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ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 23 日 22:36:58: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 23 日 11:15:03)

ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか?


フルトヴェングラーの名盤

Wilhelm Furtwängler site by shin-p
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー Kenichi Yamagishi's Web Site
http://classic.music.coocan.jp/wf/index.htm


▲△▽▼


モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/815.html

ベートーヴェン 『交響曲第2番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/850.html

ベートーヴェン 『交響曲第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html

ベートーヴェン 『交響曲第4番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/849.html

ベートーヴェン 『交響曲第5番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html

ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html

ベートーヴェン 『交響曲第7番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html

ベートーヴェン 『交響曲第8番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html

ベートーヴェン 『交響曲第9番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html

ベートーヴェン 『フィデリオ序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/855.html

ベートーヴェン 『レオノーレ序曲 第2番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/853.html

ベートーヴェン 『レオノーレ序曲 第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/854.html

ベートーヴェン 『エグモント序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/851.html

ベートーヴェン 『コリオラン序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/852.html

ウェーバー オペラ 『魔弾の射手』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.htm  

シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

シューベルト 劇付随音楽 『ロザムンデ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/858.html

ロベルト・シューマン 交響曲第4番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

ワーグナー 舞台祝典劇 「ニーベルングの指輪」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/812.html

ワーグナー 楽劇「パルジファル」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/813.html  
 
ブラームス 『ドイツ・レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/840.html


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作曲家フルトヴェングラーとは何であったのか?_宇野功芳 樂に寄す
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/482.html

宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13460] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:38:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1444] 報告

音楽と権力 −フルトヴェングラー1933〜1935年
三石善吉
https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2001/1.MITSUISHI.pdf

外国者から「ナチ」と非難され、そのためか えってナチ要人達は彼を味方と考えてしま う。他方、フルトヴェングラー自身は自己の 安全を確保するためには、亡命者達の攻撃= 非難が必要であった。かくして、ナチスも亡 命者達も、それとは知らずに、彼の真の目的 (「ドイツ音楽の保全」)達成を助けていた。 その意味で、彼はどちらからも本当に信頼さ れない「二重スパイ」の役を演じていた。

「こうして彼は何年間も、気を張り詰め、ほ とんど耐えがたいほど神経をすり減らされる 懊悩の世界に生きていた。ここにおいて音楽 家は、たんなる政治家以上のものだった。彼 はいつなんどき正体を暴かれるやも知れぬ ‘二重スパイ’だったのである」(プリーベル ク、132頁)と。 確かにナチス要人達は、後に述べるように、 フルトヴェングラーを全面的に信用していた わけではなかったが、ともかく権力をもって 強制的に取り込んだと思っていた。他方、フ ルトヴェングラー自身は断固自己の芸術至上 主義に依拠してナチス体制に反逆していると 確信していた。トーマス・マンら亡命者達は、 本国の苛烈な画一化を体験する事無く、はる か異国の「桟敷席」にあって、フルトヴェン グラーをナチスだと決め付けた。かくてナチ ス首脳も亡命者達もフルトヴェングラーを 「贖罪の山羊」とすることで、それとは知ら ずに、フルトヴェングラーの真の目的を達成 させていたのである。それにしても、両陣営 の苛烈を極める「攻撃」を耐えぬいて、自己 の目的の達成をはかろうとするフルトヴェン グラーの強靱な精神力には、その間幾多の心 の動揺があったのであるが、驚くべきものが ある。 本論文は、このフルトヴェングラーのナチ ス政権への「抵抗」の様相を(そしてこの果 敢な「抵抗」にもかかわらず彼は周囲からは ナチスに屈伏したと見做されるに至ったわけ であるが)1933年1月から1935年4月までの2年間ほどに限定して、ヒンデミット事件を 契機とする音楽界からの辞任、そして復帰に 至るまでの時間に限定して、やや詳細にたど ることにする。


2.フルトヴェングラー略伝

さて、以下ではこの天才的音楽家・演奏家 の生涯を簡単にたどっておこう。 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (Wilhelm Furtwängler)は1886年1月25日、 ベルリンに考古学者アドルフ・フルトヴェン グラーの長男として生まれ、7才の時ミュン ヘンに転居(父がベルリン大学からミュンヘ ン大学考古学の教授に移ったため)、初め公 立学校に通ったが、父は学校を止めさせ、当 代一流の家庭教師を付けて極めて厳格な、19 世紀的な「天才教育」をほどこす。一般教科 はワルター・リーツラー(この時ミュンヘン 大学考古学助手、後ミュンヘン大学近代音楽 史教授)とルートヴィヒ・クルティウス(著 名な考古学者)がずっと担当した。音楽教育 は最初短期間アントン・ベーア=ヴァルブル ン(作曲家)が、次いで2年足らずの間ヨー ゼフ・ラインベルガー(著名な音楽教育家) が、その後13年間マックス・フォン・シリン グス(ミュンヘン大学卒、後プロイセン芸術 アカデミー総裁)が教えた。これらの教師か らフルトヴェングラーは保守的・ドイツ的で あること、祖国への義務感、無定見、優柔不 断、単純愚直といった性格を植え付けられ た。 ヴェルナー・テーリヒェン『フルトヴェン グラーかカラヤンか』(原書1978)には「そ の出身も教養も全く一九世紀の伝統に根ざし ていた」とある。それは上に述べた家庭教師 たちの影響によるπ。特に、後、熱烈なナチ ストになるマックス・フォン・シリングスに 13年間も師事したことは留意されてよい。フ ルトヴェングラーが基本的に保守的・「ドイツ的」、さらに言うならば「右翼的」思想を 持っていたことは、確認されて良いことであ る。 1906年10月、フルトヴェングラーはミュン ヘンのカイム管弦楽団の指揮者としてデビュ ーし、ブレスラウ、チューリヒで指揮した。 ところが1907年10月父がキリシャで客死し、 長男のフルトヴェングラーは無理遣りミュン ヘンに呼び戻され、指揮者として一家を支え ることになる。1907年〜09年ミュンヘンで指 揮、1911年リューベック・オペラの監督、 1915年マンハイム国立劇場の指揮等を経て、 1922年ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団 とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常 任指揮者となり、ドイツ最高の指揮者、世界 でも3、4人の大指揮者と認められる。1924 年ロンドンのロイヤル・フィルハーモニー、 1927年、ウィーン・フィルハーモニーの指揮 者、1927、28年とワイマル共和制下の憲法記 念祭で指揮した。1931年〜32年バイロイト音 楽祭の音楽監督となる。ところで彼がワイマ ル憲法記念祭に如何なる理由で指揮台に立っ たか、後のナチス期の思想と行動を知る手が かりになろう(後述) 。 1933年1月30日、ヒトラー政権が成立する。 1933年3月21日、春分の日、1871年ビスマル クが最初のドイツ国会を開いた由緒ある日、 62年を隔ててヒトラー連立政権の第1回国会 が開かれる日、この記念すべき日をゲッベル スは「国民総決起の日」と宣言し、盛り沢山 の記念行事を挙行した∫。フルトヴェングラ ーはこの日の夜、国立歌劇劇場で『マイスタ ー・ジンガー』を指揮した。 ナチスが政権を取ると、新聞には全てむっ とするような扇動的ムードや攻撃的命令口調 が氾濫して、ケストナーが言うように「ジャ ムつきパンまで」全体主義が沁みわたり、文 化全体がナチスの意のままに操られることに なった(ヴェスリンク、362頁)。トーマス・ マンは『日記』に「そのうえフルトヴェングラーは‘お上’から今日の喜びの日のために 命じられた《マイスターシンガー》を指揮し ている。従僕根性の卑屈な奴らだ」。この 「ポツダムの日」は、後の者からみれば確か に「第三帝国の創立記念日」ではあるが、そ の時・その状況に置かれた者からみれば、ワ イマル時代の連続に見えたとのプリーベルク の指摘(90頁)には留意すべきであろう。 フルトヴェングラーは1933年9月15日ゲー リングの強制でプロイセン枢密顧問官(1934 年12月5日まで) 、1933年11月15日には帝国 音楽院副総裁(1934年12月5日まで。総裁は 1935年7月13年までリヒャルト・シュトラウ ス)に就任する。(戦後、「非ナチ化委員会」 でこの就任が問題となった)。 1934年12月5日、フルトヴェングラーは、 以下に述べる「ヒンデミット事件」に憤慨し て、ゲッベルスとゲーリングに宛てて辞職願 いを提出し公職から退くが、1935年4月25日 には、熱狂した聴衆の大歓迎をうけつつ『エ グモント』・『田園』・『第五番』を指揮し てベルリン・フィルハーモニーに復帰した。 ところが、1938年9月30日、ゲーリングとロ ーゼンベルクに後押しされた、25歳の天才フ ォン・カラヤン(1933年4月8日と5月1日 に入党、党員番号1607525と3430914の二重登 録)が、国立歌劇場で《フィデリオ》を指揮 して、聴衆の圧倒的な称賛を得、以後ドイツ 音楽界はこの両派に真っ二つに分かれるので ある。ゲッベルスはフルトヴェングラーが 「われわれの最高の指揮者」と考えており、 カラヤンに対する過度の称賛を抑えさせた (プリーベルク、420、438頁)。1942年2月28 日、ゲッベルスは日記に「指揮者は民族的愛 国心でみなぎっている」「彼を手に入れるた めに何年も争ってやっと成功を手にした」 (プリーベルク、505頁)と書いたが、これは ゲッベルスの認識不足であって、フルトヴェ ングラーの戦い方が巧妙になったからにすぎ ない。1945年2月7日スイスに亡命、1946年12月17日「非ナチ化」裁判で無罪判決をうけ、 1947年5月25日ベルリン・フィルハーモニー を率いて戦後初のコンサートをベートーヴェ ン・プログラムで飾った。1954年11月30日 バーデンバーデンにて肺炎で没す。享年68 歳。


3.フルトヴェングラーの原点:「サー カス」と「芸術至上主義」 。

われわれはフルトヴェングラーをナチスへ の協力者ではなく、また「国内亡命者」でも なく、単なる「精神的抵抗者」や「良心的拒 否者」でもなく、ナチスへの最も勇気ある 「抵抗」を敢行した、卓越した「芸術家」と 考えている。さて、ナチス期におけるフルト ヴェングラーの生きざまを知るには、それ以 然のフルトヴェングラーを知らなければなら ない。そこで次には、彼の2つのエピソード を取り上げる。最初のエピソードは、「抵抗」 とは係わりはないが、彼の愛すべき「指揮ぶ り」の紹介、もう一つは彼の「指揮の思想」 つまり音楽と政治権力との関係を示すもので ある。 若きフルトヴェングラーの指揮の様子につ いて、リューベック時代(1911〜15年)のこ とであるが、「指揮台の上で髪振り乱し暴れ まくる」・「サーカス」のフルトヴェングラ ーについて次のような証言がある(ヴェスリ ンク、135頁) 。 彼の動きは…せかせかとせわしなく、時 にはめまぐるしいほどだった。なんとか 格好をとろうと絶えず四苦八苦している 男の、手の振り、足の踏みならし、その 他もろもろは、一見すると奇異にさえ思 える。あちらこちらから苦笑がもれた。 だが、ひとたびはっとさせられるや、リ ューベックの人々はこの大音楽家のなか に、ただならぬものを感じ取ったのであ る。…腕を風車のようにぶうんと回して振りおろし、物凄いしかめっ面をします。 足は足で勝手に動いているものだから、 全体を見ると、なにかバタバタ大暴れし ているみたいです。でも、耳に入ってく るものを聞くと、すべて赦し、忘れられ るのです。…フルトヴェングラーは回を 追うごとに成長し、わたしたちみんなを 魅了しています。彼の身振りも、今では 整然と明快になり始めました。ただ言葉 では表現しようのないのが、彼の左手で す。おいでおいでと手招きしたり、まあ まあと宥めたり、その指先はまるで蝶が 羽を震わせるように、かすかに震えてい ます。その上しばしば、この世のものと も思えぬ神々しい表情をします。心の内 面の光明に照らされているのでしょう。 この天才芸術家の与える感銘のもとで は、すっかり虜にさせられてしまいま す。 さて、ワイマル期、フルトヴェングラーは 自己の演奏=音楽と政治との関係をどう考え ていたのか。彼の「指揮」の「思想」を物語 る、興味ある一つのエピソードを示そう。 1927年夏、ドイツ政府、プロイセン州政府お よびベルリン市は8月11日の「憲法記念祭」 の前と後にベルリン・フィルを指揮してほし いとフルトヴェングラーに申し入れた。フル トヴェングラーはこの時41歳、すでにドイツ で最も著名な指揮者、「ドイツ音楽の法王」 とみなされていた。音楽はミランダ (miranda)としてその荘厳さ・秩序感などに よって、主催者に対する支持・信頼感を高め るだろう。共和国の政治家たちはそれをよく 心得ていて、「法王」フルトヴェングラーを ここで起用しようとしたのである。ところで ここで言う「憲法」とはもちろん「ワイマル 憲法」であり、社会民主党主導の下に制定さ れ、国民主権、民主主義の原理に立った、自 由権のみならず生存権の保証や国民投票とい う直接民主制、私企業の公有化の可能性などをも規定した極めて理想的な憲法であった。 しかもこの時、フルトヴェングラーのベルリ ン・フィルは運営費が捻出できず、政府と市 当局から助成金を受けていた。その政府・市 当局からの直接依頼である。 「音楽は政治と関係ない」と確信している フルトヴェングラーは、念のため、秘書を通 じてベルリン市会議員・ドイツ国家人民党の エミール・ベルントの意向を打診する。ベル ント夫人は「私の夫はフルトヴェングラー氏 と同意見で、芸術は政治と関わりがないと考 えております。ですからフルトヴェングラー 氏は憲法記念祭でなんの懸念もなく指揮をな される、との考えでおるわけです。そうした 行為が政治的な態度表明になることは決して ありません」と回答してきた。安心したフル トヴェングラーはこの日、ワグナー、シュー ベルト、ベートーヴェン、フーゴー・カウン の「故郷への祈り」を指揮した(プリーベル ク、63〜65頁)。フルトヴェングラーは次の 年(1928年)の憲法記念祭にも指揮台に立っ たが、ワイマル期の政治的行事に登場したの はこの2回だけであった。(政治色の強い) 「建国祭」などには自らは決して出場しなか った。 さて、この「憲法記念祭」に出場したフル トヴェングラーをわれわれはどう理解したら 良いであろうか。理想的憲法の記念祭だから 許されるのであろうか。「政治と芸術は無関 係」だから許されるのであろうか。政府から 補助金を受けている以上当然なのであろう か。もっと広く、国民の義務として国家から 要請があれば国家の行事に参与するのは当然 なのであろうか。そしてもし、この政府が自 分の主義・心情に反する政府であって、しか もこの時政府から補助金を受けていた場合、 果たしてこの依頼を断れるであろうか。以上 のような疑問を念頭に置きながら、われわれ はヒトラー政権出現後、フルトヴェングラー がこの政権に対していかなる思想と行動を取ったのか追跡してみることにしよう。時期と して、ヒトラー政権が成立して後の2年間ほ ど、「強制的画一化Gleichschaltung」が進行す るナチ政権の初期に焦点を合わせることにする。


