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2013年9月26日06時38分 〜
記事 [カルト12] ワシら生産者は消費者を騙すことはしないから。(肉ちゃん(復興推進派))
三里塚崩れの怪しい牧場主を連れてきて反原発、放射能とワーワー騒ぐより、「地震」の被害から復興しようと努力する「本当の農家」を応援すべきじゃなかろうか?

福島の農家は賢明に頑張っている。

天皇陛下や皇太子殿下も被災地を訪れ、応援している。

恐怖心を煽り、何の科学的根拠のない出鱈目なデマを流す反原発派は福島を応援する気はあるのだろうか?


原発板の人間は今も奇形児、突然死等日本が滅亡する式の話が大好きなようが、日本人は鬼畜だとか、滅びろとか呟く人達は本当に日本人なのだろうか?

肉ちゃん(復興推進派)のつぶやきから
https://twitter.com/nikumush/status/382882732235190272

肉ちゃん(復興推進派)
‏@nikumush
不安なの中で悩んで苦しんで試行錯誤して作ったモノがキチンと測定し「安全」と胸張れるモノを出荷するんだから、消費者は「安心」して買って貰いたい。ワシら生産者は消費者を騙すことはしないから。


-------


肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 4時間
生産者も笑いたいし消費者の笑顔を見たいから、毎日頑張れる。それでいいじゃねーか!誰も邪魔すんじゃねーぞ?

肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 5時間
震災で多くの犠牲をはらって今の自分がいる事に感謝しています。震災を経験して多くを乗り越えたつもりで居るけど、多くのモノを失ったね。今の俺たちが出来ることは、大きな声出して笑顔で居た人の気持ちをくんで、デカい声で笑ってやろうぜ?笑顔で居ることが大切な祈りだと思ってる。


肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 5時間
原発事故や津波って言うモンスター級の出来事だけど、我々生産者(製造者)は諦めてないから。前よりも良いものを皆に提供するから一度手に取って試してくれ。絶対後悔はさせない!キッチリ検査してるからか「安全」なんだぜ〜

肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 5時間
東日本の、東北からの野菜や海産物、食物は旨いから!他人に言われても自分の目で舌で、肌で味わって欲しい。そうすりゃ風評被害なんて言葉なくなるからよ。


肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 5時間
震災て被害受けた人、風評て苦しんでる中でも我々生産者は前を見て1歩づつ歩いています。それを少しでも見て欲しい。測定結果や状況、出来れば現場を見て欲しいし食べて欲しい。

肉ちゃん(復興推進派) ‏@nikumush 5時間
心もとない言葉で買ってもらえないこと多かったし、売上落ちて苦しかったし、立て直す見通しで悩む日々だけと、時間とかともに測定結果を見て安心する人が増えた事で気にすることか減った。


<参考リンク>


「本当に日本人は鬼畜だ。世界中の国から国交を断絶されてもおかしくない。滅ぶべき民かも」と呟いた瓦礫反対の自称非御用学者
http://www.asyura2.com/13/cult11/msg/411.html

「カネのためなら人も殺すし、放射能巻き散らかして永久に住めない破局を自分で作り出すし、戦争すれば軍事性奴隷(=従軍慰安婦)を調達する制度まで創るし、残虐非道な人体実験する組織(731部隊)まで創るし、本当に日本人は鬼畜だ。世界中の国から国交を断絶されてもおかしくない。滅ぶべき民かも」(Fibrodysplasia @Fibrodysplasia )


http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/234.html

コメント [原発・フッ素33] 〈新潟発〉 廣瀬・泉田会談 「急ぎますか?」「ぜひ」(田中龍作ジャーナル)  赤かぶ
03. 2013年9月26日 06:39:07 : BxgKgNJpDM
原発などもう地震国日本では無理なのに
ブラック盗電はまだ再稼働を企む
日本を完全終了させたいのか

コメント [カルト12] 米英仏イバビロンは宇宙人詐欺に失敗してもなお地軸異常詐欺に走るようである、狙いは地球滅亡演出と大借金踏み倒しである。 ポスト米英時代
07. 2013年9月26日 06:44:35 : ExZ1YaYL0k
◼ロシアの方が 進んだ国でした、、 以下は 抜粋です 、、


さらに驚くことに、ロシアの緯度では栽培期間が121日と短いにもかかわらず、国内農産物の50%もが有機農業であり、自給で収穫されているそうです。また、大規模農場でも伝統的に有機肥料や天然肥料を使うことを好み、化学薬品を使用しない傾向が強いとのこと。

 そのうえロシアではGM(遺伝子組み換え作物)食品の開発と生産は禁じられているので、食の安全が整った夢のような国なのです。

 そこにもってきて、アナスタシアの提案が受け入れられたかのように、ロシア市民は無料で国から1〜3ヘクタールの土地を受け取れる「私有菜園地法」が2003年に立法され、相続も可能なこの土地で栽培された生産物は課税対象外となりました。


コメント [政治・選挙・NHK154] いまこそ沖縄は日本からの独立を本気で目指す時だ (天木直人のブログ)  笑坊
34. 2013年9月26日 06:45:29 : C9Ny8G1k3M
問題の本質は米軍が日本から出ていくべきだということだろ。敗戦して戦争と決別し、半世紀以上も経過した日本が何故そのような態度を表明しないか、それが問題だろう。

十分に日本は戦争の悲劇を身を以て体験している。そろそろ戦争を忘れて真の繁栄を目指したいという感情は潜在意識の中にすべての国民は抱いているはずだ。

ところが近年の日本の政治は日本も普通に戦争ができる国になりたいなどと、愚かの極みに錯乱したかのような状態だ。半世紀以上も米軍基地のほとんどが沖縄に集中している非常に危険かつ煩い日常生活を余儀なくされている沖縄県民でなくても、あまりにも馬鹿馬鹿しくてやってられないだろ、米軍がいるだけでそんなもん普通に嫌な問題だ。

沖縄県民の感情は当然かつ正しい。多くの日本人も米軍基地の撤退を期待して政権交代に賛同したのである。滑稽なほど日本の権力が転落するのは簡単なものだった。そして再びの政権交代ではこともあろうに、不存在の集団的自衛権などという聞こえが良い幻の軍事協力を日本からしつこく言う有様ではないか。軍事基地害の馬鹿ウヨが全て悪い。

あまりにも恥ずかしくも馬鹿馬鹿しくてやってられないだろ、そんなもん本当に。日本人は何のために生きろというのか、政治家どもは国家権力に対して何も言わないのか。

今の沖縄県人こそ真の日本人とは言えまいか。日本人は同国民の沖縄県民を決して裏切ってはならない。日本は逆賊の歴史に終焉を迎えるため、沖縄県民とともに戦はなければならない。逆賊史観の正しい歴史認識こそが世界初の無血意識革命になる。

民主主義の大原則を無視して国家権力を行使する者に対して正しく諫言して改めさせるため、日本人は心を一つにしなければならない。日本を取り戻すということは形式だけ取り繕っても不可能なことである。

日本の仏教史が生き証人となる。そして日本には主・師・親の三徳が備わっている。何も恐れることなどない。

日本を取り戻すことは逆賊の権力史を改める儀によって国民主権が行使されるまで実現しない殿、認識を新たにするべきです。日本の現状は沖縄を見習わければならない恥ずべき状況であることの認識を共有するほうが早いだろう。

コメント [原発・フッ素33] 漁業再開、コメの出荷!福島で次々に解除される規制!米国のプルトニウム基準値はキロ2ベクレルなのに、日本は計測せずに許可! 赤かぶ
11. 不眠症 2013年9月26日 06:46:07 : nYRH.ca0zYtKk : mBqEoVAF7k

南東北、関東地区は降下放射性物質で終わっている。

テレビ局の食品安全偽装報道に御用心!

コメント [戦争b11] 韓国人が持ち込んだ危険物「トルエン」がヤバすぎる…軍事用爆弾TNTの原料・火災どころか大規模爆弾テロ・・2chより 木卯正一
10. 2013年9月26日 06:50:28 : 3Y7cYXULuM
>09
木卯正一のような動く生ゴミヒトモドキの存在に疑いが持たれることのないような世界では、なんの改善もなされることはなかろうよ

>危険物「トルエン」がヤバすぎる
そういえばTNTの親類のピクリン酸はトルエンの代わりに-OHがついてるから、此の伝では-OHを発生させる苛性ソーダもヤバすぎるのだな。実際に危険物ではあるし。ただ、放火に使うのは難しい

コメント [原発・フッ素33] 「なぜ突然福一5・6号機の廃炉を言い出したのか疑問であったが、ここに来て明らかになった:中川 均氏」(晴耕雨読)  赤かぶ
07. 2013年9月26日 06:51:40 : ySSn0cr5PM
今世界、日本はユダヤアメリカの実行による311や
それに伴う福一を始め核戦争、恐慌、TPP、超巨大地震、
消費税増税、年金減額、秘密保全法、憲法改悪・・などにより
人類は破滅の危機に晒されております。
破局は数年以内に来る可能性が大です。
でも私達人類は愚かですからギリギリまで科学、政治、
マスコミ、宗教、お金・・に頼って生き延びようとします。
あっちでもこっちでも死んでからでは襲いのです。
でも安心して下さい。これらの問題を解決する方法があります。
題名「天才政治」の著者にお会いし彼の教えを実行することです。
これは怖いことではなく夢と希望と笑顔を人類に与える行為なのです。
詳しくは「天才政治」で検索を。急げ!!

最早共惨主義、資本主義では人類は救えません。

コメント [原発・フッ素33] 〈新潟発〉 廣瀬・泉田会談 「急ぎますか?」「ぜひ」(田中龍作ジャーナル)  赤かぶ
04. 2013年9月26日 06:55:32 : MVEswqjBG2
●「福井県」は県知事もさることながら
「敦賀市長」が代々スーパーエンターティナ−ですからね!
●やっぱ福井県は「偏差値マイナス無限大」でしょ!
番外!
======================================
あれ、敦賀市長のポストって、ヨシモトよりすごいお笑い芸能界でしたよね!
あれ、違うんですか?
ここのセリフって、これ漫才ですよね!
まさか、・・・本心てわけがありませんもんね!
======================================
「いまカネになるなら50年後に生まれる子供が全部「カタワモノ」でもかまわない」元敦賀市長の暴言
(1)http://www.asyura2.com/11/genpatu11/msg/338.html
(2)http://wonderful-ww.jugem.jp/?eid=849
(3)http://adukot.exblog.jp/17670632/
(1)から引用
「いま大金を貰えるなら100年後、50年後に生まれてくる子供が全部カタワモンでも仕方ない。」
これが、1983年1月26日に石川県羽咋郡志賀町で開かれた「原発講演会」(地元の広域商工会主催)での当時の高木孝一敦賀市長が明言した言葉である。
北陸電力原発の建設に絡んで、莫大な金額の表金・裏金および原発に起因する異常事態発生のたびに、北陸電力から恐喝まがいのやり方で多額の金をせびり取っていたことを、講演会で明らかにした。
その講演で市長は、原発賛成派の市民は、たとえば風評被害が生じた場合などに、実際の被害金額の何倍もの金を電力会社からせびり取っている様子を得意げに語っている。
これは敦賀市に限らず、どこの原発所在地でも同じことが行われていたことである。そうすると、いま福島原発事故で現地住民が大変な被害にあっているが、賛成派住民は汚いやり方で正当な補償以上の補償金を得ていたことになり、その額は普通の国民が生涯手にすることもできないような莫大なものであり、その金で安楽に暮らしていたわけだから、いまさら原発の事故のせいで困っている、と泣き言を言うのは少しムシが良くはないかという気がする。・・・以下略・・・
 ★引用文献:内橋 克人著 「原発への警鐘」 講談社文庫  
敦賀市の状況は他の原発所在地においても同じようなものでしょう。つまり、巨額のアブク銭がガッポガッポと入ってくるのですからこたえられないでしょう。事故が起きるといわれていてもその時はそのとき。楽して大金になるなら何でもやります、で来たのが現地の原発賛成派の本心。他の原発建設地でも同じようなものでしょう。そうだとすると、カネに目がくらんで、原発の危険性を無視した福島原発建設賛成派現地住民の今回の原発事故による受難はしかたない、自業自得、恨むなら自分を恨め。こういう風にいうと、原発事故被災者のうちの賛成派に対して酷ですかね。
http://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1048
コメント [原発・フッ素33] 群馬県ローカルな話題『2012年9月10日 藍藻の測定で富岡市(群馬県)環境部長との話』放射能のについて勉強する会 爺さん
22. 宮島鹿おやじ 2013年9月26日 07:01:28 : NqHa.4ewCUAIk : DocNDonHXH
爺さん様

おはようございます。

>何でしょうか?お役に立てれば。

ありがとうございます。
私は見ての通り、線量計があるので計ってみた、というかなり適当なノリで、科学的な素養に欠けることを「自任」しております。なにとぞ、アドバイスをよろしくお願いします。

ご相談・ご連絡は、本スレッドでよいでしょうか。

なお、現時点では、

@エア・サンプラーによる空気中の放射性物質の測定

A西国の土壌等を霧箱で観察し、葛飾の藍藻との比較
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/480.html

を検討しています。

私個人としては、政治的・組織的信条はなく、ただ、この土地に住んでいくことが妥当であるかどうかを出来る範囲で確認したいというだけですが、そういった行動も何かと目に付くようになるようでしたら、最大限ご迷惑をおかけしないようにと思っています。

コメント [音楽12] DAM, "Born Here", Hebrew/Arabic with English subtitles で爺
09. 2013年9月26日 07:01:52 : xFyTerZR6s
Tupac Shakur http://en.wikipedia.org/wiki/Tupac_Shakur この人に影響を受けたみたい。

ラガムフィンてこれですか?

http://www.youtube.com/watch?v=Y6dSXvSj5_Q

悪くないけど、問題は、何言っているか分からないとこですね(笑)


コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相 国内で消費税を増税し外国で大浪費 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
01. 2013年9月26日 07:02:47 : BIgfJMRMNE
まさにこのアホは裸の王様。
こんなアホを総理にしてしまった日本国民は、世界に恥じるべきだ。
コメント [お知らせ・管理21] 「本質的な議論をしたいのか、空虚な言葉を吐きたいのか」が素晴らしいので、原発板にも投稿したいのですが、問題ありませんか? 会員番号4153番
05. 2013年9月26日 07:03:15 : QwNWPgeCIQ
>>03

なぜカルト板がふさわしい

 と断言するのかね?

「主文」だけではなく、「理由」も述べなよ、「裁判長さん」様

 東京はチェルノブイリ級じゃねえんだよ。隠蔽ばっかりしてんじぇねえよ。

120909:(公開:削除された投稿を赤字にします)東京の汚染が「チェルノブイリ級」であるということが大袈裟でないことを確認した。 
https://www.evernote.com/shard/s105/sh/1740df2e-11ce-4e7f-ace2-27e6d96166da/30bd513e13e0de10245fa313ae3ed879

コメント [政治・選挙・NHK154] 三井環元大阪高検公安部長が田代政弘元検事に対し検察審査会へ審査申立を行いました ひらひら
10. 2013年9月26日 07:07:06 : VhDvNJDMM2
ここでも 出てくるのは 検察批判 だけ。

最高裁事務総局 のほうも お願いします。

コメント [原発・フッ素33] 漁業再開、コメの出荷!福島で次々に解除される規制!米国のプルトニウム基準値はキロ2ベクレルなのに、日本は計測せずに許可! 赤かぶ
12. 2013年9月26日 07:12:24 : IaTJdgpvYM
福島三号機のモックス燃料の核爆発により、多量のプルトニウムが大気中に放出されたのに、そのことを隠蔽し続け、そのため、測定することもせずに来た。セシウム汚染が見かけ上減ってきたことにより、隠されたプルトニウム汚染がとんでもない被害を引き起こすのではないか?
コメント [原発・フッ素33] 京大原子力専門家「少しでも汚染の少ない地域へ逃げるべき」(NEWS ポストセブン)  赤かぶ
42. 2013年9月26日 07:14:23 : cGInsOVnbA
原発もアメリカからだろう、日本人は三度もアメリカに放射能にやられたって事だ、政治家官僚はいつまでアメリカに媚びるんだ日本人だろう、媚びつづけるなら日本人やめろ
コメント [経世済民82] 日本の食料自給率どうして上がらないのか? 国民が勉強し知識を蓄えることが大事(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
03. 2013年9月26日 07:14:36 : lzpAUMFDfA
上の表でも、レタスや卵食べてもカロリーベース自給率はほとんど上がらないと思うのだが。

カロリーベース自給率を上げたいなら、「貧乏人は米を食え」が正解なんでしょう

コメント [政治・選挙・NHK154] 「消費増税」と「復興法人税」で“対立”演出 安倍と麻生の三文芝居 佐藤鴻全
02. 2013年9月26日 07:15:15 : 6lEL0QePhA
 
  自民党安倍政権を支持した人達、念願の消費税が達成できそうですよ。 
 10月1日記者会見をするそうで、よかったですね。

 消費増税のスケジュールがこのようになるのだそうです。
 
 2014年・・・ 8%
 2015年・・・10%

コメント [カルト12] 米英仏イバビロンは宇宙人詐欺に失敗してもなお地軸異常詐欺に走るようである、狙いは地球滅亡演出と大借金踏み倒しである。 ポスト米英時代
08. 2013年9月26日 07:16:58 : dieLmElcFQ

この男はNYで演説すると異常にハイになるのは何故でしょうね。


NY―ワシントン60分以内」 首相、米にリニア提案
ニューヨーク証取で講演 2013/9/26 5:03

 訪米中の安倍晋三首相は25日午後(日本時間26日未明)、ニューヨーク証券取引所で講演した。米国の高速鉄道の整備計画に触れて「日本には超電導リニア技術がある。ニューヨークとワシントンは1時間以内で結ばれる」と提案。技術力の高さや成長戦略への取り組みを説明し、「バイ・マイ・アベノミクス(私の経済政策は買いだ)」と日本への投資を促した。

 米東海岸へのリニア輸出では「まずは(首都に近い)ボルティモアとワシントンをつないでしまいましょう。オバマ大統領にも提案している」と述べ、2027年に完成予定の東京―名古屋間に先立つ部分開業が可能だと指摘。政府はJR各社と協力し、安全性で優れる新幹線やリニアの輸出に力を入れる。

 経済運営では「日本に帰ったら直ちに成長戦略の次なる矢を放つ。投資を喚起するため大胆な減税を断行する」と表明。さらに「規制改革こそがすべての突破口になる。日本を米国のようにベンチャー精神のあふれる起業大国にしたい」と言及した。

 原発輸出では東京電力福島第1原子力発電所の事故の教訓に触れつつ「日本は原発の安全技術でこれからも世界に貢献していく。放棄はしない」と強調。「電力自由化をなし遂げ、日本のエネルギー市場を大転換する」と表明した。

 環太平洋経済連携協定(TPP)に関しては「年内の交渉妥結に向けて日米でリードしなければならない。TPPをつくるのは歴史の必然だ」と意欲を示した。

(ニューヨーク=秋山裕之)日経


コメント [政治・選挙・NHK154] 心を鬼にして原発ゼロを成功させよう 泉田知事「長崎、広島で累積被曝量1mSv超えた人は被爆手帳で医療費無料になる」 路傍の花
02. 2013年9月26日 07:22:32 : lzpAUMFDfA
この知事は、被爆者手帳貰うと、医療費無料になることをいいこと扱いしているのか?
コメント [政治・選挙・NHK154] 前代未聞 国連総会でもフラれた日米トップ会談 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
03. 2013年9月26日 07:23:29 : dieLmElcFQ
NYで「バイ・マイ・アベノミクス」私の経済政策は買いだと大見得を切ったが
実際は「バイバイ・アベノミクス」だろ。
コメント [政治・選挙・NHK153] [ロイズ] 世界中の保険会社が韓国を切り捨て:日本は世界と協調し、一切、韓国を助けてはならない。 最大多数の最大幸福
69. 小沢カルトは馬鹿ばかり 2013年9月26日 07:24:20 : .8s1Cm2S.9lOg : Gs6EGRcmxA
>韓国人は
>・日本に原爆落として 何万人も日本人を殺したりはしない
>・99.9%のインディアンを大虐殺したりしない
>・大量破壊兵器があると嘘をついて戦争を始めて、数100万人の無実の
イラク人を殺したりはしない

歴史を認識出来ないカス

韓国の仮想敵国筆頭は日本である
北朝鮮が攻撃してきた場合、日本を攻撃すると答えた者が30%を超えるという国
韓国は、核武装をしようとしたが、アメリカがやめさせた経緯がある

韓国の原発は事故が多く隠蔽されているが、大量の核廃棄物を日本海の日本領ギリギリに投棄している
西日本や日本海側で放射線量が異常に高い事実は、韓国や中国の影響であること明白である

血で血を洗う半島で育った朝鮮人は、平和ボケした日本人とは発想が違う
韓国のことわざ、「弟の死は肥し」この意味を知れ!
古代朝鮮の青磁をもつと不幸になると言われる理由は、死者(暴君・権力者)の蘇りを防ぐために心臓や血液を入れた器が青磁だからだ

韓国は国内にベトコン虐殺ミュージアムを建設している
世界中を探してみて、異民族虐殺を慶賀する記念施設を作る国が他にあるのか?
ベトナム戦争中、アメリカは韓国人傭兵をつかった
これら傭兵の行為をたたえるものである

ところが、韓国人傭兵は、非戦闘員に対しても殺害や残虐行為を多々行い問題化した

現地人女性を次から次に強姦し、結果1万人〜3万人もの韓国人混血児が生まれたのである
それから推定して、10万人から20万人がレイプされたと見られている

事態はアメリカがベトナム戦争中に把握し、アメリカの大義・正当性が崩れることを恐れて、韓国人傭兵の排除につながった

現実を知れ!このマヌケ!

記事 [音楽12] Freddie Aguilar - Magdalena


フィリピンの「反体制派?歌手」フレディ・アギラのマグダレーナ。
私は、日本で有名な「アナク」より、こっちの方が好きですね。
20数年前、マニラのマビ二通りにあるライブハウス&バーで、
彼が歌うこの歌をナマで聞いたことがある。その印象が強いからかもね。
なんとかハウス(ポビットハウスだったか?)といって
小人が給仕してくれる店なのね(笑)フレディ・アギラが自分で経営していた。
この歌は、当時、ジャパユキさん啓蒙キャンペーンの
テーマソングみたいにして使われていたと思います。


以下、ネットにあった訳詞です。
こういうちゃんとした訳が、「訳者不明」として引用可能な
ところが、ネットの凄いところですね。
20年前なら、歌の意味を知るだけで、相当な労力が必要だった。


訳者の無償の情熱に敬意を表しながら、以下引用。


マグダレーナ(日本語訳、訳者:不明)


君を人は皆見下し呼ぶのさ
マグダレーナ ひくく飛ぶハトよ
夜に咲く姿 親にもかくして
悲しみはただ一人の胸に
 灯りがまぶしいこの欲望の街
 笑いがうずまく街だからこそわびしい
幼い頃に夢見た日々は
音をたててくずれてしまった
貧しさが君の全てを汚した
雨に濡れた人形のように
 こよいも気まぐれに男に抱かれ
 声なく唄うは故郷(ふるさと)の子守唄
マグダレーナ 顔をそむけずに
夢もすてず生きてほしい
マグダレーナ 涙こぼさず
あきらめないで生きてほしい
マグダレーナ マグダレーナ


友達は今日も異国へ飛び立つ
ひとかけらの夢を抱いて
虚ろな瞳で 空を見上げる
マグダレーナ ひくく飛ぶハトよ


マグダレーナ いつか望みが
満たされる日が来てほしい
マグダレーナ いつか望みが
満たされる日が来てほしい
マグダレーナ マグダレーナ




http://www.asyura2.com/13/music12/msg/569.html

コメント [原発・フッ素27] 東京の汚染が「チェルノブイリ級」であるということが大袈裟でないことを確認した。 宮島鹿おやじ
375. 2013年9月26日 07:34:22 : QwNWPgeCIQ
 東京の汚染がチェルノブイリ級であるかどうかが、この放射能騒動の一丁目一番地である。

 福島でも全然チェルノブイリ級ではないのに、東京の汚染なんて軽微過ぎて比べものにならん。

 大袈裟もいいところだ。1000倍騒ぎ過ぎである。

 私がせっせと放射脳に対して、家庭教師のように丁寧に(一部スパルタ)解説してあげたのに、削除してなかったことにしている。

 さすが、カルトは違う。カルトの耳に念仏だ。

 君達カルトな放射脳の脱脳は無理。不可能だ。

 しかし、反論もちゃんと残せ。第三者に判断させろ。

 消すな!卑怯だぞ。

 約1000倍大袈裟だ!

 こんな馬鹿なスレで、事実に目をつむってデマを拡散している放射脳はオール馬鹿だ。

120909:(公開:削除された投稿を赤字にします)東京の汚染が「チェルノブイリ級」であるということが大袈裟でないことを確認した。 
https://www.evernote.com/shard/s105/sh/1740df2e-11ce-4e7f-ace2-27e6d96166da/30bd513e13e0de10245fa313ae3ed879


 放射脳の砦:阿修羅原発板での、私iyaoのデマ叩き活動についての解説と
 阿修羅チクリスレ一覧の公開 
 https://www.evernote.com/shard/s105/sh/b1a77328-e1fe-4e55-9483-a251e8f411b9/33ef263ab4f7852eddc43fa34dbccb60 

 我がヘイトスピーチが削除の大義名分なら、この資料はどうだね?

 反論できるなら、してみたまえ。

チェルノブイリ原発事故と比較して福島での健康影響はどのくらい?
 http://togetter.com/li/478347


コメント [音楽12] Freddie Aguilar - Magdalena で爺
01. 2013年9月26日 07:35:09 : xFyTerZR6s
やったー!閉じてる。(笑)


コメント [政治・選挙・NHK154] 全体像見て早急な解決を=慰安婦めぐる本、論議に一石−韓国  時事通信 ダイナモ
04. 2013年9月26日 07:35:34 : 0J4wTtThac

    >>01 米犬4Q80R8Zler  >いい加減反日教育は止めないと恥ずかしい国民が世界に出られなくなるだろう。


    こらっ、腰抜けトンスル屋。出てくるな。薄汚い野郎だぜ、この米犬は。

    この米犬野郎は、どれだけ馬鹿にされても言い返す度胸がない腰抜け犬だな。こいつに出来るのは、作り笑いでトンスルを勧めることぐらいか。あははは。
    http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/584.html#c7



   

コメント [政治・選挙・NHK154] 「消費増税」と「復興法人税」で“対立”演出 安倍と麻生の三文芝居 佐藤鴻全
03. 2013年9月26日 07:36:17 : N99hlALTwE
>>02

結局当初のスケジュール通りやんか。

誰がそんな猿芝居なんか信じるかっつうの!

コメント [原発・フッ素33] 東北の女川港で特大サンマ!通常の1.5倍!専門家「37年で初めてみた」 一方、鳥取では三陸産サンマ500匹配布!  赤かぶ
24. 2013年9月26日 07:38:21 : TGZNIITuoU
20へ

大飯原発の排水付近では誰も怖くて漁をしないと聞いたけどね。

ちなみに、うちの嫁は乳癌。

同級生で知ってるだけで、3人乳癌。30台だけどね。

やっぱ、癌の影響はあるんでないかなー。


コメント [お知らせ・管理21] 2013年09月 削除依頼・削除報告・投稿制限連絡場所。突然投稿できなくなった方は見てください。2重投稿削除依頼もこちら 管理人さん
388. 2013年9月26日 07:38:45 : QwNWPgeCIQ
iyao です。投稿しました↓

http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/204.html#c375

 削除されてもここで見ることができます。

https://www.evernote.com/edit/2a20cd31-d1d4-45c7-a479-3141d71e1720?csrfBusterToken=d0900d63#st=p&n=2a20cd31-d1d4-45c7-a479-3141d71e1720

 こういうのを「自首」って言うのかね?

 情状酌量の余地(笑)もあるのでは?

 消さずに残してみたらどうだね?

コメント [政治・選挙・NHK154] 堺市長選 石原ブチ切れ、維新ドツボ (日刊ゲンダイ) 「失礼なヤツだ。出てこい」石原共同代表  赤かぶ
37. 2013年9月26日 07:39:01 : agt0YH2Aiw
「出て来い」と大口たたかれたのだから、すぐ前に出て行つて維新,石原と互角でやりあえばよかつた。
コメント [政治・選挙・NHK154] 徳洲会事件、怯える大物たち 副大臣・政務官人事に飛び火 特捜部は失地回復狙い(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
08. 2013年9月26日 07:39:06 : 29Gp4Mu8Sw
今回の徳州会疑惑でも例によって「小沢と金」コールが出てきたら笑い話のようだが、工作員ども妙には静かだな。
とりあえず自民党議員を調べればざくざく証拠が出てくるだろう、もしかしたら芋ずる式に自民党全員が逮捕なんてことになりそうだな。
適当なヤツ5人くらい推認で起訴有罪判決でチョンてなことになるもかな。
しかし石原一家だけは厳罰にして貰いたいものだ日本の癌だから。

コメント [政治・選挙・NHK154] 「世界文化遺産」をひっくり返した菅官房長官のバラマキ根性 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
01. 2013年9月26日 07:39:25 : N99hlALTwE
いかにも自民党らしいやり方やね。

ちっとも反省してねえし。

民主党よりもマシだから自民党に入れた馬鹿有権者どもは何を思うか?

何も思っちゃねえだろな。

コメント [政治・選挙・NHK154] パリジャンの度肝抜いた、稲田大臣のゴスロリコスプレ外交 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
13. 2013年9月26日 07:41:15 : N99hlALTwE
50過ぎの糞ババアがロリータなんて(笑)

反吐が出そうになった!

コメント [自然災害19] 阿蘇山、噴火の恐れ 気象庁が警戒レベル引き上げ ピノキ
01. 2013年9月26日 07:42:19 : gGpUipdtQk
ここが噴火したら日本終了なんだよねえ、根本的な対策って有るの?。
コメント [政治・選挙・NHK154] 室井佑月「この国があざけりを受けませんように」〈週刊朝日〉  赤かぶ
36. 2013年9月26日 07:42:21 : S2ksoSFczA

>>31 様へ

>昭和天皇こそが正真正銘の売国奴
http://www.amezor.to/shiso/070716000101.html
大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった
まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった
武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した
敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした
そして日本はアメリカの属国になった・・・

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をシテ戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。
だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画(オレンジ・プラン)を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。・・・

>>国民は皆“お国のため”といって国に殺された。
>>天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ!
>>それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていた。・・・・・・・・・・>

大日本帝国憲法の下、天皇ヒロヒトは絶対権力者であり、神であった。国民から大切この上ない家族を引き剥がし、徴兵し、死を意味する戦地に赴かせるには、靖国神社・八紘一宇・大東亜共栄圏・教育勅語・法律・憲兵など、大義と宗教と強制力、そして洗脳と情報操作が必要なのである。

国民は死地に赴くことを強制され、各戦地、沖縄、本土の兵隊と国民は虐殺された。ヒロシマの本当は30万人、ナガサキの本当は17万5千人の人々は、何が起きているのか理解できない幼子たちも含め、一瞬にして蒸発し、焼き殺され、苦しみながら死んでいった。生き残った被災者に治療はなされずモルモットとして米軍の観察対象とされた。人体実験である。東京大空襲を始め、各都市で無抵抗の国民=非戦闘員が虐殺された。いずれも米国による戦争犯罪である。広島には本土決戦のための第2総軍があったが、大本営(天皇は責任者)は新型爆弾の危険性を知らせず、8時に外へ出るよう通達し、わざと被爆させて壊滅させた。自国の支配者(=天皇)による虐殺=戦争犯罪である。

戦後、神であった天皇ヒロヒトは人間となった。茶番である。本当は生まれたときから旨い者を食べ糞もしていた。この戦争で天皇家の財産は莫大に増えた。三菱など、兵器を生産した大企業・大資本は大いに潤い、戦後も安泰。戦争責任は軍の一部に押しつけ1億総懺悔と叫んで曖昧に終わらせた。東京地検特捜部はCIAが手先として設置、隠匿物資を米国に献上。官僚機構と多くの政治家は米国の言いなりの道を選び国民を売ることで現在も安泰である。

歴史は勝者=支配者(米国、天皇、軍産複合体、官僚)の都合に合わせて塗り替えられる。教科書は米国のための作文、大東亜共栄圏構想は日本側支配者のプロパガンダ、そして真実は歴史の闇の中へ葬り去られようとしている。歴史の闇が明らかにされず、戦争責任が総括されていない。その意味からも戦後は終わっていないのである。当時を知る遺族の多くは故人となり、尊い犠牲となった兵士の遺骨は今なお異国の地に埋もれ朽ち果てている。墓参だけで満足することなく、歴史の真実を掘り起こすことこそが非業の死を遂げた同胞への唯一の贖罪であり、供養である。合掌!

引用したものを是非とも最後まで読んでいただきたい。


コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相 国内で消費税を増税し外国で大浪費 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
02. 2013年9月26日 07:42:32 : yeJvIWZSWU
>1
御意
アホなのか?バカなのか?キチガイなのか?一日も早い安倍政権転覆を期待している。
世界一の嘘つき、日本一の恥さらし、政界きっての低能政治家、あべしんぞー。

「下痢で総理を辞任した」と国民が忘れた頃に再登場したが、当時アベ降ろしが始まっていた事を忘れてはならない。
近いうちアベ降ろしが始まる可能性もありそうだが、次を睨むキチガイ政治家も恐らく政策は同じ。
国民に反感を買う、原発再稼働、汚染食品流通、消費税増税、社会福祉費減額、TPP参加などを、
馬鹿アベに実行させてからアベ降ろしが始まるのではないかと思う。

コメント [政治・選挙・NHK154] 前代未聞 国連総会でもフラれた日米トップ会談 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
04. 2013年9月26日 07:42:40 : N99hlALTwE
ざまあみろ下痢三。

世界中に嘘つきまくったからこういう扱いをされるんだよ。

コメント [政治・選挙・NHK154] 底流に流れる歴史認識問題 両首脳は不戦の誓いを再確認せよ――前中国大使・丹羽宇一郎氏に聞く ダイナモ
29. 2013年9月26日 07:44:29 : ucZ12nmxJA
>形を変えずにいるのは、暴力革命を是としている「左翼団体」にかかってますよ。
よーく文脈をたどってください。さっきから軍人にかかりきりで文脈無視ぎみですよ。

私は戦争を指導した軍人が、一夜にして、左翼に看板を変えたと、主張しているのです。
暴力革命を是としている「左翼団体」は、その影響をされた子どもたちでしょう。
生物的には、その世代は全共闘の世代ですから、5〜6年の幅をもって70歳前後の人たちでしょうか。

私は旧社会党員でしたが、上の人が、旧将校で、私たち下の人間に対しての、伝える手段、方法が、やはり軍隊のやり方でしたよ。


コメント [政治・選挙・NHK154] パリジャンの度肝抜いた、稲田大臣のゴスロリコスプレ外交 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
14. 2013年9月26日 07:44:30 : 29Gp4Mu8Sw
典型的な自民党専属の転び芸者。
コメント [カルト12] 仏がイランに接近、日加接近、シリア反政府死刑囚がトルコにブーメラン、米英仏イバビロンの一角が崩れてきたようである。 ポスト米英時代
09. 2013年9月26日 07:44:42 : 2YyuouaOmE
>>2 >>3 >>4 結論:中川隆センセは嘘吐きです。

津田元一郎は学界からは「相手にされてる」存在です。

一般検索するとお堅い人しか相手にしない出版社から

数多くの著作が刊行されています。

全く中川センセは困りものです。純粋な日本人で?あり

名門インテリ階層の出であるからこそ、インテリの見栄で

朝鮮盲従分子になり、一般の反日朝鮮人よりも

より過激な死相の信者となるんですから。

それと正しくとも「発表当時の学界から相手にされなかった先例」として

ヴェーゲナーの大陸移動説てのもありましたねえ。

コメント [政治・選挙・NHK154] 室井佑月「菅元首相を人身御供に差し出したってこと?」〈週刊朝日〉  赤かぶ
26. 2013年9月26日 07:44:46 : MVEswqjBG2
よい子の豆知識 現代用語の基礎知識
(1)「NDK(日本ダマスゴミ放送協会)」
・・・世界一ダマされやすい国民の受信料で運営され、食べて応援をおこなう。
被爆しても責任はとらない。
福島原発報道は最近しなくなった。
重要なニュースほど深夜に短時間でおこなうのが特徴。
(2)「東京オセンピック2020」
・・・原発の危険性を隠蔽して無理筋誘致した「東京オリンピック2020」
が放射能で開催禁止となったため、
巨大な赤字予算を補填するための世界中からのチャリティー。
しかしそのとき、日本は放射能まみれ、
太平洋オセンで世界中から避難、賠償請求されていたので、
結局外国人選手団はこなかった。
http://onodekita.sblo.jp/article/75679696.html
コメント [政治・選挙・NHK154] ラジオで100倍返しの反撃!みのもんた報道の真実 (simatyan2のブログ)  赤かぶ
53. 2013年9月26日 07:46:20 : estg9Fhsoc
まだTVを見ている馬鹿が日本にいることに驚いている。みのもんたの共犯者が、みのについて何を言っても、所詮共犯。日本のTV局は原発以上に有害。


コメント [政治・選挙・NHK154] 「党員・サポーター票の大差の原因」(EJ第3638号) (Electronic Journal)  赤かぶ
17. 2013年9月26日 07:48:28 : duYq4sS9gY
 ずっと疑問に思っている。指摘される民主党代表選で、仙谷が暗躍していたのは間違いないだろうが、サポーター投票の開票責任者ってだれだったのか。
 開票責任者って、つまり開票現場の責任者です。たしか、サポーター投票の開票は茨城かどこか、東京から離れたところで行われましたよね。なぜ、東京ではないの? と当時から疑問だった。

 疑惑のある場合、具体的に責任者の名前は出した方がいい。開票にかかわった民主党職員の名前も出した方がいい。追及の対象がはっきりするし、不正開票を疑うわたしに誤解であるならば、彼らの説明を名前と顔を知った上でうかがいたい。
 シールか何かで隠すこともせず、記名欄が丸見えのはがきで投票するなんて、もし「小沢」とあったら捨ててしまえという指示がったのではないかと、わたしは以前からずっと思っている。

 確か、アメリカの大統領選挙のような都道府県の選挙区ごとの、規定得票人の総取りシステムだったと記憶しているが、サポーター投票数のあの大差は異常としか思えない。
 おおやけにされた開票結果では、僅差で菅が小沢票をしのいで選挙区ごとの投票人を獲得し、その結果、大差になった説明がなされていたが、小沢派有力議員の選挙区でサポーター票に負けるケースがいくつかあり、おかしいと思っていた。
 選挙の結果を素直に信用する癖がついてしまったのがいけないんだろうね。選挙のインチキはありえないという先入観をわたしたちは持ち過ぎている。
 

記事 [原発・フッ素33] 「高速増殖炉『もんじゅ』を生き延びさせる」と、原子力ムラが決意表明 (生き生き箕面通信) 
http://blog.goo.ne.jp/ikiikimt/e/68a57d0341222ae8aba173c620f57084
2013-09-26 03:51:28

 文部科学省は、今後も高速増殖炉「もんじゅ」の研究開発を継続する考えを表明しました。これは文科省の審議会答申という形を通して、「もんじゅ」の研究継続は原子力ムラの意向というばかりでなく、国策であることを明らかにしたものです。

 廃炉寸前だった「もんじゅ」は、原子力ムラの必死の巻き返しで延命措置が取られました。文科省の御用諮問機関として設けた「作業部会」が昨日9月25日に「今後の研究計画案」をまとめましたが、それによると、「将来にわたって持続的なエネルギーオプション(選択肢)を確保しておくことが重要」として、研究を続けることを答申することにしました。

 「もんじゅ」は、核燃料サイクルの確立をめざすもので、プルトニウムがプルトニウムを産む”夢のエネルギーシステム”という触れ込みでした。

 しかし、研究開発を始めてから半世紀、1兆円に及ぶ巨費を投じながら、失敗の上に失敗を重ね、いまだに原型炉の段階でもたもたしている。実証炉に進めるメドもつまず。もちろん電気はこれまでまったく生み出していません。それほど技術的に行き詰っていることが明確になっています。

 しかも、「もんじゅ」施設の直下には、断層が8本も走っていることが明らかにされています。研究を手がけてきたその間には、ナトリウム火災というあわや大惨事という深刻な事故を起こし、昨年には1万3千件もの機器の点検漏れが発覚。緊張感がまったくないずさんな組織であることまで明らかになりました。

 原型炉とはいえ18年間もの長期にわたって止まったままのサビついた設備を再び動かし始めるなど狂気の沙汰というほかありません。どんな事故が起きるか分からない。

 ナトリウムという空気と接触すれば一瞬にして爆発炎上する極めて扱いのむずかしい冷却材をコントロールしなければなりませんが、不可能に近い。すでにアメリカをはじめ世界各国があきらめた技術です。

 しかし、日本は潜在的な核兵器開発・保有国の地位を維持するため、「もんじゅ」に執念を燃やしているのです。「もんじゅ」は、核兵器そのものといってもいいほどの危険な存在です。

 この技術開発にこだわる背景には、アメリカからの開発継続の強いプレッシャーがあります。アメリカは自国では反対が強くてできないので、日本に代理開発させることにしました。だから、日本が「もんじゅ」開発から撤退することを許しません。

 日本は、世界の平和を造り出すため、まず人類の存在を脅かす「核兵器の全廃」を率先して働きかける使命を帯びています。その使命にまい進することこそ、日本の世界における役割のはずです。

 「もんじゅ」はただちに「廃炉」にすべきではないでしょうか。そのためにも、「原子力基本法」と「電源3法」の抜本的改正を求める運動が必要です。

 しかし、「秘密保全法」が成立すると、そうした運動もできなくなります。私たちは、がんじがらめにされる瀬戸際まで追い込まれています。私たち国民をコントロールし、完全に支配しようとするのが、安倍政権です。私たちは目を覚まして、事実を見極め、何をすべきか、それぞれ真剣に考え行動する時機にきているといえます。



http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/747.html

記事 [音楽12] もう一回練習 Billie Holiday - Lover, Come Back To Me


http://www.asyura2.com/13/music12/msg/570.html
コメント [音楽12] Tea for Two - Anita O'Day - 1958. 五月晴郎
01. 2013年9月26日 07:51:39 : xFyTerZR6s
グー。 http://www.youtube.com/watch?v=QxG4UD208jI


コメント [カルト12] ワシら生産者は消費者を騙すことはしないから。(肉ちゃん(復興推進派)) 会員番号4153番
01. 2013年9月26日 07:52:32 : 2YyuouaOmE
会員番号4135番は、右の左翼を信奉する卑怯者。

中川八洋先生や大森勝久さんや、関連感想文記した有志たちの

ブログの案内を一切していないから信用するな!!


コメント [原発・フッ素33] 「高速増殖炉『もんじゅ』を生き延びさせる」と、原子力ムラが決意表明 (生き生き箕面通信)  笑坊
01. 2013年9月26日 07:53:14 : MVEswqjBG2
●福島原発(通常原発)の何百倍も危険な「もんじゅ」(1発で本当に日本全土おわり、水で冷やせない)を廃止しないのなら、
●「文部科学省」を廃止しろ!
●そんな「文部科学省」は、おれら要らないし!
記事 [戦争b11] 米国:武器貿易条約の署名へ  アムネスティ・インターナショナル
2013年9月25日 [国際事務局発表ニュース]

ジョン・ケリー国務長官は、米国を代表して9月25日の朝、武器貿易条約(ATT)に署名する。これは、人権侵害を助長する通常兵器の流れを絶つ記念すべき出来事である。

米国は世界最大の武器貿易国だが、人権に基づいて武器の供給を停止することについては十分に取り組んでこなかった。

これから米国がこの約束を行動で示すのか、アムネスティは注視していく。武器貿易条約に署名した他の86カ国についても同様だ。署名した国々は、条約を履行しなければならない。そして、ジェノザイド(大量虐殺)、人道に対する罪、戦争犯罪やその他の深刻な人権侵害を犯したり、助長したりすることに武器が使用される可能性がある国々への武器の輸出を止めるべきである。

シリアの悲惨な状況は、無秩序な武器貿易が恐ろしい程の犠牲者を生み出すことを、はっきり示している。武器貿易条約とは、将来、人びとがこのような苦しみにさらされることのないよう、悲劇を未然に防ぐ機会なのである。各国政府はこの、またとない機会を逃してはならない。

そして世界は今、中国とロシアが米国の条約署名に続くことを待ち望んでいる。

アムネスティ国際ニュース
2013年9月24日


http://www.amnesty.or.jp/news/2013/0925_4201.html
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/796.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 心を鬼にして原発ゼロを成功させよう 泉田知事「長崎、広島で累積被曝量1mSv超えた人は被爆手帳で医療費無料になる」 路傍の花
03. 2013年9月26日 07:58:19 : fJzbrfG5B2

02は頓珍漢。あほか!!

コメント [政治・選挙・NHK154] いまこそ沖縄は日本からの独立を本気で目指す時だ (天木直人のブログ)  笑坊
35. 米犬 2013年9月26日 07:58:49 : PUHl6PtDGaXFs : 4Q80R8Zler
>憲法9条を捨て去ることになる日本から決別し、
>沖縄こそが米軍の基地なき国、憲法9条を引継ぎ、守る独立国となるのだ

仮に新たに独立したとして、国が憲法9条を引き継ぐって何? 沖縄国独自の憲法を作るだろうが、憲法9条だけ引き継ぐはずは無いだろう。

結局天木が妄想しているのは憲法9条が大好きなだけで、沖縄などどうでも良いということだ。天木もういい加減に日本から出て行け。
下らない話は要らないし、その下らない話にも洗脳される脳弱06・34等がいるから

ウイグルにでも引っ越して頭を冷やしてこい!

コメント [政治・選挙・NHK154] 底流に流れる歴史認識問題 両首脳は不戦の誓いを再確認せよ――前中国大使・丹羽宇一郎氏に聞く ダイナモ
30. 2013年9月26日 08:01:44 : 0J4wTtThac

    >>17 米犬 4Q80R8Zler  >左翼の理想人物スターリン・・・


    また、コソコソ出てきたな。ずっと逃げまわっとけ。この腰抜け米犬が。
    http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/584.html#c7

    こら米犬。ハキハキせんか。この薄汚い破廉恥野郎が。あははは。



コメント [原発・フッ素33] 〈新潟発〉 廣瀬・泉田会談 「急ぎますか?」「ぜひ」(田中龍作ジャーナル)  赤かぶ
05. 2013年9月26日 08:02:57 : X5q7wgqL3s
新潟県知事の早期了解は不透明、東電要望の原発改良工事で

[新潟 25日 ロイター] - 新潟県の泉田裕彦知事は25日、県庁内で東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)の広瀬直己社長と会談し、柏崎刈羽原発の改良工事に関する会社側の要望書を受領した。会談の結びで泉田知事は要望書を「お預かりする」と広瀬社長に伝えた。

ただ、この日の会談でも知事は東電の安全に対する経営姿勢を厳しく問いただしており、改良工事に関する知事の了解が早期に得られるかどうかは依然として不透明だ。

広瀬社長は知事との会談後、同原発6号機、7号機の原子力規制委員会への規制基準適合申請は県知事の了解を得てから行うのかとの質問に対して「そのように考えている」と明言した。泉田知事は県の事前了解なしに同6号機、7号機の適合審査申請をしないよう東電に強く求めていたが、知事の意向に従った格好だ。

<フィルター付きベントを追加設置>

東電が県知事の了解を求めたのは、緊急時に原子炉格納容器の圧力を下げるために排気する際に、放射性物質を1000分の1程度に減らす「フィルター付きベント設備」。東電が採用する沸騰水型軽水炉では再稼働時点で求められている。

泉田知事は、東電が従来示していたフィルター付きベント設備について、原子炉建屋と一体でないことを問題視。泉田知事は7月29日、ロイターのインタビューで、新潟県中越沖地震(2007年)の際に起きた柏崎刈羽原発でのトランス(変圧器)火災事故について「原発内の敷地で1.5メートルくらい下がり、(敷地のずれにより)トランスとの間のパイプが外れ、油が漏れて発火した」と言及。フィルター付きベント設備の配管で同様のことが起きれば、放射性物質が大量に外部に放出されると懸念を示した。

この日の会談で広瀬社長はフィルター付きベント設置計画について知事に説明。配管が収縮して揺れを吸収する構造を取り入れることで「(配管は)地震の揺れが吸収できると考えている」と述べた。

広瀬社長はさらに「知事の指摘や県民の安全・安心を考え、フィルターベントをもう1つ作る」計画を披露した。「地下を掘り下げて本体建屋の岩盤に限りなく近づけて、(原子炉建屋)本体と揺れはほとんど同じになる」などと説明、安全対策に万全を期すとの考えを強調した。追加のフィルターベントは「これから設計する」(広瀬社長)という。追加コストは1基当たり数十億円という。

泉田知事と広瀬社長は7月5日にも会談したが、その3日前に、県に事前通知なしに原子力規制委への申請方針を取締役会で決議したことに知事が猛反発。「東電はウソをつく会社か」などと広瀬社長に詰め寄り、東電側が持参したフィルターベントの申請書も受け取らなった。

<汚染水、事故対応など疑問次々>

今回は東電の要望書を受領したものの、泉田知事は約40分間の会談で、福島第1原発の汚染水問題や2年半前の事故時の情報公開のあり方、柏崎刈羽原発でベントを行った場合の住民への被ばく想定など、厳しい質問を広瀬社長に次々と投げかけた。

福島第1の汚染水問題では、東電は2年前に地下水流入を食い止めるための遮水壁建設を検討しながら着手されなかった。泉田知事は「1000億円かかるから先送りされた。なぜそうなったのか」と問いただし、広瀬社長は「1000億円かかることを決定する前に発表すると厳しい財務状況にあったので、発表を控えるよう(当時の海江田万里経済産業相に)お願いしたが、おカネがないから止めることはない」などと弁明した。

また、安倍晋三首相が今月19日、福島第1原発5、6号機の廃炉を東電に要請し、関連して1兆円の追加コスト削減方針を同社が打ち出したことについて泉田知事は「設備投資を控えると聞いてるが、柏崎刈羽原発の安全対策費に影響が出るのか」との問いに対し、広瀬社長は「おカネを優先して安全対策を後回しにすることはない」と語った。

さらに同知事は「フィルターベントだが、トラブルになった場合、最悪の場合、どれくらいの被ばく線量か」と質問した。広瀬社長は「フィルターベントで1000分の1にしても大きな数字になるが、(放射性物質が)どう拡散するかいろいろなパターンがあるので、いろいろ対策を取るべき」などと答えた。

知事は「われわれが試算したら(甲状腺等価線量で)260ミリシーベルトだった。健康に影響がある値だ」と指摘。広瀬社長は「計算上、260ミリシーベルトが出るが、敷地境界辺りで何もせずに待っていればそうなるが、そうしたことはまずない。そうならないために、これから対策を立てていかないといけない」などと答えた。

<再稼働、「話せる状況ではない」>

会談後、広瀬社長は柏崎刈羽原発の再稼働へ一歩前進したかどうかについて、「再稼働の話をするのは、(原子力規制委へ適合審査を)申請して、安全だとお墨付きを得る必要があるので、まだ(再稼働を)話せる状況ではい」と記者団に語った。

(浜田健太郎)

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE98O05E20130925?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0

コメント [政治・選挙・NHK154] 「党員・サポーター票の大差の原因」(EJ第3638号) (Electronic Journal)  赤かぶ
18. 2013年9月26日 08:03:02 : 5kdGKRZxW6
寄せ集めの政党などは、そんな程度のものになるんでしょうかねぇ?

記事 [原発・フッ素33] 東電の広瀬直己社長は、有力OBの「水力発電に戻ろう」という声を無視、柏崎刈羽原発再稼働に固執する (板垣 英憲) 
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/6a712984e2d5c7ecfd44f93ca6affa58
2013年09月26日 板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」


◆東電柏崎刈羽原発の建設に関わった東電OBのなかで「原発はもうダメだ。もう一度、水力発電建設に戻ろう」という声が上がっている。


それは、東電福島第1原発大事故により「原発安全神話」が脆くも崩壊したばかりでなく、放射能汚染水漏れ事件が続き、なおかつ、核廃棄物の最終処理場のアテがなくなっている惨状があるからだ。世界の風潮は「脱原発」「原発ゼロ」へと進んでおり、いまや「原発の未来」がなくなってきている。


そこで、日本が戦後のエネルギー政策の中心に据えてきた「水力発電の原点」に立ち戻って、最も安全な水力発電技術に力を入れるべきだという考え方である。台風の通過道である日本列島は、クリーンで豊富な水に恵まれているので、現代の「不死の神プロメティウス」といわれる原発の危険性に悩むことはなくなる。


 東電の有力OBである小川泰・元衆院議員(旧民社党、電力総連)は、「ウランは85年で枯渇する有限資源」であることと、「原子力発電所から出てくる放射線や放射能、放射性物質」の危険性、そして日本国内では、現在以上に原発を設置する場所がなくなっていることを踏まえて、永続的かつ安全に電力を供給できる資源は、「水」しかないという原点回帰の姿勢を示している。そのうえで、自ら考案した「新水力発電、新鋼管継手、新ランニングの3つの技術」を紹介し、「この次世代水力発電システムで人類の危機を救える」と力説している。


◆しかし、東電の広瀬直己社長(経団連会長を務めていた東電の平岩外四会長の秘書役を8年務める)はじめ経営陣は、原発の危険性よりは、当面する「経営上の利益」を最重要視するあまり、現在停止している「柏崎刈羽原発の再稼働」に固執している。赤字経営を一刻も早く打開したいのである。それには、稼ぎ頭となる「柏崎刈羽原発の再稼働」は急がねばならない。


 そこで、広瀬直己社長は9月25日、新潟県の泉田裕彦知事と県庁内で再会談し、柏崎刈羽原発の改良工事に関する会社側の要望書を提出した。会談の結びで泉田裕彦知事は要望書を「お預かりする」と広瀬直己社長に伝えている。


 広瀬直己社長の頭の中には、東電OBである小川泰・元衆院議員が提唱している「次世代水力発電システム」に関する名案を検討しようとする関心も意欲もまったくない。


◆それどころか、テレ朝newsが9日24日午後2時、「福島第一原発『地下水制御できない』NRC前委員長」というタイトルをつけて次のように報じている。



「福島第一原発の事故が起きた当時、アメリカのNRC=原子力規制委員会の委員長だったグレゴリー・ヤツコ氏が記者会見し、『汚染水を含んだ地下水を完全にコントロールするのは不可能だ』と述べました。


前米原子力規制委員会委員長、グレゴリー・ヤツコ氏:『(Q.安倍総理がコントロールできると言っていることについてどう思いますか?)(汚染水を含む)地下水の影響を最小限にするのは可能だが、すべてコントロールするのは無理だ。どんなことをしても流れ出てしまう』 ヤツコ前委員長は、『福島第一原発の汚染水の問題は以前から予想されていたにもかかわらず、ここまで放置されていたことに驚いた』と述べました。また、汚染水への対応について、事故を起こした東京電力が主体となってやるのは当然であるが、政府もしっかり監督すべきだと指摘しました」


にもかかわらず、福島県北部の相馬双葉漁協は、台風20号が近づいている前の9月25日未明から試験操業に踏み出した。「放射能汚染水による被害」という風評に対して、これをいかにして跳ね除けることができるか? 前途は険しい。


【参考引用】ロイターが9月25日午後6時32分、「新潟県知事の早期了解は不透明、東電要望の原発改良工事で」という見出しをつけて、以下のように配信した。


「[新潟 25日 ロイター] - 新潟県の泉田裕彦知事は25日、県庁内で東京電力の広瀬直己社長と会談し、柏崎刈羽原発の改良工事に関する会社側の要望書を受領した。会談の結びで泉田知事は要望書を『お預かりする』と広瀬社長に伝えた。


ただ、この日の会談でも知事は東電の安全に対する経営姿勢を厳しく問いただしており、改良工事に関する知事の了解が早期に得られるかどうかは依然として不透明だ。


広瀬社長は知事との会談後、同原発6号機、7号機の原子力規制委員会への規制基準適合申請は県知事の了解を得てから行うのかとの質問に対して『そのように考えている』と明言した。泉田知事は県の事前了解なしに同6号機、7号機の適合審査申請をしないよう東電に強く求めていたが、知事の意向に従った格好だ。


<フィルター付きベントを追加設置>


東電が県知事の了解を求めたのは、緊急時に原子炉格納容器の圧力を下げるために排気する際に、放射性物質を1000分の1程度に減らす『フィルター付きベント設備』。東電が採用する沸騰水型軽水炉では再稼働時点で求められている。


泉田知事は、東電が従来示していたフィルター付きベント設備について、原子炉建屋と一体でないことを問題視。泉田知事は7月29日、ロイターのインタビューで、新潟県中越沖地震(2007年)の際に起きた柏崎刈羽原発でのトランス(変圧器)火災事故について『原発内の敷地で1.5メートルくらい下がり、(敷地のずれにより)トランスとの間のパイプが外れ、油が漏れて発火した』と言及。フィルター付きベント設備の配管で同様のことが起きれば、放射性物質が大量に外部に放出されると懸念を示した。


この日の会談で広瀬社長はフィルター付きベント設置計画について知事に説明。配管が収縮して揺れを吸収する構造を取り入れることで『(配管は)地震の揺れが吸収できると考えている』と述べた。


広瀬社長はさらに『知事の指摘や県民の安全・安心を考え、フィルターベントをもう1つ作る』計画を披露した。『地下を掘り下げて本体建屋の岩盤に限りなく近づけて、(原子炉建屋)本体と揺れはほとんど同じになる』などと説明、安全対策に万全を期すとの考えを強調した。追加のフィルターベントは『これから設計する』(広瀬社長)という。追加コストは1基当たり数十億円という」



http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/748.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 全体像見て早急な解決を=慰安婦めぐる本、論議に一石−韓国  時事通信 ダイナモ
05. 2013年9月26日 08:11:57 : lzpAUMFDfA
日本人の「からゆきさん」(こちらのほうがよほど奴隷ぽい)と
朝鮮人の「慰安婦」に対する扱いを見ると、
愛を欠いた朝鮮人の劣等性がくっきりと浮かび上がってきますね
コメント [政治・選挙・NHK154] 底流に流れる歴史認識問題 両首脳は不戦の誓いを再確認せよ――前中国大使・丹羽宇一郎氏に聞く ダイナモ
31. 2013年9月26日 08:14:09 : ucZ12nmxJA
>日本は、かつて米国から、度重なる爆撃と、二度の原爆攻撃を受け、多くの非戦闘員、民衆の命を奪われた。それにも関わらず、復讐心はいまは無い。

ありますよ。
お酒などで心が弛むと、その合間から、復讐心が出てきます。

大日本が、領土を分割され、天皇が人間となり、敗戦後、内地の住民だけで日本として再出発した、その恨みはありませんが、やはり、空襲され、原爆を受けことなどへのムラムラとした、復讐心です。

しかし、二度と戦争はしないと決意をしたので、本当に平和が可能なのか、そのためには、どんなように、復讐心がある自分と接し、人に対して、どのような態度を取り、どんな言葉を使うかです。


記事 [原発・フッ素33] セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度〈週刊朝日〉 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130926-00000003-sasahi-soci
週刊朝日  2013年10月4日号


 関東15市町で実施されている最新検査で、子どもたちの尿の7割からセシウムが検出されていたことがわかった。ジャーナリストの桐島瞬氏は、その被曝の深刻度を明らかにする。

*  *  *

 入手したショッキングなデータをまず、ご紹介しよう。常総生活協同組合(茨城県守谷市)が、松戸、柏、つくば、取手など千葉、茨城の15市町に住む0歳から18歳までの子どもを対象に実施した尿検査の結果である。

「初めの10人を終えたとき、すでに9人からセシウム134か137を検出していました。予備検査を含めた最高値は1リットル当たり1.683ベクレル。参考までに調べた大人は2.5ベクレルという高い数値でした。いまも検査は継続中ですが、すでに測定を終えた85人中、約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています」(常総生協の横関純一さん)

 検査を始めたのは、原発事故から1年半が経過した昨年11月。検査対象全員の146人を終える来年明けごろには、セシウムが検出される子どもの数はさらに膨れ上がっているだろう。

 セシウム134と137はウランの核分裂などにより生じ、自然界には存在しない物質だ。福島から近い関東の子どもたちが、原発事故で飛び散ったセシウムを体内に取り込んでいるのは間違いないだろう。副理事長の大石光伸氏が言う。

「子どもたちが食べ物から常時セシウムを摂取していることが明らかになりました。例えば8歳の子どもの尿に1ベクレル含まれていると、1日に同じだけ取り込んでいると言われます。内部被曝にしきい値はないので、長い目で健康チェックをしていく必要があります」

 関東だけではない。放射能汚染による体内被曝が、東海や東北地方にまで及んでいることも分かった。福島を中心に200人以上の子どもの尿検査を続けている「福島老朽原発を考える会」事務局長の青木一政氏が、実例を挙げて説明する。

「昨年11月に静岡県伊東市在住の10歳の男児、一昨年9月には岩手県一関市在住の4歳の女児の尿からセシウムが出ました。この女児の場合、4.64ベクレルという高い数字が出たため食べ物を調べたところ、祖母の畑で採れた野菜を気にせずに食ベていたのです。試しに測ってみたら、干しシイタケから1キロ当たり1810ベクレルが検出されました」

 食品に含まれる放射性セシウムの基準値は、1キログラムあたり一般食品100ベクレル、牛乳と乳児用食品50ベクレル、飲料水と飲用茶10ベクレルだ。ただし、基準そのものに不信感を持つ消費者も多い。検査もサンプル調査だから、東日本の食材を敬遠し、なおかつ1ベクレルでも気にする風潮につながっている。

 体内にセシウムを取り込むと、どういう影響が出るのか。内部被曝に詳しい琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬氏が解説する。

「セシウムは体のあらゆる臓器に蓄積し、子どもの甲状腺も例外ではありません。体内で発する放射線は細胞組織のつながりを分断し、体の機能不全を起こします。震災後、福島や関東地方の子どもたちに鼻血や下血などが見られたり甲状腺がんが増えているのも、内部被曝が原因です。怖いのは、切断された遺伝子同士が元に戻ろうとして、間違ったつながり方をしてしまう『遺伝子組み換え』で、これが集積するとがんになる可能性があります」

 矢ケ崎氏は、尿中に含まれるセシウム137がガンマ線だけ勘定して1ベクレルだとすれば、ベータ線も考慮すると体内に大人でおよそ240ベクレルのセシウムが存在し、それに加えてストロンチウム90もセシウムの半分程度あるとみる。

 体に入ったセシウムは大人約80日、子ども約40日の半減期で排出されるが、食物摂取で体内被曝し、放射線を発する状態が続くことが危険だと言う。

 常総生協が昨年度、食品1788品目を調査した資料がここにある。結果を見ると、280品目からセシウムが検出されていた。米74%、きのこ63%、お茶50%、それに3割近い一般食品にもセシウムが含まれていたのだ。



http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/749.html

コメント [原発・フッ素33] 脱原発に踏み込んだヤツコ前NRC委員長 (田中龍作ジャーナル)  赤かぶ
08. 2013年9月26日 08:17:03 : 1GlvLASJJs
2013/09/22 〖愛媛〗八幡浜ワークショップゲスト、ヤツコ元NRC委員長・菅元首相らによる伊方原発周辺視察

 愛媛県八幡浜市で行われた八幡浜ワークショップの翌日、2013年9月22日(日)、ワークショップのゲストであるグレゴリー・ヤツコ元米原子力規制委員会委員長、菅直人・元首相らが愛媛・佐田岬半島の四国電力・伊方原発周辺の視察を行った。


※9月22日(日)9時半からの視察の模様を、9月25日(水)深夜、配信しました。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/103403

コメント [音楽12] DAM, "Born Here", Hebrew/Arabic with English subtitles で爺
10. 2013年9月26日 08:17:19 : xFyTerZR6s
http://www.ansa.it/ansamed/en/news/sections/culture/2013/07/09/Music-Israeli-Arab-group-DAM-makes-its-way-Italy_8998037.html

ラガムヒンってレゲェーの意味なのね。知らなかった。この記事によると、DAMが、ジャマイカのレゲエグループとセッションする(した)みたいですよ。アラブ音楽と、レゲェー、ポップスとリズム&ブルースのフュージョンだって。アラブ音楽も、レゲェーも「無限旋律」みたいなところがあるから、合うかもね。私は、アラブ音楽は聞いているうちに「よくなる」のですが・・・。

それでは

コメント [原発・フッ素33] 福島原発行動隊の山田恭暉氏「私は放射能汚染野菜でも食べます」⇒その後、食道がんで手術・・・  赤かぶ
40. 広瀬隆頑張れ 2013年9月26日 08:17:55 : vov28t6x0zQho : bpNbq9rUMc


老人は死期も近いし
若い人を巻き込みたいんだよ
見た目も醜いけど
わがままで心も醜いんだ
今の日本を見てみなよ

悪い輩ばかりだろ
悪い奴ほど出世する
悪い奴ほどよく笑う


コメント [政治・選挙・NHK154] 公共性の高いインフラを構造改革によって民営化することは大事故につながる。JR北海道事故頻発も民営企業だから起きたことだ TORA
20. 2013年9月26日 08:18:01 : lzpAUMFDfA
JR北はあれだけ国の援助を得ているのだから、とても民営化されているとは言えない。
現実は、投稿者の言うことと逆に、「JR北海道事故頻発も民営化されていない企業だから起きたことだ」という説もいくらでも成り立ってしまう状況。
記事 [経世済民82] 大前研一 アジアの金持ちが続々日本に移住してくる私案披露 (週刊ポスト) 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130926-00000011-pseven-soci
週刊ポスト 2013年10月4日号

 来年1月から、最高税率の引き上げが実施されるのに伴い、金持ちの海外逃避が話題になっている。現在、ビジネス・ブレークスルー代表取締役、ビジネス・ブレークスルー大学学長などを務める大前研一氏は、こうした現状を踏まえ、アジアの金持ちを呼び込むことの必要性を指摘。氏が考える抜本的な税制改革案とは?

