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2015年2月01日10時44分 〜
記事 [近代史02] 神輿の黙示録(20)(武士とサムライの戦い:何故、武士のヒゲは濃いのか)
昭和生まれのひとには理解できるかもしれませんが、棒切れを刀に見立てて、チャンバラゴッコは少年の遊びとしては、ポピュラーなものでした。そして、東映のチャンバラ映画観賞は、数少ない娯楽のひとつでした。
そのチャンバラ映画に登場する、刀を携帯する武人には、二種類いたように思えました。刀を同じく腰に差しているのに、ひとりは華奢で剃髪し羽織袴に裃のひと、もうひとりは髪を束ね体格ががっしりとした粗野な服装のひとです。その顔付も異なっているのです。ひとりはヒゲが薄く、目もほそくノッペリ顔です。そして、もうひとりはヒゲが濃く、目が大きく鼻も高いのです。俳優の故三船敏郎は、後者の武人を演じさせると、天下一品でした。
東映のチャンバラ映画のストーリは勧善懲悪で、諸国を流離う粗野な服装の武人が、お城のお家騒動に巻き込まれ、羽織袴の悪人武人に利用されるのですが、最後には、流離いの武人が黒幕の悪人家老を切り、それにより、悪人家老にイジメられていた善人が返り咲き、メデタシメデタシで終わるのです。
しかし、気になるセリフがあったのです。それらは、「おサムライ様」があるのに、「お武士様」はありません。その代わりに、「野サムライ」はないのに、「野武士」があるのです。そして、幕府の役人に追われる野武士が、町方の役人により捕らわれると、「不浄の縄に捕らわれた。」と悔しがるのです。何故、役人の縄が不浄なのでしょうか。
後で分かったことですが、その前者が「サムライ」で、後者が「武士」の特徴だったのです。このサムライと武士の二種類の武人は、日本列島史上どのようにして現れたのでしょうか。そして、何故、町役人の縄が不浄なのでしょうか。
そのサムライと武士の歴史を調べると、その不浄思想と武士の発生とは、大いに関係があったのです。
元々、日本列島には、異民族不浄思想などはなかったのです。そして、その異民族不浄思想は、平安時代に、遊牧民族を蔑視するインドのヒンズー教の影響を強く受けた、空海が発明した真言宗と、そして、最澄が中国から導入した、騎馬民族を蔑視する法華経を経典とする中国天台宗の平安仏教の渡来により、日本列島に広まっていったのです。
では、何故、平安時代に、異民族不浄思想が広まっていったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配した前政権のユーラシアから渡来の騎馬民族と異なる民族が、平安時代に出現したからです。その民族とは、東アジアで騎馬民族の突厥帝国と戦っていた唐(618年〜907年)の軍事的支援により、663年母国が滅亡して渡来した百済系末裔桓武天皇(781年〜806年)の指示により、中国山東半島から京の都に移民してきた、ツングース系亡命百済貴族一族だったのです。
唐は、新羅に恨みを持つ亡命百済民を利用して、陸奥国に居住する突厥帝国と新羅花郎軍団残党の抹殺を計画していたのです。そのための手段が、百済系桓武王朝成立の背景であったのです。その証拠として、789年桓武軍は、唐進駐軍と共に、陸奥国の蝦夷討伐をおこなっているのです。そして、蝦夷平定は、その後801年金髪の坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙して、京で惨殺するまで続いていたのです。しかし、その後も、蝦夷の反乱は続き、鎌倉初期に、同族の源頼朝により、平定されるのです。その後、異民族蔑視思想が、鎌倉時代に、日蓮や親鸞など、比叡山で騎馬民族差別思想を含む「法華経」を勉強した僧達により、庶民にまで広がっていくわけです。
平安時代の907年唐滅亡までは、平安京は唐の支配下にあったのです。ですから、平安京は、インド色の強い奈良の藤原京・平城京とは異なり、唐文化に溢れていたのです。しかし、907年唐が滅ぶと、興福寺・春日社により奈良を支配していた、南インドから渡来した中臣族が変身した藤原氏が、平安京を、1167年アラブ(ベルシャ)から渡来の海洋民族末裔平家・平清盛(平氏ではない。)が台頭するまで、支配するわけです。
では、我々日本人は、いつ頃から「日本人」と言われてきたのでしょうか。それは、672年日本国初の天皇、新羅系天武天皇(672年〜686年)からです。その時、倭国は日本国に変身したのです。しかし、その日本人の実効支配地は、近畿一帯にすぎなかったのです。そして、蝦夷が支配する陸奥国が実効支配されるのは、約六百年後の鎌倉時代なのです。
672年以前の日本列島には、「日本国」がないわけですから、当然「日本人」が存在していなかったのです。それまでは、対外的には、日本列島には、倭国、扶桑国、大漢国、文身国、女真国、大食国、秦王国(608年隋使裴世清が見聞)などが存在していたことが、中国の歴史書に記述されているのです。
日本国が歴史上現れたのは、朝鮮半島の統一新羅国とほぼ同じ七世紀後半であったのです。ですから、672年以前の飛鳥ヤマトには、「天皇」もいないし、「日本人」も存在していなかったのです。
つまり、「日本書紀」で述べるように、四世紀から出現する歴代の天皇が支配する「大和朝廷」など、歴史上存在していなかったのです。実際の六〜七世紀の飛鳥ヤマトには、先住民の他に、オリエントから渡来の国際交易商人、突厥帝国軍人、高句麗人、百済人、新羅人、隋・唐人、それに南方からの渡来人(藤原氏の祖)が暮していたのです。
しかし、藤原氏末裔近衛家が支配する秦氏末裔薩摩藩の指導の下、1868年イギリス東インド会社の陰謀による明治革命で、政権中枢に返り咲いた藤原氏末裔は、錬金術師空海が、834年仁明天皇(833年〜850年)の御衣に、ダキニの呪法で加持祈祷(御修法)をおこなったのを始まりとして、孝明天皇(1846年〜1867年)まで続いていた、天皇の即位式を「仏教の真言密教」によりおこなっていたのを、1867年明治天皇から、「神道儀式」に代えてしまうのです。
1868年の明治革命は、645年中臣族による、所謂「大化の改新」が唐進駐軍の軍事支援がなければ成功しなかったように、イギリス東インド会社の資本・軍事的支援が無ければ成功しなかったのです。
しかし、イギリス外務次官ハモンドの訓令で、「日本の体制変化には、日本人だけから発生したような外観を呈しなければならず、どこまでも、日本的性格によるものだという印象を与えるようなものでなければならない。」、とイギリス公使パークスに述べているのです。かくして、イングランド銀行の支援により、1882年日本銀行が設立され、日本国は、金融をとおしてイギリスの支配下に位置し、現在に至るのです。
日本国の貨幣を造る銀行が、国立ではなく、私立の株式会社であるのは、アメリカ合衆国と同じです。これには、明治革命と何か関係があったのでしょうか。明治革命の謎は深まるばかりです。
さて、明治革命で、天皇の即位式を祀る神が異なったということは、その天皇の民族性が替わったということです。
日本初の天皇、新羅系天武天皇は、672年北極星(太一)を大嘗祭の儀式で祀っていたのです。それが、藤原氏が、729年太一を祀る天武天皇の孫長屋王を陰謀により抹殺し、大嘗祭を新嘗祭とに分離し、天武天皇が祀っていた太一(北極星)を、農耕神の天照大神に摩り替えてしまうのです。そして、祭祀権を握った藤原氏は、770年亡命百済下級貴族を光仁天皇とするのです。
当然、祭祀権を天武天皇系王族から簒奪した藤原氏は、672年壬申の乱で天武天皇軍に対して赤旗をたなびかせて軍事支援をした、伊勢湾一帯を支配するアラブ海洋民族末裔(後の平家)に対して、百済亡命近江王朝を壊滅した記念として、伊勢に道観を建立し、北極星(太一)を祀っていたのを、その道観を徹底的に破壊して、その跡に天照大神を祀る伊勢神宮を建立するわけです。しかし、伊勢の建物を「道観」から「神宮」に改竄できても、庶民の思想までは改竄できないのです。その証拠として、今も「太一」の文字が伊勢の祭りで使われているからです。
奈良末期、藤原氏の支配下から抜け出すために、光仁天皇の息子山部親王は、唐の軍事支援の下、781年桓武天皇として即位するのです。その時の即位式は、藤原氏が「日本書紀」で述べるように皇室の神が天照大神であるのなら、桓武天皇の即位式では、当然として天照大神の下でおこなうべきところを、なんと、父親の百済系光仁天皇を祖神として、唐式の儀式により即位式がおこなわれたのです。
そのように、天皇体制は、672年天武天皇から江戸末期まで続いているわけですが、その中身である王族の民族性が、騎馬民族系の新羅系天皇から、770年以降からはツングース系の百済系天皇へと、異なっていたのです。そこで、藤原氏末裔に支配された明治新政府は、その騎馬民族王朝が存在していた史実を隠すため、645年「乙巳の変」の革命を「大化の改新」と改竄して、明治革命を王政復興と位置づけ、その古におこなわれた王政改革の習いとのキャンペーンを、学校での歴史教育でおこなうわけです。その「明治の改新」のスローガンとは、「祖神天照大神」、「万世一系の天皇家」、「大和単一民族」です。
その「明治版大化の改新」を進めるために、明治新政府は、それまでの桓武天皇から続く百済系天皇家の、錬金術師空海が発明した、仏教式・唐制風儀式を廃止することにし、新たな神道儀式を発明するわけです。
明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた、藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、そして、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治革命の後に、新発明された儀式であるのです。
そして、明治天皇は、百済系桓武天皇(平安時代)から孝明天皇(江戸時代)まで、途絶えていた伊勢神宮参拝をおこなうのです。何故、桓武天皇から伊勢神宮参拝が途絶えていたかの理由としては、685年建立の伊勢神宮の元は、百済の宿敵である新羅系天武天皇が、騎馬民族の神・北極星(太一)を祀っていた道観であることが解れば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
江戸時代、騎馬民族末裔の徳川政権を、1582年山崎合戦で明智光秀軍を裏切った騎馬民族末裔の徳川家康を憎む、明智家のお福である春日局の陰謀で、乗っ取った第三代徳川家光から始る第三百済王朝は、1635年から始る参勤交代では、西国からの歴代の大名の多くは、その伊勢と徳川家康が支配した三河を「穢れ地」として避け、江戸へ向かっていたのです。皇室の祖神を祀っていると云われる伊勢の地には、そのような歴史もあったのです。
この虚構の「万世一系天皇物語」の藤原日本史の創作は、幕末から始められていたようです。その根拠は、藤原不比等が創作した「日本書紀」物語での、日本初の架空天皇・神武天皇の墓を、幕末から造り始めていたからです。
そして、1868年の明治革命を意図してか、1866年江戸と大坂で打壊しが突然同時に起こり、翌年1867年伊勢神宮のお札が空から舞い降り、庶民・農民を問わず無銭で伊勢へお参りする「ええじゃないか運動」がおこるのです。それにより、庶民には、伊勢の地は、「穢れ地」から、天皇の祖神が祀られる地に、明治革命前の幕末に変身していたのです。そして、明治革命と同時に、1868年神仏分離令が発令され、百済王朝幕府の手先として騎馬民族末裔を穢多の差別語でイジメていた仏寺は、賎民により徹底的に破壊されてしまうのです。特に、秦氏末裔が多く住む、薩摩では、禅寺を除き、殆んどの仏寺が破壊されたのです。
明治革命軍は、反仏教の賎民の力を利用して、戦国時代の浄土真宗が、イエズス会の織田信長軍と闘うために、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を阿弥陀(アミ様)として祀り、ミトラ神を信じる秦氏末裔の穢多の軍事力と金力とを利用したように、第三百済王朝の江戸幕府にイジメられていた薩摩藩と長州藩の秦氏末裔の賎民を、革命戦士として利用していたのです。では、体制側正規軍を相手に、互角に戦える戦術と戦闘技術を持つ賎民軍団の正体とは何なんでしょうか。教科書歴史では、その賎民軍団の正体を記述していないようです。
そのように、日本列島には日常生活を異にする、騎馬民族・農耕民族・海洋民族とが存在していたのです。その生活信条が異なる民族が暮す日本列島史の史実を隠蔽する目的で、歴史教育を「日本史」と「世界史」に分けるのです。明治新政府のこの分離歴史教育により、子供達は「農耕民族日本人」純粋培養思想が刷り込まれてしまうのです。そして、明治新政府は、農耕民族を「オオミタカラ」として、それ以外の異民族を蔑視していくわけです。
その結果、多民族が暮す朝鮮半島には同族もいたのに、明治新政府により、天皇の赤子・日本人とは別種と教育されたひとのなかには、同族である朝鮮半島人を蔑視するひとも現れてしまうわけです。
東アジア地図を南北逆さに眺めれば、日本海は、内海となり、日本列島は、極東での北アジアと南アジアとをつなぐ、回廊であることが理解できるでしょう。そのような日本列島が歴史上孤立していたはずはないのです。
日本列島の回廊は、時の軍事力により、南から北に、あるいは、北から南に、紀元前から異民族が渡来していたのです。ですから、日本列島史を調べるには、隣国朝鮮半島史だけではなく、ヨーロッパ史、オリエント史、あるいはユーラシア騎馬民族史をも視野に入れる必要があるのです。
そして、日本人が、「神国ニッポン」の選民思想により、異民族をイジメる思想の発生を調べるには、エジプト・オリエントの宗教、そして、バラモン・ヒンズー教、特に、太陽神ミトラを調べる必要があるのです。そして、騎馬民族末裔をイジメた日本仏教思想を知るには、ユダヤ・キリスト教の歴史を調べる必要があるのです。それは、日本の仏教思想の元は、それらの宗教の寄せ集めであるからです。
日本人の人種的視野を狭めてしまった原因としては、「聖書」と「日本書紀」が考えられます。これらの二書は、日本列島史を創作した藤原氏と大いに関係があるからです。
歴史的に、藤原氏が、日本国と日本人のイメージを創作したと言っても過言ではないでしょう。それは、「日本書紀」の創世記物語のなかで日本神話を創作し、その神話の中で天照大神を発明して、その天照大神を日本人の父・天皇家の祖神としたからです。そして、神武天皇という人物を、神代の国から地上に降臨させ、歴代の天皇が飛鳥ヤマトを支配し、その後、日本列島を支配してきた、と錯覚させ、勝者の史料を疑うことを知らない、多くの歴史学者のメシの種を創出したからです。では、その日本人の歴史的視野を狭めた魔術書である「日本書紀」を創作した藤原氏とは、何処から降臨したのでしょうか。
日本人が国際人であることは、その言語の基が国際的であることからでも証明できるでしょう。
日本語の文法構造が、ツングース語、モンゴル語、トルコ(チュルク)語と極めて類似しているから、日本語は、その三つの言語を一括する、アルタイ語であると言われてきました。しかし、多くの研究の結果、それらのアルタイ語の単語と対応するものが、日本語に乏しいので、日本語の基は、アルタイ語だとは断定できないのです。
言語は、経済活動に優れた民族の言語が、経済が劣る国に広がる傾向があるのです。ですから、現在の日本経済が弱い証明として、国際金融資本を支配する欧米語の語学学校が流行るのと同じに、古代日本列島に波状的に渡来した、経済的優位の民族が持ち込んだ言語が、古代の日本列島に広がって、そして、定着していったのです。
その傾向から、日本語の単語に、アルタイ語の単語が少ないということは、遊牧・騎馬民族であるツングース民族、モンゴル民族、トルコ(チュルク)民族が渡来する以前に、他の民族が渡来していたことが示唆されるのです。
因みに、モンゴル文字とチュルク文字は、表音文字で、その祖語は、古代海洋民族のフェニキアが発明したアルファベットで、そして、そのフェニキア文字は、古代ペルシャでの国際交易商人が交易で使ったアラム語へ派生していくわけです。そして、時代と供に、これらの表音文字は、国際交易商人・騎馬民族と供に、西アジアから東アジアへと伝播していったのです。それらの国際交易語としての遊牧・騎馬民族のアルタイ語は、シルクロートの東の終着点飛鳥ヤマトに渡来し、そして、定着したわけです。
日本語の言語は、子音で終わるよりも、「あ・い・う・え・お」の母音で終わることが多いのです。この母音で終わる言語を使う民族は、南方のポリネシア民族が考えられます。その狩猟・採取民族であるポリネシア民族末裔は、環太平洋の島々に分布しています。
日本列島の経済歴史は、狩猟・採取から、畑の農耕へ移り、そして、紀元前四世紀からの弥生時代に、鉄器使用の水田稲作が始ったようです。しかし、そのポリネシア語には、水田稲作に関する日本語の単語が見つからないのです。
水田稲作は、教科書歴史によれば、中国南部から朝鮮半島を経由して渡来した、と述べているようですが、その水田稲作に関する日本語に対応する単語が、中国語・朝鮮語には乏しいのです。
稲には、三種類あります。それらは、インディカ、ジャポニカ、そして、ジャワニカです。それらは、環境により変化したようです。古代の日本列島では、ジャワニカが栽培されていたようです。では、そのジャワニカ種を栽培する、日本語の単語と対応する、水田稲作関連単語は、何処から渡来したのでしょうか。それは、南インドからジャワを経由して、南海ロードにより渡来したのです。
古代インドは、農耕・遊牧民族トラヴィダが支配していたのですが、紀元前二千年アーリア人の侵略により、トラヴィダ民族は、被征服民となり、そして、紀元前八世紀、アーリア人の発明した、輪廻転生のバラモン教のカースト制度で、トラヴィダ民族は、アウトカーストの不可触賎民に落とされてしまうのです。
そのアーリア人によるバラモン教の圧制を逃れて、東の中国へ、そして、南インドへ逃れたトラヴィタ民族末裔がいたのです。その南インドへ逃れた民族は、タミル語を使っていたのです。
この南インドのタミル語が、日本語の水田稲作の単語と多く対応するのです。アゼ・アデ・クロ(畔)、ウネ(畝)、タンボ(田)、シロ(泥)、ハタ・ハタケ(畑)、コバ(焼畑)、ニ(稲)、アハ(粟)、コメ(米)、クマ(神米)、ヌカ(糠)、アレ(餅粉)、カユ(粥)、モチヒ(餅)、カス(粕)などなどです。
では、何故に、紀元前四世紀の弥生時代に、南インドから、遥々極東の列島に、タミル語を話すトラヴィダ民族末裔が渡来したのでしょうか。それは、国際交易品を求めて、弥生時代に日本列島に渡来していたのです。
日本列島は、火山国で、亜熱帯の気候であったので、鉱物(金・銀・銅・鉄・水銀・朱砂・琥珀)・動植物(熊・鹿・猿・大麻・漆)・海洋物(真珠・珊瑚)の資源宝庫であったのです。ですから、琥珀が産出する岩手県久慈には、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸とにより、紀元前から琥珀ロードが存在していたのです。
紀元前十世紀ヘブライ国の王ソロモンは、隣国フェニキアの海洋国際交易商人と結託して、貿易風と海流を利用した外洋船のタルシシ船で、南インドから、孔雀、猿、香辛料、そして、極東の列島で採取した真珠・珊瑚等を輸入して、それをギリシャ都市国家に売りさばいて、大儲けをしていたのです。つまり、南インドでは、紀元前から西洋と東洋とを結ぶ国際交易港を築いていたのです。
紀元一世紀、西のローマ帝国と、東の後漢との間で、絹貿易が盛んになると、そのシルクロード交易の中継地、ギリシャ文化のバクトリアを継承したクシャナ朝の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語とサンスクリット語による物語が沢山創作されるのです。恐らく、それらの物語の基はひとつであったようです。それは、元々、ギリシャ語とサンスクリット語とは、印欧祖語を原語とする言語であったからです。
そして、それらの物語は、国際交易商人の商隊と供に行動する僧侶により、各国に広められていくのです。そして、西に向かった物語は、やがて「新約聖書」物語となり、東に向かった物語は、大乗仏教の「法華経」などの経典物語となるのです。ですから、「ヨハネの福音書」物語と、「法華経」物語には、同じテーマの物語が多くあるのは、そのためなのです。
その国際交易都市ガンダーラから、そのギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族が、南下して、南インドのマラバル沿岸にたどり着くのです。その地を目指したのは、紀元前十世紀から、南インドのマラバル沿岸は、西洋と東洋との国際交易湊であったからです。
四世紀、この南インドのマラバル沿岸の東西を結ぶ国際交易港も、中央ユーラシアを支配した騎馬民族鮮卑の影響を受けるのです。
鮮卑の支配地拡大に伴い、周辺民族の大移動により、東西シルクロードの通過国パルチア王国が293年滅び、そのあとにササン朝ペルシャが興るのです。そのオリエントでの騒乱の影響で、隣国のクシャナ朝が衰退すると、ガンジス川河口の小国グプタ朝がインド中央部に侵攻してくるのです。そのグプタ朝軍団のインド大陸での膨張で、南インドの民族は、アラビア海やインド洋の海上へ押し出されてしまうのです。このなかに、ギリシャ語とサンスクリット語の物語を持った民族もいたのです。
五世紀、南インドから、南インド特産の香木を持った民族が、国際交易品の真珠・珊瑚を求めて、極東の列島の南九州坊津に現れるのです。やがて、その南インドから渡来した国際交易商人達は、先住民の軍事部族の「ハヤト」を従え、南九州を支配するのです。
そのハヤトが使う言葉は、飛鳥ヤマトのアルタイ語と異なり、タミル語と類似していたのです。この軍事部族ハヤトは、平安時代半ば、藤原氏が、朝廷の支配権を亡命百済貴族から簒奪すると、都の警備に駆りだされるのです。
六世紀の飛鳥ヤマトは、東アジアの覇権を競う、騎馬民族突厥帝国と農耕民族の北周・北齊との闘争の影響を受け、騒乱状態であったのです。飛鳥ヤマトは、奈良の宇陀から産出される朱砂の国際交易地として、縄文時代から渡来人が訪れていたのです。その飛鳥ヤマトを支配することは、国際交易商人にとっては願うことだったのです。
しかし、突厥帝国と北周・北齊とにとっては、飛鳥ヤマトを支配することは、国家存亡の問題であったのです。それは、日本列島の中心である飛鳥ヤマトを、突厥帝国が支配できれば、南北に続く列島を利用して、中国大陸中部を海上から攻撃できるし、その反対に、北周・北齊が支配できれば、北海道からカラフトに侵攻し、突厥帝国の背後を攻撃できるからです。
東アジアでの、突厥帝国と北周・北齊との攻防は、589年北周・北齊を滅ぼし、隋が建国することより、事態がかわるのです。
530年突厥は、朝鮮半島で高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っているのと同じように、日本列島で高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の紛争をしている、近畿の飛鳥ヤマトに、騎馬軍団を送り込み、そこを軍事支配するのです。そして、小高い岡に挟まれた飛鳥ヤマトの地に、チュルク軍の王(「日本書紀」によりチュルク名は蘇我氏に改竄される。)によりチュルク軍の砦が建てられるのです。そして、中国大陸からの侵攻に備えて、北九州から瀬戸内海へかけて、47もの防衛軍事施設の「ミヤケ」を設けるのです。
突厥進駐軍の二代目の時代になると、近畿に進駐していた朝鮮半島の勢力を取り込み、飛鳥ヤマトを騎馬の軍事力で完全に支配したチュルク王タリシヒコ(日本名:蘇我馬子)は、607年隋の煬帝に使者を遣わし、「東の天子が、西の天子に告ぐ。お元気ですか?」、と突厥帝国が飛鳥ヤマトを完全支配したことを告げるのです。
隋の煬帝は、漢族ではなく、騎馬民族の胡族(チュルク・トルコ)出身であったので、同族のタリシヒコは、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」、と気軽に上表文を書いたのでしょう。
天子(テングリ)とは、騎馬民族の言葉で、北極星(騎馬民族の神)の命を受けた王の意味です。もし、煬帝が、騎馬民族の胡族ではなく、漢民族であったとしたら、遣唐使は斬首されていたことでしょう。それは、漢族では、中華思想により、全ての外国人は、獣と同じ蛮族と考えていたからです。蛮族が、中国の王と同列であることは、ゆるされることではないからです。
隋の煬帝と、飛鳥ヤマトのタリシヒコとは、言葉が通じていたようです。その根拠は、遣隋使には、通訳が伴っていなかったようです。中国の史書では、公式の外国への使節に関する記事では、「訳を付す」とか「重訳を付す」と断り書きをするのが慣わしですが、「隋書」の倭国の記事にはそのような但し書きが一切ないからです。
「日本書紀」では、隋の煬帝への書簡を書いたのは「聖徳太子」としているのです。そして、この607年の遣唐使を、「日本書紀」では、「小野妹子」としているのですが、「隋書」では、「ソ・インコウ」(蘇因高)としているのです。では、どちらの記述が正しいのでしょうか。それは、「隋書」のソ・インコウが正しいのです。
その根拠は、漢字二文字表記名の出現は、藤原不比等が天武王朝から権力簒奪した、713年の「好字令」以降だからです。つまり、「古代歴史資料」での漢字二文字で表記の人名・地名は、なんらかの意味で、藤原氏の作為があるからです。
その遣唐使ソ・インコウの書簡に対して、隋の煬帝は、608年隋使裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込み、偵察させるのです。そして、裴世清は、都で「男王・アマタリシヒコ」に謁見したことを、煬帝に報告した記述が、「隋書」にあるわけです。
藤原氏が創作した「日本書紀」によれば、その飛鳥ヤマト時代では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)が仏教布教のため、607年法隆寺を建立し、そして、多くの豪族達が寺を建立したため、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れ、その仏教の都で聖徳太子は大臣蘇我馬子と供に天皇紀・国紀を編纂していた、と言うのです。
しかし、飛鳥ヤマトの遺跡群は、「日本書紀」が描く仏教世界と異なる、オリエント世界を示すのです。それは、607年建立とする仏寺法隆寺(670年焼失)の遺跡は、仏教思想の南北軸ではなく、太陽神ミトラを祀る民族思想と同じに、南北軸から西に約二十度傾いているのです。そして、最古の寺と言われる飛鳥寺の瓦は、チュルク瓦(突厥瓦)と同じ、中国建築物の平瓦ではなく、丸瓦なのです。
更に、仏教建築文化には、石敷きの池に噴水を造る技術などありません。その噴水公園施設は、水が貴重物である砂漠地帯の文化であるのです。その噴水の技術は、山から水を引く、地下水道のカナートの技術なくしてはできないのです。カナートは、水の乏しいオリエントでは日常の水道施設であるのです。しかし、日本列島は、いたるところに滝が見られる、水の宝庫国なのです。噴水もカナートも、オリエントの文化技術で、日本列島古来の文化技術ではないのです。
そして、645年に壊滅した蘇我蝦夷・入鹿の館の遺跡は、飛鳥時代が平和な時代ではなく、戦闘状態であったことを示しているようです。その館は、石垣で防御を施してあったのです。
何故、南北約800m、東西約二kmの、それも都の真ん中に飛鳥川が流れる、長く幅が狭い飛鳥の土地に、国際都市が築かれたのでしょうか。そして、何故、蘇我氏親子の館は、岡の上に建てられていたのでしょうか。
蘇我氏が、「島の大臣」と云われていた理由は、その飛鳥川の下流にある仕掛けが原因のようです。その仕掛けとは、設置された大石を川床へ移動すると、飛鳥川が溢れ、飛鳥の都が水没し、飛鳥一帯は湖となるからです。しかし、蘇我氏の館は岡の上にあるため、水没から免れ、その岡が島となるのです。この装置は、正に、水城(みずき)です。
では、蘇我氏の館より下に建設されていると思われる、飛鳥ヤマトの天皇が住む館は、飛鳥川の氾濫で、どのようになるのでしょうか。この推測からも、「日本書紀」で述べる、飛鳥時代の宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古天皇の存在が疑われるのです。
飛鳥時代の蘇我王朝以前に、統一政権である「大和朝廷」が存在していなかった根拠として、国家を維持するための税制がなかったことがあげられます。国が臣民から税を徴収するには、戸籍がなくてはなりません。その戸籍が歴史上に現れたのは、689年「庚午年籍」からです。ですから、国庫収入がない「大和朝廷」は、存在できないのです。
それに、飛鳥時代以前の近畿地方は、山々から流れる川の氾濫により、農耕に適さない湿地帯であったのです。そのような地域では農業がおこなえないため、強力な国家財政など維持できないのです。
教科書歴史では、巨大古墳を築造するだけの財力があったから、四世紀に「大和朝廷」が存在していた、と述べるのですが、その巨大古墳を近畿に築造した理由のひとつは、戦国末期関東の荒川河口の湿地帯を神田掘の運河を削掘し、その残土で海抜十mの人工山を築き、穢れ地を宅地に変えたように、農耕に適さない湿地帯を、巨大運河を削掘し、その残土で土地を改良するためだったのです。
更に、飛鳥ヤマトの遺跡が、仏教文化と異なるところは、七世紀まで古墳が築造されていたことです。古墳の埋葬者は、死者を不浄物として火葬(ヒンズー教から導入)し、浄物(成仏)とする仏教思想とは異なり、再生を願うため土葬なのです。
そのような再生を願う土葬思想の民族が、ヒンズー教のように死者を不浄とし燃やしてしまう仏教思想を受け入れるわけがありません。天皇家でも、686年新羅系天武天皇は土葬で埋葬されたのです。しかし、藤原不比等の傀儡天皇である、百済系女帝持統天皇は、697年に火葬で埋葬されたのです。この女帝持統天皇が、歴史上初の火葬で埋葬された天皇であるのです。
そして、日本列島に張り巡らされていたと思われる飛鳥を基点とした幅十二mの直線道路、難波から飛鳥の都まで外国の賓客が乗る船が運航できる運河、ガラス器製造工場、金メッキ工場、富本銭製造工場、そして突厥石人などの巨石建造物などなど、それらは、仏教文化などではなく、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、オリエント、ユーラシア騎馬民族等の文化であるのです。
藤原氏は、「日本書紀」で、後世のひとたちに、どのようなメッセージ(ウソ物語)を伝えようとしたのでしょうか。
1868年明治革命が、日本史が示すように、薩摩・長州藩を主体とした日本人革命軍だけで成功したわけではないように、645年の乙巳革命も、インドから渡来の中臣族軍だけではなかったのです。そのふたつの革命の背後には軍事・経済支援をした黒幕の存在があったのです。それらは、明治革命では、イギリス東インド会社をダミーとする、イギリス・ロンドンの国際金融組織であったのです。そして、乙巳革命では、突厥帝国の壊滅を目指す唐国の存在があったのです。
唐は、東アジアの突厥帝国を、630年に散逸させると、その余勢を駆って、日本列島の飛鳥ヤマトを支配している、突厥帝国支配下の蘇我王朝の壊滅を目指すのです。そして、唐進駐軍は、中臣族を軍事・経済的に支援して、645年飛鳥ヤマトの蘇我王朝の壊滅に成功するのですが、騎馬民族は、戦況が不利だと判断すると、玉砕してまで戦うのではなく、戦場から逃避するため、飛鳥ヤマトの蘇我王朝軍を全滅させることができなかったのです。
このことは、東アジアでの突厥帝国との戦いでも同じでした。630年唐軍の全軍進撃を、自軍に不利と見た突厥帝国軍は、中央ユーラシアへと散逸するのですが、中央ユーラシアで体勢を立て直した突厥帝国軍残党は、682年唐の国力が衰退するのを見て、東突厥帝国を再興していたのです。
645年唐進駐軍と中臣族軍に敗れた蘇我王朝軍残党は、飛鳥ヤマトから伊勢へ逃れ、陸奥国で体勢を立て直すと、663年百済が滅びた結果、母国を追われた百済貴族は日本列島に亡命し、その百済亡命政権である近江朝を、百済の敵国新羅の皇子を押し立てて攻撃するわけです。それが歴史に言う、672年壬申の乱です。壬申の乱は、歴史教科書で述べるような、天智と天武兄弟(ふたりは遊牧民族ツングース系とスキタイの流れを汲む騎馬民族系の異民族で、兄弟ではない。)の内乱などではなく、唐と突厥帝国との国際紛争の一部であったのです。
その壬申の乱で勝利した新羅皇子が、672年日本列島初の天武天皇となり、第二蘇我王朝を飛鳥ヤマトの浄御原宮に興すわけです。ですから、第二蘇我王朝の天武系王朝の奈良時代までは、陸奥国の蝦夷とは仲良く暮せたのです。それは、陸奥国の蝦夷軍とは、チュルク系の第一蘇我王朝軍の残党であったからです。つまり、天武系も蘇我系も、同じユーラシア渡来の騎馬民族末裔だったのです。
しかし、686年陸奥国の蝦夷に支援された天武天皇が崩御すると、唐軍は、再び飛鳥ヤマトの天武王朝残党の壊滅を目指すのです。その唐の手先となるのが、天武朝で従五位下の籐史人(後の藤原不比等)です。
唐の密命を受けた籐史人は、686年百済系の讃良姫、天武天皇の后を、女帝持統天皇として即位させ、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトから、694年藤原へ遷都させるのです。「籐原」とは、「トウゲン」で、唐の支配地という意味なのです。
この藤原京と言われる都の遷都は何を意味しているのでしょうか。それは、日本国が、明治革命の後、イングランド銀行の意向により日本銀行を設立して、経済的支配下となったのと同じように、唐の支配下になったことを意味しているのです。
唐は、690年女帝則天武后が実権を握ると、国号を周とするのです。そして、暦法を儀鳳歴に替えるのです。それは、天から命を受けた、新しい天子(テングリ)が、新しい歴の下で政治をすることを意味するのです。
この周(唐)の女帝則天武后の暦法の儀鳳歴が、唐進駐軍の手先の籐史人の暗躍により、天武天皇の后が女帝持統天皇として即位すると、その持統天皇の政治に採用されたのです。
つまり、中国大陸の周(唐)と、日本列島の藤原京では、「年、月、日」が同じとなり、そして、その周(唐)の年月日で、藤原京の政治が執り行こなわれるようになってしまったのです。このことからも、藤原京が、周(唐)の支配下になってしまったことを示唆します。
歴史教科書では、藤原京は、唐の都を真似して造られた、と述べているのですが、それは違います。中国・周のコロニーが、「トウゲン京」の実態だったのです。
694年都を飛鳥京から藤原京へ遷都した理由は、飛鳥ヤマトを中心とした近畿の支配者が、騎馬民族王朝から唐進駐軍傀儡王朝に替わったことを意味しているのです。それは、政治の仕組みが替わったことで証明できます。その根拠は、都を飛鳥から藤原京に遷都すると、その七年後の701年大宝律令が、日本列島で始めて発令されたからです。
律令の「律」とは刑罰法のことです。そして、「令」とは国家の統制組織や官人の服務規程、人民の租税、労役などの行政に関する法のことです。
この大宝律令は、周(唐)の政治の基準、永徽律令(えいきりつれい)を手本として作成されたものです。それ以前には、律令による政治は、日本列島ではおこなわれていなかったのです。その根拠として、607年遣隋使ソ・インコウは、隋の煬帝に、倭王は夜に政をし、夜明けと供に政を終える、と述べているのです。
歴史教科書では、日本初の律令は、645年所謂「大化の改新」後の、668年(天智7年)藤原鎌足らによって編纂された、「近江令」と述べるのですが、その根拠となる資料は、「弘仁格式」・「籐氏家伝」などの、「藤原氏による藤原氏のための史料」であるため、その信憑性が疑われるのです。更に、現在では、その「近江令」を編纂したと云われる藤原鎌足の実在性も疑われているのです。
では、何故に、唐進駐軍により、大宝律令が作られたのでしょうか。その理由はふたつあります。ひとつは、全ての豪族の土地を百済系女帝持統天皇の孫文武天皇に献上することにより、豪族達を経済的に自立できないようにして、唐進駐軍傀儡天皇の支配下にすることです。そして、もうひとつは、臣民の奴隷化です。
その大宝律令の「令」には、更に「格式」というものがつくられたのです。この「格式」が、臣民を奴隷化するためのトリックなのです。
「格式」の「挌」とは令の追加規則のことです。そして、「式」とは施行細則のことです。そのような、こまごまとした罰則のある規則により、臣民から租税と労役を、唐進駐軍傀儡王朝が吸い上げるのです。その基本が、祖庸調です。
唐での祖庸調は、祖は丁男(成年男子。16〜60歳)あたり栗(穀物)二石、庸は年間二十日の労役、そして、調は綾・絹二丈と錦三両、または布二丈五尺と麻三斤であったのです。藤原京でも、似たような租税と労役を臣民に課したのです。
更に、藤原京遷都から、唐の制度にはない、高利貸しのようなことをおこなっていたのです。それが、官稲出拳(かんとうすいこ)です。それは、高利貸しのシステムと同じで、貧民達に、春に稲(潁稲・えいとう)を貸し出し、秋には所定の利子を上乗せして返済させていたのです。これは、正に、奈良時代版のベニスの商人です。
では、何故に、唐進駐軍は奈良盆地の外れに、藤原京を遷都したのでしょうか。そのひとつは、奈良の宇陀で産出される朱砂の確保と、前政権の天武王朝を軍事的支援をしていた近畿の山々に潜伏している突厥帝国残党の殲滅のためです。騎馬民族の闘い方は、形勢が不利と判断された場合は、玉砕戦法ではなく、その戦場から一時逃避する傾向があるからです。
何故、縄文時代から三輪山の麓の海石榴(つばき)が国際交易地となったかの理由のひとつは、この三輪山の麓からは、南海アラブ(ペルシャ)からの海洋民族渡来地の伊勢に抜ける道があったからです。このことは、三輪山の麓の纏向遺跡から出土した土器の約半数が、東海と関東のものであったことで証明できるでしょう。奈良盆地は、東側を笠置山地により囲まれているのです。しかし、三輪山の麓には、伊勢に向かう道が、中央構造線に沿ってあるのです。この道は、朱砂ロードとも云われる、縄文時代からの古道であるのです。
ですから、唐進駐軍は、伊勢に残存する蘇我王朝残党軍のヤマトへの進撃に備えて、奈良盆地の外れ、三輪山近くに藤原京の防衛都市を築いたのです。それ故、藤原京は、戦闘体勢下の都として、その藤原京の中心に、蘇我王朝軍残党の襲撃からの防御のため高さ5mの土壁を1km四方に廻らせた藤原宮を造っていたのです。この高い塀を廻らした中に、都を築く思想は、正に、中国の農業民族が、騎馬民族からの襲撃を防ぐのと同じです。
そして、藤原(とうげん)が前線基地として選ばれたのは、その藤原が三山に囲まれていたからです。その三山とは、北の新羅コロニー(後の磯城)に対峙する海抜136mの耳成山、紀ノ川からの侵攻を防ぐ海抜199mの畝傍山、そして、東の伊勢からの侵攻を防ぐ海抜148mの天香具山です。
以前の藤原京遺跡の説明では、三山に囲まれた地に、藤原京が遷都されたと云われていたのですが、最近の調査後では、その規模が、三山を含む広大な都で、平安京を凌ぐ規模であることがわかったようです。
その蘇我王朝残党軍からの防衛基地の「藤原京」の記述は、「日本書紀」にはないのです。その代わり、持統天皇が「藤原宮」に移った、と記述しているだけです。そのように、飛鳥・奈良の古代遺跡が、「日本書紀」の記述と異なること示すのは、何故でしょうか。
日本列島の白鳳時代末期、東アジアでは、周(唐)の女帝則天武后(690年〜705年)と、682年に復興した東突厥帝国との戦闘が再び始った時代であったのです。そして、その東アジアでの、唐と東突厥帝国との戦闘は、744年東突厥帝国が滅びるまで続いていたのです。この唐と東突厥帝国との戦いの影響は、日本列島の政治にも強く現れていたのです。
この唐による、北東アジアの支配を目指した突厥帝国・騎馬民族殲滅作戦の流れは、日本列島の近畿地方の唐のコロニーである、694年藤原京、710年平城京、794年平安京への遷都の流れと合致するようです。
この奈良の南から京都の北への遷都は、794年秦氏の支配地である山背国(後の山城国)の侵略で終わり、その後の遷都は、約千百年後の1868年江戸城明け渡しまでなかったのです。
この藤原京から平安京までの百年間に、度重なる遷都がおこなわれたのですが、歴史教科書では、何を目的に遷都がおこなわれたのかを知ることができません。不可思議なのは、一年で遷都した都もあるのです。ある歴史書では、怨霊を恐れて遷都したと述べているようですが、遷都には、莫大な費用と労働日数が掛かることから、その説では説得力に乏しいようです。
その度重なる遷都は、都とは文化を誇る処ではなく、敵からの防衛施設の砦であると考えると、その度重なる遷都の意味が理解できるようです。では、唐のコロニー防衛都市を何度も放棄させた敵対軍事勢力とは、何でしょうか。それは、794年平安京から千百年も遷都しなかったことと関係があるようです。その謎を解くヒントは、蝦夷(エミシ:ヒゲのある夷)の存在です。
794年平安時代から、道幅が、以前の十二mから六mに狭められるのです。それは何故でしょう。その意味は、794年平安時代から軍団の装備・組織が替わったことを示唆します。
飛鳥ヤマト時代の、道幅十二mの直線道路が、日本列島の現在の高速道路と同じ位置に築かれていた意味はなんでしょうか。それも現在の高速道路のSA(サービスエリア)と同じ位置に駅舎の遺跡が多く発掘されているのです。そして、その道幅十二m直線道路には、側溝があり、水はけの技術もあったのです。このような高度道路建設思想をもった軍団は、歴史上ではローマ帝国軍以外には存在しません。
ローマ帝国軍は、谷は埋め、峠は切り開き、幅広の直線軍事道路を侵略した支配地に建設し、戦闘時は騎馬軍団が迅速に移動できるように、そして、平和時では、支配国からの貢物をローマへ馬車で輸送していたのです。その日本列島に張り巡らされた幅広の直線道路から轍(わだち)の跡が確認されていたことは、飛鳥ヤマト時代に、ローマ帝国軍と同じに、輸送手段として馬車の使用が示唆されます。
このローマ帝国と突厥帝国とには、絹とローマン・グラスとの貿易により使者の往来があったのです。それは、東西の絹貿易の通過国に、国際交易都市ガンダーラのあるクシャナ朝が、五世紀半ばに崩壊すると、謎が多いエフタルが興るのです。この東ローマ帝国と突厥帝国との絹貿易を妨害するエフタルを、ローマ帝国軍と協力して突厥帝国は、567年滅ぼすのです。その返礼に、568年東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが突厥庭に入るのです。
庭とは、神が降臨する処で、王(天子)が政(まつりごと)を行う場所です。「朝廷」とは、元は「朝庭」で、朝、神が降臨する処で、テングリ(天子)が政を行ったことが、原語なのです。その突厥庭に、東ローマ帝国の使者が入れたということは、それほど東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹とローマン・グラス貿易で親密であった証拠になります。
では、飛鳥ヤマト時代に、そのような道路建設技術は、何処の誰により日本列島にもたらされたのでしようか。それは、新羅の軍団からです。356年ナムル(奈勿)王から始る新羅(=秦羅は、アレクサンドル大王国のギリシャ文化継承国バクトリアの末裔。紀元前221年始皇帝の秦とは、バクトリア国の中国でのコロニーであったのです。)は、ギリシャ・ローマ文化国であったのです。その根拠は、新羅慶州の天馬古墳が証明します。
「日本書紀」で述べる、527年筑紫国造磐井の反乱とは、その新羅のギリシャ・ローマ文化を保持する軍団一族が、新羅から北九州に侵攻した史実を、隠蔽するための物語なのです。
何故、ギリシャ・ローマ文化を保持した軍団一族が、新羅から北九州に渡来したのかは、翌年528年から、新羅は、ローマ帝国軍の軍神ミトラ信仰から仏教信仰へと変身したことで説明できるのです。それは、中国南朝の仏教を国教とする「梁」の軍事支援を得た仏教国の百済軍の、新羅への侵略を意味しているのです。527年仏教信仰の百済軍に敗れた、ミトラ信仰の新羅軍の一部が、日本列島に避難してきたのです。
新羅は秦羅で、新羅から渡来の秦氏とは、ヒッタイト帝国、古代エジプト、オリエント、ギリシャ、ローマ、バクトリアを流離った製鉄・石切・削堀・土木建設技術等を持った民族の集まりですから、530年突然、飛鳥ヤマトに出現した、東ローマ帝国と親密な関係があった突厥帝国軍とは、ミトラ信仰(中国語では、景教)により意気投合できるわけです。
この新羅から渡来の「ミトラ神」を、「日本書紀」の仏教伝来物語では、「弥勒菩薩」に改竄しているわけです。ミトラ(ペルシャ)→マイトレーヤ(インド)→弥勒(中国)の流れが、北周りの大乗仏教の仏の本体なのです。
飛鳥ヤマト時代、そのように、東ローマ帝国と突厥帝国との絹とローマン・グラスとの交易のため、ローマ帝国軍末裔の技術者が、飛鳥ヤマトから日本列島本土に、絹などの交易品を馬車で運ぶために築いた、幅十二mの高速道路は、「日本書記」の仏教文化のうそ物語で埋められてしまったのです。
しかし、昭和時代の高速道路建設で、飛鳥ヤマトのローマ帝国軍末裔が建設した古代高速道路跡が発掘され、「日本書紀」の闇に葬られていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが蘇ったのです。でも、「日本書紀」の呪縛から解けないひとの多くは、いまだに、「ぶっきょうでんらいごみやさん」の呪文を唱えているのです。
奈良時代、唐進駐軍の砦である都を、奈良の南から京都の北に移動しながらの、この唐進駐軍対蘇我王朝残党軍との戦闘は、六国史では知ることができないでしょう。それは、その奈良時代の唐進駐軍と騎馬民族軍団との戦闘の実態が知れると、突厥帝国のコロニーであった蘇我王朝が、飛鳥ヤマトに存在したことが証明されるため、その結果、「日本書紀」のウソがバレ、藤原氏の出自が南インドからの渡来祭祀民族であることと、桓武天皇家が、飛鳥ヤマト政権の正統な継承者ではなく、民族が異なる簒奪者であったことを、暴いてしまうからです。
794年唐進駐軍は、秦氏が支配していた近畿の地から、蘇我王朝軍残党を東国へ駆逐し、平安京の軍事都市を築いたのです。そして、唐進駐軍は、母国を滅ぼした新羅を憎む亡命百済民を中国山東半島から平安京に移民させ、健児兵を組織して、陸奥国を支配している新羅花郎軍団や突厥軍残党の殲滅のため、唐の儀式で即位した百済系桓武天皇軍を軍事支援するのです。
何故、唐進駐軍は、中臣族から変身した藤原氏ではなく、亡命百済貴族出の桓武天皇に鞍替えしたのでしょうか。それは、710年奈良の平城京遷都から、唐進駐軍を差し置いての、藤原氏の横暴が目立ってきたからです。
奈良の都とは、韓国語でナラは、都という意味がありますが、ヤマト語にもナラの言葉があるのです。その意味は、「土地をナラす」とは、「土地を平らにする」と言う意味もあるのです。では、ナラで、何を平らにしたのでしょうか。それは、奈良盆地にあった巨大古墳です。奈良の平城京の大極殿は、巨大古墳をナラした跡に建てられたのです。
このことは何を意味しているのでしょうか。それは、古墳文化を築いた民族の敗北です。
藤原京から進撃した唐進駐軍と藤原軍は、奈良盆地を支配していた民族を駆逐し、その宗教的シンボルの前方後円墳を破壊し、ナラし(平らにし)、その跡に、唐進駐軍の大極殿を建立することで、勝利宣言をしたわけです。そのことにより、奈良盆地を放棄した民族は、北方のミトラ神を祀る秦氏の支配地である山背国を目指して逃避するのです。その残党軍を追撃するように、都が南から北に移動していくのです。
神社が、日本列島古来の建物ではない根拠は、そこにあるのです。神社の多くは、古墳の上や、その近くにあるのは、前政権の古墳築造民族の支配地が、侵略軍の武力により制圧された後に、建てられた建築物だからです。しかし、「日本書紀」の神代物語と、蘇我氏と物部氏との神仏戦争物語の呪縛により、多くのひとは、いまだに、神社は仏寺よりも古い建物である、と信じて疑わないのです。
しかし、死者を穢れとする神道思想は、死者を石棺に納め永遠に保存する思想により築造する古墳思想とは、その思想体系が全く異なることからも、神社が古墳と同居できるわけがないのです。ですから、古墳時代には、「死」に対する穢れ祓いの儀式などなかったのです。つまり、史実は逆で、侵略軍の砦である仏寺の後に、前政権の死者が眠る古墳の上に、神社が、抹殺された前政権者の怨霊封じのために現れたのです。その「日本古来の神社」のトリックを考えたのは、祭祀氏族末裔の藤原氏であるのです。
その仏寺よりも古いと言われる神社の創建の歴史は、藤原氏以外の氏族による史料には記述はないのです。
藤原京の砦から侵攻し、710年前政権の古墳跡に造られた平城京は、不思議な地形をしているのです。それは、唐の都の築造思想では、南北軸に対して正方形とされるのに、平城京には、東側にも街の一角が造られているのです。そして、その出っ張りの地に、藤原氏の氏寺の興福寺があるのです。そして、興福寺から東の御蓋山の麓に、藤原氏の氏神を祀る春日社があるのです。
仏と神を同時に祀る藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。藤原氏には多くの謎があるように、その興福寺と春日社の建立にも謎があるようです。
興福寺の建立は、710年とされているのです。しかし、その興福寺とは、改名で、元の寺名は、京都山科の山科寺で、その後、その山科寺が飛鳥に移築され厩坂寺となり、その厩坂寺が、平城京に移築され、興福寺となった、と説明するのです。
この寺名の数回の変名は、山背国の支配者秦河勝が建立した、ミトラ教(=景教)の蜂丘(岡)寺を、数回の変名の後、仏寺広隆寺に変えたトリックそっくりです。
そのような目で、春日社を調べると、768年造営の春日社も、その前身は鹿島の神社で祀っていた武甕槌命を御蓋山に遷して祀り、その武甕槌命を春日神と称して祀ったのに始まる、とするのです。しかし、最近の発掘調査では、その768年に創建されたと言う春日社より以前に、御蓋山の麓には、祭祀がおこなわれた可能性が示唆されているのです。と、言うことは、飛鳥ヤマトのオリエント文化の建造物を徹底的に破壊した跡に、北九州から仏寺を移築したように、御蓋山の前政権の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、春日社が建てられた、とも推測できるわけです。その推測の根拠のひとつとして、藤原氏の仏寺である興福寺が新設した、中臣神道の春日若宮があります。
「若宮」とは、従来の先住民が祭祀したの祭神の勢いを弱めるための宗教施設のことです。そして、その目的は、先住民の祭祀儀式を折り曲げ、隠蔽し、そして、新しく創作された神を、官幣氏族神への信仰に振り替えさせるための装置施設であるのです。その若宮のおん祭りとは、その前政権の宗教思想の隠蔽が成功したことを祝う儀式のことなのです。つまり、全国で行う若宮おん祭りには、前政権の祀りの儀式が隠蔽・改竄されているのです。
では、若宮に、隠蔽・改竄された神様は、何だったのでしょうか。それは、奈良の「さんちゅう」で祀られていた、「牛頭天皇さん」です。牛は、奈良(「たいら」にされた)先住民から祀られる神様の化身であるのに、何故か、旱魃での雨乞いの儀式で屠殺されてしまうのです。その屠殺儀式の意味が、今日分からないのは、藤原氏が建立した春日若宮により、その儀式が「血の穢れ儀式」として、仏教・神道思想により隠蔽されてしまったからです。
飛鳥ヤマト時代から、その牡牛を屠る儀式とは、オリエント渡来の秦氏の神・太陽神ミトラに願いを叶えてもらうためのものであったのです。
紀元前十四世紀、牡牛は、古代エジプトで、三神の太陽神ミトラが、アメンホテプ四世の独善的宗教改革で、唯一神の太陽神アトンに変身した時、その太陽神アトンの化身となったのです。太陽は、冬至の日、死から再生すると信じた古代エジプトの一部の部族では、人工的に神を再生(願い事をする)する儀式として、牡牛を屠っていたのです。この宗教儀式が、秦氏により、日本列島にもちこまれ、それが奈良の盆地での巨大古墳築造のための儀式としておこなわれていたのです。
奈良の都平城京とは、先住民の宗教シンボルの巨大古墳をナラした跡に造られたのです。そして、先住民のそのオリエント渡来の宗教儀式は、藤原氏の仏教と中臣神道とにより、奈良盆地にある宗教施設や祭祀場を、徹底的に破壊し、その跡に、仏寺と神社が建てられていくのです。このことにより、藤原氏が、後に、前政権の神の祟りを受けることになるのです。
このような、歴史的トリックをおこなった事例は、ローマ帝国で、392年キリスト教がローマ帝国の国教となり、それ以前に繁栄していたミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教の教会を建てて、前政権の宗教を歴史的に抹殺したことと同じであるようです。何故、歴史は繰り返されるのでしょうか。
奈良盆地を支配していた軍事部族を失った、土葬で葬られた騎馬民族末裔天武天皇の孫である長屋王は、729年藤原氏の陰謀により抹殺されるのです。その結果、奈良朝廷内には藤原氏の当面の敵がいなくなるのです。
しかし、蘇我王朝軍残党が殲滅されたわけではありません。近畿の山々に逃れた騎馬民族は、玉砕戦法ではなく、ヒッテンドラン戦法のゲリラ戦を得意とするのです。
平城京を支配した唐進駐軍は、更に北に進軍し、741年山背国の南端に恭仁京に遷都するのですが、蘇我王朝軍残党のゲリラ戦により、その三年後744年難波京に遷都するのです。しかし、思うように進撃できない唐進駐軍は、翌年745年再び平城京に遷都するのです。
決定的な軍事力が乏しい蘇我王朝残党軍の攻撃を見て、謀略で淳仁天皇の姻戚となった恵美押勝(藤原仲麻呂)は、763年、平城京の本国唐の政治の年月日と同調していた儀鳳歴を廃して大衍歴に替えてしまうのです。これは、唐進駐軍の支配下からの脱却を意味していたのです。
そのように藤原仲麻呂が行動をおこした背景には、755年から始まる中国唐の政権を揺るがした安録山の乱があったからです。755年から763年まで続いたその乱により、唐進駐軍の、奈良の都での軍事支配体勢が一時緩んでいたのです。
この機会を捉えて、藤原仲麻呂は恵美押勝となり、天皇をロボットとして、平城京を支配するために、国の印を私邸に置き、銭の鋳造権を得て、恵美押勝の新銭を旧銭の十倍の価値として流通させようとしていたのです。
奈良時代、唐進駐軍の指導の下、中臣族から変身した籐氏(後の藤原氏)が唐の税制を基本として創った、大宝律令や養老律令により、山の民を除く近畿周辺国臣民から搾取した産物を、唐国に運んでいたのが、所謂、遣唐使船の実態です。
761年、奈良の平城京を支配している唐進駐軍の母国が、吐蕃の侵攻や傭兵軍の内乱を鎮圧するために、兵器の素材の牛の角7800本の貢納を命じてきたのに対しての、唐国への貢物運搬船である遣唐使船の船出を、恵美押勝(藤原仲麻呂)は、新造船を難波の江口で難破させる謀略により中止させていたのです。
母国唐での乱が平定されると、このことに激怒した唐進駐軍は、天武天皇系最後の女帝天皇であった考謙上皇を再び即位させるのです。それが、女帝称徳天皇です。称徳天皇は、蘇我王朝残党軍に、太政大臣となり傍若無人の恵美押勝を、764年謀反者として葬るのです。
何故、従五位下の籐史人(後の藤原不比等)の孫藤原仲麻呂が、短期間に政権の中枢に登りつめることができたかの理由のひとつは、藤原氏が祭祀者一族であったからです。藤原氏は、仏教と中臣神道を支配する一族であったのです。それは、藤原氏の出自が、南インドのマラバル沿岸から渡来した、ヘビをトーテムとする中臣族であったからです。
勝利者としての侵略軍側の祭祀者は、前政権の神(祟り神・怨霊)を封印するためと称して、色々な儀式をおこなうことが、侵略王権により許されるのです。ですから、祭祀者は、自族に都合の良い儀式を、色々と創作することができるのです。そのひとつが、「権力者に、自族の女を捧げる儀式」の「五節会の舞」です。
藤原氏は、藤原の娘を天皇に捧げることにより、その孫を支配することで、天皇家の姻戚となり、その孫を天皇としてロボット化することで、中央政権に躍り出ることが出来たのです。その藤原氏のロボット天皇第一号が、淳仁天皇だったのです。
唐進駐軍の支援の下、この奈良の平城京の砦を構築し、前政権の蘇我王朝軍残党を奈良の地から駆逐し、そのオリエント文化施設を徹底的に破壊し、オリエント交易の関連文書を焚書したことで、祭祀者藤原氏により720年「日本書紀」が創作され、日本国のイメージの基が創られたのです。
しかし、794年唐進駐軍の支援により即位した百済系桓武天皇は、その藤原氏が創作した「日本書紀」から、母国百済を滅ぼした新羅関係史を改悪又は抹殺し、そして、百済史を挿入することにより、「日本書紀」の日本列島史を改竄するわけです。そして、反藤原氏の聖武天皇の遺品を集めた正倉院の中から、百済亡命貴族に不都合な史料を焚書するのです。ですから、今日、飛鳥・奈良時代の史実を知ることができないのです。
その結果、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と、桓武天皇家史料の538年のふたつの物語ができてしまったのです。その矛盾は、二度ある物部氏と蘇我氏との神仏戦争に、中臣鎌子(後の藤原鎌足)が二度出演してしまうわけです。更に、藤原氏が、ガンダーラで創作されたヨシュア教の「聖書物語」を参考にして創作した人物「厩戸皇子」を、ギリシャ・ローマ文化の新羅で信仰されていた、地母神イシスの子神ホルスである子供神が変身して、「太子信仰」となったのを基に、「聖徳太子」なるネーミングとし、そして、794年亡命百済貴族が乗っ取った山背国の支配者であった、太陽神ミトラ教祭祀者の秦河勝を、その「聖徳太子」の忠臣とし、太秦に仏像安置のために、仏寺の広隆寺を建立させた、とするのです。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝の存在を抹殺するために、そのオオキミ蘇我馬子(アマタリシヒコ)を、女帝推古天皇の大臣とし、「聖徳太子」と天皇紀と国記を編纂した、とするのです。しかし、その天皇記と国記は、645年蘇我馬子の息子蘇我蝦夷の館で燃えてしまった、とするのです。何故、大臣の私邸に、大事な国書があったのでしょうか。
以上の「日本書紀」物語の大筋をとらえただけでも、その物語を素直に信じることができないのは、著者だけなのでしょうか。
1776年7月4日アメリカ十三州のイギリス王国からの独立宣言がされ、国民国家が歴史上始めて誕生し、そして、国民皆兵により国民軍が創設され、固定した国境が出現するまでは、国力とは、軍事力のことだったのです。ですから、それ以前の世界では、国力のある国は、国力のない国を侵略し、その土地を支配することは日常的な出来事であったのです。
では、国力の基の軍事力は何により創設されたのでしょうか。それは、経済力です。経済力のある国は、強い軍隊を創設するために、外国から軍事的に優れた雇い兵を集めることができるのです。ですから、古代国家は生き延びるために、軍事力の基である経済力を増すために、国を挙げて交易、または略奪をおこなうわけです。
資源のある国は、国力のある国に、常に狙われるのは、今日も古代もかわりありません。中東が、紛争の火種となったのは、地下資源の石油が開発されてからです。20世紀末に、アメリカ合衆国は、世界の平和を守るために大量破壊兵器を破壊する、との理由で、イラクを侵略したのですが(実際は大量破壊兵器はなかった。)、しかし、核を保持していると独裁者が公言する東アジアの小国には、軍隊を侵攻させません。それは、その小国には、石油の埋蔵が確認されていないからです。そのように、資源国は、今日も古代も外国の勢力に狙われるのです。
日本列島は、亜熱帯の火山国であるので、真珠・珊瑚の海洋資源、そして、金・銀・水銀・朱砂・琥珀・黒曜石・翡翠などの鉱物資源、更に、絹・大麻・鹿・熊などの動植物資源の大国であったのです。このような宝の日本列島は、四海が海流に洗われるため、諸外国勢力には、どこからでも上陸できる宝島であったのです。
ですから、縄文時代以前、ユーラシア大陸の西の果てのバルト海沿岸と岩手県久慈には、国際交易商人が行き来する琥珀ロードがあり、そして、古代中国の皇帝に献上された翡翠は、糸魚川から産出されたものが多かったのです。
弥生時代には、タミル語を話す南インドのトラヴィダ族(薩摩ハヤトの祖)は、真珠を求めて九州を訪れていたのです。その結果、日本列島に水田稲作が普及したのです。
紀元一世紀には、東ローマ帝国と後漢との絹貿易が盛んになると、温暖な日本列島に、繭の生産拠点が作られ、在来種よりも大きい、南中国種の蚕・ポンピックスモリが養殖されるのです。
紀元三世紀末から、埋葬思想が異なる民族が、日本列島に渡来して、古墳が築かれていくのです。その古墳がある三輪山麓の纏向遺跡に、関東・東海・出雲・吉備製の土器が埋葬されていたのは、その三輪山麓に、海外から渡来の国際交易商人が、諸外国の装飾品や薬などをもたらし、宇陀から産出された朱砂や伊勢で獲られた真珠などと交換していた、国際交易市場のツバキがあったからです。
そして、四世紀には、ユーラシアからの騎馬民族が渡来していたのです。その証拠は、四世紀からの石積木郭墳に、馬具の埋葬品が現れるからです。更に、古墳は巨大化し、古代エジプトの埋葬思想と同じ、石棺が古墳内に設置されるのです。その石棺の内寸は、古代エジプトの単位・キュビットで割り切れるのです。
そして、六世紀の飛鳥時代に、ローマ帝国軍道路と酷似した、幅十二mの直線道路が日本列島本土に張り巡らされ、そして、国際湊・難波から三輪山麓のイワレまで、船が航行できる運河が造られるのです。このことは、日本列島での交易・略奪が大規模に行われていたことを示唆します。そして、飛鳥ヤマトには、賓客を歓待するための噴水のある池が造られ、外国に輸出するためのガラス器工場、そして交易のための富本銭鋳造工場が造られるのです。
そして、そのオリエント文化の突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトは、645年仏教が栄えた唐の進駐軍に壊滅されるのです。そして、砦である仏寺が、前政権の宗教施設跡に築かれていくのです。それが、奈良時代です。何故、武士が「もののふ」と云われたのかは、その奈良時代の出来事が原因のようです。しかし、教科書歴史では、奈良時代の史実が分からないのです。
飛鳥時代の史実が分からないのは、奈良時代に、藤原不比等が「日本書紀」物語で、オリエント文化飛鳥の歴史を改竄・隠蔽したからです。そして、奈良時代の史実が分からないのは、平安時代に、百済系桓武天皇家により、唐のコロニーが支配する奈良時代の出来事を、改竄・隠蔽したからです。
では、奈良時代とはどのような時代であったのでしょうか。その奈良時代を代表する都に平城京があります。その都は、710年奈良盆地南の藤原京から遷都されたのですが、その遷都と同時に、藤原氏の興福寺が飛鳥の地から移築されていたのです。
では、その平城京の住人の半分以上が官僚であったのは、何故でしょうか。それは、701年大宝律令と718年養老律令で発令された租税改革と関係があったのです。律令とは、罰則と義務とにより、支配下の臣民から税と労働を搾取する技術であるのです。
飛鳥時代は、騎馬民族が支配していたので、恐らく、その租税制度は、騎馬民族は土地に定着する民族ではなく、遠方の異民族に売るための商品と供に移動する民族であるため、交易通行税と人頭税であった可能性があります。
湿地帯から耕作地として土地改良された奈良の盆地を支配した、藤原氏を傀儡とする唐進駐軍は、列島の各国から奈良の都に集積する税である物品や労働サービスの管理運営をするために、平城京に漢語に熟達した官僚を住まわせたのです。このことは、現在の国際的企業の日本支社に勤務するサラリーマンが欧米語に堪能なのと同じです。では、その平城京に集積された租税の富は、何処へ行ったのでしょうか。それは、中国・唐への可能性があります。
630年から始まる遣唐使は、教科書歴史では、唐の高度文化を輸入するため、と説明しています。しかし、三十年前の600年からの遣隋使では、ソ・インコウ(日本名:小野妹子)が一年で往復していたように、安全に航行していた遣隋使船が、奈良時代になると、その遣唐使船の半分は転覆し、更に不思議なのは、その遣唐使の帰還の多くは、統一新羅国の商船によるのです。この謎を解くヒントは、安全性に不安のある遣唐使船の運営には、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が絡んでいたことです。
遣唐使船の渡航ルートは、難波津→北九州博多津→中国・蘇州が正式なのに、南九州坊津→種子島(タネ島)→奄美→中国・杭州の別ルートを採る事もあったのです。この別ルートを逆に、中国・杭州から更に南下して辿れば、南インドのマラバル沿岸へのアラブ中継ルートと繋がるのです。
戦国時代、この南インドのマラバル海岸→中国・マカオ→南九州坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺のルートは、イエズス会がもたらした鉄砲・弾薬の密輸ルートであったのです。更に、1853年米使ペリーの艦隊は、アメリカ合衆国から直接ではなく、わざわざ遠回りして、中国・マカオを中継して、浦賀に渡来していたのです。やはり、藤原氏の出自の謎を解くヒントは、南インドのマラバル沿岸にあるようです。
平城京の進駐軍施設に集積された日本列島の物産が、唐に略奪されているのを、国際海洋商人の顔を持つ藤原氏が黙って見ているはずはありません。計画的に、貢物を満載した船が沈没してしまえば、その唐国への貢物を合法的に掠め取ることができるわけです。
藤原氏は、文武・女帝元明・女帝元正天皇を傀儡として、唐進駐軍の日本からの略奪政策に、遣唐使船の計画的転覆で、対抗するのです。その藤原氏の陰謀は成功するかに見えたのですが、729年騎馬民族末裔天武天皇の孫長屋王を抹殺した頃から狂い始めるのです。それは、藤原氏四兄弟とその側近の相次ぐ不自然な死と、そして、藤原氏のロボット天皇と思われた聖武天皇が、反藤原氏となり、奈良盆地から殲滅され、山背国の山奥に隠棲する蘇我王朝軍残党とコンタクトを取り始めたからです。そして、その不自然な藤原氏子息の相次ぐ死は、藤原氏により謀殺された長屋王の祟りと、噂されていたのです。
聖武天皇のお妃は、藤原不比等の娘光明子であったので、藤原氏も安心していたのですが、聖武天皇が知識寺で、山の民と知り合うと同時に、反藤原氏となったのです。そして、聖武天皇は、大仏鋳造の詔を発するのです。この大仏鋳造に対しては、藤原氏は何度も妨害するのです。どうも、聖武天皇は、山の民と接触することにより、藤原氏のロボット文武天皇の実子ではなかったことに気づいたようです。
何故、聖武天皇は、奈良に大仏の鋳造を思い立ったのでしょうか。この奈良の大仏は、教科書歴史の記述と奈良の住民との認識とが、多く掛け離れているのです。その大仏鋳造の意味が分からなくなったのは、平安時代に、藤原氏と関係が深い錬金術師空海により、その奈良の大仏が、藤原氏の興福寺を、丘の上から見下し威圧する「遍照鬼」から、平城京を守護していたと云われる「大日如来」に変名されてしまったからです。
江戸時代では、奈良の大仏に対しての庶民の認識が、恐ろしい仏像で、大仏の手から災いがもたらされる、と信じられていたのです。この手印の恐怖は、平安時代に空海が発明した密教呪術の影響によるのです。刷り込まれた恐怖心は、先祖から受け継がれていくのです。ですから、寺側は、大仏を観光資源化とするために、大仏の顔だけが覗ける門を設置したのです。その方策により、江戸時代の庶民は、恐る恐る大仏の顔だけを門の窓から見ていたのです。
この江戸時代の庶民の奈良の大仏にたいしての恐怖の認識は、それ以前の時代でも同じであったようです。不思議なことに、仏教文化が花咲く平安時代末期には、聖武天皇の命令で造られた国分寺に安置されていたと思われる仏像が、ひとつも存在していなかったのです。やはり、奈良の大仏鋳造には、教科書歴史に隠された謎があるようです。
平安末期、1180年石橋山で平家側に敗れた源頼朝は、伊豆から千葉へ逃れると、関東の各地にある廃寺となっていた国分寺に行き、そこを拠点として、ペルシャ平家の平清盛との戦いに敗れ、賎民として関東の山奥に棲息する源氏武士を集めていたのです。奈良の大仏と、「もののふ」と言われた源氏武士とは、どのような関係があったのでしょうか。
では、奈良の大仏の開眼供養がおこなわれた、752年前後の唐国を廻る国際事情はどのようになっていたのでしょうか。
西アジアでは、571年ムハンマドが興したイスラム教によるサラセン帝国は、瞬く間に、帝国領土を広げ、642年には、ササン朝ペルシャはサラセン帝国に飲み込まれてしまうのです。そのサラセン帝国の中央アジア制圧により、東ローマ帝国と突厥帝国、そして、唐国との絹貿易に支障がきたすのです。
その結果、中央アジアで草原ロードを交易路としていた、突厥帝国の交易が困難になっていくわけです。経済が衰退することは、軍事力が衰退することになるわけです。その結果、国力も衰退するわけです。
サラセン帝国の領土が、東西に広がることと同調するように、突厥帝国は衰退し、西突厥帝国は739年、そして、東突厥帝国は744年に滅びてしまうのです。この東西の突厥帝国の滅亡は、日本列島で、唐進駐軍と戦闘をしている蘇我王朝軍残党に強い影響をあたえるわけです。軍人・武器・食料の大陸からの補給がなければ、敵の唐軍団と戦うことができないからです。
そのサラセン帝国の拡大は、シルクロード交易にも支障をきたすのは当然です。更に、サラセン帝国の東進は、吐蕃を圧迫し、その結果、吐蕃の住民が唐国境を乗り越えて東進することにより、唐国の治安が不安定となっていくわけです。その結果、755年から763年安録山・史思明の乱が起こり、そして、763年には吐蕃の軍隊が、唐の都である長安に陥るのです。唐の国内も、奈良の平城京と同じに、平安ではなかったのです。それは、唐の軍団は、722年から傭兵制となり、民族が異なる諸外国の傭兵軍が存在していたからです。
そのサラセン帝国に、北の草原ロード、中央のシルクロードが支配されると、国際交易商人は、南海ロードを交易路とするのです。このことにより、南インドのマラバル沿岸は、東ローマ帝国と唐国を結ぶ交易海路の中継基地として栄えていくわけです。その南海交易により、アラブの国際海洋商人(平家の祖)だけではなく、インドの文化・宗教、そして、バラモン僧も多く中国・唐に渡来するわけです。
そのようなアジアの動乱期に、奈良の仏像が鋳造されるわけです。では、その大仏は、誰により、何を目的に鋳造されたのでしょうか。
歴史教科書では、聖武天皇の発願で鋳造されたというのですが、聖武天皇は、藤原氏によりコントロールされていたのです。その藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に大仏を設置する、それも、遍照鬼といわれる、仏の敵神を設置することは、反藤原氏の聖武天皇ひとりの力ではできないでしよう。
聖武天皇が発願したとしても、その莫大な鋳造資金は、何処からもたらされたのでしようか。そして、最も不可思議なのは、752年の開眼供養では、大仏の鍍金は完成していなかったのです。何故、鍍金が未完成なのに、インド高僧による開眼供養なのでしょうか。
それは、反藤原氏の聖武天皇の死期が近づいていたことがひとつの原因です。怪僧行基に先導された山の民は、突貫工事で像を完成させたのですが、鍍金の完了までには、聖武天皇の命がもたないことが分かっていたので、急遽752年の開眼供養となったのです。
そして、その式典には、九州宇佐八幡の山の民が祝賀に訪れ、「神輿」を担いだのが、日本列島での歴史上初であったのです。日本列島では、「神輿」は、山ノ神(反体制の神)を祀る「社」であったのです。そして、その九州宇佐とは、古の「秦王国」の地であったのです。
宇佐八幡は、元は新羅(秦羅)の神を祀る社の「や・はた」でしたが、新羅系天武天皇が、近江の百済亡命王朝を倒した「壬申の乱」の戦勝祝いに建立した道教思想による「観」であった「伊勢の社」が、藤原氏の創作した中臣神道の神・天照大神を祀る「伊勢神宮」に改竄されたように、藤原氏に乗っ取られ「はちまん」となってしまっていたのです。
ですから、反藤原氏の聖武天皇の大仏建立の意図を、平城京を支配している仏教組織を騙す策略により、その大仏が、姿は仏像であるが、その実態が遍照鬼(ひとびとを分け隔てなく平等に照らす、仏教の敵神・太陽神ミトラ)であることを、山の民はよく知っていたのです。つまり、奈良の大仏は、言わば、隠れキリシタン像であったのです。
奈良の大仏の周辺を調べると、不思議なことが次々と現れるのです。それらは、大仏を管理する東大寺は、丘の下にある興福寺と、互いの僧兵により度々紛争を起こしているのです。その訳は、その東大寺の前身は、どうも、反体勢の山岳修験者の寺であったからのようです。そして、大仏鋳造に尽力した行基とは、歴史教科書では仏僧ということになっているようですが、山の民との交流が知られているのです。
大仏鋳造に関しても、その鋳造、鍍金は、騎馬民族末裔の技術であるのです。銅を融解させる1200度の炎をつくるには、自然下での炭の燃焼では800度なので、多量の酸素を供給するフイゴの大規模設備が必要なのです。そのフイゴは鹿革製で、タタラ製鉄の必需品なのです。その「タタラ」とは、騎馬民族である突厥語の「トトラ」(強い炎の意味)から変化した製鉄民の言語であるわけです。そして、鍍金のアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発した技術なのです。
そして、最も不思議なのは、752年開眼供養をした大仏の首が、855年地震で落ちてしまった、と云うのです。更に、1180年には、ペルシャ平家の平重衡により、東大寺と供に大仏が焼失してしまったのです。そして、1185年ペルシャ平家を滅ぼした、騎馬民族末裔の源頼朝により、大仏は再興されたのですが、室町時代、1567年松永久秀の永禄の変の兵火により、再び、大仏は焼失してしまったのです。そして、現在に見る奈良の大仏は、江戸元禄時代、1692年開眼供養され、現在に至るわけです。
この度重なる大仏の焼失と再興は、藤原氏が得意の、異教の寺を仏寺に替えるトリックのようにも思えます。現在見ている大仏の顔は、鋳造時の顔であるのかは、855年大仏の首が地震で落ちてしまったため、確かめることができないのです。
しかし、第三百済王朝となっていた、百済仏教文化が花咲く江戸元禄時代の庶民が、奈良の大仏を恐れていた不可思議は、奈良の大仏が仏の化身である仏像とするならば、どのように説明できるのでしょうか。その説明のひとつの推測として、鋳造当時の奈良の大仏は、仏像などではなく、異教の神であった、ということです。
そのような観点から、奈良の大仏のネーミングを調べると、やはり、不可思議なことがあるのです。それは、平安初期、錬金術師空海が、大仏に「大日如来」とネーミングしたものは、その前では、「盧遮那仏」なのですが、そのネーミングにはウソがあるのです。それは、盧遮那仏とは、故意にネーミングしたもので、正しくは、「毘盧遮那仏」です。では、何故、「昆・ビ」の文字を故意に省いたのでしょうか。それは、「昆」の意味にあったのです。
奈良の大仏は、山の民には「遍照鬼」と言われていたのですが、そのネーミング前は、サンスクリット語で、「ビローチャナ」です。ビローとは、「光」のことです。このビローが、漢語化されると、「昆・ビ」となるわけです。
何故に、仏教勢力は、「ビローチャナ」の漢語化の「毘盧遮那仏・ビルシャナブツ」から、「昆=光」の文字を外したのかは、その「昆」の文字から、「異教の神」が、推測されてしまうと恐れたからです。
ビローチャナ(光・照らす)とは、紀元前十世紀インドでリグ=ヴェーダが成立した頃、太陽神ミトラが変身した、西アジアから渡来した異教の神であったからです。インドの神々は、古代エジプトの神々と同じで、異民族の神でも、庶民に人気があると、取り入れてしまう傾向が強かったのです。
つまり、奈良の大仏とは、太陽神ミトラ←ビローチャナ←遍照鬼←毘盧遮那仏←盧遮那仏←大日如来、で、その実体は秦氏が祀る太陽神ミトラであったことが推測されるわけです。
そのように、聖武天皇が発願した像とは、仏像ではなく、実体が秦氏の神・太陽神ミトラであったから、奈良時代、全国に七十もの国分寺にあったご本尊が、仏像でないことが分かっていたので、秦氏・蘇我王朝軍残党が抹殺され、亡命百済貴族により日本列島が支配されると、その国分寺に安置されていた太陽神ミトラ像が破壊・抹殺されたわけです。
そして、平安末期、その廃寺に、山奥に隠れ住んでいた新羅花郎軍団・突厥帝国軍団末裔の源氏武士が、騎馬民族末裔の源頼朝により、ペルシャ平家殲滅のために集められた、ということです。
ですから、奈良の大仏は、仏教徒勢力が体制を支配している時は、穢れ神として恐れられたため、首を落されるか燃やされて破壊されていたのです。しかし、山の民となった秦氏系、騎馬民族系の支配体制下では、奈良の大仏は再興され、崇拝されていたのです。
では、反藤原氏の聖武天皇側の勢力は、何故に、藤原氏の興福寺を見下ろす丘の上に、異教の神を鋳造したかの意図は、表向きには、藤原氏による先住民・前政権王族末裔に対する暴虐に対しての意志表示であったのです。しかし、その裏には、謀略があったのです。それは、藤原氏が牛耳る平城京の壊滅であり、抹殺です。
平安時代、985年ひとの死に対処するためのガイドブックである、「往生要集」が源信により著されたのです。その内容は、現世の地獄世界から、彼の世の西方浄土の世界へ至るための心得を述べたものです。源信は、そのために、地獄・極楽に関する古文書を集めて、それを基に、往生のためのガイドブックを編集したのです。
その書籍内容の地獄に関する描写は、あまりにもリアルであるので、その「往生要集」は中国・宋にも輸出されたほどです。今日の地獄世界のイメージは、平安時代の「往生要集」によるのです。
バラ色の極楽浄土を述べて、貴族から少しでも多くの布施をもらうことが、平安時代の仏教であったのに、その極楽浄土世界の描写にはリアルさがないのに、何故、地獄世界の描写にはリアルさがあったのでしょうか。
それは、奈良時代の平城京の有様を記述した文書の種本があったからです。百数十年前の平城京の惨状をそのまま記述すれば、その記述は地獄世界となるのです。では、何故、青によしの奈良の平城京が、地獄世界となってしまったのでしょうか。
平城京は、前政権の宗教的シンボルの巨大古墳を破壊して、ナラした跡に造られたため、そして、前政権の祭祀場を破壊して春日社を造営したために、その前政権の神の祟りであった、というのは平安時代の解釈です。実は、大仏鋳造と平城京の地獄世界化とは、大いに関係があったのです。
その原因は、怨霊などではなく、大仏鋳造時での、銅の精錬とアマルガム法の鍍金での水銀とによる鉱毒中毒であったのです。平城京の水源のひとつは、その大仏が鎮座する若草山からのものです。その鉱毒をタップリ含んだ川水を飲料とすることで、鉱毒中毒を起こし、ひとの中枢神経を侵すことにより、筋肉が麻痺し変形してしまうわけです。
近代医学が発達するまでは、病気とは、目に見える症状のケガ・皮膚病等のことであったのです。ですから、身体表面に異常が無く、身体を侵す症状は、怨霊が原因であるとひとびとは信じていたのです。
この鉱毒の被害が、平城京から長岡京へ遷都された原因のひとつであったのです。つまり、当時の解釈では、平城京は、前政権の怨霊(もののけ)に呪われた都であったのです。
この怨霊による遷都は、藤原氏に虐げられ、下級貴族として隷属させられていた亡命百済貴族達に幸運をもたらすことになるのです。
1945年8月26日、日本国が連合軍に無条件降伏すると、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立つのです。そして、天皇が住む皇居前の富国生命ビルに、日本占領総司令部を置き、日本統治を始めるわけです。
そのために、前歴を問わず英語に堪能な者を集め、アメリカ文化の翻訳係りとするわけです。そして、キリスト教会を各地に建て、そこをラジオ発信基地として、天皇に人間宣言をさせ神国ニッポンのイメージ破壊を目的に娯楽番組を発信するわけです。それまでは、明治革命組織のプロパガンダにより、天皇は現人神であったのです。その結果、神国ニッポンの幻想が消え、街の看板には、やまと言葉が消え、英語の文字が氾濫するわけです。戦勝国の言語は、今も昔も、敗戦国の言語を駆逐してしまうのです。
さて、奈良時代、日本国が独立国だと言うのならば、何故、「日本書紀」は、唐国の漢語で記述されているのでしょうか。それは、その「日本書紀」が創作された奈良時代は、唐国に、近畿地方の平野の一部が占領されていたからです。
「日本書紀」巻二十七で、671年12月、「唐国の使人カクムソウが、総勢二千名を引き連れて、九州筑紫に着いた。672年1月10日に天智天皇が崩御したので、それを口実にお引取りを願い出た。しかし、カクムソウ一行二千名は、そこに駐留した。」、と述べるのです。そして、半年後、672年5月12日、「天武天皇が、カクムソウに、甲冑、弓矢、アシキ゛ヌ1673匹、布2852端、綿666斤を与えて、帰国させた。」、と記述しているのです。
この「日本書紀」の記述には、ウソがあるようです。それは、天武天皇の前には、天皇は存在していないからです。近江朝の天智天皇は、奈良時代に、唐国渡来僧淡海三船により発明された天皇名であるのです。
亡命百済近江王朝を滅ぼし、日本初の天武天皇が即位した、672年とは、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼした後、そして、唐が、668年高句麗を滅ぼした後、新羅は唐に反旗を翻し、朝鮮半島から唐軍を追い払ってしまったのです。
その結果、唐と新羅は戦闘状態に突入寸前であったのです。そのような時に、新羅系天武天皇が、敵の唐軍側のカクムソウ将軍に、多数の武器を与えて、お引取り願うことなど、できるはずがないのです。
そのような時期の唐国使人のカクムソウが、九州の筑紫に二千名の軍団を侵攻させたのは、厚木基地に降立ったマッカーサーと同じに、朝鮮半島を支配した後に、日本列島を統治するためでしよう。その推測を裏づけるように、その二年後、674年唐軍は、新羅に攻撃をしかけているのです。
しかし、唐と敵対する、北東アジアを支配する東突厥帝国が健在なため、新羅と第二飛鳥王朝の天武天皇を、唐軍は壊滅できないでいたのです。しかし、686年天武天皇が崩御すると、飛鳥ヤマトの情勢が変化するのです。それは、南インドから渡来した中臣族から変身した藤原氏の台頭です。
その藤原氏の、漢語の「日本書紀」により、天武天皇の前に、天智天皇を創作して、その天武天皇と天智天皇を兄弟としてしまうのです。しかし、そのトリックは、「日本書記」を精査した研究者により、弟の天武天皇が、兄の天智天皇より四歳も年上であることが発表されたことにより、バレてしまうのです。
そのことにより、「日本書紀」で述べる、女帝推古天皇と厩戸皇子が活躍する飛鳥時代の歴史が疑われ、突厥民族のアマタリシヒコ(蘇我馬子)が支配した、第一蘇我王朝のオリエント文化の飛鳥の存在が確認されるわけです。
藤原氏は、「日本書紀」で、突厥帝国の日本支社の蘇我王朝を、奈良時代に渡来した仏教文化で隠蔽・抹殺していたのです。その手段のひとつが、表意文字の漢語による、表音文字のオリエント渡来の言語(アラム語・ゾグド語・突厥語)の抹殺です。
では、奈良以前の文字は、何語であったのでしょうか。それは、645年唐進駐軍と中臣族により、前政権の文書を綴った書籍は、焚書されてしまったため、推測する以外に方法はないのです。神代文字の存在もあるのですが、天照大神など、686年以降に藤原氏により創作された神様を記述しているので、その信用性が疑われます。
日本語の原語が、アルタイ語と文法が酷似しているため、紀元四世紀から、ユーラシアの騎馬・遊牧民族が、飛鳥ヤマトを支配していた可能性は疑えません。そして、時代を更に遡り、紀元前四世紀から始まる水田稲作作業周辺の原語が、タミル語が多くあることは、南インドからのトラヴィダ族の存在を疑えません。
いずれにしても、飛鳥ヤマト時代には、漢語が主言語ではなかったことは確かです。あらゆる国の言葉が話されたのが、国際交易都市飛鳥ヤマトであったのです。つまり、万葉語とは、万国の言葉の意味だったのです。
そこに、唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国進駐軍殲滅のため、日本列島に侵攻して、645年突厥帝国日本支社である飛鳥ヤマト政権を壊滅するわけです。しかし、672年伊勢で勢力を回復した突厥帝国残党軍は新羅軍と共闘し、百済と敵対していた新羅の皇子を立てて、百済亡命近江朝を壊滅するわけです。そして、新羅の皇子は、日本初の天武天皇となり、飛鳥ヤマトに再び騎馬民族王朝を開くわけです。
その第二飛鳥ヤマト王朝の天武天皇の祖国は、356年ユーラシアから渡来の騎馬民族のナムル王が支配したギリシャ・ローマ文化国であったので、漢語を知らないため、東晉(312年〜420年)や前秦(351年〜384年)との交渉には、高句麗や百済は通訳無しで交渉できたのに、通訳が必要だったのです。それは、372年高句麗は、前秦により仏教を導入させられ、そして、384年百済は、東晉より仏教を導入していたからです。
何故、大国は、被支配国に仏教を強制したかの意味は、それは、仏教は、被支配国を統治するための武器でもあったからです。仏教教義のひとつ、殺生禁止とは、武器の使用禁止を意味していたのです。このことにより、被支配国の軍団の勢力を削ぐことができるのです。
大乗仏教の経典は、ギリシャ文化を継承したガンダーラで創作された後、サンスクリット語に翻訳され、中国に伝来した時には、漢語に翻訳されていたのです。ですから、仏教文化を導入した国は、漢語が理解できたのです。しかし、ギリシャ・ローマ文化国の新羅が、仏教を導入したのは、528年であったのです。ですから、百済民に比べて、新羅民は、漢語に強くなかったのです。
701年藤原京の砦を築いた唐進駐軍は、籐氏(後の藤原氏)に、奈良を統治するために、唐の租税制度を基に大宝律令を創らせるわけです。その前政権の敗戦民を奴隷として支配するには、戦勝国の思想・法律を刷り込む必要があったのです。そのために、前歴を問わず漢語に堪能な者が集められたのです。
そして、太平洋戦争後にキリスト教の教会が各地に建てられたように、戦勝国の情報発信基地として仏寺が、飛鳥・奈良の占領各地に建立されていくわけです。そのため、飛鳥ヤマトにあった景教寺や道教の観が破壊され、その跡に、仏寺が建てられたため、現在では、飛鳥ヤマトは仏教文化に溢れていた、と錯覚してしまうのです。しかし、飛鳥ヤマトの遺跡は、オリエント文化を示しているのです。
そのような唐占領軍の漢語の世界で、亡命百済民は、祖国が仏教国であったため、漢語が理解できたため、租税徴収の下級役人として働くことができたのです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、道鏡に一服盛られたため崩御すると、百済亡命下級貴族老齢の白壁王が、光仁天皇として即位するのです。
何故、亡命百済貴族、それも下級貴族の白壁王が光仁天皇として即位できたのでしょうか。それは、恵美押勝(藤原仲麻呂)の暴虐非道の行いにより、唐進駐軍により、藤原氏の行動が制限されていたからです。この時期に、亡命百済貴族達が巻き返しに奔走したのです。
その結果、天武天皇の血を引く娘をお妃にもつ白壁王に白羽の矢が立ったのです。その結果、その天武天皇の血を引く娘は、井上皇后となり、その息子は他戸皇太子となったのです。しかし、白壁王には、百済系の下級官僚の娘が側室しとていたのです。その息子が山部皇子であったのです。この百済の血を引く山部皇子は、「旧約聖書」物語のソロモンとソックリの行動を起こすのです。
紀元前十四世紀、ヒッタイト帝国から、宗教改革をおこなった古代エジプトに、新都建設のための技術集団として渡来したヨセフ族は、その急激なアメンホテプ四世の宗教改革に反対するエジプトの神官達の迫害を逃れて、エジプトを脱出するのです。
そのエジプトを脱出する頃には、ヨセフ族の子孫が増え、エフライム族が支配する集団となっていたのです。そして、その集団は、エジプトの宗教改革で発明された、唯一神・太陽神アトン(太陽神ミトラが変身した神)とその化身の牡牛(紀元前2907年〜紀元前747年は牡牛座の時代であった。)を祀っていたのです。
シナイ半島を彷徨う出エジプトの集団に、メソポタミアから流離いの旅を続ける集団と遭遇するのです。その集団は、ヘブルびと、と呼ばれていたのです。ヘブルとは、国境を越えて進入する者、とか、当て所も無く流離う者、とかの意味です。
そのエジプトからの集団とメソポタミアからの集団は、エジプト軍が破壊して、廃墟となっていた地にたどり着くと、そこに、それぞれの部族ごとに国をつくるのです。そして、その十二部族の連合国はヘブライ(紀元前1020年〜紀元前932年)となのるのです。その主権を握ったのが、メソポタミアからの部族、レビ族末裔だったのです。やがて、そのレビ族末裔から王が立てられるのです。その王がダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)です。ダビデには、多くの子供がいたのです。やがて、ダビデ王の死期が近づくと、ヘブライ王権の簒奪闘争が、多くの息子達の間で起こるのです。
その中に、ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)がいたのです。ソロモンは、正統な後継者ではないのに、祭祀氏族アロンと結託して、頭に油を注いでしまうのです。そのことにより、ソロモンは、ダビデ王の王権を引き継ぐのです。その王権簒奪の裏には、凄惨な親族殺しがあったのです。ソロモンは、異母兄弟の全てを抹殺してしまったのです。
このことを知った、ヒッタイト帝国からのヨセフ族正統末裔のエフライム族を中心に十部族が、ソロモン王が死去すると、ヘブライから独立して、紀元前932年、太陽神バアル(太陽神ミトラの変名)と牡牛を祀るイスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)を建てるのです。
それに対して、ソロモン王の末裔は、レビ族を中心に、唯一神ヤハヴェ(エジプトの太陽神アトンが変身した神)を祀るユダ王国(紀元前932年〜紀元前586年)を建てるのです。
ソロモン王のヘブライでは、正統ヨセフ族(イスラエル民族)の王権が、後に加わった異民族のレビ族(ユダヤ民族)の不正な手段により、簒奪されてしまったのです。
奈良時代末期、光仁天皇の息子山部皇子は、新羅系天武天皇の血を引く次期天皇候補の井上皇后の息子他戸皇太子が存在すると、次期天皇になれないと、ソロモンと同じことをするのです。それは、山部皇子が、井上皇后と他戸皇太子の謀略による抹殺と、更に、実弟早良親王も謀略により、抹殺してしまうのです。
奈良時代末期、新羅系天武王朝の血を引く井上皇后と他戸皇太子の母子が、百済系民族の山部皇子により、抹殺されることにより、日本列島の天武天皇系民族は、ユダヤ民族によりイスラエル民族が不可触賎民サマリア人とされたように、賎民として民族差別されていくのです。日本列島での民族差別の発生は、平安時代の京から始まるのです。
そして、山部皇子は、781年桓武天皇として即位するわけです。
ソロモンがダビデの王権を簒奪できたのは、祭祀氏族アロンの手助けがあったからです。では、亡命百済民族の山部皇子は、誰の協力により、天武系王権を簒奪できたのでしょうか。
778年唐使孫興進が、筑紫に渡来するのです。そして、779年唐使一行は、行列の左右に唐の旗を立て、杖(武器)を帯びて行進し、門外に騎兵二百騎と蝦夷二十人が出迎える平城京に入り、光仁天皇に謁見するのです。これは、唐進駐軍の軍隊が、戦国時代の織田信長が天皇家を威圧するための馬揃と同じで、天武王朝の血筋を抹殺した、亡命百済下級貴族出自の光仁天皇に逆らう、山の民を威圧するための行動です。
更に、唐使高鶴林一行が、779年入京しているのです。しかし、唐使高鶴林一行が帰国したことを歴史書では、確認できないのです。軍団を伴った、唐からの相次ぐ唐使の渡来は何を意味しているのでしょうか。その唐使が渡来した二年後、781年桓武天皇は、唐の儀式により即位したのです。
この唐からの軍団の平城京への渡来は、東アジアの軍事情勢を調べると理解できます。それは、飛鳥王朝を軍事支援していた、そして、北東アジアを支配していた東突厥帝国が、唐軍により744年に滅んだことと、そして、東進するイスラーム軍団に押されて、唐の西隣国吐蕃軍の東進も原因のひとつです。
そして、唐の経済を支えていた東ローマ帝国とのシルクロード交易が、イスラム帝国により奪われ、更に、絹製品の原料である繭が、僧により唐から持ち出されてしまっていたのです。それにより、絹製品は唐の独占交易品ではなくなってしまったのです。これらのことにより、唐の経済が急速に疲弊していくわけです。その疲弊していく唐の経済建て直しの手段のひとつが、日本列島の海洋・鉱物・動植物資源の簒奪です。そのためには、山背国以北を支配している飛鳥王朝残党軍を殲滅しなければならないわけです。
飛鳥王朝残党軍とは、ギリシャ・ローマ文化国の新羅からの花郎軍団(ローマ傭兵軍末裔)と突厥帝国軍団とであるわけです。それらの軍団は、飛鳥ヤマトを中心に張り巡らしたローマ軍式幅広の直線道路を利用して騎馬戦を得意とするわけです。
645年飛鳥王朝を唐進駐軍と供に倒した中臣軍は、後に、藤原氏の私兵軍となって奈良の都で活躍していたものが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、新羅系女帝称徳天皇を支える山の民軍(飛鳥王朝残党軍)より、近江で壊滅されてしまったため、奈良の都には、農民により組織された軍団しか存在していなかったのです。
そこで、770年亡命百済下級貴族の光仁天皇を即位させた唐勢力は、780年藤原氏の私兵軍団を解散させて、新たに、農民より武闘力に優れた者を徴兵し、唐軍武将から、騎馬民族の蝦夷(飛鳥王朝残党軍)に対抗するために、弓馬による戦闘技術を習得させるのです。
そして、792年桓武天皇は、今までの軍団を廃止して、農民からではなく、中国山東半島から移民させた亡命百済民から兵を募り、健児とし、新たな支配地に配置するのです。これらの桓武天皇軍団には、唐軍将校が指揮官となっているのは言うまでもありません。奈良時代の兵が、藤原氏のための兵とすれば、平安時代の兵は、亡命百済貴族のための兵であったのです。
母国百済を滅ぼした新羅を憎む桓武天皇軍を利用して、唐進駐軍は、久慈の琥珀、平泉の金・砂金、釜石の鉄等の資源が豊富に眠る陸奥国を支配している蝦夷(飛鳥王朝残党軍)の壊滅を謀るのです。
唐軍の組織は、722年より外国からの傭兵軍で組織されていたため、あらゆる人種・民族が存在していたのです。801年蝦夷の棟梁アテルイを騙した坂上田村麻呂が金髪であったのは、大陸から渡来した田村麻呂の先祖に白人種の血が流れていたからでしょう。因みに、蝦夷の棟梁アテルイは、赤毛であったようです。短弓・蕨手刀を武器にした騎馬による戦闘形式だけではなく、髪の毛の色からも、蝦夷は、真っ黒毛のアイヌ民族とは、異なる民族であったことが分かるのです。
アテルイが、坂上田村麻呂に簡単に騙された理由のひとつは、坂上田村麻呂が、ツングース系の薄毛ではなく、金髪であったため、白系チュルク騎馬民族の同族と、アテルイが認識したのかもしれません。
チュルク(漢語では「突厥」)民族とは、紀元前五世紀頃に中央アジアに興ったトルコ民族の祖のことで、遊牧・騎馬民族を主とする多人種民族で構成されていたのです。
八世紀、カスピ海沿岸を支配した、国際交易国のハザール王国は、キリスト教とイスラム教との戦闘を避けるため、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して生き延びるわけですが、その第十三部族のハザール(カザール)人とは、白系チュルク民族であったのです。
国際交易民族の白系チュルクのハザール民族が、ユダヤ教徒となったために、イスラム教と共生していた弱小宗教のユダヤ教徒は、やがて、白系チュルク民族末裔のロス・チャイルド家の勃興により、世界の金融を支配していくわけです。
唐進駐軍に軍事支援された桓武王朝は、父光仁天皇が組織した軍団の軍事力を背景に、亡命百済王朝を平安京に開くのです。その手始めとして、桓武天皇は、唐の儀式により即位するわけですが、その儀式により、前政権の儀式を全て否定するのです。
1868年明治革命でのスローガン、「万世一系の天皇家」、「天皇家の祖神・天照大神」、「天皇家の社・伊勢神宮」などは、藤原氏が創作したものです。それらの藤原氏の創作思想や建物を、百済系桓武天皇は、その唐の儀式により全て否定するのです。
唐の即位の儀式では、祖神である天神から命を受けるのが常識です。もし、天皇家の祖神が天照大神であるのなら、桓武天皇も、祖神を天照大神にしなくてはなりません。しかし、桓武天皇は、祖神を父光仁天皇としたのです。そして、即位式を伊勢神宮でおこなわなかっただけではなく、貴族による伊勢神宮の祭祀を禁止し、更に、奈良時代におこなわれていた庶民による星祭も禁止してしまうのです。それは、藤原氏が改竄した伊勢神宮の前身が、685年に敵国新羅系天武天皇が建立した、北極星(太一)を祀る「道教の観」であったことを、桓武天皇は知っていたからです。
そして、万世一系の桓武天皇家では、なんと約千年後の孝明天皇まで、正式に伊勢神宮には参拝していなかったのです。百済系桓武天皇家では、明治天皇が始めて正式に伊勢神宮に参拝したのです。
祀る祖神が異なると言うことは、前天武天皇家とは別の王朝が、平安時代に興ったことを意味しているのです。万世一系の天皇家とは、770年から始まる亡命百済王朝のことだったのです。このことを証明するように、百済系の桓武天皇家を祀る寺では、新羅系の天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌は存在していないのです。
秦氏の支配地の山背国を武力により乗っ取った桓武天皇は、781年長岡京に遷都するのです。
更に、その長岡京の砦より出撃する、唐進駐軍の指揮の下、桓武天皇軍は、比叡山を死守する飛鳥王朝残党軍を壊滅すると、794年平安京に遷都するのです。その後、母国東突厥帝国が滅んだため、軍事支援が受けられない飛鳥王朝残党軍は、802年胆沢城を築きそこを拠点に北上する唐進駐軍と桓武天皇軍により、出羽・陸奥の北限まで追い詰められていくのです。その陸奥国の北限には資源の埋蔵が確認されていないため、唐進駐軍は更なる進撃はおこなわれなかったのです。そして、陸奥国全土が侵略されるのは、四百年後の平安末期なのです。
桓武天皇は、古代エジプトの神官が勝手に神様を創作し、王の権限を制約する神官を抹殺する宗教改革をおこなったアメンホテプ四世と同じに、奈良の都で我が物顔の仏教組織を壊滅させるため、僧侶を奈良の都に封じ込めるわけです。
奈良の仏教組織は、藤原氏の支配下で、貴族相手に、賭博・聖婚(売春)・高利貸しをおこなっていたのです。それらの悪行が、実際は鉱毒中毒であったのに、奈良の地獄を招いた原因と考えた、桓武天皇は、奈良仏教の平安京への布教と末寺の建設を厳しく禁止したのです。
紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教は、異国に布教をすることを名目に、侵略のための武器として、国際交易商人に利用されていくわけです。渡来人を調べる「寺・ジ」が、やがて、仏像を祀る建物となると、そこは、治外法権の建物に変身してしまうわけです。その治外法権の建物「寺・ジ」では、僧形の国際交易商人が、現地の豪族を、賭博・聖婚で接待する場となるわけです。
ですから、大乗仏教が栄えると、僧として相応しくない者が金の力で得度を受け、僧侶となり、治外法権の「寺・ジ」で、風紀を乱す行為をおこなうのです。北魏での仏教弾圧(446年〜452年)、北周での仏教弾圧(574年)、唐での仏教弾圧(845年)などは、「寺・ジ」での風紀を乱す行為を禁止するためにおこなわれていたのです。
日本国の平安時代に、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。

桓武天皇は、皇后・母・側近の死と度重なる地震・落雷・不審火などの災難が、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと考え、平安京の支配国の唐から、それらの怨霊を鎮めるためと、そして、藤原氏が支配する奈良仏教壊滅のために、新しい宗教を導入することを考えるわけです。それが、801年遣唐使の任命となるわけです。しかし、この第十四回遣唐使(14回は暫定的回数。現在も遣唐使船の回数は確定していません。それほど遣唐使船には謎が多いのです。)には、藤原氏の陰謀が隠されていたのです。
801年第十四回遣唐使に任命された者は、遣唐大使従四位下藤原朝臣葛野麻呂、副使従五位下石川朝臣道益などであったのですが、その後遣唐大使から何の音沙汰も無く、その人事発表二年後の803年から唐への出発準備にとりかかるのです。
そして、803年4月16日遣唐使船団一行は、難波津を出航するのです。しかし、大使には御被三領、御衣一襲、金二百両、そして、副使には御衣一襲、金百五十両が、桓武天皇より下賜されたものが、その難波津出航後五日で、瀬戸内海で難破し、そして、唐への献上品と多くの留学生の人材が船と供に、海の底に消えてしまうのです。そして、奇跡的(?)に生き残った藤原朝臣葛野麻呂と石川朝臣道益は、803年5月22日、平安京に帰還して、節刀を奉還しているのです。
そして、翌年804年5月12日、再び難波津から、遣唐使船が出航しているのです。その船団は四隻で、第一船は遣唐大使藤原朝臣葛野麻呂で、留学僧空海が、そして、第二船は副使石川朝臣道益で、請益僧最澄が乗船していたのです。
そこで疑問が起こるのです。それは、第十四回遣唐使船の瀬戸内海での難破と、空海の仏籍との関係です。空海は、803年の遣唐使船出航時では、仏籍には入ってはいなかったのです。そして、大学を中退した後の七年間の経歴は不明なのです。その空海が、藤原氏の支援により、一年の修行により仏籍に入れたのです。そして、804年藤原朝臣葛野麻呂が指揮する第一船に、私僧の留学生として、乗り込むのです。この空海と藤原氏との謎の関係は、後ほど明らかにされるのです。
この留学僧空海と最澄にも、疑問符が付くのです。それは、留学僧の修学年は二十年と決まっているのに、空海は二十ヶ月、そして、最澄は、何と八ヶ月で帰還しているのです。そして、唐への往路については、その経過が分かるのに、その帰路については、客観的な史料が無いのです。
そして、更に不思議なのは、「新唐書」には、「貞元年間の末年(804年)に桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘逸勢、僧空海は、滞在して学業を修めることを願い、二十余年の歳月がたった。」と記しているのです。何故、唐政府に、二十ヶ月を二十年と偽ってまでして、僧空海は、日本国へ帰還しなくてはならなかったのでしょうか。それは、最澄が、八ヶ月の唐の滞在で、日本国へ帰還していたのを、藤原氏が知ったからです。
では、八ヶ月で帰朝した最澄は、何を目的に留学僧として入唐したのでしょうか。表向きには、奈良仏教に対抗するために、中国で智(チギ・538年〜597年)が「法華経」に基づいた瞑想法を実修する「天台宗」として開発した教えを、日本国に導入するため、と云われています。しかし、805年最澄が、桓武天皇の命により、天台宗を創めるも、806年帰朝の七歳年下の空海に、頭を下げて、その弟子となり、仏典の多くを借り受けているのです。
その最澄の入唐の謎を解くヒントは、最澄の親は近江出身者であったことです。近江の古は、百済国のコロニーがあった所です。
そこで、最澄が乗船した第二船が、中国の何処へ漂着したかを調べれば、そこは、揚子江より南よりの明州だったのです。この一行は、9月1日長安に向かい、11月15日には長安に着いていたのです。しかし、最澄は、9月12日明州刺史孫階より、その南にある台州行きの通行証を発行してもらい、明州から直接、台州の国清寺に向かっていたのです。そして、帰朝したのが、翌年の805年1月であるのです。帰路の船旅を入れて、入唐の9月より実働四ヶ月で、天台宗の奥義が究められるものなのでしょうか。
では、最澄への、桓武天皇からのミッションは何んだったのでしょうか。それは、北からのウイグル、そして、西からの吐蕃の侵略による政情不安の唐からの、亡命百済民の、平安京への移民手続きであったのです。
そのことを証明するように、最澄の帰朝後、桓武天皇が謀殺した井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊に祟られて人気(ひとけ)のない平安京には、亡命百済民の移民で溢れるわけです。そして、桓武天皇は、その中国からの移民の多くを貴族として採りたてるのです。
では、藤原氏により支援された空海の、真の入唐の目的は何だったのでしようか。
空海の「御遺告」によれば、蘇州から七百キロ南の衡州に漂着したと述べているのです。しかし、空海の第一船の責任者藤原葛野麻呂の上奏では、「8月10日福州長渓県赤岸已南の海口に到れり」、と述べているのです。いずれにしても、唐の都長安への近道は、揚子江口の蘇州へ上陸するのが一番なのに、数百キロも南に漂着した意味がわかりません。
しかし、五島列島田之浦から九州を南下して坊津→奄美→瑠求(台湾)→福州とするならば、第一船の福州への唐渡ルートは、理解できます。そこは、藤原氏による密貿易の南インドのマラバルへの中継ルートだからです。
福州に上陸してからも、不思議なことがおこるのです。空海側の史料では、遣唐使船である第一船が、福州の役人により不審船の漂着として認識された、と述べているのです。
唐と日本国との正式な遣唐使船であるのならば、たとえ見知らぬ土地に漂着しても、そこが唐の支配地であるのならば、不審船扱いは、空海側の創作であるのかもしれません。それを証明するように、藤原葛野麻呂の上奏では、「9月1日明州より京に入り、11月15日長安城に到る」、と記述しているのに、福州漂着後のトラブルや空海の中国語の筆談による活躍については全く述べてはいないのです。
更に不思議なのは、空海側が、二十ヶ月の滞在を二十年として帰国した理由を述べた「本国の使に与えて共に帰らんと請う啓」によると、「寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の真髄に到達することが出来ました。この上は一刻も早くこの教えを持って帰り、天皇の命令にお答え申し上げたい。」と、桓武天皇の命で渡唐したように述べていることです。
しかし、空海は、806年帰朝後、806年桓武天皇が崩御し、809年平城天皇が嵯峨天皇へ譲位するまでは、九州の大宰府に留まり、平安京へは登れなかったのです。それは、公費留学の最澄とは異なり、私僧の空海は、奈良仏教を支配している藤原氏がスポンサーであることを、反藤原氏の桓武天皇側は知っていたからです。実際には、空海は、桓武天皇に嫌われていたのです。それは、空海の出自が、佐伯部であったからです。
佐伯部とは、713年の好字令により発明された、漢語二文字で表された部族名です。それ以前の佐伯部は、蝦夷と呼ばれていたのです。蝦夷とは、唐進駐軍側が付けた蔑称で、「エビのようなヒゲのあるエビス」、と言う意味です。つまり、蝦夷とは、反唐軍側の蘇我王朝軍(天武朝は、第二蘇我王朝)のことだったのです。
唐進駐軍に敗れた蝦夷(蘇我王朝軍)は、飛鳥ヤマトから駆逐され、吉野の山奥や四国、あるいは山背国の山奥へ落ち延びたわけです。その四国へ落ち延びた蝦夷が、713年の好字令により、佐伯部と呼ばれるようになるわけです。漢字二文字の地名・人名の多くは、713年以降の表記であるのです。
何故、空海が述べる遣唐使物語と藤原氏が述べる遣唐使物語とが一致しないのでしょうか。それは、空海と藤原氏との渡唐の意図が異なっていたからです。
では、空海は、唐から何をもたらしたのでしょうか。空海側の史料では、都で一生懸命に勉学に励んだ結果、十年かかる学業を一年で成し遂げた、と述べるわけです。しかし、藤原葛野麻呂の上奏では、「内は節度を疑い、外は吐蕃を嫌う。京師の騒動暫くも休息すること無し。」、と述べているように、唐の都長安では、年賀の儀式後には、天子徳宗の崩御と、その後の継嗣争い、そして、西隣の吐番軍の侵攻などにより、騒乱時様態で、空海が落ち着いて勉学できるような状況ではなかったのです。
そこで、空海側による、「長安において、中天竺国の般若三蔵及び恵果大阿闍梨(アーチャリー・先生)に逢うことができ、その直後の教えを受けて寝食を忘れて勉強した結果、十年かかる学業を一年で成し遂げて、密教の神髄に到達することができました。」、と述べていることが疑われるわけです。
では、空海に密教を授けたと言われる恵果先生とは、何者であったのでしょうか。
八世紀末から九世紀にかけての中央アジアと東アジアは、イスラム帝国軍の急速な膨張により、周辺国は混乱状態となっていたのです。唐の都長安を一時占領した吐蕃軍も、西から侵攻するイスラム帝国軍の影響によるのです。このイスラム帝国軍の膨張は、南のインド大陸にも多大の影響を与えたのです。
インド大陸を南下するイスラム帝国軍により、インド大陸でも民族移動が起こるわけです。そこで、最初に逃亡するのは、王族・宗教者・豪族などの金持達です。八世紀末には、南インドと唐とは、定期的な国際交易船により、繋がっていたのです。そこで、唐の都長安には、インドの王族・宗教者・豪族が亡命していたのです。その宗教者の多くは、バラモン教を取り入れたヒンズー教者であったのです。しかし、唐は則天武后(690年〜705年)の趣味で、仏教が盛んであったため、ヒンズー教僧は、仏教僧へ変身してしまうわけです。
その変身仏教僧により、空海は、密教を教授されるわけです。では、密教(タントラ)とは何なのでしょうか。歴史教科書の説明では、仏教での表の教えが顕教で、裏の秘密の教えが密教である、とするのです。
しかし、密教の密は、秘密の密ではなく、「ミル」、つまり、光(ミトラ)の漢訳語が「密」となるわけです。つまり、密教とは、本来の意味は、「ひかりの教え」→「太陽の教え」であったのです。この密教の本来の意味を知っていた空海は、仏の中心に「大日如来」を置いているのです。「大日如来」の流れは、大日如来→遍照鬼→ビローチャナ→ミトラ神→太陽神、であるのです。
この空海が、バラモン教を取り込んだヒンズー教僧から学んだ「密教」が、日本国にもちこまれると、バラモン教やヒンズー教の神々と共に、奈良仏教とは異なる儀式や仏教グッズが開発されるのです。それらは、力のある言葉(マントラ=真言・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)、護摩(拝火のゾロアスター教から導入)等です。これらの仏教儀式や仏教グッズは、今では寺や神社ではあたりまえのものとなっているのですが、それらはヒンズー教思想の影響を強く受けたものであるのです。
更に、奈良仏教の仏像のビ・ルシャナブツ(奈良の大仏)のバラモン教外道の鬼に対抗して、空海側は、バラモン教とヒンズー教の神々を、日本列島に持ち込むのです。その平安仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の変身仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の平安仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されて、今日の仏寺に安置されているわけです。
更に、バラモン教から変身した仏教僧の密教には、「化学の教え」も隠されていたのです。
紀元前八世紀にインドで発明されたバラモン教が、先住遊牧民族トラヴィダを屈服させたのは、輪廻転生などの教えだけではなかったのです。そのひとつに、薬物による意識改革があったのです。その薬物とは、水銀です。
水銀は、用い方により、消毒・解毒・意識の覚醒等の作用が期待できるのです。水銀には、知覚神経と自律神経を麻痺させる作用があるのです。そこで、バラモン教では、宗教体験を高めるために水銀の研究が盛んであったのです。
しかし、やがて、その副作用としての水銀中毒により、神経が麻痺することも知られてくるのです。その効果と副作用との葛藤は、やがて、水銀薬研究が秘密の技術となっていくわけです。
水銀は、自然状態で採取することは困難です。そこで、朱砂から水銀を採取する技術が確立されていくわけです。それが、やがて錬金術となるわけです。つまり、卑金属から貴金属への変身です。この技術は、騎馬民族スキタイにより、水銀アマルガム法の金メッキの技術として発展していくわけです。
バラモン僧は、朱砂から水銀を採る蒸留法の技術を開発していたのです。その朱砂は、日本列島の中央構造線で縄文時代から採取されていたのです。空海が誕生した四国讃岐は、伊勢→宇陀→吉野(海を越えて)→四国讃岐へと、中央構造線は続いていたのです。
水銀薬を開発していたのは、インドのバラモン教だけではありません。中国の土着宗教から発展した道教も、水銀薬を開発していたのです。
紀元前三世紀、秦の始皇帝は、長生術を信じたため、道士徐福に神仙薬(水銀薬)を求めさせるために蓬莱国(日本列島?)に、百隻の船に軍団、技術者、童男女二千人を同乗させ、派遣していたのです。それほど、水銀薬は、古代から、権力者や金持ちには魅力あるものであったのです。
空海の、真の渡唐の目的は、藤原氏が遣唐使船を計画的に沈没させて唐への朝貢品を掠め取るのとは異なり、長安に亡命していたバラモン僧から、錬金術の極意書を買い求めるためであったのです。それを裏付けるように、空海は、勉学に必要以上の大量の砂金を唐に持ち込んでいたのです。
そのように、錬金術師空海を眺めると、そこには仏教者よりも、鉱山師の姿が現れてくるのです。空海が、大学を中退した原因のひとつに、山岳修行者から、記憶術としての虚空蔵求聞持法を授かったことがあげられます。
その虚空蔵とは、明星→金星→虚空蔵→金属の流れにあるのです。そして、虚空蔵は、サンスクリット語で、アーカーシャ・ガルバと言い、アーカーシャとは、空・虚空で、ガルバとは、胎・蔵の意味です。
貴金属の多くは、隕石が落下したところで採取されるのです。そして、虚空蔵尊とは、隕石のことで、それは岩裂神、根裂神とも呼ばれ、鉱山神となるのです。つまり、虚空蔵(隕石)を祀る処には、鉱脈が存在するために、鉱山が多くあるのです。空海が、四国に多くの寺を建立しているのですが、その近くには、銅山・銀山が多くあるのは、そのことを示しているのです。
この空海側の水銀鉱脈探索は、やがて、従来の産鉄族タタラ(突厥帝国残党民)、そして、山の民(蘇我王朝残党民)との権利争いとして発展していくわけです。その鉱脈探索の山の民は、空海側の仏教勢力に敗れ、山伏修験者として変身していくわけですが、山中で冶金のための火を治す「火治・ひじり」が、やがて、空海の創建した高野山の寺の奴隷となり、「高野聖・ひじり」となるわけです。ですから、「山伏修験の行くところに金属資源がある。」との言い伝えがあるのはそのためです。
この高野聖の奴隷身分を拒否した産鉄族タタラや山の民は、山奥に逃れ、反仏教組織として戦うわけです。その山の武装民は、やがて、仏教組織に恐れられることにより、「てんく゜・天狗」と蔑称されていくわけです。このことは、反仏教の河の民が、「カッパ・河童」と蔑称されていくのと同じです。
さて、この章の表題の武士とサムライは、どのようにして発生したのかを、これから述べることにしましょう。これまでの記述は、そのためのウォーミングアップであったのです。
平安時代に出現した武士の発生を理解するには、飛鳥ヤマトの真の支配者の実態と、藤原氏の実態、、平安王朝を創生した亡命百済王朝の実態、そして、奈良仏教と平安仏教の実態を知らなければならないのです。それらの予備知識を知ることで、武士の発生が理解できるのです。
第二蘇我王朝の天武天皇系最後の井上皇后・他戸皇太子を謀殺して、その王権を簒奪した百済系桓武天皇は、秦氏(=ギリシャ・ローマ文化新羅国渡来民)が支配していた山背国を、唐進駐軍と桓武天皇軍とにより、乗っ取ると、その前支配者の秦氏一族を、藤原氏傀儡の豊臣秀吉が騎馬民族末裔の徳川家康を、1590年関東の荒川河口の湿地帯(後の江戸)に移封したように、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。
そして、奈良の都を、ヨシュア教(後のキリスト教)に酷似した大乗仏教思想とユダヤ教に酷似した中臣神道(中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。)との祭祀者として、実効支配していた藤原氏を、その配下の仏教組織(南都仏教)もろとも、奈良の都に封じ込めてしまうわけです。その表向きの理由は、奈良仏教は、貴族相手に賭博・売春(聖婚)・高利貸し(借上)をおこなって、堕落してしまったというのです。
そこで、桓武天皇は、奈良仏教思想を抹殺するために、百済系の最澄を唐に派遣して、「聖書」の「ヨハネの福音書」ソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、ローマ・カトリックがミトラ教地下神殿を破壊して、その跡に、バチカン聖堂を建てたように、秦氏の祭祀場があった比叡山の景教寺を破壊して、その跡に、821年延暦寺東塔を建立するのです。そして、秦河勝の建立した、景教寺の蜂丘(岡)寺を破壊して、その跡に、仏寺の広隆寺を建立するわけです。
そして、秦氏が祀る太陽神ミトラを魔多羅と変名し、804年ミトラ教儀式の牡牛を屠ることを政令で禁止するのです。その平安王朝のミトラ教(景教)抹殺手段に対抗するために、秦氏末裔は、太陽神の化身の牡牛を、「牛頭天皇」と呼称するのです。
飛鳥時代より、山背国の比叡山で、秦氏が祀る太陽神ミトラの化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたものが、794年百済系桓武天皇にその支配地・比叡山を乗っ取られると、桓武王朝は比叡山に、中国天台宗を導入して、秦氏の祭祀場跡に、仏寺の延暦寺を建立するわけです。
そして、比叡山に祀られていたミトラ神を歴史上抹殺するために、魔多羅神登場の物語を創作するわけです。その物語とは、848年唐より帰朝した慈覚大師円仁より、叡山常行堂が創建され、その堂で念仏三昧をしていた折、魔多羅神が示顕したとするのです。しかし、魔多羅神が現れたのは、それが最初ではなく、慈覚大師円仁が、唐からの帰朝途中で、「私を崇敬しなければ浄土往生はかなわない。」との魔多羅神のお告げを聞いていた、と言うのです。そこで、比叡山の常行堂に魔多羅神を勧請したというのです。
そのような魔多羅神勧請物語を創作することにより、先住民の秦氏の神・ミトラ神の歴史を隠蔽したのです。
その奈良仏教抹殺の処置に対抗するために、遣唐使船の運営をおこなっていた藤原氏は、804年錬金術師空海を仏教僧に変身させて渡唐させ、最澄の動向を探るためと、そして、桓武天皇の奈良仏教抹殺の宗教政策に対抗するために、空海を南都仏教の手先として利用することを考えるわけです。このことは、つまり、蝦夷末裔の空海を使って、亡命百済王朝を制する、「夷を以って夷を制す。」藤原氏得意の戦術であるのです。
平安初期は、宗教改革の時代であったのです。その背景には、奈良仏教壊滅だけではなく、平安京に災害をもたらしている怨霊を鎮めるのが目的のひとつでもあったのです。
唐進駐軍と桓武天皇軍は、資源の眠る陸奥国の支配を目的に、蝦夷討伐に大軍団を派遣するのですが、騎馬戦術に長けている蝦夷軍に対して、全戦全敗であったのです。
しかし、蝦夷軍を軍事支援をしていた東突厥帝国が744年に滅亡してしまった結果、蝦夷軍にも厭世気分がおこって来るわけです。そこを見透かして、白系チュルクの坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁のアテルイを騙して、京に連れて来て、そこでアテルイを斬首してしまうのです。このことにより、蝦夷軍の勢いが削がれていくのです。
蝦夷軍が、関東から北方へ追いやられるのは、平安朝の巧みな戦略もあったからです。騎馬民族は、その戦いで馬が疾走できる平原が無ければ、その潜在闘争力が発揮できません。そして、騎馬民族は、農耕をしないため、必要な食料は農耕民との交易によって調達していたのです。その農耕民との交易のために、騎馬民族は、貨幣や為替の商取引を開発していたのです。
この騎馬民族の平安王朝との戦闘を維持するための条件を、平安王朝は条例で破壊したのです。それらは、貨幣の流通の禁止です。そして、貨幣の代わりに、関西では「米」を、関東では「絹」をつかったのです。そのため、蝦夷が実効支配していた関東の農耕民は、山の麓や川沿いなどの空き地に、桑の木を植えていくわけです。
この桑畑の北上と、蝦夷軍の北への撤退に関連性が確認されるのです。つまり、関東平野から北に広がる桑畑は、騎馬民族の軍事活動に対しての、自然のバリケードの役割を果たしていたのです。そして、山里の農耕民から食料を調達したくても、貨幣が使えないため、食料調達のために、新天地を北方に求めなくてはならないわけです。
そのような戦略により蝦夷軍団は、平安王朝に敗れていくわけです。奈良時代までは、敗れた武人は、殺されるか、奴隷になるか、そして逃亡するかの方法しか存在していなかったのです。
しかし、平安時代になると、敗残兵の処刑は禁止されるのです。それは、血の禁忌思想の平安仏教の平和主義のためではなく、平安王朝を軍事的に支えている唐の軍事事情によったのです。
唐は、西隣の吐蕃軍の度重なる侵攻と、北方の騎馬民族ウイグルの南下により、国境を守るための軍事力の増強が必須だったのです。唐の軍団は、722から傭兵制度となっていたため、農民の子弟を子供の頃から軍事訓練をさせていなかったため、自民族の軍団を編成することができなくなっていたのです。そこで、日本国の陸奥国の弓馬の巧みな蝦夷軍敗残兵の需要がおこるわけです。
陸奥国で破れた蝦夷の武人は、関西に連行され、盆地の捕虜収容所に、唐へ送り込むための軍事再教育のために押し込められるわけです。それらの捕虜収容所は、別所、湯浅、散所、垣内などと呼ばれていくのです。これが「部落」の始まりです。
この捕虜収容所の蝦夷武人に、怨霊渦巻く平安京で、新たな仕事が起こるのです。それは、戦闘ではなく、「武芸」です。
桓武天皇は、唐進駐軍の軍事支援の下、794年秦氏の支配地であった山背国の平安京に遷都するわけですが、その地を追われた蘇我王朝残党兵や秦氏が、近隣の山奥からゲリラ戦を仕掛けていたのです。平安京は、そのゲリラ戦の不審火だけではなく、落雷・地震が頻発に起こっていたのです。
科学の知識が乏しいのと、奈良時代の平城京の鉱毒中毒による地獄世界を実際に経験していたことがトラウマとなっている平安京の住民に、唐からもたらされたバラモン教やヒンズー教のおどろおどろしい閻魔様のいる地獄世界を、平安仏教信者獲得のために、平安仏教徒が絵解きで宣伝したために、それらの不審火・落雷・地震は、井上皇后・他戸皇太子・実弟早良親王の怨霊によるものと信じられていたのです。
そこで、怨霊の祟りに苦しむ桓武天皇は、最澄に天台宗を創めさせるのですが、何せ八ヶ月の唐留学では、怨霊鎮静の儀式をおこなうことができなかったのです。その弱みに付け込んで、奈良仏教に敗れた道教や景教の師は、陰陽師に変身して、怨霊退治に活躍するわけです。しかし、平安京を呪う怨霊の正体は、反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵や落雷・地震であるので、それらの陰陽師の祈祷では退散させることができなかったのです。
更に、奈良の都に封じ込められた藤原氏も、桓武王朝の転覆を図るために、色々な策謀を図っていたのです。
そのひとつが、桓武天皇の子息安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)兄弟の確執を煽ることです。長岡京で暗殺された藤原種継の子供の藤原仲成・薬子兄妹は、病弱な平城に、親ほどの薬子が「女の武器」で接近するのです。その陰謀を知った桓武天皇は、藤原薬子を平安京から追放するのです。しかし、桓武天皇が806年崩御し、平城天皇が即位すると、薬子兄妹は、平城天皇に急接近するのです。
病弱な平城天皇は、809年退位し、嵯峨天皇が即位するのですが、薬子兄妹は、平城上皇をそそのかして、810年嵯峨天皇を抹殺するために兵を挙げるのです。これが藤原薬子の乱です。
藤原薬子の軍団は、嵯峨天皇軍団にすぐさま壊滅されるのですが、嵯峨天皇は、今後の藤原氏の不穏な動きを探るためと、それを阻止するために、令外官として検非違使を置くのです。検非違使の役割は、嵯峨天皇を藤原氏の陰謀から守るため、都での治安警察業務であったのです。ですから、その人材は、亡命百済貴族の子弟であったのです。
そして、嵯峨天皇の近くに侍(はべる・さぶらう)る武装者は、やがて、侍(さぶらう)→サムライと呼ばれていくわけです。サムライの業務は、敵との戦いではなく、天皇の秘書役の武人であったのです。その資格は、亡命百済貴族の子弟で、漢字が読め・書ける秘書業務ができる者であったのです。
嵯峨天皇は、病弱な平城天皇と異なり、子作りが盛んで、その皇子皇女の数が分からないほどいたのです。平安王朝の財政は、陸奥国の侵略戦争などに使われ、傾きかけていたのです。そこで、嵯峨天皇は、数多くの皇子皇女を公費で養育できなくなったため、臣籍降下のために、814年源氏賜姓をはじめるわけです。これが世に言う「嵯峨源氏」の始まりです。因みに、「公家桓武平氏」の賜姓は、825年であるのです。
そして、亡命百済王朝が、日本国の祖であるとの書、「新撰姓氏録」を、814年に編纂するのです。この「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の民族差別により、亡命百済貴族は、日本国の皇族の祖となるわけです。因みに、奈良時代を支配していた藤原氏は、祭祀氏族の神籍で、そして、平安京のある山城国の地を飛鳥時代から支配していた秦氏は、蕃籍の渡来人とされてしまうのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の軍団を壊滅させても、不審火・落雷・地震が収まらないため、その対策として、怨霊が前政権の王者の無念によるものだから、その前政権の臣下の子孫に、怨霊鎮めをさせるのです。その怨霊鎮めの儀式が、「武芸」であるわけです。
「芸」とは、神を、歌謡・舞で楽しませるための神事であったのです。平安京以前には、山背国を支配していた秦氏は、太陽神を祀るため、太陽の化身の牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。当然、そこには、歌謡と舞があったのです。その秦氏の芸は、亡命百済王朝の陰謀により、秦楽→申楽→猿楽と貶められてしまうのですが、平安初期には、未だその秦楽の霊力は健在だったのです。
そこで、蝦夷の前身とは、飛鳥時代の蘇我王朝の武人であったわけですから、井上皇后・他戸皇太子は第二蘇我王朝末裔であるわけですから、その蘇我王朝の怨霊は、蝦夷の「芸」により鎮められるわけです。
しかし、実際に、蝦夷の「武芸」で怨霊が鎮められたのは、怨霊の不審火の元は反亡命百済王朝の蘇我王朝残党兵によるわけですから、その蘇我王朝残党兵は騎馬民族末裔であるため、騎馬民族の掟「同族は闘わず。」を守ったにすぎません。蝦夷の「武芸」に対して、「騎馬民族の掟のため」、山の民は攻撃を仕掛けられなかったのです。
何事の儀式でも、そのパフォーマンスにより、その影響力が発揮するのは、古代も現代もかわりありません。ですから、ひとびとのこころを揺さぶるには、その儀式の仕掛けが派手で、今までに見たことも無いほどのものであることが必要であるわけです。
そこで、怨霊鎮めを命ぜられた蝦夷は、「武芸」の儀式をおこなうための小道具を開発するわけです。それが、派手な鎧と、角のある冑、そして、妖艶な光を放つ片刃の刀(日本刀の祖)です。
しかし、蝦夷は、平安王朝の捕虜の立場であるので、それらの「武芸」の儀式武具は、鎧は総革製で、刀の刃は実戦に使えないように薄かったのです。
日本武士の冑には、何故に二本角があるのでしょうか。一般的説明では、昆虫のカブトを真似て、冑に角を付けた、としているのです。昆虫のカブトの角を真似たのであれば、その角の並びは、横ではなく、縦でしょう。それでも昆虫の角であると説明するのならば、カブトではなく、クワガタでしょう。クワガタであるのならば、その角は横にあるからです。
では、冑の角が、昆虫を模したのでなければ、それは何を模したのでしょうか。それは、鹿と牛の角です。鹿は、騎馬民族スキタイのトーテムです。牡牛は太陽神の化身、ミトラ教を信じるローマ帝国軍のシンボルです。それらのオリエント・ユーラシア渡来の軍人の末裔である蝦夷には、鹿角や牡牛の角がある冑を被る武人は、神と一体となって闘うことにより、不死身であると信じられていたのです。
その角のある冑と派手な鎧と、妖艶な刀で「武芸」をおこなう蝦夷は、検非違使の配下として、前政権の神を封じ込めた神社で、歌謡と舞により、怨霊鎮めをおこなうわけです。この怨霊鎮めの武人は、やがて、民衆の畏敬を受けるようになると、蘇我王朝残党の蝦夷による亡命百済王権転覆の不安を抱く平安王朝は、民衆との隔離のため、「武芸者」の貶めに掛かるのです。
日本列島には、景教(ミトラ教)の太陽神、道教の北極星(太一)、大乗仏教の仏、そして、藤原氏が創作した天照大神が渡来する前には、カムイ・モノという精霊が存在していたのです。それらの精霊は、日本列島のあらゆる処に存在していたのです。
それらの精霊は、太陽や北極星などの自然神を祀る宗教とでは共生できたのですが、ブッダ(覚醒した者)などの釈尊のキャラクタを真似た人工神を祭る宗教とは、共生ではなく、対立したのです。
やがて、人工神のブッダの宗教(釈尊の思想とは正反対の思想)が、武力により、他の自然神宗教を壊滅させると、日本列島古来のモノは、仏敵の化け物として、モノノケ(モノの怪)として貶められてしまうのです。
前政権の支配者が眠る古墳近辺で、前政権の神(カムイ・モノ)が封じ込められている神社で、「武芸」により、前政権の怨霊(カムイ・モノ)を鎮めるために、歌謡と剣舞の儀式をおこなう蝦夷は、やがて、先住民から「もののふ・モノの夫」と呼ばれていくわけです。
先住民から、神の僕「もののふ」と呼ばれていく蝦夷は、やがて、平安王朝にも平安仏教組織にも、抹殺すべき存在となっていくのです。それは、騎馬民族には、草・動物による薬物創生の技術があったからです。
飛鳥時代の蘇我王朝では、草・動物による創薬業も盛んにおこなわれていたのです。鎌倉時代に発生する、騎馬民族末裔の武士の流れにある役座が祀る神様は、薬草学の神様・神農様であることでも、騎馬民族が創薬業に長けていたのが理解できます。古代から現在まで、大坂や富山に、薬商が盛んであるのは、そこは、大陸から渡来した騎馬民族末裔が多く暮していたからなのです。
中世ヨーロッパで、キリスト教により、魔女狩りがおこなわれていたのは、経済的理由も原因のひとつであったのです。
キリスト教の収入源である、庶民からのお布施が、民間の医療行為に支払われることにより、激減してしまうのです。それは、キリスト教教会に布施するよりも少ない金額で、動植物の薬により、民間治療者は病気を治してくれるからです。
庶民が、神様にすがるのは、経済的理由と病気・怪我の治癒のためによるのです。中世ヨーロッパのキリストの神様は、貧乏人に、お金をめぐむのではなく、お布施としてむしりとる存在だったのです。ですから、庶民が神様に求めることは、商売繁盛の「願い」だけと病気の治癒「願い」なのです。その庶民に対しての医療行為では、キリストの神様への祈りよりも、民間治療者(多くは女性)の技術の方が優れていたのです。
それは、古代の医療とは、もともとは薬草や魔術と関係があったからです。そのことを証明するように、「医学」を意味するギリシャ語(pharmakeia)には、「薬」「魔術」の意味もあるのです。
キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、神に祈るだけでは治療ができないことを悟ると、教会公認の「男性」の医師に、下剤、瀉血、燻蒸消毒、ヒル吸血、水銀薬、そして、ランセットによる英雄医学を認めるのです。その英雄医学の名残が、床屋さんの赤(動脈)と青(静脈)のサインであるわけです。中世ヨーロッパの床屋さんでは、髪を調整するだけではなく、瀉血もおこなっていたのです。
しかし、自然と暮らし、病に患った動物の治癒過程の生態を観察し、個々の薬草の薬理作用を理解し、そして、臨床としての治療経験が豊富な賢女の治療技術は、キリスト教公認の英雄医学の医師の敵ではなかったのです。治療に失敗したキリスト教公認の医師は、その失敗を悪魔の仕業に転化するのが日常だったのです。
その医療行為に長けた賢女の存在が、キリスト教をして、魔女を発生させるのです。キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、寄付を募るために教会に庶民を集めるための目的に、医療を独占するために、薬学に詳しい賢女の治療者を、魔女として、聖なる炎で浄化してしまうのです。そのために、キリスト教の牧師は、カトリックもプロテスタントも、悪魔の手下の魔女物語を創作して、教会で病に苦しむ庶民を洗脳するわけです。
前政権の支配者が封じ込められている神社で、「もののふ」として、庶民から畏怖される武芸者に対して、平安王朝は、中世ヨーロッパの魔女狩りのごとく、武芸者の貶めにかかるのです。その先鋒者が、空海なのです。
空海は、唐より帰朝しても、桓武天皇、そして平城天皇から疎まれていたのですが、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位すると、弟子の最澄をとおして、嵯峨天皇に接近するのです。その接近の小道具のひとつが、水銀薬です。
水銀薬は、知覚神経・中枢神経を刺激する作用があるため、子作りが好きな嵯峨天皇は、空海に興味を示すわけです。
南都仏教の手先として、藤原氏により送り込まれた空海は、やがて、嵯峨天皇に気に入られていくのです。そして、平安王朝の儀式に取り入れられていく、空海の、バラモン教とヒンズー教思想を基にした「密教儀式」が、「もののふ」の蝦夷を、不可触賎民として貶めていくのです。
その根拠として、藤原氏傀儡の空海は、812年「性霊集」で、蝦夷を「非人のともがら」、と述べているのです。更に、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる施陀羅悪人なり。」と、非仏教者(蝦夷)を施陀羅とも述べているのです。
施陀羅とは、インドのバラモン教が発明した、カースト制度に属さない、不可触賎民のチャンダラーを漢音化した言葉です。ユダヤ思想では、イスラエル民族を貶めるための、不可触賎民サマリア人のことです。
平安仏教は、その根底は、民族差別を助長する、インドのバラモン教思想・ヒンズー教思想です。それらの思想には、遊牧・騎馬民族を差別する思想が多く含まれていたのです。もともとバラモン教は、インドの先住民族の遊牧民トラヴィダを支配するために発明された宗教であったわけです。
空海が、騎馬民族を貶める行動にでたのは、キリスト教が有能な民間治療者を魔女として抹殺したように、経済的な理由もあったのです。
平安仏教は、奈良仏教が律令制度による税で賄われたのとは異なり、自費で組織を維持しなければならなかったのです。そこで、空海は、金集めのために、水銀薬・祈祷・護符・護摩などによる治療をビジネスとして考えていたのです。
仏教の経典には、「除一切疾病陀羅尼経」「能除一切眼疾病陀羅尼経」「仏説療痔病経」「仏説呪歯経」などがあるように、疾病の治療指導書が多くあるのです。それは、お布施を集めるための信者獲得の近道は、キリスト教も仏教も、まずは治療行為から始まるからです。
その治療のために、古代から鉱物・動物・植物から薬物を創製していたのです。そのため、鉱山師、遊牧民族、草原の民達は、日常生活において創薬の技術を獲得していたのです。中世ヨーロッパで医療行為が上手な医師パラケルススは、元は鉱山師(錬金術師)であったのです。
錬金術師空海は、唐から持ち込んだ創薬技術の、水銀と塩を混ぜて焼くことにより創薬した白粉を、平安貴族に売り捌くのです。その効能は、蝦夷による動植物からの創薬よりも、ある疾患に優れていたのです。それらは、堕胎と毛じらみの治療です。
古代の宗教ビジネスの聖婚では、神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼は、清潔でなければならなかったのです。しかし、衛生状態がよくなかった古代では、毛じらみは多くの神の代理を悩ませていたのです。そこで、空海の創薬した白粉(後の京白粉)を髪にかけると、毛じらみがいなくなったのです。それは、水銀による滅菌・消毒作用のためです。
神の代理の地母神・聖母・巫女・比丘尼の末裔の遊女が、髪に櫛を挿す習慣は、毛じらみの駆除済みをアピールするためだったのです。つまり、櫛を髪に挿す遊女は消毒積みとのサインということです。
紀元前932年ヘブライのソロモン王が死去すると、今まで虐げられていたヨセフ族直系の部族は、「ソロモンはヤコブだ。」、と罵るのです。ヤコブとは、不正な手段で王権を簒奪した者の意味です。
そこで、レビ族末裔は、その罵りを抹殺するために、ヤコブがヨセフの父であるという物語を創作して、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。その隠蔽技術により、ヨセフ族末裔のイスラエル民族は、ソロモンをヤコブと、罵ることが出来なくなってしまったのです。その反対に、レビ族末裔のユダヤ民族により、アッシリア帝国に滅ぼされて、アッシリアに同化したイスラエル部族は、不可触賎民サマリア人とされてしまうのです。
平安時代の神社で、怨霊鎮めの儀式をおこなうことにより、奈良時代の修験者出自の行基が遍照鬼(後の奈良の大仏・大日如来)の像を建立するために各地の山々を廻るうちに、何千何万の山の民が行基の下に集まったように、「もののふ」の武芸者の下に山の民が集まってきたのです。
そこで、唐進駐軍と桓武天皇軍に敗れた蝦夷の武芸者は、自らの出自を、民衆に語るわけです。それは、今は捕虜の武芸者であるけれども、二百年ほど前では、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の武人であった、ということです。そして、平安王朝の皇族は、百済の亡命民である、と言うのです。
それに対して平安王朝は、奈良時代の亡命百済民の食うや食わずの惨状を記述した書籍・絵画を粉砕し、レビ族がヤコブ物語を創作してヨセフ族の歴史を乗っ取ったように、「538年飛鳥ヤマトに仏教を伝来させたのは、百済聖王だ。」と言う物語を創作し、「日本書紀」に挿入するのです。そして、その百済仏教は、聖徳太子という立派な聖人が、飛鳥ヤマトに七寺を建立して、布教に努めた、との物語を創作するのです。そして、その創作物語で、秦氏の祖秦河勝は、聖徳太子の忠臣であって、仏寺の広隆寺を山城国に建立した、と述べるのです。
平安時代、騎馬民族差別の種を蒔いたのが錬金術師空海だとすれば、その種を発芽させたのは最澄です。最澄が唐から持ち込んだ「法華経」には、仏罰の思想があり、その仏罰が具体的に述べられているのです。
「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節には、「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べているのです。

かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。

つまり、比叡山の天台宗は、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、と言うのです。
平安王朝は、「もののふ」の武芸者に集まる山の民や民衆を、その武芸者から隔離するために、その仏罰思想を利用するのです。
捕虜収容所にいた蝦夷や平安王朝に従わない秦氏一族は、山の民や民衆から隔離するために、中洲に集められるわけです。つまり、これが河原者の発生です。少しでも従う者は、坂地の部落に集められるのです。これが、夙(宿)の始まりです。その夙に集められた者は、寺や神社の奴隷として働かされるわけです。
その夙は、百済系の清水坂部落と、藤原氏系の奈良坂部落が中心です。そして、その清水坂と奈良坂の部落民は、平安王朝(京都)と藤原氏(奈良)との戦いに僧兵として利用されていくわけです。
そして、平安王朝は、中世のキリスト教が医療技術を持った賢女を魔女として社会的に抹殺したように、河原(中州)や坂にある蝦夷・秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせて、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝末裔を、不可触賎民として貶めていくのです。
平安時代では、仏教は、庶民を色々な苦難から救うためのものではなく、貴族社会に取り入ってお布施を集めるために、色々な儀式をおこなっていたのです。ですから、平安仏教の、不可触賎民として武芸者を貶めるバラモン思想の宣伝は、未だ庶民には届かなかったのです。その騎馬民族差別思想が庶民に広がるのは、第二百済王朝(桓武平氏末裔北条政権1203年〜1333年)での、民族差別の法華経思想に染まった鎌倉仏教の発生と同時なのです。
平安京の街の仏寺や神社で、怨霊鎮めをおこなっていた鹿・牡牛角を付けた冑・派手な鎧・妖艶な刀で武装した武芸者は、その祖は、オリエント渡来の太陽神ミトラを祀る祭祀者の流れにあるわけですから、その儀式には、太陽の化身牡牛を屠ることがあるわけです。804年に牡牛の屠殺儀式の禁止令が出されるほど、平安初期には、その本来の意味が理解されていないけれども、牡牛の屠り儀式は、頻繁におこなわれていたのです。しかし、この武芸者による牡牛を屠る儀式の霊力は、平安仏教の儀式である加持祈祷の霊力により、否定されてしまうのです。
願い事を叶えるために、太陽神に牡牛を犠牲としても、自然は自然の法則により流れているわけですから、ひとの力では、その流れをコントロールすることはできません。派手に武具で着飾った武芸者による、「武芸」による怨霊鎮めにも、ひとの力の限界があったのです。
しかし、平安仏教の加持祈祷の儀式には、その霊力らしき体感が認められるのです。薄暗い密閉された部屋で、憤怒の形相をしたインド神が変身した仏像を配し、護摩壇を設けて火を焚き、その炎の中に乾燥大麻を投入すれば、その部屋に居る貴族達の意識が変性するのは当然です。
そこで、僧侶が印を結んで、アラム語の訳の分からない呪文(主にヨシュアが唱えた、「神よ何故わたしを見捨てるのですか。」などの言葉)を低音で唱え続けると、やがて、意識が朦朧とするのは、密教の霊力ではありませんが、その大麻煙の薬理作用を知らない貴族は、幻覚により仏の霊力に恐れをなすわけです。
そのような儀式にゴマ(護摩)化された平安貴族は、平安仏教僧に加持祈祷を依頼しても、武芸者に怨霊の警護を依頼しなくなるわけです。そこで、武芸者は、河原(中洲)や神社(結界された地域で、怨霊封じの施設のため仏教信者は近づかない。)で、武芸(室町時代に始まる能の祖)を始め、そこに集まる山の民や庶民と交易(バザール・祭りの「島」の祖)をおこなうわけです。元来、ユーラシアを生活圏としていた騎馬民族は、交易民族でもあったのです。
その中州に追いやられた民の多くは、古代エジプトの高度土木建設技術により、古代エジプトの死者を葬る風習と同じに石室に石棺を収めた巨大古墳・外来船が運航できる大運河・馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を築造していた秦氏末裔ですから、淀川河口の湿地帯でも、戦国末期関東の荒川河口に移封された騎馬民族末裔徳川家康が、秦氏末裔弾左衛門配下の土木技術者と共に、ひとも住めぬ湿地帯を居住地に変えた様に、エジプト・オリエント渡来の高度土木技術で、居住地に変えてしまったのです。その淀川河口は、やがて、平安王朝に追われた秦氏(新羅系日本人)の拠点となり、後に、武家源氏発祥の地となるわけです。
そのように、逞しく生き抜く秦氏末裔に対して、平安王朝は、その営業活動拠点の神社を管理する方法を考え出すのです。それが、本地垂迹説です。つまり、神は仏の化身である、と言うのです。その思想により、武芸者が活躍していた神社は、仏寺に併合されてしまうのです。この本地垂迹思想により、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の怨霊を封じ込めていた神社が、「仏の化身の神」を祭る処へと変身するわけです。つまり、太陽神や北極星に対して犠牲(牡牛の屠り等)をおこなう祀りである「血の儀式」ではなく、穢れ祓いを行い、舞踊により人工神(ジン)を、神楽等で祭る神社は、日本列島古来の建物ではないのです。
平安王朝を支援する平安仏教(真言宗・天台宗)により、営業活動拠点の神社を追われた武芸者の一団は、街道での営業活動を始めるわけです。これが、遊芸集団の始まりとなるのです。
亡命百済王朝に虐げられていた武芸者一団に、チャンスが訪れるのです。それは、907年唐が滅びたからです。
平安王朝は、亡命百済貴族の桓武天皇が、781年「唐の儀式」により即位したことでも分かるように、唐が、律令制度の下で、裏からコントロールしていたのです。ですから、平安初期の文化は、唐文化一色だったのです。
その中国大陸での政変を知った、奈良に封じ込められていた藤原氏が、動くわけです。唐の軍事支援を求められなくなった平安王朝に、939年反旗を翻す者が、西国と東国に現れたのです。それが、西国の藤原純友で、東国が平将門です。
平安王朝は、それらの反乱に対して、もはや唐進駐軍の支援を仰ぐことが出来なかったのです。では、平安王朝には、公家桓武平氏(平氏と平家は別種。「平氏」は姓で、「平家」は姓ではない。)という武人が居たではないか、と言っても、その公家桓武平氏は、戦闘集団として訓練されていない、天皇の側に武装して侍り、武官としての秘書業務をおこなう「サムライ」だったのです。
そこで現れたのが、元蝦夷残党兵の武芸者の一団です。山奥から馳せ参じた武芸者は、実戦に長けた指導者の下で、弓馬戦術による組織的な活躍により、平安王朝打倒で決起した、西国の藤原純友と、東国の平将門の反乱軍を、941年に壊滅するのです。
このことにより、平安王朝は、武芸者を「武士」と認めるわけです。つまり、「武士」とは、この「天慶の乱」(939年〜941年)で活躍した武芸者の子孫だけが名乗れる名称なのです。この時、大活躍した武芸者は、淀川河口に住む秦氏末裔だったのです。
何故、武芸者の一団が、反乱軍を短期間に壊滅できたのでしょうか。それは、武芸者のルーツを辿れば、簡単に説明できます。
武芸者が、「天慶の乱」の功労で「武士」となった背景は、武士←武芸者(もののふ)←陸奥国蝦夷武人捕虜←第二蘇我王朝武人(新羅系天武王朝)←蘇我王朝の突厥帝国進駐軍・新羅花郎軍団、の流れにあるからです。
その突厥帝国の武人は、突厥(ローマ帝国と交易を行う)←柔然←匈奴←スキタイの騎馬民族の流れにあり、そして、新羅花郎軍団は、新羅(ギリシャ・ローマ文化国)←辰韓←大月氏←秦←バクトリア(ギリシャ文化継承国)←アレクサンドル大王領(ギリシャ文化国)、の流れにあったのです。
この軍団の流れが、356年ナムル王により、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)を興すのですが、528年中国南朝の宋に支援された仏教国百済により、ローマ軍の軍神ミトラを祀る新羅花郎軍団は、朝鮮半島から排除されたのです。
その新羅花郎軍団は、527年には北九州に侵攻し、その後、北九州に秦王国を興すのです。そして、軍備を整えた北九州の秦王国は、吉備→飛鳥ヤマトを目指すのです。その中国大陸の高度文化と同じ文化を保持する、日本列島に存在した秦王国は、608年渡来の隋使裴世清(随書では裴世)により、隋の煬帝に報告されているのです。
そして、530年突然、飛鳥ヤマトに突厥帝国の騎馬軍団が現れるのです。しかし、その騎馬民族の軍団長は、720年奈良の都で藤原氏により編纂された「日本書紀」では、蘇我稲目とされ、大和朝廷の大臣とされてしまうのです。突厥帝国軍人である蘇我氏の本名は、未だ不明なのです。つまり、漢字二文字の人名・地名は、713年以降の表記だからです。
しかし、609年隋使裴世清の煬帝へは、「都で男王アマタリシヒコに謁見した。」、と報告しているのです。しかし、その頃の飛鳥ヤマトは、「日本書紀」によれば、女帝推古天皇の統治下で、厩戸皇子(後の聖徳太子)と共に、蘇我稲目の息子・蘇我馬子が活躍していた仏教の黎明期の時代なのです。これはどちらかが、ウソをついているわけです。
武士が、941年以降の名称であることは理解できたとしても、その戦い方など実態は不明のままです。
時代劇で、武士の戦闘シーンが描写されますが、その史料の元は、第三百済王朝(1623年〜1867年・第三代将軍徳川家光から第十五代将軍徳川慶喜)で創作された武闘演劇であるのです。
江戸時代の演劇小屋の舞台は狭いため、武士の戦闘シーンは、本来の武士の武器は弓矢であったのが、武士の魂である日本刀を使った演出が、後のひとに、武士は刀を武器に、敵に立ち向かった、と誤解されていくわけです。
戦国時代、イエズス会が、日本列島を支配するために、伊勢に勢力を張っていたアラブ商人護衛軍団を祖とする平家末裔の織田信長に鉄砲を提供するまでは、戦いでの死傷者の傷の多くは、矢傷であったのです。その次が、槍傷です。刀傷での死傷者はごく少なかったのです。それは、日本刀は、折れる、曲がる、刃毀れするから、死を賭した戦いでは使用される確率が少なかったのです。
では、武士の魂の日本刀は、何のために使用したのかと言うと、それは、「武芸」において怨霊との戦いでの武器であったのです。つまり、日本刀の発生は、実戦用ではなく、武芸者(祭祀者=もののふ)の祭祀武具であったのです。
鉄器の製作には、鋳型に流す鋳造法と、鎚で叩く鍛造法とがあります。日本刀の祖は、陸奥国の蝦夷の武器である蕨手刀です。この蕨手刀を、ヒッタイトで発明された鉄器製造法の鍛造法により、刃を長くしたのが、日本刀の祖であるわけです。そして、この蕨手刀は、突厥帝国軍の武人の武器でもあったのです。それは当然です。蝦夷の出自は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝で、その祖は、突厥帝国であったからです。
この日本刀の祖である蕨手刀は、ユーラシアの騎馬民族では、身を守るためと、敵将の首を落すために使用されたのです。
騎馬民族は、輪廻転生ではなく、戦闘で死んだ勇者は死後再生される、と信じられていたのです。ですから、死者は、土穴の中に、木棺に収められ、石で覆われ、その上に土を盛り、再生するまで石積木郭墳で眠り続けるわけです。
この死者に対しての騎馬民族と大乗仏教の思想は、全く別であることからも、「日本書紀」による仏教伝来物語の虚構性が証明されるわけです。それは、死者を不浄物として燃やしてしまう大乗仏教思想を、騎馬民族の蘇我稲目も蘇我馬子も、受け入れる崇仏派であるわけは無いのです。しかし、その仏教伝来物語の二度にわたる神仏戦争では、物部氏が廃仏派で、蘇我氏は崇仏派である、と云うのです。騎馬民族の葬儀は、死者を燃やすのではなく、そのまま葬る土葬が基本であるのです。
そこで、勝者は、敵将を再生させないために、首を落すわけです。そして、その敵将の首を、棟梁に差し出すことにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。武士の妻が、落首に死化粧をするのは、立派な敵将を演出して、褒賞を多く貰うためであったのです。
中国大陸では、この騎馬民族の戦い後の落首の儀式は、農耕民族である漢族に恐れられたために、「道」の字が作られたのです。「道」とは、騎馬民族が、敵将の首を手に掲げて、敵陣に向かうことにより、敵軍団が恐れおののき後ずさりすることにより、間隙ができた処を一歩一歩前に進むことを意味しているのです。
この「道」の本来の意味が分かれば、剣道とか茶道・華道など、○○道と付くものが、「芸事」といわれることが理解できるでしょう。その「道」の付く芸事とは、人工神を祭る仏教徒ではなく、自然神を祀る騎馬民族末裔のみが携われるものなのです。芸事は、他人と勝ち負けを競うのではなく、「いかにすれば、自然と一体となり自然神の領域に至ることができるのか」、を究める神事の流れにあるのです。
では、長らく平安王朝に、蝦夷俘囚の武芸者(もののふ)として貶められていた武士が、天慶の乱で、何故、棟梁の指揮で、統率の取れた合戦ができたのでしょうか。それは、蝦夷には「掟」があったからです。その掟は、現在では、正統役座の「任侠道」にみることができます。任侠道の軸は、「忠誠」と「弱者擁護」です。この任侠道の祖は、武士道なのです。
武士道は、明治維新後に再発見されたものですが、その思想は以下のようです。

仁、上の立場であっても、おごらず下に居て慈愛にて善事をおこなう。
義、善悪の分別判断をし、善に従い悪を避ける。
礼、尊と卑を分別し謙虚に上を敬い、下を侮らない。
智、よくものごとを観察し、善悪を見抜き、策略を練ること。
信、ひとを欺かず、誠実で温厚篤実であること。

武士の祖の武芸者が、平安王朝により、賎民に落され、中洲の部落に封じ込められても、その心情が賎にならなかったのは、その「掟」があったからです。では、その「掟」はどこから伝来したのでしょうか。それは、新羅花郎軍団の「騎士道」からです。
騎士道と言うと、一般的な解釈では、1096年神聖ローマ帝国での、第一回十字軍を思い起こすひとが多くいることでしょう。しかし、それは違います。それは、キリスト教側のプロパガンダにより、騎士道の発生が、十字軍の騎士から始まった、と刷り込まれてしまった結果です。
中世ヨーロッパを支配したキリスト教は、その内部矛盾により腐敗していたのです。そのため、キリスト教は、存続の危機に面していたのです。そこで、キリスト教側は、1095年クレルモンの公会議で、内部矛盾から民衆の目を逸らすため、イスラム教徒が支配するエルサレム奪回を決議するのです。
キリスト教の神の加護を受けた十字軍は、エルサレムに至るイスラム教徒の村々を、聖書にあるように、女子供も虐殺していくのです。そのような蛮行をおこなう十字軍に対して、イスラム教徒軍は、巧みな騎馬戦術で打ち負かしてしまうのです。そして、イスラム教徒軍は、負傷した十字軍戦士の傷を手当てし、祖国に送り返していたのです。このイスラム教徒軍の騎士の行為が、騎士道であるのです。
では、イスラム教徒軍の騎士道は、何処からもたらされたのでしょうか。それは、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継国吐火羅からです。吐火羅とは、大乗仏教が発明された国際交易都市ガンダーラがあった処です。そこには、ギリシャ文化が継承されていたのです。
紀元前四世紀、ギリシャのマケドニアから興った、アレクサンドル大王領は、その版図が、東はインド、西はエジプトまで広がっていたのです。そのような大帝国を築けたのは、アレクサンドル大王の思想によるのです。それは、被征服国の文化・宗教を保護し、敗戦者に寛大に対処することにより、自軍の兵士として再雇用したからです。
古代の戦闘では、「旧約聖書」にあるように、女性は陵辱され、老人子供は虐殺され、捕虜の兵士は惨めな処刑を受けていたのです。
しかし、アレクサンドル大王は、それまでの戦争処理とは全く別の方法を考え、それを「掟」としたのです。その思想の基である、「忠誠」「弱者擁護」を核として、やがて、その騎士道精神が、各民族の軍団に受け継がれ、日本列島に伝来されていくわけです。
この騎士道精神が、十一世紀のイスラム騎士により、十字軍騎士をして、ヨーロッパにもたらされていたのです。ですから、ヨーロッパの騎士道は、イスラム騎士道より、歴史的に新しいのです。
しかし、イスラム騎士道よりも以前に、東には騎士道精神が伝播していたのです。その騎士道思想は、ギリシャ文化に憧れていたローマ帝国軍のミトラ神を祀る傭兵軍により、ギリシャ・ローマ文化国新羅に継承されていたのです。それが、花郎騎士道です。
新羅花郎軍団とは、「花」の意味が分かれば、その祖がローマ帝国軍末裔であることが分かります。その「花」とは、「ミトラ」の漢訳借字であるからです。つまり、花郎軍団とは、392年キリスト教がローマ帝国の国教となる以前の、軍神ミトラを祀るローマ帝国傭兵軍の末裔であったのです。
この新羅(秦羅)から渡来した「軍神ミトラ」は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、厩戸皇子(聖徳太子)が、忠臣秦河勝に与えた「弥勒菩薩」と改竄されてしまうのです。そして、その仏教伝来物語では、その弥勒菩薩を安置するために、603年広隆寺の前身蜂丘(岡)寺を、秦河勝が建立したことになっているのです。景教(ミトラ教)の祭祀者である秦河勝が、果たして、仏像安置のために、仏寺など建立するものなのでしょうか。
では、国宝第一号の弥勒菩薩とは、実態はどのような像であったのでしょうか。現在に残る弥勒菩薩像は、明治維新での廃仏毀釈によりボロボロになっていたものを、後に修復したもので、新羅からもたらされた当時の像のままではないのです。ですから、その像を手掛かりとして、その由来を解明することは困難です。
しかし、その仏像名から、その元の名を知ることは、それほど困難ではありません。それは、弥勒(中国)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)の流れがあるからです。弥勒とは、ミトラの変名だったのです。そして、弥勒菩薩を安置するための蜂丘寺の建立地は、秦氏の支配地の山背国で、それは秦王国であったのです。
つまり、秦氏の秦王国の渡来ルートは、山背国(〜紀元794年)←吉備←北九州(紀元527年〜)←ギリシャ・ローマ文化国新羅(紀元356年〜紀元528年)←秦(紀元前221年〜紀元前206年)←バクトリア(大月氏・紀元前250年〜紀元45年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前323年)←アッシリア帝国(紀元前722年〜紀元前612年)←イスラエル王国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230〜紀元前932年)←エジプト(紀元前十四世紀)←ヒッタイト帝国(紀元前十四世紀)、となるわけです。ヒッタイト帝国では、ミトラ神は、太陽神でもあり、そして、異民族との交易を見守る契約神でもあったのです。
その山背国の秦王国は、794年唐進駐軍と桓武天皇軍とにより乗っ取られると、淀川河口へ追いやられてしまうのです。そして、その淀川河口の地を開拓した秦氏は、そこに秦氏の部落国家(実際の国家ではなく、平安王朝とは異なる、ギリシャ都市国家と同じ、合議制による統治組織のこと。)を造るのです。その合議制による組織運営が、全国に広がる武家源氏の統治の基となるのです。
この秦氏の秦王国(合議制による都市国家)の流れは、明治維新での関東で、第十三代弾左衛門(弾左衛門は世襲名。全国の組織長による合議により選出される。)が、弾直樹と改名することにより、消滅するのです。
それまでは、江戸幕府とは異なる税制・司法により、関東の秦氏末裔の都市国家は運営されていたのです。それは、戦国末期から江戸初期にかけて、世良田部落出自の騎馬民族末裔の徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、「かわた・穢多」と賎民に貶められてイジメられていた、大阪にある秦氏末裔の部落から、その住民を、秦氏末裔の弾左衛門支配下の土木技術で開発した、エド(穢れ地→穢土→江戸)の地(秦王国最後の地)に移住させていたからです。しかし、その大坂(秦王国)から移住した秦氏末裔は、1623年百済の血が流れる第三代将軍徳川家光(第二代将軍徳川秀忠の実子ではない。明智光秀末裔お福(春日局)の子説がある。)により、江戸の地から北関東へ移住させられてしまったのです。しかし、秦氏末裔を支配する弾左衛門の役所は、浅草寺裏の新町(秦町)に留められたのです。でも、その屋敷は、堀を廻らされ、更に、仏寺に囲まれていたのです。
そのギリシャ・ローマ文化の秦王国の名残が、北関東で制作される人形に託されているのです。その人形とは、雛人形です。
騎馬民族末裔徳川家康は、関白豊臣秀吉に、1590年関東の荒川河口のひとも住めぬ湿地帯に移封されると、そこを秦氏末裔の高度土木技術で、宅地に変えてしまうのです。そして、そこに、大坂に住む秦氏末裔を移住させたのは、秦氏末裔には武具製作技術者が多く居たからです。
それは、秦氏末裔は、騎馬民族末裔であるから、牛馬の飼育は得意だったからです。その牛馬は、乗り物だけではなく、その皮や角は、武具や武器の原材料となったのです。ですから、唐が支配していた平安時代、唐は平安王朝に、牛の角を拠出するように命じていたほどです。その沢山の牛角は、遣唐使船で唐に運ばれていたのです。
その武器製造者として、関東のエドに移住させられた秦氏末裔は、三代将軍徳川家光により、エドから北関東に移封されてしまうのです。そして、その秦氏末裔が、移封された後に、今までと異なる雛人形が現れるのです。その雛人形には、武器を携えた武人が登場するのです。そして、内裏雛の「おひなさま」は、向かって右に鎮座し、その頭には、三本角の王冠があるのです。
京雛の内裏雛は、向かって右が内裏さまです。そして、おひなさまには、三本角の王冠はないのです。エドの雛人形と京の雛人形との差異は、一体何を意味しているのでしょう。
まず、座席の違いは何でしょう。唐に支配されていた平安王朝では、向かって右が高貴者が座すところです。何故、向かって右が上座かというと、騎馬民族は、出陣の時、左翼が先陣を切ったからです。
騎馬民族は、南の農耕民族と対峙すると、中央を司令部として、左翼と右翼に布陣するわけです。そのように、南面すると、日の出は、左側となります。ですから、出陣は左翼軍からなのです。そこから、左は、右よりも格上となったのです。
では、何故、エド雛は、向かって右の高座におひなさまが鎮座するのでしようか。それは、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)は、唐、高句麗、百済と異なり、女王国であったからです。
では、その女王の頭を飾る三本角の王冠は、何を意味しているのでしょうか。それは、ギリシャの王冠である、三本樹をデフォルメしたものであるのです。
第三百済王朝から、北関東に移封された武具製作者は、もはや武具を製作できなくなってしまったので、その武具製作技術を生かして、エド雛人形を製作していたのです。そして、そのエド雛人形に、騎馬民族秦王国のメッセージを込めたのです。
さて、唐が、907年に滅びることにより、平安王朝はどうなったのでしょうか。それは、武芸者から変身した武士の登場の他に、文化も変化したのです。それまでの平安文化とは、唐文化だったのです。それは当然で、平安王朝の実態は、唐のコロニーであったからです。
その変化のひとつは、新しい文字とそれによる物語の登場です。このことを、教科書歴史では、国風文化と表現しています。その新しい文字とは、かな文字のことです。
しかし、教科書歴史では、そのかな文字登場の由来を明確には述べてはいません。何故でしょう。それは、そのかな文字の由来を述べることにより、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトを知られてしまうからです。
良心的な歴史書では、かな文字は、空海により開発された、と述べているのです。しかし、それ以上のことは述べません。何故でしょう。それは、空海の出自は、佐伯部だからです。その佐伯部とは、その部名以前(713年漢字二文字表記の好字令以前)は、蝦夷と言われていたのです。つまり、空海の先祖は、蝦夷だったのです。
蝦夷とは、唐進駐軍が律令制度で支配した奈良・平安王朝による、前政権の蘇我氏末裔への蔑称です。その蝦夷とは、中国大陸で唐と死闘を巡らせた突厥帝国から渡来した民族であったのです。それが、飛鳥ヤマトを支配した蘇我王朝です。
しかし、645年唐進駐軍と中臣軍(後の藤原氏)により、蘇我王朝は壊滅し、そのオリエント渡来の飛鳥文化施設とともに、その書籍も焚書されてしまったのです。ですから、飛鳥ヤマト時代に使われていた文字を知ることはできないのです。
しかし、十九世紀末になって、モンゴル平原でオルホン碑文が発見され、それに書かれていた文字が、突厥帝国で使われていた文字であることが分かったのです。その突厥文字は、表音文字であったのです。
平安中期に登場したかな文字は、漢字の表意文字と異なり、表音文字です。突厥帝国から渡来した民族は、奈良・平安王朝により、蝦夷と言われていたのです。その蝦夷は、当然、表意文字ではなく、表音文字を使っていたはずです。そこで、その突厥帝国渡来の蝦夷が、漢字から表音文字を開発したことは、ありえることです。その根拠として、突厥文字の開発の流れは、突厥文字←ソグド文字←アラム文字(シリア文字)←フェニキア文字(アルファベット)の流れにあるからです。
907年唐が滅びたことにより、東アジアが動乱へ突入するのです。唐滅亡により、北東アジアでは、遼が周辺遊牧民族を結集させ、907年契丹を興すのです。その契丹が南下することにより、唐が支配した地は、分裂時代を迎えるのです。その唐滅亡の影響は、国際海洋交易を通じて、日本列島にも強く現れるのです。
唐が滅びた原因は多くありますが、そのひとつにイスラム帝国の興隆が考えられます。唐の経済を支えたシルクロード交易は、そのイスラム商人が支配することになってしまったのです。
それに対して、西欧の国際交易商人は、陸路ではなく、海路での交易を開発していくわけです。この海洋交易は、陸路交易と異なり、交易税を徴収するのに困難です。それは、陸路であれば交易路に関所を設ければすみますが、外来船の渡来を補足することが困難だからです。
交通税を徴収されにくい海洋交易は、アラブ(インド以西はペルシャと云われた。)から、インドを中継港として、中国大陸と頻繁におこなわれていくわけです。このことは、日本列島でも、例外ではありません。それまでは、南インドとの南海交易は、南九州の坊津を支配する藤原氏の独断状態だったのです。しかし、やがて、水銀や銀が産出する地域に隣接する伊勢湾へは、武装した護衛軍団に守られたアラブ(ペルシャ)の国際海洋交易商人が頻繁に訪れてくるわけです。
藤原氏は、唐進駐軍の勢力が衰えると、その祭祀儀式を利用した政治力(藤原の女)により、平安王朝へ食い込んでいくのです。そして、唐進駐軍が、日本列島を支配するためのシステム、701年大宝律令から始まる、律令制度を破壊していくのです。律令制度とは、簡単に述べれば、私有地をなくし、国有地にして、農奴に貸し与えて働かせて、各種の税により、合法的に「富」をむしりとるシステムのことです。そのためのトリックが、奈良時代の文武天皇(697年〜707年)から始まる、藤原氏が裏から支配する天皇制度です。
律令制度では、土地は全て天皇に属していたのです。ですから、天皇をコントロールしてしまえば、日本列島を支配したことになるのです。
藤原氏は、藤原氏を奈良に封印した桓武天皇による、その唐進駐軍が支配する、平安王朝を経済的に支える律令制度を破壊するために、荒地を開発した処を私有地として、唐進駐軍の後ろ盾が衰弱したため、軍事的に弱体化した平安王朝に認めさせるのです。その私有地が、荘園ということです。
その結果、奴隷を多く持つ藤原氏や寺社が、その奴隷を使って、荒地を開拓して荘園とするのです。しかし、当時、荒地は誰の所有物でもないため、混乱が起こるわけです。そこで、その解決に武力が使われていくのです。そこで、武士団の登場となるのです。
この荘園が発達していく日本列島の勢力図は、唐進駐軍が平安王朝を支配していた頃は、京都一極でしたが、武士団が登場した頃になると、大きく分けると三極化してくるのです。
それは、百済系日本人が支配する京都、藤原氏系日本人が支配する奈良、そして、新羅系日本人が支配する大坂です。それらは、それぞれ軍事組織の後ろ盾を持っていたのです。京都は公家桓武平氏、奈良は僧兵、そして、大坂は武家源氏の軍事集団です。
亡命百済王朝の京都を守るのは、亡命百済のツングース民族末裔です。ツングース民族の特徴は、ノッペリした顔で、髪の毛・ヒゲが薄いことです。公家桓武平氏は、武芸者末裔の武士ではなく、王族の側に武装して侍る「サムライ」です。漢語を読み書きできたため、治安業務の武闘ではなく、秘書業務が主な仕事であったのです。
藤原氏の奈良を守るのは、僧兵です。僧兵は、興福寺に集められた夙者から武力に優れた者に、中国的武器の薙刀で武装させていたのです。藤原氏(中臣族)には、南インドから渡来の軍団(後の薩摩ハヤト族)が存在していたのですが、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、810年藤原薬子の乱、そして、蝦夷末裔の武芸者(もののふ)が武士として王権から認められた、939年藤原純友の乱などで、その藤原氏の主要軍事部族は壊滅していたのです。
秦氏末裔の大坂を守るのは、武家源氏の武士集団です。何故、大坂が武家源氏発祥のひとつであるのかは、それは、嵯峨天皇の皇子が、源氏の賜姓を、814年に受け、その末裔源綱が、母方の淀川河口の秦氏の地に移り住んだことにより、その秦氏の地が源氏武士団発祥の地となったのです。
その河口に面した地は、エジプト・オリエント渡来の秦氏の地であるため、古代エジプト語の「ワタ・波の意味」から、「波の打ち寄せる地」の意味である「わたなべ・渡辺」と言われていくわけです。この源氏渡辺党は、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来民族であったので、その大坂に至る前の地、古には「秦王国」があった北九州には、同族の源氏松浦党が興るのです。この松浦党は、水軍ですが、その祖は騎馬民族であったので、その組織運営は、ギリシャ都市国家の運営法と同じ、合議制であったのです。
この大坂の地は、後の源平合戦での、1185年屋島の合戦で、唐進駐軍に支援された平安王朝軍団の侵攻を最後まで阻止していた、蝦夷軍団棟梁源義経が、渡辺津から屋島へ向けて出陣した理由は、大坂渡辺津の武家源氏と陸奥国蝦夷とは、元は飛鳥ヤマトの蘇我王朝末裔であったからです。
ですから、武士は、俘囚の末裔(蝦夷)と言われているのです。つまり、武士のヒゲが濃い理由は、ツングース族末裔の「サムライ」とは異なり、武士(もののふ)の祖は、騎馬民族突厥帝国のチュルク族末裔とギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)末裔の、毛の薄いツングース族ではなく、多毛の蝦夷(=エビのようなヒゲのある夷)であったからです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/848.html