4.ナチス政権の成立−仮借なき「画一化」の進行とドイツ国民の大量「転向」

ヒトラーが首相となった1933年1月30日も それ以降も、フルトヴェングラーのベルリ ン・フィルハーモニー管弦楽団はこれまでと 全く同じ多忙なプログラムに追いまくられ、 政治とはいささかの関係もない日々を送って いた。ヒトラーの権力獲得計画・「強制的画 一化」は首相に就任した1933年1月30日から 同7月14日の「新党結成禁止令」にいたる約 6ヵ月に完成するのであるが、ヨアヒム・フ ェストªは、1933年3月24日の「全権賦与法」 までを「権力掌握の第一段階」とし、その特 色を一方では共産党や社会民主党への徹底し た弾圧、他方では極めて「控え目な、市民的 身振り」・極めて露骨な「市民階級に対する 求愛」の時期と規定した。それ以降7月14日 までを「権力掌握の第二段階」とし、その特 色を言わば仮借なき画一化期としている。こ の6ヵ月間に起こった、ドイツの政治家やド イツ国民の、ナチスへの「全面的降伏」を理 解するには、政治的現象面のみならず、ドイ ツの人の精神的・心理的面をも考慮にいれな ければならないとフェストは主張している。 いま、フェストの記述に従って、この双方の 面から、特にこの第二段階の前後に焦点を合 わせて見ると次のようになる。 1933年3月5日の夜、総選挙の結果が判明 した。2月28日の国会放火事件を共産党の陰 謀として、これを非合法化した直後であり、 大勝利間違いなしとのナチス党の楽観的予想 が見事に外れて、ナチス党は絶対多数である全議席647の3分の2も取れなかった。獲得 議席288、得票率43.9%、友党の国家人民党 の52議席、得票率8%を加えても340議席、 3分の2の432議席に達しない。この時ドイ ツ市民階級の理性はまだ健全であったといえ る。しかし、ヒトラーは一方では突撃隊を使 って各州の政府を退陣に追込み、また共産党 員、社会民主党員やそのシンパを逮捕殺害し、 他方、3月13日ゲッベルスを民族啓蒙宣伝相 に任命し、壮麗なスペクタクルを演出させて 新政権のイメージを高めようとする。その極 め付きが、ゲッベルスの演出する3月21日の 「ポツダムの日」であった。フリートリヒ大 王の地下の墓地の上、ポツダムの守備隊教会 で行われた「国民総決起の日」の儀式……行 進する隊列の正確な秩序、花束を持って路傍 に立つ子供達、礼砲の発射、過去の輝かしい 戦争に参加した白髪の老兵の列、閲兵行進、 オルガン演奏、これは、ドイツ国民に圧倒的 感動的な印象を与えた。正午12時、ヒンデン ブルクはヒトラーと守備隊教会の階段で会っ て、握手をかわした。教会には皇太子と大統 領ヒンデンブルク、副首相パーペンや閣僚、 国会議員、突撃隊指導者、将軍達、外交官達 が出席していた。ヒンデンブルクの演説は短 く、「この霊廟の古き霊」が「自由で誇り高 いドイツ」を祝福してくれるようにと願った。 ヒトラー(47歳)も、ヒンデンブルク(68歳) に敬意を捧げた後に、荘厳に、「われわれ民 族の自由と偉大のために戦う人間」として神 の摂理を願った。 この「ポツダム感動喜劇」の締め括りが、 この日の夜、国立歌劇劇場で演ぜられたフル トヴェングラー(47歳、ヒトラーよりは9ヵ 月若い)の《マイスター・ジンンガー》であ った。劇場の貴賓席には首相ヒトラーとその 全閣僚が並び、突撃隊、親衛隊、大勢の各界 著名人、芸術家、学者、政治家も顔を見せて いた。第1幕が終わったところで、ヒトラー の「ご機嫌伺い」があった。ヒトラーはたった今終わったばかりの演奏について、あらん かぎりの賛辞を送った。「フルトヴェングラ ーさん、あなたはなんと素晴らしい、腕の確 かな音楽家なのでしょう。いったい世界中の どこに、これほど均質なアンサンブルがある でしょう。…わたしは誇らしい気持ちです。 どうかいつまでもこの誇りを、わたしに抱か せてください」と感動の涙さえ浮かべて語り、 フルトヴェングラーの顔も「興奮のあまり蒼 白」になっていたと歌手のボッケルマン(ナ チストである)は感動的に書き留めていた。 しかしフルトヴェングラーから見れば、この 日たまたまカゼのために「蒼白」に見えたに すぎなかったのだが(ヴェスリンク、365頁) 、 フルトヴェングラーの真意とは全く別に、ナ チス首脳たちの、観客達の面前での「見事な 演出」やナチス体制下の報道の在り方によっ て、フルトヴェングラーは次第に体制側に取 り込まれていくと見えた。 さて、この日(3月21日)の儀式を境に、 ドイツ国民の感情・心理面から見ると極めて 重要な事実が浮上してきた。ヒトラーを首班 とするナチス党は、今や、ヒンデンブルクを 戴く国粋的保守主義に完全に取り込まれ、無 害化したと見えた。フェストは書いている。 「この芝居の暗示的な効果から逃れ得た者は、 ほんの少数にすぎなかった。そして3月5日 にはまだヒトラーに反対票を投じた多くの 人々は、こうなってみると、自分の判断に明 らかに不安を持ちはじめた。いろいろな論拠 に物言わせるかぎりでは、まったく素知らぬ 顔をした多くの役人、将校、国粋的な考えを 抱く市民階級の人々が、ナチ体制によって国 民的感動を味わった瞬間にそれまでの不信を 一躑した」のである。つまり、いわゆる「3 月の投降者」の続出である。1933年1月30日 から入党制限の行われた5月1日までの、た った3ヵ月の間に、ナチス党員は85万人から 160万人に、突撃隊員は50万人から450万人 に膨れ上がった。いわゆる「中産階級」の投降現象が爆発的に発生したのである。このた め人々は2日後の3月24日の「全権賦与法」 がワイマル議会立法権の終焉とナチス一党独 裁の幕開けを告げているのを気付かなかった のである。こうして、フェストの言うヒトラ ー政権奪取の「第二段階」が始まる。 他方、政治的事件は極めて解りやすく進行 した。1933年3月24日、『フェルキッシャ ー・ベオバハター』紙が、「歴史的な日であ る。議会制度は新ドイツの前に屈した。ヒト ラーは4年間、必要と考えることを何でもす ることが出来るであろう。必要なこととは、 消極的にはマルクス主義のあらゆる破壊的な 力の根絶であり、積極的には、新しい民族共 同体の建設である」と宣言したその方向であ る。次の一連の措置を見ただけで、その意図 ははっきりする。つまり5月1日のメーデー を国民の祝日と定め、突撃隊と親衛隊が取り 仕切ってこれを乗っ取り、全ドイツの労働組 合を弾圧、そのリーダーを大量に逮捕した。 5月10日、社会民主党の全ての事務所、新聞、 財産を没収した。この日にはまた有名な「焚 書」が行われた。6月21日鉄兜団を禁止、6 月22日社会民主党を禁止、7月4日バイエル ン人民党を禁止、7月5日最後にカトリック 中央党を禁止、そして締め括りが7月14日の 「新党結成禁止令」である。この間、これと 平行して工業、商業、手工業、農業の諸利益 団体が強制的に画一化され、突撃隊による反 ユダヤ主義の暴力行為が荒れ狂いはじめた。 またヒトラー政権の閣僚も、当初首相ヒト ラー、内相フリック、無任所相ゲーリングの 3名だけであったナチス党員が、3月に新設 の民族啓蒙宣伝相にゲッベルスが入り、4月 には労働相ゼルテがナチス党に鞍替えし、6 月27日反ヒトラーの中心人物、経済相兼農相 フーゲンベルクが辞任に追い込まれ、6月29 日代わってナチス党のクルト・シュミットが 経済相に、同じくナチス党のヴァルター・ダ レーが食料農相に、さらに総統代理のルドルフ・ヘスが閣議に加わり、結局ナチス党は全 8名になった。「第一段階」ではまだ連立内 閣でヒトラーを押さえ込めるはずであった が、この「第二段階」ではナチス党8名に対 し、非ナチス党は副首相パーペン、外相ノイ ラート、蔵相クロージク、法相ギュルトナー、 国防相ブロンベルク、郵便兼運輸相リューベ ナハの6名である。5ヵ月の間にナチス対非 ナチスの比率が3対8から8対6に逆転し た。しかもすでにパーペン等にはヒトラーを 抑制する勇気はなく、ブロンベルクに至って は、ヒトラーの人をそらさぬ魅力にうつつを ぬかしている始末である。 こうして、フェストによれば、「疫病のよ うに蔓延していく合流の欲求に逆らう人の数 は目に見えて少なくなり、見る見るうちに孤 立して…不満と孤独な不快さを心のなかにし まいこんだ。古いものは死に、未来は現体制 のものであるようにおもわれた。…勝ち誇る もの特有の吸引作用が強い説得力を発揮し、 それに抵抗できる人間はほどんといなかっ た。たしかにテロと不法行為が気づかれぬま まに終わったのではない。しかし…ますます 多くの人々が、歴史をも事件をもわがものと したように見える連中の側についた。こうい う事情に幸いされて、ナチス体制は権力に引 き続き、人間をも手に入れることに着手した のである」。果たして権力はフルトヴェング ラーその人を「手に入れること」が出来るで あろうか。