 * * *

 日本では所得税が2015年1月から最高税率が現行の40%から45%に引き上げられる。住民税10%を合わせると所得税の最高税率は55%に達する。与党が人気取りのために富裕層への懲罰的な課税強化を重ねているわけで、それに嫌気のさした金持ちが海外に逃避するのは当然だろう。

 しかも日本の場合は庶民の暮らしも、復興特別税や社会保険料の段階的な引き上げ、地球温暖化対策税の導入、電気料金をはじめとする公共料金の値上げ、円安による食料品やガソリンの値上げなどによって、ますます苦しくなる一方だ。加えて、自動車取得税の廃止に伴う代替財源として軽自動車税を増税するという議論まで浮上している。

 そうした「取りやすいところから取る」節操のない政策に対する批判をかわそうとしてか、安倍晋三政権は消費税増税の是非や影響について有識者60人から意見を聴く「集中点検会合」を8月末に行なった。結果は「議論百出」だったが、立場や考え方の異なる人たちにヒアリングをすれば、そうなるのは当たり前だ。

 もはや消費税は国債暴落を避けるために増税せざるを得ないのに、そんなことさえ安倍首相が自分で決断できないというのは信じられない。そもそも消費税増税は自公民3党合意により法律で決めたことだから、それを翻すのはおかしな話で、議論の余地はないのである。

 安倍政権は世界の潮流変化を何もわかっていない。日本は国と地方を合わせた借金がGDP(国内総生産)の2倍に達している現状を一刻も早く是正しなければならないが、いくら消費税を上げたところで焼け石に水である。今や政府は小手先の微調整で国民から姑息にカネを巻き上げることをやめ、根本的に考え方と制度を変えるしかないのだ。

 そのためには、かねてから私が提案している税制の抜本改革が必要だ。現行の税をすべて撤廃し、「資産税」と「付加価値税(※注)」の二つだけにする。資産税は金融資産と不動産資産の時価に1%の税率で課税するもので、おそらく35兆円くらいの税収になる。

 その場合、相続税を撤廃しても、相続した人が同じだけ資産税を払い続けるから、相続に関しては中立となる。税金が払えなければ資産を手放せばよいだけの話だ。付加価値税(税率8%とすれば40兆円の税収)の導入により所得税や法人税もなくせるので、個人も企業も税金のことを考えずに投資も消費も自由にできる。

 日本がこの税制にシフトしたら、おそらく中国や香港、台湾、シンガポールなどの金持ちが、続々と日本に移住してくるだろう。アジアには1000億円以上の資産を持っている大金持ちが山ほどいる。その人たちが日本を“終の棲家”にすれば、不動産などに莫大な資産を移す。

 これは海外から日本にカネが入ってくる純投資、すなわち「真水」である。しかも、資産1000億円なら毎年10億円、100億円でも毎年1億円の税収が入ってくるのだ。さらに、日々の消費生活でも大いにカネを使ってくれれば、付加価値税が潤うことになる。

 むやみに金持ちを虐め、増税や公共料金の値上げに苦しむサラリーマンのなけなしの給料から広く薄く吸い上げるより、金持ちに気持ちよくカネを使ってもらって世界から“真水のカネ”を集めるほうが、間違いなくクレバーな政策だ。消費税増税で無意味な意見聴取をしている暇があったら、資産税導入をはじめとする根本的な税制改革を打ち出して議論を喚起すべきなのであり、そういう決断のできる政治家を私は待望する。

【※注】付加価値税/経済活動に伴って発生する付加価値(富の創出)に対し、すべての段階で一律に課税する税金。



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/652.html

コメント [原発・フッ素33] 京大原子力専門家「少しでも汚染の少ない地域へ逃げるべき」(NEWS ポストセブン)  赤かぶ
43. 2013年9月26日 08:20:26 : 8fvRDAdblE
>42

はい、ロックフェラーへ綿々と続く金の亡者達の正体ですね。
3.11直後、クリントン国務大臣が、わざわざ来日して、米国国債の貸出期限であった3兆円を米国に使うことを約束しました。
このとき、日本国の被災者より、経済を優先にすることを約束させられました。
まさしく鬼畜な米国ですね。


小出先生は頼りない人だと思っていたら、ときの総理大臣に、もの申す凛とした姿に惚れました。

コメント [原発・フッ素33] 大スクープ!4号機爆発画像発見「煙の出所が分かる」岩田清さん (大山こういち)  赤かぶ
04. 2013年9月26日 08:21:21 : 7OpGsifAXA
4号機は写真が出るたびに破損の程度がひどくなっており、複数回に別れて破壊したことは確実だ。しかもフタ開けて点検中で燃料も装填されていなかったというのだから、何がどうしてああなったのか、4つの原子炉中最大の謎は4号機ではないか。

コメント [原発・フッ素33] 「高速増殖炉『もんじゅ』を生き延びさせる」と、原子力ムラが決意表明 (生き生き箕面通信)  笑坊
02. 2013年9月26日 08:23:10 : FHNJWPHYnQ
01<正論です!
 1kwも発電能力がないもんじゅに1兆円以上つぎ込んで
 更につぎ込もうとしている!
 狂気としか思えん!
 文部科学省を廃止しなければ日本は終了する
コメント [政治・選挙・NHK154] パリジャンの度肝抜いた、稲田大臣のゴスロリコスプレ外交 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
15. 2013年9月26日 08:25:34 : S0I5JwtgsQ
まあ、余興としてはおもしろいんじゃないの?
コメント [雑談専用40] 先ずはスピリチャル要素を捨てることが大切です。 気まぐれな風
07. 2013年9月26日 08:26:04 : J1K9W8RP9Q
あ、蝶々が、あなたの
頭に
留まりました

あなたは、それを捕まえ、(指に鱗粉だらけ、ゲッ)
捕まえた部分の羽根は、半透明に
さて...?

コメント [政治・選挙・NHK154] 心を鬼にして原発ゼロを成功させよう 泉田知事「長崎、広島で累積被曝量1mSv超えた人は被爆手帳で医療費無料になる」 路傍の花
04. 2013年9月26日 08:26:59 : lzpAUMFDfA
>>03
言い忘れたけど、「どんな病気でも」ということですよ。
原爆から60年も経過しての老化による腰痛でも、ということなら生活保護の医療費無料よりも筋の通らない手当です。当時の社会党や共産党が放射脳宣伝をしたから悪いんでしょうけど。

合理的な手当てを支給するなら、個々の病気について被爆50年か60年以降の者の
発病率と一般人の発病率を比較し、被爆者の発病率のほうが高ければその割合だけ
医療費を免除するのが理想でしょう。

自分はぴんぴんしていて、60歳以上の息子が癌になったら「原爆のせいだ」などと
言っている人は異常です。(子に死なれた悲しみを何かに押し付けたいという原始的な気持ちはわかるけど)

コメント [政治・選挙・NHK154] 反ヘイトスピーチ団体が発足 デモなどの差別運動へ警告  朝日新聞 ダイナモ
05. 米犬 2013年9月26日 08:27:17 : PUHl6PtDGaXFs : 4Q80R8Zler
辛淑玉・朝日・宇都宮 この売国三人トリオがいるだけで「反ヘイトスピーチ団体」というのがどれだけ日本破壊の団体であるかが予想される。

本来反ヘイトスピーチなどは、ヘイトスピーチの本場韓国にこそ必要。
日本の国旗を汚し、安倍総理をナチス扱い。生きたキジを殺戮し生で食べる民族

反ヘイトスピーチ団体 韓国へ行け!

日本には全く必要としない団体。レイシストしばき隊・・名前とは裏腹にヤクザ・在日の集団じゃないか。韓国のサッカー場で旭日旗を振ったのもこいつら。完全に日本破壊を目指しているキチガイ達だ

しかし宇都宮は頭の悪いのか、心底悪なのか、団塊の世代のにおいがプンプンとする要らない日本人の代表だね。都知事選の結果を見てもわかるように、似非左翼はもう要らない・

コメント [自然災害19] 阿蘇山、噴火の恐れ 気象庁が警戒レベル引き上げ ピノキ
02. 2013年9月26日 08:28:22 : 7OpGsifAXA
阿蘇山、小噴火の恐れ 気象庁が警戒レベル引き上げ

というので、軽い以前にもあった程度の軽い活動かと思うが、本格的な噴火ならたいへんだぞ。

コメント [政治・選挙・NHK154] 言論封圧の動きに立ち向かう動きー正念場だー 明治大学で一般大学生に講義して感じたこと  孫崎 享  赤かぶ
05. 2013年9月26日 08:30:04 : lzpAUMFDfA
明治ってMARCHと呼ばれる大学生には入ってないの?
それともMARCH当たりが大学生として一般だと言いたいのか?
コメント [原発・フッ素27] 「世界が輸入禁止にしている食品」をチラシにしました (放射能メモ)  赤かぶ
62. リメンバー・ディモナ 2013年9月26日 08:30:30 : Uv3F1yBEmGiTc : E7MiuhXF7C
56

その後、続報が入ってこないねえ。

http://andromeda.phpapps.jp/archives/1108

たとえ事故を否定する記事であっても参考にはなるのにね。

化学兵器開発センターとしてのディモナ解明が先かな?

イスラエル産の葡萄や西瓜は輸入禁止せよ!!!

コメント [政治・選挙・NHK154] パリジャンの度肝抜いた、稲田大臣のゴスロリコスプレ外交 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
16. 2013年9月26日 08:32:18 : lzpAUMFDfA
化粧が足りないんじゃないかな
スポンサーに日本化粧品企業が付いていなかったのか
コメント [自然災害19] 相続した株が大暴落で義弟嫁発狂寸前。「同じ嫁なのにこの差は何なの!?」2cより 311が発生して助かった人々の事例 木卯正一
03. 2013年9月26日 08:32:27 : 7OpGsifAXA
>>01
世話してもらえると思ってるのかよ。甘い。

コメント [経世済民82] 大前研一 アジアの金持ちが続々日本に移住してくる私案披露 (週刊ポスト)  赤かぶ
01. 2013年9月26日 08:34:55 : FHNJWPHYnQ
金持ちに気持ちよくカネを使ってもらっ<雨水がしみわたる論理を
まだ言ってるアホがいるとはなぁ 笑
コメント [原発・フッ素33] 大スクープ!4号機爆発画像発見「煙の出所が分かる」岩田清さん (大山こういち)  赤かぶ
05. 2013年9月26日 08:35:08 : BxgKgNJpDM
>>04
>4号機は写真が出るたびに破損の程度がひどくなっており、複数回に別れて破壊したことは確実だ

仰る通りだ
七時の画像で建屋が壊れ過ぎている
スクープというより変すぎる

コメント [政治・選挙・NHK154] 室井佑月「この国があざけりを受けませんように」〈週刊朝日〉  赤かぶ
37. 2013年9月26日 08:35:43 : oCh03tO4rw
34様、
まったくであります。

「自分の言葉に責任を持つ」という意識が完全に欠如しているのではないか、安倍という人間には。
だからあんなその場限りの調子のいいことを平気で口にできるのだ。
消えた年金問題の時も、絶対出来そうもない空々しい約束を、首相として堂々と宣言した。
この時の大嘘について国民、マスコミが徹底的に追及していたら、安倍というペテン師は今総理の座についていることはなかったはずだ。
小学生だって、少しでも良識があれば自分の言ったことに責任を感じるだろう。
日本人全体に「責任をとる」ということに対する認識が甘すぎるような気がする。
今回の悪質で重大なウソは、あとで本人が謝罪するとか辞任するぐらいでは到底済まされるようなことではない。
多くの人の命と健康が掛かっている問題だ。
身柄を拘束されたっておかしくない。
彼は国際舞台で得意満面でウソをつき、日本という国の信用と評判を地に落とした。
その罪、万死に値する。


コメント [政治・選挙・NHK154] いつも登場するカジノ構想は不謹慎だ。(日々雑感)  笑坊
01. 2013年9月26日 08:36:21 : lzpAUMFDfA
こんな論理を進めると、カシノは作っても自国民の出入りは禁止する後進国みたいになってしまう。
記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 ディビット・バーガミニ 著 松崎  元 訳 もくじ
天皇の陰謀

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳

 (2013年9月7日翻訳完)       も く じ

 〔リンク(青字部分)されていない部分はまだ翻訳されていません〕

 ◆この 「訳読」 は、原著の読書の一環として個人的に訳出されているものを私的サイトに掲載したもので、翻訳出版あるいは販売を目的としたものではありません。
 ◆この翻訳作業 (訳者はそれを 「訳読」 作業と呼んでいる) は長期にわたっており、その公表の都度、 「ダブル・フィクションとしての天皇」 と題した解説を付けています(最新のものは「両生空間」 もくじへ)。本文と合わせて読まれるようご案内いたします。

     翻訳に当たって
     献辞
     はじめに
     著者から読者へ

                第一部  戦争と報復
     第一章    南京強奪
                慈悲の聖地 日本と中国 松井の指揮 苦境の上海 赤いテント 黒いテント 
                停止線茶番劇 窮地の蒋介石 裕仁のおじ パナイ号事件 どたん場の南京
                南京陥落 大虐殺の開始 凱旋入城 繰り返される残虐行為 
                朝香の最後の獲物 最終的犠牲 利益と損失
     第二章    原子爆弾
                   広島 長崎 原子爆弾投下の決定 日本のジレンマ 巨大なはったり
                   ポツダム最終通告 天の声 アメリカの回答 武士の約束 日本の最も長い日 
                   最も長い夜 最後の芝居 天皇に奉げられた命
     第三章    敗戦
                   受諾内閣 婦女と狼人間 マニラへの特使 米国の上陸 序曲 東条逮捕 
                   裕仁の外出 最初の争い ロマンスの開花 宮廷人質 神の死 
                   民主主義の君臨 天皇のかけ引き まやかし裁判 苦しい判決

               第二部   天照大神の国
     第四章    天皇家の遺産(A.D.50-1642)
                バイキング天皇 墓造り 中国からの光 御簾越しの統治 将軍 フビライハン 
                朝廷分裂 野蛮人 鉄砲の威力 日本のナポレオン 暴君徳川 鎖国
     第五章    ペリー来航(1642-1900)
                空白の時代 ドアのノック 内的恐怖 黒船 ペリーの再来 天皇の憤り 
                    国家統一計画 不屈の西洋人 内戦 天皇殺し 王政復古 奇跡 
                    勤労の時 暗殺卿 最初の侵略 

               第三部   若い皇帝
     第六章    裕仁の少年時代(1900-1912)
                   未熟児 巨人を倒す 平和の価格 王子の教育 中国での叛乱
     第七章    皇太子裕仁(1912-1921)
                   明治天皇の死 大正天皇のクーデタ 卒業 世界大戦 シベリア出兵 
                   平和と狂気 色盲の花嫁 旅立ち ヨーロッパへの航海 戦場ツアー 
                   裕仁の即位 奇妙な事件
     第八章    摂政裕仁(1921-1926)
                   裕仁の陣営作り 宮中陰謀団養成所 大震災 大逆罪 宇垣陸軍大臣  
                   結婚の儀 陸軍の縮小 中国の新星 大正天皇の死 
     第九章    天皇裕仁(1926-1929)
                   皇位の修得 蒋の国掃除 日本の方向転換 東方会議 田中メモ 蒋の求婚 
                   窮地に立つ張 国際的殺人 天皇の強情 馬賊の息子 面子の修復

               第四部   満州侵攻
     第十章     海軍力(1929-1930)
                   ライオン宰相の選択 陸軍の若き天才 海軍の若き天才 辛抱する裕仁
                   降って湧いた勝利 海軍の偽装 欠席戦術の蔓延 我が道を行く裕仁 
                   ライオン殺し
     第十一章   1931年3月
                   暁の古老 西園寺の裕仁への警告 三月事件 宇垣の逡巡 宇垣への誘惑 
                   利益むさぼる大川周明
     第十二章   奉天占領 (1931)
                   態勢準備 司令官の選任 不気味な静穏 狙い定めた準備 出兵への妥協
                   隠蔽命令 行動開始 一夜戦争 正当性工作 
     第十三章   ドル買い (1931-1932)
                   スパイ活動 木戸邸での晩餐 傀儡ヘンリー・溥儀 東洋の宝石 頑固な老人
                   国際連盟の転進 再度の屈辱 満州での陽動作戦 溥儀誘拐 
                   事前の政治駆け引き 連盟の決定 ドルで稼ぐ
     第十四章   だましの戦争(1932)
                   指揮する親王 上海の誘惑 裕仁の奇異なまぬがれ 幽霊屋敷 戦争徴発
                   内政での制約 交戦開始 
     第十五章   暗殺による統治 (1932)
                   殺し屋の跳梁 執行猶予 銀行家殺害 自由の身の殺し屋 戦争回避への投票
                   演出家たちの会議 視察前夜 脅威に挟まれて 西園寺の手 上海での勝利
                   連盟の歓迎 団男爵の殺害 西園寺の苦策 リットン卿 政策見直し 
                   本庄との調整 田舎旅館で 犬養暗殺 死の拒絶 叛乱の脅し 犬養の臨終
                   容赦なき弾圧 新政権 裕仁の業績 手ぬるい扱い
     第十六章   追放国家 (1932-1933)
                   駐日米国大使 妾工作 リットン調査団 楽園とは程遠い 連盟への報告
                   突破された長城 ならず者国家日本 ケシ栽培地方  

               第五部   軍紀の粛正
     第十七章   北進か南進か (1933-1934)
                   ショウの見下し 北進指導者 赤い汚点 天皇の不審 荒木の大芝居 第一の敵 
                   毒をもって毒を制す 交通信号事件 神兵隊事件 一時休戦 カスペ誘拐
                   海軍の戦時態勢作り 南進の決定 裁かれる愛国者 皇太子の誕生 ゼロ戦
                   農民の窮状
     第十八章   機関か神か (1934-1935)
                   懐柔と統制 古い話でもないむし返し 第二次海軍内閣 見せかけの制限
                   国内統制 大演習の誤算 士官学校事件 蒋介石に背 国体原理 
                   機関説論争 神の異議 神の主張 神の噛み付き 長城を越えて
     第十九章    1935年の粛清
                   陸軍の危機 真崎の更迭 波紋と統制 荒木の摘発 永田殺害 
                   喪中期間  “強気姿勢” 緊迫する宮廷
     第二十章    2.26事件 (1936)
                   忍び寄る大詰め もの言う大神 最後の煽動 土壇場の勇気 ついに流血
                   ポーカーの手の内
     第二十一章  鎮圧 (1936)
                   叛乱の夜明け 蹶起趣意書 戒厳令初日 第二日 第三日 裕仁による解決  

                第六部   アジアの枢軸国
     第二十二章  対ソ中立化工作 (1936-1939)
                   投棄された無線機 スパイの首魁ゾルゲ 日本の忠義なユダ達 内蒙古 
                   西安事件 ヒットラーとの同盟 ゾルゲの初情報 宇垣工作の失敗 
                   西園寺の脱落 国民の最後の声 近衛親王 盧溝橋 爾後国民政府を相手にせず 
                   南京事件の余波 ソ連からの亡命者 未承認事件 裕仁の怒り 
                   泥酔したスパイ首魁 ハサン湖叛乱事件 勝利の詰め ヒットラーの最初の悶着 
                   ノモンハン(1) ヒットラーの冷ややかさ ノモンハン(2) スターリンとの探り合い 
                   ノモンハン(3) ヒットラーの背信 ヒットラーと裕仁の離反
     第二十三章  枢軸国への加盟 (1940)
                   ヒットラーのせきたて 木戸内大臣 フランス降伏 第二次近衛内閣
                   新秩序 倹約と憎悪 コックス事件 英国戦線 三国同盟条約 インドシナ
                   戦闘準備 西園寺の死 不気味な予測
     第二十四章  受動的抵抗 (1940-1941)
                   山本五十六の任務 第82部隊 国民の冷淡 外交攻勢 松岡の歴訪 
                   熊の抱擁 近衛の和平工作 松岡の遅延工作 松岡の叛逆 松岡の狂気 
                   最後の北進策 ヒットラーのソ連侵攻 松岡追放
     第二十五章  近衛の最後の機会 (1941)
                   石油危機 悪魔の選択 開戦期限 近衛の退陣
     第二十六章  真珠湾(1941)
                   ゾルゲ逮捕 東条の責任 内閣降伏 第一号命令 軍事参議院の同意
                   開戦公式決定 裕仁の隠密行動 艦隊出動 日本の戦争目標 立場堅持の米国
                   真珠湾の警戒 外交策略 一週間の不思議な静寂 平和の最後の日 
                   日曜日の朝 トラ、トラ、トラ 開戦

                    第七部   世界終末戦争
     第二十七章  南進 (1941-1942)
                   空の征圧 海の征圧 陸の征圧 マレーのジトラ戦線 ウェーキ島 香港
                   ルソン マニラ バターン防衛 マレーからの撤退 シンガポールの苦悶
                   東インド諸島の甘美な香り バターン攻落 死の行進 ドーリットルの業績
                   コレヒドールの死 珊瑚海 ミッドウェイ 
     第二十八章  崩壊する帝国 (1942-1944)
                   ミッドウェイの衝撃 「どこの艦隊か?」 サボの一斉砲撃 東条の三番目の帽子
                   物資補給をめぐる攻防 飢えと孤立 大戦一周年 前進たる後退
                   働かざる者食うべからず 死の泰緬鉄道 日本の英雄への報復 幸運頼み 
                   アッツ島 トルストイからの教訓 人形劇の終幕 
     第二十九章  本土陥落 (1944-1945)
                   削がれる国土 ギルバート諸島からマーシャル諸島へ 海洋空軍 「重慶工作」
                   両総長の解任 インド:最後の攻勢 決定的戦闘 求む、神風 
                   サイパンと東条の没落 絶望的 「捷号作戦」  レイテ沖海戦 偉大な死
                   殺す意志 空からの火攻め 最後の戦闘 恥辱を越える指導者を 
     エピローグ   新たな衣服
                   無に帰した獲得 勝者の復讐 マレーの虎の絞首刑 赤鼻の切落し 
                   東京裁判の被告 東京裁判の結果 天皇の番人たち 工業力 沈黙の天皇
                   秘かな着服 平民化された華族 黒幕の影 孤独な苦悶の叫び 未来 

 図表 南京への侵攻 南京 皇居 伏見宮の系譜 1779年以降の天皇家系 戦前日本の政府構成 
       1930年時点での日本と近隣諸国 戦前の東京 日本帝国の拡大 レイテ沖海戦図〔W〕
 写真 奉天の9.5インチ砲 「東洋の宝石」と田中隆吉 閑院親王 東久邇親王 伏見親王 朝香親王 
      宇垣大将 近衛親王〔W〕  宴会での近衛 南京作戦の三司令官 荒木大将 山本五十六長官〔W〕  
      松岡洋右〔W〕 永野修身〔W〕 杉山元〔W〕 戦艦長門〔W〕 東条英機 辻政信 山下奉文〔W〕
      屈辱の写真〔W〕 

 (写真の引用は、原書 p.216-217 の間に掲載されている諸写真の中から、主要なもののみの抽出。ただし 〔W〕 とあるのは、訳者の判断で Wikipedia から借用して使用したもの。 )

   

 巻末脚注 (1) 第1章用
 巻末脚注 (2) 第2章用
 巻末脚注 (3) 第3章用
 巻末脚注 (4) 第4,5章用
 巻末脚注 (5) 第6−9章用
 巻末脚注 (6) 第10−12章用
 巻末脚注 (7) 第13−14章用
 巻末脚注 (8) 第15章用
 巻末脚注 (9) 第16章用
 巻末脚注 (10) 第17−18章用
 巻末脚注 (11) 第19−21章用
 巻末脚注 (12) 第22章用
 巻末脚注 (13) 第23−24章用
 巻末脚注 (14) 第25−26章用
 巻末脚注 (15) 第27章用
 巻末脚注 (16) 第28章用
 巻末脚注 (17) 第29章およびエピローグ用

 参考文献

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/491.html

コメント [原発・フッ素33] NHKのニュースウォッチ9がまた食べて応援をやっている taked4700
05. 2013年9月26日 08:39:05 : MVEswqjBG2
■よい子の豆知識( 現代用語の基礎知識編)
■(1)「NDK(日本ダマスゴミ放送協会)」
世界一ダマされやすい国民の受信料で運営され、食べて応援をおこなう。
被爆しても責任はとらない。
福島原発報道は最近しなくなった。
重要なニュースほど深夜に短時間でおこなうのが特徴。
■(2)「東京オセンピック2020」
原発の危険性を隠蔽して無理筋誘致した「東京オリンピック2020」
が放射能で開催禁止となったため、
巨大な赤字予算を補填するための世界中からのチャリティー。
しかしそのとき、日本は放射能まみれ、
太平洋オセンで世界中から非難、賠償請求されていたので、
結局外国人選手団はこなかった。
http://onodekita.sblo.jp/article/75679696.html
コメント [経世済民82] 機関車が重かった時代の基準で点検…JR北海道(読売新聞)  かさっこ地蔵
03. 2013年9月26日 08:39:24 : rAZs4KvhOE
蒸気の時代は01氏が言うようにスラック(線路の遊び)を大きくしないとカーブが曲がれない(逆にそれで脱線する)ということがあり、基準値を5mm広げていた。補修限度は今の基準よりは5mm少なかった。
蒸気がなくなってからは基準値を5mm小さくして、その代わり補修限度は5mm大きくした。
要するに線路の広がりを許容する補修限度は変わっていない、と言うことだ。
車輪の厚みそのものは蒸気も電車も変わらない。
だから常識的に考えて補修限度が5mm広がったと考えるほうが可笑しい。
現場の担当者だけでなく、むしろ指導する立場にある区長・助役も大いに責任がある。

コメント [経世済民82] メディアを襲う”破壊的イノベーション”  読者・視聴者を3分の1失ったアメリカの報道機関 (東洋経済)  赤かぶ
09. 2013年9月26日 08:39:42 : FHNJWPHYnQ
08<同意! 新聞は広告の為にあるから
      記事はおまけです!
       
コメント [社会問題8] JAL本社前抗議行動に怒りの300人/日本航空はただちに整理解雇を撤回しろ!(レイバーネット) gataro
729. 2013年9月26日 08:41:04 : JpgCSUuizI
仕事をください。仕事を紹介してくださいはNGです。仕事紹介で入ったアシュラ人民共和国と三映金融国にサトチキン国、大明企画は見事に潰れました。
記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 翻訳にあたって 献辞 はじめに 著者から読者へ
翻訳に当たって

 ●脚注 : 著者は以下の二種類の脚注を入れています。 
1. 各パラグラフの直後に注記されているもので、文中に「(#)」の記号で示されています。
2. 膨大な情報の出所や記述の根拠を表すために用いられるもので、文中に「(1)」と番号で示し、その説明は、巻末にまとめて述べられています。この翻訳サイトでは、それぞれをリンクさせてありますので、番号をクリックしてください。
 ●訳者の判断で、以下の二種類の訳注が挿入されています。 1. (訳注) として、やや長い脚注を、そのパラグラフの後に挿入。
2. 文章の途中に、〔 〕に入れて、短い訳者のコメントを挿入。
 ●天皇に関連する特殊用語はできる限り用いず、原文にそった表現を用いています。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_honyakuniatatte.htm

献 辞

アメリカ海兵隊員ジャックと、日本人子守り きのさん
へ捧ぐ。


二人は、文化の衝突、避けられたかもしれない野望と
誇り高き欺瞞、そして両サイドの多くの人々の怠慢な
無知によって、その命を失った。


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_kenji.htm

は じ め に


私の手元にあるこの著作は、私もかつて司法の領域において取り組んだことのある、ある歴史についてのさらに詳しい再調査である。オーストラリアのクイーンズランド州の主席判事であり、後にオーストラリア最高裁判所の判事を勤めた私は、1946年5月から1948年11月まで、東京に設置された、極東国際軍事法廷とよばれた11ヶ国からの11人からなる判事団を率いた。日本の新聞ですらその公平さを認める、その2年半にわたる審問の後、日本人指導者25人に対し、侵略戦争をくわだて、その部下によってなされた残虐行為という戦争犯罪の責任において、死刑ないし投獄刑が科された。
 デービッド・バーガミニが著した『天皇の陰謀』の原稿が私のもとに郵送されてきた時、私はすぐさまにそれを紐解いたのだが、著者のジャーナリスティックかつ学研的な資質や資料文献の幾年にもわたる調査を発見し、その著者に多くの期待をいだいた。今、彼の努力の結晶を読み終え、私は、期待をはるかに上まわるものを発見している。
 『天皇の陰謀』は、偉大な作品である。私はこれまで、込み入った状況を興味深いストリーに仕上げたものや、論理性と明晰性をもって、歴史的経緯についての斬新な論文にまとめたものといった、いくつかの歴史物語を読んできた。人々の営為としての歴史を扱う上での本著者の主張は新たなスタイルのもので、複雑な社会的、経済的圧力による陰鬱な作用という視点とは対極に位置する。この著書に、関係者による適正な評価が定まるには、しばらく年月を要するだろう。この著作にあらわされた半分を越える情報は、英語圏の世界には初めて公開されるもので、そのいくつかの解釈については、物議をかもすものとなろう。しかし、この著書は、もっとも重要で、かつ、東洋史における西洋人の視野に大きな見直しを与えるものとなることは疑いない。
 かなりの程度、『天皇の陰謀』は、私が率いた極東法廷における発見を補完するものである。つまりこのことは、そうした発見が、検察側によって示されたものよりいっそう確かに、有罪の証拠になりうることを表している。これは、審問が日本の降伏のわずか8ヵ月後の1946年5月3日に始まり、著者の資料の大半は1960年以前には入手不可能であったことを思えば、当然のことである。法廷の判事は、存在する証拠の多くが、検察側によっても弁護側によっても提示されえず、検察側も弁護側も未発見なものがあることを認識していたが、法廷は、調査や取調べを命ずる自身の力を持っていなかった。
 本書は、天皇が果たした役割を掌握した法廷がつかんだ事実から口火をきっている。裕仁の取り巻きの日記より得られた見事なばかりの詳細をもって、バーガミニ氏は、天皇が、1941年の米国への攻撃ばかりでなく、その内部的扇動の許可にも責任を負うと考えた。私は、この点について、天皇がその法廷の審問対象とはなっていなかったがゆえに、判事としての権限に抵触することなく、コメントをつけることができる。
 その法廷は、英米式の審問方式をとっていた。その方式は、数世紀にわたって、英語圏の国では有効に機能しており、公正な結果が期待されていた。しかし、英米式の法理論においては、告発をおこす権利は、検察側のみに属していた。法廷の検察は、日本の指導者を絞り込んで告発したが、ことに天皇は、その法廷の審問対象からは除外されていた。
 審問が開始される前、私は、専制君主である天皇は、一見して明らかに、戦争の許可に責任があるとする見解をもち、私の政府の要請にもとずき、そのように意見をのべた。そして、もし天皇が告発されたら、そのような予断の持ち主であるがゆえ、私は判事の地位を辞さねばならない、と付け加えた。審問で明らかにされた証拠は、私の事前の判断を支持しており、天皇は戦争に許可を与え、したがって、それに責任を負うことを示していた。
 天皇についての疑問は、被告への処罰を与える段となった際、重要な問題となった。被告が命令に服従する部下でしかない限り、そして、その指導者が審問を逃れている限り、処罰の決定にあたっては、強く、酌量すべき情状が考慮されなければならない。検察側の証拠には、天皇は戦争を不承不承に承認したと解釈するよう余地が残された。私は、こうした証拠の解釈に完全に納得してはいなかったが、それは何がしの検討の価値は持っていた。
 天皇の内大臣、木戸侯爵の日記の、1941年11月30日の箇所に、天皇は戦争をいくらかの躊躇をもって許可したと記録していた。それはまた、この躊躇は、彼の平和への固執によるものではなく、敗戦への恐れによるもので、天皇は、海軍大臣と海軍参謀長による「全面的保証」を求めることによってその恐れを晴らしていた。
 1941年当時の首相で、また同法廷の被告の一人、東条元帥は、最初、天皇の意思には決して反したことはないと証言し、そしてさらに証言席に立ち、戦争を許可するよう天皇を最大の努力をはらって説得したと付け加えた。だがこのいずれの発言も、木戸侯爵の日記の趣旨に、大きな付加を与えるものにはならなかった。
 1936年当時の首相で、軍部過激派による暗殺をかろうじてまぬがれた岡田海軍大将は、天皇は平和の人だとする趣旨の証言を行った。被告席に天皇がいたなら、岡田の証言は、天皇の本来の性格に触れるものとして、刑の軽減に役立ったであろう。
 天皇が有罪か無罪かについての判断は、この法廷の対象外のことであったので、そうした断片の証拠は付随的なものだった。それでも、検察側は、告発されている犯罪を始めるにあたっての被告の権限について、疑問をなげかけるきっかけとなった。不公正の根を取り除くため、私は、どの被告にも極刑を科さず、代わって、日本国外のしかるべき場所での、厳しい条件での投獄を求めた。しかし、被告のうちの七人には絞首刑がくだった。
 私は、死刑が明らかな過剰とは判断できなかったので――オーストラリアの最高裁で採用される上告の審査基準にてらし――、自分の異論を主張せず、死刑あるいは投獄との判断が決まった。
 『天皇の陰謀』は、松井石根の絞首刑がありえた除外として、そうした判決のいずれもが誤判決ではなく、死刑となった者らは、ほしいままの殺人や野蛮行為の防止を怠ったことを悔いていたとしても、その責任があったことを再び確証したものである。天皇自身については、米国と連合軍それぞれの政府の高度な政治レベルにおいて、審問せずという判断に達した。天皇のケースに関するオーストラリア政府よりの求めにも、私は、政治的、外交的レベルにおいて取り扱われるべきであると助言した。
 民主的政府の連合軍が、生命や資産を費やして専制政府に対する戦争をおこし、その結果、その政府の専制の主をいまだその指導者の地位に残すというのは、実に奇異なことと思われる。しかし、裕仁は、単に個人であるばかりでなく、象徴であった。個人的にはとがめられるべきではあったが、しかし、彼は、その国全体の精神的体現であった。1945年、日本人の大多数は、宗教的信条として、天皇と日本は不可分で、共に生きるか、共に死すべきであると信じていた。
 私が東京法廷の席にあった30ヵ月の間、日本の君主を案じそして尊敬する証言と、そのケースを弁護する熱心さと正直さに、私はたびたび感動させられた。私は幾度となく、1941年に日本が戦争にうったえたことを告発することが正しいのかと自問した。日本は九千万人の人口をかかえる小国で、しかもその15パーセントしか耕地はなく、まして、外からの厳しい経済封鎖をうけていた、という弁護側の主張に、私は、おおくの正義と酌量の余地を覚るようになった。米国や英国なら、そして米国や英国の国民なら、そうした状況に、どう反応したであろうかと考えた。そして私は、一世紀前、ロンドンの法曹協会で、ダニエル・ウェブスターが行った演説を思い出した。この著名なアメリカ人法学者は、小国イギリスが偉大な帝国に拡大したことに、以下のような言葉をもって喝采をおくっていた。

英国の朝の鼓動は太陽の栄光とともに始まり、時の女神を友とし、軍事的威風もつ英国の不断の血統は地球をおおう。

拡大は、そのすべてが、平和的交渉の結果によるものではないのである。
 20世紀になるまでは、戦争に訴える権利は、敗戦の恐れによる抑制はあるものの、あらゆる国家によって実行される主権のひとつであった。敗戦国は、金あるいは領土による賠償を払い、勇猛果敢という荒々しいルールが、国際的な正悪の判断に持ち込まれていた。しかし、第一次世界大戦の後、列強国は、誰が戦争を開始したかを判断するさいに用いられる、戦争行為の基準や国際法の原則にそうよう努力するようになった。そして1928年には、63カ国が、自衛を除き、手段として戦争に訴える政策を有罪とするパリ条約に調印した。日本は、こうした諸国のひとつであった。しかし、日本政府は、署名国に、日本は帝国君主の名において署名するのであって、他国のように、国民の名においてするものではない、と断言したのであった。
 パリ条約は、もしある国が同条約を犯して戦争を始めた場合、署名国の戦争指導者が個人として責任をもつと明確に規定はしていなかった。著名な国際的法律家の幾人かは、この条約は個人的責任を科すものではないとの見解を示した。しかし、私は、違反しても個人は罰せられない国際法に署名したという無益を63カ国に帰させることはできなかった。ともあれ日本は、1945年9月2日、裕仁天皇に代わって署名された降伏文書のなかで、連合国が国際法に反する犯罪として、日本の戦争指導者を個人として訴追する権利があることを明確に認めた。天皇の内大臣、木戸侯爵の1945年8月の日記には、裕仁は、「戦争犯罪」が戦争にかかわる、彼を入れたすべての人を含むことを理解していた、と記している。
 簡潔に言って、以下が東京法廷が始まった段階での法的位置であった。つまり、もし日本に、パリ条約および署名した降伏文書に言う侵略戦争の罪があるとするなら、政治的、軍事的、およびその外の指導者は、個人的に責任が問われうる。その際の唯一の弁護は、それが「自衛」であったかどうかである。同法廷は、この弁護を取り調べ、それを拒否し、自衛は不成功に終わった。日本は、タイやフィリピンといった国を、日本によって脅かされたわけではなかったと反論した。要するに、日本がおこした戦争は、その当然たる目的が賠償や領土割譲であるものとしての、単なる国の行為ではなかった。それは、その国の指導者が犯罪者として罪をおう、国家の不法行為であった。
 2年半にわたる、賛否両方の証言の後、同法廷もそのように判断した。温情ある判決として、情状酌量された25ケースのうちの18ケースに、投獄のみが科された。そのほかの7ケースには、証拠にのっとり、被告は、侵略戦争ばかりでなく、よく統制のとれた日本軍部隊を、戦闘区域以外の場所での、略奪、強姦、殺人に加担することを許す指導を行ったという面でも責任を負うとの理由で、極刑が下された。
 文章上の表現はないものの、天皇の訴追なくして、日本の指導者の死刑判決をすべきでない、というのがバーガミニ氏の見解である。私は、たとえそれに同意しないにせよ、その見解に共感を抱く。バーガミニ氏の見方では、天皇は、現実に対する、理論的で、科学的で、研究没頭的な理解力を持っていた。氏が言っているように、天皇はあやつり人形ではなく、有能でエネルギッシュな人物で、力強く、知的な指導者であった。しかし、天皇は、彼に仕える大臣たちの上にそびえる世界に暮らしていた。彼は、善良な国民のために、国を愛し、自己犠牲の精神をもって行動しているかのようであった。彼は、タカ派の役を演じて、1941年以前の数十年間、西洋に対する戦争を企てたかもしれなかった。しかし、私は、裕仁が1946年から48年の間に被告席にあったとしても、他のほとんどの日本の指導者のもつ人格より、より高いものを見出していたかは疑わしい。いみじくも、裕仁の価値は、今日のこの国の地位より出てきているもので、彼の治世のもと、戦争と敗戦を克服し、世界第三位の産業国となったのである。
 共犯者に不利な証言をする犯罪者、あるいは逆に、法秩序を守ろうとする犯罪者は、常に寛大な扱いを受ける。同じことが裕仁にも言える。彼は、告発の淵からのがれ、日本の敗戦の屈辱を、アジアの安定した国家へと変えることによって生き延びた。彼は、最終的には核攻撃へと至った敵意を終了させた絶対君主として、自らの権威を意義付ける。だが、広島と長崎での原子爆弾の炸裂による衝撃にうろたえた日本であるがゆえに、彼はそうあれたが、バーガミニ氏が白日のもとにさらしているように、1945年8月14日から15日の夜間、皇居でおこった奇妙な出来事があばかれた場合には、彼はおおいに個人としての危険に遭遇しただろう。
 バーガミニ氏は、裕仁が、日本をアジアを征服する構想と謀略に導いたと見るに充分な論拠を提示している。今日の環境のもとで、天皇は救済するに値するとする私の見方は、シニカルで手段優先的なものだ。氏の、天皇への根拠ある賞賛も同様であろう。また、トルーマン、チャーチル、アトリー、スターリンという政治家たちの異質な見解が一致して天皇に免罪を与えたのも、同様であろう。
 裕仁は日本人である。彼は、他の国民からは孤立した、数世紀にわたって引き継がれてきた、奇異に狭量な世界で育った。人類学者、詩人、牧師、外交官、それぞれがその専門の分野で、日本の社会が独自の論理と審美感をもっていることを発見してきた。今、バーガミニ氏が、長期の資料調査の後、そうした世界の政治的側面を提示している。彼は、それを明晰な西洋用語で行っているが、日本的価値観を表現することに成功している。氏の本を読み終えて、私は、宮中で成長したどの日本人も、裕仁がしたことをしようとしても、それをうまくは成し遂げられなかっただろうと、確信を持たされた。端的にいって、戦争をこころみ、ほぼそれに成功しかかった裕仁は、敗戦の教訓から利益を得るにも、また、彼の人民を新たな方向に率いるにも、他のどの日本人よりも秀でていた。
 読者をこうした理解へと導きながら、バーガミニ氏は、私の知る限り、新しい日本についてのリアリズムを提示している。一方で、氏は、冷血で抜かりのない策謀者という戦時下の日本人への嫌悪を否定している。その他方、氏は、狂信的で感情的な失敗者としての日本人という戦後の弁明を遺憾としている。バーガミニ氏の見解では、日本人はつねに理性的で、所有するわずかな物的資源を活用して、世界を恐れさせることに成功してきた。また同時に、日本人は両親と子供を愛し、生活の平安と快適をもたらす生き方のために奮闘してきた。そうして、床に畳をしき、熱い風呂に入り、障子を通した照明を用い、大根の漬物と炊いたご飯を食してきた。東京に何年もいたが、私は、こうした日本式慣習を何も取り入れなかったが、バーガミニ氏は、私にそうすればよかったと、ほとんど思わせるばかりとしてくれた。氏の著作を読みながらそれに釘付けとなり、私は自分が彼の物語の主唱者となっていることを発見していた。
 氏の日本人の価値観とその業績を評価する主張がゆえに、判断の曇りや弁明を抜きに、バーガミニ氏は日本の歴史を再解釈しなければならなかった。氏の著作は、紀元50年の出来事についても、1945年のそれについても、同じく新鮮な考えを提供してくれている。私は、氏の洞察力が、極めて首尾一貫しており、強い説得力を持っていることを発見した。一言だけ言っておきたい。「読者の諸君、読み進みたまえ」。

 W.F.ウェッブ
  オーストラリア、ブリスベンにて


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_03_hajimeni.htm


著者より読者へ

「もちろん、日本が勝つさ。」  
 「日本人は清潔だけど、中国人は汚い。日本人は勤勉だけど、中国人は物乞いだ。日本人は機械をつくるが、中国人はそれを壊すだけだ」と私は言った。
 「じゃあ言うけど、お前は血生臭いナチだ」と、英国人の少年が言い返した。こうしてわれわれ二人は、その遊び場で取っ組み合いとなり、灰色の半ズボンと制服のブレザーを土まみれにし、さらに、一週間前の日本軍の最初の空襲以来積み上げられていた土嚢に、頭を打ち付けあっていた。
 それは、1937年の10月のことだった。われわれは、中国の中心都市、漢口〔今の武漢〕にある小さな英国男子校の9歳の生徒だった。それは、漢口私立学校での、私の初めてのけんかで、その後二ヶ月、同じことが原因で、クラスの他の生徒とも、何度もけんかすることとなった。私は日本生まれで、その一年前の家族の移転とともに、中国に連れてこられていた。日本は中国に侵略を開始し、いまや日本軍部隊は、中国の首都、南京に向け、進撃を続けていた。
 そのほぼ一年後の1938年9月、私は、中国の聖山、廬山にある、草履をはき、お経を唱える仏教僧侶が寺として使っていた洞窟の入り口に、父といっしょに座っていた。夏のシーズン、廬山――漢口から揚子江を南京方向に半分ほど下ったところにある――は、西洋人たちの避暑地となっていた。父と私は、双眼鏡を通じ、1,500メートル眼下の、日本軍の前線を見下ろしていた。その距離からでは、日本軍兵士の一人ひとりがようやく識別して見えた。彼らは、中国人の農家に報復攻撃をしかけており、住民を銃剣で突き、家屋を焼き払う作戦を展開していた。その煙は空をおおい、雨の日も晴れの日も、平和の日も戦の日も、休まず働く山麓の炭焼きの煙のたなびきをも飲み込んでいた。その翌日には、私たちのいる山頂部へと、あまたの難民が押しかけようとしていた。その多くは親を失った子供たちで、中には、わずか数歳年上の姉に背負われたひどい銃剣創を負った幼児も含まれていた。またその夜には、山の頂上に陣取る中国人ゲリラが、下界への突撃を行い、幾つかの日本人の首を竹ざおの先に突き刺して持ち帰り、勝利の行進を行おうとしていた。
 もはや私は、日本人びいきではなくなっていた。私が少年へと成長する間、私の周囲で接した、物静かで、思慮深く、思いやりがあって親しみのもてる人々は、いま、おぞましくも、また、もっとも不可解にも、変貌をとげていた。ここ戦場では、日本兵はただ戦闘をしていただけでなく、えばりくさって人の横っ面を張り飛ばし、飢える人から食料を、家を失った人から寝具を、貧乏人から銅貨を徴発し、少女を強姦し、妊婦の腹を裂き、赤ん坊を空に放り上げて銃剣で突き刺し、拷問による告白以外の真実を認めず、その統治は脅迫以外の手段を持っていなかった。私は、どうして日本人がそのようなことをするのか理解できなかったが、やがてそうした日本人の行為を、当たり前かのごとくみなすようになっていた。父の友人たちは、それを明らかな「日本人の劣等感」のゆえとしていた。近くに住んでいた中国人将軍は、それは日本の指導層に責任があると言っていた。彼によれば、日本は世界を征服しようと望む尊敬すべからぬ天皇によって統治されていた。私は、この将軍の見方を、そのシンプルさゆえに、受け入れていた。
 1939年の初め、私の家族と他の西洋人は、廬山の山頂部から避難し、日中の前線を通過し、上海に向かう日本船に乗った。揚子江を下る三日間の航海の間、日本人の売店は、パン、バター、塩漬イワシ、コーヒーのみを提供していた。私は、船内には、豊富な日本食があることを見つけ、調理室の中で、コックや衛兵といっしょに、ご飯や醤油、たくわんなどをいっしょに食べるようになった。私は、日本兵が、記憶にあるように、戦場以外ではけっこう朗らかで、分別のある人々であることを発見していた。その多くが、私の父が建てた東京の聖路加病院を知っていた。彼らは、父が日本の建築技術に貢献したことを、真に感謝していたようだった。


 1941年のクリスマスの二日後、私はふたたび、ある山の頂上に家族とともにいた。今回は、フィリピンの避暑地、バギオで、相変わらず、スーツケースのみで暮らす難民であった。われわれは、他の300人ほどの米国人の一団として、地元のアメリカンスクールで、日本軍によって捕らえられ、公式な捕虜となるべく、事態を待っていた。大工として、私の父に仕えた一人の現地日本人移民は、私たちが床に寝具をしいて仮り住まいしていた校長宅を訪れ、いかにも丁重に、いよいよ日本軍が到着したと告げにきた。われわれは、それを迎えるために、学校のテニスコートに集合した。
 二台の武装車両を先導とした一台の宣伝カーが、ほこりのなかでキィーと音をあげて止まった。軽機関銃がいっせいに向きをかえ、われわれを捕らえた。一人の日本人メソジスト派司祭がその宣伝カーから飛び降り、長い説教を始めた。日本軍の果敢なる働きによって、アジア人によるアジアがついに実現した、と彼は宣言した。われわれは、大東亜共栄圏の捕虜であった。「銃を放棄しなさい」と彼は言った。われわれの代表者は、すでにわれわれはひとつの銃も持っていない、と彼に告げた。だがその司祭はわれわれを信用していなかった。彼は、部下に、捜査し、もし武器を発見した場合、その者を射殺せよと命じた。そしてさらに、ひとつの銃ごとに、十人を射殺すると威嚇し、遂には、「もし我々が銃をひとつでも発見したならば、全員を射殺する」と宣言した。
 2年生の少年が震えながら空気鉄砲を差し出し、「お母さんを撃たないで」と泣きながら言った。武装した日本兵が一斉に笑い、わたしたちを安堵させた。司祭はしかめ面をしたままその場を立ち去った。
 われわれは学校の宿舎に集められていた。日本軍がバギオの町を平定し、その宿舎を拘禁の場と決定するまでの2日間、我々は空腹のまま放置されたが、苦悶からは解放されていた。13歳の私は、たとえ戦場にあっても、日本兵は、子供に対してなんらかの好意を示すことがあるものだということを感じとっていた。
 さらに私を驚かせたことに、中国においての日本の捕虜とはまったく違って、私たちは、銃剣ではなく、言葉をもって扱われていた。日本人の野蛮さは、上から命ぜられたことへの仕方のない服従によるものなのだろうか? この私の疑問は、数日後、在外中国人商人たちが、隣の宿舎に拘禁された時に、その答えがえられるところとなった。我々を見張っていた同じ日本兵が、ほんの数時間のうちに、その中国人の一人を柱に縛りつけ、他の同胞の面前で、容赦なく殴打したのだった。そこで私がさとったことは、中国人はアジア内部の問題であるのに対し、私たちは西洋という外部問題に分類される事項なのだということであった。


 われわれは、最終的には、かつての米軍駐屯地に落ち着くこととなった。そこにあったのは、一日にどんぶりに二杯の米と野菜の薄いかゆで生きてゆくことと、宿舎の床の一畳の広さの上での共同生活に親しんでゆくことであった。
 ある日のこと、一人の日本衛兵がやってきて、われわれの管理委員に、収容所の中での学校を開設する用意のあることを告げた。拘禁されている誰もがそうであるように、委員会メンバーも、何か面倒な事ならなければと心配していた。当面の生き抜く問題に関心が集中し、誰もそうした計画に関心すら示さなかった。しかし、衛兵は執拗であった。彼は、収容者の中で、最年長の少年たちに、本を持ってくることに手を貸すようにと働きかけた。そうして彼は、5人の少年をトラックに乗せ、防水シートでおおって秘密裏に守衛所を通過し、戦争の始まる前、私たちが学んでいたブレント校へと向かった。
 「日本帝国陸軍管理施設。略奪者は銃殺」との警告が示され、学校は閉鎖されていた。私たちは閉鎖をやぶり、教科書をトラックに積み、収容所に持ち帰った。教育を受ける私たちの生来の権利は否定されているものと思っていたが、私たちの大半は、それ以後の数年間、こうした教科書をぼろぼろになるまで使ったのであった。そうした結果、収容者のうちの高校生の一人だけが、3年間の収容所生活のため及第点を取れなかっただけで、他の二人は進級すらできた。
 各グループごと毎日5時間の授業を終えると、私たちの胃袋は空っぽで、読書をする余力も残っていなかった。そこで思い出すのであるが、午後の食事までの間、幾何学の本とともに寝台に横になり、日本人が99パーセントの読み書き率をほこり、衛兵すらが私たちに教科書を与えるという共謀に考えをおよぼす、そうした教育について、いつものようにかすかに目まいを感じながら、空想的な考えに思いをめぐらせていたのであった。


 戦争の前、バギオの登録住民であった私たちや他の多くの家族は、1942年、フィリピン現地人に生活が正常にもどったことを印象付けるために日本人がとった試みのため、数ヶ月の間、収容所から開放されたことがあった。その自由な数ヶ月間、私たちは借金をし、食料を買い、充分に腹を満たした。バギオは、バターンで負傷した日本兵の治療基地となっていた。町は兵士でいっぱいとなり、私たちの大半は、週に一度、町のプラザで開かれる青空食料品市場に出かける以外、自宅周辺にとどまっていた。商業地区へ出かけるこうした機会に、私には、英語で書かれ、市場に掲示された日本軍司令官の告示を収集することが趣味となっていた。私は、人目のあるところで、それを書き取りたくはなかったので、それを記憶できるまで繰り返し読み、住んでいる小さな家に帰るとすぐ、それを書き留めた。そうした告示は私を注目させた。というのは、そうした告示には、日本語や他の言語と、日本人が英語で表そうとする時に現れるぎこちない軽さとの間には、食い違いがあったからである。ことに、以下のような掲示を思い出す。

バギオやその近辺に住むイゴロットの人々が、バギオやその近辺の資産に、火をつけたり略奪することがいまだに続いている。ともあれこれは望ましい行為ではない。日本帝国軍隊がこれを発見した時は、そうしようとする人を、銃で撃つ。
 親愛をもって
 間森中佐

一年半の後、収容所の宿舎に付属する小屋の籐のポーチに、暗くなった中、一人で座っていた。私たちは、赤十字からの最初で最後の、戦時パッケージを受け取っていた。私のものには、食用には役立たない、10箱のタバコが含まれていた。その午後、日本軍の守衛所の台所から、毎日ごみを運び出す雑用という特権の最中、名古屋出身の清潔そうで無邪気な顔をした整備士の守衛に、タバコ一箱とバナナ二房とを交換しようと持ちかけた。私は彼に先払いで十本のタバコを与え、彼は、私が運ぶゴミ缶の底にバナナ一房を隠した。そうして、私がその小さなポーチに座っていた時、背後の暗闇から「シー」と言う声を聞いた。私は用心して小屋のまわりの明るみから出て、暗闇の中で、大きなバナナの房を差し出しているその名古屋出身の衛兵と会った。
 「我々に命令が下った」と彼は言った。
 私は彼に「宿舎までいっしょにきれくれますか。そこの寝台の下にタバコがありますので」と聞いた。
 「そのことはもういい。我々はもう対等だ。私にも腹を空かせた息子が日本にいる」と私に言った。
 私は彼に礼を言い、どこへ送られるのかとたずねた。
 「南方だよ」と彼は答えた。
 それはニューギニアを意味していたようなので、身体に気をつけてと言うと、彼は思いつめた風に「いや、我々は全員、死ななければならない。天皇陛下のために死ぬ以外の道はないから」と言った。彼はわずかながら頭を下げて几帳面におじぎをし、敵国民に親しくしたことが発覚する前に、急いで守衛所に向かって戻っていった。彼の悲しみと望みのなさのこもった声が、耳に残っていた。私は、彼らの大半は、私たちがそうであるように、それをいやがっていると思った。彼らは、その最終命令に従って死ぬため、それが命ぜられることをただ待っていた。もしそれが命令なら、彼は自分の息子すらをも殺しただろう。私は、悲痛な思いをもって、当時常用していたふんどしの紐を締めなおし、使いにくい下駄をあらためて履きなおして気持ちを切り替え、受け取ったバナナを宿舎に持ち込むという私の仕事に取りかかった。


 1944年の初め、東京からわれわれのもとへ、新しい指揮官が赴任してきた。彼は、第三期の梅毒に冒され、非情なかんしゃくを起こす人物として知られていた。到着やいなや、彼は、人の頭を野球のバットで殴る以外のことに関心を持っていないことを私たちに見せつけた。そうした殴打は、もし、その収容所に立会人として配置されている一人の民間日本人が居なかったら、私たちの間に幾人もの死人がでていただろう。その民間人とは、1936年の天皇に対する反乱〔2・26事件〕を支援し、またそれ以前には、軍の「南下政策」、つまり、マレーシアの英国領、東インドのオランダ領、そして必要とあらば、フィリピンの米国領を最終的には領有しようとする政策の決定に反対した、有名な真崎〔甚三郎〕大将の子息であった。その帝国的計画への彼の父親の反対のため、若き真崎は軍に参加できなかったが、しかし、父のそれまでの地位により、彼は、いかにして軍人に働きかけうるかを知っていた。そして、その狂気の指揮官に立ち向かえる彼の力量によって、多くの私たちは脳震盪と、少なくとも一人の死だけで、救われていた。
 ある日のこと、門の付近の将校宿舎のゴミ片づけをしながら、私は、真崎が指揮官に、午後9時半の消灯まで、私たちが読書ができるよう電球をえる権利について進言しているのを耳にした。指揮官は、東京から厳しくせよと命令を受けており、私たちが最後には死ななければならないという「新秩序」にあって、私たちの居場所はないのだ、と答えていた。それに真崎は、もちろん我々は、こうした状況のもとでは死ぬかもしれないが、しかし、万が一にも過ちがなされれば、戦争の後、そのつけを払わされることになるかも知れない、と反論していた。そして、天皇陛下の地位が国際条約に背くことなぞによって汚されることはあってはならないと、断固とした態度をもって指揮官をさとしていた。
 その私たちの恩人、若き真崎は、その後、日本のトラック車列への米軍機による機銃掃射によって殺された。そのトラック隊は、マニラ南部の収容所に拘禁されている六千人の西洋人に、救命物資として食料を運搬していただけであった。その収容所は、1945年のルソン島への米軍の最初の上陸の後の混乱によって、物資の補給を絶たれていた。後になって、私は、真崎家族の経歴を知り、彼らが、日本を正当でない戦争に訴えることを止めさせようとした勇気ある人々で、最後までその戦いを止めなかったという事実に、心を打たれたのであった。
 1944年12月、戦争が終局を迎える中、私たちの収容所はマニラへとトラックで移動させられた。私たちは、一ヵ月半の間、飼料用トウモロコシ、野草、カタツムリで命をつないだ。そして突然、アメリカ軍第一機甲部隊がやってきた。マッカーサーは、ある無名の日本人から、東京は収容所の捕虜を解放せず始末するよう命令を与えているとの情報――これは、後に私たちの収容所委員会の一委員が言っているように事実のものであった――を受け取っていた。私たちの始末は1945年2月5日、月曜の朝に執行される予定であった。
 2月3日の土曜午後、北マニラの湖沼地帯を第一機甲部隊の戦車が進撃していた。暗くなってから、同機甲部隊はマニラに到着した。私たちは、ビリビッド刑務所の病院のコンクリートの床の上で生活していた。この病院は、寒々とした白い建物で、波状鉄板で屋根をおおい、周囲は古いスペインの砦の苔むした壁で囲まれていた。病院の屋上からでは、戦車の車体に描かれたディズニーの漫画の紋章も、日本の漫画のようにも見え、それが誰かを証明してはいなった。最初、日本軍は散発的な銃声でもってそうした戦車を迎撃していたが、すぐ、道路にそった建物に砲兵を配置し、私たちは急遽、階下に降ろされ、一階の床に伏せさせられた。誰も、遂にアメリカ軍がやってきているとも、日本軍がゲリラ部隊を制圧しているとも、いずれも半信半疑だった。幾人かの物持ちの収容者が、フィリピンのタバコとピーナッツバターという最後の財産を賭け、そのどちらかをうらなっていた。
 四つの目標が、赤い円で戦車部隊の地図上に印されていた。私たちのいるビリビッド刑務所、より大規模な収容施設のセントトーマス大学、そして二つのビール醸造所が、その四目標であった。増援を待つ間、戦車部隊はこうした目標の四地点を包囲するように円形に展開していた。市街地には、日本の基幹部隊が残されているのみで、しかも南部高台のスペイン時代の古城に集中していた。この基幹部隊は、日本帝国海軍――天皇の貴族的血族――の陸戦隊によって補充されたばかりで、しかも、こうした新参者にあおられて、フィリピン人スラム街で、強姦や殺人という断末魔の乱行に明け暮れていた。そのため、潜入部隊による発砲や数発の迫撃砲弾をのぞいて、私たちの地域での戦闘は軽微であった。放棄された日本軍の軍需物資が数区画先で爆破され、まるでお祭りの花火のように夜空を飾った。戦車部隊は、単調なきしり音をたなびかせて、私たちの建物のまわりをぐるぐると回っていた。私たちは、なおも、それがアメリカ軍とは知らなかった。
 そこで、探究心あふれる収容者の一人が上の階へとはい上がり、こうした戦車隊がなにをしているのかを、屋上の手すり越しにのぞいてみた。彼がそうして見ている間、二台の戦車が停止し、砲塔のふたを開け、隊員たちがタバコを吸い始めた。一人の隊員は他の戦車の隊員に何やら叫んでいた。覗き見の彼は階下にはいもどり、その見てきた光景を報告した。聖職に携わってきた五十がらみの独身女性がとなりの男にこう言う声が私に聞こえた。「ねえ、あなた、私たちってこれまで、こんなどえらい所にいたんでしたっけ」。その瞬間、私たちは、賭けに勝てるかもしれず、取っておきの食料が食べられそうで、そして、その戦車隊がアメリカ軍であることをさとったのであった。
 次の朝、日本軍士官の台湾人と朝鮮人守衛が機関銃と火炎瓶を、収容所の屋上へ運び上げ、最後の抵抗の準備をしていた。私の父親は、収容所管理委員会の会長より、人のいない2階に残してきた私たちの貧弱な財産を見張るようたのまれた。戦車とのしばらくの交戦のあと、日本軍士官は、収容所の門において、門外に位置する戦車部隊員より、すべての捕虜と収容者の無傷なままの解放と引き換えにジープによる市域外までの移動とマニラ郊外の日本軍への自由な帰属、という日本側の条件を受け入れるとの知らせを受けた。そして、日本人士官たちは、屋上から降りてきた。彼らは、父が二階へと通ずる階段の上端に一人で座っているのを見つけた。門で行われた双方の合意を知る由もない父は、士官たちが死ぬために外に出てゆくところで、自分もその通りがかりで殺されるものと思い込んだ。混同した父はていねいに、「さよなら」とつぶやいた。退却してゆくひとりの士官は、父の方を振り返り、嫌悪の一べつを与えた。父は、「東京でまたすぐにお会いしましょう」と朗らかに付け加えた。もうひとりの士官は、上着を開き、その内ポケットから何やらを取り出し、一瓶のビールを彼のひざの上においた。
 たちどころにして、日本人はその建物から撤退した。呆然としたままの父は、日本人の先への希望の象徴であった、なかば空となったブランデー入りの携帯容器やビール瓶に囲まれていた。アメリカ軍の戦車部隊は、日本衛兵たちを郊外へと追放し、フィリピンの不正規部隊が待つ地域に置き去りにした。その当時、私は、こうした衛兵たちに同情は感じなかったが、彼らの役人的な律儀さには感謝するところがあった。私たちへの処理の執行がその翌日になっていたことが守られたことが、私たちの生命を救ったからであった。


