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2018年11月30日09時56分 〜
記事 [カルト19] IMFサックス・日本は外人拡大急げ、馬鹿・強行採決、ガッキー・狙いは外人自衛官。バレバレである。
ガッキー出鱈目放送局も時々いい所を突く訳である。
http://www.asyura2.com/18/cult19/msg/870.html
コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
27. スポンのポン[10336] g1iDfIOTgsyDfIOT 2018年11月30日 09:56:13 : YLRU9o6eFk : 5LmaSTbmkbI[646]
 
 
■テレビこそ国民の敵なり

 悪意など欠片もない民主党政権を叩きまくって潰し、
 悪意と私利私欲しかない自民政権を一切叩かず。

 安倍晋三のデタラメ極まる悪政を
 仮に民主党の総理がしていたら
 テレビがどんな騒ぎをしていると君らは思うか。

 そういう意見を言う人が阿修羅にはほとんどいない。

 その理由は単純である。

 テレビにだまされて民主党政権をボロクソにしていた人が
 阿修羅には多くいるからだ。

 テレビが国民をだましていたと言えば
 そのテレビに騙されて民主党を叩いていた
 自分がバカだということになるからだ。

 「民主党が悪かったからテレビに叩かれた」ということにして
 自分を正当化したいんだ。

 そうして自分を正当化している限り
 どこまで行っても真実にたどり着くことはない。
 自民党の悪政をどんなに批判してもその自民党政権を作った責任の一端が
 自分にある事実を認めない人間の意見にどれほどの重みがあるのか。
 ボタンの掛け違いは最初からやり直す以外に解決の手段は絶対にない。

 菅さん野田さんを悪者にして民主党が悪かったことにして
 民主党を批判していた自分を正当化する。

 そういう卑怯な人間こそが
 何も悪くなかった民主党政権を木っ端微塵にして
 自民の悪政を復活させた張本人ではないのか。
 
 
 
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c27

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
28. 2018年11月30日 09:56:17 : PN4hKGpINQ : RhnkB73YxPw[-100]

荒療治だが^^

⑴水道屋の自浄が=望めない^^

⑵市町村の=水道屋への指導が拒絶される^^

↑この状況では^^

やむを得んな^^


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c28

コメント [政治・選挙・NHK254] あと40年で国力25%縮小 IMF日本に警告  赤かぶ
15. 地下爺[3657] km6Jupbq 2018年11月30日 09:58:29 : GYcRPWoePg : qQ1l3M7sSRs[86]

        ↑↑


     バ カ の 見 本 !!


  日本の自衛隊の軍事力ランキングが 何位なのか知っているだろう!!

  それに 在日米軍 が 加わるんだ。 このすつとこどい!!



http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/328.html#c15

コメント [経世済民129] 剛腕ゴーンが落ちた「コンプライアンス・クーデター」の闇(ニューズウィーク)  赤かぶ
5. 2018年11月30日 09:58:56 : wTqrxDwRMY : vEeN2335v8Q[1699]

 >4さんへ

 お言葉ですが   ゴーンは逮捕できても 安倍は逮捕できない 

 次元の違う 同質ではない  


 安倍は 格上のワル でございます
 

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/666.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
20. 斜め中道[5767] js6C35KGk7k 2018年11月30日 09:59:28 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3802]
>>19
好きなことを言うのは構わんが、
そうしてここで「羽生選手」なんだ??

クアドラブル・アクセルを跳んでから言っていただきたい。
失礼が過ぎる。
プロのスポーツ選手のスポーツというのは、健康とは程遠いもんだし、
それを覚悟でやっているんだ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
29. 2018年11月30日 10:02:54 : MkFc5Wnzn6 : 0H1Vq1hIG50[2]
【悲報】麻生の娘、フランスの大手水道会社幹部と結婚 麻生大臣「日本の水道は全部民営化する!」 [425021696]


麻生太郎財務大臣の娘さんがパリの古城で盛大に結婚披露式をされたと、週刊文春1月30日号(2014年1月23日発売)が『東大出の娘がフランス人と結婚で麻生太郎「あれは俺の血だな」』と題して報じています。

ヴェオリア「放射性廃棄物を日本で処理するぜ、いいだろアソウ?」
https://twitter.com/chomoppi/status/1064551123137089536

http://i.imgur.com/2T5EG6d.jpg (画像)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)


夫 フレデリック・デホン
(Frederic Dehon)
ロスチャイルド・フランス分家
デホングループ
ヴェオリア・エンバイロメント
http://i.imgur.com/4wfHrZr.png (画像)


妻 麻生彩子デホン
(Ayako Aso-Dehon)
東京大学卒 美術キュレーター
妻の父 麻生太郎 副総理大臣兼財務大臣
http://i.imgur.com/p0NKOKz.png (画像)

後10年もしたら日本人は水すら飲めなくなるだろうなw
もしくは綺麗な水は全部外資系企業が輸出、国民は汚い水を啜ることになるわw


高知
高知市上下水道局から業務委託されたヴェオリア・ジェネッツ株式会社
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/111/okyakusamasennta.html

松山市
平成17年4月1日から水道に関する検針・収納などの業務を
ヴェオリア・ジェネッツ株式会社に委託しております
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/m/kurashigaido/kurashi/suidou/jenets_matsuyama.html


既に高知と松山は娘が嫁いだ企業がやってんのか


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c29

コメント [政治・選挙・NHK254] 最高顧問は麻生大臣 実習生を食い物にする“ピンハネ協会”(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 2018年11月30日 10:04:59 : ms6upsk0Sg : VkFvJf9wlRc[2]
>少なくとも、与党に揚げ足を取られる前に、福山氏は足抜けすべきだ。

わあ、お優しいこと。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/365.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
16. 2018年11月30日 10:05:02 : MwqM2u5ylY : dQ69spG4nR8[189]
大企業優遇、富裕層の所得税は減額、そのために消費税を増税する、そして安倍自民党はその見返りを受け企業献金が自民党と議員個人にわたる、一党独裁はもう腐敗の域を超えている。ここまでされても安倍自民党を支持する愚民がいる。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c16
コメント [原発・フッ素50] 福島第一原発3号機 核燃料取り出し延期  こちら原発取材班(こちら原発取材班) 赤かぶ
11. ボケ老人[103] g3uDUJhWkGw 2018年11月30日 10:05:04 : QHkUDaloVM : nhEL_@HJWto[-2795]
>10.【8@5_KU3KTiw】1年毎に原子炉内で再配置してるのが解らない訳?

バカにもイメージが湧くように、片焼けと表現してやったのだけどな。
一年毎の再配置が必須となる中途半端な技術が固形燃料の軽水炉だよ。
原発の特性を生かしてベースロード電源というなら、燃料装填後数十年間メンテナンスフリーであるべきで、定期点検という名で停台しなければならないのは欠陥なのだよ。それすらわからないのか。
液体燃料の溶融塩炉ならオークリッジで6年間無停台の実績もあるが、これとて放射性廃棄物総量は軽水炉と変わらない。

少し脱線するが
貴君の言う様に毎年再配置が必要なほど中途半端な技術だから
MOX燃料を一般の軽水炉で使用することはとても危険なことなのだ。

>10.:変形はしませんこの時点で無知

これも嘘。
燃料のさや管はセラミックではない。多分ペレットという言葉だけを捉えて、プロパガンダとして、素人を丸め込もうとする魂胆だな。
ペレットとは焼き固めたものという意味でセラミックなだけであって
瀬戸物の器で閉じ込めたようなものではなく、コンクリートブロックをイメージすと良いスカスカのものだ。だから
ペレットからは常に放射性気体が放出され
運転時も日常的に処理することもなく原発から放出されている。
これが水中で冷やされずに、高温になると燃料被覆管(さや管)を破壊してペレットが飛び出すこととなる。
これが大変危険なことだと言うのだよ。

>10.:中性子は減速しないと核反応は起こせませんがね

これも素人を丸め込もうとする品性愚劣な工作員のスピン表現。
わたしのコメのどこに使用済み燃料が核反応を起こすと書いてあるか指摘してみよ。

>10.:奴の言う様な反応を起こす訳ないと言ってるだけ

なんだ。お前さんは適当にIDを変更して別人のような顔をして投稿する奴だったのか(笑)
4.【672q6gqLALE】=>10.【8@5_KU3KTiw】
と言う事か

奴の言う様なとは
(1)氏の「ラックが壊れて密集したら連鎖反応が起こる程度の低さでしかない」
このことかな
素人の議論の場では大した間違いはないと思うがな
「連鎖反応が起こる」と言う事と「連鎖反応が継続する」と言う事は違うよね。
専門家らしき書き込みをする貴君にはこれ以上の説明は不要だろう。

>10.:なら存続して儲かった金で処理の問題を何んとかした方が良いと思てるだけ

貴君はオーム真理教信者か
被害者への賠償金を稼ぐために、オーム真理教の活動、布教を良しとせよというの同じ理屈だ。
稼いだ金がどこに使われるかわからないというのも同じだ。

国民の血税をかすめ取って、さらに高い電気を押し付ける原発マフィアの方がもっと悪質ともいえるよネ。
オームの残党の方には政府の補助金は無いヨ

>>>4.:使用済み燃料のウラン235やプルトニウム239の含有量は2パーセント未満です。
>>8.:2%未満なら安全だとでも言うのかい(笑)
>10.:俺は安全って言った?言ってないな

安全ではない危険だと宗旨替えをしたのかな(笑)(笑)
(4)でわざわざ書き込む理由は何かな
(1)氏は使用済み燃料棒の危険性を指摘した。
これへの反論として【2パーセント未満です】と君が応じたのだよ。

(1)氏あるいは「ボケ老人」と(4)(10)の貴君とどちらが嘘つきなのかナ

サァ 次はどんなイチャモンを付けてくるのか楽しみだな。

    
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/600.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
30. 2018年11月30日 10:05:55 : PtqL8BGGcU : GB9r75d47Sw[7]
いつもながら福島瑞穂氏は素晴らしい。

こんなデタラメ私利私欲安倍勝手連政治の自民党は、次の選挙で国民が消滅させるよう祈ります。

今は世田谷区長ですが、保坂展人氏の調査能力も素晴らしかった。
保坂展人氏も衆議院に返り咲いてくれないかな〜。
こういう人は世田谷区の為だけじゃなく日本の為に働いてほしい人だと思う。


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c30

コメント [政治・選挙・NHK254] 森友・加計疑惑で安倍首相を倒せなかった大きすぎるツケ  天木直人  赤かぶ
38. 斜め中道[5768] js6C35KGk7k 2018年11月30日 10:09:44 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3803]
>>34
【非力】・・・なんだ、糞蛙屁とその取巻きのことじゃん。

そう言えば、朝鮮半島の武術に【借力】というのもあったにゃ〜♪
俺は別に国にも人種にもこだわりは一切無いんだが
糞蛙屁は
ある意味で【借力】の達人じゃねぇかと思うにゃ〜♪
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/306.html#c38

コメント [政治・選挙・NHK254] 中露に対抗!安倍政府がF35戦闘機100機の追加検討!  赤かぶ
4. 2018年11月30日 10:14:22 : nd5GRWUZzk : r9QjxJQiAPc[35]
空自のF-15は大まかに、初期に配備されたPre-MSIP機と、後期に配備されたMSIP機という2種類に分けられます
初期に作られたPre-MSIP機と呼ばれる機体は約100機あり、この機体は40年も前の機体であり、古すぎて近代化改修が難しい
つまり、この100機の更新が迫られている状況になっています
軍事オタクの間では、この100機の更新はF-35以外には無いというのが大勢となっていましたが、やっぱりという印象ですね
空自もF-35の増強は既定路線でしたでしょうが、安倍政権はこの決定を「トランプへのご機嫌取り」として利用しているのでしょう
というか、F-15Pre-MSIP機の後継をF-35にすることに批判している人たちって、じゃあF-35以外にどんな戦闘機なら納得するんでしょうね

まさか後継機なんていらない。空自の戦闘機を100機減らせとか主張しているのでしょうか
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/286.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK254] 「詭弁・ご飯論法」は、アベ政治の本質が生み出したもの(澤藤統一郎の憲法日記) 赤かぶ
6. スポンのポン[10337] g1iDfIOTgsyDfIOT 2018年11月30日 10:18:12 : YLRU9o6eFk : 5LmaSTbmkbI[647]
 
 
>>5.

>広告屋の無能を受け手の感受性のせいにしないように。

■国民の無知無関心をごまかす詭弁を言わないように。
 
 
 
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/361.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
31. 2018年11月30日 10:23:57 : MwqM2u5ylY : dQ69spG4nR8[190]
安倍、麻生は自分の地位をフルに利用し独裁的にそれを活用する様に持っていく、政治を自分の利権の為に利用し税金にも集っている、自殺者まで出した国家犯罪をしながら本来ならとっくに辞任し刑務所行きの人間が未だにのうのうと総理や副総理をしている。その上あろうことか利権に絡んで外国人受け入れや水道法をどさくさ紛れに大した審議もせず衆議院を通している。私利私欲の為に政治をしている。麻生太郎が水道民営化すると突然公に発言したのも、娘婿の企業と大いに関係している。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c31
コメント [政治・選挙・NHK254] 経済の大破綻と再生 アベノミクス・ショックが来る日(世相を斬る あいば達也) 赤かぶ
1. 2018年11月30日 10:27:04 : IwwGhQiSl6 : Wya9xGoTVvg[29]
敗戦直後の日本にしたやつを許すわけには行かない、当然の事死刑に処すべきだ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/366.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK254] 「詭弁・ご飯論法」は、アベ政治の本質が生み出したもの(澤藤統一郎の憲法日記) 赤かぶ
7. スポンのポン[10338] g1iDfIOTgsyDfIOT 2018年11月30日 10:27:54 : YLRU9o6eFk : 5LmaSTbmkbI[648]
  
  
>>3.

>必死の宣伝にも関わらず「ご飯論法」という言葉が流行らないのは
 「ご飯論法」自体が定義が曖昧で
 「媒概念曖昧の虚偽」という詭弁になってしまっているから。

■それこそが詭弁だ。

 政治の真実は流行りのファッションではない。
 高尚なクラシックよりも幼稚な歌謡曲を愛好する人が多いのは世の常だ。
 それを理由にクラシック音楽を批判しても詭弁でしかない。
 
 
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/361.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
21. 2018年11月30日 10:28:42 : T1xujA1g5M : bEGU_eK2sbY[196]
>菅氏は「強行採決なんか、やっていない」と反論した。
 事実と違う答弁をすべきではない。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c21
コメント [政治・選挙・NHK253] 志位和夫さん「亀井静香氏と対談。亀井氏は『米軍基地は米国のためにある。日本のためではない。日米安保だって要らない』」 赤かぶ
492. 投稿のあんちゃん[232] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2018年11月30日 10:30:35 : ec5C2vDjSU : aSHPXHF@09I[388]

 ご返事いただけたので、再び書く。(どうも人を卑下した書き方をするので書きたくなる。)(ま、そのうちウンザリしてくるとは思うが)

 >テロと戦争とは全く別物

 個人的には例えばベトナム等で行われたゲリラとテロはかなり近い性格のものと考えている。

 いずれにしろ平和ではない状態がそこにはある。したがって紛争・テロと並べて書かせてもらった。それらの解決には何らかの方法が必要であろう。平和学というものが役に立たないならあまり意味はないと思う。

>安倍政権なら貴君の言う通りだ
田中角栄も米国に潰された。鳩山由紀夫も米国に阿る外務官僚に潰された。
他の歴代政権もアメポチを脱しえなかったのは事実だ。
しかし、日本人としてのプライドがあるなら(矜持という難しい言葉を使うと理解してくれなさそうだから)アメポチを脱しようと努力すべきではないのか。

 安倍晋三が集団的自衛権云々で法案を通して、「これで平和が可能になる」というような発言をしていたのには思わず吹き出してしまったが、要はアメポチでアメリカををうまく利用しようということであろう。
 そこには日本人としてのプライドなど関係がない。いずれの政権も「アメポチを脱しようと努力すべきではないのか。」よりも日本の安全のを優先してきた。

 【軍国主義国家にもどるしかない】。こんなことを期待する日本人はめったにいないであろう。が、米軍基地を日本から追い出せば安全確保のため軍備の拡張は当然せざるをえなくなってくる。それは発言力を持った「軍」を再来させることに繋がる。だからこのセリフになる。「平和学」が役にたつなら必要はないのだろうが、歴史を見ても、現在の各地での紛争をみても役にたっている様子はない。

 今のところ有効なのは武力と経済力を背景にしたアメリカ・ロシア・そして中国の発言であることが、ニュースからは読みよれる。そして弱小国が「寄らば大樹の陰」という方法を取っているのは日本に限ることではないであろう。


http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/753.html#c492

コメント [政治・選挙・NHK254] 官房長官を罵倒、自衛隊に難癖…北朝鮮が日本に猛攻撃を開始(DailyNK Japan) 赤かぶ
6. 罵愚[6932] lGyL8A 2018年11月30日 10:31:51 : uz7lDD2pDc : EjeLi5CyXwY[336]
 わたしの >>2>>1に反応したコメントではないよ。なにを根拠に3〜5のようなレスポンスがあるのか、理解に苦しむ。あるいはこの反応こそが、このボードが戦後左翼のたまり場の証明にも思える。

 あらためて書くと、北鮮のジャーナリズムもメディアも将軍様のマイクロホンや拡声器であって、トランプの嫌うフェイクメディア以下のものだよ。いまさら、こんな事実をくりかえさなければならない、このボードも、北鮮の出店みたいなもんさ、
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/364.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
32. 2018年11月30日 10:32:25 : T1xujA1g5M : bEGU_eK2sbY[197]
私や、麻生副総理、そしてその関係者が、
水道民営化に関係していたとしても、
総理大臣も、国会議員も、辞めません。
だってもう、権力集中で何でもできちゃうもん(高笑)。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c32
コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
33. 2018年11月30日 10:36:54 : HjPOwGQziw : 5JO9oyMlVTE[39]
あへ政権に深く入り込んでいるヴェオリア社
麻生や内閣府が絡んだ疑獄になりそう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK254] 官房長官を罵倒、自衛隊に難癖…北朝鮮が日本に猛攻撃を開始(DailyNK Japan) 赤かぶ
7. 斜め中道[5769] js6C35KGk7k 2018年11月30日 10:38:35 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3804]
>>6
お前ぇの表現の拙さ、日本語力を、まず省みるべきではあるまいか。

“・・・簡単にそれに取り込まれてしまう >>1のような反応が出てくる。”
と書かなきゃよかろうが。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/364.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK254] 自由・小沢氏 入管法改正案「野党は徹底的な抵抗を」「本当にダメっていうなら、決起しなきゃダメだ」 赤かぶ
24. 2018年11月30日 10:46:20 : ms6upsk0Sg : VkFvJf9wlRc[3]
>ツイッターで喧嘩をするのは、維新かネトウヨ議員と決まっています。

複アカ使って攻撃する陰湿な元議員(自称リベラル系)もいるけどな。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/318.html#c24

コメント [原発・フッ素50] 原爆開発の核ごみ、やまぬ厄災 住民「がん患者だらけ」 (朝日新聞)  魑魅魍魎男
10. 2018年11月30日 10:49:05 : NJZjzHtFG6 : XA9jcI@bsvw[2]
周りで膵臓癌で亡くなる人が増えている感じ
今月初めに亡くなった従兄も膵臓ガンだった

2,3年なくなった知り合いの獣医さんも膵臓癌

数日前亡くなったという知り合いも膵臓癌

50、60、80台と年齢は色々だけど
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/596.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK254] 司法の暴走を止めない韓国政府に、当事者の韓国最高裁が日韓関係を破綻に招きかねない傷口にさらに塩を塗る、三菱重工相手の訴訟 怪傑
16. 2018年11月30日 10:50:10 : QxAvHlMZHE : PvXwxRw3kXM[2]
>>15
 チベットでの中国による弾圧で、多くあった仏教寺院は取り潰され
 ウイグルのような中国による監視される社会になってしまったようだ。
 このためだろうが、仏教の壮士・ダライ・ラマは米国に救済を求め
 渡ったきり帰れない(亡命)の状態が続いている。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/343.html#c16
コメント [政治・選挙・NHK254] 走行距離に応じた課税案に反発/政界地獄耳(日刊スポーツ)  赤かぶ
1. 赤かぶ[1734] kNSCqYLU 2018年11月30日 10:55:47 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[199]



http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/367.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK254] 走行距離に応じた課税案に反発/政界地獄耳(日刊スポーツ)  赤かぶ
2. 赤かぶ[1735] kNSCqYLU 2018年11月30日 10:57:08 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[200]









http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/367.html#c2
コメント [経世済民129] 東京地検、海外メディアに反論 ゴーン容疑者勾留「国ごとにそれぞれの制度、自分の国と違うからと批判するのはいかがなものか」 赤かぶ
8. ピッコ[1549] g3ODYoNS 2018年11月30日 11:03:47 : gAojU9ZDKE : NieK4gQsgiM[1]
証拠隠滅の恐れを理由に、森友学園の籠池さん夫妻を300日の長期にわたり留置所に拘留し、いっぽうの森友問題に対する国会での虚偽答弁や、証拠隠滅し放題、さらには公文書改ざんといった前代未聞の大犯罪をやらかした佐川など、官邸職員に対しては一切取り調べすることもないまま、この補助金詐取事件の最大の黒幕である安倍晋三総理大臣と、その妻の昭恵容疑者を全力で守ってきたのが大阪地検、東京地検という組織だ。 籠池さん夫妻の300日長期拘留も、実は「悪いのは詐欺師の籠池さん夫妻で、安倍夫妻は森友問題とは関係ない」「安倍夫妻は詐欺師の籠池夫妻にダマされた側」と世間に印象づけるために行われたのだ。 伊藤詩織さんを強姦した山口という安倍晋三の友人も罪を問われなかった。 一般の人に対しては平気で人権無視する一方で、国家権力者とその仲間たちによる犯罪は、もみ消し、無かったことにする。 今や立派な反公共的犯罪組織だ。 中国や北朝鮮とどこが違う?
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/669.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK254] 最高顧問は麻生大臣 実習生を食い物にする“ピンハネ協会”(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 2018年11月30日 11:05:57 : KwThCeoYoo : 8bFUdx30v1s[9]
しっかりと利権の概要がわかるよい記事です。国民は、厳しくこれらの法案の問題点と制度の問題点を問うていこう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/365.html#c4
コメント [お知らせ・管理21] 2018年11月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
52. 管理人さん[2296] iseXnZBsgrOC8Q 2018年11月30日 11:07:44 : goJCZio63dQ[792]
>>49
2重投稿を削除しておきました。

>>50 >>51
https へのリンクは問題ありません。
スパムコメントが多発したカルト宗教応援サイトへのリンクがあったのでブロックされていたようです。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/541.html#c52

コメント [政治・選挙・NHK254] 恥ずかしく情けなく、気が遠くなるような話だ!  赤かぶ
10. ボケ老人[104] g3uDUJhWkGw 2018年11月30日 11:07:49 : QHkUDaloVM : nhEL_@HJWto[-2794]
年収200万円以下
それは自己責任なのです。

非正規社員、それは竹中にたぶらかされたあなたが悪いのです。
自己責任です。

産業界は儲けることが第一目的です。
マトモな給料を支払うと儲かりません。
だからお国のために、低賃金外国人労働者を入れるのです。
貴重な日本人労働者にそんなことさせられません。
昔、村上世彰が言いました【儲けることは悪いことですか】

低賃金労働者がいっぱい来て治安問題が起こります。
それこそ願っても無いことです。
昔の特高警察を復活させましょう。
古き良き昔を取り戻すのです。
朝鮮人や中国人は昔のことを覚えているから
新たに東南アジアから徴用するのです。

日本人のワーキングプアーは???
自己責任と言ったじゃありませんか

それでも政府はちゃんと考えて
食えなくなった若者には自衛隊員となって米軍の先兵としての道を残しています。
非正規で中年となって初老となって
自己責任だから仕方ないでしょう
それでも政府はちゃんと考えて
医療保険を高くして外資を入れ自由診療にします。
自己責任の貧乏人には医療保護することなく早くあの世に行ってもらいます。

これがオ・モ・テ・ナ・シ政治の真髄です。
裏ばかり、オトモダチさえ良ければ
ウォータバロンに水道インフラを委ねても、オトモダチさえ良ければそれで良いのです。
オトモダチでない人は?
それは自己責任です。

将来の日本は?
没落しようがどうなろうが、オ・モ・テ・ナ・シ政治を選んだ日本人の自己責任です。
今さえ良ければ
自分の任期中さえ良ければ
そんな身勝手な親や祖父母をもった後世代の自己責任なのです。
万歳、万歳、自己責任社会、万々歳
(Byシンゾウ)

    
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/357.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK254] また嘘と低知能をさらした安倍晋三!(simatyan2のブログ) 赤かぶ
48. 2018年11月30日 11:13:38 : Q7KIveD2Qc : R@tTjg3h_Qc[3]
>>36
本当の支持率は、TVのdボタン調査をすれば即座に出てくる。
でも、そんなことは絶対にやらない。どうしてかーーーー?

それはね、戦艦武蔵のインチキ選挙をごまかすため。財界と権力とメディアが癒着し、メディア人を飲食・賄賂・下半身接待で飼いならし、信じられないほど高い支持率をでっち上げ、繰り返し放送して国民を洗脳しているのですよ。それぐらいは知っているでしょ? 

そんでもって、あっちもこっちも、あれもこれも、そこら中がインチキ選挙でーす! 東京・横浜はインチキ選挙ですが、新潟知事選もインチキでしたけど、仙台はムサシを使うのをやめましたよー!

そーもそもそも、「ウソ吐きまくる”睾丸にムチ”のチンパンジー」が看板の「売国・人殺し・自民党」を支持する人間など、日本にはいないんでございます。統一教会の方々、ヒトデナシの財界以外はね! チーン!


>あべ総統閣下政権の本当の支持率は5%。しかも支持者は外国人(北朝鮮工作員)?
https://ameblo.jp/ruroibrown/entry-12224762704.html?frm=theme

>あまりにも対照的な、枝野コールと逃げ回る国難のアベ:https://imgur.com/a/99SNP
>閑古鳥候補が圧勝!?:2013参院選・2014都知事選:https://imgur.com/a/zaMpC

>「正しい集計一つもなかった」仙台の選管不正 2015年04月02日 11時54分
https://blogs.yahoo.co.jp/aki_setura2003/32558743.html
>●仙台市長選挙は、ムサシは使わず 手作業
https://twitter.com/akichango/status/889107491623129088


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/299.html#c48

コメント [政治・選挙・NHK254] 走行距離に応じた課税案に反発/政界地獄耳(日刊スポーツ)  赤かぶ
3. 赤かぶ[1736] kNSCqYLU 2018年11月30日 11:15:49 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[201]

走行距離に応じて課税?自動車税制の抜本見直し検討
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sakusakukeizai/articles/20181129.html
2018/11/29 NHK

※キャプチャー 全画面で拡大















http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/367.html#c3
コメント [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
90. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:15:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。

この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c90

コメント [政治・選挙・NHK254] 走行距離に応じた課税案に反発/政界地獄耳(日刊スポーツ)  赤かぶ
4. 2018年11月30日 11:16:34 : UPaJl6yzxQ : Sabv9K00ubk[58]
●自動車税「走行距離での課税」に方針変更か、地方に壊滅的な打撃
JR北海道の例を見るまでもなく、地方では人口減少などにより公共交通機関が縮小の一途を辿っており、自動車に頼るしかない現状が確固として存在しています。
https://buzzap.jp/news/20181128-car-tax-mileage/
●政府与党が自動車課税の見直し検討へ!走行距離で課税に変更、走行距離が長い地方は負担増か
・北海道のように土地が広くて車が必需な地域ほど走行距離が伸びるのに、それに比例して納税額が多くなるとか、道民が一番負担増えるだけ。
・地方民は車ないと生きてけないんだよ?
・鉄道がない、もしくは不便で、しかたなく車を使っている地方在住者から税金を搾り取るんですか。
・田舎民狙い撃ちじゃん。そして、長距離トラックとかにも課税するなら、今以上にモノの値段が上がるってことだ。
https://johosokuhou.com/2018/11/29/10520/
●【田舎者が激怒】安倍政権が新自動車税として走行距離での課税を検討!⇒田舎者「北海道に住んでみろ」「何が地方創生だ」
車なしでは生活できない、疲弊した地方を狙い撃つ、最悪の手法です。
http://xn--nyqy26a13k.jp/archives/44860
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/367.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK254] 官房長官を罵倒、自衛隊に難癖…北朝鮮が日本に猛攻撃を開始(DailyNK Japan) 赤かぶ
8. ボケ老人[105] g3uDUJhWkGw 2018年11月30日 11:17:12 : QHkUDaloVM : nhEL_@HJWto[-2793]
儂も斜め中道氏と同じように・・・と思うにゃ♪

    
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/364.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK254] 強行採決ばかりの国会、議論ができない国会は死んだも同然だ(まるこ姫の独り言) かさっこ地蔵
2. 斜め中道[5770] js6C35KGk7k 2018年11月30日 11:21:08 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3805]
「h ttp:」・・・・って、なんて汚い文字列だこと・・・オホホ・・・である。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/348.html#c2
コメント [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
91. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:22:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21445]

美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30

こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました

http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。

一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・

もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。

いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c91

コメント [政治・選挙・NHK254] 憲法審査会強行でちらつく安倍改憲へのシナリオ!「野党が悪い」の大合唱を盾に、国会発議強行を狙う狡猾手口(リテラ) 赤かぶ
4. 2018年11月30日 11:24:14 : UPaJl6yzxQ : Sabv9K00ubk[59]
●【何でもアリ】主要野党が欠席の中、憲法審査会を“与党の職権”で強行開催!安倍総理による「改憲ごり押し路線(戦争行き)」が再開か!
https://yuruneto.com/kenpousinsakai-kyoukou/
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/359.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
17. 空虚[1606] i_OLlQ 2018年11月30日 11:26:13 : XD9Oi36H1A : un_kwKKfyt4[2]
>>15 ぢっと見る 殿

貴殿のおっしゃる通りだね、同感。

麻原晋三とがまぐちナチ汚の最大の人類への罪、冒涜は

【 真摯な大衆 普通の人々 】から【 夢と希望と人間らしい幸福を略奪 】した

ことだ。

こんなもんが大きな顔で、セレブよろしく道を歩くなんざ

許されざること以外に無い!断じて無い!

人々を諦め失望の底に貶め、己の薄汚い欲望・願望を満たす輩の象徴が

自民公明・統一創価のオカルト・ホラー政権だ!!

世相を観るがいい、猟奇的殺人と詐欺師のパラダイスだ。

オカルト政権の成果は、人々の生命を奪うことだ。

国家財政どころか、日常生活すら崩壊させるに充分な現状を自覚できんなんて

なんて嘆かわしいことなんだろう・・・。


官僚という名の欲望の奴隷とオカルト政権のタッグは、地獄を生み出すに

余りある悪しき力の勢力になっとるよ。

大衆は、愛の有る普通の暮らしを諦めてはいかんがな。

奴隷・愚民なんぞになってはあかんがな・・・。

政治を取り戻すんだ、妥当性のある政治をね。


Rock 'n' Roll !!