5.「芸術のための芸術」と「政治の芸 術化」−1933年4月11日

「ポグロムpogrom」に似た、ナチス党底辺 の党員によるユダヤ人に対する残酷な敵対行 動は、早くも1933年3月中旬から始まりº、 直ちに音楽界にも波及する。ベルリン音楽大 学の教授グスタフ・ハーヴェマンはナチスの 政策に迎合して、1933年3月13日、ベルリン・フィルの経営首脳陣に対してユダヤ人楽 団員と秘書のガイスマール女史(ユダヤ系) との解雇を要求した。またこの月、強制的画 一化を実行するために特命委員ルドルフ・シ ュミチェク博士がフルトヴェングラーのもと に送り込まれてきた。ハーベマンの要求は通 らず、しかもこの特命委員がベルリン・フィ ルに理解を示してしまったので、今や自分が 「ドイツ音楽界の最高の仲裁者」と確信して いるフルトヴェングラーは、自己の芸術至上 主義の立場からきわめて大胆に政府とユダヤ 人の間を仲裁しようとする。 フルトヴェングラーはベルリン芸術週間の プログラムには、「ユダヤ人であろうとなか ろうと出演者の質は維持」したいと強く希望 していたが、1933年4月3日にはブルーノ・ ワルターとクレンペラーの演奏が中止とさ れ、フルトヴェングラーは「ひどく激昂して、 何か手を打たねば」と決意するΩが、結局、 優れたユダヤ系演奏家を欠いた芸術週間はお 粗末なものになってしまった。しかもその直 後、4月上旬のこと、アメリカの何人かの演 奏家がユダヤ人やマルクス主義者の演奏を中 止させたことでヒトラーを強く非難したが、 当局は4月6日に、この中止を正当なものと するとの通達を出した。フルトヴェングラー はこの通達を大いに不満として、この日の内 に、4月26日に予定されていたマンハイムで の演奏会を反ユダヤ主義の扇動が激しいとい う理由で断り、同時にゲッベルスに宛てて、 以下に示すような手紙を書いた。手紙は4月 7日に民族啓蒙宣伝相のもとに届いた。 フルトヴェングラーの真意は、新政権の反 ユダヤ主義政策が外国の新聞で非難されてい るのを絶好のチャンスと見て、ゲッベルスや 政府首脳にこの政策の緩和を迫るものであっ た。他方ゲッベルスは、フルトヴェングラー の意図を完全に見抜き、彼の手紙を利用して 国際世論を静め、国内世論をさらなる画一化 に導く絶好のチャンスと判断した。画一化を強行しようとする者とこれに抵抗しようとす る者との正面衝突である。ゲッベルスはフル トヴェングラーからその手紙の公開の許可を 得て、1933年4月11日の『フォス新聞』にフ ルトヴェングラーの手紙を、それに対する自 分の反論を同じ4月11日の『ベルリーナー・ ローカルアンツァイガー』紙に掲載させたの であるæ。 フルトヴェングラーの手紙は「拝啓 帝国 国務大臣どの ドイツの公的な場におけるわ たしの長年の活動と、ドイツ音楽に対するわ たしの内的きずなとにかんがみ、あえて音楽 界内部の不祥事について貴下のご注意を促し たいと思います」と書き出され、問題の核心 部分は以下の箇所である。 「わたしは究極のところ、ただ一つの境界 線しか認めません。すなわち、よい芸術か悪 い芸術かということです。ところが、当人の 政治的態度になんら非難すべきところがない 場合でも、ユダヤ人と非ユダヤ人の間に、理 論的に仮借なき厳格さで境界線が引かれてい るのに対し、われわれの音楽活動にとって長 い目で見れば極めて重要な、いや、決定的と 言ってもいいもう一つの境界線、つまりよい 芸術か悪い芸術か、があまりにもおざなりに されているのです」、それは「文化活動の利 益になりません」。 そして最後に、「わたしたちの闘いはあく まで根底のない、腐敗させ皮相化させる破壊 的な精神に対して行われるべきものであり、 断じて真の芸術家に……人がその芸術をどう 評価しようと、その流儀においてつねに形成 者であり、またそのようなものとして建設的 に活動している本当の芸術家に向けられるべ きものではありません。この意味においてわ たしは貴下に対し、あるいは取り返しのつか ぬかもしれない不祥事のおこらぬよう、ドイ ツ芸術の名において訴えるものであります」 と結ぶ。 これは明白な挑戦状である。つまり、もし「ユダヤ人芸術家の迫害という不祥事が起こ ったら、それはあなたの責任だ」と詰め寄り、 事のついでに、ナチズムを「根底のない、腐 敗させ皮相化させる破壊的な精神」と規定し、 「わたしたち」はそれに対して「闘うぞ」と 脅迫したのである。ゲッベルスはこの挑戦に どう応えたであろうか。 ゲッベルスの返事は「拝啓 音楽総監督ど の あなたのお手紙をもとに、わたしのほう からも、芸術一般やとりわけ音楽を生みだす ための生命力には、国家的制約を受けた、ド イツ固有なものがあるという考え方について ご説明できるのを、光栄に思います」と書き 出されている。さて、この長文の反論の核心 は次の部分にある。すなわち、「あなたが自 己を芸術家として感じ、ものごとを徹頭徹尾、 芸術家の見地からごらんになるのはあなたの 勝手です。しかしだからといって、今ドイツ で起こっている全体の進展に、あなたが非政 治的態度で臨んでよいということにはなりま せん。政治もまた芸術であり、おそらく最高 の、もっと包括的な芸術であります。芸術と 芸術家の使命とは、ただ単に結びあわせるだ けでなく、さらにそれを越えて形成し、形を 与え、病んだものを取り除き、健康なものに 道を拓いてやることなのです。したがってわ たしはドイツの芸術家として、あなたが認め ようとなさる境界線……つまりよい芸術か悪 い芸術か……だけを承認するというわけには まいりません。芸術はよくなくてはならない ばかりか、民族に適しているという条件をみ たしていなければならないのです」。 そして最後に、「本当に何事かをなすこと ができ、しかも芸術外におよぼすその作用が 国家、政治、社会の基本的な規範にふれない 芸術家であれば、過去において常にそうであ ったように、将来もわれわれのもとで、ごく 好意的に奨励され、支援されていくでしょう。 わたしはこの機会に貴殿、敬愛する音楽総監 督どのに、わたしの感謝の念を表明したいと思います。あなたは本当に教化的で、偉大で、 時によっては感動的な芸術のひとときを、こ のわたしに、多くの政治上の友人に、そして また何十万という善良なドイツ人に、たくさ ん用意してくださったのですから。あなたが わたしの見解に率直に耳を傾けてくださり、 ご理解を示してくだされば幸いです。あなた の忠実なるドクトル・ゲッベルスより」。 ゲッベルスはフルトヴェングラーの「芸術 至上主義」論を全く認めず、政治は「芸術」 しかも「最高の包括的な芸術」だと述べた。 「芸術のための芸術」も大変結構な話ではあ るが、芸術はより包括的である芸術つまり政 治に服するものだ、ナチスの規範から逸脱し ないかぎり大目にみてやるが、そうでない時 はしっかり「沈黙」を強制するぞと威嚇した のである。おまけにゲッベルスは、フルトヴ ェングラーがナチスの「根底のない、腐敗さ せ皮相化させる破壊的精神」と闘いますぞと 宣言したのに、わざと素知らぬふりをして、 「根底のない破壊的な、いかさまだの、味気 ない名人芸だのによって堕落した芸術式」と 意図的に読み替えて、それに対して「われわ れと共に闘う」のを歓迎するとやったのであ る。見事なすり替えではないか。 ゲッベルスはヒトラーからじきじきに厚く お礼を言われた。何日もの間、ゲッベルスは 地方の、中央の、ナチ迎合者達から絶賛を浴 び続けた。「畏れ多くも独裁政権の閣僚とも あろう人が、一介の芸術家に対し、口輪をは めて言論統制するのではなく、芸術や政治に ついて共に語り合っておられるのだ」と言う わけである。ゲッベルスは満足気にこのよう な称賛を独り占めにしたø。他方、フルトヴ ェングラーも全ドイツから「雪崩のような勢 いで次々と賛意を伝えてくる感謝の手紙」に 埋められた。「唯一あなただけが、ドイツに おける今日の文化生活の管財者たちと反対の 道をとる勇気をしめされました」と。フルト ヴェングラーは、かくして、自分が広範な賛同に支えられていること、自分の行動が正し かったことを知った。ナチスの強制的画一化 に反対する国民=一般大衆が大量に存在して いるのである。 さてどちらも己れの陣営から絶賛を浴びて 自信をもった。フルトヴェングラーはそこで ゲッベルスの忠告=威嚇を無視して、己れの 信ずるところに基づいて、少なくとも音楽の 分野でナチスの反ユダヤ主義政策を骨抜きに しようと決意する。1933年5月下旬の事であ る。ゲッベルスもフルトヴェングラーがその 絶大な影響力によって反ナチスの「結晶作用 の核」になり得ること、従っていかなる手段 を使ってでも、「この一匹狼、頑固一徹者を ナチスの側にひっぱりこむ」事こそ自分の腕 の見せ所と確信していた¿。ゲッベルスのラ イバル、ゲーリングは1933年5月、フルトヴ ェングラーをベルリン国立歌劇場の管弦楽団 の首席指揮者に任命して彼を取り込んだと見ていた。


6.フルトヴェングラーの抵抗−2段作 戦の第1段:ユダヤ人演奏家の招待

フルトヴェングラーはその決意を、2段構 えの作戦に練りあげる。彼がプロイセン枢密 顧問官や帝国音楽院の副総裁に就任するの も、この2段作戦の過程で転がり込んできた 偶然の副産物にすぎない。ならば、この2段 構えの作戦とはなにか。 第1段、反ユダヤ主義を実質的に無効にす るため、ユダヤ人演奏家をドイツに招き ベルリン・フィルと共演させる。 第2段、奇襲作戦とも言うべきもので、ヒ トラー総統に直接会見してベルリン・フ ィルの財政援助とユダヤ人芸術家の保護 を依頼する。 反ユダヤ主義こそナチス政権の根幹政策で ある。フルトヴェングラーはこのナチスの 「逆鱗」に芸術至上主義の立場から敢えて触れようとしている。しかも相手とするのは、 ナチス政権の下っ端役人ではなくて、この政 策を作り出した張本人達、ナチス政権の最高 首脳達、ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス に対して、この政策の緩和あるいは特例を認 めさせようというのである。他方、彼ら最高 首脳達のフルトヴェングラー包囲網は、ゲー リング(無任所相、1933年4月11日からパー ペンを継いでプロイセン州首相となってい る)、ゲッベルス(民族啓蒙宣伝相)、アルフ レート・ローゼンベルク(ドイツ文化闘争同 盟の指導者)の3つの機関が競合するかたち で、しかも同時平行的にこれを進行させてい た。この3重の包囲網を突破しようとする、 フルトヴェングラーの戦略に果たして成算は あるのか。以下ではこの間の状況をやや詳し く述べよう。 フルトヴェングラーはナチスのユダヤ人追 放政策のために優れた演奏家が確保できない 事を最も憂慮した。音楽活動の質的水準を保 つべく、フルトヴェングラーはプロイセン州 首脳や国家首脳に働き掛け、この問題を解決 しようとする。言うまでもなく、プロイセン 州の首相はゲーリングであり、プロイセン文 化省の大臣はルストである。1933年6月4日 フルトヴェングラーのルスト宛の要求案が出 来上がる。それは、 A政府は今後いかなる芸術家も人種や国籍 を問わずドイツで演奏出来る。 Bこれによって国際交流も好転しボイコッ トも無くなろう。 C音楽界の秩序を維持するため、公的に近 い監査委員会を設ける。 付帯文書として D1933年5月23日に解雇されたシェーンベ ルク復職の依頼(そのほか数名の救援依頼) も含んでいた。この要求書は6月8日ルスト のもとに届き、6月28日にはほぼフルトヴェ ングラーの、上記A、Bを含む、原案どうり の画期的な省令、「プロイセンのコンサート活動に関する省令」が出された。上に示した フルトヴェングラーの2段作戦の第1段の部 分に関して、この省令は次のように規定して いた(プリーベルク、143〜158頁) 。 共演アーチスト(ソリスト、歌手など) についても同様に、まず第一にドイツ人 アーチストを起用し、彼らにドイツの音 楽活動を担い維持してもらうよう招聘す ることを原則とする。しかしながら、音 楽においての他はあらゆる芸術と同じ く、能力がつねに決定的要因となるとい うことは強調しておかなければならな い。すなわち、能力主義に対しては、必 要とあれば他の観点は後回しにされると いうことである。本当の芸術家ならだれ もがドイツで活動し、その力量に応じて 正当な評価をうけることができなくては ならない。大臣により設置されたこの諮 問委員会は、将来プロイセン音楽活動の プログラム問題に関する唯一の決定機関 となるであろう。 いささか回りくどい表現であるが、フルト ヴェングラーの狙いである、能力ある芸術家 をドイツに招聘して演奏活動を行わせるとの 意図が見事に条文化されている。追放された 優れたユダヤ人演奏家は、この省令によって、 堂々とドイツで演奏できるはずである。これ こそナチスのユダヤ人排斥計画を、純芸術の 面から骨抜きにする爆弾であった。フルトヴ ェングラーは勇躍として、追放され亡命をは かった、優れたユダヤ人演奏家達に手紙を書 き、自分の主催する演奏会への参加を呼び掛 ける。もちろんこの1933年5月の時点で、す でに、ナチス官憲の検閲によって「信書の秘 密」は存在しない。マークされた、要注意人 物の私信の検閲は当然の事になっている。し たがって、フルトヴェングラーはナチスのユ ダヤ人政策を骨抜きにしようという自分の真 の意図を手紙に書けない。上記省令の新聞の 切り抜きを同封して、ただひたすら、自分の演奏会に共演してほしいと強く依頼するしか ない。こうして、6月末から7月末までフル トヴェングラーは精力的に手紙を書き続ける。


