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シュレディンガーの猫の代わりにされたこどもたち
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/353.html
投稿者 宮島鹿おやじ 日時 2013 年 1 月 27 日 13:56:15: NqHa.4ewCUAIk
 

シュレディンガーの猫 という思考実験がある。

これは、「量子の観測問題」から派生し、量子力学に関する主流の解釈に対する批判として、シュレディンガーによって提起された事案である。
実験装置としては、量子測定の結果に応じ、毒物散布のスイッチが入るような機構を作り、その毒物のそばに猫を置き、全体を箱で遮蔽するというものである。

普通、私たちの一般生活においては、冷蔵庫の中にミカンが「ある」・「ない」ということは択一的な事象であり、「あるということ」と「ないということ」が確率的事象として並存することはありえない。
しかし、量子レベルにおいては、たとえば、電子の存在については、どこかに「ある」・「ない」のではなく、存在の確率密度が霧のように広がった状態として、「重なり合っている」とされている。そして、電子の居場所が確定するのは人間が測定したときとされている。

よって、上記のシュレディンガーの思考実験の装置においては、そのような状態の重ね合わせを許容する量子のふるまいに直結された猫は、実験者が「装置の蓋をあけて」観測するまでは、「死んだ状態」と「生きた状態」の重ね合わせとなるのではないかという議論である。

電子や光子といった「量子レベル」の対象の測定において、量子の状態が「収縮」=「確定」するのは、実験者による観察によるという正統派理論(コペンハーゲン解釈)の矛盾を指摘したものである。

私は、この量子論の「観測問題」に、これ以上立ち入るほどの素養も時間もない。

このことを記載した物理学の入門書などには、このような残酷な装置を紹介すること自体に、躊躇していることが多い。実際に、この実験装置を作ることは可能であるが、着手した人間はいないものと思われる。

しかし、目の前でこの装置を作り本当にその中に猫を入れようとしている人間を見たら、思わず「何、馬鹿な事をやっているんだ。」と多くの者が不審に思うだろう。

しかし、今、私たちの目の前で起きていることは、この猫の実験よりも、規模においても質においても、さらに、信じ難い状況ではないだろうか。

原発事故が発生し、「安全だからそこにいなさい」と触れて回った者がいる。

彼らは、事故のあった地域の大学に居座り、県民に健康調査などを行っている。
そして、以下のような通知を出した。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/416.html

こどもたちの甲状腺がどのように変化するのかを、今、観察しているのだから、他の医師たちは余計な「干渉」をするなといっているように思える。

取手では、こどもたちの心臓に異変が生じているとの知らせを聞いた。多くの人たちはこのことを知らない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/459.html

このような状況を許容することは、人間として生まれたこと自体に抵触するようにも思える。

県としての存立だとか、経済がどうだとか言う声もある。しかし、はっきりと抗議したい。「そんなことを言っている場合ではない。」と。

「子供をそこから出しなさい」と、私たちはこれ以上ないほど強く主張する。

私たちが汚染の事実関係をネット上で訴えるためにタイプするとき、あるいは、デモに参加するために玄関を出るとき、私たちは決して「間違って」いない。私はそのように確信する。  

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コメント
 
01. 2013年1月27日 15:32:20 : amx7eJfIzo
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>こどもたちの甲状腺がどのように変化するのかを、今、観察しているのだから、他の医師たちは余計な「干渉」をするなといっているように思える。

観察とは、非実験で、11年3月11日から3年後の経過観察のことです。
最初の記録から3年後、どう変化するのか、と。
その期間「干渉」をさせないのです。

恐ろしい。

このことが、平気なのは、彼、彼女たちが武士の子孫だからです。
最初、武士たちが西洋・米国に留学しました。
帰国後、日本で大学の先生や科学者の地位についたのです。

武士たちの子孫の科学や医学の方向付けは、武士と公家の論議によってなされました。
その論議とは「交易互市の利益を以って富国強兵の基本」(1856年)のことです。

科学や医学は、国民の利益のためでなく、武士と公家の利益のためなのです。
それは、個人の能力を使ったり、高めたりするものではありません。

>「子供をそこから出しなさい」と、私たちはこれ以上ないほど強く主張する。

同意します。

子どもは、成長のためにエネルギーを大量に必要とします。
そして、その取り入れと体内の循環と排泄の時間は、とても速いのです。

日常生活と病気を利用して、どんどん新陳代謝を高めましょう。

 


02. 2013年1月27日 17:52:29 : 1laTubqZew

茨城県取手市の中学生に心電図QT延長者急増
2012/12/27(木) 00:22:31

昨年9月頃、福島の高校生が体育授業中に心停止し、先生がAED(自動体外式除細動器)で心臓を刺激したが心収縮がないまま死亡したという記事を読んだ。
その時、房室結節のみならず心室筋の内向き整流型カリウムイオンチャンネルが放射性セシウムによる影響を受け、膜電位が浅くなり、脱分極しなくなったと想像した。
その後、そのような報道がないか注意を払ってきたが、新聞報道では見つからなかった。学童の突然死報告はインターネット上あるいは口頭での話は散発的にあり、それらを集計すればかなりの数になっただろうが母集団も当然増えるので考察はできなかった。また、AEDの使用の有無や心電図所見など細かな話に関する発信もなかったので関連性に関する考察もできなかった。

取手市の学校の心電図検査は小1および中1生で行われていることで、そのデータを市民グループで検討した結果は次のようであった。
「12年度に一次検診を受けた小中学生1655人のうち、73人が要精密検査と診断された。11年度の28人から2.26倍になり、中学生だけで見ると、17人から55人と三倍強に増えていた。
 また、心臓に何らかの既往症が認められる児童・生徒も10年度の9人から11年度21人、12年度24人と推移。突然死の危険性が指摘される「QT延長症候群」とその疑いのある診断結果が、10年度の1人、11年度の2人から8人へと急増していた。」

QT延長は心電図上の変化としては、房室ブロック(心房から心室への伝導遮断)のような劇的な変化ではなかったので、動物試験をしていた私は軽視していた。ところが、20年以上前だったと思うが、この変化が起きると刺激の伝導が伝わらなく、心停止が起き易いことが海外から伝わってきた。それで、新薬の場合にはこのQT時間を測定することが必須(参考資料1)になった。
QT時間は心拍数の影響も受けるので、動物の場合は心拍数で除してQTcを算出していた。
⇒朝読み返して調べたら世界的合意は随分遅れて2005年だったことがわかりましたので追加記載しました。
ICHとは日米欧医薬品規制調和会議の略称ですので、実質的な世界基準とみなせます。
非臨床試験ということは動物を使って、心筋収縮後の心室筋における電気生理学的な回復時間を測定しなさいと言う意味です。


03. 2013年1月27日 17:55:11 : E4bT3Bpr2w
>>02 続き

もしこのQT延長が起きていれば、昨年体育授業時間中に亡くなられた方がAEDに無反応であった理由づけにもなるであろう。

取手市は松戸、東葛飾のルートにあり周辺地区より相対的に放射能も高いので、このような結果が得られる可能性は十分あると思う。

次の課題として汚染地区全ての中学生の心電図データを徹底的に解析してQT(c)時間を求めることである。これに影響あれば心停止が起き易いことを意味する。またQT(c)時間延長が認められれば、運動あるいは食事との関連性を調べることなど防止策上必要な手段も次々と考えられるだろう。

参考資料
1.THE ICH STEERING COMMITEE,2005, The Non-Clinical Evaluation of the Potential for Delayed Ventricular Reporalization (QT interval Prolongation) by Human Pharmaceuticals

http:www.ich.org/products/guidelines/safety/article/safety-guidelines.html

( http://sakuradorf.dtiblog.com/blog-entry-363.html )

※ この記事の著者は、薬理学者のようです。


04. 宮島鹿おやじ 2013年1月27日 18:35:00 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
1laTubqZew 様

私がここでめぐり合った、真に尊敬し、感謝している方々が、もう、すでにコメントしていただきました。

私の拙い投稿に注目していただき、本当に感謝します。

いただいたコメントを熟読させていただきます。まずはお礼を述べさせていただきます。


05. あやみ 2013年1月28日 03:22:16 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
宮島鹿おやじさま こんにちは

>「死んだ状態」と「生きた状態」の重ね合わせ、
この表現は今の世の中を的確に言い表していると思います。

子供たちを実験台にすることなどは病院お出すかぜ薬や予防接種、あらゆる医療行為がすでに手を染めていることでしょう。彼らにしてみれば「いまさら」なことでしょう。人間じゃない。

被災地の子供たちは「箱」を開けて出ることはできません。命も意思もあるのに行動決定権がない。政府の都合と親の事情が呼応して、(親の事情というのも政府のワナのようなものですが)彼らはそこに存在せざるを得ないのです。
ヒトという個々の細胞は生きているのにその集団たる共同体日本は完全な死に体です。

トルコは油田もガス田もありながらアメリカの干渉のせいで採掘できず、外から高い買わされています。が、電気自動車の開発を進め、近年中に100%国産で生産・普及が可能になりそうです。太陽光発電の工業化も推進中です。これは政府が真に国民の「生きること」を考えているから可能になることなのです。

シリア国境に近い町では流れミサイルによる犠牲者が絶えません。この地域の国々は欧米の軍産複合体を刺激するようなことを声高に唱えると砲弾が飛んできたりするので物騒なのです。これが原発や化石燃料による発電から自然エネルギーへの移行の難しいところで、どんな嫌がらせをうけるかわからない。日本もそうですが、そこを外交で乗り切る能力があるかないか、そして政財界の人間が本当に人間であるかどうかで変わってくるのでしょう。


この国では原発の建設も進められていたのですがその後どうなったかは政府は声を潜めています。日本の状況を見抜けないトルコ政府ではないはずなので、もしかしたらこのまま棚上げになるのかも、と期待をかけています。
でも軍産複合体と渡り合うためには国力を蓄えなければならず、その国力とは「軍事力」であったり「経済力」であったりします。それが悲しいです。


安芸ガラスさま
明治の知識人、かれらはプロイセンで、イギリスで、呑まされ抱かされ洗脳されて骨抜きにされたのでしょう。武士の魂などは綺麗さっぱり大西洋に流して帰ってきました。武士であれば「飛び道具とは卑怯なり」と西洋人を嫌った筈です。しかしそんなこんなで今日に至ってしまいました。残念なことです。


06. 宮島鹿おやじ 2013年1月28日 05:41:12 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。
いただいたコメントを元にいろいろと考えておりました。
現時点では、エリート意識、階級、優越感といったところを中心にグルグルと回っております。
また、量子力学は、仏智を西洋風に表現したものだというコメントをある方からいただいており、なんとなく納得しているところです。現在読み進めている地味な本にも、量子論は数千年続いた自然観を根底から覆す潜在能力をもっているとあります。

量子論はある意味で哲学的な場に人々を呼び戻す役割を持っていると考えます。

しかし、この量子力学が、資本主義的にアレンジされたものが、原子力発電所であり、爆発事故後、さらに資本主義的な効率性(経済パニック回避)を求めた結果、「子供たちを見殺しにする」という事態になっております。

私は、以下のような言葉遊びを最近するようになっています。

量子力学 + 資本主義的動機(エゴ) = 原子力マフィア

キリスト教 + 世俗主義(エゴ) = 中世の暗黒

医学 + 利益至上主義(エゴ) = 人体実験


本来、最高であるはずのものが、容易に最悪のものに転化しています。そして、どれも、その触媒はエゴ(利己主義)であると思っています。

武士 − 武士の魂 = 階級意識(エゴ)

そうすると、武士の魂とは何かということになりますが、また考えてみます。


07. 2013年1月28日 09:13:15 : 8o3Sdcfe7g
あやみ さま
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>武士の魂

何ですかね。

魂を捉えるには、現象を追いましょう。

1868年正月過ぎから、公家衆と武士の政権は、内部機構整備を進めました。
輿論公議の設置です。
そのことで、天皇と諸大名との関係が、臣下となりました。
それは、天皇が祭りごとの主宰者(機関)としての確認になりましたね。
結果、大名が藩籍を返還することで、土地と庶民(われわれが)が、天皇をたてている公家衆と武士たちの直轄になりました。

そうすると、今の政府と地方の関係でしょうか。
武士の魂とは、政府の仕事をさせる地方公務員になるのでしょうかね。


08. 宮島鹿おやじ 2013年1月28日 13:56:10 : NqHa.4ewCUAIk : lE9wLK2Gjo
安芸ガラス様

コメントありがとうございます。
現在、自分なりに物理の基礎を学んでいます。
いわゆる原発推進派の言っていることを理解するためですが、根本的には彼らに騙されないようにするためです。以前、ご教示いただいた「朱子学化する日本近代」は一応読み切りましたが、まだ、自分のものにはなっていません。しかし、もしよろしければ、朱子学についても話題にしていただければ幸いと思います。
安芸ガラス様には、さまざまな情報をご教示いただいておりますが、いずれも、自分の中で未消化の状態であり、誠に恐縮です。

さて、「武士の魂」についてですが、あやみ様と私に共通するイメージは、あやみ様のコメントに端的に現れている「卑怯な振る舞いをしない」者というものだと思います。これについては、武士というものを実際に目の前で見たことがなく、また、武士にもピンからキリまであったはずで、武士はすべて武士らしかったとは申せません、しかし、なんらかの時代に共通する規範・理想像というものがあったのではないかという気はいたします。

小生はまったく未熟ではありますが、人生の過半をなんらかの武道と共に歩んでまいりましたが、やはり、そこには、決して、単に封建的(人権抑圧的という意味ですが)なだけではなく、礼をもって相手を遇し、かつ、自分の主張も行うという「風通しのよい」世界がわずかではありますが、存在していることを実感いたしております。

武道・武術というものは端的に言えば、戦闘における殺傷術であり、本来はモラルも公徳心も無縁の世界といえるかと思います。しかし、たとえ、それが単なる殺傷術であったとしても自らの存在を賭けてギリギリの思索を行った果てには、ある種の卓越した思考様式あるいは人格・モラルに近接することはあったのではないかと考えます。

そのように考えるひとつの根拠として、前田英樹・甲野義紀 共著「剣の思想」というものがあります。この中に、新陰流始祖・上泉信綱とその思想について述べられております。そこには、いかなる世俗的価値(蓄財、立身、賞賛など)から限りなく自由に飛翔するひとつの可能性が語られています。すこし、過大評価かもしれません。私自身は剣術というものに関わったことは全くありませんので、過大な夢想である可能性もあります。

 しかし、私も半生を武道と共に過ごしてきたため、武道の持つ負の側面をいやというほど、見聞きしてまいりました。個人の創意工夫を蹂躙する組織主義、意外と女々しい師弟関係、問答無用の論理不整合など、言い出したら枚挙に暇がありません。そういえば、新影流の伝承をめぐってもいろいろと問題はあるようです。

つまり、一言で言えば、自身の保全(衣食住、身内の世話、組織内の出世=これもエゴの現われと考えますが)が纏わりつくと、とたんに、雄々しかった求道者も、とたんに、心細い組織人間に早変わりしてしまうようです。まあ、かなり無理なことを言っているのかもしれませんが、何かを主体的(できるだけ見返りを求めず)になおかつ、肉体の鍛錬も厭わずに修練していく過程にあるものは、武芸に関わらず、「爽やかな風」が吹くという気がいたします。

大変、長文となりましたが、ご容赦ください。


09. 2013年1月28日 14:46:36 : 8o3Sdcfe7g
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

私は、小学校の卒業間際から30歳過ぎまで、剣道をやっていました。
小中は、町道場で、高校は部活動で。
卒業後は、小学校を借りて、小中学生と、剣道をやらさせて頂いておりました。

武術はやったことがありません。
剣道に疑問を持ったのは、その練習方法です。
一斉に構えて、稽古を始めるでしょう。
これに、疑問を持ちました。

ちょうどそのころ、森田文十郎氏の『腰と丹田で行う剣道』と出会い、確か京都の出版会社から出ています、剣道の全集も読みました。
そんなことで、剣道は軍の部隊展開を訓練するものだと判りました。

それで、宮本や柳生を読みました。
そこには兵法の道が説かれていました。

自分と対話をすること、相手とひとつになることなどです。
大工の道も同じなのです。
それは素材の力を借りることであると、ありました。

なるほど、己の肉体の鍛錬ではなく、相手の力を利用するのだと。
そして、剣と剣が交わり箇所で、お互いの体が感応し変化をするのだと。
この延長は、小田切です。

内裏と徳川の公儀のスローガンは、「武威」です。
彼、彼女たちの「武威」の理解は、「武力」なのです。
これが公家衆と武士の、武術に対する一般的な、おおやけの理解ではないでしょうか。

このスタンスが、移行する過程が、幕末から明治の日本ではないでしょうか。
ここで、おやじ様が主張する西洋の「近代科学」への移行があるのです。


10. あやみ 2013年1月28日 17:46:06 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
おやじさま、安芸ガラスさま

武士道 − 武士の魂 ≒ 騎士道 もちろんこれだけではありませんが…

西洋の騎士は諸侯と貨幣契約を結ぶフリーエージェントでした。より良い条件を提示すればコロコロと主君を変えることができ、それは日本人の目からは「裏切り」であっても彼らにとってはごく普通のことでした。おそらく今もその気風は変わっていないでしょう。

鎌倉幕府の所領を安堵する制度は幕府と御家人を結ぶ物質的な糸でありました。しかしそれだけでは武士の魂は繋ぎとめられなかった。御家人たちの多くは頭領頼朝に惚れていたのでしょう、忠義というこころの糸が作用していました。あとはご存知のように、頼朝の死とともに崩壊し執権であった北条氏の手に落ちました。

残念ながら洗濯物を干して仕事に行かなくてはなりません。後で続きを書かせてください。


11. 宮島鹿おやじ 2013年1月28日 18:34:44 : NqHa.4ewCUAIk : brK4DnAJ96
安芸ガラス様
あやみ様

私も夕食を外で済ませたところです。
もうじき、帰宅します。

>あやみ様

続きをお願いします。


12. 宮島鹿おやじ 2013年1月28日 20:36:29 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

コメントをありがとうございます。
安芸ガラス様は、剣道を学ばれていたことは、前スレにて伺っておりました。

その動作に疑問を持たれ、神楽を学ばれたとのこと。確かに記憶しております。

剣道は、明らかに、剣術(真剣による戦闘術)とは異なると考えます。
それは、相手の打撃を、首を横に傾けて「肩で受ける防御法」があるだけでも、それは現実のものではありません。いわば、スポーツですね。

確か、剣道家であり、かつ大学の教授でもある方が、「五輪の書」についての解説本を出版しています。題名も著者名も忘れましたが。興味深いのは、その書物の中で、その大学教授は、

「足の踏み方」に関して、武蔵が、
「足の運び方のことだが、爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むべし。」
と説いていることに対して、

「(剣道の経験からして)必ず、立会いのときは、踵を浮かすはずなので、これは、何か特別な場合を指しているだろう」

と、解説していました。これは、まさに、現代的視点から一方的に対象を裁断する方法であり、誠によろしくないと思いました。

安芸ガラス様は、階級としての武士と、兵法の道を行く実践家とを峻別されているように思われます。確かに、江戸時代、地方の川と言う川には、年貢を納められずに直訴などを行った農民の首が曝されていたと聞きます。また、廃仏毀釈の時には、ほぼ、戦争状態と同様の侵略が山口から広島に対して起きたことも伺っております。確かに私の言う「武士の魂の持ち主」とは、自己の経験から人の痛みを知る実践家・技術者であり、戦闘員である必要もありません。


13. 宮島鹿おやじ 2013年1月29日 04:53:45 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
福島の高濃度汚染地域のこどもたちは、シュレディンガーの猫のように、毒物入りの箱に入れられている、と私が主張したところ、安芸ガラス様によって、その残虐性は「階級」に基づいているとのご指摘を頂きました。

私は、そのご意見について、極めて説得力のあるものと考えます。
実際に「現実の武士」が日常的に実行したのは、主君、あるいは所属する組織(藩)への忠実性であり、決して、広く他者への思いやりなどではなかったと思います。

一方で、「武士の魂」「武士道」「武士の情け」などといった、武士を理想化するようなイメージも存在します。

私自身は、この理想化されたイメージの根拠は、武芸・武術という人生を賭けて体現すべき道において蒸留され、具現化された「実践者」「求道者」にあると考えています。

そういう意味において、追求されるべき「術」あるいは「道」は、何も、「武(戦闘術)」に限定されることはなく、当然、学術、工芸、芸能とあらゆる分野に「それ」は広がると推量します。

しかし、ここで、どうしてもこだわるのが、自らの肉体をもって対象と格闘するということです。「頭でっかち」に陥らないということが何よりも肝要にも思います。

そしてこの「頭でっかち」状態が、かかる惨状を生み出しているように思えます。
私は、人が何かを学ぶときの「ヒント」の線上を行きつ戻りつしているように思えます。

どなたでも、ご意見があればコメントをお願いします。


14. あやみ 2013年1月29日 05:29:07 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
あやみです。

(剣道ではなく)武術の目的は戦いに勝つことではなかったと思います。勝つためならばそれこそ鉄砲を使えばいいのであって、わざわざ名乗りを上げて尋常勝負を挑む必要などないでしょう。

武士は一匹狼ではなく、ある種の武装集団として生まれました。馬をよく乗りこなし狩をする彼らは関東から東北にかけてを生活圏に、つまり朝廷の覇権がいまいち及ばない地域で生きていました。刀や槍という武具の発達には鉄資源に恵まれたこと、そしてこの地が良馬の産地でもあったことが彼らの「生き方」を方向付けたのでしょう。

東北には鉄のほかにも銅山と金山、豊富な海産物があり、朝廷がこの地を欲しがらないわけもなく征伐が行われます。が、この地の民は武士集団が中心となり激しく抵抗しました。窮した朝廷は「鬼」としての印象を都人に植え付け、征夷大将軍という官職を設けて国家事業としての征伐に乗り出したのです。神武東征を「先例」としています。しかし日本書紀が書かれたころには東北との抗争がすでに始まっています。

なんだかアフリカと欧米の話に似てきましたが、私が書くからこうなるというわけではありません。この世の理とでもいうべきでしょうか、人間の愚かさは古今東西を問わないのでしょう。

この頃の原始的な武士道には「しきたり」としての自害はまだありませんでした。ある時期に発生するのですが、それには敵による「はずかしめ」という原因が必ずあり。朝廷軍が捕らえた武士や農民に、そして女たちに何をしたかは十分に想像でき想像だけでは終わりません。その辱めを受けるぐらいならばと自害を選ぶのが彼らの生き方の中に定着しました。

「生き方」は「死に方」でもあると思います。

武士集団には棟梁の存在がありました。棟梁は一族郎党の誇りと生命に責任があり、彼らを纏め上げる技量と武芸の持ち主であるという条件が必要でした。戦いに明け暮れる日々の中、棟梁と郎党の間には不可侵ともいえる精神的な繋がりが生まれます。家族ともども命を預け、預かる仲です。

>武道・武術というものは端的に言えば、戦闘における殺傷術であり、本来はモラルも公徳心も無縁の世界といえるかと思います。しかし、たとえ、それが単なる殺傷術であったとしても自らの存在を賭けてギリギリの思索を行った果てには、ある種の卓越した思考様式あるいは人格・モラルに近接することはあったのではないかと考えます

ここでおやじさまのまの触れられた部分に光をあてることができます。生存権を無体に奪う存在(朝廷)に対し武装・抵抗するのは至極当然でした。そのなかで発生した原始的な武士道とは自身の集団の中での規範、鍛錬、棟梁への忠誠、家臣への責務というものでした。「騙し討ち」への嫌悪は朝廷の常套手段に対する嫌悪でした。その後生存のために朝廷に仕える立場になる武士たちは自身の武士としての矜持を保つために「武士道」の模索を始めます。われわれが小説や文献で知るとことの武士道は時代で言えば戦国から江戸時代のものですが、そのころまでには荒削りだった武士道に仏教や儒教の思想が複雑に絡み洗練されてゆきつつも純粋性を欠いてゆきます。

武士たちは答えとして、天孫である天皇の「守護者」として生きることを選びました。悪霊と天災と重税に病み廃れた平安時代、武士たちの握る刀には破魔の力があると都の人々は信じ、都の警護に望まれた武士たちは次第に頭角を現します。そして武士の時代がやってきます。

「日本は武士の国ではなく農民の国である」というご意見をネット上でも時々見かけます。人口比でいえば確かにそのとおりですが、どの場合でも数量の話が果たして役に立つのかという疑問があります(どの国でも農民が多くて当たり前です)。日本では、自らの生き方に意義を見出しそれに恥じることのないよう勤める姿勢は武士も農民も職人も、役者にも学者にも共通していました。

日本史上この気質が見受けられなかった階層は「公家」、そして公家と密着していた「僧侶」などです。開国後の近代日本を築いたのは彼らと、それに加担した者たちです。以前安芸ガラスさまが指摘してくださったとおり五摂家の子孫たちが今も日本の財界を牛耳っています。

「職人気質」という言葉で言い表すこともできるこの姿勢、今日まで日本人がもっとも大事にしておきながらいつの間にか捨て去ってしまったものでもあります。今、東北の地を実験場にしている学者たちに、大学に、政財界に、「恥じ入る」心のかけらでもあるでしょうか。


長文になりまして申し訳ありません。


15. 宮島鹿おやじ 2013年1月29日 07:54:28 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。

一回通読しただけですが、私の気づかなかった視点、啓発に満ちているように思えます。共鳴できる点が多々あります。

また後ほどお目にかかります。
ありがとうございます。


16. 2013年1月29日 09:08:30 : ntGLBQ8bBI
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>決して、広く他者への思いやりなどではなかったと思います。

「思いやり」、好い言葉ですね。

性の現れは、「思いやり」があるか、否かで捉えます。
性はエネルギーですが、有性生殖の私たちにとれば、生殖、つまり性の現れは死
への前奏曲になります。

さて、性=思春期は、思いやり、恥じらいなどが、ぐるぐる回る期間です。
その思いやりを、抑えますと、暴力になります。
恥じらいは、秘密主義、露出になります。

おやじ様の指摘のように天皇と徳川の公儀が掲げた「武威」は、一人よがりのものです。

日本が中華であり、琉球と朝鮮に「通信」を強要しました。
「通信」とは、日本が世界の中心で、琉球と朝鮮は、その下位のことです。

3代将軍のころ「フイリッピン侵略計画」、15代将軍では「朝鮮侵略計画」が徳川公儀で検討されました。

これが、武士の「思いやり」です。

現在の教師は、当時の下級武士にあたります。
「子どもへの暴行を愛情だ」と主張しております。

このような「思いやり」が一掃されていないのは、このひとりよがりの「思いやり」が、私たち新平民に継承されているからです。



17. あやみ 2013年1月29日 09:38:53 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
おはようございます。時差があるのでこちらはまだ夜中です。
しょうこりもなく追記させてください。

武士の一匹狼のイメージは「子連れ狼」や「眠狂四郎」のような時代劇の剣士たちから来るのでしょうね。彼らは体制に嵌ることができなかった武士たちです。ひたすら剣の道を行くことができたので、いかにも「武士らしい」、理想の武士です。

安芸ガラスさまがおっしゃるように江戸時代の武士は役人化してしまいました。町人からは「お役人様」と呼ばれるいわゆる役人です。朝廷の国司がしていた仕事を奪ってしまったわけですから当然その役は武士たちが負うことになり、おまけに泰平の世は戦闘集団としての彼らの本来の機能を虚勢してしまったのです。忠義という建前と立身出世という現実の双方に縛られた彼らは武士の魂を維持することは難しかったでしょう。とくに関ヶ原から鎖国までの間に遠国に封ざれた外様大名たちには、もとより倒幕の火が二百年の間くすぶり続けていたことでしょう。

そもそも、「天皇の守護者になる」という武士の選択の行き着くところは決まっていたのかもしれません。神とは距離が近いかもしれないけれども天皇はあくまで「司祭者」です。

外国船が日本近海に現れるようになりそして黒船が来航、日本の何かが壊れるときです。

西洋人の持ち込んだ近代思想はおよそ日本人の気質にそぐわないものでした。しかし今の我々はきれいさっぱり近代化しています。あざとく汚い方法で成功しても「ビジネスライク」「キレイ事をいうな」「弱肉強食」など訳のわからない言葉を振りかざして納得しています。させられています。これが近代です。

また、のちほど。おやすみなさい。


18. 蒲田の富士山 2013年1月29日 15:49:15 : OoIP2Z8mrhxx6 : GTJB3qnTCc
「憲法1条と9条を削除してみては、どうだろうか?」
と、以前、どこかの投稿にコメントしたことがある。
ご本人と、そのご家族が、憲法によって特別な存在にされてしまっている。(憲法1条)
削除後に、必要があればだが、皇室保護法とか(何十年とかの時限立法)があってもいいじゃないか。たぶん、あの人たちは貯えは十分だろうから、余計な心配は無用だとは思うが。まあフォローは考えてみないとね。
9条とは、国連の常任理事国以外の国にとってみれば、常識なので、あえて憲法には明記していない。そんなことを条文に持つのは蛇足のようなものだ。あたりまえの事をあえて明記する必要はない。(安芸ガラスさんに怒られそうですが。)
TPP隠しと、原発隠しが、次の選挙で行われる。
「隠蔽をしない。卑怯を憎む。」
そのような政党に投票したいのだが。
ちょっと、コメントの流れと、そぐわなかったかもしれませんが。

19. 2013年1月29日 17:50:17 : ntGLBQ8bBI
蒲田の富士山さん

安芸ガラスです。

>「憲法1条と9条を削除してみては、どうだろうか?」

面白い。

憲法1条は国体ですね。
天皇の政治体制のことです。

体制が歴史に登場したのは、幕末に天皇が、外国との条約を認めたときです。
この体制とは、天皇が祭祀をすること、そしてこの体制を常に拡大する臣民の運動があることです。

改正憲法下の現在もそうです。
ただ、天皇と国民の関係が、大きく違うのです。

明治憲法以前は、天皇が国民の上にありました。
昭和では、天皇は国民の中心となりました。

敗戦後の改正憲法下では、天皇は国民と横並びと、象徴となりました。
象徴とは、つまり国民の下位の関係なのです。

天皇と天皇制を改正憲法に基づいた位置に押し込めることが大事ではないでしょうか。


9条は、戦争放棄、武力行使と戦力の禁止で理解すると、不十分なのです。
大日本帝國の大国主義は武士と公家衆の論議から由来しております。

論議とは「交易互市の利益を以って富国強兵の基本」(1856年)のことです。
日本の領土、国民形成は、この論議からきています。

もう一つは、「万国対峙」です。
当時の世界は、西洋と米国の文明圏、清・李・日本の半開圏、のこりは野蛮圏の秩序でした。

「万国対峙」とは、文明圏に入るのが座標でした。
現在はどうでしょうか。

世界は、米国、英国、仏国、露国、中国が戦勝国ですね。
相変わらず、日本は国連の常任理事国入りしたいと、掲げております。

いまも「万国対峙」です。
そして、経済も富国強兵です。

経済が、私たち新平民の健康と幸福増進のために使われていません。
日米地位協定、日米安保条約には、経済の項目がありますよ。

大切なのは、世界に中心をつくらないこと、そして、上下の関係にしないことです。
すべての国が対等の関係となり、経済を国民のために使うことではないでしょうか。
これが、九条の会の自己変革の運動です。


20. 宮島鹿おやじ 2013年1月29日 21:57:57 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみさん

大変、興味深い論考をありがとうございました。
確かに、東国は、朝廷から見て征伐されるべき夷狄であった歴史がありますね。
また、以前から気になっていたのが、記紀神話におけるヒーローたちがなぜか、騙まし討ちを繰り返すことです。

また、朝廷と東国の関係が、私には、ローマと被征服地(ガリアなど)の関係にも似ていると感じました。あまり、詳しくは無いのですが、確かローマも周辺民族を征服・隷属させていくうちに、中心のローマは貴族化・脆弱化し、国防の要は、「蛮族」出身者によって占められていくという経緯があったように記憶しています。やがて、非ローマ人の軍人皇帝が現れ、さらに、求心力を失い滅亡していったように思います。

一方、日本の貴族社会の場合、実質的権力を武家に奪われながら、その系統は存続し、おっしゃるとおりであれば、現在でも隠然たる力を有しているということになります。この辺は、西洋社会の歴史とは明白な相違が見られるのか、あるいは実は同じようなものなのか興味深いところです。


21. 2013年1月29日 23:09:30 : ntGLBQ8bBI
あやみさん

安芸ガラスです。

>日本では、自らの生き方に意義を見出しそれに恥じることのないよう勤める姿勢は武士も農民も職人も、役者にも学者にも共通していました。

能動性とか主体性と呼ばれるものですね。

自分の分を知り、その使い方、使う場所、使う機をわきまえている人のことです。
ム〜ゥ、親鸞さんかな。
親鸞さんが敷設した道は、現在まで続いています。
その影響は、私もうけていますから。

私はヮアヮア騒がないと集注できません。
さらにエネルギーが時間差で大脳に行くので、筆はかなり遅いのです。

連れ合いに、いつも締め切りにならないと、仕事をしない、と云われております。
早めに、計画性をもって仕事をするように、せかされています。

だから、分の使い方、使う場所、使う機が、適切ではありません。

難しい。


22. あやみ 2013年1月30日 08:03:53 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
おやじさま

「あたまでっかち」が服を着て一人歩きしているのが今の世の中のようです。刺激が多く、目まぐるしいほどの速度で過ぎ行く毎日は我々に熟考するいとまを与えてくれません。ですから既成の知識や常識と呼ばれるもので防備せざるを得なくなり頭がどんどんでかくなるのだと思います。

この目まぐるしい日々の原因が何なのかをみなが思い出せれば、と思うのですが、そうすればこれだけたくさんの子供たちが犠牲にならずに済む、と思うのですが。


蒲田さま

皇室保護法、これいいですね。日本史の生き証人ですし。


安芸ガラスさま

能動性とか主体性と呼ばれるもの…うーん、どうでしょうか。どちらかといえば、たとえば日本を近代化させるためにあの手この手を使った人たちが「能動的」で「主体性」があったのであって、結果もたらされた近代社会で人々に奨励されるのは「能動的」で「主体性」のある姿、のような気もするのですが…よく考えてみないとわかりません。裏にいろいろなカラクリありそうな気がします。なぜなら日本の社会だけをとってみれば「能動的」で「主体性」のある人間はごく少数存在すればよくて、それよりずっと多くのそれ以外の人間が必要なのは目に見えているからです。ピラミッド型の社会の図式に我々が無理に当てはめられているからだとも思えるのですが。

私が勝手に思い込んでいる「よいくに」とは、ひとりひとりがおのれの役(あるいは分)を心得ていて、それをそれぞれが勤める中でいつの間にかお互いを助け合っている、そんな世の中です。


23. 2013年1月30日 09:11:33 : GrodHlKhKs
あやみ さま

安芸ガラスです。

>刺激が多く、目まぐるしいほどの速度で過ぎ行く毎日は我々に熟考するいとまを与えてくれません。

社会的代謝時間が速いのですね。
自然界からエネルギーを吸入し、社会に回転させ、自然界に物質を排泄する、その回転の時間が、速いのです。

>私が勝手に思い込んでいる「よいくに」とは、ひとりひとりがおのれの役(あるいは分)を心得ていて、それをそれぞれが勤める中でいつの間にかお互いを助け合っている、そんな世の中です。

分とは、おのれの体の構造を知り、その体の構造にそって、自然界からエネルギーと物質を取り入れます。
そして循環させます。
人によってエネルギーの出る場所、でる時間が、違います。
その使い方をわきまえている人が、分のある人です。

私たち大人は、体の維持の分しかエネルギーは必要ありません。
しかし、社会の代謝を速くしているために、体の維持分より、膨大なエネルギーを消費させられて、体を維持しているかたちになっております。

ここに憲法第九条の問題が重なってまいります。


24. 宮島鹿おやじ 2013年1月31日 05:52:52 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。
安芸ガラス様のお話を遡って振り返ってみたところ、「橋田邦彦」という人名にゆきあたりました。
「行としての科学」
これについて、しばらく考えてみようと思っています。


25. 宮島鹿おやじ 2013年1月31日 05:57:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
「客観を浮かび上がらせるために、主観を廃しなさい。」

その結果が、今の現状であるならば、この考えの「どこ」が間違えているのか。

を考えてみたいと思います。

とりあえず、今、思いついているのは、この

    「主観」−「客観」

の構図そのものです。


26. 2013年1月31日 08:51:56 : GVs28wO3u2
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>「客観を浮かび上がらせるために、主観を廃しなさい。」
その結果が、今の現状であるならば、この考えの「どこ」が間違えているのか。
を考えてみたいと思います。

同意します。


以下、資料です。

日本の科学者101
http://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-25106-1/


27. あやみ 2013年1月31日 14:45:07 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
「近代」を支え、裏付けているのが「客観」ですね。
「科学」はこの世の理を精製し明文化したものつまり人類の内側から興ったもののはずですが、精製段階で「客観」化を進めるうちにいつの間にか人類から乖離し一人歩きをはじめた…

海水を電気分解させて食塩(科学塩)を作るんですが、おいしくないし体に悪い。
鉱物を核分裂させて核エネルギーをつくります。これらは同じ客観の上に成立しています。


28. 蒲田の富士山 2013年1月31日 22:48:01 : OoIP2Z8mrhxx6 : ACD2iacppA
「朱子学化する日本近代」は、まだ読んでません。(図書館で予約が結構ついてたので)
木下さんの本と同時に読むと、頭の中が混乱状態になると思うので、ひとつずつとしないと。
図書館は、横浜の中央図書館に行かなくても、本を借りる事ができるようです。
川崎で仕事をしているので、川崎市の図書館も利用できるようになりました。

29. 宮島鹿おやじ 2013年1月31日 23:13:19 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

現在、いままでいただいたコメントなどを元に、また、橋田氏に関する資料などを調べて、とりあえず以下のような資料を見つけましたが、どうも、美辞麗句のみのようにも思えました。
http://homepage3.nifty.com/otsujih/contents/2010_science_patio_otsujih_2V45.pdf#search='%E6%A9%8B%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%BD%A6+%E8%A1%8C%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6'

この問題は、追及するに十分すぎる価値のある事案と思います。
本日は、これにて休止し、別の作業に入ります。
失礼いたします。


30. 2013年1月31日 23:55:08 : rpDE0xvpSc
あやみ さん

安芸ガラスです。

>「近代」を支え、裏付けているのが「客観」ですね。

剣道、そして他も同じですが、相手と呼吸を合わせると、ひとつになれます。
そして、意識を遮断して、私の体の中を見ますと、相手の体が写っているのです。

それで、自分の体を弛める姿勢をとりますと、相手も弛んでくるのです。
そんなことで、相手の呼吸を私がリードできるようになるのです。

これが「客観」を担保するものです。


宮島鹿おやじ様

>個人の創意工夫を蹂躙する組織主義、意外と女々しい師弟関係、問答無用の論理不整合など、言い出したら枚挙に暇がありません。

先の戦争での米国への開戦にかんする山本五十六の発言を読みました。
部下が、開戦に反対すると、「職を辞職する」と発言したそうです。

その発言から、五十六像が浮かびます。
大将とか何がしの地位が大事な人なのですね。

人ではないのです。
虎の威を借りた人間像です。

日本の社会は、このような人間が育つ社会なのです。
現在も。


31. 2013年2月01日 05:47:50 : dBCoZ6htEs
宮島鹿おやじ様

>「足の踏み方」に関して、武蔵が、
「足の運び方のことだが、爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むべし。」
と説いていることに対して、

「(剣道の経験からして)必ず、立会いのときは、踵を浮かすはずなので、これは、何か特別な場合を指しているだろう」

と、解説していました。これは、まさに、現代的視点から一方的に対象を裁断する方法であり、誠によろしくないと思いました。


私も武蔵の引用からです。

「鼻すじ直ぐ(すぐ)にして」の客観の担保について。

相手と息を合わせます。

そして、意識を遮断して、自分の鼻すじを見ます。
左右の間隔を均等にします。

お臍まで鉛直になったところで、私の体の中に写っている相手も鼻すじを見るのです。

それで、相手の鼻すじを鉛直にできるのです。

暗闇(くらやみ)、あるいは面を(おもて)を着けて対面で、体の動作をするさいに使います。


32. 2013年2月01日 05:54:09 : dBCoZ6htEs
蒲田の富士山さん

安芸ガラスです。

>「朱子学化する日本近代」は、まだ読んでません。

きのう本屋をのぞいたら「入門 朱子学と陽明学 」(ちくま新書)が出ていました。


33. 宮島鹿おやじ 2013年2月01日 07:52:58 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様 蒲田の富士山様 安芸ガラス様

おはようございます。
いただいたコメントをもとに概ね以下のようなことを考えました。

1.近代における 主観(主体)−客観(客体)図式の概要と起源
2.橋田氏「行としての科学」概要をもう少し、詳細に把握する。
   「主客未分」「物心一如」の概念などについて
3.2の概念と「心身脱落」との関係について。(関係あるかどうかもわかりません)
4.1に付随しますが、「主―客 図式」と、古典論、量子論との関係

かつて、阿修羅の雑談板、カルト板でこのことについての議論がありました。
私は、末席で黙って話を聞いていました。参考までに掲載します。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/462.html



34. 2013年2月01日 09:19:01 : dBCoZ6htEs
宮島鹿おやじ様

橋田邦彦は『臣民の道』の責任者です。
人は、体も心もバランスよく育つことが重要です。
そして、社会的動物として、自らの力でたち、助け合うことです。


35. 宮島鹿おやじ 2013年2月01日 12:15:17 : NqHa.4ewCUAIk : UhKbORvTE2
安芸ガラス様

>人は、体も心もバランスよく育つことが重要です。
>そして、社会的動物として、自らの力でたち、助け合うことです。

同意します。

そのために、このアンバランスさの原因を探りたいと思います。
ご指導・ご鞭撻をお願いします。(文字通りの意味でお願いします)


36. 2013年2月01日 17:43:47 : dBCoZ6htEs
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>1.近代における 主観(主体)−客観(客体)図式の概要と起源

ウ〜ン。
主体、体への働きかけのこと。

つまり、能動性ではないだろうか。


37. あやみ 2013年2月01日 18:50:57 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
主観(主体)から客観(客体)をとりさること、それは「生死」から「死」をとりさり「生」のみを見つめることに似てはいないでしょうか。それはすなわち無意味、または「解なし」。あるいはあるのかもしれませんが、数学でいえば虚数で表現される解、そのように感じます。

38. 宮島鹿おやじ 2013年2月01日 18:56:01 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

コメントありがとうございます。
安芸ガラス様においては、主体は要求が生じたときに始まるとのコメントをいただいております。私自身は私個人の経験からその定義に異論はないのですが、今回の場合においては、西欧思想の文脈における「それ」を確認したいと考えております。(結局同じことであるような気もしますが)

とりあえずは、まずは、デカルト なんですが、とりあえず、デカルトwikiなどを読んでいます。見当はずれかもしれませんが、それは、「御手の物」ですのでよいのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88

ただ、デカルトに関わると、デカルトが克服したかったスコラ哲学にまで遡る必要が出てくるかもしれません。


39. 2013年2月01日 19:47:24 : dBCoZ6htEs
あやみ さま

安芸ガラスです。

>>。ヨ死んだ状態」と「生きた状態」の重ね合わせ、
この表現は今の世の中を的確に言い表していると思います。

>主観(主体)から客観(客体)をとりさること、それは「生死」から「死」をとりさり「生」のみを見つめることに似てはいないでしょうか。

鋭いです。
「死に向かう学問」が必要なのでしょう。


宮島鹿おやじ様

>ただ、デカルトに関わると、デカルトが克服したかったスコラ哲学にまで遡る必要が出てくるかもしれません。

個体の感覚と体験で「学」を始めたのはデカルトからではないでしょうか。

スコラは個体の利益追求と感覚から離れた公共の利益を前提としていると、思います。
この方向は、「原子力損害賠償法」の事故と損害定義に継承されております。


40. 2013年2月02日 11:55:38 : S87dfUOTnc
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>安芸ガラス様においては、主体は要求が生じたときに始まるとのコメントをいただいております。私自身は私個人の経験からその定義に異論はないのですが、今回の場合においては、西欧思想の文脈における「それ」を確認したいと考えております。(結局同じことであるような気もしますが)

デカルト以降の西洋の流れには、2つの流れがあると思います。
「人間主義」の流れと、ダーゥインやマルクスの流れです。

前者は「普遍性」と「上から」、後者は「個別性」と「下から」です。
ア・プリオルに「客観」にアクセスできるわけではありません。

「個別」「具体」(つまり主体)を通してアクセスが可能になるのではないでしょうか。


41. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 12:41:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

コメントありがとうございます。

とりあえず、教科書的な意味合いにおいて、「客観−主観」図式、デカルト、そして、これらにまつわる基礎的概念、たとえば「実体」「本質」といった概念を、今一度確認しておきたいと考えています。 

以下、若干、整理した部分を報告します。なんとなくこういったノリで私は進んで行こうと思っています。また、これから、図書館に行こうと思っています。概ね、スコラ哲学について調べようと思っています。

現代哲学辞典(講談社現代新書)  p315 主観と客観T より 要約

1.該当する西欧の言葉
「主観」、「主体」 ともに、
ラテン語“subjectum”に由来する、
“subject” (英)、
“sujet”(仏)、
“Subjekt”(独)
という同一語である。

「客観」、「客体」 ともに、
ラテン語“objectum”に由来する、
“object” (英)、
“objet”(仏)、
“Objekt”(独)という同一語である。

客体と客観、主体と主観は意味として異なるが、西欧における同一語の意義の変遷に伴う意味の重点のおきどころに対応して、別の邦語として翻訳されたという経緯がある。
(続きは後ほど)


42. 2013年2月02日 13:38:35 : LSTKoUrrVs
読んでビックリ 難しい事考えているのですねー武道も表も有れば裏も有る
思想 哲学 宗教も表も有れば裏も有る わしは普通にそう思って暮らしてる
才能 能力 何て大体本人が判らない わし等の世界は明確に日本的表現では
霊導っー現象が有るが(求めれば導く神の特定が出来るのだ)これは何に該当する
のかなー?コリャまた失礼しました わしはこの世の事はもう如何でも良いです

43. 2013年2月02日 13:52:37 : S87dfUOTnc
LSTKoUrrVs 様

安芸ガラスです。
コメントをありがとうございます。

>わし等の世界は明確に日本的表現では
霊導っー現象が有る

これが、わし等の自然なのです。
現象、これを顕すものがある。

体の中にあるのです。
生きている個体は3代〜4代分のクセが重なってあるのです。


44. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 17:22:32 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
>42 LSTKoUrrVs さん

おお、チュー事さんですね。
コメントありがとうございます。

>わしはこの世の事はもう如何でも良いです

橋田邦彦という学者について、検討しています。
そういわずに、加勢してください。


45. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 17:50:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

図書館に行き、中世哲学関係と、道元「正法眼蔵」関係の本を借りてきました。

橋田邦彦関連の書物は、私の在住する市の図書館には一冊もないようです。
それでも、「正法眼蔵入門」久木直海著 同友館 p85〜 に 戦時中の道元の歪曲が行われたという橋田氏関連の記載がありました。 以下抜粋します。

<戦時中行われた道元の歪曲>
 昭和20年(1945)までの長い戦時中、今は誰も口にしない“日本精神”という言葉がちまたに氾濫していました。“日本精神作興”と称してあらゆる思想・宗教がそこに動員され、これに屈しなかった個人・団体は希です。仏教会も動員対象の一つでした。
 道元は日本精神の発揚者であるとされ、たとえば著名な哲学者田辺元は次のように書いています。
「日本仏教の開祖たる親鸞日蓮道元の如き人々は、この日本精神の伝統の中に生立ちつつ、其天才的創造力に依って仏教を日本化し、日本思想を文化宗教の方向に発展せしめたのであるが、それは同時に仏教の伝統を日本精神に依って具体化し、創造的に之を新方向に発展せしめたものといふことも出来る。日本仏教は仏教の発展であると共に日本思想の発展でもあるのである。」(『正法眼蔵の哲学的私観』昭和14年、岩波書店)。

『正法眼蔵』のことを指して「仏教を日本化し」たとか、「仏教の伝統を日本精神に依って具体化し」たというのでしょう。
 こんなふざけた道元の“日本精神化”を許した罪の一半は宗門が負わねばならないでしょう。たとえば生理学者の橋田邦彦・・・は昭和10年、曹洞宗系の大学である駒沢大学仏教会での講演の中で、「眼蔵の解らないものだといふことは、是はまあ諸君も御存知だと思ひます。」(前掲書、第二巻)といっています。門外漢を講談に迎え、平気でこのように発言させている情況がそこにはあったのです。



46. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 18:06:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

主観・客観、その他については現在、デカルトの母胎であり、かつ批判対象であったスコラ哲学、そして、それが依拠したアリストテレス哲学にまで遡って確認しています。なんとなくまとまったらご報告します。(なにかヒントがありましたら教えてください)

なお、いただいたコメントで

>「近代」を支え、裏付けているのが「客観」ですね。

おっしゃるとおりと思います。
デカルトによる、精神(主観)と物質(客観)の二分法によって、主客の相互作用を気にすることなく、物体の運動を観察するという基盤を、自然科学は得たという記述がありました。(以下引用)

デカルトは第一原因(それ以上遡れない最初の原因)である神(無限実体)以外には依存しないものである物体(=空間)と精神(=意識)を(有限)実体であるとした(心身二元論)。

そして物質という実体は属性として延長を持ち様態として位置や運動等を持ち、

精神という実体は属性として思惟を持ち様態として感情や表象等を持つとした。

このような精神的なものから物質的なものを切り離して論じることが可能であるとする考えは、近世以降における自然科学の発達において重要な支柱となった。物質的な現象を考察する上で、物質的な原因だけを考慮すればよくなったからである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93


しかし、投稿文のように、「主客の相互作用」そのままの「量子の観測問題」が再浮上したという形になっています。


47. 2013年2月02日 18:16:53 : S87dfUOTnc
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>デカルトは第一原因(それ以上遡れない最初の原因)である神(無限実体)以外には依存しないものである物体(=空間)と精神(=意識)を(有限)実体であるとした(心身二元論)。

そして物質という実体は属性として延長を持ち様態として位置や運動等を持ち、

精神という実体は属性として思惟を持ち様態として感情や表象等を持つとした。

これが、スコラ哲学なのです。

デカルトとスコラ哲学の違いは、数学的手法に造詣が深いか、否かです。



48. 2013年2月02日 18:30:18 : 1cOU5wXXFc
>>02・03さんへ。  --海--

突然死のメカニズムは、ずっと疑問でした。考えられる理由は・・・
1. 放射線→フリーラジカル発生→血液ドロドロ→脳梗塞・心筋梗塞
2. 放射性核種→心筋に沈着→心筋細胞の死滅

最近疑っているのが・・・
3. ( 放射線→フリーラジカルの発生→身体の細胞死滅→ ) 脳幹機能低下→間脳機能低下→視床下部の機能低下→自律神経異常→不整脈→心臓麻痺→心停止
です。

自律神経が狂うことでの症状として例えば・・・
心臓系の症状だったら、動悸・不整脈・左胸痛があります。左胸痛は多くの方が経験しているかと。
呼吸系の症状だったら、呼吸困難・咳・息切れ・息苦しさ・嘔吐。少し汗ばむような運動をしただけで呼吸がヒーヒーハーハーと大変になったりしていませんか ?

突然死する前に必ず、何か、症状がでる・出ているはずです。
その時点で予防しましょう ! !


49. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 18:45:01 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

>これが、スコラ哲学なのです。
デカルトとスコラ哲学の違いは、数学的手法に造詣が深いか、否かです。

ありがとうございます。大変参考になります。

なお、安芸ガラス様は、橋田氏の著作などはお持ちではありませんか?


50. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 18:49:18 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
おお、海様、コメントありがとうございます。

大変勉強になります。医学系・病理系は「完全にあきらめて」いますので、大変助かります。また、自身の健康のためにも、お話を伺わせていただいております。
ひたすら、納豆の乗ったそばをたべています。便通は非常に快調ですが、膝が痛いです。


51. 2013年2月02日 18:58:22 : S87dfUOTnc
海さん

安芸ガラスです。

>突然死のメカニズムは、ずっと疑問でした。考えられる理由は・・・
1. 放射線→フリーラジカル発生→血液ドロドロ→脳梗塞・心筋梗塞
2. 放射性核種→心筋に沈着→心筋細胞の死滅

最近疑っているのが・・・
3. ( 放射線→フリーラジカルの発生→身体の細胞死滅→ ) 脳幹機能低下→間脳機能低下→視床下部の機能低下→自律神経異常→不整脈→心臓麻痺→心停止
です。

体の自然と適応です。
産まれる体は、3〜4代分のクセの重なりです。
この体が適応できなくなるのです。

体は外の自然から物質とエネルギーを取り込み、循環させ、物質を排泄します。
放射線は外からでは、速度が適応の課題となります。
放射能を取り込むと、排泄が課題となります。

いずれにしても体のクセは感受性となります。
外からの速度と中からの放射能の刺戟は、体の中の感受性を通して反応として現れます。

よく働くところは、もともと自家中毒の要素があります。
ですから、つまりよく働くところなので、再度、刺戟と反応を作りだし、休ませれば好いのです。

これを主体的とか、能動性とよびますが。



52. 2013年2月02日 19:12:06 : S87dfUOTnc
宮島鹿おやじ様

>なお、安芸ガラス様は、橋田氏の著作などはお持ちではありませんか?

持っていません。

ただ、むかし『臣民の道』を読みました。

脳生理学者の時実、生理学者の杉さんは、橋田の弟子です。

手法は同じです。

>便通は非常に快調ですが、膝が痛いです。

膝は、お臍です。
ここが捻じれているからです。
お臍とその背中側を押さえてください。

押さえるのは、刺戟を与えて反応をつくりだすのです。
もとに戻ろうとする動きをつくりだすのです。


53. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 20:09:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様、蒲田の富士山様

私は、福島で現実に執行されつつある「残虐行為」の実行犯である山下俊一の思想的背景となった疑いのある橋田邦彦の思想について踏み込もうとしています。

しかし、それ以外にも、憲法の問題、武士の起源・性質の問題など、極めて重大な課題もスレッド上に展開されました。

もし、よろしければ、このスレッドはテーマを一つに絞らず、多面的展開となることを投稿者として望みます。先ほど、海様によって、取手の児童の心臓検査の問題について展開がありました。どんなことでもお気にかかることは遠慮なくコメントください。お願いいたします。


54. 2013年2月02日 20:42:27 : S87dfUOTnc
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。
>デカルトとスコラ哲学の違いは、数学的手法に造詣が深いか、否かです。

いわゆる「明晰判明」のことです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88

コギト・エルゴ・スム [編集]

方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[1]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[2]。詳細は同名の内部リンクを参照。

コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)

のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした[3]。

この「明晰判明」にはクラスがあります。
スコラ哲学か近代哲学の違いは、その方法が、下からか、上からかの違いです。


55. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 21:12:24 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
現時点において、デカルトとスコラ哲学には、「実体」という概念等において近縁関係にあるという認識をもっています。

大陸合理論の特徴として、以下の点があると別の書物において確認していたからです。

@権威離れ−新しい始まり
 中世期の書物は聖書や教父の著作や古典、秘教的な書物の引用や注釈に明け暮れていた。これに対し彼らの書物は権威ある書物からの引用がほとんど無い、新しいスタイルである。そういった、書物からの引用はきりのない論争と憎悪をまきちらすだけであった。

A数学好み−新しい方法
彼らは数学を単なる特定の自然現象解明の処理手段としてだけではなく、更にそれをある前代未聞の統一的な学のモデルとしてとらえ、ひいては科学そのものを哲学的に根拠づけようとしていた。 世界全体を数学的な関係秩序そのものとして見いだす事。これが合理論に共通する認識方法である。

B実体へのこだわり−新しい差異
・スコラ哲学の伝統的実体概念
実体を、「種差」と「個差」という2つの差異で考えてきた。とにかく同一的に存在するものはなんでも「実体」と命名し、ここに種差を順次加えていくと、枝分かれしながら実体を区別する樹状の差異体系が得られる。種差はだんだんと増殖し、実体には種差の数だけ多くの種類がある事になる。逆にいえば最後まで残り続けるこの石、あの人間といった個体の間の差異はもはや概念で示すことができない数的な差異「個差」でしかないということでもある。
・合理論の実体論
デカルト:実体は思惟を本質とする精神と、延長を本質とする物体(身体)の2つだけである。両者を分けるのは種差ではない。これらは共通の類というテーブルがないとされるからである。デカルトの心身の実在的区別は一方を他方無しに明晰判明できるという点に、つまり、両者に共通するものが全く無いという点に根拠を持つ。

・・・・

つまり、デカルトは、数学というツールを用いながらも、基本的な思考の「構造」(具体的には「実体」概念など)はスコラ学を継承しているということになります。それは、現代科学にまで続いている可能性があるということになります。

なお、すみませんがクラスの「上」と「下」の意味がわかりません。どうぞ、ご教示ください。


56. 2013年2月02日 21:32:49 : S87dfUOTnc
安芸ガラスです。

>つまり、デカルトは、数学というツールを用いながらも、基本的な思考の「構造」(具体的には「実体」概念など)はスコラ学を継承しているということになります。それは、現代科学にまで続いている可能性があるということになります。

同意します。


>なお、すみませんがクラスの「上」と「下」の意味がわかりません。どうぞ、ご教示ください。

クラス、あまり明晰でない知識は、最低段階の科学と呼ばれています。

「上」「下」とは、演繹法と帰納法のことです。

以下は、よく纏まっております。

http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/171.html


57. 2013年2月02日 22:13:10 : S87dfUOTnc
安芸ガラスです。

>B実体へのこだわり−新しい差異
・スコラ哲学の伝統的実体概念
実体を、「種差」と「個差」という2つの差異で考えてきた。とにかく同一的に存在するものはなんでも「実体」と命名し、ここに種差を順次加えていくと、枝分かれしながら実体を区別する樹状の差異体系が得られる。種差はだんだんと増殖し、実体には種差の数だけ多くの種類がある事になる。逆にいえば最後まで残り続けるこの石、あの人間といった個体の間の差異はもはや概念で示すことができない数的な差異「個差」でしかないということでもある。


人間のクセ、つまり個性(個別性)が問題とならなかった。
一方、ダウィン、マルクス、バルザックなどは、個性の流れです。


58. 宮島鹿おやじ 2013年2月02日 22:18:24 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

デカルトとスコラ学の近縁関係を前提とすると、私も含め、科学対してに無防備な憧憬を有するものは、無意識のスコラ学徒であるということになります。

極めて有意義な視点が、本スレッド上において、帰納されたように思われます。

また、読書に戻りたいと思います。本日はこれにて失礼いたします。
ありがとうございました。また、よろしくお願いいたします。


59. 2013年2月02日 22:45:39 : S87dfUOTnc
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

きょうはありがとうございました。

きょう判ったのは、一個の事物がどの種に属するのかと、ひとつひとつのクセがあることが意義がある、二つの流れがあることでした。


60. ろうし力学 2013年2月03日 01:02:16 : riuSNxeQ9qjU6 : v2K8I4WiB6
宮島鹿おやじ様 安芸ガラス様

>デカルトとスコラ学の近縁関係を前提とすると、私も含め、科学対してに無防備な憧憬を有するものは、無意識のスコラ学徒であるということになります。

>きょう判ったのは、一個の事物がどの種に属するのかと、ひとつひとつのクセがあることが意義がある、二つの流れがあること

「極めて有意義な視点が、本スレッド上において、帰納されたように思われます。」

同意いたします。


宮島鹿おやじ様

単なるつまらん自己規制ですが、ROM専の態度を破って発言しております。

科学の一種の到達点としての量子力学、という見方から、それが大変な哲学的命題を示した。
しかし「業」と結合した科学は、そのことを「見ないふり」に徹したことで、コンピューターと核物理はこの40年で爆発的発展を見ました。

現時点で省みれば悪し歴史と断罪することもできますが、人間がこの物理世界の極小と極大にアクセスすることが、人間の段階からヒトへの跳躍への、イニシエーションでもあったと、後の世では語られることになるのではないでしょうか。

コンピューターが発展してきた意味は、もともとバーチャルな現象界(洞窟の影)である「物理世界(物質的な現象を考察する上で、物質的な原因だけを考慮すればよくなったからである。)」の中に、更に入れ子的なバーチャル構造を産み出すことによって、主客問題を再び浮き上がらせてくる、観察とは何かという空間の構造性につて、人間が見出していくきっかけ(インパクト)ではないでしょうか。それによる「バーチャルへの人間性の落下(喪失)という影を含みつつも、主体とはなんであるのか、ということについての考察、観察という次元構造を人間が発見していくために、発展してきた構造性の影だと言えます。

核物理においては、放射能。放射性物質に宿る精霊はヒルコではないでしょうかと、アニミズムへの言及の投稿において発言しましたが、放射性物質とは、観察による量子への関与における意味として、人間の持った「恐怖と虚無を背景に持った強欲の反映」であると思っております。

そのように、コンピューターと核物理の発展に影として現出した、人間の意識の構造性が、その「行き詰まり・どん詰まり」を持ってして、全く別なものを求めようとする人間の意識に跳躍を喚起せしめたと感じます。それ故に、悪しき歴史が必然であったと。

物質世界の極大と極小にアクセスした地球人類が、観察における空間の構造性を発見する時代が来た今日、自己他者問題が哲学の命題と再び浮かび上がってくる必要を感じます。そうでなければ、哲学は単なる近代の理性…科学的であること…の柵なき監獄の中で、死んだようになって終わることでしょう。

この観察における自己他者の構造性を、人間が見出し、次元の跳躍へ飛び立つならば、そこには主客一体性の構造が、人類に開示されてくるでしょう。その次元にヒトが降り立ったならば、ヒルコとして産み落とされた放射性物質=恐怖と強欲…は、再生の円環に吸収されていき、新たなる宇宙への敷石として、生まれ変わることになる(放射能は止揚される)…というビジョンを持っております。

何故ならば、観察における主客の一体という次元構造が人類に見出されたならば、そこには「物質」という概念が消失しているからです。
物質観念が消失されたならば、自己と他者という観念も成り立たたず、つまるところ「自我」が成立しないということになるでしょう。

ではでは…


61. あやみ 2013年2月03日 04:09:42 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
おやじさま

>デカルトの母胎であり、かつ批判対象であったスコラ哲学、そして、それが依拠したアリストテレス哲学にまで遡って確認しています。なんとなくまとまったらご報告します。(なにかヒントがありましたら教えてください)

おやじさまににヒントを差し上げるなどとんでもない話ですが、私の普段ぼんやりと考えていることを書かせていただきます。そもそも私の書くことは文献などに裏付けられたものなどではなく「つれづれもの」ですのでご容赦のほど。

16世紀以降のスコラ哲学の庇護者は「イエズス会」です。日本にも鉄砲を売りつけにきた「悪徳流通業者」です。彼らは世界中から金・銀・香辛料・奴隷を安く買い叩きました。そして世界中に武器を売りつけ争いを起こさせました。

いま欧州が、国連が、アメリカがやっていることと何か違いがあるでしょうか。

イエズス会はまず権威のある学会を庇護下におき、そこで「近代」の生みの親たちを育てました。スコラ学派とデカルトの相違点はそのまま「神と近代との技術的な相違」だと思います。教会を否定せずに近代と共存させるため、デカルトやニュートンはある意味で大きく寄与しました。

今、われわれがデカルト座標とニュートン時間に管理されていることは、私には偶然とは思えません。


もう一点。アリストテレスやプラトンのギリシア哲学は、ローマの没落とともに世界史から一度姿を消しています。ローマを滅ぼし、暗黒の中世、王侯貴族とキリスト教会による搾取と非道の時代をもたらしたのはガリアやフランクです。(>20.)ギリシア文字は理解されなくなりました。その後忘れ去られていた、あるいは意図的に封印されていたギリシア哲学に息吹を与えたのはイスラム学者たちでした。クルアーンの見地から再解釈されたギリシア哲学はアラビア語に直され、それがラテン語に翻訳されたものが欧州に伝わりスコラ哲学の基礎となりました。

「哲学」とは所詮キリスト教会の「手段」や「道具」でしかないのだと思います。都合よく育て、作り変え、封印し、再発掘する。私は哲学が好きではありません。

近代至上主義が支配する今の世の中を打ち壊すために、われわれが「敵」を知るための作業は重要だと考えます。(だから嫌いな哲学ですが多少は知っておかなければならないと感じます。とほほ)


武士たちは仏教、儒教、朱子学を取り込んで武士道を哲学化しましたが、その結果純粋性を失い形式的なものへ堕ちてゆきました。
武士同士の対峙は、茶室での一期一会と同じように思います。敵対とは違う。主と客の両者が同化し、邂逅を味わう。その至極の時空を阻害する鉄砲は要らなかった。イエズス会も追い出しました。いまはそれができなくなってしまいました。日本人は明らかに退化しています。


62. 2013年2月03日 08:28:43 : zf5huVlMMw
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>観察とは何かという空間の構造性につて

観察とは、自己の変化です。
胸がときめく、ワクワクするなどです。
彼女に手を握られると、自分が変化するのが分かります。


あやみ さん

>「哲学」とは所詮キリスト教会の「手段」や「道具」でしかないのだと思います。

同意いたします。
集団の「哲学」なのです。

>その後忘れ去られていた、あるいは意図的に封印されていたギリシア哲学に息吹を与えたのはイスラム学者たちでした。

同意いたします。

>武士たちは仏教、儒教、朱子学を取り込んで武士道を哲学化しましたが、

仏教、儒学、朱子学は、お寺と武士の大陸との交易の担保なのです。


宮島鹿おやじ様

デカルトは学校でスコラ哲学を学びました。


近代の特徴は、中世の集団の宗教が、個人が信仰する宗教へ移行したことではないでしょうか。


63. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 09:50:41 : NqHa.4ewCUAIk : s9Ujpk8HQU
安芸ガラス様 あやみ様 ろうし力学様 蒲田の富士山様 皆様

おはようございます。
大変参考になるコメントをありがとうございます。感謝しています。

なお、昨日の自分なりの「おさらい」を図式化してみますと、

スコラ哲学=(実体概念などの思考様式=構造)=デカルト=(合理論)=自然科学

という形になります。結果として、スコラ哲学と自然科学を結びつける作業を行ったわけです。私は、以降、スコラ哲学についてさらに調べてみようと思います。

これは、幕末〜明治期に、日本の知識人(武士など)に「何が」流入してきたのか、その正体を見極める作業です。

その、一方、流入してきた「それ」を受容したのは「何」であったのかという作業が必要になります。そこを抑える作業が朱子学の確認を中心としたものになると思います。

以前、安芸ガラス様のお話のなかに

国体論 = 朱子学 + キリスト教 

というものがありました。結局は同じ図式になっているように思います。

よって、朱子学についての確認作業が一方で肝要となると思います。


64. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 10:00:20 : NqHa.4ewCUAIk : s9Ujpk8HQU
また、私にとっての、喫緊の任務は「科学者(スコラ的な思考をする人)である橋田氏」が提唱した「物心一如」などの概念を確認することですので、橋田氏が傾倒したとされる道元の「正法眼蔵」について、彼がそれをどのように解釈したのかという作業を行うつもりです。それについての概ねの感触は、>>45に記したとおりです。

どのようなコメントでも結構です。
道元、橋田氏、正法眼蔵等に関する情報を求めます。


65. 2013年2月03日 10:44:24 : zf5huVlMMw
安芸ガラスです。

以下、情報です。

http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/yokota/y-koengenko.html

ci.nii.ac.jp/search?q=%E6%A9%8B%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%BD%A6&range=0&count=200&sortorder=2&type=0


ci.nii.ac.jp/els/110006152108.pdf

ci.nii.ac.jp/els/110007019279.pdf


66. 2013年2月03日 11:01:24 : zf5huVlMMw
安芸ガラスです。

宮島鹿おやじ様

ciniiでサーチして下さい。
このホームページが出ましたら、橋田邦彦を入力してください。
30件でます。
そのうち6件が無料です。


67. ろうし力学 2013年2月03日 11:19:13 : riuSNxeQ9qjU6 : FVfQJ8R1lU
〉「即心是仏」とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり

への解釈が、唯物観念の延長に終始していると言わざる終えません。
即心が何であるかが、全く見えなかったと言う事でしょう。


68. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 11:45:03 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

6件すべてダウンロードしました。
ありがとうございます。

ろうし様

私は、スコラ哲学で手間取っています。
ガンガン解読してください。
できれば、拡散できるようにわかりやすく解説してください。


69. 2013年2月03日 12:54:55 : zf5huVlMMw
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

デカルトに関して枠組みを変えますと、デカルトこそが「スコラ哲学」を完成させたのだ、と言えるのではないでしょうか。

http://ci.nii.ac.jp/els/110007409058.pdf?id=ART0009260266&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1359862626&cp=


70. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 15:48:16 : NqHa.4ewCUAIk : drcAB9SB8A
安芸ガラス様

現在、「中世哲学を学ぶ人のために」中川純男編(世界思想社)を読んでいますが、
大変難航しております。しばし、時間が必要かと思います。

よろしければ、なんなりとコメントをお願いします。


71. 2013年2月03日 16:33:15 : zf5huVlMMw
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>よろしければ、なんなりとコメントをお願いします。

「科学」への疑問
1、「科学」とは「学問」のことでしょう。
でも「明晰判明」をもたないと、「科学」の対象となりません。
それで、探しているのだろう。
2、どんなに「科学」の方法がすぐれていても、被ばく者を屈辱する権利はない。
経過観察?
どうして、このあたりまえのことが山下にはわからないのだろう。


72. ろうし力学 2013年2月03日 17:09:24 : riuSNxeQ9qjU6 : VE0EVJYXdg
同一化(一般化)という毒。

全ての人々に蔓延した毒の一つとして、同一性への偏向という概念の殻が存在します。

様々な同一性の中で、根本的で強固な殻であるのは、唯物、と言う同一性と思いまうす。
結果、他者の存在、同時に「他者化した自己」の双方は、物質という同一性に括られて、そこに差異(唯一性)は、暗闇の中に耽溺します。

同一性概念で括られた人間存在は、近代理性=科学の席巻によって、単なる原子分子集合として規定化されて、本来の自己である魂は消去されました。当然他者も同様です。

その物質という同一性によって語られるいかなる理論も哲学も、科学も文化も、全てが還元されていくモノとして扱われた、その頂点が現代日本の現状ではないでしょうか。

それ故に、この金融軍事巨大産業が支配する世界、その中の日本という機構は、他者をモノ化し、自己もまたモノ化せしめて、生命の視点からは到底理解できえぬ残虐性を持って、暴走しているのではないでしょうか。
その終着点である破滅(熱的死)へ向かって。


73. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 18:39:01 : NqHa.4ewCUAIk : drcAB9SB8A

上述の本の読解をいったん中断し、以下のHPを読んでいます。
(こっちから先に入ればよかった^^;)

http://philosophy.hix05.com/Medieval/medieval02.html


「中世を学ぶ人のために」の印象ですが、はっきり言って、何言ってんだかまるでわからないところがあります。

古典物理のシンプルさとは違い、言葉の洪水のような印象を受けます。それでも、自然科学と通底するものは、ろうし様の言われる、「一般化」へ導く形而上学性であろうとは思いますが、今しばらくは、洪水の中で溺れていようと思います。

しかし、かならず、自分なりの整理をして報告しようと思います。


74. 2013年2月03日 19:41:11 : zf5huVlMMw
安芸ガラスです。

「一般化」について。
個体を識別しない西洋の集団の「哲学」は、プラトンの影響があるのではないだろうか。

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2257.html

あちらの世界のイデァと、こちらの世界の現象?


75. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 20:15:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

まだはっきりしていませんが、中世キリスト教世界では、「普遍論争」というものがあったそうです。

http://philosophy.hix05.com/Medieval/medieval07.occam.html
普遍的な概念は個々の事物を超えたあるものであるが、そのあるものをどうとらえるかによって、実在論と唯名論の対立が生じていた。実在論者はプラトンのイデア論を遠い祖先として、普遍的な概念に実在性を付与した。それに対して唯名論者は、普遍的な概念は人間が論理的な思考のために作り出した名称に過ぎず、したがってそれは人間の精神作用の中に現れるのみで、実在性は持たないと主張した。

どうも、この概念実在論が怪しい気がします。


76. 2013年2月03日 20:32:27 : zf5huVlMMw
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>どうも、この概念実在論が怪しい気がします。

同意します。

普遍つまり一般化を理解するのは知性。
個別性を理解するのは感覚。

証明はことば。
自然科学は数学や顕微鏡で証明。

そう言えば国会も討議は言葉だけですね。


77. ろうし力学 2013年2月03日 21:18:31 : riuSNxeQ9qjU6 : FVfQJ8R1lU
宮島鹿おやじ様

以下、http://philosophy.hix05.com/Medieval/medieval02.htmlへの論考です。


>ギリシャ人にとっては、宇宙の根源にはカオスのような物質が充満していて、それに神あるいはデミウルゴスが秩序を与えて今日のような世界を作り上げた。プラトンが宇宙創造を描いているときにも、初源的な物質に神が形相を付与したのだということになっている。アリストテレスにおいても同様である。彼らギリシャ人にとっては、神というものは創造主であるというより、技工のようなものだったのである。

グノーシスにおて、神とデミウルゴスを同一化(一般化)することから、この論旨の破綻が始まる。

>初源的な物質に神が形相を付与した

この造物への観点自体が、唯物観念にどっぷり浸かった(己が物質と同一化した)視点であるが故、持論が袋小路に入っている、そのこと自体に気がついていないのでしょう。

>彼らギリシャ人にとっては、神というものは創造主であるというより、技工のようなものだったのである。

物質世界を想像したのは、神(イデア)ではなくデミウルゴス(造物主)であると考えていたのがギリシャ人であろう。現代人は、神と造物主を同一化してしまっているので、後後の論旨が破綻していくのであろう。

>時間というものは世界が創造されたときに創造されたのだと考える。なぜなら神は時間を超越した存在であり、神にとっては永遠の現在があるばかりだからである。
>我々人間は、それらがあたかも客観的な存在であるように考えているが、それは実は意識の錯覚に過ぎない

現在の科学(量子力学)に至った今、この時間外の時間とは、虚数であることが始めて見出された。
光速度は、無限大の速さを演じるであろうとアインシュタインはかつて言ったが、光速度を超えたところに、虚数世界…永遠の今…がひっそりと息づいている。
宗教世界が「霊」と呼んだ世界であろう。
その意識の錯覚に過ぎぬ時系列的時間観念からの解脱が、人類の世界観の跳躍となるであろうことを思う私である。

>アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。

アウグスティヌスには、未だ物質世界の極大と極小にアクセス(交差)が起きていない時代なゆえ、時間を三つに切り分けて思考したのは、当然であろうが、
「過去の事物の現在とは記憶であり」というのは、真実を言い当てている。
私たちに見えている(観察)世界とは、これが全て「記憶」にほかならない。

記憶=持続が、世界を世界成らしめ、物質を物質成らしめているわけである。
それは、相対性理論において、世界は「光」によって見られているものである。
秒速30万kmという光速度において、眼前の物質より放たれた光が、網膜ー視神経ー脳細胞へと到達されるには、幾ばくかの時間の経過を必要とするのであるから、
観察者は絶対に物質・世界の「今」には触れられないのである。

主体(観察者)は、世界の今には絶対に触れられない。
見ている世界そのものが、意識の「記憶」なのであって、物質とは観察者の記憶による「持続」なのである。

その事実から導かれることが、時間とは、主体としての記憶である「過去」と、未だ見えてこない「記憶」である「未来」(同様に未来も主体)であり、「現在」とは、その過去と未来の二つの記憶領域の「接点」をさしているのであって、独立した時間としての現在はなく、有るのは持続としての「三次元から跳躍した観察位置としての主体」であろう。

>現代の物理学も、アウグスティヌスと同じように、ビッグバン以前の宇宙について、時間や空間を問題にするのはナンセンスだといっている。

言葉としては、そうであろう。しかし、時空を延長として思考することがナンセンスなのであって、ビックバン以前を探求することがナンセンスなのではない。

>時間や空間は宇宙というものの外側にあるものではなく、宇宙そのものが自らの中から分泌するものだというのである。

まさにこの思考性こそが、現地球人類が幽閉されている物質空間という「牢獄」である。人類は物質の中にしか生きていない、物質の中の囚人状態にある。
観察の事実を振り返れば判明することであるが、現在の人類に、ビックバンはどのように観察されうるのか?ということを考えてみる。(★:「うるのか」とは、事象の地平は観察が困難であると考えられているため)

現在の時空という宇宙空間において、観察者から遡る140億年(前後)前の世界とは、140億光年先の世界とイコールである。
すると、地球のどの方向を向いても、140億光年先には、宇宙開闢のその瞬間が観察されるということになる。

とすれば、プランクスケール的極微の宇宙卵である特異点としてのビックバーンのその瞬間は、我々の世界を巨大な天球面として、140億光年の世界全てを閉じ込めていることが解るのである。

ここに至り、極大と極小の反転が我々のには起きていることがわかる。
物理学的に最も極微と考えられてるビックバーンのその瞬間が、我々の観察の事実には、最も極大の天球面として現出されているのである。

世界は光によってその姿が運ばれているとするならば、以上のような帰結を得るのである以上、我々の時空というものが、極微世界の内部空間であることに気がつかなければならない。

真の外宇宙は、我々意識体の観察の位置をさらに超えた場所性であるということが分かり、同時にそれは、虚時間宇宙と呼ばれる場所性でもあり、また持続の母体でもある。事実、心の世界には、時間が意味を成さないのことを、我々は体験として知っている(過去の想起は時系列では起きず、同時的に起きている)。

時空の牢獄、それが唯物世界観の実態であり、そこには、永遠としての主体は不在である。三次元中に主体を置いて世界を考える(主体の肉体化、物質への同一化)ことを疑わぬ私たちには、真の観察主体は未だ全く見えていないのであろう。


78. ろうし力学 2013年2月03日 21:33:15 : riuSNxeQ9qjU6 : FVfQJ8R1lU
補足です。

「同一化」は普遍を意味しておりません。

同一化を生み出すのは、観察の誤認です。

主体の観察の位置が、三次元に無いことを見出すのは知性です。

霊的世界は、空間の幾何学構造の知的理解をもって、知覚化、視覚化へと普遍化することができるものと考えます。虚数解iの世界。

コトバと物質は表裏一体です。裏と表です。
物質が光によって情報が運ばれると考えるのであるから、コトバの本性は光、否、光の本性がコトバです。(旧約聖書、天地創造)


79. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 22:00:02 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
このスレッドを読んでいただいた方へ

主に4〜5名のメンバーで議論を展開しておりますが、「わけがわからない」と思われる方もいらっしゃるかと思います。

しかし、コメント欄をよく読んでいただければ明らかですが、方向性としては、福島などで、積極的にこどもたちを被曝させつつある人物らの、思想的素性を調べているというのが本旨です。 >>33参照

最終的には、

「福島での残虐実験 山下俊一らの正体!!」
というような記事を作るための準備だと思っていただいて結構です。そして、その投稿に、力を与えるために、「急がば回れ」の調子で、回りくどいことを調べているのです。できるだけ逃げ場のないようにするためです。決して議論そのものを楽しんでいるのではありません。


80. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 22:25:53 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

スコラ的な文章(魂の実体的形相は・・・という調子です)に酔って本日は大変疲れてしまい、あまり進展も見られず残念でした。

しかし、

>普遍つまり一般化を理解するのは知性。
個別性を理解するのは感覚。

>証明はことば。
自然科学は数学や顕微鏡で証明。

概念実在。つまり、コトバで対象を言い当てることができる。そして、コトバの連なり(論理など)によって、対象(自然など)を寸分の違いもなく、表現することができる、というのが、スコラ学=形而上学なのだという感触を持っています。

そのコトバが、数式になったものがデカルト以降の自然科学の流れと見てよいのでしょう。一見すると対立するように見えて、いびられた嫁が意地悪な姑になるように、「構造」が遺伝しているということだと思います。

この構造のフォルム(定式)をある程度明示できれば、この作業は終了すると考えています。

また、本日もありがとうございました。
cinniの資料は必ず拝見します。「行学一如の歴史的背景」は一読いたしました。
「やはりな・・・。」というのが正直な感想です。


81. 宮島鹿おやじ 2013年2月03日 22:35:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

アウグスティヌスについての論考、すばらしいです。
私にはまだ参考文献であり、「へぇー、そうなんだ」くらいの読み方しかできませんが、そのような批判的な読み方ができるということは、やはり、問題意識のあり方が断然深いといわざるを得ません。
まだ、表面的にしか理解できていませんが、今日は、アウグスティヌスやトマス・アクィナス、オッカムといった人々と一緒にいましたが、神による恩寵を説くアウグスティヌスがなんとなく「あんた、いい人じゃなあ」という感じがしてなりません。
いまのところ、トマス・アクィナスさんは、あくぃまへんな。なんか、無理やりな感じがします。そんなこというとバチあたりますかね。オッカムさんはかっこいいですね。


82. 2013年2月03日 23:05:06 : zf5huVlMMw
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

プラトンは、人が感覚にはだまされやすい、と思ったのでしょう。
だから言葉が捉える普遍を実在にしたのでしょう。

で、山下は、言葉の代わりに数値ですか。

ではまた。


83. ろうし力学 2013年2月04日 01:06:05 : riuSNxeQ9qjU6 : sEyhu56Q56
宮島鹿おやじ様

>概念実在。つまり、コトバで対象を言い当てることができる。そして、コトバの連なり(論理など)によって、対象(自然など)を寸分の違いもなく、表現することができる、というのが、スコラ学=形而上学なのだという感触を持っています。

全くそのとおりだと思います。
が、しかし。以上をもって、「言葉によって寸分の違いもなく、表現することが」「出来ない」、のではないと思います。
問題は、観測者、つまり主体の不在にあると思います。
主体が不在の宇宙空間は、不毛な大地です。そこには生命の息吹が存在しません。

見ている私と、見られている世界を分断した近代理性であるところの科学・哲学が、科学と言う名のカルトに転落し、哲学と言う名の思考の迷宮に陥ったと理解しています。

生命の宿ったコトバによって、表現は可能と理解します。


>そのコトバが、数式になったものがデカルト以降の自然科学の流れと見てよいのでしょう。一見すると対立するように見えて、いびられた嫁が意地悪な姑になるように、「構造」が遺伝しているということだと思います。

全くその通りだと思います。
が、デカルト自身は、もっとも普遍的であるがために、不可視と可視世界(神の創造世界)を説明するツールとして数学を用いたという記述、とも見て取れると思います。
世界は神の創造であるが、それが個人の体験(感性)に委ねられるのではなくて、誰にでも論証可能な手法で、神の創造を解き明かそうとした、ということです。
しかし、その手法がデカルト自身もその流れから派生していった哲学の潮流も、世界を物質化、一般化(唯物還元)せしめた発信点であったこと、なったことはそのとおりでしょう。

神の創造は、キチンと数式、と言うよりも意識を形成する空間の幾何学として、掌握が可能と考えております。
以前にも書きましたが、世界は二元(陰陽)ではなく、陰陽のその又陰陽の四元が、創造以前にあり、四元が次のステージいおいて、5=1となって発展していく仕組みが内在させられていると考えられます。(一霊四魂)

数は5から始まる、一〜四は、数以前の数。

5から世界は開示され、そこから三位一体の発展が立ち上がるということになります。同様に5〜8までを9として、9が次のステージの1となり、9〜12でまた、13となり、その3っつのユニットが入れ子状に、ホログラフィックに、どの部分をとっても同じ構造性階層性を有している。その全体性が双子のツインシステムになっている。

何れにしても、そこに真の観察の主体を排除していては、世界がなぜ世界として存在しうるのか、をコトバ、数式で説明しても袋小路に陥ってしまいます。

世界そのものは、生命なのですから、物質化した言葉、霊を見失った数は、宇宙を説明できない宿命にある、と言うことが言えると思います。

世界から生命=霊を削除した世界観、それが唯物還元主義となり、それが近代の理性と祭り上げられて、今のような狂った(自滅へとひた走る)、山師蛇…ヤマシタをはじめとする、「生きた屍の群れ」を現出させてきた原理と理解しております。

そのように人間をモノ化せしめ、人間を家畜として飼育してきた超越的な存在を、古から人々は「魔」と呼んできたのだと思います。
それを私は「から」と呼び、からは、殻、空であり、虚無の別称です。


84. あやみ 2013年2月04日 06:41:28 : oZZpvrAh64sJM : R1J4D8doog
もうだいぶまえに「National Geographic Channel」のたぐいの映像を見ると、なんとも厭ぁな気分に襲われることに気づいていました。氷河期再来や地球温暖化で人類を「おどす」態度が気に入らなかったのですが、その根にあるものがどういうものかは、ろうし力学さまのコメントがきれいに説明してくださいました。   

>現地球人類が幽閉されている物質空間という「牢獄」である。人類は物質の中にしか生きていない、物質の中の囚人状態にある。

CGなどによって視覚化された空間=牢獄に招き入れられているのです。番組制作者が設計した空間、もちろんそれはスコラ哲学の価値観・法則が支配するそこに繋がれ吸収されてしまう。彼らの設計意図ははっきりしています。「自称知性的な人びと」に支持されたこの番組を通して唯物主義近代をより「完成」に近づけるためでしょう。
この番組はニュートンが神に深く帰依していたことや預言者アーダムの実像追求など、「近代」の欠落を補填することに余念がありません。

安芸ガラスさまの

>デカルトに関して枠組みを変えますと、デカルトこそが「スコラ哲学」を完成させたのだ…

い関しても同意いたします。「スコラ哲学の批判者」という肩書きで紹介されるデカルトですが、ここでもスコラ哲学の及ばない範囲を補填する形で完成させています。

幕末のころ、一番疲弊していたのは下級武士です。役目に就けなければ現金収入がなく扶持米という現物支給のみ、来年の扶持米までも借金の抵当に入れるような始末です。長男ならまだしも次男以下は元服してしまえば扶養家族外です。武士の体面が邪魔をしてそろばんを弾くことができなかった彼らは困窮し、世と己が身を呪ったことでしょう。武士の世が崩れてゆくことに興奮を覚えたのは実は彼らではないでしょうか。

明治の近代化を鼓舞したのは「は福澤諭吉と「明六社」です。

「明六雑誌」は「National Geographic Channel」の明治版です。



85. 2013年2月04日 10:28:31 : IH82IjDo4I
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>問題は、観測者、つまり主体の不在にあると思います。
主体が不在の宇宙空間は、不毛な大地です。そこには生命の息吹が存在しません。

同意します。
アクセスは人間の自然からだと思います。


あやみ さん

>幕末のころ、一番疲弊していたのは下級武士です。役目に就けなければ現金収入がなく扶持米という現物支給のみ、来年の扶持米までも借金の抵当に入れるような始末です。

2人扶持で24万円でしょうか。
英国のマンチェスターの労働者は年間120万円です。

>明治の近代化を鼓舞したのは「は福澤諭吉と「明六社」です。
「明六雑誌」は「National Geographic Channel」の明治版です。

同意します。

幕末の政治構造は、公家衆と武士が分化をしました。
公家衆は中華的日本を維持しようとしました。
発言できない国持ち武士は天皇を使って発言力を確保しようとしました。
公儀が天皇と徳川の2に分かれ、徳川は開港派と中華日本派とに分かれました。
外国と交渉をしている現場は、一橋の開港派、南紀は中華日本派です。

福沢は交渉の現場にいました。

いずれにしても我々新平民は、条約の締結、その運用に係わっておりません。
これが問題なのです。



86. 2013年2月04日 13:50:28 : LSTKoUrrVs
宮島鹿おやじ様 益々面倒な話の展開ですねーわしが思うに山下その他の人々に
思想的背景何て ありゃせんがね 要するにわし等が排除しようと分析して具体
策を模索した 野心(所有欲 名誉欲 権力欲 性暴力 支配欲)っー物を達成する
為に動いているだけさ 此れは今世界中の人類の99%の人々の目標なのさ 山下
と食品偽装で全国民に被曝汚染物を食わしている人々と罪の重さに違いは無いと
思って居るけど?瓦礫処理にしても産廃業者や政治家 その他の取り巻き達も総て
同罪でわが身大事で長い物に巻かれている殆どの国民も同罪でしょ?思想何ては
元々大した物では有りませんねー野心の充足が人の幸せを保証する様な価値観の
蔓延こそが非難されるべきですが 現在はこぞって人類の粗総てが信奉している
訳ですねーこの価値観の発信元こそが諸悪の根源なのですがこの先は未だ書く事は
わしビビッて書けません 悪しからず わし自身は何とかこの価値観からの離脱を
技術的に果たしたと思ってますから この世の事は関係ないと書きました
この事を達成する為にはプラクリティの更に奥の原質迄追求する必要が有りました
が何とか成功したと自負していますって何のこっちゃ?