 20年の後、ダートマウスとオクスフォードの学位と雑誌ライフにおける10年の経験をもって、私は、科学の哲学に関する、自分の5冊目の著作を終えようとしていた。その出版社と編集者のウィリアム・モロウは、日本側の第二次世界大戦について、日本の文書に基づいた本を出版したいという意向をもっていた。
 日本人の二重な性格についての子供の頃からの疑問を解明したいとの考えは、私を強くとらえていた。私はほぼ丸一年を米国のいくつもの図書館で費やした。私はまた、ふたたび、うまくはないが日本語を話すことを習い、また、ゆっくりだが、初めて、日本語を読むことを学んだ。そして、私なりの方法で、英語、フランス語、ドイツ語の延べ14万ページにわたる関連文献、戦後の戦争犯罪東京法廷についての5万ページの記録、そして、計3万ページの押収された日本語の文書と米国諜報部の報告を読んだ。そして、日本の古都、京都にある歴史ある帝国大学の農学部の実験農場を見渡す小さな日本家屋に、妻、4人の子供、そして272冊の参考文献とともに移り住んだ。
 1965年9月の午後、私は、引退した元海軍航空隊司令官とテーブル越しで向かい合い、寿司を食べていた。彼は、日本の対中国、および対米国の戦争の生き残りの名戦闘機パイロットの一人だった。私は、数週間前の日本到着以来、くつろげない気持ちでいた。日本は、建物の規模が変わっただけで、他は何も変わっておらず、その司令官にも、好意がもてない場合にそなえた心構えを用意していた。彼の顔の半分は吹き飛ばされ、傷跡を紫色の皮膚が覆っていた。彼は物静かで英語を話すことができた。私が39ヶ月間、日本の捕虜収容所で過ごしたことを知って、「負い目を感じている人々」のため、私を援助するつもりであると語った。彼によれば、彼は、私が子供の時、日本軍が家々を焼いているところを目撃した二つの山頂へ、急降下爆撃をしていた。我々はそれらがいつだったかを照らし合わせ、1938年と41年の二回、私が爆音をとどろかせて飛んでゆくのをみた機は、多分、彼の機であったことを発見したのだった。彼はまた、その後、グアムにいたとも語った。グアムは、海兵隊員であった私の兄が、1944年、フィリピンの捕虜収容所を解放しに行く途上、日本軍の機関銃射撃により死んだ場でもあった。
 不思議なことに、私はすぐに、こうしたかっての敵軍兵と、生きいきと話していることに気がついた。彼の顔は半分吹き飛ばされているにもかかわらず、彼には苦悩が見られなかった。戦争は、彼にとって、それが専門の仕事であり、一種のゲームであった。彼は、そういう私に関心をもち、これまで取材や調査の対象となったことのない引退した元将官たちへの紹介の手立てをとってくれた。私は、日本の戦場や第二次大戦の戦略的構想についての、一種の権威者となっていたといってもよかった。そして私は、日本の英雄主義や戦術的天才たちの物語を聞き取るため、あちこちを旅した。そうして聞き取った物語に、退屈も、不信も感じなかったが、そうした物語も行為も、戦争がつくりだしたものではないと、確信するものがあった。私はいまだに、子供時代以来の疑問――愉快で、知的で、そして美的でもある日本の人々が、戦争を起こし、アジアの半分をおおう狂気の沙汰をもたらしたものは何なのか?――に捕らわれていた。
 この質問への通常の回答は、1930年代に、一部の野心的将校が共謀して日本の社会をあやつって出来上がったとされる集団的狂気、すなわち軍国主義であった。私は、私が面会した軍人たちを研究した。そのほとんどは、終戦時には中将であった。その全員が知的で、陸軍士官学校の後、幕僚大学に進んでおり、そして、東京にある陸軍参謀本部――日本の軍国主義の中枢――に数年、仕えていた。みな熱心な軍事技術者で、ヴェトナムでの戦争の遂行についての全面的助言もおこなっていた。その誰もが、政治的技巧をもっているようには見えなかった。彼らは、私の質問にまともな回答が出せない時、なにも言わず、ぽかんとして無知をさらけるか、あるいは、偉ぶって、まだ機密上の制限があると言い逃れした。
 一度は、それ以前では知られていなかった重要な事実について、口をすべらせることもあった。ある67歳の退役大将は誇らしげに、1938年8月、ノモンハンでの対ソ戦争のため、空対地通信の開発に取り組んでおり、その地域の詳細な地図が用意されていた、と私に語った。この発言は明らかに、以下のような事実を理解していないものであった。すなわち、この1939年5月に始まった戦争は、日本政府により、偶発的国境紛争と公表されていたものであり、かつ、彼の上官は戦争犯罪東京法廷において、その偶発的紛争勃発の際、参謀本部のファイルの中に、どこがノモンハンかを知る地図を見つけることなど不可能であった、と証言していた。
 この大将の記憶の年月が不正確ではないのか? 私は信ずることができず、1938年以前の陸軍航空隊の飛行機は、無線通信なしで飛んでいたのか、と彼にたずねた。 彼は、となりの部屋で書類をひっくりかえし、一冊の自分の日記帳を得意げに持ってきた。彼は、彼の赴任を記録した部分の日付を私に見せた。彼との面会には、二人の日本人も立ち会っており、その面会が終わった時、彼の言ったことについて、私に誤りがないかを、その二人に確認した。彼らは、間違いはなく、その一人はさらに、私がなぜそんなにその日付にこだわるのか、不思議さすら示した。
 その週の末、その67歳の大将は、現在、自衛隊のコンサルタントをしているかっての同僚に会うため、800キロを旅して上京し、そしてまた引き返した。彼は帰ってから私に電話をかけてきて、自分の不注意で、日記の1938年と1939年を混同していたと言った。だが私は、「昭和13年」とその表紙にも内部にも明瞭に記されていたその日記帳を見ていたので、それは些細なことと聞き流し、その将軍の顔を立てることに気を使った。 
 こうして、私は、ひとりの特権階級生まれの男と同一集団をなす将官たちのほとんどと会う機会をもった。しかし私は、彼らがもつ、その男との違いに印象を受けた。彼らは、かれらの立場をわきまえていた。明らかに、彼らは日本社会のひとつの歯車にすぎなかった。彼らは、日本の身分階層社会のなかでの上昇を暗黙のうちに志向する以外、優越した社会的地位も、その中で日本の軍国主義を推し進めるに足る自己正当性をも持っていなかった。
 私は、かって私が見た、中国で日本兵が行った残虐行為と、フィリピンでのいくらか低程度ながらの同様な行為について、こうして会った全員の将官たちに議論を投げかけてみた。私は、それが、日本人のもつ潜在的執念深さに由来するものか、それとも、命令のもとで日本兵が実行した周到な恐怖の作戦によるものかを見極めるつもりであった。ほとんどの将官たちは、この問題について、日本軍が行った野蛮行為は、他国のどの軍も行う程度のものと主張し、それ以外にはほぼ何も語らなかった。彼らは、古い憲兵報告や中国語の新聞を引き合いに出し、ある都市をとりあげた場合、通常、臨戦日本軍千人当たり、殺人2件、強姦20件程度であったと、私を説得しようとした。私は、その程度の数字がいずれの軍隊にも付随すると示されそうなことは、あらかじめ予期していた。
 しかし、偶発的残虐行為に加え、中国では、日本軍は村民全員を虐殺することを、頻繁に行っていた。面会した将官のひとりは、それは事実であると認め、限られた部隊で広い地域を掌握しなければならない場合の指揮官は、現実策として、近接する村落への教唆の目的で、村民に対する懲戒的報復行為を強いられる場合があった、と語った。彼は、こうした行為もまた、すべての軍隊に共通のものであると、冷ややかに繰り返した。彼はさらに、ことに有能な指揮官は、「汚い」報復行為を行う特別部隊を設け、汚染が他の兵員に拡大しないよう区別を図っていた、とも述べた。
 私は、バターンの死の行進や南京強奪にように、日本軍は、偶発的残虐性のなかの十件の殺人でも、報復的攻撃における百件の殺人でもなく、数千、数万にのぼる殺人を行ったと、なおも指摘した。当の将官の全員は、そうした「悪い事例」があったことは聞いたことがあると告白したが、ひとりの意外なほど率直な将官は、「それらは政治家たちの殺人だ」とコメントをつけ、繰り返してはならないと言いたげに、顔にしわを寄せた。
 私は、それが「政治家」の殺人であるとの発言に関心を呼び起こされ、日本の戦前における一般人の意思決定のメカニズムについて、突っ込んだ研究にとりかかった。
 京都で、私はひとりの優秀な調査アシスタントを雇った。彼、ひじのしげき〔漢字名は不明〕氏は、正直で政治的には穏健なリーダー格の学生で、同志社大学の大学院で学んでいた。彼は、私のために、日本人の回顧録や関係史の書籍を買い集め、その約3万ページを読み、下線を付けてくれた。ただ彼は、純粋に調査の必要上で私のためにそう働いてくれたのであって、ここに記された見解や判断に、いかなる責任を負うものではない。政治家に生まれついたような彼は、私に、日本の政界を推し量る識見をもたらしてくれた。彼は、私では不可能な動員力を発揮して、調査員の一群を組織してくれた。その根気強い調査員たちは、日本のおびただしい戦争文学のすべてに目を通し、そしてそれを抜粋してくれた。こうしてこの調査チームが収集した1920年代末の論評や小説の中に、私は、軍国主義への傾向を示す、いかなる証拠をも発見できなかった。そしてむしろ逆に、平和に対する大衆的な望みや、猛々しい武士道精神への拒否すらを見つけた。その一方、当時の主流の経済や軍事雑誌に、私は、戦争を計画するさまざまの証拠――国民的支持を欠く、日本の特権階級が頂点より先導する中央集権化した計画――を発見した。
 私は、元在日米国大使で、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー二世より、皇室への紹介がえられた。私はこの機会を、裕仁天皇に近い皇室の人々との面会をもって、私の強まる不信感をテストする場とした。彼らは、魅力にとみ、抜け目がなく、博識で、そしていかなる困窮とも縁のない、私の面会した将官たちとは明白な対比をなしていた。確かに、日本の総帥たちであった。
 私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。
 私は、調査の最初までさかのぼり、すべてをやり直さなければならないことを覚った。裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。
 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。
 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。
 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。
 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

(訳注)1885年(明治18年)内閣制度創設の時、宮中に設けられた重職。天皇の側近に奉仕して皇室・国家の事務について常侍輔弼の任に当たり、御璽・国璽〔天皇や国の判〕を尚蔵し、詔書・勅書、その他内廷の文書および請願に関する事務をつかさどった。1945年廃止。【広辞苑より。〔〕は訳者による】

私は、姿勢を新ためて日本人の橋渡し役との接触を開始し、非公式に面会しては、私が読んだ裁判記録、日記、回想録のページに出没する、おびただしいしい数の謎の人物について、その血縁上の詳細をたずねた。その作業には手ごたえある反応があって成果をもたらし、いまだ注意を必要とし、かつ、又聞き的な事柄ではあるものの、逸話と具体例には事欠かないものとなった。ただ、そうしてえがける全体図は、蝶の羽根のように繊細で、また商売女の寝物語のように確証を欠くもので、油断のおけぬ、アイロニカルなものであった。それでも、私にとって、日本の戦前の閉じられた内部世界の実像を一見するものではあった。
 こうした面会は、まるで悪い夢を見ているかのような体験で、だれもが丁寧な口調で、しかも、秘密裏の話や永遠に秘された策謀のばくろ話には、その声音が変わった。脚光をあびる人物は、常に、背後で誰かがひもをあやつていた。ひとりの人物が演ずる役割を分析していると、彼の行動は彼の言葉以上のものを、彼の交際相手や忠義心は彼自身の人となり以上のものを物語っていた。国家政策は、舞台裏のそのまた裏舞台で作られ、国民の意見はまったくの埒外であった。通常は、政党政治家や有力な企業家ですら、そうした、ひもであやつり影響力を行使する国家的内輪集団から排除されていた。国民大衆は、烏合の衆以上の何者でもなく、こうした手法と金力、そして、千年以上も使われてきたうわさ操作の世論形成システムによって支配されていた。
 戦前の日本についての理解が深まるにつれ、私には、1966年の日本社会にいることが、次第しだいに居心地の悪いものとなった。1926年から45年までの間、すべての日本人に神として信奉された人物について、私は不敬な考えを暖めていた。それに、私は、私を友としてくれている京都の多くの日本人が、戦時中の諜報員にも等しいことに遭遇するという、信じ難いことでありながら、危険に瀕しつつある自分を感じざるをえなかった。というのも、私は、京都での私の最良の情報提供者との最後の面会にあたり、彼らより、人目のつかぬ小さな喫茶店で行いたいとの申し出をうけた。また、私の米国からの郵便物は、所轄の郵便局長によって開封されたと印されていた。あるいは、私の荷物が神戸港で出港を待っている間に、「南京強奪」と記した二冊のノートとフィルム一巻が、私の六つの書箱から抜き取られていた。
 船が埠頭を離れ、私と家族が米国への帰国の旅についた時、私は、遠ざかりつつある日本の沿岸風景を眺めつつ、安堵と残念な感覚の入り混じったものを抱いていた。それは、私は見張られているという被抑圧感からの解放であり、また、私が執筆を構想する本が、私の生まれた国でありながら、再度、私をして歓迎されざる人物とするという、遺憾な感覚であった。
 私は、この旅に、八冊の厚いルーズリーフのホルダーを携えていた。それには、932人の日本の指導的官僚と軍事官吏の個人記録を刻んだカードがつづられていた。そのほかにも、乱雑に記録した2,000ページのノート、雑誌100冊、日本人の日記と回顧録60冊、そして、面会とその印象を録音した240時間分の磁気テープがあった。
 本国までの旅の途上、私は10日間をシンガポールで、5週間をオーストラリアで過ごし、こうした多量の資料にさらに資料を付け加えた。シンガポールでは、日本の占領軍が発行した戦時英語紙『Shonan Times』の完璧なファイルを読むことができた。オーストラリアのキャンベラでは、私は、親切にも閲覧を許され、第二次大戦中のオーストラリアの民間諜報記録、日本の戦後占領期にマッカーサー将軍へ助言を与えたはずの極東委員会の書類、そして、1946年から48年まで、日本のA級戦犯を裁いた11ヶ国連合軍東京裁判の裁判長を勤めたクイーンズランドの判事長であるウィリアム・ウエッブ卿のメモと手紙、を読むことができた。終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。
 コネチカット州の自宅への帰途、私が持ち帰ろうとしている大量の未消化の資料の、整理と解読を始めた。8冊の個人情報綴りから、私は、日本の軍、宮中、そして要職についている官僚の、壁にはる大きな図を作った。日本人の人名辞典からは、いくつもの宮中の系図(#)を作った。日本の古い新聞や5,613ページにわたる日本の高官の日記をもとに、日本の最も秘められた8,125日間の歴史に関する、日別年表を作り上げた。こうして次第に、正犯者と取り巻き部隊とを区別していった。そうした結果、ある特徴、つまり、年月を経るにしたがって確固とした地位を築いてゆく、派閥や秘密結社の存在が、浮かび上がってきたのであった。数え切れない「事件」は、当初は、底知れない東洋的なものと思えたが、しだいに、堅固で理性的なものに見えてきた。すべてが、裕仁こそ、まさに天皇であった、という点に収束し、私の明快で当然な見解を、さらに確固なものにしていった。

(#) 私は、日本語でも英語でもかって印刷されたことのない、皇室の生存者の完璧なリストという、前代未聞ものを作り上げた。第二次大戦中、日本人が天皇を神とよび、多数の自殺者を生んでいる際ですら、西洋の分析家の誰も、天皇の伯父や従弟の将官の経歴を調べ上げなかった。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。
 それを私は、宮中の記者会見からいくつもの実例を見出してきたのだが、巧妙な神話の形成は、誤ったイメージの浸透を説明していたが、実像が容易に消え去ってしまうのではないかと、私を困惑させた。すべての国民や外国の報道関係者を、終始一貫して盲目状態に置くということが、私には信ずることさえ困難なことだった。天皇は、その衣服の質と美麗さを賞賛する外国使節を含むすべての人々を前にして、本当に自身の裸を誇示することが可能であったのか? 明らかに、彼にはそれが可能であった。というのは、1967年、明らかな現象が出現するのを目撃したからであった。
 その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。
 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。
 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。
 以上の私の発見は、したがって、歴史上の重要な前進である。これに相当するものは、戦時中の国務長官、ヘンリー・L・スティムソンの手書きのノートに新たに発見された、1941年夏、ルーズベルト大統領が、日本の攻撃のえさとし、アメリカ国民の第二次大戦への参加の理由とするため、真珠湾に老朽した軍艦を明らかに無防備なままに係留する可能性を調査することを命じたという、米国版のそれである。
 私は、そうした文献上の発見が、米国で作り出すであろう新聞一面級の話題となることを想像することができた。そして私は、『杉山メモ』の出版への日本社会の反応を、食い入るように観察していた。日本の大手紙は、いずれも社会面で、杉山参謀総長の文書が二巻の本となって出版されたとのみ報じ、そのどれもが、評論も解説も掲載していなかった。そうした影響で、米国の新聞は何も触れず、本書が1971年に出版されてニューヨーク・タイムスが言及するまで、裕仁の真珠湾計画への個人的関わりが報じられることはなかった。
 『杉山メモ』への沈黙は、日本では、今日においても、天皇に触れることは極めて控えられている事柄であることを私に教え、言語的、文化的ギャップにさらされている駐日欧米報道関係者が、意図的に秘されていることに気がつかないのも、ありえることであった。こうした事象がよく見られることを知るにつけ、私の内の懐疑は軽減されていった。そしてそれは1967年の夏のことであった。1930年代最後の反乱と暗殺について考察を終え、私は、裕仁がその多くに関わっていたと見る自分自身に、私は自信を深めていた。私はついに、自分の調査の新規で物議をかもしそうな部分のすべてを述べ終わり、計三十万語の一次原稿を完成していた。それは、一冊の本ではなかったが、私の手のとどく限りのすべての証拠を検証した、一種の法的告発書であった。それは、すべての出来事が私の解釈に合致し、すべての歴史研究家を一貫して動機付けうるものであった。
 私は、その一次原稿を一ヶ月の間、その意味の解釈をさぐるために、脇に放置しておいた。その緻密なページがもたらす物語は、不可解でもあり、新鮮でもあった。それは、日本的でも、アメリカ的でもなかった。その半分以上の情報は、かつて、英語では報じられたことのないものであった。またその主旨は、裕仁は、軍事的命令に判をおしてその国を戦争へと導いたばかりでなく、彼の取り巻き集団を通じ、彼に反対する人々を、宗教的欺瞞、脅迫、暗殺を含む異様な東洋的策謀に巻き込むことにより、暴力的に沈黙させた、というものであった。
 私は、私が書いたことが、欧米の日本専門家にもほとんど知られておらず、また、日本をよく知る人にすら新たなことである時、それが真実だとは、誰にも理解が困難だということをさとった。すなわち、そうした不信を取り消してもらうには、疑い深い読者に、多くの予備知識が与えられなければならなかった。たとえば、いまだに日本の天皇にまつわる古代の宗教的タブーや、1945年にいたるまで日本の庶民は、「ひ・ろ・ひ・と」という音を口にしたこともなかったということや、1945年まで、日本の平民は、天皇の行列をほぼ路上にひれ伏した姿勢から覗き見する以外、天皇を見たこともなかったこと、あるいは、日本の宮中の侍従は、遠い昔より、国家の災い事への主人の確かな関わりを隠すため、手の込んだ物語を創作してきたこと、などなどである。神王という考えは、西欧世界では、数世紀前に記憶から消え去ってしまったもので、日本に駐在する西欧報道陣は、天皇家族についての情報のスクラップを、改めて組み立てなおす必要も感じなかった。すなわち、彼らは、裕仁は象徴的存在だという形式的言い方を、すでに受け入れていた。というのは、彼らは、ヴィクトリア女王がそうした存在であった「立憲君主」という考えを、予備知識としてもっていたからであった。裕仁をあつかった日々の直接的記録は、日本では1966年まで出版されなかった。そしてもっとも重要なことは、マッカーサー将軍は、日本人の性格をアメリカ人の鋳型にはめこんで作り直そうとする狙いで、1945年、天皇を利用することを決定し、そして、天皇を、退任させたり追放したりせずに、ごまかして糊塗したのである。
 こうした異様な状況を人に理解してもらうためには、数ページにわたりその詳細をえがく必要があるだろうが、私の記述は、一般的な読者の目にふれる前に、さんざんに酷評されるだろうと予測する。わずか25年前、何百万人もの日本人は、「万歳」つまり、「天皇に万年の命を」との祈祷を口にしながら死んでいった。その日本が、1967年、国民総生産高において西ドイツを抜き、世界で第三位の国となった。
 1961年には、一人の強盗が皇居に侵入して天皇の首を切るという小説をある日本の雑誌が掲載したのだが、その後、その出版者は不敬罪をおかしたとの理由でのテロ攻撃にさらされた。暴力団より雇われた「愛国者」たちは、その印刷工場を襲い、印刷機を破壊し、さらに出版者の自宅をも襲撃、使用人を殺し、妻を負傷させた。一方、その小説を書いた三文文士は姿を隠し、報道によれば、彼はひそかにブラジルに移民したという。
 皇室の初めての本格的文書が部分的ながら出版され、歴史の見直しが始まった時期、それは私自らの成果ではないものの、私の日本再訪の契機となった。この出版は残りの文書にもあらたな着目をもたらすものとなり、ことに、私のような者にはひとつの光明となり、そのすべてに一通り目を通した。
 この見直しは、裕仁自身によって手がけられたものと、私は後に、一人の日本人外交官高官から告げられた。1963年の秋、出版を賛助する宮中晩餐会が催された際、裕仁は、彼のテーブルに同席する著者たちに、広島の惨禍を乗り越え、日本の戦前、戦中の歴史の精神を再興することに取りかかる時期であると示唆した。あたかも第二次大戦は、1946年には歴史的過ちであったが、もはや今ではそうではなく、日本の産業化の完成を急がせることとなった、前向きな政治手腕の一部であるかのようであった。1965年という年は、終戦20周年を記するとともに、1966年が、その戦争開始の25周年記念とでも言いたげでもあった。
 1965年に始まったこの歴史見直しは、極めて慎重に取り組まれ、主に知識階級をねらいとして行われた。私はその意味を、アメリカの人々に伝えなければならないと感じた。私は、日本人が当然と受け止めている感覚や動機、ことに天皇についてのそれらを、説明しなければならならなかった。そして、私は、裕仁の生涯の暗部に迫ってゆかねばならず、状況的なものから、口頭および文書による証拠や手がかりを発掘してゆかねばならない使命を感じた。
 さらに、歴史とは連続しているものであり、私は、自らの解釈を、日本史の全体の流れにも適用すべきでもあったかもしれない。だが、私は、1866年から1911年までの時期について、1931年から1945年までのそれと同等な見識を持っているとの自信はなく、私はその時代について、何が解っているのかと言わねばならない。というのは、これまでにそう問うたこともなく、かつ、私の著書の内容は、それが20世紀について触れているほどに、19世紀とか17世紀とか、まして21世紀について関連しているのか、と問うたこともないからである。
 また、私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。
 私は、私の著作のタイトルを『天皇の陰謀』とすることに躊躇はない。私は、自分の調査にもとづき、最も機軸となる出来事を選出し、それらを白日のもとにおいた。そのいずれにも、私は確証にたる情報を得たもののみを著述し、読者がありありとしたものを感じるよう最大の努力を傾けた。もし、私自身の経験をつうじた特定の時期のある光景が重要である場合、私はその光景の再現につとめた。つまり、ある人が吸う煙草の銘柄に注目していたなら、私は、彼が煙草を吸っていると記録する際は、その銘柄にも言及した。また、もし、誰かが指間接を鳴らす癖に気付いていた場合、どんな時に指間接を鳴らしたのか、それにもためらいなく触れている。
 また、日本についてすでに詳しい読者には煩雑さを与えるかも知れないが、私は、いくつかの表現上の規定をおいた。日本人の名前についての困難と混乱を避けるために、識別の形容語を繰り返し付した場合も多い。そうすることにより、私は、専門家といえども、日本史に登場する脇役の追跡に失敗することや、彼らの全体的な経歴の把握をし損なうことがよくあるのを発見した。
 私は、この本の最終原稿を執筆している1967年から1970年の間、私に面会を求めてきた日本人からも、いろいろと収穫をえた。有名な銀行家の息子、先導的な出版者、皇室の義理の家族、要職の外交官など、私は、こうした人々の訪問をここに記すことを誇りに思う。これらの人々はみな、裕仁に密着する助言者の友人や子供たちである。彼らは、ニューヨークでの日々を過ごしつつ、米国の自由を満喫し、人間関係の煩わしさからも解かれて、日本の最も有力な情報源以上にも、もっと快活に話しを提供してくれた。私への情報提供を自ら名乗り出たのはそのうちのただ一人だったが、私は今や、彼らの親戚や交友関係を詳しく知っているため、私は彼らからそれ以上のものを引き出すことができた。ささいな質問への回答の中に、彼らは秘密を明らかにしているのであった。
 彼らは、私が必要だった、そして、重要なことだが、私は正しいと私をして確信させた、多くの補助情報を与えてくれた。彼らは、私の解釈に確証を与え、それは私を、アメリカ人が欧州の共産主義やファシズムに気を奪われている時代に、この私が東洋のイデオロギーの実像を提示しているのだと、勇気付けてくれるものとなった。
 欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
 文献調査や資料のノートに、私は、一千冊の書籍や文書からの引用を残し、私にとっての情報の諸細目とした。しかし、そのほとんどは、個別の詳細あるいは洞察を提供するのみであった。百に一つがおおいに役立ったのみで、百に二つほどは1960年以降に出版されたものであった。
 戦後、占領軍に移管された一次資料のうちでもっとも重要であったのは、日記であった。要職にある日本人のすべてが、脅迫や、日本の政界にあってはよく起こりうる事実無根の責任を負わされないために、公的生活についての記録を残していた。もちろん、こうした日々の記録はすべて、他人や後世の目を意識した中で書かれたものである。それらは、いつでも、特高警察の手によって押収され、裁判所での証拠とされるかも知れなかった。またそれらは、後に、無一文となった孫が出版しないとも限らなかった。そして、皇居の官吏の場合、裕仁自身による徴発やきまぐれな閲覧にさらされる恐れもあった。
 用心深く書かれたこうした日記のうち、最も有力な議員によるの二つの日誌は、占領が始まって二年間の間に、アメリカ人の手にわたった。一つは木戸日記であり、内大臣をつとめ、1940年から45年まで裕仁の主席民間輔弼であった、木戸幸一侯爵が書いたもので、1930年から45年までを記したものである。うち、十分の一に満たない部分が、弁護あるいは告発のいずれかの観点から翻訳され、極東国際軍事法廷に証拠として提出された。残りの九割は、現在、入手可能なものとしてある限りでは、1966年に東京大学出版局より出版されるまでは公表されなかった。それでも、この日記は、もっとも出来事の多発した日々が「特記事項なし」とノートされており、不完全な記録のように思われる。
 アメリカ占領軍に入手された第二の日誌は、『西園寺・原田回顧録』として知られるものである。これは、表面上は日本のもっとも著名な自由主義政治家、西園寺候――彼が91歳の1940年11月まで、天皇に代々の首相を指名するにあたっての助言をする役にあった――のノートである。ただ実際は、この回顧録は、西園寺の政治秘書であった原田熊雄男爵――西園寺の部下として天皇の密使として動いていたゴシップ好きで陰険な便宜主義者――がまとめたものである。
 この『西園寺・原田回顧録』の英語版は、25巻からなり、国際軍事法廷の弁護側が使用する目的で、1946年から47年の間に、自発的な日本人チームによって作成された。その翻訳は名文ではるが不正確である。たとえば、幾箇所かで、内大臣――天皇の主席民間輔弼――が内務大臣――警察行政にあたる内閣官僚――と訳されている。
 その日本語版は、1952年から1956年の間に、『西園寺公と政局』との書名のもとで、八巻にわたって出版された。欧米の学術界に代わってそれを読んだ英国人学者は、明らかに通読したのみで二冊の本を書き、その中で、国際軍事法廷の弁護目的で用意されたその不注意な翻訳をもっぱら引用していた。
 1956年、この回顧録は、さらに、9巻のシリーズとして、限定版で再出版された。それは、原田のノートも含み、8巻が本文で、最後の1巻は索引となっている。これはたいへん有用である。私が知る限りだが、私を別にして、ほとんどの欧米学者は、この入手の困難で高価な第9巻を活用していない。
 戦争が終わって22年後の1967年、日本で二つのさらに重要な日記が出版された。その一つは、1931−1936年の間に書かれた本庄繁大将の日記である。彼は満州侵略を指揮し、また、侍従武官おおよび軍事輔弼として裕仁に仕えた。第二の日記は、杉山元大将のメモで、彼が、参謀本部を代表して天皇本部に仕えた1940年から1945年にわたって書かれたものである。これらの一次資料は、1970年以前には、いずれも、欧米の日本専門家には消化されず、また、欧米の学術雑誌にもさして引用されなかったものである。また、それらは、裕仁の軍事輔弼らによる話を含んでおり、1946年より部分的に入手可能であった木戸や原田による二つの日記類を補完する貴重な資料である。
 これら、木戸、原田、本庄、杉山の四つの日記類は、1930年から1945年までの日本の指導者たちの最高の討議内容として知られるものの半分以上を含んでいる。
 それに加えて、私は、占領の初期数ヶ月の間にアメリカの諜報員が入手したほとんどの、警察記録、人事記録、政党などの討議資料、軍事記録を調べた。また、私は、極東国際軍事法廷に、日本および西側関係者により記録として残された、20万ページ余りの、証言、法廷手続き、証拠の書類に目を通した。私はさらに、1940年代末から1950年代初めの間に、東京で発刊された暴露記事や追想録などの類をも洗ってみた。
 私はまた、いっそうの注意を払い、1952年の占領の終了以後、日本の報道機関が表した、およそ30万ページの、伝記、再現報道、そして省かれていた文書の復元物などを調べた。そうして私は、ことに、多くのインタビューを基にした再現報道の中から、一語一語に注意して読むに値する数千ページの資料を発見した。私は、高い当局筋に関する資料(#)は二次資料として最重要なものであり、それはなまじの一次資料より、はるかに正直に事を語っていると思う。また、戦争を生き延び、いまだ生存している、有力な老人たちから口述で得られる情報も、価値あるものである。

(#) ことに、退役した特高警察少将、おおたに けんじろう〔漢字名不詳〕による2巻の回想録、皇后の兄〔弟〕の私的出版による小冊子、退役した陸軍諜報部の、たなか たかよし〔漢字名不詳〕中将による未発表の5,000ページの大作、そして、むろふし てつろう、たかはし まさえ、ふじしま たいすけ、しまだ としひこ、秦郁彦、おやけ そういち、あがわ ひろし、くろだ ひさた〔各漢字名不詳〕、による文献である。

私は、こうしたすべての資料を、慎重にではるが、徹底的に使用した。それらを扱うにあたっては、時間的前後関係と因果関係に高い信憑性をおいた。私は、古い新聞記事であるとか、日本人が着いていた地位であるとか、個人記録にある記述(ж)とかといった、日本人のとった行動の論争の余地のない記録をことのほか重視した。私が著したニュアンスや説明は、ほとんどそのすべてが口述によって表されたものである。情報提供者の何人かは、匿名を条件としたが、それを求めなかった人もいた。幾人かは、私が彼らに会見したことを、まったく秘密にするよう望んだ。現代の日本でも、あまりに自由に語ると危険をもたらすことがあるため、私は彼らとのそういう約束を守った。

(ж) そのほとんどは、自衛隊の非制服職員である秦郁彦の好意によって提供されたものである。秦氏は『日中戦争史』や『軍ファシズム運動史』の著者である。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
 厳格な歴史家は、特権的な情報源に頼るようなことはしない。アメリカやヨーロッパの歴史を扱うにあたっては、それは正しい原則である。しかし、日本や、おそらく、すべてのアジアの歴史においては、特別の裁量が許される場合もある。東洋の大半のでは、公共文書という考えそのものが存在していない。欧米よりはるかに顕著に、国家の文書は、それを作成した者に属する。また、報道の自由という伝統は、深く根を下ろしていない。金品譲渡にともなう文書契約においてすら、名誉をかけた約束という口頭の合意に代わるものでしかない。
 そうではあるが、この本の巻末にかかげた情報出典詳細を丹念に当たってみる労をいとわない思慮深い学者は、私の記述に、それぞれの文書化された日記やメモや自伝を出典とする、重大な事実を発見するであろう。私は、一次資料より明らかとなった事実や特色や動機についての私の見解に確証を与え、かつ、出来事の因果関係をできる限り正確に再現する、特権的な口述による情報源に、基本的な信頼を置いていきた。それに、私は何も創作はしておらず、ただ、多くを組み合わせてきたのみである。私は、日本の歴史の日ごと月ごとの記録に没入することを是とし、それによって、私に、誤りよりむしろ洞察を与える、情況や意味合いについての理解を獲得してきた。


 私は、本書の執筆に、あまりに多くの人々の協力を得てきており、そのうちの誰かを、リストに上げ漏らしているのではないかと心配になるほどである。私はことに、エール大学のベイネックおよび法学スクール図書館、同志社大学と京都大学の図書館、キャンベラの戦争博物館、スタンフォード大学のファーガッソン図書館、ヴァージニア州アレキサンドリアの国立戦争資料センターの図書館員に、感謝を表したい。私は、また、トーマス・E・ホーマンに、どの政府の内部、外部のいずれでも出会ったことのない、もっとも知識豊富な情報の非官僚主義的発掘者として、ことに注目を表したい。
 きたがわ ひろし〔漢字名不詳,、以下同じ〕、小泉信三、ヘンリー・R・ルース、ダグラス・マッカーサー二世そして父からは、特に、日本への扉を開く援助を得た。歴史家の秦郁彦は、彼が15年以上にわたって編纂した私的記録を、私に提供してくれた。退役した、たなか たかよし中将は、未発表の5,000ページの自伝の一部の拝読を許可してくれた。あそう しげる、レスター・ブルックス、ドン・ブラウン、ロバート・J・C・バトウ、蒋介石、オーチス・カリー、ウィリアム・クレイグ、ジェームス・クロウリー、グレース・フォックス、ふじもと かず、ふしさわ しげぞう、フランク・ビブニー、、ぎが しょういちろう、はしもと ひろとし、アーサー・ヒューメル、いのき まさみち、いのうえ いちろう、かじま ぎんじろう、かがみ みでお、かわまた よしや、こばやし よしあき、こたに ひでじろう、松本重治、もりしげ よし、ウォルター・ニコルス、R・K・オチアイ、おがわ まさお、おくみや まさたけ、大宅正一、エドウィン・O・ライシャワー、さとう よしじろう、オサム・シミズ、ロイ・スミス、スン・ユエ、たちばな よしもり、たかはし しゅん、たかた いちたろう、たかた もとさぶろう、たなか かつみ、鶴見俊輔、うえむら かずいちろう、エリザベス・グレイ・ビニング、ウィリアム・P・ウッドアード、チトシ・ヤナガ、はすべて、私に、時間、親切、丁重な関心を与えてくれた。私は、原稿への助言や批判を得た以下の人に、多くを負っている――ヒレル・ブラック、ジョン・キューネオ、アラン・フレイザー、ロウレンス・ヒューゴ、ピーター・レビット、エリザベス・ルーカス、マリー・ニューマン。私の妻には、生活を共にし、この六年間、各ページを一度ならずタイプしてくれた。最後に、私は、京都の僧侶や寺守り、四人の退役将官、三人の裕仁の侍従、そしてその所在を明かせない三人の裕仁の側近グループ員の二世たちに、ことさらの感謝を表したい。


日本人の名前を表記するにあたっては、日本語による語順に従った。つまり、苗字が先で個人名〔「下」の名前〕を後とした。日本人以外は一貫しておらず、たとえば中華民国の支配者、蒋介石は、英語風に介石蒋と書いてしまうと混乱を生ずるのでそのままとした。西洋人名の扱いについては、現代の日本人は、中国人はそうしないが、苗字を先にする日本風に改めている。そうした箇所では、読者は、苗字が先で個人名が後の語順となっていることに留意する必要がある。
 日常生活では、日本人の成人男子の下の名前は、ほとんど使われないことが多い。たとえ親しい友人間でも、ジムとかハリーとかと呼ばずに、ジョーンズさんとかスミスさんと呼ぶ。さらに、下の名前の表音の仕方には、よく、独特の呼び方によるものがある。つまり、その人が子供の時、両親がどう呼んだかが正式の名であるが、成長してから、親しい人々でもそれを知らず、〔表記されたその漢字から〕別の呼び方をする場合がある。たとえば、戦時中の東条首相の場合、とうじょう ひでき、が正しい名前であるが、英語による日本人名辞典には、とうじょう えいき、と記されていた。こうした誤読が英語の歴史記録にいったん残されると、ほぼ永久なものとされてしまう。たとえば後続の章で言う、ただ はやお中将は、多くの他の本では、ただ しゅん、として知られている。本書の中では一貫して、人の名は、親によって名付けられたものを使うようにしている。しかし、間違いがあるかもしれないので、その場合は、あらかじめ、ここでお詫びしておきたい。

最後に、私は本書をむしろ、ただ、単純で、古くからの問題にささげたい。つまり、歴史は無目的な経済的、人口学的な要因によって決定されるものではなく、また、間違った大衆意識が演ずる役もほどんどなく、ただその責任は、第一義的に、政府の責務を専任して負う、少数の意図的個々人に帰されるものである。小さな都市国家の民主主義や無政府主義の餌食となる瓦解社会を別として、国民は政策立案には関わらない。政策をつくる指導者たちは、その個人的な先取性を国の利益と合致させてしまう没頭した愛国者であると、私は見る。彼らは、ただ、困難を克服するためという場合か、あるいは、その指導者としての地位が信奉者の眼前で揺らいでいるとの恐れにかられた場合のみに、信念を決してことに当たる。
 本書は、そうした自分勝手な信念を抱く指導者たち、自分自身を、個人としてでなく機関としてとらえる指導者たち、世界にまれな、中断されたことのない長い順調な国内的政治発展の歴史を持つ社会の指導者たち、について語るものである。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/492.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 徳洲会「選挙違反」拡大 検察が狙う5人の大物国会議員 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
27. 2013年9月26日 08:44:08 : 5kdGKRZxW6
>>25 さん 下記記事の紹介、有難うございます。

>法廷で異例の「開票作業」 東京高裁、参院選訴訟で

その記事にある次の記述の結果については、関心を持たざるを得ません。

>・・・相模原市で開票作業を終え保管されていた実物の票を法廷に持ち込み、再集計する異例の作業を実施した。

コメント [政治・選挙・NHK154] 日本はサルの列島に成り果てた[斎藤貴男「二極化・格差社会の真相」](日刊ゲンダイ)  赤かぶ
18. 2013年9月26日 08:45:43 : nFO2KuyiJI
米犬よ
犬の世界にも差別があるだろう
のら犬保護センターに行っ
学んでこい。

貰い手がないと殺処分だぞ

コメント [政治・選挙・NHK154] 三井環元大阪高検公安部長が田代政弘元検事に対し検察審査会へ審査申立を行いました ひらひら
11. 和モガ 2013年9月26日 08:47:02 : PVnDA2aQ4uvco : gay7Y2TOVo
審査補助員の選任をしないというのはいいが、もうひとつやっておかなくてはならない重要なことがある。この対策をしないと再び「不起訴不当」で終わる可能性もある。
検察審査会が決まったら申立者はまず、審査会に対して「ステルス審査員」退治をするよう「意見書」を提出すべきである。近々、投稿するつもりであったが、先の第一検審を開示請求して調べると「ステルス審査員」がいた可能性がある。
第五検審関係者の告発が不起訴になり、審査会にかけるとき、「なりすまし審査員」退治を最初に要請しようと思っていたが、その対策が「ステルス審査員」退治にも使える。その方法についても上記投稿に載せておくのでぜひ参考にしてほしい。
コメント [原発・フッ素33] 小出氏提案の石棺方式は現実的ではない。 taked4700
25. 2013年9月26日 08:48:59 : ySSn0cr5PM
18番さんへ

貴方の様な常識や伝統に支配に支配されない
意識の高い人が増えてくれればいいのですが・・。
でも残念ながら私達大衆はそれらに支配された愚か者です。
この大衆によって政治家が選ばれます。
選ばれる者は選ぶ者の意識に対応しています。
ですから政治家の立ち振る舞いを見れば
選挙民のレベルもその低度なのです。
違っても50歩100歩なのです。
こんなのが政治家をしてます。
これでは数年以内の破滅は避けられないでしょう。
でも人類に最後の助け船が用意されて」ます。
手遅れにならない内に題名「天才政治を読んで下さい。

記事 [戦争b11] 反体制派13組織が離脱声明 シリア、内部分裂進む  朝日新聞
 【ダマスカス=村山祐介】反体制派の武装組織「自由シリア軍」傘下の一部有力部隊やイスラム過激派など13の武装組織が25日、反体制派の代表組織「シリア国民連合」を正式な代表と認めないとする共同声明を出した。反体制派の内部分裂が一段と進むことになる。

 中東の衛星テレビ局アルジャジーラなどが報じた。声明に参加したのは、アルカイダ系イスラム過激派ヌスラ戦線や、北部アレッポを拠点とする有力部隊など。声明では、外国に拠点を置く反体制派グループは認められないとし、国民連合や今月14日に選出されたばかりのトーメ暫定首相を「我々を代表していないし、認知もしない」と宣言。さらに、「シャリア(イスラム法)を唯一の法とするため全ての軍事、民間のグループに結束するよう求める」とした。


http://www.asahi.com/international/update/0925/TKY201309250571.html
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/797.html

コメント [政治・選挙・NHK154] オスプレイ緊急着陸 米アリゾナ州/火災警報が誤作動(ヴェルデ・インデペンデント/しんぶん赤旗) gataro
01. gataro 2013年9月26日 08:49:40 : KbIx4LOvH6Ccw : CSVYc51iio
英文記事に脱落が生じている。正しくはこちら ⇒

At approximately 4 p.m. on Friday, a Marine Osprey made an emergency landing at the Cottonwood airport due to a fire indicator going off in the cockpit.

A second Osprey landed along with the first but with no emergency. The pilots attempted to reboot the system to see if the fire indicator would reset and it did not reset. They decided to keep the aircraft at the airport over night until the aircraft could be properly checked.

Airport staff hunted up lodging for the pilots.

記事 [リバイバル3] 天皇と陰謀 第一部 戦争と報復 第一章 南京強奪(その1)
第一部


戦争と報復

大日本帝国憲法

第三条

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

 天皇は、いかなる理由によっても、その皇位を奪われず、その統治権の執行にあたり、法の限界を超えることについての責任を有しない。天皇の統治権執行のすべての責任は、国務大臣およびその他の機関がこれを引き受ける。したがって、批判は、天皇に対しては向けえず、その統治権の手段に対してのみありうる。原則として、法律、ことに刑法は、天皇には適用されず、いかなる法廷も天皇を審問できず、天皇はいかなる法律の対象にならない。
 日本年鑑 1944-45年版 117 ページ、日本外交協会(日本政府出資による機関)出版。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_0.htm

第一章
  
南京強奪
(その1)


慈悲の聖地

 東京から80キロメートルほど海岸線沿いに下った山間に、節くれだった松林に囲まれ、等身大以上の観音像――慈悲の仏教の女神――が立っている。この観音像〔熱海市伊豆山、興亜観音〕は、熱海という温泉と高級娼婦を楽しむ海岸リゾートの、白い砂浜と青い海原を見渡し、中国の方向である南西を向いており、泥金の上薬をほどこした陶土の素焼き像である。その陶土の半分は日本産だが、残りの半分は、1938年に、巨大な泥河、揚子江の土手から掘られ、袋に入れられて日本に持ち込まれたものである。この像の立つ岩に登り、その土台に沿って周ってみると、観音の衣の背後の草むらの中に、1.2メートルほどの空地を見つけることができる。下部の通路からは見えないそこに、七枚の灰色に変色した無塗装の細板が地面に突き立ててある。それぞれには、墨で書かれた以下の名前が見られる。東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、広田広毅、木村兵太郎、武藤章そして松井岩根。彼らは、日本のヒットラー、ヒムラー、ゲーリングとして、二年間の審問の後の1948年、連合軍によって絞首刑に処せられた者らである。
 その近く、数百メートル下った海を見晴らす高台に、小さな神社がある。その軒先には、色とりどりの紙で飾られたしめ縄がかけられている。その周り廊下の端に置かれた台の上に記名帳があり、そうした絞首刑にあった者の家族らが、1950年初め以来、毎月一回ないし二回、そこに記名している。その社の内部には、片一方の壁に、そうした絞首刑による死者の、他方の壁には、日中戦争の死者の、それぞれの形見の品が掛けられている。両壁の間の祭壇に向かい、毎日、毎回、女神官がぬかずき、慰霊の祈祷をあげている。女神官は、祈祷をあげる際、拍子木をリズミカルにたたき、悲しみの涙にくれている。彼女に尋ねてみると、涙を流すのは彼女の任務で、1938年以来、それを続けているという。
 神社の脇には、参拝者のために、休憩所が設けられている。人々は急な坂道を上ってきて、そこで一息入れる。休憩所の壁には、汎アジア主義の口述書と、日本人と中国人が共に調和して働いているポスターのような絵が掲げられている。別の壁には、かっての南京のスカイラインを飾った歴史的建物の屋根や塔を仔細に描いたパノラマ画が掲げられている。
 女神官が最初に涙を流したのは南京のためにである。南京は、1920年代から1930年代までの十年間、中国の首都として中国を代表し、古い北京皇帝による専制時代と新たな共産党北京の時代の間をつなぐ、短命の共和主義の実験が行われた地である。その女神官が南京のために涙を流すのは、その神社がその地所の上に建つ、彼女の家族、松井家により、そうすることとされているからであり、また、彼女の血族、松井岩根大将は、上述の観音像に祭られた者らのうちの一人であるからであり、また、1948年、松井が絞首刑にあったのも、南京がゆえにであったからである。
 1937年、揚々たる、かつ、野蛮な4ヶ月間の作戦の展開下にあった松井の軍団は、上海港から揚子江沿いに270キロを進撃して南京を攻落、この首都を、6週間にわたってその規模を増す、身の毛もよだつ恐怖へと落し入れた。10万から20万人の中国人が処刑され、少なくとも、5,000人の婦人、少女、子供が、殺される前に強姦された。南京の価値ある物品のことごとくが略奪され、町のすべての区域が組織的に焼き払われた。南京は、ワルシャワやブーヘンヴァルト〔元東ドイツにあった虐待暴行で有名なナチの強制収用所〕以前の、大量残虐行為の場となった。こうしてはじめて、反コミンテルン条約〔1936年ナチスドイツと日本が結んだ。翌年イタリアが参加〕でドイツの側にたつ政府が明らかに悪であることが、多くのアメリカ人に明白となった。
 熱海の山中にある日中二国の土からなる慈悲の観音像は、1938年には建立されており、南京での日本の罪はすでにその時点で認識されていた。十年後、さらに多くの残虐行為と対米戦争の後、その七人の絞首刑者をまつる部分が、その像の背後に秘密裏に付け加えられた。それを行った者は、南京への永遠の懺悔としてその七人を非難するのではなく、南京で殺された中国人もそうであるかのごとく、その戦争犯罪人が聖なる犠牲者であることを、そのように表現したものだ。おおくの日本人にとって、彼ら七人は、そう罰した国際法廷が言う意味での有罪犯ではなかった。彼らは、日本を戦争へと導いた悪い陰謀者でも、ヒットラーやその一味のような狂った者らでもなく、むしろ、天皇への忠誠な奉仕者であり、政府の責任ある官吏であり、西洋式法廷の要求を満たすため、支配階級によって白羽の矢が立てられた象徴的身代わりであった。そうであるからこそ、彼らは、観音像の慈悲と、国のおかした犯罪に加担したと感じる参拝者により、特段にお祈りを捧げられる価値を有しているのである。
 日本人のほとんど誰もが、1948年の戦争犯罪法廷での判決を非難するが、だからといって、日本人は、多数の選択として戦争を行ったとも、その兵隊たちが公式の指令なくして強姦や殺人を行ったとも思っていない。日本人は、国全体がひとつの家族社会であり、その七人の絞首刑者らのみに責任を科すのは不可能だと言う。日本人は、日本が身分社会で、七人のうちの誰も、華族階級頂上層の出身者はいないと言う。日本人は、天皇裕仁が戦争を宣言し、彼は今でも日本国の主君であると言う。熱海の女神官は、その神社が 「天皇と、日本国民や死んだ人々を悼むその偉大な家臣たち」 を祀っていると言う。
 「昔のことだけでなく、今日現在や、やってくる将来のために、私は神主としての役を務めています」 と彼女は言う。


                     日本と中国

 1937年、南京の犯罪がまだ日本人の呵責となっていないころ、日本は、それまでの40年以上にわたり、中国から領土をもぎ取ってきていた。1896年の台湾島と朝鮮半島、1931年のニューイングランド州ほどの広さの満州、1932年のテキサス州ほどの残りの満州、1932年のカンサス州ほどの熱河省〔現在の河北省、遼寧省にまたがる旧省〕、そして、1935年のモンタナ州ほどの内モンゴルである。そして1937年の夏、日本は、残りの中国――北は万里の長城から南はインドシナ、シャム、ビルマ、そしてインドの国境へと至る、およそ5億人の生命をやしなう心臓地帯――への全面的な侵略に乗り出した。同年8月、日本軍は、揚子江河口から、当時、ニューヨーク、ロンドン、東京と並ぶ世界最大の都市の名をはせていた上海の巨大な港に向け、戦闘に着手した。上海は、中国の中央部へと向かう玄関口であった。そして、一度その鍵が開けられるや、中国の首都である南京――揚子江を270キロ遡上した内陸部に位置する――への容易な通路となった。
 この対中戦争は、その表面上は、日本の一兵士が、小用を果たすため数分間、兵舎を出て藪の中に行っていた(1)ことから始まった。その間、同僚の兵士たちが銃声を聞いた。彼ら日本連隊は、条約に基づいて、中国北部の都市、天津に駐屯していた。彼らはその夜、北京郊外の古マルコ・ポーロ橋〔盧溝橋〕(#)付近で、夜間演習中であった。隊の指揮官によれば、「中国共産軍の銃声を聞き」、点呼を命じた。小用に行っていた兵士が点呼に応えなかったことを確認、同橋の向こう側の中国軍に向かい、行方不明の兵士を捜すため門を開くように命じた。これを中国側が拒否した時、同指揮官は中国軍への砲撃を命令した。行方不明であった兵士は、はるか以前に連隊に戻っていたのだが、戦争はこうして口火が切られた。
 (#) ライオン像で飾られた石橋で、650年前、ベネチアの旅行家が「世界で他に類を見ない」と称した橋。
 この戦争で、中国人二百万人が死に、日本人百万人が戦闘に加わったが、その戦争が続いた8年間、日本政府はそれを「支那事変」と呼び続けた〔訳注〕。今日、欧米の歴史家に、日中両軍間の付随的小ぜり合いが両方の軍事的対面上の問題として一大紛争へと拡大した本当の偶発事件である、と見る人たちがいる。だが現実は、1935年初めに、日本の天皇裕仁は、自身の参謀にこの戦争を計画するように命じていた(2)。1936年3月、この戦争が勃発する一年以上も前、裕仁は、出来上がった計画を再検討していた。その計画は極めて詳細なもので、マルコ・ポーロ橋を舞台とする挑発行動の記述もそれに含まれていた。
 〔訳注〕 日本が「事変」とか「事件」と称しながら、事実上の戦争へと発展させていったのは、宣戦布告を伴う「正式な戦争」を起こすと、国際法上の制約をうけ、たとえば、捕虜の扱いについても、人道的待遇が求められる。それを避けるため、こうした呼称をとり続けた。
 日本政府関係者の中では、この戦争は、それが計画段階にあった時から、物議をかもす問題であった。ことにそれは、陸軍によって反対されていた。参謀本部の多数の参謀たちは、中国ではなく、ロシアとの戦いを望んでいた。そのうち、もっとも熱心な者らは、1936年2月、東京市街での若手将校の反乱〔2.26事件〕を支持して、天皇の考えを翻意させようとした。だが裕仁はこれを拒否した。国家最高位の神官であり、また天照大神の神聖なる子孫として、彼は、その最高司令官としての地位を全面的に用いてその反乱を鎮圧し、北進、あるいは征露論の首謀者を陸軍から追放した。
 裕仁は、自分が中国に何らかの憎しみを抱いているからではなく、祖父および曽祖父から引き継いだ国家的計画(3)による必要において、中国と戦うのであると主張していた。1853年、米国のペリー提督が大砲を突きつけ、西洋諸国との通商と決済を行うため港を開くよう強いて以来、裕仁の曽祖父は、その家臣たちと、ひとつの誓いを立てていた。すなわち、「紅毛の野蛮人」は日本の聖なる国土から追放されなければならず、日本は、さらなる冒涜を防ぐために、緩衝地帯を形成するべく「海外進出」しなければならない、というものであった。
 1920年代までに、裕仁とその家臣は、日本は、その帝国に東インドシナを加えることなく、その国家的計画が完了することはない、と決断していた(4)。アジアでは、東インドシナ以外に、石油資源は入手不可能であった。船舶や航空機用の石油なくして、日本は「野蛮人」を駆逐する希望を持ち得なかった。また、東インドシナを占領するために、華南沿岸の港や立ち寄り地区を、日本は必要としていた。
 1930年代初め、中国の支配者であり、かっての日本の被保護者、蒋介石は、裕仁への協力を止めた(5)。彼は、日本陸軍と同じように、アジアの伝統主義者の第一の敵はロシアと共産主義であると主張していた。その流れにあって、必要な華南の立ち寄り地と港湾施設を軍事力をもって手に入れねばならない意図をもって、上記の夜の事件が起こった。当初、裕仁とその取り巻きは、蒋介石を説き伏せられるものと考えた。しかし、1936年12月、中国西部の都市を訪れた際、蒋介石は部下の兵士〔関東軍によって暗殺された張作霖の息子、張学良〕によって監禁された〔西安事件〕。蒋介石は、その解放の条件――日本に対して立ち上がり、これ以上の妥協をしない〔国共合作〕――を受け入れていたのだった。
 小用中の日本兵が行方不明となり、日本が華北に軍隊を進めた時、蒋介石は、その解放の条件である〔国共合作の〕政治的宣言を守り、裕仁の提示した和平条項を拒否した。日本軍が、華北の北京地方から華中の上海へその戦闘地域を拡大した時、蒋介石は、自らの精鋭部隊を上海の全面的防衛に当たらせていた。この段階で、裕仁とその輔弼たちは、蒋介石を中国から追い払い、別の無難な指導者をすえることを決断した。南京の攻落は、蒋介石を放逐するため、東京の宮中の最奥所で計画されていたものであった。


                  松井の指揮

 南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた(6)。松井の公用車は、皇居南西のお堀付近を進んでいた。お堀越しに、16世紀に建造された、高さ15メートル、セメントを用いない、灰色の花崗岩の石垣がそびえていた。その頂上部の胸壁を松並木がおおっていた。石垣の各角には、見張りのために、白壁、瓦葺の楼閣が設けられており、そのそりあがった屋根は翼のようで、今にも舞い上がらんばかりであった。その背後に見えるものは、天皇の私的庭園、吹上げ御苑の広葉樹のこずえが見えるのみであった。樹木と庭石と池のもたらす庭園――恐らく、世界でもっとも丹念に手が入れられている――に囲まれて、天皇裕仁が住む、無塗装で風雨に褪せた平屋の建物があった。松井大将は、それまで天皇に直接会ったことはなかった。彼は、白い玉石をしきつめた中庭と、天皇が祖先を礼拝する厳かな白木の社殿――聖なる鏡を祀っている――より先の内宮に立ち入ったことはなかった。侍従や皇室家族以外には、その先には立ち入れなかった。
 松井の車は、官公庁の諸建物を右に、皇居の石垣を左にして走っていた。その石垣の南西角を曲がり、桜田門から宮城広場〔現在の皇居外苑〕に入った。そして、お堀を横切り、坂下門を通って、宮内省――天皇家の数百億ドルの私的資産の投資に骨折る――の建物区画に到着した。宮中武官の建物の前で松井は下車し、彼を天皇の面前へと案内する衛兵に敬礼した。彼は、その衛兵の後に従い、日本刀が足首に当たるのを感じながら、格子状に掃き清められた玉石の中庭を通り、矮小樹木の植えられた盆栽庭園と離れの建物を抜けた。宮廷の目立たない小屋は台所で、他は、小規模の研究所、図書館、皇室の規定、系譜、約定書等の倉庫であった。
 ふたたび広い庭園をへて、松井と衛兵は、細長い宴会場と枢密院室前を通り、さまざまの式典に用いられる外宮の東門に達した。裕仁の御所や彼が執務を行う西洋式の建物からほぼ1.6キロほど離れたこの場所は、日本の歴史が、作られたのではないにしても、その公的承認が行われた、謁見の場と控えの間が設けられていた(7)。
 松井大将は、石段を軽い動作で上がり、くすんだ金屏風と格天井をもつ静まり返った受付部屋をとおり、まっすぐな廊下を行き、天皇の謁見室の戸の前に立つ近衛師団長に敬礼した。伝統的なしきたりにより、松井は日本刀をとって衛兵に渡し、そして、きらびやかな謁見の場、鳳凰の間に足を進めた。その部屋は、その神話上の鳥のモチーフが、床や壁、そして天井にいたるまで、寄木細工、錦織、漆塗り、銀細工、彫刻などにより、いたるところに描かれていた(8)。
 鳳凰の間は無人であった。松井は体を二つに折るように深くおじぎをし、天皇裕仁が姿を現すまで、その姿勢のままで待った。この部屋の中では、裕仁は過ちのありえない神であったが、所有しているとされるその絶対的権力を、決して実行することはなかった。この部屋の中では、彼の輔弼たちの助言に従っているのみであった。松井は近衛師団長の助言を待った(9)。
 その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた(##)。二年前の1933年8月、松井が最初に中国侵攻計画を聞いた時、彼は現役の陸軍司令官を退職し、彼自らの夢である、統一アジアを築く構想を支援する指導者を探すため、アジアの各主要都市へと出かけるつもりであった。北京では、彼は東亜連盟――二年前に日本で設立された組織――の地元支部を作ろうとしたが、無駄に終わっていた。
 (##) 特高警察の報告によると、彼の工作者は本庄繁大将(満州の侵略者として後述)で、一時は近衛師団長、一時は1936年の2.25事件の同調者であった。
 今や日中間の戦争は現実のものとなっており、松井は、愛国心はともあれ、自分の路線をいくらか変更する必要を迫られていた。というのは、その前月、東亜連盟の公式のあいさつの中で、中国の首都南京へと揚子江を遡上する、大胆な攻勢を唱えていた。南京の短期攻略と、それに続く、人道的占領政策および公正な市制行政の導入は、中国人民を安心させ、彼らが蒋介石を見捨て、日本の指導者と運命を共にする道を作ることとなる、と語っていた。
 松井の考えを知った裕仁が、中国での命令を彼に与えようとするのは、望ましい兆候であった。おそらく、中国との合意を得ての平定の重要さを裕仁も理解を始めていると推察されるいいサインであった。しかし、もし、差し迫った天皇との謁見が、内宮の端にあるコンクリート建ての宮中図書館で行われるのであれば、松井はさらに幸福であった。そこに、裕仁は人間であり誤りをおこしうる存在とされた彼の勤務室があった。そこで、彼は他の人々と話し、意見を語り、議論を求めた。だが、この鳳凰の間では、国家最高の神道教祖としての地位による高音の声で、通り一遍の公式を述べるのが通常であった。
 裕福な中国古典研究者の六番目の息子であり、信心深い仏教徒として(12)、松井にとっては、国家宗教である神道の祖先への信仰は形かぎりのものでしかなかった。その8月の暑さの中で、そのようにおじぎし、待っていることは、60歳の彼自身を、もっと年老いたように感じさせた。ともあれ、彼の健康はすぐれていなかった。5尺台の細身の体とはいえ、彼の体重は45キロしかなかった。勲章を付けた完全正装は、彼の動作すら不自由にしていた。彼の右顔と右腕の体裁の悪いチック症が抑えられなくなっていた。彼の気持ちは揺れていた。友好的な日本人指導者のもとで目覚める東アジアの構想に思いをはせて、彼は一時の安息としていた。
 突然に天皇が姿を現した。松井に、頭をあげ、もっと近くに寄るように、異例の気遣いの言葉をまじえて声をかけた。天皇は、待たせたことを詫び、松井の結核の回復状況を尋ねた。松井は直立し、ぎこちなく前へ進んだ。彼は、目の前に、37歳の主君が立っているのを見た。天皇は、しわくちゃでわずかな汗染みのある、首までボタンのついた飾りのないカーキ色の制服を着ていた。裕仁はそれまでの一年半、軍服で人前に現れたことはなかった。
 松井が、彼の健康についての天皇から質問に答えようとすると、近衛師団長は裕仁に、次の面会の予定について口をはさみそれをさえぎった。裕仁はうなずき、南京への玄関である港湾都市南京での戦闘の激化が、重大な状況に至っていると松井に告げた。裕仁は、日本の港湾資産を苦守する海軍駐屯部隊を援護する、二師団からなる支援部隊を送ることを決めていた。松井は、松井大将として、その支援部隊派遣の指揮をとるよう望まれていることを覚った。
 松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。
 健康上の理由をはじめ、もろい神経、そして、そのいくらか観念的信念がゆえに、松井は、退役大将となっている身にとっては、裕仁が彼に授与した責務が極めて致死的なものである、と考えたかもしれなかった。しかし、松井の意識は薄れつつあった。
 しばらくして我にもどった時、松井は、裕仁の世襲の輔弼の最高位にある、痩身で、シニカルで、女性的な、近衛〔文麿〕公爵とともに、車で皇居を後にしていた(13)。47歳の近衛公爵は、裕仁の舞台裏の取り巻きとしての17年間の後、ほんの2ヶ月前、裕仁によって、この国の憲法上の表看板、首相に指名されたばかりであった。
 その車中で、小柄な松井大将は近衛に、「南京を攻略するには、蒋介石の力を破壊する以外に解決策はありません。それが私が果たさねばならないことです」、と言っていた。
 二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。


                   苦境の上海

 日本の諜報部はすでにそれを知っていたが、松井はそこで困難な時に遭遇しようとしていた。蒋介石は、華北での共産軍との戦いではその損害を最小限におさえ、華中、上海での作戦にその精鋭軍を投入していた(14)。上海は世界でもっとも国際化された都市であり、その作戦判断も複雑なものとならざるをえなかった。中国、日本の両軍に加え、米国、英国、フランスもそこに駐留軍を配置していた。英国クラブ、米国のホテル、フランスのカフェ、ロシアのパン屋、ドイツのビヤホール、日本の料亭などに加え、地球上のあらゆる主要貿易会社が支店を開設しており、さらに、そうした繁栄とは対照的な貧困を象徴する中国最悪のスラム街では、アヘン窟や売春宿が壁を接して巣窟をなしていた。
 松井が天皇裕仁よりの命を受けた時、上海に駐屯する日本海軍陸戦隊は必死の戦闘を強いられていた。蒋介石軍は、その数的規模において、日本軍の十倍も勝っていたが、火器力においては半分であった。日本の駆逐艦、巡洋艦、戦艦からなる艦隊が、揚子江の河口に陣取り、中国軍の後方部隊に砲撃を繰り返していた。蒋介石夫人〔宋美齢〕に指揮される小規模な中国空軍が、5ないし10キロの爆弾で、その日本艦隊を沈めようと奮闘していた。この中国空軍のパイロットの少数はアメリカで訓練を受け、日本艦隊をうるさがらせていた。またその多数のパイロットは、イタリアのムッソリーニが蒋介石に送ってきた特命隊により訓練されていた。この後者のパイロットは状況を把握しておらず、西洋の船舶の近くや、時には、国際街区の混雑する通りに爆弾を投下したりした。日本の海軍航空隊の追撃機は、こうした中国空軍機に効果的に反撃し、やがてその姿を空から消させてしまった。日本空軍機による爆撃は、爆発物を中国人スラムに雨のように投下し、悲惨な大殺戮をもたらしていた。
 戦争にうったえる場合、あらゆる民間非戦闘員を意図的に殺すことを避けることは、国際条約により日本も承認していたことであった。民間人の爆撃は、今日そうであるように、スペイン内乱とムッソリーニのエチオピアへの侵略を除き、それまでほとんど実行されていなかった。だが、日本によるその条項の違反は、1937年8月14日より開始された。8月13日には、天皇裕仁の伯父、東久邇宮が陸軍航空本部本部長に任命されていた(15)。日本の華族界にあって、東久邇宮は、裕仁の随員連中のうちで、もっとも図太く、無節操な――陸軍の諜報、脅迫、宗教的詐欺の長期にわたる不道徳な記録を持つ――人物として知られていた。
 こうした複雑な、軍事的、政治的、外交的情況に、小男松井は、裕仁との謁見の8日後の8月23日、35,000の不慣れな部隊を引き連れて乗り込んだのであった。彼がその部隊を上陸させようとした時、中国軍が日本軍の桟橋に砲撃を開始し、数百人の犠牲者を出した。そのうちの一人は、裕仁の妻、皇后良子(ながこ)のいとこ(###)であった。それは、小男松井大将が被った最初の損害であり、これから生ずることのひとつの前触れでもあった。蒋介石の部隊は、予想外の無謀な果敢さをもって向かってきていた。その人海作戦に対しての反撃は、山をなす死体を踏み越えてゆくものであった。5日間の交戦の後、松井大将は、他の正規軍一師団と、数ヶ月前に召集されていた予備軍二師団による増強をえねばならなかった。
(###) 伏見宮博義。彼はその負傷から一時回復したが一年後に併発症で死亡した。彼の父親は、かつては皇后良子とは疎遠であったいとこで、かつ、海軍参謀本部長であったため、中国人は勝ち誇って歓喜した。
 彼の指揮下には五師団(16)が配置されていたとはいえ、松井は、南京へと攻め上るために、上海で市街戦を起こすことはしなかった。それに、外国人居留区やフランス租界の在留同胞の保護を理由として、英、米、仏軍が付近に駐留していたため、松井は、二重の意味で用心深く、その前進をはかった。欧米軍の介入を誘発するため、軍服姿の日本諜報員は、ほとんど毎日のように、様々な外国人居留区の境界上で、欧米の海兵隊との事件を起こしていた。中国空軍は、同様なねらいから、みごとな正確さをもって、欧米系の二つの大手ホテルを爆撃し、四十人ほどの外国人を死亡させていた。
 松井は、外国人居留区に爆弾を投げ込んだり、外国人租借地に侵入することをしないよう、ことさらに苦心していた。彼は、片言の英語を話し、フランス語を品なく発音する程度であったが、欧米報道陣の格好なニュース源となり、また、外国人居留地の著名な家庭の晩餐に招待されたりもした。
 松井の五師団は、少しづつではるが日本軍占領地を広げ、ひと街区ごと、あるいはひとバリケードごとに中国人の住む西域へと前進を重ねていった。しかし、それは時間を要し、二ヶ月が経た時でも、まだ、上海郊外部での戦いを強いられていた。
 その最初から、松井の遅速な前進は裕仁を失望させ、この戦争に松井はもっと個人的献身を果たすべきと考えさせていた。そしてその頃までに、裕仁は、二つの経路を通じ、過去三百年のように、宮中内部から作戦展開を監視していた。そのひとつ、その戦略全体については、彼の妻の大叔父である閑院〔載仁 かんいん ことひと〕宮――陸軍参謀総長――を通じての経路であり、そして第二の、詳細な戦術については、宮中と参謀作戦本部との間を行き来する近衛師団の幹部を通じた経路であった。すべての師団段階の命令は、最終的には裕仁の署名が必要であったが、彼は、充分に展開し終わったものとして彼のもとに報告される以前に、その戦術的な考察を深めることを好んだ。というのは、彼は過去の政策設定過程において、事前に自らの望みを表すことなくなんらかの詳細に反対した場合、後に、自分の部下の面子をつぶし、その人を辞職に追い込むことがあることを間々経験していたからであった。
 9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。
 石原は、卓越した戦略家で、六年前、満州征服のための計画(18)を作り上げていた。しかし彼は、同時に理想主義者でもあった。上海の結核病みの小男大将、松井とともに、石原は東亜連盟(19)を創設した。この組織は、日本がアジアの他国と平等な構成者となる、統一したアジアを形成するための戦争を信奉していた。この組織は他方、日本の絶対的支配と他民族との「永遠戦争」によるアジアの搾取を信奉する興亜同盟(20)とは、明瞭な対比をなしていた。この興亜同盟の創設者は、満州での日本軍の中心的参謀で、第二次大戦中に悪名をはせた首相、東条であった。東条は、石原のもっともてごわい敵手であった。裕仁が、自分の指令を石原がすべて握り潰していたことを発見した5日後、石原は、東条を補佐するため、満州へ送られたのであった。
 それに続く数週間、新たな幕僚長、下村定は、上海の中国軍防衛の裏をかき、南京へと進攻する、華中第二次派遣軍の計画を立てていた(21)。そしてこの計画の立案と実行は、天皇自身の参謀たちによる秘密顧問団のメンバーたちに任された。彼らは、1905年―1915年の間、陸軍士官学校と参謀大学に在籍し、しだいに天皇のおじ(####)たちの家臣となった40歳代の大佐や大将たちであった。そのほとんどは、1921年、大使館諜報員としてヨーロッパに滞在、天皇は当時、皇太子として歴訪をしており、その際、裕仁への個人的な誓いを立てた人たちであった(22)。その大半は、1922年―1924年の間、宮中に置かれた学校の政治教化教室への参加者たちで、日本の運命はインドシナ南部にかかっているとの信条を抱くようになっていた。
 (####) 天皇裕仁には血のつながったおじはいなかったが、遠いいとこである皇后良子には、六人のおじと九人のおじのようなまたいとこがいた。彼女のおじの二人とおじのいとこの二人は、裕仁の血のつながったおばと結婚している。ここで言う「裕仁のおじ」との用語は、彼の二重の義理のおじをさしている。
 10月に南京作戦計画が完成されるとすぐ、計画の草案作りにたずさわってきた二人の若い参謀(23)がその秘密顧問団のなかから選ばれ、上海での松井大将の助手として、計画が正しく理解され実施されているかの調査にあたった。それと同時に、天皇の血縁の一人で、天皇直近の侍従武官(#####)は、陸軍省を牛耳る軍務局長を担当するため、天皇のもとを離れた。また、天皇の秘密顧問団でもっとも才能ある人物、鈴木貞一は、南京強奪を実際に指揮した、第16師団司令官に配属された(24)。
 (#####) 町尻 量基 (まちじり かずもと)。彼と天皇のおじ、東久邇宮の二人は、1920年のパリへの旅行途上、秘密顧問団の創設者となった。
 鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。(彼の名は、本書でも頻繁に出てくるので、他の鈴木と区別するため、「例の鈴木」と呼ぶことにする)。彼は、成功した多くの株取引者がよくもつ、鋭く、やせた、職業的風貌をし、長い顔、大きな額、短く刈り込んだ頭髪、眼鏡、思慮深さを思わせるあごのしわという特徴をもっていた。内閣企画院総裁として、日本の国会および第二次大戦中の経済総動員体制の権力者になろうとしていた。彼は、連合軍刑務所で10年を過ごした後、1970年現在、81才で存命し、日本で、最も着こなしにたけ、最も会話が巧みで、最も名の知れた人物の一人となっている。
 例の鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。
 陸軍の中で天皇がもっとも信頼していた部下たちが、それぞれに、不吉の前兆の地位に着任し終わった十月、裕仁は、「中国の厳粛なる反省をうながし、東亜の平和を遅滞なく確立するために」、日本はその軍事力を発揮しつつある、と勅語(28)を発表した。近衛宮と上海の司令官である小男松井大将は、ともに、南京侵攻の政治的目的を明細化するために、この勅語を誇大解釈し、二項目の原則へと結びつけていた。すなわち、第一に、中国人は「抗日愛国」が必ずもたらす費用を正しく認識しなければならず、第二に、中国人は蒋介石とその国民党の運動を放棄しなければならない、というものであった。