7.第2段作戦−奇襲作戦・ヒトラーと の直接会談、1933年8月9日夜

彼の第1段作戦は成功しただろうか。実は 見事に失敗したのである。優れた亡命演奏家 達は彼の計画の真意を見抜けず、全く話に乗 ってこなかったのである。7月18日の段階で、 フルトヴェングラーのこの画期的な・爆弾計 画はほぼ絶望的となった。がっかりしてしま ったフルトヴェングラーを勇気づけるため に、秘書のガイスマールと特命委員ルドル フ・シュミチェクは、フルトヴェングラーの 第2段階の作戦の実現を急ぐ。フルトヴェン グラーを監視するはずの特命委員は今や完全 にフルトヴェングラーの味方となり、フルト ヴェングラーの途方も無い反ナチス計画に協 力している¡。 丁度この時、プロイセン首相のゲーリング が電報で「貴下をプロイセン枢密顧問官に任 命する」と一方的に通告してきたのである¬。 このニュースは7月20日、新聞に公表された。 「音楽にまるで目のない」ゲーリングは自分 のライバル(ゲッベルス)よりも支配権を強 めようと、この顧問委員会をぶち上げ、フル トヴェングラーを取り込んだのである。他方 フルトヴェングラーは「発言力が強まる」と 考えてこれを受けた。どちらも自分の都合の 良いように理解したわけである。 フルトヴェングラー自身はその肩書きでど こまで「専門的助言」が可能なのか不明なま ま、直ちに、第2段階の作戦「奇襲作戦」に 取り掛かる。今やすっかり彼の右腕になって しまったシュミチェクを7月26日バイロイト に派遣する。そこに滞在するヒトラーと直接 会見をする段取りを取り付けるためである。

フルトヴェングラーは3条件からなる覚え書 きをシュミチェクに手渡した。それはAナチ スの非難攻撃を受けているプロイセン国立劇 場の総支配人ティーチェンの救済、Bベルリ ン・フィルの国家による財政的援助45万ライ ヒスマルクの依頼、C「音楽界におけるユダ ヤ人駆除方法」の3条件を記した覚え書きで ある(プリーベルク、178〜79頁) 。 上記のCの見出しだけを見れば、フルトヴ ェングラーはナチスに屈伏して「ユダヤ人駆 除」に同意したかのように見える。たしかに、 その提言には、ドイツにおけるユダヤ人排斥 は国外音楽界における広域なボイコットを招 いているので、「ユダヤ民族に対する闘争を、 正当なやり方で行うことが必要であります」 とあるが、すぐ続けて、 例えば 今日、カール・フレッシュのよ うなクラスのヴァイオリン教育者をドイ ツから追い出してしまうとすれば、物理 的な損失ばかりでなく、われわれが芸術 を問題にしていないという非難にさらな る根拠をあたえてしまうことにもなりま す。私はこの件が外交政策上きわめて重 大な意義をもつものと考えます。同様に また、作曲家アルノルト・シェーンベル クほどの人物の解雇に対する物理的弁済 が妥当なやり方でなされることも、外交 政策上の理由から必要なことと考える次 第であります。望ましくは、そうした特 別な事例が法律や官庁の所定の手続きの 枠外で、あるいは帝国首相どのご自身に より、その外交上の意義をご勘案のうえ 処理願えれば、と存じます。 これではどう見ても、ユダヤ人芸術家の 「駆除」ではなくて「保護」である。たしか に、これはフルトヴェングラー苦心の、レト リックを尽くした文章であった。彼は自分の 信念でありかつ持論であるところの芸術至上 主義の立場から、婉曲にかつ大胆にユダヤ人 芸術家追放政策の緩和あるいは特例を「帝国首相どのご自身」に求めたのである。ヒトラ ーはBの巨額な援助金に驚き、ゲッベルスに 「はっぱをかけた」が、ゲッベルスは直ぐに は動かない。もちろん一つにはフルトヴェン グラーを焦らすためであったが、もう一つ、 遠大な計画があったからである。他方、シュ ミチェクはバイロイトでなんとかフルトヴェ ングラーのためにヒトラーとの単独会見の約 束を取り付けた。フルトヴェングラーは1933 年8月9日17時にオーバーザルツブルク駅に つき、ヒトラーが休暇を過ごしているヴァッ ヘンフェルス館に車で向かった。フルトヴェ ングラーはヒトラーとの会見のために詳細な メモを準備して持っていった。この時の会見 の模様をこれまで何度も依拠してきた二人の フルトヴェングラー伝から引いてみよう。 まず、ベルント・ヴェスリンク『フルトヴ ェングラー』 (1985)から。 ヒトラーのオーク材作りのティーテーブ ルで、激論が闘わされた。どうやら話は 文化問題全般に及んでしまったらしい。 やっと最後に、二時間もたってから、ベ ルリン・フィルの窮状が話題にのぼっ た。ヒトラーは不承不承、今回にかぎり 財政を援助することに同意した。また当 面のあいだは、例の〈アーリア人条項〉 を楽団員に適用しない、とも約束した。 フルトヴェングラーはほっと胸をなでお ろして帰路に着いた(386頁) 。 次いで、フレート・プリーベルク『巨匠 フルトヴェングラー』(1986)から。 フルトヴェングラーは自分の考えを半分 も上奏することが出来なかった。相手は 彼をさえぎり、一人で勝手にしゃべりは じめてしまったのだ。フルトヴェングラ ーは、オープンに耳を傾けてもらえぬと 気づいたにちがいないが、それでも頑と して自説を主張した。語調はいやがうえ にも強まっていく。この口答えはヒトラ ーを攻撃的にしてしまい、彼は話の本題からそれて、大声で政治を弁じだすしま つである。合意に達するどころの騒ぎで はなくなってしまった。オーバーハウゼ ンからの帰途、ミュンヘンでフルトヴェ ングラーは自分の秘書に電話し、総統と いう人間がよく分かったから話はやめだ と報告した(203頁) 。 ヴェスリンクはヒトラーが譲歩したとみた。 プリーベルクは合意に達しなかったとみた。 しかし、奇襲作戦=ヒトラーとの単独会見は 全く別の面から効果を発揮することになっ た。ヒトラーはフルトヴェングラーと会見後、 バイロイトにいたゲッベルスを呼び付け、ベ ルリン・フィル再建に45万ライヒスマルクも かかることに驚き、「以前確かに大丈夫と請 け合ったではないか」とはっぱをかけたので ある。果たして、ゲッベルスはいかなる再建 案を用意したのであろうか。


8.フルトヴェングラーの屈伏か−1933 年11月15日、帝国音楽院副総裁となる

プリーベルクが分析したように、フルトヴ ェングラー自身は奇襲作戦が失敗したと考え ていた。そこで、再び第1段作戦に戻る。ま るで出演拒否の手紙など無かったのごとく に、フルトヴェングラーはペンを執り、出演 を依頼し、ユダヤ人芸術家の救済を精力的に 行ったりしたのである。フルトヴェングラー のこのような一連の行動は、ナチス側から見 れば、「彼がユダヤ人の味方をしていい気に なっている」(プリーベルク、263頁)と見え た。1933年8月18日ローゼンベルクの許に 「フルトヴェングラーが今でもユダヤ人芸術 家を優遇しており、とくに最近その傾向が顕 著であることは、芸術家たちのあいだでもっ ぱらの噂となっています」(プリーベルク、 207頁)という密告があったが、このての密 告はひきもきらなかったのである。しかし、フルトヴェングラーは全くわが道を行く。 1933年秋から34年にかけての演奏会では依 然、ユダヤ人演奏家を起用し、指揮について も北欧や日本(近衛秀麿)からも招き、プロ グラムには才能あるユダヤ人作曲家の名前 も、メンデルスゾーン(ユダヤ人)の『真夏 の夜の夢』も堂々と演奏した。これは極めて 挑発的な行為であった。 ゲーリングは1933年9月15日、新しく任命 したプロイセン枢密顧問官の就任式を大々的 に挙行し、フルトヴェングラーを己れの陣営 に取り込んだことを世界に知らしめた。他方、 ようやく楽団の財政問題も解決する。1933年 10月16日、ベルリン市長のドクトル・ザーム と宣伝省次官フンクとの間に会談がもたれ、 「ナチ党の息のかかった」15人の楽団員の解 雇(ユダヤ系楽団員はまだ解雇されていない) とベルリン・フィルを宣伝省の直轄する帝国 楽団とする事で財政問題は片がついたのであ る。しかしながらこれは、喜ぶべき事とは言 い難かった。それはゲッベルスの構想する文 化芸術の「強制的画一化」の一環としてであ ったからである。2ヶ月後の1933年11月15 日、「帝国文化院Reichskulturkammer」が宣伝 省の下部機関として発足し、映画、音楽、演 劇、マスコミ、著作、造形芸術、放送の七部 門に分かれ、音楽部門には「帝国音楽院 Reichsmusikkammer」が置かれた。ゲッベル スは本人の意向を打診する事無く、この日 「帝国音楽院」の総裁にリヒヤルト・シュト ラウスを、副総裁にフルトヴェングラーを任 命したのである。こうして全ての文化芸術は 人も組織も含めて全てゲッベルスの手に落ち たかに見えた。 フルトヴェングラーは一体なぜ、副総裁の 地位を受けたのか。戦後になって、フルトヴ ェングラーはクルト・リースにこう語った。 「そのような、ある程度公的基盤に立ってい たほうが、私人としてより自分の意見をとお せると、当時思っていたからです。あの頃のドイツでは、よくこんなふうに信じられてい ました。まっとうな人達がみんな臆病に責任 を回避してしまったら、ナチスがのさばり放 題になってしますと」。リヒャルト・シュト ラウスも、シュテファン・ツヴァイクへの手 紙に「私は総裁の職をいろんな困った事態を 防ごうと思ったから引き受けたのです」と書 いていた√。われわれはここで、リヒャル ト・シュトラウスやフルトヴェングラーが 「帝国音楽院」を引き受けた事を全く非難し ない。彼らは動機は異なれ、その地位からす る影響力の行使に期待していたからである。