87. 宮島鹿おやじ 2013年2月04日 20:13:56 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
チュー事さん

コメントありがとうございます。
相変わらず、ファンキーな感じでたまらないのですが、チュー事さんのおっしゃる価値観からの離脱が、ある意味で、このスレッドの最大テーマと言えると思います。
また、↑のほうで述べましたが、私は私の関心で、スコラ・デカルト・近代科学・朱子学・橋田邦彦というテーマに食いついていくつもりですが、このスレッドは必ずしもそれに拘泥されないで、思いつくことをなんでもコメントしていただければありがたいです。

>プラクリティの更に奥の原質迄追求する必要が有りました
が何とか成功したと自負しています

それは、凄いことのように思います。もしかすると、「悟り」に近い状態ではないのでしょうか。私は以前、「宇宙一いい加減な博士」というお方のスレッドで、お話を伺い、時には見当はずれな質問などをしていましたが、そういうお話は大変興味深いです。実は私も、ささやかながら瞑想の真似事のようなことをしているのです。全く何の効果もありませんが。それでも続けてはいるのです。「私は誰か・・・。」と心で唱える瞑想です。


88. 宮島鹿おやじ 2013年2月04日 21:00:21 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

さきほど、帰宅途中、ようやく「明晰判明」という言葉が「身に馴染み」ました。
デカルトの立場に立てば、コギトという、この明晰判明から始めたい、そして、数学によって明晰にしたいという思いは理解できるように思います。

以下に、デカルト以前の思索の一例を挙げます。

ニコル・オレームによる地球自転への反駁
「しかし天界が動き、地球が動くのではないといずれの人も主張するし、私自身もそのように信じる。なぜならば、神は地球を堅く建て、それは動かされることはないであろう。」

「神による創造」という絶対命題(前提)から演繹される論理形式という意味では、決して不当ではありません。そして、この前提(神による創造・絶対なる神)を疑うこと自体が、異端宣告、最悪の場合は火焙りという結果に至るわけです。

そして、皆さんもお気づきのように、そして私もかつて主張したように、主流派の放射線影響の学問がちょうどこのような形式を踏んでいることは興味深いことです。

アメリカは絶対正義である。アメリカを戦犯にしてはならない。

よって原爆投下は戦争犯罪たる無差別攻撃ではない。

よって、原爆による、残留放射線(内部被曝)の影響はない。

よって、原発が爆発しても、外部被曝の影響だけを考慮すればよい
あるいは、内部被曝による格段の健康障害というメカニズムは存在しない。

よって、福島のこどもたちは避難する必要は無い。

・・・
もう、分かりきった事ですが、どちらも権力側にあるという点で共通します。

なお、現在、バートランド・ラッセルの「西洋哲学史T」を読んでいます。ソクラテスの弁明という部分を読みましたが、「思索の人」が、平板な思考しか持たぬ俗人たちに殺されていく様が描かれています。

また、スパルタという国では、支配者層(戦士層)は、被支配層農奴である「ヘロット」を殺害する自由があったそうです。日本にも「無礼討ち」という制度がありましたね。


89. 宮島鹿おやじ 2013年2月04日 21:23:02 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

>数は5から始まる、一〜四は、数以前の数。・・・

のお話ですが、これは、どういったところから得られる知識なのでしょうか。なんとなく、私は、金剛界曼荼羅の構図をイメージしました。

入れ子状態でどこまでも続くイメージ・・・。何か具体的なイメージを示す画像とかはありませんでしょうか。 


90. 宮島鹿おやじ 2013年2月04日 21:49:53 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

「武士」については、ずいぶんといろいろな論考がなされたように思います。
武士、武術、武道、・・・、これらのものには、何か、人を惹きつけると同時に畏怖させる、最善のものと最悪のものを同時に含む、いわば、アンビバレンツ(両義性)な印象があります。

そして、西洋の騎士にも同様の評価が行いうると思います。

騎士道の理想として以下の徳目が謳われました。
何者にも屈しない力と勇気、正義、謙譲、忠誠、礼節、弱者への保護、教会への献身

しかし、現実の利害得失の政治状況の中にあっては、騎士は容易に、野心(所有欲 名誉欲 権力欲 性暴力 支配欲)にまみれ、最悪の圧制者になっていったのだと思います。もし、上記のような徳目を有する騎士が実在したとするならば、明らかに、不当に弾圧され、歴史から消え去った人々の中にいたのだろうと推察します。



91. 2013年2月04日 23:06:56 : d1INYqu1to

僕は、当初、山下の狙いは「疫学データの収集」だろうと予想したのですが、現在はそう考えていません。福島県民健康調査に関して
 
 
疫学上の視点にたてば早期発見をせず、癌患者が発生するにまかせる方が数は正確に把握でき統計処理も正確に行えるだろう。しかし、一方では核種、被ばく線量、食道を介しての内部被ばくの把握不備があり、現状のままではとてもではないが後世の評価に耐えられない。
 
 
と述べている医師がいたからです。

役に立ちそうもないデータを収集する理由は何か?

それは、国の至上目標が「支配秩序を保つ(暴動のような治安上の危機が発生するのを防ぐ)」事であり、その為には「住民の犠牲もやむを得ない」と判断しているからでしょう。このように考えれば、現在の状況の多くに説明が付くと思います。

国が支配秩序を保つ為に用いた手段のひとつが、山下だったのです。


92. 2013年2月05日 00:13:28 : fyRwxeXo2Y
d1INYqu1to様

安芸ガラスです。

>役に立ちそうもないデータを収集する理由は何か?

答えを見つけるには難しい問いですね。


「科学」の方法そのものが、種差、個差の枝別れだから、個体差を認識することはできない。

生まれた個体が3〜4代の個体の重なりであること。

放射線の晩発障害は、その個体を前提に、脈管系と消化器系が重なる現象であること。

晩発性障害は広島・長崎では7つの特定症状として認定されているが、生きている個体のクセを捉えることが医学ではできないのが現状であること。

しかし、住民も医学にかんしての信仰があること。

難しい。



93. ろうし力学 2013年2月05日 01:43:46 : riuSNxeQ9qjU6 : VpPI9nDuEY
宮島鹿おやじ様

>なんとなく、私は、金剛界曼荼羅の構図をイメージしました。

おお!そうです、金剛界曼荼羅は、それを表現していますね。

イメージですか…五芒星、黄金分割、フィボナッチ数列、黄金螺旋…
はそのイメージの一つではないでしょうか。

参考URL→ http://phantomofthegoth.web.fc2.com/ahht/pg222.html

      http://sci-tech.ksc.kwansei.ac.jp/~shimeno/math/golden/goldensection.html

古代の英智、グノーシス、またカバラでしょうか。


おやじ様は「コンタクト」と言う映画(ジョディー・フォスター主演)をご存知でしょうか。
この中で、ベガから送られてきた設計図が、最初図面をどうしてもつなぎ合わせられなくて苦労するのですが、それは平面でしか思考しないから解らないのだ、というくだりが出てきます。

平面と三次元を行ったり来たりする思考。ここにヒントがあるように思えます。

そのエピソードとは逆に、立体を我々が見ると、そこには平面しか見えてきません。
と言うか、眼前の世界が平面にしか見えてないんですけどね!
視覚的事実として、世界は平面です。

ところがそれらが立体であることを知っている我々は、世界を「どこから」見ているのでしょうか。
立体を観察するには、同時的に三軸から観察が必要になってきます。(左右上下前後)
それをしているのは、「意識」ではありませんか。
意識が、位置を持たずに同時に物体をあらゆる位相から観察するから、立体とだと知り得ているのではないでしょうか。

視覚は平面しか見えていないのです。物体を見ているのは意識です。
意識は物体をグルリと取り囲んでいるということになります。そして意識とは「自己」ですから、自己とは肉体の眼球であるはずがありません。

時空の内部にいては、観察ができるわけがない、ということです。
時空の外部に自分はいる、と言うことを、私たちは気が付いていないということです。

肉体を自己と同一化して思考する、あたかも客観的視座から自己(肉体)を見て、その肉体の眼球が、物体を観察する構図を常にイメージしていませんか。
それって、自己(肉体)を「見つめている」自分は一体どこに居るということなのでしょうか。

物質世界の外部は、虚数iの世界だと論じましたが、虚的世界には、数直線的時間概念は当然ながら存在していません。

何時でも今、どこでもココ。

虚的世界からの視座において、初めて物体は立体であることを知りえるってことになります。同時にあらゆる位相から、観察している。
そうした観察から浮かび上がっている物体は、物体と言うよりも、「記憶」と言った方がいいのだと思います。

物体がそこに持続している、という認識は、記憶そのものです。

光によって世界が情報として知覚されているとする時空を規定とした認識論では、一秒前の眼前の物体は、30万キロ彼方へと遠ざかっていると考えなくてはなりません。それが時空という認識からの要請です。

しかし、体験的事実として、物体はそこにあるわけですから、そこにあるということは持続している、「距離は存在していない」。
これってどこかで聞いたことがありませんか。

相対論では、光速度に近づけば、大きさは限りなく0に近づくのでしたよね。
反対に言えば、光速度には距離は存在していない、同時に時間は光速度になると進まないと相対論で言っていますよね。

光速度は、距離が無い、時間が進まない。このことを虚数の世界への侵入と考えてみるのですね。

光は、距離を持たず、時系列的時間を持たない。
三次元の観察は、あらゆる位相から、同時的に物体を観察しなくては、三次元立体を認識できない。

観察は、光によってなされる、その時の光=観察とは、なんでしょうか。

それが、「自己そのもの」ではないでしょうか。

観察すること自体が、光であり光=自己であるとするならば、時間を持たない、距離を持たないということがココで一致するわけです。

量子の観察によって、確率の波であった電子の位置が決まる、観察以前には、確率の中で漂っている物質世界。
見ることが、世界を世界足らしめている。
見ることそのものが光であり、光とは時間を持たず距離を持たないものですから、それは世界を見つめてる「わたし」であり、世界は持続=記憶だと言えのではないでしょうか。


94. 2013年2月05日 08:29:56 : kHhVXwCheD
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>ところがそれらが立体であることを知っている我々は、世界を「どこから」見ているのでしょうか。
立体を観察するには、同時的に三軸から観察が必要になってきます。(左右上下前後)
それをしているのは、「意識」ではありませんか。

同意します。
これが、大脳の使い方ですね。


宮島鹿おやじ様

>そして、皆さんもお気づきのように、そして私もかつて主張したように、主流派の放射線影響の学問がちょうどこのような形式を踏んでいることは興味深いことです。

同意します。
大脳を種差、個差に使うのは、生まれつきのクセなのでしょう。
そのクセを支配者は、我々新平民に強要しているのですね。


LSTKoUrrVs様

>その他の取り巻き達も総て
同罪でわが身大事で長い物に巻かれている殆どの国民も同罪でしょ?

同意します。
現実は、種差、個差のように枝別れしていません。
各種の要素が絡み合っているのですね。


95. あやみ 2013年2月05日 14:00:13 : oZZpvrAh64sJM : 4mRsIHSkjw
ろうし力学さま

ピタゴラス学派(教団)というのがありましたね。9.11などで数の神秘性を悪用する人たちについて読んでいたものに出てきたのを思い出しました。

>立体を観察するには、同時的に三軸から観察が必要になってきます。(左右上下前後)
それをしているのは、「意識」ではありませんか。

西洋美術のデッサン法です。この「意識」を「知識」に翻訳した描写の仕方を美術大学では教えています。このアカデミズムに染まった美大生たちは被写体を見ないでもデッサンを完成できます。


96. 2013年2月05日 14:24:18 : LSTKoUrrVs
金剛界曼荼羅が出てきたので書くと仏教的にはわし等の居る物質界は所謂欲界と
言う事に成る訳だ カルマ的に考えれば欲界に存在する事自体が人生の目的が野心
でOKっー訳だ 唯内在する内なる意識(無意識 潜在意識)が顕在意識と近い場合は
良い内在意識で有れば宇宙の根本原理の 愛(五の相がある)に至る道を探す 逆だ
と野心の一番強い意識の 支配欲 の虜になっちまう 現在の社会のあらゆる階層
のトップっーか指導者が皆そうなってる 特に酷いのが宗教家ですねー何の役にも
立たず野心の塊に成っている まぁ元々欲界の支配神が穢れた狐 地球が穢れた
狐の臍の緒の星(ドゴン族の伝承)つーんだからグノーシスもクソも無いわなーと
簡単に言えばこの人間社会の長ーーい混乱の原因は欲界の支配神のマッチポンプ
っー救いようの無い話ですねーまぁ神智学の宣伝部長のマイトレーャの使命に因れば 社会が混乱を極めハルマゲドンの後 マイトレーャが世界救世主として顕われ
る っー予定調和が支配の完成っー話さ マイトレーヤ(日本語訳 弥勒菩薩)皆の
好きな数字変換すると 666っー訳さ 平和で愛に溢れた世界に救世主は不要
っーのが味噌か?序に書けば 仏教的世界観では欲界 色界 無色界 としていますが 魚介類に言わせれば陸上は灼熱のとても生命が有るとは思えない世界になる
つー事で自己の存在世界の外はあらゆる意味で理解不能となります 唯し転んでも
唯で起きない人間はヨーガの行法や瞑想でエーテル身体の知覚を顕在意識に反映させて光速度に規制されない広がりの世界や位相の違う世界を知っていますねー
わしは技術屋(東洋医学系の気のエネルギー操作の)なので記憶もエネルギーとして
捕らえますっー事は心的外傷っーのもエネルギー操作で解消出来るのですよとか
その他色々有るけど この辺から仙人とか基地外って始まるから 嫌だなー
あぁ 諸悪の根源は マイトレーヤで無くて その親分ですからね プレローマ
にも出て来るけどさ

97. 宮島鹿おやじ 2013年2月05日 18:33:11 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
d1INYqu1to 様

統計学先生には、一方ならぬお世話を頂きまして誠に感謝しております。
さて、福島における山下氏らの行動ですが、私といたしましては、疫学データの採集であろうと、なんらかの既存秩序の崩壊阻止であろうと、現に危険であろう場所に、住民を縛り付けたという観点では全く同じです。

また、山下氏の二本松における講演を以下のとおり投稿しておりますが、その中で、山下氏は、「福島の崩壊を防ぐことに最も腐心した」とはっきり述べています。そういう意味では、先生のおっしゃるとおり、最終目的は福島という一つの共同体の崩壊を防ぐことが目的であったと言えるかもしれません。
http://www.asyura2.com/11/genpatu11/msg/232.html

そこで、私が思うことは、彼ら(佐藤県知事、それに協力した山下氏ら)にとっては、まず、県というものがあり、それを支えるために住民がいるという意識があるのだと思えます。しかし、私たち住民からすれば、まず、私たち住民がいて、その共同生活のために、公共事務所=県庁があると考えます。本当の実情はそうではなくても、私たちにってはそうあるべきと考えます。そうでないなら変更すべきです。安芸ガラス様とのお話の中で、私たちと国家との間の契約は、「ふごう契約」=身分契約 であり、実は私たちは国家の奴隷であるというお話がありました。事実、ことの成り行きを観察するに、私たちは半奴隷状態だと思います。しかし、少なくとも、事実を把握し、将来を意思決定する自由、そして共同体を選択する自由は今の時点ではかろうじてあるようですので、まずは、事実関係の共有こそ肝要かと存じます。どうぞ、これからもご指導ください。よろしくお願いします。


98. ろうし力学 2013年2月05日 18:51:42 : riuSNxeQ9qjU6 : d2bKVaYgD6
宮島鹿おやじ様

>どういったところから得られる知識

存在を考察するときに大事なことは、如何なる「論」にも耽溺しないこと、同時にあらゆる「論」を解明のツールとして活用することでしょうね。

中心は、己の生きている、ということ自体にあるわけですから。

アップル、と聞いて、ある人は林檎を思い浮かべ、またある人はパソコンを思い浮かべたとする。言葉に、共通認識を持たせるのは大変なことです。

同じモノゴトを見ていても、それをどう名付けるかは、意識によって様々な展開を見せますから、実は同じことについて論議してしまっていたりするのが、我々ですよね。

逆には、同じ言葉を使っているから安心して会話していたが、実は捉えている概念が正反対ってこともあるわけです。

そのことから、私は人生に対峙して「信じず疑わず」という立場を意識してとっています。

金剛界曼荼羅に落とし込んだ存在の構造は、曼荼羅以前に、あるもの、なのですから、それを曼荼羅と呼んでもいいが、当然違った呼び方、違った説明が出てきても、元は、あるもの、なのですから。

ですから、「どういったところから得られる」というのは、あまり問題ではないのではないでしょうか。

私が存在しているというのは、万人に共通しているのが、「世界を見ている」ということに(盲目でも世界を観察=イメージしている、ことを含む)収斂していると、そこは前提としてあるのです。
そこに立って、観察という事実を軸に、見ること見られることに潜む(今は潜んでしまっている)空間の幾何学を、虚飾を排して、見たまま理解することにあると思っています。

直達正観、と言うわけです(私は仏教徒ではありません)。

「論じる」ことの到達点は、複雑へ向かうのではなく、虚飾を排することにあり、論じることによって、到達するシンプルさ、「論」の役割は、最終的にその「論」自体をも解体する「論」であること、私はそう思っています。


99. 宮島鹿おやじ 2013年2月05日 19:31:47 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

物事に対する理解については、その物事に対する習熟度によって明らかな態度の表れの違いとして表現されるように思います。ろうし様もご存知のとおり、何かに習熟すると逆に「囚われなくなる」という現象が起こります。

私と安芸ガラス様の会話は、まさにそのとおりです。
私が「稽古をつけてもらっている」という表現がまさにふさわしいように思います。

そして、ろうし様とのやりとりも同様でしょう。なんたる加速度。私とは深さが違う。

しかし、私は、焦るということがありません。
それは、人生の課題は、究極的には、個人個人の内面の問題であり、決して、誰も私の課題を引き受けてはくれないということは理解しているからです。

かつて学んだ教室での、最大の教訓が「自燈明」です。

私は私の葛藤を引き受けることに躊躇しません。しばらくはもがいております。
仕方が無いなと思いつつも、お見守りください。よろしくお願いいたします。


100. 宮島鹿おやじ 2013年2月05日 21:47:47 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

今日は、職と食のために一日働き、そして、先ほど「年寄りの冷や水」のような習い事から帰ってまいりました。疲れのあまり、左目のまぶたが痙攣して開かなくなりました。しかし、不思議なものでこのような圧縮したような日々は事故前には想像もできず、幸福とはいえませんが、密度は明らかに高まっています。

>プラトンは、人が感覚にはだまされやすい、と思ったのでしょう。
>だから言葉が捉える普遍を実在にしたのでしょう。

私は、この掲示板で何度か、深い学識を持つが平気で嘘をつく人々と話をしたことがあります。まさに、ここにいる皆さんとは対照的な人々です。そういう人たちにあっては、論争の目的は、形式上の勝利であり、いわば雄弁術のようなイメージがあります。

かつてソフィストという人たちがいたということですが、プラトンやアリストテレスらの概念定義には、そういった詭弁の徒との論争を想定したということもあったのではないかという気がします。


101. 宮島鹿おやじ 2013年2月05日 22:03:25 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
チュー事さん

>カルマ的に考えれば欲界に存在する事自体が人生の目的が野心でOKっー訳だ

そうなんですよね。「博士の講堂」でも同様でしたが、確かに、人間として生まれたということは、そういうことだと聞きました。つまり、全ての人が、少なくとも何らかの課題を抱えているということでしょうか。

>特に酷いのが宗教家ですねー何の役にも立たず野心の塊に成っている

スピリチュアルなもの=「宗教に入る」という図式が世間にのさばっているように思えますが、スピリチュアルでいたければ宗教に入るなと言いたいですね。


102. 宮島鹿おやじ 2013年2月05日 22:39:49 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし様

参考URLありがとうございました。
黄金比。大変興味深いです。そういった日常や自然の中にある、不思議な数の現れは、いったいどのように考えればいいのでしょうか。そういった思いを馳せたのがピタゴラスだったのだと思います。

また、偶然ではありますが、つい最近、黄金らせんの描く貝殻とよく似たグラフの作成を学びました。

http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/12550.jpg

使用されている式の間の関係は全くわかりませんが、よく似ています。


103. 2013年2月06日 00:04:53 : SGxdjPXJDs
宮島鹿おやじ様
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>B実体へのこだわり−新しい差異
・スコラ哲学の伝統的実体概念
実体を、「種差」と「個差」という2つの差異で考えてきた。とにかく同一的に存在するものはなんでも「実体」と命名し、ここに種差を順次加えていくと、枝分かれしながら実体を区別する樹状の差異体系が得られる。種差はだんだんと増殖し、実体には種差の数だけ多くの種類がある事になる。逆にいえば最後まで残り続けるこの石、あの人間といった個体の間の差異はもはや概念で示すことができない数的な差異「個差」でしかないということでもある。


>5から世界は開示され、そこから三位一体の発展が立ち上がるということになります。

ルルスの系統樹を想い出しました。
やはりプラトンが起源です。

http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/PhylogenyMandala.html


104. ろうし力学 2013年2月06日 00:54:40 : riuSNxeQ9qjU6 : zyvhXD3cIs
宮島鹿おやじ様

>スピリチュアルなもの=「宗教に入る」という図式が世間にのさばっているように思えますが、スピリチュアルでいたければ宗教に入るなと言いたいですね。

さすが鋭いですね。宗教が不可視世界を殺しています。
私は、宗教嫌いの神様好きな人間です。宗教はもう終わらないといけないと思っています。
それには、人類が不可視世界への進入を果たさなければならないとも思っています。

前述のように、眼前の世界とは、自己の記憶であるということ、ですからヒトにとって目の前の世界は霊的なのです。物質=霊です。
記憶とは、ワタシそのもののことですから、眼前の世界にこそ、自分と言うアイデンティティーが息づいているということになります。

自分の位置する場所性は、肉体ではない(肉体であったら観察が起きようがない)、見ることそのもの、見られている世界が自分そのものと言うことです。

宗教は、科学と裏で結託し、人間の位置を肉体に閉じ込めてしまったわけです。

現代地球人は、その存在の空虚さをますます加速させつつあります。
その根本的要因は、肉体を自己と同一させてみることから来ます。
肉体をいくら見ても、そこに心=真の自己は不在なのですから。

空っぽの中をいくら見ても、空っぽなのです。そして、それを見つめているものこそが自分なのであって、それはまるで、メガネを頭の上に載せてメガネをうろうろ探している姿に重なります。
心がどこにも見つからない…のは当然であって、探している当人が心そのものなのですから、幾ら外へ探しても外側を見つめても、探している自分自体なのですから。

>そういった日常や自然の中にある、不思議な数の現れは、いったいどのように考えればいいのでしょうか。

反転して考えること。パラダイムシフトです。
自然の中に、不思議な数の現れがある、というのを反転して見つめれば、数の現れが自然となって現れている。ですから、その自然に数が不思議に浮かび上がるのは当然となる道理です。

>よく似たグラフの作成を学び

全く同一の、宇宙を律動させている数と形が、現象の背後に息づいているからでしょう。同じものです。

ひふみよいむなやここのたりももちよろず
一二三四五六七八九  十 百  万   で世界はできている。

数は言葉であり、世界は言葉(光透波)=光でできている。
世界は、数の幾何構造体なので、自然の中に不思議な数の現出がある。

宇宙を律動させている。

宇宙の律動は、「未完成という完全性」で出来ているのが、黄金分割、黄金螺旋に現れているのではないでしょうか。
決して割り切れない、と言うことがすなわち連続的構造性を宇宙は持っている、ゆえにその本質は、無限弥栄なのではないでしょうか。

完成しないことが、世界の完全性なのだと理解します。

その逆に、不連続な原理で動くのが、デジタル空間であり、互いに何の連結も持たず、断絶した原理で動いているのが、ここでの論旨につながっているところのもの(人間の強欲。我さえよくば、今さえよくば)。

数学的に言えば、永遠性を持っているのが7の入れ子構造である777で、不連続なのが666です。個々で完結してしまうと、関係性が成り立たずに断絶します。ですから、悪魔の数字は666だと言ったのでしょう。世界を継続させないので。

この辺りは、数学に明るくないので、こんな程度でしか言えませんが、得意な方であれば、数字の7の特異性をご存じなのではないでしょうか。

理解が浅くて申し訳ありません。


105. 2013年2月06日 01:48:59 : E4bT3Bpr2w

>しかし、私たち住民からすれば、まず、私たち住民がいて、その共同生活のために、公共事務所=県庁があると考えます。本当の実情はそうではなくても、私たちにってはそうあるべきと考えます。そうでないなら変更すべきです。

その通りなのですが、一方でマスコミ等によってリスクを軽視するように仕向けられている事も問題で、これは非常に危険な事だと思います。

昔、ハンググライダーをやっていたのですが、死亡事故を起こした人のほとんどは、リスクの過小評価が原因で、ケヤレスミスはごく僅かでした。

ハンググライダーの死亡事故というのは、かなり悲惨なものです。

知り合いが2名亡くなりましたが、1名は運用限界を超えた飛行の結果、機体を損傷して墜落死、もう1名は強風であらぬ方向へ流された結果、猫の額ほどの土地で着陸を強行、石垣に激突し脳漿が飛び散って即死。

1名は「機体強度を過信」し、もう1名は「気象条件を読み誤った」のです。この2名は、リスクを過小評価した結果、残念ながら亡くなってしまいました。

放射能の場合、これほど劇的な結果にはならないでしょう。しかし、命にかかわる問題では、リスクの過小評価は禁物で、過大評価ぐらいがちょうど良いのです。


106. あやみ 2013年2月06日 08:09:58 : oZZpvrAh64sJM : 4mRsIHSkjw
こんばんは

「景気回復のために原発の再稼動を」といいますが、景気と原発はムカンケイであることは明白であり、原子力産業の権威回復のために再稼動することはもう知れています。汚染に関しては、

福島周辺の放射能汚染を認めると

首都圏の汚染も認めないわけにはいかなくなり

そうなると首都圏の地価が下がり

税収が減る

あるいは政財界の大物の個人資産が減る

一大事

なんとしても阻止

首都圏の汚染などありえない

よって、福島の汚染もありえない


名誉でも権威でも、国の景気の問題でもなく個人や企業の資産レベルではないでしょうか。

海外にばらまくカネがいくらでもあるのに増税を叫ぶ政府、目的は国民を不景気ムードに浸らせ、うつ状態におとしいれることなのではないかとも思えます。不満の対象を全て「不景気」に転嫁することで国民の思考が細部に及ばないように工作し管理しやすくする。「愚民化」という厭なことばで形容されることもあるようです。

「科学」の目的はほぼ遂げられたのではないでしょうか。可視世界のみに囚われて霊界を否定し、子供たちを不景気という仮想敵と戦う戦士に仕立て上げているのです。
たとえばいま、この「科学」の正体を万人の目の前につきつけることができたとすれば、世の中は変わるでしょうか。その成功の鍵はあるのでしょうか。


107. 2013年2月06日 10:03:28 : LSTKoUrrVs
あやみ様 現在科学は信仰の対象と成って居ますので 証拠を目の前に突き詰めても無駄でしようねー? それと 見る者と見られる物の関係性に付いてはインドの
哲学の サーンキャ哲学 が良く解明していると思います 人間の肉体的存在と
霊性の関係は スワミヨーゲッシュバラナンダ の 魂の科学 が大変参考になる
と思います 問題は理論哲学で無く 現実化の手法と思って居ます

108. 宮島鹿おやじ 2013年2月06日 18:50:28 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

>たとえばいま、この「科学」の正体を万人の目の前につきつけることができたとすれば、世の中は変わるでしょうか。その成功の鍵はあるのでしょうか。

ほとんど、それは望めないと思います。

私は、昨年の夏、あの首相官邸前のデモの中にいました。信じられない熱気のなか、明らかに何かが変わると思えました。しかし、結果は、今の状態です。

私は、私自身そして、ほとんど全ての人が、小さな粒子であると思っています。その小さな粒子自身の力では何も変えることは出来ないと思います。しかし、粒子は何らかの流れの中にいて、相互に影響を与え合う可能性はあると思います。

言ってしまえば、「やらないよりはやったほうがまし。」あるいは、「やらずにはおれないのでやる。」といった程度でしょうか。

私は原爆が投下された時、サイレンが鳴らなかったというお話を聞きました。
そのような世界に生きているという自覚があります。

その後、そのようにされた人たちが歩んだ道のりも少しだけは知っています。ほとんどは無理解・無関心の中に置かれていた。私もほとんど無理解・無関心であった。

しかし、それでも、「そこ」から始めるしかありません。


109. 宮島鹿おやじ 2013年2月06日 19:04:24 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
チュー事様

>問題は理論哲学で無く 現実化の手法と思って居ます

実は私も、薄々そのように感じています。つまり、理ではなく実践であると。
それでも、世の中には、いろんな痛点をもつタイプの人がいると思われますので、
そこんところはまーとりあえず、やってみます。

そして現行の作業を終了したら

サーンキャ哲学
スワミヨーゲッシュバラナンダ の 魂の科学

といった方面も拝見したいと考えています。はっきり申し上げて非常に関心があります。


110. 宮島鹿おやじ 2013年2月06日 19:34:02 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
E4bT3Bpr2w様

大変貴重なお話をありがとうございました。
実は私も、一時期ハンググライダーをやりたいとおもったことがありましたが、
お話を伺って、やはり、やらなくてよかったと思いました。

>しかし、命にかかわる問題では、リスクの過小評価は禁物で、過大評価ぐらいがちょうど良いのです。

ホッとするお言葉です。
これからもよろしくお願いいたします。


111. 宮島鹿おやじ 2013年2月06日 19:43:52 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし様

やはりお話が難しいというよりは、加速度がありすぎて、私などは、アッというまに、後方に置き去り状態ですが、まあ、何においても、いきなり高いレベルは望めませんが、それでも、ろうし様のコメントからは暖かい波動のようなものが感じられます。そういえば、雪、たいしたことなくてよかったですね。最近は、雪掻きなどをすると、足腰が痛いだけではなく、足が攣るようなことがあります。確かに最近は体も動かさず理屈ばっかり状態なので、その辺は省みる必要はあるように思えます。ろうし様は定期的に道場などに通われているのですか。

それにしても、寒い日は鍋が一番ですよねえ。


112. 宮島鹿おやじ 2013年2月06日 20:19:37 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

バートランド・ラッセルによる古代ギリシャ思想にあたっていますが、たいそう読みやすい本です。冒頭でご提示いただいた「日本の科学者101」も購読する予定です。

また、今から30年ほど前に「なんとなく」読んでいた「現代思想」本に、現状を予言するような記述(学問と権力の共犯関係云々・・・)があります。私も頭から放射能をかぶり、少しは尻に火がついたようで、何を言っているのかがよくわかるようになりました。後ほどご報告いたします。


113. 2013年2月07日 00:25:52 : A4GQ7o9O02
鹿おやじさん、
みなさんのゆったりしたやりとりを拝見、うれしい限りです。

108 
私は原爆が投下された時、サイレンが鳴らなかったというお話を聞きました。
そのような世界に生きているという自覚があります。

「ターゲット・エスカレーション」という、効果を最大限にするための軍事行動の一種らしいです。

ターゲット・エスカレーションについて:ヒロシマも同じです
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1089.htm

「9・11」〜「ドレスデン無差別爆撃」〜「マスク・オブ・サニティ」をつなぐもの
lhttp://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1053.html


114. あやみ 2013年2月07日 08:15:39 : oZZpvrAh64sJM : sPAxhnstCY
チューことさま、おやじさま、

>証拠を目の前に突き詰めても無駄でしようねー

科学の正体をあの原発事故という事実をもって目の前に突き出されても、その後の東電・政府の茶番をみせつけられても日本は変わりませんでした。おっしゃるとおりでしょう。

しかし事実(現象)を受け取る側に問題あり、という考えはかわりません。だから解決は受け取る側、つまり市民のほうにあるのでしょう。

「問題には必ず解決あり」などというと如何にも近代科学っぽい発想のようですが、これは人間の根源にかかわる重大な問題などではなくもっと浅はかな問題のように思えます。ひとつ以上の解がそのへんに転がっていると思います。

これまで脱原発を訴える多くの方の意見に触れてきました。しかしその多くは近代合理主義の見方を通しての主張から抜け出どことができていないと感じています。原子力に変わるものを見つけ、それを手段に同じ過ちを続けていくに過ぎないような予測がたってしまう。これでは本末転倒ですし、もっと危険な事態を招いても不思議ではありません。


115. 2013年2月07日 09:47:54 : 047Ddl9mgk
あやみ さん

安芸ガラスです。

>たとえばいま、この「科学」の正体を万人の目の前につきつけることができたとすれば、世の中は変わるでしょうか。その成功の鍵はあるのでしょうか。

体験的には、からだの自然に気がつくように誘導することでしょう。
人は、自分のからだが変化することに気がついておりません。
大多数の人は、からだの外にある環境の変化に関心があります。

生きていることは、からだと心の現象になります。
からだが心に、心がからだに影響を与えたりします。
ですから、両方からの働きかけがあります。

「科学」に対する信仰は、すでに心の中に「科学」に対する先主的観念が形成されているからです。
このことを、ろうし力学様は『主体としての記憶である「過去」と』と云われておろます。

その記憶と観念とが結婚をしているのです。
この場合は、心からからだに対する働きかけとなります。

観念を取り出し、新しい観念を入れることです。
取り出すとは、分析し、言葉にすることです。
そうすれば、観念は消えます。
もしくは、観念の方向を変えることです。


もうひとつは、からだから心への働きかけです。
宮島鹿おやじ様が『私は、昨年の夏、あの首相官邸前のデモの中にいました。信じられない熱気のなか、明らかに何かが変わると思えました。しかし、結果は、今の状態です。』と云われております。

これは刺戟と関心の問題なのです。
あまり刺戟が強いと、関心はそれるのです。
関心を維持するには、度をこさないことです。

この誘導は、息を継ぐことを体得することです。

若いころ、東京都内で労働組合運動に参加しておりました。
組合員に立場を置き、非組合員と組合員と労働組合、つまり個人と集団の関係を勉強させて頂きました。

この体験が人生で役にたつております。

「いま」「ここから」始めていきましょう。


116. 2013年2月07日 10:09:07 : 047Ddl9mgk
あやみ さま

>114を拝読しました。

>原子力に変わるものを見つけ、それを手段に同じ過ちを続けていくに過ぎないような予測がたってしまう。これでは本末転倒ですし、もっと危険な事態を招いても不思議ではありません。

同意します。
エネルギー問題を、水力、天燃ガス、石炭、風力、電池、核力の原料の問題にしているからです。

エネルギー問題は原料の問題ではありません。
これは社会的代謝の問題なのです。

私は組合員当時『資本論』を読んだので、これで話します。
資本と云う社会関係の回転を速くするために、大量のエネルギーを必要とし、それで、時間を早いめるのです。

暦をカレンダーに変える、寸と尺をメートルに変える、夜に電灯を点ける、祝祭日に現金自動支払い機を稼働させるなどなどは、エネルギーを大量に使って、時間を早めることなのです。

ここが、支配者と新平民の焦点なのです。


117. 2013年2月07日 10:34:36 : 047Ddl9mgk
あやみ さん

安芸ガラスです。
「焦点」とは、支配者と新平民の関心が重なり、お互いに変化を起こすポイントのことです。

その大きな指標は、
1、私たち新平民の活動性がいちじるしくたかまること
2、支配者がこれまで通りの生活ができなくなること
3、支配者が分裂し、その隙間から新平民の不満と激昂が噴出すること
などです。

1の活動性はたかまっております。
2の「できない」がまだです。
3の分裂は鳩山さんの参加や民主党からの小沢さんの分裂がありました。

私は小沢さんを立ててました。
別の角度では、民主党の分裂に引き入れられました。

まだ大きな指標で判断できる情勢になっておりません。


118. 宮島鹿おやじ 2013年2月07日 13:05:05 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
A4GQ7o9O02 様

コメントありがとうございます。
ターゲット・エスカレーション。そういうことは、戦争ではあたりまえの論理なんですね。ということは、戦争の論理が現在目の前で展開されているともいえるのでしょうか。私たちは奴隷で捕虜で「一山いくら」なんですね。


皆様

さきほど、早引けして帰ってまいりました。体調不如意につきこれから休みます。コメントもちょっとお休みします。
なお、近所の内科医院は、平日の午前でありながら「40人待ち」の状態です。
だからなんだとは言いませんが。皆様も体調にはお気をつけください。

なお、コメントにつきましては、話の流れとは無関係でも結構ですのでお願いします。

そういえば、昨日の夢は奇妙でした。坂道を歩いていると虹が出ていることに気づくのですが、それは、ガラスに映っている美しい虹でした。では、本当に空に架かっている虹はどうかと振り返って見ると、天空に真円状で存在し、なおかつ、ゴシック体のような太い線で描かれていました。眠る直前に、プラトンのイデア論を読み始めていたので、「頭の中のことがそのまま夢に出てるなー」と、思いました。体調不如意でわけのわからないことを言っておりますがお許しください。


119. 2013年2月07日 13:22:55 : 047Ddl9mgk
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

夢はカラーですか。
覚えているのですか。
スト―リはあるのですか。
よく見るんですか。


120. 2013年2月07日 14:07:20 : 047Ddl9mgk
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。
追加です。

>体調不如意

この時期は、毎年冬から春の時期ですか。


121. 宮島鹿おやじ 2013年2月07日 19:02:00 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

風邪薬を飲んで眠ったら体調が復しました。

夢のことですが、
その夢はカラーでした。
目が覚めたときいろいろと反芻するように思ったので憶えています。
普通は放っといて忘れます。
ストーリーは、このときはありました。それでも家族で何かの坂道を登っていくという程度のものでした。老人ホームにいる母も元気なすがたで一緒でした。
夢はそれほど見るわけでは無いように思います。

体調不如意は確かにこの時期が多いです。
まあ、風邪の季節ですから普通では無いかと思います。

現在、 スコラ哲学→アリストテレス→プラトン→ソクラテス→パルメニデス・ピタゴラス→オルフェウス教 

というふうにずんずん進んでおります。オルフェウス教というのは、紀元前2000年くらいからある、密儀宗教ということで、ピタゴラスやプラトンの「あの世」的性格の根拠となっていると聞きます。今はすこし、気合を抜いて読んでいますので、報告はしばしお待ちください。


                            


122. 2013年2月07日 19:03:18 : XGQASt2yVc
>121

誤:普通では無いか

正:普通ではないか

すみません、訂正です。


123. 2013年2月07日 22:17:44 : 047Ddl9mgk
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

おやじ様と、ろうし様とあやみ さんとのやりとりで、以下のように整理をしました。

宗教について
・集団の宗教と
・個人の宗教

言葉について
・知性と
・感覚

イデアについて
・記憶と
・経験

つまり、集団、知性、記憶の共通点はキリスト教団の神です。
これは、三位一体論、そのものです。
「父と子と聖霊」の具体的で人間的な内実となります。

ン〜。


124. ろうし力学 2013年2月08日 00:59:43 : riuSNxeQ9qjU6 : rUj6oznxK6
宮島鹿おやじさま

>眠ったら体調が復しました。

安心しました。
まずは徹底的に個に向かって頂きたいと思います。エゴを昇華するのは、まず個に徹底する方向性の、その先、ブレイクスルーと思います(意識の幾何学的構造からの要請として)。

さて、

>名誉でも権威でも、国の景気の問題でもなく個人や企業の資産レベルではないでしょうか。

>海外にばらまくカネがいくらでもあるのに増税を叫ぶ政府、目的は国民を不景気ムードに浸らせ、うつ状態におとしいれることなのではないかとも思えます。不満の対象を全て「不景気」に転嫁することで国民の思考が細部に及ばないように工作し管理しやすくする。「愚民化」という厭なことばで形容されることもあるようです。

>「科学」の目的はほぼ遂げられたのではないでしょうか。可視世界のみに囚われて霊界を否定し、子供たちを不景気という仮想敵と戦う戦士に仕立て上げているのです。
たとえばいま、この「科学」の正体を万人の目の前につきつけることができたとすれば、世の中は変わるでしょうか。その成功の鍵はあるのでしょうか。

>しかしその多くは近代合理主義の見方を通しての主張から抜け出どことができていないと感じています。原子力に変わるものを見つけ、それを手段に同じ過ちを続けていくに過ぎないような予測がたってしまう。これでは本末転倒ですし、もっと危険な事態を招いても不思議ではありません。

>事実(現象)を受け取る側に問題あり、という考えはかわりません。だから解決は受け取る側、つまり市民のほうにあるのでしょう。

と、あやみさんが書かれました、まさしくその通りだと思います。同じことを考えていました。
それを受けて、ちゅー事さんが

>問題は理論哲学で無く 現実化の手法と思って居ます

と書かれて、安芸ガラスさんも、同意とかかれておりますように、私も「現実化の手法」を40年間追及してきて、今があります。


>観念を取り出し、新しい観念を入れることです。
取り出すとは、分析し、言葉にすることです。
そうすれば、観念は消えます。
もしくは、観念の方向を変えることです。

と安芸ガラスさんがおっしゃることが、まさに現実化の手法と思っております。現在までに当方が書かせていただいた粗雑な言説は、「論」では在りますが、先に書かせて頂いたように、「論」がその論自体をも解体する論であること、つまり「論」が論で終わっては弥栄には至らない、論によって、認識を変え、観念を変え、知覚を変え、感覚を変えていく、論はそこに至り初めて「論」として活きると受け止めています。
なぜ、そのように思考するに至ったのかということを、あえて申し上げますと、


>それでも、ろうし様のコメントからは暖かい波動のようなものが感じられます。そういえば、雪、たいしたことなくてよかったですね。最近は、雪掻きなどをすると、足腰が痛いだけではなく、足が攣るようなことがあります。確かに最近は体も動かさず理屈ばっかり状態なので、その辺は省みる必要はあるように思えます。ろうし様は定期的に道場などに通われているのですか。

>それにしても、寒い日は鍋が一番ですよねえ。

と、同志の宮島鹿おやじさんと同様な、まろやかな真心を当方も持ちたいからです。(ちなみに、稽古が出来ていませんことは、猛反省するところです。)

その真心とは、神道的な表現で言えば「神の分け御霊」と言うことになるでしょうか、存在そのものである、それを神と呼べば神、存在の、「全てを慈しみ愛しい」と思考するその本質のままに、全宇宙が愛おしい…そこ(中真)への共鳴共振へのささやかな接触から、私も、存在のうちにある全ての生命の無限生成発展を夢見ている、そこから思考するようになっているわけです。

肉体次元の私など、いつもしょうもないことを考え、我さえ良くばと考え、今さえ良ければと考える自虐的な想念の人間にすぎません。
しかし、真実の「我(われ)」、つまり真我に一たび触れてしまうと、存在(神)のバイブレーション(無限の弥栄)に震えさせられてしまいます。

地球人類の、全てを愛しく見つめてている存在に触れてしまう、ということによって、自分は卑しいが、自分と言う存在は言葉では顕せない…偉大なものだ、と思わずにいられないのです。

しかし、現地球人類は、その本質を「から(虚無)」によって覆い隠されて、「から」の食料として生産され消費され続け、その誘導にまんまと乗っかって、地獄の一丁目に来てしまっています。

核廃物の総量は、既に地球に決定的な「手遅れ」なまでに製作され、封じ込めが解ければたちまち物質世界の未来は失われる実態があります。
それにもかかわらず、あやみさんのおっしゃるとおり、「近代合理主義の見方を通しての主張から抜け出すことができていない」ために、「同じ過ちを続けていくに過ぎないような予測がたってしまう。これでは本末転倒ですし、もっと危険な事態を招いても不思議ではありません。」という方向性に向かって、省みることを知りません。

この志向性の行き着く先は、崩壊以外には用意されていない筋書です。

それも当然の帰結ではあります。この破壊衝動の発信点は、自己存在の「無意味、無価値、無力」に打ちのめされた無知蒙昧な人類の持ったゲシュタルト、唯物還元信仰に基づいたものだからです。唯物還元信仰が、人間をただの肉塊、還元されていく塵なのだと雁字搦めにしてきたのですから。

唯物還元信仰に基づく如何なる思考、論理、行動原理も、自己の虚しき消滅を着地点においている点で、消滅崩壊より他に手にすることが出来ないのですから。

その虚無、その恐怖、それが狂気を陰で焚き付けて、不可解な破滅自滅行動を強いている状態が、現日本政府、官僚、御用学者、産業界トップ、様々な既得権益の人間層を、自滅へとひた走らせていると、そう捉えております。

創造の始源から俯瞰すれば、この現状こそまことに嘆かわしい事態に相違ありません。
無限の生成発展を本質とする創造の始源は、人間という存在にこそ、世界創造の始源力を埋め込んで創造したのですから、神は人によってしか神に成れないのが世界の仕組みなはずですから、それを自虐的に消滅へとひた走ることは、もう転換されて当然なのだと私は思います。

その、転換の「現実化の手法」について、常にお話ししております(つもり、です)。

科学的物理的には、行き詰まりもいいところの限界越えの状態です(未来がふさがっている。不連続になっている)。

その転換は、「解決は受け取る側、つまり市民のほうにある」とおっしゃったところの、「市民の観念革命」が「鍵」となるという確信を持っています。

つまり、徹底的に個に徹することと申しましたが、「自己の世界認識の転換」が、物質以外を認めない世界観(ゲシュタルト)を「グレン」とひっくり返す、そういう方向性にあるものと見定めて、そのゲシュタルト転換の思考技術を普遍化する作業を、世界中でそれぞれの取組みで、一見バラバラのようですが、シンクロニシティーが起きていると思っています。

宗教とは、それ(ゲシュタルト転換の思考技術)の共同作業の現場であるべきだったと思うのです。
しかし、支配の力は、宗教をも支配確立の道具と走狗へと変質させてきました。数えきれないほどの有名無名な宗教改革が試みられ、そのたびに叩きのめされてきました。
いまや、宗教は、物質の奴隷化への道具と化しています。ですから、憎しみからではなく、その名誉の為に終わらせてあげないとならないと考えます。

一方、科学は、その役割を、それ自体を突き破るまでに力をつけて限界突破を成さなければならないと考えます。
科学で人類は破滅へと向かっているが、その科学の究極の働きを持って、科学世界観自体を、全く別のものへとメタモルフォーゼを行っていく時代なんだと思いまます。

芋虫が蛹になり、その醜い殻の中で、一時人知れずぐちゃぐちゃに解け落ちて、そこから全く別の存在へと昇華するがごとくに、です。

ではでは…


125. 宮島鹿おやじ 2013年2月08日 07:53:52 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
安芸ガラス様
ろうし力学様

おはようございます。
とても重要で参考になるコメントをいただいております。
一読させていただいてはおりますが、おそらくは、私自身、皆様の真意に近づくほどの理解はできていないものと思われます。

量子論の先駆けとなったマックス・プランクは自分の「量子」という概念の重大さについて当初気がつかなかったといいます。周囲の物理学者らも同様とのことです。

私たちの間にある一定の理想的な合意が得られることは極めて望ましいことですが、それに至らなくとも、ここで話されたことが、私たち、あるいは、このスレッドを見ていただいた方に少しでも参考になればそれだけでもすばらしいと思います。


ところで、皆様のおっしゃるとおり、「なぜ福島のこどもたちは被曝を強要されるのか」という命題に対しては、一種の利権構造が最大の要因であると回答することができます。
 現在、私が問題としているのは、そういった剥き出しの利権構造を正当化する、いわば、「太鼓もち=御用学者」の頭の中はどうなっているのかを分析することです。いわば副次的な問題を取り扱っています。

また、調べていくうちにわかってきたことですが、最も焦点となっている「橋田邦彦」なる人物は、おそらくは本人の意思としては「善良な人間」であった可能性が高いということがあります。単なる太鼓もちではなかった。そのように感じます。
私は以下の出典不明の格言のようなものを思い出します。

「地獄への道は、善意という石によって敷き詰められている。」

以下は現在読んでいる「西洋哲学史T」バートランド・ラッセルp48からの抜粋です。

・・・知力のある人が、我々には明らかに馬鹿げていると思える見解を表明する場合には、われわれはその見解がそれでも真なのだということを証明しようとするべきではなく、どのようにしてその見解が真だと考えられるにいたったか、ということを理解しようと試みるべきである。・・・

橋田邦彦というような人物が、偉大な先達であったというマスコミ(太鼓もち)の吹聴・先導が始まろうとしているように見えます。

彼はどういう人かということを一人でも多くの人がわずかでも知ることは、無益なことではないと思います。この世に生きるものにとっては。


126. 2013年2月08日 08:23:55 : hL9iajcGzM
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>まさに現実化の手法と思っております。

先日、雪が積りましたね。
この季節、我が家は単色となります。

鳥たちの食べものがなくなります。

それで、米などを播いておきます。
体の小さい鳥から、それを食べにきます。

さて、私にはネコがよってきます。
連れ合いは、イヌです。

鳥は近づいて行きますと逃げます。
ネコやイヌはOKで、鳥はNOです。

なぜ、ネコやイヌがOKなのかを、自分の体を観察しました。
近寄る行為が大脳的行為ではないのです。

それで、鳥さんに試して見ました。
大脳的行為でない動作であれば、逃げないのです。


127. 2013年2月08日 09:00:29 : hL9iajcGzM
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>ところで、皆様のおっしゃるとおり、「なぜ福島のこどもたちは被曝を強要されるのか」という命題に対しては、一種の利権構造が最大の要因であると回答することができます。

都道府県の制度そのものが市場なのです。
それ以前は村請けですが、廃止は、幕末すでに公儀の直轄地では開始されていました。
方向付けは、5カ国条約の「江戸協定」でしょうね。

>現在、私が問題としているのは、そういった剥き出しの利権構造を正当化する、いわば、「太鼓もち=御用学者」の頭の中はどうなっているのかを分析することです。いわば副次的な問題を取り扱っています。

武士の頭の中も、三位一体論になったのでしょう。
だとすると、それを受け入れた器があるはずですね。



128. 宮島鹿おやじ 2013年2月08日 22:16:15 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

先ほど、帰宅いたしました。
このあと、読書しつつ就寝いたします。
明日お目にかかります。

それでは失礼いたします。


129. 2013年2月08日 22:53:03 : i5nYwhMrS6
安芸ガラスです。

現在、私が問題としているのは、私たち一人ひとりを特定しないで、統計と疫学で処理をしていることです。

Qは私の質問項目です。
Aは宮島鹿おやじさんの応えです。

Q>夢はカラーですか。
覚えているのですか。
スト―リはあるのですか。
よく見るんですか。

A>夢のことですが、
その夢はカラーでした。
目が覚めたときいろいろと反芻するように思ったので憶えています。
普通は放っといて忘れます。
ストーリーは、このときはありました。それでも家族で何かの坂道を登っていくという程度のものでした。老人ホームにいる母も元気なすがたで一緒でした。
夢はそれほど見るわけでは無いように思います。

Q>この時期は、毎年冬から春の時期ですか。

A>体調不如意は確かにこの時期が多いです。
まあ、風邪の季節ですから普通ではないかと思います。

私はカラ―の夢は見ません。
しかも、見てもストーリは想い出せません。
さらに、夢はめったに見ません。

私は春と秋に転び、冬になると咳の発作と食中毒を起こします。

宮島鹿おやじさんと安芸ガラスは、このように頭の構造と、エネルギーの出る箇所が違うのです。

つまり心理が体に与える影響と、圧縮エネルギーの噴出方向が違うのです。
ですから、おやじ様と安芸ガラスへの働きかけも違うのです。

なぜ、集団の学問があるのに、個人の学問がないのか、です。



130. あやみ 2013年2月09日 06:57:49 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
おやじさま

お加減はいかがですか?ひょっとして(読書のしすぎなどで)寝不足ということもありますか?どうかお大事になさってください。

たとえば橋田邦彦、あるいはデカルトなどは、その功績は「ともかく」として、時の支配者の「必要」に応じて登場した学者なんじゃないでしょうか。科学を神学の延長上にあるかのように見せる必要が生じたときにデカルトを、西洋から来た科学を禅の求道者(らしき者)の口から語らせる必要が生じたときに橋田を「起用」したという…

どんなに有能であったとしても政財界あるいは教会の援助がなければ研究を続けることは難しい筈です。支配者の目にかなった頭脳明晰者は若いうちにアカデミーに抱えられて子飼いの虎として育てられ、支配者たちが世の中を持って生きたい方向に運ぶための騎手にされたのだと思います。

とくにルネサンスに花開いたといわれる科学、哲学、芸術はそういった裏がありそうです。(特に絵画・彫刻の芸術は人間の意識の世界を視覚の牢獄に閉じ込める上で大きな役を果たしたと思います。私は美大の出なのですが、在学中からそれが気になってました)

ろうし力学さま

>科学は、その役割を、それ自体を突き破るまでに力をつけて限界突破を成さなければならないと考えます。

そうであってほしいと願います。心ある科学者が意図して行なうのか、あるいはレミングのように消滅へと無意識の行進をするのか。
ひょっとすると科学というものの中に自爆装置が仕組まれているかもしれません。
どの道、われわれが何らかの痛みを得ることは避けられないでしょう。

安芸ガラスさま

>私たち一人ひとりを特定しないで、統計と疫学で処理をしていることです。

素養の違う子供たちを同じ歳から同じ方法でいっせいに教育することを公平だとか平等だとかいってます。しかも競争をさせて勝敗をつけます。
夏と冬、生命活動の速度が違うのに同じ時間だけ働くことを義務付けています。

いろいろな人間がそれぞれを補い、冬と夏がお互いを補う、そんな大掴みな共同体はかつてはあったと思います。日本で言えば江戸時代と縄文時代がそれに近いのではと思います。(江戸の場合は構造問題も潜んでいましたが。)その意義は近代によって貶められました。

武士道が形骸化し、かなり無意味な存在となってしまった武士たちがその虚しさから三位一体の受け皿になったと考えていいでしょうか?

武士 − 武士道 = −道


131. 2013年2月09日 08:09:45 : c0uS6SFz3I
あやみ さん

安芸ガラスです。

>素養の違う子供たちを同じ歳から同じ方法でいっせいに教育することを公平だとか平等だとかいってます。

圧縮エネルギーの噴出方向が違うと云うことは体のクセが異なるからです。
安芸ガラスは自家中毒の素養があるのです。
宮島鹿おやじ様は膝が痛いと云うのですから、お臍を捻じって生活されていると推測できます。
これは泌尿器系の素養があるからです。
このようにそれぞれの人は体の素養が違うのです。

体調不如意の現象は、自家中毒や泌尿器の素養の疲れを解消する現象なのです。
(日常生活で頻繁に使う箇所だから)
それが、秋から冬に食中毒として、冬から春に体調不如意としてエネルギーが噴出するのです。

このように体の構造が違うから、当然ですが、感受性も異なります。
反応する言葉も連想も違うのです。

さらに、体の構造が違うから、要求も違うのです。

生き物は要求を実現するための運動です。

ですから、現象の背後には要求があります。

私は、これこそが、それぞれの人の個人の学問だと思っております。


132. 2013年2月09日 08:48:44 : c0uS6SFz3I
あやみ さん

安芸ガラスです。

>武士道が形骸化し、かなり無意味な存在となってしまった武士たちがその虚しさから三位一体の受け皿になったと考えていいでしょうか?

大日本國憲法が施行されるまで、日本の津々浦々にありました「寺子屋」が消滅していきます。
「寺子屋」での体得の方法は「想い出す」やり方です。
明治に入り新しく設置された尋常小学校の教育の方法は「記憶」することです。

論争がありましたが、「想い出す」派は負けました。

さて、「記憶」は、「三位一体」の「記憶」です。


133. 宮島鹿おやじ 2013年2月09日 09:21:30 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。

お気遣いをいただき誠にありがとうございます。
できるだけ横になって休むようにしています。

>たとえば橋田邦彦、あるいはデカルトなどは、その功績は「ともかく」として、時の支配者の「必要」に応じて登場した学者なんじゃないでしょうか。

ずばり、そのとおりである可能性があります。彼らをして語らしめた者がいるという考え方ですね。その可能性は大いにあります。

あやみ様のコメントを振り返ってみますと、大方において全て同意いたします。
それは、鳥瞰図のような大きな見取り図になっているイメージがあります。
私が迷わないように、道案内をしてくださるように思います。

また、あるときは、思いもよらぬ視点を与えてくださいます。ミューズのようです。

>特に絵画・彫刻の芸術は人間の意識の世界を視覚の牢獄に閉じ込める上で大きな役を果たしたと思います。


しかし、時として私たち男性は傍目には「馬鹿げたこと」をやりはじめるのかもしれません。ひたすら打つとかひたすら掘るとか。安芸ガラスさんが腕を組んで見ています。ろうしさんは先輩格ですかね。「しょうもないな〜」と思われるかもしれませんが、もうしばらくお見守りください。実際、掘っても何も出てこない可能性があります。そのときは、天を仰いで「だめだった〜。」と嘆くのです。だめでもそれほどひどいことにはならないと思います。掘った土で何か作れるかもしれないし。


134. 2013年2月09日 10:08:24 : c0uS6SFz3I
安芸ガラスです。

>できるだけ横になって休むようにしています。

私は休みません。
日常生活で偏った体を使うので、偏りの疲れです。
その偏りを解消しようとして、エネルギーが食中毒なり、咳の発作として放出されるわけですから、それがスムーズに放出されるように、大脳を使わないようにします。
そんなことで、解消されたら休みます。
それは、体が働いてくれたからです。

私にとり食中毒や咳の発作は、体の中のバランスを解消したときに、起きる現象として捉えております。


135. 2013年2月09日 10:52:17 : c0uS6SFz3I
安芸ガラスです。

さて、これからが本筋です。
毎年、食中毒や咳の発作を待つのは「受身」なのです。

「主体的」あるいは「能動的」なのは、エネルギーの加減と方向を変えることです。

加減は食事の量を減らすことです。
それと、連れ合いと仲良くしたり、散歩をしたり、銭湯を利用します。
一番エネルギーを消耗するのは、やはり連れ合いと仲良くすることです。

方向を変えるとは、エネルギーを人との交わりに使うのです。
この作業や講演などもそうです。
個体だけでなく、「お互いを補う」ために使うのです。

今、学校とスポーツ界で、暴力問題があります。
子どもが学校の教師になったり、柔道の指導者になったりしているからです。
つまり、教育委員会とスポーツ団体が、子どもの集まりだからです。

思いやりは、性欲です。
この性欲は死を意味します。

性欲を抑えたりするから、思いやりが暴力となるのです。

「指導」とは、個体のエネルギーの加減と方向付けを教えることです。
これが「教育」です。

個人の学問は意識的に排除されています。


136. 宮島鹿おやじ 2013年2月09日 20:01:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

現在、プラトンに至るギリシア思想の概括について確認しましたが、概ね以下の通りと考えます。

プラトンに見られる、現象を仮象とし、感覚を超えた実在を想定する特徴は、先行するパルメニデスやヘラクレイトスから継承している。また、その神秘主義的傾向は、先行するピタゴラスから継承していること。世界に対する目的因的理解、倫理的傾向については、師匠であるソクラテスから継承していること。

また、古代のギリシア人は共通して、万物は「かつてあったところ」へいずれ還っていくという理解を「正義」という概念の根底に置いていた。

などなどですが、前述しましたとおり、ソクラテス、ピタゴラスについては、オルフィック教(オルフェウス教)という密儀宗教の影響が濃厚である、ということです。まだまだ、先が長いのですが、とりあえず、現状ではこのようなところです。

また、プラトンとソフィストとの関係ですが、明らかに、プラトンはソフィストに対する憎悪を有しており、先ほど、手元の「英々辞典」(Longman 5)においても、以下のような説明がなされています。

sophistry:
the clever use of reasons or explanations that seem correct but are really false,in order to deceive people.
(人を欺くための、一見正しいようだが、実際には偽である理由や説明の巧妙な使用)

辞書そのものも、憎悪を継承しているように思われます。プラトン主義の影響がないとは言い切れないと思います。

ソフィストについては、私自身「詭弁の徒」という正統派の理解しか持ち合わせていませんでしたが、彼らは、知識を伝授し、授業料を受け取っていました。そのことが、ソクラテスやプラトンらからみれば好ましからざることのようでしたが、ソクラテスはともかく、プラトンは貴族であったということが決定的に重要かと思います。

また、私が向き合っている問題は、とどのつまり、「言語学」「記号論」の根本的問題意識(言語と概念)そのものであると思います。つまり、今まで数万回、数億回と行われた思索と全く同じ道のりをまた繰り返しているものと思われますが、それでも私はやります。「繰り返している」ということを自覚することは極めて重要かつ有用であると思います。


137. あやみ 2013年2月10日 05:52:55 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
>、万物は「かつてあったところ」へいずれ還っていく

これはわが国の遠い先祖たちが「知っていた」ことではありませんか!やまとことばの構造はこれです。


ピタゴラスは財産を放棄し粗食に徹し、数の中の神性を追求する「ピタゴラス教団」を主宰していました。オルフェウス教とは互いに影響しあっていたという見方があるそうです。

オルフェウスは記紀のイザナギの「黄泉還り」のくだりにもその影をみせています。ただし記紀はやまとことばの草創期からみれば、かない新しい書物ですね。

古代ギリシアに民主制が登場したそのときにソフィストが現れたそうです。つまり、参政権のある市民の思考を束ね、扇動するための知識と話術を有料で提供していたというのを読みました。明六雑誌やマスコミとおんなじじゃないですか。

ならば、私腹を肥やしたであろうソフィスト同様に、それを必要とした背景そのもの(民主制・民主主義)が憎悪されてしかるべきだと思います。


>私が向き合っている問題は、とどのつまり、「言語学」「記号論」の根本的問題意識(言語と概念)そのものであると思います。

大変重要な問題であると思います。また、私もそれに近いことを命題に抱えて生きているのだと思います。現在の言語から「ことばの誕生」を予測し、何がどうなって今日に至ったかを解く必要があると感じています。


おやじさま

いえいえ、女のほうも困ったものです。日本中をピーターバンだらけにしたのは母親たちです。女は男にくらべれば「霊媒体質」、ものに憑かれやすいといいますか、思い込むとどんな横車でも押してしまうのです。世界中のお家騒動も女親が中心でした。
男も女もお互いが必要ですね。


138. 宮島鹿おやじ 2013年2月10日 07:55:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。
またまた、びっくりするようなご指摘をいただきました。

>これはわが国の遠い先祖たちが「知っていた」ことではありませんか!やまとことばの構造はこれです

もし、よろしければこの辺について、さらにご教示ください。

なお、「あるべきところへ還っていく」についてふれている部分について以下に抜粋します。(「西洋哲学史」ラッセル p119〜)


・・・正義とは、・・・商人、軍人、後見人(統治者のこと:抜粋者)などのおのおのが、他の階級に属する務めに干渉せず、みずからの務めを果たす場合に都市は正義なのだ、と述べられている。
 各人は他人のことに構わず、自分の務めに気を配れということは、疑いもなく賞讃すべき格言ではあるが、それが近代人の順当に「正義」と呼ぶものに対応しているとは、まさにいい難いのである。
 「正義」と訳されているギリシャ語は、ギリシャ思想ではきわめて重要なある概念を表しているのだが、われわれの言語にはそれにぴったりと対応するコトバがない。アナクシマンドロスがいったことを、ここで想起すれば何かの役に立つであろう。

「事物は、みずから発生したところの元のものへ、もう一度帰ってゆくのが定めである。なぜならもろもろの事物は、みずからの不正のために、定められた時間に従って、相互に償いをしてい満足させあうからである。」


 哲学が始まる以前に、ギリシャ人たちは宇宙に関する一種の理屈あるいは感情をもっていて、それは宗教的あるいは倫理的とも呼び得るようなものであった。その理屈によれば、すべての人間及びすべての事物は、定められた場処と定められた機能をもっている。・・・こういった理屈は、運命あるいは必然性という観念に結びついている。とくにそれは、天体にあてはまる理屈なのだが、活気のあるところ、常にその則を越えようとする傾向が存在し、したがって闘争というものが発生する。しかしある種の非人格的オリュンポス的法則が、その「傲慢」(hubris)を処罰して、侵略者が犯そうとした永遠の秩序を回復させるのだという。こういった考え方のすべてが、最初はおそらくほとんど意識されずに、哲学の中へ受け継がれていったのであろう。その種の考え方は、ヘラクレイトスやエンペドクレスの説いた闘争的宇宙論や、パルメニデスが説いた一元論的教説の中にも、等しく見出し得るのである。それはまた、自然と人間の双方に法則があるという信念・・・の源泉であり、明らかにプラトンの正義概念の根底に横たわっているものなのである。


139. 2013年2月10日 11:50:28 : 3I9Y6cUmFc
宮島鹿おやじ様
あやみ さん

安芸ガラスです。
お二人のむかしの話に驚きをもって拝読しています。

私はギリシャ、イスラム、ヨーロッパのことは、よくわかりません。
想像できるのは、お釈迦様と資本家的生産様式が勃興した時代です。

お釈迦様は「正しいか、否か」と云われています。
この時代において「正悪」の基準は、人々にとって衝撃だったのでしょう。
きっと、食べると性欲が行動の基準だったのでしょう。

それから15世紀に今の現代を作り上げた基準が提示されたのでしょう。
船でアジアとアメリカ大陸です。
利益とか計画が登場したのでしょう。
それで時間を早くする基準です。

これにプラトンが役にたったのでしょう。
机や椅子はあの世にあるものの影。
個体性は言葉、理性、記憶。
社会性は偶然性、平均性、抽象性。

武士と公家衆は、これを受け入れたのでしょう。
そうしますと、日本の中に受け入れる容器があるわけだから、その容器の特定が必要です。


140. 2013年2月10日 12:31:12 : 3I9Y6cUmFc
安芸ガラスです。

偶然性、平均性、抽象性について説明をします。

人は体の自然を通して社会と自然と交流します。
これが出来ないと「恐怖」が生まれてまいります。
ですから、体の自然を捉えるには、体のリズムを知ることです。
安芸ガラスの自然のリズムは以下です。

>日常生活で偏った体を使うので、偏りの疲れです。
その偏りを解消しようとして、エネルギーが食中毒なり、咳の発作として放出されるわけですから、それがスムーズに放出されるように、大脳を使わないようにします。
そんなことで、解消されたら休みます。
それは、体が働いてくれたからです。
私にとり食中毒や咳の発作は、体の中のバランスを解消したときに、起きる現象として捉えております。

これが安芸ガラスの体のリズムです。
咳の発作を「喘息」と思いこんだり、食中毒に驚いて医者に行ったり、薬をのむことが、体のリズムを壊すことなのです。

安芸ガラスにとり自然とは、体の自然のことです。
この自然に立脚することなのです。
待つことが、自然のリズムに乗ることになります。

ですから、安芸ガラスは自分の体が3〜4代の重なりとして捉えていますので偶然と見ておりません。
だから、安芸ガラスの体に合う体操をしておりますから平均ではありません。
さらに、エネルギーの放出方向を変えようとしております。
私と連れ合いが高潮期で重なりますと口喧嘩になります。
ですから、放出方向を原稿を執筆するとか、講演するとかで、お互い性を高めるために使おうとしていますので、安芸ガラスは抽象ではありません。


141. 2013年2月10日 17:24:28 : LSTKoUrrVs
安芸ガラスさんって野口整体の人?

142. あやみ 2013年2月11日 00:38:16 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
おやじさま

>もし、よろしければこの辺について、さらにご教示ください

これは自分では腑に落ちていることなのですが、いざ書こうとすると大変難しく自分の文章力の限界を感じている部分です。もとより私ごときが書きこなせることではないのかもしれません。ともかくまだ勉強中ですので、いずれ記事にできればと思っています。

過去の投稿ですがやや二アミスしている記事がありますのでお時間があればどうぞ。

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/880.html
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/131.html

プラトンの「正義A」と我々がいま固執している「正義B」は明らかに別物ですね。
正義Bはもはや軍事経済用語です。いま中東で繰り広げられている殺戮が「西欧の正義」です。

それに対し「正義A]のほうは現代語に直しにくいとのことですが、やまとことばでいえば「ことわり」に近いと思います。なぜそう思うかといいますと、

>事物は、みずから発生したところの元のものへ、もう一度帰ってゆくのが定めである。

種から出た芽は日と土から滋養を得て育ち、木となり、自分の分身をたくさん送りだした後いずれは枯れて土に還ります。木に滋養を与えた土は今度は枯れ木や枯れ葉に養われます。日は昇り、沈み、月は朔から望へ、そしてまた朔へと還ります。人も親から生まれ、親となり、壮じ、老い、土に還ります。この「ことわり」は万象において存在し、お互いを補いながら長い長いあいだ継続してきたのです。

また「不正」という表現もありますが、これもまた我々が普段使うところの「不正B]とはちがうでしょう。「正義A]の対義語としての「不正A]とします。

つまり、「ことわり」に逆らう行為でしょう。しかし、多くの場合、時間が解決してくれたのでしょう。

地球の気象は大きなうねりの中にあり、寒くなったり暖かくなったりします。狩猟と採取によって食を得ていた東日本の先祖たちは気候の変動により食糧難に陥りました。そこで西へと移動を始め稲作と出会います。しかし東日本人の腸の微生物は穀類を消化・代謝することに向いていなかったのです。おそらく発酵食品の摂取により適した微生物を蓄え、さらに西日本人と通婚することで孫の孫たちの代までには体を適応させたのではないでしょうか。彼らの体にとって西への移動は「ことわり」にかなわなかったことですが、子孫をのこすという別の「ことわり」が働いたため「定められた時間の中で相互に償いをし満足させた」のだとおもうのです。

こういった数え切れない「ことわり」とその償いの繰り返しが人類を育てたと考えます。

しかし償いきれない「不正」がいつのころからかはじまりました。唯物主義の台頭が、万象の還り行くところを塞いでしまったのです。これを相殺するためには「大いなる償い」が必要とされる、と予想されます。それもまた「ことわり」でしょう。

やまとことばは動詞から生成される派生語のあつまりです。「ことわり(理、断り)」の動詞は「ことわる」、意味は「事を割る」、割ると内側が見えるのです。外殻を割ると見えるその内なる世界のことです。「こたふ(応ふ)」にも繋がります。「応え」を知るのは「ことわり」の主、宇宙といったり、自然と呼んだり、あるいは「創造主」としての存在だと思うのです。


143. あやみ 2013年2月11日 01:46:39 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
訂正です。

プラトンの「正義A」ではなく
古代ギリシアの「正義A」でした。


144. あやみ 2013年2月11日 02:16:02 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
安芸ガラスさま

からだという自然をとおして現れる現象、その全てを「疾患」としてしまうのはもちろん医療行為という「商売」を繁盛させるためです。それだけ見ればたかだか医療費、とも思えてしまうのですが、それより深刻なのが、人の心を生存欲というもので縛り付けてしまうことです。

風邪を引いたらかぜ薬、それで何となく良くなって「よかったねえ」などといい、少しでも歯や頭が痛ければ痛み止めを使い、痛みをこらえてやり過ごしたり、下痢などを放っておいて悪いものが外に出て行くのを待ったりができなくなってしまう。はやく、すぐに、確実に「健康」を手に入れようとしてしまいます。からだは自浄力を失い脆くなります。それよりも心が脆くなる。そして放射線治療、臓器移植、遺伝子治療とあくなき医療行為の悪循環にはまってゆきます。

肉体の「生」への盲執です。

古代ギリシア人が秘儀にて得ようとした「永遠の命」はこれではない筈です。中世以降の王侯貴族が古代ギリシアのそれを誤解し、秘儀によって得ようとした「永遠の肉体」と混同されているきらいがあります。

安芸ガラスさまのおっしやるように、子供たちが下痢をしても鼻水をたらしても投薬はしないようにしています。病気より怪我が厄介ですね。


145. 2013年2月11日 04:09:51 : Cy3LcrnbLk
あやみ さま

安芸ガラスです。
「正義」「不正」について、驚きをもって拝読しております。

若いころ労働組合活動をしておりました。
この空間で使用する言葉は、西洋から、江戸から、仏教からの起源です。

とりわけ西洋の起源の言葉は「階級性」があります。
例えば「民主主義」と云っても、戦争で勝利品を分配する「民主主義」と、住民が支配に参加する「民主主義」がありました。

前者は「ギリシャ」ぐらいからでしょう。
後者は社会主義運動と共産主義運動で使われていたのでしょう。

「言葉」の「階級性」の問題は、人と人との関係や経済的社会構造体の問題なので、とても懐かしさを感じました。


>病気より怪我が厄介ですね。

私の怪我を振り返ってみますと、怪我の箇所、時期は偶然とは思えません。
右足に怪我をしたことがあります。
仕事中、トラックの荷台から転落をしました。

個体的には春から夏の時期です。
この頃、重心が右に偏るのです。
偏りを解消する自発的行為なのでしょう。
ここまでは、納得しておりました。

ところが死んだ親父も右足だったのです。
私が云いたいのは、子どもから3〜4代のおやみさんと連れ合いの親族を見て下さい。

怪我そのものは、その速度と場所(後頭部)が要注意です。
4日間風呂には入れないことです。


146. 2013年2月11日 04:53:22 : Cy3LcrnbLk
安芸ガラスです。

>古代ギリシア人が秘儀にて得ようとした「永遠の命」はこれではない筈です。中世以降の王侯貴族が古代ギリシアのそれを誤解し、秘儀によって得ようとした「永遠の肉体」と混同されているきらいがあります。

いのちは永遠です。
ある時期からメスとオスに分化し、有性生殖になっているので、そのように見えないだけです。

いのちの必要上で、有性生殖に分化したのでしょう。
でも、無性生殖の方か多数派です。

「種」の問題も、多数派に立脚しますと、見えなくなりますね。
とても面白いことです。


147. あやみ 2013年2月12日 08:09:05 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
安芸ガラスさま

>いのちは永遠です

はい、そう思います。私は先祖のチ(血、霊)の入れ物です。子供たちもそうです。

子供たちの体のクセ…思い当たることがたくさんあります。面白いです。主人の母は背中を丸めて座るクセがありますがこれは長男と次男に出ています。主人と三男が並んで寝ていると、同じ形で、同時に同じ方向に寝返りを打ったりします。
子供たちは日本人とトルコ人の中間的な顔をしていますが、アフガニスタンから来た行商人が故郷の村の子供たちを思い出して涙ぐんだということがあります。


148. 2013年2月12日 08:17:50 : AgfcrGVVKY
あやみ さま

安芸ガラスです。

>主人の母は背中を丸めて座るクセがありますがこれは長男と次男に出ています。主人と三男が並んで寝ていると、同じ形で、同時に同じ方向に寝返りを打ったりします。

クセは血液より強いものです。


149. 宮島鹿おやじ 2013年2月12日 09:46:46 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様

作業中に腰を痛めてしまいました。
寝ている間は読書を続けておりますが、若干、なにもかもが遅れ気味になると思われて済みませんが、よろしくお願いします。


150. 2013年2月12日 09:51:24 : AgfcrGVVKY
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

赤ん坊のような心で過ごして下さい。

腰痛は大脳の使いすぎからくる場合もあります。


151. 2013年2月12日 14:15:01 : AgfcrGVVKY
あやみ さん

安芸ガラスです。

動作の他に、感受性も観察してみて下さい。


152. 宮島鹿おやじ 2013年2月13日 07:48:05 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様

おはようございます。

ラッセル「西洋哲学史」ですが、ようやくアリストテレスの項に入りました。
私自身のプラトンの理解を述べようと思いましたが、うまく整理できません。

しかし、なんとなくお伝えできると思われるのが、数学・論理学といった、「演繹」を主体とした思考の論理体系を、プラトンがピタゴラスなどから引き継いでおり、それ自体については、数学・宗教などの超知覚的分野においては妥当であるが、現実の事象(具体的なあのもの、このもの)を思考するにあたっては、本来、中心となるべき「帰納」という方法を用いていないように思われる、というところです。あくまでラッセルによる解説をさらにまた私が理解できた部分についての感想ですが、もう少々お時間をください。


153. 2013年2月13日 08:34:25 : 3VCsQsGBes
宮島鹿おやじ様
あやみ さん
蒲田の富士山さん
ろうし力学様
海様
LSTKoUrrVs様

安芸ガラスです。

私たちは個体認識ができません。
これはプラトン主義の影響です。

なぜ影響を受けたか。
すでにプラトン主義を受け入れる容器が日本にあったのです。

それは委任論です。
公家衆と武家の将軍職と土地を返すことです。

>1868年正月過ぎから、公家衆と武士の政権は、内部機構整備を進めました。
輿論公議の設置です。
そのことで、天皇と諸大名との関係が、臣下となりました。
それは、天皇が祭りごとの主宰者(機関)としての確認になりましたね。
結果、大名が藩籍を返還することで、土地と庶民(われわれが)が、天皇をたてている公家衆と武士たちの直轄になりました。

国会の始めは輿論公議からです。
官僚組織は中央が手足を所有していませんので、地方が中央の手足となり政策を実施しています。

この構造は、国会での言葉だけによる答弁、原子力損害賠償法の事故と損害の関係と同じです。

どこかに原形があって、その影が都道府県、国会の答弁、原発事故での損害となるのです。


154. 2013年2月13日 15:45:43 : LSTKoUrrVs
宮島鹿おやじさん わしは東洋医学の実践者であり又施術家で有りました 又現在
も少数の身内 友人 等の東洋医学的アプローチによる癒し(治療と書くと大騒ぎ
に成るので)とセルフイニシエーションは継続しています 霊的又は一般にスピ系
でも良いのですがこの方面での一番の問題は 憑依 と邪気 なのですがこれを
知る為には検知と言う技法が必要に成るので 書いても無駄と思い書きませんが
鹿おやじさんの現在の一番の問題は体調不良でしょ? 勝手に調べましたが第一義
的な問題はエレメンタルシステムの第三システムの毒素に因る体の汚染ですねー
γ線に依る被曝が原因です その他鉱物システムの第二システムの存在の毒素と
動物システムの第三システムの毒素の汚染でしょうか? 此れは石油由来の化学物質に依る汚染と思います 今現在のわしのレベルでは以前の様に径脈の気の流れが
云々とかと言うレベルでは見て居ません この事は放射能被曝防御の為の考察の中
で発展して来た見解です 今現在は単に身体の気の流れの問題と言うよりは 外部
のエネルギーの影響が大き過ぎる環境の問題に移行しているのです 西洋哲学は
神と個の魂の関係性の考察で有って 以前書いた様に総て 神のマッチポンプが
原因なので個の魂の確立とか俄とか私には到達出来ません と思っているのですが
YHMHとかヤハウェとかアッラーが同じ神の別の名前だとしたら如何思いますか?
民主党と自民党の金主が同じ人々だとかと同じ構造ですね そして民を騙す知らぬ
は国民だけ見たいな構造だからこんな物は如何でも良いと書きました 次の転生で
又この糞見たいな世界に転生したくないので頑張っています それと現在の多くの
人々は次の転生は有りません まぁ野口整体の野口先生の高弟の方が同じ事を教わったと書いて寄越したのには驚きましたがねー わしは現在この新しい見解に基づいた 施術を試験的に始めています まぁ悪く言えば人柱を立て始めたっー事ですが 欲界の存在(此処ではシリウスシステムに成りますが)への他のシステムの影響
も視野に入れた健康維持と生存へのアプローチと考えていますが立証責任が有るので大変な事始めた様な気がしてメゲそうですが まぁ皆様の高度なお話の中では
?と思いますが 少し暇だったのでお邪魔しました 気にしないで下さいねっと

155. 宮島鹿おやじ 2013年2月13日 18:08:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
チュー事さん

こんばんわ。

>気にしないで下さいねっと

といわれたからって、気にならないわけありませんっと。

>γ線に依る被曝が原因です その他鉱物システムの第二システムの存在の毒素と
動物システムの第三システムの毒素の汚染でしょうか? 此れは石油由来の化学物質に依る汚染と思います 

うーん。かなり思い当たる節があります。ちょっと怖いです。
相変わらず、お話が難しくて正直わかりませんが、チュー事さんのなさっていることから比べれば、私のやっていることは「脱穀の方法」「苗代の作り方」といった超基底的な代物です。

なお、私自身も、不可視の世界については、未熟な瞑想などを行っていますが、単に「よく眠れる」という結果だけを享受しています。不可視の世界については、私自身は量子論を境界としてこの世とつながっているように思えます。チュー事さんは、量子論を「仏智」と表現されていましたね。もし、よろしければこの辺についてさらにご教示いただけるとありがたいのです。現在、古代ギリシャ思想で苦戦していますが、予定としては、この後、道元の「正法眼蔵」に突入する予定であり、間違いなくそれは、「悟り」の世界に関連することだからです。


156. 宮島鹿おやじ 2013年2月13日 18:32:03 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

あと数日で、とりあえずラッセルの古代ギリシャ思想は終了したいと思っています。それを受容した中世スコラ哲学を確認し、最終的には、全体を俯瞰した図式などを整理したいと考えています。

ただ、一点、デカルト以降の自然科学を一括りにしてよいものかという疑問はあります。特に、大陸合理論と対比した場合のイギリス経験論などの立場を押さえる必要もあるように思えます。(ニュートンとデカルトの関係など)また、量子論以降の現場の科学者の主たる視座(エピステーメー)にどのような影響があったのかということも確認したい事項と考えます。

なお、昨日、日本の科学者101が到着しました。「橋田邦彦」の項目を一読しましたが、主に科学哲学の方法の先駆者としての評価のみであり(村上陽一郎による著述)国体論などへの影響については触れられておりませんでした。以後、ご示唆いただいた資料を確認し検討を続けていく予定です。よろしくお願いします。


157. 宮島鹿おやじ 2013年2月13日 19:07:32 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
アルマゲストについて

「アルマゲスト」は、古代ローマのプトレマイオスによって著された天文学に関する書籍であり、天動説を基本に、惑星などによる不規則な運行を周転円や離心円といった現象を織り込むことによって現実の天体運動の説明を試みたものである。
なお、本書籍の翻訳には、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世も関わっている。

以下に、この著述の研究に関する「中世哲学を学ぶ人のために p243」の記述を一部抜粋します。

・・・(ベッサリオンは:ギリシア正教の司教)『アルマゲスト』への良い手引きを求めポイエルバッハとレギオモンタヌスに助けを求めた。ポイエルバッハは仕事にすぐに取りかかったものの、ベッサリオンがウィーンに到着して一年以内に亡くなった(一四六一年)ため、本の半分を完成させただけで終わった。その仕事を完成させたのはレギオモンタヌスである(一四六二年頃)。それはレギオモンタヌス死後の一四六九年『アルマゲスト概略』として出版され、のちにコペルニクスの愛読書となり、コペルニクスの太陽中心説の生成とかかわっていったのであった。

・・・


個々人の意図を超えて達成されうる可能性というものについて示唆しているように思われます。



158. あやみ 2013年2月13日 21:08:56 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
みなさま こんにちは


日本人と土地の関係は?