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK254] 経済の大破綻と再生 アベノミクス・ショックが来る日(世相を斬る あいば達也) 赤かぶ
2. 2018年11月30日 11:27:56 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9489]
トランプが天皇を戦前退位させた狙い:秋篠宮の政教分離発言=どちらの子どもが天皇の権力を握るか権力闘争?トランプ対ディープステートの内戦状態で、今度はトランプ側からヒラリー側に暗殺!…11/30(金)
.
TweetTV JP
2018/11/29 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=rpXqWBnMy1s
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/366.html#c2
コメント [経世済民129] 東京地検、海外メディアに反論 ゴーン容疑者勾留「国ごとにそれぞれの制度、自分の国と違うからと批判するのはいかがなものか」 赤かぶ
9. 2018年11月30日 11:29:36 : 3zLypIOGHw : rbq8YdbGfPo[3]
日本政府は、いわゆる西側先進国の一員として、
いろいろな意味で価値観を共有しているのではなかったか。
舌の根が乾かないうちに、
中国や北朝鮮などの警察・検察当局を避難しないでくださいね。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/669.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK254] 強行採決ばかりの国会、議論ができない国会は死んだも同然だ(まるこ姫の独り言) かさっこ地蔵
3. 2018年11月30日 11:32:44 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9491]
2018年11月28日

漁業法改悪案の衆院採決強行に抗議する(談話)

社会民主党幹事長
吉川はじめ

1.本日、安倍政権と与党は、衆院本会議で「漁業法」改悪案 (漁業法等の一部を改正する等の法律案)の採決を強行した。安倍首相は「70年ぶりの抜本改革」と胸を張るが、政府の規制改革推進会議が旗振り役となった「企業が世界で一番活躍しやすい国」づくりの水産業版に他ならず、漁業人口の9割以上を占める沿岸の小規模漁業者の切り捨てにつながりかねない。1949年に制定され、漁業のあり方や基本的なルールを定めた法律を変えるのであれば、十分な時間をかけた慎重審議が必須だが、現場の漁業者の声を聞く地方公聴会や現地視察も行わず、与党の強引な議会運営に野党各党が抗議して衆院農林水産委員会を欠席する中で時間を進める「空回し」まで使った、拙速・強権的なやり方は断じて許されない。「入管難民法」改悪案の衆院強行採決に続く安倍政権の相次ぐ暴挙に社民党は厳しく抗議し、今後、参院での成立阻止へ全力を挙げる。

2.最大の懸念は、沿岸水域の漁業権付与の優先順位規定廃止である。養殖漁業や定置網の漁業権について、都道府県が地元の漁協や漁業者に与えてきた優先割り当てを見直し企業に門戸を開くもので、漁業者の共同を基本に営まれてきた沿岸漁業への企業参入が広がり、地元漁業者が狭い漁場に追い込まれるなど、地域漁業の衰退を招きかねない。漁業権が分割されることで漁場や水産資源の管理も困難になる恐れがある。また漁業者の中から公選されてきた各都道府県の海区漁業調整委員を知事による任命制に改めることも、漁業権の免許などに沿岸漁業者の意見が反映しにくくなる懸念がある。

3.法律の目的を規定している第1条から「漁業の民主化を図る」との文言を削除し、新たに「国民に対して供給する使命」を盛り込むなど、豊かな浅海の生態系や漁村文化を守ってきた漁業法の根幹を変え、産業政策だけの法律にする今回の改悪案は、日本の海を荒廃させかねない。社民党は今後も法案の問題点を追及し廃案に追い込む決意である。

以上

http://www5.sdp.or.jp/comment/2018/11/29/%e6%bc%81%e6%a5%ad%e6%b3%95%e6%94%b9%e6%82%aa%e6%a1%88%e3%81%ae%e8%a1%86%e9%99%a2%e6%8e%a1%e6%b1%ba%e5%bc%b7%e8%a1%8c%e3%81%ab%e6%8a%97%e8%ad%b0%e3%81%99%e3%82%8b%ef%bc%88%e8%ab%87%e8%a9%b1%ef%bc%89/

2018年11月29日

日欧EPAの衆議院採決について(コメント)

社会民主党幹事長
吉川はじめ

 本日の衆議院本会議で、7月に署名された日EU経済連携協定(日欧EPA)の締結についての承認案件の採決が行われました。貿易品目の9割超の関税を撤廃しようとするものであるにもかかわらず、協定発効による国内の農林水産物への影響についての試算の根拠は極めて曖昧で、交渉経過についても全く情報公開されていません。安易に承認すれば、日米交渉で米側をさらに勢いづかせかねないことも懸念されます。こうした重要案件を委員会質疑わずか4時間半で、参考人質疑や地方公聴会なども行われないまま通すことは、決して許されるものではありません。社民党は、強く抗議します。

 「TPP11」に続いて、日本の農林水産業をさらに窮地に追い込み、地域に打撃を与える日欧EPAに懸念を持つ国会内外の個人・団体と一層連携を強め、承認阻止へ最後まで闘い抜くとともに、戸別所得補償制度の復活・拡充など、真に有効な農林水産業振興策の実現を求めて全力で取り組む決意です。

以上

http://www5.sdp.or.jp/comment/2018/11/29/%e6%97%a5%e6%ac%a7%ef%bd%85%ef%bd%90%ef%bd%81%e3%81%ae%e8%a1%86%e8%ad%b0%e9%99%a2%e6%8e%a1%e6%b1%ba%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%ef%bc%88%e3%82%b3%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%88%ef%bc%89/
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/348.html#c3

記事 [経世済民129] ゴーン容疑者の私的損失、付け替えは新生銀行の契約(日刊スポーツ)
ゴーン容疑者の私的損失、付け替えは新生銀行の契約
https://www.nikkansports.com/general/news/201811300000169.html
2018年11月30日8時45分 日刊スポーツ


日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者(64)が私的損失を日産に付け替えた疑いのある取引は、新生銀行との契約だったことが29日、関係者への取材で分かった。07〜11年、新生銀のキャピタルマーケッツ部の部長で関与が一部で報じられた日銀の政井貴子審議委員は「守秘義務の観点から答えは差し控えたい」と説明した。

ゴーン容疑者が報酬の一部を退任後に受け取ることに日産側が合意したとされる書面に、作成日が記されていたことも判明。東京地検特捜部は、作成時点で将来の支払いが確定したとみている。ゴーン容疑者は「退任後の支払いは確定しておらず、報告書に記載する必要はない」と容疑を否認している。

ゴーン容疑者の勾留期限は30日。特捜部は来月10日までの延長を請求する方針。欧米から批判の声もあるが、久木元伸次席検事は29日、「裁判所の令状に基づいて勾留しており、何ら問題はない」と述べた。

日産自動車、三菱自動車、ルノーの首脳は29日、ネット中継などで初協議し、「連合の取り組みに全力を注ぐ」と声明。資本構成の見直しには触れなかった。
















http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/671.html

コメント [政治・選挙・NHK254] 官房長官を罵倒、自衛隊に難癖…北朝鮮が日本に猛攻撃を開始(DailyNK Japan) 赤かぶ
9. 2018年11月30日 11:36:18 : 0qIVMo2DPw : GRJOVDb@afY[1]
罵愚どのも「菅義偉は鼻持ちならないバカである」に異論がないことを知り
うれしく思います
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/364.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
34. TondaMonta[606] gnOCj4KOgoSCgYJsgo@CjoKUgoE 2018年11月30日 11:36:29 : iRjKKQvlsg : S@Fvv1svYHM[1]
細かいことはどうでもいい。
利益相反の原則に反する。
これだけで十分だ。それ以上何が必要なのか。弁明などいらない。

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c34
コメント [原発・フッ素49] 東海第二原発、近く新基準「適合」へ 規制委が設備視察(事故で首都圏壊滅⁉) 戦争とはこういう物
14. 2018年11月30日 11:36:57 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9490]
2018年11月30日(金)

東海第2原発 再処理施設 危険性を無視

藤野議員 規制委は許可取り消せ

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-30/2018113014_02_1.jpg
(写真)質問する藤野保史議員=29日、衆院原子力問題特委

 日本原子力発電東海第2原発が新規制基準に適合していると認めた原子力規制委員会の審査について、日本共産党の藤野保史衆院議員が29日、原子力問題調査特別委員会で質問に立ちました。東海第2原発に近接する使用済み燃料の再処理施設の危険性を考慮した審査が行われていない問題を指摘。規制委の更田豊志委員長に、9月に決めた許可の取り消しを求めました。

 東海第2原発から2・8キロに位置する日本原子力研究開発機構の東海再処理施設には、358立方メートルの高レベル放射性廃液が五つの貯蔵槽で冷却されています。規制委はこの廃液の危険性について、冷却機能を失うと、放射性物質が外部に放出される危険性を認めました。藤野氏は、機器配管の腐食・破損などによる漏出の危険性があることや廃液の固化に原子力機構が10年半かかるとしていることを指摘し、長期にわたり危険と隣り合わせとなると強調しました。

 また藤野氏は、規制委が今月28日にまとめた周辺原子力施設で起こる事故の影響を審査で「考慮する」とした考え方の文書を示し、東海第2原発の審査で東海再処理施設を周辺原子力施設として位置づけたのかただしました。更田委員長は「影響が十分小さいと工学的な判断し、対象から外した」と述べました。藤野氏は、「とんでもない運用がされている。許可を取り消すべきだ」と迫りました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-30/2018113014_02_1.html

2018年11月30日(金)

東海第2原発 県民世論に応え廃炉に

笠井議員 運転延長を批判

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-30/2018113014_03_1.jpg
(写真)質問する笠井亮議員=28日、衆院経産委

 日本共産党の笠井亮議員は28日の衆院経済産業委員会で、原子力規制委員会が運転開始から40年となる日本原電・東海第2原発の運転延長を認めたことについて、「原子力の規制当局が『事業者の虜』となってきた過ちを繰り返すのか」と批判。「茨城県民・国民世論に応え、再稼働を許さず、廃炉にすべきだ」と主張しました。

 原発の運転期間は原則40年間ですが、原子力規制委員会は9月、東海第2原発が新規制基準に適合しているなどと許可。運転期限切れ目前の今月7日、20年運転延長を認可しました。新規制基準では、火災防護対策として難燃ケーブルへの交換を原則としており、適合性審査会合は「燃えやすいケーブルを使用していることが、安全レベルがすでに低下していることになる」と指摘しています。

 笠井氏は、東海第2原発では、交換率を52%にとどめようとしていることを指摘。全てのケーブル交換は困難という原電の意をくみ「大原則を変えたのか」とただしました。原子力規制委員会の更田豊志委員長は「防火シート等をケーブルに巻くことで十分な火災防護対策となることを確認して許可・認可した」と強弁しました。

 笠井氏は、東海第2原発の運転延長を認可する直前に、東電・柏崎刈羽原発でケーブル火災が発生し、火災原因もわかっていないとして、「原発の『運転期間40年』の原則を原子力規制委員会が形骸化させている。既設の原発の存在を守り、再稼働を後押ししている」と批判しました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-30/2018113014_03_1.html
http://www.asyura2.com/17/genpatu49/msg/864.html#c14

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
35. 2018年11月30日 11:37:11 : PN4hKGpINQ : RhnkB73YxPw[-108]

清涼飲料水として(水)を売るメーカーは^^

日本とフランスに←集中しているからね^^


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c35

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
36. 2018年11月30日 11:38:26 : PN4hKGpINQ : RhnkB73YxPw[-107]

日本の脳=東京大学の大橋教授が^^

放射能は=飲んで大丈夫と^^

お教えされて=いただろう^^


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c36

コメント [経世済民129] 役員報酬「隠蔽」は退任後の「支払の約束」に過ぎなかった〜ゴーン氏逮捕事実の“唖然”(郷原信郎が斬る) 赤かぶ
21. 2018年11月30日 11:38:32 : KwThCeoYoo : 8bFUdx30v1s[10]
>14

報酬を巨額に得たから、背任になるわけではなかろう。確かに日産の開腹はゴーンだけに依存するものではない。しかし、日産の会社として多くのことを認めていたのだから、取締役会が忖度に陥っていただけで、最大株主であるルノー側取締役の責任でもあろう。
 検察は、淡々と背任容疑を固めることが通常の警察・検察に望まれているにも関らず、司法取引と成果を誇大にしたいという誘惑に地検特捜部が負けたとしか思えない。そして、そのコストは国民にのしかかっているとはいえ、その利益のために検察の横暴を容認してはならない。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/613.html#c21

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
1. 赤かぶ[1737] kNSCqYLU 2018年11月30日 11:39:40 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[202]






http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
37. 2018年11月30日 11:40:54 : PN4hKGpINQ : RhnkB73YxPw[-106]

コンビニで=売られている=全ての(水)は^^

原発冷却水←原料だ^^

な?^^

飲んでも=大丈夫だろ?^^


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c37

コメント [政治・選挙・NHK254] 室井佑月「ドSを相手にMになる」「安倍首相って典型的な内弁慶じゃん」〈週刊朝日〉  赤かぶ
2. 空虚[1607] i_OLlQ 2018年11月30日 11:40:57 : XD9Oi36H1A : un_kwKKfyt4[3]
室井ちゃんに同意・意義・異論なし!

やっぱこの人、頭ええ!!

解りやすい!www。

以上w。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/342.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
2. 赤かぶ[1738] kNSCqYLU 2018年11月30日 11:41:50 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[203]






http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK254] ハゲタカに日本を食い尽くさせる安倍内閣(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
10. 2018年11月30日 11:41:54 : HjPOwGQziw : 5JO9oyMlVTE[40]
安全保障に直結する水道事業など
ハゲタカに献上する法案を強行しようとするあへ政権
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/300.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK254] ハゲタカに日本を食い尽くさせる安倍内閣(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
11. 2018年11月30日 11:41:58 : E2IOs81XZU : iDJkuprUL6I[3]
皆さん混乱している。
外資には2種類ある。
1つは今までのさばってきたGHQ由来CIA経由ディープ・ステート。
これはグローバリストなので移民を入れ社会を混乱させる。
2つ目、日産ルノー以後のヨーロッパロスチャ由来で、
移民反対、日本に親近感を持ってくれているいい方。
但し日本人は英語ができないので、
現在両方とも半島人を手先に使っているから問題。
日産帰化半島人西川がいい例。
半島人追い出しが喫緊の課題、以上。
そのために団結が必要で、そのために
今社会のコアがないからあった時の源平藤橘を引っ張りだそう。

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/300.html#c11
コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
18. TondaMonta[607] gnOCj4KOgoSCgYJsgo@CjoKUgoE 2018年11月30日 11:44:15 : iRjKKQvlsg : S@Fvv1svYHM[2]
詳しい資料を有難うございました。今後ともよろしく。
まあ全国民に知らせる方法はないものかしら。
IoTだけでは足りません。ビラ配りも必要でしょう。
大竹まこと氏の文化放送に頼んでみてはいかがでしょうか。
森永卓郎教授でもいいですね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c18
コメント [経世済民129] ゴーン容疑者の私的損失、付け替えは新生銀行の契約(日刊スポーツ) 赤かぶ
1. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:49:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21448]

カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html



http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/671.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
22. 2018年11月30日 11:49:52 : PPra43QKNA : DSke4vNWqII[38]
 
 >菅氏は「強行採決なんか、やっていない」と反論した。

  ↑
 日本語ではアレを「強行採決」というのです。

 安倍といい、麻生といい、菅といい、高校時代にろくな勉強をしなかったので
 しょうね。国会答弁のバカ丸出しは語るに及ばず、どんないい加減な答弁をしても
 マスコミは「野党の追及が甘い」といって擁護してくれる。
 
 それにしても、学歴のことは言いたくないが、日本を安倍(成蹊大)と麻生(学習
 院大)と菅(法政大)が牛耳っていると思うと心配でなりません。
 彼等の出身大学のまともな学生は、さぞかし肩身が狭いことでしょう。

 東京新聞のように、マスコミが“普通”のジャーナリズム精神を発揮すれば、
 安倍政権などは、とっくに消えているんですが・・・。

  あ〜あ〜やるせない!


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c22

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
3. 2018年11月30日 11:51:42 : 0qIVMo2DPw : GRJOVDb@afY[2]
政経分離ではなくて政教分離ですかね天木さん
秋篠宮は自分と家族のメシ代を国費から支出してることについても発言して
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
19. 空虚[1608] i_OLlQ 2018年11月30日 11:51:48 : XD9Oi36H1A : un_kwKKfyt4[4]
>>18 殿

森永さんはあかんw

期待できる人物おまへんでw。

彼は、ソフィストの仲間入りをしちまった。

直近の発言は、アベノミクス推進だわな・・・。

あのライ〇ップCMのリバンドあたりから変だぞwww。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
4. 赤かぶ[1739] kNSCqYLU 2018年11月30日 11:54:16 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[204]
「秋篠宮さまは天皇家の「私費」にあたる「内廷会計」で賄うべきだと述べた。遺産や国から支出されている内廷費などだが、使途は天皇家の裁量で、通常の宮中祭祀(さいし)にも使われている」極めてまともな意見。 https://t.co/TlxkFx7nzz— 恒河に吠える (@stsuneka) 2018年11月30日


「聞く耳持たなかった」って怖い。映画『ラストエンペラー』の溥儀を利用する日本みたい/秋篠宮さま、大嘗祭支出に疑義「宮内庁、聞く耳持たず」:朝日新聞デジタル https://t.co/98edWSYp6I— 島田虎之介 (@Shimatorax) 2018年11月30日


秋篠宮さま、正しいと思う。小室さんの事へのコメントしか報道しないメディアは悪意を感じる。秋篠宮さま、大嘗祭支出に疑義「宮内庁、聞く耳持たず」:朝日新聞デジタル https://t.co/U0hdoBjTsf— 得能大輔 official (@tokunohdaisuke) 2018年11月30日

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c4

コメント [経世済民129] 東京地検、海外メディアに反論 ゴーン容疑者勾留「国ごとにそれぞれの制度、自分の国と違うからと批判するのはいかがなものか」 赤かぶ
10. 2018年11月30日 11:54:18 : NNHQF4oi2I : p@MqjzZMakU[1028]
<<現行の法制度の下、裁判所が発した令状に基づいて行っており、何ら問題はないと考えている」と述べ

 ブラックジョークか

 法律を守れない 地検は 解体と 処罰
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/669.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK254] 司法の暴走を止めない韓国政府に、当事者の韓国最高裁が日韓関係を破綻に招きかねない傷口にさらに塩を塗る、三菱重工相手の訴訟 怪傑
17. 2018年11月30日 11:55:09 : Elio0nEowE : h2RZrOIR1F8[-642]
> 韓国最高裁は29日午前、戦時中に徴用工などとして強制的に働かされたとする韓国人が三菱重工業に損害賠償を求めた2件の訴訟で・・・

日韓併合時に、多数の朝鮮人が日本へ密入国している[1]。
密入国の目的は何か?
遊んで暮らすためか、働いて暮らすためか?

もし、遊んで暮らすためならば、泥棒になるよりないだろう。
多分、泥棒よりも働いて暮らすための方が多いだろう。
日本で働いて暮らすために密入国した朝鮮人を韓国の最高裁は
日本政府が強制連行したと嘘を吐いているのだろう。

[1]「在日朝鮮人による密入国の歴史」
http://www.geocities.jp/takarabune321/korea.htm
在日朝鮮人ー大半は自由意志で渡航
日本に徴用で来日し、日本に残留した朝鮮人の数は245人
在日の99.9%は徴用とは関係が無い

強制連行という言葉は朝鮮総連の活動家によって作られました

終戦直後(1945年)の日本には、朝鮮人が約200万人いましたが、翌年の(1946年)には60万人にまで減っています。
つまり約140万人はすべて帰国

さらに朝鮮総連は、1959年から帰国運動を大々的にやっており、この際に10万人が朝鮮半島に帰国しました。
しかし、朝鮮半島の経済状況が悪かったこともあり、その後の帰国事業は失敗し、在日が日本に居座るための理由が必要になりました。
そのときに作られた言葉が「強制連行」です。善良な朝鮮人を農作業中にトラックに詰め込み日本に拉致したという作り話です。
この言葉は朝鮮総連活動家の朴慶植が書いた本に出てくる話です。

在日は、強制連行がウソであることが知れ渡ると強制連行とは戦時中の徴用のことであるとひそかに定義を変更し、
トラック連行説との違いを曖昧にするために「強制徴用」という言葉を作り上げました。