9.ヒンデミット事件勃発1934年11月 25日−フルトヴェングラーの勝利か

次にわれわれはフルトヴェングラーがナチ ス首脳達と完全に対立し、国立歌劇場の管弦 楽団の首席指揮者=オペラ監督、音楽院副総 裁ƒ、ベルリン・フィルの常任指揮者という 公の職務を辞任するにいたった事件を取り上 げなければならない。いわゆる「ヒンデミッ ト事件」であるが、これこそフルトヴェング ラーの芸術至上主義的抵抗の勝利を物語るも のである。 1934年3月12日、フルトヴェングラーはヒ ンデミットの交響曲『画家マチス』を指揮し た。きわめて好評であった。しかし同年10月 になると事態は急変した。ナチスの機関紙が 一斉に「堕落の旗手」ヒンデミットを非難し 始めたのである。フルトヴェングラーはヒン デミットへの誹謗が根拠のないものである事 を明らかにしようと、ヒンデミットを救済す る反論を書き、『ドイチェ・アルゲマイネ・ ツァイトゥンク』に送った。新聞社からの問 い合わせに対し、フルトヴェングラーは「自 分がどんな危険を冒しているかはよく承知し ている。自分にとって重要なのはヒンデミッ トと新音楽だけでなく、芸術家としての個人 の自由なのだ」と答えた(プリーベルク、250〜53頁)。こうして1934年11月25日(日 曜)の『ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイト ゥンク』紙の第1面にフルトヴェングラーの 「ヒンデミット事件」という論文がのった。 ここでフルトヴェングラーは、ヒンデミット とユダヤ人とはいささかも関係がないこと、 彼の作品はドイツ的であること、彼は一度も 政治的に活動したことがないこと、にもかか わらず、その彼を攻撃しドイツから追い出そ うとしているが、「ヒンデミットのようなす ぐれた音楽家をあっさりあきらめてしまうよ うなことは決してしてはならないのである」 と文を結んだ。≈ 「当時にすれば信じがたいほどに大胆な論 文」(ヴェスリンク、406頁)を載せたこの日 の新聞は直ちに売りきれ、3度も増刷された。 「早く行って、今日の『ドイチェ・アルゲマ イネ・ツァイトゥンク』を買い給え」が挨拶 がわりになった∆。この論文はモスクワ、ニ ューヨーク、パリ、東京などの何十という新 聞に掲載された。 翌日、月曜日(11月26日)、フィルハーモ ニーの総試演があった。フルトヴェングラー が指揮台に上がると、聴衆は一斉に立ち上が り、拍手や歓声は20分あまりも続いた。人々 は芸術の独立と国家の暴政への反抗の勇気を 褒めたたえたと考えられる。 この同じ月曜日、ローゼンベルクは激怒してヒトラーを訪ねた。ヒトラーは予定されて いたフルトヴェングラーとの会見を取り消し て、全ての新聞は直ちに反抗的な枢密顧問官 に対して攻撃を開始せよと命じた(プリーベ ルク、254頁)。ナチス系の新聞は一斉に「わ れわれが克服したと信じていた反動的風潮が ……ふたたびのさばり始めた」と激しい論調 で一方的に非難した。しかし、いくつかの新 聞は両陣営の言い分を並べて客観的に(つま り反ナチス的にという事である−三石)報道 した。諸外国の新聞はフルトヴェングラーを 擁護した。ドイツ国内でも勇気ある新聞、『ドイチェ・ツークンフト』1934年12月2日 号は「あたかも新鮮な一陣の風のように、こ れらの言葉は最近の不愉快な出来事を吹き飛 ばしてくれる。……意気揚々と希望に満ちて、 われわれはこの未来に向かって歩み続けるの だ」と書いた(プリーベルク、258頁) 。 この記事の出た12月2日(日曜日)の夜 (プリーベルク、258頁)、フルトヴェングラ ーは国立歌劇場で《トリスタンとイゾルデ》 を指揮した。ゲーリングもゲッベルスも姿を 見せていた。切符は完全に売り切れとなった。 フルトヴェングラーがオーケストラ・ピット に現れたとたん、聴衆は総立ちとなり、何時 止むとも知れない歓呼の嵐が劇場を圧倒し た。すばらしい演奏が終わると、カーテン・ コールは、なんと、40分間も続いたのである。 ゲーリングもゲッベルスもこの拍手が一体何 を意味するのか当然理解した。怒りにわれを 忘れたゲーリングは、ヒトラーにフルトヴェ ングラーは政府の権威を失墜させていると告 げた(ヴェスリンク、406頁)。


10.フルトヴェングラーの辞任1934年12 月4日。ただし亡命せず。

フルトヴェングラーは、(1934年)11月25 日以降の事件の展開にいささか慌てた。彼は 問題が芸術の問題から政治問題に発展してし まったことを理解した。そこで12月1日、彼 はゲーリングと会談し、あらゆる政治的官職 から退きたいと申し出た。つまり政治と音楽 は別と考えているから、政治的な役職を辞め ればよい、演奏はこれまでどうり続けるとい う意味である。ゲーリングは何もそこまでし なくても良かろうと慰留した。12月3日午後、 ヒトラー、ゲーリング会談があり、ゲーリン グはヒトラーを押さえ、フルトヴェングラー が個人的に謝罪すれば現職にとどまっていて 良い、謝罪の期限は翌日の正午と決定した。 しかし、同日夕方6時、ヒトラー、ゲーリングにゲッベスルが加わった3者会談で、条件 は一気に厳しくなった。ヒトラーは「この気 難しい男を徹底的に打ちのめそうと」して、 フルトヴェングラーの「生き甲斐である」楽 団を取り上げてしまう腹だった。それにゲッ ベルスが乗り、ゲーリングを押さえた。事態 の急変を知らないフルトヴェングラーは、あ っさりと、「どうぞ解任してください」と言 った。その直後、初めてフルトヴェングラー はゲーリングから音楽上の職こそが処分の対 象になっていることを知って愕然とする。政 治と音楽は截然と分けられないのであった。 約束の期限12月4日正午、事態を知ったフル トヴェングラーの苦渋に満ちた2通の辞表が 届けられた。一つはゲッベルス宛にベルリ ン・フィルーモニー管弦楽団の首席指揮者お よび帝国音楽院の副総裁としての、もう一通 はゲーリング宛てに国立歌劇場の音楽監督と しての辞表である。翌日の12月5日ゲッベル スは辞表を正式に受理した。 ベルント・ヴェスリンクはゲッベルスの 「もしフルトヴェングラーがなんとしても辞 職する決意なら(つまり謝罪しないのならの 意−三石)、おれはあいつを完全に破滅させ てやる」という言葉を引き、フルトヴェング ラーはこの挑戦を受けて立ったと論じた (407頁)。フルトヴェングラー自身、大きな 誤算があり、そんなに威勢のいいものではな かったが、行き掛かり上ゲッベルスの挑戦を 受けて立った形になった。 翌日、12月6日、ゲッベルスは、芸術は国 家の道徳的、社会的、国家的原理と結びつい たものでなくてはならない、フルトヴェング ラーの世界観の逸脱を若気の至りと片付ける わけにはいかぬと非難した。同じ日、ローゼ ンベルクは、ヒンデミット=フルトヴェング ラー事件は、「自由主義的19世紀の世界観と 国家社会主義的20世紀の世界観」との対立で あり、ヒンデミットが「ドイツ音楽の悪質き わまる低俗化」を行っている以上、彼を締め出すのは当然であると論じた。ところが、4 日後の12月10日、後任人事にいき悩んだゲ ーリングは、全く逆に「客演指揮者として貴 殿を私の歌劇場にお迎えできるかもしれぬと の希望を抱いております」とフルトヴェング ラーの翻意をうながす有名な手紙を書き送っ た(プリーベルク、261頁)。他方ゲッベルス はフルトヴェングラーにさらに追い打ちをか けた。辞任から「何週間後」、ゲッベルスは フルトヴェングラーを呼び付け、取り上げた 彼のパスポートを返しながら、「フルトヴェ ングラーさん、亡命されるもご自由です。そ の代わり二度とドイツの土を踏むことは許さ れません。ご承知のとうり、私たちが打ち樹 てたのは千年王国なのですから」と«。もし 亡命したら、お前が死んでも(千年の間!) ドイツの土は踏ませぬぞと威嚇したのであ る。 この時フルトヴェングラーは何故亡命しな かったのであろうか。亡命する政治的理由は 沢山あった。外国でも報酬の良い活動場所は 沢山あった。フルトヴェングラー自身早くも 12月10日にはすでにミュンヘン、チューリヒ、 ジェノバ、アレクサンドリアという亡命ルー トを確認している。フレート・プリーベルク は彼が最終的に亡命を断念したのは「心理的 理由」に因ろうと推測している。つまりフル トヴェングラーの考える音楽芸術は徹底的に 「ドイツ的なもの」であり、彼はここドイツ に根を下ろし、ここを馴染み深い・ふるさと の・我が家であり、どうしても棄てがたいと 言う強い意識を持っていた。ゲッベルス=ヒ トラーが外国旅行を禁止し、彼のパスポート を取り上げたことも、その心理を強めたろう。 「何週間後」にゲッベルスが嫌味たっぷりに パスポートを返してくれて、もし亡命したら 二度とドイツの土を踏ませぬぞと脅迫した時 には、彼の亡命の意志はすでに凋んでいたと (プリーベルク、270〜75頁)。このプリーベ ルクの見解は説得力がある。彼の言う、「馴染み深い・ふるさとの・我が家」に「根づい てる」という感情、つまり「ドイツ的である こと」こそ、フルトヴェングラーがここドイ ツに、ここドイツにおいてのみ、われわれの 言う「安らぎ=オーティウムotium」に満ち た「アルカディーア(歌の共同体)」を見い だしている事を示している。フルトヴェング ラーはこの「アルカディーアArkadia」なる根 拠地をしっかりと守って、魂を売り渡さない。 芸術至上主義の立場をしっかり堅持して、ナ チス最高首脳の脅迫に耐えている。 フルトヴェングラーの辞職はいかなる反響 を巻きおこしたであろうか。プリーベルクに 拠れば、外国の新聞は一斉にナチス政権を非 難し、数多くのポスト提供の手紙が舞い込ん だ。フルトヴェングラーの演奏会の定期会員 が続々と会員券の解約をはじめ、ほぼ30万ラ イヒスマルクに及び、フルトヴェングラーを 応援する手紙が山のように届いた。ベルリン のシャルロッテンブルク音楽大学ではフルト ヴェングラー復職を請願する署名集めまで行 われたという。通説によれば、ナチスの強制 的画一化は1933年7月14日の「新党結成禁止 令」で完成するとされているが、フルトヴェ ングラーを支えるこれら市民の行動は、明ら かにドイツ国内でのナチス政権に反対する 「良心的拒絶conscientious refusal」の行動であ る。つまり、この1934年12月に至ってもまだ、 多くのドイツ市民が「強制的画一化」を決然 と、しかし静かに拒否していることを示して いる。ドイツ市民階級の「理性」はまだ滅び てはいなかったのである。 一番窮地に追い込まれたのがゲッベルスと ローゼンベルクである。フルトヴェングラー の偉大さが赤字30ライヒスマルクという数字 にはっきり現れてしまった。この数字はフル トヴェングラーの年俸のほぼ8年分に当たる 巨額である。彼らは、早くも12月始め、以前 フルトヴェングラーをあれほど罵ったことを 綺麗に忘れ、今や厚かましくも彼に「飴」を差し出す。1935年1月4日、ローゼンベルク は「純粋で自然に成長していき、自由と法、 感情と形態がその中で結合した新しい音楽に 対しては、必ず反響が起こるであろう。ヴィ ルヘルム・フルトヴェングラーが、国家社会 主義のドイツにおける彼の役割を、義務と必 要条件と認識するなら、彼も指揮者として将 来この反響をあてにすることができよう」と 述べて、転向するなら受け入れてやると先ず 懐柔策を示し、続けて次にはもちろん「鞭」 をもって、「ドイツ芸術の清浄化は、まだ始 まったばかりだ。ドイツ音楽界は優れた天分 で溢れているから、いわゆる一連の国際的著 名人が欠落しても、わが国の音楽文化は全体 的地位に何ら影響を及ぼさない」と言い、た とえフルトヴェングラーらが居なくてもやっ ていけるぞ、と強がってみせたのである。し かし、フルトヴェングラー辞任にともなう諸 外国からの非難に加えて、市民の演奏会ボイ コットを受けてベルリン・フィルの赤字は目 を覆うものがあった。 1935年2月28日ついに民族啓蒙宣伝相のゲ ッベルスはフルトヴェングラーとの会談を許 可した。2人の間に際どい話が続いた。ゲッ ベルスは何時ドイツを離れてもいいと脅か す。フルトヴェングラーは、全く正直に、栄 誉と理念が傷つけられなければ亡命しないと 語る。すかさずゲッベスルは、ヒトラーに対 する服従宣言を行えと圧力をかける。フルト ヴェングラーはきっぱりとそれを拒否し、自 分を政治宣伝に利用しないことを条件に帝国 音楽界に復帰すると約束する(プリーベルク、 304頁)。果たしてこの約束はナチス政権への 屈服=降伏だろうか。作家のうちで一体誰が、 公然とヒトラーへの忠誠宣言を拒否し、自分 の名誉と信念が守られれば、国内にとどまっ てやると言えたであろうか。