稲作が始まりその共同作業の重要性から共同体が大所帯になりました。人口も増えます。収穫高が共同体の運命を大きく左右するようになりました。そこで必要となるのが月と太陽の運行すなわち暦です。暦を「よむ」ことができる司祭が登場します。これが天皇のおおもおとです。

収穫物は一度すべて「神」に奉納されます。そのあとで民に下賜されます。共食です。これが「まつり」で「まつりごと」を司るのが司祭すなわち天皇でした。べつに天皇がそもそもの日本の土地所有者という理屈ではないのです。

日本各地にいくつもの王朝が興き、多くの司祭者が出現しました。祭者と司者を女と男で分担するケースも少なからずみられます。そして武力による統合、王朝交代などが繰り返され現在の皇室の原型ができたと考えられています。本当のところは私にはわかりません。(大陸の影響は当然あったでしょうし、そもそも陸続きの共栄圏でしたからこの議論は控えます)


律令制度がやってきました。「租税」というシステムが行き渡り、天皇は司祭であることに加え土地所有者となり、存在意義が変質します。

その間、未開の地に住む「蝦夷」を追い落とし、開墾を進めます。これも「庸税」つまり国家資金の枠内で行われていましたが追いつかず、「民間」を投入します。それが三世一身の法、そして墾田永年私財法です。ここですでに、土地を財産、つまり神ではなく人間の所有物であるという考え方が公と民の双方に定着したことが明らかになります。奈良時代です。

租税を納めきれない民は土地を売却し小作人となります。それを買い取る有力者は土豪となります。名主(なぬし、みょうしゅ)ともいいます。彼らは今度は土地を寺院に「寄進」し保護を受けるようになります。寺院は天皇家に寄進します。こうして天皇家とその周辺は土地をタダで回収します。平安時代、間違っても生まれ変わりたくない時代です。

「征夷大将軍」は官職です。はじめは貴族の仕事でしたが武士として最初に勤めたのが源頼朝です。しかし清和天皇の子孫という「取り決め」が前提です。仕事内容は天皇に刃を向ける勢力の武力による成敗です。その後の武士同士の戦は誰が天皇をお守りするか、という名目の戦いです。本気でそう思っていた武将はたぶんいませんが(楠木正成あたりはそういうことにされています)。

「天皇の守護者」という立場は武士が自らを存続させるために「利用」した建前だと考えます。「万物をもたらした存在」は神であり、あくまで神がその所有者であるとし、そして天皇当人が日本の土地所有者とは微塵も思っていなかったでしょう。しかし権力欲に取りつかれたとしても天皇制を覆すことはせずその守護者に納まるにとどまったのは、天皇が犯した大罪、つまり神からの賜りものを物質に変え、そして私物化した罪を被ることをおそれたからではないでしょうか。

仮に武士たちが唯物主義をとる生き物であったならば天皇家などは鎌倉時代にとっくに消えていた筈です。(天皇を廃して「日本国王」になろうとした武将は在りましたが成功しませんでした)


大政委任論を整理し明文化したのは松平定信、朱子学支持者です。武士が天皇の守護者であり土地と民の管理をを天皇から委任されているということは不文律に近いものでしたが、ここで初めて公文書になりました。その理由は天命の飢饉、幕政の揺らぎ、外国船の接近などの暗雲でしょう。幕府の建て直しのために天皇を再び利用したのではないでしょうか。

「武士道」に朱子学などで外科手術を施し、なにやら複雑なものに変えて行きました。


自分のために誰かを「利用」すれば必ず自分を貶めることになる、というしっぺ返しを受けます。自らの存続のためにもともと人間の所有物ではない土地や民を「委任」だの「奉還」だのと屁理屈をこねているうちにその屁理屈に呑まれる体質が出来上がってしまいます。そこに「近代思想」という前代未聞の屁理屈が上陸します。


むやみに長くなったので一度区切ります。


159. あやみ 2013年2月13日 22:18:15 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
LSTKoUrrVs さま

>気にしないで下さいねっと

なんだかすごく気になります。
ご指摘のとおり、ヤハウェもアッラーも同じです。人間側のその後の運営で様相が変わってしまっただけです。


160. 2013年2月13日 23:20:51 : 5UNX93eRfg
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>ただ、一点、デカルト以降の自然科学を一括りにしてよいものかという疑問はあります。特に、大陸合理論と対比した場合のイギリス経験論などの立場を押さえる必要もあるように思えます。(ニュートンとデカルトの関係など)

同意します。

>「アルマゲスト」は、古代ローマのプトレマイオスによって著された天文学に関する書籍であり、天動説を基本に、惑星などによる不規則な運行を周転円や離心円といった現象を織り込むことによって現実の天体運動の説明を試みたものである。

植芝さんの合気ですね。


161. 2013年2月14日 13:03:16 : LSTKoUrrVs
あやみ様 わしが神のマッチポンプと書いた意味を良く考えて下さいねつと
イブにリンゴを食わせたのは 単なる蛇 ですか?何の為に食わせたりですか
食べたイブの自己責任ですか?

162. あやみ 2013年2月14日 22:08:11 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
LSTKoUrrVs さま

この世をひとつの生命体とすれば、楽園の二人がりんごを口にするところからはじまります。それを受胎と考えれば、楽園をおわれることが出生でしょう。

マッチポンプという言葉が適しているかどうかはわかりませんが、人の肉体が滅びるのと同様にこの世も姿を失うでしょう。はなからそういう約束です。

>食べたイブの自己責任ですか?

だからして、責任などはどこにも、だれにもねっと


163. 宮島鹿おやじ 2013年2月15日 07:28:55 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
おはようございます。

どういうわけか腰痛はいつまでたっても改善されません。困ったものです。
なお、知人の友人(いわき市)61歳の男性が胆管癌で亡くなりました。
被災地の救援などに熱心に従事されていた方のようです。そして、その方の周辺において、通常では考えられない比率で癌にかかる方がいるという話を聞きましたが、どのていどの頻度なのかは不明です。

安芸ガラス様

>植芝さんの合気ですね。

プトレマイオスの「周転円」のイメージは確かに自分を中心に相手を崩す動作のイメージに似ていますが、そのことをおっしゃっているのでしょうか。

週末にはなんとか一つの区切りを設けたいと思っています。

チュー事様
あやみ様

是非、お話を続けてくださいなっと。


164. ろうし力学 2013年2月15日 08:16:42 : riuSNxeQ9qjU6 : BWdkxiYKUo
宮島鹿おやじさま

ろうし力学です。
見てるだけーと言うので納まらないで、横から口出しです(汗)

身体が今までと違った状態に移行する(この場合腰痛)、それ自体がバランスを取っていることであると考えて頂いて結構なのですが、それが癌であってもその法則は変わりません。

そういう文脈で、おやじさん自身で見つけて頂かなくてはならないのですが、腰痛という一つの結果も、その背景は人ぞれぞれです。
その中の一つで、身体は、内臓器官に著しい機能低下(生命活力のアンバランス)が起こると、その回帰の為に、身体全体の活動を一時的低下を起こして、低調に誘導して、活力回帰へと動きます。それがつまり腰痛と現れることが多く見受けられます。(当方は13年ほど、健康持続の指導を生業としておりました。*過去形)

平たく言うと、内臓が弱っていると腰痛が引かない、ということが多いです。慢性の腰痛などは大概そうでした。そこで指導するのは、生命活力の復帰行動を勧めるわけです。当方が師から受けていたメソッドは、仙骨の波動調整ですので、基本はただしい歩き方で内外環境を整えて歩くこと、です。

生活習慣の様々な局面で、これは気付きを必要とします。
多くの被曝をされているわけですから、身体はエネルギー的物質的に入れ替え、代謝を必要としているのは確実です。
水の話は以前しましたっけ。

外部注入的な変化ではなく、おやじさま自身の内部革新を進めて頂ければよいかと存じます。

それと、周転円とはそういう概念でしたか。当方であれば、円心ということで概念化していますが、法則としては同一、ただし観察主体である「わたし」を中心に思考しますが、(周転円では、観察主体が不在になりがちです)、要は「円の中心と周縁は、互いに入れ替えが可能である」ということです。それが以前上のほうでお話しした、ビックバンのプランクスケールの極微宇宙の特異点が、現在の我々からは無限大の宇宙球の内壁として観察されている、ということと同義です。

我々にとって、思考における最小のものが、観察における最大のものに、反転をおこしている、という事実です。
新しき地動説を思考する時代です。不動なのは地球(大地)ではなく、観察の位置=わたし、です。


165. 2013年2月15日 09:36:18 : EJz6v3BYl2
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>プトレマイオスの「周転円」のイメージは確かに自分を中心に相手を崩す動作のイメージに似ていますが、そのことをおっしゃっているのでしょうか。

大本教がキリスト教団の影響を受けていたのでしょう。

>相手を崩す動作

昨年から私の娘のような女性から合気を教えて頂いています。
これは見えない分子の影響で相手が自らの重さに耐えきれず崩れていくのですね。
剣道と同じです。


166. 2013年2月15日 15:01:47 : LSTKoUrrVs
実はわしも昔極真会空手の某支部で指導員をしていたのだ 当然相当なウエイト
トレーニングを積んだ その時支点の出来ない水をビニール袋に入れた物を使う
と言う アイデアを読んだときに体術の秘密の様な感触を持ったがその先には進め
なかったわい詰まり半端者で有った訳だその後赤ちゃんは身体に異常が有るとその
部分に緊張が生まれ持ち上げる時に支点が出来て軽く感じると教わった事がある
気功整体的に見ると腰痛を感じる部分は仙骨周辺又は腰椎の近辺で大腸径脈筋又は
膀胱径脈筋の硬結が症状として現れる圧痛点として骨盤の仙骨周辺及び恥骨周辺に
出る 大腸系か如何かは膝の内側の直近の真ん中辺りに100g程度の力で押す事
により痛みが出れば大腸が原因です 近くなら直ぐに癒しが出来る(筋骨格レベル
で)このレベルの技術でも同じく治らない事に成っている坐骨神経痛も直ぐ治る
但しエネルギー的反射は貰いますが それが嫌で遠隔に走った訳だが一般人は西洋
医学の信奉が酷すぎて如何にも成らぬ 新しい技法でこの前貧血症を癒しました
遠隔開始後半日位で眩暈 動悸 息切れが収まり四日位で血液のヘモグロビン値
も回復して退院出来たそうだ 続いて甲状腺機能亢進を(別の人)遠隔操作している
目標は 癌 なのだが人柱が居ない 現在試験運用中なので月の経費5千円で我が
ブログにて募集中だが 癌 がイャ その他も殆ど来ない? 何故?
あやみ様 話をすり替えては困ります 生命を出す成らば 生命をキチンと定義して下さい

167. あやみ 2013年2月15日 16:07:34 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
LSTKoUrrVs さま


>方話をすり替えては困ります 生命を出す成らば 生命をキチンと定義して下さい

困ってくださってもかまわないのですが、私はすりかえたつもりはありません。私たちの話がうまく噛み合わないのだと思います。原因は「わしが神のマッチポンプと書いた意味を良く考えて下さいねつと」です。 LSTKoUrrVs さまがおっしゃるところの「神」はどのあたりのことですか?


168. あやみ 2013年2月15日 18:29:58 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
私は「定義」や前出の「責任」という言葉は好きになれません。近代のインチキ臭が強いからです。ですから「定義」はしませんしそれをするほどの力量もございません。また、偉人の言葉を並べるのも面倒なのでいつも自分の思いを書きます。

たま(魂、霊)とその入れ物(殻、躯)の両方が備わると「いのち」になります。今のからだはこの世でのいのちを存続させる入れ物です。家はその先祖も含む家族のいのちを繋ぐ入れ物です。国もそうです。星もそうです。

この世での入れ物をなくした人の「たま」はあの世にいくわけですが、そこで用意されている入れ物は果たしてどんなものか、「あの世」そのものがひとつの入れ物なのか、「あの世」の新たな「生」とはどのようなものか、もちろん行ってみなければわかりませんが、どのようなものになるかはその人のこの世での生き方次第であることだけは確信しております。


169. ろうし力学 2013年2月16日 02:00:50 : riuSNxeQ9qjU6 : VE0EVJYXdg
宮島鹿おやじさま

まずは徹底的に個に徹するということを前に言いました。
体調の回復が思わしくない局面において私たち人間が成すべきことは、私がワイワイとおやじさまにうるさく言うような、外部からの干渉よりもなによりも、おやじさまがご自身の中真に帰一することだと、当方は理解します。
外部注入的に変化を与えても、当人に気付きから理解が起こらないものは、ほどなく状態が戻りますよね。ここで、他者がおやじさまへ言えることとは、被曝をかなりしていることを考慮に入れる、せいぜいそこ止まりでしょう。
腰痛が引かないことの因を生理学的機能的に解説してみせることで、得られることも少なくはありませんし、無駄ではないと思いますが、観察世界とはつまり自分そのものです(量子力学からの知見)。

宗教的な物言いであれば、それは自分の心の問題がうんぬん…となるでしょうが、確かにそうなのですが、それは情緒的な心の問題ということではなく、意識の方向性ということであって、自分を見失う方向性、つまり物質的な他者世界へ意識が向いて偏るのか、自己の位置を発見する方向性に向いているのか、ということが問われているのだと思います。おやじさんが自ら見出すべきものだと。

さて、
>人の肉体が滅びるのと同様にこの世も姿を失うでしょう。はなからそういう約束です。

とあやみさんが上に書かれておりますが、当方が存在(宇宙)への理解を勧めてきて直観することも、同様です。

宇宙は一つの細胞だと理解します。細胞に新陳代謝があるように、身体に還元サイクルがあるようい、物質宇宙も、当然に代謝が起こる、それが宇宙だと理解しています。

それが、ビックバーン以前の虚時間宇宙との交代化サイクルではないでしょうか。
宇宙はそれ自体が細胞なのですから、生まれ変わり出変わりを繰り返して、その永遠性があるのではないでしょうか。

もう間もなく、この物質空間は、虚時間宇宙への交代化が起こると見ています。マヤのカレンダーが一つの節目を示していたのは、恐らくその時間が反転する意味を示していたのだと思っています。
太陽も二極から四極へと変化してきました。これは以前、存在は四元で構成されている、という事と関連して現出していることだと見ます。
太陽の核融合反応とは、人間の自我の働きが原因だと理解されていくでしょう。
その自我が、二項対立の世界観から、四価の本源的仕組みが人間の意識に顕在化を起こし始めたとみることが出来ます。

物質空間での自我は、私とあなたには絶望的な断絶を持っている認識論が大勢を占めますが、反転した虚時間世界とは、自我の在り方が正反対です。
それは死後の世界とイコールですから、私本性とは、死後世界「そのもの」であり、世界に魂が入っているというビジョンではなく、魂が世界そのものであるわけです。とどのつまりそれは「量子力学的世界認識」そのもののことに他なりません。

量子力学から導き出される、世界と自己との関係性とは、円心(周転円でしょうか)で概念化される「円の中心と辺縁は互いに入れ替えが可能」の構造と全く同形対応されることで、観察されるものは観察するものである、というインド哲学と同意の、世界認識(ゲシュタルト)と理解出来ます。

見ている世界の側へ、観察の主体=自己の位置をひっくり孵す、という意味で「トランスフォーマー」と呼んでおきましょう。そこには現在の自我は概念として存在していません。自我の消滅と同時に、物質概念も同様に意味を為さなくなります。

生きたまま死後の世界に進入すること、これがトランスフォーマーですが、そこに人間が至ると、物質という概念(同時に時間概念も)が意味をなさないことになるので、放射性物質という存在に変化、と言うか解消というか、うまく言えませんが、接点が消失する、と見ています。

物質がなくなるのですから、当然ですが。

そのような、悟り、という世界認識の反転をまもなく人類は迎えるでしょう。自他の一体性、が当たり前に了解される世界。
そのような達観は、ごくごく一部の覚者、修行者が、超越的な感覚で持ってしか達成しえないもの、と長い間我々は信じてきました。
私は、武芸者の立場に入り込んで、その共通認識の世界に住んでいた(末席を汚しておりましたが)者として、違和感を感じてなりませんでした。

死後参入は、達観と言うアプローチとは正反対の歩みでも、宇宙は用意している(構造的)と感じ得たものです。
つまり、悟りとは、論理的思考を持って得ることが可能、ということです。
そこには、「愛の存在証明」が、幾何学を持って佇んでいる。
人はなぜ、愛が大事なのか、なぜ他者を大事にしなくてはならないのか。それが、確固たる構造性を持って宇宙には存在している。それ故に、人は理知的な認識を持って、その構造性を把握でき、それは理知的思考を持てる万人にコンセンサスを得ることが可能なものである、と。

体感的、体得としての悟りへの参入もまた、宇宙が示した道であることは間違いないでしょう。しかし宇宙の構造性からひも解けば、その正反対にも出入り口が存在していると理解することが出来るでしょう。

その入り口とは、正に「量子力学」という門なのではないでしょうか。私はそう信じます。


170. 宮島鹿おやじ 2013年2月16日 03:57:18 : NqHa.4ewCUAIk : UI4GWxdjuk
皆様

大変深い示唆に富むコメントをいただき本当に感謝しております。

現在、ラッセル「西洋哲学史T」も読了しつつあり、まとめを行おうと思っています。

なお、私の腰痛についてアドバイスをいただいております。誠にありがとうございます。私の場合は、明らかに重量物運搬に関わったことに起因していますので、まずは癌などの疾患によるものではないと考えますが、回復に時間がかかるようになったというのは、私自身の加齢が原因と思われますが、生活環境が以前にもまして、加齢を促進しているということは否定できないと思われます。



171. ろうし力学 2013年2月16日 08:48:29 : riuSNxeQ9qjU6 : YokfMwLK8I
宮島鹿おやじさま

おはようございます。
そうでしたか、重いものの運搬は、当然に負担をかけますよね。ご自愛ください。
独り善がり、独善でモノを申しました。申し訳ございませんでした。

当方は18歳より、重篤な腰痛となり、ついには慢性疲労症候群、鉛のように全身がだるく、階段を上がるのが苦痛で行動一切に時間がかかる重病人でした。

当時、バイク運転で仕事をしていたのですが、過労であったのをビタミンB錠の大量摂取でごまかしていたのが、物理的振動、姿勢の不自然さ、そしてビタミン剤が肝機能を破壊して、その後五年間、まともに歩くこともままなりませんでした。

今の方が元気なくらいです。若いのに人生おわってました。
ビタミンB錠剤は、飲用すると小水が黄色くなりますが、二か月間で破壊して以後、一つも飲んでいないのに、その後五年間、小水が黄色かったのですから、どれだけ残留していたか。肝機能が仙骨波動の甦りにより再生することで、化学物質が排出されて、小水がクリアーになった時点で疲労感と痛みが消失していきました。

あの経験は、今思えばイニシエーションだったのでしょう、リ・バースを起こしたのだと理解しています。
その間、西洋医学はもちろん外部注入的な治療は一切行わず、己自身が本来的にもたらされているところのもの、生命力をただ引き出して過ごしておりました。

その中で重要な位置を占めていたのが、円天流でした(一見は合気のように見える)。
自他の物心両面の中心を一体とする体術霊術なので、対立を消失させる術という事が出来ます。攻撃は一切ないので、稽古中はわざと空手を用いて仕掛けますが、(なので空手も稽古していました)、外見上は、飛ばされるわけです。
ですがそこで起きていることは、双方が中心に納まっていることに過ぎません。

攻撃行動とは自ら重心を外れる行為に他なりませんから、受け手はただ重心を中心へと帰納するように、己の中心をひたすら持続するのみです。攻撃手は、ただ地球中心へと安定を求める、自らの機能に還元されるだけです。それが一見投げられる崩れ去るように見えているだけです。(ちなみに合気とは接点はありません)

体術、まして護身術の体得が目的では全くなくて、自らの存在を宇宙法則に同調させる心的姿勢の体得を目指していました。
未熟者であるので、未だに対立を引き出しては、昇華できずに右往左往しているものです。肉体の力、精神の力を抜いて、地球中心へと帰一することに努めます。

無為自然、の彼岸へと渡るために。


172. 2013年2月16日 13:26:27 : LSTKoUrrVs
ろうし力学様の見解 全く持って同意です 外部入力に因る一時的回復とその後の
効力の消失には現役時代に随分悩まされ己の力量と浅学に絶望しながらも革新的な
わしにインスパイァを齎す技術を探して東奔西走をしたものです当然持ち出し続きで未だに貧していますが 取り合えず現在は外部入力の形では有りますが方向性と
しては本来の身体の中に異なるシステムのエネルギーの混入の排除を主眼とする形
で進んでいます まぁ相当の異論が存在する事は百も承知で書きますが霊的(エネルギー的が本来正しいと思って居ますが)階層は別にして 肉体 幽体 原因体の
浄化終了後に直面したのが 三鞘(食物鞘 生気鞘 理知鞘)と現在検知出来る範囲
では 12エーテル身体までの気の身体からの他のシステムの影響の排除の現実的
技法の確立です こんな事は全く原発の爆裂までは頭の片隅にも無かったのですが
放射能がエレメンタルシステムの存在と検知後急速に進みました その後別の三
システムの(鉱物システム 植物システム 動物システム)の不均等分散が所謂病気
っーか体調不良と言うか身体のエネルギーバランスの乱れの第一原因と考えてその
排除方法の具体的技術の確立っーのが現在泣きながらやってる事です 物質は波動
が低く重いので大概難儀します 放射能は位相を変えてその影響を排除する方向です 物理的に(ガイガー不検知)排除は現在出来て居ません どんな物質もこの宇宙
での存在理由又は位置付けが有りますので物理的排除っー事が人間に可能かどうか
またその様な行為を行ってよいのかどうかも判断が付きません 出来る事と行って
良い事は別ですから わしの立場は人々はその長い転生の歴史の中で積み重ねた
カルマの反映で様々な人生を送る物と考えて居ますので ほんの少しのお手伝いしか出来ないと思って居ます この世界には神々の干渉が少なからず存在しますので
神々に付いての勉強も必要だった為に少し勉強しましたが わしは技術確立の為の
勉強だった為観点の相違が意見の相違と成って不協和音が目立ちますねー
皆様それぞれお名前をお持ちなので わしの事はオオトラとお呼び下さいねっと

173. 宮島鹿おやじ 2013年2月16日 20:00:37 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様
オオトラ様

コメントをありがとうございます。
現時点においては、いただいたコメントに対して、真っ向から検討する余力がないため、いったん、いただいたままにさせていただきますが、今後必ず参考にさせていただきます。ただ、感覚的には、私自身「その方向だ」という感触があります。

>意見の相違と成って不協和音が目立ちますねー

わたしはそれこそ望ましい状態であると考えます。それでも皆さんに共通していることは、受験勉強からは得られない真摯なる思索であると思います。そして皆さんの思索には必ずなんらかの源泉があったと思うのです。


174. 宮島鹿おやじ 2013年2月16日 20:50:09 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様

ラッセル「西洋哲学史」を一応読了しました。
週末に、ギリシア思想に関するおおまかなまとめという意気込みでありましたが、まだ整理しきれていないのでもう少々お時間をいただきたいと思います。

しかし、一応そのアウトラインだけを述べさせていただきますと、

・プラトンのイデア論のモデルはピタゴラスに代表されるギリシアの幾何学ではないか。
・幾何学(数学)のもつ演繹的性格、すなわち、「明晰判明性」を保持するために、知覚を超えたイデア界を想定した。

・また、イデア界という現象を超えた世界の想定については、古代ギリシアにおける哲学以前の自然観が根底に横たわっている。>>138

といったところになっています。
現時点において、気になっているところは、プラトンの師であるソクラテスの手法が弁証法(ディアレクティケー)であり、以下の論者によれば「帰納的」であるとしている点です。
http://philosophy.hix05.com/Socrates/socrates04.dialectics.html

実際のところ、プラトンの原典にあたっていないため、そのあたりが確認できていない状態ですが、自分で立てた行程のまだ1/10にも達していないことから、あまり拘泥してもいられないという気がしております。



175. 手紙 2013年2月16日 21:38:39 : ycTIENrc3gkSo : 1TUODsvWck
宮島鹿おやじさま、お久しぶりです。
どうか無理をなさらずに、お体を大事にしてくださいね。

 私も時折、皆様のお話を拝聴しています。興味深いお話、不思議なお話、何故か心がゆさぶられるお話。自分の中でそのひとつひとつを確認しながら、思い出しながら、またそのひとつひとつから誕生する"気づきや示唆"に対して、驚き、そして少々戸惑ったりもします。

その戸惑いというのは変化への期待であり、現代文明とされる物への新たな疑念です。

 今、そういった期待や疑念というものが広く共有されつつあるように感じます。おそらくこれは、もっと広くもっと深く、地球規模で共有されていくはずです。そしていずれ、この変化や疑念というものが市井の人々によって、自発的に考察され、哲学化され、工学化されていき、21世紀の新たな指針として人々に受容されるようになるのではないでしょうか。

 そして皆様のコメントに示唆されているように思いますが、その源流はすでに私たちの中に、人類史に、宿っていた。ということになります。

だけれども、異常に分化し細分化してしまったものたち。私たち。

私たちはもっと全体としての物の見方、眼差しを持たなければならないようです。

最後に、皆様のコメントを聴いているうちに不思議なもので、毒杯をあおる前のソクラテスの最終講義をイメージしてしまいました♪
それはソクラテスが魂の不滅性を説いたからでしょうか。

情熱を感じます。


176. 宮島鹿おやじ 2013年2月16日 23:02:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
手紙様

お久しぶりです。コメントありがとうございます。
是非、検討にご参加ください。

>情熱を感じます。

最も頂戴してうれしい言葉です。
ひけらかしの衒学ではない、今を生きるにあたって、「のたうちまわる」ような思索を私たちは展開しています。私は自分自身頭から放射能をかぶりました。多くの子供たちが疾病に追いやられることを期待し観察する大人たち、それを座視する大人たち、抗議する者を捕らえる権力者。完全に狂っています。すべてが完全に狂っているのです。

私がここで確認しようとしていることは、もう、多くの人が思索したことの繰り返しです。新しいことなど何もない「あたりまえのこと」をまた確認しようとしているだけです。しかし、狂った状況にあって当たり前の言葉も十分に意味をもつでしょう。また、おっしゃるとおり、何人かの方々が、新しい予感を伴う言葉を述べられています。今の私にはすべてを理解できませんが、私にも若干の感触はあるのです。

いきなり新約聖書ですが、「連中」にぶちまけたい言葉があります。

・・・

盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果たす責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と黄金を神聖にする神殿とどちらが大事なのか。・・・・(私たちの未来であるこどもたちと、そのための手段であるはずの経済的便益のどちらが大事なのか:引用者)

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不正とでいっぱいである。・・・

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。(瓦礫の拡散に抗議した大学教授を逮捕した者どもと同じである:引用者)ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
 
見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

私は言っておく、『主の御名によって来るものに祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう。



177. 宮島鹿おやじ 2013年2月16日 23:04:33 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
マタイ福音書 第23章からの引用でした。

178. 2013年2月16日 23:11:30 : LSTKoUrrVs
あやみ様の御質問に答える事を失念した訳では無いのですが ハテ 何と答えれば
と考えて居ました ヤハウェーとアッラー(YHMHは御存知無かったのでしょうか?)
が同一神と何を持って判断したか?なのですがわしの様に 波動 の同一性での
判断で有れば ヤハウェーとアッラーとルシファーの波動を比較して下さい
非常にヤバイ回答なので書きたくなかったのですが仕方ないですねーマッチポンプ
と書いたわしの責任の取り方の回答です オオトラ

179. あやみ 2013年2月17日 06:11:26 : oZZpvrAh64sJM : 0U0kS4CaXI
みなさまこんにちは

オオトラさま

YHMHは知りません。YHWHならヤハウェーのヘブライ語表記の音格のラテン文字にしたものですがまた別にあるのでしょうか?

「人間の運営」のせいでそれぞれの聖典に書かれていることがばらばらになってしまったということをまず指摘します(これは私個人の判断などではありません)。しかし人間の思惑に関係なく、同一の存在つまり創造主です。一神教の圏外の地域でも古い時代では創造主の概念がみられます。それぞれ違って見えるのは運営の問題です。人の都合で聖典の解釈は曲げられ、あるいは書き換えられ、あるいは言語を封印することも行われました。


ルシファーはイスラム教のイブリースに相当するとされていますが、どうかと思います。先にイブリースについて書きます。

クルアーンにおいてイヴに禁断の果実を口にするようそそのかしたのは蛇ではなくイブリースです。創造主が人間を創造することに天使たち(同じく創造物)は嘆きました。「そのようなろくでもないものをなぜつくるのか」と。創造主は「それでもつくる」としてアーダムを最初の人間そして最初の預言者として土から創造しました。天使たちはアーデムに跪きひれ伏しましたが天使に並び称されるイブリースだけは「土から創造されたものに、火から創造された我が跪けるものか」とこれを拒否、創造主の怒りに触れました。
悪魔は最後の審判のその日まで人を誘惑し続けることを宣言すると創造主にそれを聞き入れられ、それまで存在する猶予を与えられて悪魔=シェイターンに落とされます。ですから悪魔も創造物です。人を惑わし続ける使命を負った創造物です。

悪魔の棲処は人間の内部です。イヴは内在する悪魔にそそのかされアーダムを誘い、またアーダムもその中に棲む悪魔の呼応をうけて惑います。

「カ×ラ」主義の絶対神のルシファーのことでしたら人間がその内在する悪魔に惑わされて作り出したものでしかありません。貨幣や原発同様です。やはり回りまわって創造主の創造物ということになります。


安芸ガラスさま

実は大食漢で、でも食べなければ食べないで大丈夫という体質です。無意識に消費量を調節していたのかもしれません。このところ胃腸の働きが鈍いような気がしており、またやや疲れやすくなっていたのでおっしゃることに従い最近食べる量を意識して少なくしてみました。春は気が逸るばかりで体がついてこない苦手な季節ですが、おかげで今はいい感じです。


ろうしさま

産婦人科医は妊婦にいろいろな栄養剤を処方します。ビタミン、鉄、カリウム、リン、などです。私はヘモグロビン値が普段から低いのですがとくに問題はありません、しかし医者は鬼の首でも取ったように鉄剤を出します。これが苦手でして、私は鉄を急激に取るとおなかをこわしてしまうのです。すると軽く脱水症状がおこるのでヘモグロビン値はあがります。医者は数字だけ見て満足します。困った連中です。新生児にも乳児にも山ほど薬品の投与をします。

異常です。


おやじさま

どうかお大事に。
私も過去に何度か腰を痛めました。冬が来てゾーリから靴に履き替えると弱点が現れます。足首か、肩か、腰に必ず痛みが出ます。二階から飛び降りたりするときも着地を失敗するといどこかを痛めてしまうのですが、やはり靴だといけないようです。たぶん靴がバランスをもろに崩してしまうのです。
足首は包帯を、腰なら晒を撒いて治しています。

なお、ギリシャ哲学はストア哲学者にまみえるまえにイスラム教徒の「翻訳」を経ています。翻訳とはただの言語変換ではなく、視点の変換も含まれています。一神教の視点から一度咀嚼され、とくに「アルマゲスト」に関しては古代インドの世界観をも借用した解釈がされています。詳細はアラビア語なのでお手上げなのですが、信用できるトルコ語の文献がありそうなので探してみます。

手紙さま

はじめまして、私も同じように考えます。
異常に分化し細分化してしまった私たちですが、皆が求めればまた融合できるとおもっています。


180. 2013年2月17日 11:36:48 : JriNI1nk26
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>現時点において、気になっているところは、プラトンの師であるソクラテスの手法が弁証法(ディアレクティケー)であり、以下の論者によれば「帰納的」であるとしている点です。

弁証法ですか。
意識の働きの出発点をどこに置くかです。
人は外界の刺戟を感受性を通して無意識に反応します。
感受性は人によって異なります。

さて、意識の働きを無意識の働きに起点を置きます。
ここでまるごと意識で感じます。
そして言葉にします。
ですから、言葉にならない感じや、感じを言葉にできなかったり、感じのある箇所を取り出して言葉にします。

これが弁証法です。

お釈迦様やマルクスなどがそうです。


181. ろうし力学 2013年2月17日 12:01:38 : riuSNxeQ9qjU6 : BEuqHJLZrM
あやみさま

おっしゃいますように、医学の暴走は、破壊的なまでに無知蒙昧を発揮しております。
当方は、その医療関係者(医者、看護師、薬剤師、介護関係の方)、療法士、治療師の方々が、何十人とこちらに来られて、ご自身の心身の違和感を訴えられて、リセットされていましたので、現場からの医療治療の方向性の歪みを直にお聞きしてきました。
中には、二十年以上、大阪のトップレベルの外科医の方が、十年以上もこちらに通われた末に、医療の歪みに我慢ならずに、辞めてしまわれた例など、多々あります。

医療、治療関係者がそろって言うのは、このままでは患者さんはますますおかしくされてしまう、それに加担することが苦しくてしょうがない、ということでした。

語り出したら多すぎるほどにある歪みですが、医療の歪みを背後で生み出しているのは、「医薬品製造村」です。ゲンパツ村と同様の狂気の世界が世界を席巻しています。この狂気の世界では妊婦、乳幼児は実験体とみなされます。そういうことを、医療の現場から生生しく多く聞いたものです。

地球人類はまさに瀕死の重傷です。とっくに一線は越している状態です。


宮島鹿おやじさま

>翻訳とはただの言語変換ではなく、視点の変換も含まれています。

と、あやみさまが書かれていることを、当方は常に意識しております。
それゆえ、既に他界されている方々について、我々が知ろうとするときに、そのかたが直に残された文章なりが最低限、可能な限り生の現場の声を拾うことが、過去の人々の思想なりを知るよりどころと、自分では一定のラインを持っています。

注意しなくてはならないのは、研究家・評論家が残しているのみの、過去の思想の解説は、本当に参考程度ですから、そういう時には、言霊を味わうこと、自分の霊力をいかんなく発揮して、違和感と調和感覚を頼るように読んでいきます。

読み手をコントロール(誘導)する想念を持った文章は、非常に読み難く、読了を困難にします。その時には、結局、解説の対象者ではなく、文章を作成した著者の想念を読みとることになります。

宗教書などはその最たるもので、原文以外の著述を読み終えて、自戒するのは、その本の解説でもって、自分がその教えなり思想なりを理解した、などと思わぬようにと意識して自省しています。

大本(開祖出口直、聖師出口王仁三郎)は、原文が読めるので、内容の難解さはあるにので、理解には居らずとも、自身の世界観を拡張しえるものだと思いました。
世界神話に語り続けられてきた、悪とはなんであるかなど、輪郭が縮まっていく感覚があります。大本だけでなく、ひふみ神示の霊脈と言われる、黒住教、金光教、天理教も、開祖の原典がありますので、視点変換の影響は自己のみとなります。

キリストとキリスト教は、接点が無いというのは以前主張したところですが、むしろキリスト教から離れたほうが、イエスキリストの存在に迫れる気がします。
天理教、大本、ひふみ神示では、世界宗教となっている教えの元(開祖、預言者)は、全て一つながりのものだと降ろされていますから、キリストを知ることは無理にしても、上記の新宗教の聖典からのほうがむしろイエスキリストを知りえる、そんな気がしました。

オオトラさんの書かれている内容は、当方の経験上かなりの部分、分かるのですが、新鮮な視点ではあります。おやじさまが書かれたように、「わたしはそれこそ望ましい状態であると考えます。」と、当方も思います。

全視点の獲得まで、道は長い、です。


182. 宮島鹿おやじ 2013年2月17日 18:12:38 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
ろうし力学様

貴重なご指摘をありがとうございます。
多くの人の手を経て翻訳・解説されたものについては、その間に介在した人の視点そのものが混入している。まさにそのとおりと思います。

今回、私が最も問題視している概念が、「実体」というものですが、

これは、もともと、ギリシア語のヒュポスタシス → サブスタンティア(ラテン) → サブスタンス(英) → このあたり(英語でないとすればおそらくオランダとかポルトガルとかあたりから)から日本語訳で「実体」と翻訳されたであろうと想定します。

一つの用語そのものでも、このように変遷しているわけですから、ある人の思想などをその人の体験のレベルでリアルに感得することは極めて困難でしょう。

まずは「そこ」を踏まえたうえで、それでも私は、とりあえず、一つの思考の流れを提示したいと思います。いわば「叩き台」です。それを様々な視点から補正していただくというのはどうでしょうか。私は、もはや、どこからも指摘しようのないものなどは望んでいません。私たちに必要なのはとりあえず煮炊きができる素焼きの土鍋でもいいと思います。なぜ、そのように思うかはご理解いただいていると思います。本日はさきほど、またまた肉体労働から解放されて帰りました。ビールも飲んでしまい、妻子の顔をみてほころびています。


183. 宮島鹿おやじ 2013年2月17日 20:03:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
本日は、ある公民館の行うおまつりに参加していたのですが、たくさんのこどもたちが会場に訪れていました。赤ちゃん連れのお母さんも大勢いらしたのですが、私は「その場所」から、中国地方へ避難している母子を知っています。その方は、お子さんの尿を検査し、小さな兄弟二人とも、セシウムが検出されました。また、その方は数ヶ月分のハウスダストを採取し、放射能測定を行ったところ、kgあたり300ベクレル以上のセシウムが検出されました。そういったこともあって、その方は小さなお子さんを連れて、西国へ避難したのです。

まさに、「その場所」で私は、大勢の子供たちと、一年に一度の祭りを行っていました。こどもたちは、何一つ疑うことなく、大人たちの企画に喜んでいました。
私が本心から何かを言い出せば、私は確実に狂人扱いされることははっきりしていました。祭りを主催する地域の名士の方々は、盛んに「ここはいいところだ。地域の絆が大切だ」とスピーチしていました。

私は狂人扱いされることを恐れるために口を噤んでいます。
こういった場所以外では、本心を述べることはほとんどありません。

煮炊きができる土器でもよいとは言い過ぎました。

そして、多くのコメントをいただいた方々へ心からお礼を申し上げます。ここに、何らかの有益な知見が実を結ぶことを望みます。いや、もうすでにそれは表明されていて、私の認識領域に入っていないだけかもしれません。このスレッドが、私たち、あるいは閲覧してくださるたった一人の方に対してでも、反射し、共鳴しあう何かであることを祈らずにはおれません。


184. 2013年2月18日 20:54:00 : LSTKoUrrVs
わしはわしの知見が実を結ぼうと結ぶまいと 何の期待もして居ないのです
問題の大きさと個人の知見の対比なんて無意味と思っています わしはわしの組立
た 又は霊導を受けた方法の現実化と詳細な結果との対比と齟齬の発生とその修整
に自身のサバイバルを掛けているだけです 興味を持って貰えるかも?っー所に書
きこんで居るだけ自分が正しいとか此方の知見に誘導しようとかなんてカケラも
思って居ません 結果責任を負うなどの馬鹿馬鹿しい事は真っ平御免なのです
わしは習った気功その物自体を疑って自己的に検証して来ました 視点が問題と成
る事は何事に於いても発生する事です著者の権威の為に自身も判らない事を混ぜ込
むなど不可解な事例は多々有る様に思いますので総て自信の事例を持って確認しま
す従ってどの様な方法で物事を確認したかが一番大事と思って居ますが 何かもう
時間も無いし面倒になりました 人間の利益の為に年間百億以上の動物の命を奪って居る人間の魂や生命の永遠性などのお話は笑えるだけです現在96%の人間の魂
は消滅していると検知していますわしにとつての世界はそういう風に見えます
この世に興味が無いっーのはそう言う意味です 後は見てるだけですね

185. 宮島鹿おやじ 2013年2月19日 01:05:42 : NqHa.4ewCUAIk : qnYqHlCJZI
なんとなく、「終わってしまった」感が漂っていますが、私自身としては、何も終わっておりませんので、淡々と作業を継続させていただきます。


オオトラ様

私自身も、↑のほうで明記しているように、このスレッドで何か「新しい」ことが必ず起こるなどとは思っていないのです。私の「身の丈」から考えてみて、おそらくは、今までに発生した大きな不条理に対して、多くの人たちが行ってきた思索の一部を「なぞる」ことがせいぜいだと思っています。原爆投下、朝鮮戦争、ベトナム戦争、水俣病、イタイイタイ病・・・。多くの惨禍が繰り返される中で、私は、「高度経済成長時代」の恩恵を蒙っていました。つまり、いま、私が訴えかけたい「何も考えていないように見える人たち」の中に私はいました。そのように自覚しています。

繰り返すようですが、私がここで何かを記述しているのは、予め決定されたなんらかの思想に基づいて主張しているのではありません。つまり、私には皆様に語るほどのものがないのです。私が橋田邦彦という人物に注目したのは、まさにそのとき、思いついただけであって、あとはその流れに沿って進んでいるだけです。いわば、「出たとこ勝負」の楽観主義ですね。そして、何も分からなければ、「駄目だった〜」と天を仰ぎます。

かつて、この世の不条理に対しては、どうすればいいのかと、ある人に聞いたことがあります。そのとき、その人は、「自らの内面に向かいなさい」と言われました。私は、そのお言葉に対して、「この世の不条理に抗いたい」と述べると、その方はすこし驚かれた様子でしたが、何も言われませんでした。

私の目の前に起きていること、これを一言で表現すれば「絶望」以外のなにものでもありません。この状況を見て、「ああ、これは、古代の人身御供の儀式に通じているかもしれない」と私が言ったところで何の意味もないかもしれません。信じがたいような災禍が東北・関東地方に訪れようとしているように見えます。昨日のまつりのとき、「大人を信じている」小さな女の子が「愛情そのもの」の態で私に寄ってきました。そういった光景を思い浮かべると私は反射的に何かをせずにはおられません。

>何かもう時間も無いし面倒になりました

長いことありがとうございました。よろしければお見守りください。


186. 2013年2月19日 10:01:27 : LSTKoUrrVs
論旨が超飛びますが この宇宙が神の身体ならば(神は全宇宙に遍在している前提)
神の身体に存在する 癌 が人類に該当するか?などとつい考えてしまいました
地球がある臓器ならば石油化学製品に因る汚染とそれをエネルギーに人類大増殖
更なる汚染とエネルギーの乱費環境破壊の増進とまるで癌に蝕まれる事其の侭の
様な感じを強く受けます そして遂に放射線治療が始まった?地震天変地妖と外科
的処置も同時進行中?そして次に用意されている手段がレーザーか重粒子線?による
患部焼き尽くし?(太陽フレァ直撃)かなーなどと妄想が広がりそうで怖いわホンマ
わしはスェーデンボルグと全く逆に波動進化で意識の宇宙への拡大を目指している
そういう意味で鏡に映る肉体としての自分と別の自分の確立を目指しているのです
滅びを願っている訳では有りません欲界からの脱出と再びこの世界に帰らない為の
所謂 解脱 を目指している訳です(悟りでは無い)今総ての個人に突きつけられて
居る課題は余りに大きく重い 原発爆裂で驚天動地の驚きと従来とは桁の違う問題
に直面してのんびりと他人様の病気がーとかで無くなり自信の命の問題に成った訳
だ 相対的には宇宙周期の転換点に居る事は間違い無く総ての決算が求められて
いると言う認識は有るその一つの事象が魂の消滅又は飛躍と思っています わしは
飛躍の方に居たい 時間が無いと思う理由は物の波動を計ると食物空気水大地の
粗総てがマイナス3と出る マイナス4で消滅と成る 人々の波動はマイナス3を
過ぎてマイナス3の小数点での計測に入ってしまって居るどんな技術も死んだ者を生き返らす事は出来ないっー絶望の中にいるし前記の通りの状況では此れで良い
との思いも交錯する わし自身は大多数の人類に取って後三年は長いか短いかは
知らないが そんな物と思って居る 勿論生きている限りわしの手法の進化の追及
は続けるし求めが有れば適用できる場合は当然対応はする 千葉産スズキからセシが出たっーニュースの中で盗電の汚染水放出計画なんて話を見ると愈々癌の悪液質
の拡大本格化か?などとため息しか出ないねー何か出来る事有るのかな?ー 

187. 宮島鹿おやじ 2013年2月19日 18:46:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
お、オオトラさん、なんとなくもうコメントはいただけないかと思いましたが、やはりいただけるとありがたいものです。今日も寒い一日でした。なんと、今日、私は半日を、雪の中で川のほとりをほっつき歩いていたのです。頭が痛くなってしまいました。

>何か出来る事有るのかな?ー 

ほんとにそうですね。どうしようもないほど、事態は絶望的です。

また、ギリシア哲学の中心的概念に「substantia」というものがあるのですが、この言葉には、現代英語(substance)の中に、「物質」「真理」「観念」という途方も無いような意味を込められています。要するに何が言いたいかというと、グローバル化の中で、英語を使う人間が増えていくなかで、英語に洗脳される人間も増えているわけです。私は、ある異国の言葉を学習することは単に、言葉が使えるようになるだけではなく、ある一定の思考様式に染められるという認識をもっています。
そういう意味でギリシアに源流をもつ ヨーロッパ思想というものは、もはや、梃子でも動かぬほど、その言語に、また、それをつかう人々の血肉に、沁み込んでいるように思えます。そういう意味でも、私は、事態は本当に絶望的だと思うようになりはじめています。

本日は、これから、所用ででかけますが、よろしければまたコメントをしてください。よろしくお願いします。今は、おっしゃっていることが難しくにわかには飲み込めませんが、いつかは私も辿っていくべき道の先輩であると思っています。まー、今は、ギリシャなんですけど。


188. ろうし力学 2013年2月20日 02:31:27 : riuSNxeQ9qjU6 : 0OznuJyV76
宮島鹿おやじさま 皆様

>わしはわしの知見が実を結ぼうと結ぶまいと 何の期待もして居ないのです
問題の大きさと個人の知見の対比なんて無意味と思っています

とオオトラさんが書かれているのを拝見して、世界観の枠組み(パラダイム)そのものを、反転しませんか、
という問いかけを普段、当方は日常していることに気が付きました。
つまり自分には世界の変化への期待があるんだな、という事に気が付いたのです。

>論旨が超飛びますが この宇宙が神の身体ならば(神は全宇宙に遍在している前提)

世界観でいうと、私なら「宇宙に神が遍在」、ではなく、神が宇宙に成り成った、と理解しています。
そして、宇宙とは物質世界と反転した物質世界の裏表で構成されていると。
神が宇宙に成り成ったならば、人間の存在自体が神でもあります。
人間とは、かつて神であったことを忘れた神、のことであって、
自分が神であったことを「想起」していくのが人間の進化であると理解しています。

人間とは肉体ではないので、本性は意識そのものであり、その意識の進化とは何かと言えば、
世界の二元を一に還す意識の運動のことを指すのだと、幼少時に感じたものです。

裏と表、善と悪、右と左、女と男、前と後ろ、世界は二元によって存在している。

(その二元とはそもそも一体なものであって、しかし「一」であるものは、「一」のままでは
「一」で在ることさえ出来ない、「二」があって初めて、「一」は「一」に成れるのであって、
さらに存在を考察すれば、「一と二」では、そこで存在は静止してしまい、
存在は成り立たないのであるから、「一と二」を観察するものとして、「三」が無ければ
存在は存在に至らず、その「三」が成り立つには、「三」にとっての「二」、すなわち「四」が
現れるのが理。個々に、「一と二」の対と、「三と四」の対の対の「双対」によって世界は
初めて認識の上に立ち上がることになります。
それが「五」であり、世界にとってこの「五」が、1と現れるわけです。
「一〜四」とは存在以前の存在であって、五に内包されている、数以前の数と言えます。)

神道で言う、一霊四魂(一霊=五=1、四魂=一から四)です。

陰陽二元によって存在する宇宙を、元の「いち」なるものへ(観念として)帰一する、精神の作用、運動を
意識進化(意識=人間)であると理解するわけです。


>神の身体に存在する 癌 が人類に該当するか?などとつい考えてしまいました

人体は、人間ではなく、神の成り成ったものと理解できるので、人体に出現する癌細胞とは、
人体における調整作用の現れだと理解出来ます。癌はその時点で必要があって細胞が変身している状態です。
病気という「概念」は、人間が生み出した「考えかた」であり、病気は宇宙に存在していません。
存在しているのは、調整作用(バランス取り)。存在の意味が在るわけです。

人体を人間と定義し、肉体が己と観念すると、神の存在は人体以外に想定してしまうのが人間です。
宇宙に遍在するとするならば、当然人体にも遍在していると考えることは自然です。
遍在ではなく、人体も含めて全てが神そのものと理解します。

>わしはスェーデンボルグと全く逆に波動進化で意識の宇宙への拡大を目指している

人間とは、かつて神であったことを忘れた神、と理解する立場からは、物質宇宙へ拡大する意識というイメージでは、
人間と言う存在の本質からどんどん外れていくと感じるのは私だけでしょうか。

昨今のスピリチュアル思考の方向性は、「霊」を、何か物質的な存在のような捉え方をしているような気がしてなりません。
あくまで宇宙は、物質世界の延長としてイメージされ、その空っぽの容器のなかで、物質も霊も、一定の場所性を持って
小さく小さく「そこに在るもの」ととらえられている気がしてなりません。

見えている宇宙そのものが、人間が観念していることで見えているものに違いないのであって(量子力学)、
世界を世界足らしめているのは、他ならない「わたし」で在るはずです。
世界は「わたし」を取り囲んでいる大きな箱(空間)なのではなく、世界が私の内部であり、
私の内部に宇宙はあると考えるべきなのではないでしょうか。

>そういう意味で鏡に映る肉体としての自分と別の自分の確立を目指しているのです
滅びを願っている訳では有りません

言葉としての方向性は同じなのです。がしかし、肉体に自分は居ないのであって、
わたしの位置とは、見ていると感じている世界の方に、自分の本性は存在すると(段階的に)考える時代
(量子力学)に、ようやく至ったのではないでしょうか。
世界は決して滅ぶということはないものではないでしょうか。
滅びゆくのは、「物資しかないという世界観念」が今滅びていくのではないでしょうか。


>欲界からの脱出と再びこの世界に帰らない為の所謂 解脱 を目指している訳です(悟りでは無い)

霊魂の生まれ変わりというイメージ。
失礼ながら、霊をこのように捉える前提は、世界は物質であるという世界観ではないのかと私には思えるのです。
霊の根源は、全て一つながり、と精神世界では考えるのは、異論のないところではないでしょうか。
始源の大霊=神、人とは神の分け御霊と申します。

しかし、御霊をそのように微分してイメージすることは、世界を見ることで世界足らしめている意識=人間の在りかた
からすれば、パラドックスに陥ると思えてなりません。

>今総ての個人に突きつけられて居る課題は余りに大きく重い 
>原発爆裂で驚天動地の驚きと従来とは桁の違う問題に直面してのんびりと
他人様の病気がーとかで無くなり自信の命の問題に成った訳だ 

本当にその通りだと思います。

>相対的には宇宙周期の転換点に居る事は間違い無く総ての決算が求められていると言う認識は有る
>その一つの事象が魂の消滅又は飛躍と思っています

宇宙はその存在の根本的性質から、必ず「陰と陽の交代化」で、その永遠性が保たれているわけで、
メビウスの輪のごとく、一つながりの永遠性でありますが、表裏の切り替え点(特異点)が、
見ている立ち位置からは観察されます。

宇宙の新陳代謝が、今起きているのがわたしに観察されています。
転換が起こると、それ以前の人間の営みにおける、進化の影として存在させられてきた反映物(物質世界)は、
いったん解体されるのは仕組みであることでしょう。

その解体と同時同義なのは、人間という次元、つまり「唯物還元主義」という観念自体であり、
「わたし」という意識の内部における、進化の方向性とその影(反映)は、分離を起こし、
進化の意識は、自分が神であったことを想起して、新たなる宇宙(物質観念が消失した)の創造に
取り掛かることになるのではないでしょうか。

それをユダヤ・キリスト教においては至福1000年王国、日本では、みろくの世、ようきゆさんの世界、
となずけて語り、その世界建設が人間と言う存在の存在する意義だと説いたのではないでしょうか。

>わしは飛躍の方に居たい 

審判は、神がするのではなく、神は世界と成り成った時に、神の役目を終えたのではないでしょうか。
世界に仕組み(法則)を人知れずそっと置いて、神は消えたのではないでしょうか。

法則とは、永遠の弥栄です。
反法則とは、栄えず(自滅)です。

人間は、その法則に則って、どちらの側に意識が向いているか、それによって特異点での分離は起きるのではないでしょうか。
「最終戦争」の現場とは、我々人間の内に起こるのだと私は思います。

>時間が無いと思う理由は物の波動を計ると食物空気水大地の粗総てがマイナス3と出る マイナス4で消滅と成る 
人々の波動はマイナス3を過ぎてマイナス3の小数点での計測に入ってしまって居る

世界を世界足らしめている人間の世界観察の概念において、物質概念が解体していこうとしています。
「自分」の位置が、肉体にはない、見られている世界側に自分が居るという認識(量子力学)が、
地球人類の共通概念として立ち上がってくることによって、物質はその根底(物質概念)を失うことで、
物質は消え去っていくということになります。
それは人間という存在の解体を意味します。物質概念から解き放たれたものは、人間ではなく「ヒト」となります(段階的に)。

>どんな技術も死んだ者を生き返らす事は出来ないっー絶望の中にいるし前記の通りの状況では此れで良いとの思いも交錯する 

人間の本質は「霊」であり、霊は世界そのもの(イデア)であるから、肉体の解体は一時的な変換として起こるのでしょうが、
人間存在そのものに、「死」はもともとない、のでしょう。

>わし自身は大多数の人類に取って後三年は長いか短いかは知らないが そんな物と思って居る 
>勿論生きている限りわしの手法の進化の追及は続けるし求めが有れば適用できる場合は当然対応はする

もとより、人間に消滅はないのですから、神であったことを想起する途上に居るというだけと言えるのではないでしょうか。 

>ため息しか出ないねー何か出来る事有るのかな?ー

それはパラダイムシフトだと、当方は思っております。(話しの初めに戻りました)。

最終戦争は、己の内部で起きる「意識戦争」ではないでしょうか。

見ている世界は、己が写し出している、己の内部世界と解釈できるのですから、
世界を変えようと思い、眼前の物質世界へ干渉することで、自分が何が出来るのか、と思考する方向性のみでなく、
世界を生み出している本体=自分をトランスフォームすること、概念の転換、肉体ではないという意識の跳躍を
思索することも、世界に何が出来うるのか、という問いに対する「応え」となりうるのではと、私は思っております。 


189. 宮島鹿おやじ 2013年2月21日 07:19:22 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

おはようございます。

さて、私が私自身に対して課した課題である、ギリシア思想のアウトラインの提示についてですが、ご覧の通り難航しております。おっしゃるとおり、翻訳者・解説者による「なにか」の変質を想定する場合、原典を元言語において解読する必要があります。そして、その作業は私にはとても手に負えないことですので、最初からあきらめています。ご存知のとおり私は「余暇階級=学者」ではないからです。そのために、重量物運搬で腰痛を発生させるわけです。

もともと、このスレッドの投稿文にもありますように、最大の視点は「なぜ、福島のこどもたちは実験体のような扱いを受けるのか」という問いに発しています。

そして、その最大の理由は、「多角的な利権構造および権力」によるものであるという自明のものが最大であるということについては了解しています。こういった観点による分析は当サイトにて多数行われていると考えています。

しかし、かかる残虐行為を着手するにあたって、山下氏のようなすくなくとも「知性」を保持している存在がなぜ、実行犯として名乗りを上げるのか、いったい良心の呵責というものはないのか、主たる利権構造を前提にしても、なお残る、この「動機の正当化」「無感覚の通常化」の理論については、福島の問題に対する本来の「余暇階級」による分析はあまり聞いたことがないように思います。

まあそこで、労働階級=奴隷である私が、何か出来ないかとウロウロしているのが現状であります。そして、余暇階級の多くは権力のお達しに従い、何も無いかのような振りをしているのですね。そして、そのような酷薄さは、貴族階級の特質でもあります。

それでも、ろうし様のアドバイスに従い、せめて、あと何冊かの解説本を読んでみようと思い立ったのですが、面白いことに気がつきつつあります。というのは、私の小さな本棚には、今問題となっている事柄についての本がごろごろと転がっているのです。プラトンとアリストテレスの著作集もありました。(中央公論社 世界の名著)また、現在、読んでいる「ハイデガーの思想」(岩波新書 木田元)にも、プラトン以来の西洋哲学の根幹が解説されています。

かつて、これらの本を私は、ざっとは読んでいたはずなのですが、全く、わからなかった、身についていなかったということです。つまり、かつては、こういう本を読んで「理解できたら格好いいだろうな」程度の認識しかなかったのだと思います。しかし、今、読み返してみると、まったく別の本に「成った」のかといわんばかりに私に語りかけてきます。なぜ、そのようになったのかという原因について、ラッセルが以下のように記述しているところが、今の私には大層フィットしています。

・・・永遠なる何物かを探究することは、ひとびとを哲学へと導びくもっとも深い本能の一つである。疑いもなくそれは、故郷というものへの愛や、危険から逃れようとする欲求から派生する。したがってその本能が、災害に生活をさらされているひとびとにもっとも強烈であることがわかるのだ。・・・


まあ、愛する武蔵野に放射能をぶちまかれ、「頭からかぶり、尻に火がつく」という忙しさのなかで、私のような凡俗もようやく何かを考えるようになったということです。自分だけさえよければいいという考え方では、結局は自分も守れないということを強く認識しております。

また、自分なりの、「定式化」の問題については急いではおりますが、どんどん、深みにはまるというのが実感です。学者だったら良かったのにと思いますが、学者だったら何も言わないんでしょうね。そういや、ニーチェは、あまりに斬新な論文を発表して、学会を追放されたんだそうです。さっき読みました。


190. 2013年2月21日 09:41:39 : r52RRwrApM
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>しかし、かかる残虐行為を着手するにあたって、山下氏のようなすくなくとも「知性」を保持している存在がなぜ、実行犯として名乗りを上げるのか、いったい良心の呵責というものはないのか、主たる利権構造を前提にしても、なお残る、この「動機の正当化」「無感覚の通常化」の理論については、福島の問題に対する本来の「余暇階級」による分析はあまり聞いたことがないように思います。

「知性」とは、神の言葉の受信機ではないでしょうか。
「良心の呵責」については、科学者は「武士」の子孫です。
彼らは、新当流のようなものを体得しているのではなかろうか。
何人切っても、新しく切れる、ことです。
ですから、労働者階級から見れば、不思議に見えます。


191. 宮島鹿おやじ 2013年2月21日 13:29:35 : NqHa.4ewCUAIk : KMKELp5rSE
安芸ガラス様

コメントをありがとうございます。

今、昼食のテーブルから書き込んでいます。

「知性」という言葉については、これまた、多くの立場・観点からの整理があるように思います。

関連する言葉には、

理性(reason):超感覚的認識能力、
悟性(understanding):概念的・推論的認識能力、
感性(sense):感覚的認識能力

があります。(これは講談社現代哲学辞典「悟性」の項からの引用です)ソクラテスやプラトンにおけるイデアとしての知は、明らかに、上記の「理性」をさしているように思います。

>彼らは、新当流のようなものを体得しているのではなかろうか。
何人切っても、新しく切れる、ことです。

私は、そのようには彼らを認識しておりません。彼らは、何らかの呪術によって自らを縛り付けている夢遊病者のようなものではないかと思います。そういった連中が刃物をもっているのではないかと。

先週末にはなんらかの区切りをと思いましたが果たせませんでした。申し訳ありません。しかし、以降は、自らに期限を設けることはやめようと思います。急いではいるのですが、思うようには進みません。


192. 2013年2月21日 14:24:33 : r52RRwrApM
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>私は、そのようには彼らを認識しておりません。彼らは、何らかの呪術によって自らを縛り付けている夢遊病者のようなものではないかと思います。そういった連中が刃物をもっているのではないかと。

私は潜在意識が感じたものを、まるごと大脳が感じるようにアクセスしていると、思いますが。
概念に分けたりするのが「教育」ではないでしょうか。
そのさい、感覚や感情を置き去りにするのではないだろうか。

仕事では同じことを繰り返します。
私は仕事と云う、私の外からの論理であっても、刺戟とその関心の維持として、
同じ動作を、その都度、新しく新鮮な気持ちで、行うようにしております。

どうも、ここが分かれ目だと感じております。


193. あやみ 2013年2月21日 16:10:38 : oZZpvrAh64sJM : qeEgQQxoV6
こんにちは

物理や図学は、太古のもとより「神との対話法」だったと思っています。その「対話法」が時とともに「代弁法」にかわり神との対話はおろそかにされだし、民衆には代弁人の言のみが届くようになります。
「神の言葉」を複雑なものに演出したのもおそらく代弁人たちです。民衆は代弁人抜きで神の言葉を理解できなくなりました。そうされたのでしょう。

ここで申し上げました「神の言葉」とは「自然のことわり」のようなものとご理解ください。その対話法として物理・図学をあげさせていただきました。代弁人とは当然科学者です。

「物理・数学」を「神学」「医学」「法学」などなど、いろいろ入れ替えてみると「代弁人」もいろいろ入れ替わります。お試しください。


194. 宮島鹿おやじ 2013年2月22日 07:58:56 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。
どうも、私には、「新当流」とか「新陰流」という言葉には、対象に真摯に向かい合った尊敬すべき何物かをイメージしてしまいます。何かをうち立てた人、あるいはそれに共鳴した人のイメージです。私が軽蔑するのは、人に重き荷を背負わせておきながら、自分は指一本触れようとしないような連中のことです。(マタイ23−4)

肉体的労役に対する軽蔑というものが、西欧文化に共通しているように思われます。まずは、自身の体を動かして(動かせる範囲で)対象と格闘し若干の痛みを理解するというそういう訓練が本当はやはり必要なのではないかという気がします。


>私は仕事と云う、私の外からの論理であっても、刺戟とその関心の維持として、
同じ動作を、その都度、新しく新鮮な気持ちで、行うようにしております。

なにかの概念を考えるに際しても、ご自身の言葉において思考されている=使いこなしているご様子が伺われます。それに対して私はいかにも教科書的です。


あやみ様

おはようございます。

>民衆は代弁人抜きで神の言葉を理解できなくなりました。

少なくとも科学の分野において、科学者は自分たちを真理に仕える特権的な司祭であるという認識をもっているようです。この掲示板サイトでも確認できました。

また、国家と民衆の関係は、なんらかの下心があって手元に置いておこうとする親と、とりあえず娯楽と食料が供給されるので親元を離れないこどものような関係のように思われます。何にしても重要なのはこどもの親離れであると考えます。


195. 2013年2月22日 11:44:25 : 6M5mKrRWgA
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下、2点の箇所は大事です。

>先週末にはなんらかの区切りをと思いましたが果たせませんでした。申し訳ありません。しかし、以降は、自らに期限を設けることはやめようと思います。急いではいるのですが、思うようには進みません。

期限の使い方ですね。


>また、国家と民衆の関係は、なんらかの下心があって手元に置いておこうとする親と、とりあえず娯楽と食料が供給されるので親元を離れないこどものような関係のように思われます。何にしても重要なのはこどもの親離れであると考えます。

「こどもの親離れ」は、自分の力の発見と独立のことですね。

ここで期限の使い方が出てきます。
期限を設けるのは、自分の力で独立していく機会をつくりだすことになります。

自分の力を発見すること、独立をすること、期限を設けること(設けないこと)を重ねると、人生の工夫、自分に対する、あるいは人に対する、働きかけが出てきます。

さらに以下の関係につながります。

>私は狂人扱いされることを恐れるために口を噤んでいます。
こういった場所以外では、本心を述べることはほとんどありません。


196. 宮島鹿おやじ 2013年2月22日 18:37:31 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

ただいま帰りましたが、これから、また所用ででかけます。

また、お目にかかります。


197. 宮島鹿おやじ 2013年2月22日 21:46:27 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

少し説明が足りなかったようですが、

私の親戚、職場、ご近所では、私が「活動家」であることは周知のことです。

街頭での署名運動や、被災者支援活動などはやっています。

私が「口を噤む」のは、日常において、道ですれ違う小さな子供を連れた親子や、結婚したばかりの職場の同僚に対して、「ここは危険かもしれないから避難したほうがいい」と言わないことを指しています。

キチガイ扱いされるだけならいいのですが、本当に措置されるのは困るのです。


198. 宮島鹿おやじ 2013年2月22日 22:16:15 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
さて、先ほど所用から帰りましたが、疲労がひどいのでひとまず休みます。
現在、「ハイデガーの思想」(木田元)を読んでおります。ラッセルのギリシア思想解説と対比することが目的です。

ここで、興味深いことを報告します。ハイデガーは、決して円満な人徳者ではなかったという証言が多々あることです。狡猾な野心家であったと。しかし、彼のその後のヨーロッパ思想への影響は絶大であるとされています。

一方で、橋田邦彦氏はきわめて誠実で、その研究室のモットーは「名利を求めず」というものであったというのです。
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/yokota/y-koengenko.html
 
個人の性質や意図を超えていくなにものかを感じずにはいられません。

なお、私自身、この考察の果てに何か実りあるものがきっと生まれるとは確信しておりません。皆さんの大切なお時間を浪費してしまう可能性もありますので、その点はご承知置きください。


199. 2013年2月22日 22:27:48 : 6M5mKrRWgA
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。
私の方こそ、説明がたりませんでした。

>人に対する、働きかけが出てきます。

マルクス風に云いますと、「五感をわがものにする」ことです。
私と相手がひとつになってお互いが変化をすることです。


200. 2013年2月23日 10:46:18 : LSTKoUrrVs
オオトラです 

ろうし力学さま

私の当初習得した 気功 は御存知道教別名仙道とも言いますが当時は仰る通りの
宇宙論所謂大極が分離して陰陽の二極に何ら云々と教わりましたがインド哲学の
サーンキャ哲学の宇宙流出論に合理性を見出しました この様な議論に於いては
すべて仮定からの出発に成らざるを得ませんが高次エネルギー世界の物質的な
センサーでも有る 肉体 に於いての思考の結果の又は行法の結果の反応に因って
その一端を知る事が出来ると思っています すなわち 始原の大霊?の分け御霊と
想念で実際に感じる事が私には出来ません まぁ能力的に劣って居るのか?っー
疑問も当然発生しますが?気功的に言えば陰と陽だけでも非常に煩雑なのですねー
先人や先人の残した理解に対する疑問は当初から現実問題として発生しました
径脈論に従った施術で癒しが不可能っー現実が発生して当時はお飯の原資でも有り
困っちゃった で 偶然右半身と左半身では気の流れが正反対ですと教わり疑問が
氷解 更に男女の気の流れは鏡像で有ると教わり 此れの確認の技術は当然持って
ましたからあぁやっとまともな先生に出会えたと感激した物でした わたしの頭の
構造は理論は仮定で有って証明不可能の世界で好き勝手言う人が多すぎると検証の
世界で有って信仰の世界に興味は無い と 言う物ですわたしに取って多くの問題
の解決の為の具体的技術技法が一番大事と考えて居ますので有名人や大家などの
発言とか表した物を鵜呑みなど絶対にしません 超難解な物は脇に置いて置きます
判らない事を考える事は時間の無駄ですから 但し面白い事に検知では此れが何時頃判るとかの有る程度の判断が出来るのです 当然有る程度の宇宙観や世界観が
無ければ具体的技法や技術は想定さえ出来ません わたしに取って当然の世界観
が意識領野の広がりの狭い人の場合は当然の如く 基地外 の戯言になりますねー
まぁ最近は時間が圧縮された様に異様に進展が早くて対応に四苦八苦しています
が現在は意外と楽しく感じていますねーインド哲学?のヨーガに因れば死後肉体
エーテル体アストラル体メンタル体まで総て分解して滅びると有りますから 霊と
魂は明らかに違う概念として私は捉えています 働きかける技法も違いますから
私に取ってこの事にひとかけらの疑念も有りません 久ぶりに物書いたらハチャ
メチャな文に成りました すまんこってす


201. ろうし力学 2013年2月23日 12:10:56 : riuSNxeQ9qjU6 : FVfQJ8R1lU
オオトラさん

いえ、めちゃくちゃではありませんよ。
キチガイでもありません。
文体は個性的ですから、読みにくいですが、内容はわたしには普通です。


202. 宮島鹿おやじ 2013年2月23日 12:16:58 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ここ数日「こうではないか」と思っていたことが、ある用語辞典の中に見出されたので、とりあえず、それを引用します。

〜引用開始〜

現代哲学用語辞典 講談社 項目「真理U」 より

真理U

<根源的真理と相対的真理> 
 人間が生きるということは自由意志による判断・選択を本質としている。それ故に人間の諸活動において何が真理であるかということが常に問い続けられる。しかし人生にとって最も根本的な問いはそれら個別的真理の根底にある根源的真理が何かということである。かかる真理は唯一でなければならない。しかるに現実には人々はそれぞれ異なった真理を主張する。要請と現実とのこの矛盾は既に『リグ・ヴューダ』の詩人によって、唯一なる神を人は種々の名で呼ぷ、と詠われ、多相のもとにある唯一という観念によってこの困難を解決しようとする。特に紀元前四、五世紀の思想の混乱期には多くの思想家が輩出し、異説をとなえたが、釈尊は、この抗争によっては諸思想の相対性を表わすにすぎないという立場をとり、これを超えようとした。仏教はその後種々の思想的発展を遂げ、相互に著しい相違を示すに至るが、その段階になると再び同じ立場が表明されて、三乗は一乗にほかならないと説かれる。また後代のインド哲学においては自説の立場から諸思想体系を概観する綱要書が作られたが、諸思想に対して相対的位置を承認する意味をもつ、諸思想を宥和的にみる態度は今日に至るまでインド思想の特色をなし、ラーマクリシュナ・ミッションなどの国際的な宗教活動を生んでいる。

<絶対無差別の体験> 
 ところで宥和の立場は単に無制限に一切を承認することに尽きるのではなく、絶対的な真理の自覚に裏づけられている。諸立場は絶対的な真理の種々なる現われである故に存在意義を有する、と同時にそれのみが絶対的なのでほない。緒立場は絶対に至る異なった道である。絶対とは一切の相対を超えた絶対有であり、同時に絶対無である。真空なる妙有である。それはインド哲学諸派ではアートマン、ブラフマン、唯一者、有などの名で呼ばれ、仏教では涅槃、無我、真如、如来蔵、法性などと称するが、本質的には深い共通性を有し、概念的な思惟分別の領域を超えて、神秘的体験において直接に体得される世界である。この絶対無差別の体験的な獲得が解脱であり、インド思想が等しく目的とするところである。


諸体系の形而上学はこの絶対を概念化する試みであるが、概念の体系を却って絶対視する誤に陥っている。


般若経典や『中論』は絶対と概念あるいはことばとのずれを否定の方法によって厳しく追求した。これはことばを超えた絶対的真理(勝義諦)とことばにもとづいている相対的・世間的真理(世俗諦)という二重真理の問題として仏教では早くから論ぜられているが、特に中観派において詳しく論議されるにいたった。
(今西順吉)        〜引用終了〜


私が特に着目したのは、段落を分けて記載した部分です。
全体としては、インド哲学・仏教に依拠した内容であり、「本質」などといった気になる用語も使用されていますが、いま、私の頭の中を整理するうえできわめて有用と思いました。危険をあえて承知で言うならば、プラトンは、勝義諦と世俗諦を混同させたといえるのではないかと思います。



203. 宮島鹿おやじ 2013年2月23日 12:25:54 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
言葉は心を超えない

とても伝えたがるけど

心に勝てない

        CHAGE & ASKA 「SAY YES」 より

また、「不立文字」の意味がかろうじてわかったように思います。


204. あやみ 2013年2月23日 17:45:03 : oZZpvrAh64sJM : qeEgQQxoV6
こんにちは


>かかる真理は唯一でなければならない。しかるに現実には人々はそれぞれ異なった真理を主張する。

ひとそれぞれの「知覚」の違いがその原因となる。

ゆうべたまたま見ていた番組でそういったことが議論されていました。それによれば、蟻が象を知覚したとき、それぞれの蟻が違うことを言い出すだろうということです。蟻とは我々で象は真理にあたります。うん、これなら私にも理解できます。(ただし人間より蟻のほうがよっぽど賢いかも知れないという危惧もありますが)

さらに
>概念的な思惟分別の領域を超えて、神秘的体験において直接に体得される世界である。

というのが古代インドからこの地域に息づく「真理」であり、それに対し教義にもとづく信仰によりそれを受け入れるのが地中海地域における一神教信仰です。

抜粋の中で最初に出てきた「真理」という言葉は「唯一」と「絶対」という言葉で形容されています。一神教での「神」を形容する言葉です。

やはり真理は存在し、唯一であり、絶対であることには変わらないことになります。「真理」と呼ぶか、「神」と呼ぶか、「摂理」と呼ぶかは知覚法、獲得法の違いから生まれた差異であるでしょう。

やはりおやじさまが着目された部分が大問題になってくるのだと思います。

信仰により受け入れるのか千人中千人弱であれば神秘的体験において直接に体得できるのは千人に一人です。しかし前者は「効率がよい」かわりに概念の体系そのものを絶対視し勝ちになります。なぜなら絶対真理とのあいだに介在するものがあまりにも多いからです。

結果、理論の暴力や戦争などの実力行使は、どう贔屓目に見ても一神教世界のほうから発信されています。


205. 宮島鹿おやじ 2013年2月23日 20:48:55 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

コメントをありがとうございます。

なお、先ほどの「真理」に関する引用ですが、形而上学における絶対の概念化の陥る問題という点において、プラトン以来の哲学の問題を凝縮しているように思われたために掲載しました。絶対的真理が存在するかどうかについては、私個人としては、基本的には「保留中」ですが、限りなく「解脱」というものは存在するに違いないという感触を持っています。明晰判明な証拠はありませんが。

ろうし様やオオトラ様はまさにそのような道への実践者であるのだと思います。


206. 2013年2月23日 22:06:17 : LSTKoUrrVs
オオトラです

宮島鹿おやじさま

解脱は釈迦の教説の根本なのですが 定義ははっきりしています この苦しみに
満ちた世界への輪廻転生を繰り返さない為の有り方のポジション的段階の事を
指します 釈迦は十二演義(文字は正確性を欠くかも?)に依って転生の順を表し
その原因を渇愛と説きました 指標的にはメンタル体の進化段階5以上の進化
した魂(私等はモナドと呼んでいますが(厄介な事にこの用語は神智学にも有り
用語の混乱と意味の混乱が起きていますが)は再びこの欲界に転生しないっー
意味です 従って悟りとは全く別の概念に成ります 詰まり性格は別にしても
ある程度の成績を取り卒業すれば元の世界への強制帰還は無いっー意味です
従って解脱はしているが行いの悪い人とか神が存在する事に成ります丁度東大出
の何の為に勉強したのじゃと言いたい奴が居る様にね官僚が収入から待遇も良い
扱いを受けながら禄でもない自己保身ばかりとか利権の追及ばかりとかと似た様な
事態も当然有ります 結構複雑怪奇な世界では有りますねー


207. ろうし力学 2013年2月24日 01:40:55 : riuSNxeQ9qjU6 : RxJtylE7p6
宮島鹿おやじさま

>概念的な思惟分別の領域を超えて、神秘的体験において直接に体得される世界

>概念的思惟分別を持って、既成領域を超えて、普遍的観察体験において、直接知覚にて体得される

この表現をお借りして語ってみれば、

「思い込みの排除によって、見る見えるという行為を取り戻して、自己の体験を受け入れていく」となるなとおもいました。

それで「不立文字」の意味を語れば…

まず私は、釈尊は「悟り」には至ってなかったと、今までの聖人聖者のいずれの方々も、悟りには至っていなかったと、今では捉えている者です。
(これこそ「基地外」だと思いますが笑)。

(以前は至ったと思い込んでいた)。
そう捉える根拠はありますが…、当然聖人偉人の方々の宇宙(存在)への理解はワタクシの一兆倍ほどの高いと思っていますが、「悟り」には至っていなかったと捉えています。

つまり、オオトラさんのお使いの「悟り」と、当方の言う「悟り」は、違っているという事だと感じますし、また「モナド」も違いますね(*神智学とも違うんですけど)。

同じ文字であっても、そこに殆ど共通性はないのですね。ですから互いに論じることは無理があるのですが、
あえて文字には現せないという、「不立文字」だと、以前は私も思い込んでいたのですが、今の私は「文字に出来る」と捉えてています。

悟り、よりも、解脱、ですが、現今の「解脱」そのものは、翻訳語ですから、実際、釈尊がどのように言い表したかは、解りかねるわけです。
それでも現在、解脱には、一定の定義はなされているわけで、そこはオオトラさんの書かれている通りかと思います。

と、以上をふまえての当方の言説でありますが、まず「解脱」とは、武道の達人が「無為自然」の境地へ至ると、もうその入口に入っている、すなわち「自我の消失」(の入り口)です。

為を無にして、自ら然るに至る。自我を消失させて、存在が本来在るように在る、に至る。

自我の消失とは、いったいどうのような状態でしょうか。
自我が無いのですから、他者もない、言うなれば「自他一体」であるわけです。
自我の消失は他者世界をも消失させている。

他者世界とは、つまり「目の前に見えている世界」でもあるわけですから、見えている世界と見ているワタシ、の構図(これに我々は100%どっぷりです)から、見ている世界と見ている自分が一体である、という状態に意識が至る(と言うか気付く、ですね)わけです。

ここで思い出されるのが、量子力学から導かれる知見(コペンハーゲン解釈など)です。
量子の振る舞いは、確率の波であるのが観察によって事象へと収縮するわけですから、「見られている世界側にも、自分という存在を認めざるおえない」ことが、「直観的」に明らかになってくるわけです。

直観的という言葉は、見るという行為に、概念を与えない、ということです。(直達正観)

物質も事象も、量子によって成立しているわけですから、量子レベルで理解されることは、日常レベルでも同じことのはずです(科学はそこを分別している)。
一つの量子への観察行為も、眼前の他者への見る行為も、そこには本質的な違いはないと考える方が、おかしくないのです(切り離して考える科学の前提には無理がある、だから矛盾が起きる)。

前置きが長いですが、量子世界の見る見られる関係とは、見られるものと見るものとは不可分な存在そのものである、という事です。一つの実態の裏と表、「表裏一体」の観察(のねじれがある)である、というわけです。

解脱の解釈が、ここで結びつきます。
見る見られる関係性に、他者世界と自己世界の線引きを排して、存在は一体であることを思い出す、という事が解脱の入り口であるとここでは言っています。

存在の一体性が失われて、自我(世界とは切り離された自分という認識)が生み出される原因とはなんでしょうか。
それは、見る世界に、他者が居る、という他者存在を想定してしまった、世界認識の在り方から、自我が形成されるというロジックが浮かび上がります。

見る、という行為には、自己の原体験があるはずなのですが、赤ん坊の世界にはそいうプリミティブな原体験が在るだけであるのは、彼・彼女らの描く「絵」が平面二次元である、つまり正確に二次元でみたまま描いていることから、世界は見えたままであり、そこに自己と他者の別は(0歳1歳ほどには、)未だないわけです。
あるがままの世界であり、物や他者の手前に、自分(と思う肉体)が配置されているという認識は持っていないわけです(乳児は量子的世界の意識状態)。

そこに他者としての肉体が動き回ることで、そしてそれがいつもワタシを指し示すので、どうやら目の前の世界(他者とは言わない)は、その語りかける先(*後の自分の位置)に、目の前と同じような「身体」があって、それがどうやら「自分」というものらしい…と、見ている世界にアレンジ、装飾、解釈の手垢を付けていく分けです。

それ故に「ものごころ」が付くと言い表すわけです。世界が二次元で体験していた中に、物質(もの)と空間があって、その手前に自己(こころ)が在るのだという、三次元化が起きるわけです。

そうして、他者世界を前提にして、自己の位置が想定されて、自己と言うのも見えている他者世界のようで「あろう」という想定のもと、自己を規定していくわです。

つまり、私たちは自分、と呼んでいますが、実際のところは他者世界の想定を前提にして、自己もそうなのであろう、という他者世界のコピーを自分と規定している分けです。

そりゃそうです、誰でも自分の顔なんか見えないわけですからね。

他者世界を180度回転させて、自己側にもそれと同じ世界を想定することで、自己と他者が同一の「空間」に置かれた「肉体」であると。

世界の直接的体験から転落し、自己が肉体という仮定の「バーチャルワールド」の住民となっているのが、私たち全員なのですね。

ということは、自我の消失の第一歩は、見ることの原初体験の中に想定した、他者世界、というか他者存在を排することで、見る見られるの一体性を思い出すことからだということになります。

ですから、宮島鹿おやじさまと当方が、以前から量子力学の世界観(科学)を手掛かりに、既存の世界認識の体制を、ブレイクスルーする、そう言うツールであろうと直感する、という共通性共時性が、語る中にある、と思うわけです。

科学的認識に終焉をもたらすのは、科学自体の力による、そう考えているわけです。

それが、「無為自然」、つまり自我の消失、見る見られる世界の一体性への回帰、つまり「解脱」への方向性ではないのか、ということですね。それ故に、それは「文字にも数字(幾何)にも現すことが可能」と認識しているし、そういう、「科学的認識の限界」が明らかではなかった時代には、聖人聖者であっても「悟り」は生まれようが無かった、と言うわけです。

インド哲学の体系の中には、「戻ってきてはならない」という記述があるように思います。
転生してくるな、と言うことになるのですが、当方も子供の時にはそう考えていましたし、この世界は魂の修行場なのであろうと考えておりました。

しかし、その魂観念が、いかにも唯物観念的認識の中での思索であり、魂までも物質化させている矛盾だらけの認識であると気が付き始めました。

空間をさまよう、手応えなき霊魂というイメージ。その霊魂が、肉体に乗り移って、繰り返し人生を体験するという人間観。

空間を思考するうちに、空っぽの空間とそこに嵩張りを持った物質、そして肉体という着物を着た霊という自分が、幾度も幾度も転生を繰り返す人生のイメージとは、大きな誤りではないのかと考えるにいたりました。

仮に、物質世界観念の前提に立って語るとしても、私は魂の輪廻転生は無いと捉えています。
では、自己が過去の人生の記憶らしきものを持っているのはどうしてなのか、と考察して見つめたのは、人間存在とは、多重性であるということです。

人間は、本体、霊体、幽体、肉体と折り重なった存在であるばかりでなく、その背後には、守護する霊が重層的に存在している(実際は表現が違うが、物質的観念で言い表すと、こうとしか言えないので)、そのために、守護の存在が自己の意識と折り重なっているので、あたかも自己が過去生にて人生を体験してきたように、感じ取れるということです。

転生とは、個人に起こることではないと見えてきたということです。
何故なら、ワタシというものが、世界そのもの(自他一体)である以上、転生は「世界そのものにおいて起きる」ものであって、それこそが「ビックバーン以前の、虚時間宇宙」と実時間世界(今の世界)の、交代化サイクルそのものであろう、という事です。

つまり、「輪廻転生」という事についても、現代物理学のミクロ(量子力学)とマクロ(宇宙論)の両側の「特異点」の連結(極大は極小と互いに入れ替わりが可能。)、だから、ビックバーンの瞬間という超ミクロは、現在もっとも巨大なスケールである宇宙の極大空間に観察されてしまう、そういう「見る、見られる」という反転のロジックがあるわけです。

無為自然…世界の一体性の回帰とは、世界から他者(の想定とその視線)を消失させる(今はロジックは省略)ことから、自己他者を不可分と認識しなおすことから始まり、それは自己にとって、観察が不可能であるにも関わらず、『信じて疑わない、背後空間が背後に広がっている』という「錯覚」に目覚めること。
同時に「目の前に奥行きをを想定しているのを改める」ことに、段階的に至るということになります。


面白いことに、このようななことを言葉で論じていると、どなたのおっしゃっていることよりも遥かに難解なロジックを語っているように受け止められている、とう事です。

しかし、実はやっていることとは、一切の「頭」を取り去って、何の虚飾をも払いきって、眼前の世界を「そのまま見る」ことを、言葉で説明しているだけで、この説明が難解のように感じてしまうのは、それだけ現状の我われが陥っていて、解体を必要としているゲシュタルト(世界認識形態)が、手垢にまみれ、ありのまま世界を見つめられていないのか、思い込みで雁字搦めになっているか、ということが理由なのですね。

(解体すべきことが根深くて、逆変換の意識作業を、文字で追っていくと難解に感じてしまう。)

それが、釈尊が「世界をありのまま見ればよい」とおっしゃったことが、数千年たってもちっとも我々現生人類に明らかになってこない「因」、になっているということなのではないでしょうか。


208. 2013年2月24日 14:25:20 : LSTKoUrrVs
宮島鹿おやじさん

問題は同じ文字であっても共通性が殆ど無いっーのが現実でわしは気を使った癒し
の技術屋で有って必要に迫られて少しエネルギー世界を齧っただけですから如何し
ても話に壮大さは薬にしたくても有りませんのじゃ 悟りっー事に関してもわしの
理解は意識領野の拡大の一定の領域を超えた瞬間に感じる物として捕らえています
から 悟りなんて山ほど有るっーのがわしの見解ですのじゃ 現実の生活の中で
何人かの身体の施術をしている身としてはその時に技術的な急激な進展が有る事
が一番有り難い ハッキリ言って人の悟りなどは判らん皆其々思って居れば良い
と思って居る おやじさんは 絶対無差別の体験的な獲得 と書いて居ましたが
わしは原発爆裂後 水 空気 大地 食品 等の浄化手段を考えていた時に其々
に意識や身体が有る事を感じました 詰まり自己を意識する力が有るか如何かの
知見が生まれた訳です其処から余分なエレメンタルシステムのエネルギーを分離
して安全な物にする為に必要な波動の抽出と言う具体的技法に入って行った訳です
簡単に言うと 存在世界の区別に依って波動的な影響を受けない状態を作るっー事
です 結果の確認は対象物の波動の上昇で確認していますが此処で数値化の必要性
が出てきます ろうしさんの仰る 直達正観 がおやじさんの仰る解脱かなーっと
思ったりしています 後わしは武道も齧っただけで極意も何も判らない半端者です
が 自我の消失と言うより我執の消失では無いかと思っています但し一時的な物で
恒常的に維持出来ないと思っています 但し我執に対しての分析は今現在行って
居ませんのでっーか今の所必要を感じないので無責任な突発発言ですが済みません
今の所未熟者を自認していますので 絶対的 とか 本質的とかは中々言えません
まぁ 進み方は カメ ですねー


209. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 18:34:29 : NqHa.4ewCUAIk : Wm6bWijrvI
オオトラさん

貴重なコメントをありがとうございます。
不可視に対する取り組みについて、私とオオトラさんの立場・視点の違いをいろいろと考えていました。私とオオトラさんで共有しているイメージで考えるならば、オオトラさんは、試合に臨む選手であり、私はその熱戦が、それを見守る観衆にどのような影響を与えるのかをさらに見ているという立場だと思います。当然に、その実践へ勇気と苦闘に対し、深い敬意をもっています。オオトラさんとろうし力学さんの会話・コメントは、このスレッドにおけるもうひとつの隠された主題であると感じられます。

神秘的な体験、悟り、解脱、こういった稲妻のような事象が、まずあって、その後、それをどう表現するかということで、それを中心としたさまざまな企てが行われ数多くの悲劇と喜劇を生んで行ったのではないかと感じます。

現在、プラトンの「パイドン」をとりあえず一回読了しました。

まずは、超越的存在への邂逅を目指した人々、そして、それを概念で表現しようと苦闘した人々への深い感謝と敬意を表したいと思います。



210. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 19:09:48 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ここで、口幅ったいようですが、私の視点というものについてご説明しておきたいと思います。この辺は以前投稿したスレッドにおいて若干触れられており、安芸ガラス様はご了解いただいているところのものと思います。

私の考察の「癖」といいますか、見方として、「構造主義」というものがあることを申し述べます。なにやらカッチョエエ言葉を持ち出したわけですが、要するに、ある人が本心から何かを述べたとしても額面通り受け取らないというひねくれた考え方です。

ある人が何かについて述べたとき、その人が考えて何かを言っているわけですが、その人の思考に無意識に影響するなにかを「構造」と考えます。具体的には、その人の自然環境や社会構造そして重要なものとして言語などが挙げられます。

というわけで、私が、何かを引用しているときは、その言葉を鵜呑みにするどころか、頭から疑って掛かっています。

今回の投稿文の主題は「猫にすら行わないような残虐行為が人間の子供に対して行われている」というものです。

そして、その残虐行為の首謀者である人物の人脈に「橋田邦彦」という人物があることが確認されています。この人物は、「行としての科学」という概念において西欧科学と東洋的な何かを結合しようと試みているように思われます。一方で、挙国一致的政治状況において文部大臣に任命され、国民の「臣民化」を推進したという経緯も確認されています。

このことを分析するために、まずは、橋田氏のいう「主観・客観」問題を整理するために、デカルト→スコラ哲学→アリストテレス→プラトンと行ったまま、還ってこれなくなっているのが現状です。

最終目標としては、橋田氏、山下(呼び捨てですが)らの思考の「構造」をいくらかでも解明することで、かかる惨事の間接的原因の具体的解明を目指しているのですが、あまりにも巨大な問題であることが明らかになり、投稿者も瀕死の状態になりつつあります。(当然直接的原因は、敗戦後継続する一貫した支配であり、それに結びついた利権構造、個々人の無責任な名利追求があることは自明です)

繰り返しご意見をいただいているように、この作業に意味があるのかどうかは自分自身わかりません。しかし、意味なるものは、客観的に実在しているのではなく、あくまで、個人個人の主体的態度によるものであると思うとき、やらないよりはやったほうがまし程度の感触は持っております。

当初はある程度のギリシア思想についての「まとまった見解」を述べようとしましたが、それすらも困難であることがわかりつつあります。よって、もう、こんな感じですというレベルで何かを提出していきたいと思います。「そりゃ違うよ」と思ったら遠慮なくご指導ください。よろしくお願いします。なお、「違うよ」といわれても、「そうかもしれない」と言いつつ、次々に思うところを述べるつもりです。体系的で整理されたものなど望むべくもないと開き直りました。


211. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 20:55:06 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
(以下、「◎」ではじまる文は主な主張。「・」ではじまる文は補足的文章としておきます。)

◎プラトンの思索には、ヘラクレイトス、パルメニデス、ピタゴラスらの影響が見て取れる。
ヘラクレイトス:万物は生成流転しており変化している。
パルメニデス:万物は一つであり、変化していない。
ピタゴラス:究極的実在(アルケー)は「数」であり、秘教的瞑想により数学的知識を獲得することが可能である。
プラトン:
「我々の日常的に経験する世界は変化している、そこから得られる知覚は虚妄にすぎない(ヘラクレイトスからの影響)」
「日常的感覚を超えた世界が実在し、その世界についての知識こそが真実である。(パルメニデスからの影響)」
「日常的感覚を超えた世界とは、イデアの世界である。」
「『真円』というものを私たちは心に描くことができる。しかし、それはこの世には実在しない。(完全な円を描くことはできない)よって、そのような不完全な円(知覚的なこの世における円)に対して、理想的な真円を、そのような意味におけるイデアという。(幾何学からの影響)」


212. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 21:12:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
◎プラトンの師であるソクラテスは一般に弁証法(ディアレクティケー)と呼ばれる対話術を用い、様々な人との対話の中から、対話する相手の思いもよらないような結論(一般的命題)に至ることを得意としていた。しかし、私たちの視点から見れば、日常的経験や事物といった事象をもとに帰納していったとしても、当然に、ある程度の蓋然性をもった命題に至るのがせいぜいであると考える。しかし、プラトンは、こういった議論においても、具体的事物、例えば花などの自然的存在や、寝台といった製作物的存在さらには、愛や美といった抽象的概念にも、これらに対応する「ものそのもの」としてのイデアを想定することによって、議論そのものを「絶対的真理」を産出するための言論(ロゴス)と考えた。

・プラトンの著述においては、ソクラテスを対話の主人公としている場合が多いが、そこにおいてソクラテスが語る内容は、ソクラテス自身のものであるか、プラトンの思想をソクラテスをして語らしめているのかは不明である。
・幾何学においては、自明であるところの公理(一般的命題)から出発して「演繹的方法」により、絶対的正しさをもって諸定理(個別的命題)に至る。しかし、帰納的方法においては、諸事実(個別的命題)から出発して、最終的には一般的命題に至るが、その結論に関しては蓋然的な正しさしか保証されていない。


213. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 21:21:44 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
参考 HP

ヘラクレイトス、パルメニデス、ピタゴラス、ソクラテスについては以下のHPがわかりやすく大変参考になりました。
http://philosophy.hix05.com/index.html


214. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 21:43:01 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
・古代ギリシアにおける自然に関する思索が始まる前の、一般的世界観については>>138参照

「事物は、みずから発生したところの元のものへ、もう一度帰ってゆくのが定めである。なぜならもろもろの事物は、みずからの不正のために、定められた時間に従って、相互に償いをして満足させあうからである。」(アナクシマンドロス)

・プラトンに強い影響を与えたとされる、ピタゴラス主義は、当時信仰されていたオルフェウス教の改革運動であり、そのオルフェウス教が、ディオニソス信仰の改革運動である。(ラッセル「西洋哲学史T」p41より、なお、この記述はコーンフォード「宗教から哲学へ」からのラッセルによる引用である。)


215. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 22:37:38 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
・なんとなく整理した一覧を作りました。

http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/12782.jpg

◎プラトンにあっては、彼岸(神秘主義、数学=幾何学)と同様に、此岸においても絶対的真理性を確保するために、イデア説を採ったのではないか。そういう意味で、ピタゴラスの幾何学は、プラトンのイデア説のモデルとは考えられないか。
・当時、プラトンと対立する一派にソフィストと呼ばれる一群があった。彼らの代表は「人間は万物の尺度である」で有名なプロタゴラスであり、懐疑主義、相対主義、反客観的真理主義をとった。


216. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 22:47:28 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
・一覧表の中で、「論理学と数学」が「神秘主義・神学」と同じ彼岸的分類とされていますが、演繹的性格から一つのくくりとしました。しかし、ここに、数学の「絶対的明晰判明性」があり、実際に、科学的言明の確立=基本方程式の確定という図式が成り立っているのではないかと考えます。

217. 宮島鹿おやじ 2013年2月24日 23:15:33 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

いつもいつもありがとうございます。
オオトラさんとろうし様からみれば実践家としての私は中学生くらいなものでしょう。思い切り140km/hの速球を投げられても、よけるの精一杯です。
上記のインド哲学的な引用も、よくわかっていてしたのではなく、たまたま、取り組んでいる、プラトン以降の哲学について簡明に述べられていると思ったからで、それ以外のところはよくわかっていません。
また、量子力学についても、私の理解はコペンハーゲン解釈に対するシュレディンガーの疑問(投稿文そのまま)くらいまでなもので、実際に、量子力学を発端として溢れ出たその後の言葉たちについてはよくはわからないのです。申し訳ありません。

全くチューニングが合わないままでもこのまま進んでいくつもりです。
ろうし様も本題に関わる・関わらずどんどんコメントしてください。よろしくお願いします。


218. 2013年2月25日 00:22:42 : em34MNJpPs
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>そして、その残虐行為の首謀者である人物の人脈に「橋田邦彦」という人物があることが確認されています。この人物は、「行としての科学」という概念において西欧科学と東洋的な何かを結合しようと試みているように思われます。一方で、挙国一致的政治状況において文部大臣に任命され、国民の「臣民化」を推進したという経緯も確認されています。

このことを分析するために、まずは、橋田氏のいう「主観・客観」問題を整理するために、デカルト→スコラ哲学→アリストテレス→プラトンと行ったまま、還ってこれなくなっているのが現状です。

橋田邦彦は体(主観)をどう捉えていたのだろうか。
「体は意志実現の機関」?