コメント [経世済民93] 悪い時代に生きるには「あらゆる無駄を捨てる」を優先する(Darkness) 赤かぶ
15. 2015年2月01日 10:45:32 : pj0uwhl5FI
空耳板に書くべき内容かも知れないが、あちこちのスビリチュアル情報によると、未来の社会からは宗教と言うものが消えているらしい。つまり宗教こそ、無駄なものの代表格だろうな。参考になるブログをリンクします。

オーストラリアの青い空

神よさらば―豪に増える無宗教人
2012/08/09 05:00
http://melozy.blog.fc2.com/blog-entry-601.html

★2011年度のセンサス(国勢調査)によると、豪国民の22.3%、実に480万人が無宗教であることがわかった。
その率は前回2006年の18%から上昇しているが、無回答が9.4%を占める事から実態はさらに多いと見られ、地区によっては無宗教が50%以上を占める。

●当方もオーストラリアだけど、表向きには宗教をやっているように装っていても、実際には無宗教者が多いと思います。(うちもそう。)ただ、無宗教ではあっても、無神論者ではないことが重要。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/363.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK179] 辺野古 全作業中止せよ 新基地反対が沖縄の民意/衆院予算委 赤嶺議員、首相に迫る(しんぶん赤旗)/自民党国会議員だんまり gataro
07. 2015年2月01日 10:46:57 : u41ShKyHb2
しかし創価党の国交大臣の答弁には呆れる、女性の上に馬乗りになっている姿を見てどうして保護していると言えるのか、馬鹿も休み休み言え!中谷と言う防衛オタクも無責任な言い方、防衛大臣失格、無能、常に今まで自民党はこの様に沖縄をないがしろにしてきた。そして米軍の言いなり、米軍に雇われてでもいるのか、しっかり日本の国民から高い税金を貰い生活しているのに、何でアメリカの為にそこまでするのか、日本国民の為に働いていると言えるのか、二人の馬鹿な大臣と安倍馬鹿総理に聞きたい。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/119.html#c7
コメント [環境・自然・天文板5] STAP事件の真犯人―2 お金を狙った人  武田邦彦 赤かぶ
25. 2015年2月01日 10:48:25 : Wh8pR2Yt4w
>いい加減な学者なら名前貸しぐらいはしますが、研究そのものを奪って、自分で論文を書き、それを自分の成果にして、国家から予算を取ろうなどと考えるのはよほどの悪人でしかできないでしょう。

確かにいい加減な学者なら、単に名前貸しするか、これはモノになりそうだと思ったら、成果を横取りして筆頭著者になったでしょう。笹井さんも論文を通るように書き直したり追加の研究の指示をしたのだから、筆頭著者になってもよかったのに、筆頭著者をを小保方氏に譲って、かつ彼女をSTAP細胞研究の星として売り出してくれたのです。
たいへん鷹揚な研究者です。きっと笹井氏には、すでに十分な実績があり、ガツガツしなかったのでしょう。ただ、小保方氏のまさかの研究不正を見抜けず、捏造論文の片棒を担いだのが悔やまれます。
武田氏だったら、何もしない単なる名義貸しか、少しでも書いたら筆頭著者横取りだったでしょうね。
http://www.asyura2.com/13/nature5/msg/733.html#c25

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
156. 2015年2月01日 10:48:44 : GnoJ7w3aMk
>>155. 2015年2月01日 09:51:02 : RkB9NJspPU 様

泣けますね

どうしようもないあんぽんたんの日本国民が目覚めるとともに、

最初の奴らの生贄である普通のアメリカの一般市民も立ち上がってくれることを渇望します
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c156

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
05. 2015年2月01日 10:49:06 : ZA54wiREXw

これは安倍外交の失敗を物語っている。

無能な総理大臣を選んだ日本国民の責任
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c5

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
157. RKカンジャ 2015年2月01日 10:50:05 : cgTgC3L60FuLo : kxk7MnCbWU
>133

エボラ熱も、生物兵器の「在庫処分」だったのでしょうね。

ちなみに、昨日のRK講演(私は見ませんでしたが)は、題名は

101匹目のサル

でした。

私たちの仲間である「覚醒した黄色いサル」さんをもじっているのかもしれませんし、アセンション(101匹目のサル現象)を指しているのかもしれません。

そのうち、Youtubeで公開されるでしょうが、いつ削除されることか。

ゴトーさん殺害のYoutube投稿は「削除」されないのでしょうかねえ。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c157

コメント [政治・選挙・NHK179] 辺野古 全作業中止せよ 新基地反対が沖縄の民意/衆院予算委 赤嶺議員、首相に迫る(しんぶん赤旗)/自民党国会議員だんまり gataro
08. 2015年2月01日 10:51:14 : u41ShKyHb2
05,06は何故小沢氏がここで出てくるの、安倍と同じで狂っている。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/119.html#c8
コメント [経世済民93] 大塚家具、ワンマン会長のパワハラの嵐 病気や退職する社員続出、イメージ悪化で死活問題(Business Journal) 赤かぶ
01. 2015年2月01日 10:51:25 : pj0uwhl5FI
これでニトリに負けているのか。

この分野では世界的なイケアも、日本で業績を伸ばしているそうだし。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/359.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK178] 池上彰氏、「イスラム国」日本人人質事件の原因に「安倍首相のカイロ演説」がある可能性を指摘(トピックニュース) 赤かぶ
48. 2015年2月01日 10:51:31 : MwG30JCIzs
池上と言う人は工作員と同様、政権を批判はするが(そうでなければ太鼓持ちのお追従
としか世間は見ない)、世間の見方以上の政権批判はできないしやらない。

原発とか移民(インド人の移民とかで)問題で政府の広報役をやっていることでも
わかる。

ふたりの日本人が拘束され生命の危険があるのに、わざわざ危険にさらすようなことを
した。そして殺害予告に対して有効な手をうたなかった。自国民を見捨てるいつもの
日本政府のやり口だ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/800.html#c48

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(21)(武士とサムライの戦い「2」:何故、役人の縄は不浄なのか)
日本人であるから、義務教育で日本史を学習していたから、日本の歴史を理解し、日本の歴史の流れのことはおおよそ知っている、と信じているひとが多く居るようです。
しかし、学校では、「サムライ」と「武士」の発生の違いを教えてはくれません。そして、オリエント文化の飛鳥ヤマトの史実も教えてはくれません。その代わり、歴史的にその実在性を証明できない、「聖徳太子」のことは、詳しく教えてくれるのです。それに伴い、「ぶつきょうでんらいごみや(538)さん」の呪文と同時に、飛鳥ヤマトは百済仏教文化発祥の地と、虚構の歴史を教えてくれるのです。
更に、1180年源頼朝の挙兵に始まる、源平合戦を、「源氏」対「平氏」の戦い、と教えているのです。史実は、源氏武士団を統率する源頼朝を傀儡とした桓武平氏末裔の北条氏と平家武士団との戦争が、源平合戦であったのです。つまり、源平合戦とは、「平氏+源氏」対「平家」であったのです。
その戦いで、源氏は白旗で、平家は赤旗を印としたのです。当然、平氏は白旗を印として闘っていたのです。ある歴史書では、平氏は赤旗を印として闘った、とあるほど、源平合戦の歴史は、作為的に歴史書で語られているのです。それは何故でしょう。
源氏の白旗は、源氏の祖は、突厥帝国軍とギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)の花郎軍団で、花郎軍団の軍神は、太陽神ミトラであったので、太陽のシンボルである「白」が、源氏武士団の印となったのです。
平家の赤旗は、古代海洋民族フェニキアの流れを汲む民族であったので、古代フェニキア商人はインドのベンガル地方と国際交易をしていたため、そのベンガラ染め(酸化鉄の染料)の赤衣を着用していたことから、平家は「赤」を平家武士団の印としていたのです。
では、平氏は、何色を印としていたのかは、不明です。平氏は、1185年源氏武士団に壊滅された平家の神を祀る厳島神社を、源頼朝の妻北条政子(尼将軍)が乗っ取ると、平家の歴史を簒奪して、それ以降、平氏は、赤旗を印とするのです。
平安時代の日本列島に、古代フェニキア商人の末裔やインド商人が渡来していたことを信じられないひとも多く居ることでしょう。それは、明治新政府による日本史教育の成果です。明治新政府は、古代エジプトやオリエントから渡来した民族による、国際的な日本史の実態を隠蔽するために、歴史を世界史と日本史とに分化させ、児童に「コップの中の日本史」を刷り込んだのです。
国際的技術の例のひとつとして、四世紀から出現する巨大古墳があります。その古墳には、古代エジプトの埋葬思想と同じに、石室と石棺があるのです。そして、その石棺の内寸は、古代エジプトの計測単位のキュビットで割り切れるのです。そして、相似形の古墳を岩手県以南に多く築造するには、紀元前300年エジプト王国で活躍した数学者ユークリッドの幾何学を知らなくてはできないのです。
インドから、飛鳥時代に藤原氏の祖中臣族が渡来したように、平安時代にも多くの民族が渡来していたのです。その根拠のひとつとして、四国の金毘羅様があります。この金毘羅様の祖は、インドのガンジス河の神・クビーラで、ワニのことなのです。このクビーラのワニ神は、海洋民族の神で、インドから海洋民族と供に四国に渡来していたのです。
海洋民族の残像は、祭りの山車に現れます。山車の祖は、船です。海洋民族は、祭りで船を引き回していたのです。それが、やがて車の上に屋台を乗せる「山車」となったのです。祭りで、山車が出る地域には、海洋民族末裔が多く住んでいたのです。その祭りでは、「赤色」が多く使われるのは、古代フェニキアのDNAが引き継がれているからです。
このインドから渡来の民族と供に渡来した思想により、江戸時代の第三百済王朝で、「役人の縄が不浄」となってしまうのです。その物語をこれから述べることにしましょう。
教科書歴史は実によく出来ていて、素直に呼んでいくと、日本列島史は、神代の国から九州に降臨した子孫が、四世紀の飛鳥ヤマトに大和朝廷を拓いて、そこを統治した天皇家が、万世一系で、単一民族の大和民族である農耕民族を統治して、今日まで続いている、と解釈できるのです。
そして、日本古来の神道が、538年伝来の仏教に、一時支配された後、再び、奈良時代に春日社を創建し復興したが、平安時代、再び、仏教側の本地垂迹説で仏教に取り込まれるが、二十年ごとに改築してきた天皇家を祀る伊勢神宮の神が、明治維新で復活して、今日に至る、と述べているのです。
しかし、その教科書歴史物語では、ユーラシアから渡来の騎馬民族の歴史がスッポリと抜けているのです。何故、騎馬民族の歴史が抜けているのかの理由のひとつには、自然の下に暮す騎馬民族には、遊牧生活のため土地に縛られることが無いために、先住民の土地を簒奪するために先住民の歴史を改竄し、そして、その歴史を簒奪する思想がないからです。しかし、理由はそれだけではありません。史実は、飛鳥ヤマトを統一し、「倭」から「日本」に改名したのは、チュルク(突厥)の騎馬民族に支えられた新羅系天武天皇であったからです。そして、日本初の天皇は、神武天皇ではなく、その天武天皇であったからです。つまり、騎馬民族の王国が、飛鳥ヤマトであったのです。この史実を抹殺するために、藤原氏や桓武天皇家により、色々な書物が創作されていたのです。
騎馬民族が基本的には歴史書をもたないことを良いことに、奈良時代に、南インドから渡来した中臣族末裔の藤原氏は、「日本書紀」「風土記」を編纂して、飛鳥時代の先住民の歴史を抹殺、または、改竄してしまうのです。
そして、平安時代、亡命百済貴族末裔の桓武天皇家は、藤原氏の「日本書紀」を改竄し、「続日本紀」「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を日本国の皇室の祖とし、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝と同盟関係にあった、ギリシャ・ローマ文化国新羅の古代新羅語(漢字を使った表音文字)で読まれた「万葉歌」を、菅原道真にニッポン万葉語に改竄させて「万葉集」としていたのです。
つまり、ニッポン万葉語は、飛鳥・奈良時代ではなく、平安時代に完成したのです。このことにより、「古事記」は、712年完成ではなく、平安時代の812年であることが分かるのです。それは、「古事記」は、完璧なニッポン万葉語で記述されているからです。そして、その「古事記」を著したのは、「日本書紀」の講義を生業としていた、秦氏末裔多人長は、平安時代の万葉語学者であったのです。
そのような、藤原氏や桓武天皇家により、創作・改竄された、「日本書紀」「風土記」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」を史料として、真の古代日本史を解明しようとしても、それは困難なことでしょう。それらの史料書籍には、先住民の騎馬民族の歴史が抹殺されているか、改竄されているからです。
日本列島史が、万世一系ではないことは、その朝廷の儀式の劇的変化により証明できます。それは、奈良時代までは、朝廷の儀式では、神は犠牲により祀られていたのです。犠牲とは、牛の屠殺です。つまり、奈良時代までは、「血の祭祀」により、神は祀られていたのです。
しかし、平安時代になると、804年牛の屠殺禁止を発令し、朝廷の儀式は、歌謡と舞により、神は祭られていくのです。そして、「血の祭祀」に代わり、空海が発明した真言密教のダキニの呪文と「火の祭祀・護摩」とにより桓武天皇家の神は、江戸末期まで祭られていくのです。
そして、奈良時代まで「血の祭祀」により、天武天皇家により祀られていた「伊勢の社」(後に藤原氏により伊勢神宮とされた。元は道教の観)は、平安時代になると、伊勢神宮の本地は、昆盧遮那仏となってしまうのです。
つまり、平安時代から江戸末期まで、伊勢神宮では、神道の神などではなく、仏教の仏を祭っていたのです。そのことにより、何故、伊勢神宮には、内宮と外宮が存在し、その仲がよくない理由が分かります。
では、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代には消滅してしまったのでしょうか。そうではありません。その儀式は、今日まで細々と続いているのです。それは、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、野獣の総称です。平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽しているのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリアに至るのです。そのバクトリアでの唐草模様は、秦国を経て中国の呉国から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅を経由して、九州筑紫に上陸するわけです。このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、古に秦王国があった地域だったのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
では、その唐草模様のある獅子舞は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。
平安時代に突然現れた獅子舞(平安王朝から野獣踊りと言われた。)は、河原者によりおこなわれていたのです。その河原者の祖は、奈良時代の祭祀者です。平安王朝に、秦氏の支配地の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その獅子舞の祖とは、神を祀る神楽であったのです。奈良時代では、神への芸は、伎楽と言われていたのです。伎楽とは、野外で仮面をつけて、歌謡や音楽に合わせて舞う芸であったのです。
この伎楽は、平安時代になると、俗楽と言われ、平安王朝は南方から渡来した舞を、平安朝廷の儀式で舞ったのです。その舞を、北方から渡来の俗楽である伎楽に対して、上品な音楽と言う意味で、雅楽と言ったのです。このふたつの舞の異なる背景により、「血の儀式」の奈良王朝と、「火の儀式」の平安王朝との民族の違いが理解できます。
では、奈良時代までおこなわれていた、仮面を付けて舞う、伎楽はどこから渡来したのでしょうか。それは、古代ギリシャからです。
752年天武王朝系聖武天皇が、奈良の都の支配を企む藤原氏と戦うための戦略として建立した、東大寺大仏開眼供養では、ギリシャ面・ペルシャ面を付け、雅楽ではなく、伎楽をおこなっていたのです。そして、そこに、宇佐八幡から来た信徒が神輿を担いだことは、奈良の都は、未だ、藤原氏が支配する奈良の仏教組織が独占支配してはいなかった証拠です。
何故ならば、平安時代になると、奈良時代まで祭祀場で伎楽をおこなっていた祭祀者末裔は、平安王朝から、「七道の者」と差別されていくのです。
「七道」とは、仏教用語から派生した差別言葉です。仏教用語には、他民族や他宗教に対しての差別用語が沢山あるのです。大乗仏教が、他宗教に寛容になるのは、戦国時代に、仏教僧を欺瞞者と決め付ける織田信長により、仏教軍団が壊滅された後からです。
大乗仏教では、世界を六種類に分けているのです。輪廻転生のカルマで、庶民を脅すために、死後、生前の行いにより、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、そして、天道のいずれかに転生し、それを繰り返す、と説くのです。その六道輪廻から外れた者を、「七道の者」と差別するのです。この思想の元は、インドのバラモン僧が発明した四姓のカースト制度で、「七道の者」とは、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)のことなのです。
ですから、「七道の者」と仏教徒から差別された「伎楽」が、仏教と供に、シルクロードにより渡来した、と説明する教科書歴史には、疑問符がつくのです。
では、獅子舞の祖である伎楽は、どのようなルートで渡来したのでしょうか。そのヒントは、獅子頭が牛頭であることです。太陽神を祀るために牛を屠る、聖牛神儀式の流れは、ミトラ神信仰(古代オリエントの聖牛神儀式)→バール神信仰(古代イスラエルの聖牛神儀式)→蘇民信仰(ギリシャ・ローマ文化国新羅・秦羅)→牛頭信仰(飛鳥ヤマト)→伎楽(奈良時代)→野獣踊り・牛頭天皇(平安時代)→獅子舞(平安時代)、となるわけです。
その獅子舞には、映画の「鞍馬天狗」に登場する角兵衛獅子での舞子が鼓(つづみ)を腹に付けているように、獅子舞は鼓のリズムに合わせて舞うのです。その鼓の渡来ルートも、唐草模様・伎楽と同じルートで、日本列島に渡来しているのです。奈良の正倉院には、反藤原氏の聖武天皇の遺品が保存されています。そのひとつに、くれの鼓があります。その鼓は、角兵衛獅子での鼓と酷似しています。そのくれの鼓は、パミール高原のカフィール・カラーシュ族が使用していた物です。そのカフィール・カラーシュ族とは、アレクサンダー大王が東征の際での、ギリシャ屯田兵の末裔であったのです。そして、そのパミール高原は、ギリシャ文化継承国バクトリアの支配下にあった地域であったのです。
では、平安王朝は、何故、奈良時代の「血の儀式」から「火の儀式」に朝廷儀式を替えたのでしょうか。それは、平安王朝を実効支配する唐の意向があったからです。
唐は、北東アジアを支配していた、騎馬民族国東突厥帝国を、744年壊滅させると、日本列島に残存する、突厥帝国が支援した蘇我王朝残存軍の壊滅を目指したのです。そのために、蘇我王朝残存軍の食料と武器原料の枯渇を画策したのです。
食料の供給停止は、銭の流通廃止により、成功するのです。それは、騎馬民族は、自ら農耕せず、農耕民との銭による交易により、調達していたからです。
では、武器原料の供給停止は、どのような策をおこなったのでしょうか。
実は、牛馬は、それ自体が強力な武器であったのと、死しても、それは、武器の材料となったのです。動物の皮は、そのままにしておけば、その皮は、腐敗分解して土に戻ります。しかし、アンモニアと塩と大量の水により晒すと、その皮は、硬く板状になり、腐敗はしないのです。そのように鞣された「かわ」は、動物の「かわ」から「あらたまる」物に変化したため、革命の「革」の字で表わされたのです。因みに、毛の付いている「かわ」は、「皮」の字で表わされたのです。
それほど鞣された「かわ」は、古代では貴重品でもあり、武器の材料としてはハイテクであったのです。その革の生産手段のハイテク技術を持つ騎馬民族は、唐進駐軍にとっては軍事的脅威であり、壊滅すべき敵であったのです。そこで利用されるのが、「殺生禁止」の大乗仏教思想であるのです。
唐に軍事的支援された平安王朝は、藤原氏が支配する南都仏教を封じるため、インド渡来の大乗仏教で法華経を奉ずる天台宗を、秦氏が支配していた比叡山に持ち込むのです。そして、805年八ヶ月の唐留学僧最澄により、日本天台宗を創めるのです。そして、藤原氏により唐に送り込まれた錬金術師空海は、806年真言宗を創めるのです。
この日本天台宗と真言宗とにより、唐から持ち込まれた平安仏教思想が、後に、騎馬民族末裔を賎民として貶めていくのです。
この平安仏教は、江戸末期の大坂の商人富永仲基が述べていたように、紀元前566年(一説では紀元前463年)に北インドに生まれ、仏の道を説いた釈尊の教えとは、百八十度も異なる思想であるのです。
釈尊とは、釈迦牟尼世尊の略で、釈迦とは部族名で、牟尼とはサンスクリット語のムニの音写で「聖者」の意味で、世尊とは「釈迦の尊称」です。つまり、釈迦牟尼世尊とは、「シャカ族の聖者様」ということです。その釈尊の本名は、ゴータマ・シッダールタです。では、ブッダとは何かと言えば、それは「覚醒した者」と言う意味です。
紀元一世紀、ギリシャ文化を継承したバクトリアの後継地、国際都市ガンダーラで、ギリシャ風巻き毛のガリガリに痩せた仏像のブッダとは、釈迦牟尼世尊ではないのです。それは、釈迦牟尼世尊は、瞑想により悟りを得て、ブッダ(覚醒した者)になりましたが、ブッダ=釈迦牟尼世尊ではないからです。この世に、ブッダ(覚醒した者)は、七人存在した、といわれているのです。ブッダ=釈迦牟尼世尊とするならば、この世に七人も釈迦牟尼世尊が存在したことになってしまいます。
その釈尊は、バラモン教が発明した四姓のカースト制度思想のカルマから逃れるために、出家して非人となり、一切の経済活動から離れ、乞食し、非人として生を全うすることにより、そのバラモン教のカルマから逃れられる、と説いたのです。その教えには、殺生禁止、肉食禁止、血の禁忌などはなかったのです。それは当たり前です。非人とは、人間ではないからです。この世とあの世との間に暮すひとが、非人であるからです。
しかし、錬金術師空海が発明した日本密教は、その思想の基は、あの釈尊が否定した、バラモン教・ヒンズー教思想であったのです。その結果として、日本列島で始めて、「施陀羅」の差別語が登場するのです。施陀羅とは、バラモン教のカースト制度に属さない、アウトカーストの不可触賎民チャンダラーの漢語化です。
その空海は、藤原氏の「藤原の女」を使う謀略により、嵯峨天皇に接近し、そして、834年仁明天皇の御衣に加持祈祷したことにより、空海が発明した密教儀式が、桓武天皇家の儀式となり、江戸末期の孝明天皇まで続いていたのです。つまり、平安時代から江戸末期まで、桓武天皇家では、藤原氏の発明した中臣神道ではなく、バラモン思想を基に発明されたダキニ(インドの鬼女神)の呪文と、ゾロアスター教から租借した、拝火の護摩儀式により、祀られていたのです。
平安時代に、この空海が蒔いた騎馬民族差別思想の「施陀羅」の種が、第一百済王朝(平安時代794年〜1185年)で育てられ、第二百済王朝(鎌倉時代・北条政権1203年〜1333年)では、「施陀羅」から「穢多」に民族差別がバージョンアップされ、そして、第三百済王朝(江戸時代三代将軍徳川家光政権1623年〜十五代徳川慶喜1867年)で、第三百済王朝の手先となって生き延びる葬式仏教思想により、穢多身分はアウトカーストの賎民となってしまったのです。つまり、インドのバラモン教が、遊牧民族トラヴィダを賎民として差別するために発明したカースト制度そのままに、「士農工商、穢多非人」の制度となっていくわけです。
では、第一百済王朝で、空海が唐から日本列島に持ち込んだ、インドの遊牧民族を差別する施陀羅思想は、どのようにして育てられていったのでしょうか。
唐進駐軍と中臣軍とにより、645年飛鳥ヤマトの騎馬民族国の蘇我王朝が壊滅されると、唐進駐軍は、中臣族を籐氏(後に藤原氏となる。)とした傀儡政権を樹立して、694年藤原京遷都、710年平城京遷都、そして、藤原氏に替えて、亡命百済貴族末裔(桓武天皇)を傀儡として、794年平安京遷都とし、飛鳥ヤマトから近畿地域全域を制圧していくのです。
蘇我王朝は、騎馬民族国家であったので、当然仏教思想は受け入れられません。その受け入れられない理由のひとつに、死者の埋葬があります。騎馬民族では、勇敢に戦った死者は、再生すると信じられていたからです。ですから、死者は、木棺に収められ、「土葬」され、再生するまで永い眠りにつくのです。
しかし、大乗仏教思想では、死者は穢れで、死者は火により浄物(成仏)となるのです。ですから、大乗仏教思想が広まった平安時代では、死期寸前のひとは、息があるうちに家から外に放り出されてしまうのです。それは、死者となったら、それは「穢れ物」であり、その屋敷が穢れてしまう、と信じられていたからです。大乗仏教思想が、騎馬民族が動物の皮を剥ぐことを悪と言うのならば、息のある末期のひとを家屋から外に放り出してしまうことはどのように理解したらよいのでしょうか。
そのようなことからも、飛鳥ヤマトでは、仏教が盛んであったはずはないのです。では、どのような宗教が信じられていたのでしょうか。それは、北極星(太一)を祀る道教と、太陽を祀る景教です。つまり、飛鳥ヤマトでは、加持祈祷ではなく、犠牲(牡牛の屠り)により神を祀っていたのです。
神を祀るには、その民族が最も大切にしているモノが、犠牲となるのです。騎馬民族にとって、それらは牛馬であったのです。そして、それらの儀式で屠られた犠牲は、肉は食料となり、皮は鞣されて「革」となり、武器の素材となったわけです。平安仏教思想が広まるまでは、ミトラ教(景教)の牡牛の屠り儀式の意味が理解できなくなっても、旱魃で雨を降らせるために、牛の屠り儀式は、多くおこなわれていたのです。ですから、平安王朝は、何度も発令して、牛の屠殺を禁じていたのです。
その牡牛を犠牲にする儀式には、当然祭祀者がいるわけです。その祭祀者は、神を祀るために色々な芸を、祭祀場でおこなっていたのです。しかし、それらの犠牲儀式の芸をおこなう祭祀者は、唐進駐軍により、祭祀場から追放されてしまうのです。そして、その祭祀場は、徹底的に破壊され、その跡に、仏寺や神社を建立して、前政権の宗教施設を抹殺していくわけです。そのひとつの例が、秦氏が支配していた山背国(秦王国)の蜂丘(岡)寺が、平安時代に、仏寺広隆寺と変身して、そして、景教の祭祀者の秦河勝が、仏教布教を目指す「聖徳太子」の忠臣として描かれてしまうのです。そのことにより、後の多くのひとは、平安京には、飛鳥時代から、仏寺の広隆寺があった、と錯覚してしまうのです。
794年唐進駐軍により、近畿全域が制圧されたため、前支配者の蘇我王朝残党軍は、北の陸奥国を目指して落ち延びていくわけです。しかし、蘇我王朝での祭祀氏族達は、北に逃亡する術をもっていなかったのです。そこで、祭祀氏族は、王権により我等が神を封印されている神社に集まり、そこで、犠牲の儀式を平安王朝に封じられたため、舞踏と歌謡による「芸」をおこなうわけです。
その神社とは、負け組みの蘇我王朝側祭祀者には、聖域でも、勝ち組の平安王朝にとっては、怨霊が彷徨う、穢れ地であったのです。ですから、その穢れ地を囲うため、結界の印として、鳥居をたてるわけです。その鳥居以内は、穢れ地の異界というわけです。
この平安王朝に禁じられた牡牛を屠る儀式は、日本列島古来のものではないことは、「魏志倭人伝」によれば、倭国には、牛馬がいないと述べていることからでも理解できます。と言うことは、牛馬が日本列島に現れるのは、三世紀以降で、それは、古墳時代前期と考えられます。
日本列島(岩手県以南)全土に、三世紀後半から突然出現し、四世紀から五世紀にかけて巨大化する古墳については、「日本書紀」をはじめ、他の史料にも、その古墳の歴史の記述が乏しいのは何故でしょうか。それは、古代の歴史書を綴った民族と異なる埋葬思想を持った民族により、それらの古墳が築造されたからです。
そこで、簒奪王権は、その古代エジプト埋葬思想を持つ民族の渡来を隠蔽するために、巨大古墳は、天皇の墓であるとのトリックを考えだすわけです。しかし、少し考えてみれば、そのトリックの舞台裏はすぐ暴かれてしまうのです。それは、平安時代から江戸時代まで続く桓武天皇家では、死者は、真言密教で祀られていたからです。
奈良盆地にあった巨大古墳を破壊して築造された平城京で、藤原氏により発明された中臣神道、平安時代の錬金術師空海が発明した真言密教では、死者は穢れ物なのです。穢れ物(死者)は、火により燃やされて、穢れ祓いをされてしまうのです。それでは、古墳の石棺の存在意味が説明できません。古墳は、「死者は蘇る」、と信ずる民族の宗教施設であるわけですから。
石室・石棺を持つ古墳築造の埋葬思想の源は、古代エジプトです。その古代エジプトでは、短期間ではありますが、急激な宗教改革があったのです。その紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革とは、アメンホテプ四世(=イクナトン・紀元前1377年〜紀元前1358年)により、多神教から一神教に、神が変身してしまったのです。
その神は、ヒッタイト帝国では、契約の神・太陽神ミトラと言われていたのです。しかし、ミトラ教の神は、三神で、日の出の太陽、天中の太陽、そして、日没の太陽であったのです。その三神のミトラ教から、唯一神・太陽神アトン(アテン)が、アメンホテプ四世により発明されるわけです。その頃のエジプトでは、占星術では牡牛座の時代だったので、太陽神アトンの化身は、牡牛となったのです。
この唯一神アトンは、ヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔により、カナンの地で、太陽神バールと変身してしまうのです。この太陽神バールを信じる十部族の民族は、アッシリア帝国に滅ぼされ、その太陽神バールは、元のオリエントのミトラ神にもどってしまうのです。
その太陽神ミトラは、12月25日の冬至に死を迎え、そして、その日に復活するのです。太陽神ミトラは、死と再生を永遠に繰り替えすことにより、死と隣り合わせの武人の神として、軍神ミトラとして変身していくわけです。このことにより、軍神ミトラは、各民族・部族により構成された傭兵軍団と供に、世界に布教されていくわけです。そして、ギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団により、日本列島に渡来するわけです。
やがて、ミトラ教の祭祀者は、冬至を待たずに、太陽神ミトラに願う儀式を発明するわけです。それが、人工的に再生日を創る、太陽の化身牡牛の屠り儀式です。その儀式では、牡牛は屠りの儀式で死を迎えることにより、太陽神ミトラは再生し、願いを叶えてくれるわけです。そして、その生血と生肉を食べることで、太陽神を体内に取り入れることにより、その儀式参加者は太陽神と一体になれるわけです。
紀元一世紀以降には、このミトラ教の儀式思想は、ユダヤ・キリスト教儀式に取り入れられ、12月25日がクリスマスとなり、生血と生肉が、赤ブドウ酒とタネナシバンとなるわけです。このことを、「新約聖書」では、最後の晩餐でキリストの言葉として、「これは私の血であり肉である。」と弟子に述べ、そして、キリストは、「私の血を飲み肉をたべなさい。」、と言ったと述べているのです。この最後の晩餐でのキリストの言葉を、「私」を「牡牛」に替えれば、それは、ミトラ教の屠りの儀式となるわけです。そして、三神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教では父と子と精霊の三位一体思想に変身してしまうわけです。
太陽神のミトラ教思想は、ユダヤ・キリスト教だけが取り入れただけではありません。その宗教組織の成立・教祖誕生奇跡物語・福音書物語と仏教経典が、ユダヤ・キリスト教ソックリの大乗仏教にも、ミトラ教の思想が取り入れられているのです。
ミトラ神が変身した菩薩が、大乗仏教にもいるのです。それらは、弥勒菩薩・大日如来・阿弥陀様です。弥勒菩薩は、弥勒菩薩←マイトレーヤ←ミトラ神の流れです。大日如来は、大日如来←ビ・ルシャナ仏←遍照鬼←ビロー・チャナ←ミトラ神の流れです。そして、阿弥陀様は、阿弥陀様←エジプトのアミ様←唯一神・太陽神アトン←ミトラ神の流れです。
阿弥陀様は、鎌倉仏教僧が、反平安仏教の騎馬民族末裔を入信させるために持ち出し、そして、広めた仏様(?)です。その阿弥陀思想が、仏教オリジナル思想として捻じ曲げられて布教されたため、平安仏教思想により不可触賎民(施陀羅→穢多)として貶められた騎馬民族末裔は、仏教軍団に取り込まれる結果となってしまうのです。
その阿弥陀様を祭る宗教組織では、「南無阿弥陀仏」と呪文を唱えるのです。仏教であるならば、当然「仏様」を祭らなければならないのに、何故、「南無阿弥陀仏」なのでしょうか。
「南無阿弥陀仏」とは、その原語は、「ナーモ・アーミ・ダーボー」で、その意味は、「阿弥陀様に帰依します。」です。では、その阿弥陀様とは、仏様なのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様とは、古代エジプトのアミ様(太陽神アトン)であったのです。と言うことは、古代エジプトのアミ様を祭る宗教は、仏教ではない、と言うことです。ですから、反平安仏教の騎馬民族末裔は、その古代エジプトの神様であった阿弥陀様を祭る宗教組織に入信してしまったわけです。
ここに、藤原氏による、破戒僧親鸞をしての、武術に長ける騎馬民族末裔を、藤原氏が支配する浄土教軍団に取り込むトリックが明かされるのです。そして、戦国時代末期には、この浄土教軍団は、秦氏の支配地であった大坂(古の秦王国)の経済的支配を望むイエズス会傀儡軍団の織田信長と、十年に渡り対戦することになるのです。
皮肉なことに、この阿弥陀様を祭る宗教組織で語られる「太陽の教え」により、平安仏教組織に抹殺されてしまったミトラ教(景教)の、「民族平等思想」が明かされるのです。その太陽を祀るミトラ教の平等思想とは、

太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は誰にでも平等に分け隔てなく頂くことができます。その熱と光は無償で頂くことができるのです。太陽はご自分の身を持って私達人間に対し慈悲と愛を教えてくださいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践をおこなわなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことができるのです。

飛鳥時代から始まる、騎馬民族国家・飛鳥ヤマトでは、「太陽の教え」の平等思想により、多くの渡来異民族が、ミトラ教の祭祀者と供に暮していたのです。ですから、飛鳥ヤマトは、オリエント文化に溢れていたのです。その地の祭祀者は、困りごとが起きると、古代エジプトから伝承された儀式で牡牛を屠り、太陽神ミトラに願っていたのです。その宗教施設のひとつが、巨大古墳であったのです。
645年以降、仏教思想を掲げる唐進駐軍は、その宗教施設と供に、そのミトラ教思想を抹殺、そして、隠蔽するために、色々な工作をおこなっていくのです。そのひとつが、平安仏教です。そして、飛鳥ヤマトでのミトラ教(景教)や道教を歴史的に隠蔽するために、「聖徳太子」なる人物を発明するわけです。
その「聖徳太子」の活躍により、蘇我氏が補助して百済仏教を飛鳥ヤマトで広めたとする物語を創作するわけです。そして、実際は突厥帝国軍の軍人であるのを、百済出自の蘇我氏とし、その名前に、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けて、史実としては日本列島に天皇が現れたのが672年天武天皇からであるのに、蘇我馬子を架空の崇峻天皇暗殺者の大悪人に仕立て上げるのです。
その飛鳥時代でおこなわれた「聖徳太子」の事跡を、「蘇我馬子」に替えてみると、史実に近い飛鳥ヤマトの歴史が現れてくることでしょう。その根拠は、「蘇我氏」が支配する飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽するために、ヨセフ族直系のイスラエル民族の歴史を乗っ取るために、ヤコブ物語を創作して、そのヨセフ物語の前にそのヤコブ物語を挿入した、レビ族末裔のユダヤ民族による歴史改竄手法を真似て、百済仏教伝来物語を飛鳥ヤマト時代に挿入するために、「聖徳太子」は平安時代に発明された人物であるからです。
平安仏教の、騎馬民族の宗教を破壊するための武器は、空海が唐から持ち込んだ、施陀羅の差別思想と、そして、最澄が布教する「法華経」による、仏敵に対する仏罰である、仏罰者=ハンセン氏病者のキャンペーンです。
この平安仏教の攻撃により、祭祀場を、穢れ地の神社境内→中州の河原→路上へと追われた蘇我王朝での祭祀者は、「七道の者」として貶められ、そして、そのひとも住めぬ居住地を部落として、ハンセン氏病者の世話をさせられてしまうのです。その平安仏教の戦略は、騎馬民族末裔=ハンセン氏病者=仏罰者=穢れびと、として、騎馬民族末裔を不可触賎民施陀羅としてしまうのです。
そのような唐進駐軍を後ろ盾にした平安王朝は、前政権の祭祀氏族を賎民に落とし込めていくわけですが、そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏が、本国唐の隣国吐蕃軍の侵攻や、北方のウイグル軍団の南下により、唐国内の治安が乱れたことにより、日本国経営が手薄になっていたのに乗じて、天皇の地位から外れた百済王朝二代目の平城上皇を藤原薬子がコントロールすることにより、百済王朝三代目嵯峨天皇の政治が乱れてしまうわけです。
810年の藤原薬子の乱により、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁アテルイを騙して惨殺したことにより、陸奥国蝦夷を胆沢城以北に追いやって一息ついていた嵯峨天皇は、二つの敵と戦う破目になってしまうのです。
そのひとつは、九州坊津でアラブ・インドとの南海密貿易で富を蓄え、奈良の南都仏教を支配している藤原氏です。そして、もうひとつは、ダビデの王権を、正統な後継者ではないソロモンが不正な手段で奪い、そして、義兄弟や姻戚を謀殺したと同じように、百済王朝初代の桓武天皇(桓武天皇の父光仁天皇は、藤原氏の傀儡天皇)が謀殺した、新羅系天武天皇の最後の血を引く井上皇后・他部皇子母子と、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊です。
平安王朝は、その出だしから地震・雷、そして、不審火により平安京は祟られていたのです。それは、桓武天皇に対する祟りであると、信じられていたのです。その祟りが恐れられていたのは、約50年前の奈良の都での祟りが、未だ鮮明にひとびとの記憶に残っていたからです。
752年に東大寺大仏供養がおこなわれた後、奈良の平城京では、奇妙な病が多発したのです。それは、実際は、大仏鋳造時での、銅の精錬による銅毒と、水銀アマルガム法の金メッキでの水銀毒とによる鉱毒中毒による、中枢神経麻痺であったのですが、当時では医学知識が乏しかったため、それらの鉱毒中毒は、平城京を建設するために、前政権の宗教施設であった巨大古墳を破壊したことによる祟りと、信じられていたのです。
そこで、嵯峨天皇は、前政権末裔による、御霊鎮めを、陸奥国から連行してきた蝦夷武人におこなわせるわけです。怨霊は、その臣下の者だけが鎮めることができる、と信じられていたからです。そして、その陸奥国の蝦夷武人とは、その元は、前政権の蘇我王朝を支えた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団であったからです。そして、ここに、王権により神社から追われた祭祀氏族と蘇我王朝軍団末裔とが再会するのです。
嵯峨天皇は、藤原氏の謀略の対策として、810年皇族を守るために蔵人所を設置するのです。そして、都の治安維持のために、816年検非違使を組織するのです。この検非違使は、云わば、治安警察組織です。そして、その検非違使の配下として、陸奥国から捕虜として連行してきた蝦夷武人を、公安警察としての怨霊鎮めの業務者として使うのです。
怨霊は、眼には見えないけれども、色々な現象を引き起こす、と信じられていたため、その公安警察業務は、天皇直轄の組織となっていたのです。ですから、天皇が行幸する時には、怨霊からの攻撃をかわし、そして、防ぐために、「キヨメ」として怨霊対戦用武具を開発するわけです。それが、鹿角を付けた冑、総革製の鎧、そして、突厥帝国軍の軍刀・蕨手刀の刃を引き伸ばした、片刃の反りのある「日本刀」であるわけです。
「キヨメ」とは、儀式用武具で武装した武芸者による、怨霊からの祟りを鎮めるための儀式であったのです。しかし、平安時代では、天皇を怨霊の祟りから護るための「キヨメ」が、鎌倉時代の第二百済王朝の北条政権下では、汚いものを清掃する業務とされ、「キヨメ」は賎民による汚物処理業務とされてしまうのです。
この怨霊鎮めのための、実戦には適さない、総革製の武具と、折れる、曲がる、刃毀れする刀で武装する武人が、後に、武芸者が、平安王朝の転覆を狙う平将門や藤原純友などの反乱軍を壊滅したため、王権より「実戦の武人」として認められることにより、「武士」となり、その怨霊鎮めの儀式のための衣装が後に、日本武士の正装となっていくわけです。
つまり、世界的に武具は実用品であるのと異なり、美術品のように美しい、きらびやかな鎧・角のある兜・反りのある片刃の日本刀で武装する、神を祀る武芸者から変身した日本武士の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配したギリシャ・ローマ文化国新羅の花郎軍団と突厥帝国の武人であったのです。
ですから、日本武士道と、ローマ騎士道とには、「忠誠心」「弱者擁護」の他に、その戦い方の儀式、名乗りを上げての一騎打ち等、が同じであるのです。この日本武士道の精神は、現在では、正統役座の任侠道に流れているようです。
「日本刀」が日本武士の魂である、と言うことは、日本刀は、実戦用ではなく、武芸としての怨霊鎮めの儀式用に開発されたものであるからです。では、日本武士の実戦武器はなにかというと、騎馬民族突厥帝国軍式の「弓馬」であり、ローマ帝国傭兵軍の武器であるロンギヌスの「槍」であるわけです。
平安時代中期に、蝦夷末裔の神を祀る武芸者から、実戦隊の武士に変身できた背景には、907年の唐滅亡が大いに関係していたのです。日本列島は、701年の大宝律令から平安中期まで、律令制度により、中国大陸を支配していた唐の影響下にあったのです。
その根拠として、飛鳥ヤマトの新羅系天武天皇は、道教思想により太一(北極星)を祀り政をおこなっていたのですが、686年天武天皇が崩御し、そして、694年百済系持統天皇が藤原京へ遷都してからは、仏教文化の唐と同じ儀鳳暦(唐では麟徳暦。唐の儀鳳年間に渡来したことで儀鳳暦と言われた。)により政(まつりごと)をおこなっていたのです。
中国大陸の王権は、天の命を受けて政をすることになっていたので、王権が交代すると暦法も替えることになっていたのです。日本列島に暦法が現れるのが、645年唐進駐軍と中臣軍とにより飛鳥王朝が壊滅され、そして、オリエント文化の飛鳥時代の歴史が百済仏教文化に改竄されてしまったため、692年の元喜暦からと云われています。
その元喜暦は、南朝宋で開発されたものですが、その後の、697年儀鳳暦、764年大衍暦、858年五紀暦、862年宣明暦までは、全て唐国が開発した暦法です。これらの唐の暦法により、奈良・平安時代から江戸初期まで、朝廷での政がおこなわれていたのです。そして、日本国初の暦法は、京都の第一百済王朝の政から独立した、江戸初期の第三百済王朝での、1685年幕府の属僚渋川春海が作成したものであったのです。
そして、奈良盆地は唐の漢字文化に支配されることにより、「日本書紀」は漢文で記述されていくのです。その表意文字の漢字文化にかわり、オリエントで発明された表音文字の「かな」の公への出現を許すのは、唐が滅亡して中国・唐文化の影響下から外れた平安中期であったのです。
唐の後ろ盾を失った平安王朝と平安仏教は、騎馬民族末裔の武士の出現により、その経済的基盤を脅かされていくのです。それは、奈良仏教が、庶民を護るためではなく、律令制度維持のための機関であったので、奈良仏教は官営により運営されていたのですが、平安仏教は「官営」ではなく、自らが営業により経費を稼がなければならなかったのです。その平安仏教の営業のひとつが、加持祈祷です。
平安仏教は、寺内に祭壇を設け、大麻を燃やして呪文を唱え、煙に巻くことで銭集めをしていたのです。しかし、神社境内で「芸」をおこなっていた、前政権の祭祀一族を、武力で路上に追い出したのが、平安京を祟る怨霊鎮めのために、陸奥国の蝦夷捕虜が、神社境内で武芸を行い、その武芸者が、反乱軍を鎮圧したため、武士として王権から認めてもらえたことにより、その同族である遊芸の者達が、再び神社境内に集まってくるのです。
このことは、平安仏教には脅威です。それは、その遊芸者とは、飛鳥ヤマトでの祭祀一族であったからです。そして、その祭祀一族の祖は、ギリシャ文化継承国バクトリア→秦帝国→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)からの渡来者であったので、その芸には、ひとびとを魅了する演出力が継承されていたのです。
ギリシャ文化のバクトリアでは、言葉の通じない異民族の人民を楽しませるために、無言の仮面劇が発展していたのです。つまり、パントマイムの仮面劇ということです。その仮面劇の主なテーマは、神々の物語です。このギリシャ仮面劇は、やがて、その民族の東への移動と供に、中国へ渡来するのです。
中国は、道教思想が生まれたように、神仙世界に憧れる傾向が強い国です。ですから、そのギリシャ仮面劇は、中国で、儺面劇(ヌオミエン・げき)となり、ギリシャ神話のストーリーが、悪魔や疫病を祓うものに変化してしまうのです。そして、その面を付けると、人間界と霊界と神界とに繋がることができると、信じられていくのです。
それらのギリシャ仮面劇や神仙思想の儺面劇の演出技術が、日本列島にもたらされるのです。その仮面劇は、騎馬民族末裔源氏武士が支配した室町時代に、オリエント渡来の秦氏末裔の世阿弥により、幽玄世界を演出する、能面(のうめん)を付けた舞による能楽となるのです。その能楽の祖が、飛鳥時代に山背国(秦王国)を支配した秦河勝であったのです。
秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語では、百済仏教布教に貢献したとされる「聖徳太子」の忠臣で、弥勒菩薩を安置するために広隆寺を建立したことになっているのです。その秦河勝によるオリエント渡来の神を祀る芸である秦楽(バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇が祖→伎楽)が、平安時代には、王権により、賎民による「猿楽」と貶められていくのはなぜでしょう。そして、京都太秦には、その秦河勝の墓はなく、河内国讃良郡太秦(寝屋川市)にあるのはなぜでしょう。
この河内国讃良郡太秦には、弥生中期の高地性集落遺跡(太秦遺跡)が発掘されているのです。そして、偶然発掘された古墳群は、5〜6世紀頃のものと推測されるのです。
その5世紀以前の河内地域は、陸地ではなく、淀川と大和川が流れ込む湾に隣接した湿地帯であったのです。その河口が陸地になるのは、淀川治水工事で茨田堤を構築することによるのです。そして、その淀川上流の京都の山背国が湿地帯から陸地になるのは、桂川の灌漑工事と葛野大堰の築造によるのです。
これらの、秦氏に縁のある淀川河口湿地帯と山背国の湿地帯を、居住地に変える大規模土木工事には、高度土木技術と鋼鉄工具を必要とするのです。では、これらの高度土木技術はどこからもたらされたのでしょうか。
それらの大規模治水工事がおこなわれた、5〜6世紀に、3世紀後半から日本列島に出現した古墳は、巨大化しているのです。そして、その巨大化した古墳では、鉄器製鉄技術を持つ騎馬民族スキタイの墓墳形式である小山墳の石積木郭墳ではなく、巨大石材建築技術と大運河削掘技術を持つ古代エジプトの埋葬形式である石室に石棺が納められていくのです。そして、その石棺の石材は、九州阿蘇産が多く使われていくのです。このことから、秦氏は、九州から河内に渡来した民族であると示唆されます。そして、その九州には、中国大陸と同じ高度文化を持った秦王国があったのです。
これらのことから推測されるのは、秦氏の出自は、平安時代に第一百済王朝が亡命百済貴族を日本国の皇族とするために創作した「新撰姓氏録」によれば、五世紀に弓月国から渡来し、機織の技術集団となっていますが、実際は、ギリシャ文化の芸能技術だけではなく、古代エジプトの高度土木技術とヒッタイト帝国の製鉄技術(突厥語トトラ→タタラ製鉄)を持った技術集団ではなかったか、と言うことです。
その国際性を示すように、秦河勝の墓がある大坂は、河内湾に突き出た上町台地に発展するわけですが、その上町台地は、古代では河内湾の岬であったのです。その河内湾には、奈良盆地の三輪山の麓のツバキ市での朱砂交易のために、大陸との国際海洋交易のための湊が建設されていて、その湊は浪速(ローラン・後の難波)←朝鮮半島・楽浪(ローラン)←シルクロード国際都市・楼蘭(ローラン)、と呼ばれていたのです。
6世紀の難波(浪速・ローラン)については、「日本書紀」の仏教伝来物語では、疫病神の仏像が、物部氏により、「難波の堀に捨てられた。」と記述されている処です。「日本書紀」の記述が正しいとすれば、6世紀の難波は、大陸から渡来の仏教文化の強い処であったようです。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、その仏教色の強い難波津(浪速津)に対抗して、その対岸の岬(後の上町台地)に造られた津は、「ワタナベ津」と呼ばれていくのです。その「ワタナベ」とは、古代エジプト語で、「ワタ」は波で、「ナベー・ナベ」は、小高い丘で、その意味は、波が打ち寄せる小高い丘で、「岬」ということです。ですから、渡辺津とは、「津」とは船が接岸できる湊ということですから、「岬の湊」の意味となるわけです。
794年、唐進駐軍に支援された亡命百済王朝により、景教(ミトラ教)の牡牛を屠る儀式をおこなって、山背国(秦王国)・比叡山を支配していた秦氏一族は、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の荒川・利根川河口の湿地帯に追われた徳川家康一族のように、以前の居住地であった淀川河口の渡辺に追放されるのです。
この山背国から追われた秦氏が、景教徒(ミトラ教徒)である証明は、その秦氏の渡来元のギリシャ文化国バクトリアの国教は、ミトラ教であったからです。ユーラシア大陸における、そのミトラ教の布教経路にある祭祀場遺跡では、多くの牛骨が出土することが報告されています。それは、ミトラ教の儀式では、太陽の化身の牡牛は、太陽神を祀るために屠られる、犠牲の聖牛であったからです。
大坂・河内でも、奈良時代の遺跡といわれる長原遺跡から牛骨が出土しています。しかし、室町時代以降は、牛骨の出土は見られなくなるのです。それは、古代から革が貴重な武器素材であるように、プラスチックのない室町時代の中世でも牛骨は貴重な武器素材であり、また、農耕のためにその骨粉は貴重な肥料となるからです。
仏教を祭る平安王朝により、淀川の湿地帯に追われた秦氏一族は、同族の武士の出現により、再び神社境内で、生活の糧を得るために民衆に芸を披露することができるわけです。今度は、平安王朝も平安仏教も手足を出せない状況にあるからです。それは、唐が滅んだことにより唐進駐軍が壊滅したことと、同族である武士の武力支援があるからです。
武芸者や遊芸者は、前政権の神を封じ込めるために建立された神社境内で、怨霊は闇に現れると信じられたため、かがり火を焚いて、角のある冑・きらびやかな総革製の鎧・美術品のような日本刀による怨霊鎮めをおこない、それらが、近隣のひとびとを集めるパフォーマンスとなるわけです。それに続いて、遊芸者の、伎楽による仮面劇があり、牡牛をデフォルメした獅子頭とエジプト渡来の唐草模様の布で覆った獅子舞の演出は、現在の祭りに通じます。
ひとびとが集まれば、そこには当然、経済活動が生まれます。遊芸者は、元は祭祀者であったわけですから、ひとびとの悩みの種を解消する対象となります。これは、平安仏教の加持祈祷の営業を妨害します。更に、その神社境内が、バザール化して物流が盛んになると、寺門前での商売に影響を与えます。
この神社境内での、秦氏のビジネスを阻止するための手段のひとつに、平安末期の1017年頃、本地垂迹説が発明され、穢れ地の神社境内は、平安仏教の支配地となってしまうのです。ここに、前政権の神を封じ込めていた神社が、仏を祭る神社に変身してしまうわけです。この本地垂迹説のトリックの呪縛から解放されるのは、明治時代まで待たなくてはならないのです。つまり、教科書歴史で、神社は日本古来の神々を祀っていた処と教えていますが、実際は、神社境内が穢れ地の異界から、神聖地域となるのは、平安末期からなのです。
唐の滅亡と供に、日本列島を支配していた唐進駐軍が壊滅した理由は、唐の軍団は、722年より傭兵制で組織されていたからです。ですから、軍人は、傭兵軍長には忠誠を示すけれども、唐国には、忠誠心を示さないからです。賃金が支払えない唐などには、傭兵軍は忠誠など示すはずはないのです。そのような兆候は、唐の国力が衰えてきた九世紀半ばの、律令制による班田制の崩壊と、荘園の発達に現れていたのです。
日本列島での律令制は、701年大宝律令が始めですが、それは、人民を土地に縛り付けて、税を収奪するためのシステムであるわけです。その収奪のトリックとして、天皇制があるわけです。天皇家の土地で、働くことができることにより、人民は生活できる、とされるわけです。
そこで、農耕をしない騎馬民族は、唐のコロニーである奈良王朝では、「穢れ者」であったのです。奈良時代の穢れとは、平安時代の騎馬民族を穢れとしたのとは異なり、奈良王権に従わない者を示していたのです。それは、官営の奈良仏教は、地獄世界と穢れ思想を平安貴族社会に布教し、そして加持祈祷のマッチポンプ営業で私服を肥やす平安仏教と異なり、王権を護るための組織であったからです。平安仏教には、祭祀氏族、そして物流を得意とする商業民族でもある騎馬民族末裔の秦氏一族は、商売敵でもあったのです。
907年唐が滅びたことにより、平安王朝により、奈良に封印されていた藤原氏は、摂関政治を利用して、平安王朝を牛耳り、私有地である荘園を拡大していくわけです。そのひとつに、南九州坊津がある島津荘があります。藤原氏は、その島津荘でのアラブ・インドとの南海密貿易により、財を成し、平安王朝の京都を護る桓武平氏の「サムライ」達を、源氏「武士」を雇い入れて、北関東へ追いやるのです。
平安王朝を摂関政治で牛耳る藤原氏により、その北関東に追いやられた桓武平氏末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、大掾氏、そして、後に、平安王朝を支配していた藤原氏から支配権を武力で乗っ取った、ペルシャ(アラブ)系軍団末裔である「平家」を滅亡させるために、弓馬に優れた源氏軍団の棟梁として源頼朝を担ぎ出した、北条氏の「サムライ」達であったのです。
唐の滅亡により、平安王朝を支えていた軍事力が衰えていくと、奈良に封じ込められていた藤原氏は、摂関政治を利用し、そして、武家源氏の武力を利用して、敵対氏族を滅ぼしていくのです。
藤原氏により、901年には菅原道真、そして、969年には安和の変で、源満仲の密告により公家源氏源高明を謀略で滅ぼすことにより、朝廷での敵対氏族は全て抹殺されてしまうのです。それにより、藤原道長一門の栄華の時代を迎えるのです。
藤原氏は、摂関政治で朝廷を、そして、地方の荘園豪族を支配するため、宗教組織を系列化する目的で、967年延喜式を施行するのです。そのひとつが、宗教組織の序列化です。宗教組織をピラミッド化することにより、中央が末端を支配する構造です。
自然神を祀る宗教であれば、宗教組織の系列化は難しいのですが、仏教や神道は、ひとが言葉により創り出した人工神を祭る宗教ですので、人間社会と同じに序列化にすることが可能なわけです。ここに、仏教と神道の宗教組織が系列化し、人間社会と同じに、頂点に立つ宗教組織の命令により、神仏が地方に転勤することが可能となるわけです。
しかし、自然神を祀る宗教は、そのシステムを受け入れることができません。そこで、王権は、その自然神を祀る宗教組織の抹殺を図るわけです。
前政権の宗教を抹殺する基本的手段は、前宗教施設の破壊です。しかし、施設を破壊しても、その思想を破壊することが出来ません。そこで、前政権の宗教思想を抹殺するために、新しく宗教物語を創作して、その前政権の宗教思想を取り込んでしまうのです。
例えば、538年百済仏教伝来物語がそうです。その物語では、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏を登場させるわけです。そして、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたことにより、百済仏教は、飛鳥ヤマトで布教された、とするわけです。しかし、その蘇我氏・物部氏は、その頃には存在しない氏族であったのです。その訳は、二文字漢字での、人名・地名表記は、713年好字令によるからです。ですから、仏教伝来物語の登場人物は、史実の人物や氏族ではないのです。
仏教伝来物語に信憑性がないのは、飛鳥ヤマトでの伝来仏教布教に深く関わった厩戸皇子(後の聖徳太子)と女帝推古天皇が活躍していたとされる時代に渡来した、608年隋使の報告書には、難波津から大運河により船で都まで行き、「都で男王に謁見した。」、とあるからです。つまり、飛鳥ヤマトに女帝推古天皇が存在しなければ、その摂政の厩戸皇子(聖徳太子)も存在しないことになるのです。そして、その仏教伝来物語から、厩戸皇子(聖徳太子)を消去してしまうと、その仏教伝来物語のストーリが成立しなくなるのです。
では、蘇我氏・物部氏とは、誰なのでしょうか。それは、蘇我氏とは、北東アジアを支配していた突厥帝国の軍事氏族であり、物部氏は、河内地方を支配していた、オリエントから渡来していた秦氏一族であったのです。飛鳥ヤマトを支配していた、突厥帝国軍事部族と、それを、船が航行できる大運河や馬車が疾走できる幅十二mの直線道路を建設して、技術支援をしていた秦氏一族の史実を抹殺した物語が、仏教伝来物語であったわけです。
京都を支配する藤原氏も、飛鳥ヤマトの景教・道教を抹殺したように、ギオンの神を抹殺するのです。それが、祇園祭りです。
平安仏教思想が、貴族社会から庶民に浸透すると、庶民は死者は穢れている、と信じ込んでしまい、死者を粗末に扱うわけです。その頃の仏教には、庶民の死者を葬る思想もなれけば、庶民の死者を弔うこともなかったのです。ですから、死者は、ケガレ物として投棄されたのです。その投棄場は、川と谷です。地獄谷の名称がある処は、死者の投棄場であることが多いのです。
京都地域では、川へ死者を投棄したのです。そのひとつに、賀茂川があります。賀茂川に死者が投棄され、そして、死体が集まる河原が、やがて、髑髏ヶ原とよばれていくわけです。そこは、京の賀茂川東岸で、その髑髏ヶ原は、やがて、髑髏原(ドクロハラ)→六波羅(ロクハラ)と名称がかえられていくのです。それは、その葬送地に、伊勢からの集団が住み着いたからです。その集団は、国際海洋商業民族であったのです。やがて、その集団は、祀りを始めるわけです。その祀りの神は、インドのヒンズー教の神、牡牛を聖獣として祀るわけです。このインド渡来の祀りに、比叡山に祭祀場を設けていた前政権の祀りが加わるのです。そして、その祀りの神は、牛頭天皇と呼ばれていくわけです。そして、その牛頭天皇の祀りには、魔多羅神が登場するのです。その七月に行われる牛頭天皇の祀りは、京の貴族には、疫病神であったので、ケガレから逃れるために、その祀りの期間は、貴族達は神輿違えと言って、京の街から避難していたのです。
では、この祇園祀りは、誰によりおこなわれていたのでしょうか。それは、アラブ・インドから伊勢に渡来した国際海洋民族と秦氏末裔であったのです。インドの聖牛祀りに、秦氏のミトラ神が習合したものが、祇園祀りの原型だったのです。
しかし、その祀りも、平安王朝により、抹殺され変形させられてしまうのです。牛頭天皇は、牛頭天王に、そして、その神を祀る処は、祇園社(ヒンズー教寺院)←祇園感神院(仏寺)←八坂神社、となってしまうのです。そして、ヒンズー教的な祇園祀りの疫病神的性格は、牛頭天皇(魔多羅神→ミトラ神)が祇園天神となり防疫的利益の祭り、と摩り替わるわけです。
そして、王権は、その賎民の祀り思想を抹殺・隠蔽するために、ユダヤ教の、表の門に羊の血を塗る「過ぎ越しの祭」ソックリの、腰に茅(血)の輪(門)を付ける、「蘇民将来物語」が創られるのです。(唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族と、太陽神「バール→ミトラ」と牡牛「牛頭」を祀るイスラエル民族とは、異民族。)そして、八坂の祭りは、粽(ちまき)を食べる祭りとして、今日に至るわけです。
平安王朝は、そのようにして、アラブ・インドの祀り、そして秦氏のミトラ教の祀りを、抹殺・隠蔽できたと思っていても、それから四百年後の戦国末期、疫病神の牛頭天皇を氏神とする、そして、先祖の墓が垣内にある織田信長には、その仏教組織が髑髏が原(六波羅)で住民を賎民のケガレ者としてイジメていた記憶を引き継いでいたのです。
つまり、高僧を焼き殺し、そして、比叡山の僧侶全員を斬首した織田信長の先祖は、髑髏ヶ原(六波羅)に勢力を張った、アラブ・インド渡来の「平家」末裔であったからです。戦国末期、織田信長の仏教僧にたいする残虐行為の原因は、平安時代にあったのです。
907年唐進駐軍が壊滅したため、平安王朝を支配下にした藤原氏は、再び、奈良仏教の京への進出を企てるのです。しかし、そこには、今までになかった新興の宗教組織があったのです。それが、アラブ・インド渡来のギオンの神を祀る、国際海洋交易民族の興隆となるわけです。
唐進駐軍の後ろ盾を失い、桓武平氏の「サムライ」を京から追い出された百済王朝は、藤原氏の暴虐を黙ってみていたわけではありません。1086年白河上皇は、藤原氏の摂関政治に対抗して、院政を始めるわけです。
摂関政治とは、百済天皇家に、新嘗祭の後におこなわれる五節の舞により、藤原の女を娶らさせ、その藤原氏の血が流れる子供を天皇にして、その藤原氏の孫天皇をコントロールする政治システムです。
その藤原氏の摂関政治に対抗する、院政とは、百済天皇家の実子に天皇の位を譲り、天皇が上皇となり、その実子天皇を、上皇がコントロールする政治システムです。このことにより、藤原氏の摂政の横槍を排除できるわけです。
この院政システムは、藤原氏に大打撃を与えることになるのです。それは、白河上皇は、天皇領の回復のために、荘園禁止令を発令したからです。そのことにより、藤原氏が、勝手に荒地を開墾することができなくなり、私領の荘園を拡大する戦略が頓挫してしまうのです。
そのような摂関政治と源氏武士団により、朝廷を牛耳っていた藤原氏を差し置いて、強行政治を行えたのは、白河上皇には、新興の武士団がいたからです。その武士団が、ギオンに勢力を張る、平正盛から始まる「平家」です。後に、伊勢からギオンに勢力を張る「平家」の興隆は、907年唐の滅亡によるのです。
唐が滅亡すると、中国大陸は、分裂時代を迎えるのです。その唐の滅亡の原因のひとつが、シルクロード交易を、武力で支配したサラセン帝国の興隆です。そのことにより、唐は陸路による国際交易の利益が得られなくなり、経済が疲弊したため傭兵軍の士気が落ちることにより、周辺の部族が大挙して唐国を襲ったのです。つまり、唐はシルクロードの交易権をサラセン帝国に奪われてしまったため、滅びたのです。
そこで、唐とヨーロッパとの交易をおこなっていた国際交易商人は、陸路から海路へと交易方法を替えるのです。
960年中国大陸の分裂時代を終わらせたのが、宋です。宋が中国大陸を軍事支配し、そして、経済が安定化すると、そこには、アラブ・インドの海洋国際交易商人が大勢押し寄せてきたのです。それは、宋(960年〜1126年)は、北面する騎馬民族・遼(916年〜1125年)に対抗するために、国力を強くするために、宋銭を多量に発行して、アラブ・インドとの国際交易を盛んにしたからです。
そのアラブ・インドの国際交易商人は、宋に交易基地を創設すると、唐が平安中期まで経営していた日本列島に、交易先を広げていくわけです。それは、日本列島には、金・銀・銅・水銀・朱砂・真珠・医薬品の原料の宝庫だったからです。
しかし、南インド・マラバル沿岸から渡来していた藤原氏の先祖は、南インドと中国大陸との交易のために、北九州坊津→種子島→雑賀→根来→奈良の都へのルートを、古くから開発していたのです。
そこで、南九州に上陸できないアラブ・インドから渡来の国際交易商人は、九州南端から黒潮に乗り、更に北上して、伊勢湾にたどり着くわけです。その伊勢湾は、南方の椰子の実が漂着するように、古代から南方民族の渡来地であったのです。その伊勢湾の沿岸地帯は、古代から国際交易地でもあったのです。それは、そこでは、国際交易品である朱砂、真珠が採れたからです。
伊勢地域は、水銀鉱脈がある中央構造線上に位置していたため、奈良の宇陀、三輪山麓のツバキ市との交易地でもあったのです。その証拠に、奈良の箸墓古墳からは、東海製の土器などの埋蔵物が多く出土しているのは、伊勢の先住民は、伊勢から中央構造線の窪地を通り、奈良盆地まで交易に出かけていたからです。
アラブ・インドから渡来し、そして、伊勢に住み着いた国際交易商人は、瞬く間に、平安京の葬送地の髑髏ヶ原を占領するのです。それを可能にしたのは、宋から持ち込んだ多量の宋銭です。
794年騎馬民族系天武天皇家を壊滅し、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取った、唐に支配された百済系平安王朝は、騎馬民族末裔を支援する秦氏の再興を阻止するために、神社境内のバザールでの交易を阻止するために、銭の使用を禁止するのです。
そのために、平安王朝は、西国では「米」を、東国では「絹」を貨幣代わりに使わせたのです。このことにより、通貨経済に長けた騎馬民族・農耕地を持てない秦氏末裔は、自然と暮す思想を持っているため、自然の摂理に逆らう農耕をしないため、食料品が銭と交換できないため、生活が疲弊してしまっていたのです。
しかし、907年、平安王朝を支配していた唐が滅びることにより、土地本位経済を支えていた律令制度が、藤原氏の陰謀により破壊され、私領の荘園が発展していくわけです。その荘園は、やがて、藤原氏が雇った源氏武士の武力により、王権からの不入地となっていくわけです。そのように、藤原氏による摂関政治により、平安王朝の百済天皇家の全国の土地は、徐々に、藤原氏に横取りされてしまうわけです。そこで、百済系白河上皇は、藤原氏が雇う武家源氏に対抗するために、伊勢の国際交易商人と同行して渡来した、葬送地の髑髏が原を拠点とする、アラブ・インドの武装軍団を私兵とするわけです。その白河上皇の私兵の棟梁が、平正盛となるのです。
この頃の日本列島の各部族の勢力地を眺めると、関東を拠点とする桓武平氏を擁する百済系の京都、南九州島津荘の南海密貿易で財力を蓄える藤原氏の奈良、河内の湊と北九州松浦を結び朝鮮半島・中国大陸との海洋交易で栄える新羅系源氏武士の河内、蘇我王朝軍団残党が支配する陸奥国、そして、アラブ・インド南海交易で栄える伊勢に勢力を張る「平家」の六波羅、となるわけです。
教科書歴史では、「平家」を「伊勢平氏」とし、平氏一族のように記述していますが、伊勢に勢力を張る「平家」と、関東に勢力を張る「平氏」とは、異なる民族により構成された武力集団だったのです。
「平家」は、鼻が大きく、ヒゲが濃く、眼が大きく、肌色が浅黒い、アラブ系の特徴をもっています。それに対して、「平氏」は、鼻が低く、ヒゲが薄く、眼が細く、肌が黄色の、ツングース系の特徴をもっています。
思想的にも、「平家」と「平氏」とは異なります。鎌倉時代初期に、「平氏」の女棟梁北条政子の謀略により、源氏頼朝三代一族抹殺後に、源氏の八幡信仰(新羅・秦羅の神様=太陽神)から、「平家」の厳島神社信仰に乗り換え、「平家」の宗教思想を、「平氏」に取り込んだため、「平家」は仏教系と思われていますが、それは、違います。
平安初期、京都・平安王朝の軍事組織のひとつとして、「桓武平氏」が登場したのです。そのため、平安王朝を支える宗教組織の比叡山延暦寺は、「平氏」とは友好関係にあったのです。つまり、「平氏」は、反仏教ではないのです。
しかし、「平家」は、反仏教なのです。そのひとつの例として、1167年、平清盛は太政大臣となり、平安王朝を乗っ取ると、今までは伊勢に接岸させていた宋の貿易船が、福原の湊に接岸できるように、大和田の湊を築造する時に、従来でしたら人柱を埋めたのに対して、何と、人柱の代わりに、仏教徒の精神的支えである「仏典」を埋めてしまったのです。つまり、国ッ神に対して工事の無事を願うための人柱となるのは奴隷ですから、平清盛は、「仏典」を奴隷と同じと考えていたようです。
1170年、その平家による、宋との貿易都市の福原で、平清盛は、宋の貿易商人を後白河法皇に引見させていたのです。この一般人が法皇と引見したことは、日本史上、前代未聞の珍事であったのです。それほど、平清盛は、平安王朝を私物化していたのです。
更に、平清盛の子重盛は、源氏武士でも畏怖する「神輿」に矢を射掛けたり、奈良の興福寺、東大寺に火をつけ、1180年、全焼させていたのです。
そのように、「平家」が、仏教思想に、敬意も畏怖も抱かないのは、仏教を信仰する「平氏」とは異なり、反仏教であったからです。それは、「平家」は、日本の平安仏教思想の本質と、そのトリックを見抜いていたからです。
「平家」の先祖は、アラブ・インドから渡来していたので、インドの宗教思想に熟知していたのです。ですから、平安王朝の百済系桓武天皇家を祀る儀式は、錬金術師空海が発明した真言密教によりおこなわれていたのですが、その空海が発明した、ダキニ呪文の密教儀式は、インドのバラモン教・ヒンズー教の教義・儀式を真似たものだったからです。
更に、空海が発明した曼陀羅に登場する大日如来(ビロー・チャナ)を筆頭とする無数の神仏群は、殆んどが、バラモン教やヒンズー教の神や鬼神であったからです。そして、ブッダの言葉を記述したと云われる無数の「釈尊の思想と百八十度異なる仏典」も、紀元前五世紀の釈尊の言葉などではなく、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀前後に、文殊の徒が創作した作文であることを知っていたからです。
平安時代、そのようなインドのバラモン教やヒンズー教の神や鬼神を、仏寺に仏像として祀る日本仏教には、アラブ(ペルシャ)系「平家」は、敬意も畏怖も抱くことは無かったのです。ですから、仏典を奴隷代わりに人柱として埋めたり、神輿に矢を射掛けたり、そして、仏像と供に仏寺に火をつけて、全焼させていたのです。
そして、「平家」が、「平氏」と異なり、遅れてきた渡来民族であることは、「平家」には、「平氏」と異なり、苗字がないからです。苗字とは、例えば、「足利左馬頭源朝臣尊氏」とすれば、足利が苗字です。そして、左馬頭が職名、源が氏名、朝臣が姓、そして、尊氏が諱(いみな)の実名ということです。しかし、「平家」の武人には、「平氏」にはある、その土地名から派生した苗字がないのです。
苗字とは、名字で、その名字とは、荘園名のことです。私有地の荘園は、国衙領の天皇家の支配地と異なり、武力でその支配地を管理しなければならなかったのです。ですから、その私有地である荘園に名前(名田)を付けて、所有権を主張していたのです。やがて、その私有地の荘園名が名字となり、その名字は、「足利氏」のように、その支配者の名前の苗字となっていくわけです。
平安時代中期、唐進駐軍の後ろ盾がなくなり、律令制度を支えていた公地公民の、全ての土地と人民は天皇家のものである、との中華思想は、摂関政治の藤原氏により、破壊され、私有地の荘園制が確立されると、その後に、氏名の他に、苗字が現れてきたのです。その苗字を、「平家」がもっていないことは、「平氏」には北条氏、三浦氏などの名字(苗字)があるのとは異なり、「平家」の日本列島への渡来が、私有地制度確立後にあったからです。
荘園の土地の所有を表明するために、土地の名前を一族の名前とした名字(苗字)は、遅くとも、奈良時代の743年よりの私有地制度(墾田永世私財法)の芽生えによるのです。つまり、このことから、743年以降に「平家」の先祖が、アラブ・インドから日本列島の伊勢に渡来したことが示唆されるのです。
アラブから伊勢に渡来した、「ペルシャ平家」が、正盛、忠盛、清盛の三代で、平安王朝を乗っ取れたのは、河内源氏の興隆を快く思わなかった藤原氏により、河内源氏抹殺の陰謀があったからです。
939年〜941年、平将門と藤原純友の反乱軍を武力で鎮めた、陸奥国蝦夷の武芸者は、平安王朝より、「武士」と認められたことにより、検非違使の公安警察の賎民としての配下から、「武士」として朝廷警護の職を得るのです。
その武士の戦闘能力を利用したのが、私領を増やすために、平安王朝の乗っ取りを企む、奈良の都を支配する藤原氏であったのです。その武士集団は、同族の秦氏末裔が暮す河内に集結すると、源氏武士団として勢力を増していくわけです。
その武士の先祖は、陸奥国の蝦夷で、その蝦夷の先祖は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の、騎馬民族の突厥帝国軍事部族であったのです。そして、その蘇我王朝を支えたのが、オリエントから渡来の、技術部族連合の秦氏一族(河内の秦氏は、後に、「日本書紀」により「物部氏」として改竄される。)であったのです。
907年唐が滅びると、河内の湿地帯は、秦氏による古代エジプトの土木建設技術により、瞬く間に、中国大陸、朝鮮半島との、国際交易湊・渡辺津として発展していくわけです。そして、中国大陸からの交易品は、神社ネットワークの物流センターにより、全国各地の八幡(やはた)・稲荷(じゅが←つか)神社境内のバザールで売り捌かれていくのです。
しかし、奈良時代までは、飛鳥ヤマトの奈良盆地を中心に幅十二mの直線幹線道路網が、飛鳥ヤマトのガラス器工場や鉄器工場からの製品を中国大陸に輸出するために、日本列島に張り巡らされていたものが、百済系桓武天皇の平安王朝になると、唐進駐軍に支援された桓武天皇家により、道幅が十二mから六mに狭められたのは、平安王朝に敵対する騎馬軍団の活動を阻止するためと、騎馬民族の馬車による物流システムの破壊が、主な目的のようです。飛鳥時代に馬車が使用されていたと推測されるのは、古代高速道路に轍(わだち)の跡が確認されているからです。
奈良時代までに、全国に張り巡らされていた馬車による古代高速道路の物流ルートは、平安王朝により破壊されてしまいましたが、「武士」が登場する平安時代中期以降、各地の八幡・稲荷神社を拠点として、物流ルートが復活するわけです。
八幡・稲荷神社とは、現在では、「はちまん神社」、「いなり神社」と言われていますが、実際は、オリエントから渡来の秦氏の神(ミトラ神=太陽神)が、祠に祀られている古墳・塚(土の家=墓・つか→じゅが→稲荷)を隠蔽・抹殺するために、簒奪王権により建てられたものであったのです。
平安時代中期、その秦氏の物流センターである神社境内は、仏教組織が神社を支配するためのトリック思想の本地垂迹説により、仏寺の配下となっていましたが、秦氏の同族の「武士」の出現により、仏教勢力は手出しが出来なくなってしまったのです。それは、秦氏による、神社境内でのバザールは、「武士」の武力で護られていたからです。
しかし、神社境内のバザールが、仏教勢力による営業妨害から、「武士」により護られていたものが、源氏頼朝三代が抹殺された鎌倉時代になると、「武士」から、「役座」に代わってしまうのは、桓武平氏の北条氏の陰謀により、「武士・源氏」が「サムライ・平氏」に敗れたからです。
教科書歴史では、鎌倉時代は、源氏武士の時代と教えているようですが、それは違います。鎌倉時代は、平氏の時代なのです。この亡命百済移民末裔の平氏が支配する鎌倉時代に、江戸時代での、「役人の縄が不浄である。」との思想が形成されていくのです。
何故、鎌倉時代に、「武士」が、「サムライ」に敗れたかの遠縁として、平安末期の藤原氏による、河内源氏武士団壊滅の陰謀が考えられるのです。
平安中期、陸奥国から京への蝦夷捕虜が、桓武天皇を呪う怨霊鎮めのために、角のある冑、派手な総革製の鎧、美術品のように美しい怪しい光を放つ片刃の刀の非実戦的武器で武装し、仏教思想では穢れ地の神社境内で、剣舞の武芸者として振舞っていたものが、唐進駐軍が消滅したのを見透かして起こした天慶の乱の朝廷反乱軍を武力で鎮圧したため、「武士」として朝廷から認めてもらったことにより、蝦夷の同族が住む河内は、中国・朝鮮半島との国際交易により、繁栄していくわけです。それに乗じて、藤原氏の私兵として雇われていた河内源氏武士集団の勢いも全国的に増していくわけです。
藤原氏は、摂関政治と河内源氏の武力により、百済天皇家の領地を、荘園経営の名目で簒奪していくわけです。その百済天皇家の経済を支えるものに、陸奥国の金山があるのです。
平安初期、唐進駐軍と桓武天皇軍が陸奥国の蝦夷討伐に懸命だったのは、ひとつには、桓武天皇の母国百済を滅ぼした、新羅(秦羅)から渡来の蘇我王朝軍を構成していた新羅花郎軍団末裔と、東アジアを支配していた突厥帝国軍末裔の壊滅があったのです。そして、もうひとつの目的は、陸奥国に眠る金の簒奪であったのです。陸奥国は、古来から、鉄、琥珀の他に、砂金の大産出国でもあったのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を乗っ取った藤原氏は、河内源氏の武闘力を利用して、陸奥国を支配している蝦夷末裔の阿部氏、清原氏の壊滅を目指すのです。
その金が産出する陸奥国支配のための侵略戦争が、1051年の前九年の役、1083年の後三年の役であるわけです。前九年の役では、阿部氏が滅び、そして、後三年の役では、清原氏が滅び、陸奥国は、藤原氏の支配地となってしまうのです。ここに、源平合戦で、「平家」壊滅のために、蝦夷末裔の源義経を使い捨てにした奥州藤原氏が興るわけです。
この出羽・陸奥国侵略戦争で活躍した河内源氏には、陸奥国だけではなく、関東の豪族からも荘園を寄進され、その結果、西国を勢力圏としていた源氏の支配地は、千葉氏や北条氏の平氏支配地の東国へと広がり、その西国発祥の河内源氏の勢力が、日本列島全土に広げられようとしていたのです。
それらの関東地方豪族の目的は、荘園を源氏棟梁に寄進することにより、河内源氏の支配下の「源氏武士」となることです。この西国を支配する源氏の東国進出に対しても、平安王朝、藤原氏と同様に、関東平氏も脅威を感じていたのです。
この河内源氏の興隆に脅威を感じたのは、平安王朝だけではなく、河内源氏の雇い主の藤原氏も、同感だったのです。それは、645年以前は、近畿一帯を中心に全国に広がる古代高速道路網の遺跡が示すように、飛鳥ヤマト時代は、騎馬民族が支配者であったからです。
そして、摂関政治の藤原氏が支配する平安王朝には、中国・朝鮮半島との国際交易により経済発展し、そして、武器の素材となる牛馬を飼育する河内の源氏武士の興隆は、飛鳥ヤマト時代の騎馬民族支配国・秦王国の再興に思えたからです。
そこで、藤原氏が支配する平安王朝は、1091年源氏棟梁源義家への荘園寄進を禁ずるのです。そして、翌年、1092年には源義家が荘園を設立することも禁じるのです。しかし、平安王朝の度重なる荘園設立禁止令を発しても、河内源氏勢力の勢いは止まらなかったのです。そして、ついに、1098年陸奥国蝦夷末裔の俘囚と言われた「武士」の源義家は、朝廷より昇殿を許されるのです。
そこで、摂関政治で平安王朝を支配する藤原氏は、全国制覇するほどの勢いのある河内源氏を壊滅するための戦略を練るのです。それが、1156年の保元の乱と、1159年の平治の乱だったのです。
その藤原氏の戦略は、結果的には、反藤原氏の白河上皇の私兵の「平家」を増長させてしまうのです。
保元の乱・平治の乱が画策される五十年前、1108年白河上皇は、藤原氏の私兵の河内源氏を牽制するために、謀反の罪をきせた源義親を、白河上皇私兵の平正盛に討たせていたのです。そして、源義親の首を掲げて京の都に凱旋する平正盛を白河上皇が出迎える、という演出をして、葬送地であるギオンを根城とするアラブから渡来の賎民末裔私兵である「平家」の格上げをおこなっていたのです。
そして、1129年白河法皇が崩御し、その子鳥羽上皇の、1132年には平正盛の子平忠盛は内昇殿を許される身分に格上げされているのです。そのように、反藤原氏の百済天皇家の私兵「平家」は、宋銭と「ギオン女御=あそびめ」により着実に、武力と共に政治力も増していたのです。しかし、藤原氏は、「平家」の実力を、関東を支配する天皇臣籍降下賜姓の「平氏」と異なり、賎民私兵軍団と見くびっていたのです。
その藤原氏による、全国制覇の勢いのある河内源氏抹殺の戦略は、源氏軍団を二分して、弱い方に味方して、最初に「強い源氏一族」を抹殺し、後に、味方した「弱い源氏一族」を殲滅する、と言うことです。この「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の戦術は、日本史のあちこちで確認できます。
保元の乱の戦いでは、天皇側(後白河天皇)には平清盛、源義朝、そして、院側(崇徳上皇)には源為義、源為朝で合戦がおこなわれ、私兵軍団の平清盛軍団が、河内源氏主力軍団を壊滅するわけです。
何故、武闘力が優れた河内源氏主力部隊が、新興私兵軍団に敗れてしまったのでしょうか。それは、源氏の闘い方の思想によるのです。
源氏軍団の先祖は、新羅花郎軍団(「花」とは、「ミトラ」の借字)と突厥帝国軍団です。その新羅花郎軍団は、太陽神ミトラを軍神としているのです。その新羅花郎軍団の先祖は、ロンギヌスの槍を武器とするローマ帝国傭兵軍であるのです。
ローマ帝国傭兵軍の軍神は、太陽神ミトラです。その軍神ミトラは、敵軍と自軍の境に降臨し、自軍に力を授けてくれるのです。しかし、万が一敗れた場合、正義のもとに勇敢に戦った戦士には、軍神ミトラは再生を約束してくれるのです。
ですから、死者を不浄のケガレ物として燃やしてしまう仏教思想は、勇敢な死者は再生すると信じる武士には、受け入れられないものだったのです。このことからも、騎馬民族支配の飛鳥ヤマトで、仏教が盛んであったとする「日本書紀」の記述の信憑性が疑われるのです。
飛鳥ヤマトに仏教が興隆するのは、645年騎馬民族の軍神・太陽神ミトラ(景教)を信仰する蘇我王朝が、630年北東アジアを支配していた東突厥帝国を逸散させた唐帝国軍の勢いを借りて、唐進駐軍と中臣族軍により壊滅された後であるのです。その飛鳥ヤマトのオリエント渡来の信仰世界を隠蔽するために、山背国蜂丘寺の景教寺や飛鳥ヤマトの道教の観を徹底的に破壊してその跡に、日本最古の木造建築と云われる法隆寺をはじめ、北九州の秦王国にあった多くの仏寺が、唐進駐軍と中臣族(後の藤原氏)により、飛鳥ヤマトを中心として近畿一帯に移築されたのです。
その前政権の宗教施設・思想隠蔽手段のひとつとして、720年「日本書紀」での、物部氏(廃仏派はウソ、実際は太陽神を祀る景教信仰の河内を支配した秦氏)と蘇我氏(崇仏派はウソ、実際は北極星信仰の突厥帝国軍部族)とによる、厩戸皇子(後の聖徳太子)が活躍する仏教伝来物語が著されたのです。
「日本書紀」の神話により孤島日本列島のイメージを刷り込まれてしまったひとには、ローマ帝国傭兵軍末裔が日本列島に渡来していたことを信じられないことでしょう。しかし、西の果てのローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と、東の果ての後漢(紀元25年〜紀元220年)とは、シルクロード交易により繋がっていたのです。97年には、後漢は、甘英をローマ領に派遣していたのです。その後、166年には、ローマ帝国の使者が、後漢を訪れていたのです。
その後の、東西交流は歴史上消えてしまいますが、356年朝鮮半島で、ナムル王により建国された新羅(秦羅)は、ギリシャ・ローマ文化国家であったことは、慶州の石積木郭古墳の埋葬品の数々で証明されています。そして、朝鮮半島南端では、ローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装するための馬冑が発掘されているのです。その古墳埋葬物から推測されるのは、五世紀末から六世紀初期の埋葬品である、と言うことです。
そして、そのローマ帝国傭兵軍騎士の馬を武装する馬冑が、日本列島の和歌山県の紀ノ川河口の大谷古墳からも発掘されているのです。大谷古墳からの馬冑は、六世紀初期と推測されているのです。「日本書紀」によれば、飛鳥ヤマトに蘇我稲目が、突然大和朝廷の大臣として歴史上に現れたのが、530年となっているようです。
これらの事から角冑・派手な鎧・片刃の刀で武装する日本武士のルーツとしては、紀元一世紀・ローマ帝国→紀元二世紀・中国・後漢→紀元四世紀・朝鮮半島・新羅(秦羅)→527年北九州筑紫への侵攻(「日本書紀」では、磐井の反乱と記述)→紀元六世紀・日本列島・紀伊半島紀ノ川口上陸→530年・飛鳥ヤマト・騎馬民族の出現→645年騎馬民族国の蘇我王朝壊滅→飛鳥ヤマトから新羅花郎軍団・突厥帝国軍団が撤退→陸奥国・蝦夷の出現→九世紀・蝦夷捕虜が京で怨霊鎮めの武芸者となる→941年天慶の乱後・武芸者から武士→武家源氏の誕生、への流れです。
そのようなローマ帝国軍の騎士道精神を、新羅花郎騎士道より引き継いだ源氏武士は、太陽神を祀る武芸者であることを自覚しているため、戦場で、太陽神・軍神ミトラに聞こえるように大声で名乗りを上げ、正々堂々と闘うのです。
そして、その戦闘時期は、太陽神である軍神ミトラが守護できる、昼間でしかおこなわなかったのです。それは、軍神ミトラが、勇者の戦いを見守れるのが「昼間」であるからです。しかし、アラブ渡来軍団の末裔である武力集団としての「平家」には、祭祀者の武芸者を先祖に持つ源氏武士団のような武闘信仰はありません。
「平家」末裔の織田信長の得意の戦術、「夜襲」「奇襲」「集団戦術」は、源氏武士団の闘い方のルールに反するものだったのです。そのような、「平家」の夜襲・奇襲・集団戦術により、保元の乱で、神社での武舞による怨霊鎮めをおこなう祭祀者である武芸者の流れを継ぐ、河内源氏の主力部隊は壊滅してしまうのです。そして、保元の乱で、平清盛と天皇側に付いて生き残った源氏源義朝には、もはや戦闘主力部隊はいないのです。
かくして、平治の乱では、保元の乱で同盟者であった平清盛により、源氏棟梁源義朝は敗れ、その子源頼朝は、「平氏」の支配地である関東の伊豆へ配流となるわけです。そして、後に、源頼朝は、「平氏」の北条氏により源氏棟梁として担がれ、京の平安王朝を乗っ取った「平家」殲滅のために利用されてしまうのです。
平家清盛軍団を軍事援助し、河内源氏を二段階で滅ぼした、保元の乱、平治の乱の陰謀により、西国河内を中心に勢力を張っていた源氏一族・郎党抹殺に成功した藤原氏は、平家の平清盛の実力を知ったときには、既に、日本列島の湊は、南九州坊津を除いて、アラブ・インド国際海洋民族末裔である「平家」一族の支配下にあったのです。
平家の平清盛は、後白河天皇を傀儡として、平安王朝を乗っ取ると、宋国の商人と貿易を盛んにするわけです。そのために、福原の大和田の湊を整備し、そこを平家の物流センターとして、宋から輸入した奢侈品を、宋銭(宋銭はアラブでも流通する国際通貨)を媒介にして地方の荘園豪族に売り捌くことにより、出羽・陸奥国を除く日本列島を席巻していくわけです。
この平家の宋国との独占交易に脅威を感じたのは、古来から南インドと密貿易をおこなっていた南九州坊津を支配している藤原氏だけではありません。そのひとつに、比叡山延暦寺があったのです。延暦寺は天台宗の寺で、その天台宗は中国山東半島に本社があったのです。その本社である中国天台宗寺と支社である比叡山延暦寺とは、平安初期から交易をおこなっていたのです。
一般的常識では、大乗仏教の僧は、苦しむ庶民を救済するために、広く世界を股にかけて布教の旅をしていた、と信じているひとが多くいるようですが、それは、大乗仏教布教の一面を見ているに過ぎません。史実は、大乗仏教布教の路は、庶民とは無縁な奢侈品の交易路でもあったからです。
紀元一世紀、ギリシャ文化継承国バクトリア文化を引き継いだ、国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の仏典布教の真の目的は、苦難にある梵語も漢語も理解できない異国の難民の救済であったのでしょうか。
仏教関係者が記述した書物では、異国での大乗仏教布教の真の目的を知ることができません。しかし、田村圓澄氏著書「古代朝鮮仏教と日本仏教」に、その異国での大乗仏教布教の裏面を記述してある一文があるのです。

朝鮮半島および日本の場合と共通していることが二つある。第一に仏教は王都を目指してきたことであり、第二に既存の道によって伝来したことである。仏教は出世間の教えであった。釈迦の生涯が示すように「出家」とは世俗を捨てることである。したがって出世間の教えである仏教は、人跡まれな深山幽谷や、あるいは絶海の孤島に向かって進んできたように思われるが、しかし、中国の場合も仏教は王都を志向している。そして王権と接触し、貴族層の支持をえて伽藍は造営された。出世間の仏教が、王権にたいする接近について積極的であったのは仏教の内部矛盾の観がある。しかしこの事実を除外視しては、漢訳仏教圏の仏教を語ることはできない。

異国異民族との国際交易の歴史は、紀元前三千年のエジプトとシュメールにみられます。古代エジプトでは、神殿を管理する神官が交易船を所有していたようです。そして、古代シュメールでは、神官が交易品を管理する神殿経済がおこなわれていたようです。
古代では、宗教施設で交易をおこなっていたようで、異国異民族との交易をおこなう商人の発生の流れを逆に辿ると、商人←委託販売人←御用商人←宮廷の交易代理人←官人←神殿管理者の神官、となるようです。では何故、神殿が異民族との交易に関わったのでしょうか。
言葉も通じない異文化に暮す民族との物と物との交換は、危険が予測されます。それは、他民族の生産品を得るには、武力が伴う略奪により調達していた時代があったからです。そこで、知恵者が考えた異民族との取引が、沈黙交易です。
沈黙交易とは、言葉を使用せずに、身の安全と相手の動向を良く観察できるように、取引所は見渡しの良い平原あるいは平地で、交換する物品を所定のところに置き、異民族が互いに納得できる交換量を出し合うことにより物々交換おこなう交易のことです。この交易方法は、騎馬民族が、各地から交易品を持ち寄り、平原でおこなうバザールとして受け継がれています。
弥生・古墳時代、日本列島奈良盆地の、国際交易品の朱砂の交易地の三輪山麓のツバキ市に、建築建物の遺跡が確認できないのは、正に、そのツバキ市が、異民族による沈黙交易場の「平地」であったからなのです。
しかし、ひとには無限の欲があるため、その沈黙交易も時にはトラブルも発生するわけです。そこで、知恵者が考えたことは、絶対権力者である「交易の神」の発明です。そして、その交易の神の下でおこなわれ、一度決定した交易は、後には覆すことができないルールを考え出したのです。
この交易の神の記録的始めは、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国でのミトラ神のようです。その根拠は、異民族との交易の記述を示した粘土板にミトラの名が刻まれていたからです。
交易の神が見守る、その交易をおこなう広場のある建物は、ギリシャ、エジプト、オリエントでは、やがて、神殿と呼ばれ、その神殿交易を管理する者が神官と呼ばれていくわけです。
紀元一世紀、その交易方法がシルクロードにより東方へもたらされるわけです。中国では、その交易の神が見守る平原の所定の処を、「廷・テイ」といったのです。その廷は、やがて、支配地内の広場となり、その「廷」が「庭・テイ」となるわけです。
中国では、律令時代になると、その神が見守る「廷」で、王が朝礼をおこなう機関が、「朝廷」と呼ばれていくわけです。
オリエントでの交易所の神殿は、中国では「寺・ジ」といわれるのです。ヤマト言葉では、「寺」は、「てら」と読まれますが、「ジ」と「てら」とは意味が異なります。
ヤマト言葉の「てら」とは、死者が眠る処です。しかし、中国での「寺・ジ」は、「てら」ではなかったのです。では、中国の「寺」では何がおこなわれていたのでしょうか。
中国での寺の発生は、西域から渡来の僧侶と旅人がもたらす物品の検査をする、関税所のような雑務所であったのが始めです。その寺で、西域からの多くの僧や商人が渡来するため、「寺」で関税の事務処理を日夜おこなうために、宿泊施設が寺に築造されるのです。その宿泊施設を持つ寺に、多くの僧侶が仏典や仏像を持ち込むことにより、やがて、寺は渡来商品仏具の貯蔵所となっていくわけです。ですから、中国の寺(ジ)は、「てら」ではないため、死者が眠る墓地はないのです。
その中国の「寺・ジ」が、仏像・仏典と共に日本列島に持ち込まれたのですが、「寺」が「てら」になるのは、鎌倉時代の中国から、ヨーガと仏教が習合した禅宗の葬儀儀式の渡来以後であったのです。
厳しい修行で命を落した禅宗僧を弔うために、禅宗では敷地内に墓を設けていたのです。江戸時代に、大乗仏教も、この禅宗の葬儀形式を導入し、イエズス会信者のホーリーネームを真似して、戒名を販売する、葬式仏教として今日に至っているのです。
飛鳥時代末期、日本列島に渡来した仏教の寺は、死者を弔う施設ではなく、交易品を貯蔵する砦であったのです。ですから、寺は、盗賊の略奪から交易品を護るため、川堀を廻らし、更に、土壁の塀を廻らし、耐火のため瓦葺であるのです。
例えば、仏教僧を欺瞞者と決めつけ、比叡山の僧侶全員を斬首した、反仏教者の織田信長が、1582年爆殺された本能寺などは、仏を祀る寺などではなく、正に、輸入品販売のための倉庫であったのです。
もし、本能寺が、仏を祀る仏寺であったのであれば、反仏教の織田信長は、本能寺を京の出城として使ってはいないはずです。それは、織田信長の先祖の海洋民族の平家末裔が、鎌倉時代、仏教僧により、騎馬民族の源氏末裔と共に、仏教の敵の賎民穢多としてイジメられていたからです。
戦国時代末期、織田信長の比叡山延暦寺壊滅の目的は、先祖平家の怨を晴らすためだけではなかったのです。それは、平安仏教組織により、平家末裔が賎民に落され、更に、寺の門前や神社境内でおこなう商売を、支配されていたからです。更に、仏教組織は、寺社領を通過するには、賎民商人からも通行税を徴収していたのです。
その近畿一帯の賎民商人を支配していた頂点に、比叡山延暦寺が君臨していたのです。その比叡山延暦寺を、1571年織田信長軍が焼討ちにより壊滅したことにより、比叡山延暦寺僧兵軍団も壊滅するわけです。その結果、寺門前や神社境内で商売する賎民商人達を武力で支配できなくなり、それらの平安仏教組織が支配していた、寺門前の市や神社の座が、自由商売の地である、「楽市楽座」となるわけです。つまり、極悪非道と仏教組織から言われる織田信長は、比叡山延暦寺焼討ちにより、仏教組織支配経済から、賎民商人を解放したのです。
では、戦国末期の本能寺の実態は何だったのでしようか。実際に、本能寺は、法華教軍団が比叡山延暦寺の軍団と闘うための砦であったのですが、延暦寺軍団に敗れ、本能寺が廃墟となったところを、藤原氏が交易品貯蔵所として改装した寺であったのです。そして、その本能寺は、藤原氏が支配する南九州坊津→種子島→雑賀→根来→本能寺ルートにより、南海から密輸入した鉄砲・火薬を所蔵する施設となっていたのです。
平安時代末期、比叡山延暦寺と奈良の興福寺とは、平家清盛の宋交易独占の他に、更なる平家のビジネスに対して、脅威を感じていたのです。それは、京の都と比叡山との間のギオンの遊郭と、伊勢の内宮と外宮との間の古市の遊郭の存在です。
何故、平家の遊郭ビジネスが仏教組織に脅威を与えたのかは、それは、寺・神社内で、遊郭と同じビジネスを、宗教者は貴族相手に、古来からおこなっていたからです。
異民族との取引所としての神殿は、やがて、広域交易民族でもある騎馬民族の興隆により、貨幣取引や為替取引が発明され、そして、秤(はかり)により物品の重さで取引をすることにより、異民族との不正取引を見守る神の必要性が薄らいでしまうことにより、神殿の神官が生活の糧を得るために、神官は新たなビジネスを考え出さなければならなくなったのです。それが、賽銭を得るための、神殿での聖婚です。
神殿で神官が、聖婚は、神に貢物をし、神殿で神の代理と交わることにより、豊穣が約束され、そして、神の至福も味わうことができる、と宣伝するのです。その神の代理は、オリエントでは地母神、聖母と呼ばれていたのです。日本列島では、聖所は内道場、神の代理は、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
聖所で聖婚(金銭目当ての売春とは異なる。)をおこなっていたことを示す文書が、「旧約聖書」のエゼキエル書(イスラエル民族を誹謗中傷する文書が多くある。)、第十六章十五節にあります。

ところが、あなたは自分の美しさをたのみ、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った。あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。

この聖所で行う姦淫が売春ではないことは、同章三十一節で説明しています。

あなたは、ちまた、ちまたのつじに高楼を建て、広場、広場に台を設けたが、価をもらうことをあざけったので、遊女のようではなかった。

エゼキエル書では、紀元前722年にイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたことを記述しているので、その文章の内容は、紀元前八世紀以降のことでしょう。そのころには、エゼキエル書が改竄されたものでなければ、売春と聖婚の二種類の性サービス行為が行われていたようです。
飛鳥時代、この聖婚は、日本列島では、日本初の天皇である、チュルク系騎馬民族・蘇我王朝を引き継いだ新羅系天武天皇が、大嘗祭でおこなわれたのが始めのようです。その大嘗祭は、太陽神ミトラの誕生日である冬至の日、前任者から王権を引き継ぐ儀式で、天帝(北極星=太一)の下で、天神と地母神とが契ることにより行われる、一生一代のものであるのです。
その王権引継ぎの大嘗祭の儀式では、王権を引き継ぐ新天皇が、地母神の代理である斎王と「まぐわう=聖婚」ことにより、王権引継ぎ儀式が完了するのです。
奈良時代初期、この天皇一生一代の大嘗祭を、686年天武天皇が崩御し、百済系女帝持統天皇が即位すると、天武天皇に左遷させられていた中臣族の籐氏(後の藤原不比等)は、大嘗祭から、穀物の収穫祭としての新嘗祭を発明するのです。
そして、その新嘗祭を、太陽神バール(=ミトラ神)と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史を乗っ取って、エジプトの唯一神太陽神アトンから租借した、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ教の儀式の全てを仕切るレビ族のザドク一派のように、先祖が南インド・マラバル沿岸から渡来した藤原氏が、大乗仏教儀式とユダヤ教に酷似した中臣神道とで王権の儀式を仕切るために、奈良時代、710年興福寺と768年春日社を建立し、それらの施設内でそれらの儀式を行うことになるのです。それらの藤原氏の二つの宗教施設は、先住民の宗教施設を徹底的に破壊した跡や祭祀場跡に、秦氏の支配地から移築されたものであるのです。つまり、神社は、日本列島古来の建物ではなく、仏寺が建てられた後に、建てられた建築物であったのです。
そして、一生に一度ではなく毎年、藤原氏の宗教施設内で、秋の収穫の時期をかなり過ぎた日に行われる新嘗祭で、インドのサリーのような透けて見える衣装を藤原の娘に着せて、五節舞を、天皇・貴族の前で舞わせるのです。そして、その後、その舞姫は、天皇のお妃になるか、側室として天皇に侍ることになるのです。つまり、宗教施設内で行われる、藤原氏の発明した新嘗祭での五節舞は、聖婚の儀式の一部であったのです。
江戸時代に、第三百済王朝の手先となり墓守として生き延びる葬式仏教組織と、戦国末期、織田信長により僧兵軍団が壊滅される以前の、軍団を保持し、賭博、聖婚(売春)、借上(高利貸し)、そして、中国と交易を行っていた大乗仏教組織とは、似て非なるものであったのです。
中国大陸でも事情は同じで、僧は税が免除され、宗教施設は治外法権であったので、金で僧籍を買い入れ、宗教者の特権を利用して、寺内で色々な商売に励む良からぬひとも多くいたのです。ですから、中国では、仏教が盛んになると風紀が乱れることにより、王権により大規模な廃仏(北魏446年〜452年、北周574年、唐845年)が何度もおこなわれたことは、歴史が示すところです。
平安末期、更に、平家の支配地では、奈良時代から治外法権の宗教施設内でのみ行われていた賭博も、巷の悪所で広く庶民にも行われていくのです。これらの仏教独占ビジネスの賭博、聖婚(売春)が、平家の支配地の京都のギオンや伊勢の古市で行われていたのです。
それらのことにより、仏教組織は、平清盛の平家一族により、中国との交易、売春、賭博ビジネスが奪われてしまったことにより、平安王朝、藤原氏、関東平氏一族(亡命百済移民末裔・百済系平安貴族を警護した皇籍降下の「サムライ」)と同じに、平家一族(アラブ・インドから渡来の国際海洋民族末裔・白河法皇の「私兵」)抹殺に傾いていくわけです。
「平家にあらずんば、ひとにあらず。」、と宋独占貿易により宋銭を多量に日本列島に持ち込み、日本経済を完全に支配した平家を滅ぼす武装集団は、今や近畿地方にはいなかったのです。それは、保元の乱、平治の乱により、河内を支配していた源氏渡辺党(ワタナベとは、古代エジプト語で、意味は、ワタ(なみ)・ナーベ(小高い丘)=岬→上町台地)も、摂津の多田源氏(タダ=タタール→騎馬民族)も、藤原氏の陰謀により、平家軍団の平清盛により滅ぼされてしまっていたからです。
平家に滅ぼされてしまった源氏残党は、平家はアラブ・インドとの南海海洋交易を行っていたため、西国地域は平家一族の支配地であったので、木曽の山奥や関東の山間部、或いは、蝦夷支配地としてわずかに残る出羽・陸奥の山奥目指して逃避をしていたのです。
関東を支配していた平氏の北条氏は、平家の知行地拡大により、その地位を奪われていたのです。そこで、源頼朝が、北条氏の支配地の伊豆(イズ・夷住→異界の地)に配流されたことを捉え、北条時政の娘北条政子の婿として取り込むのです。
1180年北条氏は、源頼朝を源氏棟梁として担ぎ出し、平家の館を襲撃するわけです。この石橋山の戦いでは、源頼朝は参戦せず、平氏一族の北条氏を中心に挙兵したのです。しかし、武装はしていても、平氏は、貴人を警護する「サムライ」で、敵を殲滅する技術を持つ武闘派の「武士」ではなかったので、平家軍団に一蹴されてしまったのです。
その北条氏の挙兵に同調して、1180年木曽を支配していた源氏残党木曽義仲も挙兵するわけです。そして、藤原氏が支配する興福寺の僧兵も挙兵するのですが、平重衡により、興福寺と東大寺は火をつけられ消失してしまうのです。
これらの平氏・源氏・仏教組織の挙兵に対して、平家は、京の都から福原に遷都して、防衛体制を牽くわけです。しかし、1181年平家の棟梁平清盛が死去すると、平家軍団は、京を守りきれず、1183年源氏の木曽義仲が入京するわけです。
この事態は、平安王朝、藤原氏、平氏、そして、仏教組織には、由々しきものであったのです。それは、源氏が京を軍事支配することは、源氏とはその先祖が新羅花郎軍団と突厥帝国軍団の末裔であるわけですから、チュルク騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥ヤマト時代の再来となるからです。
飛鳥時代では、平安京のある山城国や比叡山は、古代エジプトの高度土木技術により、オリエントからギリシャ文化のバクトリア(太秦)、そのバクトリアのコロニーとしての秦帝国、そして、朝鮮半島の新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏が、淀川河口を干拓した後、遡上して湿地帯を開拓した支配地であったのです。その秦氏の支配地が、奈良時代末期に、744年飛鳥・蘇我王朝の後継王権・新羅系天武王朝を軍事支援していたチュルク系騎馬民族の東突厥帝国が唐軍により滅ぼされたことにより、日本列島に侵攻してきた唐進駐軍と亡命百済移民に乗っ取られたわけです。
そこで、平清盛の傀儡として支配されていた後白河法皇は、安徳天皇を擁立して平安王朝を完全支配した平家一族と、京を武力制圧した源氏木曽義仲の抹殺の謀議を、藤原氏と平氏の北条時政に提案するのです。それは、「夷を以って、夷を制す」の藤原氏得意の、敵を抹殺する戦略だったのです。その戦略の使者が、古墳時代に秦王国(ギリシャと同じ都市国家)のあった河内を軍事支配していた元源氏渡辺党の武人、今は真言宗僧侶文覚だったのです。
真言密教は、藤原氏の援助で、錬金術師空海を一年の修行で僧籍に入れ、そして、藤原氏が運営する遣唐使船により、804年唐に送り込み、その唐でバラモン教とヒンズー教の儀式・思想を学び、806年帰朝してから、バラモン教・ヒンズー教の教義・神・鬼神を仏教化した宗教だったのです。ですから、空海の発明した真言宗は、当然藤原氏と繋がりがあったのです。その藤原氏と繋がりのある真言宗僧侶の文覚が、藤原氏の陰謀により平家に敗れ関東の山々に棲息する源氏軍団再興に動き出したのです。
文覚には、後白河法皇による高尾山神護寺再興の許しを得るための行動が、またもや、藤原氏の陰謀に加担してしまう結果になってしまうのです。源氏渡辺党武人から僧侶になった文覚は、純粋に、寺を、賭博や売春を行う文化娯楽施設ではなく、仏を祀る処にしたかったようです。それを示す、源平合戦後、文覚上人となった後に書かれた、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があるのです。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

文覚は、関東の山々に棲息する源氏残党に、日本列島の多くの豪族が源氏武士棟梁に荘園を寄進して「源氏武士」となった源義家時代の源氏栄光を再び得るために、源氏再興のため、鎌倉で挙兵した源頼朝のもとへ集結することを、各国にある廃墟となっていた国分寺跡で説いて回ったのです。何故、国分寺跡が源氏武士への説得場となったのかは、その国分寺は、反藤原氏の聖武天皇により、奈良の大仏の分身の像を安置するために建立されたものだからです。
不思議なことに、亡命百済移民支配の平安時代になると、その国分寺に安置されていた仏像の行方が知れないのです。仏寺では、インドの鬼神でも、1600年豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の船首の女神像でもカテキ様として、仏像として安置しているのに、何故、聖武天皇の命により、全国の国分寺に安置されていた仏像が行方不明なのでしょうか。
それは、国分寺の仏像とは、実際は、仏像などではなく、仏教の敵「遍照鬼」で、源氏の先祖の秦氏の神、太陽神ミトラであったからです。その新羅(秦羅)の神ミトラは、飛鳥時代に、秦氏により日本列島に持ち込まれ、秦氏の支配地山背国で蜂丘寺(景教寺)に安置されるのですが、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語により、広隆寺(仏教寺)の弥勒菩薩として改竄されてしまうのです。
そして、亡命百済移民が京を支配した平安時代になると、天台宗を中国から持ち込んだ最澄は、騎馬民族を差別する思想を多く含んだ「法華経」を布教する目的で、「日本書紀」に厩戸皇子と記述してある架空の人物を「聖徳太子」として、山背国(後の山城国)の祭祀者秦河勝を登場させ、聖徳太子が秦河勝に弥勒菩薩を安置する広隆寺を建立させる、百済仏教伝来物語を宣伝したことにより、今日の日本史では、仏教伝来が、「日本書紀」の552年と記述しているところを、538年になってしまったのです。
源平合戦にも、歴史的に不明な点が多くあるのは、それは、勝ち組である平氏北条政権下で創作された、1220年愚管抄、1243年平家物語、1254年源平盛衰記、1266年吾妻鏡などを参考資料としているからです。
それらの勝ち組の史料となる物語は、亡命百済移民の北条氏政権下で著作されたものであるので、負け組みである百済を滅ぼした新羅(秦羅)末裔の秦氏・源氏の実態を歪曲して記述するか、隠蔽しているのです。
文覚は、知らなかったのです。文覚が担ぎ出した源氏棟梁の源頼朝は、平安王朝・藤原氏・北条氏・仏教組織の使い捨ての駒であることを。その文覚も、使い捨ての駒で、源平合戦勝利後、源頼朝より高僧の上人となるも、1199年源頼朝が北条氏に暗殺された後に、左遷され、その地で亡くなってしまうのです。
何故、源氏棟梁の源頼朝が陣を構えたところが鎌倉なのでしょうか。現在では、鎌倉は高級住宅地となっているようですが、その地を掘ると人骨が多く出土するのは何故でしょう。
平安時代、鎌倉に地獄谷があるように、その地は葬送地であったのです。死者を投げ込む谷が、鎌倉の地であったのです。伊豆から千葉にかけての沿岸地域は、京の都を、藤原氏に追われた平氏一族の支配地であったのです。その地で、鎌倉だけは、平氏ではない、御霊社(怨念を残し亡くなった魂を祀る社)を祀る鎌倉党の支配地であったのです。
この葬送地を支配地とする鎌倉党は、京の賀茂川の葬送地髑髏ヶ原(後の六波羅)を支配地としたアラブ・インドから渡来した平家と同じに、平氏の後から西国より関東に渡来した部族であったのです。それは、葬送地の鎌倉にある由比ガ浜は、浜砂鉄の宝庫だったからです。鎌倉党は、ヒッタイト帝国の鉄器鍛造法による、鹿皮のフイゴを使用するタタラ製鉄の技術を持つ部族であったのです。この鎌倉党から、後に穢多頭となる、秦氏末裔弾左衛門が現れるのです。
その鎌倉は、北条政権下で創作された物語に記述されたような立派な地ではなく、戦国末期藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、宿敵徳川家康を関東のひとも住めぬ湿地帯に追いやったように、人も住めぬ湿地帯であったのです。勿論、鶴岡八幡宮などはなく、小さな稲荷(秦氏の墓→塚→つか→じゅが→稲荷→イナリで、権力により秦氏の神を封印した社)の祠がある、平地が少ないひなびた半農半漁の寒村地であったのです。
1180年〜1185年の長い戦いであった源平合戦の歴史は、北条政権下の鎌倉時代に創作された書物を基に語られているので、実際の史実を知ることはできないようです。そのひとつに、源頼朝と源義経が兄弟ではない、ということです。
源義経が子供の頃、京に居たことも疑問ですが、その源義経の生い立ちには謎が満ちているのです。そのひとつに、源義経の忠臣として語られる弁慶の存在があります。その二人が京の五条の橋で出会う物語は、史実ではないのです。それは、弁慶とは、それらの物語の創作上の人物であるからです。源義経が幼少の頃、京で架空の弁慶と出会う源義経の経歴の信憑性は薄く、そのことから源義経が、京で生まれ、源氏残党が住む鞍馬山で育ったかの履歴は疑問です。
では、源義経とは、どのような生い立ちの人物であったのでしょうか。源義経が出陣した地は、奥州藤原氏が支配する出羽・陸奥国からです。そこは、元は蝦夷の支配地であったのです。蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝の軍団を構成していた新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔で、ユーラシア大陸と繋がりのあった部族であったのです。そして、源義経軍団は、傭兵軍の活躍する中国大陸では部族軍団の独自の印を付けた旗は古来から使われていたが、日本列島では、当時では珍しい笹竜胆の文を部族軍団の旗の印としていたのです。その笹竜胆の文は、モンゴルのチンギス汗の軍団の印でもあったのです。このことから、源義経チンギス汗説が語られる根拠のひとつとなっているのです。
源義経軍の武器は、モンゴル軍と同じに、馬と弓です。その弓の弦は、動物の小腸から作られたものです。ですから、平家の弓が弦ではなく弓自体のしなりで矢を射るのと違い、源義経軍の弓は、弾力性のある小腸の弦であることから、その矢の飛距離は、平家と比べものにならなかったのです。それは、屋島の合戦で、平家軍団は船で海上に逃れ、矢の飛距離圏外に逃れたと信じて、船を持たない源義経軍団を、挑発したのが、源義経軍団の矢に攻撃され、漕ぎ手が射抜かれてしまったことから理解できます。
この源平合戦は、保元の乱、平治の乱を彷彿させます。それは、源氏(夷)による源氏(夷)の抹殺です。
1183年入京した源氏木曽義仲は、翌年、源氏源頼朝軍により粟津で敗死するのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、1189年源頼朝の恫喝により、藤原泰衡が源義経を衣川で殺しているのです。そして、その奥州藤原氏一族は、源頼朝軍により滅ぼされているのです。更に、1192年鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、1199年北条氏により暗殺されているのです。そして、源頼朝の実子二人は、1203年源頼家は伊豆修善寺で北条氏に殺され、そして、1219年源実朝は、北条氏にそそのかされた公暁により殺されてしまうのです。ここに、源氏棟梁一族が抹殺され、亡命百済移民末裔、平氏の北条氏が天下をとるわけです。
北条氏は「サムライ」の末裔であるから、武闘力はないけれども、知略はあったのです。それは、源頼朝を暗殺する前に、源頼朝から、藤原氏の拠点、南九州島津荘を、平安時代に秦氏から惟宗氏に変名した者に、その島津荘を与えていたからです。ここに、藤原氏の南海密貿易基地のある島津荘が、秦氏の支配地となり、その秦氏は、島津氏と名乗るわけです。
平家により、藤原氏が支配した奈良の興福寺が壊滅され、そして、源頼朝により、南九州の島津荘が藤原氏の支配地ではなくなってしまったため、藤原の女と財力で平安王朝を支配していた藤原氏による中央における支配力が衰えたのと同時に、京を支配していた亡命百済貴族の勢いも衰えていくのです。
源氏棟梁一族を抹殺し、当面の敵藤原氏の財力基盤を破壊した北条氏は、残存源氏武士の壊滅に動き出すのです。それが、「サムライ」と「武士」との戦いとなるわけです。
源氏棟梁一族と、それを支えた関東の源氏主力部族の梶原景時、三浦義澄、比企能員、畠山重忠、和田義盛を、ことごとく謀略で抹殺した北条時政・政子の父子は、関西に残存する源氏武士の抹殺を計画するのです。それが、1221年の承久の乱です。
教科書歴史では、承久の乱は、平安王朝の貴族の公家軍対関東北条氏の武家軍との戦いのように記述していますが、それは歴史の歪曲です。実際は、「武士」対「サムライ」の戦いで、圧倒的な武力で勝利した関東「サムライ」北条軍は、敗戦側の平安王朝末裔と、乱後、協調しているのです。それは、西国は公家の平安王朝末裔が、そして、東国を武家の北条氏が経営しているからです。この戦いで殲滅されたのは、平安王朝貴族ではなく、源氏「武士」であったのです。
それは、北条氏の先祖は、亡命百済移民の桓武天皇の流れにあった、亡命百済貴族に侍り警護する「サムライ」であったからです。このことは、1335年北条氏政権を滅ぼした、源氏足利尊氏が、1336年室町幕府を開き、百済系桓武天皇家の後醍醐天皇を吉野に追放し、京の朝廷を乗っ取ろうとした行動と照らし合わせると、「サムライ」の北条氏による承久の乱が、日本列島を平氏の支配下に置くことが最大の目的でなかったことが理解できます。それは、西国の河内源氏の渡辺党と摂津の多田源氏の「武士」抹殺が主な目的であったのです。
その根拠として、承久の乱に勝利した北条氏は、アラブ・インドから渡来の平家の拠点であった六波羅に、六波羅探題を設け、全国で源氏「武士」残党狩りを行っていたからです。このことにより、本国百済を滅ぼした新羅末裔源氏「武士団」が、関東でも、関西でも抹殺されてしまったのです。
そして、「サムライ」の女棟梁北条政子は、赤旗をシンボルとする、アラブ・インドから渡来の平家の歴史を乗っ取るために、源氏「武士」が崇拝していた、オリエント渡来の新羅(秦羅)の八幡(や秦→秦氏が繁栄する意味)の神を棄て、そして、海洋民族平家の神を祀る厳島神社を、半農半猟のツングース民族末裔の平氏の神として取り込んでしまうのです。この民族神のすり替えにより、後のひと達に、平氏のシンボルは赤旗で、そして、平家とは、伊勢平氏末裔である、と誤解されてしまうのです。
そのように源氏棟梁一族を抹殺した北条氏は、六波羅探題の捜査網を駆使して、北条氏に反目する各国に棲息する主な源氏武士を「源氏狩り」で壊滅すると、西国の経営には、北条氏と同民族である平安王朝末裔に任せて、東国の経営に着手するのです。
鎌倉時代初期の騎馬民族である源氏の経営方法の基本は、ギリシャ都市国家運営方法と同じで、部族の代表者による合議制であったのす。それでも結論が出ない場合は、武力で持って解決を諮る傾向があったのです。
しかし、平安中期まで唐の支配下にあった、平安貴族の秘書を兼ねて警護を司っていた「サムライ」末裔の北条氏は、源氏一族を謀略で滅ぼすと、奈良時代初期に唐進駐軍が近畿地域を統治するために持ち込んだ律令制度(律は刑罰、令は行政)を真似て、1232年35ヶ条の御成敗式目を制定し(後に51ヶ条となる。)、唐から持ち込んだ律令は漢語で記述してあるが公家の多くは中国からの亡命百済移民末裔のため漢字が読めたが、オリエント渡来民族末裔の漢字が読めない武家のために、簡単な箇条書きの法律により、関東の武家達を統制するわけです。
この「サムライ」の法律により統治された鎌倉時代に、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ、騎馬民族を差別する思想、「施陀羅悪人なり」のインドのバラモン思想と、そして、騎馬民族を差別する言葉が多くある、仏罰者はハンセン氏病になると説く「法華経」思想が、比叡山で「仏教」を学んだ鎌倉仏教僧達により、広く民衆に布教されてしまうのです。
その思想の布教には、勿論、騎馬民族末裔の「武士」残党を壊滅するために、「サムライ」の北条氏の陰謀もあったのです。
江戸時代、第三百済王朝では、騎馬民族末裔を貶める差別語「穢多」は、「長吏」と同義語となってしまっていたのです。では、その長吏とは何かと言えば、それは、中国・隋では、六百石以上の比較的俸禄の高い官位の役人であったのです。その長吏の文字が書物に現れるのは、飛鳥ヤマトで「男王」に謁見したと述べる、遣隋使裴世清の倭国偵察報告書の「隋書」にあるのです。
この隋使の記述は、、「日本書紀」では、女帝推古天皇の摂政厩戸皇子が活躍する時代で、608年小野妹子に伴い、遣隋使裴世清が来朝した、とあるのですが、その小野妹子は、「隋書」では、蘇因高(ソインコウ)とあり、その肩書きが、使人長吏大礼(つかいちょうりだいらい)とあるのです。その「使人長吏大礼」の意味とは、「遣隋使節団の正使」です。つまり、飛鳥時代の長吏とは、隋国では、正使の役人であり、決して、賎民を指す言葉ではなかったのです。
二文字漢字の人名・地名表記は、713年好字令より以降であるので、「日本書紀」での608年記述の「小野妹子」の日本名は疑問です。その当時、小野妹子は、「隋書」に記述されていた「ソ・インコウ」、と呼ばれていたことが示唆されます。
この長吏が、第三百済王朝の江戸時代に、大坂では奉行所の与力や同心に属して、市中を巡回した「不浄の縄」を持つ手先の頭として、長吏と呼ばれてしまうのです。
オリエント文化の騎馬民族国・蘇我王朝の飛鳥時代、位の高い官人としての長吏が、何故、第三百済王朝の江戸時代に、賎民穢多の役人頭としての長吏となってしまったのでしょうか。飛鳥時代、この位の高い役人の呼称である長吏が、江戸時代、賎民の束ねとしての長吏に貶められたカラクリが、「武士」が「サムライ」に殲滅された鎌倉時代に創られたのです。では、殲滅された「武士」は何処へ消えてしまったのでしょうか。
鎌倉時代、武士が、日本列島から全く居なくなってしまったのではない証拠に、百三十年後に、源氏武士足利尊氏は、1335年「サムライ」の北条政権打倒に立ち上がっていたからです。では、殲滅された「武士」は、どのようにして、「サムライ」支配の鎌倉時代を凌いでいたのでしょうか。
それは、「武士」が、北条政権の陰謀により世間的に抹殺されても、「武士」でいられたのは、それは、武士には、「武士のたましい」があったからです。
「たましい」とは、鬼が云う「魂」と漢字で書かれるように、鬼、つまり、仏敵が云う「モノ」であるのです。古来から、日本列島では、八世紀に藤原氏により発明された「天照大神」などの人工神ではなく、精霊は、「カムイ」「モノ」と云われていたのです。その聖なる「モノ」を、仏敵の鬼である武士は、「たましい・魂」と云っていたのです。
では、具体的に、「武士の魂」とは、何でしょうか。それを表現するひとつとして、片刃の反りのある「日本刀」があります。その日本刀は、実戦の武器ではなく、蝦夷であるチュルク系騎馬民族の武器の蕨手刀を改良した、武芸者である「もののふ」が、南インドから渡来した中臣族(藤原氏の祖)により発明された中臣神道により、前政権の神が封じ込められた神社境内で、前政権の神である怨霊を鎮めるための、祭祀具であったのです。
その祭祀具である日本刀を武器として、平安時代末期に平家・源氏により治外法権の寺内でおこなう仏教ビジネスは壊滅されましたが、鎌倉時代の北条政権下に復活した仏教組織が再び市・座を支配したため、賎民同業組合である「座」のバザールを武力で仏教勢力から護る者が現れるのです。それが、座を仕切る顔役の、「役座」であるのです。その役座が、仏教の仏でもなく、中臣神道の天照大神でもない、中国大陸の道教の薬草の神様である「神農様」を、何故、祀るのでしょうか。そして、その神農様は、「牛頭」と伝わるのです。
役座の「強気を挫き、弱気を助く」任侠道思想の多くが、「弱者擁護」の日本武士道と似通っているのは、それは、役座が武士の流れから派生したからです。
鎌倉時代、平氏北条政権に追い詰められた源氏残党は、それぞれの先祖の特性を生かして、武士から変身し、「サムライ」支配を打倒する時期まで、生き延びていくわけです。では、源氏武士残党は、どのような職業者に変身したのでしょうか。
源氏武士の前身は、「もののふ」である武芸者です。その武芸者の前身は、陸奥国の蝦夷で、太陽神ミトラの軍神を祀る新羅花郎軍団末裔と、北極星を祀る騎馬民族の突厥帝国軍末裔です。
新羅花郎軍団は、幅広の直線道路を各国の支配地に建設してきたローマ帝国傭兵軍末裔であるので、石切・土木建設技術を引き継いでいたのです。
騎馬民族国の突厥帝国では、タタラ製鉄技術を保持していたのです。それは、騎馬民族の歴史的始まりは、ヒッタイト帝国の鍛造鉄器製造技術により、馬を制御する轡(くつわ)を開発したことからと云われています。つまり、紀元前七世紀、騎馬民族スキタイは、家畜の馬を、騎馬することができる「軍馬」とするために、鍛造鉄器製造技術を、ヒッタイト帝国から習得したことにより、地上最強のスキタイ騎馬軍団として興隆できたのです。
サムライ平氏に追われる源氏武士残党は、それらの先祖から引き継いだ技術を生かして、神を祀る遊芸能民、鉄器製造技術の鍛冶屋、石切・土木建設者、そして、馬を使い物流関連の馬借民として変身するわけです。北条鎌倉時代、それらの源氏武士残党から変身した各種職能民は、王権に追われ定住できないため、闇の反体制の非常民として生き延びるわけです。
その反体制である非常民は、ことごとく北条鎌倉政権を脅かすのです。そのひとつが、幕府の地鎌倉での、相次ぐ不審火です。記録に残されているだけでも、1251年、1254年、1260年、1280年、1302年、1310年と続くのです。そして、1280年には、鎌倉の大火で、鶴岡八幡宮が炎上しているのです。更に、その度重なる不審火の大火の他に、大地震が頻繁に鎌倉を襲っていたのです。
そのような社会情勢が不安定な時代に、王権に追われた非常民の職能民は、それぞれの技術を、鎌倉幕府に搾取されている農耕民である常民に売ることで、暮らしを立てていたのです。
しかし、北条政権は、それらの闇の職能民が作る鉄製の農機具や、農作物の物流をつかさどる馬借人の働きなどが、常民である農民の生活基盤を支え、その結果、非常民と常民とが結託して、搾取者である平氏武家を優遇する北条鎌倉政権に反旗を翻さないように、非常民と常民とを分離するための謀略を考えるわけです。
そのひとつが、平安時代、錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人なり」をバージョンアップした、「騎馬民族はケガレている。」とする差別語「穢多」を否定するのではなく、鎌倉仏教僧の一部の者は、施陀羅の息子だと自ら名乗り、その「ケガレ」差別思想を、漢訳仏教思想などの知識が全くない庶民・農民に布教するのです。
北条鎌倉時代、この鎌倉仏教僧達が、施陀羅思想を、更に、強力に穢多思想として育ててしまったために、第三百済王朝の江戸時代に、士農工商・穢多非人の日本版カースト制度が完成してしまうのです。
騎馬民族を貶める最強武器である漢訳仏教の渡来は、日本列島の騎馬民族と農耕民族との権力闘争に、大いに影響を与えていたのですが、その渡来時期には謎が多いのです。
藤原氏が、「日本書紀」で主張するのは、552年(欽明天皇13年)です。しかし、百済系桓武天皇家が、「元興寺縁起」「上宮聖徳法王帝説」で主張するのは、538年(欽明天皇7年)です。これは、どういうことでしょう。仏教伝来時期が二つあることは、それは、その二つの仏教伝来物語が、ウソを付いているからです。
その根拠として、「日本書紀」にある、仏教伝来の記述がある文章、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。」は、「最勝王経」如来寿量品の「是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず。」を盗用したと考えられるからです。そして、その「最勝王経」は、552年ではなく、703年に漢訳されたものであったのです。
そして、538年百済仏教伝来を物語る、聖徳太子(厩戸皇子)の実在性を証明するための資料の「天寿国繍帳」にある干支は、百済系女帝持統天皇四年(690年)に採用された、新羅系天武天皇が崩御したため、唐国が日本列島の近畿地域を、持統天皇を傀儡として支配するために持ち込んだ、儀鳳暦によっているのです。
そのように、正史と言われる史料に仏教伝来の記述があるにもかかわらず、仏教伝来時期が不明なのは、南インド渡来の藤原氏にとっても、亡命百済貴族にとっても、その552年、或いは、538年に、どうしても、隠蔽しなくてはならない歴史があったからです。
それは、六世紀の河内湾に突き出た岬(後の上町台地)を基点として、古代エジプトの高度土木建築技術で干拓し、そこに建てた都市国家・秦王国の存在です。秦王国は、紀元前三世紀の中央アジアのギリシャ文化のバクトリア→始皇帝の秦国、そして、六世紀の朝鮮半島・秦羅(新羅)から北九州秦王国を経由して、奈良の宇陀の朱砂交易のために、近畿に進出してきたのです。
そして、その530年前後に、騎馬民族・突厥帝国の進駐軍団が、北東アジアから日本海を渡り、敦賀に渡来し、三輪山の麓に現れたのです。そして、突厥帝国軍は、防衛に適した、丘に挟まれた、川の流れる細長い土地に、軍事都市を築くのです。それが、飛鳥ヤマトです。
渡来した突厥部族(突厥とはチュルクの漢音語)は、その軍事都市飛鳥ヤマトに、祭祀場と共に、噴水のある石敷きの庭園、ガラス器工場、創薬工場、富本銭鋳造工場などを建設し、それらの製品を中国大陸に輸出することを考え、600年貿易使者としてソインコウを隋に派遣するわけです。
秦王国は、進駐突厥軍団の飛鳥ヤマトと同盟を結び、秦王国のある河内から大運河と幅十二mの直線道路を、飛鳥ヤマトに向けて建設するわけです。それは、三輪山麓のツバキ市の国際交易場への物流を増やすためです。そのツバキ市では、縄文時代から、宇陀で産出される朱砂の沈黙交易が行われていたのです。
その大運河と幅広の直線道路を建設するための前提として、河内から奈良盆地にかけて、巨大古墳を建設したのです。巨大古墳築造は、埋葬装置建設としてだけではなく、先住民に土木工事の仕事を与える公共事業の仕掛けでもあったのです。
608年この河内から、オリエントから渡来の秦氏の築いた大運河を利用して、ソインコウに伴われて、川船で都へ行った遣隋使裴世清は、そこで、「男王・アマタリヒコ」に謁見していたのです。その飛鳥ヤマトには、「日本書紀物語」で活躍する、女帝推古天皇も摂政厩戸皇子(後の聖徳太子)も物部氏も蘇我氏も存在してはいなかったのです。
戦国時代末期、豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追いやられた、騎馬民族末裔徳川家康は、その地を居住地にするために、秦氏末裔弾左衛門に命じて、神田山を切り崩し、そこに運河を掘らせ、その残土で、利根川の流れを変えた後、荒川が流れ込む河口の湿地帯を埋め、そこに海抜十mの人工山(近世の巨大古墳?)を築くのです。そして、徳川家康は、その人工山にエド(穢れ地→穢土→えど→江戸)城を築くのです。湿地帯を居住地に変えるため、大運河を掘り、その残土で湿地帯に人工山を築くアイデアは、六世紀の河内・奈良で、巨大古墳を築造したことにより生まれていたのです。
このオリエント渡来の秦氏と北東アジアから渡来の突厥帝国軍が、六世紀の奈良盆地を支配していた史実を隠蔽するために創作された「日本書紀」の物語が、物部氏の廃仏派と蘇我氏の崇仏派の宗教戦争物語なのです。その物語に出てくる難波の堀とは、オリエントからの国際交易港ローラン(後の浪速)の湊だったのです。
オリエント文化の飛鳥ヤマト時代を隠蔽するための、「日本書紀」による、その廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との宗教戦争物語は、「高僧伝」巻九の仏図澄伝からの租借です。
その物語では、後趙王の石虎が、王度が仏は「外国之神」であるから祀るべきではないと言ったのに、自分は辺境の出身者であるから戎神である仏を祀る、と述べているのです。
では、その宗教戦争物語の出演者の二氏の実態は誰かと言えば、それは、藤原氏が歴史上抹殺を希望する、物部氏は秦氏で、蘇我氏が突厥帝国部族であるわけです。しかし、実際は、秦氏と突厥帝国とは同盟関係にあったため、神仏戦争などするはずはなかったのです。何故かと言えば、仏の敵である「中臣神道の神」が発明されたのは、八世紀であるからです。そして、秦氏の神は、太陽神ミトラで、突厥帝国の神は、天神の北極星であるからです。
では、「日本書紀」の神仏戦争は何を物語っているのかと言えば、それは、645年飛鳥ヤマト王国の、唐進駐軍による壊滅です。
七世紀の東アジアでは、北の突厥帝国と南の唐国が、シルクロード交易の覇権をめぐり闘っていたのです。しかし、630年唐国は、北東アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた勢いで、645年日本列島の飛鳥ヤマトを支配する突厥帝国のコロニーを、奈良盆地のツバキ市で朱砂交易をおこなっていた、南インドから渡来した国際交易商人でもある中臣族の先導により、壊滅するわけです。
その頃の唐国には、シルクロードの商人達により、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、そして、漢訳仏教等が布教されていたのです。
勝利後、唐進駐軍は、飛鳥ヤマト政権を歴史上抹殺するために、前政権の宗教である、秦氏のミトラ教(景教=太陽の教え。キリスト教の祖)、そして、突厥帝国部族のソ氏(後の蘇我氏・蘇我氏一族は「日本書紀」物語により、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蔑称を付けられた。)の神・天神(北極星・太一)を祀る道教を、漢訳仏教で隠蔽するわけです。
何故、前政権の宗教を隠蔽するために、漢訳仏教が選ばれたかの理由は、それは、漢訳仏教は、ゾロアスター教、景教(太陽神のミトラ教)、そして、中国土着の道教の教義・儀式の多くを取り込んでいて、前政権の宗教と非常に似ていたからです。
漢訳仏教は、三世紀頃ナーガルジュナ(龍樹、180年〜240年)が、サンスクリット語仏典を漢訳したもの、と云われています。しかし、その漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が多くあったのです。
釈尊は、バラモン教のカルマを否定するため四姓平等を説いたのに、何故、漢訳仏典に騎馬民族差別語が多くあるのかは、それは、仏典訳者の龍樹が、インドを支配していた遊牧民族トラヴィダを貶めるために、アウトカーストの不可触賎民チャンダラー(施陀羅)を発明したバラモン教の僧侶であったからです。
では、一世紀に、ギリシャ文化国バクトリアの後継地・国際交易都市ガンダーラで発明された仏典は、何語で書かれ、どのような内容であったのでしょうか。そのヒントは、「法華経」と「聖書」の「マタイの福音書」とには、共通の物語が多く見られると言うことです。そして、その「新約聖書」は、ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で記述されていたのです。
漢訳された後、サンスクリット語仏典が全て焚書された理由のひとつは、そのサンスクリット語仏典と言われたものが、実は、ギリシャ文化国バクトリアを継承した、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで、ギリシャ語で著された仏典(聖書)であったことを示唆します。
唐進駐軍と中臣族は、392年ローマ帝国でミトラ教を乗っ取ったキリスト教徒がおこなったように、七世紀の飛鳥ヤマト、そして、近畿一帯で、同じことをおこなうのです。
それは、前政権の景教寺や道教の観の宗教施設を徹底的に破壊して、北九州から持ち込んだ仏寺を、その前政権の宗教施設跡に移築するわけです。ですから、現存する世界最古の木造建築と云われる法隆寺に隣接する境内から発掘された建築物遺跡は、南北軸の仏教建築思想とは異なり、南北軸から西に約二十度傾いていたのです。その訳は、太陽神を祀るには、冬至の太陽光が射す位置が重要だからです。その冬至とは、太陽が再生する誕生日であったからです。
北条政権の鎌倉時代、比叡山から排出された仏教僧は、常民達に仏の教えを説くのです。そのひとつに、阿弥陀様の教えがあったのです。この阿弥陀様は、瞬く間に常民だけではなく、「源氏武士残党」が、平氏の源氏残党狩りから生き延びるため紛れ込んだ、非常民の遊芸能民、鍛冶屋、石切、土木技術者、そして、馬借にも広がっていくのです。しかし、江戸時代、秦氏末裔島津氏が支配する南九州の島津藩では、その阿弥陀様の教えを禁止していたのです。
では、鎌倉仏教僧が宣伝する「阿弥陀様の教え」とはどのような教えかと言えば、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドの国際交易都市ガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
何故、島津藩では、阿弥陀様の教えを禁止していたのでしょうか。それは、島津藩は、表面上は秦氏末裔が支配していたのですが、実際は、藤原氏の主流近衛家が支配していたのです。つまり、島津藩は、イスラエル民族を祭祀士族のユダヤ民族のダビデやソロモンが支配したヘブライ国と同じに、実質祭祀者藤原氏が支配していたのです。
では、何故、島津藩は、阿弥陀様の教えを禁止したのでしょうか。それは、その阿弥陀様の教えは、「全てのひとは太陽の下で平等である。」、としていたからです。その平等思想は、権力者が武力で庶民を支配する封建制度では、革命の起爆剤となる可能性があるからです。
では、阿弥陀様とは、仏様であったのでしょうか。それは、違います。阿弥陀様はアミ様で、古代エジプトの唯一神・太陽神アトン(ヒッタイト帝国のミトラ神がエジプトで変身した神。紀元前十三世紀、この古代エジプトの唯一神・太陽神アトンから、ユダヤ民族の神・唯一神ヤハヴェが発明されたのです。)であったのです。
北条鎌倉時代、この阿弥陀様の教えが、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞により、常民に広がると、その全てのひとは太陽の下で平等である、との平等思想に同調した非常民(騎馬民族末裔の源氏武士残党)も、その親鸞の下に集まってくるわけです。
鎌倉仏教僧は、左手で「血・肉食の禁忌」思想により、それら禁忌事項と関係が深い「騎馬民族は穢れている。」と宣伝し、そして、右手で「悪人(施陀羅悪人ナリ=騎馬民族)でも成仏できる。」との平等思想を宣伝するわけです。
645年唐進駐軍と中臣族とにより、飛鳥ヤマト王国と共に壊滅された、河内の秦王国の秦氏は、淀川上流の桂川と賀茂川に挟まれた湿地帯に逃避するわけです。秦氏は、その湿地帯も、古代エジプトの土木建築技術により堤を築くことにより、居住地に変えてしまうのです。そして、その地が、景教寺(ミトラ寺院=蜂丘寺、後に広隆寺に改竄される。)のある山背国(秦王国)であるわけです。
奈良時代、琵琶湖よりの比叡山に、ローマ帝国傭兵軍がミトラを軍神としたように、太陽神ミトラの祭祀場(後に魔多羅神に改竄される。)を設け、馬冑・鎧馬に騎乗し、ロンギヌスの槍で武装した新羅花郎軍団と、短弓・蕨手刀で武装した突厥帝国騎馬軍団は、飛鳥・奈良を平城京の砦都市により支配する、柳葉刀や腰弓で武装する唐進駐軍・藤原氏軍(中臣族より変身)に対峙するわけです。
奈良時代末期、794年山背国は、唐進駐軍に支援された、663年唐・新羅により母国百済が滅ぼされてしまったため、日本列島に移民して来た亡命百済軍団により、壊滅され、そして、山背国(秦王国)と比叡山を支配していた秦氏一族は、再び、淀川河口の湿地帯に追いやられてしまうわけです。そして、その陸奥国に逃れた、新羅花郎軍団と突厥帝国軍末裔の敗残兵は、その後、蝦夷(ヒゲのある夷の意味)と呼ばれるわけです。
では、奈良時代に、唐進駐軍の下で権勢を誇っていた藤原氏はどのようになったかと言えば、平安京に遷都した亡命百済貴族の桓武天皇により、奈良貴族の文化娯楽施設の興福寺・春日社と共に、銅・水銀鉱毒にケガレた奈良の都に封じ込められてしまったのです。
794年秦氏の支配地山背国(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に支援された亡命百済移民達は、797年「続日本記」を、奈良時代に藤原氏が、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために創作した「日本書紀」を真似て、創作するわけです。
そして、亡命百済貴族が、日本皇室の祖であるとする、「皇・神・蕃」で民族差別する「新撰姓氏録」の完成2年前、812年秦氏末裔、「日本書紀」講義講師で万葉語学者・多人長は、同族である、それらの渡来騎馬民族によるオリエント文化の飛鳥ヤマト史を改竄した、藤原氏創作の「日本書紀」を否定するために、完璧な万葉語で「古事記」を著すのです。
因みに、「新撰姓氏録」では、藤原氏・亡命百済移民よりも古くから渡来して、淀川河口を干拓し秦王国を築き、そして、河内・奈良盆地に巨大古墳を築造し、大運河を削掘し、幅十二mの直線道路を飛鳥ヤマトまで敷設していた秦氏は、何故か「蕃族」の渡来人となっているのです。
「古事記」が、712年ではなく、812年刊行である理由のひとつは、平安時代に完成した完璧な万葉語で、「古事記」が記述されているからです。奈良時代の万葉語は、表音として漢字を利用し、各国の言葉を表現していたため、例えば新羅語の表音漢字などもあったため、表音漢字が特定できていなかったのです。
その「古事記」が、「日本書紀」が飛鳥ヤマトの歴史を抹殺・改竄した、と述べている根拠のひとつとして、天武天皇が「古事記」序文に登場するのに、その「古事記」の記述が、飛鳥時代に活躍したと伝わる女帝推古天皇で突然終わっているからです。因みに、「古事記」には「摂政聖徳太子・厩戸皇子」の記述はありません。
このことは、多人長が、サイファー式暗号解読法の、同じ文章は否定せよで、「飛鳥時代の女帝推古天皇までの「日本書紀」の記述を否定せよ。」、を実践したからです。
その飛鳥ヤマト時代は、女帝推古天皇や摂政聖徳太子(厩戸皇子)が活躍した仏教文化の時代ではなく、突厥帝国進駐軍とギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来した秦氏が活躍していたオリエント文化の時代だったのです。
江戸時代、その暗号解読法を知らない、中国・漢文嫌いの国学者本居宣長が、「古事記」奥付の712年を信じ、720年の漢文で記述された「日本書紀」よりも古い書物と信じてしまったのです。そして、「古事記」には真の日本国の原風景が記述されていると信じた結果、「日本書紀」の神話が、「古事記」の一元論記述よりも古い記述形式の二元論で表されているにもかかわらず、ギリシャ神話から租借した物語(国産み物語・天岩戸物語等)を、平安時代に完成した「ヤマト言葉」を飛鳥古代語と信じて、「古事記」神話物語を再構築して、1778年「古事記伝」上巻、1792年「古事記伝」中巻、そして、1798年「古事記伝」下巻に著してしまった結果、「古事記」により「日本書紀物語の飛鳥時代以前の歴史」を否定するための秦氏末裔多人長が意図したことと異なり、今日では、中国向けの「日本書紀」、国内向けの「古事記」との歴史的評価となってしまったのです。
そのことから、奈良時代の759年完成とする「万葉集」が疑われているのです。その奈良時代完成と云われる「万葉集」は、原著は表音漢字の古代新羅語(=郷札・ヒャンチル。ギリシャ・ローマ文化の新羅は、漢字を知らないために、訓読化した漢字で表記した言葉。日本語の訓も、古代新羅語の影響を強く受けた。飛鳥ヤマト時代、突厥軍との同盟国)であったものが、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷された菅原道真により、完璧な万葉語による「改竄作品」との説があるのは、そのためです。
そのように、古代史は、勝組の「日本書紀」「続日本紀」「新撰姓氏録」「万葉集」などの史料を離れて観ると、教科書歴史と異なる日本原風景が覗かれるのです。このことは、鎌倉仏教にも言えるのです。
教科書歴史では、鎌倉時代、鎌倉仏教により、平安時代の貴族相手の文化娯楽の仏教から、庶民相手の生活苦から開放する宗教が生まれ、そして、武士の圧政、地震雷の転変地変、そして、不審火による大火により苦しんでいた庶民は、その民衆相手の鎌倉仏教により救われた、との記述をしているのです。
しかし、その認識は、藤原氏が、薩摩藩と長州藩の源氏武士末裔の賎民軍団を利用して、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸幕府を倒した、明治革命で復活した明治時代にされたもので、その認識には、庶民とは常民の農耕民族のことで、非常民である徳川家康の先祖である騎馬民族や、織田信長の先祖である海洋民族末裔は含められてはいなかったのです。
江戸時代、明治維新後に創られた全ての庶民の味方であるとする、鎌倉仏教僧の代表である親鸞の思想実態を、与力の坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べているのです。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

