■人民革命軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-人民革命軍関係図


 上記の組織図から少したって、連合赤軍結成直前の革命左派の組織図。京浜安保共闘のメンバーも山岳ベースに集められたころである。


■連合赤軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍関連図


 組織がたくさんありすぎて、どこがどう違うのかよくわからない。左翼運動は組織分裂の歴史で、思想・闘争方針・人間関係などの要因によって分裂を繰り返した。特に赤軍派は一人一党といわれたほどである。


 共産党配下を代々木系、反共産党系を反代々木系という。名前がまぎらわしいが、永田洋子・坂口弘の「日本共産党革命左派」は反代々木系で日本共産党と対立関係にある。


■日本赤軍組織図 (ネットより)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-日本赤軍組織図


 日本赤軍のリーダーは重信房子で、2000年9月に逮捕された時、カメラに向かってVサインをしていた人である。重信は、森恒夫と折り合いが悪く、独自の路線に舵を切り、アラブへ旅立った。


 PFLPというのは、パレスチナ解放人民戦線のことで、PLO(パレスチナ解放機構)にも参加する過激派である。


 重信は人気者で、赤軍派時代はオルグとカンパに手腕を発揮し、「微笑外交」とか「ポン引き外交」とかいわれた。アラブへ行ってからは、結集を呼びかけ、日本から多くのメンバーがアラブへ渡った。さらに、ハイジャック闘争で、連合赤軍や、東アジア反日武装戦線、はては一般刑事犯まで釈放させ、日本赤軍に結集させた。


 ごった煮集団だが、コマンド(軍事)志向のメンバーを集めたことが特徴的である。


■京大パルチザン

 赤軍マップで、日本赤軍と点線でつながっているが、これは、京大パルチザンが重信房子を手配師としてアラブへ渡り、テルアビブ空港乱射事件を起こしたからである。


 京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)の革命理論の影響を受けたノンセクト・ラジカル(党派に属さない過激派グループ)である。


■東アジア反日武装戦線


(右翼にも愛読された腹腹時計)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-腹腹時計(東アジア反日武装戦線<狼>)

 赤軍マップに突如現れる「東アジア反日武装戦線」について説明しておく。


、1970年代に三菱重工爆破など連続企業爆破事件を起こした独特のグループである。他の組織は民間企業をターゲットにすることはなかったので、日本中が驚いた。


 なぜ民間企業を爆破したかというと、戦後も大企業はアジアを経済侵略し、彼らを隷属させ、利益を搾取している、したがって大企業は現在進行形のアジア侵略者である、という思想にもとづいていた。この歴史観は他の左翼とは一線を画している。


  「東アジア反日武装戦線」というのは総称で、実際の組織は「狼」「大地の牙」「さそり」から成っている。大道寺将司の「狼」に共感したり、爆弾指導を受けたグループが、「大地の牙」「さそり」である。


 「狼」が出版した「腹腹時計」という爆弾製造法やゲリラの心得を書いた教本は、左翼過激派だけでなく、右翼や公安にも幅広く読まれた。


 それぞれのメンバーは以下の通りであるが、重信房子に好まれたようで、日本赤軍のハイジャックによって3名が出国した。


・「東アジア反日武装戦線・狼」

 大道寺将司(死刑確定)

 大道寺あや子(→日本赤軍・指名手配中)

 片岡利明(死刑確定)

 佐々木規夫(→日本赤軍・指名手配中)


・「東アジア反日武装戦線・大地の牙」

 斎藤和(逮捕直後自殺)

 浴田由紀子(→日本赤軍→逮捕→懲役20年))


・「東アジア反日武装戦線・さそり」

 黒川芳正(無期懲役)

 宇賀神寿一(懲役18年→2003年出所)

 桐島聡(指名手配中)


 このグループのメンバーは、他の組織でみられる様な責任の擦り付け合いがなく、とても仲が良い。この点でも他の組織とは一線を画している。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c91

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
92. 中川隆[-11441] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:00:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[554]

(理論編)「イデオロギー」と「言葉」のパワー   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme


 連合赤軍のリンチ殺人事件について、誰もが感じる最初の疑問は「なぜ12名もの仲間を殺害したのか」ということに違いない。


 永田洋子や坂口弘によれば、それは共産主義化のイデオロギーということになる。イデオロギーとは「観念の体系」と訳されるが、この事件の場合、「物事の判断を下す根拠となる思想」と理解すればいいだろう。


■統一公判一審「中野判決」

 共産主義化のイデオロギーを紹介する前に、まず、裁判でどう判断されたかを紹介しておく。1982年の統一公判の第一審判決では永田洋子に死刑、坂口弘に死刑、植垣康博に懲役20年が言い渡された。有名な「中野判決」である。


 なぜ有名かというと、永田を、「執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と酷評するにあたり、「女性特有の」と一般化した表現を使ったため、大いにひんしゅくを買ったからである。そして、判決理由には、中野武雄裁判長の永田に対する並々ならぬ怒りがこめられていた。


 被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。


 他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である。


 被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである。

(1982年6月18日 一審判決 中野武雄裁判長)


 判決を報じた新聞の社説では各紙とも、「死刑判決は当然」としつつも、「だが、12人もの殺害については・・・」とつづく。「いささか物足りなさが残る」(朝日)、「およそ考えられないことだ」(読売)、「いまだ得心のいかないことが多い」(毎日)という具合に、歯切れが悪い。12名の同志殺害について判決理由を聞いても、ピンとこなかったのである。


 判決の時点で事件からすでに10年がたっていたが、新聞各社は12名の同志殺害の原因について、納得する理由を見つけられずにいた。かといって中野判決のように個人的資質の問題だけに割り切ることもできなかった。これは39年たった現在でも同じで、だからこそ連合赤軍事件がいまなお語られるのであろう。


 もし判決の通り、森と永田の個人的資質の問題だとすると、なぜ殺された12名は、黙って殴られ、縛られ、無抵抗に死んでいったのか。なぜメンバーは森恒夫と永田洋子の2人をやっつけてしまわなかったのか。なぜさっさと逃げ出さなかったのか、という疑問がわく。森と永田以外のメンバーの行動に説明がつかないのである。


 判決が間違っているとはいわないが、十分とも思えない。中野裁判長は「革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく」として、確信犯的に革命運動の問題を切り離している。


 本件は刑事裁判であり、思想を裁くことはできないから判決にあたり考慮しない、といえばよさそうなもので、わざわざ断定的に否定する必要があったのだろうか。これでは心を裁いたことになりはしないだろうか。


■「イデオロギー」と「言葉」のパワー

 1995年、オウム真理教という団体が、地下鉄サリン事件を起こした。サリンを撒いたのは、学歴が高く分別のある人たちだった。実行者たちは大いに動揺し、迷いながらも、満員の地下鉄車内でサリンの入ったビニール袋に傘を突き立てた。実行に踏み切らせたのは「救済」という言葉だった。


 人が動揺し、迷っているときは、どのような言葉で正当化するかが決定的な役割を果たす。それが「救済」だった。とはいえ、いきなり「救済のために」といわれても、サリンを蒔けるわけではない。


 オウム真理教の「救済」という言葉は、タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)のイデオロギーの上に盛られていた。信者がタントラ・ヴァジラヤーナを受け入れていたからこそ、「救済」という言葉が威力を発揮し、人間を反社会的行動に動かしたのである。


 「救済」を「援助」に、「タントラ・ヴァジラヤーナ」を「共産主義化」に置き換えれば、連合赤軍のリンチ殺人事件も同じことがいえる。すなわち、暴力的総括は「援助」という言葉で正当化され、それは「共産主義化」というイデオロギーの上に盛られていた、と。


 いったんイデオロギーを受け入れてしまえば、「救済」とか「援助」という言葉が、いかに詭弁であろうと、たとえ指導者が詐欺師であろうと、それは有効に機能する。


 こういうことは、別にオウム真理教や連合赤軍に限ったことではない。「教育」とか「治療」とか「矯正」とか、一見正しそうな言葉が、何らかのイデオロギーの上に盛られることによって、反社会的なパワーを発揮する例はめずらしくない。


 ただ、外部の目にさらされることによって(特に人が死亡すれば)、歯止めがかかる仕組みになっているだけだ。オウム真理教はサティアン、連合赤軍は山岳ベースで、外部の目の届かない空間で起こったため、歯止めがかからなかったのである。


■どちらが「本質を見誤った」のか

 連合赤軍の同志殺害は閉鎖空間で共産主義化の「イデオロギー」と「言葉」が猛威をふるい、メンバーがそれを受け入れていたからこそ、仲間に対して過酷な暴力をふるうことができたし、被総括者は無抵抗に暴力を受け入れたのである。


 ゆえに森恒夫と永田洋子の資質だけに原因を求め、イデオロギーを切って捨てた判決理由は、大事な部分から目を背けたというしかなく、「本質を見誤った」のではないだろうか。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme


(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −
https://ameblo.jp/shino119/entry-10827152785.html?frm=theme


 山岳ベースの12人の同志殺害について、当事者たちは口をそろえて「殺意はなかった」といっている。そして「共産主義化をめざした」とも・・・共産主義化とはいったい何なのか?


■共産主義化とは「ブルジョア性を克服し、死をも恐れぬ革命戦士となること」
 国家の共産主義化ではなくて、個人の共産主義化とはどういうことなのか。明確な定義はないが、当事者たちによれば、「過去の活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために、死をも恐れぬ革命戦士となること」ということである。


 一般的な言葉で言えば、内面から 「私」 を消し去り、命さえも革命のためにささげる、ということになるだろう。


 何がブルジョア性の現われなのか、どうすれば克服できるのか、共産主義化が達成されたとはどういう状態なのか、などすべての基準はあいまいであり、森恒夫や永田洋子の恣意的な判断だった。実は永田もよくわかっていなかったが、永田は「問題があるとみなした言動をブルジョア性の現われとみなした」のである。


 つまり、共産主義化の理論は、山岳ベースでは森恒夫の頭の中だけにあって、誰にもわからなかったのだが、わかるかどうかは大して問題にならない。重要なことは、受け入れるかどうかであり、連合赤軍のメンバーは全員受け入れたのである。


 ハワイ大学の社会学部のパトリシア・スタインホフ教授は、以下のように分析している。


 赤軍派の、闘争用語でいっぱいの難解なイデオロギーは、それが不可解に近いがゆえに、受け入れられることが多い。人びとが心情的にやりたいと思っている行動を、学問的に知的に裏付けてくれるような気がするからである。


 実際のところ、共産主義化という概念は実に曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、全く理解できなかったと述べている。しかし、彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。


 問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得すべき変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった。日本のプチブル学生が革命戦士への変革を獲得するということは、個人の過去から現在に至るあらゆる思考や行動をすべて否定することにつながりかねない。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)

■塩見孝也議長の提起した「共産主義化」
 赤軍派は、1969年12月、大菩薩峠での大量逮捕 により、大打撃を受けた。この総括として赤軍派議長・塩見孝也が「革命戦争の網領問題」の中で提起したのが「共産主義化」である。


 永田の「続十六の墓標」に植垣康博の最終意見陳述が引用されているが、それによると、


 塩見は「革命戦争の網領問題」の中で、革命戦争の客観的な要素よりも主観的な要素を重視し、「革命戦争の型は戦争の担い手の主観的要素の如何によって決まる。・・・戦争の問題とは結局"人間の問題"である」と述べ、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律が闘いの源泉となる」と主張して、「戦争に占める"人"、すなわち精神力の要素の決定的重要性」を強調した。そしてこの「精神力」の獲得の為に「主体の共産主義的改造」いわゆる「共産主義化」を提起したのである。
(植垣康博 「1983年・最終意見陳述」)


 塩見は大菩薩峠での大量逮捕において、その原因は、指導部の計画・作戦に問題があるのではなく、無抵抗で逮捕された各人の問題であると考えた。爆弾1つ、ナイフ一太刀の抵抗もないまま大量逮捕されてしまったことを問題視したのである。


 だから、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律」が必要であるとし、そのように「主体の共産主義的改造」を行うことを提起し、それを「共産主義化」といった。


 赤軍派と革命左派が共闘するようになった頃、塩見は、「党の軍人化、軍の中の党化をかちとり、革命党を建設しよう!」「軍の正規軍化、共産主義化をかちとり、『赤軍』を拡大、強化しよう!」という獄中からのアピールを出した。


 しかし、塩見は必要性をアピールしただけで、具体的な方法は示していなかった。もちろん、このとき共産主義化のために暴力を持ち込むなどとは考えていなかったはずである。


■森恒夫は塩見孝也の「共産主義化」に応えようとした

 森恒夫は塩見孝也を信奉しており、塩見の提起に忠実に応えようとした。塩見の共産主義化をそのまま引き継いでいるためか、森の手記には、共産主義化の定義や説明はでてこない。


 「自己批判書」の冒頭で「まず最初に、全体の概略を明らかにしておきたい」と述べてから、数ページ後にはもう「共産主義化」の文字が現れる。1971年12月の共同軍事訓練の革命左派による遠山批判 の話である。


 こうした討論が繰り返される過程で、私は問題が両者とも党に関する問題であり、とりわけ革命戦士の共産主義化の問題である事、要はその結果を「そうしなければならない」として受け止める事にあるのではなく、共産主義化の組織的な達成を党建設の中心的な方法の問題として確立してゆく事である事に気付いた。


 従来の旧赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では「革命戦士の共産主義化」が中心軸としてだされてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は旧革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判−自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えたのである。


 そして、そうした相互批判−自己批判の同志的な討論の組織化を通して実践的な経験を貴重なものとして受け止め、真に"人の要素第一"の原則を確立してゆくことができると考えたのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、遠山批判は、個人が改めればそれでいいというものではなく、共産主義化の問題であり、それを組織的に達成することが、党建設の軸になると気づいた。


 すなわち、メンバー全員を共産主義化させることを党の中心課題とし、そのためには、相互批判−自己批判を組織的に行うことが必要だと考えたのである。


 革命左派による遠山批判を引き継ぐように赤軍派による遠山批判 が行われたのは、こうした理由による。


■森恒夫は共産主義化の歴史的必然性を理論づけた


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)


 漢字が多くて読みにくいが、要するに、共産主義化の総括要求は歴史的必然であった、といいたいのであろう。しかし、この理論にはかなりの飛躍がありそうだ。


 理論はともかく、気になるのは文体の方で、「問われた」「要求された」を連発して、決して「考えた」とはいわないのである。この文章の中に主体であるはずの森自身が不在なのである。


 「自己批判書」であるにもかかわらず、ここまで自己を不在にした理由は、責任の重さを引き受けられないからであり、歴史的必然を装った理論は、生身を覆い隠すための鎧のように思える。


■証言集


 私と永田さんが新倉ベースでの確認事項を伝えたとき、寺岡幸一君が、「共同軍事訓練の成果をみんなに伝えようとしたところ、何を報告すればよいのかハッキリしなかった」と当惑して言った。寺岡君等より2日長く居て森君の話を聞いていた私ですら、森君が何を話し、何を言わんとしているのか理解できなかったので、この発言は無理もなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や、文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。


 ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。


 何が「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものかと問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。


 従って私は、「共産主義化」に対する明確な規範を持たないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の表れとして批判し、その総括を要求していったのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 「新党」(筆者注・連合赤軍のこと)では、一応討論という形をとっていたものの、実際には指導部会議でも、討論をを通して問題を明確にし、物事を深めるということが一回もなかった。たとえば、「共産主義化」というもっとも肝心な問題1つとっても、その必要性が強調されながら、いったいそれは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった。主導的な意見に、それを支持するか否かが問われるだけで、それで終わっていたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 共産主義化の闘いの本来の目的は、それまでの活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために自己のすべてを犠牲にすることのできる革命家を育成することにありました。


 この点で、共産主義化の闘いを推進した森氏は他の誰よりも自己犠牲的な革命家たろうとしていましたし、私たちもそうした革命家になろうと必死になりました。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」あとがき)


 大菩薩での敗北は、「殺すか、殺されるか」の政治における人の要素と、「敵を消滅し、味方を保存する」軍事における武器の要素との分離にあったとして考えていったということです。単純に言えば、本当に武器をもって闘おうとせず、福ちゃん荘でも、爆弾ひとつ投げる人間はだれもいなかったと批判することによって、自分たちがいつも銃のことを考え、身からはなさず、いつでもそれを敵に向けて使う用意があるようにすべきであり、そうなるためには、人が死をも恐れない革命戦士として共産主義化されなければならないというものです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 このとき、私を含む指導部が自己を改造する立場に立って働きかける指導制をもてず、「共産主義化」をいうとき、自己の人生観(ブルジョア性や小ブル思想−人間憎悪、人間蔑視の哲学)を絶対的な基準として下部の同志たちへの対象変革を求めることに陥っていくことになりました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 赤軍派は、世界革命戦争というロマンを掻き立てて華やかに登場した。しかしながら、その闘争は次々と権力に圧殺され、よど号ハイジャックのほかは、たいした成果はあげられなかった。逮捕者が続出し、壊滅寸前になったところで、森恒夫がリーダーに繰り上がった。


 考えてみると、森がリーダーとなった時点で、取り得る選択肢は2つしかなかった。ひとつは敗戦処理であり、闘争を後退させ組織を温存すること。もうひとつは、闘争を飛躍させ、敗北に直面した現状を一気に飛び越してしまうことである。


 森は後者を選択し、「銃による殲滅戦」で飛び越しに賭けた。そのイデオロギーが「共産主義化」だった。しかしながら、死を覚悟するということは、敗北を意識しているということに他ならなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10827152785.html?frm=theme


(理論編)「銃−共産主義化」 − 人と銃の結合 −
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

 森恒夫は「共産主義化」 に銃をからめて、「銃−共産主義化」論を構築した。これが実にヘンテコなのだが、しかし、どんなにヘンテコな理論であろうと、山岳ベースでの総括を支配し、リンチ殺人事件をもたらしたのである。なお、 永田洋子や植垣康博の著書では、「銃による殲滅戦論」と表記している。


 森の書いたものの中に、「銃の物神化」とか「人と銃の高次な結合」などという言葉が出てくるが、いずれも、「銃−共産主義化」論の話で、関係式は次のような感じである。


「共産主義化」+「銃の物神化」=「銃−共産主義化」 → 「人と銃の高次な結合」の要求


■「革命左派の撤退を美化した」(森恒夫)
まず、革命左派が山岳ベースへいたるまでの経緯を復習しておくと、以下のようになる。


リーダー川島豪の逮捕
→川島豪の奪還計画を策定
→銃奪取を計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わる)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→北海道への逃避行
→永田が中国への逃避を提案するがメンバーの反対で断念
→山岳ベースへ後退


 森は共同軍事訓練最終日 に、革命左派の行動を高く評価した上で、「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」と結論づけた。いったいどういうことなのだろうか?