                     赤いテント

 14世紀のモンゴルの征服者チムールが、襲撃する町を探索する際、その外でキャンプしながら、包囲の第一日目は、慈悲のしるしの白いテントを張り、二日目は、女や子供たちへの慈悲のしるしの赤いテントを張り、三日目は、誰にも慈悲はないというしるしの黒いテントを張ったという。
 松井の上海への派遣軍は、日本の白いテントであった。十月の末、蒋介石が裕仁の布告に返答しなかった時、第二次派遣軍の小艦隊が華北と日本の港に結集していた(29)。それらは、4師団半、8万人からなる新部隊を運ぶためのもので、二つの使命に分けれれて航行しようとしていた。ひとつは「赤」の、他は「黒」の使命として。それらはその後、戦闘の繰り広げられている上海のはるか北部と南部の、防備の手薄な二箇所の海岸線に到着した。敵地の海岸線――戦史上、ナポレオンのエジプトやシーザーの英国に比べ最適な場所――に水陸両用行動戦術を用いて、この二つの上陸作戦は成功した。それは、後の太平洋での戦争の上陸戦を予兆するものであった。
 水陸両用上陸戦術を担当する専門部隊が、三年前より台湾で活動しており、ジャワやルソンといった外地の島に攻撃を加える際の問題について研究を重ねてきていた。二つの小艦隊のうちの半分の部隊は、過去12年間の理念上の論争における裕仁の命令によって、陸軍から選別されてきていたものであった(30)。その特務部隊の南部方面を率いる総司令官は、現役への復帰を果たした大将で、小柄、禿頭の熱心な戦略家、柳川平助であった。彼は、1936年の2.26事件の3人の陸軍首謀者の一人として、その特務部隊の候補者に加えられていた。柳川大将は、1921年、裕仁が当時、皇太子として最初で最後の外国歴訪の旅をした際、その迎えのためにパリにきていた。柳川は、1932年から1934年の間の副陸軍大臣として、終始、外国出張に出ていた。1935年には、台湾軍司令官として赴任、今や日の目を見るようになった水陸両用作戦技術の開発を指揮した。他の者と同じく、彼も、天皇の息がかりのもとでの自身の再構築に熱心であった。九月に再び指名があった際、彼は妻にこう書き送っている(31)。「君、安んぜよ、すでに過ぎたり三途の川、天国の門を開く、目睫の間。」
 1937年11月5日の早朝(32)、柳川の特務部隊は、無線交信を絶ったまま、上海の南、約70キロメートルほどの、蒋介石軍の南部の脇腹でその弱点である海岸線への足がかりとなる、杭州〔ハンチョウ〕湾中にあった。6万人の兵員を乗せた輸送船団は投錨し、金山〔チンシャン〕要塞と言われている金山区の小城市の沖合いで、夜明けを待っていた。静まりかえった各輸送船上では、錨の鎖が巻かれ始め、急襲艇を下ろすウインチのきしみ音がひびき、他方、目覚め始めた町からは、中央市場に産品を入出荷する人夫たちの掛け声が聞こえてきていた。
 朝日が、湾の黄色の水にまとわりついていた朝霧を追い払いはじめた。柳川大将は、待機指令の解除を決定した。霧の向こうにある緑の低地は、肥沃な土地がふんだんに広がる、揚子江デルタ地帯の南端で、全地形に明るい者なしでは、その小運河の網目に遮られ、混乱と損害が避けられなかった。急襲艇が、母船の鉄の船体とぶつかり合うリズミカルな音を耳に、柳川は、次の二編の歌(33)をよんだ。
 朝霧のまだ晴れやらぬその中に、90分の、待ち永久かな
 大君の、任せの間に間に行く道に、今日の眺めは、ただ涙なり

 湾の発する臭いが日の出とともに漂いはじめ、柳川は、今日では風邪を予防するために日本人がよく使用する、白い手術用のマスクを付けた。彼の命令のもとに急遽召集された兵員たちは、彼が元副陸軍相で、今はそうとさえ知られないことがよいと考えていることすら知る由もなかった。柳川は待機中の急襲艇の上部の網の上に立ち、海岸へと向かって、第一波の発進を命じた。
 その地域の中国軍は、この上陸をまったく気づいていなかった。正午までに、柳川の3師団半のほとんどは上陸を完了し、金山の要塞を包囲していた。翌朝、柳川は、海風に乗せて、宣伝用の風船をまるで雲のように空に放った(34)。各風船には、「百万の日本軍が杭州湾岸に上陸」とのかく乱宣伝文がぶら下げられていた。そのニュースに、地方召集の中国兵は士気を失っていた(35)。まだ持ち場についていた兵も、海岸がら北に向かって進撃する日本の第6師団(36)にたやすく蹴散らされた。その司令官、谷寿夫〔ひさお〕中将――後に戦争犯罪人として処刑――については(37)、現代の軍事評論家によってこう描写されている。「その前進は、阿修羅のごとく、霧の中を八方向に全速力でなされた。」
 上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」(38)


                     黒いテント

 南部の弱点が現実のものとなって、上海外部の中国軍は、最終的防備のために、蒋介石のドイツ人軍事顧問によって設置された、揚子江デルタ地帯を横断するトーチカ線までの後退を始めた。華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。当時、南京作戦に再配置された他の将校たちのように、中島も、1921年、陸軍諜報員としてフランスにおり、皇太子裕仁に謁見するという栄誉を得ていた。1936年の2.26事件以来、裕仁は中島を憲兵隊長官として、首都東京の保安に当たらせていた。
 日本の将校は、外国人の前での同僚批判は控えるものだが、中島だけは、その例外とされていた。彼らによれば、中島は、「加虐的な性格を持つ男」であった。
 ある者は以下のように書き残している。「彼は、鴨狩りを“ばかばかしい”とし、むしろ、水場の淵に位置し、下降してくる鳩を撃つのを好む、といった狙撃の名手だ(40)。今(1939年)、中国との聖戦を終えて平和維持のために送られた北満州で、制圧する“匪賊”はもうおらず、彼は不機嫌にちがいない。満州の鳩にとっては、災難だ。」
 また、別の人は、「彼はフランス文化に馴染みすぎた。彼は自身をロベスピエールかダントンのように考えていた。彼は南京に、人体を焼くための特殊な北京油をもってやってきた」と語った(41)。
 さらに別の人は、こう彼を思い出している。「上海を攻略した後、我が第11師団は、上陸したばかりの中島の第16師団と平行して進撃していた。毎夜、私が宿営する場より、彼らが焼いている村の明るい火が見えた。家を焼けば、宿泊場の提供を難しくする。臆病者だけが、そうしたことにかかわった。」(42)
 戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した(43)。

  
    地図の出所(44)

                    停止線茶番劇

 北より南下する中島、南より攻めあがる柳川、上海から南京へと西進する松井という三方攻撃の中で、蒋介石軍の後退は、転じて敗走化した。ドイツの軍事技術者にとっては、理論上、揚子江デルタを数珠繋ぎ状に横断しているはずのトーチカ線は、ほとんど戦いをなすことなく放棄された。それは日本の金で買い上げられたとのうわさが中国に流れ、一部そうであったかもしれないものの、その大半は、日本軍の戦術と大胆不敵さの前に攻落した。
 中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。
 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。
 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。
 この公式と非公式の命令の間の4日間のずれは、ある典型的宮中物語とからんでいる。東京の参謀本部次長、多田駿〔はやお〕中将は、南京への攻撃につき、中国の首都に計画されている恐怖の作戦を知っており、軍紀を低下させるおそれがあることから、それを許可しなかった(46)。彼は、裕仁に勅命を与えるよう助言することを断固として拒否した。ちょうど、裕仁が、参謀本部次長である多田に、そう助言し、必要な命令に副署名するよう強く望んだように。そこで、多田中将を説得する仕事は、参謀本部作戦部の新任で優柔不断な長官、下村少将にゆだねられた。下村は、11月22日の月曜から27日の土曜まで、終始、多田をおだてすかし、あるいはおどした。11月24日の水曜には、下村は、大本営の会議の後、私的に天皇裕仁と面会し、多田が黙認した時、直ちに宮中の手続きが済んで命令が通されるように、証印や副証印など、すべての事務的処置を終わらせておく旨、手をうった。土曜には、業を煮やした下村は、二通の異例の電報を発信した。一通は、上海の松井大将への公式なもので、他は、一ヶ月前、松井の指揮系統の下に送り込まれた参謀将校たちにあてた非公式な裕仁の秘密顧問団の電報であった(47)。
 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。
 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。
 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである。
 前線の参謀将校たちは、この第二の電報を受け取ると直ちに、第二の停止線上にある二つの町の酒場や売春宿から兵士を招集し、前進の用意を整えた。東京の多田は、部隊が命令なしで行動を起こす可能性――参謀本部副長官としてその責任を負わされ、軍人としての名誉に汚点を残す――を按じていた。一方で、退役や不面目を、また他方で、輝かしい将来への約束を考え、多田は、この二通の電報が打たれた日の夕方、自らの信念を曲げた。ただ、その命令の日付を四日後の12月1日とするよう条件を付けた――強制された事実を記録として残そうとする、奇妙な日本式方法。彼はまた、天皇裕仁に、その命令の天皇責任を認めるよう、それが天皇の全国民への勅令としての形式をとるよう、天皇に求めた。
 多田は、その命令を彼自身の手で前線に送り、また、その命令には第二の停止線に言及する必要はなく、ただ、「南京を落とせ」と言うべきであることを受け入れた。天皇の勅令は、内大臣の承認を必要とし、さらに、通常、日本中の別荘や温泉に散らばる侍従たちの副証印も必要だった。したがって、その手続きは、一週間かそれ以上を要するのが常だった。今、多田が驚いたことは、すべての作業がすでに済んでおり、天皇裕仁もそれを最優先し、11月28日の日曜の朝までに、天皇の証印を付すことも可能なことであった。多田はそこで、文書命令を、上海まで、通常、空路で一日ですむところを、三日をかけて送付して、異議の表明としたのであった。しかし、命令は無線で即座に前線におくられ、前線の部隊は、その報を受けた数分後には、大挙して第二の停止線を越えたのであった。前線の将校たちの何人かは、「12月1日付けで、南京を落とせ」の命令を受けたと理解していた。ということは、彼らは、160キロ以上を、三日で行かねばならなかったわけである。
 松井の「白」の師団と、柳川の「赤」の師団は、どちらが先に南京に到達するか、競争を始めていた。松井の部隊は、揚子江デルタ地帯の西、ほぼ、上海と南京の中間に位置する太湖を水陸両用作戦をもって突破し(50)、幸先のよいスタートを切っていた。柳川の部隊は、同湖を迂回する必要があったため、そのペースを落としていた。一方、最も北のルートを行く、加虐的な中島が率いる「黒」の第16師団は、南京の強奪をねらい、満を持していた。12月1日、南京攻略の天皇の命令が公式に届くと、すべての部隊は動きを開始したが、いずれも、目標までには、まだ50キロ以上を残していた。
 この作戦で、日本軍はすでに7万人の死傷者を出し、南京に到達するまでに、さらに4万人のコストを払おうとしていた。大量の犠牲者を生む、大部隊の進軍戦の状況では、個々の兵士を神経質に押しやるものである。日本軍の中では、部隊間の競争はいつもすさまじさを呈し、酒場でのけんかを超えて、致命的争いをもたらしていた。生き残った復員兵によれば、今や、揚子江デルタの競争は、村を焼き、家畜を殺し、さらに、ただ対抗意識から、少女をさらいだし、他の部隊から、宿泊の民家や食料や享楽を奪うという、その類の争いの場とも化していた。そうした異様な雰囲気は、検閲をパスして公表されたジャパン・アドバタイザー紙の12月7日付けの記事からも、その程度がうかがえる。
           中尉の百人斬り競争、互角の結果
 共にクーヨンの片桐隊の向井敏明中尉と野田毅中尉は、南京占領が完了するまでに、どちらが先に百人の中国人を斬ったをめぐって競争しており、その競い合いは互角のまま、いよいよ終盤にさしかかっている。12月5日付けの朝日新聞によれば、両者の“得点”は、向井中尉89に対し、野田中尉78である。
 一週間後、南京が攻落した翌日、同紙は、どちらが先に百人に達したか判定がつかないため、ゴールが150人に拡大されたと報じている。その記事によれば、「向井の刃はこの競争でいくらかこぼれている。彼は、これはある中国人をヘルメットごと二分した結果であると説明している。競争は“楽しみ”だと彼は答えている。」
 その地方では自動車道路がほんのわずかしかない状況下を、熱心だが不面目をこうむった「赤」師団の柳川は、一週間で190キロを進んだ後、12月4日、土曜、溧水〔リシュウ〕の町を占領した。そこから南京の城壁までは、北に向け、良好な街道をわずか19キロ残すのみである。しかし、最後の抵抗線をなしていたのは、自分の家や田畑を守ろうと意気盛んな地元の召集兵による即製部隊であった。消耗した柳川の部隊は、その突破にてこずり、ほぼ三日を費やした。またそのはるか北では、松井の「白」師団が同様な抵抗に会い、二日後、歩兵の一斉射撃で塹壕にこもる中国部隊線を突破した。そのまた北方には、加虐的な中島の「黒」の部隊が、上海、南京間の鉄道路線を用いて、山野の横断を最小限にし、かつ、抵抗にもほとんど会わずに、他のライバルを追っていた。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/493.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 「東電は、命を賭けている現場作業員への感謝と敬意がないのではないか。:兵頭正俊氏」(晴耕雨読)  赤かぶ
02. 2013年9月26日 08:51:32 : lzpAUMFDfA
原発なんかで働いているというと、
日本では数段階搾取を気にしないヤクザの下っ端のイメージだし、
アメリカだとホーマー・シンプソンだからね
コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相 国内で消費税を増税し外国で大浪費 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
03. 2013年9月26日 08:53:37 : 7OpGsifAXA
諸外国へカネをばらまくための増税と理解している。世界中が日本の増税に期待しているのはそういうことだろう。金融緩和にしたところで、所詮は欧米の緩和縮小出口戦略の支援にすぎぬではないか。
コメント [政治・選挙・NHK154] いつも登場するカジノ構想は不謹慎だ。(日々雑感)  笑坊
02. 小沢主義者 2013年9月26日 08:54:23 : 7wZirE2El0uhY : Od3zRGIrsM
>>01

在日外国人様のカジノへの出入りは許されますから安心しなさい。

記事 [アジア14] 韓国国民性表す諺「処女が子を産んでも言うべき言葉がある」(SAPIO) 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130926-00000006-pseven-kr
SAPIO 2013年10月号


 先人が語り継いできた諺には現代に通じる教訓や戒め、すなわちその国の文化と国民性が凝縮されている。竹島の不法占拠や戦時賠償判決など、反日行動を繰り返す韓国には、どんな諺があるのか? ジャーナリストの室谷克実氏が、韓国人の国民性を表す諺について解説する。

 * * *

“泥棒をしてばれても弁明する”──韓国にはそんな諺がある。自分に明らかな非があっても、言い分を述べろと説く。“処女が子を産んでも言うべき言葉がある”も同じような表現。処女が子を宿すはずはないが、それでも産んだのには理由がある──つまり「何にでも理屈はつけられる」ということだ。

『韓国朝鮮ことわざ辞典』(金容権・著、徳間文庫)によれば、そうした諺は「朝鮮人のもつ特性の一端を実によく表している」。曰く、「自分に分がないとみても、一点でもいうべきところがありさえすればそれを主張し、相手がひるんだ隙を見てさらにたたみかけ」るような自己主張の強さが韓国人にはあるという。逆に、主張しないと「口数の少ない貴公子」か「目先のきかない間抜け」と見られてしまうと解説している。

 歴史的にも国際法的にも日本の領土である竹島を、史実を捻じ曲げてまで「我が領土」と主張して恥じないあたりにその民族性が現われている。実際、「朝鮮日報」によれば韓国で2010年に偽証罪で起訴された人は日本の66倍、人口比を考えれば165倍であり、嘘も厭わない利己主義が数字からも見える。

 逆に利益のためならなんでもする。それらを表す諺が、 “金玉を掻いてあげる”(媚びへつらうこと)“憎い子に餅を一つ余計にやる”(うわべだけ可愛がる)などだ。似た表現に、“泣く子は餅を余計にもらえる”というのもある。

 終わったはずの戦時賠償を再び日本に求める心根は、まさにこれだ。“一度やっても売女、二度やっても売女”(過ちも一度犯せば二度目は躊躇しなくなる)という諺もあるから、放っておくと何度でも繰り返し無法を働く国だと覚悟すべきだろう。



http://www.asyura2.com/12/asia14/msg/452.html

記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第一章 南京強奪(その2) 窮地の蒋介石
第一章
  
南京強奪
(その2)

窮地の蒋介石

 蒋介石は、南京の城壁内で、幻滅を伴う苦渋の一ヶ月間を過ごしていた。
 国際連盟は、〔1937年〕9月12日、彼の求めによって条約締結国〔日本は1933年に脱退〕による会議を召集、11月4日より24日まで、ブリュッセルでそれが開催された。この会議はしかし、日本への軽い非難を除き、なんらの行動も決定されなかった。蒋介石のドイツ人顧問は、ベルリンにいっそうの援助を要請したが、日本寄りのリーベントロップ外相の派閥が、ヒットラーの支持を獲得していた。スターリンの大粛清による混乱下にあるロシアは、わずか数機の飛行機と操縦士を送ってきたのみであった。米国は、退役空軍大将、クレアー・シェナウルトと20人の空の冒険家を送ってきたが、すでに購入し出荷されていたはずの米国製飛行機は、カリフォルニアの港に積み上げられたままであった。12月2日、蒋介石は部下の将校たちと会い、日本の条件を受け入れることに同意を決めた。日本にとってはそれは節度あるものであったが、蒋介石には既成事実を正式に承認させられるものに等しかった。すなわち、内蒙古の自治、上海周辺の国際非武装地帯の拡大、反ロシア日中同盟、旧首都北京を含む満州国境に沿う幅320キロの非武装地帯、日本に友好的官吏の任命、というものであった(51)。
 12月5日、こうした条件を原則的に受け入れるに当たって、蒋介石がさとったことは、もはや情勢が大変してしまったことで、日本には、もういかなる平和的条項を提示する意思もないことであった。そこで彼は、中立の駐中国ドイツ大使、オスカー・トラウトマンに、現在の軍事的苦境にあって、これ以上の交渉は不可能であると伝えた(52)。そして蒋介石は、彼の政府の主要部局を南京より避難させることを決定し、12月7日、彼とその部下一同は、560キロ上流の漢口〔今の武漢〕に飛び、そこに臨時の新首都を設立した(53)。


                    裕仁のおじ

 1937年12月7日において、日本軍は30万人の戦力を保持し、その目的地、南京は完全な混乱状態に陥っていた。またその中国の首都は、古代よりの煉瓦の城壁をのぞき、いかなる防備もない裸体状態であった。日本軍の四師団――柳川の「赤」の第6および第114師団、松井の「白」の第9師団、そして中島の「黒」の第16師団――は、疲れ果て、神経過敏となっていたが、寒く、荒廃した田舎地帯を踏破し、その首都に結集しはじめていた。一方、そうした残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。
 朝香宮は、皇族の一員であるにもかかわらず、強靭な職業的軍人で、30歳代での幹部候補生から中将への昇格も、特権や閑職にいそしんだゆえではない。痩身で寡黙な50歳の華族は、明らかに片足を引きずって歩いた。これは、1923年に、パリ郊外で自動車事故にあったためで、現在の同僚である柳川や中島とともに、3年間、諜報員として赴任していた時のことであった。かっての万能運動選手である彼は、その事故の後、ゴルフに傾倒し、当時では、日本でも有数のゴルフ・プレイヤーでもあった。この技量と流暢なフランス語を生かし、1930年代には、パリから東京を訪れた多くの著名フランス人をもてなしていた。また、1936年の2.26事件の際には、宮家諮問会議の緊急会議の席上、陸軍の北進あるいは征露派の不満に理解を示す裕仁の兄弟、秩父宮の側にたった。宮中の公文書にあるメモによると、その後、裕仁は、朝香宮の態度は皇族として「このましからざる」と(54)、もっぱら彼をのみ非難した。そして彼は、この同意しにくい南京での新任務を、一種の修復の機会として与えられたのであった。これからそうするように、彼がそれを成し遂げた時、すべてにこのましく、彼の宮中の評価が回復するのであった。
 朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。
 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する。(56)
 朝香宮は、12月5日の土曜、飛行機で東京をたち、3日後、前線に到着して命についた(57)。そこで彼は、かつてのパリ時代の旧友に会った。加虐的中島は、南京から16キロほど南の放棄された中国人別荘に置かれた最前線本部に陣取っていた。彼は、その日曜に受けた左臀部の傷で(58)、痛々しく床に着いていた。中島は彼の元パトロンに、日本軍は南京外縁の境界線のいたるところを突破し、約30万人の中国軍を包囲しつつあり、城壁を背にして釘付けにしている、と報告(59)した。両軍間予備交渉は、彼らが降伏の用意があることを示していた。
 こうした報告を聞いた後、朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。
 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。

 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

                   パナイ号事件

 朝香宮を前線へ派遣した後、天皇裕仁は、南京占領にいたる最後の数日間、「レクレーションや運動の時間をとることもなく、軍事作戦の広範囲かつ強化した監視についていた」と、その侍従たちの一人によって語られている(61)。近衛宮――当時の首相で裕仁の若い取り巻きをあやつる専門家――は、裕仁が軍事的諸情報の渦の中で、視野を失ってしまうのではないかと恐れすらしていた。皇族には属さず、ひょろっとしてシニカルな近衛宮ではあったが、いにしえより肩を並べる貴族であった藤原の家系は、右大臣、左大臣として13世紀にわたり宮中に仕え、そして、その世間離れした熱意を駆使し、歴代天皇を支えてきた。侍従といえども、近衛以上に、裕仁の機嫌をとることに長けたものはいなかった。若い天皇が、宮中の親友として、対等に感じ、自由に議論し、内輪話をし、批判をし合った人は、彼以外には居なかった。
 11月20日、裕仁が大本営を設立した時、近衛宮は、そのなかに、自分がオブザーバーとしてすら加えられていないことを抗議するため、宮中に駆けつけた(62)。裕仁は、それが軍人専用の堅苦しい秘密会議なので、政治家の関心を引くようなものではないと説得しようとした。しかし近衛は、軍事的決定は常に政治的利害をもたらす、とそれに反論した。そして近衛は、「中国での次の戦略が開始される前に、私は辞職したい」(63)と言いわたした。自分の内輪からのそうした厳しい反発を受け、裕仁は近衛に、政府にとどまるよう懇願し、「軍事的展開についても、全面的に情報を与える」、と約束して彼をなだめた。
 近衛は、中国との戦争自体には、それに先立ち反対の意見は唱えなかった。むしろ、もし日本が中国と充分深くかかわるようになれば、北方へはロシアに、南方へは米国や英国に、破滅的な結果をもたらす時期尚早の攻撃をしないですむと唱えた。近衛は、その秋中、中国との戦争を避け、ロシアとの戦争をのぞむ参謀本部の参謀たちとの目下の論争に明け暮れた。彼らは、上海派遣軍に反対し、その補強に反対し、上海の南や北に追加部隊を上陸させることに反対し、南京攻略の命令に反対した。さらに最近では、彼らは、蒋介石による条件付降伏の申し出を受け入れようとし、これに近衛は、蒋介石がそれを受け入れないよう日本側の要求をより厳しいものにしようと苦心惨憺していた。軍国主義者が和平の道をとろうとする時、一人の政治家がそれに立ち向かうことは困難であった。
 今や「中国での第二の戦略」(64)が、近衛の目的を危ぶませていた。彼は、蒋介石といかなる合意も結ばないよう、裕仁をさとした。さらに彼は、自分自身も確信がないまま、南京奪取が、蒋介石の部下の離反を生み、日本の長期的な意図に協力する中国の傀儡政権の樹立を可能とすると説いた。しかし、南京で追求されるべきこの新たな戦略は、近衛を立ち止まらせていた。以前はそうではなかったのだが、首相としてそれを主導することに、躊躇を感じ始めていた。もし南京で殺戮や破壊が充分になされた場合、蒋介石を倒すことに成功するかもしれなかった。そのでの問題は、裕仁と海軍が、マラヤとインドシナを攻撃する計画を時期尚早に立てないようにすることであった。
 12月7日、天皇との再度の会見の後、近衛が感じたことは、最悪の事態が生じようとしていることであった。蒋介石の住居からの情報源によると、蒋介石はその日、南京から脱出したとのことであった。日本軍は南京を包囲しつつあり、裕仁は、長期にわたる軍事計画に浸りきっていた。近衛は、裕仁のお気に入りの一人である木戸侯爵にこう苦言を呈していた。「天皇に会ってきたのだが、彼は、来年3月までの戦略についてばかり話していた。そして彼は、広東へ一師団を送ることを説明したが、私はこれまで、そうした攻撃について何も聞いておらず、驚かされた」(65)。広東は、英国の植民地香港より、わずか90キロしか離れていなかった。裕仁はすでに、その攻撃を承認する署名をしていた。「もし、事態がこのように運ばれたら、私はその全責任をもてない。私は天皇に、南京攻落の結果を見た後、内閣の改造をしたい、と天皇に言った。天皇に異論はないようだった」、と近衛は語った。
 天皇との面会の5日後、近衛首相の古い友人で、現役復帰した予備砲兵大佐、橋本欣五郎が、米国の小型砲艦パナイの沈没(66)という国際的事件を単に挑発目的で起し、広東を攻撃する計画をぶちこわした。蒋介石が自らの首都を逃れて間もなく、橋本の砲兵連隊は、南京から96キロ上流の揚子江岸に陸路到達していた。蕪湖〔ウフ〕の町の付近で、彼は、南京から川伝いで逃れようとする難民を遮断するため、川岸に重砲を配置し、近距離の一斉放火陣をしいていた。12月11日、土曜の夜更け、彼は、英国人難民を乗せたフェリーと、英国の小型砲艦レディーバードに砲撃を加え、英国水兵一人を死亡させた。翌朝、彼は、三隻のタンカーと米国の小型砲艦パナイからなる西洋人難民の船団が、砲陣地と南京の中ほどにある安全な停泊地にあって、その包囲都市からの脱出を待っている、との情報を得た。橋本大佐は、その連隊に付属している海軍航空中隊に、揚子江の封鎖を支援するよう命令した。彼は、海軍操縦士に米国船を攻撃するよう命じた。その操縦士たちは就役中ではなかったが、橋本大佐の命令に疑問を呈し、長い議論のあとにようやく離陸した。
 午後1時30分、日曜の通常任務は、パナイ艦上からの見張りだった。乗組員のうちの8人は、近くに停泊している三隻のタンカーの民間人を訪問していた。天気は快晴だった。パナイの甲板上に描かれた二旗の大きな星条旗が、その陽光のもとで輝いていた。1時38分、三機の双発機がV字編隊を組んで、南西の方向から高い高度で飛来してくるのが見えた。翼の赤い丸が、それらが日本軍機であることを示し、また、パナイの位置がその日本軍機に確認されたことも確かであった。中国軍機の操縦士と違って、日本の操縦士は、誤爆をするようなことはなかった。突然、三機の飛行機の胴体から、黒い点がいくつが放たれ、次の瞬間、爆撃の正確さを示して、パナイが致命的な損害を被っていた。一つの爆弾は艦首を直撃し、第二の爆弾は右舷に穴をあけた。エンジンは破壊され、75ミリ砲は使用不可となった。操舵室、船内の病室、無線通信室は粉砕された。艦長は受けた榴散弾片で動けなかった。
 乗組員がこの一瞬の破壊から立ち直る間もなく、六機の単発戦闘機が南方より迫ってきて、小型の対人爆弾を投下した。命令を発しようとしていた副艦長も、榴散弾片をのどに受けてしゃべれなくなった。彼は、紙に走り書きで、命令を発した。一機の速度の遅い複翼戦闘機が、二度も、三度も爆弾投下を繰り返した。乗組員が後甲板の30口径の機関銃を組み立て、応戦を始めた。二機の戦闘機もそれに応えた。20分間の爆撃と機銃掃射の後、パナイは右舷側に傾き、沈み始め、攻撃機は、三隻のタンカーにその焦点を移した。
 パナイのどの現場指揮官も、乗組員のほとんど全員とともに傷を負った。午後2時、口のきけなくなった副艦長は艦の放棄をなぐり書きで命令した。負傷者がボートで陸地に運ばれている時、攻撃機が引き返してきて、一時、覆いのない救命ボートに機銃掃射をあびせた。3時までに、パナイの甲板は無人となり、巨大な腐敗処理装置たるその川の黄色い水に洗われ始めた。パナイはすぐには沈まなかったので、二人の乗組員が食料や医療品をとりにボートを漕いでもどった。一隻の日本軍ランチがパナイに接近し、甲板へ機関銃発砲を加え、捜索のために乗組員を乗り移らせた。ひと時して、日本の水兵は自分たちのボートに飛び移って戻り、急いで立ち去った。その5分後の3時54分、パナイは右に回転するように沈んでいった。二隻のタンカーは炎上中で、三番目のタンカーは、泥の土手に座礁していた。パナイの乗組員とともに、乗客や船員は、川岸のイグサの中で三日間、隠れていた。彼らはだが、米国の小型砲艦オアフによって助け出された。その間、二人のアメリカ人が死に、一人が瀕死の状態にあり、他の14人は担架で運ばれる状態だった。タンカーの相当の数の中国人船員も、死亡するか負傷したが、多くの生存者が奥地へと逃げ去っていたので、正確には数えられなかった。
 パナイ沈没の翌日、ルーズベルト大統領は、ワシントンの日本大使に、彼の「衝撃と懸念」を直接に天皇裕仁に伝えるよう、非公式に要求した(67)。それは、日本の政府の存在を無視した前例のない措置であった。外交経験ある侍従たちは、それは、アメリカ合衆国による宣戦布告の予告かもしれないと受け止めるよう、裕仁に進言した。皇居に近い米国大使館のジョセフ・グリュウ大使(68)は、使用人に荷造りを始めるよう命じ、それは、大使にとってルシタニア号〔訳注〕が沈没した1915年のベルリンを想起させる事態として知られた。日本の広田弘毅外務大臣は、直ちに謝罪を表明し、死傷者とその家族に賠償を約束した。日本の市民は米国大使館に大挙して押しかけ、路上で大使館員が遺憾の意を表そうとすることを止めさせた。一人の身なりのよい日本女性は、あたかも夫を失ったかに感じているとして、大使館ロビーで自分の髪の房を切り、一本のカーネーションをそえて供え、その気持ちを表した。米国大使館には、たくさんの弔慰金が寄せられ、グリュウ大使によると、寄付金額は5百万ドルに達したという。副海軍大臣の山本五十六――後に真珠湾攻撃を主導する――は、この事件への全面的責任を公式には認めた(69)が、パナイ沈没を命じた橋本大佐への懲罰が行えなかったため、、個人的には憤懣やるかたなかった。
 〔訳注〕 ニューヨークを出港したイギリス船籍の同号が、南アイルランド沖で、ドイツの潜水艦によって沈没させられ、ドイツの野蛮な行為が多くのアメリカ人の生命を奪ったとして、米国の第一次世界大戦参加のきっかけとなった。、

 近衛の庇護をつうじ、責任を負う身でありながら、橋本は処罰なくすごしていた。彼はその砲兵連隊の指揮を、1939年3月まで続けた。彼が最後に軍服を脱いだとき、近衛宮は、日本の一党独裁体制――大政翼賛会(ドイツのナチ、あるいはロシアの共産党の日本版)――を組織した。近衛は橋本を、この新設独裁党の党首にさせた。
 米国艦パナイを沈め、英国艦レディーバードを砲撃することにより、橋本大佐は、その実行が極めて危険な地、香港を攻撃する計画をつくることに成功した。パナイ事件の8日後の12月20日、3万の日本軍部隊は、台湾南西海岸にそった港で、輸送作業に取り掛かった(70)。だが2日後、近衛の勧めにより、裕仁は不承々々、輸送をとりやめ、広東の攻撃を10ヶ月延期することを命令した。
 近衛は、橋本にパナイを沈めるよう特使を中国に送ったのではないかと、強く疑惑をもたれていた(71)。それはまた、パナイ沈没の数日後、蒋介石政府に取って代る傀儡政権樹立をめぐり、中国人政治家をさぐるために近衛が送った密使が、大阪港で憲兵により誤って逮捕されて出発できず(72)、中国での彼の面会の約束に間に合わなくなったという事実により、いっそう強められた。
 パナイが沈没した12月12日、近衛は東京、荻窪の新しい屋敷に移転した。その転居祝いの席上、彼は来客者にこう告げた。「私はもうこれ以上、我慢できない。南京が陥落する時、蒋介石政府も崩壊させるべきだ。もしそうしないのなら、蒋介石不承認の声明を出し、彼との交渉を拒否する。今が潮時である。私は辞職する」(73)。日本は蒋介石と交渉せず、傀儡政権を立てよとの声明は、すでに裕仁の血族の侍従武官、町尻によって起稿されていた(74)。一ヵ月後、南京強奪が最終段階に差し掛かった時、近衛はついにある段階での声明を発した。しかし、近衛も蒋介石も辞職せず、また近衛の荻窪の新居は日本語で「嫌華」荘を意味する呼称(75)をもつようになった。やがて、何も知らされないままの日本大衆により、近衛は、南京虐殺の首相として責任をとらされることとなった。 


                   どたん場の南京

 南京郊外の冬枯れ色の田園風景の中で、泥壁の貧弱な農家は空き家同然だった。蒋介石がその首都を去った三日後の12月10日、南京の100万余りの住民のうちのほぼ80万人(76)は、揚子江上流へと逃げ出していた。揚子江デルタからの1,800万人の避難民は、南京の周辺を通過して、これまた奥地へ向かっていた。約10万人(77)の中国軍後衛部隊は、城市の内部に残る市民を追い出していた――二ヶ月前に発表された「抵抗の焦土作戦」は、侵略者に使用されるおそれのあるすべての田畑と家屋を焼き払うよう訴えていた。
 砲火の音が近づくに応じて、中国軍部隊は城壁上に配備され、待機していた。幅6メートル、高さ15メートル、中世以来の鋸歯状の胸壁ではあっても、近代的砲火への充分な防備となっていた(78)。その城壁の内側の中世よりの古都市は、80年前の農民一揆の際、ことごとく破壊された。今では、いくつかの建て込んだ中国人商業、居住区を除いて、街は、政府関係の新しい建物が散在する記念市民公園や、かって農民がたてこもった大きな広場と変わっていた。中国軍部隊が攻撃を待っている間、彼らは街に定着した共和政治の精神を尊重した。兵隊たちは、数台の自転車を盗んだり、何軒かの店に盗みに入ったりはしたものの、中国に滞在していた福祉関係の専門家によれば、その模範的規律やまじめな善行に驚かされていた。(79)
 アメリカ、ドイツ、イギリスの住民たちは、市内におよそ4平方キロメートルの安全地区――主要な教会、大学、病院施設などを取り囲む非戦闘地域――を設けた。避難した中国政府は、外国人による同地区管理委員会に、警察官450名、小麦粉一万袋、現金40万ドル、そして米400万ポンドを移譲した。中国人市民もその地区に、日本人による占領と法秩序の樹立が終わるまでの数日、避難していることが期待された。そうした措置は上海でも試みられ、日本側にも歓迎された。ことに松井大将は、その費用を援助するため、自分の懐からほぼ3,000ドルを寄付(80)していた。
 しかし、南京の場合、日本側は安全地区の認可を、前もって拒否していた。そして攻撃の前に、すべての非中国人はその地域から立ち去るよう通告していた。領事館員や欧米のビジネスマンたちは、彼らの上部からの命令に従った。パナイのような艦船で引き払ったものもいた。また、英国のジャーディン・マチソン蒸気船会社が所有する大きな浮き埠頭の乗り換え所やチェックアウト所に移ったものもあった。だが、22人の大学教授、医師、牧師、ビジネスマンと、15人のアメリカ人と6人のドイツ人は(81)、城壁内部に残った。そして彼らの存在により、上海以西の他の都市とは異なって、南京の占領は仔細に文書として残されることとなった。ことにドイツ人は、反共同盟による保護対象となっており、かぎ十字の腕章を付けていれば自由に歩き回ることができたため、すべてを観察することができた。
 12月9日、木曜日、松井の第9師団の二個大隊は、城壁の南東の塹壕線を越えその内部へ進んでいた(82)。松井大将は、飛行機からビラ(83)をまいて、温情的取り計らいを約束し、市民政府による統治への移譲のための休戦措置を勧告した。金曜日の真昼、松井の二人の将校は、城壁東部の山岳門の外側に立ち、中国側が市を譲り渡す白旗をもった代表を送ってこないかと、3時間、待っていた。しかし誰も応じず、裕仁のおじ朝香宮は総攻撃を命令した。翌日の東京の朝日新聞(84)によると、朝香宮は、東側の丘の上にナポレオンのように立ち、「砲煙たちこめる市の陥落をみつめていた」。その朝、東京では、特別に盛り付けられた南京そば〔今の中華そば〕が市民にふるまわれた(85)。
 だが、そうしたニュースやそばは、まだまだ序の口であった。12月10日、金曜日の夜更け、松井の第9師団の兵士は、その夜、唯一、反撃を撃退できた南東城壁の上に、日の丸旗を立てた。朝香宮は、指揮下の三師団に、周辺部での掃討行動を早期に切り上げ、市の徹底的な探索を行うよう命令した。憲兵出身のサディスト中島の率いる第16師団は東側を包囲し、残酷な第6師団は、揚子江に沿って西側で戦い、予備軍の第114師団は、城壁の南側で戦いに参加していた。

 黒長靴を履いているが、尻に残っている弾丸のためびっこを引く中島は、12月11日、土曜、城壁北東の紫金山に陣取る抵抗部隊によって手間取らされていた。そこは、木々に覆われた郊外地帯で、しゃれた山荘や数千平方メートルの広さをもつ御影石の階段が続く壮大な孫文の墓で知られていた。その巨大廟は、その山の上部の傾斜地に、古代中国の石弓を形取って、山頂を指すように建立されていた。孫文は、一度は日本の庇護を求めたが、中国の共和主義者により、中国のジョージ・ワシントンとして、故国に復帰した。中島は、頭上をただよう二機の小型飛行船に乗る監視兵の支援をえて(86)、その墓を無傷で手に入れ、付近の富裕中国人の家を、政治的ねらいをもって選別して焼いた。
 柳川の第6および第114師団も、南京南部の雨花台で、凄烈な反撃によって手こずらわされていた。しかし、翌日の日曜には、すべての部隊はその進路を確保していた。中島は、部隊を揚子江へむけて西向きに城市北側壁にそって進め、一方、柳川の第6師団は、揚子江沿いの湿地帯で中国兵を北に追い上げ、城壁の西側を北上していた。こうした二つの師団による挟撃作戦は、市の北西角において合流し、南京を揚子江から切り離し、避難の最後の通路を遮断した。城壁を守っていた中国軍部隊は、パニックに陥り、その持ち場を放棄し始めた。中国軍の司令官は、ドイツの仲介を通じた降伏の姿勢を見せたが、時すでに遅く、にわかに避難民の一部と化した。
 市内から脱出する最後の出口は、市の北西角にあり揚子江に面した水門だった。脱出の十日後に書かれた、南京YMCAの地域事務官ジョージ・フィッチの手紙にはこう書かれている。「トラックや車がぶつかり合い、転覆し、火を噴き、門のところでは、さらに多くの車が衝突し、燃え上がり、恐ろしいことに、30センチの厚さで死体があたりを覆っていた。門は封鎖され、狂った兵士たちが壁をよじ登り、反対側では、ロープやゲートルとベルト、あるいは裂いた布を繋いで降りていた。たくさんの人が転落死していた。しかし、川では、もっとすさまじい光景が始まっていた。一群のジャンクがそこにあった。しかし、川を対岸に渡ろうと逆上した群集に、それは無用であった。人が乗り過ぎたジャンクは転覆し、沈没した。何千人もが溺れて死んだ。」(87)
 いく隻かのジャンクやサンパンはその水門でのパニックを何とか脱出し、上流へ向け遡りはじめた。だが、南京の上流で、上海から陸軍の前進を追ってきた日本海軍のランチに捕捉された。それから生じたアヒル狩りは、特権的伝統をもつ英国スタイルの日本海軍にはふさわしくなく、何隻かのボート上では、水兵たちには酒が配給されていた(88)。海軍のランチはところ狭しと突進しまわり、川面がきれいになるまで、衝突させ、機関銃をあびせた。


                    南京陥落

 12月12日、日曜の夜、南京はついに陥落した。城壁への各所での急襲は、どこかヒエロニムス・ボス〔訳注〕の絵に似ていた。その時、月はまだ上がっておらず、手榴弾の投擲がもたらす地獄のような閃光が唯一の光だった。中国側は、日本軍の砲撃で崩れかかった城壁の上で、古びた銃と両手で振り回す大きな満州刀で闘った。日本軍の機関銃は、城壁に掛けられ、倒され、再び掛けられるはしごに道を開くことを助けていた。高性能火薬のもたらす爆発音、銃弾の飛来音、機関銃の射撃音がつくる抑揚は、多数の人体が飛び散らされ古代の堀に落ちて行くまで続いていた。ほぼ真夜中ごろ、第114師団の部隊――そのほとんどは、指揮官の柳川のように汚名を負った反乱者だった――は、足元の危ない胸壁の上によじ登って日の丸を揚げ、そして、城市最も南の中山門を開けようと、城壁内の階段で闘っていた。数分後、松井の第9師団の脇崎隊が光華門を爆破して、市の東部へ進入する道を開いていた。
 〔訳注〕 オランダで活躍した後期ゴシックを代表する画家。人間の本性的な罪悪と世界に対する厭世観を、風刺や批判をこめて、怪奇かつ個性的な幻想性を持った画法でもって表現。
 月曜の早朝、退却した中国兵たちにもはや逃げ場はなく、軍服を脱いで、未承認の安全地区を管理するドイツ人ビジネスマンやアメリカ人教授に、立ち入りと隠れ場を懇願した。その好意的な西洋人は、数百人に達した彼らを武装解除させ、日本軍からは捕虜として扱われると彼らを安心させていた。そして、ひとからげに占領部隊に引き渡されかねない、一つの建物が全員の宿舎としてあてがわれた。だが、その多くは、その建物から移りだし、安全地区の他の難民の群れと混ざり始めた(89)。
 何年か後、まだ占領下にあったベルリンで発見された報告書――蒋介石の軍事顧問としてドイツ大使館に所属していたアレキサンダー・エルンスト・フォン・ファルケンハウゼン〔##〕によって書かれた――によると、その月曜、城市に入った最初の日本軍の態度は「大変正しい」ものであった(90)。市の南部の半廃墟と化したスラム街を無抵抗で通過し、北上する柳川の師団が、月曜の午前11時、最初に安全地区に達したことが報告された。安全地区委員会の三人のメンバーが彼らに会い、その地区の目的を説明した。アメリカYMCAのフィッチによると、「彼らは好意的態度は見せず、わずかして、彼らの存在を恐れ、逃げ出そうとした難民20人を殺した」(91)。
 〔##〕 ファルケンハウゼンはプロイセンの土地貴族で、何が正しく何がそうでないかという、厳格な考え方を持っていた。第二次大戦中は、ナチの第三帝国のベルギー軍事総督として仕え、ヒットラー暗殺の陰謀をくわだて、終戦の際は、ゲシュタボの刑務所におり、つづいて連合軍の刑務所に入れられた。彼はニュールンベルグ裁判で有罪とされたが、酌量すべき情状ありとして、投獄の刑は無期延期された。
 その日は、松井と柳川の師団によるパトロールが、探索、見物、時には発砲しながら、市内中を動き回った。また、松井の将校の一人は、南部の山岳門に入り、四日後に計画されている凱旋行進の際、それを統括する松井が馬に乗って通るルートを点検していた(92)。戦闘がもっとも激しく、脇崎隊が足止めをくった光華門あたりでは、中国兵団の火葬や、日本兵の死体を集め目印を付ける作業が行われていた。その日とその夜中、従軍僧侶が、死体の列の脇で念仏をとなえていた(93)。
 その夜は、守備にあたる数部隊と職務離脱した酔っ払いが市内に残っているのみだった。その朝、城市に入った部隊の大半は、第9および第114師団に命じられたように、寒いテント、そまつな食事、そして不十分な水しかない、城外にもどって宿営した(94)。その際、慰めとして、彼らは十数人の中国人女性を市内で捕らえ、共に連れてきていた(95)。夜間、市内に残された巡察隊は、戸外にいる中国人を誰でも射殺し、酔っ払いや規律違反の兵が、南部のスラム街で騒ぎ、一家族13人の内、8人の男と少年を殺し、婦人一人と少女二人を強姦してから、殺すか体を切り刻んだ(96)。翌日、アメリカ人宣教師が下町を通り過ぎる際、ほとんどいたる区画で、中国民間人の死体を発見して胸を悪くさせられていた(97)。
 あるアメリカ人社会学者がその三ヵ月後に行った調査によると、同市の占領の間に殺された民間人の数は300人で、そのうち50人は軍事行動による、たまたまの銃弾、爆弾、砲弾が当たったもので、他は、軍事行動が終了後の、無茶苦茶な発砲、銃剣創によるものであった(98)。当時、中国での戦争下、それは通常の犠牲であった。数百人が殺され、数十人が強姦される――これは、それまでの数週間、天津、北京、上海、そしてその他の中国の主要都市が日本軍によって占領される際に伴う統計数字であった。
 その後の一ヶ月にこうした犠牲者がその百倍にも意図的に拡大されることを知らず、欧米の報道陣は、その月曜の夜、上海に戻って記事をまとめる計画を立てていた(99)。数十人の記者たちは、次の早朝、その城市を去り、いじいじしながら輸送を待つ数日間、波止場あるいは日本軍の地域本部でビールをあおりながら過ごしていた。恐怖の始まりを目撃することとなるのは、アソシエイト通信のイェイツ・マックダニエル記者ただ一人であった。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1b.htm#kyuutinoshou

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/494.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 〈無党派1割で逆転はムリ!?〉選挙:堺市長選 中盤情勢 維新「無党派」でも苦戦 「自民」竹山氏支持は5割  赤かぶ
09. たっくん 2013年9月26日 08:58:32 : jeJ2yCsTIl9fw : QJgNGl6PNI
竹山を応援してる勢力が胡散臭すぎるのがなあ。
自民単独支持だったらもろ手挙げて応援できるのに。
共産党・部落・関西ネットワーク(在日)とかいらんもんがついてきてる。
お前らの応援なんて逆効果だっつの。
記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第一章 南京強奪(その3) 大虐殺の開始
第一章
  
南京強奪
(その3)


                     大虐殺の開始

 火曜日の朝遅く、南京が日本軍の手に落ちて36時間が経過した頃、かつての東京憲兵隊長官中島と彼の率いる第16師団は、トラックや武装車両に乗り、水門を通ってどっと入城した。いよいよ、そのおよそ一万の人びとを捕虜とするに当たって、彼は時間を費やされていた。彼の部隊は、その夜を徹して、捕虜の群れを、揚子江の川岸へと次々と駆り立てるのに多忙であった。兵士たちの指は、機関銃の引き金を疲れ切るまで引かされていた。少なくとも、6千人の捕虜がそうして死んだ。翌日の昼、陰気な明るさの中で、中島の部隊は、軍服を脱いで逃亡し去った中国兵の捜索を、南京市内全域にわたり組織的に始めた。天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。およそ30万人の捕虜がいたと思われ、うち、一万人弱がすでにこうして殺された。蒋介石の軍事顧問、フォン・ファルケンハウゼン大将は、その後、日本軍の「姿勢に根本的変化があった」と、ベルリンに報告している(100)。
 「急いだ進攻のため充分な補給を受けていない日本軍は、市内で解き放たれ、正規部隊としては表現に耐えない行動におよんだ」、と彼は書いている。
 憲兵中島は、朝香宮より、「治安を維持せよ」との使命を担って南京にきていた(101)。そしてその後、治安は周到に破壊された。中島と共にやって来ていた武藤章〔むとうあきら〕大佐――天皇の秘密顧問団のメンバー――は、朝香宮より、「南京地区における日本軍の宿営の責任」を命じられていた(102)。それ以降、部隊は自らの宿営先を見つけていた。武藤は、城壁外側でのキャンプは不適切で、4師団の全員が市内に呼び入れられ、快適な場に宿泊した、と報告している。
 十年後、戦争犯罪法廷において、武藤・中島の占領統治を弁護する中で、中島は、彼を支援して治安維持にあたった憲兵の数はわずか14人であったとしている。だが事実は、彼は東京の全憲兵の最高司令部より到着したばかりであり、将校を本土との間で輸送するための飛行機すらあてがわれていた。また、欧米の報道陣は、彼の配下のそうした憲兵が、兵士たちが南京の民家に押し入り女性を強姦するのを護衛し、略奪を黙認しているのを目撃していた(103)。
 武藤大佐は、その審問の中で、市外の揚子江川岸での各師団のキャンプは、「水の不足により不適切」などと、同じような見え透いた弁明を行い、裁判手続きをシニカルにあしらっていた。だが、大群の兵士が市内に入った時、彼らはもっぱら、クーリーに運ばせた揚子江の水を沸かしたり濾したりして使っていた。南京市の浄水場は、12月9日の爆撃や砲撃によって運転不能となっていたが、その被害の程度は軽度と報告されていた。また武藤は、第6野戦衛生処理班や第8野戦技術班の一部をその配下としており、自らの自由裁量ができた(104)。事実、南京の水道は、日本軍が占領して3週間たった1月7日、その再使用が可能となった(105)。
 南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。
 犯罪の詳細談というものは、むしろ要約談を求めさせるほど、気分が悪くなるような怪奇を執拗に伝える。およそ4千ページのノート、手紙、日記などの記録が、YMCAのフィッチ、フォン・ファルケンハウゼン大将、一人のアメリカ人外科医、二人のアメリカ人大学教授らによって書き留められていた。さらに、安全地区委員会は、残虐行為が拡大する中で、朝香宮の参謀と共に、充分信憑性のある444件の殺人、集団殺人、強姦、放火、略奪のケースを収集した。また、戦後、エール大学の礼拝堂牧師となり、かつ、戦争詩人のイアン・マギーの父親である牧師ジョン・マギーは、彼が見た光景を映画カメラで記録していた。彼の黒白フィルムは、密かに米国に運ばれたのだが、後に「赤裸々な真実性」が真に理解されていないと彼は不満をもらした。というのは、層をなす死体、血で汚れた室、銃剣に串刺しにされた赤子といった映像の連続であるそのフィルムは、限定された視聴者を除き、公開するには余りに不快なものとみなされてしまったからだった。それに加えて皮肉なことに、このフィルムの一部は、「アメリカ・ファースト」の組織により、米国の介入の無益を主張する目的に、もっとも広く活用されることとなってしまった(106)。
 12月14日火曜日の到着の日の午後、サディスト中島は、隠れている中国兵向けに、「日本帝国陸軍の慈悲」を信じてあきらめるようにと訴えるビラをまいた。また、中島の部下の一人は、城内で脱ぎ捨てられた6千着の軍服が発見されたので、その情報を提供するようにと、安全地区委員会に問うた。そして、そうした軍服を着ていた兵がすみやかに出頭しない場合は、捕虜としての権利を失い、スパイとして死刑の対象とするとした。西洋人の委員は、この日本側の主張を同地区の全宿舎に言葉どおりに伝え、それは法的には正しいと中国人たちに助言した。翌日、数千人の中国兵や労務大隊に属していたクーリーがそれに応じた。二週間後、YMCAのフィッチは、「日本軍が彼らの命を助けると言うなんて、私は何と愚かだったか」(107)と書き残していた。
 12月15日、水曜日、捕虜たちは、市内の広場に集められ、両手を針金で縛られ、数珠繋ぎに行進させられ、川岸に設けられた囲いの中に拘禁された。その夜、囲いの脇では、狂気乱行の命令が実行された。捕虜は、一団ごとに連れ出され、日本兵に周囲を囲まれ、銃剣突撃の人形の代わりとされた。山となった死体には石油がまかれ、火が付けられた。さらに捕虜が連れ出され、燃え上がる炎のなかに放り込まれた。サーベルをもった将校は、首切りのデモンストレーションを行った。日本刀を用いては、誰が先に人間を頭から胴まで一刀のもとで二つに切断できるか、その競争が行われた。
 木曜日も、同じ所業が繰り返された。軍人の捕虜が不足したため、中島の隊員は、強壮な中国民間人なら誰でも捕まえては彼らを調達した。発電所で電力の復興にたずさわっていた職員も調達された。安全地区に雇われている9人の警察官と、47人のボランティア警察官も、同じく調達された。さらに、恐怖を高める工夫として、新たな処刑が試され、銃剣と焚き火という胸を悪くする単調さに新規さを加えていた。日本軍の将校によって撮影された写真――後に、無神経にも、上海の写真館に現像のために持ち込まれたそのフィルムは、その写真館員の手によって複写された――によると、手足を縛られた人間が首まで地中に埋められていた(108)。三世紀、万里の長城を築いた中国皇帝が、禁制であった儒教の学者らを同様な方法で処刑した。日本や中国の学童は昔から、身の毛のよだつ古代の恐怖物語を読んできていた。南京でのそうした物語の再現は、文化的伝統を食い物にする妙案として、参謀たちを得意にさせたに違いない。しかし、見世物という点においては、凝り過ぎと忍耐のなさによって、心理的効果を減じていた。つまり、古代では、犠牲者の頭は、地中の身体が衰弱するまで延々と、通行人の足蹴りや罵声を耐えねばならなかった。だが、1937年の犠牲者は、飢えと刑執行側の気まぐれから、銃剣で突き刺されたり、馬に踏まれたり、熱湯を掛けられたり、戦車やトラックに踏み潰されたりして、すべて早々と死に至っていた。
 日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。
 12月15、16日のこうした大量拉致は市にパニックをもたらし、女性と子供が根こそぎ、安全地区に避難してくる事態となった。その大半は、夜間、密かに避難してきた。あるものは、顔に傷やしわを描いて、昼間、路地つたいにこそこそとやってきた。その結果、同地区の人口は、72時間のうちに、5万人から20万人へとふくれあがった。同地区委員会が職員や台所を用意した学校や寮に入ることができた難民は、その四分の一だけであった。残りの難民は、準備された避難所にできるだけ近い場所に野宿していた。そのため、彼らは、地区の警官や在南京の22人の西洋人による保護を、ほとんど得られなかった。
 それでも、日本兵は地区の建物を頻繁に襲い、犠牲者を増やしていた。毎夜、毎夜、兵士たちは壁を越えて侵入し、ピストルを振り回しては望む限りの女性を脅して、彼らの道をとげていた。そうした状況下、西洋人たちは驚くべき権威を保ち、兵士が単独でそうした行動におよぶ場合、強姦をやめさせることに成功していた。オックスフォード、エール、ハーバードの各大学の学位をもつ歴史学教授のシアール・ベイトは、すでに、5件の強姦目的の侵入を防いでいた。しかし、同地区には、余りに多くの女性がおり、あまりに多くの建物があり、あまりに多くの飢えた兵士がいたのに対し、憤懣した西洋人の牧師や教授たちは、あまりに少数だった。時には、そうした彼らでも、銃剣を突きつけられ、無力に傍観させられることも少なくなかった。
 服装を乱し、笑い、酔っ払った征服者たちが自身の欲望をはらして回った二日間が過ぎた後の16日木曜の夜、安全地区委員会は会合をもうけ意見を出し合った。幾人かは、自分が見たことを話そうとしている間、涙にくれていた。あるひとたちは、最初の夜、千人の女性が強姦されたと推定し、そして次の日も同数ほどの強姦があったと見積もっていた。翌朝、委員の一人は、彼が監視している建物に、37人の男に次々と陵辱されたという女性を連れてきて保護した。別の委員は、一人の兵士が母親を強姦している時、窒息死させられようになった泣きじゃくった赤ん坊を、もうそういう目に会わないよう、彼の法衣用の綿布の上にあずかっておくことを決心していた。
 中島による最初の恐怖の三日間、彼の兵士たちは冷酷であったが、ナチのように効率的ではなかった。機関銃弾を節約するため、彼らは、ほとんどの処刑に銃剣を使い、驚くべき数の犠牲者が、はいずって逃げて生き延びていた。数千人の男や女が粗野な日本式の虐殺にさらされたが、命を取り留めた人が数百人いたということは意外な数字ではない。それでも、戦後の戦犯裁判で改めて注目されたいくつかの話は奇跡的ですらあった。一瞬のうちになぎ倒された人たちの中には、機銃弾からも、銃剣からも、石油で焼かれることからも逃れた人たちがいた。銃剣で刺しぬかれ、川に放り込まれた人が、アシにしがみついて何時間も、日本兵が立ち去るまで耐えていたとの話もあった(112)。首を切られた人――太い首の筋肉は切断されたが脊髄は切られなかった――は、川岸の小屋に放置されながらも生き延びていた。浅い集団墓場に埋められながら、もがき出た人たちもいた。不衛生な子供時代を生きてきた中国の農民は、耐久力ある体質と、生きることへの一途な執念があった。


                      凱旋入城

 12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。そこで、彼は、鼻筋に白い線をもつ見事な栗色の馬に乗った。その門前において、背後につづく凱旋行列の整列を待つ間、彼は痛ましい気持ちで、共和国中国の建国の父で、かつ、彼の古い友人である孫文――背後の丘の大霊廟に葬られていた(113)――に思いをはせていた。松井と孫文が、東洋の統一と友好についての夢を共に語り合ったのは20年以上も前のことであった。また、孫文がその紫金山の墓に葬られてから、すでに8年が経過していた。その葬儀に、弔問のために訪れた松井以外の日本人は、すでに他界するか名声を無くしていた。日中の協力を唱えたかってのグループの人々うち、松井のみが今なお権威を維持していた。
 松井は、背後の騒ぎでその瞑想から現実にもどされた。彼は振り向き、騎馬行列の二番目に位置する、パナイ号を沈めた橋本欣五郎をそこに認めた(114)。松井は、パナイ号攻撃のあと、橋本を懲罰しようとしたが、そこで松井が見せ付けられたことは、橋本が有力な友人によって守られていたばかりでなく、朝香宮が彼の譴責すら認めようとしないことであった。それは計算ずくの無礼行為であったのだが、橋本は自身の威厳をより目出させるために、松井の馬より大きく立派でその小鼻に星をもつ鹿毛のサラブレッドに乗馬していた。その式典は午後に終わったが、その征服者の栄誉は薄らいでかつ空虚に見えた。その地は、朝香宮の指揮権内であり、松井には、自分の面子が傷つけられたことへの注目を引かせること以外にすべはなかった。彼の苦言は、一週間後に、ニューヨークタイムスの特派員――すべての人々にではなく――に表されたが、それ程に縮小されていた。
 へたなラッパのファンファーレが響き、松井大将は、橋本と朝香宮の側近を率いてその陥落させた首都へと入った。彼の眼前の大通りには、数万人の兵士が列をなしていた。彼は馬を後ろ足で立ち上がらせ、はるか東北の東京の方向に向け威儀を正した。近くで日本のラジオのアナウンサーが、早口ながらやわらかく力強い口調でマイクに言っていた。「松井大将は天皇へ万歳三唱をおこないます。」
 松井大将は沈黙を破って言った。「大元帥陛下、万歳」。
 大きな万歳の声が背後より上がった。だが――彼はそれが観閲中の日本兵のものであるとはほとんど信じられなかったが――それは酔っ払いの甲高い笑い声で終わった(115)。
 さらに鋭く、「万歳」、と彼は繰り返し、多くの声がそれに続いた。
 三度目の「万歳」を彼は声を震わせて言った。だが、ラジオ放送の技術者は、過負荷と音の歪みを避けるため、音量を下げねばならなかった。日本放送協会に残された録音テープによると、その言葉は従来通りのものであったが、兵隊たちの声は、ジンギスカンあるいはアッティラ〔ヨーロッパに侵入したフン族の王〕の軍団が発したかと思われるような低劣なものだった。松井は馬を大通りに進め、丹念に清掃された通りを進み、数千の兵士が歓呼する中を通って、市街の北にあるメトロポリタンホテルに着いた。
 パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。
 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)
 その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」(118)
 その日、松井は、死者に対する哀悼の意思をつらぬいていた。彼は紫金山の孫文の墓をおとずれ、また、城市内の南東に位置する南京空港で行われた慰霊式では、何時間も席を立たなかった(119)。そしてその席で、彼は短い漢詩――何世紀にもわたって日本の知識人によって培われてきた独自の芸術だが、日本人にも中国人にも難解なもの――をつくって、孫文にささげた(120)。
中山門下
低首策馬
兩軍交戰事堪悲
心傷慾碎難回首〔訳注〕

〔英原文よりの直訳〕
紫金山の霊廟にあって
彼は、今は亡き友の魂と
共にすごせたのか、
忌まわしい戦場は暮色につつまれている。

中山門の下
戦場にあって、
過去の邂逅の思い出
よみがえって我が胸を刺す。
私は戦馬に騎乗し、
頭をたれる。

〔訳注〕 訳者が別の資料に発見したもので、この漢詩の原文と思われるもの。
 その慰霊式の後の部分で、松井は、「大東亜」主義と中日の兄弟関係について内容豊富な演説を行った。そして彼は、戦死した中国人兵士への式を、日本人のための式の直後に執り行うことについても言及した。しかし、朝香宮は、儀式が長時間になるので、中国人の慰霊は別の機会にすべきだと松井に言った。1948年の処刑の直前、松井が教誨僧侶に語ったところによると、それに松井は憤慨していた。「慰霊式の直後、私は将官を招集し、彼らの面前で、怒りの涙を流した。・・・朝香宮と柳川中将はともにそこにいた。・・・ 私は彼らにこう述べた。我軍の兵士の野蛮行為によって、すべてが一瞬のうちに失われた。しかも、そうした兵士たちが、その行為の後で私を嘲笑した。それを君たちはどう考える。」(121)
 次の日、宿営担当の武藤は、南京郊外に部隊に適した施設をいまだみつけられないと報告した。そこで松井は、中支那方面司令官としての力を駆使して、南京の4師団のうちの3師団を、揚子江を横断、あるいは海岸線へともどす、新たな作戦命令を発した。残る師団は、中島の「黒い」第16師団であったが、それはすでに大本営によって、南京に配置されていたので、松井は手が付けられなかった。朝香宮に随行するヨーロッパで教育を受けた参謀たちは、この命令が早急に実行されると松井に確約し、松井の機嫌にはそれがよいと考えた。
 翌、日曜日の朝、松井が南京全体を視察したいと求めた時、そうした参謀たちは、松井を清涼山の展望台につれていった。そこで松井は彼らに「ひとつひとつをようく見てみろ」と言い、自分は双眼鏡を通し、市の破壊された地区を丹念に調べて彼は語った。「もし、蒋(介石)将軍がもう数年辛抱し、敵意を表さないでいたならば、日本は、両国間の問題を武力で解決しようとする不利を理解していただろう」(122)。展望台から戻る途中、松井は突然に、南京の中国難民たちと話しをしたいと求めた。しばらくして、そうした一群の人々が松井を囲み、松井は彼らに問いかけ、心配せず、安心するようにと言葉をかけた。
 その日の午後、松井は南京郊外の朝香宮の本部(123)へと移動し、そうし破壊者を残したまま、次の日、上海へと戻った(124)。