そのように、江戸時代に悪評されていた親鸞像が、どうして、明治時代に全ての民衆を救う善僧に変えられてしまったのでしょうか。それは、北条鎌倉時代とは、第二百済王朝で、藤原氏により一年で僧籍に入れられ、遣唐使と共に唐に渡った錬金術師空海が唱えた「施陀羅悪人ナリ」を実践した、騎馬民族・海洋民族末裔の抹殺時代であったからです。
では、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、何故・どのようにして、平安時代に空海の発明した「施陀羅悪人ナリ」を、賎民穢多として創り出していったのでしょうか。
民族差別語の穢多の発生は、「サムライ」が支配した東国と、奈良仏教と平安仏教が支配した西国とでは、異なります。何故でしょうか。それは、騎馬民族や海洋民族が多く暮す東国では、騎馬民族や海洋民族を差別する漢訳仏教が盛んではなかったからです。
元々漢訳仏教は、国際交易商人と共に日本列島各国に伝播したもので、過疎地ではなく、王都を目指していたのです。鎌倉時代、東国はイズ(夷住→伊豆)と云われるように、王都ではなく、僻地であったのです。
北条鎌倉時代、西国の奈良の朱砂産出地の宇陀の崖に、仏像が現れるのです。その崖に描かれた仏像は、磨崖仏と云われるのです。何故、山奥の宇陀の崖に磨崖仏が現れたのでしょうか。
1274年北九州筑前に、突然大船団が現れるのです。しかし、夜半の大風(11月4日頃なので台風など起こらなかったとの説あり。)により、一部の船が座礁しただけで、残りの船団は何処ともなく消えていたのです。その事件を、教科書歴史では、「文永の役」と云い、元帝国軍の日本列島侵略海軍であるとするのです。しかし、座礁した船体からは、武器類ではなく、種籾の入った壷や農機具が沢山見出されたのです。
それから七年後の1281年にも大船団が再び北九州筑前と長門に渡来したが、一夜にして、大船団は何処ともなく消えてしまったのです。この事件を、教科書歴史では、「弘安の役」と云っているのです。
百済系嵯峨天皇(809年〜823年)から孝明天皇(1846年〜1867年)まで、錬金術師空海の発明した密教のダキニの呪文で、仏教思想で祀られていたものを、1868年明治革命後、亡命百済移民が支配した平安時代から、初めて明治天皇が正式参詣した伊勢神宮を、天照大神の皇神を祀る処とし、そして、国家神道を発明した明治新政府は、その二度の元帝国からの亡命船事件を、「神風」が吹く「神国ニッポン」と宣伝に使ったのです。
その伊勢神宮の地は、第三百済王朝の江戸時代(三代将軍家光〜十五代慶喜)に発明した、1635年からの参勤交代の行列は、穢れ地として、迂回していたのです。それは、伊勢神宮の前身は、663年母国百済を滅ぼし、更に、672年百済亡命近江王朝を壬申の乱で滅ぼした、685年新羅系の天武天皇が建立した道教の観で、その地は、飛鳥時代には、織田信長の先祖平家の祖が渡来した、赤旗をなびかせるアラブ・インドからの国際交易民族の支配地であったからです。
この明治革命で復活した藤原氏(近衛家)による、仏教から神道へのすり替えトリックに騙された道教の神・神農様を祀る役座は、神国ニッポンを信じて、鎌倉時代、新羅系源氏武士から役座に落とし込んだ張本人の百済系天皇家を、命を賭して護ってしまうわけです。
明治新政府から「神風」により撃沈と宣伝された、それらの座礁船からの遺留品から推測すると、それらの大船団は、日本列島の軍事侵略を主目的としたのではなく、一回目は、元帝国に完全支配された朝鮮半島高麗からの、少数の軍属と多数の貴族達が乗った移民船団、或いは、亡命船団で、二回目は、元帝国に滅ぼされた南宋国の亡命船団であった可能性を示唆します。
武器類ではなく、種籾や農機具を積んだそれらの大船団を、元帝国海軍船団だと主張したのが、何故、鎌倉禅宗組織だけであったのでしょうか。その謎解きのヒントは、鎌倉禅宗は、鎌倉幕府と南宋との日宋貿易に深く関わっていたのです。そして、その南宋は、その第二回亡命船団事件2年前の、1279年騎馬民族国家の元帝国により滅ぼされていたのです。
その第一回目の大亡命船団が、日本列島を訪れた一年後、1275年マルコポーロは、元帝国の世祖に会見しているのです。そして、1292年元帝国を去り、1299年神聖ローマ帝国で「東方見聞録」を著し、黄金の国ジパングを宣伝するのです。
鎌倉時代の日本列島は、マルコポーロが述べたように、黄金の国であったのです。それは、戦国時代の石見(島根県)の銀山から産出される銀が、十六世紀に南米銀が産出されるまでは、世界の銀の需要を満たしていたのが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。
その日本列島の銀山を開発したひとりが、平安時代の錬金術師空海です。全国各地の深山に空海の足跡が多く見られるのは、そのためです。空海が唐からもたらした密教法具と言われる独鈷杵・金剛杵は、実際は、鉱脈探索用工具であり、鉱脈堀の作業での「どっこいしょ・こらしょ」の掛け声から、登山での掛け声と変わってしまいましたが、本来の意味は鉱脈探索工具の独鈷杵・金剛杵の呼び名から出ているのです。
中世ヨーロッパでは、需要は絹製品から金・銀製品に変わっていたのです。それらの金・銀はヨーロッパで産出されないため、マルコポーロなど多くが宗教組織や国際交易民に混じって、金・銀の海外情報探索の目的で、僧形の情報収集者(スパイ)として、元帝国を訪れていたのです。
中世ヨーロッパでの金・銀の需要を満たすために、国際交易商人達は、鎌倉時代の日本列島を訪れていたのです。その中に、第一回亡命船事件の翌年、1275年元帝国の国使が、日本との交易を求めて国書を携えて訪れたのを、北条鎌倉幕府の軍事・外交顧問である鎌倉禅僧のアドバイスにより、北条鎌倉政権は、その国使を滝口にて切り殺していたのです。
それは、鎌倉禅宗組織が、中国大陸との交易を独占するため、元帝国と北条鎌倉幕府との国際交易を阻止するためだったのです。そのための布石として、鎌倉禅宗は、騎馬民族蔑視思想を多く含む「法華経」を布教する日蓮に、1260年「立正安国論」を書かせ、元帝国が攻めてくると宣伝させ、そして、1274年と1281年に渡来した大亡命船団を、「元寇」と偽り、虚偽の書物を著していたのです。
金や銀は、山から産出されます。その鉱脈が眠る近畿地域の山々には、北条鎌倉政権の六波羅探題の捜査網で、「サムライ」の平氏武家による源氏残党狩りにより、多くの源氏武士残党が隠れ住んでいたのです。歴史教科書では、その深山の部落を、平家落人部落としていますが、平家はアラブ・インドからの海洋民族であるので、深山で暮す技術はなかったのです。
その実態は、源氏残党狩りから逃れるために、源氏武士残党が、「平家落人」とした智慧であったのです。その証拠に、北条鎌倉末期、その「平家落人部落」から、多くの源氏武士一族が、騎馬により関東の源氏足利氏に集結し、北条鎌倉幕府を倒していたのです。
深山での鉱石採掘は、平安時代の錬金術師空海により、表向き山岳修行として、大規模に行われていたのです。山岳修行者が、「どっこいしょ。こらしょ。」の掛け声で登山し、鋼鉄製の重い独鈷杵・金剛杵を携えていたのは、仏教修行のためだけではなかったのです。
その深山での鉱脈探索作業では、当然、先住の山の民との争いが起こるわけです。そのために、その鉱脈が眠っている地域から、先住の山の民を追い出すために、外来者の入場を拒否する聖域をつくりだすために、山寺を建立するわけです。その山寺を砦として、表向きは山岳修行とし、裏では鉱脈探索、そして、鉱石の採掘をし、それらを山岳修行僧達が麓の寺に運ぶわけです。そして、山寺を建立できない深山の鉱脈地域から、先住民を追い出すための聖域を創り出す手段が、磨崖仏であったのです。
金山から採鉱された鉱石は、灰吹き法という技術で、金を精錬したのですが、その技術を日本列島に伝えたのは、禅宗僧であったのです。何故、禅宗僧が、錬金術に長けていたかと言えば、それは、禅宗とは、インドのヨーガと仏教思想が習合したものだからです。そのヨーガ行者の多くは、インドのバラモン僧であったのです。そのバラモン教では、宗教体験を高めるために、中枢神経を麻痺させる水銀薬を創薬するために、古くから錬金術を開発していたのです。
平安時代、そのバラモン教の水銀薬創薬の技術を唐で学んだ空海は、四国で銀山を開発し、それらの鉱石から水銀薬を創薬し、「京白粉」として、平安貴族に売り捌いていたのです。
北条鎌倉時代、山の民には、源氏武士残党だけが居たわけではありません。そこには、奈良時代より、唐進駐軍と藤原氏に追われた、ヒッタイト帝国の鍛造技術を持つ、タタラ製鉄をおこなっていた秦氏末裔と突厥帝国末裔の産鉄民族もいたのです。
タタラ製鉄を行うには、鉱石、或いは砂鉄、そして、多量の炭が必要なわけです。砂鉄は、川砂鉄と浜砂鉄があります。産鉄民族が、王権に庇護される時は、タタラ製鉄は、浜辺でおこなわれていたようです。浜辺に松林が多くあるのは、タタラ製鉄を行うためです。松は、高山性樹木です。その松が浜辺にあるのは、松から油分が多く含まれる炭が作れるため、産鉄民族が植林したからです。
しかし、王権が替わり、産鉄民族を敵視した場合、身を護るため、産鉄民族はタタラ製鉄を山奥でおこなっていたのです。この山奥に住む産鉄民族が、仏教組織により、山に隠れ住む「隠住→おに→鬼」とされてしまうのです。この採鉱のための穴掘り技術を持つ産鉄民族が、歴史上現れるのが、戦国時代の騎馬軍団の武田軍を支えた、金山衆です。
金山衆は、穴掘り技術だけではなく、タタラ製鉄、石切、石組、堀削などの高度土木技術を持ち、更に、騎馬により遠隔地と物流をおこなうネットワークをもっていたのです。この秦氏末裔の金山衆は、騎馬民族末裔の、景教のシンボル・マルタクロスを割菱にデザイン変えした家紋を持つ武田軍団が、1575年三河長篠の戦で、海洋民族末裔の織田信長により壊滅され、そして、1582年武田勝頼が自殺すると、騎馬民族末裔である徳川家康の配下となっているのです。
北条鎌倉時代、山の採掘権を仏教組織との争いで奪われれ、そして、仏教組織との戦いに敗れた産鉄民族は、タタラ製鉄技術の、火を治める技術者から、火治(ひじり)と言われ、その火治の民が、仏教組織の奴隷として、有髪の半僧半俗の「聖・ひじり」とされてしまうわけです。この聖には、薬草の知識があり、民衆の治療者として活躍していたのです。
仏教組織により、近畿地域の山々から追われた山の民は、東国を目指し、或いは、先祖の渡来地であった河内を目指すのです。その河内は、飛鳥時代には「秦王国」があり、平安時代中期には、河内源氏武士発祥の地であり、平安時代末期には、平家の陣地四国の屋島を急撃するために源義経が出陣した渡辺津が在った処です。
この北条鎌倉時代の近畿地域の勢力図は、京地域を亡命百済移民が支配する比叡山延暦寺、奈良地域を藤原氏が支配する興福寺、そして、多田源氏、渡辺党の武闘主力軍団を承久の乱で失った秦氏の河内地域があったのです。
この近畿地域の三勢力圏の渡来民族の順序としては、弥生時代渡来の秦氏の河内、飛鳥時代渡来の藤原氏(中臣族)の奈良、そして、平安時代に中国・唐から移民してきた亡命百済民の京であるわけです。しかし、最後に渡来した亡命百済民が、814年創作した「新撰姓氏録」では、百済移民は「皇族」で、藤原氏は「神族」で、そして、弥生・古墳時代、河内湾を干拓し、巨大古墳、大運河、幅十二mの古代高速道路を湿地帯の奈良盆地に建設していた秦氏は「蕃族」とされてしまったのです。
北条鎌倉政権と同調する、京の朝廷は、その河内に住む「蕃族」である秦氏末裔、そして、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国末裔を賎民として貶める行動に出るのです。その手段として、「ケガレ」思想の、仏教組織による布教です。そのための手先として、鎌倉仏教僧が利用されるわけです。
「ケガレ」思想は、奈良・平安時代中期までと、平安末期から北条鎌倉時代とは、異なる解釈がされていたのです。
明治革命後、明治新政府は、王政復興を宣伝するために、645年唐進駐軍と中臣族とによる、突厥帝国コロニーである飛鳥ヤマト政権を壊滅したことを、「大化の改新」と改竄することをを発明し、その虚構を繕うために、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の歴史を抹殺・隠蔽する手段を考え出すのです。
それは、平安時代、「オオミタカラ」である農耕民族文化思想で、オリエント渡来の秦氏の景教儀式である、太陽の化身である牡牛を屠る祭祀場を隠蔽するためのに、「塚→つか→じゅが→稲荷→いなり」の粗末な神社を建てて、牡牛を屠る祭祀場を稲の神様を祭る処と摩り替えたように、明治新政府は、奈良・平安初期での国家反逆行為の「ケガレ」、そして、平安末期から北条鎌倉時代の血・肉食の禁忌を守らぬ者を「ケガレ」としたものを、「木が枯れる→木枯→ケガレ」とし、農作物が枯れるの意味として解釈させようとしたのです。
奈良・平安時代中期までの「ケガレ」とは、国家に反逆する者が、「ケガレ」であったのです。しかし、平安末期から北条鎌倉時代にかけて、「ケガレ」の意味が変わるのです。では、どのようにして「ケガレ」の解釈が変わってしまったのでしょうか。
平安初期に錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、民族差別のカースト制度を発明したバラモン・ヒンズー教思想を基に発明した真言宗が、「施陀羅悪人なり」と唱える騎馬民族差別思想が、平安末期、京の賀茂川の葬送地ギオンを支配した、アラブ・インド渡来の平家が隆盛となり、船を山車にしてギオン祭りを行う頃、「ケガレ」思想は、国家反逆者から、「法華経」により仏罰者と宣伝されたハンセン氏病者や不具者そして、肉食・魚食する者達を「ケガレ」としていくわけです。
当然、平安末期の京では、ギオン祭りは葬送地の髑髏が原(後の六波羅)で行われ、魚食する海洋民族で、伊勢から進出してきたアラブ・インドから渡来した民族である平家一族がおこなうわけですから、「ケガレ」ているので、京の平安貴族達は、ギオン祭りを避けるために、その祭りの期間中、神輿違えとして、京から避難していたのです。
何故、平安末期から北条鎌倉時代に、「ケガレ者」が、国家反逆者から、ハンセン氏病者・不具者・肉食者・魚食者に変えられてしまったのでしょうか。
816年嵯峨天皇は、桓武天皇により奈良の都に封印された、藤原氏の流れにある藤原薬子が、嵯峨天皇政権の転覆を目論んだ810年の反逆行為に対して、今後の藤原氏の国家反逆の陰謀を封じるために、令外官として検非違使を設置するのです。
検非違使とは、国家反逆者の「ケガレ」者である藤原氏を監視、そして、反逆行為を阻止するため、平安京で公安・治安警察業務をおこなう、嵯峨天皇の私設警察であったのです。
嵯峨天皇は、亡命百済移民末裔であったので、その検非違使も亡命百済移民末裔から選抜させていたのです。この官僚を兼ねた検非違使が、天皇や平安貴族に侍り、秘書謙警護をしたことにより、「侍り→侍→サムライ」と云われていくわけです。ですから、「サムライ」は武装はしていても、武官よりも、文官に近い存在であったのです。しかし、武装する「サムライ」は、武人であっても、「武士」ではないのです。武芸者である「もののふ」から「武士」が発生するのは、939〜941年に起こった天慶の乱後であったのです。
検非違使は、令外官と言えども、嵯峨天皇直属であったので、その権力は強かったのです。その検非違使が、飛鳥時代、遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)の肩書きが長吏であったのに、その高級役人としての長吏の肩書きが、北条鎌倉時代には「賎民頭」としての蔑称とされたように、鎌倉時代、室町時代と時代が経ることにより、その地位が下がり、江戸時代には、賎民並みに扱われてしまうのです。
平安時代初期、その検非違使は、公安警察業務の実行者として、散所、別所、湯浅、垣内などの捕虜収容所に居た陸奥国の蝦夷捕虜を使うわけです。何故、蝦夷の捕虜を公安警察業務の実行者として、検非違使が使ったかと言うと、それは、平安京を祟る怨霊鎮めのためだったのです。平安初期では、怨霊は、同族の者でなければ、鎮めることが出来ないと、信じられていたからです。このことから、蝦夷とは、飛鳥ヤマトを支配していた民族と同族であったことが分かるのです。
百済系桓武天皇が、唐進駐軍の支援の下、794年秦氏が支配していた山背国(秦王国)を乗っ取る前に、桓武天皇は、新羅系天武天皇の最期の血を引き継ぐ井上皇后母子を謀殺し、更に、実弟早良皇子も謀殺していたのです。
平安時代末期、平家が政権を支配するまでは、日本列島には、怨霊が跋扈していたのです。しかし、平清盛が政権を握ると、地獄世界を吹聴する平安仏教思想の源であるバラモン教やヒンズー教思想を知っている、アラブ・インドから渡来の平家が、平安仏教が宣伝する仏罰や祟りなど信じていないため、南都仏教の拠点である興福寺・東大寺を全焼させ、そして、僧兵が担ぐ神輿に矢を射掛ける前までは、神仏の霊や、前王権の怨霊による祟りは、広く貴族だけではなく、庶民にも信じられていたのです。それは、巨大古墳を壊した跡に、平城京を遷都したことにより、数十年前の平城京が怨霊に祟られた事実(実際は銅・水銀鉱毒症)を記憶として留めていたからです。
宗教者は、眼に見えない自然現象や理論的に説明できない出来事を、自己に都合よく解釈して、良いことは神の御技として、悪いことは怨霊・悪魔の業と吹聴する歴史的傾向が、ヨーロッパにも、日本列島にもあったようです。
暗黒時代の中世ヨーロッパでは、十二世紀から始まった、ヨーロッパ諸国をキリスト教思想で支配したキリスト教会により、敵対する者に対する異端諮問が、十五世紀から十八世紀にかけては、魔女裁判となっていったのです。その結果、キリスト教徒による魔女裁判により、特殊な技能を持ったひとが魔女として認定され、魔女達は火で燃やされてしまっていたのです。その魔女狩りによる犠牲者の総数は、四万人とも云われているのです。
この中世ヨーロッパでの魔女狩りの発生は、日本列島の穢多狩りと同じ発生経過を辿ったようです。始めは、キリスト教が弾圧・抹殺した対象者がキリスト教国への反逆者であったものが、後には、魔女(魔男も存在した。)に替わっていったように、日本列島の漢訳仏教の弾圧対象でも、奈良時代の国家反逆者から、鎌倉時代の穢多(施陀羅)へと替わって行ったのです。では、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りが発生したのでしょうか。
宗教と言うと、俗界の世界と異なり、経済活動から分離され、純粋思想だけの世界である、と信じているひとも多くいるようですが、その見方は偏っています。
キリスト教も漢訳仏教も、その宗教組織は基本的に自ら生産活動はしないため、他者からの金銭的支援がなければ、存在できなかったのです。つまり、商人組織やお金持ちの王や貴族の金銭的支援がなかったら、今日のキリスト教も漢訳仏教も存在していなかったのです。
古代国家は、人民を奴隷として搾取するための組織構造として、支配者階級の貴族層を形成するのです。国王は、貴族をして、人民を統治したのです。異民族や人民を支配するために、その国王の権威付けとして、神の存在が必要とされるため、宗教儀式を行う祭祀者が、王権により利用されるのです。
その王国との交易を望む国際交易商人は、手先として文化娯楽或いは病気の治療者として宗教者を、目指す王国に送り込むわけです。そして、その宗教者は、それらの文化娯楽開催の見返りや各種の宗教儀式開催のお礼として、王や貴族より多大な寄付を受けるのです。
国家が貴族により運営されていた時期は、宗教組織は、その寄生する国家維持のために、国家に反逆する者を処罰する機構となるわけです。古代キリスト教国では、キリスト思想に反する者を裁くために異端諮問をおこなっていたのです。日本列島では、唐進駐軍により律令国家体制を維持できていた奈良・平安中期までは、漢訳仏教は、国家反逆者を「ケガレ」者として、国家鎮護のために働いていたのです。
392年ローマ民衆の支持を失ったエウゲニウスは、国内の混乱を鎮めるために、新興宗教組織のユダヤ教ヨシュア派を、キリスト教としてローマ帝国の国教に昇格させ、エウゲニウスの政治に批判的であった軍人を抹殺するために、ローマ帝国の軍神だったミトラ神を歴史上壊滅し、そして、更に、国王の権威を高めるために人間キリストを神に変身させようとするローマ帝国の国教となったローマ・キリスト派の企みとして、431年東ローマ帝国のエフェソスの公会議で、キリストの神性を認めないネストリウスは、異端とされるのです。そして、キリストの神性を認めないネストリウス派は、435年東ローマ帝国から追放されるのです。
歴史教科書では、この東ローマ帝国から追放された、キリストの神性を認めないネストリウス派キリスト教徒のペルシャ人オロボン(阿羅本)が、635年唐に伝えた宗教が、「景教」となった、と云っているのです。しかし、小高い山頂で太陽神の化身牡牛を屠る景教は、「太陽の教え」を布教する宗教組織なのです。その「太陽の教え→ミトラ神→マイトレーヤ→弥勒菩薩、太陽の教え→ミトラ神→アトン神→アミ様→阿弥陀仏」は、その七世紀のオロボンの唐への渡来以前の六世紀には、中国大陸から日本列島の北九州→河内→飛鳥ヤマトへの渡来ルートで伝わっていたのです。
つまり、キリスト教の教義・儀式の多くは、太陽神のミトラ教(景教)の教義・儀式を取り入れたもので、中国大陸で、ネストリウス派キリスト教が「景教」と呼ばれたのではなく、歴史的にはその逆で、ネストリウス派キリスト教が、先に中国大陸に渡来していた「景教」に取り込まれていたのです。
中世ヨーロッパでは、その国家を支えた貴族層が、革命により壊滅し、国王の支配する土地が各地の豪族の私有地となり、宗教組織が、裕福だった貴族層の献金援助が期待できなくなった時、自らお金を稼ぐ方法を考えなければならなかったのです。そのひとつが、各地の豪族の私有地て働く人民や奴隷による、賽銭箱にお金を投げ入れる献金という行為です。では、ひとびとは、何故、見ず知らずの神様に献金をするのでしょうか。それは、病気の平癒や悩み事の解消のためです。つまり、宗教組織にとって、病気は商売の種だったのです。
このことが理解できれば、中世ヨーロッパで、何故、魔女狩りがおこなわれたかの原因が分かります。それは、魔女として認定されたひとの多くは、小動物の内臓や薬草から「くすり」を創薬する技術を持った民間治療者だったのです。キリスト教会は、民間治療者である魔女を火炙りにする理由として、「治療に薬草を使う者は、ひそかにであれ公然とであれ、悪魔との契約によってそれを行っているから。」、としているのです。しかし、魔女と契約するその悪魔とは、キリスト教が発明したものだったのです。実際に、悪魔とは、反キリスト者達の神様であったのです。
中世ヨーロッパでのキリスト教は、「治療というのは、まじないや占いによってなされるものではなく、カトリックの司祭が明言し実践しているように、断食と祈りを通して主(しゅ・キリスト)にひたすら懇願することによりなされるのです。」と、病気をキリスト教の神への「祈り」で平癒できると主張し、商売敵の民間治療者から治療権を奪うため、悪魔の手下である魔女を発明したわけです。
穢多の差別語が発明された北条鎌倉時代の日本列島でも、病気の平癒は、中臣神道では、ユダヤ教儀式と酷似した、塩と水による御祓い儀式で、そして、漢訳仏教では、拝火のゾロアスター教から導入した護摩による加持祈祷だったのです。
何故、大坂の道修町と富山県では、薬商者が多いのでしょうか。それは、古来その地には、騎馬民族末裔が多く住んでいたからです。そして、騎馬民族末裔徳川家康が湿地帯を居住地としたエドでは、日本橋・人形町界隈は、騎馬民族の血が流れる徳川将軍二代目秀忠までは、騎馬民族末裔、穢多頭の弾左衛門の支配地であったのです。しかし、百済の血が流れる三代目将軍徳川家光(第三百済王朝)により、弾左衛門の支配地は、浅草寺裏の湿地帯に移されてしまったのですが、その日本橋界隈にも薬商が多かったのです。
役座が、何故、薬草の神様である神農様を祀るのかは、それは、役座の先祖が武士で、武士の先祖が蝦夷で、蝦夷の先祖が飛鳥蘇我王朝の武人であったからです。その蘇我王朝の軍団を組織していたのが、六世紀、日本海から敦賀に渡来した、北極星を祀る突厥帝国軍と、瀬戸内海を経由して河内に上陸した、ローマ帝国軍神ミトラを祀る新羅花郎騎士団だったからです。
騎馬民族が、何故創薬技術を持っているかと言えば、馬、牛、羊と共に連続する移動で、それらの病んだ動物の草による自然治癒を日夜観察していたからです。箕の傘とカッパの渡世人のスタイルで各地を放浪する薬草の神である神農様は、行く先々の草を口に食み、自ら治験を繰り返していた、との伝説があるほどです。更に、動物の解体が日常である騎馬民族は、人体の仕組みも理解していたからです。
1774年前野良沢と杉田玄白による、オランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を日本語版にした「解体新書」は、穢多頭弾左衛門の支配地小塚原で、騎馬民族末裔の穢多と言われる解剖者が行う解体作業を、それら両名は自ら執刀せず、側で見て原著を確認していた日本語による記録書であったのです。因みに、現代では尊敬されている医者、創薬業者は、平安時代(第一百済王朝)から江戸時代末期(第三百済王朝)まで、世間から賎民視扱いされていたのです。
第二百済王朝の北条鎌倉時代に、「源氏武士」が歴史上から消え、代わりに、穢多が発生するのです。しかし、日本列島において、その穢多の発生地域が限られていたのです。それは、北の北海道と南の沖縄には、民族差別の穢多の存在が認められないのです。何故そうなのかと推測すると、それらの地は王都ではなく、過疎地であるため、国際交易商人と共に行動する漢訳仏教が布教されていなかったのです。穢多の発生と、漢訳仏教とには大いに関係があったのです。
では、騎馬民族差別思想の弱い、「サムライ」が支配する東国と、騎馬民族差別思想の強い、漢訳仏教組織が支配する西国との、穢多の発生の違いは、どのように説明できるのでしょうか。
穢多の差別思想が、西国に比べ、東国の都である鎌倉で広まらなかったのは、それは、鎌倉は、漢訳仏教組織ではなく、禅宗に支配されていたからです。禅宗僧が、北条鎌倉政権の軍事・外交顧問を務めていることからも分かるように、鎌倉の地は、禅宗の支配地であったのです。ですから、聖徳太子を発明して「法華経」を宣伝する比叡山から放出された日蓮も親鸞も、鎌倉の地での布教は成功しなかったため、民族差別の激しい京都で布教活動をおこなっていたのです。
何故、禅宗が、騎馬民族差別に熱心ではなかったのかと言えば、それは、鎌倉の「武家」は、禅宗が中国大陸から輸入する書画骨董の主な販売先であったからです。そして、「漢訳仏典には空論が書かれていて、仏の道を説いてはいなかった。無駄な時間を費やしてしまった。」と、江戸時代の白隠禅師が述べていたように、禅宗では、騎馬民族の差別語の施陀羅が頻発する漢訳仏典の布教には、熱心ではなかったからです。
1206年即位した元帝国のチンギス汗が、東アジアの北方から南下するのを察知していた中国禅宗は、亡命先を源氏武士が支配していた鎌倉に求めたのです。それは、1216年鎌倉源氏武士三代目の実朝が、平氏の北条氏の陰謀を察知して、南宋の陳和卿を引見し、南宋亡命のために大船を造らせたことからも分かるように、源氏鎌倉幕府と南宋とには国際交易ルートを確立していたからです。
その実朝の鎌倉幕府を牛耳る北条氏からの脱出計画は、北条氏に露見してしまい、その三年後、1219年実朝は、「サムライ」の北条氏にそそのかされた公暁により暗殺されてしまったことにより、1192年から始まった源氏武士三代の短い源氏鎌倉政権が、ここに滅亡するわけです。
1279年南宋は元帝国に滅ぼされ、その結果、1221年承久の乱で、河内源氏武士団を壊滅させた北条氏が支配する鎌倉に、南宋から亡命してきた南宋僧の祖元は、鎌倉の地で禅宗を「武家」に広めるのです。武家も、騎馬民族差別思想を多く含む「法華経」などの仏典を布教しない禅宗の文化を取り入れ、禅宗寺を改良して、床の間と室内便所(雪隠禅師が持ち込んだため、屋内便所を「雪隠」と言った。)が設置された「武家屋敷」を建て、禅宗が中国から輸入した、山水画や壷などの書画骨董を、床の間に飾る文化が、関東の武家に広まるのです。
その東国に比べて、西国の漢訳仏教組織は、河内源氏の騎馬民族末裔を徹底的にイジメ抜くのです。
藤原氏の支配する奈良の興福寺では、源氏鎌倉時代、源氏棟梁源頼朝により、藤原氏の経済的拠点である南九州島津荘が取上げられてしまったことに対する報復です。
亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺では、663年新羅系の河内源氏武士の先祖が、母国百済を滅ぼしていた報復です。
源頼朝が源氏棟梁として統治した鎌倉時代初期に、西国の興福寺や延暦寺などの寺社領の荘園は、当然のように源氏武士により管理されていたのです。それは、飛鳥時代では、それらの近畿地域は、騎馬民族の支配地であったからです。
しかし、北条鎌倉時代、「サムライ」平氏北条氏と朝廷との陰謀の数々により、河内源氏の「武士」軍団が壊滅されてしまったため、源氏末裔は、賎民として貶められていくのです。
そのひとつの仕掛けが、飛鳥ヤマト時代の遣隋使ソインコウの官職であった長吏の貶めです。漢訳仏教組織は、「法華経」で仏罰者はハンセン氏病になると宣伝し、そのハンセン氏病者の世話を、秦氏末裔の賎民部落に押し付けるのです。これは、感染魔術となって、ハンセン氏病が、秦氏の長である長吏に感染し、その長吏も仏罰者のケガレ者となってしまったのです。
そして、漢訳仏教組織は、平安時代では天皇直属の検非違使の配下として、公安警察業務である怨霊鎮めの「もののふ」としての武芸者の「キヨメ」を、北条鎌倉時代には汚物処理の清掃業務の「キヨメ」とすり替えてしまうのです。
この平安時代の「キヨメ」業務を河内源氏がおこなったことにより、「もののふ」の武芸者が、939年平将門と藤原純友による平安政権転覆騒動を、武力で鎮圧したため、平安王朝から、「武士」として認めてもらえたのです。つまり、源氏武士は、河内から発生していたのです。
そして、清掃業務を行う「キヨメ」者を更に貶めるために、騎馬民族の肉食者を、錬金術師空海が宣伝した「施陀羅悪人ナリ。」から、施陀羅を屠者とし、戦闘で敵を殺す「武士」を屠者として、そして、「武士」の先祖が蝦夷であることを理由として、「武士」を俘囚末裔と宣伝し、漢訳仏教思想により、騎馬民族は穢れていると宣伝するのです。
漢訳仏教組織は、民族差別も商売に利用していたようで、昭和時代まで、高野山の真言宗のある寺では、「施陀羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たならば、このしんごんをとなうべし」と書かれたものを、「お守り札」として販売していたようです。
ケガレ(穢れ)の「穢」とは、祭儀のことです。しかし、その祭儀は、歌や踊りでの「祭り」ではなく、犠牲を捧げて行う祭儀のことです。
飛鳥時代、源氏の先祖の秦氏が、飛鳥ヤマトや近畿地域を支配していた時期、秦氏の祭祀者は、犠牲の牡牛を屠り、秦氏の神ミトラ(太陽神)に捧げていたのです。このことを、「日本書紀」では、皇極元年七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とあることからも分かるように、飛鳥時代では、犠牲により神を祀っていたのです。その犠牲による祀りは、百済系桓武天皇の命令により、延暦十年(791年)と延暦二十年(801年)に牡牛の屠殺を禁止していたのです。古代での犠牲は、鳥やイノシシではなく、「牡牛」でなければならなかったのです。何故でしょうか。
古代日本列島で、何故、秦氏の祭祀者が、牡牛を屠っていたかと言えば、古代エジプトからの祭祀儀式が、飛鳥ヤマトにも伝来していたからです。
紀元前十四世紀、古代エジプトで、アメンホテプ四世は、多神教の祭祀者の横暴を抹殺するために、宗教改革として、ヒッタイト帝国で祀られていた三神セットの太陽神ミトラを素材として、唯一神、太陽神アトンを発明するわけです。そのころの黄道は、牡牛座の時代だったので、太陽神の化身が牡牛となっていたのです。
その古代エジプトの宗教思想が、ヒッタイト帝国から出稼ぎに来たヨセフ族末裔のエフライム族により、カナンの地にもたらされ、エフライム族は、太陽神バアル(太陽神アトンが変身)と牡牛を祀ることになるわけです。
そのエフライム族を中心に十部族(イスラエル民族)が、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされると、それらの十部族は、太陽神を祀るために牡牛を屠る祭祀儀式と共に歴史上から消えてしまうのです。
紀元前一世紀、太陽の化身牡牛を屠る儀式は、太陽神ミトラを軍神とするローマ帝国軍に引き継がれ、地下の聖堂で、12月25日の太陽神の復活日に、牡牛は祭祀者により屠られ、犠牲として、太陽神ミトラに捧げられていたのです。
これらの古代エジプトからの牡牛を屠る祭祀儀式の渡来を証明する史料は、645年唐進駐軍と中臣軍により、飛鳥ヤマトの王国を壊滅した時に(明治新政府は、645年にオリエント文化から、唐の仏教文化に替わったことを「大化の改新」と改竄したのです。)、古代エジプトの書籍やオリエントの書籍が全て焚書されてしまったため、史料として証明はできません。
しかし、四世紀以降に、河内平野に突然現れた巨大古墳には、漢訳仏教思想では肉体は唯の魂の乗り物にすぎないとし死者は燃やしてしまい、中臣神道思想では死者は穢れているとし死直前の者は家屋から運び出され河や谷に投棄するのとは異なり、古代エジプトの埋葬思想と同じに、死者は蘇ると信じて、石室に石棺が納められていたのです。
そして、その石棺は、九州阿蘇山からもたらされた石材が多く使われて、その石棺の内寸は、古代エジプトの測量単位、肘から中指の先までの長さとするキュビット(約524ミリ)で割り切れるのです。
これらの古代エジプトの埋葬思想を基に築造された巨大古墳を、藤原氏やその末裔が支配する明治新政府は、歴代の天皇稜と宣伝し、藤原氏が創作した「日本書紀」で日本初の天皇とする神武天皇の天皇陵を、明治革命前後に築造していたのです。
ですから、巨大古墳の学術的調査は今日でもタブーなのは、朝鮮半島慶州の天馬塚古墳からギリシャ・ローマ文化色の強い数々の騎馬民族の遺品が出土したように、それら河内・奈良の巨大古墳を調査すれば、古代エジプトやオリエントから渡来の遺品や騎馬民族の遺品が出土する可能性があるからです。
更に、河内平野が干拓される前の、河内湾に突き出た岬(後の上町台地)は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小高い山)と云われていたのです。因みに、秦氏の渡来元の朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅では、ワタはパタとなり「海」で、ナベは鍋底状の「丸い山」を意味していたのです。
そのように「日本書紀」などの正史では見えないものも、視点を少しずらすことにより、その正史が隠蔽した史実が見えるようになるのです。そのひとつに、氏族名があります。「日本書紀」で女帝推古天皇の大臣とした蘇我氏とは何者であったのでしょうか。その蘇我氏の二代目蘇我馬子は、「日本書紀」では、592年その当時天皇はまだ存在していないのに、崇峻天皇を謀殺したことになっているのです。日本国初代天皇は、672年即位の天武天皇からです。因みに、天皇(テンノウ)とは、騎馬民族の神である天神(テングリ)から発明されたものです。
簒奪王権は、前政権の歴史を抹殺・隠蔽することができなかった場合、歴史の改竄をおこなう傾向があるのです。その改竄の手段のひとつとして、神話の創作があります。「風土記」の創作は、前政権の歴史改竄の手段であったのです。
漢字二文字の人名・地名表記は、713年好字令以降であったのです。各地の「風土記」は、前政権の歴史を改竄するために、この漢字二文字表記で記述していくわけです。
では、当時の蘇我氏は、何と呼ばれていたのでしょうか。そのヒントは、607年遣隋使に任命された、日本名小野妹子です。「随書」では、その遣隋使はソインコウと記述されていたのです。では、ソとは何を意味しているのでしょうか。「ソ」とは、古代新羅語では、「牛」のことです。
その「ソ」が牛を意味しているのなら、蘇民将来の「蘇民」とは、ソ民で、「牛族」と言うことです。そして、屠蘇とは、「牛乳」のことです。そう云えば、醍醐とは「チーズ」の意味であったのです。
そのように古代新羅語でヤマト言葉を解読していくと、「牛頭」とは、古代新羅語の発音では「ウドゥ」で、日本式発音では「ゴズ」です。しかし、「頭」には古代新羅語の発音では「モリ」とも言うのです。つまり、牛頭は、古代新羅語の発音では、「ソッモリ」と言えるのです。では、この「ソッモリ」を、日本神話で調べると、スサノウ神話では、高天原から最初に降臨した処が「曽尸茂梨・ソシモリ」だったのです。では、その地は、日本列島であったのでしょうか。
古代新羅の国号は、斯(サ)です。「斯」の日本語発音は「ソ」です。つまり、「ソシモリ」の「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅国のことであったのです。この「ソ」が、「斯」で古代新羅のことで、そして、その「ソ」が、「牛」の意味もあることから、チンギス汗と同じ家紋の笹竜胆を部族の印とした、出自不明の源義経の幼名を「牛若丸」、と創作した意味が分かるのです。
それは、その「牛若丸」の「牛・ソ」とは、古代新羅の「斯」の意味でもあり、源義経を鎌倉源氏棟梁源頼朝の異母兄弟と作為するために、源義経の幼名を「牛若丸」と創作した作者は、河内源氏武士は、古代新羅から渡来した新羅花郎騎士の流れであることを知っていたからです。
その古代新羅から渡来した民族が、秦氏です。この秦氏末裔が、北条鎌倉時代に、賎民として、穢多としてイジメられていくのです。では、どのようにして、秦氏が賎民に貶められていったのでしょうか。
1333年山奥の「平家落人部落」から出陣した源氏武士は、源氏棟梁の足利尊氏の下に馳せ参じ、北条鎌倉幕府を武力で倒し、ここに第二百済王朝が壊滅するのです。そのことにより、平氏の北条政権にイジメられていた、秦氏末裔の遊芸者として渡世していた観阿弥・世阿弥親子は、源氏武将の足利義時に認められ、能楽を完成させ、1402年世阿弥は、「風姿花伝」を著し、能楽について語るのです。その「風姿花伝」で、能楽の祖は、秦河勝と述べているのです。
秦河勝とは、百済仏教伝来物語では、架空の聖徳太子の忠臣として描かれていて、聖徳太子から請けた、弥勒菩薩を安置するために、山城国に広隆寺を建てたことになっていたのです。そして、能楽の祖秦河勝は、世阿弥が「風姿花伝」で述べているように、能楽は猿楽から生まれたもので、猿楽者でもあったのです。
では、その猿楽とは何んなのでしょうか。猿楽の「猿」は、蔑称です。歴史上にその「猿」が現れるのは、秦氏末裔の万葉語学者の多人長が、812年に著した「古事記」の「天孫降臨」の条です。そこには、「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。ここにいるのは、天っ神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参ったのです。」、とあるのです。では、この国っ神と天っ神の正体は何でしょうか。
「日本書紀」の仏教伝来物語では、新来の蕃神の仏を祀ると、国っ神が怒るから、仏を祀ることは出来ないとする廃仏派物部氏が、蕃神の仏を祀ることにした崇仏派蘇我氏に敗れたことにより、仏教が日本国に伝来した、としているのです。では、その「日本書紀」での国っ神とは、「古事記」で述べていた猿田彦神のことなのでしょうか。
教科書歴史では、神社は日本古来からの神を祀る処と教えているようですが、「日本書紀」で述べている蕃神の仏が渡来する552年以前に、その神社に祀られていた神が、国っ神だったのでしょうか。それは、違います。何故ならば、神社は、仏寺の後に建てられたものであるからです。歴史的に証明できる神社(宮)は、奈良の御蓋山麓の前政権の祭祀場跡に、神護景雲二年(768年)に築造された春日社が始めなのです。
では、「日本書紀」にある、皇極元年(641年)七月二十五日条に、「雨乞いのために、村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺して、もろもろの社の神を祭(いの)る」、とある牛馬を屠る宗教儀式は、神道儀式であったのでしょうか。それは、違います。中臣神道では、死穢は禁忌で、塩と水の御祓いにより、悪霊を除去し、神を祀っていたのです。では、その牛馬を殺して神を祭(いの)った宗教とは何なのでしょうか。
そこで、秦氏末裔の多人長による「古事記」の「私は国っ神で、名は猿田彦神と申します。」の暗号文が解けるのです。それは、蕃神の仏の渡来を阻止したのは、物部氏ではなく、国っ神である猿田彦神であったのです。その猿田彦神は、社で牡牛を屠り、猿田彦神の国っ神を「穢」の犠牲により祀っていたのです。
その根拠は、物部氏の氏名が発明されたのは、「日本書紀」での587年の物部守屋と蘇我馬子との宗教戦争から126年後の、713年以降であったからです。では、神仏戦争物語で、河内国を本拠地とする廃仏派の物部氏とは、誰のことだったのでしようか。それは、河内に「秦王国」を構えた秦氏のことです。秦氏を、秦→しん→申→さる→猿、とすると、猿田彦とは、秦氏のことであったわけです。そして、猿田彦の「彦」とは、「ヒコ」→日子で、太陽の子孫の意味です。ですから、「猿田彦」とは、「太陽神の子孫の秦氏」、と言う意味になるのです。
では、物部氏の「物」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「物」は「モノ」で、それは古代日本列島では、霊、魂、精霊を意味していたのです。つまり、物部氏とは、それらの精霊を司る「呪術性を持った部族」のことで、秦氏の祭祀氏族であったのです。
では、その仏教伝来物語の物部氏と蘇我氏との神仏戦争は、何を語っていたのでしょうか。それは、645年の蘇我王朝(穢の祭儀)と唐進駐軍・中臣軍(仏の祭儀)との、牡牛の屠り儀式と念仏の儀式との宗教戦争だったのです。
その宗教戦争に勝った唐進駐軍と中臣軍は、645年勝利宣言として、仏教興隆の詔を発していたのです。そして、勝者の唐進駐軍と中臣軍は、秦氏の支配地であった河内の秦王国の国際交易港の難波(なんば←なにわ←浪速←ローラン)に、占領軍の砦として、仏寺の四天王寺を建立するわけです。
「古事記」の文章を斜め読みすることにより、「日本書紀」の記述が暴かれるのは、それは、秦氏末裔多人長が、「日本書紀」の講義講師であったので、日本列島の乗っ取りを企む藤原氏による、「日本書紀」の偽書性を見抜いていたからです。更に、平安初期、山背国(秦王国)を乗っ取った百済系桓武天皇は、その「日本書紀」の新羅事跡を改竄し、そして、百済史を挿入する改竄を行っていたのです。
多人長が「古事記」を著した理由は、その「日本書紀」による飛鳥ヤマトの偽歴史を暴くためだったのです。つまり、「古事記」は、「聖書」の偽書性を暴いた「ヨハネの黙示録」と同じに、「日本書紀」の偽書性を暴くための「黙示録」だったのです。そのために、「古事記」の記述文章は、「日本書紀」の飛鳥時代の女帝推古天皇までの注釈文章の全てに対応して書かれているのです。
このことからも、「古事記」が、720年「日本書紀」よりも前の、712年に完成していない根拠のひとつになっているのです。日本列島の乗っ取りを企む藤原氏が、先住者の秦氏の歴史を抹殺するための偽書が「日本書紀」だったのです。
奈良時代、唐進駐軍の軍事支援の下、奈良盆地を支配していた藤原氏は、その独善性により、唐進駐軍から排除され、その代理とした亡命百済移民を支援して平安王朝を築くわけです。しかし、907年母国唐が滅亡したため唐進駐軍の軍事力が衰えたため、奈良の都に封印されていた藤原氏が、再び暗躍するわけです。
そして、復活した藤原氏は、亡命百済貴族を天皇とした平安王朝を、藤原氏の手先の錬金術師空海が発明した真言密教儀式で牛耳るわけです。その平安王朝を支配するには、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏が邪魔となるわけです。
そして、飛鳥ヤマトで「穢の祭儀」を行っていた祭祀者達を、貶めるために河原に追いやるわけです。しかし、秦氏の祭祀者は、その河原で祭祀儀式を行うのです。この河原での祭祀儀式から芸能が発生するわけです。その河原での芸能は、「穢」の流れにあるため、呪術性が強く残っていたのです。
その秦氏末裔の芸能民の呪術性を抹殺する手段として、インドのバラモン教から肉食民族を貶めるためのケガレ思想を導入して、国家反逆としての「ケガレ」を、汚わいの意味の「穢れ」と摩り替えていくのです。そして、屠者の意味である施陀羅を、「穢れが多い」の意味で、「穢多」とするのです。つまり、ミトラ教の太陽神の化身牡牛を屠る秦氏の祭儀を、「穢れ」とし、その犠牲を行う民族である秦氏末裔を、「穢れ者」とするわけです。
このケガレ思想をバックアップしたのが、血と肉食の禁忌思想であるのです。そのために利用されたのが、漢訳仏教です。その漢訳仏教の無数にある仏典には、騎馬民族を貶める差別語が沢山あったからです。
北条鎌倉時代、その騎馬民族差別語が多くある仏典を、比叡山延暦寺で学んだ鎌倉仏教僧は、禅宗が支配する東国ではなく、漢訳仏教の支配地の西国で、その騎馬民族差別思想を庶民に布教したため、西国での民族差別が、東国よりも強くなっていたのです。
しかし、源氏の復活により、北条鎌倉幕府が倒れると、賎民と言われた芸能民達は、その室町時代の源氏政権下で、古来の技術を開花させていくのです。それらが、能楽、造園、茶道、華道などの伝統日本文化と言われるものです。
しかし、戦国時代末期、イエズス会から寝返った、藤原氏の傀儡となった関白豊臣秀吉は、秦氏末裔を再び賎民として貶めていくのです。その差別が最も強かったのが大坂です。大坂は、古来「秦王国」の地であったからです。そして、河内源氏発祥の地、ワタナベ(岬の意味)を穢多村とし、淀川河口の湿地帯に追いやるのです。それと同時に、豊臣秀吉の宿敵・騎馬民族末裔徳川家康も、三河から関東の荒川河口の湿地帯に追いやるのです。
しかし、古代、飛鳥ヤマトと河内平野を支配していた秦氏は技術集団部族連合であったので、古代エジプトの高度土木技術、ヒッタイト帝国の鍛造タタラ製鉄技術、ギリシャ文化継承の祭祀儀式と芸能、そして、突厥民族(チュルク)の馬での物流による商業技術を保持していたため、簒奪王権の武器である漢訳仏教思想による、施陀羅や穢多などの差別思想に挫けることなく、徳川三代目将軍家光から始まる、逆境の第三百済王朝の江戸時代を生き抜くのです。
608年遣隋使裴世清が見た「秦王国」の都市国家が、日本列島の歴史から消えたのは、騎馬民族末裔徳川家康により大坂穢多村(秦王国)から呼び寄せられた秦氏末裔と共に、湿地帯のエドを開拓し、そして、徳川家康の私設公安・治安警察(江戸時代版の検非違使→役座)として働いた先祖から第十三代目の穢多頭弾左衛門が、浅草寺裏の新町(=秦町・江戸幕府からの治外法権の自治町。穢多身分のための役所を構えていた。税制も幕府と異なり、独自に人頭税を徴収していた。)で幕末を迎え、そして、「弾直樹」と改名した、1868年明治維新であったのです。
そのような裏面史が理解できれば、江戸時代の役人の縄が不浄と云われた歴史が理解できるのです。
1600年関が原の戦いで、騎馬民族末裔徳川家康が勝利すると、徳川家康は、関白豊臣秀吉により穢多と貶められた、大坂の穢多村の住民を役人として引き立てるのです。これは、織田信長が、1568年足利義昭を奉じて入京した時、賎民余部を配下として取り立てたことに通じます。それは、騎馬民族末裔の徳川家康も海洋民族末裔の織田信長も、仏敵の鬼の末裔であったからです。
北条鎌倉時代、1221年承久の乱の陰謀により、河内源氏武士の支配から解放された漢訳仏教組織は、西国の寺社領を拡大するために、北条氏と朝廷の陰謀により壊滅された源氏武士団末裔を部落に押し込め、寺社の奴隷である犬神人としていたのです。
その西国での賎民部落の中心として、平安仏教の比叡山延暦寺が支配した清水坂部落と、奈良仏教の興福寺が支配した奈良坂部落があったのです。この二つの部落は、京における仏教ビジネスの利権を廻り、度々戦争を繰り返していたのです。その寺同士による戦争の主役は賎民で、賎民の犬神人と言えども、以前は源氏武士末裔であったので、その戦闘力は、農耕民を凌いでいたのです。
豊臣秀吉が、古代の「秦王国」末裔、上町台地の大坂の住民を、不可触賎民の穢多に貶めた理由は二つあります。
そのひとつは、その大坂の住民の戦闘力だったのです。それは、イエズス会が企む東洋一の国際商業都市大坂の支配権争奪のための石山合戦での、一向宗(浄土真宗)と、イエズス会傀儡軍の織田信長軍団との十年戦争を、羽柴秀吉(豊臣秀吉の前名)が体験していたからです。
その一向宗の戦闘部隊には、源氏武士の流れを引き継いだ穢多軍団がいたことにより、イエズス会から提供された最新式銃で武装した織田信長軍団の攻撃をかわせたのです。それは、穢多とは秦氏の末裔であったので、巨大古墳築造の飛鳥時代から伝承されていた古代エジプトの石切・土木建築技術による深堀と、石材の防御壁により、織田信長軍団による最新銃の攻撃を十年間も防ぐことができたのです。この秦氏末裔の穢多の組織的戦闘技術を、豊臣秀吉は恐れたのです。
そして、もうひとつの理由は、羽柴秀吉から改姓した、「豊臣」にあったのです。
イエズス会の傭兵として出世した羽柴秀吉は、本能寺での織田信長の爆殺後、イエズス会の衰えを確認すると、南九州から京への火薬の密貿易で勢力を盛り返した藤原氏(近衛家)の養子となり、一時藤原姓を名乗ったのです。しかし、何故か、豊臣姓に替えていたのです。それは、何故でしょうか。
羽柴秀吉が、イエズス会の影響下にあった、1583年大坂城を修築し、大坂に城下町を建設する時、その一等地にイエズス会の教会建設の許可を与えていたのです。このことに対して、イエズス会のスパイであるフロイスは、「かって大坂の街が、日本中で極悪の宗派のひとつであ一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のために、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである」と、「フロイス日本史」に記していたのです。しかし、権力志向の羽柴秀吉は、イエズス会から藤原氏に寝返るのです。
出自不詳の羽柴秀吉は、権力欲が人一倍強かったようで、日本列島の歴史を「日本書紀」で改竄して君臨していた藤原氏の姓に飽き足らなかったのです。そこで、藤原氏の上をいく姓を見つけたのです。それが、「豊臣」姓です。「豊臣」とは、「豊国」の臣(配下)と言う意味です。では、北九州にあった「豊国」とは、歴史上どのような国であったのでしょうか。
「豊国」は、630年唐帝国が、北東アジアを支配していた騎馬民族の東突厥帝国を滅ぼした後、645年東突厥帝国のコロニーである飛鳥ヤマトの王国を滅ぼした唐軍により、日本列島を支配するためのテクノロジーである律令制度が施行される以前の、北九州の宇佐八幡のあった処の国のことです。
その唐進駐軍が渡来する前、つまり、「日本書紀」を創作した藤原氏が、藤原氏でなかった時代の「豊国」の臣下であれば、歴史的にも、階級的にも藤原氏より上位である理屈です。そこで、羽柴秀吉は、豊臣姓を発明し、豊臣秀吉と名乗ったわけです。
では、その宇佐八幡のある「豊国」とは、史実としては、どのような国だったのでしょうか。その謎を解くヒントは、宇佐八幡の「宇佐」(ウサ)にあるのです。その「宇佐」とは、漢字二文字は、オリエント文化の飛鳥時代を隠蔽するために、713年以降に発明された表記であるので、宇佐の二文字地名は、713年以降に発明されたものであることが分かるのです。では、「宇佐」の以前は、何と呼ばれていたのでしょうか。
713年以降、唐進駐軍にコントロールされた奈良朝廷により、各国の豪族に、「風土記」の編纂を命じ、その地の歴史を漢字二文字の人名・地名で表記させたのは、それ以前の人名・地名を抹殺、或いは、隠蔽するためだったのです。ですから、713年以前の歴史を知るには、二文字の人名・地名を否定する必要があるのです。では、どのようにして古代史を復元するかといえば、そのひとつの方法は、二文字漢字をカタカナに表記しなおし、そのカタカナの人名・地名を分解し、整理することです。
その「宇佐」を分解すると、「ウ」と「サ」です。その「サ」に対応するのは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅です。
古代新羅の国号は、斯(サ)と言われていたのです。そして、「斯」の日本語発音は「ソ」です。「ソ」「サ」の付く二文字漢字の地名を九州で調べると、「宇佐」の他に「阿蘇」が見つかります。その阿蘇山から産出された石材は、四世紀から出現した、河内平野の巨大古墳の石棺に使われていたのです。
では、八世紀以前の北九州を描写した史料はないかと調べると、「随書」に行き着くのです。「随書」には、大業四年(608年)の記事として、

文林郎裴清(日本史料では裴世清)を倭国に遣わすに、百済を渡り、行きて竹島に至る。一支国に至る。また、竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏と同じ。以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より東みな倭に付庸す。

この「隋書」の文章からも分かるように、「日本書紀」には四世紀から万世一系の天皇家が統治する「大和朝廷」が存在していたと記述していますが、七世紀の日本列島には、「倭国」はあっても、「大和朝廷」などなかったのです。ましてや、「日本国」もなかったのです。そして、七世紀の飛鳥ヤマトには、「日本書紀」が述べているように女帝推古天皇も聖徳太子(厩戸皇子)もいなかったのです。
七世紀の飛鳥ヤマトに居たのは、遣隋使ソインコウ(ソ→斯→古代新羅。ギリシャ・ローマ文化の「新羅のインコウ」)と倭国男王アマタリヒコ(アマ→天→天子・テングリ→「騎馬民族の王タリヒコ」)であったのです。
では、その七世紀の日本列島の九州にあった「豊国」と云われる国は、一支国とは壱岐島のことで、その次の竹斯国は筑紫国であるので、その東が「隋書」で述べられている「秦王国」であるならば、日本史で言うところの「豊国」と「秦王国」とは地理的に一致するわけです。つまり、「豊国」とは、奈良王朝により、ギリシャ・ローマ文化の「秦王国」を抹殺・隠蔽するために発明された国名であったのです。
秦王国(豊国)が、蘇我王国(大和朝廷)よりも歴史的に古いことは、神護景雲3年(769年)の「道鏡事件」で、和気清麻呂が、藤原氏の歴史では皇室の祖神を祀っていたと云われる「伊勢神宮」ではなく、北九州の秦王国にあった「宇佐八幡」へ、神託を受けに行ったことでも証明できます。
もしも、伊勢神宮が、日本古来の皇室の祖神を祀っていたのならば、何故、朝廷の命により、伊勢神宮よりも遥かに遠い、北九州の宇佐八幡まで神託を受けに行ったのでしょうか。それは、769年時点では、685年に新羅系天武天皇が、道教思想により建立した「観」を、藤原氏が徹底的に破壊し、その跡に伊勢神宮を新設したにもかかわらず、天武天皇の、牡牛を屠る犠牲により祭祀をおこなう道教の観の影響が、未だ消えていなかったからです。
そして、北九州の筑紫国には部族名の物部(物部とは、秦氏を抹殺・隠蔽するために、713年以降に発明された部族名。)が多く住み、そして、巨大古墳が築造される時期に、河内を中心に近畿ヤマトにも物部(秦氏)が多く住んでいたことは、「秦王国」の、北九州から近畿ヤマトへの移動が示唆されるのです。
その根拠として、その北九州の「豊国」、つまり「秦王国」であった処の戸籍を記した、大宝二年(702年)に編纂された正倉院文書の「豊前国戸籍」には、仲津郡(現在の行橋市付近)の丁里(村名)の人口404人のうち、秦部姓と勝(スグリ・古代新羅での村長)姓が、377人と記述されていたのです。
つまり、羽柴秀吉は、唐進駐軍に軍事支援された中臣軍(後の藤原氏)が、近畿地域を支配する以前の近畿地域は、「秦王国」(日本史では「豊国」)が支配していたことを、何らかの方法で知っていたのでしょう。
藤原氏の上を行く豊臣秀吉が、豊臣秀吉でいられるには、古代エジプトの唯一神・太陽神アトンを唯一神ヤハヴェと改竄し、導入したユダヤ教成立の秘密を知っているイスラエル民族を、ユダヤ民族が不可触賎民サマリア人としたように、「豊国」の秘密を知っている「秦王国」末裔を、藤原氏と豊臣秀吉は、歴史上抹殺しなければならなかったのです。そのために、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉によるその手段が、河内を含む大坂を支配していた「秦王国」末裔を、人間交わりが出来ない異民族賎民のアウトカーストの「穢多」にしたわけです。
1591年関白豊臣秀吉は、その「秦王国」末裔である河内源氏武士の流れにある河内平野に暮していた、鎌倉時代に親鸞が宣伝した阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトン→アミ様)を信じた住民を、農耕民と分離するために、全国の戸口調査をおこない、「士農工商」の身分法を定めたのです。この豊臣秀吉による、日本刀(騎馬民族・突厥帝国軍の蕨手刀から改良した刀)と槍(ロンギヌスの槍)で武装した野武士と農耕民とを分離する身分法が、第三百済王朝の江戸時代に発明された、日本版カースト制度の「士農工商・穢多非人」の基礎となるわけです。
1614年大坂冬の陣、そして、翌年1615年大坂夏の陣で、秦氏末裔の高度土木技術を持った元武田騎馬軍団臣下の金山衆や河内源氏武士の流れにある一向宗敗残兵に支援された徳川家康は、宿敵豊臣家を滅亡させるのです。
その後、徳川家康は、豊臣秀吉により徳川家康を三河から穢れ地のエドへ移封したこと、騎馬民族の同族を穢多身分へ貶めたこと、そして、先祖秦氏の渡来元の朝鮮半島での蛮行の数々等に対して、豊臣秀吉を神として祀る墓を暴き、そして、その豊臣秀吉の遺骨を何処へと散逸させるのです。
しかし、第三百済王朝の江戸時代中期以降では、出自不明の豊臣秀吉の出自を創作した物語で、その幼名が日吉丸(ひよし→イルギ。百済系か?)と云われていたことからも分かるように、豊臣秀吉は第三百済王朝の江戸時代中期には庶民に人気があったのですが、朝鮮半島の韓民族から極悪人と評価されていた豊臣秀吉が、藤原氏が復活した明治維新により、中臣神道と共に復活し、豊臣秀吉は神となり、豊国神社に祀られているのです。
1616年源氏棟梁の徳川家康は、戦国末期に公家(北条鎌倉時代の「武士」を取り込んだ「サムライ」社会が「武家」と称したことに対して、京の亡命百済貴族を皇族としていたものが、藤原氏が皇族に取り込まれると、「公家」と称した。)と結託したイエズス会組織により爆殺された織田信長のように、歴史教科書ではテンプラの食べ過ぎとなっているようですが、毒殺されるのです。その暗殺グループの一員として考えられるのが、藤原氏の傀儡の、明智光秀の流れを継ぐ、お福(後の春日局)です。
1582年織田信長が、本能寺で爆殺された理由のひとつは、イエズス会の日本国渡来の第一の目的であった、日本国を支配するために、京を支配していた比叡山延暦寺と大坂を支配していた石山本願寺との、日本列島の商業経済を牛耳っていた漢訳仏教組織の壊滅で、イエズス会の目的が完遂していたからです。イエズス会の命令に従わない、我がままになった織田信長は、もはや用済みだったのです。
しかし、その仏教組織壊滅が完了し、商業権を仏教組織が握っていた市・座を開放し「楽市楽座」とした後、織田信長は、今まで軍事援助をしていたイエズス会の神を崇拝するどころか、安土城に「天主閣」を設け、織田信長自ら神となり、織田信長を崇拝・祀るように臣下に強いていたのです。
更に、織田信長は、イエズス会の日本国支配の目的を無視して、日本国王となるためとして、本能寺の変が起こった日には、京の正親町天皇を脅すために、明智光秀に命じて馬揃え(軍事パレード)を計画していたのです。
織田信長は、その軍事パレードの前祝いとして、鎌倉禅僧が中国からもたらした茶での博打・闘茶から、わびさびの茶道を発明したキリシタンの千利休(賎の利休→賎民の利休)に、本能寺での茶会運営を仕切らせていたのです。しかし、その茶会翌日の未明、明智光秀の軍事パレード隊が到着する寸前に、本能寺は爆発炎上していたのです。
元々、本能寺は、仏を祀る仏寺などではなく、日蓮が発明した法華宗の軍団が構築した、比叡山延暦寺軍団に対しての砦であったのです。しかし、比叡山延暦寺との戦いでの法華宗軍団の敗北後、藤原氏が改造した、藤原氏の南海交易ルートである、イエズス会の基地がある南インド→南九州坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺で、ヨーロッパから銃・弾薬を密輸入し、それらを戦国大名達に売り捌くための、京のイエズス会の南蛮寺と地下で通じていた、武器・弾薬倉庫であったのです。
では、1616年徳川家康は、何故、毒殺されたのでしょうか。
徳川家康も、織田信長が正親町天皇を脅したのと同じように、亡命百済貴族の後水尾天皇に退位するように脅していたのです。それは、織田信長も徳川家康も、平安時代の簒奪王朝である百済系天皇家により、海洋民族と騎馬民族の先祖が、賎民として貶められていたからです。
もし、天皇家が万世一系であるならば、天皇とは、騎馬民族の天子(テングリ)から発明されたものであるわけですから、騎馬民族末裔を、屠者の意味の施陀羅から、穢れ多いの意味の「穢多」などの蔑称で、天皇家が中心となってイジメるはずはないのです。
しかし、実際に、百済系天皇家は、「施陀羅悪人なり」と唱える錬金術師空海が発明した密教でのインドのダキニ(鬼女)の呪文の仏教思想により、天皇家の祀りごとを第三百済王朝末期(江戸時代末期)までおこなっていたのです。
そして、江戸時代中期から、百済系の比叡山延暦寺が布教する「法華経」思想で、魚食・肉食する仏罰者として、騎馬民族・海洋民族末裔を「穢多」としてイジメていたのです。
天皇家が万世一系であるならば、何故、百済系桓武天皇から考明天皇まで、伊勢神宮に正式参拝をしていなかったのでしょう。それは、伊勢神宮の前身である「道教の観」(観→テラ→事務所謙祭祀場)は、母国百済を滅ぼした、騎馬民族の新羅系天武天皇が、685年に建立していたからです。(伊勢神宮は、八世紀の奈良時代に建立。)
奈良時代に、藤原氏が、「秦王国」の秦氏の神・太陽神ミトラを隠蔽するために、天照大神を発明して、その「道教の観」を徹底的に破壊した跡に、伊勢神宮(外宮)を建立したのです。では、その観で祀られていた秦氏の神は、何処へ行ってしまったのでしょう。それは、伊勢神宮の外宮近くで、「猿田彦の神」として祀られていたのです。
「猿田彦」とは、「日本書記」で前政権の氏族「太陽神の子孫秦氏」を、藤原氏が隠蔽し、そして、貶しめるためのトリック人物であったのです。「猿」と呼ばれるものを、「秦」に置き換えてみると、例えば「猿楽」→「秦楽」のように、河原者と云われた遊芸能民と言われたひと達が、藤原氏の奈良王朝に敗れた前政権の祭祀氏族末裔であったことが理解できるでしょう。
そのように、海洋民族・騎馬民族末裔を、漢訳仏教思想でイジメていた、百済系天皇家も、奈良・平安時代中期まで、唐進駐軍がもたらした人民を搾取するシステムである律令制度を利用して庶民を農奴として搾取していたものが、鎌倉・室町時代の武家時代を経ると完全に消滅してしまい、天皇家の家計を支える経済的基盤は少なくなっていたのです。
そこで、戦国時代の百済系天皇家は、天皇のお墨付きを、お金に替えていたのです。そのひとつが、漢訳仏教高僧が着る紫衣の認可権です。徳川家康の死後、1629年には、紫衣事件が起こるのですが、その天皇家を巻き込んだ騒動のキッカケを創ったのが、徳川家康であったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康にとって、天皇が許可を与え、その紫衣を漢訳仏教の高僧が権威付けのために着衣することは、我慢ならなかったのです。それは、紫衣とは、元は、645年唐進駐軍と中臣軍に飛鳥王朝が敗れ、そして、唐から持ち込んだ漢訳仏教と道教・景教との宗教戦争に敗れた(この「漢訳仏教」と「道教・景教」との宗教戦争を、「日本書紀」では時代を前にずらし、「廃仏派の物部氏」と「崇仏派の蘇我氏」との「神仏戦争」として改竄した。)、「道教」の真人(最高級の道士)の着衣であったからです。
道教思想では、世界を統率する太一(北極星)を、その「北極星」を廻り侍る「北斗七星」である真人が世話をするわけです。その太一を世話する真人の着衣の紫衣を、「道教」を抹殺した漢訳仏教の高僧が権威付けのために、百済系天皇家に大金を払い許可を得て着衣することは、朝鮮学者から朱子学を学んでいた、騎馬民族末裔の徳川家康には、我慢がならなかったのです。
この天皇家とのイザコザの使者として、徳川家康は「お福」(後の春日局)を指名していたのです。何故、皇族への使者が、「お福」であったのかは、「お福」は、徳川家康が1582年の山崎の戦いで、イエズス会からの密命により明智一族を見殺しにした負い目があり、そして、織田信長の下手人にされた明智光秀の重臣の娘で、長く公家に養われていたので高い教養があったからです。
お福は、徳川将軍二代目秀忠の次男竹千代の乳母として、徳川家康に雇われたと云われていますが、そのお福の徳川家康に対する態度から推察すると、お福愛妾説の説得性があるのです。
そのお福の徳川家康に対する態度とは、孫の乳母に過ぎないお福が、将軍世継ぎ問題で、直接徳川家康を駿府まで訪ね、直訴しているのです。その結果、竹千代は、徳川将軍三代目家光となるわけです。
何故、お福がそのように徳川家康に接近できたかの背景には、比叡山の怪僧、天海の存在が示唆されるのです。その天海の影響のひとつとして、徳川三代将軍家光が、疱瘡に罹った時、春日局となっていたお福は、山王社と東照宮に詣でていたのです。その山王社と東照宮とは、天海と大いに関係があったのです。
山王社の神とは、百済系桓武天皇が支配した平安時代に、奈良を支配していた藤原氏の春日社に対抗するためと、そして、山背国(秦王国)の秦氏一族が比叡山で、牡牛を屠り祀っていた太陽神ミトラを、「魔多羅神」として隠蔽抹殺するために、中国山東半島の土着の神・シャンワンを、比叡山に導入した神なのです。
このシャンワン神は、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)へと変身して、その出自を抹殺・隠蔽するのですが、その源は、亡命百済移民の中国での神であったのです。
そして、日光東照宮は、1616年徳川家康が毒殺されると、翌年1617年徳川家康と秦氏末裔弾左衛門とが、湿地帯を開拓して開発したエドを怨霊から護るために、建立したのです。しかし、1624年比叡山の怪僧天海の指図で、その騎馬民族の徳川家と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門のエドを護っていた質素な東照宮が、世良田部落へ移築され、そして、新たに金ぴかの日光東照宮陽明門が建立されるのです。その門は、騎馬民族の神である北極星を遮るように、真北に建てられていたのです。
このお福であった春日局の行動は、河内源氏武士の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ」北条氏の尼将軍とダブルのです。
源氏棟梁三代を暗殺した百済系北条氏の「サムライ」が、源氏武士団を謀略により次々と謀殺したように、徳川二代目将軍秀忠が、1623年秀忠の次男と云われる家光に、徳川家康の遺言により、三代目将軍職を譲り、そして、1632年死去すると、三代目将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣の「武士」達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
徳川三代目将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正らの末裔達です。
これらの「武士」の中には、石山合戦での敗残兵が多くいたのです。しかし、徳川家康は、その石山合戦の主役である浄土真宗が、藤原氏と深い関係にあったことを知っていたので、その浄土真宗の石山本願寺に散々利用された敗残兵達を配下として迎えたのです。
石山本願寺が、穢多として民族差別をされた秦氏末裔の軍事力と軍資金を、浄土真宗の組織固めのために利用したことは、1585年羽柴秀吉(後に豊臣秀吉と改名)が、石山本願寺軍団の紀伊の根来衆と雑賀衆を、キリシタン大名の高山右近と共に滅ぼし、更に、南九州の秦氏末裔島津氏をイエズス会九州地区の大友氏や有馬氏などのキリシタン大名の軍事力を借りて倒すと、全国を統一したイエズス会から藤原氏に寝返った羽柴秀吉の顔色を伺い、そのイエズス会軍団に最後まで抵抗していた石山本願寺の末社を、石山本願寺自らが「穢多寺」として貶めていたからです。戦国末期に、穢多寺は、奈良・平安仏教からだけではなく、浄土真宗からも生まれていたのです。
そもそも、石山本願寺が、穢多と貶めた騎馬民族末裔の秦氏を含めて生活に苦しむ者達と共に、太陽神の下に平等世界を築こうとの目的を持っていたならば、1580年藤原氏が仲介した正親町天皇による、イエズス会傀儡軍団の織田信長との和睦交渉を、石山本願寺は撥ね付けていたでしょう。
しかし、石山本願寺は、その和睦を拒否しなかったことにより、秦氏末裔と同族が多く暮す毛利軍団からの軍事物資が途絶えたことにより、石山本願寺軍団には厭世気分が蔓延したところを、織田信長軍の総攻撃を受けて壊滅するわけです。この石山本願寺壊滅の史実を隠蔽するために、九鬼海賊軍団の鉄鋼船の物語が創作されるわけです。科学的に考えても、木造船に鉄板を貼り付ければ、総重量が増え、船自体の運行を妨げるばかりか、バランスもとれないことは明白です。では、その九鬼海軍はどのような武器で、雑賀海軍や毛利海軍を壊滅したのでしょうか。それは、1576年イエズス会が大砲を持ち込んだからです。雑賀海軍と毛利海軍の多くの船は、その大砲により沈没していたのです。そして、その大砲の威力は、敵軍団の士気を大いに挫いたのです。
その大砲と共に傭兵軍団も渡来していたのです。その中に、十字軍のマルタ騎士団のロルテス(日本名山科勝成)がいたのです。ロルテスは、大砲の名手で、九州の多くの城は、彼が指揮する大砲隊により壊滅するわけです。
この権力に擦り寄る浄土真宗が、秦氏末裔達を民族平等思想でむかい入れていなかったことは、北条鎌倉時代の親鸞の布教で分かるのです。それは、たとえ話として、「親殺しはいけない。」と言うことを、「親殺しは、施陀羅と同じだ。」と述べていたのです。当時、施陀羅とは、穢多と同じ、肉食の騎馬民族を貶めるために創られた差別語であったのです。徳川家康は、朱子学を朝鮮学者から学んでいたため、それらの石山本願寺思想の本質、穢多の資金力と軍事力を利用した、をよく理解していたのです。
太陽神ミトラ教の「太陽の下では、どのような民族でも皆平等である。」の教えを、「阿弥陀様の教え」として改竄して、「南無阿弥陀仏・ナモーアミダボーの漢音語」(アミ様を信じます。)の呪文を唱える浄土真宗を発明した、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞は、百済系比叡山延暦寺と対峙していた藤原氏の指図により、高度土木技術・戦闘技術を持つ穢多の豊富な資金と優れた武闘力を利用するために、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の「源氏武士」末裔が多く住む、穢多部落を布教して歩いていたのです。
反騎馬民族で百済の血が流れる徳川三代目将軍家光は、お福の明智一族を「サムライ」とし、北条鎌倉時代に北条一族が鎌倉幕府の要職を占めたように、江戸幕府の要職に就け、「武士」の流れにある徳川家康の忠臣大名を遠い僻地に左遷し、そして、1635年参勤交代の制度を確立して、遠方の「武士」大名をイジメ抜くのです。
この徳川三代目将軍家光から、第三百済王朝が始まるのです。このことにより、徳川家康との繋がりが強かった穢多頭弾左衛門は、羽織袴の二本差しで、駕籠に乗り江戸城に登城していたのが、叶わなくなっていくのです。
1623年徳川三代目将軍となった家光は、洛中の浪人をエドから追放する一方、秦氏末裔の弾左衛門一族も、エド町中心地の日本橋や人形町の支配地から、多くの者は北関東へ、そして、弾左衛門の役人一族は、浅草寺裏の湿地帯の新町(シンチョウ→秦町。都市国家「秦王国」)に移封するのです。そして、その新町には堀を廻らされ、更に、無数の仏寺で囲まれてしまうのです。
そして、穢多頭弾左衛門配下のエドでの私設公安・治安警察組織(役座組織)を弱めるために、町人相互が監視する五人組制度を施行し、エドでの秦氏末裔の穢多勢力を排除していくわけです。そして、「源氏武士」末裔が参勤交代の制度でイジメられたように、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔も、江戸幕府の手先となった葬式仏教思想によりイジメられていくわけです。
このような源氏末裔や秦氏末裔の騎馬民族末裔がイジメられていくのは、三代目将軍家光の乳母の、山崎の合戦で明智光秀を見殺しにした騎馬民族末裔の徳川家康に怨みを持つ、春日局の意図があったことは言うまでもありません。
更に、春日局は、南九州の島津藩で棲息する藤原氏(近衛家)が仕切る儀式の影響力が、江戸幕府に介入できないようにするために、1618年大奥法度を定めて、「藤原の女」が奥(正妻・側室・その他の女が暮す処)へ入り込まないように整備し統括したのです。
その「藤原の女」を権力者に送り込む儀式とは、672年新羅系天武天皇が始めた一世一代の天皇交代の儀式である「大嘗祭」を、奈良時代の藤原氏が、大嘗祭儀式から、収穫祭としての新嘗祭を発明し、毎年行う収穫祭とし、その祝いの儀式として、若い娘が透けて見える天女の姿で舞うことです。
その新嘗祭でおこなう五節舞の儀式により、天皇や貴族の前でおこなうことにより、権力者へ「藤原の女」を提供するのです。そのことは、室町幕府を支配した源氏武士足利氏が、藤原氏の流れにある「日野の女」を代々の足利将軍の正妻・側室としたことが、藤原氏の陰謀(夷を以って、夷を制す。)を招き、その足利政権の崩壊を早めたことを、天海も春日局も知っていたのです。
1687年徳川五代目将軍綱吉の時代、秦氏末裔の穢多として貶められた者達を、更に民族差別を厳しくするために、1635年寺社奉行設置による行政の締め付けを下に、「生類憐れみの令」が数限りなく発令されたのです。
その背景は、五代目将軍綱吉の子息が夭折したのは、前世の悪業によるとの漢訳仏教思想を、五代目将軍綱吉が信じたために、殺生禁止を名目にこの「生類憐みの令」の法令を発したわけです。
この法令は、常識外で、犬を粗末にしただけで牢獄へ、或いは、死罪となったのです。この法令による被害者は、1709年綱吉が死去とともに即座に廃止され、牢獄から開放された者が、3800人とも云われています。
その被害を最も被ったのは、騎馬民族末裔です。それは、農耕民族と異なり、肉食し、更に、その死動物の後利用として、毛皮をなめし革として販売していたからです。この度重なり発令された「生類憐みの令」は、その裏には、第三百済王朝による、騎馬民族の生活権剥奪の意図もあったのです。
更に、武闘により敵を殺傷する秦氏末裔の「武士」も、その思想の被害にあうわけです。
「第二百済王朝」の北条鎌倉時代に、武闘禁止のために、纏められた武家諸法度の制度の下、1641年鎖国を完成させたことにより国内での戦がなくなってしまった「第三百済王朝」の時代になると、戦場で殺生を生業とする「武士」は、秘書謙護衛の「サムライ」により、俘囚の輩と蔑まされていくわけです。
秦氏末裔は、第一百済王朝の平安時代、第二百済王朝の鎌倉時代、そして、第三百済王朝の江戸時代に、賎民として貶められていたのです。それは、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏への、亡命百済移民達の「怨」が原因のようです。
その殺生禁止の思想により、江戸幕府の「サムライ」組織からはじき出された「武士」が、野に追放され、「野ザムライ」ではなく、「野武士」となるわけです。この「野武士」が生き残るために、北条鎌倉時代に、秦氏の神を封印した神社での、秦氏が組織する同業者組合の「座」の権利を漢訳仏教組織から武力で護った「役座」と同じに、反体制派の「役座」としての用心棒となっていくわけです。
北条鎌倉時代に、河内源氏を先祖にもつ源氏棟梁源頼朝により庇護を受けていた、源頼朝と同族の秦氏末裔の技術集団は、北条氏により源氏棟梁三代が暗殺された後、六波羅探題を設置して北条政権により平地から追われ、流離いの漂泊民となっていくわけですが、元々ユーラシア大陸を遊牧していた民族末裔ですので、優秀なリーダの下で暮していく技術は持っていたのです。漂泊する騎馬民族の智慧で、各部族は優れたリーダを代議員の談合により選び出し、そのリーダの支配の下、各地を集団移動していたのです。
この代議員による談合により、リーダを選ぶ方法は、秦氏末裔の弾左衛門一族も同じです。弾左衛門とは、世襲名で、各地の優秀な若者が推挙され、談合により、穢多のリーダである弾左衛門が選ばれていたのです。
弾左衛門は、自らは「長吏頭」と名乗っていたのです。しかし、北条鎌倉時代より、騎馬民族を貶めるために「施陀羅」(不可触賎民チャンダラーの漢音語)から、穢れ多いの意味の「穢多」の差別語を発明しただけではなく、飛鳥時代に遣隋使のソインコウ(日本名小野妹子)が、隋帝国から「長吏」のソ(斯・古代新羅)のインコウと呼ばれていたほど、飛鳥時代では、「長吏」は、遣隋使を指名されるほどの位の高い役人の役職名であったものが、北条鎌倉時代には「長吏」は「穢多」と同意の差別語と改竄されていたのです。
このことは、平安時代では「キヨメ」とは怨霊から天皇を護るために、陸奥国蝦夷捕虜の「もののふ」が、武芸により魂鎮めをおこなう儀式であったものが、北条鎌倉時代には汚わいの清掃業務の「キヨメ」の差別語とされたことと同じです。
明治維新で終わる十三代弾左衛門は、初代集房、二代目集開、三代目集道、四代目集連、五代目集誓、六代目集村、七代目集因、八代目集益、九代目集林、十代目集和、十一代目集民、十二代目集司、そして、十三代目集保、となっていたのです。
北条鎌倉時代から、その各種技術部族集団としてまとまって行動していたものが、徳川三代目将軍家光からの第三百済王朝より、鎌倉時代より二十八番の職種として統率されていたものが、一銭職(髪結床)、石切(石工)、紺屋職の三職になってしまっていたのです。
そのような流れにあった秦氏末裔に、動物虐待(殺生禁止)の条例が発令され騎馬民族の勢力が弱まるのを車善七が確かめると、藤原氏や亡命百済貴族が漢訳仏教思想から発明した、異民族としての「穢多」と異なり、罪を犯した者がなる非人の頭である車善七が、穢多頭弾左衛門の支配下から逃れるために、江戸幕府に訴えるわけです。
そこで、六代目弾左衛門の集村(ためむら・1698年〜1758年)は、弾左衛門一族が、鎌倉時代から由緒のある部族であることを証明するために、幕府奉行に由緒書を提出するわけです。その由緒書とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏
弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

それらの職種には、鎌倉時代のものではないものもあるわけですが、それらの特殊技術は、土地に縛られて生きる農耕民が習得したものではないことは明白です。
そのひとつに、石切があります。硬い石を切るには、鋼鉄工具がなければできることではないのです。その鋼鉄工具を造るには、製鉄技術がなければできません。製鉄をおこなうには、多量の砂鉄と炭、そして、タタラ製鉄技術者と、三日三晩フイゴを替わり番子する労働力がなければできません。
そのような高度技術と組織的労働力を必要とする石切が、生来からの漂泊民にできるはずはないのです。更に、古来から、あらゆる技術は限られた者だけに伝承された秘伝で、その技術は連綿と一族に引き継がれるため過去を遡れるのです。
石切の歴史は、紀元前二千五百年のピラミッドを建設した古代エジプトです。そして、タタラ鍛造製鉄の歴史は、紀元前十九世紀の古代ヒッタイト帝国です。そのヒッタイト帝国の製鉄技術は、紀元前九世紀の遊牧民族スキタイに伝承され、鉄製の轡が開発されたことにより、騎馬が可能になり、これにより騎馬民族スキタイが興るわけです。紀元前四世紀に、その騎馬民族スキタイがカスピ海沿岸から東進し、中央アジアのタタールに移住したことにより、その製鉄技術はタタラ製鉄と云われるわけです。(突厥語で、強い炎の意味「トトラ」から「タタラ」となったとの説がある。)
石切の技術は、騎馬民族と共に移動する製鉄民族との融合がなくしては出来ない技術であったのです。江戸時代、この石切の技術を、秦氏末裔の弾左衛門一族が保持していたことは、弾左衛門の先祖であるオリエントから渡来した秦氏は、漢訳仏教組織が発明した漂泊する非常民の賎民の物乞いする哀れな穢多などではなく、その古代エジプトやヒッタイト帝国からの国際的技術者が確認されるのです。
このオリエントから渡来の秦氏の国際的歴史を抹殺したいのは、672年に日本初の天皇となった新羅系天武天皇の王位を簒奪した、663年百済滅亡後、日本列島に亡命移民した桓武天皇家だけではなく、六世紀以降に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した、ユダヤ教に類似した中臣神道を発明した、中臣族から変身した藤原氏も同感であったのです。
それは、四世紀の日本列島の河内を中心に近畿地域を統率したのは、「日本書紀」の神話物語で述べている高天原から降臨した天孫族の「大和朝廷」などではなく、ヒッタイト帝国の鉄鍛造技術で作った鋼鉄工具を使って、古代エジプトの高度土木技術により、巨大運河を造り、河内湾を干拓して、そこに古代エジプトの埋葬思想を取り込んだ石室・石棺を納める巨大古墳を築いた、秦氏の「秦王国」であったからです。
この古墳時代の河内の歴史を知られると、藤原氏も桓武天皇家もその出自がバレてしまい、六世紀から645年まで存在していた、幅十二mの直線道路を張り巡らして騎馬を疾走させていた、騎馬民族・突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト王国の、簒奪者一族であったことが分かってしまうからです。
そのためには、桓武天皇家も藤原氏も、オリエントから新羅(秦羅)を経由して渡来した秦氏の歴史を、抹殺しなければならなかったのです。
その手段が、第一百済王朝の平安時代で、秦氏末裔を、貴賎の差別思想で、「秦」を「猿」に改竄して、非常民の漂泊民族の河原者としたのです。しかし、その目的がかなわず、更に、第二百済王朝の北条鎌倉時代に、錬金術師空海の「施陀羅悪人ナリ」の呪文を基に、民族差別をするヒンズー教化した漢訳仏教思想の浄穢思想により、秦氏末裔を「施陀羅」、更に、穢れが多いの意味の「穢多」として、歴史上抹殺をしていたのです。
しかし、秦氏末裔の源氏武士の足利氏が、第二百済王朝の北条鎌倉幕府を武力で倒し、秦氏末裔の源氏武士足利氏が支配した室町時代となったため、秦氏末裔は、その潜在していた国際的技術を開花させ、能楽、造園や、華道、茶道などの「道」が付く伝統日本文化の祖となるわけです。
現在、伝統日本文化と云われるものの多くは、室町時代の秦氏末裔が、オリエントから引き継いだ技術により開発されたものであるのです。例えば、平安王朝の簒奪王権が「猿楽」と貶めた、「秦楽」から発展した「能楽」は、古代ギリシャの「仮面劇」の流れにあったのです。
秦氏のオリエント渡来ルートには、ギリシャ文化継承国のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)があったのです。秦氏の渡来元のひとつと云われる、始皇帝の「秦」(紀元前221年〜紀元前206年)とは、バクトリアのコロニーだったのです。そのバクトリアの都市が、後に、紀元一世紀に大乗仏教が発明された、国際交易都市のガンダーラとなるわけです。
オリエントから渡来の秦氏末裔の文化花咲く室町時代も、藤原氏の流れにある「日野の女」が暗躍し、東軍の細川勝元と西軍の山名持豊との初戦をキッカケに、足利氏一族を巻き込んで、応仁の乱が、1467年に勃発するのです。この応仁の乱が、1477年に収束する時には、足利氏の勢力も弱まり、ここに下克上の群雄割拠の時代に突入するわけです。
この下克上のドサクサに紛れて、各地の土着豪族が武力により戦国大名にのし上がって行くわけです。その群雄割拠の下克上時代のひとりに、1491年伊豆を占拠した伊勢長氏は、北条早雲と名乗り、平家末裔とするのです。しかし、その出自は不明なのです。
この北条早雲もさることながら、戦国武将の多くも、その出自が不明なのです。戦国武将の代表とされる、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康もその例外ではありません。
織田信長の、信長←信秀←信定の三代先は不明です。そして、祖父の信定の墓は、垣外(カイト・古の捕虜収容所)にあったのです。豊臣秀吉にいたっては、その出生も生い立ちも全く不明なのです。そして、徳川家康は、栃木県日光ではなく、群馬県新田郡の世良田部落出身者と云われているのです。
徳川家康のウワサの根拠として、1617年徳川家康の遺骨は、久能山から日光に改葬され、質素な東照宮を建立するのですが、徳川三代目将軍家光の時代になると、その質素な東照宮は世良田に移築され、その跡に、金ピカの東照宮が新築されていたのです。
更に、生前の徳川家康は、弓馬の名人で、薬草に詳しく自ら薬草の調製も行っていたのです。更に、配下とした元武田軍団の金山衆(秦氏末裔の産鉄部族。忍者部族とも云われる。)と直接会話もしていたのです。
これらの徳川家康にまつわる事柄は、亡命百済移民の由緒ある「サムライ」の武家がおこなうことではなく、弓馬は幼少の頃からの訓練を必要とし、薬草学の神農様は反体制の役座が祀る神様であるように、薬草調剤は騎馬民族の得意とすることで、そして、産鉄民族は騎馬民族末裔の賎民と云われていたことから、徳川家康が幼少の頃、群馬県新田郡世良多部落で騎馬民族の生活を経験していたことを示唆します。
この戦国時代の歴史に不明な点が多くあるのは、天下を盗った豊臣秀吉が、自らの出自を隠蔽・脚色するために「信長公記」を総監修して創作していたからです。そして、戦国時代が終わり「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、系図屋が戦国大名の出自を隠蔽・脚色するために戦国大名や武将の系図を捏造していたからです。因みに、系図屋(ケイズヤ)とは、警察隠語で、「イカサマ師」のことです。
それらの「信長公記」や戦国武将達の系図を史料として、戦国時代の歴史が復元されたことにより、戦国時代の史実が隠蔽されてしまったのです。そのひとつに、日本列島の支配を企んだイエズス会の歴史があります。そして、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、そのイエズス会の影響下にあったのです。
この戦国時代のイエズス会の暗躍は、それらの戦国武将には知られたくないのと、イエズス会自体も隠蔽したい歴史であったのです。
イエズス会の日本列島における布教を、単なるローマ・キリスト教の布教であったとすると、戦国時代の歴史を見誤ることになるかもしれません。それは、イエズス会の後ろ盾であるポルトガル王室は、1494年イスパニア王国とトルデシリャス条約を結び、中近東から東南アジア、そして、日本列島までの、ポルトガル領の東インド全域において、排他的な航海領域を設定し、それらの領土全てに対する「征服、航海、貿易、布教」を独占的におこなう権利を、手中にしていたのです。この当時、全世界は、ポルトガルとイスパニア王国の支配予定地であったのです。ポルトガルやイスパニア王国に、そのお墨付きを与えていたのが、民間治療者を魔女として焼き殺していた、自ら神となっていたローマ・キリスト教の法皇であったのです。
このような国際情勢において、ポルトガル王室をバックにする1534年創立のイエズス会は、1540年にローマ教皇の公認を得ていたのです。そのイエズス会が、南インドのマラバル沿岸を異教国征服のための拠点として、1543年種子島に、鉄砲と弾薬を携えて渡来するわけです。
イエズス会とは、無防備な僧侶だけの集団ではなく、国際交易商人もいれば傭兵もいる軍団組織で、聖書だけではなく、武器・弾薬も使って異教国を征服する宗教軍団だったのです。つまり、そのイエズス会とは、「イエスの軍団」、或いは、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。
イエズス会の異教国への侵略方法は、スポンサーに国際交易商人がいた大乗仏教と同じで、まず異教国の賎民の病気を癒し信頼を得て後、学校を設立し、寺を建て、シンパを募り、そのシンパをリーダとして布教地域を広げ、その後、国際交易商人がその学校や寺に寄宿して、現地人を雇い商売を始め、その雇い人をシンパとし、その後、軍事指導者が渡来することにより現地人軍団を組織し、その軍団により王権を武力で倒すことにより、その異教国はイエズス会に征服されてしまうのです。
しかし、イエズス会の誤算は、東洋一の国際交易都市大坂を実効支配していた秦氏末裔の一向宗軍団が存在していたことです。そのために、日本列島の侵略が十年も遅れてしまっていたのです。
そのイエズス会の侵略傭兵軍団の指導者として、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康がいたのです。しかし、それらの武将には信仰心がなかったため、高山右近のように、キリシタン大名とはならなかっただけです。
イエズス会の渡来が、1497年蓮如が、秦氏末裔が支配していた大坂に石山本願寺を築く前であったならば、日本史は今とは異なっていたことでしょう。それは、このイエズス会軍と浄土真宗石山本願寺軍との十年戦争は、穢多と蔑まされた秦氏末裔の同族の争いでもあったのです。
1467年応仁の乱が起こると、それに乗じて、1472年京では盗賊達が蜂起し、近江坂本では馬借一揆が起こるのです。その盗賊や馬借のなかには、北条鎌倉時代に六波羅探題の「サムライ」による源氏残党狩りから逃れるために、「源氏武士」身分を隠すために、そして、生活の糧を得るために、源氏武士から身を転じた者も多くいたのです。
「サムライ」の北条鎌倉政権より、武士身分から賎民へと貶められた馬借の組織的戦闘能力と豊富な財力に目を付けたのが、藤原氏の流れにある親鸞末裔の蓮如だったのです。その弱小浄土真宗一派の蓮如は、北条鎌倉時代に親鸞が唱えた阿弥陀様の教え(古代エジプトの太陽神アトンの教え)を馬借達に広めることに成功すると、秦氏の同業者組合の「座」の商業ネットワークで蓄財した、その秦氏末裔の豊富な財力により、1479年山科本願寺を創立するのです。
馬借一族を浄土真宗蓮如一派に取り込むことにより、穢多と蔑まされた秦氏末裔の、騎馬による組織的軍事力と資金力を蓮如子息の宗主顕如は手中にすることができたのです。そして、秦氏末裔は、民族平等の世界を築くために、賎民を苦しめる王権に反抗せよと檄文を飛ばしていたものが、正親町天皇のひとことで石山合戦の和睦を織田信長として、権力に擦り寄る、顕如に騙されたことに気づくことなく、石山合戦敗戦まで、戦闘的軍事力と豊富な資金力を注ぐわけです。その敗戦後、豊臣秀吉の時代になると、浄土真宗石山本願寺は、最後までイエズス会の羽柴秀吉軍団に反抗していた浄土真宗末寺を、系列から外し穢多寺として貶めていくわけです。
馬借は、秦氏末裔の騎馬民族であったので、奈良・平安仏教の血・肉食禁忌思想により、肉食する穢れ者の穢多として民族差別を受けていたのです。その奈良・平安仏教に敵対する浄土真宗は、秦氏末裔の馬借一族にとっては、敵ではなく、味方に映ったわけです。
更に、妻帯・肉食する破戒僧親鸞の説く、「悪人でも浄土へ行ける」等の甘言や、「阿弥陀様の教え」は、秦氏が祀るオリエントからの太陽神ミトラ思想の「太陽の下ではどのような民族でも平等。」と同じ思想であるので、親鸞末裔の蓮如の布教に同調してしまったわけです。
劃して、秦氏末裔の古墳時代からの支配地の大坂(秦王国)に、1497年蓮如は、石山本願寺を築くことができるわけです。この石山本願寺は、古代エジプト語でワタ・ナーベ(波が打ち寄せる・小山=岬)と言われた上町台地に位置したため、更に、深い堀と石垣により護られていたために、日本一の難攻不落の城塞となっていたのです。
1571年織田信長の攻撃により数日で陥落した比叡山延暦寺の要塞と異なり、イエズス会より提供された、最新式銃で装備された織田信長軍団の、1570年から1580年の十年間に渡る攻撃に耐えた石山本願寺の要塞化を可能にしたのは、秦氏末裔には、古代エジプトの高度土木技術と石切技術があったからです。
その要塞化した石山本願寺に対峙して、比叡山延暦寺は比叡山一帯を要塞化して、京の支配を強固にしていたのです。そのように、東洋一の国際商業都市大坂を支配する石山本願寺軍団と、日本の権力の中枢である京を支配する延暦寺軍団とにより、領土拡大を目指していた戦国大名も、イエズス会が銃と大砲を日本列島に持ち込むまでは、この二大宗教組織が支配した近畿地域を侵略することができなかったのです。
京の商人を信者に取り込んだ、現世利益の法華経軍団も、京の軍事拠点とした本能寺を築いたのですが、比叡山延暦寺軍団の総攻撃により、法華経の軍事基地であった本能寺は陥落していたのです。
その日本列島では戦国時代に突入していた頃、1299年元帝国から神聖ローマ帝国に帰還して著したマルコポーロによる「東方見聞録」の情報は、世界をイスパニア王国と二分して支配することを目論むポルトガル王室を刺激して、黄金の国ジパングの侵略を目論んでいたのです。そのポルトガル王室の日本国侵略の手先となったのが、イスパニア王国の托鉢修道会と対峙していた、イエズス会なのです。
1549年ザビエルの日本国開教以降、1570年までに約三万人が改宗していたのです。それに伴い、九州から畿内までの各地に40ほどの教会を設立していたのです。そして、1579年には10万人のキリスト信者が誕生していたのです。そして、在日イエズス会員も55人を数えていたのです。
そして、1582年イエズス会と藤原氏の陰謀とによる本能寺での織田信長爆殺後、下手人にされた明智光秀軍団を山崎の戦いで壊滅して、イエズス会傀儡軍団の支配者を命ぜられた羽柴秀吉が、イエズス会のキリシタン大名の高山右近軍団と九州イエズス会軍団を利用して、1587年藤原氏が生息する南九州を支配していた秦氏末裔の島津氏を倒すと、1589年に宣教師追放令を発布した時には、在日イエズス会員は111人となっていたのです。
そして、1584年織田信長後の支配権を廻り、小牧・長久手の戦いで徳川家康軍団に破れた羽柴秀吉が、1585年関白太政大臣となり天下を盗り、イエズス会から藤原氏に寝返ると、1590年宿敵である騎馬民族末裔の徳川家康を関東の湿地帯の穢れ地に移封し、更に、石山合戦で最後まで抵抗していた大坂の秦氏末裔を湿地帯に追いやり、1591年「士農工商」の身分法を定め、その秦氏末裔の村を穢多村として民族差別をするわけです。
何故、そのようなヨーロッパの遠方よりの異教キリスト教が短期間に、奈良時代より漢訳仏教組織が思想支配していた日本国で広まったのでしょうか。その謎解きのヒントが、大曲藤内の「大曲記」にあります。
その書には、「南蛮よりきりしたん宗とてめつらしき仏法僧わたりけり、かの宗ていに成るほとの者には過分の珎物をとらする間しさいもしらん物ハ皆よくにちうして成物等おおし。」、とあるのです。
そのポルトガルの国際貿易船のナウ船がもたらす南蛮の珎物とは、絹織物、陶器、砂糖、麝香、白檀などの贅沢品や、鉛、硝石、銃などの軍需品であったのです。それらの品々は、キリスト教に入信した者達に分け与えられていたのです。そして、それらのイエズス会からの贈り物は、国内では高く売れたのです。つまり、大曲藤内は、キリスト教への入信は、信心よりも物心であった、と述べていたのです。
その根拠として、イエズス会は、日本列島侵略のために三地区に拠点を設けるわけです。それらは、肥前の下地区、豊後の豊後地区、そして、近畿の都地区です。
その都地区を除いた二地区は、経済的にも軍事的にも隣国大名に圧迫を受けていたのです。
下地区の支配者大村純忠の軍事的庇護を求めたイエズス会は、肥前・肥後を支配していた龍造寺隆信の軍事力に、太刀打ちできない大村純忠を見たイエズス会は、銃・弾薬を供給することで、かろうじて龍造寺隆信軍団を凌いでいたのです。
この大村純忠が支配する長崎を、ナウ船の交易港とするために、そして、龍造寺隆信軍団からの攻撃を防ぐために、軍事要塞化することになるのです。そして、長崎住民に火縄銃を与え、訓練し、長崎住民の兵士化をおこなうのです。更に、長崎の港を護るために、町を要塞化するだけではなく、塹壕を堀り、街を一重、二重の柵を設け、山の砦には数門の大砲を設置していたのです。そして、港の防御のため、大砲、弾薬、三百名の守備隊が乗船するフスタ船を、長崎の港に浮かべていたのです。
そして、天皇が在住する都地区を支配するために、その中継基地として、大友義鎮が支配する豊後に拠点を設けるわけです。この豊後と豊前とを合わせると、古墳時代に「秦王国」があった処であるのです。この豊後地区は、最もキリスト教思想を理解できた地区で、イエズス会は、この臼杵に修練院と、高等教育機関のコレジオを開設していたのです。
何故、豊後地区がキリスト教思想を理解できたかは、それは、12月25日のクリスマス(冬至のミトラ神再生日)、赤葡萄酒とタネナシパンの儀式(屠られた牡牛の血と生肉の儀式)、十字架(太陽神の光のシンボル・マルタクロス)、父と子と精霊の三位一体(太陽神ミトラの日の出・天中・日没)などのキリスト教の教義・儀式の多くは、ユダヤ教ヨシュア派からローマ・キリスト教に変身した時、ローマ帝国軍の軍神として祀られていたミトラ神の教義・儀式を導入していたからです。つまり、ローマ・キリスト教の母は、太陽神のミトラ教であったのです。
そして、そのローマ帝国のミトラ教は、392年ローマ帝国の国教となったキリスト教に抹殺されるのを避けるために、ミトラ教を信じるローマ帝国傭兵軍と共に東に逃れ、遥か、朝鮮半島を経由して、六世紀の日本列島に、新羅花郎騎士(「花」とは「ミトラ」の借字)として渡来するわけです。
そのローマ騎士道を引き継いだ新羅花郎騎士道が、九州秦王国で土着し、飛鳥ヤマトの軍族となるのですが、645年唐進駐軍と中臣族に敗れ、陸奥国に逃避するが、801年追撃する唐進駐軍と坂上田村麻呂の騙しに敗れ、蝦夷捕虜として「もののふ」の武芸者となり魂鎮めの儀式をおこなっていたのが、939年の天慶の乱の反乱軍を武力で鎮圧したことにより、王権より「武士」と認められ、日本武士道として変身するわけです。
ミトラ教の各国への流れは、紀元前14世紀のヒッタイト帝国→紀元前14世紀古代エジプトのイクナトン(アメンホテプ4世)の宗教改革で唯一神・太陽神アトンに変身(紀元一世紀のガンダーラで、太陽神アトンは阿弥陀に変身)→紀元前932年イスラエル王国で太陽神バアルに変身→紀元前722年イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされる→イスラエル十部族がアッシリア帝国に消える→紀元前六世紀ペルシャ帝国でミトラ神現れる→紀元前250年ギリシャ文化国バクトリア興る→紀元前221年バクトリアのコロニー「秦」興る→紀元前140年バクトリアを滅ぼし、ミトラ神を国教とする大月氏国興る→紀元一世紀大月氏国敗れクシャナ朝興る。この国際交易都市ガンダーラで、マタイ福音書と法華経に共通する「たとえ話の原著」であるギリシャ語の宗教物語が著される→紀元356年ナムル王により、ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)興る→紀元608年隋使が北九州で「秦王国」の存在を隋帝に報告、となるわけです。
しかし、720年藤原氏が創作した「日本書紀」では、飛鳥ヤマトのオリエント文化を、仏教文化として改竄するために、552年に弥勒菩薩(ミトラ神)が、飛鳥大和に伝来し、厩戸皇子(後に聖徳太子に改竄)が秦河勝に命じて、仏像安置のために広隆寺を建立した、とのウソ物語を記述しているのです。史実は、秦氏が、比叡山で祀っていたのは、仏様ではなく、太陽神のミトラ神(平安王朝はミトラ神を魔多羅に改竄)であったのです。
そのように、太陽神のミトラ神は、紀元前から世界各国を廻り、各地の土着宗教に多大な影響を与えていたのです。
そして、キリスト教が理解された豊後とは、古墳時代に、太陽の化身牡牛を屠り、太陽神ミトラを祀る秦氏の「秦王国」があった処だったのです。
イエズス会は、戦国時代の日本列島の歴史をよく調べていたようです。それは、ヴァリニャーノの「東インド巡察記」には、

その島の中央には日本全土で最も重要な都市があり、日本全体の支配者であった国王が居を定めている。この都市はミヤコと呼ばれている。この国王は、かつて、日本全土の唯一にして真の王であり、上述の諸国に自分の総督たちを置いていた。ところが今や、国王は日本全土に一つとして自らの領国を持ってはいない。その理由は、国王の総督たちが謀叛を起こし、その誰もが自分のために手に入れられるものは悉く手に入れてしまったからである。国王には、一切のものの上に立つ威厳と優越性、それも現実的なものというよりはむしろ形だけのものしか残らなかった。

と、平安時代に唐進駐軍の軍事援助を受けて、律令制度により日本国に君臨していた百済系桓武天皇家が、応仁の乱以降には没落していたことを、正確に記述していたからです。
戦国時代の日本国の実情を把握していたイエズス会は、キリスト教布教の保護を受けるために、実質的に日本列島を支配できる王を調べ上げるわけです。それが、長崎の大村純忠であり、豊後の大友義鎮であったのです。しかし、それらの両大名は、天下を盗るような人物ではなかったのです。そこで、イエズス会は、日本を支配できる人物を新たに探すわけです。
ここでひとつの疑問が起こるのです。それは、何故、イエズス会のザビエルを乗せたポルトガルの貿易船のナウ船が、1549年鹿児島に渡来し、キリスト教を伝道していたのか、と言うことです。そして、その鹿児島が、何故、長崎が軍事要塞化されたように、イエズス会の日本国侵略の基地とはならなかったのか、と言うことです。
南九州は、南方から渡来するには、南海から北上する黒潮が通過する地域なので、ナウ船が交易をおこなうには、絶好の地であるのです。それは、古墳時代に、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族(藤原氏の祖)が証明しています。
藤原氏は、河内源氏武士の源頼朝の鎌倉統治時代に、南九州の藤原氏の私有地である島津荘を取り上げられ、秦氏末裔惟宗氏が島津氏と変身し支配していたのですが、実質は藤原氏が奈良時代から江戸時代末期まで、その黒潮のベルトコンベアを利用して、南インドを経由したアラブの製品や香木・香辛料を輸入し、そして、日本列島から金・銀・水銀・銅・真珠などを輸出して、密貿易を続けていたのです。
イエズス会と藤原氏との関係は、謎に満ちているのですが、それを解明する史料が皆無なのです。その史料が皆無なのは、ザビエルの書簡から窺がえます。その書簡には、

「そちらにいるすべての神父が挙げている成果を数えあげて、詳しく書いた手紙を送ること。その手紙には、善い模範になるような内容だけを書いて、善い模範にならないようなことは書かないように注意すること。イグナチオ神父とシモン・ロドリゲス神父に書く手紙は、たくさんの人たちが読むことを考慮に入れて、善い模範にならないことは決して書かないように。」

、とあるからです。ザビエルは、不都合な事は、手紙に残してはいなかったのです。
そこで、藤原氏とイエズス会との接点になる事跡を調べると、イエズス会は、何故、山奥の奈良の宇陀と、島根の石見に教会を建設していたのか、ということです。その二地区の共通点は、銀山があることです。
水銀・銀山の開発は、平安初期に藤原氏の援助で遣唐使船で唐に渡った、錬金術師空海が浮かびます。空海は、表の顔は真言密教の僧侶ですが、裏の顔は日本全国の深山に足跡を残しているように鉱脈探索をおこない、水銀薬を創薬する錬金術師であったのです。イエズス会も藤原氏も、銀山で繋がるのです。
そして、不思議なのは、織田信長が都を支配すると、1569年イエズス会の布教を許すと同時に、布教基地としての南蛮寺の都での建設を許可するのです。更に不思議なのは、その南蛮寺から約二百m先の、藤原氏が改築した本能寺とは、地下道で繋がっていたのです。
そして、天下人の織田信長が、1571年比叡山延暦寺軍を壊滅し、更に、1580年には石山本願寺軍を壊滅させ、日本列島には仏教軍団が存在しなくなると、その二年後の1582年織田信長は、本能寺で爆殺されているのです。
これらの状況証拠を基に戦国時代を推測すると、織田信長と徳川家康とは、藤原氏とイエズス会の捨て駒だったのではないか、と思えるのです。
増長した織田信長と異なり、藤原氏の実態をよく知っていた徳川家康には金山衆などの忍者部隊が側近として活躍していたため、イエズス会と藤原氏による陰謀から逃れられたのは、騎馬民族末裔の徳川家康の情報ネットワークを甘く見ていたからです。
徳川家康は、織田信長が本能寺で爆殺された日に、キリシタンが多く住む堺で遊興を演じていたのです。徳川家康は、忍者の急報により織田信長の爆殺を知ると直ぐに堺を脱出し、数人の手勢で昼夜伊賀越えをすることで、三河に逃げ延びていたのです。
後日、1590年関白豊臣秀吉が、徳川家康を関東の湿地帯に移封した翌年、1591年関白豊臣秀吉より、千利休が切腹を命ぜられたのは、本能寺での茶会後の織田信長爆殺の陰謀に加担していたこと、そして、徳川家康を堺で暗殺できなかったことが原因と伝わるのは、堺がイエズス会の支配下にあり、千利休がキリシタンであったからです。つまり、千利休は、藤原氏とイエズス会による日本征服陰謀の口封じに切腹を命じられていたのです。
織田信長と徳川家康の人物背景を知る手掛かりとなるのは、天下人となった時の、賎民に対する態度です。
アラブ渡来の海洋民族・平家末裔の織田信長は、1568年足利義昭を奉じて上洛すると、王権により汚物清掃業務などの「キヨメ」を押し付けられていた余部(海部・海洋民族末裔)を、「余部をイジメる者は織田信長に対する謀叛とする。」と宣言し、配下に召抱えるのです。織田信長の祖父の墓は、賎民部落と云われた垣外(カイト)にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大坂夏の陣で豊臣軍団を壊滅すると、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉の賎民政策により、穢多村に貶められた渡辺村を役人村に引き上げ、大坂の警察業務に就けるのです。徳川家康の出生地は、賎民部落と云われる世良田であったのです。
戦国時代の中心武将の織田信長や徳川家康の背景を知ると、藤原氏(島津氏を支配する近衛家)とイエズス会による陰謀が見えてくるのです。それは、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す。」です。
この場合の、「攻撃する夷」とは、賎民頭の織田信長と徳川家康で、「抹殺される夷」とは、百済系桓武天皇家を仏教思想で支援し、京の経済を支配している比叡山延暦寺軍団と、石山本願寺がある大坂を、実効支配している穢多として貶めた秦氏末裔の野武士軍団です。
その藤原氏が抹殺対象とする「夷」を壊滅するための計画を、ポルトガル商人とイエズス会がおこなっていたのです。黄金国ジパング(実際に、戦国時代の石見銀山は世界需要の三分の一を産出していた。)征服を企てるボルトガル王室が軍事援助するイエズス会が、キリストの教えだけを布教する唯の組織ではないことは、次の史料から窺がえます。その史料とは、

1585年の本国ポルトガル(1580年ポルトガル王国は、イスパニア王国と同君連合をしていた。)に宛てた書簡で、「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食糧、および一二年分の食糧購入用の金銭がじゅうぶんに備わったフラガータ船三四艘、当地日本に派遣してもらいたい。」、更に、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会で、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、とイエズス会による軍事活動支援を禁じていたのです。

1546年渡来のザビエルは、書簡に不都合なことは記述していなかったので、伝道地でのザビエルの軍事行動を裏付ける史料は皆無ですが、イエズス会による軍事行動・軍事援助の禁止文書があることは、1587年までは、それらの軍事行動がおこなわれたことを示唆します。
何故、戦国時代を統一した武将が、尾張・三河から排出されたのかは、そのイエズス会の書簡から説明できます。それは、尾張・三河には、伊勢湾・三河湾があるからです。戦争に勝利するには、優れた戦略を持つ武将の他に、多数の兵士、無数の弾薬、多量の食糧の確保が絶対必要条件であるのです。それらを定期的に供給するには、船の輸送は最適だったのです。
1575年三河長篠の戦で、織田信長軍は、日本で始めての鉄砲隊により、武田勝頼軍団を敗退させるのです。この長篠の戦は、日本列島の戦争史を百八十度変えてしまったほど画期的な戦いであったのです。
長篠の戦以前では、「戦」は秋から春までの期間に多くおこなわれていたのです。それは、戦の主な原因は領土の境界争いだったのです。しかし、この当時、戦い専門の武人は、多くはいなかったのです。それは、律令制度や荘園制度による生産専門の農奴の使役による税制度が崩壊し、領主自ら使用人を雇い農業経営をしなければならなかったので、人手の足りない国では、武家の領主と言えども農業をおこなわなければならない立場にいたからです。ですから、兵隊を招集できないため、春から秋にかけての農繁期には、戦ができなかったのです。
しかし、織田信長は、一年中戦をおこなっていたのです。何故、農地も少なく、それに伴い、農奴としての兵隊の数も少ないのに、織田信長はどのようにして、軍団を組織していたのでしょうか。その農地が少ないため農奴も少ない織田信長の軍団組織の難問を解決したのが、傭兵軍です。織田信長の軍団は、所領の農奴を兵隊としたのではなく、他国の武人を傭兵とし、組織構成されていたのです。
尾張の弱小武将の織田信長は、アイデアマンのようで、傭兵を集める宣伝手段として、旗印に「永楽通寶」を書き込んでいたのです。つまり、織田信長は、金を持っているとのアピールです。
家紋や旗印は、日本古来のものではなく、鎌倉時代以降に発明されたものです。それは、戦場でのリクルートと働きを誇示するために、各氏族がそれぞれのデザインを考えて、武具や旗に印として書き込んでいたのです。その武人の家紋のデザインの素が、オリエントの動・植・昆虫、或いは、星であるのは、武人の先祖がオリエント渡来の民族であったからです。鎌倉時代から使い始められた百済系天皇家の十六弁菊紋に使われた菊も、その祖はオリエントであるのです。
1560年弱小武将の織田信長は、武士ではないので、名乗りを上げて堂々と戦うという武士の武闘作法を無視して、今川義元の大軍団の寝込みを襲い、ゲリラ戦術で敗退させるのです。これが世に言う、桶狭間の戦いです。
この駿河と三河の一部を支配していた今川義元が、織田信長に敗れたことにより、今川義元の配下であった徳川家康が、三河を占領して独立するわけです。
武士は、源氏の祖、「もののふ」の武芸者(芸とは神をたのしませる技)を先祖としていたので、太陽の下で、正々堂々と戦えば、戦死しても再生できる、と信じていたのです。それは、源氏武士の先祖は、再生を約束する太陽神ミトラを祀る民族であったからです。
死と再生を繰り返す太陽神ミトラは、ローマ帝国傭兵軍の軍神で、敵と味方の稜線に降臨し、戦士を見守っていて、もし、戦死しても正々堂々と戦った勇者であれば、再生を約束していたのです。ですから、輪廻転生思想により魂を尊び、死者を「ケガレ物」として燃やしてしまう(浄物→成仏)仏教思想は、武士にとっては許されない思想であったのです。
再生を願う武士は、太陽の下で戦うことを正義としていたのです。そのため、敵将が再生できないように、武士は敵将の首を落として、再生を阻止するのです。そして、その敵将の首を、自軍の大将に持参することにより、褒賞を受け取ることが出来たのです。
その敵将の首を落すための道具が、「日本刀」であったのです。日本刀が「武士の魂」と言われるのは、正々堂々と闘った敵将の首を落すための、実戦用の武器ではなく、「祭祀道具」であったからです。
その根拠として、鉄砲が伝来する以前の、武人の死傷者の傷の多くは、矢傷で、次が、槍傷で、刀傷は殆んど確認できなかったからです。日本刀が戦場の主武器と誤解されたのは、実戦が殆んどなくなった江戸時代での演劇の舞台演出の影響だったのです。
しかし、アラブから渡来の伊勢に勢力を張っていた平家末裔の織田信長は、源氏武士の末裔ではないので、奇襲攻撃のゲリラ戦を得意としていたのです。
イエズス会は、ザビエルが山口で入信させた琵琶法師ロレンソ了斎をスパイとして、大坂と京の仏教軍団を壊滅できる武将を物色させていたのです。この尾張の織田信長と、三河の徳川家康に目を付けたイエズス会は、琵琶法師ロレンソ了斎を介して接近するわけです。
そして、1562年織田信長と徳川家康とが、清洲同盟を結び、1567年美濃の齋藤氏を倒し、ここに尾張と美濃両国を織田信長が支配するのです。このことにより、イエズス会のナウ船は、待望の伊勢湾と三河湾に自由に来航できることになったのです。
伊勢は、奈良の宇陀、島根の石見と同じに、ポルトガル商人が支配下におきたい地域だったのです。それは、伊勢は、縄文時代より朱砂を産出するところで、朱砂が産出する地域には、水銀・銀が埋蔵されていると知っていたからです。その証拠に、京では、「京白粉」と言われた水銀薬は、江戸時代の伊勢では、「伊勢丹」として、ポルトガルの船員が持ち込んだ梅毒の治療薬として売られていたのです。
そして、伊勢は、平安時代にアラブから渡来の海洋民族が、京の賀茂川に隣接する葬送地ギオンを武力で支配し、藤原氏が支配する奈良興福寺の神輿を担いで強訴する僧兵軍団を蹴散らしたため、その武力を白河法皇に認められ、藤原氏の傭兵としての「源氏武士」に対抗して、白河法皇の私兵の「平家」(平正盛が平家の祖。「平氏」は賜姓で、「平家」とは別)となったように、近畿地域へ攻め上るには都合のよい土地でもあったのです。
イエズス会は、反仏教の織田信長をイエズス会軍団に取り込むために、使者団を遣わすのです。その中のひとりに、明智光秀がいたのです。明智光秀は、藤原氏が支配する興福寺で次期将軍として養育した、足利義昭将軍の京への護衛を願い出たのです。
それに前後して、イエズス会は、都地区では、琵琶法師ロレンソ了斎の働きによりキリシタン大名を多く輩出していたのです。そのひとりに、ポルトガル商人が目指す銀山がある大和国宇陀郡の沢城主の高山友照(自称飛騨守)がいたのです。その息子が高山彦五郎です。高山彦五郎は、父の影響を受けて、イエズス会に入会し、ホーリーネームをジュスト(正義の人)とし、キリスト教教会を建設して、高山右近を名乗ったのです。その高山右近の主が、明智光秀であり、更に、茶道の師匠が、千利休であったのです。
明智光秀も千利休も、イエズス会と藤原氏による、本能寺での織田信長爆殺ネットワークに繋がっていたのです。
山口でキリスト教に入信し、イエズス会員となった琵琶法師ロレンソ了斎は、イエズス会軍団を組織するために、近畿一帯の山奥を分け入っていたのです。しかし、そこで疑問が涌くのです。それは、何故、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎が、広域の山奥深く分け入れたのでしょうか。
それは、琵琶法師などの遊芸者は、秦氏末裔が仕切る同業者組合の「座」に属していたからです。座は、全国の神社をネットワーク拠点として、情報を共有していたのです。
遊芸者の歴史は、645年唐進駐軍と中臣族に壊滅された、飛鳥ヤマトの蘇我王朝の祭祀一族であったのです。その祭祀一族の、ミトラ教の牡牛を屠る血の犠牲による祭祀権を、ゾロアスター教から導入した火の祭祀をおこなう仏教組織に奪われ、そして、漢訳仏教を手先とする簒奪王権により、犠牲をおこなった祭祀場から河原、或いは、路外へ追放された祭祀一族末裔であったのです。
そして、簒奪王権は、その秦氏の神に捧げる儀式の「秦楽」を、秦→しん→申→さる→「猿楽」と貶め、更に、その部落に、漢訳仏教の「法華経」思想により、仏罰者をハンセン氏病者と決め付け、その者の世話を、秦氏祭祀者部落に押し付けることにより、秦氏末裔をケガレ者と貶めていたのです。
ハンセン氏病者や不具者は、仏教思想によれば、前世での悪行(肉食)をおこなった者と解釈されていたため、盲目の琵琶法師ロレンソ了斎も、穢多部落のネットワークに属していたのです。
何故、琵琶法師ロレンソ了斎が、都市部ではなく、山奥深くの山の民に布教をおこなっていたかといえば、それは、都市部の賎民達は、藤原氏の流れを汲む破戒僧親鸞が発明した浄土真宗の阿弥陀様(古代エジプトの太陽神アトンが変身)の教えに、帰依していたからです。
寄生することによりしか生き残る術を知らない漢訳仏教組織は、権力に擦り寄る術に長け、そして、金の匂いに敏感であったのです。山奥の、権力者もいない、そして、金の匂いも少ない処では、妻帯し肉食する浄土真宗の僧侶でも、阿弥陀様の布教には熱心ではなかったのです。
劃して、イエズス会のキリシタン大名の出身の多くは、寂びれた山奥であったのです。そして、高山友照も明智光秀も、その出自が不明であったのです。それは、山奥に暮す武人は、「サムライ」が支配した北条鎌倉時代に、六波羅探題の源氏残党狩りから逃れた、自ら「平家落ち武者」と出自を消した源氏武士末裔であったからです。
そのような、血・肉食禁忌の仏教思想により穢れ者としてイジメられた、海洋民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康に、ポルトガル商人とイエズス会が、伊勢湾や三河湾から、銃撃の訓練を受けた傭兵と武器と食糧を供給することにより、仏教組織壊滅作戦が始まるわけです。しかし、その裏には、日本列島の支配を古代から企む藤原氏と新規渡来のイエズス会が隠れていたのです。
1568年織田信長は、明智光秀の要請を受け入れて、足利義昭を奉じて上洛(入京)するのです。その翌年、1569年織田信長は、関所の撤廃を命ずるのです。
歴史史料には、この織田信長の京の都への進出を、「上洛」と「入京」とで記述されているようです。それは、何故でしょうか。入京とは、その文字ズバリで、京の都に入ることです。では、上洛とは、どのような意味と背景があるのでしようか。
上洛とは、桓武天皇家の簒奪王権にとっては使いたくない言葉なのです。それは、794年平安京が造られた歴史背景を語ってしまうからです。その上洛の「洛」とは、唐の都の「洛陽」の洛であるのです。
618年建国の唐は、京兆府(長安)の東に、河南府(洛陽)を設置していたのです。唐では、首都長安の東の都を、洛陽と言っていたのです。その唐からの進駐軍の軍事支援により造られた、中国唐の東の、日本列島の都平安京は、唐進駐軍にとっては「洛陽」であったのです。唐進駐軍が、中国から東の平安京へ行くことを、上洛と言ったわけです。しかし、907年本国唐が滅んだことにより、中国文化色が濃かった平安文化も、やがて国風化に伴い、「上洛」の言葉も、中国から日本列島ではなく、日本列島各地から京への「入京」に替ってしまい、漢語に巧みな教養文化人の筆の中だけの言葉となっていったわけです。
この頃の織田信長に、下天の意識は少なかったようです。織田信長が、入京時に、仏教組織にイジメられていた賎民の余部(海部)を配下にしたように、織田信長には、賎民を仏教思想によりイジメる仏教組織壊滅が最大の目的であったようです。
その関所とは、王権による治安のために設置されたものではなく、寺社領を通過する者から金を仏教組織が徴収するために設けられていたのです。その関所は、海洋民族や騎馬民族を圧迫していたのです。それは、農業を行わない、海洋民族や騎馬民族は、生産物の商品を他国に売り歩くことにより生計を立てていたからです。更に、仏教組織は、門前や神社境内でおこなう商い人からも銭を徴収していたのです。
この仏教組織に歴史的圧迫を受けていた海洋民族と騎馬民族の負のエネルギーを、比叡山延暦寺軍と石山本願寺の野武士軍団壊滅のために、イエズス会と藤原氏は利用することを考えていたのです。その二大仏教軍団を壊滅することで、イエズス会は都地区を完全支配できると考えたのです。しかし、イエズス会は、藤原氏の陰謀力を知らなかったため、後に、手酷いしっぺ返しを受けることになるのです。
織田信長が入京した翌年、1569年織田信長は、ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイス(滞在1563年〜1597年)に謁見するのです。このフロイスは、後に、「フロイス日本史」を著すのですが、イエズス会内部では、あまり評判のよくない人物であったようです。この宣教師フロイスに謁見した後の織田信長の態度は、急変していったようです。
1570年近江姉川の戦いで、浅井長政を破ると、その翌年1571年比叡山延暦寺を焼討ちして、その僧侶全員と房にいた多数の若い女と稚児すべてを斬首していたのです。この焼討ちには、明智光秀も高山右近も参戦していたのです。この焼討ちで京の経済を支配していた比叡山延暦寺軍団が全滅したことにより、その後、京では、「楽市楽座」となるわけです。
そして、1573年織田信長が、足利義昭を京から追放することにより、ここに室町幕府が完全に滅ぶわけです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本の実態が理解できなくなるのと同じに、「信長公記」を読みすぎると、織田信長の実態が理解できなくなります。更に、「フロイス日本史」を読みすぎると、その理解度が低下するようです。それは、「信長公記」にも「フロイス日本史」にも、織田信長に軍事援助をしたイエズス会と、戦いで織田信長が負け戦をしている時に、藤原氏(近衛家)の計らいで正親町天皇のタイミングの良い仲裁のことが記述されていないか、歪曲されて記述されているからです。
そもそも、天文三年(1534年)から物語が始まる「信長公記」は、織田信長の家臣太田牛一が著述したことになっているようですが、実際は、関白豊臣秀吉の命で、更に、総監修の下で、出自不明の豊臣秀吉の、藤原氏とイエズス会との深い関係の実態を隠蔽・改竄するために創作された物語であったのです。
「日本書紀」を読みすぎると、古代日本史の実態が分からなくなるのは、六世紀に河内を支配していた、秦氏の「秦王国」の存在と、南北約八百m×東西約二kmの丘に挟まれた、飛鳥川が流れる細長い土地に、騎馬民族の突厥帝国進駐軍が軍事都市を築いていた史実を、「日本書紀」が改竄・隠蔽していたからです。
藤原氏が720年に創作した「日本書紀」の飛鳥大和物語では、その飛鳥ヤマトには、日本初の天皇は672年天武天皇が初なのに、第33代女帝推古天皇が存在していて、その摂政として厩戸皇子(聖徳太子)が活躍し、河内支配者の「物部氏」と飛鳥支配者の「蘇我氏」が、仏教導入に関して対立していた、とするのです。
そして、その「日本書紀」の仏教伝来物語では、何と、太陽神の化身牡牛を屠る祭祀者の秦河勝は、仏教普及に尽力する聖徳太子の忠臣となって、仏像を安置するために仏寺の広隆寺を建立したことになっているのです。
この仏教伝来物語が可笑しいことは、もし、「日本書紀」の仏教伝来物語で、秦河勝が、仏教に帰依していたのならば、何故、室町時代に秦氏末裔の賎民として貶められていた世阿弥が、「風姿花伝」で、「能楽の祖は秦河勝」と述べていたのでしょうか。
能楽は、仏教組織が血・肉食の禁忌でイジメていた、賎民の芸である「猿楽」が祖ではなかったのでしょうか。史実では、山背国(秦王国)で、秦河勝は、仏寺の広隆寺ではなく、太陽神の化身牡牛を屠る景教寺の蜂丘寺を建立していたのです。
では、戦国時代の一級史料とされる、「信長公記」、そして、それをベースに、江戸時代の第三百済王朝の寛永三年(1626年)小瀬甫庵の著書「信長記」の内容は、史実を伝えていたのでしょうか。
それらの一級史料とされる物語では、織田信長は、明智光秀の謀叛に遭い、本能寺で自害したとされているのですが、当日明智光秀軍の一員として本能寺に赴いた本城惣右衛門の手記によれば、明智光秀軍一団が、未明に本能寺へ到着した時点には、すでに本能寺は焼け落ちていた、とするのです。
しかし、それらの一級史料や「フロイス日本史」では、明智光秀軍団に攻められて矢傷を負って窮地にたった織田信長は、自害した、とするのです。自害とすると、何故、遺体が見つからなかったかの説明がつきません。しかし、爆殺であったならば、その説明は納得できるのです。本能寺が、藤原氏の密貿易による火薬貯蔵所であったことから、織田信長爆殺説は、かなり納得できるのです。
江戸初期、徳川家康が、穢多頭弾左衛門と共に、荒川や利根川支流が流れ込む、穢れ地であったエド(穢れ地→穢地→エド→江戸)を、オリエントから渡来の秦氏末裔の高度土木技術により、湿地帯を改良して宅地とし、大坂の渡辺村(秦王国)から移住させた者達により城下町として整い始めた頃、1623年徳川三代目将軍となった百済の血が流れる家光は、明智光秀一族が滅んだ「山崎の戦い」での徳川家康と騎馬民族末裔に恨みを持つ春日局の入れ智慧により、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達と、徳川家康と懇意にしていた秦氏末裔の弾左衛門一族のエドからの追放を企てていたのです。
その忠臣のひとりである、三代目将軍家光に疎まれていた旗本の大久保彦佐衛門忠教が「三河物語」を著し、その文中で、「「信長公記」を見るとうそが多い。三分の一はあったことだ。三分の一は似たことがあった。三分の一は全く無かったことだ。(略)それで(「信長公記」をベースに著述された)「信長記」にはうそが多いと評判に成った。」、と記述しているのです。その大久保彦佐衛門忠教は、生前の織田信長と軍事行動を共にしたことのある、清洲同盟徳川家康の家臣であったのです。
では、戦国時代を描いた「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料としての信憑性はどのように評価できるのでしょうか。これらの物語は、関白豊臣秀吉が、大村由己に、豊臣秀吉の軍歴と業績を誇示するために書かせたものであるのです。その内容には疑問符がつくのですが、その物語の始まりが、天正二年(1574年)秀吉が長浜城主になった後の、天正八年(1580年)頃から始まるのです。その天正二年の翌年、1575年織田信長は、日本で始めて、鉄砲隊により、武田勝頼の騎馬軍団を敗退させていたのです。
織田信長の軍団では、鉄砲隊は初期から組織されていたように思えますが、鉄砲隊での本格的戦闘は、1560年今川義元軍を尾張の桶狭間でのゲリラ戦で破ってから十五年後の、1575年三河長篠の戦であったのです。その十五年の間に、織田信長は、イエズス会により鉄砲と軍事訓練された傭兵軍の供給を受けたのです。
1549年イエズス会のザビエルは、南インドのマラバル沿岸の布教(侵略)基地から、日本列島の南九州の鹿児島に渡来するわけです。何故、南九州鹿児島が、日本列島初渡来の地であったのかは、その南九州を実効支配していた藤原氏(近衛家)は、その渡来元が南インドのマラバル沿岸で、古来から藤原氏は南インドとの南海密貿易をおこなっていたからです。戦国時代のイエズス会と藤原氏(近衛家)とは、南インドのマラバル沿岸で繋がっていたのです。
紀元一世紀、そのマラバル沿岸には、ユダヤ教ヨシュア派(この新興宗教が、392年ローマ・キリスト教となるのです。)の伝道師トマスが、「法華経」にあるソックリ物語を多く綴っている「マタイの福音書」を携えて、その新興宗教の布教地(侵略地)を訪れて、教会(砦)を築いていたのです。
渡来したザビエル(滞在1549年〜1551年)は、琵琶法師ロレンソ了斎より、反仏教軍団を組織するための情報として、山の民の武人の性格を聞き出していたのです。そして、実際に山の民の武人に接触した感想を、「私はこれほどまでに武器(日本刀)を大切にする人たちをいまだかって見たことがない。」とし、更に、「よい武器(日本刀)をもっていることが何よりも自慢であった。」、と書き残しているのです。
何故、山の民の武人が、武器を大切にし、自慢するのか、ザビエルは理解できなかったようですが、その武人が、北条鎌倉時代に「サムライ」組織により、山に追われた源氏落武者末裔であることを知っていたら、武人のその武器に対する態度が理解できたことでしょう。
その山の民の武人が、大切にし、そして、自慢する日本刀とは、唯の実戦用武器などではなく、先祖の魂を鎮めるための「もののふ」である武芸者の祭祀道具であったのです。
それでは、その山の民の武人は、奈良時代では「鬼」「土蜘蛛」、平安時代では「蝦夷」「俘囚」、そして、北条鎌倉時代以降では「天狗」「山賊」「馬借」、として無教養で粗野で凶暴と勝ち組史料では記述されているのですが、イエズス会にはどのように認識されたのでしょうか。
巡察使ヴァリニャーノ(滞在1579年〜1603年)は、イエズス会員から、「日本人が高貴で非常に優れた素質と才能の持ち主であることは否定できない。それゆえ日本人は多くの事柄において我々ヨーロッパ人を凌駕している。」と知らされ、そして、「イエズス会員が、日本人から、知識も礼儀も持ち合わせていないと思われないように。」、との注意も受けていたのです。そして、「日本人は外面的な事柄や礼拝の儀式、立派に整えられた儀式に非常に心を揺り動かされる。」とのアドバイスも受けていたのです。
山の民の武人が礼儀正しいのは、日本武士道は、ローマ帝国軍騎士道→新羅花郎騎士道の流れにあり、忠誠心、弱者擁護、名乗りあい太陽の下で正々堂々と戦う、等の一族の掟があったからです。この日本武士道の流れは、後に、「サムライ」が支配した第三百済王朝の江戸時代に、アウトローの役座の掟、「強気を挫き、弱き助く。」の「任侠道」として生き延びていくわけです。
そのように先輩のイエズス会員より、山の民の武人の情報を得ていたので、イエズス会の宣教師が、自称飛騨守とした高山友照に対して武士として礼儀を尽くしたことと、琵琶法師ロレンソ了斎によるキリスト教の平等思想とその実践の説明、例えば、都地区での仏教組織が仏罰者の穢れ者として差別していたハンセン氏病者に対する治療と保護、に感銘した高山友照は、イエズス会に入会したわけです。この日本武士道の代表のような高山友照と彦五郎(後の右近)親子が、キリシタンとなったことにより、多くの山の民の武人が、キリシタンとなっていくわけです。その中に、蒲生氏郷がいたのです。
キリシタン大名の蒲生氏郷は、伊勢湾一帯を支配する豪族ですが、その臣下に山科勝成がいたのです。この山科勝成は、大砲の名手であったのです。しかし、その大砲の渡来は、1543年種子島に鉄砲が伝来してから33年後の、1576年であるのです。
鉄砲のコピーは、製鉄技術があればできます。しかし、鉄砲を使いこなすには、火薬の主原料の硝石が必要なのと、火薬の取り扱いを知らないとできません。ましてや、鉄砲軍団を組織的に動かすには、長い歳月をかけた経験がなければできないことです。
火薬は、硝石、硫黄、炭粉より作られるのですが、その硝石は、日本列島では殆んど採取できないのです。そのことに目を付けたイエズス会は、イエズス会に入会の条件として、硝石と鉛の提供をおこなうことにより、信心深くない大名も、イエズス会に取り込んでいくわけです。
この硝石の需要を察知した藤原氏は、インド硝石を、坊津→種子島→雑賀→根来寺→本能寺の密輸ルートを使い、戦国大名達に売り捌いていたのです。その本能寺で、やがて、十年戦争の石山合戦で仏教軍団が日本列島に存在しなくなったため、不必要となった織田信長は、1582年爆殺されてしまうのです。
更に、鉄砲の後に渡来した、鉄砲の数百倍の威力のある大砲の取り扱いは、日本武人のシロウトではできない高等技術であったのです。実は、その山科勝成とは実名ではありません。経歴と実名は、1570年宣教師オルガンチノと共に渡来した、十字軍マルタ騎士団のジョバンニ・ロルテスだったのです。ロルテスは、大砲の操作技術者として、イエズス会の傭兵として渡来していたのです。更に、ロルテスには、簿記技術と石組技術をもっていたことから、石工組合員(フリーメイソン)であると疑われています。
現在各地に復元されて聳え立つ石垣上に城郭を設置した城は、そのロルテスよりヨーロッパ築城思想を学んだ織田信長が、キリストの神の代わりに、織田信長自ら神として住む「天主閣」を設けて築城したのです。日本列島において、天主閣のある城は、1576年完成の安土城が始めであるのです。しかし、後に、その「天主閣」は、「天守閣」となって現在に至るわけです。無神論者の織田信長が、キリストの神を敬わず、自ら神となることを欲したことも、イエズス会組織に爆殺された要因のひとつでもあるようです。
そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下となったロルテス(山科勝成)は、1575年三河の長篠の戦で勝利した、織田信長に謁見していたのです。それは、その当時には、イエズス会が軍事支援する織田信長支配下の軍団には、多くのキリシタン大名軍団と射撃に慣れたイエズス会傭兵が存在していたからです。
この長篠の戦で勝利した織田信長軍は、1571年の焼討ちで比叡山延暦寺軍を簡単に壊滅できたのですが、1570年から始まった石山合戦では、五年もの苦戦をしても壊滅できないでいたのです。それは、石見の銀山採掘権をポルトガル商人とイエズス会に狙われている、中国地方を支配する毛利輝元が、秦氏末裔の野武士軍団が護る大坂石山本願寺の砦に、毛利海軍の船により、武器・弾薬・食糧を供給していたからです。
織田信長は、その毛利海軍を壊滅する戦術を、イエズス会に求めていたのです。その戦術の新兵器が、1576年ポルトガルから伝来の戦艦の大砲であったのです。この戦艦の大砲の砲撃により、無敵の毛利海軍も壊滅してしまうわけです。この海戦での敗戦により、毛利軍本隊の戦力が衰えていくわけです。
簒奪王権は、このイエズス会戦艦による、石山合戦での毛利海軍との海戦の史実を知られたくないために、物理学的に証明できない九鬼海軍の新兵器の鉄鋼板船による海戦物語を、江戸時代に創作するわけです。しかし、常識的に考えても、和船に鉄鋼板を全面に貼り付けた戦艦が、正常に航行できるはずはないのです。しかし、この九鬼海軍の鉄鋼板船の存在は、現在でも、史実と信じられているのです。
戦国時代末期の戦いとは、ポルトガル王国がイエズス会のキリシタン軍団を手先として、日本列島の中枢を占領するために、都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅するための、「キリシタン軍団」と「仏教軍団」との戦いであったのです。
その「キリシタン軍団」と「石山本願寺軍団」の尖兵として働いたのは、秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。キリシタン軍団として参戦した秦氏末裔は、ハンセン氏病者を仏罰者としてイジメる仏教組織壊滅に立ち上がったのです。それに対して、石山本願寺軍に参戦した秦氏末裔は、日本列島を異教の神を掲げて支配を目論むイエズス会傀儡の織田信長軍団壊滅に立ち上がったのです。
その秦氏末裔の悲劇は、そのイエズス会が布教するキリスト教も、親鸞が布教した阿弥陀様の教えも、その源は、秦氏が祀る太陽神ミトラであったのです。キリスト教も浄土真宗も、自分の組織を広げるために、太陽の下、全ての民族は平等である、とするミトラ神を、自らの組織拡大のために改竄していたことを、その両軍で奮闘する秦氏末裔は、知る術は無かったのです。
この秦氏末裔の同氏討ちを距離を置いて眺めていたのは、ミトラ神のシンボル十字(マルタ・クロス)を割り菱の家紋とした、1582年に滅んだ騎馬民族末裔武田氏の忍者部族金山衆を取り込んだ、騎馬民族末裔の徳川家康であったのです。
ポルトガル王国の日本支配のシナリオは、平安時代より、神道ではなく、仏教の密教儀式で祀られていた百済系天皇家は、藤原氏の祭祀儀式による唯の日本国の飾りにすぎないことをイエズス会が調査していたため、武力で日本を統一させた天下人を日本列島の実質の王として、キリスト教に帰依させることにより、ポルトガル王国の日本支配が完成する、と言うわけです。
そのシナリオ戦略の捨て駒が、平家末裔の反仏教の織田信長と源氏末裔の反仏教の徳川家康であったのです。
都地区を支配していた比叡山延暦寺軍団と石山本願寺軍団を壊滅して目的を達したことにより、用済みの捨て駒の織田信長を抹殺するための、1582年本能寺の変があった未明に、織田信長から堺に招待されていた徳川家康が遊行していたのは、イエズス会と藤原氏による、織田信長と徳川家康との同時暗殺が目的であったのです。
しかし、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆などの忍者部隊を側近として侍らせる徳川家康は、そのイエズス会と藤原氏の陰謀を察知すると、素早く、堺から逃避することにより、生き延びていくわけです。では、イエズス会の目的を達成するために、武力による天下統一に熱心ではなかった織田信長と徳川家康の捨て駒を抹殺した跡目を、ポルトガル王国とイエズス会は、誰に託そうとしていたのでしょうか。
日本史には謎が多い人物が多数登場しますが、その中でも謎が多い人物のひとりが、関白豊臣秀吉です。
豊臣秀吉の経歴を語っている「天正記」と総称される、「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などの八編の史料と、「信長公記」、そしてそれを参考に著された「信長記」を除くと、尾張国愛知郡中村の百姓木下弥右衛門の子とされる、豊臣秀吉の出自を示す他の史料は皆無なのです。豊臣秀吉は、何処で生まれたかの客観的史料がないのですが、突然、三河長篠の戦の前年に、歴史上現れるのです。
それは、正に、北条鎌倉時代の元寇に関する史料が、禅宗関連史料以外には、皆無であるのと同じに、関白豊臣秀吉には、何か後世のひとに知られたくない史実があったようです。
1584年小牧・長久手の戦いで、壊滅することが出来なかった宿敵徳川家康を、1590年に、関東の穢れ地に移封を命じた関白豊臣秀吉は、その翌年、1591年千利休に切腹を命じるのです。何故、千利休は、その豊臣秀吉の命に素直に従って自害したのでしょうか。それは、千利休には、イエズス会との深い繋がりがあったからです。
千利休とは、藤原氏と非常に親しい正親町天皇から与えられた居士号で、幼名を与四郎と呼ばれ、堺の倉庫業で屋号魚屋(ととや)の生まれと云われています。しかし、一時、秦氏末裔賎民の呼称「阿弥」と号したように、その周辺には、秦氏末裔の遊芸者の影が付きまとっていたのです。
与四郎は、室町時代に盛んであった博打の闘茶から、わび茶を開発した武野紹鴎の弟子であり、そのわび茶を草庵での高価な茶器での茶会として完成させていたのです。この千利休の師匠の武野紹鴎にも、秦氏末裔の影が付いているのです。
茶人武野紹鴎は、改姓後の名で、武野の前姓は、武田新四郎と言い、騎馬民族末裔の武田氏の武士であったのです。その武田が、武野となって、自治都市堺で皮屋の屋号で、武具の甲冑などの武器革製品を商う商人となっていたのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉時代以降、製革製品を商う商人は、仏教思想の血・肉食禁忌思想により穢多と呼ばれ、賎民視されていたのです。更に、武野紹鴎は、賎民ささら一族の専売品の竹細工を行い、竹で茶杓を自ら作り、わび茶で使用していたのです。
自治都市堺は、北方の難波にかけて、六世紀まで「秦王国」の地であったのです。その地に、時空を越えて秦氏末裔が集結したのです。そして、戦国時代末期に、イエズス会のエージェントが、都地区侵略の前線基地確保のため、自治都市堺に潜入してくるのです。
千利休は、草庵での茶会を完成させると、利休七哲といわれる武人達も結集していたのです。それらの七名の武人とは、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、そして、蒲生氏郷と高山右近です。その蒲生氏郷の家臣が、大砲の名人十字軍マルタ騎士団の山科勝成(ロルテス)で、高山右近の主が、織田信長暗殺の下手人とされてしまった明智光秀であったのです。その蒲生氏郷と高山右近は、後に、共にキリシタン大名となるのです。
その草庵での茶会は、「あること」をおこなうには、都合の良い空間であったのです。その「あること」とは、暗殺です。その草庵の入り口は、非常に狭くて、武士の魂である日本刀を携帯しては入れなかったのです。更に、抹茶は苦いため、トリカブトなどの毒薬を混ぜて飲ませるには適した飲み物であったのです。
千利休は、1591年2月28日、京都聚楽屋敷で自刃し、その首は一条戻り橋に晒されたのです。何故、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命じられたのかは、1590年7月21日長崎に帰着した、天正少年使節団を引率した巡察師バリニャーノが、日本の王に謁見を求めていたからです。
そして、その願いが叶えられたのは、八ヵ月後の1591年3月京の聚楽第において、日本の王を前にして、少年視察団がヨーロッパで学んだ西洋音楽を演奏したのです。
そこで、巡察師バリニャーノは、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていることに驚愕するのです。巡察師バリニャーノが日本の王からの返事を待っていた、その八ヶ月の間に、千利休は、豊臣秀吉により、切腹を命ぜられ、自刃し、その首が晒されたのです。千利休の首を晒した目的は、ある者達に対する警告を含んでいたのです。
1576年に完成した安土城とその城下町を、1579年渡来した巡察師バリニャーノは、視察し、そして、日本武士の正装である鎧甲冑ではなく、ヨーロッパ服で身を包む織田信長に謁見して、「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」、と書簡で述べているのです。
そして、1580年にポルトガルとイスパニアは同君連合となり、イスパニアのフェリペ2世がポルトガル王位を兼任したため、イエズス会会員にイスパニア人が多数入会することに脅威を感じていた巡察師バリニャーノは、ポルトガルのイエズス会の日本での布教実績をローマ教皇にアピールするために、1582年2月15日天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。
その目的はふたつ。ひとつは、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に、日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。そして、もうひとつは、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後そのキリスト教世界の栄光と偉大さを、その少年達自らに語らせることにより日本での更なる布教に役立てる、ことであったのです。
天正少年使節のヨーロッパでの成功を手にした巡察師バリニャーノ一行(バリニャーノ自身は、ヨーロッパに行かず、インドに留まっていた。)は、1586年リスボンを出発し、インドで巡察師バリニャーノと合流し、中継地のマカオに到着すると、1587年豊臣秀吉により伴天連追放令が発せられていることを知るのです。今や、イエズス会の宣教師は、日本国へ入国できないのです。そこで、巡察師バリニャーノ一行は、インド副王の使節として、日本国入国を許可されたのです。そして、やっとのことで、1590年7月21日長崎に帰着するのです。そして、日本の王に、イエズス会によるヨーロッパ視察の報告としてではなく、インド副王の親書を届ける名目で、巡察師バリニャーノは謁見を願い出たのです。
メキシコ銀山を開発し、そして、チリ硝石を積んだイスパニア商船が、銀山のある石見沿岸に多数渡来していることに脅威を感じ、日本の王・織田信長に謁見し、日本国でキリスト教布教が、ポルトガル人によるイエズス会の努力で成功したことを直ぐにでもローマ教皇に報告するべく、1582年2月15日に長崎を発った巡察師バリニャーノは、その四ヵ月後の、1582年6月21日未明に起こった「事件」を知る術を持っていなかったのです。
それは、1582年今やイエズス会は、ポルトガル人だけの組織員ではなく、33人中、ポルトガル人17名、イスパニア人10人、イタリア人6名であったのです。そのイスパニア人のイエズス会会員は、当然、ポルトガル商人よりも、イスパニア商人を優遇するわけです。そのために、日本列島支配のシナリオ戦略も、当然、変更されていたのです。
巡察師バリニャーノ一行がヨーロッパに向けて旅立った後のイエズス会の内部は、一枚岩ではなかったのです。そして、イエズス会には不幸にも、1588年イングランド王国の海軍は、世界征服を狙うイスパニアの無敵艦隊を撃破したのです。
このことにより、ローマ教皇の許しを得て、東アジアを支配国としていたポルトガル・イスパニア王国の征服予定地には、ローマ教皇の宗教的支配が及ばないイングランド王国の海軍が侵攻していくのです。1600年には、アヘン貿易をおこなう、イングランド東インド会社が設立されるわけです。
そして、その268年後、1868年その東インド会社の社員グラバーが、藤原氏(近衛家)が支配する薩摩藩と長州藩の、「サムライ」ではなく、「下級武士」に「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府の転覆を焚き付けたことにより、平安時代から始まった錬金術師空海が発明した密教儀式で祀っていた天皇家から、藤原氏(近衛家)により新たに発明された「古代?」儀式の数々により、国家神道で祀る天皇家へと代わり、ここに「神国ニッポン」が誕生するのです。
1591年3月の聚楽第での演奏会で、日本の王が、織田信長から豊臣秀吉に代わっていたことを始めて知った巡察師バリニャーノは、その後十年間の日本滞在中の調査で、同盟者と思っていた「藤原氏の陰謀」を知るのです。そして、1600年関が原の戦いで、藤原氏が支援する西軍・豊臣軍が、騎馬民族末裔の東軍・徳川家康軍に敗退したのを確認すると、1603年日本を後にするのです。
では、イエズス会の、織田信長と徳川家康による日本征服のシナリオ戦略は、石見銀山を狙うイスパニア商人達が支援するイエズス会と「藤原氏」により、どのように替えられていたのでしょうか。
1581年織田信長は、巡察師バリニャーノが京へ視察に来たのを歓迎して、馬揃え(騎馬による軍事パレード)を、御所の前に正親町天皇を引き出させて、大々的におこなったのです。この大行事を仕切ったのは、明智光秀であったのです。
その翌年、つまり、1582年「本能寺の変」があった年、再び、織田信長は、明智光秀に、退位しない正親町天皇を脅すために、馬揃えをおこなうことを告げていたのです。京での馬揃えのために、焼け落ちた本能寺に未明に到着した明智光秀軍は、そこで初めて、陰謀に巻き込まれたことを知るのです。
何故、織田信長が、そのような馬揃えを、巡察師バリニャーノのためにおこなったのかは、巡察師の職務を、よく理解していたからです。
イエズス会巡察師とは、世界各地のイエズス会布教地(侵略地)に派遣され、そのイエズス会の任務を点検する、特別司祭のことです。その巡察師は、ローマ教皇より、その地でのイエズス会の活動の変更や中止の権限を与えられていたのです。
織田信長は、イエズス会の初期目的であった、都地区で悪魔の教えを広める館壊滅を、1571年比叡山延暦寺を焼討ち壊滅し、1580年石山本願寺を壊滅・占領したことを、その馬揃え後に、巡察師バリニャーノに報告したのです。
その報告を受け、安土城が聳える城下町の教会や、学校から聞こえるオルガンの響きを見聞きした巡察師バリニャーノは、「信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一隅の機会である。」と考え、ローマ教皇への報告に赴くわけです。
しかし、ポルトガル商人やイスパニア商人は、京都の仏教軍団を壊滅したことに満足している織田信長には、大いに不満であったのです。更に、デウスの神を崇めず、織田信長自ら神となり、その化身の唯の大石を拝めと要求する織田信長の存在は、最早許せなかったのです。それは、ポルトガル商人とイスパニア商人が支援するイエズス会が、織田信長を軍事援助した真の目的は、石見の銀山の支配権を、毛利輝元より奪うことが、第一の目的であったからです。
劃して、石見銀山を奪取するための適任者が選ばれるのです。それが、出自不明の羽柴秀吉です。抹殺する相手は、織田信長、徳川家康、そして、明智光秀です。
明智光秀の出自は、戦国大名・武将の例に倣って、不明です。その出自の手掛かりはないのですが、射撃の名手であることは、イエズス会の傭兵であったことが疑えます。当時、硝石は貴重品であったので、ふんだんに射撃練習ができるのは、藤原氏の硝石密輸ルートにある雑賀衆か、イエズス会傭兵だけです。
明智光秀が、歴史上登場するのは、足利義昭の京への護衛を、ゲリラ戦を得意とする尾張の弱小武将の織田信長に依頼の時です。1568年織田信長が、足利義昭を奉じて上洛すると、その翌年、1569年織田信長は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎の紹介で、宣教師ルイス・フロイスに謁見するのです。そして、1570年近江姉川の戦いに参戦した明智光秀は、その翌年には、羽柴秀吉を差し置いて、坂本城の城主となっているのです。羽柴秀吉が、長浜城主となったのは、その四年後の、1574年だったのです。
更に、明智光秀は、その出自が不明なのにもかかわらず、織田信長に会った二年後には、京都奉行の政務に付いていたのです。
それには、明智光秀の謎があったからです。それらの謎のひとつは、堺の商人であった千利休の弟子の高山右近が、明智光秀の配下であったことです。更に、出自不明の明智光秀は、公家が好む連歌の名人で、頻回に連歌会を開催したり、京の連歌会に出席していたのです。そして、明智光秀は、織田信長の家臣でもあり、足利義昭の家臣でもあったのです。その足利義昭は、幼少を藤原氏が支配する興福寺で過していたのです。
千利休は、その名を正親町天皇より賜ったのですが、その意味は、「賎・せん」の利休であったのです。つまり、賎民の利休が、何故、正親町天皇と繋がりがあったのでしょうか。それは、天皇家の周りで暗躍する、藤原氏の流れにある近衛前久です。近衛前久は、娘前子を入内させることにより、正親町天皇と義理の兄弟となっていたのです。その近衛前久が、千利休を織田信長に、茶の師として紹介していたのです。そのことにより、織田信長は、茶器に異常な興味をもつことになったのです。
この近衛前久と正親町天皇とのコンビは、イエズス会傀儡軍の織田信長の苦戦では色々と活躍し、浅井長政との形勢が不利な戦いでは、和睦の調停役となったり、そして、石山合戦では、十年もの戦闘でも織田信長軍が勝利できないのを、石山本願寺の顕如との和睦の調停役となり、その調停中に防御を解いた一向宗軍団の隙を突き、全滅させていたのです。その近衛前久も、天下を盗った織田信長の存在を許せないひとりであったのです。
藤原氏が、イエズス会と共に、織田信長を支援したのは、藤原氏が支配する興福寺の宿敵比叡山延暦寺軍の壊滅であったのです。しかし、藤原氏の流れにある親鸞が発明した浄土真宗の石山本願寺を壊滅するに及んでは、最早、支援するどころか、抹殺したい存在であったのです。正親町天皇の和睦で、顕如一族の存在は確保できたのですが、この後、どのようなことを要求されるか想像も出来ない織田信長は、抹殺するより他はない、と考えたようです。
そこで、イエズス会と藤原氏(近衛家)の意見が一致するわけです。そのシナリオは、明智光秀を下手人として、織田信長と徳川家康を同時に暗殺することです。そして、謀反人明智光秀を羽柴秀吉に討たせることにより、織田信長の王統を羽柴秀吉に引き継ぐ、ということです。その織田信長と徳川家康同時暗殺の実行者は、千利休とするのです。
千利休の人物背景を知るには、生まれ育った自治都市堺の歴史を知る必要があります。
境「さかい→堺」の地名ができる奈良・平安時代以前は、その一帯は、オリエントから渡来の秦氏が支配した「秦王国」であったのです。その史実を隠蔽するために、645年飛鳥ヤマトの王国を簒奪した、唐進駐軍傀儡の中臣族が、奈良時代に、「籐氏」から「藤原氏」に変身して、自らの出自を隠蔽・改竄するために、720年「日本書紀」を創作し、四世紀の大和朝廷など架空王朝と、それを支配した天皇家(天皇の登場は、672年以降)を登場させ、南インドのマラバル沿岸で入手した「聖書物語」を真似て、天地創造物語で神代の世界から降臨したとする神武東征物語より、四世紀から河内平野に巨大古墳群を築造して、河内平野を支配していた「秦氏」を、廃仏派の「物部氏」と改竄していたのです。
645年、その秦氏が河内平野を支配し、国際交易をおこなっていた、国際湊ローラン(浪速→難波)の交易都市は、唐進駐軍と中臣族により、徹底的に破壊され、騎馬民族の移動可能な建築様式である掘立柱に瓦葺ではない建物が、基壇上に礎石を据えてその上に柱を立てて、平瓦を葺いた唐建築様式の建物に代わってしまうのです。その唐進駐軍の砦都市が、「日本書紀」では、難波長柄豊碕宮遷都、と記述されているのが、それです。
平安時代に、古代エジプトの埋葬思想による石室や石棺のある巨大古墳や百舌鳥古墳群が存在した広大な河内平野が、摂津、河内、和泉に分割され、その三国の「境」に位置する地域を「さかい」と呼んだのです。つまり、堺は、古代「秦王国」の地であったのです。
「サムライ」が支配した北条鎌倉幕府を倒した、源氏末裔の「武士」である足利氏が支配した室町時代には、摂津、河内、和泉には、穢多としてイジメられていた、遊芸者達が集まる地となっていたのです。そして、戦国時代には、堀をめぐらせ武装組織に護られた堺は、王権の及ばない自治都市となっていたのです。その自治都市堺に、千利休の茶道の師匠、皮屋の武野紹鴎が堺の有力者で居られたのは、堺が、秦氏が支配する「秦王国」であったからです。
秦氏末裔が、北条鎌倉時代から、血・肉食禁忌思想を武器とする仏教組織により、穢多として民族差別をされたように、秦氏は、高度技術を持つ多部族連合であったので、その部族中には騎馬民族も多くいたのです。騎馬民族は、その生活上、肉食し、その毛皮をなめし、革製品を作ることに優れた技術をもっていたのです。
騎馬民族が、戦闘に強かったのは、騎馬民族スキタイから伝承された、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術と製革技術をもっていたからです。それは、それらの二つの技術を融合することにより、優れた武器を生産できたからです。皮屋の武野紹鴎も、自治都市堺(秦王国)で、武具や甲冑を生産していたのです。その皮屋の武野紹鴎が、千利休に茶道を教えていたのです。その武野紹鴎が騎馬民族末裔であることは、前姓が武田であったことで証明できるのです。
武田氏が騎馬民族末裔であることは、その戦闘で騎馬を使うことと、遠隔地にいる同族との交信に狼煙(のろし)を使っていたからです。狼煙は、その文字からも分かるように、狼の糞を燃やすことによる煙を使い、遠方と交信していたのです。その狼煙を通信手段とした歴史は、騎馬民族スキタイが始めであったのです。
そして、農耕民族が嫌う狼は、騎馬遊牧民族にとっては神聖なトーテムでもあったのです。そして、武田氏が、騎馬遊牧民族末裔であることを証明するように、固定した城を築くことはなかったのです。そして、その武田氏の歴史を示す家紋は、秦氏が祀る太陽神のシンボルである、マルタ・クロスの十字をデザインした、割り菱であったのです。
茶道の背景を見ると、そこには七道の者達が現れてくるのです。七道とは、仏教思想の六道、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天界道の六道界を外れた者のことです。つまり、七道の者とは、仏教思想で、死後、前世の罪により、転生するとされる六種の世界にも住めない、人間ではなく、獣である、と仏教組織は言うのです。
勿論、この思想は、釈尊の教えなどではなく、遊牧民族トラヴィダを不可触賎民チャンダラーとして貶めるために発明した輪廻転生のバラモン教の教えを、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族の秦氏を貶めるために、漢訳仏教組織が真似たものであったのです。
そして、北条鎌倉時代、飛鳥ヤマト時代の秦氏の祭祀一族末裔の遊芸者は、漢訳仏教思想を武器とする王権により、七道の者と蔑まされていたのです。
茶は、鎌倉時代、元帝国に滅ぼされた南宋から移民してきた禅僧により、「くすり」として持ち込まれてきたのです。それが、室町時代には、「くすり」飲みから、産地当ての博打の闘茶となっていたのです。戦国時代、その博打の闘茶を、高級な茶器で飲む芸術に仕立てたのが皮屋の武野紹鴎で、その茶を飲む空間を創ったのが千利休であったのです。その「わび」のある庭園に、質素で小さな茶室を設け、瀬戸物の茶器で、竹細工の茶杓で抹茶をいれて、鉄瓶で沸かした湯でお茶を立てるわけです。それら茶道を構成する、庭園、茶室、茶器、茶杓、鉄瓶などをつくるのは、賎民と言われた秦氏末裔の仕事であったのです。
茶道が、戦国時代に武家世界に流行ったのは、風流を楽しむためだけではなかったのです。それは、戦国時代の武家経済構造を反映していたのです。武家は、ご恩と奉公で、死を賭して敵を倒すために働くわけです。つまり、褒賞目当てに戦場に向かうのです。それに対して王権は、手柄を立てた武者に、負将の支配地を分け与えていたのです。しかし、戦国時代末期には、各地の戦場と、それに参加した武将との比率が、手柄を立てた武将の方が多かったため、恩賞として分け与える土地がなかったのです。
そこで、智慧者が、土地に替えて、茶器を褒賞として与えることを考えたのです。そのためには、土地よりも高価であるとする、「茶器の伝説」を創る必要があったのです。その伝説を創るのに、藤原氏と懇意のある天皇が登場するわけです。戦国末期の天皇家の経済は、かなり疲弊していたからです。
その褒賞としての茶器を鑑定するひとりとして、千利休がいたのです。正親町天皇より名を受けた、茶道の大家となっていた千利休の「一言」で、駄器が、一国よりも高価な名器に変わってしまうのです。そのように伝説創作により、当時の茶道界での三大名器とされたのは、「初花」「新田」「楢柴」であったのです。
そのような歴史的背景のある自治都市堺に、イエズス会のエージェントの遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎が現れるわけです。日本列島の支配を目論むイエズス会は、奈良時代より仏教組織にイジメられてきた、自治都市堺に暮す秦氏末裔のエネルギーを、京都を支配している比叡山延暦寺軍団と、大坂を支配している石山本願寺軍団壊滅のために利用しようと考えていたのです。
この堺の秦氏末裔の賎民達をイエズス会に取り込むことが出来たことにより、尾張の織田信長と、三河の徳川家康を、イエズス会に取り込むことが出来たのです。それは、織田信長も徳川家康もその祖が賎民として、仏教組織にイジメられていたからです。
自治都市堺に住む皮屋の武野紹鴎は、このイエズス会の申し出を受け入れるのです。そして、その連絡係として、藤原氏の流れを汲む近衛前久と義兄弟の正親町天皇より名を受けた、弟子の千利休を指名するのです。
そして、千利休は、近衛前久の紹介により、イエズス会傀儡の織田信長の茶の師となるのです。そのことにより、織田信長は、千利休が鑑定した名器を、手柄を立てた武将に、褒賞としての土地の代わりに、無限に与えることが可能となっていたのです。その一方、織田信長は、伝説により創られた三大名器とされる「初花」「新田」を、高価な代償を払い手に入れたのです。残る名器は、「楢柴」だけです。
イエズス会の大躍進は、遊芸者の琵琶法師ロレンソ了斎なしには語れないでしょう。それは、全国を漂泊する遊芸者は、全国の情報を知るための、神社で「役座」が仕切る同業者組合の「座」を基点とするネットワークを持っていたからです。そして、遊芸者が集まる自治都市堺にも、当然、全国の情報が集まるわけです。その情報を「任意のひと達」に伝える手段として、千利休は茶会を開催していたのです。
このことは、1600年関が原の戦いで勝利した東軍の将徳川家康が、千利休の弟子であったキリシタンの古田織部を、徳川二代目将軍秀忠の茶の湯の指南として召抱えたのは、大坂豊臣方の情報を得るためだったのです。しかし、1615年大坂夏の陣後、その古田織部が、豊臣方に通じていたことが発覚したことにより、徳川家康により、古田織部は、師匠の千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられたのと同じに、切腹を命じられていたのです。
藤原氏とイエズス会、そして、暗殺実行者の千利休達の考えたシナリオは、次のようです。それは、明智光秀軍団が、正親町天皇を退位させるための脅しとしての馬揃えで、本能寺に集結したところを、本能寺に居る織田信長と徳川家康もろとも、爆殺する、と言うことです。
織田信長を安土城からおびき出す仕掛けは、織田信長が喉から手が出るほど欲しがっていた、「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、暗殺日前夜に「茶会」を開催する、と言うことです。そして、その茶会には、織田信長から徳川家康を招待するのです。
連歌好きの明智光秀を謀叛者に仕立てる仕掛けは、公家達に、前夜連歌会を開催させ、謀叛をほのめかす歌を明智光秀に創らせる、と言うことです。シナリオは完成し、後は、実行あるのみです。