 「自己批判書」は難解なので、赤軍派による「12・18アピール」(森の考えを山田孝が書いたもの)と坂口の手記を参考に、大胆にデフォルメしてみると、以下のようになる。


1.上赤塚交番襲撃 では、「殺すか、殺されるか」という攻防が出現したが、威力のない武器で対抗したため敗北してしまった。「殺すか、殺されるか」という攻防には銃が不可欠である。


2.真岡銃砲店襲撃 は上赤塚交番襲撃の総括の上に立って行われたため成功を収めた。「奪取した銃」は敵の弾圧を引き出した。そして、「奪取した銃」は革命左派に銃を守る闘いを要求した。


3.「奪取した銃」によって銃を守る闘いを要求された革命左派は、山岳への退避によって、「奪取した銃」の要求に応えようとした。


4.「奪取した銃」は、銃を握る者に対し、主体の革命戦士化、すなわちメンバーの共産主義化を要求している。


5.「奪取した銃」の要求に応えようとして、革命左派は、山岳ベースで自己批判・相互批判を組織的に行なってきた。これは自然発生的ではあるが共産主義化の萌芽である。


6.「奪取した銃」にはこのように人を変革する力があるのだから、ゆえに「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」

(赤軍派による「12・18アピール 殲滅する銃を! 」と「あさま山荘1972(下)」をデフォルメ)


 なるほど、そうだったのか・・・と納得する人はおそらくいないだろう。奇妙な理論である。

 森は、赤軍派と革命左派との共同軍事訓練の最中、遠山批判 をきっかけに、革命左派を吸収しようという姿勢から、革命左派に学ぼうという姿勢に転じた。そして革命左派の行動を美化し、理論化したのである。


 無論これは森君が頭の中でそう考えたということであり、われわれ革命左派にはそんな意識はこれっぽっちもなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口にこういわれてしまうと身も蓋もない(笑)。しかし、持ち上げられるのが好きな永田洋子だけは「そうだったのか!」と本気で信じたような気がする。


 たしかに革命左派は、敗走に敗走を重ねて山岳ベースにたどり着いたのであり、山岳ベースでも、目の前の事態に追われ続けていただけだった。もっとも森はそれを承知しているので「自然発生的ではあるが」「共産主義化の朋芽」と繕っている。


■ 「銃を物神化した」(森恒夫)
 森は、革命左派の行動を美化し、あたかも銃が導いたの如く理論を構築した。しかも銃に「奪取した銃」というように属性を持たせている。


 驚くべきことに、主体の飛躍に応じて「奪取した銃」→「味方を団結させる銃」→「敵をせん滅させる銃」→「プロレタリアート独裁の銃」というように銃が成長していくのだという。銃に超自然的な力があるかのように考えていたようだ。これを後に「銃を物神化した」と振り返っている。


 共同軍事訓練後も、森は行方正時に対し、人が銃を成長させる、だから総括すれば銃は重くなってくるはずだ、といっている。ばかばかしいようだが、赤軍派の遠山・進藤・行方の3名はこの理論を根拠にして、寒い中、ひたすら銃を構える訓練を続けさせられるのである。


 彼は、12・18闘争(上赤塚交番襲撃)が日本革命戦争の開始であり、2・17闘争(真岡銃砲店襲撃)は12・18闘争の実践的総括である。奪取した銃で殲滅戦をやろうとしたからこそ、銃を守るために退却した山岳ベースで共産主義化の闘いを組織し得た。従って、人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない、と述べた。しかし、これが何を意味し、何をみんなの上にもたらすことになるのか、私には想像もつかなかった。


 この主張の要点は、前述したように共産主義化の論理的必然性を銃の説明に基づいて明らかにしたことである。無論それは、客観的なものではなく、森君の観念に客観的装いをこらしたものに過ぎないが、彼はこれによって、共産主義化の闘いを確信をもって進めていくようになる。

 いまひとつの要点は、共産主義化の新しい方法論を見つけたことである。人と銃を結合させて共産主義化を勝ちとる、というのがそれである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「かなりの信頼をもった」(永田洋子)


 私は、森氏の説明を聞いていて、それが「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をよりいっそう理論化したものであると思い、かなりの信頼をもった。そして、その中で、共産主義化による党建設の重要性を強調したことから、目的意識的な共産主義化をどうしても獲ち取っていかなければならないと思うようになった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 もともと永田は、「銃を軸とした建党建軍武装闘争」を主張していたが、理論というより、直観的なものだった。「銃−共産主義化」論は、永田の直観に共産主義化をリンクさせたものという見方もできる。


 「目的意識的な共産主義化」というのは、自然発生的な共産主義化(「下から主義」)ではなく、目的意識的な共産主義化(「上から主義」)を達成しなくてはならない、と森がいったことによる。


 森は永田の直観や行動を次々と理論化したので、永田が「かなりの信頼をもった」のは当然だった。しかし、いったん思い込むと盲目的に突き進む永田は、その都度理論を繰り出す森と相互作用を繰り返して、12名の同志殺害というとんでもない結果を生み出してしまうのである。


■「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」(森恒夫)
 森は逮捕された直後から「自己批判書」を書いた。しかし、後に森は「自己批判書」を全面撤回し、自己批判をやり直すと宣言している。したがって、逮捕直後の「自己批判書」を書いた当時の森と自殺直前の彼は総括の立場が異なっていることに注意したい。


 坂東国男にあてた最後の手紙では、「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」と表現した上で、以下のように述べている。


 この形而上学的「銃−共産主義化論」の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して「総括」を要求し、過去の闘争の評価等を含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです。
(1973年1月1日 森恒夫が坂東国男にあてた最後の手紙)


 ひらがなの「ぼく」、「形而上学的」、「強要」、「粛清」などの言葉の用法からして、山岳ベースの狂気から醒めたような印象を受ける。そして、早急に自己批判をやり直さなければならないと書かれているが、残念ながらそれは実現しなかった。なぜなら、森はこの手紙を書いた直後に首を吊ってしまったからである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


 事件報道当時、連合赤軍といえば総括、総括といえば処刑を意味した。学校でも「ソーカツ」がはやり言葉になったほどだ。よく「総括」とカッコつきで表すのは、連合赤軍における総括は、リンチ殺人と結びついていて、一般用語としての総括とはいささか意味が違うからである。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-11 朝日 人民裁判=総括=死刑. 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1982-06-19 朝日 私刑に法の総括

■連合赤軍以前の総括
 一般に総括という場合は、組織内での活動において、それまで行なってきた活動の方針や成果を自ら点検・評価し、最終的には、組織としての今後の方針を打ち出すことである。


 赤軍派では、作戦行動上のミスがあったときなどに、メンバーをリーダーの前で自己批判させ、リーダーは、1ヶ月の禁酒・禁煙など禁欲的罰則を課して総括をすませていた。集団批判は行われていなかったようである。罰則は守らない者もいたようだ。


 革命左派では、総括という言葉は使わなかったが、もともと自己批判・相互批判が行なわれていた。坂口によれば、「吊るし上げに終わることが多かった」そうである。永田がリーダーになってからは、メンバーが指導部の批判を行うこともあったようだ。


■連合赤軍における「総括」
 連合赤軍では「総括」という言葉の意味を使い分けているので注意が必要だ。「総括しろ」というときは自己批判の意味で、「総括にかける」というときは集団批判の意味、「総括できていない」というときは、本来の総括の意味だったり、自己批判の意味だったりする。


 森は革命左派の集団批判のスタイルを取り入れ、より過酷な追及の場にした。それは人民裁判のようだった。被告が被総括者とするなら、裁判官が森と永田、検察官は他のメンバー全員で、弁護人は不在である。しかも法律に基づいていなかった。客観的には、集団で一方的に断罪する吊るし上げでしかなかった。


 連合赤軍における「総括」の定義を、共産主義化と合わせて考えると、「自分の内面(ブルジョア性、日和見性、敗北主義など)と誤りを徹底的に、問題点を深く掘り下げて、根本的な原因の解明と克服方法を提示すること」になる。


 森は共産主義化の方法論として、革命のためには個人の内なる革命が必要と考えた。そして、「闘争に対する姿勢やかかわり方、日常生活上の問題点を通じてブルジョア性、日和見性、敗北主義を払拭し、死をも恐れずに、肉体的限界状況下で死をも辞さない厳しい総括が必要である」と、「総括に命がけの真剣さを要求した」のである。


 森は総括の達成度を態度を観察することで判断しようとした。断固としている、能動的である、明るくふるまう、元気を出す、などが総括が進んでいる証と考えたようだ。総括を認められたメンバーは1人もいないので、認められなかった理由から逆に推測すると、そういうことになる。


 特徴的なのは、総括の目的が、組織の活動に生かすためというよりは、人の精神を変革する目的で行われたことだ。


 ともかく、ある人間が、別のある人間の精神のありようを変えようとすることは、よかれあしかれ、きわめて危険をはらんだ操作といいうるであろう。それはどこかで、他者を自分の意のままに支配する欲望と短絡する危険をはらんでいる。そして変化の目的が、教育・治療(森の述語で言えば「飛躍」)などの大義名分をもっているときに、当然必要なブレーキや他者に対する謙虚さを失う危険が大きいのである。

 教育や治療の真の目的は、他者のうちにひそむ健康な自発性や才能の自然の開花をうながし、その現存在を世界に向かって開くことを助けるものでなければならない。
(精神医学博士・福島章・「甘えと反抗の心理」)

■被総括者の選定 −誰でもよかった?
 森恒夫と永田洋子は、「闘争から逃げた」「キスをした」「運転をミスした」「風呂に入った」など、ささいな問題を、針小棒大にとりあげ、あたかも反革命的行為であるように摘発した。しかも、摘発は過去の活動にまでさかのぼるのだからたまったものではない。


 そんなささいな理由だったら、誰にでも思い当たることはある。それはすなわち、被総括者は誰でもよかった、ということになる。いくらなんでもそれはないだろうと考えるなら、別の合理的な理由で摘発が行われたと推測するしかない。


 別の理由があったと推測する人は多い。新党結成に疑問を抱いている者を粉砕しようとしたとか、軍事能力の低い者を間引いたとか、森や永田の立場を脅かす可能性のある者に先制攻撃したとか、単に気に入らない者を摘発しただけとか、・・・・・諸説あるのだが、意見の一致をみていない。共通しているのは私刑あるいは制裁の趣があったと解釈している点だ。


■総括の進捗

 総括が進んでいるかどうかは、森にしか判断ができなかった。それはあたりまえで、「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。


■「殴ることは援助である」(森恒夫)
 森は剣道部時代、気絶して目が覚めたときに生まれ変わったような気がしたそうだ。その経験から、「殴って気絶させ、目が覚めたときには、革命戦士に生まれ変わっているはずだ」といって総括に暴力を持ち込んだ。


 さらに、「殴ることは援助である」と正当化し、メンバーを暴力に参加させた。ところがいくら殴っても思惑通り気絶しなかった。この失敗が逃亡防止のために被総括者を縛ることになり、ますます衰弱させ、死に至らしめる結果となってしまう。


 ちなみに、ボクシングの試合で、鮮やかなノックアウトが生まれるのは、やわらかいグローブをつけているからである。グローブの弾性が脳を振動させ、麻痺させるから気絶する。素手で殴ったところで、ボコボコになるだけで気絶することはない。事実、被総括者は顔が球状に腫れ上がるまで殴られたが、気絶した者は1人もいなかった。


 気絶しないのなら「援助」にならないのだから、やめればよさそうなものだが、死者が出ても暴力は続いた。なぜかというと、森は殴ることによって得た新たな告白に満足し、暴力を新たな告白を得るための手段として活用することにしたからである。


 しかしその告白は、冤罪事件でよくあるように、厳しい取調べを受けた無実の容疑者が、苦し紛れに「自白」してしまうのと同質の「告白」であった。


■「盲目的に森氏に追従した」(永田洋子)
 表向きの事実経過だけをたどれば、暴力的総括は森が主導したことは疑う余地がない。しかし、気になるのは、そこに永田の意向が反映されていたかどうかである。


 永田の「十六の墓標(下)」には、暴力的総括の様子が詳しくかかれている。そこに登場する永田本人のキャラクターは、徹頭徹尾、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」である。


 だが、それは、他のメンバーの証言と大きく異なっている。永田の手記全般についていえることは、事実関係については、他のメンバーの証言とほぼ一致しているが、こと彼女自身の内面の描写については、他のメンバーの印象と大いに食い違いをみせるのである。内面は確かめようがないが、少なくとも周囲には、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」には見えてはいなかった。


 永田さんの筆は、彼女の周囲の人々の動きや心理の翳を実に的確に捉えています。下手な小説家などはとても適わない筆力です。そのくせ、彼女自身の影が薄いのです。彼女の言動が一番影絵のようで生彩がありません。
(瀬戸内寂静・「十六の墓標(下)」まえがき)

 最後にあたって、永田同志の総括について、自分の問題として一言のべておきたいことがあります。「十六の墓標」を読んで感じることは、自分の感情や頭の中での問題意識を比較的正直に表現していると思いますが、しかし、そこに価値がないということをとらえかえしてほしいと思いました。客観的に映る永田同志や私の姿は、まさに、自分の誤りを保守するために、冷酷に、鬼のように同志を死に至らしめたという姿であって、まさに、その実態こそが、敗北を引き起こしたのだということに中心の問題があると思います。

 もし動揺している姿が実態であれば、同志を殺すこともなかったと思うのです。動揺していたということでは、最も動揺していたのはきっと森同志であったでしょう。それは、永田同志の書いている本にも出ているし、私自身のとらえかえしの中でも気づくことです。動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 こうしたことから、暴力的総括は、森が永田に引きずられた、という説が浮上する。なぜなら、森は、当初、革命左派の2名の処刑に否定的だったが、後に肯定するようになったし、山岳ベースも否定的だったのに、いつのまにか肯定に転じている。永田の影響を強く受けたふしがあるからだ。


 したがって、森は永田の意向にそって総括を行った、という見方もありえない話ではない。総括で死亡した革命左派のメンバーは、永田とそりがあわないメンバー(しかも指導者の資質を持った者)が多いことも、そうした見方を補強している。


■「総括できなかったところの敗北死だ」(森恒夫)
 普通、組織内で死者がでれば、遺体は家族に返される。もし連合赤軍が、家族と連絡をとっていたら、2人目の犠牲者は出なかっただろう。しかし、幹部はみな指名手配されていて、人目につかない山岳ベースに潜んでいたので、それはあり得ない選択だった。議論するまでもなく、山中に埋葬することになってしまった。


 メンバーは、自分たちが仲間を殺してしまったと大いに動揺した。それは森も同じだった。しかし森は直後に、「われわれが殺したのではなく敗北死した」 という解釈を披露したのである。すなわち、「同志の援助に応えられず、総括できずに敗北し、死亡した」というのだ。


 もちろん「敗北死」など信じられるはずがない。だが、この理論は動揺したメンバーたちに、救済の手を差しのべていた。彼らは、「敗北死」の理論にすがりつき、罪の意識を開放したのである。


 森は目の前の事態を正当化する能力にずば抜けていた。森がとっさに「敗北死」の理論を創造しなかったら、この時点で暴力行為は見直されたに違いない。


 1人目の犠牲者が出て、「敗北死」の理論を受け入れてから、メンバーには心情的な変化が現れた。ひとつは、次第に物事の解釈や判断を指導部にゆだね、自らは思考停止していったこと。そして指示があれば、仲間を殴ることも、殺すことも抵抗がなくなっていった。もうひとつは、自ら共産主義化(革命戦士化)を達成しなくてはならないという、贖罪意識が生まれたことである。


 同志が死んでも暴力的総括要求を続けたのは、私たちが「殺害」した事実を認めることを恐れた以上に、同志を「敗北死」させた自己批判を自分たちの闘い−死に求めたからである。(中略)

 私たちは、同志への暴力を通して自分たちはもはや死ぬ以外にないところに追い込み、同志の死への贖罪意識によって死を恐れない革命戦士となって、殲滅線を実行せんとしたのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 「敗北死」とは、死亡した者へ責任を転嫁する言葉にすぎなかった。しかし、その言葉の影響は絶大で、次々と「敗北死」を再生産していくのである。


■証言集 「永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。」(横浜国大生・S)


 短期に組織の共産主義化をかちとろう−そのために厳しい同志的援助をし合う必要があり、苛烈な暴力すら余儀なくされているそうした同志的な、かつ厳しい援助の下でなおかつ真摯な総括の姿勢を示さない場合、文字通り命がけの状況を創出して総括を迫るのがぎりぎりの同志的援助であるし、最終的には共産主義化の獲得は同志的援助ではなく、個人の力によってなされるべきものである、というのであったが、この端緒的な指導の誤りとその合理化は、当初からそうした指導に対する下からの批判が保障、確立されていなかったことから前述した過程へ突入していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした討論過程で常にそうしていたのだが、批判や追及に対して、ただそれを事実として認めることが総括の意味ではなく、事実を事実として素直に認めた上で、それが革命戦士になろうとする自分にとってどういう問題なのかを把みとり、そうした問題を止揚する方法、方向性、決意を確立することが大切であること...(以下略)
(森恒夫・「自己批判書」)