11.フルトヴェングラーの復帰1935年4月25日−援軍に囲まれた「抵抗者」

とまれ、こうして、1935年3月1日の新聞 にはフルトヴェングラー自身の、復帰の弁明 文が掲載された。ヒンデミットに関するフル トヴェングラー自身による、1934年11月25 日の新聞の文章は、「音楽の専門家として、 音楽の立場から音楽問題を取り扱うという目 的で書いたにすぎない。……とくにこのコメ ントによる帝国芸術政策の指導へ介入する意 図は全くなかったと」報道された(プリーベ ルク、305頁)。翌日の3月2日、トーマス・ マンは日記に「フルトヴェングラーの屈伏、 お情けで拾い上げられる。聴衆からも受け入 れられるのか」と書き付けた»。マンの反応 はドイツ国内で進行している苛烈な画一化の 過程を経験していない、いささか観念的な非 難ではあるまいか。 さて、しかし、新聞にそのように報道され たからといって、フルトヴェングラーの復帰 がすんなりと実行されたわけではない。ゲッ ベルスは不満であり、ローゼンベルクは3月 5日、フルトヴェングラーが依然「国民社会 主義組織を批判する政治的な攻撃に対し謝 罪」していないと非難した。ローゼンベルク の非難は当たっていた。フルトヴェングラー は自分が正しくナチスの文化政策が間違って いると確信しているから謝罪などするはずが ない。 フルトヴェングラーの復帰問題は、しかし ながら、諸外国との関係で早急に結論を出さ なければならなくなる。つまり、ベルリン・ フィルは、この年(1935年)ウィーン、ブダ ペスト、ロンドン、パリで演奏することをす でに年間契約で決定していた。もしフルトヴ ェングラーが復帰できず、それらの地で演奏 ができなかった場合、損害賠償は誰が支払う のであろうか。契約破棄の責任は誰がとるの であろうか。フルトヴェングラーはそれは国 家=ナチス政権が支払い、かつ責任をとるべ きだと判断した。4月4日フルトヴェングラ ーはヒトラーに手紙を出した。「私は私人として、法的に言えば、私から結んだ契約を撤 回することはできません。この場合において 私がとる唯一の方法として、不可抗力のせい にすることが貴方の意志ですか、そして政府 は外国に対してこれらの措置に対して完全な 責任(税制的と当然道徳的にも)を追うおつ もりですか、それとも私が結んだ契約を守っ てもよいでしょうか」(プリーベルク、307 頁) 。 フルトヴェングラーの復帰問題はゲッベル ス、ゲーリング、ローゼンベルク、そしてヒ トラーというナチス最高首脳を巻き込んで振 りまわした。4月9日、フルトヴェングラー とローゼンベルクの秘密会談が持たれた。こ の会議の模様は、プリーベルクによれば、ロ ーゼンベルクは依然上に述べたフルトヴェン グラーの「国家社会主義組織を批判する政治 的攻撃」にこだわり、どうしても謝罪させよ うとしたらしい。フルトヴェングラーはなん とか言を左右して回避しようとしたが、外国 との演奏契約も迫っており、結局渋々これを 認めたようである。その翌日4月10日、ヒト ラー・フルトヴェングラー会談が持たれた。 この会議の模様も余りはっきりしないが、と もかく、ヒトラーはフルトヴェングラーの復 帰を認めた。 さてこのヒンデミット事件を契機にフルト ヴェングラーは、1934年12月5日から音楽界 を去っていたが、それからほぼ5ヶ月後の 1935年4月25日(木曜日)に、初めて正式に 公衆の前で指揮をした。この間の事情を知ら ない多くの人々は二つの見解に分かれた。一 つは、結局フルトヴェングラーは権力に屈伏 したと見た。他の見解は全く逆にフルトヴェ ングラーが政治的に勝利したと見た。トーマ ス・マンは3月2日、すでに見たように、ナ チスに「屈伏」したフルトヴェングラーは聴 衆からも見離されるだろうと予言した。果た して聴衆は、ドイツ市民は、フルトヴェング ラーの復帰にどう反応したであろうか。

4月25日、フルトヴェングラーは復帰後の 第一声をベートーヴェン・プログラムで飾っ た。『エグモント序曲』、『田園』 、 『第五番』で ある。この日のコンサートは大事件だった。 午後7時には聴衆がフィルハーモニー・ホー ルに次々と集まり始めた。車寄せには車が引 きも切らずに往復した。全席完全に売り切れ た。午後8時、フルトヴェングラーが到着す ると、「熱狂した群衆の最初の大歓迎を受け た。通路でもホールの中でも、人々は興奮に わきたっていた。ヨーロッパじゅうのあらゆ る言語が飛び交う。刻一刻とすぎていく。や がて控え室のドアから指揮者が出てくると、 指揮台へむかった。ほとんどヒステリックな ほどの喝采が、この馴れ親しんだ風貌を迎え る。突如として雷が落ちたかのように大きな どよめきが起こった。フルトヴェングラーが 指揮台にあがったのだ。その喝采たるや、筆 舌には尽くしがたい。ある者は盛んな拍手を おくり、ある者は座席をドンドン叩く。歓声 の声は、いつ果てるとも知れなかった。一度 ならず、フルトヴェングラーは、振り上げた 指揮棒をふたたび降ろさなくてはならなかっ た」(ヴェスリンク、413頁)。曲の合間にも 嵐のような拍手が沸き起こった。長い休憩の 間、聴衆はこの指揮者を花で埋め尽くした。 演奏会が終わった後でも、ファンの熱狂のど よめきが30分も続いた。出席したローゼンベ ルク、フンク、ベルリン市長ザーム、フリッ クらは、この熱狂が反ナチス的な政治的デモ ンストレーションに他ならないことをはっき りと感じ取った(ヒトラーにも招待状が出さ れたが、所用があって出られなかった)。 8日後の5月3日、フルトヴェングラーは 聴衆の要望に応えて、再度、ベートーヴェ ン・プログラムを指揮した。聴衆の熱狂ぶり は前回と全く同じである。ただ、いささか違 っていたとすれば、前回出席できなかったヒ トラー、ゲーリングとその夫人、ゲッベルス もその最前列に出席していたことである。ヒンデミット=フルトヴェングラー事件の直接 の当事者がこうして全員揃った。彼らもフル トヴェングラーに対する熱狂的歓迎を、その 恐るべき政治的デモンストレーション振りを つぶさに味わった。しかも、フルトヴェング ラーは控え室から指揮棒を右手に持って振り ながら指揮台に上がった。ところどころで上 がる「ハイル・ヒトラー」の声を全く無視し て、大歓声に謝意を示しながら、直ぐにオー ケストラに向き直った。つまりフルトヴェン グラーはヒトラーの前でヒトラーを黙殺し、 無視し、「ハイル・ヒトラー」の「ドイツ式 挨拶」をしなかった。指揮棒を右手に持ち、 振りながら登場すれば、右手で敬礼はできな い。それこそ、彼が転向しなかったことを全 会場の、全聴衆に、そしてヒトラー、ゲッベ ルス、ゲーリングにはっきりと示した彼の芸 術的な非転向宣言であった。ヒトラーはこの 侮辱に耐えて、笑顔を返した。のみならず終 演の拍手喝采のとき、わざわざ指揮台に歩み 寄り、握手をし、バラの花束を手渡した。こ の瞬間はもちろんカメラに納められ、その写 真は広く公表され、フルトヴェングラーがナ チスに「屈伏」した証拠と理解された(プリ ーベルク、310頁) 。 「名曲の名演奏は、束の間であるにせよ私 たちの気分を盛り上げ、いっさいの煩わしさ から解放し、ショウペンハウアーがこの体験 について述べたように‘すべての苦悩から完 全に’逃れさせてくれるのだ」…と言う説が ある。だが、果たして、名演奏を聴くことで、 人々は「ほんの少しの間、安らぎの領域へ逃 避」し、「生きる苦しみから解放される」の であろうか(156頁)。あるいはまた、ナチス 政権のドイツ国民は「安らぎ」や「慰め」を 与える文芸作品を読むことで現実から「逃避」 し、束の間の安らぎを求めたのであろうか。 フルトヴェングラーの名演奏を聴くことで、 「安らぎ」の世界に逃避し、抵抗力を失い、 ナチスを支持するようになるのであろうか。

精神医学者のアンソニー・ストーはそうで はないと断言する。優れた演奏のわれわれに 与える「安らぎ」は「逃避」の感情ではなく て、「もっと遠くまで跳ぶためにあとずさり する」事だという。彼は述べている。「私た ちが音楽を演奏したり、うっとりするような 演奏を聴くとき、一時的に外から刺激が入っ てくることから守られる。そのとき、私たち は世間から隔絶した特殊な世界、秩序が支配 していて不調和は閉め出されている世界には いりこむのである。本来、これは有益なもの である。それは退行の現れではなく‘もっと 遠くまで跳ぶためあとずさりする’、つまり 心の内で再び調整しなおすプロセスを促す一 時的退却であって、外界からの逃げ道を用意 するのではなく適応を助けることになる。… …情緒的に不安定な人や精神に傷害のある人 の生活に生きがいを与える」ことになるのだ と(168、170頁)。つまり、フルトヴェング ラーの音楽は、画一化を拒否する、心ある一 般国民に「安らぎ」・「慰め」を与え、かつ、 さらなる・静かな勇気を持ってこの悪魔の支 配する帝国内に生き抜く力を与えたのであ る。 ナチス政権下でのフルトヴェングラーの演 奏はナチスに協力するものであったのではな い。フルトヴェングラーの演奏はドイツ国民 に「安らぎ」と「諦観」を与え、ナチス承認 に人々をいざなったものでもない。全く逆に、 上記復帰の日の観衆の反応が示すように、 人々の反ナチスの心情を鋭く喚起させたので ある。ナチスが権力を掌握して以降、フルト ベングラーは芸術と政治とは無関係であると 確信し、芸術至上主義の立場から事あるごと に権力に「抵抗」し、ヒトラーやゲッベルス やゲーリングを困らせ、激怒させてきた。ヒ ンデミット事件はほんのその一例にすぎな い。ドイツの良識ある市民たち、彼の良き聴 衆たちは彼のそのような抵抗精神を敏感に感 じ取っていた。彼の演奏会での熱狂はそのことを極めて雄弁に物語っていた。「強制的画 一化」を拒否するドイツ良識派の「良心的拒 否」である。フルトヴェングラーはナチスへ の協力者であるどころか、ナチスにとっては 獅子身中の虫であった。そのことを誰も理解 できず、プリーベルクがいみじくも「二重ス パイ」と呼んだような事態が発生し、トーマ ス・マンは日記に彼を「屈伏」したと書き付 けたのである。これこそ「二重スパイ」(!) の悲劇でなくてなんであろうか。 フルトヴェングラーは何故かくも強靱にナ チス権力に抵抗し得たのであろうか。繰り返 し言えば、彼がもっとも単純明快な芸術至上 市主義の立場に立っていたからである。「芸 術は政治と無関係」という立場こそが、ナチ スの強制的画一化に抵抗し得る最も強力な武 器となったのである。もちろん今日われわれ 国民国家に生存する者にとって、芸術と政治 とは無関係だと言い難い事は知っている。ゲ ッベルスが力をこめて主張した「政治の芸術 化」とはそのことを指している。政治が舞台 上の芸術として観客を動員し感銘させること に、つまり異なった見解の「統合」にその本 質がある以上、たしかに政治は「最高の、も っと包括的な芸術」なのである。しかし、に もかかわらず、ナチス体制という全体主義的 国家体制下にあっては、むしろ、この芸術至 上主義の信念こそが政治的「統合(=画一化) 」 の枠を突き破る「抵抗力」の源泉となったの である。フルトヴェングラーの聴衆が彼の演 奏に共感を示したのも、その感情を共有する ものであった。彼ら聴衆はフルトヴェングラ ーの行動を知り、彼の権力への「異議申し立 て」を感じ取り、彼の演奏に思想的に共鳴し、 演奏会に出ることでみずからの精神的抵抗の 姿勢を表明したのである。フルトヴェングラ ー夫人が「戦時の演奏会は異常な緊張をはら んでいました。そしてこの緊張は強まる一方 でした。聴衆の大半は、こういう言葉を使っ てよろしければ、同志の方がたでした……フルトヴェングラーの演奏会に足を運んだのは 抵抗の立場に立った人たち」でした(166頁) と語ったのはその証拠である。クルト・リー スも、「ヒットラー時代にフルトヴェングラ ーの演奏会に行き、溺れる者が命からがら陸 地に泳ぎつくように、この演奏会に救いを見 いだした人々の意思表明であった」(270頁) と語っている。


〈注〉
(注1)フレート・プリーベルク『巨匠フルトヴェングラ ー ナチ時代の音楽闘争』香川檀・市原和子訳、音楽 の友社、1991(原書1986) 、17〜21頁。本書は緻密な 資料分析に特色があり新事実が発掘されている。以下 本文中では頁数のみ示す。

(注2)ベルント・ヴェスリンク『フルトヴェングラー 足跡−不滅の巨匠』香川檀訳、音楽の友社、1986(原 書1985) 、82〜87頁。本書はフルトヴェングラーの生 家、幼少年時代も含めた詳細な伝記に特色がある。以 下本文中では頁数のみ示す。ヴェルナー・テーリヒェ ン『フルトヴェングラーかカラヤンか』高辻知義訳、 音楽の友社、1988、8頁。

(注3)ヨアヒム・フェスト『ヒトラー』¿、赤羽竜夫・ 関楠生・永井清彦・鈴木満訳、河出書房新社、1975 (原書1973) 、29頁。

(注4)以下フェストからの引用は、上掲書『ヒトラー』 ¿ 、26〜 42頁を参照。なおゲッベルスの ‘Reichsminister für Volksaufklärung und Propaganda’は 「民族啓蒙宣伝省」「国民啓発宣伝省」の訳がある。ク ルト・リース『ゲッベルス−ヒトラー帝国の演出者』 西城信訳、図書出版社、1971、111頁。当時の雰囲気 からすれば、「民族啓蒙」の訳がよい。