                  繰り返される残虐行為   

 松井がその征服された首都に感傷的訪問をしている間、残虐行為は沈静化していた。彼が訪れなかった街の西半分でも、その間、わずか数十人が処刑され、数十人の女性が強姦されたのみであった。しかし、彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。安全地区委員会は、その日の深夜までに、その日曜が「今までで最悪」とみなさざるを得なかった。というのは、これまでではじめて、自分たちの身の危険を感じたからであった。彼らは引き続いて、身を挺して中国女性の身体を兵士から守っても危害は受けないでいたが、自分の妻を守ろうと必死な夫たちが、即座に殺されてしまわないよう、かれらを見守る必要が生じていた。自分の部下たちを叱責した松井は、外国勢力を敵にまわすことと世界に恥をさらすことの危険についても執拗に説いていた。だがそうした恥をさらした者たちは、自分たちの何をも恐れぬ気分を誇示したくもなっていた。彼らは、パナイ号を沈めた橋本大佐を英雄化し、欧米が介入してくることに、あえて乗り出そうともしていた。その日は、一人の米国人が撃たれ、他の何人かは暴力をふるわれていた。中立の資産として封印されていた欧米人の家も、押し入れら略奪にあっていた。退去した欧米の大使館をあずかる中国人たちが殺された。星条旗やユニオンジャックが引き裂かれ、足踏みにされた。日本の軍服姿のならず者が白人の見る前で、自分たちのやりたいように殺人におよんでいた。二人ずつのアメリカ人とロシア人が見下ろすバルコニーの下で、長いガウンを着たひとりのの長老が二名の日本兵によって襲われていた。また、あるアメリカ人は、後に、こう証言している。「彼は立ち去ろうとし、足を速めていたが、竹塀の角に追い詰められ行き場を失っていた。兵士たちは彼の前に立ちふさがり、彼の顔面を撃った。・・・彼らはそれを笑いながら行っており、あたかも何事も起こらなかったかのように話すらしていた。タバコをふかし、会話を続けつつ、まるで野鴨を撃つかのように、何の抵抗もなく人を殺していた。」(125)
 その夜、乱れきった悪魔のような兵士たちは、あたかも戦闘計画があるかのように組織的に、新たな破壊的任務を隊をなして展開した。その目的は、南京の店という店、事業所という事業所を襲い略奪し尽し、そして、通りごと、区画ごとに、くまなく焼き払うことであった。その放火部隊にはトラックが与えられており、そうした建物に火が付けられる前に、価値ある品々のすべてがそれに積み込まれた。またその点火用に、彼らにはテルミット〔高温を発する粉末アルミと酸化鉄の混合物〕の黒い棒と、焼夷性化合物をしみ込ませた紙片が支給されていた(126)。その時期の南京は寒く、そうした部隊は本気になってその仕事を行っていた。その最初の火災は、松井が南京を去ってほんの数時間後に発生した。翌日の夜までに、YMCAのフィッチは、彼の寝室の窓から、同時に14地区から火の手が上がるのを数えることができた(127)。
 もし、強姦がまだ続いているのかどうかと疑っている人がいたとしても、12月24日、金曜日の朝、中島が安全地帯委員会に、先に六千人と見込まれた軍服を捨てて隠れた中国兵の数が二万名であったと通知した時(128)、それが誤りであったことに気付かされることとなった。さらに悪いことに、女性に対する危害が極端な段階にまで達しようとしており、70歳を越える老婆や、12歳以下の少女、そして、臨月に近い妊娠婦人にまで、その被害が広がっていた。
 松井が南京を去った後、宿営担当の武藤大佐は、「松井の命令の実行を監視する」ため、市内に残った(129)。また、余剰な師団の撤退には、「いくらかの遅れ」が生じていた。12月23日、木曜までに、不忠な柳川の第114師団、野蛮な第6師団、そして松井の第9師団は市から撤退した(130)。その後、中島の第16師団のみが残り、南京強奪の最も長く、しかも最も統制のとれた時期を管轄した。すでに南京は残骸同様と化しており、鋭い刃物のみが、それ以上の肉をほじることができた。


                    朝香の最後の獲物

 天皇裕仁のおじ朝香宮は、クリスマスの日、自分の本部を南京市内へと移した(131)。彼が城内に留まった一月中、強姦と殺人は止まず、流れる血が市内をおおう状態が続いた。この間は、恐れの中に最後の希望を発見するまでの時期でも、中国人の黙従が終わる時期でもなく、2月10日、朝香宮が東京へと遂に戻ってゆくまで、最後の幼い少女にまで暴力がおよぶ時期であった。
 上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝香宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。
 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)
 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。(135)
 松井の努力にもかかわらず、悪臭ただよう通りで新たな死体に出くわすことや、中国人女性が捕らえられている家の戸口で、自分の番を待って列をなす兵を見ることが、相変わらずの光景となっていた。市内に残留する兵士はみな、中島の憲兵隊のもとに登録され、毎日の午後、そのうちから数十人が、その夜の首切りの宴のために選抜されていた。市街は、電気も、水道も、ゴミ回収も、いわんや警察も消防もない状態が続いていた。安全地区委員会は、朝香宮の本部に、疫病発生の危険を警告していた。それに対する朝香の参謀の返答は、同地区に生活する十万人の中国人に供給されている米の配給を、日本側が引き継ぐことであった。それは当然、日本軍が同地区の米倉庫と国際救済基金の支配を始める意図をもっており、同地区委員会はこの返答を拒否した。欧米の新聞は、南京で何が起こっているか、目撃談をようやく報道し始めていた。
 1月7日、朝香宮の技術部隊が、ようやくに市の電気、水道の供給を復活させた。その三日後、皇后のいとこである賀陽〔かや〕宮――それ以前の数年間、アドルフ・ヒットラーへの敬服特使を果たしていた――は、南京を儀礼訪問し、「将官たちと打ち解けて対話」(136)した。1月16日、賀陽宮の報が本国の宮中に届いた後、痩身で冷淡な近衛宮は、日本国民は蒋介石をもはや中国国民の代表としては認めず、蒋政権とはあくまでも戦争をもってのぞみ、日本が後押しする政府が、平和と大アジア主義に忠誠を表すすべての中国人のために、まもなく準備されるであろう、との声明を発し、最終的な手に打って出た。
 戦争を永遠化するとの近衛の脅しは、中国を滅ぼすとの脅迫で、南京の強奪は、その脅しが中国人を恐れ盲従させるはずの、その前段の責め苦であった。しかし、通常なら、個々の中国人に通用するそうした治安手段も、中国の国全体には通用しなかった。近衛の宣言は、何の効用も引き出さなかった。それどころか、蒋介石政府は、漢口にある亡命政府であるどころか、かってない国民的支持を得ていた。そのため、その見込み違いの日本の政策はしだいに放棄されることとなった。通りや池を埋めていた死体は取り除かれ、街の組織的な焼き払いも止められた。12歳の少女の強姦といった、安全地区委員会によって告発されてきた最終的な虐待も、日本軍が同市を占領して抵抗を制圧して以来57日後の、2月7日を最後とした。ただ、ドイツ人のフォン・ファルケンハウゼン大将は、3月19日に、米国の教会施設でひとりの日本兵により、少女が強姦されたと記録し、その仔細な関心をもう少し先にまで継続していた。


                   最終的犠牲

 1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。南京の商人と、市外の農民の経済は根こそぎにされた。1938年3月に社会学者スマイスと彼のもとの大学生によって実施された調査によると、人口の2パーセントのサンプルで、農民は278日分の労働に相当する、市街住民は681日分労働に相当する金品を失っていた(138)。こうした人々は、その最も良い時期でさえ最低水準の生活であったため、新たな生活を始める手段は持ちえていなかった。再び種をまこうにも、種穀物はほどんどなく、店の商品をえる資金もなかった。数千人の希望を喪失した女性や子供たちは、国際救済基金による毎日の米の配給に頼る以外に何のつてもなかった。雇用を生み、経済の見せ掛けにでも着手し始めるため、中国の他の地域より南京へと資金が流れてくるには、未だ一年を要した。
 (###) 多くの日本人は、国際法廷が認めた数字は、一部、中国人の主張によるため、誇張されているとの見解を維持している。著者は、原本の数字を調べ、かつ、中国の統計数字を取り除いたのち、十万人の捕虜と五万人の民間人が南京から60キロ以内で処刑され、少なくとも、五千人の女性が、そのうちの多くは多数により、あるいはそれを幾度にもわたり、強姦されたのは間違いないと見る。


                     利益と損失

 南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした(139)。1939年2月、陸軍省はそうした、「うわさをかきたて」、「人々の軍への信頼を傷付ける」ような、「適切でない話」を禁ずる命令を発した(140)。今日においても、南京は「十年の恥」とか「最大の不面目」と、退役軍人たちによって繰り返し言及されている(141)。根拠に乏しい空論は別として、南京で行われた行為にかかわったいかなる日本人にとって、南京を語ることは、いまでも不可能となっている。
 1945年の敗戦後、日本政府のスポークスマンは、南京での失策の責任をとり、一人の陸軍将官が、軍法会議にはかられ死刑となった、と戦犯法廷で述べている。しかし、その将官の名前や階級は明らかにしなかった。政府スポークスマンは、「中国婦人のスリッパを盗んだ」罪で、一人の下士官が投獄された、とも語った。また、強姦の犯人は「厳しく懲戒」されているとも語った。(142)
 1937年の南京における日本人の行動について、そうしたあいまいな事後説明は、その真実を語っていない。それよりいっそう確かな事実はこういうことだ。南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。
 松井は退役して熱海に慰霊の神社をたて、朝香宮はゴルフにいそしんだ。柳川大将は、もはや嫌われることなく、天皇より占領中国の経済運営を任され、その後、入閣して、なんと司法大臣をつとめた。彼は、1944年、スマトラで植民地総督にあった際、病死した。宿営担当の武藤は順調に出世して中将となり、1939年に陸軍省軍務局長、1942年に近衛第二師団長に就いた後、1944年から45年の間、山下のもとで、フィリピン方面の参謀長を務めた。(146)
 京都にあって、問題の第16師団の頭脳作業にあたった、例の少将、鈴木貞一は、常に、裕仁の私的特命大使および陸軍内の問題処理係りとしての役を維持し、驚くべき多能性を発揮して、難しい地位を次々とこなした。加虐性を特徴とした中島は、南京強奪に最も汚れた役を務めた後、1939年に退役を許され、南京より持ち帰った戦利品のもとで、安楽な人生を送った。
 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。もし、朝香宮が家族の名を汚したとの感覚を裕仁が抱いていたとしても、裕仁にその様子はない。裕仁は、朝香宮と引き続いてゴルフをして毎週のニュース映画に登場し、私的面会を許し、他人ご法度の御家族会議に彼と同席した。もし、朝香宮が南京において、軍の部下によってだまされ、あるいは、食い物にされていたとの感覚を裕仁が持っていたとしても、それも裕仁にその気配はない。
 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
 そうではありながら、南京においては、中支那方面司令官としての松井の地位が朝香宮の皇室の権威によって凌駕されたとの、松井あるいはその弁護士による主張もない。それに代わって、法律学会の年報にある、最もつかみ所のない弁護意見のひとつとして、松井の弁護士は、日中友好関係についていかにも空論的に述べることを松井に許し、これが判事に偽善的としか受け取れない印象を与えることとなった。松井自身は、仏教への信心と神秘主義の教義のなかに自分自身をひたり込ませて、もって廻った決まり文句に没入していた。判事たちは、南京の残忍性をうったえる目撃証言に印象付けられていた。しかもそうした判事たちは、絞首刑に値するという中支那の全面的指揮にあったという事実に対し、申し開くべき弁明はない、との松井自身の発言を聞いた。十年にわたる内省の後、朝香宮や天皇をもっと導くべきであったと感じ、皇位を守り、今や自分が死んでゆくということが、彼にとっての宗教的責務であった。
 「私は、このように終焉をむかえることを幸せに思う」、「事態がそうと判った限り、私はいつでも死んでもかわまぬ」と松井は語った(147)。
 日本で、回顧録、命令集、日記がかえりみられるようになって以来、裁判には松井の話を追認する雰囲気があった。さらに、裁判の実施それ自体、真実の追究として、如何なる質問も受け付け、この件に関心をもつあらゆる欧米の歴史家による質問も受け付けられた。南京の直接の指揮にあたり、強奪のほとんどの時期にそこに居た朝香宮が、被告人としてではなくとも、目撃者としても審問されなかったことは、信じがたい事実であった。朝香宮の指令上の地位を知り、長々とさして重要ではない話を聞いてきた判事たちは、南京強奪についての松井の見解にも耳を傾けることを避けようとはしなかった。だが、彼らは、原爆が投下され、日本が降伏した直後に日本に出来上がった政治的方程式によって、その実行が妨げられることとなった(####)。
(####) この点は、第3章でその詳細がとりあげられる。
 歴史とは、単に、起こりそして記録されたものではなく、作られそして後の出来事や視点によって作り直されたものである。南京の後、日本は南中国、そしてロシア領モンゴルへと侵略を続けた。その翌年の1940年には、日本は、自身を一党独裁警察国家へと変身させ、近代戦への総動員体制を作り上げた。1941年初め、仏領インドシナを衛生国化し、英国領マラヤ、オランダ領東インド、そして付随的ながらフィリピンの征服のため、軍を真剣に訓練し始めた。その年の夏、ルーズベルト大統領は、日本への戦略物資、ことに石油の供給を遮断した。それに続いた交渉の中で、日本は、他のすべての同大統領の示す条件を受け入れる意思があると表明したが、最重要な、中国からの撤退と、フィリピンと他の南部の諸点に対して用いることのできる、そこにある基地からの撤退は拒否した。天皇裕仁は、真珠湾攻撃の準備を発令し、そして、ルーズベルトが日本との関係維持を求めた時、裕仁は、慎重さと延期を求める声を無視し、その攻撃の開始を命令した。
 それに続く6ヶ月間、シンガポール、フィリピン、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、そして、膨大な自然資源を持つ多くの島々が、驚くべき才気と獰猛さを発揮した陸海軍の作戦によって、日本の手に落ちた。南京で見せた残虐行為は、バタンでの死の行進、ビルマ・タイ鉄道建設、1945年のマニラでの最後の強奪と、繰り返し行われた。そして、今度は残虐行為の逆襲が始まり、木と紙製の非軍事都市へのすさまじい焼夷弾空襲と、広島・長崎への原子爆弾投下が行われた。
 日本が事実上敗戦した時、アジア大帝国の日本の夢は四百万人の遺体(148)と共に葬り去られた。もし天皇がそれを命じていたら、日本人は、敗戦を認める以前に、自らの七千万の命を修羅場にさらす覚悟をしただろう。しかし、アメリカの戦争は、ファシズムに対するもので、日本国民に対するものではなかった。いかなる犠牲を払っても、殺害を止め、平和を作らねばならなかった。それが、どのようになされたかは、次の二つの章によって述べられる。だが、支払われた犠牲というのは、体のよい国際的嘘、あるいは、歴史的歪曲であった。それは高い犠牲ではなかったが、歴史的嘘は、もし、およそ世にある生命の教訓として学ぶべきものがあったとするなら、正されなければならない。第四章以降、本書は、かつて述べられなかった物語をについて述べる。それは、世界を征服しようとした試みの中で、日本政府の内部で行われたことである。
 もし、1948年の松井大将の処刑において、米国と連合軍による重大な過誤が成されたとするならば、それが、少なくとも今日の大半の日本人が考える道ではなかったというものであろう。むしろ、今日の日本人は、松井の死を、平和の観点における尊い自己犠牲であり、日本人とアメリカ人の面目を共に維持するためのものであったと見ている。熱海の神社で、涙を流す神主がかなでる毎日の拍子木の哀歌は、単に、身内の大将のためにでも、他の戦争犯罪人のためにでも、まして日本だけのためにでもない。むしろ、あらゆる場所の、あらゆる人びとのためにと、その音は彼女の耳に響いている。


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm#kaishi

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/495.html

コメント [戦争b11] 米国:武器貿易条約の署名へ  アムネスティ・インターナショナル ダイナモ
01. 2013年9月26日 08:59:20 : m2YYdO5sUo
あほか。w
米国のこんな条約署名なんかなんの意味もねえよ。
そもそもほとんどの武器は闇から闇に流れてたわけだし、
(日本の自衛隊に提供するような大型の武器輸出は別として)
これからも米国はさまざまな迂回路を通じて武器を世界中に売りつけるに決まってるだろ。ダイナモはそれくらいのことも想像できないのか?
この条約調印とアムネスティのいいたいことは米国のことじゃなく、それを除く「他の86ケ国」に念をおしているにすぎない。
米国が調印したんだからな、米国をこけにしたら「おれたちが容赦しないぞ」と脅かしているんだ。
つまり武器の闇輸出は米国が一手に引き受けるてことだ。
コメント [政治・選挙・NHK154] 心を鬼にして原発ゼロを成功させよう 泉田知事「長崎、広島で累積被曝量1mSv超えた人は被爆手帳で医療費無料になる」 路傍の花
05. 2013年9月26日 09:00:15 : wr8sDlDPpk
>04,02

つける薬がない○○だな。

コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相、来月1日夕に記者会見=消費増税と経済対策(時事通信):またまた増税既成事実化の記事 最大多数の最大幸福
03. 2013年9月26日 09:00:47 : aFAI0p6SGg
橋下信者の最大馬鹿は、橋下と同様に消費税増税に賛成のはずだよね。

こんなまやかし書いてないで、堺市長選挙の応援に行かなくていいのかい?

記事 [テスト28] 私の本体

私の手という言葉は、前提として私の本体がまず存在し、
私の本体の付属物として手が存在することを意味している。

交通事故で手足をなくしても生きている人がいることは、
生きるために体の一部は必須ではなく、
私の本体こそが必須であることを示している。

私の本体は目に見えない。
目に見えない性質は、時間的な変化を伴わない不変の性質である。
故に私の本体は、永遠不変の存在である。

目に見える物質は長さ、幅、高さによって限定される一定の場所に存在し、
時間と共に変化する。

目に見えない私の本体は、長さ、幅、高さによって限定されない
限界を持たない存在、すなわち無限の存在である。
故に私の本体は全体である。
http://www.asyura2.com/12/test28/msg/828.html

記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第二章 原子爆弾(その1) 広島
第二章
  
原子爆弾
(その1)


                         広島(1)

 貴機は、硫黄島まで行きそこで他の二機のB29と合流する。うち一機がそれを運ぶ。
 他の二機は観測機器と写真装置を運ぶ。三機は互いに交信してはならず、無線沈黙を厳密に維持する。
 気象観測機が、該当国および標的地域上空より帰還する。それらは貴機とは直接交信せず、あたかも、テニアン島の基地と交信しているかに通話する。貴機は、したがって、極めて注意してその報告を聞く。もし、その報告が聞き取れなくても、無線を通じて発信してはならない。その報告は繰り返されるよう、あらかじめ手配してある。
 貴機は標的に対地速度480キロメートル/時で接近し、約9,000メートルの投下高度を維持する。
 爆弾投下は目視でおこなう。もし、選択した都市の視界が利かない場合、貴機の判断で次の標的に向かう。
 爆弾が投下されるやいなや、貴機は150度旋回する。
 標的の上を飛行するという、通常の爆撃方法に従ってはならない。・・・繰り返すが、貴機は、その爆発の上空を飛行してはならない。
 爆弾が投下された後は、その装置の爆発による爆心の上を飛行しなくてもよいように、急激な旋回をおこなう。貴機は、自機と爆心との距離をより長くとるため、飛行高度を下げてもよい。

 こうした詳細手順に従って、第509混合部隊の爆撃機は、17日間にわたり、トーペックス火薬〔爆雷用の高性能爆薬〕を用いた奇妙な形をした“かぼちゃ”を、日本のいくつもの都市に投下した。日本の対空監視員は、三機編隊でやってきて一発の爆弾を落とすだけで大した被害のない、B29の機影に慣れてきていた。日本の無線工作員は、重要性と機密を鼻にかけていると第509混合部隊をなじる、テニアン島の米軍の地上員ののん気なおしゃべりを傍受していた。東京ローズ〔日本が流した対連合国軍宣伝のためのラジオ放送の女性アナウンサーに米国兵がつけた愛称〕は、同部隊が、アメリカのとっておきの策、「魔法」の訓練をやっている、と報じていた。
 1945年8月6日、第509混合部隊のエノラ・ゲイは、魔法でもかぼちゃでもなく、「リトルボーイ」――細長い容器で、中に、発火を待つ少量のウラン235を一端に、他端に多量のそれをもつ、つまり原子爆弾――を搭載していた。テニアン島を離陸して6時間半後の、日本時間の午前8時15分17秒、特製の爆弾倉の扉が開けられ、〔爆撃照準機と連動した自動投下装置でなく〕トグルスイッチにより、パラシュートの付いた爆弾が投下された。ポール・W・ティベッツ大佐は、爆撃航程パイロットのトーマス・W・フェアビー少佐から機の操縦を引き継ぎ、急旋回をおこない、全速力で帰還に入った。約二分後、24キロメートル離れたところで、エノラ・ゲイは、まるで野生馬のように跳び上がった。航行記録をつけていた機長のロバート・ルイスは、「我々が標的を爆撃するまでの間、ちょっとの休息があるだろう」と直前に記録していたが、今度は、「おお神よ」と、驚嘆のみをしるしていた。
 その爆弾は、晴れた青空の中、24万5千の人口をもつ市の、北西中心部、地上約450メートルで炸裂した。その瞬間、あたかも太陽の中心部のような、直径75メートルの火の玉が空中に出現、6万4千人の市民が瞬時に燃え上がり、あるいは木っ端微塵に粉砕された。さらに、2万6千人余りは、中性子とガンマ線が無数に体を刺し抜き、焼かれ、数分、数日、数週、あるいは数ヶ月以内に死亡した。
 その閃光は、160キロ先にまで届いた。爆発の衝撃波により、瞬時に6,820棟の建物がなぎ倒され、その音は16キロの彼方にもとどろいた。幅1.6キロの市の中心部全体が炎に包まれた。熱気と灰――建物や人間の灰――の巨大な気流が空中へと吹き上がり、キノコ型の雲となって広がった。その灼熱のキノコ雲の足元に生じた真空状態に向かって、冷たい空気がどっと流れ込み、爆発から2ないし3時間、次第に速度を増す時速48キロから64キロの突風が、街を焼く炎を煽った。その火の嵐の周辺部では、熱波の先端が燃えやすいもの全てを発火させ、あたかも炎の舌のように、地上をなめつくしていった。数時間のうちに、10平方キロが焼けつくされていた。
 大気に吹き上がった塵のとばりは空をおおい、燃える市街を暗闇につつんだ。市内の河川の水が蒸発して吸い上げられ、ひょうの大きさの泥水の粒となり、その雲のあちこちから、雨という形で降りそそいだ。電離化した大気は、稲妻の付近でにおう、あるいは溶接の火花がもたらすような、電気的においを広がらせた。その火の嵐の縁では小さな竜巻がおこり、廃墟を巻上げ、ようやくでも立ち残っていた木々を倒した。
 爆心近くの倒壊した建物からなんとか這いずり出れながらも呆然自失の人びとは、戸外にいてひどい火傷を負い、まだ生きていながらも幽霊のようにさまよっている人びとの列に加わった。火傷は中度でも放射線照射にさらされた人びとは、火の地獄と現世の境で、肉親を探していた。そうした人びとは、何かにつまずき、熱で皮膚をはがれたり、黒く炭化したり、いまだ泡噴いていたり、灰色の断片と化していたりした人の死体をその目で見、そのシーンを脳裏に焼け付けた。市の中心を流れる三つの川は、大人や、ことに、火傷を癒そうと水に入った子供たちの死体で埋まり、流れさえ止まっていた。
 火の手の拡大は、怪我を負い、倒壊した建物の下敷きとなっていたたくさんの人々を飲み込んだ。そこを通り過ぎる避難民は、幾人かを助けることはできたが、他の人々には目をつぶった。肉親を探していた男は、立ち止まりながらも、わが身を助けることを第一としなければならないことを詫びなければならなかった。市の何箇所かでは、公園や広場に避難した人々が、周囲を火で囲まれ、瀕死の状態にあった。そうしたにじみ寄る火との戦いにさらされた人びとは、破壊された水道管や流水からえた数杯の水を分配しながら、子供に話しかけ、何がおこったのかの推測を交換し、この先何が起こるかうわさを広げていた。一機の低空をとぶ飛行機が、機銃掃射の恐怖をもたらしていた。異様な雨は、最後のいけにえをつくるため、市にガソリンが撒かれたのだという声もあった。兵士たちは、アメリカの落下傘降下兵を捜索しようとしていた。
 最初の30時間、生存者は、瓦礫の中を掘り返して回って、知らないとはいえ、恐しい放射線輻射に身をさらしていた。電気は消え、水道管は7万箇所で壊れていた。45の病院のうち、3病院が破壊をまぬがれ、290人の医師のうちわずか28人が、1,780人の看護婦のうち126人が、無傷でいたのみであった。そのような状態でも、生命は生き続いていた。それは後日に発見されたのであるが、たとえ爆心地でも、地面からわずか十数センチ下では、みみずがうごめいていた。
 序々にではあるが、地上でも、表面的な秩序は復活していた。爆撃の翌日、県知事は、「被害を受けた市の復興と悪魔のようなアメリカ人を絶滅させるために、戦う精神の高揚」を呼びかけていた。軍隊は、すべてが未熟ながら、比較的、近代的で効率的な組織であり、救援体勢をとった。被災者は病院へと集められた。軍の食料および毛布の貯蔵が放出された。山をなす遺体は、ガソリンが撒かれて焼却された。火災は三日にわたって燃え続き、その残り火も、数日にわたりくすぶり続けた。
 六ヶ月後の最終的な集計では、9万人以上の民間人と、1万人の兵士が死亡していた。さらに、数千人余りが、白血症や他の放射線障害で、この先の十年で死に至ろうとしていた。


                       長崎(2)
 
 アメリカは、第二のタイプの原子爆弾、「ファットボーイ」を日本に投下する準備をととのえていた。その原型は、すでに、ニューメキシコの砂漠の試験塔の先端で爆発実験をすましていた。ファットボーイは、その威力を、核分裂性の極めて高い、プルトニウムという、自然には存在しない、ワシントン州のコロンビア・リバーの施設で人工的に製造された物質によった。プルトニウムの原子は、核反応を予防するため分離され、外側を通常火薬のつまった球状容器で囲まれた爆圧縮装置内にほぼ均等に配置されていた。火薬に点火され爆発がおこると、プルトニウム原子は内側へと吹き飛ばされて圧縮され、第二の部分と強く結合し、広島で使われたウラニウム爆弾のショットガン式のものより、いっそう大きな核分裂が発生した。実際、ファットボーイは、リトルボーイの少なくとも3倍の爆発力が期待されていた。
 ファットボーイは第二の原子爆弾であったので、その投下にかかわった誰もが、畏怖にたる歴史を作ろうとしていることを自認していた。広島に関しての犠牲者の見積もりもすでに公表されていた。ラジオ放送は、原子時代の幕開けの意義について、解説や憶測を報じていた。すなわち、日本はすぐに降伏するにちがいない。神風特攻隊員であっても、自国の都市が一つひとつ消滅させられてゆくのを、名誉と歯を食いしばってはいられまい。
 加えて、ソ連の戦車が、満州・ソ連国境に集結し、崩壊しつつある日本の帝国の大陸部分をもぎ取ろうとしていた。そして、ソ連の侵攻は、日本時間の8月8日の真夜中をもって開始された。トルーマン大統領は、その一時間後、その報告を受け、さらにそのニュースが報道された。早朝の離陸体勢に入っていた太平洋の爆撃部隊員は、コーヒーを飲みつつ、任務指示を受けていた。
 ファットボーイは、8月11日、日本に投下されるよう計画されていた。ソ連の進撃が開始される数時間前の8月8日の午後、ファットボーイ爆撃チームは、太平洋に「かぼちゃ」を投下する訓練をしていた。その夕方、「ボックス・カー」と命名されたB29が太平洋のテニアン島の空軍基地に着陸し、チームは、その夜すぐ再離陸できる準備をするようにとの突然の命令を受け取った。今回は本番であった。太平洋上では、台風が発生しようとしていた。日本南部は、翌日の天候は曇りで、その後四日間、雲で閉ざされることが予想されていた。どんな誤りをも避けるため、トルーマン大統領は、レーダーによらず目視によるファットボーイの投下を命令していた。二度目の原子爆弾をいつ投下するかの判断権を与えられていたテニアンの司令官、トーマス・ファーレル大将は、その日を、11日から繰り上げて、9日の朝とすることを決定した。ボックス・カーに随行飛行する写真撮影機に同乗していたニューヨークタイムスの科学担当記者、ウィリアム・ロレンスは、「ポツダムの全使命は〔訳注〕、この天気予報にかかっている」(3)と冷静に観察していた。
〔訳注〕 その年の7月26日、降伏したドイツの都市ポツダムで、米、英、中が、日本に対し無条件降伏を要求して共同宣言を発していた。
 しかし、ボックス・カーのチームは、その出だしから、悪運につきまとわれているようであった。未明の離陸に備えるためには、彼らは、2時間の睡眠しかとれなかった。午後11時に起床し、真夜中までに任務指令を受け、軽食をとり、爆弾の搭載を見とどけ、そして、複雑なすべての機器類のチェックを行った。だが、その最後の段階で、航空機関士は、補助燃料ポンプが働かず、長距離飛行の帰路に用いる2,300キロリットルの補助燃料が使えないことを発見した。ボックス・カーの操縦士、チャールス・スウィーニー少佐は、「地獄行き」を決断し、同機は、日本時間の午前1時56分、離陸した。
 1時間後、ボックス・カーの乗組員は、テニアン島の本部からの異例な無線沈黙の中断によって困惑させられた。随行する二機の写真撮影機の一機が、科学観測上不可欠な高速度カメラを操作するはずであった物理技士を乗せ忘れてきていた。無線を通じた全関係者を巻き込んだ30分のやり取りのため、日本の電波探索者により、その聞いたことのない名のカメラの操作方法を、盗聴されてしまった恐れがあった。さらにその一時間半後、ファット・ボーイを監視し制御するブラックボックスが赤いランプを点滅しはじめ、すべての点火回路が作動し始めたことを示していた。ただちに、同乗の電子技術担当の大尉がそのブラックボックスを精査しはじめ、その間、機の乗組員は、核分裂が起こるかもしれない緊迫した30分間を過ごさねばならなかった。だが、その点滅は、スイッチの欠陥によるもので、意味もない警告が発せられているだけであることが判明した。そしてその後1時間半は、仮眠と通常作業の時間に当てられた。午前8時12分、ボックス・カーは、日本の南方沖で、二機の写真撮影機の一機と落ち合った。一方、物理学者を乗せ忘れた第二の写真撮影機は、やや北側を、さらに高い高度で飛行していた。40分間、三機は互いを目視しようと旋回をつづけたが視界に入らなかった。8時56分、操縦士スウィーニーは、それ以上の探索は燃料の不足のため不可能と判断、標的に向けて北に航路をとった。先行する気象観測機からは、天候は良好との報告が入った。朝霧が晴れつつあり、青空が輝きはじめていた。
 当初の標的は、長崎ではなく、17万の人口をもつ、日本最南部の主要な島、九州北沿岸の工業都市、小倉であった。この都市は、それまでに小規模の爆撃はうけていたが、第一の標的であった。小倉は、平野地帯に位置し、戸畑、若松、八幡――後に四市は合併して北九州市という日本第五の大都市となった――という工業都市と隣り合わせていた。もしその朝、ボックス・カーがファットボーイを小倉に投下していたら、四市合計61万の人口のうち、30万人が死亡することが予想されていた。
 午前9時30分、小倉に接近した時、スウィーニー少佐は、天候は変わらず、空は晴れ上がり、視界が良好であることに安堵した(4)。しかし、機が標的上空にさしかかった時、爆撃手のカーミット・ビーハンは、照準地点として使うはずの兵器工場が目視できないと報告してきた。工場の煙突からの煙がそれを覆っていたからであった(#)。スウィーニー少佐は旋回し、二度目の爆撃航程に入った。しかし、再び、市が眼下に入り、川や他の目標物は明瞭に見えたが、兵器工場は相変わらず目視できなかった。再度、爆撃手ビーハンは、「投下せず」と呼号した。三度目の爆撃航程の際、乗組員は、日本の対空砲火が高度を捕らえ始め、また、日本の戦闘機が上昇してきていると不平を言った。三度目も、爆撃手ビーハンは照準器に標的を捕らえることができず、「投下せず」と叫んだ。旋回しながら市の上空の対空砲火の白い煙玉を観察し、スウィーニー少佐は、投下を断念し、第二の標的である140キロ南の長崎に向かうことを通知した。すでに、燃料は限界にきており、テニアンまで戻る可能性は無くなっていた。機は、硫黄島か、最近獲得した沖縄の飛行場で給油を受けるかのいずれしかなかった。
(#)ニューヨークタイムスの特派員、ウィリアム L ロレンスは、検閲のためその出版は後の9月9日となったのだが、小倉は「厚い雲の傘で隙間なく覆われていた」と記している。これは、長年の公式見解であったが、現在では、その爆撃機の乗組員によって否定されている。1945年9月、彼の記事が報じられた時、ロレンス記者は、原子爆弾の製造と実験についての特ダネ連載記事の調査のため、米国の原子軍事施設をあわただしく廻る空軍旅行に忙殺されていた。(5)
 ボックス・カーは、午前11時数分前、長崎に向け出力を上げた。いらいらした乗組員は前方の雲を見、レーダー投下を要望した。しかし、爆撃の全権を持つ海軍司令官、フレッド・アシュワースは即座にそれを拒否した。スウィーニー少佐は、「標的の300メートル以内に達する自信があります」と彼に確約した。それに、重い爆弾を沖縄まで運ぶ燃料は残っていなかったので、他にとり得る唯一の策は、ファットボーイを海に捨てることであった。一瞬のためらいの後、司令官アシュワースは、トルーマン大統領の命令を無視する決断を行い、その承諾を与えた。
 長崎は、V字型の湾の奥に位置していた。港にそう二本の大通りが市の中心で交差し、狭い谷間に伸びていた。識別の容易なX型の市は、レーダー画面でも明瞭に確認できた。爆心は、そのXの中心であるはずだった。しかし、ボックス・カーがそれに迫った時、爆撃手ビーハンは、雲の合間に運動競技場を捕らえた。それは、偵察写真で彼が見ていたものであった。「これをやる」と彼は叫んだ。彼は右方向への航路修正を求め、それがなされた。一分以内の午前10時58分、彼が爆弾を目視で投下すると、ファットボーイを爆撃倉から切り離した機体は突如浮き上がった。スウィーニー少佐は、自機を大きく傾かせ、沖縄での強制着陸を目指し、南方へと機首を向けた。
 機の背後では、パラシュートから吊り下げられたその「仕掛け」は、後で「ピカドン」と地上の人びとに呼ばれるようになるのだが、空中にただよっていた。それは、標的から300メートルどころか、3,000メートル以上も外れて投下されていた。それは、長崎の最も重要な軍需工場、三菱大砲製造所のある、浦上の鍋状の谷の上を降下していた。また、この谷にそって、もうひとつの重要な標的――その半島上の都市と他の日本とを結ぶ鉄道が走っていた。生き残り、元気になり、何かを書き残した数十人の日本人は、その時、青空を探して空を見上げていたことを思い出した。うち何人かは、機影を見、二人は爆弾とパラシュートを目撃していた。三菱の工場で、旋盤に付き、魚雷や小火器を製造していた労働者には、何も聞こえなかった。東洋で最大のローマカトリック教会である聖母マリア教会での金曜会合に集まっていた人びとは、何も見ていなかった。機械の轟音やステンドガラスの不透明さは、彼らを死へと向かう恐怖から救っていた。 
 投下から4分後、上空約450メートル、鉄道から60メートル東の地点で、爆弾は炸裂した。その直下では、その破壊は広島よりもさらに完璧で、死は即死であった。しかし、浦上の谷状地形は、長崎の他の部分への放射線の直撃をさえぎった。火災の嵐は生じず、泥の雨も降らなかった。谷間の3.2キロの大通りは、まったくのさら地と化せられた。その爆発音は周囲の山々に反響し、飛び去るボックスカーをとらえ、少なくとも5回の頭を殴られたような振動を与えた。6ヶ月後の集計では、39,214人の男、女、子供が死亡していた(##)。
(##) 爆撃手ビーハンの3,000メートルの爆撃ミスがなかったとしたら、もう5万から7万5千人の犠牲者を生んでいた。ビーハンはただ、そのミスが全くの誤爆であるとはしていない。彼は、爆弾を投下した場所がどこであるか知っていたし、雲の切れ目より目視した運動競技場は「第二の標的」であったと語って自己防衛した(6)。確かに、戦略空軍司令官のカール・スパッツ大将の段階においてその人的ミスは認可されていたようだ。そのような高価な兵器の殺傷力を無駄にしないことは、戦況も大詰めに差し掛かっているだけに、有効な判断であったろう。爆弾投下の5分後、ボックス・カーの無線手は、テニアンにこう通信している。「結果は技術的には成功。しかし、関係する他の要素は、次の段階に移る前に討議される必要あり。」(7)

                   原子爆弾投下の決定

 二発の原子爆弾は、合わせて14万人の生命を奪った。8年前の南京強奪は、おおむね同数の犠牲者を生んだ。日本によるアジアの征服は、惨劇に始まり、惨劇に終わった。目には目を、歯には歯を、といったむき出しの敵意は、戦争による巨大な破壊以外には何ももたらさなかった。ただ、南京と違って、原爆は、歴史においても、最も完璧に資料化された出来事となった。未知であった放射線の恐怖、火炎による死の恐ろしさ、何週間もの苦悶をへて死に至った犠牲者など、すべてが絡み合って、世界中の人道的な人びとに、解きがたい善悪の観念を残した。そしてそこに、復讐行為、あるいは、冷酷な人種差別が行われたのではないかと、多くの人びとをいぶからせる原因があった。英国の数学者で政治思想家であるバートランド・ラッセルは、広島を「無茶苦茶な大量殺人行為」と呼んだ。広島や長崎の遺骨と、冷静に向き合うことは難しい。疑念をいだく何人かの博士が、広島・長崎の原爆投下へ至った作戦決定過程をめぐる文書を丹念に調査したが、これといった確証は見出せないでいる。
 原爆投下が決定されようとする頃、〔米、日、ソの〕三国の政治家は、その三角形の交渉において、国家機密と国益のとばりを通して、互いにつばぜり合いを演じていた。米国の指導者にとっての関心事は、戦争終結後、日本の文化を変革し、浸透した武士道精神と天皇崇拝を根絶やしにし、東アジアに廃墟を広がらせようとした日本を矯正するという降伏方針をいかに実施するかにあった。天皇とそれを取り囲む人々は、狭隘な意図をもっていた。そうした人々は、自らを、戦争犯罪人としての処刑や投獄から守るため、とりわけ、近代神道をもって日本人の精神生活をそれと一蓮托生のものにさせた天皇家制度を、できる限り維持しようとしていた。この降伏方針をめぐる争いの第三の立場にあったのが、スターリン率いるソ連であった。スターリンの目には、ソビエト連邦の国益は、共産主義の浸透という視点において、出来るだけ広い地域とできるだけ多くの影響力を得るということのみにかかていった。
 その各々の目的を達成するため、三国にあっては、ある国がそれを鼓舞する力が、他の国にはそれを禁忌すべき恐れとなっていた。米国は、日本に侵略し完璧に粉砕する力を持っていたが、日本国民と、ことにそのリーダーであり神である天皇の協力ぬきには、日本の統治の改革は不可能であった。それゆえ、米国は、代理者として天皇の維持を必要としただけでなく、その将来の地位への疑念を残し、天皇を有用な代理者にしたてようとしていた。一方、ソ連の懸念は、ソ連軍が、日本の巨大な帝国の大陸部分を、国際法上の合法性のいかんを問わず手中にしうる領土に対し、米国が制裁を発動して動くかどうかにあった。米国はまた、中国沿岸に軍を上陸させることをもって、中国政府が、共産主義者の毛沢東に組せず、蒋介石に戻ってくるよう圧力をかける力をもっていた。
 米兵の命を25万から100万も奪うかも知れぬ、山から山、洞窟から洞窟へと繰り広げられる狂信的玉砕戦を命ずるかどうかにかかっていた日本の指導者の力は、日本を滅亡させようとしており、かつ来る時代において、米国の政策から、戦後アジアにおいてありうる可能性の最も高い、最も安定しかつ進歩的な国を、排除しようとしていた。さらに、日本は、最後の手段として、満州、朝鮮、中国の大部分を、無抵抗のままソ連に譲渡し、その見返りに、〔ソ連の〕中立の継続と侵入する米国と戦う軍事物資をえることができた。
 ソ連にとって、その歴戦の精鋭軍隊は、毛沢東軍の協力のもとに、満州と中国のほとんどを共産主義の宝庫とするにたる、粗暴な力を保有していた。ソ連は、この成果を、たいした犠牲なしで、しかも、ファシスト日本と何らかの密約を結ぶとの不名誉もなく、まして、その戦争が長期化しても、英米の力の支援をえられる可能性すら存在していた。ただ大陸の日本軍は、枯渇したとはいえ、まだまだ危険であった。その日本軍を打破することは、戦争で荒廃した西部ロシアが求める人力を必要としていた。その上に、1946年まで有効な日ソ相互不可侵条約も存在していた。また、日本と取引を行うことは、世界中の共産主義者の反発を引き起こし、米英の即座の敵愾心をまねく恐れがあった。つまり、ソ連は、事実上、自身で何かを願っても、何もなすことはできなかった。だが、抜け目のない政策次第では、失うものなく、大きな獲得が可能であった。だからこそ、1945年5月にベルリンが陥落した時、ソ連は赤軍を東へと移動させ、日本帝国のとば口で、新たな展開を凝視していたのである。

 このパワーポリティックスの三角形の中で原爆が爆発した時、政治駆け引きの方程式をも爆破してしまった。日本の指導者は、広島が8月に核攻撃されるまで、その危険を察知していなかった。一方、スターリンはかなりの情報を得ていた。1945年初めの段階で、ソ連の諜報筋は、彼に原子爆弾プロジェクトの存在を報告しており、彼はそれが、完成間近とは知っていた。ソ連軍が、ドイツの核研究所を捕獲したとき、その目的の報告を受け、原爆の今後の軍事的重要性について告げられていた。しかし、その後の出来事が示すように、スターリンはそれが使用されるまで、その新兵器の真価を充分には認識していなかったようである。彼にとって、それは、より大型の爆弾でしかなかった。それに、彼が生涯に目撃してきたことは、爆弾の威力が、キログラム単位のものからトン単位のものへと拡大したことだけで、それは、国家関係の力学バランスを変えるほどのものではなかった。
 原爆を製造した国際的物理学者集団の庇護者であり資金筋として、米国の指導者は、その新兵器の意味について、最初に頭を悩ませていた。先見の明のあった陸軍省長官のヘンリー・スティムソンは、1945年4月25日、新大統領ハリー・S・トルーマンに次のように告げた。「技術的発達に比べ、現在ほどの倫理的発展程度であるこの世界は、最終的には、そうした兵器のなすがままとなるであろう。つまり、近代文明は根本的に破壊されよう」(8)。これに対し、トルーマンは、スティムソンは「歴史を形成してゆく上での原爆の役割について、少なくとも、この戦争を短期におわらせる方法として受け止めているようである」(9)、とその回顧録に記している。
 4月7日、日本では、新内閣が組織された。〔米〕国務省はそれを「平和内閣」と分析したが、平和への提案をしたとはいまだに聞いていない。5月1日、戦前、米国日本駐在大使であったジョセフ・C・グリュー政務次官は、陸海軍両長官と会い(10)、交渉を始めるにたるきっかけを作るように命じた。スティムソンと海軍省長官ジェームス・フォレスタルはそれに前向きだった。「どれくらい徹底的に、日本をたたくつもりなのか」とフォレスタルはたずねた。日本を充分に法に従う国にすることというのがその答えであったが、その回答の意味するたたくとはどれほどのものなのかは、誰も確かではなかった。元大使のグリューは、日本は天皇を維持することができることを保証しようとしたが、国務省の他の高官、たとえば副長官のディーン・アチソンや、詩人のアーチボールド・マックリースらは、日本の病弊は、天皇がたとえ名前だけのものであったとしても、それが存在し続けるかぎり、治癒は不可能であると主張した。
 5月1日のグリューとスティムソンおよびフォレスタルとの会談のあと、トルーマン大統領は、日本の頑強な好戦性に直面しつつ、5月8日、米国は「日本の陸海軍がその武力を無条件で放棄するまで」戦う、と報道陣に語った。そして、「日本を現在の悲惨さの淵にまで引き込んだ戦争指導者の影響の根絶」を求めた。また、合衆国は「日本国民の皆殺しも奴隷化も」望んでおらず、「兵士を彼らの家族、農地、職業に返す」ことのみを望んでいると公約した。(11) 彼の言葉は、当然に、ラジオを通じて日本向けにも流されたが、日本の権力者は、それを単なる宣伝としか受け取らなかった。数日語、大統領は自分の家族に次のような手紙を送っている。
 日本は戦争遂行に狂気の沙汰と化している国だが、そうだからといって、私たちが同じ行動をとるべきであるとは思わない。私自身、一国の指導者の『頑固さ』を理由として、全人口を拭い去ることを成さねばならないなら、実に残念なことと思う。それが、絶対的に必要とならない限り、私はそうするつもりはないことを、お前達に言っておきたい。私の目的は、アメリカ人の生命をできる限り多く救うことであり、かつ、日本の女性や子供についても、人道的配慮を持っている。(12)
 5月中、人道的なトルーマンは、日本からの何らかの返答を待ったが、その甲斐はなかった。5月28日、モスクワでは、スターリンは大統領公使ハリー・ホプキンスと会い、日本の条件付降伏を受け入れる余地があり、日本占領後、米国の要求の厳しさを段階的に強化する、すなわち、ホプキンスによると、「穏やかな平和条項は認めるものの、いったんソ連が日本に入った場合には、日本人に一切合財を与える」、と示唆した(13)。
 それは、サメと紳士の会合ともいうべきだが、5月31日と6月1日、米国の指導的政治戦略家は同国の最先端の科学者たちと会い、ロス・アルモス〔ニューメキシコ州北部の原子力研究の中心地〕で完成しつつある新型爆弾について討論を交わした(14)。そのグループは暫定委員会と命名され、政治家側では、大統領特使ジェイムス・バイアーンズ、陸軍省長官スティムソン、参謀総長ジョージ・C・マーシャル、原子爆弾プロジェクト長官レスリー・R・グラブス大将、そして、海軍および国務両省の代表者によって構成されていた。
 他方、科学者側のグループは、ヴァネヴァー・ブッシュ、ジェイムス・コナント、カール・コンプトンからなるもので、三人のノーベル賞受賞者、カールの弟のアーサー・コンプトン、エンリコ・ファーミ、サイクロトロンをつくったアーネスト・O・ロレンスの専門家が証言し彼らに助言を与えた。これら三人の助言者は、核分裂、連鎖反応など核研究のパイオニアたちで、1930年代初め以来、原子爆弾のもつ漠然とした思考上の恐怖とともに過ごしてきていた。彼らとともにあったのは、物理学者のJ・ロバート・オッペンハイマーで、彼の人を引き付ける人柄と政治的能力は、将校や科学者や製造者を結集させて原爆の生産に向かわせた。
 白髪のスティムソン陸軍省長官は、1931年の日本の満州占領以来、米国の東洋政策の樹立にたずさわってきていたが、その燃えるような目でこの会議への参加者を見渡し、その目的についてこう語った。 
 我々の任務は、この戦争に、すみやかかつ成功裡の結論をもたらすことである。我々の新兵器は、我々の側に圧倒的な力をもたらすと考えられる。この力を、我々が率いうる限りの叡智をもって使用することは、我々にとっての義務である。・・・今、我々にとっての最重要事項は、この新兵器の使用が、長期の歴史的視点に、いかに銘記されるかである。
 このスティムソンの皮切りの発言に続いて、いくつかの技術的質問が出された。まだ実験はされていないものの、その爆弾が有効であることが確信されていた。8月初めには二つの爆弾が使用可能であった。その後は、数週間毎に、新たな爆弾の配備が可能であった。
 午前中の会議は、その爆弾の使用を前提に進められた。昼食の際、アーサー・コンプトンは、それが標的に実行使用される前に、その効果を日本人に公開して見せる方が人道的ではないかとの見方を表した。スティムソン長官もそれに賛同した。しかし、食後のデザートが終わる頃、その考えは、それをいかに実行するかについての多々の困難に遭遇した。誰も殺さず、どの都市も破壊しないで、どのような米国内での公開が日本の将官たちの観測に影響を与えられるのか。メーサ〔米国南西部のテーブル状の台地〕やソールトフラット〔塩水の蒸発で沈殿した塩の層でおおわれた平地〕の上で、その巨大なかんしゃく玉でびっくりさせられるとしても、地形への目に見える損害は大したものではなかろう。そうした将官たちに、いかに距離を実感させ、風速計や地震計のデータを学ばせ、通常爆弾とこの爆弾との違いを計算させることが可能か。それが、大仕掛けのアメリカ人好みの見世物の類ではないことを、いかにして彼らに分らせることができるのか。
 あるいは、あらかじめ通告の上で、日本の無人地帯でその公開を実行するとしても、無益で空想的な努力に終わりかねなかった。加えて、交戦中の状態では、その爆弾が不発に終わるとか、その爆弾の搭載機が捕捉されてしまうとかと言うように、計画が予想外に展開する恐れもあった。ジェイムス・バイアーンズ大統領特使はまた、もし事前に通告されていた場合、日本軍が、米英の捕虜を召集し、その公開実演の見物や犠牲に引っ張り出すかもしれないことを恐れていた。
 この会議に出席している政治家にとっては、時期が重要であった。もし、科学者がその産物を実際に供給しえるなら、それは、ソ連が中国を餌食にする前に、日本を降伏に持ち込めることが望ましかった。通常爆弾による日本人の毎日の犠牲は――3月10日の東京への焼夷弾空襲だけで8万人に達していた――終戦をもたらすかも知れなかった。原爆は、チャーチルの言葉を借りれば、「一、二度の巨大なショックで、戦争を完璧に終わらせ」、また、スティムソンの言葉では、「犠牲となりうる米日双方の生命を、その何倍も救う」可能性を含んでいた。
 その暫定委員会は、最終的に、参加した科学者の全員も含め、その爆弾の公開実演に反対し、軍事的使用に賛成した。そして同時に、スティムソンは科学者に、さらに深く検討することを求め、「戦争を終結するために、人命を標的としてこの爆弾を使うのではなく、他の方法がないかどうかを報告できるようさらに検討するように」と付け加えた。そしてこの要望への科学者による報告は、6月16日に提出された。それによると、ことにスティムソンが注目した箇所は、「我々は、戦争を終結に向かわせる可能性ある公開の技術的方法を提供できず、直接の軍事的使用以外の方法は見出せない」(15)、というものであった。
 この暫定委員会には参加しなかったものの、この爆弾に関与してきたこれも著名科学者のグループは、この決定に猛烈に不賛成を表した。ノーベル賞受賞者でシカゴ大学のジェイムス・O・フランクが開催した一連の会議は、フランク報告とよばれる文書を作成、その爆弾を軍事的に使用しないよう、きわめて理念的な嘆願を行った。この申し立ては、ワシントンに提出されはしたものの政府の上層部に届くことはなかったが、戦略的、倫理的、政治的含みを提示していた。彼らは、「真珠湾級の悲劇が主要都市ではその数千倍の深刻さとなって繰り返される」、「旅行かばん〔携帯爆弾のことか〕戦争」の可能性を予想していた。そして、米国政府は、国際連合の代表の前でその爆弾を公開して見せ、そしてそれを国際管理委員に託すべきであると提唱した。その爆弾は、そうした公開の後なら、国際連合による制裁措置として日本に対して用いられてもよい、と彼らは主張した。(16)
 国際連合はまだ組織されたばかりで、かつ、ソ連がその戦後の姿勢を見せ始めつつある時、原爆の国際管理化は、米国の政治家を納得させるような考えではなかった。また、その爆弾を日本の指導者たちに公開するにあたって、論点となってきた実務的疑問点も、そのフランク報告では触れられていなかった。その報告は、おそらく、もっと深く考察されるべき余地があった。
 例の長年の政治的孤独漢で、後の水素爆弾計画の立案者、エドワード・テラーは、以下のように主張しきている。「事前に流血のない公開を行わずに原爆を投下するという誤ちをおかしたことを、私は、当時も今も否定しがたい。我々は、この爆弾を、事前の警告なく、東京のはるか上空で夜間に爆発させることで、惨事を生むことなく、戦争を終わらせることができただろう。高度600メートルではなく、6,000メートルで爆発していたなら、それは、もしあったとしても最低の犠牲しか生まず、建物への被害もほとんど生せずに、しかし、とてつもない音と光の効果を生んでいた。そして、我々は日本の指導者たちにこう告げればよかった。『これが原子爆弾である。つぎの原爆がどこかの都市を破壊しうる。降伏か、破滅か。』」(17)
 そうした公開使用は、うまく効果を果たしたかもしれない。実際、地方都市の広島の消滅以上に、東京にいる指導者たちに衝撃を与えていたかもしれない。そうした高高度での爆発から飛び去る技術的問題もすでに解決されていた。夜襲による不確実な要素は、事前通告のない場合、微々たるものであったろう。だが、この提案は、政府内ではまったく取り上げられなかった。
 同暫定委員会が6月1日の会議で、原爆の軍事的使用が決められた後、その決定は変更されなかった。しかし、その可能性は残されていた。それに続く六週間、トルーマン大統領はスターリンとチャーチルとの軍事会議を準備していた。それは、ドイツの東側のポツダムで開かれた。そこで、原爆使用の決断は最終段階に達していただろう。ぎりぎりまで、トルーマンは日本を観察していた。無線傍受や暗号解読を通じ、トルーマンは、東京と中立国の日本大使館との間で交わされるあらゆる交信をつかんでいた。さらに彼は、陸軍、海軍、そして諜報部の報告に内々的に関与していた。まだ、こうした情報のすべてが公開されてはいないが、当時、東京で実際に行われていた審議は戦争の持続とみせかけのみで、トルーマンにとって、日本が無条件降伏を受け入れる可能性をみいだせるものではなかった。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2a.htm

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/496.html

記事 [経世済民82] 好調続く住宅着工戸数、消費増税後に反動減の懸念高まる〜前回増税時は2ケタ大幅減 (Business Journal) 
好調続く住宅着工戸数、消費増税後に反動減の懸念高まる〜前回増税時は2ケタ大幅減
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130926-00010001-bjournal-bus_all
Business Journal 9月26日(木)3時45分配信


 住宅市場の活況がピークに近づいてきた。国土交通省が発表した7月の新設住宅着工戸数は8万4459戸と、前年同月比で12.0%増えた。これで11カ月連続の増加となり、年率換算では97万5000戸増となる。

 種類別に見ると、持ち家は3万1473戸(前年同月比11.1%増)、貸家は3万1012戸(同19.4%増)、分譲マンションは9977戸(同0.6%増)、分譲戸建て住宅は1万1305戸(同8.4%増)。すべて増加しており、特に持ち家と分譲戸建て住宅はともに11カ月連続の増加だ。持ち家は年率に換算すれば34万戸増で、リーマン・ショック前の2006年の水準に迫る。分譲マンションは7月に大規模物件が少なかったため、若干増にとどまった。

 大手住宅メーカーの戸建て住宅の受注は好調だ。最大手の積水ハウスの7月の戸建て住宅受注金額は、前年同月比で22%増、大和ハウス工業は15%増、住友林業は32%増、三井ホームは23%増。ミサワホームは4%増、パナホーム21%増と軒並み増加した。注文住宅に強いメーカーほど伸びは高く、4〜7月の累計金額は住友林業23%増、三井ホーム27%増である。

 住宅取得を後押ししているのは、来年4月に予定されている消費税率の8%への引き上げに備えた駆け込み需要と、金利や住宅価格の先高感だ。今月までに住宅の工事契約を結べば、入居が来年4月以降でも消費税率は5%が適用される。そのため今月いっぱいまでは駆け込み需要が続くとみられている。

 12年の新設住宅着工戸数88万2797戸。13年は年率換算で90万戸台のペースで進んでおり、4年連続で前年を上回るのは確実な情勢となった。

 08年秋のリーマン・ショックによる金融危機で、09年の住宅着工件数は08年(109万3519戸)より27.9%少ない78万8410戸と大きく落ち込んだ。80万戸を切ったのは実に45年ぶり。最高を記録した1972年(191万戸)の4割程度となった。その後、少しずつ持ち直してきて、13年は95万戸前後まで回復するだろう。

 この先、住宅市場の活況は持続するのだろうか?

 政府・与党は、消費増税に合わせ、住宅ローン減税の拡充や現金給付といった負担軽減策を用意している。政府の住宅購入支援策がうまくいけば「消費増税後の大幅な反動減は避けられる」と、住宅メーカーは期待している。

 10月初旬にも来春の消費増税が正式に決まれば、駆け込み需要は減り、年内に息切れするとの見方がある。来年以降の反動減は避けられそうもないというわけだ。問題は、駆け込み需要の反動減がどのくらいになるかという点にある。

●前回増税時は2年間で27%も減少

 消費増税は、これまで2回あった。89年4月に3%の消費税率が導入された時は、バブル末期で地価高騰に沸き立っていた時期だ。バブル前の86年の新設住宅着工戸数は136万戸だったが、バブル時代には166〜168万戸に急増した。消費税率が引き上げられても、勢いは止まらなかった。税率をはるかに上回る地価の値上がりのスピードに目を奪われたわけだ。

 国土交通省の統計資料によると、90年の住宅着工戸数は170万7109戸と前年より2.7%増で、消費税の影響はなかった。しかし、91年はバブル崩壊と重なり、137万126戸と激減。率にして19.7%、戸数にして33万戸減った。

 消費増税がストレートに住宅着工に影響を与えたのは97年4月。税率が3%から5%へ引き上げられた時だ。96年は駆け込み需要で住宅着工戸数が増え、97年は反動減で、はっきりと落ち込んだ。当時の経過を少し詳細に見てみると、95年の着工戸数は147万330戸だった。消費増税の前年96年に入ると駆け込み需要が発生し、3月から増勢をたどり、10月には年率換算で180万戸のピークをつけた。96年末までに住宅会社と請負契約をすれば、住宅の引き渡しが増税後になっても税率は引き上げ前の3%が適用される経過措置が採られたため、駆け込みに拍車がかかった。

 96年の住宅着工戸数は164万3266戸。前年より11.8%増、戸数で17万戸増えた。97年に入ると反動減に見舞われる。1月から前年同月比で減少に転じ、消費税が3%から5%に引き上げられた97年4月は9.6%減。その後は2ケタのマイナスが続き、97年は138万7014戸にダウンした。率にして15.6%、戸数にして25万戸減った。

 97年末から98年にかけて北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行など金融機関の経営破綻が相次ぎ、金融危機に見舞われた。そのため98年も住宅着工の減少に歯止めがかからず、前年比13.6%減の119万8295戸にまで激減した。わずか2年間に、27%、44万戸も落ちたことになる。

 月次の住宅着工戸数が12年9月から13年7月まで11カ月続けて増加したのは、駆け込み需要が盛り上がった96年3〜12月以来だ。次のピークは10月に来る。9月末までに工事契約すれば、消費税率は5%が適用されるからだ。

 14年1月からは、駆け込み需要の反動で、住宅着工戸数はマイナスに転じるとみられている。しかも、消費税率は14年に8%、15年に10%と2年連続で引き上げられる。20〜25万戸減少するのは避けられないだろう。20万戸から25万戸減るとすれば、リーマン・ショック直後の09年の水準である70万戸台に落ち込むことを、覚悟しなければならないことになる。

編集部



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/653.html

記事 [雑談専用40] 私の本体

私の手という言葉は、前提として私の本体がまず存在し、
私の本体の付属物として手が存在することを意味している。

交通事故で手足をなくしても生きている人がいることは、
生きるために体の一部は必須ではなく、
私の本体こそが必須であることを示している。

私の本体は目に見えない。
目に見えない性質は、時間的な変化を伴わない不変の性質である。
故に私の本体は、永遠不変の存在である。

目に見える物質は長さ、幅、高さによって限定される一定の場所に存在し、
時間と共に変化する。

目に見えない私の本体は、長さ、幅、高さによって限定されない
限界を持たない存在、すなわち無限の存在である。
故に私の本体は全体である。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/600.html

記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第二章 原子爆弾(その2) 日本のジレンマ
第二章
  
原子爆弾
(その2)