(朝鮮人による密入国事件一覧) 〜強制連行のウソ
 「朝鮮人密航」に関する新聞記事・・・ 「密航」の検索結果 1件目から 599件目を表示しています。

・『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・兵庫 【社会】
・『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏/労働者には不似合の所持品が不審』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】
・『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡航】
・『ブロ−カ−の手で密航する鮮人が多い/大部分は山口福岡両県に上陸/北九州一帯では特に警戒を厳にして居る』 九州日報 1923/4/17 〔1/5〕 ・福岡・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『潜入を企つ/立神丸に忍んで(舞鶴〜元山定期航路・立神丸で自称島根県人が密航企図。「不逞鮮人」と連絡ある者と見込み取調中)』 大阪朝日 1924/4/20 京附 〔1/9〕 舞鶴・京都 【警備】
・『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人渡来制限撤廃/密航は取締る』 福岡日日 1924/6/7 〔1/7〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人』 門司新報 1924/7/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『極左傾の不逞鮮人が日本へ密行した/手配が廻つて警視庁活動(青山爆弾事件。在ウラジオストクの活動家が日本に密航した形跡があるという朝鮮総督府の打電により活動開始)』 京都日出 1924/8/15 〔〕 東京・東京 【警備】
・『巧妙な鮮人の密航/当局も取締りに悩まさる』 京城日報 1925/5/15 〔3/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人労働者を内地へ密航させる/大仕掛な企て暴露』 京城日報 1925/5/21 〔3/6〕 ・朝鮮 【渡航】
・『四十二名の密航者検挙/第一回の小手調べ/募集人は厳重処分』 京城日報 1925/10/11 夕 〔5/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『労働者釣りの悪玉縮み上る/密航者は次第に減少の傾向がある』 京城日報 1925/10/16 〔6/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『鮮人丗五六名を乗せた奇怪な密航船来る/白木署に上陸して行衛不明/其筋では頗る重大視(門司市)』 福岡日日 1926/3/12 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『小発動機船で鮮人の密航団/三十名釜山から門司に上陸し行方を晦す』 大阪毎日 1926/3/14 夕 〔2/5〕 門司・福岡 【渡航】
・『長さ四間の発動機船で/鮮人三十余名密航す/氏名も目的も行先も判らぬ/時節柄厳戒を加ふ』 中国 1926/3/14 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『密航鮮人一部発見さる/小倉駅頭にて(小倉市)』 福岡日日 1926/3/14 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団を発見/同勢三十六名の内/十六名を捕へて送還』 中国 1926/3/23 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7 朝鮮朝日 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『大胆な鮮人団帆船で密航/玄海を横切って鐘崎へ/福岡署に知れて取調らる(宗像郡岬村)』 福岡日日 1926/4/11 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団鮮人取押へらる』 大阪毎日 1926/4/16 〔11/7〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十余名の密航船/下関で発見』 京城日報 1926/4/17 〔3/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17 朝鮮朝日 〔〕 宇和島・愛媛 【渡航】
・『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航団/又また津屋崎へ上陸す(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1926/4/21 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29 〔5/9〕 下関・山口 【渡航】
・『又も鮮人の密航団/山口へ六十名』 福岡日日 1926/4/29 〔1/2〕 山口・山口 【渡航】
・『六十名の密航団/山口県の北海岸で発見』 京城日報 1926/4/30 夕 〔2/4〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県三百名(東宮行啓を控え県警察部は漫然渡航者を乗船地で阻止しているが、密航を企てる者も増加。近頃も大津郡深川村に60名上陸)』 京都日出 1926/4/30 〔〕 長門・山口 【渡航】
・『大密航バレる』 大阪朝日 1926/5/1 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人が帆船で渡っても密航でない、つまらぬ取締りをされては思想上面白くないと朝鮮総督府から横槍』 神戸新聞 1926/5/3 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『又も糸島に密航団/朝鮮から渡航六十余名(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1926/5/4 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航者団逮捕/下関水陸両署活動/時節柄とて重大視す』 中国 1926/5/26 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しい鮮人密航者/夜陰に乗じ門司海岸に上陸/大部分を取押へ取調中』 神戸新聞 1926/5/29 〔8/4〕 門司・福岡 【社会】
・『大里に又密航団/十九名の鮮人(門司市)』 福岡日日 1926/5/29 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団逮捕/募集した鮮人男女を/売り飛ばすつもり』 中国 1926/6/6 〔〕 徳山・山口 【渡航】
・『密航者体裸で泳ぐ/鮮人が陸岸目蒐けて/泳ぎ上つた処を引捕ふ(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1926/6/12 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『鮮人青年が密航企つ/上海から乗船』 神戸新聞 1926/6/20 〔8/10〕 神戸・兵庫 【社会】
・『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14 朝鮮朝日 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮から五六十名/御大喪に参列さしたい/不逞団の取締は厳重にする/湯浅総監下関で語る(浦塩或は上海方面から密航、十分警戒)』 大阪毎日 1927/1/15 朝鮮 〔9/2〕 下関・山口 【警備】
 ・『警備船で密航者取締』 京城日報 1927/2/24 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
 ・『三名の鮮人怪漢繋留中の発動船を盗み出す/機関長を脅迫して運転を初め舵を操り沖合に逃げ去る(内地密航鮮人の所為と睨み厳重捜査中)』 大阪毎日 1927/3/2 朝鮮 〔9/3〕 釜山・朝鮮 【窃盗】
 ・『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3 朝鮮朝日 〔〕 豊浦・山口 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/下関吉見海岸に上陸(山口県吉見村)』 九州日報 1927/3/7 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人丗四名内地へ密航途中暴風にあひ対馬に漂着す』 大阪毎日 1927/3/8 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪帆船の中から百名の密航者現はる/下関市外吉見海岸で発見され釜山へ送還さる』 京城日報 1927/3/9 〔7/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航発覚頻々(吉見村)』 大阪毎日 1927/3/11 朝鮮 〔9/8〕 ・山口 【渡航】
・『密航団また捕はる』 京城日報 1927/4/8 夕 〔6/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブロ−カ−鮮人/取押へらる(糸島郡前原町)』 九州日報 1927/4/15 〔1/5〕 前原・福岡 【犯罪】
・『船底に潜む怪鮮人/密航者と判る』 神戸新聞 1927/4/16 夕 〔2/8〕 敦賀・福井 【社会】
・『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20 朝鮮朝日 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十名を内地へ密航させんとした四人捕はる』 大阪毎日 1927/4/27 朝鮮 〔10/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>密航幇助で取調べ』 京城日報 1927/5/10 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『検挙された富士丸/三回に亘つて密航/犯行を自白す』 京城日報 1927/5/19 〔4/1〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団を利用し一儲け志願オヂヤン』 京城日報 1927/5/19 〔7/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人が/積み帰さる』 大阪朝日 1927/5/20 朝鮮朝日 〔〕 芦屋・福岡 【渡航】
・『密航鮮人少年を/船中で殺害か/伏木入港の鮮海丸の怪事』 北國 1927/7/8 〔5〕 伏木・富山 【社会】
・『三人組の密航詐欺/横浜水上署で検挙す』 京城日報 1927/7/20 夕 〔2/8〕 横浜・神奈川 【渡航】
・『米国の母を尋ねて密航した十四歳の鮮童/新聞売子をして苦学した果/アリゾナ号にて送還さる』 福岡日日 1927/7/30 夕 〔1/2〕 横浜・神奈川 【社会】
・『密航者送還(支那労働者)』 京城日報 1927/8/2 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慶尚南道/女房に化けて内地へ密航/際どい処で発見さる』 京城日報 1928/1/19 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『三鮮人密航/石炭庫にひそんで』 福岡日日 1928/1/25 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人難破し西戸崎で救はる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1928/2/19 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『十一名の密航者送還せらる』 大阪毎日 1928/2/21 朝鮮 〔9/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『北日本汽船の「以智丸」が多数の密航鮮人を乗せて神戸に帰る/水上署、厳重取調べの歩を進む』 神戸新聞 1928/3/6 夕 〔2/4〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『船長が首謀で鮮人を密航させる/一人から十一円とった/南鮮航路の以智丸』 大阪毎日 1928/3/6 〔7/9〕 神戸・兵庫 【社会】
・『背任罪その他の罪名で三名を司法係りに/以智丸鮮人密航事件』 神戸新聞 1928/3/7 夕 〔2/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航の鮮人(門司市)』 福岡日日 1928/6/29 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『帆船で内地密航/三十余名の一団で』 京城日報 1928/9/12 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しまれた密航の鮮人/手続不備と判る』 神戸又新日報 1928/9/29 〔5/8〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『鮮人の密航/対州からが多い』 福岡日日 1928/10/12 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『支那人の密航を企つ/発動汽船で準備中を/釜山水上署で検挙』 京城日報 1928/10/25 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を種に/詐欺を働く』 大阪朝日 1928/11/28 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航料三百円/支那人から捲上げる』 京城日報 1928/11/29 〔5/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『長崎県(対馬)対州にて密航鮮人/五名発見さる』 福岡日日 1929/1/25 夕 〔1/2〕 ・長崎 【渡航】
 ・『石炭庫内に密航鮮人/横浜から大阪へ』 大阪毎日 1929/1/29 夕 〔2/4〕 大阪・大阪 【社会】
・『密航支那人失敗して送還/草梁からぬけ出し福岡で上陸禁止』 京城日報 1929/1/30 〔7/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪朝鮮少年/密航成功を申立つ(門司)』 門司新報 1929/3/20 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航して内地見物』 京城日報 1929/3/27 〔4/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航鮮人/西唐津で発見』 福岡日日 1929/4/10 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『内地に密航し/送り還さる』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航を企つ』 大阪朝日 1929/4/11 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『旱害農民の/生血を吸ふ/内地密航の悪周旋業者』 大阪朝日 1929/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮人四十名山口県へ密航/上陸し捕はる』 大阪朝日 1929/5/2 夕 〔2/9〕 豊浦郡・山口 【密航】
・『内地へ密航/張本人捕る』 京城日報 1929/5/3 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<全羅南道>命懸けの内地密航/無人島に集り帆船で』 京城日報 1929/5/10 〔4/13〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『五十余名内地へ密航/仮泊中捕る』 京城日報 1929/5/13 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人二十六名内地密航/西戸崎を徘徊(粕屋郡志賀島村)』 門司新報 1929/5/14 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地密航者/卅名送還さる』 大阪朝日 1929/5/17 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山から密航した挙動不審の二鮮人、きのふ長城丸で水上署員に発見/同署で引続き取調中』 神戸新聞 1929/5/28 〔5/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航者と/誤られて/福岡県から釜山へ送還さる』 大阪朝日 1929/5/28 南鮮 〔〕 前原・福岡 【渡航】
・『内地官憲と/協力し/朝鮮人の密航を極力ふせぐ』 大阪朝日 1929/6/4 朝鮮朝日 〔〕 ・日本 【渡航】
・『鮮人密航者/十五名上陸/糸島海岸に(糸島郡北崎村)』 九州日報 1929/6/25 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『姪浜海岸に密航鮮人/十八名上る』 福岡日日 1929/6/29 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航専門の怪発動汽船/船長等遂に捕はる』 京城日報 1929/7/8 〔3/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『石炭庫の中の密航者二名/新舞鶴で検挙(島谷汽船大成丸で木浦から敦賀へ密航企図)』 大阪朝日 1929/7/11 京版 〔9/7〕 舞鶴・京都 【渡航】
・『密航鮮人廿五名山林に潜伏中を取押へらる(遠賀郡島郷村)』 福岡日日 1929/8/4 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人廿五名の密航団押へらる/妙齢の婦人や社会主義青年/遠賀郡下の海岸で(遠賀郡島郷村)』 九州日報 1929/8/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十四五名捕はる/姪浜海岸で』 九州日報 1929/8/12 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人十三名密航して捕はる』 福岡日日 1929/8/12 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者一杯喰ふ』 京城日報 1929/8/31 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を/企てた一味/十余名検挙』 大阪朝日 1929/8/31 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地に密航鮮人検挙』 大阪毎日 1929/8/31 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航の/帆船が/時化に遭ひ/全部救はる』 大阪朝日 1929/9/12 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人多数溺死か/内地への密航中遭難す(対馬比田勝沖)』 大阪毎日 1929/9/13 〔7/9〕 上県郡・長崎 【渡航】
・『遭難の/密航者/送り還さる』 大阪朝日 1929/9/14 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人(神戸へ送還)』 大阪毎日 1929/9/28 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航常習者/出発間際に逮捕』 京城日報 1929/10/5 〔4/2〕 南海郡・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に/飛行機/利用せんとして取押へらる』 大阪朝日 1929/10/24 西北 〔〕 慶州・朝鮮 【渡航】
・『強ひて罪人にして鮮人少年を保護さす/複雑な家庭の事情から死出の旅の密航哀話』 大阪朝日 1929/11/21 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人少年/船で使ってくれと哀願す』 大阪毎日 1929/11/21 神毎 〔9/7〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航鮮人十数名取押へらる(門司市)』 福岡日日 1929/12/25 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航上陸の十三鮮人/それゞゝに斡旋(門司)』 門司新報 1929/12/26 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十九名西戸崎に上陸し寒さにふるふ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1929/12/27 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『関釜連絡船で怪しい鮮人/密航を企て逮捕さる』 大阪毎日 1929/12/29 朝鮮 〔9/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『寒風にふるえて鮮人の密航団/叉もブローカーに騙される/発動船で玄海横断(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/1/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『内地渡航を望む鮮人を食物にする不正船員/叉も密航団十二名下関に現る/怪発動船の行方を厳重捜索』 福岡日日 1930/1/8 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航卅八名逆戻り』 京城日報 1930/1/9 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船の行方捜査』 京城日報 1930/1/10 〔4/2〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『卅二名の密航団送還』 京城日報 1930/1/11 〔4/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二鮮人の密航』 門司新報 1930/1/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『西戸崎に密航鮮人/子供を混つて十数名』 九州日報 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団十三名を発見(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/2/13 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人八十八名を逮捕/遠賀郡岡垣村に上陸/炭坑方面に潜入(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1930/3/5 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『又も鮮人密航/けさ、西公園へ三名』 九州日報 1930/3/19 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『多数の密航鮮人/西公園付近から上陸し三十名は検挙さる』 福岡日日 1930/3/19 夕 〔1/4〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も西戸崎鮮人密航(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『姪浜にも密航鮮人(早良郡姪浜町)』 福岡日日 1930/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航超特作/マストの先端に隠る』 京城日報 1930/5/2 〔4/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『命がけの密航/関釜連絡船の数十尺の/マストによぢ登り』 大阪朝日 1930/5/2 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『<慶尚南道>生血を吸ふ悪ブローカー/内地密航を種にして近く大々的検挙する』 京城日報 1930/5/3 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十八名を密航させて/手数料を取った/三名遂に捕る』 大阪朝日 1930/5/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『雑魚寝の密航鮮人/六名門司老松公園に』 九州日報 1930/5/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人九名密航/発動機船に便乗』 門司新報 1930/5/14 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航支那人送還(朝鮮の草梁海岸から門司に上陸)』 京城日報 1930/5/20 〔4/4〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人を/船中で脅迫/所持金を全部巻上ぐ/海賊動揺の密航ブローカー』 大阪朝日 1930/5/21 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『潜航、密航斡旋の首犯原田捕はる/一味の蛭子丸船員も悉く検挙さる』 大阪毎日 1930/5/22 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1930/6/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航を企て/大時化に逢ふ』 大阪朝日 1930/6/17 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人泣く/飲まず食はずに』 福岡日日 1930/8/25 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航労働者を/脅迫の船長らに/それぞれ懲役を求刑』 大阪朝日 1930/10/16 西北 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の鮮人/七尾で保護さる』 北國 1930/11/19 夕 〔2〕 七尾市・石川 【渡航】
・『朝鮮人四十三名/内地密航を企つ/漁業会社の船員と詐称/下関入港発見さる』 大阪朝日 1931/2/27 広島 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航団/鮮魚運搬船へ潜伏/下関署に発見さる(川尻町で漁業従業のため雇入れて来たものと訂正あり、三月一日付け記事)』 中国 1931/2/27 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『四十三名の鮮人密航/下関入港の機帆船にて』 門司新報 1931/2/27 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『男女三十九名が/密航詐欺にかかる/犯人は姿を晦ます』 大阪朝日 1931/3/12 南鮮 〔〕 対馬・長崎 【渡航】
・『欺かれた鮮人密航団/四日間玄界灘を漂流し厳原で置き去らる』 大阪朝日 1931/3/19 夕 〔2/7〕 長崎・長崎 【密入国】
・『石炭庫にかくれていた/密航者発見さる/怪しいトランクを所持』 中国 1931/3/25 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『丗名の密航者又朝鮮から/花見酒宴中の騒ぎ(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/3/31 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『四十二名の鮮人密航/中には甘い道行きもある』 門司新報 1931/4/1 〔1/5〕 ・山口 【渡航】
・『密航の朝鮮女に鮮人土工連が暴行/説得する親方等を負傷さす/女房にすると頑張て』 福岡日日 1931/4/10 〔1/3〕 ・佐賀 【社会】
・『朝鮮人の密航団/一人あたり十五円の料金で/三十二人山口県へ』 中国 1931/4/30 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名の上陸』 門司新報 1931/5/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『丗六名の密航鮮人糸島の北崎海岸に上陸/前原署で取調の上送還(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1931/5/17 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航の二鮮人』 大阪朝日 1931/5/27 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航発見さる』 大阪毎日 1931/5/27 神毎 〔9/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『下関署で/密航鮮人/厳重取締る』 大阪朝日 1931/6/13 南鮮 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮を本拠に密航の周旋/不正の戸籍謄本を所持した男の口から暴露す』 神戸新聞 1931/6/22 〔7/5〕 神戸・兵庫 【社会】
・『全鮮に網を張る密航の大周旋団/内地居住朝鮮人の謄本を盗用/本拠を仁川に置く』 大阪朝日 1931/6/22 神版 〔9/6〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『西戸崎に密航鮮人(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1931/6/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人領事館へ自首(在神戸)』 大阪朝日 1931/7/4 神版 〔9/7〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『密航鮮人二十三名発見さる(早良郡藤島村)』 福岡日日 1931/7/7 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿八名の鮮人若松に密航(若松市)』 福岡日日 1931/8/17 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『夫恋ひしさに鮮人密航(糸島郡北崎村)』 九州日報 1931/8/18 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航』 福岡日日 1931/8/20 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『三日不飲不食の密航二人鮮人(門司)』 門司新報 1931/11/22 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『朝鮮人二十三名密航/糸島へ上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1931/12/4 〔1/7〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『鮮人内地密航団/釜山に送還さる』 大阪朝日 1932/3/3 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航団/釜山で検挙』 大阪朝日 1932/3/13 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十余名の密航鮮人/北崎と志賀島に』 福岡日日 1932/3/29 夕 〔1/2〕 糸島郡、福岡・福岡 【渡航】
・『朝鮮から十四名発動船で密航/小倉海岸に上陸す(門司)』 門司新報 1932/3/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『神天丸に密航者(大阪摂津汽船)』 大阪朝日 1932/4/2 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人二十五名小戸海岸に上陸/九名は行方不明』 福岡日日 1932/4/3 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も廿二名の鮮人密航団(門司市)』 福岡日日 1932/4/8 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航者十五名/門司駅で捕はる(門司)』 門司新報 1932/4/9 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船による/内地への密航/最近またも増加す』 大阪朝日 1932/4/12 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『頓に劇増した鮮人の内地密航/一月以降千名に上らん』 門司新報 1932/4/14 〔1/5〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の/内地密航/絶滅計画』 大阪朝日 1932/4/26 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『又も戸畑に鮮人の密航/内三名を門司水上署で逮捕(門司)』 門司新報 1932/4/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『最近非常に多い鮮人の内地密航/発見護送された者の外潜入した者もかなり多数(門司市)』 福岡日日 1932/5/13 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『発動船で密航の鮮人十九名/門司市大久保に上陸(門司)』 門司新報 1932/5/13 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『取締上厄介千万な朝鮮人の内地密航/内鮮協力して研究/池田総督府警務局長語る』 福岡日日 1932/5/14 〔1/4〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十名/豊浦郡へ上陸』 門司新報 1932/5/15 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十名の密航鮮人』 福岡日日 1932/5/16 〔1/3〕 ・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/不逞の徒の潜入を警戒し福岡県警察部大緊張(糸島郡福吉村)』 福岡日日 1932/5/25 〔1/3〕 ・福岡 【渡航】
・『八十五名の密航鮮人/門司水陸両署大活動開始(門司)』 門司新報 1932/5/25 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大仕掛の/密航ブローカー/釜山で検挙される』 大阪朝日 1932/5/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大検挙/昨朝下関両署が』 門司新報 1932/6/3 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『又も密航鮮人十一名神ノ湊海岸に上陸 東郷署に連行取調べ 首謀者二名も逮捕(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1932/6/4 夕 〔1/2〕 宗像・福岡 【渡航】
・『五人連の鮮人/丗余名の密航一味と判る(門司市)』 福岡日日 1932/6/5 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『また下関へ鮮人密航/一部は逃走す』 門司新報 1932/6/11 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『不穏文書を持った密航鮮人/新韓会幹部からの重要指令/下関署色めく(山口県川中村)』 九州日報 1932/6/12 〔1/7〕 下関・山口 【共産主義】
・『密航の検挙から鮮人の陰謀暴露/朝鮮独立運動の不穏文書現れ/下関署異常な緊張』 門司新報 1932/6/12 〔1/5〕 下関・山口 【民族運動】
・『又々九名の密航鮮人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1932/6/14 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航団三十余名/釜山で検挙/ブローカー二名も取押へ』 大阪朝日 1932/8/7 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航団又も姿を現はす/昨日門司日野海岸に(門司)』 九州日報 1932/8/30 〔1/4〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航者/時節柄門水署大活動(門司)』 門司新報 1932/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『「赤手」防御の陣/但馬海岸を警戒/朝鮮方面の密航者に備ふ/警官十名を増派し』 大阪朝日 1932/10/16 神版 〔1/13〕 城崎郡・兵庫 【警戒】
・『下関方面に続々鮮人密航す/陸軍大演習を前に/愈よ警戒を固む』 福岡日日 1932/11/1 〔1/3〕 下関・山口 【警備】
・『大演習を機に鮮人不穏計画/発動機船で密航下関署に挙らる』 九州日報 1932/11/5 〔1/7〕 下関・山口 【警備】
・『密航鮮人取押表彰(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1932/11/13 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『労働者の/内地密航/を企て一味検挙さる』 大阪朝日 1933/1/20 南鮮 〔〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『証明書を偽造/鮮人の密航』 門司新報 1933/2/3 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『大規模な内地密航/釜山で捕はる』 大阪毎日 1933/2/5 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三名発見送還さる/他の一味を捜査中』 福岡日日 1933/2/10 夕 〔1/2〕 下関・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の方割れ捕はる/門司水上署員に(門司)』 門司新報 1933/2/10 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『十六名の密航鮮人/五名発見送還される(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/2/21 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『神ノ湊に密航鮮人/十九名上陸(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1933/3/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『夜雨を衝いて密航鮮人/大捕物の幕』 福岡日日 1933/3/28 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三十名/又も糸島へ上陸(糸島郡加布里村)』 福岡日日 1933/3/29 夕 〔1/2〕 前原・福岡 【渡航】
・『密航鮮人送還(糸島郡前原町)』 九州日報 1933/3/30 〔1/7〕 前原・福岡 【犯罪】
・『密航者満載の/怪船捕はる/僅か十五トンの小舟に/密航者六十六名潜伏(福岡へ)』 大阪朝日 1933/4/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を企て難破す』 大阪毎日 1933/4/9 朝鮮 〔5/5〕 浦項・朝鮮 【渡航】
・『警戒網を潜る密航鮮人/門司水上署手配(門司市)』 福岡日日 1933/4/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/4/12 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『子供も交つて十三名が密航/下関署に一網打尽』 門司新報 1933/4/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮人の密航周旋/二人共謀して手数料をとる』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 宇部・山口 【渡航】
・『二鮮人密航』 大阪毎日 1933/4/17 西部 〔7/13〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『下関にも密航鮮人現はる(山口県川中村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『またも鮮人の密航/糸島海岸に上陸(糸島郡芥屋村)』 九州日報 1933/4/22 夕 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1933/4/22 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『八名の密航/釜山で逮捕』 大阪毎日 1933/4/30 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人十二名』 福岡日日 1933/4/30 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人/十一名中一名逮捕』 福岡日日 1933/5/10 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿三名の密航鮮人逮捕』 福岡日日 1933/5/13 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人/けさ西戸崎にて十五名取押へらる(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/5/24 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又復密航鮮人』 福岡日日 1933/5/31 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『またも密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1933/6/7 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十余名の大密航/釜山で検挙』 大阪毎日 1933/6/10 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四名/吉隈坑で逮捕』 大阪毎日 1933/6/11 西部 〔6/6〕 嘉穂郡桂川町・ 【渡航】
・『鮮人十七名またも密航』 福岡日日 1933/7/11 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 門司新報 1933/7/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『六百円を盗んで靴の下にかくして密航』 福岡日日 1933/7/16 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航ブローカー二名検挙さる』 大阪毎日 1933/8/27 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『赤の密航、新潟港で監視』 社会運動通信 1933/9/16 〔2/5〕 新潟・新潟 【治安】
・『十数名の鮮人密航』 福岡日日 1933/10/4 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『下関に密航鮮人』 門司新報 1933/11/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山から釜山へ/喜劇“内地密航”/一人十五円宛絞られ/馬鹿を見た十一名』 大阪毎日 1933/11/24 朝鮮 〔?/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団三十一名/ブローカー四名も検挙』 大阪朝日 1933/11/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人をつんだ怪発動機船(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/7 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『炭坑景気を慕ひ/鮮人密航最近相つぐ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1933/12/22 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1933/12/30 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『 「景気」に釣られた鮮人五十名/密航して捕はれすぐさま送還(宗像郡岬村)』 福岡日日 1934/1/16 〔1/3〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の上陸を厳重監視/前原署の取締(糸島郡芥屋村)』 福岡日日 1934/1/19 〔1/3〕 糸島郡・福岡 【警備】
・『三十名中の密航鮮人六名/門司で検挙』 福岡日日 1934/1/26 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人の密航/二十二名補る』 九州日報 1934/3/3 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『朝鮮人の密航者/各方面へ潜入/済州島で手数料をとり斡旋/中の四名は検挙さる(岩白石粉工場)』 芸備日日 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『密航珍風景/門司に辿りついた七勇士?』 大阪毎日 1934/3/4 朝鮮 〔5/9〕 北九州市門司区・福岡 【渡航】
・『密航鮮人三名/木ノ江町で発見された(岩白石粉工場)』 中国 1934/3/4 〔〕 木江・広島 【渡航】
・『十円廿円で鮮人に密航周旋/主魁下関署に捕はる』 門司新報 1934/3/20 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『糸島今津海岸に密航鮮人八名(糸島郡今津村)』 福岡日日 1934/3/21 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『警官も舌を巻いた/新手の密航法/ナンセンス偽狂人』 大阪毎日 1934/3/22 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航の青年、朝鮮から二名』 大阪朝日 1934/3/31 神版 〔4/19〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『六十名の密航団/渡航料一人四円づゝ徴収して出帆の間際検挙さる』 大阪毎日 1934/4/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『丗余名の鮮人が密航/下関で検挙』 門司新報 1934/4/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『宇部に密航鮮人』 九州日報 1934/4/18 〔1/7〕 宇部・山口 【渡航】
・『間一髪/取押へた密航者百名/赤崎半島から内地へ』 大阪朝日 1934/4/18 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも下関へ鮮人が密航す』 門司新報 1934/4/18 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】