219. 2013年2月25日 00:34:45 : em34MNJpPs
オオトラさん

安芸ガラスです。

>安芸ガラスさんって野口整体の人?

私のつながりは「ニューエイジ」以降です。
これについては以下を参考にして下さい。

http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/134.html

私のスタンスは体の変革と社会的諸関係の変革です。

野口晴哉にかんしては以下の論文がまとまっております。

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/26103/1/rel01308.pdf


220. ろうし力学 2013年2月25日 01:18:50 : riuSNxeQ9qjU6 : 4ZjzBL6Pug
宮島鹿おやじさま

ココをお読みなっている皆様には、このスレッドの本題「猫にすら行わないような残虐行為が人間の子供に対して行われている」
というところを、当方は見ていない、全くよそを向いているように、受け止められているかと、当初から思っている
ところですが、手前勝手な見解ではありますが、その本題に関わる手前の論旨の運びが実はあったりします。

当方は、40年程度にわたり、何故この地球世界、地球人類は、自滅に向かってひた走っているのだろうか…?という問がありました。

当方はもともと、生まれる前の記憶があるので、地球と言うのは、全体で捉えるのが基本であり、国々とは、一地方という認識で
あるため、どう考えても、大国の覇権というのは、星全体の滅亡へ走ることとしか見れなかったのです。

また、人間の肉体と言うのは、一時的に着ている服、人生とは舞台の配役としてしか認識しなかったのです。

本質として人間は、意識であって、意識に生も死もないわけです。ですから、人生を「俺の勝手」と傍若無人に駆け抜けようとする
人としての矜持を捨てている者の行いが不思議でしょうがありませんでした。死んだら、と言うか他界すれば痛いしっぺ返しを引き寄せる
ことが明白ですから。

他界しても、自分という存在は変わらないのですから、今、蒔いている種は、蒔いたように生えるのは必定ですから。
それは、死後を無視しきった人間ですらなんら変わらない、逃れられないことなのですから。

そのような人類の破滅への盲進に、うんざりした幼少時代から、小学校中学校高校と、人類を腑抜けにするためのシステム(一般には
学校と呼ばれている)に、うんざりしながら、そのシステムに結局負けていき、自ら虚無世界の住民と化していったわけです。

二十歳前後というのは、その虚無を彷徨うな時間でした。大病にもなりました。多くの人間的な苦悩と絶望と虚無を味わって進みました。
そういう中で、転機が訪れて、中心の回帰へと舵を切っていったわけです。

今思うと、本当に必要な過程であったことは明確です。その経験体験の中から、見出したことが、なぜ人類は破滅へとひた走るのか、
自ら自省して引き返すことが出来ないのか、という点です。

その人間が破滅へと盲進していく仕組み、それを裏で支えている原理、それに到達したということです。
そのこと(法則)が明らかにしてきたのが、私たちの存在する意味でした。

これは、両極を知ることが大事だと思っています。人類の存在意義と、自滅へとひた走る理由。

以前、私は宗教嫌いの神様好き、と自分のことを言いました。社会的には非常に宗教的な人間であると思われているし、
実際宗教者よりも信仰が厚いかと思います。
同時に神は、既に役目を終えているとも言いました。これは、法則をもとに考察すると必然として到達することなのですが、じつはそのことと、なぜ人類はこれほどまでに残虐で刹那的で、虚しい存在であるのかが、関わっている理解だからです。

存在が存在する仕組みと、地球世界が混乱し、虚しく破滅的である理由は、ある理由でリンクしているわけです。

ですから、その両方を明らかにしないと、「自分がどう生きていくのか」を、自ら自明のものに到達することが、明確にならないと思うわけです。

そのような理由から、常に本題とは遠いとしか見えない言説を、長い前置きとして書き連ねてきて(おやじさまの広いお心に甘えさせて頂いて)
来たわけであって、この宇宙が一体どのような本質を持ち合わせているのか、そして「それを阻止する意志」が、如何にしてその反勢力と
して、宇宙法則に抵抗してきたのか、それがかかる残虐性を裏で支えている、虚無の原理原則ともいうべきこと、なのですね。

一つ誤解を解いておきたいのですが、当方の量子力学の理解など、児戯に等しく、数式はほぼ
全滅な状態であり、数式を詩を朗読する
が如くに自在に操る数オタクの人のような理解力は、持ち合わせておりません。

そうでなく、全く一般人の数の理解レベルで、ほんの少し数式にもがきながら、その意味するところを、実際の「生」において、
人の存在を理解することが、自分が取り組まなければならないことだと思っています。

量子力学自体の理解など、おやじさま、安芸ガラスさんと比較も出来ぬ、低レベル。がしかし、そこに喰らいついて、存在の謎に迫ろう
という気迫は、天然の情熱なのです。そのために天上から地上へと移ってきました。

そいいう、よそ者的な視線を持ち合わせているがために、この物質主義の罠のどっぷり浸かり切った我々地球人の状態は、もう「終わっている」
と無情にも言い放ってしまって(内心の悲しみを沈めます)、物理世界には見切りをつけて、目の前にひっそりと再発見を待っている「霊世界」を
私たち地球人へと想起させること、世界認識を完全にひっくり返すこと、体主霊従から、霊主心従体属へと転換する役割を持った、新しい人類
(トランスフォーマー)を脇から援護すること、なのです。

まあ、どうみてもスピ系か宗教家のようですが…残念ながら、スピ系の方も、宗教家の方も、その優しい心根に反して、進んでいる方向性が
逆だと当方には見えるのです。失礼ながら、オオトラさんがそう見えているのです。

心優しい方々の方が、今危機に瀕しています。何故ならば、その優しさが一挙に虚無へと変換されてしまう危険性が迫っているからです。

地球人類の現状への、どうしようもない虚しさへと、心理が転倒する危険性があるのです。

むしろ、物質主義世界の観念をひっくり返す方向性は、量子力学を必死に思索する方々の中で育まれつつある(中途半端はいけませんが)のです。
かつて、円武の師はこう弟子に言いました。霊的世界への道しるべは、量子力学の中にある、と。武の達人であった師が住んでいる世界は、
既に物質の世界ではなくて、霊の世界なのだと直感しました。

しかし、弟子の誰一人、量子力学を参考にしようと行動を起こすものは誰も居ませんでした。不思議でした。
私は、その主流(弟子内の主流)からは、逸脱していき、自分の信じる(師を疑ってはいません)ところのものに従って、その世界を出ていきました。

人生を一変させるのは、非常につらいし、得たものを殆ど手放さなければならず、それこそ虚しい心持ちに陥るものですが、それでも自分の信じるところのもの(中心の良心)に従って、
存在の意味、仕組み、それが何故疎外されているのか、その突破は如何にしてなされるのか、という事を問うて行ったわけです。

残虐行為から反転できぬ人間の心理とその発端を解明して、その逆変換を個人個人の内面の作業において進める。
そのことによって、世界は唯物還元の世界観念から、唯霊一体の無限世界に、一挙に反転していく、と私は預言してしまいます。

これらのことは、あたかも、水を入れたヤカンを、ガス台において火を焚くことで、「数分後に、この水はお湯に変わる」と予言するがごとく
です。これは霊的な予言もどきではなく、因と果、に過ぎません。

物理世界には、物質認識には別れを告げて、「己がもと居たところへの回帰」へと行動を起こすこと、それがここで当方がしつこく繰り返す、
量子的認識を、日常にも適用し、主客一体の認識を空間に見い出して、ワタシ、の位置を物の手前から、物の彼岸へとひっくり返し、
見るものと見られるものとの関係性を逆転させて見出される、新しき「われ」を、個々人の内面に生み出すことが、世界の変革なのだと、
そう言いたいわけです。

人間とは、「自分が神であったことを忘却した、神」であったこと、それを想起(思い出す)こと。もうそこには、従来の他者は存在せず、
あなた=わたし、わたし=あなた、の「背中合わせの自己」だけが宇宙に居る、という「真理」への回帰だと言いたいわけです。


この物理世界が崩壊していくのも、歴史の必然だし、蒔いた種が生えているだけ、だと言えます。
宇宙自体が転生する、時間が時間でなくなり、空間が空間でなくなり、他者が他者でなくなり、自己が自己でなくなる、そういう世界の認識力を、もうほどなく人類は獲得するでしょう。

こころ在る方々は、だた世界の生まれ変わりを目の前にして、悪徳の断末魔を目撃しているに過ぎない分けです。

法則に則って、自らを自滅の方向性へと向かわしている、山下、他こもごもは、誰のせいでもない、自分自身が選んだように、消滅(唯物還元主義の根底)へと歩を進めているのが、見えます。

本当は、そのような悪徳に魅入られし者どもと共に、新しき世界へと跳躍することなのですが、如何せん、個々人は自ら宇宙法則の反対側へと向かっているのを、誰も(神であっても)変えることなど出来ないわけです。


221. 宮島鹿おやじ 2013年2月25日 06:50:02 : NqHa.4ewCUAIk : m21le1CfUk
安芸ガラス様

おはようございます。
橋田邦彦氏についての考察は残念ながら現在着手できません。
もしよろしければわたしのギリシア思想確認と同時並行的にお考えをご提示ください。
なお、肉体=主観とされていますが、主観=精神、肉体=自然=客体とお考えかと思いましたがいかがでしょうか。

ろうし力学様

おはようございます。
数式を理解できると素朴に何かよい玩具のようなものを手に入れたという快感があるようです。このあたりが要注意なのだと思います。ファインマンが来日し、日本の学生と話したとき、数式を展開する学生に対して、「それは知っている。それよりもあなたの言葉でどう考えるかを聞きたい」と言ったと聞きます。
とかなんとかかっこいいこと言いましたが、私も数学的理解はほとんどダメです。それでも、科学者が無表情で数式を展開する姿はシビレルほどかっこいいと思ってしまうのですが、この辺が私自身の構造を物語っていると思います。要注意です。


222. 宮島鹿おやじ 2013年2月25日 07:27:53 : NqHa.4ewCUAIk : m21le1CfUk
◎西欧語の言語内に浸透しているギリシア思想の一例

ὑπόστασις(ギリシャ)→Substantia(ラテン)→Substance(英)

Substance(英)

Sub(下に「隠れて」)−stance(立つもの、立つこと)

語意
@<material:物質> harmful substance「有害物質」
A<truth:真理> if something has substance, it is true.「substanceのあるものは真実である」・・・ほぼ、実体という意味か(投稿者)
B<idea:観念> the most important ideas contained in an argument or piece of writing「議論や記述されたものにおいて保持される最も重要な観念」

Longman英々辞典より。


このように、Substance(下に立つもの)という言葉の中には、
@存在の基盤となる「物質(質料)」という意味
A存在を根拠付ける正当性「実体」「本質」という意味
Bそういった重要なギリシア的思索の痕跡としての「観念」という意味

という(全く相対立する概念を含む)意味を包含している。おそらくはこういった言葉は西欧語のいたるところに埋設されており、ほとんどの西欧人自身が無意識に使用しているものと思われる。



223. ろうし力学 2013年2月25日 10:27:35 : riuSNxeQ9qjU6 : FVfQJ8R1lU
宮島鹿おやじさま

なるほどです。

Substance(下に立つもの)という言葉の中には、
@存在の基盤となる「物質(質料)」という意味
A存在を根拠付ける正当性「実体」「本質」という意味
Bそういった重要なギリシア的思索の痕跡としての「観念」という意味

@存在の基盤となっているのが、量子ですから、それがなぜSubなのかは、「見えない」からですね。物質は量子(小さなもの)の積み上げでより大きなもの(物質)が出来ているということ。

Aその隠れているいるモノが、実態であり、本質であることの理解。
量子力学において、観察されるものは、観察する主体と一体であることが
見えてくるわけですから、主体の実像(真のワタシ)とは「量子」(電子)であるということですね。
肉体が私であるのは、錯覚であり、その私とは、他者が居ると想定した三次元空間の創造的構築(虚構)の、更にコピーとしての私であり、そこに真のワタシは見えていない(自分の顔、背後は絶対に観察できない事実)、ではワタシの位置とは、いったいどこであるのか…、それが目の前である、そう釈尊は伝えたかったから、直達正観と言ったのだと理解できます。
空海が、釈尊の理解に到達してそれをそう日本語に訳したのですね。

胎蔵界曼荼羅は、量子の構造を現していると思いますよ。

存在を根拠つけるおは、真のワタシである量子であり、それは目の前の物体の中心に密かに佇んでいるということになります。

B潜むものが、物体の実態であり、潜むものが、「観念」であり、世界を観念することで、存在世界が存在する、それはイデアですから、私たちの本性とは、イデアであり、観念という実態であり、それは量子として、唯物還元的世界認識のはまり込んでいる私たちには、電子として観察されている状態が、今、なのでしょうね。

そういう文脈から、唯物還元認識からの視点では、@ABは成り立たないのですが、古の先人たちが、更に古代の英知から感得し得た法則の理解(自己の理解)から俯瞰すると、@ABは「同じこと」だったのでしょう。

私には、@ABは矛盾しない視点が持てますね。


224. ろうし力学 2013年2月25日 23:32:57 : riuSNxeQ9qjU6 : FqGsZ1gKWg
宮島鹿おやじさま

「シュレディンガーの猫 という思考実験」のそもそもの発端というのは、
量子の振る舞いが問題となったわです。

Wikipediaからは引くと

「フォン・ノイマンによって完成された量子力学の統計的方法は、多くの科学者から、その実用的な側面で受け入れられたが、一方でこの方法は量子の単一過程(たとえば、一つの原子がいつ光を輻射するか)については確率的にしかわからない。このことはこの方法の”不完全さ”を指摘されることとなる。そのような代表的な例としてはアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス(EPRパラドックス)が挙げられる。以下M.ヤンマーの解釈に従って解説する。
M.ヤンマーはこのEPRパラドックスがシュレーディンガーが猫のパラドックスを発表する背景にあった事をその著書[4]の中に記している。シュレーディンガーはその論文[1]の初めの部分にこのEPRパラドックスの結果を再確認し、それを量子力学の深刻な欠陥の一つの表れと見なした。 さらに、シュレーディンガーはこの論文でEPRパラドックスとは違った、量子力学の"欠陥"についての指摘を行った。それがシュレーディンガーの猫のパラドックスである。」Wikipediaより

と、量子力学の欠陥という事を問題に、天才たちが喧々諤々のやりあいをしたわけです。

凡夫の私は、この天才たちの右往左往を笑うのです。

観測の主体について、なぜこれほどまでに避けて論じようとするのかと。
実存とは、世界を見ている自分において語られる、その究極的にシンプルな視点をあえて、普遍的でないという理屈によって棚上げした思考は、実は科学者のみならず、宗教者も、我々一般市民にも、余りに当たり前の如くにしみわたってしまったわけです。

不可視の世界を真摯に語ろうとも、そのよって立つ視点、世界を観測している主体としての原初的な経験を、論じることをさけて通る風潮にすっかり呑まれてしまっていると思います。

物理学者がぶち当たるパラドックスも、不可視世界を追い求める精神世界の人々が抱えている矛盾であろうとも、双方がどっぷりと「物質によって世界はできていて、自分とはこの肉体である」という前提でもってしか、語ろうとしていない、ゲシュタルトの解体を恐れている、心的態度の転換を問題にしなくては、自ら迷宮を抜け出ないようにしか見えないのです。

人類の歴史を、「時間の経過とともに、知識は集積されて、より高度な精神作用を積み重ねて今日がある」と、みなが疑わないのです。

まさか、遥か太古に、現生の人類を遥かに凌駕した、神聖幾何学をマスターしていた古代の人々が、世界の交代化(ビックバーンを特異点とした虚と実の交代化)をもって、他界し、遺物としての神聖な知識を、バビロニアの元になって、エジプトの元になっていた、「縄文文明」が受け継いで、それが徐々にギリシャへと薄まっていかざるえなかったのが歴史であったとは、考えないのですね。

ギリシャの時代には、そのような太古の神聖な知識が微かに残されて、理知的に直感的に理解されつつ、だんだんと思考によって真意が失われていった経緯がある分けです。

高度な縄文の永い静かな歴史から、暴力が台頭する弥生へと時代が進み、神聖な知識は伝説の中へと消え、人類はより野蛮な状態へと変遷してきました。

宇宙の法則に対する理解の転落が、この五千年の歴史にはあるのでしょう、近代に至るまで、あまり世界は大きく変わらずに流れました。

近代の人間意識の転機は、天王星の発見、海王星の発見、冥王星の発見により、段階を踏んで意識の拡張が起きて、現代に至ります。

冥王星の発見と同時期に、量子力学の発展があり、現代の象徴ともいえるコンピューターテクノロジーと核物理学の発展により、人類が驚異の発展と存亡の危機へと向かいます。プルート(冥王)の時代です。

人間意識の下降という実態を見つめないと、過去を過小評価してしまうのが我々です。ギリシャへ知識を受け渡した先史文明の驚異の存在への理解力を、再び現代人は取り戻す時期に来ていると思えてなりません。


225. 2013年2月26日 01:25:19 : iPmOamtiSI
シュレディンガーの猫はアインシュタインからの量子力学では必ずといって良いほど、殊更に挙げられる「命題」ですね。私も詳しくは知りませんが、どうして命題とやらを解明するために猫が死ななければならないのか、そしてどうして猫なのか、こじつけのようで、何やら物理学者の殊更に得意げな驕慢を感じさせる悪趣味な感じがしておりました。

エンリコ・フェリミとオッペンハイマー以降の原子力の、人間性不在の一側面を垣間見るようなテーマ性を感じます。

そもそも、命題とは、Aが正しいなら、Bが間違いだというようなものを前提として打ち立てた、ある種の一面的な見方に過ぎませんから、万能ではないのです。幸福度や味覚を同じように評価したところで、一人一人の回答はそれぞれ違うでしょうし、よって命題でこの世界を捉えることは不可能で愚かなことなのです。

しかし、方程式方式の画一的な考えしか出来ぬ石頭が、生命に対するより大きな脅威を孕んだ「科学研究」とやらを牛耳っている現在です。本来の科学とは、芸術や哲学と出立を共にし袂を分けたものだと思います。現在の科学は言うまでも無く、人間性を締め出してしまった研究の為の研究、科学の為の科学でしかなくなってしまいました。良心的な学者は締め出されて学者で居られなくなりました。

全ての諸悪の大元を探っていくと、「お金」が原因であることが分かります。眼がくらんでしまうのですね。この幻の空虚な価値とやらに。そして、国民もお金で縛られていますので、一個の声がかき消され、我々の存在自体が資本主義搾取社会によって虐げられ、無意味なものに貶められているのです。これは、世界的なものなのですよ。

つまり、我々の生活から「お金」を締め出すこと。この一言に尽きます。


226. 宮島鹿おやじ 2013年2月26日 08:04:23 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

おはようございます。
コメントをありがとうございます。
参考にさせていただきます。


iPmOamtiSI 様

コメントをありがとうございます。
よろしければ、どうか今後このスレッドにおける議論をお見守りくださり、コメントなどもお願いします。

さて、私は、労働階級であるためこれから出勤します。


先日、プラトンの「パイドン」に以下の記述を発見しました。


パイドン 69−b
・・・真の徳は智恵をともなうのであって、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られようが、それは問題ではない。しかしこれらが、智恵から切り離されて、相互の間で交換されるならば、そのような徳は、いわば絵に書いた餅にすぎないのであり、

まさに奴隷の徳であり、

なんらかの健全さも真実も含まないであろう。


80−a

それでは、次の点からも考えてみたまえ。魂と肉体とがいっしょにいるとき、自然は、後者に対しては、隷属し支配されることを命じ、前者に対しては、支配し主人たることを命じているという点だ。この点からしても、どちらが神的なものに似て、どちらが死すべきものに似ていると思われるかね?

本来、神的なものは支配し導くことに、死すべきものは支配され隷属することに、ふさわしいとは思わないか?


◎ソクラテス、プラトン、アリストテレスらは、古代ギリシアにおけるポリス社会における市民であり、プラトンなどはさらにその中の富裕層であった。そして、古代ギリシャにおいては、その生産活動を、周辺の被征服民による奴隷労働によってまかなっていた。


227. 2013年2月26日 14:24:15 : LSTKoUrrVs
オオトラです

ある意味ろうしさんの言説に大きな違和感は無いのですが当方は前記の如く旅の
途中の カメ さんなのである意味心の中は混沌なのですよ 但しわしはスピ系
(此れは習得した レイキ がそうかな?)の意識は有りませんし宗教にも興味が
有りません 必要に成った所のみの摘み食い? 唯宗教に尽いては非常に危惧して
ます以前キリスト教の信者との意見交換で全人類の殆どを占める世界三大宗教の
総てがこの地上を穢れた所と断じて天国への又は浄土とか弥勒世などを誘導して
います その裏側はこの汚れた地を焼き滅ぼす欲求の造成では無いか?と書きまし
たら 返事が来なくなりましたが 人類の総意としてのエネルギー量を考えると
此れは破滅的な事態の招来もむべ成るかな?と恐れてはいます NWOのオーストリア
の富豪が 我々はオリンポスの神々の末裔だ と言ったとか?わしは神々は無数に
居ると思って居ますが低級な神々がわし等神を罰する者又は法律は存在しないと
すき放題してる(ギリシャ神話に詳しい)救うも罰するも気分次第見たいな感じを
持ちますねーまぁカメなので自身が大霊の分け御霊の元々神何てとても思えません
が何時か判る事が有れば良いですねわしはこの欲界に生きている事が今は楽しい
です基本的に未だ至らない確認も出来ない 霊的世界への回帰っーのは実感が持て
ませんから将来の楽しみに残して置きます 福島の子供達への対処は皆さんの解釈
の通り 金 の問題ですが結局金が有る事が幸せの保証だと言う価値観が根源で
しょうね 以前その根源は野心だ と書きました まぁ一種の病気でしょうねー 
猫の生死は素粒子にも意識が有ると思いますので 見られた と素粒子が意識すれば 猫は死ぬっー仮定と思いますが? そしてわしは放射能防御波動を考えて居た
時に地球はシリウスシステムの第10太陽系の第三惑星と必要が有って検知しまし
たので現行人類が滅びても特段の感想は有りませんしわし自身地球が滅ぶとわしも
滅ぶとも思って居ませんから虚無には陥りませんねーわしも物質で有り又物質で
無い現われの違いと思っていますから苦楽共に人間をやっています ハイ


228. 宮島鹿おやじ 2013年2月26日 18:22:24 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
・「パイドン」は、死刑判決を受けたソクラテスが、毒杯による処刑の直前に、弟子たちなどと、死後の世界について語り合った情景を描いたものである。当然に、著者はプラトンである。
・死後の世界の実在と有徳な者・不徳な者の行く末について、対談形式で記述されている。
・死後の世界と、まさしく自らの「冥福」を確信している楽天的なソクラテスに対し、悲しみと不安に包まれた何人かの弟子たちが「死後の世界の実在」や「永遠の魂の転生」をテーマに、処刑の直前まで会話を続けるというものである。
・上記項目の証明にあたっては、様々な論述が試みられるが、議論を続ける彼らにおいては、『ものそのもの(現象を超えたイデア的存在)』が実在するというということが前提となっている。 (92−dなど)
・ラッセルによれば、ソクラテスが処刑されたのは、ペロポネソス戦役後のアテナイ敗北による動乱のさなかであることを認識されたいとのことである。

>>226 において引用したのは、言うまでもなく、ソクラテス(実質的にはプラトン)の認識において以下のような対比構造があることが明白に窺えるからである。


魂/肉体
神的なもの/死すべきもの
支配すべきもの/隷従すべきもの
市民/奴隷
イデア的なもの/感覚的なもの

◎プラトン的言説は、少なくとも当時の奴隷制度に関しては、現状肯定的性格を有していたと考えられる。


229. 宮島鹿おやじ 2013年2月26日 22:06:53 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
オオトラさん

こんばんわです。

>NWOのオーストリアの富豪が 我々はオリンポスの神々の末裔だ と言ったとか?

かなり、キョーレツなセリフですが、信憑性はあるように思いますね。
ご存知ないかもしれませんが、今、少し話題のコミックに、岩明均の「ヒストリエ」という作品があります。現在、アフタヌーンコミックに連載中です。
その7巻で、アレクサンドロスの母親であるオリュンピアスという王妃が、間男との姦通の現場をアレクサンドロスに見られた際に、証拠隠滅とばかりに、その間男の首をちょん切って、すっぽんぽんの状態で高らかに以下のようなセリフを喚きます。(このあたりはフィクションだと思いますが)

(首を切断された男の姿を見て、腰が抜けたアレクサンドロスに対して・・・)

「あなたはモロッシア王家 すなわち始祖たるトロイア戦の勇者アキレウスの血と! マケドニア・アルゲアス王家 すなわち始祖たるヘラクレスの血を共に受け継ぐ 真に選ばれし王子なのですよ!」
「立ちなさい! この母を見よ!!」
「神々より受け継ぎたる! 穢されようも無き神々の血統を感じるであろう!!」

・・・

何にもまして、「自分だけは特別」という狂気のような優越感を持っている連中が、このような惨状の中心にいることは間違いないと思います。一度田んぼに突き落とす必要があると思いますね。そいつのためにも。


230. あやみ 2013年2月27日 07:05:23 : oZZpvrAh64sJM : SLji1biKPw
こんにちは。

ろうしさまは宗教嫌いの神様好きとのことですが、「宗教」というものをさらりと表現してくださっていると思います。両者はほとんど無関係といって過言ではないでしょう。キリストの教えとキリスト教は別のもの、キリスト教会はさらにまったく筋違いのものです。

私も輪廻転生はないと考えます。この世に生きるのは一度のみ、修行の機会も一度のみ、そしてそれが終われば霊(たま)はゆくべきところにゆくのだと思います。私の思い込みの域を出ませんが、輪廻転生はこの世への執着の裏返しのように見えてならず、さらにある意味で「あの世」の物質化に繋がる気がします。

このまえ私の投稿記事に、生まれながらの天才や神童は前世の記憶の為せる業というコメントを頂きました。もし転生がなければ前世もないわけで、じゃあ「神童」は如何なるものか、ということになるのですが、私が考えますには神童とはこの世に浮遊する先人の残留思念が子供たちの意識と共鳴することが原因であるということです。親譲り、先祖譲りの視覚や聴覚、なにより触覚が敏感で、そして記憶再生能力に恵まれた子供たちの中からいわゆる神童が現れ、しかし普通は成長する中でとつぜん残留思念との共鳴できなくなってしまいます。芸事の世界ではこれを「子がえり」といいます。ろうしさまは「世間の手垢」と表現されていました。

残留思念なるものはそこら中に溢れています。名匠の太刀であろうと、名もない職人がこさえた湯飲みであろうとその作者の思念が作品の中に残っています。むかしの日本人が草木から生活用具に至るまでその中に「神」がいると考えただの物質とは捉えなかったことの所以でもあります。

それじゃあオギャーと生まれてくる赤ん坊の霊はどこからやってくるのか、その素朴な疑問が輪廻転生という考えの核かもしれない、そんな予感がします。

はなしはギリシアに飛びます。
ギリシア哲学の原典を理解する可能性のあるのは普通に考えればギリシア国民です。彼らは今でもギリシア文字とギリシア語を母語として使用しています。しかし考古学に貢献しその名を知らしめているギリシア人は皆無に近い状態です。ギリシアの地に残るのはぺんぺん草も生えないような遺跡のみ、出土品の多くは大英博物館が所蔵しています。ギリシア人の太古に対する意識は去勢されてしまっているのです。
国民には「世界はギリシアから始まった」という矜持があり、その余裕からか?ちっとも働きません。朝から晩までカフェで政治談議をしています。(アテネ市民的体質?)自分の国の歴史や遺跡を外国人が持ち出して好きなように解釈し翻訳していても平気なのです。
(その背景にはギリシア正教の信仰があります。キリスト以前のものは全て邪教に裏付けられた世迷いごととされてしまい、古代文明は観光客の集まる金ヅルと考えられるようになりました。)

ソクラテスの「悪法なれど…」は有名ですが、本当にそんなことを言ったのかどうか疑わしいです。この言葉が近代の法律家たちをどれだけ太らせたでしょうか。現代の「法」の横車をどれだけ肯定しているでしょうか。中世の終わりにラテン語に翻訳される時に意図的に加筆されたとどうしても邪推したくなります。

おやじさまには、厳しい疑いの目を持っての西洋哲学再点検をされておられると存じます。骨の折れる作業です。体調のこともあると思いますので「がんばってください」とも申し上げにくいです。どうかお気をつけください。
しかし日本に「プラトン曰く…」と無条件で西洋哲学賛美をする能天気な方々が何と多いことか、ため息です。


231. 宮島鹿おやじ 2013年2月27日 07:49:15 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。

>厳しい疑いの目を持っての西洋哲学再点検をされておられると存じます。

そうです。その通りです。疑いの目ビンビンです。

以下「ヒストリエ」第4巻より引用です。

(「蛮族(非ギリシャ人)」の村に侵略したギリシャ人ダイマコスが逆に計略にかかり敗死する直前に言う言葉)

「ぬううううう!」
「おおおお!」
「うらああ!!」
「くそァ!!」
「おれがこんな片田舎の蛮族村で!虫ケラどもの手にかかるなどありえん事だ!!」

・・・

「ふん!無教養なバカどもめ!」

「無知蒙昧なきさまら蛮人は我々ギリシア人に常に教えを乞わねばならんのだ!」

(物語としては、しばしの演説の後、ダイマコスは蛮人の槍にかかって死ぬ)


この展開は岩明氏の問題意識として描かれるフィクションかもしれないが、>>226で引用したソクラテス(プラトン)の言葉に抑揚をつけてみるとこういう感じになるのではないかと考えると興味深い。


232. 2013年2月27日 16:10:21 : LSTKoUrrVs
宮島鹿おやじさん

オオトラです 岩明さんの漫画は 骨の音 辺りから見ています 寄生獣 とかも
大好きでしたヒストリエは第一巻のアルキメデス先生編は見ましたが未だ古本屋
の値付けが高いので二巻以降は未読です セリフが面白いですねー ギィヤーとか
後菅原雅雪とかも面白いです 気功に精通しているのかムドラー(手で組む印)とか
ヤントラ(図形とか形へのエネルギー転写物)とかも漫画に出しています 曉星記と
言う漫画では イナンナ とか ヒルコ も出てきます 精霊何かもね 彼方此方
に大勢いらっしゃると笑えて来ますが 話は変わってわしが宗教が嫌いな訳は必ず
背景に選民思想がチラつくからなのですが 曰く他の神を信じては成らぬわし以外
の神に救済は無いとかね商業的表現ではクロージング(囲い込み)でしょうか?困る
のは終末思想も同時に持ち合わせていますねーわしの最初の気功の先生の卒業試験
は 空の雲を消す と言う荒業でしたが 現実に消えます 別に気功を習わなくて
も ある操作をエネルギー的に施すと誰でも出来る事なのですが(現在はエネルギ
ー界の様相が変わって特定の人のみに成っていますが)所謂 意念 で自然現象に
強く働き掛ける事が可能で有って宗教的マインドコントロールで破滅を現出する事
が可能なのですよ今は非常に怖い事に成っていると思って居ます


233. 宮島鹿おやじ 2013年2月27日 18:19:29 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
オオトラさん

コメントありがとうございます。
オオトラさんも岩明さんのファンですか。寄生獣よかったですね。私も大好きでした。ヒストリエいいですよ。でも、なかなか次の巻がでない。作中の「アナバシス」みたいですね。

私も、神様好きの宗教嫌いです。(この言葉はろうしさんのパクリですが)また、かつてこの雑談板やカルト板におられた「宇宙一いい加減な博士」の聴講をしていました。私の、不可視に関する認識はかなりの部分がそのときに形成されました。

あやみ様にもご心配いただきましたが、妙に疲れておりますので、今日はもう休みます。皆様、おやすみなさい。


234. ろうし力学 2013年2月27日 18:41:51 : riuSNxeQ9qjU6 : k6dTScTR1s
あやみさん

>両者はほとんど無関係といって過言ではないでしょう。
>キリストの教えとキリスト教は別のもの、キリスト教会はさらにまったく筋違いのものです。

本当におっしゃる通りですね。これは「事実」なのですが、受け入れない方が大勢いらっしゃいます。

>私も輪廻転生はないと考えます。
>この世に生きるのは一度のみ、修行の機会も一度のみ、
そしてそれが終われば霊(たま)はゆくべきところにゆくのだと思います。
私の思い込みの域を出ませんが、輪廻転生はこの世への執着の裏返しのように見えてならず、
さらに『ある意味で「あの世」の物質化に繋がる』気がします。

ここは、大変重要なご指摘、同意いたします。

問題は、不可視の物質化、なのだと思います。本当に重要。

唯物観念は当然として、霊を語る方々のその視点が既に、物質観念の基づいてしまっているという。
「魂/肉体」、という対比まではいいのですが、その「魂」を、あたかも一つの物を見る視点で
取り扱っている、しかも無自覚に、です。

せっかく不可視世界への意識のアプローチが起きているのに、肝心の「魂」を物質化した視点なのです。
自分が、片一方に「魂」もう片一方に「肉体」、これでは、双方が「もの」扱いになっている。

「魂」は、わたし、そのものであるはずなのです。私が私を観察するなぞ、あり得ないのにも関わらず、
精神世界を志向する方々が、既に物質化思考の枠内で思考しているのは、自己矛盾ですから。

>神童とはこの世に浮遊する先人の残留思念が子供たちの意識と共鳴することが原因であるということです。

構造的にいえば、そうですね。描き方呼び方は、視点(主体)で違ってきても、構造はまさにそうです。

>「ソクラテスの「悪法なれど…」は有名ですが、本当にそんなことを言ったのかどうか疑わしいです。」

これは本当、同意です。そんなこと言ったかよ…
まあ、その時点、その場面で、己に関してのみ、その受け入れ方はいいとして、語り伝えにおいて、
悪用された気がしています。法律などは、霊性をロストした人間の、仕方なしの産物です。
霊性を保った存在にとっては、法律は取るに足らないものと理解します。


宮島鹿おやじさま

「あやみさん


>両者はほとんど無関係といって過言ではないでしょう。
>キリストの教えとキリスト教は別のもの、キリスト教会はさらにまったく筋違いのものです。

本当におっしゃる通りですね。これは事実なのですが、受け入れない方が大勢いらっしゃいます。

>私も輪廻転生はないと考えます。
>この世に生きるのは一度のみ、修行の機会も一度のみ、
そしてそれが終われば霊(たま)はゆくべきところにゆくのだと思います。
私の思い込みの域を出ませんが、輪廻転生はこの世への執着の裏返しのように見えてならず、
さらに『ある意味で「あの世」の物質化に繋がる』気がします。

ここは、大変重要なご指摘、同意いたします。

問題は、不可視の物質化、なのだと思います。本当に重要。

唯物観念は当然として、霊を語る方々のその視点が既に、物質観念の基づいてしまっているという。
「魂/肉体」、という対比まではいいのですが、その「魂」を、あたかも一つの物を見る視点で
取り扱っている、しかも無自覚に、です。

せっかく不可視世界への意識のアプローチが起きているのに、肝心の「魂」を物質化した視点なのです。
自分が、片一方に「魂」もう片一方に「肉体」、これでは、双方が「もの」扱いになっている。

「魂」は、わたし、そのものであるはずなのです。私が私を観察するなぞ、あり得ないのにも関わらず、
精神世界を志向する方々が、既に物質化思考の枠内で思考しているのは、自己矛盾ですから。

>神童とはこの世に浮遊する先人の残留思念が子供たちの意識と共鳴することが原因であるということです。

構造的にいえば、そうですね。描き方呼び方は、視点(主体)で違ってきても、構造はまさにそうです。

>「ソクラテスの「悪法なれど…」は有名ですが、本当にそんなことを言ったのかどうか疑わしいです。」

これは本当、同意です。そんなこと言ったかよ…
まあ、その時点、その場面で、己に関してのみ、その受け入れ方はいいとして、語り伝えにおいて、
悪用された気がしています。法律などは、霊性をロストした人間の、仕方なしの産物です。
霊性を保った存在にとっては、法律は取るに足らないものと理解します。


宮島鹿おやじさま

「神様好きの宗教嫌い」。はい、自分も師から受け売りです!リレーしましょう(笑)

お大事に…眠ることは、元の大霊に身を預けることで、地球の中心へピントを合わせ修正をしますね。
身体は、人間の管理管轄ではないわけですから、お任せが一番賢いということではないでしょうか…。


235. ろうし力学 2013年2月27日 18:44:00 : riuSNxeQ9qjU6 : k6dTScTR1s
ありゃ!? 234は、セルフ二重投稿ですか…苦笑

ほんと間抜けですわw


236. 宮島鹿おやじ 2013年2月28日 07:46:14 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
ろうし様

おはようございます。

>両者はほとんど無関係といって過言ではないでしょう。
>キリストの教えとキリスト教は別のもの、キリスト教会はさらにまったく筋違いのものです。

まったく同意します。この件は本スレッドにおいても底流を流れている問題のように感じます。率直に言えば、まず、なんらかの啓示・悟り・解脱という超越的経験がある。それを概念化するうえで言語化する。そこから定義・解釈などの違いが発生する。その流れの中に、プラトン哲学もあるように思えます。パイドンなどの記述を読む限り、彼らは哲学者を「学者」というよりも、むしろ、「修道者」「僧侶」に近いものとしてとらえていたという印象があります。

今、思っているのは、解釈などの純粋に学的な問題ならば救いようもあるが、教団、勢力などの問題から世俗的利権と一体化したとき、それは「最悪のもの」になるように思います。繰り返し出てくる論理の流れとしての「演繹」ですが、これは、数学的証明と同様に「有無を言わせない」=「暴力的」なものであると認識しはじめています。人に対してよかれと思っているようだが、延々とわかりきった説教を続けるはた迷惑人がいます。そういう人が陥っている状態がまさにこの状態であると思うのです。動機はあくまでも個人的欲望ですが、それを、形式的な論理体系で隠蔽してしまう、この状態がまさに繰り返されているように思います。


237. 宮島鹿おやじ 2013年2月28日 08:01:04 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
正直に白状すれば、その迷惑な人とは、妻子に対するかつての私なのです。

何かを言い始めると、その論理的展開そのものが目的となるようで自動機械のように責め立てる言葉が出てきます。

しかし、そういうことをしているときは、必ず、私自身が内面的に「波立っている」「余裕が無い」「疲れている」状態であったことがわかります。

今は自分を注意深く観察するようにしていますが。さて。


238. 2013年2月28日 09:21:40 : 9kajJ61g0Y
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>何かを言い始めると、その論理的展開そのものが目的となるようで自動機械のように責め立てる言葉が出てきます。

エネルギーがでやすい個所から出ているのです。

>しかし、そういうことをしているときは、必ず、私自身が内面的に「波立っている」「余裕が無い」「疲れている」状態であったことがわかります。

これは調子が好い状態なのです。
私も同じで連れ合いと口喧嘩になるのは、私も連れ合いも調子が好いときが重なるときです。

>今、思っているのは、解釈などの純粋に学的な問題ならば救いようもあるが、教団、勢力などの問題から世俗的利権と一体化したとき、それは「最悪のもの」になるように思います。繰り返し出てくる論理の流れとしての「演繹」ですが、これは、数学的証明と同様に「有無を言わせない」=「暴力的」なものであると認識しはじめています。人に対してよかれと思っているようだが、延々とわかりきった説教を続けるはた迷惑人がいます。

プラトン主義に基づく三位一体説からでています。
世界を文明、半開、野蛮の秩序に再編したこと。
かって教団が大会を開いて世界を分割し、野蛮の住民を非人間に認定し虐殺をしたこと。

今は、先生が子どもに暴力を振るっています。
さらに「科学者」がわれわれに説教をし、非人間的なことを繰り返しています。
これらすべてが、神の言葉を受信する知性、キリストの言葉、聖霊による記憶の埋め込みの体系からきています。

命令、強制、説教です。

ですから、連れ合いの状態と自分の内面を観察し、あぁエネルギーの高まりが重なっているんだなぁ、と感じることが、この教団の影響から離れることになります。

影響の特徴は、実体です、これは縦はの線は生命の樹となり全体主義に集約され、横の線は種差、個差に還元し数となります。

さらに、私の中では、潜在意識が、現在意識によって、これは感覚、これは感情、これは知性に分割され、これをやってはいけないとか、こうしなくてはいけないとか、これでいのちの勢いを規制することになります。

やはり自分に対しても命令、強制、説教となります。

このような自分と縁を切ることです。


239. 宮島鹿おやじ 2013年2月28日 18:25:55 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわ。ただいま帰りました。

>かって教団が大会を開いて世界を分割し、野蛮の住民を非人間に認定し虐殺をしたこと。

おそらくは、ニケイア公会議とかそういった会議のことだと思いますが、よろしければ具体的な会議名をお教えください。本スレッドの展開上極めて重要なポイントになると思われます。

>命令、強制、説教です。

きっと、形而上学=西洋哲学の基本的性格なのだと思います。
なにか、欧米的なものは、感覚的に「押し付けがましい」と感じることがありました。顔全体は笑っているが、目が笑っていないような。

ディズニーランドに行けば、
「さあ、あなたは驚かなくてはいけない。楽しまなければいけない。」
というような感じですね。なんとなく日常的な感覚と、それを根拠付ける言葉の連関が浮かび上がってきたように思います。

現在、「ハイデガーの思想」木田元 を繰り返し読んでいるところです。ハイデガーは、西洋哲学=形而上学の歴史の根本的部分を解明したとされています。

>このような自分と縁を切ることです。

最近は自覚することで、「責め立てる自動機械」になることもほとんどありません。しかし、数学者をかっこいいと思うあたりに、その痕跡があるのだと思います。

なお、ほんの1ヶ月前までは、量子力学の入門書を読んでいました。なんとか数式もできるだけ理解しようと努力していたのですが、ある程度数式を見て、何を言っているのかを理解できるようになったときのうれしさというものは確かにありました。つまり、物理学に現れる方程式などに取り組んでいると、「これ以外の学問に何か意味があるのか」といわんばかりの高揚感がありました。今は、ここが曲者なのだと思っています。最終的には物理方程式(運動方程式やシュレディンガー方程式)とは一体どういう存在であるのかという問いに直面する必要があると思います。今はまだ着手できませんが、どなたか、よろしければコメントをお願いします。


240. 2013年2月28日 22:48:57 : yGLlXLH9iM
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>よろしければ具体的な会議名をお教えください。

以下の著作で知りました。

http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0612-5.html

>きっと、形而上学=西洋哲学の基本的性格なのだと思います。

三位一体説です。

父と子と聖霊の具体的で人間的な内実が知性と記憶と意志になるのでしょう。

>最終的には物理方程式(運動方程式やシュレディンガー方程式)とは一体どういう存在であるのかという問いに直面する必要があると思います。今はまだ着手できませんが、どなたか、よろしければコメントをお願いします。

アリストテレスの能動知性と可能知性ですね。
プラトンは実現しない可能性を語っている。


241. 宮島鹿おやじ 2013年3月01日 03:29:12 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわです。

>アリストテレスの能動知性と可能知性ですね。

いま、まさに取り組んでいる分野です。
なんとなく関連していそうな言葉として

可能態(デュミナス)/現実態(エネルゲイア)
質料/本質

あたりが浮かぶだけです。
まだまだ沈潜が必要です。


242. 宮島鹿おやじ 2013年3月01日 03:33:16 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
修正です。以下の「正」のように記述しようとしました。

誤:質料/本質
正:質料/形相

でした。しかし、誤りついでですが、なんとなく、本質=形相でも、おおむね「あっている」ようなことを確か、アリストテレスあたりが言っているような気がしますが、この辺の整理をするとさらに良なのでしょう。


243. 2013年3月01日 09:24:47 : 4jdO0uExeE
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>可能態(デュミナス)/現実態(エネルゲイア)
質料/形相

ここが科学の方法論ですね。
アリストテレスとプラトンがくっいています。
感覚や経験が排除され、意志(三位一体説の)が強調されます。


244. 宮島鹿おやじ 2013年3月01日 10:16:56 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。

三位一体説というのは、なんとなく「3」という座りのいい数字に、適当に概念を組み合わせただけのものと思っており、単なる「迷信」のようなものと思っていましたが、少なくとも現状に対し何らかの基底的影響を有する可能性があるというふうに感じてまいりました。この概念に着手するまでまたまた時間がかかりそうですが、いずれ取り組むべきかと思います。

どなたかわかりやすい解説などをしていただけたら幸いです。


245. 2013年3月01日 10:47:39 : 4jdO0uExeE
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>三位一体説というのは、なんとなく「3」という座りのいい数字に、適当に概念を組み合わせただけのものと思っており、単なる「迷信」のようなものと思っていましたが、少なくとも現状に対し何らかの基底的影響を有する可能性があるというふうに感じてまいりました。

きのう安倍総理が衆議院で施政方針演説をしました。
そこに福沢諭吉の言葉や「意志」の強調に気がつきます。

意志は自由意志とも云います。神の言葉を受信するのは知性です。この自由意志は神の言葉(正しい導き)を必要とするのです。
ですから三位一体説は現実的問題なのです。


246. 宮島鹿おやじ 2013年3月01日 11:04:48 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

ただいま以下wiki「三位一体」を一読しました。
頭が痛くなるような議論ですが、まさに、ギリシア思想の用語が中核を占めていることがわかります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93

この整理された定式において、神は、一つの実体(希: ουσία, 羅: substantia)と、「父なる神」と、「ロゴス (λόγος) である子なるイエス・キリスト」、および「聖霊(聖神)」の三つの位格(希: υπόστασις], 羅: persona)において、永遠に存在すると言い表されている。

実体:ουσία(ギリシャ:ousia、ウーシア) substantia(ラテン)
ロゴス:λόγος(ギリシャ)
位格:υπόστασις(ギリシャ:→substantia(!)) persona(ラテン)


また、「実体」と「位格」双方に、ラテン語のいうところのsubstantiaという言葉が現れており、この経緯については以下のwikiにおいて説明がなされています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B3%AA

抜粋

(アリストテレスの言説中のウーシアという言葉について)これがラテン語に翻訳されるとき、substantia と essentia という二つの訳語が行われた。substantia は、ウーシアと同義で用いられていたヒュポスタシス「下に立つもの」(のちにキリスト教神学の文脈ではウーシアとヒュポスタシスは区別されるようになった。この場合の訳語はpersona)の直訳で基質としての実体という観点からの訳語であり、essentia は「あるところのもの」という観点からの訳語であった。

・・・

なかなか大変です。頭がこんがらがります。しかし、この辺のあたりのことがらで当時から多くの人生や人命が左右されたというのは事実だと思います。


247. 2013年3月01日 11:22:13 : 4jdO0uExeE
安芸ガラスです。

>どなたかわかりやすい解説などをしていただけたら幸いです。

そうですね。まず、人は白紙状態で生まれてくるか、否かです。
ここにアリストテレスとプラトンの説があります。

白紙だとすると、感覚とか体験が大事となります。
白紙で無いとすると、プラトンのイデァです。

それで記憶を聖霊が埋め込むのです。
私は白紙と思いますが、ここでアリストテレスの可能態(デュミナス)が出てきます。体験を経ないでも、記憶を想い出すのができるようになるのです。


248. 2013年3月01日 12:41:29 : 4jdO0uExeE
安芸ガラスです。

>体験を経ないでも、記憶を想い出すのができるようになるのです。

ここが教育となるのです。
記憶から知識が生じるのです。
ですから、体のしつけと、心のしつけも必要となります。
ここに強制、命令、説教の根拠があります。
学校の先生や柔道の監督は、子どもに、選手に暴力を振るうのです。

最後は意志の問題です。
集団の宗教が個人の宗教に移行します。
これを担保したのが自由意志となります。

人間の意識が自然の秩序と分離をします。
ここで可能性が生まれます。可能知性ですね。

現実は、「国民の生活が第一」が未来に合流します。
そこで、合流しない方が、選挙に勝てたと云うことが、団結のネックとなっております。


249. 2013年3月01日 13:20:49 : 4jdO0uExeE
安芸ガラスです。

ここで橋田邦彦が登場します。
三位一体説により意志が自我の根拠となりました。

西洋は意志はどこに向かったら好いかを提示しないので、聖書と教会が生きる目的と生き方を伝えます。

橋田は自然科学に対しての「滅私奉公」、戦争中は国家と国民に対しての「滅私奉公」を提示します。

この輪郭は個と全体としても見ることができます。全体を大きな生命とすれば、あの生命の樹です。宇宙の法則とすれば天皇です。


250. 宮島鹿おやじ 2013年3月01日 22:59:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわです。
本日は、会社の関係の退職送別会に参加しておりました。

ところで生命の樹とは以下のものでしょうか。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Tree_of_Life,_Medieval.jpg/220px-Tree_of_Life,_Medieval.jpg

もし、そうだとすれば、安芸ガラス様は、この樹についてはどのようにお考えでしょうか。正直なところ、私にはよくわからないのですが、何か重要な秘密が隠されているように感じます。かつて曼荼羅と関係があるという考えに接したことが、あったのですが、結局のところ何がなんだかわからないで終わっています。

本題とははずれますが、よろしければお願いします。

オオトラ様、ろうし様も、ご覧いただいているようでしたら、コメントをお願いします。


251. 2013年3月01日 23:20:07 : 4jdO0uExeE
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>この樹についてはどのようにお考えでしょうか。

生命の樹とは、神、その下には天使と悪魔、その下には人間(文明、半開、野蛮)その下には動物、その下には植物、その下には石、こんな世界でしょうか。
天使と悪魔と人間には自由意志があります。

>何か重要な秘密が隠されているように感じます。

原子力損害賠償法の損害の定義が隠されています。
「原賠法」には「損害」の定義がされています。
以下、その3点です。 

 1、核分裂過程の放射線の作用
 2、核燃料棒によって汚染された物の放射線の作用
 3、毒性的作用

 この3点によって生じたものが「損害」となります。
 つまり「損害」は原子炉の損傷からだけ「想定」されているのである。
その原子炉と云うのは、核物質を一定の状態で、一定以上の量を集めた器なのです。

 そのために、

 1、炉心の管理
 2、炉心の周辺空間の管理
 3、炉心とその周辺を管理している人の管理

が第一義的なことになります。

 さて、ここからが賠償の基準の話です。
賠償の対象となるのは、原子炉から飛び出した放射線を浴びたとか、原子炉が損傷して汚染された物の放射線の作用か、毒性に限定されます。

 原子炉が爆発し、原子炉格納容器も損傷し、その飛び散った物から放射線を浴びたりするのは「損害」でないから、「賠償」の対象とはなりません。
つまり原子炉の損傷からの原因の結果が第一義的で、それ以外の結果は第二次的な原因となります。

 この概念は、生命の樹の構造そのものである。
この第一撃と近接原因とは、西洋の神と実体の概念のことです。


252. ろうし力学 2013年3月02日 00:39:42 : riuSNxeQ9qjU6 : 0GQT3J7LdY
宮島鹿おやじさま

生命の樹ですか…

ご存じだと思いますが、基本カバリストが宇宙構造を説明するときに、生命の樹を用いますよね。

今まで、ちょっと控えていましたが…安芸ガラスさんのこの解説?にはちょっとびっくりですね。
当方も、トンデモ指数は高いのかもしれませんが、トンデモの常道も遥かに超えています。

もしかして、とてつもない知恵を携えた方なのかと、思い込もうとしていましたが、少なくともこの生命の樹に対する言説には、ぶっ飛びました…

さて、生命の樹は、リンクの画像の通り、通常はあの形しか語られませんが、他方面から生命の樹を俯瞰すると、生命の樹には、もう一対、鏡のような虚の生命の樹が在るという事が理解されてきて、さらに生命の樹の下部に転じる、闇の生命の樹(セフィロトとクリフォト)が在ります。

このクリフォトについて語るならば、安芸ガラスさんが当てはめた内容は、ほぼその通りだとお話ししておきます。

セフィロトと逆セフィロト=クリフォトが一対で、そのミラーで双対ですが、最低でも三つの次元でそれぞれ解き明かされて行かないと明らかにならないと思います。
その一面は、生命の樹(セフィロト)は、ソーラーシステムの霊的構造性の二次元の落とし込みという事になります。
それはソーラーシステムは、我々の生活においては「原子」の構造を裏で支えているもの、ということになります。

なーんて書いても、全く解説になってませんよねw
そもそも、量子(電子)の描く?波動関数の実態(正体)が、我々が世界を観察する視点の全集合であるということです。

電子の振る舞いである、「いつでも今、どこでも此処」(シュレディンガーの猫の問題は、このいつでも今、どこでも此処、である電子の振る舞いが発端です)という性質が、従来の科学視点では全く理解できなかったのが、観測者を中心に据えて世界を見ることで、「見られるものは、見るものである」ことの発見が発端となって、波動関数に現わせられるいつでも今、どこでも此処が、「我々の観察視点そのもである」ことと、地球人類に明白になる時が、もうすぐ到来しますが、そうなってくると、太陽系が原子の構造と同じものの、違う位相からの味方であり、その原理を二次元に落とし込んだのが生命の樹である、という事が、誰の認識にも明らかになっていくのではないでしょうか。

違う位相(次元)から生命の樹を見れば、存在世界を構成するイデアの構造性が描かれているとも言えますよね。

生命の樹そのものが、一元で説明は無理であり、それは全ての存在が一元では語られ得ぬものであり、多次元であり、少なくとも三段階の位相から理解する立体理解が求められますよね。

三位一体とは、父と母と子、のことであり、キリスト教によって、精霊と挿げ替えられ、全く別の化け物に変えられたもの。

化け物としての三位一体は、たびたびコメントで言及されている通りだと思いますが、神聖幾何学から解説される三位一体は、全く「べつのもの」です。

生命の樹も、同じく全く別のものの解説ですな(クリフォトに近似ですが)。


253. あやみ 2013年3月02日 08:09:53 : oZZpvrAh64sJM : yCkn1jCbMM
こんばんは

ろうしさまに是非うかがってみたいのですが…

原子の構造が原子核を中心とする立体回転であるのに対し、太陽系の構造は冥王星を除いては平面回転のように見えます。というか、どちらもこの目で見たわけではないのですがそう思い込んでいます。

これは、以前にろうしさまがおっしゃっていた、「子供はその目にうつるようにしか(平面としか)捉えないので平面的な絵を描き、対象が三次元であることを知っている者は三次元的に描く」というのと何か関係があるのでしょうか。

確かに太陽の北極から観測すれば電子運動のモデルと同じように見えます。まあそんだけのことなのですが以前から腑に落ちないままでおりました。

なにかヒントをいただければ幸いです。


カバラ主義者の「生命の木」は、一般公開されているおなじみの樹とはべつに、中枢に座る人間離れした方々の使用する奥義の樹があるそうです。前者はもろに拝金主義丸出しのものでそれに傾倒する者たちは結局は中枢に支配されることになり、それ自体が中枢の目的であり…というような。どのみち「奥義」は人間外の方々しか見たことがないようなので、解釈はむずかしそうです。

これが本当ならキリスト教世界の構造に合致しますし、安芸ガラスさまのおっしゃることにもつながってゆくと思います。

こういうことは陰謀論者の皆様が詳しい筈です。

陰謀論をインチキともトンデモとも思いませんが、「目的」がどうも気に食いません。終末ムードを盛り上げて人々を失望に誘うのが彼らの行動目的に思えて仕方ないのです。「地球はもうすぐ終了」という暗示にかかったひとはどうなるか、多くはやけっぱちになり行いを乱します。命を粗末にし、周囲への思いやりを捨て、そして本能的に子供を残そうとしなくなるでしょう。実際そんな世の中になりつつあります。周りを見ればそんな映画ばかりで、暗示にかかるなというほうがむずかしいです。


254. 宮島鹿おやじ 2013年3月02日 08:32:55 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
ろうり力学様

おはようございます。
ご回答をくださりありがとうございます。

なお、現時点ではお二方のおっしゃること共に、私の理解を超えていますが、私はいたって平穏であります。

自分の身の程を知っていますので「今、わからなくてもいいやあ」と考えています。(しかし、後でスッと腑に落ちることもあります。「明晰判明」の場合のように)

ついでですが、ふと、思ったのですが、「今、ここ」で分からないといけないという強迫観念は、繰り返し強要された「試験、受験」によって私たちの多くに形成されたものだと理解できます。「正解は先生が持っている。努力によってその唯一の解答に至ることができる」という感覚は現実の課題に対処するときには、桎梏にしかならない場合が多いと思います。

今日はこのあと所用ででかけますが、また、夜半にお目にかかります。


255. 宮島鹿おやじ 2013年3月02日 08:55:34 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。
コメントありがとうございます。


小生、昨今の日本の状況を背景に、意を決して「英会話教室」に通い始めております。かなり低いレベルからのスタートですが、とりあえず生活していける程度の会話力を目指しておりますので、なんとかやっております。

あやみ様は英語もご堪能なんでしょうか。
wikiでみたのですが、トルコ語は語順などは日本語に近いらしいですね。


256. 宮島鹿おやじ 2013年3月02日 09:04:12 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
◎物理法則「〜は・・・に比例し、○○○に反比例する。」といった言明を数式、例えば F=ma といった数式として表現することにより、演繹的世界(数学)の絶対的表現を借りることによって真理性(明晰判明性)を装飾される、のではないか。

257. 2013年3月02日 10:21:54 : iMEIagau0A
安芸ガラスです。

私は「生命の樹」を見て、作者の宇宙、そして作者の物理的宇宙が見えます。
宇宙とは、神、僧侶、王、白人、黄人、黒人、赤人などの社会的秩序です。
物理的宇宙とは、神の第一撃と近接原因です。

これらの基は、神と実体です。
この縦の糸が「生命の樹」です。
横の糸が「種差と個差」です。

少し説明を致します。
例えを役所の仕事と住民の関係とします。

私たち住民から見れば、道路はひとつです。
ですから、水道、下水、ガスなどは、まとまって工事をすれば好いのです。
しかし、役所は水道は、水道局、下水は建設局ばどの仕事で、時期がバラバラで工事をしています。

現実はまるごとひとつなのですが、役所を頭の中にすれば、まるごとひとつの現実が、頭の数の対応関係の数で、バラバラに対応することになるのです。
このことが「種差と個差」なのです。

生きている個人をまるごと捉えることができなくなるのです。
だから、人が統計と疫学で処理され、個差として図形・グラフに現れるのです。

原子力損害賠償の基準から見えるのは「神の第一撃と近接原因」です。
炉心が神の一撃です。
それ以外は近接原因です。
損害となりません。
ですから原状回復の対象となりません。
「見舞金」となります。


258. 2013年3月02日 11:02:58 : iMEIagau0A
ろうし力学様
あやみ さん

安芸ガラスです。

私はまるごと感じようとしています。
意識の働きの出発点を、外界の刺戟は感受性を通して無意識に反応をいたしますので、その反応をまるごと感じるように方向付けております。

感受性は人によって異なりまので、その偏りも一緒になります。

そして言葉にします。
この言葉は西洋化された日本語の文脈の偏りがあります。
(幕末の言葉と、明治20年を経た日本語の文脈は明らかに異なっております。)
偏ったまるごとの感じが、言葉の偏りと、思想の枠を経て、言葉となります。

脳から浮き上がってくる動きを、知識に連想をするのではなく、例えば色、形、動きなどの変換に方向付けを行っております。
それは、私も教育で頭の使い方を三位一体説の「知識」として「しつけ」られているからです。

西洋では、これを論理とか弁証法と名付けております。


259. 2013年3月02日 11:53:33 : iMEIagau0A
安芸ガラスです。

訂正です。
>西洋では、これを論理とか弁証法と名付けております。

論理―×
理論―○


260. 宮島鹿おやじ 2013年3月02日 22:44:06 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわです。

現在、ギリシア思想についてのまとめを行っていますが、ラッセルによる解説及び、木田元「ハイデガーの思想」中の西洋哲学の概要などを確認しております。

プラトン、アリストテレス、中世スコラあたりまでの射程で一応の整理ができないかと作業しておりますので、もうしばらくお待ちください。


以下に作業結果の一部について引用します。

現代哲学事典 本質の項目より

本質

ギリシャ:ousia, to ti en einai
ラテン:essentia
英・仏:essence
独:Wesen

<プラトン・アリストテレスの場合> 
 本質とは一般に事物の一時的なあり方としての偶有性に対して言われるもので、事物の根底にある不変的な要素・意味であり、ある事物が本来何であるかを規定するものであるが、古代においては本質と存在とは一つのものとされていた。
プラトンによればそれはイデアまたはエイドスで、生成し流動する世界に対して不変不動の存在である。それは純粋思考の対象をなす普遍的概念的本質として純粋思考の対象であるが、決して抽象的概念につきるのでなく、個々の事物の存在を成り立たせる実在であり、イデアと感覚的事物との関係は、実物とその影、あるいは原型とその不完全な模像との関係である。

これに対してアリストテレスがウーシアと呼ぶものは、形相と質料から成る個物であると共に、その個物の概念的本質である。したがって、ウーシアは実体であって同時に本質であり、個物を離れて存在するということはない。 

 
<トマスの場合>
 トマス・アクィナスはアラビア哲学の影響をうけて本質と存在とを区別し、事物における本質はその事物の存在にとって可能態〔羅〕potentiaとしてあるにすぎず、事物は存在を直接神から受け取ることによって現実態〔羅〕actus たらしめられると考えた。それはキリスト教の創造説に由来する考えである。神は純粋現実態〔羅〕actuspurus であって本質と存在との分離はないが、すべての被造物においては両者は実在的に分離される。天使のような知的実体の本質は質料を含まない純粋形相であるが、それが現実存在たるためには神から存在を受けなければならない。さらに人間を含む物体的存在者においては、形相は質料と合体して個体化されているので、その本質は形相と質料を共に含むことになる。トマスはこれによって実念論と唯名論との対立を克服しようとした。すなわち本質は事物のイデアとして神の中にあり、事物それ自体として個物の中にあり、事物の抽象された概念として知性の中にみる。

<近世哲学の場合>
 ベーコンやデカルトは物体の運動を物体に内在する本質や本性から説明することをやめて、現象の機械的構造の把握に知識を限定した。カントは本質ないし本体(物自体という)とそれの意識に現われた現象とを区別する。この場合、事物の認識は無内容な形式につきるのではなく、感覚内容を質料とし、時間・空間・カテゴリーを形式として、形式と内容の一致において成立するのである。これによってやがて古代的な本質認識の転回が起こった。ヘーゲルによれば事物の本質は精神によって規定されるのであるが、それは現象に現前し、その内容をなすのであるから、現象をはなれて本質はないとされる。マルクスはこの考えを批判的に採用し、本質と現象とは弁証法的統一をなし、本質は現象の特質と発展方向を規定していると考えている。 (泉 治典)


・・・
30年くらいの前の事典ですので、古色蒼然としているかもしれませんが、参考にはなると思います。

本質は、ギリシア語のousiaが語源ですが、ousiaそのものは、「実体」とも、さらには「存在」とも解されており、非常に複雑です。もともとは、「本当に存在するもの」といった意味なのだそうです。


261. ろうし力学 2013年3月03日 02:44:37 : riuSNxeQ9qjU6 : NwzTx8NhFc
宮島鹿おやじさま

提示して頂いたものを拝見するとなるほど、人間が徐々に精神の下降を起こしてきた歴史が見て取れる思いです。

<プラトン・アリストテレスの場合>
>それはイデアまたはエイドスで、生成し流動する世界に対して不変不動の存在である。それは純粋思考の対象をなす普遍的概念的本質として純粋思考の対象であるが、決して抽象的概念につきるのでなく、個々の事物の存在を成り立たせる実在であり、イデアと感覚的事物との関係は、実物とその影、あるいは原型とその不完全な模像との関係である。

イデアとは、それを思考すれば、それとなるもの、ことですから、正に、我々の本性だと言えます。
人間とは、自分が神であることを見失った(わざとですが)神、ですから、世界を創造するものなのですが、その理解を取り戻す手立ては、量子力学のなかに潜んでいるわけで、観察行為が確率の波に収縮を起こして事象が成立することが、それを思考すれば、それとなる、という存在の本質を表現したものだということになるのですが、一向にその事実が理解されないで来たということですね。

それが、近代の思想の各々、、

>ベーコンやデカルトは物体の運動を物体に内在する本質や本性から説明することをやめて、現象の機械的構造の把握に知識を限定した。

>カントは本質ないし本体(物自体という)とそれの意識に現われた現象とを区別する。この場合、事物の認識は無内容な形式につきるのではなく、感覚内容を質料とし、時間・空間・カテゴリーを形式として、形式と内容の一致において成立するのである。これによってやがて古代的な本質認識の転回が起こった。

>ヘーゲルによれば事物の本質は精神によって規定されるのであるが、それは現象に現前し、その内容をなすのであるから、現象をはなれて本質はないとされる。

に、迷走する様子が書かれていて興味深いです。

迷走の原因は、人間が原初的体験の場「知覚正面」を見失って、見ることを見られること…知覚の他者化に転落していったことにあるわけです。

通常これは、人類の進化として認識されていることで、それはつまり「三次元立体化として知覚化」すること(ゲシュタルト)であり、乳幼児は原初的体験として世界を平面として見たまんまですが、そこに装飾(幻想)によるアレンジを重ねていくことで、平面(知覚正面)のはずの世界に、奥行きを追加して、空間を三次元化という「バーチャルリアリティー」な空間と時間を創作(っていうか妄想)して、それを進化だと勘違いしている、意識状態から見た、「世界」なので、どう世界を思考しても解析しても、どこか矛盾を生じてしまっているわけです。


あやみさま

原子と太陽系は同じものが、違う位相に見えていると言いました。しかし、片や立体回転としてイメージされ、片や平面回転とイメージされ、この差は何であるのか?の違いとは、空間と物体を、自己の内部空間(四次元空間)として見ないで、四次元時空(物理空間)として観察してしまうことに、その差は生まれてる、とここでは言っておきます。(自己が物理空間の外部性そのもの、と言う認識が人類に覚醒してくれば、この説明はちょっと正確性を欠いていると、誰にも分かってくるでしょうね。)

上記の「世界の認識」(ゲシュタルト)を考慮に入れて、太陽系を考察することになるのですが、人間の「観察行為」とは、まずもって、「自分の顔は絶対に見れない」ということへの気付きがあり、同様に「背後は見れない」わけで、そこから始まります。

「前を見る」という語法は、「頭痛が痛い」と言うのと同様の使い方であり、そもそも見ることは前によって起きるのであるから、前を見るはおかしいわけです。後ろを振りかって見るのはやはり「前」であって、我々は絶対に「後ろ」を見ることはありません。

あやみさんの「というか、どちらもこの目で見たわけではないのですがそう思い込んでいます。」
という論じ方は、実に適切な言い方だと思います。

太陽系を図鑑に描かれたように、人間は観察しうるのか?という問いがあれば、上記の観察の事実から「否」と私なら答えます。それは、いくらロケットで太陽系の南北いづれの方向に飛び去って振り返ったところで、決して観察できるというものではない、宇宙空間とは、日常のこの時空の均一な延長ではないということですね。

次元が違っている。
我々の観察行為をしっかりと認識すれば、太陽系の他の惑星は、自分の位置から水平方向の観察しか成り立ちません(見ることは前で起こる)。そしてそれ(観察の像)は、天空(夜空)の「同じ天井平面に張り付いたもの(光点)」として、観察されているということです。

観察において、一光年先も100光年先も、変わりありません。距離は同じです。
惑星の動きは、人を惑わす動き、天空を行ったり来たりするから惑星という名付けをしたようですが、その動きを説明できるのは、太陽を中心として同心円上の公転を行っているからだと、推論が立って、そう推論すると、惑星の公転軌道が矛盾なく計算できる、ということで、実は惑星は太陽を中心とした太陽系を形成する、恒星以外の星であると、説明されてきました。

つまり、たとえ人工衛星という形式であってもいいのですが、人類には観察されたことなど今まで一度も無い、イマジネーションの中にしかソーラーシステムは存在していない、のが現状です。

地球(自分)を中心に水平展開する、太陽系の諸惑星の姿しか、観察されていない。

転じて、これはマクロだけではなく、ミクロも同様です。未だかつて原子、素粒子を直に観察した人類は無いのですから(物理学的には)、「原子の構造が原子核を中心とする立体回転」という描像は(間違っているとは言えないが)、「そう見えた」、わけではないということですね。

ミクロもマクロも、その運動の足跡を追って、その痕跡から計算式を導き出して、イマジネーションとして描き出すカタチです。その計算が「確率」としてしか描き出せないのが、波動関数ということです。電子の位置は観察行為に因らなければ、確率でしか計算出来ない、わけです。

立体回転の描像は、そいういう確率の波に揺れていると言われている電子の振る舞いに、「時間と空間を全て同時(ゼロ)に見立てた」カタチですから、立体回転で間違いはないのですが(矛盾してますか?w)、核を中心に電子が「殻」のように動き回っているイメージ図はあくまで「仮想」です。

そういう生きている我々の「生」(観察の事実)と、イマジネーションとしての原子、太陽系のイメージは食い違って受け止められている、という、長々した「既成概念の解体」を先にお話ししてから、やっと問いかけの「何か関係があるのでしょうか。」ということなのですが、
「対象が三次元であることを知っている者は三次元的に描く」というのが、大概「大人」という定義をされるかと思うのですが、大人であろうと子供であろうと、「生きていて世界を見ているもの」、としての我々には、事実見ている世界は「二次元の平面」としてしか見えていません。

物体の裏側まで同時に見ているという人間がいるでしょうか。

(実はキュビズムの画家たちの四次元思想のムーブメントは、この「裏側も同時にみている意識」を描くことに挑戦した人たちだったわけですが)立体と認識しているのは、「視覚」ではありません。

目玉が世界を立体に見ているなら、目玉は、物を包み込んでいなければなりません。
目玉の見ている世界は、厳密に二次元の平面に違いありません。(平面空間が曲率を持っているが)

立体を立体視しているのは、ワタシであることは疑いありません。ですから、私(の視覚)は目玉ではありません。立体視を行っているのは、位置が無く、時間の経過もない、非局所、無時間の観察位置であるということです。

「それ」が一つ一つの「モノ」を取り囲んで観察していて、物の全集合に全てその観察視点がまとわりついているわけです。そしてその観察視点が「ワタシ」そのものだということになります。

立体視を行っているものが、ワタシの本性であり、肉体の眼球が観察しているのは二次元平面であり、その区別が我々には意識されていません。

私の本性は、物を取り囲んだ観察の位置に居るのですが、我々にはむしろ、物(とその背景空間)に「囲まれている」ような認識が一般的でしょう。

取り囲んでいるはずの物に、逆に取り囲まれている。
この構図こそ、極小の世界で在るはずのビックバーン時点の宇宙(卵)が、現在は、もっとも極大の天井面に観察されてしまうことの「反転」が、観察空間に起きていることを示しているということです。

観察しているはずの対象に、実は取り囲まれている自分。

これは、観察対象と自分(=観察位置)の、反転(位置の反転)が起きていることを示しています。
対象を立体視しているのは、対象(もの)を取り囲んで観察している私、これは「霊性」の自分のこと言っていて、その位置は「物理空間の外部」に位置するということです。

外部の位置は、空間として反転し、反転した空間において、そのものの中心に裏返っている、そのような曲率反転が重なり合って(人間は差異が見えない)、物を取り囲んでいる自分が、物に取り囲まれているように、認識されている状態が我々肉体人間には起きているということです。

「対象が三次元であることを知っている者は三次元的に描く」ことは、「肉体の目」の観察によって起きているのではなく、あくまで肉眼は平面観察でしかなく、本性としてのワタシが三次元を観察できているわけです。

平面観察の子供から、立体認識の大人へ…ここには、通念として語られる空間認識の成長などという退屈な通説などでは、何も語っていない無理解があって、「我々全員が子供自分には」、肉体が自分だとは思っていないという、手垢(既成。固定概念が)がついていない、「ただ生きている世界として生きている」ままの存在がそのままあるだけであり、「見ている世界そのもの」の自分(当然他者はない)なのですね。

しかし、手垢(既成固定概念)がまとわりついていくことで、世界に時間と奥行き空間を想定(幻想)し、肉体を設定して、その肉体に自分を重ね合わせて、仮想な自己が、自分自身だと認識(盲信)し始めて、眼前の空間に物が無数に存在し、その「物」の一つとしての「あなた(他者)」と「わたし(自己)」を、自分のアイデンティティーとして、二者の対立という図式を生き始める(唯物還元主義)わけです。

自己の霊性を、モノ化することで、現状の狂気は熟成されて、人類の狂気の暴走が今あるわけで、その自己崩壊の発信点とは、世界と自己を物質としてして観察し始めた、空間認識にその因が在るわけです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生命の樹を、現状の人間の闇の構図に当てはめて感じ取る、ということに関して、私は「それは生命の樹ではなく、闇の、逆・生命の樹(クリフォト)にとても当てはまっている」と感じると書きました。

クリフォトは、生命の樹が下部に逆転し、宇宙(生命)の本性(永遠の生成発展=弥栄)が、逆回転した原理を持った闇の世界の構図だといいました。

このクリフォトを生み出しているのは、本質的には、生命の進化の反映が原因ですが、人間の意識、という視点から言えば、モノ化した唯物還元主義の人間の意識状態、それがクリフォトです。

とどのつまり肉体を主体としているという意識状態です。宇宙を逆さまに見てしまっている状態です。



262. あやみ 2013年3月03日 07:18:46 : oZZpvrAh64sJM : NH8uTIug8Q
おやじさま

>とりあえず生活していける程度の会話力を目指しておりますので

とは聞き捨てならぬお言葉です。万一のために、ということでしょうか。

英語は昔はすこしできましたが必要がなくなったとたんに忘れてしまいました。主人との会話がトルコ語で十分に成り立つようになったときから英語とは縁が切れました。
英語では私の感情は表現できません。無理に使っているうちにアメリカ女のような心情になってゆくような気がして、これはいかんなあと思っているうちにトルコ語のほうが気持ちを伝えやすいことに気がついたのです。
日本語と同じ語族です。先祖も共有しています。

ろうしさま、お返事ありがとうございます。すこしわかりました。再読してゆっくり考えます。


263. 宮島鹿おやじ 2013年3月03日 15:40:39 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし様
あやみ様

こんにちわ。

ただいま、ハイデガーの解説書を読んでいます。ギリシア哲学に始まるヨーロッパ思想の系譜を確認するのが目的ですが、それ以外にも大変興味深いことが記載されています。
おおむね、ろうし様の言われる「視点」の問題と大きくかかわる部分があります。
後ほどご報告します。


あやみ様

>万一のために、ということでしょうか。

多分にそういう意味です。というよりも、私は現時点におけるこの国のあり方が全く信じられません。そういったことが動機でこのようなスレッドでご意見をいただいているわけでもありますが。
アメリカ女のように・・・というのは笑ってしまいました。確かに使う言語によってその人のキャラクターに影響が出るというのはあるはずです。構造主義というのはそういう考え方です。


264. 宮島鹿おやじ 2013年3月03日 16:07:04 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

いつもありがとうございます。
現在、ひたすら「ハイデガーの思想」木田元に打ち込んでおりますので、いただいたコメントも一通り拝見しただけとなっております。申し訳ありません。
しかし、私が思うに、安芸ガラス様は、言葉の使用にあたっては、おそらくは、ある高い段階に達した方に見られる「形などにとらわれない」境地におられるのだと思っています。私も、若干の武道経験からそのような方を見たことがあります。自分のスタイルに消化しきっているとでも申しましょうか。その点私は、まだまだ、腕立て伏せ30回で、バリバリに形に囚われている段階ですので、もどかしいお気持ちもおありかもしれませんが、ご容赦ください。


265. 2013年3月03日 18:31:01 : nntYdpcFtg
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>言葉の使用にあたっては、おそらくは、ある高い段階に達した方に見られる「形などにとらわれない」境地におられるのだと思っています。

ん〜。
連れ合いが「子ども」へのせっし方は説明をしています。
私は動物の「いのち」は行動することと思っているので、行動するか、否かで働きかけます。
この働きかけの前提として、私とか「子ども」の要求があります。
行動は要求を実現するためですから。

私から見ますと「説明」は説教なのです。
大脳を受信機の代わりとし、記憶とか知識に働きかけるように見えるのです。

大脳は執行機関なのです。潜在意識が主体として決定をするのです。この決定の執行機関です。潜在が国会・立法で、大脳が政府・行政の役割をしています。

安倍総理は意志を強調しております。ここに自我を置いているのでしょう。
「意志」の強調や「3本の矢」は、やはり三位一体説の影を感じます。  


266. 手紙 2013年3月04日 01:59:45 : ycTIENrc3gkSo : 6B9pZSFkzE
皆さま、宮島鹿おやじさま、こんばんは。

http://1000ya.isis.ne.jp/1334.html
突然ですが↑ここに、「統計学」(statistics)の出自が語られています。ギリシャ哲学から19世紀の近代へと飛んでしまいますが、このスレッドで話し合われている事のヒントになるように思いますので、紹介してみます。
--------------------------------------------------------------------------------------
A=それはね、「偶然」(chance)を統計的な法則のなかで見るという態度こそが、その後の社会で人間社会を「平均的に見る」とか「正常と異常で見る」といった見方をつくったからだね。

Q=そうなんですか。それっていつごろの話ですか。

A=これはっきりしている。ナポレオンが登場してからのことだね。

Q=ナポレオンと関係あるんですか。

A=あるね。ナポレオンによって世の中に「統計学」(statistics)が生まれたようなものですからね。
そもそもナポレオンってのは、あの精密で厖大な『エジプト誌』でもわかるように、たいへんな記録魔なんだね。あらゆることを記録させた。そうすると、そこに病気や犯罪や自殺などのデータが、毎年、似たような規則でおこっていることが知れてきた。それはナポレオンが作ろうとした近代国家からすると、社会の「逸脱」とか「変なこと」についての項目ばかりなんだけれど、そのことが次々に公的な統計表から見えてきた。そうするとね、そういう「逸脱」や「ばらつき」の数字から逆に、「平均」とか「正常」という概念が新たに生じていくことになったんです。

Q=統計の誕生が正常と異常を分けたんですか。

A=まさにそういうことです。ナポレオンはヨーロッパの統一世界をつくって、そこに君臨しようとしたわけだけれど、その社会では統治すべき人民は数値的属性であり、かつ上から下へ向かって階層的になっているようなものであってほしかったからね。
だからこそナポレオンは官僚たちに出生と死亡の記録だけでなく、病気の発症率、個人の身体属性、犯罪の分類、労働者たちの家計などを調べさせて、徴税とか徴兵とかの国力評価に役立つデータをできるだけ集めさせたわけだ。
そうすると、そこにはいろいろの「ばらつき」(dispersion)があることが見えてきた。そこで、これらを国力に寄与するものとそうでないものに分けた。寄与するものを「正常」(normal)とし、そこから逸脱してるものは「社会病理」(pathological)としたわけだ。そして、こういう見方を国民国家(nation state)の基準に置いて、その根拠となる情報(データ)を独占することをもってナポレオン帝国を強化しようとした。さらにはそのための役所をつくって、情報管理の新しい制度にもしていくんだね。これを“統計的官僚”というんだけれど、ヨーロッパ近代が生んだ官僚制度は、実はすべてこの統計的官僚の制度なんです。

Q=でも、ナポレオンは早くに失脚してしまいますよね。

A=そうだね。ナポレオン執政府の崩壊が、そういう統計情報を密室から流出させて、世界に向けて垂れ流す結果になるんだね。統計的官僚たちが管理していた数字が官僚的統計として世に洩れていったわけです。これはきっかり1820年から1840年にかけてのことで、これをイアン・ハッキングは「印刷された数字の洪水」というふうに名付けている。ちょうど印刷術が革新されていたことも手伝っていたからね。

Q=印刷された数字になったデータが洩れたわけですね。それで何がおこるんですか。

A=それまで誰もが見たことがなかった統計学や確率論がだんだん社会化していって、そのぶん決定論が後退した。

Q=決定論の後退というのはどういうことですか。

A=ヨーロッパの哲学や思想では、長いあいだ、世界がなんらかの「秩序」によって決定されているはずだという「決定論」(determinism)が支配していたわけです。ある現象は必ずや何かの現象に帰結する。そこでは、はっきり原因と結果が結びつけられている。
だから将来に何がおこるかは過去に決定されていると見られた。ニュートン力学はこのルールでできているわけでしょう。世界はそういう決定論的な世界秩序でできていて、そこにこそ「合理」があると考えられていたんですね。
--------------------------------------------------------------------------------------
この後、対話は優生学の方向に進んでゆきます。
詳しくは是非お読みになってください。

感想めいた物いいになってしまいますが、この社会の一部の学者たちは近代の優生学的な桎梏から未だ脱しきれていないのではないでしょうか。世の中の争いも区別から始まるようにも思います。恐らくそれは、ろうしさまの重要な指摘である「自己の持つ視点と他者」「自分とは他人であるということ」と関係があるように思います。

自戒をこめて感じ考えると、私および私たちは、もっと強くもっと一杯に、他者に照らし返されねばならない。そうやって照らされれば照らされるほど、おやじさまが提起された「残酷な装置」を作って、その中に他人を放り込むようなことはできないはずなのです。

私は量子力学から積極的な倫理性が派生してくるようには思えません。それは科学は科学であり人格とは無縁であるはずだからです。つまり使う側の問題ですね。だけれども、ろうしさまのお話を拝聴していますと、何か微弱なる電流が伝わってくる。その「何か」は、うまく説明できないのですが…w 

皆さま、たいせつなお話をありがとうございます。
眠い目をこすりながらですので、文章にご容赦ください。


267. 手紙 2013年3月04日 02:26:39 : ycTIENrc3gkSo : 6B9pZSFkzE
「優生学」こんなものを作り、そして持ち込んだのは誰か、何か?