 新党で掲げられた共産主義化とは、武装闘争のためにいかなる犠牲も恐れない革命戦士となるために、それまでの活動上の問題を自己批判し、克服していくこととしてあった、こうした観点から、新党では、それまでの夫婦関係や恋人関係も問題にされた。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。なにが「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものか、と問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。

 したがって、私は、「共産主義化」に対する絶対的な規律をもたないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の現れとして批判し、その総括を要求していったのである。これは、私がそれまでの革命左派の党派活動の中で経験的に見につけた作風や規律を、「共産主義化」のための規律にしたということに他ならない。
(永田洋子・「続・十六の墓標」)

 12名の同志「殺害」という自殺的行為によって敗北し、組織そのものが完全に解体したことほど、この誤りの大きさを私につきつけたものはなかった。しかし、この12名の同志「殺害」を引き起こした共産主義化が赤軍派との共同軍事時訓練を通して提起された時、このような事態に至ることを予想することはまったくできなかった。反対に、私たちは、この共産主義化によってよりいっそうの前進が可能になると多いに希望を持ったのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 12名への批判の重大な誤りは、誤った闘争路線に基づいていたことにあるだけでなく、批判、総括要求に政治的な基準を与えなかったことにある。そのため、私たちの批判は、人の性格や資質を憶測や推測で批判する個人批判になってしまった。私たちは、批判を際限なく拡大させ、その人の全過去、全人格を否定し、自己批判要求された人を絶望に追い込み、どのような方向で自己批判したらいいかわからなくさせてしまった。自己批判できたと判断しえる基準もないため、いつまでたっても自己批判できたといえない状態が続き、暴力のもちこみの中で「敗北死」を続出させることになったのである。

 そして、暴力的総括要求の残酷さに対する動揺、ためらい、恐れなどの人間感情を、克服すべき「弱さ」「甘さ」として自らをおしつぶしたばかりでなく、皆にもおしつぶさせ、総括要求をより残酷なものにしていった。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)

 森君の総括要求は客観的必然性を有したものではない。それは彼の観念の産物であった。それ故、総括のマニュアルなど有るはずもなく、勢い対象者の態度で判断する恣意的なものにならざるを得なかった。こうした無茶な総括から逃れるには、森君の意に沿って、明るい顔をしたり、何のためらいもなく自分の問題を語るようにすれば良かった。つまり総括ができたふりをすれば良かった。言うまでもないが、精神的に追い詰められた時に、こういう芸当はたやすくできるものではなかった。
(坂口弘・「続あさま山荘1972」)

 森同志や永田同志がこれらの会議を主導していく(形としては)ことになったわけですが、私はその都度、二人の同志が非常によく観察していること、自分なら想像もしないような解釈を同志の行動の中に見出すことに対して、感心しさえしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 尾崎同志の「政治的死」の総括によって、自然発生的に目的意識的に指導部への造反が生まれ始め、制裁に動揺示した同志、我々の絶対化を少しでも批判めいたことを主張した同志、「共産主義化」の闘いに遅れていると我々が考えた同志(実際は小ブル革命主義の反動化路線に反対した同志)を、単に「自己総括」が遅れている不徹底者とみなすだけでなく、「分派」と決め付けたり、「脱落分子」と決め付けたり、更には「権力の手の中へ逃亡し、敵権力と通ずる分子」ではないかと疑い始め、総括要求は厳しい追求・詰問に変わっていった。
(「赤軍ドキュメント」坂東国男)

 今思えば、森恒夫があの暴力的総括要求を「日和見主義や敗北主義との戦いによる主体の飛躍」、それによるメンバーの死を「主体の飛躍に失敗した敗北者の死」と理論付けることがなかったら、いくら永田さんが感情丸出しでメンバーを摘発したとしても、あのように死者が続出することにはならなかったように思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 森君本人も、自分の中の暴力回避の日和見性を払拭し切らんとする内的志向があって、あれほど苛烈に自らを駆り立て、論理で自らを縛り、袋小路にのめりこんでいったのだと僕には思えます。下部メンバーはもちろん、森君にも、けっして総括の対象者への憎悪や敵愾心は無かったと思います。森君は実に的確に、被対象者の心理を「見抜き」、批判の矢を浴びせ、暴力をエスカレートさせていきました。それは彼が、対象者の内に、自らの姿を投影して見ていたためで、彼が、被対象者に鉄拳を加える時、森君自身の内なる日和見性に鉄拳を下し、消し去ろうとしていたのだと思います。森君にとって「12名との闘い」とは即ち、「内なる12名との闘い」を彼自身闘っているつもりだったろうと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 結局暴力は当初から異端者なる者、分派に傾く可能性のある者や、脱落・落伍の可能性のある者、不服従姿勢を持つ者への制裁といった色彩の強いものであったと思い返さざるをえません。...実質的には一種の統制手段としてのそれに他ならなかったということであろうと思います。(中略)追求や暴力への関与姿勢そのものが、評定・点検の観察対象となり、また被緊縛者の反抗姿勢や逃亡意思の有無が最大の評価対象となったのも、その本質の所在を示していました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 僕や植垣君が「総括」の対象からはずされていたということはありません。実際、両名とも何度か「総括」を求められた。極限までいかなかったことに理由はないと思います。だから常に危機感があった。
「総括」要求の対象およびレベルに明確な基準があったとは思えません、だれでも可能性があった。一方で「真のターゲット」というような考えは、当時も今もあったとは思えません。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫公判調書)

 森と永田とは不即不離の関係にあって、永田が感情的、直感的に発言し行動することを森が理論づけしていた。永田は組織の中で、自己の地位を脅かす者とか永田のヘゲモニーを奪おうとするものとか、別の面(美人、頭がよいとか)で永田に勝っていると思われる者とかに対してはきわめて敏感であって、それをできるだけ粉砕しようという意図を持っていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)

(加藤が死亡したとき)それまでは総括の援助だといわれ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 森も永田も小心性な性格であった。森と永田は、メンバーを強制的に殴打させ、あとでどう感じたかを聞いて、その答えの内容を今度はその者に対する「総括」の理由とした。永田は、自分が信用できないと思う者に順番にいいがかりをつけていったのが「総括」であった。何人目かが死んだ頃、永田はメンバーに対して、「同じ立場になったから逃げるものがいない」趣旨のことを言った。永田は指名手配になったことを相当重荷に思っていたようである。メンバーを共犯にすることによって、みんなが警察に追われる立場になったことを喜んでいたものと思われる。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義公判調書)

 (森は)いっしょに生活しているうちになんとなく「この男は気が小さいな」と感じることがありました。(中略)この森の小心性から、同志に対して不必要な疑いをかけ、敗北主義者、あるいは日和見主義者、と決めつけて殺した例がたぶんに出ております。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 永田は、女性に対して非常に一種独特な批判の眼を持っており、特に自分を批判的に見る人に対してそういう眼を持っていた。つまり指輪をしているから革命戦士になれない(遠山の場合)というような、すごく矮小的な形から批判をもってゆく、そのようなものを根本とするものの考え方をした。非常に嫉妬深い性格である。そのことは永田の排他的性格でもあった。つまり、メンバーが自分と同等であってはならなかった。自分と対等に並ぼうとするものに対しては、常にこれを排斥しなければ自分が落ち着いていられない性格であった。とくにそれは男性面で出た。だから結局、自分に取って代わるだろうと思われる者を排斥(抹殺)した。


 榛名ベース以前では銃はわたし達が保管していたが、以降は永田や森が座る位置の後ろに必ず銃が立てかけてあって、それは我々の方に向かっていた。それは永田や森を守るために必要だったのだと思う。常に権力というものはそういうものが必要なのだと思う。「総括」要求の基準というものは何もなかった。永田と森の肝づもり1つであった。だから永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。永田をして「女王」「絶対君主」みたいにした原因は、我々にも責任があると思う。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」寺岡の妻で横浜国大生Sの公判調書)

 ごらんのように、「総括」については、当事者たちの証言でも意見が分かれている。12名もの同志を殺害しておきながら、主導したのは森恒夫だったのか、永田洋子だったのか、真の目的はあったのか、なかったのか、あるとすれば、それは何だったのか・・・・・はっきりしないというのは、どうにもこうにも収まりが悪い。これが今なお連合赤軍事件が語られ続けている理由である。


 総括に暴力をもちこんだのは、他者を変革するための「同志的援助」のつもりであったにせよ、暴力を受けた者の内面に生まれるのは、反抗か屈服のどちらかしかない。反抗すれば「総括する態度ではない」と、より苛烈な暴力を加えられた。屈服し、反革命的行為を告白すれば、「裏切り者」とレッテルを貼られた。総括に出口はあったのだろうか。


 メンバーの心の一方には、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖があり、それに対しては、被総括者に弱者のレッテルを貼ることによって何とかバランスを保っていた。もう一方には、贖罪意識という死者への負債が重くのしかかっていた。死者への負債を返済するためには、自らが革命戦士となって殲滅戦を全うするしかなかった。


 森は次々と理論を創出し、適用を試みるのであるが、彼の脳内理論と現実の間には大きな隔たりがあり、それは決して埋まることはなかった。なぜなら森は指導する者ではなく、裁きを与える者だったからである。しかも、森の脳内のものさしは、事態の変化に応じて、どんどん形を変えたから、ついていけるはずがない。


 そして、「総括」によって、自分の価値観をメンバーに強要し、他の価値観を一切許さなかった。メンバーの主体はこうして解体されていくのだった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」


 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される


(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判


 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c92

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
93. 中川隆[-11440] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:06:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[555]

日本赤軍 
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm

 


 日本赤軍のルーツは、1960年代、学生運動をリードした共産主義者同盟(ブント)である。 当時、自分たち
の力で無理やり世の中を自分たちの考える国に変えてしまおうというグループがいろいろあった。 ブントは、
1969年、武力闘争路線をめぐって深刻な内部対立を起こし、最左派が分離して赤軍派を結成した。 この赤軍
派の中央委員兼中央組織局副局長だったのが重信房子である。 赤軍派は、日本をはじめ、世界にはよくない
国がいくつかあるので、武器を使って世の中を変えようと考えた。 そして、世界各地に拠点を作り、軍事訓練を
受けた上で日本で革命を起こすという 「 国際根拠地論 」 を唱えていた。 

 

【北朝鮮に渡った赤軍派】

   1970年3月 ――― 日航機 「 よど号 」 乗っ取り事件が起きる。


 赤軍派は 「北朝鮮は日本と仲が悪いし、軍隊もある。日本からそれほど遠くない。 北朝鮮に行って軍隊の
訓練を受けさせてもらおう。 そのためにはいっぺんに行けるように飛行機を乗っ取ろう。赤軍派がやったという
宣伝にもなる。」 と考えて、この事件を起こした。 この時、幹部ら9人が 「 国際根拠地論 」 に基づいて北朝鮮
に渡った。

 この事件が起きてから「 ハイジャック 」 という言葉が使われるようになった。 ハイジャック防止法という法律も
でき、飛行機に乗る際の所持品検査やボディチェックもこの後から行われるようになった。 彼らは政治亡命を主
張しているが、この行動は北朝鮮からはそれほど歓迎されなかった。 

メンバーですでに死亡した者もいるが、北朝鮮で妻子らとともに働いている。 2001年には、子どもたちのうち
3人が日本に来た。 娘たちの話では、メンバーは帰国を望んでいるというが、帰国すれば日本の警察に逮捕さ
れる。

 

【連合赤軍】

 赤軍派の他のメンバーは、新たな国際拠点を中東に求めた。 
   1971年2月 ――― 重信房子、奥平剛士らが、レバノンに出国した。(2人は偽装結婚して出国 )
 このグループはパレスチナ人の味方をして、世界各地で飛行機をハイジャックしたり、大使館を襲ったりした。 
彼らは、日本赤軍と呼ばれた。

 

 国内に残った赤軍派は、京浜安保共闘と連合赤軍を結成し、日本各地で銀行や郵便局、銃砲店などを襲った
りした。

   1972年2月・・・連合赤軍は、浅間山荘事件を起こす。
 連合赤軍は、群馬山中で軍隊の訓練をしているところを警察に見つかって逃げ出し、5人が軽井沢の浅間山荘
に立てこもった。 管理人の奥さんが人質となり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた。 この時、警察官2人が死亡し
たが、5人は逮捕された。 この連合赤軍は、群馬県で訓練をしている間に、仲間を14人も殺していたことがわ
かった( 連合赤軍事件 ) 。 この事件後、連合赤軍は事実上、消滅していく。 

 

 

【日本赤軍が起こした事件】

 重信房子たちは、1972年、従来の赤軍派と決別を宣言し、 「 アラブ赤軍 」 を名乗り、海外を拠点にテロ活動
を独自に進めることになった。
 重信房子はPLOの内部組織・パレスチナ解放人民戦線( PFLP )の幹部と結婚し、PLO内でも重要な地位に
あり、アラファト議長と直接会話をする間柄とされる。 

   1972年5月30日・・・イスラエル・ロッド空港事件 ( テルアビブ空港乱射事件 ) を起こす。


 奥平剛士、岡本公三ら3人が、テルアビブのロッド空港で自動小銃を乱射したり、手投げ弾を投げたりして、
100人を死傷 ( うち24人死亡 ) させるという無差別テロ事件である。  奥平剛士は自爆死し、岡本公三は
逮捕された。 重信房子らは、この事件を日本赤軍の誕生日と位置づけた。  
 重信らは長く中東の庇護下に置かれ、旅行者を装ってレバノン入りした日本の捜査員も重信らの姿をそっと
見守るしかなかった。  彼女は、パレスチナ過激派の幹部と接触し、軍事訓練を取り仕切り、数々のテロや
ゲリラに送り込んだ。

 


   1973年7月・・・日航機ハイジャック事件が起きる。
  丸岡修とパレスチナゲリラ4人がオランダのアムステルダム上空で
 日航機を乗っ取り、リビアに着陸した。 乗客らを解放した後、日航機
 を爆破した。 犯人たちはリビア政府に投降、国外追放となった。

 ←左写真   1973年8月、ヨーロッパで日本の民放テレビ番組の
         インタビューに応じ、ハイジャック事件などについて語る
         重信房子

   1974年9月・・・ハーグ事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生(ハルオ)らが、オランダ・ハーグのフランス大使館に手投げ弾や短銃を持って乱入した。 
パリ当局に拘禁中の日本赤軍の一人を奪還し、シリア・ダマスカス空港に逃げた。 そこでシリア政府の説得に
応じて投降したが、その後姿を消した。 

 

   1975年8月・・・クアラルンプール事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生ら5人がマレーシアのクアラルンプールでアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し
た。 彼らの要求は、日本に勾留中の日本赤軍のメンバーらの解放だった。 日本政府は要求されたメンバー
を超法規的措置で出国させた。  

 

   1977年9月・・・ダッカ事件が起きる。


 丸岡修らがバングラデシュで、飛行機乗っ取り事件を起こす。  乗客156人らの人質と交換に超法規的
措置で奥平純三ら6人を釈放させ、身代金を奪い(600万ドル)を奪い、アルジェリアに逃亡した。 

 

【中東和平など国際情勢変化の中で・・・】

   1993年9月・・・パレスチナ暫定自治合意が達成される。(=歴史的な和解)


 これをきっかけに、中東和平が進み、日本赤軍はレバノンのベカー高原を閉鎖せざるを得なくなり、重信房子
らメンバーは他の中東地域や南米、東欧、アジアに散らばったとみられた。 実際に、ルーマニアやネパール、
ボリビアで仲間が身柄を拘束され、国際テロ組織に対する世界的な包囲網から、南米やアジアでも活動の場を
失ったようだ。 
 1997年には、それまで保護していたレバノン治安当局が、岡本公三、和光晴生らメンバー5人を逮捕し、
組織の弱体化に追い討ちをかけた。 ( レバノン政府は岡本公三に対しては 「 彼こそ真の反イスラエル闘争に
かかわってきた 」 との理由で政治亡命を認めている )  

   2000年11月・・・日本赤軍の最高幹部・重信房子が、大阪で逮捕される。


 重信容疑者は、ハーグ事件の計画立案者として国際手配されていた。 重信はテロ事件では表に出ず、陰の
黒幕的存在だった。 中東和平が進み、日本赤軍の居場所がなくなり、重信容疑者も帰国を余儀なくされたと
みられている。


http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c93

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
154. 中川隆[-11439] koaQ7Jey 2019年3月14日 20:41:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[556]
「ゴーン」守護神交代 元特捜部長の「大鶴弁護士」を切った理由
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02280557/?all=1
週刊新潮 2019年2月28日号掲載 デイリー新潮


「ゴーン」守護神交代

 守護神の交代である。日産前会長、カルロス・ゴーンの弁護を引き受けていた元東京地検特捜部長の大鶴基成弁護士(63)が辞任した。ゴーンの逮捕以来、ほぼ3カ月にわたって、古巣の特捜部と渡り合ってきたのに、なぜ、突然切られることになったのか。

 大鶴弁護士がゴーンの弁護から身を引いたのは2月13日。公判に向けて、裁判所、検察側、弁護側による初の3者協議が翌日に行われるタイミングでのことだった。

 司法担当記者が解説する。

「ゴーンにとって、大鶴さんに対する最大の不満はやはり保釈が取れなかったこと。一緒に逮捕された前代表取締役のグレッグ・ケリーは、昨年末にはすでに保釈されている。ゴーンの方は特別背任でも逮捕されているため、容疑の数が違うわけですが、本人からすれば、“なぜ、自分だけが出られないんだ!?”という気持ちなのではないでしょうか」