・『密航首謀者/海中に姿を晦す/寸前警官隊に追はれ/密航料を握ったまま』 大阪朝日 1934/4/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/検挙が端緒に/釜山署警官不正事件』 大阪朝日 1934/5/10 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『一人十円で朝鮮人の密航/下関に上陸して発見』 門司新報 1934/5/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人か/阿品海岸へ発動船/十数名夜陰に上陸』 中国 1934/5/16 〔〕 廿日市・広島 【渡航】
・『朝鮮の大密航団/広島県特高課と加計署が/検挙に大活動を開始(下山発電所の間組飯場)』 中国 1934/5/18 〔〕 ・広島 【渡航】
・『五十名の密航者/発見され逃走』 大阪毎日 1934/5/24 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またも鮮人が下関に密航』 門司新報 1934/5/24 〔1/5〕 下関・福岡 【渡航】
・『下関市外に鮮人の密航頻々/六十余名を検挙』 福岡日日 1934/6/2 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『一人十円で密航の斡旋/門司で主魁御用(門司)』 門司新報 1934/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『着流しの朝鮮人/何と堂々と密航/気狂ひを装ふ手もある/“釜山ケ関”の富樫も顔負け』 大阪毎日 1934/6/21 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五十名の密航団/部落民の応援で遂に逮捕』 大阪朝日 1934/6/26 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を世話し航海中に巻上ぐ/恐ろしいブローカー逮捕さる』 大阪毎日 1934/6/27 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六十余名の/密航団捕る/漕ぎ寄せた密航船長/ブローカーら四名も』 大阪朝日 1934/6/30 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/またも検挙』 大阪朝日 1934/7/5 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地人に化け鮮人が密航』 門司新報 1934/7/10 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人六名検挙さる(門司市)』 福岡日日 1934/7/30 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の鮮人四十名上陸/広島方面に潜入の形跡/門司では二人を逮捕(門司)』 門司新報 1934/7/30 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸』 門司新報 1934/8/2 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者泣かせのブローカの一団/一味十名逮捕さる』 大阪毎日 1934/8/3 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人三十名上陸』 門司新報 1934/8/21 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人発見』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『臭ひ密航(門司)』 門司新報 1934/8/26 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『八幡へ密航鮮人(八幡)』 門司新報 1934/8/30 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『門司和布刈へ鮮人が密航/門司署憲兵隊で十九名逮捕/逃亡者目下捜査中(門司)』 門司新報 1934/9/2 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還(下関の彦島より)』 大阪朝日 1934/9/28 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『慰問金を割き密航料を払ふ/下関で発見された三十二名連絡船で送還さる』 大阪毎日 1934/9/28 朝鮮 〔5/7〕 下関・朝鮮 【渡航】
・『密航の阻止にブローカー掃蕩/水害罹災者を口車に乗せて絞り取る奸策』 大阪毎日 1934/10/7 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大征伐に着手/跋扈いよいよ甚だし』 大阪朝日 1934/10/20 南鮮 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『卅余名密航談/またも捕る』 大阪朝日 1934/10/24 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『月明の海上で密航船捕り物陣/三十余名を逮捕』 大阪毎日 1934/10/25 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の密航/志賀島に二十九名上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1934/11/2 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航船転覆し三十余名溺死/三トンの帆船に六十余名/玄界灘闇夜の風浪で』 大阪朝日 1934/11/21 夕 〔2/5〕 釜山・朝鮮 【密航】
・『密航の朝鮮人三十余名溺死/遭難曳船中に沈没』 大阪毎日 1934/11/21 夕 〔2/1〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『憧れの内地へ、が生む密航の悲劇/玄海を越える月百名の潜航者/頭を悩ます取締当局』 大阪毎日 1934/11/22 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『広島市を中心に鮮人大量の密航/県特高課、俄然動き/昨夜首魁ら一斉検挙』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『無知を利用し/種々な奸策/阻止する当局の眼を逃れて/鮮人密航事件余聞』 芸備日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮からの密航者/首魁等百八十名検挙/県特高東西両署特高課/昨夜から今暁への大捕物』 呉日日 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『首魁遂に捕る/多数を内地に密航させた大掛り鮮人密航団』 神戸又新日報 1934/11/29 〔7/7〕 広島・広島 【渡航】
・『県下に上陸した/多数の密航朝鮮人/下関で借りた発動機船に/百五十名乗せて玖波港へ(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 大阪朝日 1934/11/29 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人密航団へ/一斉に大手入れ/広島県警察部が/県下各警察署を督励(大竹海岸埋立工事や可部鉄道工事場)』 中国 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『汽船を傭ひ切って/鮮人の大密航/金を巻きあげ素裸かにし/トラックで工事場へ売る』 中国日報 1934/11/29 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人を密航させ濡手に粟の儲け/六名が共謀して広島に多数潜入さす』 福岡日日 1934/11/29 〔1/3〕 ・広島 【渡航】
・『二百名の大量密航/広島県へ鮮人が潜入』 門司新報 1934/11/29 〔1/5〕 ・広島 【渡航】
・『広島県下密航鮮人/引続き検挙/今後徹底的取締り』 芸備日日 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航者の取調/各飯場を捜査(可部線)』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『本県にも張る/密航警戒網/先づ漁業組合と連絡』 大阪朝日 1934/11/30 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海上にも怖い目/内地密航者を徹底的に取締る/警察網も大に拡充』 大阪毎日 1934/11/30 朝鮮 〔5/3〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1934/11/30 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『見張が厳重で/密航者広島へ転向/福岡山口両県へ見切りをつけて/県当局密航防止に大童は』 呉日日 1934/12/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の第二次検挙/更に十三名を発見/可部署は満員すし詰(可部線)』 芸備日日 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『またまた密航鮮人/十四名を検挙/安佐郡飯室付近で/なほ数十名もゐる(可部線)』 中国 1934/12/2 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十数名を/第一次に送還/警官十数名を乗り込ませ/七日に広島港出帆』 中国 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人の/第二次検挙/更に十三名を発見(可部線工事場)』 中国日報 1934/12/4 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『モダーン留置場/いよいよ店開き/最初のお客さんは密航鮮人(可部線)』 芸備日日 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『慌てちゃいけない/便器で洗面/モダン留置場に入れられ/大喜びの密航朝鮮人(可部線)』 大阪朝日 1934/12/5 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『県庁留置場へ/いと賑々しく初のお客様/例の鮮人密航団』 中国 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人五十名/先づ故国へ送還/更に全面的に検挙』 中国日報 1934/12/5 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『門司雨ヶ窪へ密航鮮人上陸/何れも悪船頭に欺されて(門司)』 門司新報 1934/12/5 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪朝日 1934/12/7 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『とてもものものしい/密航鮮人の送還/警護の警察官へは/拳銃も携帯さして』 中国 1934/12/7 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『帰りは大っぴらに/ピストル警官隊に護られて/密航鮮人団の送還』 中国 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『物々しく警戒/密航鮮人送還/拳銃も携帯さして/船内の暴動化をも』 中国日報 1934/12/8 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『内地密航送還さる/高興の五十七名』 大阪毎日 1934/12/11 朝鮮 〔5/10〕 高興・朝鮮 【渡航】
・『鮮人四十名密航/若松に上陸』 九州日報 1934/12/12 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『若松築港へ密航鮮人(若松)』 門司新報 1934/12/12 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『下関市外へ密航鮮人』 門司新報 1934/12/13 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『二度目の密航/香川県の発動船』 大阪朝日 1934/12/16 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人下関市外へ上陸』 門司新報 1934/12/19 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『四十四名の鮮人密航(小倉市)』 福岡日日 1934/12/27 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『貨物船に隠れて/朝鮮青年の密航/吉浦に入港検閲中に発見/身柄を大阪税関に』 中国日報 1935/1/19 〔〕 呉・広島 【渡航】
・『今津海岸に密航鮮人(糸島郡今津村)』 福岡日日 1935/2/14 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/頻りに暗躍』 神戸新聞 1935/2/16 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『又も密航/ブローカー捕る』 大阪毎日 1935/2/28 朝鮮 〔7/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人又も密航』 福岡日日 1935/3/1 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人西公園下に上陸』 福岡日日 1935/3/6 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/三田尻署へ』 中国 1935/3/10 〔〕 三田尻・山口 【渡航】
・『密航鮮人に/光る鋭い眼/思想的黒幕あるか』 中国日報 1935/3/11 〔〕 広島・広島 【警備】
・『発動機船満載の/密航団捕はる/釜山水陸両署の活動』 大阪朝日 1935/3/20 南鮮 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『またまた大懸りな/密航鮮人募集計画/検挙に大活動開始』 中国 1935/3/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1935/3/24 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航の土方(帝国人絹三原工場建設)』 中国 1935/3/25 〔〕 三原・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる』 芸備日日 1935/3/27 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大規模な鮮民の/団体密航計画暴露/危機一髪宇品署に検挙さる/驚くべきその全貌』 中国日報 1935/3/28 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『性懲りなき密航鮮人』 福岡日日 1935/3/28 夕 〔1/2〕 ・福岡、佐賀、長崎 【渡航】
・『三日間一食もせず/密航鮮人丗名芦屋で捕はる(遠賀郡芦屋町)』 福岡日日 1935/3/29 夕 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『悪ブローカーを厳重に監視/当局の密航者取締』 大阪毎日 1935/4/14 朝鮮 〔5/6〕 ソウル(京城)・朝鮮 【渡航】
・『姪浜小戸海岸に密航鮮人上陸』 福岡日日 1935/4/21 〔1/3〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人』 中国 1935/4/22 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『海のギャング/十四名を密航させる途中短刀を揮ひ裸にす』 大阪朝日 1935/5/1 〔11/8〕 対馬・長崎 【密航】
・『出帆後気づく密航者の取締り/警備船新造を申請』 大阪毎日 1935/6/7 朝鮮 〔5/4〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警察の名で偽電/鮮人が密航企つ(林田)』 大阪毎日 1935/6/13 神版 〔8/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『鮮人の密航/門司を徘徊(門司)』 九州日報 1935/6/17 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『映画もどきで密航者を逮捕/豪勢な主謀者』 大阪毎日 1935/7/11 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『六銭で密航』 大阪毎日 1935/7/21 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『糸島海岸に密航鮮人(糸島郡北崎村)』 福岡日日 1935/8/6 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『またゝゝ密航鮮人/ 釜山署から門水署へ手配(門司市)』 福岡日日 1935/8/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『他人の戸籍謄本を用ゐて密航/鮮人渡来の裏面に怪しい事情の者が多い』 福岡日日 1935/8/24 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『廿名の密航鮮人/釜山の密航団本部から九州へ 時節柄重大視さる(門司)』 九州日報 1935/9/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人四十数名/下水署に捕はる』 門司新報 1935/10/20 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人四十三名/一斉に逮捕(山口県川中村)』 九州日報 1935/10/21 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人五十名』 福岡日日 1935/10/22 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航』 九州日報 1935/11/5 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『「妻が見たい」/哀号・哀号/密航男還さる』 大阪朝日 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『女房恋しさに密航/貨物船に潜伏中発見』 中国 1935/12/7 広島 〔〕 尾道・広島 【渡航】
・『密航朝鮮人/宇品署の取調べで/大胆な組織判明』 大阪朝日 1936/1/23 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人密航団発覚/ブローカーが全鮮に散在/宇品署が手配活動』 中国 1936/1/23 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『鮮人の内地密航/又増加の傾向/ブローカーの手で至極巧妙/一名宇品署員に捕る』 呉日日 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『両県下に潜在する/鮮人の大密航団/陰に踊るブローカーの魔手/宇品署活動を開始』 中国日報 1936/1/24 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『大掛りの密航鮮人/広島県下で発覚』 福岡日日 1936/1/24 夕 〔1/2〕 ・広島 【渡航】
・『小倉に密航鮮人』 九州日報 1936/3/4 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人/門司で五名逮捕(門司)』 九州日報 1936/3/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人捕る/大里松原海岸で/七名逮捕十三名逃亡(門司)』 門司新報 1936/3/9 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大掛りの鮮人密航/約八十名が上陸四十八名を門司署で補ふ(門司)』 九州日報 1936/3/15 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『四十七名の密航鮮人門司で捕はる』 福岡日日 1936/3/15 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『厳戒を潜り大挙密航鮮人/和布刈に七十名上陸(門司)』 門司新報 1936/3/15 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人と判る』 福岡日日 1936/3/20 〔1/7〕 ・大分 【渡航】
・『密航朝鮮少年/水上署に保護』 神戸新聞 1936/3/26 〔6/8〕 神戸・兵庫 【社会】
・『大久保海岸に密航鮮人/一名だけ捕る(門司)』 門司新報 1936/4/19 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人』 福岡日日 1936/4/20 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者の水先案内/鮮人二名を京で取押ふ(東九条上殿田町、玄海灘の密航船に関与)』 京都日出 1936/4/22 〔〕 京都南区・京都 【渡航】
・『百余名の密航を企つ/発動船を借つて』 大阪毎日 1936/4/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人二十七名』 福岡日日 1936/4/25 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名の内四名だけ捕はる/下関署で厳探開始』 門司新報 1936/4/28 〔1/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人(門司市)』 福岡日日 1936/5/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗名香椎に上陸/二名は門司で取押へらる(粕屋郡香椎村)』 福岡日日 1936/5/31 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『釜山へ巧みに連絡/密航鮮人の媒介/発動機船の両船長が結託/一人十円乃至十五円で』 中国 1936/6/6 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人密航船/海上で拿捕(門司)』 九州日報 1936/6/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『無燈火発動船/果して密航鮮人積載/門司港内で拿捕さる(門司)』 門司新報 1936/6/7 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人取締/関門両水署対策協議』 門司新報 1936/6/9 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『救命ボートに/潜んで密航/はるびん丸の怪青年』 大阪朝日 1936/6/14 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカーは船員の留守宅荒し』 大阪毎日 1936/7/21 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1936/7/30 朝鮮 〔5/1〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『半島の密航少年/広島駅前で検挙/他にも数名県下へ潜入』 中国 1936/8/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間捜し廻つた密航ブローカー/隠れ家で逮捕さる』 大阪毎日 1936/9/13 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人の一味数名/宇品署へ検挙/思想的背景も追及(錦華人絹工事場)』 中国 1936/9/18 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『数年間に二千人世話し一万数千円を捲あぐ/十人の妾をもち住所を転々/密航ブローカーの巨頭、犯行自白』 大阪毎日 1936/9/26 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人又も志賀島へ(糟屋郡志賀島村)』 福岡日日 1936/9/30 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカーで二万数千円捲あぐ/釜山水上署が検挙』 大阪毎日 1936/10/23 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航ブローカーの一味を捕ふ/思想犯人として手配中の者/宇品署警官に即賞』 芸備日日 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮人密航の/首魁逮捕/宇品署の手柄』 中国 1936/10/31 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『朝鮮から密航』 中国日報 1936/11/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『徘徊中の密航鮮人』 門司新報 1936/12/5 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人の密航周旋発覚』 九州日報 1936/12/18 〔1/7〕 直方・福岡 【渡航】
・『冷雨を衝いて鮮人六十名密航/彦島田ノ首海岸へ上陸』 門司新報 1936/12/23 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『半島人密航団/宇部に上陸か/下関港では二十名位いが上陸/目下厳重行方捜査中』 芸備日日 1936/12/24 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(若松)』 九州日報 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人十三名を検挙(若松市)』 福岡日日 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(遠賀郡遠賀村)』 九州日報 1936/12/27 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『下関市外海岸へ/多数の密航鮮人!/正月の手薄に乗じて混れ込み/十二名を逮捕、残る一味厳探』 中国 1937/1/5 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『内地密航団八十名検挙/長崎県下で』 大阪毎日 1937/1/7 朝鮮 〔5/10〕 松浦・長崎 【渡航】
・『七十余名の鮮人が密航』 福岡日日 1937/1/9 〔1/7〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の一名/広島で逮捕/盛り場徘徊中宇品署員に』 中国 1937/1/14 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航ブローカー一味を検挙/前科数犯の強者のみ』 大阪毎日 1937/1/17 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『門司に密航鮮人(門司)』 九州日報 1937/1/23 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『大量の密航鮮人/和布刈天ヶ窪に上陸(門司)』 門司新報 1937/1/23 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航を企つ/資産家の息子』 大阪毎日 1937/2/6 朝鮮 〔5/10〕 大邱・朝鮮 【渡航】
・『四十五名の密航鮮人(宗像郡津屋崎村)』 福岡日日 1937/2/24 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『数十名の鮮人を堂々と密航さす/宇部署に十数名引致して極秘裡に取調ぶ』 福岡日日 1937/2/24 〔1/7〕 ・佐賀 【渡航】
・『佐渡航許可証を偽造/密航鮮人に売る/森永巡査懲戒処分に付さる/佐賀県警察界の不祥事』 福岡日日 1937/2/28 夕 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『警官に応援の二人帰途袋叩きに逢ふ/彦島本村鮮人飯場の密航鮮人/下水署で厳重取調べ』 門司新報 1937/3/9 〔1/5〕 下関・山口 【喧嘩】
・『鮮人密航船/門司に上陸(門司)』 九州日報 1937/3/11 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人逮捕/田地を売つてきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人/広島で発見/炭鉱生活に耐えず九州から潜入』 中国 1937/3/12 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『密航鮮人捕はる』 福岡日日 1937/3/18 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1937/3/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航者二名発見』 大阪毎日 1937/3/25 朝鮮 〔5/10〕 上県郡上対馬町・長崎 【渡航】
・『密航鮮人(京都郡行橋町)』 九州日報 1937/3/26 〔1/7〕 行橋・福岡 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1937/3/30 朝鮮 〔5/5〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『深夜の若松へ密航鮮人群上陸/水陸より包囲されその儘逃走(若松)』 門司新報 1937/3/31 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人相手の不良団(門司市)』 福岡日日 1937/4/6 〔1/7〕 北九州・福岡 【社会】
・『密航の癩病鮮人? 三十八名中二十名を検挙/十八名は上陸逃走(門司)』 門司新報 1937/4/6 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『対馬に密航鮮人ブローカー(門司市)』 福岡日日 1937/4/7 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1937/4/8 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『山に逃込んだ密航鮮人/山狩りして引捕ふ(門司市)』 福岡日日 1937/4/21 夕 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『喜多久海岸に密航鮮人三十名/天然痘続発の折柄重大視/逃走者を厳重に捜索(門司)』 門司新報 1937/4/21 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航(門司市)』 福岡日日 1937/4/22 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人(小倉)』 九州日報 1937/5/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『入学証を購入/新手密航鮮人』 門司新報 1937/5/12 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人一網打尽』 福岡日日 1937/5/20 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『二組の密航団/一味六十名検挙』 大阪毎日 1937/6/8 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(江波町埋立工事人夫)』 中国 1937/7/1 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/廿名は行方不明(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/8/31 夕 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『十八名の密航鮮人/東郷署と折尾署で取押へ(宗像郡岬村)』 福岡日日 1937/9/17 〔1/5〕 ・福岡 【渡航】
・『密航鮮人博多湾へ/十一名捕はる(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1937/11/2 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人盗む』 福岡日日 1937/11/20 〔1/7〕 福岡・福岡 【社会】
・『大密航団検挙/ブローカー五名と外に六十六名』 大阪毎日 1937/12/18 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人大量送還』 大阪毎日 1937/12/21 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30 〔1/2〕 ・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団/西戸崎に大挙上陸(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/2/17 夕 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『レプラ患者の密航鮮人団/奈多海岸より上陸(粕屋郡和白村)』 福岡日日 1938/2/17 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『鮮人七十二名西戸崎に密航(粕屋郡志賀島村)』 九州日報 1938/3/3 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3 〔1/2〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人百七十/姪濱小戸海岸に上陸』 九州日報 1938/3/15 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/3/17 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/一味五名を逮捕/風を食つて首魁逃走』 大阪毎日 1938/3/20 朝鮮 〔3/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙/殺人の前科者ら/ブローカー七名を逮捕』 大阪毎日 1938/3/27 朝鮮 〔5/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29 〔1/7〕 福岡・福岡 【渡航】
・『密航者に化け密航船を検挙/船上の大活劇』 大阪毎日 1938/4/3 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『四十数名の密航鮮人(粕屋郡和田村)』 九州日報 1938/4/30 夕 〔1/2〕 糟屋郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2 〔1/5〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『密航者送還』 大阪毎日 1938/5/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『変装して乗込み/密航一味七十一名を逮捕/海中に飛入るものさへあつて/映画さながらの活劇』 大阪毎日 1938/5/18 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21 〔7/6〕 神戸・兵庫 【社会】
・『半島少年が密航』 大阪毎日 1938/5/21 神版 〔12/13〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『意外、密航船は行方不明中の第二照丸と判明/船長らの悪事暴露』 大阪毎日 1938/5/25 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『半島少年仏国への密航を自白』 神戸新聞 1938/5/29 〔7/11〕 神戸・兵庫 【社会】
・『密航一味逮捕』 大阪毎日 1938/6/1 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『警官隊が乗込み密航船内で大格闘/船は沈没、百余名の密航者警備船に救はる』 大阪毎日 1938/6/8 朝鮮 〔5/8〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー/大物が殆ど捕はる/大掛りな密航根を断つ?』 大阪毎日 1938/6/10 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団捕る』 大阪毎日 1938/7/30 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人六十名/八幡署に捕る』 九州日報 1938/8/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1 〔〕 海田・広島 【渡航】
・『鮮人百名密航(小倉)』 九州日報 1938/9/9 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1938/9/22 朝鮮 〔6/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人仲介首魁捕はる/苦心の折尾署に凱歌(門司)』 九州日報 1938/10/14 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人の一味捕はる(門司市)』 福岡日日 1938/10/27 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航船座礁 半島人六十名を乗せた儘/船長は逸早く逃走(若松)』 九州日報 1938/12/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人唐津大島に』 福岡日日 1938/12/6 夕 〔1/2〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『又も密航鮮人(小倉)』 九州日報 1938/12/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航の半島人』 大阪朝日 1938/12/15 広島 〔〕 広島・広島 【渡航】
・『神湊に密航半島人(宗像郡神湊町)』 九州日報 1938/12/17 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航鮮人上陸を企つ(宗像郡津屋崎町)』 九州日報 1938/12/20 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21 〔1/2〕 ・佐賀 【渡航】
・『密航船検挙』 大阪毎日 1938/12/3(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『五百人を密航させ五千円を捲あぐ/密航船坐礁、船長逃走』 大阪毎日 1939/1/21 朝鮮 〔5/9〕 北九州市若松区・福岡 【渡航】
・『持てあます密航鮮人(南田平海岸に208名上陸)』 大阪毎日 1939/1/22 長崎 〔5/12〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航料詐取/袋叩きに廿余名を欺く』 大阪毎日 1939/1/25 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3 〔1/7〕 ・福岡 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/2/7 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『海上時余の猛追撃/鈴なりの密航船捕る(103名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『五千人を密航さす常習ブローカー(昭和9年ころより5000名)』 大阪毎日 1939/2/11 北九州 〔5/11〕 小倉・福岡 【犯罪】
・『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島から密航船/倉橋島方面へ出現』 芸備日日 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13 〔〕 倉橋・広島 【渡航】
・『密航鮮人使役/関係者を調ぶ(戸畑市)』 福岡日日 1939/2/13 〔1/7〕 北九州・福岡 【労働】
・『密航半島人/戸畑署で取調べ(60名検束)』 大阪毎日 1939/2/13 全九州 〔5/7〕 戸畑・福岡 【渡航】
・『密航者逮捕』 大阪毎日 1939/3/9 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人逮捕(28名)』 大阪毎日 1939/3/15 大分 〔5/12〕 北海部郡・大分 【渡航】
・『密航半島人を検挙/船長以下廿五名を一網打尽/唐津署で連累者取調べ』 大阪毎日 1939/3/18 佐賀 〔5/7〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『海上活劇演じ密航発動船拿捕/平戸署殊勲の大捕物(今まで一千余名上陸)』 大阪毎日 1939/4/12 長崎 〔5/10〕 北松浦郡・長崎 【渡航】
・『密航半島人の激増/きのふ五十余名姿を晦す/今春すでに二百五十名(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/28 佐賀 〔5/7〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航者根絶に/五十余名検挙(唐津署)』 大阪毎日 1939/4/30 佐賀 〔5/12〕 東松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航の半島人高鍋署に引致(児湯郡木城村小丸川県営電気工事場人夫)』 大阪毎日 1939/5/6 宮崎 〔5/12〕 高鍋・宮崎 【渡航】
・『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航半島人(糸島郡野北村)』 福岡日日 1939/5/20 〔1/5〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航六十名を一人で逮捕/腕きゝの金刑事』 大阪毎日 1939/5/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航を仲介/不届きな船長逮捕さる』 大阪毎日 1939/5/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【犯罪】
・『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5 〔1/7〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『六十名を乗せ密航船漂流/救助、送還さる(比田勝)』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航者百廿名送還』 大阪毎日 1939/6/7 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人補る(八幡)』 九州日報 1939/6/10 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『お尋ね者をはじめ/密航ブローカー続々検挙/捜査陣に凱歌あがる』 大阪毎日 1939/6/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕 〔2/7〕 神戸・兵庫 【渡航】
・『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版 〔5/13〕 神戸・兵庫 【融和】
・『密航者送還』 大阪毎日 1939/7/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『(小型世間)密航が判明し(林田)』 大阪毎日 1939/7/11 神版 〔7/12〕 神戸・兵庫 【密入国】
・『卅五人が密航(宇部市の中原炭坑の労務係から「鮮人稼動者の斡旋を依頼」)』 大阪毎日 1939/7/11 山口 〔5/12〕 宇部・山口 【渡航】
・『前科六犯を持つ密航ブローカー捕はる/若松市で豪遊中を』 大阪毎日 1939/7/18 北九州 〔5/9〕 若松・福岡 【犯罪】
・『大格闘の末密航団逮捕/ブローカー九名とともに』 大阪毎日 1939/7/23 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航(若松)』 九州日報 1939/8/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航】
・『半島人密航/豊西海岸(山口)に』 福岡日日 1939/8/2 〔1/7〕 ・山口 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/8/4 〔1/7〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『密航ブローカー/麗水で逮捕』 大阪毎日 1939/8/13 朝鮮 〔5/11〕 麗水・朝鮮 【渡航】
・『また密航群』 大阪毎日 1939/9/8 朝鮮 〔5/12〕 馬山・朝鮮 【渡航】
・『又も密航』 九州日報 1939/9/13 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航(25名)』 大阪毎日 1939/9/15 山口 〔5/12〕 下関・山口 【渡航】
・『団体密航の失敗/半島人職工を内地人に仕立て/出帆間際に捕はる』 大阪毎日 1939/9/16 朝鮮 〔5/7〕 清津・朝鮮 【渡航】
・『八十名が密航/四十余名を捕ふ』 大阪毎日 1939/9/23 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航半島人大検挙』 九州日報 1939/10/6 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『釜山署を舞台にした密航ブローカー/見破られて御用』 大阪毎日 1939/10/14 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航ブローカー廿三名検挙/北釜山署の手入れ』 大阪毎日 1939/10/15 朝鮮 〔5/1〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/10/25 朝鮮 〔5/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『大格闘の末/密航親分逮捕』 大阪毎日 1939/10/26 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者を乗せ出港直前御用』 大阪毎日 1939/10/12(?) 朝鮮 〔?/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/11/1 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1939/11/5 〔1/5〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『半島人密航五十名』 大阪毎日 1939/11/10 佐賀 〔5/12〕 松浦郡・佐賀 【渡航】
・『密航半島人』 九州日報 1939/11/14 夕 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
・『密航団逮捕』 大阪毎日 1939/11/17 朝鮮 〔5/10〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙/釜山港口で』 大阪毎日 1939/12/2 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1939/12/8 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航者検挙』 大阪毎日 1939/12/15 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『釜山の強盗が内地へ密航/福岡県下で逮捕』 大阪毎日 1939/12/20 朝鮮 〔5/12〕 甘木・福岡 【渡航】
・『博多に密航』 福岡日日 1939/12/27 〔1/5〕 福岡・福岡 【渡航】
・『百十余名溺死(?)の密航船の正体判明/常習ブローカー阿比留も悪運つく』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『運命をさとり密航の親分激浪中に大金を投出す/兄弟三人とも溺死』 大阪毎日 1940/1/8 朝鮮 〔?/1〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『遭難密航船のその後/まだ死体一個も発見されぬ』 大阪毎日 1940/1/9 朝鮮 〔5/10〕 上県郡対馬町・長崎 【渡航】
・『密航船検挙/神仙台海岸で』 大阪毎日 1940/1/11 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地の夫と連絡し/密航の手引き/大胆な女捕はる』 大阪毎日 1940/1/12 朝鮮 〔5/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 〔2/5〕 北九州・福岡 【密入国】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/14 北九州 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『猟奇!箱詰め密航/釜山の山中で荷造り/小倉駅止で発送/頼まれた朴の細工』 大阪毎日 1940/1/15 朝鮮 〔5/1〕 小倉・福岡 【渡航】
・『半島人百廿余名乗る/密航船伊万里へ/上陸してが発覚・検挙』 大阪毎日 1940/1/20 佐賀 〔5/9〕 伊万里・佐賀 【渡航】
・『鮮人密航の悪ブローカー退治』 大阪毎日 1940/1/21 佐賀 〔5/10〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『箱詰密航結末編/李鶴祚けふ郷里へ』 大阪毎日 1940/1/26 北九州 〔5/10〕 小倉・福岡 【渡航】
・『密航の半島人一網打尽捕る/船長のみ逃走』 大阪毎日 1940/1/31 山口 〔5/11〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮で雇入れた船員密航者として送還/内地に連れ帰って』 大阪毎日 1940/2/2 大分 〔5/10〕 津久見・大分 【渡航】
・『密航者百余名/一人残らず逮捕/巧みに連絡とつて』 大阪毎日 1940/2/9 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航青年検挙』 中国 1940/2/19 〔〕 ・広島 【渡航】
・『密航団検挙』 大阪毎日 1940/2/27 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『行方捜査中の密航ブローカー自宅で御用』 大阪毎日 1940/3/1 朝鮮 〔?/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『約五十回にわたり千名を密航さす/常習の船長ら出帆間際に捕る』 大阪毎日 1940/3/5 朝鮮 〔5/11〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航土工逮捕』 大阪毎日 1940/3/29 長崎 〔5/12〕 佐世保・長崎 【渡航】
・『密航新戦術二つ/一は帰還勇士に化け/一は内地人の息子に』 大阪毎日 1940/3/12(?) 朝鮮 〔?/11〕 下関・山口 【渡航】
・『密航者に化けブローカーを逮捕/船頭姿を晦す』 大阪毎日 1940/4/14 朝鮮 〔?/12〕 釜山(東莱)・朝鮮 【渡航】
・『密航船検挙/お尋ねものも捕はる』 大阪毎日 1940/4/24 朝鮮 〔?/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航船逮捕』 大阪毎日 1940/5/3 朝鮮 〔5/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航防止の新取締/廿トン未満の船舶による旅客輸送を禁止』 大阪毎日 1940/5/19 朝鮮 〔5/7〕 ・朝鮮 【渡航】
・『密航新取締/最初の違反/人命救助した天神丸』 大阪毎日 1940/5/26 朝鮮 〔5/10〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『公文書を偽造/密航詐欺/四名検挙さる』 大阪毎日 1940/5/30(?) 朝鮮 〔?/12〕 ・朝鮮 【渡航】
・『一警官の篤行に妾狂ひの父が更生/密航少年に絡る佳話』 大阪毎日 1940/6/1 朝鮮 〔5/6〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航手数料を詐取して豪遊/一味釜山署に御用』 大阪毎日 1940/6/21 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航鮮人脱走/汽車で護送途中(13名中の1名)』 大阪毎日 1940/6/28 山口 〔5/10〕 下松・山口 【渡航】
・『密航船機関長唐津で捕はる』 大阪毎日 1940/7/2 佐賀 〔5/9〕 唐津・佐賀 【渡航】
・『密航の悪計発覚』 大阪毎日 1940/10/4 朝鮮 〔5/12〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『内地密航に失敗』 大阪毎日 1940/11/? 朝鮮 〔?/12〕 木浦・朝鮮 【渡航】
・『内地密航増加/釜山水上署で厳罰』 大阪毎日 1943/6/15 朝鮮 〔4/9〕 釜山・朝鮮 【渡航】

在日朝鮮人の来日の歴史

(国民徴用令)・・・1944年8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施するとした閣議決定がなされる。
朝鮮人の徴用は1944年9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施される。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関−釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7ヵ月間であった。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/343.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
5. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:56:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21448]

こいつ、完全なアホだろ

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまう。

そんな事したら、皇室の存在意義が無くなってしまうんだよ。


このアホがこういう事を言う理由ははっきりしている:


神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)


日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
38. 2018年11月30日 11:57:28 : DSXwHtX0ZE : C5ZlA2ilm2c[2]

趙春花なる=コリアンが^^

日本の水道管の=老朽化による^^

酸化水・強化塩素含有水を=飲みすぎることで^^

日本国民の=健康被害に陥ることについて^^

↑これを=回避する=一つの方策である=水道事業は外資への解放について^^

↑これを=阻もうとしている^^


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c38

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
6. 赤かぶ[1740] kNSCqYLU 2018年11月30日 11:59:58 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[205]









http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
7. 赤かぶ[1741] kNSCqYLU 2018年11月30日 12:02:05 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[206]






http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK254] 安倍首相と玉城沖縄県知事が会談 意見隔たり埋められず〜今後、沖縄県は国地方係争処理委員会に審査を申し出る方針/nhk 仁王像
3. 戦争とはこういう物[2906] kO2RiILGgs2CsYKkgqKCpJWo 2018年11月30日 12:05:12 : 9PG0M0b68Q : jKnbezZWN40[1550]
軟弱地盤の工事には県の協力が必要なはず。
国は次に如何なる裏技を使う気か。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/313.html#c3
コメント [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
92. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:07:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21451]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 2

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」
 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。

まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担
 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。


新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)

秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。

■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。


53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

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53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ
 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


▲△▽▼


世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c92

コメント [政治・選挙・NHK254] 室井佑月「ドSを相手にMになる」「安倍首相って典型的な内弁慶じゃん」〈週刊朝日〉  赤かぶ
3. 2018年11月30日 12:12:41 : 6s8bZ4YuiQ : VS1m4jXdScg[15]
「外交の安倍」だのどこまでこの幼稚な男の自尊心に付き合わなければならない?

ただお土産付きの、相手をファーストネームで呼び合うだけの外交でどこまで交渉が成るのか。

「信頼の積み重ね」とか言っても自分が思うだけじゃんか。

相手の意思を推し量るとか、この男には最も苦手だろう。

常に味方か,さもなくば敵か、の2択だけ。

あるいは言うことを聞かすか、聞かされるかどちらかしかない単純男に外交は無理。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/342.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK253] 志位和夫さん「亀井静香氏と対談。亀井氏は『米軍基地は米国のためにある。日本のためではない。日米安保だって要らない』」 赤かぶ
493. ボケ老人[106] g3uDUJhWkGw 2018年11月30日 12:17:27 : QHkUDaloVM : nhEL_@HJWto[-2792]
>492.【投稿のあんちゃん】個人的には例えばベトナム等で行われたゲリラとテロはかなり近い性格のものと考えている。

全く性質の異なるものを、外形が似ているからと
これを【月とスッポン】というのです。

>492.:要はアメポチでアメリカををうまく利用しようということであろう。

この程度の解釈かい(笑)
もっと本質部分に目を向けるべきだね。吉田茂が安保を後ろ盾に軽武装経済最優先政策をとった。
安倍は軽武装どころかトランプの言いなりで全く不要な攻撃兵器を法外な価格で購入
何処に利用したメリットが有るのか

>492.:日本の安全のを優先してきた。

たった一つでよいから具体的な事例をあげてくれないか.
米軍人に日本の無辜の民が殺された例はいくつもあるがね。

日本の安全とは日本国民の生命財産を守ることだよね
ミサイル(ロケット)着弾海域の日本漁船に警告を発することだと思うのだが安倍は何にもしなかった。無用にJ-アラートを発し驚いたトラックが青森で事故を起こした例はあったが。
日本海の漂流船不審船にも手を打たず
米軍がパトロールしてくれたとでも言うのかな。

>492.:米軍基地を日本から追い出せば安全確保のため軍備の拡張は当然せざるをえなくなってくる。

この理由を具体的に示してくれ
米軍がいなくなった時
台湾の例を
フィリピンの例を
わたしは挙げた。貴君の例示するものはどんなものなのか。
もし、ないというなら、新興宗教やオレオレ詐欺の勧誘言葉と同次元だな
さらに
軍国主義の末を1945年の敗戦としたことに全く反論が無いね
軍備を拡張すれば恒久平和が訪れるのか

>492.:「平和学」が役にたつなら必要はないのだろうが、歴史を見ても、現在の各地での紛争をみても役にたっている様子はない。

平和学を知らないと言いながら、よく言えたね。
日高見連邦共和国さんの言う通り、学問として確立したものでなく平和研究というべきものだと、これは正しい。
しかし、貴君が知らないものを役に立たないとはこれ如何に
コスタリカが常備軍を廃し、警察力だけにしたことも既に述べた。
しかも、米州機構の一員として他から攻撃を受けた時は機構の軍事力に頼り、逆に、軍事の要請を受けても協力しない特殊な国であることを米州機構に認めさせている。
それぞれの事情があるから、必ずしも日本に当てはまるとは言わないがネ

軍事的平和と政治的平和を何度も述べるつもりはないが
軍事的平和を追求することは対峙する相手の軍事的平和を減じようとするものだ。当然相手は対抗処置をとる。サァどうすればよいのかな。

    
http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/753.html#c493

コメント [原発・フッ素50] 原爆開発の核ごみ、やまぬ厄災 住民「がん患者だらけ」 (朝日新聞)  魑魅魍魎男
11. 茶色のうさぎ[-8929] koOQRoLMgqSCs4Ks 2018年11月30日 12:21:38 : OTB809TdPg : 8TEkBN11Q7g[1]

 うむー♪ 膵臓癌

結論: Sr90 海産物?

 食べて応援、、赤旗、志位和夫、がー♪ がー♪ 悪い!ぺっ♪

 もう、約8年、、知り合いで、、30人以上かなー♪? うさぎ♂ ←ボク? 戦後です。


http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/596.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK253] 徴用工判決ヒステリーの日本マスコミが触れない事実…安倍政権が新日鉄住金に圧力をかけ“和解”を潰していた!(リテラ) 赤かぶ
69. 2018年11月30日 12:22:03 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9495]
2018年11月30日(金)

韓国最高裁 三菱重工に賠償命令

徴用工裁判 挺身隊も認める

 韓国最高裁は29日、戦時中に徴用工や挺身(ていしん)隊員として強制的に働かされたとする韓国人が三菱重工に損害賠償を求めた二つの訴訟で、同社の上告を棄却し、1人当たり8000万から1億5000万ウォン(約800万〜1500万円)の賠償を命じました。最高裁は10月30日に新日鉄住金に対し、賠償命令を出しており、3件の裁判で日本企業の敗訴が確定しました。

 今回の訴訟のうち1件の原告は、1944年に広島にあった三菱重工の工場に動員された韓国人元徴用工5人で、「強制連行され、働かされたうえに被爆した」として損害賠償を求めていました。もう1件は、44年から名古屋市内の軍需工場で女子勤労挺身隊として過酷な労働を強いられたとする韓国人女性や遺族ら5人です。

 最高裁は新日鉄住金の判決同様、「日本政府の朝鮮半島への不法な植民地支配や、侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為」と認定。「強制動員被害者の日本企業への慰謝料請求権は(1965年の日韓)請求権協定の適用対象に含まれない」と判断しました。

根本に反人道的な不法行為

 広島の工場で働かされた原告は、1944年の国民徴用令の下、集められました。寮での行動は監視され、貯金したとされた賃金も支払われていません。45年8月、広島に投下された原爆で被爆。後遺症に苦しめられました。原告5人は全員が亡くなっています。裁判を引き継いだ遺族の一人は「結果を私が見届けることになり、複雑だ」と語りました。

 元挺身隊員の原告は、当時13歳、14歳でした。日曜を除いて毎日10時間働き、満足な食事も与えられませんでした。44年12月に発生した東南海地震で工場が崩れた際も、けがをした仲間が放置され死に至りました。89歳の金性珠(キム・ソンジュ)さんは「日本は謝罪と賠償をしてほしい」と涙を流し語りました。

 こうして原告たちは筆舌に尽くし難い労働を強いられたことに対し、名誉と尊厳の回復を求めてきました。

 請求権をめぐっては、日韓の両政府も、両最高裁も、個人の請求権は「消滅していない」との見解で一致しています。さらに政府は今月14日の衆院外務委員会で、日本共産党の穀田恵二議員の質問に対し、個人の慰謝料への請求権は、1965年の日韓請求権協定の対象に含まれていないと認めています。

 この問題の根本は、日本の植民地支配と侵略戦争のもとで起こった日本政府と企業による反人道的な不法行為に対する人権問題です。日本政府は原告の訴えに耳を傾け、公正な解決に向けた努力をすべきです。(栗原千鶴)

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-11-30/2018113001_04_1.html
http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/157.html#c69

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
23. 2018年11月30日 12:27:18 : MwqM2u5ylY : dQ69spG4nR8[191]
安倍や菅のしている事は世間では強行と言うものなのに安倍や菅、安倍政権の閣僚には当然という事なのだろう。何をしても問題ない、で通す独裁政権そのものだ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c23
コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
8. 2018年11月30日 12:29:39 : 6s8bZ4YuiQ : VS1m4jXdScg[16]
今日になって秋篠宮家長女の婚約相手のスキャンダルが情報洪水のように一斉にメディアに流されたのは政府側の牽制か。

皇室が敵、すごい政権になっちゃったな。

先の靖国宮司の発言といい、安倍一味は公然と皇室を敵視し始めた。

お前ら御所周辺の狭いエリアに押し込められていたのを解き放ってやったのはだれか、とか言いたいのかな。


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c8

コメント [原発・フッ素50] 風疹の流行拡大が深刻化…原因は安倍政権の“無策”だった (日刊ゲンダイ)  魑魅魍魎男
1. 暴走機関車[71] llyRlotAitaO1A 2018年11月30日 12:32:48 : NwXhEVW9dA : e6ZgqWbIzKU[14]
関東の農産物産地はほ「核災害後」野放しで生産を続けているし
山林は更に放置の結果「潤沢な放射性セシウムほか」を供給し
続けている。

まだたった8年、本来であれば潜在しているはずの感染症や免疫
系統の問題が2017年辺りから首都圏を中心に芽吹き始めていた。

しかも今の子供たちはとはいっても「核災害」からもう高校生か
大学生になっているだろう。
この世代は母親の潔癖除菌除菌清潔清潔で育てられているから
そもそも免疫が弱い、そうしてミネラルの少ない綺麗な野菜果物
で育てられている。

そうしてこの子供らが直面する「災害から15年後」恐らくは
甲状腺がん 生殖異常 循環器疾患 脳神経系疾患 精神疾患の
パンデミック

ここまで放置された「核事故」は世界を見ても稀であり
人類史上最大の「人体実験場」といわれていることは国民は知ら
ない。
風疹 麻疹 梅毒 HIV インフルエンザ 胎児の先天性異常が
増加しても機関にしてみればまだ想定内に過ぎない。
まだまだ結果が得られていないとするであろう。

本編はあと7から8年後を固唾を呑んで見てからということでは
ないだろうか。
オリンピックが開催されるかどうかはわからないが2020年末
が一つのターニングポイント 
2025年以降、団塊の世代 バブル入社世代が一つの節目を迎え
る。社会がこれらをどう処分していくか、
ワクチンの問題もそうだHG添加のワクチン…知らねえだろうな〜
しかも大企業の従業員からというのもみそ…おかしいと思わないの
かな

知らされない人には知らされないことを早く気が付いてほしいが
もう間に合わないだろう。

我が国の薬事や疾患 公害病の真実が表面化するのは常に20年程
経過してからということですら一般国民は興味が無いのだから
仕方がない。
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/605.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK254] 司法の暴走を止めない韓国政府に、当事者の韓国最高裁が日韓関係を破綻に招きかねない傷口にさらに塩を塗る、三菱重工相手の訴訟 怪傑
18. 2018年11月30日 12:33:08 : 31SddFPNX2 : 0ewluXf3xMg[69]
>>16
http://xizang.is-mine.net/photos.html
↑中国による平和解放前のダライ・ラマ統治時代と現在のチベットの対比をどうぞ。

http://xizang.is-mine.net/kawaguchiekai.html
↑日本人僧侶によるダライ・ラマ統治時代のチベットをどうぞ。

http://japanese.cri.cn/881/2015/03/04/181s233235.htm
↑中国政府、チベットの宗教の自由を制限していない

https://www.recordchina.co.jp/b144172-s0-c10-d0035.html
↑外国人専門家「チベット人は自由に宗教を信仰できている」―中国紙


http://xizang.is-mine.net/cia.html
ダライ・ラマ派とCIAの関係
http://xizang.is-mine.net/unificationchurch.html
ダライ・ラマ派と統一教会の関係
http://xizang.is-mine.net/aumshinrikyo.html
ダライ・ラマ派とオウム真理教の関係

↑合わせて仏教の壮士(←ここ爆笑するとこですか?)・ダライ・ラマと犯罪者集団との緊密な関係もどうぞ参照ください。
いかに騙されているかわかります。w
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/343.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
9. 2018年11月30日 12:35:58 : eowUG2dXYk : hKqHz7cJrnk[1]
小泉純一郎 ? 何の冗談ですか。郵便局は民営化でどうなりましたか。

今や郵便局はハゲ鷹外資、アフラックの代理店。郵便配達員は時給いくらの非正規労働者、組合は解体。

これが民営化の結果ですが。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c9

コメント [原発・フッ素50] 原爆開発の核ごみ、やまぬ厄災 住民「がん患者だらけ」 (朝日新聞)  魑魅魍魎男
12. 茶色のうさぎ[-8931] koOQRoLMgqSCs4Ks 2018年11月30日 12:38:50 : OTB809TdPg : 8TEkBN11Q7g[2]

 おまけ♪

 全員、、激怒と思います。 日本共産党

 ↓ 共産党シンパ、赤い文化人(日本共産党系文化人)名簿
https://ameblo.jp/kororin5556/entry-12022953931.html

結論: ボク? 吉永さん♡www ばか うさぎ♂


http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/596.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK254] 恥ずかしく情けなく、気が遠くなるような話だ!  赤かぶ
11. 2018年11月30日 12:39:44 : X1F7ououuM : IXACOANMN3w[1]

自民党議員さんたちへ
ちょっと!小中学校の先生たちも長時間労働で大変なんだからね!ゆとり教育の次は、超詰め込み教育で、先生は成績つけるのに、土日出勤や夜22時までの残業!子どもたちも夏休みが削られ、6時間、7時間(地域によって違う。)授業。遊びにも行けない。何とかしなさいよ!
先生たちは、声を上げたくても上げられない。子どもたちは、黙って大人の言うことを聞くだけ。いい加減にしなさい。


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/357.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
10. 2018年11月30日 12:39:47 : 6uyhymepjo : QQIQU16fdDo[57]
新嘗祭を国費で行いたい連中はその予算に群がりたいため。

宮内庁も他省庁同様、官僚が支配している。

秋篠宮く国会く安倍晋三で行動している表れ。


マスコミも同様に秋篠宮く国会く安倍晋三なので秋篠宮の娘の婚姻に終始する。

スピンコントロール成立。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
11. 2018年11月30日 12:42:35 : q5UHoxXe2M : 5_KgT3fopec[237]
秋篠宮はよく言った。尊敬する。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c11
コメント [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
93. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:43:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21454]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 3


秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:


コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)

 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容

 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子

(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c93

コメント [政治・選挙・NHK254] あと40年で国力25%縮小 IMF日本に警告  赤かぶ
16. 地下爺[3658] km6Jupbq 2018年11月30日 12:44:14 : GYcRPWoePg : qQ1l3M7sSRs[87]
訂正


それに 在日米軍 が 加わるんだ。 このすつとこどい!!

