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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100278
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[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
91. 中川隆[-10741] koaQ7Jey 2019年4月16日 16:42:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1309]

書き込みには責任を持って - 1178940045 - したらば掲示板


308: くろねき :2019/04/07(日) 06:59:01 HOST:fpoym3-vezC1pro01.ezweb.ne.jp

皆さんおはようございます。
とりあえずサゲで書いておきます。

 jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1553521581/99

  ↑
私が投稿したこちらの書き込みについてですが、
この掲示板の当該スレ以外にも複数のスレが転載されているようです。

上記の転載をしたN某について改めて調べたところ、
ネットオピニオン界隈で「阿修羅掲示板のN某」として、
Googleサジェストに出るほど有名な人物であるらしいことがわかりました。

HNとして某宗教法人代表の本名を名乗るこの人物
(=HOST:softbank221052219121.bbtec.net?)は、
同掲示板の管理者本人ではないかとの噂もあるようです。
また同掲示板(ネット黎明期からの老舗です)そのものが、
その創設者(現・管理者とは別人とされる)からしてきな臭いとの話も。

N某は某掲示板で何やら脅迫まがいのこともしたとか。
この辺の事情には疎いのでお恥ずかしい限り。


309: 前期 :2019/04/07(日) 14:48:22 HOST:h219-110-153-024.catv02.itscom.jp

スレタイの「責任」は「常識」と書き換えてもイイかと思います。

最近特定の御仁が特定のスレに長編連載小説を書きこむのが
目だっています。
むろん日本のような先進国では言論の自由が保障されていますから
ご自身の意見発表は尊重されるべきではありますが特定スレを
ハイジャックするようなことはいかがなものかと思料します。
どうしても長文で意見発表したいのであればご自分で専用のスレ
をたてればよろしい。

310: 777 :2019/04/07(日) 16:04:50 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

ハイジャックは大袈裟だけど
これで書き込みは中止します。

311: アラン・ドロン :2019/04/08(月) 17:49:57 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

誹謗中傷、個人の情報等を書き込まなければ大丈夫ですよ。

単なる商品の批判は、通常問題とされませんが、その程度、度合い、
悪質さ、執拗さ等、総合して判断します。何か裁判みたいですが。

312: 777 :2019/04/08(月) 18:31:22 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

オーディオでもマクロな見方とミクロな見方が有るのですが

ここの人は全員ミクロな見方しかしていないのですね。

まあ、ミクロな見方の方が専門的ですから、世間的には高く評価されるのですが、
どんな装置を買うかという時には全く役に立たないのです。

ピアノの調律師や音楽学校の学生に音楽を理解していない人が多いのはその為です。

菅野沖彦さんとか全く音楽がわからなかったと言われていますね。

313: くろねき :2019/04/08(月) 18:56:52 HOST:fpoym3-vezC1pro08.ezweb.ne.jp

ミクロな話も網羅しないとこんなに続かないでしょう。
人のブログとかを延々転載する人間よりマシ。

314: 777 :2019/04/08(月) 19:29:57 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

ミクロな話はミクロな話で閉じてしまいますからね。

工場で部品を作っている人は作っている部品については完璧に理解しているけど
装置全体については全くわからない。

ここの人も同じですね。

315: AD :2019/04/08(月) 22:33:25 HOST:210.227.19.68

>どんな装置を買うという時には全く役に立たないのです。

懐古録の掲示板みてどんな装置を買おうかなんてのはナンセンス。

>ピアノの調律師や音楽学校の学生に音楽を理解してない人が多いのはその為です。

音楽を理解してたら調律師には向かないですし、学生はお勉強途中ですから。

>ここの人も同じですね。

で、布教活動にいらしたわけですか?踏み絵でもさせようとか・・・?

316: くろねき :2019/04/08(月) 22:49:16 HOST:fpoym3-vezC1pro07.ezweb.ne.jp
>>315
ってか、何から何まで全部理解してたらそれはそもそも人間なのか(略)

317: 777 :2019/04/09(火) 02:37:02 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

秀才として有名なバッハ学者の礒山雅さんが『マタイ受難曲』(東京書籍)の中で、奇跡の名盤としてすべての音楽ファンを感動させてきたメンゲルベルクのマタイ受難曲に対して

「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」

「聴いていて途方に暮れる」

「うんざりする」

と書いていますが、こういうのがミクロな聴き方しかできない専門家特有の欠陥なのですね。

音の専門家の菅野沖彦さんや上杉佳郎さんが音楽を全く理解できなかったのも、こういうミクロな聴き方をしていたからなのですね。

音楽でも歴史でも相場でも直観的で俯瞰的な粗い捉え方をしないと かえって本質が理解できなくなってしまうのです。


318: 777 :2019/04/09(火) 02:50:55 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