わびしい、さびしい。

劣こそ優でもある。

そんな感性を私たちは持っている…

かつて持っていたはずです。

そんなふうに世の中を見ていたはずです。


268. あやみ 2013年3月04日 05:03:06 : oZZpvrAh64sJM : NH8uTIug8Q
手紙さま

「千夜千冊」はときどきお世話になっているサイトです。日本語書籍に手が届かないので…

不思議な驚きを感じたのは、「普通」であることが良しとされ、その基準に当てはまらない「普通外」のものは国家に害をなすという考え方は日本においての歴史的国民性(=島国根性、事勿れ主義、私は錯覚か虚構だと思うのですが)といわれているものそのものではないか、ということです。

幕末に西欧に留学した福沢諭吉らが日本に持ち込んだ近代思想の中に「統計学」に根拠をもつ国民統制術みたいなものがあったのでしょうか、右へならえ的考えは実は江戸以前よりも今のほうがひどくなっていると思います。

福沢らの啓蒙は日本人の劣等感の刺激という卑怯な手に始終していたと思います。「学問のすすめ」などは読んでいると吐き気がしてきます。やさしさが、日本から失われてゆきました。

ご紹介ありがとうございました。


269. 宮島鹿おやじ 2013年3月04日 07:14:02 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
手紙様

おはようございます。
大変参考になる資料をありがとうございました。
統計については若干以前に少し調べたことがありましたが、その出自についてはまったく不明でした。ナポレオンとは・・・。
物理学との関連、決定論との相克、統計力学への影響など大変重要な事柄だと思います。まだ優生学の項までは拝見していませんが参考にさせていただきたいと思います。

いただいたコメントから、一つの「何か」が伝わってきます。
国家運営にとっての「よいもの」/「わるいもの」
「価値ある存在」/「価値なき存在」・・・・価値の享受者は国家。

この国家を「神」に置き換えればそのまま、中世神学になるものと思われます。

こういった、一つの目安で暴力的に、人間も含めて評価する体系が、「形而上学」=「西洋の哲学」であると言えると思います。

ここで、一つの疑問が生じます。東洋にはこのような「形而上学」は存在しなかったのか。わたしは、その一つが、朱子学であると思っています。


270. ろうし力学 2013年3月04日 19:22:04 : riuSNxeQ9qjU6 : eUTFAAuGXY
手紙さま

手紙さまが書かれた統計学とナポレオンの関係、大変参考になるものでした。ありがとうございました。

それで、

>この社会の一部の学者たちは近代の優生学的な桎梏から未だ脱しきれていないのではないでしょうか。
>世の中の争いも区別から始まるようにも思います。

そう思いますね。区別からはじまる、同意です。

>恐らくそれは、ろうしさまの重要な指摘である「自己の持つ視点と他者」「自分とは他人であるということ」と関係があるように思います。

人生に「他者」がいない、と言う「言葉」には、相反する方向性がありますよね。

現状のイカレタ様子は、他人など知ったことじゃない、という意味の他者などいない、ですし、当方が言っているのは、自他一体なので、他者は居ない、
よって、いわゆる他者は自己なので、残酷な行為など、発想も出てこないという、他者は居ないです。

>自戒をこめて感じ考えると、私および私たちは、もっと強くもっと一杯に、他者に照らし返されねばならない。そうやって照らされれば照らされるほど、おやじさまが提起された「残酷な装置」を作って、その中に他人を放り込むようなことはできないはずなのです。

存在の原理で言えば、もともと他者など居ないのですが、仮想的幻想的勘違い的に他者を設定する、私たち地球人類は、他者など知ったことじゃない、と言って他者を虐げまくるわけですが、原理的にはその行為は既に「自傷行為」になっているわけです。

その人間が気付くと気付かざるとに関わらず、自分に向かって破壊行為を為したのもは、完全な法則性に則って、自らがそのエネルギーを相殺する時は必然的に来ますね。逃れられませんから。

他者は向こう側の自分、という理解がまもなく当然の理解となってくるわけですが、現時点でもそれを直感的、感情的、理性的に本性的に受け取っている人々は、自傷ではなく自愛行為で、他者を慈しんで生きているわけです。

量子力学の発見とは、平たく言えば、「見ている事象は自らの見るという行いによってそれが成り立つ」ということになるわけですから、世界とは要するに、SF風に言えば、自分と言う意識生命体がホログラフとして投影した超立体映像だということであり、内部世界だということですね。

そこには、他者というのは、仮にそう設定しているだけのものであって、全ては自己の意識(意識は自己なので、この語法はおかしいですが)の産物だということです。ですから、物事の理を解すれば(理解)、どうして世界、他者、自己、存在の全てを否定・破壊できるか!?出来ないのが当たりまえだとしか、思えないわけです。

>私は量子力学から積極的な倫理性が派生してくるようには思えません。それは科学は科学であり人格とは無縁であるはずだからです。つまり使う側の問題ですね。

ツールに過ぎません。そんなものは無くたって全くかまいません。
なぜそれを使おうとするのかと言えば、徹底的に個において理解されうること(自他一体で他者は無いから徹底的に個と呼ぶ)が、徹底的に生命を差し込まない
探究の行き着く先と、完全にリンクしているからなのですね。

徹底的に物質の追及は、個々人の考えや、主観を廃した「客観」の究極なので、それ故に「客観を信奉する、科学カルト」な現代社会のパーツ(人間のこと)にとって、異論の余地が無い、コンセンサスの基準に用いる(客観信仰において)ものであるが、その行き着いた先が、なんと主観そのものであった、意識そのものであった、生命その根底であった、ということなのです。

ワタシにとっては、身体は自己ではないし、世界はワタシそのものですし、科学は面白いものでしかないので、量子力学など、趣味のようなものですが、ワタシにおいて、地球人類が自己他者一体性の原初を想起すること(存在宇宙の原理法則=無限弥栄)は、自己の存在意義であり、共々に行くことが生きることであるので、科学カルト信者、客観信仰の思想が、その意思意識の方向性を反転してのに、「後ろを振り向かせる(力ずくでも)」のではなく、信じている方向性(唯物還元論)に乗って行ってもらいながら、それ自身が「特異点」に至ることで、一挙に逆方向へと意識が転換する、という相乗りのムーブメントを志向している、そのように捉えています。

>だけれども、ろうしさまのお話を拝聴していますと、何か微弱なる電流が伝わってくる。その「何か」は、うまく説明できないのですが…w 

手紙さまは、手紙さまでいらっしゃって下さい。
ワタシ(たち)は、ビジョンを描きます。決して信じることもなく、ただ見つめていていて下さい。
当方の言説は、幾何学、意識構造の幾何学を、言葉で描いているので、本来は絵でありたいし、むしろ芸術で在りたいのです。
一般の人間には、数式は数字に見えますが、数の天才が見る数式は、アートに近い感覚だと直感します。

私の量子力学の理解など児戯に等しいですが、わたしは存在が愛しくて仕方ない「意志」なので、生命の深淵さを描くツールである量子力学はアートっぽく捉えているのです。

これから人類世界は、虚時間空間へ輪廻を起こし、みろくの世、千年王国、ようきゆさん(陽気遊山)世界、彼岸というあたらなる太陽系を生み出して行きますが、そこでの仕事は基本的に芸術であり(理由は、存在の食料が陽の気であるので、うれしい、と言う感覚が世界の材料になっていくから)、食べることは、これもまたうれしいを生産する行為において行われて、動物は対象外であり、ほんのちょっと野菜や果物を食べて感激することが、世界に寄与する行いとなっている、そのように動き出す法則性の宇宙だと言っておきます。

(おいおい、どこまでトンデモやねん!爆笑)


271. 宮島鹿おやじ 2013年3月04日 20:09:21 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
(おいおい、どこまでトンデモやねん!爆笑)

って、この「爆笑」というフレーズが、私がファンだった「宇宙一いい加減な博士」に良く似ています。


272. 宮島鹿おやじ 2013年3月04日 20:34:57 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
とりあえず、今、こんなところを読んでいます。(木田元「ハイデガーの思想」第6章 2節 ピュシスについての思索 より)

・・・『古事記』のもっとも古い位層に見られる古代日本人の自然観にも、万物をと見る見方がうかがわれるが、古代のギリシア人もそれと似たような見方をしていたと考えればよい。

古代の日本人はそうした生成の原理を〈ムスヒ>と呼んでいる。丸山真男氏によると、高御産霊神(たかみむすびのかみ)などの神名にふくまれるは、などと言うばあいのと、原理を意味するとから成る由であるが、にはこのに通ずるような生成の原理という意味がある。ハイデガーは、このについてこんなふうに述べている。

「ピュシスとはギリシア人にとって存在者そのものと存在者の全体を名指す最初の本質的な名称である。ギリシア人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現われきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現われきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである。」(著作『ニーチェ』より) 


>>136>>142あたりのコメントに通じるものがあると思います。
この点についてはラッセルもハイデガーも「何か」に強く着目しているようです。郷愁のようなものを感じているのではないでしょうか。


273. 宮島鹿おやじ 2013年3月04日 20:42:33 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あれあれ、htmlか何かの規則で文章が変になってしまいました。

こんどは大丈夫でしょう。

・・・『古事記』のもっとも古い位層に見られる古代日本人の自然観にも、万物を
<葦牙(あしかび)の萌(も)え騰(あが)るがごとく成る>
と見る見方がうかがわれるが、古代のギリシア人もそれと似たような見方をしていたと考えればよい。

 古代の日本人はそうした生成の原理を<ムスヒ>と呼んでいる。丸山真男氏によると、高御産霊神(たかみむすびのかみ)などの神名にふくまれる<ムスヒ>は、<苔ムス><草ムス>などと言うばあいの<ムス>と、原理を意味する<ヒ(霊)>とから成る由であるが、<ピュシス>にはこの<ムスヒ>に通ずるような生成の原理という意味がある。ハイデガーは、この<ピュシス>についてこんなふうに述べている。

「ピュシスとはギリシア人にとつて存在者そのものと存在者の全体を名指す最初の本質的な名称である。ギリシア人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現われきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現われきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである。」(著作『ニーチェ』より)


274. あやみ 2013年3月04日 23:56:10 : oZZpvrAh64sJM : NH8uTIug8Q
おやじさま

<ムス>は漢字を充てれば「産す、生す、熟す」です。娘(ムスメ)とは「産す女」です。<ムス>からはほかにもいろいろな派生語ができます。やまとことばは音韻の「ことだま」による生き物です。漢字を受け入れた時点で視覚化され、しなやかさが少し失われてしまいました。

いま、あたらしい記事を書いてます。時空について、やまとことばの窓から覗いてようという試みです。
現代語で書こうとすると書けず、かといって全部やまとことばで書こうとすると今度は現代人にうまく伝わらなくなります。
やまとことばのおもしろさは私などにはとても書きこなすことができません。その少しでもお伝えすることができれば幸いです。明日にでも投稿できると思います。


275. 2013年3月04日 23:58:52 : FvIIiHrPhw
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。
私は丸山真男氏を知らないが、彼の主張は現実をどう捉えるか?「ある」「なる」「うむ」ではないだろうか。

木田元氏は私より年上なので、弁証法では始まり、対立、構造の経過のことをいいたいのではないのか。


276. 手紙 2013年3月05日 01:07:29 : ycTIENrc3gkSo : m0FyvzBiBI
皆さま、こんばんは。
具体的な出来事を拾いながら考証して書くと、とんでもなく長い文章になりそうなので、いつものことですが素描的にコメントします。

あやみさま
>> 島国根性、事勿れ主義、私は錯覚か虚構だと思うのですが
>> 幕末に西欧に留学した福沢諭吉らが日本に持ち込んだ近代思想の中に「統計学」に根拠をもつ国民統制術みたいなものがあったのでしょうか、右へならえ的考えは実は江戸以前よりも今のほうがひどくなっていると思います…

同意します。
日本は明治維新以降昭和の終戦に至るまで、かなりの無理を強いて富国強兵に邁進してきました。その中で学者や官僚たちが国外から持ち込んだもの、あるいは固有の風土や民族性を半ば無視して形作ったものは、今の今に至るまで根強く歯車として、社会の中で回り続けていると考えています。その中には毒も薬もあったと思います。しかし特に終戦間際のあのカルト的な社会意識や社会構造は想像を絶する毒々しさで、広大なアジア地域に浸透してしまいました。それが今も解毒しきれずに折を見て、現代社会に滲み出してきます。

明治以降官僚組織は一度も解体されることはなく継続し、彼らは今もその継続性と一貫性を後生大事に守っています。それは東京大学を頂点としている官僚化した学界の組織的硬直性と閉鎖性においても、やはり同じような構造があるはずです。

このような毒々しくも強靭な近代を「超克」していくことは、アジア地域においても現代の大きなテーマであり、ありふれた私たち自身の課題でもあるはずなのですが、解決の糸口を見つける前に原発事故という現在進行形の最大限の恐怖が私たちに襲い掛かっています。私はここにもやはり、いつまでも過去にならない近代の毒性の強さを見る気がします。

昨今の政治状況を見ていると、私たちは過去進行形の中には生きられないはずなのに、時計の針を元に戻してしまうような「たくらみ」を見るような思いです。

つまり、「あったことをなかったことにしてしまう」そんなたくらみがあるのではないか? それは歴史修正や、あるいは原発事故から派生した諸々の出来事を、全部さかしまにしてしまうようなウルトラCをやるのではないか?そんな疑念です。それは政府の原子力村に対する盲目的な従順性や、政府と一体になってしまったマスメディアを見れば明らかになってくるはずです。

原子力村総体の闇はあまりにも多層的重層的であって、その全容を把握し糾弾し弾劾することは個人の仕事では決して出来ません。ですからみなで松明を持って、震えながらも勇気を持って暗い洞窟の中へ入っていかねばならないと思います。その萌芽は各地ですでに芽生えていますし、おやじさまは今、その先頭でがんばっておられます。

私のような者も、その松明の一団に参加させてもらえたら本当に光栄なことです。

皆さま、丁寧なレスポンスをありがとうございました。
ろうしさま、言葉の輝きと思考の可能性をありがとうございました。


277. 宮島鹿おやじ 2013年3月05日 07:46:25 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
おはようございます。
さっそく、<ムス>についての補足を頂けました。ありがとうございます。
ご投稿楽しみに拝見したいと思います。


安芸ガラス様
おはようございます。

ハイデガーにおける<ピュシス>の概念ですが、整理すると現時点では以下のように認識しております。


プラトン・アリストテレスの自然(ピュシス)観:制作の素材
イデアによる形相(エイドス)の付与を受ける前の素材としての質料(ヒュレー)。つまり、それ自体としては、なんら構造・構成・形をもたない「無存在」。「自然科学」といった場合の「観察対象の特定領域」

ソクラテス以前の思索者の自然(ピュシス)観:生成
おのずから発現し生成してきたもの。生きているもの。萌えあがり現われきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めているもの。

ハイデガーは、おそらくは、ヨーロッパの思考様式を、ソクラテス以前の自然観に立ち返るということを目途としていたという記述があります。この辺は整理してまた報告します。

実は、丸山氏や「やまとことば」については、まったくよくわからないのですが、たまたま以前の議論>>136との関連からコメントしました。
また、木田氏については、メルロ=ポンティ、ルカーチ、フッサールなどの翻訳、『現象学』、『ハイデガー』などの著作があります。(1995年時点の奥付によりますので古い情報です)この本の中では、あまり、「弁証法」という言葉は使っておられないようです。

手紙様
おはようございます。
いただいたコメントについてほぼ全面的に同意します。
なんといっても大変なことは大変なのですが、少しずつでも進んでまいりましょう。こちらこそどうぞよろしくお願いします。


278. 宮島鹿おやじ 2013年3月05日 21:25:48 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
五十の手習い(英会話)から帰ってきたのですが、

結構英語馴れした生徒が、ネイティブの教師に、「はぁうぁあゆぅ?」とか聞いて、相手が何か言うとしたり顔で「ん、ふぅん?」とか言っている奴を見ると本当はぶん殴ってやりたい気持ちになるのです。

福島のことも、国や自治体が、ダメでもなんとかしようとする姿勢でも見せてくれればそれでも、ここまで愛想も尽きないのでしょうが。本当に何もしませんね。

とまあ、今日は愚痴言って終わりです。すみません。


279. 2013年3月06日 21:11:20 : XE3nYO0Waw
オオトラっす 今現在は有る事のセルフイニシエーションでてんてこ舞で何も
書けません 暫くは読むだけーっー事態でおます

280. 2013年3月07日 00:17:53 : edFPRa7hkI
手紙様

安芸ガラスです。

資料をありがとうございます。
「決定論」と「非決定論」は「自由意志」と関係しています。
それと「偶然」は「神の第一撃」と「第二次必然性」と「偶然」の、「偶然」のことですね。
統計学の構造がよく分かります。


281. 宮島鹿おやじ 2013年3月07日 07:55:53 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。

仕事などの理由で現在思うようにはかどりませんが、自分としては、このままどんどんいくつもりですので、よろしくお願いします。

現在、以前読んでいた「魔女狩り」という岩波新書を再読しおえました。

中世の異端審問・魔女狩りにおける不正と残虐について解説している本ですが、その残虐行為の執行にあたっては、当時としては「最高の権威と知性」がそれを推進したという点では、私たちの眼前に展開する異様な状況と相通ずるものがあると感じました。


282. 2013年3月07日 08:57:21 : cKlmcFykoU
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>中世の異端審問・魔女狩りにおける不正と残虐について解説している本ですが、その残虐行為の執行にあたっては、当時としては「最高の権威と知性」がそれを推進したという点では、私たちの眼前に展開する異様な状況と相通ずるものがあると感じました。

西洋は自我の根拠が自由意志です。(三位一体説)
かっての日本では無我となります。(橋田邦彦)

西洋も日本も神(天皇)と個の関係です。
西洋は個の知性は神の発信の受信機です。
かって日本の場合は天皇(個とこれまでの天皇)との一体化です。

一度コメント欄に記入しましたが、個=主体の根拠は要求です。
ほとんどの要求は大脳では認知できません。
「異端審問・魔女狩り」は潜在意識の発見につながったのではないでしょうか。


283. 宮島鹿おやじ 2013年3月08日 07:48:22 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。
率直に申しまして、私と安芸ガラス様の関係は、私が思うに、「旧技術」と「新(未知の)技術」の遭遇した状態に似ているのではないかと思います。

例えとしては適切ではないですが、「銃士」という存在に初めて出会った弓の射手は、銃士の行う動作の意味が分かりませんが、その効用というものは理解できます。
私たちの事例で言えば、「明晰判明」ですとか「説明は説教である」という命題などが、「ああ、そうだよねえ」ということが後でわかって来るような事柄です。

しかし、弓の射手(私)は、その新しい技術(思考法)を理解することに時間がかかります。というわけで、もし、よろしければ、しばらくはこの状態でお付き合いを願いたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

手元に別冊宝島「わかりたいあなたのための現代思想・入門」という一見軽薄そうなブックレットがありますが、発行は1989年です。友人の影響から入手してかつて読んでいたのですが、その頃はほとんど全く理解できませんでした。今、ようやく、何を言っているのかの輪郭がつかめるようになりました。内容は、ほとんど、現在私たちが取り組んでいる内容と重なります。

いかなる切り口からでも、ある一定の流れを遡って、同一の問題(ヨーロッパ思想の源流)に行き当たってしまう。そのような感触を得ております。

ただ、現在、一つの奇妙な楽観が、私にあります。それは、私たちは、心底ヨーロッパ人ではないということです。だからといって大層なものとも思えませんが、彼らが無意識に陥る状態は、私たちが意識して「西洋かぶれ」になるときに陥る場合が多いということです。うまく表現できませんが、頭の中に「日本昔話」のテーマ(坊や〜良い子だ、ねんねしな〜♪ のアレです)を思い浮かべながら何やらの会話を思索するとき、決して、私はヨーロッパ人のようにはなっていないのではないかというトンデモ系のことを考えているのです。

現在、ラッセルの解説を最終確認しておりますが、ギリシア思想については自分としてはまとめを行い次に進みたいと思います。


284. 2013年3月08日 08:59:36 : xg6xq5oRjg
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>私たちの事例で言えば、「明晰判明」ですとか「説明は説教である」という命題などが、「ああ、そうだよねえ」ということが後でわかって来るような事柄です。

>内容は、ほとんど、現在私たちが取り組んでいる内容と重なります。


今、私たちが取り組んでいる課題は、上記のようにかって大正とか、昭和の初めに取り組んだ課題と重なるのではないでしょうか。

幕末、武士と公家衆が、独りよがりの日本をそのままにして、自由貿易の世界体制に参入を決定しました。しばらくして、武士と公家衆は、西洋と米国の基準に合わせて、政治と経済の構造改革を行います。(明治維新のこと)
風俗の変化も続きます。私たち新平民は、この風俗の変化を通して、支配者の変化を知りました。
もちろん、構造改革はこれまでの日本の延長にあります。

風俗の変化とは、着物、履物、住居、食べ物にわたる全てです。
とりわけ、尋常小学校への入学、そしてここでの教育と体操、まったく違うことがおきたのです。

心と体を「しつけ」(強制、命令、説教)をするわけですから。

教育とは聖霊が体の中に、記憶を埋め込み、それを「引く出す」のです。
暴力がともないます。

体操とは心を分断し意志を取り出し、ここで目標とか行動の設定をしたのです。
意志で体を支配するのです。

ヨーロッパの哲学と云われる学問は、そのカテゴリーは奴隷制が前提です。
さらにその大系は、神と子と聖霊、つまり教団が住民をいかに支配するかが、前提です。

「まとめ」を楽しみにしております。


285. 2013年3月08日 10:13:27 : xg6xq5oRjg
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>一度コメント欄に記入しましたが、個=主体の根拠は要求です。
ほとんどの要求は大脳では認知できません。


主体は要求にあります。
日常生活のほとんどは大脳を通さない要求です。

動物は要求を行動で実現します。

ですから行動の前には体の中の動きがあります。
この動きを表に現れた行動で追いかけて捉えます。

しかし、西洋と日本では主体は自由意志においております。
刑事訴訟法では犯罪を定義する要件のひとつとなっております。
西洋でも要求を主体においている人がいました。

この辺あたりから、木田氏が云われる哲学の解体(反哲学)が始まりました。
しかし、知人に聞いた話ですが、西洋で生活すると、日本では「危ない」人と思われる光景が、とてもリラックスの状態だそうです。


>ただ、現在、一つの奇妙な楽観が、私にあります。それは、私たちは、心底ヨーロッパ人ではないということです。

それをおやじ様は的確に表現されていると思います。


286. あやみ 2013年3月08日 23:18:00 : oZZpvrAh64sJM : T1qGXQWcac
こんにちは

>幕末、武士と公家衆が、独りよがりの日本をそのままにして、自由貿易の世界体制に参入を決定しました。

武士と公家衆も「独りよがり」の中にあったのではないでしょうか?そこに参入することが何を意味するか、どのような構造改革を迫られるか見極めていた日本人は果たして誰と誰だったのか、その人はそれを止めたかったか、進めたかったかという疑問が沸き起こりました。とめたかったのが西郷隆盛で進めたかったのが福沢諭吉、という考えは単純すぎでしょうか。

武士と公家衆たちは当時、外との関係で日本がどうなるかを少しも考えず、自分たちの勢力地図のことで頭が一杯であり、その隙に欧米列強の思い通りにされた用に見えます。

>しばらくして、武士と公家衆は、西洋と米国の基準に合わせて、政治と経済の構造改革を行います。(明治維新のこと)

これも、え?・あ・はい・そうですか、という感じに何の疑念もなく西洋から拝領してしまったきらいがあります。もちろん「文化人」と呼ばれる名誉欲に満たされたい類の人たちは、自らの論説を実証しその名を残すためには全国民の心と暮らしを犠牲にすることなど屁でもないことであったでしょう。

原発産業やTPPとなんら変わらない。

西洋かぶれどもをぶん殴りたくなる気持ちは非西洋人であれば必ずあると思います。だからこそ、かぶれるからには徹底的にかぶれてしまい、非西洋人を見下してこっ酷くこきおろす必要が生まれたんではないでしょうか。それが「ん、ふぅん?」に直結するのだと思います。劣等感のなせる業です。この劣等感を箇条書きにしてわざわざ国民に押し付けたのは「明六社」です。

日本人は体が小さい→西洋人に負けている
太陰暦を使っている→非科学的
和装→行動的でない
肉を食べない→だから体が貧弱にみえる
日本語→極東のマイナー言語なので公用語を英語にすべき
歌舞伎→支離滅裂でワカラナイ

などなど


287. 2013年3月08日 23:35:12 : IRBE3TV22c
あやみ さん

こんばんは
安芸ガラスです。

>武士と公家衆も「独りよがり」の中にあったのではないでしょうか?

そうです。

>そこに参入することが何を意味するか、どのような構造改革を迫られるか見極めていた日本人は果たして誰と誰だったのか、その人はそれを止めたかったか、進めたかったかという疑問が沸き起こりました。とめたかったのが西郷隆盛で進めたかったのが福沢諭吉、という考えは単純すぎでしょうか。

かなりの資料が残っております。
貿易、商社、風俗の変容など論議がされています。
見極めた人物もいます。
とめるが西郷、進めるが福沢では単純です。

そうですね。
少しづつコメント欄に書いていきます。


288. 宮島鹿おやじ 2013年3月09日 19:52:16 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
安芸ガラス様

こんばんわ。

なんだか妙に気候が暖かくなりました。
生活環境を維持するためにしばし考察を停止していますが、是非コメントをお願いします。


289. 宮島鹿おやじ 2013年3月09日 21:51:56 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
my room is not sanitary
私の部屋は衛生的ではありません。

・・・

がんばらねば。


290. 2013年3月09日 22:02:24 : OVW5ELKLpg
あやみ さん

安芸ガラスです。

幕末は公儀が分裂していました。
天皇と徳川です。

徳川は身内で政府を固めていました。
この状態に対して、国持ち大名は、政治決定への討論と決定に参加をしたかったのです。
ですから、開国問題はそのための口実なのです。

一方の公儀である天皇は、国体の制度が壊れることを心配をしていました。
国持ち大名は、徳川の決定の場に出席できないので、天皇を通して、発言と影響力を確保しようとしていました。
ですから、天皇にとっての開港問題は国体の維持なのです。

そうじて、国持ち大名も天皇を窓口にしているために「華夷秩序」の維持が含まれております。
ですから、「攘夷」は二の次の課題なのです。

交渉の現場の武士は、「自分たちが日本を代表する」誇りがあったようです。
このグループは開港推進勢力です。


291. 2013年3月10日 09:05:02 : frBbA4JZ8Y
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

私宛てのメールを拝読すると、文章には病気の因果関係が前提とされています。
それも個体=個人も前提とされています。

しかし、原子力ムラでは、病気の発病率や病気の種類を公表をしていますが、
データーの中に個人はいません。(医師は個人をどう捉えているのだろうか。)

どうやら世の中(われわれ)と現実を切り取る部分が違うようです。
それで山下を含めて医師を構成する利益者集団の学問=科学の構造は如何なるものなのだろうか、との疑問が浮かびました。


292. 2013年3月10日 10:15:29 : frBbA4JZ8Y
安芸ガラスです。

原発板を拝見しました。
「リスク」「検査」の言葉が目につきます。

私は原子力ムラの出ですから、線量をこれだけ浴びると、こうなると、集団リスクを習いました。
しかし、実際に作業に従事しますと、線量との関係の集団リスク表は、役にたちません。

さらに検査ですが、私は電離法に基づき、法律に義務ずけされている検査を何年にわたり受けてまいりました。
しかし、「発病」あるいは「死去」とは関連がありません。

世の中(われわれ)は、「リスク」と「検査」が、自分と関係があるかのごとく思い込んでいるようなことがあるのではないかと、思います。


293. 宮島鹿おやじ 2013年3月10日 14:26:40 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんちにちわです。

現在、害虫の発生源にしかなっていない食器棚の古い食品を整理しており、ギリシア思想にも戻れませんが、コメントは拝見しております。

私の素人感覚では、疫学的手法はむしろ、こういった災害における被害者側の学者が援用するものという認識がありました。以下投稿などはその趣旨に沿ったものです。
この辺はいかがお考えでしょうか。

http://www.asyura2.com/12/genpatu20/msg/171.html


294. 2013年3月10日 15:51:33 : frBbA4JZ8Y
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

津田敏秀氏は、われわれ新平民に必要な仕事をしてくださっている人です。
おおいに使いましょう。

今の科学に、別の科学の可能性があるのかなぁ、と希望を持たせてくれるぐらい衝撃的な科学です。

言語世界と実在世界、演繹と帰納のことです。

しかし、科学の構造は同じです。

構造は以下です。

神―第一撃―二次的作用―現象

これは神―実体(必然と偶然)のことです。

二次的作用、つまり必然を「科学」と名乗っているだけです。

『日本の科学者101』でも、科学者の出は武士です。
この支配者周辺の人たちが留学して、国家の学問として科学を取り入れました。
取り入れは、科学と云う方法だけではありません。

西洋と米国のキリスト教団の人間観、自然観、社会観も一緒に取り入れているのです。

教育は知育、徳育、体育と云われています。
これて、キリスト教団の関係ではないでしょうか。

無意識に三位一体、父と子と聖霊、言葉と記憶と意志の構造を受け入れているのではないでしょうか。

さらに縦軸は生命の樹、横軸は種差と個差を受け入れ、現象を空間で見ているのではないでしょうか。

云いたいのは、われわれは批判的に使いましょう。

軸はずれますが、企業に法人格を付与しています。
政治献金もOK、宣伝も自由、損失の補てんも可能、しかし、責任を付与していません。
これが大きな問題です。
東京電力は私たちの権利行使の対象にならないのです。
権利行使とは、方向付けを変えさす権利です。


295. あやみ 2013年3月10日 20:53:00 : oZZpvrAh64sJM : Pk9oTHb05s
安芸ガラスさま

>西洋と米国のキリスト教団の人間観、自然観、社会観も一緒に取り入れているのです。
教育は知育、徳育、体育と云われています。
これて、キリスト教団の関係ではないでしょうか。
無意識に三位一体、父と子と聖霊、言葉と記憶と意志の構造を受け入れているのではないでしょうか

これに痛いほど同意いたします。

取り入れ方、ここが重要です。キリスト教団の人間・自然・社会観は、江戸時代までの日本語では翻訳できません。なぜならその概念がわが国に存在しなかったわけですから当然その語彙がないのです。そこで改革派は早急なる「造語」の必要を感知し、成し得たのです。それが「明治の新語」です。
正義、平和、人権、自由、これらが「明治の新語」代表格です。ほかにも物理、芸術、教育、枚挙に厭いませんが、なぜか現代日本人はこれらのものを崇高にして侵しがたいものと信じて疑いません。まさに聖域です。

私がここ数年、投稿をとおして発言しているのは、この「明治の新語」を造語した確信犯「明六社」の存在と影響が主です。彼らは新語を作りそれを駆使して西洋がいかに優れており日本がいかに遅れているかを啓蒙しました。日本は裸の王様にされてしまったのです。

>現象を空間で見ているのではないでしょうか

空間は限られた領域をさして言う言葉です。たとえば自分の視座から見えるだけの領域、たとえば自分の所属する共同体に共通する見解、たとえばテレビ画面から流れる映像、そのようなものでしょうか。領域を決定した時点で現象の見え方が決まります。この領域の決定権を得られないのです。


296. 2013年3月10日 21:10:27 : frBbA4JZ8Y
あやみ さま

安芸ガラスです。

>正義、平和、人権、自由、これらが「明治の新語」代表格です。ほかにも物理、芸術、教育、枚挙に厭いませんが、なぜか現代日本人はこれらのものを崇高にして侵しがたいものと信じて疑いません。まさに聖域です。

よくわかります。


>たとえば自分の視座から見えるだけの領域、たとえば自分の所属する共同体に共通する見解、たとえばテレビ画面から流れる映像、そのようなものでしょうか。

その通りです。


ろうし力学様が、「記憶」についてコメントされていました。
記憶とは「明六社」の新語と体が結婚している状態です。
われわれの体と心を記憶で縛るのです。

西周(にし あまね)は、安芸の隣の国の出です。隣の国は、徹底的に廃仏毀釈をした国です。平田教の連中です。平田は蘭学の出です。その弟子たちが西洋と米国に留学したのです。


297. 2013年3月10日 21:45:07 : frBbA4JZ8Y
安芸ガラスです。

そうですね。
例えば「人権」。
私は左翼なので、同じ陣営の人は、この新語をよく使っております。

しかし、これは「人間中心主義」(ヒューマニズム)を現わしているのです。
神が前提で、人間の位置が生命の樹の位置なのです。
私はジンカン(人間)の立場なのです。

物理と云えば、東京新聞に核物理学者のインタヴューがありました。
そこで、放射線を浴びる害を語っていました。
年末、病気になったそうです。
調べたら脳の血管に係わることが分かったそうです。
それで、早期検査と早期発見を進めていました。

核物理の世界を語る人と、早期検査を語る人は、同一人物なのです。
ここに私たちの姿があります。

全身で核物理の世界と交流しますと、体と心は変化をします。
それで、核物理の世界を摑まえることができるのです。

しかし、核物理の世界を知識で語っているから、体は変化をしないで、放射線を浴びる早期検査になってしまったのです。

ここに私たちの悩みと課題があります。


298. ろうし力学 2013年3月11日 01:44:16 : riuSNxeQ9qjU6 : aaEHUt9RKs
一体、何をやっているのでしょうか。

記憶に対する記述そのものが、

>>現象を空間で見ているのではないでしょうか  から繋がって、

>空間は限られた領域をさして言う言葉です。たとえば自分の視座から見えるだけの領域、たとえば自分の所属する共同体に共通する見解、たとえばテレビ画面から流れる映像、そのようなものでしょうか。領域を決定した時点で現象の見え方が決まります。この領域の決定権を得られないのです。

を受けて、
「記憶とは「明六社」の新語と体が結婚している状態です。
われわれの体と心を記憶で縛るのです。」

というのは、それこそが「自分の視座から見えるだけの領域」ではないのでしょうか。

記憶について、当方が書き綴ったことは、全くそのような記憶ではないのにもかかわらず、あたかも共通認識が取られているかのごとき、説明「記憶とは「明六社」の新語と体が結婚している状態です。われわれの体と心を記憶で縛るのです。」
によって同一で括るのは、それこそ「自分の視座から見えるだけの領域」ではないのでしょうか。

当方の言っている記憶とは、(呼び名は記憶でもなんでもいいのですが)、主体である意識が、現象を観察出来ている状態、のことを言っているのであって、
>体と心を記憶で縛る、
という「記憶」のことではありません。

その説明を、当方は否定するものではありませんが、当方の書いた記憶が、あたかもその説明における記憶と同等のものであると断定で書くのはやめてもらいたい。

「私の言うところの記憶とは、これこれこういうものである」と書かれるのは当然全く構わないのですが、同一化、一般化で括らないで下さい。

物体がそこにある、という認識が、記憶(イマージュ)であると言っているのであって、光によって、「物」の情報が視覚にもたらせられていると科学的に考えるならば、一秒前の「物」は、遥か30万キロメートルへと遠ざかっていると考えなければなりません。
しかし、そこに今も「物」がある、という状態とは、「物」そのものが、観察主体の意識が保持している記憶そのものだ、と言っているのであって、物体、また眼前の現象とは、分子集合体でも、原子集合体でもない、私の記憶が現象であり、物そのものである、と言っているのです。

せめて、当方の記述に批判的であって頂きたいし、理解不能だと明言してもらいたいものです。決して、同一化、一般化で取り込んで語らないで頂きたい。

視座が違うのですから、同一化は暴力ではないでしょうか。
アップルと聞いて、方や林檎を、方やパソコンやスマフォを思っているような状態と、以前申し上げてもいます。

>「記憶とは「明六社」の新語と体が結婚している状態です。
われわれの体と心を記憶で縛るのです。」
という事について、ある視座からは全くその通りだと当方も思いますので、同意ですが、当方の記述した「記憶」とは全く違っている、という点、差異を感じて頂きたいものです。

繰り返しますが、観察主体が世界を見れているのは、世界が観察主体の記憶だからだと申し上げているのです。ということは、見ている世界とは主体そのものであって、私の位置とは、世界がその位置であって、物体の手前に想定された人体を自分と呼んでいるのは、後付された虚構の「我」であって、「自分のカラダ」だと観察されていることも含めて、見られている世界そのものが、ワタシでありワタシの記憶である、と言ったのです。

人間中心主義、は、当方が言わんとする「人間が中心」とは全く違ったものであり、人間とは、人に至っていない、間がある存在だという意味合いをもって、造語「させられた」のだというのが当方の言説です。

では、人とは何か。ここは「ヒト」と書くべきところであり、人は、霊止、秘止という存在を経て、ヒトへと変化していくが、それは私という存在への理解度に因っているのであって、ヒトへと至るならば、それは世界の創造を担う存在のことであり、更にヒトは、観察の精神へと昇華するならば、真実の人間へと変換されていくということです。

その理解の「人間」であり、人間中心ではなく、人間が中心であることへの理解の階段を、これから好むと好まざるとに関わらず、人類は上がっていきますと申し上げているのです。


299. 宮島鹿おやじ 2013年3月11日 07:54:26 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。
大変長いこと私のスレッドにお付き合いいただいており、本当にありがとうございます。このスレッドで取り扱っている問題(福島ではなぜあのようなひどいことが平然と行われるのか)は極めて深刻でありかつ関連する分野は広範なものになると思われます。

おそらくは、メインの方々に共通している見解としては、「権威をもって語る者の虚しさ」ではないかと思います。一昨年の今頃、原子炉は大丈夫だとNHKで主張していた東大大学院教授の言ったそばから、ドカンドカンと原子炉は爆発しました。

そして、それ以降の事態の進展は、私たちの予想を超えて「愚劣」「卑怯」「無責任」と軽蔑すべきそのものとなり、今に至っています。

いかに権威の中にある者が正常な思考を奪われているかということを、いやというほど見せ付けられました。kgあたり数十万ベクレル(セシウムのみですよ)もあるような物体が、東北、北関東、東東京において「普通に」発見されます。貧弱な資金・装備しか持たぬ市民がやっとの思いで測定し、発表しても、「デマだ」「信用できない」の一言で相手にもされません。このスレッドもそういう意味での市民による「やっとの思い」での抵抗だと思います。

権威の中にいないのですから、当然に、好きなことを言い合えるわけで、その点は、「自分のいいたいことだけを言って去っていく」スタイルでも構わないと思います。ここにいるメンバーは、真摯な思いからの言葉か、あるいは、ある思惑(誘導したい結論)があっての言葉であるかはすぐに察知されると思いますので。

特に、問題設定が、プラトンらのギリシア哲学においたあたりから、「あの世(不可視)」と「この世(可視)」の問題にまたがってしまい、議論は、投稿者の能力の問題、また、投稿者自身の関心追求の点から、全く整理されていませんが、無責任にも私は「これでいい」と思っています。

要するに全く異なる視点、異なる見解が並存しながら、議論が進行しているわけであり、これはこれで壮観ではないかと考えます。

相手の言っていることが理解できないことは往々にしてあると思います。質問しても自分自身わからないだろうと思うときもあります。人生で辿ってきた道が違えばそれはそれで仕方がありません。しかし、自分の言っていることはこういう意味なんだということを率直に伝えることは大切だと思います。


300. 2013年3月11日 08:21:02 : IJlfNu2YKA
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>「私の言うところの記憶とは、これこれこういうものである」と書かれるのは当然全く構わないのですが、同一化、一般化で括らないで下さい。

ろうし様の感受性を考慮しないで書述したので、ろうし様に不愉快な思いをさせて大変失礼をしました。

>しかし、そこに今も「物」がある、という状態とは、「物」そのものが、観察主体の意識が保持している記憶そのものだ、と言っているのであって、物体、また眼前の現象とは、分子集合体でも、原子集合体でもない、私の記憶が現象であり、物そのものである、と言っているのです。

ろうし様の上の主張を私が受けて啓発、影響されました。
そして、その啓発、影響を受けて以下の私の主張です。
「記憶」と体の結婚は私の主張です。
主張には私の否定の価値観が入っています。

西洋の「人間中心主義」も否定の価値観が入っています。
いのちがたまたま人間なのです。
西洋の「人間中心主義」では、神・人間・動物・植物等々の序列が前提とされています。

>「私の言うところの記憶とは、これこれこういうものである」と書かれるのは当然全く構わないのですが

以後、ろうし様宛やろうし様が使用された用語を私が使うときには指摘のように書述します。

ろうし様の指摘で、私の高潮期に現れる癖も掴むことができました。
指摘をどうもありがとうございました。


301. 2013年3月11日 08:35:24 : IJlfNu2YKA
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>相手の言っていることが理解できないことは往々にしてあると思います。質問しても自分自身わからないだろうと思うときもあります。人生で辿ってきた道が違えばそれはそれで仕方がありません。しかし、自分の言っていることはこういう意味なんだということを率直に伝えることは大切だと思います。

以下、私の主張です。

私は、われわれ(新平民)は学校、社会、家庭の各教育で刷りこまれた「記憶」によって体と心の不自由な状態であると、思っています。

ですから、私は「記憶」と体が結婚をしている状態を解消する必要があると感じております。

私はこの解消によって人(私を含めて)は、もっと自由に体と心をつかえると、思います。


302. ろうし力学 2013年3月11日 18:57:05 : riuSNxeQ9qjU6 : rwoJUmfxhX
安芸ガラスさま
お返事ありがとうございます。

宮島鹿おやじさま
的確なるアドバイスをありがとうございます。

お二人には、当方が強い抗議の態度であったことをお詫びいたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>私は、われわれ(新平民)は学校、社会、家庭の各教育で刷りこまれた「記憶」によって
>体と心の不自由な状態であると、思っています。

>ですから、私は「記憶」と体が結婚をしている状態を解消する必要があると感じております。

>私はこの解消によって人(私を含めて)は、もっと自由に体と心をつかえると、思います。

本当に、そう思います。
それと、前に書かれた文では意味がよく分からなかったのが、この文ではよく分かります。

ここでコメントに参加されてる全ての方々に、共通して感じることが、既存の硬直した人間の状態を
それぞれ破っておられるという事です。

今までうまくいかなかったやり方を、今後も続けても、うまくいかないということは、変えようがないにも関わらず、多勢の人々は、旧来の自分にシフトを起こそうとはされていない状態が、震災二年目でも続いているのは、まことに「すげー国になったもんだ」(*皮肉)と思えます。

ここでのみなさんの発言が、とてもステキなのは、既存の自分自身に変化を揺り起こしているその精神の姿勢
だと、当方は思っています。

自分に変化を起こせば、確認出来ずとも世界に変化は起こっているものです(量子力学からの要請による知見)。

既存のうまくかなかった思考や姿勢、態度の中で、当方が闇の意識=虚無の魔物と言っているものが、もっとも好む人間の状態とは、「自分は無価値であり、無意味であり、無力である」という心的状態に人間がどっぷりとはまることであり、その虚無は魔物にとっての「餌」だと言えます。

その「餌」状態にあるのが、山下某や、世界の暴力による覇者連中であり、また彼ら彼女らによって、虚無は地球人類に蔓延し、上から下まで虚無虚無虚無の闇に沈んでおります。

虚無が魔物の餌ならば、神の食べ物は「喜」という事になります。

歓喜がこの宇宙の永遠生成発展を支える最大の要素であり、それ故に人間存在とは神(大宇宙そのもの)にとって、神が神として成立する最大の要素であるという事になります。

人間の存在こそ、大宇宙にとって大宇宙をそれ成らしめている存在であるからこそ、「人間が中心」であるというのがここでの主張です。

しかし、現時点で人類は、宇宙の創造には全く参画できていないという事であって、神のウン子状態であり、ウン子もしなくては神も便秘になってしまうが、創造には参画出来ていない状態です。

山下某、その他唯物信仰の狂信者たちが、ひたすら「今さえよければ、我さえ良ければ」(今よし、我よし)の信条のもと、自滅に向かってひた走ることは、大宇宙にとってまことに嘆かわしいことは疑いないことです。

無自覚にも自滅に向かう者どもが頻繁に使用する概念が「一般化、同一化」であり、例えば、「韓国人ってよ、だから○○だよな!」と言うようなものの考え方でもあるわけです。

身内に韓国人が居るのですが、当方の母親が以前から「だから韓国人は、これだから!」と吐き捨てるのを、いつも諌めてきました。韓国人が身内になった、知り合いに韓国人に増えた現在では、そのような一般化同一化の括りが、如何に愚かで、自ら闇の魔物に好まれる志向性となって、自ら「餌化」しているのか、十年以上かけて母親に自省を促しております。

落ち着いているときには、韓国人でひとくくりの思考に気が付くことが出来ていますが、ニュースなどでエキサイトすると、やはりこびり付いた思考をぬぐえていないのです。(もちろん当方もですが。)

もっとも歪んだ同一化は、人間とは肉体である、という共通認識であり、これは、世界を成り立たせている存在としての自己を、無意味無価値無力の唯物還元の存在へと貶めている志向性であり、この宇宙で唯一であり、ユニークで、オリジナリティーあふれた人間存在を、一塊の土くれへと転落させている同一化です。

ここでの皆さんは、とてもユニークで、唯一であり、ステキな方々です。
しかし、自ら闇の志向性である一般化概念や、同一化認識に浸かっていたとしたならば、生み出しつつある変化(自己=新しき宇宙)を、自ら闇に蹴落としているようなものでは無いでしょうか。

山下某は、人間を一つの記号へと変質させて、命を奪っているわけであり、生命のモノ化が理由で、無慈悲で残虐でシステムの回路として動かされているわけですが、その指向性である思考形態に、ユニークで唯一性を持った、宇宙の担い手の意識の方々が、知らず知らずに同化したならば、このスレッドでの批判(シュレディンガーの猫に代わりにさせられた子供たち)に、意味と力を失うのではないですか、というのが、ここでの主張です。

「もっと自由に体と心をつかえる」はずと言うのは、ここでのみなさんのコンセンサスに成りうることではないでしょうか。

その自己存在へのアプローチとして、当方のトンデモな言説も発信しているつもりです。

映画マトリックスで、ネオたちが、超人的な動作を可能としたのは、本体はマトリックスの中には居ない事実に目覚めたからです。純粋に思考の存在として、バーチャルリアリティーの内部空間に写る影(プラトンの洞窟の影)が人間存在だと気が付いた故に、思考が制限を持っているから、一定の動作、生活しか出来なかったわけであり、しかし、思考の自由性を獲得した彼らは、その理解度によって、自在性を拡張していったわけです。

我々は、全くその構図そのものであり、肉体=自己というバーチャルアイデンティティーを蹴破って、自由自在な霊存在としての自己(意識生命体)に覚醒する時期に差し掛かったのではないでしょうか、と言っているとう事です。

その自己の実態は、実は見ている世界そのものではないでしょうか、何故ならば見ている世界とは、自己の記憶そのそのもので在るはずだから(量子論、宇宙論からの知見に照らすとそう言わざるえない)です。


303. 宮島鹿おやじ 2013年3月11日 20:12:34 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわです。

私は測定をやった経験からか、あまり飛躍したコメントは行わないように努めております。そのせいもあり、なかなか議論が進展しない点はご容赦ください。

現在、社会・学校・家庭で「通常の」「当たり前の」とされている基準が、ほとんど、「洗脳」に近いものであろうという感触を持ち始めています。その最たるものが、「受験」ではないかと思います。自分ではモノを考えることは出来ないが、人の命じるままに動くことは出来る。そういう都合のいい人間を大量生産したいという趣旨が潜在しているように思います。

私たちはたいそう不自由な境遇にあり、味わうべきでない無意味な優越感と失意を無理やり口に押し込まれているように感じます。

その意味でまことにおっしゃることに共感します。

近々、また広島に帰ります。


304. 宮島鹿おやじ 2013年3月11日 21:16:58 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

こんばんわです。


>当方が闇の意識=虚無の魔物と言っているものが、もっとも好む人間の状態とは、「自分は無価値であり、無意味であり、無力である」という心的状態に人間がどっぷりとはまることであり、その虚無は魔物にとっての「餌」だと言えます。


プラトン・アリストテレスから始まる西洋哲学は、私の所感としては、現実に存在する事物・事象を「本質存在」と「事実存在」に分裂させ、前者の後者に対する優位のもと思索を展開していったと認識しております。

そして、極端に言ってしまえば、存在(=実体)=本質 であり、つまり、存在するものは、「それは何か」と問われれば、「これは・・・である」と回答しうるものであるとされます。

「存在」とは「本質」である・・・・これが、ヨーロッパ思想の核心ではないかと思うのです。

本質存在という言葉を、私たちの日常用語にさらに近づけて翻訳すれば、「存在意義」「存在価値」にほぼ近似すると思います。先日、ある老人に会ったのですが、大変な癇癪もちで、険しい言葉を立て続けに口にする人でしたが、根は善良と思われました。しかし、その人がふと、口にした言葉が記憶に残りました。


「私のような老人が家にいるだけでは、生きている何の価値もない。」と。


この人は無意識的なアリストテレスの弟子(西欧哲学の受容者)であり、こういうタイプの人は、この歪に拡大しつつある現代社会において大多数を占めつつあるように思えます。そして、さらに恐ろしいのは、そのような自分に対するまなざしは、そのまま、他者に対しても向けられてしまい、「お前に存在している価値はない」という最も冷酷・残忍な形而上学的言説を常々内蔵していることが予想されるのです。


305. ろうし力学 2013年3月11日 22:23:35 : riuSNxeQ9qjU6 : Wfzw6TfbNE
宮島鹿おやじさま

>こういうタイプの人は、この歪に拡大しつつある現代社会において
>大多数を占めつつあるように思えます。
>そして、さらに恐ろしいのは、そのような自分に対するまなざしは、
>そのまま、他者に対しても向けられてしまい、
>「お前に存在している価値はない」という最も冷酷・残忍な
>形而上学的言説を常々内蔵していることが予想されるのです。

全くもってそのとおりですよね。

「そのような自分に対するまなざしは、そのまま、他者に対しても向けられてしまい」とは、正に他者世界をどう解釈するかの基本となっています。

自分は人間であり人間とは肉体であり、肉体とは物質であり、物質とは原子へと還元されゆくものであり、故に自分とは消滅していく運命にあり、人間とは全く無意味で無価値で無力である、という自己定義が起こり、当然に他者とは、その肉体であり、肉体は物質であり、物質は原子へ還元されゆく物であり、他者存在とは消滅する運命の無価値で無意味なものである、と自己と他者を定義し、人間の生命、人間の存在、人間の意義を、全てシャットダウンする思考に嵌っていくと、そう申し上げたいのです。

その反転した認識とは、自己という存在が如何に、意義深く、価値が深く、大いなる理力を持たされたものなのか、という自己認識であり、他者とは自分と分離されるものではなく、彼岸の自分であって、自己が二方向性に映されていて、自己他者となっているけれども、それは唯一なのであり、一つなのであり、不可分なのであるという他者認識ですので、他者を慈しみ愛でるのは、宇宙の存在原理である「無限の生成発展」に則った行いに他ならない、愛(他者存在への愛)とは、感情ではなく、理知的で、存在の証明が可能な構造なのである、という事を言いたいのです。

自己を肉体(物質)で括る同一化の視点は、世界そのものであったはずの自己に、「直角の他者」を想定することで、他者を空間の一部を占めるヒューマンボディとして想定し、その想定を再び直角に折りたたんで戻すことで、モノ化した他者のコピーとしての自己(この自己は虚構)を、「自分とはこうであろう」という想定のもと、見えない顔を在るものと勘違いし、見えない背後を想定して、自己のモノ化を完了させていく思考過程があり、それを「モノごころ」と呼んでいるというわけです。

モノごころの芽生え(妄想)が、自己も他者も共にモノ化せしめて、ここで、先の自己と他者の「お前に存在している価値はない」という観念を固定化していくというのが、ここでの主張であり、その打開が、まず自己の立ち位置を純粋知覚(ありのまま見る)から再確認してみることから始まり、自己の位置とは肉体(物)ではありえなくて、むしろ見ている世界側にこそ、自分のアイデンティティーが存在しうる、何故なら量子力学からの知見があるから、という、自己の再発見、立ち位置の再構築の、認識強度を支えるのが、主観の入る余地のない量子力学理論というツールではないか、と言っているのですね。

現代社会において大多数を占めつつある、「最も冷酷・残忍な形而上学的言説」の内包者が、いかにして発生し、皆の認識にがっちりと固定化されうるのか、その構造性とはいかなものなのか、という点に、同時に解体と昇華の視点をもって、説いておるつもりです。

根は善良と思われる方が「私のような老人が家にいるだけでは、生きている何の価値もない。」と、虚無に最適化された思考形態を持つに至る、社会構造性(教育システム、プロパガンダ、コンセンサスの捏造)の根幹が、唯物還元主義的世界認識にあり、それを逆変換する思考方法(トランスフォーム)が、モノ化した自己からの脱却、肉体化した自己の位置を見ている世界へと交換することじゃないかな、という提案をしているわけです。

ワタシには、そのご老人の存在の意義が、明確に見えているのですが、ご老人は見失っている。自己の喪失は、直角の他者を世界に想定した時点で起きているということです。


306. 2013年3月11日 23:36:56 : TVTNB9YppI
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>プラトン・アリストテレスから始まる西洋哲学は、私の所感としては、現実に存在する事物・事象を「本質存在」と「事実存在」に分裂させ、前者の後者に対する優位のもと思索を展開していったと認識しております。

「存在」を了解をしました。

プラトンもアリストテレスも「霊魂」を想定していました。
変わらないものです。不変的実体です。
ここから、空間移動の軸=空間存在が出てきます。

生命の樹を理解するキ―が空間存在なのです。
空間に位置を持つのが、種(実体)、つまり比較的変化をしないので。

余談ですが「科学」の条件は「客観性」とか「反復性」とかと云われています。
この「反復性」とは、時間通じて不変性を持つといえるので、必然性もまた「実体」の属性なのです。

「実体」を神と読替えてください。



307. 宮島鹿おやじ 2013年3月13日 22:22:45 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様
安芸ガラス様

こんばんわです。

ただいま帰りました。
年度末のなにやらで大変繁忙にしております。
しばらく考察も途絶えがちになりますが、それでも細々と続けたいと思います。
よろしくお願いします。


308. 宮島鹿おやじ 2013年3月16日 12:08:54 : NqHa.4ewCUAIk : tOea7apP6o
現在、広島で家族と一緒です。

昨晩は、広島空港、気温7度。思ったよりも寒かったです。


309. 2013年3月16日 12:31:12 : 3pzIUtsTPU
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

ほ〜ぉ、広島かいのぉ、いま〜、どんな感じかいのぉ、まだ、寒いん。

頭を空っぽうにして、楽しんできて下さい。
ではまた。


310. 宮島鹿おやじ 2013年3月17日 20:35:39 : NqHa.4ewCUAIk : voDCcGxfMw
安芸ガラス様

こんばんわです。

広島はまだすこし肌寒いです。
本通は、いつものように人通りが多かったです。

今日は、中央図書館に行きました。
西洋哲学関係を数冊借りました。
地下の食堂でカツカレー500円を食べましたが、結構うまかったです。

またお目にかかります。
それでは。


311. 2013年3月17日 21:49:25 : 6LEQ0PVVyU
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>地下の食堂でカツカレー500円を食べましたが、結構うまかったです。

そうですか、カツカレーですか。
いいですね。


312. 2013年3月18日 10:17:28 : 3gRMRZQa8O
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

けさは強風です。
さて、ギリシャの「存在」に到着されたおやじ様、日本への帰路の最中だと思いますが、どのあたりでしょうか。

ギリシャ発の「存在」は空間を軸にしております。
日本はどうでしょうか。
「とき」=「時間」が軸ではないでしょうか。


313. 宮島鹿おやじ 2013年3月18日 23:52:56 : NqHa.4ewCUAIk : suAsJW7l4k
福島第一原発 燃料プール冷却システムが停止とのことです。

http://mainichi.jp/select/news/m20130319k0000m040098000c.html

何が起きても驚かなくなってきていますが、少々心配です。

安芸ガラス様

明後日、東京に帰ります。


314. 2013年3月19日 09:23:03 : Mxe9rZHDgU
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>福島第一原発 燃料プール冷却システムが停止とのことです。

原子力ムラは、原子炉だけが「本体」である原則を放棄することです。
設置は、核物質が一定の量以上で、ゆるやかな核分裂過程をコントロールする炉心だけが大事である、と云う原則です。
これは、その他の装置は、炉心の付属であると、見ています。

その他の装置も、炉心と同等の位置にすべきです。
すみやかに国民の生命と財産を守るために、壊れた炉心と同じように、別の回路を設けるべきです。


315. 宮島鹿おやじ 2013年3月22日 07:52:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
皆様

おはようございます。
年度末のいろいろで普段から遅れ勝ちな思索がさらに遅れ勝ちとなっています。
ただ、まだまだ、じわじわと読み進めていますのでまだまだ続けるつもりです。

さらに、気候も緩み、動きやすくなったので、「測定」も再開しようと思っています。アドバイスなどをよろしくお願いします。


316. ろうし力学 2013年3月24日 23:48:17 : riuSNxeQ9qjU6 : JWzrvtOzBE
宮島鹿おやじさま

こんな記事が出ていましたね・・・

http://www.best-worst.net/news_azrUmhARxW.html?image
(ベスト・アンド・ワースト 2013年3月22日)

(元記事)
「先日の関東を襲った煙霧(砂埃)について、草加市の路上で採取したものを測ることができました。
 結果:4362Bq/kg(2976,1386) となり、高い数値を記録しました。汚染は決して消えません。改めて警鐘を」
https://twitter.com/japanwings/status/314513568521396224


日暮里放射能測定所 にっこり館
「東京都江東区扇橋2丁目で採取した「路傍の黒い土」16429Bq/kgでした。
 埼玉県草加市で採取した「煙霧で飛来した砂」4362Bq/kgでした」
http://www.bq-check.jp/2013/03/18/%E6%B8%AC%E5%AE%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C-%E9%BB%92%E3%81%84%E7%89%A9%E8%B3%AA-%E7%85%99%E9%9C%A7%E3%81%AE%E7%A0%82/#permalink

老婆心ながら、おやじさま、測定のお仲間の皆さま、内部被ばくを極力防いでください。
当方はカナリア体質にて、上記の煙霧以来、鼻腔にオデキが再び(二年間から)発生して、鼻の孔が痛くて、はなをかむと血が混じって、身体がだるくてしょうがないです。二年前の悪夢の再現ですね。

テルルが検出されているとの情報も出て、再臨界の疑いも。


317. 宮島鹿おやじ 2013年3月25日 12:04:16 : NqHa.4ewCUAIk : lB62H6fZUY
ろうし力学様

コメントありがとうございます。

つい3〜4日前でしたでしょうか。会社の現役社員(53)が突然死しました。
訃報が回っていたので知りましたが、周囲は放射能の可能性ははじめから除外しているようです。

先日、「里帰り」してきたのですが、福島からの避難者で甲状腺癌の方が2名ほどおられました。私の身内が直接その方と会話をしており、喉の手術跡をみました。
私はその方と同じ部屋にいたのですが、とてもお会いすることができませんでした。


被曝による健康障害は「現実」だと痛感しました。

>おやじさま、測定のお仲間の皆さま、内部被ばくを極力防いでください。

ご配慮くださり大変ありがとうございます。
そういえば、私も、頬の傷の治りが悪いようで「しみ」になりつつあります。
東京の汚染状況をある程度把握しているつもりですから、ここにいる以上はある程度の覚悟があるつもりでしたが、やはり身近なところで起きてくると恐ろしさを感じます。


318. 2013年3月25日 18:25:29 : qWElJktQmC
御無沙汰しています 後少しで(多分今月中に)セルフイニシエーションが終了
すると思います わたしの検知では五月半ば位に 更に被曝線量の大幅な上昇が
起きると感じていますが 今現在の防御波動の改変は五月初旬と予定しています
どの道線量が下がる見込みは万に一つも有り得ないので更に今後の被害拡大に
対して何が出来るか?事が事だけに悩みますなーまぁ何事にも囚われず淡々と
対処していく心算で居ます どの道出来る事は各人のサバイバルでしか有りません
からね?私自身はもうアホ臭いので何もお勧めしません 酷い目に合ったのでもう
他のブログにも書き込みはしていません もうダメでしょうねー

319. 宮島鹿おやじ 2013年3月25日 21:56:18 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
オオトラさん

お久しぶりです。コメントありがとうございます。
今回、ギリシア思想を勉強してわかったことは、オオトラさんのような方々が体験する「神秘体験」を私たちの日常の中でどう捉えるかという問題だと思いました。

つまり、「神秘体験」と、どのような付き合い方をしていくべきなのかという点ですが、これが極めて重要なのだと現在思っています。そして結論から言えば、「自分の頭で理解できた部分までが自分だ。」と開き直るしかないと思っています。

>もうダメでしょうねー

やっぱそうでしょうか。やはりそうなんでしょうね。


320. 2013年3月26日 09:04:53 : LLXbntkgPI
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>東京の汚染状況をある程度把握しているつもりですから、ここにいる以上はある程度の覚悟があるつもりでしたが、やはり身近なところで起きてくると恐ろしさを感じます。

体を弛めるには、ハッと(やはり身近なところで起きてくると恐ろしさを感じます。)することを利用しましょう。


>つまり、「神秘体験」と、どのような付き合い方をしていくべきなのか

生きていることは「神秘体験」です。
福島第一サイトの定検で、中操がベントを開いたことがあります。
私は中で使用前検査の準備をしておりました。
突然の大音響、気圧の変化で、格納容器建屋を逃げまわりました。
「無我夢中」でした。
しばらくして立ち止った時点で「我(われ)」を戻(もど)しました。
「我思う故に我あり」があります。
そのときは「我、我を無くし、我有り」でした。


321. 宮島鹿おやじ 2013年3月26日 23:24:49 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
なかなか年度末というものは今更ながらキツイですね。先ほど帰宅しました。
さて・・・。


安芸ガラス様

>私は中で使用前検査の準備をしておりました。
突然の大音響、気圧の変化で、格納容器建屋を逃げまわりました。


福島原発の格納容器の中におられたのですか!
正直言って驚きました。
元原子力ムラとは、伺っておりましたが・・・。

まさに「歴史の証人」と拝察します。


>そのときは「我、我を無くし、我有り」でした。

私も、そのような一瞬を経験したような記憶があります。まあ、記憶そのものがあいまいなのですが。私の場合は「試合」でした。(まあ、たいした大会じゃないのですが・・・。)普段から「こうしたい」と思うような技はめったに出せず、むしろ思っても見なかったような動作を行ったことがあります。


322. ろうし力学 2013年3月26日 23:28:14 : riuSNxeQ9qjU6 : 3Mv9YAzjxE
宮島鹿おやじさま

ダメ押しみたいで申し訳ないですが…
他の方がこんな記事(コメント)もアップされていましたね。

2013年3月26日火曜日
http://alcyone-sapporo.blogspot.jp/2013/03/blog-post_619.html
【放射能】東京赤坂のカナダ大使館の土壌からウラン238が60ベクレルも検出された模様

539 名前:地震雷火事名無し(西日本)
投稿日:2013/03/26(火) 13:39:41.68 ID:aPqFbA8/0

東京にプルトニウムが降っていることを示す客観的な論文。 日本のカナダ大使館の土壌の分析結果。

Weihua Zhang, Judah Friese, Kurt Ungar,

"The ambient gamma dose-rate and the inventory of fission products estimations with the soil samples collected at Canadian embassy in Tokyo during Fukushima nuclear accident"

Journal of Radioanalytical and Nuclear Chemistry
April 2013, Volume 296, Issue 1, pp 69-73

http://link.springer.com/article/10.1007/s10967-012-2040-3


この論文によると、

(略)

・最悪の核種はウラン。強い化学毒性と遺伝子毒性を持つ。

・カナダ大使館の土壌からウラン238が、60ベクレル/kg。アルファ線spectrometryで測定。65倍したら、3900Bq/m2。つまり、アルファ線の放射線管理区域。

(略)

・横須賀市の米軍基地では、Pu236 が 2.72Bq/kg 検出されている。

・Pu236の比放射能は Pu239の1万倍も強い。

・(東京から)逃げたカナダ大使館は、(日本からカナダへの)移民(難民)制限の意味もあって、フィリピンに査証業務を移した。

・ヨウ素131が、7130Bq/kg、132が609Bq/kgって書いてある。これほど大量の放射性ヨウ素が降ってきたわけで、甲状腺の病気にならない方がおかしい。

               ↓

570 名前:地震雷火事名無し(ポーランド)
投稿日:2013/03/26(火) 17:47:47.03 ID:ASfWnSvR0


539の論文の表

Table 2 Summary of investigated alpha- and beta-emitters in the soil
sample
Nuclide MDA, Bq/kg

241Am  0.2
242Cm  0.02
236Pu  0.06
238Pu  0.2
239/240Pu  0.05
244Pu  0.1

238U 60 ± 25 % (Activity concentration)

89Sr/90Sr Detected with 5.7 ± 0.8 counts per minute

確かにウランは60ベクレル出ているよう。


コメント引用(http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/861.html)


>やっぱそうでしょうか。やはりそうなんでしょうね。

しつこくて申し訳ないですが、当方が思うところ、現状の地球人類の基本姿勢である
『「唯物還元主義」の存在認識において』は、もうダメだ、という事だと思います。

旧パラダイムには、見切りをつけてはどうか?という提案(誰から?←「申し示すもの=神」)に
思えます。

かなり前に書きましたが、物質主義観念は、究極的に量子力学への到達において、
「認識の特異点」に至った、と考えています。

その科学(量子力学)自体が、それ(唯物還元主義)を解体するような「ブレイクスルー」だと。

しかし、唯物主義で思考し、世界認識をしている以上、スピ系だろうが、科学者だろうが、
普通の市民だろうが、根底では、「この世界の終焉から先は、何もない」と考えざるえません。

ところが、生前記憶を持っているような変人(当方含む)からすると、肉体というのは、
一時のもの(役者の配役)にしか感じませんので、物質世界の終焉は、次なる世界(非物質世界)の
始まりにしか見えません。

そこで、その認識の転換(トランスフォーム)に覚醒する、という選択が在るんじゃないですか…
という人が、特に若い人たちの中から、認識が立ち上がってくると預言しておきますが、
その先鞭をつけるのは、当方のような中年から始まりますよ。

覚醒する若い人々が、やがて先達の中年たちをも教導してくれると思いますが、
中年たちは、思考に柔軟性が欠けるので、自分から変化の波に乗るような努力は必要かと。

そのパラダイムシフトの切っ掛けとは、旧来のパラダイムである「唯物還元主義=肉体が自分」
を「諦める」ことからじゃねーのー・・・と言うのが、相変わらずの主張であります。

悪しき歴史は必要であったと、そう受け止めていて、そこから「跳躍」を行うこと。
「それって間違いだったよね!」と理解するために起きてきたこと(歴史)は、間違いじゃないんだと。

放射能汚染なんて、無い方がいいと思うのですが、そういうあってはならない「決定的」な
『誤り』をもってして、自分が自分を変えていくというのが、人類の歴史かと。

そういう歴史認識、存在認識の視座というのを支えるは、自分=非肉体、というパラダイムシフトだと。
自分という存在は、そもそも「無限(永遠)性」であり、肉体を一時的に使用する(宇宙からレンタルする)
ことは、そもそも「自己の永遠性を理解する為のプロセス」であって、肉体が自己と同一化する
ことが、人間の限界ではないんじゃない?ということですね。

その文脈から、「 >>もうダメでしょうねー >やっぱそうでしょうか。やはりそうなんでしょうね。」
っていうことだと、思いますよー。


安芸ガラスさまの至言

「生きていることは「神秘体験」です。」

この言葉、ステキすぎます!F1でのご体験がまたリアルなこと!怖すぎ!


323. 宮島鹿おやじ 2013年3月27日 07:41:11 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

おはようございます。

ウラン238検出の情報、非常に重要です。ありがとうございます。
アルファ線が出ているんでしょう。以前よりその疑いを強く持っていました。
どうも、柏・松戸・葛飾のスペクトルと南相馬のスペクトルの形状が異なることからなにかあるのではと思いつつ、突き止められずにいました。まあ、素人だから仕方ないと思っています。
もしよろしければ、この情報を阿修羅に投稿していただけないでしょうか。

現在、糧を得る作業に忙殺されていますが、心には、このスレッドでの目的は生きています。なお、私としては、物質的自然観はギリシャ哲学にあるという記載を確認しています。(木田 「ハイデガーの思想」)

以下引用

・・・ギリシア語のこのがラテン語ではと訳されたということには、すでにふれた。つまり、という超自然的(メタピュシス)な原理の設定、形而上学(メタピュシス)の成立と、自然(ピュシス)を存在者の特定領域におとしめ、単なる無機的質料と見る物質的(マテーリアル)な自然観の成立とは完全に連動しているのである。・・・


この辺のところですが、まだ自分の言葉に消化できていませんが、とにかくこの辺だと思っています。4月に入ればより自由になる時間もできると思います。



324. 宮島鹿おやじ 2013年3月27日 07:47:01 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
どうも、htmlの規則かなにかで括弧内の文字が消えてしまいます。

もう一度引用

・・・ギリシア語のこの<ヒュレー>がラテン語では<materia(マテーリア)>と訳されたということには、すでにふれた。つまり、<イデア>という超自然的(メタピュシス)な原理の設定、形而上学(メタピュシス)の成立と、自然(ピュシス)を存在者の特定領域におとしめ、単なる無機的質料と見る物質的(マテーリアル)な自然観の成立とは完全に連動しているのである。


325. ろうし力学 2013年3月27日 18:38:00 : riuSNxeQ9qjU6 : 0OznuJyV76
宮島鹿おやじさま

このウラン汚染の記事ですが、もともとは

「低気温のエクスタシーbyはなゆー」さんの記事を、原発・フッ素30 > 861.htmlの投稿のコメント03で yCQDlp8PmL さんがコメントしている記事の引用ですよ。

さらに http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/d4386812317b6a9e8deb2fe00d3e0142 では、

【悲報】 東京 ガチで超絶汚染されていたことが判明!!!!!!!!!