 さらに、大鶴弁護士がルノーからの依頼でゴーンの弁護を引き受けていたという事情もあるという。

「ルノーは、ゴーンが逮捕されると、まず日本の大手ビジネス弁護士事務所に弁護士探しを依頼しました。そして、最終的に白羽の矢が立ったのが、大鶴さんだった。しかし、このところ、ルノーがゴーン排除に舵を切り始めている。会長兼CEO辞任に伴う約38億円の退職手当も支給しないことに決めました。ルノーが方針転換したことが、大鶴さんの辞任に繋がったと見られています」(同)

10人の精鋭

 一方、大鶴弁護士の方もかなりストレスが溜まっていたという。

 司法記者が続ける。

「寒いなか、ほぼ毎日のように東京拘置所に通っていました。そのうえ、ゴーンはフランスなどの大使館関係者と優先して面会するため、かなり長時間待たなければならなかったそうです。また、保釈請求をしたときも、居住地をフランスにすると言い張るゴーンに対し、“それではダメだ”と説得したのも大鶴さんだった。結局のところ、誰が弁護士になっても、保釈が取れないという結果は変わらなかったはずですが……」

 大鶴弁護士に代わって新たな守護神となったのが「無罪請負人」の異名を持つ弘中惇一郎弁護士(73)。

 実は、新旧2人の弁護士の間には、深い因縁があった。大鶴弁護士が検察を去るきっかけとなったのは、小沢一郎代議士の逮捕を狙った陸山会事件。その捜査手法をめぐって上層部と対立し、定年まで7年を残して退職することになるわけだが、小沢代議士の弁護についていたのが弘中弁護士だった。

 つまり、かつては敵と味方の間柄というわけだ。

 元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に聞くと、

「新たな弁護団は、10人の精鋭が揃っている。大鶴さんも力のある弁護士ですが、さすがにそこまではできなかった。そんな弁護団を組織できる弘中さんに代えたあたり、保釈さらには無罪を勝ち取ろうとするゴーンの強い意志を感じます。次に想定される保釈請求のタイミングは、第1回公判の後。その前に公判前整理手続きが行われるわけですが、精鋭10人で証拠の分析を素早く行い、公判を一日でも早く迎えようとするのではないでしょうか」

 果たして、守護神交代は吉と出るか凶と出るか。

ワイド特集「栄光の代償」より
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c154

[リバイバル3] アメリカの有名大学では金で合格を買える 中川隆
7. 中川隆[-11438] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:29:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[557]
2019年3月14日
コラム:史上最悪の裏口入学事件、米大学には「予期せぬ恩恵」


[ニューヨーク 13日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 米国のエリート大学では通常、裕福な家庭の子どもが有利となる。今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。

まさに驚きの事件である。 米検察当局は12日、子どもを名門大学に入学させるための詐欺行為に関与したとして、著名な女優や企業の幹部など約50人を訴追した。

その中には、米プライベートエクイティ(PE)のTPG[TPG.UL]のグロース・マネジングパートナーのビル・マクグラシャン被告や、法律事務所ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーの共同会長ゴードン・カプラン被告、テレビドラマ「デスパレートな妻たち」などへの出演で知られる女優フェリシティ・ハフマン被告などが含まれる。イエール大学などの名門校に子どもを入学させるため、賄賂を贈った疑いがある。

米司法省が12日明らかにした不正の手口は、第3者に替え玉受験や回答の修正を行わせたり、「スポーツ入学」の推薦を得るためにスタンフォード大やテキサス大などのスポーツコーチに賄賂を贈ったり、さらには実際にはスポーツ選手ではないのにまるで有力選手であるかのように受験者の写真を加工するなど、多岐にわたる。

マクグラシャン被告の場合、息子を南カリフォルニア大に入学させるため、上記のようなサービスを息子が受ける見返りとして、計25万ドル(約2800万円)の支払いに合意したとみられる。同被告と、捜査に協力した証人との会話記録は実に衝撃的だ。ただし、息子の関与を示すものはこれまでのところ出てきていない。

米国の教育制度は、すでにこうした富裕層の子どもに有利なようにできている。

入試準備クラスに通うことのできる富裕層の子どもたちは、ぶっつけ本番で試験を受けなくてはならない子どもよりも有利な立場にある。そのつながりは明確にはされないが、相当な額の慈善寄付を行うことは合格するためによく取られる手段だ。大学施設などの建設に十分な資金を提供した最富裕層には、入学が何世代にもわたって保証されることもあった。

 3月13日、今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。写真は12日、ロサンゼルスの裁判所に出廷した米女優のフェリシティ・ハフマン被告(右)のスケッチ画(2019年 ロイター/Mona Edwards)

今回の事件は違法行為である。だが、教育制度のバランスを取り戻したいと考える進歩主義者にとっては予期せぬ恩恵だといえる。親のカネに頼れない子どもはチャンスを逃すかもしれない。たとえそうした子どもたちが一流大学に入学できたとしても、別のかたちで支払わなければならない。

セントルイス地区連銀によれば、米国の教育ローン残高は2006年から2018年の間に3倍に膨れ上がり、約1.6兆ドルに上る。学費無償化を訴える次期大統領候補のバーニー・サンダース、エリザベス・ウォーレンの両上院議員の考えは今、かつてないほど耳を傾けられ、共感されるだろう

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/933.html#c7

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
174. 中川隆[-11437] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:31:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[558]
人気女優ら50人、裏口入学関与で訴追 米
3/13(水) 5:25配信 AFP=時事

米女優のフェリシティ・ハフマンさん(左、2018年9月16日撮影)とロリ・ロックリンさん(右、2017年1月18日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News


【AFP=時事】米検察当局は12日、子どもを名門大学に裏口入学させるための総額数千万ドル(数十億円)の詐欺行為に関与した疑いで、米ドラマ「デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)」のフェリシティ・ハフマン(Felicity Huffman)さん(56)と「フルハウス( FULL HOUSE)」のロリ・ロックリン(Lori Loughlin)さん(54)の人気女優2人を含む50人を訴追したと発表した。

【写真】「フルハウス」の共演者と並ぶロックリンさん

 訴追された人々には企業幹部、資産家、ワイン醸造業者やファッションデザイナーも含まれ、自身の子どもをエール大学(Yale University)、スタンフォード大学(Stanford University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、南カリフォルニア大学(USC)などの名門大学に入学させるため、入学試験での不正や贈収賄を行った疑いが掛けられている。

 依頼人らは、カリフォルニア州在住のウィリアム・リック・シンガー(William Rick Singer)被告が運営する偽の慈善団体に巨額の謝礼を支払い、米大学進学適性試験の「SAT」や「ACT」での不正や、本来なら大学のスポーツチームに入団できない子どもをスカウトさせるための大学職員やコーチらへの賄賂の手配を依頼していたとされる。

 ハフマンさんとロックリンさんを含む33人の保護者に対しては、詐欺共謀の疑いが掛けられている。事件が立件されたマサチューセッツ州ボストンの検察当局によると、裏口入学の料金は20万〜650万ドル(約2200万〜7億2000万円)で、シンガー被告は保護者らから総計約2500万ドル(約28億円)を受け取っていた。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000003-jij_afp-int


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2019年3月14日
コラム:史上最悪の裏口入学事件、米大学には「予期せぬ恩恵」

[ニューヨーク 13日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 米国のエリート大学では通常、裕福な家庭の子どもが有利となる。今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。


まさに驚きの事件である。 米検察当局は12日、子どもを名門大学に入学させるための詐欺行為に関与したとして、著名な女優や企業の幹部など約50人を訴追した。

その中には、米プライベートエクイティ(PE)のTPG[TPG.UL]のグロース・マネジングパートナーのビル・マクグラシャン被告や、法律事務所ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーの共同会長ゴードン・カプラン被告、テレビドラマ「デスパレートな妻たち」などへの出演で知られる女優フェリシティ・ハフマン被告などが含まれる。イエール大学などの名門校に子どもを入学させるため、賄賂を贈った疑いがある。

米司法省が12日明らかにした不正の手口は、第3者に替え玉受験や回答の修正を行わせたり、「スポーツ入学」の推薦を得るためにスタンフォード大やテキサス大などのスポーツコーチに賄賂を贈ったり、さらには実際にはスポーツ選手ではないのにまるで有力選手であるかのように受験者の写真を加工するなど、多岐にわたる。

マクグラシャン被告の場合、息子を南カリフォルニア大に入学させるため、上記のようなサービスを息子が受ける見返りとして、計25万ドル(約2800万円)の支払いに合意したとみられる。同被告と、捜査に協力した証人との会話記録は実に衝撃的だ。ただし、息子の関与を示すものはこれまでのところ出てきていない。

米国の教育制度は、すでにこうした富裕層の子どもに有利なようにできている。

入試準備クラスに通うことのできる富裕層の子どもたちは、ぶっつけ本番で試験を受けなくてはならない子どもよりも有利な立場にある。そのつながりは明確にはされないが、相当な額の慈善寄付を行うことは合格するためによく取られる手段だ。大学施設などの建設に十分な資金を提供した最富裕層には、入学が何世代にもわたって保証されることもあった。


 3月13日、今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。写真は12日、ロサンゼルスの裁判所に出廷した米女優のフェリシティ・ハフマン被告(右)のスケッチ画(2019年 ロイター/Mona Edwards)

今回の事件は違法行為である。だが、教育制度のバランスを取り戻したいと考える進歩主義者にとっては予期せぬ恩恵だといえる。親のカネに頼れない子どもはチャンスを逃すかもしれない。たとえそうした子どもたちが一流大学に入学できたとしても、別のかたちで支払わなければならない。

セントルイス地区連銀によれば、米国の教育ローン残高は2006年から2018年の間に3倍に膨れ上がり、約1.6兆ドルに上る。学費無償化を訴える次期大統領候補のバーニー・サンダース、エリザベス・ウォーレンの両上院議員の考えは今、かつてないほど耳を傾けられ、共感されるだろう


http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c174

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
184. 中川隆[-11436] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:42:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[559]
 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c184

[リバイバル3] 日本の投資家はネットパチンコやギャンブルが大好き 中川隆
25. 中川隆[-11435] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:43:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[560]
 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/824.html#c25

[近代史02] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、 絶対に手を出してはいけない 中川隆
10. 中川隆[-11434] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:43:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[561]
 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/894.html#c10

[昼休み53] 阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい 中川隆
24. 中川隆[-11433] koaQ7Jey 2019年3月14日 22:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[562]

「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1


 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
http://zilx2g.net/index.php?%A1%D6%CF%A2%B9%E7%C0%D6%B7%B3%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%B0%C7


74. 中川隆[-11464] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:05:12: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[531] 報告
▲△▽▼

2011-02-27 連合赤軍って何?

実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。

赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。

革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。

赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1


http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html#c24

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
58. 2019年3月15日 07:06:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[563]

「転落した」のではなく、最初から努力することも向上心を持つこともないまま社会の底辺に堕ちる人も存在する
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/939.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c58
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
94. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2019年3月15日 07:27:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[564]

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html


(寺岡恒一の不在中に厳しい総括の準備がなされていた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

■「寺岡の問題はCCに止まれるかどうかまで問われる大きな問題」(森恒夫)
 この日、指導部で残っているのは、森、永田、坂口の3人だけだった。森は、永田と坂口に、寺岡の問題を提起した。


 坂東と寺岡が日光方面へ新たなベースの調査に行っているとき、寺岡恒一に対する批判が本人不在のまま始まったのである。

 森君は、「寺岡君の総括の問題は、寺岡がC.Cとして止まるかどうかまで問われる大きな問題なので、寺岡の従来の活動を体系的に検討しよう」と永田さんと私に言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


C.C(Central Committee)とは中央委員会、つまり指導部7名のこと。


寺岡の問題点として、表向きにあげられたのは、以下の3点である。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき、皆に死体を殴らせたこと
(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと


それぞれについて擁護のコメントをしておく。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき 、皆に死体を殴らせたこと
 森は、これを「党建設の高次な矛盾を反革命として処理するのはスターリン主義だ」と批判した。「スターリン主義」とは、強権的独裁者というような意味である。

 しかし、寺岡が小嶋の死を「反革命の死だ」といったのは、この直前に東京から榛名ベースに戻ってきたばかりで、まだ、「敗北死」という言葉を知らなかったのだから無理もないことだった。


(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
 杉崎はさまざまな面で寺岡に依存していたことを反省し、革命戦士として自立するために寺岡との離婚を表明していた。だが、寺岡は本気とは思っていなかったようで、まじめに取り合わなかった。

 杉崎が離婚を表明したのは、「女の革命家から革命家の女へ」 という森の理論に沿ったものだったが、寺岡はこの理論も聞いていないので、離婚表明されたといっても、にわかには信じられなかったのである。

(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき 、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと
 寺岡の発言に対して、男たちが笑っているのをみて、永田が「そういうのは矮小よ!」と、森を含めた男たち全員を批判したのである。森はその時は何も言わなかったが、その後の会議では、「女性蔑視だ」と寺岡個人に責任を転嫁したのである。


■「寺岡に対して体系的な批判を行う必要がある」(森恒夫)


 ところが、森の批判の矛先は、問題とされた3点ではなくて、別の方向へ向かっていった。「自己批判書」をみると、だんだん論理が飛躍していくことがわかる。


 森は、「我々」とは森と永田のこと、としているが、素直にそう読める人はいないだろう。

 こうした現実に起こった問題と共に我々はその頃から彼に対する体系的な批判を行う必要があると考えていった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 それは彼が旧革命左派の古い政治理論を批判することを通り越して、旧赤軍派の政治理論に乗り移る様な傾向を示した事、(私から見れば一知半解と思われる)現状分析や理論を得意げに振り回し旧革命左派の同志があたかも自分よりはるかに遅れているかの様な態度をとった事、以前から旧革命左派の指導部間でそうした態度をとったことがあり、、乗り移り的路線変換やそれに伴うほかの指導メンバーのパージ等を策した事がある事、又、以前から直系的な人脈作りを行う傾向があり、概して他のメンバーに官僚的で厳しいことであった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 こうした事から、我々は、真に同志的な”しのぎ合い”の場であるべきC.C.を競争のように彼が考えているのではないかと考え、更に軍事指導者として活動してきた彼の活動内容を検討することにした。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした批判を彼には12月3日頃任務で出かける前に話して、彼の政治的傾向が官僚主義的スターリン主義的であると批判したが、彼はそれを認めて自分は以前からそういう傾向があった、革命左派への参加も中核なら大きいが革命左派なら小さいしすぐ出世できるという政治的野心をもって入った、等を言った。
(森恒夫・「自己批判書」)


「12月3日頃」というのは「1月12日」の誤りだと思われる。

 その後、彼が任務から帰ってくるまでに我々は、彼のこうした問題は単なる政治的傾向というよりはもはや体質をなしている事、政治的野心競争−官僚主義−女性蔑視−等は、・・・(中略)・・・小ブルテロリズム的な冷酷さすら示しているとして彼を批判してC.C.を除名する必要があるのではないかと考え、その上で、一兵士としていわば0よりマイナスの地点から彼が実践的に総括することを進めるべきだと考えていた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 ということは、森は、寺岡の批判を始める前の段階で、寺岡をC.Cから除外しようと考えていたわけだ。


■「それは大いに問題だ。分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ」(森恒夫)

 森氏は、「2・17(71年2月17日の真岡銃奪取闘争)後の厳粛な総括が必要だ。そのなかに寺岡君の問題もあるにちがいない。闘争後のことを詳しく話せ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、革命左派時代の寺岡君のことは知らないので、永田さんにいろいろ質問した。永田さんは躊躇する訳でもなく、積極的に答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 永田は、寺岡が改組案を出したこと にふれた。寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げする改組案だった。しかし、寺岡は改組案をひっこめ、それ以降は永田に協力的になったので、永田は何も問題はないと思っていた、と語った。

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 (森氏は)「この分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ。寺岡に厳しく総括要求する必要がある」といった。私も坂口氏もそれにうなずいた。この時から寺岡氏への森氏の呼びつけに、私は抵抗を感じなかった。

 森氏は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ、山田君がもうすぐ戻って来るから、山田君をオルグしよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■森は、はじめから寺岡を処刑するつもりでいた
 結果を先にいえば、数日後に寺岡は「死刑」になる。筆者の結論も先にいえば、森は最初から寺岡に殺意があったと考えている。


 まず、坂東と寺岡の山岳ベース調査が唐突に追加されたのが不自然だ。これはおそらく寺岡のいない状況を作りたかったからだ。森は、革命左派幹部で、寺岡と一緒にやってきた永田と坂口に、寺岡への処刑を納得させるための時間をつくりたかったのではないだろうか。


 寺岡が出発すると、森は、永田と坂口に、寺岡批判を開始し、たてまえ上、3つの問題点をあげたが、そんなことはどうでもよかった。すぐ、過去の活動に焦点を移し、寺岡の過去を聞きだすことによって、処刑の理由になりそうな問題をみつけだそうとした。


 改組案の話を聞いて、これだと思った森は、改組案をことさら大げさにとりあげ、寺岡を「分派主義」ときめつけた。永田が擁護する発言をすると、その擁護を「下から主義」と、永田に問題があったかのように批判した。


 こうして永田と坂口の説得に成功した森は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ」と、思わず「オルグ」という言葉を使った。これは、永田と坂口に対しても「オルグ」であったことを露呈したものだ。


 もちろん、森は、永田や坂口に「処刑する」とはいっていないから、2人とも数日後に寺岡が「死刑」になるとは想像もできなかっただろう。 だが、森の頭の中では、寺岡の「死刑」について、この日、お墨付きを得たのである。


 以上は、筆者の推測であることを強調しておくが、坂口も、森にはじめから寺岡に対する殺意があったと証言している。

 坂口は、「森は、...寺岡君のことを自己の権力を脅かす危険人物とみなし、彼を除くために、彼を総括することにきめた。...森は、寺岡君を総括にかける前から、除くことを考えていた・・・」と述べており、この点で、植垣の主張と一致している。
(「インパクション18」(1982年)水戸巌・「連合赤軍における『総括』とは何か」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html