しかし、そのシナリオは、半分しか成功しなかったのです。それは、徳川家康が、織田信長の本能寺での「大茶会」を急遽キャンセルして、堺遊行に行ってしまったことと、明智光秀軍団の到着が、本能寺爆発後であったことです。しかし、織田信長の暗殺は成功し、謀叛者としての明智光秀は、シナリオ通り、隣国で待機していた羽柴秀吉軍団により、織田信長爆殺後数日で、山崎合戦で討たれるわけです。
主殺しの謀叛者とされてしまった明智光秀は、藤原氏とイエズス会の陰謀を、配下と信じていたキリシタン大名の高山右近と蒲生氏郷が、主の明智光秀軍側ではなく、敵の羽柴秀吉軍側として参戦したことで知るのです。
更に、同盟者として信頼していた徳川家康も、明智光秀軍に援軍として参戦しなかったのです。ここに、藤原氏とイエズス会による日本支配の陰謀を知る織田信長は本能寺の爆殺で、そして、織田信長の参謀であった明智光秀が、藤原氏とイエズス会による新日本王候補となった羽柴秀吉により、抹殺されたのです。そして、ポルトガル王国に替わって、イスパニア王国の日本侵略の陰謀を知る、残る抹殺者は、徳川家康だけとなったのです。
それでは、何故、徳川家康は、その陰謀から逃れられたのでしょうか。それには、元武田軍団の忍者部隊の金山衆の存在が考えられます。長篠の戦で武田軍団が壊滅すると、その武田軍団を財政的・戦略的に支えていた金山衆は、徳川家康の配下となっていたのです。金山衆は、渡来系の産鉄民族末裔であったので、騎馬民族の徳川家康と同族であったのです。その金山衆も秦氏末裔であったので、秦氏末裔の遊芸者との全国ネットワークを持っていたのです。
千利休の生家は、屋号「ととや」の倉庫業で、その仕事の流れには、物流を担う馬借との繋がりがあったのです。その馬借とは、北条鎌倉幕府の六波羅探題により、源氏狩りから逃れるために、山奥に逃れて「平家落武者」と偽り生き延びた者ではなく、街での賎民に紛れて馬借となり生き延びた「源氏武士」であったのです。
土一揆で、守護大名や幕府軍と互角に戦い、或いは、勝利できたのは、一揆軍を先導した馬借の前身が、源氏武士であったからです。その馬借は、各国にある神社の「座」を、騎馬で、各地のネットワークを繋ぐ重要な媒体者でもあったのです。
千利休は、キリシタンでしたが、それよりも秦氏末裔を意識していたのです。堺での徳川家康を茶会で毒殺することは、それほど難しいことではないのです。それができなかったことは、徳川家康が、薬草に詳しかっただけではないでしょう。
未明の本能寺での出来事は、堺に居た徳川家康に瞬時に届いていたのです。その堺からの脱出ルートが伊賀越えであったことは、徳川家康にとっては幸いであったのです。それもこれも、遊芸者とのネットワークを持つ金山衆抜きにはできなかったことです。
徳川家康が、イエズス会の陰謀から逃れられたのは、賎民達の支持があったからです。それは、1563年三河一向一揆での、徳川家康の戦い後の処理に表れています。苦戦の末、一向一揆軍を敗退した徳川家康は、一向一揆側で闘った敗残兵の武人を、配下にしていたのです。
この戦後処理は、織田信長が、1580年加賀の一向一揆軍を壊滅すると、一揆軍兵だけではなく、加賀の村々の老人幼児まで、全ての者を斬首していたのです。そして、石山合戦でも、白旗を掲げて降参した兵だけではなく、石山本願寺の砦に居た老人幼児全てを、ローマ・キリスト教が魔女を焼き殺していたのをイエズス会宣教師から聞き、そして、真似て、焼き殺していたのです。
この徳川家康と織田信長の敗残兵の処置の違いは、何なのでしょうか。それは、徳川家康と織田信長との民族の違いからきたのです。
一向衆軍の兵の多くは、織田信長と同族の海洋民族末裔ではなく、徳川家康と同族の騎馬民族末裔であったからです。阿弥陀様の民族平等思想を信じた、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の源氏武士末裔が穢多として、奈良・平安仏教にイジメられていたため、その多くが民族平等を説く一向衆となっていたのです。
しかし、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞の世襲一族は、穢多を救うためではなく、穢多の軍事力と財力を取り込むために、穢多村を布教していたのです。それは、石山合戦で、藤原氏の流れにある近衛前久の入れ智慧で、正親町天皇の仲介により、織田信長と和睦した顕如の行動で証明できるのです。民族平等のために闘ってきた穢多と蔑まされた秦氏末裔は、石山本願寺の捨て駒だったのです。
織田信長は、一向一揆軍兵士には残虐でも、奈良・平安仏教組織により汚物処理の「キヨメ」としてイジメられていた海洋民族の同族の余部(海部)を保護し、配下として召抱えていたのです。
では、織田信長も徳川家康も、どのようにして同族を識別していたのでしょうか。それは北条鎌倉時代中期から現れた、武家の歴史を示してデザインした「家紋」で、識別していたのです。
北条鎌倉時代中期以降、北条氏の支配力の衰えが見えてきた頃、山奥で「平家落武者」と偽り棲息していた源氏武士末裔が、北条鎌倉幕府打倒のために、部族の歴史を示す「家紋」を旗印として集まってきたのです。その家紋を識別して、同族が結集して軍団となっていったのです。それらの山の民を集めた軍団の長が、楠木正成であり足利尊氏であったのです。
その山から下りてきた武装集団は、自ら「アク党」と言っていたのです。その武装集団の「アク党」を、王権側が、仏教思想により「悪党」として貶めてしまうのです。この思想戦略により、その武装集団は、悪人の集まる暴力団のイメージとして現在まで伝わっているのです。
しかし、その「アク党」の「アク」が、「悪」ではなく、古代ペルシャ語での「勇者」であるとすれば、その武装集団が、自ら誇らしげに、「我らアク党」と述べていた意味が分かるというものです。その「アク党」は、自らの出自を示した歴史をマークとした「家紋」を旗印として、同族の旗の下に集結していたのです。、
十年戦争の石山合戦では、何故、日本本土西端の毛利輝元が、石山本願寺に、武器・弾薬・食糧を毛利海軍により長期に渡り供給していたのでしょうか。ひとつには、石見銀山の奪取を狙うポルトガル商人に支援されたイエズス会が、石山本願寺を支配するために、イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていたからと考えられます。敵の敵は、味方であるわけです。
では、何故、毛利輝元は、1571年イエズス会傀儡の織田信長軍団に攻められていた比叡山延暦寺軍には、武器・弾薬・食糧を援助しなかったのでしょうか。それは、石山本願寺軍には毛利氏と同族が居たのですが、平安時代より亡命百済移民末裔が支配する比叡山延暦寺軍には、毛利氏の同族が居なかったからです。
それが分かるのは、石山本願寺軍の砦にたなびいていた旗印に「三ツ星に一文字」があったからです。毛利軍の家紋は、その「三ツ星に一文字」と類似した、「一文字に三ツ星」であったのです。では、その「家紋」には、どのような民族の歴史が隠されていたのでしょうか。
海洋民族や騎馬民族は、広域の遠隔地を行き来するために、旅の指針として、星を目印としていたのです。やがて、その星は、その民族のシンボルとなっていくのです。
平安時代末期、海洋民族の平家(平氏ではない。)と、騎馬民族の源氏が対立していた頃、オリオン座の、赤い星のアルファア星のベルギウスを平家星、そして、白い星のベータ星のリゲルを源氏星、と言っていたのです。
何故、オリオン座が、平家も源氏にも意識されたのかは、古代エジプトでは、オリオン座は、狩の名人とされていたからです。狩の名人のオリオン座を部族のシンボルとしたのは、平家も源氏もその祖は、農耕民族ではなく、狩猟民族であったからです。
そのオリオン座の三ツ星、ミンタカ、アルニウム、アルニタクは、横一列に並んでいたので、遠隔地を旅する民族には、旅の印とされていたのです。
平家の祖は、アラブから渡来の海洋交易民族で、朱砂が産出される伊勢に渡来していたのです。
それに対して、河内源氏の祖は、秦氏で、その秦氏の祖は、ヒッタイト帝国から、古代エジプトに技術者として出稼ぎにきていた部族であったのです。その部族末裔が、ユーラシアの各部族と連合して、東端の日本列島の古墳時代に、渡来していたのです。
古代エジプトでは、狩の名人のオリオン座は、光の神オシリスの印と考えられていたのです。そして、オリオン座を構成する三ツ星は、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとして表現されていくのです。
その古代エジプトのオリオン座の28宿は、古代エジプトから古代中国大陸に渡来した民族により、その28宿の内の一群が、Shen(参・セェン→サン・3)と言われ、日本列島に渡来した民族により、その星群の「Shen」が、「三ツ星」と言われることになるのです。
古墳時代に、河内湾に突き出た岬に上陸した民族は、その地を、古代エジプト語の岬を意味する、ワタ(波)ナーベ(小山)と名付けるのです。その地を支配した民族末裔は、地名から名字としてワタナベと呼ばれていくのです。
そのワタナベは、平安時代、814年嵯峨天皇より源氏賜姓を受けた源融の五代目源綱が、ワタナベに移り住んだことにより、渡辺綱となり、渡辺党を興すのです。そして、ワタナベの祖である秦氏が、朝鮮半島から北九州に渡来した地には、渡辺党と同族の松浦党の祖が興るのです。
戦国末期、大坂の石山本願寺砦と、毛利海軍の旗印に、「三ツ星と一文字」、「一文字と三ツ星」があるのは、毛利海軍には、平安時代に、アラブから渡来の海洋民族末裔の平家に滅ぼされた、渡辺党の支流である海洋軍団の松浦党末裔がいたからです。
では、三ツ星の歴史は分かったのですが、一文字とは、何のシンボルであるのでしょうか。
源氏の祖は秦氏です。その秦氏の祖は、日本列島に渡来する前は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)に居住していたのです。その新羅の軍団・花郎騎士団は、元は、ローマ帝国傭兵軍であったのです。ローマ帝国傭兵軍の主武器は、長い槍で、それは、ローマ人が使う長槍を意味する、ロンギヌスの槍と云われていたのです。そのロンギヌスの槍を表わしたのが、一文字であるわけです。
「三ツ星と一文字」を旗印とする渡辺党が、ロンギヌスの槍を主武器としていたことは、三河一向一揆敗残兵で、後に、徳川家康の家臣となった渡辺半蔵守綱は、別名「槍の半蔵」と云われた長槍使いの名人であったことで、説明できるのです。
その「三ツ星と一文字」と「一文字と三ツ星」を旗印とする部族は、その部族の歴史を知ることにより、戦いで、同士討ちを避け、助け合うわけです。石山合戦が、イエズス会の最新式武器の銃と、多くの傭兵軍が供給されたにもかかわらず、十年も持ちこたえたのは、秦氏末裔の古代エジプトの高度土木技術による深堀と石組壁だけではなく、同族の毛利軍の軍事的援助があったからです。
その十年戦争の石山合戦で敗れた兵士も、徳川家康は、家臣として召抱えていたのです。徳川家康は、何を目的に、一向一揆敗残兵や石山合戦敗残兵を、家臣として召抱えていたのでしょうか。
その徳川家康が目指していた事を知るには、イエズス会傭兵から関白豊臣秀吉への出世の秘密を調べると、あぶり出し絵のように浮かんでくるようです。それは、豊臣秀吉を裏で駆っていたのが、イエズス会ではなく、藤原氏であったからです。
豊臣秀吉は、テレビ時代劇ドラマなどでは、誰にでも親切で、明るい性格のように描写しているようです。しかし、その性格を描写するための素材史料は、豊臣秀吉が総監修した「信長公記」、或いは、「天正記」と言われる「播磨別所記」「惟任謀叛記」「関白任官記」などであるのです。
しかし、その一級史料と言われる「信長公記」でも、大久保彦佐衛門が「三河物語」で述べたように、信憑性は三分の一程なのです。そして、「フロイス日本史」では、教科書歴史とは異なる、陰湿で残酷で淫乱な豊臣秀吉が描かれているのです。
江戸時代、江戸ではあまり評判のよくなかった豊臣秀吉も、大坂では人気があったのは、大坂の住民の、新羅系日本人(秦氏・源氏)よりも、百済系日本人(平氏)が多く住む、民族構成によるようです。
そして、騎馬民族末裔の徳川家康が、秦氏末裔の穢多頭弾左衛門一族と共に湿地帯を開拓して宅地としたエドに、大坂で民族差別されていた秦氏末裔が多く住む渡辺村からエドに移民させ、共に築いたエドの都が、1623年第三百済王朝の江戸時代に替わった、百済の血が流れる家光が三代目将軍となった三年後、ウソの多い「信長公記」をベースに「信長記」を著していた、小瀬甫庵が1626年著した「太閤記」では、豊臣秀吉の架空の少年時代の名が、日吉丸であったのは、大坂の百済系日本人を意識していたからでしょう。
それは、出自不明の豊臣秀吉の歴史を創作した「太閤記」で、豊臣秀吉の少年時代の名前日吉丸の日吉とは、朝鮮半島読みでは、イルギで、それは、亡命百済移民が祀る比叡山延暦寺の神、シャンワン(山王)から派生したイルギ(日枝)→イルギ(日吉)に繋がるからです。
因みに、戦国時代の日本国の民族構成は、新羅系日本人(秦氏・河内源氏武士・徳川家康)、百済系日本人(桓武天皇家、京の皇族・平氏サムライ・比叡山僧侶)、アラブ系日本人(伊勢住民・平家・織田信長)、ユダヤ系日本人(奈良の公家・南九州藤原氏・京の近衛前久)、その他先住民となるのです。
現在の豊臣秀吉の明るく爽やかな性格が確定したのは、藤原氏が復活した明治革命以降であったのです。
大坂夏の陣後に、徳川家康が、自身の関東の穢れ地への移封と、同族の秦氏に対しての狼藉の数々に対して、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉々にして散撒していたのです。しかし、明治革命で、藤原氏の復活と共に豊臣秀吉は、再び、豊国神社に祀られる神として復活したのです。では、戦国末期、藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、秦氏末裔をどのようにしたかったのでしょうか。
1582年2月15日巡察師バリニャーノは、天正少年使節を連れて長崎からヨーロッパに向けて旅立ったのです。その四ヵ月後、織田信長は、本能寺で爆殺され、その下手人とされた明智光秀は、あっさりと羽柴秀吉に滅ぼされてしまったのです。
その織田信長爆殺の流れで不思議なのは、利休七哲といわれる堺に集まるキリシタンの武人達、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山堅物、蒲生氏郷、高山右近らは、本来ならば、織田信長のナンバー2の明智光秀軍に参加するのが流れなのですが、全て、羽柴秀吉軍に参加しているのです。
そして、不思議なのは、キリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったのにもかかわらず、羽柴秀吉軍に加わっていたのです。そして、高山右近はイエズス会の十字軍旗と共に、1585年豊臣秀吉に改名した後も引き続き、1587年十字軍旗をたなびかせたイエズス会軍団が九州平定まで、豊臣秀吉軍と共に行動していたのです。
このイエズス会に最も忠実であるキリシタン大名の高山右近の行動から、織田信長爆殺から九州平定までは、イエズス会のシナリオ通りに、羽柴秀吉は動いていたようです。しかし、1587年キリシタン軍団の主力である大村純忠が死去すると、1585年豊臣姓に変身していた秀吉は、その本性を現すのです。それが、キリスト教宣教師の追放令です。
そして、九州平定最後まで共に闘った高山右近に、キリスト教の棄教を迫るのです。しかし、キリスト教を強く信じる高山右近は、大名の地位をあっさり捨てて、布教のために山奥に篭ってしまったのです。そして、高山右近は、1614年国外追放まで、山奥で布教を続けていたのです。
では、羽柴秀吉から豊臣秀吉の改名には、どのような仕掛けがあったのでしょうか。
1584年宿敵の徳川家康を、小牧・長久手の戦いで壊滅できなかった羽柴秀吉は、翌年1585年藤原氏の流れにある近衛前久の猶子(ゆうし・契約関係の親子)となり、藤原一門として、豊臣姓を賜うのです。
その豊臣の「豊」とは、藤原氏が藤原氏でなかった古墳時代の、北九州に608年にはあった秦王国の改竄国名です。その豊国の家臣である「豊臣」姓は、歴史的には、藤原氏よりも上位にあるとするのです。
羽柴秀吉を藤原一族に引き込んだ近衛前久は、藤原氏の古来からの悲願である日本支配まで、イエズス会軍団の力を利用することを考えていたのです。そして、1587年南九州の島津義久を平定すると、イエズス会の主力軍団長の大村純忠が死去すると、最早イエズス会には用はないと、近衛前久(藤原氏)は豊臣秀吉より、宣教師追放令を発せさせるわけです。
そのように強気に出られたのは、イエズス会を軍事的・経済的に支えていたイスパニアの海軍は、イングランド海軍の攻撃により、敗退を重ね、その後、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍により壊滅されてしまっていたからです。軍事的・経済的援助がないイエズス会は、907年母国唐が滅んだため平安中期に唐進駐軍が壊滅したために、その援護を受けていた百済系天皇家の力が衰えたように、最早、豊臣秀吉に命令する立場になかったのです。それに、巡察師バリニャーノが不在のため、豊臣秀吉のイエズス会に対する不正行動を、ローマ教皇へ報告する者もいなかったのです。
では、豊臣秀吉を取り込んだ藤原氏は、戦国時代の日本国で、何を企てていたのでしょうか。
白鳳時代初期、藤原京の砦を侵略基地とする唐進駐軍をバックにした籐氏(藤原氏)が、文武天皇を傀儡として、701年大宝律令により、騎馬民族の天子(テングリ・王)から発明した天皇制の垂直支配構造のメカニズムを利用して、各地の豪族の私有地を合法的に奪ったように、戦国時代、荘園制の崩壊により土地の耕作と税制の秩序が乱れたのを統一するために、中間搾取ではなく、王権(藤原氏)が直接搾取できるように、耕作者を検地帳に登録して土地に縛り付けるために、1582年織田信長が爆殺されるとすぐに、藤原氏は、イエズス会傀儡の羽柴秀吉(この頃の羽柴秀吉は、イエズス会と藤原氏を両天秤に掛けていた。)の力を利用して、太閤検地(太閤とは、前関白の意味。)をおこなっていたのです。
この太閤検地(1582年〜1598年)により、土地制度が全国統一され、物差しや枡(京枡)の全国統一により、度量衡が統一されたため、年貢の徴収も統一されたため、羽柴秀吉の収入は莫大なものになっていくのです。イエズス会にとっては、土地・税制改革を断行して全国統一を目指す羽柴秀吉は、織田信長が仏教軍団を壊滅して、同族の海洋民族を仏教支配下から開放したことに満足していたのとは異なり、日本の王として相応しく思われたのです。
大宝律令では、土地に縛られない騎馬民族や海洋民族は、その土地本位の税制から逃れてしまったのです。このことは、戦国末期の税制にも言えたのです。漂泊する騎馬民族では、人頭税となっているのを、土地本位の税制を適用するには無理が生じます。王権にとっては、騎馬民族や海洋民族は、税を搾取する対象の良民ではないため、全国を支配するためには抹殺の対象であったのです。
この太閤検地の改革は、奈良時代に全ての土地を天皇家のものとした大宝律令と同じで、全ての土地の国有化を目指していたのです。勿論、その国有化を管理するのは、関白豊臣秀吉を傀儡とする藤原氏であるのです。
その目的を達するには、織田信長は、豊臣秀吉の総監修の「信長公記」で述べているような、「天下布武」をスローガンに、「日本統一」などは全く考えていなかったため、藤原氏(傀儡関白豊臣秀吉)が日本統一するまでは、イスパニア商人とポルトガル商人が軍事支援するイエズス会からの、武器・弾薬と、十字軍マルタ騎士団のロルテスのようなイエズス会傭兵が必要であったのです。
イエズス会が、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたことは、1587年豊臣秀吉の宣教師追放に対しての第二回日本イエズス会全体協議会での史料で分かるのです。それには、「要塞建築を引き受けたり、イエズス会が使うためであれ、それを用いて戦時にキリスト教徒の領土を救済するためであれ、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、キリスト教徒の領主のためにそれらを調達することを禁じる。」、と記述されていたのです。その史料によると、1587年までは、イエズス会は、仏教組織に対抗する大名に軍事支援していたのです。
それは、戦国時代の日本列島には、武闘を専門にする武人が少なかったからです。イエズス会が渡来するまでは、日本列島での戦闘は、農閑期の秋から春までにおこなわれていたのは、武人の多くは、農耕もおこなっていたからです。そのような日本列島の戦闘構造では、戦国大名は、自国の境界線を護るのが精一杯で、日本統一などの発想は、織田信長を含めて皆無であったのです。
傭兵制度を日本列島に持ち込んだのは、イエズス会であったのです。その先駆者が、尾張の弱小武将の織田信長であったのです。
1583年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、石山本願寺の砦を徹底的に破壊した跡地に、大坂城を築くのです。そして、羽柴秀吉は、大坂城を中心に、城下町を築くのですが、その一等地にキリシタンの教会建設を許すのです。この時期の様子を、「フロイス日本史」では、「かつて大坂の街が、日本中で極悪の衆派の一つである一向宗の本山であったように、今や主なるデウスはこの街をキリストの福音の伝播のため、それにまったくふさわしい中心地として改造することを嘉し給うたかのようである。」、と述べているのです。ここまでは、羽柴秀吉は、イエズス会のシナリオ通りに行動を、表面上、おこなっていたのです。
1221年承久の乱で、藤原氏の陰謀により、源氏残党として京に生き残っていた河内源氏が全て抹殺されたように、1585年豊臣秀吉は、キリシタン大名高山右近と共に、最後まで残っている源氏武士末裔と雑賀衆と根来衆壊滅のために動くわけです。この戦闘により、近畿地域の一向宗軍団が消滅するわけです。しかし、三河の徳川家康の軍団には、一向宗残党兵が温存されていたのです。
この近畿の一向衆軍団の最後の戦いである、真言宗一派の根来衆が立て篭もる太田城の水攻めを、豊臣秀吉は、大坂の教会からセスペデス神父を招き見学させているのです。
1587年イエズス会軍団により、九州を平定した豊臣秀吉は、「日本は神国」と宣言し、伴天連追放令を発して、そして、京に聚楽第を建設し、その聚楽第内に、千利休の屋敷を構えさせ、北野大茶会を開催させていたのです。この「日本は神国」発言は、285年後の、1868年藤原氏が復活した明治革命で、もう一度聞くことになるのです。
しかし、その「日本は神国」の発言に反して、その伴天連追放令にもかかわらず、相変わらずイエズス会は、京で布教活動をおこなっていたのです。豊臣秀吉が、本格的に伴天連追放をおこなったのは、1596年土佐の浦戸にイスパニア船サン・フェリーペ号が入港し、その宣教師が、「イスパニアは、領土拡張の手段として先ず、フランシスコ会士を送って布教させ、その後、軍を派してその地を征服するという方式をとっている。」と、拷問に耐えかねて、白状したことを知ってからのことです。その後、フランシスコ会宣教師9人、日本人信徒17人が捕らえられ、処刑されたのです。
1590年小田原北条氏政を滅ぼした豊臣秀吉は、その年に、宿敵徳川家康を、三河から、関東の穢れ地へ移封するのです。この処置は、西国への徳川家康の軍事介入を阻止するためと、関東の湿地帯に追いやることで、徳川家康軍の軍事力を削減させるのが目的であったのです。
豊臣秀吉を描いた小説やテレビドラマで、大坂城の天守閣の場面で、天下を盗ったところで終わるのは、その後の豊臣秀吉の言動が、英雄には相応しくなかったからです。
1583年石山本願寺を徹底的に破壊すると、その跡地に、大坂城を築造するために、石山本願寺軍のために武具や甲冑を製造していた渡辺村(秦王国)を、大阪市中央区九太郎町に移封するのです。その地は、「九太郎」が、「百済・くだら」を隠蔽するために付けられた町名でも分かるように、亡命百済移民が多く暮す町であったのです。このことにより、秦氏末裔は、亡命百済移民末裔による、血・肉食禁忌の民族差別思想でイジメられていくのです。
亡命百済移民は、新羅から渡来した秦氏には、民族的恨みを持っていたのです。それは、663年母国百済を、新羅・唐連合が滅ぼしていたからです。
794年唐進駐軍の軍事支援により、百済系桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国(秦王国)を乗っ取り、その地に「平安京」を遷都するのです。その「平安京」は、唐進駐軍により、「洛陽」と呼ばれていくのです。それは、唐本国の都・京兆府(長安)の東の都が河南府(洛陽)と呼ばれたのに習い、唐から海を隔てた東の都を「洛陽」と呼んでいたからです。唐進駐軍が隊列を整え「平安京」(洛陽)に上っていたことが、後に、本来の語源の意味が分からなくなってしまい、軍団が隊列を整え京に上ることを、「上京」ではなく、「上洛」と言われていくのです。
平安時代、その「平安京」(洛陽)で、唐進駐軍により軍事支援された桓武天皇とその貴族は、母国百済を滅ぼした新羅から渡来していた秦氏一族を、秦氏支配地や祭祀場から河原に追放することにより、「河原者」の賎民として貶めていくのです。
この歴史が、この戦国時代の大坂で再現されていくのです。それは、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)は、騎馬民族末裔の徳川家康のように湿地帯に移封され、穢多村として貶められていくのです。
この藤原氏の指示による豊臣秀吉の民族差別政策は、平安初期、藤原氏の援助により唐に渡り、インドのバラモン教の民族差別思想を、前支配者の騎馬民族文化を抹殺するために、日本列島に持ち込んだ錬金術師空海が蒔いた「施陀羅悪人なり」の種が、北条鎌倉時代では、「塵袋」で、「天竺に施陀羅というは屠者なり、生き物を殺して売るエタ体の悪人なり」となり、そして、戦国末期には、宗教関係者ではない豊臣秀吉が、「日本は神国」と唱えて発した「伴天連追放令」では、「牛馬を売り買い、ころして食う事、これまた曲事たるべき事」、となって庶民による民族差別として発芽していくのです。
騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏末裔にとっては、この「屠殺=悪」の思想は、騎馬民族である秦氏の歴史の全否定に繋がってしまうのです。
それは、645年殺生禁止思想の漢訳仏教が日本列島に侵略してくる前までは、河内平野や飛鳥ヤマトを、北東アジアを支配していた騎馬民族の突厥帝国進駐軍と共に支配地としていた秦氏の祭祀者は、古墳(死者の土の家→塚)上の祭祀場で犠牲として牡牛を屠り、神に捧げていたからです。
この景教(ミトラ教)の古墳上の祭祀場を、歴史上抹殺するために発明されたのが、「神社」であるのです。つまり、神社は、日本古来の宗教施設などではなく、漢訳仏教を手先とする勢力が、前政権の神を封じ込めるための建物であったのです。この神社が、日本列島に出現したのは、645年漢訳仏教勢力による「薄葬令」で、古墳での埋葬禁止令が発令された以降であったのです。ですから、歴史的に古い神社が、こんもりした森が茂る小山(塚→古墳)の上に多くあるのは、そのためだったのです。
この「薄葬令」が、645年に発令される以前は、日本列島の各地で、巨大前方後円墳は造り続けられていたのです。このことから、飛鳥ヤマト時代が、オリエントから渡来の秦氏により古代エジプトの高度土木建築技術で、河内平野から飛鳥ヤマト地域にかけて、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路を建設していた、古墳時代と重なっていたことが分かるのです。
その時代が、藤原氏による「日本書紀」で述べる「552年仏教伝来」、又は、亡命百済王朝による「538年百済仏教伝来」の、血・肉食禁忌の仏教文化の飛鳥大和時代などではないことは、河内平野や飛鳥ヤマトの遺跡の数々が証明するのです。
紀元前十四世紀、古代エジプトの宗教改革で牡牛が太陽神の化身となり、その思想が東進し、古墳時代の日本列島に、太陽を祀る景教(=太陽の都への教え・ミトラ→弥勒)として伝来するのです。その生と死を永遠に繰り返す太陽神の化身の牡牛が、太陽光が最も弱くなる冬至(12月25日)に、その太陽神の化身として屠ることにより、太陽の再生を祝うのです。
河内平野や飛鳥ヤマトにあった、そのミトラ教(景教)の祭祀場は、戦国時代中期にイエズス会が武装したポルトガル商人と共に渡来し、布教完了地の仏教施設を徹底的に破壊した跡にキリスト教教会を建てたように、645年唐進駐軍と共に、進駐してきた仏教組織により徹底的に破壊されて、その跡に、仏寺を建立(北九州より移築)して、ミトラ教の歴史的抹殺を謀るのですが、後の世に、その隠ぺい工作がバレてしまうのです。それは、仏寺境内から発掘された建物跡が、仏教建設思想の南北軸から、西に約二十度傾いているのは、冬至に太陽神を祀っていた祭祀場跡を示していたからです。
そして、秦氏一族は、その儀式で屠った牡牛の血を飲み、生肉を食べることにより、太陽神と一体になれる、と信じていたのです。このミトラ教の儀式が、ローマ・キリスト教に導入され、血が赤葡萄酒に、そして、生肉がタネナシパンと改竄されたのです。
キリスト教物語の最後の晩餐で、キリストが、弟子達に、赤葡萄酒とタネナシパンを与えて、「これは私の血であり肉である。」、と述べさせたことは、キリスト教物語を創作した作家は、ミトラ教の儀式を知っていたからです。
ですから、戦国時代のイエズス会のキリスト教宣教師も、京の教会で、牛の肉を大いに食べていたのです。勿論、秦氏末裔の山の民の、秦氏末裔の源氏武士であった、キリシタン大名の高山右近も肉食をしていたのです。その高山右近軍団が強かったのは、イエズス会からの鉄砲や弾薬を供給されてはいましたが、高山右近の部下である山の民は、秦氏末裔なので、皮をなめし革製品を作り、皮を煮詰めて接着剤として膠(にかわ)を作り、そして、ヒッタイト帝国から引き継いでいたタタラ製鉄技術により、武具や武器を自家生産できたからです。
そして、屠った牡牛の皮を剥ぎ、なめして革に加工することは、農耕民族が脱穀した後の藁を草履やムシロに加工することと同じで、騎馬民族にとっては日常的な出来事であるのです。それを、簒奪王権は、血・肉食禁忌の漢訳仏教思想を武器として、秦氏末裔を貶めるために、権力の手先の仏教僧が「ケガレ」として宣伝して歩いていたのです。
実は、その血・肉食禁忌思想は、仏の道(非人として乞食し生きること。)を説いた釈尊の教えなどではなく、インドのバラモン僧が、先住民の遊牧民族トラヴィダを、不可触賎民として貶めるために発明した思想であるのです。
そのバラモン教の血・肉食禁忌思想を、一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の経典に、騎馬民族の侵入に悩む中国大陸を支配する農耕民族王侯に取り入るために、挿入したのが、バラモン僧のナーガルジュナ(180年〜240年)であり、鳩摩羅什(405年)であるわけです。ですから、文殊の徒により無数に創作された漢訳仏典には、騎馬民族への差別語が沢山あるのは、そのためなのです。
では、仏教が伝来していた中国大陸では、「肉食は悪」などのバカゲタ思想が定着しなかったのに、何故、日本列島では定着してしまったのでしょうか。
それは、藤原氏が、バラモン教の遊牧民族差別思想を日本列島に持ち込んで、前世で悪業(肉食など)をおこなった者や、仏教に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になると「法華経」などの仏典で宣伝し、その仏罰者のハンセン氏病者の世話を秦氏末裔の部落にさせる等の、陰湿な手段を用いて、騎馬民族であるので、当然肉食する秦氏を、賎民として、奈良時代から貶め続けていたからです。
但し、奈良時代までの「ケガレ」とは、反王権のアウトローに対してでしたが、亡命百済民が、中国山東半島から日本列島に多く移民してきた平安時代になると、反逆者としての「ケガレ」が、汚わいの意味の「ケガレ」に摩り替わっていくのです。それは、平安時代初期に、錬金術師空海が、唐より持ち込んだ、インドのバラモン教の民族差別思想が原因であったのです。
では、何故、藤原氏は、古来から秦氏を社会的に抹殺しようとしていたのでしょうか。それは、日本史の謎は、天皇にあるのではなく、藤原氏にあるからです。そして、その藤原氏の謎は、秦氏の歴史が暴いてしまうからです。秦氏の歴史は、藤原氏の「黙示録」であるのです。
1585年羽柴秀吉が、藤原氏の猶子となり関白豊臣秀吉になると、突然、朝鮮半島から中国・東南アジア・インドまでの征服計画を練るのです。その豊臣秀吉の謎の行動は、豊臣秀吉自身にあったのではなく、どうも、藤原氏側にあったようです。それは、最終征服地がインドであったからです。そのインドには、藤原氏が日本列島に渡来した以前の居住地、マラバル沿岸があるからです。そして、そのマラバル沿岸には、イエズス会の侵略基地があるのです。
その天児屋根命を祖とする藤原氏の謎は、秦氏の歴史が公にされると、解明されてしまうのです。それは、天児屋根命が出現する天岩戸物語は、ギリシャ神話を模倣したものであるからです。ですから、藤原氏は、オリエント渡来の秦氏の歴史の抹殺をおこなっていたのです。
このことは、イスラエル民族と同じです。イスラエル民族とユダヤ民族は、祀る神が異なる異民族であるのです。その太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族の歴史が公にされると、唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族の歴史の謎が解けてしまうのです。
そのために、ユダヤ民族は、紀元前722年アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族末裔を全世界で探索し、歴史的抹殺をおこなっていたのです。つまり、巷で言う「失われたイスラエル十部族」などではなく、実際は「抹殺されたイスラエル十部族」であるのです。
日本国の天皇のルーツは、645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)軍に敗れた、突厥帝国残党兵と新羅系秦氏軍とによる、663年本国百済壊滅のため亡命してきた、百済亡命近江王朝を壊滅して、672年新羅系皇子が、天武天皇として即位したことが始まりであったのです。それ以前には、歴史上、天皇は存在していなかったのです。
その新羅系天武王朝を、770年藤原氏の陰謀により、亡命百済下級貴族を光任天皇として簒奪し、その百済系王朝が現在に至っているわけです。(幕末、天皇摩り替え説あり)
この、新羅系と百済系との二系統ある天皇家の周りで暗躍していたのが、藤原氏であるのです。ここが、「天皇家の謎は、藤原氏である。」、と言われる所以であるのです。その天皇家をコントロールする藤原氏の謎を解くヒントが、ニッポンの聖書である「日本書紀」にあるのです。
日本国の建国歴史を調べるための基本史料としては、国史としての六国史が挙げられます。それらは、720年「日本書紀」藤原不比等など、794年「続日本記」藤原継縄など、840年「日本後紀」藤原冬嗣など、869年「続日本後紀」藤原良房など、879年「日本文徳天皇実録」藤原基経など、そして、901年「日本三代実録」藤原時平、菅原道真など、により編纂された書籍です。
これらの国史と言われているもの全てに、藤原氏一族が編纂に関わっているのは何故でしょうか。そして、六国史最後の「日本三代実録」の編纂に関わった、藤原時平は、菅原道真を、その完成年に、北九州大宰府に左遷し、そこで謀殺しているのです。その後、恨みを秘めたまま謀殺された菅原道真は、雷神となり、藤原一族を祟る訳です。その菅原道真の祟りを鎮めるために、藤原氏が、大宰府天満宮を建立するのです。
では、この六国史は、誰のために、そして、何を目的に綴られていたのでしょうか。その謎の解明のヒントが、「日本三代実録」の最後の記述が、889年でおわっていることです。そして、不思議なのは、それ以降、勅撰の史書の編纂はおこなわれていないのです。
では、889年前後の日本と東アジアの歴史は、どのようになっていたのでしょうか。その時代前後の東アジアを調べると、中国唐での「黄巣の乱」が見つかります。塩の密売人の黄巣に先導された大農民反乱軍は、紀綱の乱れに乗じて、875年から884年にかけて、唐全土で暴れまわり、880年には黄巣は長安を支配し、帝を称し、国名を齋としていたのです。
その「黄巣の乱」が原因となり、その結果、907年唐は滅亡するわけです。そして、その唐滅亡十三年前、894年平安朝廷は、菅原道真を遣唐使に任命したのですが、菅原道真の宇多天皇への進言により、遣唐使が廃止となっていたのです。
何故、菅原道真は、遣唐使船の廃止を宇多天皇に願い出たのかの原因のひとつは、唐が滅亡寸前で、治安が乱れ、治外法権の仏寺を持つ仏教も腐敗して学ぶべきものが無いのと、そして、藤原氏が運営管理している遣唐使船は、新羅商船が事故無く唐へ渡れるのに、四隻中二隻は沈没するからです。
その竜骨のない、外洋船に不向きな遣唐使船で、藤原氏は、敵者を沈没という合法的な抹殺をおこなっていたのです。藤原氏からの身の危険を感じていた菅原道真が、遣唐使を辞退したのは、その遣唐使船転覆の背景があったからです。
では、唐の衰退と、六国史編纂の終わりは、何を意味していたのでしょうか。それは、唐から海を隔てた東の都「平安京」(洛陽)への隷属関係が切れたことを意味していたのです。日本国の奈良時代から平安時代中期までは、唐の支配下にあった証明が、漢語で記述された六国史であったのです。つまり、日本国歴史を綴った六国史とは、唐に提出するための書籍であったので、唐が滅亡してしまったことにより、永遠に、それ以降の編纂はおこなわれなかったのです。
では、奈良時代、唐隷属初期に現れた「日本書紀」とは、何を目的に創作されたのでしょうか。歴史教科書的には、百済系女帝持統天皇の正当性を述べるため、としているようですが、それは違います。ユダヤ教ヨシュア派の教会(砦)があった、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の先祖の歴史を隠蔽・改竄するためのトリックが、「日本書紀」を藤原氏が創作した、第一の目的であるのです。それは、架空の藤原氏の祖・中臣鎌足(後の藤原鎌足)を日本の古代史に登場させるためだったのです。
その中臣鎌足が「日本書紀」の物語で登場する場面は、645年「大化の改新」にからんだ事件です。しかし、その中臣鎌足と中大兄皇子とのクーデター物語にいたる場面とソックリの物語が、647年新羅での「眦曇の乱」(ひどんのらん)にあるのです。
その新羅の革命物語では、「金庚信が王孫の金春秋と接近するために、金庚信の家の前で、蹴鞠の戯をして、わざと金春秋の裳すそを踏んで、襟ひもを裂き、自分の家に招きいれて、妹にそれを縫わせるのです。それが縁で、金庚信の妹と金春秋が結婚し、そして、その金庚信と金春秋の二人が力をあわせて革命を起こした。」、と述べているのです。
「日本書紀」は、ニッポンの聖書であると信じられているため、その中で述べられている物語や記述は、真実が語られていると、信じられているようです。しかし、「眦曇の乱」と「大化の改新」の革命物語がソックリなことからも分かるように、「日本書紀」は、「聖書」の創作過程とソックリなことが分かるのです。それは、他民族の物語を都合よく利用して、自民族に都合の良い物語に改竄する、と言うことです。
「聖書」が、現在手にできる「旧約聖書」と「新約聖書」の合本書籍のようになったのは、1517年マルチン・ルターの95ヶ条による宗教改革により、ローマ・キリスト教から分離して、プロテスタント組織ができてからです。
紀元一世紀、国際交易都市ガンダーラで大乗仏教が発明された頃、ユダヤ王国は、ローマ帝国の攻撃を受け、その支配下となるのです。そのローマ帝国支配への対抗勢力を結集するために、ユダヤ教の一派である、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と叫ぶヨシュア派が、今まで分冊となっていたユダヤ経典を、ヨシュアの権威付けのために、ヨシュアがダビデ・ソロモンの直系であるとする物語を、ユダヤ経典を集めて勝手に合本とするのです。そして、ユダヤ経典合本を「旧約聖書」とし、新たにヨシュア関連の合本を「新約聖書」としたのです。
そして、その後、そのビブリア(合本)は、バイブル(聖書)と呼ばれていくわけですが、不思議なのは、ヨシュア派の合本(ビブリア→バイブル)は、ユダヤ王国で使われていたアラム語やヘブライ語ではなく、何故か「ギリシャ語」で書かれていたのです。
その合本の「旧約聖書」は、その後、各宗教組織により異なり、97年以前に決められたヨシュア派の「旧約聖書」は46分冊、1517年以降に決められたプロテスタントの「旧約聖書」は39分冊、そして、97年ヤムニア会議で決められたユダヤ教の「旧約聖書」は、24分冊で構成されていたのです。しかし、その「旧約聖書」が合本される前の元分冊原稿は、紀元前四世紀には固定されていたようです。
「日本書紀」と「旧約聖書」の構成が似ていることは、以前から指摘されていることです。それは、最初に天地創造物語から始まり、神話世界となり、そして、歴史世界へと展開されていくからです。そして、ユダヤ民族の祖アブラハムの家系図と、藤原氏の祖による中臣神道のスサノオの家系図が酷似していると云われているのです。そのひとつが、両家系図で「ヤコブ」と「ニニギ」とが、重なるからです。
そして、両書とも、祭祀氏族の歴史が神話世界でさりげなく記述されているのです。「日本書紀」では、藤原氏の祖天児屋根命は、天岩戸物語で祭祀者として登場し、そして、「旧約聖書」では、モーセ物語で、レビ族アロン一派が祭祀独占の世襲化を約束されているのです。
そして、「旧約聖書」の「民数記」では、敵国進入準備のため、人口調査を行い、そして、侵攻後、民族浄化のために聖絶の方法を記述しているのです。この「旧約聖書」は、良いお話だけではなく、他民族の歴史を乗っ取る方法も提示しているのです。それは、他民族の歴史の流れに、自民族の歴史を挿入することです。
イスラエル民族は、「旧約聖書」の存在を知らないのです。それは、「旧約聖書」のモーセ五書と言われる、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は、紀元前722年イスラエル王国が滅んでから、136年後以降に創作されていたからです。それらの物語は、紀元前586年から紀元前538年までのバビロン幽囚前後に創作されたのです。ですから、イスラエル民族は、「旧約聖書」を知らないのです。
そのモーセ五書と言われる物語は、古代バビロニアのアッカド王サルゴン(モーセの誕生物語)やギルガメッシュ叙事詩(ノアの箱舟物語)などから題材を租借し、創作されていたのです。ですから、モーセは、聖徳太子と同じに、創作上の人物であるのです。
イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国→古代エジプト→シナイ半島の流れにあるのに、ヘブル(垣根を乗り越える進入者の意味)といわれた流離いの民族が、バビロニアのウル→シナイ半島→古代エジプトの流れに改竄し、「出エジプト記」物語でモーセからの神の啓示「十戒」を創作し、イスラエル民族の掟(実は、ユダヤ民族レビ族アロン一派に都合が良い掟)とし、そのイスラエル民族の歴史を乗っ取るのです。その方法は、イスラエル民族の祖ヨセフ族の父ヤコブを発明して、そのヤコブ物語を、ヨセフ物語の前に挿入してしまうのです。
この他民族の歴史を乗っ取る方法が、「日本書紀」に応用されているのです。それが、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との、二度にわたる神仏戦争物語です。その物語では、河内平野を支配の秦氏を「物部氏」に、飛鳥ヤマト支配の突厥帝国進駐軍を「蘇我氏」とし、587年の神仏戦争物語で、蘇我氏により物部氏(=秦氏)を歴史的に抹殺し、645年「大化の改新」で、中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我氏(=突厥帝国進駐軍)を歴史的に抹殺してしまうのです。このことにより、河内平野も飛鳥ヤマトも、オリエント文化色から仏教色に隠蔽されてしまうのです。
この神仏戦争物語は、更に、藤原氏の中臣神道の神が、仏より以前に日本列島に存在していたとの錯覚を与えてしまうのです。それは、渡来の蕃神の仏を阻止するのが、在来の神であるとするからです。その物語により、河内平野や飛鳥ヤマトで、牡牛を屠り祀られていた太陽神の景教(ミトラ教)や、北極星(太一)を祀る道教を歴史的に抹殺できたのです。ですから、後のひとは、中臣神道が、日本最古の宗教組織であると錯覚してしまうのです。しかし、史実は、仏教伝来の後に、中臣神道が渡来したのです。
では、「日本書紀」に突然現れた中臣氏とは、何者なのでしょうか。それは、「旧約聖書」に突然現れたヤコブと同じです。そのヤコブとは、「不正な手段で王権を簒奪した者」という意味です。
「旧約聖書」の欺瞞性が解明されたのは、皮肉にも、「聖書」を信仰のよりどころとしたプロテスタント活動が興ったからです。それまでのローマ・キリスト教の信徒は、「聖書」を読んではいなかったのです。そのプロテスタント信者の中から、どうも「聖書」の記述はおかしいと気づき始めたのが18世紀末で、何でも疑うことが許された啓蒙主義時代になると、「聖書」の不思議を研究する者が現れ、「ヨハネの黙示録」の「666の謎」が解明されると、「旧約聖書」に、主と神の二つの異なる文章があることが確認されるのです。その「主」文章は後に挿入されたもので、「神」文章が元であることが分かるのです。
この改竄書「聖書」を暴くヒントを述べた「ヨハネの黙示録」と同じものが、「古事記」であるのです。「古事記」は、巷で言う、外国向け歴史書の「日本書紀」に対する、国内向け歴史書などではないのです。1778年から1798年にかけて、本居宣長により「古事記伝・上巻中巻下巻」が著されてしまったため、「古事記」が、やまとの原日本風景を述べている、と勘違いされてしまっていますが、「古事記」は、「日本書紀」の欺瞞性を暴くための「黙示録」であったのです。
本居宣長により、ギリシャ神話から租借した「古事記」の神話物語を、やまと言葉に翻訳したものが、日本神話となってしまったのです。しかし、実際の飛鳥ヤマトは、日本の原風景などではなく、噴水のある石造りの庭園があるオリエント文化であったのです。
「日本書紀」が、697年百済系女帝持統天皇で終わっているのに対して、「古事記」が、628年女帝推古天皇で終わっている意味は、途中で記述を止めたわけではないことは、「古事記」の序に、天武天皇のお言葉があることからも理解できるでしょう。それは、「ヨハネの黙示録」が、敵対勢力により改竄されないように細心の注意による暗号で記されているのと同じに、「古事記」が推古天皇の条で終わっていることが「暗号」なのです。その意味は、サイファー式暗号解読法の「同じ文章があるときは、その文章を否定せよ。」、ということです。つまり、「日本書紀」の推古天皇までの記述は、全て否定せよ、と言うことです。
推古天皇の時代、593年から628までに起こった出来事を列記すると、
593年聖徳太子が推古天皇の摂政となる
594年仏教興隆の詔
603年聖徳太子が官位十二階を制定
604年聖徳太子が憲法十七条を制定
607年国ごとに屯倉を置く
622年聖徳太子逝去
626年蘇我馬子死去、蘇我蝦夷が大臣となる
、となるのです。因みに、聖徳太子は、「日本書紀」では厩戸皇子・その他の名前で記述していますが、その事跡は、モーセ、ダビデ、キリストの事跡の合成を思わせます。平安時代、比叡山延暦寺が、「法華経」を宣伝するために、最澄が、聖徳太子を百済仏教の宣伝キャラクターとして広めたため、現在でも、架空の聖徳太子が、実在の人物と信じ込まれているのです。
「日本書紀」の記述では、日本国の基礎が、推古天皇の時代に確立された、としているのです。しかし、それらの出来事の全ては、史実ではないようです。そのひとつとして、摂政の官位は、平安時代、869年「続日本後紀」の編纂者藤原良房が、858年に清和天皇の摂政となったのが歴史上始めであるからです。更に、608年渡来の隋使は、都で、「女帝推古天皇」ではなく、「男王アマタリヒコ」に謁見した、と隋帝に報告しているからです。
では、藤原氏が創作した「日本書紀」により捏造された、その女帝推古天皇の時代は、実際は、どのような時代であったのかと言えば、それは、突厥帝国進駐軍と秦氏が、河内平野と飛鳥ヤマトの支配者であったのです。
歴史物語の改竄技術により、藤原氏に都合よく歴史物語は改竄・隠蔽できても、その民族の宗教心や、民族のDNAまでは、改竄・隠蔽できないのです。それに対して、簒奪王権は、ユダヤ民族が、牡牛を屠り太陽神バアルを祀るイスラエル民族を貶めるために、イスラエル民族を不可触賎民サマリア人としたように、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔を不可触賎民穢多として貶めていくわけです。
1587年豊臣秀吉は、イエズス会の軍事援助と高山右近などのキリシタン大名軍団の働きにより、九州を平定すると、すぐさま、朝鮮へ入貢を要求するのです。そして、1591年スペイン領ルソン島にも使節を送り、入貢を強く要求していたのです。それは、藤原氏のインド征服の布石のためであったのです。
九州を平定した豊臣秀吉は、高山右近にキリスト教を棄教するように迫るのですが、高山右近が断ると、士分と家禄を剥奪するのです。元々高山右近は、織田信長の軍事行動と同じで全日本統一など意識にも無く、平安時代より秦氏末裔をイジメ抜いていた比叡山延暦寺やそこから派生した仏教軍団壊滅が主目的であったので、日本列島には最早仏教軍団が存在しない現在、武士として豊臣秀吉に従い軍事行動することは、意味がなかったからです。そして、高山右近は、武士としてではなく、一キリシタンとして、山の民の処へ帰り、そこで、1614年まで布教活動を続けるのです。
この1591年前後は謎の多い時期で、ヨーロッパ少年使節団を伴い長崎に帰還したイエズス会の巡察師バリニャーノが、日本王(1582年バリニァーノが日本出国時では、日本王は織田信長だった。)に謁見を求めて数ヶ月も待たされた後、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として、元イエズス会傭兵羽柴秀吉だった、関白豊臣秀吉に、京の聚楽第で謁見した年であるのです。
巡察師バリニァーノは、日本国での更なるキリスト教の布教を目指して、聖書を多量に印刷するために、グーテンベルグ印刷機と印刷工を伴って来日していたのです。しかし、日本国は、イエズス会の支配から、羽柴秀吉を豊臣秀吉として取り込んだ、藤原氏の支配時代に変わってしまっていたのです。
そして、その数ヶ月前には千利休は、聚楽第内の屋敷で、豊臣秀吉により切腹を命ぜられていただけではなく、その千利休の妻も、石田三成の拷問により死していたのです。その二人の死の謎は、イエズス会巡察師バリニャーノへの、千利休からの織田信長爆殺の真相進言を、豊臣秀吉が恐れたからです。
そして、聚楽第での謁見で、豊臣秀吉に軽くあしらわれた巡察師バリニャーノは、その後、藤原氏傀儡の豊臣軍団が、騎馬民族末裔の徳川家康軍団に敗れた、1600年関が原の戦より三年後、1603年日本から去るのです。
1591年豊臣秀吉は、朝鮮半島への入貢要求は、中国明への侵略経路の確保のための行動であったのですが、何故、遠く離れたルソン島へも入貢要求をしたのでしょうか。それは、イスパニア領フィリッピンのルソン島とは、自治都市堺が海洋交易をおこなっていたからです。
そのルソン島と自治都市堺との海洋交易は、藤原氏により古来からおこなわれていた、南九州坊津と南インドとの海洋交易には邪魔であったからです。そして、そのルソン島では、戦国大名が欲しがる瀬戸物が、安く手に入る地であったからです。
戦国時代の日本列島は、豊臣秀吉による朝鮮侵略で、朝鮮の名陶工が日本に拉致されてくる前までは、土地の価値に匹敵するような、美術品として相応しい茶器の生産ができなかったのです。
堺の商人は、ルソン島から輸入した安い茶器を、戦国大名に高く売りつけていたのです。そして、戦国大名は、そのルソン島からの茶器を、高価な褒賞品として、土地の代わりに、戦場での功労者に賜っていたのです。
その茶器の鑑定人のひとりが、藤原氏の流れにある近衛前久と義兄弟である正親町天皇から名を賜った千利休(賎の利休)であったのです。その千利休の家業が、屋号が魚屋(ととや)と呼ばれた倉庫業であったのです。その倉庫業者達は、納屋衆と呼ばれる組合を作り、騎馬民族末裔の馬借や海洋民族の海運業者と連携し、遠く海外からも物産を輸入して、役座が仕切る各国の神社境内で捌いていたのです。そして、自治都市堺(秦王国)は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が多く暮していたので、革製品や鉄製品を創る工場があったので、美しい武具や日本刀を美術品として海外に輸出していたのです。
その自治都市堺の納屋衆から、イエズス会の教会があるフィリッピンとの渡航貿易で、名を馳せた者がいたのです。その名をフィリッピンのルソン島から、ルソン助座衛門と名乗っていたのです。そのルソン助座衛門は、フィリッピンの瀬戸物を、ルソン壷として輸入して、戦国大名から褒賞品として功労者へ賜う茶器として、売り込んでいたのです。
そのルソン壷を鑑定していたひとりに、納屋衆であり、キリシタンでもある千利休がいたわけです。千利休が、織田信長、そして、豊臣秀吉の茶の師となっていたのは、巷の情報提供者(間者)としてのほかに、茶器の鑑定士としての働きがあったからです。その正親町天皇から名を賜った千利休の一言で、駄器が、土地と同じほどの高価な名器に変身させることができたからです。
しかし、ルソン助座衛門は、食えない男で、フィリッピンで、タン壷や糞壷として使われていた壷も、ルソン壷として国内で高価で売り捌いていたのです。このことが、後に、豊臣秀吉の知るところなり、国外追放となっていたのです。
豊臣秀吉は、朝鮮やルソン島からの入貢を求める前に、既に、朝鮮侵略の準備のための行動をおこしていたのです。その行動とは、「旧約聖書」の「民数記」に記述してあるとおりなのです。
まず、侵略準備のため、武器の調達と兵隊を集めるために人口調査をおこなったのです。1588年豊臣秀吉は、大仏を造るという名目で、刀狩令を全国に発するのです。その刀狩が、戦をなくし、平和のために大仏を造るためではなかったことは、その完成した大仏は、金属製ではなく、「木製」であったからです。侵略準備のための武器調達が、刀狩の実態であったのです。
そして、1591年豊臣秀吉は、全国の戸口調査をおこない、士農工商の身分法を定め、66カ国で、その枠にあてはまらない者を、奈良・平安時代の王権さながらに、山や河原へ追放するのです。この王権の武力による人民統制は、まつろわぬ者を山奥に追放し「鬼・土蜘蛛」とした、701年大宝律令の再来です。
その戸口調査により、全ての人民の属性を調べ上げ、朝鮮侵略のために兵隊を集めたのです。それと同時に、王権に従わず敵対する者(ケガレ者)を、社会から排除していたのです。その排除の対象者として、騎馬民族末裔の秦氏末裔がいたのです。
それらの豊臣政権から排除された者は、関東の湿地帯を大開拓していた、騎馬民族末裔の徳川家康を頼って関東へ行くわけです。1590年に豊臣秀吉により関東に移封されていた徳川家康は、1591年の豊臣秀吉による士農工商の身分法により近畿地域から追放された者達を、積極的に、エドの地に招いていたのです。
そして、豊臣秀吉により、1583年大坂城建設のために、大坂の中心地から亡命百済移民末裔が多く暮す「九太郎・くだら」の地に移封されていた、そして、そこで民族差別でイジメられていた秦氏末裔が多く住む渡辺村(秦王国)の多くも、秦王国(ギリシャ式都市国家)再建のために未開拓地のエドに移り住んでいくのです。
奈良時代初期、唐進駐軍により、河内平野と飛鳥ヤマトの勢力を一掃した後、唐進駐軍の傀儡籐氏(藤原氏の祖)は、敵対する地方豪族の土地を取上げて、天皇の土地とし、そして、その土地を地方豪族へ再び貸し出すのです。そして、その制度に従わない地方豪族は、唐進駐軍の武力により抹殺していたのです。このことにより、奈良時代の近畿地域の豪族の私有地がなくなり、近畿地域の全ての土地が天皇家のものとなっていくわけです。しかし、実際は、唐が日本を遠隔統治するために、土地の管理者として、垂直支配の天皇システムを利用したにすぎないのです。
戦国末期、藤原氏は、傀儡関白豊臣秀吉を利用して、日本国を支配、更に、朝鮮、中国、インド支配を目指して、1592年朝鮮半島への侵略を開始するのです。その朝鮮半島での戦術は、「旧約聖書」の「民数記」にあるように、占領地での民族浄化のための聖絶であったのです。
豊臣軍は、1592年朝鮮に侵攻するのです。豊臣軍団には、元キリシタン大名が多くいたため、イエズス会譲りの鉄砲隊を組織していたのに対して、朝鮮軍には鉄砲隊がいないため、明国に援軍を求めるほど、軍備差が歴然であったのです。更に、初戦の豊臣軍は、民族が複雑に入り組んでいる朝鮮半島の賎民部族が、侵略軍である豊臣軍を解放軍と勘違いして、豊臣軍への加勢もあって、全戦全勝だったのです。
1592年文禄の役では、秦氏末裔の日本武士の祖は新羅花郎騎士で、朝鮮軍には同族が居ることを知った秦氏末裔の兵が、豊臣軍から寝返り、朝鮮軍に参加したりしたため、長期戦を望まなかった豊臣秀吉は、元キリシタン大名の小西行長と明国将校との謀議によるニセ講和に騙されて、軍を引き上げるのです。
しかし、渡来した明国使節の文章には、豊臣秀吉からの朝貢交易願いへの返事であった為、初めて騙されたことに気づいた豊臣秀吉は、再び、1597年朝鮮侵略にでるのです。これが、慶長の役といわれた戦いです。
前回の明国軍の騙しに怒り心頭の豊臣秀吉は、朝鮮半島での豊臣軍の戦闘の証として、朝鮮軍と明国軍の足軽などの身分の低い者でも、殺害した証として、鼻を塩漬けで日本に送るように命じたのです。
その戦いでは、豊臣軍団は、「旧約聖書」の「民数記」第三十一章の記述にある、残虐行為以上のことをおこなっていたのです。
「民数記」にある戦後処理として、「彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと闘って、その男子をみな殺した。」「またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、家財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。」「それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。」、と主がモーセに言われたのです。
そして、豊臣軍は、「民数記」の戦後処理と異なり、朝鮮半島から陶工や捕虜を日本に連れて来て、その捕虜はポルトガルやイスパニアの商人に奴隷として売り捌いていたのです。しかし、陶工には、監視の下で陶磁器制作の仕事を続けさすのです。この朝鮮より拉致された陶工により、日本の陶芸は、一段と技術的・芸術的に向上したのです。
古来から、日本武士の戦いの作法としては、正々堂々と戦い、勝った武士は、敗れた武士の首を落し、その首を戦功の証として主将に持参することにより、その見返りとして褒賞を受け取ることが出来たのです。しかし、足軽などの身分の低い者は、首を落さず、鼻や耳を切り落とすことで、戦功の証としていたのです。
朝鮮・明国軍に苦戦を強いられている豊臣軍は、豊臣秀吉の逆鱗に触れないように、戦闘が有利に進められているように偽るために、死した武将や足軽の鼻だけではなく、生きている女子供から切り落とした鼻までも、塩漬けにして送りつけていたのです。その数、12万6千余とも云われているのです。
その送られてきた無数の塩漬けの鼻を、豊臣秀吉は、桶に入れて、新羅に怨念を持つ亡命百済移民末裔が多く暮している、民族差別の激しい京や大坂の街角を練り歩かせて、戦闘が順調に推移していることを宣伝していたのです。
豊臣秀吉は、その出自が不明なように、武士ではないため、武士の戦いの作法を無視して生き延びてきたのです。武士として弓馬の訓練を受けていない豊臣秀吉は、イエズス会傭兵時代では、徳川家康が弓馬が得意なため白兵戦をおこなえたのと異なり、敵軍とは白兵戦をおこなえず、敵城を大軍団で取り囲み、兵糧攻めや水攻めで、城を攻略し、降伏したその城主一族、女子供も、見せしめのために串刺しにしていた経歴の持ち主であったのです。
その多量の塩漬けの鼻は、1597年「鼻塚」として葬られるのですが、いつしか忘れ去られ、1615年大坂夏の陣後、徳川家康が、豊臣秀吉の墓を暴き遺骨を散撒させていたのを、1868年明治維新で復活した藤原氏が、京都市東山区に、豊臣秀吉を神として祀るために豊国神社を建立した近くに、歌舞伎役者や役座が、「耳塚」(豊臣秀吉の残虐性を薄めるために、「鼻」を「耳」へと摩り替えた。)として供養塔を築造していたのです。
何故、歌舞伎役者や役座が、朝鮮民族のために供養塔を築造したかと言えば、それは、江戸末期まで、王権により賎民として貶められていた歌舞伎役者や役座の祖は、秦氏で、秦氏の祖は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅からの渡来者であったからです。
1598年藤原氏の、明国・インド征服の野望が崩れるのです。それは、慶長の役の翌年、豊臣秀吉は崩御してしまったからです。そして、侵略軍増強のために、天皇姻戚の藤原一族の豊臣秀吉の威光で進められていた太閤検地も、豊臣秀吉の死と共に終わるのです。
この藤原氏による、豊臣秀吉を傀儡とした、明国・インドの征服計画も、その史実を隠蔽するために、藤原氏の情報操作により、豊臣秀吉の脳梅毒の虚妄の結果として、歴史から葬り去られているのです。日本の裏面史に必ず登場する藤原氏とは、一体、何者なのでしょうか。
戦国武将の代表者は三名、織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康と云われています。しかし、それらの武将は、独特のキャラクターの持ち主ですが、そのキャラクターイメージは、明治革命で復活した藤原氏の計画により、学校での歴史教育で創られたものです。
明治新政府は、ヨーロッパ諸国と付き合ううちに、自国の歴史書が無いのに気づき、ユダヤ系ドイツ人の歴史学者リースを招いて「日本国史」を創作させるのです。
その日本国の建国時代は、藤原不比等が創作した「日本書紀」を金科玉条とし、「聖書」のごとき扱いにより、日本古代史を復元するのです。そして、唐国への提出用の日本六国史と、そして、亡命百済貴族が日本皇族と変身するための814年創作の「新撰姓氏録」を根拠に、古墳時代以前に渡来して、河内湖を干拓して、巨大古墳、大運河、幅十二mの直線古代高速道路等を建設していた、古代エジプトの高度土木建設技術、古代ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などを保持しいてる、オリエント渡来の秦氏一族を、五世紀に新羅からの、機織職民の渡来人としてしまうのです。
そして、唐進駐軍の後ろ盾により平安京を支配した亡命百済貴族が、中国山東半島からの亡命百済移民から登用した武人を「サムライ」として、亡命百済貴族の秘書兼警護人となった「平氏」と、秦氏・突厥帝国武人末裔の「もののふ」としての武芸者から「武士」となった、「源氏」とが争う中、アラブ渡来の海洋交易民族末裔の「平家」が、平安末期に朝廷を乗っ取ったのを、「源氏」と「平氏」により、「平家」を滅亡させたのです。そして、「源氏」の鎌倉政権を乗っ取った「平氏」が、「源氏狩り」により、源氏を山奥へ駆逐したのを、再び、源氏武士が政権奪還したのが、室町幕府というわけです。その後、応仁の乱の後、「平氏・サムライ」と「源氏・武士」との攻防を繰り返し、戦国時代に突入していくのです。
戦国時代の武将の事跡・実像を知るには、出自不明の豊臣秀吉総監修の「信長公記」が一級史料となっているため、その史料では事跡・実像に迫るのには程遠いのですが、イエズス会の史料と照らし合わせると、それらの戦国武将の事跡・実像に迫れるようです。
1582年織田信長が本能寺で、イエズス会と藤原氏の陰謀により爆殺され、1584年羽柴秀吉が、宿敵徳川家康を葬ろうとした小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍に敗れた後、1585年イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉となると、1586年豊臣秀吉は、大坂城で、イエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリエに謁見するのです。
その謁見の場で、日本布教長ガブラルの後任ガスパル・コエリエは、織田信長が近畿統一で満足して九州武力統一に不熱心だったので、石見の銀山奪回を目論む九州残党兵を殲滅するために、豊臣秀吉に九州遠征を要請するのです。
その九州遠征の要請時に、豊臣秀吉は、藤原氏が計画していた中国侵攻を、ガスパル・コエリエに暗示していたので、ガスパル・コエリエは、豊臣秀吉に、ポルトガル商人から2艘の大船を世話することを約束するのです。
その翌年、1587年豊臣秀吉は、高山右近や山科勝成(ロルテス)などのキリシタン軍団の奮闘により、十字の旗の下、九州を平定したのです。その九州平定後、ガスパル・コエリエは、大砲を装備したフスタ船に乗って、博多に居留する豊臣秀吉を尋ねているのです。そして、ガスパル・コエリエ自ら、豊臣秀吉に、その大砲を装備した大船(軍艦)内を隈なく案内したのです。
この時、豊臣秀吉の側近高山右近と小西行長は、ガスパル・コエリエに、その大砲を装備したフスタ船を豊臣秀吉に献上することを提案したのですが、ガスパル・コエリエは、その提案を断っているのです。それは、イエズス会自身による、明国征服計画があったからです。そのガスパル・コエリエの態度により、豊臣秀吉は、自分が、織田信長と同じに、イエズス会の、日本統一のための捨て駒であることを確認したのです。
それは、ガスパル・コエリエの前任カブラルがスペイン国王に宛てた書簡で、「多くても一万の軍勢と、適当な規模の戦艦で中国を征服できる。」、と断じて、「日本に駐在しているパーデレたちが、二三千人の日本人キリスト教徒を(中国侵略軍として)送ることができるであろう。」、と述べていたからです。
イエズス会傀儡軍による日本統一後の明国征服の陰謀を知った、藤原氏一族となっている豊臣秀吉は、イエズス会が中国を征服する前に、中国征服を成し遂げなくてはならないと思い、イエズス会宣教師の追放を、1587年に発したのです。
その時、豊臣秀吉は、豊臣秀吉の側近であるイエズス会傀儡軍筆頭の高山右近に、キリスト教の棄教を迫ったのです。しかし、高山右近は、棄教の代わりに、武士としての地位を投げ捨てて、一介のキリシタンとして下野してしまうのです。
そのバテレン追放には、イエズス会宣教師追放だけではなく、藤原氏によるもうひとつの陰謀目的があったのです。それは、そのバテレン追放令の第十一条に、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、とあることです。これは、794年牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏支配地の山背国・比叡山(秦王国)を乗っ取った、唐進駐軍に軍事支援された亡命百済貴族末裔の桓武天皇による、804年牛屠殺禁止の発令と同じ目的があったのです。
この戦国末期での、藤原氏による、騎馬民族末裔、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏末裔の抹殺計画の流れは、徳川家康の歴史を知ることで、解明できるのです。それは、少年使節団の欧州視察から戻ったイエズス会巡察師バリニャーノから日本王に謁見を求められていた1590年、織田信長が爆殺された二年後の1585年羽柴秀吉から変身した関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追いやられた徳川家康は、秦氏末裔長吏の弾左衛門一族と、エド(穢れ地→穢土→江戸)で秦王国(合議制による、ギリシャ式都市国家)の再建を目指していたからです。
1616年徳川家康は、テンプラによる食中毒で崩御するのです。歴史教科書では、源氏棟梁の源頼朝と同じに、狩りでの落馬により死んだ、としているのでが、その徳川家康の死は、毒殺を暗示するのです。
それは、1582年織田信長が正親町天皇の退位を迫るために、馬揃え(軍事パレード)をおこなう当日未明に爆殺されたように、徳川家康は、1611年親豊臣的であった後陽成天皇を退位させ、皇位を政仁親王に譲らせ、徳川家康の三男第二代目将軍徳川秀忠の五女和子の入内を迫っていたからです。
この和子の入内が成功すれば、徳川家康は、後水尾天皇(政仁親王)の外祖父となる可能性があるからです。この戦略は、藤原氏の得意とすることで、新嘗祭での五節舞を発明した藤原氏は、奈良時代から、藤原の女を利用して、天皇家に影響力を与えていたのです。
更に、徳川家康は、百済系天皇家の財政を圧迫するために、天皇家の主な収入源の、紫衣着用許可権の剥奪を迫っていたのです。それは、高僧が、高額な寄付を天皇家におこなうことにより、紫衣の着用許可を、天皇家が与える、というシステムのことです。この紫衣の高僧の着用に対して、徳川家康は、チャチを入れていたのです。徳川家康の言い分では、紫衣は、古来より仏教の僧衣などではなく、北極星を祀る天皇を世話する、道教の真人(北斗七星)が着用する衣である、とするからです。
では、何故、織田信長も徳川家康も、天皇家をイジメるのでしょうか。それは、天皇家を軸として、その天皇家に寄生する漢訳仏教を、織田信長も徳川家康も壊滅するのが目的だったからです。古来より、その漢訳仏教僧が、王権の手先となって、まつろわぬ騎馬民族や海洋民族を、釈尊の仏教思想などではなく、騎馬遊牧民族を差別するバラモン教の思想である血・肉食禁忌で、賎民と貶めてイジメていたからです。
平安初期、藤原氏の援助で唐に渡った錬金術師空海は、民族差別が激しいバラモン教とヒンズー教の教義を漢訳仏教に織り交ぜ、密教を発明するのです。そして、百済系三代目嵯峨天皇に接近すると、その密教儀式により百済系天皇家が祀られていくのです。この百済系天皇家の祀りごとは、密教儀式により、江戸幕府壊滅まで続くのです。
しかし、1868年明治革命が成功すると、明治新政府は、国家神道を発明して、天皇家が伊勢神宮で、神道儀式により祀られ続けている、と学校教育の場で宣伝をおこなったことにより、天皇家は、新羅系と百済系の二系統であり、新羅系の飛鳥時代以降は道教儀式であったのが、百済系の平安時代になると仏教の密教儀式で江戸末期まで祀られていたのに、明治新政府は、その史実を無視して、天皇家は万世一系で、伊勢神宮で、神道儀式で古来より祀られてきた、と国家を挙げて宣伝していたのです。
しかし、伊勢神宮は、685年日本国初の新羅系天武天皇により、北極星(太一)を祀る道教の観として創建されたものであり、その北極星を祀る天武天皇が686年崩御した後に、孫の長屋王を「左道=星占い」をおこなったと謀殺した藤原氏により、「観」から「宮」に改竄された建物であるのです。その時、道教の太一(北極星)に代わり、ギリシャ神話を基に、太陽神のアマテラス大神が発明されたのです。そして、その物語が、720年藤原不比等により創作された「日本書記」の神話として述べられるわけです。
戦国時代の織田信長と徳川家康の戦いは、同族の賎民として貶められた者達の救済が主な目的であることは、確かです。それは、織田信長が、1568年上洛すると、漢訳仏教組織に「キヨメ」の賎民としてイジメられていた余部(海部)を、配下とし、余部をイジメる者は、織田信長に対する反逆である、との御触れを出しているからです。それに対して、1603年徳川家康が天下を盗ると、豊臣秀吉により「キヨメ」の穢多村とされた渡辺村の住民を、村役人として引き上げていたからです。
「キヨメ」とは、平安時代では、桓武天皇により謀殺されたひとびとの怨霊を鎮めるために、秦氏・突厥帝国武人末裔の陸奥国の蝦夷捕虜が、前政権者の怨霊を鎮めるために、「もののふ」の武芸者となり、怨霊封じ込めの施設である神社境内で、総革製の鎧兜と、蝦夷の蕨手刀から改良した片刃の「日本刀」により祭祀者として武装して、剣舞による武芸(芸とは神を楽しませること。)することを「キヨメ」、と言っていたのです。
しかし、源氏武士棟梁の源頼朝が1192年に拓いた、「武士政権」の鎌倉幕府を乗っ取った、「サムライ政権」の北条鎌倉時代になると、六波羅探題の捜査組織により、源氏武士抹殺のために「源氏狩り」を行い、更に、「武士」を社会的に抹殺するために、魂鎮めの武芸である「キヨメ」を、賎民がおこなう汚物清掃の「キヨメ」としてすり替え、源氏武士である、「もののふ」の祭祀者としてのプライドを貶めていたのです。
更に、北条鎌倉政権下で、その騎馬民族であるため、肉食する「武士」の末裔を、平安時代の錬金術師空海が発明した密教思想の真言宗の「施陀羅悪人なり」の呪文をバージョンアップして、施陀羅から、穢れが多いの意味で、「穢多」の民族差別語を発明するわけです。
その「穢」の本来の意味は、犠牲(屠り)により神を祀ることです。因みに、歌謡と舞により神をまつることは「祭」です。源氏武士の祖は、秦氏と突厥帝国武人です。その秦氏とは、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る民族であったので、そのため、「穢」により神を祀っていたのです。その秦氏末裔を貶める言葉が、犠牲により神を祀る意味の「穢」を、汚物(血・肉食)のケガレとし、そのケガレが多い意味として、「穢多」とするのです。
1587年関白豊臣秀吉は、イエズス会傀儡軍団の奮闘により、九州を平定すると、バテレン追放令を発令し、第十一条で、「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない。」、としたのです。それは、一向宗軍団を壊滅したことにより、その主部隊であった秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅した後処理として、その次の敵、イエズス会傀儡軍の秦氏末裔の源氏武士末裔を壊滅することが、その主目的であったのです。
そのシンボル的人物が、キリシタン大名であった高山右近です。高山右近は、秦氏末裔の源氏武士末裔であったので、キリシタン宣教師と共に、肉食を大いにしていたのです。そして、645年以降に、漢訳仏教を手先とした唐進駐軍と中臣族軍により、河内平野と飛鳥ヤマトでの景教や道教の宗教施設が徹底的に破壊され、その跡に、北九州から移築された仏寺が建てられていったように、戦国時代のキリシタン大名の高山右近は、高槻や明石のキリスト教布教地では、仏教施設を徹底的に破壊し、その跡に、キリスト教の教会を建設していたのです。
藤原氏は、豊臣秀吉を傀儡として、イエズス会傀儡軍の織田信長による漢訳仏教軍団への、僧兵はもとより、高僧も信者も全て斬首、もしくは、焼き殺しの、聖絶作戦に、深い恨みを持っている漢訳仏教組織に、再び援助して、イエズス会残党軍を社会的に壊滅していくのです。そのための呪文が、「穢多悪人なり」です。
その一方、鎌倉時代、藤原氏の流れにある破戒僧親鸞が、漢訳仏教組織に穢多とイジメられていたひとびとに、「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」と唱え、穢多村で、妻帯し・肉食するするのを見て、浄土真宗が穢多村を救ってくれると信じた弱小勢力が、やがて、戦国時代になると、戦国大名を超える仏教一向宗軍団として成長した石山本願寺派は、比叡山延暦寺軍団やイエズス会傀儡軍の織田信長と戦っていたいたのが、1580年顕如の織田信長との突然の和睦で、穢多村のひと達が、浄土真宗に利用されていた、と悟ると、そのことを笑い話として後世に伝えていくのです。その笑い話とは、

戦国時代、大軍団の敵軍に囲まれた穢多村の砦で、一向宗の僧侶が説教をするのです。その説教で、「敵に向って戦い敗れて死んだとしても、浄土真宗の信徒であれば浄土世界で生れかわれる。しかし、敵前逃亡者は、無間地獄に落ちる。だから、皆の者は、心を一つにして敵に立ち向かえ。」、と檄を飛ばしたのです。その僧侶の説教を信じて、穢多村の男全ては勇気を出して、貧弱な武器で敵陣に突撃して、全滅してしまうのです。
死体となって穢多村の砦に戻ってきた勇敢なひと達を前にして、後家となった若い女が号泣していたのです。そこに、その説教をした後、どこかに隠れていたその僧侶が現れて、「泣くことはない、勇敢に戦って死んだ者達は、浄土世界で生まれ変わるであろう。」、と言って女を慰めるのです。しかし、それでも、女は泣き続けるのです。不審に思った僧侶は、泣いている女に、「泣くのを止めなさい。」、と言うと、女は、振り向きざまに言うのです。「私が泣いているのは、夫の死ではありません。何故なら、夫は浄土世界で生まれ変われるからです。私が泣いているのは、お坊様が無間地獄に落ちてしまうからです。」

藤原氏傀儡の豊臣秀吉が、九州を平定し、バテレンを追放すると、残る敵は、伊豆の北条氏であるのです。
豊臣秀吉の棄教を拒否した高山右近は、豊臣秀吉の追及を逃れるため、棄教した小西行長の援助の下、九州各地を転移し、その後、北陸の前田利家の客臣となり、前田利家の軍師として、北条氏攻めに参加するのです。
何故、秦氏末裔の高山右近が、豊臣秀吉の追及を逃れて、山道を利用して、各地に移動できたのかと言えば、奈良時代の王権により山に追われた秦氏末裔の民は、日本列島を山岳の道により、古来から日本列島を移動していたからです。そして、秦氏とは、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術などの高度技術者の集団であるので、城築造や城破壊の名人であったのです。
高山右近が、豊臣秀吉の配下として城攻めをおこなっていた時、何度豊臣軍団が攻めても、城を陥落できないのを見た、高山右近軍団は、城を護る櫓の下に穴を掘り、そこに爆薬を詰め、火を点火して、櫓を破壊したことにより、敵城を陥落させていたのです。高山右近の配下には、そのようなハイテク技術を持つ集団がいたのです。
それに対して、一向宗軍団にも、古代エジプトの土木建築技術、ヒッタイト帝国のタタラ製鉄技術を持つ技術集団がいたのです。その技術集団がいたからこそ、最新式銃と傭兵軍による織田信長軍団を、石山本願寺が十年間も守り抜くことができたのは、石山本願寺の砦内では、それらの高度技術を使って銃などの武器製造、及び、補修をすることができたからです。
戦国時代の秦氏末裔は、イエズス会と一向宗との軍団に組み込まれて、同族争いをしていたのです。しかし、豊臣秀吉が、1590年北条氏を倒し、日本統一をおこなうと、宿敵徳川家康を、三河から関東の湿地帯に移封するのです。それは、徳川家康の軍団には、秦氏末裔の、元武田軍団の産鉄部族の金山衆や、一向宗残党の源氏武士末裔が多くいたからです。
戦国末期から江戸時代初期への歴史が、歴史教科書を調べてもよく分からないのは、徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くため、「将軍になるには清和源氏」の系統でなければ、征夷大将軍になれないという伝統があるため、神龍院梵舜に命じて、「徳川氏の系図」を創作させていたからです。それまでの徳川家康は、藤原氏、加茂氏、在原氏、源氏などの氏名を時と場合により、使い分けていたのです。
歴史教科書での徳川家康の経歴は、三河の岡崎生まれで、その家系は、三河土豪松平氏を名乗り、松平元康が、1563年松平元康から松平家康と改名した、とするのです。そして、今川氏が、織田信長のゲリラ戦で敗れると、その今川氏の配下から独立し、1566年三河国を統一し、藤原氏と親しい正親町天皇の朝廷から、従五位下、三河守の叙任を受け、松平氏から徳川氏に改姓した、とするのです。そして、新田氏系統の源氏を公認させた、としているのです。
しかし、この経歴が不思議なのは、徳川家康が、1616年毒殺されると、その墓所が、歴史教科書で述べる生誕地の岡崎ではなく、全く関連のない駿府であったのです。駿府は、1607年徳川家康が、将軍職を三男秀忠に譲ると、大御所となり実権を握り続けた、江戸幕府の「実質的政権」があった処です。何故、駿府がそれほど、徳川家康には重要な処であったのでしょうか。
更に、不思議なのは、1590年関白豊臣秀吉により、徳川家康が関東の湿地帯に移封されると、徳川家康が生まれ育ったと云われる三河の土着土豪の多くは、徳川家康と供に、関東の湿地帯へ移動してはいなかったのです。徳川家康に従ったのは、元武田騎馬軍団の産鉄部族の金山衆や、そして、一向宗軍団残党の源氏末裔であったのです。それらの者達は、秦氏の流れにあるのです。そして、関東の府中で、徳川家康一行を出迎えたのは、長吏の弾左衛門一族であたったのです。弾左衛門一族も、秦氏の流れにあったのです。
その徳川家康と親しい弾左衛門は、自らを「長吏」と言っていたのですが、歴史教科書では、「穢多頭」としているのです。更に、「長吏=穢多頭」としているのです。
飛鳥時代、長吏とは「上級官僚」のことで、607年男王アマタリヒコ(「日本書紀」では女帝推古天皇)により隋に遣わされた、「隋書」に記載されている、遣隋使ソインコウ(「日本書紀」では小野妹子)の肩書きが、「長吏」であったのです。
しかし、北条鎌倉時代になると、その「長吏」が、どう云う訳か、「穢多頭」と同義語となってしまうのです。それは、百済系の北条氏が、母国百済を滅ぼした新羅から渡来した秦氏末裔を憎んでいたことにより、秦氏末裔を不可触賎民「穢多」として貶めるための「仕掛け」(長吏=穢多頭)であったわけです。
1590年徳川家康により関東に引き連れられて来た、金山衆、一向宗軍団残党の源氏武士末裔、そして、弾左衛門一族は力を合わせて、古墳時代初期に、淀川と大和川が流れ込む河内湾の岬に渡来した、先祖の秦氏と同じように、関東の荒川支流と利根川支流が流れ込む湿地帯を、開拓していくのです。
秦氏の先祖が、河内湾に突き出た岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ/波の打ち寄せる小山・後の上町台地)を中心に開拓したように、徳川家康に指導された秦氏末裔は、エド湾に浮かぶ海抜2.5mの小山(古代エジプト語でワタ・ナーベ)を中心に、駿河台地に大運河(神田堀)を造るために削掘した残土により、海抜十mの人工山(関東の上町台地)を築くのです。その人工山の上に、大坂城の数倍の規模を誇る、江戸城の建設に取り掛かるのです。
この人工山に築城された江戸城には、地下道が張り巡らされていて、1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その後、その乗組員のひとりの、徳川家康の顧問となったヤン・ヨーステン(耶揚子・東京「八重洲」の語源)は、地下道により江戸城に登城していたようです。
何故、堀の下に地下道を築くことができたのかは、徳川家康の配下には、産鉄民族の金山衆がいたからです。この産鉄民族は、鉱石を地下深くから掘り出すための技術として、水漏れを防ぐ技術を持っていたからです。
1576年京都に南蛮寺を建立したのは、元十字軍マルタ騎士団のロルテスと同時に渡来した、京都地区修院長宣教師オルガンチーノ(滞在期日1570年〜1589年)の指導の下、産鉄民族を配下に持つキリシタン大名高山右近であったのです。その南蛮寺と本能寺とは、地下道で通じていたのです。
その本能寺は、唯の仏像を安置するための寺などではなく、始めは日蓮宗軍団の砦として建立され、その後、比叡山延暦寺軍団の攻撃を受け、廃墟となっていたものを藤原氏が、イエズス会の侵略基地があるインド→中国→南九州坊津→種子島→雑賀→根来→京への銃・火薬などの密貿易品の貯蔵所としていた建物であったのです。その密貿易貯蔵所の本能寺を、近畿を平定した織田信長は、京の出城とするために、深い堀と高い土塀を廻らして要塞化を図った建物であったのです。ですから、京へ上る織田信長の手勢が少なかったのは、いざという時、本能寺に張り巡らされた地下道により、約二百m先の南蛮寺に逃げ込むことが可能であったからです。
古墳時代、河内湾を干拓し、シルクロードとの交易をおこなうために、河口に湊(ローラン・浪速→難波)を拓き、三輪山の麓で沈黙貿易により、呪術品(古代の赤チン・消毒薬)としての朱砂を手に入れるため、オリエントから渡来の秦氏は、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を、河内のローラン(浪速)から、三輪山麓に向けて建設したのです。
1590年徳川家康は、関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されると、その湿地帯を干拓して、エドから小田原に向けて、騎馬が疾走可能な直線道路を築くのです。それは、物流が表向きですが、実際は、徳川騎馬軍団を迅速に京に向けることが、主目的であったのです。
そのように、徳川家康の行動が、古墳時代の秦氏と類似しているのは、時空を超えて、秦氏末裔がエドに集結していたからです。
その徳川家康の、戦国末期の軍事行動の動機を知るには、1617年徳川家康の廟建築として、質素な日光東照宮が建立されたのが、1624年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、金ピカの東照宮を建立すると、その質素な東照宮は、何故か、日光から世良田部落に移築されてしまったのです。
一般的に、ひとが亡くなると、その墓は、生誕地に葬られる傾向があるのです。では、何故、徳川家康の廟が、三代目将軍家光により、日光から世良田部落に移築されたのかは、それは、徳川家康の生まれが、三河の岡崎ではなく世良田部落であったからです。
その騎馬民族末裔が多く暮す世良田部落で、徳川家康が、幼少期を過したからこそ、織田信長や豊臣秀吉が、弓馬が得意ではなかったのに、徳川家康は、弓馬に優れていて、騎馬民族特有の合議により戦略を練り、白兵戦をおこなえたのです。更に、徳川家康が、薬草学に詳しく、自ら薬草を煎じ、調合できたのは、正に、遊牧する騎馬民族特有の技術を保持していたからです。
徳川家康の戦いの歴史を見ても、織田信長や豊臣秀吉の独断専行ではなく、部下の合議に参加して、その意見のまとめ役に徹していたのは、騎馬民族の血が徳川家康に流れていたからです。
徳川家康は、秦氏末裔の高山右近と同様に、馬鹿正直なほど律義者として、戦国時代を生き抜いていたのです。その一例として、織田信長に忠誠を示すため、謀叛の嫌疑を抱かれた徳川家康は、その織田信長の命で、正室と嫡男を殺害してしまうのです。それだからこそ、織田信長や豊臣秀吉と異なり、忠義を尽くす部下に、徳川家康も高山右近も、恵まれていたようです。
徳川家康が、生き方が下手なのは、頼ってきた者を信用し、疑うことなく、その者を援助してしまう傾向があったからです。
1582年織田信長が、藤原氏とイエズス会の陰謀により、本能寺で爆殺されると、その跡目争いが勃発するのです。それが、1583年賤ヶ岳の戦いです。イエズス会傭兵の羽柴秀吉は、織田信長の次男信雄の後見人として、織田信長の三男信孝の後見人・柴田勝家と戦い敗ると、織田信雄を支配下に置こうと策謀するのです。その羽柴秀吉の策謀から逃れるため、織田信雄は、徳川家康に救いを求めるのです。その結果、1584年から半年間にかけての戦いが始まるのです。それが、小牧・長久手の戦いです。
この小牧・長久手の戦いでは、徳川家康には、織田信長との戦いで敗れた、石山本願寺残党軍の雑賀衆と根来衆の鉄砲隊が参加していたのです。更に、イエズス会が最新式銃と傭兵軍で援助した織田信長軍団と十年間も戦い続けた、石山本願寺軍団残党の源氏武士末裔もいたので、十万の羽柴秀吉軍団も、五万の徳川家康軍団を壊滅できなかったのです。
そこで、羽柴秀吉は、伊勢に陣を張る織田信雄軍を山側と海側から攻撃したことにより、織田信雄軍は総崩れし、総大将の織田信雄は、同盟者の徳川家康に相談することも無く、単独で羽柴秀吉と講和をしてしまうのです。そこで、戦闘的に優位にある徳川家康は、羽柴秀吉と戦う大義名分を失い、小牧・長久手の陣を引いたのです。
羽柴秀吉にとって、この小牧・長久手の戦いには、深い意味があったのです。それは、騎馬民族末裔である徳川家康を、東国の蝦夷棟梁と看做して、西国の羽柴秀吉が軍事的に滅ぼすことにより、征夷大将軍となれるからです。その征夷大将軍になれれば、羽柴秀吉には、幕府開設の道が拓けるわけです。
征夷大将軍とは、平安時代、唐進駐軍が支配した平安京で、百済系桓武天皇を傀儡として、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏末裔と突厥帝国軍末裔が、唐進駐軍に敗れ、東北の陸奥国に逃亡し、軍事的支配をしていた陸奥国の地下資源を簒奪するために、唐進駐軍により組織された東国侵略軍の軍事指揮官のことなのです。つまり、平安時代、征夷大将軍の名称の始まりは、蝦夷棟梁アテルイが支配した東国への侵略軍団の指揮官のことなのです。
征夷大将軍になり損ねた羽柴秀吉は、1585年イエズス会傭兵軍指揮官から、藤原氏の猶子となり、関白豊臣秀吉に変身するわけです。豊臣秀吉は、日本国を支配するため天皇家を壊滅する陰謀を持っていたイエズス会側から、天皇家と姻戚関係にある藤原氏一族になってしまったのです。
その翌年、1586年関白豊臣秀吉は、軍事的に壊滅できない東国の蝦夷棟梁としての徳川家康を懐柔するために、朝日姫と大政所を人質として、徳川家康の居城の岡崎に送るのです。それに対して、徳川家康は、豊臣秀吉の陰謀を疑うことなく、臣従することになるのです。更に、徳川家康は、豊臣秀吉への忠誠の証に、次男於義丸を豊臣秀吉の養子とするのです。
1590年豊臣秀吉が、小田原城に立てこもる最後の抵抗者北条氏政軍を壊滅することにより、ここに日本統一となるのです。
この日本統一の年に、イエズス会の日本王である織田信長により安土城での盛大なる歓迎を受け、織田信長による日本統一の報告をするためにローマへ旅立った、イエズス会巡察師バリニャーノが、少年使節団と供に長崎に帰国していたのです。そして、そのバリニァーノは、日本王に謁見を要求していたのです。
イエズス会の傭兵から、藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉には、巡察師バリニャーノは会いたくない存在であったのです。それは、イエズス会が認める日本王織田信長に歓迎された巡察師バリニァーノがヨーロッパに旅立った後、京都地区修院長オルガンチーノと藤原氏の陰謀により、織田信長が爆殺されていたからです。
その織田信長爆殺の主因として、キリシタンの侵略基地がある自治都市堺(秦王国)を支配下に置いて、近畿一帯を支配した織田信長は、自らを「神」と唱え、織田信長の誕生日を「聖日」とし、ただの「大石」を神の化身として拝むように臣家だけではなく、民衆にも強要したため、「ゼウスの神」だけを信仰するキリシタンの高山右近や蒲生氏郷などの千利休一派により、織田信長は京の本能寺で爆殺されてしまうのです。
イエズス会から藤原氏一族に寝返った豊臣秀吉は、その王権の簒奪事実を、イエズス会巡察師バリニャーノから、ローマ教皇に報告されたくなかったのです。そこで、豊臣秀吉は、織田信長爆殺の陰謀を知る者の抹殺を謀るのです。その対象者は二人です。
ひとりは、徳川家康です。1582年5月徳川家康は、駿河拝領のお礼のため、織田信長の居城の安土城を訪れていたのです。そして、安土城から堺に行き、6月2日未明堺で遊覧中に、本能寺で織田信長が爆殺されてしまうのです。
徳川家康は、堺でその訃報を忍者よりすぐさま聞くと、織田信長の後を追おうと切腹を図るのですが、忍者服部半蔵の進言により止まり、伊勢越えをして、伊勢の港から海路三河へと帰還するのです。
その織田信長の爆殺前の事情を知っていた徳川家康は、1590年関白豊臣秀吉により、三河から関東の湿地帯に追放されてしまうのです。徳川家康は、織田信長の配下であった時、巡察師バリニャーノと面識を持っていたからです。
巡察師バリニャーノと親しかった織田信長の秘書的存在の明智光秀も、イエズス会からのポルトガル語の密命を受けたキリシタン大名の高山右近は、明智光秀の配下であったにもかかわらず、イエズス会より日本王候補とされた羽柴秀吉軍に加勢して、1582年山崎の戦で、織田信長の暗殺者の汚名を着せられて抹殺されていたのです。
そして、織田信長爆殺の真実を知るもうひとりは、実行者としての、キリシタンの千利休です。本能寺の近くに南蛮寺を設計・建設した高山右近の茶の師匠である千利休は、1582年6月1日の織田信長爆殺前夜、公家や「楢柴」を持っている博多の商人鳥井宗室を招き、「大茶会」を本能寺で開催していたのです。その千利休は、バリニャーノが長崎に帰還すると同時に堺に幽閉され、1591年関白豊臣秀吉が、聚楽第でバリニァーノと謁見する数ヶ月前に、聚楽第境内の千利休の屋敷で、豊臣秀吉の命で切腹し、その妻は、石田三成の拷問により謀殺されていたのです。
これらの一連の処置により、イエズス会と藤原氏による織田信長の爆殺は、明智光秀の単独による謀叛として認識されてしまうのです。しかし、この山崎の合戦での、同盟者であった徳川家康の、明智光秀への裏切り行為が原因となり、後に、江戸時代となり徳川家康の崩御後、明智光秀一族の流れにあるお福(後の春日局)の陰謀により、徳川家康と同族の秦氏末裔が、再び、賎民として貶められる結果となっていくのです。
1598年豊臣秀吉が倒れると、明国征服の計画が中止されることにより、朝鮮半島侵略の慶長の役が、太閤検地と供に、突然終わるのです。そして、豊臣秀頼を後継者として、五大老、五奉行制度の集団指導体制を定めるのです。その病床で豊臣秀吉は、五大老のひとりとして徳川家康を命じ、豊臣秀頼の後見人のひとりとするのです。
8月豊臣秀吉が死去すると、高山右近を客臣とする大老の前田利家と五奉行の石田三成が対立するのです。石田三成が、大老に向って強く出られるのは、千利休の妻を拷問し、謀殺したことからでも分かるように、豊臣秀吉の密命を受けるほど、石田三成は豊臣家の忠臣として、藤原氏と豊臣秀吉との秘密をよく知っていたからです。
前田利家が病死すると、文治派の「サムライ」石田三成の横暴に対して、武断派の「武士」福島正則や加藤清正が激怒して襲撃したのです。この襲撃に対して、石田三成は、一時命を狙ったことのある徳川家康に救いを求めたのです。懇願に対して断ることが出来ない性格の徳川家康は、信用できない石田三成を、福島正則からの襲撃から護る条件として、奉行職の解任と、佐和山城での蟄居を命じたのです。
1600年朝廷・豊臣氏から、徳川家康に、不穏な動きをしている上杉景勝を征伐せよ、との命が下されるのです。それは、「豊臣氏の忠臣である徳川家康が謀反人の上杉氏を討つ義戦」であったのです。しかし、この義戦には、石田三成による陰謀が潜んでいたのです。
6月16日徳川家康軍は、上方から出陣するのですが、その進軍は遅々として進まないのです。それは、徳川家康側の忍者からの情報で、石田三成が挙兵する動きが、徳川家康に届いていたからです。
7月石田三成は、徳川家康が確信していたように、毛利輝元を総大将として、大坂城で豊臣秀頼を事実上擁立して、挙兵したのです。この石田三成の挙兵に、徳川家康が対峙するとすれば、徳川家康は、その場で謀叛者となってしまうのです。
徳川家康は、征伐軍団を組織する時に、石田三成派の「サムライ」は排除して、福島正則などの武断派の「武士」グループだけで構成していたのです。それは、「武士」は、生き方上手の「サムライ」と比べて、正義を貫く無骨者が多く、約束を護るため、信頼することができる傾向があるからです。それは、「武士」である無骨者の徳川家康が、キリシタン大名であった高山右近が前田利家の客臣となり、前田利家の死後も、前田家に忠誠を尽くした生き様を、体験を通してよく知っていたからです。
その徳川家康の読みが当たり、福島正則などの「武士」は、徳川家康に従うことを約束し、ここに豊臣氏の西軍に対する、賊軍としての総勢10万の東軍が生まれたのです。
9月1日徳川家康は、江戸城から出陣したのです。徳川家康軍は、エドを基点としたローマ帝国軍式直線道路により、素早く進軍して、京に上るための要所である関が原に布陣するのです。しかし、豊臣秀頼を擁立した西軍は、兵力で、謀叛の東軍より圧倒的優位であったのです。
しかし、徳川家康には、策があったのです。その布石として、7月石田三成が挙兵すると、8月23日徳川家康軍団が、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした時、豊臣秀吉軍であったならば、落城後、敵将の一族郎党を、見せしめのために串刺しにしてしまうところを、徳川家康は、敵将の織田秀信の命を助けていたのです。これは、生き方の上手な「サムライ」に対して、「徳川軍に寝返ったならば、命は助ける。」とのサインであったのです。
9月15日午前8時美濃の関が原で、東軍と西軍が激突するのです。兵力で圧倒的不利な東軍は、初戦で西軍に押されていたのが、小早川秀秋の東軍への寝返りで、西軍が総崩れとなり、形勢は一挙に逆転してしまったのです。更に、西軍の島津軍は、東軍本陣の中央突破により戦線から離脱したことにより、西軍の敗北が決定したのです。
この関が原の戦いは、9月14日には、東軍勝利の予測が立っていたのです。それは、徳川家康は、忍者を使い、160通もの書状を西軍の諸大名に回送していたからです。それに、島津軍が、西軍から寝返るのは、徳川家康には分かっていたのです。それは、島津氏の前氏は「惟宗氏」で、その惟宗氏の前氏は「秦氏」であったため、徳川家康と同族であったからです。そして、秦氏の同族は、基本的には、争わないとの掟が古来からあったからです。
10月1日徳川家康は、西軍が不利と知ると戦場から逃亡していた石田三成を、六条河原で処刑するのです。しかし、豊臣秀頼と淀殿は、「女・子供は戦に関係なし。」との、徳川家康のお達しで、御咎めなし、としたのです。但し、豊臣氏は、その所領を摂津・河内・和泉(古の秦王国の支配地)とし、65万石の一大名の身分に落とすのです。
1601年徳川家康は、大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡し、伏見城で政務を執るのです。そして、征夷大将軍となるための布石として、出自不明の徳川家康の家系図を、源氏棟梁の源義家に通じるように、神龍院梵舜に命じて、改竄させるのです。天下を執った徳川家康も、その出自が不明なように、戦国時代の武将の多くの三代先は不明であったのです。
1603年徳川家康は、後陽成天皇より、征夷大将軍、淳和奨学西院別当、右大臣に任命され、ここに、江戸幕府が開かれるのです。しかし、徳川家康は、1605年将軍職を三男秀忠に譲位し、1607年駿府に移って、大御所として実権を掌握し続けるのです。
では、織田信長も、豊臣秀吉も、その征夷大将軍の地位を強く望んでいたのに、徳川家康は、アッサリと将軍職を息子に譲った理由は、何だったのでしょうか。更に、徳川家康にとって、「関が原の戦い」とは、どのような意味があったのでしょうか。
教科書歴史によれば、江戸時代のエドは、武家支配により政治がおこなわれていた、と述べていますが、それは、三代目将軍徳川家光以降のことです。では、それ以前の徳川家康と秀忠の時代では、どのような政治がおこなわれていたのでしょうか。
江戸時代の政治の特徴である、参勤交代、ポルトガル人来航禁止による鎖国、キリシタン弾圧の島原の乱などは、初代将軍徳川家康ではなく、三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
1614年大御所徳川家康により、高山右近と内藤如安などのキリシタンがマニラに国外追放されていますが、それでもキリシタンの多くは、三代目将軍徳川家光が政治を執る以前までは、国内に多く存在し、布教活動をしていたのです。
このことは、鎌倉時代と言っても、1192年源氏棟梁の源頼朝が幕府を拓き、その源氏一族の源実朝が、北条氏の陰謀により、1219年暗殺されるまでと、それ以降の、北条氏が支配した鎌倉時代の政治が異なるように、徳川家康・秀忠時代と、家光時代以降の江戸時代の政治は異なっていたのです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康は、基本的には、キリシタン布教を黙認していたのです。しかし、徳川家康が、高山右近を国外追放した原因のひとつは、1609年長崎でのマードレ・デ・デウス号事件があったからです。
その事件とは、1608年キリシタン大名の有馬晴信の持ち船の乗員50名が、マニラで、貿易上のトラブルで、アンドレ・ヘッソアに殺害されていたのです。そのアンドレ・ヘッソアが同乗する船マードレ・デ・デウス号が長崎に来航すると、有馬晴信は、敵討ちのために、その船を沈没させてしまうのです。
この事件のもみ消しと旧領の復帰を画策した有馬晴信は、徳川家康の側近本多正純の家臣であるキリシタンの岡本大八に、金品を渡して周旋を頼むのです。しかし、岡本大八は、そのワイロ金を着服してしまうのです。しかし、そのことを徳川家康の知ることになると、岡本大八は、有馬晴信による長崎奉行暗殺計画を暴露してしまうのです。このキリシタンによる陰謀を警戒していた徳川家康は、有馬晴信と岡本大八を処刑するのです。
このことは、一時キリシタンに命を狙われていた徳川家康には、キリシタンの千利休一派による織田信長爆殺を思い出させ、日本キリシタンの代表者である高山右近の国外追放の流れとなっていったのです。
では、徳川家康は、将軍職を投げ打ってまでして、何をおこなおうとしていたのでしょうか。
1611年大御所徳川家康は、藤原氏の傀儡の豊臣氏に好意的であった後陽成天皇を退位させていたのです。更に、天皇家に秀忠の五女和子の入内を画策し、更に、天皇家の財政を逼迫させる目的で、仏教僧への紫衣の着衣禁止を強要していたのです。
その徳川家康の、天皇家に対する好意的ではない行動の動機を探るヒントは、徳川氏の家紋である「葵」にあるようです。その葵の家紋は、松平氏の家紋以前は、賀茂氏の紋であったのです。では、その賀茂氏とは、何かと言えば、それは、陰陽家の出自であったのです。
陰陽師の祖は、飛鳥ヤマト時代に隆盛していた道教であったのです。「穢」の犠牲により祀りをおこなっていた道教士は、奈良時代から平安時代にかけて、中国大陸から侵攻して来た唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教組織により、その犠牲による祀りを禁止させられることにより、亡命百済貴族が支配した平安時代に、犠牲をおこなう道教士から、呪術師としての陰陽師に変身して生き延びていたのです。
亡命百済貴族が支配した平安時代に、飛鳥ヤマト時代に、道教と共に、山背国と比叡山で牡牛を屠る犠牲により祀りをおこなっていた秦氏の祭祀一族も、秦氏から惟宗氏に変身して生き延びていたのです。この惟宗氏が、鎌倉時代初期に、源頼朝により、藤原氏の支配荘園である島津荘を拝領したことにより、島津氏を名乗ったのです。
その陰陽師と因縁のある賀茂氏の「葵」を家紋とする徳川家康は、1590年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、関東の湿地帯に追放されるのです。その時、武州府中で、徳川家康一行を迎えたのが、秦氏末裔の集房(ためふさ)、初代弾左衛門、と云われているのです。しかし、徳川家康一行は、府中を通ってはいないのです。
この事跡は、弾左衛門一族が、1590年以前に、府中を支配していた、と改竄する物語であったようで、その頃には、甲州武田信玄より御証文を受けた者が支配していたようです。その根拠のひとつとして、1692年(元禄5年)上州仁田村の長吏馬左衛門が、武田信玄の御証文を根拠として、弾左衛門の被支配者ではないことを、評定所に訴え出ていたのです。その論点は、穢多身分は、長吏身分よりも新しいので、長吏の馬左衛門は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者ではない、と言うことです。しかし、弾左衛門は、鎌倉頼朝公の御朱印により、弾左衛門が、正統な長吏であると訴えたため、幕府は、武田信玄の御証文よりも、源頼朝の御朱印の方が歴史的に古いため、弾左衛門を正統な長吏職と認めていたのです。
では、徳川家康と集房(初代弾左衛門)との関係は、どのようなものであったのでしょうか。戦国末期から江戸初期の史料は、乏しいので、その関係を説明できる史料はないのですが、伝聞では、集房の木印は、1600年濃州青野ヶ原(岐阜県関が原)の合戦で、討ち取った敵将の首級(しるし)を、帳面に記入して、集房に監守させた時、その首帳に押捺したものだ、と云われているのです。
討ち取った敵将の首級は、武将にとっては大切なもので、その首級は、立派な大将に見せかけるために武士の妻が、死に化粧をして、大将に提出し、その首級を実検して(首実検)、褒賞としてのご恩の額を決定したものであったのです。集房の木印は、徳川家康との深い関係を示しているようです。
秦氏末裔の弾左衛門一族は、徳川家康を敬愛していたようで、十三代弾左衛門が、明治革命により、弾直樹として平民になるまで、4月17日には、権現様(徳川家康)の御祭礼として、赤飯を惣穢多に振舞っていたのです。
徳川家康が駿府で大御所として政治を執っていた江戸初期では、弾左衛門は、例年正月3日より8日まで、熨斗目麻上下(のしめあさかみしも)にて、御老中若年寄三奉行の役宅に年始に廻礼していたのです。その弾左衛門の年始の行列は、長棒駕籠、鎗、挟箱、合羽駕籠で、先供徒士(かち)は羽織袴、両刀で、駕籠脇近習は麻上下両刀を帯し、小者は真鍮金物付木刀一本を挟んでいたのです。但し、鎗は、実際の大名行列のように竪立せず、担ぐしきたりであったのです。
では、江戸初期の弾左衛門の政治世界はどのようになっていたのでしょうか。
徳川家康の配下として、荒川と利根川支流が流れ込む湿地帯を、古代エジプトの高度土木技術により、堀を造り、干拓して、エドの街を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、関東一円を支配していたのです。
第三代目将軍徳川家光により、弾左衛門が鎌倉時代より支配していた28番職種の多くは、弾衛門支配から離れ、一銭職(髪結床)、石切、そして、紺屋職の三業のみとなってしまったのです。更に、1781年以降、その三業も支配下から離れて、弾左衛門の支配下は、穢多と非人のみとなってしまったのです。
それでも、弾左衛門の営業は、革の製造と燈芯の製造と、裏金融であったのです。その営業は無税であったのです。その代わり、弾左衛門は、革御用として、陣太鼓、御太鼓、絆綱、そして、燈芯御用として、一年に五百貫目の定額を上納して、千代田城の夜を燭台の灯りとして照らしていたのです。
では、その弾左衛門の財政を調べると、文化文政(1803年〜1827年)の頃でも、百七十万両が金庫にあり、田地は葛西金町、越谷、上州太田に三千石を所有し、一万五千俵の米穀を倉庫に保管していたのです。更に、燈芯草の耕作を命じる権利を、茨城県新治郡、筑波郡、北相馬郡の十五カ村に持っていたのです。
では、弾左衛門の居宅はどのようであったのでしょうか。三代目将軍徳川家光により、江戸町中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまったので、江戸時代初期の弾左衛門の居宅を知ることはできませんが、その浅草新町(シンチョウ・秦町)は、一万四千四十二坪あり、弾左衛門の居宅は二千六百坪あり、上級武士の屋敷でしか許されない長屋門があり、更に、中爵門も設けていたのです。
その広大な邸宅で職務を執る弾左衛門は、1800年(寛政12年)での調査では、関東長吏身分の者は、5554戸(一説では9805戸)であり、その関東に暮す多くの者達を支配するために、江戸幕府と異なる行政をおこなっていたのです。
教科書歴史では、弾左衛門政府が、江戸幕府と異なる行政により、支配下のひと達をコントロールしていた史実を隠しているのですが、その実態は、正に、古代ギリシャ都市国家とも言うべきものであったのです。
紀元前20世紀バルカン半島南端に、アカイア人、イオニア人、ドーリア人が侵攻し、それらの人達は、まとめてギリシャ人と言われていくのです。そのバルカンの地は、平野が少なく、農耕に適していないことにより、各部落が、それぞれ奴隷を使い果樹栽培で生計を立てていたのです。その各部落により、エジプトの穀物と果実を交換するために、遠く旅する海上交易をおこなう必要があるため、海賊や山賊と戦うために軍団を、各部落ごとに組織していたのです。
このギリシャでは、平坦地が少ないため、神殿を中心に都市国家を形成していたのです。その都市国家を外敵から護るために、馬を維持できる者が騎兵となり、その戦いでの働きにより貴族となっていくのです。しかし、エジプトなどと海上貿易により富をたくわえた平民も、青銅の兜、丸い盾、足の脛当て、革製の鎧、そして、二m以上もの穂先のある長槍で武装した平民も、名誉を得るために、貴族と一緒に戦いに参加したのです。
そのギリシャ式戦いは、長槍と盾で武装した重装歩兵が密集隊を構成し、敵陣に突撃を繰り返すのです。白兵戦は、ランチェスターの法則どうりに、その軍人の数が多いほど優位であるわけですから、ギリシャの平民は、武装して戦に参加することにより、その平民兵士が、貴族兵士よりも圧倒的に多くなっていくのです。そこで、平民兵士より、「戦で、貴族と同じ働きをした平民兵士にも、貴族と同様に市民にも参政権を与えよ」、と要求したことにより、ギリシャ都市国家で、民主政治の第一歩が始まるのです。
この民主政治のデモクラシーとは、ギリシャ語のデモクラティアに由来し、民衆(デーモス)の支配(クラティア)を意味しているのです。
紀元前594年ソロンは、民衆に市民権を与えるのです。そして、紀元前509年クレイステネスは、部族制度を従来の四部族から十部族とし、その下部組織として、デーモス(区)を設けたのです。その十部族から、各50人の代表により、500人評議会を設置するのです。
そして、紀元前462年エフィアルテスにより、一年ごとの交代で、挙手により選出された将軍や祭祀による、民主政が完成するのです。これにより、貴族最後の牙城のアレオバゴス会議の特権を奪い、それらの特権が500人評議会や民会裁判所に移管したのです。そして、紀元前322年マケドニアにより、民主政が廃止されるまで、アテネの民主政は存続したのです。この古代ギリシャの、選挙による民主政が、古来から日本列島に伝播していたのです。
オリエントから渡来の秦氏末裔である、関八州を支配していた弾左衛門の政府は、基本的には、五年目ごとに、総選挙をおこない、弾左衛門政府の家従(役人)を投票選挙により選出していたのです。しかし、丸山三右衛門と石原孫一の両家は世襲としていたのです。
その選挙では、関八州に暮す九千有余の惣穢多による直接選挙ではなく、古代ギリシャの民主政と同じに、代議員500人の触頭(穢多村の村長)の封書での投票でおこなわれていたのです。
その関東八州に散在する幾百の部落の穢多は、キリシタンの「賎の利休」と云われた茶人千利休が暮した自治都市堺と同じに、王権が及ばない自治制をなし、平生は直接弾左衛門の支配を受けるのではなく、各部落(ポリス・都市国家)の触頭の指示で公共の事を所弁していたのです。
関八州の500人の触頭により投票選挙で選ばれた、弾左衛門政府の人事構成はどのようになっていたのでしょうか。役人の上役として15人の内、御家老は3人、御用人は3人、裁判関係の公事方奉行は3人、会計係りとしての御勘定奉行は2人、監視役としての大目付は2人、地方事務の処理役の御郡代は2人の人事構成となっていたのです。
下役65人は、側で世話をする者である御近習役、お目付、書記の御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類で人事構成していたのです。
小者70人は、同心足軽で、他に、非職として革の製造に従事する者75人の総計220人で、弾左衛門政府を構成していたのです。この人事布陣は、正に、ミニ弾左衛門幕府の様相を示しています。
更に、弾左衛門政府では、徴税権と司法権も、江戸幕府から独立していたのです。司法権は、穢多と非人に限り、追放以上の刑は、一々町奉行に伺い、指令を受けていましたが、それ以外は、弾左衛門政府は、自ら裁判をし、自ら刑罰を科していたのです。そのために、弾左衛門の邸宅用部屋の脇には、伝馬町の牢屋敷に似た三棟の牢獄があり、その一棟は、町奉行所より預かりの平民罪囚のための牢獄で、弾左衛門政府が法廷としての白州が設けていたのです。
そして、新町(秦町)には、ギリシャ都市国家の中心となる神殿があったように、鎮守神を祀る祠があり、その神を「インジンサマ」と崇称し、祭礼をおこなっていたのです。
藤原日本史では、穢多は経済的・精神的に惨めな賎民のように記述していますが、藤原氏が720年に創作した「日本書紀」などの勝者側の立場で述べられた正史ではなく、秦氏末裔の万葉語学者で「日本書紀」の講義師である多人長が812年に創作した「古事記」などの、敗者側の立場で述べられた野史(簒奪王権により焚書されないように、比喩や暗号文で記述されているものが多い。)を、少し調べれば、このように古代ギリシャ都市国家に類似した秦氏末裔が管理・運営していた部落(ポリス・自治村)が、古代から江戸時代末期まで実在していたことが分かるのです。
何故、敗者側から見た歴史が表の世界に現れずに、抹殺、或いは、改竄されるのかと言えば、それは、勝者である簒奪王権の正統性を示す主たる目的は、敗者である前政権の歴史を抹殺、或いは、改竄することにより、敗者側だった人民はもとより、敗残兵をも簒奪王権の下に統制することができるからです。
日本列島史での前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄の始めは、645年の「大化の改新」からです。そして、前政権の歴史の抹殺、或いは、改竄は、古代だけではなく、近世の江戸初期の歴史でもおこなわれていたのです。
「大化の改新」は、明治維新後に発明されたものです。しかし、藤原日本史では、その「大化の改新」の基本とは、公地公民、班田収授法、国郡制度、そして、祖・庸・調の税制の確立のこと、であると言うのです。しかし、それらの事項は全て、645年以降に発明されたものであったのです。
国郡制度の確立は、645年ではなく、701年大宝律令以降に確立されたもので、それ以前では、国の支配区は、評(こおり)と云われていたのです。そして、戸籍・計帳を必要とする班田収授は大宝律令からで、全国的(近畿一帯)戸籍作成の始めは、670年庚午年籍からなのです。そして、藤原氏が「日本書紀」で述べているように、日本国の元号は、645年ではなくて、701年大宝元年からなのです。
何故、簒奪王権は、645年を国政の始まりと改竄したのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配していた東突厥帝国進駐軍が、壊滅した年であったからです。そして、騎馬民族の前政権の文化を抹殺、隠蔽するために、蘇我蝦夷が天皇記と国記を焼失させたので、飛鳥ヤマトの歴史は分かりません、とするのです。
では、それ以前の日本列島の歴史はどのようになっていたのでしょうか。その日本国の元号が発明された以前の都は、飛鳥ヤマトにあったのです。その飛鳥ヤマトの前政権の歴史を、抹殺、或いは、隠蔽するための「装置」が、「大化の改新」物語であったのです。その「大化の改新」物語を創作するための素材が、647年韓国新羅史の「眦曇の乱」(ヒドン)であったのです。
そのように、勝者である簒奪王権は、歴史物語を操作することにより、如何様にも、敗者の歴史を抹殺、或いは、改竄できるのです。
1600年関が原の戦いで、東軍の徳川家康は勝利し、エド城の普請を急ぐのですが、エド城の完成は、1636年三代目将軍徳川家光の時代であったのです。その前年、1635年徳川家光は、諸大名の財政を窮乏させる目的で、参勤交代制を確立していたのです。
しかし、そのエド城は、完成後3年の1639年本丸大奥からの失火により、天守閣と僅かな櫓を残して焼失してしまうのです。このエド城は、その後、二十数回も火災にあっているのです。不思議なのは、1657年(明暦3年)「振袖火事」により、天守閣も炎上していたのです。更に不思議なのは、第十五代目将軍徳川慶喜は、一度もエド城には居住していなかったのです。
何故、エド城は、そのように数多い大火にあったり、そして、将軍が居住していなかったのでしょうか。それは、エド城の別称、「千代田城」に、謎解明のためのヒントがあるようです。
エド城が、何故、千代田城と云われるのかの教科書歴史の説明では、室町時代にエド城を創建した太田道灌の幼名が、鶴千代と云われていたから、とか、エド城の周りが肥沃な田地(千代田)であったため、と云われているのです。
そして、太田道灌の幼名鶴千代の根拠は、江戸時代に書かれた「太田家記」にあるとするのです。そして、太田道灌のエド城の史料は、江戸時代に書かれた「寛政重修諸家請」にあるとするのです。
しかし、それらの説明に反して、太田道灌の正式な幼名は、持資であるのです。そして、1446年15歳の元服で資長となっているのです。更に、徳川家康が築城したエド城は、室町時代に太田道灌が築城した跡に建増した城などではなく、その太田道灌が築城したエド城(実際は砦)の上に、8.5mの盛り土をして、海抜十mの人工山の上に築城された城であったのです。
室町時代、摂津源氏末裔の太田道灌が、エドに築城した砦は、下総を支配している、桓武平氏末裔の千葉氏の侵攻を阻止するために、荒川・利根川の支流が流れ込む、河口の湿地帯にある、海抜2.5mの岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベ)の上であったのです。
ですから、その太田道灌の砦の周りは、河口の葦の茂る湿地帯であるわけですから、教科書歴史が述べるように肥沃な田地(千代田)であるはずはないのです。では、エド城の雅名である千代田城は、何を隠蔽するための城名なのでしょうか。
勝者の簒奪王権は、敗者側の武人を貶める目的で、鬼、土蜘蛛、俘囚、蝦夷などの、蔑称を付ける歴史的傾向があるのです。更に、敗者側の騎馬民族末裔の民族も、穢多(エタ)や川田・皮多(カワタ)などの蔑称を付けられていたのです。そして、イエズス会に軍事支援された織田信長により敗れた、大坂の石山本願寺派の秦氏の源氏末裔の砦も、エタ城との蔑称を付けられていたのです。
1600年東西に分かれて戦った、関が原の戦いは、教科書歴史では、豊臣秀吉の遺臣軍団対王権を簒奪する逆賊の徳川軍団の図式で説明しているようですが、その実態は、古来からの、藤原氏対秦氏の戦いの続きであるわけです。
それは、豊臣秀吉は、イエズス会傭兵から寝返った、藤原氏の猶子であったからです。それに対して、徳川家康は騎馬民族末裔であり、「葵の紋」を旗印とすることは、藤原氏の仏教派に敵対していた、陰陽道の祖、道教の末裔を示していたからです。その「葵の紋」の旗の下、徳川家康軍団の多くは、秦氏末裔の武田騎馬軍団残党の金山衆や、石山本願寺派軍団残党の秦氏末裔の源氏武士末裔であったのです。
そのような、騎馬軍団末裔の武士により勝利した徳川家康軍団は、敗れた藤原氏軍団には憎憎しい存在であったのです。その勝者である徳川家康は、敗れた武将達にエド城普請を命令したのです。そして、1636年三代目将軍徳川家光の時代に、エド城は完成するのですが、その三年後、鎖国を断行した1639年にエド城の多くの建物は、本丸の大奥からの失火により焼失してしまったのです。
では、何故、エド城が千代田城と呼ばれていたのでしょうか。それは、徳川家康の出自に関係があるのです。
北条鎌倉時代、藤原氏と、百済系桓武平氏末裔の北条氏とにより、秦氏末裔の源氏武士を社会的に抹殺するための手段として、平安時代に錬金術師空海が、唐から持ち込んだ騎馬民族差別思想の「施陀羅悪人ナリ」をバージョンアップして、遊牧民族であるから、当然肉食する者を「施陀羅」から、ケガレが多いとの意味である「穢多」を発明したのです。しかし、その騎馬民族差別語の「穢多」は、ユダヤ系日本人(藤原氏)が多く住む奈良や、百済系日本人(桓武平氏)が多く住む京都・大坂では浸透したのですが、それ以外の地域では、その「穢多」の騎馬民族差別語が流行らなかったのです。
徳川家康が支配していた三河地域周辺では、「穢多」の差別語ではなく、川田・皮多(かわた)と云われていくのです。そのカワタには、ケガレの意味が、穢多よりも薄れていたのは、それらの地域には、騎馬民族や海洋民族が多く暮していたからです。織田信長の出身地の尾張や伊勢は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、そして、徳川家康が支配した三河には、肉食する秦氏末裔の新羅系日本人(秦氏)が多く住んでいたからです。
その三河を支配していた徳川家康が築城したエド城は、戦国末期の石山合戦の戦いで、イエズス会に軍事的支援された織田信長軍団の攻撃を十年間も防いだ、秦氏末裔の源氏武士末裔の砦を、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が「エタ城」と蔑称したように、徳川家康とその息子の秀忠が死去し、百済の血が流れている三代目将軍徳川家光の時代になると、藤原氏側のひと達は陰で、「カワタ城」と蔑称していたのです。それは、徳川家康が、世良田部落の出身で、アラブ系の平家末裔の織田信長が、海洋民族末裔の賎民である余部(海部)を庇護したように、三河の騎馬民族末裔のカワタを庇護していたからです。
そこで、新羅(秦羅)を憎む百済側の智慧者が、そのエド城の蔑称のカワタ城を、雅名の千代田城に改竄したのです。カワタ(川田・皮多)を、皮(カワ)→川(カワ→セン)→千に替え、千田(ちよた)→千代田と改竄したのです。そして、その改竄物語の裏付けのために、室町時代の太田道灌を持ち出して、太田道灌の幼名を鶴千代とし、更に、エド城の周囲は美田(千代田)が多くあったとの伝承を創作したわけです。
百済の血が流れる徳川家光には、秦氏末裔は憎むべき相手であったのです。それは、663年母国百済を滅ぼしたのが秦氏の渡来元の、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)であったからです。そして、エド城にハーレムである大奥を発明した春日局も、騎馬民族末裔の徳川家康が築城したエド城の存在を許せないひとりであったのです。
それは、戦国末期、織田信長が、イエズス会と藤原氏とによる陰謀で、本能寺で爆殺された後、主殺しの謀叛者とされた明智光秀からの救援を、徳川家康が断っていたからです。山崎の合戦で、イエズス会の命令に逆らい徳川家康が、明智光秀軍に加わっていたとしたら、日本史も今とは異なっていたことでしょう。
その明智光秀一族末裔のお福が、後に、三代目将軍となる徳川家光の乳母となり、そして、藤原氏と仲が良い後陽成天皇を退位させた徳川家康を、どうしても抹殺したい藤原氏の計らいにより、春日局に変身していたのです。その春日局が、エド城でのハーレムである大奥を発明し、管理していたのです。1639年千代田城の大火の火元が、春日局が管理運営していた、本丸の大奥からの失火であったのは、何を意味していたのでしようか。
カワタ城が聳えるエドの町は、人工町で、更に、京の百済系日本人と奈良のユダヤ系日本人達には、その人工町のエドはケガレ地であったのです。それは、騎馬系民族出自の徳川家康と、その配下の、北条鎌倉政権下で漢訳仏教組織が発明した「穢多」と蔑称された秦氏末裔が開拓した町が、エドであったからです。
ケガレ地を避けることは、第三百済王朝となった、1635年第三代目将軍徳川家光が、外様大名(騎馬・海洋民族末裔武士)を経済的に疲弊させるためと、閑散としたエドの町の人口増加を意図して、参勤交代の制度を確立すると、その西方の遠隔地からエドへの参勤交代の大行列は、伊勢・尾張と三河を避けていたのです。
それは、伊勢・尾張は、魚食するアラブ系日本人(平家)が多く住み、その地を支配していたのが、百済系の比叡山延暦寺の全僧侶を斬首した、仏敵の織田信長であったからです。
そして、三河は、肉食する新羅系日本人の秦氏末裔が多く住み、その地を支配していたのが、イエズス会軍団の一員として、藤原氏系の一向宗軍団を壊滅した徳川家康であったからです。
天下を盗った織田信長は、漢訳仏教組織により、賎民の「キヨメ」に落とされた余部(海部)を庇護し、そして、天下を盗った徳川家康も、一向宗軍団残党の秦氏末裔の源氏武士や、革製造技術者の「カワタ」を庇護していたのです。その徳川家康は、民族差別語の「カワタ」の言葉を公式には一切述べていなかったのです。
しかし、1616年徳川家康が死去し、その息子秀忠が、1623年家光に将軍職を譲ると、エドの町を開拓した秦氏末裔は、イジメられていくのです。それは、織田信長に軍事的壊滅された比叡山延暦寺の天台宗が、江戸初期に復活していたからです。戦国末期、イエズス会の勢力を日本列島から排除する目的で、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉が、壊滅していた漢訳仏教組織復活を目論んで、布教の援助をしていたからです。その結果、騎馬民族差別思想を内在している「法華経」を説く天台宗の僧侶が、エドの町で布教を始めていたのです。
しかし、漢訳仏教嫌いの徳川家康が帰依していたのは、親鸞が発明した浄土真宗ではなく、法然が発明した浄土宗であったのです。法然の思想を表わした、「ナムアミダブツ」とは、「アミ様に帰依します。」という意味で、そのアミ様とは、民族平等を唱えた、古代エジプトの太陽神アトンのことであったのです。
騎馬民族の秦氏が祀っていたのが、太陽神ミトラで、その太陽神ミトラが、古代エジプトで変身した神が、太陽神アトンであったのです。その太陽神アトンが、国際交易都市ガンダーラで、アミ様に変身し、そのアミ様が中国大陸で、更に、阿弥陀様に変身していたのです。その、徳川家康が帰依していた浄土宗の仏とは、秦氏が祀っていた、太陽神であったのです。
では、戦国時代最後まで戦った、北条鎌倉時代に親鸞が発明した浄土真宗の本願寺派は、エド時代に、どうなっていたのでしょうか。
戦国時代、秦氏末裔の源氏武士末裔を取り込んだ一向宗軍団を組織して、北陸一帯を一向宗王国として支配していた、藤原氏系の本願寺派の多くは、イエズス会に軍事的支援を受けた織田信長・豊臣秀吉・高山右近軍団により壊滅されるのですが、顕如派は生き残っていたのです。
織田信長と十年間も戦った大坂の石山本願寺派は、正親町天皇の斡旋で、顕如は織田信長と和解してしまったのですが、教如が新しく門主となると、織田信長との徹底的抗戦を唱えると、摂津・河内・和泉の穢多村が参戦したのです。が、しかし、織田信長が本能寺で爆殺されると、イエズス会から次期日本王と指名された豊臣秀吉とキリシタン大名の高山右近軍団により、壊滅させられてしまったのです。そのキリシタン傀儡軍と徹底抗戦した摂津・河内・和泉とは、古墳時代に秦氏が支配していた、古の河内王国(秦王国)であったのです。
その生き残った顕如の本願寺派を、漢訳仏教嫌いの徳川家康は、勢力を衰えさせるために、内部分裂を画策した結果、光寿の大谷派と、光昭の本願寺派に分裂し、今日に至るわけです。
賎民の王国である、徳川家康支配のエドの町(秦王国)に、関東の山伏と天台宗の僧侶とが、「穢多」がおこなう死者の埋葬儀式をめぐって対立し、裁判となったのです。
山伏とは、飛鳥ヤマト時代の祭祀者末裔で、645年飛鳥王朝(教科書歴史では、蘇我蝦夷・入鹿親子)が、唐進駐軍と中臣軍とに敗れると、唐進駐軍と供に渡来した仏教に祭祀権を乗っ取られたため、山奥に逃れ、変身して生き延びた末裔であったのです。
飛鳥ヤマト時代、犠牲により祀られていた太陽神思想での死者は、死と再生を繰り返す太陽と同じに、再生を願うため「土葬」されていたのです。しかし、中国大陸から渡来した漢訳仏教思想での死者は、汚物のケガレ物でしかなく、ケガレを清めるために、火で燃やしてしまうのです。(仏教伝来が、538年(「日本書紀」では552年)ではないことは、日本国初の火葬された天皇が、697年百済系女帝持統天皇であることから証明できます。その持統天皇の前、686年死去の新羅系天武天皇は、土葬なのです。)
死者の埋葬を廻って、山伏と天台宗の僧侶との裁判での論争は、永遠に続くことになるのですが、そこに、僧正の看海(かんかい)が現れるのです。その看海は、山伏による部落での葬儀、皮を煮詰めての膠(にかわ)作り、革製武具生産、掃除など、部落でのしきたりなどは、仏教文化と異なる、異民族起源であると説明したのです。この僧正看海の説明により、埋葬に関して、山伏は、天台宗僧侶に敗れるわけです。
この天台宗の僧侶が現れた時代から、エドの町で、弾左衛門が徳川幕府から優遇されていたのが、賎民扱いを受ける始まりとなるのです。
徳川家康が、穢多を優遇していた根拠のひとつの例として、1614年大坂冬の陣、そして、翌年の1615年大坂夏の陣で、徳川軍は、渡辺村の出城(エタ城と蔑称されていた。)に立て篭もる豊臣勢軍団を攻め落とすと、翌年、豊臣秀頼を倒し、その八歳の息子国松を、京都の六条河原で、穢多に討たせていたのです。それは、豊臣秀吉が、戦国末期に、穢多(秦氏末裔)の大坂の支配地(秦王国)を簒奪し、亡命百済移民末裔が多く住む九太郎村に移封し、イジメ抜いていたことを、徳川家康が知っていたからです。そして、徳川家康は、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、穢多村と落とされた摂津渡辺村に「断罪御用」を命じて、役人村に引き上げたのです。
家光の乳母の春日局を手先として送り込んだ藤原氏は、騎馬民族が支配する江戸幕府体制から、騎馬民族末裔の「武士」を排除して、桓武平氏末裔の「サムライ」を取り入れるため、「武士」系大名取り潰しにかかるのです。三代目将軍徳川家光は、「武士」系の親藩・譜代20家と外様29家を取り潰し、その代わり、「サムライ」系の40家を新しく親藩・譜代としたのです。
この百済の血が流れる三代目将軍徳川家光による人事異動は、794年唐進駐軍の支援の下、秦氏が支配していた山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔の桓武天皇が、中国の山東半島から亡命百済民を京に移民させ、その亡命百済移民を貴族として優遇したことと、同じです。劃して、徳川家光が第三代目将軍となった、1623年より、「武士」ではなく、「サムライ」支配の、第三百済王朝が始まるのです。
徳川家康時代、長吏弾左衛門(教科書歴史では、穢多頭弾左衛門)は、駕籠に載り、二本差しの羽織袴で登城していたのは、弾左衛門の権勢が盛んであったからです。それは、高度技術を持った芸人(芸とは技術の意味もある)を支配していたからです。
それら弾左衛門の配下とは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光により、離脱させられてしまったのです。
そのように、三代目将軍徳川家光は、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の権勢を削ぐ一方、更に、民心から隔離する手段として、キリシタン弾圧のための刑罰執行人の役割を強要するのです。それが、大きな竹篭に、キリシタンの老人、女子供も入れて、風雨にさらす、「干し殺し」です。その残酷な刑罰を、三代目将軍徳川家光が、弾左衛門に課したために、エドの民衆のこころは弾左衛門から離れていき、遂には、三代目将軍徳川家光の意図したように、エドの支配者側から、賎民「穢多」として、貶められていくのです。
賎民達が築いたエドの町(秦王国)で、多くの職人を支配していた、徳川家康の忠臣長吏頭弾左衛門が、賎民に貶められた仕掛けを創ったのは、三代目将軍徳川家光を裏で操る、天台宗の天海であったのです。
出自不明の怪僧天海は、一説では、明智光秀であると云われていますが、徳川家康が存命の時は、忠臣として振舞っていたのが、徳川家康が1616年死去すると、豹変し、弾左衛門も含めて、徳川家康の忠実な「武士」の家臣達の抹殺にかかるのです。
天海の意図は、徳川家康の葬儀を見れば明らかです。それは、徳川家康の霊を、徳川家康が憎む百済系の宗教思想で、事実上封殺していたからです。天海は、本多正純が唱える吉田神道思想の神号「明神」で徳川家康の霊を祀る提案を拒否して、山王一実神道思想の「東照大権現」で徳川家康の霊を祀って(実際は封印)しまうのです。
それは、その山王一実神道の祖は、平安時代、中国の山東半島から亡命百済民が、秦氏の支配していた山背国や比叡山に移民してきた時、亡命百済移民が日本に持ち込んだ、中国の土着の神シャンワンであったのです。そのシャンワンの神を、山王神と変身させ、秦氏が比叡山で祀っていた太陽神ミトラを封印したのです。そして、亡命百済移民の祭祀者は、その秦氏の太陽神ミトラを、魔多羅と蔑称し、歴史上抹殺してしまったのです。
そのような百済系宗教である山王一実神道を信仰する天海は、エドを中心に関東一円を、百済系宗教である天台宗思想で支配するために、百済系の寺を建立するのです。それらは、東叡山寛永寺、日光山輪王寺、定額山善光寺です。
東叡山寛永寺(東京都台東区)は、三代目将軍徳川家光が、百済系日本人が多く住む京を護る比叡山延暦寺を真似て、1625年に創立し、その初代住職は天海です。そして、不忍池は、東の琵琶湖と云われていたのです。しかし、その東叡山寛永寺は、秦氏末裔の薩摩の「武士」により、1868年上野戦争で焼失してしまうのです。
日光山輪王寺(栃木県日光市)は、創建は奈良時代ですが、天海の指示で、徳川家康の霊を久能山から日光山に改葬し、「東照大権現」を祀る(封印する)ため、1617年東照宮が設けられ、戦国時代に荒れ果てた寺が復興し、今日に至るのです。その貫主(住職)は、天海であったのです。しかし、東叡山寛永寺焼失の翌年、1869年輪王寺宮本坊は焼失してしまうのです。
定額山善光寺(長野県長野市)は、天台宗と浄土宗の別格本山で、その創建は不明ですが、藤原氏が創作した、「日本書紀」の仏教伝来物語(552年)で、廃仏派の物部氏により難波の堀に捨てられた仏像を祀っているとすることから、定額山善光寺創建の歴史は疑問符が付くのですが、この長野の地には、五世紀から百済や高句麗の移民が多く住んでいたのです。その定額山善光寺の「善光」とは、百済最後の王の息子百済王氏の始祖「善光」から名付けられた伝承があることから、百済系の宗教施設であることが示唆されます。
そのような歴史を持つ百済系の寺寺に護られた関東一円は、徳川家康からエドでの菩提寺は、芝の「浄土宗の増上寺」であったものが、三代目将軍徳川家光から「天台宗の東叡山寛永寺」になってしまったのは、王権が代わったことを意味しているのです。つまり、騎馬民族王国(秦王国)から、第三百済王朝への変換です。
因みに、東叡山寛永寺の「東叡山」とは、794年亡命百済貴族の桓武天皇が、秦氏の支配地を乗っ取った京の街(平安京=洛陽)を守護するために建立された延暦寺の比叡山に習い、百済末裔の三代目将軍徳川家光が、秦氏末裔の徳川家康・弾左衛門支配地を乗っ取り、東のエドを守護するための山号としたのです。
この百済系宗教の天台宗は、騎馬民族にとっては脅威であったのです。それは、天台宗の根本思想を語る「法華経」には、騎馬民族差別の思想が溢れていたからです。
天台宗は、日本オリジナルの宗教ではなく、805年に、桓武天皇の命により、最澄が唐の天台山に登り、その経典を持ち帰ったことにより拓かれた、と伝承されています。しかし、中国天台宗の経典の多くは、754年律宗と中国天台宗兼学の唐僧の鑑真により、日本に伝えられていたのです。
八ヶ月の短期留学の最澄は、天台宗の仏典入手が主目的ではなく、山東半島に暮す亡命百済民を、前支配者の秦氏を京から排斥する目的で、日本国に移民させるために、遣唐使留学僧として唐に渡ったのです。最澄が、仏典だけを求めることを目的に唐へ渡ったのではないことは、帰朝後に、年上の最澄が、年下の空海に、頭を下げてまでして、中国仏典の多くを借り受けていることから分かるのです。
では、その中国天台宗は、どのようにして発明された宗教であったのでしょうか。
隋の時代(589年〜618年)、智(チギ)が、宗教の坩堝である天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し、天台宗を発明し、その開祖となったのです。天台宗は、大乗仏教一派であったので、当然、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩魔羅什が、サンスクリット語から漢訳した経典を基に創られていたのです。
中国天台宗は、その無数にある漢訳経典の中から「法華経」を最高の経典とするのです。しかし、バラモン僧の鳩魔羅什が漢訳した「法華経」と、オリジナルのサンスクリット語「法華経」とは、かなりの相違があったのです。それは、騎馬民族の侵攻に悩む、農耕民族である中国の王権に擦り寄るために、遊牧民族トラヴィダ族の地を簒奪したバラモン僧がトラヴィダ族を不可触賎民チャンダラーとしたように、バラモン僧の鳩魔羅什は、騎馬民族への蔑称「施陀羅」や騎馬民族差別思想を漢訳仏典に挿入していたからです。
そのような騎馬民族差別思想を内在した中国天台宗を、平安時代、唐進駐軍に軍事支援された平安京の百済王朝は、騎馬民族末裔である、前支配者の秦氏を貶めるために、比叡山延暦寺に導入していたのです。
そして、秦氏が支配していた山背国や比叡山を乗っ取った亡命百済貴族末裔の百済王朝は、騎馬民族の東突厥帝国進駐軍と、河内を支配していたオリエントから渡来した秦氏とによる、噴水のある石組みの庭園や、河内から飛鳥ヤマトまで敷設されたローマ帝国軍式幅広の直線道路などがあったオリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺するために、百済仏教伝来物語を創作したのです。
そして、藤原氏が支配する興福寺などの奈良仏教組織を奈良の都に封印した平安百済王朝が、藤原氏により創作された「日本書紀」の仏教伝来物語の552年伝来を抹殺するために、百済聖王による仏教伝来を538年としたのは、平安百済王朝が比叡山延暦寺に導入した、中国天台宗の開祖智の誕生年が、538年であったからなのです。しかし、538年にも、552年にも、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、漢訳仏教など伝来していなかったのです。
百済系天台宗の怪僧天海が築いた第三百済王朝の江戸幕府政治により、「武士」が、「サムライ」により支配されたように、百済幕府の手先となった日本列島伝来年不明の漢訳仏教思想により、秦氏末裔は賎民「穢多」として支配されていくのです。
弾左衛門は、徳川家康直系の家臣の「武士」の影響力が残っていたまでは、江戸町奉行クラスの挌を持っていたものが、1623年徳川家光が三代目将軍となり、エドの町が騎馬民族文化から仏教文化に時代が変わると、1635年には、江戸町奉行機構に組み込まれ、仕置き全般を命じられていたのです。
そして、1776年には、弾左衛門は、今までは草履取りを町奉行所内に連れて入っていたものが、町奉行所は突然、このことを禁止させるだけではなく、「御用あい済まし候わば、穢多の身分のゆえ慎み、御門内を急ぎ去り候儀にこれあるべし」と、弾左衛門に命じていたのです。そのように、徳川家康時代では体制側であったものが、徳川家光の第三百済王朝時代になると、長吏頭弾左衛門は、穢多頭弾左衛門として扱われていくのです。
1637年島原の乱を制圧した徳川家光は、キリシタンの老若男女約三万人を「干し殺し」で聖滅していたのです。そして、1639年キリシタンを摘発するために、宗門人別帳による身分登録制度を始め、幕府支配地の日本全土の住民は、どこかの仏寺に所属させ、個人の宗旨を確認するために人別帳を毎年作成させたのです。この宗門人別帳が、1671年宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)となり、全国の秦氏末裔を歴史上抹殺するために、民主都市国家の穢多村を対象にして作られて行くのです。
この宗門人別帳の原型は、戦国時代、戦国大名が百姓村から兵士を募るための夫役台帳であったのです。それが、キリシタンの宗教弾圧を経ることで、1639年にはすべての個人を家族単位で登録し、その結果、徳川三代目家光の時代になると、血縁的な把握までおこなうようになっていったのです。
秦氏末裔も「武士」も、その祖がオリエント系かスキタイの騎馬民族系なので、ヒゲが薄くノッペリした顔を特徴とする「サムライ」のツングース系と異なり、ヒゲが濃く目鼻立ちがハッキリしているため、エドの町を乗っ取ったツングース系の百済末裔と異なる民族であることが外見だけでもわかるのです。その秦氏末裔の民族の血の流れが、徳川家光幕府時代になると、秦氏末裔の穢多を歴史上抹殺するために、宗門台帳に記入されていくわけです。
この秦氏末裔を異民族「穢多」として仏教思想でイジメる宗門改帳は、キリシタン追放の手段の流れから発生したのですが、徳川家康が、1614年キリシタンの高山右近をマニラに国外追放したのは、非人の信者が多いキリシタンをイジメるためではなく、訳があったのです。
1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員のウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは、エドに至り、徳川家康に謁見するのです。オランダは、ローマ・キリスト教を信仰するポルトガル・イスパニアと異なり、プロテスタントを信仰する国であったのです。そのプロテスタントとローマ・キリスト教とは宗教戦争をおこなった歴史があるのです。そのプロテスタントのオランダから渡来したヤン・ヨーステンを外交顧問として召抱え、ポルトガル軍団に支援されたイエズス会のインド・東南アジアでの武力による布教実態を知った徳川家康は、イエズス会に育てられた織田信長の家臣であったため、イエズス会に近い立場でいたものが、イエズス会会員の国外追放に傾いていくわけです。
戦国時代、インドと東アジアを統括するイエズス会の巡察師バリニャーノの日本列島侵略の戦術は、強い国王の下での布教を目指していたのです。そのために、イエズス会は、日本列島での布教始めは武器・傭兵軍の調達者であったのです。しかし、あまりにも九州のキリシタン大名が戦闘に弱いので、北九州一円を支配する竜造寺隆信を倒すために、直接イエズス会が武力介入することになっていくのです。そして、そのイエズス会の軍事力を増すために、ポルトガルと軍事的連携を強めていったのです。
その軍事力を背景として、イエズス会が、九州を平定すると、都地区を支配するために、尾張の弱小武将の織田信長に接近し、そして、武器と傭兵軍を提供することにより、織田信長は、ゲリラ隊長から天下人に変身できたわけです。
しかし、イエズス会と軍事関係が強かったポルトガル国王エンリケが、1580年死去すると、敵対していたイスパニアのフェリッペ二世がポルトガル王を兼位し、ここに、イスパニア・ポルトガル同君連合(1580年〜1640年)が始まるのです。
このことは、イエズス会にとって不利であったのです。それは、イスパニアには、異民族への布教の名目で侵略する托鉢修道会がいたからです。イスパニア王フェリッペ二世が、ポルトガル王を兼任すると、東アジアで勢力を張っていたイエズス会は、西回りで東アジアに渡来した托鉢修道会と衝突していくのです。そして、中国・日本列島への侵略拠点のマニラには、ポルトガル軍に加えてイスパニア軍が侵攻したため、そのマニラを中心とする諸島は、イスパニア国王のフェリッペ二世に因んで、フィリッピンと言われていくのです。
1587年、織田信長が本能寺で爆殺されて、その権力を引き継いだ豊臣秀吉は、キリシタン宣教師追放を発令すのです。それに対して、日本イエズス会は、準管区長のガスパル・コエリョ等が、九州の有馬で協議会をおこない、フィリッピンのマニラ在住のイスパニア関係者に日本国へのイスパニア兵派遣を要請することが決議されたのです。
しかし、イスパニアの経済を支えていた、海賊交易をしていたイスパニアの無敵艦隊は、プロテスタントのイングランド海賊交易を支えるイングランド海軍と各地で戦闘を繰り返して、1588年イングランド海軍は、イスパニア無敵艦隊を破り、ここに海上権がイングランドに移行していくのです。
そのように、海上権をイングランドに奪われたイスパニアは、もはや、諸外国での海賊交易をおこなえない状態になっていたのです。
そのように、ポルトガル・イスパニアの国力が衰えていくことにより、1590年少年使節団を伴って再度来朝した巡察師バリニャーノは、イエズス会から藤原氏に乗り換えて変身していた関白豊臣秀吉に、イエズス会巡察師としてではなく、インド副王の使節として謁見を許されていたのです。それほど、ポルトガル・イスパニアの国力は衰えていたのです。
そこで、1590年加津佐で、第二回日本イエズス会全体会議で、金銭や食糧をのぞき、軍需物資の調達や供与など、宣教師が日本国内での戦争問題に介入することは一切禁止されたのです。
聚楽第での屈辱的な豊臣秀吉の謁見態度に憤まんやるかたない、イエズス会により軍事援助をして、弱小尾張のゲリラ隊長の織田信長を日本王とした巡察師バリニャーノは、イエズス会裏切り者の豊臣秀吉を倒すために、マニラ在住のイスパニア兵の日本国要請を考えるのですが、1597年イエズス会ローマ本部は、在日イエズス会宣教師による、日本国の政治・軍事介入をすることを一切禁止命令を、巡察師バリニャーノ宛てに公布していたのです。
結果的に、ポルトガル・イスパニア国の海上権が、新興国イングランドに奪われたことにより、マニラ在住のイスバニア兵が日本国への侵攻は実際にはなかったのですが、その日本イエズス会が、マニラのイスパニア兵を要請していたことが、イエズス会日本人信者の知ることとなり、イエズス会の不信な行動に疑問を抱いたファビアン不干斎やトマス荒木などのキリシタンは、徳川家康へ、その日本イエズス会によるマニラ在中のイスパニア兵要請を報告することになるのです。更に、徳川家康の家臣岡本大八と九州の有馬晴信との増収賄事件の当事者が、共にキリシタンであったことが、1614年の高山右近たちの、マニラへのキリシタン国外追放となっていったのです。
このような社会情勢下で、イスパニア兵の日本国侵攻を阻止するために、マニラのイスパニア軍に内通するキリシタン摘発のために宗門人別帳が作られていくのです。その宗門人別帳が、第三百済王朝なにると、秦氏末裔を穢多として、社会的に貶めていく仕掛けとして、利用されていくのです。
第三百済王朝の江戸幕府に都合がよかったのは、日本列島をイエズス会による支配途中であったものが、ポルトガル・イスパニアの国力が、イングランドにより海上権が奪われたことにより、海外侵略をこれ以上おこなえない国力となり、更に、イスパニアの海外侵略基地が、イングランドやオランダに奪われていたからです。最早、日本列島を侵略する程の国力は、イスパニア・ポルトガルには、もう既になくなっていたのです。
歴史教科書では、1639年幕府が鎖国をおこなったため、1853年米使ペリーがマカオから浦賀に来航するまでは、江戸時代は外国の干渉を受けることが無かった、と述べています。しかし、それは幕府による鎖国だけが原因ではなく、日本列島の侵略価値が、イスパニアがメキシコで銀山を開発したことにより、落ちたためです。
十九世紀に再び諸外国が日本列島に押し寄せてくる原因は、紀元一世紀ローマ帝国で絹製品の爆発的重要があったため、オリエントから国際交易商人が中国へ押し寄せたように、江戸末期に、世界的に絹製品の需要が起こったからです。日本列島の絹製品が、諸外国の感心を集めたことが、日本列島の鎖国を解く原因だったのです。
日本列島の絹生産の歴史は、ローマ帝国と中国との絹交易が盛んになった時代に、中国の絹の国際交易商人により、中国南方種である蚕(ポンピックスモリ)を持ち込んだことにより始まったのです。それと供に、日本列島には、朱砂を求める民族の他に、絹生産地としての植民地とするために、オリエントなどの諸外国から異民族が多く渡来してきていたのです。
ポルトガルが、日本列島への布教を目論むイエズス会を軍事援助した目的のひとつは、日本列島の石見銀山、宇陀銀山、伊勢銀山の簒奪であったのです。しかし、ポルトガル国王が死去し、イスパニア王が、ポルトガル王を兼任したため、ポルトガルの軍事力を当てにしていたイエズス会の日本列島での影響力は、次第に衰えていくだけではなく、イスパニアの托鉢修道会との、日本列島内での抗争は、日本イエズス会から日本信者を離脱させる原因となっていくのです。
更に、イスパニアとポルトガルの経済を支えていた植民地が、イングランドとオランダにより奪われていくのです。イングランドは、イスパニアから海上権を奪うと、東アジアを支配するために、1600年東インド会社を設立するのです。そして、オランダも、1602年東インド会社を設立するのです。これらのイングランドやオランダの東アジアへの軍事侵略により、インドのゴア、中国のマカオ、そして、フリッピンのマニラからイスパニアやポルトガルの軍事力が奪われていくのです。
そして、その東アジアを制圧したイングランド東インド会社が中心となり、藤原氏(近衛家)が棲息する薩摩藩と長州藩の不満分子の「武士」や騎馬民族末裔の「穢多」を手先として、「サムライ」支配の第三百済王朝の江戸幕府倒幕と、仏教国から神国への思想のすり替えとしての、明治維新が企画されていくわけです。
第三百済王朝は、イングランド・オランダ侵略軍団を迎え撃つイスパニア・ポルトガル軍団との、インドや東南アジアでの覇権争いが決着するまで、徳川家康時代では長吏頭としてエドの治安警察業務をおこなっていた弾左衛門を、徳川家康の古くからの忠臣の「武士」をエド払いすると、穢多頭として不浄の縄を使う「岡引」の手下として使役し、約三百年の天下泰平のエド時代を享受するのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/849.html

コメント [原発・フッ素41] 牛久市の甲状腺検査結果 自覚症状のない者対象で89名受診のうち8名がB判定(ふくしま集団疎開裁判) 赤かぶ
03. 2015年2月01日 10:52:51 : K65V0hnL4w
福島原発事故による被ばく被害を隠蔽するために、他の県だけでなく、福島県の甲状腺検査も止める算段が進んでいる。

ジェノサイド進行中。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/743.html#c3

コメント [カルト14] プー・習・ハメ・ピケ・水野・植草・一太郎、非ドル時代の七人の侍が政経に完備、一方の米英イは指導者不在です。 小沢内閣待望論
31. 2015年2月01日 10:53:55 : GnoJ7w3aMk
>>29. おじゃま一郎


>>世界で一番価値あるもの

がドルだって?


はは

さもしい人生だな
思った通り

小銭でも抱いて棺桶に入るんだな
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/136.html#c31

コメント [番外地6] ピケティで明けました 中川隆
08. 2015年2月01日 10:54:12 : b5JdkWvGxs

トマ・ピケティ 仏経済学者 『21世紀の資本』 2015.1.31 動画
https://www.youtube.com/watch?x-yt-cl=85114404&v=lgGjoCPADCI&x-yt-ts=1422579428


2015/01/31 に公開


Thomas Piketty, French economist, author of “Capital in the 21st Century”

の著者 トマ・ピケティ氏が会見し、記者の質問に答えた。

司会 会田弘継 日本記者クラブ企画委員長(共同通信)

代表質問 軽部謙介 日本記者クラブ企画委員(時事通信)

通訳 長井鞠子(サイマル・インターナショナル)

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/562.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
30. 帝国の残党 2015年2月01日 10:55:03 : yhkDZSAk88eIs : TummnBcwwc
祖父のたまわく、

ISISがもろもろ背後関係がある怪しい勢力で、皇国を煽動挑発するシナリオだとしても
左巻きの皆さんは根本的なことを忘れておりますね。

欧米の主要国はその気になれば空爆ぐらいできる、
つまり自力救済の力があるわけで、それすらなくて
人道支援外交のみで生き残れるというのが、
そもそも、暗黙にダメリカ様がご本尊のお花畑過ぎる思考なのです。
違うと言うなら、左巻きのご本尊の旧ソ連も支邦も北朝鮮も
核武装してたし、対外軍事力行使をしていたのは何故なのかお答えいただきたい。

陸戦隊を派遣してグダグダ戦うとか、特殊部隊が救援するとか、
支邦に無駄に深入りしたような歴史を想定するから
明後日のコメントが溢れるのでしょう。

対テロ抑止としては空母を持っていって巡航ミサイルで空爆すれば十分です。
これなら余計な徴兵は要りません。自力救済力があってこそ、平和主義外交が裏打ちされるのです。全く矛盾しません。

政権ブレーンの識者たちが、これは日本版911だとのたまってるのは、
マッチポンプ臭くてクソだと思いますが、
旧ソ連や支邦や北朝鮮が軍事力なしに成立していなかった以上、
左巻きの皆さんのご心配も、まったくもってクソだと思います。

ハルナちゃんや後藤くんが非日本人だと盛んに吹聴しているのは
あなた方なのではないですか?
仮にそうでも、あなた方の親玉さんのお仲間だとしても、
皇国は適切な懲庸を行う力を持って、お救いするのが正道だと言えましょう。
岸のお孫さんは確かにトロい、しかしあなた方はもっとトロい。
支邦に無血併合されるための宣伝工作でしたらバレバレですよ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c30

コメント [原発・フッ素41] 福島第二原発の廃炉は事業者判断、安倍首相、再稼働に含みを残す(1/30 NHK) 赤かぶ
06. 2015年2月01日 10:56:12 : MwG30JCIzs

>自民党の別働隊の”共産党”は確定ですね。

あほじゃないの。茶色のウサギ君。

共産党は明確に原発再稼働反対を唱えている。昔から唱えてきたのは共産党くらいだ。
自民党は日本を滅ぼすよ。ウサギ君は第三国人かね。おじゃま一郎と同じ反日外国人
だろう。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/742.html#c6