(注5)H - J・デッシャー『水晶の夜 ナチ第三帝国にお けるユダヤ人迫害』小岸昭訳、人文書院、1990(原書 1988) 、21〜23頁。

(注6)クルト・リース『フルトヴェングラー 音楽と政 治』八木浩・芦津丈夫訳、みすず書房、1966(原書 1953) 、76頁。

(注7)二人の文章はヴェスリンク、368頁以下。脇圭平・芦津丈夫『フルトヴェングラー』(岩波新書、1984、 25頁以下)にこの間の事情が簡潔に述べられている。

(注8)プリーベルク、上掲書、101頁。以下のフルトヴェ ングラーへの賛辞もプリーベルク、上掲書、106頁参 照。

(注9)プリーベルク、上掲書、124頁。下文のゲーリング の打った手についても、プリーベルク、上掲書、130 頁。

(注10)プリーベルク、上掲書、172〜174、284頁。シュ ミチェクは、フルトヴェングラー協力のかどで、1934 年12月22日事務長の職を馘になった。謎の人物でプ リーベルクも追跡不能であったようである。

(注11)クルト・リース『フルトヴェングラー 音楽と政 治』八木浩・芦津丈夫訳、みすず書房、1966(原書 1953) 、95〜96頁。プロイセン枢密顧問官法。1933年 7月8日成立。首相の任命する50名以下の人々(第2条)、名誉職、鉄道乗車はただ、月に1000マルクの 給与、正式任命は7月20日、開会式は9月15日。こ の枢密顧問官就任について、戦後フルトヴェングラー はクルト・リースになぜ顧問官に就いたのかと聞か れ、「私はこれが何を意味するものなのかまるでわか らなかった」 (95頁)と答えている。任命直後にはそ うであったろうが、彼は直ちに「専門的助言」を行い 得るものとして、過大ながら、その機能を理解した。

(注12)『リヒャルト・シュトラウス』安益泰・八木浩、音楽の友社、1988(原書1964)頁104。なおフルトヴェ ングラーが、なぜ、帝国音楽院の副総裁を引き受けた かについては、クルト・リース、上掲書、95頁、およ びヴェスリンク、上掲書、390頁参照。

(注13)国立歌劇場管弦楽団主席指揮者の職は、1934年1 月16日、プロイセン首相ゲーリングとの間に契約が 結ばれ、期限は向こう5年間、年俸は3600ライヒス マルクである。またプロイセン枢密顧問官の年俸は 6000ライヒスマルクであった。

(注14)ヴェスリンク、上掲書、402頁、およびフルトヴェ ングラー『音と言葉』芦津丈夫訳、白水社、1979(原 書1954) 、97頁以下に全文収録。

(注15)エリザベート・フルトヴェングラー『回想のフル トヴェングラー』仙北谷晃一訳、白水社、1982(原書 1979)、頁157。なお当時の『朝日新聞』 、 『毎日新聞』 に当たってみたがフルトヴェングラーに関する記事は 発見できなかった(待再捜) 。

(注16)エリザベート・フルトヴェングラー、上掲書、158 頁。

(注17)『トーマス・マン 日記1935〜1936』森川俊夫訳、 紀伊国屋書店、1988、頁75。 (注18)アンソニー・ストー『音楽する精神 人はなぜ音 楽を聞くのか?』佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳、 白揚社、1995年、頁155。本文中の括弧内の数字は本書の頁数である
https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2001/1.MITSUISHI.pdf

2. 中川隆[-13459] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:40:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1445] 報告

ヒンデミット事件


ヒンデミット事件(Der Fall Hindemith)は、1934年のドイツ楽壇で起こった政治的な作曲家排斥事件と、それに伴って「ドイツ一般新聞」(ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング Deutsche Allgemeine Zeitung)に掲載された指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの新聞投稿のタイトルである。

事件の経過

1934年当時、ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の一党支配下にあり、強制的同一化政策が推し進められつつあった。その頃、世界に冠たる名門オーケストラベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン国立歌劇場の音楽監督の地位にあったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、当時のドイツの新進作曲家であったパウル・ヒンデミットの新作オペラで画家のマティアス・グリューネヴァルトを題材にした『画家マティス』の初演の準備を進めるとともに、そのオペラの音楽素材を用いて作曲された交響曲『画家マティス』を同年3月12日にベルリンのフィルハーモニーホールで初演した。

演奏会は大成功で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員の多くも、次のシーズンにこの曲をプログラミングすることに大賛成だった。しかし、ヒンデミットは当時の帝国音楽院の顧問であり、シャルロッテンブルク音楽大学の教授であったが、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を組んでレコーディングしたりするなど、ナチスにとっては目の上のたんこぶとも言うべき人物だった。アドルフ・ヒトラーはヒンデミットの歌劇『その日のニュース』において女声歌手のヌードシーンがあることを快く思っておらず、ヒンデミットに対して厳しい措置を取ることにし、フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場で初演しようとしていた歌劇『画家マティス』は上演禁止を通達された。

フルトヴェングラーはこれに怒り、ヒンデミットを擁護するために辞任も辞さない構えをとり、さらに11月25日、「ドイツ一般新聞」に「ヒンデミット事件」と題する論評を載せた。

その論評(全文がフルトヴェングラーの著書『音と言葉』に収録されている)の中でフルトヴェングラーは、ヒンデミットを排斥しようとする動きを根拠のない言いがかりと断じ、ヒンデミットは現代ドイツの音楽において必要不可欠な人物であり、これを容易に切り捨てることは、いかなる理由があろうとも許されるべきではない、と強力にヒンデミットを擁護した。

この論評はドイツ国内外でセンセーションを起こし、ベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場ではフルトヴェングラー支持のデモンストレーションが起こっていた。

ナチス政府の宣伝相であったヨーゼフ・ゲッベルスはこの事態に対し、断固たる対抗措置を取ることにした。フルトヴェングラーは(以前から彼自身が望んでいたことでもあったが)帝国枢密顧問官を辞任させられ、さらにベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場の監督をも辞任させられた。ベルリン・スポーツ宮殿では、名指しではないにせよ、「無調の騒音製造者」に対して攻撃的な講演会が行われ、ナチス寄りの新聞は一斉にヒンデミットとフルトヴェングラーを批判した。

ヒンデミットは帝国音楽院の顧問を辞し、音楽大学の教授職を休職した上でトルコに渡った。この事態を受けてベルリン国立歌劇場の第一楽長の地位にあった指揮者のエーリヒ・クライバーも亡命した。

フルトヴェングラー辞任後、ベルリン・フィルハーモニーの技量は落ち込み、また世界的な指揮者フルトヴェングラーがドイツ楽壇の表舞台から去ったことによるイメージダウンを恐れたナチスがフルトヴェングラーに歩み寄りを見せ、1935年3月に両者は和解し、フルトヴェングラーは指揮台に復帰することになる。

しかし、これでフルトヴェングラーはナチスに忠誠を誓ったわけではなく(もっとも、国際社会はフルトヴェングラーがナチスに屈服したとみなした)、内外でナチスに対して反抗的な態度をとり、ユダヤ人の亡命をも手助けしたりしたので、戦争末期には彼に個人的恨みを抱くハインリヒ・ヒムラー率いるゲシュタポに命を狙われ、結局はスイスに亡命することになる。

参考文献

『指揮台の神々―世紀の大指揮者列伝』ルーペルト・シェトレ著、喜多尾道冬訳(2003年音楽之友社)
『音と言葉 《新装版》』ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著、芦津丈夫訳(1996年白水社)
『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介著、(2007年幻冬舎〈幻冬舎新書〉) ISBN 9784344980211

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒンデミット事件

3. 中川隆[-13458] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:43:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1446] 報告

前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーとは何であったのか?


芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?

その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。

逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。

以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。


最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。

だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。


もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。

しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?

表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。


今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。

フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?

フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。

第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。


実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・

「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。

実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?

そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。

DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。

映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?

聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?

同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?

映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・


真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?

それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?

そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。


「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・


何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。

演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・

その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?

日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。

創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・

そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。

映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。

フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?

フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・

しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。

音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。

「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?

私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?

フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。

それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・

それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?

神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。

さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。

駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?

そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、

「音楽は政治とは関係ない!」

「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」

「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」


彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。

その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?

政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。

ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。

いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。

しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。

音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?

その問題と真摯に向き合ったりはしない。

「ボクは本当は作曲家なんだ!」

なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・

せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・

愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?

「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」

なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?


フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。

シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!

シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。

自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。

あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。

いつだって誰に対してだって判断保留の状態。

トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?

フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。

フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?

もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・

しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?

そう思いませんか?

だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?

復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?

好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?

というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?

ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?

フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?

ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。


ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?

だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。

ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。

バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?


しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?


芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?

その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?


この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・

しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。

いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。

あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?

禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?


書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。

まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?

しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?

ゼロから創作することができるの?

現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?

フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?

R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?

逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う


「時間がなくて、作曲できない・・・」

は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?

電車で移動している最中にもできるじゃないの?

あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?

そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?

それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?

だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?

まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?

その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?

作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。


彼の作曲した作品ですが・・・

DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。

シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。


ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?

アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・

まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。

しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?

そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。


『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』

って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?

それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。


完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。


「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」

「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」

「作曲をしないと行けない!」


と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。

だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。

しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?

だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?

「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。


フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?

どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。

そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。

彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。

自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?

一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?


同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・


普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。

指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。

指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。


そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?

フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。

個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。

「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」

最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。


オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。


そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・


死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?


ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?

しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?

そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・

演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・

あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm

「作曲家としてのフルトヴェングラー」


彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。

しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して

「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか

「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?

そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」


どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?


ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。

判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。


以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?


自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。

自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。

どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。

自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。

さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・

映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。

「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」

その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。

素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?

それを考えるのが作曲家でしょ?

その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。

それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。

それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。


フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?


「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。

よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。

スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。

こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。


指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?

スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。

自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。

自分が何をしたいのか?

何を人に伝えたいのか?

それについて考えないようになってしまう。

そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。

実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。

彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。

あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。

あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。

自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。

こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。

つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?

何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。

たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。


前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。

この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?

彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。

何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。

「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、

「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」

なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?

と言うことなんですね。

自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。

えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・

色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・

まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?

サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。


音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・

フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・

どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。

ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。

演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。

しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。

幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?

神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?

天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。

弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?

フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。


フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。


しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?

当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?

そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?

そんな根本的な疑問をもってしまう。

作曲を好きなのに才能がないのか?

そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?

「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。

逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?

フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・


そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。

しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?


少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。


「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・

オマエも将来、あの星になるんだ!」


「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」

・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・


輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。


「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」

「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」


そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?

しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?


それはこれ。

「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」

まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・

系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?

それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?

自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?

曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。

そんなものでしょ?

まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?

しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、

「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」

なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?

そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?

そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?

マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?

マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?

逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?

作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。

それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?

まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。


そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?

だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?

「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」

なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。


「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!

自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」

そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」

とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。

フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?

しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!

これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。

さあ!どうする?

と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。

「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」

と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。

そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。

重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?


逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。

その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・

「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。

逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。


別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。

自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。

実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?

それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。

ゲッペルスに対して、

「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、

「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

なんて言われるだけでしょ?

ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?

その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?

同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?

やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!

そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?

立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?

第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。

こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?

作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。

「自分だったら、どうするのか?」

「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」

そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?

あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?

規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。

フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?

乖離云々以前に中身がないのでは?

伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?

抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は

「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。

「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。

そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?

自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。

自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない

フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」

これでは創作なんてできませんよ。

「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」

そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?

自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?

そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?

あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?

それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。

「アイツのせいで、ダメだったんだ!」

あるいは

「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」

そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?

アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?

というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?

あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?

あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?

「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?

本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?

しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。

他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。


以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?

伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?

いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?

フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。

「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。

「いい子」って、要は減点法でしょ?

いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?


フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。

「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」

「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」

まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?

「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。

まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・

まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。

彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。

「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」

「時間は十分に上げるから・・・」

「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」

なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?

フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、

「ふんっ、なにこれ?」

「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」

「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」

なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、

「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」

なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。

「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。

もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。

あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?

「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」

といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?

いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか?

そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・

「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。

前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。

ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。

というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、

「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」

なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、

「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」

なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・

シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?

まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?

傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。


ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?

彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?

その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。

他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?

「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、

「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」
「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」

そう思うくらいの思い込みはいいのでは?

それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?

そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。

しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?

そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?

抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?

自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの?

確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?

もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?

しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm

アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演)


新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。

この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?

何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。

シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?

それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?


オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。


1. モーゼが神から言葉を受ける。

2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。

3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。

4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。

5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」

6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。

7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。

8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。

9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。

10. ここでモーゼが乗り込んできて、

「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」


11. アロンは、

「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」

と反論。


12. モーゼは

「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」


基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。

モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。


さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?

それは演奏家でしょ?

作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。

しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。

それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?

それについては言うまでもないことでしょ?

音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?

まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。

作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。

あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!

この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。


1. 作曲家が神から霊感を受ける。

2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。

3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。

4. 演奏家は見事に演奏する。

5. 見事な「演奏」に民衆は感激!

「感動した!これぞ奇跡だ!」


6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。

7. 作曲家は、

「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」

と、引っ込んで、新たな作曲活動。


8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。

9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。

10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、

「こらっ!ええ加減にせんかい!

ものには限度というものがあるんじゃ!

楽譜に忠実に演奏しろよ!」


11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は

「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」

と反論。


12. 演奏家からの反論を受けながら、

「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」

と締める。


私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?

逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?

オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。

しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?


そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。

もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。

この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?

ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?

ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・

この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?

どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?

そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?

むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?

何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?

あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?

翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?

だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。

まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、

「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」

と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?

まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?

それこそ作曲しながら、

「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」

と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・

まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?

しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ!

第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。

「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。

変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。

人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」


このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?

皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?

まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?

だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。

気持ちが入ったギャグだねぇ・・・

まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?

シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・


私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?

まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で

「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」

なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。

ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。

「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」

と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。

もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、

「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」

と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、

「タコはオマエだろう!」

そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?

たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。

ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?

後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?

と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?

自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・

まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?

音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?

そうなんですね!

シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。

「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」

これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、

「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」

と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?

民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?

表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。

神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。

それを一般聴衆がどう聞くの?

もう、とんでもない伝言ゲーム状態。

最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?

最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?

「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」

第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。


この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分

「想像を超える神よ!

語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。

言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!

備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。

そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言うウィトゲンシュタインの言葉と、

「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。


ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。

シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。

それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?

そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?

言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、

「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」

というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。

じゃあ、どうして表現するの?

アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?

どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・

まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・

それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?

これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?

このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。

何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。

わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。

しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。

しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。

そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。

いやぁ!苦笑いせずにはいられない。

「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!


そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?

このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?

そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm

4. 中川隆[-13457] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:48:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1447] 報告

リヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」


芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。

逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。

孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。結局は、その苦悩がますます深くなる。しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。

さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を考えて見ましょう。

題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。つまり、神から出でし存在。

そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。つまり、神からの言葉を実現させる存在。しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。

ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。

つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。

一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。

つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。

しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。

つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。ジークフリートによって、この世界が浄化される。つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。

と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。

神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。
しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。

神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。

それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。

あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。それだけレアケースというわけ。

芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。しかし、その言葉は後世まで残ることになる。

神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。

だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。

それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。

「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。

何か不吉なものが私の上にありました。私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」 
 
この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?
あるいは、ベートーヴェンでもOK。
ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?

しかし、それでも作品は残る。自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。

神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。神は嫉み深いもの。

一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。

結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html

5. 中川隆[-13391] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513] 報告

ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。
私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm


▲△▽▼


巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

6. 中川隆[-13331] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:41:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1573] 報告

カラヤンとナチについてちょっとだけ考えたこと 2007-08-19

テレビでは終戦の日をはさんで、色々と戦争を主題に色々な番組をやっている。特にスカパー!のドキュメンタリーなどのチャンネルではそれが著しい。

考えなくてはならないし、忘れてはならないことだと思う。更に現在進行形でイラクなどのことについても考えていたいと思う。

さて、広島に原爆が落とされた日に、産経新聞にあったカラヤンとナチスのことについての記事を読んで、またまた考えてしまった。

ナチスと関係があったことを戦後問題となった音楽家は数多い。カール・ベームやクレメンス・クラウス、ヴァルター・ギーゼキング、ウィレム・メンゲルベルク、アルフレッド・コルトー、ヴィルヘルム・バックハウス等々、大変多い。

権力を持つナチスに対して、おおっぴらに反対したりしなかった、あるいは協力したからと言って、その後追放したり、烙印を押してそれらの個人に対する反対運動を煽ったりすることは、私は大変違和感がある。

権力者が犯した過ちを、犯罪を、それと知らなかったただの取り巻きにまでその責任を問うというのは「正義」という剣の振り回しすぎに思われるからだ。

ナチはホロコーストをはじめ数多くの人道に対する罪を犯したことは間違いない。だからそれに反対しなかったからといってそこにいただけの人々も罪に問うのであれば、スターリンに追随した人々や、スペインのフランコ政権に追随した人々も同じように社会から追放するなどの制裁をしなくては公平ではないと思うからだ。

最近、プーチンがソ連は「ナチスのような虐殺もしていないし、アメリカのように無差別に民間人相手に原爆を落としたりしていないから、それほど酷くはなかった」とうそぶいているそうだ。アメリカは反論でないだろう。けれど、こういうのを五十歩百歩というのだけれど…。

戦争だから、そして我が国は、ドイツは負けたから一方的に叩かれたということなのだろう。ただ、私はどこかの辞めた大臣のように「しかたがない」と言ってすます気にはなれないでいる。

チスの蛮行はどうしても許せないが、その蛮行と直接関係のないところで、音楽を演奏したということが非難されるとしたら、当時ドイツに住んでいたことだけでも人道に対する罪であると言っているようなものではないか?

当時、ドイツにいた音楽家たちに対して、ナチとの関係を戦後も問い続け、その演奏するベートーヴェンやブラームスにナチの影を感じるとなれば、一体…。

イスラエルでは今でもワーグナーはタブーだと聞いたけれど、実際はどうなのだろう。確かにホロコーストで災難に遭われた人達が、そのことを思い出させるものとしてワーグナーがあるので辞めて欲しいと言われることについてはよくわかる。その思いを傷つけてまでワーグナーをユダヤ人の国で演奏する必要はないと思う。
しかし、正確を期すために言わせていただければ、ワーグナーがナチであったことはない。アメリカに亡命したというワーグナーの娘たちは反ナチであった。ただワーグナーの音楽をヒットラーが好み(大好きだったのはレハールなどであったそうだが)その音楽を利用したからであろう。ワーグナーの音楽はナチのプロパガンダ放送のテーマ音楽として、ヨーロッパでは有名だった。更にバイロイト音楽祭はナチスの保護のもとで戦争中も隆盛を極めていた。

しかし、だからワーグナーはナチスと何の関係もない。ヒットラーが生まれる前にワーグナーは亡くなっているのだ。

カラヤンの演奏にナチの響きを感じるというのは…。確かにカラヤンはナチの党員だった。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがナチだと言って非難する者もいるが、彼がナチであったことは一度もなかった。戦争中にドイツに留まったことが、ナチスであるという非難に繋がっているようで、ナチスのプロパガンダに利用されていたことも事実だろう。

だが、彼はユダヤ人の収容所の番人でもなかったし、殺したわけでもない。どうして亡命しなかったのかと非難しつづけた人々が、亡命しない=ナチスであるという極めて単純な思いこみにあるように思う。

彼よりずっと若く、これから成功への階段を駆け上がろうとしていたカラヤンが、その成功のためにナチの党員証を持つに至ったとしても、私には理解できるこどもある。ナチを肯定していのではないので、誤解のないようにしてほしい!!

音楽は抽象的な言葉である限り、権力に利用されるものであるのだろう。そして、カラヤンにナチを感じるという人に「それは間違いだ」とまで敢えて言う気はないけれど、「音がそんな政治的メッセージやイデオロギーを持つなんてちょっと考えられないけどねぇ」とつぶやくこととしよう。

山田耕筰の「かちどきと平和」を聞いて、戦意高揚の音楽だと非難するような愚かなことだけはしたくないものだ。ちなみに「かちどきと平和」は1912年の作品で、第一次世界大戦前の作曲である。富国強兵の時代から大正デモクラシーへと移る時代の音楽。だから「平和」であったのだと私は思う。

https://suisse.exblog.jp/6758164/

7. 中川隆[-13330] koaQ7Jey 2020年3月25日 10:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1574] 報告
ナチス支配下で生きた最大最高の指揮者、フルトヴェングラー
伝説の「第九」を聴きながら鎮魂する
堀川 惠子 『週刊現代」2016年1月2・9日号より
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47281

年の瀬といえば「第九」。この時期、我が家のCDデッキにはフルトヴェングラーの「第九」、それも伝説のバイロイト盤が入っている。

フルトヴェングラーはドイツの誇る指揮者だ。カラヤンの前任者としてベルリン・フィルを率いた。第二次世界大戦の最中にピークを迎えた音楽人生は、ナチの歴史と背中あわせでもあった。

没後61年、フルトヴェングラー人気は日本でも根強い。今年も関連書籍の再版が相次いだ。

『フルトヴェングラー 最大最高の指揮者』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4309978673/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309978673&linkCode=as2&tag=asyuracom-22

は2011年の増補版だ。丸山眞男はじめ多様な識者がフルトヴェングラーを自由に語りあっている。

当時、ナチはユダヤ人へのホロコーストを行う一方で、その蛮行を覆い隠すために音楽を利用した。その中心にあったのが「第九」。本書によれば1941〜42年だけで「第九」の演奏会は31回。そのうち9回でフルトヴェングラーがタクトをふっている。

祖国に留まり、その伝統の中で演奏することを選んだフルトヴェングラーは二律背反に苦しんだ。ユダヤ人演奏家をかくまい、ナチから依頼される演奏を断り続けるも、巧妙に表舞台へと引き出されていく。

結果として、早くにイタリアから亡命した指揮者トスカニーニとの比較で批判され、戦後は公職追放の憂き目にあい、戦犯にされそうにもなった。祖国が独裁者の手に奪われた時、体制内抵抗者として己の職を貫く生き方がいかに困難なものか、フルトヴェングラーの生涯はよく伝えている。


芸術を絡め取る権力の詐術

暗黒の時代が去って6年後の1951年夏、人々が待ちに待ったバイロイト音楽祭が再開、その冒頭でフルトヴェングラーが「第九」を演奏する舞台が整った。演奏する側も聴衆も万感の思いがこみ上げただろう。

「未曽有の高揚感がフルトヴェングラーをも包み込んだ結果のあの演奏」となり、「忘我の高揚感」をもたらしたと本書はいう。バイロイトの「第九」は伝説となった。

草森紳一著『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ1』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4892571210/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4892571210&linkCode=as2&tag=asyuracom-22


も復刻版だが、今の時代に読んでこそ面白い。著者は一章を割いて、ナチの宣伝相ゲッベルスがいかにフルトヴェングラーを利用したか、その手法を詳細に描く。

匿名の投書攻めで精神的に追いつめるのは常套手段。フルトヴェングラーからナチ主催のコンサート指揮を断る手紙が届けば、その中から都合の良い部分だけ抜き出して新聞に公表する。

一般のコンサート会場の最前列すべて買い取り、幕が開く直前にヒトラーを連れて座る。フルトヴェングラーが聴衆に向かって礼をする時、あたかもヒトラーに向かって頭を垂れる格好に見える絶好のポジションにカメラマン。演奏後は壇上に駆け上り、有無を言わさず握手、その写真を即刻、世界中に配信した。

権力の宣伝にとって芸術家や有名人がいかに絶好の素材かが分かる。人気芸能人やスポーツ選手に畑違いの議員バッジをつけさせるのも、次元は低いが同じことだろう。

去年の年の瀬は、私自身も戦争について執筆する困難の最中にあり、毎夜、バイロイトの「第九」を聴いた。重厚な旋律に、600万のユダヤ人死者たちへの鎮魂、そして苦しみの果ての歓喜を感じるようで心は奮い立った。

そもそも我が家のバイロイト盤は、夫の所有物だ。彼は高校時代から第九のスコア(総譜)に旋律を追っていたらしく、「第九は神から人類に与えられた宝物」と言ってはばからない。初演から約190年、ベートーベンが人類に遺した偉大な仕事は今も人々の心の奥深くにまでタッチする。だからこそ、権力者の介在は二度と許したくない。

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