            ↓↓

それに 在日米軍 が 加わるんだ。 このすっとこどこい!!
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/328.html#c16

コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
20. 2018年11月30日 12:44:48 : b4qDb2gYnQ : eeaA11DlQW0[51]
日本国民の不幸は正しい情報が流されないこと。
そして強権の圧力で怒ることが出来なくなっていること。

安倍さんは憲法改正できるまで総理の立場でい続けることが第一で、あの手この手で情報統制に成功。そして大企業や米の言いなりになり、なんなく総理の立場は安泰、自分さえ良ければ良くて国民の生活なんてこれっぽちも考えていないよね。
憲法改正以外どうでもいいと思っているんだということが国会を見ているとよくわかる。
それにしても日本をめちゃくちゃにして、総理の任期を過ぎたらあとは知らないよ!なんてしたら税金の食い逃げみたいじゃないのか。



http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c20

コメント [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
94. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:48:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21457]

神道や日本古来の文化を憎んでいる天皇一族には理解できない神道の価値

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html

 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________
 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]
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 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________
神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。[1, 1392]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c94

コメント [政治・選挙・NHK254] 恥ずかしく情けなく、気が遠くなるような話だ!  赤かぶ
12. 2018年11月30日 12:50:37 : fVmzl2gB1s : EmgMWclYDB0[38]
 本当に人手不足なのか?
 労働力として移民を望んでいるのか?

 俺は、ただ(中国の倍以上に膨らんだ過密な)人口を維持したいだけとしか思えない。コンビニやファーストフード、学校給食やレトルト・インスタント食品などのクソ不味い餌を喰わせる胃袋を維持したいだけ、と感じてしまう。労働者は消費者でもある。消費が増えれば、労働も増える。イタチごっこなんだ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/357.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK254] 「詭弁・ご飯論法」は、アベ政治の本質が生み出したもの(澤藤統一郎の憲法日記) 赤かぶ
8. 2018年11月30日 12:51:59 : IK2B2znXaY : n_@K16KZSqU[6]
「戦争は平和だ、自由は隷属だ、無知は力だ」

「詭弁はご飯論法だ」
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/361.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK254] 沖縄の県民投票は辺野古移設阻止の決め手にはなり得ない  天木直人  赤かぶ
7. 斜め中道[5771] js6C35KGk7k 2018年11月30日 12:53:01 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3806]
暴走発言をしそうなので
>>2 さまのコメントをお借りして・・・

“そんな事は言われなくても全員が理解してる。
 いちいち暗い話題を持ち込むな。”
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/317.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK254] 恥ずかしく情けなく、気が遠くなるような話だ!  赤かぶ
13. 2018年11月30日 12:54:12 : X1F7ououuM : IXACOANMN3w[2]

自民党議員さんたちへ

ちょっと!ゆとり世代の先生によるデタラメ授業の改善、いつやるんですか?ボーッとしていないで仕事しなさいよ!それと、保護者たちに謝りなさいよ。「迷惑かけるな!」と言っています。特に何も考えないで、ゆとり教育導入させた世代、中年以上の人たちも保護者に謝りなさいよ(当事自民党を支持した人たち。)。東京都教育委員会、市の教育委員会の電話対応の悪さ、「口の利き方ができていないので、職員教育もしなさい。」とご立腹でした。
自民党議員さんたち、仕事やる気あるんですか?



http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/357.html#c13

記事 [Ψ空耳の丘Ψ62] UFO問題を考える 77:最近のUFO事件


UFO問題を考える 77:最近のUFO事件


1、実験国家日本におけるUイルミナティのFOエイリアンの否定政策


・UFO問題では、徹底的に情報管理されているわれわれ:ネットにあふれかえる ごみ記事やウソ記事、捏造動画

人口削減96でも書いたが、これらのがらくたばかりを見せられるとは、これはいったいなんだろう。事実を探そうとすれば、まるで1万mの高さの干し草の山から、針一本探そうとするようなことになる。UFOエイリアンの実在は、動かないのに、ここまでイルミナティがUFOエイリアンの実在を否定させる理由はなにか?と、きみょうな思いにとらわれる。・・・・将来をみすえてにきまっているが。


人口削減のコメントでも書いたが、UFO問題の情報は、イルミナティに100%管理されている。出てくる情報は、消毒され無害なもの(イルミナティにとって)に変えられている。さもなければ、口実をつけてすぐ消される。
ユーチューブ動画が、わかりやすいが、UFO問題にかぎらず、あらゆる問題は、100%管理されているのだ。また、ふつうでは、日本語圏から外に出るのはむずかしく、外国の動画を見ているつもりでも、日本語圏のサーバー内にためられた外国の動画を見ていることが多い。他の国々の日常生活を見たいと思っても不可能だ。わたしは、フランスの日常生活が見たくてその動画を見るが、けっこうむずかしい。

ここまでするのは、日本語圏を実験国家にする意図があるとして、いままで考えてきた。この実験のひとつが、テロリストを応援するマスメディア(笑)であった。テロリストを応援しに、幾人かの市民が、シリアへわたって殺された。だが、そのことを言うブログもあまりないようにみえる。洗脳の実験だったのだ。あらゆる人が、マスメディア信者であるのでとうぜんだが。

この実験国家は、NWOのひな型であろう。日本のことが、世界へ波及する。UFO宇宙人の否定は、この実験国家のおおきな特徴で、将来の世界は、UFO宇宙人の否定一色になる可能性があることをまえ書いた。
それを行っているのがウイルスマン(CIAブログ 「タマちゃんの暇つぶし」のぬし)であり、グーグル、ユーチューブの管理運営をまかされているのをわたしは見つけたことを前書いた。

わたしが見つけた「闇のブログ同盟」、ウイルスマン。これについては、たとえば、人口削減6やUFO問題33を参照。
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/125.html 人口削減6
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/107.html UFO問題33

かれのサイバー攻撃だが、グーグル、ユーチューブのIPをつかっておこなわれるため、ふせぎようがない。ユーチューブのIPからは、さまざまなスクリプトが送られてくる。ふせぐならグーグル、ユーチューブを使わないように、ファイヤーウオールで設定する必要がある。わたしは、以前これをしていたときもある。マルウエアBIOSを、フリーズ、再起動にさいして挿入されるので、現行のパソコンでは、いくら対策をとっても、理論上、防御不可能である。いくら,政府は威勢のいいことをいおうが、税金の無駄遣いになるしかない。

これについては、何度も書くが、人口削減92にも書いたが、ウイルスマンは、UFO動画を見る人、検索する人のリストをもっており、そのユーチューブ動画のおすすめ欄に、CIA工作員動画をあふれさせるのだ。

わたしが、9月はじめに、ウイルスマンにパソコンをこわされ、11月はじめには、あたらしいパソコンでユーチューブ動画を見ると、UFO関連をみているわけでもないのに、右側の動画欄は、コーリー・グッドや、デーヴィッド・ウイルコックの動画であふれかえる状態になった。かれらが、なにをいま準備しているか、一目瞭然であった。これは、日米宇宙軍の増設のあと、否定するつもりなのであろう。

だから、丁寧版さんの紹介に、失礼(笑)にも、「関心ありません」と書いたのであった。わたしに、サードフェイズオブムーンの、そういった動画を示せば、わたしが不用意にのってくるとでも思ったのか、と、わたしは、とうじあまりに腹がたっていたから、丁寧版さんの紹介を、むげに切り捨てたわけであった。丁寧版さんは、びっくりしたようであった。失礼しました(笑)

こうやって、ユーチューブ動画のおすすめ欄は、洗脳とコントロールに、たえず使われるわけである。AIがやっているとか、宣伝しているが、じつは急所はかれらが、細心にコントロールしているのである。のると、ひっかかった!、と、手をたたいてよろこぶのである。

2、日本におけるUFO事件   苫小牧の山の牧場事件

丁寧版さんをひきつけた、苫小牧の山の牧場事件をふりかえろう。この場合の苫小牧のUFO問題は、日本政府とグレイエイリアンと地下基地があらわに出てきた、世界でもめずらしい事例なのであった。この提携状態はいまでも変わらないであろう。

UFO問題58、UFO問題33 など参照

苫小牧の地図座標数値  42.639491 141.477019  を、コピペして、グーグル検索欄に入れれば、事件が起きた現地が出てくる。あるいは、グーグルマップに入れてもいい。

これは、ウイルスマンが隠蔽に失敗した例である。これ以外の苫小牧の山の牧場の情報は、ほとんどすべての情報が、ネット上から消えている。あるいは、関連した地元の不動産屋が親善旅行のバス事故で全員死んでいるという。

竈猫さんの話も、ウイルスマンのサイバー攻撃で消されていたが、いまは復活して、ユーチューブ動画がある。関係者に感謝である。とちゅうからが、山の牧場の話になる。

https://www.youtube.com/watch?v=zLqpL02BGLQ#t=1h34m40s

これは、日本政府がグレイエイリアンの便宜をはかっているのがバレた、まれな事例であった。世界的に見ても、このように、イルミナティとグレイエイリアンが結託しているのがバレた例をさがすのはとてもむずかしい。ウイルスマンが、苫小牧の地図座標の数値 42.639491 141.477019  に近づく人をねらいうちにするのは当然であった。

座標を書いておいて、よかった。これ以外だれひとり、ここに近づいて、望遠カメラで撮ったり、反対側の岸から撮ったりするひとがいない。現代の秘境である。最近の北海道の地震の震源地がこのあたりなので、その後どうなったのだろう?


3、最近のアルゼンチンのUFO事件

最近では、アルゼンチンでニュースキャスターが、天気について話している途中にUFOが現れておおさわぎになった事件がある。

トカナ
https://tocana.jp/2018/11/post_18857_entry.html

ユーチューブにアップされた動画
Asi se vio OVNI en el ………..Argentinas
https://www.youtube.com/watch?v=IBiUugSxvC0

この動画を見ようとしたら、ウイルスマンが見れないように画面が白紙になり邪魔した。これが重要な動画である証拠だ。この動画で思うのは、この距離ではUFOはテレビカメラをしっかり意識しているだろうことだ。おそらく、ライブ放送されていることも知りながら、現れたのだ。赤外線でしか見れないようにするのがふつうだが、可視光で見られ、動画が全世界にひろがることを意識している。

かれらは、みずからの存在を隠すのと、あらわすことをつかいわけている。現れたのなら、現れただけの理由があるのであろう。

こうやって、エイリアン側も、イルミナティ側も、UFOエイリアンに注意を向けさせるのは、なにかわけがある。これは、コーリー・グッドや、デーヴィッド・ウイルコックの動画の出現と機を一にしている。トランプの宇宙軍創設とも関連するのだろうか。UFOエイリアン問題で、なにかが、起きるまえぶれかもしれない。


4、NWOとUFOエイリアン問題

NWOという暗黒世界は、いまほぼ完成している。中央銀行を経由しない、じゃまものだった仮想通貨も下落させた。
ロスチャイルドのそれぞれの家は、対立しているかのようにみせかけながら協力して、いままでやってきた歴史的経緯がある。今回の3家もおなじであろう。あたらしい要素は、露、中の結束である。これをさせたのは、ヒラリーやオバマであろう。シリアの失敗もヒラリーやオバマであろう。ヒラリーやオバマなどのタイホなど相応の責任をとらされてもふしぎではないだろう。

BIS(国際決済銀行)をもつスイス家(フランス分家、ジュネーブ家)バンジャマンが、アメリカ、トランプ、キッシンジャー、ソロスなどの背後にいて、世界を動かす、とわたしはいままで書いてきたことだ。

フランス家のダヴィッドは、今回もルノー、日産、三菱でやられ役を演じているが、わざとだろう。イギリス家のジェイコブは、トランプはNWOを破壊すると言ったりして、これもまた、
やられ役などを演じている。
といって、スイス家バンジャマンも、無傷ではない。モサド、ISIS、CIA、MI-6などを手足にするかれは、シリア、中東で失敗している。このいまの現状で、NWOにいくには、あとUFOエイリアン問題でなにかを起こす必要があるのであろう。

ここで、ディープステートが壊滅すると、いつものトンデモ工作員が、また一生懸命言っているが、BIS(国際決済銀行)というディープステートが壊滅するきざしなんて、まるで見えない。


http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/515.html

コメント [カルト19] ドン・トラ・ヒラ三万メール公開、井口・CIA日本人リスト公開・ゴミ売り・ポダム死亡はデマ。だそうである。 ポスト米英時代
7. 2018年11月30日 12:55:30 : rxAqf9Kesk : kIy2gqBdmEM[1]
池田大作みたいになってるんでないの?

でないと、もう汚らしいツラを見せているはずだよ。
http://www.asyura2.com/18/cult19/msg/869.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK254] 入管法強行採決に『ひるおび』田崎史郎、八代英輝らが「野党が悪い」! 安倍が目茶苦茶をしても責任転嫁“ヤトウノセイダーズ” 赤かぶ
23. 斜め中道[5772] js6C35KGk7k 2018年11月30日 12:56:00 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3807]
「h ttps:」野郎も、糞蝿的にうざいな?

そういう季節なのか? 暖冬の兆候なおかね??
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/319.html#c23

コメント [政治・選挙・NHK254] 戦闘機に1兆円…「防衛大綱」再改訂で専守防衛は葬られる(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[1742] kNSCqYLU 2018年11月30日 13:03:10 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[207]



http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/370.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK254] 戦闘機に1兆円…「防衛大綱」再改訂で専守防衛は葬られる(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[1743] kNSCqYLU 2018年11月30日 13:05:46 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[208]









http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/370.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK254] 戦闘機に1兆円…「防衛大綱」再改訂で専守防衛は葬られる(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[1744] kNSCqYLU 2018年11月30日 13:07:12 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[209]









http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/370.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
12. わ寺アホ集団平和が命[-22] gu2Om4NBg3qPV5Jjlb2YYYKqlr0 2018年11月30日 13:09:10 : kxk7MnCbWU : S0swXCpT_BE[-3154]
>投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 11 月 30 日 11:20:05
>2018-11-30 天木直人のブログ
>2018年11月30日00時00分 朝日新聞

.comの朝日新聞ですね。

アマキ革命=石油資本=フォード=.com朝日

だということが、再度、確認できました。

=キリシタン

でもあるんですね。

神道はつぶせ、天皇家は神社の総元締めなんかじゃない、共和制に移行せよ

が、アマキ革命の目的でした。

アベを絞首刑にすることはもちろんですが、それだけではない、キリシタンによる

少数派支配

が、真の目的だったわけです。

まじめに相手をしているとアマキ革命に巻き込まれてしまいますよ。

一般ピープルに対して忠告をしておきます。

アマキ革命に巻き込まれたくなかったらシカト(無視)することですね。

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK254] 安倍さんは以前は移民に反対されてたはずなのに審議17時間で「移民法」を衆議院強行通過させるなんて、酷すぎ! gataro
2. 2018年11月30日 13:10:54 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9497]
国会愚弄の暴走許せない
.
日本共産党
2018/11/29 に公開
2018.11.29 志位委員長が会見 選挙で審判下し、一刻も早く退陣へ
https://www.youtube.com/watch?v=JbI4AtdhdZ4
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/350.html#c2
コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
14. 中川隆[-13737] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:12:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」

 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。


まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担

 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。

新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)


秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。


■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。

53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ

 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


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秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:

コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)


 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容


 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子


(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


▲△▽▼

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)

■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________

 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________

 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________

神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c14

コメント [経世済民129] ゴーン逮捕で永田町関係者がささやく仰天の「トランプ黒幕説」とは(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
6. 2018年11月30日 13:12:37 : j23wc4VGiA : wqdxmavUCPI[10]
いや失敗濃厚になってきた官僚が、頭の軽い自民党政治家に
トランプ黒幕説を吹き込んでるんだろ。
「トランプ陛下の密勅であるぞ」と同じ。
土下座自民議員はそれで逆らえない。
一度とランプに直接ツイッターで「あなたの指示で特捜部が動いたと
自民党の政治家がうわさしてますが、それは真実なのでしょうか?」
と、英語でツイートしてみればいい。
あのトランプのことだから、正直に答えてくれるだろう。
間違ってたら、自民党議員に対して激怒するだろうけどね。
噂の根元は多分セコイ経産官僚だと思うよ。
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/658.html#c6
コメント [医療崩壊5] 「がんと闘わない」選択は死を意味する!抗がん剤を受けない患者は治療法を自ら選択せよ 赤かぶ
13. 2018年11月30日 13:15:27 : ognRDQzdSk : YtUax@tRz3U[700]
週一日の絶食ががんを遠ざける!!!
http://www.asyura2.com/16/iryo5/msg/578.html#c13
コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
24. 2018年11月30日 13:15:34 : OHOfvWS4ng : W7WQqwQIrn8[176]
斜め中道様
19です。

羽生結弦選手の怪我について・・
過去何度も骨折やじん帯の損傷をしている点で、放射能被曝を疑っています。
ストロンチウムの毒性は深刻で、骨や肌肉以外にも精神障害やすい臓の機能
不全にも関わります。

羽生選手のような高度な技能を持った選手が、何度も大けがをすることは、
背負っているリスクやそれに挑む超一流の精神力の問題とは別の次元だと
考えます。
羽生選手ほどの技能をもってしてもコントロール出来ない何かを疑うべきと
いう事で、羽生選手を貶めるような話にはなってないと思います。

因みに、大相撲での優勝力士に贈られる福島県産の米という物も、問題が多
いようで、優勝力士はその翌場所以後極端な不振に落ちる事が多いようです。
(これがセシウムのせいかストロンチウムのせいかはわかりませんが、そも
 そも福島県の行っている全袋検査というものが極めて杜撰で信頼出来ない
 ものであるという事を東海アマ氏は書いています)

また福島県のモニタリングポストの問題も指摘されています。(東海アマ)
 「デタラメ、放射線副読本(平成30年10月改訂)―その14『福島の放射線
  量は海外の主要都市とほぼ同し。想定装置に人為的操作を加え低く』」
   http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-544.html

更にストロンチウムの毒性は、「カレイドスコープ」始め、色々なところで
検索できるので、お願いします。

ただ、今回、タイトルの「入管法の改正」とついずれてしまって済みません。
入管法を操作する悪魔の手管と福島県民始め国民を被曝させて騙す手法に、
「家畜化→実験動物」という悪質で犯罪的な動きがあると感じています。

斜め中道様 こんなところで、宜しくお願いします。
またどっかで遊んでね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c24

記事 [原発・フッ素50] 避難指示解除の富岡町、2018年10月中の移住者は18人、新規転入者は22人(めげ猫「タマ」の日記)
避難指示解除の富岡町、2018年10月中の移住者は18人、新規転入者は22人
http://mekenekotama.blog38.fc2.com/blog-entry-2728.html
2018/11/29(木) 19:42:35 めげ猫「タマ」の日記


 昨年4月に避難指示が解除された福島県富岡町(1)で、2018年10月を見ると 
  町内在住者増分 18人(2)
  転入者     22人(男性21人、女性1人)(3)
で、新規転入者が町内在住者増分より多くなっています。男性が多いので、原子力関係者です。避難指示が解除された富岡町は町が避難者が帰還して再生すのでなく、新規に移住された原子力関係者が多く住む「原子力ムラ」とゆう新たな町になります。。

 福島県富岡町は福島県沿岸部中部にある町です。原発事故によって町は汚染され、全域に避難指示がでました(1)。以下に示します。
事故から7年8ヶ月が過ぎて汚染されている福島


 ※1(4)の数値データを元に(5)に示す手法で11月1日時点に換算
 ※2 避難区域は(6)による
 図−1 福島県富岡町

 図に示す通り今も国が除染が必要だとする毎時0.23シーベルトを超えて(7)います。それでも安倍出戻り内閣は「安全」だとして、昨年4月1日に避難指示を解除しました(1)(6)。

 同町には多くの原子力や関連した施設があります。
 ・福島第二発電所(8)
 ・指定(放射性)廃棄物処分場(9)。
 ・リンプルふくしま(指定廃棄物処分場PR施設)(10)。
11月末には「東京電力廃炉資料館」の設置も決まっています(11)。
また北隣の大熊町には福島第一原発や中間貯蔵施設があります(12)(13)。福島第一では安定化作業では約7千人の方が(14)、中間貯蔵施設でも3千人以上の方が働いています(15)。福島第二も含め同町や同町周辺には原子力の仕事が溢れています。

 以下に富岡町民の居住先を示します。

住民の再定住が進まない富岡町

 ※1(2)集計
 ※2 過去分を含む
 図―2 富岡町民の居住先

 図に示す様に町内居住があまり進んでいません。避難指示解除後1年半の今年10月時点で
   対象 13,097人中で町内在住は809人(6%)
です(2)。 

 富岡町には仕事もたっぷりあります。町は避難指示解除前から生活環境の整備に取り組んできました。
 2016年10月 町営診療所再開(16)
 2017年 3月 ショッピングセンターのグランドオープン(17)
 2017年 4月 一部を除き避難指示解除(1)(6)(16)
 2017年10月 JR富岡駅再開(16)
 2018年 4月 学校再開(16)
 2018年 8月 リンプルふくしま開館(18)
 2018年10月 県ふたば医療センター付属病院で多目的医療用ヘリ運用開始(18)。
です。それでも帰還は進まないようです。
 でも増えたものをあります。以下に富岡町への転入者数を示します。

2017年4月から急に増えた富岡町への転入者

 ※(3)を集計
 図―3 富岡町内の転入者数

 図に示す様に避難指示が解除された昨年4月以降に急に増えています。避難指示解除によって富岡町内に住居を確保できれば誰もが富岡町に住むことができるようになりました。多くの方が富岡町に新たに移り住んだようです。
 以下に在住者の増減と新規転入者を示します。

町内在住者増分に肉薄する富岡町の新規転入者

 ※1(2)(3)を集計
 ※2 過去分を含む
 図―4 富岡町内在住者の増減と新規転入者数

 避難指示解除直後は町内居住者増加数が新規転入者に比べ多かったのですが、このところ新規移住者数と肉薄しています。2018年10月中を見ると
  町内在住者増分 18人(2)
  転入者     22人(男性21人、女性1人)(3)
で、ついに新規転入者が町内在住者増分より多くなりました。死亡や富岡町内から町外への移転で既存の富岡町内在住者がいなくなることもあるし、避難者との婚姻などで富岡町内には住まないけれど新たに富岡町民になった方もいるはずです。新規転入者が町内在住者増分より多くなっても、不思議はありませんが、2018年中のの町内在住者の増加は概ね新規転入者によるもで、避難している住民の寄与は殆どありません。新規転入者の多くが男性です。福島第一で働くのは大部分が男性です(20)。富岡町や周囲には原子力関係の仕事が沢山あります。概ね原子力関係者です。10月中の居住者は18人増ですが、世帯数は20増(2)、で概ね単身で富岡町に来ています。

 富岡町は避難指示が解除されました。避難指示が解除は町の再生のスタートでなく、別の町ができるスタートです。原子力に従事する単身暮らしの男性の街、これが新たな富岡町です。
 
<余談>
 図表が小さいとご不満の方はこちら、図表をクリックしてください。
 富岡町は学校教育に力を入れています(21)。でも原子力ムラの皆様は富岡町へは単身赴任です。家族は連れて来たくないようです。理由は想像するしかありませんが、不安もあると思います。そして、福島の皆様は不安です。

 福島県富岡町産の新米の販売が始まりました(22)。福島は新米の季節です。福島県相馬市産米の全量全袋検査数が13万件を超えました(23)。同市は人口約3.5万人のしなので(24)、市民が食べるには充分な量です。同市辺りのお米は良食味・高品質です(25)。福島県は福島産米は「安全」だと主張しています(26)。でも、福島県相馬市のスーパーのチラシには福島産米はありません。

他県産はあっても福島産米にが無い福島県相馬市のスーパーのチラシ

 ※(27)を引用
 図―5 福島産米が無い福島県相馬市のスーパーのチラシ

 (=^・^=)も福島県相馬市の皆さまを見習い「フクシマ産」は食べません。

―参考にしたサイト様および引用した過去の記事―
http://mekenekotama.blog38.fc2.com/blog-entry-2728.html
(1)富岡町 - Wikipedia
(2)県内外の避難・居住先別人数【平成30年11月1日現在】/富岡町
(3)福島県の推計人口(平成30年11月1日現在)を掲載しました。 - 福島県ホームページ
(4)航空機モニタリングによる空間線量率の測定結果 | 原子力規制委員会中の「福島県及びその近隣県における航空機モニタリング(平成29年9月9日〜11月16日測定) 平成30年02月20日 (KMZ, CSV)」
(5)めげ猫「タマ」の日記 半減期でしか下がらない福島の放射線(2017年)
(6)避難区域見直し等について - 福島県ホームページ
(7)国(環境省)が示す毎時0.23マイクロシーベルトの算出根拠|東京都環境局 その他について
(8)福島第二原子力発電所 - Wikipedia
(9)処分に向けた取組み|福島県における取組み|放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト|環境省
(10)アクセス|特定廃棄物埋立情報館リプルンふくしま|環境省
(11)新しく、重い役割(11月1日) | 県内ニュース | 福島民報
(12)福島第一原子力発電所事故 - Wikipedia
(13)中間貯蔵施設の概要|中間貯蔵施設情報サイト:環境省
(14)福島第一原子力発電所作業者の被ばく線量の評価状況について - 廃炉プロジェクト|公表資料|東京電力ホールディングス株式会社中の2018年⇒ 10月
(15)第11回 中間貯蔵施設環境安全委員会 開催報告 - 福島県ホームページ中の資料1)中間貯蔵施設事業の状況について [PDFファイル/11.08MB]
(16)広報とみおか(平成30年4月号)
(17)春の大感謝祭 さくらモールとみおか グランドオープン1周年イベント|イベント・催し情報 | 富岡町役場
(18)特定廃棄物埋立情報館リプルンふくしま|環境省
(19)多目的医療用ヘリ正式運航開始 - 福島県ホームページ
(20)<「あのとき、おなかに子供がいました」福島第一原発の女性オペレーターは、5年後も現場にいた。
(21)富岡町の学校教育に関するお知らせ | 富岡町文化交流センター 学びの森
(22)イベント詳細(福島県富岡町産米 注文承り中) | 一般社団法人とみおかプラス
(23)イベント詳細(福島県富岡町産米 注文承り中) | 一般社団法人とみおかプラス
(24)ふくしまの恵み安全対策協議会 放射性物質検査情報
(25)福島県相馬市ホームページ
(26)特産品情報 | 地区別くらし情報 安達地区 | JAふくしま未来
(27)全量全袋検査に関するよくある質問 - 福島県ホームページ
(28)Webチラシ情報 | フレスコキクチ中の「相馬店」




http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/606.html

コメント [原発・フッ素50] 風疹の流行拡大が深刻化…原因は安倍政権の“無策”だった (日刊ゲンダイ)  魑魅魍魎男
2. 茶色のうさぎ[-8933] koOQRoLMgqSCs4Ks 2018年11月30日 13:21:09 : OTB809TdPg : 8TEkBN11Q7g[0]

>米国、カナダなどの北米と西欧ではすでに風疹の根絶に成功。

 ↑ 証拠? エビデンス、、市民の証言は?? うさぎ♂


http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/605.html#c2

記事 [国際24] サウジアラビアの皇子たちは真の友人だろうか?(マスコミに載らない海外記事)
サウジアラビアの皇子たちは真の友人だろうか?
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-81bd.html
2018年11月30日 マスコミに載らない海外記事


パトリック・J・ブキャナン
2018年11月22日
Creators.com

 「ワシントン・ポスト」寄稿者ジャマル・カショギのおぞましい殺人におけるサウジアラビア皇族の役割に関するドナルド・トランプ大統領の633語の声明は、冷静な率直さだけのためだけでなく、注目に値する文書だ。

 大統領はジミー・カーターが国を混乱させた問題を再度よみがえらせた。外交政策の決定において、理想的な価値観が、重大な利益に優先するのを、我々はどこまで許すべきなのだろう?

 誰がカショギ殺害を命じたかの問題で、有力な容疑者として、トランプは皇太子を排除していない。

 「サルマーン国王とムハンマド・ビン・サルマーン皇太子は、計画や殺人実行を皇太子が知っていたことを精力的に否定しているが、皇太子が知っていた可能性はある。」

 それでも、MBSがそうだったのか、あるいはそうでなかったのかにかかわらず、サウジアラビアは「アメリカで4500億ドルを使って投資するのに同意した」。そのまるまる四分の一は「ボーイング、ロッキード・マーティン、レイシオンなどの巨大アメリカ軍需企業の軍装備品」のためだ。

 トランプは警告する。「愚かにも」これら契約をキャンセルすれば、ロシアか中国が、好機を逃すまい。しかも、サウジアラビアは価格を安く維持するため、石油をポンプで汲み出すのに同意したのだ。

 トランプは、アメリカ経済と戦略上の権益を恥ずかしげもなく第一においている。たとえ未来の国王が、敵と見なすアメリカを本拠とするサウジアラビア人ジャーナリストの冷酷な殺害を命じていたとしても、彼はリヤドとアメリカとの関係や王室に損害を与えるつもりはないのだ。

 問題を描き出すトランプのあからさまな方法は、連邦議会両党議員に、トランプに反抗して、サウジアラビアを制裁し、二国関係を危険にさらすかどうかを決めるよう強いるものだ。

 トランプ声明の他の主張は、カショギ殺害で、皇太子を許す理由の一つは、この地域における、我々の本当の敵に対する戦いのための不可欠な同盟者として、MBSを見なすことを示唆している。

 導入のせりふに続いて、トランプは、ばかなことを言う。「イエメンでのサウジアラビアに対する血まみれの代理戦争に対し、イランは責任がある。」

 だが、これは本当だろうか?