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(22)(明治維新が大化の改新だ:復活した藤原氏と騎馬民族末裔の反乱)
歴史教科書でよく理解できないのは、江戸時代までは仏教文化であったのに、1868年明治維新となると、突然、国家神道文化に激変していることです。そして、その年に神仏分離が発令され、それにより廃仏毀釈運動が起こり、全国の仏寺は、秦氏末裔や役座達に徹底的に破壊され、その跡に神社が建立されていくのです。これは、正に、645年の「大化の改新」の逆バージョンです。
その仏寺の破壊運動が特に激しかったのは、鹿児島、広島、岡山です。それらの地域は、古来から秦氏末裔が多く暮らしていたからです。太陽神ミトラ(弾左衛門の時代では「インジンサマ」)を祀る秦氏末裔は、江戸時代に仏教思想に最もイジメられていた民族であったからです。
1868年神仏分離令が、明治新政府により発令されたことは、それまでは、平安時代中期に、本地垂迹説(仏が本尊で、神は仏の仮の姿という思想)が発明されたことにより、神社は仏寺に習合され、そのため、神社は仏教組織の下部組織とされていたのです。当然、日本全国には、仏寺から独立した神社などなかったのです。
しかし、明治時代になると、伊勢神宮は昔から神道の儀式で祀られていた、との「神話」が発明されていくのです。史実としては、広大な伊勢神宮の聖域には、江戸末期まで、本地垂迹説思想により、無数の仏寺が存在していたのです。そして、その伊勢神宮には、794年百済系桓武天皇が、秦氏の支配地である山背国(後の山城国)と、秦氏の犠牲をおこなう祭祀場のあった比叡山を乗っ取り、その比叡山に、中国から天台宗を導入し、821年延暦寺東塔を建立してから、121代孝明天皇(1846年〜1867年)までの約千年間、正式に参拝してはいなかったのです。
しかし、1867年明治天皇が即位すると、伊勢神宮に、平安時代からの空白時間から突然、正式参拝がおこなわれていくだけではなく、その伊勢神宮は、仏寺が跡形も無く整理され、皇室の神を祀る聖域となってしまうのです。明治維新での、これらの仏教から神道への宗教思想のすり替えの謎を解くには、日本史を創作した藤原氏の歴史を知る必要があるようです。
1616年徳川家康が死去(暗殺説あり)すると、藤原氏は本多正純を手先として、吉田神道思想で、徳川家康の霊を「明神」の神号で祀ることを提案するのですが、天台宗の怪僧天海により、百済系神道の山王一実神道思想の「東照大権現」で祀られてしまうのです。
その吉田神道とは、室町時代に、京都吉田神社の神官吉田兼倶により、密教、道教、陰陽道などの教理や儀式を取り入れられて発明された、と云われています。しかし、その吉田神道の祖神が、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と云われているのです。この命は、藤原氏の祖神と同じです。と言うことは、吉田兼倶は、藤原氏の流れにあるのです。それは、吉田兼倶は、藤原北家勧修寺流の公家で、その流れは卜部氏(うらべうじ)を遡るからです。
天台宗の天海に宗教闘争で敗れた藤原氏は、第三百済王朝の江戸幕府では、奈良と鹿児島で隠棲していたのです。それは、平安時代に、百済系桓武天皇により、藤原氏の宗教施設である仏寺の興福寺と、中臣神道の春日社が、奈良の都に封印されたことの再現です。
1868年第三百済王朝の江戸幕府が倒れ、戦国末期にイエズス会の軍事援助により近畿一帯の天下を治めた織田信長のように、イングランド東インド会社の結社会員の軍事援助により成功した明治維新で復活した藤原氏は、徳川家康の威光が消えた後の江戸時代を支配した百済系日本人から再び支配権を奪うために、日本最古の祭祀者一族であったとする、オリエント文化の飛鳥時代を仏教文化とした、奈良時代に成功した文化摩り替えのトリックを再び使うのです。それが、王政復興をスローガンとする「大化の改新」のトリックです。つまり、明治維新を、「大化の改新」の再来とするのです。
その手段のひとつとして、645年近畿地域から陸奥国へ東突厥帝国進駐軍を駆逐した唐国進駐軍へ、720年藤原不比等が創作した漢語による報告書、「日本国の最古の氏族が藤原氏である。」とするためのトリック書、「日本書紀」を中心に新日本史を創作するのです。
その「日本書紀」において、藤原氏の祖神である祭祀者天児屋根命を、秦氏が祀る太陽神ミトラを改竄して発明した天照大神の天岩戸物語で、登場させるのです。このことにより、この天児屋根命は、中臣神道や吉田神道の祖神であるばかりではなく、日本国古来からの神となってしまうのです。
しかし、その先住民族の神思想を乗っ取ったトリックの多くは、藤原氏独自が開発したものではないのです。先住民族の歴史を乗っ取るために、神話物語から歴史物語に続け、その中に自民族の歴史を挿入して、先住民族の歴史を乗っ取る手法は、ヨセフ物語の前にヤコプ物語を挿入した、ユダヤ教の「旧約聖書」のテクニックを真似たものなのです。
ここで注意しなくてはならないのは、ユダヤ民族とイスラエル民族は、同族なのではなく、異なる神を祀る、出自が異なる異民族であるということです。ユダヤ民族の祖は、メソポタミアからで、イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国からエジプトに渡来した民族であったのです。
そして、ユダヤ民族は、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンを改竄した神)を祀り、それに対して、イスラエル民族は、一神教ではなく多神教で、太陽神バアル(太陽神ミトラが変身した神)と牡牛を屠り祀る民族であったからです。それに、イスラエル民族は、紀元一世紀に24冊を合本した「旧約聖書」の存在を知らないのです。その合本の原著の多く(モーセ五書)が創作された時代、紀元前六世紀には、イスラエル十部族は歴史上から消えていたからです。
藤原氏の渡来歴史を調べると、その事跡がユダヤ教の事跡と酷似しているのは、藤原氏の祖である南インドから渡来した中臣族が、ユダヤ教徒の流れにあったからです。その根拠として、中臣神道の「塩と水によるケガレ祓い思想」、そして、その祭祀衣装や儀式の多くは、ユダヤ教に酷似しているのです。そして、藤原氏が創作した「日本書紀」の天地創造から始まる記述構成は、「旧約聖書」に酷似しているのです。更に、その「日本書紀」で藤原氏が創作した仏教伝来物語の主人公の「聖徳太子」(厩戸皇子)は、「聖書」のモーセ・ダビデ・キリストの事跡による合成人物であるからです。
ユダヤ文化色が濃い藤原氏が、日本列島古来からの民族ではないことは、三世紀末から七世紀まで続いていた、古墳での埋葬思想をみれば分かるのです。中臣神道では、死者はケガレ物であり、御祓いによりケガレ祓いする汚物的存在なのです。ですから、死者は、汚物のケガレ物として扱われるのです。
しかし、古代エジプトの埋葬思想と同じの、石室で石棺のある古墳での埋葬者は、生前の栄華をあの世でも再生させるため、豪華な装飾品や武具などで飾られて埋葬されていたのです。このことからでも、近畿地域の巨大古墳が、歴代天皇の稜ではないことが分かるのです。何故ならば、藤原氏の歴史では、天皇は「ケガレ祓い」の中臣神道思想で埋葬されていた、とするからです。
藤原氏が、「日本書紀」で創作した初代天皇は、神武天皇です。しかし、その神武天皇の稜は、江戸末期まで確定していなかったのです。
藤原氏の「日本書紀」によれば、神武天皇稜は、「畝傍山の東北の稜」とされているのです。しかし、藤原氏により、720年完成の「日本書紀」の記述の欺瞞性を指摘するために創作された、反藤原氏の秦氏末裔で万葉語学者の多人長により820年完成の「古事記」では、「畝傍山の北」とされているのです。そのように日本の歴史を綴っているとされる「日本書紀」と「古事記」での、神武天皇稜が一致しないため、江戸末期には、神武天皇稜の候補地は六つもあったのです。
しかし、幕末の生麦事件の翌年、攘夷論が最高潮の1863年公武合体を模索する宇都宮藩が中心となり、神武天皇稜の所在地を、橿原市大久保町字ミサンザイに決定するのです。そして、明治初年、1868年神武天皇稜がこの地として認定されたのです。しかし、この地は、百二十戸もある賎民部落があった処で、藤原氏一派により、明治維新にあわせて、幕末に突貫工事をして、神武天皇稜が創作されていたのです。賎民部落の地に、日本国初の神武天皇の稜が認定された意味は、何なのでしょうか。
明治新政府は、江戸時代の歴史文化を多くは引き継いではいないようですが、警察業務でのケイサツ隠語と役座隠語に共通点が多くあるのは何故でしょうか。その理由は、明治新政府は、警察官の多くを薩摩藩から採用していたからです。つまり、役座も薩摩藩士も、その祖は秦氏であったからです。
薩摩の地は、鎌倉時代以前は、藤原氏の荘園である島津荘があった処です。鎌倉時代に、騎馬民族末裔の源氏棟梁となった源頼朝が、平安時代から惟宗氏に変身していた秦氏末裔に、藤原氏の荘園である島津荘を与えたことにより、騎馬民族末裔の惟宗氏が、島津氏に変身して、その地を統治していたのです。そして、明治維新で復活した藤原氏により、島津氏が統治していた薩摩藩士の多くが、明治維新で警察業務についていたのです。
江戸時代の警察機構は、若年寄→与力→同心→岡引・目明、の系列であったのです。しかし、同心までは、江戸幕府の配下であったのですが、岡引・目明は、無給の非公認のケイサツ協力者にすぎなかったのです。
与力とは、「サムライ」が支配していた北条鎌倉時代では、「寄騎・よりき」と言われ、戦闘で騎馬武士(源氏末裔)として加勢するひとのことで、下級武士のことであったのです。その寄騎が、下克上の戦国時代になると、北陸の前田利家のように、寄騎から、在地の領主として出世するのです。ですから、戦国時代の寄騎は、在地の領主の意味であったのです。しかし、1603年騎馬民族末裔の徳川家康が、幕府を開いた時、直参の足軽の全てを、同心と呼んだのです。同心とは、同じ民族ということです。そして、下級武士も同心と呼んだのです。しかし、戦国時代に在地領主となった寄騎は、その同心と呼ばれることを快く思わなかったので、同心より格上の寄騎から与力と呼ばれるわけです。
第三百済王朝の江戸幕府は、町奉行配下の与力と同心に警察業務を任せるために、八丁堀に屋敷を与えていたのです。しかし、エドの町は、徳川家康の指示により、秦氏末裔の弾左衛門一派が開拓した地であったので、エドの町を実効支配した第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝は、エドの支配権を奪われ、エド払いさせられた秦氏末裔から、攻撃を受けるのです。喧嘩と火事は江戸の華と言われ、火付け強盗が頻繁に起こるほど、第三百済王朝の江戸の町の治安は悪かったのです。
そこで、同心は、私的手先として、無給で岡引や目明(関西では口問い)を使うのです。その岡引や目明は、秦氏末裔の博徒や役座であったのです。何故、博徒や役座が、無給で警察業務に就いたのかといえば、博徒や役座の生業である、博打や芝居興行での町奉行の目こぼしがあったからです。
この岡引や目明の業務をおこなうことを、博徒や役座は、「二足のわらじを履く。」、と言っていたのです。何故、博徒や役座が、警察業務に長けていたかと言えば、博徒や役座の祖は、「サムライ」支配の、第二百済王朝の北条鎌倉時代以前は、秦氏末裔の武士であったからです。その武士の祖は、第一百済王朝の平安時代、怨霊鎮めの「もののふ」で、武芸により、検非違使配下で公安警察業務をおこなっていたのです。
鎌倉源氏棟梁三代を陰謀で抹殺した、第二百済王朝の北条鎌倉政権は、六波羅探題により、源氏狩りをおこない、秦氏末裔の源氏武士を抹殺していたのです。その落武者となった源氏武士は、一部は戦において騎馬武士として、傭兵の「寄騎・よりき」となり、そしてまた、その一部は北条鎌倉政権に逆らうアウトローとなり、北条鎌倉時代を、博徒や役座となり生き延びていたのです。
因みに、役座とは、現代では「暴力団」の代名詞となってしまいましたが、北条鎌倉時代では、神社ネットワークにより同業者組合を組織した「座」を仕切る、闇の世界で警察業務をおこなう「役」のことであったのです。
では、江戸町奉行の同心の私的配下となり、警察業務に携わった博徒や役座を、岡引や目明と言ったのは何故でしょうか。
1590年徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により三河からエドに追放されると、徳川家康は、北条鎌倉時代から関東に棲息していた秦氏末裔の古代エジプト伝承の土木技術を持つ者を集め、エドから小田原まで、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を敷設するのです。そして、その直線道路の保安と治安維持のため、駅舎を造り、宿場町を各拠点に設置するのです。そして、徳川家康は、その宿場町を、役座に無償で管理させるのです。そのかわり、日没後の宿場での売春・賭博営業の目こぼしをおこなったのです。
そして、エドの治安警察は、関東の秦氏末裔を支配していた弾左衛門に委託するのです。しかし、徳川家康の威光が消え、第三代将軍徳川家光が、怪僧天海の指示により、上野の山に天台宗の寛永寺を建立すると、エド町の公安・治安警察を司っていた弾左衛門一派は、徳川家康が三河から関東の湿地帯に追放されたように、エド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放されてしまうのです。
そして、徳川家康の威光が存続していた頃までは、江戸町奉行所に、草履取りを伴って参上していた弾左衛門は、第三百済王朝になると、エド治安警察組織から排除されてしまうのです。そして、弾左衛門は、関八州の「穢多」と呼ばれた秦氏末裔だけに、その警察権と裁判権を与えられたのです。
しかし、第三百済王朝の江戸町奉行所の与力や同心は、江戸町の裏社会の公安・治安警察に未熟なため、前政権の秦氏末裔の者達である博徒や役座を手下として、無給で雇い入れたのです。その見返りが、博打と芝居興行での、江戸町奉行所の目こぼしだったのです。
しかし、その同心配下の目明は、秦氏末裔の自民族を白徒(シロウト)と呼び、そして、第三百済王朝側の者を、黒徒(クロウト)と呼び、日常の警察業務で逆差別していくわけです。
何故、目明と同族が白徒というのかと言えば、秦氏は太陽神ミトラを祀る民族で、そのシンボルカラーが「白色」だったからです。では、黒徒とは何かと言えば、それは、徳川家康の菩提寺の浄土宗の影響力をエドから排除した天台宗の僧侶は、黒衣の一団だったからです。つまり、太陽信仰民族が「白徒」で、仏教信仰民族が「黒徒」だったのです。
現在では、「シロウト」と「クロウト」との意味が変わってしまっていますが、江戸時代では、権力者は、そのように宗教思想を利用して異民族を弾圧していたのです。
目明は、日常での白徒と黒徒との諍いでは、当然、同族の白徒を優遇していたのです。そこで、第五代将軍徳川綱吉は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的として、1687年生類憐みの令を発布するのです。この生類憐みの令は、徳川綱吉が1709年死去するまで、何回も発令されていたのです。
この発令により、秦氏末裔の生業は疲弊してしまうのです。それは、秦氏末裔の祖は、騎馬民族であるから、当然、農耕民族が稲を刈った後に、藁で草鞋を作るように、死弊牛馬の毛皮を剥いで、なめして皮から革を作っていたのが、この生類憐みの令により、公にはできなくなってしまったからです。
更に、その生類憐みの令の内容がエスカレートして、犬を虐待したと言って死罪となった者が多くいたのです。そして、その令に違反したとして、八千人とも三千人とも云われるひと達が囚人となっていたのです。
この生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉が死去すると、すぐに廃止されたのですが、秦氏末裔には、思想的に大打撃だったのです。それは、動物の皮を剥ぐことは、公に「悪」となってしまったからです。騎馬民族末裔の秦氏末裔が、動物の皮を剥ぎなめし革を作っていたことで、ケガレ者の意味の穢多と呼ばれ、賎民とされたように、秦氏末裔の武人を祖とする「もののふ」である「武士」も、「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府時代になると、「俘囚の末裔」と蔑まされてしまうのです。
そのように、天台宗の怪僧天海が画策した第三百済王朝の勢いが増すと、騎馬民族末裔の徳川家康の威光により勢力をエドの町で張っていた、秦氏末裔の社会的存在が低下していくわけです。関八州の秦氏末裔の棟梁である弾左衛門が、江戸時代初期に、二本差しの羽織袴で籠に乗りエド城に登城していた時代が「ウソ」のように、第三百済王朝の江戸時代では、秦氏末裔は賎民「穢多」として位置づけられていたのです。
そのことは、第八代将軍徳川吉宗が、同心の私的配下の目明を、岡引と呼んだことで分かるのです。目明とは、その文字の意味から、日常の出来事を見聞きして明らかにする公安・治安警察業務内容であることが分かるのです。しかし、目明を、岡引とした意味は何だったのでしょうか。勿論、岡引は、尊称ではなく、蔑称です。
岡引の、岡の意味を探れば、お祭りで「馬鹿」にされる存在の「ひょっとこ」と「おかめ」のペアが居ます。「ひょっとこ」とは、「火男」のことで、産鉄民族末裔の蔑称です。そして、「おかめ」とは、「岡女」で、岡に住む「女」の蔑称です。そして、第八代将軍徳川吉宗は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的で、岡引の生業のひとつである、お祭り時の神社境内での屋台の出展を禁止してしまうのです。その神社でのバザール(屋台)ビジネスは、オリエントから渡来の秦氏の祖が、ユーラシアで活躍していた頃、騎馬民族の商業手段(バザール)として、野外のテントでの商業活動が源であったのです。
では、その「岡」とは、何を意味しているのでしょうか。「岡」の対称語は、「陸」です。その「陸」は、「ろく」とも云われ、「ろくでなし」の「ろく・陸」でもあるのです。「陸」は、「ゆがみなく正しい。」の意味があります。ですから、「陸でなし」の「岡」は、「ゆがみがあり正しくない。」の意味となります。つまり、「陸」でない「岡」は、「闇の世界」の隠語となるわけです。
では、「岡」とは、何処にあるのでしょうか。「岡」は、土地の小高い所であり、小山の意味です。小山は、古代エジプト語で、「ナーベ」です。
古い神社の多くは、こんもり茂った木々のある小山の上に建立されています。何故、そのように神社が、小山の上に建立されていたのかは、それは、その小山とは、塚であったからです。塚とは、土の家で、古代の墓であったのです。つまり、神社のある小山は、古墳であったのです。
古代の神社は、神を祀る施設ではなく、死後再生すると信じる民族により葬られた、古墳に眠る前政権者の霊を封印する施設であったのです。神社の日本列島での出現が、日本列島古来からではないことは、三世紀末から七世紀まで続いた古墳時代以降であるからです。神社が日本国古来の宗教施設ではないことは、古墳の上に建立されていることで理解できます。
神社が、霊を封印する施設から、神として祀る施設となったのは、菅原道真が、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷させられ、903年大宰府で死去し、菅原道真の怨霊が雷神となって、百済系醍醐天皇が統治する平安京を、落雷で襲ったことにより、923年菅原道真を本官に服し、947年祠を北野に建立して「神」として祀った頃以降からなのです。
神社に封印された小山に住む民族は、奈良時代には唐進駐軍傀儡の藤原氏に、そして、平安時代には、独断専行の藤原氏を見限った唐進駐軍傀儡の百済系王権に追われた民族で、それらは農耕民族ではなく、騎馬民族や産鉄民族であったのです。それらの民族の末裔が住む小山は「岡」とよばれ、「ろくでなし」が住む処となっていたのです。つまり、岡引とは、「闇の世界の者」、との蔑称であったのです。そして、岡場所とは、幕府公認の遊郭ではなく、非公認の私設遊郭のことであったのです。
歴史教科書で、日本列島史を勉強しても、真の日本列島史を知ることはできないでしょう。それは、日本の古代史を探るために、「古神社」にある古文書を調べることと同じです。それは、神社は、日本列島古来からの宗教施設ではなく、七世紀以降の出現であるからです。
645年以降に日本列島の歴史を乗っ取った藤原氏と、794年以降に日本列島史を乗っ取った亡命百済貴族末裔により、四世紀頃に南インドから南九州坊津に渡来した中臣族を祖とする藤原氏と、663年母国を新羅・唐連合軍により滅亡させられた百済系日本人には不都合な歴史は隠蔽、或いは、改竄しているからです。それに対して、オリエント文化・巨石文化の飛鳥時代に近畿一帯を支配していた騎馬民族の歴史は抹殺するか、或いは、紀元前六世紀の釈尊の仏教思想とは百八十度異なる、紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教思想を改竄した漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により、不可触賎民史として描いているからです。
藤原日本史が、真実(表歴史も裏歴史も同等に述べるの意味)の日本列島史を述べていないことは、先程の「岡」について納得できる説明が、歴史教科書にはないことで理解できるでしょう。そして、岡場所の遊女の名が、何故、「源氏名」と言うのかの説明も、歴史教科書にはないでしょう。
藤原日本史が真の源氏の歴史を述べないのは、源氏の歴史を述べると、平安時代の陸奥国を支配していた蝦夷の実態を知られてしまうからです。蝦夷とは、縄文時代以前から日本列島に居住していたアイヌ民族を祖とする民族ではなく、オリエント文化の飛鳥ヤマトでの軍事部族末裔であったのです。
その蝦夷の祖は、552年中央ユーラシアに騎馬民族国の突厥帝国を建国した、チュルク族トメン(土門)であったのです。その突厥帝国軍団が、六世紀中頃、日本列島の近畿に渡来して、高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の戦いをしていた飛鳥ヤマトを、騎馬軍団により軍事支配したのです。その頃の歴史を、藤原日本史では、架空の天皇である欽明天皇が統治する大和朝廷とし、渡来したその突厥帝国軍団の長を、大臣の「蘇我稲目」とするわけです。しかし、その頃には天皇は存在していなかったのです。つまり、日本列島での初の天皇は、672年即位の新羅系天武天皇からであったのです。
そして、藤原日本史は、オリエントから渡来した牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏の存在を抹殺するために、三世紀末に河内湾の岬(ワタ・ナーベ)に渡来し、河内一帯に石室と石棺による古代エジプトの埋葬思想で古墳を築いていた、オリエント渡来の技術集団の「秦氏」を「物部氏」とし、隠蔽するのです。その突厥帝国軍と秦氏の軍事部族が、645年唐進駐軍と中臣軍(藤原氏の祖)に破れ、鈴鹿の関を越えて、東北に逃げ延びた者が、唐進駐軍により、蝦夷(ヒゲのあるエビス)と蔑称されたわけです。
江戸時代、その蝦夷末裔がおこなう売春事業で、何故、遊女名を「源氏名」と云うのかと言えば、それは、騎馬民族末裔である源氏末裔の徳川家康が天下を執った後、売春事業を源氏末裔に限ったからです。
売春は、戦国末期、イエズス会傀儡の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康とが軍事協力し、近畿一帯の経済・文化を実効支配していた、比叡山延暦寺を焼討ちし、僧兵軍団を壊滅するまでは、治外法権の仏寺内でおこなわれていた事業だったのです。その漢訳仏教の三大裏事業であった売春・賭博・借上(高利貸し)は、アウトローの役座が発明したものではなく、漢訳仏教が隆盛していた奈良時代まで遡れるほど、由緒正しい(?)事業であったのです。
藤原日本史では、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトの史実を知られたくないため、「騎馬民族は日本列島に渡来していない。」、とするようですが、古墳から多く出土する馬埴輪や馬具をどのように説明するのでしょうか。
騎馬民族の日本列島への渡来否定者の根拠として、「肉食民族である騎馬民族が渡来していたならば、何故、食糧とした獣の骨が生活圏内から出土しないのか?」、があります。その答えとして、騎馬民族は、食糧とした獣の骨も大切に消費するために、「骨粉」として利用していたからです。江戸時代、骨粉を農業の肥料として生産していたのは、明治維新後に廃仏毀釈で仏寺を徹底的に破壊していた、大坂と鹿児島で、それらは、秦氏末裔が多く暮していた地域だったのです。
そして、平安貴族を太刀(反りのない刀)で武装しガードする、百済系武人の「サムライ」が騎馬に優れていなくて、それに対して、平安中期(天慶の乱)に出現した源氏武士が騎馬による集団戦闘に優れていたことを、どのように説明するのでしょうか。更に、、実戦的でない、大きな角のある冑と豪華絢爛な鎧で、曲がる折れる刃毀れする片刃の反りのある「日本刀」を、「もののふ」と云われた源氏武士が携帯していたのは、何故でしょうか。それらのことについての納得できる説明は、何故か、藤原日本史にはないのです。藤原日本史に隠蔽・改竄された騎馬民族の日本列島史は、どのような歴史であったのでしょうか。その騎馬民族や秦氏の歴史を知るヒントは、エド文化にあるようです。
「エド文化」と「江戸文化」との明らかな違いは、その葬儀にあります。葬儀は、その民族文化の中枢だからです。
エド文化とは、徳川家康が、関東の湿地帯(穢れ地→穢土→エド)を干拓して拓いた地に起こった文化です。それらは、徳川家康の移転元の「三河文化」を引き継いでいたのです。三河には、革製造技術者の「カワタ」が多く暮していたように、騎馬民族末裔の文化を引き継いでいたのです。騎馬民族には、「勇者は再生する。」、と信じられていたので、死者は火葬ではなく、土葬だったのです。
しかし、徳川家康の威光が消滅し、百済系天台宗の怪僧天海が、その本性を現した、1623年第三代目将軍徳川家光を傀儡とした、第三百済王朝になると、1637年島原の乱により、キリシタンの弾圧に掛かるのです。それは、キリシタンは、戦国末期の1573年イエズス会傀儡の織田信長により、天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶と寺内にいた娘(女色用)や茶坊主(男色用)全てを惨殺していたからです。更に、織田信長は、仏教組織の経済基盤を破壊するために、延暦寺の利権であった、市と座を開放し(楽市楽座)、寺関所を撤廃していたのです。そのように、天台宗にとって、キリシタンは仇敵だったのです。この織田信長の処置により、貴族並みの生活を保障されていた天台宗組織は、他の事業を生活の糧としなければならなくなったのです。そのひとつが、江戸時代に始まる葬儀事業です。
今日では、仏教が、葬儀をおこなうことは、当たり前と思われています。しかし、仏教と葬儀は、江戸時代前までは、貴族にも、一般庶民にも関係が薄かったのです。奈良時代、藤原氏の仏寺興福寺でも、葬儀などおこなっていなかったのです。その頃の仏寺は、文化・娯楽センターのような施設であったからです。
寺の歴史は、死者とは関係がなかったのです。紀元一世紀の中国大陸で、仏教が伝来した頃の寺(じ)とは、外国人のための関税施設であったのです。その寺に、宗教関係者を装った国際交易商人が寝泊まりし、その商売品の仏典や仏像を保管していたのです。やがて、その寺(じ)施設が、中国大陸から日本列島に渡来して、「テラ」となるのは、寺(じ)が、死者が眠る処となってからです。それは、「テラ」の意味が、死者の眠り処で、あるからです。
そもそも、紀元前五世紀に仏教を発明した釈尊の思想には、葬式などなかったのです。それは、「ひとは身分により輪廻転生する。バラモンはバラモンとして、不可触賎民は不可触賎民として転生する。」、とするバラモン教のバラモン僧に都合の良い思想に対抗した釈尊は、二度と輪廻転生しない方法を発明したのです。
それが、この世とあの世との中間で暮らす、「非人」の発明です。「非人」は、生きていても、ひとではありませんから、死んでも輪廻転生などしません。そして、一切の生産手段に携わらないことで、バラモン僧が支配する人間社会のシガラミから解放される、「乞食」の生き方を発明したのです。
釈尊の生き方の思想は、簡単だったのです。それは、「非人」となり、「乞食」するだけでよいからです。しかし、釈尊の死後五百年して、知恵者が現れて、この世には「欲、色、無色」の三界があり、あの世には「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六道があるとし、ひとは生前の行いにより、死後、それぞれの行き先が決定される、との思想を創作するのです。
そのように釈尊の仏教思想には、葬儀などなかったのです。しかし、バラモン教思想を否定するための釈尊の仏教思想が、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教に乗っ取られると、バラモン教の霊肉分離思想による、霊が遊離した死者は、ただの物質にすぎないため、死者を燃やして川に捨てるインドの葬儀風習が、大乗仏教に導入されていくのです。
第三百済王朝の江戸時代、天台宗の仇敵のキリシタン弾圧のための「宗門改帳」が、1635年寺社奉行の設置と供に、寺請制度として、全庶民はどこかの寺に強制的に所属しなければならなくなっていったのです。寺請とは、寺に登録したことにより、寺がキリシタンではないことを証明することを請け負う、ということです。更に、「宗門人別帳」により、戸主と家族の生まれから死亡までを書き込み、庶民を宗教的に支配したのです。そして、寺の私文書「過去帳」には、戒名まで書き込んでいたのです。
そのように、死者を土葬とするエド文化に対して、仏教思想により火葬する江戸文化に激変した裏には、1651年由比正雪の乱があったからです。この慶安事件は、鎌倉源氏を抹殺した、1221年承久の乱と同じストーリーです。
そのストーリーとは、源氏棟梁三代を陰謀により抹殺した、百済系北条氏は、河内に残存する武家源氏壊滅のため、源氏に反乱を起こさせ(承久の乱)、その残存源氏一族を抹殺していたのです。そして、源氏一族を抹殺した北条政権は、1232年御成敗式目を制定し、源氏武士の武断統治政策から、百済系「サムライ」の文治政治に変換していくわけです。
徳川家康による源氏武士による統治制度を壊滅するため、百済系第三代目徳川家光は、大名の改易政策、お家断絶、領地没収などで、徳川家康の忠臣であった源氏武士末裔を狙い撃ち、抹殺に取り掛かるのです。そして、壊滅できない源氏武士末裔は、江戸から遠方に改易し、1635年参勤交代制を確立し、江戸に人質を捕り、源氏武士末裔の大名の台所を枯渇させていくわけです。
その江戸に人質を捕るために、各大名に江戸に領地を分け与えたのです。そのため、従来から暮していた秦氏末裔やお家断絶させられた武士は、江戸の中心地から追放されるのです。これらの第三百済王朝に不満を持つ浪人武士が、由比正雪の下に集結していくのです。このことに脅威を感じた江戸幕府は、その源氏末裔の浪人集団抹殺の陰謀をおこなうのです。これが、慶安事件です。
慶安事件とは、1651年由比正雪が中心となって、江戸幕府を転覆し、天下を盗る事件として喧伝されています。しかし、江戸幕府を倒し、大坂城を乗っ取ると云われた大ストーリーとしては、実際の捕り物では、駿府の旅籠梅屋で切腹して果てたのは、由比正雪の他十名程であったのです。その事件後、由比正雪の家族、一族郎党はもとより、全国の源氏武士末裔は、理由も無く捉えられ、佐渡金山の穴掘り人夫として送り込まれていったのです。これは正に、百済系北条鎌倉幕府の、六波羅探題による、源氏狩りの再演です。
由比正雪の出自は不明ですが、その父岡村弥右衛門の職業が、紺屋であることから、秦氏末裔の弾左衛門配下であったことが示唆されます。それは、紺屋は、賎民と云われた秦氏末裔弾左衛門一派の限定職であったからです。更に、由比正雪の道場では、槍術を伝授していたことは、ロンギヌスの槍術を伝承する、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)花郎騎士団を祖とする、源氏武士末裔を示唆します。佐渡の槍術は、その由比正雪の弟子が、佐渡に流され、そこで槍術の道場を開いたからだと云われています。
この慶安事件後から、「武士」による武断統治政策から、「サムライ」による文治政治となっていったことは、正に、北条鎌倉幕府と同じです。
百済系「サムライ」に江戸を支配され、その結果江戸から排斥された新羅系「武士」は、浪人身分となり、百済系の徳川家光が第三代目将軍となった、1623年に洛中から追放されていくわけです。そして、1635年参勤交代制を確立した江戸幕府は、百済系将軍の徳川家光に忠誠を尽くす、各国の譜代大名の人質を堀内に住まわせ、江戸城(藤原氏傀儡の豊臣家が徳川家康を侮蔑し命名した蔑称カワタ城→革タ→川タ→センタ→千田→チヨ田→第三百済王朝では尊称千代田城・江戸城に変身)の防備を固めるわけです。その結果、三河文化のエド時代(1590年〜1623年)では寒村であった処が、百済系日本人が支配した江戸時代(第三百済王朝)になると、参勤交代のために各国から「サムライ」が江戸に移住して来たために、人口が急激に膨張し、庶民が暮らす土地が少なくなっていくわけです。その異文化を持った日本各地から移住してきた新住民が暮らす、江戸の治安機構はどのようになっていたのでしょうか。
歴史教科書での説明では、江戸のピーク人口が百万であったと述べています。そして、江戸時代の約三百年間は治安が安定していたと述べています。しかし、治安の最高責任者である町奉行は、南北奉行がひと月交代の月番制で、町奉行の下に25人の与力(鎌倉時代では寄騎と云われ、騎馬による傭兵。与力は、治安警察業務で騎馬を許されていた。200石程の御家人。)と、その下に200人程の同心(30俵5人扶持で、治安警察業務で騎馬を許されていない。)と、同心の私的配下の目明(岡引)で、百万都市の江戸の治安を護っていたのです。
何故、火事と喧嘩は江戸の華と言われた治安状態が悪い江戸の町を、幕府の月番町奉行警察組織人員が300人程(南北奉行要人合わせると600人程)で江戸の治安を護ることができたのかの納得できる説明は、歴史教科書にはありません。
江戸の町の治安が約三百年も維持されていたのは、同心の私的配下の目明(=岡引・実態は博徒と役座)の活躍と、町人の住む居住地に木戸を設け、門限を付けていたからです。三代目将軍徳川家光の時代では、治安維持のため、その門限は、暁九つ(午前零時)から明六つ(午前六時)であったものが、治安の悪化と供に、夜四つ(午後十時)から明六つとなり、更に、夜五つ(午後八時)が門限となっていたのです。
その江戸町の庶民が住む長屋を、板塀で囲い、木戸を設け、その門限を限り、夜の外出禁止をしていたことは、江戸町の住民は、東洋の「ゲットー」(被差別民族の居住地)に暮していたわけです。そして、その長屋での一世帯の居住面積は、間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)であったのです。
その木戸で門限を取り締まる木戸番は、江戸幕府の町奉行の要人ではなく、「番太」(「○太」の「太・タ」とは、蔑称のための接尾語)と云われる、江戸幕府から賎民秦氏末裔であると云われた弾左衛門の配下であったのです。実際の江戸町の公安・治安警察業務の末端は、第八代目将軍徳川吉宗の時代、1718年南町奉行の大岡忠相(越前守)がとび職人を組織して町火消しの制度を定め、1720年江戸町火消しいろは組の創設までは、秦氏末裔の博徒や役座などのアウトローが取り仕切っていたのです。
長吏頭弾左衛門(王権は穢多頭とする。)を頂点としてエド町を支配していた騎馬民族である秦氏末裔を、江戸町警察業務からの排除を画策する八代目将軍徳川吉宗は、無給の私的警察官である目明制度を廃止するだけではなく、江戸町末端の公安・治安警察業務からも、秦氏末裔を排除してくのです。これ以降、江戸町での警察業務に携わっていた目明は、岡引と蔑称されていくわけです。
子供の遊戯のカルタにある、「犬も歩けば棒に当たる。」という一文があります。この一文の表(おもて)の解釈では、「物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。」と云われています。しかし、藤原日本史ではなく、野史による解釈では、「たとえ番太と同族の、秦氏末裔(騎馬民族であるため、王権より「犬」と蔑称されていた。)であっても、門限を破る者は、目こぼしをされずに番太の棒で殴られるお仕置きにあう。」、との秦氏末裔への戒め文となるのです。
では、エドの三河文化は、江戸文化により乗っ取られてしまうのですが、その江戸文化のルーツは何でしょうか。各民族の文化の中心は、葬儀にありますが、日常の生活様式にも文化があります。
江戸時代も中期となり、エド町を拓くために多大な援助をしていた秦氏末裔の弾左衛門の威光も、騎馬民族末裔の徳川家康が百済系天台宗の施設である日光に祀られたことにより、騎馬民族文化や三河文化であったエド時代の歴史が抹殺されてしまったことにより賎民に落とされた、六代目弾左衛門(弾家は、世襲名で、明治維新と供に第十三代で消滅した。)は、幕府に書状を提出し、鎌倉幕府を開いた源氏棟梁であった源頼朝よりのお墨付きにより、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門の由緒の正しさを述べるのです。
源頼朝の鎌倉時代からの弾左衛門の配下であったのは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。
しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝になると、順次、全ての技術者が離脱させられてしまったのです。最後に残ったものは、製革業と燈芯草栽培の独占による蝋燭製造業となってしまうわけです。そして、それらの弾左衛門配下から離脱させられた技術者達は、江戸町のゲットーに隔離させられ、江戸時代を生き延びていくわけです。
では、江戸時代の文化の源は、それらの秦氏末裔の文化であったのかと言えば、そうとも言えないようです。それは、江戸物品文化の一役を担う商売人の経営者の多くは、京都本店からであったからです。
徳川家康の忠臣であった「武士」が、1623年エド町から浪人身分で追放され、弾左衛門一派も人形町などのエド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放された後、日本橋界隈には、京都を本店とする越後屋や伊勢屋などが出店してくるのです。そして、それらの京都からの商人は、エド時代の商品や技術を、「くだらぬもの。」、と蔑視していくのです。
「くだらぬもの。」とは、江戸町からの上方、つまり、京都から下ってきた商品や技術ではない、との意味です。この「くだらぬもの。」の言葉の本来の意味は、第一百済王朝である平安時代、「百済ではない者」、つまり、「皇族ではない、下賎な者」の意味であったのです。
794年唐進駐軍の軍事的支援により、秦氏の支配地である山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔は、814年「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を「皇族」とし、南インドから渡来した祭祀氏族中臣族を祖とする藤原氏を「神族」とし、そして、オリエントから渡来し、河内一帯に古代エジプトの埋葬思想により巨大古墳を築いていた秦氏を「蕃族」として、民族差別をしていたのです。
江戸町の商業を支配していたのは、その京都を本店とする日本橋の商人であったのです。江戸文化の象徴と云われる歌舞伎も、その発生は京都であったのです。江戸時代初期、1603年(慶長8年)京都の五条河原や北野神社境内で、出雲大社の巫女と称する阿国という女性が、男装して舞ったものが、阿国歌舞伎(ややこ踊り)の発生といわれています。
江戸時代初期では、歌舞伎の「かぶく」とは、社会の常識からはずれた言動をすること、と言う意味であったのです。「おんな」が、「おとこ」のいでたちで舞う姿は、正に「かぶく」ことであったのです。
この「かぶき」の舞が、京の街で評判と成ると、遊女たちにより、四条河原でおこなわれていくのです。そして、この遊女歌舞伎には、三味線が演奏に加わっていくのです。この遊女歌舞伎が、江戸町に下って、江戸町でも遊女歌舞伎が盛んになると、風紀が乱れたことにより、江戸幕府より、遊女歌舞伎の禁止となるのです。その裏には、若い男歌舞伎役者と大奥の女との「不適切な交際」が幕府の知るところとなり、それが、1714年の絵島事件と云われるものです。それは、歌舞伎興行では、表では、「歌舞伎芸」を売っていたのですが、裏では、若い女役者や男役者は「からだ」も売っていたからです。
遊女歌舞伎が、江戸幕府より禁止されると、次には、若衆歌舞伎がおこなわれていくのです。これは、若い男による舞だけではなく、軽業も加わるのです。しかし、裏では、「男色」をおこなっていたのです。この裏芸が江戸幕府に知られると、1652年若衆歌舞伎も禁止されるのです。
そこで現れたのが、中年男による野郎歌舞伎で、女形が生まれるわけです。舞を踊るのが中年男なので、裏芸で「女色・男色」を売れなくなったので、芸に工夫を凝らし、中国京劇の派手な厚化粧技術を真似、そして、寸劇から劇的世界を表現するために、衣装や大道具に工夫を凝らし、時空の移動を表現するために引き幕が用いられ、元禄15年(1702年)歌舞伎の基礎が完成し、今日の歌舞伎に至るわけです。
しかし、京都で発生した歌舞伎は、京都では廃れ、そして、大坂では人形浄瑠璃の隆盛により衰退し、今日、江戸歌舞伎だけが生き残っていくわけです。
江戸歌舞伎が生き残ったのは、初期の歌舞伎舞台は、能と同じ舞台を用い、楽器は小鼓、大鼓、太鼓だけであったのが、倹約を奨励する享保の改革において、謡いを加え、歌舞伎舞台には、セリ上げや廻り舞台の工夫もしていたからです。
江戸文化の華といわれた歌舞伎のルーツも、京都にあったのです。では、江戸っ子文化のルーツは何であったのでしょうか。
江戸っ子と言えば、粋な啖呵を切り、竹を割ったような性格で、勧善懲悪思想で、人情に厚く、涙もろい、とのイメージがあります。そのような性格イメージを持つ江戸っ子文化のルーツは何処にあるのでしょうか。
江戸は、徳川家康が1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により三河から関東に追放され、その湿地帯を干拓、そして、開拓する以前は、荒川や利根川などの支流が流れ込む河口の湿地帯であったのです。その湿地帯を、古代エジプト伝承の高度土木技術により、駿河台の小山を切り崩し、堀を造るために削掘した残土で、湿地帯を埋め、住宅地としてきたのです。
ですから、江戸城は、海抜十mの人工山の上に築かれていたのです。室町時代末期に、太田道灌が築いたエドの砦は、広大な湿地帯の海抜2.5メートルほどの小山にあったのです。つまり、江戸の町は、十七世紀に突然現れた、人工の町であったのです。
その湿地帯を干拓してエド町を造り、そこに、最初に移住してきたのは、三河の徳川家康の家人や配下と、そして、土木事業をおこなった、秦氏末裔の弾左衛門配下の者達であったのです。
では、その者達が、江戸っ子のルーツかと言えば、そうではないのです。誰が決めたのかは不明ですが、「三代続いて初めて江戸っ子」の掟があるからです。江戸っ子の定義としては、河口付近の開拓地、日本橋、浅草、神田などの居住地に、三代続いて暮していた者が、純粋な江戸っ子である、とするのです。しかし、江戸っ子が住む江戸町の境界線は曖昧であったので、川柳では、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠われていたのです。
三代先の先祖が、その江戸町に暮していない場合は、その子孫は江戸っ子ではないのです。その江戸っ子の定義によれば、三河から移住していた者達と、エド町を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、江戸っ子ではないのです。それは、1623年に江戸幕府三代目将軍に就任した徳川家光により、それらの者達は、エド町の中心である日本橋、神田界隈から追放されていたからです。
そして、新たにそのエド町の中心地に移住してきた者達を初代として三代目以降が、江戸っ子と言うわけです。では、その江戸っ子のルーツは、何処であったのでしょうか。そのヒントは、江戸っ子文化の中枢である「粋・いき」思想にあるようです。その「粋」思想は、京都文化の中枢である「粋・すい」思想からの借り物なのですから、江戸町文化には、京都文化の影響が認められます。
三河文化・秦氏末裔のオリエント・騎馬民族文化であったエド町ではなく、江戸町文化のルーツは、京都だったのです。それは、1625年東の比叡山である上野の山に、東叡山寛永寺が、建立されていたことからでも分かります。そして、百済系天台宗の怪僧天海が設計した江戸町が京都のコピーであることは、江戸町の宗教拠点である上野の寛永時が、比叡山延暦寺のコピーであるからです。それに、上野の不忍池とは、琵琶湖のコピーであるからです。
788年亡命百済貴族の命により最澄が、比叡山に延暦寺を創建したのは、そこが、京都を護る鬼門であったからです。794年からの京都と同じように、1623年より、百済系の第三代目将軍徳川家光により、江戸町は、百済系日本人により支配されてしまったのです。
その江戸町を漢訳仏教思想で支配していた中心的存在の寛永寺は、1571年イエズス会傀儡の、アラブ系海洋民族末裔を祖とする「平家」末裔(「平氏」はツングース系亡命百済末裔武人)の、漢訳仏教組織に賎民「余部・あまべ=海部」とイジメられていた民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔であるため漢訳仏教組織により「穢多」とイジメられていた民族末裔の徳川家康との連合軍により、徹底的に破壊されたように、江戸時代末期、藤原氏傀儡の薩摩藩を中心とした官軍の指揮官、漢訳仏教組織に「穢多」と歴史的にイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛により、上野の山の寛永寺は、徹底的に破壊されたのです。
その寛永寺とは、ひとつの寺院を言うのではなく、上野の山に無数に存在した寺院群の総称であったのです。その上野の山の寛永寺は、第三百済王朝の宗教を支える拠点であったので、その第三百済王朝を支える宗教施設が壊滅したことにより、1867年明治維新により、奈良時代、そして、平安時代の一時期を支配していた、ユダヤ教に酷似した儀式、祭祀衣装の中臣神道を祀る、ユダヤ系藤原王朝が復活するわけです。
その復活藤原氏が、百済系天台宗の漢訳仏教儀式に替え、国家神道儀式を発明するわけです。その国家神道を支えるために明治天皇が行った十三の儀式の多くは、日本列島古来からの儀式ではなく、明治初期に発明された儀式であったのです。そもそも、日本神道は、漢訳仏教渡来後の七世紀以降に、藤原氏の祖である、南インドのマラバル沿岸より南九州坊津に渡来した中臣族により発明されたものだったのです。
では、江戸時代の文化が、全て京都文化のコピーであったのかと言えば、そうではないのです。江戸文化の中核には、エド文化が生きつづけていたのです。そのエド文化のルーツは、日本列島史のルーツでもあるのです。
日本国の伝統文化と言えば、それらは、「能楽」の他に、「茶道、華道」などの「道」がつく文化があります。何故、日本伝統文化と云われるものの多くは、「○道」と言うのでしょうか。
日本伝統文化といわれているものの多くは、第二百済王朝の北条鎌倉時代に漢訳仏教組織により、騎馬民族を蔑視するために、インドの賎民思想である遊牧民族トラヴィダを賎民に落とすために発明された「不可触賎民チャンダラー」(施陀羅)から、穢れが多い意味の「穢多」を発明されイジメられた秦氏末裔により、1333年秦氏末裔の源氏足利尊氏が百済系「平氏」の北条鎌倉幕府を倒し、「源氏」が支配した室町時代に開発されたものであったのです。
それらの日本伝統文化を開発した者の多くが、「阿弥」を名前に付けるのは何故でしょう。いったい、その「阿弥」とは、何を意味しているのでしょうか。
「阿弥」と言えば、「阿弥陀様」を思い浮かべるでしょう。その阿弥陀様とは、一般的常識では、仏教の仏様のひとりであると信じられています。しかし、その阿弥陀様は、漢訳仏教組織に導入される前は、古代エジプトの「太陽神アトン」であったのです。それは、アトン(古代エジプト)→アミ(バクトリア)→阿弥陀(中国)と変化していったのです。
紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラは、紀元前三世紀のギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。秦(紀元前221年〜紀元前206年)の始皇帝の母国)の地にあったのです。そのバクトリアには、ギリシャの哲学者プラトン一族のように、王権により迫害された学者や宗教関係者が、古代エジプトのアレキサンドリアからの亡命民として多く暮していたのです。ですから、紀元一世紀その地で発明された大乗仏教には、古代エジプトやギリシャの宗教思想が色濃く写し摂られていたのです。
釈尊は、輪廻転生思想でチャンダラー(施陀羅)をイジメるバラモン教思想を否定するため、バラモン教の宣伝道具である偶像の崇拝を否定するために、仏像の制作を一切禁止していたのです。
しかし、釈尊が没した五百年後に発明された大乗仏教では、釈尊の言葉を綴ったとされる仏教経典をギリシャ語(紀元一世紀に合本された「聖書」は、ヘブライ語やアラム語ではなく、ギリシャ語で創作されていた。「法華経」と「マタイの福音書」が瓜二つなのは、その原著がガンダーラでギリシャ語で著述されていたからです。)で創作し、そして、大乗仏教の宣伝キャラクターとして、ギリシャ彫刻技術を駆使して写実的なギリシャ系仏像を創作するのです。
その台座にある蓮華台とは、古代エジプトの太陽神アトンの化身のひとつである「蓮」からの導入であるのです。朝日が昇ると同時に開花する「蓮・ロータリー」は、古代エジプトでは太陽神の化身であったのです。
そのような観点から大乗仏教を眺めてみると、江戸時代、第八代目将軍徳川吉宗の時代に同心の私的警察官である「目明」を、「岡引」と蔑称し、その岡引である博徒や役座の秦氏末裔を、自警団組織である江戸町火消いろは組を創設して江戸町警察組織中枢から排除し、騎馬民族の秦氏末裔の弾左衛門一族も、漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により「穢多」としてイジメていた時代に、秦氏末裔が多く住む大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えたのです。そして、結論として、大乗仏教の経典の全てには、「釈尊のお言葉はない。」、と唱えたのです。
そもそも、経典の原著がサンスクリットで書かれるはずはなかったのです。サンスクリットは、バラモン僧が使う言語であったので、そのバラモン教思想を否定する釈尊は、小乗仏教組織が伝承している、パリー語を使って説法を解いていたからです。では、大乗仏教はどのようにして、漢訳仏教に変身したのでしょうか。
釈尊の仏教思想の原点は、バラモン教思想の否定です。バラモン教の教えでは、ひとのこころの奥底には「アートマン」という生死を越えて変わらない非物質があり、生き死にも、生まれ変わりも、そのアートマンによる、と言うのです。その輪廻転生するアートマンの存在を、釈尊は「非人」思想で否定したのです。
紀元一世紀、そのバラモン教のアートマン思想が、中国に渡来すると、そのアートマンを「我」と訳すのです。ですから、釈尊の「非人」思想は中国では、「無我」思想となるわけです。
釈尊の輪廻転生を否定する「無我・非人」思想は、三世紀になるとバラモン僧ナーガルジュナ(龍樹)により、釈尊の「無我」思想を「この世のすべては、互いに関連し合って成り立ち、ひとつとして永遠不変なものは存在しない。それが私の法(ダルマ)の基本である。」と拡大解釈され、そこからインド数学思想の「0・ゼロ」から、「無我」から「空」思想を発明するわけです。
そのナーガルジュナの「空」仏教思想が、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩摩羅什が、北方の騎馬民族に苦しめられていた農耕民族の王に迎合して、騎馬民族への蔑視語のバラモン教の肉食民族蔑視思想の不可触選民の「チャンダラー」を、「施陀羅」と漢訳し、無数に創作されていた仏典にちりばめてしまうのです。ですから、鳩摩羅什により漢訳された漢訳仏教経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する「施陀羅」などの民族差別語が盛り沢山あるわけです。
その騎馬民族差別語が沢山ある漢訳仏教が、中国大陸北方を支配する騎馬民族国家の突厥帝国(552年〜630年)を粉砕した唐進駐軍により、645年飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国進駐軍が壊滅させられることにより、日本列島に伝来するわけです。
騎馬民族国家の突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト政権が壊滅した645年以降、その唐よりもたらされた騎馬民族差別語がちりばめられた漢訳仏教が日本列島にもたらされると、中臣族から変身した藤原氏、そして、亡命百済貴族は、古代オリエントから渡来し、古代エジプトの埋葬思想を用いた石室・石棺を内蔵した巨大古墳を築造していた、ギリシャ文化継承国バクトリアを祖国とする秦氏をイジメる道具として利用していくわけです。
仏教伝来は、藤原不比等が創作した720年完成の「日本書紀」では、552年伝来(亡命百済貴族は538年を主張。)とするのですが、それは「ウソ」であることは、その仏教布教のキーマンである「厩戸皇子」(亡命百済貴族により「聖徳太子」となる。)の存在が疑わしいからです。
それに、538年から552年の飛鳥ヤマトは、突厥帝国進駐軍の支配時代であったのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの男王の「アマタリヒコ」が、遣隋使「ソインコウ」(「日本書紀」では小野妹子。ソ「蘇」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅・秦羅」の古語。ソインコウとは、「秦羅のインコウ」の意味。)を隋に派遣し、その返礼に、608年隋使裴清(「日本書紀」では裴世清)が、飛鳥ヤマトに渡来し、男王「アマタリヒコ」に謁見したと、隋の煬帝に報告していたのです。
812年秦氏末裔の万葉語学者の多人長が「古事記の暗号」で推古天皇以前の日本列島史を否定していたように、「日本書紀」で述べている、608年の飛鳥ヤマトには、女帝推古天皇など存在していなかったのです。
日本国の伝統文化を調べると、飛鳥時代の元風景が思い浮かぶのです。その伝統文化とは、「能楽」です。
第二百済王朝の北条鎌倉幕府を、1333年に倒した、秦氏末裔の源氏足利尊氏は、百済系天皇の後醍醐天皇を吉野に追放すると、ここに王権が、後醍醐天皇の吉野朝廷と、足利尊氏が征夷大将軍となり傀儡天皇を支配する京の朝廷(後の室町幕府)とが並存するのです。この南北朝は、1392年南北合体し、室町政権が確立するわけです。
北条鎌倉時代、騎馬民族蔑視思想を内在している「法華経」思想を布教する比叡山延暦寺で学んだ学僧により発明された、鎌倉仏教組織の浄土真宗や日蓮宗などの新興仏教思想により、平安初期に錬金術師空海により仏教国唐よりもたらされたインドのバラモン教思想の「施陀羅悪人ナリ」の真言から、騎馬民族末裔は肉食することから、ケガレが多いの意味で「穢多」の騎馬民族差別語が発明されるわけです。
北条鎌倉時代にその民族差別語によりイジメられ、山奥に隠棲していた秦氏末裔が、秦氏末裔の源氏足利氏が天下を盗り室町幕府を開くと、山から里に下りて来るのです。そのことにより、漢訳仏教文化と異なる文化の華が咲くわけです。
1402年秦氏末裔の世阿弥は、能楽書の「風姿花伝」を著し、その中で、能楽の祖は秦河勝であると述べるのです。世阿弥の「阿弥」とは、太陽神アトンのことです。芸能者の多くが「阿弥」を名前に付けるのは、太陽神信仰民族であることを主張していたのです。
その能楽の祖秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語に登場するのです。その秦河勝は、聖徳太子の忠臣で、弥勒菩薩を安置する寺である広隆寺を建立したことになっているのです。
しかし、広隆寺は、後の世に再建された寺で、秦河勝が建立した寺は蜂岡寺であったのです。では、その「広隆寺」に安置された弥勒菩薩とは何でしょうか。一般的常識では、弥勒菩薩とは、仏教の仏様と信じられているようです。しかし、弥勒菩薩の遍歴は、太陽神ミトラ(古代ヒッタイト帝国)→太陽神アトン(古代エジプト)→マイトレーヤ(古代インド)→弥勒(中国)→弥勒菩薩(日本)となるのです。
京の広隆寺の弥勒菩薩とは、京の元支配者である秦河勝が、蜂岡寺で祀っていたのは、仏像などではなく、太陽神ミトラ(後に王権により「魔多羅」に変名された。)であったのです。その根拠として、蜂岡寺の遺跡が示すには、仏教建築思想の南北軸に対して、南北軸より西側に約20度傾いていたからです。法隆寺境内から発掘された建物跡も、南北軸から西側に約20度傾いていたのです。飛鳥ヤマト時代に、そのように仏教建築思想と異なる建築基準で建設されていた建物があるのは、太陽信仰民族が、飛鳥ヤマトを支配していた証拠のひとつとなります。
太陽信仰民族は、太陽の再生日である冬至を聖なる日として祀る傾向があったのです。ローマ・キリスト教のクリスマスの日が、太陽神を祀るミトラ教の神の生誕日である「12月25日」であるのは、ローマ・キリスト教がミトラ教の太陽神を祀る儀式を導入していたからです。
では、能楽の祖である秦河勝は、飛鳥ヤマト時代にどのような芸能をおこなっていたのでしょうか。歴史教科書では、秦河勝の芸能を「猿楽」と述べていますが、それは違います。猿楽は、秦氏の芸能を蔑視するために、亡命百済貴族が支配した平安王朝から付けられ「蔑称」です。そして、猿楽とは、秦氏の祭祀の「秦楽」を隠蔽するために発明されたのです。それは、秦楽→しん楽→申楽→さる楽→猿楽となるのです。
では、その秦楽とは何かと言えば、それは、ギリシャ仮面劇を祖とする聖劇であったのです。能楽が能面を付けて霊界物語を語るのは、その祖が、ギリシャ文化継承国バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇の聖劇であったからです。
そのバクトリアから渡来した秦氏の芸能民一族は、太陽神を信仰する民族であったので、その末裔は名前に「阿弥」を付けていたのです。その「阿弥」を名前に付ける秦氏末裔は、源氏が支配した室町時代に、能楽の他に、華道、茶道の原型(茶道の完成は戦国時代)、庭園などの文化を開発していたのです。では、日本伝統文化の多くには、「道」が付くのは何かと言えば、それは、仏教組織がそれらの日本伝統文化を蔑視していたからです。
それらの芸能者(「芸」とは、「カミ」を楽しませる技術のこと。)は、仏教組織が蔑視して、「七道の者」と言われていたのです。「七道」とは、漢訳仏教が発明した、死んだら転生すると言う「あの世」、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上(後に極楽)」の「六道」の外の意味であるのです。つまり、「七道」とは、「外道」の意味であるのです。その外道である、非仏教徒の太陽信仰民族による芸能が、仏教徒から「○道」と言われていくわけです。
古代から伝承されている文化や芸能には、藤原日本史を基盤として創作された歴史教科書が隠蔽している多くの史実が隠されているのです。では、エド時代から江戸時代の変換期の文化・芸能には、どのような史実が隠されているのでしょうか。
エド時代から江戸時代に変換された、1623年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、天下を盗ると、暫くして、江戸町の民間に「あそび」が流行るのです。それが、「ひな遊び」といわれる人形遊びです。それは、後に「ひな祭り」となっていくのです。
第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の騎馬民族の血筋でないのは、実父といわれる第二代目将軍徳川秀忠が、日光に祀られていないからです。もし、徳川三代、徳川家康、秀忠、家光が同族であるのならば、日光には秀忠を祀る建物があるはずです。しかし、家康の東照宮、そして、孫といわれる家光を祀る大猷院はあるのですが、秀忠を祀る建物は何ひとつ日光には無いのです。第二代目将軍は、浄土宗の芝の増上寺に今も眠っているのです。
もし、第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の血筋であるのならば、天台宗系の日光などに自分を祀ることは拒否するはずです。それは、騎馬民族を血・肉食禁忌思想でイジメる「法華経」を布教する天台宗は、騎馬民族の敵宗教だからです。
第三代目将軍徳川家光の出自は不明なのです。(家光は、徳川家康と春日局の子との一説あり。)それは、第二代目将軍徳川秀忠の妻は、戦国時代末期に天台宗の総本山の比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶全員を打首にしていた、イエズス会傀儡の織田信長の妹の三女お江与であったのです。織田信長の祖は、アラブ系渡来民族末裔の「平家」で、仏教組織から、賎民余部(アマベ・海部)としてイジメられ、三代先信定の墓は、賎民部落の垣外(かいと)にあったのです。
その第二代目将軍徳川秀忠の実子が、第三代目将軍徳川家光であったならば、徳川家康の遺言で建立された質素な日光の「東照宮」を世良田部落に移築し、その跡に、騎馬民族を蔑視する天台宗系怪僧天海の設計による金ピカの日光東照宮など建立するはずはないのです。そして、実父と言われる第二代目将軍徳川秀忠を祀らず、第三代目将軍であるのに、自らを「第二代目将軍徳川家光」として日光に祀るはずはないのです。
その第三代目将軍徳川家光の時代に、突然、「ひな人形」が江戸の町に現れたのです。この謎は、何を物語っていたのでしょうか。
一般的常識の雛人形の歴史は、形代(古代)→天児(あまがつ・男子)・這子(ほうこ・女子)(平安時代)→立雛(鎌倉時代か?)→室町雛(室町時代)→寛永雛(江戸時代)→享保雛(江戸時代)→次郎左衛門雛(江戸時代・京都)→古今雛(江戸末期)→現代雛の流れと説明しています。そして、人形(ひとかた)が、中世の頃、人形(にんぎょう)となり、子供の遊びとなった、と説明しているのです。
しかし、その説明では腑に落ちないのです。それは、形代や人形は、子供の「あそび道具」なのではなく、漢訳仏教を祀る亡命百済貴族が嫌う呪術道具で、病気や災厄をはらい無事を祈る、仏教の敵、道教から発明された陰陽道の宗教儀式道具であったのです。宗教儀式道具を「あそび」に使うと罰が当たるのは、昔も今も同じです。
更に疑問なのは、古代と近代を繋ぐ「室町雛」の存在です。室町雛は、江戸時代の次郎左衛門雛風に頭の髪が毛仕上げになっているのです。この室町雛が、室町時代のものではなく、江戸時代のものであったのならば、歴史教科書で述べている雛人形の歴史は「うそ」と言うことになります。では、雛人形のルーツは何かと言えば、考えられるのは、平安時代から現れた、流浪の賎民と云われた人形使いの傀儡子の存在です。
では、エド時代から江戸時代に変換した寛永時代(1623年〜1643年)に突然現れた、髪の毛のない、冠と一緒に黒塗り仕上げの、女には唐衣も裳もない、天冠も載せていない雛が登場した歴史的背景は、どのようだったのでしょうか。
その雛人形登場の謎を解くヒントは、お内裏様とお雛様を飾る時の配置にあります。江戸では、お雛様は左側(向って右側)で、お内裏様は右側(向って左側)なのですが、京都では、その逆です。それは何故でしょうか。
そのお内裏様とお雛様の配置の違いが、民族の違いを表していたのです。騎馬民族では、左側が、右側よりも優位であったのです。それは、草原地帯の北半球を支配する騎馬民族は、緑茂る南半球を支配する農耕民族国を攻撃する時、中央に指令官を置き、太陽が最初に昇る東側、つまり、南面して左翼軍団が先陣を切ったからです。その左翼軍団に続いて、右翼軍団が攻撃に出陣したのです。ですから、騎馬民族国家では、右翼軍団より、左翼軍団の方が挌上であったのです。しかし、北面する農耕民族軍団では、右翼軍団が、左翼軍団よりも挌上であったのです。
騎馬民族と農耕民族とでは、左右の優位が逆であったのです。しかし、漢民族化した騎馬民族国の唐が、中国大陸だけではなく、日本列島の近畿一帯を支配した平安時代になると、右思想が、左思想より優位となってしまうのです。唐進駐軍の軍事支配の下で平安時代が、騎馬民族国ではなく、農耕民族国となった根拠のひとつとして、「右」の言葉が、「左」の言葉より優位になるだけではなく、「左」には蔑称の意味がこめられてしまうのです。
左遷(僻地にとばされること)、左官(天子を見捨てて他の諸侯に仕えること)、僻左(卑しいこと)、左前(物事が順調にいかないこと)、など「左」には劣ることの意味づけをしているのです。それに対して、右姓(尊い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(もっとも信頼している部下)、など「右」には優位であることの意味づけをしているのです。
では、何故、江戸時代の寛永年間に突然現れた雛人形の配置が「左と右」とで、江戸と京都では異なっていたのでしょうか。
雛人形のルーツは、古代の形代とは何ら歴史的関係はなかったのです。それは、徳川家康の孫、第二代目将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)が、1616年徳川家康の死後三年して、後水尾天皇の中宮として入内し、皇子興子(おきこ)が生まれたのです。この皇子興子が、1629年に第109代女帝明正天皇となるのです。ここに、騎馬民族の徳川家康の血が流れる女帝が誕生したのです。しかし、この後水尾天皇から女帝明正天皇への譲位には、紫衣事件と春日局事件が背景にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、藤原氏傀儡の豊臣家を倒すと、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を徹底的に粉砕していたのです。それは、血と肉食禁忌の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔の同族を「穢多」「革多」としてイジメていたのが、百済系天皇家を裏で駆る藤原氏と亡命百済貴族末裔であったからです。
そして、徳川家康は、1611年には後陽成天皇を退位させてもいたのです。そして、天皇家の経済を支えていた、仏教僧への紫衣の着衣認定料を停止するために、「禁中並公事諸法度」により、仏教僧への紫衣着衣禁止を唱えたのです。それに対して、天皇家も仏教組織も頑強に抵抗していたのです。
その決着が付いたのが、1629年で、織田信長殺しの下手人とされてしまった明智光秀の重臣斉藤利三の娘、お福が藤原氏の流れにある三条西家の仮の一員として、宮中に参内を強行し、後水尾天皇に意見を述べ、このことにより、後水尾天皇は厭世気分となり、六歳の興子内親王に王権を譲位してしまったのです。この功績により、興子内親王の母親中宮和子より、お福は「春日局」の局号を授かるわけです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康が仏教僧の紫衣着衣に我慢できなかったのは、紫衣とは、道教思想で、天子(てんぐり・北極星、後に「天皇」の表号となる。)の世話をする真人(まひと・北斗七星)だけが着衣できる高貴な衣であったからです。それが、道教の敵宗教である漢訳仏教僧が権威付けのために、天皇家へ多大の寄付金上納の見返りに、天皇から着衣を許されることに我慢できなかったのです。
幼くして京都で女帝となった明正天皇を気遣う母親の中宮和子(東福門院)は、娘に挿し物の掛け軸を贈ったのです。その掛け軸には、美男美女が描かれていて、左側に美女が描かれていたのです。
この天皇交代の寛永年間に、左側に女帝であるお雛様と右側にお内裏様が配置された雛人形が、北関東で作られ、江戸町で売り捌かれていくのです。これが寛永雛といわれるものです。
その寛永雛を生産する北関東とは、秦氏末裔が支配していたエド時代(1590年〜1623年)に、エド町の中心である日本橋、神田、人形町に暮していた秦氏末裔が、1635年から始まる参勤交代制のために、各国の人質を江戸に住まわすために、秦氏末裔の支配地を取上げるため、第三代目将軍徳川家光により追放された地であったのです。
その寛永雛は、享保年間になると変化を見せるのです。享保年間(1716年〜1735)年とは、第八代目将軍徳川吉宗の時代で、長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座が副業として、同心の私的警察官の目明として江戸町の治安警察業務をしていたものを、大岡忠相(越前守)により、長吏頭弾左衛門配下から抜けた鳶職人による自警団組織の江戸町火消し「いろは組」を組織して、その「目明」を「岡引」と蔑称し、江戸町警察業務から排除した時代であったのです。
その享保年間に制作された雛人形の特徴は、男雛は太刀を差し、笏を手に持ち、そして、女雛は五衣(いつきぬ)、唐衣、そして、袴には綿を入れて膨らませていたのです。これが享保雛といわれるものです。
十八世紀後半に、その騎馬民族末裔の秦氏末裔の武器製造者が作る江戸雛人形に対抗して、亡命百済貴族末裔が暮す京都では、左側にお内裏様右側にお雛様が座る次郎左衛門雛が作られ、庶民の雛人形であったものが、公家や上級武家にも重んじられていくのです。
更に、1830年代に、その左側にお内裏様が鎮座する京雛飾りに対抗して、江戸では、七段飾りが作られるのです。その七段飾りの随身である左大臣と右大臣は、左側を上座として老武者を置き、右側を下座として若武者を置いていたのです。そして、お雛様には、ギリシャ式王冠である三樹冠を被らせたのです。
騎馬民族国では、女帝の存在は当たり前だったのです。騎馬民族色が濃かった新羅(秦羅)系天武王朝(672年〜770年)では、第41代女帝持統天皇、第43代女帝元明天皇、第44代女帝元正天皇、第46代女帝孝謙天皇・第48代女帝称徳天皇が在位していたのです。そして、天武天皇の母国であるギリシャ・ローマ文化継承国の新羅(秦羅)が女帝国であったのは、中国の歴史書にも記述されているのです。
第三代目将軍徳川家光により、北関東に追放された秦氏末裔の武具製作技術者は、漢訳仏教文化に染まった江戸町で、雛人形を作ることにより、女帝国で、左側優位思想の騎馬民族文化を伝えていたのです。
この享保雛には、騎馬民族文化の暗示を示すものがあったのです。享保年間になると、秦氏末裔の博徒や役座が江戸町警察機構から排除されたように、秦氏の騎馬民族文化が、天台宗を頂点とした漢訳仏教文化により隠蔽されてしまっていたのです。そこで、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により「穢多」としてイジメられていた秦氏末裔の武具製作技術者は、享保雛にメッセージを託したのです。それが雛人形のお内裏様用に太刀を出現させたのです。
日本の武人の武器のひとつとして、「かたな」があります。その「かたな」の意味は、「片刃・かたは」であったのです。その「かたな」は、奈良時代と平安時代とでは、異なっていたのです。奈良時代の「かたな」は、直刀であったのです。しかし、平安時代になると、その直刀が、反りのある「かたな」となるのです。何故、直刀が反り刀に変化したのでしょうか。
奈良時代は、唐進駐軍が、仏寺の興福寺と中臣神道の春日社を支配する祭祀氏族の藤原氏を傀儡として、近畿一帯を支配していた時代であったのです。ですから、武人が携帯する武器は、唐軍仕様であったのです。
しかし、天武天皇が始めた一世一代の、道教思想に基づいた大嘗祭から、秋の収穫祭として毎年おこなう新嘗祭を発明し、その祭りで五節舞により「藤原の女」を天皇家に提供し、天皇家を支配下に置いて増長した藤原氏は、764年恵美押勝の反乱でも分かるように、唐進駐軍を排除して、藤原氏独裁を画策していたのです。
その藤原氏が得意とする、敵を密告と暗殺とにより葬る暴虐無人の行動に見切りをつけた唐進駐軍は、下級官僚としてうらぶれていた亡命百済貴族を、藤原氏の替わりに使うのです。それが、794年平安京遷都をした、百済系桓武天皇であったのです。唐進駐軍の傀儡となった桓武天皇は、藤原日本史によれば天照大神を祖神とするところを、実父の光仁天皇を祖神として祀り、唐式の儀式により即位していたのです。
桓武天皇は、藤原氏色の強い軍団を解散して、792年健児兵制度を確立して、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国軍団残党が支配する陸奥国侵略を企てるのです。それは、桓武天皇の母国百済を、663年に滅ぼした新羅(秦羅)軍団末裔も、突厥帝国軍団残党と共闘していたからです。
この後、秦氏が支配していた山背国(後の京都)を乗っ取った亡命百済貴族末裔は、新羅(秦羅)末裔の社会的抹殺を謀るため、新羅末裔の秦氏を賎民に貶め、イジメ続けていくのです。日本列島において、民族差別が京都で発生した理由のひとつが、その百済対新羅の戦いの後遺症だったのです。
陸奥国の豊富な資源を狙う唐進駐軍は、桓武天皇軍団を傀儡軍として、陸奥国侵略戦争を開始するのです。しかし、陸奥国を支配する軍団は、その祖は、ユーラシア大陸を騎馬戦で支配していた騎馬軍団末裔であったので、歩兵中心の桓武天皇の大軍団は、弓馬に優れていた少数の陸奥国軍団に翻弄され、全戦全敗であったのです。
そこで、陰謀を得意とする桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂を指揮官として、陸奥国軍棟梁の赤毛のアテルイを騙して、京に連れてくると、即刻そのアテルイの首を刎ねて、その首を京で晒してしまうのです。その棟梁アテルイを失った陸奥国軍団は、厭世気分となり、胆沢城以北を残し陸奥国は平定されてしまうのです。
そして、敗残兵の陸奥国兵士の多くは、人種的にチュルク系であったのでヒゲが濃いため、毛が薄いツングース系の桓武天皇軍から、「ヒゲのあるエビス」の意味の「蝦夷」と蔑称されてしまうのです。
その捕虜の蝦夷は、傭兵とされるのです。それは、唐進駐軍の母国唐は、隣国ウイグルや吐番からの侵略を受けていたからです。そこで、蝦夷をその侵略軍を阻止する傭兵軍として唐に送り込むために、近畿一帯の捕虜収容所に連行するわけです。その捕虜収容所は後に、別所、散所、湯浅、垣外などと呼ばれていくのです。
桓武天皇軍団により、陸奥国が平定されて束の間、百済系三代目嵯峨天皇になると、810年百済系二代目の平城天皇から寵愛を受けていた藤原薬子が、奈良時代の栄光を取り戻すために反乱(薬子の乱)を起こすのです。
平安初期の京は、藤原氏軍団残党だけではなく、陸奥国から連行した蝦夷が捕虜収容所から脱走したりして、治安が乱れていくのです。それに対して、嵯峨天皇は、京を護る治安警察のために、816年検非違使を置くのです。
しかし、京の都は盗賊の狼藉だけではなく、地震や雷の転変地変が頻繁に起こっていくのです。これは、桓武天皇が、実弟の早良親王を謀殺した祟りと、陸奥国の蝦夷を騙して惨殺した祟りだと言い出す者がいたのです。そこで、平安王朝は、その祟りを鎮めるために、検非違使の配下として、怨霊を鎮める「もののふ」を組織するのです。
「もののふ」の「もの」とは、仏教思想や中臣神道が渡来する前、日本列島の「精霊」であったのです。神仏の思想が渡来する前は、日本列島には精霊である「もの」が精神的に支配していたのです。その「もの」の僕(しもべ)が「もの・のふ」と呼ばれていたのです。
しかし、645年唐進駐軍と中臣族軍とにより、突厥帝国進駐軍と秦氏により支配されていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが壊滅すると、唐で流行っていた、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想が、「もの」思想を排除し、その結果、仏教の敵神である「鬼」の仲間として、「ものの怪・け」とされて山奥に追放されてしまうのです。
その漢訳仏教思想渡来の後に、中臣族により発明されたものが、ユダヤ教儀式と酷似した中臣神道で、山奥の「ものの怪」の土の家である「塚」の上に、神社を建立して、「ものの怪」を封印してしまうのです。
平安初期に、その「ものの怪」が、祟り神として、地震や落雷となって京の都を襲ってきたと、天皇家は解釈したのです。そのように平安京で怨霊思想を煽ったのが、漢訳仏教に敗れた道教から派生した陰陽師です。そこで、「ものの怪」の霊を鎮めるために、前政権の子孫により「もののふ」を組織したのです。その「もののふ」となった者が、散所や別所に収容されていた蝦夷であったのです。それは、陸奥国の蝦夷の祖は、飛鳥ヤマトの武人であったからです。
「もののふ」は、前政権の「もの」を封印している神社で、芸により怨霊を鎮めるために、兜に牛の角をモチーフとした飾りを創作し、そして、鎧を煌びやかに飾ったのです。しかし、「もののふ」は、蝦夷捕虜であったので、王権は蝦夷捕虜の反乱を恐れて、それらの兜、鎧を総革製としたのです。そして、怨霊の魂を鎮めるために、芸をおこなうためのパフォーマンス用に、チュルク系騎馬軍団の武器である反りのある短刀である蕨手刀の刃先を伸ばして、片刃のそりのある「かたな」を創作するのです。この「かたな」が、後に「日本刀」の祖と呼ばれていくのです。
それらの武具で武装する「もののふ」は、怨霊封じ込め施設である神社境内で、怨霊の御魂鎮めのための芸が「武芸」と呼ばれていくのです。その「もののふ」が、939年から941年にかけて起こった平将門と藤原純友の反乱を騎馬による武力で鎮圧したため、平安王権より、武芸者である「もののふ」が、「武士」と呼ばれていくのです。
その「武士」は、実戦向きではない、祭祀儀式のための派手な兜と鎧、そして、片刃の「かたな」で武装はしていたのですが、その「武士」の実践用武器は、弓矢と槍であったのです。「かたな」は、実践用ではなかったのです。
江戸時代、京都で発生した「かぶきもの」による「ややこ踊り」は、ポルトカル人が北アメリカから持ち込んだ風土病の梅毒と供に、江戸町で流行すると、秦氏末裔の能舞台を乗っ取り、そこで、女歌舞伎を興行し、梅毒を流行させるのです。
それに対して、江戸幕府は、女歌舞伎を禁止すると、次に、若衆歌舞伎となるのですが、梅毒の流行は止められなかったのです。そこで、幕府は、中年男性による野郎歌舞伎だけを許可するのです。「春」を売れない野郎歌舞伎は、生き残るために、中国の京劇を真似た隈取による化粧や、寸劇からストーリー性のある演劇を開発していくのです。
公家が多く暮らす京都と異なり、江戸は参勤交代のための各国の人質がいるため、それらを警護する、壮年の武人で溢れていたのです。その武人相手の演劇のテーマは、武闘物が好まれたのです。
演劇は、実際の生活のストーリをデフォルメして表現するわけです。しかし、1543年鉄砲伝来以前の戦闘では、弓矢と槍が主な武器で、儀式用「かたな」は、実戦では使われていなかったのです。しかし、狭い演劇小屋の舞台での戦闘場面では、弓矢と槍を用いての戦闘の再現はできません。そこで、演出家が、「かたな」による戦闘場面を取り入れたところ、評判がよかったのです。そこで、演劇で、「かたな」による戦闘場面が定着すると、戦国時代以前を知らない民衆は、「武士」は、実戦では弓矢と槍が主武器であったものが、「かたな」を主武器として戦闘していたと勘違いしていくわけです。
そして、第三百済時代の江戸町は、武断統治政策から文治政治となって久しいので、1651年由比正雪の乱の由比正雪の開いた道場では、実践用の槍術であったのに、「武士」が排斥された江戸町の道場では、「剣術」となってしまったのです。このような「演劇」と「剣術道場」により、「武士」は「かたな」で戦闘をしていたと誤解されて現在に至るのです。
「日本刀・かたな」を製造するための鉄器製造技術は、紀元前14世紀のヒッタイト帝国で発明された鍛造法の鉄器製造法が、騎馬民族スキタイに伝承し、その鍛造鉄器製造法が東進し、中央ユーラシアのタタールを経由して、朝鮮半島に伝播し、そこから技術集団秦氏と供に日本列島に伝来し、「タタラ製鉄」技術として定着したのです。
オリエントから渡来した秦氏末裔である蝦夷の武器は、蕨手刀から改良された儀式用武器の「日本刀」となり、武芸者である「もののふ」の「魂」となったのです。そして、その後、その武士の「かたな」は、戦闘で倒した敵将の首を落とすための、神聖な「武器」となったのです。
江戸時代、享保年間に出現した雛人形に、その「日本刀」を、お内裏様に携帯させた意味は、それは、北関東に暮す雛人形職人である秦氏末裔が、キリシャ式三樹冠を被せた女王をお雛様とし、そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀から改良した「日本刀」でお内裏様を「武士」として表現していたのです。
この秦氏の騎馬民族・オリエント文化を表現した享保雛の出現は、平安時代の810年に「古事記」が出現したことと同じです。それは、秦氏末裔の多人長が著述した「古事記」は、645年オリエント文化の飛鳥ヤマトを乗っ取り、そして、北九州から移築した仏寺により、その地を仏教伽藍で埋め尽くし、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」により、仏教伝来552年と飛鳥ヤマトの歴史を改竄し、その「ウソ」をつく為に創作された女帝推古天皇(593年〜628年)以前の歴史を否定するためのもだったのです。
では、ギリシャ式女王冠とチュルク系騎馬民族の武器から改良された「日本刀」を出現させた享保雛は、どのような歴史を否定するために創作されたのでしょうか。
この享保雛が出現した享保年間とは、第八代目将軍徳川吉宗が、未だ健在の騎馬民族末裔の徳川家康の血統である「御三家」の根絶やしを開始した時代だったのです。
1603年天下を盗った徳川家康は、戦国末期に豊臣家を傀儡とした藤原氏や、亡命百済貴族末裔の百済平氏からの反撃を防ぐために、1607年徳川家康の九男徳川義直を尾張家、十男徳川頼宣を紀州家、そして、1609年十一男徳川頼房を水戸家として、その「御三家」を、徳川家康幕府の中枢としていたのです。その「御三家」の使命は、秦氏末裔の「武士」の幕閣とは別の立場から将軍を補佐し、宗家に嗣子のないときはこれを継承することだったのです。
しかし、1623年百済の血が流れる徳川家光が第三代目将軍になると、天台宗系怪僧天海、そして、明智光秀一派末裔の春日局との陰謀により、秦氏末裔の源氏武士と騎馬民族末裔の徳川家康の血統の抹殺を図られるのです。
その手段が、1635年参勤交代制や、「末期養子の禁」で、徳川家康の忠臣である源氏武士末裔の大名家の断絶、そして、秦氏末裔の源氏武士狩りである、1651年の「由比正雪の乱」の演出だったのです。
しかし、徳川家康直系の「御三家」の血統抹殺計画の実行は、第八代目将軍徳川吉宗の時代(享保年間/1716年〜1735年)まで待たなければならなかったのです。
第八代目将軍徳川吉宗は、その手始として、1717年大岡越前守を江戸町奉行に登用し、1720年長吏頭弾左衛門配下から離脱した「鳶職人」による自警団組織の火消し組織の「いろは組」を創設し、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座による「目明」である同心の私設警察官の、江戸町警察機構からの排除をおこなったのです。これにより、エド時代から徳川家康体制を裏社会から支えていた、役座による江戸町警察組織が壊滅するわけです。
その第八代目将軍徳川吉宗が開始した、徳川家康が創設した「御三家」の壊滅計画は、第十一代目将軍徳川家斉により完成するのです。それが、「御三家」に替わる、「御三卿」です。
「御三卿」とは、徳川家康の支族で、田安家、一橋家、そして、清水家のことです。この「御三家」と「御三卿」とは、徳川家康の威光が消え、そして、その徳川家康の威光を裏社会から支えていた長吏頭弾左衛門の権勢が削がれ、「長吏頭」を「穢多頭」と蔑称された江戸中期になると、対立関係となっていたのです。
勿論、第三百済王朝の江戸中期では、百済系「御三卿」の権勢が、騎馬民族系「御三家」を圧倒していたのです。
その「御三卿」の創設は、第八代目将軍徳川吉宗が、次男宗武に田安家を、そして、四男宗尹に一橋家を創設させたのです。そして、第九代目将軍徳川家重が、次男重好を初代とし清水家を創設させることにより、ここに、騎馬民族末裔の徳川家康の「御三家」に対抗する、百済系の「御三卿」が歴史上登場するわけです。
そして、第十一代目将軍徳川家斉の時代(1786年〜1837年)には、徳川家康の血統を最後まで護っていた「御三家」の尾張家の血統が根絶やしにされていたのです。
藤原日本史のトリックは、鎌倉時代を源氏支配と錯覚させたのと同様に、江戸時代に「御三家」が江戸末期まで存続していたと錯覚させたことです。
鎌倉時代は、秦氏末裔の源氏武士が支配したのは、源氏棟梁の源頼朝、源頼家、そして、源実朝の三代(1192年〜1219年)までで、その後は、百済系平氏末裔の北条氏が、騎馬民族蔑視思想を内在する「法華経」を布教する、百済系天台宗の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1333年まで支配していたのです。
江戸時代は、秦氏末裔の源氏徳川氏が支配したのは、徳川家康、そして、徳川秀忠の二代(1603年〜1623年)までで、その後は、百済系徳川家光の血統が、百済系天台宗の怪僧天海が創設した第三百済王朝となり、漢訳仏教思想の「法華経」などにより、肉食する騎馬民族末裔である秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1867年まで支配していたのです。
第三百済王朝の江戸時代では、「おサムライ様」はあっても、「お武士様」はないのです。それは、「サムライ」の祖は、平安時代初期に中国山東半島からの亡命百済移民の子弟が、第一百済王朝である平安京で、亡命百済貴族を、側で「侍い・さぶらい」する秘書兼警護使であったからです。
それに対して、「武士」の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトの武人を祖とする陸奥国蝦夷で、「もののふ」の武芸者であったからです。その「武士」の歴史により、第三百済王朝では、「武士」は、「俘囚の末裔」と蔑まされていくのです。そして、「サムライ」により江戸幕府機構から排斥された「武士」は、「野武士」や用心棒となり、明治革命まで生き延びていくのです。
その明治革命に至る歴史において、藤原日本史では、その明治革命の陰の主役であるイギリス東インド会社の存在を無視して、薩摩藩と長州藩を中枢とした官軍(?)により江戸幕府が倒れたと記述しているのです。
その薩摩藩の南九州は、鎌倉初期に源頼朝により、藤原氏の荘園であった島津荘を賜った秦氏末裔が多く暮らす地であり、そして、飛鳥ヤマト時代以前では、藤原氏の祖である中臣族が、南インドのマラバル沿岸から渡来した坊津があるのです。そして、長州藩には、秦氏末裔の海洋民族の源氏武士である松浦族末裔が多く暮らす地でもあったのです。
その薩摩藩と長州藩には、江戸中期以降、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により不可触選民「穢多」としてイジメられていた、秦氏末裔が多く暮していたのです。
その長州藩の地に、1776年イギリス王国から独立したアメリカ合衆国で不要になった最新式銃を満載した船で、1863年イギリス東インド会社のエージェントが渡来したのです。そして、同年7月そのイギリス軍艦は、薩摩を砲撃し、薩英戦争が勃発したのです。イギリス海軍に砲撃された長州藩と薩摩藩がともに、倒幕の中枢軍となったのは、何を意味しているのでしょうか。
八世紀、カスピ海沿岸を支配していた国際交易国ハザールは、西の東ローマ帝国と東のイスラム帝国との戦闘に巻き込まれることを避けるために、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して、ハザール人はユダヤ教徒に変身するのです。
紀元前932年唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族は、太陽神バアルと太陽神化身の牡牛を屠るイスラエル民族と袂を分けると、ユダ王国を興したのですが、隣国の侵略を度々受けても、かろうじてユダヤ民族は、その血統を保っていたのです。しかし、イスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国に破れると、それ以降、その十部族で構成するイスラエル民族は歴史上消えて現在に至るのです。
そのユダヤ民族は、人種的にセム族系の有色民族であったのです。しかし、八世紀にユダヤ人となったハザール人は、人種的には白系チュルクであったのです。その白系チュルクのユダヤ人は、本来の有色ユダヤ人から、白いユダヤ人と呼ばれていくのです。
その白いユダヤ人は、国際交易商人であったので、古来から全世界にそのネットワークを持っていたのです。ここに、国際的な金融組織を持つユダヤ人が出現するのです。
このことにより、八世紀以前、イスラム民族と細々と共存していた有色ユダヤ民族は、白いユダヤ人が加わることにより、国際的ユダヤ民族となり、世界の歴史に影響を与えていくのです。
1600年、海賊貿易で隆盛するプロテスタントのイングランド王国は、ローマ・キリスト教のイスパニア王国の東アジア支配国を奪取するために、イギリス東インド会社を設立し、東インド経営に乗り出すのです。
未知の国を軍事支配するには、その国の情報が必要です。それには、現地の支配層を取り込めれば、その現地支配層から貴重な情報を取れるだけではなく、その支配層を傀儡として情報発信もできるわけです。そこで、その仕掛けとして、イギリス王国を裏から支配する国際金融組織は、その異国での情報収集の手先組織として、1716年国際秘密結社フリーメーソンを設立するのです。
戦国末期、織田信長を軍事的支援をしてきたイエズス会が、その援助と統制が乱れた原因は、イエズス会を軍事・資金的に援助していたイスパニア王国の無敵艦隊が、海賊交易立国のイングランド王国の海軍に、1588年壊滅されていたからです。このイスパニア王国の無敵艦隊が、イングランド海軍に敗れたことにより、世界の海上権がイングランド王国に移っていくのです。
イングランド王国は、イスパニア王国の支配地であったインドを、1757年ブラッシーの戦いにより支配下に置くのです。更に、イエズス会の中国・日本列島布教(侵略?)基地であったマカオに進出すると、インドで仕入れたアヘンを清帝国に売りつけることにより、1840年アヘン戦争を起こすのです。
そのように、遠い異国で戦争がおこなえたのは、1694年国際金融組織の援助でイングランド銀行を設立して、広く諸外国から金集めができたからです。戦争は、膨大な資金がなければできない「事業・ビジネス」であるからです。
イギリス船が、日本に渡来したのは、1613年長崎で、徳川家康が通商許可を与えたため、平戸貿易が始まったのです。しかし、徳川家康の顧問であるオランダ人ヤン・ヨーステン(日本名は耶揚子。東京の「八重洲」の語源)の忠告で、イギリスによる東インドでの海賊交易の実態を知ることにより、イギリスなどの西欧船の来航は、平戸と長崎に制限したのです。
この徳川家康の貿易制限の処置がなかったならば、日本列島は、イギリス交易船により、清帝国のように、アヘンを日本列島に持ち込まれ、アヘン列島になっていたかもしれないのです。しかし、イギリス平戸商館が閉鎖されたのは、徳川家光が第三代目将軍となった1623年であったのです。
イギリスの東アジアでの国際交易の基本は、イギリスから羊毛・木綿製品をインドに持ち込み、その商品をアヘンと交換し、そのアヘンを中国で売り捌き、金・銀を手に入れて、それをイングランド銀行に貯金するわけです。その国際交易の中枢が、イギリス東インド会社であったのです。その会社員の中には、フリーメーソン結社員がいたことは勿論です。
オランダ人を顧問とした徳川家康により、日本との交易を制限されたイギリス交易商人は、鎖国体制の江戸幕府が揺らぐのを、イエズス会から引き継いだ極東侵略基地のマカオでじっと待っていたのです。
1776年7月4日フリーメーソン結社員を中枢とした、イギリス王国への反乱軍は、アメリカ植民地独立戦争に勝利すると、トマス・ジェファーソンが起草者となり、アメリカ十三州の独立宣言をおこなうのです。そして、同年、紙幣委員会が設立され、アメリカ合衆国の通貨である一ドル札のデザインが、フリーメーソン結社員であるベンジャミン・フランクリン等によって決定されるのです。
今、米一ドル紙幣を持っているひとは、その裏側をながめてください。その左側には、ピラミッドがあります。そして、そのピラミッド上方には、目が描かれているのがわかります。この目のあるピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークなのです。
更に、そのピラミッドの上と下に文字が、書かれているのがわかります。しかし、その文字は、英語ではなく、ラテン語です。何故、アメリカ合衆国の基本通貨である一ドル札に、目のあるエジプトのピラミッドとラテン文字があるのでしょうか。
実は、この一ドル紙幣のピラミッドマークと文字には、フリーメーソンのメッセージが隠されているのです。
上の文字は、「ANNUIT COEPTIS」、とあり、下の文字は、「NOVUS ORDO SECLORUM」、とあります。そして、ピラミッドの階段は、十三段です。これらのメッゼージは、一体何を表しているのでしょうか。
ピラミッドの十三階段は、アメリカ合衆国の十三州だと解釈するには、単純すぎます。それは、その後、アメリカ合衆国十三州は、イスパニア、フランス、そして、メキシコの領土を奪い取って、合衆国数は増えていったからです。だったらフリーメーソンの階級かと言えば、最高階級は33階位であるので、それも違います。
実は、それらのピラミッド十三階段と、ふたつの文字を繋ぎ合わせると、ひとつのメッセージとなるのです。
そのメッセージとは、十三階段は、紀元前十三世紀のユダヤ二部族とイスラエル十部族の十二部族に、紀元八世紀に新しくユダヤ教に加わった国際交易国家のハザール人を第十三部族とし、ハザール人のユダヤ第十三部族が、NOVUS ORDO SECLORUM「新しい世紀の秩序」を創る、ANNUIT COEPTIS「我々の計画に同意せよ」、となるのです。つまり、「白いユダヤ人が、新しい秩序を創る。我々の計画に同意せよ。」、となるのです。
因みに、何故、エジプトのピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークかと言えば、ユダヤ教の神、唯一神ヤハヴェは、紀元前十四世紀の古代エジプトで、アメンホテプ四世がおこなった、性急な宗教改革で、ヒッタイト帝国から持ち込んだ太陽神ミトラから改竄した、唯一神である太陽神アトンから変身した神であったからです。
このフリーメーソンのメッセージが書かれた一ドル紙幣が、この後、国際金融組織に支援されたエージェントにより世界にばら撒かれ、世界の歴史に影響力を与えていくのです。
勿論、日本列島も、その例外ではなかったのです。フリーメーソン結社本部があるイギリスの金融を支配するイングランド銀行の支援で、1882年「株式会社日本銀行」が設立されたのです。そのことにより、日本国は、隣国と国際戦争ビジネスができるようになり、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争ができたのも、イングランド銀行の金融支援があったからです。そして、日本国政治の中枢建物、国会議事堂の屋根を「ピラミッド」としたのです。
その不可解な近代日本国の歴史の流れの源流が、江戸時代にあったのです。
その頃の日本列島では、江戸時代中期の頃で、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により、庶民を統括していたことに疑問を持つ者が現れてくるのです。
江戸時代の第三百済王朝の手先となり、庶民を農耕民族の良民と騎馬民族の賎民に民族差別して、「穢多寺」など発明して、寺請制度で縛りつけていた百済系天台宗思想に疑問を持った者のひとりが、禅宗の白隠禅師です。
白隠禅師は、騎馬民族を差別する無数にある仏典には「悟りを得るためのものは何もない。」、と宣言するのです。それ以前にも、大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えていたのです。
そのように、第三百済王朝を支える漢訳仏教思想に疑問を持った本居宣長は、平安時代の810年から埋もれていた埃まみれの「古事記」を引っ張り出して、その「古事記」には、渡来宗教である漢訳仏教世界などとは異なる「誠の日本原風景が描かれている。」と誤認してしまい、「まほろばの世界」を、描くことを思いつくのです。
それが、1778年「古事記伝上巻」となるのです。「古事記伝」上巻、中巻、下巻は、二十年の歳月をかけて、1798年に完成するのですが、その原著者である、秦氏末裔の多人長の意図とは別物となっていたのです。
多人長は、藤原氏が創作した「日本書紀」での仏教文化が発祥したと言う飛鳥ヤマト時代の歴史物語を否定するために、日本列島の最初の天皇が、騎馬民族系で、新羅系の天武天皇であることを示すために、812年「古事記」三巻を「サイファー式暗号」で著したのです。
しかし、その多人長の意図に気づかなかった本居宣長は、「藤原氏のトリック」に引っかかり「古事記伝」を著してしまったのです。この本居宣長が創作した「古事記伝」44巻により、日本列島の歴史が、藤原日本史として再度認識され、現在に至るのです。
特に、庶民に強い影響力を発揮した、日本神話は、奈良時代ではなく、江戸時代の本居宣長により創作された、と言っても過言ではないのです。
多人長は、藤原氏が創作した日本列島の誕生を説明する神話物語を否定するために、「日本書紀」の始めに出演する神の国立常命を、「古事記」では、始めの出演神を天御中主命としたのです。何故、国立常命ではなく、天御中主命かといえば、その神は、天の真ん中にいる神だからです。
その「古事記」に最初に出演した神の天御中主命とは、「北極星」のことであり、天武天皇が、672年壬申の乱により、663年母国百済を唐・新羅軍に滅ぼされた、亡命百済王朝である近江朝を武力で倒し、その戦いで赤旗をたなびかせて大いに貢献した、アラブから渡来の海洋民族の支配地である伊勢に、685年祠(道観)を建てたのです。そして、その伊勢の祠で、天神を祀る道教思想から発明した一世一代の大嘗祭により、北極星から天命を受けて、騎馬民族の神「天子」(テングリ)から、日本列島初の「天皇」として即位していたのです。
唐進駐軍が支配した奈良時代、藤原氏は、その伊勢に建つ道教式の祠(道観)を徹底的に破壊して、その跡に、藤原氏の中臣神道思想で伊勢神宮を建立し、「太一」である北極星を、太陽神天照大神に摩り替えていたのです。その摩り替えを隠蔽するための物語を、「日本書紀」に挿入したのが、多人長が「古事記」で否定した「天照大神の神話物語」であったのです。そして、藤原氏は、その天照大神の天岩戸物語で、こっそりと藤原氏の祖とする天児屋根命を出演させるのです。
そのようにオリエント文化であった飛鳥ヤマトを、藤原氏が創作した天照大神の世界があったと誤認してしまった本居宣長により創作された「古事記伝」での「大和神話物語」により、まほろばの飛鳥ヤマトは、伊勢神宮の天照大神が守護する都となってしまって、現在に至るのです。
この本居宣長が著した「日本神話」が流布した頃の日本列島では、伊豆大島の噴火、九州大隈桜島の噴火、関東大洪水、浅間山の噴火など、天変地変がおこっていたのです。このような自然現象をとらえ、天台宗を中心に騎馬民族を賎民として差別していた漢訳仏教に抵抗する勢力が現れたのです。
それが、1787年米価高騰を原因とする天明の打ちこわしです。不思議なのは、大阪と江戸とが連動するように暴動がおこっていたのです。この後、何度も暴動が起こるのですが、それらも大阪と江戸とが同調していたのです。何故でしょうか。
その天明の打ちこわしの暴動が起こる十数年前、長崎の出島に渡来していたオランダ人により、蘭学が盛んとなり、日本各地に蘭学校が設立されていたのです。そのオランダの蘭学者の多くは医者であったのです。
漢訳仏教伝来時でも、仏教僧は「医術師」として、日本列島に渡来していたのです。そして、寺子屋で勉学をおこなっていたことは、オランダ人の蘭学者と同じです。異教国に潜入する手段は、古代も近代も同じだったのです。
そのオランダ人の医者には、医学の普及とは別のミッションが、ある組織から与えられていたようです。1774年前野良沢と杉田玄白は、オランダ人の医師から入手した人体解剖図を教科書として、長吏頭弾左衛門の処刑場である小塚原で、弾左衛門配下の「穢多の老人」が解剖した人体内臓をスケッチし、「解体新書」を著していたのです。
その翌年、ツンベルグがオランダ館の医師として渡来したのです。そのツンベルグの生徒である長久保赤水は、1779年日本與地路全図を作成したのです。そして、そのツンベルグは、医療活動の傍ら、日本列島の植物を観察し、それを記録していたのです。オランダ人医師は、鎖国の日本列島で、「何を」目的に渡来していたのでしょうか。
1828年オランダ人医師シーボルトは、江戸幕府からスパイ容疑を受け、翌年日本国から追放されたのです。その容疑は、伊能忠敬が作成した日本国全図を模写し、オランダへ持ち出そうとした、ということです。
しかし、伊能忠敬が作成した日本国全図の模写図は、日本から持ち出されていたのです。そのシーボルトにより持ち出され日本地図を、1853年浦賀に渡来した米使ペリーが持っていたのです。不思議なのは、そのペリーの艦隊は、アメリカから直接日本の浦賀に渡来したのではなく、わざわざマカオを経由して渡来したのは、何かの意味があったのでしょうか。それは、オランダ人とアメリカ人、遠い異国を結ぶものが、秘密結社の存在だったのです。
1865年摂津と隠岐に打ちこわしの暴動がおきると、その翌年江戸と大阪に同時に打ちこわしの暴動が起きるのです。その江戸と大阪に暴動が起きた頃、薩摩藩と長州藩との連合が成立したのです。
その薩長連合成立以前、1854年日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約と、諸外国と立て続けに侮辱外交によりおこなわれた条約に対して、屈辱を感じた下級武士は、攘夷を唱え始めていたのです。その先鋒のひとつが、秦氏末裔が多く住む長州藩であったのです。
1862年生麦事件でのイギリスに対しての江戸幕府の屈辱的外交に対して、攘夷論が最高潮に盛り上がっていくのです。その延長線上に、1864年の長州征伐があるのです。この事件は、長州藩の謝罪で終わるのですが、長州藩の下級武士の攘夷の勢いは止まらなかったので、翌年、第二次長州征伐がおこるのですが、第十四代目将軍徳川家茂(いえもち)の死去により再征伐が中止になっていたのです。
その薩長連合成立の翌年、ええじゃないか運動が、名古屋に起こり、全国各地に広がっていくのです。そのええじゃないか運動の中心が、平安時代から神仏習合で仏寺が多くあった、そして、平安時代から約千年間も百済系天皇家が正式参拝していなかった、「穢れ地」にある伊勢神宮(無数にある建物の総称。)だったのです。そのええじゃないか運動が起こる前、伊勢にあった無数の神仏習合の仏寺が綺麗に整理されていたのです。
何故、伊勢のお札が最初に降ったのが、名古屋だったのでしょうか。名古屋とは、徳川家康の血統を継ぐ、徳川御三家の尾張家の支配地であったのではないでしょうか。その尾張家の地から、民衆を巻き込む倒幕運動が開始された原因は、第七代目将軍徳川家継まで遡るのです。
騎馬民族末裔の徳川家康の血統は、第二代目将軍徳川秀忠までで、第三代目将軍徳川家光は、百済系であったのです。その徳川家康が、騎馬民族の血統を絶やさないように、九男義直を尾張家、十男頼宣を紀伊家、そして、十一男頼房を水戸家の御三家で保とうとしていたのです。
しかし、天台宗系天海と春日局に担がれた第三代目将軍徳川家光は、騎馬民族の血統を抹殺するべく、徳川家康の忠臣であった騎馬民族末裔の源氏武士を江戸幕府機構から排除すると、その家光の意思を後継者に伝えていたのです。
徳川家光が、咳気の大病を患ったことを知った徳川家康の九男の尾張家初代の徳川義直が、幕府の許可を得ずして、江戸に家光を見舞いに行くことを、途中の関所で咎められ、江戸に見舞いにもいけずに名古屋にもどったのです。その尾張家初代の徳川義直の行動に、徳川家光は、「尾張家は隙あらば将軍職を狙う。」と吹聴して、以後、尾張家から将軍を招くことを忌避することに決定していたのです。
そのように百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光により、騎馬民族の血を止められた二代目尾張家の徳川宗春は、第三百済王朝の基盤を確立した第八代目将軍徳川吉宗の倹約令に逆らっていたのです。その結果、尾張家の当主徳川宗春は、蟄居謹慎を受け、二十五年も幽閉生活の後、この世を去ったのです。そして、その徳川宗春の墓石には、ええじゃないか運動が起こる幕末まで、金網が被せられていたのです。
そして、第十三代目将軍徳川家斉の時代、騎馬民族の血が流れる尾張徳川家の血統が抹殺されていたのです。その騎馬民族の血が流れる「御三家」に替わり、百済の血が流れる田安家、一橋家、そして、清水家の「御三卿」が、第三百済王朝を幕末まで支えていくのです。
その名古屋は、第三代目将軍徳川家光が、源氏武士の大名家の経済を疲弊するために考え出した、参勤交代の上洛行程で、避けて通った「穢れ地」でもあったのです。
「穢れ地」に立つ伊勢神宮、「穢れ地」名古屋でのええじゃないか運動、この仕掛けは、誰が考え出したのでしょうか。そして、そのええじゃないか運動の延長線に、1867年明治革命が勃発するのです。
この江戸末期から明治革命にかけての歴史が、明治維新で復活した藤原氏(近衛家)を中心として改竄されたのは、645年オリエント文化の軍事都市飛鳥ヤマトで、唐進駐軍と中臣族軍(藤原氏の祖)により突厥帝国進駐軍王朝を壊滅した後、720年の奈良時代に藤原不比等が「日本書紀」を創作して、建築基準軸が南北軸より西に約二十度傾いていた、太陽神ミトラ信仰民族の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、北九州から移築した南北軸の「法隆寺」などで、仏教文化発祥の地と改竄したことと同じです。
歴史教科書で、幕末から明治維新への流れが歴史改竄物語で述べられている根拠として、二つの言葉があります。それは、「神社」と「志士」です。
「神社」は、「ジンジャ」で、「志士」は、「シシ」と読むのですが、その二つの言葉は、明治革命後に「発明」されたものなのです。
それは違う、「神社」、の言葉は、古文書にあるではないか、と言っても、その古文書での明治革命以前の発音では、「ジンジャ」ではなく、「モリ」、とか「ヤシロ」「ホコラ」と発音していたのです。
そもそも、1017年の平安時代に本地垂迹説が発明されて以降から明治革命以前まで、神社(モリ・ヤシロ)は、仏寺に習合され「神宮寺」として存続していたのです。903年藤原氏より謀殺された菅原道真を祀る社(ヤシロ)は、天満神社(ジンジャ)ではなく、天満宮(グウ)であったのです。つまり、神社(ジンジャ)とは、明治革命後に発明されたものなのです。1869年明治革命での死者を祀るために、九段に建立されたのは「招魂社」で、「ジンジャ」と呼ばれていくのは、明治維新から少し経った後であたのです。それが、靖国神社(ジンジャ)です。
では、「志士」はどうか、「勤皇の志士」などの言葉が、歴史教科書にあるではないか、と言っても、その「志士」を説明する、角川書店の「日本史辞典」一版、二版での「坂本竜馬は幕末の志士」が、平成8年発刊の第三版では、「幕末の倒幕運動指導者」とあるのです。何故、「志士」が、「指導者」となってしまったのでしょうか。
その謎解きは、その「志士」なる言葉は、明治革命以降に、明治革命の歴史を創作した人達により改竄されたものが、平成時代になり、その「志士・シシ」の本来の意味が分かったからでしょう。
その「志士」といわれるひと達は、薩摩藩や長州藩の官軍側の武人で、敵側の百済系徳川家の忠臣会津藩士から、有志と自称する「浮浪の徒」、と蔑視されていたのです。このことは、江戸時代の第三百済王朝で、江戸幕府を支配した百済系「サムライ」により、江戸幕府機構から追放された秦氏末裔の「源氏武士」が、「俘囚の末裔」と蔑視されたことと同じです。
では、会津藩士が、長州や薩摩の武人を蔑称した「志士・シシ」とは、何を意味していたのでしょうか。その「シシ」の語源は、唐進駐軍の後ろ盾により、亡命百済貴族が、陸奥国を支配していた騎馬民族を平定した、平安時代まで遡るのです。
弥生時代、古代オリエントから日本列島に渡来していた、太陽神ミトラを祀るため太陽神化身の牡牛を屠る秦氏により、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代にはゾロアスター教の儀式を導入した漢訳仏教の「火の祭祀」儀式により抹殺されたのですが、その秦氏の「血の祭祀」儀式の一部は、芸能として、今日まで細々と続いているのです。それが、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、「野獣の総称」です。
平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、「秦楽」が「猿楽」と言われたように、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽していたのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。
では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。
奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王(紀元前336年〜紀元前323年)により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)に至るのです。
そのバクトリアでの唐草模様は、バクトリアの衛星国である秦国(紀元前221年〜紀元前206年)を経て中国の呉国(222年〜280年)から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(356年〜528年)を経由して、九州筑紫(527年〜528年、藤原日本史では、「筑紫国造磐井の反乱」とする。しかし、国造制度は、六世紀後半に現れ、この頃にはなかった制度。)に上陸するわけです。
このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、「秦王国」(後に簒奪王権により「豊国」と改竄される。)があった地域だったのです。その九州の秦王国を、608年渡来した隋使は、「その地は華夏(中国)と同じ文化である。」、と隋帝に報告したことが「隋書」で述べられているのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
その古代オリエントから渡来した唐草模様のある獅子舞は、平安時代に突然現れ、野獣踊りと言われ、百済系王権により秦氏の祭祀場から追放された、河原者によりおこなわれていたのです。つまり、河原者とは、会津藩士が言うように、「浮浪の徒」であるのです。
その河原者の祖は、奈良時代の秦氏末裔の祭祀者だったのです。唐から漢訳仏教を持ち込んだ百済系平安王朝により、秦氏の太陽神ミトラを祀る祭祀場の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その秦氏の「血の儀式」をおこなう祭祀場である「蜂岡寺」が、藤原氏や亡命百済貴族により改竄され、「日本書紀」の仏教伝来物語により、秦河勝が、聖徳太子の命により、弥勒菩薩を安置するために「広隆寺」を建立した、と改竄されていたのです。
因みに、国宝第一号と云われる、歴史教科書に写真が掲載されているアルカイックスマイルと云われる「弥勒菩薩像」は、「聖徳太子」の古来から保存されていたものではなく、明治革命後に、何処かで発掘された原型を留めていないボロボロの像を、明治の仏像職人の感性により「復元」されたものであったのです。
明治革命で活躍した「シシ」とは、藤原日本史が述べるように「志士」などではなく、秦氏末裔の「河原者」のことであったのです。
ですから、騎馬民族末裔の血が流れる初代将軍徳川家康の系統を断った、百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光の異母弟と云われる保科正之を始まりとした、百済系王朝の天皇家を京都で守護する百済系の「サムライ」である会津藩士は、その平安時代から河原者の賎民として貶められていた秦氏の歴史を知っていたからこそ、明治革命で活躍した薩摩や長州の秦氏末裔の「源氏武士」末裔の武人を、「有志と自称する浮浪の徒」と蔑視していたのです。
坂本竜馬は「幕末の指導者」なのではなく、「幕末のシシ=河原者」であったのです。そのような、「志士」ではなく、「シシ・河原者」の眼から、もう一度、幕末から明治革命までの流れを眺めて見ましょう。そこには、藤原日本史が爽やかな物語で綴った明治維新の裏に、どのような歴史があったのでしょうか。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/850.html
コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
29. 2015年2月01日 10:58:11 : 1ulFBhsxPY
共産党が12月の総選挙で21人の当選者を出し早々に「現実主義」に転向するのは私は予測できた。21人の当選者を出した最大の原因は日本共産党が領土問題で自民党よりタカ派で〈全千島列島」の返還要求や竹島。尖閣諸島での強硬路線が右傾化層の支持を受けたからと見ている。真の反戦平和政党とは違うと思う。つまり領土問題では自民党タカ派などと同じ視線だと思う。当然自由法曹団の現実路線含め現実適応し今後急激にすべての面で現実路線へ転向すると見ています。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c29
コメント [原発・フッ素41] 東京都に昨年一年間、降り注いだ放射性セシウムは61.65メガベクレル。福島、茨城に次いで全国三位。都全体では134ギガベ 赤かぶ
06. 2015年2月01日 10:58:20 : K65V0hnL4w
放射性物質は消えない、無限循環するのみ。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/746.html#c6
記事 [国際9] イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声)
http://japanese.ruvr.ru/news/2015_01_29/282535273/

イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」

イスラム国のリーダーの一人が、米国から資金援助を受けたと語っている。パキスタン紙「トリビューン」をもとにロシア24が伝えた。


ラホールで収監されているユザフ・アル・サラフィ氏は22日、尋問の過程で、パキスタン部隊の設置、またシリアにおける軍事行動用に若者を選別することについて、米国から財政支援を受けた、と述べた。新兵には各600ドルが支払われたという。「米国は自分の利益のためにイスラム国を支援したという印象を払拭するためにこそシリアでなくイラクでイスラム国攻撃を始めたのだ」。

コメント


Rumi SuzukiRumi Suzuki 1月 29 , 11:46
米国の悪事はあちこちでバレてましゅ。

cookiecookie 1月 30 , 07:01
真犯人を探していけば最後は必ずアメリカに当たる・・CIAだ。

Minoru SugiyamaMinoru Sugiyama 1月 30 , 07:05
この記事が真実であれば、米国は世界中に紛争を拡散することで利権を拡大する国家といえる。


Minoru SugiyamaMinoru Sugiyama 1月 30 , 07:06


木手英一木手英一 31.01.2015, 08:24
最近、こういうのバレてきてるから、上の人間はシナリオ変えてくるかも。


Chiba KazumasaChiba Kazumasa 31.01.2015, 10:11
だよな


堂島米市堂島米市 31.01.2015, 12:00
パキスタン紙「トリビューン」原文です。 http://tribune.com.pk/story/828761/startling-revelations-is-operative-confesses-to-getting-funds-via-us/


http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/878.html

コメント [環境・自然・天文板5] (宇宙)空間の膨張は絶対に観測できない JPLAW
07. 2015年2月01日 11:00:39 : urxvtQOtCs
>05 第一、相対性理論も光の速度に近付くと物質の質量が無限大になると言っているではありませんか。宇宙の果てはほぼ光の速度で遠ざかっているというのが現在の宇宙膨張論です。これはおかしい。

04です。遠方の銀河・星が光速度で遠ざかっているようだ。だからこそ宇宙が膨張しているのだ と考えられたのであって、つまり逆にそれ以外だとまさしく物質が光速度以上になってしまうのでありえないではないかと。
http://www.asyura2.com/13/nature5/msg/734.html#c7

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
158. BKカンジャ 2015年2月01日 11:02:24 : MgpLmhkns6CKU : kxk7MnCbWU
この「イスラク国人質殺害事件」の「目的」がわかったぞ・・・

アベたちは利用されているだけ・・・

米共和党の、リンジー・グラハム上院議員とジョン・マケイン上院議員の「選挙資金集め」だ・・・

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0L30M320150130

ISIS指導者のバグダディさんは、本名はサイモン・エリオットというユダヤ人。で、当然ながら、ユダヤ金融悪魔の代理人、米共和党ジョン・マケイン上院議員ともお友達・・・

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201501/article_119.html

リチャード・コシミズさんは、覚醒B層なのか、ユダ金Bチームなのか・・・

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c158

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
06. 2015年2月01日 11:04:36 : AilVLnl0Hs
出国時点から一部閣内では拘束されたら見殺しにする
合意が出来ていた。だからあえてァヘは
面会求めた母上に合わなかった。
国民を同胞と見ていない冷酷ァヘの精神構造が見える。

この姿は沖縄知事にも既に見せていた。
攻撃加え強行に基地建設を進める事は閣内合意事項
で報道管制を加えた。だから海保警察が行っている
沖縄県民に対する蛮行をマスゴミは報道しないのだ。

この、国民を無差別攻撃するァヘが中東で発声した
言葉で、ついに中東の組織が日本国民すべてをテロの標的に
すると言わせてしまった。発言には結果責任を負う
国会議員にとって決定的な意味を持つ。

憲法を軽んじ国民の生命を危険にさらす精神構造持ち主、
人の皮をかぶった病犬を野放しにして居てはいけない。
戦後の生活を安泰に導いて来た歴史に学ぶ与野党議員
は、早急に対応するだろう事を国民は望んでいる。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c6

コメント [音楽15] Kailash Kher's brand new song - Na Batati Tu で爺
05. 2015年2月01日 11:05:57 : xg6BcQI3Hk
ん、この場合は、こぶしを「効かす」とか、「回す」か。失礼。


http://www.asyura2.com/14/music15/msg/768.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
22. 2015年2月01日 11:06:21 : RkB9NJspPU
なんで、なんで勝手にイスラエルと軍事同盟なんだよー
なんでそんなになんでも勝手に出来る権限があるんだよぉー

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c22
コメント [お知らせ・管理21] 2015年1月 削除依頼・削除報告・投稿制限連絡場所。突然投稿できなくなった方は見てください。2重投稿削除依頼もこちら 管理人さん
138. 2015年2月01日 11:07:20 : KRuvaXEobI
二重投稿になってしまいました。申し訳ありませんが削除願います。

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国際9

イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声)
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/878.html


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戦争b14

イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声)
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/850.html


byこーるてん


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/353.html#c138

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(23)(明治政府はイギリス東インド会社の傀儡政府だ:夷を以って夷を制す)
歴史は、後のひと達により、ある目的を持って語られる昔物語です。ですから、目的が異なるひと達により語られる歴史物語は、百人いれば百の歴史物語が生まれるのです。
その歴史物語を後世のひと達に語り継ぐ目的により、いろいろな歴史グッズが創作されます。そのひとつに、銅像があります。後世のひとに、歴史物語をリアルに訴える目的で創られる銅像は、歴史上重要人物であるのです。
1603年江戸を開府した秦氏(秦羅・新羅)末裔の徳川家康は、百済系天台宗の日光東照宮に祀られて(?)いるほど、歴史上重要人物です。しかし、その銅像が作られたのは、1993年(平成5年)であるのです。不思議なのは、1854年江戸幕府を脅して日米和親条約で開国させた、わざわざマカオ経由で、シーボルトが持ち出した伊能忠敬の模写日本全図を持参して渡来したマーシュ・C・ペリー提督の銅像は、1954年(昭和29年)であるのです。
日本歴史上の重要人物であるニッポン人の徳川家康よりも、39年早くアメリカ人のペリーの銅像がお目見えしたのは、何か意味があったのでしょうか。
一般的な徳川家康のイメージは、戦国三武将(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の中でも、あまり良いものではなく、「タヌキ爺」です。そのイメージの理由として、徳川家康が、島原の乱でキリシタン弾圧、外様大名をイジメるための参勤交代制、穢多といわれる賎民を漢訳仏教思想により寺請制と「士農工商・穢多非人」の身分差別でイジメた、そして、鎖国を断行した、と思われています。
しかし、それらの事跡は徳川家康がおこなってはいないのです。士農工商の身分制は、1591年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が発明したものです。1637年〜1638年のキリシタン弾圧の島原の乱は、第三代目将軍徳川家光がおこなったものです。そして、1635年からの参勤交代制は、第三代目将軍徳川家光がおこない、そして、鎖国は、1639年第三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
何故、徳川家康は、そのように負のイメージを負わされたのでしょうか。それは、明治新政府(藤原氏・近衛家)にとって、徳川家康が、タヌキ爺だったからです。
徳川家康は、天下を盗ると、1611年藤原氏の傀儡天皇である後陽成天皇を退位させたり、漢訳仏教組織から多額の金を巻き上げていた紫衣の着衣許可を禁止し藤原氏の斡旋料の収入源を止めたり、そして、第二代目将軍徳川秀忠の娘を後水尾天皇に入内させ、後に、騎馬民族の血が流れる女帝明正天皇としたりと、藤原氏や百済系天皇家をイジメていたのです。その結果、1616年75歳の徳川家康は、毒殺(藤原日本史ではテンプラ中毒とされる。一説では胃がん。)されてしまうのです。
そして、何よりも徳川家康は、藤原氏と亡命百済貴族の仇敵である、母国百済を滅ぼした秦氏末裔の騎馬民族、源氏武士の棟梁(長者)であったからです。ですから、徳川家康を讃えることは、イギリス東インド会社が軍事・資金支援する藤原氏が支配する明治新政府にはできなかったのです。
イギリス東インド会社の軍事・資金支援により薩摩藩を支配していた藤原氏(近衛家)により計画・実行された明治革命とは、645年唐進駐軍に支援された中臣族(藤原氏の祖)が、秦氏と突厥帝国進駐軍により支配されていた、軍事都市飛鳥ヤマトを倒したことと同じ物語であったのです。つまり、「歴史は繰り返される。」ようです。
極東の日本列島は、藤原日本史が述べるように孤島などではなく、古来から遠方の異民族が渡来する地であったのです。それは、地下資源と植物を育成するには好条件の気候があったからです。
紀元前の縄文時代には、岩手県久慈とバルト海沿岸とは琥珀ロードで結ばれていたし、古代中国王族を飾った翡翠は、糸魚川産であったのです。更に、縄文時代から弥生、そして古墳時代にかけての奈良宇陀では、朱砂が産出され、三輪山の麓では渡来異民族とにより沈黙交易が盛んにおこなわれていたのです。
紀元一世紀になると、ローマ帝国と後漢との絹交易が盛んとなり、中国の絹商人は繭の増産のため、温暖な日本列島に華南種の蚕ポンピックスモリを持ち込み、荒地を開墾し桑畑の耕作地とし、日本列島は絹の生産地とされていったのです。この異民族渡来と、三世紀から始まる巨大古墳の築造とが時代的に重なるのです。この頃を、藤原日本史では、弥生時代といっているのです。巨大古墳築造の北限が、岩手県以南であることは、蚕の飼育と関係があったからです。
そのように、日本列島は、古来から絹製品の産地であったのです。戦国時代のイエズス会の渡来は、ポルトガルとイスパニアが日本列島の石見銀山の銀簒奪が目的であったのですが、江戸時代中期から、鎖国の日本国へ通商を求めた諸外国の目的のひとつが、絹製品であったのです。1600年設立のイギリス東インド会社も、その交易品のひとつが絹製品であったのです。
1600年インドのムガール帝国(1858年イギリス領となる。)に設立されたイギリス東インド会社は、インドで仕入れたアヘンを、明帝国に持ち込み、絹製品を手に入れていたのです。
そのインドから清帝国への交易拠点は、イエズス会が極東侵略の拠点としていた、マカオです。1808年イギリス軍艦は、マカオを攻撃して、そこを占拠したのです。このマカオから、1853年フリーメーソン会員がデザインした1ドル紙幣と「自由・平等・博愛」のスローガンと供に、アメリカ使節のペリー艦隊が浦賀に渡来するのです。
細々とおこなわれていたこの明帝国(1368年〜1662年)とのアヘン・絹交易は、1840年イギリス王国と清帝国(1616年〜1912年)との戦争につながっていくのです。これがアヘン戦争(1840年〜1842年)です。このアヘン戦争により、清帝国での絹製品生産がガタ減りとなってしまったのです。
そこで、イギリス東インド会社が目に付けたのが、古来から中国の下請けで絹製品を生産していた、鎖国の日本国であったのです。1849年イギリス船は、交易を求めて長崎に渡来するのです。この頃、フランスもロシアも、通商を求めて日本列島に来航するのです。しかし、幕府はこれを拒否するのです。
そこで、1853年、イギリス東インド会社の極東侵略基地であるマカオから、米使ペリーが四隻(二隻は帆船)の軍艦により軍事武力の威圧を示して、浦賀に来航し、通商を幕府に求めたのです。それに対して、幕府は開国の可否を諸侯有司に問うのです。そこで、幕府内では攘夷論派と開港論派との激論が戦わされていくのです。
それを仕切るのが、ペリーの来航のストレスで亡くなった徳川家慶の跡を継いだ、第十三代目将軍徳川家定です。徳川家定は、アテトーゼ・タイプの脳性麻痺の兆候があり、「なにごとにつけても理解が足りず、こと異国船のことなど一切おわかり」でなかったのです。
1856年(安政3年)開港論派の外様大名の薩摩藩主島津斉彬は、正室をなくした徳川家定に、養女敬子(すみこ、後の篤姫)を御台所として送り込むのです。しかし、徳川家定は、重い脚気を患い結婚生活をいとなむドコロではなかったのです。そして、1858年(安政5年)、急性心筋障害で35歳の徳川家定は亡くなるのです。
このことは、藤原氏により乳母として徳川家に送り込まれた春日局(お福)による、徳川家康毒殺と共通点があるようです。それは、島津斉彬は、鎌倉時代から藤原氏と姻戚であったからです。
この島津家の養女を近衛家(藤原氏本流)の養女とし、江戸幕府将軍に嫁がす戦略は、第十一代目将軍徳川家斉の時でもおこなわれていたのです。その戦術は、島津家の於篤(おあつ、後の茂姫)を近衛家の養女寔子(ただこ、後の茂姫)とし、第十一代目将軍徳川家斉に入内させていたのです。この徳川家斉の時代に、初代徳川家康の、騎馬民族の血が流れる紀伊・尾張・水戸の御三家が、百済の血が流れる田安・一橋・清水の御三卿に代わってしまったのです。
そして、幕府の倒壊は、その御三家の支配地であった水戸の浪士による井伊直弼の桜田門の変(1860年)と尾張のええじゃないか運動(1867年)とから始まるのです。
時代の変革時に必ず現れるのが藤原氏です。江戸時代末期、南九州薩摩藩に隠棲する藤原氏(近衛家)は、琉球王国を支配地としていたのです。そこで、南海交易の密貿易をおこなっていたのです。藤原氏は、日本産の絹を輸出するために、幕府の鎖国擁護派を解体したかったのです。
藤原氏の祖である中臣族(中→ナカ→ナーガ→ヘビ)は、四世紀頃、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した民族で、奈良時代にユダヤ教儀式に酷似した中臣神道を発明した部族であったのです。その南海交易ルートにより、古来から南インド産出の沈香や香木を日本列島に持ち込んでいたのです。戦国時代では、火薬の原料の硝石や鉄砲を、その南海ルートから琉球→坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺へ密輸していたのです。
その藤原氏の南海ルートのひとつである琉球に、1844年リヨンの絹生産工場が求める繭を入手する目的でフランス船が来航し、そのことにより、薩摩藩はフランスと交易を始めたのです。
イギリス船やフランス船の来航は、1784年オランダ人医師ツンベルクが「日本植物志」を著し、日本列島の植物分布を調べていたことが遠縁となっていたのです。それは、江戸時代中期の日本列島に、シルクロードがあったからです。その日本版シルクロードとは、桐生→八王子→横浜であったのです。
1853年米使ペリーが、イギリスの極東侵略基地マカオから浦賀に来航したのは偶然ではなく、伊能忠敬の日本全図により、桐生・八王子で産出される絹製品を、江戸幕府に悟られずにイギリスに運び出すには、最適な港であると知ったからです。
1856年米総領事ハリスが下田に在住すると、まもなくして横浜の港町に赤レンガの倉庫群が建設されていくのです。それは、桐生・八王子から産出される絹製品を、秘密裏に海外に持ち出すためだったのです。
1775年イギリス王国とのアメリカ合衆国独立戦争の勃発により、1776年独立軍はアメリカ十三州の独立宣言をおこない、1777年サラトガの戦いと続いていくのですが、そのイギリス王国との戦闘に終止符を打ったのは、1778年アメリカ・フランス同盟条約が締結されてからです。このことは、江戸末期の明治革命での、1866年密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との同盟を連想させます。
その影には、アメリカのフリーメーソン・ロッジとフランスの「九詩神のロッジ」の存在があったのです。その仲を取り持ったのが、アメリカフリーメーソンのベンジャミン・フランクリンであったのです。では、日本国の明治革命では、薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介したのは誰だったのでしょうか。坂本竜馬と答えると、それは藤原日本史の罠にかかったことになります。
1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
1862年江戸幕府は、蕃所調所の西周と津田真道を、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダに留学させたのです。その指導にあたったのがライデン大学のフィセリング教授で、勿論フリーメーソンの会員だったのです。
1716年イギリス王国で成立したフリーメーソン組織により、十九世紀の世界では、「自由・平等・博愛」のスローガンの下で、「十三部族による新しい秩序に同意せよ。」とのミッションにより、放蕩貴族、国際金融家、医師、弁護士、教授、富豪商人などの上層階級フリーメーソン会員で繋がっていたのです。その最終目的は、「ワン・ワールド」です。
幕末の長崎出島に多く渡来したのがオランダの医師(ツンベルグ・シーボルト等)であったのは、蘭学塾で「ワン・ワールド」のために働く「兵隊」を養成するためだったのです。
その西周が、オランダでフリーメーソンの儀式で入会をおこなっていた頃、1864年イギリス陸軍第二十連隊の分遺隊が、横浜に駐屯し、アイルランド系の「軍事ロッジ」である「スフィンクス・ロッジ」が開設されるのです。その翌年1865年イギリスのグランド・ロッジの傘下として、「ヨコハマ・ロッジ・N0.1092」が開設されるのです。しかし、それらの各横浜ロッジでは、日本人の加入は許されなかったのです。
幕府側のオランダフリーメーソンと、その幕府を倒すために進駐した「軍事ロッジ」のイギリスフリーメーソンとが情報を秘密裏に交換することにより、明治革命が進行するのです。
明治革命が薩長土肥の「シシ・河原者」(「志士」は藤原日本史が発明)だけでおこなわれたのではないのは、西郷隆盛が江戸総攻撃をおこなう前、東海道先鋒総督参謀の長州藩士木梨清一郎と大村藩士渡邊昇は、フリーメーソンのロッジがある横浜のイギリス公使パークス(1856年アロー号事件により清帝国を戦争に導いた人物)を、江戸総攻撃の許しを得るために訪れていたのです。
しかし、幕府側の勝海舟が、もし、江戸を攻撃したら江戸も横浜も火の海にするという脅しをかけていたので、横浜で絹製品を保管している赤レンガ倉庫群を焼かれては困るイギリス東インド会社は、パークスに江戸総攻撃を中止させたのです。つまり、西郷隆盛と勝海舟との「江戸無血開城」の裏には、横浜のイギリス商人の思惑があったのです。
藤原日本史の特徴は、渡来民族や外国軍団の渡来を一切語らないことです。そして、日本列島の歴史の流れを、日本人のみで語っていることです。更に、渡来人も日本人として改竄して語っていることです。
例えば、飛鳥ヤマト時代の607年遣隋使ソ・インコウ(「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅(秦羅)のこと。)を「小野妹子」としたり、戦国時代にイエズス会宣教師と供に渡来した、砲撃の名手でイタリア人の十字軍マルタ騎士団のロルテスを「山科勝成」として語っていることです。
幕末の外国軍団の渡来は、イギリス軍だけではなかったのです。イギリス王国の海賊交易に対抗してフランス帝国も軍団を送り込んでいたのです。1867年シャノアーヌ以下19名の軍事顧問団が、横浜でフランス式陸軍の三兵伝習を始めたのです。勿論、革命軍側のイギリス軍事顧問団に対抗して、フランス軍事顧問団を招いたのは江戸幕府です。
明治革命とは、イギリス軍顧問とフランス軍顧問との戦いでもあったのです。1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた幕府軍の榎本武揚は、フランス軍事顧問のブリュネ、カズヌーブと、兵士のマルラン、フォルタン、ビーフィ、ニコル、コラシュ、クラトー、ブジェ、トリブ等と供に、函館に五稜郭を建設して、明治新政府からの独立を宣言したのです。しかし、1869年5月18日五稜郭は、イギリス軍事顧問率いる、薩長土肥による明治革命軍の総攻撃により陥落したのです。
では、この明治革命とは、一体、誰により、何を目的に、どのようにしておこなわれたのでしょうか。
歴史物語は、目的を持って昔物語を語るひとにより、異なります。ですから、百人いれば、百の歴史物語が生まれるのです。しかし、権力を握ったひとは、その権力者に都合の悪い歴史は、抹殺、或いは改竄するのが常です。
例えば、徳川家康が、弾左衛門一族の土木技術により、関東の湿地帯を開拓してエド町を造り、そのため、弾左衛門の居住地は、エド城の近く(現在の三越デパートのある日本橋室町近辺)にあったものが、第三代目将軍徳川家光の時代になると、その弾左衛門の居住地が、浅草寺裏の湿地帯に移封され、堀を廻らされ、更に仏寺で囲まれたのです。そして、その弾左衛門の居住地跡に、京都に本店のある越後屋が呉服店をだすのです。
第三代目将軍徳川家光の時代から、弾左衛門屋敷跡の日本橋界隈が、京都・大阪などの関西人の商売人が多く住んだのはなぜでしょう。そして、弾左衛門支配地であった人形町界隈に、京都で発明された歌舞伎の演劇小屋が建てられたのはなぜでしょう。何故、風俗芸である女歌舞伎が、霊を鎮める能芸の神聖な能舞台でおこなわれたのでしょうか。
江戸時代の歴史・風俗がよく分からないのは、明治新政府が、明治の支配者に不都合な江戸時代の歴史を抹殺、或いは改竄していたからです。
歴史の謎は、権力者により抹殺された歴史物語に、その解明のヒントが隠れているようです。江戸末期から明治維新にかけての謎も、その例に漏れません。
明治維新物語の謎を解く鍵のひとつとして考えられるのが、株式会社日本銀行(以降「日銀」)です。日銀は、1882年(明治15年)設立されたのです。その目的は、イギリス王国のイングランド銀行が、フランスとイスパニアと戦うための戦費を集めるために1694年設立されたように、日銀が設立されると、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争が勃発するのです。
そこで、日銀による日清・日露戦争の歴史を調べようとしても、1997年6月11日改正日本銀行法が参議院本会議で成立し、1998年施行され、日銀は国会の議員により日銀の行動不明な歴史を追求できないパンドラの箱に収まってしまったのです。
平成18年、日銀総裁(前歴は国際金融組織である米投資会社ゴールドマン・サックス顧問)が、脱税の天国であるケイマン島に本社を持つファンドに投資していたのが発覚したのです。しかし、マスコミは騒がず、野党も政府も追及できず、ノラリクラリ弁明する総裁は任期イッパイ、ゼロ金利を維持するお仕事に励んでいたのです。その結果が、平成19年アメリカ合衆国のサブプライムローンの破綻に繋がったのです。
それは、国際金融組織が、ただ同然の金利で借りた日本国のお金で、諸外国の金融商品を買い漁り、不当に金融商品を吊り上げた結果であったのです。では、日銀は、日本人のためではなく、誰のための金融組織なのでしょうか。この平成20年の全世界を巻き込んだ国際金融の混乱は、ある組織により計画された「事件」で、それは、「ワン・ワールド」への道程のひとつなのです。
しかし、不可思議な行動をする日銀の謎解明の手掛かりはあるのです。それは、初代日銀総裁の吉原重俊の出身が鹿児島県(江戸時代の薩摩藩)であることと、2005年の日銀の資本金一億円の内、政府が55%、残り45%が政府以外の株主であることです。その政府以外の株主構成は、個人39.2%、金融機関2.7%、公共団体等0.3%、証券会社0.1%、そして、その他の法人2.7%であることです。
犬猿の仲である薩摩藩と長州藩が、倒幕で軍事同盟を結んだのも謎ですが、明治革命後の、明治革命成功の功労者であった官軍指揮官の西郷隆盛と、イギリス王国より買い入れた最新式銃で武装した、切り込み部隊としての長州藩の奇兵隊とが、明治新政府から手酷い仕打ちを受けたのも謎です。つまり、明治革命の勝者である「西郷隆盛」と「奇兵隊」は、歴史上敗者であったのです。
日銀の39.2%を握る「個人株主」とは、一体誰なのでしょうか。勿論、株主名簿に記載されている複数人は、外国人の代理人であることは、大いに疑えます。それは、明治維新には、イギリス東インド会社の思惑があったからです。そこで、そのような視点で、幕末から明治維新を、もう一度ながめることにしましょう。
1641年第三代目将軍徳川家光により、鎖国が完成すると、日本列島はひと時の平安を貪るのです。1768年内宮と外宮の間にある古市の遊郭巡りを兼ねて、神仏習合の伊勢のお蔭詣りが流行するほど、天下泰平であったのです。しかし、1771年不凍港を求めるロシア帝国の船が阿波に漂着すると、江戸幕府は平安な夢心地から覚醒させられるのです。
そして、1783年浅間山の噴火により、農作物の被害が広がり、天明の大飢饉が、1788年まで続くのです。その結果、米価が高騰し、江戸・大阪で、天明の打ちこわしが起こるのです。混乱の時代は、新しい思想の登場求めます。それが、漢訳仏教思想に替わる、蘭学と国学です。
漢訳仏教思想は、民間の富永仲基や禅宗の白隠禅師からも、その思想の空虚さを指摘されるほど、江戸中期では衰退していたのです。それに対して、蘭学は、ツンベルグなどの蘭学医師などが、西洋の合理的・科学的思想を庶民の子弟に教授したため、外国文明に憧憬を持つ若者のこころを惹きつけたのです。その結果、1785年には日蘭辞典が発刊されていたのです。
それに対して、漢訳仏教の基である中華思想と、日本文化を破壊すると信じた蘭学に不快感を示すひと達が現れたのです。1763年万葉考を研究する賀茂真淵を本居宣長が訪れ、日本古来の思想を求める国学の興隆が芽生えていくのです。その国学者達は、漢語と異なり、飛鳥ヤマトで語られた万葉語は、日本古来の「まほろばの言葉」であると信じていくのです。
しかし、平安中期に完成した、その飛鳥ヤマトの「万葉語」とは、漢字を使った「表音文字」で、その祖は、アルファベット文字の流れにあったギリシャ・ローマ文化国の「古代新羅語」であったのです。
漢語を知らない古代新羅では、「表音文字」の道具として「漢字」を使っていたのです。それは、古代新羅は、ギリシャ文化継承国バクトリアから歴史の流れに沿っての渡来軍事部族により支配されていたからです。ですから、四世紀から漢訳仏教文化国の高句麗や百済が漢語を巧みに使い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのに対し、528年まで仏教文化国ではないため漢語を知らない古代新羅は、百済の通訳使を雇い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのです。
漢語で記述された「日本書紀」を嫌う本居宣長は、万葉語で記述された「古事記」の世界を「日本の原風景」として信じてしまったのです。しかし、「古事記」は、「日本書紀」の後に記述されていたのです。「古事記」は、完全な日本版万葉語で著述されていることから、奈良時代の712年完成ではないのです。それは、日本版万葉語が完成したのは、平安時代初期であったからです。
神仏習合の江戸時代で、この「古事記伝」を語る国学者により、日本古来のカミ(神)は、中国から渡来した仏などではなく、天照大神であると信じられていくのです。その国学思想は、南九州に隠棲する藤原氏には都合の良い思想であったのです。
それは、天照大神とは、日本国初の天皇である天武天皇(藤原氏は、「日本書紀」により、日本初の天皇を「神武天皇」とした。そのウソを隠すために、藤原氏は、江戸時代末期から明治革命にかけて神武天皇稜を創作していたのです。)により祀られた伊勢の道観に鎮座する神である北極星(太一)を、唐進駐軍の後ろ盾を得た藤原氏全盛の奈良時代に、秦氏の神である太陽神ミトラを変身させた、藤原氏が発明した「人工神」であったからです。
そのような国学思想が語られる時代に、ロシア船だけではなく、西洋諸国が開国を求めて来航するのです。この諸外国の軍艦による威圧外交を不快に思う若者が、国学思想に傾倒していくのです。そこで、国防となるのですが、第三代目将軍徳川家光時代から、「武士」ではなく、「サムライ」が支配する時代となり、更に、京都から江戸に来た歌舞伎演劇などの芝居で演じられた「武士」の日本刀による立ち回りにより、幕末には、「武士」の戦いは、「日本刀」でおこなっていたと信じられたため、国防に燃える若者により、道場での「剣道」が流行るのです。
江戸時代初期の「武士」の時代の道場で教えていたのは、剣道ではなく、槍術であったのです。1543年銃が渡来する前の「武士」の実戦的武器は、「日本刀」なのではなく、弓馬、そして、槍であったのです。
1651年紺屋の倅である由比正雪が乱を起こし、「武士」が「サムライ」により抹殺されたのですが、その「武士」である由比正雪が経営していた道場では、「剣術」ではなく、「槍術」を伝授していたのです。
「武士」の魂である「日本刀」は、実践的武器などではなく、神聖な武器で、敵将の首を落とすためのものであったのです。その「武士」が、「日本刀」での戦闘訓練などすることはありえなかったのです。
例えば、地上戦で、「直刀」の武人と、「反りのある日本刀」の武人とが対峙し、同時に刀を振り下ろした時、どちらの武人の刀が先に切れるかを想像すれば、日本刀が地上戦での実用的武器ではないことが理解できるでしょう。鎌倉時代に渡来した禅宗組織は、鎌倉の砂鉄で鍛造された日本刀を「美術品」として南宋に輸出していたのです。
日本刀は、騎馬民族の武器である、反りのある蕨手刀を改良して、平安中期に創作された、怨霊を鎮めるための祭祀用の武器であったのです。ですから、その日本刀は、政権の秩序を乱す国賊の断罪のための斬首の儀式に用いられていたのです。公開処刑は、現政権の威光を示すパフォーマンスであるから、庶民の集まる広場で、古来からおこなわれていたのです。その処刑での斬首をおこなう者は、誰でもよいわけではなく、代々の処刑祭祀氏族でなければならなかったのです。
江戸時代以前に、徳川家康が、大阪の役人村から、エドに移住させた一団には、処刑祭祀氏族がいたのです。その処刑での斬首のパフォーマンスは、1880年(明治13年)に制定された刑法により「斬」から「絞首刑」に替えられてしまったのです。その祭祀用である日本刀での斬首をおこなっていたのが、首切り浅右衛門一族であったのです。
幕末の「国賊」吉田松陰の首を、長吏頭弾左衛門の支配地の処刑場の小塚原で日本刀で切ったのも、浅右衛門であったのです。この「国賊」の吉田松陰は、1859年穢多の支配地で斬首され、穢れ地に犯罪者と供に埋葬されたのですが、それから9年後の、1868年の明治革命での先駆者として「英雄」として尊敬されていくのです。何故、この9年の間に、「国賊」から「英雄」に変身していたのでしょうか。では、吉田松陰が斬首された後の9年間に何があったのかを考えてみましょう。

1858年(安政5年)■インドのムガール帝国セポイの反乱により「イギリス東インド会社(イギリス王国承認の私的合資組合)廃止」→商社として生き残る、英のインド直轄統治が始まりムガール帝国滅ぶ→英極東への本格的海賊交易始まる。
1859年(安政6年)越前藩・薩摩藩・土佐藩・宇和島藩・水戸藩の改革派である一橋派に対して井伊直弼による「安政の大獄」で大虐殺、吉田松陰斬首、プロテスタントの伝来、横浜にイギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会設立、グラバー来日。
1860年(万延1年)桜田門の変で井伊直弼客死、老中安藤信正等が公武合体を策す、米語通訳オランダ人ヒュースケン暗殺、オランダ製咸臨丸浦賀からサンフランシスコに向い米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後9月品川沖に到着、艦長は軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎、幕府「五品江戸廻令」で輸出品の統制をおこなう→上州・武州「絹裏街道」の発達(■英仏通商条約、英仏連合軍が清帝国の北京占領、英仏・ロシアと清帝国が南京条約を結ぶ、その後、清帝国内で1850年に始まった太平天国の乱が1864年まで続き国内荒廃する→★絹生産大激減)
1861年(文久1年)長州藩士長井雅楽が公武合体の議を建白(何故か後に藩論が一変する)、英公使館(東禅寺)襲撃、ロシア船が対馬侵寇、孝明天皇が幕府による攘夷実行誓約を条件に第十四代目将軍徳川家茂夫人として妹和宮降嫁。(■露農奴解放宣言、米南北戦争始まる)
1862年(文久2年)坂下門外の変で老中安藤信正襲われる→攘夷運動突入、島津久光が公武調停を企図、寺田屋騒動、生麦事件、京都守護職を置く、孝明天皇の朝議が攘夷に決する、薩摩藩の暗躍により朝廷の後ろ盾を得て安政の大獄で失脚した一橋慶喜(後の第十五代目将軍徳川慶喜)が将軍後見職として復帰、幕府貿易船千歳丸上海訪問、千歳丸乗員者は高杉晋作(長州藩)五代友厚(薩摩藩)中牟田倉之助(佐賀藩)峰源蔵(大村藩)、英公使館(御殿山)焼討ち、長州藩吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬→罪人から尊皇攘夷の精神的シンボルへ変身。(■仏サイゴン条約でコーチシナ占有、ロンドン万国博覧会)
1863年(文久3年)徳川家茂上洛、攘夷論最高潮、5月長州藩が外国船砲撃(★瀬戸内海が封鎖され横浜からの絹製品輸出困難)、7月薩摩英国戦争、8月18日の政変で攘夷論者失脚し七卿は都落ちし長州藩に滞在、長州藩公武合体論から尊皇攘夷論に転換、天誅組の変。(■仏カンボジアを保護国とする)
1864年(元治1年)池田屋騒動、藤田小四郎等が挙兵、7月蛤御門の変→長州藩朝敵、8月瀬戸内海封鎖を解くため清帝国で太平天国の乱に勝利した英仏米+露の四国艦隊が下関砲撃、第一回長州征討、イギリス陸軍第二十連隊の分遣隊横浜に駐屯、軍事フリーメーソン「スフィンクス・ロッジ」開設、11月長州藩謝罪、仏公使レオン・ロッシュ着任。
1865年(慶応1年)4月長州再征を令す、イギリス商社により綿製品の輸入激増、そのため物価が高騰し摂津や隠岐で打壊しが起こる、イギリスフリーメーソンのグランドロッジ傘下の「ヨコハマ・ロッジNo.1092」開設。(■米南北戦争終わる→英武器輸出激減→英ジャーディン・マセソン商会の傘下であるグラバー商会が薩摩・長州に武器セールス)
1866年(慶応2年)1月薩長連合の盟約成る、6月長州再征、7月徳川家茂21歳大阪城で心筋梗塞で死去(暗殺説あり)、徳川慶喜が第十五代目最後の江戸幕府将軍となる、長州再征軍を解く、江戸と大阪で同時に打壊し運動起こる。(■大西洋横断海底電線敷設、朝鮮でキリスト教大弾圧、仏艦隊が朝鮮江華島攻撃)
1867年(慶応3年)攘夷論者の孝明天皇死去(暗殺説あり)し明治天皇(天皇すり替え説あり)即位、名古屋でええじゃないか運動が起こり全国に波及、10月14日倒幕の密勅が薩摩藩に下る、徳川慶喜が大政奉還を乞うことにより江戸幕府滅ぶ、12月9日王政復古の大号令。(■マライ海峡植民地が英直轄地となる、パリ万国博覧会)
1868(明治1年)明治維新、鳥羽伏見の戦い、江戸城明け渡し、神祇官の設置、神仏分離令、廃仏毀釈運動起こる、五箇条のご誓文、一世一元の制、江戸を東京と改称。
1869年(明治2年)版籍奉還、東京横浜間電信開通、戊辰戦争終わる。

江戸末期から明治革命にかけての日本の歴史には、イギリスなどの外国勢力が大いに影響を与えていたのです。その中でも、イギリスの商社の影響力は大です。そのイギリス商社からの武器・弾薬供給の働きがなければ、圧倒的に兵隊数が幕府軍より少ない薩摩・長州連合軍は、明治革命に勝利できなかったでしょう。
江戸末期の道場で、「もののふ」である「武士」の歴史的意味を知らない「サムライ」の子孫達による「剣術」で武闘訓練していた幕府軍団と、清帝国内で太平天国の戦乱(1850年〜1864年、1864年下関を砲撃したのは太平天国軍団を壊滅した英仏米+露海軍)を勝利していたイギリス軍事顧問により軍事訓練され、アメリカ南北戦争で使用されていた銃と射程距離3千mのキャノン砲を装備した薩摩・長州軍とでは「戦」にもならなかったのです。
それらの最新式武器を薩摩・長州連合軍に供給していたのが、ジャーディン・マセソン商会の傘下の長崎「グラバー商会」であったのです。1859年来日した20歳台のグラバー商会の支配人トーマス・ブレーク・グラバーは、明治革命で活躍した、五代友厚(薩摩藩)、伊藤博文(長州藩)、坂本竜馬(土佐藩・グラバーのダミー会社の海援隊支配人)、岩崎弥太郎(後の三菱財団長)などを裏で支援、育成していたのです。
明治革命を裏で駆っていたジャーディン・マセソン商会は、1832年イギリス東インド会社(イギリス王国認定の私的合資組合)の元船医師ウイリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンとにより、中国広州に設立されたのです。
1842年アヘン戦争に勝利したイギリス帝国は、香港を植民地にすると、ジャーディン・マセソン商会も、本社を広州から香港に移すのです。その主な業務は、茶とアヘンの密輸です。そして、その事業で得た金をイギリス本国へ送金するために香港上海銀行を設立するのです。
アヘン戦争後荒廃した清帝国では、茶の生産も、ヨーロッパで需要がある絹製品の生産も激減してしまうのです。そこでイギリス帝国が目に付けたのが、極東の小島列島の日本であったのです。
このころの日本列島は、イエズス会か渡来した戦国時代に似て、騎馬民族の初代将軍徳川家康忠臣の流れを汲む井伊直弼が、第三百済王朝を支える藤原氏(薩摩藩の近衛家)と亡命百済貴族末裔の徳川御三卿の一橋家の流れにある氏族をイジメていた「安政大獄の時代」(騎馬民族末裔の開明派と漢訳仏教勢力の攘夷派対立時代)であったのです。その安政の大獄の、1859年イギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会は、横浜に設立されたのです。
藤原日本史では、明治革命を日本人による日本人のための革命であると宣伝し、坂本竜馬なる人物を明治維新の英雄として描いているのですが、そのように、江戸末期にはイギリス東インド会社の流れを汲む死の商人達が渡来していたのです。
そして、藤原日本史では、吉田松陰を斬首した安政の大獄を、江戸幕府内での、ただの井伊直弼の政策反対者の弾圧劇として描いているようですが、その実態は、騎馬民族の流れを汲む徳川家康の「御三家」と、亡命百済貴族末裔である徳川家光の「御三卿」との覇権争いであったのです。
江戸時代も末期にもなると、庶民は徳川家康の騎馬民族系と徳川家光の亡命百済貴族系の二つの流れがあることを、「武士」と「サムライ」との違いが分からないように、理解できなくなっていたのです。
第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝で、騎馬民族末裔の秦氏や武士は、その第三百済王朝の手先となった漢訳仏教思想により、賎民「穢多」、「俘囚の末裔」として貶められ、そして、その第三百済王朝の「サムライ」支配の江戸幕府組織から追放された「武士」は野に下り、「武士は食わねど高楊枝」などと、武士道の自尊心を失わずに野武士として渡世していたのです。
その第三百済王朝の江戸幕府が、1853年ペリー艦隊の来航により、揺れ動いたのです。その時期を逃さず徳川家康忠臣の流れを汲む御三家側の井伊直弼は、亡命百済末裔の御三卿派抹殺を企てたのです。それを、藤原日本史では、開国に反対した攘夷論派の水戸浪士による井伊直弼暗殺で「安政の大獄物語」を完結させてしまったのです。
そもそも尊皇攘夷のスローガンは、1866年薩長同盟以前では、流行っていなかったのです。その尊皇攘夷とは、元来別物で、尊皇とは天皇を敬い護ることです。攘夷とは外国人を打ち払うことです。
明治革命の尖兵となった薩摩藩と長州藩の「下級武士=シシ=賎民」(「志士」は藤原日本史の造語)と云われる者達の多くは、「サムライ」の末裔ではなく、「武士」の末裔だったのです。その武士とは秦氏を祖としているので、百済系孝明天皇などは護る対象ではなかったのです。
1877年西南の役で抹殺された西郷隆盛なども、孝明天皇を「ぎょく・玉」と蔑んで呼んでいたのです。何故、秦氏末裔は百済系天皇家を蔑むかといえば、それは、平安時代から江戸末期まで続く百済系天皇家では、錬金術師空海が、インドの騎馬民族差別のバラモン教思想を基に発明した真言密教のダキニ呪法により儀式をおこなっていたからです。
北条鎌倉時代の第二百済王朝で、騎馬民族系の秦氏末裔が賎民「穢多」と蔑まされた原因の基は、その錬金術師空海が、唐国から持ち込んだ思想の、「施陀羅悪人ナリ」(肉食する騎馬民族は悪人だ。)であったからです。
そのような騎馬民族を差別する空海が発明した真言密教で祀られた百済系天皇は、幕末の秦氏末裔にとって尊皇の対象ではなかったのです。平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家では、藤原氏が奈良時代に発明したユダヤ教儀式に酷似した神道儀式ではなく、秦氏末裔を「穢多」の賎民としてイジメていた仏教儀式で政(まつりごと)をおこなっていたのです。
では、現在の天皇家では、神道(7世紀に藤原氏の祖中臣族が発明)で儀式がおこなわれているではないか、と言っても、それは、明治天皇がおこなった十三の神道による朝廷儀式の十二の古代風儀式は、飛鳥ヤマト時代からのものではなく、1868年明治革命で復活した藤原氏(薩摩藩の近衛家)により、江戸時代中期から明治革命直前にかけて発明された「古代風」儀式であったのです。
何故、江戸末期の秦氏末裔は、孝明天皇を敬っていないのかと言えば、それは、百済亡命貴族が、新羅系の日本初の天皇であった「天武天皇」家を、唐進駐軍の後ろ盾を得た、平安遷都をした百済系桓武天皇が乗っ取ったことを、秦氏末裔が伝承していたからです。
ですから、平安時代から幕末まで続く百済系天皇家では、天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀っていた伊勢の祠跡に、藤原氏により創作された天照大神を祀る伊勢神宮には、孝明天皇まで正式参拝していなかったのです。百済系天皇で正式参拝したのは、明治天皇からなのです。
では何故、薩長同盟を契機として尊皇攘夷思想が、薩摩藩・長州藩のシシ達に受け入れられたのでしょうか。その影響力を発したひとりが、長州藩の高杉晋作です。
高杉晋作は、吉田松陰の弟子で、師吉田松陰が唱えた、幕府の開国政策を非難し、朝廷の権威の確立と攘夷断行を唱え英公使館(御殿山)を焼討ちしたテロリストであったのが、1862年(文久2年)一橋慶喜が幕府高官として返り咲いた後、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問した後、師吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬し、罪人吉田松陰から「尊皇攘夷の精神的シンボル」へと変身させていたのです。
そして、1863年長州藩が、異国人嫌いの孝明天皇が唱える攘夷熱に浮されて、横浜港から絹製品を満載した英仏の貿易船に砲撃をした結果、翌年1864年清帝国の太平天国の乱を武力で鎮めた英仏米と露戦艦の下関砲撃により、長州藩を支配していた「サムライ」達が一掃されると、高杉晋作は、「サムライ」を主体とした長州藩正規軍ではなく、最新式武器で武装した賎民軍団を組織するのです。それが「奇兵隊」です。勿論、高杉晋作には、上海に貿易拠点を持つ死の商人ジャーディン・マセソン商会傘下のグラバー商会の影があったのです。
藤原日本史による明治革命物語がよく理解できないのは、何故、幕府の開国政策を非難していた攘夷論者の吉田松陰が、明治革命のシンボルになったのかということです。そして、敵側の江戸幕府将軍であった第十五代目将軍徳川慶喜と江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚が、明治革命軍に敗れた後、断罪もなく生き延びただけではなく、勝海舟や榎本武揚などは、敵側である明治新政府の高官として働いていることです。これには、福沢諭吉も疑義を唱えていたほどです。
その、明治革命の謎は、吉田松陰が斬首されてから「9年間」にあるのです。その「9年間」の謎を解く鍵は、英公使パークスの行動にあったのです。イギリス王国(東インド会社)は何を目的に、1856年から1860年まで続いた、清帝国との、アロー号戦争を画策したパークスを、日本国への英公使として送り込んできたのでしょうか。
イギリス王国と言うよりも、イギリスを金融で支配する国際金融組織(第十三部族)は、極東の小島列島の日本国を支配下に置くことの目的のひとつが、ロシア帝国の壊滅だったのです。
1547年イヴァン4世は、全ロシアのツアールと宣言することで、ロシア帝国が誕生したのです。しかし、イヴァン4世は、カスピ海沿岸に暮らす、8世紀にユダヤ教に改宗したカザール国の住民であった、第十三部族の白系ユダヤ人を虐げていたのです。
ロシア人の祖は、ローマ帝国からスラヴ人と呼ばれていたのです。スラヴとは、奴隷の意味です。ですから、スラヴであるロシア人は、ローマ帝国には、好意的ではなかったのです。
862年にルーリックのノヴゴロド王国から興ったと伝承されるロシアは、395年東西ローマ帝国に分裂した、東ローマ帝国文化を継承し、更に、十世紀頃には、ロシア人の多くはギリシャ正教に帰依していたのです。そして、1589年には、ギリシャ正教から民族色の強いロシア正教が独立して、ロシア総主教座が創設されたのです。
392年「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と唱えるユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国の国教ローマ・キリスト教となったのですが、そのローマ・キリスト教の祖とは、ユダヤ教ヨシュア派とミトラ教との教義を改竄したものであったのです。
ですから、その東ローマ帝国のキリスト教文化と袂を分かったロシア正教は、カスピ海沿岸に暮す、8世紀にユダヤ教に改宗していた第十三部族の白系ユダヤ人を迫害していたのです。そして、そのロシア正教を国教とするロシア帝国内では、東ローマ帝国で国際金融業者として活躍していた第十三部族の国際交易商人が排除されていたのです。
第十三部族の祖は、紀元一世紀から中国とローマとの絹交易中継をおこなっていた、国際交易商人国カザールであったので、十九世紀には、各国の金融を支配していたのです。その例外が、スラヴ人のロシア帝国であったのです。
イギリス王国の金融を支配していた第十三部族の目的のひとつは、同族民をイジメるロシア帝国の壊滅であったのです。そのために、イギリス軍が手先となって使われていたのです。
明治革命が、イギリス東インド会社の思惑で実行された根拠のひとつとして、1904年の日露戦争があります。この戦争は、1902年日英同盟が成立すると、イギリスは、軍事費の工面から、軍艦の工面だけではなく、日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦(対馬沖海戦)での戦闘の指揮までおこなっていたのです。その日本海海戦で、日本軍艦船で指揮をとっていたのが、イギリス武官である、アーネスト・トロウブリッジ、ウィリアム・パッケンハイム、ジャクソン、ハッチン等であったのです。
その日露戦争の戦費を工面したのが、イギリス東インド会社の流れを汲む第十三部族の商社であったのです。その商社により、1882年株式会社日本銀行が創設されていたのです。そして、その株式会社日本銀行創設には、明治革命の「9年間の謎」が繋がるのです。
1863年長州藩は、異国人嫌いの孝明天皇の攘夷熱に浮かされて、横浜から絹製品を満載した英仏の交易船を下関から砲撃するのです。その頃、横浜からイギリスに向け船出をした者がいたのです。それらは、長州藩の開国派の、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹輔、山尾庸三であったのです。
この英仏船を攻撃する攘夷行動とイギリス留学との矛盾する長州藩の行動は、何を意味するのでしょうか。この「長州ファイブ」(五人組)の謎の行動は、1862年(文久2年)高杉晋作が、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問したことで解明できるのです。
日本の歴史を支配する藤原氏の得意な戦術は、「夷を以って、夷を制す」です。これと同じことを、イギリス東インド会社のメンバー達が、明治革命でおこなったのです。
それは、「夷」である長州藩を潰すのに、長州藩内の「夷」を使うのです。その長州藩内の夷とは、賎民「穢多」と、その同族である武士末裔である「卒族」である「足軽」です。長州ファイブのひとり、伊藤博文は、その足軽が出自であったのです。
第三百済王朝の江戸時代、漢訳仏教思想でイジメられていた長州藩の賎民「穢多」や「足軽」達は、「シシ」となり、百済系「サムライ」が支配する江戸幕府の打倒を目指していたのです。三十数年前の天保の大飢饉でも、長州藩の賎民を中心とする一揆活動は、他国よりも激しいものだったのです。
その長州藩の賎民「夷」を束ねたのが、上海帰りの高杉晋作であったのです。1863年1月、高杉晋作は、伊藤博文等と共に、長吏頭弾左衛門支配地の小塚原から吉田松陰の遺骸を掘り出して、荏原郡若林(東京都世田谷区)に改葬するのです。その時に、高杉晋作は、吉田松陰の改葬に関して、久坂玄瑞から手紙を受けるのです。その手紙には、次のような一文があったのです。

「浮屠(仏教僧侶の蔑称)に託し候ては相叶わず候。神葬之式は何卒俊輔・真五郎などへ御命じ、和学者に御尋ねを下さるべく候」

久坂玄瑞は、「シシ」達の尊皇攘夷のシンボルとする吉田松陰の改葬の儀式は、賎民「穢多」・「足軽」の敵である外来宗教の漢訳仏教儀式でおこなうことを禁止させていたのです。そして、吉田松陰の改葬は、日本古来の宗教と勘違いされた「神道」の儀式でおこなわれてしまうのです。
「神道」は、藤原氏が、漢訳仏教渡来後の七世紀に発明した宗教であったのです。しかし、江戸時代の庶民は、1778年(安永7年)から1798年(寛政10年)にかけて創作された、漢訳仏教嫌いの本居宣長の「古事記伝」により、日本古来の宗教は、藤原氏が発明した、天照大神を祀る「神道」であると刷り込まれてしまっていたのです。
元々日本古来の宗教には、「ケガレ」思想などなかったのです。ですから、穢れ祓いの儀式をおこなう、中臣神道は、日本古来ではなく、漢訳仏教と同じに、外来宗教であったのです。
日本列島古来の精霊である「モノ」は、「貴」も「賎」も区別なく、日本列島のすべての物に宿っていたのです。この「精霊はすべての物に宿る。」、という思想は、太陽神を祀る宗教思想の、「すべての物を照らし護る。」、という思想と同じことから、やがて、オリエント渡来の秦氏の太陽神を祀るミトラ教(平安時代の権力者により「魔多羅」と改竄された。)と習合していくわけです。
そのすべての物に宿る精霊の「モノ」思想は、秦氏末裔である武芸者の「武士」が、「もののふ」(モノ=精霊の僕)と云われる由縁となっていたのです。
「武士」と「サムライ」との違いのひとつは、この武芸者である「もののふ」であったかどうか、ということです。平安時代に発生した「サムライ」とは、秘書兼ガードマンとして、亡命百済貴人の側に侍う(さぶらう)剣(諸刃の直刀)で武装したひとが祖であったのです。因みに、「武士」は、反りのある刀(片ほうしか刃がない、「カタハ」が語源)であったのです。
幕末に流行った、道場での武闘訓練が、日本刀の歴史を知っていれば「刀道」と言うところを、「剣道」と言われたのは、江戸時代が、百済系の「剣」で武装していた「サムライ」の末裔が支配していたからです。
その七世紀半ばまで河内・飛鳥ヤマトを支配していた秦氏の太陽信仰のミトラ教を抹殺、改竄するために、藤原氏により発明されたのが、ミトラ教の太陽神の化身である牡牛を屠る祭祀場を破壊した跡に建設された、春日社の若宮で「ケガレ祓い」をする中臣神道であったのです。
中臣神道が発明された奈良時代では、神道の神を祀る所は、「宮」と言われ、神社(ジンジヤ)とは言われてはいなかったのです。「ジンジャ」とは、明治革命後に発明され言葉だったのです。それ以前は、「神社」は、「モリ」、「ホコラ」、「ヤシロ」と言われていたのです。
この吉田松陰の遺骸が、百済系天皇家や第三百済王朝の江戸幕府を祀る「仏式」ではなく、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が発明した「神式」で祀られたため、イギリス東インド会社に支援された薩摩藩に棲息する藤原氏(近衛家)の傀儡島津氏が発明した「尊皇攘夷」のシンボルとなり、その結果、反仏教の賎民「穢多」と「足軽」は、その仏教派の江戸幕府打倒の尖兵である、イギリス式軍団である「奇兵隊」として、イギリス東インド会社に利用されていくのです。
その反仏教の賎民軍団の「奇兵隊」を組織したのが、武器密輸入のグラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会の商館がある上海から帰国した高杉晋作であったのです。
では、長州藩の密偵として活躍していた足軽の伊藤博文が、イギリス東インド会社(ジャーディン・マセソン商会)の意向によりイギリスに留学させられたのは、何が目的だったのでしょうか。
1870年、伊藤博文等長州ファイブがイギリス留学から帰国すると、大阪の造幣局が、イギリスの植民地香港から輸入したイギリス製の造幣印刷機で紙幣を刷り始めるのです。その大阪造幣局の初代局長は、長州ファイブの井上馨で、その後、井上勝、伊藤博文、遠藤謹輔と順繰りに局長として就任していたのです。
そのイギリス製の造幣印刷機を香港から輸入したのが、1865年アメリカ南北戦争が終結したため不要になった銃を高杉晋作の「奇兵隊」に売りつけていた、ジャーディン・マセソン商会の傘下にあるグラバー商会であったのです。
その翌年、1866年密貿易のライバルであった薩摩藩と長州藩とが、グラバーのダミー会社である亀山社中の坂本竜馬の斡旋により、武器の共同購入のために薩長同盟が締結されたわけです。
イギリス東インド会社は、明治革命中の軍事支配の画策だけではなく、明治革命後の経済支配にも画策していたのです。
1871年造幣局局長となった伊藤博文は、日本国の基本通貨として、米1ドル金貨(1500mg)と等しい、1円金貨を建言するのです。では、江戸時代での基本通貨の呼称である両、銭から、何故、「円」の呼称が現れたのでしょうか。
その明治時代に、日本国基本通貨呼称となった「円」とは、イギリスの植民地である香港で使われていた「香港壱圓」の「圓」を借用したものであったのです。この香港通貨の「圓」は、日本国では「円」となったのですが、中国では、「圓」と同音字の「元」となり、そして、韓国では、「圓」の朝鮮語読みである「ウォン」となるのです。
異国を支配する方法は二つ、ひとつはストロングパワーである「軍事」で、もうひとつはソフトパワーである「経済」です。その経済は、通貨を支配することでコントロールすることが可能なのです。
1894年英仏露の不平等条約で疲弊していた清帝国に、明治政府は宣戦布告し、イギリスの軍事・軍費支援で勝利すると、1895年下関条約を調印し、遼東半島、台湾割譲、賠償金2億両を得るのです。その清帝国からの賠償金により、1897年貨幣法が制定され、紙幣の金兌換が成立したのですが、1円の金平価は、当初の1500mgから半分の750mgに半減させられ、しかも、その賠償金による金兌換準備充当正貨は、なんと、イギリスに持ち出されていたのです。
日本国の経済の「血」である「お金」の価値を保障する金兌換準備充当正貨が、日本国にはなく、イギリスにあった、ということは、明治時代の日本国は、イギリスの経済的支配下にあったということです。この本位金貨が流通停止となったのは、1987年(昭和62年)6月1日であったのです。
明治革命がイギリス東インド会社のシナリオで行われたと言う根拠のひとつとして、明治革命後の日本国を経済支配するために、大阪造幣局の創設のシナリオが、明治革命と同時に計画されていたことです。
イギリス東インド会社は、革命成功後、大きく分けて仏教信仰(亡命百済民末裔)、神道信仰(藤原氏末裔)、太陽神信仰(秦氏末裔)の三つの異民族で構成されている日本国を統治する方策も考えていたようです。
その方策とは、平安時代から江戸末期まで百済系天皇家を祀っていた空海が発明した真言密教のダキニ呪法に替えて、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が奈良時代に発明した中臣神道を改良して、新日本国の中心思想として取り込むことです。これが、明治維新で発明された「国家神道」です。
その新天皇を祀る「国家神道」を創作するためには、仏教寺に習合されていた全国の神宮寺や祠を、仏教寺から分離する必要に迫られるわけです。更に、藤原氏が「日本書紀」で発明した日本初の天皇であるとする神武天皇の稜(墓)を急いで創作するする必要もあったのです。そして、天皇家が「神道」儀式で古来から祀られていたとする「神宮」も創作しなくてはならなかったのです。これらのことは、明治革命と同時に遂行されていたのです。
仏教儀式で祀られていた天皇家を、古来から神道儀式で祀られていたと、摩り替えるトリックが「伊勢参り」の「ええじゃないか運動」です。江戸末期の「ええじゃないか運動」のドサクサに紛れて、日本初の天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀った伊勢の「道観」が、奈良時代には藤原氏により発明された天照大神を祀る「伊勢神宮」となり、平安時代には神仏習合の「神宮寺」が立ち並ぶ伊勢は、江戸時代末期には日本古来(?)から神道儀式により天皇家の「神・天照大神」を祀っていたとする伊勢神宮の聖域となってしまい、今日に至るわけです。
これらの神道世界の基礎を作ったのが、仏教嫌いの本居宣長であったのです。本居宣長は、「古事記伝」で日本神話を創作しただけではなく、近畿にある巨大古墳群を、藤原氏が「日本書紀」で創作した歴代天皇稜と結びつけ、命名していたのです。それらの本居宣長が命名した、例えば、仁徳天皇稜などは、現代ではこころある考古学者は、近畿の巨大古墳の天皇陵を否定しています。
その江戸時代末期の庶民の意識を仏教世界から神道世界へ摩り替えるためのトリックである「ええじゃないか運動」が始まる前年、1867年徳川御三卿の第十五代目将軍徳川慶喜が、横浜に駐留するフランス進駐軍の援軍を断り、鳥羽伏見の戦いから脱走し、大阪の天保山沖に停泊していたオランダ製開陽丸に乗船し、江戸に帰り着き、大政奉還を願い出、王政復古の大号令が出される前に、坂本竜馬、高杉晋作、中岡慎太郎、そして、孝明天皇が死去していたのです。
それらのひと達は、坂本竜馬は暗殺でしたが、病死とされていたのです。しかし、明治革命の中心人物の死は、謎に包まれているのです。
明治革命の発端である攘夷を唱えた異国人嫌いの孝明天皇は、攘夷を唱えたけれども、薩摩藩や長州藩のシシ達が唱える倒幕には反対していたのです。何故ならば、京を支配する朝廷と、江戸を支配する御三卿とは、平安時代に唐から輸入された天台宗仏教を祀る亡命百済の血が流れる同族であったからです。
攘夷派の孝明天皇は、1866年12月25日に崩御になったのですが、その十日前までは元気でいたのです。この孝明天皇が急に崩御すると、水戸藩9代藩主徳川斉昭が最初に唱えた「尊皇攘夷」のスローガンが、「尊皇開国」となってしまったのです。
この孝明天皇の謎の急死は、1865年第二次長州藩征伐に上京していた第十四代目将軍徳川家茂が、1866年4月まで大阪城内で乗馬や鉄砲の訓練をしていたのに、第二次長州征伐中の7月に21歳で急死しているのです。7月に倒れた徳川家茂の治療に携わったのが、「漢方医」ではなく、何故か「蘭方医」であったのです。そして、長州征伐は、徳川家茂の死により中止となっていたのです。
藤原日本史の明治革命物語がよく理解できないのは、攘夷論者の孝明天皇の熱に浮されたことにより、1863年長州藩が下関を通行する外国船に砲撃したのに、長州藩は江戸幕府の中心勢力から外され、朝敵となってしまうのです。そのきっかけとなった1863年7月蛤御門の変では、長州藩を撃退したのは、会津藩と薩摩藩でその指揮を執ったのが、それから三年後に起こった鳥羽伏見の戦いの途中で脱走した、第十五代将軍となる前の、藤原氏(島津氏はエージェント)傀儡の一橋慶喜であったのです。
その攘夷派の中枢勢力である長州藩は、第十四代目将軍徳川家茂が21歳で急死すると、一橋慶喜が第十五代将軍となり、第二次長州征伐が中止となり、救われるのです。その第二次長州征伐中止の6ヶ月前に、蛤御門の変で敵味方として戦った薩摩藩と長州藩とが、武器商人グラバーの斡旋により軍事連盟を締結していたのです。
これらの明治革命に至る一連の謎は、薩摩藩を支配する藤原氏(近衛家)とイギリス東インド会社(グラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会)とによる明治革命のシナリオの流れにあったのです。
では、孝明天皇(1846年〜1866年)は、誰により幕末の政治舞台に現れ、攘夷を唱えたのでしょうか。
騎馬民族末裔である初代将軍徳川家康は、同族の秦氏末裔を賎民として、平安時代からイジメぬいていた亡命百済貴族の基である百済系天皇家を、紫衣着衣の禁止などでイジメるのです。そして、後水尾天皇(1611年〜1629年)を退位させ、徳川家康の息子第二代目将軍徳川秀忠は、娘を女帝明正天皇(1629年〜1643年)とすると、宮廷に鍵をかけて天皇の外出を禁じていたのです。幕末、その徳川家康の指示による二百数十年の禁を破ったのが、「賀茂行幸」の名目で禁門から外出した孝明天皇であったのです。
その攘夷を唱える孝明天皇が崩御すると、明治天皇が即位し「尊皇開国」となった謎、そして、仏教文化から神道文化に激変した謎は、どのように説明できるのでしょうか。
孝明天皇の葬儀は、「明治天皇紀」によれば、読経や焼香が炊かれる仏式でおこなわれ、ひどく簡略であったようです。

朝廷、山陵奉行、大和守戸田忠至に命じて其の制を調査せしむる所あり。忠至、答申書を上り奏して曰く、中古以来、荼毘の風習久しきを成し、万乗の玉体を灰燼に委してたてまつり、陵所には僅かに石塔を樹て之れを標するに過ぎざるが如き其の薄葬実に恐懼に堪へざるものあり。

その孝明天皇が1846年即位すると、奈良時代の藤原氏が、日本初の天武天皇が発明した、冬至の日におこなう一世一代の天帝(北極星・太一)から帝位を授けられるとする「大嘗祭」の儀式を改竄して、毎年秋の収穫祭としての「新嘗祭」を発明し、その新嘗祭の儀式のなかで、藤原氏の娘達が貴人の前でおこなう五節舞が、復活するのです。
このインドのサリー風の薄絹を纏って若い娘が舞う、天女羽衣の衣装による「五節舞」とは、インドのバラモン教の儀式で裸同然の娘達が貴人の前で踊る儀式と同じで、天皇やその貴人達に、「藤原の娘」を嫁がすシステムでもあったのです。
江戸末期、第十三代目将軍徳川家定に、近衛家(藤原氏の主流)の養女敬子(すみこ)を嫁がせ、篤姫としたのは、正に、藤原氏の政治戦略の伝統的システムであったのです。その篤姫の活躍で、攘夷派の第十四代目将軍徳川家茂は、21歳で急死し、藤原氏(近衛家)が推薦した、御三卿の一橋慶喜が、第十五代目将軍徳川慶喜となり、薩摩・長州軍との戦闘最中に脱走し、江戸幕府は倒れるのです。
藤原氏が、日本列島史で暗躍できたのは、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の祖である中臣族(ナカ→ナーガ→蛇・信仰族)が、祭祀氏族であったからです。その藤原氏は、イギリス東インド会社の後ろ盾で明治革命が成功すると、亡命百済貴族末裔が支配していた第三百済王朝の江戸仏教国家を、藤原氏の神道国家に変身させるのです。
その仏教国から神道国への変身の仕掛け造りは、1613年イギリス東インド会社の平戸交易と供に始まっていたのです。
仏教国から神道国への流れは、1768年伊勢お陰詣り流行(神道思想の宣伝)→1778年本居宣長による「古事記伝」上巻刊行(日本国神話による、外来宗教として仏教思想の否定)→1833年京都エライコッチャ踊り流行(寺請制度による仏教統制からの庶民開放)→1867年名古屋ええじゃないか運動(神仏習合から「神」を分離する伊勢信仰の発揚)→1868年神仏分離令・廃仏毀釈運動(神仏習合の「神宮寺」から仏教施設を破壊して「神宮」の分離)→秦氏の祖を祀る「塚=土の家=墓」を封印していた「ホコラ・ヤシロ・モリ」を「神社・ジンジャ」と呼称(古代からジンジャで「神」が祀られたとのトリック)→江戸時代の秦氏末裔を賎民としてイジメていた寺請制度を真似て、全国民を「ジンジャの氏子」とする(賎民である騎馬民族末裔・秦氏末裔を「新平民」としての取り込み)→「ジンジャ」で「お神輿」を担ぐお祭りイベントの発明(明治天皇を「神の使い・天子」(テングリ)とするイベント)→1890年刑事訴訟法(不敬罪の成立→明治天皇の謎と皇族出自の欺瞞性の隠蔽)・教育勅語下賜(学童に神国ニッポンの刷り込み)→「神国ニッポン」の完成、となるのです。
そして、何故か、この明治革命で誕生した「神国ニッポン」の支配組織の頂点にある天皇家と皇室の組織・服装が、イギリス王室のコピーであったのです。
そして、不思議なのは、1867年12月9日に、「天皇制」が発令されたと藤原日本史は述べるのですが、それは、「天皇制復興」ではなく、「王政復興」なのです。その藤原日本史にある「王政復興」の「王政」とは、もしかして、「イギリス王政」のことなのでしようか。
明治革命で、グラバー商会から買い込んだ最新式武器で活躍した薩摩藩・長州藩のシシ達の、打倒対象は、第三百済王朝の江戸幕府と、騎馬民族系の天武王朝を乗っ取った、平安時代からの百済系天皇家であったのです。ですから、イギリスのソフト支配下にある明治新政府は、それらの「シシ達」をなだめるためのトリックをおこなっていたのです。
それが、北朝の光厳天皇系と、南朝の後醍醐天皇系の摩り替えです。つまり、孝明天皇は北朝の光厳天皇系ですから、その敵対している南朝の後醍醐天皇系の末裔を天皇として摩り替えることで、長州・薩摩のシシ達を宥めるというトリックです。
孝明天皇は北朝系ですから、その息子も北朝系であるはずです。しかし、明治天皇は、北朝系の血筋ではなく、長州藩に棲息していた南朝系の血筋の大室寅之祐に摩り替わっていたのです。
その天皇すり替え説の根拠は、1868年神仏分離令が発令されると、廃仏毀釈運動が全国で起こり、神仏習合の神宮寺は、徹底的に破壊され、その跡に「ジンジャ」が創設されるのです。その創設「ジンシャ」は、もし、明治天皇が孝明天皇の実子であれば、父孝明天皇は北朝系ですから、当然、実子である明治天皇も、北朝系の天皇を「ジンジャ」を創建して祀るはずです。
しかし、明治天皇と明治新政府は、南朝の後醍醐天皇を祀る吉野神宮をはじめ、その実子の護良親王、尊良親王、桓良親王、宗良親王、懐良親王など、北朝系ではなく、南朝系の天皇家を祀る「ジンジヤ」や「神宮」を創建したのです。
更に、明治新政府は、1868年(明治元年)宮中で真言密教の仏式で祀っていた天皇家の先祖の位牌を、真言宗泉涌寺に移すのです。しかし、歴代と言っても、その孝明天皇の宮中にあった歴代天皇の位牌には、天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌はなかったのです。それは、騎馬民族末裔で新羅系の天武天皇と百済系の桓武天皇とは、宗教が異なる異民族であったからです。つまり、天皇家は、藤原日本史が述べているのとは異なり、万世一系ではなかったのです。
攘夷派で、反倒幕派の孝明天皇は、藤原氏の開国派にとっては、倒幕の密勅を発するには、相応しくない人物であったのです。そこで、孝明天皇は、密勅を発する前年、急死し、その16歳の息子陸仁皇子が、急遽帝位を引き継ぐのですが、可笑しなことに、天皇即位儀式では、十六弁の菊紋ではなく、徳川氏の紋所の葵が使われ、更に、新調ではなく、古物の張袴と横目扇などを使っておこなわれていたのです。
陸仁皇子についての不思議は、更にあるのです。それは、何故か、「明治天皇紀」には、明治天皇が大人の仲間入りをするための「元服の儀式」についての記述が、欠如しているのです。
そして、不思議なことに、16歳まで女官にかしずかれて育てられたために中性的な陸仁皇子は、13歳の時の蛤御門の変で長州軍の流れ弾が御殿に着弾した時、長らく失神していた程繊細だったのに、16歳で帝位を継ぎ明治天皇に変身すると、女性的な公家風から、乗馬と相撲が得意な長州風(武家風)に変身していたのです。そして、その側近も、女官から、長州と薩摩の藩士に代わり、その藩士を監視をしていたのが、卒族と言われた足軽上がりの、1885年日本初の内閣総理大臣となり、1909年ハルピンで暗殺された、明治革命のドサクサにイギリス留学をしていた伊藤博文であったのです。
そして、即位した明治天皇は、1867年10月14日、藤原氏が支配している薩摩藩に対して、倒幕の密勅を発するのです。
藤原日本史によれば、「天皇」は瑞穂の国では最高位で、「おおきみ」(王)とは、その臣下の豪族の長であったはずです。飛鳥時代(古墳時代)、天皇家を支配した大臣(おおおみ)である蘇我氏一族を、645年に滅ぼしたのが、「大化の改新」と云われる革命であったはずです。
この朝鮮半島での革命にソックリな「大化の改新」の革命劇で、藤原氏の祖中臣族が突然政権に現れたのです。そして、蘇我一族を滅ぼした、中大兄皇子と中臣鎌子(後に藤原鎌足となる)が王権を握ると、仏教興隆の詔を発し、飛鳥ヤマトを、再び、天皇家により支配しました、と言うのが、藤原日本史が語るところなのです。
この藤原日本史が述べる「大化の改新」と、「王政復興」とには、共通点が多くあるようです。そのひとつに、天皇の藤原氏によるロボット化です。そして、「大化の改新」では、飛鳥ヤマトでの景教(ミトラ教)と道教とが、仏教に盗り替わったのが、「王政復興」では、仏教から神道に盗り変わったことです。それらの宗教の取替えは、共に、祭祀氏族末裔の藤原氏がおこなっていたのです。
中臣族(後の藤原氏)は、「大化の改新?」の革命後に、景教や道教の宗教施設を完全に破壊した跡に、北九州から多くの仏寺を移築し「飛鳥寺」「法隆寺」などと命名し、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市に摩り替えていたのです。それに対して、明治革命に成功した近衛家(藤原氏の主流)は、江戸時代の日本列島を漢訳仏教思想で支配した拠点の神仏習合の新宮寺を、明治革命後に徹底的に破壊して、その跡に、「神宮」「ジンジャ」を創建して、神国ニッポンを演出していたのです。
そして、「大化の改新?」の後、飛鳥ヤマトは、朝廷が「唐風」に激変していたのです。それに対して、「王政復興」の後には、明治政府は「イギリス風」に激変していたのです。それは、その二つの革命は、「大化の改新?」は唐進駐軍の後ろ盾で、そして、「王政復興」はイギリス東インド会社の後ろ盾を利用して、藤原氏(中臣族)が外国勢力の傀儡権力者となって、日本列島を支配したからです。
では、明治革命後に、神仏習合の神宮寺を破壊した後に発明された、神道を象徴する「ジンジャ」とは、一体、何なのでしょうか。そして、その明治革命後に発明された「ジンジャ」と、奈良時代に発明された「神宮」との違いは何なのでしょうか。その「ジンジャ」の謎を解くことで、藤原氏と亡命百済貴族が、平安時代から賎民としてイジメ抜いていた秦氏の謎が、解明できるようです。
藤原日本史が、曖昧にしている事象はいろいろありますが、その内でも、「武士」と「サムライ」の異なる歴史的背景の説明と、「平家」と「平氏」との異なる歴史的背景の説明は、曖昧です。ですから、歴史に興味がないひとは、それらの事柄は、単なる呼称の違いに過ぎないと、軽く考えているようです。
しかし、「武士」と「サムライ」の出自は異なるし、民族も異なるのです。そして、「平家」と「平氏」も同じに、民族が異なるのです。
「平家」とは、戦国時代、イエズス会の傀儡となり近畿一帯を軍事支配した、尾張の武将織田信長の祖で、その祖は、平安時代に、伊勢湾一帯を支配していた、アラブ・インドから渡来の海洋商業民族であったのです。
「平氏」とは、ツングース系の亡命百済民末裔の百済系桓武天皇の武将で、825年淳和天皇(823年〜833年)より賜姓された、「公家桓武平氏」の官位であったのです。
それに対して、「平家」とは、平安時代末期、「五節の舞」のシステムで百済系天皇家をロボット化している藤原氏の私兵「武家源氏」に対抗するために組織された、白河上皇の「私兵」であったのです。つまり、「平氏」は官位で、「平家」はただの呼称であったのです。
その「平家」の祖、平正盛は、伊勢から京に進出するのですが、その拠点が、賀茂川の東岸の死者が流れ着くために、髑髏ヶ原(「ドクロガハラ」が、後に「六波羅」と改称)と呼ばれた湿地帯であったのです。その地は、「平家」の祖の渡来元のインドのギオンに習って、祇園と呼ばれていくのです。
ですから、「平家」は、平安王朝を支配していた百済系貴族より、河原者の賎民と呼ばれていたのです。その「平家」の祖が、髑髏ヶ原で行う、ペルシャ絨毯で飾る山車(山車の祖は「船」・平家は海洋民族末裔)を曳きまわす「ギオン祭り」が行われる頃、京の都の貴族達は、「ケガレ」が付かないように、その「ギオン祭り」が開催される間、神輿違えと言って、京都の町から避難していたのです。
では、その賎民の「平家」が、後白河上皇の私兵となり、貴族の仲間入りが出来たのは、何故でしょうか。それは、「平家」三代目の平清盛による、人民統制の手法によるのです。それが、「清盛のかぶら」組織です。
この「清盛のかぶら」の手法を使い、明治革命で復活した藤原氏(近衛家)は、大室寅之祐である明治天皇を、「現人神」に変身させたのです。
「清盛のかぶら」とは、平清盛の「闇の親衛隊」のことです。その「かぶら」は、童形びと(子供のいでたちの大人=賎民)で構成され、アラブ海洋商業民族(フェニキア人)のシンボルの「赤の衣装」を目立つように身につけていたのです。その「かぶら」は、京の街に出て、平家に対しての良い評判を庶民に吹聴していたのです。それに対して、平家や清盛の悪口を言う者があれば、その者の家に押しかけ、家を破壊するなどの暴力で威圧していたのです。その結果、平家の悪口を言う者が、京の街にはいなくなってしまったのです。
そして、平清盛を白河上皇の御落胤との「ウワサ」が、広く京の街に浸透すると、瀬戸内海の海賊を討伐した、平清盛の父平忠盛は、1132年鳥羽上皇により内昇殿を許され、賎民「平家」は平安貴族の仲間入りが出来たのです。
その後、南宋との南海密貿易で宋銭を伊勢に多量に持ち込んだ賎民「平家」の棟梁平清盛は、闇の集団である「かぶら」の活動結果により、1167年太政大臣となり、第二藤原王朝(第一藤原王朝は奈良時代)を乗っ取ったのです。この京を金力と武力で支配する「平家王朝」打倒が、藤原氏の陰謀による「武家源氏」と「公家桓武平氏」合同軍による、源平(「源氏+平氏」対「平家」)合戦となっていくわけです。
では、明治維新後、南朝の大室寅之祐である明治天皇を「現人神」とした、闇の組織の「かぶら」とは、誰なのでしょうか。それは、「役座」です。
「役座」は、今日では、太平洋戦争敗戦後の1946年昭和天皇が、天皇制神話は「架空ナル観念」と詔書を出し「現人神」から「人間宣言」をしてしまったので、天皇家を支える闇の組織は不要となったため、国家権力により「暴力団」として社会から排除の対象となってしまいましたが、その歴史は古く、鎌倉時代までに遡るのです。
その「役座」の歴史も、明治維新後の「天皇の謎」を封印するために、藤原日本史では隠蔽しているのです。ですから、歴史に興味がないひとなどは、「役座」の語源を、「893」だと本気に信じているようです。
「役座」が、「明治天皇のかぶら」となった理由のひとつが、1871年の賎民廃止令です。この発令により、江戸時代に漢訳仏教思想によりイジメられていた穢多・非人の称が、明治政府により禁止されたのです。
何故、「役座」が、賎民廃止令と関係があるかと言えば、それは、「役座」の発生が、第二百済王朝の北条鎌倉時代に仏教勢力が、平安時代初期に錬金術師空海が唐から持ち込んだ騎馬民族差別語の「施陀羅」から「穢多」を発明して、賎民の秦氏末裔をイジメていたのを、武力で秦氏末裔の賎民を護ったのが、「役座」の発生であったからです。
「役座」とは、仏教勢力が滅ぼした前政権の「夷神」を封じた異界の神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)境内に同業者が集まり「座」を形成してたのですが、イザコザが絶えなかったので、その「座」を武力で仕切る「顔役」が語源であるのです。つまり、「座の顔役」から「役座」となったわけです。
その「役座」は、武士道思想の「弱者擁護」と同じである「任侠思想」(弱いひと達の仲立ちとなること)をもっていたことは、「役座」とは、神社(モリ)で武芸による魂鎮めの儀式をおこなっていた「もののふ」を祖とする「武士」と同じに、そのルーツがオリエント渡来の秦氏であったからです。
正統「役座」が、天照大神ではなく、中国古代の道教の「神農様」を祀ることは、「役座」の祖の渡来が、天照大神を発明した藤原氏よりも古いことを示唆します。それは、「神農様」の渡来が四世紀以降で、「天照大神」が発明されたのが八世紀だからです。
その正統「役座」が祀る「神農様」は、薬草の神様で、日本の創薬地は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が住む地と重なるのです。高杉晋作や伊藤博文などの明治革命のシシ達により、明治維新のシンボルに祭り上げられた吉田松陰も、その祖は、創薬業で暮らしを立てていた吉田部落出自で、吉田松陰は、長州藩の「サムライ」から「乱民」と言われていたのです。
現代では、薬学部の学生が、国家試験合格祈願に「神農様」をお参りするそうですが、その「神農様」が、正統「役座」の神様であることを知っているのでしょうか。
「清盛のかぶら」は、庶民を無言で威圧するために異様な風体をしていましたが、「明治天皇のかぶら」である「役座」も、庶民を無言で威圧する演出をおこなっていたのです。そのひとつが、「刺青」です。
「刺青」文化の日本列島渡来は古く、四・五世紀の日本列島の情勢を記述した中国の「梁書」には、日本列島には小さな国がそれぞれあり、その中に、文身国があったと記述しています。文身とは「刺青」のことです。藤原日本史では記述がないのですが、刺青をした民族国が、四・五世紀の日本列島には存在していたと「梁書」では述べているのです。
その刺青は、海洋民族にとっては、「赤フン」と同じ効能で、海の悪魔サメから身を護る聖なる印であったのです。赤フンとは、朱砂を水に溶いて染めた布のフンドシのことで、その赤フンから、海中で朱(水銀)が溶け出すことにより、サメを水銀毒により避けさせるための防御具であったのです。
その刺青は、第三百済王朝の江戸時代には、犯罪人を識別するための「入墨」としていたのですが、江戸中期になると、仏教思想で庶民を縛り付けていたのが、オランダ人だけではなく、イギリス人やロシヤ人も来航するにおよんで、蘭学が庶民にも盛んになると、ミトラ教、ゾロアスター教、バラモン教、道教などの教義・儀式の寄せ集めの漢訳仏教思想による幕府の庶民統制も緩んでくるのです。そのような時に、1783年浅間山が噴火して、作物に多大な被害を及ぼし、天明の大飢饉が発生したのです。
幕府は、このような非常事態を統制するために、1787年松平定信が老中筆頭となり、倹約令を発して、日常生活の細々としたことまで統制し、庶民を締め付けにかかるのです。そのような閉塞時代に、政府の動向に左右されずに勝手に生きる、中国のアウトローたちの群像を主人公にした反抗文学「水滸伝」の百八人の英雄物語が、江戸庶民に受け入れられていくのです。
その翻訳本「水滸伝」に、英雄達の雄姿を挿絵として、武者絵師の歌川国芳が描いたのです。オリジナルの中国「水滸伝」の挿絵では、貧弱な刺青姿の雄姿が、歌川国芳の絵師としての才能により、浮世絵のような芸術性の高い刺青姿となったアウトロー達は、江戸幕府の政策に反抗する庶民達にとっては、庶民のヒーローとなっていったのです。
その結果、江戸庶民に刺青が爆発的に流行っていったのです。江戸時代での刺青は、「役座」の専売特許なのではなく、庶民が「見栄を張る」(彫りは死ぬほど痛いため、刺青は男伊達のシンボルだった。)手段としてのものだったのです。
第三百済王朝の江戸幕府は、武闘派の「武士」ではなく、秘書役の「サムライ」が支配する時代であったので、儒教の考経「身体髪膚之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは考の始めなり。」の呪文により、幕府の体制側の「サムライ」は刺青をすることができなかったのです。そこで、倹約令で庶民を縛り付ける幕府に反抗する庶民は、刺青をすることで、反幕府としての意志行動をしていたのです。
しかし、イギリス東インド会社にコントロールされて行われた明治革命に成功すると、イギリス風文化を取り入れることで文明国として仲間入りを切望する明治新政府は、鹿鳴館などを建設して一刻も早く日本人を文明人にしたいため、太政官府令により「刺青の禁止」を発令したのです。
これ以降、一般庶民の刺青文化は消滅してしまったのです。しかし、北条鎌倉時代より純粋なアウトローである「役座」は、この太政官府の命令に逆らったので、「役座」の刺青文化は今日に至るのです。
では、反権力のアウトローの「役座」が、誰の仲立ちにより、明治新政府権力の中枢の「明治天皇」を擁立した勢力と接触し、そして、「明治天皇のかぶら」となったのでしょうか。
明治革命において、不思議な人物がいるのです。それは、江戸幕府の要人であったのに、明治革命で幕府が武力で倒されると、生き残り、更に、敵側の明治新政府の要人となっていたのです。その人物とは、江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚です。
この二人の祖は、「武家」ではなく、賎民で、共に三代先がお金で「武家株」を買い取って、「武家」となっていたのです。更に、榎本武揚はオランダに、そして、勝海舟はアメリカ合衆国への渡航経験者なのです。そのオランダやアメリカには、フリーメーソンのロッジがあったのです。では、この二人は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。
勝海舟の部下である榎本武揚は、長崎の幕府海軍学校で航海術を学ぶと、オランダに軍艦を買い付けに行くのです。それが、オランダ製軍艦開揚丸です。では、明治革命で、榎本武揚は、鳥羽伏見の戦いで、その軍艦開揚丸で、薩長軍に対して攻撃をしたのでしょうか。
それが、不可思議なことに、1868年1月2日に会津・桑名藩兵が、幕府軍総大将の徳川慶喜の先鋒隊となって鳥羽・伏見の両街道から京を目指して進撃を開始するのです。そして、翌日3日京都郊外の鳥羽・伏見の関門を守る薩長軍との戦いが始まるのです。そして、戦闘が膠着状態の中、6日深夜大坂城から、幕府軍の総大将徳川慶喜が脱走するのです。
榎本武揚は、大阪湾沖の天保山沖に停泊して、戦闘中に脱走した徳川慶喜を乗せると、江戸湾に向けて出航していたのです。誰が、この戦争中の脱走劇を計画して、実行したのでしょうか。
そして、1868年1月5日江戸幕府に対しての反乱軍から官軍に変身した薩長軍が、江戸攻めを始める直前に、幕府軍のシンボル的軍団の副長土方指揮いる新撰組残党を開揚丸に乗せて、北海道函館の五稜郭へ向けて出航するのです。その開揚丸には、フランス軍事顧問も同乗していたのです。
その五稜郭は、何故か、函館湾から遠方に築かれたのではなかったため、イギリス軍事顧問指揮下の薩長海軍の艦砲射撃により、開戦から短時間で崩壊していたのです。そして、副長土方以下新撰組残党軍は壊滅していたのに、何故か、フランス軍兵士と榎本武揚は生き残っていたのです。
この明治革命での榎本武揚の活躍は、薩長軍に利する行為ではないかと考えられます。鳥羽伏見での戦いで、榎本武揚が軍艦開揚丸を大阪湾深く進行させ、薩長軍に向けて艦砲射撃をしていたら、鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の惨敗とはなっていなかったかもしれません。
更に、薩長軍が江戸攻撃をおこなう直前に、榎本武揚が開揚丸に新撰組残党を乗せないでいたとしたら、新撰組残党も上野戦争に参加して、数時間の戦いで幕府軍は壊滅していなかったかもしれません。
では、榎本武揚の上司である勝海舟は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が軍備面と指揮面で不利であると知ったフランス公使レオン・ロッシュは、幕府にフランス進駐軍の戦闘参加を申し出るのです。しかし、その申し出を断ったのが、勝海舟なのです。そして、江戸攻撃で脅す薩長軍に対して、幕府正規軍は無抵抗とするとしたのが、勝海舟であったのです。
勝海舟については、自書「氷川清話」や「海舟座談」などがあるため、その自慢話が史実であるように思っているひとが多くいるようです。例えば、鳥羽伏見の戦いの最中に脱走した徳川慶喜について、その直後の出来事を「海舟座談」で次のように述べているのです。

慶喜公は、洋服で、刀を肩からコウかけて居られた。己はお辞儀も何もしない。頭から、皆んにそう言うた。アナタ方、何という事だ。これだから、私が言わない事じゃあない、もうこうなってから、どうなさるつもりだとひどく言った。上様の前だからと、人が注意したが、聞かぬふうをして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかえてたいそう罵った。己を切ってでもしまうかと思ったら、誰も誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくまで弱っているかと、己は涙のこぼれるほど歎息したよ。

鳥羽伏見の戦いから脱走した幕府軍総大将徳川慶喜に対して、このようにベラメイ調で語る勝海舟とは、一体何者であったのでしょうか。
勝海舟の曾祖父は、越後小千谷(おじや)から江戸へ出稼ぎに来た盲人の座頭であったのです。江戸幕府は、盲人の生活救済のために、高利貸しを認めていたのです。その曾祖父には、利殖の才があったため、殖財で財産を築き、幕臣(旗本)男谷家の株を買い取り、息子の平蔵を当主としたのです。その平蔵の三男が、勝家に養子に入った小吉(後の海舟)であったのです。
江戸時代初期の座頭は、長吏頭弾左衛門の支配下で営業を認めてもらえたのです。しかし、第三百済王朝となり秦氏末裔の徳川家康の威光が失せると、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の威光も失せり、穢多頭弾左衛門と蔑称で呼ばれていくのです。そして、中国の京劇を真似た京文化の歌舞伎が、江戸に持ち込まれると、座頭や芸能民を支配していた弾左衛門は、歌舞伎劇の「助六」で、助六になぶられる「意休」として悪役に貶められてしまうのです。そして、江戸幕府の警察機構の下部組織としていた、その長吏頭弾左衛門の配下の「目明」も、「岡引」と蔑称で呼ばれていくのです。
徳川家康の威光が存続していた時は、表の世界で暮した長吏頭弾左衛門も、第三百済王朝の江戸時代では闇の世界で暮していくのです。その闇の世界には、「役座」もいたのです。その闇の世界に、勝海舟は繋がっていたのです。
勝小吉は、旗本小普請組、禄四十俵で無役の旗本最下級であったのです。その最下級の勝小吉が、幕府要人になるキッカケは、1854年米使ペリーの来航の結果による、1859年の安政の大獄です。
御三卿が支配する幕府の転覆を目論む、開国派の徳川家康直系の御三家の流れを汲む井伊直弼は、江戸幕府を牛耳る御三卿派の壊滅を企てたのが、安政の大獄の実態です。その安政の大獄により、幕府要人はことごとく抹殺、或いは謹慎させられ、政界から排除されてしまったのです。
井伊直弼は、徳川家康の忠臣の流れにあるということは、百済系や藤原氏系ではないということです。そこで、井伊直弼が実効支配した幕府では、秦氏系の者が、幕府に登用されたのです。勝小吉の祖は、座頭であったので、秦氏末裔であったのです。
勝小吉は、蘭学を収得していたため、1855年幕府が、長崎に海軍伝習所を開設すると、その教官として就任したのです。そして、勝小吉が、幕府に上書を提出したことにより、天文方の蕃書和解御用(洋書翻訳部門)を独立させ、洋学所の設置が計られたのです。そして、その洋学所が蕃書調所となると、1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダフリーメーソンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
その勝小吉も、1860年(万延1年)軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎となり、艦長として、オランダ製咸臨丸により浦賀からサンフランシスコに向い、フリーメーソが建国した米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後、9月品川沖に到着していたのです。
勝海舟は、江戸無血開城の談判が決裂した場合を想定して、弾左衛門や「役座」に、もし、薩長軍が江戸攻めをおこなったら、江戸町に火をつけ炎上させるように指示をしていたのです。
この勝海舟の脅しに、明治革命の実質的指揮官であるイギリス公使パークスは、第三百済王朝に平安時代からイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛に、江戸攻撃を止まらせたのです。
その「役座」との繋がりのある勝海舟は、1868年明治政府が樹立されると、その政府要人となるのです。「役座」と「明治天皇」を結びつけたのは、勝海舟であることが示唆されるのは、イギリス公使パークスが計画した明治革命での活躍(?)によるのです。
因みに、藤原日本史を基に創作された明治革命物語で、必ず登場する「坂本竜馬」とは、どのような人物だったのでしょうか。
坂本竜馬の明治維新での評価のひとつに、密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介者であったと、多くの明治革命物語にあります。しかし、その薩長軍事同盟の真の立役者は、坂本竜馬ではなく、キリシタン大名の流れを汲む大村藩の渡邊昇(のぼり)であったのです。では、坂本竜馬は、薩長同盟で何をしたかといえば、武器商人グラバーのダミー会社の亀山社中の船により、アメリカ南北戦争で使われた武器や売れ残った武器を薩摩藩や長州藩に運搬していたのです。
では、坂本竜馬は、何故、明治革命完成前年に暗殺されたのでしょうか。それは、坂本竜馬は、土佐藩の密偵であったからです。坂本竜馬が、藤原日本史に登場したのは、勝海舟の「氷川清話」によるところが大であったのです。その「氷川清話」には、坂本竜馬を次のように描写しているのです。

坂本竜馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。

その暗殺者坂本竜馬は、幕府の海軍の中枢となった勝海舟から航海術を学んでいたのです。その後、航海術を収得した坂本竜馬は、武器商人グラバーの配下となり、薩摩藩や長州藩に入り込み、情報収集をしていくのです。そして、土佐藩を脱藩したはずの坂本竜馬は、1867年(慶応3年)土佐藩に復帰して、海援隊長となり、大政奉還運動を提唱していくのですが、明治革命完了の前年、明治革命の裏を密偵として調べ尽くしていた、明治革命の本質を知ってしまった坂本竜馬は暗殺されてしまうのです。
イギリス東インド会社により企画された、明治革命が成功すると、「刺青」をした「役座」が、「明治天皇のかぶら」となったのは、賎民廃止令だけではなく、経済的理由もあったのです。それが、「ジンジャ」での屋台の営業権と、神国ニッポンを演出するために、明治新政府により発明された「ジンジャ」で行う、神輿を担ぐ「お祭り」の仕切り権であったのです。
「役座」が、明治維新の謎を、武力と威圧で封じ込めたことは理解できますが、仏教国を、どのようにして、神国ニッポンに変身させたのでしょうか。その謎を解明するのが、明治維新後に発明された、「ジンジャ」です。では、神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)を、、明治新政府が、どのようなトリック作業により「ジンジャ」へ変身させたかを考えてみましょう。
イギリス東インド会社にソフト支配された明治新政府は、異民族で構成されている日本国を支配するために、近代天皇制としての、神道国教主義(第三藤原王朝、第一藤原王朝は奈良時代、第二藤原王朝は平安中期)を確立するために、古来から全国的に行われていた梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷(よりきとう)、狐下げ等の民間の呪術行為を厳禁したのです。
そこで、明治新政府は、古代神道を持ち出すのですが、その古代神道とは、藤原氏が先住民族の「神」を隠蔽して創作したものですから、その古代神道の祭祀論争が決着が付かなかったのです。その祭祀論争とは、伊勢派と出雲派との論争です。
672年天武天皇が、壬申の乱により近江百済王朝を倒した時、伊勢を支配していたアラブ系海洋民族が援軍として参加したお礼に、685年伊勢の地に道教思想による北極星(太一)を祀る道観を創建したのです。
伊勢派の神道とは、天武天皇の死後、藤原氏が持統天皇を傀儡として、その伊勢の北極星(太一)を祀る道観を破壊した跡に創建した神宮で、太陽神ミトラを祀る民族の歴史を隠蔽するために「アマテラスオオミカミ」を発明して行っていた、ユダヤ教の儀式に酷似した祭祀儀式であったのです。
それに対して、出雲派の神道とは、古代新羅の神を祀る祭祀儀式であったのです。そして、出雲の神は、島根ではなく、三輪山の麓の磯城(しき)に鎮座していたのです。その磯城とは、713年の好字令により、二文字の日本語化により命名された地名で、その祖は、古代新羅(秦羅・秦の国)のことです。
奈良盆地にある三輪山の麓は、古代から、宇陀で産出される朱砂の、異民族による、沈黙交易を行っていた処なのです。古代では、朱砂は呪術にはなくてはならないものだったのです。その朱砂を、傷口に塗ると、化膿していた傷口が治癒することが、祭祀者には知られていたのです。更に、死者に朱砂を塗りつけると、腐敗から免れたのです。
日本列島の奈良の宇陀で産出される、その貴重な朱砂は、中国大陸や朝鮮半島の民族の知るところなり、大陸や朝鮮半島の異民族が、日本列島の三輪山麓に渡来するわけです。仏教文化国の高句麗や百済民は、北九州から瀬戸内海を通過して、河内湾から三輪山を目指すわけです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅民は、出雲に上陸すると、そこから再び海路で丹後を経て、琵琶湖から三輪山を目指すわけです。
紀元一世紀には、西の果ての東ローマ帝国と、東の果ての後漢との間で、絹交易が始まっていたのです。日本列島にも、その世界交易の地として、異民族が渡来していたのです。
そして、四世紀後半になると、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅は三つ巴の戦いを始めたのです。その頃の日本列島には、「梁書」にあったように文身国や扶桑国などの弱小都市国家が無数に点在していたのです。その朝鮮半島の三国は、奈良盆地にそれぞれのコロニーを建設するのです。
そして、七世紀になると、中国大陸の覇権を争う南の農耕民族国の唐帝国と、北の騎馬民族国の突厥帝国が激突すると、日本列島の飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国進駐軍を壊滅するために、唐進駐軍と、一世紀にはユダヤ教ヨシュア派の教会が建設されていた南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族が、飛鳥ヤマトに渡来して、645年飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国コロニーを壊滅するのです。そして、突厥帝国の配下にあった、三輪山麓を支配していた古代新羅のコロニーも壊滅させるのです。
この飛鳥ヤマトを軍事力で乗っ取った歴史を、藤原日本史では、古代新羅(秦羅)の秦氏を「物部氏」とし、突厥帝国部族を「蘇我氏」として、飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽・改竄したのです。そして、その略奪戦争を、出雲の国譲りとし、場所を、三輪山麓から、日本海の島根県の出雲へと改竄するのです。ですから、藤原日本史史観による、「物部氏」と「蘇我氏」のルーツが、未だに確定していないのは、藤原日本史の飛鳥時代(古墳時代)の記述は「ウソ」だからです。
そのような闇の歴史がある伊勢派と出雲派とが、どちらが正統の日本神道かと祭神論争をしたところで決着など付くはずがないのです。そこで、明治新政府は、祭祀と宗教(「しゅうきょう」は、明治維新後に発明された言葉)を分離させ、国家神道体制を打ち立てたのです。
そこで、神道国家主義を確立するために、明治革命で復活した祭祀者のルーツを持つ藤原氏(近衛家)は、明治天皇が宮中で行う十三の儀式を発明するわけです。その十三の儀式の内のひとつは、江戸時代末期に禁門から現れた孝明天皇の時代に復活した「五節の舞」であったのです。
その新発明の天皇の古代(?)からとする儀式を演出するために、明治革命勃発と同時に創建された「ジンジャ」や「神宮」施設は、形の上では可能な限り古く装われ、ジンジャの伝統と時代の断絶を意図的に埋める作業をおこなっていたのです。
更に、そのような作業に加えて、日光東照宮に封印されている騎馬民族で、秦氏末裔の徳川家康の宗教的権威を低める目的で、徳川家康の上司であった、アラブ海洋民族末裔の織田信長を祀る別格官幣社の健勲神社(ケンクンジンジャ)と、出自不詳の藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉を祀る別格官幣社の豊国神社(ホウコクジンジャ)を創建していたのです。
別格官幣社とは、明治革命後に発明された、「臣民」を祭神とする有力神社(ジンジャ)のことで、国家神道のもとで新設された社挌で、南朝を支援した楠木正成を祀る湊川神社(ミナトガワジンジャ)が最初であったのです。
そして、国家神道の普及を目的に、全国各地に「アマテラスオオミカミ」を祭神とする「ジンジャ」と遥拝殿が創建されていくのです。そして、国家神道を確立するために、1869年木戸孝允の建議により、祭政一致の布告の翌日、3月14日宮中で五箇条誓文の誓蔡が、明治天皇の親蔡により執行されたのです。そして、明治天皇は、持統天皇以来始めて伊勢神宮に参拝することにより、伊勢神宮が皇神を祀る処となっていくのです。
明治天皇が参拝した伊勢神宮は、藤原氏の流れにある近衛忠房が神宮祭主となり、全国のジンジャの本宗と定められ、「神宮御改正」により、内宮・外宮が明確に区別され、神仏習合の神宮寺から、国家神道の中心的宗教施設として造りかえられ、格式の新しい内宮が、格式の古い外宮よりも、上位におかれ、天皇家の祖先神が古来から(?)祀られてきた「ジンジャ」の本宗施設と変身して、今日に至るわけです。
このように、神道が、古来から仏教組織から独立して存在していたのではなく、1869年の神仏分離令以降に、初めて独立できたのです。奈良時代(第一藤原王朝)に発明された中臣神道の流れを汲む、仏教、道教、儒教、ユダヤ教の教義・儀式を取り込んで、室町時代に発明された、吉田兼倶による神仏習合の吉田神道でも、仏教組織が発明した本地垂迹説思想から独立していなくて、その神職は社僧に対して従属を強いられていたのです。そして、その神職の家族も、寺院の檀徒として登録されていたのです。そのような時代に、神道が、仏教組織の威光に逆らって、独立して神道祭祀儀式などできるはずはなかったのです。
この明治革命時の宗教摩り替えのトリックは、1300年前の「大化の改新」と同じプロセスです。1868年の明治革命では、藤原氏(近衛家)は、イギリス東インド会社の支援の下、その第十三部族が祀るユダヤ教に酷似した儀式により明治天皇が「神」の代理として祀られたのです。
それに対して、645年の「大化の改新」では、藤原氏(中臣族)は、唐進駐軍の支援の下、奈良の興福寺を飛鳥ヤマトから移築して、その唐帝国の国教となっていた漢訳仏教を、オリエント文化の飛鳥ヤマトに持ち込んで、宗教をすり替えていたのです。
宗教施設は、臣民を統制するには大切な仕掛けであるのです。その宗教施設が、替わったということは、支配層が替わったことを意味しているのです。
飛鳥ヤマトが、645年以降、唐進駐軍に乗っ取られ、漢訳仏教文化が、唐帝国より持ち込まれたという根拠のひとつとして、飛鳥ヤマトの建築遺跡が示す、南北軸に対して、西に約二十度傾いている建築基準があります。仏教建築基準は、南北軸であるのに対して、この飛鳥ヤマトの建築遺跡が示す建築基準は、何を物語っているかと言えば、それは、太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、北九州から持ち込んだ仏教寺を、仏教建築基準で移築したことを意味しているのです。
太陽信仰のミトラ教では、太陽の光が最も衰える冬至が、「聖なる日」で、その冬至が太陽神の新たな誕生日となるのです。このミトラ教の太陽再生の誕生日が、後に、ローマ・キリスト教に取り入れられて、12月25日のクリスマスの日となったのです。そのミトラ教の「聖なる日」思想を取り込んだ宗教施設の建築基準は、南北軸に対して、西に約二十度となっていたのです。
更に、飛鳥ヤマトの遺跡は、漢訳仏教思想では説明がつかない、キリスト教にソックリな説教物語を持つガンダーラ仏教が発明された、インド北西の国際交易都市ガンダーラよりも、遥か西の文化施設と考えられる遺跡が沢山発掘されているのです。それらは、道幅が十二mも超える直線道路(ローマ帝国軍の軍事道路)が、大阪湾から飛鳥ヤマトへと敷設されていたのです。そして、上水道施設の土管(イランのカナート)も発掘されているのです。更に、ガラス工場(ガラス製造はカスピ海沿岸で発明)や富本銭(貨幣・紙幣は広域交易を行う騎馬民族が発明)製造跡などなど、仏教思想では説明がつかない宗教儀式遺跡が、飛鳥ヤマトから発掘されている現在、それでも、飛鳥ヤマトで、538年から「聖徳太子」(厩戸皇子)により、百済から持ち込まれた仏教文化の花を咲かせていた、と言えるのでしょうか。
藤原氏は、時代を超えて、宗教の摩り替えのエキスパートです。そこで、明治革命のドサクサに紛れて、どのような手順で、仏教国ニッポンを、神国ニッポンにすり替えたかを年代順に見てみましょう。
江戸幕府が、漢訳仏教思想で、庶民を統制していたのですが、諸外国の交易船が日本列島に押し寄せ、1828年シーボルト事件が起こる頃、越後の大地震、江戸の大火、京都の大地震などなど、天変地変が頻発するのです。この社会情勢に乗じて、漢訳仏教思想に疑問を持ち、更に、反抗する宗教者達が現れてくるのです。その筆頭が、漢訳仏教組織に牛耳られ隷属させられている藤原氏の神道派で、民間では、漢訳仏教思想の「穢多」の蔑称でイジメられている秦氏末裔が多く棲む河内地方で、強い呪術性と終末観を持ち、民衆救済を叫ぶ新興宗教が起こるのは、鎌倉時代と同じです。
この社会変革の前兆を好機ととらえて、江戸幕府の政策に不満を持つ民衆のエネルギーを利用するために、藤原氏は伊勢参りを流行らすのです。そのお参りは、社会の閉塞状態に鬱憤を晴らすように、民衆が参加したのは、「信心」よりも「色」で、内宮と外宮の間にある遊郭の古市訪問が主な目的であったのです。
藤原氏は、更に、民衆を騒乱状態にするために、1833年京都で「エライコッチャ踊り」を流行らせるのです。この藤原氏による倒幕のための民衆エネルギー利用の企画は、その34年後の、1867年名古屋を発信源とした、伊勢参りの「ええじゃないか運動」に繋がり、明治革命の民衆の蜂起に繋がっていくのです。
そのように、神仏習合の伊勢神宮寺は、明治革命が成功すると、1868年神仏分離令が発令され、民衆の現世利益神のアマテラスオオミカミの伊勢信仰から、アマテラシマススメオオミカミの国家神道へと変貌していくのです。その流れは、主に次のようです。
1870年正月、大教宣布の詔が出され、「大教」が天皇の古代的宗教的権威とされる。
1871年正月、明治新政府は、漢訳仏教組織に、境内地を除く全社寺領の上知を命じた。これにより、漢訳仏教組織は、江戸時代からの封建的基盤を失う。そして、明治新政府は、ジンジャの社挌を制定し、氏子調べ制度を新設した。5月には全国のジンジャが、神宮、官幣社、国弊社、府県社、郷社、村社、無挌社の七段階に格付けされた。
1872年仏教と神道のすり替えがうまく機能しなかったため、神祗省(1868年設置)を廃止して、教部省を設置し、「創り話」の専門家である落語家・講釈師・俳優・僧尼を動員して、大教宣布の宣伝を行う。神職、僧侶を教導職に採用。教導職の資格を持たない宗教者の活動は、淫祠邪教の人寄せとして厳禁した。
1873年キリスト教が解禁された。
1879年鳥羽伏見の戦いで戦死した官軍兵士の霊を神として祀るために創建された東京九段の招魂社が、靖国ジンジャと改称された。
1880年明治新政府は、伊勢派と出雲派との祭神論争の解決策として、祭祀と宗教の分離をし、国家神道体制を打ち立てる。
このような流れの後、ジンジャで「アマテラスオオミカミ」を祀る習慣を刷り込んだのですが、民衆は踊らなかったので、その対策として、ジンジャでの「お祭り」が発明されるのです。それが、現在、各地の町会が主催する「お祭り」の祖となっていくわけです。神様を祭るジンジャでの「お祭り」は、古来からではなく、明治革命後に発明されたものなのです。
その国家神道の流れで、腑に落ちないことは、1873年キリスト教の布教解禁があります。戦国時代に渡来したキリスト教(耶蘇会)と、その明治革命後に解禁されたキリスト教とは同じなのでしょうか。
明治新政府は、明治革命か成功した1868年長崎近郊の浦上村のキリシタン農民をいっせいに検挙し、そして、その村から追放し、流刑に処したのです。藤原日本史によれば、キリシタンの弾圧は、江戸時代の1637年の島原の乱で終結し、キリシタン宣教師を追放し、1639年鎖国を断行し、キリシタン組織は日本国では壊滅していたのではないでしょうか。
戦国時代のキリシタンの多くは、第二百済王朝の百済系北条鎌倉時代に発明された「穢多」の蔑称で、漢訳仏教組織にイジメられていた秦氏末裔であったのです。その秦氏末裔のキリシタンは、第三百済王朝の江戸時代、隠れキリシタンとして各地に棲息していたのです。その拠点のひとつが、九州の長崎にあったのです。
その江戸幕府の手先である漢訳仏教組織にイジメられていた隠れキリシタンの多くは、明治革命では薩摩藩と長州藩との軍事同盟を画策した、土佐藩の密偵坂本竜馬ではなく、大村藩の渡邊昇のように革命軍に参加して、倒幕で戦ったのです。
しかし、そのキリシタン大名は、戦国時代では、南九州の藤原氏が支配する島津氏を攻め滅ぼしていたのです。キリシタンは、藤原氏にとって「夷」だったのです。
その明治革命に成功した藤原氏にとっての次なる「夷」は、藤原氏の得意な戦術、「夷を以って、夷を制す。」により、源氏鎌倉政権を乗っ取った後に邪魔な源氏武士団(夷)を抹殺するために、百済系北条氏(平氏の夷)をけし掛けた、1221年承久の乱の陰謀で、六波羅探題を設置し「源氏狩り」をしたのと同じように、壊滅されていくのです。
その明治革命後の「夷」とは、薩摩藩の下級武士と長州藩奇兵隊のシシ達(秦氏末裔)であったのです。それらのシシ達は、1876年熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱と、藤原氏に仕組まれた陰謀により次々と抹殺されていくのです。そして、シシ達のシンボル的存在の西郷隆盛は、征韓論者の汚名を付けられて、1877年西南の役で自害に追い込まれてしまったのです。そして、その西郷隆盛を自害させた大久保利通(夷)も、1878年暗殺されるのです。
これらの「夷を以って、夷を制す。」戦略により、藤原氏の当面の「夷集団」は、日本国には存在しなかったのです。ただひとり残る「夷」は、長州藩の下忍の乱民(秦氏末裔)であった、1885年日本初の内閣総理大臣となった伊藤博文です。明治天皇のすり替えに大いに関わっていた伊藤博文も、1909年ハルピンで暗殺されるのです。これにより明治革命に関わった「夷」は全て、自害、そして、暗殺したため、藤原氏による明治革命の謎の封印が、ここに完成したのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/851.html

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
159. 2015年2月01日 11:09:02 : kxk7MnCbWU
>158

サイモン・エリオットがモサドの工作員であることはYoutubeで公開されていました。

https://www.youtube.com/watch?v=Ivl3DHwbMyA#t=1m43sーーー

何度、消されても、何度でもアップされる。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c159

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
07. 2015年2月01日 11:09:11 : BWy9IFlysI
まずは後藤さんのご冥福をお祈りします。

この件で安倍政権を批判される方がまだ居るみたいですが、身代金を支払ったり、死刑囚を解放することが、テロリスト集団にどれだけ荷担するかを考えて欲しい。

政府の対応を批判するなら、貴方自身の対応策を提示して欲しい。

私自身は、後藤さんの活躍も高く評価しているし、彼のジャーナリズム活動を通じて、テロリスト集団の残虐性、中東における悲惨な状態を報道してきた。
だから、自己責任論を主張される方にも違和感を感じている。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK179] 「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」 赤かぶ
17. 2015年2月01日 11:10:12 : 1ulFBhsxPY
私は、安倍総理の「積極的平和主義」と言うコトバの真の意味は正確にいうと〈積極的戦争主義」を隠し味にしたレトリツクと見ている。日本を宗教戦争に引きずり込むための為の国際的策略に嵌められぬよう用心してほしい
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/118.html#c17
コメント [国際9] イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声) こーるてん
01. 2015年2月01日 11:11:15 : KRuvaXEobI
削除予定の記事です。