【悲報】 東京 ガチで超絶汚染されていたことが判明!!!!!!!!!
http://katsumoku.net/archives/6183303.html より

1: ブリティッシュショートヘア(北海道) 2013/01/02(水) 17:54:11.89

★首都圏から避難−このまま東京に住み続けていいのか

できれば、東京から避難したいと考えている人はたくさんいるでしょう。
福島第一原発から東京に飛んできた放射性物質について記事を書き続けてきたワシントン・ブログのまとめからです。

東京は福島と、ほぼ同じくらいの放射線照射を受けている
http://www.washingtonsblog.com/2012/12/tokyo-almost-as-irradiated-as-fukushima.html
(Washington's Blog 2012年12月27日)

残念なことに、Energy Newsの最近の見出しを眺めてみると、事態は悪化するばかりのようです。

・「東京は、福島と同じくらい汚染されている」−−京大・小出裕章助教 (2012年8月11日)

・東京湾セシウム濃度は福島県沖より高い−東京湾の海底は2014までにすべて汚染される(2012年11月4日)

・東京大都市圏の時限爆弾−専門家は福島からの放射能の蓄積を警告する−日本で二番目に大きな湖の潜在的な災害(ソース:ジャパン・タイムズの記事  2012年11月18日)

・東京の土壌には、核廃棄物のダンプに送られるほど強い放射能がある。実際に、この都市には過酷な放射能が襲い掛かったのだ(2012年11月19日)

・福島県の人口、2040年には4割減少も。東京、横浜、千葉からも避難する人が増えている

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1766.html


とでていますね。(引用 原発・フッ素30 > 871.html )

ウランの汚染について、千葉市原の火災事故が、二年前にチェーンメールで流れて、
直後に否定されてましたが、消防庁のサイトで、実際に倉庫の屋根が焼け落ちているとのことらしいです。

それが、「柏・松戸・葛飾のスペクトルと南相馬のスペクトルの形状が異なること」の要因とも考えられますね。

宇宙からのレンタルである「身体」の感覚に則ると、当方も関東から移動する方向性でおります。


326. あやみ 2013年3月27日 23:26:41 : oZZpvrAh64sJM : iBHY7GHnpI
おひさしぶりです。

先日、東京の母が倒れて救急車で運ばれたそうです。血圧が急に下がったとのことです。駆けつけた救急病院でひととおり検査を受けたのですが表立った異常はなく「仮病じゃないんですかぁ?」といわれた始末。仮病で血圧が60まで下がるんでしょうか?本人は気がついたら病院で寝ていたと言い、倒れたことは全く覚えていないとのこと。考えたくはありませんが、やはり内部被爆が内臓のどこかに負担をかけているのではとどうしても思ってしまいます。

私の両親は典型的な団塊世代といいましょうか、原発のことも放射能のことも「めんどくさいから考えない」派です。つまり東京が汚染されているだろうことは否定しませんが特に対策も持ち合わせていません。目に見える異常がでないかぎり普通に生活し続けるタイプです。

こちらへの移住をしつこく勧めているのですがそのときも「放射能」の言葉は使わないようにしています。放射能と言ってしまうと頑なになってしまいそうなので…


ろうしさま
「からだ」が宇宙からのレンタル…まさしくそうですね。汚さず、壊さず大切につかわなければなりません。この場合のレンタル料は、だれかを助けたり、だれかにやさしくしたりすることで収められるのでしょうね。


327. 2013年3月28日 08:34:19 : PiCmbuGlPY
あやみさま 

安芸ガラスです。

>駆けつけた救急病院でひととおり検査を受けたのですが表立った異常はなく「仮病じゃないんですかぁ?」といわれた始末。

検査は、ときを捉えるものではありません。
人間には人間の構造があります。
例えば、伸ばすとか、縮むとかの動きのことです。
しかし、現実には、伸ばす方が得意とか、縮む方が不得意とがあります。
これが癖なのです。

そして、その癖の他に、体の波があります。
非常に緊張しやすいとき、弛緩しやすいときの波。

人間は現在意識だけで生きているのではありません。
意識しない内臓の動き、意識しない運動などもあります。

これらすべてで生きていることになります。

ですが、この生きていることが、検査には反映されません。

>放射能と言ってしまうと頑なになってしまいそうなので…

焦点は、意識しない意識です。


328. あやみ 2013年3月28日 11:04:28 : oZZpvrAh64sJM : iBHY7GHnpI
安芸ガラスさま

検査結果≒目に見える異常
ぐらいのものでしょうか。たぶんそうです。ときを捉えるためには家族として一緒に暮らすなりして何らかの形でときを共有する必要がありますね。それを医療に丸投げしていてはダメなんでしょう。

おやじさま

ヒュレーとビュシスですが、ギリシア哲学を知る由もない日本人はこう考えていました。


卵は殻の中に入っています。定型をもたない卵がしゃんとするのは殻という入れ物があるおかげです。つまり卵が「たま―霊、魂」で殻が「からだ―体、躯」です。

殻の中にどろっとした卵があるという知識のおかげでわれわれは殻を外から見ただけで中身を見ないでも卵とわかります。これが「もの」です。

「もの」をつぶさに見つめると「ああ、そうか」と分るのですが、それはひとがその「ことわり―理」を引き出したためです。「こと―事、言」「わり―割り、分り」です。

「こと」の語源は「こたふ―応ふ」です。ひとがものに向かって「こは いかに」とと問うたときにものの内から「かやふに あり」と「こたへ―言へ、事へ」てくれたのです。

「もの」の語源は「もる―守る」です。卵の殻の役割もそうであるように、人体や家屋もそうです。体は臓器や魂や記憶の入れ物、家は親子兄弟と先祖の入れ物と以前書きましたが、入れ物とはつまり「まもり」を意味しています。


「もののけ」といえば化け物や妖怪と思われがちですがそうではなく、言い方は悪いですが「低級神」のことを言います。日本人が「もの」を低くみなしていたことの表れです。「もの」に隠されて見えない、しかし「もの」の根源となる超越した存在を知っていたからでしょう。

「もの」「こと」の全体を以って「ある―在る」としていました。


329. 2013年3月28日 11:28:36 : PiCmbuGlPY
あやみさま

安芸ガラスです。

>検査結果≒目に見える異常
ぐらいのものでしょうか。たぶんそうです。ときを捉えるためには家族として一緒に暮らすなりして何らかの形でときを共有する必要がありますね。それを医療に丸投げしていてはダメなんでしょう。

深いところでつながっていますから、大丈夫です。

どうすれば、相手が自発的になるかを、誘導するのです。 
意識を焦点に話をすると拒否されます。
ですから、現在意識には、焦点を設定しないで、「何気なく」話をするのです。


330. ろうし力学 2013年3月28日 23:22:00 : riuSNxeQ9qjU6 : vlD3l7kpLo
あやみさま

毎度まいど、あやみさまの、ことだま、への理解の深さには感激いたします。
当方が、自分の中のことだま、にスイッチが入ったのは、カタカムナ、に出会ったことがきっかけでした。

さて、

>「もの」をつぶさに見つめると「ああ、そうか」と分るのですが、
>それはひとがその「ことわり―理」を引き出したためです。
>「こと―事、言」「わり―割り、分り」です。

>「こと」の語源は「こたふ―応ふ」です。
ひとがものに向かって「こは いかに」とと問うたときにものの内から
>「かやふに あり」と「こたへ―言へ、事へ」てくれたのです。

おっしゃる通りですね。と言うか、これが理そのものですから、正しいも何もない、そのまんま、ですが。

「もの」をつぶさに見つめると「ああ、そうか」と分る、と言う、ここのところが当方がしつこく主張している、
量子力学が現代のパラダイム(唯物還元)を、ブレイクスルーする
という役割だと言っているということであります。

物質で出来ている(小さい構造が集まって、より大きい構造を作っているという
世界観)世界全体=「もの」を見つめる=量子力学的視点、と、理が引き出される。

量子力学的視点により「もの」にヒトが「こは いかに」と問う。
すると、ものの内から「かやふに あり」と応えるものがある。理解です。

>「知識のおかげでわれわれは殻を外から見ただけで中身を見ないでも
卵(「たま―霊、魂」)とわかります。」

ですから、「もの」=物質としての存在宇宙は、不可視の霊を反転して
写し出している鏡像として存在しているがために、目に見えない真(神)を
理解せんがために見えている、のが現象、物質宇宙。

物質宇宙を、不可視世界=霊を理解するために、見つめるもの、
として理解の理解をする。

物質世界は、真理を転倒したカタチで「全て」写し出しいる、
その転倒の逆転写の機構が量子力学的視点だというのが、当方の主張なのです。

当然、「量子力学」という呼び名にも、apple→林檎、apple→コンピューター、
という認識のすれ違いはあるのですが…

物質世界認識の発展的解消、建設的破壊の為の思考ツール、
という位置付けですね。

瞑想、修行苦行は、その行為を通過することで、肉体が自分である、
という「錯誤」から脱するために、行っているものと理解しています。
というか、その意味でないと意味が無い。

しかし、瞑想が中断して、通常生活に戻ることで、認識も肉体である自分に
戻ってしまう。
そこに何が足りないのか?と言えば、「自己存在」の次元構造を明確に
理解しきれていないことが指摘されるんです。

ですから、瞑想も修行も否定されるものではないのですが、
理事一体(理論と行為が一体で)であることは、世界は物質ではないという
認識の普遍化には必要になってくると。

物質を神とあがめる、物質信仰体制のパーツと化した地球人類が、
その物質信仰の究極を持ってその信仰体制の構造を、全く別のモノへと
変移させていくということですね。

ですから、肉体が宇宙からのレンタルだと思える人々には、
このツール(量子力学)は特に必要性がない。

このツールを使用した方が良い方とは、感覚だけではどうしても、
自己が霊=存在の全体性であることの「強度」が弱い人々、
ということができます。


>「もの」の語源は「もる―守る」

「もの」が守っているものとは何か…
そこに気が付くために、精一杯肉体を活かすことが必要ですね。


331. 宮島鹿おやじ 2013年3月31日 08:10:36 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。
年度末となりましたが、まだ、引継ぎ関係でてこずっております。
たくさんのコメントをいただきましたが、いつものとおりの「未消化」状態です。
しかし、私としては、いただいた教示を元に自分なりの思索を続けます。
そして、きっと、いくばくかの実りある情報としてフィードバックするつもりです。
単なるおしゃべりではなかったと、そのようにしたいと思っています。

今、しばし、お時間をください。


332. 2013年4月03日 17:13:50 : qWElJktQmC
実に 予定は未定で有って 未だ何じゃかんじゃと悶えて折り居りまする 唯一点
予想外の発見が有った様に思います 其れは肉体は単なる魂の入れ物では無くて
実に五身体の総てに共通の擬似構造の一つで有りました 軽く見ていた分だけ理解
が低くて現在解析に難渋しています まぁこの世に有って無茶苦茶波動の低い存在
だけに苦労しています 言わば酷く濁った水中で何かを探す様な感じでしょうか?
しかし間違い無く 高次の意識体と繋がる存在で単に必要性の成せる業に因る波動
が低いだけだったとは?あービックリこきました しかも存在世界の波動の低さに
対応する為と思われますが 構造が何重にも成っていて対応波動が複雑なのです
まぁ落ち着いて考えれば当たり前ちゃー当たり前過ぎてやっぱりこの世界は一筋縄
では行かない感をしみじみと感じております 先は長いのーー

333. 宮島鹿おやじ 2013年4月03日 18:54:09 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
お、オオトラさんですね。
コメントありがとうございます。

>其れは肉体は単なる魂の入れ物では無くて
実に五身体の総てに共通の擬似構造の一つで有りました

おっしゃることは私自身の経験からすれば、当然、私の認識能力を超えていますが、実は、かなり、近似したニュアンスのことを、「宇宙一いい加減な博士」の講義の中に見出しうるように思うのです。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/363.html

もし、よろしければ、博士の投稿をお読みいただけないでしょうか。私の理解をはるかに超えていますが、オオトラ様なら何かをお感じになるのではないかと思います。ろうし様も。


繰り返しになりますが、私の今一番の関心は、オオトラさんのような「体験」をする人、おそらくは、ピタゴラス、あるいはプラトン、そしてプロティノス(新プラトン主義)そして多くの、ヨーギたち、禅僧たち、こういった人たちの体験と、「この世」で現実と悪戦苦闘する私たちの言葉をどう接合すればいいのかという点にあります。

そして、結論的には、以下の博士の投稿に準じた考えを持っています。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/444.html

つまり、この世のことにおいては、議論、帰納的推論、検証が、

そして、あの世(不可視)のことについては、ただ経験か、経験者の言葉を聞くこと(演繹)しかないという区分です。

なお、念のため、私は博士の言葉を「信じて」はいません。ただ、不可視に関するいくばくかの知識はほぼ全て博士の投稿から得ております。しかし、その教えの中心は「自燈明」=自分で考えろ=自分で経験しろ、であり、鵜呑みにすることは最も忌避されるべきとされています。私は参考にしているだけのつもりです。


334. 2013年4月03日 21:38:25 : qWElJktQmC
あぁ 読んで見ました わしの言う擬似構造と言うのはわしのブログでは フラクタル と言う表現をしていますので何の異論もありましなんだ 又はもっと判り
易いのは ホログラムの原理でしょうか?原画を切除していくと輪郭はぼやけますがきちんと再生されますねー感覚が深化すると感じる物が増えてきます わしには
霊視の才能が余り無いので 霊視は良いのーと思って居ますが 才能は両刃の剣
なので高望みはしていません 古今の聖者は考えても判らんから 感じよっー事
言ってますねーまぁ釈迦の 自灯明 はおぃおぃ 八万宝蔵の経典は何何じゃ?
っー感じはしますが?飛躍が棲過ぎるんでないの?と思っています フラクタルは
飽くまで擬似構造で有ってそこにエネルギー的に影響を与えようと思ったら もう
其れは大変な現実化の技術的な問題が持ち上がります 癒しの難しさですねー
まぁ好きでなければ地獄の苦しみですわ だからかどうかは知りませんが わしは
わしの客?や弟子から 知的変態っー余り聞えの良くないあだなを頂いています
ハッキリ言えば感覚で捕らえる事をわしらは検知と言っています 共通言語は波動
ですね 何処そこの波動を検知で調べろっー事で通じます 言葉では無理でしょう
言う人と聞く人の共通性は担保出来ませんからねー言葉はねー では では 又ねー

335. 宮島鹿おやじ 2013年4月05日 07:32:03 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
オオトラ様

おはようございます。
参考リンクを閲覧いただきまことにありがとうございます。

>言葉では無理でしょう
言う人と聞く人の共通性は担保出来ませんからねー言葉はねー

ギリシア哲学=ヨーロッパ思想=形而上学の問題については、端的にいって、おっしゃるとおりの見解に落ち着きつつあります。雑駁ですが以下に概要を述べますと、

@まず、何らかの「神秘体験」があった。(瞑想・祈りなどによる「何か」との交流)
Aその体験を言葉によって伝えようとする営みがあった。プラトンの思索はソクラテス、ピタゴラス(あるいはオルフェウス教?)などの影響により濃厚にこの側面
を有していた。
Bそして、その体験を言葉にすることにより、その言葉が神聖化された。神聖化の方策がイデアあるいは、実体・本質概念である。

以下引用「わかりたいあなたのための現代思想入門p15〜」

形而上学とは

1.アリストテレスの「形而上学」がそうであったように実体(真に存在するもの)を探求しようとする学であり、
2.アリストテレスの「形而上学」の名前が「自然学」のあとにおかれたことからつけられたように、自然をこえたもの(つまりこの見せかけの世界の背後にある真理、あるいは真の存在)についての学を意味した。・・・
3.形而上学とはこの日常的世界の背後に、あるいは日常的世界とは隔絶した場所に真の存在や真理をもとめようとする思想である。
だが、これだけでは形而上学とはいえない。ひとが日常的な縛られた判断から脱出したいと願い、あるとき日常とは隔絶したものをもとめることは、むしろありふれたことだ。あらゆる宗教、あらゆる神秘思想は日常をこえたもの(超越的なもの)をもとめている。

だから、形而上学が形而上「学」になるのは、たんに日常とは隔絶した領域をもとめるからだけではなく、この日常とは隔絶した真理がことば(ロゴス)によってのべつたえられ、証されると考えたときからである。

4.形而上学とは、ことば(ロゴス)によってこの世界の真理をのべつたえようとする、あるいはこの世界の真理はことば(ロゴス)のうちにある、という思想としてもとらえられる。

(引用終わり)


西欧・中世異端審問官の異様な残虐性、はたまた科学を標榜することにより、他人の子供の人生をなんとも思わない学者たちの無感覚性(=残虐性)の根源はこのあたりに求められるように思います。

つまり、彼らは「神」、「科学」=「真理」をもって仕えるものだからです。「人間の生」を超えた意義に奉仕していると思っているという感じがします。

なお、「言葉にする」=「固定化」するという感覚と、かつて若干学んだ武術において忌み嫌われる「居着き(敵に自分の動作の結果を予測させるような身のこなしと理解しています)」という概念、あるいは「型(攻防の動作を固定したもの)」が共通するようにも思われます。この辺についてなお確認をしたうえでなんらかのまとめを行いたいと考えています。


336. 2013年4月05日 08:51:21 : 54sMUzTZyA
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>西欧・中世異端審問官の異様な残虐性、はたまた科学を標榜することにより、他人の子供の人生をなんとも思わない学者たちの無感覚性(=残虐性)の根源はこのあたりに求められるように思います。

同意します。

プラトンもアリストテレスもピタゴラスが開祖ではないだろうか。


>なお、「言葉にする」=「固定化」するという感覚と、かつて若干学んだ武術において忌み嫌われる「居着き(敵に自分の動作の結果を予測させるような身のこなしと理解しています)」という概念、あるいは「型(攻防の動作を固定したもの)」が共通するようにも思われます。この辺についてなお確認をしたうえでなんらかのまとめを行いたいと考えています。

これは、あやみさんの以下の記事が、理解を進めてくれるのではないだろうか。

http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/401.html


337. 宮島鹿おやじ 2013年4月06日 07:33:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。
あやみさまの投稿を拝見しました。以前一度読んでいましたが、再読し、確かに関連する部分があるという感触は得ました。奥が深いのでまだ表面的な理解のみですが。

>「うつつ」、大いなる時の流れである。

万物を生成・流転の相のもとに見たヘラクレイトスの見解と通じるものがあるようにおもいます。

ヘラクレイトスら「ソクラテス以前の哲学者」は、「幼稚な概念」で自然を探求したというような一般的な通説があるとされていますが、そうではなく、むしろより「次元の高い」把握において自然を思索していたという記述を、前出の木田「ハイデガー 第6章」に確認できます。

・・・彼らは哲学者よりも「もっと偉大な思索者」だったのであり、「思索の別の次元」 に生きていたのである。・・・(引用)

ハイデガーは西欧哲学=形而上学と見るようです。つまり「哲学」という言葉に「あまりよくない響き」を持たせているように思えます。そして「哲学」が成立する以前の思索は、身体を含め自然は「生成・変化するもの」という相において把握されていたとあります。この点において明らかにあやみ様の投稿との共通性を再び見出します。


なお、残虐性についてですが、残虐性というものについては何も「西洋」だけの特徴ではないとは思います。地球上のあらゆる地域において戦争・虐殺・略奪は発生したでしょう。しかし、残虐性において、西洋の歴史は何かが違うと感じていました。それは異端審問などにおいて実行された拷問の種類・方法などに現れる異様な執拗さに表現されているように思えます。

残虐性は、「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、もっとも最高度に発揮されるものであると思います。そして形而上学的思考とは、「本来私たちは言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる。」という確信である以上、そういった者が、人様の生活にかかわる(権力を持つ、政治にかかわる)場合を想像すると、それは大変に迷惑な存在であるということは容易に想像できます。


338. 宮島鹿おやじ 2013年4月06日 07:40:42 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
補足です。

上記のコメントにおいては、

ソクラテス以降を 「哲学」成立の時期

ソクラテス以前は、「哲学」成立以前という前提になっています。


通常は、ターレスなどが哲学の始まりなどとされているようですが、木田「ハイデガー」では、「哲学」成立以前を、より偉大な思索として再評価すべきだとという主張があります。


339. 宮島鹿おやじ 2013年4月06日 07:51:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
再度 訂正です。


誤:ヘラクレイトスら「ソクラテス以前の哲学者」は

正:ヘラクレイトスら「ソクラテス以前の思索者」は

にしてください。


340. 2013年4月06日 09:09:47 : FHOf1E8k9g
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>ハイデガーは西欧哲学=形而上学と見るようです。つまり「哲学」という言葉に「あまりよくない響き」を持たせているように思えます。そして「哲学」が成立する以前の思索は、身体を含め自然は「生成・変化するもの」という相において把握されていたとあります。この点において明らかにあやみ様の投稿との共通性を再び見出します。

問題は、個体において「うつつ」をどこで捉えるのかです。
それは、個性と波でしょう。

では個性は、どこで捉えるかです。
それは、行動、感受性、要求の違いでしょう。

波は、大便などでしょう。
太いとか、細いとかで。


>残虐性は、「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、もっとも最高度に発揮されるものであると思います。そして形而上学的思考とは、「本来私たちは言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる。」という確信である以上、そういった者が、人様の生活にかかわる(権力を持つ、政治にかかわる)場合を想像すると、それは大変に迷惑な存在であるということは容易に想像できます。

上記は残虐性と思考とを記述されていますが、その間に隙間があるように思えます。
残虐性は、余剰エネルギーを担保します。
それと、大脳活動の一旦中止状態も含むと思います。
さらに残虐性が現れるには、やはり、本人の中に、不平、不満があります。

私はマルクスの立場です。
それは哲学の解体です。
人間を全体として捉える立場です。

私は広島の被ばく2世です。
山下は長崎の被ばく2世です。
私の中には、かって世の中に取り残された感覚がありました。

山下は、どうでしょうか。
それが、彼を動かしてはいないでしょうか。


341. 2013年4月06日 15:18:41 : FHOf1E8k9g
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下、資料です。

○山下俊一

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E4%BF%8A%E4%B8%80

○カタログハウスの通販生活「山下俊一さんを直撃。市民グループの間にある不信感を ぶつけて、説明を求めました。」


http://www.cataloghouse.co.jp/2012spring/yomimono/yamashita/

http://www.cataloghouse.co.jp/2012spring/yomimono/yamashita/index1.html

http://www.cataloghouse.co.jp/2012spring/yomimono/yamashita/index2.html


武士が創設した機関‐大学‐武士と公家衆のための「科学」と「集団の医学」。
武士と重なる宗教‐一神教‐美善は神の領域‐主体(意志)の放棄‐「奉仕」。
取り残された感覚‐被ばく2世。


342. 宮島鹿おやじ 2013年4月07日 03:04:42 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんばんわ。

いただいた資料はわずかに拝見しましたが、さらに後ほど確認いたします。(あまりあの人の顔は見たくありませんが。)

さきほどまで、「千と千尋の神隠し」というDVDを見ておりました。字幕を英語にして英語の学習のつもりでした。この作品は、ご存知でしょうか。

その中に、「腐れ神」という登場人物(?)がありまして、たいそうひどい腐臭を放つ汚物のような存在なのですが、主人公の活躍により、実はたいへん美しい河川の神であることがわかり、その元の姿を取り戻すというシーンがありました。

その河川の神を汚していたのは、人工的な廃棄物(冷蔵庫、自転車、釣り糸・・・)でありました。本来流れ(生成・流転・変化)の中にあったはずのものが、固定する、停止する、澱む、ということ。このことは、プラトンなどの行った、イデア説に共通するものがあるように思いました。彼らは少なくとも不変・永遠の本質を想定し、言葉によって私たちはその世界とつながることができると考えた・・・そのように思います。しかし、その固定化のための言葉・記号そのものを真理の体系と捉えることにより発生する堕落が現実にあった。

また、先の映画には「顔無し」という興味深い妖怪のようなものが登場します。彼は自身の声を持ちませんが、黄金を出現させることができます。黄金を求める周囲の者の欲望を吸収するかのようにして肥大化し、やはり内部で生成するものは汚物のみなのです。私にはこの「顔無し」が、今もなお、悶絶しつつ行き場を求めている現代機械文明あるいは資本主義のように思えました。
とりとめのない話でまことに申し訳ありません。


343. ろうし力学 2013年4月07日 09:21:15 : riuSNxeQ9qjU6 : hQMYNqdKHI
宮島鹿おやじさま

ここ↓のところ、同意ですね。

「その河川の神を汚していたのは、人工的な廃棄物(冷蔵庫、自転車、釣り糸・・・)でありました。本来流れ(生成・流転・変化)の中にあったはずのものが、固定する、停止する、澱む、ということ」

人間存在の本質は、永遠性=変化、流転生成と理解、その対極が、固定=肉体が自己、死んだら消滅、それがやがて停止することで澱む=現代唯物史観、資本主義への繋がりかと。

自己が、唯物還元である、という誤解を人間に埋め込む(洗脳)することで、自動的自壊的に回り出す自滅システムが資本主義その他だと思います。澱みです。

自己存在が、無意味であり、無価値であり、無力であることへの絶望が、残虐性の発信点だと捉えています。

自己は、永遠であり、「次がある」という認識のもとには、今の行動(意識の在り様)が、未来の自己にどういう影響をもたらすのか、自ずと見いだせるのが、霊としての人の自然だと理解しています。それが破られるのは、自己が唯物還元存在であり、次がない、という幻想を真実と埋め込まれ、自己が霊であり永遠である、ことの方を幻想であると洗脳したことが、反・神(虚無)の、自己生存戦略であるということです。

最初に仕込む(洗脳)と、あとは時々メンテするだけで、人間は常に愚かで居続ける、そのシステムが「唯物還元認識」。


>その固定化のための言葉・記号そのものを真理の体系と捉えることにより発生する堕落が現実にあった。

この言い方には、当方は同意ではありません。
当方の主張は、

「「本来私たちは言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる。」という確信である以上、そういった者が、人様の生活にかかわる(権力を持つ、政治にかかわる)場合」

の中にあるような、「本来私たちは言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる。」が、即、「固定化のための言葉・記号そのものを真理の体系と捉えることにより発生する堕落」であるとは、理解しておりません。

どういうことかと言えば、「本来私たちは言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる。」というのは、半分正しく半分欠けている言い方で、言葉によって説明して理解することではなく、不可視世界は言語化することが当然出来て、それにより世界への認識が変わり、認識は知覚を変え、知覚の変化が感覚を変えることが出来る、ということです。

一方、「>その固定化のための言葉・記号そのものを真理の体系と捉えることにより発生する堕落が現実にあった。」
における、虚無の戦略は、不可視世界など幻想である、という、人間存在の固定化のために、言語・記号が真理の体系であるがごとくに巧妙に言語。記号を唯物還元認識へ方向づけた戦略だったことで、「言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる」ということを「歪めて、信じさせなくした」とうことだと理解しています。

武道の教導を受けた身として、一般的に「言語では不可能、超越的体感、神秘的達観によってのみ達成出来うるのが、道」と言われ続け、「頭を取れ」的な世界を展開してきていますよね。

師が達人でいらっしゃる以上、師の教導に反旗を掲げた愚か者であったやも知れませんが、神秘的達観のみ可能、言語思考は不要というのは、短絡であるという確信を持って、飛び出し、「不可視世界は言語化することが当然出来て、それにより世界への認識が変わり、認識は知覚を変え、知覚の変化が感覚を変えることが出来る」という、世界認識(ゲシュタルト)の意識構築へと飛び込んで、今に至りますが、終着点は神秘的達観に至ることは変わりないのですが、その神秘的達観に教導する仕組みは、言語にも、記号にも、幾何にもあり、その場合の言語とは言霊であり、記号、幾何の体系は神聖幾何学があると理解しています。

現代の人間の持った、魂の喪失と精神の堕落は、宇宙(神)は予め想定内であったと思っていて、むしろ、唯物還元の狂信世界によって、自滅への加速度はますます早まる一方で、その唯物還元認識しか信じない人間の性向を持って、その方向へ突き進むことで、特異点への侵入と突破によって、「物質的知が、精神的智に、反転を起こす」仕組みを、宇宙(神)は、最初から世界に組み込んでいたという印象をもっています。


>黄金を求める周囲の者の欲望を吸収するかのようにして肥大化し、やはり内部で生成するものは汚物のみなのです。
私にはこの「顔無し」が、今もなお、悶絶しつつ行き場を求めている現代機械文明あるいは資本主義のように思えました。

この表現は、全くその通りだと思います。イメージどうり。

反・神=虚無は、人間の強欲想念が産みだした化け物です。永遠性を持っていない。
その永遠性を持たぬ虚無が、永遠性が本質の人間存在=生みの親に、永遠性を喪失させる戦略をとって、自己の消滅を阻止してきたのが、バビロニアから始まる五千年の人類史だと理解しています。

幾たびも、宇宙(神)の基本原理(永遠生成発展)を、人類に「想起(思い出させる)」ための教師(聖人・偉人、偉大な哲学者)が、登場しましたが、ことごとく闇の戦略によって、黒く塗り替えられたのが人類史だと理解しています。

その闇の戦略の周到性は半端なものでなく、人間の真理に目覚めようとする人たちの思考の中にも、時限爆弾を仕掛け、真理に到達しようとする精神的行動を、そ途中また到達直前に、自己の思考を逆変換してしまう巧妙さが、思想の中に埋め込まれていると分析しています。

神と闇の本質へのプロファイリングから、ヒトの立ち位置、方向性、その力…それを読み解いていくこと。

言語は、共通認識を得れないという点で、真理を説明できません。
しかしそれは、宇宙が言語化できないという意味ではないと言いたいのです。

記号は、生きている生命を、数字に闇変換している現状があります。
しかし、それでもって、記号が生命を説明できない、ということではありません。

今、この反・神=虚無が仕掛けたトラップの最も原初的な罠として、0概念への思索と破壊の思考作業が進んでいます。

言語+記号(幾何)としての「0ゼロ」への、コンセンサスは、「何もない」ことですが、三次元座標における交点「O(オー)」
に対するイメージと重なっている「0」が、何もない意味になってしまっているということです。

0=何もない、のではなく、この「O(オー)」は、「全てを含み持つ」という「霊(れい)」なのであって、決してゼロではない。
言わばゼロの破壊が、キーワードです。

三次元座標の全て(xyz)を含んでいるにも関わらず、何もないというイメージによって覆いかぶされている。
この錯誤、0の錯誤は、人間の意識に大いなる影を落としていると捉えています。

言語+記号が、生命、宇宙を語れないと錯誤されてきたことと重なります。それは虚無、ではないのです。

事の波(ことは)の原型は「一二三四五六七八九〇(百、千、万)」と、以前申し上げました。
真理は、言葉、記号で説明が可能とは、そういう事を過去に申してあげております。

これを訂正いたします。「言葉、記号はそのまま真理のかたちをしています。」


安芸ガラスさまのおっしゃった、
「私は広島の被ばく2世です。
 山下は長崎の被ばく2世です。
 私の中には、かって世の中に取り残された感覚がありました。」

という感覚。今の人類の総体としての状態を、正に言い当てていると感じます。
人類は、総体として宇宙から疎外されている感覚を持っていると思います。すなわち「唯物還元世界認識」が発端の
「俺は無意味で無価値で無力だ…」という自己定義です。

それが、見境のない残虐性を担保している。だって死んだら消滅なんですもん。虚無そのものです。


344. 2013年4月07日 09:39:54 : FHOf1E8k9g
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

おはようございます。

>さきほどまで、「千と千尋の神隠し」というDVDを見ておりました。字幕を英語にして英語の学習のつもりでした。この作品は、ご存知でしょうか。

聞いたことはありますが、見たことがありません。
大変好い学習方法ですね。
寝るときに、すべて忘れること、そして起きた、想い出すこと、こうすれば、もっと好いです。
子どもに文字を勉強させるには、字幕の映画に連れていくのも方法です。


345. あやみ 2013年4月07日 18:18:21 : oZZpvrAh64sJM : 5jtK6KZ7eI
こんにちは

>>その固定化のための言葉・記号そのものを真理の体系と捉えることにより発生する堕落が現実にあった。」

>における、虚無の戦略は、不可視世界など幻想である、という、人間存在の固定化のために、言語・記号が真理の体系であるがごとくに巧妙に言語。記号を唯物還元認識へ方向づけた戦略だったことで、「言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる」ということを「歪めて、信じさせなくした」とうことだと理解しています。

おやじさまのこのご意見に対するろうしさまの見解、同意いたします。
意図的な「固定」をするための「用語」がしっかりと開発されています。
「○○イズム」「○○ゼーション」という陳腐な外来語にすっぽりだまされているのが現代日本人です。繰り返しになりますが、150年前の「明治の新語」は唯物主義を日本に浸透・固着させるための道具そのものでした。

ギリシア哲学の概念を言い表すための英単語、これらの語源の多くは当然古代ギリシア語にあるわけですが、その翻訳時に敢えて歪められたのではないかという疑いがあります。(私の中では確信ですが)
イスラム教徒の手に渡ったギリシア哲学を後になって取り戻した西洋人は、自分たちの世界に都合がよいようにラテン語に訳した、さらに後の世に生きる我々が触れることができるのはそのラテン版ギリシア哲学の英訳の和訳であります。だめだこりゃ、ではないでしょうか。

ギリシア哲学が興る前の、神話に関する記事を更新しました。

ギリシアの哲学者たちは神話を否定し、罰せられました。
ローマ人はギリシア哲学を忘れましたが神話は忘れませんでした。
その後キリスト教会は神話を否定しましたがその根底にある理念は踏襲しました。
さらにその後、キリスト教社会は「ギリシア」を彼らのものとして復興させました。

今のところ、世界はその延長にあると思います。


346. 宮島鹿おやじ 2013年4月07日 18:49:42 : NqHa.4ewCUAIk : E6brDftfjf
ろうし様

コメントありがとうございます。

まずは、残虐性についてですが、

>自己存在が、無意味であり、無価値であり、無力であることへの絶望が、残虐性の発信点だと捉えています。
>人類は、総体として宇宙から疎外されている感覚を持っていると思います。すなわち「唯物還元世界認識」が発端の「俺は無意味で無価値で無力だ…」という自己定義です。それが、見境のない残虐性を担保している。だって死んだら消滅なんですもん。虚無そのものです。


ろうし様の見解では、その根底にあるものとしては、「無力感」があるとされています。おそらくは、捨て鉢、やけくそのような感覚でしょうか。確かに、本来ならば自分自身の正体が「内なる霊」であり、そして自らの行いが、すべて記録されているという不可視の観点に、すべての人が立ち、真にそれを実感しているのであれば、残虐行為は消滅すると思います。そういう意味でろうし様の見解に同意します。

私の見解は、以下のとおりとなっています。

>形而上学が形而上「学」になるのは、たんに日常とは隔絶した領域をもとめるからだけではなく、この日常とは隔絶した真理がことば(ロゴス)によってのべつたえられ、証されると考えたときからである。
>西欧・中世異端審問官の異様な残虐性、はたまた科学を標榜することにより、他人の子供の人生をなんとも思わない学者たちの無感覚性(=残虐性)の根源はこのあたりに求められるように思います。
>つまり、彼らは「神」、「科学」=「真理」をもって仕えるものだからです。「人間の生」を超えた意義に奉仕していると思っているという感じがします。
>残虐性は、「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、もっとも最高度に発揮されるものであると思います。

また、安芸ガラス様は以下のとおり述べておられます。

>上記は残虐性と思考とを記述されていますが、その間に隙間があるように思えます。
>残虐性は、余剰エネルギーを担保します。
>それと、大脳活動の一旦中止状態も含むと思います。
>さらに残虐性が現れるには、やはり、本人の中に、不平、不満があります。


さて、私の要求は「山下俊一はなぜ、残虐行為を平然と行いうるのか」を知ることです。

いったん休憩させてください。

安芸ガラス様

通販生活の記事を読みました。
相変わらず100ミリの外部被曝ですか。ガンのことしか言わないし。
記事そのものに何らかの「意図」を感じました。菅谷氏が申し訳程度に記載されていますが・・・。
何にせよ、私は今、目の前に山下が歩いていたら「現行犯逮捕」を行う可能性が幾分かあります。当然私が刑務所行きでしょうが(笑)。


347. 2013年4月07日 20:41:38 : oIyfKeMCD6
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>さて、私の要求は「山下俊一はなぜ、残虐行為を平然と行いうるのか」を知ることです。

一言で。
そう言う価値観があるからです。


348. 宮島鹿おやじ 2013年4月07日 22:49:00 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

そうですね。その価値観を形成するものという意味でしばし「西洋かぶれ」とはどういうものかという思索を続けてまいりました。


あやみ様
ろうし様

こんばんわ。

なお、上記の「残虐性」について、及び
さらに、一つ特筆すべき論点として、
>虚無の戦略は、不可視世界など幻想である、という、人間存在の固定化のために、言語・記号が真理の体系であるがごとくに巧妙に言語。記号を唯物還元認識へ方向づけた戦略だったことで、「言葉(ロゴス)によって全てを理解し、説明することができる」ということを「歪めて、信じさせなくした」とうことだと理解しています。

が浮上しております。
もとより私自身は不可視世界は幻想ではないという予感程度はもっておりますが、私の論点としては、その不可視世界、あるいは神秘体験が存在したとして、それをこの世において言語化することが可能なのかということがあります。

ご教示をお願いいたします。

私は、これより「下手な」瞑想を行いつつ就寝しようと思います。


349. 2013年4月07日 23:26:00 : oIyfKeMCD6
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>そうですね。その価値観を形成するものという意味でしばし「西洋かぶれ」とはどういうものかという思索を続けてまいりました。

山下は「岩窟王」と同じ価値観があるのです。
ズバリ、「復讐」です。

余剰エネルギー、不平・不満、大脳活動の一旦中止状態とは、凝固エネルギーを述べています。これが「復讐」の価値観を形成したのです。


350. ろうし力学 2013年4月07日 23:55:51 : riuSNxeQ9qjU6 : poPL50vTq2
不可視の言語化には、言葉というよりも、事波である、ことは を用いることになります。言霊です。

しかし、あやみさまのような言霊の発達が覚醒していない当方や、皆々様におかれては、固定化の道具としての言葉を用いている段階において、
「この世において言語化することが可能なのかと」いえば、無理です。

その機能が未だ発露されていないのが地球人類(総体として)です。
それには、言葉をもっとシンプルにすることも必要だし、
根本的には、「ことは=かず=かたち」という言語体系を自らのカラダの内に
見出さなければならないでしょう。

ではそれに向かうには、前提として、自己の存在を非・肉体という観念体系を
必須とするところです。肉体である以上は、局在的であり続けるわけで、
非・局在としての自己認識から、不可視の言語化は立ち上がってまいります。

それにはどうしたらいいのか。
それには、「ありのまま、前をみる」ことから始めるという事です(直達正観)。


>さて、私の要求は「山下俊一はなぜ、残虐行為を平然と行いうるのか」を知ることです。

この点は常に忘れずに記述してきております。

一見無関係な当方の記述においても、当方の論じることが、一般的にはあまりに異質であろうことを思うと、あることを説明するには、前段階で論じておくことが多くあると思うために、多く論じてきているところです。
まあ、ここのスレッドではその異質さもあまり感じませんが…

残虐性の発信点、それが増殖し、過剰になり、ついに暴走する、それぞれに誘発している影響力が、背後に存在するものと思います。

発信点にこだわった物言いを、当方はいたします。根気は要りますが、過程を変えるよりも、根本を変えることが、反転の極致をもたらします。

>さらに残虐性が現れるには、やはり、本人の中に、不平、不満があります。

との安芸ガラスさんのご発言にあるように、不平、不満を抱かぬものには、残虐性は現れません。
自己存在に、不平不満があればこそ、残虐性は過剰に暴発いたします。

過去の暴君が、全てを手に入れたのちに、渇望するものが、永遠の生命というやつです。
つまり「肉体が己であり、有限で、100年ほどで消滅するのが自分」という定義に基づいた「恐怖」に駆り絶たれた行為が、比類なき残虐性でした。

このような自己定義においては、他者の存在も自己同様、単なる「物」ですから、他者を自己の安寧の為にどうしようと全く構わない、という態度に成らざる得ないです。

>残虐性は、「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、もっとも最高度に発揮されるものであると思います。

自己の残虐性を正当化することで、微かにのこる霊性からの罪悪感から逃れる、その最大のものが「自分は絶対に正しい」という正義(これが大嫌いな当方ですが)ですから、正義という主張が生み出される背景には、自己が間違っているかもしれないという恐れがあるわけです。

正当性の主張とは、このように裏腹なものです。そしてその発信点も、自己の虚無性を信じたことから始まるというのが、しつこいですが当方の主張です。

自己が「物」であること、そこからもたらされる自己の虚無性。無意味無価値無力な自己存在。
しかし、中心ではそれとは反対の感覚を原初的に生まれ持っている。

そこで葛藤は起きます。自己否定は顕在的で、自己を認め抱きしめている感覚は潜在的です。
顕在を「確証、証拠」と定義する「常識」によって、自己を否定する方向性に針は傾きます。

すると、自己が何時かは消滅の憂き目にあう虚しい存在、という認識が定着し、今一時の享楽、その場限りの自己満足(=恐怖の緩和)が人生の目的と認識され、他者存在とは常に自己と利害が対立する存在と認識が固まります。
利害が一致する限り、現段階では「味方」、しかし基本は他者は自己の存続を損なうものとして認識されます。

自然とは、自己の生存を脅かすものであり、他者や自然への態度は、「支配するか、されるか」という二項対立の図式となります。

ここで、より強い他者が登場することで、自己の生存は脅かされますが、それを一時的に保障するのは「迎合」です。

日本の権力者連中は、常にそういう板挟み状態にある者どもです。
ローカルには支配者であり、グローバルには支配されるものです。

グローバルエリートには、常に恫喝を受けている以上、自分の安寧を保証するには、自分が支配している対象、市民への視線には、自己の利益に供する「人身御供」としての認識がされています。

山下その他の連中の頭の中というのは、虚しき自己の生に対し、ほんのちょっとでも好い目をみたい、少しでも恐怖を緩和したい、それには、支配を受けるポジションでの態度と支配をするポジションでの態度は180度違うけれども、自身のなかではある一定の目標を達成しようとしているに過ぎないわけです。


351. 宮島鹿おやじ 2013年4月08日 07:33:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
ろうし力学様

おはようございます。
昨晩の瞑想はただの睡眠と終わりましたが、よく眠れましたので良しとしています。

大変貴重なコメントをありがとうございます。

残虐性については、私の中でほぼ見解がまとまりそうな気がいたします。
まずは「不平」「不満」を抱え込む者がある。(凝固エネルギーについては難しいので保留)自らを肉体のみとするとする価値観=恐怖の中で、これを克服する方策が他者への復讐であり、その形態は支配・収奪となる。そしてその不当性を隠蔽するために自らの正当性を顕彰する。そのための方便として利用されるのがこの世の形而上学でありそれはプラトン以降の哲学そしてその息子である科学を含む。

一方で、不可視の言語化についてですが、学的、知性(カントの言うところの悟性=understanding=言語の論理的操作による認識)的レベルでは不可能であるというろうし様の言葉には安堵を感じております。これは以前からの「聴講」により、漠然と感じていたことであり腑に落ちる感覚があります。

個々人の精神的覚醒こそが究極的な問題の解決であるという点ではまったく同意いたします。一方で、私が問題視している現状(自国の子供が人身御供にされている事態)に対して、なんらかの有効な言葉を実際に紡ぐことはできないかという意識があります。そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには若干スケールが合わないような気がいたします。

なお、私自身は不可視世界への強い吸引を感じながらも、ろうし様やオオトラ様のような体験をほぼ一切経ていません。これには個々人の、「流れ」、あるいは「課題」のようなものがあるのだろうと思っています。しかし、それにしても、瞑想を行うことによりほんの微かな感覚を得たことがあったようにも思えますが、まずは人それぞれ自分の道を歩くしかないのだろうと感じています。

現時点においては、可視世界の知的作業(科学)においてすら、著しい歪曲が行われているように見えます。政策的結論から現状認識を演繹するような方法です。ご存知のとおり原発推進の結論(鉱山業の利益)から安全基準を設けるようなやり口であり、その結論に抵触するデータについては黙殺することに学者らが積極的に加担しているような状態です。

私自身の問題意識としては、不可視の視点を参考に聞きつつ、こういった学者らの迎合については、貧しき市民科学者(低レベルですが ^^;)というスタンスで見つめてまいりたいと思います。当然「科学」という言葉に用心しながら。

しかし、それにしても、皆様の真摯なるコメントには感謝の念を抱かずにはおれません。このスレッドにおけるコメントは私にとって珠玉のような展開ではありますが、同時に、私の能力ではいかなる総括も不可能であることが明らかになりつつあります。その点はご容赦いただきたいと思います。

 昨日は、近場の健康ランドにて骨休めでしたが、R・P・ファインマンの「科学は不確かだ!」という本を読みました。米ソ冷戦のさなかに書かれた古い本であり、まあ、ソ連はダメだアメリカ万歳という主張に辟易いたしましたが、それでも、おそらくは第一級の現場の科学者が以下のように述べることについては心強い感をもちました。

・・・現在科学的知識と呼ばれているものは、実はさまざまな度合いの確かさをもつった概念の集大成なのです。なかにはたいへん不確かなものもあり、ほとんど確かなものもあるが、絶対に確かなものは一つもありません。・・・

確かに旧ソ連における学的傾向は「形而上的」そのものであり、それに対する、ファインマンの拒否反応もひとつの誠実さの現れといえましょう。今、私が最も困り果てているのは、御用学者らの安全・安心に向けての「断定的な」態度です。一方で、ファインマンは、アメリカが周囲に撒き散らした惨禍についてはあまりにも呑気すぎる感がありましたが、それでも以下の学者と比べれば誠実といえると感じました。

http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/10817.jpg
(すみません。オチのように使って・・・。^^;)


352. 2013年4月08日 08:14:20 : gdF9hJEPiQ
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>個々人の精神的覚醒こそが究極的な問題の解決であるという点ではまったく同意いたします。一方で、私が問題視している現状(自国の子供が人身御供にされている事態)に対して、なんらかの有効な言葉を実際に紡ぐことはできないかという意識があります。そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには若干スケールが合わないような気がいたします。

「自国の子供が人身御供にされている事態」‐これて快感なのです。
「沖縄」もそうでしょう。「負担軽減」と云いながら、これまで以上に負担を押し付けようと」しています。

「凝固エネルギー」がなせることではないでしょうか。
私たちの時代は、中学の「技術」でエンジンの構造を習いました。
ガソリン、空気、圧縮、爆発です。‐これが圧縮エネルギーです。
ところが、途中で、それを止めると、凝固して、内部でどんどん漏れ始めるのです。−これが、凝固エネルギーです。
解決方法は、火をつけて爆発させることです。


353. 宮島鹿おやじ 2013年4月08日 08:46:21 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

さっそくのコメントをありがとうございます。

>「自国の子供が人身御供にされている事態」‐これて快感なのです。

私は、以前、歩行の不確かな老人が転倒し、後頭部を強打して大量の出血をするのを見て、妻の前で不甲斐なくも泣きました。そのときは情けなく思いましたが、今では、そのような自分を疎ましくは思いません。

こどもたちの、このような危難に対して、そのように感じてしまう人に対しては、私は何ら、かける言葉がないのかもしれません。


それにしても、火をつけて爆発させるとは具体的にどういう作業をいうのでしょうか。


354. 2013年4月08日 09:15:42 : gdF9hJEPiQ
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>それにしても、火をつけて爆発させるとは具体的にどういう作業をいうのでしょうか。

欧米列強の秩序に参入すると決定し、150年以上、米国の秩序にを決定して、60年以上を経過しています。この観念は凝固エネルギーが支えています。この観念が外交と内政を踊らせています。日本の文章には、よく「世界○位」との形容詞がついていますから、火とはメンツかもしれません。


355. 手紙 2013年4月08日 15:19:05 : ycTIENrc3gkSo : XV3tIiPNBE
皆さま、こんにちは。

先日アントニオ・ネグリ氏の講演会がありました。私はビデオで視聴したのですが、氏の語る「マルチチュード」という勇気付けられる言葉と、その冷徹な権力構造の分析が、どこか漠然とした不安を心に残した講演会でした。氏がそこでおっしゃっていた事のひとつは、基本的に権力と資本は分断を戦略としており、原子力村総体が「死の権力」そのものであるという事と共に、現状問題を解決する具体的な方法は「答えのない問題」でもあるというようなことでした。そして氏の持論であるところの私たちマルチチュード(人間の尊厳を共に守り伝えていく大衆群像)が、持てる力をすべて使って団結するべきであると、力強い口調でおっしゃっていました。

しかし私は、このスレッドで語られてきたテーマのひとつでもあると思っていますが、その「死の権力」を容認し追認してきたのは他でもない私たちであるという逆説に対して、少々不安になってしまいます。

そこで、おやじさまのご発言に注目したいと思います。

>>私が問題視している現状(自国の子供が人身御供にされている事態)に対して、なんらかの有効な言葉を実際に紡ぐことはできないかという意識があります。そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには若干スケールが合わないような気がいたします。

このご発言に応える為にここで、ろうしさまのおっしゃたことを私なりに解釈しますと、やはりあらゆるものが、特に人の内面にまで値札がつき細分化されてしまうと、これはもはや虚無という夢魔にとりつかれている状態で、自他が完全に分離して自分の中に誰もいないという状態です。いわゆる心中の子さえも、もはや亡くなってしまっているのではないでしょうか。

もしもこのような心象が「大衆群像」の多数を占めている、あるいは今後占めていくならば、残念ですが「死の権力」による隷属的な状況は今後も継続していくだろうと考えます。彼らがばらまいてきたものは結局のところ虚無そのものでしょうから。虚無にとりつかれた大衆ほど誘導しやすいものはないと思います。すなわち、ネグリ氏の言う「マルチチュード」にもある程度の下地が必要だろうということです。

若輩の私には言葉にしにくいことですが、社会がこのままの状態で突っ走っていくとするならば、私たちはあと何度も、恐らく横目で物を見るのではすまされないような冷厳な環境に放り込まれてしまうのではないでしょうか。私はそれがそれこそが、一連の原発事故と誰の目にも明らかになったはずの、原子力村総体と国策の欺瞞性であり、ある種の不可視的な啓示でもあるとてっきり考えていました。でもそれが、今は停止ブレーキになっていないようです。

いずれにしても私たちは、教科書や歴史や法律の墨塗り、あるいは毒性の強い社会現象にふたをしてそれでよしとするような、短絡的な意識変化ではなくて、土台と下地の土つくりから始めなければならないようです。

戦後の社会においても、明らかに不可視的な世界は徐々に狭められ閉じ込められてきました。私にとってそれは第六感的な意味愛?だけでなくて、感触とか味覚とか、そういった基本的なことがらなのです。私はそれが生命の記号化に抗うための根本につながっていると考えています。

今回は少々悲観的になってしまいました。


356. 宮島鹿おやじ 2013年4月08日 19:24:08 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

「火とはメンツ」のあたりでまたわからなくなっちゃいました。

手紙様

コメントありがとうございます。
このスレッドを気にかけていただいているようで大変感謝します。
見ての通り、メンバーの中でスレ主が最も「平板」という状態で進行しております。いただいたコメントの多くを受け止められずに来ておりますが、まあ、見捨てられずにありがたいものです。

>私はそれがそれこそが、一連の原発事故と誰の目にも明らかになったはずの、原子力村総体と国策の欺瞞性であり、ある種の不可視的な啓示でもあるとてっきり考えていました。でもそれが、今は停止ブレーキになっていないようです。

私も同感します。「まいった、こりゃあ」としかいいようがない現状です。


>短絡的な意識変化ではなくて、土台と下地の土つくりから始めなければならないようです。

まったく同意いたします。この点については一人一人の心の持ちようから変更する必要を痛感しています。私の場合は、まずは、官製オピニオンの拒絶、既成学問への懐疑という形を取っていますが、まずは自分で考えるしかないということでしょうか。

>戦後の社会においても、明らかに不可視的な世界は徐々に狭められ閉じ込められてきました。

多くの人は不可視=宗教と捉えると思います。今、街には多くの宗教団体による政治ポスターが氾濫しています。私個人としては、不可視(内面への探求)≠宗教なのですが。


357. 2013年4月08日 22:17:33 : 5P13Uw7GKc
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>「火とはメンツ」のあたりでまたわからなくなっちゃいました。

申し訳ない、言葉たらずでした。

日本政府に「米国に従属している」とか「米国に従っている」とか「米国に指図されている」と批判をしても、何にも感じませんが。

日本と朝鮮との「戦争状態終結確認」は進展していません。
それは、朝鮮との交渉で「戦争状態」を日本が認めることが、含まれているからです。(推測です)
それが日本政府のメンツにかかわることがあるからです。


358. あやみ 2013年4月09日 03:58:46 : oZZpvrAh64sJM : nrzN0PiDSA
こんにちは お返事がおそくなりました。

不可視世界の言語化、私にも無理ですよ、大それたことです。
やまとことば、また世界の諸地域の古代言語は可視世界から不可視世界に対峙しながら生まれていったものだと確信しております。つまり「言霊・音霊」の存在のおかげです。

では現代語で不可視世界を語れないのはなぜか、です。
語彙の視覚化が異常なまでに進められたためです。本来見える筈のない「天国」や「地獄」までが具現化・視覚化されました。天国と聞いただけでなんだか白っぽい階段を上がると羽の生えた半裸のねーちゃんが飛んでる光景を思い描いてしまうのはそのせいです。
絵画、彫刻、写真、建築、これら芸術と呼ばれるものが果たした役割、それは不可視世界の視覚化です。もちろん正確に視覚化などできる訳がなく、そういった意図もありませんでした。支配階級や教会の意図によって自分たちの都合のよいように視覚化したのです。

言語のほうは視覚に引っ張られる形で発達をみました。
そして現代、映画やテレビやCGの開発でそれはさらに顕著化し視覚情報より百歩おくれて言語情報がやってくるようになりました。

イスラム世界では今でも神や預言者や天国といった存在を描写することは大禁忌です。また絵画・彫刻ともに具象表現が敬遠されていたためいわゆる「洋画」のようなものが発達しませんでした。
しかし言語での表現はふんだんにありました。クルアーンがその最たるものです。クルアーンはアラビア語で書かれていますが外国語への「翻訳」は「不可能」という理由でされていません。万葉集を英訳できないのと同じ理由です。(クルアーン翻訳書として出版されているものは解説書の域を出ません。)あくまでアラビア語の言霊・音霊により不可視世界との対話をするのです。

本来ならば聖書もそうでした。が、運用の仕方が不味かったのか、キリスト教社会はご存知のとおりです。


残虐性…人の本能のひとつです。同時に残虐なことができないという本能も持ち合わせているのが人でもあります。他にも多種多様な「両極」のせめぎあいの中で人は生きています。
今日、「残虐なことができない」という本能よりも「してはいけない」という道徳心のほうが勝っていないでしょうか?私はここにも問題を感じています。「残虐行為をしてはいけない」の担保が「現代ヒューマニズム」であり、その「現ヒュ」というものの親が嘘っ八の世界平和だったりちんけなイデオロギーだったりするためにいともたやすく破綻するのではないか、道徳に寄りかかりすぎて本能が萎縮してしまった、そうとも思うのです。

>残虐性は、「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時…

これで思い出したのはあるイスラム学者の言葉です。
「もっとも危険なもの、それは信じることである」です。顕著な例として中東で「よくある」自爆テロです。信心があらゆる道理をすっ飛ばして神様に直結してしまうことで起こる残虐行為です。多くの人の命を奪い、その中に自分もまざっているという悲劇です。テロリストたちは神様に繋がったつもりでもそうではないのです。人を「信じさせる」ことなどは簡単なのです。
山下なども奴なりの信念があり道理も実もふたもなく何かに縋りついているのでしょうが、それがじつは何であるかは本人にも見えてはおらず、亡者のような姿を晒しながら罪を重ねているのではないでしょうか。


359. 2013年4月09日 07:13:31 : IsFErRr4VE
あやみ さん

>残虐性…人の本能のひとつです。同時に残虐なことができないという本能も持ち合わせているのが人でもあります。他にも多種多様な「両極」のせめぎあいの中で人は生きています。
今日、「残虐なことができない」という本能よりも「してはいけない」という道徳心のほうが勝っていないでしょうか?私はここにも問題を感じています。「残虐行為をしてはいけない」の担保が「現代ヒューマニズム」であり、その「現ヒュ」というものの親が嘘っ八の世界平和だったりちんけなイデオロギーだったりするためにいともたやすく破綻するのではないか、道徳に寄りかかりすぎて本能が萎縮してしまった、そうとも思うのです。

同意します。

残虐性は本能です。
いらぬお節介も、それです。
ですからお互いに理解をして暮らすのが大切とおもいます。

道徳心…
西洋では、武装、戦争、略奪、強姦のことです。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスの時代のことです。

私は「九条の会」の運動に参加しています。
憲法第九条改正派の市民像は武装した市民のことです。

私はお互い理解して、上手に伝えて、暮らす社会をめざしています。


360. 2013年4月09日 07:34:32 : IsFErRr4VE
安芸ガラスです。

>不可視世界の言語化

赤ん坊。
泣きます。
これは、腹が減った、位置が悪い、眠い、排泄だ、等々の要求が起こり、体全体で伝えているのです。
私たちは、泣き声の速度、加減、間合い、リズム、メロディーなどなどで、どんな要求かを判断し、動きます。
話し言葉の原形です。

ですから、赤ん坊に判るのは、音(おと)と推測します。
そして、速度です。

それと、私は街頭で演説をしますが、これも原理があります。
先に声を出し、そして動作です。
それで、通行人の頭の中に、連想を起こすのです。

つまり、演説者と通行人の同一の運動合成をするために、音、速度、視野などを使うのです。

云いたいのは、言葉だけで、不可視世界を語るのは、無理だと、思います。


361. ろうし力学 2013年4月09日 18:57:20 : riuSNxeQ9qjU6 : HOxOH5Ak4w
おお!

>言葉だけで、不可視世界を語るのは、無理だと、思います。

ここ、同意です。

って、俺が言うな!って感じですか!?(笑)

面白くなってきましたね、圧倒的な劣勢です!

当然、言葉「だけ」で語るのは無理ですね。
と言いつつも、主体抜きに言葉をだけを思考することなど、どだい無理なのですが・・・

言葉を紡ぐということは、人間の「生」と表裏一体なはずです。

…言葉で不可視世界を語るのは無理、ってことを結論として。ここで話題を閉じてもまあ全然構わないと思うんですが…

前前回いいましたとおり、
「事の波(ことは)の原型は「一二三四五六七八九〇(百、千、万)」と、以前申し上げました。
真理は、言葉、記号で説明が可能とは、そういう事を過去に申してあげております。

これを訂正いたします。「言葉、記号はそのまま真理のかたちをしています。」」

という事で、「ことは」、記号もとい「かず。かたち」は、真理のかたちをしているということで、その言葉を私たち地球人類は未だ使えていないってことなんです。その機能が発露されていない。

その最大の要因はなんじゃ?ってことなんですけども、それこそが、パラダイムのシフトを問題にしておる「形態認識」、ゲシュタルトですね。

自己を客観的ヒューマンボディーとして認識しているゲシュタルトに基づいた「思考」と「言語」には、不可視を語る力はもともと無いんです。

既存のパラダイムからの脱却という方向性で、一つ例をあげますと、「前を見る」という言葉。

ワタシにはこの言葉、大いに違和感があります。共通しているのは「頭痛が痛い」でしょうか(笑)

自己が客観的ヒューマンボディーで同一化されているとき、私に対するイメージは、
三次元の空っぽ空間に、ヒューマンボディーとして佇んでいる肉体を、様々な位相から
イメージしている…というのがコンセンサスかと思われます。

当然この自己イメージにおいては、自分(=肉体)の「前」「後ろ」「右」「左」「上」「下」という方向性があるとイメージしています。だから、「前を見る」という表現になんら違和感が起きません。

しかし、生きていることをありのままに体感すれば、言えることはただ、見えること=前、です。
それ以上でも、以下でもありませんね。

生きていることをありのままに感じている意識には、事実は
・「見ることそのものが前」、
・「決して自己の顔など見たことはない」(鏡において見えているのは、鏡を見ているのが事実)
・自分の「生」に背後は存在していない。

という何のひねりもない事実が在るだけなのですね。
三次元空間にポツんと佇む、肉体としての自己。その自己イメージは「生の現場」からは程遠い。

自己と認識する肉体を、観察の主体として定義していることは、自己の立ち位置を著しく歪めている。
本来、見る者が、見られる対象と化し、広大な三次元時空(四次元時空)の中で、圧倒的な矮小さで宇宙の砂粒にも値しない小さな自己像。

このような自己像から語られるいかなる言語、言葉からは、自己存在(実はこれこそが不可視世界そのもの)をカタチに表現することなど、どだい出来るわけがないのです。

不可視世界をことばでかたるのに不可欠なのは、自己存在こそ、不可視世界を世界足らしめている存在そのものである、という存在の構図なのです。

見ている世界は「記憶」であり、記憶を保持している主体が自己そのものであり、記憶が自己そのものである。
見ている世界から、、自分をはく奪して恥じない我々地球人類が、存在の立役者へと回帰するときだとそう私は言いたいということです。

世界を世界足らしめているのが自己ならば、自己が世界を語れぬわけがありません。
否、世界はヒトに、語ってほしい、と言うべきです。

可視、不可視の表裏を、主体=ヒトが語るとき、初めて世界に成り成った「神」が甦るんです。
神を神足らしめるのがヒトなんです。人間の存在なくして、世界も神もへったくれもないのです。


362. 宮島鹿おやじ 2013年4月09日 22:31:37 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

こんばんわです。

今日は図書館である本を借りたのですが、たいそう興味深い記述がありましたので、ご報告します。

本は「トマス・アクィナス」(中央公論社 世界の名著20)です。

トマス・アクィナスは、「神学大全」などを著した中世スコラ哲学の大成者であり、カトリックといえばトマス、トマスといえばスコラ哲学というぐらいの神学者です。私が注目したのは、デカルトなどの近代哲学と古代ギリシア思想の結節点という位置づけでしたが、今、ご報告したいのは彼の晩年です。

彼はドミニコ会に属し、アリストテレスの哲学をキリスト教信仰と統合するという当時としては大変な功績を挙げ、同僚からは枢機卿の地位は間違いないなどと言われたそうです。

彼が亡くなったのは1274年3月7日です。

その数ヶ月前の 1273年12月6日のミサにおいて彼は、何か、神秘的な体験をしたとされています。それ以来、彼は一切、執筆活動が出来なくなり、その理由を問われると、

「兄弟よ。わたしはもうできない。」
「たいへんなものを見てしまった。」
「それと較べれば、いままでやってきた仕事は藁屑のように思われる。」
「わたしはただ自分の仕事をやりおえて、ただ終りの日を待つばかりだ。」

と答えました。

そして、翌年の3月に、泣きながら聖体拝領を受け、その3日後に亡くなりました。彼が「何」を見たのかは不明ですが、それと較べれば「藁屑」だと表現したものが、後のデカルトら近代思想の母胎となっていったのは間違いありません。


363. 2013年4月09日 23:02:48 : znYG3zmq7U
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>トマス・アクィナス

そうですね。デカルトらの母体ですね。確かデカルトもドミニコ会ですね。

論争相手がヨハネス・ドゥスンです。この人もデカルトの母体です。


364. あやみ 2013年4月09日 23:37:03 : oZZpvrAh64sJM : nrzN0PiDSA
安芸ガラスさま

>つまり、演説者と通行人の同一の運動合成をするために、音、速度、視野などを使うのです。

言語はそもそも「音」です。文字という「形」はもっとずっと後からついてきています。
時に掻き消されて果ててしまう「おと」を固めてとっておいたものが文字です。しかし日本の先祖は文字を作り出すことに消極的でした。音霊のもたらす恩恵を裏切ることへの畏れだったと思います。

赤ん坊はうまれたあともだいぶ長い間母親と繋っていると思います。ぎゃーと泣いただけで何をほしがっているのか何が嫌なのか、母親には分かるのはそのためです。赤ん坊のほうもそんなことは承知しているので、ぎゃーとしか泣かない。
ことばを覚えながら一体だった母子はすこしづつ離れてゆく、そんな過程があるのだと思います。しかし距離は広がったとしても断ち切れることはないのです。
これが誰でも体験したことのあるいちばん身近な「不可視世界」ではないでしょうか。

人はそれぞれ母を持ち母国をもち、宇宙という母体に抱かれています。このことから、根源は結局ひとつのところに収束するでしょう。人類はひとつの大きな生命体と感じるのはそうした原初を携え、それがどんなに複雑になろうと断ち切れないものだからです。他人を傷つける行為は自らを攻撃し貶めることと同じです。


365. 2013年4月10日 07:33:31 : WhrKItDuyJ
あやみ さん

安芸ガラスです。

>これが誰でも体験したことのあるいちばん身近な「不可視世界」ではないでしょうか。

同意します。

声に‐主張、呼吸の速度、訴える調子、訴える間、訴える音の速さ‐などが載ってっています。


>他人を傷つける行為は自らを攻撃し貶めることと同じです。

同意します。

他者に上手に伝える、これです。
言葉ではなく、行動で伝えるのです。
こころです。


366. あやみ 2013年4月10日 17:17:37 : oZZpvrAh64sJM : nrzN0PiDSA
しかし現代人はこの身近で重要な不可視世界をも解剖学の机に横たえました。
医者と育児書と育児ビジネスは母親からこの知覚を奪いました。授乳は時間を決めて、モーツァルトを聴かせて賢い子に、哺乳瓶は薬品で消毒を、殺菌剤の入った塗れティッシュを、離乳食は電子レンジで殺菌を、幼児期英才教育を…

母親が子供との間に知識で壁を築くため、子供と母親はお互いをじかに感じることができなくなります。両者は満たされることなく離れてゆきます。

おフランスかぶれの友人が言うには、おフランスでは妊婦は自然分娩か帝王切開かを産科医と相談の上で自由に決められ、母乳を止める薬も要求できるという働く女性と人生を有意義に使いたい女性のために有利な制度があるそうで、これはおフランスならではの「成熟した大人の文化」なんだそうです。好きにしてください、です。

人の子の無感覚・無感情・無共感の度合いはこうして進んでいくのだと思います。


おやじさま

トマス・アクィナスについてつまみ読みしてみました。
旧約にあり、一神教の柱でもある「神は在りて在るもの」という考えと自然科学の間で最後まで悩んだとありました。そのあたりの記述はどのようなものでしょうか?


367. 2013年4月10日 18:18:14 : RNXP9RnpJE
オオトラです 皆様ご苦労様です前回書いた被曝線量の上昇予想は見事に外れまし
た 実は昨日異変に気付き再検知した所 被曝線量の上昇に気付き大慌てで波動の
再構築を迫られていゃー驚きました で今日落ち着いて再度検知した所では矢張り
五月に再度の上昇があると検知出来ます いゃー愈々迫った感が有りますねー
余裕が無くなって来ましたねー あぁそれと残虐性に関してわしは差別意識が様々
な表れ方をしていると思って居ます 元々この欲界は命のやり取りが生存の条件と
成っていて それが許されている世界です 草食動物が植物の命を奪い肉食動物が
草食動物の命を奪いそれが罪とは成らない成り立ちです が 人間だけが必要以上
の命の簒奪を行いそれを富に変えると言うルール破壊を行っています結局その行為
はなんぼ欲界でも許される事でなく人間の絶滅に行き着く根本的な理由になると
思っています

368. 2013年4月10日 23:01:23 : mqAY6U9q2I
オオトラ様

安芸ガラスです。

>皆様ご苦労様です前回書いた被曝線量の上昇予想は見事に外れました 

整体で云う波は、体の波、気の波、水の波、女の波と男の波があります。

水の波は、干潮と満潮の波のことです。チェルノブィリでは14〜15年が大波、2〜3年が小波です。川の水の線量が高くなっています。


369. 2013年4月10日 23:36:52 : mqAY6U9q2I
あやみ さん

安芸ガラスです。

>おフランスかぶれの友人が言うには、おフランスでは妊婦は自然分娩

赤ん坊も、お母さんも男の波(おどき)です。

月経はおどき。
排卵はめどき(女の波)。


370. 2013年4月11日 11:24:46 : HMoH4J3OBo
ろうし力学様

安芸ガラスです。

>見ている世界は「記憶」であり、記憶を保持している主体が自己そのものであり、記憶が自己そのものである。
見ている世界から、、自分をはく奪して恥じない我々地球人類が、存在の立役者へと回帰するときだとそう私は言いたいということです。

私は「記憶を保持している主体が自己そのもの」とは思わないのです。
主体は、要求なのです。


371. 2013年4月11日 11:48:17 : HMoH4J3OBo
手紙様

安芸ガラスです。
私はマルクス・レーニン主義者です。
ただ世代が違うので、アントニオ・ネグリ氏については、なにも知りません。
しかし、以下については同感をいたします。

>すなわち、ネグリ氏の言う「マルチチュード」にもある程度の下地が必要だろうということです。

マルクスは「生産関係と生産力」と云う言葉で、現在意識と潜在意識の関係を明らかにしました。

レーニンは「自然発生性と目的意識性」と云う言葉で、行動するように働き掛けるには、潜在意識を対象に、それを方向づけると云うことを明らかにしました。

他の主義者は知りませんが、マルクスもレーニンも、個体の主体を、その人の要求においています。

人の要求が、蕎麦を食べたいか、うどんを食べたいか、の違いは、マルクスの云うところの感受性の偏りからきます。

ですから、蕎麦かうどんかと云う対象から、おのれの要求を感じる感受性、価値観をフィードバック(再検討)します。

氏の以下の主張は、そのことを語っていると確認します。

>そして氏の持論であるところの私たちマルチチュード(人間の尊厳を共に守り伝えていく大衆群像)が、持てる力をすべて使って団結するべきであると、力強い口調でおっしゃっていました。

ですから、再検討した個性の集まりが、次の権力機関、地域のソビエト(議会)を準備します。


372. 宮島鹿おやじ 2013年4月11日 19:06:49 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

若干体調不如意につき休みます。よろしけばお話をお続けください。
よろしくお願いします。


あやみさま

>一神教の柱でもある「神は在りて在るもの」という考えと自然科学の間で最後まで悩んだとありました。

まさにその点「信仰と理性」「啓示と思惟」「あの世とこの世」についてが、問題とされていたように思えます。これは、このスレッドにおいて底流となっている問題かもしれません。


373. ろうし力学 2013年4月11日 23:18:14 : riuSNxeQ9qjU6 : GMYmjbydFk
安芸ガラスさん

ありがとうございます!こうでなくては、面白くないです。
今までの談じ合いの流れには、当方のトンデモに対してあまり発展性なく過ぎてきていましたから、
「私はそうは思わない」っていうレスポンスは、すごくいいもんですね、ありがとうございます。

おそらく、安芸ガラスさんと、当方では、寄り添うことは無いとは思っているのですが(それが目標でもないし)
この会話を読まれる一万人に御一人ぐらいの方に、思索の科学変化がもたらされれば、いい感じかなーと思います。

さて、

>私は「記憶を保持している主体が自己そのもの」とは思わないのです。
主体は、要求なのです。

「>主体は、要求なのです。」

そうですね、主体は要求だというのは、当方も思うところです。

それで、以前にも書いておるところですが、「記憶」という語句に、
安芸ガラスさんと、当方では、コンセンサスが取れていないと書きました。

当方の語る「記憶」とは、当然ながら脳細胞の記憶では無いわけです。
そりゃそうです、自己とは肉体ではない、と言っているんですから。

目の前の一つのモノということで言えば、目の前にモノがある。
そこに在り続ける、という状態を、どのような「自己」で思索するか、ということです。

ここは、面倒くさいこと抜きで、反論的に書いていきましょう。

まあ不明瞭なので、書きますが、「>主体は、要求なのです。」という書き方には、
主体を、要求「のみ」の存在と捉えていいのでしょうか?(解らないので)

その時、要求のみで主体を理解したとして、(仮定)
世界が見えている、という(存在を思索する時、必ずここに因って立つ)ことは、
主体が要求である(←「のみ」である)ということで、はたして「認識は完全化に行き着くものでしょうか。」

☆認識が完全化へ…、と言うのは、世界を見ている私、を矛盾なく理解できるか、ということ。


どうも、「世界が在る」、という状態に対して、無頓着すぎる書き方ではないかと?当方は思うのですが。

…もしかして、自己とは肉体ですか?
世界と自己の関係性は、肉体と空間という認識をされています?

そこには、世界と私とは、決定的な乖離があるという感じでいいでしょうか。

量子力学から人類に示されたことについて、当方が認識するのは、世界と私とは不可分である。
世界を世界足らしめているのは、私という存在である。

世界側にも、私と言うアイデンティティーが息づいていて、
世界と私とは、同じものの裏と表のような関係性にある。
という認識が、当方には浮上したものですが。

もしかして、量子力学は、あくまでミクロ(言わばこれも不可視です)に限定的に言及しうることであり、
人間の生活レベルや、マクロでは、それは量子的な世界と観察者の関係は、無関係である。
とお考えでしょうか。そのレベルでは、古典物理学な世界で思索されていますか。

主体は要求なのだ、という「言葉」には同意ですが、主体を「それ(要求)のみ」で捉えるとして、
「存在とわれ」、が違和感なく理解出来てしまうものなのでしょうか。

安芸ガラスさんの思索の背景が、当方には不明瞭に受け止められてしまっているので、
どうも、主体とは肉体であり、世界とは空間と物質である、という視点なのかなー
と、そう思ってしまうところであります。

自己は肉体でしょうか?

反対に自己は肉体ではない、ということで在るならば…自己は肉体ではないけれど、
やはり霊魂?でも肉体と同形の?
意識?でも肉体から出ることがない?
肉体は、意識の容器?

当方は、自己は世界そのものというのが主張ですね。見えているという、見ることそのもの。
そのような自己イメージでは、世界がそこにある、あり続ける状態とは、
霊的存在としてのわたしの、永遠としての像(イマージュ=記憶)の「持続」が世界であり、
それ自体が見ることそのものですから、主体であり記憶であるということですね。

自己はなんでしょうか。


374. 手紙 2013年4月12日 01:30:40 : ycTIENrc3gkSo : Lai6dROs3Q
安芸ガラスさま、手紙です。

>>私はマルクス・レーニン主義者です。ただ世代が違うので、アントニオ・ネグリ氏については、なにも知りません。

残念なことに哲学者や実践化としてのマルクス像は、かなり歪められていますね。共産主義には絶対化され神聖化された「党中央」、そしてそこから発信されるものには誰も批判できないというような極端に教条主義的な状況がありましたから。現状のキリスト教原理主義や、イスラム原理主義、シオニズム、あるいは戦中の国家神道にも同じような構造が見え隠れします。心から社会変革を望み、日々真面目に研鑚し実践している個々の人々が、最も苦しみうちのめされてきたと思います。

私はそういった歴史を教訓とすれば、人間の尊厳や生命の尊重といった太い常識としての「コモンセンス」を守り伝えていくためには、ひとつの主義や主張にこだわる必要はないと考えています。むろん、マルクスやネグリも絶対ではありません。恐らく彼らは自己の神聖化を最も嫌うはずです。

しかしながらひとつの徹底して体系づけられた理論や哲学がないというのは、か細く弱いことなのかもしれません。でも私は悲観していません。

それは、ひとりひとりの知識や知性を縦糸として、自他の区別を超えた共感覚を横糸として、少数者や弱者を暖かく包んでくれる強くてしなやかな織物が、地域や世代を超えて、織られていると感じ考えているからです。

私たちは先の大戦で大切なものを失いました。しかし私たちは、新しく美しい織物を懸命に織っている最中です。

これは主義でもなく、ひとつの理論でもない、絶対化や神聖化のできぬ「0」です。

「0」は無償だから「0」としました。

「0」、不可視の世界は私とみなで、常につながっているはずです。

ろうしさま、そうではないでしょうか?

安芸ガラスさま、ろうしさま、皆さま、ありがとうございます。


375. ろうし力学 2013年4月12日 07:15:36 : riuSNxeQ9qjU6 : o3I1pNwkJM
手紙さま

おはようございます。ありがとうございます。

>これは主義でもなく、ひとつの理論でもない、絶対化や神聖化のできぬ「0」です。

「0」は無償だから「0」としました。

「0」、不可視の世界は私とみなで、常につながっているはずです。

本当にそのとおりですね。常に、根底でつながっている我々です。
他者に向けて力を入れることは、自己に対してそれをしているということですね。

そして、「これは主義でもなく、一つの論理でもない」、ということですね。
当方が今書いている文章は、主義の主張のような読まれ方をされると、思いますが、
私たちが「見ること」、「あること」「あり続けること」とは、主義でも論理でもなく、
生きている自己の現場そのものだと、言いたいのですが…まあこの「言葉」では
そう言いたいとはなかなか思われませんね。

全てを内包した「0」は、見ていることそのもの(知覚正面)にあると、そこで自己と他者は
一つのものの表裏一体が、真の主体であり、存在と存在者である
ということを論じているところなのです。

しかし、一番大事なことは「でも私は悲観していません。」ということに尽きます。

ありがとうございます。


376. 宮島鹿おやじ 2013年4月13日 07:37:04 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。

やたらと寒くなったりヘンな気候のように感じますが、息子には「そのようにして人はいつも変だ変だと言ってきたのだ」といわれました。

さて、いくつもの課題(私にとっての)を抱えたまま進展しておりますが、私にとっての課題(ある科学者の頭の中を探る)とは別個にある主題に対する議論が進展することはありがたいことです。

さて、私の課題に戻りますと、現在、ラッセルの哲学史を中世から近代にかけてやはり一応通しておく必要があると考え現在読書中です。また、中世思想の代表としてトマス・アクィナスの著作を数冊借りましたが、思考のスタイルを確認できればと思っています、現時点では明らかに「実体」「形相」「質料」といったアリストテレス哲学の強い影響のもとに思索されたのだということだけは明らかです。

また、一つ興味深かったのは、中世といっても前期と後期で神学の主な典拠が異なっており、前記はプラトン、後期はアリストテレスという傾向があり、トマスはいわば、当時としては「新しい考え」「若干の危険思想」としてのアリストテレスを研究したのだとのことです。トマスの前にアウグスティヌスという方がおられましたが、その方はどちらかというとひたすら「信仰のみ」「恩寵のみ」という感じだそうです。そして、トマスは、人間理性で「あーでもねー、こーでもねー」と考えて見ることをひたすらやってみたという感じがします。なんにしても後からいろいろと言うことはできるでしょうが、そのときどきで誠実に思索することは大切なことだと思います。


377. 宮島鹿おやじ 2013年4月14日 08:41:50 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。

山本義隆『福島の原発事故をめぐって』という本を以前読んでいたのですが、その中に、今回の私の問題意識に一致する行文がありましたので、ご案内します。

以下引用です。

p64
・・・自然認識における近代への転換を象徴しているのが、滑らかな斜面にそって物体を滑らせ、水時計でその時間を測定することで、真空中での物体の落下距離は落下時間の二乗にしたがって増加するという法則を立証したガリレオの実験であった。・・・このガリレオの実験の意義を、カントは「理性は一定不変の法則にしたがう理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせねばならない」・・・「それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に、理性は生徒の資格ではなく本式の裁判官の資格を帯びるのである」

・・・「自然の秘密もまた、その道を進んでゆくときよりも、技術によって苦しめられるとき、よりいっそうその正体をあらわす」・・・フランシス・ベーコン

・・・「私が元素の混合によって生ずるといわれている諸物体そのものを試験し、それらを拷問にかけてその構成原質を白状させるために忍耐強く努力したとき」・・・ロバート・ボイル

・・・「自然は、より穏やかな挑発では明かすことのできないその秘められた部分を、巧みに操られた火の暴力によって自白する」・・・ジョセフ・グランヴィル・・・。

(引用終了)


「強要し」「裁判官として臨み」「苦しめ」「拷問する」

科学者らの「自然」に対する、この異様な攻撃性は注目に値します。


378. ろうし力学 2013年4月15日 00:13:51 : riuSNxeQ9qjU6 : mxRfSvwDJE
宮島鹿おやじさま

このスレッドが立ち上がって、しばらROM専でしたが、途中からワイワイ言い出したのは、
以下のおやじさまのコメントに集約されている、自分たちがしていることに、どんな意味があるのか
という、自省について言いたいことがあったからです。

つまり

>個々人の精神的覚醒こそが究極的な問題の解決であるという点ではまったく同意いたします。

>一方で、私が問題視している現状(自国の子供が人身御供にされている事態)に対して、
>なんらかの有効な言葉を実際に紡ぐことはできないかという意識があります。
>そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには
>若干スケールが合わないような気がいたします。

ということです。
当方が、皆さま、特におやじさまと安芸ガラスさまの対話から、おやじさまの思索に様々な
活動や変化を生じて行っているご様子を感じるにつけ、そのような(有効な言葉を紡げないか、
若干スケールが合わないような気がする)思いが在るようですが、

「確実にスケールに見合う変化と影響は起きていますよ」と言いたかったわけです。

>なお、私自身は不可視世界への強い吸引を感じながらも、ろうし様やオオトラ様のような体験を
>ほぼ一切経ていません。

>これには個々人の、「流れ」、あるいは「課題」のようなものがあるのだろうと思っています。
>しかし、それにしても、瞑想を行うことによりほんの微かな感覚を得たことがあったようにも
>思えますが、まずは人それぞれ自分の道を歩くしかないのだろうと感じています。

とお書きになっておりますが、それもまた、当方から言わせれば杞憂であると言いたかったのです。

どういう事かと言いますと、当方は常に「意識の在り様(変化)」を見つめています。

不可視を言語化可能と言ってはばからぬ当方ですから、逆に「言葉に現れてくる意識」を見つめて
いるということです。(もちろんおやじさまの言葉が「本物」で在るがゆえに)

対話から、様々に変化していくおやじさまの意識には、既に十分に不可視の観点を追及する姿勢と
意識が、有効な言葉、現状を変え始めている、そういう流れを起こしていると言いたかったわけです。

これは、「そんな力は自分にはない」とか言ったことはお使いになられなくていいようなことです。
人間の理解力を甘く見てはならないと当方は思います。それは「理力(フォース)」となって
人間の生の現場に力強く反映されているのだからです(量子力学からの要請)。

この「理力」の発露が、今の私たち人間にはもっとも大切なことであることは、見失われて久しいです。
言霊(ことだま)の力は、理力。理解力の乗らない言葉に、生命はありません。

理解力の乗る言葉には、言霊の理力が籠ります。おやじさまの言葉には理力が乗っています。
そこで語られる言葉は、既に不可視を語りだします。そこに神秘的体験など無関係。
むしろそのようなものは、事の本質を見失わせることが往々にしてあります。

今現在進行中の、精神的思索と発見、精神の運動が、現実的な悲劇(子供たちが実験台にされてる)
ことへ、少しもつながりがないのではないのか、という思い。

しかしながら、世界というのは、ワタシの反映なのです(量子力学から、ですね)。
おやじさまが、子供たちを思い、愁い、起きていること(無情で非情なものどもの心理解明)を
一つずつひも解くとき、それが単に個人の精神活動の小さな小さな枠だけの自己満足、に過ぎない
という思いがあるかもれませんが、それは自己を矮小化してみるゲシュタルトからのものであって、
実際におやじさまの精神に起きている運動は、、そのような矮小化されるものではありません。

(ここはもちろん、おやじさま、というところを、他の皆様のお名前に置き換えても同様です)

そうような当方の思い、その一つながりの流れから、手紙さまからのご発言、

>しかしながらひとつの徹底して体系づけられた理論や哲学がないというのは、
>か細く弱いことなのかもしれません。でも私は悲観していません。

というご発言に対して、当方は、「それがもっとも大事なことである」と申し上げました。
何故ならば、世界を虚無化しようと目論む「虚無の本体」は、我々人間の絶望、諦めが大好物だから。

地球人類が、自らの「神性」を否定して起きる虚無感は、自己の最大の力を闇側へ反転させ、
世界を奈落に突き落とす最大の功労者へと変節させてしまうからです。

悲観をしない、自らの存在に、自らの生に、自らの歩みに。

私は、悲観し、絶望し、虚無化しました。???言っていることが違う?
どういうことかと言えば、「世界が物質でしかない、というゲシュタルトにおいて」絶望しました、
という意味です。

世界が唯物還元でしかない、という世界認識にどっぷりつかった自己においては、私はあまりに
矮小で、無力で、無意味な物質です。

そのような自己の人生に、意味など見いだせるでしょうか。たかが100年ほどで、全ては消滅して
いく自己に、意義など見いだせるでしょうか。少なくとも私に無理です。

虚無と化した私に、子供のころは違っていた事実を想起させてくれたのは、道との出会いでした。
子供のころは、世界と一体でした。自他に区別はなく、私は肉体ではありませんでした。

精神の転落をもたらしたのは、学校教育へねじ伏せられ、爆発暴発する自己を、狂う事で折り曲げ、
虚無へと変換したから、おとなしい羊の群れへの同化をして、生きた屍となったからです。

生命の発露がなく、大病になって、それがきっかけで道とであい、仙骨に覚醒して、自己を回復し
ていきました。必要なプロセスだったわけです。

虚無を知らずには、生命(神)の道を、いかにして外し、如何にして回復していくかを理解出来ない
のですから。

その意味から、人類が諦めてしまい、絶望してしまうのは、闇に加担するという事だと知りました。
故に、手紙さまが「絶望していません」という事が、もっとも大事なことだと申し上げたのです。

私は自己像を物質化することで虚無化し、脱肉体化・脱物質化から、再び魂の目覚めに近づきました。

そのようなロジックから、人間を肉体に幽閉し、物質化へ強要し、ジャッジメントし、
その存在を責め立てて、肉塊の監獄に幽閉し拷問する、という信念体系、それが唯物還元主義だと。

>「強要し」「裁判官として臨み」「苦しめ」「拷問する」
>科学者らの「自然」に対する、この異様な攻撃性は注目に値します。

自らの存在を、無意味で、無価値で、刹那的な無力で矮小なもの…として認識する宿命が科学者です。
現代の科学はカルトです。不可視ではなく、ありもしない信念体系を頑なに固持する。

その虚しい自己像に、抗う、こころの暴発が無慈悲な、自己利益優先、今さえ我さえの虚無だと。

ですから、いかにして自己を虚無化から、弥栄へと転換すべきなのか。
そのロジックにおける、基本的な思考体系が、脱肉体化、脱物質化、と言いたいわけなのです。


379. 宮島鹿おやじ 2013年4月15日 03:02:43 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

こんばんわ。

大変なお心遣いをいただき心から感謝いたします。私の問題意識に添うかたちで大変なお時間を割いていただいております。本当に有難い(稀有な)ことです。

>対話から、様々に変化していくおやじさまの意識には、既に十分に不可視の観点を追及する姿勢と意識が、有効な言葉、現状を変え始めている、そういう流れを起こしていると言いたかったわけです。

大変に心強いお言葉です。ありがとうございます。

ただ一点お伝えしておきたい点があります。それは、今、私のやっている作業が意味があるのかどうかという点において、仮に無意味だったとしても私はそれほど落胆しないだろうということです。これは、ここに集い力を与えてくださっている方々には大変失礼な物言いかもしれませんが、私はそのように感じています。

つまり私は自分の行いが非力であったとしても、「そりゃ、そうでしょう(当然だ)」と思うと共に「だから、なにもしない」という気にはならないのです。

私が行うことが誰かにとっての、何かのきっかけになるかもしれません。そして、私が現に行っていることは、間違いなく、私の意識に先行する誰かの影響に基づいています。

以下に、なんとなく私の気分を表す言葉を記載します。アッシジのフランシスコのものです。ちょっと大仰ですが・・・。

       平和を願う祈り

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。

神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。

自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。


確かに、もう私は「通りの達人」の石塚氏が何かうまそうに食うのを見て心から楽しむことは2度とないことを感じます。

と、同時に、フランシスコが発足させた修道会についてですが、フランシスコ自身が亡くなったあと、変質し、創立者の遺志(清貧・敬虔など・・・)を貫こうとした同志らは焼かれ、また、修道会そのものは、ヨーロッパ史の汚点ともいうべき異端審問・魔女狩りの主役になっていったということです。

私はこういったことどもを振りかえり、こころに留めておくことは、それほど無益なことではないと考えます。扱えるものが「藁屑」でしかないとしても、それはこの世においては仕方がないことであり、それほど卑下しているわけでもないのです。


380. ろうし力学 2013年4月15日 07:14:23 : riuSNxeQ9qjU6 : dgfQqmIT9A
宮島鹿おやじさま

おはようございます。

>なんとなく私の気分を表す言葉を記載します。
>アッシジのフランシスコのものです。ちょっと大仰ですが・・・。

大仰。そうでしょうか…本当に、この通りだと感じます。
己が至らないということは重々承知の上で、でも己の気分はこのとおりです。

当方のトンデモ発言は、既存の価値観や世界観を破壊の方へと進めていると
今まで非難されてきています。

その破壊を持たらす奴の、心情は、フランシスコの思いに強く共感しています。

伝統や常識の善きところは、大切にする人間ですが、その伝統や常識が
人間の意識を不自由へと誘導していて、しかしそれ自体が自ら正義を名乗ろうと
いう欺瞞を内包しているようなときは、黙っていないのがわれの在り方です。

100人が、一切くちごたえしないような、指導者や立場のある方へも、
やめておけと忠告されようが、それは違ううんじゃないですかと思えば、
そう発言して、まあ当然それで干されたりするわけですが、言ってました。

自分が正しい、ということではなく、時間がたってみれば己が未熟だったと
そう理解が追い付いてくることもあるのですが、焦点は、自分に嘘をついた
ままで終わらせられないということにあります。

破壊をもたらしたくそうするのではありません。
いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

なのです。分裂をおこさせていることは何か、
信仰を失わせているのは何か、
真理が見えなくさせているのは何か、
希望を失わせているのは何か、
喜びを感じさせなくなっているのは何か、
光を見失わせているのは何か、

その問いかけに、己の内部で響く返る感性が、そのままにはしておけぬないかを
感じたとき、皆が波風を望まぬ空間に対しても、それは違うんじゃないですか、
と言い続けてきました。

既存の世界観に、少しの揺るぎもなく、希望を見失なわない方々は、
私には尊敬に値します。
でもそれは、「未だ知らないことから、そう思い込んでいる」のでしたら、
それはしっかりと知れるだけ知ってから、なお見失わない精神を持って
生きることを大事にしています。

何故ならば、「世界は平和だと信じていた」のに、突然放射能に襲われて
すっかり虚無に陥ってしまった、のであれば、まんまと闇の手に落ちてしまって
いる状態ですから。

裏切られたという思いほど、虚無への反転を強く誘うものはありませんから、
しっかりと、出来うるだけのことを知って、なおかつ希望を見失うことがない
自己の在り方へとシフトしていくこと。

その故成るの、破壊。


381. 2013年4月15日 08:22:57 : sNOHJl6RnQ
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>「強要し」「裁判官として臨み」「苦しめ」「拷問する」

おどろきです。
観察するおのれに対するフィードバックがない。

見えているものは、主観のおのれになります。
大人の場合には、他人とのコミニュケーションで、相手に伝えることは大事です。
これでは、伝える「思いやり」が暴力、「恥じらい」が露出になります。
性が変態です。


382. 宮島鹿おやじ 2013年4月15日 08:59:07 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし力学様

おはようございます。

どうも、私たちは、やはり「似たもの同士」のようですね。(^^)

>100人が、一切くちごたえしないような、指導者や立場のある方へも、
やめておけと忠告されようが、それは違ううんじゃないですかと思えば、
そう発言して、まあ当然それで干されたりするわけですが、言ってました。

ほぼ、私の人生そのものと言えるようにおもいます。(笑)

なお、本スレッドにおけるろうし様のコメントは、私自身は全く「破壊的」とは思っていません。私としては、おそらくはある一つの「創造的」な結論ではないかと思っています。それらは、はるか太古から続く、神秘的・啓示的な智慧と連なるものと思います。


383. 2013年4月15日 09:01:19 : sNOHJl6RnQ
手紙さま

安芸ガラスです。

>「0」、不可視の世界は私とみなで、常につながっているはずです。

ありがとうございます。


ろうし力学さま

安芸ガラスです。

>安芸ガラスさんの思索の背景が、当方には不明瞭に受け止められてしまっているので、どうも、主体とは肉体であり、世界とは空間と物質である、という視点なのかなーと、そう思ってしまうところであります。


私はマルクスやエンゲルスやレーニンの方法に影響を受けています。
マルクスは人間を「人間的な本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。それは、その現実においては、社会的な諸関係の総和である」ところに立脚しています。
これは、個性を有した個人と、それを包摂した社会制度と、その社会制度は、自然とかさなっていることを表現しています。