 2015年、北でフーシ派が反乱し、サウジアラビア傀儡を打倒し、国の大半を支配した後、サウジアラビアがイエメン内戦に介入したのは、当時の防衛大臣、ムハンマド・ビン・サルマーンの命令によるものだった。

 アメリカによる軍需品と後方支援で、軍隊、爆弾と封鎖で、イエメンを、コレラや栄養失調と飢餓による何千人もの死者や苦しんでいる何百万人に対する責任があるのは、イランではなく、サウジアラビアとUAEだ。

 苦しんでいる一般住民のための人道的援助品目を搬入する最後の港を閉鎖しようとしているのはイランではない。

 イランは「(自身の国民を何百万人も殺した)シリア独裁者バッシャール・アサドを支持している。同様に、中東中で、イランは多くのアメリカ人や他の人々を殺している」とトランプは言った。

 だが今世紀、中東で亡くなった7,000人のアメリカ軍兵士と、60,000人の負傷者の原因は、イランによってではなく、アメリカとジョージ・ブッシュによって起こされたアフガニスタンとイラクでの戦争にあるのだ。

 アメリカの民間人犠牲者、9/11 事件の恐ろしい残虐行為で失った3,000人は、イラン人ではなく、サウジアラビア人テロリスト15人の犠牲者だった。

 イランがイラクで、シーア派同盟者を援助し、その同盟者が、我々アメリカ人と戦っているが、近東や中東やアフリカで、アメリカが今日戦っている主要テロ組織、アルカイダとその関係組織、タリバーン、ISIS 、ボコ・ハラム、アル・シャバブは、サウジアラビア人同様、全てスンニ派だ。

 これらテロ組織は我々の敵であると同じぐらい、イランの敵なのだ。

 「我々の最高の目的」は「世界中でテロの脅威を完全に排除することだ」とトランプは声明で宣言した。

 けれどもこの目的は、彼がアメリカ外交政策の「最終目的」が「世界中で圧制的な権力行使を終わらせることだ」と宣言したジョージ・W・ブッシュの二期目就任時のものと、あらゆる点で、全く同じぐらいユートピア的だ。

 テロと圧制は、今まで常に人類と共にあり、永久に人類と共にあるだろう。

 トランプ声明の題名も結語も「アメリカ・ファースト」だった。

 もし「アメリカ・ファースト」政策が今世紀追求されていたなら、我々は今、中東での、これら永久戦争に縛りつけられてはいなかっただろう。

 我々は、欧米風民主主義国家をアフガニスタンの荒野に作ろうなどと試みなかっただろう。我々は、イラクを侵略したり、リビアを攻撃したり、アサドを打倒するため、反政府派を武装させ、それにより、50万人のシリア人の命を奪い、何百万もの難民を生み出した戦争を燃え上がらせたりはしなかっただろう。

 彼の声明で、トランプは、サウジアラビアを「我々の非常に重要なイランに対する戦いにおける偉大な同盟国」だと称賛している。

 だが、イランは我々を攻撃しておらず、我々との戦争を必要としておらず、我々が脱退した核条約を守って留まっている。

 彼の最も親密な補佐官の一部や、我々の最も親密な「同盟国」の一部が、この国が始めるのを手伝った中東戦争から、我々を救い出すと、彼が約束したから、トランプは大統領なのだ。

 トランプ大統領はブッシュ大統領の愚行を繰り返そうとしているのだろうか?

 パトリック・J・ブキャナンは『Nixon's White House Wars: The Battles That Made and Broke a President and Divided America Forever(ニクソンのホワイトハウス戦争:大統領を作り、破壊し、永久にアメリカを分割した戦い」』の著者。パトリック・ブキャナンについて更に知り、他のCreatorsの筆者と漫画家による記事を読むため、www.creators.comでCreatorsウェブサイトご訪問願いたい。

記事原文のur:https://www.creators.com/read/pat-buchanan/11/18/are-the-saudi-princes-true-friends

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http://www.asyura2.com/18/kokusai24/msg/652.html

コメント [国際24] トランプが「補助金を打ち切ってやる」とGMを恫喝!  赤かぶ
6. 2018年11月30日 13:30:43 : j23wc4VGiA : wqdxmavUCPI[11]
そりゃ日本車企業は、実質輸出補助金の消費輸出戻し税を受けた上、
円安による援護射撃を受けてますから。
高下駄を履いて身長勝負に臨むようなもんです。
それで、やれないわけないでしょう。やれなかったらただの無能です。
http://www.asyura2.com/18/kokusai24/msg/638.html#c6
コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
15. 中川隆[-13736] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:33:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c15

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
16. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:39:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]


ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

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aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915


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aki********さん 2012/10/31 13:54:35

天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?


ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34


日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722


▲△▽▼

aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。

補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。

質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726


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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c16

記事 [経世済民129] ブラック企業は「辞めるのも命がけ」28歳が怒りの告白。着拒しても鳴る電話…(bizSPA!フレッシュ)
ブラック企業は「辞めるのも命がけ」28歳が怒りの告白。着拒しても鳴る電話…
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181130-00094321-bizspa-bus_all
bizSPA!フレッシュ 11/30(金) 8:57配信


bizSPA!フレッシュ


「自分の会社、ブラックかも」

 そう思っても辞めることには迷いもあるでしょう。辞めたあとの生活への不安や、そもそも辞めると伝えること自体へのハードルの高さもあります。

 ブラック企業はどう辞めればいいのか、またベストな辞め時は? 法律的には、労働者が辞める自由は保証されていますが、退職を妨害するひどい会社もあるでしょう。

 実際に超ブラック企業を辞めた川崎次郎さん(仮名・28歳)に話を聞きました。

やっと手に入れた正社員の職。それが地獄の始まりだった



「今思えば初めからブラックの雰囲気はありました。でも当時は余裕がなくて気づけなかったんです」(川崎さん、以下同)

 川崎さんはそれまで非正規で働いてきましたが、このままでは将来が不安だという思いから27歳のときに正規採用の仕事を探し始めました。
 そして東京都の若者支援事業で紹介された会社に就職しましたが、そこがまさかの“真っ黒”な企業でした。

「採用された会社は中目黒にあるIT系の人材派遣会社です。まず覚えさせられることは、派遣先との面談での嘘のつき方でした。『これまでに1年以上のシステム運用監視の実務経験があります』などと嘘をつくように指示されます。入社したばっかりで、本当は何も知らないのにですよ」

 おかしいと思いつつもやっとつかんだ正規社員としての職。「働くために必死でした」と川崎さんは嘘をつくことに決め、派遣先が決定しました。
 しかし、そこからが地獄の始まりでした。

「絶対に許せません! できることなら潰してやりたいですよ、あんな会社!!」と、川崎さんは語気を強めます。一体何が彼にあったのでしょうか?

「お前は何も生産していないんだから文句を言うな」

「その会社の勤務時間は、9時から18時となっています。しかしその規則が守られたことはなくて、終電ギリギリの23時45分まで働く毎日でした。

 派遣先での仕事は17時で終わりますが、本社に戻ってまた別の業務がはじまります。本社に戻る交通費も、残業代も出ません。自主的に戻ってきて働いているという扱いなんです」

 派遣先から自宅にそのまま帰ることはできなかったのかと尋ねると、「そこがあいつらの狡猾なところなんですよ!!」と、川崎さんの怒りが爆発。

「私のような新入社員は、ベテランの社員複数人と同じ現場に派遣になります。派遣先の仕事が終わったらベテランの社員に囲まれて強制的に本社に戻されて働かされます」

 ベテラン社員は50万円以上の給料をもらっているからまだ耐えられたとしても、若手社員は手取り13万円。休日出勤も当たり前で、休みはほぼなかったそうです。

「私が『家に帰してください』と頼んだら、恫喝されるんです。『お前は何も生産していない。先輩たちが稼いだ分を食いつぶしているんだから、文句を言うな。むしろ学ばせてもらってありがたいと思え』って」

 休日もなく、一日15時間近く働く生活のなかで川崎さんは心身に異常をきたしていきます。

上手く話せない、笑えない



「結局その会社は5か月で辞めました」

 辞める直前には、人と普通に話したり笑ったりということができなくなっていました。同僚でも、女性社員で「生理が予定通りに来なくなっている」など不調を訴えている人が多くいたそうです。

 川崎さんは意を決して、会社を辞めるというメールを送ります。もちろん直接は言えません。
「直接辞めると話したら何をされるかわかりません。恫喝だけでは済まなくて、監禁されて暴力を振るわれていたかもしれません……」と川崎さん。

 これで解放されるかと思いきや、それからも苦難の日々が続きます。

「メールを送った翌日から、上司からの不在着信が止まりませんでした。着信拒否をすると別の番号からかかってきて、その番号も着信拒否をすると非通知でかかってくる。

 そのうち、家まで直接押し掛けてくることもありました。
 深夜2時くらいに家のベルがなるようになりました。私の家の近くに住んでいる社員を訪問させているんです。居留守を使うと、ドアをバンバン叩かれるんです。それでも私は取り合いませんでした」

 辞めることは直接は言わずにメールで連絡。その後は一切接触を断つ。川崎さんはこのようにしてブラック企業を辞めることに成功しました。

身体からの異常な合図があったら辞めるべき



 川崎さんは、現在では別の非正規の職に就いています。ブラック企業で働いている人に対して、辞め方のアドバイスはありますか?

「どうしたらいいかというと…正直なところ難しいと思います。
 ひどい職場にいると、他の仕事を探す時間も精神的な余裕もなくなっていき、その会社以外に行き場所がないような感覚に陥るのです。

 私の場合は、助けてくれる友人がいたり、当面は安い家賃で住まわせてくれるシェアハウスを知っていたりなどがあって、あの会社から抜けられました。しかし、そういったつながりはみんなが持っているわけではないですから、その点は非常に難しいと思います」

 辞めるのは簡単ではないけれど、ひとつアドバイスがあるといいます。

「ただ一つ、私から言えるとすれば……身体が何かしらの異常の合図を発したらそれを無視しないことです。それ以上働くと取り返しのつかないことになるかもしれません。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、それが生命の危機につながる可能性もあります」

 今でもなくなることがないブラック企業。その原因のひとつに、ひどい会社だと思っても簡単に抜け出すことができないという背景があるのかもしれません。

「身体からの異常の合図に従う」。それは、体験者からのシビアながら現実的なアドバイスです。

<取材・文・撮影/菅谷圭祐>

bizSPA!フレッシュ 編集部



http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/672.html

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
13. 罵愚[6933] lGyL8A 2018年11月30日 13:41:05 : uz7lDD2pDc : EjeLi5CyXwY[337]
 “近代憲法”…欧米の民主主義国家における近代憲法とは、市民革命の副産物である。革命以前の中世の国家では…欧米のケースでは、キリスト教の教義が国家の統治理念を形成していて、こと新く成文憲法を必要とはしていなかった。主権者も国王個人であれば、理念は国王と神様の個人的な契約であって、他人に干渉されるものではなかった。
 それが、市民革命がおき、市民一人一人が主権者ということになると、議会も政府も選挙でえらばれるようになり、国家の統治理念はあらかじめ文章化しておく必要が生じた。革命宣言とか、憲法が生じた理由だな。

 ひるがえってこの国、日本では、その革命がなかった。明治維新では、はじめ維新政府は五箇条のご誓文を発し、天皇と神様のお約束として発表し、後日、体裁を整えて憲法としたが、この明治憲法はヨーロッパのそれのように市民から強要されて署名させられた憲法ではなかった。
 さらに、大東亜戦争敗戦後の現行平和憲法にいたっては、国際法違反の占領期に占領軍政府に強要された、国際法違反の憲法であって、その制定過程に近代憲法としての決定的な瑕疵を残したものである。

 このように制定過程において致命的な欠陥をもつ平和憲法は、また、その内容においてもいくつもの欠陥を内包するのだが、その代表的なものが、戦後民主主義と天皇制との間の矛盾である。アメリカタイプの民主主義に、伝統的な日本の天皇制を接合した、典型的な木に竹を接いだような異形の民主主義憲法がここに存在する。
 今回の秋篠宮殿下のご発言は、まさしくこの矛盾を突いたものであり、平和憲法と皇室制度の矛盾を端的に指摘したものだと思う。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK254] これを知れば消費税払う気が起きないのではないか!  赤かぶ
21. 2018年11月30日 13:45:33 : yKXN1bXf7E : tTFrbr8dfXQ[1]
地下爺さんの>>10のグラフ見てると、アショアとかF35やオリンピック、万博ほか、アホ晋三の外遊や無駄なばら蒔きが、とてつもなく大きいのだなぁと実感できる。

売国通り越して「亡国」の政治屋だーね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/337.html#c21

コメント [政治・選挙・NHK254] 安倍政権の移民法ゴリ押し 外国記者から“クレイジー”の声(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
15. 2018年11月30日 13:48:21 : fVmzl2gB1s : EmgMWclYDB0[39]
 >>5
 “頭の上に荷を載せた少女?が振り向いた時の笑顔と目の綺麗さ!“

 厳寒の青森県下北半島で越冬する(逞しく美しい)野生のニホンザルと、餌付けされ猿山でエサを奪い合う(弱く卑しい)家畜化したニホンザル。その少女が美しいのは、まだ野生を残しているからだ。社会とは檻であり、文明とは家畜化だ。物覚えの良い家畜は使役となり、可愛ければ愛玩となり、その他多くは肉となる。俺は学校給食で直感した。此れは餌付けだと。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/340.html#c15

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
17. 中川隆[-13734] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:56:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


▲△▽▼


朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html



▲△▽▼

高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注

1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91


▲△▽▼

10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


▲△▽▼

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643


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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588



▲△▽▼

文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
25. 斜め中道[5773] js6C35KGk7k 2018年11月30日 13:56:33 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3808]
>>24 さま
どうも。

体操競技もそうですが、
フィギュアスケートもレベルが無茶苦茶上がってきてますね。

通常のランニングで体が受ける衝撃は、体重の約 3 倍程度なのに対し、
フィギュアスケートのジャンプでは、体重の約5〜8倍もの衝撃と言われてます。
そんな加重をしゅっちゅう受けてれば、身体だって悲鳴をあげましょうよ。

それと羽生君は、2012年以来、カナダのトロントが練習の拠点でしょ??

・・・といった感覚でコメントしたんですが・・・

またどっかで遊びましょっ♪


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c25

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
14. AKO47[-2] gmCCaoJuglOCVg 2018年11月30日 13:59:40 : kxk7MnCbWU : S0swXCpT_BE[-3156]
>>12

そうですね、一般ピープルにはかかわってほしくない案件です。

これで、現宮内庁長官はクビになることが確実で、クビにされた長官の家族や一族郎党は
路頭に迷うことになり、代々木公園のダンボールハウスの住人たちと一緒に、打倒アキシ飲み屋、で武器を持って立ち上がる!

AKO47は武器を渡してアベ官邸に突入する!!

アマキ革命が成功したら、アベと安芸市飲み屋は「絞首刑」になり、維新が天下を取る!!!

その5年後にはアマキはダントンになるんだけどね。

http://www.ffortune.net/social/history/seiyo-mod/danton.htm

>フランス革命の発端は国王の失政にあります。

>アマキ革命の発端は皇族(安芸市飲み屋)の失言にあります。

ですね、ヒューミント(証言主義)の工作員さん。

きっとうまくいく。アサイラ!

https://www.nicovideo.jp/watch/sm33153771

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c14

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
18. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:00:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

八咫鏡とアマテラスの墓


糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


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原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/

平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生

私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。

井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。

出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生

邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。

■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生

■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
26. 2018年11月30日 14:02:12 : dZT8YVq50d : 9e__8TVbT20[66]
「強行採決していない」という菅の感覚が、最高レベルの鈍感力!

強行採決だろ!
理解できない人間は政治家になってはいけないよ
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c26

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
19. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:02:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]
古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D



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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK254] 《米国国立公文書館機密解除資料CIA 日本人ファイル解説 加藤哲郎》 警察庁と内閣調査室はCIAの下部機関に過ぎない お天道様はお見通し
5. はろー[1503] gs2C64Fb 2018年11月30日 14:02:50 : uFCT5UT0Y6 : Gxib1H9DNVQ[696]
四角錐の先っぽ、脚本ちょくちょく書き換えているようですね。予言も何も自作自演。自己顕示欲が強いからある意味助かりますが、やけっぱちになって地球壊しすぎて先っぽの小人数だけで原始時代からやり直すのもオツかもね。
そんなことより、呪詛が効かない世に移行したいものです。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/345.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK254] 安倍政権の移民法ゴリ押し 外国記者から“クレイジー”の声(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
16. 2018年11月30日 14:04:14 : LFdj7v4TY2 : oNChsjs1RfI[317]
移民法案の裏で動いているのは竹中平蔵だろう。もう間違いない。
政府が提案したシステムで受け入れると大混乱になる。差配をする「手配師」が
必要になる。そこでパソナの登場なのだろう。外国人相手にも法外な手数料をふん
だくるに違いない。
それにしても愛国者を自称する安倍はどうしてこんな売国者を重用するのだろう
か。おそらく安倍は小泉になりたいのだろう。小泉のように竹中を駆使して人気者
総理になりたいのだろう。そうすれば改憲の近道につながると浅はかな考えをもっ
ているのだろう。でもこんな新自由主義とカルト右翼のバランスを取れるとは思え
ない。いずれ破綻がくるだろう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/340.html#c16
コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
20. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:05:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


▲△▽▼


そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html




http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
27. 斜め中道[5774] js6C35KGk7k 2018年11月30日 14:09:29 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3809]
>>24 さま
追伸
スケート系は、日本伝統の「下駄スケート」しかやったことはないですけど、
器械体操は、武術の基礎として10年近くやってました。

もう骨折が怖い年齢になったのでやりませんけど、
40代まで(20年近く前じゃ・・・)は、陸上Wアクセルはやってましたよ〜♪

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c27

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
15. 罵愚[6934] lGyL8A 2018年11月30日 14:09:34 : uz7lDD2pDc : EjeLi5CyXwY[338]
>>13
 それでは、本来、憲法には何が書かれているべきかといえば、それは当該国の統治理念だと思う。主権者が国王であろうと、国民一人一人であろうと、その主権者がその国を統治していく上での理念…統治理念が書かれているのが憲法であるべきだ。
 日本の現行平和憲法には、アメリカから強要されたメイドインUSAの民主主義が書かれているのだが、同時にその第一章には、それとは、まったく異質な皇室制度が書き込まれている。いわば、原住民のアパッチ族やスー族の部落にアメリカ憲法が強制されたような風景が、戦後日本の憲法問題なんだな。

 戦勝国、占領国としてのアメリカは自国と同質の民主主義国になることを望んで平和憲法をプレゼントしてくれたのだが、同時期に発生した東西冷戦の余波を受けて、天皇制が書き加えられた。
 ほんらい憲法には国の統治理念が書かれるべきであって、戦後日本の統治理念がアメリカンタイプの民主主義であるのならば、書き込まれてはいけないはずの天皇制が第一章に書かれてしまったのだ。現行平和憲法の最大の欠陥はこれだな。

 あらためて議論すべき論点は、この国の統治理念だ。アメリカンタイプの民主主義なのか、ユーラシア大陸でこのあいだまで猛威を振るっていた社会主義なのか、それとも、伝統的な皇室中心の政治体制なのか…
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK254] 経済の大破綻と再生 アベノミクス・ショックが来る日(世相を斬る あいば達也) 赤かぶ
3. 2018年11月30日 14:09:38 : ilJSHK3wFg : KcxsNYas5Us[164]
日銀破綻に陥れば、安倍、黒田の国会前にて公開処刑;絞死刑を望むのでないか。

わかってやっているのだからね、国家財政破綻、国家負債国民に丸投げし国民生活を破綻さす政策を行っている。

国家泥棒邁進中して、自分たちお友達の懐を潤すことに邁進している。

こんな安倍政権、許せるか?。

東京オリンピック、大阪万博か?防衛設備費もトランプの言い値で買い付けて、大盤振る舞いしているわな。大赤字だわ。


2%消費税上げて、5%を還元する、だと、、、なら消費税上げるな!

安倍、お前はアホか‽

日本憲政史上最悪の安倍総理は、絞死刑でもはらわた煮えくりかえる。

クリントン財団が、プーチンのロシア財政破綻で大損させられたから、敵視していた。

ロシア金庫に金があるのに破綻させたのだから、怒ります、クリントン財団。

日本国民も、怒ることを覚えないと、社会は改善されません。

小泉、安倍は、許しがたい売国奴として、名を残すことになるでしょうね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/366.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK254] 天皇・皇后の外国人支援センター訪問の背景にある安倍政権の排外主義への危機感! ヘイトスピーチ、難民問題にも強い関心  赤かぶ
1. 赤かぶ[1745] kNSCqYLU 2018年11月30日 14:12:11 : foLi271siw : Gk_qr4u6MEE[210]






http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/371.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
16. ソーカそうかそうだね[-21] g1yBW4NKgruCpIKpgruCpIK@gss 2018年11月30日 14:14:58 : kxk7MnCbWU : S0swXCpT_BE[-3158]
>>14

そうだったのか、このアキシ飲み屋発言が「松の廊下」で、宮内庁長官が浅野タクミだったのか!

大石クラノスケがアマキか!!

アマキ革命は忠信蔵だったんだ!!!

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c16

記事 [戦争b22] ダマスカスの近くでイスラエル軍機が撃墜されたとの報道(櫻井ジャーナル)
ダマスカスの近くでイスラエル軍機が撃墜されたとの報道
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811300000/
2018.11.30 櫻井ジャーナル


 イスラエルの戦闘機1機とミサイル4機をダマスカスの近くでシリア軍の防空システムが撃墜したと伝えられている。イスラエル軍はその報道を否定した。

 今年(2018年)9月17日にシリアでロシア軍の電子情報支援機IL20が撃墜されたが、その責任はイスラエル軍にあるとしてロシア政府はS-300をシリア政府軍へ引き渡している。今回の報道が事実なら、この防空システムが使われた可能性があるだろう。

 S-300が配備されてからイスラエルはシリアへの攻撃を止めていたが、その一方でイスラエルとアメリカは軍事使節団をウクライナに派遣、S-300への対抗策を訓練しているとも推測されていた。

 ギリシャへ供給されたS-300をアメリカ軍は入手、その弱点を研究したと言われているが、このシステムとシリアへ提供されたものとバージョンが違う。

 アメリカやイスラエルはどこかの時点でシリアの防空システムをテストするために攻撃すると見られていたので、今回の撃墜が事実だとしても不思議ではないのだが、F-35は使っていないだろう。

 F-35は欠陥戦闘機と言われているが、それが実践で確認されたとなると販売上、大きな問題が生じる。カネを支払うことが目的のような日本は別として、実際の戦闘を考えている国は買いたがらなくなるだろうからだ。



http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/439.html

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
17. ソーカそうかそうだよ[-1] g1yBW4NKgruCpIKpgruCpIK@guY 2018年11月30日 14:22:54 : kxk7MnCbWU : S0swXCpT_BE[-3160]
>>16

正しくは、忠臣蔵ですね。

松の廊下は記者会見!

大石は橋下!!

四十七士は、前回の総選挙で落選した「維新の志士」たち!!!

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c17

コメント [経世済民129] ゴーン容疑者の私的損失、付け替えは新生銀行の契約(日刊スポーツ) 赤かぶ
2. 2018年11月30日 14:24:27 : ilJSHK3wFg : KcxsNYas5Us[165]
こんな女が日銀委員に紛れ込んでいる。

日銀も落ちたものよ!

黒田金融緩和続行も、腑に落ちるな〜

日本、中枢から腐っている事例だ。

所で、ゴーンのレバノンの豪邸が17億だったとさ、、、

何か匂わないか? ゴーンが取引で大損した総額が17億。

レバノンに17億の豪邸は、あるのか? 売りに出されているのか?

日産の金が化けて、ゴーンの損失補填に回ったのでしょうか?

わかりやすいね、ゴーンさん、、あなたは根っからの嘘つきではないようですね、、、極悪;安倍とは違いますが、ゴーンさんあなたも悪です。
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/671.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK254] 東京新聞・望月衣塑子記者の追及に菅官房長官が「入管法は強行採決してない」(笑)。罪深きは日本維新の会と産経新聞。 赤かぶ
28. 2018年11月30日 14:25:02 : JnT3L9zDWc : aEmCzLHqc74[1]
嘘つき安倍晋三 私利私欲の安倍晋三 カルト宗教に毒されている安倍晋三 国会を私物化している安倍晋三 自分が公僕なのが解っていない安倍晋三 日本会議 胸に青いリボンバッチを付けている自民政治家 公明党=創価学会(洗脳されて選挙で自民党を応援する信者)菅、百田尚樹、櫻井よしこ、こういった人間以下の動物が日本を滅ぼす
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/347.html#c28
記事 [経世済民129] ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く(ダイヤモンド)
ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く
https://diamond.jp/articles/-/186884
2018.11.30 ダイヤモンド・オンライン編集部 


写真はイメージです Photo:PIXTA


日産自動車のカルロス・ゴーン元会長が「巨額報酬の虚偽記載」によって逮捕されてから早くも10日が経過。今回活用された「司法取引」が世の注目を集め、自社の社員による「司法取引」の活用を懸念する企業経営者も少なくないはずだ。そこで、中島経営法律事務所の中島茂弁護士が企業法務の専門家としての立場から一連のゴーン報酬虚偽記載問題の分析とともに、司法取引が当たり前になる時代の経営に必要な考え方を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子)

日産は「報酬虚偽記載」以外でも
司法取引が行われておかしくない状態



中島茂(なかじま・しげる)/弁護士、中島経営法律事務所代表 東京都生まれ。東京大学法学部卒、1979年弁護士登録。83年、企業経営法務を専門とする中島経営法律事務所を設立。企業経営に法務の知識を活用すべきだとして、早くから「戦略法務」を提唱。企業の危機管理や企業法務の第一人者。『社長!それは『法律』問題です』、『その『記者会見』間違ってます!』、『株主を大事にすると経営は良くなるは本当か?』(以上日本経済新聞出版社)など著書多数。 Photo:DOL

――今年6月から「司法取引」が導入され、今回のゴーン氏の逮捕で二例目の適用といわれています。今回の司法取引を活用した立件をどう評価しますか?また、司法取引の活用により、日産のどのような問題が浮き彫りになったでしょうか。

 今回の事件では、「司法取引」が本来の趣旨にのっとって機能したと評価しています。カギになったのは、日産の「複数の執行役員」が司法取引に応じ、情報提供した点でしょう。

 司法取引は、企業や組織の犯罪捜査において「巨悪を捕まえる」ことを目的に、今年6月から施行されたものです。一例目となった三菱日立パワーシステムズの事例では、タイの火力発電所建設に絡み現地公務員に賄賂を提供していた元経営幹部が起訴された一方で、法人は起訴を免れ、“とかげのしっぽ切り”のような印象が残りました。しかし今回は、法務やコンプライアンスの担当者を含む複数の執行役員からの情報提供を得て経営トップを立件したと報じられており、本来の目的に合致したものだったと思います。

 またこの事件は、日産の「ガバナンス」にも問題を投げかけた重要な事案だと考えています。今回、司法取引に応じた複数の執行役員が上層部に命じられて虚偽記載を行ったことが明らかになりましたが、執行役員は会社の執行部門のトップであり、幹部です。その複数の幹部が行っていた事実を、取締役会、監査役会、会計監査人は知らなかったのでしょうか。

 そもそも、1億円以上の役員報酬を個別開示する制度が始まった2010年までゴーン氏の年俸は20億円前後だったとされていますが、1億円以上の開示が始まってからは急に年俸が10億円前後と記載されていました。経営陣は素朴に不思議に思わなかったのでしょうか。いくらゴーン氏に権力が一極集中していたとはいえ、社内の人間が見れば、本来は疑問を持つはずです。

 腹心の部下だけが覆面部隊として動いていたならまだしも、複数の執行役員が行っていることを取締役会が知らなかったとしたら、会社のガバナンスが機能していなかった証拠。つまり、“知らぬはボード(取締役会)ばかり”という状態だったわけでしょう。

 日産では社外取締役がずっと1人の体制で、指名委員会や報酬委員会がないことが今回の報道でも指摘されています。監査役設置会社の4割近くが、任意で指名委員会、報酬委員会や社外取締役を置いているという流れと逆行していたのは明らかです。

 日産は「無資格検査」でも大きな問題になりましたが、そのときの構図と今回の問題は非常に似ています。無資格検査の問題が明らかになった際の報道では、無資格者が有資格者の判子を有資格者の立ち合いなしで利用できる仕組みにするなど、組織的に不正が行われたと報じられています。

 現場で違法行為を組織的に行っていたにもかかわらず、経営陣は本当に知らなかったのでしょうか。その後、排ガスや燃費データの改ざんなども相次いで発覚しましたが、日産はどこで司法取引が起きてもおかしくないような会社の風土になってしまっていたといえます。

――今回の問題では大きな成果を上げていますが、そもそも日本で「司法取引」の制度が導入された背景を教えてください。

 先ほども述べましたが、司法取引は比較的軽微な罪を許してでも「巨悪」を捕まえて、世の中を良くしたほうがいいという考えから導入されたものです。

 この制度が欧米にはありながら日本になかったのは、「因果応報」、つまり悪いことをした人はそれ相応の報いを受けなければならないという文化が日本に根強くあったからです。以前は、司法の世界では「取引」という言葉自体に拒絶反応がありましたが、いつまでも企業の不祥事がなくならない流れを受け、「世の中を良くするという目的が達成されるなら」という現実的なものの考え方へと変わってきたと考えられます。

 また、報道によると、今回の事件で司法取引に応じたなかには外国人執行役員が含まれていると言われており、司法取引を文化として理解していた人ではないかと推測されます。実際、捜査当局の司法取引合意においても弁護士のアドバイスをもらって行っており、十分に体制を整えてから実行に移していたことがわかります。

 司法取引は6月に施行されたわけですが、日産の問題がターニングポイントになって、今後は自身の刑事罰を減免してもらうことで、会社やトップの巨悪を告発、情報提供していく動きが出てくることになるでしょう。

司法取引によって立件されれば、
企業のダメージは計り知れない


――今後、司法取引が増加していく可能性があるなかで、企業はどのような対策を取るべきでしょうか。

 そもそも司法取引に応じられたら困るような違法行為、不適切行為をすること自体が問題です。今、日本企業の多くが関心を持っているのは、内部告発です。最近起きている企業不祥事の大半が内部告発で発覚しています。つまり、内部告発をされたら困るような経営をしてはいけないのです。

 これまでは、内部告発を受けた後に取締当局が事件を立件し、摘発していく際に、情報不足が悩みの種になっていましたが、今後は司法取引を活用して情報を得られるようになります。そうなれば、不正を行っている企業のダメージはこれまで以上に大きくなるでしょう。経営者は内部統制、危機管理体制に今まで以上に真剣に取り組まなければなりません。 

 私も企業の社外取締役などをしていて感じるのは、社内の「情報流通」の問題です。今回の問題が象徴していますが、普段からざっくばらんにお互いに意思疎通ができていないからこそ、問題が起こるのです。取締役会や監査役会や会計監査人が執行部門の人々、現場の人々と十分な意思疎通をするのは、大変な努力が必要です。

 取締役会などモニタリング部門の人たちは、「執行部門と意思疎通はしていた」と回答すると思いますが、たいていは、質問状が出て、回答が準備され、かしこまって報告をするというものでしょう。それでは形式的な意思疎通にとどまり、本質的な情報は得られません。「パソコン上の業務記録はこうだけど、実際はどう?」「それが、実のところ、こうなんですよ…」といった、具体的な意思疎通がないと、本当の実態がわからないのです。取締役会や監査役などへの報告も「業務部長報告会」といったような堅苦しいネーミングではなく、「懇談会」のようにして、日頃からざっくばらんに情報交換、意見交換ができる場にしていくことが大切でしょう。

「巨額報酬の虚偽記載」は形式犯ではない
懲役10年以下の非常に重い“詐欺罪”


――今回、ゴーン氏の役員報酬を有価証券報告書に過少に記載した件に関して、立件しやすいがゆえの“形式犯”ではないかという報道も相次いでいます。法律的な観点から見て、本当に形式犯と言っていいのでしょうか?