コメントはこちらに。

と、記事のアドレスを入れたら投稿できない。

同じ題の記事が戦争b14 のございますのでそちらに。

byこーるてん
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/878.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
23. 2015年2月01日 11:11:58 : 4GoD26HKms
遺体が引き渡されない限りは、生きてる可能性もある。
全部グルの可能性だってある。

Rand Paul: US arming ISIS terrorists
http://www.presstv.ir/detail/2014/06/22/368155/rand-paul-us-arming-isis-terrorists/
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c23

コメント [経世済民93] マクドナルドで食べ、100円ショップで何か買う時代の終わり(Darkness) 赤かぶ
09. 2015年2月01日 11:12:39 : ROMzKkN3JQ
今や、100円ショップさえも高いと感じるようになっている。
スーパーも対抗して、100円より低価格の品を販売している。
この低価格はメーカーへの圧力で可能になっている。
メーカーはさらに原価を圧縮しなければならず。このため当然、人件費に皺寄せがいく。
・・・ますます、消費は不振になる。



http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/351.html#c9

コメント [戦争b14] イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声) BIBLE
03. 2015年2月01日 11:13:09 : KRuvaXEobI
この記事のコメント


Rumi SuzukiRumi Suzuki 1月 29 , 11:46
米国の悪事はあちこちでバレてましゅ。

cookiecookie 1月 30 , 07:01
真犯人を探していけば最後は必ずアメリカに当たる・・CIAだ。

Minoru SugiyamaMinoru Sugiyama 1月 30 , 07:05
この記事が真実であれば、米国は世界中に紛争を拡散することで利権を拡大する国家といえる。


Minoru SugiyamaMinoru Sugiyama 1月 30 , 07:06


木手英一木手英一 31.01.2015, 08:24
最近、こういうのバレてきてるから、上の人間はシナリオ変えてくるかも。


Chiba KazumasaChiba Kazumasa 31.01.2015, 10:11
だよな


堂島米市堂島米市 31.01.2015, 12:00
パキスタン紙「トリビューン」原文です。 http://tribune.com.pk/story/828761/startling-revelations-is-operative-confesses-to-getting-funds-via-us/

 

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/850.html#c3

記事 [近代史02] 神輿の黙示録(24)(多民族国家ニッポンの行方:ザ・ファイヤー・ネクストタイム)
明治革命が成功すると、その革命を影で繰っていたイギリス東インド会社(ジャーディン・マセソン商会・グラバー商会)は、その明治革命の目的のひとつである、日本産の「絹」を日本国から合法的に、そして、大量に持ち出すために、1872年フランス人が設計し、横浜の赤レンガ倉庫と同じに、赤レンガで造られた富岡製絹場を開業していたのです。
この富岡製絹場建設時期は、北海道の函館五稜郭で、江戸幕府軍残党の新撰組副長土方歳三が、官軍相手に最後の戦いをしていた時期なのです。
江戸時代末期では、イギリス国際商人は、群馬県や埼玉県の絹を、幕府の目を逃れるため、裏街道のシルクロードにより、赤レンガ倉庫がある、そして、フリーメーソンのロッジがある横浜まで、人の背や牛・馬により運んでいたものが、明治革命により、イギリス傀儡の明治政府が1868年に発足すると、1872年には新橋横浜間に鉄道を開通させ、1877年には東京横浜間に電話を開通させ、その汽車で堂々と、富岡製絹場で奴隷状態の女工が生産する絹製品を、横浜港からイギリスやヨーロッパに運んでいたのです。
横浜新橋間の鉄道建設完成には、数年の歳月が必要です。その鉄道が1872年完成ならば、その計画と建設工事は、それよりも前であったわけです。それが、例えば、四年前だとすると、1868年明治革命が成功する、鳥羽伏見の戦闘中であったことが示唆されます。
つまり、江戸城無血開城物語の裏には、新橋横浜間の鉄道建設を画策するイギリス東インド会社の暗躍があったのです。そこで、江戸死守を標榜する幕府軍残党の存在が、鉄道建設工事の邪魔となるのです。そこで、明治革命軍に内通している勝海舟の部下である榎本武揚の船に、幕府残党軍の主力戦闘部隊である新撰組の副長土方歳三等を乗せ、北海道函館の艦砲射撃に耐えられない五稜郭で、殲滅さたのです。その最中に、鉄道建設工事がおこなわれ、1872年横浜新橋間の鉄道線路が開通したのです。
明治革命が決着がつかないうちに、群馬県での大規模製絹場の建設と、それを、横浜まで運搬するための鉄道線路を、計画し、そして、それらを建設した莫大な「建設資金」は、一体誰により調達されていたのでしょうか。
明治革命後、イギリス商人の手先となった日本人商人は、その利益を更に増やすために、国立銀行を設立するのです。国立銀行と言っても、日本国政府の銀行ではなく、国に許可された「お金の紙」を発行できる私設銀行であったのです。
その日本国初の国立銀行の創立は、1872年渋沢栄一が、両替商の三井組と小野組を参画させた、東京第一国立銀行です。両替商三井は、東京第一国立銀行の儲けぶりを確認すると、1876年三井銀行を創立するのです。日本国内には、富岡製絹場や横浜新橋間鉄道線路が完成する1872年以前には、「銀行」が存在していなかったのです。
「お金」その物には、元々価値はないのです。その「お金」に価値を付けるのが「信用」です。その「信用」の裏づけにより、三井銀行は紙幣(印刷された紙)を発行するのです。つまり、ただの紙切れに三井銀行が発行しました、と印刷した紙切れは、三井銀行の「信用」により、世間に「お金」として流通していくのです。
この紙幣のマジックを見た、欲深な商人達は、安田銀行など次々と国立銀行を創立していくのです。国立銀行は、政府が許可を停止するまでの三年間で、第百五十三銀行まで設立されていたのです。そして、第十三部族のイギリス商人に支配された薩摩藩の日本人商人も、1882年株式会社日本銀行を設立するのです。
その結果が、各国立銀行の各紙幣が巷に氾濫したため、「お金」の「信用」が低下したため、超インフレ(お札が必要以上に刷り出されてしまった状態)となってしまい、庶民の生活を苦しめたのは、現在も同じです。このような日本国の社会情勢を、新興宗教天理教の教祖中山みきは、「明治政府は、とふじん(外国人)に支配されている。」と宣伝し、教勢を伸ばしていくのです。
そこで、明治政府をソフト支配するイギリス商人は、グラバー商会が香港から輸入したイギリス製印刷機で、各銀行が勝手に刷り出す膨大な「私幣」を整理する目的で、デフレ(お札が出回らない状態)を画策するのです。
明治革命が成功した日本国で、国民をソフト支配できる「銀行の設立方法」に対して、薩摩藩留学生として1865年から五年間イギリスとアメリカに留学していた吉田清成と、長州藩留学生としてイギリスに留学していた、長州ファイブのひとり、伊藤博文とが対立したのです。
中央銀行設立を主張する薩摩藩の吉田清成と、反中央銀行設立を主張する伊藤博文との論争は、伊藤博文の勝利となり、日本国では、アメリカ型の国立銀行(私幣を発行できる私設銀行)となったのです。
イギリス東インド会社による明治革命の目的は、ひとつは日本産の絹貿易の独占で、もうひとつの目的は、カスピ海沿岸に住む同朋の第十三部族の、ロシア帝国からの開放です。それには、広大な領土を持つロシア帝国を壊滅するには、西からの侵攻と、東からの侵攻が是非とも必要だったのです。
そのためにイギリス東インド会社は、明治新政府に指示して、1872年兵部省を廃止させ、陸軍省と海軍省を設置させ、天皇直属軍としての近衛兵を組織させたのです。そして、1875年徴兵令を改正させ、国民皆兵を実行させたのです。これにより、兵隊は使い捨てできることになったのです。
下級兵士の多くは秦氏末裔の次男三男で、藤原氏の明治新政府の軍事方針(イギリスの軍事方針)に逆らうものを統制するために、秦氏末裔や役座が中心となっておこなった廃仏毀釈運動により、神宮寺を破壊されたため、無職となった漢字が読める僧侶を陸軍省が多く採用し、不満兵士を監視・制裁をくわえる為に、憲兵にしたてあげたのです。つまり、秦氏末裔や役座に恨みを持つ元僧侶の憲兵は、情容赦なく下級兵士に制裁をくわえていたのです。これは、正に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の戦術であったのです。
明治新政府の富国強兵政策には、イギリス東インド会社の思惑があって、それは、東からのロシア帝国侵攻を、明治政府の軍団に負わせる計画だったのです。それが、日清戦争と日露戦争勃発の真相だったのです。そのための軍資金を集めるために、そして、日本国をソフト支配するには、国立銀行ではなく、「お金」をコントロールできる中央銀行の設立が必要であったのです。
紙幣発行の独占権を持った中央銀行は、経済学の教科書では「中央銀行は国のために長期的な視野に立って中立的な金融政策を実行する機関である。」と説明していますが、実際は、印刷機械をコントロールすることで、インフレもデフレも思いのままにできる恐ろしい人民統制機関であるのです。
明治維新後の「夷族」抹殺計画により、西郷隆盛や大久保利通が政界から消えると、佐賀藩出身の大隈重信が、政権の中枢を握ったのです。大隈重信は、アメリカ宣教師フルベッキに英語を学んでいたため、世界情勢に詳しかったのです。当然、薩摩藩の後ろには、イギリス東インド会社の影があることは承知していたのです。中央銀行設立を望む薩摩藩側には、大隈重信は、抹殺する対象であったのです。実際、大隈重信は、爆殺未遂にみまわれたのです。
イギリス東インド会社は、その大隈重信を追い落とすために、1976年イギリス東インド会社末裔に支配されている日本国の真の独立を画策した自民党前首相田中角栄氏をロッキード疑獄事件(国際金融組織の指導により、実際は自衛隊機導入に対しての疑獄事件であったのを、日本国政府は民間機疑獄事件としてすり替えていた。)をアメリカ証券委員会からのリークの画策により政界から追放したように、1881年北海道庁の開拓仕官有物払い下げの政治スキャンダルを画策して「明治14年の政変」を起こし、犬猿の仲の薩摩・長州出身者が連携して、海外事情に詳しい大隈重信を政界から追い落としたのです。
この疑獄事件画策により大隈重信の後任となったのが、薩摩藩出身の松方正義です。松方正義は、実質的には日本国の王である大蔵卿となると、明治天皇に、国立銀行の私幣発行券を停止させるのです。元々、すり替えられた明治天皇は、薩摩・長州藩の傀儡であったのですから、松方正義の希望は、即叶えられ、ここに日本国の中央銀行である、株式会社日本銀行が「日本帝国中央銀行」となるのです。では、日本銀行を変身させた、この松方正義とは、どのような経歴があったのでしょうか。
松方正義は、1877年渡欧して、フランス蔵相レオン・セーに面会するのです。このフランス蔵相は、第十三部族の王であるロスチャイルドのフランス支店の支配人でもあったのです。
十八世紀からヨーロッパの金融世界を支配しているロスチャイルドの祖はマイヤー・アムシェルで、フランクフルトの古銭商・両替商であったのです。日本国の藤原氏の「五節の舞」と同じ技術を駆使して、上流貴族限定の「舞踏会」を宮廷で開催して、各国の宮廷に入り込むと、彼の五人の息子を、フランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店の担当者として、ヨーロッパ全土に国際金融網を構築したのです。この国際金融組織の前身は、各国にあるフリーメーソンロッジと連携して、時には政府の行動と異なる行動もしていたのです。
第十三部族を中枢として組織された国際金融組織は、カスピ海沿岸に暮す同朋を開放するために、ロシア帝国や各国との戦いの準備のために、1694年イングランド銀行設立に暗躍していたのです。
国際金融王のロスチャイルドが、十八世紀のフランクフルトの古銭商・両替商として成功した歴史には、八世紀にシルクロードの国際交易国で無宗教のハザール王国から、ユダヤ教国に改宗した歴史があったからです。つまり、国際交易と国際金融に精通した、白いユダヤ人の歴史があったからです。
その国際金融組織は、明治革命後の日本国の銀行にも支援したのです。そして1885年、イギリスのイングランド銀行にある「金」の「信用」により、株式会社日本銀行による兌換券(金と交換できるお札)を発行するのです。この時の通貨基準呼称の「円」は、イギリスの植民地である「香港一圓」の「圓」を借用したものであったのです。
中央銀行となった株式会社日本銀行を支配する薩摩藩出身の松方正義は、長州藩出身の大阪造幣局局長となった、長州ファイブの井上馨、井上勝など、そして、伊藤博文の存在が邪魔であったのです。
では、何故、歴史的に犬猿の仲の薩摩藩と長州藩出身者とが、互いに拮抗して、明治新政府で要人として覇権を争っていたのでしょうか。
それは、藤原氏の戦術「夷を以って、夷を制す。」を、イギリス東インド会社が実行していたからです。その藤原氏の、異民族を支配する戦術は、欧米では「両輪制御の術」と呼ばれているのです。御者である支配者は、拮抗する車の両輪(利害を異にする右翼と左翼・資本家と労働者)をコントロールすることで、目的を果たすのです。
例えば、21世紀のアメリカ合衆国では、二大政党による政治が行われていますが、どちらの政党が選挙で勝利しても、その政治政策が激変しないのは、「御者」(アメリカ合衆国の真の支配者)が選挙で替わることがないからです。二大政党による選挙とは、「両輪制御の術」のトリックなのです。
明治新政府を意のままにコントロールするために、イギリス東インド会社は、薩摩藩と長州藩を、「明治新政府の両輪」候補としていたのです。
1863年5月、攘夷論者の孝明天皇に扇動された長州藩が横浜港から絹製品を満載した外国貿易船を砲撃した報復として、イギリスを主とする外国艦隊は、7月には薩摩藩を艦砲射撃し江戸幕府になびく現政権を壊滅したのです。
そして、清帝国でアロー号戦争をイギリス公使パークスが画策し、清帝国内乱を起こさせ国力を疲弊させたのです。その弱体した清帝国に不満を持つ農民は、太平軍を組織するのです。しかし、軍備力に劣る反乱軍の太平天国軍団は、1864年8月イギリス四国軍団に壊滅されるのです。太平天国の軍団を殲滅したイギリス・フランス海軍を主とする四国艦隊は、次の征服地である日本国を目指したのです。
そして、イギリス・フランスを主とする四国艦隊は、同月の1864年8月長州藩の下関を艦砲射撃し、江戸幕府になびく長州藩現政権を壊滅したのは、その江戸幕府政権支持者を抹殺することにより、江戸幕府に民族差別されていた「武士末裔=秦氏末裔」(百済系「サムライ」が支配した会津藩では、それらを「シシ=賎民」と蔑称した。)を開放して、その密貿易で犬猿の仲の両藩の「シシ」を、「両輪」として考えていたからです。
その明治維新で活躍した「乱民」と言われていた「シシ」の蔑称は、明治革命で復活した藤原氏に迎合する歴史学者や文筆業者による明治革命物語では、憂国の「志士」の美称へと改竄されていたのです。
藤原日本史による日本列島史には、「奴隷」の歴史が欠如しています。奴隷とは、その祖は戦いに敗れた「前政権の王族や臣民」の成れの果てです。
古代では、奴隷は「生口」と呼ばれていたのです。中世では、「寺奴」や「神人」などと呼ばれていたのですが、その実態は奴隷です。平安時代の天慶の乱(939年〜941年)で、反乱軍棟梁の平将門や藤原純友を武力で鎮圧したため、王権より「武士」として認めてもらえた、神社(モリ・ホコラ・ヤシロ=異界の地。「ジンジャ」の呼称は明治革命後に発明。)で前政権の王の魂を「刀舞の芸」で鎮める「もののふ」である「武芸者」も、その祖は、第一百済王朝の平安時代初期、801年坂上田村麻呂に平定された陸奥国蝦夷(エビのようにヒゲのある夷。その祖は飛鳥ヤマトの武人)の「奴隷」であったのです。
それらの奴隷は、ひとではなく物と考えられていたので、奴隷は売り買いの対象であったのです。つまり、藤原日本史では述べていないのですが、日本列島では、古代から江戸時代まで、奴隷は売り買いされて、海外に輸出されていたのです。
第三百済王朝の江戸時代では、人民統制の手段として漢訳仏教組織による寺請制度が確立されて、寺では人民の動向を人別帳で記録していたのです。
1868年明治新政府による神仏分離令により、廃仏毀釈運動で神宮寺は徹底的に破壊され、特に、第三百済王朝の江戸時代に漢訳仏教思想にイジメられていた賎民「穢多」や「役座」により、「穢多寺」は破壊・壊滅の主対象とされたのです。
その全国的な神宮寺破壊運動と同時にその裏では、明治新政府により、江戸時代の薩摩藩や長州藩などの賎民国の実態を抹殺するために、日本国の支配体制側の記録としての、漢訳仏教資料の焚書も行われていたのです。しかし、寺から持ち出されていた奴隷売買の記録文書は残ったのです。
それらの焚書を免れた漢訳仏教側の奴隷記録文書により、江戸時代の「穢多」など賎民が貧しいとされる日本賎民史物語が、後世の歴史学者により創作されていったのです。しかし、明治革命では、長州藩の賎民などは、薬創業(明治時代以前は、賎業。明治革命のシンボル吉田松陰は、薬創業村である「吉田村」出身者。因みに、伊藤博文の出自は、長州藩の下忍。)で貯めた自らの「お金」で外国の武器商人から最新式銃を購入し、「奇兵隊」に参加していたのです。
そして、江戸の賎民頭弾左衛門も、幕府へのポーズとして、弾左衛門の資金により多数の鉄砲を購入して、百名ほどの賎民による鉄砲隊を組織して甲府に出兵させていたのです。しかし、甲府を護る幕府軍が壊滅されると、板橋まで進軍してきた官軍に、米百表を献上していたのです。このような史実をみると、江戸時代の賎民が貧乏だとする根拠はどこにあるのでしようか。
そのように、明治革命後に、明治新政府により、多くの神宮寺の奴隷記録資料は焚書されてしまったため、江戸時代の日本列島奴隷史は、未だ闇の中であるわけです。
明治維新が、何故、京都の都から遠く離れた、農耕に適さない痩せた土地の薩摩藩や長州藩の「シシ」達により計画・実行されたのでしょうか。それは、それらの地は、都にとっての「異界の地」であったからです。
ですから、農業での生産増が望めないために、薩摩藩と長州藩は生き残るために、幕府の目を逃れて、海外との密貿易をおこなっていたのです。その密貿易では、薩摩藩と長州藩とは商売敵であったのです。
つまり、それらの明治維新の震源地は、王権にまつろわぬ者達の棄民地であったのです。イギリス東インド会社は、それらの薩摩や長州の歴史を、戦国時代に渡来したイエズス会宣教師の報告書で学習していたのです。
1868年明治革命が成功すると、明治新政府は、駐日ハワイ総領事ヴァン・リードの要請により、ハワイのサトウキビ畑の労働奴隷として、153名を棄民していたのです。この後も、棄民政策は続くのですが、その多くは、隠れキリシタンで、復活した藤原氏が発明した「神国ニッポン」の明治新政府にまつろわぬ者達であったのです。日本国で奴隷売買の禁止がなされたのは、1872年の年期奉公人の解放からです。
現在、北海道には多くのキリスト教信者がいるのも、その祖が、明治維新後の蝦夷地開拓(先住民族国の侵略)のために棄民された隠れキリシタンであったからです。
日本古代史はもとより、日本現代史もよく理解できないのは、1868年明治維新から1945年8月太平洋戦争敗北までの77年間の、藤原氏により発明された「現人神」が支配する「神国ニッポン」のプロパガンダによるのです。
この不可思議な「神国ニッポン」思想は、1946年昭和天皇が、天皇制神話を「架空ナル観念」と詔書を出したことにより、消滅したはずですが、現在でも、一部の国会議員の談話で、「日本は神国である。」と発言をするのは、明治革命政府により創作された、645年「大化の改新」から天皇による日本国統治制度が始まったとする、藤原日本史の呪縛が現在でも生きている証拠です。
あるひとが、「全ての歴史は現代史である。」と言ったように、歴史物語は、その現在の視点により、いろいろな側面を見せます。
藤原氏の歴史改竄のテクニックが優れているのは、先住民族の歴史を全て破壊するのではなく、その先住民の歴史に、藤原氏が創作した歴史を覆い被せ、先住民族の歴史を藤原氏の歴史として語るところです。この本の目的のひとつは、その藤原氏が被せた覆いを取り除くことです。つまり、「神輿の黙示録」により、日本列島史を復元することです。
この藤原氏の歴史改竄のテクニックは、太陽神バアル信仰のイスラエル民族のヒッタイト帝国から古代エジプトまでの歴史を、メソポタミアから流離いの旅を続けていた唯一神ヤハヴェ信仰のユダヤ民族が乗っ取ったテクニックと同じようです。
ですから、歴史にあまり興味がないひとは、イスラエル民族とユダヤ民族が同じ民族だと信じている人が多くいるようです。それと同じに、太平洋戦争中に発明された「ヤマト民族」と、古墳時代(飛鳥時代)の「飛鳥民族=大和民族?」が同じ民族だと信じているニッポンジンも多くいるようです。
しかし、それらは、全く異なる民族であるのです。それは、それぞれの民族が祀る「神」が異なるからです。民族とは、絶対者である「モノ・カムイ・神」という超概念を信じて集まった集合体の呼称であるのです。ですから、祀る神が異なれば、それは、異民族と言うことなのです。
飛鳥遺跡の建築基準が南北軸から西に約二十度傾いている、仏教建築基準の南北軸とは異なる、建築遺跡からでも分かるように、古代飛鳥では太陽信仰民族により、「仏像」ではなく、「太陽神」を祀っていたのです。
その「太陽神」を祀る儀式として、「太陽神」の化身である「牡牛」が犠牲として屠られていたのです。この牡牛を屠る祭祀儀式をおこなう民族は、645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)により壊滅されたのですが、「太陽神」を祀るために牡牛を屠る祭祀儀式は先住民族により、その後も続けられていたので、奈良時代(第一藤原王朝)の741年牛馬屠殺禁止令が発令され、更に、平安時代(第一百済王朝)の804年にも牛の屠殺禁止令が発令されていたのです。
この「太陽神」信仰民族が「モリ・ホコラ・ヤシロ」で行う牡牛を屠る祭祀儀式は、平安王朝の国教となった空海が発明した真言密教の、ゾロアスター教から導入した拝火儀式の加持祈祷により隠蔽されたことにより、廃れ、賎民(飛鳥ヤマトの支配者末裔)が行う牛頭天皇の「牛祭り」と改竄されて、今日に至るわけです。
牡牛を屠る「血」の祭祀儀式をおこなう「モリ・ホコラ・ヤシロ」は、王権側にとっては、ケガレ地であり、異界の地であったのです。その異界の地を封印する宗教施設が、神社の祖であったのです。神社の祖は、日本古来からあった宗教施設などではなく、645年以降、唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教が、先住民族を支配した後に現れた宗教施設であったのです。
日本古代から存在していたと信じられている、「神道の神」も、出雲系神道が「オオクニヌシノミコト」を祭神とするのに対して、伊勢系神道の内宮では「アマテラスオオミカミ」を祭神としているのです。このことからも、古代では、異なる民族が日本列島に存在していたことが理解できます。
神を祀るには祭祀儀式が行われます。そこで、明治革命後に、「神国ニッポン」をプロパガンダするために、その出雲派と伊勢派との祭祀儀式論争が行われるのです。しかし、それらの出雲神道と伊勢神道の古神道と云われるものは、八世紀以降に藤原氏の「日本書紀」により創作されたものですから、どちらの祭祀儀式が正統かの決着が付かなかったのです。
そこで、智慧者が現れ、神の祀りから祭祀儀式を分離した「宗教」の言葉を発明したのです。「宗教」の言葉の意味するところは、祭祀儀式を伴わない「教祖による教え。或いは、神・絶対者にたいする信仰」で、「ジンジャ」と同じに、明治革命後に発明されたものなのです。
この「宗教」と「ジンジャ」を、藤原日本史が明治革命後に発明したために、古代日本史、特に、「古代宗教史」が全く理解できないものになってしまったのです。現在発掘されている、飛鳥ヤマトの古代遺跡の多くは先住民族の祭祀場遺跡であるにもかかわらず、538年から飛鳥ヤマトには仏教文化が花咲いていたと、学校の歴史で刷り込まれてしまったため、それら古墳時代の遺跡が語ることが全く理解できないのです。
更に、古代宗教史が分からないのは、「日本書紀」が創作した、ダビデのような少年聖徳太子が登場する、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とによる、二度にわたる神仏戦争物語により、神道は仏教よりも古いと信じ込まされていたからです。
では、崇仏派の蘇我氏に敗れた、廃仏派の物部氏が祀っていたとされる神道の神は、誰なのでしょうか。
藤原日本史によれば、万世一系の天皇の祖は、紀元前660年即位の神武天皇で、その天皇家の祖神は「アマテラスオオミカミ」と言うことになっています。すると、飛鳥ヤマトで物部氏が祀っていた神は、「アマテラスオオミカミ」になるわけです。
だとしたら、欽明天皇の大臣である蘇我稲目と、崇峻天皇を謀殺したとされる大臣である蘇我馬子親子は、二代に渡って天皇家の祖神「アマテラスオオミカミ」を祀っていた物部氏を滅ぼしたことになるわけです。すると、蘇我氏は、物部氏と供に、天皇家の祖神「アマテラスオオミカミ」も抹殺したことになるわけです。
藤原氏の語る神仏戦争物語が腑に落ちないのは、河内で物部氏が祀っていたとされる「神」について何も語っていないことです。
この「日本書紀」による二度の神仏戦争物語は、飛鳥ヤマトの何を隠蔽するために創作されたのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配していた先住民族の太陽神信仰のオリエントから渡来の「秦氏」と、北極星を天子(テングリ)として祀る騎馬民族「突厥帝国進駐軍」の存在です。
その飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽・改竄するために、その神仏戦争に至ったとされる、仏教伝来物語も二つ創作されたのです。
ひとつは、藤原氏が創作した「日本書紀」の欽明天皇13年(552年)の仏教礼拝の論争記事です。その記事は次のように述べられているのです。

冬十月百済の聖明王が、金銅像一体、幡蓋、経論を献上してきた。それに対して、蘇我大臣稲目宿禰が崇仏を主張し、物部大連尾輿と中臣連鎌子が異論を奏上した。天皇は「よろしく心願の人稲目に付けて、試みに礼ひ拝ましむべし」と述べた。稲目は、小墾田の私家にその金銅像を安置し、向原の家を喜捨して寺とした。しかし、後に、国に疫病が流行り、死者か多く出たため、物部大連尾輿と中臣連鎌子は、その原因は「仏像」であると主張し、その訴えを天皇が認めたため、金銅像は難波の堀に投棄し、伽藍に火を放って消滅させた。

もうひとつの仏教伝来物語は、亡命百済貴族が創作した「上宮聖徳法王帝説」の宣化天皇3年(538年)の記事です。

志癸嶋天皇(「日本書記」によると540年から571年在位の欽明天皇。しかし、在位期間には「戌牛」の太歳はない。)の御世に、戌牛の年の十月十二日に百斉国の主明王、初めて仏の像、経教并せて僧等を渡し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興し隆えしむ。

この二つの仏教伝来物語には矛盾があります。それは、538年に仏教が飛鳥ヤマトに伝来していたならば、「上宮聖徳法王帝説」よりも先に上梓されていた「日本書紀」の552年欽明天皇が述べられた記事「試みに礼ひ拝ましむべし」をどのように説明するのでしょうか。
そして、更に不可思議なのは、二つの神仏戦争物語の流れが全く同じなのです。その第二神仏戦争に至る「日本書記」の敏達天皇6年(577年)の記述は次のようです。

冬十一月一日 百済国王は、還り使の大別王らに付して、経論を若干巻、また律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工造寺工、六人を献った。けっきょく難波の大別王の寺に安置した。

敏達天皇13年(584年)の記述。

この歳蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請い、鞍部村主の司馬達等、池辺直の氷田を遺って、四方に使して、修行者をたずねもとめた。

敏達天皇14年(585年)の記述。

物部弓削守屋大連と中臣勝海太夫とが、奏して、「疫病が流行し、国民が耐えてしまうのは、蘇我臣が仏法を興行したからです。」、それに対して敏達天皇は、「まったくあきらかだ。仏法を断つがよい」と述べられた。物部弓削守屋大連は、仏殿を焼き、仏像は難波の堀江に棄てさせた。

この二つの「日本書紀」にある神仏戦争物語が不思議なのは、552年と577年の25年間に、物部氏親子・中臣氏親子と蘇我氏親子が全く同じ経緯で、神仏戦争を行い、仏像を祀ると疫病が流行り、その為、仏寺は焼かれ、仏像は難波の堀江に棄てられた、ことです。
この二つの神仏戦争物語を創作した意図は、645年以前には飛鳥ヤマトには、仏教が伝来していなかったので、その言い訳で、「物部氏が仏寺を焼き、仏像を難波の堀江に棄てた。」から、飛鳥ヤマトには、仏像も仏寺もなかった、ということです。そこで、飛鳥ヤマト前政権を倒した唐進駐軍は、前政権の宗教施設を徹底的に破壊した後に、唐国から漢訳仏教を持ち込み、被占領民を支配するために、645年仏教興隆の詔を発したわけです。
そのように「日本書紀」の二つの神仏戦争物語創作の意図を見抜くと、考えられることのひとつは、仏教の飛鳥ヤマト伝来は、「538年」でも「552年」でもなかったということです。つまり、その年代の飛鳥ヤマトには、明治革命以前に「ジンジャ」など歴史上存在していなかったように、仏像も仏寺もなかったのです。
古墳時代(飛鳥時代)の飛鳥ヤマトには、645年以前まで、正式な漢訳仏教は伝来していなかったのです。では、古墳時代の飛鳥ヤマトには、どのような民族がいて、どのような「モノ・カムイ・神」を祀っていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀にはオリエントから朝鮮半島を経由して渡来し、北九州から吉備、そして、河内をその古代エジプト式建築土木技術により支配していたのです。それに対して、突厥帝国進駐軍は、六世紀半頃中国大陸から若狭湾に渡来し、そして、琵琶湖を抜けて飛鳥ヤマト盆地を軍事支配し、その地に軍事都市を築いていたのです。
その二つの異なる文化を持つ飛鳥ヤマトを支配した二民族の歴史を抹殺するトリックが、河内を支配していたとする「物部氏=秦氏」と、飛鳥ヤマトの丘の上に山城を築いていた「蘇我氏=突厥帝国軍人」との「日本書紀」による神仏戦争物語なのです。
まず、その二度にわたる神仏戦争により、物部氏(秦氏)を歴史上から抹殺し、そして次に、崇峻天皇を謀殺したとされる大臣である蘇我馬子一族(突厥帝国武人)も、645年の政変により歴史上抹殺したのです。そして、その政変で唐進駐軍と中臣族は、前政権の書籍を焚書して前政権の歴史を隠蔽するのです。その隠蔽工作が、「蘇我蝦夷が、国記・天皇記を焚書してしまったため、飛鳥時代の歴史書が存在しない。」と、藤原日本史で述べている本意です。
そして、飛鳥ヤマトの太陽神(ミトラ神)や北極星(太一)を祀っていた先住民族の宗教施設は、明治革命での廃仏毀釈運動と同じに、徹底的に破壊され、その跡に、北九州から移築した仏寺を設置したのです。ですから、飛鳥ヤマトの仏寺境内から発掘される建物遺跡は、南北軸に対して西に約二十度傾いているのです。
では「アマテラスオオミカミ」は、誰により、いつ発明されたかと言えば、藤原氏により八世紀に発明された「神様」であったのです。
しかし、奈良時代の藤原氏の横暴に対して、唐進駐軍は見切りを付けて、明治革命を画策したイギリス東インド会社が日本国をソフト支配するために薩摩藩と長州藩を代理人としたように、亡命百済移民一族を日本支配の代理人としたのです。それが、亡命百済移民末裔の桓武天皇です。その百済系桓武天皇は、藤原氏が発明した「アマテラスオオミカミ」を崇拝してはいなかったのです。
781年桓武天皇は即位するのです。その即位儀式は、奈良時代の天武天皇家を実質支配していた藤原氏と決別するために、唐服で唐の即位儀式でおこない、そして、その儀式の祖神を、藤原氏が発明した「アマテラスオオミカミ」ではなく、桓武天皇の父「光仁天皇」としたのです。
そして、奈良の大仏鋳造時に排出された銅毒や水銀毒に汚染されたため、奈良の都では奇病が発生していたため、鉱毒の知識がない桓武天皇は、それを前政権の天武天皇家を陰謀で滅ぼした祟りと信じて、藤原氏が支配する興福寺・春日社を「穢れた施設」とし、奈良の都に封印し、その末社を、百済移民の地・京の都に創建することを禁じていたのです。
そして、その百済系桓武天皇家では代々江戸末期孝明天皇まで、新羅系天武天皇が創建した道観を藤原氏が破壊して、その跡に建てた伊勢神宮には、正式参拝はしていなかったのです。百済系桓武天皇家で初めて正式参拝したのは、明治革命のドサクサですり替えられた南朝系明治天皇であったのです。
では、すり替えられた明治天皇が隠棲していた長州藩の歴史は、どのような遍歴を辿っていたのでしょうか。その歴史を辿ると、何故、「サムライ」支配の会津藩士が、長州藩下級武士を「シシ」と言った理由がわかります。
長州藩は、長門と周防の二カ国36万9000余石を有する外様大名であったのですが、1600年関が原の合戦で、宇喜多秀家とともに毛利輝元が、西軍の総大将に担ぎ上げられ、徳川家康の東軍に破れる前までは、石見銀山の財力により、隠岐、備中、備後、安芸、出雲、石見、周防、長門等を支配していたのです。では、中国地域一帯を支配した、その毛利氏の出自はどのようだったのでしょうか。
毛利氏の祖は、歴史書などでは源頼朝の側近大江広元で、相模国の毛利荘の出自だと言われていますが、戦国大名のほとんどは、その三代先の出自は不明なのです。
それは、京にある建物全てを焼き尽くした、1467年応仁の乱により、室町幕府の武家秩序は乱れ、武力を持った名もなき武人が、大名にのし上がっていたからです。それを下克上と言い、武力を中心に武力が集まることを、群雄割拠と言っていたのです。
では、現在ある戦国大名の系図はどうなのかと言えば、それらは江戸時代に「系図屋」が、お金を貰い、その意向により創作したものであるのです。戦国武将のシンボルである、織田信長の三代先織田信定の墓が、垣外(カイト)にあったように、その出自が武家であったかは分からないのです。豊臣秀吉などは、その出生地までも分からないのです。そして、徳川家康の源氏に繋がる系図は、江戸時代に創作されたことは公然の秘密であるのです
毛利氏の歴史上の祖は、毛利元就で、1555年長門、周防、豊前を支配していた大内義隆を殺害した陶晴賢を厳島の戦いで破り、その地を簒奪したのが毛利氏の戦国大名の始まりです。
では、毛利氏は、それ以前は何処に拠点を構えていたのでしょうか。確かなことは分かりませんが、毛利氏の祖は、1333年鎌倉幕府が倒れ、建武の中興、天皇親政に異を唱えた足利尊氏の北朝と、南朝の後醍醐天皇とが争った南北朝時代、何処からか安芸国吉田荘へ移住し、その吉田盆地一帯を武力で支配していたのです。ここに、毛利氏の出自のヒントが見つかるのです。そして、もうひとつのヒントは、戦国武将が、兵隊を集めるためと、戦場での活躍を示すために創った「家紋」にあります。
そのヒントのひとつ、毛利氏の出自が吉田荘であることは、その吉田荘では代々薬創業が盛んで、明治革命の英雄に祭り上げられた吉田松陰の祖も、その吉田の出自であったのです。
日本列島での薬創業の盛んな地域と、騎馬民族末裔が住む地域とは重なります。薬創の始まりは、遊牧民族の家畜の観察からです。自然に暮す動物には、お医者さんがいませんから、体調を崩した動物がある種の草を食べることを観察した知恵者は、薬草を発見するわけです。薬草の知識を持った遊牧人は、やがて伝説となり、「神農様」と呼ばれていくわけです。編み笠と蓑の渡世人姿の「神農様」は、行く先々で草を食み、自らを実験台にして薬草を見つけ出していたのです。
騎馬民族は、薬草だけではなく、動物薬も創薬していたのです。騎馬民族の祖スキタイのシンボルである鹿の角は、強壮剤として今日でも「ロクジョウ」として高級ドリンク剤に使われています。
奈良盆地に鹿が多く棲んでいることを知った、騎馬民族の突厥進駐軍(藤原日本史では蘇我氏)は、鹿の角を集めて強壮剤を創薬していたのです。「日本書紀」には、蘇我氏が宇陀の薬草で創薬していたことを記述しています。宇陀には、現在でも、薬草農園が存在しています。
毛利氏には、騎馬民族のニオイがします。
毛利氏が歴史上確認された、その安芸吉田荘とは、古代の吉備国にあるのです。吉備国とは、岡山県全域、広島県東部、香川県島與部、兵庫県西部一帯を支配していた古代国家です。
その地では、鉄器を使い、土木建設や巨大石材建築物を構築し、四世紀には前方後円墳を築き、石材を使い横穴式古墳を築いていたのです。この吉備国は、平安時代の王権により、鉄棒を持つ鬼が、石城に住む「鬼が島」とされていたのです。因みに、「鬼」とは、仏教の敵神のことです。
藤原日本史の神武天皇から推古天皇までの創作物語(初代天皇は天武天皇)の呪縛を解くと、その古代吉備国とは、北九州の秦王国が、河内へ移動する中継国であることが分かるのです。その根拠として、河内平野の巨大古墳には、吉備国で造られた土器が多く埋葬されていたからです。
その秦王国とは、古代ヒッタイト・古代エジプト(紀元前十三世紀)、そして、オリエントからギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年、継承国大月氏)を経由して、そのバクトリアの衛星国秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)へ、そして、朝鮮半島の辰韓(秦韓)を経由して、三世紀後半に北九州へ渡来した民族が建てた都市国家であったのです。この秦王国の渡来と、日本列島の古墳時代の始まりが、時代的に重なるのです。
国際的な秦王国の民は、古代ヒッタイトの製鉄技術(タタラ製鉄)、鍛造による鉄器製作(日本刀は鍛造)、その鉄器を使った石材建築技術、そして、古代エジプトの石切技術、石組み技術、堀の掘削技術、土木建築技術、更に、ローマ帝国軍式幅広の軍事道路建設技術、上水道敷設技術、そして、ギリシャ文化の仮面劇(秦楽→申楽→猿楽→能芸)、牡牛を屠り太陽神を祀る儀式などなどの技術・文化を持っていたのです。
このような高度な技術・文化を持った秦氏を、794年唐進駐軍の後ろ盾により、秦氏の支配地山背国(後に山城国に改竄)を乗っ取った、亡命百済貴族は、814年編纂の「新撰姓氏録」で、蕃族とし、その説明では、機織(はたおり)が得意なので「ハタ」氏としたと述べているのです。因みに、亡命百済貴族を、「皇族」としていたのです。そして、奈良時代を牛耳っていた藤原氏は、「神族」とされていたのです。
毛利氏には、オリエントから渡来の秦氏のニオイもするようです。
では、もうひとつのヒントである、毛利氏の家紋は何を語っているのでしょうか。
家紋は、戦国時代に突然現れるのです。戦国時代から約300年前の源平合戦では、アラブ商人を祖とする「平家」は、その祖のフェニキア商人着用の「赤」を自軍のシンボルとし、それ対して、騎馬民族で古代新羅を祖とする「源氏」は、その祖が祀っていた太陽神の「白」を自軍のシンボルとしたのです。因みに、ツングース系百済を祖とする「平氏」は、「源氏の白旗」を担いでいたのです。百済系「平氏」の北条政子が、源氏棟梁三代を謀殺した後、平家の厳島の社(「ジンジャ」ではない。)を乗っ取り、その「平家」のシンボルの「赤旗」を「平氏のシンボル」としたのです。
歴史を持っていた武家は、その歴史を家紋に凝縮させていたのです。ですから、その家紋を見れば、その武家の歴史が分かるのです。では、毛利氏の家紋である一文字に三ツ星は、何を語っているのでしょうか。
三ツ星とは、ギリシャ神話の戦士オリオンのベルトです。そして、一文字はロンギヌスの槍です。この毛利氏の家紋の意味は、ロンギヌスの槍を持った戦士です。この家紋に類似したものに、渡邊氏の家紋があります。ひとつ違うのは、ロンギヌスの槍が、上にあるか、下にあるかです。
毛利氏の先祖は、ギリシャ・ローマ文化を知っていたのです。
この同じ意味の家紋を持った毛利氏と渡邊氏は、戦国時代のイエズス会傀儡の織田信長が、イエズス会の指示により大阪を支配する目的で起こした石山合戦では、織田信長軍に攻められていた石山寺に篭城する渡邊村へ、毛利水軍は、一文字に三ツ星の家紋がある旗をなびかせて、武器・弾薬・食糧を供給していたのです。
石の壁に護られた石山寺が、イエズス会がもたらした最新式銃で武装した織田信長軍団の攻撃を10年間も防ぎ、篭城できたのは、毛利氏水軍による軍事物資と食糧供給の支援があったからです。周防と大阪との距離を縮めたのは、騎馬民族の秦氏の血の流れが共にあったからです。
では、その毛利水軍の祖は、誰なのかを辿れば、その祖は、源氏の渡邊綱から派生した松浦水軍であるのです。では、その松浦水軍とは何かと辿れば、その松浦とは、梅豆羅(メズラ)と「日本書紀」の新羅征伐の神功皇后物語に出ているのです。そのメズラは、朝鮮半島南端近くに、珍島(メズラシマ)があるのは、北九州と朝鮮半島とは、古来から船で行き来していたからです。つまり、源氏の祖は、ギリシャ・ローマ文化保持の古代新羅から渡来した武人であったのです。
因みに、朝鮮半島南端に珍島(メズラ)、そして、対岸の北九州に松浦(メズラ)があるのは、古代韓民族と古代倭(イ)民族とは、その祖が、紀元前473年に滅びた海洋民族呉と、そして、紀元前334年に滅びた海洋民族越であるからです。
その中国大陸南端を支配した海洋民族の呉越同舟の亡命民が、大型船により対馬海流を西に分かれたのが韓民族の祖となり、東に分かれたのが倭(イ)民族の祖となったのです。ですから、古代では、朝鮮半島南端と北九州は同族文化圏であったのです。
しかし、平安時代になると「日本書紀」には、反新羅で記述された物語を多く掲載しています。それは、新羅により母国百済を滅ぼされた恨みを持つ、亡命百済貴族が、唐侵略軍の後ろ盾で平安時代の支配者になると、反新羅の物語を、720年に完成の「日本書紀」に挿入していたからです。
辰韓(秦韓)から古代新羅(秦羅)となり、日本列島に渡来して秦王国を建てた秦氏は、平安王朝を支配した亡命百済貴族にとっては、憎むべき相手であったのです。ですから、新羅は「シンラ」と読むべきところを、「シラギ」の蔑称で読ませていたのです。「シラギ」とは、「シンラの奴ら」の蔑称の意味であるのです。民族イジメは、平安時代の京の都から始まっていたのです。
騎馬民族、秦氏、そして、古代新羅のニオイがする毛利氏は、亡命百済民を祖とする「サムライ」には、憎むべき相手であったのです。そこで、明治革命で活躍した長州藩の下級武士を、「サムライ」が支配する会津藩士は、賎民の意味で「シシ」と蔑称していたのです。
それに対して、賎民としてイジメられていた長州藩の「シシ」は、明治革命で、第三百済王朝の江戸幕府を支えていた会津藩を、必要以上に徹底的に打ちのめしたのは、そのような歴史があったからです。
では、明治革命で活躍したもう一方の薩摩藩の歴史には、どのような物語があったのでしょうか。
薩摩藩は複雑です。それはヘブライ国(紀元前1230年〜紀元前932年)のようにイスラエル民族とユダヤ民族との異なる神を祀る異民族により構成されていたからです。薩摩藩も、異なる神を祀り、太陽神の八幡神を祀る島津氏と、ユダヤ教儀式と酷似した中臣神道の藤原氏とにより構成されていたのです。
ヘブライ国では、圧倒的に多人数のイスラエル民族十部族は、少数のユダヤ民族二部族に支配されていたのは、それは、ユダヤ民族にはザドク一派の祭祀族がいたからです。
その祭祀一族が、古代エジプトの唯一神である太陽神アトンを改竄して、唯一神ヤハヴェを「モーセ十戒物語」で発明し、多神教のイスラエル民族の祭祀権を奪い君臨したのです。そのザドク一派と結託したダビデやソロモンは、太陽神バアルと牡牛を屠るイスラエル民族十部族を支配していたのです。
紀元前932年ソロモンが死去すると、ヘブライ王国はイスラエル国とユダ国に分裂するのです。紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンが、そのイスラエル国を滅ぼすと、アッシリア人とイスラエル民族とが混血したサマリア人を、ユダヤ民族は、不可触賎民サマリア人と蔑むのです。
そのアッシリア帝国に破れた、太陽神バアル信仰と牡牛を屠る祭祀儀式を持つイスラエル十部族は、その後、歴史上から消えて、今日に至るわけです。
では、薩摩藩での島津氏と藤原氏との関係はどのようになっていたのでしょうか。
四世紀、南インドのユダヤ教ヨシュア派の教会があるマラバル沿岸から、南九州坊津に渡来したナーガ族(へび信仰民族・中臣族の祖)は、タミル語を話すトラヴィダ軍人(薩摩隼人の祖)の武力により、南九州を支配するのです。
そして、6世紀、南九州から中部九州を制圧した唐進駐軍と供に中臣族は、645年飛鳥ヤマトに攻め上り、オリエント文化の飛鳥王権を倒すと、唐進駐軍から任命され、唐氏(唐氏→籐氏→藤原氏)として漢訳仏教文化の飛鳥ヤマトの支配代理人となるのです。
藤原氏となった中臣族末裔の藤原不比等は、古来から日本列島に渡来していたとする、唐本国への漢語報告書である「日本書紀」で、アマテラスオオミカミの神話物語を創作して祭祀者の天児屋根命を祖とするのです。
唐文化華やかな平安中期、唐進駐軍の勢力が、本国唐が907年に滅びたため、その後ろ盾により権勢を誇っていた百済系天皇家と供に衰退していくのです。この唐文化から国風文化の変換期をみた、奈良の都に封印されていた藤原氏は、「五節の舞」を復活させ、百済系天皇家に「藤原の女」を嫁がせ、摂関政治により、平安王朝を乗っ取るのです。
そして、陸奥国蝦夷の捕虜を「源氏武士」とし、藤原氏の私兵として「武力と謀略」とにより、平安朝廷でのライバルを抹殺していった結果、藤原道長は、1017年太政大臣となり第二藤原王朝を復活させたのです。
しかし、勢力を付けた源氏武士は、横暴な藤原氏の配下から独立していくわけです。その期を見た、藤原氏により虐げられていた百済系白河天皇は、上皇となり、藤原氏のロボットである天皇の位を堀河天皇に譲り、1086年ここに院政政治が始まるのです。そして、源氏武士の武力に対抗するために、賀茂川のドクロヶ原に勢力を張るアラブ系武装集団を「平家」として白河上皇の私兵とするのです。
白河上皇の私兵「平家」に武力で京から追い落とされた藤原氏は、源氏武士にも見放されて、南九州の藤原氏の私領島津荘に隠棲するのです。その藤原氏に更に、1192年天下を盗った源氏棟梁となった源頼朝は、惟宗氏にその藤原氏の私領島津荘の経営を任ずるのです。ここに、惟宗氏は、惟宗基言から島津基言となり、島津氏の祖となるのです。
では、惟宗氏とは、何かといえば、第一百済王朝の平安時代、唐から騎馬民族差別思想を持ち込んだ錬金術師空海が「施陀羅悪人なり」の思想を広めたため、騎馬民族の流れにある秦氏末裔は、その呪縛から逃れるために秦氏から惟宗氏に変身していたのです。つまり、島津氏のルーツは、島津氏←惟宗氏←秦氏の流れにあったのです。
南九州島津荘を支配した島津氏は、やがて、藤原氏得意の「藤原の女」を娶らされ、島津氏は、ヘブライ国のイスラエル民族のように、祭祀氏族藤原氏により支配されていくわけです。
江戸末期から明治革命までの藤原氏(近衛家)の政治的暗躍をみれば、薩摩藩での支配者が、島津氏ではなく、藤原氏(近衛家)であることが理解できます。藤原氏は、「藤原の女」を密使として送り込む戦術が得意であったのです。
江戸幕府を倒し、自由貿易を望む藤原氏は、公武合体で政局を乗り切ろうとする保守派の壊滅を画策するのです。その第一の計画が、第十一代将軍徳川家斉に、茂姫を嫁がせるのです。徳川家斉は、御三家ではなく、御三卿の一橋治済の長男であったのです。その御三卿の流れにある徳川家斉は、徳川家康直系の御三家とは敵対同士であったのです。その徳川家斉は、御三家のひとつである尾張家の血統を根絶やしにしていたのです。
では、その徳川家斉に嫁いだ茂姫の前歴を辿れば、島津家の於篤(オマツ)が近衛家の養女寔子(タダコ)となり、その寔子が徳川家斉に茂姫として嫁いでいたのです。
この戦術は、第十三代目将軍徳川家定の時にも使われていたのです。
1853年米使ペリーの来航で幕府が、開明派と攘夷派とに分かれて揺れ動いている時、第十三代目将軍徳川家定は、アメリカ公使ハリスに謁見したのです。その時の描写をハリスは記録として残していたのです。その記述は次のとおりです。

徳川家定将軍は、短い沈黙の後、自分の頭をその左肩を越えてグイッと後方へ反らしはじめた。同時に右足を踏み鳴らし、これが三四回繰り返された。

徳川家定には、付随運動だではなく、言葉も不自由であったのです。その徳川家定の正室任子(タダコ)が若くして病死した期を逃さず、藤原氏(近衛家)は、篤姫を輿入れさせるのです。しかし、徳川家定は、重い病気にかかっていたので結婚生活ができる状態ではなかったのです。
篤姫が嫁ぐと、蘭方医禁止令を廃して、徳川家定は蘭方医の処置により35歳で死去してしまうのです。そして、その跡目を継いだのが、徳川家康直系の紀州藩主徳川斉順の長男、第十四代目将軍徳川家茂であったのです。徳川家茂は、孝明天皇の娘を正室としたため、攘夷派の先鋒孝明天皇に煽られて攘夷派の先鋒となってしまったのです。
この攘夷派先鋒の徳川家茂は、開明派の藤原氏にとっては存在してはならない将軍であったのです。この徳川家茂も、第二次長州征伐の最中、大坂城で倒れ、蘭方医の処置により21歳の若さで急死してしまったのです。
徳川家定と徳川家茂との二人の死には、徳川家ではそれまで蘭方医は禁止であったのが、篤姫により推薦された蘭方医がかかわっていたことは、一体何を意味していたのでしょうか。
その篤姫の経歴は、今和泉島津家忠剛(タダタケ)の娘一子(カツコ)が島津家の養女篤姫となり、その篤姫が、近衛家忠熙(タダヒロ)の養女敬子(スミコ)となり、その敬子が病弱な徳川家定の御台所となり、徳川家定死去後、江戸幕府を影で支配していたのです。勿論、その篤姫は、薩摩藩の藤原氏(近衛家)のコントロール下にあったのです。
劃して、攘夷派の第十四代目将軍徳川家茂の跡目を、御三卿の一橋慶喜が継いだのです。第十五代目将軍徳川慶喜は、開明派の藤原氏の傀儡将軍であったので、鳥羽伏見の戦闘中に大阪城から脱走し、榎本武揚が指揮するオランダ製軍艦により江戸に逃げ帰るのです。
この明治革命物語での藤原氏(近衛家)の動きは、645年の飛鳥ヤマトを壊滅した中臣族(藤原氏の祖)との動きと同じであったのです。つまり、外国軍団の勢力の下で暗躍し、藤原氏の自由交易(密貿易)を阻止する前政権を倒したことです。
21世紀の現在、このイギリス東インド会社が薩摩藩と長州藩の「シシ」を利用して計画・実行した明治革命の下で暗躍し、そして、復活した藤原氏の影響が未だに残っているのです。
それは、現在、明治革命から続く第三藤原王朝の時代が継続しているからです。その根拠は、明治革命後、復活した藤原氏が発明した「神国ニッポン」を唱える政治家が、現在でも存在しているからです。
政治家の靖国ジンジャ参拝とは、純粋に英霊を祀る行為の裏には、現在の日本国をソフト支配するイギリス東インド会社代理人である藤原氏に対しての忠誠を確かめるための「踏み絵」としての意味もあるのです。
では、第三藤原王朝の日本国は、これからどのような歴史物語を綴るのでしょうか。
2008年9月突然世界経済に激震が起こったのです。この時点では、現在の占い師である、近未来を予言する経済評論家や経済アナリストは、その経済的影響は、アメリカ乃至、アメリカを裏から金融的支配しているイギリスだけで、わが日本国には至らないとマスコミで発表していたのです。
しかし、それから三ヶ月も経たないうちに、日本経済に激震が走ったのです。それが、日本国経済の優等生のトヨタが、赤字に転落したとの発表があったからです。そのトヨタ赤字の記者発表に対して、普段は饒舌な経済評論家やアナリストは沈黙を守ったのです。
では、何故、世界経済だけではなく、世界の優等生である日本国の経済までも、突然、不況状態に巻き込まれてしまったのでしょうか。
昔、あるひとが「経済事件には偶然などない。それは必然だ。」、と言いました。もし、その格言が真実だとしたら、2008年のアメリカ金融経済事件は、どのような仕掛けで起こされて、そして、何を目的に起こされたのでしょうか。
経済事件は必然であるのなら、その事件が起こる前に、その仕掛けが用意されているはずです。では、2008年のアメリカ金融経済事件は、どような仕掛けにより、誰により起こされたのでしょうか。その謎の解明ヒントは、村上ファンドにあるようです。
村上ファンドとは、元役人が代理人となり、世界の金持ちからお金をかき集めた投資事業組合のようなものです。その代理人が、マスコミに向って「お金儲けは悪いことですか?」、と言いながら株主総会で、総会屋顔負けの行動を起こした結果、日本国の企業は、「株主様」の所有物となってしまったのです。しかし、この村上ファンドには、深い闇があったのです。
その闇とは、その事務所がケイマン島にあっただけではなく、その出資者のひとりに、現役の株式会社日本銀行の総裁がいたからです。その総裁の前歴は、アメリカ投資会社ゴールドマン・サックスの顧問だったのです。その総裁の言い訳は、村上ファンドに投資したのは、株式会社日本銀行の総裁になる前で、「ウッカリ解約するのを忘れていた。儲けは慈善団体に寄付する。」、と言い、総裁を辞任することもなく、任期をまっとうしたのです。それに対して、与党は勿論、野党もマスコミも、前自民党総裁のピーナッツ事件のように、執拗な追及はなかったのです。何故でしょうか。
一般的な認識では、世界の金融は、公正な組織により健全に運用されていると信じられているようです。しかし、それは認識不足です。
現在の国際金融市場とは、アメリカの中央銀行にあたるFRB(連邦準備銀行)と、ヨーロッパの中央銀行にあたるECB(欧州中央銀行)が決定した事項を、日本や、欧米以外の首相や各国の中央銀行総裁が集められ、そこで発表するだけです。つまり、二つの組織が、世界の金融組織を支配しているのは、世界の金相場が五人に支配されているのと同じ構造です。
では、世界の金融を支配する組織のひとつであるそのFRB(連邦準備銀行)とは、どのような組織なのでしょうか。
1913年アメリカ合衆国で、民主党ウッドロー・ウィルソンが大統領となると、ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド、ウォーバーグの銀行家が集まり、私的銀行の組織を作るのです。それが、フェデラル・リザーブ・ボード(FRB)の連邦準備制度理事会であったのです。
そのFRBのメンバーであるウォーパーグと我が明治政府とは、歴史上緊密な関係にあったのです。そのウォーバーグとは、ロスチャイルド系のクーン・ローブ商会の女婿たちが支配する銀行です。
明治時代、1902年イギリス東インド会社の傀儡第三藤原王朝が駆る使者の暗躍により日英同盟協約が調印され、日本軍をイギリス軍の指揮下におくと、そのクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、後に大蔵大臣・首相(1921年〜1922年)となる高橋是清に、ロシア帝国との戦争資金の半分を融資したのです。そして、1904年イギリス海軍軍事顧問が乗船する日本帝国海軍は、極東ロシア艦隊を、日本海海戦で壊滅するのです。
その日露戦争の軍資金を融資したクーン・ローブ商会と親しかった高橋是清は、その後、1936年二・二六事件で、口封じのため暗殺されることにより、イギリスを金融で支配する銀行家により企画された日露戦争の闇が隠蔽されてしまうのです。更に、そのクーン・ローブ商会は、1941年太平洋戦争時にも、戦費の融資を申し出ていたのです。
明治政府や昭和政府と親しかったメンバーがいる連邦準備制度理事会は、アメリカ合衆国独立時では13州であったのに、何故か全米を12地区に分けたのは、それらのメンバーの多くは、第十三部族が出自であったからです。つまり、ユダヤ教徒が主張する、ヘブライ国12部族にならっていたのです。
その12地区にそれぞれ連銀(フェデラル・バンク)を設立し、その支配者として、ダビデではなく、ニューヨーク連銀が君臨している構図です。つまり、アメリカの中央銀行のような組織であるFRBとは、国立などではなく、私立の銀行集団組織であるのです。
このアメリカ合衆国の金融を支配する、私的バンク集団が支配するFRBの仕掛けは、イギリス・イングランド銀行にあったのです。
1694年イギリスで、戦争資金を集めるために創設された私立銀行のイングランド銀行は、1844年イギリス首相ロバート・ピールにより発せられた条例により、イギリスの中央銀行となっていったのです。そのピール条例とは、「イングランド銀行以外の銀行は、期限がくれば貨幣発行の特権が消滅する」ものだったのです。
このピール条例により、私立銀行のイングランド銀行が中央銀行となった経緯が、株式会社日本銀行が中央銀行となった経緯と同じ訳は、それは、そのシナリオを書いたのが同じ人物であったからです。つまり、イギリス、アメリカ、日本の中央銀行は、イギリス・イングランド銀行と繋がっていたのです。
世界を支配する方法は二つ。ひとつは、ハード支配の「武力」です。そして、もうひとつは、ソフト支配の「経済」です。その経済を支配するには、「金融」をコントロールすることにより可能です。
そこで、国際銀行家集団は、自らの銀行ネットワークを各国の中央銀行に持ち込んで、そして、組織化し、国際銀行システムを作り上げて、その国に「経済力」で影響力を行使して、その国をコントロールしていくわけです。この国際銀行家集団が組織されるのは、東インド会社の成功があったからです。
1494年ポルトガルとイスパニア王国は、ローマ・キリスト教皇公認の下、世界を二分して支配できる協定、トルデシリャス条約を結ぶのです。この条約により、ローマ・キリスト教会公認の海賊交易が可能になったのです。西回りのイスパニア王国は、南北アメリカを支配地とし、それに対して、東回りのポルトガルは、アフリカ・インド・東アジア・中国・日本を支配地としたのです。
その二分された世界征服のため、右手に聖書、左手に銃を持つ、武闘派宣教師集団のイエズス会は、ポルトガルの軍事援助と経済援助とにより、インド、東南アジア、マカオ、そして、戦国時代の日本を、キリスト教布教を旗印として侵略していったのです。
イエズス会のキリスト教布教の名目の裏には、ポルトガルの国際交易商人による、奈良宇陀の水銀、伊勢の水銀、そして、毛利氏が支配している石見の銀山の略奪目的があったのです。その日本国侵略を目論むイエズス会の代理人が、反仏教の織田信長であったのです。
その織田信長に対するイエズス会のミッションは、645年唐から渡来した僧兵軍団の壊滅であったのです。日本の中央を天皇を差し置いて、実質経済を支配する漢訳仏教組織を武力でバックアップしている僧兵軍団は、日本国占領を目論むポルトガルには、壊滅すべき軍団であったのです。そのひとつが、1571年の比叡山延暦寺の焼討ちで、もうひとつが、1580年終決の石山合戦十年戦争であったのです。これらの宗教戦争により、日本国の僧兵軍団が壊滅したわけです。
そのポルトガルが、東アジアからもたらす香辛料が、肉食のヨーロッパで金と同量の高価に売れることを知った、第十三部族は、ポルトガル・イスパニア王国に対抗する組織を作るのです。それが、1600年イギリス東インド会社、1602年オランダ東インド会社、1604年フランス東インド会社の設立となったのです。
では、その各国の東インド会社とは、どのような組織かと言えば、それは、政府公認の合資資本会社であるのです。つまり、皆でお金を出して、海賊船を雇い、その海賊船が武力により、ポルトガルが支配するインド・東アジアで香辛料を略奪することです。その海賊交易が成功すると、その出資者は、その出資額に応じて配当金がもらえると言う仕掛けであったのです。
この東インド会社の海賊交易のビジネスモデルを応用したのが、村上ファンド事件やライブドア事件を起こした、投資事業組合のビジネスです。東インド会社と唯一異なるのは、投資事業組合は、海賊船を雇わなかったことです。しかし、海賊船の替わりに、「お金儲けは悪いことですか。」と述べる総会屋タイプの人材を登用して、金融的・組織的に問題がある企業を狙い、海賊船の大砲ではなく、マスコミを味方に付けその企業の弱点を叩くことにより、ターゲット企業から多額の資産を強奪し、それを、投資事業組合員で山分けしたことは、東インド会社と同じです。
このふたつの経済事件を起こした原因の投資事業組合ビジネスのアイデアを教え、更に、多額の資金を提供し、村上ファンドのカンバンとして株式会社日本銀行の総裁候補を紹介したのが、リーマン・ブラザース証券であったのです。そのリーマン・ブラザース証券の倒産が、2008年アメリカ金融事件の発端だったのです。
不思議なことに、そのリーマン・ブラザース証券の倒産は、その前兆もなく、そして、その倒産劇の解説もなく、更に、会社更生の意志も示すこともなく、あっけなくおこなわれていたのです。更に不思議なことは、そのような経済大事件を起こした原因であるリーマン・ブラザース証券倒産の後追い記事は、正義の味方を標榜するマスコミには掲載されることはなかったのです。何故でしょうか。
それは、日本列島史が藤原氏により支配されているように、マスコミ企業は、純広告や企業広告を出稿する国際金融組織に支配されている企業により、「ソフト支配」されているからです。いつの時代でもそうですが、「一本(ペン・理想)より、二本(箸・現実)のほうが強いのです。」の格言が生きているからです。
以上のことから、株式会社日本銀行は、日本人のための金融組織であるのかは、「疑問符?」が付きます。では、誰が、なにを目的に、株式会社日本銀行を動かしているというのでしょうか。ここにひとつのヒントがあります。それは、毎年アメリカから日本政府に届けられる「年次改革要望書」なるものです。
この「年次改革要望書」とは、国際銀行家集団の資金により運営されている経済研究所が創案した事項を、アメリカ政府より、日本国政府に下賜された「命令書」のようなものです。この「命令書」にそって、日本国政府は、日本国内での政策を実行するのです。それが、現実の日本の姿です。
例えば、2005年頃から社会問題となっていた「振り込め詐欺事件」の背景も、その「年次改革要望書」から読み取れます。それは、国際銀行家集団の命令で、日本国経済を疲弊するための仕掛けであった、竹下登内閣(1987年11月〜1989年6月)による「ふるさと創生」のスローガンにより、各自治体に1億円をバラ撒いた頃から始まる「バブル経済」が、1990年突然株価の暴落によりハジケタ結果であったのです。
そのバブル経済破綻後の株式会社日本銀行の不可解な行動により、国内の銀行や金融企業は破綻に追い込まれていくのです。その仕掛けは、1990年3月銀行による土地融資の総量規制であったのです。
それは、それまでの日本国経済界では、金本位制度というよりも、土地本位制度ともいわれるほど「土地神話」が信仰されていたからです。その結果、「社員は悪くありません。社長の私が悪かった。」と堂々とマスコミに謝った大手証券会社は倒産してしまったのです。更に、2008年年末のトヨタ赤字と同じように、1992年11月日産自動車が創業以来初めて赤字決算を発表したのです。まさに、時代は繰り返すのです。
そのようにバブル経済崩壊で、金融界が混乱している時期に、マスコミは、預貯金の補償額が一千万円までとセンセーショナルに騒ぎ立てたのです。つまり、「一千万円以上の預貯金はカミクズになってしまいますよ。」との刷り込みを、マスコミがおこなったのです。
その結果、お金持ちのお爺さん、お婆さんが、大金を銀行や金融機関から引き上げてしまったのです。この時期、金庫製造企業の株が暴騰したことは、そのお金持ちの人数が多数であったことを語っています。銀行は、株式会社日本銀行の行動により融資規制を指導され、更に、民間の資産を引き上げられた結果、破綻寸前まで追い詰められていったのです。そこに現れたのが、黒船ではなく、アメリカ金融企業であったのです。
そのアメリカ金融企業は、破綻した日本の銀行を傘下として、外貨貯金やデリバティブ商品などを売りつけるのですが、外国語崇拝の経済の仕組みを知らない自治体の職員や成金企業家などには売れたのですが、カタカナ言葉に嫌悪感を持つお爺さんやお婆さんは、大金を金庫に保管したり、庭に埋めていたのです。
そのような時代背景により、多額の現金を身近に置く金持ちお爺さんやお婆さんは、「振り込め詐欺師」の罠にかかってしまったのです。その詐欺の初期の金額が、千万円単位であったことは、それだけ銀行にはお金がなかったことを示唆します。
因みに、一般的常識では、銀行にはお金(現金)があると思われているようですが、実際には、銀行にはお金(現金)はないのです。それは、お金には、元々価値がないことが、知能明晰な銀行家には分かっているからです。お金に「価値」を付けるのは「信用」だけです。ですから、銀行家は、入金された現金をすぐに、「信用」に裏付けされた「品物」に交換してしまうのです。因みに、平成時代のお札の原価は、一万円でも千円でも、一枚25円だそうです。ですから、銀行には、お金(現金)はないのです。
2008年アメリカ金融経済事件の背景は、アメリカの銀行や金融企業に「お金」がないことが露見してしまったことです。しかし、アメリカ政府は、日本政府の「一千万円までの保証」などと異なり、全額保障をおこなうことでしょう。
そのように、日本国をバブル経済に導いたのも、バブル経済を破綻させたのも、「年次改革要望書」によるのです。そして、その「命令書」により印刷機で必要以上にお札を刷ったり(インフレ)、その反対に、印刷機を止めたり(デフレ)して、バブル経済を起こし、その後、破綻させたのは、株式会社日本銀行であったのです。
その株式会社日本銀行の株100%は、1941年(太平洋戦争勃発時)前までは、国際金融組織に保持されていたのです。太平洋戦争勃発時に、国際銀行家集団のひとつであるクーン・ローブ商会が日本国政府に戦費の融資を申し出たのは、そのような経緯があったからです。ですから、太平洋戦争の総括が、未だ現在出来ないわけのひとつは、その戦争資金の出所が解明されてしまえば、国際銀行家集団組織と戦争ビジネスとが裏で繋がっていることが、公に知られてしまうからです。
ですから、国際銀行家集団が健在な現在、世界の各地で戦闘が続いているのです。
そして、太平洋戦争の謎が解明されてしまえば、明治革命の謎も解明されてしまうからです。それは、その二つの戦いの軍資金は、国際銀行家集団から融資されていたからです。
一寸考えて見れば分かるとおもえますが、内乱が続いている明治新政府誕生後2年で、横浜新橋間に汽車が行き来していたのです。その鉄道工事は、少なくとも4年はかかるのです。更に、未だ銀行が設立されていない時代に、誰が建設資金を出資したのでしょうか。江戸幕府壊滅状態の明治革命前に、そのようなことを考え、実行できる「ニッポンジン」が居たとでも言うのでしょうか。
更に不思議なことは、太平洋戦争敗戦後にもあったのです。それは、米軍基地の謎です。
1945年8月10日日本政府は、ポツダム宣言受諾を通告したのです。これは、事実上の敗戦宣言です。そして、1945年8月30日連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着するのです。ここから、日本国は、アメリカの占領政策により支配されていくのです。
アメリカ進駐軍は、日本全土に米軍基地を設置するのです。その理由は、不凍港を求めるソヴィエト連邦軍が南下して、日本国占領を企てていたから、とのことです。
日本政府とソヴィエト連邦政府とは、1941年日ソ中立条約を締結していたのです。しかし、1945年4月ソヴィエト連邦政府は、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したのです。そして、広島にアメリカ空軍が原子爆弾を投下した二日後、同年8月8日ソヴィエト連邦政府は、日本政府に宣戦布告をしたのです。
そのソヴィエト連邦軍が、日本列島に侵攻するこを阻止するために、アメリカ進駐軍が防衛のため、日本全土に米軍基地を築いたと、藤原日本史は述べるのです。つまり、アメリカ対ソヴィエト連邦冷戦の図式です。
しかし、1941年スターリンは、戦争ビジネスを行う国際銀行家組織の資金援助により、人民委員会議長となり、ソヴィエト連邦を支配していたのです。そして、アメリカも戦争ビジネスを行う国際銀行家組織により支配されているのです。この図式は、国際銀行家集団の戦争ビジネスで、それは、藤原氏が得意の「夷を以って、夷を制す」の戦術と同じです。このことから、アメリカとソヴィエト連邦とが、その時点で戦火を開く状態だという根拠が崩れるのです。
では、何故、アメリカ進駐軍は、日本全土に米軍基地を設置したのでしょうか。その謎は、2004年現在の27都道県の米軍基地が語ります。
その米軍基地を北から南に羅列すると、北海道18施設、青森県6施設、岩手県1施設、宮城県3施設、山形県1施設、茨城県1施設、群馬県1施設、埼玉県4施設、千葉県1施設、東京都8施設、神奈川県15施設、山梨県1施設、静岡県4施設、新潟県1施設、石川県1施設、岐阜県1施設、滋賀県1施設、兵庫県1施設、広島県7施設、山口県2施設、福岡県2施設、佐賀県1施設、長崎県13施設、熊本県3施設、大分県2施設、宮崎県2施設、そして、沖縄県38施設、となるのです。
まず第一の謎は、1945年日本国敗戦から59年後の米軍基地から見えるものは、ソヴィエト連邦軍の侵攻を防ぐ目的と言われた米軍基地が、何故、新潟県1施設・石川県1施設のみで、日本海側に殆んど置かれていないのか、ということです。
そして、第二の謎は、東京都の首都中枢を取り囲むように設置されている米軍基地が、近畿・中京には殆んどないことです。四国に至っては、皆無です。
このことから推察される結論は、日本全国に設置された米軍基地が日本海側に殆んどないことで、第一の目的はソヴィエト連邦軍の日本国への侵攻を防ぐ為ではない、と言うことです。では、その米軍基地の布陣は何を意味しているのでしょうか。
国際銀行家集団に支配されているアメリカ合衆国は、日本国を戦争に導くように、1941年米国在米日本資産を凍結するのです。そして、アメリカ合衆国を金融で支配するイギリスも、英国全領日本資産を凍結し、更に、日英通商航海条約破棄を通告するのです。
そのような挑発で日本国を経済的に追い込む一方、日本国の歴史を精査するのです。そのひとつが、明治時代にハワイやアメリカ本土に棄民された日本人一世からの、賎民史の調査です。
それは、明治政府から棄民された多くのひと達は、江戸時代末期まで、隠れキリシタンや賎民「穢多」としてイジメられていた末裔であったからです。
国際銀行家組織は、藤原日本史と異なる、日本列島史を知っていたことが示唆されるのは、太平洋戦争後の米軍基地の配置から読み取れるのです。
米軍基地の北海道18施設、沖縄38施設は、対ソヴィエト連邦に対峙するための前線基地として考えられますが、その北海道と沖縄とは、日本列島史では、漢訳仏教組織の支配が唯一及ばなかった地域です。それに対して、米軍基地が皆無の近畿と中京は、漢訳仏教組織の中心的地域です。
藤原日本史によれば、日本国は万世一系の天皇家により、単一のヤマト民族で構成されている、と述べているのですが、敗者である賎民による日本列島史は、秦氏、突厥帝国進駐軍、唐進駐軍と漢訳仏教組織、藤原氏、亡命百済民、そして、アラブ交易商人などなどの異民族による興亡史であったのです。
藤原日本史の特徴は、天皇家と仏教を歴史の中心において、日本列島の敗者の歴史を隠蔽していることです。ですから、その天皇家と仏教の歴史の欺瞞性を暴けば、藤原日本史の「ウソ」が開明できるのです。
645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)が、秦氏と突厥帝国進駐軍が支配する飛鳥ヤマトを占拠した時点から、唐進駐軍が唐から持ち込んだ漢訳仏教思想で、オリエントから渡来の秦氏やユーラシア大陸から渡来の突厥帝国軍人を、漢訳仏教の敵である「鬼」として民族差別してきたのが、藤原日本列島史の荒筋です。しかし、藤原日本史も、平安時代に改竄されていたのです。
663年母国百済を滅ぼされ、日本列島に亡命してきた百済民族が、奈良時代に恵美押勝などの藤原一族の専横に苦慮した唐進駐軍が、亡命百済貴族を「桓武天皇」とし、日本支配の代理人としたのが、平安時代なのです。
唐進駐軍は亡命百済貴族に、秦氏の支配地であった山背国(後の山城国)を支配させ、唐から持ち込んだ、法華経を信奉する天台宗組織により、奈良を支配する藤原氏を封じ込め、更に、唐より持ち込んだ騎馬民族差別思想「施陀羅悪人ナリ」により、秦氏や突厥帝国進駐軍を賎民として落し込めたのが、唐文化の平安時代だったのです。その中国・天台宗の祖を、「百済仏教伝来538年」と改竄するために「聖徳太子」が、平安時代に発明されたのです。
つまり、米軍基地がない近畿地域は、平安時代より、比叡山延暦寺の僧兵により、秦氏や突厥帝国民を、賎民として支配していた地であったのです。
では、もうひとつの米軍基地がない中京地域の賎民史はどのようだったのでしょうか。
907年唐が滅びると、平安京を支配していた唐進駐軍の勢力も衰えていくのです。その後ろ盾を失った百済系天皇家の勢いも衰えていくのです。その期を逃さず、奈良に封印されていた藤原氏は、天慶の乱(939年〜941年)で活躍した秦氏・突厥帝国進駐軍末裔捕虜の陸奥国蝦夷を「武士」として、藤原氏の私兵とし、天皇家の私領を謀略と武力で奪い、藤原氏私領の「荘園」を広げていくのです。
それに対して、百済系天皇家の白河天皇は、1086年上皇となり、院政を始めて、藤原氏の源氏武士に対抗して、伊勢を支配するアラブ系武装集団を「平家」の私兵とするのです。
この源氏武士と平家との戦いが「源平合戦」です。この戦いで勝利した源氏武士は、藤原氏からの支配を解消しただけではなく、源頼朝は、藤原氏の荘園である「島津荘」を略奪し、同族の惟宗氏に支配させるのです。これが、明治革命で藤原氏(近衛家)の手先となり活躍した、秦氏末裔の島津氏の始まりです。
その源氏武士が支配した鎌倉幕府も、百済系北条氏の「平氏」の陰謀により、三代で滅亡し、第二百済王朝となっていったのです。この第二百済王朝の北条鎌倉時代に、百済系仏教である比叡山延暦寺の天台宗に対抗して、藤原氏の流れにある日野範宴が、法然の浄土宗を真似て、「親鸞」として浄土真宗を発明するわけです。
その親鸞の目的は、秦氏の財力と武力を利用して、百済系天台宗の比叡山延暦寺を倒すことであったのです。そのため、親鸞は肉食妻帯していたのです。
平安時代、比叡山延暦寺を拠点として近畿一帯を僧兵の武力で支配する天台宗は、騎馬民族末裔で、当然肉食する秦氏末裔を、錬金術師空海が発明した「施陀羅悪人ナリ」の呪文で、賎民として貶めていたのです。
親鸞は、薬創業の盛んな北陸を目指すのです。その薬創業は、騎馬民族末裔の家業であったからです。そこで、「ナムアミダブツ」の呪文を唱えながら、「悪人は成仏できる。」と解くわけです。
では、何故、漢訳仏教嫌いの秦氏末裔が、親鸞が解く説教に洗脳されてしまったのでしょうか。それは、「ナムアミダブツ」の呪文によるのです。その呪文の意味は、「私は、アミ様に帰依します。」、となるのです。では、その「アミ様」とは、何でしょうか。それは、古代エジプトの太陽神「アトン」であったのです。
秦氏とは、オリエントから渡来の高度技術保持する多民族の集団の総称です。その集団の中には、古代エジプトの石切技術や石組み技術などの高度土木技術者もいたのです。その集団は、太陽神と牡牛を屠る祭祀儀式を保持していたのです。そのような秦氏末裔に対して、「太陽神のアミ様を信じなさい。」と唱える者がいて、更に、敵宗教の天台宗が禁忌する「肉食」「妻帯」する者であれば、秦氏末裔は、「親鸞」を敵ではなく、同族として向い入れることは明らかです。
そのような戦略により「親鸞」は、北陸に浄土真宗を広めたのです。しかし、親鸞は、藤原氏の流れにあったので、決して、秦氏を藤原氏と同等には扱わなかったのです。
そのように、比叡山延暦寺の天台宗と、藤原氏の流れにある浄土真宗とは、僧兵の武力で対峙していたのが、北条鎌倉時代であったのです。
そして、天台宗は、浄土真宗の秦氏を貶めるために、「施陀羅悪人ナリ」をパワーアップした呪文を発明するのです。それが、秦氏は、牡牛を屠り、その肉を食べるので、穢れが多いの意味から「穢多」の呪文を発明するわけです。
そのような宗教戦争の中、秦氏末裔を取り込むために、法華経を唱える日蓮は、千葉の豪漁師の息子であるのに、自ら「施陀羅の子」と唱えて布教に努めていたのです。これらの、反天台宗の私僧達による、「施陀羅」「穢多」の宣伝により、一般大衆に、その秦氏末裔にたいする民族差別語が広まっていったのです。
1333年北条鎌倉幕府が、秦氏末裔の源氏足利尊氏に倒され、北条鎌倉時代に、百済系武人である「サムライ」にイジメられて、山野に逃れていた秦氏末裔が、源氏の足利幕府となると、その技術・芸能の花を咲かせるのです。
しかし、仏教文化の百済系貴族により、それらの秦氏の芸術は、「道の芸」と蔑視されるのです。何故、華道、茶道などの「道」が、室町時代に隆盛した芸術に付けられるのかは、それは、道の者により発明されていたからです。その「道の者」とは、「七道の者」とも言われていたのです。では、その「七道」とは何かと言えば、それは、仏教思想の「六道」の外の「外道」の意味であったのです。つまり、日本国の伝統文化とは、外道の文化であったのです。
その秦氏の文化が華やいだ室町幕府も、藤原氏の流れにある日野氏の陰謀により、足利氏が分裂し、1467年から十年の内乱である、応仁の乱が起こるのです。この乱により、京の街は全焼してしまうのです。ですから、今日の京の都の古寺も、1467年以降に新築されたか、移築されたものであるのです。
この応仁の乱を発端として、下克上の戦国時代に突入するのです。その戦国時代に、勢力を張ったのは、武士集団と仏教集団です。その仏教集団でも、その筆頭は、加賀の一向宗です。浄土真宗組織を中心に、「一向」、つまり、こころをひとつとして、民族差別をする百済系天台宗の漢訳仏教思想を破壊する一揆は、1488年加賀守護富樫正親を滅ぼし、百年王国を築いていたのです。
この期を見た、親鸞の流れにある弱小教団の蓮如は、親鸞の教えである「ナムアミダブツ」を唱え、大阪に進出するのです。
大阪の歴史は、四世紀頃、河内湾の上町台地の岬から始まるのです。その地は、浪速(ローラン)と呼ばれ、ユーラシア大陸のシルクロードの交易都市の楼蘭(ローラン)から、朝鮮半島根元の楽浪(ローラン)を経由して、対馬海峡を渡り、瀬戸内海からの渡来港として、三輪山麓での沈黙交易により栄えていたのです。
その地が、秦氏の古代エジプトの高度土木建築技術により、巨大古墳を構築し、大運河掘削の残土で干拓されていくと、その上町台地の「岬」は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれていくのです。それが、713年好字令の二文字漢字の日本語化により、その地が渡辺(ワタナベ)と呼ばれていくのです。
このシルクロードの交易港の渡辺津(「津」とは船が係留できる港)は、中国大陸との交易港として発展していくのです。やがて、その渡辺津の交易港は、河内湾が干拓されることにより、上町台地から、内陸に移り、坂の麓が大坂(後の大阪)と呼ばれ、が海外交易の中心となっていくのです。
戦国時代も、この大阪を支配することは、日本経済を支配できることであったのです。そこで、蓮如は、大阪の町で商売をして繁栄していた秦氏末裔の多大な金銭の寄進により、1479年山科本願寺を創立し、その勢力を拡大すると、1497年大阪に石山本願寺を築くのです。その石山本願寺は、普通の寺とは異なり、石壁に囲まれた強固な砦でもあったのです。ですから、イエズス会が、日本の経済を支配するために、織田信長に命令して石山本願寺を、最新銃で十年も攻撃しても、陥落できなかったのです。陥落できたのは、講和交渉をしている最中に、石山本願寺が防御の手を緩めた隙を、織田信長軍が攻撃したことによるのです。
その石山本願寺を拠点とする浄土真宗は、三河湾一帯も支配下にするために、1563年三河一向一揆をおこしていたのです。しかし、一向宗の秦氏は、藤原氏の流れにある浄土真宗からは、藤原氏と同等には扱われることはなかったのです。
その三河一帯とは、騎馬民族末裔である徳川家康の祖である秦氏末裔が多く住む地であったのです。その戦国時代に三河一向一揆があった中京地帯にも、戦後米軍基地はないのです。
それらの米軍基地の無い、近畿一帯と中京一帯には、共通点があるのです。それは、肉食の秦氏末裔を民族差別する言葉があるからです。近畿一帯では「穢多」で、中京一帯では「カワタ」です。
では、米軍基地が多く配置されている、北関東埼玉県4施設、東京都8施設、神奈川県15施設、と広島県7施設、そして、長崎県13施設は、歴史的に何を語っているのでしょうか。
1494年トルデシリャス条約により、ポルトガルは、東回りで支配地を広げていくのです。そして、1534年イエズス会が創立されると、その戦闘的宗教布教教団を手先として、インド、マカオを支配すると、フィリピン海峡を北上して、マルコポーロの東方見聞録の地、「黄金の国ジパング」の水銀・銀の奪取を目指すのです。
イエズス会は、ゴアに漂流していたヤジローを案内人として、1549年鹿児島に渡来するのです。何故、イエズス会の初渡来地が鹿児島かと言えば、インドからフィリッピン海峡を抜け、黒潮により北上すると、台湾沖で進路を東に取れば、その黒潮が流れ着くのが、南九州坊津であるからです。このイエズス会のインドからの渡来コースは、四世紀、藤原氏の祖である中臣族が、ユダヤ教ヨシュア派の布教拠点である南インドのマラバル沿岸からの渡来コースと同じです。
先遣隊のザビエルは、鹿児島から長崎、筑前、長門、豊後を視察すると、1551年ゴアに向けて、豊後から出航するのです。
長崎を支配する大村純忠は、隣接する肥前、筑後、肥後を支配する龍造寺隆信の攻撃にさらされていたのです。そして、豊前、豊後を支配する大友義鎮も、龍造寺隆信の攻撃にさらされていたのです。
侵略者のセオリーは、侵略地で争われている勢力で、強者ではなく、弱者を助けることにより、強者を倒し、その後、弱者を傀儡として、その地を支配することです。
イエズス会は、そのセオリー通りに、長崎を支配する大村純忠と豊前、豊後を支配する大友義鎮を軍事的に支援し、龍造寺隆信を倒すのです。そして、長崎を下区とし、豊後を豊後区として、イエズス会の軍事基地とするのです。
奈良・平安時代、王権は、唐進駐軍の武力を背景に、漢訳仏教思想で日本列島民を支配してきたので、その唐進駐軍に敗れた、秦氏末裔や突厥帝国進駐軍末裔は、「鬼」とされ、山奥や辺境地で暮らしていたのです。それに対して、漢訳仏教思想を取り込んだ民族は、都や平地を支配していたのです。
長崎の辺境地を軍事要塞化を図る侵略者のイエズス会は、漢訳仏教思想にイジメられていた長崎の住民達からは歓迎されていたのです。そして、長崎の住民は、イエズス会の信者となってくのです。
では、何故、辺境地の長崎の住民は、侵略者であるイエズス会に入信したのでしょうか。藤原日本史では、長崎の支配者が、イエズス会からの武器弾薬の供給を目当てに入信したので、その臣下も真似して入信した、と述べているようですが、第三百済王朝の江戸時代、第三代目将軍徳川家光により、厳しいキリシタン弾圧を受けても、棄教せず、隠れキリシタンとして生き延びていたことの説明には、褒美目当ての入信説は、説得力がありません。
では、何故、辺境民はイエズス会に入信したのでしょうか。それは、秦氏末裔が、「ナムアミダブツ」を唱える浄土真宗に入信した動機と同じです。それは、ローマ・キリスト教の多くの教義や祭祀儀式は、秦氏が祀る、紀元前14世紀古代ヒッタイト帝国で流行していた太陽神ミトラ教の儀式・祭祀を導入していたからです。ですから、太陽神を祀る辺境の民は、イエズス会宣教師の解く説教や祭祀儀式を理解できたのです。
キリストの誕生日である12月25日のクリスマスの日は、冬至のミトラ神の誕生日を導入したものです。そして、赤ブドウ酒とタネナシパンによる祭祀儀式は、牡牛を屠り、その血と生肉を食べる、太陽神と同一となるミトラ教儀式を導入したものです。そして、キリストが、病める者も富む者も皆平等に愛するのは、太陽神は皆平等に光を与える、との思想と同じです。
中央政府から棄民された、或いは、逃亡した民は、浄土真宗やイエズス会に入信し、それらの組織の野望の手先として利用されてしまうのです。
伊勢湾の湿地帯を支配する、漢訳仏教組織より、海部(余部)の賎民として虐げられていた、アラブから渡来の「平家」末裔のゲリラ隊の織田信長は、豊後区支配者大友宗麟の仲介により、その軍備が飛躍的に改革されるのです。そのひとつが、日本初の傭兵軍団です。
それまでの日本国の戦は、武人は支配地の耕作地からの収益を主な生活費としていたのです。ですから、戦は、農繁期の春から秋までを避け、農閑期の秋の収穫後から種まき前の春までであったのです。
それが、織田信長の傭兵軍により、戦が年がら年中となっていったのです。更に、その傭兵軍は、最新式武器である銃の扱いに熟練していたのです。これらの、日本国古来の戦と異なる軍事戦術は、誰が、織田信長に与えたのかは、イエズス会を置いて他には無いのです。
つまり、織田信長軍とは、イエズス会の傀儡軍であったのです。銭で集めた農民が、短期間で、銃の扱いを収得して、集団戦術により出撃などできるはずはないのです。
織田信長軍には、日露戦争の日本海海戦でイギリス海軍軍事顧問が同乗して指揮していたように、海外からの多くの傭兵軍がいたのです。その根拠のひとつとして、1576年大砲が渡来するのですが、その砲撃手として知られるのは、十字軍マルタ騎士団のロルテス、日本名山科勝成であったのです。
イエズス会の要求により、現在の日本国政府がアメリカ政府より「年次改革要望書」により命令されているように、大阪の石山本願寺の壊滅を命令されていた織田信長は、1576年ヨーロッパの築城思想を真似て、石垣の上に安土城を建設するのです。そして、織田信長が、自ら「神」となるように、「天主閣」を設置するのです。この、イエズス会のゼウス神を恐れぬ織田信長の行為は、イエズス会の逆鱗を買い、1580年石山本願寺が壊滅された2年後、1582年本能寺での爆殺となるのです。
1582年織田信長を育てたヴァリアーノがローマ少年使節団と供に日本を去ると、それを見透かした、ポルトガル系と対立する、スペイン系イエズス会宣教師の命令により織田信長が本能寺で爆殺されると、羽柴秀吉は、藤原氏に取り込まれ、1585年関白豊臣秀吉となるのです。
ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道祭祀儀式をおこなう藤原氏は、キリシタン大名により、九州の支配地を争奪された恨みを、羽柴秀吉を取り込むことにより、キリシタン大名壊滅を意図していたのです。
1590年織田信長を育てたヴァリアーノが、ローマ少年使節団と供に帰国し、日本国王が織田信長から、足軽あがりの豊臣秀吉に代わっているのに驚くのです。それまで、イエズス会の指揮の下にいた羽柴秀吉は、関白豊臣秀吉となると、ヴァリアーノの謁見要求を長らく延ばし、いやいやながら謁見するのです。
そして、藤原氏の敵宗教である天台宗の影響下にある戦国大名を、イエズス会のキリシタン大名軍を利用して、九州を平定すると、今度は、キリシタン大名を壊滅していくのです。その手始めとして、関白豊臣秀吉となって2年後の1587年キリスト教宣教師を追放していたのです。
1590年全国を平定した豊臣秀吉は、翌年1591年士農工商の身分法を定め、キリシタン大名や、一向一揆で活躍した浄土真宗軍団末裔の抹殺を謀るのです。そのような、反仏教のキリシタン歴史がある長崎には、米軍基地が13施設もあったのです。
では、東京を取り囲むように設置された米軍基地の12施設は、何を語るのでしょうか。
1590年騎馬民族末裔である徳川家康は、1585年藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、関東の荒川と利根川の支流が流れる湿地帯に追放されるのです。藤原日本史によると、徳川家康は、関東のエド城に「移封」されたと述べるのです。そして、そのエド城は、戦国時代太田道灌が、千葉氏の侵攻を阻止するために築城されていた、と述べるのです。
しかし、それはエド城に移封などではないことは、豊臣秀吉が死去し、広大な墓地に墓を設置するのですが、徳川家康が関が原の戦いで天下を盗ると、大阪夏の陣後、その豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉砕してしまうのです。
温厚な徳川家康が、そのような行為をした原因は、藤原氏の指示による関白豊臣秀吉の徳川家康関東追放に対する侮辱と、徳川家康と同族の秦氏を賎民として貶めた数々の行為があったからです。
ですから、遺骨が無い豊臣秀吉の豊国ジンジャは、戦国末期から江戸初期までの徳川家康の偉業を抹殺するために、明治革命で復活した藤原氏支配の、第三藤原王朝の明治時代に新設されたわけです。
戦国時代に太田道灌が、エド城を築城していたのは史実ですが、それは、海抜2.5mの地にあったのです。しかし、徳川家康が築城したエド城は、海抜10mの小山の上にあるのです。その小山は、神田堀を掘削した残土で築いた人工山であったのです。
徳川家康の配下には、武田軍団配下の、高度土木技術を持った、穴掘りの高度技術を持った金山衆などの、古代エジプトの高度土木建築技術を持つ集団がいたのです。ですから、豊臣秀吉の意図に反して、徳川家康は、関東の湿地帯へ追放されても、何も文句は言わなかったのです。
しかし、徳川家康配下の三河武士集団の多くは、葦の茂る寒村の漁村で、百済系天台宗が支配する京都から見てケガレ地(けがれ地→穢地→穢土→エド→江戸)である、その関東への追放には従わなかったのです。
そこで、徳川家康は、豊臣秀吉の士農工商の身分制度でイジメられていた大阪の渡辺村の住人、浄土真宗軍団残党である三河の住民、そして、佃の漁民をエドに招集したのです。ですから、江戸文化の基礎は、大阪文化と三河文化であったのです。徳川家康の渡来時には、江戸文化などなかったのです。
今に残る江戸文化とは、その大阪文化と三河文化の基礎に、京都文化を乗せたものなのです。江戸文化の華と言われる歌舞伎などは、京都文化をエドに輸入したものであったのです。歌舞伎の助六のストーリをみれば、歌舞伎がエド文化などではなく、京都文化のものであることがわかるのです。
その歌舞伎の助六物語では、助六が必要以上に言葉でなぶる意休とは、エド町警察を支配していた、徳川家康の忠臣であった、エド城に羽織袴姿で二本差しで駕籠により登城していた、長吏頭弾左衛門であるからです。人も住めぬ寒村からエド町の基礎を築いた恩人をいたぶる、助六の歌舞伎劇を創作するのは、関東の秦氏末裔以外の者でなくては出来ない発想だからです。
では、何故、江戸っ子は、「三代目」からなのでしょうか。その流行言葉に、エド文化の民族の謎があるのです。
1868年神仏分離令が発せられると、第三百済王朝の手先となっていた漢訳仏教が支配していた神宮寺が、徹底的に破壊され、「宮」が寺から分離されていくのです。「宮」が独立して建立されたのは、明治時代からなのです。明治以前には「ジンジャ」は、まだ存在していないのです。
1017年漢訳仏教組織が、藤原氏が発明した「神」を祀る「宮」を支配するために、本地垂迹説を発明して、「神」を「仏」の手先としていたのです。そのための宗教施設が、神宮寺であったのです。
1868年神仏分離令が発令され、「寺」と「宮」とが分離されたのですが、明治新政府は、「宮」を中心に祭祀をおこなうために、神祇官を設置したのです。では、その神祇官の「神」は藤原氏の「神」と分かるのですが、「祇」とは何なのでしょうか。
藤原日本史によると、「神」は天津神で、「祇」とは国津神であるというのです。では、国津神とは何なのでしょうか。
「祇」で思い出すのは、アラブ系海洋民族の祭り「祇園祭」があります。その祇園祭は、平安時代の貴族達には、その祭りの期間中は都から避難したほど、「ケガレ」た祭りであったのです。「祇」には、藤原日本史で述べるように「国津神」の意味よりも、「賎」の意味が強いようです。その「賎」の意味が強い「祇」が、神仏分離令に合わせて、神祇官が設置された意味は何なのでしょうか。
神祇の関係は、「宮」と「神社」との関係に似ているようです。では、「宮」とは何かと言えば、それは、豊受大神や天照大神などの人工神(人格神)を納める祭祀建築物のことです。では、神社とは何なのでしょうか。
神社の言葉の初見は、720年完成の「日本書紀」の白雉13年(684年)天武天皇13年10月14日の条「百姓の倉屋、寺塔・神社」の「神社」です。では、その「神社」とは、何と読んだかと言えば、それは、「ジンジャ」ではなく、「モリ」と読んでいたのです。
759年完成と伝わる「万葉集」(菅原道真が、古代新羅万葉語を日本万葉語に翻訳説あり)には、「神社」が、「ジンジャ」ではなく、「モリ」と読まれていたのです。

木綿(ふゆ)懸けて斎(いわ)ふこの神社(もり)超えぬべく念ほゆるかも恋の繁きに(巻7・1378)