日本のジレンマ


 日本の官吏の大半は、降伏の必要をかねがね認識していたにもかかわらず、それを行動として表すことに禁忌を感じていた。それに、彼らは敗戦をどう認めたらいいのか、お互いに為す術を知らなかった。ただ、彼らが唯一分っていたことは、行ってきた征服と、一種の復讐される恐怖であった。それは、ワシントン界隈にみられる、倫理的問題を憂慮する政治家による唐突で直截な意思表示とはことなり、もたれあった当てこすりや封建的忠義心、あるいは、先送り精神と刺々しい武士の誇りが入り混じる、陰湿な政治環境の産物であった。
 天皇裕仁は、1942年2月のシンガポール陥落以来、有利な条件で和平を結ぶ機会を逃さないよう、家臣たちに忠告してきていた。事実、特殊な暗号装置と担当部員を駆使した海軍は、真珠湾攻撃の以前の1941年、和平特使をスイスに派遣した(18)。それは、アメリカの諜報員との交渉のチャンネルを閉ざさず、接触を維持する使命をおったものであった。しかし、裕仁をろうばいさせたことは、アメリカの指導者たちには、交渉を通じた和平が眼中にないことであった。米国は、たとえ彼らに幸運の女神が微笑まなくとも、最終的な勝利を得る自信を持っていた。そもそも、彼らの立脚点は、この戦争が日本の奇襲攻撃によって強いられたものであり、日本からその帝国を撤去し、平和志向の国へと変貌させるまで、戦争を終えるつもりはなかった。1942年10月、裕仁は、陸軍にその和平専門部隊をヨーロッパに送らせた。その使命を負った岡本清福〔きよとみ〕大将は、天皇の弟、秩父宮の親しい友人で、西側には英国寄りの人物との評判が高かった。しかし、ソフィア〔ブルガリア〕でも、アンカラ〔トルコ〕でも、ヴィシー〔フランス〕でも、ベルン〔スイス〕でも、彼と三人の随行員が発見したものは、仲介する中立国による望み薄との姿勢であった(19)。
 真珠湾の六ヶ月前、裕仁は海軍参謀本部に、戦況展望に関する調査をさせていた。その結果が天皇に提出された時、彼は、さらに、参謀の別のグループに再度調査するように命じた。その第二の分析は、第一のものを裏付け、米国との戦争は、1943年6月までの18ヶ月間、成功裏に展開できる、というものであった。それ以降は、和平交渉を行わねばならぬか、しだいに、すべてを失うだろう、としていた。そしてその転換時期が過ぎた後になっても、日本の特使たちは、和平締結に望みがないことを報告してきていた。陸軍も海軍も、戦況についての新たな調査をしていた。1943年末までに、こうした調査は、海軍のものは完成し、陸軍のものも、ほぼ最終原稿をつくりつつあるところであった。海軍の報告書は、戦争には敗北し、1880年以来獲得した領土のすべてを失うことになるだろう、と結論づけていた。陸軍の報告書も同様であり、さらに一歩踏み込んでいた。すなわち、日本は降伏にあたって、ふたつのみの条件――本土は破壊を避け、天皇制度は維持される――を付しえるだろうとしていた。(20)
 参謀によるこうした二つの調査の冷厳な結論を受け入れることは困難であった。裕仁の力はいまだ巨大な帝国を形成しており、カナダより広い地球上の面積と、南アメリカ州より長い地域を支配していた。東条首相は、戦時生産の慎重な数値と敗戦は共にうそで、情況はもっとよいと保証した。しかし、裕仁は数値を信頼していた。参謀の結論は必至ではないかもしれないものの、万一の敗戦に備え、何等かの用意が必要であった。そこで裕仁は、最も親密な民間人助言者、内大臣の木戸幸一侯爵に、世論と国内政局形成の専門家としての視点から、和平への調査を求めた。
 木戸は、広島に原爆が投下される丁度19ヶ月前の1944年1月6日、彼の考えを表した最初の文書をまとめた。戦争は基本的に負ける、とそれは結論し、我々は、ドイツが降伏する前に、現実的な和平案を作らねばならない、と彼は述べていた。そして曰く。我々は、太平洋戦争での中立国としてのソ連に、仲介国として行動し占領地の成り行きを定める「主要太平洋諸国の委員会」を開催するよう、依頼すべきである。我々は、占領地のすべてを中国に返還するなり、「スイスのような永世中立国」としての独立を与えるなりを覚悟しなければならない。そして、「我々が体験してきた深刻な磨耗をかんがみ」、我々は「自身の力をこの先百年間、保持、育成」せねばならない。とりわけ、我々は、アングロサクソンに対し、有色人種たる我々を破滅させないようせねばならない。我々は、天皇を中心に、「自身の力をこの国のうちに秘密に維持しなければならない」。(21)
 もし、天皇制が秘密裏に維持され、日本が百年の間、再興の時期をうかがおうるとするなら、その国民も周到に用意させられなければならない。戦闘員は、勝利の栄光を得るか自害するかを問われ、天皇の名のもとに、数十万人が死を選んでいる。もし、平和が時期尚早に宣言されたなら、愛国者は、裕仁は戦争を最後まで戦い抜く気概を欠いていたと言うだろう。未亡人や孤児は、天皇は肉親を無駄死にさせたと恨むであろう。したがって、国としての面子を保つため、この戦争は、誰もがその被害者となり、その終結が望まれるようになるまで、継続されなければならない。その時点で、国民は、空虚な戦争だったと感じ、天皇への失望を感じるかもしれない。そう至った段階で、裕仁が平和を宣言したなら、国民は天皇をありがたく感ずるだろう。
 木戸は、こうした彼の考えを、天皇をとりまく若手将校集団――今では皆50歳台となっているが――に語り、また、彼らも、同じように考えていることを見出していた。昔からの喩えによると、天皇は「鶴のように、雲の上に」住み、国全体を見下ろし、日々の政治運営は、任命した政府高官たちに任せていた。ただ、天皇がこうした部下たちに直接の命令をしいて与える必要があると感じる国家的危機の場合には、「鶴の一声」と言われる彼の介入があった。降伏を宣言するにたる時が来た際、あたかも、天皇の巨民が被った辛苦への憐憫の声たるかのごとく、天皇はそれを個人としてかつ予告なく行うという見解に、天皇の秘密顧問団の誰もが賛同した。そうして、天皇の行為は、内地においても外地においても、鶴の一声として発表された「聖なる決断」として、演出されようとしていた。そして、かってのいかる前例をもやぶって、その声は、ラジオで放送されようとさえしていた。
 日本人が天皇を許すことも難しかったが、戦勝国に天皇をうけいれるよう民主的に決定させることには、さらに計り知れない困難があった。裕仁自身としては、自分に何が起ころうとも覚悟はしていた。もし戦争に敗北し、しかも、天皇が敗戦をまだ認めていなかったとしたら、天皇はすすんで退位したであろう。しかし、守られなければならないのは天皇制度であり、天皇家代々の遺産であった。これをひとつの条件として、裕仁は木戸の平和策を押し、その時点での懸案、マーシャル群島の防衛に没頭した。
 天皇の黙認をうけ、木戸は、南京強奪の際に首相であった、痩身、シニカルな近衛宮を長とする一団に、敗戦を前提とした計画作成を命じた。その一団は、自らを「和平派」(22)と呼んだ。その一団には、元首相、数人の主要外交官、そして、幾人かの陸海軍参謀本部の戦略家も含まれていた。その最初の会合は、1937年の南京陥落以来、木戸が住む「荻外荘」で秘密裏に行われた。1944年末、同一団は、専従の事務局員を雇用し、皇居南東門を見渡す第一生命会館の一室を借りた。この場所はうってつけであった。その一階には、日本放送協会の秘密の緊急時ラジオ局が置かれていた。また、七階には、陸軍東京方面本部があり、皇居、警察本部、都内の兵営への電話交換所があった。
 この和平派の任務は、その名が意味するような平和を推進することではなく、降伏による損失を最小にすることであった。米国の日本向け宣伝放送の分析によれば、米国は日本の「軍閥」の支配を過大視する傾向を示していた。元外務大臣は、木戸内大臣に、「米国内では、日本に穏健派と過激派の紛争があると考えられており、過激派が穏健派を凌駕していると見ている」、と説明した(23)。この誤りの解釈を活用し、和平派は、木戸が構想する敗戦後の忍従の一世紀を耐え忍ぶという世論を形成するための、骨格をなすストーリーを作りあげた。陸海軍の参謀は、誰がその過激派であり、降伏の時に失望の反乱を率いるのか、を構想した。穏健派と呼ばれる人たちも、戦後の内閣を構成することとなる役割が与えられた。また、別の穏健派は、産業界から選出され、宮中の隠された資産を、自身の資産として管理する役目を負った。本物の穏健派の数は限られていたため、見せ掛けの穏健派が、特高警察が所有する破壊活動の可能性ありとされた記録ある者、という単純な方法から作り上げられた。一事が万事がこうした方法により、1937年にこの国を戦争に導いた近衛宮でさえもが、ハト派の衣を着ることが望まれたのであった。
 1945年の初め、内大臣木戸は、特高警察に、和平派とおぼしき四百人を逮捕させ、四十日に渡って拘禁した。木戸はむろん彼らと事前の相談などせずにそれを実行したのだが、その取り扱いが良かったので、彼らは木戸への反感は抱かなかった。(24) 彼らの多くは、かって、対米英戦の先導的提唱者であったが、その頃ではそうした態度も捨て、アメリカの占領下での政府の要職につこうとしていた。その中で、ことに吉田茂は、戦後、首相のポストを7年間にわたって勤めることとなる。彼は、1933年以来、英、米、オランダを敵とする南進論の臆面もない提唱者であった。だが今や、設備の整った独房で、一夜にして、反戦運動の認証付き英雄に変貌していた。声無き大衆にとっては、彼の突然の変身は当惑この上ないものであったが、それもそのはず、彼は、1926年から1935年までの間、天皇の主席顧問であった牧野〔伸顕(のぶあき:大久保利通の次男)〕伯爵の義理の息子〔その長女雪子と結婚〕であった。牧野は、日本の軍事的対抗が、ソ連から米国へと転じた時期、その暗殺や見せ掛けのクーデタに、ことごとく関与していた。
 和平派の参謀たちは、共産主義に強迫的に恐怖心を抱くアメリカの政治的心理に、第二のアメリカの弱点を見出していた。そして彼らは、アメリカ人に日本の近代史をもっと同情的な目で見させる可能性のあることを感じていた。そしてその役は近衛宮に与えられた。すなわち、後年、ソ連で捕虜として死ぬ事となる彼のタフな息子がプリンストン大学に学んでいたことから、その道の専門家として目されたためであった。近衛は、首相としての三年間の出来事を記した“ノート”や“日記”を作ることで、その仕事を成そうと考えていた(25)。だが、偽物を作ることは、予想していたより困難であった。彼は、日本の政治の込み入った実情に詳しいあまり、単純な話をしたてるには無理があった。1944年の夏の間中、彼の出来損ないの原稿が秘書のファイルを埋めていた。そのうちのひとつ、特別に編まれた「日記」は、1967年になって、彼が男女の連れを引き込んでいた、ある旅館で発見されることとなった###。
### そうした事柄に寛容な日本人でも、近衛のセックスライフには当惑を見せる。彼らは、近衛がもっていた、最下層の男女への嗜好を取り上げ、そうした男女は、週末中、彼のために考案した異様な行為を彼に進呈したとけなしている。だが、彼を良く知るある芸者は、彼の異常性を、「彼の探究心の自然な現れ」 と弁護している。(26)
 ついに、近衛宮は、大部で眉つば物の「天皇への回顧録」(27)を書き上げ、後には、連合軍諜報部に引き渡された。彼は、それに国家的文書としての地位を与えるため、1945年2月14日、裕仁にも読んで聞かせた。彼と天皇は、そこに記された物語を、薄笑いを浮かべて読んだに違いない。近衛は、1931年の「満州事変以来」、日本の軍国主義を駆り立てたのはその「意図的計画の一部」、と共産主義者を告発していた。彼によれば、「現在の窮状」は、「敗戦の混乱」の中で下層階級による革命情勢を作り出すための赤のしわざによるものであった。近衛の説にはあいにくのことに、1920年代末以降、日本のあらゆる共産主義者やいかなる意味での左翼も、ことごとく投獄されていた。軍国主義を煽ることのできる民間人といえば、皇室が後押しする「愛国組織」に属する、雇われた一味しかありえなかった。こうした不都合な事実に対処して、近衛は、「わが国の右翼は、共産主義者の変装者にすぎない」とすら説明していた。
 和平計画では、木戸内大臣は、戦争を終わらせるために戦うとの世論形成を図るよう、終始、天皇に働きかけていた。つまり、それによってこそ武士の誇りは満たされ、それによってこそ国民はその役目が得られ、それによってこそ、日本の領土を縮小するために生じた損失を敵は認めうることができ、さらには、それによってこそ、日本の実際の力が、華族という打算ずくの民間人にも下層階級出身の過激兵士にもよるのでもないとアメリカ人を納得させうる、とするものであった。
 1944年の春、裕仁は、長野の険しい山岳地帯の三つの山の下に迷路トンネルを掘ることを許可した。それは、最悪の事態に備え、最後の大本営の会議がそこに招集され、彼の選りすぐりの部隊とともに、死まで戦おうと信じさせるものであった。その10キロにわたるコンクリートの坑道は、7万5千人の人力と2千万ドルの費用を投じて完成された。裕仁専用の浴室も用意されていた。しかし、彼は、それを使用する積もりはなかった。彼がもし東京を去るとすれば、国民は総崩れとなるであろうと、彼は近親者に打ち明けていた。(28)
 その年の秋、裕仁は、神風特攻機と潜水艇という「特別攻撃武器」の製造許可を与えた。彼はまた、家屋を取り壊して、主要都市を横切る防火帯をつくり、焼夷弾爆撃の被害を最小化する計画を承認した。さらには彼は、米国政府は、敗戦と至った場合には、強姦や破壊をことごとく推進するつもりであると国民に説く国内宣伝運動を、その布告や勅書で承諾した。
 その一年後、日本は、悲惨な戦闘を経て、敗戦することとなる。1944年6月、サイパン島とマリアナ諸島が攻落された時、裕仁は、新任の首相が米国政府を和平案提出に誘い込むであろうとの進言をうけとる。そこで裕仁は、アメリカを主戦主義と見る東条首相への支持を撤回し、秘密顧問団のなかの穏健派の一人である小磯国昭大将を新首相にすえた。彼は、1931年の満州攻略の際、多くの策略の発案者であったにも関らず、外国には余り知られていなかった。しおれた小さな目の新首相は、日本国の代表というより、中国のアヘン巣窟の主のように見えた。彼は、国内では、その狡猾さと、実戦より諜報戦の専門家として知られていた。彼の就任は、日本は通常兵器による闘いではもはや勝利できず、策謀による勝利しかないとの見方を広げた。日本はもはや、人間爆弾や人間魚雷、あるいは万歳自決に訴えるしかない、というのが小磯首相のもとでの戦法であった。それは、アメリカの勝利を犠牲の多いものとしたが、こうした神風戦術は、米軍の着実な前進の速度を遅くする以上のものではなかった。


                  巨大なはったり(29)

 戦勝のないことを自らの日記に認めてからきっかり一年後の1945年1月6日、木戸内大臣は、宮内庁ビル4階の書籍の並ぶ書斎で、ページを繰りながら、昼食をとっていた。彼は、きゃしゃな体格をもち、しかめ面をした55歳の男で、頭髪は短く刈り、実用本位の眼鏡をかけ、ヒットラー風の口ひげをたくわえていた。彼は、友人の間では、こざっぱりした身だしなみ、明るい色合いのベスト、そして「獲物をえた動物のような目」をし、天気であろうと廃墟となった街の様子であろうとどんな話題をも受け入れることから、何とも解し難いながら、懇意な人柄として知られていた。だが、彼の友人ではない人々の間では、木戸は、ヒステリックな芝居じみた言動で知られ、彼にたてつく部下を金切り声で罵倒した。彼を嫌う人々は、彼が生肉を常備し、警察犬を入れたおりを彼の屋敷の要所々々に配置しておき、戦時中の配給の間でさえも、肉をそうした犬に食わせていた、といった話を好んだ。木戸の強迫的性格というマスクの背後に、友も敵もいずれもが認める、政府の顧問中もっとも怜悧で堅固な人物が存在していたのであった。木戸のことをその生涯にわたって知り、1922年以降、あいたずさえて執務にあたってきた天皇裕仁は、彼の判断力に信頼を置き、真の懇意の情を彼に与えてきていた。1946年、木戸が戦争犯罪人として裁判にかけられた時、裕仁は、もし木戸が死刑判決を受けたなら、皇位を退くつもりでいた(30)と語ってていたという####。
#### 木戸は、1956年、連合軍刑務所から釈放された。それ以来、皇居の外の屋敷に住み、あらゆる公的接触を避けてきている。1968年現在、近隣者の述べるところでは、薄い紙のように、弱々しいながら貴族的な生活をしているが、元気そうで、多くの訪問者があり、あまたの読書をしている、とのことである。
 電話がかかり、天皇が木戸を呼んでおり、話をしたいとのことであった。木戸は、彼専用の木炭車を呼びつけ、階下に降りてそれを待った。かっての宮中近代化の輝かしいコンクリートの象徴、宮内庁ビルは、戦時下の防空縞をほどこされ、威厳を保っていた。弱々しい冬の太陽は、その威厳にふさわしくはなかった。車が到着し、1937年に松井が南京進攻の際の指令杖を授かった外宮北部の例祭用の建物にそって、木戸を乗せた車は走りはじめた。左にお堀と内宮の石垣を見ながら木戸の車は進んだ。反対側は、裕仁の生物学研究所や実験水田、皇后祥子の蚕小屋、白い玉石の庭園に囲まれた宮中神社、そして、もはや用いられていない極めて伝統的な居住殿など、天皇や皇后の個人的な使用に供される施設が点在していた。それらすべてが、吹上げ御苑の手入れの行き届いた植木の海で囲まれていた。そこには、戦時下がゆえの倹約の気配は少しも漂っていなかった。その驚かされる対比はやはり普通ではなく、その見事な並木は目を見張らせ、道には孔雀や鶴が気取って歩き回り、太鼓橋、石庭、蓮池、盆栽を育てる温室など、中には、千年の歳月を数えるものもあった。
 木戸の車は左折し、お堀を横切って土手道を進み、内宮への門をくぐった。庭園の美を尊重するかのように、車道は短かいものであった。左手の木々を通して、英国農家風の三角屋根が垣間見られた。そこでは、皇后と名だたる貴婦人たちの、戦時下の宿舎となり、また、天皇と皇后が親しい友人と時間を過ごす場所であった。それは、公には、華やかな古い名、かいん亭(めかけの館)として知られていたが、裕仁の時代の20年間は、めかけがそこに住んだことはなかった。
 車道の突き当たりには、ずんぐりしたコンクリートの建物、皇文庫(皇室図書館)が位置していた。裕仁は、執務場所としてこの建物を建て、多忙な時期は、彼の居宅ともなっていた。現在、その執務室のほか、控えの間も備えられ、また、この建物の建つ丘の地下18メートルには、防空壕も造られていた。そのコンクリートの壁は6メートルの厚さがあり、換気装置、来訪者のための待合室、居心地の良い西洋風の居間と浴室、そして修道院風な家具がしつらえられた大きな謁見室があった。それらの壁には二本の斜坑が穿たれており、一本の謁見室からのトンネルは、階段によって、皇文庫の背後の丘の斜面に設けられた鋼鉄製隔壁へと結ばれていた。二本目は、その居住部からのエレベーター抗として、地上の裕仁の執務室の隠しドアまで通じていた。(31)
 木戸は、その図書館へと、守衛や執事の前を通りながら、その接見には満足を感じていた。裕仁は彼を待っていた。裕仁は前置きもなく、「米国艦隊が」と切り出し、「リンガエン湾の海岸を砲撃し始めた。米軍は上陸し、ルソン島の防衛は難しくなるとの報告を受けた」(32)、とそれに続けた。ルソン島はフィリピンの最も主要な島で、裕仁が得た情報は正しく、最新のものであった。その朝、同海岸の抵抗力をたたくことは、三日後の上陸への準備であった。天皇は続けて、「情況は極めて深刻で、長老政治家たちと相談している時間がなくなる恐れもある。貴殿ならどう考えるか」と語りかけた。
 さらに裕仁は、自分には政府と国民に降伏を命ずる用意ができている、と木戸に告げた。よほど重要なことでない限り、裕仁が、元首相といった長老政治家に相談を持ちかけるようなことはなかった。それ以前、彼がそうしたのは、真珠湾の件のみであった。その時は、過半数の長老たちはアメリカとの戦争に反対したが、彼はそうした見解を無視した。今、再び相談を持ちかけるにあたり、天皇は、征服の道が最初から誤っていたこと、つまり、彼の人生が、事実上、失敗であったことを認めようとしていた。その43歳の天皇はもはや、1922年当時の、張りつめるほど野心的な皇太子ではなかった。彼はもう中年で、太り始め、働き過ぎと運動不足から、息切れも表していた。家臣たちは彼に不平をもらし始めていた。彼が考え込んでいる時、伸びた口ひげは震え、神経質となっている際には、誰もがするように、彼もその短い足をぴくぴくと動かしていた。ほんの青二才の頃に経験したように、そうして敗北を迎えつつある時、日本を率いる彼は沈んだ姿を見せまいとし、機会主義の日本の象徴たらんとしていた。(33)
 「ごもっともです」と木戸は言い、「フィリピンの戦況は極めて悪く、展開次第では、我々は戦争指導を根本的に考え直さなくてはならないでしょう。しかしその前に、私は陛下に、いましばらく、距離をおき、情況を見守るよう、心よりお願いいたします。また、まったく非公式な形で、二人の参謀総長の真実な見解をお確かめになられてはどうかと存じます。その上で、閣議を召集され、さらに、陛下がご自身の根本政策を変える必要があるとご判断の折は、陛下ご出席の御前会議として、内閣閣僚と長老政治家を交えた会議をお開きになってはいかがでしょう」、と続けた。
 天皇が自らの誤りを認めたり、時期尚早に平和宣言を言い出すことなどは、木戸の和平計画には予定されていなかった。計画によれば、その第一段階は、天皇が軍事作戦への自身の直接の関与を放棄し、それ以上の敗北の責任は参謀本部にあることを明言することであった。第二段階は、必要な政治的対処をとるよう、政府閣僚に、天皇自身の考えが変わったことを告げることであった。最終段階は、世論が熟してきた時、天皇が長老たちに彼の決定をただ告げることであった。裕仁は、こうした木戸の助言をすすんで受け入れ、その日以来、木戸がかねてから設計してきた機械の歯車となった。(34)
 木戸内大臣には、天皇の輔弼として、いつが天皇の決断に最適な時かを判断する重大な責任が課されていた。木戸の細心の計画は、極めてゆっくりとしたペースで進められた。早すぎる平和の宣言は大惨事をもたらすおそれがあった。木戸は、自身の計画が果たして首尾よく進むかどうかの確信はなく、それだけに、完璧なタイミングで進められなければならなかった。国民は、戦争疲れへと巧みに誘導されなければならず、かつ、兵士達の誇りは高く維持されなければならなかった。また、もし可能であるなら、敵を、恥と哀れみもって見ることも必要であった。
 B-29はほぼ毎夜のように来襲していた。木戸が頼りとする人たちはそうした空襲のなかで命を落としていた。人びとは、防空壕の中で眠れぬ夜を過ごしていた。人びとは何かにむけて強要される必要があった。裕仁自身も、動揺にかられることがあり、鼓舞が必要な場合もあった。木戸は、1945年1月22日、裕仁を元気付けようと次のような歌を書いた。
梅の木が、厳しい冬を耐え抜けば、
兵士の士気も、再度、花咲く(35)

 こうして、木戸が最適な時を待つ間、20万人の日本人が死んでいた。
 1945年の1月の最後の週から4月の初めまでに、裕仁は、軍組織の上層にある総督や将軍、かっての首相、著名な弁護士、教授、事業家、そして任侠界の代弁者などの一人ひとりと、非公式な会見を続けた。3月半ばまでには、そうした国家の存続計画に、無私の貢献を誓わない有力者はほとんどいなかった。皇室図書館あるいは地下防空壕の謁見室の面会者のなかからそうした人びとが選別され、そして木戸内大臣と面接のうえ、いかなる貢献が可能であるのかが吟味された。(36)
 そうした政治的結集が続けられている間、軍事的には、こけおどしや虚勢が行われていた。旧式化した九千の飛行機が木々に覆われた滑走路に隠され、それに搭乗する特攻操縦士が訓練された。農村出身の献身隊は、日本の神聖なる海岸にそって杭を打ち込み、塹壕を掘った。くわ、すき、なた、竹やり、そしてその他の粗野な秘密兵器が、たとえば首相官邸の広間といった公共の場に集められて鼓舞に供された。長野の山岳地帯の地下の最後の大本営にも、コンクリートの打ち込みが終わった。そして、その秋と予想されていた米軍の上陸が敢行されたならば、そうした「最終決戦」と戦わねばならないはずであった。
 1945年3月24日、しわくちゃ顔の小磯首相――彼の援助により、裕仁の微妙かつ洗練した力が発揮されることが期待されていた――は、紛糾した閣僚会議をおえ、興奮さめやらぬまま、皇室図書館に姿を現した。彼は即刻の謁見を求め、軍部が完璧に独占する政府を設立する計画への許可を申し出た。だが裕仁は、陸軍に、すでに所有する以上の力を与える積もりはなかった。もしそれを許せば、日本は自滅の道を歩みかねなかった。裕仁は、小磯首相がその夏まで政権を維持し、それまでに、国や武装勢力が平和に向かう準備を整え終えることを望んでいた。しかし、事態は緊迫度を高めており、小磯は耐え難い政治的圧力にさらされていた。彼に最後の戦いを準備させるか、それとも降伏の内閣をもって彼に置き換えるか、いずれかが必要と小磯は天皇に進言していた。
 裕仁は、小磯首相が国民の士気の荒廃と抜本的な政治的再編が必要であることを述べている間、沈黙してそれを聞いていた。窓の外は、その日も、おだやかな春の午後で、吹上げ御苑には柔らかな日差しが降りそそぎ、風雲急を告げる時の情勢はうそのようであった。その後二週間の間に、米軍の最初の焼夷弾空襲による大火により、十万人以上が焼死した。四週間後には、硫黄島が陥落した。この島は、何世紀にも渡って日本の漁民が住んできており、日本の本土防御線上の最初の損失であった。硫黄島での2万人の兵士の死をはじめ、追い詰められた情況で新特攻作戦がどれほど必至であったとしても、その効果は無きに等しかった。この2万人の兵士は死を決し、出来るだけ多くの敵兵を道ずれにしようとした。そうした日本兵は、八ヶ月間に渡り、岩肌の露出した島にトンネルを掘り、また自然の洞窟を活用していた。そしてそのどたん場では、米兵を七千人弱道ずれにし、五週間ほどを持ちこたえた。その惨劇は、もし裕仁が陸軍の計画を承諾し、長野の山岳地帯のゲリラ戦の首領となっていた場合、彼が演じることとなる終末劇の予告編であった。小磯首相は、その報告を終えようとしていた。(37)
 「貴殿による苦渋の努力にお礼をいいます。貴殿の申し出のように、その辞職を承認します。しかし、貴殿は、世がふさわしい後継者を指名するまで、その辞職を伏せ、任務を継続するように」、と裕仁は命じた。(38)
 天皇への助言者木戸は、その後の二週間、難渋な交渉を行わなければならなかった。前年秋の段階では、和平計画のもとで小磯政府を引継ぐ首相や閣僚は、終戦までの暫定的なものであった。だが今では、そうした指名は誰もが時期尚早と感じていた。また特高警察司令部は、軍部が和平内閣を承認する段階にいたっているとは見ていなかった。政府は、イタリアのバドリオ政権がそうであったように、国の一部のみが降伏する場合に遭遇せねばならない恐れもあった。ともあれ、危機が深まるなか、長老たちとも協議を続けながら、内大臣木戸は遂に、天皇に対し、計画を進めるよう進言した。(39)
 裕仁は木戸の提案を受け入れ、1945年4月7日、80歳の元海軍大将、鈴木貫太郎を次の首相に任命した(40)。その夫人は、裕仁が子供のころ、その世話を手助けした人でもあり、大将自身も、1929年から36年まで、四人の輔弼の一人として、裕仁の侍従長を勤めていた#####。もはや誰も、天皇の目を南方のインドシナの資源に向けようとするものはおらず、彼以外には誰も、平和志向の立憲君主としてのイメージを植えつけようとするものはおらず、また、彼にまさって天皇とじっ魂であるものはいなかった。裕仁は、「鈴木になら、気を許すことができそうだ」(41)と語ったことがあった。
##### 他の三人とは、内政の画策にたけた内大臣、軍との連絡関係をとる宮中付武官長、そして、天皇の入り組んだ財政を取り扱う宮内大臣であった。天皇の私的、宗教的、および外交的諸事の助言にあたるのは侍従長の役目であった。
 その経歴にも関らず、老いた海軍大将侍従長は、若々しいひょうきんさを保っていた。大きな耳、いたずらっぽい表情をもち、ユーモアのセンスも優れていた。彼はまた、あたかもその煙で敵を欺くかのように、次々と葉巻を喫った。暇のある時は、老子哲学の本を著し、それに没頭しているようであった。彼は、中国の古い格言から多くを学んでいた。彼は人に反対するようなことはなく、ほとんど、自分の意見を表すということがなかった。そういう彼は、「統治の真髄は統治しないことにある」、と好んで語っていた。
 鈴木首相は、就任すると同時に、国民に、最後まで戦って死ぬようにと訴えた。後の説明によると、彼の言葉は、いわゆる「腹芸」のひとつで、そうした内心とは逆のことを口にする技は、西暦十世紀に、その国が武家社会となって以来、育まれてきたものであった。鈴木は、国内でも国外でも、「和平首相」と受け止められるであろうことをさとっていた(42)。後年の回顧談によると、その首相就任式では、戦争を終結させなければならないことを「肝に銘ぜられた」(43)ということだった。
 熟慮しぬき、そして木戸内大臣との話し合いの後、鈴木は、自らの使命を、古い日本の物語の中にみつけていた。すなわち、闘いに敗れ、武士道の華を飾れなかったある領主は、敵より、その城を明け渡すよう求められた。生き残った家臣は、彼に、生存の道とその条件を探るよう懇願した。しかし彼はそれを拒絶し、家来を解散させて自ら籠城し、ただひとりで城門に立った。敵がやってきた時、彼は叫んだ。「来れるものなら来てみろ」。策略に巻き込まれることを怖れた敵は撤退し、そのしたたかな領主は自分の領地を再度、立て直すことができた。この話は、征服者アメリカ人に天皇位を明け渡す際、裕仁が用いようとしているものであった。
 ワシントンでは、元大使のグリューが、鈴木内閣の指名を、和平へのサインであると正しく読んでいた。グリューは、鈴木が望むよう、天皇制の維持を確証するよう日本に提案してみることを進言した(44)。だが、トルーマン大統領がその案を受け入れなかった時、城門に立つ鈴木首相の番人は悪夢にさらされる気分であったにちがいない。その時、日本の同盟国、ドイツの第三帝国は、急速な崩壊の淵にあった。1945年4月半ば、ライン川を越えてドイツ領に入って一ヶ月後、アイゼンハウアーの部隊はベルリンから96キロの地点に迫っていた。東方では、ソ連赤軍がオデル川の橋頭堡を撃破してドイツの首都へと進撃していた。軍隊はその自国土で戦う時、奇跡をおこすことができる、との考えがある。しかし、その本土の海岸線での決戦でも、決定的な勝利が得られるとの日本の希望は馬鹿ばかしいものとなりつつあった。警察を取り仕切る内務相や宣伝を担当する教育相は、広がる国民の不安を抑える方法について、木戸内大臣と協議せねばならなかった(45)。4月29日、裕仁の44回目の誕生日は、その前日に、彼のかっての同盟者であるムッソリーニがコモ湖で処刑され、その遺体は切り裂かれ、怒ったイタリアの群衆により溝にすてられた、とのニュースで不吉に傷付けられていた。
 5月1日、裕仁は木戸に、ドイツ降伏の切迫性を警告し、その件について50分にわたって協議した(46)。その翌日には、二人に、アドルフ・ヒットラーの自殺についての話が伝わった。16ヶ月前の和平計画では、木戸は、ドイツの敗北の前に和平交渉に入ることを望んでいた。連合軍が、日本の首を絞めるにも両手が自由に使えるようになった今、終戦の条件交渉の最後の望みも消滅し、無条件降伏は避けられない事態となっていた。しかし、日本は、合理性の通らぬ国家として理解されなければならなかった。そうでないと、天皇の介入や、「鶴の一声」の必要も考えられなかった。またそればかりでなく、正気を失った状態すら維持されることを必要としていた。ドイツが公式に降伏した5月7日、木戸は、自分の金庫室に入り、天皇を犯罪人とさせるかもしれぬ文書や回顧録を運び出していた(47)。
 二日後、皇居南門外の広場の道路向いにある海軍ビルに、「緊急、極秘」と記された、暗号の作戦電報が届けられた。それは、スイスに居る海軍和平特使の長を勤める藤村義郎中佐からのものであった。祖国の窮状を心底懸念して、藤村は自らの努力を強化していた。そこで藤村は、日本が敵対関係を終了することを望む場合には、ヨーロッパのOSS(米国戦略事務局)長官のアレン・ダレスが動く可能性のあることを、誇らしげに報告していた。藤村は、その後の十日間に、最初の電報に続く六通の電報を送ってきていた。彼は、ナチの徹底抗戦派がもたらしたドイツの大混乱を伝え、そして、連合軍が、欧州から太平洋方面へと配置を変え始めていることを指摘していた。ソ連はまもなく、日本に宣戦布告するとの情報も送ってきた。藤村は、アレン・ダレスが北部イタリアに平和をもたらすことに尽力し、同地方を混乱から救っていると報告していた。(48)
 スイスからの藤村の電報は、引き続き海軍ビルに届いていた。海軍参謀を率いる二人の高官には、何らかの返答を与えるべく、プレッシャーが増していた(49)。5月18日、5通の電報が要回答書類箱に重ねられている時、海軍参謀長で、裕仁の弟の高松宮は、そうした電信について天皇および木戸内大臣と協議するため、皇居を訪れていた(50)。ただ、真珠湾攻撃を命じた後でもなく、また、先の条件付和平の提案を米国が見下した後に、その米国と直接に和平を結ぶことは、天皇にとっては考慮外のことであった。しかし、高松宮はその可能性を指摘しただけであったが、最終的には、裕仁は、その皇位を11歳の息子に譲って退位すべきであったし、取りざたされる責任やアメリカ人に降伏する屈辱を他の者にゆだねるべきであったろう。だが木戸は強くそれに反対した。退位は卑怯であったばかりでなく、一種の有罪の自認でもあった。それは、国民の眼前での天皇の権威の失墜であり、戦勝者に民主化をやりやすくすることを意味した。裕仁は木戸に同意であった。
 あるアメリカ側の和平工作員がその職から下ろされたとのうわさは、東京の官界における裕仁の信頼を地に落とした。また、皇族の長老である閑院宮が5月21日、つまり、上記の高松宮の皇居訪問の三日後に死んだ時、その死の原因が痔であることが、いっそう評判をおとすうわさ話の種ともなった(51)。ともあれ、その翌日、スイスの藤村中佐は、OSSの提案は「敵の策略がうかがえる事項を含んでおり、極めて用心した対処が望まれる」と警告を打電してきていた######。

###### 一ヵ月後の6月20日、熱意にもえる藤村が受け取った連絡は、彼の用件は外務省に報告され、今後、彼の提案はベルンの日本の外交事務所を通じて慎重に扱われる、とのものであった。日本の外交暗号は、どの主要国でも解読されており、OSSは藤村との接触を直ちに閉ざした。藤村とのその後の折衝は、モスクワを通じて東京と話されることとなった。(52)

 次の一週間、沖縄では193名の神風特攻パイロットが自決攻撃をするなかで、海軍参謀の長官と副長官は、ダレスの仲介を拒絶するなら、それ以上の責任は負えないと申し出ていた。裕仁は5月25日、彼らの辞任を受理し、数日後、スイスからのさらなる電報を黙殺するに足る強硬派の長官らをその後任にすえた。
 5月25日のその辞任の夜、不用意な電文のやりとりは惨劇をもたらすこととなった。すなわち、病院や大学や皇居への爆撃を避ける実績をつんでいた米国の爆撃編隊は、その夜、皇居の南の区域を焼夷弾によって焼き払った。それは、計算された軍事行動の拡大であった。他の空襲は多くの生命を奪っていたが、この空襲は皇族たちを標的とし、天皇に示唆を与えるものであった。それは、政府の主要官庁と、日本のもっとも著名な家系が所有する91の屋敷を灰燼と化するものであった。七家系の皇族と無数の侍従たちは、燃えさかる家屋から逃げ出し、皇居前広場の避難民に合流しなければならなかった。
 空襲が終わって数時間後、外宮の儀礼殿から火の手があがった(53)。侍従たちは、その因果応報にいやみを込めて、1.6キロ先の陸・海軍省が燃えている時、古い戦時計画書類が空へと舞い上がり、燃えながら皇居の屋根に落ちてきたと苦情を表していた。五千人ほどの皇居守備隊と数百人の職員は、その夜、皇居内に陣取っていたが、火は瞬くうちに燃え広がった。急遽組織されたバケツリレー隊が、宮内省ビルに水をかけ、類焼から守った。しかし、壁を接して建つ、不死鳥の間、宴会場、王子住居、皇室の記録を保存する倉庫数棟など古い建物は、すべて灰となった。防火の全責任を負う消防士の何人かが、後に、近くで銃殺体となって発見された。その残り火も消えた時、裕仁は、吹上げ御苑のコンクリート図書館より、「私は、国民と苦難を共にできることを嬉しく思う」との声明を発表した。
 日本の裕福で有力な人々を戦争に巻き込もうとする米国の試みは、封建的地主階級を天皇に接近させる効果をもたらした。そしてもはや、アメリカ人は、それが必要なら、日本の身分社会そのものを転覆する用意ができていた。彼らは、天皇ひとりの退位が、戦争犯罪の適正な罪滅ぼしであるとは考えなかった。天皇ら選民たちは、生きるも死ぬも、いっしょでなければならなかった。だが天皇の主席助言者、木戸内大臣は、新たな支持者を得ていることを発見していた。彼による和平計画に巧みなごまかしがあることについて話した時、その含蓄に気付いた華族たちの目は輝き始めた。その火災から三日後、皇居の被害の責任をとって、軍事大臣が辞任をほのめかした際の裕仁の言葉は、許可をえて、広く公表された。すなわち、「わが国の存亡の危機がやってきているこの時、貴殿は必要とされており、どうかその地位に留まって下さい。」
 6月の最初の週は、木戸の和平計画の最初の段階が実施され、降伏の必要が公に決定されるよう、日本政府の高官たちが動員されていた。計画によれば、彼らの仕事は、一方では世界に向かい、他方では国内の政治的玄人たちという特別の観客に向かって演じる、腹芸の極致であった。6月7日、内閣は、最終的な決戦の前には首都を放棄しないことを決定した(54)。これは、長野の山岳部で、最後の戦いを行うとい構想を、裕仁が放棄したことを意味していた。つまり、日本は降伏を先行させ、最後の決戦はもはやないことを物語っていた。
 こうした含みのもとで、その翌日、閣僚と参謀本部将官は、宮内省において、正装のもとに、天皇列席の御前会議にのぞんだ。この会議への出席者には、事前に参謀本部が用意した一対の文書が手渡されていた。そのひとつは、「世界情況」を分析したもので、他は、「我国の国力の現状」を述べたものであった。そこには最も悲観的観測として、最も厳しい統計値や、戦況が「不吉な展開」をしており、戦争の継続は「克服しがたい困難」に面しているという、二つの研究報告もあげられていた。(55)
 天皇と他の参加者がその暗澹たる報告書に目を通した後、ひとつの声明が大声で読み上げられ、全会一致で採択された。それは、七千万人の、男女、子供が、最後まで戦うことを国民に呼びかけるものであった。そしてそれは、「戦争の遂行にあたり、今後追求されるべき根本的政策である」と謳っていた。さらに、決定された政策は、和平の追求のためのものでもあると、小さく表された別の暗示も記されていた。曰く、「敵もまた隠された困難に面しており、戦争を早期の終わらせる努力を懸命におこなっている・・・ 我々は、その神のもたらす機会をつかむ、あらゆる政治的、軍事的ステップを踏まねばならない」。言い換えれば、日本は、降伏の交渉にあたっては、米国とソ連の間の不信の拡大を必要としていた。降伏という明瞭な言葉を使うことはなくとも、会議のすべての参列者は、和平が要点であることを理解していた。後年になって、裕仁が侍従の一人に説明したように、「文章 X と呼んでもよい隠された条項は、この6月8日の御前会議の前に示された提案に含まれていた」(56)。
 会議が散会するやいなや、木戸は和平計画を実行するための計画を草稿した。彼の考えは、さもないと日本は中国をソ連に渡してしまうという恐れから、米国は隠された条項を認める可能性がある、というものであった。したがって、彼は、日本はまず、二つの項目をめぐって、ソ連との接触を始めるべきであると提案していた。つまり二つの項目とは、ソ連にわいろを送って中立国にとどめ、そして、仲介者としてのソ連が日本のために和平協定に入れようと望むであろう条項、であった。木戸はまた、天皇制の維持と、誇りに傷つくことなく面子を維持して和平をえるという、二つの条件を日本は固持するように求めていた。
 翌日の6月9日、裕仁は木戸の計画を承認し、東郷外務大臣#######は、ただちに東京のソ連大使館と交渉を強く進めることを約束した。裕仁は東郷に、「必要以上に慎重にならないよう」と促した。東郷の使節のひとりは、ソ連大使のマリクと、一週間にわたり接触を取った。二人の男の遣り取りは共にお茶を飲むといった段階を越えはしなかったが、日本の地方ではロシア人の性格についての理解が不足している、との程度の話を交換するまでには至っていた。(57)
####### 悪名高い東条首相と混同しないこと。


http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2b.htm#jirenma

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/497.html

コメント [音楽12] 名前のない馬 アメリカ  A Horse With No Name BRIAN ENO
03. 2013年9月26日 09:04:38 : xFyTerZR6s
私は、歌詞がよく分からないといやな方ですね。
だから、「洋楽」(死語?笑)をあまり聞かなかったの。

でも、今は、ネットでLyricsが簡単に調べられますからね。
よく聞き取れなくても、すぐ、ネットで調べちゃう。

いやー、ホント、便利な時代になりましたな(笑)

それでは

コメント [政治・選挙・NHK154] 前代未聞 国連総会でもフラれた日米トップ会談 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
05. 2013年9月26日 09:06:10 : cKftockbJN
外務省のアンテナの悪さが要因じゃないの?

「親分さん 偽ユダの親分さん、日本組の阿部は偽ユダ命でござんす。よろしうお願い申しあげます」

ところが偽ユダの親分じゃなくて、今は清水のジロ長おバカ親分で
「日本組は馬鹿だなあ。おれ偽ユダじゃねえってんだ。わからんのか」

でもって日本外務省のお膳立てはすべてちゃぶ台返しされているというわけだ。



コメント [政治・選挙・NHK154] 橋下市長、堺市長選で早くも“敗戦の弁”(日刊スポーツ)  かさっこ地蔵
28. JohnMung 2013年9月26日 09:07:17 : SfgJT2I6DyMEc : oA3bBUbPvY

 >>27. 2013年9月26日 06:26:01 : SR6siCsdFk
    ↑
 そうかなぁ! 思い上がりの勘違いだろ!

 出自も含めて誤魔化してきたことや我田引水・強引な手口がバレバレ、お里が知れたということジャン(笑!

記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第二章 原子爆弾(その3) ポツダム最終通告
第二章
  
原子爆弾
(その3)

ポツダム最終通告


 1945年6月、トルーマン大統領が7月半ばのポツダム会議を準備し始めるなかで、日本はいよいよ身動きがとれなくなり、戦況は、冷え切った懸念とそれ以上に冷血な狡猾さに支配されていた。その当時、そうした日本の情況はいかなるアメリカに人も知らされておらず、もしそれが知られていたとしても、誰も同情は感じなかったことだろう。ともあれ、日本政府は、まだ降伏の公式な意思表示をしていなかった。
 6月18日、トルーマン大統領は、その年の11月に、日本南部の海岸線へ百万人の部隊を送り込む「オリンピック作戦」計画に許可を与えた。そしてこの進攻を支援するため、ワシントンのマーシャル幕僚長官は、「戦術的使用」として、未使用の新兵器である原子爆弾が、9発以上、必要となることを想定していた。
 そのころ裕仁は、彼の政府の大臣たちが、名誉ある和平にこぎつける努力を充分に果たしていないと感じ始めていた。偶然にも、6月18日の同じ日の午後、木戸内大臣は、主要六閣僚――参謀長官、軍令部長官、海軍、陸軍、外務、総理の各大臣――による会議を招集し、戦争終結の工程表を作らせていた。そして、7月半ばまでに、モスクワにおいて交渉に着手することを決め、停戦の目標を9月としていた。その計画は、4日後の御前会議で承認を受けたが、この会議は異例なもので、裕仁自らが各大臣たちに、迫る屈辱的職務に積極的に協力するよう要請するものであった。その翌日、裕仁は木戸に、国民に敗戦を告げる勅書を準備するように促していた。(58)
 一週間後の6月29日、外務省はソ連への最初の提案文書を作成し終えた。仲介者#8を通じ、東郷外務大臣はマリク在日ソ連大使に、満州の中立化、特別の優先漁業権の廃止、その他、ソ連側の要求への好意的扱い、などの条件を提示した。だがこれは、対日戦争に参加することを控えるというソ連側の判断を導くには、余りに貧弱な内容で、しかも日本の降伏については何ら触れていなかった。そしてむしろ、日本側は、共通の敵アメリカ合衆国を弱体化するため、石油と航空燃料を提供する意思があるのではないかとさえ無心していた。マリクソ連大使はそれに苛立ち、ほとんど話しすら聞いていない様子だった。日本側は、ソ連を誘い出すに充分な提案も、自らへの援助への効果的な打診も行わなかった。マリクはあくびをこらえながら、提案を検討すると繰り返すのみであった。そしてその後の二週間にわたり、彼は、次第に追い詰められる日本の代表をあしらい続けていた。その間、彼は、日本の赤痢で病床にふせっているとのことであった。(59)
#8 前首相および外務大臣の広田弘毅
 英国政府は、米国が原子爆弾を使用する決定を「独立」と呼称して、米独立記念日〔7月4日〕の日、それを歓待することに決定した。(60)
 その日、東京では、スイスからの新たな情報について協議していた(61)。その情報とは、陸軍の主席和平特使である岡本中将からのものであった。岡本は第三者を通じ、在欧OSS(戦略事務局)長官、アレン・ダレスに、もしありうるなら、どのような事項を日本に譲る用意がありうるのか、探りを入れていた。これに対するダレスの返答は、「もし日本が降伏するなら」、連合軍が天皇制の持続を許すことになるであろうと米国は「理解」している、というものであった。それは、数ヶ月前、日本の指導者たちが、最悪の場合が生じた時、その解決のために必要なただ一つの条件であった。しかし、それをどれほど信頼してよいものか、誰にもわからなかった。日本のスパイたちは、中国で、あてもなく、その確証をえようと打診を繰り返した。一方、7月2日、インディアナ出身の上院議員、ホーマー・カペハートは、「日本の降伏は差し迫っており」、「天皇の地位の持続のみが決定されるべき条件となっている」、と米国議会で発言していた。
 7月半ばに予定されているポツダム会議では連合軍指導者たちが東洋の命運を決定しようとしているとの報が、海外放送の分析から、裕仁に届けられた。またトルーマンは、日本への攻撃にアメリカ兵の損失を減らすため、ソ連軍や中国軍さえ合流させることを考えているかもしれなかった。ソ連の参加という考えは戦慄をもよおさせるもので、かつ、中国による報復という考えは、冷たい汗を流させるに充分であった。そこで裕仁は、病気のマリク在東京大使をへず、モスクワのモロトフとの直接交渉を始めることを決意した。そして7月7日、鈴木首相の出頭を命じ、こう言い渡した。「ソ連の腹を探ろうとして、我々は貴重な時間を無駄にしてきた。むしろ、私からの手紙を持たせてモスクワに使節を送り、ソ連に仲介者となるよう率直に働きかけてみる」。鈴木はこの考えに、「ごもっともなこと」と同意した。(62)
 自身の決断に苦悶する裕仁は、次善の策を考慮し始めていた。7月10日、陸軍での彼のお気に入りで、南京強奪部隊の本国司令部を率いていた例の鈴木貞一は、日本の「結末と出直し」についての可能性を討議するため、宮中に出向いていた(63)。そしてその二日後、遂に、「天皇はいまや、ご決心の段階に達せられた」とのノートを木戸は書いている。木戸は直ちに近衛宮との私的会見をもうけた。近衛宮は、天皇が日本の降伏を必至と考えていると確信していた。近衛宮は、国内情況について、もはや、「国民はだれも出口を求めています。中には、天皇を非難する意見すら持っている者もおります」、とさえ進言した。
 「つまり、我々は戦争を直ちに終結させるべきだというのが、あなたの考えなのだな」、と、裕仁は近衛宮に悲しげに聞いた。
 「その通りです」、と近衛宮は答えた。
 「ならばそうしよう」、と裕仁は答え、「あなたをモスクワに送りたい。その考えに立った行動をとる準備に入ってほしい」、と命じ、自ら部屋から出て行った。
 近衛宮は、すぐさま東郷外務大臣と会い、外相は直ちにモスクワの佐藤大使に以下の電報を送った。
 ポツダム へノシュッパツイゼンニ モロトフニアウベシ・・・・ センソウシュウケツ ヲカクジツニシタイ トノヘイカノツヨキノゾミヲツタエタシ・・・・ ワヘイヘノユイイツノカベハ ムジョウケンコウフク ニアリ
 その日の夜11時25分、佐藤大使からの次のような返電があった。
 ソレンヲワガホウニツケ、キデンポウニノベル ソレンノシエンヲエルカノウセイナシ・・・・ ニホンハマケタ・・・・ ワレワレハ ソレニオウジタジジツトコウイニメンスベシ
 この佐藤大使からの返電は、東郷外相の第二の電文と入れ違いとなった。その電文には、近衛宮が天皇の手紙を持ち、降伏の詳細を決めるため、モスクワに発つとする、以下の文面があった。
 コノエノミヤオヨビソノイッコウノ ニュウコクキョカ ヲシキュウエタシ・・・・ ソレンキヲテハイシ チチハル マタハ マンチョウリ#9 ニテ オチアウコト(64)
#9 マンチョウリあるいはルピンは、東蒙古のソ連・満州国境の町。チチハルあるいはランキャンは、国境から320キロの満州内の町で、整備された空港があった。
 これに続いて、歴史上、これ以上のものはなかったであろう悲劇的な返信が届いた。7月13日、モスクワの佐藤尚武大使は本国への返信で、「モロトフは時間がなく、私に会えなかった」と伝えてきた。大使は、彼に代わり、その部下に面会、近衛の訪問への早急な返答を求めた。その日の深夜、佐藤大使は電話を通じ、「ソ連側の返事は、スターリンおよびモロトフのポツダムへの出発により、遅れることとなる」との話であった。ポツダム会議開催中も、佐藤は毎朝、ソ連の外務省に、近衛特使の目的について、東京からの問い合わせを取り次ぐよう要請した。毎午後と夕方、大使は、確認が必要なソ連側の要求事項を送電してきていた。裕仁は、ロシア側の遅延に、安堵しているかのようであった。7月18日に、東郷外相と会った際、裕仁は「我々の要望の運命は貴殿の責任の届かぬところにある。それは、先方の返答次第であり、我国の命運は、皇祖皇宗のお決めになるところである」と語った。
 スターリンにも、裕仁にも知られることなく、東郷と佐藤との間の電報は、米国の諜報員によって傍受されていた。それは解読され、翻訳され、バイアーンズ国務長官に提出されていた。日本が降伏を懸命に求めていることは筒抜けであった。数ヶ月前、木戸内大臣と参謀本部が受け入れることに同意していた最低の面子条項も求められていなかった。それはまた、OSS(戦略事務局)のダレス長官がすでに容認していた、降伏の一条件についてすら、日本の意思はこだわっていないものであった。アメリカ諜報部の分析は、日本を、東条のような一握りの強硬派の大将らによって牛耳られた警察国家として見がちであった。そうした分析は、東条すら、天皇への従者にすぎないことを見落としていた。日本の軍部の力は、海外の侵略された国々では、その傲慢な専制的行為で判断されていた。だが、大半の日本の兵士が、生まれは卑しく、国内においては、貴族階級にへつらわされている人たちであることは充分には考慮されていなかった。
 そうであるがゆえに、東郷・佐藤間のやりとりは、日本軍部がソ連と取引を行っているかに解釈され、したがって、軍閥が処罰をさけ、勢力を維持することをねらう条件を、降伏に盛り込もうとしていると、バイアーンズ国務長官に報告された。一方、ソ連側の分析も誤っていた。つまり、日本の資本主義は、その労働者階級への支配を永遠化させようとしていると見ていた。しかし、日本の資本家はその工場を、そして軍人たちはその命を、神たる天皇へ捧げていたという事実は、西洋人の実務的な視点からはその理解を超えていたのであった。(65)
 米国務省においては、前グリュー駐日大使を囲むグループが、日本への一種の思いやりと、日本人の後進的な心情にある複雑性をいくらか理解していた。彼らは、戦争の真っ最中に発表される無条件降伏の内容は、それに盛り込まれた様々な解釈の意味するところをよく理解するため、米国の政治家たちによって再研究されるべきであると要求した。そして同グループは、その無条件降伏が、兵士や武器に対してのそれではあるが、婦人や固有資産に対するそれではないことを言明すべきであるという点では成果をえることとなった。また、彼らは、日本が直ちに降伏しなかった場合、核爆発による大量死が日本を襲うだろうとの警告をポツダム宣言に含めるようトルーマン大統領が試みる、との確約も大統領のポツダムへの出発に先立って取り付けていた。グリューそしてある程度はスティムソン〔米陸軍省長官〕も、その警告の中に、原子爆弾があるということと、天皇の人間としての存在の保証を、明瞭に含めることを求めていた。しかし、大統領の別の助言者たちは、そうした警告をもって、アメリカが日本に原爆を投下しようとしており、ソ連に満州への攻撃を早めたほうが良いと事実上の通告を与える理由はないと見ていた。また、天皇と皇族がその地位に留まれると保証し、日本の階級や権力構造に基本的変化がないことにして、連合軍の真の力を発揮しないことで終わらせる理由はないとするものもいた。(66)
 ワシントン時間の7月14日、連合軍の指導者たちがポツダムへと向っている時、最初の原子爆弾が、テストのため、ニューメキシコ州の砂漠にある塔の先に取り付けられていた。7月17日、ポツダム会談の朝、トルーマンはテストの結果についての最初の報告を受けていた。曰く、「赤ん坊は元気に誕生」(67)。次の日、詳細報が届いた。「赤ん坊の泣き声」は力強く、首都ワシントンからバージニア州、アッパービルの暫定委員会事務局長のジョージ・ハリスン宅にも届いた。「赤ん坊の目の光」は、首都よりロングアイランドのハイホールドのスティムソンの自宅を照らすほどに充分に明るかった。その爆弾は、誰もが想像していたより、はるかに強力であった。ニューメキシコの物理学者たちによる予備テストの知識では、その爆発の効果は、TNT火薬に換算して、1万8千トンと言うものから、米国戦時レーダー研究所長のリー・ダブリッジ博士によるその効果に懐疑的な「ゼロ」まで、広い幅があった。実際の効力は2万トンであった。7月22日、チャーチルは、詳細報告書を読んだ後、自分の椅子から前に乗り出し、葉巻を振り回して厳粛に言い放った。「スティムソン、火薬が何だ。とるに足らん。電気が何だ。無意味だ。原子爆弾は憤怒したキリストの再来だ。」(68)
 チャーチルは後にこう付け加えている。「日本を降伏させるために、原子爆弾を使用するか否かの決断は、問題とするほどのことではない」(69)。しかし、トルーマンにとっては、それは懸念の種であった。7月18日、その爆弾の能力についての報告を受け取った日、彼は軍事顧問あるいは価値ある意見が期待できるあらゆる人に相談をもちかけた。また、ポツダムを訪れていたアイゼンハワー将軍は、後年になって、その同じ日のことをこう回顧している。大統領から打診された彼は、「そうしたことを決して行ってはならないと考えること自体が、戦争を何か悲惨で破壊的なものへと導くのではないか」と自分の意見を述べたという(70)。
 スティムソン陸軍省長官は、その爆弾は日本人が求めている降伏への口実を提供する可能性があり、「そもそも米国が言う無条件降伏とは何かを天皇にさとさせる、もっとも考えつくされた方法」(71)で使用されるべきであると主張した。チャーチルや他の政治家は、スティムソンに賛同した。そして7月24日、ポツダム会議の最中、トルーマン大統領はカール・スパーツ将軍に、最初の「特殊爆弾」は、8月3日以降、「天候の許す限りすみやかに、第509混合部隊によって」投下されるべきであると、作戦命令を下したのであった。
 後日の回顧によると、トルーマンは同日、「スターリンに、米軍が極めて破壊力の強い新兵器をもっていると、それとなく告げた」と述べたということである(72)。その際、ソ連の首相は、格別な関心は示さなかったという。スターリンが述べたことはただ、その知らせに感謝し、「日本に対し、それが正しく使われる」ことを希望するということだけであった。すでに赤軍諜報部がそれを原子爆弾と彼に警告し、スターリンは確かにそうと知っていたはずであったが、彼はそうした様子を示したふしはない。それは、後に、広島でその爆弾が使用された時、赤軍が満州の国境を越えて作戦行動するために、その後ほぼ二日を要したことからもうかがえる。さらにその四日後、スターリンはトルーマンに、その爆弾について述べるより、東京より和平の仲介役になってもらいたいと打診されていると伝えた(73)。そして彼は、いかにも正直風に、東京が特定の提案内容をも示してきていないと付け加えた。その次は、トルーマンが正直さをみせる番で、彼は、日本の和平特使の動きは、まだ、余りに暫定的で、充分な関心を示すに値しないと返答した。
 7月26日、ポツダムにおける連合軍指導者とその事務官らによって文書作成が終了し、日本に対し、ポツダム宣言が発せられた。曰く、「我々は、日本政府に対し、日本軍の無条件降伏を宣言するよう勧告する・・・・ さもなくば、日本は、すみやかかつ徹底的な破壊をこうむることとなる」(74)。日本の外務省の担当者は、連合軍が無条件降伏を、「日本軍」にのみ限って適用されることに、謝意をもって注目した。しかし、「すみやかかつ徹底的な破壊」との文言については、一般的表現として以上に、ことさらの関心は払わなかった。ポツダム宣言が発せられた二日後、鈴木首相は、それが、1943年12月のカイロ会議にいう無条件降伏のルーズベルト案となんらの違いはなく、「我々にとって意義あるものとは見受けられず、ただ無視されるべきもの」(75)、と回答したのであった。
 その十年の歴史について、アイゼンハワー将軍を含む歴史家や為政者たちは、ポツダム宣言が不適切であったと指摘する。すなわち、その宣言は、「すみやかかつ徹底的」な破壊がどのようにおこるのかとも、また、無条件降伏とアメリカの占領がさほど不快でないものでありそうなことも、日本人に説明していなかった。アメリカ海軍諜報部のエリス・M・ザカリアス大佐は、普通の日本人でもラジオで聞けるよう、7月28日、中波を使用し、日本語と英語による以下のような内容の放送が許可され、日本に向け放送された#10。「日本は選択をしなければなりません。さもなければ、すみやかかつ徹底的な破壊が行われます・・・ 何世紀もの汗と努力の結晶が、むなしい大破壊の終末へと結果します・・・ 他に選びうるものは戦争の終結です。ひとつの簡潔な決定が、都市や村々に、ふたたび平安をもたらします・・・ 日本の本土は、平和を目指す、責任ある政府統治のもとで、その主権が維持されます。」(76)
 #10 すべてのラジオ受信機は特高警察に登録され、短波放送が受信できないか定期的に検査されていた。ザカリアスの放送は、米国の中継船が危険をおかして日本の沿岸に接近して発せられたものであった。
 8月2日、東郷外相は、会談のため近衛宮をソ連へ派遣しようとの提案への何らかな返答をソ連政府から引き出すよう、モスクワ駐在大使に要請した。東郷は、「条件に関して検討するにたる根拠」として、ポツダム宣言を受け入れる権限が近衛宮に与えられると確約した(77)。ソ連外務省は、モロトフがポツダムからの帰路にあり、佐藤大使が彼と数日後に会える見込みであると知らしてきていた。だがソ連の返答は遅れ、日本は待つしかなかった。そのころ原爆はテニアン基地に運ばれ、組み立てられていた。8月6日、佐藤大使は、モロトフが帰還し、二日後の午後5時、彼に会えると知らされた。だが同じ8月6日の朝、同大使は、広島が一瞬のうちに消滅したと通報されたのであった。