個性を有した個人の要求が、生き物の要求と、個性の要求と、社会的要求とが合成されている、ことを前提に出発します。

ですから、要求が、これらの合成ですから、つねにおのれにフィードバックします。
そして体が変化し、社会の変化があります。
レーニンはその要求によってよび起こされた力の分散現象が行動(運動)であると観察し、その方向を決めないと、個性によって運動(行動)が客観しか見ることができない「経済主義」、主観しか見ることができない「テロリズム」の傾向に陥ると批判しました。

主体は、要求です。
その要求は、「不可視の世界は私とみなで、常につながって」います。
そこには時間も距離もありません。
体は、その要求に従うだけです。



384. 宮島鹿おやじ 2013年4月15日 09:57:50 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。

学者らの、ふと見せるこういった攻撃性についてですが、(まさにこれが本スレッドの主題の一つですが)一つには、デカルト二元論(精神−物質)に立つことによって、対象は「精神」をもたぬ物質であるため、「何をしても良い」というという感覚を与えてしまうということがあると思います。

また、私が齧った物理学の入門書にも、ところどころに「?」というような表現がなされていました。実例を示します。

ナツメ社図解雑学「量子力学」 p86〜87
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/432.jpg

動画だからわかる物理 p40
http://www.asyura.us/bigdata/up1/source/13442.jpg

ラッセルの記述の中に、中世ヨーロッパの騎士たちは、冒険と酒と女無くして何の人生だと心から思っていたようで、何ゆえに「本ばっかり読んでいるような」青白いキリスト教僧侶たちの指図に従わなくてはならないのだと感じていた、というものがありました。

つまり、学者=僧侶=知識階級は、従来よりおおむね男性が多かったのだと思うのですが、彼らは自分たちの「腕っ節の弱さ」に対して限りない劣等感を感じており、その不満の表出がこういった内在する(男性的な)暴力性につながっているのではないかとも思えます。

優等生的な凶暴性といいましょうか。


385. 2013年4月15日 10:18:55 : sNOHJl6RnQ
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>つまり、学者=僧侶=知識階級は、従来よりおおむね男性が多かったのだと思うのですが、彼らは自分たちの「腕っ節の弱さ」に対して限りない劣等感を感じており、その不満の表出がこういった内在する(男性的な)暴力性につながっているのではないかとも思えます。

同意します。

公民館活動で身体運動を教えています。
教えるのに一番大変なのは、身体と環境の関係で、身体を動かすことが、両者の「同一的合成」の動作なのに、人間的動作が、主観と客体に分解されているのです。

ここの「常識」を壊すのが、大変です。
身体と自分の「同一的合成」と、身体と環境の「同一的合成」がないのです。
ここを壊さない限り、人間的動作を教えることができません。


386. 宮島鹿おやじ 2013年4月16日 07:40:19 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
皆様

おはようございます。
また、おつきあいいただき誠に感謝いたします。

さて、私にはこのスレッドの進展が、ある意味で、何かを理解する契機として

啓示(神秘体験)によるもの
論理(言語活動)によるもの

の二つの道によって隔てられているという感が強くいたします。

太古より人々の思索は、このいずれかの両極の間を辿ってきたように思います。

この二つの道を合一させる大変な努力がかつて存在していたと感じます。
その、一つが、論理(LOGIC)=ロゴス を神から生まれたもの=キリスト などと思弁する傾向であったのではないかと。

上述の「二つの道」については多くの先達が取り組み、そして誰もが了解できるような形での結論は出ていない大変な問題だと思います。だから、このスレッドにおいては単なる意見表明の並置でもよいと思います。すべてがそれぞれにとっての「参考」でよいと思います。


387. 2013年4月16日 11:56:30 : e7WBxmu8Ro
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下が焦点です。

>残虐性については、私の中でほぼ見解がまとまりそうな気がいたします。
まずは「不平」「不満」を抱え込む者がある。(凝固エネルギーについては難しいので保留)自らを肉体のみとするとする価値観=恐怖の中で、これを克服する方策が他者への復讐であり、その形態は支配・収奪となる。そしてその不当性を隠蔽するために自らの正当性を顕彰する。そのための方便として利用されるのがこの世の形而上学でありそれはプラトン以降の哲学そしてその息子である科学を含む。

>さて、私にはこのスレッドの進展が、ある意味で、何かを理解する契機として
啓示(神秘体験)によるもの
論理(言語活動)によるもの
の二つの道によって隔てられているという感が強くいたします。
太古より人々の思索は、このいずれかの両極の間を辿ってきたように思います。

同意します。


388. あやみ 2013年4月16日 12:51:18 : oZZpvrAh64sJM : myELLT9kj6
おはようございます。

>残虐性については、私の中でほぼ見解がまとまりそうな気がいたします。
まずは「不平」「不満」を抱え込む者がある。(凝固エネルギーについては難しいので保留)自らを肉体のみとするとする価値観=恐怖の中で、これを克服する方策が他者への復讐であり、その形態は支配・収奪となる。そしてその不当性を隠蔽するために自らの正当性を顕彰する。そのための方便として利用されるのがこの世の形而上学でありそれはプラトン以降の哲学そしてその息子である科学を含む。

とても明解なご意見だと存じます。しかし一点だけ、このスレッドの当初から申し上げますように私にとって「気になる」ことが残っています。
「プラトン以降の哲学」のところですが、プラトン当人による「プラトン」は現代に正しく伝わってはいないと思います。キリスト教徒による手心が何らかの形で加えられており、スコラ学云々はそれを土台に発展したものです。
ギリシア哲学は一旦イスラームによって濾過されたものをウマイヤ朝の都市のあった南スペインにおいて、カトリック教会の保護下で「翻訳」されました。

ですから、科学はプラトンの実の息子とはいえないのではないかと思います。

また、「啓示」とは人にとっていわば都合の悪いものです。盗むこと勿れ、騙すこと勿れ、なのですから、盗んで騙したくて仕方がないのにそんなことを言われては困る。だから「論理」を持ち出しそれに抵抗してきたのでしょう。
カトリック教会は「啓示(不可視世界)」が存在すると知りつつも敢えてそれを見せまいと働きました。それに対し科学者は「啓示(不可視世界)」を無いものと割り切って働きました。この割り切りというものもおやじさまの指摘される残虐性の一部であると思います。


389. 宮島鹿おやじ 2013年4月16日 14:05:34 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみさま

こんにちわ。
コメントありがとうございます。

ただいまより日々の暮らしの業務にでかけます。
戻り次第再度考えさせていただきます。



390. 2013年4月17日 07:29:05 : iIiaJf9C6E
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

凝縮エネルギーについて記述します。

喧嘩もそうですが、判ってはいるが、かってに体が動くときがあります。
それは、凝縮エネルギーが、体を動かしているからです。

日本が米国に従って動いているように見えます。
これは、あくまでも現象だと思います。

日本を動かしているのは、日本自身が戦勝国米国の政治的・経済的・軍事的秩序に参加をしとけば安心だとする、凝縮エネルギーが作りだした観念です。


391. 宮島鹿おやじ 2013年4月17日 07:43:13 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
皆様

おはようございます。

さて、あやみ様の提起された、今私たちの手元にあるプラトン等の著作(とされる作品)の真贋性についてですが、たしかにヨーロッパの歴史においてローマ帝国滅亡後、いわゆる中世の暗黒時代とされる時期において、ギリシア哲学などの古典的文化が、イスラム圏において保存されたという経緯があります。アヴィケンナ、アヴェロエスといったイスラーム圏の学者たちがアリストテレスらを注釈し、その注釈書が実際に、ヨーロッパにおいて翻訳されたという事実があります。

(以下引用 ラッセル 西洋哲学史 p421)

アヴェロエスは、マホメット教哲学においてよりも、キリスト教哲学においてより重要であった。・・・・13世紀の初期に、彼の著作はミカエル・スコトゥスによってラテン語に訳されている。・・・ヨーロッパにおける彼の影響力は、スコラ哲学者ばかりではなく、非職業的な少なからぬ自由思想家たちの上にも、多大なものがあった。・・・・

(引用終わり)


つまり、今私の手元にある私の本や図書館の本が厳密に言って、プラトンの著述そのものかと言われれば、その実証は極めて専門的な調査が必要となり、現時点における私の能力を超えています。よって、この問題は(この問題も^^;)私自身においては「保留」とさせていただきたいと思います。申し訳ありません。

なお、プラトン以降のヨーロッパ哲学に対して、科学が「息子」であるとした意図についてですが、その「形而上学性」において共通しているということを主張したかったのです。

上記で表記しましたとおり、私は、形而上学とは、「この世の言葉で、絶対的真理を言い尽くすことができる」という信念に基づいた言説と考えています。別の表現をすれば

「私の話すこの言葉は厳密に真理である。(例:カトリックの真理性、科学の真理性)」

「よって私の思惟・判断は無謬である。」

「よって私が、『神の敵』と定義したものは焼かれるべきである。」

「また、私が『人類の進歩のための材料』と定義したものは放射能を吸引すべきである。」


という、例の演繹体系に終始するような言説を指しています。
プラトン・アリストテレスらの言説における「形而上学性」、そしてそれがどのように近代哲学(デカルトら)に、引き継がれたかという「大ざっぱ」な系譜を自分なりに整理したいと考えています。


392. 2013年4月17日 08:47:26 : iIiaJf9C6E
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下のあやみ さんの指摘は、「科学者」を捉える大事な焦点だと思います。

>それに対し科学者は「啓示(不可視世界)」を無いものと割り切って働きました。この割り切りというものもおやじさまの指摘される残虐性の一部であると思います。

この残虐性を担保するのが「凝縮エネルギー」ではないでしょうか。


393. あやみ 2013年4月17日 18:43:08 : oZZpvrAh64sJM : myELLT9kj6
おやじさま

>なお、プラトン以降のヨーロッパ哲学に対して、科学が「息子」であるとした意図についてですが、その「形而上学性」において共通しているということを主張したかったのです。

はい、了解しております。

それとは平行しながらという形でお許し頂くとして、イスラム教徒がギリシア哲学から何を濾過したかを書かせてください。もちろん私が知る範囲で、かつ私の日本語能力でお伝えできる範囲でなので極めて狭義ではあります。

ヨーロッパ、ユーラシア大陸西部、アフリカ北部、アラビア地域に根ざした古代信仰に共通するものとして、「地母(豊穣神)信仰」「火炎(火炎・太陽神)信仰」があります。これを両親として生まれるのが農具と武器、すなわち権力です。
イスラームに限らずユダヤ教・キリスト教を含むアブラハムの教えは元来この古代信仰の完全否定を必要絶対条件としています。たとえ部分的にでも火炎神・豊穣神を称える気風が認められたときにはそれを邪教と見なします。
古代ギリシアはギリシア神話に見られるように火炎・豊穣神への賛美が根強い地域でした。プラトンの哲学は神話世界を冷視してはいるものの完全否定には至っていません。ピタゴラスやターレス、オイラーの数学も同様です。

ギリシア以後、ローマ人はギリシア哲学をゴミ扱いしました。その精神に虫唾が走ったからでしょう、享楽的で強欲だったローマ人は哲学より神話の世界を選びました。同じ理由で一神教にも拒絶反応を示します。皇帝ではなく神を崇拝するなど、快楽ではなく清貧を重んじるなど、姦淫ではなく貞節を旨とし、搾取ではなく喜捨をせよなど言語道断、冗談じゃありませんよというわけで、萌芽しかけたキリスト教の弾圧にいそしみました。しかしやがて拡大するキリスト教徒の力には敵わず弾圧から容認へと動き、さらには国教として受け入れるのですが、内心は「冗談じゃねえ」と思っているわけですから、そのあとのキリスト教がどうなっていくかはすでにここで決まってしまっています。こうして出来上がったキリスト教社会が「子宮」で、中世の盛期にそこに飛び込んできたのが一神教化されたギリシア哲学です。生まれた子供が科学とその兄弟たちです。

ひとまずここで。


394. あやみ 2013年4月17日 23:30:55 : oZZpvrAh64sJM : myELLT9kj6
つづきです。

地母神、豊穣神と日本語で書くと何やら牧歌的で暖かそうな神様のようですが実はそうではありません。性格は火炎神に近い神です。人と交わり子を産むのですが、生まれた子供たちの中の人の血を嫌い、子供たちを炎に投じて「精製」します。つまり人間の部分は燃えて死に絶えますが神の部分は死なずに残る、そういう考えから地母信仰のある地域(代表的なのはカルタゴやバビロニアなど)では古くからこの手の儀式が執り行われていたのです。

この風習を「悪」であるとしたのが一神教です。神は「在りて在るもの」であり、「生まれずして産まず」です。豊穣神・火炎神の完全否定の根拠はここに集約されます。

しぶしぶ受け入れたキリスト教(一神教)のせいで本能的に信仰していた地母神と切り離されてしまったわけですが、やはりくすぶる本能は抑えきれず別の残虐行為として現れてしまうのです。人の子を「魔女」と名づけて炎に投じました。

そして子供たちを炎に投じる行為は歴史を通じ今も別の形で続けられています。唯物的価値観による子供たちの比較、受験戦争、勝ち組と負け組、戦火の絶えない地域やこのスレッドの主題でもある福島の子供たちの現状。

「くすぶる本能」を押さえつけることができるのは、不可視世界との繋がり(信仰心など)、そして良心による制度(法律や常識)です。隣の奥さんがいくら美人でも奪い取らないのはこれらがあるからです。後者が希薄でも前者があれば押さえつけることができますが、後者だけでは所詮むりなのです。それが現代です。

======

キリスト教が科学と出会ったときに問題になったのはおそらく、「在りて在るもの」である神の出自ではないでしょうか。「科学」は常に原因と結果をお互いに引き出すことが求められますが、存在するならばどうやってどこから生まれたのか証明しなければならないのが科学です。


395. 2013年4月18日 04:25:40 : byvozzywwo
あやみ さん

安芸ガラスです。

>しぶしぶ受け入れたキリスト教(一神教)のせいで本能的に信仰していた地母神と切り離されてしまったわけですが、やはりくすぶる本能は抑えきれず別の残虐行為として現れてしまうのです。人の子を「魔女」と名づけて炎に投じました。

そして子供たちを炎に投じる行為は歴史を通じ今も別の形で続けられています。唯物的価値観による子供たちの比較、受験戦争、勝ち組と負け組、戦火の絶えない地域やこのスレッドの主題でもある福島の子供たちの現状。

「くすぶる本能」を押さえつけることができるのは、不可視世界との繋がり(信仰心など)、そして良心による制度(法律や常識)です。隣の奥さんがいくら美人でも奪い取らないのはこれらがあるからです。後者が希薄でも前者があれば押さえつけることができますが、後者だけでは所詮むりなのです。それが現代です。

同意します。

人間には、「われここにあり」という主張があります。
この要求は、2系統あります。
「よりよき自分」と、「他人から関心を集めたい自分」です。
学校教育では、これを受けて競争心と、優越心というくだらない心を子どもたちに教えています。
これが、グルグル回りだします。

そして別の動機で、
>「くすぶる本能」を押さえつける
のです。

これが「凝縮エネルギー」だと思います。


396. 宮島鹿おやじ 2013年4月18日 06:43:22 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。

>それとは平行しながらという形でお許し頂くとして、イスラム教徒がギリシア哲学から何を濾過したかを書かせてください。

誠に私としては有難いご提案です。「平行しながら」つまり論考の一翼を担っていただくということでどうぞよろしくお願いします。

>古代ギリシアはギリシア神話に見られるように火炎・豊穣神への賛美が根強い地域でした。

今回のギリシア哲学などを学んだ上で、確かに気になる点がありました。それは、プラトン、ピタゴラスらが「オルフェウス教」という宗教の影響下にあり、また、そのオルフェウス教を辿ると、ディオニソス密儀というものにゆきあたるという記載がありました。(これもラッセルの記載ですが)

このディオニソス密儀というものが凄まじいもので、半狂乱の主に女性の一群が野生動物を生きたままそして生(なま)のまま貪り喰うという内容を持っていたというのです。

オルフェウス教は、こういった壮絶な宗教をより高尚に改革したものであり、ピタゴラスの教団はさらにオルフェウス教の改革であるという見解があります。さらに、プラトンはこういった起源に影響を受けているとのこと。

また、一神教の「我は在りて在るものである」というテーゼが、地母神の「産むもの」との対比であるとの示唆は大変重大なものと思います。

私は、今後、ギリシア−中世キリスト教−近代哲学 という流れにおける表面的(可視的)な「言葉」のつながりについて、私のわずかな能力と時間を割いてまいりますが、あやみ様におかれましては、もし、よろしければ、それらの底流をなすおそるべき物語について変奏曲としてお話いただければ幸いです。


397. 宮島鹿おやじ 2013年4月18日 06:56:13 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

おはようございます。

いつになったら西洋から帰国できるのかが全く見当もつきませんが、橋田氏が正法眼蔵をどのように読んでいたのかという点についてはご教示いただいた論文などを元に今後検討していくつもりです。

現時点においては、>>45のとおり、おそらくは「日本精神の発露である」といったご都合主義的なものだったろうと思っていますが、高を括ってひどい目にあう可能性も予感しております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


398. 2013年4月18日 07:23:16 : byvozzywwo
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>どうぞ、よろしくお願いいたします。

こちらこそ、よろしくお願いします。


399. 宮島鹿おやじ 2013年4月18日 07:37:47 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
安芸ガラス様

ご提示のあった以下の命題についてですが、

>それに対し科学者は「啓示(不可視世界)」を無いものと割り切って働きました。

どうも、私には、「ある種」の科学というものが「啓示(不可視世界)」の否定の上に成り立っているようには思えないのです。

明晰判明性というものを現代科学は数学的表現=基本方程式の確立をもって成立したとみなしますが、どうも、この作法そのものが一種の呪術性を持っているように思えます。私の考える科学とは「わからないものはわからない」と率直に認めることですが数学的表現を与えられたとたんに、それは一種のスコラ的演繹体系と同質のものになる側面を持っているように思えてなりません。

デカルトがスコラ学徒であったのは事実であり、その思考形態=思考の様式=構造はスコラ的であったのではないかと考えています。この辺はまだ自分自身がはっきりとした心証を得られない部分ですが。

 おそらくは何らかの「啓示(不可視世界)」との選ばれた人間との交信が、かつてあり、そこから導かれる教説が必然的に演繹的であることをもって、「論理(可視世界)」における知識の追求方法において、科学者らをして、ある種の誤った確信を抱かせている状態が問題なのだと現在思っています。

つまり、ある種の科学者は公然と「真理に仕えている」と意識しています。この時、彼らの心象はほぼ間違いなく司祭であるという点において、彼らは、その思考のスタイルを、無意識に、啓示的不可視的世界から引用しているように思います。


400. あやみ 2013年4月18日 21:13:35 : oZZpvrAh64sJM : 3dq4lq3GMU
みなさま こんにちは

安芸ガラスさま
>学校教育では、これを受けて競争心と、優越心というくだらない心を子どもたちに教えています。
これが、グルグル回りだします。

はい、クルアーンには「競争心と優越心は禁忌」であるとはっきり書いてあります。旧約聖書と聖書にもあるはずです。しかし競争原理が支配する現代社会では馬の耳に聖書です。人間の耳を馬以下にする目的が支配者にあったのでしょう。そしてそれは成功を収めています。

「凝縮エネルギー」とは、すきあらばと開放(爆発)の時をうかがう圧力のようなもの、そしてAに内在するこれはBのそれを誘発することも可能、そのように考えてよろしいでしょうか?


おやじさま
>図書館の本が厳密に言って、プラトンの著述そのものかと言われれば、その実証は極めて専門的な調査が必要となり、現時点における私の能力を超えています。よって、この問題は…「保留」とさせていただきたいと思います。

書物から直接これを吟味することは不可能に近いと私も思っております。記紀だけで日本古代史がわかったつもりになると大変なことになるのと同じです。
ですからこういう問題は事象と結果をつぶさに比較して検証することが大事です。ラッセルは無神論者を自称していると思いますが、ならば彼の思考を担保しているのは理論と科学です。それだけで彼の論文・著作が人心を不可視世界から遠ざけるための目的を帯びていることが明白になると、私はこのように考えます。

>一神教の「我は在りて在るものである」というテーゼが、地母神の「産むもの」との対比…

はい、ここは大きな亀裂ともいえる部分、さらに日本人には理解がはなはだ難しい部分です。

キリスト教会はかなり初期にこの教義に反してしまっているのです。「三位一体」論です。キリストを「神の子」であると言ってしまった以上は一神教の教義から外れてしまっています。「父なる神」であるならば母は?ということになりますが、それはやはり「母なる大地」でしかありません。もちろん公言はしませんが、彼らは地母神から到底離れられなかったのです。父なる創造神は大地と交わり万物を産む、これはギリシア古代神話でいうウラーノースとガイアです。

これはいわば神話的不可視世界です。

>つまり、ある種の科学者は公然と「真理に仕えている」と意識しています。この時、彼らの心象はほぼ間違いなく司祭であるという点において、彼らは、その思考のスタイルを、無意識に、啓示的不可視的世界から引用しているように思います。


「ある種の科学者」が仕えているのは神話的不可視世界です。啓示的不可視世界とは隔てる必要があると思います。

=========

地母信仰は同じような信仰の形が広範囲にわたり分布します。信者は農耕民のはずで騎馬民族のように移動するのはおかしいのですが、それにはいろいろな説があります。

農耕民がどこかに定住すると、必ず遊牧民に蹴散らされて移動を余儀なくされるという説があります。

または単に気候の温暖化・冷化にともなう植生の変化の結果やむなく移動したのかもしれません。

これらは予想に過ぎません。しかし理由はともあれ似たような信仰、似たような儀式はかなり広範囲に分布しているのは間違いありません。オルフェウス教のような教団・儀式はそれこそ山ほど存在していたと考えられます。(それが経典にまで整えられたのはゾロアスター教です。)
ピタゴラスがどこまでその影響を受けていたかは検証のしようがあるのかすらわかりません。後世の人間がピタゴラスの数秘主義を神秘主義に取り違えたか、あえて摩り替えたかったのかも考えの中に入れる価値があると思います。


401. 宮島鹿おやじ 2013年4月18日 22:48:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
皆様

本日は職場の歓送迎会で幾分かお酒を頂いてまいりました。(う〜ん、日本人的表現!)本日はこれにてお休みいたします。

本当に「何も無いかのような日常」です。

私たちの頭の上から「何」が降ってきたのかを知ろうとする権利を行使することすら、ためらわれるような日常です。毎日が不思議です。

でも、50歳代の訃報が「今までよりは」多いように思うのです。私の視野においては。


402. 2013年4月19日 07:12:32 : 3qKrXrS5uU
あやみ さん

安芸ガラスです。

>「凝縮エネルギー」とは、すきあらばと開放(爆発)の時をうかがう圧力のようなもの、そしてAに内在するこれはBのそれを誘発することも可能、そのように考えてよろしいでしょうか?

そうです。

生きている人間には、体と心の現象があります。
体の現象では、自分がやりたいことと、逆の行動をする場合があります。
心の現象では、日本が米国に「従う」ように見える場合があります。

体の現象では、凝縮エネルギーが介在するから逆の行動になるのです。
心の現象では、凝縮エネルギーにより、観念が体と結婚し固定するからです。

数日前、共産党に所属している人と、話をしました。
彼は「日本が米国に従属している」と云います。

強い日本と、弱い日本がグルグルと回ります。
エネルギーを放出する蓋を閉めます。
一方が、一方を抑圧した関係となります。
エネルギーが凝縮します。
これが、日本自らが、米国に秩序に参加し、弱い国に対しては、負けを認めない日本として現れます。

これは、見えない世界のことです。
それを言葉で上手に暴露する必要があります。

主権国家のシステムも、生きている人間(集団)が、偏った人間に似せて、つくったものです。
人間の体と心の動きに、フィードバックすれば、その現象を捉まえることができます。

とにかく、現象を捉まえ、言葉で暴露できるようになるには、時間が必要です。


403. 2013年4月19日 08:06:03 : 3qKrXrS5uU
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>>それに対し科学者は「啓示(不可視世界)」を無いものと割り切って働きました。

>どうも、私には、「ある種」の科学というものが「啓示(不可視世界)」の否定の上に成り立っているようには思えないのです。


司祭の位置にいる科学者が司る科学の構造とは、「必然」「第二次的必然」「偶然」の「第二次的必然」のところです。


404. 2013年4月19日 08:50:40 : 3qKrXrS5uU
宮島鹿おやじ様
あやみ さん

安芸ガラスです。

科学者も政党に所属をしている人も、「第二次的必然」の空間を語るのではないでしょうか。

日常生活の「偶然」は、エネルギーの集散と、それをも方向付けをする社会からなりたっております。

エネルギーの集散は、現象を通して確認できると思います。
このエネルギーの集散を偏らすのが、個性ではないでしょうか。

私は「科学」をこのように見ております。
ですから、
>とにかく、現象を捉まえ、言葉で暴露できるようになるには、時間が必要です。
だと感じます。


405. 宮島鹿おやじ 2013年4月19日 22:09:49 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様

ただいま帰りました。なかなか余暇をもてない階級です。
しかし、夜食として大変おいしいカレーライスをいただきました。
とても満足しております。大学でチベット仏教を学び、ネパールにも行ったことのある面白いカレー屋さんです。カウンターに西田幾太郎氏の「善の研究」があったりします。

さて、本日もたいそう疲労しておりこれといったコメントができませんが、お二方にいくばくかのお尋ねがあります。

あやみさま

神話的不可視世界と啓示的不可視世界について、もう少しコメントをいただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

安芸ガラス様

「必然」「第二次的必然」「偶然」という概念について、同じくもう少しコメントをいただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。


これから、また、ラッセルのじいさんの話を聞きながら就寝します。よく眠れます。50%くらいしか読解できないのが、眠りを誘う絶妙のブレンドです。


406. 2013年4月20日 15:07:25 : EaKaq7WG27
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>「必然」「第二次的必然」「偶然」という概念について、同じくもう少しコメントをいただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

そうですね。「世界」がありまして、その外に「神」がいるのでしょうか。
「神」が世界を作ります。この一撃が「必然」でしょうか。
そして天体などを運行していると云われていますね。
この運行が「第二次的必然」となります。
「偶然」とは、私たちの日常生活のことです。

この「第二次的必然」のクラスが「科学」と呼ばれているものです。



407. あやみ 2013年4月21日 00:19:20 : oZZpvrAh64sJM : pc5OjGeV4A
こんにちは。

我が家もカレーは好きです。生姜、ニンニク、揚げたまねぎとトマトで作ります。自己流ですがたぶん南インド風なんじゃないかなあと思います。

「神話」と「啓示」の差です。
私が日本人には甚だ難しいと先に書いたとおり、この区別は難しいです。それは多くの日本人の不可視世界は「神話(あるいは同系列のもの)」という入り口から繋がっているからです。私も分かった分っていないことのほうがおおいかも知れません。ですから、なるべく言葉を減らして書こうと思います。

「啓示」は神から預言者に与えられます。アダムは最初の人間であり、最初の預言者です。預言者とは神に「預けられた」預言を人々に人の言葉で広めることを命じられたものです。アダムの後にも数知れずの預言者が世界中に現れ、その地の言語で預言を広めています。日本にもです。(預言の言語はヘブライ語とアラム語とアラビア語だけではないのです。)そして、預言と預言は互いに矛盾しません。

これが受け入れられない場合は「啓示」の要素の全てを否定しなければならなくなります。たとえば「人は猿だったはずなのにどうしてアダムが最初の人間?」と考えてしまう瞬間、終わります。

「神話」は人が作った話です。基礎になるのはやはり啓示でしかないのですが、人のやることですから受け入れがたいことはどんどん削除されます。そして「こうだったらいいなあ」をどんどん付加します。キリスト教会がやってしまったことはこれです。一神教が枝分かれし、反目した原因はここにあります。しかしそのことすら、神が人間に「預言」をあたえたことの「結果」です。(安芸ガラスさまのおっしゃる「日常生活」はこういうことでもあると思うのですが、いかがなものでしょうか。)

株や金利が変動すると投資家が大騒ぎしたり自殺者がでたりしますが、神は「利息をとっても払ってもダメ」とはっきり言い切っています。なのに「経済」と名がつけば罷り通ってしまう、これは啓示を神話化したからこそ、できることなのです。


408. 2013年4月21日 07:01:43 : Ead9e6yVaY
あやみ さま

安芸ガラスです。

>しかしそのことすら、神が人間に「預言」をあたえたことの「結果」です。(安芸ガラスさまのおっしゃる「日常生活」はこういうことでもあると思うのですが、いかがなものでしょうか。)

そうです。
キリスト教団では、「一」と「多」のことです。

「一」の連想は、すべてイエスとか父とかにむすびつくことが必要です。
しかし、実際は、みんな連想は、違います。

ここで、内面は判らないから、体の外での儀式となります。
儀式の多様性が、国教以外の、信仰の担保となります。

私は、連想で、個性を見ます。
しかし、一神教団は、絶対神の連想を強制をします。
色も、形も、感情も、言葉も。


409. 2013年4月21日 08:28:43 : Ead9e6yVaY
あやみ さん

安芸ガラスです。

>株や金利が変動すると投資家が大騒ぎしたり自殺者がでたりしますが、神は「利息をとっても払ってもダメ」とはっきり言い切っています。なのに「経済」と名がつけば罷り通ってしまう、これは啓示を神話化したからこそ、できることなのです。

損得は、体の外のこと?て思われているかもしれませんが。
あとは、「やってはいけない」の律のこととして思われているかもしれませんが。

これは、体の中の凝縮エネルギーが、当人を踊らせているだけのことです。


410. 2013年4月21日 11:30:29 : Ead9e6yVaY
あやみ さん

安芸ガラスです。

>これが受け入れられない場合は「啓示」の要素の全てを否定しなければならなくなります。たとえば「人は猿だったはずなのにどうしてアダムが最初の人間?」と考えてしまう瞬間、終わります。

言葉を大脳で受け取るからです。


411. ろうし力学 2013年4月21日 11:50:17 : riuSNxeQ9qjU6 : aUeUjXriKM
宮島鹿おやじさま

ろうし力学です。10日間の間に、金沢、東京、奈良・大阪と行ったり来たりで、みなさんのコメントを見るだけでした。
その間、マルクスの人間観について甚だ浅はかを承知で、見ておりました。

さて、金沢や奈良・大阪、返ってきた東京で、

>本当に「何も無いかのような日常」です。

>私たちの頭の上から「何」が降ってきたのかを知ろうとする権利を行使することすら、ためらわれるような日常です。毎日が不思議です。

と、当方も同じ思いを強くしております。
奈良では、学研から本を上梓された81歳の方と、二日間にわたり雑談してまいりました。
戦争の悲惨さを記録に残され、長年原爆・原発に反対し、人類の在り方に警鐘を60年以上発し続けてこられた方です。
意識、記憶の思索の経緯が、ほぼ一致することで、話題が尽きない二日間でした。

変わりまして
>でも、50歳代の訃報が「今までよりは」多いように思うのです。私の視野においては。
と言うのも、同じく感じるところです。
昨日も、関東、東北の各地の汚染数値が掲示板に速報されていますが、実に危険水域ですね。

それで、

>どうも、私たちは、やはり「似たもの同士」のようですね。(^^)
>ほぼ、私の人生そのものと言えるようにおもいます。(笑)

というお返事、同様に思っております。またそれ故に、共感と尊敬を抱きつつも、一部反論も行います。(^^)

以下、引用とコメントが長くなります、ご承知下さい。

>私は、形而上学とは、「この世の言葉で、絶対的真理を言い尽くすことができる」という信念に基づいた言説と考えています。

どうも、客観的に見れば、当方の論説が、形而上学的なのかなーとフト思うところです。

>そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには
>若干スケールが合わないような気がいたします。

というご指摘の点ですね。

当方は、量子力学を道具として、世界と我を思索する立ち位置かと思いますが(自分ではそう表現しないですが)、
一つ言えば「イデア」を組み立てる(論じるんではなく)立ち位置かと思うのですが、
どうも「イデア」にたいする認識が違っている気がしています。

イデアは「それを思考すれば、それが成る」のがイデアという理解ですので、
不可視、と言うか存在世界と人間の理解の積み重ねは、その写しとして現象・社会を変革する直接的手順だと、
そして、「今」というのは、当方は、独立した「今」は存在していないという理解ですが、
通念として今とは、この現象現実という解釈かと思いますが、その意味においても「今」は、
「(本質的には)既に過ぎ去ったものを見ている、映写機とフィルム、スクリーンと映像」の関係と見ていますので、
この残虐で非常な現実(子供たちが実験材料にされている)も、残念ながら原因は過去にあり、その映像が
を今目撃している、という立場ですので、現状(今)の変革には、現状の因子=生命(意識)の今(肉体頭脳ではない)
をイノベーションすることが直接的と理解しているのです(人間の本性は精神とこころの表裏一体)。

その意味において、おやじさまの思索が力を持っていると申し上げているのであって、
評価ではありません。感想でもありません。「仕組み」からそう申し上げているのです。

形而上学について、

>別の表現をすれば
「私の話すこの言葉は厳密に真理である。(例:カトリックの真理性、科学の真理性)」
「よって私の思惟・判断は無謬である。」
「よって私が、『神の敵』と定義したものは焼かれるべきである。」
「また、私が『人類の進歩のための材料』と定義したものは放射能を吸引すべきである。」

とおっしゃっているのは、カルト狂信者・科学者、の実態はそのとおりですが、それを形而上学と結ぶのは
いささか短絡と思えますね。

>どうも、私には、「ある種」の科学というものが「啓示(不可視世界)」の否定の上に成り立っているようには思えないのです。

明晰判明性というものを現代科学は数学的表現=基本方程式の確立をもって成立したとみなしますが、どうも、この作法そのものが一種の呪術性を持っているように思えます。私の考える科学とは「わからないものはわからない」と率直に認めることですが数学的表現を与えられたとたんに、それは一種のスコラ的演繹体系と同質のものになる側面を持っているように思えてなりません。

デカルトがスコラ学徒であったのは事実であり、その思考形態=思考の様式=構造はスコラ的であったのではないかと考えています。この辺はまだ自分自身がはっきりとした心証を得られない部分ですが。

 おそらくは何らかの「啓示(不可視世界)」との選ばれた人間との交信が、かつてあり、そこから導かれる教説が必然的に演繹的であることをもって、「論理(可視世界)」における知識の追求方法において、科学者らをして、ある種の誤った確信を抱かせている状態が問題なのだと現在思っています。

つまり、ある種の科学者は公然と「真理に仕えている」と意識しています。この時、彼らの心象はほぼ間違いなく司祭であるという点において、彼らは、その思考のスタイルを、無意識に、啓示的不可視的世界から引用しているように思います。

というところは同意いたします。
矛盾しているののを自分自身にごまかして無理やりことを前に進めてきた。これが人類を混迷に投げ込む元となりますよね。
それが違う!と感じるから、「違うんじゃないですか!?」我々は言う、という気がしますね。

とはいえ、当方が不可視を”ことは ”で語れるというのは、それに反するようにも思えますよね。
前にも言いましたが、地球人類には、この言語が未だ未発達で、今の言葉は記号化に貶められていると申し上げております。

>さて、私にはこのスレッドの進展が、ある意味で、何かを理解する契機として

啓示(神秘体験)によるもの
論理(言語活動)によるもの

の二つの道によって隔てられているという感が強くいたします。

太古より人々の思索は、このいずれかの両極の間を辿ってきたように思います。

この二つの道を合一させる大変な努力がかつて存在していたと感じます。
その、一つが、論理(LOGIC)=ロゴス を神から生まれたもの=キリスト などと思弁する傾向であったのではないかと。

上述の「二つの道」については多くの先達が取り組み、そして誰もが了解できるような形での結論は出ていない大変な問題だと思います。だから、このスレッドにおいては単なる意見表明の並置でもよいと思います。すべてがそれぞれにとっての「参考」でよいと思います。

と言うところですが、「隔てられている」のは、結論から言えば、「人間観」、と言うか世界認識(ゲシュタルト)の問題という主張ですね。
平たく言えば、「自分の存在の立ち位置が、物質側に立っている」、「物理空間の中に放り込まれている自己から思考することが原因」だと
いう事に、分断断絶の原因を見ている(というか、自己を世界側(量子論)「にも」置いてみて、思考してみれば)、その分断は
当然のことと思える、ということです。

ロゴスを「神から生まれたもの=キリスト などと思弁する傾向」というのは、ロゴスの何たるかが少しも分かっていなかった
(いや、自分が分かっているっていいっているんじゃないですよ)という事だと思いますね。

量子力学が、産業利用の道具と見られるのも洗脳と思いますが、量子力学の見出したことは、
「現象と観察者は不可分な関係、一つのものの裏と表」であるという事だと受け止めていますが、
自己存在を、空間から分断している一塊の物質(肉体)として思考する限り、上記の分断は解決などするわけがない、
現象と自己は、一つの存在の裏と表のような関係性であり、自己を見えている世界側にも置いて思考する(そこから更なる垂直変換あり)
ことで、矛盾では無かったことが、人類に明白となる、と確信しています。


安芸ガラスさん

レスをありがとうございました。

>私はマルクスやエンゲルスやレーニンの方法に影響を受けています。
マルクスは人間を「人間的な本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。それは、その現実においては、社会的な諸関係の総和である」ところに立脚しています。
これは、個性を有した個人と、それを包摂した社会制度と、その社会制度は、自然とかさなっていることを表現しています。

個性を有した個人の要求が、生き物の要求と、個性の要求と、社会的要求とが合成されている、ことを前提に出発します。

ですから、要求が、これらの合成ですから、つねにおのれにフィードバックします。
そして体が変化し、社会の変化があります。
レーニンはその要求によってよび起こされた力の分散現象が行動(運動)であると観察し、その方向を決めないと、個性によって運動(行動)が客観しか見ることができない「経済主義」、主観しか見ることができない「テロリズム」の傾向に陥ると批判しました。

主体は、要求です。
その要求は、「不可視の世界は私とみなで、常につながって」います。
そこには時間も距離もありません。
体は、その要求に従うだけです。

というご発言を頂きまして、ずいぶんと当方の抱きます、安芸ガラスさんの発言への違和感の出所が見えてきました。


他所の引用ですが

「マルクスのこの言葉は『経済学批判』序言とよばれる文章の一節です。
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/KeiHiJ.html
その箇所を実際に読んでみましょう。もとの文章にあたるのが一番です。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」

ですね。さらに、

「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の第6テーゼで「人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なのである」とのべました。

「人間というものはそのときどきの社会関係を反映した存在だ」

「抽象的で一般的な人間なんていないよ」

「マルクスは、個々の人間のなかにある「抽象的な本質」をとりだして「人間というやつはね…」と論じることを戒め、人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよと考えたのです。」

「では人間はそのように大きくは社会に左右される存在だけども、ミクロのレベルの心理や精神のありようはどうなっているのか?」ということについては、マルクスはあまり研究しませんでした。」

と書いておられる方も見受けられ、なるほど…と思いました。


やすいゆたかさんという方のページで、

「哲学者たち」は、人間の本質を個別存在に内住する抽象として把握してしまって、「現実に実存する、活動している人間たち」「彼らの所与の社会的諸関係」「彼らの現前の生活諸条件」などに対する根本関心がどうしようもなく欠落してしまうと、マルクスは指摘している

マルクスもそれまでは、哲学を実現する立場に立っていました。労働のあるべき姿を説いてそれが疎外されているということで、労働者の悲惨な状態を暴いていたわけです。それが急転直下、「哲学」批判を言い出したように解釈されているのですが、哲学的理念で外から批判するだけでなく、現実の諸関係に内在してそこから具体的に変革の論理を導き出すべきだということですかね。 

現実的な社会的諸関係の中で、理性や労働や言語を問題にすべきであるという捉え方をマルクスはしていたと解釈することもできる筈です (引用)

と書かれていますが、もちろん各人のマルクスの受け止め方、発展の仕方はあるのは当然として、方法に影響を受けられていることは
ご発言のとおりですね。

以上のことで明らかなのは、マルクスの人間観については、当方も異論はないです。
安芸ガラスさんへの違和感には、二つの点があることが見えてきました。

@は、記述の仕方で。
「これが「凝縮エネルギー」だと思います。」という表現には違和感がない、つまり「自分はこう思います」という書き方。
一方「体の現象では、凝縮エネルギーが介在するから逆の行動になるのです。」
「心の現象では、凝縮エネルギーにより、観念が体と結婚し固定するからです。」
「言葉を大脳で受け取るからです。」
における「からです。」という表現ですね。

これが真理だ、これ以外ない。とでも言いたいのか?という印象になります。いちいちキリスト教父権的な物言いと思います。
「これが「凝縮エネルギー」だと思います。」には、違和感がないので、どうも文に打ち込むのが面倒なのか?と想像します。

Aの違和感は、マルクスの方法に影響を受けた人間観ですが、その範囲では同意でありますが、
どうも、世界と人間の存在は、論じる以前の前提としているという点です。
先ほどの引用にもあるように、マルクス自身が、「現実の諸関係に内在してそこから具体的に変革の論理を導き出すべきだ」という
態度がある?からでしょうか…おやじさまの「若干スケールが合わないような気がいたします。」という思いにも通じますね。

当方も、その範囲で思索する限定においては、同意なのですが、自己とは何か、という当方の問い立てが間違っているな、
あえて、世界の存在は既に前提として思索する、人間はあるものとして思索する、
何故ならば「人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよ(引用文)」だからである、
ということでしょうか。

僭越ながら、その限定的認識を成立させている上下世界があるかと思いますが。

「そこには踏み込まない」として、なるほどマルクスの影響を受けているとはそういう事も含むのかな…?というところです。

「ではお前の、自己とは何か、とは何か」と問われれば、上記に記したとおり、

視覚に見えている「知覚正面」(これは二次元)を、無為(論理、理屈なし)に見つめれば(直達正観)、
見ることが世界となり、見ていることそのものにおいて、自己が存在している。
見ることそれ自体が自己の正体であり、見えている世界=自分であった。(見えている肉体も世界の一部)
そのことが、量子力学の到達した知見に一致する(←権威付でなく、矛盾はないということ)。

という認識ですから、僭越ながら、安芸ガラスさんの人間観を含む、メタな人間観(不遜ですねーw)かと。
「含む」限りにおいては、同意です。また、おやじさまの思いにも、安芸ガラスさんの言説は適っていると思います。

当方の主張は、「根本を変えること、それは私たち一人ひとりの理解力にある」ですから、
世界を世界足らしめているのは、わたしという意識であり、ひとまず自己の理解を変えて、自己の世界を変革せよ!
それが見えている世界を変革する根本そのもの。
いったん徹底的に、個に徹すること。徹した先に突き抜けた処に、「いち」、である存在が自己である認識が待っている、
という、ブレイクスルー(既存の破壊)が、当方の主張となります。

言わば、ライプニッツのモナドロジーでしょうか、「包まれつつ、包む」のが存在。

これを、高次言語で「円心」と表現しています。
(円心とは、円の中心と辺縁は、互いに入れ替えが可能。例:観察における、天球面とビックバーンの関係性)


412. 2013年4月22日 00:41:29 : pFDxjkxDRk
ろうし力学さん

安芸ガラスです。

ろうし力学さんの主張は以下です。

>当方の主張は、「根本を変えること、それは私たち一人ひとりの理解力にある」ですから、
世界を世界足らしめているのは、わたしという意識であり、ひとまず自己の理解を変えて、自己の世界を変革せよ!
それが見えている世界を変革する根本そのもの。
いったん徹底的に、個に徹すること。徹した先に突き抜けた処に、「いち」、である存在が自己である認識が待っている、
という、ブレイクスルー(既存の破壊)が、当方の主張となります。

ここで「個」を云われております。
私も、そう思います。

きょうは、寒かったです。
暖房が必要でした。
この要求は、個を補完する性格を有しています。
補完が社会の役割ではないでしょうか。

マルクスは、浪費癖があり、原稿書くのが非常に遅いし、お手伝いさんに手を出すし、大英図書館に通いノートを取り、喧嘩速い人でした。

「浪費癖」と「原稿書くのが非常に遅い(大脳経由)」は、エネルギーの鬱滞状態です。

「お手伝いさんに手を出す」と「大英図書館に通いノートを取」は、盗みの本能です。

「喧嘩速い」は、大脳を経由しないエネルギーの鬱散状態です。

大脳を通すとエネルギーが鬱滞し、盗みの本能が強い、エネルギーが大脳を経由しない場合は、すばやい行動をするこの個に対して、マルクスがおのれの人生に主権を確立し、社会的貢献が果たせることと、それを補完する社会のありようを求めた人なのです。

つまり、大脳を通さないと素早い行動になり、しかも歴史上の相手の言葉を自分の言葉にしてしまう特長を、活かせる社会を求めた人なのです。

私は、この方法に、賛同しております。

以下の引用は、いささか短絡と思えますね。

>あえて、世界の存在は既に前提として思索する、人間はあるものとして思索する、
何故ならば「人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよ(引用文)」だからである、
ということでしょうか。


413. ろうし力学 2013年4月22日 02:01:52 : riuSNxeQ9qjU6 : 0OznuJyV76
安芸ガラスさん

なるほどです。

>つまり、大脳を通さないと素早い行動になり、

はい、確かに。辺縁系ではなく。

>しかも歴史上の相手の言葉を自分の言葉にしてしまう特長を、活かせる社会を求めた人なのです。

面白い表現ですよね。
当方の感覚では、歴史上の人の発言が、法則であれば、同じ理解をもって、自分が語るのはむしろ当然かと。法則でなく、主観主張であれば、咀嚼を持ってする。
法則は、いつの時代の誰でもっても、言葉にできる、それを社会が封殺せずに、同意=活かせる社会であることは、本当に希望するところです。

以下の引用は、いささか短絡と思えますね。

>あえて、世界の存在は既に前提として思索する、人間はあるものとして思索する、
何故ならば「人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよ(引用文)」だからである、
ということでしょうか。

はい、上記に書かれたことから、当方が短絡的であることは解りました。

マルクスが、やすいさんの引用になっちゃいますが、
「哲学者たち」は、人間の本質を個別存在に内住する抽象として把握してしまって、「現実に実存する、活動している人間たち」「彼らの所与の社会的諸関係」「彼らの現前の生活諸条件」などに対する根本関心がどうしようもなく欠落してしまうと、」マルクスは指摘している」ということで、生活諸条件に対する根本関心の欠落を問題にして、そこに論理を焦点化させた、ということかと思うのですが、ですから、安芸ガラスさんにおいても、人間本質を個別存在に内在する抽象として把握するという態度へは、あまり関心も言及も持たないが、決して「ないものとしているわけではない」、という事でしょうか。

当方の言う、人間観を上下で挟む位置にある世界が在ると思いますが、というのは、マルクスの人間観で語られる人間観には同意するが、その人間がいかにして存在しているのか、世界は如何にして存在するのか、という事が上下で挟み込んでいると書いています。イデアを問うているという感じですね。

引用が短絡なのは納得ですが、安芸ガラスさんが書かれているところからは、
存在は既にある、人間は既に居る、ことが前提の上で、それは語らず、人間と社会について、当方の感覚からいうと、いきなり語っている感じですが。

当方の感じ、ですから、スルーでもちろん結構なのですが、存在と人間の関係性に言及のない思考から、「それはこうです。」「あれはこうです。」という物言いは、山下某、遡って西洋哲学の系譜の、論理の悪しき側面、
すなわち「それに対し科学者は「啓示(不可視世界)」を無いものと割り切って働きました。この割り切りというものもおやじさまの指摘される残虐性の一部であると思います。」とあやみさんが指摘された「割り切り」を感じて居るのですが。

「日本を動かしているのは、日本自身が戦勝国米国の政治的・経済的・軍事的秩序に参加をしとけば安心だとする、凝縮エネルギーが作りだした観念です。」だと断定的に論じられておりますが、凝縮エネルギーである、ということは同意ですが、ではその凝縮エネルギーはとは?という、これ以前に暗示されておやじさまからの問いへの応答としては、同義反複に終始していらっしゃる。
如何にして、という解説は詳しいが(メカニズム)、なぜ、ということには言及しないと思うのですが。

当方には、その同義反復は、如何にも「科学的」、と思えますが。

当方の短絡的な引用は、当方の理解不足であります。
がしかし、短絡であると思える、という点が、短絡であることの内容をお書きになっておらず、例えば、安芸ガラスさんは、当方のいう「前提」としてスルーしている点(世界の存在、人間の存在)も、しっかり思索を押さえている、が敢えて語っていないだけ、だから短絡ということなのでしょうか。


414. あやみ 2013年4月22日 05:42:40 : oZZpvrAh64sJM : pc5OjGeV4A
こんにちは

ろうしさまが「安芸ガラスさんが書かれているところからは、
存在は既にある、人間は既に居る、ことが前提の上で、それは語らず…」

とおっしゃいますが、私としては安芸ガラスさまの

「「世界」がありまして、その外に「神」がいるのでしょうか。
「神」が世界を作ります。この一撃が「必然」でしょうか。
そして天体などを運行していると云われていますね。
この運行が「第二次的必然」となります。
「偶然」とは、私たちの日常生活のことです。」

というご意見が十分な説得力を持っていると感じています。
この「神の一撃」は科学者の割り切りとは無縁です。

マルクス・レーニンはこれまで私には縁がありませんでしたしこの先もないです。しかしそれに影響を受けた方々のご意見に触れたこと・触れることは多いでしょう。そして影響ももちろんあります。そういう意味で「相手の言葉を自分の言葉にしてしまう」行為はあって当然だと私も日ごろから思ってますし、何の問題もないと思います。(子供が母親から言葉を聞き覚えても母親は子供に対し著作権の侵害を訴えたりしません。端的なたとえですが。)

皆さまからお言葉をいただいたときは何度も何度も読み返します。そうすることでやっと糸口ぐらいが掴めます。(掴めないこともあります。)
そこで思うのですが、やはり特にこのスレッドで焦点になるような対象については、それを協議するだけの言語を日本が育んでこなかったのだろうということです。ある種の語彙に対する認識が、私と、誰かでは、違うのです。「明治の新語」及び「外来語」というわれわれの歴史と関係の浅い言語においてこれが頻発します。そうとは気づかずそれを使いすぎている現実は、われわれの意思のやりとりを鈍くします。そうなると、科学者たちは仕事がしやすくなります。俗に言う「東大話法」というものはそれをさらに援護射撃します。


415. 宮島鹿おやじ 2013年4月22日 08:55:19 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様
ろうし力学様

おはようございます。

安芸ガラス様
あやみ様

当方の質問へのご回答まことにありがとうございました。
「腑に落ちた」感があります。

ろうし様

本日は、近場の健康ランドに行き、湯に浸かってまいります。
コメントはそちらで拝見します。


416. ろうし力学 2013年4月22日 19:06:30 : riuSNxeQ9qjU6 : ojQ1JiQfm2
あやみさん

〉というご意見が十分な説得力を持っていると感じています。
〉この「神の一撃」は科学者の割り切りとは無縁です。

神の一撃が割り切りとは無縁だとは同意です。

というご意見、それが安芸ガラスさんのご意見としては、十分その方の言葉として説得力を持てえるかとも思います、当方にはとっては力不足ですが。説得力がないので、しつこく噛み付いているですもん。

〉「相手の言葉を自分の言葉にしてしまう」行為はあって当然だと私も日ごろから思ってますし、何の問題もないと思います。

それは己に向けては何も問題はないでしょう。
正義の方向性が、自己に向いている状態は、気概や矜恃と理解できますが、
他者に向けられた正義のもたらすものは、従える、となることが多く見受けられます。

まあ、矛盾はしている発言ではありますね、当方が正義を振りかざしているような格好でもあるかもしれません。
当方の噛み付きに、あやみさんは不快感を抱いているやもしれませんが、
こうしつこく問うているのは危機感です。キケンな匂いを感じる。以前からですが。

決定的にこりゃあ危ないと感じたのは、生命の樹、です。
『生命の樹とは…です。』というところです。
イヤイヤ、そりゃあクリフォトでしょう!生命の樹がクリフォトと認識されるってさ・・・
暗部反転。
そう見えさせている視点とは、モノ化した人間からの視点でしょ!
人間をモノ化させた視点から語る如何なる言葉も、人間をモノの牢獄から解放は原理的に無理でしょう!?

危機感とはそいういう危機感です。

とは言ったもの、他者を封じ込める意図もないし、表現すべきことはしたわけなので、
しつこい追求とかはもうここまでです。
当方がゲシュタルトのイノベーションという志向性を持っていることは、もしかしたらご記憶かも知れませんが、人間存在を、モノ化から解き放つこと、宇宙イッパイに人間の意識が拡大すること(それが本来的であるから)、そういう志向性を持った上での、世迷言を放っているところでございます。

神は、人間を創造することでやっと神と成れ、人間とは、かつて神であったことを忘却している神なんですよと言いたいのです。
自分の出自を取り戻すこと、世界を世界足らしめているのは人間の理解(ことわりをかいす)力そのものであること。
観察する力が無ければ、世界は存在の意味を持て得なかった。
だから神は、自ら自己を忘れ、世界と成った、世界と成って、見るもの見られるものの二重性を持ったから、世界は在る訳です。

そういう人間の自己回帰が、更なる世界創造へと、無限円環を持っている、人間とはその生命の無限の輪の表裏を担っている存在なんですよ、と言いたいわけです。

安芸ガラスさん、あやみさん、ありがとうございました。

ではでは。

おやじさま
今日は丘の湯ではないのですか?♪(v^_^)v


417. 宮島鹿おやじ 2013年4月22日 19:41:42 : NqHa.4ewCUAIk : lV9DYeIYP2
ろうし様

こんばんわです。

>イデアは「それを思考すれば、それが成る」のがイデアという理解ですので、

以下のコメントと同様のものと考えます。以下は私が聴講した「博士」のスレッドのコメントです。私は博士の投稿はほぼすべてコピーをして何回か読み直しています。そして、その中から自分にあった瞑想を実践(といいうるような水準ではないですが)しています。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/483.html#c20

原因と結果、つまり想念が原因でありその結果としての現実がある。大変衝撃的であり革命的な言説であり、私も瞑想を行うのはこういった事象を確信するためですが、前にも申し上げましたように、私にはいかなる微小な「啓示」らしきものも訪れません。

博士の教室における最大の教えは

「誰の言うことも鵜呑みにするな=自分で考えろ」というものでそれは徹底していました。

その理由は、不可視に関する議論は成立しない、よって、その者に「何か」が起こるまでは、不可視に関する情報は、ただ、単に聞いて参考にするのみであり、一番まずいのが盲目的に信じることだということです。

ラジニーシという覚者がいうところでは「信じるということは受容的ではなく、実は、独断的な行為である。」というものがあります。


418. 宮島鹿おやじ 2013年4月22日 19:45:36 : NqHa.4ewCUAIk : lV9DYeIYP2
(続き)

つまり、超越的・神秘的な現象を経験していないものにとっては、そのような啓示的な事象については、逆に「懐疑的」であるべきだという結論になります。

そういう理由で私は、自らの論考を進めるにあたっては、現時点では、不可視的な問題については禁欲的でありたいと考えています。

しかし、それは私が私に対して行っている制約であり、ろうし様が自らの経験に基づくお話をされることは従来どおりお願いします。


419. 宮島鹿おやじ 2013年4月22日 19:49:25 : NqHa.4ewCUAIk : lV9DYeIYP2
ろうし様

>今日は丘の湯ではないのですか?♪(v^_^)v

今まさに丘の湯です。 夕食を済ませたところです。v(^_^v)♪


420. ろうし力学 2013年4月22日 22:12:19 : riuSNxeQ9qjU6 : 6kE167yY3I
丘の湯!皆々様に幸あらんことを‼
*\(^o^)/*

今見ている現象はマーヤーである。
ま、洞窟に映る影ってなもんです。

マーヤーは想念が因です。既に終わっているもの。

イデアは想念とはちと違いますな。
何つ〜か、純粋思考ってな感じ。

いや、まさに理解力による理力、フォースですかな。

太陽は如何にして燃えているのか、は燃えている原因には言及出来ていない。
何故太陽は燃えているか、理由について言及出来るのは理解力。
それを理解した意識のあり様が理力であり、
そのままその理力が存在となる。現象でなく存在です。


421. ろうし力学 2013年4月22日 23:49:19 : riuSNxeQ9qjU6 : aUeUjXriKM
宮島鹿おやじさま

存在は多重性なんですよ。
存在の律動は、双対の四価であり、四価のひとまとまりの五が、同時に次のステージの1となって、その五=1がまた、対=六=2、そのまた双対で七八=3.4、で一括りの九=5=次の@、それが更にもう一度繰り返して、・・・13となって、その13が元の一へと円環となっている。同時に、今の構造が対になっていて、その対構造がメビウスの輪のごとく、表裏であり、互いに入れ替え(ねじれ)を持って、永遠に回転していく。永劫回帰ですか。

三位一体を語るとき、それはキリスト教の三位一体とはまるで違うんで、
宇宙法則としての三位一体ですから、私たちには一見「1」と見える事物も、
実は織重なりになっている。

今の、現象の因は想念、これは現象界とも物質界とも言われる。でも、実態ではない投影なんですね。
物質界を裏支えしているのが、霊の世界。
さらに織重なって、神界はイデア、存在の源泉という感じでしょうか。

現象世界は、必ず二元に因っている。陰と陽。現象世界はそうなんです。
陰と陽のまぐあいで、創造される子が意識(=人間)、父と母と子、三位一体。

子が先行して、自らを生み出すために、父と母を引き寄せて夫婦として、
陰と陽のまぐあいによって、子が産みだされる。

子の存在に陰と陽があって、片側しか見えない。それが現象界での子であり、
それは三位一体の法則を背景にした存在の在り方ですね。

陰陽=父母、先行の子と結果の子、これで四価的、双対。


422. 宮島鹿おやじ 2013年4月23日 00:23:58 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ろうし様

正直なところ、やっぱり、おっしゃっていることが、ほとんどわかりませんが、私としては、そういった情報も「並行的」に発信していただけるのは良いことだと思います。できれば博士のスレッドの注釈などをしてみてはいただけませんか。

私は、トマスのいうところの「藁屑=可視世界の理屈」としばらくは格闘しようと思います。

「わ〜らぁ〜に、まみれてよぉ〜 ♪」 てなもんです。


423. 宮島鹿おやじ 2013年4月25日 04:22:02 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
現在、ラッセルの西洋哲学史を読み進めています、ロックのあたりまで来ています。当然、ラッセルの言説を真理体系とは思っていませんが、とりあえずそのまま行きます。ラッセルについては「記述の理論」というものが有名だそうですが、それを吟味もしていませんので、現時点では、このじいさんについてはなんとも申せません。

なお、今、なんとなく思っていることは(いきなりですが)、不変=真理という言葉からの感覚ですが、「静止している」「動かない」「固定している」「生成しない」という点から限りなく、「不吉なもの」=「死」を連想します。

薄暗い部屋、斎場を連想してしまうのです。

私は武道(打撃系)を学んだことから、伝統的な「型」及び、その動作手順のみの習得が武道として「死んでいる」と常々思っていました。そう思った人はかなり多いと思います。

この辺は、自身の経験から確信に近いものがあります。

本来は、動きの中、変化の中、生成の中に見出されるべきものが、伝承の経過において、「形象」「形骸」として伝達される。要は「不肖の弟子」が問題なのだと思います。

とりあえず本日はこれまでです。すみません。


424. あやみ 2013年4月25日 05:42:38 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
こんにちは。

「死」は誰にでもいつかは起こることで、「死」があるからこそ「生」がある、その意味で「死」は不吉なものではい、まあそう言ってしまうのは簡単ですね。やっぱり不吉には違いないのですが。しかし「動かない」「固定している」「生成しない」ことを「死」に結びつけるのは私は反対です。たぶん「死」は「生」の裏返しですから何らかのベクトルを持っていると思います。

武道など、あらゆる「道」においての「形象」「形骸」はよくわかります。これはこのスレッドでよく触れられる「視覚化」「物質化」に違いないと思います。そしてこれはただの「死」ではなく「遺影」というのが似つかわしいと思います。(「遺影」の威を借るのが不肖の弟子たち)

>不変=真理

これも「動かない、固定している、生成しない」という「何か」とは本来は別次元であると感じます。そして不変真理を視覚化し何かにに掏りかえる作業は意図的に行われてきたと思っています。


425. 手紙 2013年4月25日 07:51:54 : ycTIENrc3gkSo : 6yPERBjWTi
みなさま、おはようございます。
------------------------------
今なお続く福島の原子力災害は過去の科学的知見が通用するのでしょうか?
物事はすべて進行中です

「起きたこと」 と 起きていること
「過去」 と 現在

私たちには時間を凍結することができません
停止した世界を処理する傾向のある科学を全的に信頼することはできない
それは、原発事故が証明済みでしょう?
だからこそ、私たちは予防原則に基づいて行動する

科学者達は「安全です」あるいは「危険です」と言いいます
でも本当は、分からないこともあるはずで
分からなければ分からないと言って欲しい
私は分からないことが何かを知りたい
では分からなかったらどうするのか?
私たちにはそのくらいの文化的厚みと民度を持っていると信じたい

政府も学者も世界の声に耳を傾けず二分論の陥穽に落ちている
でも、私たちは現実を直視する。
------------------------------
http://www.asyura2.com/12/genpatu26/msg/500.html#c20
これは去年、私が述べていたことです。

それ以来、おやじさまと同じようようなことを考えていた気がします。
すなわち、科学というものの科学者というものの、心のありさまや、
それに影響を受ける受けてしまう世の中、あるいはそれに閉じ込められたもの。

>>423 >>424のご発言で強烈に思い出しました。
自分の過去のコメントなので気が引けますが、細く強い共通性を感じます。

この問いかけについては、このスレッドと共に、
自分なりに少しづつ手応えをもち始めています。

皆さま、ありがとうございます。


426. 2013年4月25日 08:11:09 : qFSgHrN7vY
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>なお、今、なんとなく思っていることは(いきなりですが)、不変=真理という言葉からの感覚ですが、「静止している」「動かない」「固定している」「生成しない」という点から限りなく、「不吉なもの」=「死」を連想します。

キリスト教団で説明が大変なのは、神は変化しないが、その外の世界は変化するわけですから。ここで神と外の世界の人間の差がでてきます。
連想にかんしては、私の回路では連想ができません。

>私は武道(打撃系)を学んだことから、伝統的な「型」及び、その動作手順のみの習得が武道として「死んでいる」と常々思っていました。そう思った人はかなり多いと思います。

私は「型」を受け、自分のものにします。
私と私の体の関係、私と大地の関係、私と道具の関係に再編しなおします。


あやみ さん

>たぶん「死」は「生」の裏返しですから何らかのベクトルを持っていると思います。

出産の波は母子ともに高潮期の波です。
死は低潮期の波で、4日前に、波から解放されます。


427. 2013年4月25日 08:23:11 : qFSgHrN7vY
手紙さま

安芸ガラスです。

>>425を拝見いたしました。

>今なお続く福島の原子力災害は過去の科学的知見が通用するのでしょうか?
物事はすべて進行中です

核との戦争で、国民と政府は負けました。
この負けを認める、ここからでしか、国民は出発できないと思います。

「科学的知見」から、以下のようなことを連想をしました。
神の予知です。
世界の創造が完了したときは、予知できませんが。
いまだ、神の外の世界が創造の過程であれば、私たちの予知の前に、神は予知しています。
これが「科学的知見」でしょうか?


428. あやみ 2013年4月25日 16:21:05 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
>私は「型」を受け、自分のものにします。
私と私の体の関係、私と大地の関係、私と道具の関係に再編しなおします

「道」も、「技」も、そうあるべきと考えます。
先人の残してくれた「型」を習得することから入らねばならず、その過程で「型」の後ろ側にあるものを全て手繰り寄せることができれば「伝承者」になれます。そうでなければただの「コピー機」です。

和楽器の楽譜を「ツケ」というのですが、師匠は滅多なことではこれを見せてはくれません。弟子たちは耳で聞いて覚えた調べを自分で「ツケ」なおします。(たまに師匠のツケ本を盗み見たりするそうですが)ツケは控えでしかなく、やはり「型」は人の内に伝達されます。

「伝承者」も生身の人間です。伝承の時点で何らかの新陳代謝がおこなわれ、それが「型」に息を吹き込むのだと思います。しかしおやじさまがご指摘のように「型」つまり動作手順のみの習得は「息を止められた」「視覚化された」物質でしょう。

「型」からは、「破れ、超えろ」という先人の声が聞こえます。

ひとまずここで失礼します。


429. 2013年4月25日 20:57:04 : qFSgHrN7vY
あやみ さん

安芸ガラスです。

>「伝承者」も生身の人間です。伝承の時点で何らかの新陳代謝がおこなわれ、それが「型」に息を吹き込むのだと思います。しかしおやじさまがご指摘のように「型」つまり動作手順のみの習得は「息を止められた」「視覚化された」物質でしょう。

神楽を習って、感じました。
今、同じ型、きっと何百年前の人も、同じ型で、動いたんだ。
この型を舞う、この瞬間、いま、みんなと、いっしょに、舞っていると、感じました。

以下、参考です。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/478727175X/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392


430. ろうし力学 2013年4月25日 23:18:36 : riuSNxeQ9qjU6 : hNpSIt9SQI
真理=不変とは言えますが、不変は真理足りえないでしょう。

と言いますのは、真理とは、「常ならぬ」、だからでしょう。

世界が世界である根源的な理由は、始まりも解らず、終わりもまた無い、
無限生成発展が原理であり、決して完成はせず、永遠に未完成な故に
完全であるということではないでしょうか。

完全性とは、永遠に生成発展するという存在の根源のことであり、
物質人間は、存在の原則から逆回転であるから、人間の言う完全とは
硬直的であり、固定的であり、静止を指向する、それ故の人間だからです。

存在の真理は、融通無碍、千変万化、それ故に永遠不滅、が原理だからです。

宇宙は、一者では、それを一者、在りて在る存在などとは到底呼ぶことが出来ない。

二者があって始めて、一者は在るものと呼ぶ。
しかし、二者の反複は固定、膠着を意味し、そこに存在は未だ無いのです。

その二者(1と2)を観察する三者の出現が必要であり、その三者には、即対化が
同時的に在る。それ故に、1、1と2、1と2と3、1と2と3と4、これは、
同時の出来事である。そして、1と2を「在る」と認識する2と3が、1と2を
トレースして初めて、1から4の対化の対化=双対が、存在として浮上してくる
のではないでしょうか。

よって、宇宙とは、5(=1,2,3,4)から初めて顕在化し、「在るもの」として
姿を現し、5が在って初めて、1から4も、存在として意味づけられている。
この5を、私たち人間は「1」と呼んでいるのではないでしょうか。

一次元とは、一本の線分であると定義しております人類は、一本の線分の中に
イチ(5)以前の「かず(和)」を見出すことをしません。
しかし、既に一次元の一本の線分には、双対化が起きているという真理がある。

存在の根本は、そのように不変ですね。


431. 手紙 2013年4月26日 01:15:10 : ycTIENrc3gkSo : P8pbrAUDUQ
安芸ガラスさま、手紙です。

>>核との戦争で、国民と政府は負けました

私は核(虚無)と人類の戦争が ”始まったばかり” だと考えています。

>>世界の創造が完了したときは、予知できませんが。いまだ、神の外の世界が創造の過程であれば、私たちの予知の前に、神は予知しています

はい。予知はすべて自然が与えてくれるものだと考えています。蝶や蝉に奇形が発生しています。地震が頻発しています。生みの母の声を静かに聴くべき時です。

みなさまの型のお話。興味深く拝聴させていただいています。
私はボクシングが好きなのですが、ボクシングの場合はスタイルです。人にはそれぞれ身体の違いがあります。手足が長い人もいれば、首が細い人もいますね。それぞれにあったファイティングスタイルです。もしも型のようなものがあったとして万人にそれを"当てはめる"と、おそらく怪我が多発して、困ったことになります。スポーツなので合理的なところが強いのです。道ではないのです。神父と子羊の関係は存在していますが…。

さて一方で、私には"道"の生む"型"が奥深い知恵に見えています。
武道だったら、一連の技があまりに危険なので先生は教えません。

導けるものだけが、自分で導きなさいということだと思います。

厳しい世界なので人を選んでいるはずです。

したがって、"型"の形骸化は,おやじさまのご発言のとおり>>不肖の弟子の問題になるのではないでしょうか。先生から生徒まで駄目になってしまえば、伝統伝承も死にます。

哲学や科学も伝承のある分野です。伝統伝承の無くなった所には誰も生きていません。

"細切れで動かなくなったもの"からの転生を。

今、予知的に待たれているとすれば、そういうことではないでしょうか。

安芸ガラスさま、皆さま、ありがとうございます。


432. あやみ 2013年4月26日 05:54:40 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
>この瞬間、いま、みんなと、いっしょに、舞っていると、感じました

「舞う」はやまとことばの「まふ―舞・周・回・廻」です。くるくると輪を描いてまわること、循環することです。時も場もすっ飛ばし、スサノオも、茨木童子も、みな一緒に舞うのです。「演じる」などという言葉ではとても表せません。

=============

宇宙は在りて在るものではなく、創造主による創造物であると考えております。(私の個人意見などではありません)神を宇宙と言い換えること、あるいはその逆はありえず、自然というものも同様に創造物である思っております。

ろうしさまの昔のコメントで「神は宇宙を創造したときにそれと一体化してふっと消えた」といった意味のものがあったのを記憶しておりますが、そのお考えと私のものは水と油であります。もちろんろうしさまもそれにはお気づきでありましょうし、どちらが正しいかなどの議論ではありません。

これは批判等ではなくおやじさまをはじめこのスレッドにお集まりの皆様、読者の皆様に、ここで交わされる話をよりよく咀嚼していただくために書いておりますのでご了承ください。

=================

おやじさまのこのスレッドの本筋は、「科学者の頭の中身のあんまりな酷さ」です(微妙に違うかもしれませんがご堪忍ください)。どこか特定の国の科学者ではなく、世界全般のです。
「科学」の成立がキリスト教社会において起こったことに注目しました。神と科学の関係づけに大変な努力が払われたことに焦点をおきました。

私が指摘しようと苦闘しているのは、キリスト教社会にとっての「神」がどんなものであったか、です。もともとは創造主たる絶対神ですが、彼らは神を視覚化し物質化したために、かぎりなくオリュンポスの神々に近い性格のものをあたらしく生んでしまいました。今でも建前は創造主たる絶対神ですが、それと現実の間の矛盾は当然ながらキリスト教社会に、その外にさまざまな問題を引き起こしています。

つまり科学が手を組んだのは「手製の偶像」です。「偶像」なのですから、壊すのが非常にたやすい。科学が不可視世界を置き去りにして闊歩できることの担保です。 

==============

絶対神はわれわれと一緒に「舞う」事はありません。それはモーゼをして啓示されています。


433. 2013年4月26日 09:15:20 : qFSgHrN7vY
手紙さま

安芸ガラスです。

>私はボクシングが好きなのですが、ボクシングの場合はスタイルです。人にはそれぞれ身体の違いがあります。手足が長い人もいれば、首が細い人もいますね。それぞれにあったファイティングスタイルです。もしも型のようなものがあったとして万人にそれを"当てはめる"と、おそらく怪我が多発して、困ったことになります。スポーツなので合理的なところが強いのです。道ではないのです。神父と子羊の関係は存在していますが…。

私は剣道をしておりました。
これってスポーツです。
でも、最初は、軍事部隊行動のための訓練で創設されました。
ですから、遊びとか、楽しむ要素をいれないと、勝敗の文脈で行なうことになります。

私の剣道のやりかた、あるいは鑑賞の仕方は、以下です。

「はじめ」の声で、お互い、圧縮エネルギーのバランスを、自ら、壊します。
圧縮エネルギーのもとは、余剰エネルギーです。
試合は、このエネルギーが開放され、バランスをとる運動なのです。

ですから、攻める動作の中に、相手の守る動作の中に、自分のエネルギーを圧縮したり、相手を昂ぶらせたりするものがあります。

先の先とか、後の先を習いますが、これは、自他のエネルギーを圧縮したり、昂ぶらせたりして、開放の方向に、どちらが主導権を確立するかのことです。

型は、このエネルギーの開放に対して主権を確立する(主導権・コントロール)ものです。

私の剣道での体験と、社会運動とは、エネルギーの開放と主権で、重なるものがあります。


434. 2013年4月26日 10:13:30 : qFSgHrN7vY
ろうし力学さま

安芸ガラスです。

>その二者(1と2)を観察する三者の出現が必要であり、その三者には、即対化が
同時的に在る。それ故に、1、1と2、1と2と3、1と2と3と4、これは、
同時の出来事である。そして、1と2を「在る」と認識する2と3が、1と2を
トレースして初めて、1から4の対化の対化=双対が、存在として浮上してくる
のではないでしょうか。

多くの知り合いが、この世から去っていきました。
そして、みとるとき、相手は、孤独を好んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりして、経過(エネルギーが消耗)してまいります。

あぁ、私はこの人のように、去っていきたい、と思うこともあります。
それは、去る4日前に、挨拶にこられ、お世話になったから、お礼にお酒を送りましたから、と。
その人は、「人生でこんなに気持が好い事はない」と仰っておりました。
そして、1人のときに、去っていかれました。

ひとつのものと思われていたのが、消耗の過程で、分散するのですね。


435. 手紙 2013年4月26日 19:25:20 : ycTIENrc3gkSo : hyMQ8Zg8lA
安芸ガラスさま、手紙です。

>>433 とても示唆に富む内容で、静かな環境で繰り返し考えてみたいです。

さてそこで安芸ガラスさまのおっしゃっているエネルギーのことなのですが、
これは朱子学の理気のようなものでしょうか?
あるいは気功や太極拳などの気の流れのようなものでしょうか?

マルクス・レーニンや社会現象などをエネルギーで語っておられますが、
これは私にとって始めての出会いですから、できれば吸収してみたいです。

そしてこれと関連して気になっているのは、震災と戦争です。
慶長の役、世界大戦、いずれも震災のあとの出来事です。
東日本大震災後の社会エネルギーは今後、外に向かってしまうのでしょうか?
おそらく現状の中央政府では、これをグリップしきれないだろうと思います。
米国まで含めてアジア諸国の"気"が張っているのはそういうこともあるのでしょう。
よかったら解説のほうをよろしくお願いいたします。

>>ひとつのものと思われていたのが、消耗の過程で、分散するのですね

強く共感します。
私も同じような経験が過去にありました。
ひとすじの光が虹色になることを、あらためて教えられます。

安芸ガラスさま、ありがとうございます。


436. 2013年4月26日 20:42:03 : qFSgHrN7vY
手紙さま、安芸ガラスです。


>さてそこで安芸ガラスさまのおっしゃっているエネルギーのことなのですが、
これは朱子学の理気のようなものでしょうか?
あるいは気功や太極拳などの気の流れのようなものでしょうか?


それは、五感で感じませんけれど、体の弛緩と緊張で分かります。
気の流れのようなものを想定しています。


>東日本大震災後の社会エネルギーは今後、外に向かってしまうのでしょうか?


ノーマルな生活では圧縮エネルギーです。
これが、してはいけない、これをやりなさい、○○さんを手本にしなさい、等々となりますと、圧縮エネルギーが凝固エネルギーとなります。

これが爆発しますと、中央政府はコントロールできなくなります。
外、つまり、外国に向かってしまうのは、これによります。

12月の総選挙と、前前回の鳩山・小沢民主党の票と対比で、票の分散は、エネルギーの放出として、読みとりました。
維新への分散は、凝固エネルギーと重なるのではないかと、思っています。


>おそらく現状の中央政府では、これをグリップしきれないだろうと思います。
米国まで含めてアジア諸国の"気"が張っているのはそういうこともあるのでしょう。
よかったら解説のほうをよろしくお願いいたします。


東日本大震災後の社会エネルギーは、弛緩の方向に流れています。
それに反して現状の中央政府(安倍政権)は、緊張の方向舵を切りました。
これでは、グリップしきれないだろうと思います。


>マルクス・レーニンや社会現象などをエネルギーで語っておられますが、
これは私にとって始めての出会いですから、できれば吸収してみたいです。


中学の「技術・家庭」で、自動車エンジンの構造を習いました。
内燃機関です。ガソリン、空気、ピストン、シリンダー、圧縮、爆発、圧縮漏れ排気等々です。
理科では物質の相、プラズマ、気体、液体、個体、凝固等々も習いました。
労働組合では、要求を習いました。
これらを、人生の中で、自分で理解をするため、あるいは人に伝えるために、むすびつけただけです。

手紙さま、どうもありがとうございます。


437. 2013年4月26日 21:26:00 : qFSgHrN7vY
手紙さま、安芸ガラスです。

以下のつづきです。
>マルクス・レーニンや社会現象などをエネルギーで語っておられますが、
これは私にとって始めての出会いですから、できれば吸収してみたいです。


下は私が使う言葉です。
要求、エネルギーの集中と分散、方向付け、運動、弛緩と緊張、現象、感受性、フィードバックなどなど。

運動の主体は要求です。
この要求を、個人が追いかけるのが人生です。
社会的人間が集団となり追いかけるのが運動です。


運動はエネルギーの分散現象です。
スムーズに要求を実現する力が喚起され、スムーズにその力が分散されることが、人生あるいは運動のノーマルな状態です。


だから本人または運動側は、集中と分散の状態を観察し、本人や運動側の価値観を再検討します。
これをフィードバックと呼びます。
この集中と分散をスムーズにすることを、運動の方向付けとか、エネルギーの方向決めと云っています。


ただ、実際は人間でも運動においても個性を発見します。
その個性とは、驚いたりしたら出ます。
それを個性と呼んで、個性として捉えています。


この個性が集中と分散を、運動の方向を偏らせたりします。


この座標軸の根底には、潜在意識やエネルギーの平衡、崩れ、回復などがあります。


ですから、運動を量と移動としては捉えていません。
「とき」として「変化」として捉えています。


手紙さま、どうもありがとうございます。


438. 手紙 2013年4月27日 12:59:12 : ycTIENrc3gkSo : 1LNXTgfU9s
安芸ガラスさま、手紙です。

>>436 >>437 少し腑に落ちるようなところがありました。
ご教示を感謝します。

私としては、米国や北朝鮮の陥っているジレンマを連想し考えました。

個人主義、集団主義、個人と集団の個性、いずれそれの無個性化と機械化へ。

そういう意味で米国と北朝鮮には親和性があると考えていました。

大衆の沈黙は為政者にとって都合のいいものですが、
"NETから街頭へ""NETと街頭の融合"というような変化の中で、
ますます"集中と分散"が多様化、複雑化していきます。

社会を一色のほうへ向けていきたい、してみたい。
彼らにとっての、悩みの種は増えるばかりでしょう。

その為に3S"sports,sex,screen"がエネルギの方向決めとして使われるのかなと。

しかし要求や個性を量でなく変化として捉えると、

集団のなかの個人の欠落した"個性"は、自由民主主義にとっての強みです。

なぜなら、私たちは支えあうからです。

弱者や少数者を暖かく支えている社会ほど基礎が強靭だということです。

私は米国や北朝鮮を見ていて、そのように考えます。

以上です。

尚、スレッドの本題からあまり離れると良くないので、
失礼を承知で、私のほうから打ち切らせてもらってもよろしいでしょうか?

安芸ガラスさま、ありがとうございました。


439. 宮島鹿おやじ 2013年4月27日 13:33:33 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
手紙様

>尚、スレッドの本題からあまり離れると良くないので、

そのようなお気遣いは無用です。
どうぞ、ご自由にお話ください。

なお、米国(西洋)との関係はこのスレッドの議論における重要な背景の一つです。


440. 2013年4月27日 13:40:43 : dKyGg5H5BM
手紙さま、安芸ガラスです。

>尚、スレッドの本題からあまり離れると良くないので、
失礼を承知で、私のほうから打ち切らせてもらってもよろしいでしょうか?

了解しました。


>しかし要求や個性を量でなく変化として捉えると、
集団のなかの個人の欠落した"個性"は、自由民主主義にとっての強みです。
なぜなら、私たちは支えあうからです。

「科学」は個性を捉えることをしないから、縦、横、高さの座標軸となります。
人によって(放射能で)大脳、消化器系、呼吸器系、泌尿器系、生殖系に現象(障害)が現れるのは、その系統がよく働くからです。これが現象に現れた個性だと思います。

エネルギー排泄(分散)の偏りではないだろうか?

しかし「科学」も、一応、個体を個人として捉えていますが。
それは、教会に足を運ばないでも、神の受信機としての個体・個人が設定されていますね。



441. あやみ 2013年4月27日 16:04:18 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
手紙さま、みなさま

>"NETから街頭へ""NETと街頭の融合"というような変化の中で、
ますます"集中と分散"が多様化、複雑化していきます。

インターネットの開発者は施政者であり、その所有者も管理者も同様です。いかなる場合でも市民に主導権はないと感じています。ですからこの複雑化はもとより施政者の望むところ、ということになります。アラブの春なども市民のエネルギーを賞賛するネタにされていますがやはりネタでしかなく、西欧主導の新世界機構を再編成するための道具に過ぎません。余談ですが「3S」は古代ギリシアにすでにあったのではないか、などと思います(競技・姦淫・観劇)。

この世を人の体にたとえれば、弱者や少数者は患いのある箇所とはいえないでしょうか。左足が痛ければ右足がかばう、胃が弱ったときは腸にも負担がかかるがその分ほかの器官が余計に働いて補う、体全体が活動を緩めることで回復を促す、そんな単純な約束事を世の中全体で守ってこそ国も世界も健やかでいられるとおもうのです。

しかし科学を持ち込んだ瞬間、その約束は壊れていきます。科学に支えられた教育・医療・福祉・経済・世論の構造は体の各所の状態を問うことなく均一に施される投薬に似ています。時には患部をさらに疲弊させ、時には痛くもない腹を探られます。そうして癌細胞が生成します。犯罪・差別・原発などなど。

北朝鮮と米国が地球のガンだ、といってしまうと身もふたもないのですが、どうすりゃいいんでしょうかね、困った奴らです。


442. ろうし力学 2013年4月28日 00:32:18 : riuSNxeQ9qjU6 : 9quJonf6EZ
人体におけるガン細胞の存在理由は「請負」と理解しておりますが。

ガン細胞となった、元の細胞が請け負った何物かが先行して在ったということです。

そして、全体をそれからお守りするには、ある細胞がそれを請け負ったから、
変化しているのです。

私が関わってきたことでは、がん細胞が消失した事例は百人以上いらっしゃる。
やっていることは、その方の生き方に、中心を取り戻す(逆に言えば、己を失っていた)だけです。

もちろんそういう自己の中心回帰には、早い方もゆっくりなかたもいらっしゃる。
また、全身にがん細胞が分布してなお、数年間、周囲とそれほど変わらない生活を継続していた方も何人もいらっしゃいました。

大概、西洋医学は、検査のみになさって、酵素、プロポリスなど、その程度は摂取する感じで、特別何もやっていませんでした。

消失する方は、始めた時と消失した時と、人物に大きな変化があり、共通していらっしゃったのは「敵対意識」の消失でした。

お亡くなりになられた方には失礼ですが、敵対意識に変化をもたらせられなかったと、自分は思いました。

敵対意識の発生原因は、「自己否定観念」です。
自己は常に、他者から非難をうけ、否定されていると、無自覚な無意味感を抱いていらっしゃいました。

他者とは自己にとって、敵対する存在にしか思えない、その自己否定と対立の不安と緊張が、不可視可視のあるもの(エネルギー)を産出し、それを受け止める役割を負ったのが、全体をお守りする細胞の請負という事です。

それをがん細胞と呼び、恩ある細胞さん達を敵視し、攻撃している現状ですから、
がんの人が減らないのは当然です。

敵視がその大きな要因であり、最大の要因は「自己に向けられた敵意」だからです。
己が世界から取り残され、疎外され、否定されている、という思い。
それを人間が各々内内に抱え込むことを目標に、世界支配戦略は練られ、実行させられてきた、それが真相と思います。

それを主導したのは、人間の嘆き、恐怖、憎悪、嫉妬、呪いなどの想念を「餌」にして肥え太ってきた存在(反神)ではないでしょうか。

人体は完全性を持って、動的平衡を持ち続けています。一瞬前の自分は(今の意味はカラダのこと)もうどこにも居ないんです、変化し続けているのが世界(物質)です。

老化とは、その形態の細胞の平衡であり、その平衡状態のブループリントは、己の意志意識です。「70歳だから自分はこうだろう…」という思い込みが、その平衡状態を決めている。

ですから、年数に関係ない自己像を理解して持っている人物は、同年代の周囲の人よりも若いという仕組みです。

人体の法則を、集団のひな形とする視点は、重要で正しいものと思います。
が、人体は完全性を持ち、動的平衡に寄っていて、不要な存在は(人工的でない限り)もとはありません。存在の意義が必ず込められているんです。

本来は無いものであり、いつかは無くなるべきものであるが、現段階ではバランスを保つことを目的に、存在の意義を持つ、それががん細胞ですよ。

がん細胞を再び無くてよいものに還元するのは、主体総体が、生命=宇宙の本源的流動に沿う、すなわち永遠生成発展の大法則に「自ら則る」(他者の強制はだめ)こと。

だから、おやじさま、皆様の思考がこのスレッドにより様々に変化しつつあることが、世界の変革にダイレクトに連結していると申し上げたのです。

自己の意志意識の構造に気が付かれたならば、当方の書いているトンデモ話しも、
なんだ当たり前で普通のことしか言ってないじゃん…と見えるはずですよ。


443. あやみ 2013年4月28日 03:12:23 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
ろうしさま

私も同じようなことを考えております。
我々が生み出してしまった癌細胞を攻撃せずに共生し、共生するうちに無力化し、消えていただく方法はあるのか、あるけれどできるのか、です。

攻撃とは体でいえば切除手術、放射線治療です。社会で言えば拘束して拷問して息の根を止める、法または神の名において焼き殺すことです。それをやったところで新たな病魔に冒されるだけなのです。
癌細胞は「犯罪」「公害」「差別」「原発」「東電」「山下」「東大」とかです。

息子が言っていたのですが、NASAが火星行きの人員を募集しているそうです。還れないかもしれないという条件付で(ほんとかね?)。地球が銀河の癌といわれるようにならないとよいのですが。


444. 2013年4月28日 07:21:51 : ZRkOFjfYsw
ろうし力学さま
あやみ さん

安芸ガラスです。


>消失する方は、始めた時と消失した時と、人物に大きな変化があり、共通していらっしゃったのは「敵対意識」の消失でした。

剣道の体験から。
試合は相手選手との争いではないのです。
ひとつになり、エネルギーの集中と分散をつくりだすことなのです。
このさいに主導権を確立する運動が試合なのだと思います。

>我々が生み出してしまった癌細胞を攻撃せずに共生し、共生するうちに無力化し、消えていただく方法はあるのか、あるけれどできるのか、です。

癌にかんして。
ここに個性を捉えられる契機があります。
エネルギーの集中と分散で、エネルギーが過剰になる偏りだと思います。
癌は現象で、エネルギーが過剰になる偏りの方を捉えられるのではないでしょうか。
方法としては、エネルギーの分散がスムーズに図るように、潜在意識の方向を変えること、エネルギーの加減をすることではないでしょうか。


445. ろうし力学 2013年4月28日 08:51:02 : riuSNxeQ9qjU6 : XwXoBESpJ6
あやみさん

>我々が生み出してしまった癌細胞を攻撃せずに共生し、共生するうちに無力化し、
>消えていただく方法はあるのか、あるけれどできるのか、です。

大変不遜で口幅ったいんですが…
「私が関わってきたことでは、がん細胞が消失した事例は百人以上いらっしゃる。
やっていることは、その方の生き方に、中心を取り戻す(逆に言えば、己を失っていた)だけです。」
と書かせて頂きました。

意味はお分かりになられると思いますが、このメソッド自体は30年以上続いてきました。
もうとっくに人類の(ごく普通の市民)理解は、
「消えていただく方法はあるのか、あるけれどできるのか、」を実践してきているんです。

方法は極めてシンプル。仙骨の自在性を自分自身が取り戻す、これだけ。
スピ系のヒーリングだとか、宗教の手かざしですとか、そういうのはありません。

自分が自分を(当然ここでいう自分は意識そのもの)変化させることでしかありません。

ですが、当方の言っている、「肉体は自分じゃないです、自分とは意識そのものです」という
存在の事実、これを口酸っぱく繰り返します。一回で、「なるほど」、と認識がひっくり返る方、
何年継続しても、一向に肉体が自分だと固定化した方。
その傾向によって、変化が即時か、変化が本人に自覚できない(家族には判別がつくのに)
かの分かれ目になります。

自分を変えるのは、自分自身ということが、納得できた方、あくまで他者が変えてくれると、
自己を放棄し続ける方、そこが焦点です。

この事実に驚愕して、関西の指折りの外科医さんが、10年悩んだ結果、医者をお辞めになり、
一緒に働いていました。他にも医者、看護師、治療師、気功師、整体師、など治療系のお仕事の
方々が、共にこのメソッドい取り組んできました。数人とかではなく百人を超えて。

「消えて頂く方法」が、呼吸のように自然と理解されて、日常に行われています。


>NASAが火星行きの人員を募集しているそうです。
還れないかもしれないという条件付で(ほんとかね?)。
地球が銀河の癌といわれるようにならないとよいのですが。

というニュースは、数日前にメディアに露出していましたね。
それ以前にも、マイナーな情報では、繰り返し火星移住の話は出ていました。

そこで、「劣化ウラン弾と湾岸戦争、」のスレッドで

『原因不明だが30%の兵士がおかしくなった
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/777.html

という投稿への、コメントを08. 2013年1月22日 23:30:42 : ntr5UYk0isとして付けたことがあります。


スレッドは以下のようでした。
『1991年の湾岸戦争で米軍がイラク軍に対して劣化ウラン弾を歴史上初めて使用した。
前年の1990年には劣化ウランなどのウラン残渣や高レベル核廃棄物の処分にこまり、
ネィティブインデアンの居留地へ送り込もうとして問題化した。

そして、ウィキペディアの「湾岸戦争」の項にはつぎのような記述がある。

2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる、183,000人の復員軍人は、
復員軍人省により、恒久的に参戦不能であると診断された[26][27]。湾岸戦争時にアメリカ軍に
従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている[28]

現在、世界中の核保有国、それは原発を含むが、高レベル核廃棄物の処分に行き詰っている。
そもそも、処分方法がないままなぜ原発を大規模に始めたのか。それはいずれどこかで処分できると考えていたからだ。

そこは?