略意では、「賢木(さかき)に真っ白い木綿を掛けて、神を祀る神社(モリ)のように、[先住民の敗者が先住民の神を祀るために]その禁足地に入ろうとするように、激しい恋は、その禁忌を犯してしまいそうだ。」、となるのです。この万葉集の歌から、その「神社」の言葉には、藤原日本史が隠したい先住民の歴史が、凝縮されているようです。では、藤原日本史が「日本書紀」で抹殺した歴史は、どのように復元できるのでしょうか。
756年に描かれた、反藤原氏の聖武天皇(724年〜749年)の遺品を納めた正倉院御物の「天平勝宝八歳東大寺図」によれば、藤原氏の「神」を祀る「宮」である春日社は、「神地」と墨書きされ、60m四方の「空き地」となっていたのです。つまり、御蓋山(みかさやま)の真西の山稜に鎮座している春日社は、756年以前には、存在していなかったのです。
更に、石上神宮にも、古来には本殿がなかったのです。その現在ある本殿は、古来から「空き地」で、「禁足地」「神地」「布留高庭」「御本地」などと呼ばれて崇拝されていたのですが、1874年(明治7年)本殿が建設され、今日に至るわけです。では、「宮」や「本殿」が建設される前の「神地」とは、何を意味していたのでしょうか。
漢字二文字表記は、713年好字令の「日本語化」政策により出現したのです。ですから、「神社」も、713年以前は、他の言葉で表記されていたのです。その言葉は、「杜」(モリ)です。その「杜」の意味は、898年〜901年にかけて完成した、現存最古の漢和辞典「新撰字鏡」によれば、「杜」を、「毛利」「佐加木」と読ませ、その意味を、「塞也」「閉塞也」とあるのです。
つまり、杜(モリ)とは、塞がれた地、或いは、閉塞された地、とあり、それは王権が祭祀する場などではなく、禁忌の異界地であったのです。
その「杜」には、佐加木の垣根が何重にも張り巡らされていて、更に、縄が何重にも張り巡らされていて、そして、その地が他と区別できるように、その佐加木に、真っ白い木綿を掛けていたのです。これは、一体何を意味しているのでしょうか。
第一に考えられることは、その「杜」とは、何かが封印されていて、その地を訪れることを禁忌していることです。
では、「杜」とは、何なのでしょうか。平安末期に完成した「類聚名義抄」には、「杜」の読みとして、「やしろ」があります。では、「やしろ」とは、何かといえば、それは、「や」は「多い」で、「しろ」とは、「お城」の建物を想像してしまいますが、古代では「土を盛り上げたもの」であるのです。つまり、「やしろ」とは、「土を盛り上げたものが多くある処」との意味となるのです。では、土を盛り上げたものとは何かと言えば、それは、土の家、つまり、「塚」で、「墓=古墳」の意味です。
そして、「杜」の「モリ」とは、「モ」は、「モノ」つまり「精霊」で、「リ」は「処」で、「モリ」の意味は、「精霊の地」であるわけです。この「杜」には、「古墳=精霊地」の意味が隠されていたのです。その意味を、藤原日本史ではすり替えていくのです。それは、平安時代末期に完成された「類聚名義抄」に「社」の文字が登場するのです。
「社」と「杜」とは、似ている漢字です。そして、古来からある「杜」を「モリ」と読ませ、「社」を「ヤシロ」「モリ」と読ませているのです。このすり替えから、藤原氏の「神」を祀る「神社」が造語されたのですが、その読み方は、「ジンジャ」ではなく、「モリ」です。
このことから推測されるのは、古墳→精霊地→モリ・ヤシロ→杜(精霊地)→社(禁足地)→神社(モリ)→明治時代の「ジンジャ・神社」(精霊地)の流れです。
では何故、古代ではその精霊地であった杜が、奈良時代には神社(モリ)となり、「佐加木」や「しめ縄」で隔離された、禁足地の異界になってしまったのでしょうか。
神社が発明される前、その禁足地は、精霊地であったのです。その精霊地は、古代では磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神籬(ひもろぎ)と呼ばれていたのです。
「ひもろぎ」の「もろ」は、「モリ」と同義語で、精霊が宿る処であったのです。その精霊地が、645年飛鳥ヤマトに唐進駐軍と中臣族の侵略と供に渡来した漢訳仏教により、「精霊地」から「異界地」に変身してしまったのです。
その根拠のひとつとして、日本国で初天皇はギリシャ・ローマ文化保持の古代新羅系天武天皇(672年〜686年)であるのに、「日本書紀」で創作した孝徳天皇(645年〜654年)即位前紀の冒頭に、孝徳天皇は「仏法を尊び、神道(かみのみち)を軽りたまふ」とあることです。この場合の神道とは、藤原氏が発明した、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道などではなく、前政権が祀っていた「モノ・カムイ」のことなのです。
その根拠としては、藤原氏の「神々」を納める春日社の「宮」が建立されたのが、756年以降であるからです。藤原氏が創作した「日本書紀」以外の文献によれば、756年以前には、藤原氏の「神」は、歴史上存在していなかったのです。では、孝徳天皇が軽んじた「神」とは、「何」だったのでしょうか。
近年、福岡県うき市吉井町で珍敷(めずらし)塚古墳が発掘されたのです。その築造年は、およそ六世紀後半で、「日本書紀」で述べている崇仏派の蘇我稲目が突然大臣として歴史上に現れた時期で、孝徳天皇即位以前であったのです。
その古墳には、古代エジプトの死者再生思想と同じ図、死者の魂を来世に導く乗り物である「太陽の船」と舳先に烏がとまっている図が発見されていたのです。では、日本から遥に遠い古代エジプトと同じ死者再生の図は、偶然に描かれたのでしょうか。
そこで、孝徳天皇が神道(かみのみち)を軽りたまわった理由をみると、それは、「生國魂社の樹木を伐採した」ことであるのです。その伐採した樹木で、「難波に大社を建立した。」、と「日本書紀」では言うのです。では、その七世紀の難波とは、どのような地であったのでしょうか。
「日本書紀」の仏教伝来物語によれば、その難波は廃仏派の物部守屋の支配地で、587年第二次神仏戦争で、崇仏派の蘇我馬子が廃仏派の物部守屋を滅ぼすと、蘇我氏を支援した、少年ダビデのような少年聖徳太子の戦勝祈願の礼として、593年聖徳太子が女帝推古天皇(593年〜628年。「随書」によれば、その頃の倭国は「男王」とある。)の摂政となり、難波四天王寺が創建されていた「はず」です。つまり、「日本書紀」によれば、593年以降、難波は、仏寺が立ち並ぶ仏教文化の地であった「はず」です。
しかし、その四天王寺建立から48年後、645年に即位した孝徳天皇が、「生國魂社の樹木を伐採した」ことが、神道(かみのみち)を軽んずる最大の理由としている「理由」は、何かの隠蔽を暗示します。
その「日本書紀」で述べる「生國魂社の樹木伐採」とは、寺を建造するための木材調達ではなく、前政権の精霊地である「巨大古墳の破壊」であったのです。春日社が建立される前の、60m四方の「空き地」、そして、物部氏(「物部氏」とは、「秦氏」を隠蔽するために藤原氏が創作した氏族)の神を祀っているとされる石上神宮の、明治時代に本殿が建立される前の広大な「空き地」は、古墳の破壊跡であったのです。
そして、紀元四世紀のローマ帝国で、キリスト教徒が、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教教会を建設して、ミトラ教の歴史を隠蔽したように、中臣族から変身した藤原氏は、その前政権の秦氏の祭祀場である古墳を徹底的に破壊して、小山を削り平地とし、その跡に、奈良時代に春日社を、そして、明治時代に石上神宮の本殿を建立して、前政権の秦氏の神、太陽神ミトラを歴史上で隠蔽していたのです。
古代では、難波の地は、浪速(ローラン)と云われていて、紀元一世紀から始まる西のローマ帝国と中国後漢との絹貿易の極東の交易地であったのです。紀元4世紀には、国際交易商人により、江戸時代末期にイギリス東インド会社が、明治革命と同時にレンガ造りの富岡製糸場を建設し、絹製品を輸送する新橋横浜間に鉄道を敷設し、横浜港からイギリスに絹製品が持ち出されていたように、日本列島に中国南部産の繭(ポンピックスモリ)を持ち込み、桑畑を開墾して絹生産をし、絹製品を河内湾の浪速(ローラン)から唐国に持ち出されていたのです。絹織物は、その技術が中国から持ち込まれ、古来から行われていたのです。藤原氏が創作した神話物語でも、「新羅の皇子スサノウが、アマテラスオオミカミの侍女の機織娘に、生皮を投げつけた。」、とあるように、古来から機織は、中国の下請け産業として、日本列島でおこなわれていたのです。
紀元三世紀後半、日本列島に古墳が出現し、四世紀頃には、その浪速(ローラン)の地には、巨大古墳が築かれていったのです。その巨大古墳の地は、一般には、河内王国と言われていますが、その地は、古代エジプトの高度土木建築技術を持つ、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来した秦氏の支配地、「秦王国」であったのです。
その秦王国での秦氏の太陽神「ミトラ」は、僧兵とともに中国唐から日本列島に侵攻して来た漢訳仏教により、「弥勒」(ミロク)「魔多羅」(マタラ)などに、改竄されてしまうのです。その秦氏の神の隠蔽者のひとりとして考えられるのが、錬金術師空海です。
無名の鉱山師空海は、反藤原氏の桓武天皇により奈良の都に封印されていた藤原氏の資金的援助を受け、たった一年で僧籍を得て、唐への留学僧となり、一年八ヶ月の留学により帰朝すると、桓武天皇が崩御するまで九州に滞在し、806年桓武天皇が崩御すると来京し、その息子の兄平城天皇と弟嵯峨天皇との確執と、810年「藤原薬子の乱」を利用して、嵯峨天皇に接近するのです。
809年即位した嵯峨天皇は、兄平城天皇残党軍と藤原薬子残党軍の殲滅と、801年坂上田村麻呂が陸奥国蝦夷を平定し、その秦氏末裔・突厥帝国軍末裔の蝦夷を奴隷として、唐に輸出するために都に連行して、散所、別所、湯浅などの捕虜収容所に収容していた蝦夷が脱走したことにより、平安京の治安維持のために、816年検非違使を設置していたのです。
そのような怨霊(前政権の祟り神)が跋扈する社会情勢が不安定な平安王朝に、騎馬民族を賎民として民族差別するバラモン教から導入したダキニ呪文の真言を唱え、鎮護国家を祈祷する錬金術師空海が、嵯峨天皇の側近として存在していたのです。そして、百済天皇家は、嵯峨天皇(809年〜823年)から孝明天皇(1846年〜1867年)までの約千年間、明治革命前夜まで、藤原氏の神道などではなく、宗教のガラパゴスである真言密教のダキニ呪文により祀られていたのです。
その平安時代の空海が、何故、秦氏の神の隠蔽者のひとりであるのかと言えば、それは、第三百済王朝の江戸時代の大阪の庶民が、秦氏の神を祀る「稲荷」を賎視した囃子言葉で分かるのです。それが、「病弘法、欲稲荷」です。それが、江戸町庶民では、「伊勢屋稲荷に犬の糞」となるのです。
では、その「ジンジャ」の代名詞のような「稲荷」とは何かと言えば、藤原日本史では、次のように、その由来を述べています。
「山城国風土記」によれば、富裕であった秦氏の祖が、餅を的にして矢を放ったら、その餅が白鳥に変身して、背後の山の峰へ飛んで行きました。そして、その餅が落ちたところに稲が生えたのです。そして、その「稲生り・イネナリ」の地に建立したのが、伏見稲荷大社の起源である、と云うのです。つまり、稲荷は、「イネナリ」が語源で、「稲の神様」というのです。
しかし、この説明では、江戸町の庶民が、「稲荷」を「犬の糞」と同等に認識していたことの説明になりません。何故、「稲の神様」が、「犬の糞」と同じ扱いをされいてたのでしょうか。それは、「稲荷」が、「稲の神様」などではなく、「犬の糞」と同等の存在であったからです。
第三百済王朝の初代、第三代目将軍徳川家光の側近天海が、不忍池を琵琶湖に、上野山を比叡山に見立て、その上野山に東の延暦寺として、1625年に東叡山寛永時を創建し、京都文化思想の基である、騎馬民族を差別する法華経を信仰する天台宗思想を刷り込まれた、京都文化コピーの江戸町の庶民が、「稲荷」の歴史を知っていたからです。
「江戸っ子は、三代目から。」という根拠は、その一代目将軍徳川家康・二代目将軍徳川秀忠までは、秦氏末裔の騎馬民族系であるのに対して、三代目将軍徳川家光は、二代目将軍徳川秀忠の実子ではなく、百済系の血を引く者であったからです。
つまり、1623年二代目将軍徳川秀忠が、三代目将軍を徳川家光に継いだ時から、エド町は「エド文化」から「江戸文化」に変身し、亡命百済民の京都の街を守護する比叡山延暦寺を真似て、1625年東の比叡山である上野山に、百済系天台宗の寛永寺が、東叡山として創建されて、エドの騎馬系文化から江戸の百済系文化へと変身していくのです。
そして、騎馬民族文化は、第三百済王朝の江戸幕府から賎視されていくのです。その結果、第三百済王朝の江戸時代に、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉が発明した「士農工商」の身分制度が更にパワーアップして、「士農工商・穢多・非人」の身分制度となるのです。
第三百済王朝の江戸時代に、秦氏末裔は、穢多身分とされてしまうのです。そして、秦氏の祖神を祀る、真言密教に封印されている「稲荷」も、賎視されていくのです。
つまり、「江戸っ子は三代目から」の意味は、一代目・二代目の騎馬民族系の新羅(秦羅)系日本人ではなく、百済の血を引く三代目将軍徳川家光時代に京都から移住して来た百済系日本人から「江戸っ子」が始まった、と言うことです。
では、「稲荷」とは、何を隠蔽したものであるかといえば、それは、「古墳」です。騎馬民族は、自然を大切にする民族であるので、墓は、地中に設置したのです。大きな穴を掘り、それを小石で敷き詰め、木棺を納め、小石で覆い、地上部は盛り土(シロ)の小山を築いたのです。これが、積石木郭墳と言われる、小山の古墳です。朝鮮半島の慶州天馬塚古墳は、騎馬民族古墳の典型です。その古代新羅の慶州古墳群(ヤシロ)からは、ギリシャ・ローマ文化色の強い金銀の宝飾品やカスピ海沿岸産のトンボ玉が多数発掘されているのです。
つまり、稲荷とは古墳で、「墓=塚」のことなのです。稲荷は、イナリ←稲荷←ジュ(稲)・ガ(荷)←ツカ←塚←墓←古墳←前政権の神の眠り処、の流れにあったのです。その根拠は、「病弘法、欲稲荷」の流行り言葉が説明します。
空海と稲荷社との由来は、藤原日本史では次のように述べられているのです。
弘法大師空海は、東寺の塔の柱に用いる杉の大木を稲荷山から採り出したのです。すると、稲荷神が祟り、淳和天皇(823年〜833年)が病気になってしまうのです。そこで、空海は、稲荷神を祀ったのです。その時、空海は、稲荷神に、「あなたに仏法を守護しようとの誓いがあるのならば、私と供に仏法を広めましょう。」、と語ったと云われていたのです。
その弘法大師空海の「稲荷山」物語は、神仏戦争を比喩として語っていたのです。つまり、それは、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏の祖が眠る「古墳」が、ゾロアスター教から導入した護摩儀式とバラモン教呪文の空海の真言密教に敗れたことにより、破壊された物語であったのです。
そして、その古墳が破壊された跡に、「ホコラ・モリ・ヤシロ」が建てられ、秦氏の祖神が「鳥居=佐加木」と「しめ縄=藤原氏のトーテム蛇」により結界の地として封印され、更に、秦氏のトーテム狼は、狐に変身させられて、それ以後、稲荷社は、弘法大師空海の支配下に置かれてしまったのです。
真言密教に支配されていた「稲荷社」が、秦氏末裔が祀る「稲荷神社」(ジンジャ)として復活したのは、明治革命後であったのです。
では、何故、「病弘法、欲稲荷」なのでしょうか。そこに、錬金術師空海が、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔を「施陀羅悪人ナリ」とした謎が隠されているのです。
1517年神聖ローマ帝国では、マルチン・ルターが95ヶ条の質問書を、ローマ教皇に投げかけたことから、宗教改革が起こっていくのです。その原因のひとつが、ローマ・キリスト教会による免罪符の販売です。その免罪符とは、お金を出せば罪が免れるというものです。更に、ローマ・キリスト教は金儲けのために、免罪府販売の他に、治療独占のために「魔女狩り」も始めたのです。
その理由として、多大の寄付金を集めるために、民の病を治すのは「キリストの神への祈祷」だけであるとし、動物・植物・鉱物から薬を創薬する民間治療者は、「魔女」のレッテルを貼り、聖なる炎により火刑にしていたのです。つまり、ローマ・キリスト教による、治療の独占です。古代も、現代も、病を癒す治療は民が大金を出してでも求める技術であったからです。
遊牧民族や山の民は、その経験から創薬に長けていたのです。錬金術師パラケルススは、鉱物薬での治療が得意だったのです。しかし、薬学の知識が乏しい中世ヨーロッパでは、キリストの神に祈祷するのではなく、鉱物薬を投与して治療する錬金術師パラケルススは、魔術師として扱われていたのです。
では、平安時代の錬金術師空海は、山奥で何をしていたのでしょうか。空海は、山岳修行を兼ねて、水銀鉱脈探索をおこなっていたのです。それは、空海が拓いた山寺の近くには、銅鉱山や銀鉱山が多く存在することから分かります。実は、空海は、仏教修行の他に、水銀薬を創薬していたのです。
水銀薬は、その用い方により、消毒剤ともなるし、回春剤ともなるし、幻覚剤にもなる、古来からバラモン教での秘薬であったのです。
錬金術師空海が、ライバルの最澄が都を中心に布教活動をしていたのに、山奥を布教地としたのは、鉱山の探索があったからです。そこで、山の民となっていた秦氏末裔と遭遇したのです。
秦氏末裔は、奈良時代に唐進駐軍の後ろ盾を受けた藤原氏により、牡牛を屠る祭祀場である古墳がある聖地を追われ、山奥に逃れていたのです。その山奥に逃れた秦氏末裔を、漢訳仏教は「鬼」としたのです。
しかし、山に追われた秦氏末裔は、元々農耕民族などではなく遊牧の技術集団民族でもあったので、平地でなくても、その山奥で生きる技術を持っていたのです。そして、秦氏が祀る太陽神ミトラは、東の山から誕生する、と信じられていたので、神山を祀る山岳信仰民族でもあったのです。更に、古来から山砂鉄で「タタラ製鉄」をおこなっていた(仏教説話の「鬼ヶ島」の原景)ので、古来から日本列島を尾根ずたいに行き来していたのです。
そのような山の民か支配する山奥に、水銀を求めて錬金術師空海の僧兵軍団が侵攻していったのです。錬金術師空海は、唐から持ち込んだ法具(武器)により、武力で山の民を制圧していくのです。そのことが、藤原日本史で云う「稲荷山の杉大木の伐採」の実態です。
錬金術師空海に敗れた山の民は、漢訳仏教の支配を受け、火を扱うタタラ製鉄の産鉄民族でもあったので、ヒジリとされ、それが、仏教僧の奴隷である「聖・ヒジリ」となっていくのです。
そして、空海支配の鉱山師軍団は、水銀鉱脈を探索すると、その地を禁足地として、鳥居を建て、結界地を示し、水銀鉱脈を独占するのです。鎌倉時代になると、鉱脈地を独占するための禁足地を示すために、鳥居ではなく、磨崖仏が彫られていくのです。
錬金術師空海は、そのようにして手に入れた水銀により、水銀薬を創薬したのです。しかし、秦氏末裔も、動植物から創薬をしていたのです。創薬の技術を持つ秦氏末裔は、錬金術師空海にとって、歴史上抹殺すべき日本版「魔女」だったのです。そこで、秦氏末裔を歴史上抹殺する呪文「施陀羅悪人ナリ」を唱えたわけです。
錬金術師空海が、高度技術集団の秦氏末裔の山の民を殲滅できたのは、平安王朝をソフト支配する唐進駐軍の軍事的後ろ盾があったからです。これは、明治革命での薩摩・長州軍が、圧倒的多数の軍団を率いる会津藩や長岡藩の江戸幕府連合軍を撃破できたのが、イギリス東インド会社の武器弾薬とイギリス軍軍事顧問の支援があったことと同じです。
唐進駐軍が、奈良時代から平安時代中期まで、ソフト支配していた根拠のひとつとして、六国史の存在があります。六国史とは、「日本書紀」「続日本紀」「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」のことです。これらの書籍が、何故、中国唐の言葉である、「漢語」で記述されていたのでしようか。
それらの書籍は、近畿一帯を支配下に置いた唐本国に提出する日本国の現状の報告書であることが示唆されます。その根拠のひとつとして、六国史最後の書である「日本三代実録」が完成したのが、901年で、それ以降、漢語の国史は編纂されていないからです。
その意味は、反藤原氏の菅原道真が、894年遣唐使を廃止したのは、新羅国の商人から、唐帝国では仏教が腐敗し、人民のこころが乱れていることを知ったからです。そして、その新羅国の商人が述べたように、907年唐帝国は滅亡したのです。
もし、漢語で記述された六国史が、日本国のために編纂されたのならば、907年唐帝国が滅亡しようとも、漢語の国史を編纂し続けていたはずです。しかし、唐帝国の滅亡後、漢語記述の国史が編纂されていない事実は、その漢語記述の六国史が、唐帝国を意識して編纂されていたことを示唆します。
六世紀から七世紀にかけて、東アジアでは、農耕地を北に求める南の農耕民族と、南の草原の支配を求める北の騎馬民族との抗争の時代であったのです。そこに、東ローマ帝国と東の中国北魏(423年〜534年)・梁(502年〜557年)などとの絹交易の利権が絡み、国際交易商人達が暗躍したのは、各国の東インド会社商人が暗躍した明治革命前夜と同じです。
その頃の日本列島では、明治革命時代に富岡製糸場から生産される絹製品を横浜の港まで輸送するために、新橋横浜間に鉄道を敷設していたように、河内湾を干拓して、日本列島各地の絹生産地から集められた絹製品を、中国に持ち出すために、港ローラン(浪速→難波)を建設していたのです。
その事業に携わっていたのが、ギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)の衛星国・秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)から朝鮮半島辰韓(シンカン・秦の国)を経由して、527年北九州に上陸し(「日本書紀」では、筑紫国造磐井の反乱とする。)、そして、吉備(仏教説話では、「鬼が島」があった地)を制圧し、河内湾に渡来した秦氏です。
そして、六世紀半ば、高句麗・百済・新羅の交易商人による沈黙交易の拠点である三輪山麓を制圧していたのが、突厥帝国進駐軍であったのです。この突厥進駐軍大将が、「日本書紀」では、530年突然歴史上に現れた大臣「蘇我稲目」であるとするのです。
552年騎馬民族を主とするチュルク民族(古代ヒッタイト帝国民末裔と騎馬民族スキタイ末裔の混血民族・チュルク=トルコ=突厥)は、東ユーラシアを支配し、突厥帝国を興したのです。この突厥帝国に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが訪れていたのです。それは、突厥帝国と東ローマ帝国とでは、絹交易をおこなっていたからです。そこで、当然、突厥帝国は、絹交易を盛んにするために、弥生時代から中国の絹産業の下請けとなっていた日本列島を目指すわけです。
騎馬民族は、馬を主とする民族のように考えられているようですが、その傘下には、農耕民族、産鉄民族、そして、海洋民族も従えていたのです。ですから、中国大陸から日本列島には、傘下の海洋民族の航海技術を使えば、たやすく渡来することができたのです。三世紀までの日本列島には、馬や牛が存在していなかったのに、三世紀半ばに出現した古墳からは、馬の埴輪が出土するのは、ひとと供に牛馬が渡来したことを示唆します。
そのような秦氏が土地改良と経済活動のために各地に巨大古墳を築造していた古墳時代(三世紀半ば〜八世紀)突厥帝国進駐軍は、飛鳥ヤマトに軍事都市を築いていたのです。それは、隋(589年〜616年)を倒した唐(618年〜907年)により、630年突厥帝国進駐軍の母国を散逸させられていたからです。その飛鳥ヤマトとは、唐帝国からの攻撃を防ぐ、防衛軍事都市であったのです。
東ユーラシアを支配していた突厥帝国は、585年東西に分裂し、630年には東突厥帝国は、唐帝国軍により散逸してしまったのです。当然、唐帝国は、東ローマ帝国との絹交易権を奪うために、東突厥帝国のコロニーがある、日本列島の侵略を考えるわけです。
南九州坊津を拠点として、ユダヤ教ヨシュア派の布教拠点があった南インド・マラバル沿岸との交易をおこなっていたナーガ族(中臣氏の祖)は、国際交易商人であったので、近畿一帯の地理はもとより、民族構成を熟知していたのです。そこで、唐進駐軍は、ナーガ族を手下に、飛鳥ヤマト攻略の案内人として、645年軍事都市飛鳥ヤマトを壊滅するわけです。
当然、河内湾のローラン港を支配し、三輪山麓での交易のために幅12mの直線道路を、河内湾から飛鳥ヤマトまで敷設し、飛鳥ヤマトで国際交易をしていた秦王国も、突厥帝国進駐軍と供に、唐進駐軍とナーガ族連合軍に壊滅されてしまうのです。これが、「日本書紀」で述べている、二回にわたる「神仏戦争物語」の実態です。つまり、「秦氏」を「物部氏」にすり替え、「突厥帝国進駐軍」を「蘇我氏」とし、まず、587年蘇我馬子により「物部氏」を歴史上から抹殺し、そして、645年中大兄皇子により「蘇我氏」を歴史上抹殺したわけです。
その推論の根拠のひとつとして、未だに、物部氏と蘇我氏の出自が確定していないからです。それらの氏族の出自が確定できないのは、それは、物部氏も蘇我氏も、南インドから渡来したナーガ族(中臣氏)から変身した藤原氏が、720年「日本書紀」で創作した氏族であったからです。
そこで、ナーガ族から変身した藤原氏は、唐進駐軍に、藤原氏の祖は、古来日本列島の神話時代から祭祀氏族であることを示すために、アマテラスオオミカミの天磐戸物語を創作し、そこに祭祀者である天児屋根命を登場させ、藤原氏の祖とするのです。
これは正に、ユダヤ民族が、イスラエル民族から祭祀権を奪った、ザドク一派が創作した、モーセの十戒物語と同じです。そのための書が、「旧約聖書」ではなく、「日本書紀」であったのです。
その「日本書紀」では、日本国の初代天皇を神武天皇とし、紀元前660年大和国畝傍の橿原宮で即位したとするのです。何故、藤原氏は、カンヤマトイワレヒコの神武天皇の即位年代を、日本列島が縄文時代にある紀元前660年としたのでしょうか。そのひとつの答えとして、藤原氏の祖国、ユダヤ王国で、預言者イザヤが活躍していたと伝わる年代が、神武天皇の即位年代と重なるのです。そして、神武天皇が架空の人物であることは、その神武陵といわれるものが、江戸末期の明治革命と同時に、藤原氏末裔により、自然の小山を改造して創造されていたからです。
そのように、南インドから渡来したナーガ族を祖とする藤原氏は、日本列島での祭祀氏族として、近畿一帯を支配する唐本国から認めてもらうために、「日本書紀」は、ヤマト言葉と云われる万葉語(漢字表記のアルファベットと同じ表音文字)ではなく、唐本国で使用されていた表意文字の「漢語」で記述されていたのです。
藤原日本史では、飛鳥時代(古墳時代)に、万葉語の表音文字と漢語の表意文字があったというのです。これは可笑しい。飛鳥ヤマトの民族が、「日本書紀」で述べる天孫の一系であるならば、文字もひとつであるはずです。常識的に考えれば、二つの異なる文字が存在していたと言うことは、二つの異なる民族が、古代日本列島の「ヤマト」に存在していたと言うことなのです。
日本列島民族史がよく分からなくなってしまったのは、645年以前の日本列島史が二重に改竄されていたからです。それらは、奈良時代の唐帝国傀儡の藤原氏の552年の「厩戸皇子」が登場する仏教伝来物語と、平安時代の唐帝国傀儡の亡命百済貴族の538年の「聖徳太子」が登場する仏教伝来物語により、オリエントから渡来の秦氏とユーラシア大陸を支配していた突厥帝国進駐軍とのオリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺したからです。
645年以前に飛鳥ヤマトを支配していた表音文字を使う民族が、唐進駐軍に支配され、701年唐本国の律令制度を真似て、大宝律令が制定されたのは、1945年ポツダム宣言を受諾して、日本帝国が太平洋戦争に敗戦し、1946年11月3日アメリカ占領軍の指導による日本国憲法が公布されたのと同じです。
占領軍のアメリカが、「神国ニッポン」の精神的基盤である「ジンジャ思想」を破壊したと同じように、唐進駐軍は、飛鳥ヤマトの祭事場を徹底的に破壊し、その跡に、漢訳仏教思想で人民統治のために、唐国の国教である漢訳仏教施設を建立するわけです。そのひとつが、御蓋山の秦氏の祭祀場であったのです。そして、その破壊跡は「神地」として、禁足地としていたのです。
そのように、唐進駐軍は、祭祀氏族としての藤原氏を傀儡として、奈良盆地を南から北へ侵攻して行くのです。それが、軍事都市の藤原京から、710年遷都の軍事都市平城京です。この平城京で、祭祀者藤原氏は、唐進駐軍の指示に従わない行動を起こしていくのです。それは、唐本国が、西の隣国吐蕃や北のウイグルの攻撃を受けていて、日本国統治が手薄になっていたからです。
平城京には、前政権を支えた宗教施設を抹殺した意味が含まれていたのです。それは、平城とは、「シロ」を平らげるで、「シロ」とは、小山のことで、それは、古墳を意味しているのです。つまり、平城とは、古墳の破壊を意味しているのです。
そのような平城京で、祭祀者として振舞う藤原氏は、729年天武天皇の孫である左大臣長屋王を、左道(北極星を祀ること)をしたとして謀殺するのです。そして、平城京の東の御蓋山(三笠山)にあった、秦氏の牡牛を屠る祭祀場を破壊した跡地の「神地」に、唐進駐軍に押し付けられた漢訳仏教ではない、藤原氏の神を祀る「春日社」を建立するのです。
藤原氏は、その「神」のユダヤ色を隠蔽するために、「春日社」に祀る神を複数とするのです。それらは、藤原不比等が常陸国から鹿島神を遷祀したとされる武甕鎚命、そして、出自不詳の経津主命、藤原氏が創作した「日本書紀」に登場した天児屋根命、宗像神から導入した比売神の四神を、春日四所明神とするのです。春日社には、色々な出自の神々が祀られているのです。それは、藤原氏の真の神の素性を知られたくないための、トリックのひとつであったのです。
そして、907年唐帝国が滅亡し、平安京を支配する唐進駐軍の勢力が衰えると、祭祀者藤原氏は、本地垂迹説思想を利用して、武甕鎚命を釈迦・不空羂索、経津主命を薬師・弥勒、天児屋根命を地蔵、そして、比売神は十一面観音として、仏教の「仏」と中臣神道の「神」を支配していくのです。
しかし、藤原氏が、藤原氏の祖神のユダヤ色を色々なトリックで隠蔽しようとも、藤原氏が発明したとされる、藤原日本史で云うところの「古神道」の中臣神道の思想・儀式には、ユダヤ色が濃く残っていたのです。
それらは、中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点としては、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。
奈良時代の平城京を藤原氏の神で支配していたことに反抗したのが、聖武天皇(724年〜749年)です。聖武天皇は、藤原氏の宗教的呪術性を封印するために、藤原氏の宗教施設の中枢である興福寺を見下ろす春日山に、像を設置するのです。
この像は、藤原日本史により、錬金術師空海のネーミングにより、秦氏の神・太陽神ミトラを隠蔽するために「大日如来」として、奈良の大仏様として認識されているようですが、その実態は、ビ・ルシャナブツで、その意味は、「遍照鬼」(遍く照らす神=太陽神=ミトラ神)であったのです。つまり、「鬼」とは、反仏教の秦氏の神「ミトラ神」であったのです。
この遍照鬼の鋳造には、藤原氏は何度も妨害をかけたのですが、宇佐(九州秦王国)と河内(大阪秦王国)と山の民(亡命秦王国・鬼)の勢力の結集により、752年遍照鬼は完成するのです。
反藤原氏の聖武天皇は、749年には娘に皇位を譲り、女帝孝謙天皇とするのです。その女帝孝謙天皇は、父聖武天皇と同じに反藤原氏を標榜し、唐進駐軍と中臣族連合軍に破れ飛鳥ヤマトから陸奥国へ逃避した蝦夷と親交し、自らを「三宝の奴」と称していたのです。
この女帝孝謙天皇親子が見守る遍照鬼像の完成祝いに、旧秦王国があった宇佐から、秦氏末裔が神輿を担いで現れたのが、日本国の神輿の歴史上始めであるのです。しかし、この神輿は、第一百済王朝の平安時代になると、秦氏の聖地である古墳(モリ=神社)が禁足地となったように、「祟り神」を封印する移動施設となってしまうのです。
この反藤原氏の像である遍照鬼の実態は、歴史上明らかに出来ないのです。それは、藤原日本史による、仏教文化華やかな「天平の甍物語」による奈良時代の歴史隠蔽と、度重なる遍照鬼の破壊活動があったからです。
855年には遍照鬼の頭が、藤原日本史の説では落雷により、落ちてしまっていたのです。そして、山の民達により再建造された遍照鬼は、1180年アラブ系武士団「平家」の平重衡により東大寺とともに焼かれていたのです。
ですから、今日の奈良の大仏様は、秦氏末裔の騎馬民族系徳川家康により、1608年再建されたのですが、またしても不審火により焼失し、1709年江戸時代に創られたものであったのです。しかし、その奈良の大仏様が祟りをすると、古来から仏教信者の庶民には信じられていたので、東大寺の門に大仏様の顔が見える窓を造り、そこから江戸時代の庶民は、おそるおそる大仏様の顔を見ていたのです。奈良の大仏様は、藤原日本史が述べるように、単なる仏像ではなかったのです。それは、隠れキリシタン像と同じに、姿かたちは限りなく仏像に似せて創られていても、その本質は、反藤原氏の秦氏の神である「鬼」であったのです。
そのように藤原日本史の奈良時代を疑ってみると、そこに不思議なことに気付くのです。それは、遣唐使船です。
藤原日本史によると、遣唐使船は、先進国唐帝国から仏教文化を輸入するために、日本の優秀な青年を留学僧として、飛鳥時代(古墳時代)630年犬上御田鋤が始めて唐帝国に渡った、と云うのです。そして、遣唐使は、約20年ごとに派遣し、平安時代(第一百済王朝)894年菅原道真の進言で廃止となった、と云うのです。そして、その目的は、仏教文化の輸入、と云うのです。
何故、遣唐使船が、唐文化の輸入のための船と云うのかといえば、それは、日本国の史料にそのように記述されているからです。それらの史料とは、六国史です。しかし、その六国史の編纂者と遣唐使船を管理していた者が、供に藤原氏一族であったのです。これは、怪しい。
六国史の、720年「日本書紀」は藤原不比等、797年「続日本紀」は菅野真道、840年「日本後紀」は藤原諸嗣、869年「続日本後紀」は藤原良房、879年「日本文徳天皇実録」は藤原基経、そして、「日本三代実録」は、菅原道真を陰謀で大宰府に左遷させた、藤原時平が編纂責任者であったのです。
日本古代史を「勉強」するひと達は、それらの六国史で、古墳時代から始まる「遣唐使」について調べるわけです。しかし、約20年に一度の遣唐使船が、何故、四隻に二隻が難破するのかの意味を知ることはできないのです。それは、藤原氏が管理する遣唐使船の歴史を、藤原氏が監修した「書籍」で、丹念に調べたとしても、その遣唐使船の謎を解くことができないのは、仏教伝来物語を調べるのに、「聖徳太子」を中心に調べることと同じです。
遣唐使船は、唐帝国に「空舟」で行ったのでしょうか。日本の六国史では、乗船人物の記述はありますが、唐帝国に運んだ物品の記述はありません。しかし、唐帝国の史料では、遣唐使船は、銀・絹・木綿・ツバキ油・火打石などの品々を、唐帝国に運んでいたのです。それらは、唐帝国の制度である、701年大宝律令の律令制の祖庸調の税を、現物として奈良王朝(第一藤原王朝)に納税させた品々であったのです。これは、日本列島で税として集めた物品を唐帝国に、「遣唐使船」で運んでいたのです。このことは、奈良時代の日本国は、唐帝国の属国を意味していたのです。
では、何故、遣唐使船は、4隻に2隻が難破したのでしょうか。それは、遣唐使船の構造にあったのです。遣唐使の多くは、帰路は新羅国商人船に乗船していたのです。新羅国の船は、朝鮮半島を基地として、唐帝国と日本国を行き来していたのです。では、遣唐使船と新羅国の船との違いは何かといえば、それは、新羅国の船には竜骨があるのに、遣唐使船には、竜骨が無いのです。つまり、遣唐使船は、箱舟であったのです。ですから、ちょっとでも強風に晒されると転覆してしまうのです。
藤原氏は、その祖が南インドから渡来した国際海洋商人で、南インド産の沈香や香木を輸入していたので、外洋船の構造は熟知していたのです。と、言うことは、どのような構造船が、外洋航海に不向きかも知っていたのです。劃して、平底箱舟の遣唐使船は、約250年も、藤原氏に利益をもたらしていたのです。それは、計画的に、遣唐使船を難破させ、日本国から持ち出された税としての物品を掠め取ることが出来たからです。
奈良時代の藤原氏のわが世の春も、682年復興し唐帝国を脅かしていた、飛鳥ヤマトを支配していた東突厥帝国を、唐帝国軍団が、744年壊滅すると、終わりが近づいてきたのです。
唐帝国は、再び日本国統治に力を入れてきたからです。それに対して、天皇でもないのに国璽を私邸に持ち込んで、国政を独り占めしていた太政大臣恵美押勝(藤原仲麻呂)の軍団は、764年唐進駐軍により壊滅されるのです。そして、唐進駐軍は、藤原氏に替えて、亡命百済貴族を傀儡政府の長とするのです。それが、60歳を過ぎた亡命百済下級役人から天皇になった、光仁天皇(770年〜781年)であったのです。
唐進駐軍は、河内湾を支配する秦王国を壊滅すると、琵琶湖と浪速(ローラン)との中継地、山背国の侵略を始めるのです。その山背国は、未だ、秦氏の支配地であったからです。
老齢の光仁天皇は、781年息子桓武天皇に皇位を継承するのです。桓武天皇は、その即位儀式で、唐服を着、唐の儀式で、藤原氏が創作したアマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇を祖神としていたのです。この唐文化一色の平安時代が、第一百済王朝となっていくのです。
そして、唐進駐軍の後ろ盾を得た桓武天皇は、山背国侵略のために、784年前線基地の長岡京を造営するのです。そして、794年山背国を守る秦氏軍団は、壊滅し、平安京となるのです。その新都・平安京には、反藤原氏の桓武天皇は、藤原氏が支配する、博打・売春・高利貸しで腐敗した南都仏教を「ケガレ」とし、その末社の創建を許さなかったのです。
錬金術師空海が、インドのバラモン思想の遊牧民族トラヴィダを不可触賎民とする「チャンダラー」を「施多羅」として、日本列島に持ち込む前までの「ケガレ」とは、王権に従わない「アウトロー」の意味であったのです。
それが、第一百済王朝の平安時代となると、太陽神ミトラを祀るために牡牛を屠り、太陽神ミトラと一体になるために、その生血を飲み、生肉を食べる秦氏末裔を、亡命百済民は祖国百済を古代新羅に滅亡されたことによる怨みから、賎民に落とし込むために、「施多羅」思想を吹聴するわけです。その結果、「ケガレ」が、「アウトロー」から「汚わい」に変化してしまうのです。
その汚わいの意味となった「ケガレ」は、「きたない」の意味が加わるのです。その「きたない」の語源は、騎馬民族は広域のユーラシア大陸移動のため、「北極星」を目印にしていたのです。そこからやがて、「北極星」は、天子(テングリ)の神となり、中国語で「太一」として、騎馬民族に崇拝されていくのです。
その北極星神聖思想を持った、騎馬民族の流れを汲む、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の皇子は、672年近江の百済亡命政府を武力で倒すと(「日本書紀」では壬申の乱)、天子から「天皇」を発明して、672年天武天皇として即位するのです。そして、太一(北極星)を祀るために、伊勢に道観を建立したのです。奈良時代、藤原氏が、この道観を破壊した跡に建てたのが、藤原氏が発明したアマテラスオオミカミを祀る「伊勢神宮」なのです。
この北極星が位置する「北」を神聖視する民族を否定するために発明された言葉が、「北ではない」から「きたない」です。その「きたない」に、京都を支配する亡命百済民は、「汚わい」の意味を加えて、「穢い」としたのです。そして、「君子は南面す。」とし、「南」を「北」よりも高位とし、北を鬼門とするのです。鬼とは、仏敵の神、つまり、騎馬民族の流れにある秦氏の神のことであるのです。
亡命百済貴族が、平安京を支配するには、藤原氏に対抗して、新しい宗教が必要です。そこで、桓武天皇は、最澄を唐に派遣するわけです。しかし、奈良の都に封印された藤原氏は、その最澄に対抗する人物を、唐に派遣するのです。
それが、錬金術師空海です。藤原氏は、遣唐使船運営の管理をしていたので、遣唐使船の出航を一年遅らせ、その間に、錬金術師空海に僧籍を与え、「薬師」として乗船させたのです。
八ヵ月後の805年、最澄は帰朝すると、秦氏の牡牛を屠るミトラ神の祭祀場であった比叡山に、788年創建していた延暦寺で、ニッポン天台宗を創立したのです。
しかし、最澄の漢訳仏教修行が完全ではなかったので、806年帰朝した空海の弟子となって、漢訳仏教を勉強したのです。
その最澄の師である空海は、嵯峨天皇の寵愛を受け、823年東寺を賜るのです。この東寺建立の時、空海が稲荷山(秦氏の神を祀る古墳)の大杉を伐採したことにより、淳和天皇が祟りに遭ってしまうのです。この意味は、空海の僧兵軍団による、山の民になった秦氏末裔の壊滅戦争であったのです。
平安王朝を支配する、亡命百済貴族は、自らの出自を隠す物語を創作するのです。そのために、814年「新撰姓氏録」を創作し、百済系を「皇族」、藤原氏系を「神族」、そして、秦氏系を「蕃族」として、民族差別をするのです。
そして、藤原氏が創作した「日本書紀」を改竄し、その552年仏教伝来物語の年代を、538年とし、「聖徳太子」なる人物を登場させるのです。そして、山背国の支配者であった秦氏の歴史を抹殺するのです。
その抹殺物語が、聖徳太子の命により、秦河勝が仏像のために建立した「広隆寺」であったのです。広隆寺の元の名は、「蜂丘寺」です。何故、秦氏の祭祀施設の「蜂丘寺」を「広隆寺」にしたのでしょうか。それは、「蜂丘寺」には、秦氏の歴史が語られていたからです。
「蜂丘寺」とは、「ハチオカテラ」で、蜂とは「ハチ」ではなく、多いの意味の「ヤ」で、丘とは、「小山」の「古墳」で、寺の「テラ」とは、「死者が眠る処」で、その「蜂丘寺」の意味は、「死者が眠る古墳が多くある処」であったのです。つまり、「広隆寺」は、秦氏の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、建立された、前政権の太陽神ミトラを封印するための漢訳仏教施設であったのです。
劃して、桓武天皇王朝により、秦氏の太陽神ミトラは、比叡山に中国天台宗が持ち込まれ「魔多羅神」に改竄され、そして、祭祀場であった蜂丘寺は仏寺の広隆寺と変身し「弥勒菩薩」に改竄されて今日に至るのです。
因みに、昭和時代に学童であったひとが、歴史教科書で教わった、アルカイックスマイルの弥勒菩薩像とは、飛鳥時代に「聖徳太子」が秦河勝に賜ったものではなく、明治時代に創作修復されたものであったのです。
では、唐進駐軍に支援された桓武天皇軍団により、山背国を占領され、山城国に改竄されため、追放された前支配者であった秦氏一族は何処へ逃避したのでしようか。それは、秦氏のスグリであった秦河勝の墓が、山城国にはなく、古に秦王国があった地である兵庫赤穂と河内にあることから、その地へ逃れたことが示唆されます。
そして、平安王朝を仕切る、空海を寵愛した嵯峨天皇(809年〜823年)は、子沢山のため、公費で五十人以上とも云われる皇子・皇女を養えないために、皇籍から外すため、814年「源氏」の賜姓をしたのです。これが、嵯峨源氏の始まりです。
山背国を追われた秦氏一族(蝦夷の突厥帝国軍残党も含む)の一派は、国際港浪速(ローラン)が難波として、唐進駐軍に支配されてしまったため、上町台地の大阪湾の波が押し寄せる湿地帯へ移動するわけです。
その岬一帯は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれていくのです。元々、秦氏は、古墳時代に巨大古墳を築造していたので、古代エジプトの高度土木技術により、湿地帯を居住地に改良することはお手の物であったのです。これは、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、徳川家康が、関東の湿地帯に追放されたが、武田軍団であった金山衆の産鉄民族や弾左衛門の秦氏末裔の土木技術で、河口地の湿地帯を、神田堀の残土により居住地に変えてしまったことと同じです。
嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、その母がそのワタナベが出身地であったので、渡辺綱を名乗ったのです。これが、渡辺党の始まりです。
平安京を支配する桓武天皇は、中国山東半島に暮す亡命百済民を、平安京に移住させる計画を立てたのです。そのための使者が、最澄であったのです。ですから、最澄は、八ヶ月の旅路で帰朝したのは、仏教修行などではなかったのです。その根拠のひとつとして、年下の空海に頭を下げて、弟子入りし、多くの仏典を借り受け、漢訳仏教の勉強を比叡山でしていたからです。
最澄が帰朝後、京の街では聞きなれない発音をする多くのひと達で溢れていくわけです。山東半島から移民して来た亡命百済民は、1945年太平洋戦争敗戦後アメリカ語が日本全国で流行ったように、先進国唐帝国から移民して来たので、その唐帝国で使用していた発音を、ヤマト言葉に被せたのです。それが、「京都弁」のルーツです。かくして、秦氏末裔は、京都では、二等国民となってしまったのです。
そのような状況に、錬金術師空海は、「施多羅悪人ナリ」の呪文を流行らせていくのです。つまり、肉食する秦氏は悪人である、と言うことです。そこで、都で暮す秦氏末裔は、秦氏から惟宗氏に氏名を変更するわけです。
このような唐進駐軍の威を借りて、秦氏末裔を「施多羅」とする亡命百済貴族が、更に、自らの出自を粉飾するために、「聖徳太子」を発明し「538年百済仏教伝来物語」を創作したことにたまりかねた、秦氏末裔の万葉語学者多人長は、その百済亡命貴族による「日本書紀」改竄に対抗して「書」を著すのです。それが、「古事記」です。
藤原日本史では、「古事記」は、712年完成とするのです。その唯一の根拠としては、奥付に和銅5年(712年)とあるから、とするのです。しかし、その「古事記」が、「日本書紀」よりも8年前に完成していないことは、一寸考えれば誰にでも分かることなのです。
そのひとつとして、何故、「古事記」から8年後に完成した「日本書紀」には、序に天武天皇の言葉が記載してある「古事記」についての記述がないのでしょうか。そして、「日本書紀」の基本記述は、陰陽の二元論であるのに、二元論より後に発明された一元論で「古事記」が記述されているのは、何故でしょう。更に、「日本書紀」よりも8年前に完成した「古事記」には、「日本書紀」の「ある一書曰く」について全て記述されているのは何故でしょう。そして、最大の疑問は、古代新羅万葉語から日本万葉語への完成は、奈良時代ではなく、平安時代なのです。その完成された日本万葉語で「古事記」が記述されているのは何故でしょう。
これらの疑問は、「古事記」は、「日本書紀」よりも後に、それも、奈良時代ではなく、平安時代に記述された、と考えれは、全て解けるのです。
そして、秦氏末裔多人長が、懸念していたように、814年「新撰姓氏録」が亡命百済貴族により創作されたことで、その結果、唐帝国から移民して来た亡命百済貴族が、日本国の「皇族」となってしまったのです。そして、秦氏は、河内湾を干拓し、四世紀から巨大古墳を近畿一帯に築造していたのに、渡来帰化人の「蕃族」に貶められてしまったのです。因みに、ユダヤ教に酷似した「古神道=中臣神道」を発明した藤原氏は、「神族」です。
王権が交代すると、必ず行うことが、前政権の技術・文化を抹殺するための焚書です。そして、思想検閲を行い、新政府に都合の良い思想をメデイアを使いプロパガンダをおこなうのです。
1945年8月15日昭和天皇が、敗戦の詔を発すると、その翌月の9月アメリカ占領軍司令部は、検閲制度を実施し、プレスコードにより新聞を統制するのです。そして、秘密裏に、太平洋戦争でのアメリカ軍に不利な書物を大量に焚書するのです。このことにより、太平世戦争勃発の真相が闇に葬られたことにより、未だに、太平洋戦争の意義が総括できないでいるのです。
そして、アメリカ占領軍総司令部は、その年の12月神社(ジンジャ)と国家との分離指令を発したのです。そして、キリスト教会にラジオ放送施設を設置し、アメリカ思想に染まった文化人を集め放送作家集団を組織して、「神国ニッポン」思想撲滅のために、ラジオで「アメリカ文化励賛の娯楽番組」を制作させていくのです。
そのように、片一方で焚書をし、もう片一方でアメリカ占領軍に都合の良い思想をラジオ番組から流すことにより、民主主義思想を刷り込んでいったのです。しかし、そのアメリカ占領軍司令部の意向に逆らう者には、容赦の無い社会的弾圧を加えていたのです。
奈良時代から平安時代に変換する、百済系桓武天皇の統治時代にも、焚書が行われていたのです。更に、桓武天皇は、反藤原氏で親蝦夷(645年まで飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔)の聖武天皇の遺品が奉納されている正倉院の倉庫群を破壊して、聖武天皇が集めた、オリエント文化を表した絵画類を全て抹殺してしまったのです。
ですから、現在一棟しか現存していない正倉院には、飛鳥時代(古墳時代)や新羅系天武天皇時代の絵画類が、ひとつもないのです。現在目にするそれらの奈良時代を表す絵画は、古くても室町時代で、多くは江戸時代以降に創作されたものであるのです。
近畿一帯の巨大古墳を発掘できれば、それらに埋葬されている遺品により、古墳時代がオリエント文化であったことを証明できるのですが、王権はそれを許可しないのです。正倉院御物には、四つの馬具、カスピ海沿岸産のガラス製瑠璃椀、パミール産のクレの鼓、ペルシャ面などが、オリエント文化を示すだけです。
平安時代初期、平安王朝は、焚書し、思想統制をし、藤原氏が創作した「日本書記」を改竄し、民族差別をするインドのバラモン教色の強い漢訳仏教を輸入し、中国天台宗の経典である民族差別を語る「法華経」を日本列島に持ち込み、百済系王朝に都合の良い思想統制を行っている時代に、秦氏末裔多人長は、万葉語学者として、プロパガンダ要員として、「日本書紀」の講釈師として平安王朝側として存在していたのです。
そのような多人長が、百済系王朝が行う、飛鳥時代の538年に百済仏教が伝来していたとする歴史改竄を暴く「黙示録」を著すには、「暗号」を用いなければ、その書は、百済王朝に焚書されるだけではなく、その著者である多人長も抹殺されてしまうわけです。ですから、「古事記」は、暗号で記述されていたのです。
この暗号を用いて、改竄書を暴くことは、古く「聖書」でもおこなわれていたのです。それが、パモス島のヨハネの黙示録です。その「ヨハネ黙示録」が巻末に掲載されている「聖書」は、紀元7世紀には、イエスの神性を認めないため、ローマ・キリスト教から追放された、ネストリウス派の僧侶により、唐帝国に持ち込まれていたのです。そのネストリウス派は、ミトラ教が太陽神を祀る宗教であるから、中国語で「景教」と呼ばれた組織に吸収されていくのです。
パモス島のヨハネは、「ヨハネ黙示録」を著し、「666の謎」と「1と1と半」のキーワードをその「ヨハネ黙示録」に挿入して、古代エジプトの太陽神アトンから唯一神ヤハヴェを発明したユダヤ民族ザドク一派が、「聖書」に「モーセ物語」を挿入して、太陽神バアルと牡牛を祀るイスラエル民族の歴史を、ユダヤ民族が乗っ取ったことを暴いたのです。
そのパモス島のヨハネの暗号を解読できれば、「神物語」ではなく、「主物語」が、ザドク一派が後から挿入した部分で、その「主物語」を否定して「聖書」を読め、とパモス島のヨハネが唱えていたことが分かるのです。
このことと同じに、秦氏末裔多人長は、百済系天皇家が行った「日本書紀」の改竄を「古事記」の暗号で示していたのです。そのひとつが、「後の者が歴史を改竄したので、ここに天武天皇の命で正す。」と記した序文の謎です。この序文は、本文が日本万葉語であるのに対して、漢文調なのです。
そして、もうひとつの謎は、何故、720年完成の「日本書紀」は持統天皇(686年〜697年)まで記述しているのに、812年完成の「古事記」は推古天皇(593年〜628年)で終わっているのか、ということです。その謎解きは、「日本書紀」が創作した「推古天皇時代」とは、隋王朝(589年〜618年)の時代で、その「随書」は、平安時代の知識階級には読まれていたからです。
つまり、「古事記」を「推古天皇」で終わらせた暗号は、「隋書を読め」、であったのです。その「隋書」では、隋使裴世清が、608年当時の日本列島の現状を、飛鳥ヤマトを支配していた進駐軍の母国である、東ユーラシアを支配していた東突厥帝国と、戦闘状態にあった隋帝国の煬帝(604年〜618年)に報告していたのです。
その報告によれば、北九州に秦王国存在の記述はあっても、飛鳥に女帝推古天皇も聖徳太子なども存在していなくて、そこには、男王アマタリヒコと遣隋使ソインコウ(「日本書紀」では小野妹子)とが存在していたのです。つまり、多人長は、「古事記」の暗号で、亡命百済貴族が改竄した「日本書紀」の推古天皇時代の、538年百済仏教伝来物語を「否定」していたのです。
簒奪王権は、前政権の歴史を焚書と改竄とで隠蔽すると、その後、前政権の祭祀氏族と武器製造を行っていた技術者集団を抹殺する傾向があるのです。
1945年8月30日厚木飛行場に到着した連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本国民を「14歳の少年」と同じ程の知性しかないと述べたのです。しかし、それは本心ではなかったのです。
天皇を現人神とする「神国ニッポン」思想は、世界史を勉強しているひとにとっては、空想物語の何事でもありません。しかし、子供の頃から刷り込まれた思想は、その思想から開放されるのは、よほどのことが無い限り、不可能なのです。ですから、平成時代の今日でも、お年寄りは時々「神国ニッポン」などと口走り、周囲を驚かすことは稀ではありません。
「天皇」の号が、日本列島で用いられたのは、672年天武天皇から、唐帝国が滅亡寸前に遣唐使が菅原道真により廃止されるまでです。907年唐帝国が滅び、平安王朝を支配する唐進駐軍の軍事力の衰えが見えると、唐文化一色の平安王朝も、表意文字の漢語から表音文字(ひらがな・カタカナ)が使われ始め、和風(騎馬民族風)に変化していくのです。そして、平安中期以降から「天皇」号は廃れ、江戸時代まで「天子」(テングリ・騎馬民族の王)が広く用いられていくのです。
騎馬民族系の徳川家康の息子徳川秀忠が、「百済系天皇家」を門に鍵を掛けて拘束するために制定した、1615年「禁中並公家諸法度」には、「天皇」の号はなく、そこには「天子諸芸能事」でも分かるように「天子」があるだけです。その「天皇」号が復活するのは、藤原氏が、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道を復活させるための仕掛け、「伊勢参り」を計画する江戸後期からなのです。
そして、日本国の君主号が正式に「天皇」と規定されたのは、1889年大日本帝国憲法と同時に発令された、皇室典範によるのです。そして、「院」と呼んでいた「過去の天皇」を、正式に「天皇」と全て呼び変えたのは、1925年東京放送局がラジオ放送を開始した時からなのです。そして、明治革命後からの外交文書で「皇帝」と記していたものを「天皇」に変えたのは、1936年二二六事件のあった時からなのです。
以上の「天皇」号の歴史を眺めると、騎馬民族系民族が「天子」(テングリ)から発明した「天皇」号は、藤原氏が日本列島を、祭祀者として支配する「道具」として、今日まで利用されていたことが分かるのです。
アメリカ占領軍総司令部は、1945年12月明治新政府が発明した神社(ジンジャ)と国家の分離令を発令していたのですが、その前月の11月には、サイクロトンの破壊命令と航空に関する研究の禁止命令を出し、関係書籍を没収、或いは、焚書していたのです。
敗戦国のニッポン人は、思想的には「14歳の少年」でも、科学技術面では、アメリカ合衆国と同等か、それ以上に優れていたのです。特に、原子科学と航空工学の研究では、アングロサクソンに対抗できる、アジア民族では唯一の国であったのです。
アメリカ占領軍総司令部が、それらの高度技術を、占領軍総司令部の命令で壊滅させたのは、その日本国の潜在戦闘能力に脅威を感じていたからです。
亡命百済貴族が支配する平安時代が安定してくると、賀茂川の河原に、遊芸者集団が現れるのです。その河原は、死者が流れ着く処で、通称「髑髏ヶ原・ドクロガハラ」と呼ばれていたです。何故、そのような環境的に劣悪な処に、遊芸者集団が現れたのでしょうか。
それは、唐進駐軍の軍事的後ろ盾を得た亡命百済民は、秦氏の支配地山背国を占領し、その地に唐から持ち込んだ漢訳仏教施設を建設して、前政権の祭祀氏族を追放したからです。その前政権の祭祀氏族が、河原の遊芸者集団であったのです。その遊芸者集団には、タタラ製鉄で武器を造る高度技術者も紛れていたのです。
その遊芸者集団が、亡命百済王朝に抹殺されなかったのは、簒奪王権が自ら布教した「穢れ」思想と「怨霊」思想によるのです。
奈良時代までの「天変地変」とは、王権の不正に対する天の裁きであったものが、平安時代になると、その「天変地変」は、「怨霊」の祟りであると、信じられていたのです。それは、つい数十年前の奈良の都での地獄絵の記憶があったからです。
奈良の平城京は、前政権の聖地であった古墳を破壊して、その跡に建設した軍事都市であったのです。更に、藤原氏は、御蓋山の秦氏の祭祀場を破壊した跡に、春日社を建立していたのです。そして、藤原氏は、天皇家でもないのに、天武天皇の孫長屋王を謀殺して、奈良王朝を実質的に支配していたのです。
しかし、752年東大寺の遍照鬼が完成すると、奈良の都には奇病が発生するのです。古代では、病気とは皮膚病などの目に見える病のことで、中枢神経を侵す病は、「祟り」と信じられていたのです。その奇病の原因は、遍照鬼を鋳造した時の、銅毒と水銀毒であったのですが、当時では、鉱毒の知識がなかったので、前政権の宗教施設を破壊した結果の「祟り」と信じられていたのです。この奈良の都の「祟り」の記憶が、平安時代に蘇ったのです。
794年平安京に遷都した百済系桓武天皇も、「祟り」に怯えていたのです。それは、実弟早良親王を謀殺しただけではなく、父光仁天皇の前妻母子(井上皇后と他戸親王)も謀殺していたからです。そして、山背国にあった秦氏の祭祀場「ハチオカテラ」を破壊して、その跡に仏寺「広隆寺」を建立して、ミトラ神を「弥勒菩薩」として封印していたからです。更に、秦氏の聖地である比叡山の祭祀場を破壊して、ミトラ神を「魔多羅神」に改竄して追放し、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して、「山王神」とし祀っていたからです。
平安遷都から、平安京は祟られていたのです。800年富士山の噴火だけではなく、地震・落雷・不審火・疫病が、平安京を襲っていたのです。平安貴族は、それらの不幸を「祟り」と信じたのです。その「祟り」を鎮めるには、前政権の祭祀者が必要だったのです。そこで、平安貴族は、前政権の祭祀者を賀茂川の河原に集めたのです。
それは、平安京を鎮護する漢訳仏教により企画された御霊会の呪力が弱かったからです。645年唐進駐軍と供に渡来した僧兵軍団は、特殊武器の薙刀により、奈良盆地から山背国へと進撃し、騎馬軍団を近畿一帯から殲滅していったのです。更に、近畿一帯の山の民も、錬金術師空海の、修験者を装う山岳僧兵軍団により殲滅していたのです。
しかし、それらの前政権の武人の怨霊を鎮めるために発明された御霊会の儀式をおこなっても、平安京を襲う天変地変は鎮まらなかったのです。
そこで、唐本国へ武人奴隷として送り込むために、近畿一帯の山々の散所、別所、湯浅、垣内などの捕虜収容所に収容されていた陸奥国捕虜の蝦夷を、その怨霊の魂鎮めの儀式に利用していくわけです。
蝦夷の祖は、飛鳥ヤマトの武人であったので、そして、タタラ製鉄技術を持つチュルク末裔であったので、蝦夷の武器である蕨手刀から、刀舞のための薄刃の「日本刀」を発明するわけです。更に、怨霊との戦いのために、牛の角を付けた兜と派手な鎧を創るのですが、王権から実戦武器の使用が認められていないので、その鎧兜は、総革製であったのです。
そのような総革製の鎧兜と、実践的でない「日本刀」で武装した蝦夷は、古代の「神」の呼称である「モノ」から、「モノ」の僕(しもべ)であるため、「モノノフ」と呼ばれていくのです。そして、645年以降、侵略者により破壊された古墳跡の禁足の空き地(神地)で、怨霊(仏敵の神=秦氏の神)の魂を鎮めるために刀舞をおこなうのです。これが、「武芸」の始まりです。
平安時代では、この禁足地での怨霊の魂鎮めのことを「キヨメ」と云っていたものが、第二百済王朝である北条鎌倉時代(1205年〜1333年)になると、亡命百済民により、その聖なる「キヨメ」が、汚物処理の「キヨメ」とされて、関西では「穢多・エタ」、三河では「革多・カワタ」の「賎民仕事」に貶められていくのです。
ですから、941年天慶の乱の鎮圧での活躍後に、「モノノフ」が、王権から認めてもらえて「武士」となっても、新羅末裔の「武士」は、百済系武人は平氏の「サムライ」で「おサムライ様」と呼ばれても、粗忽者の「武芸者」と後々までも呼ばれていくのです。
武士の発生は、その天慶の乱の939年から941年までの内乱の武力鎮圧であったのですが、それには、907年唐帝国滅亡の結果による東アジアの動乱と大いに関係していたのです。
907年唐帝国が、辺境を守る軍団長の朱全忠により倒され、後梁(907年〜923年)を興したのです。そして、宋(960年〜1126年)により中国大陸が統一されるまで、五胡十国の時代に突入していくのです。その五胡の「胡」とは、ペルシャ、突厥(チュルク)などの西方民族の総称です。その十国の多くは、突厥帝国軍人末裔が軍事力で支配していたのです。
その唐帝国が滅亡したため、唐との交易で栄えていた新羅も、935年新羅・後百済・高麗に分裂後、高麗の地方豪族王建により、936年朝鮮半島が統一され、高麗(936年〜1391年)が興るのです。
ギリシャ・ローマ文化国で表音文字(古代新羅万葉語)を使う古代新羅(356年〜527年)では女王国であったのですが、672年「日本国天武天皇」誕生と時を同じくする、統一新羅(675年〜935年)も女王国であったのです。
極東での女王国は、古代新羅と飛鳥ヤマト王国(天武王朝672年〜770年)だけで、漢訳仏教文化の高句麗も百済も女王国ではなかったのです。このことからも、表音文字(ヤマト万葉語)を使う飛鳥ヤマトと、表音文字(古代新羅万葉語)を使う古代新羅との関係が示唆されるのです。
その統一新羅が、935年滅びると、その女王国の王族・軍人は、日本列島に亡命するのは、663年百済が滅びると、百済王族が日本列島に亡命し、667年近江亡命王朝を築いたのと同じです。
四世紀の日本列島には、古代新羅から秦氏が渡来していたのですが、その移動拠点は、北九州→吉備→河内→奈良盆地→山背国と、そして、古代新羅→出雲→若狭→琵琶湖を経て→山背国の2ルートがあったのです。しかし、794年以降、亡命百済民が支配する平安王朝期では、秦氏が支配していた山背国は、亡命百済移民の山城国となり、秦氏の聖地比叡山は、中国天台宗を招いて、百済系の延暦寺の山城となっていたのです。
そして、亡命百済移民により山背国を追われた秦氏末裔は、河内の河口ワタナベ(岬の意味)に集結していたのです。高麗に敗れた統一新羅王族と、ローマ帝国軍末裔の新羅花郎軍団末裔は、その河内に上陸するのです。
この渡来軍団が、河内の源氏一族に合流することになるのです。それは、武家源氏の棟梁となった源頼義の子義家は「八幡太郎」と名乗り、その弟義光は「新羅三郎」と名乗っていたからです。因みに、八幡太郎の「八幡」の真の意味は、「ハチマン」ではなく、「ヤハタ」で、「多くの秦氏」つまり、「秦氏が栄える」の意味です。
そのような統一新羅渡来軍団が、日本列島に侵攻することにより、唐進駐軍の軍事力が衰えていたので、瀬戸内海では藤原純友が兵を興し、そして、関東では平将門が兵を興し、平安王朝打倒を目指していたのです。その反乱軍を鎮圧したのが、蝦夷捕虜である「モノノフ」と同族の騎馬民族である、河内に渡来した統一新羅花郎軍団であったのです。
唐進駐軍の勢力が衰えた平安中期に、日本列島に渡来したのは統一新羅亡命移民だけではなかったのです。伊勢には、アラブの国際海洋交易民族が渡来していたのです。それは、唐帝国を国際交易中継基地として、日本国へ南インド産の香木や孔雀の羽などを交易品としていたアラブ国際海洋商人が、唐帝国が滅亡したため、直接日本国へそれらの交易品を持ち込んでいたのです。
伊勢湾へは、古来から南海民族が船で黒潮に乗り渡来していたのです。それは、伊勢には、奈良の宇陀と同じに、国際交易品の朱砂が産出していたからです。それは、伊勢と宇陀は、中央構造線上に位置していたので、地下の鉱物資源が地表に現れていたからです。ですから、伊勢から、中央構造線に沿って、西に進むと、宇陀に至り、更に西に進むと、沈黙交易が行われていた奈良盆地の三輪山麓のイワレ・ツバキ市に至るのです。このことから、箸墓古墳から東海産の土器が多く出土することが説明できるのです。
藤原日本史では、海洋民族史が欠落しているのは、それは、藤原氏の祖の歴史が暴かれてしまうからです。藤原氏の祖の渡来元の南インドのマラバル沿岸は、紀元前10世紀ヘブライ国のソロモンが、国際海洋民族フェニキアの外洋船により、南インド産の香料、香木、孔雀の羽、猿などを輸入して、近隣国に法外な価格で売りつけていたのです。ソロモン王の財宝は、そのような南インドとの国際交易で産出されていたのです。
その南インド産の国際交易品は、571年「旧約聖書」に感化されたムハンマドのイスラム教のサラセン帝国が興ると、瞬く間に、ササン朝ペルシャだけではなく、エジプトまでもその支配下においたのです。このことにより、ユーラシア大陸のシルクロードは、イスラム教の支配下に置かれたのです。
紀元8世紀、このイスラム教とローマ・キリスト教との軍事的対立が、カスピ海沿岸のシルクロート国際交易国であるカザール王国を、ユダヤ教国へ替えたのです。そして、この国際交易商人である白いユダヤ人が、各国の王権・貴族との姻戚関係を構築することにより、紙のお札を刷り出す中央銀行という私的銀行の国際集団により、世界の金融を独占支配していくことになるのです。
紀元1世紀から西のヨーロッパと東の中国との交易をおこなっていた、反イスラム教のローマ・キリスト教やユダヤ教の国際交易商人は、交易ルートを陸路から海路に変更したのです。唐帝国の興亡(618年〜907年)は、正に、この陸路から海路への交易ルート変更時期であったのです。
それは、唐帝国は、南インド産の国際交易品と、中国産の絹製品との交易中継国でもあったからです。しかし、唐帝国唯一の交易品である絹製品を作り出す「繭」が、僧侶により、持ち出されると、シルクロードの各国で養蚕が盛んとなり、絹製品が作られて行くと、唐帝国の経済を疲弊させたのです。
経済が疲弊すると、軍事力も疲弊することは歴史が示すところです。劃して、唐進駐軍が、奈良時代から平安中期まで、その軍事力により支配していた日本列島も、平安中期になると、統一新羅亡命民(武家源氏の祖)やアラブ国際交易商人団(平家の祖)が渡来していたのです。
藤原日本史では、先住武士団を隠蔽・改竄しているのです。そのひとつが、陸奥国の蝦夷です。蝦夷を縄文時代の末裔の石器武器の集団のように描いているようですが、唐進駐軍と桓武天皇軍とが大軍団を編成しても、武力で勝利することができなかったのです。そこで、金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、蝦夷棟梁のアテルイを京で惨殺したことにより、801年蝦夷を平定していたのです。
そのように、蝦夷の戦闘能力が優れていたのは、その祖がユーラシア大陸を支配していたチュルク族の騎馬軍団だったからです。弓馬で隊列を攻撃し、接近戦では蕨手刀を振りかざす騎馬軍団は、歩兵集団の唐進駐軍と桓武天皇軍では相手にならなかったのです。
そのような、陸奥国の蝦夷の歴史について、藤原日本史は多くを語らないのです。
そして、藤原日本史のトリックのもうひとつが、平安時代末期に活躍した武士団の出自を隠蔽・改竄したことです。それらの武士団とは、「平氏」、「平家」、「源氏」です。
「平氏」の歴史的出現は、百済系桓武天皇が、794年秦氏の支配地山背国を侵略すると、そこを山城国とし、平安京を築くのです。しかし、その息子達は、藤原氏の陰謀により仲違いして戦うことになるのです。それが、平城天皇を返り咲かせようとする藤原薬子軍団と、政権を護ろうとする嵯峨天皇軍団による、810年藤原薬子の乱です。
その戦いで勝利した嵯峨天皇は、814年源氏の賜姓をしたのです。これが嵯峨源氏の始まりです。そして、816年都の警察組織として令外官として検非違使を設置したのです。
そして、823年嵯峨天皇から淳和天皇に替わると、825年「平氏」の賜姓をしたのです。これが「公家桓武平氏」の始まりです。桓武平氏は、亡命百済民の息子により組織されたので、その祖が長らく中国山東半島で暮らしていたため漢語が読み書きできたので、漢語使用の唐文化一色の百済系天皇や百済系貴族の側近として、「秘書」兼「護衛」としていたのです。それが、貴人に侍う(サブラウ)ことから、「サムライ」と呼ばれていくわけです。ですから、平氏の「サムライ」は、武装はしていても、実戦での戦闘能力は疑問であったのです。
それに対して、「平家」は、「平氏」が淳和天皇からの賜姓に対して、天皇から正式に賜姓されたものではなく、藤原氏に対抗していた白河上皇の「私兵」であったのです。その私兵軍団の「平家」の出自は、アラブ海洋交易民族末裔で、平安時代末期に、伊勢から京の賀茂川のギオンを支配地とした海洋系武士団であったのです。
では、「源氏」の出自はどのようであったのでしょうか。前出したように、嵯峨源氏は、814年に始まるのですが、それは「公家源氏」で、1192年鎌倉幕府を興す源頼朝の祖「武家源氏」とは異なるのです。
それは、「嵯峨源氏」は、その名は、中国大陸文化に習って、源綱のように「一字」であるのに対して、「武家源氏」の祖とする「清和源氏」は、源経基のように「二文字」であるからです。その「武家源氏」の祖、源経基が歴史上現れたのが、941年の天慶の乱後であるのです。
源頼朝の祖「武家源氏」の出自の謎は、その祀る神からも疑問が発せられるのです。1192年「武家源氏」棟梁の源頼朝は、鎌倉に幕府を開くと、鶴岡八幡宮を祀るのです。その鶴岡八幡宮の歴史は、鶴岡八幡宮←1063年源頼義が相模国由比郷に石清水八幡宮を分霊←860年僧行教が平安京の鎮守として宇佐の八幡大菩薩を石清水男山に勧請←725年八幡神小椋山へ遷座←欽明天皇の時代(531年〜571年)に豊前国宇佐郡馬城嶺へ八幡神が顕現、となるのです。
その「武家源氏」出自の謎は、530年蘇我稲目(藤原日本史が創作した人物。実際は突厥進駐軍将軍)が突然歴史上に現れた、藤原日本史が創作した仏教伝来物語で出演の「欽明天皇」の時代に現れた宇佐八幡神を祀っていることです。
その北九州の宇佐とは、608年隋使が「秦王国があった。」、と語っていた処です。何故、941年突然歴史上に現れた「武家源氏」は、宇佐の秦氏の神を祀ったのでしょうか。
武家源氏の神を祀る石清水八幡宮の更なる謎は、「延喜式神名帳」にその記載が無いことです。
「延喜式神名帳」とは、901年反藤原氏で、遣唐使船を廃止した菅原道真を九州の大宰府に左遷し謀殺した藤原時平が、927年漢訳仏教が支配する平安王朝の祭祀権を、中臣神道の藤原氏の支配下に置くために創作した「延喜式」の中に「延喜式神名帳」として著したものです。
しかし、その藤原氏の陰謀は、1017年漢訳仏教組織が発明した思想、「本地垂迹説」により瓦解してしまうのです。藤原氏の中臣神道復活の陰謀成果は、「伊勢のエエジャナイカ運動」が始まる江戸末期まで待たなくてはならなかったのです。
では、その石清水八幡宮の歴史記載は、どの書籍にもないのかと探せば、六国史にある国史現在社391の中にあったのです。その六国史とは、奈良時代からの日本国の支配国である唐帝国へ提出する漢語で記述された「日本国」の現状報告書である、720年「日本書紀」、797年「続日本紀」、840年「日本後紀」、869年「続日本後紀」、879年「日本文徳天皇実録」、そして、901年「日本三代実録」のことです。これらの漢語書籍は、907年唐帝国滅亡以降には著されてはいないのです。
901年以前には記載のあった石清水八幡宮が、927年「延喜式神名帳」には記載されなくなった理由は何故でしょうか。
その謎解きのヒントのひとつが、国史現在社391社にあるのです。平安王朝の支配下で、国史現在社が無いのは、志摩、参河(三河)、伊豆、相模、安房、越後、そして、大隈の諸国であるのです。これらの国史現在社が無い地域は、901年現在、未だ、百済系平安王朝の支配下になかった国なのです。つまり、それらの諸国は、第一百済王朝の平安時代では、異界の地であったのです。
1159年平治の乱で、「平家」の平清盛に敗れた「武家源氏」は、山野に逃れ、源義朝の子源頼朝は、「伊豆」に流されていたのです。
その「伊豆」とは、「イズ・夷住」で、エビスが住む異界の地であったのです。その「イズ」には、907年唐帝国が滅亡したことにより、平安京の百済系貴族の秘書兼警護役の「サムライ・桓武平氏」が、941年勃興した「武家源氏」が藤原氏の私兵となり、藤原氏が平安京を支配したことにより、関東の僻地へ逃亡していたのです。それが、「平氏」の北条氏(伊豆)、千葉氏(安房)であったのです。
藤原日本史では、その平安時代中期の大変動の歴史を隠蔽し、「枕草子」や「源氏物語」などの女流文学が盛んになった、国風文化華やかな「平安王朝」を記述しているようですが、史実は、東アジアの動乱の影響を直接受けていたのです。
そのひとつが、統一新羅の花郎軍団の渡来による、唐文化から騎馬民族文化への政変です。
その根拠のひとつが、国を治める「天皇」の呼称の変化です。「天皇」号は、672年新羅系天武天皇が、騎馬民族の「王」である「テングリ・天子」から発明した呼称です。
この「天皇」号を利用して、唐進駐軍の後ろ盾により、「天皇家」と姻戚関係を結ぶことで政治をコントロールしていたのが、祭祀氏族の藤原氏です。しかし、藤原氏の専横により、藤原氏が滅亡し、奈良時代が終焉したのです。
その藤原氏に替わって、亡命百済貴族が「桓武天皇」となって支配したのが、平安時代の始まりです。その桓武天皇家も、唐帝国の傀儡であったのです。ですから、本国の唐帝国が907年滅亡し、その後ろ盾を失うと、急速に百済系王朝が衰退してしまったのです。
その日本国の支配者の象徴である「天皇」の呼称は、平安時代中期の冷泉天皇(967年〜969年)から、騎馬民族の王を表わす「天子・テングリ」へと替わっていたのです。このことは、支配者としての騎馬民族の台頭を示唆します。
そして、騎馬民族の権勢が衰える、第二百済王朝の北条鎌倉幕府時代(1219年〜1333年)でも、「天皇」の呼称は使われず、「院」を用いていたのです。
「天皇」の号が復活するのは、それから約8百年後の、江戸時代後期の後桃園天皇(1770年〜1779年)からであったのです。
藤原日本史では、極端に騎馬民族文化の歴史を侮蔑・抹殺、或いは、隠蔽しているようですが、騎馬民族末裔の「武家源氏」が支配していた時代では、ユダヤ色の強い藤原文化と、ツングース文化色の強い百済文化ではなく、ユーラシア文化が存在していたのです。
源氏武士末裔の足利氏の勢力が衰退して、1467年応仁の乱から戦国時代に突入した、下克上の時代では、政治力(陰謀力)ではなく、武力の時代ですから、武力に勝る騎馬民族の天下であったのです。ですから、陰謀力の優れた藤原氏が発明した「大嘗会」も、1466年から断絶していたのです。その復活は、第三百済王朝の江戸時代の霊元院(1663年〜1687年)からなのです。
このことから、藤原氏が復活した明治新政府により発明された、万世一系の「天皇家」のトリックが暴かれるのです。明治天皇が行う、古代風儀式の十三の内、最も古い儀式と言われる「大嘗会」も、そのように飛鳥ヤマト時代から連綿とは続いていなかったのです。そして、天皇家の十二の古代風儀式は、明治維新後に発明されたものであったのです。
歴史のすり替えは、藤原氏だけの専売特許ではなかったのです。それは、平安王朝を支配した亡命百済貴族も、538年百済仏教伝来物語で「聖徳太子」を発明して、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史のすり替えをおこなっていたのです。
更に、源氏棟梁であった源頼朝三代の「源氏武士団」を謀略で倒した「平氏」の北条鎌倉時代になると、百済系武人の「サムライ平氏」による、アラブ系武人である「平家」の歴史の乗っ取り物語を創作するのです。
そして、「平氏」の北条鎌倉幕府は、「六波羅探題」の捜査網により、「源氏」「平家」の残党狩りをおこない、民族差別をする漢訳仏教思想により、騎馬民族の「武家源氏」末裔を「穢多」「革多」に、そして、海洋民族の「平家」末裔を海部(余部)の賎民に落し込めて行くのです。
この「平氏」による、「源氏」「平家」の歴史改竄・隠蔽が、中世史及び戦国時代の歴史を分からなくしているのです。
何故、織田信長が、1568年足利義昭を奉じて入京した時、賎民である海洋民族「平家」末裔の「余部」を織田信長の配下であることを宣言し、保護したのか、そして、1571年比叡山延暦寺を焼討ちし、その高僧も含めて「欺瞞者ども」と言って、全僧を斬首したのでしょうか。
平安時代中期、賀茂川の河原での怨霊鎮めのパフォーマンスをおこなっていた秦氏末裔の祭祀集団に、伊勢から侵攻してきた海洋民族集団が合流するのです。
その秦氏末裔の怨霊鎮めの儀式では、牡牛を屠っていたのです。そして、牛の頭を、神に捧げていたのです。この不思議な儀式の意味は、古代エジプトでの太陽神を祀る儀式であったのです。
古代エジプトでは、紀元前2781年太陽暦を創始していたのです。その頃、太陽が廻る黄道には、牡牛座が位置していたので、牡牛が太陽神の化身として信じられていたのです。
紀元前十四世紀、多神教を祀る神官は、勝手に神々を創作して、王権を神官の支配下に置いていたのです。そこで、アメンホテプ4世(イクナトン)は、王権を脅かす神官を排除するために、宗教改革をおこない、ヒッタイト帝国で「契約の神」として信じられていた太陽神である「ミトラ神」を導入して、唯一神・太陽神アトンを発明するわけです。
その太陽神アトンは、不滅の神で、死と再生を繰り返すのです。その太陽神アトンの死期である冬至(12月25日)は、又、再生の日でもあるのです。つまり、太陽神信仰では、死期は、再生日の始まりでもあったのです。
そこで、儀式が発明されるのです。それは、太陽神の化身である牡牛を屠ることです。その儀式の意味は、「牡牛を屠る」(太陽神の死)ことにより、「太陽神の再生」を約束させるのです。このことが後に、太陽神に願い事をおこなう時、牡牛を屠る儀式となっていくのです。
この牡牛を屠る儀式は、四世紀の古代日本列島にも、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来した秦氏の西域民族により持ち込まれていたのです。その根拠のひとつとして、飛鳥ヤマトから発掘される建物遺跡の多くは、建築基準軸が、南北線より西に約20度傾いているからです。それは、冬至の太陽を基準に建設されていたことが示唆されます。もし、その建物が、西方浄土思想の漢訳仏教文化の宗教施設であれば、建築基準軸は、南北であるはずです。
645年漢訳仏教を掲げて飛鳥ヤマトに侵略してきた唐進駐軍が、藤原氏の傀儡政権を樹立した奈良時代には、741年反藤原氏の聖武天皇が秦氏の支配地である山背国の恭仁(くに)京に逃れていた時、平城京の真の支配者(唐進駐軍)は、その牡牛を屠る儀式を、政令を出して禁止していたのです。
そして、藤原氏に替わって亡命百済王朝となった平安時代初期、百済系平安王朝の桓武天皇は、804年牡牛の屠殺禁止令を発していたのです。
しかし、桓武天皇の謀略の数々により誕生した怨霊がはびこる平安京で、嵯峨天皇の側近として鎮護国家を祀る、アラム語の呪文を唱える真言密教儀式をおこなう錬金術師空海の呪力でも、それらの怨霊を鎮めることができなかったのです。
錬金術師空海は、百済系王権に逆らう「鬼」である山の民を、「施陀羅悪人ナリ」と唱えて、僧兵軍団の武力で滅ぼすと、山の民が信仰していた東大寺の遍照鬼(ミトラ神)の名を、「大日如来」と命名して、仏像に改竄してしまうのです。このことから、奈良の大仏様は、仏像となるのですが、庶民のこころまで真言密教で呪縛できなかったので、江戸時代末期まで、奈良の大仏は、祟り仏像として恐れられていたのです。
真言密教の呪力は、密室の空間でしかその効力はなかったのです。それは、護摩壇で焚く、大麻の煙が拡散してしまう、野外では、錬金術師空海が発明した真言密教の護摩祈祷儀式は、ただの焚き火にすぎなかったのです。
因みに、「ウソ」をつく意味の、「ゴマカス」とは、護摩祈祷儀式での大麻の煙により、酩酊状態の者に「ウソ」の仏教物語を刷り込むことです。別の言葉では、大麻の煙で精神状態をあやふやにすることを、「ケムニマク」と言います。
そこで、怨霊に苦しめられていた平安貴族により、山奥に逃れていた飛鳥ヤマト時代の祭祀氏族が、平安京に跋扈する怨霊(前政権の神)の魂を鎮めるために、賀茂川の河原に集められたのです。そこでおこなわれた儀式のひとつが、牡牛の屠り儀式であったのです。
その秦氏祭祀者の儀式に、アラブ系海洋民族の祀りが加わることにより、牡牛の切頭を小船に乗せて、ペルシャ絨毯で飾った「山車」による「ギオン祀り」がおこなわれていたのです。ですから、ツングース系亡命百済貴族は、その「ギオン祀り」がおこなわれる時期は、「みこしたがえ」と言って、「ケガレ」が付かないように京の街から避難していたのです。
この秦氏末裔と海洋民族末裔による「ギオン祀り」は、後の第二百済王朝の北条鎌倉幕府の王権により、牛頭天皇を祭る、魔多羅神の「牛祭り」に改竄されてしまうのです。
そのような騎馬民族や海洋民族末裔が、平安京で怨霊鎮めの祭祀儀式の担い手となることで、賎民から祭祀者として復活していくわけです。そして、平安時代中期の冷泉天皇(967年〜969年)には、672年天武天皇から続いていた「天皇」号が、賀茂川の河原で秦氏末裔や海洋民族末裔が祭祀者となる平安中期には、騎馬民族の王を表わす「天子・テングリ」へと替わっていたのは、農耕民族に替わり、騎馬民族や海洋民族の隆盛を示唆します。
桓武天皇がおこなった御霊会の効力がないことが分かり、嵯峨天皇の時代、錬金術師空海が真言密教の護摩祈祷呪法を発明しても、その怨霊は鎮まらなかったので、賀茂川の河原で、前政権の祭祀者が集められたのですが、その秦氏末裔がおこなう西域風祭祀儀式が、民衆のこころを惹き付けていったのです。
それらの祭祀儀式のひとつとして、秦氏の祖は、ギリシャ文化継承国のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。紀元前140年から大月氏国。「日本書紀」では「弓月国」)にも暮らしていたので、ギリシャ仮面劇の流れを汲む「秦楽」をおこなっていたのです。
この仮面劇が、百済系北条鎌倉時代に、秦楽(シン)から→申楽(シン=サル)→猿楽と貶められてしまうのです。しかし、このギリシャ仮面劇の秦楽が、北条鎌倉時代に猿楽となっていたものが、騎馬民族末裔が復活した足利氏の室町時代になると、勧阿弥・世阿弥親子により「能楽」の日本国伝統文化として確立されるわけです。
そして、陸奥国捕虜の蝦夷が発明した、「日本刀」と総革製の、牡牛の角を付けた兜と派手な鎧で、怨霊の魂を沈めるための「武芸」である「キヨメ」は、北条鎌倉時代になると、賎民の仕事である汚わい清掃の「キヨメ」にされてしまうのです。
更に、第二百済王朝の北条鎌倉時代になると、アラブ海洋民族末裔の「平家」の歴史が、ツングース系百済末裔の「平氏」の歴史に改竄され、1152年「平家」の平清盛が、フェニキア海洋民族のシンボル色であるインドのベンガル地方で産出される酸化鉄によるベンガラ染めの「赤色」で染め上げた、「平家」の氏神を祀る「厳島社」としたものを、1219年尼将軍となった、武家源氏棟梁三代を謀殺した「平氏」の北条政子は、「源氏」の氏神を祀る鶴岡八幡宮に対抗して、「厳島社」を「平氏」の氏神を祀る「平氏の社」に改竄してしまうのです。
ですから、それらの亡命百済民末裔尼将軍の北条政子のトリックに引っかかってしまった歴史愛好家は、「平家」と「平氏」の区別がつかないことになるのです。
このような北条政子のトリックは、「源平合戦」が、「赤旗」を掲げるアラブ海洋民族末裔の、藤原氏に支配された平安王朝を乗っ取った「平家」を滅ぼすため、「白旗」を掲げる秦氏末裔・突厥帝国軍末裔と統一新羅花郎軍団末裔の「武士」の武闘力を利用するために、イズ(伊豆)を支配する「サムライ」の百済系平氏の「北条氏」を中心に、下総を支配する「千葉氏」、三浦半島を支配する「三浦氏」、上総を支配する「上総氏」、そして、秩父を支配する「秩父氏」の「桓武平氏」が結束して起こした、「アラブ系」「オリエント系」「ツングース系」の異民族戦争であったのです。
つまり、「源平合戦」とは、「平家」対「源氏+平氏」の戦いであったのです。ですから、「平家」は赤旗で、「平氏」は白旗を掲げて戦っていたのです。
1221年承久の乱により、完全に「源氏」残党を壊滅した、「平氏」の北条氏は、「六波羅探題」を設置して、「平家」「源氏」残党狩りをおこなうのです。そして、1232年御成敗式目を制定して、「源氏」の武力政治から、「平氏」の文民政治に変換するのです。そして、「平家」や「源氏」の武人から、「平氏」の文人を区別するために、「武家」という号を発明するのです。それに対して、藤原氏は、亡命百済貴族の「皇族」に対して「公家」の号を発明するのです。
これらの歴史的トリックにより、「平家」と「源氏」の歴史が抹殺されてしまうのです。しかし、百済系の北条鎌倉幕府には、山に逃れた「源氏」残党の歴史まで消すことは出来なかったのです。
紀元四世紀から河内を支配していた秦氏の支配地に、935年統一新羅が滅亡したことにより、新羅花郎軍団が渡来した理由は、その祀る神にあったのです。秦氏の神は、太陽神ミトラです。そして、新羅花郎軍団も太陽神ミトラを祀っていたのです。
その根拠として、新羅花郎軍団の、「花」とは、「ミトラ」の漢語借字であるからです。巷の歴史書には、「花郎軍団」とは、「化粧をした美男子」が統率する軍団と説明しているものもあるようですが、それは間違いです。では、その花郎軍団の祖は、誰かと言えば、それは、ローマ帝国軍団であったのです。
紀元一世紀、シルクロードが開発されると、西のローマ帝国(27年〜395年。395年東西に分裂)と東の後漢(25年〜220年)とで、盛んに馬絹貿易をおこなっていたのです。
97年には、後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣していたのです。その甘英は、パルチア王国からペルシャ湾岸に至り、帰国していたのです。そして、166年後漢から「大秦王」といわれたローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者は、後漢に渡来していたのです。
更に時代が下り、ユーラシアを支配していた突厥帝国(552年〜582年。583年東西に分裂)には、568年東ローマ帝国のゼマルクスが渡来していたのです。それほど、歴史上、ヨーロッパと中国とは、交易商人だけではなく、軍団の行き来もあったのです。
ローマ帝国の建国は、アウグスツス(紀元前27年から紀元14年)が、初代ローマ皇帝となったことから始まるのです。そのローマ帝国軍は、ギリシャ文化を崇拝していたのです。
ローマ帝国が起こる前のローマ共和国時代、ギリシャ、マケドニア王国、エジプト王国諸国を次々に「ロンギヌスの槍」で倒していったのです。しかし、文明度で低いローマ共和国軍は、征服地の文化・宗教を破壊するのではなく、取り込んでいったのです。ですから、ローマ共和国を引き継いだローマ帝国軍には、ギリシャ文化、エジプト文化、そして、ヒッタイト帝国があった西アジア文化を継承していたのです。その西アジアで、ローマ共和国軍は、太陽神ミトラを軍神として取り入れていたのです。
紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、ミトラ神は、契約の神として国際商人達の商いで活躍していたのです。信用の置けない異民族との交易では、取引でのごまかしが懸念されます。そこで、絶対神が見守る広場で国際交易がおこなわれていたのです。その神が、太陽神ミトラであったのです。
その後、その契約の神である太陽神ミトラは、野戦場で対峙する軍団の境界線に降臨して、戦士の不正を見張るローマ軍団の「軍神」となってしまうのです。
不死身の神・太陽神ミトラから見守られた軍人は、正々堂々と戦い敗れても、その命は再生される、とローマ軍人に信じられていったのです。このことにより、ローマ帝国軍団では、太陽神ミトラは、軍神として崇められていたのです。
紀元一世紀、ローマ帝国軍が、シリア王国を滅ぼし、そこをローマ領として統治すると、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、「イエス・キリスト」)と唱える集団が蜂起するのです。
その熱狂的集団は、民衆を蜂起・結束させるため、「新しい神」の権威付けのために、古くからある物語を綴った小冊子36冊と、オリエントから持ち込んだ新しい物語により、「ギリシャ語の合本」を創るのです。そして、その集団は、「カナンは我等の地で、我々は古代エジプトから渡来した聖なる民族の末裔である。」、と唱えるのです。
その熱狂的集団の勢力は、やがて、統治者のローマ帝国総督を脅かすほどの勢力になっていくのです。しかし、その「ヨシュアはメシア」と唱える集団を恐れたのは、ローマ帝国だけではなかったのです。それは、古くからある小冊子をこころの拠りどころとしていた正統ユダヤ祭祀者も、その新興集団の熱狂に脅威を感じていたのです。それは、古くからある小冊子に、北インドのガンダーラ(ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地)から持ち込んだ物語を付け加えていたからです。そこで、正統ユダヤ祭祀者も、新興集団のギリシャ語の合本に対抗して、ガンダーラから持ち込んだ新しい物語を排除して「ヘブライ語の合本」を作ったのです。
ギリシャ語の合本も、ヘブライ語の合本も、紀元前13世紀からではなく、紀元一世紀に創作されていたのです。
太陽神ミトラを崇拝するローマ帝国軍は、シリアを統治するために、その「ヨシュアはメシア」と唱える新興集団を抹殺するために、正統ユダヤ祭祀者を利用したのです。
やがて、新興集団の勢力が衰えていくのですが、392年ローマ帝国の統治に失敗したテオドシウス1世は、勢力を盛り返していたユダヤ教徒を壊滅するために、「ヨシュアはメシア」と唱える集団の宗教を、ローマ帝国の国教としてしまうのです。これが、ローマ・キリスト教です。
このユダヤ教ヨシュア派をローマ帝国の国教とした行為に反発した、軍神である太陽神ミトラを信じるローマ帝国軍人の結束が乱れることにより、395年テオドシウス大帝が死去すると、ローマ帝国は、分裂して、西ローマ帝国、ローマ教会、東ローマ帝国となるのです。
その東ローマ帝国で、431年エフェソスの公会議で、ヨシュア(ギリシャ語でイエス)の神性を認めないネストリウス派は、ローマ・キリスト教から異端とされ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。このネストリウス派キリスト教徒は、シルクロードにより東の北魏(386年〜534年)を目指すのです。
東ローマ帝国の国教となったユダヤ教ヨシュア派の熱狂的教徒は、ローマ帝国軍団が崇拝していたミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊し、その上に、ローマ・キリスト教の教会を建設するのです。
そして、ミトラ教を歴史的に抹殺するために、そのミトラ教の祭祀儀式を、ローマ・キリスト教に取り入れるのです。それらは、ミトラ神の再生日を「クリスマス」に、太陽神のシンボルであるマルタクロスを「十字架」に、牡牛を屠り太陽神と一体になる儀式を「赤ぶどう酒とタネナシパンの儀式」に替えてしまい、今日のキリスト教の儀式に至るわけです。
この前政権の宗教を抹殺する手法は、漢訳仏教にも取り入れられていたのです。それは、太陽神ミトラを「魔多羅」に貶めたり、仏像の「弥勒菩薩」や「大日如来」に、そして、唯一神の太陽神アトンを、「阿弥陀」に改竄して、漢訳仏教思想の「仏」にしていたのです。
その極東を目指すキリスト教ネストリウス派の一行には、ローマ・キリスト教徒に地下神殿を壊滅された、ミトラ教徒のローマ帝国軍団も同行していたのです。
その北魏では騎馬民族の太武帝(423年〜452年)が支配者になると、後秦(383年〜417年)の国師となっていたバラモン僧の鳩摩羅什が、ガンダーラで発明されたギリシャ語の物語(一説ではサンスクリット語。漢訳されると原典は全て焚書されていたため証明はできない。現在あるサンスクリット語の仏典は七世紀に復元されたもの。)を漢訳した「漢訳仏教」が盛んであったものが、443年寇謙之により、北極星を「太一」として祀る「道教」が成立したため、騎馬民族を蔑視する思想が多くある鳩摩羅什が発明した「漢訳仏教」を排除するために仏教弾圧をおこない、風紀を乱す仏教徒を追放し、国が動乱していたからです。動乱国には、新しい宗教者は進入しやすいのです。
その反ローマ・キリスト教のネストリウス派と太陽神ミトラを軍神とするローマ帝国残党軍団一行は、北魏(386年〜534年)で、ミトラ教が「景教」と呼ばれていた宗教集団に取り込まれていくわけです。
そして、秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)の母国がバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)で、そのバクトリアの母国がギリシャ(紀元前900年〜紀元前146年)であることを知っていた北魏では、ギリシャ文化を呑み込んでいたその東ローマ帝国を、「大秦」と呼んでいたのです。
この「大秦」から渡来した集団は、太陽神が極東の山頂に誕生すると信じられているため、シルクロード極東の「奈良・三輪山」を目指すのです。その「奈良・三輪山」に至るためには、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)を目指したのです。
古代新羅(356年〜527年)が、ギリシャ・ローマ文化国であった証拠は、古代新羅の都慶州の天馬古墳から発掘される遺品が証明します。その古墳から出土した遺品は、ギリシャ式三樹王冠、カスピ海沿岸産のガラス器、ローマ軍人が使用していた脛当、馬冑、馬鎧などなどであるからです。
日本列島古代史を復元するには、藤原日本史のトリックを見抜く必要があります。それは、藤原日本史のトリックに引っかかると、四世紀のヤマトには、紀元前660年から万世一系の天皇家が統治する「大和朝廷」が存在していたと刷り込まれてしまうからです。
更に、日本列島古来の宗教が、「神道」で、その神を祀る「ジンジャ・神社」が存在していて、その「神道」は、552年仏教伝来により、神仏戦争が起こり、崇仏派が勝利したことにより飛鳥ヤマトが仏教国に変身したため廃れ、そして、607年「聖徳太子」が「法隆寺」などを建立したことにより仏教文化が隆盛したが、蘇我氏の横暴により、天皇家が存亡の危機にあった時、藤原氏の祖中臣鎌足と中大兄皇子により、645年蘇我氏が滅んだことにより、天皇家が安泰したが、672年天智天皇派と天武天皇派との兄弟がケンカをして、天武天皇が勝ったため、飛鳥ヤマトの浄御原宮が再び都となりました、との「作り話」を信じてしまうことになるのです。
しかし、「古事記」の暗号解読により、それらの藤原日本史の飛鳥大和物語は、「ウソ」であることが分かるのです。その根拠のひとつとして、その藤原日本史で語る飛鳥時代とは、「古墳時代」(3世紀中期から7世紀)であったからです。その古墳の上や破壊跡の「神地」に「モリ・神社」(「ジンジャ」は明治時代に発明された言葉。)が建立されている意味を知れば、「神道」は、古墳時代以降のものであることが理解できるからです。つまり、「神道」は、古墳時代が終わった、七世紀以降に現れたのです。
藤原日本史の古代史の骨格は、「日本書紀」によるのです。しかし、その「日本書紀」は、漢語で記述されているのです。もし、「大和朝廷」が独立国であるとすると、何故、中国大陸の支配者が使う文字で、日本列島の歴史を記述していたのでしょうか。更に不思議なことは、その漢字の発音が統一されていないのです。その発音とは、「呉音」「漢音」そして、「唐音」です。例えば、「行」は、「ギョウ」「コウ」そして、「アン」と、日本国では発音されるのです。
漢字は、紀元前206年秦帝国を滅ぼした、漢民族が発明した文字と言われています。その漢語文字は、その後、中国大陸を支配した民族に引き継がれていくのですが、漢語の「発音」は、中国大陸を支配したそれぞれの民族により変化していったのです。
では、日本列島に持ち込まれた漢語の始めの「発音」は、どれかと言うと、それは、「呉音」です。
「呉音」とは、中国南方系の発音です。その「呉音」の漢語は、朝鮮半島から伝来したのです。と言うことは、「古代新羅」からではありえないので、「高句麗」ではなく、「百済」から伝わったと示唆されます。
その理由は、ギリシャ・ローマ文化国の「古代新羅」は、漢語を「アルファベットの表音文字」(新羅万葉語)として使っていたからです。しかし、「高句麗」は、372年中国北方系の前秦より漢訳仏教を押し付けられ、そして、「百済」は、384年中国南方系の東晉より漢訳仏教を押し付けられたため、「呉音」の漢語を使う「仏教国」へ変身していたからです。
漢訳仏教が短期間に中国大陸から周辺諸国に伝播した理由のひとつは、キンピカ仏像による豪華絢爛仏教文化の憧憬の他に、その漢訳仏教思想にあったのです。騎馬民族の武力侵略に悩む、南朝系の農耕民族末裔の王族は、その漢訳仏教にある、騎馬民族を「施陀羅」とすることに魅力を感じていたのです。
それは、その「施陀羅」とは、インドを宗教支配した「菜食」のバラモン教が、「肉食」の先住民の遊牧民族トラヴダを、不可触賎民「チャンダラー」として、「アウトカースト」に貶めていたからです。つまり、「菜食」のバラモン教思想では、「肉食」する「チャンダラー」とは「人間」ではなく、「畜生」であったのです。
その不可触賎民「チャンダラー」を、バラモン僧の鳩摩羅什は、「肉食」をしない農耕民族国に取り入られるために農耕民族思想に迎合して、「施陀羅」としたのです。そして、漢訳仏教を取り入れた農耕民族国は、その漢訳仏教を、騎馬民族に対する、「思想武器」としたのです。
中国大陸で発明された「思想武器」である、騎馬民族を不可触賎民「施陀羅」と差別する思想を持つ漢訳仏教は、藤原日本史や亡命百済貴族が述べる538年や552年ではなく、645年唐進駐軍と供に、オリエント文化を持つ多民族の先住民が暮らす飛鳥ヤマトに、それらのオリエント文化を抹殺するために侵攻したのです。
日本列島では、奈良時代が終わるまで、漢語の正式発音は百済経由の「呉音」であったのですが、781年百済系桓武天皇の唐制度による即位式では、「呉音」から「漢音」に替わっていたのです。その「漢音」とは、主に唐の長安・洛陽で使われていた「北方系」発音であったのです。
南方系の「呉音」から、北方系の「漢音」への変換は、「何」を意味しているのでしょうか。そして、平安京を支配する唐傀儡亡命百済貴族が、中国山東半島から移民させた、百済亡命民は、唐文化に染まっていたため、「唐音」で発音していたため、平安京では、「唐音」が、「呉音」や「漢音」よりも優勢になっていったのです。それが、「京都弁」のルーツです。
1945年太平洋戦争敗戦後、アメリカ進駐軍が日本国を占領したため、日本国中のカンバンが、漢字から「カタカナ」や「米語」で記述されていたことからも分かるように、「言葉」や「発音」は、占領民族に強く影響されるのです。
では、飛鳥ヤマト時代、つまり、古墳時代には、漢語が使われていたのでしょうか。このことは、文献では調べようが無いのです。それは、645年「大化の改新」と藤原日本史で述べる革命戦争時に、前政権の史料が焚書されていたからです。その史実を隠蔽するために、藤原日本史では、645年蘇我氏の滅亡時に、「蘇我蝦夷が「天皇紀」と「国紀」を焚書してしまいました。」、と述べているのです。
しかし、その飛鳥ヤマトで使われていた言葉や文字は、漢語を「アルファベット」として使った「表音文字」であったのです。それを、藤原日本史では、「万葉語」と言っているのです。その万葉語とは、何かと言えば、それは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅が使っていた「新羅万葉語」であったのです。
その藤原日本史で述べる「日本万葉語」は、奈良時代ではなく、平安時代に完成したのです。その日本万葉語による「万葉集」(759年柿本人麻呂による「新羅万葉語」による万葉集完成。)の改竄者のひとりが、菅原道真(903年大宰府で死去)であったのです。竜骨のない遣唐使船の謎や、そして、飛鳥ヤマトの歴史の、藤原氏による、改竄を知る菅原道真は、藤原氏により抹殺された理由のひとつは、それらのことを知っていたからです。
そして、645年飛鳥ヤマトを支配した唐進駐軍は、646年奈良盆地での古墳築造中止を、「薄葬令」として命令したのです。しかし、古墳の築造は、唐進駐軍に平地を追われても、山間地を支配する「鬼」(モノ→漢訳仏教伝来後「オニ」)に支えられていた新羅系天武天皇が死去する、686年まで続くのです。
藤原日本史で述べる、四世紀に大和朝廷が存在していたと言う、唯一の根拠が、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれていたから、というのです。では、その前方後円墳とは、日本国独自の古墳形態であるのでしょうか。
藤原日本史では、奈良盆地にある巨大前方後円墳は、歴代の天皇の陵であると述べているのですが、日本初の神武天皇の陵が、明治革命のドサクサに築造されていたことからも分かるように、それらの巨大前方後円墳は、天皇の陵などではないのです。
もし、その神武天皇稜が、藤原日本史で述べているように本当に紀元前七世紀に築造された神武天皇陵であるのならば、何故、8年の間隔で創作されたと言う712年(?)「古事記」と720年「日本書紀」に述べられている記述が合致しないのでしょうか。それは、奈良盆地にある巨大前方後円墳は、「大和朝廷」を支配した天皇の陵などではなかったからです。
丸山古墳と前方後円墳を築造した民族は、異なるようです。丸山古墳は、竪穴式埋葬法で、前方後円墳は、横穴式石室埋葬法であるからです。では、その丸山古墳はどのような民族の埋葬法かと言えば、そのルーツは、石積木郭墳と言われる騎馬民族系の墓です。そして、横穴式石室のある前方後円墳は、古代エジプト系の墓です。
その異なる古墳の確認された数は、丸山古墳は約25万基で、前方後円墳は約4800基と言われています。日本列島の三世紀頃に突然現れた古墳は、七世紀までに北は岩手県南部から南は九州まで普及していたのです。
この古墳時代に日本列島に現れたのは、須恵器、鉄器、そして、メッキを施した馬具です。これらの技術は、炭の燃焼度8百度よりも高温の12百度を必要としていたのです。それには、フイゴの施設が無ければ、それらの須恵器や鉄器を造ることは出来ないのです。そのフイゴには、鹿の皮が使われていたことから、それらの製作技術者は、農耕民族ではなく、狩猟民族が示唆されるのです。つまり、古墳時代に、狩猟民族が日本列島に渡来していたのです。
では、前方後円墳は、日本列島独自の古墳形態であったのでしょうか。近年、朝鮮半島で十数基の前方後円墳が発掘されたのです。しかし、調査の結果、その分布と時期とが限られていたのです。その分布地は、古代新羅の支配地全羅南道と、藤原日本史が述べている日本国の支配地とする任那の加羅地域です。そして、その築造時期は、5世紀から6世紀までであったのです。
この朝鮮半島で発掘された前方後円墳の説明を、藤原日本史では、大和朝廷の支配地である朝鮮半島の任那に、日本軍が侵攻した時に築かれた、と述べるのです。しかし、その5世紀から6世紀にかけての日本列島では、内乱状態のため、朝鮮半島に出兵できるような状態ではなかったのです。
藤原日本史が、四世紀前後の朝鮮半島侵攻の根拠のひとつとして、好太王碑の石柱の文面に、倭軍が百済・新羅を攻めて服属させたが、高句麗が、倭軍を撃退した、との記述であるのです。このことをもって、日本軍が朝鮮半島に侵攻したというのですが、それは、朝鮮半島と北九州との歴史を無視した解釈です。
南朝鮮の馬韓、弁韓、辰韓の三韓時代(220年頃)以前、朝鮮半島南部と北九州とは、同一文化圏であったのです。それは、朝鮮半島南部に暮す韓族と、北九州に暮す倭族(イ族)とは、古代中国南部を支配していた、海洋民族国の呉越の末裔であったからです。その朝鮮半島南部を支配していた韓族(倭族)が、百済・新羅を攻撃したことを、高句麗はその碑文で述べていたのです。
やがて、高句麗、百済、古代新羅が勢力を増した、朝鮮半島三国時代(340年頃)には、朝鮮半島南部を支配していた韓族・倭族は、その朝鮮半島南部を追われ、日本列島の北九州に亡命していたのです。その地のひとつが、朝鮮半島南部の島珍から渡来した、北九州沿岸の松浦です。松浦とは、メズラ(珍)の日本語化です。
平安末期、この松浦の海洋民族は、源平合戦で、源氏水軍の松浦党となって、アラブ系の「平家」水軍と戦うことになるのです。
この日本列島古墳時代は、藤原日本史が歴史的に抹殺しなければならない時代であったのです。それは、古墳から出土する遺品により、藤原氏が「日本書紀」で創作した「飛鳥大和物語」が暴かれてしまうからです。
例えば、1978年埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、115文字の漢語が刻まれていたのです。そこには、「辛亥年」と記述されていたのです。その年は、西暦471年と推定されたのです。そして、その漢語は、「獲加多支鹵・ワカタケル」のように、漢字をアルファベットのように表音文字として使われていたのです。
645年飛鳥ヤマトを侵略した唐進駐軍の傀儡藤原氏は、その「日本書紀」で、蘇我氏が滅亡の時、「天皇紀」と「国紀」を燃やしてしまいましたので、645年以前の史料はございません、と述べているのですが、古墳の銘文までは焚書・改竄はできなかったのです。そこで、明治革命で復活した藤原氏は、古墳の発掘を、明治政府の命令で禁止し、現在に至るのです。
古墳時代中期に、北方系漢訳仏教を掲げる高句麗軍団の南下侵攻により追われた、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の民(秦氏)が渡来した史実を隠蔽した物語が、527年から翌年にかけた北九州の戦闘で、それを藤原日本史では、「筑紫国造磐井の反乱」と述べているのです。この戦闘以前までは、朝鮮半島南端の古代新羅の支配地に、前方後円墳が築かれていたのです。
この古代新羅民(秦氏)の北九州渡来のことを隠蔽するために、藤原日本史では、「継体天皇物語」を創作したのです。しかし、この「日本書紀」の歴史創作を暴くために、812年完成の「古事記」では、継体天皇の享年を43歳としたのです。因みに、「日本書紀」では、82歳です。秦氏末裔の多人長による「古事記」のこの39年間の「暗号」は何を意味しているのでしょうか。
藤原日本史によれば、「筑紫国造磐井の反乱」とは、継体21年に九州の豪族筑紫君磐井が、新羅と内通して起こした内乱、と言うことになっているようです。その継体21年とは、「日本書紀」によれば、82歳で崩御したという継体天皇の晩年であったのです。しかし、「古事記」によれば、継体天皇は43歳で崩御したことになっているので、「筑紫国造磐井の反乱」の時期には墓の中にいるのです。
この「筑紫国造磐井の反乱」についての史料は、「日本書紀」「古事記」、そして「筑紫国風土記」しかないのです。その「風土記」とは、唐進駐軍の傀儡藤原氏が、713年古代日本列島の人名・地名を隠蔽するために、漢語二字により表記させた地域物語であるのです。
この713年「風土記」撰上の詔により、古代の地名や人名が日本語化(二文字表記化)したことにより、例えば、遣隋使ソインコウが「小野妹子」に日本語化されたように、前政権の歴史が隠蔽されてしまったのです。
その「筑紫国風土記」によれば、上妻郡に所在の「筑紫君磐井の墳墓」には、無数の石人・石馬が配置されていた、とあるのです。「日本書紀」にも「古事記」にも記述がない石人と石馬は何を意味しているのでしょうか。それは、チュルク系騎馬民族のユーラシア大陸の支配地の草原に点在する、騎馬民族を護る石人のことです。この騎馬民族を守護する石人は、後に、漢訳仏教に取り込まれ、あぜ道にある道祖神や地蔵様に変身するわけです。
藤原日本史が、四世紀に飛鳥に大和朝廷が存在して、度々朝鮮半島に軍事侵攻していたとの記述のウソは、三世紀から始まる古墳が証明します。それは、その古墳近くの遺跡から鉄器製造工房跡が出土するのは、五世紀からです。それも、東国からで、近畿地域の鉄器製造工房跡が出土するのは六世紀半ばからです。
このことは何を語るのかと言えば、もし、大和朝廷軍団が北九州から、海を渡り、朝鮮半島に軍事侵攻していたとすれば、その甲冑で武装していた大和朝廷軍団の鉄器武器具は、どのようにして調達していたのでしょうか。
鉄器の発明の歴史は、古代ヒッタイト帝国で、紀元前16世紀に発明されたのです。その鉄器の製造技術が、紀元前七世紀頃にはカスピ海沿岸地域を支配する遊牧民族スキタイに伝播し、鉄製の馬具が発明されたことにより、家畜の馬に乗馬ができるようになり、遊牧民族スキタイは、鉄器で武装した騎馬民族スキタイに変身したのです。
そして、鉄器製造技術は、騎馬民族スキタイにより、騎馬民族文化と供に、各国に伝播していったのです。その鉄器製造技術は、鋳型で造る鋳造法ではなく、鉄塊を鎚で打ち加工する鍛造法であったのです。ちなみに、日本刀は、中国式鋳造法ではなく、ヒッタイト帝国での鉄器製造法の鍛造法で制作されていたのです。
藤原日本史が、391年頃、甲冑で武装した日本軍団が、海を渡り、朝鮮半島に侵攻して百済、新羅を破った、と言う根拠として、中国南朝の宗(420年〜479年)の歴史書である「宋書」に、倭王讃が朝貢していて、その「宋書」に倭王讃の武勇伝が語られているから、とするのです。
そして、その倭王讃に続いて、珍、済、興、武の計五名の倭王が、60年程の間に、宗に朝貢していた、と「宋書」にあるから、とするのです。そして、その返礼に、宗の帝は、朝鮮半島南部の支配権を保障する称号をその五王に与えていた、とするからです。
これらの倭王を、藤原日本史では、讃=仁徳天皇?、珍=反正天皇?、済=允恭天皇?、興=安康天皇?、そして、武=雄略天皇?、としているのです。
では、それらの倭王の始めである、甲冑で武装して隣国60余国を滅ぼしたと云う、仁徳天皇(倭王讃)が、宗国を訪れたのは何年かと言えば、「宋書」によれば、それは、421年であったのです。
しかし、近畿地域では、5世紀半ばの鉄器製造遺跡が、未だ発掘されていないのです。近畿地域での最古の遺跡は、藤原日本史に蘇我稲目が大臣として突然登場する、6世紀半ばなのです。
その甲冑で武装する倭王讃の活躍した年代での、日本列島で発掘された鉄器には、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣があります。そして、その鉄剣には、「辛亥年」と記述されていたのです。その年は、西暦471年と推定されたのです。
藤原日本史では、その鉄剣は、大和朝廷から臣下に贈られたもの、としているようですが、近畿地域よりも、東国から発掘された鉄器製造遺跡が古いのは、何を意味しているのでしょうか。
五世紀初期に出現した倭の五王とは、鉄製武器で武装していたということから、近畿地域の支配者ではなかったことが疑われます。では、それらの倭の五王の出自は、何処かと言えば、それは、朝鮮半島南端の古代新羅が考えられます。
356年ナムル王(奈勿王=太陽王)が建国したギリシャ・ローマ文化国の古代新羅では、騎馬民族スキタイから伝承のアマルガム法の金メッキ技術はもとより、鍛造法による金属製造が盛んであったからです。古代新羅で、鉄器と供に須恵器も製造できたことは、「替わり番子・カワリバンコ」で空気を吹き込む、鹿皮製のフイゴ設備がある高炉があったからです。そして、その須恵器は、鉄器と供に、前方後円墳に埋葬されていたのです。
ユーラシア大陸でチュルク系の柔然(330?年〜552年)が勢力を増し南下した結果、384年高句麗を支配していた前秦の支配権が崩壊した結果、高句麗の勢力が増し、高句麗軍団の南下により、それらの朝鮮半島南部を支配していた倭王の末裔達が、527年朝鮮半島南部から北九州に亡命した時の争いが、藤原日本史で云う「筑紫国造磐井の反乱」の実態です。
この朝鮮半島南端から渡来したローマ騎士団末裔の軍団は、太陽神であるミトラ神を軍神として祀ることから、ミトラの借字「花」により、「花郎騎士団」と呼ばれていたのです。そして、太陽のシンボルカラーの「白」を、花郎騎士団のシンボルカラーとしたのです。このことにより、日本列島で、941年天慶の乱を武力鎮圧した、935年統一新羅国が滅亡したため、秦氏末裔である源氏の支配地の河内に亡命して来た花郎騎士団末裔が、平安王朝より「源氏武士」と認めてもらえたため、花郎騎士団のシンボルカラーの「白」が、武家源氏のシンボルカラーとなったのです。
6世紀半ば、この花郎騎士団は、北九州を制圧し「秦王国」を興し、太陽が昇る東を目指し東進し、吉備、そして、ローラン(浪速)を目指すのです。そのローランには、三世紀半ばには、シルクロード交易により渡来していた、オリエントからの同族が居住していたからです。
そして、そのローラン(浪速)に上陸した花郎騎士団は、古代エジプト伝承の高度土木技術を駆使して、河内湾を干拓するために、更に巨大な古墳を築くのです。このことは、古墳の埋蔵遺品が、5世紀頃から6世紀にかけて、鉄器武器と供に馬具が埋葬されていることから、日本列島全土に騎馬民族の渡来が示唆されるのです。
更に、日本列島渡来軍団は、中国大陸と国際交易をおこなうため、ローラン(浪速)から、三輪山の麓の国際交易地のツバキ市やイワレを目指して、ローマ帝国軍式の幅12mの直線道路を敷設するのです。
戦国末期、その湿地帯に巨大古墳を築く技術がその末裔に伝承されていたからこそ、秦氏末裔の徳川家康の家臣となった、産鉄民族末裔の金山衆などにより、荒川や利根川の支流が流れ込む河口の湿地帯を、神田台地を削り取り、運河を削掘した残土で、海抜10mの人工山(巨大古墳)を築き、その上にエド城を建設することができたのです。
古代エジプトの埋葬思想を持つ前方後円墳の築造技術、ヒッタイト帝国の鉄器製造技術、須恵器製造技術を持つ高度技術集団が、朝鮮半島南端から日本列島各地に渡来したことにより、日本列島全土では一気に巨大古墳が築かれていったのです。
では、なぜそのような巨大古墳を築造したのでしょうか。その謎を解くヒントに、全ての前方後円墳には、遺骸があるわけではない、ということです。発掘された前方後円墳では、豪華な埋葬品があるのに、遺骨や遺骸がないものもあるからです。しかし、小規模な丸山古墳には、殆んど、遺骨・遺骸の痕跡があるのです。このことにより、前方後円墳=墓ではないことが示唆されるのです。では、前方後円墳は、「何を目的」に築造されたのでしょうか。
「旧約聖書」の「出エジプト記」を読むと、イスラエル民族の祖は、エジプトでピラミッド建設の奴隷として過酷に扱われていた、と記述されています。しかし、現在のエジプトのピラミッドの発掘調査により、「旧約聖書」で奴隷と言われた建設従事者の居住地跡から子供の玩具や食物遺跡の調査から、それらのピラミッド建設従事者は、奴隷ではないことが示唆されたのです。
このことは、「ヨハネの黙示録」の暗号解読により、「出エジプト記」は「ウソ」であることが分かるのです。それは、「666の謎」で「旧約聖書の主物語を否定せよ。」と指摘しているように、その「出エジプト記」の多くは、「神物語」ではなく、「主物語」で構成されているからです。
では、エジプトの巨大ピラミッドは、何故建設されたのでしょうか。それは、「王墓」の建設が主目的ではなく、ひとびとに「仕事」を与えるためだったのです。古代エジプトでは、乾季と雨季とが完全に分かれていて、雨季にはナイル川が氾濫して、東岸は湖状態になってしまうのです。しかし、その雨季が去ると、上流からもたらされる肥沃な栄養分が、東岸にもたらされたのです。
ですから、古代エジプトでは、雨季の後に溜まった水が引くまで、東岸のひとびとは農耕作業ができなかったのです。そこで王は、ピラミッド建設作業により、民に仕事を与えて雨季の生活を保障したのです。
日本列島全土にある前方後円墳の築造地を見ると、そこは、元湿地帯や山の麓や河口に多くあることがわかります。このことは何を意味しているかと言えば、ひとの居住地としては相応しくない地であることです。前方後円墳が密集している奈良盆地は、3世紀以前はひとが住めぬ大湿地帯であったのです。
奈良盆地は、西側は生駒山系と葛城山系に塞がれ、朱砂の産地である宇陀近辺の龍門岳から流れる大和川などが、古代エジプトのナイル川のように定期的に氾濫をおこすために、広大な湿地帯であったのです。このことは、外敵の侵入を阻む自然の要塞でもあったのです。
弥生時代後期に、中国南部から米と繭(ポンピックスモリ)・桑とを日本列島に持ち込んで、馬絹交易をおこなう後漢(25年〜220年)の経済を潤すために、植民地化を目論むために、後漢の青銅器で武装した進駐軍が、国際交易地の三輪山麓のツバキ市やイワレを占拠しようとしても、それらの地に辿り着くには、奈良盆地の大湿地帯を通らなければならなかったのです。例え、青銅器の剣や鉾で、石器で武装する縄文先住民を制圧しても、その奈良盆地は、ナイル川のように、大和川などが定期的に氾濫をおこすために、その弥生渡来軍団の基地は、土石流と供に流されてしまうのです。
この縄文人が弥生人の侵攻を最後まで阻止していたことは、宇陀で発掘される縄文時代後期の遺跡が、弥生時代と重なって発掘されることで理解できます。朱砂が産出される宇陀は、奈良盆地を流れる川の定期的氾濫と大湿地帯のおかげで、弥生渡来軍を阻止することができたのです。
何故、奈良の深山に位置する宇陀に、古代から近世まで、国際交易商人や武人が渡来していたのかは、その地に朱砂が産出されていたからです。そして、朱砂が産出される地では、水銀や銀も産出されることを、古代のひとは知っていたからです。
1543年イエズス会宣教師を乗せたポルトガル船が種子島に渡来すると、イエズス会は、ひとも住めぬ奈良の宇陀にキリスト教教会を建設したのは、布教を名目に、銀鉱山の簒奪が目的でもあったのです。このことは、中国地域の石見の山奥にもキリスト教教会を建設していたことからも理解できます。
藤原日本史では、奈良盆地の南端のイワレには、紀元前660年から天皇家の都があったと述べていますが、その奈良の盆地にひとが住めるようになったのは、巨大古墳が築かれ、その結果、湿地帯が農耕地として開拓された、三世紀半ばからなのです。
三世紀半ば、河内湾を干拓し、巨大運河を造り、小山を削りその残土で湿地帯を埋め、河内平野に巨大古墳を築く作業をすることにより、周辺の山奥に暮す先住民が集まったところを、建設労働者として、対価を払い雇うことにより、その先住民は、渡来民族の傭兵軍団に変身していくわけです。
それは、巨大古墳の建設作業行程で、号令と供に作業する先住民に、鉄製の鍬や鋤の替わりに、鉄製の剣や鉄棒を持たせれば、即座に、号令と供に戦闘態勢に入ることができるからです。このことにより、縄文文化を守る宇陀の先住民は、奈良盆地に巨大古墳を築いた古代エジプトの高度土木建設技術を持つオリエントから渡来の少数の侵略者により壊滅されたのです。この宇陀壊滅の歴史を、藤原日本史では、ウカシを裏切るオトウトカシとの兄弟争い物語として記述しているのです。
この日本列島に古墳が出現する三世紀半ばの東アジアの情勢を見ると、東ローマ帝国と馬絹交易で栄えた後漢は、北方ユーラシアを支配した遊牧・騎馬民族の鮮卑が、南下してシルクロード交易権を侵すことにより、220年に滅ぶのです。
その結果、後漢の支配地には、魏(220年〜265年)、蜀(漢221年〜263年)、呉(222年〜280年)の三国が興るのです。そして、後漢の影響力を強く受けていた朝鮮半島南端でも、馬韓、弁韓、辰韓の三韓が興るのです。そのような東アジアでの政権交代の動乱時期、日本列島も、東アジアの動乱情勢に巻き込まれていたのです。このような時期に、日本列島に古墳が突然現れたのです。
三世紀半ばの日本列島については、「魏志倭人伝」に、239年邪馬台国の卑弥呼が帯方郡及び魏に遣使を派遣し、245年魏の齋王芳が倭国使に物を与えたとの記述があり、卑弥呼が崩御すると、倭国が乱れた、とあることから、三世紀半ばの日本列島は、東アジアの動乱の影響を強く受けていたことが分かるのです。
その中国大陸を支配した三国の魏・蜀・呉も、280年には晉(265年〜316年)に滅ぼされてしまうのです。その晉も、316年には滅び、再び、東アジアは動乱時代となるのです。
その期を狙い、ローマ帝国軍団のように馬冑や馬鎧の重装備の騎馬軍団を擁した高句麗が勢力を朝鮮半島に伸ばすと、346年馬韓の地に百済が興り、356年辰韓(秦国)の地に、太陽王を名乗るナムル王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅=ローマ国)が興るのです。
この朝鮮半島三国時代の勃興期での日本列島の歴史は、中国の史書には記述がないのです。そして、413年東晉(317年〜420年)に、倭王讃が遣使を送ったことの記述が現れるのです。
藤原日本史では、この倭王讃が仁徳天皇で、近畿地域で一番大きい前方後円墳が、仁徳天皇陵であるというのですが、現在の教科書では、カッコ付きで表示されているのは、巨大前方後円墳は、歴代天皇の陵ではないとの疑いが広く受け入れられてきたからです。
そして、その倭国の五王の後、歴史空白の時代を経て、大和朝廷を支配していたとする「謎の継体天皇」が、藤原日本史に現れて、527年から始まる九州戦争の「筑紫国造磐井の乱」の指揮をとることになるのです。しかし、この九州戦争のことを、秦氏末裔の多人長は「古事記」の暗号で否定しているのです。
それは、「日本書紀」では、507年継体天皇は大和国(奈良県桜井市)磐余玉穂宮(イワレタマホミヤ)で即位し、527年から528年におよぶ「筑紫国造磐井の反乱」の九州戦争の指揮を執ったと述べているのですが、「古事記」では、継体天皇の崩御年を、「筑紫国造磐井の反乱」が起こった、527年(丁未年)としているからです。
更に、継体天皇について、「日本書紀」と「古事記」では、その生存期間が約二倍の82歳と43歳の違いもあるのに加え、その出自も異なるのです。「日本書紀」では、近江で生まれた後、越前で育ったと述べるのに対して、「古事記」では、近江の出身と記述されているのです。
藤原日本史では、「古事記」が712年完成、そして、「日本書紀」が720年完成とすると、その8年間で、国史とされるその「日本書紀」と「古事記」二書での、継体天皇についての大いなる違いをどのように説明するのでしょうか。
藤原日本史は、明らかに「継体天皇統治時代」の歴史を隠蔽しているのです。それは、継体天皇の507年即位から531年崩御にかけての日本列島の歴史が、南インドから渡来した藤原氏にとって、不都合な時代であったからです。
この「継体天皇統治時代」に、継体天皇が育ったと述べる越前と、継体天皇の指揮で戦ったとする九州では、騎馬民族が大陸から大挙して渡来していたのです。
その根拠は、越前では巨大前方後円墳が築かれ、九州では磐井の墓と云われる前方後円墳が築かれていたからです。そして、その二地域の巨大古墳からの出土品には、騎馬民族の特徴を示す鉄器、そして馬具があったからです。更に、磐井の墓では、ユーラシア大陸を支配していたチュルク系騎馬民族を守護する石人・石馬が多く設置されていたからです。
藤原日本史では、古代日本列島で活躍した海洋民族と騎馬民族の歴史を教えません。それは、中国大陸文明から日本列島は孤立していた島である、と刷り込むためです。つまり、孤島の日本列島には、古来から遠くオリエントの異民族やユーラシアの騎馬民族などは渡来していなかった、と言いたいのです。
それは、日本列島は海に囲まれているから、陸路を旅するようには簡単に、日本列島に渡来することが出来ない、と言いたいのです。そして、石器武器で武装する縄文人国に、「ニッポンジン」の祖である天皇家が天磐舟で、九州に降臨し、東進して、先住民を駆逐して、飛鳥ヤマトを支配して、三輪山麓のイワレで、紀元前660年初代天皇が即位した、と言いたいのです。
しかし、騎馬民族と海洋民族とは、国際交易事業では同業として協力体制を、古来からとっていたのです。騎馬民族の祖スキタイでも、その部族連合には、海洋民族がいたのです。それは、海を隔てた大陸間では、海洋民族が交易物資を外洋船で運び、その交易物資は、河川交通により内陸に運ばれていたからです。交易物資を満載した船が、内陸の都市を目指し、その河川を溯上するには、ひとの力と馬力を必要としたからです。
608年隋使裴世清は、ソインコウ(小野妹子)に伴われて、竜骨のある外洋船で中国大陸から河内のローラン(浪速)に着くと、平底の川舟に乗り換え、大和川を溯上して、天子(テングリ・騎馬民族の王)の男王アマタリヒコが支配する、内陸の三輪山麓の飛鳥ヤマトの都に辿り着けたのは、船外機のエンジンが無い時代、馬が川船を引いたことによるのです。
因みに、藤原日本史では、630年から始まる遣唐使が乗る、竜骨のない平底の遣唐使船は、四隻に二隻は沈没したため、苦労の末、危険を冒して唐文化を輸入していた、と述べているのです。しかし、沈没する遣唐使船が活躍する23年前、607年飛鳥ヤマトの遣隋使ソインコウ(「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅のこと)は、2年のうちに、隋国と倭国とを二往復もしていたのです。
そのように、古代では中国大陸と日本列島の国際商人は、海洋民族の外洋船と騎馬民族の馬の輸送手段により、頻回に行き来していたのです。ですから、ひとたび中国大陸で動乱が起これば、中国大陸から日本列島へは、海洋民族の協力により、亡命貴族や軍団・軍馬が運ばれていたのです。
中国の歴史書によれば、三世紀の日本列島には、馬の生存が確認されていなかったのです。しかし、古墳時代になると、馬が日本列島に現れたのは、中国大陸と日本列島を結ぶ、海のシルクロードを支配する海洋民族の活躍によったのです。
藤原日本史が隠蔽した、継体天皇統治時代の507年から531年までに、東アジアでは何があったのでしょうか。
北魏が、騎馬民族系の諸国を倒し、430年北中国を統一すると、420年宋が南中国を支配していたことにより、東アジアは安定していたのです。つまり、北朝の北魏(430年〜535年)と南朝の宋(420年〜479年)とが拮抗していたことにより、社会が一時安定していたのです。
しかし、五世紀に中央ユーラシアに興ったチュルク系の突厥が、東ローマ帝国との馬絹交易により勢力を増すと、そのチュルク系の高車人が、508年柔然を破ったのです。そして、勢力を増したチュルク系騎馬軍団の突厥は、ユーラシア大陸の西と東に勢力を増すことにより、シルクロード周辺諸国は、突厥の支配下となってしまうのです。
そして、シルクロードを支配する、騎馬民族の突厥の勢力が、東アジアに勢力を広げると、534年北魏が滅ぶのです。この時代に、藤原日本史では、突然、飛鳥ヤマトに大臣蘇我稲目が現れるのです。
この民族の玉突き状態で、各国は、弱小国を目指して移動するわけです。その影響力は、朝鮮半島にも及び、柔然に押された北方漢訳仏教文化の高句麗は南下し、百済・新羅を脅かし、その結果、百済と新羅の民は、より脆弱な地を目指して移動するわけです。
そのひとつが、海を隔てた、日本列島です。527年の「筑紫国造磐井の反乱」とは、朝鮮半島から北九州への亡命民との戦闘であるわけです。その結果、高句麗の北方漢訳仏教文化が、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅に浸透し、528年には、ギリシャ・ローマ文化国であった古代新羅は、北方漢訳仏教文化国になってしまったのです。
そして、出雲や越にも、亡命民が大挙して押し寄せていたのです。では、この頃の飛鳥ヤマトは、誰により支配されていたのでしょうか。
藤原日本史によれば、四世紀の飛鳥ヤマトには、強力な政権が樹立されていた、と言うのです。その根拠として、四世紀に、巨大前方後円墳が、飛鳥ヤマトに築かれていたからです。その巨大古墳とは、箸墓古墳です。この箸墓古墳は、前方後円墳では最古であると云われているものです。築造年は、およそ三世紀半ばのようです。
では、藤原日本史で云う、大和朝廷では、どのような民族が支配していたと言うのでしょうか。九州から侵攻した神武軍団が、答えにならないのは、神武天皇の紀元前660年即位では、日本初の天皇の即位地の「イワレ」は、湿地帯で、ひとも住めぬ地であったからです。イワレにひとが住めるようになったのは、早くても、箸墓古墳完成後の三世紀末と考えられます。
では、古代エジプトのピラミッドに匹敵する規模の築造物を造る高度技術と、多くの建設従事者を組織的に管理する能力を持った民族は、三世紀半ばの飛鳥ヤマトに、何処から渡来したのでしょうか。その答えのひとつが、吉備です。それは、その飛鳥ヤマトに築造された巨大古墳から、吉備で作成された土器類が多数発掘されていたからです。
そして、三世紀半ばから日本列島に出現した古墳で、巨大古墳を築造していた地域は、飛鳥ヤマトの他に、吉備地域以外にはなかったのです。吉備には、造山古墳、作山古墳、そして、両宮山古墳など全長2〜3百m級の巨大古墳が造られていたのです。
では、吉備では、どのような民族が暮らしていたのでしょうか。吉備地域には、古来から蘇民将来という風習があるのです。それは、蘇民が茅の輪を身につけていれば、疫病神の祟りから逃れられる、という信仰です。
この蘇民将来の信仰は、イスラエル民族の過ぎ越しの祭りと共通点があります。唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族が、太陽神バアルと牡牛を屠る多神教のイスラエル民族の歴史を、藤原氏が「日本書紀」を創作して日本列島史を乗っ取ったように、「旧約聖書」を創作して乗っ取り、古代エジプトでの長男殺しを逃れるために門に「血」を塗ることにより、その人災を逃れられると改竄してしまいましたが、古代エジプトと同じ埋葬法としての石室・石棺を持つ巨大古墳を築造し、吉備地域を支配していた民族の信仰思想と、イスラエル民族との信仰思想の基本は同じです。
では、その蘇民将来信仰の、「蘇民」とは、何なのでしょうか。「蘇」とは、607年遣隋使のソインコウの「ソ」と同じに、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅(秦羅=ローマ国)のことです。その古代新羅が支配した、朝鮮半島南端には、5〜6世紀築造と思われる前方後円墳らしき古墳が、近年発掘されていたのです。
では、645年唐進駐軍と中臣族連合軍とが、飛鳥ヤマトを壊滅した以前の支配者は、古代新羅民であったかどうかは、藤原日本史で、645年蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を燃やしてしまいましたと述べているように、それを証明する史料が存在しません。ですから、それは、国外の「随書」に、608年の飛鳥ヤマトには、男王アマタリヒコと遣隋使ソインコウが存在していた、と分かるだけです。
それでは、645年まで飛鳥ヤマトを支配していた民族が特定できないのか、と言えば、そうではないのです。飛鳥ヤマトの歴史を記述した「書」は、唐進駐軍に焚書されても、「話し言葉」までは「焚書?」できないからです。
藤原日本史では、古代飛鳥ヤマトでは、万葉語が使われていた、と述べています。万葉集の最古の歌は、藤原氏が「日本書紀」で創作した雄略天皇の歌だそうです。では、その歌は、どのような文法により謡われていたのでしょうか。
話し言葉の語彙は、その社会情勢により変化しますが、話し言葉の語順(文法)は、その民族が生き続けている限り変化することはないのです。では、現在まで続いている「日本語文法」である、「○○は、○○を ○○する。」は、どこからもたらされたのでしょうか。中国大陸からではないことは、中国文法は、「○○は ○○する ○○を」となるからです。
この日本語文法のルーツは、ウラル地方の騎馬民族語であるのです。このウラル語は、膠着語(意味を表す語と文法機能しか表さない語とによる並列的連結言葉。)といって、簡単に外国の語彙を取り入れることができるのです。国際交易民族でもある騎馬民族の言葉は、遠くの異国と国際交易をおこなうために、そのような文法となったのでしょう。
騎馬民族スキタイ以来、長らく騎馬民族は、文字を持たなかったのです。しかし、五世紀、中央ユーラシアに興ったチュルク系突厥では、カナクギ文字の突厥文字を使用していたのです。その突厥文字のルーツは、ギリシャ文字ともソグド文字ともいわれていますが、基本的には歴史書を持たない、漂泊する「風の王国」である騎馬民族の歴史を知ることはできないのです。
何故、突厥文字が存在していたことが分かったのかは、突厥文字で書かれた碑石が発掘されたからです。そのカナクギ文字で記述された突厥文章は、日本国で明治時代まで使われていた、現在のように左から右へではなく、右から左に文章が記述されていたのです。そして、その文法は、「○○は ○○を ○○する。」であったのです。
古代飛鳥ヤマトで使われていたと云う「万葉語」とは、漢語をアルフアベット文字として使用し記述する仕法です。では、中国で発明された漢字の読み方には、呉音、漢音、唐音とありますが、その漢字の日本語読みと言われる「訓読み」とは何なのでしょうか。
例えば、漢字の「鬼」(中国読みで「キ」)は、現在では「おに」と読みますが、日本列島での唐進駐軍の勢力が確立していない時代、奈良時代中期までは、「モノ」と読まれていたのです。そして、奈良時代の鬼(モノ)とは、漢訳仏教の敵神であったのです。
では、「鬼」の訓読みが、「モノ」から「おに」に、どのような歴史の流れにおいて、替わったのでしょうか。それは、日本列島の奈良盆地を、巨大古墳や巨大運河、そして、幅12mの直線道路を建設し、その地を支配していた「モノ」を神とする民族が、645年に飛鳥ヤマトに進駐した唐軍により壊滅され、唐の宗教である漢訳仏教思想により、「鬼」として山奥に追われたからです。そのことにより、飛鳥ヤマトの前支配者の神であった「モノ」は、漢訳仏教の敵神の「おに」となったのです。
そのように、語彙は、その時代により置き換わってしまいますが、言葉の語順は替わりません。
1945年8月30日厚木の飛行場に連合国最高司令官マッカーサーが到着すると、現地住民の子供達は、「ギーミーチョッコレイト」と叫んで、進駐軍にまとわり着いていましたが、その後、日本語の言葉の語順が替わってはいないのです。語彙は、カタカナに替わっても、語順は、「○○は ○○を ○○する」のままです。
645年唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを占領した結果、飛鳥ヤマトが完全に唐化していたとしたら、日本語の言葉の語順は、「○○は ○○する ○○を」となっていたことでしょう。しかし、その騎馬民族の語順であるウラル語は、飛鳥ヤマト時代から、現在に至るまで続いているのです。
しかし、現在に残るヤマト言葉には、そのチュルク系の突厥言葉の数はそれほど多くはないのです。それは、日本列島は、時代時代に、多民族により支配されていたからです。それらの多民族が使用した言葉とは、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、ソグド語、アラム語、ヘブライ語、古代新羅語、百済語、高句麗語、突厥語、漢語、ポルトガル語、英語、米語などです。日本語となった単語は、それぞれの民族の言葉ですが、日本語の語順は、騎馬民族の言葉であるウラル語です。では、そのウラル語は、何世紀に、どのような民族により、日本列島にもたらされたのでしょうか。
そこで考えられるのは、藤原日本史が述べる、雄略天皇から継体天皇までの謎の時代です。この五世紀から六世紀にかけて、東アジアでは、北のユーラシアに興った騎馬民族のチュルク系突厥・高車により、東ローマ帝国との馬絹交易を廻って、南の農耕民族国との熾烈な戦いの時代であったのです。そのことにより、宋の絹生産基地である日本列島も、その騎馬民族と農耕民族との戦いに巻き込まれていたのです。
552年東ローマ帝国との馬絹交易で栄える突厥は、突厥帝国を興すのです。そして、568年には、突厥帝国には、東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが訪れていたのです。それは、金の重さと等しい価値がある絹は、東ローマ帝国では貴重品であったからです。ですから、当然、突厥帝国は、絹の生産地で、絹の集積地を支配下に置くことを考えるわけです。その地が、奈良盆地の三輪山麓の、縄文時代からの国際交易地のツバキ市とイワレです。
しかし、その五世紀から六世紀にかけて、その飛鳥ヤマトの地は、朝鮮半島の三国騒乱時代を反映するように、東晉に南方系漢訳仏教を押し付けられた百済が葛城山にコロニーを作り、そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅が三輪山麓の磯城にコロニーを作り、更に、前秦に北方系漢訳仏教を押し付けられた高句麗も琵琶湖周辺にコロニーを作り、日本列島支配を目論んでいたのです。その頃、藤原日本史が述べるように、飛鳥ヤマトには大和朝廷など存在してはいなかったのです。この朝鮮半島三国による飛鳥ヤマトの動乱の歴史を、藤原日本史では、継体天皇は即位して20年もの間、大和に入れなかった、と述べているのです。
藤原日本史は、継体天皇物語で、「何」を隠蔽しようと画策したのでしょうか。それは、五世紀初頭に越前に渡来した騎馬民族である突厥帝国軍団と、527年北九州に渡来したギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍団の歴史です。
突厥軍団は、その突厥文字がギリシャ文字が祖と云われていることから、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍との意思疎通が可能だったのです。
突厥軍団は、敦賀に上陸すると琵琶湖を目指し、その海運により宇治川を下り、淀川に至り、国際交易港のローラン(浪速)に到達するわけです。そして、北九州に上陸した古代新羅軍団は、吉備を支配すると、ローラン(浪速)に秦王国を建て、馬を飼育する牧場を作るのです。
この二つの日本列島進駐軍団を、藤原氏は「日本書紀」を創作して、雄略天皇から継体天皇時代に被せ、その末裔を、騎馬民族の突厥軍団を「蘇我氏」に、そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍団を「物部氏」とするわけです。
四世紀から五世紀にかけて、東アジアが五胡十六国に分裂して内乱状態ある頃、日本列島各地の古墳に、馬具が埋葬されていくのですが、西日本と東日本の古墳から出土する馬具は異なるのです。
それは、西日本から出土する馬具の多くは、金メッキなど施した装飾が華美なのに対して、東日本から出土する馬具の多くは、華美な装飾かなく、実践的であるからです。それは、朝鮮半島から北九州へと、そして、中国大陸の沃沮から敦賀へと、渡来した民族が異なっていたからです。
東日本では、敦賀に上陸したチュルク系騎馬民族進駐軍が各地に牧場を設置したのですが、南船北馬により、船を主な交通手段とする南中国と交易をしていた西日本地域では、牧場の経営はほとんどなかったのです。このことが、反騎馬民族征服説の学者達が、九州から近畿地域にかけて牧場がなかったことから、騎馬民族渡来を否定する根拠のひとつとなっているのです。
藤原日本史が「日本書紀」で述べる、蘇我氏と物部氏との二度の神仏戦争物語時代(552年〜587年)が、畿内での騎馬民族による支配確立時代だったのです。その「日本書紀」の神仏戦争物語に隠蔽された時代の530年大臣として突然出現する蘇我稲目から、645年蘇我蝦夷の滅亡までが、騎馬民族語であるウラル語を使用していた100年間で、オリエント文化の飛鳥ヤマトで、日本語(ヤマトことば)の語順(文法)が確立された時代であったのです。
藤原日本史では、四世紀に飛鳥ヤマトに巨大前方後円墳が築造されていたからとの根拠で、四世紀に天皇家を中心として、強力な中央集権による大和朝廷が存在していたと述べるのですが、では、その大和朝廷では、「何語」により政治が運営されていたというのでしょうか。
そのことを「日本書紀」では知ることができないのです。何故ならば、720年完成の「日本書紀」は、江戸時代の国粋学者の本居宣長が「唐ごころで書かれたもの」と蔑視していたように、唐の公用語である「漢語」で記述されていたのです。
四世紀に、朝鮮半島に軍事侵攻したとする、鉄製の甲冑で武装した軍団を組織できるほど強大な大和朝廷であるならば、当然、その大和民族独自の文字や言語があってもよいはずです。しかし、その「大和語」を、正史と言われる漢語で記述された「日本書紀」では、知ることができないのです。因みに、藤原日本史で万葉語と言っているものは、それは、漢字を、「古代新羅語読み」で表わしたものです。日本万葉語の完成は、平安時代なのです。
645年以前の飛鳥ヤマトでウラル語を使用していたことを隠蔽するために、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を燃やしてしまいました、と述べているのです。しかし、それは、「古事記」の暗号解読により、「ウソ」であることが分かるのです。
「古事記」三巻の物語は、不思議な終わり方をしているのです。それは、620年女帝推古天皇の記述で終わっているからです。「古事記」から8年後に完成したと云う「日本書紀」では、697年女帝持統天皇で、物語が終わっているのです。何故、「古事記」は、620年で物語が終わっているのでしょうか。
794年秦氏の支配地である山背国を占領し、そこに平安京を築き、中国山東半島から亡命百済民を京に移民させ、唐音でしゃべる平安貴族により、「聖徳太子」なる人物を創作して、538年百済から仏教が伝来したなどと、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を改竄されたことに危惧した秦氏末裔の多人長は、812年完成の「古事記」の暗号で、亡命百済貴族による日本列島の歴史改竄を知らせたかったのです。
それは、「日本書紀」で述べている飛鳥ヤマト時代の歴史物語の否定です。何故、「古事記」の記述が、620年で終わっているのかは、それは、その620年に、「日本書紀」では、「女帝推古天皇により、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子に、「天皇紀」と「国紀」との編纂が撰された。」、と述べられていたからです。
平安時代、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏の末裔多人長は、「古事記」物語を、620年で終わらせることにより、藤原氏による、騎馬民族語であるウラル語の突厥文字で記述された、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史書を焚書した、と告発していたのです。
この突厥帝国進駐軍の時代(飛鳥ヤマト時代・古墳時代)に、中国の隋・唐との国際交易のために、「漢語」をチュルク系の突厥語により解読したのが、訓読みの「ヤマトことば」のルーツであったのです。
藤原日本史では、古代の日本列島での輸出品は、「生口=奴隷」ぐらいしかありませんでした、と述べていますが、縄文時代の古代から日本列島には、国際交易商人が渡来していたのです。
縄文時代には、糸魚川の翡翠、岩手県久慈の琥珀、志摩半島の真珠、宇陀の朱砂、それに、熊・鹿などの毛皮などなどが、国際交易品として、三輪山麓のツバキ市で沈黙交易により取引されていたのです。
日本語の語彙に、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、ソグド語、アラム語、ヘブライ語、古代新羅語、百済語、高句麗語、突厥語、漢語などがあるのは、三輪山麓の国際交易により、その時代時代に勢力があった民族がその民族語を残したからです。その中でも、100年もの間飛鳥ヤマトを支配していた民族が、現在に至る日本語の語順(文法)を残したのです。それが、騎馬民族のウラル語系の突厥語です。
平安時代中期、その突厥語による漢字解読(訓読み)の基礎があったからこそ、平安王朝を、亡命百済貴族末裔を傀儡天皇として、支配していた唐が、907年滅亡したことにより、漢語(唐音→京都弁の祖)の唐文化一色の平安文化が崩壊し、「天皇」の呼称が、騎馬民族の王の意味の「天子」(テングリ)に替わり、騎馬民族の文字である突厥文字のカナクギ文字から、「カタカナ」(騎馬民族の突厥文字が祖であったので、漢訳仏教よりの蔑称で、「不完全なかな」の意味。)が発明されたわけです。
この文化の変化について、日本列島での騎馬民族文化を否定する藤原日本史では、唐文化から国風文化に変換された、と述べているのです。しかし、その国風文化とは、実際は、騎馬民族文化のことであったのです。
四世紀から六世紀かけての日本列島には、「日本書紀」で述べているように飛鳥ヤマトには、神武天皇の子孫天皇が支配していたとする大和朝廷など、存在してはいなかったのです。このことは、南朝の梁(502年〜557年)の国史「梁書」に、日本列島には、倭国、文身国、大漢国、そして、扶桑国があると記しているからです。その「梁書」には、大和朝廷が支配する日本国についての記述などはないのです。
日本国が、歴史上に現れるのは、早くても、亡命百済王朝の近江王朝を、672年古代新羅(秦氏)・突厥残党・アラブ渡来民族の連合軍が倒し、その古代新羅の皇子が天武天皇として即位した、672年からなのです。ですから、672年以前には、「日本人」は存在していなかったのです。
南朝の梁は、農耕民族の国で、504年騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を国教としていたのです。それに対して、騎馬民族王朝である北朝の北魏(430年〜534年)の太武帝(423年〜452年)は、445年北極星(太一)を祀る「道教」が成立すると、それを優遇して、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を、446年から452年の6年間弾圧していたのです。
この南朝の漢訳仏教文化(農耕民族文化)と北朝の道教文化(騎馬民族文化)の影響は、六世紀の日本列島で、西日本と東日本とに波及していたのです。現在に残る西日本での騎馬民族への差別は、この六世紀から始まっていたのです。
南朝の農耕民族国の梁と交易をする倭国(九州)や大漢国(畿内)は、「漢訳仏教」の影響を強く受け、それに対して、騎馬民族国の北朝の北魏と交易をする文身国(出雲)や扶桑国(東北・北海道)は、「道教」の影響を強く受けていたのです。
527年漢訳仏教国の高句麗軍団により朝鮮半島から北九州に追われ、吉備、そして、ローラン(浪速)を支配したギリシャ・ローマ文化国の古代新羅からの渡来民族(秦氏)が、「ミトラ教」(景教)を、飛鳥ヤマトにもたらしたのです。
騎馬民族のウラル語が支配した、飛鳥ヤマトには、「漢訳仏教」、「道教」、そして、「ミトラ教」が存在していたのです。しかし、「神道」は、藤原氏が祭祀氏族として王朝を支配する、奈良時代まで、日本列島には存在してはいなかったのです。
それは、「神道」の神を祀るとされる「神社」の文字が、「ヤマトことば=突厥語」での「モリ・ヤシロ・ホコラ」(小山のある聖地)と発音されていたことで理解できます。つまり、「神社」が、藤原氏の、ユダヤ教に酷似した儀式で祀る「春日の神」が鎮座する「神社」を、「モリ」ではなく、「ジンジャ」と発音したのは、明治革命以降であったからです。
では、その神社(モリ)とは何かといえば、奈良王朝を祭祀氏族として支配した藤原氏が、騎馬民族の聖地であった処(モリ)を、禁足地として封印するための宗教施設であったのです。その禁足地は、後に、神地と呼ばれていくのですが、禁足地にはかわりなかったのです。そして、その禁足地に設置された施設が、明治時代になると、「モリ」ではなく、「ジンジャ」と呼ばれるようになると、その禁足地も「聖地」に変身するわけです。
因みに、伊勢神宮が、現在のように内宮・外宮に完全に分かれたのは、明治革命後であったのです。それ以前の伊勢には、漢訳仏教組織に支配されいてた、神仏習合の神宮寺が無数存在していたのです。
江戸時代末期に、伊勢参りが盛んになったのは、多くの人には、神仏を祀る信仰心からではなく、その主な目的は、伊勢の内宮と外宮に挟まれた古市の遊郭であったのです。南九州の薩摩に棲息する藤原氏末裔(近衛家)は、その民衆の信仰心(?)を利用して、日本列島の絹製品の独占を目論むイギリス東インド会社の指示により、明治革命を遂行していくわけです。
1867年明治革命が成功し、第三百済王朝の江戸幕府が倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に明治新政府が発足したのですが、各藩の言葉が通じなかったのです。例えば、自分を表す言葉にも、「ワラ・ワレ・ワシ・アラ・アレ・アシ・オラ・オレ・オシ・ウラ・ウレ・ウシ」などがあったからです。それは、明治革命以前の日本列島では、言語体系が異なる民族により、60余国に分かれていたからです。
そこで、明治新政府は、江戸の廓言葉を基礎に「標準語=東京弁」を発明するわけです。しかし、百年以上経った平成の時代になっても、その東京弁(標準語)が、日本列島全国での日常生活において使われていないのは、古来からの民族語としての日常言語は、時代を超えて、DNAとして子孫に受け継がれているからです。
そこで、言語学者が、日本語のルーツを研究するわけですが、その研究基準のひとつとして、現代に残る単語を調べる方法があります。この方法によると、ある言語学者は、日本語のルーツは、古代朝鮮語だと発表したり、又、ある言語学者は、タミル語だと発表するわけです。しかし、それらの単語は、数多く現代語に存在しますが、基本的な文法が合いません。日本語の基本文法は、依然として、騎馬民族言語のウラル語系の、意味を表す語と文法機能しか表さない語を並列的連結で表現する、膠着語なのです。
では何故、古代朝鮮語やタミル語が、現代日本語の単語として存在しているのかと言えば、それらの単語を使用した民族が、過去に、日本列島に渡来していたからです。古代朝鮮語の高句麗語、百済語、新羅語は、古代三韓時代から三国時代にかけて、それらの民族が日本列島に渡来したことは、古文書にあるとおりです。では、タミル語は、どのような民族により、日本列島にもたらされたのでしょうか。
紀元前、タミル語は、インドに住む牧畜民族であるトラヴィダが、アーリア系のバラモン教徒に不可触賎民として迫害されたため、南インド最南端に逃避した地域で使用されている言語です。
この日本列島におけるタミル語の謎は、何故、南インドから遥遠方の、極東の日本列島に伝来したのでしょうか。そして、そのタミル語の単語は、イネ・ウネ・アゼなど水耕稲作系農耕単語に多く見られるのです。そして、その水耕稲作の伝来は、弥生人が日本列島にもたらしたと言われていることから、タミル語と弥生人との関連が示唆されます。
更に、北九州から発掘された、弥生時代初期の甕棺による埋葬形式は、南インドから東南アジアにかけての埋葬文化との共通点が示唆されます。弥生時代が終わり、三世紀半ばから始まる古墳時代では、騎馬民族系の石積木槨墳となることから、水耕稲作と供に渡来したタミル語は、騎馬民族渡来以前から、日本列島に渡来していたことが示唆されます。
民族語は、異民族の地を時間を掛けて通過する場合、その異民族の言語の影響を強く受ける傾向があります。しかし、日本列島渡来のタミル語は、殆んど他民族言語の影響を受けることも無く、日本列島に渡来していたことは、その民族の旅は、陸路ではなく、海路が示唆されます。実際、古代の国際交易は、異民族からの危険を回避するために、危険な陸路ではなく、安全な海路が発達していたのです。
藤原日本史に強い影響を受けたひとは、古代の国際交易の旅は、海路ではなく、ラクダ商隊による陸路のシルクロードであると刷り込まれてしまい、海洋民族が活躍した歴史を知ることは無いのですが、紀元前10世紀のフェニキアの国際商人は、竜骨のある構造船により、地中海からアラビア海を抜け、インド洋を航行し、インドとの国際交易をおこなっていたのです。
古代のフェニキア海洋民族の時代から、十五世紀のイエズス会宣教師の時代まで、南インドのマラバル沿岸は、ヨーロッパの国際海洋民族の交易中継地点であったのです。紀元一世紀には、そのマラバル沿岸には、ユダヤ教ヨシュア派の教会があったほどなのです。
そのインド洋を西風に乗れば、マラッカ海峡へ到達するには、さほどの航海技術は必要ないのです。そして、フィリッピン沖から東シナ海の黒潮に乗れば、琉球から、南九州坊津へは、動力を必要としないのです。そして、帰路である南九州から南インドへは、東シナ海では北風の貿易風を利用し、そして、インド洋では貿易風を利用すれば、二三ヶ月で到達できるのです。
5世紀には、南インドから中国北魏の牢山までの海路が開発されていたのです。399年北魏を発った僧法顕は、陸路により402年ガンダーラに辿り着き、帰路は海路で、411年南インドのコンジェヴェラムを発って、413年中国の牢山に到着し、414年北魏の洛陽に帰還していたのです。
そのように、南インドと中国とでは、古代から海路が存在して、竜骨を持つ外洋船により、それぞれの国際交易人が行きしていたのです。古代の日本列島にも、南インドとの交易があったことを示す物に、香木と沈香があります。その香木は、古代では南インドが原産であったのです。
国際交易商人隊には、交易旅での異民族との遭遇に対して、武装集団が動向する傾向があったのです。紀元一世紀での東ローマ帝国と後漢との馬絹交易では、97年後漢の和帝は、軍団と供に、甘英をローマ領に派遣していたほどです。
海洋民族も、その交易船団には、武装集団を乗船させていたのです。その南インドのタミル語を話す武装集団が、日本列島に渡来して、後に、藤原氏の護衛部族としての、薩摩ハヤトとなるわけです。
その南インド原産の香木が、衛生環境が劣悪であった日本列島の貴族社会で、歴史上に現れたのが奈良時代です。そして、その香木は、宗教儀式にも使われていたのです。その奈良時代に、インドのバラモン教の儀式を真似て、藤原の女を貴族に嫁がす五節舞を発明して、祭祀氏族として君臨していたのが藤原氏です。
その藤原氏の祖中臣氏が、突然歴史上に現れたのが、中臣鎌足(藤原氏の祖?)が活躍したと云われる、645年の「大化の改新」(?)です。しかし、その藤原氏の祖と云われる中臣鎌足の出自は不明なのです。
では、中臣族が日本列島に現れる645年以前、どのような民族が日本列島の中枢を支配していたのでしょうか。その民族が、「やまと言葉」と云われる日本語の祖を構築していたのです。
この時代を、藤原日本史では、厩戸皇子(聖徳太子)による仏教文化が花開いた、飛鳥時代とするのですが、この時代は、考古学上では、騎馬民族の埋葬法である丸山古墳と、古代エジプトの埋葬法による石室・石棺を納めた巨大前方後円墳が築かれていた、古墳時代であったのです。
その中臣氏の足跡を辿れば、南九州の坊津に行き着くのです。この坊津は、東シナ海の黒潮が流れ着く地で、奈良・平安時代では、藤原氏が運営していた、四隻に二隻は転覆する遣唐使船の出発港のひとつで、そして、戦国時代では、イエズス会の侵略基地がある南インドのマラバル沿岸から、銃・硝石を満載した船が着く密輸港でもあったのです。
更に、江戸時代初期には、藤原氏(薩摩藩)が、琉球王国を壊滅し、琉球を中継地として南蛮や中国の明帝国との密貿易をおこなっていた港が、その南九州の坊津であったのです。
このように、タミル語を話す民族は、弥生時代から江戸時代まで、外洋船により南インドから南九州に渡来していたのですが、そのタミル語が、「日本語文法の祖」とならなかったのは、そのタミル語を話す民族以上に強力な民族が、「日本国」の黎明期に日本列島に渡来し、日本列島に暮す異民族を支配したからです。その民族とは、膠着語(日本語文法の祖)であるウラル語系の突厥語を話す、騎馬民族であったのです。
突厥とは、中国語読みで、チュルク(トルコ)を表わした文字です。チュルクには、突厥の他に、丁零、勅勒、鉄勒など漢字で表わされています。そのチュルク系民族の歴史的存在は、中国の歴史家の司馬遷(紀元前145年?〜紀元前86年?)の歴史書「史記」には、紀元前3世紀頃には、シベリアの草原地帯にチュルク系遊牧民が暮らしていた、とあります。
そのチュルク系の突厥が、歴史上に現れたのが、五世紀のバイカル湖沿岸です。因みに、バイカルとは、突厥語で、「豊かな水」の意味です。この突厥民族は、北方遊牧民族の中で、唯一民族の文字(突厥文字)を持っていたのです。
遊牧・騎馬民族は、自然と暮らし、定置区域で暮す農耕民族ではないので、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たない民族でもあるのです。その代わり、民族の歴史は、文字によらず、話し言葉の伝承により受け継いでいたのです。
ですから、遊牧・騎馬民族には、「歴史書」を綴るための文字は、発明する必要がなかったのです。しかし、1889年ロシアの調査隊が、モンゴル高原のオルホン河流域の地で、二つの巨大石碑を発見したのです。この二つの石碑は、ビルガ・カガン碑、キュル・テギン碑と命名されたのです。そして、その碑文には、突厥族の王、河汗やその親族、宰相などの生前の武功や業績が突厥文字で刻まれていたのです。
この突厥文字を持つ突厥は、東ローマ帝国との馬絹交易により勢力を、中央ユーラシアから、東西ユーラシアに勢力を伸ばし、552年にはユーラシア一帯を支配する突厥帝国を樹立していたのです。そして、突厥帝国は、馬絹交易権をめぐり、南中国を支配する隋・唐との熾烈な戦いを繰り広げていくのです。この時代が、日本列島での「日本国」の黎明期であったのです。この突厥帝国と隋・唐との民族戦争時代は、道教と漢訳仏教との宗教戦争時代でもあったのです。
道教は、中国古来の土着宗教を基に、騎馬民族を蔑視するバラモン僧の鳩摩羅汁が発明した漢訳仏教に対抗するために、北魏(430年〜532年)の騎馬民族の天子(テングリ)太武帝の時代、443年頃に成立した宗教です。その騎馬民族の天子(テングリ)太武帝は、北極星(太一)を祀る騎馬民族思想を取り入れた道教を保護し、446年から漢訳仏教を弾圧するのです。
その北魏の時代、漢訳仏教僧の数が200万人とも云われたのは、漢訳仏教僧になると過酷な税が免除されるうえ、その住まいである砦の寺(「てら」ではなく「ジ」。「てら」とは、騎馬民族語で死者が眠る処。「寺」が、日常語の「てら」となるのは、漢訳仏教が死者を弔う事業を始めた鎌倉時代以降から。)が治外法権であるから、僧籍に相応しくない者の多くが漢訳仏教僧となっていたからです。
古代の中国大陸では、その砦である「寺」(ジ)では、治外法権を悪用して、賭博・売春・高利貸しがおこなわれていたのです。このことを証明するように、漢訳仏教が渡来した日本列島でも、空海が得度したと言われる京の神護寺には、鎌倉時代になっても、寺に肉・酒を持ち込み、女・楽師を泊めることを禁ず、との戒めがあったほどです。
しかし、その騎馬民族文化を保護する太武帝が、452年暗殺されると、農耕民族の漢族文化に染まった文成帝が即位すると、騎馬民族が信仰する道教を弾圧し、漢訳仏教を保護するのです。この中国大陸における、騎馬民族の道教と、農耕民族の漢訳仏教の対立図式が、日本列島の黎明期にもたらされるのです。
藤原日本史では、「日本国」の黎明期時代での騎馬民族文化の歴史を抹殺するために、二回に及ぶ神仏戦争物語を、「日本書紀」で創作したのです。その神仏戦争物語での神とは、神道の神ではないのです。その宗教戦争とは、道教・景教(ミトラ教)対漢訳仏教であったのです。
更に、その藤原日本史で述べる飛鳥時代(実際は古墳時代)を、仏教文化に装飾するために、厩戸皇子(聖徳太子)を創作して、その厩戸皇子の業績を誇張するために、607年隋の煬帝に国書を贈ったとするわけです。しかし、その国書といわれる文章が、飛鳥ヤマトでの騎馬民族の存在を証明するのは、歴史の皮肉です。その文章とは、「日が昇る処の天子が、日が沈む処の天子に、ご挨拶します。お元気ですか。」と云う意味であったのです。この文章に、隋の煬帝が激怒した、と「隋書」にあるのです。
この文章を、日本国の天皇が、隋の皇帝を見下した、アッパレな文章であると、藤原日本史は述べるのですが、その頃の騎馬民族文化には、東と西の文字が無く、東のことを日が昇る処、そして、西を日が沈む処としていたのです。
では、何故、隋の皇帝がその文章に激怒したのかと言えば、それは、飛鳥ヤマトの男王アマタリヒシコにより、漢族文化に染まっていても、煬帝のお前は騎馬民族のテングリではないか、と弱小国の倭王(醜く小さい王の意味)に、言われたからです。そして、本当に日本列島の飛鳥ヤマトに、騎馬民族の王であるテングリ(天子)が居るのかを、遣隋使ソインコウに伴われた隋使が、607年に倭国を訪れていたのです。
中国大陸では、初めて中国統一した、ギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国である、秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)から宗国(北宗・960年〜1126年)にいたるまで、色々な民族国が興されたのですが、その国々を実行支配したのは、漢民族ではなく、主に騎馬民族であったのです。
その騎馬民族に支配されていた漢民族は、漢訳仏教を思想武器としたのです。それは、ガンダーラで紀元一世紀に、ギリシャ語で書かれた無数の大乗仏教経典(常識的には、大乗教仏典は「サンスクリット語」で書かれていたと信じられていますが、それを証明することはできないのです。それは、漢訳されると原著は全て焚書されていたからです。因みに、現在に残るサンスクリット語仏典は、七世紀に復元されたものです。サンスクリット語とは、ギリシャ語の流れで発明された言語です。)を、中国諸国の農耕民族出自の王族に迎合するために漢訳した時に、騎馬民族を不可触賎民「施陀羅」とする仕掛けを挿入したのです。
そのことにより、そのトリックに引っかかった騎馬民族の一部王族は、自らの騎馬民族文化を蔑視し、その騎馬民族文化を棄て、煌びやかな漢服で着飾り、金ピカ仏像を祀る漢訳仏教を保護し漢民族化していくわけです。北魏での、道教を祀り騎馬民族文化を保護していた太武帝を暗殺し、漢訳仏教を保護した文成帝も、実は、騎馬民族が出自であったのです。
この中国大陸での、農耕民族と騎馬民族との民族戦争と同時進行していた、漢訳仏教と道教との宗教戦争があったことを知ることにより、日本国の黎明期である古墳時代の歴史が理解できるのです。
藤原日本史では、五世紀から六世紀にかけての、飛鳥ヤマトでの民族戦争と宗教戦争を隠蔽するために、「日本書紀」で越後出自の継体天皇を発明するわけです。そして、騎馬民族の突厥帝国進駐軍の歴史を抹殺するために、蘇我稲目を大臣とする欽明天皇を発明するわけです。
騎馬民族征服説を否定する学者は、「日本書紀」を日本国の正史と信じていて、騎馬民族の存在を示す史料がないことと、九州から中国地域を経て、河内に至るまでに、騎馬民族の存在を示す遺跡がないために、騎馬民族の日本列島渡来を否定するのです。
その理論は、古代ローマ帝国にミトラ教の遺跡が発掘されていないから、太陽神ミトラを祀るミトラ教がローマ帝国には存在していなかった、とのローマ・キリスト教徒の主張と同じです。
ギリシャ文化に憧れていたローマ帝国は、ロンギヌスの槍と盾で装備した重歩兵軍団の集団的戦術で、周辺諸国だけではなく、エジプトや中東のパルチア王国の支配国を支配下に置いたのです。しかし、武力占領をしても、その国の宗教を弾圧しなかったのです。そのため、ローマ帝国には、ギリシャ宗教・エジプト宗教・中東の宗教が存在していたのです。その中で、古代ヒッタイト帝国で発明された契約の神ミトラが軍神ミトラに変身していた、ミトラ教は、再生を約束するために、ローマ帝国の軍団に崇拝されていたのです。
しかし、392年ローマ帝国のテオドシウス一世の時代、ローマ帝国の支配に抵抗していた、ユダヤ教ヨシュア派を、ローマ帝国の国教としたのです。このユダヤ教ヨシュア派が、ローマ・キリスト教に変身すると、ローマ帝国内で崇拝されていた、ギリシャ・エジプト・中東の神々が、キリスト教徒により抹殺されていくのです。その中に、ミトラ教があったのです。ミトラ教は、太陽の下、民族平等を説くため、唯一神を信じるローマ・キリスト教にとって、完全に抹殺すべき宗教組織であったのです。
キリスト教徒は、地下に建設されていたミトラ教神殿を徹底的に破壊して、その跡に、ローマ・キリスト教の教会を建設していたのです。しかし、見えるものは破壊することで抹殺できますが、見えないもの、思想・儀式などは、破壊することが出来ません。そこで、ローマ・キリスト教は、それらの宗教思想や儀式を、例えばエジブトの「地母神イシス」を「聖母マリア」に変身させるなど、ローマ・キリスト教に取り込むことにより、抹殺を企てたのです。その結果、ローマ・キリスト教の思想や儀式は、主にミトラ教のものとなったのです。
ミトラ教の三神思想は「神と子と精霊」となり、太陽神のシンボルのマルタクロスは「十字架」となり、ミトラ神の再生日は「クリスマス」になり、太陽神ミトラに捧げるために牡牛を屠りその生血と生肉を食べる儀式は「赤ブドウ酒と種なしパンの儀式」となったのです。
645年渡来した漢訳仏教は、そのローマ・キリスト教と同じことを、日本列島でおこなっていたのです。
それは、騎馬民族が祀る道教と、秦氏が祀る景教(ミトラ教)の歴史的存在を抹殺するために、飛鳥時代の552年(平安時代初期に亡命百済貴族は、538年に改竄)に仏教が渡来したとの仏教伝来物語を創作しただけではなく、それらの宗教思想や儀式を、ローマ・キリスト教と同じように、漢訳仏教に取り入れていたのです。更に、オリエント文化の飛鳥ヤマトの道教や景教(ミトラ教)の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、日本列島各地から取り寄せた仏寺を移築して、飛鳥ヤマトに「仏教テーマパーク」を建設していたのです。
その根拠として、藤原日本史が、厩戸皇子(聖徳太子)が建立したとする、593年難波四天王寺、603年広隆寺、607年法隆寺などの7寺の創建は謎に満ちているからです。そして、現在の考古学の研究では、それらの仏教建物は、各地の年代の異なる資材を再利用した移築建築物であることが分かっているのです。
その根拠のひとつとして、670年炎上し、そして708年再建されたとする法隆寺の心柱は、年輪年代法により、6世紀末に伐採された木であると測定されたのです。そして、法隆寺境内で発掘された建築遺跡では、仏教建築思想とは異なる方位を示していたのです。更に、飛鳥ヤマトでは、仏教思想では説明できない、数多くの宗教施設跡が発掘されているのです。
藤原日本史の史料である「日本書紀」で述べる仏教伝来物語は「ウソ」であるのですが、その漢訳仏教の思想も儀式も謎に満ちているのです。
漢訳仏教の祖は、紀元一世紀の北インドを支配したクシャナ朝のガンダーラで突然現れた大乗仏教です。この大乗仏教は、多くの仏典とともに突然歴史上に現れたのです。そして、その仏典は、サンスクリット語で著されていたと云うのです。そして、その大乗仏教の祖神は、釈迦(紀元前566年〜紀元前486年)であるとするのです。
紀元一世紀に大乗仏教が発明される時代背景として、ローマ帝国と後漢との馬絹交易の始まりがあります。その東西の交易中継地が、大乗仏教発祥の地ガンダーラであったのです。更に、外洋船によりエジプトとインドのアーンドラ朝との海洋交易も盛んになっていたので、南北インドは東西の国際交易商人が集まる処となっていたのです。その結果、南インドのマラバル沿岸には、ローマ人の居住地があるだけではなく、大乗仏教の双生児と云われるユダヤ教ヨシュア派(「ローマ・キリスト教」の発生は4世紀から。)の教会も建設されていたのです。
しかし、東西交易を結ぶシルクロードの北側のユーシア大陸では、遊牧・騎馬民族の匈奴が勢力を伸ばし、その東西の馬絹交易中継国を支配下に置くことを目的に、後漢と対峙していたのです。匈奴の攻撃を迎え撃つ後漢の和帝は、97年甘英をローマ領に派遣して、馬絹交易国権に介入を目論む匈奴を牽制していたのです。
この後漢との戦闘で疲弊した匈奴は、93年北ユーラシアを支配下に置いた遊牧民族鮮卑により、西方に敗走したのです。これが、四世紀後半ヨーロッパに現れたフン族の祖であると言われているのです。そのような紀元一世紀のシルクロードを巡る動乱期に、大乗仏教は突然現れたのです。
釈迦は、遊牧民族のサカ族の皇子で、紀元前8世紀に成立したバラモン教のカースト制度で遊牧民族をイジメる思想に疑問を持ち、そのカルマから逃れるための思想を発明したのです。それが、仏教思想です。
その大乗仏教の祖とする釈迦(釈尊)の仏教思想の根本は、人間は輪廻転生するため、そのカースト制度から逃れることができないのなら、人間にならなければ良いと考え、俗世界から出家し「非人」となり、一切の経済活動から逃れるために生産活動をしない「乞食」として生きることです。
そして、バラモン教で使用していたサンスクリット語を避け、パーリー語で、その「非人・乞食」思想を語っていたのです。「乞食」で暮らすため、ひとが与えた食物は何でも食べたのです。菜食主義のバラモン教が禁じた「肉食」もしていたのです。そして、輪廻転生を避けるため、釈迦は、死後、絶対に「像」を造ることを禁じたのです。
そのような釈迦の基本的教えは、紀元1世紀に突然現れた大乗仏教には反映されてはいなかったのです。
中国で発明された漢訳仏教は、サンスクリット語を基に漢訳されたと宣伝し、金ピカの仏像と無数の経典により、死後輪廻転生により西方浄土を約束していたのです。
では、その漢訳仏教の仏である弥勒菩薩と阿弥陀様は、どのような異教神から変身させたのかと言えば、弥勒菩薩はミトラ神で、阿弥陀様は古代エジプトのアトン神であったのです。そして、その太陽神アトンの祖神は、古代ヒッタイト帝国の太陽神で契約の神ミトラであったのです。
その漢訳仏教の謎の解明のヒントは、漢訳仏教の祖である大乗仏教が発明された地、ガンダーラにあるようです。
紀元一世紀のガンダーラは、東ローマ帝国(大秦)と後漢との、馬絹交易の中継地であったのです。そのガンダーラの歴史を辿れば、紀元前4世紀にギリシャ都市国家から独立したマケドニア王国(紀元前356年〜紀元前168年)に辿り着くのです。
マケドニア王国のアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、長槍と盾で武装する集団戦法で、エジプトから西アジア一帯を支配していたペルシャ帝国を倒し、西アジアから北インドまでの一帯を支配して、アレクサンドル大王領を築いたのです。しかし、紀元前323年アレクサンドル大王が、バビロニアで病死すると、大帝国は、分裂し、ペルシャ文化のシリア王国やパルチア王国が興るのです。
しかし、西端のエジプト王国(紀元前305年〜紀元前27年)と東端のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。紀元前140年大月氏となる。)は、ギリシャ文化を保ったのです。そのギリシャ文化継承国バクトリアの多民族編成の軍団は、紀元前221年中国を統一して秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)を興すのです。
そのギリシャ文化継承国バクトリアの後を引き継いだ大月氏も、紀元1世紀には諸侯の分裂により、紀元45年には遊牧民族サカによりクシャナ朝が興るのです。そのクシャナ朝の国際交易都市が、ガンダーラであるわけです。ですから、ガンダーラは、ギリシャ文化を継承していたのです。
ここにひとつの疑問が生じるのです。それは、紀元一世紀に突然歴史上に現れた二つの宗教です。それが、ユダヤ教ヨシュア派と大乗仏教です。この二つの宗教の教祖と言われるヨシュア(イエス)と釈迦の生い立ち物語の基本が同じなのです。詳しくは、神輿の黙示録(11)「日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッタは一卵性双生児か」をご覧ください。
大乗仏教経典の原典が、サンスクリット語ではなく、ギリシャ語ではないかとの根拠は、紀元一世紀にユダヤ教の物語を綴る小冊子を集め、そして、新たにヨシュア(イエス)の物語を合わせて合本した「聖書」は、ギリシャ語で著されていたからです。
一般的に、そのギリシャ語の「聖書」は、アレクサンドロス大王領が分裂した、紀元一世紀にはローマ帝国領となっていたエジプトのアレクサンドリアで、50人の宗教学者によりヘブライ語からギリシャ語に翻訳されたと信じられていますが、そのヨシュアが活躍したとする地では、ヘブライ語よりも、アラム語が日常的に使われていたのです。何故、「聖書」は、ヘブライ語やアラム語ではなく、ギリシャ語で著されたかの謎は、それは、ギリシャ文化が継承されたガンダーラで創作されたからです。つまり、ユダヤ教ヨシュア派の「聖書」も、大乗仏教の経典も、その種本はガンダーラでギリシャ語で著されていたのです。
大乗仏教経典の原典が、ギリシャ語で著されていたとする根拠のもうひとつとして、経典と同時に現れた仏像の制作技法があります。現在に残る仏像は、女性肌のふっくらとした人物で表現されています。しかし、紀元1世紀のガンダーラに現れた仏像は、ガリガリに痩せこけ、写実的なギリシャ彫刻形式で表現されていたからです。
このギリシャ彫刻形式のガリガリ仏像は、五世紀の北魏で発明された道教思想と対抗するために、永遠の美を約束する女性肌のふっくらとした仏像に変身したのです。その訳は、道教には、秘薬(バラモン教の秘薬は水銀薬ですが、道教の秘薬は薬草です。その道教の薬草の神様が神農様で、日本列島に渡来した神農様は、北陸富山や大阪の創薬部族や鎌倉時代に発生した「役座」の神様となっていくのです。)や仙術により長生が約束されていたからです。
漢訳仏教には、バラモン教から導入した輪廻転生思想がありますが、それは、死後のことです。漢訳仏教は、道教の現世利益に対抗して、ガリガリ仏像から女性肌のふっくら仏像で長生を約束したのです。
更に、漢訳仏教に不思議な思想世界があります。それは、極楽と地獄の世界です。釈迦(釈尊)は、バラモン教が発明した永遠に輪廻転生を繰り返す民族差別世界のカースト制度から逃れるために「非人」となったのです。その非人は、人間でも死者でもない存在です。人間でも死者でもない非人には、極楽世界も地獄世界も必要はないのです。
因みに、釈迦の仏教思想には、俗世間から出家した非人であるので、当然、現世の存在をもたらした先祖供養の思想などなかったのです。その先祖供養の思想は、高齢者を敬う中国土着の儒教からの借り物だったのです。
では、漢訳仏教は、その極楽と地獄の二極世界思想をどこから持ち込んだのでしょうか。それは、紀元前6世紀のペルシャで発明され、紀元一世紀に復活していた、ミトラ教の日の出の神・天中の神・日没の神の三神のミトラ教思想を改良して、光と闇が永遠に戦うという二神思想を発明したゾロアスター教からの借り物です。漢訳仏教では、光が極楽で、闇が地獄です。因みに、大乗仏教と一卵性双生児のユダヤ教ヨシュア派では、光が天国で、闇が地獄です。
ゾロアスター教は、火を祀る宗教でもあるので、そのゾロアスター教の拝火儀式が、平安時代初期、錬金術師空海により、バラモン教・ヒンズー教・ゾロアスター教とをミックスして発明された密教儀式に導入されて、漢訳仏教儀式となり、漢訳仏教信者を「ウソも方便」で「ゴマカス」ために、大麻を燃やす護摩儀式に変身したのです。
この謎が多い漢訳仏教が、藤原日本史によれば、552年(亡命百済貴族によれば538年)に飛鳥ヤマトに伝来したと云うのです。その仏教伝来時期が、欽明天皇時代(531年〜571年)と云うのです。
この欽明天皇の時代の歴史は、「日本書紀」以外に知ることはできないのです。それは、645年に藤原氏が、前政権の史料を焚書していたからです。しかし、遺跡が語る歴史まては焚書(?)できなかったのです。
その藤原日本史で語るところの欽明天皇の時代に、考古学上の変化があったのです。それは、三世紀中ごろから出現した前方後円墳築造が、飛鳥ヤマトのみ中止されて、それに変わり、方墳や八角墳となっていたからです。しかし、飛鳥ヤマト以外では、依然として、前方後円墳築造が、七世紀まで続いていたのです。
因みに、日本初の天皇である天武天皇(672年〜686年)の陵は、四世紀に飛鳥ヤマトを支配したと、藤原日本史では述べる、大和朝廷の天皇陵と云われる前方後円墳ではなく、八角墳であったのです。このことは、何を語るのでしょうか。
そして、更に不思議なことには、藤原日本史では、漢字は百済から漢訳仏教と供に伝来したと云うのですが、「後漢書」によれば、倭国への漢字伝来は57年です。それは、ローマ帝国と馬絹交易をシルクロードによりおこなっていた後漢の光武帝(25年〜57年)が、倭奴国王に印綬を与えた「印」に、「漢委奴国王」の漢字があるからです。
更に、船山古墳や稲荷山古墳から出土の鉄剣には、漢字が記されていて、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には、辛亥年と記されているのです。その辛亥年とは、471年のことです。
五世紀制作とされる鉄剣にある漢字は、「○○する○○を」と漢語語順であるのですが、藤原日本史で述べる飛鳥大和時代(四世紀?〜645年?)の「万葉歌」の始めの歌は雄略天皇の歌で、漢字を使って詠っているのですが、それは「○○を○○する」との日本語語順(ヤマト語順?)であるのです。そして、701年大宝律令の文章では、漢字で「○○する○○を」と正式な漢語語順となっているのです。
欽明天皇の531年から皇極天皇の645年までの約百年間、飛鳥ヤマトに古墳の築造形式と漢字語順の変化があったことは、支配民族の変換を示唆します。
藤原日本史が述べるように、四世紀の飛鳥大和に大和朝廷が存在していて、地方の豪族を支配するために、大和朝廷の埋葬法の前方後円墳を築造させていたと言うのならば、何故、飛鳥ヤマトでは、欽明天皇の時代から、前方後円墳ではなく、方墳や八角墳が築造されたのでしょうか。
そして、もし、四世紀から飛鳥ヤマトが、大和民族に支配されていたのなら、何故、漢語語順(五世紀)→日本語語順(六世紀)→漢語語順(七世紀)に変化していたのでしょうか。そもそも、その「○○を○○する」の日本語語順の祖といわれる「ヤマト言葉」とは、何なのでしょうか。
欽明天皇から皇極天皇まで、飛鳥ヤマトを約百年間支配していた民族を特定することは簡単です。それは、欽明天皇の時代に現れた方墳や八角墳、そして、万葉歌の「○○を○○する」の語順は、東アジアではなく、西アジアの民族のものであるからです。特に、「○○は○○する」の語順は、膠着語といって、遠方の異民族と国際交易をおこなう騎馬民族共通の語順(ウラル語)です。
では、藤原日本史で述べる、仏教が伝来したとする欽明天皇の時代に、どのような民族がどのようなルートでどのようにして、飛鳥ヤマトに渡来して、約百年間を支配したのでしょうか。そして、日本語のルーツが「ヤマト言葉」であるとするならば、大和民族とは、六世紀から七世紀の飛鳥ヤマトを約百年間支配したその渡来民族であると言えます。
前政権の歴史を抹殺する手法の基本は、焚書です。しかし、文字が綴る書籍は、焚書で抹殺できても、被征服民族の会話で伝わる、人名・地名・伝説等を口封じすることは不可能です。そのために、征服民族は、ミトラ教儀式を取り込んだローマ・キリスト教のように、自民族の歴史に被征服民族の歴史を取り込み、被征服民族の歴史を抹殺するのです。
藤原日本史で述べる欽明天皇の歴史も、その中に、被征服民族の歴史が隠されているのです。その物語が、仏教伝来物語の物部氏と蘇我氏との二度の神仏戦争です。
平安時代初期に著された、秦氏末裔の多人長の「古事記」の暗号によれば、「推古天皇までの歴史を否定せよ。」です。その「古事記」の暗号を解いてみると、藤原日本史が隠蔽・改竄した歴史が現れてくるのです。
藤原日本史の「日本書紀」の古代天皇史で、「古事記」が否定したい天皇は、「継体天皇」です。それは、継体天皇の存在を否定すると、北九州と越前の藤原日本史の歴史を暴くことができるからです。そして、継体天皇の存在を否定できれば、その王朝の流れにある、飛鳥ヤマトに仏教文化をもたらしたと云う欽明天皇の存在も否定できるからです。そのことにより、552年(538年)の仏教伝来も否定できるのです。
多人長は、「古事記」で、継体天皇の享年を43歳としたのです。それは、「日本書紀」で述べる継体天皇の享年82歳を否定するためです。この「古事記」の暗号を解読することにより、「日本書紀」が隠蔽・改竄した飛鳥ヤマトの歴史が暴かれるのです。
「日本書紀」によれば、継体天皇は、57歳の時、越前を出て、507年樟葉宮(大阪府牧方市)で即位し、512年山城筒城(京都府京田辺市)に遷都し、519年弟国(京都府長岡市)に遷都し、527年飛鳥ヤマトの磐余玉穂(奈良県桜井市)に入り、その後、5〜7年後(532年?)に崩御した、と述べているのです。継体天皇は樟葉宮で即位して約20年間も飛鳥ヤマトに入れなくて、大阪・京都周辺で「何」をしていたのでしょうか。そして、継体天皇の大和入りを約20年間も阻止していた飛鳥ヤマト勢力とは、何者であったのでしょうか。
そして、藤原日本史では、継体天皇崩御後、安閑天皇、宣化天皇に続き、531年欽明天皇が即位したことになっているのです。
「古事記」と「日本書紀」との継体天皇の享年が、はなはだしく違っていることもさることながら、その出自も異なるのです、それは、「古事記」では、継体天皇は近江出自であると述べるのに対し、「日本書紀」では越前とするのです。これは一体、「古事記」は、後世のひとに「何」を知らせようとしたのでしょうか。
近江とは、琵琶湖周辺の地を指す地名です。この地は若狭湾に近く、中国大陸との海上交通に便利なところで、663年朝鮮半島の百済が滅ぶと、667年その百済亡命政権が近江大津に亡命政府を拓いた所です。
更に、戦国時代末期の近畿一帯を、イエズス会の軍事支援で支配した織田信長は、1576年日本初のヨーロッパ築造思想に基づいた石垣の上に天主閣のある安土城を、琵琶湖畔に築き、その安土の地を、ヨーロッパの町並みを模した城下町にしていたのです。
その近江の地が、「古事記」によれば、継体天皇の出自地であるというのです。では、その近江には、どのような歴史があったのでしょうか。
713年奈良王朝は、前政権の地名を抹殺するために、全国に風土記編纂の命令を下したのです。その命令では、前政権の地名を、漢字二字(好字令)で示すことが条件であったのです。その風土記のひとつに、「近江国風土記」があったのです。その「近江国風土記」をそのまま読んでも、古の歴史を知ることができないことは、誰にでも理解できます。それは、「風土記」とは、前政権の歴史を隠蔽・改竄するための「仕掛け」であるからです。
その「近江国風土記」の「逸文」に、白鳥伝説があるのです。その白鳥伝説のテーマは、男が天女の衣を盗み、天に帰れない天女と夫婦になり子をもうけたが、故郷をしのぶ天女は、ついに羽衣を見つけ、天に帰った、ということです。この白鳥伝説と同じ物語が、民話としてバイカル湖沿岸にあるのです。バイカル湖の「バイカル」とは、突厥語で、「豊かな水」のことです。何故、中央ユーラシアのバイカル湖と、日本列島の琵琶湖に、古来から白鳥伝説があるのでしょうか。
白鳥の習性は、夏は中央ユーラシアのバイカル湖周辺で暮らし、冬は日本列島に飛来し、そこで越冬するのです。しかし、その白鳥の飛来地の多くは東北で、近畿以南にはめったに飛来しないのです。それなのに、何故、琵琶湖周辺の近江には、バイカル湖沿岸の民話が古くから語り継がれているのでしょうか。
藤原日本史が述べる、古代国家の創始である継体天皇から欽明天皇にかけての時代、東アジアでは、騎馬民族と農耕民族との熾烈な戦いの時代であったのです。北の騎馬民族柔然は、南の北魏を攻めていた時代が、倭国五王の時代です。しかし、508年騎馬民族のチュルク系高車軍団が、柔然を破ると、その勢力を極東へ伸ばすのです。
その高車軍団も、五世紀バイカル湖周辺で勢力を増した騎馬民族チュルク系突厥軍団により壊滅・吸収されてしまうのです。突厥は、馬絹交易を東ローマ帝国とでおこなうことにより急速に国力を増して、六世紀中ごろには、ユーラシア一帯を支配したのです。この頃の日本列島では、藤原日本史が述べる宣化天皇の時代で、仏教を導入したとする蘇我稲目が突然大臣として現れた時代であるのです。
このチュルク系騎馬民族の突厥は、バイカル湖周辺で興った民族であったので、船による海上交通技術にも長けていたのです。それは、バイカル湖は、琵琶湖の約40倍もの広さがある、湖というよりも、内海にちかいものであったからです。
古代では、騎馬民族と、海洋民族、もしくは、船を交通手段とする川辺の民族とは、国際交易では協調関係にあったのです。それは、海外の遠方国からの国際交易品を、内陸の消費地に運ぶには、船を利用したからです。交易品を満載した船をそのまま河から溯上させるには、人力よりも、馬力のほうが有利であるからです。騎馬民族突厥には、他の騎馬民族と異なり、湖(内海)を船で渡る技術があったのです。
この東アジア動乱の時代、ユーラシアを支配した騎馬民族の突厥軍団が、日本海(東海・トンヘ)を船団により渡り、日本列島の若狭、能登、佐渡、秋田、十三湊など、敵対国の北魏の影響下にある港を避け、北陸以北の各港に渡来していたのです。
騎馬民族征服説を否定する学者は、九州から近畿地域にかけて、騎馬民族の渡来を示す遺跡が出土しないことを根拠のひとつとして唱えていますが、それは、騎馬民族突厥の渡海技術を知らないからです。日本海(東海・トンヘ)は、バイカル湖沿岸を故郷とする突厥民族にとっては、なぎの時は湖と同じなのです。
その突厥軍団の渡海目的のひとつは、古来からタミル語を話す民族や中国植民地としての絹生産地である日本列島で、馬絹交易で東ローマ帝国が求める絹を入手することですが、もうひとつは、軍事目的であったのです。
東アジア全体図を、南北逆さに表示すると、日本海(東海・トンヘ)は内海(湖)となり、日本列島は台湾まで島が続き、ユーラシアから中国大陸中腹までの「回廊」であることが理解できます。この日本列島を支配することが、ユーラシア大陸を支配し中国支配を目論む突厥にも、その攻撃を阻止し、突厥壊滅を目論む中国北魏にも絶対に必要であったのです。
このような東アジアでの騎馬民族と農耕民族との緊迫時代が、継体天皇から欽明天皇の時代、藤原日本史で云うところの、古代国家の創始時代であったのです。
日本列島が、創始時代以前、古墳時代が始まる頃には、中国大陸からの軍団が渡来していたのです。その時代とは、卑弥呼の邪馬台国の時代(239年?〜247年?)です。この三世紀半ばに、日本列島に古墳が現れたのです。
紀元一世紀に東ローマ帝国との馬絹交易を始めた後漢は、北方遊牧・騎馬民族の鮮卑の度重なる攻撃により、220年には滅亡するのです。その後漢は、魏・蜀(漢)・呉に分裂し三国時代に突入するのです。
その三国時代の魏(220年〜265年)は、東ローマ帝国が求める絹を手に入れるために、北九州に侵攻するのです。その北九州の地では、弥生時代からタミル語を話す民族が、南中国種の繭ポンピックスモリを持ち込み、養蚕に励んでいたのです。その北九州に、魏は「張政」という軍事顧問を送り込んだのです。その目的のひとつが、絹生産地の支配・独占です。
この張政の二十年間にも及ぶ九州滞在期間の情報を基に、「魏志倭人伝」が著されたのです。その邪馬台国では、絹織物を重要な産品にしていたのです。そのことを示すように、「魏志倭人伝」には、「魏の皇帝に倭錦、異文雑錦などを贈った。」、とあります。
弥生時代の絹の遺物が出土しているのは、福岡県の比恵、有田、吉武高木など北九州の極限られた遺跡だけであることは、当時の絹は貴重品で、その絹産出地は秘密にされていたからです。
魏が絹生産地を独占することは、東ローマ帝国との馬絹交易で蜀・呉を出し抜き有利にするためには、絶対必要条件であったのです。そこで、魏は、邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫緩を授けたのです。それは、卑弥呼は、北九州の絹生産地の魏の傀儡支配者だったからです。
藤原日本史を読んでいると、飛鳥大和を視点として、日本列島史をながめることになるのですが、日本国の年号が永続的に続き現在に至る年号の始めは、藤原氏が復活した明治革命により樹立された、明治新政府が発明した「大化の改新」である大化元年(645年)などではなく、大宝元年(701年)からなのです。では、藤原日本史で述べる大宝元年以前の年号は、何処の国の年号なのでしょうか。
古代美術史に現れる年代として、飛鳥時代、白鳳時代があります。飛鳥時代は、なんとなく分かります。それは、飛鳥ヤマトを中心にした、オリエント文化を「仏教寺テーマパーク」に改竄した530年から645年までの時代です。では、その飛鳥時代に続く白鳳時代とは、どのような時代なのでしょうか。
学者は、その白鳳時代の「白鳳」は、650年改元の「白雉」からのものであると説明しているようですが、「白鳳」と「白雉」は、漢字が異なります。だったら、白鳳時代ではなく、白雉時代に何故表記しないのでしょうか。その「白鳳」の謎を解くヒントがあります。それは、「続日本紀」です。
「続日本紀」の聖武天皇(724年〜749年)の詔勅に「白鳳以来、朱雀以来、年代玄遠にして尋問明め難し。」とあるのです。意味は、「白鳳や朱雀は、わが国の年号ではないのだから、そんなことを言ってくるな。」、です。六国史のひとつ、正史と言われる「続日本紀」に、「白鳳」は、「日本国の年号ではない。」と、聖武天皇の「お言葉」で記述されているのです。では、その「白鳳」とは、何処の国の年号なのでしょうか。
この「白鳳」の年号は、朝鮮半島で522年頃から700年頃までに使われていた年号であったのです。この年代頃の朝鮮半島は、東アジアでの遊牧・騎馬民族柔然が、チュルク系騎馬民族高車に壊滅され、その高車軍団が、南の北魏を襲ったため、北魏は、535年東西に分裂していたのです。
そのような騎馬民族国と農耕民族国との戦いの動乱が、朝鮮半島にも及び、ギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)は、528年仏教国に変身してしまうのです。宗教は、民族の団結を支える思想武器です。
その国の宗教が替わるということは、その国の支配者が替わったことを示唆します。その新羅の宗教が替わった528年に、北九州では、527年から528年にかけて、藤原日本史が述べる、「筑紫国造磐井の反乱」があったのです。そして、528年仏教国となってしまった新羅は、649年には唐服を着るようになってしまうのです。
そのような反騎馬民族国家の思想武器である仏教思想に染まってしまった朝鮮半島で使われていた年号が、「白鳳」であったのです。ですから、朝鮮半島の仏教文化を示す「白鳳」の年号は、「日本書紀」には「どこにも記述がない」のです。では、誰により日本列島に持ち込まれたのかと言えば、それは、この「白鳳時代」は、亡命百済貴族が支配した平安時代に、「聖徳太子」と供に日本列島史に挿入された年代なのです。
それ以前にも年号は存在しますが、多人長が「古事記」で述べているように、それらの大宝元年以前の歴史は、藤原氏の「日本書紀」により改竄されていたのです。ですから、大宝元年以前の歴史を調べる時には、藤原氏の歴史改竄のトリックに引っかからないために、「日本書紀」は慎重に読む必要があるのです。
藤原日本史の基礎史料は「日本書紀」ですが、それを援護する史料のひとつに各国の「風土記」があります。この「風土記」も慎重に読む必要があります。
797年漢語語順の「続日本紀」が著されるのですが、その中に不思議な一文があるのです。それは、元明天皇(707年〜715年)が、年号を「慶雲」から「和銅」に改元した708年の恩赦の記事にあるのです。その一文とは、「山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は始めのようにする。」というものです。
その「禁書」とは、「どのような書籍」なのでしょうか。詔を出してまで、禁書の提出を求めるほどの「書籍」とは、よほど藤原日本史には、不都合な内容の書籍であったのでしょう。因みに、漢語語順の「日本書紀」をはじめ「六国史」の全ての編纂には、藤原氏がかかわっていたのです。
その禁書と言われる史料のひとつと考えられるのが「風土記」です。実は、「風土記」には、日本語語順(やまと言葉=ウラル語)で著された「風土記」と、漢語語順で著された「風土記」との二種類があったのです。
この「風土記」編纂は、645年前政権を倒した唐進駐軍の傀儡藤原氏が、日本列島各地の歴史を改竄・隠蔽するために、713年に風土記撰上の詔が発せられたことにより創作された書籍です。それは、各国の歴史を隠蔽・改竄が目的であったのです。
そして、奈良朝廷は、その翌年714年国史撰上の詔を発したことにより、720年「日本書紀」が完成したのです。
「日本書紀」は、各国から集めた歴史情報を基に、藤原氏に都合好く、日本語語順(やまと言葉=ウラル語)ではなく、唐帝国の公式語である漢語語順で創作されたのです。
各国から提出された、その日本語語順の「風土記」により、藤原氏は、騎馬民族の突厥帝国が飛鳥ヤマトを530年から645年まで支配していた、日本列島史を完全に理解していたのです。そして、騎馬民族の歴史を隠蔽・改竄するための「日本書紀」が完成すると、日本語語順の「風土記」を焚書して、今に残る漢語語順の「風土記」を著したのです。その日本語語順の「風土記」は、「続日本紀」の一文によれば、山や沢に住む民族により伝承されていたのです。
奈良時代、山や沢に住む民族が、日本語語順の「風土記」を伝承していて、その禁書である「風土記」を奈良朝廷に提出すれば、恩赦するとする意味は、「何」なのでしょうか。そして、藤原日本史が述べる白鳳時代(朝鮮半島の年号で、日本国の年号ではない。)から奈良時代にかけて、「禁書」を持つ山の民とは、どのような民族であったのでしょうか。
その「禁書」を持つ民族の特定は、史料によりおこなうことは困難です。それは、奈良時代の藤原氏や、平安時代の亡命百済貴族により、被征服者の歴史書は焚書或いは改竄されてしまったからです。
そこで、考えられるのは「言葉」です。言葉は、記憶のDNAで、代々子孫に語り継がれていくからです。しかし、その言葉の音韻には、例えば、平安初期に唐帝国の山東半島から平安京に移民して来た民族が唐音で喋ったように、その時々の支配者の影響がある音韻が入り込むことがあることを知らなければなりません。
藤原日本史では、飛鳥時代に万葉仮名があり、その万葉語により天皇などの貴人が歌謡をおこなっていた、と述べています。その万葉仮名とは、古代日本語の音声に似た中国の漢字を選び、その漢字を、古代日本語の音韻に合わせてアルフアベットの代わりに使っていた文字言葉です。
では、その古代日本語とは、「何」なのでしょうか。この古代日本語を特定することには困難が生じます。それは、日本列島には、有史以前から、周辺諸国からの渡来民族が暮らしていたからです。縄文時代には、北からはアイヌ民族、南からはポリネシア民族、そして、弥生時代には南インドからタミル語を話す民族、そして、古墳時代には朝鮮半島から高句麗・百済・古代新羅の民族が続々と訪れ、そして、六世紀半ばにユーラシア大陸から飛鳥ヤマトを百年間支配した民族が、日本列島に渡来していたからです。
一般的イメージとして、やまと言葉は日本列島古来の言葉であると信じられているようです。そこで、言語学者は、日本語のルーツを研究し、その祖をタミル語とか、古代朝鮮語だと述べるのですが、日本語は単民族の言葉をルーツとしていませんから、それらの貴重な研究も納得できるものではありません。
例えば、やまと言葉と信じられている「たそがれ」があります。この「たそがれ」は、藤沢周平氏の時代劇小説「たそがれ清平」が人気があるように、現代日本人にも好まれている言葉です。辞書を引くと、「たそがれ」の語源として、「誰そ彼は」、と人の見分け難い時の意とか、夕方の薄暗い時「夕暮れ」たそがれどきの意、などとの説明があります。
そして、「たそがれ」の漢字として、「黄昏」の表示があります。しかし、その「黄昏」の中国読みは、「ホワーンフン」で、訓読み(日本語読み)とは全く異なる発音です。
このような、例えば、「ミトラ」を「花」と表示するように、中国語と日本語との意味の上でも、音声の点でも共通性のない言葉を、「借字」といいます。日本語化した漢字の訓読には、そのように、複雑な民族の歴史があるのです。
それは、日本列島に暮す多民族の言葉を、ひとつに纏めるために、言語の伝達方法を音声と視覚にわける「訓読=日本語読み」を発明した民族がいたからです。それが、チュルク系騎馬民族の突厥であるのです。
先ほどの「たそがれ」は、突厥語をルーツとしているのです。その語源を辿れば、「カッシュ」「カライ」です。「カッシュ」とは、眉のことで、突厥では文学的に「目」のかわりに使う言葉です。「カライ」とは、暗くなるの意味です。その「カッシュ」が、音韻変化により「タソ」になり、「カライ」も音韻変化により「カレ」となったのです。
このように、やまと言葉は、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、古代朝鮮語、そして、突厥語により構成されているのです。しかし、その文法は、騎馬民族語である、「○○は○○する。」、とのウラル語であるのです。
では、その突厥民族は、六世紀半ばの日本列島の飛鳥ヤマトに、どのようなルートで侵攻して来たのでしょうか。
この五世紀からユーラシア大陸を騎馬で疾走した民族は、オルフォン石碑に突厥文字で歴史を残していたのですが、日本列島では、そのような石碑を見つけることは出来ません。しかし、西アジアの遊牧・騎馬民族が平原に残した石人は、北九州では多数発掘されています。
歴史改竄の基本は、まず焚書、そして、周辺諸国の歴史を基に、自民族の歴史を練り込むことです。そして、どうしても抹殺できない前政権の歴史は、バビロニア出自のユダヤ民族が古代ヒッタイト帝国・古代エジプト出自のイスラエル民族の歴史を「モーセ物語」を創作して取り込んだように、日本神話物語を創作し自民族史に取り込んでしまうのです。
しかし、「偽書」は、継ぎ接ぎだらけですので、その繋ぎ部分にほころびが出てしまうのです。完璧を期した「日本書紀」にも、ほころびが見えるのです。
日本語語順で表記された「風土記」を参考にして、日本列島の古代国家創始の歴史を知った藤原氏は、藤原日本史を綴るために「日本書紀」を創作するのですが、その藤原日本史で抹殺したい二民族がいたのです。
そのひとつが、朝鮮半島から渡来したギリシャ・ローマ文化を持った民族で、もうひとつが、日本海(東海・トンヘ)を渡海して日本海沿岸に渡来した東ローマ帝国と馬絹の国際交易をおこなっていた騎馬民族突厥です。これらの民族は、六世紀半ばには、飛鳥ヤマトの支配者となっていたのです。
この六世紀半ばの飛鳥ヤマトを支配していた民族を、藤原日本史では、ギリシャ・ローマ文化を持った民族を「秦氏」とし、騎馬民族突厥を「蘇我氏」としたのです。そして、その二民族の出自を隠蔽するために、謎の天皇である継体天皇を創作するのです。
藤原氏が「日本書紀」で、継体天皇を創作して、ギリシャ・ローマ文化を持つ民族と突厥民族を抹殺する物語を創作したのですが、平安初期の秦氏末裔の多人長が「古事記」の暗号により、その「日本書紀」のほころびを暴くのです。それが、継体天皇の享年を43歳と「古事記」で明記したことです。
「日本書紀」での継体天皇の享年は、82歳です。「古事記」と比較すると二倍の開きがあります。このことは、何を意味しているのでしょうか。それは、「日本書紀」の創作者が、参考とした史料が、魏志倭人伝の頃のものであったことを示唆します。
三世紀頃の倭国では、春と秋の年二回、歳を数えていたのです。このことは、「魏志倭人伝」に、「倭人は正月や四節を知らない。ただ春の耕作と、秋の収穫を記録して年を数えている。」とあることからでも分かります。
「日本書紀」の創作者は、「禁書の風土記」で、秦氏と蘇我氏を抹殺するに相応しい人物を知ると、その人物を継体天皇としたのですが、その人物の歳が二倍年で記述してあることを知らなかったので、継体天皇と思しき人物は、実際は1/2の歳であるのに、82歳としてしまったのです。しかし、「古事記」が述べるように、継体天皇の歳は、43歳なのです。すると、「日本書紀」では、継体天皇は、57歳の時、樟葉宮で即位したとあることが否定されるわけです。それは、享年43歳の継体天皇が、57歳で即位できるはずはないからです。
このことから、継体天皇は、藤原氏により、秦氏と突厥民族の渡来ルートを隠蔽するために創作された人物であることが推理できるのです。実際、継体天皇の行動拠点を辿ると、ギリシャ・ローマ文化を持つ民族と、突厥民族の渡来ルートとが一致するようです。
藤原日本史が述べる継体天皇は、近江で妊娠した母親により、越前で養育されたとするのです。そして、507年継体天皇は、北陸の越前を出て、57歳で樟葉宮(大阪府牧方市)で即位したとするのです。その越前では、五世紀後半から六世紀前半にかけて、九頭竜川河口に巨大前方後円墳が築かれていたのです。更に、日本海沿岸では、この頃、方墳が多く築かれていたことは、渡海技術を持つユーラシアの騎馬民族の渡来を示唆します。
その五世紀末から六世紀にかけてのユーラシアでは、チュルク系高車軍団を、チュルク系突厥軍団が取り込み、その騎馬民族軍団が、北魏を攻撃していたのです。その騎馬民族の攻撃により、535年北魏は、東西に分裂してしまうのです。その東ローマ帝国との馬絹交易の宿敵北魏が分裂したことにより、突厥は勢力を東アジア一帯に伸ばし、552年トメン(土門)により突厥帝国が樹立されたのです。そして、その突厥帝国に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが訪れていたのです。
では、樟葉宮で即位した継体天皇は、直ぐに藤原日本史が述べる飛鳥大和朝廷のある地に辿り着いたのかといえば、20年間も奈良盆地に入れなかったのです。何故でしょうか。
その謎の継体天皇は、大阪で即位後、直ぐに飛鳥大和に都を築くのではなく、その後、山城筒城(京都府京田辺市)、弟国(京都府長岡市)、そして、20年後、527年大和国の磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に入ったとされるのです。そして、継体天皇は、527年北九州筑紫の磐井を急撃して殺した、とするのです。
この継体天皇の説明不能の謎の行動物語には、越前を支配していた突厥帝国進駐軍と、淀川河口を支配していたギリシャ・ローマ文化を持つ民族の歴史隠蔽があったのです。
古代日本列島の国際交易ルートは二つで、朝鮮半島→北九州→瀬戸内海→淀川河口のローラン(浪速)に辿り着くものと、そして、東アジア中国大陸→若狭湾→琵琶湖を経て、宇治川を遡る二つのルートがあったのです。つまり、北陸の民族と河内の民族とは、川で繋がっていたのです。川は、国際交易には重要な物流ルートなのです。
奈良の三輪山麓の国際交易地のツバキ市かイワレを目指す国際交易商人が、その二つのルートで合流する地点が、藤原日本史が述べる継体天皇が即位した地である「樟葉」であるのです。この宇治川、桂川、そして木津川が合流する樟葉地域は、ローラン(浪速)から淀川を遡った民族と、琵琶湖から宇治川を下った民族とが合流する国際交易中継地でもあったのです。
この国際交易商人が結集した樟葉から南へ木津川を辿れば、飛鳥大和には分けなく入れるのに、何故、継体天皇(突厥帝国軍団とギリシャ・ローマ文化を持つ民族)は、20年間も飛鳥大和に入れなかったのでしょうか。
不思議なのは、藤原日本史では、四世紀に、巨大前方後円墳を築いた大和朝廷が存在していたはずです。その大和朝廷が支配する大和に、何故、即位した継体天皇は、20年間も入れなかったのでしょうか。それは、その大和の地に、大和民族ではない、強大な民族がいたからです。
藤原日本史の神武東征物語では、その大和にはウカシやナガスネヒコの軍団が居て、神武軍の侵攻を阻止したとの物語があります。そして、「日本書紀」が述べるには、五世紀の飛鳥時代には、蘇我氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏などの豪族達が、飛鳥大和近辺に居たと云うのです。
しかし、その飛鳥の豪族達を表わす漢字二文字の表記法は、713年好字令で発明された氏名です。その好字令と飛鳥時代とは、二百年ほどの時空間があったのです。更に、不思議なのは、それらの豪族の祖が同じで、その祖を「建内スクネ」(「スクネ」とは、古代ペルシャ語で「勇者」の意)、と言うのです。
その飛鳥大和の豪族の中に、漢字二文字ではない豪族がいるのです。それが、紀氏です。何故、紀氏は、漢字二文字ではないのでしょうか。この紀氏には、藤原氏が抹殺できない歴史があるようです。抹殺できない歴史は、取り込むのが偽書作成の基本です。
紀氏の「日本書紀」での登場は、ギリシャ神話物語に酷似した、アマテラスオオミカミの「岩戸隠れ物語」です。その岩戸に隠れたアマテラスオオミカミを洞窟からおびき出すために使った鏡が、紀氏が制作したものである、とするのです。その鏡は、紀氏により、日前宮(和歌山市秋月)に「神様」として祀られるのです。では、藤原日本史で抹殺できない紀氏とは、どのような民族であるのでしょうか。
紀氏の拠点は、ニサンザイ古墳、大谷古墳などが発掘された紀の川河口一帯です。この和歌山県の紀の川河口には、無数の古墳群があるのです。そして、太田黒田や岡村遺跡は、東ローマ帝国と後漢との馬絹交易が始まった、弥生中期の紀元一世紀頃と言われているのです。
それらの遺跡からは、銅鐸が発掘されているのです。鈴の仲間の銅鐸は、中国から北九州にもたらされると巨大化して祭祀道具となったものです。
弥生時代の和歌山と北九州との繋がりの他に、五世紀の朝鮮半島南端との繋がりが、大谷古墳から発掘されているのです。それは、馬冑です。
ギリシャ・ローマ文化を持つ古代新羅支配地の古墳から発掘されたのと同型の馬冑が、和歌山県大谷古墳から発掘されているのです。更に、高句麗の古墳壁画に描かれていたローマ帝国軍の重騎兵軍団が使用したのと同型の馬鎧も発掘されているのです。金ピカの馬冑と馬鎧で武装した馬に乗り、ロンギヌスの槍を持った騎士を見た、五世紀の日本列島の先住民は、どのような反応を示したのでしょうか。
古代飛鳥ヤマトの歴史を辿るための拠点のひとつは、この紀の川河口のようです。藤原日本史が述べる神武東征物語では、九州の筑紫日向にいた「イセのミコト」と「サヌのミコト」兄弟は、「東に良い土地がある。」と言って、軍団を東に進め、宇佐→吉備→大阪湾→河内湖→日下(くさか)に上陸したが、「ナガスネヒコ」軍団に撃退され、船で脱出して、紀の国の「オの水門」に辿り着くのです。そして、紀伊半島を回り、熊野の女王「丹敷トベ」を殺し熊野の山越えをして、大和盆地に侵攻し、先住民族を滅ぼして、紀元前660年橿原で即位した、とするのです。
藤原日本史によれば、神武天皇は九州から遠征したというのです。この物語は、数百年の歳月が凝縮されています。先ず、神武天皇の即位年紀元前660年は、考古学上では日本列島は縄文時代晩期で、奈良の盆地はひとも住めぬ湿地帯であったのです。それは、神武東征物語には河内湖が記述されているからです。五世紀後半から六世紀に掛けて、河内平野に巨大前方後円墳が築かれる前、河内平野は巨大湖であったのです。その河内湖が記述されていることから考えれば、その神武東征の年代は縄文前期と考えられます。
藤原氏は、「禁書の風土記」により、日本列島古代史を理解していたようです。それは、「イセのミコト」が、生駒山麓から船で敗走した地が紀の国であったからです。この紀の国は、縄文時代から多くの異民族が暮す国際交易港の地であったのです。
それは、紀の川を遡ると吉野川となり、吉野山に辿り着けるからです。その吉野山では、縄文時代の国際交易品である朱砂が採れたのです。紀の川は、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれる前までは、三輪山麓のツバキ市やイワレに辿り着く重要ルートであったのです。
縄文時代では、朱砂は呪術の道具でもあり、傷の治療薬でもあったのです。古代では、病や傷は、悪霊の仕業であったので、朱砂は、悪霊除けに使われていたのです。その貴重な朱砂は、西の北九州から四国を抜け、紀の川を遡り、吉野→宇佐→伊勢のルートで採取されていたのです。それは、その朱砂ルートは、中央構造線と同じであったからです。ですから、縄文時代の国際交易商人は、その朱砂ルートを支配することを目論んでいたのです。
「イセのミコト」が、熊野で殺した女王の名が「丹敷トベ」とあるのは、朱砂の産地を支配していたことから付けられた名であるわけです。「丹」とは、朱砂や水銀を意味する語であるからです。この「丹」を模して木で創られたシンボルが、鳥居です。その鳥居(丹)を示すことで、朱砂の産地を禁足地としていたのです。
そして、朱砂が採れる処には、水銀も産出されるのです。水銀は、防腐作用があるため、秦の始皇帝が陵墓を建設するために各国に求めさせたように、朱砂以上に貴重な国際交易品であったのです。その朱砂と水銀は、奈良の宇陀に眠っていることは、縄文時代から知られていたのです。
この水銀も、朱砂と同じに、呪術の重要な道具であったのです。それは、バラモン教の秘儀でも使われていたように、水銀は使い方によっては、覚醒(回春)作用が認められるからです。平安時代、バラモン教などの秘儀を修得し密教を発明した錬金術師空海は、吉野山で水銀薬を創薬していたことは、宗教と水銀薬(回春薬)との関係を示唆します。後に、この吉野の水銀薬は、京白粉として、堕胎薬として売り出されていたのです。
しかし、宇陀の地では、縄文時代が日本列島で最後まで続いていたのは、宇陀は、奈良盆地の大湿地帯と、毎年起こる鉄砲水の大洪水の自然の防御機構により守られていたのです。その宇陀を支配するために、三世紀半ばに三輪山麓に巨大前方後円墳が築かれていたのです。その前方後円墳の築造は、天皇の墓築造などではなく、その主目的は、地改良のためであったのです。
このことは、古代エジプトのピラミッド建設と同じです。ユダヤ教やその派生宗教のローマ・キリスト教が、「聖書」の「出エジプト記」で「モーセ物語」を宣伝したため、ピラミッドは、奴隷の労働力で築かれた、と信じ込まされてしまったひとが多く居るようですが、それは違います。
ピラミッドは、王の遺体安置の墓ではなく、王の魂を再生するための施設であるのです。その施設建設の主目的は、農耕民の雨季の失業対策であったのです。ナイル川の定期的氾濫時期、農耕作業ができない農耕民に仕事を与えるために造られたのが、ピラミッドだったのです。この作業により、農耕民は、石切技術や、それを運ぶための運河の建設、そして、その石を組み上げるための技術や労働管理を修得できたのです。そして、その労働対価として食糧を手にすることができたため、農作業の出来ない雨季を飢えずにすんだのです。
藤原日本史では、四世紀の飛鳥大和に大和朝廷が存在した証拠として、巨大前方後円墳が築かれていたことを挙げています。では、その前方後円墳は、大和民族により築かれたとでも言うのでしょうか。
その巨大前方後円墳築造の技術の多くは、その石室や石棺の埋葬形態と供に、古代エジプトのものであるのです。石棺の寸法は、古代エジプトの計測単位のキョビトで割り切れるのです。では、その古代エジプトのピラミッド建設と飛鳥ヤマトの前方後円墳築造を結ぶ技術は、どのようにして渡来したのでしょうか。
その前方後円墳の築造ルートを辿ると、畿内←紀の川河口←吉備←北九州←朝鮮半島南部(新徳古墳・全長51m五世紀後半・江田船山古墳と共通点が多い)←高句麗(積石塚全長15m・紀元前後)となるのです。この高句麗は、紀元前37年頃建国されたと云うのですが、謎の多い国です。この高句麗は、北の騎馬民族と南の農耕民族の大国に対して互角に戦い、668年に滅ぶまで、シロクロードの中継国として存続していたのです。
ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国の秦帝国が、紀元前206年倒れると、紀元前202年前漢が興り、北の匈奴と対峙するのです。その前漢時代に、朝鮮半島の付け根に、高句麗が興るのです。前漢は、朝鮮半島経営のため、紀元前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪(ローラン)、玄菟、眞番、臨屯の四郡を置くのです。
その前漢が、紀元前8年倒れると、紀元25年後漢が興るのです。後漢は、東ローマ帝国と馬絹交易を発展させるのです。それと供に、その東ローマ帝国と中国を結ぶシルクロードの中継地楼蘭(ローラン)は、東西の文化が通過する国際都市となるのです。
その後漢の朝鮮半島の支配地楽浪(ローラン)を、37年高句麗は襲うのです。そして、313年には楽浪郡は、高句麗により滅ぼされてしまうのです。
この楽浪郡が、高句麗により滅ぼされてしまう時代の日本列島では、淀川河口の河内にローラン(浪速)の津が築かれていくのです。東ローマ帝国に続くシルクロードの楼蘭(ローラン)は、朝鮮半島の楽浪(ローラン)→日本列島の浪速(ローラン)と繋がっていたのです。
このローマ帝国軍の重騎馬軍団が存在した高句麗の影響下にあったのが、朝鮮半島以南を支配した百済と古代新羅であるのです。百済は、346年ツングース系扶余族の近肖古王により興され、そして、356年ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、碧眼の奈勿王(太陽王)により興されたのです。この頃の朝鮮半島は動乱期で、北九州と朝鮮半島南端を支配する倭国により、百済と古代新羅は攻められ、その救援を高句麗に求めていたのです。
この日本列島と朝鮮半島との謎の四世紀から五世紀について、藤原日本史によれば、倭国は北九州にあり、朝鮮半島南端に任那日本府を経営していた、と述べるのです。そして、北九州の倭国軍は渡海し、404年帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍と戦った、と述べるのです。
しかし、北の騎馬民族と南の農耕民族の大国と互角に戦って、時には勝利した高句麗軍が、倭国軍と同等の戦いをしたことは、倭国への他国からの軍事援助があったことを示唆します。それは、日本列島で、鉄器武器が製造されるのが、五世紀からであるからです。このことは、古墳の出土品からも説明できます。五世紀半ばからの古墳の出土品は、それ以前の祭祀道具とは異なり、実践用の鉄器や馬具が多くあるからです。
倭国は、魏の時代(220年〜265年)に親魏倭王に封じられ金印紫綬を授かっているのです。つまり、倭国は、魏の属国であったのです。その倭国では、東ローマ帝国と馬絹交易のために魏に絹製品を供給していたのです。247年魏は、その絹製品生産の監督のために、軍事顧問の張政を倭国に派遣していたのです。その張政は、魏が265年滅びると、帰国していたのです。
魏は、何故、軍事顧問を倭国に派遣したのかは、絹生産地としての倭国を、異民族の攻撃から守るためだったのです。その異民族が高句麗であったのです。高句麗は、絹生産地の日本列島を支配するために、その魏を何度も攻撃していたのです。そして、魏の後継国の晉(265年〜316年)にも、高句麗は攻撃をかけていたのです。その目的のひとつは、倭国を支配する国を滅ぼすことにより、倭国を支配下に置くことだったのです。
この高句麗の攻撃をかわすために、372年仏教国の前秦(351年〜384年)は、高句麗に僧順道と経典を送り、高句麗を思想武器で懐柔するのです。その前秦と対峙する、南中国を支配する東晉(317年〜420年)は、384年百済に仏教を伝えるのです。しかし、古代新羅は、仏教を拒否するのです。新羅が、仏教を取り入れるのは、528年まで待たなければならなかったのです。
高句麗の軍事力の影響が日本列島にもたらされていたのは、前方後円墳の渡来ルートから証明できます。では、その築造技術を伝えた部族、或いは、民族は誰かといえば、それは、紀氏が考えられます。
弥生時代の北九州には、甕棺葬の墓が多くあることから、北方系騎馬民族ではなく、タミル語を話す南方系民族の渡来が示唆されます。その弥生時代を終わらせた古墳時代の三世紀半ばに渡来したのが、朝鮮半島から騎馬民族の積石墓の古墳埋葬法をもたらした民族であるわけです。
そして、高句麗の積石墓の前方後円墳を、盛り土の前方後円墳としたのが朝鮮半島南端に追われた民族で、その民族は、更に、玄界灘から北九州→吉備→河内→畿内へと東進していくのです。
その目的のひとつが、三輪山麓のツバキ市とイワレの支配です。その国際交易地には、中国やヨーロッパが求める、絹、水銀、真珠、熊の胃、ロクジョウ、毛皮などなどの日本列島特産品が集められていたからです。その国際交易地を支配するには、自然の防御地帯の奈良盆地の湿地帯を、改良する必要があったのです。
そのために、古代エジプトの土木建築技術で、土地改良をしたのです。それが、巨大前方後円墳です。その前方後円墳を築造するためには、その前段階として、湿地帯の水捌けの作業が必要であるのです。
藤原日本史の二度の神仏戦争物語で、仏像を投棄する処が、二度とも「難波の堀」であるのです。では、その「難波の堀」とは何でしょうか。それは、河内湖の水を抜くための、上町台地を貫く人工運河であるのです。
この「難波の堀」により、河内湖の水が引き、その結果、奈良盆地の湿地帯の水も引いたのです。奈良盆地は、生駒山と葛城山に囲まれた地です。その奈良盆地を流れるのが大和川です。この大和川に流れるように奈良盆地に人工大運河を掘ったことにより、奈良盆地の湿地帯は、巨大前方後円墳を築く基盤ができたのです。奈良の発掘で、大きな溝が現れるのは、それは、大運河の遺構です。
奈良盆地に、巨大前方後円墳を築くことが出来たのは、藤原日本史が述べるように、大和の貴族の力が増してきたのではなく、ひとも住めぬ未開の地であったからです。そのひとも住めぬ湿地帯に、大運河を築き、そして、その残土を盛り上げて前方後円墳としたのです。そのために、先住民の関心を集めるために、吉備、出雲、東海などの各国の土器を集め、その前方後円墳に飾ったのです。そして、北九州の金メッキの豪華装飾品を埋葬品としたのです。
因みに、金メッキのアマルガム法は、ギリシャと交易をしていた騎馬民族スキタイが発明したものです。広域移動する騎馬民族にとって金製品は、生活必需品であるのです。それは、移動と供に運べる動産であるからです。ですから、武功を立てた武人は、テングリ(天子)から、金のブレスレットやネックレスを贈られるわけです。それらの金製品を身につけることは、武功の証であるのです。騎馬民族の流れにある役座が、金のネックレスやブレスレットをするのは、その騎馬民族末裔である武士のDNAが流れているからです。
しかし、丸山古墳や方墳は、墓であるため、その埋葬品は、埋葬者の生前の遺品であったのです。前方後円墳と丸山古墳とは、その築造目的が異なっていたのです。
古代エジプトの土木建築技術を持つ民族が、湿地帯の奈良盆地を、巨大前方後円墳を無数に築造することにより、農耕地や居住地にかえると、生駒山、葛城山、三輪山を占拠していた異民族により、ツバキ市やイワレの争奪戦となるのです。
この古墳時代前期、藤原日本史で言うところの大和朝廷統一時代、東アジアでは動乱の五胡十六国時代であったので、日本列島を史料で知ることはできないのです。
その虚を突いて、藤原日本史では、ユダ王国で預言者イザヤが活躍していた紀元前7世紀頃に、日本列島では初代神武天皇が大和で即位し、以下、第33代女帝推古天皇(593年〜628年)まで、架空の天皇を創作して、日本列島史を改竄していたのです。しかし、その改竄の度が過ぎて、「随書」により、藤原日本史の女帝推古天皇物語の「ウソ」が暴かれてしまうのは、歴史の皮肉です。
謎の氏族である紀氏が、大運河や前方後円墳により、湿地帯の奈良盆地の飛鳥ヤマトを整地すると、そこへ現れたのが、中央ユーラシアを支配した突厥帝国進駐軍であるわけです。このことを、藤原日本史では、527年継体天皇が大和国の磐余玉穂宮に入り、530年宣化天皇の時代に、大臣蘇我稲目が現れた、とするのです。
偽書の特徴のひとつは、政権を揺るがす大悪人の登場です。そして、その大悪人が、実は、前政権の王者であることです。
「日本書紀」には、神代の昔からの物語に色々な人物が登場しますが、天皇を殺したとハッキリ記述された人物は、蘇我馬子しか見当たらないようです。この蘇我馬子の父が、飛鳥大和朝廷を支配したとする宣化天皇の時代、530年歴史上に突然現れた大臣の蘇我稲目であるわけです。
この蘇我一族の名が、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿など、蔑称で記述されているのは、何故でしょうか。そして、この蘇我一族が悪行の数々をおこなったのが、飛鳥時代(530年〜645年)に重なるのです。
この飛鳥時代が、日本列島での古代国家の創始であるのです。ということは、この飛鳥ヤマトを支配した民族が、日本国の創始民族であるわけです。
藤原日本史では、その民族が九州に天磐船で降立った天孫族の大和民族であるとするのですが、日本語文法のルーツが、騎馬民族の言葉であるウラル語であることを、どのように説明するのでしょうか。
藤原日本史では、大陸からの民族移動を朝鮮半島から九州へ導くように、スサノウ物語などで新羅のことを記述するのです。しかし、五世紀の日本列島には、実践用馬具を埋葬した古墳が、岩手県以南に無数に存在したのです。そして、藤原日本史では、平安時代まで未開の地で蝦夷が棲むとする北関東の埼玉県行田市稲荷山古墳では、辛亥年と記された鉄剣が発掘されているのです。その辛亥年とは、471年です。
このことを、「日本書紀」信奉歴史学者は、四世紀に成立した大和朝廷の影響力が、北関東にも及ぼされていた証拠である、と述べています。しかし、その頃の飛鳥ヤマトでは、朝鮮半島から侵攻した民族が、前方後円墳を築き奈良盆地の土地改良をおこなっていた時期であるのです。
この頃の北陸には、北ユーラシアを東進する騎馬民族が、渡海の技術により、東海(トンヘ・後の日本海)を渡り、多く渡来していたのです。ですから、その東海沿岸では、騎馬民族系の方墳がおおく見られるのです。
謎が多い継体天皇の出自が、「日本書紀」で北陸越前であるするのは、その騎馬民族の北陸への渡来を隠蔽するためのトリックであるわけです。この北陸が、騎馬民族の渡来地であることは、その後、その北陸では創薬業が盛んであることと、鎌倉時代に、古代エジプトの太陽神アトンが変身した阿弥陀様が信仰されたいたことで証明できます。
熊の胆や鹿角などの動植物を原料とする創薬は、遊牧・騎馬民族の専業なのです。それは、農耕民族系「漢訳仏教」に対峙する、騎馬民族系「道教」の神農様が創薬の神様であることからでもわかります。
6世紀、突厥帝国進駐軍が日本列島に現れた頃、東アジアでは、北から攻める突厥軍団により、534年北魏が滅亡し、535年には北魏が東西に分裂し、更に、550年東魏は北齊に、そして、557年西魏は北周となり、北朝は大混乱の時期であったのです。その虚をついて、突厥は、552年突厥帝国を興し、東ユーラシア一帯を支配したのです。その突厥帝国の影響力は、当然、朝鮮半島から日本列島にも及んでいたのです。
527年突厥帝国進駐軍が、飛鳥ヤマトへ侵攻すると、その基地を、三輪山近くの三方を山に囲まれた地に築くのです。この東西約800m、南北約2kmの狭い地に、何故、突厥帝国進駐軍は、基地を築いたのでしょうか。それは、中国北魏の残党軍団の、日本列島侵攻を想定していたのです。
「日本書紀」によれば、蘇我稲目が、天皇領である「屯倉」(ミヤケ)を築いたとあります。では、その「屯倉」は、どのような地に築かれたかと言うと、それは、飛鳥ヤマトを防衛するように、畿内から瀬戸内海沿岸、そして、北九州にまで及んでいたのです。そして、吉備の屯倉建設には、蘇我稲目は監督として赴いていた、と記述しているのです。
この屯倉が築かれた頃、「日本書紀」によれば、継体天皇が大和に入京した527年、北九州では「筑紫国造磐井の反乱」があった、とするのです。この反乱の記述を示す他の史料として、「古事記」と「筑紫国風土記」があります。
この磐井の反乱が、「日本書紀」で述べるような物語ではないことは、「古事記」の暗号で分かります。それは、「古事記」では、「筑紫国造磐井」とするのではなく、「竺紫君石井」と記述しているのです。「古事記」は、「国造」の語を省いたのは、その頃には「国造」などの官位がなかったことを示すことにより、「日本書紀」が述べる「筑紫国造磐井の反乱」物語を否定したのです。
その「日本書紀」の「筑紫国造磐井の反乱」物語が「ウソ」であることは、その物語の多くは、唐代初期に著された「芸文類聚」に引用されている「書経」や「漢書」などの漢籍の表現を借りて潤色されているからです。
では、その反乱がどのような経緯のものであるのかは、史料では知ることができません。それは、今に残る全ての史料は、敗者のものではなく、勝者のものであるからです。しかし、各国の前史を抹殺・隠蔽・改竄するために著された「風土記」には、前史を復元するヒントが隠されていることもあるのです。
「筑紫国風土記」には、「日本書紀」の物語で、大和朝廷の鎮圧隊に殺された「石井」の墓についての記述があるのです。その石井の墓には、無数の石人と石馬が飾られていたというのです。そして、その石人石馬は、大和朝廷により破壊されたというのです。
何故、「筑紫国風土記」は、そのように石人石馬について、その由来から破壊までを記述したのでしょうか。それは、その石人石馬は、突厥帝国のもであったからです。
5世紀、バイカル湖沿岸に興ったチュルク系民族の突厥は、騎馬で草原を疾走して、その勢力を東西ユーラシアに伸ばすのです。突厥軍団は、その支配した草原に、石人像を残したのです。現在も、モンゴル平原には、突厥の石人を見つけることができます。
この突厥の石人は、飛鳥ヤマトでも発掘されているのです。しかし、その石人は、後の歴史学者により猿石と呼ばれてしまうのです。この猿石は、蘇我馬子の宮とする地から、五体発掘されているのですが、その石人は、猿には似ていません。何故、猿石なのでしょうか。その謎解きは、平安時代に盛んになった伎楽が、「猿楽」と呼ばれたことで、解明できます。それは、「猿」とは、「申・しん」で、「秦」を隠蔽する語であるのです。つまり、「猿石」とは、「秦の石」で、秦とは西方アジア以西の東ローマ帝国を意味していたのです。五世紀以降、日本列島に無数に存在していたこの猿石は、645年侵略した漢訳仏教により、道祖神や地蔵に改竄され、歴史上抹殺されてしまうのです。そして、謎の石像の猿石となって、現在に至るのです。
何故、そのように突厥民族の文化である石人が、蔑称である「猿石」などと呼ばれるのかは、五世紀から六世紀にかけての東アジアの歴史を知ることで理解できます。
五胡十六国の動乱を鎮めたのは、北の北魏(430年〜534年)と南の宗(420年〜479年)です。北魏は、三国時代の魏の後裔と唱え北中国を支配したのですが、その王である太武帝は、遊牧・騎馬民族の鮮卑族が出自であったのです。この太武帝は、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩摩羅汁が、ギリシャ語仏典から漢訳した経典を焚書して、446年から太武帝が暗殺される452年まで、漢訳仏教を弾圧していたのです。そして、太武帝は、騎馬民族文化を取り入れた「道教」が、寇謙之により成立されると、その道教を保護したのです。ここから、農耕民族の「漢訳仏教」と騎馬民族の「道教」との戦いが始まるのです。
それは、漢訳仏教の経典に、鳩摩羅汁により、騎馬民族文化を蔑視する言葉「施陀羅」などか挿入されていたからです。施陀羅とは、バラモン教の思想で、肉食する遊牧民族トラヴィダを蔑視する、人間以下の畜生のチャンダラーを漢訳した言葉です。
その北魏で、鮮卑族の太武帝が暗殺され、漢民族文化に染まった文成帝が即位すると、道教は中央から排除され、替わりに漢訳仏教が復活するのです。そして、北魏は、漢訳仏教文化の華を咲かせるのです。
その北魏を、チュルク系騎馬民族の高車民族を取り込んだ突厥民族は、534年北魏を倒すのです。その北魏が、突厥に攻撃されると、北魏の漢訳仏教は、南下して仏教国の高句麗・百済に亡命するわけです。朝鮮半島で、仏教文化時代を表す年号「白鳳」が使われるのは、北魏からの漢訳仏教の移動と連動しているのです。そして、その白鳳の年号は、朝鮮半島では七世紀まで続くのです。しかし、その仏教文化を示す白鳳の年号は、「日本書紀」には記されていないのです。
漢訳仏教は、反騎馬民族集団と供に移動することは、イエズス会がポルトガル軍団と供に移動することと同じです。漢訳仏教は、貧民を救済するためではなく、その反対に、まつろわぬ異民族を支配するための思想武器であるのです。
朝鮮半島を南下した漢訳仏教組織は、528年古代新羅を占領するのです。その結果、ギリシャ・ローマ文化の女王国の古代新羅の王族は、その朝鮮半島南の支配地から、玄界灘を渡海して、北九州に逃避するわけです。
北九州でのこの時の戦闘が、「日本書紀」で述べる「「筑紫国造磐井の反乱」の実態です。その朝鮮半島から亡命した民族により興された北九州の都市国家が、「秦王国」で、608年まで存続していたことは、隋使の報告を纏めた史料「隋書」に、「その国華夏(先進国中国)と同じ」と記述されています。その秦王国の建国時期の王の墓が、突厥帝国の文化を示す、石人・石馬が飾られている九州福岡県八女市の岩戸山古墳であるわけです。
527年、その動乱の朝鮮半島から、古代新羅の王族を追い落とした北魏残党軍の、九州侵攻を阻止するために、飛鳥ヤマトを占領した突厥帝国進駐軍(蘇我稲目)が築いた防衛施設が、「ミヤケ」だったのです。その北九州に秦王国を興した民族(秦氏)は、先遣隊(紀氏)と合流し、吉備→河内へと侵攻していくのです。
その秦氏(古代新羅)は、蘇我氏(突厥民族)とは、同族の騎馬民族であることで同盟関係が成立するのです。それは、突厥帝国軍団には、東ローマ帝国との合同戦術により、宿敵北魏と通じるシルクロード交易の支配を目論む中央ユーラシアのエフタル(440年?〜563年)壊滅のために、ローマ帝国軍団が駐屯していたからです。
古代新羅(秦氏)は、その文化がギリシャ・ローマ文化であるように、その古代新羅軍団組織は、ローマ帝国軍と同じであったのです。その古代新羅の軍団は、ローマ帝国軍の軍神ミトラを信奉していたことにより、花郎騎士団と呼ばれていたのです。「花」とは、「ミトラ」の借字です。その花郎騎士団が、平安時代末期に「源氏」武士となるわけです。
秦氏の先遣隊の紀氏が、ローマ帝国軍団末裔であることの根拠として、その根拠地の紀の川河口から、紀の川を遡り、吉野川を更に遡り、峠を越え、奈良盆地の最南へ辿り着くための「道路建設思想」があります。
古墳時代以前の奈良盆地は、「日本書紀」の神武東征物語の大和侵略物語にもあるように、大湿地帯のため、ローラン(浪速)から生駒山を越えるルートで、国際交易地の三輪山麓に行き着くことは困難であったのです。
ですから、三輪山麓へは、巨大前方後円墳が築かれる前のルートが、紀の川から吉野川を遡るルートであったのです。その吉野から多武峰(「山が連なる」の意味である突厥語の「タフ」がルーツ)の麓を越える古道が、近年発掘されたのです。
その古道は、不思議な思想により造られていたことが分かったのです。それは、道路の基礎工事のために路盤を小石で造り、その上に土を突き固めて表層部とした構造となっていたのです。更に不思議なのは、その古道は、一直線思想で造られていたのです。
その古道では、谷間は、石を敷き詰めて埋め、そして、峠は切り通していたのです。何故、障害物や障害処を避けないのでしょうか。そのような谷間を埋め、峠を切り通すよりも、迂回すれば、労働力を効率的に使えるはずです。
ローマ帝国軍は、建築や道路造りが名人であったようです。征服した地には、石とセメントにより立派な建造物を造り街とし、その街からローマに続く道路を建設していたのです。その石を敷き詰めた道路を敷設する思想が、「一直線」であったのです。そのために、谷を埋め、山は切り通されていたのです。このような一直線の石葺きの道路を建設した民族は、歴史上ではローマ帝国軍でしか見あたりません。その紀氏の拠点である紀の川河口の古墳からは、ローマ帝国軍団の馬を武装する同型の馬冑と馬鎧が発掘されているのです。
そのようなローマ文化思想による道路建設は、527年突厥帝国が、飛鳥ヤマトに侵攻した時点から建設されていたのです。しかし、藤原氏の巧みな歴史改竄や隠蔽により、そのオリエント文化の飛鳥ヤマトが、仏教文化の花咲く飛鳥大和に変身されてしまったのです。
藤原氏は、飛鳥ヤマトの歴史を熟知していたので、そのオリエント文化の飛鳥ヤマトを仏教文化の飛鳥大和に改竄し、そして、その前文化を隠蔽する物語を「日本書紀」に挿入するのです。その物語の主人公が、女帝皇極天皇が重祚した斉明天皇です。
この斉明天皇物語で、オリエント文化の飛鳥ヤマトの土木建設を隠蔽したのです。斉明天皇の行った土木建設事業として、「狂心渠」、石積の「人工丘」、「両槻宮」などがあります。そして、それらの遺構は、発掘されているのです。このことにより、「日本書紀」信奉者は、「日本書紀」は、飛鳥大和の史実を伝えている、と述べるのです。しかし、遺構は発掘されても、その遺構を建設したのは、斉明天皇であるのかは断定できないのです。
その例のひとつとして、「日本書紀」の記述によれば、斉明天皇は、蝦夷を歓待していたのですが、その蝦夷の描写は事実と異なるのです。
「日本書紀」の蝦夷の記述では、大和朝廷が、遣唐使と供に蝦夷男女二名を送るのです。その蝦夷に対して、唐の天子(テングリ)が問うのです。天子「蝦夷の国はどこか。」、蝦夷答えて「東北にあります。」、天子「いく種類か。」、使答えて「遠いものは都加留、次は荒蝦夷、近いものは塾蝦夷です。」、天子「その国に五穀はあるのか。」、使答えて「ない。動物の肉を喰います。」、天子「国に家はあるか。」、使答えて「ない。深山で樹の下に住みます。」、天子「われは蝦夷の顔かたちの異様なのに驚いている。」、とあるのです。
しかし、「新唐書」側の記述では、「日本の使者が蝦夷人とともに入朝した。蝦夷も日本人と同じく海の彼方の島に住んでいる。蝦夷の使者の鬚は長さ四尺ほどもあった。箭(や)を首にはさむ。人の頭の上に瓢を載せ、数十歩離れて立たせて瓢を射ったが当たらなかったことはなかった。」、と蝦夷の弓術の技術が優れていることに驚嘆したことが記述されているのです。
「日本書紀」の蝦夷(突厥帝国進駐軍末裔と秦氏軍団末裔)や古代新羅に対する記述は、そのように「中国の国書」とは異なる記述が多くあるのは、何故でしょうか。
では、「日本書紀」で斉明天皇の時代だとする、その土木建設事業は、実際はどのようなものであったのでしょうか。
「日本書紀」によれば、女帝斉明天皇の在位は、655年から661年の6年間です。その6年間で、ブルドーザーなどの動力機が無い時代に、それらの土木事業が成し遂げられたかは、不思議です。まず、「狂心渠」をみてみましょう。それは、唯の「ミゾ」なのではなく、石で堤を築き、幅10m前後、深さ約1.1mで、推定では、飛鳥寺から斑鳩まで続いていたようです。その斑鳩の地とは、ローラン(浪速)から大和川を遡った奈良盆地の北端であるのです。この「狂心渠」は、ローラン(浪速)からの川舟が通る大運河であったのです。
この大運河は、608年ソインコウ(小野妹子)が隋使裴世清を伴って、河内から船で、男王アマタリヒシコの居る飛鳥ヤマトへの渡来ルートであったのです。何故、「日本書紀」は、50年も前に存在していた大運河を、斉明天皇が造ったというのでしょうか。それも、「たわぶれごころミゾ」などの蔑称を付けているのです。
次に、石積の「人工丘」とは何でしょうか。その人工丘は、そのミゾで船に満載した石で築き、築いたそばから崩れ落ちた、と「日本書紀」で述べているのです。では、その石の丘とは何かといえば、紀元一世紀の高句麗で発掘された、前方後円墳の祖の墳墓であるのです。土盛の箸墓古墳以前には、その高句麗式の石積の前方後円墳が、奈良盆地に築かれていたのです。
最後に、「両槻宮」とは何でしょうか。「日本書紀」では、仏教伝来以前に存在していたとする、神道の宮であると述べているようですが、神道が日本列島の歴史上に現れるのは、645年漢訳仏教伝来以降の奈良時代であるのです。
では、その田身嶺(たみのみね=多武峰=突厥語のタフ→連なる山)に建てられた「両槻宮」とは何かといえば、宮などではなく、朝鮮式山城であったのです。
東アジアで突厥帝国と北魏残党軍で戦闘をおこなっている時代、軍事都市飛鳥ヤマトが、中国からの北魏残党軍に侵攻された時に対しての防御としての山城が、「両槻宮」の実態なのです。その根拠として、その「両槻宮」がある山の麓には、石垣が四重にも巡らされていたのです。頂上の砦を護るために、山の斜面に石垣の防御を築くことが、朝鮮式山城の特徴のひとつだからです。
何故、「日本書紀」は、斉明天皇時代以前の土木建築物を、そのように時代をずらして記述したのでしょうか。それは、645年以前の歴史を抹殺するためです。
「日本書紀」は、北陸越前から侵攻した突厥帝国軍団と九州から侵攻した古代新羅軍団の歴史を抹殺するために、架空の継体天皇を創造したのですが、その継体天皇物語には、それらの騎馬民族の政治形態が述べられているのです。そのひとつが、「合議制」です。
神を祖先とする絶対権力者の天皇であるのならば、「合議制」は、天皇の存在を否定する政治です。それは、下々の意見を聞き、皆で談合する政治であるからです。「日本書紀」では、継体天皇が現れた時から、合議制となっているのです。それは、継体21年6月条で、磐井討伐軍の将軍の人選を継体天皇が大臣、大連に諮問しているからです。
更に、その合議制の記述は、皇極天皇(後に斉明天皇)の皇極元年7月条の旱対策について群臣と大臣蘇我蝦夷との合議まで続くのです。そして、645年以降、その合議制の記述がなくなるのです。
では、その継体天皇から皇極天皇まで続いていた「合議制」とは、何かと言えば、それは、騎馬民族の政治形態であるのです。527年継体天皇が飛鳥大和に侵入した時から皇極天皇が退位した645年まで、飛鳥ヤマトでは、騎馬民族の政治形態で政治が行われていたのです。
飛鳥ヤマトには、「日本書紀」で述べているように552年仏教伝来以前に、神道などなかったことは、その皇極天皇時代での旱対策についての合議の内容で暴露されてしまうのです。
その旱対策の「日本書紀」にある合議物語では、641年蘇我蝦夷が群臣と旱対策を合議するなかで、群臣が、「村々の祝部の教えに従い牛馬を殺して緒々の神社(モリ/「ジンジャ」は明治時代に発明された言葉)の神を祭り、或は市(バザール。鎌倉時代に、役座が仕切る寺社の縁日・祭日の高市(タカマチ)となる。)を移し、また河伯(水神。後に、漢訳仏教により「カッパ」に貶められた。更に、山に追われ「天狗」となる。)に祈れ」と言って実行したが、その効き目がなかったので、蘇我蝦夷が、大乗経典の転読と悔過を勧め、「大寺」の南庭に仏、菩薩と四天王の像をしつらえて、僧とともに大雪経などを読んで請雨の行法をおこなったが、翌日に小雨が降るにとどまった。しかし、皇極天皇が、飛鳥南淵の河上で、「四方を拝み天を仰いで拝みたまふ」と、すぐに雷が鳴って、五日間も大雨がやまなかった、と述べているのです。
この「日本書紀」の雨乞いの記述は、645年以前の飛鳥ヤマトの宗教についてのヒントがあるのです。その合議の四年後の645年は画期的で、「日本書紀」によれば、蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焼き自殺し、皇極天皇が退位しているからです。
では、群臣が、「牛馬を殺し、神社(モリ)に祈る」とは、どのような宗教儀式であるのでしょうか。それは、死を穢れとする神道の儀式ではないことは一目瞭然です。飛鳥時代では、神社(モリ)は、牡牛を屠る祭祀場であったのです。その儀式とは、太陽神の化身である牡牛を屠り神に祈る「ミトラ教」(景教)のものであるのです。このミトラ教(景教)は、秦氏が日本列島にもたらしたのです。
では、皇極天皇がおこなった四方拝の儀式は、どのような宗教儀式であるのでしょうか。それは、仏教ではなく、道教の儀式であるのです。騎馬民族鮮卑出自の北魏の天子(テングリ)太武帝は、「施陀羅」などの差別語で騎馬民族文化を侮蔑する漢訳仏教の隆盛に対抗して、寇謙之が土着宗教を大成した「道教」を保護したのです。その道教の儀式のひとつが、四方拝であるのです。後に、漢訳仏教もこの道教の四方拝を導入するのですが、それは平安時代以降であるのです。因みに、奈良時代末期、漢訳仏教に敗れた道教は、陰陽道へと変身し、今日に至るのです。
くしくも、「日本書紀」は、蘇我蝦夷(突厥帝国軍末裔)を登場させ大乗仏教の存在を述べる過程で、皇極天皇時代までの飛鳥ヤマトには、ミトラ教(景教)と道教が存在していた事を、証明してしまったのです。
ここで、ある疑問が起こるのです。それは、「古事記」は平安時代初期に秦氏末裔多人長により、「日本書紀」の偽史を暴くために著されたのならば、何故、推古天皇までで、年代に合わない、数十年前の異教民族物語が多く記述された皇極天皇物語まで記述しなかったのでしょうか。
「日本書紀」は、女帝持統天皇まで記述しているのに、「古事記」は何かの事情で、推古天皇までしか著されなかったと言うのならば、何故、「古事記」は序に天武天皇のお言葉を記しているのでしょうか。
考えられることは、その推古天皇で終わる「古事記」には、天武天皇の序のお言葉かあると言う事は、天武天皇以前の、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、弘文天皇の存在を疑え、との「古事記」の暗号であるということです。
この628年舒明天皇から672年弘文天皇までの東アジアでは、628年唐が中国を統一し、そして、668年高句麗を滅ぼし、唐は朝鮮半島南端までその勢力下に置いた時代であったのです。そして、飛鳥ヤマト支配者の母国である東突厥は、630年唐により散逸されていたのです。