1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真     連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)


 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判したことがあった。

■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真


 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。

 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。

 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。

 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。

 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたときもそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたときもそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。

 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。

 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。


 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


1972年1月17日 寺岡恒一への総括
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(寺岡恒一に出口はなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

今回も寺岡の話である。1月14日から続いている。


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し

 寺岡は山岳ベース調査に行っていて、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部(CC)のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。


■「永田さんと坂口さんが逮捕されればよいと思った」(寺岡恒一)

 寺岡氏はなかなか中央委員のこたつの所に来なかった。私たちから総括を課せられ冷たい態度をされていたため、来にくかったのであろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は冷たい口調で追求を始めた。寺岡は総括要求された3つの問題 について、共産主義化を理解していなかったこと、女性蔑視だったことを認めたが、それ以上はよくわからなかったと答えた。

「そんなことで総括したとはいえない。そんなことは許されない。一体、総括要求ををどう考えているんだ」
森氏の追及は非常に長いもので、それまで問題としてあげてきたことをやつぎばやに追求していくものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 寺岡君は、そうした批判を認め、他のメンバーに対して、弱点を掴み、それによって自分を精神的上位に置こうとしたとか、組織の歩みに従いていけないメンバーや権力に屈服する恐れのあるメンバーいついては殺してもよいと思っていたとか、さらに真岡銃奪取闘争を1人でやったかのように言ったこともスターリン主義的傾向の表れだった、と言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 寺岡君が認め、告白したことも、すべて森君の厳しい追求にあってしたものであり、自分から進んでしたものでないことも明らかである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうしたやりとりの中で、寺岡君は、「永田さんと坂口さんが出かけたとき、逮捕されればよいと思った。組織の金を自由に出来ないことを苦々しく思っていたからだ」と答えた。
 永田さんは怒った。私はまずいことを言ったと思った。吉野君が寺岡君の顔面を一発殴った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「坂口さんは落ちた。永田さんは軽い。森さんは倒せると思っていた」(寺岡恒一)
 森は寺岡に、「おまえは、しのぎあいを競争と取り違えている」と批判したあと、「一人ひとりをどう思っていたかいってみろ」といった。

 寺岡氏は、吉野氏は自分より下だったので対象外だった、坂東氏は軍事の競争相手と見ていたといったあと、


「山田さんは当面の自分の競争相手であり、理論的にしっかりしているようだけど、尾崎らの死体を埋めに行くときにあわてたので、落ちたと思った」


「坂口さんは永田さんに追従しているけど、殴ったりする総括要求にたいして、人民内部の矛盾だからといって動揺する気持ちをもったので、落ちたと思った」


「永田さんについては、森さんが教師で永田さんが生徒のようだと思った。だから、競争相手として軽いと思った」


「森さんは倒すのが大変な奴だと思っていた。しかし、女性関係で弱みがあるから、これをつけば倒せるだろうと思っていた」


といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 無論、無理に言わされたのであり、進んで告白したなどというものではない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私たちは、誰もこの寺岡氏による評価に苦笑しただけで、怒ったり批判したりする人はいなかった。これらの評価が一面で当たっていたからである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「殴って欲しいんだよね」(寺岡恒一)

 そのあとも森氏は追及したが、寺岡氏が急に立ち上がって、「殴って欲しいんだよね。僕は殴られることを恐れる気持ちがあるから、殴られることによって克服し、そのことによって総括したい」といった。それは思い余っての発言だった。

 森氏は冷たく、「おまえに指示されて殴りはしない。我々はもっと追及する」といってさらに追及していった。しかし、それは同じことの繰り返しであった。それで私は、「寺岡への総括要求はもはやCCだけの問題ではないから、全体で追求しよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏は、寺岡氏に、「いいか、我々はおまえのような傾向と最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」と激しい口調でいった。寺岡氏は坂口氏と吉野氏の間で正座し黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全員が起こされた頃にはもう日が変わっていた。


■はじめから寺岡に出口はなかった
 寺岡に対する追求は、総括要求された3点の問題とは、まったく別の問題で行われていることに注意したい。森の根回しによって、そもそもフェアな場ではなくなっていた。


 「全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判」(永田)を、寺岡は無理やり認めさせられたが、それを総括要求されるのではなく、「最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」といわれた。はじめから寺岡に出口はなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」


 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される


(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判


 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html

1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その1・戸惑うメンバー
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


(メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 今回掲載するの内容は、前回 から続いているが、すでに日付は18日になっていた。

 寺岡が死刑にいたる過程は詳しくみていくので、何回かに分割して掲載する。


■「永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた」(坂口弘)

 被指導部の人たちが全体会議のため集った頃は、もう18日の午前1時頃になっていた。皆は急に起こされ、一体なんだろうという様にボンヤリとしていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君に指示された永田さんが、経過報告を兼ねてアジ演説をぶった。それを聞いて、森君への”乗り移り”(これこそ本当の”乗り移り”だろう)の鮮やかさに驚いた。寺岡君の胸中は知るべくも無いが、抵抗が無かったとは到底言えまい。
 永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡の「乗り移り」とは、赤軍派の理論を受け入れたとき、革命左派のメンバーに対し得意げに語ったことから、森に「乗り移り」と批判されていたことをさす。

 しかし、皆はよくわからない様子をして少しも盛り上がれず、そのため、私の話は空回りしているようだった。私は、「どうして、こんな重大な問題にみんな黙っているの」といったが、やはり皆はぼんやりとして黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ここで吉野が、けしかけるが、やはりメンバーはピンとこない様子で黙ったままだった。

 そこで私は、「みんな判らないような顔をしているけど、考えてごらん。思い当たることがあるでしょう。みんな今まで寺岡に指導されてきたと思ったらだめよ。彼のは指導じゃないんだから」といったが、それでも誰も積極的に語ろうとしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡の何が問題なのかよくわからなかった」(植垣康博)

 私は、寺岡氏が永田さんや坂口氏が逮捕されればよいと考えていたことを大変なことだと思ったものの、寺岡氏の指導が他の指導者たちのそれと特に変わっていたわけではなかったので、一体彼の指導の何が問題なのかよくわからなかった。だから、発言しなかったのではなく、発言できなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 そうしたなかで、坂東氏が、大きな声で、「お前らひとごとのような顔をしているがなー、寺岡はなー、革命を売ろうとしたんだぞ!永田さんや坂口さんを敵に売ろうとしたんだぞ!黙っていてもしょうがない、何とかいえ!」と怒鳴った。これに、皆はびっくりし、寺岡氏を批判し始めた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 しかし、その批判の内容は、寺岡氏の指導が自分勝手で個人主義だったとか、被指導部の者への口のきき方が乱暴で官僚主義的だったというもので、寺岡氏に固有のものとはいえなかった。それは、中央委員への指導への不満を寺岡氏に集中したものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡を真ん中に引き出して追求すべきだ」(大槻節子)

 批判が活発になっていった時、大槻さんが、立ち上がり寺岡氏を指をさして、「寺岡をそんなすみに置かないで、真ん中に引き出して追求すべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 すると、寺岡氏の両脇に坐っていた坂口氏と吉野氏が寺岡氏を私たちの方へ突き出した。寺岡氏は皆に引っ張られるようにして真ん中に引き出され、私の前に正座させられた。そのまわりを皆が取り囲んだ。私は、寺岡氏の胸倉をつかむと、寺岡氏のメガネをはずしてそばにいた山崎氏に渡し、「この野郎!ふざけた野郎だ!」といいながら、顔面と腹部を1発ずつ殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣が殴ったのをきっかけに、被指導部のメンバーが寺岡を殴りだした。


■永田は寺岡を擁護しないばかりか、森の側に立って寺岡を攻撃した


 寺岡への批判の根回し は、森が指導部に行ったもので、メンバーには知らされていなかったし、そもそも悪意を持って決めつけるものでしかなかったから、急に言われても、メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった。


 坂東の恫喝によって、ようやく批判を口にしたが、「自分勝手」「口のきき方が乱暴」「官僚的」と、指導部全員にあてはまることをいっただけで、特に寺岡の問題ではなかった。


 寺岡は、革命差派時代、永田を格下げする改組案を出したことは確かではあるが、すぐに撤回している。


 当時、革命左派は、反永田機運が漂っていた。改組案撤回後は、寺岡が永田支持に回って永田を支え、協力してきたこともまた確かなのである。


 また、連合赤軍になる直前、森の革命左派批判に、永田への援護射撃を行ったのは寺岡だけであった。坂口と吉野は黙っているばかりだったのである。


 寺岡は、森に批判されるだけならともかく、永田によって、革命差派時代の全活動と人格を否定されてしまったのだから、その悔しさたるや察するに余りある。


 メンバーは、6名の死によって、「総括」は一区切りついたと思っていたので、また始まったのかとうんざりした。だが、「総括」ではすまなかった。「死刑」という「新たな地平」に連れて行かれるとは、誰も予想していなかったのである・・・・・唯一、森恒夫を除いては。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その2・森が足にナイフを突き立てる
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html

(寺岡は、坂東を刺して逃げようと思ったというが・・・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

 森は、寺岡を総括にかける際、永田にアジ演説させたが、それは寺岡が革命左派の幹部だから、メンバーを同意させるには、永田のほうがよいと思ったのであろう。


 さて今回は、いよいよ森の追求である。


■「坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」(寺岡恒一)


森  「おまえは新しい組織をつくろうとしたようだが、新しい組織づくりができると思ったのか」
寺岡 「できるとは思わなかった」
森  「できなかったら、どうするつもりだったのか」
寺岡 「逃げるつもりだった」
森  「いつ逃げようと思った」
寺岡 「坂東さんと調査に行っていた時です」
坂東 「どうやって逃げようと思った」
寺岡 「テントで寝ている時に坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」
森  「どうして坂東を刺して逃げなかったんや」
寺岡 「坂東さんにはそういうスキはなかった」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)

 (私たちは)さらに激しく怒り、寺岡をめちゃくちゃに殴った。あまりに激しく殴るため、寺岡氏が倒れないよう胸倉をつかんでいた私まで殴られる有り様だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「『おや?』と思った」(坂東国男)

(坂東は寺岡がウソの告白をしていることに気づき「おや?」と思った)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真


 ここで思い出さなければならないのは、1月16日(山岳調査の最終日) に、寺岡が坂東に、「総括ということがよくわからないんだよね」と打ち明けたときのことである。再掲載すると、、、

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 だから寺岡は、逃げようと思えば、逃げられたし、坂東を刺そうと思えば刺せたのである。それを一番よく知っていたのは坂東本人であった。

「私を殺そうとした」というのを聞いて、逆に、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず、「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「宮殿をつくって、女をはべらかせるつもりだった」(寺岡恒一)


森  「組織を乗っ取ったらどうするつもりやったんや」
寺岡 「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」
森  「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」
寺岡 「商社から金を取るつもりだった」
森  「いくら取るつもりだった」
寺岡 「数千万円取るつもりだった」
森  「そんなに金をとってどうするつもりだったんだ」
寺岡 「宮殿をつくって、女を沢山はべらかせて王様のような生活をするつもりだった」
森  「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」
寺岡 「そうしたことはないが、いろいろな女性と寝ることを夢想する」
森  「誰と寝ることを夢想する?」
寺岡 「大槻さんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 M作戦とは、赤軍派時代に行った銀行強盗 のこと。

 森に「他にはだれか」といわれて、金子、伊藤、中村、寺林、永田の名前をあげたが、寺岡はそのたびに本人たちから殴られた。

森  「お前はいったいなんのために闘争に参加してきたんや」
寺岡 「革命左派は小さな組織だったので、すぐ幹部になれると思ったからです」
森  「それなら、おまえにとっては、どの組織でもよかったのとちゃうか」
寺岡 「はい、そうです。どの組織でもよかったんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


■「ナイフを刺して追求するぞ。いいな」(森恒夫) 「うん」(永田洋子)


森  「おまえは情報を売って助かる道を確保するつもりだったといっていたが、今までに権力に情報を売ったことはなかったのか」
寺岡 「ありません」
森  「本当にないのか」
寺岡 「本当にありません」
森  「本当にないのか!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 皆も「どうなんだ!」「隠すな!本当のことをいえ!」と追求しだしたとき、森は、皆の輪の後ろのほうにいた永田に小走りに来て、「寺岡の足にナイフを刺して追求するぞ。いいな」と確認した。永田は、「うん」とうなずいた。

森  「おまえが逮捕された時(69年の9・3、4 愛知外相訪ソ訪米阻止闘争 で逮捕された時)、おまえだけが執行猶予になったなー。これはどういうことや」
寺岡 「判らない」
森  「どうなんや」
寺岡 「叔父さんに父が手を回したのかも知れないが、そのことを僕は知らない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 この追及の過程で、森は正座した寺岡の足にナイフを突き立てた。

 すると、森氏は、私に、「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ」と指示した。私は、寺岡氏の後ろに回り、寺岡氏の両手を後ろ手に持ち、押さえた。森氏は、寺岡氏の前に正座すると、再び権力との関係を追及したが、その際、いきなり寺岡氏の左腿に細身のナイフを刺した。寺岡氏は、「ううっ」とうめいき声をあげて状態をよじらせた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 突然、寺岡君の表情が苦痛に歪んだ。何事が起きたのか、と思って彼の全身を見回すと、森君が左大腿部の上で、ナイフの柄を握っていた。ナイフを突き刺したのだ!息を呑んだ。ナイフを突き刺す状況ではないし、事前に相談があった訳でもない。不意打ちである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 森君は、握った柄を時々ゆすったりした。残酷だった。寺岡君は「ううっ」と呻いたり、体を捩ったりして堪えた。こんなにされても、彼は権力との関係を否定した。私は見ていないが、この後、森君はナイフを抜いたらしい。彼の供述調書によると、ナイフの先が3センチほど曲がっていたという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「少しも彼への憎しみがわいてこなかった」(坂東国男)


森  「おまえ、一度東京へ1人でいったことがあったなあ。あれ、何しにいったんや」
寺岡 「学生時代のサークルの友だちの所にカンパをもらいに行きました」
森  「本当にそうか」
寺岡 「そうです」
永田 「あんた、あの時、帰りがばかに遅かったじゃないの?どうしてあんなに遅かったの?」
寺岡 「慎重を期して遠回りの電車で帰ったから、遅くなったのです」
永田 「ちゃんといいなさいよ。本当にそうなの」
寺岡 「本当にそうです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 寺岡は、権力との関係についてはきっぱりと否定した。

 その時、森氏は、ナイフを抜き、坂東氏に耳打ちした。坂東氏は、寺岡氏のそばに坐ると、「この野郎、本当のことをいえ」といって、ナイフを寺岡氏の左腕の付け根に差した。それでも寺岡氏は、権力との関係を否認した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 それは名誉を大きく傷つけられた彼の自己尊厳を守る最後の踏ん張りであった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうした追求のため、寺岡氏の足の下から血がしみ出して来たばかりか、腕からも血が流れて来て、私の手や袖口が真っ赤になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森同志が足を刺したと同時に、決意して腕を刺しました。しかし、決意してやってみても、少しも彼への憎しみがわいてこなかったのです。非常に矛盾していることではあるんですが。死刑を宣告したことに対しても、敵対矛盾だからやむをえないと思いつつ、同志達がナイフやアイスピックでで刺すのを外から眺めていたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、「おや?」とか「シラー」と思ったり、憎しみがわいてこなかった、とふりかえっているが、やってることは冷酷そのものである。彼はどんな状況にあっても、常に森の命令を忠実に実行した。


■判断は森の専権事項になっていた

 森の追求に寺岡はありもしない露悪をした。これまでも、厳しい追求を受けると、ありもしない露悪をするメンバーがいたが、寺岡も例外ではなかった。


 森がナイフを刺したのは、寺岡になにがなんでも権力との関係を「自白」させようとしたものだが、そんなことをしてまで「自白」を引き出すことに意味があるとしたら、それはあらかじめ予定している「判決」を正当化するためとしか考えられない。


 森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻って考え直すのではなくて、より苛酷な手段をとるのは、これまでの公式どおりである。


 寺岡が権力との関係を「自白」すれば「反革命」と断罪されるだろう。しかし、寺岡はきっぱり否定した。決して自暴自棄になっていたわけではないのである。


 では「自白」しないとどうなるかというと、これまでの公式では、「総括する態度ではない」と批判され、やはり「反革命」と断罪されるのである。事実も公式どおりとなる。


 こんなヘンテコな論理がやすやすとまかり通るのは、指導部もメンバーも思考停止し、すべての判断を森にゆだねるようになっていたからである。すでに判断は森の専権事項になっていたのだ。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その3・「革命戦士として死ねなかったのが残念です」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

(青砥幹夫のイラスト・寺岡の処刑は残酷だった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 寺岡恒一の処刑

■「反革命といわざるをえない。死刑だ」(森恒夫)


 しばらくすると、森氏は、改まった大きな声で、「おまえの行為はこれまでのことと異なり、反革命といわざるをえない。これまでと違う根本的な総括を早急にやる必要があるが、おまえにそれを期待することはとうていできないので死刑だ」といった。
 皆は、「異議なし!」といった。私も皆と一緒に「異議なし!」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「声が小さい!どっちなんだ、ハッキリしろ!」と強い口調で、再度返事を促した。その声に威圧されて、全員が、「異議なし!」と大声で答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「革命戦士として死ねなかったのが残念です」(寺岡恒一)