 確かに有価証券報告書の虚偽記載は“形式犯”だという意見がありますが、それはとんでもない話です。

「株主」は会社という箱を通じて経営陣に経営を委託している立場、いわば経営陣を雇っている立場にあります。雇い主である株主が、「自分たちは経営陣にいくら報酬を支払っているんだっけ?」と知りたいのは本質的なことです。ところが、経営陣は「プライバシーだ」といって、なかなか報酬額を開示しない。「経営陣の総額ならなんとか開示します」となってきたわけです。

 そこで、雇い主である株主側とプライバシーを主張する経営陣側の妥協点として、2010年に「1億円以上なら個別開示しよう」となったのです。その数字を「10億円」としていたところが、実は「20億円」であり、もし偽りを書いていたなら、受託者としてあるまじき騙し行為です。

 また、その会社の株を「買おうかな」と考えている一般投資家にとって、株の価値を推し量る唯一の公的情報は有価証券報告書です。なかでも経営陣がどのくらいの報酬をもらっているのかは重要な情報です。「あの活躍ぶりで10億円なら、納得できるな」と思って株を買うわけです。そこに嘘が書いてあったなら、投資家は騙されて株を買ったことになります。これは、広い意味で、詐欺だと思います。

 金融商品取引法は、有価証券報告書の虚偽記載に対して「10年以下の懲役」という、とても重い刑罰を定めています。株主や一般投資家を騙す罪だと理解していただくと、この刑事罰の重さの意味を分かっていただけると思います。詐欺罪も同じく「10年以下の懲役」と定められていますが、立法者の考え方が推し量られます。

 それにもかかわらず、世の中で「有価証券報告書の虚偽記載」が重大な問題と受け止められないのは、ネーミングの難しさにもあるかもしれません。今回をいい機会として、有価証券報告書のネーミングを工夫して、「株式情報虚偽罪」とか、わかりやすい言葉にしてもいいかもしれません。

 これから高齢化がすすみ、自分の虎の子の財産を株式で運用しようかと考える人もますます増えるでしょう。そうしたときに、嘘だらけの「有価証券報告書」を世の中に公開するのはとんでもないこと。「上場」とは本来神聖なものであり、上場している企業の責任は重いのです。そのことを経営陣には自覚していただきたいと思います。




http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/673.html

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
39. 空虚[1609] i_OLlQ 2018年11月30日 14:31:19 : XD9Oi36H1A : un_kwKKfyt4[5]
そのスピンが小室圭なるエージェント、秋篠宮 真子の結婚問題か?

嘗められたもんだね。

>>29 殿

>『東大出の娘がフランス人と結婚で麻生太郎「あれは俺の血だな」』と題して報じています。

ほお!麻生の娘は税金で学校いったもんなんだww。

>後10年もしたら日本人は水すら飲めなくなるだろうなw
もしくは綺麗な水は全部外資系企業が輸出、国民は汚い水を啜ることになるわw

その心配は、確定ではないぞえw。

管理委託はしても、権利は売らぬというお題目ならねw。

ただし、本気でオカルト売国政権をひっくり返さなければ

貴殿の云う通りの、現実がやってくるわな。

どうも、このオカルト政権には皇室関係者が深く関わっているフシが

認められるね?

こりゃぁ〜やっかいで、難儀な相手だわな・・・。

小室圭なる詐欺師エージェント、うぜぇ〜〜wwwww。


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c39

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
18. 罵愚[6935] lGyL8A 2018年11月30日 14:31:51 : uz7lDD2pDc : EjeLi5CyXwY[339]
>>15
 で、テーマはこの国の統治理念に到達する。秋篠宮の意見表明は、すなわち「この国の統治理念は何だろうか?」の国民への質問なんだな。この国の統治理念がアメリカンタイプの民主主義やユーラシア大陸で絶滅したコミュニズムだとしたら、殿下のご発言のとおり、大嘗祭の費用は皇室の家計で賄われるべきだろう。
 ところが、皇室の伝統やご存在に対する国民の支持は戦前はもちろん、敗戦の前後も、戦後の70年間も不動の安定高位を保持し続けておられる。歴代内閣も、人気アイドルも、流行ファッションも顔負けの国民的な人気なのだ。
 とりわけ平和憲法との人気の高低差は…比較対象としての適不適はもちろん承知のうえで、圧倒的で絶後だな。不人気の平和憲法と、人気絶頂の皇室と、矛盾し合う二つの存在を国民投票で選択するのもひとつの解決方法かもしれない。

 あらためて、日本の国家としての統治理念は何だろうか?

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c18

コメント [経世済民129] ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く(ダイヤモンド) 赤かぶ
1. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:32:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html


http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/673.html#c1

記事 [経世済民129] 中国メーカーが悲鳴、関税で米小売りが圧力(ダイヤモンド・オンライン)
中国メーカーが悲鳴、関税で米小売りが圧力
https://diamond.jp/articles/-/187055
2018.11.30 Natasha Khan and Yifan Wang WSJ ダイヤモンド・オンライン


Photo:Reuters


 【香港】米小売り大手は、関税発動による痛みが広がるのに伴い、発注の削減や値下げ要求などを通じ、中国のサプライヤーへの圧力を強めている。

 広報担当者の話や決算会見によると、小売り大手ウォルマートやホームセンター大手ホームデポは、関税が引き上げられたり対象が拡大したりする可能性に備え、発注を前倒ししている。関係筋によると、ネット小売り大手アマゾン・ドット・コムは、関税の影響で他社よりも安い価格で販売できない一部の自社製品について、発注を減らしている。その関係筋は具体的な商品名は明かさなかったが、アマゾンは大量の家電を中国から調達していると述べた。

 1ドルショップのダラー・ツリーは供給業者との値引き交渉や発注取り消し、製品構成の変更などを行っていると明らかにした。ディスカウント大手ターゲットは、価格競争力を維持するため「さまざまな手段を有している」としたが、詳細は明かさなかった。

 一方、中国では、ハンドバッグ、照明機器、靴製品などのメーカーが厳しい状況に追い込まれている。多くの業者は、米国外の新たな顧客の獲得を目指しているほか、一部では受注減に歯止めをかけるため値引きの提示を余儀なくされている。

 米国の小売業者、中国の製造業者のいずれも、ドナルド・トランプ米大統領と中国の習近平国家主席が週末に開く首脳会談により、米中貿易摩擦が緩和され、一段の関税発動が回避されることを望んでいる。

 ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が今回取材した数十社の中国メーカーは、売上高が落ち込んでいると明らかにした。

 浙江省のキャンプ用椅子メーカー、聖雪休閑用品有限公司では、最大7%値下げしたものの、売上高は約3割減った。山東省の発光ダイオード(LED)装飾照明メーカーは、通常なら11月までに成約する来年の受注が保留となっている。米国の顧客企業が10%の関税コストを負担するよう求めているためだ。テーブルや椅子、ソファなどを製造するホームガード・インターナショナル(深セン)の販売責任者は、受注が半減したと話した。

 米国側の値下げ要求が長期化していることで、サプライチェーン(供給網)との交渉は混乱した状況に陥っている。10-12月期(第4四半期)には通常、新製品や来年の注文などに関する交渉が始まるが、多くのメーカーは、こうした協議はまだ行われていないと明かす。

  福建省にあるメーカーの販売担当者、アンディー・リー氏は、受注交渉が長引いていると述べる。同社はウォルマートなどにリュックサックなどの布製品を供給している。受注交渉は通常なら2週間程度だが、一部顧客とは1カ月以上を経ても決着のめどが立っていないという。

 最近開催された中国最大の貿易商談会「中国輸出入商品交易会(広州交易会)」では、米国のバイヤーの数が落ち込んだもようだ。そのため、中国のサプライヤーの間では、欧州など別の顧客を積極的に獲得しようとする動きが強まったという。

 現段階では関税の対象に上がっていない玩具などの製品にも、影響が波及している。米中の貿易摩擦が今後さらに悪化するとの懸念がくすぶっているためだ。ある玩具メーカーでは、受注から出荷まで6〜8週間程度が通例となっているが、その期間を短縮できないか買い手から要求されているという。

 香港玩具協会のジョン・トング名誉会長は、仮に玩具にも関税が発動されれば、買い手はコスト増を余儀なくされるだろうと述べる。米商務省のデータによると、米国内で販売される玩具の82%が中国からの輸入品だ。トング氏は「短期的に、中国に匹敵する生産能力を持つ国は他にない」と話す。







http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/674.html

コメント [昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
54. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:37:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]
ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く
https://diamond.jp/articles/-/186884
2018.11.30 ダイヤモンド・オンライン編集部 


日産自動車のカルロス・ゴーン元会長が「巨額報酬の虚偽記載」によって逮捕されてから早くも10日が経過。今回活用された「司法取引」が世の注目を集め、自社の社員による「司法取引」の活用を懸念する企業経営者も少なくないはずだ。そこで、中島経営法律事務所の中島茂弁護士が企業法務の専門家としての立場から一連のゴーン報酬虚偽記載問題の分析とともに、司法取引が当たり前になる時代の経営に必要な考え方を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子)

日産は「報酬虚偽記載」以外でも
司法取引が行われておかしくない状態


――今年6月から「司法取引」が導入され、今回のゴーン氏の逮捕で二例目の適用といわれています。今回の司法取引を活用した立件をどう評価しますか?また、司法取引の活用により、日産のどのような問題が浮き彫りになったでしょうか。

 今回の事件では、「司法取引」が本来の趣旨にのっとって機能したと評価しています。カギになったのは、日産の「複数の執行役員」が司法取引に応じ、情報提供した点でしょう。

 司法取引は、企業や組織の犯罪捜査において「巨悪を捕まえる」ことを目的に、今年6月から施行されたものです。一例目となった三菱日立パワーシステムズの事例では、タイの火力発電所建設に絡み現地公務員に賄賂を提供していた元経営幹部が起訴された一方で、法人は起訴を免れ、“とかげのしっぽ切り”のような印象が残りました。しかし今回は、法務やコンプライアンスの担当者を含む複数の執行役員からの情報提供を得て経営トップを立件したと報じられており、本来の目的に合致したものだったと思います。

 またこの事件は、日産の「ガバナンス」にも問題を投げかけた重要な事案だと考えています。今回、司法取引に応じた複数の執行役員が上層部に命じられて虚偽記載を行ったことが明らかになりましたが、執行役員は会社の執行部門のトップであり、幹部です。その複数の幹部が行っていた事実を、取締役会、監査役会、会計監査人は知らなかったのでしょうか。

 そもそも、1億円以上の役員報酬を個別開示する制度が始まった2010年までゴーン氏の年俸は20億円前後だったとされていますが、1億円以上の開示が始まってからは急に年俸が10億円前後と記載されていました。経営陣は素朴に不思議に思わなかったのでしょうか。いくらゴーン氏に権力が一極集中していたとはいえ、社内の人間が見れば、本来は疑問を持つはずです。

 腹心の部下だけが覆面部隊として動いていたならまだしも、複数の執行役員が行っていることを取締役会が知らなかったとしたら、会社のガバナンスが機能していなかった証拠。つまり、“知らぬはボード(取締役会)ばかり”という状態だったわけでしょう。

 日産では社外取締役がずっと1人の体制で、指名委員会や報酬委員会がないことが今回の報道でも指摘されています。監査役設置会社の4割近くが、任意で指名委員会、報酬委員会や社外取締役を置いているという流れと逆行していたのは明らかです。

 日産は「無資格検査」でも大きな問題になりましたが、そのときの構図と今回の問題は非常に似ています。無資格検査の問題が明らかになった際の報道では、無資格者が有資格者の判子を有資格者の立ち合いなしで利用できる仕組みにするなど、組織的に不正が行われたと報じられています。

 現場で違法行為を組織的に行っていたにもかかわらず、経営陣は本当に知らなかったのでしょうか。その後、排ガスや燃費データの改ざんなども相次いで発覚しましたが、日産はどこで司法取引が起きてもおかしくないような会社の風土になってしまっていたといえます。

――今回の問題では大きな成果を上げていますが、そもそも日本で「司法取引」の制度が導入された背景を教えてください。

 先ほども述べましたが、司法取引は比較的軽微な罪を許してでも「巨悪」を捕まえて、世の中を良くしたほうがいいという考えから導入されたものです。

 この制度が欧米にはありながら日本になかったのは、「因果応報」、つまり悪いことをした人はそれ相応の報いを受けなければならないという文化が日本に根強くあったからです。以前は、司法の世界では「取引」という言葉自体に拒絶反応がありましたが、いつまでも企業の不祥事がなくならない流れを受け、「世の中を良くするという目的が達成されるなら」という現実的なものの考え方へと変わってきたと考えられます。

 また、報道によると、今回の事件で司法取引に応じたなかには外国人執行役員が含まれていると言われており、司法取引を文化として理解していた人ではないかと推測されます。実際、捜査当局の司法取引合意においても弁護士のアドバイスをもらって行っており、十分に体制を整えてから実行に移していたことがわかります。

 司法取引は6月に施行されたわけですが、日産の問題がターニングポイントになって、今後は自身の刑事罰を減免してもらうことで、会社やトップの巨悪を告発、情報提供していく動きが出てくることになるでしょう。

司法取引によって立件されれば、
企業のダメージは計り知れない

――今後、司法取引が増加していく可能性があるなかで、企業はどのような対策を取るべきでしょうか。

 そもそも司法取引に応じられたら困るような違法行為、不適切行為をすること自体が問題です。今、日本企業の多くが関心を持っているのは、内部告発です。最近起きている企業不祥事の大半が内部告発で発覚しています。つまり、内部告発をされたら困るような経営をしてはいけないのです。

 これまでは、内部告発を受けた後に取締当局が事件を立件し、摘発していく際に、情報不足が悩みの種になっていましたが、今後は司法取引を活用して情報を得られるようになります。そうなれば、不正を行っている企業のダメージはこれまで以上に大きくなるでしょう。経営者は内部統制、危機管理体制に今まで以上に真剣に取り組まなければなりません。 

 私も企業の社外取締役などをしていて感じるのは、社内の「情報流通」の問題です。今回の問題が象徴していますが、普段からざっくばらんにお互いに意思疎通ができていないからこそ、問題が起こるのです。取締役会や監査役会や会計監査人が執行部門の人々、現場の人々と十分な意思疎通をするのは、大変な努力が必要です。

 取締役会などモニタリング部門の人たちは、「執行部門と意思疎通はしていた」と回答すると思いますが、たいていは、質問状が出て、回答が準備され、かしこまって報告をするというものでしょう。それでは形式的な意思疎通にとどまり、本質的な情報は得られません。「パソコン上の業務記録はこうだけど、実際はどう?」「それが、実のところ、こうなんですよ…」といった、具体的な意思疎通がないと、本当の実態がわからないのです。取締役会や監査役などへの報告も「業務部長報告会」といったような堅苦しいネーミングではなく、「懇談会」のようにして、日頃からざっくばらんに情報交換、意見交換ができる場にしていくことが大切でしょう。

「巨額報酬の虚偽記載」は形式犯ではない
懲役10年以下の非常に重い“詐欺罪”

――今回、ゴーン氏の役員報酬を有価証券報告書に過少に記載した件に関して、立件しやすいがゆえの“形式犯”ではないかという報道も相次いでいます。法律的な観点から見て、本当に形式犯と言っていいのでしょうか?

 確かに有価証券報告書の虚偽記載は“形式犯”だという意見がありますが、それはとんでもない話です。

「株主」は会社という箱を通じて経営陣に経営を委託している立場、いわば経営陣を雇っている立場にあります。雇い主である株主が、「自分たちは経営陣にいくら報酬を支払っているんだっけ?」と知りたいのは本質的なことです。ところが、経営陣は「プライバシーだ」といって、なかなか報酬額を開示しない。「経営陣の総額ならなんとか開示します」となってきたわけです。

 そこで、雇い主である株主側とプライバシーを主張する経営陣側の妥協点として、2010年に「1億円以上なら個別開示しよう」となったのです。その数字を「10億円」としていたところが、実は「20億円」であり、もし偽りを書いていたなら、受託者としてあるまじき騙し行為です。

 また、その会社の株を「買おうかな」と考えている一般投資家にとって、株の価値を推し量る唯一の公的情報は有価証券報告書です。なかでも経営陣がどのくらいの報酬をもらっているのかは重要な情報です。「あの活躍ぶりで10億円なら、納得できるな」と思って株を買うわけです。そこに嘘が書いてあったなら、投資家は騙されて株を買ったことになります。これは、広い意味で、詐欺だと思います。

 金融商品取引法は、有価証券報告書の虚偽記載に対して「10年以下の懲役」という、とても重い刑罰を定めています。株主や一般投資家を騙す罪だと理解していただくと、この刑事罰の重さの意味を分かっていただけると思います。詐欺罪も同じく「10年以下の懲役」と定められていますが、立法者の考え方が推し量られます。

 それにもかかわらず、世の中で「有価証券報告書の虚偽記載」が重大な問題と受け止められないのは、ネーミングの難しさにもあるかもしれません。今回をいい機会として、有価証券報告書のネーミングを工夫して、「株式情報虚偽罪」とか、わかりやすい言葉にしてもいいかもしれません。

 これから高齢化がすすみ、自分の虎の子の財産を株式で運用しようかと考える人もますます増えるでしょう。そうしたときに、嘘だらけの「有価証券報告書」を世の中に公開するのはとんでもないこと。「上場」とは本来神聖なものであり、上場している企業の責任は重いのです。そのことを経営陣には自覚していただきたいと思います。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c54

コメント [政治・選挙・NHK254] 官房長官を罵倒、自衛隊に難癖…北朝鮮が日本に猛攻撃を開始(DailyNK Japan) 赤かぶ
10. 斜め中道[5775] js6C35KGk7k 2018年11月30日 14:39:13 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3810]
ここの罵愚・・・
文末を句点じゃなく読点にするのは、何かの目印なんかね?

どうせなら、・・・思うにゃ♪ ・・・だにゃ♪ とかで統一してくれたら
親しみがわくかも知れないにゃ〜♪

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/364.html#c10

コメント [経世済民129] 東芝は制度強化 企業の内部通報“ほぼ半分は”もみ消される “暴君”ゴーンの落日(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
6. 2018年11月30日 14:41:26 : ilJSHK3wFg : KcxsNYas5Us[166]
竹中ケケ蔵は、ゴーンさんより悪だろうな〜

郵貯民営化で成果報酬がゴールドマンサックスから2兆円、竹中ケケ蔵口座に振り込まれた。

そうだよな? 竹中平蔵。これで国外追放になったようだが、なぜか舞い戻ってきた、なぜ日本に戻れた? 又悪しに日本に戻ったようだな。

ちなみに、小泉純一郎が1兆円だと。

小泉純一郎より、成果を出したのだ、、ケケ蔵くん。

お前さんは、悪だな〜
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/670.html#c6

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
21. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:49:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

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東漢氏の遺産・「祓いの神道」


梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html


【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c21

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
22. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:50:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]


「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。


「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。


日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。


梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。


出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00

▲△▽▼



出雲王国は実在したか?

結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。


1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html


我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。


地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。


「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c22

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
23. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:52:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

日本人の思想の原基

 吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。


中沢

 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想というものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想がどうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をしたわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。

 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さんは古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めたらよろしいとお考えでしょうか。


梅原

 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイコール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だったと思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思いますけど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言っている。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判者として登場した。

 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまって、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかったからです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってからです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にもアレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でしてね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そんなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言った日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分らない。

 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在した何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからいろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうすると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てることができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受けた。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言えない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなものだといま考えているんですけどね。


中沢

 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめて、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっしゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。


梅原

 ちょっと違いますね。


中沢

 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代というような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつながっているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘーゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。


梅原

 そうと言えるかもしれん。


中沢

 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。

 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さんはアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につながる考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセスが、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。


吉本

 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。

 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。

 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りがあって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょっと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様としての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というところで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまったものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はあるとしても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつある過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。


 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。


 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊をさせて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解できない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。

 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマットなんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てくる言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道をいろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰であるということがわかった。

 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定されている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されていると思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私はそこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディアンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。それが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。


 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまうことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されていることからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り上げる予定でいる。


 
縄文人と弥生人


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。


 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろう…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけれども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。

 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょうか。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流になったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がより純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えているんですけれどね。


 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。

 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代のおおまかなイメージが描ければよいとする。


 まず縄文人について。

 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイトル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされるルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さんは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調する。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワード・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間にわたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

   この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかるのと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定による結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。

 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」


 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」からだ。中国原郷説への自信がのぞく。

 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。

 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリアDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えられており、重視されている。


 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のものである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。

 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時代(紀元前221〜202年)の銅貨や新時代(紀元8〜23年)の硬貨も出ている。またその近くの、明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。

 これらの事実は何を物語っているのだろうか。


 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。

 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえる。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにのぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこれまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」というものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。


天皇制の古層(1)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題となる。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層にあるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそのまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。


 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。

 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。

 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、アイヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、というふうに柳田は言っています。

 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつけたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分けると微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で言っているんです。


 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。

 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カスガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はたいへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサシ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目−海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉はもう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。

 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思います。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるでしょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」という言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながっているけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。

 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチバなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神につく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくというのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そう考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。


記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。


吉本さんの問題提起。

 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先に言って、だんだん小さくしていきます。

 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的に大きい。


 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。

 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわけです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。


 この問題について、梅原さん次のように応えている。

 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなくて、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点でだいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思うんです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかってくると思います。


 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。
 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。


 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだというふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきているんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命(イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわからないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それとも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。


 この問題について、以下のように対話が続く。

梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またどれが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別するのは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みたいな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会というのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。

 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こういう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というような複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続するのです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくする同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それはそれで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわけです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。

 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。


吉本 あり得ないですね。


梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。


吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこで僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、そこがよくわからない。


梅原 末子相続でしょう。


吉本 それに近いと思います。


梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけれど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が含まれていると思うんですね。


 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位をゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろいろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。


吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうことがとてもわかってくるという問題があるわけですね。


梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすでにあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたものである可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろいろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないかという気がしますね。


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。

 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。


吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。


梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入っているのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですからね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろかしてやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』になってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。

 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がしますね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃないか、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎのように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得ないのは確かだ。 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係を神話から読み解く議論に移っていく。


吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょうか。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになりそうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。


梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。


吉本 農商務省ですね。


梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思いますね。

 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤマヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そのオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民がやってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。

 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示している。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語っていると私は思いますけれどね。


 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。


吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っているのを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。


梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんですね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっくりしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マタギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなってしまいましたが、まだそこには少し残っているんです。

 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところが、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になって農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけマタギですから、かえって純粋に残ったのです。

 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギの親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけです。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれから農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれからマタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌの熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃないかと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の歌の意味について論じているくだりがある。


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


 通説ではこの歌を

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読み下している。そしてその意はおおよそ

「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」

とするのが通説だ。 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。

この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという物語に挿入されている。


 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、

「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」

とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁


 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いことが一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。


サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また「女(め)込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身)の掟( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。それが一夫一婦(ツ レ)の制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、


(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰

(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟m盧贈廼夜覇餓岐廻


 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解釈してゐる。


八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。


ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。

イヅモ、ヤへガキは、平和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。

ヤへガキツクルは 掟( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( ヤヘガキ)である。

 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。


 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。


 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。


 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、なんてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。
 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を呈している。


 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっと日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」はフィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってきた考え方です。

 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのものが出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。

 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう一度大きく問い直されなければならなくなった。

 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなくなって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明がつかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。


 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。


  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。

 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しかも厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が占めている。


 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったことは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係などから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。


農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。

 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすることはできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思います。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれに対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そういう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくるのがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなかったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私は思うんです。


 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語っている。


吉本

 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当ではないかという感じ方はあったのです。

 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしていけば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではないかということが問題意識の一番初めにあったわけです。


 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。

 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主としてそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君(キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのではないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないかというふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんです。

 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、そこがよくわからないんです。

 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるといつでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところはどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとっている相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせたあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるという形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきないことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、そのとき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかという感じがします。


梅原

 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけたのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とともにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはやるのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。

 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそらく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がいろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、ということではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それを継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることはできないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでにもっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えております。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨するというのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/nippontoha.html

ヤマト王権の出自(1)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。
 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。
 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。
 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行われていたと考えられる。

 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。
 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説は次のとおりである。

 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説されてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。

 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。

 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
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山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。

2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの前108年〜前82年ごろからである。

3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。


 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用しているが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのかわりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められたのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。

 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、たぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんももちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。 ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。

 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。


 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちはどうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船でなくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなかったといっています。

 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもった人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこへんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけですから、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのではないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめた朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどうか詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいという点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」という判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほうがずっと納得できるといっている。


 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。これは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、それが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国から来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。

 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんということになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

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 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがって記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」というくだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものがあるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。

 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけですね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。

 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダーとかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神をもっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとしても、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。

 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメと浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒメは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかないものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしますよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃないかと考えているんです。


 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法をも携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。

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話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。

 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではないだろうか。国家を造っていく場合に、

「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを改心させよう」

という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生まれたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、次のように述べている。


 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほうが恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね(笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。


 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。


 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思うんです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そして天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりするのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然でしょうね。

 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕はそういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあんまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こうへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)

 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳しい階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほどで帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってくる……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

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楕円構造の文化


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてとらえることを提唱している。

 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考えないと、日本文化は解けないと思いますよ。

 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にもっていたものにぶっからざるをえないと思います。
 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわしい魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つまり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。

 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だと思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤っているかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そしてそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべきです。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもののみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さんが言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。

 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっているから、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたアジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくという考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。

 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。

 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だというのが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ちょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわからなくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわからないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。

 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回っていて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させてはいけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理解は間違えるのではないかと漠然と考えています。

 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないといけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。


 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。

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梅原さんは記紀神話には歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとまった。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さんと吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。


吉本

 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。

 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。

 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。

 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだというふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっているんじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはないじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃないかっていうことを認めたことになるわけでしょう。

 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったです。


川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。


吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんとそれは出来ているんですよ。


川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。


吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、この人たちは、ということにも、なってしまいます。

 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどうということはないわけです。 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。


川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは出ないですね。


吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかないんだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことになり、イメージダウンにつながります。


 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。

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「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。


 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1) 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2) 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落共同体の統轄にまで制度化された。

(5)樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方における三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びついているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている


 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふくまれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられている。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感をいだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぷんの常民的な「日本人」の概念を、制度や王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐ったという説に、抜き難い不信を表明した理由であった。

 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。

柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が描く経路は「瀬戸内海にはいる」。

「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考えたいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もともと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」したためだ。

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ヤマト王権の出自(続き)

(3)即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき)の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のない、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影しているのではないかと思われるわけです。


 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。

 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のものです。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したところによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体において少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台になっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。


 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たちの時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。

 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたいと思う。

(4)しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であってみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類にしても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだと思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面からの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、かくみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。 このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってしまう可能性が肯けるのであります。

 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。


  吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは

「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論している。」

ことになる。 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-597.html


樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」につながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコの東征についてはまったくの歯牙にもかけていない。

 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入ったと考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。

 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権の始祖は日向から東征したと考えている。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-599.html


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27. 中川隆[-13611] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:42:09: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
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葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫) 梅原 猛 (著)
価格: ¥ 935
http://www.amazon.co.jp/%E8%91%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%8E%8B%E6%9C%9D-%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244146

『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)

著者は梅原猛。
哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。  

この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。  

梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。

しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。  

出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。  

ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。
もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。  

第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。

梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。
梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。  

というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。  

この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。

記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 

日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。
悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。  

この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。
スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。
この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。

出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。
この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15qほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。


八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227
TEL:0852-21-1148
奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。
スサノオが住んだという場所は、出雲ではここだけではない。  

ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。  

梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。  

そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。  

八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。
この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。
素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。

当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。
兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。
嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。

しかし、八十神の迫害は止まらない。

身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。
それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。

黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。
スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。  

そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。
愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。
スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。

黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。  

八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。
ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。
正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。  


熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451
TEL:0852-54-0087
古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。
兄弟神を征伐し、大国の王を継いだオオクニヌシは、次にヌナカワヒメという女王が支配する越の国に軍を進める。
ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。
ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。  

オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。
ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。  

越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。
その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。

このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。
しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。
関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。  

ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。  

梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。

 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。
「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。  

『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。  

ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。  

オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。  

その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。  


玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323
泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
源泉:69.7度
pH:8.1
TEL:0120-62-0171
120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。
ここまできて、ようやく温泉の話にたどり着いた。

玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。  

『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。
「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。

『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。

温泉の発見は養老年間(717−724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。
義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。
温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601−1666)が浴場を修補する、と記述されている。  

さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。  

この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。  

王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。
国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。
出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。  

ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。  

その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。  

たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。  
http://www.smart-acs.com/magazine/12110103/onsen001.php

梅原猛 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 2011/1/12(水)


梅原猛先生の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 を読みました。

記紀神話に関して、本居宣長説、津田左右吉説のみならず、自らの、「神が
みの流ざん」までも否定して、古代出雲王朝について語りました。


@記紀神話は、高天原神話、出雲神話、日向神話の三つの神話から成り立っている。

特に日向神話は、アマテラスの孫ニニギが日向の高千穂に降臨して以来三代を経て、ひ孫カムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。


@出雲王朝は少なくとも6代は続いたとみなければならない。出雲王朝はオオクニヌシ以来、日本全国を支配する王ではなく、出雲一国を支配する王としてささやかながら続いたと考えなければならない。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本の国に君臨していたと考えねばならない。

そして出雲王朝が存在した形跡を追って、写真多数で、出雲の各地を回るのですね。
そしてそこには見事に、出雲王朝の存在を立証するかのような様々な形跡が残されているのですね。


@アマテラスは石屋戸から現れるが、神がみは、スサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。そこでスサノオは出雲の国にやってきたのである。


@イザナギ、イザナミはその子孫によって、二つの系統の神々にわかれた。
ひとつは、イザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。
もうひとつが、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。


@多くの出雲の山々が越の豪族の支配下にあり、その山々が荒廃していることを表現したのではないかと思う。すなわち、スサノオは出雲の森林の荒廃を嘆き、出雲の国を越の支配から解放して山々に木を植え、そして今のような植林が青々とした森の国にしたのではなかろうか。このようにスサノオは出雲の森林を再生することによって、さらにまた農業も盛んにしたのだと思う。


@オオクニヌシはヌナカワヒメと結婚し、しばらくこの越の地で暮らした。そしてヌナカワヒメとの間に生れた子が、「国譲り」の際、最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神になったタケミナカタであった。
ヌナカワヒメは半ば強姦のような形でオオクニヌシの妻となったが、結局彼女は追われて、北陸のあちこちを流浪したらしい。

クロヒメというのは、ヌナカワヒメの別名で、越後には黒姫山という山がいくつかあり、クロヒメを祀る神社は、オオクニヌシに追われた晩年のクロヒメの怒りと悲しみを伝えている。
黒姫山ってそこから来てるんですね。歴史ロマンを感じますね。


@海外から一人でやってきた前歴の全くわからないこのスクナヒコナを、オオクニヌシは国造りの最大の協力者として重用した。
オオナムジことオオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらしたことである。
おそらくスクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術を持ってきて多くの人命を救ったであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという、玉造温泉である。


@私は、日本に新しい医療技術をもたらし、病に苦しむ多くの人を救ったスクナヒコナはまた温泉の開拓者ではなかったかと思う。
またスクナヒコナは酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。記紀には、「スクナヒコナが造った酒は美味しい」という歌がある。酒造りが米作りと深い関係があることを考えれば、オオクニヌシとスクナヒコナが行った米造り、酒造りをはじめとする農業の改良政策はおおいに民衆を喜ばせたに違いない。