                      天の声

 広島の大半が地図の上から姿を消した時、何かが欠けていると最初に気付いたのは、東京の電話交換士たちであった。その数分後、広島地方から、支離滅裂な通話が入ってくるようになった。陸軍参謀本部は、最初、もっと情報を送るように打電することで、それに応じていた。翌朝の火曜日、参謀副長官は、最悪の事態を憤怒と戦慄をもって確認することとなった。「広島の全市が、一発の爆弾で瞬時に破壊された」(78)。参謀本部は、さらに電報や飛行機を送り、どういう種類の爆弾が落とされ、何人の死亡者があったのかを調査させた。
 将官たちにはまだ届いていなかったが、天皇裕仁と木戸内大臣には、その調査結果が知らされていた。同日の午後、皇居図書館(皇文庫)で裕仁と木戸が会った時、二人は、海軍諜報部と東京帝国大学の物理学者の分析と報告書をすでに読んでいた(79)。米国本土から放送された文面は、ほぼ正直な内容を伝えていた。それは原子爆弾であった。天皇裕仁は、被害に関し、「13万人が死傷した」とする、きわめて正確な数字を得ていた。他の大半の国民とは異なり、裕仁は原子爆弾の重要性を理解していた。ほんの数ヶ月前まで、彼は日本自身の原子物理学の研究推進を後押ししていた(80)。しかし、その努力は、研究装置で満たされた二つの建物が、物理学者や技術者ともども吹き飛ぶ奇怪な結果をもって終っていた。日本を敗北から救うため、その研究は余りに先を急いで推進され、安全対策を欠いていたのであった#11。
 #11 その物理学者はおおだんという38歳の学者で、その爆発事故は、液化ガスの扱いの誤りによるものと思われる。
 広島をおおった閃光の中で、木戸と裕仁は、彼らの計画がもはやそれ以上、遅らされてはならないことを覚っていた。すなわち、木戸の和平工作は、その最後の段階に入る時がやってきていた。一人の人間と神は、その日の午後、主要な官吏に会って指示を与え、その用意に入った。翌、8月8日、水曜日の午後、和平体勢のお膳立ては整っていた。木戸は、空襲警報の機会を利用し、皇居図書館の地下の防空壕へ天皇を避難させた。そこで木戸は天皇に、和平体勢を始動させる命を下すよう要請した(81)。裕仁は東郷外相を呼び、こう言った。「この恐ろしい破壊力をもった武器が、我々に対して使用された。我々は、この機会を逃してはならない・・・ ポツダム宣言にのっとって戦争を出来る限りすみやかに終わらせることは、自分の希望であると鈴木首相に伝えてもらいたい」(82)。予見や議論の域を越える難題を前に、裕仁は、敗戦の屈辱を和らげ、降伏への道をなだらかとする、日本の兵士たちの面子をたてる方策を考えていた。(83)
 裕仁がその命令を与えて六時間後の水曜日の夜、ウィスコンシン出身のアレキダンダー・ウイリー上院議員の言葉のように、原爆は、「道化者を場外へ追いやって」(84)いた。モスクワの佐藤大使は、東京時間の午後11時(モスクワ時間の午後5時)、モロトフ外相と面会することとなっていた(85)。同大使は、この会見で、ソ連が近衛を受け入れ、日本の降伏を手助けする手配がえられるものか、その返答を得ることを期待していた。だが、それに代わって、彼は、ソ連の宣戦布告を受け取ることとなった。モロトフは同大使に、日露不可侵条約は、日本のドイツ支援により、何年も前にすでに破棄となっていた、と冷ややかに説明した。ポツダムにおいて、スターリンはトルーマンに、太平洋戦争に加わる前に蒋介石と中国の将来について条約を結ぶ、と約束していた。また赤軍の参謀は、8月後半以前に、ソ連が日本に対する作戦を開始することはない、とポツダムで表明していた。だがいまや、予定を全面的に早めて、わずか二日間の準備のみで、ソ連軍は満州に進撃を開始した。裕仁の命の18時間後の翌朝、幸い小倉は免れたものの、長崎、浦上にさらなる原爆が投下された。日本人は、広島以来、3日間の時間的猶予を与えられていた。だが、米国人は誰も、天皇裕仁がポツダム宣言をすでに受け入れる決心をしていたとは知らなかった。
 8月9日、木曜日の朝、その二発目の原爆が、慈悲的にも3キロ標的を外した時、日本政府の六人の重臣たちは、皇居外部の防空壕に、首相を囲んで、無条件降伏を受諾するという天皇の意向について協議していた。彼らは前夜に召喚されていたが、うち何人かの軍人が参加不可能であった。しかしその夜、特高警察が流した、先に大阪郊外で撃墜されたB−29操縦士の「自白」のニュースによって、即座の行動への必要が生じていた。
 尋問者になぐられ、血まみれとなったマーカス・マックディルダ少佐は、原爆について知っていることを自白しなければ死ぬことになると脅迫されていた。何も知らなかった彼だが、ともかく洗いざらいを告白するしかなかった。彼はフロリダなまりでもって話はじめた。「ご存知のように、原子が分裂する時、たくさんの陽子と陰子が発生する。そこで、我々はそれを捕らえ、大きな容器に、鉛の壁でへだてて閉じ込めた。爆撃機からその容器が投下された時、その鉛の壁が溶け、陽子と陰子が交じり合う。その時、とてつもない落雷の稲光が生じ、都市をおおうすべての大気が吹き上げられる。そして、大気が再び戻ってきた際、すさまじい雷鳴をもたらし、その下のすべてのものを破壊しつくす」。
 そしてマックディルダはこう付け加えた。「次の二つの標的は京都と東京だと確信する。東京は、来る数日のうちに爆撃されるはずだ」。(86)
 陸軍大臣と二人の参謀本部の長官を含む六閣僚が、うだるような防空室で裕仁の要望を議論していた時、マックディルダの自白の情報を吟味し、東京や天皇、あるいは、京都や歴代天皇の墓がまもなく灰と化すことを考え、鎮痛な思いを抱いていた。そして同時に、戦争の終結を恐れてもいた。彼らはまだ、本土に残る250万人の戦闘部隊と、9,000機の特攻機を、思いのままに使用が可能であった。しかもそうした戦闘員は、降伏より死を選ぶように、長年にわたって教えられていた。そして最近の数ヶ月は、日本の海岸線での「最終決戦」さえ決意させられていた。その闘いは、敵にとって余りに犠牲の多いもので、後日の終戦交渉では、条件付降伏と名誉ある和平をえるはずのものであった。だが、闘うことなくこれらの戦闘員を降伏させることは、将来、例えば、通りがかりの将軍につばを吐きかけ、そうすることで自らの誇りを確かめようとする、ぼろをまとった元兵士が現れかねないといった、耐え難い不面目なシーンを想像させていた。(87)
 陸軍大臣の阿南大将は、配下の兵士を念頭に議論していた。天皇は降伏を望んでおり、日本は降伏しなければならなかった。だが、交渉なしで降伏することは、愚かしいことであった。彼にとって、日本は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、四項目を条件とする旨、表明すべきであった。その四項目とは、1.日本の国土は、占領軍部隊によって蹂躙されないこと、2.戦闘員は武装解除され、自らの将校によって解散されること、3.戦争犯罪人は、自らの法廷において裁かれること、そしてもっとも重要なこととして、4.天皇制は維持されること、であった。疑問の余地のない宗教的信念として、だれもが最後の条項には同意した。しかし、他の三条項については、参謀本部の二人だけが、阿南陸軍大臣に賛同した。首相、外相、海軍相は、一条件のみの無条件降伏は可能かもしれないが、四条件を付した無条件降伏は東京への原爆の投下をまねくのみであると主張した。3対3で議論は行詰り、午前11時30分頃、会議の場に長崎への原爆投下の報がもたらされた時でも、それは解けなかった。午後1時、鈴木首相は目を開き、茶碗を押しやり、葉巻を押し消して、会議を一時間、休会させた。
 阿南陸軍大臣は、午前中に何か重要なことが起こっていないか点検するため、自分の省にもどった。彼の最も過激な部下が彼を囲み、六閣僚の会議について尋ねた。大臣は当たり障りのないやり取りで彼らをかわし、断固とした立場をとると約束した。そうした部下一人である彼の義理の兄弟は、「もしポツダム宣言を受諾する積もりなら、むしろ腹を切れ」、と大声で彼に警告した。
 阿南陸相が車に戻る際、かれは自分の秘書にこう告げた。「内心を語れば、私のような六十になる老人にとって、腹切りほど容易なことはないことを、彼らは判っていない」。(88)秘書の目には、彼は疲れているように見え、その言葉のように、意気消沈していた。車は自分の官邸に向かい、その裏庭で彼は弓と的を用意し、自分の精神状態を確かめようとした。彼は17本の矢を放ち、うち5本が的中した。通常なら、10ないし11本が的中していた。彼は自身の緊張と限界に気付きつつ、ご飯と漬物の昼食を急いですまし、首相官邸へともどった。
 午後の協議のために、鈴木首相は、内閣の他の閣僚も呼び寄せていた。こうして、主要6閣僚を含め、14人の閣僚が審議にのぞんだ。最も厳格な条件をとなえる阿南陸相に2人が付いた。やや柔軟な対応をとる東郷外相を5人が支持し、そして、わずかな交渉の余地を残すもののいかなる意味でもの無条件降伏を受け入れる意見に5人が賛同した。協議は午後2時30分より5時30分まで続いた。そして夕食の後、6時30分に再開した。
 太陽が蓮池の上を移動し、丹念に手入れされた皇居の庭の樹木の陰が長く伸び始めていた。裕仁は皇居図書館で、すべての審議に終止符をうつ、天の命令を与える時を待ち受けていた。戦争疲れした人々に天啓の平和を与えることは彼の特権であったが、同時に、狂信派の名誉を留保する危険な職務もおびていた。午後の休憩の間、木戸内大臣は同図書館を訪れ、新たな確認としばらくの辛抱を裕仁に懇願した。その協議が全会一致の合意に達しないのは予定の内であったが、行詰り状態が譲歩されるとしても、各大臣たちは、それぞれの見解を徹底的に論ずる義務があった。そうした場合にのみ、彼らは天皇に意見を仰ぐことができ、鶴の一声を求めることが可能であった。
 審議の進行を調整し、議論がが長引き、疲労がゆえの妥協に達しないよう事態をはこぶ責任は、阿南陸相の双肩にかかっていた。彼はこの責務を、彼の部下の面子を維持する上でも好ましいものとして進んで引き受けていた。彼は、降伏推進者と理解されていたが、無条件降伏でよしとするものではなかった。彼はそれまでの数ヶ月、部下に対し、連合軍より名誉ある和平をもぎとるか、さもなくば死か、と公言してきていた。同様な誓いを、彼は天皇にもおこなっていた。
 1920年代初期より、裕仁に仕えた若手将校による秘密顧問団の一員であり、また、スマートでたくましい阿南は、もっとも献身的かつ忠実でもあり、武士道精神の完璧な模範であった(89)。彼は弓道にひいで、彼の心身の鍛錬をささえ、また剣道においても5段の腕をそなえていた。金銭を見下し、個人的享楽に無頓着な彼は、日本人が「腹のすわった」と表現する、落ち着いた心構えを備えていた。ただ彼は成績優秀というタイプではなく、陸軍大学への入試を二度すべっていた。しかし、彼は、人の導き方は心得ていた。戦闘においては、彼は、鋼鉄の神経の持ち主として知られていたものの、戦場から離れれば、その穏やかな気性、親しみのもてる話し方、そして大酒のみとして、人々から愛されていた。(90)
 朝香宮や、天皇のおじの東久邇宮とともに陸大をすごし、阿南は自然に、その経歴の初めから、宮中サークルに参加するようになり、以来、その一角を形成するようになった。彼は、宮中付武官として、1926年から1932年までを仕えた。1926年12月25日の裕仁の即位のその日、阿南は、東条や他の秘密顧問団との会議 (この会議で、満州の中国からの「解放」が決定された)に、宮中を代表して出席した。その後の多くの難しい任務をへて、阿南は1944年、ニューギニアにおいて、日本軍の守備隊が支援軍から分断されて孤立した際、奇跡的な成果を成し遂げた。同年12月、東京での情況が同じく危機的に至った時、裕仁は、二人のおじの薦めに従い、阿南を本国に呼び戻したのであった。
 第二の原爆が投下されて11時間後の午後10時、不屈の阿南は無条件降伏に反対する議論を繰り返していた。彼に反対する者たちは、議論そのものより自らの立場に悶着してきていたが、全員、疲れ切っていた。裕仁の老いた侍従である鈴木首相は、建て前上の十分な議論がなされたと判断した。そして休会を言いわたし、彼が宮中に向かっている間、他の閣僚に、彼の官邸での歓待を楽しませておいた。その夜は晴れていた。月はまだ出ていなかったが、東京は灯火管制がしかれていた。彼の車のヘッドランプは半ば覆われて薄暗く、皇居の遊歩道の両側の大木のつくる陰に圧倒されていた。
 その老いた海軍大将兼侍従首相は、宮中図書館で彼を待っていた裕仁が、座り直して姿勢を正すのを見た。鈴木首相は、議論が暗礁に乗り上げたことを報告し、事態打開のため、緊急の御前会議を招集するよう進言した。裕仁は即座に同意し、お付きの者に木戸内大臣に電話し、必要な準備をするよう命じた。鈴木は、木戸とのあらかじめの合意により、平沼〔騏一郎〕枢密院議長を御前会議に呼んでみてはいかがかと、天皇にたずねた。裕仁は動揺を見せたが、伏目がちにうなずいて同意した。日本では、この平沼ほど、真珠湾への道を改めるように裕仁に働きかけたものはなく、「だから言ったではないか」 と言えるものは彼以外にはいなかった。
 80歳の平沼は、日本の右翼国粋主義のうち、軍閥台頭以前の復古派を代表していた。彼は、古式蒼然たる華族や、やくざの親分や元親分をその背後に従えていた。1929年から1936年までは、資金豊富な国本社――米国で言えば、マフィア本部とニューヨーク・アスレティック・クラブの合わさったもの――を主宰していた。やくざ界との関係をつうじ、彼は労働者、ひいては、国民の代表を自認していた。裕仁即位の当初、平沼は、軍部の派閥のうち、ソ連への進攻を主張する北進派を支持していた。さらに、法務界の権威者として、名目的に自らそう公言する場合以外、天皇は超法規的存在であるべきでないとの立場をとっていた。長年の論争の後、1936年、軍部の北進派を私的ながら公然と逮捕し、中国へと舵を切った時、その法的地位を認めた。と同時に、平沼を理解し、毎週水曜の朝に開かれる枢密院議長に彼を指名した。ソ連への制限的な攻撃を試みた1939年のノモンハン事件をめぐっては、彼は首相として国を率いていた。この試みは大失敗に終わり、平沼は一時、政界を退いた。しかし、1941年、閣僚のひとりとして復帰し、米国との戦争への反対を公言する彼を殺そうと雇われた暗殺者の弾丸を受けながらも生き抜いた。それ以降、和平派を組織するため、近衛宮をたすけた。(91)
 その電話の数分後、内大臣木戸が宮中図書館に到着し、平沼が問題を起こすことはないことを裕仁に確約した。平沼と木戸は、その前日、長い話し合いをし、相互の理解に達していた。裕仁はそれを感謝して、その確約にうなずいた。平沼は、鋭い法律感覚を持っていたうえ、彼は、反対者としてではあったが、天皇への息の長い忠誠を示してきていた。したがって、その場は、決定的貢献を示すべく、最終的機会以上の意味をもっていた。裕仁は、御前会議を開くため、彼らの到着を今か今かと待ち受けていた。午後11時、閣僚や軍最高司令官らの面々が集まり始めていた。木戸内大臣は、その各々の見解を得るため、忙しく駆け回っていた。侍従や御付武官たちが、宮廷防空室の入り口へと参列者を案内し、地下謁見室の控えの間へと続く、水平に20メートル、垂直に15メートルの階段へと導いていた。全員の案内と集合が終わったのは、午後11時20分を回ってからであった。(92)
 午後11時25分、天皇裕仁は、木戸との12分間の最後の話し合いを終え、特別のドアと階段をへて、会場へと向かった(93)。裕仁は、自分の子供や甥や姪が、じゅうたんやソファーの上で寝泊りしている地下の居間に立ち寄った。彼は侍従長と短い会話を交わした。彼は、皇后良子(ながこ)によるみなりの点検を受けた。午前零時10分前、天皇は、みるからに髪を乱し、目は異例に窪み、やつれた様子で、暑く湿ったその15坪ほどの防空室に入った。彼の乱れた姿が現れた時、人々の声は静まり、驚きのため息がもれた。彼は、菊の錦模様の布が掛けられた祭壇のようなテーブルに着席した。(94)
 裕仁の背後には、六つ折の金屏風が立てられていた。彼の前には、壁に沿う二台の細長い机に、11人の疲労困憊した人々が着席していた。うち、四人は民間人、四人は陸軍大将、三人が海軍大将であった。その顔ぶれは、裕仁の警察国家をそれぞれにつかさどってきた、権力構造のみごとな断面であった。そしてその全員が宮廷内派閥のメンバーで、1920年代末以来の数々の陰謀事件に関与していた。彼らすべてが、戦争という巨大な賭けが負けに瀕していることを知っていた。彼らの前途には、自殺か投獄が待っていた。その部屋の苦しくなるような空気は、参列者の一人の言葉のように、「死神が漂っている」ようであり、この世の終わりが宣告されているようであった。
 鈴木首相の書記官長、迫水久常は、彼自身や同室の人々があの世に迷い込んだかのような、不気味な感じを抱いていた。天皇を後光が包んでいるかのようであった。迫水の隣に着席していた吉積正雄軍務局長は、ちょうど十年前、裕仁の二人の伯父、朝香宮と東久邇宮がはなった暗殺者に刺し殺された当時の軍務局長、永田鉄山の場合に重なり合うものを発見しており、まさに、永田がいまそこにいるかに感じていた。彼は暗殺される一ヶ月前まで、天皇の軍事顧問団のリーダーであったが、中国との戦争計画をめぐって裕仁と対立し、また、機密情報の漏洩で裕仁を怒らせていた。彼は、自分を守るため、辞職するか休暇をとるかとの選択を迫られていたが、そのいずれでもなく、現職を維持することを選択し、自らその犠牲者となっていた。
 その部屋へのあたかもの永田の霊の出現は、迫水書記官長の意識を強くとらえ、そのあり様は、数年へた後でも、彼が鈴木貫太郎記念館に献上した最後の御前会議の場面を描いた絵画にも表われているほどであった。その絵では、迫水のあごは強調され、その唇は肉付きよく描かれ、それを描いた画家が、永田の死の直前の1935年、会議の席上で見た彼に、いかにもそっくりに再現していた。迫水に向かい合って座っている列席者は彼を心配げに見ているが、彼の眼は彼らを見てはおらず、閉じているようである。そして、彼の唇には冷ややかな笑みが浮かべられ、それは自嘲的な充足からくる淡い嘲笑を表しているようである。毎年、何千人もの人々が鈴木貫太郎記念館をおとずれ、その絵の前に列を成しているのである。(95)
 1945年8月9日の夜、絵ではなく現実のその地下室では、冷笑的で個性の強い迫水書記官長は、それまでのあらゆる激しい議論が儀式的に朗読される、不吉な開会の進行をみつめていた。裕仁はそれを黙って聞き、金屏風の祭壇に向かって不動のままであった。東郷外務大臣と米内海軍大臣は、無条件降伏が避けられない理由を説明した。阿南陸軍大臣と梅津参謀総長は、生くる者、死する者の名誉にかけて、最終戦をたかかうことを訴えた。
 鈴木首相が、80歳の法律家、平沼枢密院議長を指名すると、室内にさざ波が走り、なぜ平沼が発言すべきであり、そもそも、なぜそこに列席しているのか、互いにささやきあった。だが彼らはまもなく、それを理解することとなった。平沼は、日本を代弁する告発者としてそこにあった。彼は、裕仁をも含む列席者たちに、その責任、その無責任を知らしめようとしていた。そしてその老人が立ち上がった時、彼の面長な顔は無表情で、眼を細め、いかにも司法官のごとく、話し始めた。
 「貴殿は、ソ連に対し、具体的な提起をしたことがおありか」と、彼は東郷外相にその反論を求めた。また、「こうした爆弾投下に可能な防御方は」と、阿南陸相に質問し、さらに「敵はやりたい放題であり、敵の空襲にまったく何の反撃もないように見受けられる」とも付け加えた。一方、海軍相と海軍参謀総長には、「海軍は、敵の機動艦隊に対する何らかの対抗艦隊をおもちか」と尋ねた。それに対して豊田海軍参謀総長は、そうした艦艇はなく、新型の神風攻撃機について、弁解気味に触れたのみであった。そこに平沼は鋭く畳み込むように、「現在のわが国におけるかくのごときあらゆる状況の悪化にてらし、この戦争の継続はいっそうの国情の破滅をもたらし、しかるに我々は、当戦争の終結を決断すべきである」、と迫った。
 最後に、平沼は天皇裕仁に眼を移し、「連合国に送られた制限条件の文言は改めなければなりますまい。つまり、『国家諸法にもとずく天皇の地位の変更へのいかなる要求を含まないとの理解をもって』ポツダム宣言を受諾する、というのは不適切であります。天皇の主権は国家法によっても、憲法によっても規定されておりません。ただ、憲法が言及しているのみです。もしその文言が、『当該の宣言は、主権者たる天皇の不可侵特権に関するいかなる要求もふくまない』と解釈する、とのように変更されるなら、私は何の異論もございません。」
 裕仁がうなずいて、降伏文書にある天皇の権力と責任の定義を受け入れたい旨を、東郷外相に示した時、平沼は、「祖先より継承されてきた遺産にそえば、陛下はこの国を不安に陥らさせぬ責任をもお持ちのはずです。私は、陛下に、この点をご考慮のうえ、ご判断をなされたく、進言致したく存じます」と述べて、彼の主張を締めくくった。
 平沼枢密院議長は着席した。海軍参謀総長が起立して短い見解を述べた。鈴木首相は、「我々はすでに4時間にわたり議論してきたが、いまだ結論を見ていない。我々はもはや一分たりとも、時を浪費すべきではない。私は、陛下のご見解をあおぐよう、ここに提案いたしたい。陛下のご意思により、この件を解決せねばなりません」と、平沼の意見を後押しした。
 裕仁は着席したまま、国家的宣言のために特別に用いられるかの、その甲高い、古びて抑揚のない宮廷調の声でそれに応えた。「私の見解を述べます。私は、外務大臣に同意します。その理由は以下の通りです。私は、この戦争の継続は、本国の破壊をもたらすのみであると結論しました。私は、無垢な国民がこれ以上の惨禍を体験することは耐えられません。さる六月、陸軍参謀総長より、九十九里浜の防衛線が完成中と告げられました。八月となった今、そうした防衛線はいまだ完成していません。その新設の部隊は完全に武装されたとの公式報告を受けました。しかし、彼らは、銃剣すら支給されていない状態です。本土での決戦を主張するものもいます。しかし、私の経験から言って、作戦計画とその成果には、食い違いが生じます。私は、現在の状況から言って、日本国民が破滅にさらされているのではないかと恐れます。しかし、私は日本の国を子孫へと引き継いで行きたい。私は、できる限り多くの国民が生き残り、再び立ち上がることを望みます。遠く祖国を離れた戦場で死傷した忠誠な兵士や、本土空襲で何もかもを失った家庭のことを思うと、いたたまれぬ苦痛を感じます。私の勇敢で忠義ある兵士たちに武装解除を願うのは辛いことです。また、私の献身的な家臣が戦争犯罪人とされるのも、耐え難いことです。しかし、耐えがたきを耐える時がきています。私に何がおころうとも、それは問題ではありません。私は、戦争を終結させることを決心しました。それが、外務大臣の提案に同意する理由です。」
 防空室に列席していた人々はだれもが涙を流していた。裕仁は立ち上がった。鈴木首相はただちに言った。「天皇のご決定が成された今、本会議の結論も導かれた。本会を散会する。」
 午前2時20分であった。裕仁は、その会議の開催中立ち続けていた侍従長によって開かれたドアに向かった。天皇がその部屋から姿を消した時、首脳たちは吹上庭園に通ずる階段に向かっていた。彼らが地下にいる間に月が昇り、月光に照らし出された庭園の美が、彼らの失意に鋭気を取り戻させた。裕仁は、皇后と木戸内大臣に短い報告をした。飲食物が用意された首相官邸に移されていた内閣は、その長く苦痛な日の、四度目で最後の会議を開き、全会一致で、天皇の決定を承認した。内閣が解散され、彼らが帰宅したのは午前4時であった。外務大臣の東郷が、一条件をふした日本の無条件降伏を通告する外交文書を、スウェーデンとスイスに向け正式に暗号化し打電し終わったのは午前7時であった。(96)
 
 「両生空間」 もくじへ 
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2c.htm#potsudamu

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/498.html

記事 [リバイバル3] 天皇の陰謀 第二章 原子爆弾(その4) アメリカの回答
第二章
  
原子爆弾
(その4)


                     アメリカの回答

 東京の午前7時は、ストックホルムやベルンでは前夜の11時であった。そして、これらの都市の日本の外交官によって日本の降伏の表明が解読されるまでに、時は深夜12時となっていた。さらに日本の外交官が、その文書をスイスとスウェーデンの外交事務所に伝達したのは、儀礼上、朝になってからであった。その時までに、ワシントンでは、真夜中をすぎており、トルーマン大統領とその顧問たちが、その表明について協議するために会議をもったのは、ワシントン時間の8月10日、金曜日、午前9時であった。東京では、それまで、気をもみながら16時間を過ごしていた。さらに、太平洋戦争におけるアメリカの最も重要な同盟国であったオーストラリアは、真夜中を迎えていた。日本の降伏は、こうしてまず、時間とも争わなければならなかった。連合国へのその表明は以下のように告げていた。
 日本政府は、1945年7月26日にポツダムで発せられた共同宣言に列挙された条件を、同宣言が日本国の主権者たる天皇の不可侵特権を害するいかなる要求を含まないと理解した上で・・・受諾する用意がある。
 日本政府は、この理解が保障されることを切に望み、その趣旨がすみやかに実行される明瞭な表明を強く求める。(97)
 トルーマンとイギリスの新首相、クレメント・アトリーは、天皇についての日本の条件を受け入れる意向であった。西洋で知識あるものは誰も、天皇が唯一の元首であった。だが、米英が午後を迎える頃、オーストラリアは夜明けを迎え、その報を受け取っていた。そしてキャンベラはロンドンに次のように打電した。
 国家元首であり日本軍の最高司令官である天皇は、日本の侵略行為と戦争犯罪の責任をとるべきであり、従って、天皇の退位を要求する。(98)
 英国連邦の母国として、イギリスはそれまでオーストラリアに、戦時政策への発言をおおむね許していた。しかし今回、ロンドンがあいまいな返答しかよこさないため、オーストラリア政府はその確認がとれなかった。そして同政府は、今度はワシントンに向け、以下のように、異例の打電をした。
 ・・・天皇は日本の侵略行為の責任から免除されるべきではない・・・ 天皇制の明瞭な撤廃は、その名において多くの残虐行為へと走らされた日本国民の天皇への神的信奉を揺るがせる不可欠の方法である。天皇制が撤廃されないかぎり、日本国民の変化はありえず、太平洋での侵略が次の世代で再現されることとなる。
 貴国の要求により、我国は戦争犯罪委員会のもとにある報告書の公表を見送っている・・・ 我々の見解では、同報告書は、テロリズムと残虐行為の遂行機関の存在を明らかにしており、それは、天皇を含む日本の最高権威に知らされなければならない。この意味で、ヒットラーとその追随者と、天皇裕仁とその追随者を区別することは極めて困難である。
 こうした理由により、我国は、日本がポツダム宣言に条件付けようとしている降伏に関する理解を受け入れることには反対である・・・ 人間としての天皇は、連合国政府のいかなる他の降伏敵国のどの人間とも同様の方法により取り扱われるべきであるということを、日本国民は明瞭に理解すべきである。(99)
 トルーマンとジャメス・バイアーンズ国務長官は、もし可能であるなら、オーストラリアと歩調を合わせたかった。オーストラリアは、アメリカとほぼ同じ程度に、日本を敗北させることに、血と汗をながしてきていた。その上に、オーストラリアは、ポツダムの協議メンバーから除外されていた。その一方、イギリスと中国は、日本への返書のアメリカ文案をすでに承認していた。ソ連もそうであったが、日本が戦闘を止めるまで、満州への赤軍の進軍を継続することを警告していた。ゆえに、バイアーンズ国務長官は8月10日の夕刻、アメリカ文案を少し訂正し、事態の緊急性を理由に、オーストラリア政府にそれで了解するよう要請した。その第二と第五のパラグラフは、日本にとっては厳しい内容をつげていた。
 降伏の時点より、国を統治する天皇と日本政府の権威は、降伏条件の実施を適切に遂行する連合軍総司令官にゆだねられる。
 
 日本政府の最終的な形態は、ポツダム宣言に基づき、日本国民の自由に表現された意思によって設立される。(100)
 このように、一方で、天皇は「国を統治する」権威を維持しうると日本を納得させながら、他方で、連合軍司令官マッカーサーに「ゆだねられる」と延べ、オーストラリアを納得させるというように、その表現は巧みなものであった。8月11日の早朝、バイアーンズは、その文面により、オーストラリア政府より不承々々の承認を取り付け、ワシントン時間の午前10時45分、その文面が日本にむけて放送された。それは、日本が降伏を表明して以来、41時間45分経過した、8月12日、日曜の深夜0時45分であった。
 東京では、ただちに副外務大臣と数人の英語に習熟した外交官がたたき起こされ、その内容を翻訳し、分析を始めた。最初の彼らの反応は陰うつなものであった。というのは、その文面は、極めていかめしく、直裁であった。日本が常にその被征服者に示したような甘い言葉による慇懃な偽善はどこにもなかった。その文面は、ただ、「連合軍部隊は、ポツダム宣言に謳われた目的を達するまで日本に駐留する」と述べていた。その目的とは、完全な武装放棄、民主主義へのすべての障害の排除、「正当な賠償の強制取立て」、「すべての戦争犯罪人への・・・厳格な判決」などであった。日本による南京攻略の際においてさえ、そうした厳しい内容はなかった。西洋式の単刀直入な対応にことに未経験な者は、全面的な強姦、強奪、殺戮にさらされると予想するしかなかった。日本国民は、自分たちの生活に苦難が及ばないことなど、予想すらしていなかった。
 当面、その文面は新聞には公表されるべきでなかった。しかし、その報が政府高官の間で流通されることは禁じえなかった。だが外務次官にとっての問題は、その文面が「鵜呑み」にされることであった。ことに問題なのは、「政府が・・・日本国民の自由に表現された意思によって設立される」という部分であった。それは、共和制というとんでもないものを意味した。それは、武士階級の代々の家系に引き継がれてきた教えに反していた。そして、それに従うくらいなら、むしろ、全日本民族をあの世に送る方がましだとする人々さえいた。敬虔な神道信者が言うには、未来永劫、黄泉の国より武士の魂が恨みをこめたあだ討ちにやってきて、神聖な国土であるその島々に勇敢にも足を踏み入れた野蛮人たちに、恐怖の惨事をもたらす、とのことであった。
 午前5時30分、その米国文が外務省の上級官僚の間に配布され、問題とされる点が私邸に居る東郷外相に示された。その途上の車中で、ひとりの官僚は、愛国主義者の注目をそらすため、「日本国民の意思」の条項の迂回表現がおそらくなされるだろうとほのめかしていた。東郷のドイツ人妻は山中に疎開しており、外相は寝巻き姿で彼らを迎えた。このくだけた姿は、執務室に居る時の縞のワイシャツ、仏式カフス、サビルローのスーツ姿のいつもの彼より、親しげな印象を与えた。それでも、彼の部下たちは、深くおじぎをして堅苦しさをくずさず、必用な礼儀を守っていた。そこでの彼らの感じたた印象は、畏敬の念から冷たい好かなさまで、さまざまであった。そのうちのひとりは、米国文を受け取った外相の手が全く動じていなかったことに注視していた。(101)
 東郷外相は、数年前まで、大酒のみで、かつ、トルコ製のタバコを日に三箱吸っていた。その彼が、60歳の誕生日をま近にしたある日、医師の助言によって、たちどころにその双方を止めていた。疑いなく、彼は優れた聡明さと深い内省感覚をもつ知性人であったが、その精神的な壁が険しさをつくっていた。彼の皮肉は人を傷つけ、その几帳面さは彼の性質であった。彼の外交官としての唯一の失敗は、1930年代半ば、ドイツに赴任していた際、ヒットラーを常に「成り上がりもの」としか見ていなかったことであった。裕仁が彼を鈴木内閣の外務大臣に据えた第一の理由は、彼が大将たちに面と向かって「ばか者」と呼ぶ、大胆不敵さを持っていたからであった。今、彼は自分の着物のしわをはらい、太い黒ぶちの眼鏡をかけて、いかにも人間くささを漂わせていた。
 東郷は文書をゆっくりと一度だけ読み、「ここが問題だ」と、指で「日本国民の意思」の条項をさして言った。「長期的には、それは実務的に見て克服しがたい問題ではないだろうが、心情的に受け入れ難い。国民投票で人々が天皇に反対票を投じるとは思わないし、それまでも、国を治める天皇の権威は言うまでもなく揺るぐまい」。東郷は、自由な意思という考え方自体が、30万人のキリスト教徒という少数派を別jとして、日本人にとっての宗教的タブーであることを知っていた。あからさまに言えば、それは千年以上もの間、問題なく維持されてきていた。
 そして東郷はこう続けた。「しかるが故、天皇は、個人的心情を圧してでも、外国に自らをゆだねると宣言する屈辱を受け入れることと思う。それにしても、これは極めて厳しい内容だ。諸君らには、その衝撃を和らげる何か策はないかな。現下の危機的状況にあって、全国民が一致し、統一した戦線を維持することが最重要事である。」
 居合わした外務官僚らが、紛らわし策を提案した。松本外務次官は、天皇の「ゆだねられた」地位への服従は、国民のために成された犠牲的行為として畏敬の念をもって迎えられるだろう、との見解を述べた。この崇高なる屈辱は、天皇自らも、国民の目からも、天皇を英雄視するよう工作できる要素をもっていた。東郷はその策に積極的に同意した。全ての関心は、天皇の苦悩と高貴さに集中されなければならなかった。日の出直後、その会合は散会となり、朝食までには必要な迂回策の手が打たれた。
 その一時間以内に、皇室の遠縁にあたる海軍政治戦略部の大佐が、国営報道機関の同盟の海外部長#12を呼びつけてい(102)。同盟は、降伏交渉については一切報道していなかった(三日間は発行もされなかった)が、その大佐は部長に、アメリカ側文面の翻訳を要請じた。大佐は、海軍は自身の英語では正しい翻訳がおぼつかない、と〔その要請の理由を〕言った。だが海軍では何百人もの将校たちが英語を学び、英国艦隊で士官候補生として仕えたほどであったので、同盟の部長は、そこに何か含みがあると覚った。大佐の意図に探りを入れた後、部長は『同盟ニュース』のアメリカ文面の翻訳を手渡した。そこには、占領後の天皇の地位は、「連合軍最高司令官に隷属する」(103)と表現されていた。
 #12 有馬たかやす大佐と長谷川さいじ部長
 同じ頃、外務省では、占領後の天皇の地位を、「連合軍司最高令官の制限の下におかれる」と表現した翻訳文を流し始めていた。同盟の海外部長はただちに、海軍に渡した翻訳を特使にもたせ、鈴木首相の官房室に遣らせた。首相官房は、外務省が作成した公式のものとは異なる非公認の翻訳を海軍が流布していると、政府の主たる部署へと連絡した。政府高官らが、倹約と空襲警報の一日を過ごすはずの自分の事務室に出勤する頃までには、裕仁個人に対する悪意を米国は完全に改めた、との認識が東京の政府高官に行き渡っており、面目を失った外務省の高官は、事実の隠蔽に懸命であった。
 同日曜の午前8時20分、陸海両軍の参謀長らが状況について議論し、皇居図書館にて待機した。彼らは裕仁に、米国文書は極めて無礼で、もし裕仁がその拒否を望むなら、陸海両軍は、死をもって立ち上がる積りであるとの考えを表した。裕仁の近衛連隊長官は、あたかも下からの圧力で示している儀礼的なもののごとく、こうした参謀長らの抗議姿勢にぎこちないものがあることに注目していた。裕仁は彼らの忠義に感謝を示し、スウェーデンより公式文書を受け取りしだい、それを慎重に分析することを明言した(104)。 午前11時、東京が天皇の恥辱についての噂と心配で湧きかえっている中、東郷外務大臣は車で皇居に向かった。そして彼は天皇に、外交官としての自分の見方では、アメリカ文書は、予期されるものとしては、率直で寛大なものである、と報告した。裕仁はそれに同意し、天皇のその受諾を内閣が公式に是認するように求めた(105)。

                  武士の約束

 閣僚と参謀長官は〔12日〕日曜の午後と〔13日〕月曜の全日にわたり、アメリカ文書について議論を繰り広げた。阿南陸軍大臣は、土曜に裕仁との長時間にわたる会見をし、再び、反降伏派を先導した(106)。それまで和平推進を唱えてきた平沼卿は、日曜、裕仁からの謁見の要請を受け、その後、阿南の支持し、彼に法的論点を授けていた(107)。アメリカ爆撃機は金曜以降、空襲を行っておらず、両者は、この状況では、原爆の再投下の恐れはないとの判断を下すに十分な確信を得ていた。 
 しかし、国民はそうした確信をもてなかった。人々は、外国放送を聴くことを禁じられていた。それに、国内の新聞は、最初「新型爆弾」、ようやく「原子爆弾」が広島と長崎に投下、とは報じていたが、降伏文書がワシントンに送られたことについては沈黙していた。それに、原爆の恐ろしさについて、暗い噂が広がり、どの都市の住民も、次は自分たちの運命ではないかと案じていた。阿南陸相は、日本の戦争持続の精神を敵に見せつけようと懸命になっていたが、狂信的な神風精神は、現実には、国民の心からは消えつつあり、放心と絶望がそれに代わっていた。
 国家にとっての必要性に加え、阿南陸相には、降伏論議を長引かせる個人的理由があった。彼は、日本の降伏の際に反乱を企てるよう、彼に従う部下の一団を鼓舞してきており、もし彼らがこうした自滅的行いに出たなら、彼も切腹して、彼らとともに精神の世界に行くことを、暗黙のうちに約束していた(108)。それは、西洋では、騎士道の時代以来――王に仕える騎士と家臣の間の死の約束――、忘れられていた封建的慣わしであった。日本では、そうした自己犠牲の心情的約束が、政府内でも地位を保っており、そうした犠牲者が名誉を得、その死が無駄とならぬように、周到な配慮がなされていた。
 阿南陸相の自決計画は、日本のポツダム宣言受諾の数時間後の7月27日に、最初の公的使命の実行に入った。その日、阿南の捺印のもとの命令が台湾に打電され、塚本誠憲兵隊中佐が日本に呼び戻された(109)。塚本は、1934年、陸軍士官学校での北進あるいは征露派の破壊的陰謀を暴いた宮中のスパイを援助し、天皇の注目を得ていた。その後塚本は、天皇の伯父、東久邇宮に仕え、1935年の大阪でのいくつもの陰謀に加担していた。その一つは、鈴木記念館の地下防空室の絵に時代錯誤の霊として描かれていた軍務局長の暗殺であった。憲兵隊の中ではハイランクに位置する大尉に出世した塚本は、1937年、南京攻略にあたる天皇の伯父、朝香宮の配下に入った。その塚本中佐は、いま、台湾において命令を受け取り、それが特殊任務向けであったかのようなその配置を公式に解除する内容であることを感知した。つまり、命令はその表現上、京都の憲兵部隊への配属転換であったが、彼に東京へ出頭するように命じていた。加えて、その命令は彼に、最高位の移動特権を与えていた。
 台湾を立つ飛行機はほとんどなく、しかも日本への直行便はすべて沖縄止まりとなっていた。塚本は、短距離便を乗り継ぐしかなく、まず、広東へ飛び、そして中国の沿岸沿いに上海へ行き、九州に渡り、本州を縦断した。彼が東京の憲兵隊最高司令官のもとに出頭できたのは、8月6日のことであった。司令官は、塚本が本国へ呼び戻されたことに明らかな当惑すら表し、そしてこう付け加えた。「君がここにいるのは、一時的配置のためであろう。過日、阿南大臣は部下の不穏な動きに過度の心配をされていた。そして、クーデタのうわさに注意するよう、私に指示した。大臣は私に、そうした者たちを監視し、そうした計画を報告するよう望んでおられる。」 かつての陰謀家、塚本は、ただちにその意味を理解し、阿南のある参謀との親交関係を用い、それを通じて、阿南の別の部下たちとの交友関係を築いた。
 塚本の到着は、阿南の参謀の中の狂信派には公式の立会人の出現を意味した。それは彼らにとって重要なことで、その功績は彼によって記録され、もし死んだ場合でも、その霊魂の世界において、祖先への名誉となる扱いをもたらしてくれることを意味した。日本の固く結びついた均質な家族的社会においては、政治的陰謀家にとって、その細胞での〔秘密〕会議が、その地の交番への報告に終わることはよくある話であった。よその国の牧師や精神科医のように、交番はそうした告白がことさらな情報提供の特権的窓口として信頼されていた。警察官は、処罰について助言〔人々に〕したが、公的な政策や方針について上司に報告することも行っていた。しかし、そうした詳細な記録は、他の警察官を除き、誰も知ることはできなかった。そうした告白や生涯の記帳簿に残される記録は、聖的儀式の最後を飾るものとも見なされていた。犯罪と処罰は、運命によるものであり、その意味では副次的なものであった。もし、事前に告白がなされていた場合、それは誠実さの証とみなされ、通常、刑罰の軽減に考慮された。もし、告白が事後のものであった場合、まずまずのものと見なされ、その人は家族一族のもとに戻された。しかし、もし告白が自主的に成されなかった場合、その人は、たとえ死への拷問に終わろうとも、それは強要されなければならなかった。日本の最良の警察官は、中世ヨーロッパの教会による宗教裁判と同じような態度と責任を実行していたのであった。
 塚本という公式立会人を獲得して、陸軍省のもっとも愛国的な少佐や中佐たちは行動を開始し、そのもっとも熱心なものは、クーデタを画策し始めた(110)。彼らによれば、降伏が現実になされる以前に皇居を掌握し、天皇に不名誉を受諾せよとすすめる邪悪な取り巻きたちから彼を救出せねばならなかった。阿南陸相の義弟は、陸相がかれらを支援し、もしクーデタが失敗したなら、〔阿南が〕自害することを確約していた。何回かにわたって彼らは、陸相とそうした構想について面と向かって議論していた。だが、常に言質は与えなかったものの、阿南は彼らの主張に共感を装うことに苦痛を感じていた。彼らはまた、近衛連隊長や陸軍東部軍司令官にも働きかけていた。この二人の大将は、軍の綱紀の重要さについての必要な留意を述べる以外には、そうした謀議を差し止める何らの行動もとらなかった。8月12日の日曜、アメリカからの返答が届いた時、彼ら謀議者らは、翌日の夜に決起する計画を固めた。塚本憲兵隊中佐は、最初、その計画の全貌を上司の最高司令官に報告した。そしてその日が夕方を迎えた際、叛乱者は阿南のもとを訪れ、その夜に決行することを告げ、陸相に行動を共にするよう懇願した。阿南は彼らの計画を点検し、彼らが宮中の電話回線を切断していない失敗を発見した。そしてもう一日待つように求め、彼らもそれに同意した。


                  日本の最も長い日

 8月14日、火曜日の朝、天皇の主席顧問、木戸内大臣は、一夜の眠りから覚めようとしていた。その宮内省々舎三階にある木戸の事務室に侍従が駆けつけ、床に敷いたわら布団に横たわっている彼を揺り起こした。侍従は、皇居内に落ちてきた一枚のビラを手にしていた。それは、その朝、日本の主要都市にB-29によってばら撒かれた五百万枚のビラの一枚であった。そのビラは、「日本政府、降伏を表明」と、日本大衆に告げていた。木戸日記の表現によれば、彼は飛び起き、「驚愕のために呆然とした」(111)。彼はただちに、警察長官に電話し、そのビラを緊急に拾い集めるよう命じた。また国民には、そのB-29の撒いた忌まわしいビラを読むことなく届け出るようとの命令が出され、ほどんどの国民はそれに従った。ただ、そうした命令に従わないものは常にいるもので、彼らは噂を広げた。まさに、大衆が、日本の降伏をそのようにして知ろうとしている最悪の事態であった。日本の国民は、それを天皇自身の口から聞かねばならなかった。さもなければ、平和を望むものは天皇に感謝せず、戦争継続を望むものは無用な叛乱を起こす可能性があった。
 木戸は皇居図書館に電話をかけ、午前8時30分に謁見の許可をえた。裕仁は、無用な論争は直ちに止めらなければならないことに同意した。二人の会談中に、鈴木首相も図書館に到着し、8時45分、裕仁は御前会議の召集を命じた。天皇の顧問である木戸は、緊急事態であるので、フロックコートやモーニングなどの盛装は必要としないと強調した。二時間後、閣僚や大将たちが、召集を受け取った事務所で取りあえず借用した、ふさわしい背広やネクタイを着けて参集した。
 晴れた八月の朝の、暑さにうだるその地下謁見室で、裕仁は、再度、議事を支配し、配下の者たちの降服受諾にともなうすべての見解の違いを再び無視し、命令した。彼は、国家存続のために、彼自身と日本が、その耐え難い屈辱を耐えなければならないことを、涙を流しながら、慟哭をもって語った。アジアの半分に猛威を振るった指導者たちも共に涙を流した。(112)
 その日の正午、裕仁が防空室から階段を通って執務室に現われた時、木戸内大臣が彼を待っていた。裕仁は、いまだに涙にかられながら、出来上がったばかりの、翌8月15日にラジオを通じて読むはずの降服の詔書についての要点項目に関し、木戸の見解を求めた。木戸は内閣官房に天皇の意思を伝えるとともに、ただちに草稿を書き上げた。二人の学識者がそれを古代漢文調の公式文に直し、歌を読み上げるような抑揚をほどこした。(113)
 この〔14日〕朝の防空室での御前会議に先立って、阿南陸軍大臣は部下に対し、彼らのクーデタ計画を放棄するよう言い渡していた(114)。この会議の最中、木戸内大臣は、裕仁の29歳の弟で陸軍中佐の三笠宮の訪問を受けた(115)。そして会議の後、クーデタを企てる幹部クラスがその計画へのいかなる行動をも拒絶した時、三笠宮の陸軍士官学校時代よりの親しい友人であった一人の少佐が、その計画の再度の実施を求めた。彼は、その日の午後を費やし、その考えの支持を求め、主要な大将の部屋を訪ね回った。
 その午後遅く、クーデタの気配を嗅ぎつけた近衛宮は、「第一近衛連隊の不穏な動き」について、木戸内大臣に意見を求めた(116)。近衛師団長の森赳(たけし)中将は、近衛宮の遠い親戚で、友人でもあり、子分でもあった。彼は、その叛乱者達より探りを入れられた者の一人でもあり、叛乱への支持を求められていた。午後6時、森中将は、自分のすべきことを見出すため、皇居へと参じていた。彼は近衛師団司令部から宮内省々舎への通路を車で行きながら、吹上庭園へのあらゆる門に兵士が配置されているのを見ていた。かって例のない事態であった。近衛師団の3連隊のうち2連隊が召集され、共に、内宮域内の歩哨にあたっており、その司令官すら、その理由は分からなかった。彼は、B-29が撒いたビラを見て、日本が降服の間際に差し掛かっていると鋭く察知はしていたが、彼自身はその詳細を何も知らされていなかった。宮内省に着いて、天皇の侍従長をつかまえ、何がたくまれようとしているのかを嗅ぎ取ろうとした(117)。しかし、裕仁の主席軍事顧問から嗅ぎ出せたことは、「最終的試練を迎えようとしている。細心の注意が払われることなく、それが越えられることはない」といった、典型的ま宮中問答であった。実直な森は、東京方面の防衛を担当する田中大将に会いに行った。田中は率直に、降服を決心したとの天皇の決定を伝えた。森近衛師団長は、皇居の北側にある部隊本部にもどり、深く考え込んだ。彼はその夜遅くには、事態は彼の命にもかかわる危険があり、極めて周到となっていた。
 元首相の東条大将もまた、クーデタの噂を把握していた。彼の義理の息子、古賀秀正少佐がそれに関与していた。その前日、加賀少佐は東条邸の隣の自宅に立ち寄り、東条の娘である妻に、自分の爪と頭髪を切った最近のものがあるかどうかを尋ねていた。これは、夫が死に瀕している時、それを箱に入れ、神棚に奉っておくことが兵士の妻の任務であったからである。東条の娘の古賀夫人は、死に向おうとしていると信じ、夫に別れを告げていた。あたかもスパルタ的抑制をもったかの良妻として、彼女は母親に、古賀が何を語ったのかを冷静に話していた。彼女の父である東条は、ただちに車に乗り、何事が起こっているのかを知るために都心へと向った。彼は、義理の息子がクーデタ計画に関わっていたが、それが中止されたことを確認し、おおいに安堵して帰宅した。(118)
 しかし、翌14日、火曜の午後、東条はさらなる噂を聞き、午後6時30分、彼は再び都心にいて、閣僚会議の短い休息の間での入浴の際、阿南陸軍大臣と会話を交わしていた。裕仁の秘密若手将校団の一員同士として、彼と阿南とは二十年来の付き合いがあったのだが、この時、阿南はことのほか上の空で寡黙となっていた。しかし、征服者アメリカと話し合うという道は、自分たちを欺くものではなく、むしろ耐えるべきものであると、阿南が言外にことさらに強調していることを、東条は十分に理解していた。「降服の後、もちろん我々は、戦争犯罪人として軍事法廷にかけられる。そこに我々の発言の余地はない。その時が来た際に我々が成すべきことは、全てを共に忍耐することだ。大東亜戦争は必要であったという信念を貫き通すことだ。我々が戦ってきたのは、自衛戦争だ」、と東条は言った。阿南はこれに強く同意し、風呂を上がり、衣服を着け、自宅へ戻る消沈した東条を残して、閣僚会議にもどっていった。
 一方、森近衛師団長が天皇の主席軍事顧問と会い、また東条が阿南と会っている頃、裕仁は夕方の吹上庭園を散策していた。寡黙に裕仁に従う侍従は、「これまで、こうしたことは無かったこの庭園内に、兵士が配置されている」と言って警戒を促していた。裕仁は木の下を散策しながらそれにうなずき、黙ったまま、皇居図書館へと戻った。そこで、彼は、待たしていた鈴木首相に詫びを言い、閣僚会議の報告を受けた。その午後に裕仁が許可した降服の詔書の草稿は、二時間にわたり議論されており、いまだ、裕仁の署名を得る段階にまで至っていなかった。「国の神器の保存」の条項については、農業大臣が「占領軍による否定的関心をよぶおそれがある」と感じたため、抹消されていた。裕仁は、この修正や他の細かい字句の訂正に辛抱強く許可を与えた。未解決の問題は、阿南陸軍大臣と米内海軍大臣との間の些細な意見の違いである、と鈴木首相は続けた(119)。阿南は、「戦況は日々悪化した」を「戦況は日本有利には展開しなかった」と改めるよう主張した。米内はこの修正を陸軍による責任逃れのためとし、それを認めることを拒否した。鈴木首相は、このあいにくの対立に、何か妙案を与えてもらえないものかと、天皇に尋ねた。裕仁はそれに応えて、陸軍大臣の案に反対はないと米内海軍大臣に伝えるよう、鈴木首相に返答した(120)。
 〔14日〕火曜日、午後7時に閣僚会議が再開される前に、鈴木首相の書記官の一人は、この天皇の意向を、首相官邸の手洗いで米内海軍大臣に伝えていた。米内はひと言も発せず、便所の一室に入って放尿しながら、あからさまに聞こえる溜め息をついていた。午後8時30分、鈴木首相は、閣僚会議の承認を得た草稿を持って、皇居図書館に戻った。裕仁は、一、二箇所の形式的訂正を加え、「戦況は必ずしも日本有利には展開しなかった」とし、阿南の主張を補足した。そしてこの歴史的文書の写しは、『宮中官報』の皇居事務室へと送付された。午後11時、当官報は号外を配送し始め、皇室関係者に配布されるとともに、翌日に予定されている裕仁のラジオ演説に先立つ、国民への通報となった。(121)


                    最も長い夜
 
 8時半から9時半までの閣僚会議の休息の間、阿南陸軍大臣は車で、自分の机の私物を引き取るために事務所へと戻った。彼は、その日の夕暮れ、日の出の勢いの日本の日暮れが、濃い霧によって遮られているといった、一篇の裏寂しい歌を書き残していた。そうした裏寂しさは、3月25日の空襲以来、かつての士官学校付近の建物に移されていた陸軍省を完璧におおっていた。阿南は同省の一切が混迷して行っていることを目の当たりにした。その日の午後、閲兵場は、各事務所と焚き火の間を人が盛んに行き来し、大本営の文書を焼く炎が燃えさかっていた。今、その炎は残り火となっていたが、酔った数人の兵士が見られるのみで、もう誰もその作業には当たっていなかった。ほとんどの将校たちは私服に着替え、それぞれの故郷へと発っていった。陸軍省内の廊下は荒れ果てていた。阿南陸相が自分の事務室に戻る際、その足音は、孤独かつ空虚に響きわたった。彼の机上は、その日の午後、降服に備え、アジアの全ての憲兵隊事務所へ送った電報の写しが散乱していた。彼は力なくその席に座り、そうした書類を残すものと捨てるものとに分け始めた。そこにあたかも霧のように舞い込んできた一人の副官は、残りの将兵、ことに、クーデタグループの幹部であった荒尾大佐を招集するよう命じられた。それを待つ間、阿南は鈴木首相に宛てた辞表を書き、海外の司令官には降服を説明した電報を打った。
 荒尾大佐は、午後9時30分になって、ようやく姿を現した。彼は、阿南陸相を、陸軍省ではなく、その自宅で待っていた。阿南は、それまでに集合し、彼を補佐してきた将官らを解散させた。「この戦争は断念された。残務があるので、私をこのままにしておいてほしい」と彼は言い渡した。彼の書記官や当番兵は、礼をして退去していった。荒尾は個人的に彼と話すため、部屋に残っていた。(122)
 「日本を再興するため生き、働くのが、君たち将校の義務である」と阿南は荒尾に言った。荒尾にとって、阿南のこの言葉は、他の何よりも、肝に銘じる言葉であった。それは、阿南はもはや「現役」と呼ばれるものでなく、亡きものとされることを意味していた。それは、この陸相がもはやアメリカに対し、決戦を戦う望みを失ない、自殺を図ろうとする崇高な犠牲心を意味していた。
 荒尾は泣き、陸相の意図がまっとうされるよう誓った。阿南は、机の引出しからニューギニアから持ち帰った一包みの葉巻を取り出し、それを新聞紙で包み始めた。そして、衝動にかられたかのように、そのうちの二本を荒尾に渡し、「これを君に上げたい」と、心からの微笑みを浮かべて言った。さらに、風呂敷でいくつかの記念品を包み、磨かれた桜の鞘の儀礼用短刀を脇の下にはさんで、阿南は日本人将校独特の作法で簡潔に礼をした。「反対側で会おう」と彼は言い、踵を返して公用車に向った。

 荒尾に対する言外の言葉によって、阿南陸相は、宙に浮いたクーデタ計画の再発に釘を刺した。かくして、いかにも現実味を持って演じられたこのクーデタは、いまや幻のものとなり、戦争を持続しようとのまともな動きも、もはや存在しなくなった。つまり、問題とされてきたそうした事柄はすべてトリックで、それは、神聖なる天皇が、日本軍国主義の元凶であるのではなくその犠牲者であるとして、外国の目、ことに米国の目を欺くためのものであった。(123) (124)
 こうしたクーデタ計画を生き返らせ、またそれを幻の計画に追いやったことに最も責任を負う人物は、X中佐である。彼は、この夜の事態のあらゆる目撃者によって、しばしば正体不明とされながらもその存在が確認されている将校である。X中佐は、その夜、8時30分、二重橋(天皇が国家行事に用いる皇居への神聖な入り口)の近衛兵と話しているところを、最初に目撃されている。彼は、阿南陸相子飼いの煽動者でその後に起こった綱渡り的な行動の首謀者であった、畑中少佐を同行していた。
 他方、かつてその名も人物証明も示さなかった軍人が、皇居のいずれの門にも――ことに二重橋には――姿を現したことはない。X中佐の正体は、端的に言って、近衛兵にも、後に彼について記した生き残り近衛兵にも、全く知られていないわけではなかった。日本のゴシップ界では、皇室についてのタブーとして、天皇の直系親族の私的行動には名前が伏される慣わしがあるのだが、日本史上におけるこうした決定的場面においても、この慣わしが、内宮域内に出現したある身分不明な人物についても説明している。つまり、推定として、このX中佐が、天皇の最も下の弟である、三笠宮中佐である可能性は極めて濃い。三笠宮は、その夜のクーデタに参加した下士官たちとは同窓生であった。三笠宮は、その日の午後、裕仁と木戸と、二度にわたって会っている。三笠宮の同窓生のその夜の動きは、恐ろしいほどに現実味を帯びており、芝居とはとても見なせず、まして、天皇の神聖なる裁可を欠いた、誇り高き武士の絶望行動の現われとも見えない。
 阿南陸軍大臣が公用車でその事務所を立ち去った午後9時30分の数分後、X中佐とその手下の扇動者、畑中少佐は、吹上庭園で待機する二連隊の近衛師団に所属する大佐を訪ねていた。その日早くには、この大佐は畑中少佐のクーデタ計画に同意することを拒んでいた。いまや、X中佐が登場するにおよんで、同大佐は、「私の決心は変わってしまったようだ」、と語っている。
 X中佐と畑中少佐が皇居で動き回っている間、阿南陸相は一人車中より、右手の東京市街の荒廃と、左手の時代を経た変わらぬ石垣を見やっていた。彼は、彼の最後の若者たちに死を命令していた。彼は、敵の眼に彼の最後の眼くらましを投げ込んでいた。彼は、連合軍にその夜に送る以下の文書に承認を与えるため、首相官邸で行われていた閣僚会議に戻った。「天皇陛下は、日本の受諾に関する詔書を作成した・・・ 天皇陛下は必要事項の政府と大本営による承認と署名を準備した。」
 阿南は、この文書の主文を、意見を着けることなく、冷淡に聞いていた。次に、東郷外務大臣が、第二の電報で送ろうとしている以下のような長々とした添付文書を読み始めると、阿南は注目して眼を大きく見開いた。「以下について切に懇願する。連合軍によって占領されることとなる日本の領土について、幾つかの点において制限されること・・・、日本軍は武装解除することが許される・・・、日本軍兵士の名誉は尊厳され、たとえば帯刀などが許されること・・・、敵意が解消するまでに必要な時間が許容されること・・・、連合軍は、遠方の島々の日本軍に供給する不可欠な食料と医薬品の輸送のため、出来る限り速やかに必要な処置をはかり、我々の施設を拡大すること・・・」(125)
 「諸君がそのような方法で事にあたろうとしていることを、もし私が知っていたならば、先に私はそれほど熱意をもって説く必要は感じなかったであろう」と、憤然として阿南陸相は発言した(126)。東郷外相は、謝罪を表して、ぎこちなく頭をさげた。
 閣僚会議は続き、過去を追想し、木戸内大臣の和平計画の次の段階について憶測を廻らしていた。午後11時30分頃、会議が閉会された時、阿南陸相は、鈴木首相に最後の言葉をかけるためにそこに留まった。阿南は、「私は首相に大変なご辛苦をおかけしたのではないかと案じております」、と言い、彼が自室より持参してきていた高価な葉巻の新聞紙包みを首相に手渡した(127)。
 「私は貴殿の辛いお立場が痛いほど解ります」と鈴木は返答した。「ともあれ、陛下は祖先の崇拝に極めてご熱心で、毎年、春、秋に必要な祭式を行われておられ、神のご加護があることを確信しております。私は日本の将来について、希望を失ってはおりません。」
 阿南は笑みを浮かべて礼をし、踵をかえして議場を去った。「阿南君は、暇乞いに、来てくれたんだねえ」、と鈴木は書記官に言った。阿南は車で帰宅し、最後の感傷的責務を果たす準備に入った。彼は熱い湯につかり、女中に最後のビタミン注射を打たせ、和服を着てくつろぎ、酒を一杯あおって、電話の脇に座し、筆をとって最後の遺言を練った。秘書が部屋を出入りし、ニュースを伝え、短い会話を交わした。時折、女中がこっそりと、燗の付いた酒を運んだ。

 その火曜の夜、10時に、アメリカのB-29編隊が、四日振りに東京に飛来した。空襲警報が鳴り響いた時、天皇裕仁は、閣僚が会議を終わらせるのを待つのではなく、降服詔書の発布のための準備を直ちに行うよう侍従に指示した。午後11時25分、裕仁は、陸軍元帥の軍服を着け、灯火管制の中、皇居を車で横断し、宮内省々舎へと向った。その三階にある広間で、日本放送協会の技術陣が待機していた。裕仁は、その詔書をマイクロフォンに向って読み上げた。最初の収録では、だれもが意外であったのだが、彼の声は震えていた。
 再生音を聞いた裕仁は、「声が低く、かすれている」、「もう一度やってみよう」と言った。
 二度目の収録では、その声は明瞭となり、いっそう持ち前の声高、鼻声で、より神経質であった。彼はそれでも完全に満足ではなく、三度目を求めた。しかし、その部屋は息苦しく、技術陣は、自分たちが彼に不快を与え、限界に達しているのではないかと恐れた。彼らは、三度目は不必要であると彼に請合った。裕仁はそれを受け入れ、深夜零時5分、図書館に戻った。
 それぞれの収録から、再生用と放送用の、二枚ずつのレコードが作られた。何度も聞いてみた後、技術陣は、最初の収録のほうが遥かに感動的であると判断し、二度目は、裕仁が事態の連続関係を見落しているという、それを使わない理由となった。合計四枚のレコードがプレスされ、いずれもが缶と木綿袋に梱包され、保管のために、一人の侍従に渡された。慎重に考慮の上、その侍従は、宮内省々舎二階の皇后の控え室の一つにある書棚裏の金庫にそれらを隠した。(128) 


                   最後の芝居

 裕仁がレコード収録に、阿南陸軍大臣が閣僚たちに別れを告げている間、その長く実に周到に準備されたクーデタはついに姿を現すに至った。午後10時、久々の空襲警報が鳴り渡った時、クーデタの首領の一人、井田正孝中佐は、陸軍省の将校宿舎の寝台に横たわり、胸に迫る暗鬱感を抱きながら、天井をみつめていた。井田は憲兵隊の塚本が台湾から帰還して最初に接触した人物で、ともに阿南の参謀であった。それまでの一週間、井田はそのクーデタの最も熱心な推進者であったが、その朝、裕仁が防空室で最終決定をして以来、止むなくその計画を断念していた。彼は年下の火付け役、畑中中佐に、その午後、自分を当てにするなと告げ、日本陸軍将校の集団自決という新たな企てに没頭していた。もし、十分多くの将校が命を絶ち、戦争敗北をもたらした彼らの責任を表したならば、それは日本の誇りを守り、同時に、アメリカ人に天皇非難を止めさせえるはずであった。しかし、井田が陸軍省において将校たちを調査したところ、わずか20パーセントが自決を望んでいるのみであることがわかった。70パーセントは何も答えていなかったが、10パーセントは、密かに姿を隠すことを考えていた。井田は、この調査結果に余りに落胆させられ、彼自身の自決を果たすため、宿舎に引きこもっていた。
 空襲警報が鳴り響いた時、井田中佐はまだ寝台に横たわっており、爆弾が彼を直撃しないかとも考えていた。その部屋に彼の友人の畑中中佐がいきなり飛び込んできて、意外なニュースを伝えた。それは、阿南が自殺を図ったというものと、近衛部隊の2連隊とともに吹上庭園でクーデタを支援することを畑中中佐が引き受けたというニュースであった。井田と違って畑中は、思考のもたらす精緻な抑制に左右されることはなかった。彼は行動派の人間であった。ハンサム、真面目で、すらりとし、運動能力に優れ、もし彼が35歳まで生き延びたなら、さぞかし立派な軍人となるかと思われる風貌の人物だった。
 井田中佐はその話を不機嫌に聞いており、頭を横に振りながら、クーデタは集団切腹と同じほどには、もはやアメリカ人を動かすことにはならないと、彼の熱狂的な若き友人に言った。畑中中佐はそれに即座に、ふたつの計画は合体できるのではないか、と説いた。クーデタの後、共謀者らが自決におよぶ。井田中佐は、この考えにいくらか刺激され、畑中はさらに自説を展開した。井田の参加なくしてはクーデタは始まらないと、畑中は井田を持ち上げた。井田は、近衛連隊全体の指揮をとる森中将の親戚であった。井田の協力なしに、森中将に働きかけ、クーデタのために必要な命令を出すよう説得するのは不可能であった。井田は、この論理に動かされ、その役を引き受けることに同意した。
 二人の共謀者は、その蒸し暑い夜、陸軍省から皇居北端にある近衛連隊本部までの二キロほどを、自転車に乗っていった。井田の自転車がパンクし、畑中は止まり、その不器用な中佐がそれを修理するのを手伝わなければならなかった。二人が北門に到着したのは午後11時で、ただちに森中将への面会を求めた。しかし森は、しばらく待つようにとの返答をよこした。森は、五時間前、天皇の侍従長が言った用意周到との言葉を、それ以来、考え続けていた。その時、彼は、広島から来た義理の弟の相談にのっており、初めて、原子爆弾の効果についての目撃談を聞いていた。
 森中将は、この共謀者たちを一時間半も待たせ、ようやく面会したのは、ほぼ12時30分になってからであった。それまでに、彼は、裕仁がレコード収録から皇居図書館の安全圏にもどったことを確認していた。扇動者畑中は、森に、近衛連隊に命じて皇居を掌握し、皇居図書館を孤立させ、天皇の名で陸海軍に戦争を継続する命令を出すように要求した。畑中は、阿南陸軍大臣に成り代わって話していると主張した。森は、それは誤りであると認めず、12時45分、畑中は、その確証を取るため、阿南宅に彼を訪ねることに同意した。彼は、森と、その森と話をしている親近者の井田中佐を残して退去した。
 五分後、宮内省々舎の侍従たちは、天皇と皇后は就寝したとの電話連絡を受けた。その時、阿南陸軍大臣は、皇居南の官舎で自害を準備していた。田中東部軍司令官は、第一生命ビルの和平派本部の上階の自室で仮眠していた。台湾から帰ったクーデタの見張り役の、憲兵塚本は、その夜の責務を果たすこととなる、皇居の北門外にある憲兵隊本部でうつらうつらしていた。石は投じられ、北門内の近衛連隊本部では、森中将と井田中佐が、熱心に話し合っていた。12時50分から午前1時までの間のどこかで、彼らに、神出鬼没なX中佐が合流していた。
 畑中中佐は、阿南陸相の義理の弟、竹下〔正彦〕中佐よりその確証を得るため、将校車を徴用して皇居の反対側へと向った。午前1時ごろ、彼は目的地に着いて竹下に、阿南に会って森近衛連隊長に電話してもらうよう頼み込んた。竹下は彼のできることを行う約束をし、畑中は近衛連隊へと引き返した。同時に、竹下も出発し、車で義理の兄のもとへと向った。彼が阿南宅につくと、彼が辞世の句をしたためているところだった。「計画にのっとり、今夜、自決するところだ」と、阿南は言った。
 「それは今夜でなければならないのですか」と、竹下はたずねた。
 「この考えに君が反対でないのは結構なことだ」と、阿南は返答した。
 「あなたは中国の前線へと出かける前にその句を詠み、使うべきでしたね」と、竹下は示唆した。
 阿南は笑って、酒を注ぐビアマグを二つ持ってくるよう女中に命じた。「それは順調だ」、「田中大将も東部軍もその支援に反対しており、叛乱は何ももたらさないだろう」と彼は言った。
 竹下は近衛連隊本部に電話をかけ、阿南は計画通り自決しようとしている、と伝えた。そして二人は腰を落ち着け、最後の酒宴にのぞんだ。
 火付け役の畑中が午前1時過ぎに近衛連隊本部にもどった時、森中将、井田中佐、X中佐の三人は、まだ、自決と日本の運命について議論していた。畑中が戻ったので、井田中佐は礼をして二人を残して部屋を出、陸軍航空隊々長という新たな訪問者により、その議論は終わりとなった。その数分後、火付け役畑中は森近衛連隊長を射殺した(129)。この時、この陸軍航空隊々長で日本の名だたる軍人家系の御曹司である上原重太郎は、刀を抜き、広島から来ていた森の義弟の首を切り落とした。
 夜と灯火管制の静寂の中で、待機していた皇居中の人々がその銃声を聞いた。二キロ先で阿南陸相もそれを聞き、彼の同僚である森中将が意義ある死を遂げたことを覚った。宮内省の侍従たちもそれを聞き、憲兵の塚本も、北門外の憲兵隊本部でそれを聞いた。
 X中佐は、そうした殺害――自己献身の宮廷儀式――の現場から外に現われ、外で待機していた若手将校にうなずいた。その後、記録が示す限り、彼は皇居の闇の中に消え去ってしまている。火付け役畑中と上原航空隊長は、眼を輝かせ、返り血を浴びてその殺害現場から出てきて、X中佐の後を追った。東条の義理息子、古賀と他の少佐たちがその部屋に入り、床に横たわる血まみれの和服姿の中将からいくつかの印章を取り出し、それを用いて、古賀があらかじめ用意していた皇居を占拠する命令書に押印した。起こされた数百人の近衛部隊兵が兵舎から召集された。井田中佐は興奮し切った畑中中佐に、井田が第一生命ビルへ行き東部軍に一斉蜂起の合図を与えてくる間、代わって指揮をとるように言った。井田は第一ビルへと車で向かい、東部軍司令官に報告し、午前2時45分、皇居北門に戻った。血痕をまとった畑中中佐が彼を待っていた。畑中は首尾よく近衛部隊を配置し、皇居の建物のすべての要所を固めた。彼は、皇居の北門より入ろうとしていたある閣僚を逮捕し、彼を拘束していた。しかし、井田中佐に気の休まる暇は与えられなかった。井田が報告した東部軍はその蜂起を決して支援しなかったからである。
 畑中中佐は、霞んだ眼で、皇居南区画を掌握した部隊をもって何が達成できるか、それを見極めようと、うずうずしていた。井田中佐は、北門の背後にとどまり、統制を維持しようとしていた。畑中は、彼の蜂起部隊が放送協会のラジオ技師たちを逮捕し、南門に拘置していることを知った。その技師たちは、その歴史的録音の後、内務省に居残り、その鶴の一声に乾杯し、千鳥足で帰宅しようとしているところを逮捕されていた。今、畑中の同僚の将校たちは、その皇居での深夜の仕事について、彼らを厳しく尋問しようとしていた。
 畑中の部下はまた、皇居と外界とを結ぶ主要電話線を切断することに成功していた。しかし、二つの秘密回線を切断しそこなっていることを知らなかった。そのひとつは宮内省の海軍侍従武官長室からの線であり、他は、皇居図書館の地下防空室内の陸軍侍従武官室からの線であった。これらを通じ、外宮、内宮の侍従たちは、第一生命ビルにある、田中東部軍司令官と、お堀をこえて連絡をとっていた。また、畑中がその蜂起に参加した頃、侍従たちは、田中大将が事態の総指揮にあたっており、その出来事が深刻な事態に発展しないよう備えていることを知った。田中は井田中佐に会った後すぐ、北門で事態の発展を監視するよう、彼を送り返していた。塚本は、その門外の憲兵隊本部にあって、すべての情報を得ており、部下とともに、即座に行動に移れる準備を整えていた。しかし、塚本は、まだ、憲兵隊の介入が正当であるとは考えておらず、それは危険なことと懸念していた。
 クーデタが実践段階へと進展し、火付け役の畑中中佐は、彼の下士官や兵士の関心を集めるに足る、皇居での軍事的目的を必要としていた。論理的目的が天皇であり、皇居図書館を包囲し、天皇を人質とし、日本を戦争継続に向わせることは、単純なことであった。しかしそうではなく、皇居の門や要所のすべての歩哨が、発せられた偽造の命令の権威を認めているのを確認しながらも、畑中は、無意味な成り行きに二時間を浪費させられていた。兵士に疲れと不安が広がり始めた時、畑中は、クーデタの目的が天皇が録音した降服レコードにあり、それが国民に放送されることを防ぐことであると宣告した。
 午前3時、畑中の部隊は、内務省々舎を包囲し、夜勤にあたる侍従に、レコードを供出するように命じた。侍従は交渉に応じた。畑中の部下はその建物に入り、侍従一人ひとりに質問を開始した。侍従はみな、誰かがそのレコードを持っているはずで、その男は、兵士たちが疑う誰よりも、「背が高く、高い鼻」をもっているとした。そうした侍従たちはみな、ネール風の上着と縞のないズボンといった、紺色の戦時国民服*を着ていた。そのため、それぞれの侍従を互いに区別するのは困難であった。誰もが、熟達した家僕の風采をしていた。畑中の兵士は、侍従たちが彼らをからかっているように感じはじめ、しだいに苛立ち、暴力的になろうとしていた。
〔*訳注:英文には「koku-fuku」と記述されているが、「国民服」の誤りであると思われる〕
 午前3時20分、畑中の部下が建物の捜査を始めることを恐れ、侍従の一人が木戸内大臣を起こし、兵士たちは嫌な雰囲気にあり、もし彼を見つけた時、彼を殺すかもしれないと報告した。木戸は自室の機密書類をトイレに流し、あるいは、皇室の財産の文書資産が所蔵されている建物の下の大きな鋼鉄製地下金庫に避難させた。彼は、まるで国債書類と同然かのように、宮内省大臣と幾人かの書記官や守衛と共に、その夜の残りを、そこに閉じ込もって過ごした。その地下金庫は、階段で四階の謁見室の外の、婦人用控え室の戸棚に通じていた。そこには、二人の収容者がその建物で何が起こっているかを知ることができるよう、のぞき穴と通話装置が備えられていた。
 木戸が安全に隠れるとすぐ、録音レコードを処置した侍従は、皇居図書館が包囲され遮断されたとの報告を確かめるため動き始めた。彼は名を徳川義寛#13 といい、その身の安全は保障されていた。というのは、彼は、日本史の中で代々の将軍を輩出し、兵士たちでの評価において今でも天皇の次に位置する、徳川家という名門の出であったからである。徳川侍従は、いかにも貴族的態度をもって、反乱軍とわたりあった。皇居図書館では、彼は、天皇がぐっすり眠っていることを知った。天皇は、自身の後日談によれば、すぐ眠りにはつかず、隣接する寝室からふすま越しに、楽しみをもって耳をそばだてていたとのことである。その隣の英国風の田舎家である妾館では、皇后良子が同じように何事にも気付かないでいた、と徳川侍従は言われた。徳川は、安全のため、そうした二つの住居の鉄のシャッターで閉ざしてから、暗い庭園を徒歩でゆき、カエデの覆う丘の下に新たに設けられたトンネルを通って戻った。(130)

#13 徳川義寛は徳川義親の息子で、後述の三月事件の財源支援者であり、1931年、満州征服のための国内政治環境作りを行った策謀者の一人。

 宮内省々舎では、徳川侍従は、反乱軍が玉音レコードを探して一部屋ごとの捜索を始めたことを知った。兵士たちは、室内装飾を切り裂き、中国楠木製のひつを壊して開けていた。彼らは、家具のほとんどが西洋風であることに怒っていた。徳川は、愛国的な当てこすりをもっていきり立つ彼らに従っていた。だが、自暴自棄となったある軍曹#14 が彼の顔をなぐり、一人の中尉が彼を座らせ、刀でもって、レコードがどこにあるかを言えと脅かした。徳川は、侍従武官の休憩室に行き、決然と、軍が紀律を回復するよう問い正した。海軍侍従武官が彼を脇によせ、彼が東部軍本部と今しがた秘密電話回線で話をし、全ては掌握されているとささやいた。田中東部軍司令官は、午前4時過ぎ、反乱軍の抑制に取り掛かるため、将校車でその本部を後にしていた。そのすぐ後、彼は、北門において、反乱軍の見張りをおこなっていた、憲兵隊の塚本中佐と合流した#15 。

#14 : 若林軍曹。15年後、彼は、家の宝である古代の銅の鏡から作られた茶壷を謝罪として徳川侍従に送りった。
#15 : 田中の助手、塚本清少佐もそこにいた。これら二人の塚本は、西洋人によって報道される際、度々混同されている。