 そのあと、森氏は、寺岡氏に静かな口調で、「おまえに死刑を宣告する。最後に言い残すことはないか」といった。寺岡氏は沈痛な、しかし落ち着いた声で、「革命戦士として死ねなかったのが残念です」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏はセーターとシャツをまくりあげて胸をはだけると、「お前のような奴はスターリンと同じだ。死刑だ」といって、アイスピックを心臓部に刺した。しかし、一度では絶命しなかった。すると、森氏は、全体を見まわした。おそらく、誰が自分に続くのか確かめようとしたのであろう。


 私は、どのみち殺されるのなら早く殺してしまったほうがいいと考え、また、このような誰もやりたくない任務を党のために率先してやるべきだと思っていたので、「よし、俺がやる」といって、そばにいた大槻さんとN氏に寺岡氏を支えるのを代わってもらい、森氏からアイスピックを受け取って寺岡氏の心臓部を刺した。血はまったく出なかった。私は2度、3度と刺したが、絶命しなかった。


 すると、青砥氏が私に変わってアイスピックで刺した。やはり絶命しなかった。私は、脊髄の付け根の延髄を刺せば即死すると聞いていたので、「脊髄の付け根を刺せばいいのではないか」というと、誰かが寺岡氏の首の後ろをアイスピックで刺した。それでも絶命しなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 首の後ろをアイスピックで刺したのは、杉崎ミサ子である。杉崎は寺岡の妻であった。

 彼女は、寺岡君を殺すことで早く楽にしてあげようと、進んでこの辛い行為を引き受けたのだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた」(植垣康博)


 「植垣、首を絞めろ」と坂口氏がいった。私は、寺岡氏の後ろから両手を彼の首にまわして締めようとしたが、締めきれなかった。吉野氏が「ロープで締めたほうがいい」といい、誰かがサラシを持ってきた。私たちは寺岡氏を早く絶命させようと必死だった。サラシを寺岡氏の首にまいて、吉野氏や山本氏、大槻さん、長谷さんたちが両方から引っ張り上げて首を締めた。寺岡氏の体は、数分の間、けいれんしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 この時、輪の中から出てきた森氏は、その頃、皆の輪のうしろでウロウロしていた山崎氏をジロリと見て、私に、「問題だ」といった。そのあと再び輪の中に入って行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 以前から森は、総括に対するメンバー態度を、注意深く観察していた。そして、その態度によって、次に総括にかける者を選び出していたのである。

 そのうち、けいれんは間遠になり、止まった。青砥氏が寺岡氏の手首を取って脈をみていたが、しばらくして、寺岡氏が死んだことを告げた。サラシがはずされると、寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 寺岡氏が絶命したのは18日の午前7時ごろで、もうあたりはすっかり明るくなっていた。森氏が、寺岡氏の死体を床下に移すように指示した。何人かが寺岡氏の死体を床下に運んでいった。寺岡氏の坐っていたシートの上には血が沢山たまっていた。私は皆と一緒にそれをふきとったりしていたが、誰も一言も発せず黙々とこれらのことを行った。誰も大変なことをしてしまったという感じで、いうべき言葉がないようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「我々はすごく高い地平に来たのだ」(森恒夫)

 朝食後、中央委員会が開かれたが、この時ももっぱら森氏が話した。森氏は、「寺岡との闘争は、テロリズムとの闘いだった。CCのなかからテロリズムを出したのは、共産主義化の闘いが進んだからだ。我々はすごく高い地平に来たのだ」と感激したような面持ちで語った。
 そのあと、「実際に、ナイフで刺すのは大変なことだ」といって、ナイフやアイスピックで刺した坂東氏、青砥氏、植垣氏を大いに評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 続いて森は、スターリン批判を展開し、寺岡をスターリン主義ときめつけて死刑の位置づけを行おうとした。スターリン批判とは、世界革命の観点がない、官僚的、粛清を行ったという批判であった。

 私は、スターリン主義に関連付けたところに疑問を感じた。その頃は、中ソ論争の影響を受け、私たちはプロレタリアート独裁を維持したという観点からスターリンを擁護していたので、寺岡君をスターリン主義と決め付けた最初の段階からずっと違和感を抱いていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 革命左派の永田、坂口、吉野は、スターリン主義批判に同意しなかった。かといって反対もしなかったので、森は同じ主張を繰り返すことになり、中央委員会は夕食後まで続いた。それまでメンバーは、寺岡が死刑になった理由がわからなかった。


■「森君の総括を理解できた者は1人もいなかった」(坂口弘)

 全体会議は夜9時ごろから始まった。
 森は、最初、永田にメモを渡して説明をさせたが、永田はうまく説明が出来なくて、しどろもどろになった。

 森君は次のように述べた。
「寺岡の問題は、単に従来からどういう傾向を持っていたとか、どういうことをしたとかいうことではない。革命戦争をやり抜く指導部として、この間の6名の死を生んだ苛烈な革命戦士の共産主義化を主導する立場に居ながら、自己の内在的な総括をしようとせずに、反革命という名での死んだ同志への清算、競争の中でのヘゲモニー構築というスターリン主義的な政治を持ち込んだことが、今後の党建設にとって致命的な問題を突き付けてこのような闘争をしなければならなかった。6名の死以後も共産主義化の闘い−−−党建設の闘いはより高次な地平で永続的に発展することを問われており、6名の死によって、何かしら闘争が終わったということではない」
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森は、「寺岡は分派主義だ」ということも強調した。指導部に意見を言う者、つまり、イエスマンでないと分派主義者ときめつけられてしまうようだ。

 この内容を理解できた者は1人も居なかったと思う。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、指導部の寺岡氏の死刑の総括になるほどと思ったが、総括要求が更に続いていくというのには、いささかげんなりする思いだった。その頃は、なにかというと行われる会議そのものが苦痛になり出した時だったので、この思いは大きかった。しかし、そのように思っても、共産主義化を必要な闘いとみなす考えには変わりはなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった」(青砥幹夫)

 メンバーは、理由がよくわからないまま寺岡を殴り、死刑判決に「異議なし!」といわされた。「いわされた」 というのは、総括に対する態度が断固としていないと、次の総括のまな板にのせられるを知っていたから、同意するしかなかったのだ。


 組織がここまで暴走してしまうと、もはや個人の力ではどうすることもできない。

 あの場には横のつながりが一切ないのです。いかに革命兵士として充分ではないかを自己批判要求され、それを乗り越えよということを言われた。みんな一人一人になってしまっていた。総括を要求されるときも一人だし、総括を要求するから集れと言われて集っても、一人一人がバラバラに言われるから集っているに過ぎない。

 何らかの共通の認識を持って追求するということはなかった。みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった。

(「情況2008年6月号」 『36年を経て連赤事件を思う』・青砥幹夫インタビュー)


 これは、独裁者の支配体制そのままである。

 逃れる手はただひとつ、独裁者がいなくなることであろう。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c94

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
47. 中川隆[-11431] koaQ7Jey 2019年3月15日 09:45:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[565]
一年半ぶりの進化 パグ太郎さんとの実験 @
GRFのある部屋2019年 03月 14日
https://tannoy.exblog.jp/30467384/


きっかけは、先月の横浜のMさんが、夜香さんと来られたときの感想から始まりました。コンサートホールのような音は出しているのですが、それだけではなく、ホールの高さや奥行きを再現してほしいと言われました。そのときは、静けさばかり追うのではなく、演奏会場の暗騒音や空調の音などを合わせて再現できたら、臨場感も増すのではないだろうかと思いました。

コンサートホールから出てきたときのホワイエの狭さ、人々の話し声、そこからホールに入ったときの空間の大きさ、広さ、天井に反射してくる音などの再現です。引き算ばかりではなく、雰囲気の足し算も加えてみようと思ったからです。


夏、クーラーが動いているとき、かすかな騒音が聞こえますが、音楽と関係ない音は、自然に除外して聞いていくのでしょう。最初は気になる騒音も、だんだん同化していき、わからなくなっていきます。どこかで実験をしてみようと思いました。


それと同時にMさんから言われたのが、上の手法とは全く違う違うアプローチですが、特にウィーン・フィルのムジークフェラインの会場では、音が天井から降ってきます。このような響きはほかの会場ではあまりありません。天井からの反射や壁から反射音ですね。それとは別にベルリンフィルハーモニーやサントリーホール、ミューザ川崎ような、ワインヤード式のコンサートホールでも、天井に反射板が設置されています。

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家の部屋は、CDやレコードに録音されている、微少の残響音を元のように再現して、あたかも会場にいるような音に包まれる装置ですが、それをマルチチャンネル方式ではなく、通常の2CHのステレオで再現しています。


部屋の中央付近に設置された、無指向性のDDDユニットを使用した中音以上の音と、300Hz以下の低音は、同相で前後に放射されるているので、全方向に音が放射されています。それは、あたかもステージ上のオーケストラの楽器が、全方向に拡散されて、立体的な音場を作るように、その音場を二次元ではなく奥行き方向も再現する、3次元のサウンドになっているのです。


コンサートホールでオーケストラや、楽器の音を聞いたことのある人は、聞き慣れた音ですから、音を聞くとステージ上の音を再構成できるわけです。耳は、とても精巧な立体音響を聞くことができるマイクです。同じく二つある目や耳は、到達する画像や音像の微妙な差信号を脳に送り込むと、人類が人間になる前から完成している、目と耳の差で、立体像を再構成する本能で判断しているのです。


その音楽を聴いているのは、聴いている人の「脳」です。その人の経験している音だけが聞こえてくるのです。同じ音を聴かれても、何を聴かれているかは、やはりその人の経験の中にある音なのです。昔はレコードを通じてしか音楽を聴けませんでした。私が幸運にもムジークフェラインの音に接したのは、1978年、まだ二十代の頃です。レコードとはまったく異なった、幽玄の響きを聞いた衝撃は忘れられません。


そして、何回も通ったコンセルトヘボウの音が、私のイメージの原点です。はじめて、コンセルトヘボウに行ったとき、、余りに聞き慣れたPHILIPSのレコードと同じ音がするのに驚きました。GRFやESL57で聴く音が、本物でもしたことが驚きでした。

ときどき錯覚するのですが、SPから出てくる音は、皆同じように聞こえているはずだと、、、。例え、目の前を神様が通っても、その人が神様だと知らなければ、見えないのです。混雑する大都市の大きな駅の構内では、何万人もの人とすれ違います。その中から、どうやって友人が見つけられて、沢山の知らない人の顔はまったく忘れ去るのでしょうか?・・・その中から、どうやって友人が見つけられて、沢山の知らない人の顔はまったく忘れ去るのでしょうか?


目というレンズは見ています。ただその像は、過去に見た自分の記憶と一致しないだけです。耳という、マイクロフォンも全ての音を拾っています。ただ、あなた自身の脳が、それを良い音だと感じないのです。記憶にない音だからです。演奏会場でも、ラジオでもレコードでも、一度でも、生の演奏の実体験や媒体、手段で、感動した経験が無ければ、心の琴線に触れないまま、共鳴しないまま、音は消えていきます。


幼少の時のラジオや蓄音機の出会い、初めての演奏会の驚き、パレードを誇らしげに行進する音楽隊、そして、本当に素晴らしい演奏家での、言葉では表せない大きな感動!それらの記憶が、その感動を再現したいという希求が、あなたの部屋の装置を良い音で鳴らす、原動力なのです。


その意味で、その人の音楽体験その物が、その人の装置から聞こえてくる音なのです。本棚を見れば、その人がどのような人だと分かるのと同じように、レコード棚を見ればその人がどのような人か分かるのです。


と、2011年の記事のコメントで書いたことがあります。その思いは今でも変わっていません。と言うことは、家で聴かれている音も、聴かれる方の経験や思いで、全く違うところを聴かれていると感じることもあるからです。

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今回のMさんの感想とご提案は、私の中でもストンと納得できるモノでした。それは先日、のびーさんが来られた次の日の事でした。仕事をしている時も、その思いが膨らみ、久しぶりにオーディオの実験を行う気合いが満ちてきました。しかし、その日は、仕事が忙しくなかなか時間が取れません。夜食事が終わると、そのままソファーで寝てしまいました。

気がついたのは11時過ぎです。少しはエネルギーが出てきたので、思い切って一年半も前に考えていたことを実験しました。その実験用に購入してあったTroubadour 40を車庫から運び、後方のGRFの上に置いてみました。これは、80+TW3を開発していたときから、ホール感を出すために実験しようと思って、取ってあったのです。

結果は、思った通りのホールの音が出てきました。高さも奥行きも出て、ステージの位置がはっきりします。何よりも、低域の音の焦点が合ってきました。見えていなかった暗闇の中から、巨大な熊が姿を現してきたような感覚です。深夜ですから音量も小さく、ピントの調整も無しで繋いだだけでしたが、戦慄が走りました。


一連のSP開発の切っ掛けになった、コントラバスの最低域が、ようやく見えてきたのです。一年半も無駄に時間を費やしてしまったと、同時にとても後悔が出てきました。70を過ぎた身には大きな時間です。また、必要な時間だったとも思いました。


11時50分に音が出たのに、12時半には驚きと感動で開発している大山さんと、DDDユニットのSPを使われているご近所のパグ太郎さんにメールを送っていました。


パグ太郎さん


忙中ですが、深夜になって時間を作り、いよいよ実験を始めました。DDDのユニットだからこそ出来る世界です。T-80+TW3から後方に置いた40に音のブリッジが出来ます。ステージがはっきりと出現して、ホールの奥行きが拡がりました。


調整はもちろん微妙ですが、新しい扉を開けたようです。残り時間が少ないというのにこの一年半、遊んでいた気もします(汗)ぜひ、お仕事帰りにでもお寄り下さい。


つづきます・・・
https://tannoy.exblog.jp/30467384/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c47

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
48. 中川隆[-11430] koaQ7Jey 2019年3月15日 09:47:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[566]
K&Kさんの GRF邸訪問記  不思議な音響空間
GRFのある部屋 2016年 08月 20日
https://tannoy.exblog.jp/25628732/


8月15日、GRFさんのお宅にうかがう機会を得ました。今回ご一緒したのは先日GRFさんと一緒にうかがったBOさん。BOさんはGRFさんへの訪問が今回で4回目だとのことですが、私は初めて。

なかなかうかがう機会に恵まれなかったので、わくわくしながらの訪問です。最寄駅の近くのお蕎麦屋さんで、お昼をいただいた後でGRF邸へ。実はお蕎麦屋さんでおいしいざるそばをいただく前に卵焼きや鴨肉などを肴に冷の吟醸酒まで…BOさんと「これはヤバイ」と言いつつ、あまりのおいしさについすすめられるままに味わってしまいました。アルコールが入ってしまって、この後ちゃんとした音の判断ができるのだろうか…ちょっと心配です。

GRFさんのお宅は、すでにいろんなかたが紹介されていると思うのですが、私の備忘録も兼ねてお部屋の概要を書き留めておくことにします。広さは24畳、天井高は3m位でしょうか。スゴイのは、その天井のほぼ全面が開口部になっていて建物の躯体の上端まで吸音材で埋められていること。

床は構造上の床の上にコンクリートを施し、計50o程の板材を積層してつくられているとか…表面はカリンの集成材(無垢材)で足を載せた感覚は強固そのもの。

壁には吸音処理はなく、天井のみで吸音しているようです。壁はMDFに塗装を施したもので、その壁面を支える桟は定間隔ではなく1/f 揺らぎを模したランダムの間隔にしているとのこと。その指示には施工した大工さんが困惑したとのことですが…(笑) 壁は音響的には床には接しないような造りになっているとのこと。ムチャクチャ凝った造りです。

吸音部の面積比から考えると吸音率は20%強くらいでしょうか?全体的にはデッドと言えるのかもしれませんが、正面の窓にかかったひとつのカーテン以外には高音域のみ吸音するような材料がないので、低音から高音までバランスよく吸音されているようで、響きにはまったく違和感がありません。会話の聴こえ方から判断すると響きの質はやや硬質のような気がします。


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オーディオ機器は…送り出しはEMMのトランスポートとDAC。CDはDSD変換した後、アナログ化されるとのこと。プリアンプは真空管式のモノラル構成のものをひとつの筐体に収めたもの。電源部は別筐体になっていて、やはり左右別々にDC供給している。パワーアンプはモノラル構成の3極管のプッシュプル。プッシュプルがひとつの管の中に収められており、真空管は全くわかってない私はシングルアンプと勘違いしてしまったのですが…。出力トランスはタムラの特注品でこれを作ってもらうのにロットで発注しなければならなかったとのこと。真空管オンチの私にはアンプについてこれ以上コメントすることは不可能です。

今日の主役はやっぱりスピーカー。

Omni-Directional(無指向性)のGerman Physicsのトロバトーレ80とBi-Directional(双指向性)のPSD社の特注品と思われる20pウーファを背中合わせに配置したシステムの組み合わせ。300Hz、12dB/octのネットワークでクロスされている。このトロバトーレはチタンの0.025o厚のメンブレムを持つもの。ウーファシステムはキャビネットに独特の面取りが施され美しいバーズアイメープルの突板で仕上げられている。

最初に聴かせていただいたのはクレーメルとアルゲリッチのプロコフィエフのヴァイオリンソナタ。演奏会場にいる感じ。ピアノとヴァイオリンの位置関係が立体的に感じられる。柔らかい耳あたりの良い音なのにピアノはスタインウェイらしい華やかさが感じられて心地よい。

ダニエル・ハーディング、ウィーンフィルのマーラー10番は開放的な響き。ビックリしたのはグランカッサ。グランカッサの奥行き感、定位の安定感、質感、まさにコンサートホールで聴いているような…。こんな再生音は今まで聞いたことがない。

GRFさんに促されて立ち上がってスピーカーの周囲を回りながら聴いてみると…スピーカーの裏側からはサントリーホールのP席で聴くように下の方にオーケストラが展開する。横に回るとミューザ川崎の知る人ぞ知る舞台横の特等席みたいな音が…


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昔のスターウォーズ第一作目でR2D2がレイア姫の3Dホログラフィック映像を空間に投影して姫のメッセージを伝える場面があったけれど、あれの音響版みたい。部屋の中にオーケストラの音響が立体的に構築されていて、その周りを移動して聴くとコンサートホール各席での音が聴けてしまう。ホログラフィックな映像のレイヤ姫と違うのはそのスケール感で、小さなレイヤ姫と違ってこちらは目の前に壮大なオーケストラが出現しているわけですから…。何とも不思議な音響空間。

GRFさんによるといくら無指向性のスピーカーを使ってもスピーカーの位置調整などがきちんとされないとこのホログラフィック感は得られないのだそうです。先ほど触れたグランカッサは部屋の音響、特に低域の吸音が適切に設定されないとあのような気持ちいい実在感は得られないのではないかと思います。通常のスピーカーよりも部屋の響きの影響を大きく受けるはずなので、この部屋の響きのホログラフィック感への貢献度はかなり高いのではないでしょうか?