@出雲大社で毎年旧暦十月に行われる有名な神在祭は、日本全国の神々が出雲にお悔やみにやってくる、いわばオオクニヌシの葬式であると私は思うが、それに対して、「一つ山大祭」「三つ山大祭」は、むしろ生きているイタケルとオオクニヌシに二十一年あるいは、六十一年に一回、敬意を表して全国の神々が集まり、その神々をもてなすという祭りなのである。


@神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神譲りをおこなう祭事なのである。それは言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生したことを祝う祭りとも言える。
この手の込んだ神在祭は、「古事記」「日本書紀」に語られる国譲りの神話は決して架空のことではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


@銅鐸の起源は馬のクビにつける鈴である。
朝鮮の馬の首につける鈴がそのまま日本に移入され、銅鐸という宝器になったわけではない。朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族こそ尊敬の的、憧れのまとであった。そして漢式馬車を持つ貴族は、その墓に貴族の証拠として漢式馬車の部品を副葬したのであろう。

貴族のシンボルとして、馬の首につける鈴ほど適当なものはない。それゆえにこのような馬の鈴を日本で祭器、宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、あるいは貴族に強い憧れを持つ人物であったに違いない。
それが私は、朝鮮からきた、スサノオを想起する。銅鐸は出雲王朝の祖であるスサノオと結びつく。


@私はやはり銅鐸は出雲でうまれ、出雲王朝の領土拡大と共に中国、四国、近畿まで多く造られるようになったのではないかと思う。


@荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち344本になかごといわれる柄に差し込まれる部分に「×」印が刻まれている。


この「×」印の謎について、梅原先生は解き明かします。
凄いですよ。

@縄文時代の土偶は全て胎児を宿した成熟した女性であり、そして土偶はすべて必ず破壊されている。


そしてこの謎も解き明かします。


@アイヌの葬式の話。
「まあふつうの大人が死ねば型どおりに葬られますが、子供が死んだ時は特に大変でした。アイヌの社会では子供をはらむと、その子は必ずあの世へ行った祖先の霊が帰ってきたものだとしんじられています。

その子が幼くして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味あわせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕に入れて、人のよく通る入口に埋められるのです。それは、その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」

この話は私にとって、とても興味深かった。縄文時代の竪穴住居の入り口には、子供の骨が入れられた甕が逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌの社会に残されていたのだろう。
さらに、

「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けません。妊婦の腹に入ったままであの世にいけない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。

ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋められますが、翌日、霊力を持った女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。」


縄文の文化が色濃く残っているアイヌ。
このアイヌに残る風習は大きな謎を解くカギとなったんですね。


@土偶について、
1、 土偶は全て生きた人間とはおもえない異様な形をしている。
2、 土偶は全て妊婦である。
3、 土偶はすべて破壊されている。
4、 土偶は全て縦に腹をひきさいたような真一文字の線がある。

 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が胎児とともに葬られる時、その妊婦が完全な人間として再生することができるようにバラバラにして埋められるものである。

@眼のない死体は再生不可能であり、眼のある死体は再生可能であるという信仰によって、死んだ妊婦が完全な人間としてあの世で生まれ変わることを願って、巨大な眼窩のある土偶がつくられたのであろう。また長年の謎の、土偶の腹の縦真一文字の線も、腹を割いて胎児を取りだした後として理解できた。

凄いでしょ?
土偶の謎はそうゆう事だったんですね。


@このような縄文時代からのあの世観は、ずっと日本人の中に残っていて、この世とあの世はあまり違わないが、万事あべこべであり、この世で完全なものはあの世では不完全であり、この世で不完全なものはあの世では完全であるという信仰がずっとあったと思われる。それゆえ死者に贈られるべきものは必ず壊して贈らねばならない。

死者に供えるものはそのように、壊されたり、焼かれたりする。
日本で恒久的な都が遅れたのは、前代の帝の宮殿を焼いて死んだ帝に捧げられたためであると私は考える。


このことは、縄文時代のことを考えるときに決して忘れてはいけないことですね。これを忘れると、現代の感覚では理解できないことになってしまいますね。


@二つの遺跡から出土した銅器に付けられた「×」の謎が初めて理解される。それらの銅鐸、銅剣、銅矛は、全て死者に贈られたものの印であろう。しかし、この堅固な銅鐸などを壊すのは容易でなく、また忍びがたい。それで、「×」の印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。


凄いでしょ??
興奮するでしょ??
いやーそうだったんですね。


@紀元一世紀といえば、記紀に語られる南九州にいた天孫族が東征して、西日本全体を戦乱の渦に巻き込んだ時代である。とすれば、それはオオクニヌシの国譲りの時代とも重なってくる。この大量の青銅器は、稲佐の海に身を隠し、今は黄泉の国の王となった、地下のオオクニヌシに贈られたものではないだろうか。

@天皇の御陵が前方後円墳になるのは、ハツクニシラススメラミコトと称される崇神天皇の御陵からである。とすれば、出雲小王国は崇神天皇以前に滅びたことになる。

@出雲は四角形の墳墓に強く執着し、四隅突出型墳丘墓が消失した後も、円墳ならぬ方墳が多く造られ、ヤマトで前方後円墳よりも、前方後方墳が造り続けられた。この四角形への執着は、黄泉の国を支配するオオクニヌシの宮殿に対する敬意であり、オオクニヌシへの深い愛情の心を示すものではなかろうか。


コメント

ついでに三輪山の神と出雲の神の関連について、考察していただけませんか?
私は三輪山の神が出雲に放逐されたのではないか?と疑っているのですが・・・
確か梅原先生もそのような説を立てていませんでしたっけ?
2011/1/13(木) 午後 3:30 [ mak**ina38 ]


実は、大神神社を参拝して山之辺の道を旅したとき、神武天皇の皇后を祀る「狭井神社」の周辺が出雲屋敷と呼ばれていることを知りました。

皇后の父が三輪の大物主(大国主神の和魂?)であることからふと、神武東征まで三輪の地を拠点としていた三輪氏なる豪族が神武天皇に娘を差し出して降伏したあと、出雲に放逐されたのでは?と想像してしまったのです。

大和政権に匹敵する大きな力と祭祀権を持っていた三輪氏に対する畏怖の念から、東西にほぼ一直線をなす東・伊勢ー三輪ー西・出雲という重要な地点に巨大な神殿を築いて今もなお天皇は丁重に祀り続けてこられたのでは?

という推察ですが、学問的な構築の土台が弱いので、所詮推理作家的視点でしか見ることができないので、突然こんなお願いをしてしまい、申し訳ありませんでした。

私の考えは梅原氏が以前に出された「神々の流竄」が下敷きにあったのかもしれませんが、梅原氏はこの「葬られた王朝」で前説を訂正されているようですね。
それでもなんか三輪神と出雲神・・どうも気になるんですよね〜
2011/1/14(金) 午後 11:03 [ mak**ina38 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/60202767.html


梅原猛の「古代出雲王朝の謎を解く」(1)
アマテラスとスサノオという光と影 2012-01-04

梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
古来、日本海沿岸には大きな文明があり、アマテラスに追放されたとされるスサノオの住んだ世界は実在した、という話です。

著者梅原氏は、以前に書いた自分の本の説は間違っていた、大国主に謝りたい、という気持ちで出雲地方を旅し、新しい説を書いたということです。 「環日本海文化圏」という発想は、日本という風土に風穴を開ける発想であるように思います。


           (引用ここから)

出雲には神話にふさわしい遺跡がないという説は昭和59年(1984)の出雲市の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた。 出雲市の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。 それまで全国で出土していた銅剣の総数は約300本。 銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。

われわれは学問的良心を持つ限り、出雲神話は架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とする「ヤマト王朝」の前にスサノオを開祖とする「出雲王朝」がこの日本に君臨していたと考えなければならない。

スサノオとは何者であろうか?

「古事記」・「日本書紀」によれば、スサノオには出雲の神となる以前に、高天原を舞台にした前史がある。

愛しき妻イザナミを失ったイザナギは死者の国である黄泉の国に行った。
イザナミの変わり果てた姿を目にしたイザナギは、驚いて黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた。 そして汚れた体を清めようと「禊ぎ」をし、水の中に潜って体を清めると、左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオの三貴子が生まれたのである。

つまり「出雲王朝」の祖先神スサノオと「ヤマト王朝」の祖先神アマテラスとは、「禊ぎ」によって生まれた姉弟と言うことになる。 ところがスサノオは母を慕って泣いてばかりいて海原を支配しようとしないので、イザナギは怒ってスサノオを追放してしまう。

スサノオは母のいる根の国に行く前に、姉アマテラスと誓約(うけい)をして、それぞれ子どもを産み出す。 その誓約(うけい)に勝って勝ち誇ったスサノオは傲慢になり、アマテラスの作った田の畔を壊し、悪しき業を繰り返す。 そしてそのことが原因でアマテラスが天の岩戸に隠れるという、天人族にとっての大事件が起こるのである。

そして神がみはスサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。
そこでスサノオは出雲の国に来たわけである。

この契約でスサノオの口から吐き出された5柱の男神はアマテラスの意志によってアマテラス直系の男神となる。そしてその男神の子がアマテラスの孫、天孫ニニギなのである。

つまりスサノオを祖とする「出雲王朝」とアマテラスを祖とする「ヤマト王朝」の関係は、契約によって深く繋がっていることになる。

「出雲王朝」の祖であるスサノオは、イザナギが最後に産んだ三貴子の嫡男とも言える男神である。 スサノオは当然葦原の中津国、つまり日本の国を支配してもよいわけである。 スサノオは実際にイザナギから日本国の支配を命ぜられたのである。それなのに、彼は黄泉の国で暮らす母イザナミを慕思し、根の国に流罪になった。

このようにイザナギ・イザナミはその子孫によって二つの系統の神がみに分かれた。

一つはイザナギ・アマテラス・ニニギの「ヤマト王朝」である。

そしてもう一つはイザナギ・スサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」の系統である。

前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。

ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。

二つの王朝の関係は、たとえば「ヤマト王朝」に伝わるやたの鏡・勾玉、草なぎの剣の「三種の神器」にも見ることができる。

その内、鏡は「ヤマト王朝」の独自の神器である。

これに対して「草なぎの剣」はスサノオがヤマタノオロチを切ってその尾から取り出したものである。

勾玉についてもまた出雲の土地で盛んに作られていたもので、「出雲王朝」でも宝とされるものである。

このことから、「ヤマト王朝」は「出雲王朝」の権力を受けついでいるという継承性と、「ヤマト王朝」の独自性と正統性を示すために、このような「三種の神器」の神話が作られたと見るべきであろう。

つまり「古事記」・「日本書紀」に書かれた神話は「ヤマト王朝」と「出雲王朝」の血縁関係を示すものであり、すでに5世紀以前に成立していたに違いないと思われる。
         (引用ここまで)
          


荒神谷博物館HP
http://www.kojindani.jp/


wikipedia「荒神谷遺跡」より

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。


銅剣

丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。 弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。

また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)
スサノオは渡来人だったのか? 2012-01-07

         (引用ここから)

「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。
クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。
鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。

このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。

出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。 つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。 そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。

このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。

オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。

オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。 これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。 しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。 こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。

このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。

そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。 島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。
やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。

スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。
我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。

わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。

          (引用ここまで)


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。


          (引用ここから)

神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。
神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。
神産巣日神はスクナビコナ神に対して

「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」

と言う。

日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。
オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。
         (引用ここまで)


しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。
 


         (引用ここから)

奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。 不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。

         (引用ここまで)


wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。


wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)
出雲の国譲りと、たたり 2012-01-11


          (引用ここから)

では、オオクニヌシの「出雲王朝」はどのようにして崩壊したのか。

内部分裂とアメノヒボコと言われる韓国から来た強力な神の出現によって追いつめられたオオクニヌシの下に、ついに「国譲り」の使者がやって来る。


「古代出雲王朝」がどのように滅びたか、史実として確かなことは全く分からない。

しかしオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは物部氏の祖先神であるという説がある。

「古事記」では「国譲り」の使者はアメノトリフネを従えたタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。


「出雲王国」を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

青柴垣神事、諸手船神事といった、たいそう手の込んだ「国譲りの神話」を象徴する祭りは、「古事記」や「日本書紀」に語られる「国譲り」の神話は決して架空の事ではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


「古事記」を虚心に読むかぎり、「出雲王朝」がヤマトをも支配していたことはほぼ確実であると思われる。


神武天皇は日向からはるばると遠征して、ヤマトにいるナガスネヒコと、一足先にヤマトに来ていたニギハヤヒの子、ウマシマジの連合軍を滅ぼし、ヤマトを占領した。

しかし神武天皇が権力を保つには、かつてこの国を支配したオオクニヌシ一族の血を引く女性を娶り、その女性との子を次の天皇にすることが必要であった。

そこで探してきたのが、三島と三輪のオオモノヌシの娘である。


神武天皇が亡くなった時、日向の元の妻との間の息子は殺された。
おそらく日向の豪族の血を持つ王子が皇位を継ぐことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

そして明らかに出雲王朝の血を持つヌナガワミミが第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのだろう。
しかし以後オオクニヌシ系の女性で正妃の位に就く人はなく、物部系の女性が多く就くようになる。


新たに政権の座に就いた王朝がもっとも力を尽くすのは、前代の王朝の鎮魂である。
疫病が流行したり災害が起こったりしたとき、それはおそらく前代の王朝の祟りであると考えられた。


第10代の天皇、天皇家の祖とされる崇神天皇の御代に悪性の流行病がたびたび起こり、それはおそらく前代の「出雲王朝」の祟りであると考えられた。

このような出雲大神のたたりは崇神、垂仁で終わらず、「古事記」が作られた和銅の御世に近い過去にも起こったのである。


「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に次のような記事がある。

「この歳、出雲国造に命せて神の宮をつくりよそわしむ。」

斉明天皇は天智・天武天皇の母であり、「古事記」選集当時の天皇であった元明天皇の祖母に当たる。

現天皇の祖母の時代にまで出雲大神の祟りが存在していたとすれば、「古事記」選集の段階において出雲大神の鎮魂ということが重要な国家的課題であったと考えられるのである。
          (引用ここまで)
 

著者梅原氏は、「出雲王朝」の崩壊の原因には直接言及することなく、話をすすめていくように思えます。もしかしたら「出雲王朝」を滅ぼしたのは物部氏の祖先フツヌシだったかもしれない、、と軽く触れられますが、深い詮索は行われません。

ただ、「青芝神事」や「諸手舟神事」、また姫路の「一つ山・三つ山祭り」といった地域の古い伝統行事は、まさにスサノオやオオクニヌシたちが今も生きているように生き生きとした伝承を行っており、「出雲の国譲り」は神話や物語などではなく、かつて出雲のオオクニヌシ一族の支配下にあった人々の心には決して忘れられることがない史実であり、心の奥深くに刻み込まれている記憶であることを証明していると考える、と語る道を選んでおられます。

そしてまた、だからこそ、「出雲王朝」にたたられているという出来ごとは、「古事記」・「日本書紀」が書かれている当時の人々にとって、最大の恐怖をもたらす最大の関心事であり、最大の悩みの種であったであろうと考えられています。

ニギハヤヒとは何者なのか、物部氏とは何者なのかということは、後で他の研究者の著作も比較してみてみたいと思っていますが、かつて在った者により「たたられている」という感覚は日本の歴史の中には脈々と流れ伝わっているように思います。


wikipedia「ニギハヤヒ」より

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。

イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。

大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


wikipedia「フツヌシ」より

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。

別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。


『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるとの解釈がある一方、「フツ」は刀で切る音ではなく「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとも解されている。

一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。

逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。

後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。

また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。

これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。

また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

コメント

国譲りの試論 (須賀の語部)2012-03-29 19:45:26 

古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。

 私の解釈だとこうだ。

こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。

発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。

つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。

これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。
この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。

それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。

また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。
東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。

つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。

今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(4)
縄文から弥生へ 2012-01-14


          (引用ここから)

わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。

縄文の哲学は産みの哲学である。

タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。

このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。

これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。


「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。 イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。 つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。

このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。

この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。 つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。


新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。

それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。

このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。 その代表的なものが能登半島の真脇遺跡であろう。

最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。 そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。

また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。 そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。

サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。


巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。

このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。


そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。

アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。 玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。

勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。


魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。 縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。 彼らが参るのは別の墓なのである。

縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。 そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこの世に帰ってくると考えていたのである。

それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。

勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。


「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。 勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。

出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。

 その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
            (引用ここまで)


wikipedia「真脇遺跡」より

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。

用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。

遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。

そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。

約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。

イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。

また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。

さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。


遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。

10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。

その太さは直径80〜96センチもある。

小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。

同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。


このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。

大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。

盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。

人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8f8f1191a02512bca01e813e5afc50b4


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)
×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって 2012-01-21

梅原猛は近年島根県の遺跡から大量に発見された銅鐸について、以下のような問いを立てます。


>近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


        (引用ここから)

ヒスイおよび玉の産地はほぼ環日本海地域である。
日本海沿岸はこのような巨大建築と玉の文化が栄えていた。
そしてさらに青銅器文化も栄えていたのである。
それは大量の銅鐸の出土によって分かったことである。


弥生時代の芸術作品といえば、銅鐸をあげねばならぬと思う。
弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明であった。
農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。
日本では昔から「政りごと」は「祭り事」と言われるように、政治はすなわち祭事でもなければならなかった。 そしてそこで、青銅器は「出雲王朝」の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。


「古事記」「日本書紀」は、日本の農業はスサノオ、オオクニヌシの始めたものであるとする。

では、近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


銅鐸研究家佐原氏は、銅鐸の起源について、銅鐸は中国から来たものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が日本に来て、祭器になったものであるとする。
朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族は尊敬の的、憧れの的であった。
貴族のシンボルとして馬の首につける鈴ほど適当なものはない。
それゆえにこの様な馬の鈴を日本で祭器としたのは朝鮮から来た貴族、あるいは貴族に強いあこがれを持つ人物であったに違いない。

わたしはそういう人物として「日本書紀」の記述により朝鮮から来たと考えられるスサノオを想起する。 そうであるとすれば、銅鐸は「出雲王朝」の祖であるスサノオと結びつく。

では、このような大量の青銅器を所有していたのは誰か、そしてそのような大量の青銅器を埋蔵したのはなぜなのだろうか。


これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく「出雲王朝」の大王であり、おそらくオオクニヌシと言われる人であったに違いない。

しかしそのような宝器をなぜ人目につかない丘の中腹に埋めたのか。

その謎を解く鍵は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸のほとんどに×印が刻まれていたことにある。

西洋から近代科学文明を採り入れて以来、日本人は「あの世」について考えなくなった。
しかし日本人の「あの世」信仰は、浄土教が日本に移入される以前に、すでに深く日本人の魂に浸透していた信仰であると思わざるを得ない。
日本人は縄文時代以来、深い「あの世」感を持っていたので、とりわけ浄土教が日本仏教の主流になったのではないかと思う。

かつて柳田国男が指摘したように、日本人には人が死ぬとまず近くの里山に行き、しばらくたって亡くなった祖先達の住むあの世へ行き、お盆やお正月やお彼岸にはこの世に帰ってくるという縄文時代以来の信仰と、十万億土離れた遠い極楽浄土へ往生するという浄土教の信仰がまだら染めのように混在していたと思われる。

このような「あの世」観において「あの世」は、「この世」とあまり変わりない所と考えられていたのである。


ただし一つだけ大きく違うことがある。
「あの世」と「この世」は万事あべこべなのである。
たとえば「この世」の夏は「あの世」の冬、「この世」の冬は「あの世」の夏。

「この世」の昼は「あの世」の夜、「この世」の夜は「あの世」の昼、というように、「この世」で完全なものは「あの世」では不完全であり、「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものであるという信仰でもある。


そうした信仰の最もはっきり認められるものが、縄文時代に作られた土偶であろう。

土偶はすべて必ず破壊されていた。

また土偶の特徴は中央に縦一文に引き裂いたような跡があることである。

土偶の中にはあたかも人間を葬るかのように丁寧に埋葬されたものもある。

土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が完全な人間として再生することが出来るようにバラバラにして埋められるものである。

それゆえ、死者に贈られるものは必ず壊して贈らなければならない。

弥生時代の副葬品として貴重な鏡が供えられることもあるが、その鏡はばらばらに壊されているものがあり、死者に供えるものはそのように壊されたり、焼かれたりする。

火で焼くことによって、そのものを「あの世」へつつがなく贈るのである。

日本で恒久的な都が作られるのが遅れたのは、前大帝の宮殿を焼いて、死んだ帝に捧げられたためであると、私は考えている。


このように考えると、遺跡から出土した銅器に付けられた×印の謎が初めて理解される。

それらの品物は、すべて死者に贈られたものの印であろう。

×印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

大量の銅鐸の出土した遺跡は賀茂氏の祖先であるオオクニヌシの愛児・アジスキタカヒコネのいたところで、この地に彼の宮殿があったと思われる。

それゆえ、「国譲り」後も生き残った彼とその子孫たちは、持っていた銅鐸をすべてこの丘に埋蔵して、父・オオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。

いずれの遺跡においても、銅鐸は愛情をこめて、実に丁寧に埋葬されている。

そこにオオクニヌシに対する深い哀悼の心が込められているのではないかと私は思ったのである。  
           (引用ここまで)


梅原氏は、出土した銅鐸は朝鮮からやってきて、出雲王国を作り上げたスサノオノミコトが朝鮮からもたらしたものであり、出雲王朝の王オオクニヌシが所有していたものであり、オオクニヌシの息子が死者の住むという「あの世」にいる亡き父オオクニヌシに贈ったものではないだろうか、と考えています。


この考えとは別の考えとして、山崎謙氏は著書「幻の出雲王国」において別の見解を述べておられます。

       (引用ここから)

古代出雲は日本海をつうじて諸地域と交流があった。

近年の考古学的発見の数々はその様子を次第に明らかにしつつある。

弥生時代は中国の史書に「倭国騒乱」の文字があるように、各地に地域国家が出現し、勢力争いが勃発していたと見られる。

弥生時代の出雲は、青銅器の出土量は全国でもトップクラスであり、その後の鉄器も北九州に次いで出土数が多い。 出雲は当時、現在で言えばハイテク分野でトップクラスの力をもつ強国であったと考えてよい。

青銅器は鉄器が流入すると、急速にすたれる。
荒神谷遺跡などの青銅器の大量埋納はそのことと関係があるかもしれない。
あるいは青銅器を使用することに意味をもつ宗教的な行事が意味を失い、廃棄されたのかもしれない。

また、古代出雲王国が大和王権に屈し、伝えられてきた同国の象徴である青銅器を廃棄させられたという可能性も捨てがたい。

        (引用ここまで)
確かに、どの説の可能性も捨てがたいと感じます。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258

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28. 中川隆[-13610] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:44:12: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
▲△▽▼

hoh********さん 2016/2/13 01:29:09
神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


29. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:46:49: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
▲△▽▼

文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html


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30. 中川隆[-13617] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:50:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20737] 報告
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古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D


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31. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:57:40: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20740] 報告
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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html
奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm


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32. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:00:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
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巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


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33. 中川隆[-13620] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:04:43: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
▲△▽▼

そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。
ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。

http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


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34. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:47:41: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20749] 報告
▲△▽▼

鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html


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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html
大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html

05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM

弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 


【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。


【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674


百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A


句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2


呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


35. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2018年11月18日 09:19:21: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20872] 報告
▲△▽▼

弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族みたいですね。 天皇一族は勿論朝鮮系ですね:

弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった


 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。

 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c23

コメント [政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
19. 空虚[1610] i_OLlQ 2018年11月30日 14:54:11 : XD9Oi36H1A : un_kwKKfyt4[6]
>>18 罵愚 殿

>あらためて、日本の国家としての統治理念は何だろうか?

あらためるまでもないわなw。

それは、天皇陛下がお認めになっている。

【 主権在民の議会制民主主義 】だ。

宮様方は、日本の文化と伝統を守ることと政治を切り離したいと仰せなんだ。

ところがだ、よからぬ者どもが己の欲にかいて皇室の尊厳を利用せんと

企んでおる!嘆かわしいものよ。

宮様方は霊的な尊厳と、伝統継承者の想像を絶する重責を担ってこられた。

ところがだ、愚民・低層民の代弁者をカタル不届きな輩にその尊厳を

汚される屈辱に我慢ならんところまできたということだ。

霊的な尊厳を冒すべからず!

宮様のおこころに応えよ!


というところだろね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK254] 福島みずほ議員、爆弾追及!「内閣府に『水メジャー』ヴェオリア社担当者が入っている! 公平性がない、立法事実は失われた!」 赤かぶ
40. 2018年11月30日 14:55:53 : 17yo3W2TPh : WRLcUB2uRHw[446]
なるほど、
森かけ問題で協力してくれたら「水」はOKを出すよ。
これがあって二人は離れられない。 悪人二人。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/358.html#c40
記事 [経世済民129] ゴーン逮捕の元凶は高度成長期からの日産のガバナンス欠如 日本経済一歩先の真相(日刊ゲンダイ)
 


ゴーン逮捕の元凶は高度成長期からの日産のガバナンス欠如 日本経済一歩先の真相
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242656
2018/11/30 日刊ゲンダイ


旧日産自動車本社(C)日刊ゲンダイ

 電撃逮捕から10日を経ても、メディアはカルロス・ゴーン容疑者の話題で持ちきりだ。日産を食い物にした悪事はずいぶんと報じられているが、今回の事件の根本的な問題は、日本を代表する大企業である日産のガバナンス体制の欠如だ。

 先の大戦が終わり、ヨレヨレ状態から始まった日本経済を牽引してきたのは、自動車メーカーだ。1960年代半ばの「いざなぎ景気」の頃は、カラーテレビ、クーラーと並び自動車(カー)が新・三種の神器と喧伝され、3つの頭文字を取って「3C」と呼ばれたものだ。

 同時期に「一家に1台」のマイカーブームが到来。国内の自動車販売台数は飛躍的に伸びていき、日産も「サニー」や「ブルーバード」などを市場に投入し、大衆の心を掴んでいった。

 70年代に入ると、「一家に1台」から「1人に1台」の時代となり、販売台数は右肩上がり。80年代から90年代初頭のバブル期には、消費者の高級志向が高まり、最上級グレードのスポーツカーが飛ぶように売れた。

 日産も造れば儲かるというノンキな経営が続き、社内のガバナンスを気にする必要もなかった時代だったのだろう。史上空前の好景気に乗って楽々と稼いでいた頃、国内の自動車販売台数はピークに達し、間もなくバブルははじけたのだ。

 日産は80年代以降の宿敵トヨタに「追いつけ、追い越せ」の拡大路線がアダとなり、バブル崩壊後の販売不振に持ちこたえられる体制ではなかった。高給取りの従業員がゴロゴロおり、組合活動も過激化。コスト削減はままならず、ついには2兆円強の有利子債務を抱え、倒産寸前に陥ったのである。

 ちょうど、グローバル化が叫ばれ出した時代だ。日産もグローバル化に乗り遅れるな、とばかりに仏ルノー傘下にくだり、外国人経営者を受け入れた。そしてゴーンが大ナタを振るって、村山工場など生産拠点を次々と閉鎖。2万1000人もの大リストラを敢行し、水ぶくれ状態を抜け出したが、社内のガバナンスは旧態依然のまま。だから、ゴーンのやりたい放題を許したのだ。

 ゴーン・ショックは、本人の金銭面のモラルの欠如は当然として、日産の高度成長期を引きずったガバナンス体制こそ元凶なのだ。90年代後半にライバルのトヨタが、デフレの長期化を見据え、大規模なガバナンス体制の見直しを断行したのとは大違いだ。

 日産は今後の経営体制についてルノーと協議するというが、資本の関係からルノーが上に立つ形は変えられないのではないか。日産は典型的だが、高度成長期のガバナンスの欠如から脱皮できていない大企業は、他にないとも限らない。



高橋乗宣 エコノミスト
1940年広島生まれ。崇徳学園高から東京教育大(現・筑波大)に進学。1970年、同大大学院博士課程を修了。大学講師を経て、73年に三菱総合研究所に入社。主席研究員、参与、研究理事など景気予測チームの主査を長く務める。バブル崩壊後の長期デフレを的確に言い当てるなど、景気予測の実績は多数。三菱総研顧問となった2000年より明海大学大学院教授。01年から崇徳学園理事長。05年から10年まで相愛大学学長を務めた。






http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/675.html

コメント [原発・フッ素50] 日本協力の次世代炉、仏が凍結へ 原子力政策に打撃 (日経新聞)  魑魅魍魎男
6. 2018年11月30日 15:00:09 : IiIXmUvE6c : sYdS3zr0pEE[1]
核燃料サイクルなんぞ、20世紀の錬金術であったと言うこと…

これで日本だけが核燃料サイクルに突き進む悪夢しか予想できないのですけど、ただでさえ科学技術力の凋落と少子化による学生の減少のある中で、日本以外が投げ出した技術を開発出来るとは到底思えません。
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/602.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK254] また嘘と低知能をさらした安倍晋三!(simatyan2のブログ) 赤かぶ
49. 斜め中道[5776] js6C35KGk7k 2018年11月30日 15:01:07 : u12DNOjV8I : DpNsSI7B2fY[3811]
>>48 さま
“本当の支持率は、TVのdボタン調査をすれば即座に出てくる。
 でも、そんなことは絶対にやらない。どうしてかーーーー?”

TVの「dボタン調査イカサマシステム」が完成したら、
まっさきに
「じゃあ、dボタン調査やってみましょ!」・・・とほざく顔が重い浮かびます。


あと、「睾丸にムチ」がら、「睾丸キムチ」という言葉が連想され、
機会があったら作ってみようかと思いました。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/299.html#c49

コメント [政治・選挙・NHK254] 自由・小沢氏 入管法改正案「野党は徹底的な抵抗を」「本当にダメっていうなら、決起しなきゃダメだ」 赤かぶ
25. 2018年11月30日 15:06:52 : kOTfCETsTk : oXreYvcmiuI[7]
あの人は病んでる。

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/318.html#c25
コメント [経世済民129] ゴーン逮捕の元凶は高度成長期からの日産のガバナンス欠如 日本経済一歩先の真相(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月30日 15:09:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/675.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK254] 司法の暴走を止めない韓国政府に、当事者の韓国最高裁が日韓関係を破綻に招きかねない傷口にさらに塩を塗る、三菱重工相手の訴訟 怪傑
19. 2018年11月30日 15:10:20 : QZHDszUkVk : AK0m4Px4htY[26]
5の英文はネトウヨがよく誤訳するやつだね。この場合の security は「治安維持」と訳しましょう。そうすると、前の文と意味が合います。

布施祐仁氏
「オランダ鉄道の例を出さなくても、日本でも西松建設や三菱マテリアルは「法的責任はなくても歴史的責任がある」と言って中国人強制動員被害者に個人賠償しているんですよね。今の日本政府はそういう大局的な判断ができなくなっている。」
https://twitter.com/yujinfuse/status/1068071361619222528

安倍晋三、山口那津男じゃダメだな。
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/343.html#c19

コメント [カルト19] ドン・トラ・ヒラ三万メール公開、井口・CIA日本人リスト公開・ゴミ売り・ポダム死亡はデマ。だそうである。 ポスト米英時代
8. 2018年11月30日 15:17:58 : mqBEk9NHPU : eYYoEwRqL50[78]
訂正:

ポダム=正力松太郎(1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
http://www.asyura2.com/18/cult19/msg/869.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK254] 国際連帯税って?(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
1. 中川隆[-13727] koaQ7Jey 2018年11月30日 15:36:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

『小笠原誠治の経済ニュースゼミ』の小笠原誠治氏は完全なアホだった
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/319.html

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/372.html#c1

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