そして、福島の、または日本の将来は?

「湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、
多数の重大な症候に悩まされ続けている」

(引用此処まで)

これに対して、匿名コメントですが、これ私です。

『08. 2013年1月22日 23:30:42 : ntr5UYk0is
まあ、以下、トンデモということでよろしく。
>それはいずれどこかで処分できると考えていたからだ。

支配者がそう考えていたなら、ちょっとはマシなお頭かと思うのだが、
そりゃあまだ、連中の悪魔的発想を甘く見積もってるよなーと、思う。
支配者は、核ビジネスで十分稼いだら、その廃棄は無理だと気が付いたようである。

しかも、最悪、戦争ビジネスは核爆弾の使用を抑制出来ない可能性も含んで考えたようで、
この悪魔的連中の考えたトンデモな発想は、「地球の遺棄」という、あいた口が塞がらない
発想となっていった。

そして、連中が決めたのはなんと「火星移住」で、その前哨基地として
「月」にベースを建設するミッションとなった、これがアポロ計画の裏計画として遂行され、
それが理由で、せっかく月まで行ったぜ!と得意になったアメリカが、その後月の情報を絶ってしまい、
シャトル計画で目をそらせつつ、月の裏側にベースを作っていった。
そこを足掛かりにして、火星に有人探査へと進み、NASAのシャトル計画中に、政府連合体として、
火星に疑似地球環境を設置した。

問題は、支配者が老人ばかりであり、重力加速に耐えられないことが予想された。
その解決に取り組んだのが、遺伝子操作による人口強化人体の開発で、その失敗というのか、
過程で出来上がったのが、グレイであった。あれは地球外生命体とは何の関係もないという。

数日前に、ロシアアメリカ共同の火星輸送船のニュースが流れているが、真実はより深く暗いのであって、
軍事技術と民生用技術とは、格段の差があり、民生に卸されるときには既に、トンデモないレベルに
なっているのが軍事技術である。

つまり、既に月は頻繁に行き来しつつ、地球市民が目を向けないように30年間目くらましを続け、
火星にはとっくに人間を送り込んでいる段階である。

その理由は、地球は既に核廃棄物と核兵器による放射能汚染で、棄てざるえないという判断があるからであり、
つまり地球市民は、ゴミがごとく認識であり、全滅まで廃棄物に苦しむ状況など、
連中には知らぬ存ぜぬであるということである。

核廃棄物は、とっくに限度を越しているレベルの総量となっていて、地球環境には安全という状態は、
既に(半)永久に失われいるのが事実である。

今さえよければ、自分さえよければ、という「破滅の帝王学」という、宇宙で最も低級な人生論?を
信奉した地球人には、もうたった一つしか逆転の道は残されていない。もちろん火星ではほどなく
愚かな支配連中の自滅と滅亡が待っているだろうことは疑いないけれども。


…というもので、相変わらず、トンデモ振りを発揮しております(爆笑)

それに対しての投稿者のお返事は。

『11. taked4700 2013年1月24日 05:51:14 : 9XFNe/BiX575U : 6j5y2kMOOw
>>08 とても楽しく読ませていただきました。SFとしてとても奇想天外で楽しいですね。
と言っても現状がよくなるわけではないので単に「楽しい」では済みませんが。』

・・・と極めてまともなお返事でしたw

面白楽しい文章を創作できる能力は、在ればぜひ欲しいものですが、残念ながらこの奇想天外な
お話しは、未来の人類の歴史から省みれば、歴史的事実と認識されることでしょう。

それで、なぜ嘲笑を確信しているのにここに転載したかですが、
この内容がここでのスレッド内容につながるからですね。
何故山下某などが、悪魔的所行をしておるのか。

それは、殆どの人類の思考の立ち位置を、遥かに凌駕?した精神の下落が起こっているということ。
それゆえ、「そんなのウソだー」としか思われない「破壊と破滅」が進行中であること。

かつて、幾度も宇宙の意識体(神、でもなんでもいいのですが)が、人類の滅亡に歯止めをかけるために
啓示や指導(導師を産みだして)を行ってきて、様々な教説を伝道してきましたね。

しかし、それが実は大変に切迫した「人類存亡に関わる」内容だと理解できた人が、
何時の時代でも一人居るかいないか、でしたので、開祖教祖が身を消した後、取り巻きに誤解されて
道徳にも等しいレベルに落とされる(失敬!)、という歴史が繰り返されましたね。

これは、反神(虚無)と双子神(神と人)の、存亡をかけた「意識戦争」なんですが、
・・・笑われるじゃないですか、こんな話しってw

で、人類がこぞってこのことを嘲笑ってきてことで、核=虚無の最も顕在したもの、によって、
世界は終わらせられようとしている、のが現状なんですね。

普通の市民が、理解してこなかった、自分事と出来ずに、どこか遠い他人事で嘲笑ってしまった、
それが元で、意識戦争に負けつつある現状の危機に直面している。

なにも、他人の言説を信じろ、でないと滅亡するぞ、と脅しているのではなく、
生きていることそのもの、存在が存在できているその仕組みを、
生きている生きられている現場=知覚正面、つまり目の前を「れい=0」になって見つめなおして
みてはどうか?と、覚者、聖者は繰り返してきたわけです。

「目の前」に、誤解をもっている限り、そこから紡がれるいかなる思考も、反転してしまっていること
に気が付かないと、自滅への誘因に気が付くことは出来ない道理なのですが…という事です。

☆自滅への誘因とは、自分が全く気が付かないうち、無自覚に自分の思考が、自滅方向の流れの
中に埋没している様を表現している。無力感、諦め感。


446. 手紙 2013年4月28日 09:38:47 : ycTIENrc3gkSo : EH8KLtAoNo
あやみさま、手紙です。

>>インターネットの開発者は施政者であり、その所有者も管理者も同様です。いかなる場合でも市民に主導権はないと感じています

施政者が開発し想定したものであったとしても、現に私たちは私的ネットワークを持ち、禁忌なく話し合い、そして人々はそれぞれのアドレスにて、出会うべくして出会っています。

この網の目のような情報空間のなかでは、およそ"screen"からは発信されないような貴重な情報交換や議論が、日々なされ、なしていますね。

これは毒にも薬にもなりますが、今後そうとうなしのぎあいの後、施政者の思惑を超えて活用されていくはずです。

でもこれは、あやみさまのおっしゃるように一連の中東のことを考えれば、私の願望も多分に含まれているということになります…。

>>この世を人の体にたとえれば、弱者や少数者は患いのある箇所とはいえないでしょうか

あやみさま、私はそのように考えていないのです。

私は>>438 のコメントで、"なぜなら、私たちは支えあうからです"と述べました。
"支えあう"というのは、私たちは弱者や少数者にも支えてもらっているということです。
言葉足らずだったと思います。

例えば目の不自由な少女がそこにいるとして、彼女が伸び伸びと自由に社会で暮らしていけたならば、そういう社会があるのならば、それは私たちすべてにとっても優しく暖かい世の中になる可能性が開いたということですよね。

彼女が見えないものを見えるようにしてくれます。

弱者や少数者が投げかける問いかけは、つねに地平が広く峻厳です。

そして彼ら彼女らを、かつてのように、あるいは今も、どこかに閉じ込めるのではなく、光りの中へ開放し、あるいは私たちが解放され、共に生きるということは、世の中の理想を現実化する原動力にもなっています。これは人間の持っている、とても優れたちからだと考えます。

これはろうしさまが繰り返しおっしゃっていることでもありますね。

ですから、人が十全に人である社会は強靭であると述べました。

自由民主主義の強みもそこにあるはずです。
ほんらいは、軍事や経済のみで語られる国土強靭化ではないのです。

したがって、米国も北朝鮮も先軍的な言動が目立つ割には足腰が弱いと見ます。
私は米朝の指導者に、老子道徳経を差し上げたいくらいデス。

>>しかし科学を持ち込んだ瞬間、その約束は壊れていきます。科学に支えられた教育・医療・福祉・経済・世論の構造は体の各所の状態を問うことなく均一に施される投薬に似ています。時には患部をさらに疲弊させ、時には痛くもない腹を探られます。そうして癌細胞が生成します。犯罪・差別・原発などなど。

私たちが変化しうつろう存在であるという視点から共感し同意します。

>>北朝鮮と米国が地球のガンだ、といってしまうと身もふたもないのですが、どうすりゃいいんでしょうかね、困った奴らです。

北朝鮮は米ソの対立の中で産まれた鬼っ子です。
彼らには政治的な妥協と、人道的な支援を惜しまないことが大切だと考えています。
対話と協調の可能性を閉ざさない、それが現実路線です。

ジョン・ナッシュ教授のゼロサムゲームでは、いつか共倒れになってしまいます。

北朝鮮は、いずれ改革開放に向かうアジアの一員です。
そして米国などは、イスラエル化に向かう国境を越えた帝国構成国です。

米国は連立方程式をわざわざ多次元化してしまうので困りますね。
はやり文句の"多極化"というのはそういうことだと思います。
わざわいの種をばらまくのだから始末が悪い。

今後アジアは幾多の苦節を過ぎて、光りの中へ入っていきます。
私はそう考えます。

帝国に邪魔をさせてはなりません。

あやみさま、安芸ガラスさま、ろうしさま、おやじさま、ありがとうございます。


447. ろうし力学 2013年4月28日 12:32:49 : riuSNxeQ9qjU6 : JWzrvtOzBE
手紙さん

〉ですから、人が十全に人である社会は強靭であると述べました。

本当に、本当に、おっしゃるとおりですね。


448. あやみ 2013年4月28日 13:29:15 : oZZpvrAh64sJM : YtGgV1N04Y
>施政者が開発し想定したものであったとしても、現に私たちは私的ネットワークを持ち、禁忌なく話し合い、そして人々はそれぞれのアドレスにて、出会うべくして出会って…

それには反論はありませんよ、ですが施政者たち、電網の所有者たちにはこれは大きな問題ではなく、「だからどうした」ぐらいにしか思われていないのです。それだけタチのわるい連中ですし、インターネットも効能より」副作用のほうが強いクスリです。「施政者の思惑を超えて活用されていくはずです。」、これはないでしょう。中東は顕著な例であるというだけで世界中にほぼ同じことが言えるはずです。

だから否定する、しないではなく手放しで賞賛してはいけない、と申し上げているのです。「ただし自己責任で」という言葉は無責任につかいたくありません。なぜなら、責任など取れる筈がないのです。なぜならこれは一人で使うものではないのです。各自がその一部分となり全体を築き上げているのですから、知らずにそれにその大成に加担していることになるのです。全体が大きな罪を犯しているそのとき、私はその責任を自分の使った分だけ部分的におうことなどは多分できない、負ったことになどならないと考えています。

おなじことは「民主主義」ということばにも感じています。
インターネット同様、施政者の手で作られたイデオロギーのひとつです。
おなじとは言わないまでも、近いことは「原発」にもいえます。われわれがいまインターネットに対して行う効能・副作用の議論と同じものは3.11以前からあったと記憶しています。

私はろうしさまのように心優しい文章が書けないのです。患いのある箇所=邪魔者という書き方はしていませんが、そのようにお感じになられたのであれば私の書き方の拙さからです。


北朝鮮が鬼っ子であるならば国家としてのイスラエル、国家としてのアメリカも同じように鬼っ子です。英国の汚れ仕事を請け負うために米国が作られ、おなじようににアメリカはイスラエルを建国しました。
亡くなった祖祖母が言っていたのですが、「溥儀さんがいなかったら日本は富士山で西と東に分けられていたんだよ、かわりに朝鮮が北と南にされたんだよ」と。戦後、市井の日本人がどれだけのことを知らされていたかはわかりません。祖祖母の言っていたことは必ずしも事実といい難いでしょうが、「国」のつくられ方を子供にもわかるように説明していると思います。


>今後アジアは幾多の苦節を過ぎて、光りの中へ入っていきます。

心からそう願います。


449. 2013年4月28日 15:40:45 : ZRkOFjfYsw
安芸ガラスです。

ひとりごとで云いました。

子どもが「熱いタオルは嫌じゃぁ」
大人は「熱くないですよ」

ここでは、大人の言葉は子どもの「熱い」と対立してしまいます。
大人は「もう冷たいよ」「冷たくなったよ」「冷たくなりつつあるよ」です。

大人が子どものものを捉えて、上手に差し出し、受けとらせるには、対立をつくらないことだと思います。


450. 宮島鹿おやじ 2013年4月28日 20:55:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

こんばんわです。
たくさんの貴重なご意見をいただき誠に感謝しています。

さて、私は皆様のご意見を傾聴しつつ(といってわからないところは保留しっぱなしですが・・・)、自分の>>399における「数学的表現の呪術性」について考えていました。ここ数日、この問題意識に関連する著作を読んでいました。正直なところ数学について「も」素人レベルですのでなかなか明晰な認識には至れませんが、考えがまとまり次第ご報告します。


451. あやみ 2013年4月29日 05:59:22 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
なんとなく思い出したことがあるので書きとめておきます。とくに意味はありません。

「ドラえもん」にて、のび太がおやつの栗饅頭は食べたいが食べるとなくなってしまうことを悩んでいました。するとドラえもんは「バイバイン」という道具を出します。これを一滴振り掛けると一分で倍になる。二分で四倍です。のび太とドラえもんは喜んで栗饅頭を増やして食べるのですが、最後の一個がどうしても食べきれずママや友達に配り歩くのですがやはりどうしても余ってしまう。そして収集がつかなくなり、このままでは地球は栗饅頭に埋め尽くされてしまうかも知れないという危機的状態を迎えます。

結局、でかい風呂敷に包んでロケットに引っ掛けて宇宙の彼方に投棄します。

藤子不二夫が原発の核廃棄物の問題を暗示したかどうかはわかりません。ほかの作品では核兵器を批判するものがありましたが、ドラえもんの中には確かミニ原子炉があったように覚えています。いずれにしろ、原発がまだ「若い」のころの作品です。

核廃棄物の処理方法として宇宙への投棄は実際に科学者たちの議論に上ったことです。「そこまでするか」と思うのと同時に「お前らその程度か」と思わざるを得ません。しかし「お前ら」の中には自分も含まれているという厭な予感が絶えず付きまとうのです。

私はドラえもん世代です。オバQでも「火星の土地買います」という話があったのを覚えてます。ですから火星移住などの話は実は子供の頃から妙に「馴らされて」います。ろうしさまの書かれたような話は実に現実味がありトンデモなどと受け流すことはありません。


452. 宮島鹿おやじ 2013年4月29日 07:33:59 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

おはようございます。

私はウルトラマン世代です。

銀色に輝く正義の巨人。彼は科学・理性を象徴しているようでした。
対峙する怪獣は不定形であり、欲望・感情を象徴しているようにも見えました。
たいていは、科学の勝利の凱歌で終わるのが常でした。

しかし、一連の作品の中には、極めて異質性をもったものもありました。
ウルトラセブンのなかの「ノンマルトの使者」です。
ウルトラセブンが命を賭けて守っている地球人類が実は侵略者だったという番組最大のアンチテーゼでした。子供心にも怖かったが、心に残りました。

いま、私たちが直面している事態、一部の地域(といっても極めて広範ですが)における危機を黙殺することで何か今までどおりの繁栄らしきものを押し通そうとしていますが、こういったことは今までに繰り返し起きた。朝鮮半島の有事を奇貨として経済成長しはじめたこと、ベトナムに爆弾を撒き散らすことを黙認していたこと、水俣で苦しむ人々を意識の外においたこと、広島・長崎の現実を追求しなかったこと、いずれも、「特定の人々」に著しい苦痛を与えることで成立してきた日常だったと認識しています。一部の人々にそのような極端な負担を強いてまで、享楽的な生活を継続することを望まない人が確実に増えることを望みます。


453. あやみ 2013年4月29日 14:36:42 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
おやじさま

ウルトラセブンはシリーズの中でも特異でしたね。小学生時代に再放送を夢中で見ていました。メトロン星人とセブンがちゃぶ台を挟んで腹を割って離していたのが忘れられません。子供心にセブンの心の葛藤が伝わってきました。

>いずれも、「特定の人々」に著しい苦痛を与えることで成立してきた日常だった

セブンは朝廷と蝦夷の間で苦悩する皇軍の将に見えてならないのです…


454. ろうし力学 2013年4月29日 21:39:27 : riuSNxeQ9qjU6 : poGspaIDOQ
地球人が実は侵略者だった、文脈だから、地球人が今の日本人でかな。
縄文の人々を侵略して、現在の日本人になったから。
ああ、それだとメトロン星人に該当無しだな。
ややこしい話しになっちまうわf^_^;

455. 宮島鹿おやじ 2013年4月29日 22:07:28 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様
ろうし様
皆様

本日、久しぶりに放射能汚染調査に行きました。
やはり何か疲れるように思います。
近日中に投稿いたします。小さな調査です。


456. ろうし力学 2013年4月29日 23:50:04 : riuSNxeQ9qjU6 : sEyhu56Q56
宮島鹿おやじさま

先日、CNIC(原子力資料情報室)の、公開研究会に行ってきました。
新しい規制案についてのパブコメへの取り組みについて、原子力安全コンサルタントの専門家からの丁寧な解説を頂きました。

でもねー、安全にすりゃ、原発は稼働していいのか?って疑問が。
極めて真面目な専門家の方でしたが、原発有りき、なんだよな。
原発の廃止を目指しているCNICからは、ちょっと異質な講師の方を招待されたなー。

お話し変わって、ウルトラセブンとノンマルトのお話しが出ましたので、
いつもながらのトンデモを御一つ。

当方の思索おいて、軸を形成する重要な要素は、ここでの既知のものはグノーシス、
近代ではシュタイナーとなりますが、その間に挟まれて、ギリシャ神話、プラトン、
ずっと飛んで、日月神示に連なる天理金光黒住大本、その系統として火水伝文、
と連なりますが、その他大きな意識変化をもたらしてくれたのが「カタカムナ」
「ドゴン族の伝承」です。

そのドゴン族の伝承について。

アフリカ・マリ共和国に住む、ドゴンの人々について、以下自分で書くのが面倒なので(笑)

ドゴン族の天文知識の謎 より

「天空でいちばん重要な星は、人間の目に見えぬポ・トロ(宇宙一、小さい星)である」
「ポ・トロは夜空でいちばん明るい母なる星を、50年で一周する」
「ポ・トロの軌道は楕円形で、母なる星はその焦点の一つに位置する」
「ポ・トロは全天でいちばん小さくて重く、色が白く、地上にない種類の極めて重い金属から出来ている」
「母なる星には、ポ・トロの4倍も軽く、軌道もずっと大きいエンメ・ヤ(第三の星)が回っており
さらにそれをノンモ(魚人)の住むニャン・トロ(ノンモの故郷)が回っている」
「遠い昔、ノンモが地上を訪れ、オゴ(人類)に文明を与えてくれた」

ということで、

その他の引用、(http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/atlan09.html)さんのブログでは以下、

…ドゴン族の神話については、すでにマニアにはよく知られており、どちらかというと、
ひと頃、常識的な科学者からの否定的な発言が目立っていた。しかし、私はこの件に関していうと、
科学者に同調する気はまったくない。

 まずは、概略をかいつまんで紹介すると――

 西アフリカのマリ共和国に住むドゴン族は、なんとシリウス星人が地球にやって来たと思われる
神話を保有している。彼らの宇宙創世神話の中心にはシリウスが位置しており、かつてシリウスから
やって来た「水の主」ノンモが人類の祖となったというのである。

 ドゴン族のこの神話を最初に調査したのは、M・グリオールとG・ディテルランというふたりの
フランス人の人類学者で、1930年代から20年間にもわたり、彼らはドゴン族ほか3部族と
一緒に生活するなどして、住民からの信頼を獲得し、神話の奥義に接することができた。
 部族のなかでも神官などごく一部の人だけに、しかも、何段階ものイニシエーションを通して
伝えられる秘中の秘の知識である。

 グリオールとディテルランは1950年、その報告書を「スーダンのシリウス星系」というタイトルで、
フランスの人類学関係の雑誌に発表した。その後、『青い狐』(1965・邦訳1986)という著書で、
さらに詳しく報告している。

 問題は、彼らの報告に含まれていたドゴン族が持っていた驚くべき知識である。シリウスが主星と
伴星からなる連星であることや、シリウス伴星の周期が50年であること、またシリウス伴星は白色矮星
であることを、ドゴン族は知っていたというのだ。

 当時、まだほとんど西欧文明に接していなかった西アフリカの奥地に暮らす部族が、なぜこんな知識を
持っていたかが、ミステリーの始まりである。

 今日の天文学の知識では、全天で一番明るい恒星シリウスは、シリウスA(主星)、シリウスB(伴星)
というふたつの星からなる連星であることを、我々は知っている。

 シリウス伴星の存在については、1844年、ドイツの天文学者ベッセルが、シリウスの軌道の波打ち
運動から、伴星があることを予測し、この伴星の周期は50年で、非常に重い物質でできていると
推定していた。しかし、観測で確認されたのは1862年のことで、アメリカ人のA・クラークによる
屈折望遠鏡の発明によって、やっと人間の目でシリウス伴星を見ることができたのである。

 シリウスBは、半径は地球ほどだが、質量は太陽ほどもある。これは1立方センチの重さが1トンとも、
10トンともいわれる地球には存在しない物質でできているからだといわれる。こうした伴星の天文学的な
性質が確認され、最初の白色矮星とされたのは1925年のことだ。

 一方、ドゴン族のシリウス神話によれば、主星シリウスAのことを、彼らは「シギ・トロ(シギの星)」
とか、「ヤシギ・トロ」と呼ぶ。60年ごとに行われるシギの祭礼の儀式と深く関係している。

 しかし、この星はシリウス星系の根本ではなく、シリウスAを焦点にして、50年周期で楕円軌道を描いて
まわる別の星を、彼らは宇宙の中心に置いている。この星が宇宙におけるあらゆる創造の出発点だという。
ドゴン族はこの星を「ディジタリア」、または「ポ・トロ(小さな星)」と呼んでいる。

 ディジタリアは天空の中でいちばん小さい星だが、いちばん重い星だという。「サガラ」という地球上の
すべての生物が集まっても持ち上げられない重い物質でできており、「地上のすべての鉄に匹敵する」重さの
物質だという。

 これが伴星のシリウスBのことで、まさに、白色矮星であることを知っていたかのようである。
未開と思われるドゴン族が、なぜ、こんな知識を持っていたのだろうか?

 ドゴン族の知識には、ほかにも地球は太陽のまわりを運行しているとか、土星にはリングがあること、
あるいは、木星には4つの衛星がある、などというものがある。

月は「乾燥し、乾ききった血のように死に絶えている」ともいう。もちろん、こうした知識は、人間の肉眼で
獲得できるようなものではない。

中略

「ドゴン族の伝承によれば、ノンモは再び戻ってくる。その再来の日は「魚の日」と呼ばれる。再来の前兆は
「新しい星の出現」、すなわち「10番目の月の星」の再出現であるという。そして、「10番目の月の星」
の内部から、ノンモが箱船、すなわち着陸船で地球に降り立つという」

最初の引用はここまで。


次、引用(http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/9642d501e65fe74feb7a55a92f22d6b1)から、

地球に降り立ったノンモは3つのグループに分類される。

第一のグループは、「ノンモ・ディエの使者であり、偉大な業績を果たした」とされる。
地球文明を創造したのはこの一団であるようだ。

第二のグループは「池のノンモ」と呼ばれる一団で
「彼らは世界の浄化と再編のために犠牲となる。

しかし人間となって甦り、人間の祖先と共に箱舟で地球に降下する。
そして、元の姿に戻り、水底より地を支配して、子孫を増やす」
のだという。

これも同じく地球を来訪したノンモであるが、人間に混じって支配を行った一団であるようだ。

第三のグループは、「オゴ」と呼ばれる一団で、手に負えない厄介者の集団とされる。

彼らは完成を間近に控えたとき、作り手の意思に背き、世界に混乱をもたらした。

引用ここまで。

と言うわけで、ワシの大好きなカルト科学には絶賛大否定中!のドゴンの伝承ですが、
そんなことは関係ない、さらに詳細なシリウスと太陽系の情報がドゴンでは口伝されてきました。

現地球人は、不浄なオゴであり、太陽系はオゴの胎盤とよばれ、やがて時が来ると、宇宙神アンマが再び
ノンモを地球に使わして、不浄なるオゴ(地球)をノンモの支配にするということが伝えられている。

ドゴンの神話の真偽には当方の関心はなく、再びノンモが水中から地上を支配て、地球を浄化する
という筋書きが、私たちの精神的なパラダイムシフトに絡まるので、参照しているんですね。

と言うわけで、モンマルトの使者からの繋がりでした。


457. ろうし力学 2013年4月30日 01:15:44 : riuSNxeQ9qjU6 : E0T9YXZQMx
宮島鹿おやじさま

今さきっき、原発スレッドの投稿からの記事で、福島市の空間線量がマップで
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/uploaded/attachment/11024.pdf
出ていました。

伯母がマップの下端に位置する信夫に住んでいますが、そこの線量が
0.5〜0.75マイクロシーベルト毎時に位置しております。

二度ほど支援をかねて行きましたが、当然その後、被曝症状で半年ほどひどい
状態でした。現住所の問題(高速道路が近い)もありますし、要因は重なってますが
この福島の汚染実態は、もうここの方々の未来は短いと、チェルノブイリに照らし
てみれば、予想されてきますね。

呼吸による、内部被曝でしょう。先日関西に四日居たときの息のしやすさと比較
すると、私たちの多摩地域でさえ、放射能粉塵が飛び散る場所だってことですね。

引っ越しを検討しないと、近いうちにぶらぶら病になる体感予感がします。


458. 宮島鹿おやじ 2013年4月30日 19:25:44 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

ただいま、原発板に以下のURLにて投稿いたしました。
ご高覧ください。

http://www.asyura2.com/13/genpatu31/msg/433.html


459. 宮島鹿おやじ 2013年5月03日 22:52:54 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

>>428においてお話していた、数学の呪術性についてですが、ほぼ、同様の問題意識のもとに著述されている本を一応読みきり、その概要について簡略にご報告します。

書名は「神は数学者か?」 著者はマリオ・リヴィオというアメリカの宇宙物理学者です。

本書における問題意識とは「数学の不条理な有効性」についてであり、具体的には、自然界の物理法則がなぜ数学的表現によって簡潔に表すことができるのかという謎です。
このことについては、ピタゴラスにおいては、究極的実在(アルケー)は「数」であり、秘教的瞑想により数学的知識を獲得することが可能であるとされており、プラトンもそういった神秘主義的・秘教的影響を強く受けていたというのは>>174,>>211〜216において述べたとおりです。彼らにおける数学的表現とは、和音における整数比や、ピタゴラスの定理などが挙げられます。

そして、ユークリッドにおいて確立された幾何学が、その後、ヨーロッパ思想においてどのような位置づけを持っていたかについて以下に引用します。


ガリレオ 『偽金鑑識官』
・・・その(自然の)書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、そのほかの幾何学的図形であって、これらの手段がなければ、人間の力ではその書を一字一句たりとも理解できないのです。そして、それなしには、暗い迷宮を虚しくさまようだけなのです。

デカルト 『方法序説』
・・・幾何学者たちがもっとも難しい証明に達するためにいつも使っている、きわめて単純で容易なあの推論の長い鎖は、私が次のように考えるきっかけとなった。すなわち、人間の知識の範囲に属するすべての事柄は、同じ仕方で互いにつながっていると。そして真でないどんなものをも真として受け入れることを差し控え、ひとつのものから他のものを演繹するために必要な順序を常に守りさえするなら、どんなに遠く離れたものでも最後には到達できないものはないし、どんなに隠されたものでも発見できないものはない、と。

ホップズ 『リヴァイアサン』
・・・「真理」とは、私たちが断定をおこなう際に名称を正しく並べることである。ゆえに、正確な「真理」を探求する者は、自分の用いるすべての名称が何を表すかを記憶し、それに従って正しく配置しなければならない。・・・そのため、神が人類に与え給うた唯一の学問である幾何学においては、言葉の意味を定めることから始めるのである。意味を定めることを人は「定義」と呼び、計算の初めに置く。

ヒューム 『人間知性研究』
・・・人間の推論ないし探求のあらゆる対象は二種類に自然に区分されよう。・・・自然のなかに円ないし三角形が存在しないとしても、ユークリッドによって論証された真理は、その確実性と証拠を永久に保つことであろう。

カント 『純粋理性批判@』
・・・空間は人間の外的な経験から引き出される経験的な概念ではない。・・・空間は必然的で先天的な像であり、すべての外的な直観の土台となるものである。・・・すべての幾何学の原則に必然的な確実性が備わっているのは、そして幾何学の原則を先天的に構成することができるのは、この先天的な必然性が存在するからである。もしも空間という像が、一般的な外的な経験から作られ、獲得された後天的(ア・ポステリオリ)な概念であったならば、数学的な規定の最初の諸原則は、知覚にすぎないものとなつてしまうだろう。

そして現代の人で

アインシュタイン
「数学は、経験とは無関係な・・・思考の産物なのに、なぜ物理的実在の対象物にこれほどうまく適合するのか?」

★ここで、強調したいのは、これらの人々が口を揃えて「数学スゲー」と言っていることです。当然のことながら権威として持ち出しているわけではないことはご承知いただいていると思います。

だいぶ長いのでいったんここで終了です。


460. 宮島鹿おやじ 2013年5月03日 22:56:31 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
訂正です。

誤:>>>428においてお話していた、数学の呪術性についてですが

正:>>>450においてお話していた、数学の呪術性についてですが


461. 宮島鹿おやじ 2013年5月03日 23:38:43 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
本書「神は数学者か?」においては、数学は、
「発見」されるもの(=人間とは独立して存在する実体的なもの)か、
「発明」されるもの(人間の意識の産物であり、いわば道具的な存在) という対立軸において著述が進められます。

上記コメントにあるのは、当然ながら、数学=発見されるもの=プラトン的実体的真理 という文脈が ヨーロッパ思想に流れていたという根拠となっています。
つまり、ユークリッド幾何学(数学)は全く疑いようの無い真理体系であり、そのことはヨーロッパ的な知の伝統であり、特に、ガリレオ、デカルト以降の近代思想においては、中世キリスト教神学に取って代わる「明晰判明」な形而上学の後継者となったと考えられます。

そういった「幾何学=真理」という伝統に対する最大の震撼が、非ユークリッド幾何学の成立であるとされています。

>双曲幾何学は数学の世界に雷鳴のごとく現れ、ユークリッド幾何学のみを空間の完全な記述とする考え方に大きな衝撃を与えた。ガウス、ロバチェフスキー、ボーヤイの研究が世に現れるまで、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別の公理を選ぶことで別種の幾何学を構築できるという事実が明らかになると、数学は人間の心とは独立して存在する真理を発見するものではなく、人間の発明にすぎないのではないかという疑いが生まれた。さらに、ユークリッド幾何学と物理的空間の直接的な関連性が失われたことで、数学は宇宙の言語であるという考え方に致命的な欠陥が見えはじめた。そしてガウスの弟子のひとり、ベルンハルト・リーマンが、非ユークリッド幾何学は双曲幾何学だけではないことを証明すると、ユークリッド幾何学の地位はどん底にまで落ちた。


462. 宮島鹿おやじ 2013年5月04日 00:01:27 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
この後、ゲーデルの「不完全性定理」やら、ヴィトゲンシュタインやらラッセルやらいろいろと難しいことが書いているのですが、こういった調子で、

数学=発見説 と 数学=発明説 の対立は 20世紀以降〜現代にまで持ち越されているようです。以下にその対照的な見解をご紹介します。


G・H・ハーディ 『ある数学者の生涯と弁明』(プラトン主義の立場を代表)
・・・私にとって、また恐らくは大部分の数学者にとって、もうひとつの実在、すなわち私が(数学的実在)と呼ぶものがある。・・・ただ、つまらぬ誤解を避けるために、私の立場を断定的に述べようと思う。数学的実在が私たちの外の世界に属すること、それを発見あるいは観察するのが私たちの仕事であること、そして私たちが証明し、自らの“創造”であると大言壮語する諸定理は、単に私たちの観察記録に過ぎないことを私は信じている。これは、さまざまな形で、プラトン以降の多数の高名な哲学者によって取られてきた見解であり、私はこの見解に同意する者にふさわしい言葉使いをしよう。・・・

エドワード・カスナー
ジェームズ・ニューマン『数学の世界』
・・・こうした数学の高い地位にもかかわらず、数学の意味が正しく認識されたのは、やっと最近になって、非ユークリッド幾何学と四次元の幾何学とが生まれてからのことです。・・・非ユークリッドの異端ほど大きな役割を果たしたものはありません。この異端を生んだ勇敢な批判的精神のおかげで、私たちは、「数学的な真理は私たち自身の精神とはまったく関係のない (客観的な)存在である」という考え方に打ち勝つことができたのです。今日の私たちには、こうした考え方がかつて存在したということさえ不思議に思われるほどですが、しかし、ピタゴラスもデカルトも、そして一九世紀までの何百というほかの大数学者たちも、このような考え方をしていたのです。

★とりあえず本日はこれまでです。やっぱ疲れちゃいますね。


463. ろうし力学 2013年5月04日 01:36:12 : riuSNxeQ9qjU6 : eUTFAAuGXY
宮島鹿おやじさま

こんばんは。

いよいよ出ましたね!この話題。
ユークリッド幾何学でのみ思考することの限界に気が付いたのは、先人の大いなる
飛躍でした。
リーマンのリーマン球にあるような、空間に対するトポロジカルな認識は、
空間とは、自己の精神が成立させているという、量子力学の知見へと流れを、
人類に生み出していきます。

四次元時空と、四次元空間は、根本的差異をもっているのですが、一般には
同じカテゴリーに閉じ込められて語られますが、それは根本的間違いの一つです。

四次元時空認識は、観察者を含めない認識に陥り、相対性から逸脱します。矛盾。
四次元空間は、観察者を巻き込んで、生きている現場から思考を起こします。

空間が、自己の精神から由来する概念であることが、非ユークリッド幾何学から
我々の意識に意識化されてくると、観察(生きている現場)空間そのものが、
神聖幾何学の構造体だと、もうすぐ地球人類の理解にも開かれてくるでしょう。

自己を肉体とイコールとし、空間と対峙する物体としているかぎり、核による
人類破滅の方向性が改められることは無いでしょう。
どうしてかと言いますと、自己を物体とみなす認識では、空間は先天的で、自己
とは完全に切り離されたものであり、その空間(四次元時空)における人間の
行動原理は、強者のみが生き残れるという、生存を脅かされて進む恐怖支配だか
らです。この行動原理のゴールは、全ての破壊ですから。

四次元空間は、生きている空間認識です。なぜ自分は世界を観察することが出来ているのか、という空間の幾何学的構造を理解する入口だからです。

私たちの意識に、空間が精神とイコールであることが開示されてくると、
「他者」という概念自体がひっくり返ります。

自己の位置が、肉体という物体ではなくなります。ですから他者の位置も変わります。他者の位置が自己にとって替わるので、今までの他者を自己として認識せざるおえませんから、他者を破壊するという観念自体が消失します。

世界が幾何学で組み立てられていることは、普通のことと理解されます。
否、それは逆であり、神聖幾何学の空間構造性が宇宙と存在(生命)を生み出しているわけですから、「「数学は、経験とは無関係な・・・思考の産物なのに、なぜ物理的実在の対象物にこれほどうまく適合するのか?」
という、適合の真理をトンチンカンな考え方(経験とは無関係な・・・思考の産物なのに)で悩まずに済むようになってきます。

数学スゲーの次元の違いがあります。本当の凄さに未だ遭遇していない(人類総体として)のですから。


464. 2013年5月04日 07:38:43 : 7U6Odx8FKM
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

要点をまとめて下さり、焦点を掴むことができました。
ありがとうございます。

私は、左翼の出なので、業界の用語ですが、ひとりごとを記述します。

焦点1:思考と存在、どちらが第一次性を有するのか?
焦点2:空間と時間、同上。


465. 宮島鹿おやじ 2013年5月04日 12:56:06 : NqHa.4ewCUAIk : tfkFisyMC2
ろうし力学様

こんにちわです。
昼食をとり、満腹です。
ところで神聖幾何学についてですが、すこし検索してみましたが、神秘主義思想的なものであると確認しました。現時点においては私はこれについてはコメントを控えますので、ご承知ください。


安芸ガラス様

こんにちわ。
コメントありがとうございます。
多少なりともお役に立てれば甲斐もあるものです。
さて、思考と存在についてですが、言わずもがなかもしれませんが、私も「おさらい」という意味で若干振り返ってみます。

デカルト以前のスコラ学においては、実体(本当に存在するもの)概念を、種差、個差といった分類によって行っていた。デカルトにおいては、その実体概念を

思惟を属性とする 精神
延長を属性とする 物質

に区分し、これらのみを、実在する「実体」としました。

デカルトの二元論においては、精神と物質はいかなる相互干渉もありえないとされており、精神と物質の間に見られる現象、例えば傷を負って、痛みを感じるという当たり前の出来事も、物質に関するタイマーと、精神に関するタイマーがそれぞれ独立していて、どういうわけか連動しているという「トンデモ」な説明が弟子によって大真面目に行われたという事実があります。

この精神と物質の二元論に対して、前者(精神)こそが実体(真に存在するもの)であるとし、物質を前者に還元する一元論的思考を観念論、その逆を唯物論というふうに整理できると思います。

第一次性についてはなんともいえませんが、観念論、唯物論いずれも、デカルト心身二元論の子孫であり、デカルトそのものも、その実体概念をスコラ哲学から継承しており、さらにその実体論はアリストテレス−プラトンにまでさかのぼれるということは、今までのお話の骨子となっていると考えます。



466. ろうし力学 2013年5月04日 21:57:24 : riuSNxeQ9qjU6 : n55zneIswE
宮島鹿おやじさま

こんばんは。

〉ところで神聖幾何学についてですが、すこし検索してみましたが、神秘主義思想的なものであると確認しました。現時点においては私はこれについてはコメントを控えますので、ご承知ください。

ええ、了解しております。
ただ、同じ神聖幾何学と名付けてしまって失敗でした。
おやじさまが検索されてご覧になったものとは、おそらくまったく違うものです。
と言いますのは、当方は既存の神聖幾何学については、一文字も読んだことが無いからで、
当方のほぼオリジナルといいますか、独自な名付けだからです。

参照された内容は、当方のコメントとは切り離して頂くことを、希望しておきますね。
まぎわらしくてすみません。他の呼び名を検討しておきます。


467. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 06:36:25 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ご紹介した著作の結論の部分を引用します。

(引用開始 p323〜)

 さて、残るはウイグナーの謎の最後の要素だ。数学理論の存在を保証するものは何か? たとえば、なぜ一般相対性理論は存在するのか?重力の数学理論が存在しない可能性はないのか? 答えはあなたが想像するより単純だ。保証などないのである!

 世のなかには原理的にさえ正確な予測の付かない現象はいくらでもある。

 たとえば、<カオス>を生み出すさまざまな力学系。初期条件のわずかな変化がまったく異なる最終結果を生むからだ。カオスを示す現象としては、株式市場、ロッキー山脈上空の気象パターン、ルーレット盤のなかで弾むボール、タバコの先から立ち上る煙、それから太陽系の惑星の軌道が挙げられる。確かに、数学者たちはこういった問題の重要な性質を解き明かす、巧妙な数学的形式を生み出している。

 それでも、決定的な予測理論は今のところ存在しない。

 確率論や統計学といった分野は、まさにこういった問題に立ち向かうために作られたものだが、入力″をはるかに上回る出力″を生み出す理論はない。同じように、<計算複雑性>と呼ばれる概念は、実際的なアルゴリズムを用いた問題解決能力の限界を明らかにしている。そして、ゲーデルの不完全性定理は、ある意味で数学の限界 − それも数学内部での数学の限界 − を示している。

したがって、数学は特に基礎科学の記述に関しては抜群の威力を発揮するが、われわれの宇宙のあらゆる側面を記述し尽くすことはできない。

つまりある意味では、科学者たちは数学で解決できそうな間題を選び出し、研究してきたとも言えるのだ。


 これで数学の有効性にまつわる謎は一件落着だろうか? 最善は尽くしたつもりだが、全員が本書の内容に完全に納得してくれたとは思っていない。しかしながら、最後にバートランド・ラッセルの著書『哲学入門』から一節を引用し、本書を締めくくりたいと思う。

 それゆえ、哲学の価値に関する議論は次のようにまとめてよいだろう。問いに対して明確な解答を得るために哲学を学ぶのではない。なぜなら、明確な解答は概して、それが正しいということを知りえないようなものだからである。むしろ問いそのものを目的として哲学を学ぶのである。
 なぜならそれらの問いは、「何がありうるか」に関する考えを押し広げ、知的想像力を豊かにし、多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らすからだ。そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、心もまた偉大になり、心にとってもっともよいものである宇宙とひとつになれるからである。
 [『哲学入門』高村夏輝訳、筑摩書房。一部改変]

(引用終了)


著者によるこの「妥当」な結論に、現時点では私は同意します。同様のことを、京大の小出助教も述べておられますし、>>351でわずかに触れたファインマンの言葉も同様です。

このことを受けて私が主張したいのは以下の点です。


1.科学者らの拠って立つ数学的“真理性”は、究極的には根拠のないものであるという有力な意見が多数ある。
2.現実的にも、科学者らがかなりの精度で予測できるのは、極めて「基礎的で管理された状況」においてのみであり、原子炉から放射性物質が「風の向くまま」に放出された状況という極めて「非管理的」状況においては、何が起こるのかわからないというのが誠実な認識である。
3.にもかかわらず、原子炉爆発というチェルノブイリを除き前代未聞の状況において「安全だからそこにいなさい」などという発言は、「非科学の極み」であり、むしろ、政治的利害的発言の証拠である。


468. 2013年5月05日 07:42:25 : oh5QCDFPcv
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下のまとめに同意します。

>1.科学者らの拠って立つ数学的“真理性”は、究極的には根拠のないものであるという有力な意見が多数ある。
2.現実的にも、科学者らがかなりの精度で予測できるのは、極めて「基礎的で管理された状況」においてのみであり、原子炉から放射性物質が「風の向くまま」に放出された状況という極めて「非管理的」状況においては、何が起こるのかわからないというのが誠実な認識である。
3.にもかかわらず、原子炉爆発というチェルノブイリを除き前代未聞の状況において「安全だからそこにいなさい」などという発言は、「非科学の極み」であり、むしろ、政治的利害的発言の証拠である。

これまでの作業は、常識を疑うことだと思います。
常識(事象)は物質的なものと観念的なものの複合体です。
この常識は以下の根っこです。

スコラ哲学―種差、個差
デカルト以後―実体―思惟と存在―数学

これからの作業は以下です。

>子どもが「熱いタオルは嫌じゃぁ」
大人は「熱くないですよ」

ここでは、大人の言葉は子どもの「熱い」と対立してしまいます。
大人は「もう冷たいよ」「冷たくなったよ」「冷たくなりつつあるよ」です。

大人が子どものものを捉えて、上手に差し出し、受けとらせるには、対立をつくらないことだと思います。

これは、過去から将来にむすぶところの中にあるものを掘り出して、未来を創造することをしているのです。


469. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 11:07:07 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

こんにちわ。

ご同意をいただきましてありがとうございます。
まだ、ちょっと、参考になると思われる部分を以下に引用します。


(引用開始 p318〜)
・・・科学者たちは、まず一連の実験や観測を通じて自然に関する事実を学ぶ。すると、こうした事実をもとに自然現象の定性的なモデルを築き上げる(「地球はリンゴを引き付ける」、「素粒子同士が衝突すると別の粒子が生まれる」、「宇宙は膨張している」など)。

科学の多くの分野では、新しい理論が数学で記述されないこともある。

ダーウィンの進化論などはその好例だ。自然淘汰の理論は数学的形式に基づいていないが、種の起源を見事なまでに明らかにしている。一方、基礎物理学では、その次に数学を用いた定量的な理論が作られるのが一般的だ(一般相対性理論、量子電磁力学、ひも理論など)。最後に、その数学モデルを用いて、新しい現象や粒子の存在、未知の実験結果や観測結果を予言する。ウイグナーやアインシュタインを悩ませたのは、まさに最後のふたつのプロセスの驚くべき有効性である。なぜこうも毎回、既存の実験結果や観測結果をうまく説明できるだけでなく、まったく未知の洞察や予言をももたらす数学的ツールが都合よく見つかるのか?

 これは「数学の不条理な有効性」を言い換えたものである。この疑問に答えるべく、数学者のルーペン・ハーシュが考えた見事な例を紹介しよう。彼は数学や理論物理学の似たような疑問を分析するために、ひとつの単純な実験を提案した。

透明でない壷に小石を入れるとしよう。

まず、壷に四つの白石を入れ、次に七つの黒石を入れるとする。歴史上のある時点で、人間は自然数という抽象概念を用いて、色とは無関係に小石の集まりを表す方法を発明する。つまり、白石の集合には「4」という数が関連付けられ(あるいは、TTTTでもWでも、好きな記号でよい)、黒石には「7」という数が関連付けられる。さらにこの実験で、人間はもうひとつの概念 − 加算 − を発明する。

そして、加算を用いれば、「モノを集める」という物理的な行為をそっくりそのまま表現できることを発見する。

言い方を変えれば、4+7と表記される抽象的なプロセスによって、壷のなかの小石の総数を正確に予言できるわけだ。

これは何を意味するのか? 

人間は、この種のすべての実験の結果を確実に予言できる、すばらしい数学的ツールを生み出したということだ。

しかし、これは見かけほど効果絶大なツールではない。なぜなら、水滴には通用しないからだ。壷に水滴を四滴落とし、次に七滴落としたとしても、壷に11滴の水滴があるようには見えない。したがって、液体や気体についても小石と同じような予言をおこなうために、人間はまったく別の概念(「重さ」など)を発明し、液体の重量や気体の体積を量ることを思い付かなければならなかった。
 この例が意味することは明らかだ。数学的ツールは適当に選ばれたのではなく、似たような実験や観測の結果を正確に予言できるよう、意図的に選ばれたのである。したがって、少なくともこのごく単純な例で言えば、数学の有効性は初めから保証されていたも同然なのだ。人間はどの数学が正しい″かを前もって知る必要はなかった。試行錯誤を重ね、効果的なものを選べばいいからだ。さらに、いつも同じツールを使う必要もない。時には、都合のよい数学的形式が存在せず、発明しなければならないこともある。ニュートンは微積分を発明したし、現代の数学者はひも理論を研究する過程でトポロジーや幾何学のさまざまなアイデアを生み出した。あるいは、すでに都合のよい数学的形式が存在するとしても、それが問題の解決にふさわしいことに気付かなければならに気付いた。要するに、人間は類い希なる好奇心、忍耐力、想像力、意志力によって、さまざまな物理現象をモデル化するのにふさわしい数学的形式を見つけ出してきたのだ。

(引用終了)


470. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 11:43:36 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

西洋的思考が、実体概念を中心とした論理によって、「私は真理を知っているのだ」という狂人に成り果てるプロセスを時として持ってしまう傾向が、ある程度把握できたように思います。その十全感の中心には数学があったという感触をもっています。

時として感じる、連中の、あの、押し付けがましい感じ、覆いかぶさってくる感じ、の根拠はこういった雰囲気の名残りであると思います。そうでなければはるばる海を越えて「宣教」に来やしませんよね。

全くの余談ですが、ある婦人のエッセイで、その婦人が列車でヨーロッパ旅行をしていたとき、同乗していたフランス男性に口説かれたというエピソードがあります。その婦人は既婚者でもあり、断ったのですが、そのフランス男性は「そんなはずはない。あなたは私と性的関係を結びたいはずだ。」とさらに迫ったそうです。しつこさも論理的です。

さて、本題に戻りますが、>>33において、山下俊一の師匠である橋田邦彦はいかなる人物かという問いから始まったこの会話ですが、私としては、1.「西洋からの流入物」については一応の締めとさせていただきたいと思っています。>>465
まあ不完全ですので継続してお話させていただくのは当然ですが、私としては、正法眼蔵に対する橋田氏の認識とはどういうものであったのかについて考えてまいりたいと思います。

ところで、

>大人が子どものものを捉えて、上手に差し出し、受けとらせるには、対立をつくらないことだと思います。

についてですが、大人とは、子どもとは何を意味しているのでしょうか。


471. 2013年5月05日 12:22:12 : oh5QCDFPcv
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>私としては、1.「西洋からの流入物」については一応の締めとさせていただきたいと思っています。

了解しました。


>についてですが、大人とは、子どもとは何を意味しているのでしょうか。

深い意味はありません。
子どもとは、自分の子どもでも、連れ合いでも、会社の同僚でも、同じです。

ではまた。


472. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 12:52:55 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

ご覧頂いているでしょうか。

キリスト教社会にとっての「神」
キリスト教社会と「科学」

については、よろしければ引き続きご考究ください。
私は時間の関係もあり、橋田氏、道元、正法眼蔵の世界へ参りますが、ご自由にコメントをお願いします。

ろうし様
手紙様
オオトラ様
統計学先生様
皆様

よろしければ引き続きコメントをお願いします。何に関するものでも結構です。


473. 2013年5月05日 13:22:54 : oh5QCDFPcv
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

以下の記述は、人間の精神活動と価値体とを言い当てていると思います。

>言い方を変えれば、4+7と表記される抽象的なプロセスによって、壷のなかの小石の総数を正確に予言できるわけだ。

これは何を意味するのか? 

人間は、この種のすべての実験の結果を確実に予言できる、すばらしい数学的ツールを生み出したということだ。

これまで作業を共同で行なって下さり、ありがとうございます。


474. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 13:43:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

>これまで作業を共同で行なって下さり、ありがとうございます。

とんでもございません。
こちらこそ感謝しております。
これからもよろしくお願いします。

なお、現在、橋田氏の「正法眼蔵の側面観」を読んでいますが、!と思うところがいくつかあります。ある意味で、西欧哲学をしつこくやったのは予習として正解だったと思います。後ほどご報告します。


475. あやみ 2013年5月05日 19:09:22 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
おやじさま、みなさま こんにちは。

しばらく自分の記事を書いておりました。以前からぼんやり考えていたことを、このスレッドでみなさまからご教示いただいたことを参考にしつつ書きました。言語に関わることに中心をおいたため近代思想全般には触れておりませんので皆様には物足りないであろうと思いますが、よろしければお付き合いください。

http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/448.html

>キリスト教社会にとっての「神」
 キリスト教社会と「科学」
 については、よろしければ引き続きご考究ください。

了解しました。

>数学は、
「発見」されるもの(=人間とは独立して存在する実体的なもの)か、
「発明」されるもの(人間の意識の産物であり、いわば道具的な存在)か、

これが鍵だとおもいます。ここから考えてみます。


476. 手紙 2013年5月06日 01:47:15 : ycTIENrc3gkSo : kwiGLlCOJc
おやじさま、手紙です。
本スレッドに展開されている内容を考える上で、適材な引用を感謝します。

数学史を紐解くと純粋な知的興奮と共に、数学の思考可能性はどこまでなのかというようなことも考えさせてくれます。それに話が少しそれますが、アジアにはラマヌジャンという天才もいますしね。彼は私が知る中でも最高位の傑物です。さまざまな人が言及されていますけれども、インドの片田舎からこれだけの大器がでるというのは、"何か"訳があるはずです。

歴史を振り返れば数学を含む科学は、人々を世俗(権威)的宗教の精神的支配から開放してくれたようにも思います。しかしあからさまに科学を装ったものが、未だに私たちを右へ左へ惑わしています。あるいはテレビや新聞やネットの言説や演出に、新たな論理的精神的支配を受けてもいるのでしょう。ひとつの可能性としてネットが権威になってしまうのは、本当に残念なことです。いつも誰にでも開かれたものであって欲しいと願います。

その上で私たちはどこで生きるにしても、ますます排除と分断が激しくなるような世界において、ゆるぎなく頼りになるものが欲しい。

そして、人のこころは頼りなく揺れてしまいます。

唐突ですが、そこで私は思うのです。
"人が生きていくために本当に必要なよすがとはなにか?"

というようなことを思ったまでは良かったのですが、未だに答えは出ていまセン。

でも少し手ごたえはあるのです。
それは、出会いです。

存在と存在、可視と不可視、一回性と循環性、たまさかとはからい。

おやじさま、皆さま、ありがとうございます。


477. 宮島鹿おやじ 2013年5月06日 03:34:36 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あやみ様

こちらは深夜、あるいは未明というような時間です。

数学に関する、発明と発見というコンセプトですが、上記著作者の結論は、基本的には「発明」であるが、発明された概念から、連結・加工がなされる中で「発見」がなされたという、いわば折衷的なものとなっています。

もしよろしければご一読をお薦めします。


478. 宮島鹿おやじ 2013年5月06日 03:42:19 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
手紙様

おはようございます。

>その上で私たちはどこで生きるにしても、ますます排除と分断が激しくなるような世界において、ゆるぎなく頼りになるものが欲しい。

まさにそのとおりと思います。

重複になりますが、以下のラッセルの言葉が思い出されます。

・・・永遠なる何物かを探究することは、ひとびとを哲学へと導びくもっとも深い本能の一つである。疑いもなくそれは、故郷というものへの愛や、危険から逃れようとする欲求から派生する。したがってその本能が、災害に生活をさらされているひとびとにもっとも強烈であることがわかるのだ。・・・

私はラッセルは、少なくとも「心ある人」だと思っています。そういう意味では貴重なアドバイスをくれる同志であると思います。皆さんと同じです。

今、この瞬間に、みんなと一緒に舞っているのだという感覚と近いものがあります。


479. 宮島鹿おやじ 2013年5月07日 07:22:56 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様おはようございます。

現在、私が収集した橋田氏関連の文書ですが、以下に掲載します。
よろしければご一読ください。

「正法眼蔵の側面観」  橋田邦彦
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/434.pdf

「教育者型人格における宗教信念と実践の問題」 松本皓一
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/435.pdf

「無適・橋田邦彦における行について」 松本皓一
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/436.pdf

「行学一如の歴史的背景」 石井公成
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/437.pdf

「雑談」 橋田邦彦
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/438.pdf

なお、私は現在、「正法眼蔵」関連の書物を読みつつあります。
難しいです。
また、私は、それを読むにあたって、「博士」の見解を参考にしていることを予めお伝えしておきます。


480. 2013年5月07日 10:18:57 : oh5QCDFPcv
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

私は以下の焦点で拝読をします。

>「発見」されるもの(=人間とは独立して存在する実体的なもの)か、
「発明」されるもの(人間の意識の産物であり、いわば道具的な存在)か、


拝読は下のものです。

>「雑談」 橋田邦彦
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/438.pdf


子どものころ、日本の技術は優秀だと云われておりました。
しかし、社会に出ると現場の基準は、西洋・米国のものでした。
日本で国産ができるようになったのは、橋田邦彦が文部大臣のころからです。
ですから、とても興味深い「雑談」です。
彼は独逸は独逸の学問と語っていますが、専門化された学問のことと捉えました。
では、日本の学問とは、学問(科学)と哲学(行)の2重性になるのでしょうか。


481. 宮島鹿おやじ 2013年5月07日 10:55:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

まだ、全体をよく読んではいませんが、橋田氏の言葉で「日本科学」というものがあります。「日本精神」「日本仏教」・・・。

正直言って、違和感があります。

まだ、違和感の中にいるだけですが、もう少し検討してからご報告します。


482. 宮島鹿おやじ 2013年5月08日 21:48:43 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
余談ですが、本日、ほぼ狂気に囚われているように見える人に会いました。

その人は電車が好きなようでリュックの中は電鉄関係の本でいっぱいでした。

その人は、こちらから問われたわけでもなく、「京王電鉄は・・・。」などとつぶやき、それに対して自分で「ウフ、ウンウン」とうなづき続けていました。ダイヤのことや、列車の型式などについては恐るべき知識を有しているように見えましたが、まったく会話が成立するようには見えませんでした。というよりも、

私が、その人に「・・線の・・駅は・・・ですか?」 とたずねると、
その人は「それについては・・・です。」という会話は成立するのかもしれないと思いました。つまり、閉じた、固定された「情報の集積」からのデータの抽出という形は可能かもしれないが、何か未知の部分を含む、今後、変化していくであろう事象に対する共通認識の形成ということは明らかに不可能だと思われました。

今手元にある「わかりたい、あなたのための現代思想入門」p11に

「形而上学の歴史は絶対的な<自分の話すのを聞きたい>である。この無限な絶対者が自分自身にたいして自分自身の死としてあらわれるとき、この歴史は終結したのである。差延なき声、書字なき声は絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。」

とあります。私は後半部分はイマイチわかりませんが、前半部分は自分なりの説明をすることができるように思います。

つまり、<自分の話すのを聞きたい>とは「独り言」のことである。
独り言とは、対話者のいない、自分の見解をただひたすら繰り返すことであり、いわば閉鎖空間のようなものである。そして、その特徴は演繹的である。

例: 人間は皆死ぬ。  (一般命題)  ソクラテスは人間である。ゆえに。
   ソクラテスは死ぬ。(個別命題)
   
   人間は皆死ぬといったとき、ソクラテスは人間に含まれる以上、
   一般命題の中に個別命題は元々含まれている。
   だからこの論理展開はあたりまえである。(一種の同義反復である)

この閉じた論理空間にいる間は、この論理を展開しているものは常に絶対的に正しい。私が出会った極度の「テッチャン」もこの空間の中で安らいでいるのではないかと思いました。「・・線特急・・行きは・・駅停車時刻・・・であるから・・・に行くためには・・・しなければならない。」

記憶優先の教育体系、または、ある種の学問そのものが、十分に「狂気」を培養・促進してしまうという認識を持ちました。私は、そのいつまでも独り言を言い続ける不気味な青年のことが何かの犠牲者のような気がしました。決して自分とは関係のない世界の人だとは思えませんでした。全くの余談ですみません。


483. 手紙 2013年5月09日 00:37:56 : ycTIENrc3gkSo : K5MGJL0gyQ
おやじさま、一言だけ申し上げます。

排除され孤独に放り込まれると、壁ができます。

見えない壁です。

それを破ろうとして"魔"法を使います。

それが狂気だろうと考えています。

扉を作って欲しい、もっと言えば開けて欲しい。

そういった耳に聞こえぬ声を聞くこと、目に見えぬものを見ることは、

人にも社会にも大切だろうと考えます。

今、東北とくに福島県に壁ができつつあります。

造られた壁です。


484. 宮島鹿おやじ 2013年5月09日 04:43:54 : NqHa.4ewCUAIk : DViFg96Bsk
手紙様

未明です。

目が覚めたのでコメントを拝見しました。ありがとうございます。

頂いたお言葉を大変重く受け止めました。そして、新たな「気づき」があったかもしれません。私は自分も被曝者であり明らかに健康障害(喉などの炎症、下痢)もあったという自覚があります。私は事実関係をすこしでも知ろうとしてじたばたしています。

私は、福島の人たちが、なぜもっと怒らないのか、行動しないのかと訝しがるところがありました。

つい先日、以下の動画を見ました。浪江にお住まいだった方のお考えを述べられたものです。(4月21日 東村山市講演会 )

http://www.youtube.com/watch?v=wi-C1MTgNbo

このお方がおっしゃっている中で最も重要なことは、分断と対立をもたらす思考を回避することと理解しました。

また、避難を実行した福島の方々に対して、その避難を困難ならしめるような不当な対応が至る所で起きる(不動産賃借の拒否、クレディットカード更新拒否)ことが明らかにされています。私は「真綿で首を絞める」という表現を感じました。そしてそれは意図的に行われている恐れすらあると考えています。つまり産業界はあらゆる手を尽くして、福島から避難させないようにしているのではないか。簡単に言えば「避難先に居辛くさせようとしている」としているのではないか。そして戻らせようとしている。

今、信じがたいような排除と孤独があの地で満ちている。そして日本中の避難先で。

見てのとおり、私は「調子はずれ」な人間です。このスレッドそのものが調子はずれかもしれません。

こんな私ですがどうかよろしくお願いします。


485. 2013年5月09日 08:24:45 : uiVcvHIHfl
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

狂気。
下は、あやみ さんの記事です。
そこの>>06 のコメントに記述されている有様は、狂気です。

http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/448.html

例えば、原発に反対し、平気で、レントゲン検査で、放射線を浴びるさまなどです。


486. 2013年5月09日 10:00:36 : uiVcvHIHfl
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。
TPPに反対して自民党に投票をする、これを解すことができない私も狂気です。


487. 2013年5月09日 12:18:21 : t9SwUGuGfg
お久し振りです 最近益々人様の事は如何でも良いと思いつつホニャラカに励んで

居ます有る意味わしに出来る事を考え続け実践した結果なので単なる諦めでは無い

と自身で納得していますが 大多数の方々は以外と真実の被曝状況とか汚染とかの

認識をお持ちと思います その上で解決策乃至有効な対応が不可能との認識に至り

対応不能の問題に拘泥する事無く時間を無駄にせず 刹那的に生きる道を選択した

のかも知れないと思って居ます まぁそれも別の形の生に対するサバイバルかもね

なんて思って居ます 四月の二十日過ぎから非常に大量の生霊の憑依が始まり

暫く対応に大童でした 新しい段階に入ったと思っています 家内は霊能者なので

時々現在の状況をボソっと話しますがわしと同じで全体像は掴め無いようです

まぁ 成る様になるさっーのが現在の状況ですが 思考停止状態では有りません



488. 宮島鹿おやじ 2013年5月10日 06:24:21 : NqHa.4ewCUAIk : kuLDXgQrfA
安芸ガラス様
オオトラ様

おはようございます。

現在、「橋田氏と正法眼蔵」と趣旨で、いくつかの文書を確認していますが、はっきりわかっている一点についてだけ報告できることがあります。


橋田氏は、道元、正法眼蔵の世界について語っていますが、彼自身は「座禅をやっていない」ようです。

このことは、今後、思索を進める上で決定的に重要な事項であると思います。

「正法眼蔵の側面観」 p184
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/434.pdf

「教育者型人格における宗教信念と実践の問題」p14 上段
http://www.asyura.us/bigdata/bigup1/source/435.pdf


なぜ、座禅をやらなくとも、道元の世界を真に理解することができると思ったのか?この問いへの解答は、すでに、このスレッドにおいて明白であると私は考えます。



489. 宮島鹿おやじ 2013年5月11日 23:09:07 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
現在、正法眼蔵に関する本を読んでいますが、原文は全く解読不能であり、その解説書ですら大変に難解です。

なお、上記の「座禅をやっていない」という点についてですが、一応私がピンときた点についてお伝えいたします。

まあ、一言で言ってしまえば「畳の水練」ということです。

私も打撃系武道を若干やり、何回か試合にも臨みましたが、全く試合を経験したことのない人が「試合とはこういうものである・・・。」などと話すのを見れば大変に違和感を抱きます。

道元という人が著した正法眼蔵は明らかに「不可視」の世界について語られていると思うのですが、にもかかわらず、それに向けての実践を全く行っていない人(橋田氏)が、昭和10年に駒澤大学で、僧侶たちの前で講演を行っています。(>>45

そして、その不可視に向けての実践である座禅・瞑想といった「行」に対して、科学的実験や学問的考究によって代替することができると橋田氏は考えていたようです。

これは、明らかに「科学」というものに対する素朴な信仰のようなものが感じられます。

また、主知主義的なものを感じます。朱子学の影響は明らかかと思います。


490. 手紙 2013年5月12日 01:08:35 : ycTIENrc3gkSo : Q0LVPUGVfQ
おやじさま、手紙です。

私が仏教で魅せられるのは、般若心経の半句です。

即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
ゆきなさい ゆきなさい 向こうへ ゆきなさい…

高弟が願い縋る姿と共に師匠さまのほほえみが、目に見えるように感じる半句です。

この半句が私にとっての仏教の半分なのですが、一方でなぜ仏の教えが天上から天下までの全てを語り尽くしてしまおうとするような、複雑怪奇な主知主義へと陥ってしまったのか。恐らく主知的になればなるほど実践意欲や倫理観は剥落していくはずです。やはり仏教が権威になり貴族化してしまったからでしょうか。

仏教史を振り返ると、その逆の方へ歩もうとする流れもありました。
当然の反発だと思います。

そしてこれはとても現代的なテーマです。

私たちの陥っている現状を見れば、この当然の反発が起こるはずだと考えます。
その形象はまだおぼろげです。でも、萌芽はある。

ゆきなさい ゆきなさい 向こうへ ゆきなさい…

おやじさま、ありがとうございます。
とりとめのないコメントをお許しください。


491. 宮島鹿おやじ 2013年5月12日 06:27:43 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
手紙様

おはようございます。
お言葉を頂戴いたしました。ありがとうございます。

般若心経は、私も仏壇の前で一時期よく唱えていました。
その頃は結構流行っていて「あなたのための般若心経」などというわかりやすい解説本などを読み、一応は全体を暗唱できるようになりました。

しかし、その頃の私は、明らかに何かの現世的「ご利益」(昇進、合格、病気治癒など)を念頭においておりました。それでもお経を唱えたあとの充実感は身に沁みていったように思います。

仏教に対しては、「手塚治虫の『ブッダ』を読んだ」くらいしか言えませんが、やはり、仏教においても貴族化、権威主義化があり、私はそれは、一種の世俗化ではないかと思います。世俗化=現世利益という観点からは、密教などはそういった傾向が強かったのではないかと思っております。

何かの物質的利益のために祈ることとは、昨今の「産学連携」という言葉と共鳴するように思います。そういえば仏教(密教)はヒンドゥー教に対する勢力争いという構図から、本来は含まれなかったはずの、人気のある神を取り込んでいったと聞きます。

また、コメントをお願いします。


492. 宮島鹿おやじ 2013年5月14日 01:27:41 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
現在、なんとか正法眼蔵関連の著書「正法眼蔵入門」久木直海 を読み進めていますが、やはり、いきなりというのは大変です。

それでも、私でもよくわかった一部についてご報告します。

>>45 に引用した以下の部分ですが・・・。

道元は日本精神の発揚者であるとされ、たとえば著名な哲学者田辺元は次のように書いています。
「日本仏教の開祖たる親鸞日蓮道元の如き人々は、この日本精神の伝統の中に生立ちつつ、其天才的創造力に依って仏教を日本化し、日本思想を文化宗教の方向に発展せしめたのであるが、それは同時に仏教の伝統を日本精神に依って具体化し、創造的に之を新方向に発展せしめたものといふことも出来る。日本仏教は仏教の発展であると共に日本思想の発展でもあるのである。」(『正法眼蔵の哲学的私観』昭和14年、岩波書店)。


日本仏教という言葉があります。
現在、総本山永平寺の山門には「日本曹洞第一道場」とうい額が掲げられている(らしい)のですが、おそらくはこの額のイメージも、上記のような言説の形成にある程度関与しているのではないかと思いました。

ところが、この額は、道元入滅後、120年経過してから掲げられたものとのことです。

また、道元本人は、「曹洞宗」という宗派名を名乗ること自体認めていなかったそうです。彼の人にあっては、「○○宗」「××宗」などというものはなく、本来は、仏祖より相伝されている「正法眼蔵無上菩提」(仏道における無上の覚り)のみがあるという意見とのことです。

私は、やたらと「日本精神」とか「日本仏教」などと、冠に付けたがるのは、劣等感の裏返しであろうと考えています。


493. 宮島鹿おやじ 2013年5月14日 01:33:24 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
なお、全くの余談ですが、

日本空手道 という言葉がありますが、

空手(カラ テ) = 唐手(から て) 

唐 = 中国
手 ≒  拳

∴ 空手 = 中国拳法 

となり、 日本空手道 = 日本中国拳法道 になります。



494. 2013年5月14日 02:39:19 : nqaPr6plys
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

>私は、やたらと「日本精神」とか「日本仏教」などと、冠に付けたがるのは、劣等感の裏返しであろうと考えています。

同意です。

ここで、どうゆうときに、どういう形で、劣等感が、自意識が主張されているのか、現れているのかを見る必要があります。


495. あやみ 2013年5月14日 21:33:31 : oZZpvrAh64sJM : p4pYpy238Y
いま、仕事でカッパドキアの歴史に関する短い文章を書いているところです。
この地域は初期キリスト教徒がローマ帝国の迫害から逃れ、火山灰質の渓谷の中に洞穴集落をつくり密かに生活を続けた場であります。

三世紀ごろから始まった隠遁生活です。重機や工作機械などなかった時代、人力と神への思いのみで洞穴を掘り進み、「地下都市」と呼ばれる規模の移行を残しています。
しかし彼らがどのように集落を建設し、どのように生活したかは集落を検証して見極めるしかないのです。つまり資料がない、つまり、文字を持っていた筈の彼らが自分たちの生活や思いを何一つ書き残していないのです。これは実は意味深いことだと以前から感じていたのでここに書かせていただきます。
ギリシア人やローマ人、そしてカトリック教徒が自らの思想、哲学、大義名分、血統、伝統などをくどくどくどくど書き残しているのとは正反対なのです。おそらくカッパドキアの隠遁生活者たちの精神世界が「神様発」で、「神様着」であったからそうなったのだと思います。外の世の誰かに対し、あるいは後の世にむけて「劣等感」を隠したり冠をつけて見栄を張る必要が、まったく、きれいさっぱり、まるで無かったのでしょう。

>仏教(密教)はヒンドゥー教に対する勢力争いという構図から、本来は含まれなかったはずの、人気のある神を取り込んでいったと聞きます。

そうだと思います。「人気のある神」とは唯物的かつ残虐な地母信の神々です。釈迦の教えからは遠ざかっていったのでしょう。信者の獲得に精を出すことはすなわち政治の道具にすることと同じです。

>ここで、どうゆうときに、どういう形で、劣等感が、自意識が主張されているのか、現れているのかを見る必要があります。

科学の征服できないところ、凌駕できない何か、「アルケー」と呼んだものが科学の劣等感であると思います。

トルコ語で毎日のように使う単語に「ilk」があったことに今さら気がつきました。「最初の」「はじめての」という実に単純な意味の日常語です。アルケーと同源の語彙であることは瞭然です。
そこから思いを廻らせたのですが、この世で一番単純な「最初」は、「この世のはじまり」ではないかと思うのです。科学は「ビッグバン」という物理現象をして「はじまり―アルケー」を説いています。しかしこれでは説明になっていない。これが劣等感ではないかと、思います。


496. 2013年5月14日 22:10:36 : UcTDBax3W6
あやみ さん

安芸ガラスです。

>科学は「ビッグバン」という物理現象をして「はじまり―アルケー」を説いています。しかしこれでは説明になっていない。これが劣等感ではないかと、思います。

同意します。


497. 宮島鹿おやじ 2013年5月15日 00:12:14 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様
あやみ様

こんばんわ。

コメントありがとうございます。

>ギリシア人やローマ人、そしてカトリック教徒が自らの思想、哲学、大義名分、血統、伝統などをくどくどくどくど書き残しているのとは正反対なのです。

そうですね。思わずほほ笑んでしまう表現ですね。「くどくどくどくど」そう、そういう感じです。「語るものは知らず、知るものは語らず」ですね。


>「人気のある神」とは唯物的かつ残虐な地母信の神々です。釈迦の教えからは遠ざかっていったのでしょう。信者の獲得に精を出すことはすなわち政治の道具にすることと同じです。

そうです。確か、ヒンドゥー教徒の中の「シャーカタ(性力)派」というものがあり、これらが崇める女神を取り込んだのが仏教の中の密教的要素の一つだったと思います。

仏陀そのものの教えを伝えているとされる古いお経のサンユッタ・ニカーヤ、スッタ・ニパータは、一言で言えば「清浄」そのものです。あまりの隔絶に、これは本当に同じ宗教なのかと疑うほどです。

劣等感については、私は当時の日本人が抱いていた共通的な心情だと思うのですが、確かその辺は、明六社とか福沢諭吉とか、あやみさんがコメントされていましたね。また、安芸ガラスさんのお話の中で、幕末の知識人は総じて「西洋かぶれ」であったというくだりがありました。

つながってきましたね。


498. 宮島鹿おやじ 2013年5月15日 00:25:23 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
道元は曹洞宗などという宗派名すら認めなかった。(自信があった)

しかし、その後、日本曹洞第一道場などという扁額がかけられた。(自信がなくなった)

・・・

剣術の創始者は何かを会得した。(自信があった)

師匠の型だけが継承されるようになった。(自信がなくなった)

・・・

黒船が来た(自信がない)

西洋文化を軍事技術として受容しようとした。(自信がない)
=既存文化は無意味とした(自信がない)

しかし、朱子学的主知主義は教養人の中に生きている。

負けるもんかと思いつつ、西洋はエライものだと思う(自信がない)

意識的に受容している西洋的な思考と、旧来の朱子学的発想が合体する。

とても恐ろしいものが出来上がる。(本当は自信がない)

だから強圧的なものの言い方になる。(批判を許さない)



499. 宮島鹿おやじ 2013年5月16日 07:22:53 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
皆様

おはようございます。

現在、「正法眼蔵入門 久木直海著」「正法眼蔵講義 竹村牧男著」を読んでおりますが、なかなか大変です。

しかし、二つの著書に相通じる(と私が思いこんでいる?)箇所についてご報告します。


以下、引用

正法眼蔵講義 p177

インドのたとえば『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』という、唯識(ゆいしき)の一つの重要な根本的な聖典がありますが、・・・その『摂大乗論』で、この智慧の修行、般若波羅蜜多については、次のように説明しています。
       
まず初めに、加行(けぎょう)としてのプラジュニヤーパーラミター、つまり悟りを開くに至る前の段階で修行していく智慧というものがあるといいます。これは物事は空であるとか、不生であるとか、そういう言葉を習いながら、道理を観察していくというか、了解していく、信解(しんげ)していく。そういう中でだんだん、だんだんに本来の真実の世界へ迫っていく、そこで修行する智慧というものがあるというのです。これは多少分別的な、言葉の了解に基づく修行というような意味合いを持っているわけです。

 それも究極的には、さっき言いました定慧一等の、分別も超えたような禅定に入っていく、主観・客観の分別を超えていくような世界に入っていくのです。そうしますと、根本無分別智(こんぽんむふんべっち)という、根本的な無分別の智慧が生まれるのだといわれております。唯識の説明では、無分別智は真如(しんにょ)を悟るといいます。その場合に、対象的に相対して、こちら側に無分別智がある、向こう側に真如があるというのではなくて、一体的に、直覚的に、そんな形で悟られる、そういう説明になるのだろうと思います。その場合の真如とは何か。これまた体験しなければわからないと思います。体験しなければわからないとは思いますが、ともかくそういうことがいわれます。

正法眼蔵入門 

p176 正法眼蔵 第九 「古仏心」より一部の著者意訳

漸源仲興大師にあるとき憎が問うた、「古仏心とは何なのでしょうか」。
           
師が言った、「世界は 〔古仏心となって〕崩壊するということだ」。

僧が言った、「世界が崩壊するとは、それはまたどうしてですか」。

師が言った、「〔そこでは〕 わが身は無いみたいだからだ」。

p211

 坐禅をつづけているうちに、おそらく誰でも、自分を向こうから見るようになるのではないでしょうか。私が初めてそれを体験したのは山桜が咲く下でした。聞き慣れない小鳥の声が上にしたとき、その鳥の位置から、脱ぎ揃えた白い靴がハッキリ見え、そのわきに自分の下半身らしい姿を見ました。翌年、東北の山の中で坐禅をしていたとき、谷の向こうになにかを見、逆にそちらから、坐を組んでいる私の青いズボンが見えました。今では、たとえば雑木林の斜面で坐禅をしていると、周りの樹々の側に自分を置くようになっていきます。樹々として私をとり囲み、見下ろす思いになっていきます。それは、セザンヌの水浴裸女群像に描かれているような、少し覆いかぶさり気味の樹々といえます。こういう坐禅の中では、やはり「我が身は無いみたいだ」という思いです。

(引用終了)



500. 宮島鹿おやじ 2013年5月16日 07:27:38 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
あれあれ、OCRの誤変換です。

誤:漸源仲興大師にあるとき憎が問うた、

正:漸源仲興大師にあるとき僧が問うた、

まあ、言わずもがなですが。


501. 2013年5月16日 07:44:02 : hccUQZ8qC2
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。

報告をありがとうございます。

私の立場から一言。
心のなかで、ああでもない、こうでもない、と2つのものがグルグル回ることがあります。

例えです。悟りを開いた、いや、悟りを開いていない、とか。
両方とも、妄想です。

過剰エネルギーが心を動かしているだけです。


502. 宮島鹿おやじ 2013年5月16日 17:43:20 : NqHa.4ewCUAIk : tgk36oyoQM
安芸ガラス様

現在取り組んでいる問題は、橋田氏による正法眼蔵の解釈についてですが、私自身は、「正法眼蔵はこう読むべきである。」とは全く言えないのは言うまでもありません。

ところで、正法眼蔵は明らかに「不可視の問題」、いわば「悟りの境地」「神秘体験」について語られていると私は思っています。

ヴィトゲンシュタインという人がいて、「分かり得ぬことについては沈黙すべきだる」といっていたそうです。

私は、幕末に流入してきた「西欧文化」の考察にあたっては、あえて、上記のような立場をとってきました。

しかし、現在、正法眼蔵と橋田氏という問題について関わる以上は、どうしても以下の点についての考察は避けられないものと思われます。

・正法眼蔵とは、だいたいでいいから「どんなことが書かれているのか」
・橋田氏における正法眼蔵観(これは側面観において明らかであると思います)と、学問のあり方、政治思想などとの関係

今後私が正法眼蔵について進める思索は、「正法眼蔵の説く世界がある」という仮定に基づきます。よって実証主義のエリアを超えますので、本当に「ただのおしゃべり」に終わる可能性があります。

しかし、啓示と理性、神秘体験と言語的理解という「この二項対立的」なモチーフは、実は、ピタゴラスやプラトンらを調べているときからも感じていました。

この神秘体験については私自身が全く経験がありませんので、私としては、橋田氏は正法眼蔵をどのように読み、それを、どう思索に生かしたつもりだったのかということについて「外面的に」考察してみたいと思います。

この点については、>>488でご報告したとおり、橋田氏は座禅=瞑想を行っていない
ということがキーポイントになると考えています。

しばし、お立場からすれば、奇妙な展開になるかもしれませんが、ぜひ、お見守りください。なお、神秘体験そのものについての否定的コメントも当然、並行してご提出していただくのが建設的と思います。



503. 2013年5月16日 20:31:08 : hccUQZ8qC2
宮島鹿おやじ様

安芸ガラスです。


>しばし、お立場からすれば、奇妙な展開になるかもしれませんが、ぜひ、お見守りください。なお、神秘体験そのものについての否定的コメントも当然、並行してご提出していただくのが建設的と思います。

大丈夫ですよ。

私たちは、頭の中で発明をすることを終わらせ、事実の中に連関を発見する、この立場を獲得しました。

個別の対象に向かうことと、その対象を観察する自分に向かうこと、この二重形態で出発する立場を獲得しましたからね。


504. 宮島鹿おやじ 2013年5月17日 02:15:11 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
安芸ガラス様

ありがとうございます。

発見と発明という概念については、プラトン主義とその否定という対立構図において使用されたというのが私の感触ですが、それを超える印象を持たれたというのは、やはり、言葉というものは、必ずしも、その向こう側にある「実体的なもの」を指し示すものではないという良い証左となっていると思います。言葉はインスピレーションを呼ぶ、言葉は乱反射していく、そのように思います。

先日、悪夢のような文章を見ました。以下です。(しかし近現代史についての現状分析はほぼ、そのとおりだと思いました)

「臣民の道」です。
http://binder.gozaru.jp/shinmin0.htm#jogen

また、山下氏は、「国民の義務」ということをサラリと言っています。

20ミリシーベルト問題 山下教授の論理に乗ってみる(池田香代子ブログ) 動画&文章:山下俊一氏講演(5月3日・二本松市)
http://www.asyura2.com/11/genpatu10/msg/771.html

私は、原発が爆発した数日後、講演会場で「国民は国の方針に従う義務がある」=(被曝する義務がある)と言うのを聞いたとき、白昼、亡霊に遭遇するような驚きを感じました。

しかし、それは亡霊ではなく、今に生きていて、私たちを依然として支配しつつあるなにものかであるという感触を持ちつつあります。

なお、山下氏と橋田氏の関連などについて、「臣民の道」などについて、今一度、お話しいただけると幸いです。

この文章を読むとき体の中に鉛が入っていくような感触があります。しかし、その感触の正体を探り、言葉で表すことが、このスレッドの目的であると思います。


505. 宮島鹿おやじ 2013年5月17日 02:32:58 : NqHa.4ewCUAI