日本列島は、藤原日本史が述べるように「孤立した島」などではなく、騎馬民族が支配する北ユーラシアと、農耕民族が支配する中国中腹につながる回廊であるのです。ですから、日本列島は、東アジアとは、リアルタイムで連動していたのです。つまり、東アジアの出来事は、そのまま、日本列島でも起こっていたのです。
そのように、527年継体天皇から645年皇極天皇までは、飛鳥ヤマトは騎馬民族突厥とギリシャ・ローマ文化の秦氏が支配していたのですが、645年孝徳天皇から672年弘文天皇までは、唐進駐軍が飛鳥ヤマトの支配権を確立する時代であったのです。つまり、645年を境に、道教・景教を信奉する飛鳥ヤマトを支配した騎馬民族の突厥が、漢訳仏教を信奉する農耕民族の唐と交代したのです。しかし、794までは、奈良盆地の北に接する山背国は、突厥帝国残党と秦氏残党が支配していたのです。
「日本書紀」は、その史実を隠蔽する為に、「大化の改新」物語を創作したのですが、その物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」を租借したものです。更に、645年から飛鳥大和では仏教文化の花が咲いたとする「白鳳文化」なるものを唱えていますが、その「白鳳」の年号は、飛鳥ヤマトの年号などではなく、朝鮮半島が漢訳仏教化された511年?から七世紀にかけての「年号」であるのです。白鳳の年号が、飛鳥ヤマトのものではないことは、「日本書紀」にその白鳳年号の記述がないことで証明できます。
645年以降、オリエント文化の、そして、道教・景教が信奉されていた飛鳥ヤマトの宗教施設は、唐進駐軍に徹底的に破壊され、その跡に、唐文化の基本思想である、漢訳仏教の建設思想の南北軸で、大路が築かれ、そして、北九州から飛鳥ヤマトに持ち込んだ仏寺を移築して、607年聖徳太子が建立した法隆寺などと称して、飛鳥ヤマトを漢訳仏教のテーマパークとしてしまうのです。このことにより、道教の観や景教の祭事場は、歴史上から抹殺されてしまうのです。
しかし、史料では騎馬民族の歴史を抹殺できても、あまりにも壮大な騎馬民族の遺構までは抹殺できなかったのです。景教文化を仏教文化に摩り替えた根拠のひとつが、奈良盆地から発掘された「大路」の遺構です。
現代の道は、コトバと同じに、時代により途切れる事はないのです。その道が途切れたとすれば、それは異民族が現われたことを示唆します。例えば、奈良時代までの大路の幅が12mであったものが、平安時代になると道幅が6mと狭くなり、馬の替わりに牛が運搬輸送に使われたのは、支配民族が替わったことを示唆します。つまり、漢訳仏教を掲げる唐進駐軍による、近畿地域からの騎馬民族の駆逐です。
縄文時代から、和歌山県紀の川から伊勢につづく道が存在していました。それは、中央構造線により、地下資源が地表に現われていたので、その地下資源の鉱物である朱砂の塊を採取する民族が往き来していたからです。その道は、現在では和歌山街道として使われています。
その和歌山街道の中間地点の大淀町を北へ向かう道を辿ると、奈良盆地の南端イワレに辿り着くのです。そのイワレとツバキ市は、縄文時代から国際交易の地であったのです。しかし、その国際交易地がある奈良盆地は、弥生末期の三世紀まで大湿地帯で、ひとも住めない地であったのです。そして、三世紀半ば、その大湿地帯が、前方後円墳を築く古代エジプトの土木建設技術を持った民族が、高句麗から吉備を経て渡来することにより、ひとが住める地となっていくわけです。
その奈良盆地から、近年大路の遺構が発掘されたのです。それらの南北に走る大路は、上ッ道、中ッ道、そして、下ッ道と名付けられ、更に、その三大路を東西に走る横大路と名付けられたのです。その大路の幅は約12mもあるのです。そのような幅広の大路は、誰により、何を目的に敷設されたのでしょうか。
その不思議な大路の下から、南北軸とは異なる大路が発掘されたのです。その南北軸ではない大路は、南北軸より西に約20度傾いているのです。そして、その大路は、飛鳥ヤマトから斑鳩まで続いていたのです。
藤原日本史では、その南北軸ではない大路を、「太子道」と説明し、聖徳太子が、斑鳩から飛鳥ヤマトまで愛馬黒駒で通うために敷設された大路である、と説明しているのです。しかし、聖徳太子は、平安時代に発明された創作人物であるのです。何故、藤原日本史は、架空の聖徳太子を発明してまでも、その南北軸と異なる大路を隠蔽する必要があったのでしょうか。
それは、その「太子道」の大路は、神道崇拝民族でも漢訳仏教徒によるものでもなく、太陽神ミトラを祭る民族により築かれたもので、その根拠である斑鳩のミトラ教の建築遺構(藤原日本史では法隆寺近接の斑鳩宮跡)の建設基準に合わせて建設されていたことが「バレ」てしまうからです。
そのように、漢訳仏教が支配する前の飛鳥ヤマトに、景教(ミトラ教)や道教の宗教施設が存在していたことが分かってしまうと、552年仏教伝来の「藤原日本史」の虚構が暴かれてしまうのです。
1964年東京オリンピック開催のために、日本全国の山間僻地は掘り返されていたのです。それは、日本列島に高速道路を建設するためです。この高速道路建設の道程で、古代の大路の謎が解けていくのです。
藤原日本史では、藤原京から平城京へ遷都される頃、日本列島では律令制度が確立して、全国につながる五畿七道が整備され、租調の税物を都まで運んでいた、とするのです。つまり、全国に張り巡らされた大路は、律令制度とともに発展していた、とするのです。
では、その律令制度が日本列島に現れた時代は、と言えば、それは、701年の大宝律令が始めであるのです。この大宝律令は、「大和言葉」ではなく、唐の公式語である「漢語」で記述されているのです。そして、その律令の内容は、唐の律令を基本としているのです。これは何を意味しているのでしょうか。
藤原日本史では、大和朝廷は唐の税制度を基本に、日本列島を公地公民制とするために「導入」した、と述べているのですが、それは本当なのでしょうか。
日本列島を公地公民制で支配するために大宝律令を漢語で制定したのは、701年です。これでは、約百年前の飛鳥ヤマトの「太子道」である大路の敷設年度と合いません。そこで、藤原氏は、大宝律令を改竄して「大化の改新」なるものを発明して、645年「公地公民」の宣言をした、とするのです。しかし、その詔の中に、大宝律令の「郡」などの語彙が現れてしまうため、今日では、「大化の改新」の実在性が疑われているのです。
その高速道路建設のために山間僻地から発掘された大路には、水捌けのための側溝があり、路盤の基礎がある本格的な路で、その道幅は十数mから四十数mもあったのです。更に、その大路跡は、ほぼ高速道路建設予定ルートと重なっていたのです。更に、その大路は、「一直線思想」で貫かれていて、谷は小石で埋め、峠は切り通されていたのです。
藤原日本史では、平安時代以前では、東国は蝦夷の国で、未開の地であった、と述べているのです。しかし、その古代の高速道路は、飛鳥ヤマトを基点にして、中央自動車道や北陸自動車道のルートと重なり、東北の蝦夷の国を目指していたのです。
藤原日本史の呪縛にあうと、日本列島の文化は、四世紀の飛鳥大和朝廷を中心に発展したと信じ込んでしまうのです。
藤原日本史では、その四世紀に大和朝廷が存在していた根拠として、天皇家が墳墓として巨大前方後円墳を飛鳥大和に築いたからとするのです。そのような藤原日本史によれば、大和朝廷は、飛鳥大和から地方に勢力を伸ばして、五世紀には、九州だけではなく、東国までも支配下にしたとする証拠に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土の鉄剣をあげています。
その鉄剣の150文字の漢字には、オホヒコからオワケノキミに至る八代の系譜が記されていて、ワカタケル大王も記載されていたのです。そして、「辛亥年」と明記されていたのです。その年は、西暦で471年であるのです。そして、その鉄剣は、シキノミヤで製作されたとの記述があるのです。
これらの鉄剣の漢字文章をもって、藤原日本史は、「オワケ」とは継体天皇で、「ワカタケル大王」は雄略天皇で、「シキノミヤ」とは大和の三輪山麓の磯城(シキ)であるとするのです。しかし、漢字二文字の地名・人名は、713年好字令により創作されたものです。ですから、五世紀の「シキノミヤ」とは、飛鳥大和などではなく、埼玉県のシキ(志木)と考えたほうが合理的です。
その東国(埼玉県の)吉見では、石山を繰り抜く西アジアの埋葬施設が建設されていたのです。しかし、藤原日本史では、「コルボック」などの小人伝説を創作して、その西アジアの埋葬施設(藤原日本史では「吉見百穴」)を隠蔽しているのです。
その後、さきたま古墳群にあるその鉄剣が出土した稲荷山古墳から南側にある将軍塚が発掘されると、そこから馬冑が現れたのです。その馬冑は、紀の国の大谷古墳から出土した馬冑と同型であったのです。この馬冑は、騎馬民族と戦うローマ帝国軍団の重騎馬軍団の装備品であったのです。そして、その将軍塚からは、金メッキの馬具、金製の耳飾が発掘されていたのです。これらの発掘物により、その被埋葬者は、農耕民族なのではなく、騎馬民族であることが示唆されるのです。
五世紀から六世紀にかけて、藤原日本史では、倭族(いぞく)の五王の「讃」を仁徳天皇とか「武」を雄略天皇とかに変身させ飛鳥大和の存在を示すのですが、倭国とは、紀元前の呉越末裔の海洋民族国であるのです。
紀元前に中国南端に暮らしていた国際海洋民族の呉越末裔(藤原日本史では「弥生人」)が、タミル語と水田稲作技術を持って、黒潮により大船団で北上して、対馬で西に別れて朝鮮半島南端にたどり着いたのが「韓族」となり、東に分かれて北九州にたどり着いたのが「倭族」となったのです。
つまり、倭国とは、玄界灘を挟んで、朝鮮半島南端と北九州を合わせた国であったのです。その朝鮮半島南端の倭国の支配者が、高句麗・百済・古代新羅に追われて、北九州の倭国に亡命したのが、倭の五王であったのです。その倭国が朝鮮半島南端に存在していた根拠として、広開土王碑には、倭国は新羅に接していたとの記述があるからです。その朝鮮半島南端の倭国を、藤原日本史では、日本府の任那とするのです。
その倭の五王の時代、421年(倭王讃)?〜479年(倭王武)?までは、飛鳥ヤマトには、天皇が支配する大和朝廷など存在していなかったのです。その根拠は、「宋書」倭国伝にあるのです。倭国王武の上表文の冒頭に、

封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東の方、毛人を征すること五十五国、西の方衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らげること九十五国。

この「宋書」の文書をもって、藤原日本史では、479年?雄略天皇の先祖は、朝鮮半島に出兵し、そこを征服した根拠とするのです。しかし、この文章は、飛鳥大和には「武」の先祖が存在していなかったことを黙示しているのです。それは、「祖禰みずから甲冑をつらぬき」の文章があるからです。
「祖禰」とは、一代や二代先ではなく、もっと先の先祖を意味する言葉です。「武」が生存した479年?を起点として、例えば、一代20年として、四代先として80年を引くと、399年となるわけです。「武」の先祖が、399年には甲冑で武装していたとすれば、当然、飛鳥大和には鉄製の武器製造所がなくてはなりません。しかし、飛鳥大和での鉄器製作遺構は、五世紀半ば以降まで待たなくてはならないのです。つまり、「宋書」倭国伝の文章は、「武」の「祖禰」は、飛鳥大和以外にいたことを示唆するのです。
しかし、471年(辛亥年)以前の東国(藤原日本史では「蝦夷の国」)には、金メッキを施した装飾品で着飾った騎馬民族の大王が存在していたのです。
そのような観点から古代の高速道路の敷設を考えてみると、それは、飛鳥大和からではなく、東国から飛鳥ヤマトへと敷設されていたことが示唆されるのです。
北陸道は、日本海沿岸に沿って秋田まで続き、そして、東山道も日本列島の山間地をぬって秋田まで続いていたのです。
東アジア全土の地図を逆さに眺めれば、五世紀の東ユーラシアを支配した騎馬民族が、朝鮮半島の付け根を支配する高句麗を避けて、日本列島に渡海するのに適した処は、「秋田」です。
五世紀、東ユーラシアを支配した、渡海技術持った騎馬民族が、中国大陸から秋田の酒田津に上陸して、最上川を遡って西国に行くルートが東山道です。この山岳ルートは、太平洋沿岸の異民族を刺激することなく近江まで行き着くことができます。そして、酒田津から、日本海沿岸に沿って進む北陸道の沿岸ルートにより、謎の継体天皇の出身地とする越前を経て近江にたどり着けるのです。では、この二つの古代の高速道路は、何を目的に敷設されたのでしょうか。
1590年イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉は、宿敵徳川家康を、関東の湿地帯に追いやるのです。その徳川家康は、騎馬民族末裔で、その配下には武田軍団残党の、産鉄民族の金山衆や古代エジプトの土木建設技術を持った秦氏の渡り職人衆がいたのです。
それらの土木建設技術者を総動員して、江戸川や利根川の支流が流れ込む河州の大湿地帯を、神田台地を掘削して大運河を造り、その残土で湿地帯を居住地にしてしまうのです。そして、その大土木事業に平行して、エドから小田原に向けて一直線思想により大路を築いて行くのです。
その目的は二つ、ひとつは物流、もうひとつは軍事です。徳川家康は、関白豊臣秀吉との対決を果たすため、迅速に騎馬軍団を京に移動するために、その一直線の大路を築いていたのです。その大路を移動する騎馬軍団の補給地が、宿場となって街道に築かれていくのです。
六世紀半ば、飛鳥ヤマトに突然現れた騎馬民族の突厥は、瀬戸内海沿岸を北九州向けた大路の山陽道に沿って、騎馬軍団の補給地を築くのです。それは、中国大陸の北魏残党の侵攻を防ぐためです。これが「ミヤケ」の実態です。藤原日本史では、この騎馬民族の軍事補給地を、天皇領地の「屯倉」と改竄するのです。つまり、六世紀の日本列島は、東アジアの騎馬民族と農耕民族との戦乱に巻き込まれていたのです。
この近江から北九州につづく山陽道の大路は、古代エジプトの土木建設技術を持つ民族により、三世紀半ばには敷設されていたようです。それは、三世紀半ばに飛鳥ヤマトに突然現れた巨大前方後円墳が、その山陽道の吉備の土木建築技術により築かれていたからです。
吉備(岡山市)には、墳丘全長360mの造山古墳、286m作山古墳、192m両宮山古墳などの大型古墳が築かれていたのです。そのような大型古墳を吉備に築くことができたのは、吉備には、大型土木建設に必要な鉄器を造る製鉄工場があったからです。
そして、藤原日本史が、四世紀に飛鳥大和朝廷が存在していた証拠とする箸墓古墳は、その吉備の古墳築造技術により作られ、埋葬品の巨大陶器は吉備製であったのです。しかし、藤原日本史では、吉備からの古墳文化の流れを逆に改竄して、大和朝廷の威光が飛鳥大和から吉備に発信していたとするのです。
この山陽道の大路を敷設したのは、秦氏の先遣隊の紀氏が考えられます。三世紀半ば、その紀氏は、紀の川から吉野を経て、奈良盆地の南端にたどり着き、その奈良盆地南端の湿地帯を、戦国末期のエドのように、大溝を掘り、山を切り崩し土地改良すために、三輪山の麓に巨大前方後円墳を築いたのです。
巨大前方後円墳を築く目的のひとつが、湿地帯の土地改良で、もうひとつが、先住民に土木建設の仕事を与えて、配下とし、いざという時、その先住民の持つ鍬を武器に換えることにより、戦闘部隊を編成することであったのです。そのために、前方後円墳のデザインや装飾品は、出雲、吉備、東海などの各地の文化を取り入れていたのです。
その前方後円墳を築くための、大規模土木建設の過程で造られた大溝や大路により、奈良盆地が湿地帯から居住地となったのが、527年であったのです。このことを藤原日本史では、継体天皇が大和国の磐余玉穂宮に入ったとするのです。しかし、その実態は、北陸道や東山道から侵攻した突厥軍団が、近江から飛鳥ヤマトに侵攻した物語であったのです。
その突厥軍団は、広大な奈良盆地にではなく、三方を小山に囲まれた飛鳥に砦を構えたのは、北魏残党軍の攻撃を予期していたからです。
534年突厥軍団の攻撃により、北魏は東西に分裂するのです。その余勢をかって、突厥が高句麗を攻めると、高句麗は朝鮮半島を南下することにより、百済、古代新羅が圧迫されるのです。
その北魏が東西に分裂したことにより、太武帝暗殺後、漢文化に染まった天子(テングリ)により北魏で厚い保護を受けていた漢訳仏教も、朝鮮半島に侵攻してくるのです。その影響で、非仏教国のギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、支配地を追われ、北九州に亡命するわけです。それが、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱とされてしまうのです。そして、古代新羅は、528年からギリシャ・ローマ文化国から仏教国となってしまうのです。
この漢訳仏教組織には、騎馬民族と戦うために改良された武器が開発されていたのです。それが、長刀です。その長刀で武装する僧は、僧兵と呼ばれていたのです。日本列島の平安時代に暴れまわった僧兵のルーツは、北魏にあったのです。
藤原日本史では、漢訳仏教の伝来を552年(亡命百済貴族は538年を主張)とし、高僧が中国の高度文明を漢字とともに日本列島の飛鳥大和にもたらした、と述べるのですが、その漢訳仏教の実態は不明なのです。それは、漢訳仏教の飛鳥大和への伝来(552年)が疑わしいからです。
仏教僧兵の始めは、北魏に認められます。中国大陸の五胡十六国を平定したのが、南朝の宋と北朝の北魏です。北魏を興した騎馬民族鮮卑出自の太武帝は、長安を陥落させ、城内を探索させると、仏教寺院から夥しい武器を発見するのです。中国の仏教寺院は、表向きは宗教施設であっても、その実態は武器庫でもあったのです。
中国で建設された寺(ジ)は、その始めは、死者を弔う宗教施設などではなく、西方から渡来する僧形の国際交易商人を取り調べる施設であったのです。その関税所の施設が、やがて、漢訳仏教が騎馬民族を蔑視する施陀羅思想を広めることにより、漢文化に染まった王族に取り入り、治外法権を確立すると、その寺(ジ)は、西方から渡来する国際交易商人達の「特別な施設」となっていくのです。そして、その「特別な施設」は、武器を持った守備兵により護られて行くのです。
寺(ジ)が、死者を弔う寺(テラ)となるのは、日本列島では鎌倉時代以降で、死者を弔うことが漢訳仏教の主事業となるのは、アラブ系海洋民族末裔の織田信長により、比叡山と石山寺の漢訳仏教軍団が壊滅されたことにより、各種利権が剥奪された、戦国末期からなのです。
戦国時代末期までの日本列島の土地は、貴族(藤原氏と亡命百済貴族)と仏教組織に支配されていたのです。ですから、比叡山の私領地が多くある関東には、仏教組織が管理する関所などを設けて、庶民から通行税を徴収していたのです。その仏教支配地に、騎馬民族末裔の徳川家康が、オリエント文化の飛鳥ヤマト時代以来の、一直線の大路を、エドから小田原に敷設できたのは、仏教軍団が織田信長により壊滅されていたからです。
当然、漢訳仏教の思想は、肉食する騎馬民族を敵としていたので、その武器は、対騎馬戦用に開発されたのです。それが、馬上の武将を切るための長刀であったのです。
北魏を興した太武帝は、騎馬民族鮮卑出自であるので、当然、漢訳仏教を弾圧して、北極星(太一)を祀る道教を保護したのです。
446年から452年までの太武帝による漢訳仏教弾圧のため、北魏に支配された地から、200万人もの漢訳仏教僧は追放されたのです。その一部が、長刀の武器を携帯する僧兵とともに朝鮮半島に侵攻していくのです。そのことにより、朝鮮半島では、漢訳仏教文化の「白鳳時代」となるわけです。
仏教建築の基本は、釘を使わないことです。それは、漢訳仏教僧は、国際交易商人集団とともに移動するため、寺(ジ)を移築することが前提であったからです。太武帝の北魏に追放された僧の拠点施設の寺(ジ)は、朝鮮半島に移築され、その後、北九州から飛鳥大和に移築されていくわけです。
645年以前に建設された景教(ミトラ教)や道教の宗教施設を破壊した跡に、北九州の寺(ジ)がゴッソリ移築されたため、北九州には基礎石だけが残された寺跡が多く発掘されるのです。それらの移築寺が、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、四天王寺、法隆寺などです。それら聖徳太子七寺と云われる寺は、古来から飛鳥ヤマトにあったのではなく、645年以降、景教寺や道教の観を破壊した跡に、北九州から移築されたものであったのです。
この前宗教を歴史上抹殺する技法は、四世紀以降のローマ帝国でも行われていたのです。それは、ギリシャ文化継承国バクトリアの地であったガンダーラで、一世紀に発明された宗教物語を基盤として発明されたユダヤ教ヨシュア派から派生したローマ・キリスト教による、ミトラ教の歴史上の抹殺です。
ミトラ教の地下神殿は、ローマ・キリスト教徒により徹底的に破壊され、その跡に、ローマ・キリスト教教会が建設されたのです。そして、ミトラ教の宗教思想や儀式は、ローマ・キリスト教に取り入れられてしまうのです。これらの技法により、ミトラ教は歴史上存在できないのです。
このローマ・キリスト教が前宗教を歴史上抹殺した技法と同じことが、645年以降飛鳥ヤマトでも行われていくのです。それは、ローマ・キリスト教と大乗仏教とは、一卵性双生児であったからです。その両宗教の教祖誕生物語から宗教儀式からグッズまで、その基本が同じであることは、古来から言われていたことです。戦国時代では、キリスト教は、仏教の一派だと信じていたひとも多くいたのです。それは、思想も儀式もその本質が同じであったことを見抜く能力があれば誰にでも指摘できることです。
日本列島の史料の多くは、貴族の日記と仏教書籍などです。ですから、それら勝者の史料は、勝者に不都合な史実は抹殺、あるいは改竄されていたのです。僧兵についても、その史料を見つけるのは困難です。
しかし、勝者側の史料に、僧兵に関する事項があったのです。それは、日本国初の法令である、漢語による701年の大宝律令です。
大宝律令の僧尼令27条には、唐の法令に基づいた条例があるのです。それは、僧による殺人奸盗を制しするほかに、兵書を貯え、又はこれを読むこと、徒党を結んで擾乱すること、牛馬、兵器の類を布施としてもらうことの禁令があるのです。
701年の法令で、それらの事項を禁止することは、それ以前には、それらのことが行われていたことを示唆します。飛鳥時代が終焉し、奈良時代が始まる、645年から701年まで、僧は、兵書を読み、牛馬を調達して、兵器で武装して、徒党を組んで、一体何をしていたのでしょうか。
唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを仏教テーマパークにするために、景教や道教の前政権の宗教施設を破壊していた時代を、藤原日本史では、「白鳳時代」と言っているのですが、それは、「大化の改新」が、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるのと同じに、「白鳳時代」とは朝鮮半島が漢訳仏教文化に染まった時代の「年号」であったのです。藤原日本史は、朝鮮半島の年号を持ち出してまでもして、飛鳥ヤマトの「何」を隠そうとしたのでしょうか。
では、527年突厥が飛鳥ヤマトに現れてから、飛鳥ヤマトが滅んだ645年までの日本列島には、どのような歴史物語があったのでしょうか。
日本列島古代史の復元を試みる時に気をつけなければならないことは、「日本列島は、四海に囲まれているため、古代から孤立していた。」との、藤原日本史の呪縛に陥らないことです。日本列島は、藤原日本史が述べるように孤島なのではなく、内海をもったユーラシアと中国大陸を結ぶ回廊なのです。
ですから、縄文の昔から、北の民族や南の民族が、この日本列島の回廊を利用して、行き来していたのです。このことを証明するように、古代の北端の北海道と南端の沖縄との民族文化・人種的共通点が多く指摘されています。例えば、沖縄料理によく使われるコンブは、北海道産であるのです。
縄文時代から、奈良盆地の三輪山麓が国際沈黙交易地として栄えたのは、その大湿地帯による外的の侵入を阻止していたことがありますが、その他に、その諸外国から渡来の地理的利便性が上げられます。
朝鮮半島から瀬戸内海を抜け紀の川を遡り、吉野から北上すれば三輪山麓に行き着けます。ユーラシアからでは若狭湾から上陸すれば、琵琶湖を経て木津川を遡れば三輪山に到達できます。そして、インドの南方から東シナ海の黒潮に乗って渡来した民族は、伊勢湾から上陸すれば、和歌山街道を抜けて吉野から北上すれば三輪山に到達できます。
しかし、進入軍が河内湾からの上陸を試みても、生駒山や葛城山が侵入を阻止します。たとえ、その山脈を越えたとしても、奈良盆地の大湿地帯と、定期的に氾濫する河川で、進入軍は撤退を余儀なくされます。三輪山麓を護るには、木津川、大和川、そして、紀の川(吉野川)の要所を固めればよいわけです。このことは、縄文時代が他の地域に比べて、三輪山奥の宇陀(朱砂の産地)で長く続いていたことで証明できます。
ですから、日本列島に産する翡翠、真珠、琥珀、そして朱砂を交易する日本列島の先住民達は、三輪山麓で安心して異民族の国際交易商人との交易を行えたのです。しかし、紀元一世紀になると、ローマ帝国領内で、絹の需要が起こると、ローマ帝国内の商人は、絹を求めて中国に渡来するのです。そして、その絹交易の影響が、日本列島にも及ぶのです。その渡来民族が、水田稲作と養蚕技術を持ったタミル語を話す「弥生人」です。
ローマ帝国と中国との歴史上の交際としては、後漢の和帝は、97年甘英をローマ領パルチアに派遣したのです。そして、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が後漢を訪れていたのです。そして、534年宿敵北魏を分列させた突厥帝国には、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが突厥庭(庭とは神の見守る処で、「朝廷」のこと。)に入っているのです。
そのように、東ローマ帝国の使者が突厥帝国を訪れていた頃、飛鳥ヤマトでは、砂漠を越えて遥々遠来からの賓客をもてなすために、噴水のある庭園や石の堤で護岸された大運河が、河内までつながっていたのです。
大運河が造られたのは、飛鳥ヤマト内だけではないのです。河内平野には、巨大前方後円墳が多くありますが、その河内平野は、縄文時代以前は、生駒山麓まで河内湾であったのです。
その河内湾が縄文後期から弥生時代にかけて、上町台地が土石の堆積によりふさがれて河内湖となっていたのが、弥生後期です。ですから、弥生時代には、河内平野などなかったのです。そして、河内の湿地帯を干拓するために、巨大前方後円墳が築かれていたのです。
藤原日本史では、四世紀に飛鳥大和に大和朝廷が存在していた根拠として、巨大前方後円墳を築く程の豪族や王族が、飛鳥大和に存在していたとするのです。しかし、何時の時代でも、巨大建築物が築かれるのは、多くのひとが暮らす都市部ではなく、過疎地であるのです。
三世紀半ばまでの飛鳥ヤマトは、ひとも住めぬ大湿地帯であったのです。その湿地帯を改良するために、巨大前方後円墳が、飛鳥ヤマトに多く築かれていたのです。ですから、五世紀も半ばすぎると、巨大前方後円墳は、河内の湿地帯で築かれて行くのです。
その河内湖の水を排水するために、古代エジプトの土木建築技術により、大運河が造られたのです。その大運河は、藤原日本史の創作物語中で、二度にわたる物部氏と蘇我氏親子による神仏戦争物語に登場します。それが、物部氏が仏像を投棄したとする「難波の堀江」です。
四世紀以降、この「難波の堀江」の大運河が造られたことにより、河内湖の水が引き、その結果、上流の奈良盆地の湿地帯も干上がって行くのです。そして、難波津(浪速←ローラン)から大和川を遡り、生駒山と葛城山との間を少し遡った地の「斑鳩」から、飛鳥ヤマトへの大路が造られていくのですが、その大路が南北軸から西に約20度傾いているのは何故でしょう。そして、法隆寺により隠蔽された斑鳩の建物遺跡の建築軸が南北軸から西に約20度傾いているのは何故でしょう。
527年朝鮮半島を追われた秦氏(ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の民)は、先遣隊の紀氏と合同して、奈良盆地だけではなく、山背国の湿地帯も、その湿地帯の中央を流れる賀茂川を、大運河を造ることにより流れを変えて、平地としていたのです。
現在の賀茂川は、高野川と合流して、南北に流れていますが、その合流地点から下流は、自然川ではなく、秦氏により掘削された運河であったのです。
そして、その京都盆地の西のはずれに、秦氏の太陽神ミトラを祀る蜂丘寺を建てたのですが、その蜂丘寺は「白鳳時代?」に破壊され、そこから少し離れた処に広隆寺が移築されていたのです。その蜂丘寺の遺構は南北軸ではなかったのです。その蜂丘寺があった地が、秦氏の支配地の太秦です。
秦氏は、何故、近畿一帯に大運河を造ったのでしょうか。それは、ひとつは土壌改良のためで、もうひとつが物流です。中国大陸での交通機関は、南船北馬です。中国大陸では、南朝では運河を掘削して、船で物を運んでいたのです。それに対して、北朝では、大路を造り馬で物を運んでいたのです。
この近畿一帯は、丁度、日本列島の中央で、農耕民族と騎馬民族とが出会う処であったのです。湿地帯は、水田稲作を行うには適した地であったのです。秦氏や突厥軍団か渡来する前、日本列島の湿地帯ではタミル語を話す「弥生人」末裔が、水田で米を、そして、山の麓では桑を育て養蚕をしていたのです。
魏の時代(220年〜265年)、ローマ帝国の求める絹を日本列島に求めて、魏は247年から265年にかけて、軍事顧問の張政を倭国に派遣していたのです。
藤原日本史では、239年倭邪馬台国女王卑弥呼が帯方郡に遣使し、魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫綬を授けた、と述べていますが、その卑弥呼の実態は、不明です。その卑弥呼が248年に亡くなると、倭は乱れるのです。その前年、247年魏の軍事顧問の張政が倭国へ派遣されたのは、絹の生産地である倭女王卑弥呼の国が、狗奴国王卑弥弥に攻撃されたからです。しかし、その張政は、265年魏が滅ぶと、中国へ帰ってしまうのです。
日本列島は、古来から、中国の強い軍事影響下にあったのです。しかし、藤原日本史には、中国軍の軍事顧問が、古来から渡来していた記述が抜けているのです。このことは、卑弥呼の時代だけではなく、645年唐が飛鳥ヤマトに進駐して、701年唐の律令制度を日本列島民に押し付けていたことを、大和朝廷が中国の律令制度を取り入れたとして、隠蔽しているのです。
日本列島に渡来していた軍団は、中国軍だけではないのです。それは、古代新羅の花郎騎士団(ローマ帝国軍末裔)や突厥軍団も、日本列島に渡来していたのです。
その五世紀末から六世紀にかけて、日本列島に渡来した古代新羅の花郎騎士団や突厥軍団の歴史を隠蔽するために発明されたのが、継体天皇です。その継体天皇が、架空の天皇であることは、「古事記」が、「日本書紀」で述べる享年82歳を、享年43歳と述べていることで理解できるでしょう。
継体天皇の享年が、「古事記」の43年だとすると、「日本書紀」で述べる57歳で樟葉宮(大阪府牧方市)で、507年即位できないのです。そして、527年大和国の磐余玉穂宮に入ることもできないし、527年筑紫国造磐井の反乱鎮圧の指揮もとれないのです。
その謎の継体天皇の行動を辿ると、秋田の酒田津からつづく北陸道の越前から渡来した突厥帝国軍団の行動が分かるのです。突厥軍団は、越前から507年木津川と淀川が合流する地(樟葉)を支配し、そして、512年山背筒城(京都府京田辺市)を支配し、519年弟国(京都府長岡市)を支配し、そして、527年飛鳥ヤマトに侵攻したのです。このことを、藤原日本史では、蘇我稲目が、宣化天皇の大臣として登場した、と隠蔽しているのです。
それらの突厥軍団の移動地は、淀川、木津川、宇治川、そして賀茂川の川筋で、津の交易地であったのです。このことにより、ユーラシアと中国との交易路が確保されたのです。つまり、越前から琵琶湖を経て、宇治川を下り、宇治川と木津川と賀茂川とが合流する長岡の与等津を抜け、樟葉から淀川を下れば、シルクロードの国際交易港のローラン(浪速)にたどり着けるわけです。そこから、船で瀬戸内海を抜ければ、長安まで行けるわけです。
騎馬民族は、国際交易の民で、陸路だけではなく、川も利用していたのです。その川筋の民である「河衆」は、川を船が遡るとき、人力や馬力により綱で船を引くことで生計を立てていたのです。この騎馬民族と行動を供にする「河衆」は、騎馬民族を敵視する漢訳仏教が、日本列島の思想を仏教思想で支配をすると、「カッパ」に貶められ、そして、川から追放されると、「天狗」に貶められてしまうのです。
お祭りでは、神輿と山車はセットです。今に伝わる神輿のルーツは、飛鳥ヤマトで祀られていたミトラ教(景教)や道教の神を怨霊として、窓のない、そして扉を羽目殺して封じ込めた、平安時代の僧兵がデモで威圧する道具として発明された乗り物です。では、山車は何かといえば、河衆の神の乗り物です。お祭りの山車は綱で引かれます。その山車のルーツは、船を綱で引いていたことの名残です。現在でもある地方では、川を挟んで綱引きが行われるのは、古代の河衆の船曳の名残であるのです。
北魏が東西に分裂した538年から隋建国の589年まで、北朝には統一国がなかったので、突厥帝国は、北朝を超えて、南朝の梁(502年〜557年)との国際交易のために、近畿一帯に大運河と大路を整備して、日本列島の飛鳥ヤマトに軍事拠点を築いていたのです。
では、その七世紀初期までの飛鳥ヤマトでは、どのような政治が行われていたのかは、645年唐進駐軍により飛鳥ヤマトは陥落し、「突厥文字の天皇紀?」と「突厥文字の国紀?」が焚書されてしまったので、日本国の史料により調べることができません。
しかし、「随書」には、607年倭の使者により飛鳥ヤマトでの政治の説明が記述されているのです。その説明によると、飛鳥ヤマトでは男王アマタリヒシコは、夜中から夜明けまで政務をとり、太陽が昇ると弟に政務を任せる、とするのです。つまり、七世紀初期の飛鳥ヤマトでは、兄が北極星を祀り、弟が太陽を祀っていたのです。古代では、祀りは、政務で、神の宣託を受けて物事を決定していたのです。祀りが、政務と祭祀とに分かれたのは、藤原氏が復活した明治維新からです。
北極星を祀るのは道教です。そして、太陽を祀るのはミトラ教(景教)です。道教は、騎馬民族が信奉する宗教で、その建設思想は南北軸です。そして、ミトラ教(景教)を信奉するのは秦氏で、その建設思想は南北軸に対して西に約20度です。その傾きは、太陽が再生すると信じられた冬至の太陽光が射す位置であるのです。
近畿一帯の遺跡で、突厥進駐軍の軍事基地の飛鳥の盆地からの建物遺跡の建築軸が南北であるのに対して、奈良盆地の大路や建物遺跡の建設軸が南北軸から西に約20度傾いているのは、太陽神を祀る秦氏が築いていたからです。
突厥帝国進駐軍と秦氏は、「兄弟統治」により住み分けと同時に、政務も夜昼に分けて飛鳥ヤマトを統治していたのです。
その飛鳥ヤマトでは、先住民のタミル語と突厥語と古代新羅語が使われていたのです。タミル語は、騎馬民族の文法と同じに、膠着語です。突厥語も、膠着語のウラル語です。そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、仏教国ではなかったので、漢語ではなく、漢字をアルファベットとして使っていたのです。それが、新羅万葉語です。
飛鳥ヤマトでは、突厥が支配者であったので、膠着語を基本としたので、外国語をそのまま取り入れて使うことができたので、タミル語以前の、アイヌ語やポリネシア語の単語もそのまま使われていたのです。
ですから、日本語のルーツを特定できないのですが、その基本文法は、突厥語であるウラル語であるのです。この突厥は、騎馬民族なのに文字を持っていたのです。それが、カナクギ文字の突厥語(オルフォン文字)です。
その飛鳥ヤマトで使われていた突厥文字は、645年の焚書により歴史上抹殺されてしまいますが、唐本国が907年滅びると、その唐の軍事影響下にあった、唐文化一色の平安王朝が、国風(騎馬民族文化)に変わり、カタカナ文字として復活するのです。
600年飛鳥ヤマトにオリエント文化を花咲かせた男王アマタリヒシコは、589年建国した隋の文帝に使者を送り、更に、607年煬帝の代にも使者ソインコウを送るのです。それは、交易申し入れの他に、宿敵北魏の末裔、漢文化に染まった元鮮卑出自の皇帝を、「天子・テングリ」(騎馬民族の王)として揶揄するためだったのです。
中国の国々は、漢を除いて、秦から宋まで、その支配者は騎馬民族出自であったのです。農耕民族の漢民族は、騎馬民族出自の王に、長らく支配されていたのです。しかし、武官ではなく、文官として仕える漢民族は、騎馬民族を「施陀羅」の不可触賎民と蔑む漢訳仏教という思想武器を発明し、そして使い、騎馬民族出自の王族を蔑視していたのです。
この漢民族の思想武器が、僧兵と供に、日本列島の飛鳥ヤマトに現れたのが、藤原日本史で述べる552年ではなく、645年であるのです。この645年は、藤原氏にとって画期的年であるのです。それは、藤原氏の祖が、歴史上現れたとする年であるのです。それが、中臣鎌足、後の、藤原鎌足です。しかし、この藤原鎌足の実在性が疑われるのです。それは、藤原鎌足が活躍する「大化の改新」物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるからです。
藤原氏は、その藤原鎌足の墓を、多武峰に祀っているのです。その藤原鎌足の墓がある多武峰は、飛鳥の突厥の軍事都市を見下ろす山で、そこには、秦氏の先遣隊である紀氏が築いた、四重もの石垣で護られた朝鮮式山城があったところです。そして、その多武峰の語源は、突厥語の「タフ」からのものです。
藤原氏は、前政権の歴史を抹殺するために、前政権の施設を破壊し、その跡に、藤原氏の所縁の施設を創ることを常道としていたのです。ですから、藤原氏の所縁の遺跡の下には、前政権の施設が隠蔽されている可能性が「大」なのです。
歴史愛好家は、日本の天皇が何故、万世一系で歴史上長く存続できたのかの「謎」を解こうとするようです。しかし、天皇家は、同じ民族が連続して続いていたわけではないのです。
騎馬民族の新羅系天武天皇から始まる日本列島の「天皇の歴史」は、奈良時代の終わりには、百済系光仁天皇に替わり、鎌倉時代の終わりには、南北朝に分裂し、そして、江戸幕府を拓いた、騎馬民族末裔の徳川家康は、エドを「朝廷」とし、後水尾天皇に退位を迫り、騎馬民族の血が流れる孫娘を、109代女帝明正天皇としていたのです。
その天皇の万世一系の謎とは、実は、藤原氏の謎であるのです。その645年突然歴史上に現れた藤原氏の祖とする藤原鎌足の実在性が否定されると、藤原氏の出自が、豊臣秀吉のように、分からないのです。そのような得体の知れない藤原氏が、645年から現代まで、「日本書紀」の呪縛により、歴史の闇に君臨しているのです。
この藤原氏には、不思議な掟があるのです。その掟は、秘密結社の掟と共通するのです。その藤原氏の掟が、「放氏」です。その放氏とは、藤原氏の結社からの追放です。この追放が、唯の追放ではないのです。この追放処分を受けた藤原氏のメンバーは、藤原氏としての会員資格が失われ、藤原氏が仕切っていた「朝廷」に出任することができないだけではなく、経済的に自立できなくなるのです。
この藤原氏の「掟」により組織を固め、藤原氏結社は、日本列島史を改竄し、前政権の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合のよい天皇をロボットとしてコントロールしていた(いる)のです。
その放氏のメカニズムを知ると、藤原氏結社の謎解きのヒントが見えるようです。
藤原日本史によれば、藤原氏の氏寺である興福寺は、710年山階寺を奈良に移築し、改称したとするのです。ここに、前政権の施設を藤原氏の施設に取り替える、藤原氏の歴史改竄のテクニックが見られます。
そして、藤原氏の鎮守の春日明神を氏神とするのです。この春日明神を祀る春日社も、移築です。その春日社が建つ地は、三笠山麓で、長らく禁足地であったのです。禁足地とは、前政権の宗教施設があった処で、その前政権の宗教施設が破壊され、空き地となっている処です。藤原氏が発明した中臣神道(国学者は「古神道」と言う。)は、興福寺が発明された後に歴史上出現したのです。つまり、飛鳥ヤマトから奈良時代にかけての宗教の流れは、ミトラ教(景教)・道教→漢訳仏教→中臣神道となるのです。そして、藤原氏が唐の代理で支配した奈良時代に、ミトラ教の神を封印した施設が、神社(モリ)です。
その春日明神の祭神の一なる天児屋根命が、藤原氏の祖神です。その天児屋根命を出現させるために創作されたのが、ギリシャ神話のデメテル物語に酷似した「天磐戸物語」です。
その祖神を祀る春日社が、興福寺を支配していたのです。この興福寺の別当及び三綱の役は、藤原氏の氏人が選定していたのです。中臣神道が漢訳仏教を支配することは、不思議なことです。
藤原日本史によれば、物部氏の神道派と蘇我氏の仏教派とは、二度も戦争をしていたはずです。そして、神道派は、仏教派に、二度とも敗れていたはずです。そして、二度とも仏像は祟りを起こしたため、その仏像は難波の堀江に投棄されたはずです。しかし、厩戸皇子(聖徳太子)は、篤く仏法を敬い、仏寺を七棟も建立していたはずです。それが何故、奈良時代になると、仏教が、神道に支配されるのでしょうか。
放氏は、藤原氏への反逆者としての疑いをかけられると、興福寺の大衆に従って詮議され、その結果を春日明神に奉告する儀式が執り行われ、興福寺の別当から処分の報告が出されるのです。
このように、仏教施設である興福寺は、神道施設である春日社に、支配されていたのです。そして、その春日社での儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似しているのです。
藤原氏の謎は、日本列島史の謎です。その藤原氏が歴史上現れると、日本列島の思想史が大変化するのです。その大変化は二度で、ひとつは645年の革命(大化の改新?)、そして、もうひとつが1868年の革命である「明治維新」です。その二つの出来事で、藤原氏は影の支配者として、日本列島史を支配して行くのです。
イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして、アメリカの軍艦が日本列島に押し寄せた江戸末期、伊勢の地では、大土木工事が行われていたのです。その伊勢には、三百を超える「神宮寺」があったのです。
神宮寺とは、仏寺に神宮を取り込んだ「寺」です。仏寺と神宮との建物の大きな違いは、密封できる大広間があるかないかです。仏寺は、大麻を燃やす護摩の儀式を行うため、密封できる大広間を設けています。しかし、神宮には、そのような施設はないのです。でも、神宮寺は、仏寺の一種ですから、護摩を焚くために密封できる大広間の施設があるのです。
その神宮寺が多くあった、大土木工事前の伊勢では、伊勢参りが幕末から流行るのです。それは、神宮寺が建つ内宮と外宮との間に、「大遊郭」があったからです。多くの参拝者は、神仏習合の伊勢信仰のためだけではなく、「ご開帳」の為に伊勢を訪れたようです。
そして、1867年名古屋から起こった「ええじゃないか運動」が全国的に流行ると、伊勢は、歓楽地から宗教地に変身して行くのです。この頃、飛鳥大和では、神武天皇陵が創作されていたのです。
そして、1868年明治維新の号令がかかると、神仏分離令も同時に発せられ、全国的に廃仏毀釈運動が起こり、漢訳仏教思想によりイジメられていた役座や賎民「穢多」により、伊勢の神宮寺は全て破壊され、その跡に、神宮・神社(「モリ」ではなく、「じんじゃ」)が建立されるのです。そして、その伊勢は、何もなかったかのように、古来から天皇家の神を祀っていたとする「伊勢神宮」として、今日に至るのです。
そして、藤原氏は、天皇による13の儀式を発明して、平安時代の錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法で天皇家が平安時代から祀られていたものを、中臣神道や吉田神道などを基に国家神道なるものを発明し、その神道儀式により祀りを行い、仏教儀式を神道儀式に替えてしまったのです。
この藤原氏による宗教施設改竄の「明治維新」のトリックが、千二百年前の飛鳥ヤマトの「白鳳時代」にも行われていたのです。
明治維新により、それまで仏教国であった日本国が、神道国に瞬時に変身したわけではないのです。日本国が、仏教国から神道国に変身するには、1889年(明治22年)大日本帝国憲法と皇室典範発令までの、21年を要したのです。
その21年間に、「明治維新」を企画したイギリス東インド会社(ジャーディンマセソン商会・グラバー商会)の手先の藤原氏の結社組織(長らく薩摩藩に生息)は、騎馬民族末裔の旧勢力である西郷隆盛(西南の役)、江藤新平(佐賀の乱)、板垣退助(暗殺)、大久保利通(暗殺)、木戸孝允(暗殺)、などのシシ(秦氏系「武士」末裔。亡命百済系「サムライ」からの「野獣」との蔑称語。その後、「志士」と改竄された。)の指導者達を、藤原氏が得意の「夷を以って、夷を制す」の謀略や暗殺により抹殺していたのです。しかし、長州藩の下忍伊藤博文は、後に、1885年初代内閣総理大臣となっているのは、何故か。それは、孝明天皇暗殺と関係があったようです。
そして、伊藤博文のようにイギリス東インド会社に見込まれた者達の結社により、明治政府が運営されて行くわけです。そして、そのほんの一握りの集団により、日本国家は私物化されていくのです。この日本列島私物化を調べたいのなら、広瀬隆著「私物国家・日本の黒幕の系図」がお薦めです。
そして、明治新政府は、天皇体制の国家神道思想を啓蒙するために、「落語家」の話術と、「役座」の脅しにより、庶民を洗脳していたのです。何故、落語家と役座が、天皇思想を支持した理由は、1871年明治新政府は、穢多・非人の蔑称を廃止したからです。それにより、徳川三代目将軍家光から始まる第三百済王朝の江戸時代に、漢訳仏教思想により賎民「穢多」としてイジメられていた者が、明治維新で「新平民」となれたからです。藤原氏は、その「新平民」のエネルギーを、国家神道キャンペーンに利用して、旧仏教勢力を壊滅したのです。
しかし、「新平民」のエネルギーの復活に恐怖した藤原氏は、ウラル語を話すチュルク系突厥民族が支配した飛鳥ヤマトのオリエント・騎馬民族文化の復活を恐れて、再び、旧仏教勢力と妥協して、「新平民」封じ込めに動くのです。
明治維新直後では、庶民は「天皇」など知る由もなかったのです。それは、騎馬民族国の復活を目指して、大阪や三河の、漢訳仏教思想にイジメられていた、秦氏末裔をエドに呼び寄せ、「エド」を「朝廷」とした騎馬民族末裔の徳川家康が、百済系天皇家一族を御所に幽閉していたからです。そして、その門に鍵を掛け禁門としていたので、天皇は、1611年後水尾天皇から1846年孝明天皇まで、外出することはなかったからです。
明治新政府が、学校教育の歴史で、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーである「645年大化の改新」物語を刷り込んだ理由は、二つです。
ひとつは、崇峻天皇を殺した横暴者蘇我氏(実は「突厥民族」)を滅ぼして、天皇家(日本国の初の天皇は672年即位の天武天皇)が復活したとする物語を刷り込むことです。
もうひとつは、藤原氏の祖とする、出自不詳の中臣鎌足(後に藤原鎌足)の歴史的登場を、その「645年大化の改新」物語で刷り込むことであったのです。
しかし、その藤原日本史の「645年大化の改新」物語が「ウソ」で、645年前に聖徳太子により飛鳥大和で仏教文化の花が咲いていたとすることが「ウソ」であることが、飛鳥ヤマトから発掘された「大路」が証明するのです。
1964年東京オリンピックを目指して、日本列島に高速道路網が築かれて行くのですが、1972年7月田中角栄が内閣総理大臣となると、日本列島改造論を唱え、日本列島は空前の建設ブームに沸いたのです。
田中角栄首相は、新潟の出身です。その新潟は、古代飛鳥ヤマト時代ではユーラシアから渡来する民族が上陸する越後(越の末裔が住む地)で、秋田から始まる北陸道により、飛鳥ヤマトと交通が盛んであった地です。この越後は、北陸の越前と並んで、馬具や鉄剣などか出土する方墳が多く存在しているように、五世紀以降では騎馬民族の王国であったのです。
五世紀以降に築かれていく全国の古墳から、祭祀具ではなく、馬具や鉄剣などの戦闘用具が埋葬されていくのは、それは、その五世紀に、朝鮮半島から北九州ではなく、ユーラシアから日本海沿岸に渡来した民族が、騎馬民族であったからです。その騎馬民族系の方墳・円墳古墳は、岩手県以南から九州にかけて築かれていくのですが、高句麗がルーツの大小の相似形の前方後円墳も短期間に、同時に築かれていたのは、その異なる思想により築かれた古墳築造と同時に、全国的に道路網が築かれていたからです。
このことは、朝鮮半島から渡来した民族(秦氏)と、ユーラシアから日本海沿岸に渡来した民族(チュルク系突厥民族)とが合流していたことが示唆されます。その二つの民族に共通するのは、ギリシャ・ローマ文化です。突厥にローマ文化があるのは、東ローマ帝国軍と連合して、シルクロート交易を阻止するエフタルを攻撃していたからです。そして、突厥帝国を興したとき、568年には東ローマ帝国の返使ゼマルクスは、突厥の朝廷に入るほど、東ローマ帝国と突厥帝国とは、馬絹交易を媒介として親密であったのです。
そして、その渡来騎馬民族が話すウラル語も、高句麗をルーツとする前方後円墳や、ローマ帝国軍末裔による一直線思想の大路を、全国に建設して行く過程で、ポリネシア語、アイヌ語、そして、タミル語を話す民族末裔に伝わって行くのです。
高度経済の昭和時代に、その田中角栄首相の列島改造論にもとずき、日本列島の都市部の土地も掘り起こされて行くと、そこに不思議な道路が発掘されるのです。東京オリンピックの時は、郊外の、山奥の道路建設時に、側溝のある道幅12mから40数mもある一直線の古代高速道路が発掘されたのですが、奈良盆地の都市部からも、不思議な道路が発掘されて行くのです。
それが、筋違路と言われる、藤原日本史で云う聖徳太子が斑鳩から飛鳥までの12kmを、愛馬の黒駒で通ったとする「太子道」です。
その奈良盆地では、南北軸に重なる三本の大路と、東西軸の一本の大路が発掘されていたのです。が、しかし、その「太子道」は、南北軸でも東西軸でもなく、南北軸から西に約20度傾いているのです。
何故、建設軸が異なる大路が、奈良盆地に重なっていたのでしょうか。建物は、その大路に沿って建設されて行くわけですから、その大路の敷設基準軸は、古代では、その民族思想を象徴する重要な要素であったのです。
その飛鳥ヤマトに敷設軸が異なる大路が存在していたと言うことは、飛鳥ヤマトには異なる思想を持つ民族が存在していた証拠となるのです。そのことを証明するように、奈良盆地には、南北軸から西に約20度傾いた若草伽藍遺跡のように、建築軸が異なる建物遺跡が多く発掘されているのです。しかし、現存するすべての仏教寺院は、南北軸により建立されているのです。
騎馬民族王国から出た田中角栄首相の日本列島改造論により、日本列島全国の土地が掘り起こされて行く過程で、藤原氏が「日本書紀」で隠蔽した古代飛鳥ヤマトの歴史の扉を開くキッカケをもたらしたのでしょうか。その後、飛鳥ヤマトでは、仏教文化や中臣神道文化では説明できない、不思議な埋蔵物や遺構が今も発掘され続いているのです。
藤原日本史では、それらの仏教文化では説明できない、大溝や石の人工山や朝鮮式山城を築いたのは、女帝斉明天皇(655年〜661年)であったと「日本書紀」では述べていますが、その飛鳥大和での大土木工事がおこなわれたのは、南北軸の大路の側溝から出土した陶器などの遺物により、645年以降であることが示唆されています。
では、南北軸の大路と異なる、筋違路といわれる「太子道」はいつごろ敷設されたのかと言うと、その側溝からの出土品によると、七世紀初期以前であることが示唆されています。その南北軸の大路と、筋違路との歴史的存在の確定は、遺物からだけではないのです。
607年倭国を訪れた隋使裴世清は、船で河内湾から大和川を遡り、そして、斑鳩から大溝の大運河により船で、男王アマタリヒシコに謁見するために飛鳥ヤマトの都を訪れていたのです。このことは「隋書」が述べるところです。では、その大運河に沿った、筋違路は何かと言えば、それは、隋使一行が乗船している川舟を馬や人が引くための大路であったのです。
そのような大切な隋使を、斑鳩から飛鳥ヤマトに運んだ船が通る大運河や、引き舟のための筋違路を、南北と東西に分断、縦断している大路は、男王アマタリヒシコが支配する飛鳥ヤマト時代には存在できるはずはないのです。
そして、その南北軸と東西軸の大路が、古墳時代(飛鳥時代)のものでないことは、645年から敷設されるその大路は、北に延長される過程で、古墳を破壊して敷設していたからです。
藤原日本史が述べるには、四世紀の飛鳥大和に、天皇が支配する大和朝廷が存在していた根拠として、三世紀半ばに三輪山近辺に巨大前方後円墳を築くほどの勢力が存在していたとするのです。そして、その奈良盆地に点在する前方後円墳は、歴代の天皇の墓とするのです。
もし、その仮説が本当であるならば、南北軸の大路は、何故、天皇家一族郎党の古墳までも破壊して敷設されていたのでしょうか。
694年藤原京、710年平城京の高い土壁に護られた軍事都市は、南北軸の大路に沿って建設されていたのです。そして、それらの大路が通過する地には、巨大古墳が存在していたのです。
巨大古墳を破壊して建設された平城京の東側の御笠山麓には、雄牛を屠り太陽神を祀るミトラ教(景教)の祭祀場があったのです。そのミトラ教の祭祀場を破壊した跡に、藤原氏の中臣神道の神を祀る、春日大社が移築されているのです。
この春日大社の不思議な出現が、中臣神道の歴史的初めであるのです。その中臣神道の神が突然歴史上に出現する以前の神とは、神道の神などではなく、ミトラ教(景教)が祀る「太陽神」と、道教が祀る「北極星」(太一)であったのです。
更に、794年山背国の支配民族が騎馬民族(秦氏=古代新羅民族=源氏=武士)から農耕民族(亡命百済民族=平氏(「平家」ではない。「平家」はアラブ系渡来民族)=サムライ)に替わってしまった平安時代からは、公然と古墳を破壊して、その跡に、神社(モリ)が建立されて行くのです。
そして、その神社(モリ)は、注連縄(一説では、縛り首)を垂らした鳥居により結界を示し、異界とされた「禁足地」であったのです。
中臣神道と漢訳仏教思想が普及すると、死が最大の穢れとなってしまうため、病人は息のあるうちに、屋外に放り出されてしまうのです。それは、死者の死穢が家内に感染することを、騎馬民族文化を排斥し、山背国を山城国と改竄した、平安の都を支配した亡命百済貴族や、中国山東半島から移民してきた亡命百済民が、最も恐れたからです。
そのような死穢を恐れる農耕民族には、騎馬民族が復活を願うために、生前の諸道具と一緒に「眠る死者」を埋葬する古墳は、穢れそのものであったのです。
ですから、亡命百済貴族が支配する平安時代になると、秦氏が支配していた山背国の古墳は破壊され、その跡は、空き地の「禁足地」となっていくです。そして、その禁足地に、その死穢を祓うために、神社(モリ)が建てられて行くのです。古代の神社(モリ)は、神を祀る処などではなく、死穢(先住民の神)を封じ込める施設であったのです。
平安時代に神道と漢訳仏教により「死の穢れ思想」が普及したのは、前方後円墳を破壊した跡に建設された平城京が、奈良時代に怨霊により祟られたと、平安時代の貴族や庶民が信じたからです。しかし、その平城京を祟ったとする怨霊の正体は、実際は、反藤原氏の聖武天皇による東大寺の遍照鬼(=太陽神ミトラ。後に、錬金術師空海により大仏のビルシャナブツと命名された。現在の大仏は江戸時代作。)が鋳造された時の、銅と水銀による鉱毒中毒であったのです。
そして、平安時代になり、唐進駐軍の後ろ盾により百済系桓武天皇の威勢が近畿一帯に広がると、飛鳥ヤマトに存在していた幅12mもあった大路は、古墳と同じように破壊され、幅6mに狭められていくのです。そして、物品の運搬が馬から牛に替えられて行くのは、それは、馬を重要な交通手段とする、騎馬民族文化を、近畿一帯から排斥するためだったのです。
太陽神を祀る思想により敷設された筋違路(七世紀初期以前)と、北極星(太一)を祀る道教思想を導入した仏教思想の南北軸の大路(645年以降)の変換が示す、騎馬民族が飛鳥ヤマトに日本国の基礎を築き、その日本国の基礎組織を乗っ取った唐進駐軍による飛鳥時代(古墳時代)から奈良時代にかけての歴史は、東アジアで隋・唐と戦った突厥帝国の興亡とリンクしていたのです。
645年以前の飛鳥ヤマトに、死穢を祓う神道文化も仏教文化もなかったことは、その頃はまだ「死者が眠る」古墳が、奈良盆地で築造されていたからです。そして、古墳を築造した民族により建設された、仏教建築思想の南北軸と異なる、筋違路と若草伽藍跡が、女帝推古天皇が存在したとする飛鳥ヤマト時代に、神道や仏教が存在していなかったことを証明するのです。
その飛鳥ヤマトには、太陽神ミトラを祀る民族と、日本語文法の祖である突厥語を話す民族が、645年以前には確かに存在していたのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/852.html

コメント [原発・フッ素41] 牛久市の甲状腺検査結果 自覚症状のない者対象で89名受診のうち8名がB判定(ふくしま集団疎開裁判) 赤かぶ
04. 2015年2月01日 11:15:21 : MwG30JCIzs
>>02
>不安を煽るからとか言って検査しなくなるんじゃないか。

牛久にしても市独自の検査事業でしょう。他の国なら、事故が起きたとき被曝量を
検査していた。その被曝量によっては年2回の検査が終生必要になる。ガンを早期発見
して転移まえに手術するためだ。

転移して死んでしまえば死人に口なしか。国の思惑通りだ。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/743.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
30. 2015年2月01日 11:15:25 : 7dp7gtgY5Y

一主婦さん、小沢さん憲法9条改正賛成ですよ。

国連安全保障にしたのは、9条改正より、国連安全保障の方が国民の反対が少ないからです。

そのための法整備も生活の党の時になされています。

改憲促進法を提起され、教育委員会制度を自民・公明と改悪し ( 昨年 )、生活保護法も改悪し、戦争と貧困は表裏一体の関係にありますから、国民が貧困になれば戦争に行ってくれるわけですから。

教育委員会制度を改悪という事は、戦前は政治が教育に介入して、子どもたちが戦争に行ったわけですから、これだけの事をしていたら集団的自衛権行使容認のはずですよ。

それと、今回の人質事件は、アメリカは介入していませんよ。

後で時間があったら詳細を書きますが、日本単独の事です。

2億ドルの人道支援なんて言った言わないの話しではありませんよ。



http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c30

コメント [国際9] イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声) こーるてん
02. 2015年2月01日 11:18:24 : xg6BcQI3Hk
http://rt.com/news/227195-islamic-state-us-funding/

これが、RTの原文ね。
「アメリカ政府から」支援を受けたとは証言しているわけではないのね。
コメントをつぎはぎして、そうとれるように印象操作しているだけで。

ま、日本語記事でもそうだが、念のため(笑)

で爺
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/878.html#c2

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
160. 覚醒した黄色いサル 2015年2月01日 11:20:35 : LxeLSI4529C9Q : kxk7MnCbWU
>159

米共和党ジョン・マケインが、イスラム国ISISを指揮(オーケストレ−ティング)している、と、はっきり言っていましたね。

こちらの動画のほうが「衝撃映像」なのでは?
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c160

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
31. 2015年2月01日 11:21:26 : GnoJ7w3aMk
>>29. 2015年2月01日 09:31:48 : N3rDD93Jy6様

>>」ノ,m NOT ABE !!

同意です

ただ名指しされたアベは本当に標的にされているとも考えられ、とすればおちおち寝ることもできなくなっていると思われます

つまり、アベは用済みで邪魔者という事

次は田舎のおっちゃんのような菅あたりに首を挿げ替えようと考えてるかも

アベがますますむくんだ顔で、目つきの泳ぎも激しくなってきたら、その前触れと考えてもいいと思います
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c31

コメント [政治・選挙・NHK179] ・日本人拘束事件 新たな映像公開 後藤健二さん殺害か・日本人拘束事件 菅長官が会見 「非道かつ卑劣なテロ行為」(FNN) 会員番号4153番
14. 2015年2月01日 11:22:35 : OLvRFajdcI
幸福の科学総動員ですな
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/153.html#c14
コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
08. 2015年2月01日 11:24:34 : 1ioo7h1uY6
■日本に災いを振りまく

 呪われた岸・安倍一族!

 じじいの岸は

 『東条内閣の重要閣僚として日米開戦』

 『安保闘争で樺美智子を殺害』

 孫の安屁は

 『盗電放射能バラマキ事件放置・無策・再稼動』

 『集団的自衛権で新宿歩道橋焼殺し事件』

 『辺野古米軍基地でお年寄り突き倒し事件』

 『イスラム国掃討作戦に積極加担し日本人人質2名を見殺し』等

 とうとういつか来たみちへ・・・・



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c8

コメント [戦争b14] 「イスラム国」、7カ月で1900人を処刑 最多は市民  朝日新聞 ダイナモ
01. 2015年2月01日 11:25:23 : pj0uwhl5FI
「イスラム国」こと、ISISは滅亡が近いらしい。IRIBイランイスラム共和国・国際放送ラジオ日本語のウェブサイトから紹介します。

2015/01/31(土曜) 22:24
イラク首相、「ISISの終焉は近い」
http://japanese.irib.ir/iraq/item/51762-

(転載開始)

イラク首相、「ISISの終焉は近い」

イラク軍と義勇兵のテロリストに対する継続的な勝利を受け、イラクのアバディ首相が、テロ組織ISISの終焉は近いとしました。

イラクのテレビ・スメリアニュースによりますと、アバディ首相は30日金曜夜、軍の司令官らの会合で、「テロリストに対するイラク軍の勝利は、継続しており、ISISは弱体化し、その終焉は近い」と語りました。
アバディ首相はまた、「全てのグループの団結により、ISISは消滅し、治安部隊は、各都市に安全を取り戻させるだろう」と述べました。
西部アンバール州をISISの占領から解放する作戦が行われる中で、ニナワ、サラーフッディン、ディヤラ、キルクークなどイラク各地からISISを掃討するためのイラク軍と治安部隊による作戦も継続されています。
ISISは、イラクやシリアの一部の地域を占領しており、これらの地域で、シーア派、スンニー派、クルド人、キリスト教徒などあらゆるの宗派や民族に対し残酷な犯罪を行っています。

(転載終了)

●このような情報もあります。

2015/01/31(土曜) 23:32
イラクで、ISISの化学兵器専門家が死亡
http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/51770-

(転載開始)

イラクで、ISISの化学兵器専門家が死亡

アメリカ軍が、イラクでの空爆でテロ組織ISISの化学兵器の専門家の1人が死亡したことを明らかにしました。

イルナー通信によりますと、アメリカ軍は30日金曜、声明を発表し、旧サッダーム政権時代に勤務していた化学兵器の専門家の1人が、イラクでの対ISIS有志連合の空爆で死亡したことを明らかにしています。
また、この声明では、「この空爆は先週土曜、イラク北部の町モスル近郊を標的に実施され、これにより化学兵器の専門家であるアブ・マリク氏が死亡した」とされています。
アブ・マリク氏は、旧サッダーム政権時代、化学兵器の生産工場に勤務しており、2005年にはイラクでテロ組織アルカイダに加わり、その後テロ組織ISISに加わりました。
アメリカ軍の声明ではまた、「アブ・マリク氏の死亡により、テロ組織ISISの化学兵器は一時的に混乱、或いは弱体化し、罪のない人々に対する化学兵器を使用し、生産する力が弱まった」とされています。
アメリカ政府はこれ以前は、アブ・マリク氏を重要人物とは見なしていませんでした。
ISISが化学兵器を使用している兆候は、まだ見られませんが、ISISが塩素ガスを使用しているとの情報が発表されています。
アメリカ主導の対ISIS国際有志連合は、昨年8月からこれまでに、イラクとシリアでISISの拠点に対し、2000回以上の空爆を行っています。
一方、アメリカとその西側の同盟国がシリアの反体制派に軍事的支援を行ったことにより、ISISが結成されました。

(転載終了)

●カンボジアのポルポト化していると思う。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/841.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍首相の挑発外交と日本国民の「羊主義」が、後藤さんを殺した!(生き生き箕面通信) 笑坊
10. 2015年2月01日 11:26:19 : SiIj52mdIw
後藤さんの遺体を見た。
安倍のしでかした失態は、イスラム国でないシンパが日本人誘拐を起こす可能性のハードルを一挙に下げたことで、国外の何処にいても日本人が狙われるケースが増えることにお墨付きを与えたことだ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/158.html#c10
コメント [原発・フッ素41] 2030年度の電源構成案 60年運転前提 原発20%に上昇も 倍返し
05. 2015年2月01日 11:26:39 : MwG30JCIzs
原発で大地震が起これば今度は制御棒すら入らない事故になる。大爆発でみな
急性死だ。しかし、そういう事故が幸運にも2030年までに起こらないとしても
福島第一事故の影響が本格化し、病者・死者の山となり、日本経済が崩壊する。

>>01さん。もっともよい判断をするなら、若い人は海外に逃げることですな。
負担(搾取)ばかりで見返りの少ない国だからね。日本国籍離脱禁止になるまえに
逃げましょう。語学が大事よ。この語学の壁があるから、日本政府は国民の海外
脱出を甘く見ているのだろう。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/744.html#c5

コメント [近代史02] 現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC) 五月晴郎
27. 五月晴郎 2015年2月01日 11:26:48 : ulZUCBWYQe7Lk : EDFCKjGj9Y
>>1

>>3

>ユダヤ人という概念

を巡って関連(?);

*
紀元一世紀、ローマ帝国軍が、シリア王国を滅ぼし、そこをローマ領として統治すると、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、「イエス・キリスト」)と唱える集団が蜂起するのです。
その熱狂的集団は、民衆を蜂起・結束させるため、「新しい神」の権威付けのために、古くからある物語を綴った小冊子36冊と、オリエントから持ち込んだ新しい物語により、「ギリシャ語の合本」を創るのです。そして、その集団は、「カナンは我等の地で、我々は古代エジプトから渡来した聖なる民族の末裔である。」、と唱えるのです。
その熱狂的集団の勢力は、やがて、統治者のローマ帝国総督を脅かすほどの勢力になっていくのです。しかし、その「ヨシュアはメシア」と唱える集団を恐れたのは、ローマ帝国だけではなかったのです。それは、古くからある小冊子をこころの拠りどころとしていた正統ユダヤ祭祀者も、その新興集団の熱狂に脅威を感じていたのです。それは、古くからある小冊子に、北インドのガンダーラ(ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地)から持ち込んだ物語を付け加えていたからです。そこで、正統ユダヤ祭祀者も、新興集団のギリシャ語の合本に対抗して、ガンダーラから持ち込んだ新しい物語を排除して「ヘブライ語の合本」を作ったのです。
ギリシャ語の合本も、ヘブライ語の合本も、紀元前13世紀からではなく、紀元一世紀に創作されていたのです。

*
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/852.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/655.html#c27

コメント [国際9] 「イスラム国」恐怖の街 少年、脅されて見た公開処刑(朝日新聞) で爺
04. 2015年2月01日 11:26:56 : xg6BcQI3Hk
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/852.html

こっちに全文掲載されている。
いや、酷いもんだな。

投稿者
http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/877.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
09. 2015年2月01日 11:27:04 : N3rDD93Jy6
首相「空爆でイスラム国壊滅を」 エジプト大統領と会談

【ニューヨーク=永沢毅】安倍晋三首相は23日午後(日本時間24日朝)、エジプトのシシ大統領と会談し、米軍による過激派「イスラム国」掃討を目的としたシリア領内での空爆について「国際秩序全体の脅威であるイスラム国が弱体化し、壊滅につながることを期待する」と述べた。大統領は「国際的な努力は支持したい」と応じた。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDE24H0A_U4A920C1EAF000/


先にイスラム国へ宣戦布告も同然の態度を示していた安倍が 平和を愛する国民を テロとの殺し合いの 元来日本人に無縁であった只中へ 引きずり込もうとしている結果の悲劇です。

---------------

https://twitter.com/kingo999/status/561674546302840832


一刻も早く安倍首相を辞任させないと、日本中がケンジになってしまう。
I am Kenji.
Don't let Abe also kill me.
(安倍に私まで殺させないでくれ)

このプラカードを日本中で掲げよう


https://pbs.twimg.com/media/B8t3_1NCcAA2GSI.png



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c9

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
161. 三菱アベ軍産薬複合体 2015年2月01日 11:29:02 : nzPz/Aq1a2auM : kxk7MnCbWU
>160

ジョン・マケインと中山外務副大臣もCIAの工作員で、

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150131/k10015109291000.html

米共和党のリンジー・グラハム上院議員の選挙資金

を日本の納税者に出させようと、

同じくCIA工作員のユカワとゴトーをISISに引き渡した

ということですね。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c161

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
10. 2015年2月01日 11:30:12 : JZ6F5VdwNs
みんなは安倍を善人に見すぎてる
俺はむしろ展開から
安倍とISと繋がってると思っている
プロレスでISは安倍の為に
極悪非道の悪役を演じているのだ
後藤さんを殺し口封じするために
有志連合に入れてもらうために
官房機密費と外交機密費を
すでに何十億つかったことか
後藤さんの処刑は
安倍がISに要請したからこそ
日曜の早朝という日本で大きく取り上げる
タイミングで行われたのだ
日曜のワイドショーがこれ一色になれば
中東派兵法ができる
テロリストを戦争するために
改憲しようと世論を作れる
安倍のありきたりなコメントを
乞食メディアは激しい怒りこめてなど
やたら形容詞をつけ盛り上げている
ISは犯罪者集団である
彼らに報復するとはどうするのだ
国交もない国だ武力鎮圧しかないだろう
それとも、アメリカヨルダンに傭兵として頼むのか
一見無意味に思える発言に騙されるな
テロリストは病原菌のようなものだ
テロリストが死滅する環境こそ作らなければいけない
公平公正の世の中で暮らしに困る人なくなれば
ほとんどの多数の人々はあえて戦わない
人々が過激な病原菌ISなどを排除するのだろう
アフガニスタンの中村医師の活動こそが
病原菌排除になるのだ
そして国民の命を出汁にしても
自分の我儘とおして平気で嘘をつく
バカ総理とスカ長官は許してはいけない


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
11. 2015年2月01日 11:31:12 : qP1ruwxehg
人命軽視は日本のお家芸なので今更感はある。
戦前戦中は敵国人どころか自国民の命さえ軽く扱われた。
小泉、安倍以前の人命重視政権が日本としては異常なのである。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c11
記事 [近代史02] エピローグ
日本国は、不思議な国です。その不思議を、不思議と思わないひとが多くいることも、更に不思議です。この不思議な国ニッポンで暮らすには、その不思議さを知らないほうが、暮らし易いからなのでしょうか。
しかし、本当の日本国の歴史を知りたいと、図書館や書店に赴いて、日本史書を開くと、そこには「古事記」と「日本書紀」を「記紀」と表示してして、その「記紀」から引用した文章を、日本国の初代天皇は、672年即位の天武天皇であるのに、紀元前660年に即位した神武天皇から671年即位の弘文天皇までが日本列島で活躍する、想像力を駆使して創作された、古代日本史物語を目にするのです。
この「古事記」と「日本書紀」の成り立ちの誤解は、江戸中期の国学者本居宣長が、「日本書紀」を「唐ごころ」により書かれた偽書であるとし、日本列島の真の歴史は「やまとことば」で記述されたとする「古事記」にあると誤解し、1778年から1798年の20年をかけて、「古事記伝」を著したからです。その「古事記伝」が、日本列島史を、更に、複雑にしてしまったのです。
その本居宣長が日本列島古来からの「言葉」と信じた「やまとことば」とは、ウラル語系突厥語の文法に、先住民族のアイヌ語、ポリネシア語、タミル語、古代朝鮮語(高句麗・百済・新羅語)、漢語などの単語を重ね合わせて作られた「万国語」(万葉語)であったのです。
この「古事記伝」を利用したのが、明治革命で復活した藤原氏(近衛家)です。その明治革命で復活した藤原氏は、本居宣長が否定した「日本書紀」を創作した結社組織の流れにあったのです。その藤原氏による「日本書紀」の創作目的のひとつが、藤原氏の祖である中臣鎌足の歴史的登場だったのです。そして、藤原氏の祖は、神代の昔から日本列島に存在していたとするために、ギリシャ神話を基に「天磐戸物語」を創作して、藤原氏の祖神天児屋根命を発明するのです。
「日本書紀」創作の目的は、南インドから南九州の坊津に渡来した藤原氏の出自を隠蔽するためだったのです。紀元一世紀に、その南インドには、ユダヤ教ヨシュア派の教会が存在していたのです。
古代より、南インドから日本列島に渡来した民族が存在していたことは、「アゼ」「ウネ」など水田稲作用語として使われていたタミル語が、南インドの言語であることで証明できます。更に、戦国時代のイエズス会は、南インドを侵略(布教)基地として、日本列島の南九州の坊津・種子島に渡来していたのです。そのように、古来から南九州は、東シナ海の黒潮が流れ着くため、インド洋の南海との航海交易の地であったのです。
その日本列島史を改竄した「日本書紀」を暴くために、812年秦氏末裔の多人長が著したのが「古事記」であったのです。
「日本書紀」を講義することを生業としていた、秦氏末裔の多人長が、794年秦氏の支配地山背国を乗っ取り、平安京とした唐傀儡の百済系桓武天皇一族が、百済聖王が仏像・経論を538年に献じたとしたり、そして、神武天皇などの架空の天皇を「日本書記」に登場させるために「神武紀」などを創作したり、仏教を興隆したとする厩戸皇子を「聖徳太子」としたり、「日本書記」に記述がない朝鮮半島の「白鳳年号」を持ち込んだりして、藤原日本列島史を更に改竄しているのを危惧して、その「改竄日本書記」を否定するために著したのが「古事記」であるのです。
平安時代、亡命百済貴族により改竄された「平安版日本書記」では、親百済反新羅を基本として、朝鮮半島の百済史を素材として、日本列島史物語が改竄されていたのです。そして、系図一巻が紛失してしまうのです。現存する「日本書記」は、720年製ではなく、平安時代製であるのです。このことも、日本列島史を複雑にしている要因のひとつです。
そのような「平安版日本書記」にある百済系政権の歴史を否定する文章は、正論として語れません。そこで、多人長は、「日本書記」の講釈師であったので、「日本書記」が朝鮮半島史や中国史を引用改竄して創作されていたことを知っていたので、その「日本書記」の「ある一書に曰く」の箇所での改竄箇所を際立たせるために、例えば、継体天皇の享年を「日本書記」では「82歳」とするところを、「43歳」としたりして、後世のひと達に、「古事記」を「日本書記」の黙示録として示したのです。この「日本書記」を告発する「古事記」の黙示録の技術は、「旧約聖書」を告発した「ヨハネの黙示録」でも使われていたのです。
ユダヤ民族とイスラエル民族とは、同じ民族ではなく、異なる出自と異なる神を祀る別々の民族です。ユダヤ民族の出自は、メソポタミアのウルで、唯一神ヤハヴェを祀ります。それに対して、イスラエル民族の出自は、ヒッタイト帝国で、太陽神バアルと雄牛を祀る多神教であるのです。
藤原氏と秦氏・突厥民族も、異なる神を祀っていたのです。藤原氏は、仏(ほとけ)ではなく、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道の神です。それに対して、秦氏は太陽神ミトラで、突厥民族は北極星(太一)です。
そのユダヤ民族は、イスラエル民族の歴史を乗っ取るために「旧約聖書」を創作したのは、藤原氏が秦氏や突厥民族の歴史を乗っ取るために「日本書記」を創作したのと、動機は同じです。
そして、ユダヤ教ヨシュア派から派生して、392年ローマ帝国の国教となったローマ・キリスト教は、ローマ帝国内で崇拝されていたミトラ教の地下神殿を破壊しただけではなく、そのミトラ教の儀式を、ローマ・キリスト教に取り込むことにより、ミトラ教を歴史上抹殺してしまったのです。
それと同じに、藤原氏は、漢訳仏教により、秦氏のミトラ神を、「弥勒菩薩」として、ミトラ教を抹殺したのです、そして、突厥民族が祀る北極星(太一)を、ユーラシアで復活した突厥軍団の援助により、672年亡命百済近江政権を倒した天武天皇が、伊勢に突厥民族の神である北極星(太一)を祀るために建てた「道教の観」を、奈良時代に藤原氏は、その道教の観を破壊して、その跡に、「神宮」を建て、その北極星(太一)の神を抹殺するために、太陽神の「天照大神」を発明するわけです。
太陽神は、世界のどの国でも「男神」です。しかし、その太陽神である天照大神は、悪役のスサノウ(新羅の皇子)の姉(女神)であるのです。それは、天照大神と天児屋根命を登場させるための「天磐戸物語」の種本では、巫女デメテルが裸踊りで活躍するギリシャ神話では、その物語の主人公が、めったに笑わない「女王」だったからです。
そして、イスラエル民族の歴史を乗っ取ったユダヤ民族は、イスラエル民族を歴史上抹殺するために、アッシリアと混血したとして、不可蝕賎民サマリア人の蔑称を発明するわけです。
このことと同じように、日本列島での秦氏と突厥民族の歴史を乗っ取った藤原氏と亡命百済貴族は、それらの肉食する騎馬民族末裔を、漢訳仏教と中臣神道の「穢れ思想」により、第一百済王朝の平安時代では不可蝕賎民「施陀羅」とし、そして、第二百済王朝の北条鎌倉時代では、穢れが多いの意味で「穢多」の民族差別語を発明して、歴史上の抹殺を試みるのです。
この「秦氏・突厥民族」対「藤原氏・亡命百済貴族」の興亡が、日本列島史の流れの基本であるのです。
日本列島に古墳築造の技術を持ち込んだのは、西アジアから高句麗を経て、朝鮮半島を南下して、九州にたどり着いた民族です。その民族は、先住民を友好的に取り込むために、きらびやかな巨大前方後円墳をデザインし、先住民族をその作業者として雇うことにより、支配下においていたのです。前方後円墳は、墓ではないのです。
その根拠として、埋葬者の存在が確認されない、巨大前方後円墳が多くあるからです。それに対して、小規模の円墳や方墳には、豪華な装飾品とともに馬具や鉄剣などか、棺とともに埋葬されているのです。更に、その巨大前方後円墳を築くには、数十年も建設期間がかかるのです。寿命が短い古代では、生前のその数十年前に、豪族と言えども、巨大前方後円墳の墓など築くはずはないのです。
そして、日本列島の飛鳥ヤマトを、始めて軍事的に支配したのは、ユーラシアを支配下に置いた突厥軍団で、東ローマ帝国との馬絹交易のため、日本列島の絹を求めて527年渡来した、日本語の祖を持ち込んだ、チュルク系突厥民族であったのです。それ以前の日本列島では、高句麗・百済・古代新羅などの周辺諸国の部族・民族が、それぞれのコロニーを形成して暮らしていたのです。
そして、その突厥民族と秦氏が支配していた飛鳥ヤマトを、645年壊滅したのが、唐進駐軍と中臣族軍であったのです。
このような視点で、「日本書記」の飛鳥大和時代物語を読めば、藤原氏が「何」を隠蔽したのかが黙示されます。古代日本列島史の謎解きは、物部氏が「秦氏」で、蘇我氏が「突厥民族」であることが分かれば、完成です。

「神輿の黙示録」では、敗者の視点から日本列島史を眺めたので、勝者である藤原氏、亡命百済貴族、そして、漢訳仏教には不都合が多かったと思います。それは、表の歴史は勝者の物語であるから、敗者は歴史を公の場で語ることができなかったからです。その敗者の代弁として、「神輿の眼」に写った物語を記述したのが「神輿の黙示録」です。
神輿の歴史は不思議です。それは、奈良時代の752年、東大寺の大仏開眼供養の式典で、宇佐八幡の氏人が、退位した聖武天皇と娘孝謙天皇を祀るために担いだ「神輿・シンヨ」が、神輿のルーツと云われています。
その神輿は、平安時代になると、比叡山の僧兵が日吉山王の神輿を担ぎ、敵対する興福寺や朝廷に威圧をかける「政争道具」として利用されていくのです。それは、その神輿は穢れていると信じられていたので、誰もがその神輿を恐れていたからです。平安時代の神輿は政争の道具で、明治時代からのお祭りで、氏子が神を祀るためのものではなかったのです。
では、比叡山に敵対する興福寺も、その神輿を威圧道具として利用したかと言えば、そうではなく、春日明神の、榊に鏡を付けて神体に擬した、神木を奉じて比叡山や朝廷を威圧していたのです。
その亡命百済貴族の神を祀る比叡山の「穢れた神輿」と、藤原氏の氏寺である興福寺の「ミトラ神の神木」との戦いの謎は、奈良の大仏にあったのです。
奈良の大仏とは、奈良盆地にあった巨大古墳を破壊して整地した跡に平城京を遷都し、その都に唐進駐軍が駐屯している時代、反藤原氏の聖武天皇が、都の北の山背国を前線基地としている、飛鳥ヤマトを追われた秦氏と突厥帝国残党軍を支援するために、表向きは仏像として、秦氏が祀るミトラ教の太陽神を像として鋳造したものであるのです。
その根拠は、その神像の名前が、遍照鬼であったからです。遍照鬼の「遍照」とは、太陽のことで、「鬼」とは、漢訳仏教の敵神のことであるからです。今日に伝わる奈良の大仏の別名のビルシャナブツの命名は、平安時代に錬金術師空海がおこなったものです。そして、遍照鬼の首は、855年に漢訳仏教徒により落とされ、太陽神像の首は挿げ替えられて、今日の巻き毛の大仏様となっているのです。ですから、遍照鬼像の顔が、どのようなものであったかは、想像の域をでないのですが、仏像ではなく、奈良時代では太陽神であったことは確かです。
その反藤原氏の聖武天皇は、興福寺を見下ろす高台に、その遍照鬼を鋳造すると、その威光により、藤原氏の子弟が不思議な病で死去していたのです。それは、前政権の前方後円墳を破壊したため、その怨霊の祟りと信じられていたのですが、その実態は、神像を鋳造した時の鉱毒中毒死であったのです。
平安時代になると、この怨霊事件を知っている比叡山の僧兵は、その藤原氏を祟った怨霊を神輿に封印して、藤原氏の氏寺の興福寺を脅す道具としたのです。
それに対して、興福寺は、比叡山の日吉山王の神の歴史を利用して、榊に鏡の神体の神木で脅すのです。
比叡山は、794年以前では、山背国を支配した秦氏の雄牛を屠り太陽神ミトラを祀る祭祀場であったのです。その比叡山は、唐進駐軍の後ろ盾により、亡命百済貴族出自の桓武天皇が支配すると、788年仏寺の延暦寺を創建とし、秦氏の神であるミトラ神を「魔多羅神」として貶め、そのミトラ神の歴史を抹殺するために、中国山東半島の土着の神シャンワンを導入して、「山王神」とするのです。
平安時代、このことを知っている興福寺では、太陽神ミトラの象徴として鏡を付けた大木を、比叡山の神輿に対抗して、脅しの道具としていたのです。
では、古墳時代(飛鳥時代)に、岩手県以南に巨大前方後円墳を築造していた古代エジプトの土木建設技術を持つ者達は、平安時代の古墳破壊時期に、どこに消えてしまったのでしょうか。藤原日本史では、その頃現れたとするのが、漂白する芸能民です。その芸能民とは、何者なのでしょうか。
平安時代は、怨霊の跋扈する時代で、飛鳥ヤマト時代の道教は、平安時代には陰陽道として生き残っていたのです。では、漢訳仏教に弥勒菩薩として取り込まれてしまったミトラ教(景教)は、どのようにして生き延びていたのでしょうか。
平安時代、ミトラ教は、比叡山の漢訳仏教組織により宿神の魔多羅神として貶められ、古墳を破壊した跡に創られた神社(モリ)で、ひっそりと暮らしていたのです。しかし、桓武天皇の実弟早良皇子や、騎馬民族系天武天皇の最後の血筋である井上皇后の、桓武天皇による謀殺結果の怨霊が、貴族や庶民には、平安京を祟っていると信じられたため、前政権の支配者であった騎馬民族末裔の陸奥国捕虜の蝦夷を、怨霊鎮めの武芸者として、蕨手刀を改良して祭祀道具の「日本刀」を発明して、平安王朝は利用したのです。
そして、その飛鳥ヤマトの武人末裔の蝦夷が、武士となり、飛鳥ヤマト時代では、古代エジプトの土木建築技術を持つ秦氏の支配地であった、古代新羅花郎騎士団の基地があった河内地域に勢力を増し、武家源氏を名乗るのです。
平安末期、その古代新羅花郎騎士団末裔の武芸者が変身した「源氏武士」が、アラブ系「平家」を倒し、1192年騎馬民族国の鎌倉幕府を拓くのですが、百済系サムライの「平氏」である北条氏の陰謀により、1219年源氏三代は滅亡し、「平氏」の女棟梁北条政子により百済系政権の北条鎌倉時代となるわけです。これが、第二百済王朝です。
北条鎌倉幕府のサムライによる、源氏武士抹殺組織の六波羅探題により、源氏武士は「源氏狩り」にあい、そのため、北条鎌倉幕府に従わない源氏武士は、山奥の禁足地に逃げ込むのです。山奥の「平家落武者部落」とは、実は、「源氏落武者部落」であったのです。
その禁足地は、やがて全国の源氏武士残党のネットワーク地点となり、その禁足地に各種技術者が集まることにより、同業者組合の「座」が興るのです。その禁足地の「座」では、漂白する芸能民の座も開かれるのです。
中世ヨーロッパでのギルドが、北条鎌倉時代には存在していたのです。そこで、武術が長けた元源氏武士が、北条鎌倉幕府や漢訳仏教組織による「座」攻撃のトラブルを、祭祀道具である「日本刀」による武芸で仕切る、「役座」となるわけです。役座の祖は騎馬民族であるため、反漢訳仏教の「仏」に対して、漢訳仏教の敵である道教の「神農様」を祀ったのです。中国北魏での「仏教と道教」の戦いが、日本列島にも持ち込まれていたのです。
1841年(天保12年)清水の次郎長が、同業者の博徒に重症を負わせて、その追っ手から逃れるため、騎馬民族の徳川家康の元支配地であった三河に逃げた時、旅費がなかったため、東海道の藤川宿の親分に「仁義」を切ったのが、博徒による仁義の歴史の始まりです。
では、その「仁義」の挨拶の儀式は、博徒が初めではないのならば、どこから来たのかといえば、それは、渡り職人(漂白の芸能民)が、各地域のギルド(同業者)の親方を尋ねて、旅の旅費や宿泊を願う時の挨拶であったのです。
この渡り職人の全国組織があったからこそ、日本全国の土木建設は短期間に施工されていたのです。例えば、城といえば、堀をめぐらした石垣の上に仏閣を築き、その上に天守閣をのせた建物を想像しますが、その現在に伝わる城の歴史的流れは、飛鳥ヤマト時代の朝鮮式山城→奈良・平安時代の仏閣砦→鎌倉・室町時代の平城→戦国時代の1576年イエズス会傀儡の織田信長が、ヨーロッパの城築造思想を基に安土城を創建したのが、現在の石垣の上に築かれた天守閣のある城の始まりであるのです。
戦国末期、このデウスの神が宿る天主閣(後に天守閣となる)のある織田信長式の城形式が、国を挙げての戦国時代だというのに、短期間に全国で建設されていたのは、古墳時代(飛鳥時代)古代エジプトの土木建設技術で巨大前方後円墳を築いていた職人集団末裔の、石組技術や深堀を築く技術を持つ、渡り職人の全国的ネットワークがあったからです。
その渡り職人が、博徒と関係があったことは、博徒が香具師(ヤシ)といわれていることで分かるのです。博徒の蔑称のヤシとは、江戸時代では「矢師」と云われていたのですが、その本字は、「野士」で、百済系の北条鎌倉時代に、「源氏狩り」で野に下った、新羅系の「源氏武士」であったのです。
北条鎌倉時代、源氏狩りにあった源氏武士は、生き残るために身分を隠し、禁足地での座のバザール(高市・タカマチ)で、薬売りや抜歯などの外科手術などにより生計を立てていたのです。それは、「源氏武士」は、騎馬民族末裔であったので、創薬や外科手術に長けていたからです。大阪の道修町や北陸の富山に創薬業者が多く暮らすのは、それらの地は、古代から騎馬民族が暮らす地であったからです。それらの地では、天照大神ではなく、神農様が祀られていることで、騎馬民族の地であったことが証明できます。
正統役座が祀る神様は、藤原氏が奈良時代に発明した「天照大神」ではなく、「神農様」であるのですが、その神農様は、「薬草の神様」であるのです。現在の薬学部の生徒が、神農様を祀りますが、その意味を知らないひとも多く居るようですが、役座が神農様を祀るのは、その祖が騎馬民族の武士であったからです。
1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、騎馬民族末裔の徳川家康が関東の湿地帯(穢れ地→穢土→エド)に追放されると、徳川家康は、配下の産鉄民族末裔の金山衆や秦氏末裔の古代エジプトの土木建築技術者達により、巨大前方後円墳ではなく、海抜2.5mの岬に造られた大田道灌の砦を、神田掘りの残土により埋め、海抜10mの小山を築き、そこに「エド城」を築くのです。そして、徳川家康は、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉の壊滅を意図して、ローマ帝国軍式幅広の一直線道路を、エドから小田原に向けて敷設するのです。
徳川家康は、その騎馬軍団のための軍事道路の各地点に、軍馬の補給地である駅舎の「宿場」を設けるのです。この騎馬軍団が迅速に移動するために、街道の各地に軍事施設を設置した軍事思想は、五世紀から六世紀にかけて、ユーラシアから東海(トンヘ・日本海)を渡海して日本海沿岸に渡来した突厥帝国軍団が、飛鳥ヤマトに軍事都市を築き、隋や唐の軍団が、朝鮮半島から北九州、そして、河内へ進軍することを防ぐために設けた、軍事資材補給地の「ミヤケ」を築いたのと同じです。
徳川家康は、その宿場の治安維持を「役座」に任せたのです。その宿場の維持・管理費は無料で「役座」におこなわせるため、日没後に、博打・売春の営業を公認したのです。元々、この博打・売春・高利貸しは、「役座」のオリジナルビジネスではなく、それは、日本列島に645年に中国製武器の長刀で武装した僧兵と供に渡来した漢訳仏教のビジネスであったのです。
それは、博打でのチップを「テラセン・寺銭」と言うことから理解できます。治外法権の仏寺では、仏を祀る傍ら、そのような「悪業」もおこなっていたのです。
宿場を武力で護る「役座」は、漂白する渡世人ではないので、仁義など切る必要はなかったのです。江戸初期に、役座が仕切る宿場を、仁義を切って訪ね歩いたのは、平安時代に比叡山の祭祀場を追われた、漂白する芸能民達であったのです。
芸能民と役座の祖は、飛鳥ヤマト支配者の末裔で騎馬民族の同族であったので、漂白する芸能民は、旅先の宿場の「役座」の親分に、仁義を切って、旅費や宿泊を願っていたのです。
それが、1623年徳川三代目将軍家光の時代になると、宿場を治安維持していた、新羅系武士の流れにある「役座」は、漂白する渡世人となってしまうのです。それは、徳川家光には、百済の血が流れていたからです。
亡命百済貴族末裔は、663年母国百済を滅ぼしたのが、新羅であることを忘れていなかったのです。この徳川三代目将軍から、騎馬民族国のエドではなく、漢訳仏教思想による第三百済王朝が始まるのです。
1651年第三百済王朝を支配する「サムライ」により、騎馬民族末裔の「源氏武士」残党を抹殺するために仕掛けられた、由比正雪の乱により、騎馬民族支配のエド時代が終わり、京都文化の江戸時代となって、騎馬民族は漢訳仏教思想により、賎民「穢多」「皮多」などの蔑称で貶められて行くのです。
飛鳥ヤマトを支配した突厥民族と秦氏末裔は、第三百済王朝の江戸時代に、賎民と貶められるのですが、長吏頭弾左衛門により、北関東に騎馬民族末裔による「風の王国」を経営して、明治革命まで生き延びて行ったのです。しかし、その明治革命では、、、、、、、。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/853.html

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍首相「テロリストたちを許さない。痛恨の極み」[産経ニュース] ニュース侍
14. 2015年2月01日 11:31:25 : DXs3qskq1k
アベチンのコメントは
いつも全体としては穏当な内容なのだが
どう言う訳かその中に過激で不穏当なセンテンスが
一つ二つ常に潜り込んでいる
今回は罪を償わせると言うセンテンスが問題だ
問題は誰がこの不穏当なセンテンスをコメントに潜り込ませているのかだ
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/155.html#c14
コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
12. 2015年2月01日 11:32:10 : ZA54wiREXw
>>07


去年から拘束されていることが分かっておりながら中東であのような発言をした安倍首相は無能だ。

湯川さんに限っては去年の8月から拘束されており時間は十分にあった。

その間、安倍政権は解放に向けて何をしていたのか?

安倍政権は動画が日本国民に公開されるまで何もしていなかった疑いが濃い。

本当に安倍政権は無能だ。

死刑囚の女テロ犯も自爆に失敗しており実質的には一人も殺していない。

お金をイスラム国に支払わないでヨルダン政府に支払えば死刑囚との人質交換という選択肢もあったはずだ。

時間は十分にあったのだ。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
13. 木曽の山猿 2015年2月01日 11:32:13 : YnLQsTybFStJg : ZLqYwwjz1c
殺害された湯川春菜氏、後藤健二氏に、
心から哀悼の意を表します。

しかしこの事態は、
心ならずも、
25%の支持率にせよ、
アベ自民党政府に政権をゆだねた日本国民の、
自己責任でもある。
そして、
少なくとも今まで中東地域に対しては自主外交を保ってきた日本外交を、
アメリカ支援、イスラエル支援、アメリカに忠誠を尽くすアラブ支援へとおおきく舵を切った、
アベ政権が、
いまや日本国民を戦乱の渦中に投じたということだ。
さらに、国民の生命財産を犠牲にしてでも利益を得ようとやっきになり、
安倍晋三の中東歴訪にぞろぞろついて行った財界の死の商人達が、
このような事態を招いているのだ。

アメリカ主導で行われている「テロとの戦い」は、
辛くも地域を掌握し安定を保っていたはずの独裁政権を、
欧米の身勝手な利害とプロパガンダのもとに暴力的に排除たため、
交渉相手たる当事者さえ不在で停戦協議も終戦協議も不可能な、
決して終わることがない皆殺し戦争になってしまった。

今までテロとは無縁だった日本人は、
今後決して国内外で、国内でさえ、テロの脅威から免れると思わない方がよい。
彼らから見れば日本は敵国宣言をしたも同然であり、
テロの攻撃はどこから行われるのか全く予想できないのだ。

今の我が国は、
冷静で科学的な分析や見通しもないまま、
満州事変を起こした軍部の行動を是認し、
三国同盟を結び、
主観的な願望と見通しに基づき真珠湾攻撃の火蓋を切った、
太平洋戦争開戦までと同じ道を歩もうとしているのだ。

世論が居丈高になる前に、
どこかで引き返す勇気が必要だ。
それは今しかない。
あるいは時既に遅しなのか・・・・

                   嗚呼
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
14. 2015年2月01日 11:33:00 : K65V0hnL4w
政治には、冷静さを求められると言えども、盆暗の朝のコメントは、「この人、病気かな」と思えるほど、言葉に感情がこもっていなかった。

日本を戦争に引きずりたい勢力は、盆暗の大根役者振りに、人選を誤ったと考えているかもしれない。

動画は、これまで、ジハーディ・ジョンが出演した、一連の首切り動画と同じ、テロリストが制作したとは思われないほどに洗練された技術によるフェイク・ビデオだ。

これまでの首切り動画の被害者たちと同じように、後藤氏の遺体は出て来ないだろう。(遺体は、殺人を証明する最も明白な証拠になる。)

後藤氏は、先に殺害された(?)湯川氏の友人で、右翼と深い関係がある。

二人とも、シリアの反政府組織に関して、知ってはいけないことを知ってしまったために、殺害された可能性は残っている。

特に後藤氏は、誘き出されて殺された可能性が高い。(NHK関係者も一枚かんでいるかもしれない。そうならば、その関係者も命を狙われる可能性がある。もちろん、自殺とか事故死に見せかけるだろう。)

田母神俊夫氏は、安倍一次内閣当時、統合幕僚本部長に就いていたそうだ。

盆暗、ネタニヤフ、マケイン、CIA、MI6、モサド、ISと役者が揃っている。

これらの動きは、1%が、防衛のために、99%同士を戦わせようとする大きな企み中の出来事だと理解すべきだ。

そうでないと、1%のいい様にコントロールされて戦いに参加し、命を落とすことになる。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c14

コメント [原発・フッ素41] 再稼働、想定外(見えないフリ)はいつもある。 知る大切さ
19. 2015年2月01日 11:34:39 : ee9iGRP1f2
というか、アメリカが原発を爆撃する訓練してますよ。

伊予原発付近で低空飛行訓練に失敗して墜落事故おこしてます。

アメリカが押し付けた原発を爆撃訓練している。何の為に押し付けたか分かりますね。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/738.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
24. 2015年2月01日 11:36:53 : qpd25J8Ajs
今回の事件は29日の日没で終了した事件である。そしてイスラム国は日本人よ安倍はバカだ、安倍によってもやはお前らに安全安心はなくなったと宣言したのだ。
それに対し安倍は自分の責任は無視してイスラム国を許さない同盟国と共に罪を償わせると返事をしている、これってイスラム国が当初指摘した通り十字軍に参加するとの宣言ではないか。客観的に見てイスラム国の指摘が正しく詭弁を使って言い逃れをしても出来ない相談だ。人命第一と言いながら真っ先にイスラム国をせん滅すると宣言したオバマに電話をしているのだから何が政府の精一杯の努力だ。そしてそれを補強するようにオバマが日本と協力してイスラム国をせん滅すると今日も宣言している。今回の後藤さん殺害の責任は全て安倍にある。日本人が危険にさらされる事態を招いた責任、政府は国民の安全を守る事はできないばかりかイスラム国が言ってくれているように泥沼の戦争に日本が参加する事を勝手に決めた責任は重大である。安倍の言葉に惑わされて国民が安倍を支持する事が無いよう祈るばかりだ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c24
コメント [原発・フッ素41] 福島県内の子どもの水辺活動の被ばく線量 最大0.031ミリシーベルト。環境省推計(福島民友) 赤かぶ
03. 2015年2月01日 11:37:15 : MwG30JCIzs
-----------------1キロ当たり2000〜5000ベクレルと設定して試算したところ

なぜ「試算」?実測しなくちゃ本当のところはわからない。川や湖沼は汚染物質が集中
して高濃度になることがある。また海ではトリチウムの影響もある。皮膚から直接
浸透して被曝する。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/745.html#c3

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
162. さんてんりーだー 2015年2月01日 11:38:09 : 7xn101saqYVdA : kxk7MnCbWU
>161

ユカワにしろ、ゴトーにしろ、CIA工作員の最期はあわれなものですね・・・

中山外務副大臣もジョンマケインも、なんでCIA工作員になったか解りませんが・・・

>緊張感を維持しつつ、政府一丸となって、情報の分析、精査、共有を行い引き続き対応している

金兆缶を持って、CIA一丸となって、情報の歪曲、科研の精査妨害、共有排除を行い、引き続きダマスゴミ報道管制をしている

のですね・・・
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c162

コメント [経世済民93] セブン&アイ、株価下落の元凶“お荷物”ヨーカ堂を即刻売却すべき 超優良グループに変身(Business Journal) 赤かぶ
01. 2015年2月01日 11:40:36 : pj0uwhl5FI
超優良どころか、超極悪グループじゃねえか。

最高裁でセブン−イレブンの「違法」確定――見切り販売の妨害で敗訴(週刊金曜日)
http://www.asyura2.com/14/hasan91/msg/488.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 11 月 05 日 20:12:06: igsppGRN/E9PQ

●このコメントに注目。
http://www.asyura2.com/14/hasan91/msg/488.html#c2

★セブンイレブンオーナーの自殺者が続出…四生五殺=4000万までは借金させ働かせ、5000万円で自殺の意

◆鈴木敏文会長の方針。
「使い物にならないオーナー奴隷は、墓にぶち込め。」

追及!セブン‐イレブン商法 第2弾 マスコミタブー!?日経新聞が報道しなかったセブン‐イレブンの敗訴判決(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/hasan91/msg/387.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 10 月 30 日 10:59:05: igsppGRN/E9PQ

●世界中に飢えている人々が何十億人といるのに、弁当を捨てて儲ける超極悪グループに未来はない。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/349.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
15. 2015年2月01日 11:41:02 : J3KuwxB9Jo
テロリスト屈服釈放総理として名を遺したのは福田、
テロ屈服身代金払ったらしい総理として名を残したのは小泉、
見殺し総理として名を残したのは安倍、

ならば何をしても結局は名が残るんじゃないか
次は誰かがテロリスト爆撃総理として名を残すのかな
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍首相の挑発外交と日本国民の「羊主義」が、後藤さんを殺した!(生き生き箕面通信) 笑坊
11. 2015年2月01日 11:42:07 : Gb8LvWFvVU
>6
もちろん アラブの中にも 植民地統治以来の西欧傀儡政権はたくさんある。
しかし イスラム諸国民で 一致してるのは 対イスラエル その後ろにある対アメリカだ。
アメリカに憧れは あっても 憎悪もそれ以上にある。
多くのイスラム人が ビンランディを支持してたのも事実だ。
日本が イスラエルの 準同盟国になって以来 アラブの中で日本の評判は悪化してる。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/158.html#c11
コメント [音楽15] ディランが歌うシナトラ Stay With Meなど で爺
04. 2015年2月01日 11:42:26 : o7LkzoxYeo
通勤中にラジオで流れた曲で、気になる曲があるんですけど、吉田拓郎っぽい曲。
以下、歌詞の一部。

♪となりーの町のーおじょーおさんがー・・・
♪・・・おーとなーになるとー決めたーんだー

うーん、メロディーはわかるんだが歌詞が思い出せない。
とにかくとなり町のお嬢さんが村にやってきて恋におちて夏祭りの夜に大人になった(笑)。
でも夏が終わると彼女はだまっていなくなってしまって、結局身分相応の人と結婚してしまったよ、というような内容の歌でした。

あえて検索せずに聞いてみるんだけど、知りません?
メロディーはもろに拓郎節という感じ。歌詞も。声も似てたから吉田拓郎の曲かなーとは思ってるんですが。

石松

http://www.asyura2.com/14/music15/msg/764.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK179] 「外交音痴、政治音痴の安倍の失政が、今日の悲劇を生んでいる:兵頭正俊氏」 赤かぶ
02. 2015年2月01日 11:42:37 : JZ6F5VdwNs
政治音痴で外交音痴かもしれないが
日本人を守りたくもない
安倍下痢ゾウリにとって
思い通りに展開していることは確かだ
でも、みんなそれでいいのか
喧嘩を売りまくってるおかげで
外国で道を歩いてもカツ上げぐらいですめばいいが
不治にヒライの道なんぞは
イスラム国ではなくイスラムに喧嘩売ってたぞ
イスラム国よ安倍を思い通りにしたいなら
ヒライの道をさらえばいい

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/142.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK179] <NHK経営委員>百田氏が退任へ(毎日新聞) 赤かぶ
18. 2015年2月01日 11:43:57 : QmyrjoZuIs
>16. 土手カボチャ 2015年2月01日 08:47:20 : pl5Rn2lbSatAo : LFHGv3Auuo
>百田は人間のくずそのもでしょう。クビが妥当。

その通り。
そのクズに退職金など払うのかな?
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/113.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
25. 2015年2月01日 11:44:22 : ZA54wiREXw

去年から拘束されていることを知りながら中東であのような発言をした安倍政権は無能政権だ。

国民を守れない安倍は辞任しろ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c25

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
163. Ivan W the Fool 2015年2月01日 11:45:08 : Xgud4gw21abPw : kxk7MnCbWU
>116

日本政府が米共和党CIAの配下にあるとすれば

>後藤さんは政府の意を受けてイスラム国側にわたった

というのも「本当」でしょうね。
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c163

コメント [経世済民93] マクドナルドで食べ、100円ショップで何か買う時代の終わり(Darkness) 赤かぶ
10. ara 2015年2月01日 11:45:17 : LNmFaEQpmm68w : Fpco3PTTrk
中国やアセアンなどと取引すれば、必然的に給料も落とさなければ競争に勝てない。
欧米との経済競争ならば勝てても、発展途上国との経済競争では勝てないのは自明。
人件費を切り詰めるしか方法は無い。
或いは全自動の機械化でしかない。
官僚や役人、会社の役員や税金に巣食っている人々への無駄金を何とかしなければ
ならないのは当然。できなければ日本の沈没でしかない。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/351.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
16. 2015年2月01日 11:45:46 : pj0KXIvxBk
07

あなたの論理はおかしい。

安倍政権が、憲法を政治解釈してまで、積極的に他国の紛争に介入していくこと。
米国と踵を合わせて世界の警察を気取ってリスクを積極的に負うこと。
その代償として一般国民が犠牲になること。その犠牲は、あなたの論理でいけば、
「荷担」に加わらないためには仕方ないということになる。
それが国民の総意なのか?安倍首相はそういう犠牲をこれからも重ねていくことに
最高責任者として国民に説明できるのか?

また、安倍政権の紛争地への介入の仕方が、人道支援を表向きにしながら、
その実は、テロ撲滅のための関係各国への資金提供であること、
そして武器輸出のタガを外して紛争地で日本企業に商売をさせようとしていること。

後藤氏のように純粋に「人道」を志す人まで、安倍政権はその死に
「テロと闘う」なる国旗を被せて、この先は改憲・自衛隊の紛争地での
武力介入の道筋である。後藤氏がペンの力で訴えてきた「人道」すら
武器の前で無意味になる。これでは後藤氏は浮かばれない。

浮かばれない方向に安倍政権がこの国を持っていくのであれば、
本当の意味の人道支援や人道に即したジャーナリズムは死に絶える。
なぜなら、彼らも相手からすれば、殺害すべき対象とされるからである。
そういう、色分けを相手にさせてしまったのは、安倍政権、安倍首相の
責任でなくて何であろうか?



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c16

コメント [原発・フッ素41] スクープ「個人線量計が最大4割低く表示」福島県内の子供が危ない!〈週刊朝日〉 赤かぶ
25. 2015年2月01日 11:45:53 : ee9iGRP1f2
管理人さん、茶色のウサギは荒らし認定して、自動的削除で良いのではないでしょうか?
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/725.html#c25
記事 [テスト30] Re: テスト
後藤健二さん殺害-首を切断した写真画像の動画 イスラム国が公開
http://breaking-news.jp/2015/02/01/016734
2015/2/1 08:14 最終更新 


イスラム過激派組織「イスラム国」に湯川遥菜さん・後藤健二さんら日本人2人の身柄が拘束され、うち湯川遥菜さんが殺害されていた事件で、2月1日早朝、新たに後藤健二さんが殺害されたとする動画がインターネット上に投稿されました。


湯川遥菜=ゆかわ はるな
後藤健二=ごとう けんじ



問題の動画では、「日本政府へのメッセージ」と表示された後、オレンジ色の服を着せられた後藤健二さんがひざまづいた状態で映り、横にはいつもの男とみられる黒づくめの服を着た男がナイフを持って立っています。


そして、以下のようなメッセージを英語で話しました。


「日本政府は邪悪な有志連合に参加した愚かな同盟国と同じように『イスラム国』の力と権威を理解できなかった。われわれの軍はお前たちの血に飢えている。安倍総理大臣よ、勝てない戦争に参加した向こう見ずな決断によってこのナイフは後藤健二を殺すだけでなく今後もあなたの国民はどこにいても殺されることになる。日本の悪夢が始まる」


出典:後藤さん殺害か ネットに動画投稿 NHKニュース


イスラム国は上記のように、後藤健二さんの殺害だけでなく今後も日本人を殺害することをほのめかしています。


その後、男は後藤健二さんの首にナイフをあて、切断を始めました。



そして最後には、後藤健二さんの首が切断され、頭部を体の上に乗せた状態で撮影された静止画像が流れました。



■後藤健二さんが首を切断され殺害されたことを示す動画


Youtubeに投稿された動画は既に削除されていましたが、別のサイトに後藤健二さんが殺害されたことを示す動画がアップロードされていました。


後半55秒以降については後藤健二さんの首が切断された後の鮮明な画像が含まれているため、閲覧には十分ご注意ください。


イスラム国がYoutubeに投稿した動画



【ノーカット版】速報 イスラム国 後藤健二氏を殺害 首を切る処刑動画をYoutubeに公開... 投稿者 b3306379



この動画について日本政府は、「信憑性は高い」とみており、現在確認中だということですが、後藤健二さんが殺害されたことはほぼ間違いないものとみられています。


イスラム国は、過去の自爆テロ事件で死刑判決を受け、ヨルダンで収監中のサジダ・アル・リシャウィ死刑囚と後藤健二さんとの身柄の交換を要求していましたが、ヨルダンはこれに対して「ヨルダン人パイロットを解放すれば死刑囚を釈放する」としていました。


そしてここ数日、ヨルダン側とイスラム国側が水面下で交渉を続けていたのではないかとみられていましたが、最悪の結果となってしまいました。


なおヨルダン人パイロットについても未だ解放されておらず、緊迫した状況は今も続いています。


■後藤健二さん殺害に至るまでのイスラム国の動き


イスラム国は1月24日夜、湯川遥菜さんの遺体写真を後藤健二さんに持たせ、その様子を撮影した動画をYoutubeにアップロードしました。


写真は、湯川遥菜さんの首が切断され、体の上に乗せている状態で写っていました。



さらに1月27日夜になり、今度はヨルダン人パイロットの写真を持たせた後藤健二さんの映像を公開しました。


この際に24時間というタイムリミットが示されたことから、1月28日になり急転直下の展開となりました。



しかしヨルダン政府は「ヨルダン人パイロットを解放するまで、リシャウィ死刑囚を釈放することは出来ない」とし、タイムリミットを迎えました。


すると1月29日午前、イスラム国側が後藤健二さんの声とみられる新たな音声メッセージを公開。


私はケンジ・ゴトー・ジョーゴです。これは私から皆さんにあてたボイスメッセージです。もし私の命と引き換えに交換されるサジダ・リシャウィさんを1月29日の日没までにトルコとの国境に用意できなければ、ヨルダン人パイロットのムアズ・カサースベさんは速やかに殺されることになります。


出典:後藤健二さんの新たな音声メッセージの中身 | 東洋経済オンライン



その後は、リシャウィ死刑囚が釈放されることもなく、ヨルダン人パイロットが解放されることもなく、こう着状態が続いていました。


■後藤健二さんが殺害されたことに対するTwitterでの反応













http://www.asyura2.com/14/test30/msg/925.html

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
26. 2015年2月01日 11:46:19 : P2o6941Xio

◆ 日米安保 廃棄!  日米同盟 中止!


  此れに向かって 今から開始のゴングが鳴らされたのだ!!。


◆ すべては 此処から始めなければならない




http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c26

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
32. 2015年2月01日 11:47:05 : FoozYI3PZF
一体どうしてくれるんだ。
これ最低でも即辞任でしょう。

今回のイスラム国の声明でも、アベという固有名詞を用いて、日本の総理のイスラムに対する理解力の無さ、そして有志連合に参加したという無謀な決断を思いっきり指摘さらていますね。

人道支援などの言葉が彼等に通用する訳も無く、しかも今回は人質だけではなく、日本国民がどこにいても殺される事になるとまで言われ、声明の終わりでは日本の悪夢が始まるとまで言われています。

安部総理はこの責任を一体どう取るつもりなのか?

勿論、安倍総理自体にそんなつもりなど無く、更なる対決姿勢を強く示していく事は安易に予想されるが、国民はメディア誘導に乗せられることなく冷静に事実を受け止めなければとんでもない事になる。

特に中東地域やアフリカ大陸その他海外で真面目に人道支援活動されている方々にとってはまさに悪夢のようだと思われる。

第二第三の犠牲者が出れば、終わりなき武力対決という不毛な悪循環に陥る事は避けれないでしょう。

最低限でも安倍総理を即刻引責辞任させる方向にメディアも舵を切らないと本当にとんでもない事になる。

いや、馬鹿な総理の一言で既にとんでもない事になっています。

都民
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c32

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
17. 無段活用 2015年2月01日 11:49:30 : 2iUYbJALJ4TtU : 241nF3hmAE
RFIサイトに記事があって、

http://www.rfi.fr/moyen-orient/2min/20150131-le-groupe-ei-annonce-execution-otage-japonais-kenji-goto/

「イスラム過激主義者サイト調査サービスのウェブサイトによれば、このドキュメ
ンタリー動画では、後藤健二氏の後ろに立って彼の首に短刀を押し当てている覆面
男が映され、続いて、背中の上に首を載せた死体の画像が映されている。」

"Selon le service de surveillance des sites islamistes SITE, le document
vidéo montre un homme cagoulé debout derrière Kenji Goto avec un poignard
plaqué sur son cou, suivi d'images d'un corps avec une tête posée sur le
dos. "

と書かれてあるのだが、つまり、ビデオでは後藤氏の首を刎ねる場面が映されてい
ない、と言うことが分かる。

その上で上の写真を見たときに、ナイフは頸動脈にきちんと当たっているのか、あ
の程度の長さのナイフで人の首を切り落とすことができるのか、という疑問が湧い
た。

人の首は簡単には落ちないと聞いている。昔の日本でも、あれだけの長さの日本刀
を使って首筋の特定の場所に一気に刀を振り落とさないと、首は落とせなかった。
だから、切腹の介錯には剣術の上手い侍が当たった。確かそうだった。

不謹慎な疑問なのだが、誰か分かる人がいるなら、教えて欲しいと思う。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c17

コメント [経世済民93] 円安で上方修正相次ぐ=上場企業の15年3月期―時事通信社中間集計(時事通信) 赤かぶ
03. 2015年2月01日 11:50:50 : jXbiWWJBCA

米GDP:第4四半期は年率2.6%増に減速、機器設備投資が減少

  (ブルームバーグ):昨年10−12月(第4四半期)の米国経済は予想を下回る成長だった。個人消費はほぼ9年ぶりの高い伸びを示したものの、企業の投資が減速したほか、政府支出も減少、貿易赤字は拡大した。
米商務省が30日発表した第4四半期の実質国内総生産(GDP、季節調整済み、年率)速報値は前期比2.6%増。ブルームバーグ・ニュースがまとめたエコノミストの予想中央値は3%増だった。前四半期は5%増と2003年以降で最も高い伸びだった。
ジャニー・モンゴメリー・スコットのチーフ債券ストラテジスト、ガイ・リーバス氏は、第4四半期の拡大は「底堅い個人消費がすべてだった」と述べ、「全体的に見ると、過去数四半期は大幅な成長が続いたが今は成長トレンドに沿う形に戻った」と続けた。
経済全体の約7割を占める個人消費は第4四半期に4.3%増と、予想(4%増)を上回った。前四半期は3.2%増。個人消費の第4四半期GDPへの寄与度は2.9ポイントだった。
2014年のGDPは2.4%増と、4年ぶりの高水準。個人消費は2.5%増加した。
第4四半期は固定資本投資が2.3%増と前四半期の7.7%増から伸びが鈍化した。機器投資は1.9%減と、2009年第2四半期以来で最も落ち込んだ。
貿易赤字は4715億ドルに拡大。輸入が輸出の3倍以上のペースで増加した。この結果、純輸出はGDPに対し1ポイントのマイナス寄与となった。 
PCE価格指数はマイナス
在庫投資は1131億ドルで前四半期比309億ドル増加。GDP寄与度は0.8ポイント。
政府支出は2.2%減。0.4ポイントのGDPマイナス寄与となった。国防支出の減少が影響した。
個人消費支出(PCE)価格指数 は年率0.5%低下。同価格指数のマイナスは景気後退期にあった2009年第1四半期以来初めて。食品とエネルギーを除くコア価格指数は1.1%上昇と、前期の1.4%上昇から鈍化した。
統計の詳細はNSN NIZS623T6SQW をクリックしてご覧ください。
原題:Economy in U.S. Expanded Less Than Forecast in Fourth Quarter(抜粋)
記事に関する記者への問い合わせ先:ワシントン Victoria Stilwell vstilwell1@bloomberg.net
記事についてのエディターへの問い合わせ先: Carlos Torres ctorres2@bloomberg.net 西前 明子
更新日時: 2015/01/31 04:01 JST
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NIZSAC6JTSEJ01.html


http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/358.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK178] <注意>イスラム国人質事件の悪質なデマに注意!ネトウヨ達が強引に在日認定!「後藤健二は在日だから日本政府に責任はない」 赤かぶ
11. 2015年2月01日 11:53:29 : DKVfJyBbdc
>10

200%同感。

戦争は一度始まれば、エスカレートを防ぐことができない。今回の事件は、後藤さんの殺害をもって終わりでなく、始まりに過ぎない。

イスラムは中東だけでなく、全世界にある。大多数は穏健で善良な人たちだ。

しかし、安倍が勝手に彼らに宣戦布告した結果、日本はイスラムとの終わりのない凄惨な十字軍を戦うことになる。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/906.html#c11

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
18. 2015年2月01日 11:53:43 : vjAsmoXaW2
安倍を始め、ダボカミ、クソウヨこいつら国賊が後藤、湯川両名を見殺しにしたのだ。

同胞を見殺しにして何が愛国だ。この国賊どもが憎くてしかたない。


地獄へ落ちろ。ゴミクソウヨ!!
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
01. 2015年2月01日 11:54:11 : G4FUfA37ME
いま、安倍内閣は悪くない、政府は力を尽くしたなどというデマが撒き散らされている。
民意・国論を分裂させようとする悪質極まりないデマである。
http://blogs.yahoo.co.jp/ad
あのとき上海の馬玉山路で殺された日本人が、湯川遥菜さんと後藤健二さんと重なる。

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c1
コメント [音楽15] で爺の純情替え歌集 で爺
01. 2015年2月01日 11:58:01 : o7LkzoxYeo
で爺さん、下のほうで替え歌が規制されそうですよ(笑)。
無期懲役(笑)
いいじゃないすかねえ。替え歌くらい。
なにより、つまらないという基準が曖昧だから臆することなく投稿したらいいですよ。思いついたら。
「嫌なら見るな」これですよ。実際おれもちゃんと読んでないし(笑)。

石松
http://www.asyura2.com/14/music15/msg/749.html#c1

コメント [原発・フッ素41] 福島第二原発の廃炉は事業者判断、安倍首相、再稼働に含みを残す(1/30 NHK) 赤かぶ
07. 茶色のうさぎ 2015年2月01日 11:59:18 : qtmOTsgWNIsK2 : U4q4MarZD6

原発のエネルギー問題と、国民の健康問題は別と考えます。!


http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/742.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍首相「テロリストたちを許さない。痛恨の極み」[産経ニュース] ニュース侍
15. 2015年2月01日 12:02:16 : SnaBvLIc2o
喧嘩、両成敗
どっちも悪い

解散して信を問うべき


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/155.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
02. 2015年2月01日 12:03:42 : b5JdkWvGxs

一番悪質なのは意図的にデマを流した右翼の「Rui Yasue」だね:


彼が拘束されたという事件を知った「Rui Yasue」という人物が、なぜか

・"This japanese guy is CEO of a private military company.He takes pictures while firing guns."
・(この日本人男性は、民間軍事会社のCEOです。彼は銃火器を持った写真も撮っています)と情報を送った。

Rui Yasueの情報によって、湯川遥菜氏は斬首された

不思議なのは、「Rui Yasue」という人物が、なぜわざわざイスラム武装組織に、湯川遥菜氏が「民間軍事会社のCEO」であるという情報を流したのか、ということだ。

この人物もジャーナリストであると言われているが、結果的に彼の情報によって湯川遥菜氏が殺害されたとなると、「Rui Yasue」が殺したようなものだ。
http://www.bllackz.com/2014/08/blog-post_18.html


そもそも湯川遥菜が作った資本金300万円、社員ゼロの唯のモデルガン販売会社が民間軍事会社の訳ないからね。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
03. 2015年2月01日 12:05:21 : rzni9MtejM
japanese peoplle are not ABE!!!!!!!

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c3
コメント [原発・フッ素41] 東京都に昨年一年間、降り注いだ放射性セシウムは61.65メガベクレル。福島、茨城に次いで全国三位。都全体では134ギガベ 赤かぶ
07. 2015年2月01日 12:05:23 : FEeL8Thr
>06
放射性物質は時間をかけて海の底に沈むと考えている人もいるが、原発事故以前の核実験などの放射性物質の循環経路を調べた学術調査を読むと、予想とは違い、(大気から海に落ちた場合)海で循環(表層域から中層域)しつつ、沈降するのは僅かな量でしかないことが分かってる。
漂ううちに魚に蓄積され、人の食道を通して再びそれを地上に戻しているだけかもしれない。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/746.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
31. 2015年2月01日 12:05:31 : oIshgaycdA
共産党は過去に武装闘争派と平和闘争派に分裂した。米軍を通じて日本が米国に支配されているなかで平和闘争派しか生き残れなかった。無理もないだろう。だから今の共産党は日米安保条約破棄には触れようとしない。治外法権を認めているこんな条約は破棄しなければ日本の恥。日本共産党も存在価値なし。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c31
コメント [政治・選挙・NHK179] 日本側が実現できない要求をつきつける「『イスラーム国』による日本人人質事件」 佐藤優 現代ビジネス 五月晴郎
05. 2015年2月01日 12:06:35 : EDFCKjGj9Y
>>4 EO8ytS4QYC

我が身にふりかかる問題だよ、日本はプレーヤーになっちまったんだ、ヴォケ!
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/120.html#c5

コメント [音楽15] ONLY YOU - JOHN LENNON BRIAN ENO
01. 2015年2月01日 12:08:18 : o7LkzoxYeo
これはいいですね。
でも時おり変な写真がw
ジョンレノンてちょっと変態でしょw
害のない変態。
http://www.asyura2.com/14/music15/msg/763.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK179] 盗っ人猛々しい安倍政権とテレビ局 古賀茂明「日本再生に挑む」(週刊現代) 赤かぶ
08. 2015年2月01日 12:10:12 : JzYRt9so6Q
日本国民をテロの標的に仕向けた安倍には
即刻責任を取ってもらわなければ、
殺された者は浮かばれない

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/106.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK178] イスラム国人質事件を、日本がヨルダンを「巻き込んでしまった」という視点で見てみると・・・(現代ビジネス) 赤かぶ
18. 2015年2月01日 12:10:35 : CxoRgaGktA
「ヨルダンに迷惑をかけた」 まず安倍の責任が大きい。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/878.html#c18
コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
33. 2015年2月01日 12:10:58 : ademKqZOe2
安倍即刻辞任、をだれも要求しないの?
野党とかいるんだよね
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
27. 2015年2月01日 12:11:14 : eGvx4j6yq2
韓国必死だな

それほど日本に米軍があっては

韓国の都合が悪いのか

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c27

コメント [政治・選挙・NHK179] 日本政府にせよアメリカ政府にせよ、自分たちが国家テロリストではないと説明しないし、できない。 gataro
01. 2015年2月01日 12:12:44 : Dm54OsXeWY
湯川に続いて後藤も殺された。安部退陣を迫る大チャンスとばかりに民主党や共産党の活躍の舞台到来とばかりに大ハシャギしているマスコミと文化人。 はしゃぐ前に二人の冥福を祈れ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/162.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
19. 2015年2月01日 12:14:13 : faWIlew9nU
「日本国民を救えなかったことを痛切に反省している」程度のことを言ってもばちは当たらないじゃないか、テロリストが悪いんだからボクチャンには何の責任も無いじゃ殺された2人が浮かばれないだろう。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c19
コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
28. ひでしゃん 2015年2月01日 12:15:05 : dsqbUTCLpgzpY : 9IQbDxI5Uo
今回の人質事件画像だけで確認は出来ていないが悲しい結末になったようだ
今後遺体を本人であるか確認し返還を急ぐ必要がある
安倍晋三の責任は免れなくなった
日本国の日本人は二人の犠牲者が更に増えないように安倍晋三等の間違った考えを正すべく説得し日本国は十字軍の一員ではないということを世界に向って発信する必要がある
テロを誘発しているのはアメリカをはじめとした有志国である
テロの原因はイスラム諸国に飢餓・貧困・社会不安を齎す西側先進諸国にある
日本国は今までイスラム諸国から攻撃されたこともないのになぜアメリカをはじめとした有志国に加わる必要があるのか?
今回の事件の経緯から殺害されたお二人に対する日本政府の冷酷非道さが際立っていたように思う
二人のバックにどのような闇が隠されているかを知る為には
まず二人の行動を支えた金銭のフローを金融機関のデータから読み取る作業がいる
金融庁が持つ国内の金融機関に対する権限により日本国政府は詳細を把握できる
誰がどのような意図で資金提供し二人が命を惜しまずイスラム国と言われる危険地帯に向ったかを究明することから始めなければならない
日本国政府はアメリカをはじめとした有志国と連携するのではなく中立を保ち食糧援助や生活基盤の整備など人道支援に特化すべきだ
安倍晋三自公政府はアメリカの産軍複合体が喜ぶことばかり考えず日本国民の安全を先ず考えよ
国民を守る為と言って更に国民を危険に晒す愚を止めろ



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c28

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
164. スポンのポン 2015年2月01日 12:15:56 : 2n7xEMe6gopkI : c21io5ga5E
 
 
 
■アメリカは意図的に真珠湾を攻撃させ『リメンバーパールハーバー』。
■自民党は意図的に人質を殺させ『リメンバー後藤』。
 
 
 

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c164
コメント [カルト14] テロにも屈さず後藤が無傷で生還する方法 チベットよわー
06. 2015年2月01日 12:16:05 : no31X615y2

>【緊急速報】イスラム国、ついに後藤健二も殺害!!! グロ画像すぎて ヤ バ イ !!!【動画もあり】
http://www.news-us.jp/article/413312561.html

・・本当にコラされたらしい。誤名吹くを追い海苔します。


http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/140.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が動画 ドンゲン
15. 2015年2月01日 12:20:23 : 8q3qeXT2cg

>>12 同意! 嘘ばかり報じている官邸とマスゴミに騙されてはいけない。

ここまでは、米国ネオコン・イスラエル・日本の戦争マフィアのシナリオ通りなのでしょうね。
2人の死亡確認は動画の分析ではなく、遺体とされるものを引き取り、DNA鑑定が必要である。

湾岸戦争の少女の発言もインチキ、911テロもインチキ、イラクの大量破壊兵器もインチキ。
ウソだらけの安倍政権が拙速に「動画は間違いない!」と発表するのは、逆に言えばインチキの証明である。

もし、遺体とされるものが帰国して本人と確認されたなら、湯川氏は関連の深いタモガミ君が葬儀委員長を行い、後藤氏は関連の深い官邸もしくは官邸と癒着している日本記者クラブが取り仕切るべきである。



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/152.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK179] 「イスラム国」日本国内を標的も… 協力者の「帰国テロ」に高まる不安(ZAKZAK) かさっこ地蔵
03. 晴れ間 2015年2月01日 12:21:55 : FhUYgDFvAt2/E : xni5yVaf3k
日本をテロの標的にしたのは、安倍。
イスラエルに行って、イスラエルの旗の下で、安倍とネタニヤフが並んでみせたのがその証拠。

イスラエルは経済制裁の対象にすべき国。
それなのに、日本とイスラエルが同盟友好国であると誇示し、武器商人を大勢連れて、経済連携を謳ってみせた。
その効果を予測できないとしたら、安倍自民党も日本の外務省も、愚かというしかない。
そのことを分かった上で、そうしたのなら、安倍も外務省も確信犯。

日本の軍産複合体は、この事態を見て喝采しているのではないだろうか。
今後は湯水のように軍需予算が自分たちにもたらされる、と。

野党が安倍の責任を追及しないとしたら、野党も安倍自民と同類であるということだ。

陰謀論派は、米国とイスラエルのことしか言わないが、結果的にイスラミストやジハード主義者、イスラム国と、日本の軍産複合体の責任を問わないことで、これらを容認している。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/132.html#c3

コメント [戦争b14] 安心してよく見ろ、湯川遥菜さんらしき死体はフェイクだ。政府は画像を見せずに戦争の口実にするぞ。 飯岡助五郎
165. けろりん 2015年2月01日 12:24:38 : xfW5FN1G6ouU2 : pUn8Qsa3JU

独立行政法人国際協力機構( JICA )/2003年10月 - 発足
職員/1600人足らず、資本金7兆の、外務省諜報・特務機関・・NSA( 日本版モサド )


・・・城後・外務官僚(後藤)健二は、カケに出た。
ゆえに生命保険6億も掛けている・・おそらくは保険金掛け金は外務省保障だ。

水面下の政治的紛争は、イスラム信仰部族、イスラム王族、欧米EU&CIA、露中ブリックス、
の四つどもえの駆け引き合戦の真っ最中なんだろう・・・。


http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/815.html#c165

コメント [経世済民93] マクドナルドで食べ、100円ショップで何か買う時代の終わり(Darkness) 赤かぶ
11. 2015年2月01日 12:24:46 : JzYRt9so6Q
1%の金持ちへ。
99%分の消費をしなさい。
http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/351.html#c11
コメント [政治・選挙・NHK178] イスラム国が湯川遥菜さんを殺害か-Youtubeに写真画像アップ 赤かぶ
145. スポンのポン 2015年2月01日 12:26:14 : 2n7xEMe6gopkI : c21io5ga5E
 
 
 
■『リメンバー後藤』と国民に言わせるために
 自民党は意図的に人質を殺させたと私は考える。
 
 
 

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/564.html#c145
コメント [原発・フッ素36] ネット工作員の見分け方(とある原発の溶融貫通(メルトスルー)) 赤かぶ
66. 2015年2月01日 12:29:12 : XKdHslvcCY
(工作員対策のため記録を残しておきます)

★事故を起こせば収束できない悪魔的な技術を、認識していながら、「再稼働」論理が破綻

原発常識(レベル7は解決不可能) 予言が的中

★【手の平返し】安倍首相「福島第1原発事故、収束という言葉を使う状況にない」
=>http://saigaijyouhou.com/blog-entry-5389.html
★福島第1原発事故、収束という言葉を使う状況にない=安倍首相
=>http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKBN0L30GD20150130
安倍首相は福島第1原発の状況について「汚染水対策を含め、廃炉、賠償、汚染など課題が山積している」としたうえで「今なお厳しい避難生活を強いられている被災者の方々を思うと、収束という言葉を使う状況にはない」と語った。
また同原発で死亡事故が連続して発生していることについて「極めて遺憾だ。政府としても再発防止策の徹底を図り、安全確保を大前提としつつ、迅速に汚染水対策

「原発推進政党消滅予言」=>予言が的中し「次世代」が消滅、次は「自民」の番!

事故を起こせば収束できない悪魔的な技術を、認識していながら、
「再稼働」
論理が破綻している
基地外政党は消滅するしかない。

===========
★【原発常識30】【 http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html#c633 】
===========
●基礎 〈4個〉
〈原発常識1〉■★原発は「【原爆】より、〈量的に〉危険」!→フクイチはチェルノブイリの4倍、広島原爆の4000倍の放射性物質が首都圏・東北にふりまかれた。
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/c61332351d06c44c1b52d1821d9c062a
〈原発常識2〉■★原発は「【公害〈化学的毒〉】より、はるかに危険」!→物質の深奥の問題なので、通常技術(電気・化学反応=電子の操作)で中和できず、100万年消えない放射能。
〈原発常識3〉■原発は「通常機械ではない」「冷却・管理できなくなればおわり」
〈原発常識4〉■★放射能処理装置や原発設備は、すさまじい放射能で【すぐボロボロ】になる。原理的にムリ!→ALPS「故障続き」「すぐ故障」は、偶然でなく、もともと原理的に不可能!
===========
●フクイチ 〈6個〉
〈原発常識5〉■★人類が解決できるのは燃料が建屋に残っていたスリーマイルの「レベル5」まで、人類は「レベル7」(チェルノブイリ、福島)を解決した歴史がない。→チェルノブイリ30年かかっても解決の見通しすらない。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205020147.html
===========
●結論 〈3個〉
〈原発常識29〉■★あらゆる公害は【最終的には企業・政府側が「非」を認める!!〈時間がかかるだけ〉】★これから〈原発ゼロを宣言しないかぎり〉原発推進政党【 安倍自民+《石原次世代》 】が滅びるとしたら・・・その原因は原発・放射能問題!・・・ナゼナラ、これだけは、絶対解決しないから
http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/251.html#c66

コメント [マスコミ・電通批評14] フジテレビがお通夜ムード!? 起死回生策を打ち出す人間さえいなくなった[TOCANA] ニュース侍
05. 2015年2月01日 12:29:13 : 8q3qeXT2cg

かのウジテレビ。まだ放送を続けていたの?

まあ在日のための放送に特化しているので、視聴率も1%前後で安定するのでは?

1日も早い倒産・閉局を祈っています!


http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/557.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK179] 日本政府にせよアメリカ政府にせよ、自分たちが国家テロリストではないと説明しないし、できない。 gataro
02. ひでしゃん 2015年2月01日 12:30:26 : dsqbUTCLpgzpY : 9IQbDxI5Uo
安倍晋三等がアメリカの産軍複合体の手先ジャパンハンドラーの指令に踊らされているだけ
日本国は犠牲になった二人のご冥福を祈るとともに遺体の確認と変換を求めなければならない
安倍晋三が二人の殺害を誘発した責任を問う必要がある
二人をイスラム国に向かわせた背後関係に様々な疑問がわく
まず犠牲となったお二人の行動を裏付ける資金面のフローを確認する必要がある
金融庁は国内の金融機関を管理監督している
日本政府は詳細な金銭の動きを把握できる
誰がどのような目的でどのように動いていたか
集団的自衛権行使容認関連法整備を進める時にタイミングが合いすぎるように思う

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/162.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
01. 2015年2月01日 12:30:27 : b5JdkWvGxs
俺なら次は日本の原発に自爆テロを仕掛けるけどな

しかしあいつら信心深いからそこまでやる勇気は無いか


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
20. 2015年2月01日 12:31:30 : TM7rXZ50co
♪やめてけれ やめてけれ やめてけれ テロテロ
♪やめてけれ やめてけれ やめてけれ アベアベ

どうして どうして〜
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c20

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
04. 2015年2月01日 12:34:20 : EDFCKjGj9Y
>>2

>Rui Yasue

連想したのは政府関係者、日本の。
普通に連想したらそうだろう。
湯川遥菜氏を当該地に送り込んだ連中或いは送られる経緯に詳しい連中、って連想
も普通に出てくる。

それよりも湯川遥菜氏の生死は確認されてないが(画像がフェイクだったとしても亡くなってるとは思うが)全く(日本の一般メディアで)報道されないね。

こういう情報がある;

@トルコから銃を所持しシリアへ入国できるのは日本政府の許可証が必要
A湯川ちゃんの拘束場所も知らずに出向いた後藤君
B後藤君がイスラム国からシリアのガイドに交信した
Cイスラム国広報担当者と交信するNHK‥これらの不可能な事象を可能にした裏に真実が見えるね。

https://twitter.com/kuroda06sayuri/status/561032988343795713

「人質事件」で最大のキーポイントは「NHKがイスラム国広報担当者との通信によれば‥」という点だね。昨年来、中東に派遣されたNHK関連の人員数は世界中メディア界でダントツだよ。イスラム国広報担当者と直接通信できるメディアは他国にはいないよ。

https://twitter.com/kuroda06sayuri/status/561685354634158082
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
05. 2015年2月01日 12:35:23 : 9xhuMGisG6
> テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携

これはもう「日本も有志連合と共にイスラム国を攻撃する。」という意味にしか取れないと思うのですが、わかっておられるのでしょうか?
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
34. スポンのポン 2015年2月01日 12:35:46 : 2n7xEMe6gopkI : c21io5ga5E
 
 
■安倍は今ごろ軍事産業の幹部たちと祝杯を上げている。
 
 

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c34
コメント [政治・選挙・NHK179] 百田尚樹氏がNHK経営委員からいなくなる!(弁護士 猪野 亨のブログ) 赤かぶ
07. 2015年2月01日 12:36:36 : 1ulFBhsxPY
籾井会長の至言「政府がみぎということを左だとは言えない」路線は百田が退任しても大丈夫。NHKは大手メデイアの先導役として微動だにすることは無いでしょう。籾井路線とずれるリベラルメデイアはタカ派からテロまがいの迫害を受けた朝日新聞のようなことになります。政権サポータ―のような報道しかしないようにすることが、島国日本では無難で、食いはずれがなくていいです。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/131.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
35. 2015年2月01日 12:37:58 : lXGrF7OLvM
この際は野党のどの党だとか政権与党とか政治責任の追及に話の筋を変えるべきではない。
日本人が長引く不況からの脱出を第一に考えたから、政権交代よりも自公を選んだ。
国民が形式的な政治の安定を求め、現行政治の善悪の判断とは別に信任したとみるべきだ。
そうであるならば、日本の最高権力者を国民主権がトカゲの尻尾切り感覚で論ずるべきではない。

あくまでも誠実でなければならないだろう。
日本が欧米実力国の後から金魚のウンコのようにケツかまりする態度を反省して改めるべき。
日本人の宗教無知が世界中に恥を晒しまくる状況を今すぐ是正する宗教教育に着手するべきだ。

謗法の意味も知らない日本人の正義感は本当に異邦人が憤って忌み嫌う偽善者と認識せよ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c35

コメント [政治・選挙・NHK179] 「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携」 安倍首相は事件を利用して軍事行動もやむなしへ gataro
06. 2015年2月01日 12:38:24 : TmiVeIS9XE
誰よりも平和を愛しそのために尽力した後藤さんを生贄にし日本を戦争へと導く安倍こそ悪魔
「憎しみの連鎖を拡大させたい」という意味においてもはやイスラム国と共犯
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/161.html#c6
コメント [戦争b14] 後藤健二の疑惑 - マスコミが正確に報道しない湯川遥菜との関係 (世に倦む日日) 晴れ間
59. スポンのポン 2015年2月01日 12:41:35 : 2n7xEMe6gopkI : c21io5ga5E
 
 
■『安倍は初めから人質を救う気などなかった。』という明明白白な事実。
 
 
http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/796.html#c59
コメント [経世済民93] 求人倍率は高いのに人手不足は深刻なまま・・・ 蟲
03. 2015年2月01日 12:41:42 : no31X615y2

人手不足はブラック企業に対するささやかな抵抗だからOK。

外国からも人手は来ないか、来たとしても直ぐに帰るか、憂さ晴らしに犯罪をしでかすが、彼らは敵味方の区別が理知的・理性的で間違わず雇い主に対して行う。


http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/357.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
02. 2015年2月01日 12:42:07 : EAkIk2fULU
誰かこいつ>>01通報してw
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
32. 2015年2月01日 12:43:15 : LKXRYf922A
>>31
ちゃんと読んだ上で書いているのか?

日本共産党綱領
http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/
1 日米安保条約を、条約第十条の手続き(アメリカ政府への通告)によって廃棄し、アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。対等平等の立場にもとづく日米友好条約を結ぶ。
 経済面でも、アメリカによる不当な介入を許さず、金融・為替・貿易を含むあらゆる分野で自主性を確立する。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c32

コメント [政治・選挙・NHK179] 「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」 赤かぶ
18. 白猫 2015年2月01日 12:43:39 : 3UXZ9G0eyfiL6 : po61uoQ0ZM
森田氏自身も自分の過去の言動を思い起こすべきだ。

>いまのマスコミには厳しい批判精神が欠けています。

記者クラブメディアから退けられて、はじめてこうした発言をする。

私からみればメディアは時代を超え、国を超え、常に権力のプロパガンダ機関であったし、今後もあり続けるであろう。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/118.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK178] 安倍首相は自分のことを「最高責任者」だと言っていたが、実際には現場の中東から早々に立ち去って「前面」に立たず。 gataro
07. 2015年2月01日 12:43:48 : G6tcs9dZYQ
安倍一味はいざ戦争になったら真っ先に逃げるだろう。

今回でよくわかったはず。
 
きさまらに騙される国民はいない。

勘違いするな、きさまらを支持しているやつらは全て金目だ。

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/884.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍政権終了のカウントダウンはすでに始まっている―中国メディア 赤かぶ
01. 2015年2月01日 12:43:51 : u41ShKyHb2
安倍総理が中東に行った事で火に油を注ぐ結果になった。昨年から人質になっていた事は安倍総理や外務省は知っていた、それを知っていてこの時期にわざわざ乗り込んでイスラエルで首相と会談したり有志国に支援金したりすれば子供でもどうなるか解る筈、それを解っていてわざと安倍馬鹿総理は行った、安倍総理は責任を取るべきだしそれをマスコミも野党議員も何も言わないのはどうしてか、日本が如何に腐敗した国という事が良く解る。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/136.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK179] ・日本人拘束事件 新たな映像公開 後藤健二さん殺害か・日本人拘束事件 菅長官が会見 「非道かつ卑劣なテロ行為」(FNN) 会員番号4153番
15. 2015年2月01日 12:44:28 : N3rDD93Jy6
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%9A%E5%93%A1%E7%95%AA%E5%8F%B74153%EF%BC%9D%E6%9C%A8%E5%8D%AF%E6%AD%A3%E4%B8%80&oq=%E4%BC%9A%E5%93%A1%E7%95%AA%E5%8F%B74153%EF%BC%9D%E6%9C%A8%E5%8D%AF%E6%AD%A3%E4%B8%80&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&es_sm=93&ie=UTF-8

フムフム
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/153.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK178] 小沢一郎と山本太郎はマジで消えて欲しい。(堀江貴文) ドンゲン
63. 2015年2月01日 12:47:53 : of3t5XDwCw
日高見連邦共和国氏

>みっともないからやめようよ・・・

みっともないとは何のことだ。

小沢を批判することか、

それとも、私に絡んでくる奴らを相手にしていることか、

両方とも信念に基づいてやっていること。

全部が、私なのだ。

片方を、なくせとは!


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/852.html#c63

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
03. 2015年2月01日 12:50:40 : PEAqBq6jHG
> 安倍晋三という政治家を、日本国の最高指導者に選んだ日本国民の責任だからだ。

これには疑問を持たざるをえない。
日本国民の責任の前に、小沢一郎元民主党代表に対しての検察・官僚と
大手マスコミによる失脚させるための卑劣な謀略、奸計があった。
原発事故の時も頭がおかしいと言われた菅や官僚に操られる野田、知能指数が
足らない安倍など、こういう手合いを応援して権力を与えた。
官僚、記者クラブメディアは日本がどうなっても自分らの省益、利権が第一なのだ。
どうしても国民は大手マスコミによる影響がある。
これらを批判せず、直接、国民の責任というのは・・・どうかな?と

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK179] 見殺し総理として永遠に名を残す「安倍晋三」(simatyan2のブログ) 赤かぶ
21. 2015年2月01日 12:52:29 : TmiVeIS9XE
実は「こうなることを予想してたから」こそ安倍は選挙急いだんじゃないの?
湯川さんのことにしろ後藤さんのことにしろ、事態は把握してたんでしょ?

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/160.html#c21
コメント [政治・選挙・NHK179] 日本政府にせよアメリカ政府にせよ、自分たちが国家テロリストではないと説明しないし、できない。 gataro
03. 2015年2月01日 12:52:35 : IMQzjnLJEA
捉えず日本が敵にされたのだから、中東への支援は中断して情勢が落ち着くまで待ったらどうなんだ。
イラクとシリアの政情を安定させるのはアメリカが尻を拭かなければならない責任がある事で、日本人を殺され、なをかつ敵呼ばわりされてまで国民の税金で救う必要がどこにある。
人道支援で殺されたらたまったものじゃない。
戦争参加なら別だが。
ヨルダン政府に対しても結果責任をとってもらおう。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/162.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤健二さん殺害か 「イスラム国」が新たな動画 安倍首相宛て「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした」 赤かぶ
29. 2015年2月01日 12:53:12 : G6tcs9dZYQ
まあ、お仲間のやらせだが、

これが事実だとすれば、安倍もちろん辞任だろう。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/156.html#c29

コメント [原発・フッ素41] 加圧水型原発が沸騰水型よりも安全というのはデタラメだ 魑魅魍魎男
19. taked4700 2015年2月01日 12:53:20 : 9XFNe/BiX575U : SUdTkvNYAo
>>17

>他のPWRでどうか?を他の数県の原子力安全対策課に訪ねましたが
同じ事例はありませんでした。

あくまで素人ですから、間違ったことを申し上げているかも知れないのですが、例えば、犬の散歩のときに犬のうんちをビニール袋に取ります。その時、かなりきちんと密閉しても匂いはずっと漏れ続けるようです。多分、においのもとになる分子はかなり大きなもののはずですが、ビニールを浸透しているはずです。それと同じことが高圧化の金属でも起こるのだと、自分は素人考えですがそう推定しています。

ただ、GSはかなり故障が多いもののようですね。その意味でも加圧水型が沸騰水型よりも安全だというのは神話であるのは事実なのでしょう。

再稼動は止めていただきたいと思います。
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/736.html#c19

コメント [カルト14] 朝日・フジの取材協力者事故死、恐らく、ヒラ・マケ・ネタの誘拐詐欺に付き合うダマスゴミに呆れたのだと思います。 小沢内閣待望論
30. スポンのポン 2015年2月01日 12:53:58 : 2n7xEMe6gopkI : c21io5ga5E
 
 
■心の中でガッツポーズをする安倍。
 
 
http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/133.html#c30
コメント [音楽15] ディランが歌うシナトラ Stay With Meなど で爺
05. 2015年2月01日 12:54:01 : xg6BcQI3Hk
じゃ、検索せずに答えますが、知りません(笑)

「祭りの後」じゃないしな。「夏休み」かな・・・。

麦わらー帽子は、もお遠いー ってやつ。

しかし、これだと登場人物の年齢が少し下がる気がする。

歌詞の雰囲気から「元気です」(通勤途中で流れるのはある程度メジャーな曲だろう)
だという気もするが、そういう歌詞があったかな・・・。

下宿の友人が拓郎ファンのミュージシャン志望で、そいつと酒飲むときは、
かならず拓郎を聞いてたのですが・・・・。あてにならんな(笑)

では
http://www.asyura2.com/14/music15/msg/764.html#c5

コメント [原発・フッ素41] 福島米の6割が県外流通 (Naverまとめ) 魑魅魍魎男
62. マッハの市 2015年2月01日 12:54:34 : af80H28qOi92. : xQ9fp5IqGc
愛知の住人です。福一原発事故で、放射能の拡散は止まらない。だから茨城などを含め福島や近隣県のものは買わないようにしている。
なぜかって?。そのほうが安心だし、おいしいく食べられる。

  米、野菜は地元産が安い。魚介類は悩む、缶詰は国外産を選ぶなど注意する。(老眼鏡携帯とは!)
  牛乳は地元産「ど◯まい牛乳」が、うまい。…牛のエサ ? シイタケの原木は ?

子供・若い方は放射能食品は食べないにこしたことないよ。シルバーでも気をつけてるんだぜ (^_-)-☆
                                    私は愛知の無党派層
  
http://www.asyura2.com/14/genpatu41/msg/724.html#c62

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
36. 2015年2月01日 12:55:00 : XKdHslvcCY
★事故を起こせば収束できない悪魔的な技術を、認識していながら、「再稼働」

=>論理が破綻している政党・自民党は解党せよ!!
=>論理が崩壊している政治家・安倍総理は辞任・議員辞職せよ!! 

★【手の平返し】安倍首相「福島第1原発事故、収束という言葉を使う状況にない!!」(ロイター他)安倍首相は福島第1原発の状況について「汚染水対策を含め、廃炉、賠償、汚染など課題が山積している」としたうえで「今なお厳しい避難生活を強いられている被災者の方々を思うと、収束という言葉を使う状況にはない」と語った。また同原発で死亡事故が連続して発生していることについて「極めて遺憾だ。政府としても再発防止策の徹底を図り、安全確保を大前提としつつ、迅速に汚染水対策を進めるよう東電を指導していく」と語った。
=>http://saigaijyouhou.com/blog-entry-5389.html
=>http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKBN0L30GD20150130

★「原発常識30」予言が的中!!
★(原発常識5番)「レベル7収束不可能予言」★人類が解決できるのは燃料が建屋に残っていたスリーマイルの「レベル5」まで、人類はメルトスルーした「レベル7」(チェルノブイリ、福島)を解決した歴史がない。→チェルノブイリ30年かかっても解決の見通しすらない。
★(原発常識29番)「原発推進政党消滅予言」★「次世代」が的中して消滅、次は自民の番!事故を起こせば収束できない悪魔的な技術を認識していながら、「再稼働」=>論理が破綻している基地外政党は消滅するしかない。
【 http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html#c633 】
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c36

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
04. 2015年2月01日 12:56:23 : of3t5XDwCw
ヨルダンにいる死刑囚が釈放されたら、

そいつが日本へきて自爆テロをする様に言われるだろう。

彼女は面子にかけて、今度は失敗しないと誓うだろう。

東京の地下鉄などは要注意。

今度は、ヨルダンに頼んで彼女を釈放しない様に

金を貢いで頼むだろうさ。

テロに屈しないと言う名目で

ヨルダン人パイロットの救出は諦めてと。

阿部は、最悪の手段をとったのである。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c4

コメント [戦争b14] イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」(ロシアの声) BIBLE
04. 2015年2月01日 12:57:32 : HpgSCO3Mz6
イスラム国指導者釈放 米の誤算
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150201/k10015124421000.html

2月1日 12時30分

イスラム過激派組織「イスラム国」の指導者、バグダディ容疑者がイラクに駐留していたアメリカ軍によって2度にわたって拘束されながら、その後、イラク政府に引き渡され、釈放されていたことがアメリカ政府の元高官の話で明らかになり、アメリカの誤算が過激派の拡大を招いた可能性が出てきています。

これは去年まで、アメリカ国防総省傘下の情報機関、DIA=国防情報局のトップを務めていたフリン前長官がNHKとのインタビューで明らかにしたものです。

このなかで、フリン前長官はイラクに駐留するアメリカ軍が2004年に「イスラム国」の指導者、バグダディ容疑者を拘束し、10か月後に釈放したことについて、「模範的な収容者でアメリカ軍に協力的な姿勢を見せていた。模範的な市民になると期待して釈放した」と述べました。

そのうえで、アメリカ軍は2006年に再びバグダディ容疑者を拘束し、2009年にイラク側に引き渡しましたが、その後、イラク政府が釈放したことを明らかにしました。

これについて、フリン前長官は、「われわれが知らされたのは、イラク政府が釈放したあとだった。明らかに間違った判断で、その後、バグダディ容疑者はイスラム過激派組織の指導者に上りつめてしまった」と釈明しました。

国防総省は、アメリカ軍がバグダディ容疑者を1度拘束したことは公表していましたが、2度にわたって拘束していたことが明らかになったのは初めてです。

フリン前長官によりますと、バグダディ容疑者は当時、イラクで活動していたテロ組織の指導者の側近でアメリカ政府は重要なテロ容疑者だと認識していたということです。

しかし、こうした機密情報がイラク側に引き継がれていなかったとみられ、アメリカの誤算が、過激派の拡大を招いた可能性が出てきています。

http://www.asyura2.com/14/warb14/msg/850.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
37. 2015年2月01日 12:57:46 : 2CFCShhnSM
安倍政権がいくらイスラム国の極悪非道なテロに屈しないとわめいても、女・子供の非戦闘員を無差別攻撃で殺戮している正真正銘のテロ国家「イスラエル」を基本的に支持している限り、「人道支援援助」と強弁してもイスラム諸国の人々の心には響かないであろう。このような「人道支援」は国民の血税の浪費そのものとなっている。欧米に遠慮してアラブの敵イスラエル支持から抜け出せないのであれば、平和国家としての日本のイメージを回復し、後藤さんの死を無駄にせず、ご冥福と供養のためにも、今後は真の人道援助として、イスラム諸国に対するすべての援助資金を「アムネスティ」や「国境なき医師団」など中立の非政府機関を通じて拠出すべきであると、強く主張したい。その方が現在の膨大な援助額に比べて小額であってもイスラム諸国民に感謝され、費用対効果が格段に上がるであろうし、その分国内の社会保障政策に充当でき、国債の発行額を減額できるであろう。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c37
コメント [政治・選挙・NHK178] 歴史の岐路で国民を見捨てるのか、日本共産党(街の弁護士日記) 赤かぶ
33. 2015年2月01日 12:58:13 : lXGrF7OLvM
日本共産党よ、ふざけるな。

政党色をNoneにして沖縄を語れよ。

日本人として日本史を論じろということだ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/910.html#c33

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-01-31 後藤夫人声明は安倍官邸と打ち合わせ済みだった。  山崎行太郎 赤かぶ
05. 2015年2月01日 12:58:57 : 8q3qeXT2cg

歴史はウソで塗り固められる。

そもそもISISのバグダディは米国ネオコンのマケイン議員とオトモダチなのであり(写真あり)、しかもバグはイスラエルの諜報機関モサドのエージェントなのである。そして、後藤氏は日額10万円の生命保険に加入していると言われている。死亡と判断されれば遺族には多額の保険金が入る。紛争や戦争ともなればぼろ儲けできる企業がある。それを考えれば、スポンサーが誰なのか想像に難くない。


要するに、米英イの手先であるISISは、日本の戦争産業を引連れた安倍御一行様のイスラエル訪問に合わせて人質事件・ヤラセ殺害を大々的に演出し、米国ネオコンの手先となった安倍の「積極的戦争主義」を推進するためのシナリオに沿っているのである。


湾岸戦争・イラク戦争など、西側情報はウソだらけであることを思い起こすべきである。日本は米国戦争集団や三菱などの戦争企業に踊らされることなく、独自の平和外交を貫くべきである。

>ISISのボスはモサドのエージェント 〜バグとマケインはオトモダチ!
http://ameblo.jp/002ameblo/entry-11913964100.html
>嘘とペテンと陰謀だらけ・英米イスラエル報道
http://members3.jcom.home.ne.jp/shishoukaku/07sk/160813guide/guide.html#050105



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/122.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK179] 盗っ人猛々しい安倍政権とテレビ局 古賀茂明「日本再生に挑む」(週刊現代) 赤かぶ
09. 2015年2月01日 12:59:33 : IMQzjnLJEA
フランスは福島原発事故を奇形の手相撲取りを描いて茶化し、役立たずの放射能除去装置を売りつけ、中東に武力介入して植民地政策を実施した。
この混乱の原因はフランスにある。
今更なにがテロ反対だ。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/106.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK179] 「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」 赤かぶ
19. 2015年2月01日 12:59:46 : N3rDD93Jy6
>「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」


ではなくて、「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いている」だろう。

安倍は日本国を自爆させる テロリストである。

TPP締結然り、原発稼動然り、原子力協定然り、棄民政策然り、テロとの戦いの枠組み参加然り。

戦争ビジネスのためなら何でもありの悪党が安倍政権である。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/118.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK179] 安倍首相の挑発外交と日本国民の「羊主義」が、後藤さんを殺した!(生き生き箕面通信) 笑坊
12. 2015年2月01日 13:00:40 : GAfHgAVuNA
 安倍晋三は、イスラム国に日本人人質が二人拘束されていることを承知し、身代金要求に対する裏交渉を打切る形で中東まで出かけて行ってイスラム国を敵視する演説をした。これは確信犯であったと断じざるを得ない。

 安倍官邸は二人目の後藤健二さんが殺害されたとの情報を心待ちしていたことだろう。やはり、手筈通り安倍が談話を発表し、我が国はテロに屈することはないとして反イスラム国有志連合の一角として対テロ活動することを宣言した。

 これらは全て、米国と米国に従属する安倍官邸が書いたシナリオ通りである。

 今後、日本国民はウソつき安倍晋三の二枚舌が発する情動洗脳の言葉に操られずまた煽られない冷静な判断が求められるし、国会では野党は安倍政権の一連の対応について責任を追及しなければならない。
 そうしなければ我々日本人は、全く必要のない西欧諸国とアラブとの根深い対立に自ら足を踏み入れることとなり、テロの脅威に日々怯えて暮らすこととなる。



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/158.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK179] <NHK経営委員>百田氏が退任へ(毎日新聞) 赤かぶ
19. 2015年2月01日 13:01:12 : lz36zh3CW2
日付抜きの「辞表」を提出させた恐喝・パワハラ 野郎はどうなった??

公文書偽造容疑者・実行者はどうなった??

OBが、1500人以上の署名を集め、やめさせようとしているのに

現役のテレビにでて愛想を振りまくアナウンサーども達は、どうしている??

国民の平均賃金より3〜5倍以上の報酬を受け取るために無視ですか??

NH●で国民をだます全職員はモミイの犯罪人と共犯とみなします。

善良な市民より



http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/113.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK178] 創価学会・池田大作名誉会長、朝日新聞で新連載開始か 信者伸び悩み&読者減で助け合いか ドンゲン
27. 2015年2月01日 13:01:35 : lXGrF7OLvM
馬鹿投稿者 ドンゲン よ、破門された宗教法人の意味が分かるか?

お前の主張に論理はない。

ハカやろ!
http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/919.html#c27

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
05. 2015年2月01日 13:02:27 : of3t5XDwCw
毎朝、何十万人の人間が動く地下鉄の警備などとてもじゃないが出来はしない。

どこからでも入り込める。

全ての地下鉄の駅で、金属探知機や身体検査を一人ずつしなければ。

そんなこと、できるものか。

空港警備じゃ、あるまいし。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK179] “なぜなぜなぜ”の安倍政権 すべて、チャンバラごっこ(世相を斬る あいば達也) 笑坊
03. 2015年2月01日 13:03:16 : u41ShKyHb2
アメリカの植民地、嫌属国なのに一人前の独立国のような振る舞いは辞めるべき、自国の国民には増税したり福祉を削減したり我慢を強いて苦しめて、自己満足の為に外遊してはばら撒き、その後の各国のもてなしがたまらないのか、自分の懐から出しているお金を振る舞ってでもいる様な錯覚をしている安倍晋三、その上国民の命までも危険にさらされる様な事をしてしまった。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/126.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
06. 2015年2月01日 13:05:00 : EDFCKjGj9Y
>>1

普通に考えられることだろ。
場所を弁えりゃあんたのほうがマナーが悪い。

>>3

あのぉ、私も小沢さんを支持してはいますが、場違い気味な演説は遠慮したほうがいいんじゃないですか。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c6

記事 [経世済民93] 撤退が相次ぐ日本企業(NEVADAブログ)
撤退が相次ぐ日本企業
http://blog.livedoor.jp/nevada_report-investment/archives/4819342.html
2015年02月01日 NEVADAブログ


日本企業は今猛烈な勢いで海外事業から撤退していますが、円安で輸出した方が儲かるからということなのでしょうが、今後更に円安が進めば部品やその他の関連商品の価格が上がり採算が取れなくなり全てを失うことになりかねません。


パナソニックが中国生産から撤退すると発表していますが、先日は東芝が海外から事業撤退を打ち出しており、シャープもヨーロッパから撤退を発表しています。

ソニーもテレビ・パソコン事業は「仕入れ」となっており、これでは利益はおこぼれ程度しかありません。

日本企業は日本国内でやっていけるとの判断でしょうが、今後力をつけてきた中国企業が日本市場に本格的に参入してきた場合、価格面で勝てる筈もなく、すでに4Kテレビでは30%以上日本製品が高いと言われており、かつ果たして4Kテレビが普及するかという問題があります。

今の液晶テレビより更に画質がよくて何をみる必要があるのかとなるからです。
今の放送番組の内容では今の液晶テレビでも十分であり、高い4Kテレビは必要ないからです。
*3Dテレビの二の舞になるかも知れません。


高級を追求してより高い利益を求めることになったのでしょうが、需要がなければ在庫の山となりかねません。

負け知らずと言われたあのサムスンが今や中国企業の前に崩壊の危機に直面しており、サムスンの有機ELテレビも全く売れず在庫の山になっていると言われており、日本企業もこのままいけば4Kテレビの在庫の山を前に軒並み消滅することになるかも知れません。

中国や海外から撤退する日本企業は会社そのものが消滅する危機にあると言えるかも知れません。

目先の収益を確保するために40才以上の通常社員(平社員)全員整理解雇という大企業がでてくるかも知れません。

マニュアル化された仕事だけなら、20才代の若者を非正規で雇う方が人件費も半分で済むでしょうし、何よりこれで目先の収益は上がるからです。
目先の収益だけならリストラを行えば大企業なら数年は持つからです。
その間に経営陣は退任すれば退職金も年金も十分貰えますから安泰となるのです。

円高で海外にでて行き、円安で日本に戻る

余りにも経営戦略が無さすぎますが、追い込まれた日本企業にはその戦略しか残されていないのかも知れません。


http://www.asyura2.com/15/hasan93/msg/364.html

コメント [政治・選挙・NHK179] <NHK経営委員>百田氏が退任へ(毎日新聞) 赤かぶ
20. 2015年2月01日 13:07:07 : lXGrF7OLvM
本当に嫌だったけどな、受信料をコンビニで支払ったからな。

うちの親がNHKを見るんだよ。それが敗因だった。

あまり謗法与同して受信料の強制聴衆はするなよな。

ほとんど搾取&略奪だろ、好き勝手で法外な番組を押し売りするのは。
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/113.html#c20

コメント [カルト14] ベン・新通貨は、好戦派から切り崩した強欲派の主張するSDR方式を排除、既得権排除の通貨になるようです。 小沢内閣待望論
10. おじゃま一郎 2015年2月01日 13:07:33 : Oo1MUxFRAsqXk : uuuneyxnsU
SDRは通貨ではなく、通貨バスケットでIMFが加盟国に
割り当てている。IMFの特別引出権と訳されているが
実際には準備金であり、ある国が不足すれば他国が
補填する役目を持っている。いざという時の資産である。

新通貨がベンならば、これは便所のベンでくさいので
誰も持たない。


http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/138.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK179] 2015-02-01 後藤さん殺害!安倍首相の「戦争ごっこ」の後始末!  山崎行太郎 赤かぶ
07. 2015年2月01日 13:07:56 : EDFCKjGj9Y
>>6の >>1>>2EAkIk2fULUへのアンカーの間違い

なので

*

>>2

>>1は普通に考えられることだろ。
場所を弁えりゃあんたのほうがマナーが悪い。


http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/163.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK179] 後藤さん殺害では終わらない! 米国と安倍政権が踏み込む泥沼の対イスラム国戦争(リテラ) 赤かぶ
01. 2015年2月01日 13:08:18 : EAkIk2fULU
くだらん。
こんなことで9条改悪して戦争への道を開くのか?

戦争を体験した世代はそれでいいのか?

戦争に行く若者たちはそれでいいのか?母親たちはそれを許すのか?

http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/164.html#c1

コメント [カルト14] 安倍の中東訪問に脅迫をぶつけたイスラム国ですが、衆院選はスルー、バグも米英イも安倍もグルという事です。 小沢内閣待望論
18. Psyche 2015年2月01日 13:11:05 : /UBEM0aVjzaZ6 : EEqupT609o
「人生は喜劇だ!喜劇は終わった」とベートーベンは臨終の際に言ったとか。
でも、現在はその「喜劇の始まり」なのだと思うよ。
ベートーベンの交響曲も「第九」で終わりでない。「第十」があるもの。私持ってるよ。

映画「Vフォー・ヴェンデッタ」ではチャイコフスキーの「序曲1812」が花火とガイ・フォークスのマスクをした人たちでロンドンの官庁街に現れる。

「アノニマス」のトレードマークのマスクはこの映画に出て来るマスクがモデル?

まったく・・・この世なんて「ミスター・ビーン」の様に生きようと思えば生きられるのに・・・

安倍総理の会見少し観たけど、嘘丸出し!目線が右下ばかりに行くカメラを全く見ない・・・
「ライ・トゥ・ミー」(嘘は真実を語る)というドラマがあったけど、ホント真実は後になって判るのだろうけど嘘はバレバレ。

後藤さんの処刑の挿画も観たけど、もしドラッグでもやられてなかったら「無抵抗」ってあり得ないでしょう。

明菜の「十戒」歌いたくなっちゃうよ(笑)

最後は牧伸二の「あ〜あ、いやンなっちゃった♪」かな〜



http://www.asyura2.com/15/cult14/msg/139.html#c18

コメント [政治・選挙・NHK178] 「これまで日本人が中東に築いてきた大切な財産を、死の商人安倍が、ひとりで破壊している。:兵頭正俊氏」 赤かぶ
38. 2015年2月01日 13:11:58 : CjL8fRExTY
I AM
NOT
ABE

http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/847.html#c38
コメント [政治・選挙・NHK178] 安倍政権は人命第一原則に沿って全力尽くすべき(植草一秀の『知られざる真実』) 笑坊
05. 2015年2月01日 13:12:22 : stoenjxVhk
安倍総理の勝手気儘なイスラム国への宣戦布告で後藤さんは処刑されたと思われる。

第二次世界大戦終了後の戦争の犠牲者として靖国神社で祀ってもらいなさい。

「テロには決して屈しない」とは、「テロで人質になった国民は決して国は助けない」という意味と解釈できる。


http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/901.html#c5

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