もうこの後は、ホログラフィックな独特の心地よい音響空間に身をゆだねて、GRFさんが繰り出す名演盤をひたすら聴きまくるモードになりました。

ピリスのモーツァルト・ソナタ、白井光子さんのブラームス歌曲、ギレリスのベートーベン・ソナタ…やはり、臨場感が素晴らしい。

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続いてジャズ・ボーカル。パトリシア・バーバーのジャズ・ボーカルもタイトルのナイトクラブで聴く感じ。トニー・ベネットのWith my friendからダイアナ・クラールやスティービー・ワンダーとの豪華共演、マディー・ウォーターズのフォーク・シンガー。柔らかい心地よいボーカルでその場で聴いている感じ。

さらにヴァイオリンということでイザベラ・ファウストのベートーベン・ソナタ。メルニコフのピアノはベーゼンドルファー的でやや控えめ。ヴァイオリンを引き立てるような演奏。比較の意味で同じ曲をクレーメルとアルゲリッチで聴くとさすがにアルゲリッチは主張しまくって丁々発止の演奏で面白い。もうこの辺ですっかり音楽を聴くモードになっています。

ひとしきり聴いた後で、ワインタイム。

イタリアの白ワインをいただきました。シャルドネの高級ワインとのこと。ワインの味を活字にするのは私には無理ですが、Un po’ secco (中辛口)でしょうか?さすがにウチで食事に合わせて飲んでいるテーブル・ワインとは違って独特の香気が感じられます。これは食事とは別に味わうべきものなのかもしれません。

ここでいろんなお話が聞けて面白かったのですが、特にCDのドイツ盤と日本盤の違い、全集の盤はオリジナルとくらべるとガッカリなどはなぜそうなるのかというのは非常に興味深かったです。私にはまだよく理解はできないのですが…(笑)

アルコールが入った後はもうわけがわからなくなって、この後、夕食もはさんで音楽会は果てしなく続きました。(笑)

カラヤンのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートからキャスリン・バトル独唱の春の歌、トスカニーニ、フィルハーモニアのブラームス。エバ・キャシディのライブでのAutumn leaves。フランク永井やちあきなおみまで。

GRFさんがベンチマークとして使われているハイティンク・コンセルトヘボウのショスタコーヴィチ第15番を聴かせていただいた時に、GRFさんが先日ウチにお越しになった時に言われていた意味がやっと理解できたような気がしました。GRFさんと拙宅では違ったアプローチだけど目指していることは同じと言われていたのです。確かにここで聴かせていただいた音、雰囲気感とウチのマルチch再生には共通のものが感じられたのです。

あ〜、そういうことだったのかと。

でも、マルチchをやっている身としては2本のスピーカーでこんな音を出されてしまうと…う〜ん、ガッカリというかなんというか…(笑)マルチchでやっと得られる雰囲気感以上のものを普通のCDで出されているわけで…。


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私がチェック用に使っているキム・チョン・ファ、ツィマーマンのリヒャルトシュトラウスのヴァイオリンとピアノのためのソナタも聴いたのですが、やはり柔らかい音にもかかわらず細部までよく聞き取れる解像度に感心させられます。ヴァイオリンはきつくなることなく心地よいし、ピアノはスタインウェイらしい輝きと華やかさがある。無理やりアラを探すと生の音はもう少しきつい音だったかもしれないということくらい。これは生の音を知る由もないので、真偽のほどは何とも言えないし、心地よすぎると文句をつけるのも変なので意味はないのですが…。(^^;)

気がつくと既に時計は9時を回っていて…ピリスのショパン、ノクターンを聴いた後、さらに遺作まで聴きたいという思いをやっとのことで断ち切って、GRF邸を後にしました。終バスに何とか間に合いましたので後ろ髪惹かれる思いを断ち切ってあの時においとまさせていただいてよかったです。

結局お聴きしたいと思っていたタンノイGRFや和室のユニコーンや「悪魔のソフト」すら聴くことができませんでした。再びGRF邸を訪れるための理由ができたと思うことにしましょう。(笑)

こんな音は拙宅ではとてもまねできませんから、次回はもう分析的に聴くことはやめてせっかくの機会を好きな音楽をじっくりと楽しむことに使いたいと思っています。どうか近いうちにまたその機会が得られますように…

GRFさん、すっかりお世話になりました。ありがとうございました。BOさん、ご一緒できて楽しかったです。

K&K

お盆の最初にお伺いしたK&KさんとBOさんが15日の日にいらっしゃいました。BOさんは既に何回も来られていますが、最終形のSPは、まだお聴きになっておられません。K&Kさんは、初めての来宅です。4チャンネルのマルチをお聞きの方が、拙宅のホログラフをどの様にお感じになるか楽しみでした。コンサートホールで聞くようにステージが出現します。マルチと違ってどの位置で聞いても、そのステージは変わりません。ホールで聞くときのように場所に依って音は変わりますが、どこで座っても良い音で聞けます。

はじめて、このホログラフィックの音を聞かれると、驚かれると思いますが、コンサートホール聞かれたことが無い方は、三次元の音とは感じないようです。スタジオでの奥行き感だけになります。それでも、ヴォーカルがバックから浮き上がり、鮮やかな音が聞こえてきます。いずれにしても、音場情報が入っている録音は、その場所が、部屋の中に出現するわけですから、こんなに楽しいことはありません。マルチをされているK&Kさんに確認頂き嬉しかったです。また、ぜひお越し下さい。次回は、DecolaとGRFの番ですね。そうそう、和室のユニコーンも聞いてください。
https://tannoy.exblog.jp/25628732/
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[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
49. 中川隆[-11429] koaQ7Jey 2019年3月15日 09:49:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[567]
のびーさんのご感想
GRFのある部屋 2019年 03月 05日
https://tannoy.exblog.jp/30448311/


先週末にロンドンに戻りました。年々、疲れのとれ方が悪くなり、未だにボーっとしています。チコちゃんに叱られそうです。眠い目をこすって、今晩のCadogan Hall のGergiev & Mariinsky Orchestraに備えております。


今回も良い音と興味深いお話で色々と学ぶ機会を頂戴しました。ありがとうございました。簡単ですが以下に感想を記します。曲名、演奏者等、メモを取っていないので間違いがあるかもしれません。


今回のGRF邸訪問のポイントは音場の深さです。EMMを自室で聴けるようになり、Mola MolaとEMMの双方の魅力をより理解できるようになったと少々自惚れております。


二つのDACは音色も音場感も異なります。EMMの音場中心はMola Molaに比べると奥にあります。どちらのDACも前後方向にも十分な深さを提示しますが音源により、より好ましいDACが異なります。ただ全体的にMolaMolaの表現力が少し上回ったという印象でした。特に、これは音場というより音色の違いですが、Mola Molaがクレンペラーの古い録音を古臭くなく、といって違和感があるような新しい音でもなく再生したのには驚きました。


まず、最近、皆さんの影響でレファレンスとしているオルフェウスのパッフェルベル・カノンを聴かせて頂きました。


聴き所は導入部で、3パートに分かれたバイオリンの左→中→右の展開が繰り返されます。音場が左右に十分広くないと真ん中の方で固まり、ハーモニーの広がりが感じられず楽しくありません。


拙宅でも調整の結果、3パートが程よく分離しハーモニーの広がりを把握出来ていましたが、GRFさん曰く「バイオリンの3パートは半円形に編成されており、中のパートが奥まって定位する。これで音場の広さと深さが楽しめる」とのこと。確かに真ん中のバイオリン2丁が若干、ただし明らかに奥に定位します。なるほど、これはまた帰って調整に励まねば...


ただこの演奏でより印象に残ったのはチェロ、コントラバスによる通奏低音部の充実です。日頃から低音の充実を心がけており「ウチも結構良いのでは」と自己満足していましたがまだまだでした。低音の「量」が違います。当然ながら低音を単純にブーストしてもなかなか「量」は得られませんからこれでまたセッティングに悩むことになりそうです。


続いて、昨年から何度も聴かせて頂き、拙宅でもレギュラー化しているプレトニョフとアルゲリッチのプロコフィエフ・シンデレラのSACD。


この演奏は2台のピアノの響板部分を交差させて配置して録音されており、低音域では左右どちらのピアノが弾いているのか判別しにくいのですが、高音域では分かりやすくなります。拙宅でも、この辺りは良く分かるのですが、GRF邸では左右のピアニストの間隔がより原寸大に近く表現されます。


原寸大とは、目の前に定位しているピアニストの間隔が「実測で3メートル以上ある」というのではなく、「3メートル以上あるものを見ている(聴いている)」ということです。コンサートホールでは、1階席でも2階席でも見方は異なりますが「原寸大」が見えます。機器により表現される音像が十分に大きいか?これもウチでは、「まだ小さい」ことが判明しました。


次は、武満・ノヴェンバー・ステップスの3録音を楽しみました。


これは録音によりオケの配置が大きく異なりますから、配置による表現の違いを聴きます。ただ、前後、左右に十分な音場が提示されないと、指揮者や作曲家の意図を正確に理解できず楽しめません。


若杉=東京都交響楽団の演奏が、前後の深さを強調しながらも左右にも十分に広い小宇宙を表現したことに驚きました。詳細は省きますが、個人的には、ハイティンク=コンセルトヘボウ、若杉=東京都交響楽団、小沢=サイトウ・キネンの順番で好みでした。


最後に、トスカニーニの英国復帰公演のブラームス1番第1楽章の皮を打ち破りそうなティンパニーを堪能しました。


GRFさん、今回もありがとうございました。


のびー


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のびーさん


先日はお忙しい中、拙宅に定点観測で寄っていただきありがとうございました。あの後、MFさんの最新型ファイル送り出しシステムを聴かせていただき、のびーさんの進まれている方向の音を認識致しました。何事も、よりシンプルが良いようです。


実は拙宅の音も、のびーさんが来られた次の夜、DDDで新しい実験をしました。結果、新しいドアを開けたぐらい進歩しました。まだまだ検証中ですが、次回来ていただいた時は、楽しんでいただけることと思います。


そして、のびーさんご推薦のMFさんの究極にシンプル化した送り出しシステムの音も、確かめました。こちらも日進月歩ですが、なんとか遅れないようにこちらも進歩しなければと思いました。


いずれも、のびーさんが切っ掛けです。次回は、今日のゲルギエフ、来週のハイティンク90歳の記念演奏会のお話しを楽しみにしています。

by TANNOY-GRF| 2019-03-05 23:13| 来たり | Comments(3)


Commentedby のびー at 2019-03-06 17:24 x

昨晩のGergiev & Mariinsky Orchestraは非常にロシア的な音を堪能しました。
一緒に行った家内と二人並んだ席が取れなかったので少し離れて別々に座ることになりました。家内は横に座った初老の紳士と談笑していましたが、一緒に話そうと手招きします。会話に参加すると、彼は指揮者でMariinsky Orchestraを定期的に指揮しているというではありませんか!彼はOleg Caetaniといい、ロシア人とイタリア人のハーフで、GergievとSt Petersburg Conservatoryで同じ先生(Ilya Musin)に師事した仲とのこと。日本にも何度も行き、読売響や都響を指揮したことがあるらしい。

彼と席をスワップして前半のNutcrackerを聴きます。
ハーモニーが分厚くこってりしたNutcrackerです。高解像度とはある意味対極のサウンドですがオーディオ的快感があります。

インターバルに、彼の感想を聴きました
彼:「オケの音がロシア的で良い」
私:「ロシア的な音とはどんな音?」
彼:「それはDarkな音だ」
私:「Darkな音はどうやって出す?」
彼:「リハーサルで徹底するが、オケが元々持っている音がある。イタリアや日本のオケではこうは行かない」「ホールも大事だ。ここはロシア的な音を出しやすい。私もMr Toyota(永田音響設計の豊田泰久氏)ほどではないが、ホール音響にうるさいんだ(笑)。日本はホールも聴衆も素晴らしいよ」

まるで演歌のように、ロシアこぶしの利いたチャイコフスキー第6番を堪能しました。

Commentedby MFat 2019-03-07 22:26 x

GRFさん、こんばんは。
この日は大変な遅刻をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
今回は再生ソフトの変更でしたが、効果を確認できて良かったです。そして検証も行いまた一つ大きな経験となりました。
遅刻が原因で終了時間も遅くなり、夕食までご馳走になり本当にありがとうございました。
また素晴らしい再生を聴かせて下さい。

Commentedby TANNOY-GRF at 2019-03-08 02:08

のびーさん 

そのロシア的というニュアンスですが、ゲルギエフの場合は、やはりDarkないわば土臭い音だと思います。ところが、師匠であるムラヴィンスキーは、Darkではなく天地の大きさが違っていたと感じています。そこがゲルギエフとムラヴィンスキーとの違いなのでしょう。
https://tannoy.exblog.jp/30448311/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c49

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
50. 中川隆[-11428] koaQ7Jey 2019年3月15日 09:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[568]
コントラバスの低い音
GRFのある部屋 2013年 12月 22日
https://tannoy.exblog.jp/21138926/

オーケストラを聴きに行くと、演奏前にコントラバスの奏者がよく練習をしています。音を合わせているのでしょうか、それとも、大きく指を動かさなければならないので、準備運動をしているのでしょうか?先月のウィーンフィルも、ベルリンフィルも、演奏前に練習していました。ベートーヴェンだから、五弦のコントラバスです。そんなときに聞こえるのが、最低音の五弦の低い音です。30Hzぐらいから60Hzぐらいの音が出ると、聴き手に恍惚感が出るそうです。オーディオでもこの辺の低い音が軽く出ると出ないでは、相当、体感上違って聞こえます。

最初の日はウィーンフィルでした。コントラバスの真上、3mぐらいでその低音を感じていたら、「そうか!家ではこの低い音が出ていないのだ」と、気がつきました。そこで、メインアンプ、電源ケーブル、フローティングボードも換えて調整して見ました。相当いい感じで、低い音が出てきました。今日は、ベルリンフィルのデジタルコンサートホールを聴いてみました。団員がステージに現れ、コンサートマスターが、登場して音を合わせる前は、めいめい勝手な音を出して指の練習をしています。その時に、コントラバスの低い音が聞こえてくるのです。最低音のパートです。ほとんどのスピーカーでは、追従できない音です。Hartleyの62センチのウーハーや、コンシーケンスはさすがに出て来ますが、その他のスピーカーでは、かなり出にくい音です。その音が、アンプを交換した後、ユニコーンから軽々と出てくるから、このスピーカーの周波数特性は、どうなっているのだと、聴きながらも、不思議に思っています。

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German Physiksの公式サイトでは、ユニコーンで、55 - 21,500Hzと書かれております。実際、周波数を低い方から再生すると、40過ぎたあたりから聞こえ始め、55からは、しっかりと聞こえます。コントラバスの基音は聞こえないけど、倍音成分が聞こえるので、それらしく鳴るのでしょう。ちなみに、チェロとコントラバスは、楽譜は一緒ですが、実際は、一オクターブ違いますので、チェロとコントラバスだけで、ハーモニーが構成され、深い音が聞こえてきます。

低音が出ている、出ていないの違いは、高域の倍音成分が聞こえるか、聞こえないかに掛かってきます。いくた低域だけが、振れていても、倍音が出ていないと低音に聞こえないのです。そして、その倍音と位相が合っているか、いないかでも音の姿が見えるか見えないかの違いが出て来ます。歳を取ると当然、上の方は聞こえなくなってきます。ちょっと前までは、17,000ぐらいまでは聞こえていたのですが、最近は、よくて12,000でしょう。したの方は、年齢の影響をあまり受けず、聞こえるそうですが、倍音が上手く聞こえないと低音の動きが甘くなります。神様のご降臨の回数も歳と共に減ってくるのは、神様の所為ではありません。ストレスも耳に相当影響を与えます。だからといって、あまり刺激がないのもスパイスのきかない料理見たく美味しくありません。この辺のあんばいが塩梅の仕方ですね。

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その低音効果が顕著に出るのが、ベートーヴェンの曲ですね。そして、先月聴いた、リヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーは最大限にオーケストラの音域を使用しています。第九の曲は、コントラバスの最低域が出なければ全く面白くありません。第3番も第5番も、最低域の音が出てくると別の音楽に聞こえてきます。


そして楽しいのはピアノの再生です。最近は、ピアノの演奏の聴き直しで追われています。ピアノの場合、すべての弦が共鳴してなっています。ペダルをふんで音を開放すると、オクターブ下の音や上の音が共鳴して響きを作っているのです。そういう音が出てくると、楽しくなってきます。まさに音楽ですね。

by TANNOY-GRF| 2013-12-22 22:34| オーディオ雑感 | Comments(5)

Commentedby TANNOY-GRF at 2013-12-23 11:12

低音と言えば、最近困った問題が起こっています。羽田の滑走路の延長に伴い、航路の変更がなされたようで、北九州や鳥取方面に向かう飛行機が、荒川沿いに北進して、川口あたりで西に向きを換え、豊島、いたばしから練馬上空を飛ぶようになりました。北風が吹くこの頃は、その爆音が響いてきます。以前は、世田谷上空だったのですが、成田からの便も加わりだいぶ頻繁に通るようになりました。

http://www.flightradar24.com/35.69,139.69/10

を見ると、便名や高度、速度等もわかります。関東から日本全体を見てみると、日本上空を外国の便が頻繁に通り過ぎていくのもわかります。上海の便の多い事には驚かされます。

Commentedby 椀方 at 2013-12-23 12:05 x

低音が良く聞こえるか聞こえないかについてですが、低音感応性の難聴の症状が随分良くなって耳の詰まり感が改善されたので、SPの再生音が改善されたかのように感じます。
昨夜は、NHKのEテレで放映されていたN響定演で、ノリントンのベートーベン8番を聴きましたが、ステージ真後ろに6台並んだコントラバスの響きが、専用の反響版の影響もあるでしょうが、随分豊かに聞こえました。


Commentedby TANNOY-GRF at 2013-12-23 16:26

椀方さん 少しづつ低音難聴が改善されてきたとのこと、良かったです。確かのコントラバスは、ウィーンフィルのように後ろに並んだ方が豊かに聞こえますね。椀方さんの装置は、低音の再現性が凄いですから、尚更でしょう。

Commentedby たぬき at 2014-03-20 22:39 x

ベース(コントラバス、エレキベース共に)の4弦解放のE音で大体40〜42ヘルツ。
3弦解放のA音で55〜57ヘルツ。3弦のC音で60ヘルツ辺り。
と言う事はその一オクターブ下のベートーベンの運命交響曲の最低音、コントラC(五弦ないしはCマシーンで延長した4弦)は30ヘルツ辺り。

多くのオーディオスピーカーのウーハーのF0は70〜かなり良くても精々40ヘルツ位。
ベースの3弦4弦、ましてや五弦等の低音域は基音がほとんどが再生不完全。多くは2倍音以上の倍音成分やら諸々の情報から脳内補正 して低音を感じている?