                 天皇に奉げられた命

 午前3時30分、兵士たちが宮内省々舎に入った時、井田中佐は、阿南陸相に報告するため、北門の自らの職務を離れた。その彼が阿南と会った時、阿南は秘書と義理息子と酒を飲んでいるところだった。阿南は白いさらしで腹を巻き、天皇より授かった白いシャツを着ていた。井田は、皇居で始まった蜂起行動を報告し、座してその宴会に加わった。午前4時ごろ、上原航空隊長が電話をよこし、森近衛連隊長の殺害における自分の役割を歓喜して報告した。阿南は「何か特別の償いを」と指示し、飲酒を続けた。すぐ後、義理息子の竹下は、飲みすぎではないかと阿南に尋ねた。阿南は、酒は血行を良くし、まして剣道五段の自分が自害しそんじることなぞありえない、と竹下のその老婆心を否定し、なおかつ、阿南は全員をその場から退かせ、一人にするよう頼んだ。
 井田中佐は外へ出て待機した。彼が後に語ったところによると、彼を皇居へ送り届ける車をつかまえようと、道路際で待っていたという。しかし、彼はたやすく車を呼ぶことができたのにである。つまり、彼がしようとしていたことは、阿南が約束を果たし、自害をとげるかどうかを確かめようとしていたのである。結局、井田は室外に愛国の思い立っていたのであり、その間に、彼の肉親の森近衛連隊長は射殺されていた。
 太々と子供じみた書体で、阿南は、苦心して二つの遺筆をのこしていた。そのひとつは、数年前、彼が中国へ行くに当たって書かれた歌である。
大君の深き恵に浴みし身は 言い遺こすべき片言もなし(131)
 その第二は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」との、散文調の一文である。生き残った参謀たちはだれも、阿南が自身で大罪を引き受けることにより、陸軍の罪を解消させる意味だったと信じた。身辺雑務を片付けた後、阿南は義理息子と相座して、さらに酒を交わした。現代の世にあって、58歳の弓術家といえども、古式ゆかしい名誉の作法にのっとることは容易ではなかった。
 午前5時30分、憲兵隊最高司令官が阿南宅を訪れ、田中東部軍司令官が皇居北角の近衛連隊施設内にあって、先に出された偽の命令を無効とし、兵士に兵舎への帰還を命じていると知らせた。叛乱はついえた。憲兵隊最高司令官は、阿南のことに親しい友人であったわけではなく、この陸相に面会する特別の地位にはなかったため、彼はその報告を義理息子に与えた。
 阿南陸軍大臣にとって、時は訪れていた。彼の死は、先の森の死のように、叛乱が完全な見せかけではないことを示すために必要であった。彼は寝室の縁側に出て、その前年に戦死した息子の写真とともに、先にしたためた二つの遺筆を並べた。彼はひざまずき、右手に短剣を、左手に短刀を持った。彼は、雨戸の隙間から差し込む朝日の筋をみつめた。彼はしばらく、庭の歩哨の足音を聞いていた。そして彼は、短剣を肋骨下の肉ばった腹に刺し、それを右にねじり、胃を切り裂き、鋭く切り上げた。定められたその痛々しい作法に従いながら、彼はまだ命を保っていた。彼は左手の短刀を首の右側に回し、頚動脈をさぐった。
 義理息子が部屋に戻り、阿南の脇にひざまずき、叛乱が確かにその目的を果たしたことを伝えた。「ご介添えは」と彼はたずねた。
 阿南は首を横に振り、短刀を首に突き刺した。それは頚動脈をはずしたが、頚静脈を切った。彼はひざまずいたまま、その後ほぼ一時間も、体を左右に揺らしていた。そして彼は前に倒れ、床の上で無意識のまま、出血ともだえを続けた。義理息子は座り続け、彼の最後を見とどけていた。午前7時30分ころ、訪れた将校の一人が衛生兵を呼び、彼を絶命させる注射を打った。
 阿南の寝室からほぼ1キロ東北の皇居内では、田中東部軍司令官が、要所を回って兵士を兵舎にもどらせていた。彼の両眼は光っていた。何年も昔、オックスフォードの学生であった頃に初めて蓄えた彼の見事なひげが、ことさらにねじれて張り出していた。彼は訓告を強調しながら、その都度、乗馬用むちで自分のブーツを容赦なく打った。彼もまた自害を決意していたが故に、彼をいっそう尊大にさせていた。阿南の同窓生であり、旧友であり、そしてライバルとして、彼もまたそうせずには済まなかった。九日後、陸軍が天皇に従い整然と降服を受け入れるべきと彼が確信した時、彼は自分の頭を撃ち抜いていた。皇居では、今、兵士たちが即座に彼の指示に従っていた。混乱はその聖なる構内からたちどころに消えうせ、夜明けの鳥たちのさえずりの場と変わっていた。(132)
 阿南参謀の若い将校たちは、部隊にも去られ、皇居のお堀より二区画離れた日本放送協会の事務所へと引き上げた。そこで、国民への最後の声明を発しようと、送信機を作動させようとした。だがそれにも失敗した時、彼らは解散し、早朝の勤めに出る群集にまぎれて散らばっていった。
 その夜には、これ以外の叛乱行動があり、和平計画にかかわる裕仁への追随者の自宅を襲った。これは、絶対に確かな軍略、つまり、作戦上の常套手段であた。1930年代に、三度の見せかけのクーデタが試みられれたが、その際も、つねに、同時多発襲撃が主要摘発者の自宅に加えられた。1945年8月14日の夜では、裕仁の主席顧問木戸内大臣邸を憲兵隊が襲撃し、別の憲兵隊によって撃退された。また、雇われた市井の愛国主義者が、数人の兵士によりそそのかされ、皇居防空室での和平推進策の張本人である、鈴木首相や平沼卿の私邸に放火した。だがその被災者たちは、事前に一定の警告が与えられ、自由に逃げ出すことができた。平沼卿傘下の右翼党派の跳ね上がり者の何人かが、その襲撃放火に加わっていたからである。
 鈴木首相宅では、なんとも滑稽な光景が、その気さくな老哲学者をも巻き込んでいた。というのは、彼の家族や貴重品を乗せた避難用公用車のエンジンがかからず、その車を下男たちが押そうとしても重過ぎてびくともしなかった。そこで、一軍を撃退するに十分なほどの彼の護衛が周囲の待機所からかき集められ、その車を坂の上まで移動させられた。鈴木首相もその一人だったが、誰もがその滑稽な騒動を楽しむ風であった。そして遂に、坂を下る車のエンジンが始動した時、そうした護衛は、鈴木邸前に集まった野次馬どもとともに大喝采して、その持ち場に帰っていった。その後、誰もそれらの放火罪を告発せず、鈴木も平沼も、減額された火災保険を受け取っただけであった。ここで重要なのは、世間はそうした事態の展開に不満ではなく、二人の面目もそれで維持されたことであった。こうして、皇居内でおこった反和平クーデタの罪状も問われず、御前会議での机上和平派クーデタにも、ほとんど関心が払われなかった。
 8月15日、水曜日、午前7時21分、日本放送協会は、叛乱兵が切断した電線を回復させ、放送を再開した。「天皇は今日正午、ご自身によるお言葉を述べられます。これはかってなく有難いことです。すべての国民は、この天皇のお言葉を丁重に聞かねばなりません。昼間電力供給のない地域にも、電気が供給されます」。それまでの数週間での出来事や二日前に投下されたビラの後であっただけに、天皇が放送しようとしていることが何であるのか、東京の住民はほぼそれを心得ていた。その午前を通し、宮内省近くの皇居南門外の皇居前広場は、安堵と悲嘆を抱く人々がぞくぞくと集まっていた。正午、皇居前の、そして、全国の都市の広場の拡声器は、天皇の声を伝え始めた。
 我は、日本の自己防衛と東アジアの安定を真摯に願い、アメリカと英国に対し、宣戦布告した。他国の主権を侵害し、領土の拡大を計ろうとするのは、いずれも、我の考えから遥かに遠いものであった。しかし、今や、この戦争はすでに四年近くにおよんでいる。あらゆる人々の最善の努力にも拘わらず・・・、戦況は必ずしも日本有利には展開せず、他方、世界の動向はことごとく、我国の国益に対するものに至った。さらには、敵国は新型で、もっとも残酷な爆弾を使用し始め、その破壊力は実に計り難い・・・。このまま戦いを継続し・・・、破局的終末と日本国の消滅をもたらすべきであるのか・・・。もしそうであるなら、いかにして、我が数百万〔ママ〕の国民を救い、我が代々天皇家系の精神を掲げうるか。これこそ、なぜ我が、連合軍の共同宣言を受諾するよう命じたか、その理由である・・・。
 我国全体が一つの家族として、代々にわたり、すべての力を統合し、将来に向けた建設に献身しよう・・・。天皇国家の天賦の栄光を高め、世界の発展と共にあるよう、決意をもってのぞもう。(133)
 いずれの広場の群集も、屈辱と信じられなさに泣きくれながらも、疲れにまみれた安堵感に捕らわれていた。人々はひれ伏し、頭を地面に打ち付けていた。あちこちで、自身を刺し、弾丸を撃ち込む人々がいた。群衆はそのいちいちの遺体に頭をたれ、旅立ってゆく魂に祈りの言葉をささげ、沈黙してそれぞれの住処に向けて散って行った。その週、将軍から兵士まで376人の陸軍々人、提督から水兵まで113人の海軍々人、37人の看護婦や民間人、総計526人のみが自らの命を絶った。#16
 #16 その年の自殺率は、一万人当たり2.5人の標準から大幅に低下し、戦後を含めても最低の数値となった。明らかに、少数者の名誉より、多数の生存の必要のほうが重要であった。
 皇居内で自決した者は、火付け役の畑中、東条の義理息子と、前夜の絶望的クーデタの指導者の三人である。四人目に、叛乱者の一人で殺された森大将の義弟、上原航空隊長が二日後に拳銃自殺した。今日、四人の叛乱将校が、東京で生存している。うち一人は、自衛隊の歴史研究課を統括している。第二は、阿南大将の義弟で、防衛大学を率いている。第三の荒尾は、自動車販売店の社長を勤めている。第四の井田中佐は岩田と名を変え、彼が自決しなかったことを恥とする妻と離婚した。彼はまた、南京略奪の際に朝香宮を助け、クーデタの公式立会人として台湾より帰還した憲兵、塚本誠がその重役をつとめる広告代理店 〔電通〕 で働いている。
 裕仁の放送を通じ、日本人は、戦争の終結を知った世界で最後の民族となった。他の国民は、日本のニュース供給会社の同盟が、東京時間の前日の午後2時49分に、沖縄のアメリカ人担当者に流した以下のメッセージですでに知っていた。「8月14日付け東京発緊急特報; ポツダム宣言を受諾する天皇の声明がまもなくある見込み」。日本人が、自ら「臥薪嘗胆」と表現する天皇の放送を聞き終え、家路を急いでいる時、ロンドンでは、気安く立ち入れるアパートで、まず最初の対日戦勝祝賀会を催させていた。ニューヨークでは、タイムズ・スクェアに続々と集まる兵士、水兵、女たちの群集が〔15日を迎える〕深夜0時の瞬間を待ち受けていた。
 連合軍によって降服条件は定められ、原子爆弾がそれ強要し、天皇がそれを受諾した。かくして連合軍は、日本を一挙に降服へと至らせ、中国の共産化に数年の時差を作らせた。連合軍は、その目的達成のために、日本の誇り高い民族性を保ち、天皇の偉大な力を利用することに成功した。復讐心はすでに果たされており、復興を進めるにはもはやそれは必要ではなかった。14万人の広島、長崎の死者は、南京のそれに成り代わり、16万6千人の空襲による死者は、日本の捕虜収容所で飢えと暴力で殺されたアメリカ人、オーストラリア人、英国人の捕虜数を上回っていた。ただ、無知と猜疑が克服されずに残っていた。戦争にともなう数字上の辻褄合わせは、平和時の交渉術に取って代わらなければならなかった。片やの神道とか天皇制、他方のキリスト教とか民主主義という、不明瞭な相手側の概念は、その生きた意味が理解されなければならなかった。互いに相手の言葉を話す数百人のアメリカ人や数千人の日本人は、「無条件」降服という空欄の小切手に内容を与えなければならなかった。
 皇居では、木戸内務大臣と裕仁天皇が理解を希求していた。かれらは、相手がキリスト教的親切さを実行してくれることを期待し、相手が民主化に失敗することを祈っていた。かれらが天皇制を存続できない限り、かれらは祖先に応えようがなかった。貴族制度と身分制度なくしては、その生者の社会は死者の霊魂の世界と一致できなかった。それまでは、その和平計画はほろびゆく者を相手としてきたが、今や、勝利者を相手としなければならなかったのである。

http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2d.html#amerikanokaitou

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/499.html

コメント [経世済民82] アベノミクス「第3の矢」成長に繋がるものないと大前研一氏 (SAPIO)  赤かぶ
02. おじゃま一郎 2013年9月26日 09:10:22 : Oo1MUxFRAsqXk : lrskee8LTY
「異次元の金融緩和」

金融緩和自体は日本は低金利なので、2000年から2006年までにやっていた。
国債買取も、リーマンショック以降今ほどの大規模なものではなく、やっていたが
効果がなかった。

現在は、アメリカも金融緩和を継続したので、通貨安競争になると思われる。
ドルの影響力の方が、圧倒的に大きい。

安倍首相の周りの経済学者どもは、為替レートの変動を頭では判っていだけの
ように思われる。

「機動的な財政出動」
公共事業は、金利を上昇させる効果がある。金融緩和とあわせ技でやれば
金利は上昇しないと思っているようだがひとつの懸念であることは間違いない。

当然国債発行残高が増えるので、財政再建といって消費税増税すること
するので、景気回復が長引けば税収は上がらず内外の不信感はその分大きくな
るだろう。


「民間投資を喚起する成長戦略」
官に民間の成長分野などわかるはずもなく、やりたければ最小限度に
となるだろう。むしろ規制緩和で、既得権のある分野へ新規参入を認める
などだ。例えば地上波TVの多チャンネル化などである。



コメント [リバイバル3] 天皇の陰謀 翻訳にあたって 献辞 はじめに 著者から読者へ BRIAN ENO
01. BRIAN ENO 2013年9月26日 09:12:12 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
ダブル・フィクションとしての天皇   (第1回)

 連載最初のコメントですが、まず、この題名についてです。
 原題は、翻訳出版されている題名のように 「天皇の陰謀」 との訳がもっとも近いものと思います。ただ、いわば敵・味方という見方からはそうなるでしょうが、私を含む日本人側としては、「陰謀」 であろうが 「オープンな政策」 であろうが、それに巻き込まれた国民として、その当事者とされていることは間違いありません。つまり、その 「陰謀」 の影響が、同一文化の粘性に溶解し、自分のどこか一部に忍び込んでしまっているわけです。要するに、餌食化です。
 加えて、一般日本人は、そうした 「天皇の陰謀」 によってあやつられていたばかりでなく、さらにその天皇を利用し、天皇ごと日本全体をあやつってきている、アメリカの 「陰謀」 があるわけです。(後発国の王の弱みや腐敗を逆手どり、それを見逃したふりをしつつ結託し、王と国民の両方を支配する米の “手口” は、今もちっとも変わっていません)。そうした意味では、そこには二重の 「陰謀」 の餌食化があるわけです。
 そうした判断から、「陰謀」 との語句は用いず、二重性を重視して、「ダブル・フィクション」 としました。また、もし、「陰謀」 という語句にこだわるなら、「アメリカとの二重陰謀としての天皇」 とせねばなりません。
 それに、今日の資本主義制度自体が、競争という名の、姿を変えた大小無数の陰謀の巣窟でもあるわけで、こちらも、対抗陰謀に手を染めなければ、ということになります。この視点を加えれば、「三重陰謀」ということになりましょうか。
 ただ、私の翻訳版のそのもののタイトルには、他の翻訳と同様、 「天皇の陰謀」 としてあります。

 ところで、私は、このバーガミニという著者が、この 「謎解き」 にふさわしい人物なのかどうか、実はまだ断定し切れていません。少なくとも、全編を読み終えた後でないと、その判断は下せません。ですが、読まなければ知りようもありませんので、エイヤーとねらいを定めて、作業を開始しました。結果、ねらい外れだったとなる恐れもあります。

 今回、掲載した 「まえがき」 と 「著者から読者へ」 について。
 「まえがき」 を書いている推薦者は、終戦直後、戦争犯罪を裁いた東京法廷で裁判長をつとめた、オーストラリア人判事によるものです。
 東京法廷で、なぜ、天皇の訴追が行われなかったのか、その裁判側の事情を語っています。また、国際法において、戦争は、どこまでが適法で、どこからが違法なのか、その辺のアウトラインについても、よくわかります。
 ここオーストラリアから見ると、フェアー精神あふれるオーストラリア人らしい彼の人柄とともに、日本を左右した歴史の深層構造が垣間見られるイントロです。

 第二の 「著者から読者へ」 は、読んで字のごとく、著者からのメッセージです。彼のまじめで几帳面な人柄のあふれている文章であると同時に、彼がなぜ、この大仕事にとりくむこととなったのか、その経緯について詳しく語っています。
 彼の父親は築地の聖路加病院を建てた建築家で、彼は日本に生まれて8歳までを育ち、日中戦争に巻き込まれて家族ごと日本軍の捕虜となり、九死に一生をえて生還しえてゆく記述は息をのみます。
 戦争という大決定がどこかでなされ、その潮流に運命をさらわれた個人や家族の、現代史上のリアリティーが如実に語られ、彼がなぜこの仕事にとりくまざるを得なかったのか、よく了解できます。
 私もいま、外国で生活する身ですが、もしもですが、戦争に巻き込まれたと仮定すると、他人事とは思えないストーリーがそこに見出せます。逆に、そうした 「もし」 を引き起こしてはならないと、ひしひしと感じさせられる体験でもあります。
 また、著者バーガミニが執筆にあたった60年代末のアメリカから考えると、今日のアメリカは想像もできません。しかし、その民主主義の守護神であったかのアメリカが、半世紀近くもたつと、まるで司馬のいう 「鬼胎」 のように、この本が語る戦前の日本と大きく重ってくるような、歴史上のアイロニーとも言うべき変貌が見られます。
 著者は今でも存命中のようで、78歳ほどになっているはずですが、今日の自国アメリカを、どう見ているのでしょうか。
 つまり、彼にとって二重目の「陰謀」は、陰謀ではなく 「賢明な決定」 であったわけで、それは彼自身もそう表現 しています。
 ですが、彼はこの 「陰謀の二重性」 をどこまで認識していたかは、今後の読み進めで確認してゆかねばならない点です。
 また、日本は、戦後、平和国家を看板に、急速に経済成長をとげ、アジア第一の先進国となったわけですが、彼は、天皇が、そこまでも見通していたかに書いています。
 これは私の直感ですが、それは見通しというより、戦後の天皇は、アラブの王様たちのように、アメリカという、長いものに巻かれていた君主になりさがっていたのではないか。むしろ、バーガミニは、見通していたかに書くことで、アメリカの陰謀の二重性に目をつぶろう、あるいは、自国の優越性に酔おう、としていたかにも読めます。
 そこでですが、では、日本人として、敗戦の段階での選択は何が正しかったのか、という問いが浮かび上がってきます。
 仮に、天皇にも極刑が執行されていたとすると、日本は本当に混迷の極に達していたのでしょうか。
 ここから先は想像の世界ですが、その判決を契機に、天皇制を見直さなければならなくなったのは当然の結果でしょう (それで日本人が総くだけとなり、烏合の衆となった? それは陰謀側の宣伝で、そうはならなかったでしょう)。 むしろ、明治維新を契機に、政策的に利用されてきた天皇制が、そうしてむしろ江戸末期の非力な天皇制の状態に舞い戻り、天皇家が、自然な形で、普通の名家のひとつにもどっていく過程がみられたのではないでしょうか。
 むしろ、たしかに、当時避けられなかった共産主義の影響は受け、日本も朝鮮半島のように、二分される状況に至っていたかもしれませんし、いなかったかもしれません。もちろん、一人勝ちの経済成長もなかったでしょう。そうしたありえた状況を想像する時、先のエッセイ 「星友 良夫」 だった人について にも表されているように、朝鮮半島で現に生きてきた人々のリアリティーも、いっそう真に迫ってくるはずです。
 ともあれ、そうした選択をしようにも何にも、当時は、占領軍の命令がすべてを決定し、日本人に、歴史的方向を自己決定する自由はありませんでした。つまり、アメリカの国力の前に降伏した結果です。
 しかし、そうした無力状態が解消されて半世紀以上がたち、しかも、アメリカの国力の影響力にもかげりの見える今日、日本をめぐる 「ダブル・フィクション」 について思いをめぐらすのは、時宜にかなったことと思います。またそこで初めて、戦後の混乱期を、日本とは異なった環境の中で生き抜いてきた他のアジア諸国との、共通基盤の形成が始まるのではないでしょうか。
 そうした考察のテキストとして、この 「訳読」 を続けて行きたいと思います。

 (松崎 元、2006年6月11日、23日一部修正)
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_00_df_01.htm

コメント [原発・フッ素27] 「世界が輸入禁止にしている食品」をチラシにしました (放射能メモ)  赤かぶ
63. 2013年9月26日 09:13:03 : MVEswqjBG2
★これはもう日常ニュースでなく犯罪報道
●週刊朝日「尿検査をしたら子供の体内被曝の深刻さが判明した」!
☆「セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度」
(週刊朝日2013年10月4日号)
★はなゆーさんブログ 2013年9月26日木曜日
http://alcyone-sapporo.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5760.html
http://dot.asahi.com/wa/2013092500046.html
http://archive.is/8JniQ
「初めの10人を終えたとき、すでに9人からセシウム134か137を検出していました。予備検査を含めた最高値は1リットル当たり1.683ベクレル。
参考までに調べた大人は2.5ベクレルという高い数値でした。
いまも検査は継続中ですが、すでに測定を終えた85人中、
約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《福島県の子供たちが公費で「尿検査」を受けられない理由》
☆福島第1原発事故 健康調査検討委、内部被ばく議論を当初削除 矢ケ崎克馬・琉球大名誉教授の話
(毎日新聞2012年11月20日)
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20121120ddm041040114000c.html
http://www.webcitation.org/6FmZQOqEc

一般的なWBCは放射性物質を検出できる最低値(検出限界)が尿検査よりも50〜60倍高く、「不検出」になるケースが多い。将来的に健康被害が生じても、尿検査を実施していなければ内部被ばくの記録がなく、被害者の切り捨てにつながりかねない。県が尿検査を巡る議論を除いていたのは被害を低く評価するため尿検査を見送りたい本音を見せたくなかったからではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《南相馬市は子供たちの「尿検査」をしないままで強引に「安全宣言」を出した》
☆南相馬の子ども「異常なし」 3千人を内部被ばく検査
(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092401001568.html

コメント [リバイバル3] 天皇と陰謀 第一部 戦争と報復 第一章 南京強奪(その1) BRIAN ENO
01. BRIAN ENO 2013年9月26日 09:14:41 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
ダブル・フィクションとしての天皇   (第2回)

 まず初めに、この「訳読」を始めて、思わぬ発見をしています。
 というのは、一語、一語の意味をあれこれと考えながら訳してゆく作業は、日本語で快調に読み進めてゆく際には決して経験できない、異国語が表そうとしている意味が一体何だろうかと苦心惨憺する、極めて余分な迂回作業を伴います。そしてこの迂回作業を行うことは往々にして、自分が語られている場面の当事者となり、そこに自分が置かれていたらどうだろうといった、派生的ではありますがそうとう厖大な想像作業にも取り組むことになります。そして、昔読んだ本を引っ張り出したり、図書館へ行ったり、グーグルしたりしながら、なんとか納得できる訳語、訳文をひねりだしています。つまりそれは、そこに書かれた現実を疑似体験する作業にも似て、たとえば今回の場合、「南京強奪」に自分がおかれれいたら、どういうことになっていただろうななどと、苦い想像をめぐらしたりもしています。
 そんな迂回作業の中では、考え方として、この本の著者とはまったく反対の立場の見解とも多く出会い、そういう意味では、時間はかかるものの、幅広い知見をうることにもつながっています。

 また、これも、この訳読作業をはじめてから気づかされたことですが、今年は、いわゆる「東京裁判」の開始から60周年にあたり、日本では、それを記念する行事も行われているようです。先に私も、こちらで定期的に日本関連の資料を閲覧している Japan Foundation の図書館で、『SAPIO』の6月28日号、「東京裁判その60年目の亡霊」と題した特集号に目を通しました。お陰で、今回のこの翻訳の冒頭に出てくる観音像が、「興亜観音」という名であることも判り、また、その写真にも接しました。

 さて、いよいよ今回より、本文に入ってゆきます。
 今回のタイトルは、「第一部 あだ討ちの戦争 第一章 南京強奪(その1)」です。「その1」としたのは、第一章をまるまる載せるとサイトのページとしてちょっと重たくなりすぎ、二つに分けたためです。「その2」は、来月号に掲載します。
 そこでまず最初に述べておきたいことですが、中国との戦争について、私の基本的見方は、(日本がそうせずともいずれどこかよその国がそうしていたことはありえたとしても)、それが明らかに侵略戦争で、国際法上から言っても違法であったことです(国際法が有力国同士の都合のよい取り決めであったとしても)。それだからこそ、もうひとつ加えておきたいことは、対中国戦争と同時並行することとなった、真珠湾攻撃に端を発する対米国戦争を、(自衛のための戦争であったと主張する意図とは違いますが)、西洋諸国との外交的駆け引き、ことに対中侵略に関して国際的孤立に追い込まれた日本が、挑発に乗せられ、博打を打つように始めた戦争であったことです。つまり、それほど、 “うぶ” あるいは “うかつ” であったことです。
 私個人の見方としては、 “うぶ” でも “うかつ” でもなかった場合、いずれの戦争もしないですます選択はあったと思います。ただ、他方、純粋かつ限定的な自衛戦争はあったかもしれません。
 私がこうしてこの本を訳読しつつ追求したい最大のねらいは、中国侵略から対米戦争そして広島・長崎に終わるこの一連の戦争時代を引き起こした、その真の “からくり” を解き明かしたいからです。そしてもしそこに、だれか決定的人物が絡んでいたとするなら、その人物がなぜ、そう行動したのか、それをもたらした精神のメカニズムまで踏み込んでみたいからです。それを知らないでは、どうも今日の日本の真相についても、つかみ切れないのではと考えるからです。
 もちろん、この本を選択したことは、「その人物」を天皇とねらい定めているわけですが、彼を、たとえば、私の知っている誰かといった次元に置いて、特別な人が特別なことをしたというのではなく、その人がいったい、どういうたぐいの人物だったのか、そういう考察を経ないでは、その解明に迫れないと思うからです。
 ひっくり返して言えば、選挙も、あるいは他の公明な選出手続きも経ないで、そういう特別扱いされる人が私たちの頂上に座していた、あるいは、今なお座している、それを受容する私たち自身の精神的メカニズムも、それを通して解析することができるのではないかと思うからです。

 著者のバーガミニは、この第一章の冒頭の「慈悲の聖地」と「日本と中国」との二つの節で、彼の考え方を要約しています。まず、第一の節で、松井岩根という、南京攻落の総司令官を紹介、その本人としては不承々々の仕事にも拘らず、その責任を科されて戦犯として処刑された不幸な運命に、前回の「著者から読者へ」に書いているように、著者も同情を寄せています。
 第二の節で、日本による中国への侵略は、昭和(裕仁)天皇の曽祖父の代、つまり、黒船来襲以来の天皇家の発想として、「紅毛野蛮人」たる西洋人追放のアイデアに根源があるとし、その侵略は、その観点から天皇裕仁によって綿密、周到に計画されてきたものだとしています。
 日本人ならだれしも、黒船前後の西洋からの押し付けの交易関係設立の圧力は、手前勝手で反発に値するものです。そうした意味で、西洋の横暴を共に排除した一つのアジアの成立という思想は自然で、理念的には、東西対等の関係を基盤とする、今日のアジア諸国の共通な思想にも通ずるところがあると思います。
 そうは言っても、当時といえども、もはや地球は狭く、西洋との関係なしで過ごす訳にもゆかず、そうして強制されながらも始まった西洋との関係で、日本はいち早く西洋化を取り入れて植民地化を回避し、東洋の光明ともなjりました。そして、中国からも、蒋介石といった留学生を受け入れたり、孫文の亡命先にも選ばれるようになったわけです。
 このあたりまでの日本が、どうして、「南京強奪」を経て、鬼の日本人にならなければならなくなったのか。著者のバーガミニも繰り返し言っているように、この変化はただごとではない大いなる謎で、この辺の板ばさみを生かされたのが、たとえば上の松井岩根でした。
 孫文が、その死の前年の1924年、神戸で行った、「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義に対した東洋全体の平和思想を説き、日中の友好を訴えたものでした。日本は、残念ながら、それに応えないばかりか、むしろそれに敵対する進路をとりました。これはもちろん後知恵ですが、その辺からの、日本の選ぶべき別の道は、確かにあったのではないかと思えるわけです。
 そしてそれは、今日のアジアでの日本の、孤立化に向かうかの進路についても言え、過度な西洋化(今日では米国の属国化)が、再度の過ちを生みかねない、歴史の繰り返しが見られんばかりの情勢です。
 今回の訳文に描かれているように、それにしても、1930年代後半に為されたすさまじいまでものごまかし。このいんちきが、さらに戦後に上塗りされ、今日の日本に至っているはずです。

 (松崎 元、2006年7月12日)
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_df_01.htm

コメント [政治・選挙・NHK154] 「消費増税」と「復興法人税」で“対立”演出 安倍と麻生の三文芝居 佐藤鴻全
04. 2013年9月26日 09:15:18 : 1GlvLASJJs
消費税増税騒ぎは安倍首相の芝居だった
と書いた毎日
  
 =============================================================

 いまでこそ安倍首相は10月1日に消費税増税を予定通り行うという
ことが既成事実となった。

 しかしついこの前までは、安倍首相は本当に消費税増税の決断ができ
るのか、アベノミックスの成功を優先させるために景気の腰折れを招く
ような消費税増税は先送りするのではないか、などという憶測が
メディアを賑わせた。

 ところが消費税増税延期の選択肢など安倍首相にははじめから
なかった。苦しんだ末に苦渋の決断をしたと思わせる安倍首相の巧みな
策略だった。我々はそれにまんまと騙されたのだ。そういわんばかりの
記事を9月25日の毎日新聞に見つけた。

 「水説」というコラムで専門編集委員の倉重篤郎氏が「政治マジック」
と題して要旨次のように書いていた。

 消費税増税先送りという選択肢はそもそも安倍政権にはありえなかっ
た。昨年8月に成立した税と社会保障の一体改革関連8法案は野田民主
党政権下で当時野党の自公両党の意見を入れて成立した経緯がある。
先送りなら法案修正と使途の再精査が必要になる。その上で法案修正が
必要となる。自民党内で政務調査会、総務会といった党内手続きを得る
必要がある。その上でさらに野党の理解を得なければならない。しかも
ハードルは政治的な面だけではない。先送りすれば財政規律への意思と
能力がないとマーケットに判定され、かつてない経済混乱に陥るリスク
がある。このような膨大な政治エネルギーと経済リスクは、経済再生を
急ぐ安倍政権にはとうてい背負いきれなかった、というわけだ。

 そう述べた上で、倉重専門編集委員はそのコラムを次のように締め
くくっている。

 消費税増税先送りの選択肢はなかったにもかかわらず、もしかしたら
先送りもありうる、と思わせたところに安倍首相の巧みさがあった。
増税に慎重な学者、財務省OBを使って議論を蒸し返し、メディアも
その気にさせ、最終的には首相裁定という舞台づくりに成功した。
その結果安倍首相は、財務省に最後まで圧力をかけ続け、法人減税を
勝ち取り、「野田増税」を「野田・安倍増税」に変える事に成功したと。

 もしこの倉重専門編集委員の見立てが正しければ私も含め多くの国民
は一杯食わされたことになる。

 いや、メディアの多くも振り回された。

 しかし、それでも私は安倍首相のそんな策略は裏目に出ると思う。

 どうせ消費税増税をやるなら、あれは菅首相が言い出し、野田首相が
決定した民主党政権下の政策だ。

 世界の期待を裏切ってマーケットの混乱を避けるたけには一度やって
みるしかない。

 その結果、国民経済が悪化すれば民主党政権の誤りを改めることを
憚らない。

 そういって、いつものようにすべて民主党政権の非にすればよかった
のだ。

 これこそが究極の策略である。

 見ているがいい。消費税増税が現実になれば国民経済に与える悪影響
が噴出する。

 間違いであることが証明されることになる。

 その非を安倍首相はかぶることになる。

http://blogs.yahoo.co.jp/hellotomhanks/64186357.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 徳洲会事件と辺野古海岸埋め立てをつなぐ点と線 (植草一秀の『知られざる真実』)  笑坊
05. 2013年9月26日 09:15:24 : 7a485pUwzQ
このような情報が思考の幅を広げて繰るので助かります。
コメント [政治・選挙・NHK154] 徳洲会事件、怯える大物たち 副大臣・政務官人事に飛び火 特捜部は失地回復狙い(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
09. 2013年9月26日 09:15:45 : nNPddbW4SY
>>07

司法試験とらずに地検に入ってもな〜(笑)


コメント [リバイバル3] 天皇と陰謀 第一部 戦争と報復 第一章 南京強奪(その1) BRIAN ENO
02. BRIAN ENO 2013年9月26日 09:16:44 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
  ダブル・フィクションとしての天皇   (第3回)

 今回の 「訳読」 から、いよいよ、「南京強奪」 の醜い部分へと入ってゆきます。
 すなわち、いわゆる 「南京大虐殺」 のその場面の記述に入って行くわけで、正直言って、訳読するだけでも、苦痛を伴わないでは終わらない作業です。時には、気が重く、放っておきたい気分にもなります。
 日本人にとっても、中国人にとっても、極めて重大な歴史的問題であるこの 「南京事件」 (ここではまず、ニュートラルにそう呼びます) について、その 「事件」 そのものの記述でありますので、訳読といっても、そうは容易には通って行けない部分です。

 本論に入って行く前に、少々、私の体験談を。
 実は私、1999年5月、この南京を訪れたことがあります。
 9日間をかけ、上海から、黄山、九華山をへて、南京に立ち寄り、再び上海に戻って帰路に着いた時のことです。
 その南京で一泊し、その短い滞在の間、あえて選択して、虐殺記念館 (正式には 「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」 ) を訪れました。
      

 写真のように、同記念館は、その正面壁に、館の名称の代わりに、「300000」 の数字が大きく描かれた、ちょっと独特のデザインが施され、市の南西のはずれに位置していました。長江(揚子江)の川岸に近い、昔なら相当さみしそうなところです。多くの死体が発掘されたその場所の上に建てられたとの説明がありました (翻訳を読んでいただくと判るように、そこがなぜその場所であったのかと符合します)。そして、実際に、骨が半分埋まった、発掘現場そのものが展示場として組み込まれていました。
 入り口には、同館を訪れた日本人の記帳や記名リボンがあり、修学旅行らしい学校名も見られる中、首相村山富市の名もありました。
 当初、私は、その館の性格柄、あまり込んではいないのではないかと予想していました。ところが、いざ出かけてみるとそうではなく、たくさんの入場者が見られ、ことに、土曜の午後だったせいか、若い人たちのカップルが目につき、一種のデートの場となっているような雰囲気さえありました。
 ともあれ、私にとって、物見遊山な気分では決して行けない、しんどい場所でありました。

 今から69年前、私の生まれる9年前の、1937年12月9日、その南京への総攻撃が始まります。
 著者バーガミニの描写は、その惨劇を一日ごとに詳細に追ってゆきますが、それでも彼は、それは要約だと言いたげです。その描写と、私が7年前に接したその街の風景との、はるかに隔たった時間的距離を埋めようと、些細な符合を探るように、同じ場所でおこったことに想像力を集中しながらの訳読です。
 そこで私の関心が強く引き付けられるのは、南京攻落の作戦が、あたかも、二系統の命令下で実行されたかのような著者の記述です。中支那方面軍司令官の松井大将の発する命令に対し、前線の指揮官に向けて、あたかも横から差し入れられたかのような別の命令です。
 明らかに、松井大将の命令は、南京の陥落後におこる可能性のある兵士の軍紀の乱れを予想した先手を打ったものでした。それに対し、この松井命令を無視した無軌道な命令が前線で実行されます。
 想像するに、この松井命令が遵守されていたら、おそらく、後に「南京大虐殺」と呼ばれるようになる惨事は生じなかったと思われます。
 ことに、大量の捕虜の扱いについて、著者は、「全員を殺せ」 との極秘命令が、その非松井系の命令として出されていたと書いています。著者によれば、その命令の主は、この総攻撃の7日前に昭和天皇によって前線司令官に任命された朝香宮です。
 前回に書いたように、私は、この訳読を進めるにあたり、自分の認識の不足を補うため、できるだけたくさんの資料に目を通すよう努力しています。その中で接した今日の「南京事件」の諸研究においても、この二重の命令系統の存在は注目されており、それがなぜ生じたのか、いろいろな解釈がされています。ただ、バーガミニが書くように、それが朝香宮と断言しているものは、私の知る限り、彼以外にありません。

 そうした事実関係についての最終判断は、翻訳に目をとおし、読者自身で行っていただくとして、それにつけても、司馬遼太郎が指摘し、私が幾度もとりあげている、「鬼胎」 (あるいは 「奇胎」 ) の存在が、またしても、日本の昭和史の重要な場に登場しており、それが今度は、日本軍組織の中と、より絞り込んで認められるわけです。
 私は、この第二の非松井系の命令系統を、まだ訳読の始まったばかりの今の段階では、それが何かとは断定はせず、とりあえず、 《ルートX》 としておきます。
 改めて指摘するまでもなく、「南京事件」の発生や、「鬼胎」のうごめきは、この 《ルートX》 と密接に絡んでいることは確かで、したがって、繰り返しますが、もしそれがなかったとしたら、日本の昭和史の様相は、根本的な違いをなしていたと想像されます。

 以上、日本軍に関心を当ててきましたが、以下は、日本から目を転じて、アメリカに関してです。
 それは、この訳読をしていて発見したことなのですが、今回の翻訳部分の 「パナイ号事件」 のくだりをご覧ください。アメリカの第一次世界大戦への参加を決定付けた 「ルシタニア号」 沈没事件の記述があります。すなわち、しぶるアメリカ国民をヨーロッパ戦線へ駆り出すために、1915年5月のこの沈没が、ドイツ海軍潜水艦による、国際法を無視した一般商船への攻撃により、多くの米国人が残酷にも犠牲となったと宣伝することで、アメリカ国民の怒りに火を付ける役目を担わされた事件です。
 ところが、調べて見ると、この商船は、外見はそうであったようです (軍艦に改造する計画もあったようです) が、その時の航海には、173トンの弾薬を積んでおり (海事保険契約書で確認されている)、それをヨーロッパへ運ぼうとしていました。つまり、国際法上、攻撃をうけてもやむをえない航海であったわけです。
 そうした積荷のため、ドイツ潜水艦の魚雷を受けた後、続いて大爆発を起こし、船は沈みます。
 アメリカ政府は、この二度目の爆発の真相を隠し、船の燃料である石炭の粉炭による爆発とごまかし、上記のようなストーリーを作り上げました。
 著者のバーガミニは、揚子江でおきたパナイ号の沈没が、同じような政治的手段として利用されたと分析し、1915年におきたこの 「ルシタニア号事件」 との類似性を指摘しています。
 私はさらに、この二つの事件の類似性ばかりでなく、これから生じる、真珠湾攻撃とも、あるいは、最近2001年の9.11テロのそれぞれの役目とも、いずれも酷似していることに注目します。
 確かに、世界をリードする民主主義国家であるアメリカが、やっぱり戦争はいやだと参戦を渋る国民を奮起させるために、国民が民主的にそうした方向に向かう結果となる、何らかの契機や働きかけが必要でしょう。それを、自然な出来事に期待するのか、それとも、それにふさわしい出来事を意図的に起こすのか、その違いは大差ないとするどころか、後者が頻繁に使われているようであることが、どうやら、政治の世界の常識的奥義のようです。
 当時、民主主義国とは到底言えない日本が、そうしたアメリカの “宿命” にまで理解がおよんでいなかったのは当然かもしれません。しかし、そうした限界の範囲内であったとしても、何を目的として、そこまでもの非情な手段をも用いて戦争拡大に突き進んで行く必要があったのか。 
 今回の翻訳の範囲内では充分に説明されていませんが、松井岩根は、孫文の 「大アジア主義」 の構想 (孫文は,、「中国なくして日本なし、日本なくして中国なし」 と提唱した) に共鳴し、彼亡き後も、その弟子、蒋介石を援け、また、中国各地の軍閥首領とも、実際に出かけていって掛け合い、その実現のための基盤作りをしていました。(そうした実績があったからこそ、昭和天皇は、退役中の彼を呼び出し、勅令で彼を中支那方面軍司令官に任命したのでしょう。)
 これは私の勝手な想像ですが、松井岩根と孫文が友誼とともに描いた日中協力の構想が、もし実を結んでいたとするならば、今日のアジアの姿、ひいては世界の姿はどうなっていたのであろうかと、オーバーヒートしそうな空想を廻らしてしまいます。
 言い換えると、そうした 「協力」 の “ふり” をした、あるいは、その実現に心魂をなげうつ人々を “利用” すらした、 《奇怪な意思》 がそこに働いていたと見るしかありません。
 そうした視界から見ると、日本と中国との間には、その 《意思》 の結果による、無残かつ悲惨なボタンの掛け違いが発生してしまっており、他方、それをはめ直す可能性が確かに存在していると思えます。もちろん、《ルートX》 の解明とも合わせて。
 言うまでもなく、私は、現在の日本と中国をひとつの国にしてしまえといった “まぼろし” を描いているのではありません。すでに、ヨーロッパ共同体をひとつのモデルとした 「アジア共同体」 の構想も提示されている今日、そうした実際的で成熟した近隣関係を念頭に置きつつ、他方、日本国内で生じている逆方向の “まぼろし” に強い懸念を感じ、かっての 「日中協力の構想」 に、むしろ、いっそうの現実味を見出しています。

 なお、今回から、翻訳に「巻末脚注」を加えました。この脚注は、主に記述情報の出所を表したもので、それに関連し、「参考文献」も、あわせて加えてあります。この二つの資料部分は、著者バーガミニの稀有な主張の根拠となっているもので、ないがしろにはできない部分です。読み手にとって(訳読者にとっても)煩雑な箇所ですが、その重要性から、忠実に訳出しました。また、こうした脚注から、英訳される前の、もとの日本語表現が確認された部分もあります。
 また、これらの資料部分は、今後、「訳読」 の進行とともに、それに対応する部分が追加されてゆきます。
 こうした一連の加筆により、前回までに訳出した部分にも相当な修正が加えてあります。そこで、お時間のおありの方は、再度、お目を通されるようお薦めいたします。いかに著者が資料に忠実であるかが確認できるかと思います。(ただ、いくつかの箇所で、著者の脚注が過疎なところが発見できます。これについては、また改めて議論したいと思います。)


 (松崎 元、2006年8月15日)
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_01_df_02.htm

コメント [政治・選挙・NHK154] 全体像見て早急な解決を=慰安婦めぐる本、論議に一石−韓国  時事通信 ダイナモ
06. 2013年9月26日 09:17:13 : 0Sw0HNgyBI
日英対訳「アレン・アイルランド著『The New Korea』1926年刊」
桜の花出版、2013年8月26日発行、¥2800

日韓併合分析が統計資料を基に詳細に論じられています.
日本の朝鮮統治の実態に興味のある方には
必読の書であると思います.


コメント [原発・フッ素33] セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度〈週刊朝日〉  赤かぶ
01. 2013年9月26日 09:19:43 : cKftockbJN
//測定を終えた85人中、約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています」(常総生協の横関純一さん)

おしっこは1日に7〜8回。
事故から 2年×365日
一回の検査で1ベクレル排出。

ということはだ 8×2×365日=5840ベクレルの体内摂取。

その2割は体内や血液に残り内部被曝ということだ。
体のなかで 放射線がからだをいじめて いる。


コメント [政治・選挙・NHK154] 太郎さんの街宣、コイズミの原発ゼロ、そして10/13集会 ( 反戦な家づくり ) 日だまりの老犬
05. 2013年9月26日 09:20:24 : 7a485pUwzQ
信用できない人間の言動を普段あなたはどう見ますか。
私は、ふ〜んと、そ知らぬふりで聞いています。
コメント [政治・選挙・NHK154] まさに人間のクズ!これが橋下徹の言動と行動だ! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
01. 2013年9月26日 09:20:38 : tVCHeY44t0
漫画「家裁の人」のハナブキ弁護士のモデルはこの人?
コメント [原発・フッ素33] 小出氏提案の石棺方式は現実的ではない。 taked4700
26. 2013年9月26日 09:21:06 : ySSn0cr5PM
脱字、誤字があります。
すみません。よろしく。
コメント [政治・選挙・NHK154] 〈スクープ最前線〉安倍政権脅かす2つの爆弾 政界スキャンダル、忍び寄るテロ 売国奴が存在(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
10. 2013年9月26日 09:22:59 : gf4gGIfLFY
この加賀は権力の走狗です。
権力者側にっ語彙のよいリーク記事です。
しかし中韓に秘密情報を提供とは
政府は国民に知られていけない情報を隠しているということだ。
コメント [原発・フッ素33] 東電の広瀬直己社長は、有力OBの「水力発電に戻ろう」という声を無視、柏崎刈羽原発再稼働に固執する (板垣 英憲)  笑坊
01. 2013年9月26日 09:24:47 : 1GlvLASJJs
2013年09月26日

泉田知事が柏崎刈羽原発再稼動を止めたら大したものだ


■□■□〖反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説〗
□■□
■□  天木直人のメールマガジン2013年9月26日第720号
□ 

 =============================================================

 泉田知事が柏崎刈羽原発再稼動を止めたら大したものだ
  
 =============================================================


 柏崎刈羽原発の再稼動について東電の広瀬社長と泉田新潟県知事の会
談が2ヶ月半ぶりに開かれ、その行方に再びメディアの関心が集中して
いる。

 報じられるところによればなお泉田知事は再稼動反対の態度を崩して
いない。

 原発反対の私にとっては心強い限りだ。

 しかし残念ながら泉田知事は最後は再稼動を認めることになるだろ
う。

 この再会談を報じる各紙の報道を注意深く読むと、すでにメディアも
その事を知って書いているごとくだ。

 なぜ私は「泉田知事は最後は再稼動を認めることになる」と思うの
か。

 それは、原発維持はもはや安倍首相にとっては決定済みの国策である
と思うからだ。

 そしてその背後にはもちろん米国の後ろ盾がある。

 原発維持が国策である以上、東電は潰せない。

 そのためには福島は廃炉しても柏崎刈派は維持しなければいけない。

 このことは先日安倍首相が福島入りをして東電幹部とあった時に決
まったしシナリオである。

 その国策を覆す唯一、最強の対抗策は、「原発はもはや人間性と共存
できない」という新潟県民の一致した声を味方にして、泉田氏が安倍首
相に主張することだ。

 それがない。

 安全性や手続的なことばかりを反対の理由にしているといずれ行き詰
まる。

 「東電は金儲け優先なのか」といった左翼の受け売りのようなことば
かり言っているといずれ批判が起きる。

 メディアはそれを見越して、いずれ泉田知事は認めることになる事を
知っている。

 繰り返して言う。

 原発推進という国策に対抗するには、もはや原発は人間性と共存はで
きない、福島原発事故を起こした日本では原発はもはや無理だ、という
正論を掲げて反対しなければいけないのである。

 そしてそれを新潟県民が一致して声を上げなければいけないのだ。

 もっとも、時間稼ぎをしているうちに、汚染水問題や被曝問題などで
福島原発事故の矛盾が同時多発的に噴出し、もはや安倍政権は柏崎原発
再稼動どころではなくなる。

 それを見越して返答を留保し、結果として柏崎刈羽原発停止にもって
いく。

 そのような遠謀深慮が泉田知事にあれば大したものだ。

 当分は泉田知事と東電の攻防から目が離せない(了)

http://www.amakiblog.com/archives/2013/09/26/#002715

コメント [社会問題8] JAL本社前抗議行動に怒りの300人/日本航空はただちに整理解雇を撤回しろ!(レイバーネット) gataro
730. 2013年9月26日 09:24:59 : nTH6rt7bsY
仕事を紹介してくださいと言ったが、瞬間クリスタルメッタです。
今時正社員なっても良いことありません
コメント [音楽12] Piano Trio N° 2 (IV.) ショスタコーヴィチ 五月晴郎
03. 2013年9月26日 09:26:13 : xFyTerZR6s
これ、映画音楽にも影響を与えたんじゃないの?ゴッドファーザーで血まみれの馬の首が出てくるシーンとか(笑)


記事 [音楽12] エレンの部屋でのリック・スプリングフィールドで「ジェシーズ・ガール」






http://www.asyura2.com/13/music12/msg/571.html

コメント [原発・フッ素33] セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度〈週刊朝日〉  赤かぶ
02. 2013年9月26日 09:26:35 : I7tA4x2jTM
とにかく、一刻も早く、福島及び周辺の県の農産・海産物の生産・出荷停止をしてほしい。テレビでは、食べて応援など、ふざけている!
コメント [政治・選挙・NHK154] 「10年民主党代表選での重要疑惑」(EJ第3639号) (Electronic Journal)  赤かぶ
01. 2013年9月26日 09:31:14 : Ez264JDDpM
菅陣営、因果応報。
天の報いを受けてください。

お天道様は見ておいでです。
小沢一郎に期待しています。

悪い奴は、最後は裁かれる。
クーデター陣営5人衆は消え去るのみ。
菅、岡田、野田、前原、仙石、ほかに小物(-財務大臣、-外務大臣)
国民の約束をほごにした政治家は、落選ささないといけませんネ。

コメント [政治・選挙・NHK154] 堺市長選 石原ブチ切れ、維新ドツボ (日刊ゲンダイ) 「失礼なヤツだ。出てこい」石原共同代表  赤かぶ
38. バイク乗りの流浪人 2013年9月26日 09:35:11 : B/csDM0pqrQHg : PzJPaX9sjw
>>33
天皇はもともと京都の出だから
「京へお帰りやす」で正解なのだ。
元兇は朝廷を担ぎ出した
亜細亜分断をを狙う
欧米の白豚猶太連合の操り人形薩長の巧妙で悪辣な
やり方に引っかかり権力ほしさに欲が眩んだ
浅ましい田舎根性丸出しの
連中の所為である。特に現総理の
アへも先祖はあの長州。しかも
ここは幾人もの猶太傀儡の操り人形
首相を出している曰くつきの土地なのである。
恨むなら白豚猶太連中と薩長を恨め。
コメント [政治・選挙・NHK154] 「10年民主党代表選での重要疑惑」(EJ第3639号) (Electronic Journal)  赤かぶ
02. 小沢主義者 2013年9月26日 09:36:02 : 7wZirE2El0uhY : Od3zRGIrsM
政治家にとって、お天道様とは有権者のことだ。
有権者は見ておいでだ。
小沢一郎氏は有権者に裁かれて無力になった。

コメント [医療崩壊3] 子宮頸がんワクチン接種後、171人の生徒で強い異常!一方、婦人科学会などは「接種勧奨」再開求める要望書提出へ!  赤かぶ
06. 2013年9月26日 09:36:46 : n1SbXziAgo
4さん、

確かに日本社会は冷酷で苦しんでいる人々をさらに追いやる仕組みやそれに群がる
フクシと名のつくお仕事の方々がいます。

しかし、このものすごくおかしい国に対抗するためには仕方のないことだったのではないでしょうか。
莫大な広告費を使ってそれ認可をする専門家にまで裏金を渡してもなおあまりあるワクチンビジネス。
そんなことなど調べようともせず(もしかしたらワクチンビジネスの手先なのかもしれませんが)に、医師や保健師などが、行政という権力を使って進めてきたのです。
ちょっとやそっと被害の訴えではびくともしないでしょう。
これだけの被害があってもワクチン接種を中止にはしていません。
やれ、因果関係がどうのこうの、、やれ、実名でないものはデマだとか。
そういうひどい国にいる、この現実に被害にあった者たちはだまって地獄の
苦しみを味うか、とことん抵抗しながら地獄の苦しみを味うか、どちらかしか
選択の余地はないのです。

コメント [原発・フッ素33] 魚を食べるのは自己責任になりました (生きるため)  赤かぶ
157. 2013年9月26日 09:37:09 : wBe2EkcLBM
>>154続き
>>148に書いている、これも噓です。

>Ludlum 44-10 (S/N 11896)

悪用されるので詳細は避けます。このシリアル番号の44−10は存在しません。彼と同じ様に、何かが足りないのです。

bv6eDeDlJo あるいは一人二役 nbLx0eVkgs は、Ludlumを見聞したことはあるのかもしれませんが、使ったことはないのです。

何故ならば、使う前には、だれでも説明書に目を通すはずです。説明書を読んだ者ならば、当然知っているはずのことを知らないからです。

Ludlum 3-97は、プローブがなくても、これだけで放射線を測定できます。

Alpha Spectra社の名前を出したことも、ある意味、墓穴を掘りました。Alpha Spectra社の製品は、Ludlum社より厳重に管理されています。日本国外国内を問わず、所有している「機関、施設」は限られています。

同じ人物でしょうか。相も変わらず、くだらないスペキュレーションを繰り広げています。スペキュレーションには、何事も証明する力がないことは言うまでもありません。


コメント [政治・選挙・NHK154] まさに人間のクズ!これが橋下徹の言動と行動だ! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
02. 2013年9月26日 09:37:46 : Ez264JDDpM
維新の会;橋下を信用する人は、最後は裏切られます。

橋下にまともな政治理念があるとはとても思えない。
大阪市を立て直してみなされ!悪くなる一方だ。
これでも信用するのか?

橋下は、在日、解*部落、ヤクザの塊。
維新の会は、日本破壊部隊である。
隠れた自民党別部隊であることに気付いてほしい。

記事 [音楽12] シカゴで「ダイアログ」ライブ 1972


昨日、投稿した
ウィシュボーン・アッシュの映像とパフォーマンスにも
同じコメントを書いたが、


映像も音質も決してよくはないが、
若かりしシカゴのオリジナルメンバーの、
ひたむきな姿が伝わってくる・・


音と映像である。

http://www.asyura2.com/13/music12/msg/572.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相はなぜウソをついてしまうのか?(週プレNEWS)  かさっこ地蔵
25. バイク乗りの流浪人 2013年9月26日 09:42:17 : B/csDM0pqrQHg : PzJPaX9sjw
>>19
アへ本人乙!!WWW
「触れないで欲しい関係がある」WWWW
記事 [自然災害19] ペルーでM7.0
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/detail-20130926014822.html

発生時刻 2013年9月26日 1時43分頃
震源地 南米西部
(ペルー沿岸)
位置 緯度 南緯 15.8度
経度 西経 74.5度
震源 マグニチュード M7.2


震源深さは40キロの模様。


http://www.asyura2.com/13/jisin19/msg/303.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相はなぜウソをついてしまうのか?(週プレNEWS)  かさっこ地蔵
26. 「生活党応援団」 2013年9月26日 09:49:47 : gx0s7Tp1IhHJo : Y7Mtckys0w
残念ながら汚染水問題は解決不可能と断言してもいい。
なぜなら水で冷やす以外の方法をみつけなければ根本的解決につながらない。
早晩世界からつきあげられて「ぼくちゃんやめまーす」ということになるでしょう。


コメント [原発・フッ素33] 福島原発行動隊の山田恭暉氏「私は放射能汚染野菜でも食べます」⇒その後、食道がんで手術・・・  赤かぶ
41. 2013年9月26日 09:50:40 : dhP8PeKxvk
>>40
それに・・
あっち側のじじばばに限って妙に長生きしてるよね。95歳超えたのがうーじゃうじゃ。

コメント [原発・フッ素33] 魚を食べるのは自己責任になりました (生きるため)  赤かぶ
158. 2013年9月26日 09:51:17 : ynjiixdvLI
>157
>Ludlum 3-97は、プローブがなくても、これだけで放射線を測定できます。

あなたの眼は節穴か、それとも此処に集う人を騙そうとしているのか?
148の「Ludlum 3-97自体シンチ内蔵ですよw」の意味が分からないのか?この期におよんで見苦しい。
「これ自体がシンチ内臓」とは、これ単独でも放射線を測定できるという意味だろう。違うか?

放射線測定器を探しに、時々ebayを覗いている。Alpha Spectraも堂々と出品されているよ。しかもShip to Japanだ。

私は決して貴方の行為を許さない。

コメント [経世済民82] オバマ大統領の求心力低下 金融規制改革法は“風前のともしび” 森岡英樹の金融スクープ(ZAKZAK)  かさっこ地蔵
02. 2013年9月26日 09:52:41 : Ez264JDDpM
アメリカの金融資本家の銀行をつぶさない。

市場原理主義ならつぶれるはずであるのに、破産するとなると
市場原理を取り外す。勝手な奴らだ。

不良債権問題で日本、韓国党の銀行を攻撃し収奪した。
金融派生商品(デリバティブ)の崩壊では、国から支援を受け、金融緩和政策をとる。生き延びるために、、、、いい加減な1%達よ。

国民の正義の力で、財閥解体を図り、アメリカに正義を取り戻せ!
これができないと、アメリカ国自体が破綻する一方でないか?。

コメント [政治・選挙・NHK154] 日本はサルの列島に成り果てた[斎藤貴男「二極化・格差社会の真相」](日刊ゲンダイ)  赤かぶ
19. 2013年9月26日 09:53:27 : k2iJnCyr2M
中国のデモで常に見かけたスローガンに「愛国無罪」が有りますが、日本では官僚がなすこと全てが「愛国無罪」であり、よくよく考えてみればそのような筈はなく、今や日本にとって官僚は「国民に巣食う寄生虫」でしかなくなったことは国民の実感としてあるはずです。
今では日本国民の汗で霞が関を養っていると言えるでしょう。顕著なのは天下りです。国民から搾り取った税金を大企業に還元してそこへ天下る構造は今日の社会からは決して許されるはずはありません。
明治維新の富国強兵政策は未熟な企業の援助として国家が介入していたはずですが、今日の日本企業は資金力及び経営力においても他国の企業に劣ることはなく、経営技術も霞が関の比ではありません。霞が関は国が集めた税金と国家に集中する情報を売り物にして天下っているだけと考えられるでしょう。しかし、その税金は国民のお金であり、情報は国民の情報であって官僚が独占して天下りのお土産に利用しているとしたら許されるものではありませんが、「愛国無罪」がまかり通る官僚システムではどうにもならないでしょう。
政治がしなければならない課題ですが自民党にそれが出来ますか?
記事 [経世済民82] マック社員、パワハラで入院&自殺未遂、訴訟へ「去年も一人自殺。労災認められない」(Business Journal) 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130926-00010004-bjournal-bus_all
Business Journal 9月26日(木)4時29分配信


 日本マクドナルド(以下、マクドナルド)本社の社員が上司からパワハラを受けたとして、東京地裁で係争中の事件がある。

 訴状や証拠書類によると、原告のA氏(仮名/40代)は、1991年に新卒でマクドナルドに正社員として入社。以後、本社社長室などを経て、11年7月1日から人事本部店舗人材開発部に異動した。異動先の上司にあたる部長は、B氏(仮名)だった。

 異動から1カ月後の同年8月、A氏はB部長に、「高校生新卒と障害者の採用を担当できない?」と言われた。そのときA氏は、新しい業務を覚えている真っ最中だったので、「今は無理です」と断った。するとB部長は「あっそう」と言って立ち上がり、背中を向けて立ち去った。

 それ以降、B部長の態度は一変した。同月下旬、社内システムがダウンすると、B部長が、A氏に向かって、「なんでそんなことになっちゃうの」「ったく、ちゃんとしてよ!」「何とかなるんでしょうね!」と、周囲に聞こえる大声で叱責。
 
 翌9月には、前任者が出席していたグランドオープン会議、マックデリバリーサービス会議といった会議にA氏が出席することを禁じた。そして同11月には、人事本部全体の会議でC本部長(仮名)が、マクドナルド社内で長く店長などを務め年齢が高い社員のことを「ブロッカー」と称して、「ブロッカーは後進の道を妨げている。こういった人はモチベーションが低い」と発言。

 それから数日後、B部長がいきなりA氏に「ところでAさんの旦那さんって、何している人?」と聞いてきた。

 A氏の夫は、マクドナルドの社員でAMD(エリア・マーケット・ディベロッパー)から、店長の下の役職であるマネージャーに降格していた。そのことを説明すると、B部長は「えー、そうなの、それじゃ『ブロッカー』みたいじゃない」「私なら、『あなたの輝けるところは、ここではなくて、他にあるんじゃないかなあ』とか、別の言い方をするわ」と、夫を侮辱した。

 その頃から、A氏の精神状態は悪化し、手がたまに震えたり、意味もなく涙が流れ止まらないことが多くなる、といった症状が現れた。

 さらに同年12年1月には、「PDS(パフォーマンス・ディベロップメント・システム)」という、社内の評価システムが実施された。これは、従業員と会社の間で目標を合意し、中間面談などを経て、毎年4段階で評価されることになっていた。B部長はA氏に「4段階で2(機会点【編註:問題点、課題点】あり)の評価」と告げた。そして、一方的に「どうして、そんなに他責なの。人のせいにしないで!」とA氏を叱責し始め、それは1時間以上にも及んだ。

 翌2月には、A氏がある仕事でミスをすると、B部長は「ったく、何やってんのよ」「4時間でできるでしょ」と命じた。A氏は愕然とし、「無理です。プロである業者がやって2週間の納期の見積もりが出ている作業を、私一人でそんなに短い時間でするのは、無理です。そんな能力はありません」と必死に訴えたが、B部長は「何キレてんのよ」と責めた。

「キレてません」、そうA氏が言った途端、突然A氏の目から涙がぼろぼろこぼれ出し、そのまま声を上げて泣き崩れ、しばらく立ち上がることができなかった。A氏はその時、これまで必死に我慢して耐えてきたものが、一気に押し寄せてきたように感じ、自分の心が壊れたような感じがした。

●入院、自殺未遂に発展

 その後、A氏は精神科で「適応障害、抑うつ不安状態」と診断され、12年7月から休職を余儀なくされた。同月下旬、クリニックの勧めで埼玉県内の病院に入院。

 8月中旬、一時外泊して自宅に戻った。そこで夫と子どもが暮らしているのを見て、A氏は安心した。その日の夜、A氏は眠らずに一人でリビングにいたが、安心と同時に「やっと楽になれる」と感じ、スマートフォンで「首つり自殺」を検索し、自殺を決意した。そして、白い便せんに遺書を書いた。

 遺書には、これまでのパワハラの経緯を記した上で、こうつづられていた。

「パワハラはみとめられず、おとがめなし、私は病院おくり、コンプラは意味なし、去年も一人自殺しているし、労災も、死なないと認められない」

 さらに、次の一文だけ下線入りで「Bさん うらみます、許さない」と記載。

 そして、「戦いたかったけど、もう気力がありません。大好きなマック、もう戻れない……マクドナルドをうらみます ■■■(※A氏の知人や子どもの愛称) ごめんね。お父さん お母さん 本当にごめん。でも、あなたが産まれた日 最高に幸せだった。 A」と記した。その後、麻ヒモを何重にもしてドアにかけ、イスに上り麻ヒモを首にかけ、首つり自殺を図った。その時、夫が気づき、間一髪でA氏の体を持ち上げて救命した。その後、A氏は病院に戻され、13年1月にA氏は復職し、他部署に異動した。

●会社を相手取り提訴へ

 A氏は13年5月31日、マクドナルドを相手取り、慰謝料など計1344万8827円の支払いを求め東京地裁に提訴し、係争中である。

 マクドナルド本社に取材を申し込んだところ、「原告の要求は事実関係を含め、当社の見解と大きなかい離があり、到底受け入れ難い内容です。法廷の場で事実関係を明らかにしていきたい」と回答。一方、原告のA氏には代理人を通し取材を申し込んだところ、「原告は現在、体調を崩しており、取材に応じることはできません」という回答だった。

 このパワハラ事件の今後の推移を注視していきたい。

佐々木奎一/ジャーナリスト



http://www.asyura2.com/13/hasan82/msg/654.html

コメント [政治・選挙・NHK154] 政府が最も国民に見てほしくない映画 精神医薬の副作用(サイドエフェクト) 国際評論家小野寺光一
01. 2013年9月26日 09:56:02 : I7tA4x2jTM
ある知人で、生活保護を受けている人ですが、病院では、生活保護を受けている人は唯一のお客様。うつ病だったのですが、おそらく過剰投与と思われますが、精神疾患となってしまいました。うつ病だったころ何度も薬止めるように言ったのですが、とにかく病院で手厚く優しくしてくれるからと言い大量の薬飲んでいました。いまではとても近寄れません。
コメント [政治・選挙・NHK154] 橋下市長、堺市長選で早くも“敗戦の弁”(日刊スポーツ)  かさっこ地蔵
29. バイク乗りの流浪人 2013年9月26日 09:56:33 : B/csDM0pqrQHg : PzJPaX9sjw
でも橋下が勝っても負けても
最終的に笑うのは永田町の中枢部なんだよね。
現職も痔民だし橋下や縊死原も言っていることは
多少の差はあれ痔民と略同じ考えだ。
  「悲しいけどこれ、現実なのよね」(byスレッガーロウ、笑)
コメント [政治・選挙・NHK154] 安倍首相 国内で消費税を増税し外国で大浪費 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
04. ピッコ 2013年9月26日 09:57:11 : ldyqn.PAmBFfI : JGbdyk4uAw
あの方は、豊田商事とか、昔からいろいろありますが、なんというか詐欺まがいの営業のお仕事をされたら第一級の能力をお持ちなのではないかと思います。 でも政治家としてはねぇ…。 第一、論戦がどうやら苦手らしいですし、相手から求められても逃げ回るしね。 アメリカでは「ディベート」といって、党首が1対1で相手を追及しあうテレビ番組があって、それを有権者は見て投票の判断をするのですね。 相手の追及をジョークを交えてうまくかわしたり、時には声が上ずって失態をさらしたり、その間のちょっとした顔の表情の変化など、その様子を見て有権者はリーダーとしての資質や人間性を嗅ぎとり、どちらに軍配を上げるか決めるのです。この国にはメディアが一通りあるにはあるのですが、十分な役目を果たしていないようですね。 だから国民は情報不足のため、その時々の周りの雰囲気で投票してしまう。 私はアメリカに5年住んでいましたので、アメリカの様子はわかるのですが、ほかの国、例えばドイツとかフランスとかには、アメリカにおける「ディベート」のようなものはあるのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃればお教えください。
コメント [政治・選挙・NHK154] まさに人間のクズ!これが橋下徹の言動と行動だ! (simatyan2のブログ)  赤かぶ
03. 2013年9月26日 10:02:15 : djSgbAp5ho
下種な大阪人の代表が橋下。
愚鈍な国民の代表が安倍。
当たり前すぎて面白くもない。
コメント [原発・フッ素33] 東電の広瀬直己社長は、有力OBの「水力発電に戻ろう」という声を無視、柏崎刈羽原発再稼働に固執する (板垣 英憲)  笑坊
02. 2013年9月26日 10:02:19 : 1GlvLASJJs
02.のコラムの内容から推測するに安倍首相が消費税増税を決定した場合に以前山本太郎にバッシングが起きたのと同じようなやり方で泉田知事にバッシングや醜聞の類を投げつけるような報道が始まるかもしれない。保守派の人たちは安倍おろしが始まると考えているようだが日本の大メディアの性格からして保守派の思想は攻撃せずより米国が好む新自由主義政策への転換を促すような動きをする可能性が高いのではないかと思う。消費税増税の強行やTPPの推進は原発維持のためのツールのような意味合いもあったのだからその点には注意が要ると思う。

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