因みに、低音域は周波数特性のイジワルから発音体(楽器やアンプ、オーディオスピーカー)の付近が一番音量が低く、数メートル〜数十メートル離れた場所(周波数により異なる)で最大音量(1.5〜数倍?)になります。
又、コントラバスのエンドピンを介して舞台床を楽器の第二の共鳴板とする事で本体音量比で5割増以上の音量になります。(個々の音のクリアさや音程感は、、、)


Commentedby GRFat 2014-03-22 12:23 x

>コントラバスのエンドピンを介して舞台床を楽器の第二の共鳴板とする事で本体音量比で5割増以上の音量になります。

この技術は、SPの再生でも使えますね。
https://tannoy.exblog.jp/21138926/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c50

[リバイバル3] 今 大人気の WE101D _ 出力0.6Wのシングル・アンプで鳴らせるスピーカーは? 中川隆
8. 中川隆[-11427] koaQ7Jey 2019年3月15日 09:53:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[569]
昨日はサブシステムの101Dppパワーアンプのサウンドを楽しんでいました
- Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月15日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/0002ac6bc0f5b992eefa84339e4ea1df

昨日の午前中は自宅システムでブラームスの交響曲第2番をワルター指揮のCDで楽しんでいました。木曜日は奥さんがダンスに行くのでAM10時から12時までは自宅のシステムで一寸大きめのサウンドが出せます。SP間の間の音も埋まり、音が横方向に広がり、定位もしっかり安定していて安心して音楽が楽しめます。

ただ、プリアンプはC3に決定した訳では有りません。管球プリ1号機は自宅専用に作成していますので、接続関係が容易(フォノ・RCA端子をフルテックの最高級端子にしている)である。音の厚み、SN比は管球プリの方が上の様に感じる。

午後から音楽部屋に移り、前日セットしたWE101Dppパワーアンプの1W/chのアンプで音楽を楽しみます。SPのサイズから当然低域の再生が負けています。低域が伸びていないと「音の豊かさ」が物足りませんが、「音の濃さ」ではこちらの方が勝っていると思います。

20pフルレンジクラスではボーカルが良いですね。オーケストラになるとスケール感がどうしても物足りなくなる。キャロル・キングのタペストリーのアルバムをコタツに横になって聴いていました。

隣のC200+P300の組み合わせとLE8Tシステムではノラ・ジョーンズの1stアルバムを聴いて過ごしました。

これが終わると、メインのオリンパスシステムを聴く番です。毎日4つのシステムを順番に鳴らして聴いています。さすがにメインのオリンパスを聴くとサブシステムは聴けません。ただ単純なシステムなだけ操作や取り扱いが易しい処が良いです。

時々、「そろそろメインの2セットだけにしたら・・・」と考えが出て来ます。そろそろ遊んでいる機器やサブシステムを除く事を真剣に考えないと、「お守り」の時間ばかり増えそうで肝心の音楽が楽しめない様な気がします。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/0002ac6bc0f5b992eefa84339e4ea1df
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/445.html#c8

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
95. 中川隆[-11426] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:11:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570]

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html


能力が低い人は、自分の能力が低いことに気づく能力も低い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/940.html


▲△▽▼

これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c95

[環境・自然・天文板6] 意識すればそこに量子が偏在する・・・ お天道様はお見通し
105. 中川隆[-11425] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:35:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[571]

これも読んでね:

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html

能力が低い人は、自分の能力が低いことに気づく能力も低い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/940.html

阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

▲△▽▼


これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/533.html#c105

[環境・自然・天文板6] 意識すればそこに量子が偏在する・・・ お天道様はお見通し
106. 中川隆[-11424] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:45:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[572]

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

お天道様はお見通し氏の話もその手のものなんだ。

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html


http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/533.html#c106

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
96. 中川隆[-11429] koaQ7Jey 2019年3月15日 10:58:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[567]

標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
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<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
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重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
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映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
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連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

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<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
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銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
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【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
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連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78

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しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c96

[近代史3] 人間社会は常に「弱者」を作り出す 中川隆
19. 中川隆[-11428] koaQ7Jey 2019年3月15日 11:24:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[568]

「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1

 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
http://zilx2g.net/index.php?%A1%D6%CF%A2%B9%E7%C0%D6%B7%B3%A1%D7%A4%C8%A4%A4%A4%A6%B0%C7


74. 中川隆[-11464] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:05:12: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[531] 報告
▲△▽▼


2011-02-27 連合赤軍って何?

実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。


赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。


革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。


赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
http://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/237.html#c19

[政治・選挙・NHK258] 今日は作家小林多喜二『一九二八年三月十五日』に弾圧の様子が生々しく描かれた3・15日本共産党弾圧事件から91年。…いまや gataro
2. 中川隆[-11427] koaQ7Jey 2019年3月15日 12:18:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[569]
1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html


http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/499.html#c2

[政治・選挙・NHK258] 真実のため 記者結集 官邸前 圧力に抗議/望月氏「他紙にも、看過できぬ」(しんぶん赤旗) gataro
2. 中川隆[-11426] koaQ7Jey 2019年3月15日 12:19:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570]
唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/498.html#c2

[政治・選挙・NHK258] 今日は作家小林多喜二『一九二八年三月十五日』に弾圧の様子が生々しく描かれた3・15日本共産党弾圧事件から91年。…いまや gataro
3. 中川隆[-11431] koaQ7Jey 2019年3月15日 12:27:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[565]

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

日本共産党の話もその手のものなんだ。

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/499.html#c3

[政治・選挙・NHK258] 真実のため 記者結集 官邸前 圧力に抗議/望月氏「他紙にも、看過できぬ」(しんぶん赤旗) gataro
3. 中川隆[-11430] koaQ7Jey 2019年3月15日 12:28:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[566]

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

日本共産党の話もその手のものなんだ。

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/498.html#c3

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
59. 2019年3月15日 15:38:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[561]
親子間の虐めや家庭内暴力の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/290.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c59
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
97. 中川隆[-11435] koaQ7Jey 2019年3月15日 20:27:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[562]

元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚、2月5日死亡(弐)。 2011/02/07
https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html



日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww (引用)

(以下引用)

349 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:48:43 ID:9JQLFjMY0
>>336
永田洋子も連合赤軍もアカじゃないんだけど?
つか、新左翼も社民党や民主党みたいな売国反日団体のことをアカと言ったら愛国政党であり日本の民主主義と独立を守る日本共産党に失礼だ。

377 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:52:25 ID:wNZKLzaa0
>>349
日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww

392 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:54:36 ID:vD9Oy25J0
極左ってマジで怖いよな。
平気で仲間ぶっ殺すし、銃乱射して住民虐殺するし。
火炎瓶千葉が保身のために、死刑囚をぶっ殺したのも頷けるわ。

434 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:59:31 ID:9JQLFjMY0
>>377
日本共産党と連合赤軍みたいなトロツキスト団体は全くの別物だよ。共産党を除名されたカスがソ連や中国の支持の元に社会党や在日と連合したのがそもそもの新左翼なんだから、日本共産党とは敵対関係だよ。

実際に血で血を洗う抗争を続けてきたし、新左翼を擁護する社会党(社民党)やプロ市民と違って共産党は一貫して新左翼による暴力行為には反対してきた。

福島や辻本や菅や仙谷みたいなテロリストが社民党や民主党に多い理由も、上記の通り。

466 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:03:13 ID:wNZKLzaa0
>>434
朝鮮人そそのかして暴動やテロを起こしてきた代々木(日本共産党)が言える台詞ではありません。

477 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 10:04:55 ID:9JQLFjMY0
>>466
朝鮮人とは縁を切ったし、ソ連や中国とも関係を断ち切ったから大丈夫。そのお陰でサヨク全盛時代にも社会党に負けっぱなしだったけど、日本の名誉と独立は守れたぞ。

495 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:06:49 ID:wNZKLzaa0
「不屈の共産主義・よど号30周年記念の集い」(平成12年開催 公式サイト消滅)
民主党沖縄県連代表喜納昌吉議員が赤軍派よど号ハイジャック30周年記念式典の呼びかけ人

http://members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (公式サイト消滅)
http://megalodon.jp/2010-1020-0431-29/members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (魚拓)

505 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:07:53 ID:yrDY2JJs0

この当時の革命戦士(笑)の人の殺し方

1、お前の革命理論は間違ってる!と言いがかりをつける。
2、何処が間違ってるかの説明はしない。
3、被害者が、なぜですか?といったら、こう答えればOK

なぜ?だあ?お前、今、我々の崇高な革命理論に疑問を持ちやがったな!!
粛清してやる、有りがたく思いやがれ!!

4、あえて、理屈を言わないのがポイント!被害者の方が頭良かった場合
  論破されるから!

と、言うワケで革命戦士(笑)に正しい革命理論なんてありません!!ヘタに理論を出して、論破されると、自分が粛清されちゃうからです!

その、証拠に、殺された人達は革命理論が元で殺されたのではなく、キスしてたとか、ジュース飲んでたとか、生意気だからであって、

別に革命に付いて話し合いの末、意見が分裂して殺害されたワケじゃありません!!!!

530 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:10:55 ID:/6dsAl6r0
>505

結局宮本の真似だよね。

543 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:12:23 ID:Xe9bLBzkO
>>392

結局、自己正当化の為に敵見つけて悪魔化レッテル貼りのイチャモンつけて「アイツより俺の方が良い(マシ)だろ?な?」というやり方でしか勢力拡大出来ない根本的・絶対的に見ると「無能」な連中なのよ(´・ω・`)

だから、外に敵が居るうちはそれはもう身内に対しては親分気取りで虚勢張って、ジェントル(笑)な振る舞いでイキイキと輝いているように「見せかける」のが得意だが、

「外の敵」(笑)と何らかの理由(敵失・実力差がありすぎてとても戦えない等)で戦えなくなると、今度は身内の中から「敵」を見つけ出し始めるわけ。

(勿論「アイツより俺の方がマシだろ?」の自己正当化の為w)これがブサヨの十八番「内ゲバ」であり「粛清」。

粛清は大して能力無い癖に自己正当化と権力拡大・維持したいような権力志向だけが強い尊大なゴミみたいな奴にとっては実に便利な魔法なのよねw

日本古来の哲学
(他人がどう言おうが、或いは他人と比べて上か下か等という相対評価がどうであっても自分の心が納得しなければその道を究める事を止めない職人的気質)とは全く相容れない

考え方>相対評価さえ高ければ良い、自分の相対評価上げるためにはどんな方法使っても他人を貶めて自分をよく見せて権力さえ掴めばいい、という考え方。

602 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:18:20 ID:IXYlzecWO
永田と親交のある大臣いそうだな(笑)
民主党なら可能性ゼロじゃないw
枝野の革マル献金もあるしw

630 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:20:57 ID:QgGD42bU0
>>392
極左じゃないよ、サヨク一般の本質。 権力を手にする前は、国民がとか、市民がとか人権とか、福祉とか優しいことを並べ立てるが、権力を手にすると(それがセクト内のものであっても)その権力をすぐに絶対化する。独裁、粛正、言論統制は思うがまま。

今の民主党がそう。

民主党の自衛隊に対する態度などまさにそう。

サヨクというのは本質的に冷酷、残酷、そういうことを人類は20世紀の間に数億人の犠牲の代償として学んで、もう既に常識になってる。なのに、この日本だけはぬくぬくと現実から隔離され、そういうサヨクが生き残ってる極めて稀な国。小沢とか、管とか、北澤とかの言動みてみ、あいつら政権とったら何してもいいって本気で思ってるから。

635 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:21:09 ID:kq47F2QW0
山岳ベース事件か。

田原総一郎とかの仲間。

642 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:21:27 ID:gfXPqzdv0
男なら オウム真理教 麻原彰晃
女なら 連合赤軍    永田洋子

日本犯罪史上に燦然と輝く二大テロ集団の頭目にして
大量リンチ殺戮者 手段は『ポアしろ!』 『総括しろ!』 → 『友愛しろ!』(最新進化型)

その永田洋子(享年65歳)のおトモダチであった菅直人、岡崎トミ子、仙谷ら
旧学生運動家は、年をとっても 相変わらず党内で内ゲバに明け暮れている。
まるで進歩ナシw
特に菅首相(当時東工大)は、当時の公安だった佐々淳行から、
デモの先頭でアジ演説をやってたと思ったらいつの間にかいなくなる
『逃げ足の菅ちゃん』と呼ばれマークされていたwww

当時の呼び名

菅直人(当時東工大 64歳);逃げ足の菅ちゃん
岡崎トミ子(当時高卒 66歳):爆弾おトミ
仙谷由人(当時東大 65歳):弁当運びのヨシト

・行方正時(享年22)
  坊ちゃん育ちのため、当時、永田や森に目をつけられた
  成れの果ての図


画像


686 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:25:09 ID:wSTnRItS0
定期的に永田と重信を混同した問いが入るが、何なんだ?
なんかのお約束なのか?

ブス永田
プリティ重信
 ↑
とりあえずこれで暗記しとけ!

692 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:25:27 ID:kq47F2QW0
前原・仙谷・野田あたりは、弔意を示しているんじゃないか?

田原総一郎はこの種類の人間。
あとみのもんたとか、テレビ局の顔になっているキャスターに、こいつらと同じ傾向じゃないか、
って人間は多い。

720 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:28:09 ID:gfXPqzdv0
【一方、当時のブサヨの同志は今… スーパーでサキイカを万引きしてたwww】

http://live14.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1106746117

かつて国際指名手配にまでなった日本赤軍コマンド、山本万里子、赤軍解散後の現在、東京都内で生活保護を受けています。本年、コンビニで万引きして身柄保護も受けました。その際、新聞に出て判明しました。

勿論、生活保護はその後も継続されています。執行猶予も取り消しにはなっていません。ニッポンは寛大で甘い良い国ですなー。

http://www.jimmin.com/2002a/iwase_02.htm

http://blog.livedoor.jp/milkbottle/archives/23035047.html

日本赤軍にヘキサゴン

山本万里子がスーパーでさきイカを万引きしたこと、小さな事件だったが世間の嘲笑をかっただろう。生活保護を受けていた身、万引きしなくても暮らせたはず。赤軍コマンドが万引き、さきイカだよ、何と恥ずかしい。重信は支援者から豊富な資金カンパ、64歳の山本万里子は放置、仲間内の支援もなく、山本の過去は犯罪の経歴しか残らない。

763 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:32:46 ID:xpEwIex00
森と永田


画像


790 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:35:07 ID:FyjCjNmw0
赤軍のリンチの内容って、通州事件で、中国人が
日本人の妊婦を生きたまま、
胎児をはらから取り出したとか、内容が似ている。

共産主義にかぶれると、ああいう残虐なの平気になるらしい。

812 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:37:03 ID:39seb6Rt0
旧社会党にはこの永田のお仲間がたくさんいたし、その社会党から現在の民主党に流れ着いてる人間がまたゴマンといる。仙谷やら千葉やらトミ子やら……だけではない。

そういう民主党に、小沢が代表する旧自民党の腐敗金権体質がドッキングして力をつけ、政権奪取に至った。

いわば、今の政府は「赤と黒」で出来ている。まともな国になるわけがないよね。

824 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:38:23 ID:tprml/qG0
日本帝国主義=悪 共産主義=善 だと妄信していたのです。一番悪いのは、歴史を捏造したGHQなんですけどね。

団塊の世代は、皆が貧しかったですから。万人の平等という言葉に惹かれたんでしょう。

彼等も最初は被害者だったと言えるかもしれません。

908 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:46:03 ID:gfXPqzdv0
『森さん、あなたはズルい、ズルい、ズル〜〜い !』

共犯者、連合赤軍最高幹部 森恒夫の首吊り自殺の報を聞いて 永田洋子談話

954 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:50:33 ID:sbFdpP3w0
連合赤軍って主要な実力者が全部海外にでちゃって
ボロボロの赤軍と横浜連合?とかいうところがくっついてできた
もう終わってた組織だよね

https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c97

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