因みに、

詩は言葉の美しさがすべて
絵は色の美しさがすべて
音楽は音色の美しさがすべて

詩の言葉の意味がわからなくても詩の良さはわかる
遠近法を知らなくても絵の良さはわかる
楽譜が読めなくても音楽の良さはわかる


というのが定説です。

人類は400万年前から毎日音楽を愉しんでいたのですから、楽譜を読めなくても、音感が無くても音楽は完全に理解できます。

一番大事なのは

ベートーヴェンはベートーヴェンの音で鳴る事
モーツァルトはモーツァルトの音で鳴る事
ドビュッシーはドビュッシーの音で鳴る事


オーディオ機器もどんな音色を出すかで価値が100%決まってしまうのですが、
音の専門家の菅野沖彦さんや上杉佳郎さんは それがわからないのですね。

319: 777 :2019/04/09(火) 03:03:24 HOST:softbank221052219121.bbtec.net


僕が今迄聴いた中で一番いい音は昔、家にあったビクターの安物の小型蓄音機で聴いたブルーノ・ワルターのSPレコードかな

今迄聴いた中で一番酷い音は、堺の澤田オーディオで聴いた タンノイ+上杉アンプ

320: 777 :2019/04/09(火) 03:35:20 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

オーディオ機器の音は

配線に使うケーブルとハンダとトランス

で殆ど決まってしまうので、市販品を使ってアンプやスピーカーを自作しても
いい音は出ないのですね。

アンプやスピーカーの自作は時間と金の無駄だから止めといた方がいいです。
幾ら頑張っても QUAD や ソナスファーベルの純正システムには絶対に敵わないです。

子供にピアノやヴァイオリンを習わせるのも同じですね。
コルトーやクライスラーになれる訳ないんだから、やるだけ時間と金の無駄ですね。

酷い音や下手な演奏を聴かされる人間の身になって欲しいですね。



321: アラン・ドロン :2019/04/09(火) 17:36:45 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

私なりの見解を
まず、ピアノの調律師とかは、音楽そのものを理解していなくても
いいのではないですか。
ひたすら正しく調律すれば良いと思います。

そして学生の件で----

昔(1970年代後半位までは)西洋の演奏者に追いつこうと、必死だった
と思います。
音楽的な部分はおざなりになり、テクニックに走っていたかも
しれません。

しかしいまや、2019年です。21世紀になって18年も経過しています。
日本人の演奏者も決して白人達に負けていないと思いますよ。

菅野沖彦氏等について

音楽を理解していなくてもエンジニアは務まります。評論かも務まります。
彼はフリーのレコーディングエンジニアですが、楽器は弾けなかった
と思います。
出来れば一つくらいは、演奏出来れば良かったのですが。

ちなみに私は、エンジニアなら、笹路まさ徳が好きですね。
CD2枚もっています。

芸術的な事は、何をもって美しいとかははっきりしたものでは
ないと思います。

殆ど抽象的な観念です。人それぞれといいますか。
五味康祐のように、難しい顔をしてクラシックを聞くのは好きではないですね。

なんだか、まとまらない文章になりました。

322: AD :2019/04/09(火) 18:46:01 HOST:210.227.19.68

このスレのレスを重ねたくはありませんが、「やっぱり豆腐」なカキコなので一言。

音楽を理解して聴く必要はないと思いますね、楽譜が読めないとか音感が無いとかだと音楽を理解は出来ませんよ。
感動するとか楽しむってのはできますがね。

>やるだけ時間と金の無駄

アンプやスピーカーの自作する人ってメーカー品と競うためにやってるんでしょうか?
そうは思いませんが。

そして、工場で部品をつくってる人(かつての私)は部品について完璧に理解なんてしてませんよ。
ただただ、作業指示書どうりに機械を操作して作業してるだけです。
完璧に部品を理解してる人は装置のこともわかってます。
この部品がなぜこの精度で仕上がってるのとかかわかってるのは装置全体を知っているからです。
部品について完璧に理解してる人が工場なんかで仕事してませんよ。
設計図面書いてるか、研究開発室にでも籠ってますね。

馬耳東風かもしれませんが、私見あればどうぞ。

323: 777 :2019/04/09(火) 18:54:06 HOST:softbank221052219121.bbtec.net
>>322
>楽譜が読めないとか音感が無いとかだと音楽を理解は出来ませんよ。

チャップリンは楽譜が読めなかったけど名曲を幾つも作曲していますよ:

チャップリンは正式な音楽教育は受けていないため、譜面の読み書きは出来なかったという意見もあるが、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『キッド』を上映の際には全ての劇場にキューシートを配付するなど、音に対して万全であった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを、専属のアレンジャーが写譜する形を取った。

>音感が無いとかだと音楽を理解は出来ませんよ。

フルトヴェングラーは絶対音感が無かったので、
トスカニーニやプロの指揮者からはプロではなく唯のディレッタントだとバカにされていました。

324: 777 :2019/04/09(火) 18:57:20 HOST:softbank221052219121.bbtec.net
>>322
>完璧に部品を理解してる人は装置のこともわかってます。

部品は外注が殆どですが

ナショナルやトヨタに部品を納入している業者は機械の事は全然わかってないですね。

325: 777 :2019/04/09(火) 19:06:46 HOST:softbank221052219121.bbtec.net
>>321
>菅野沖彦氏等について
>彼はフリーのレコーディングエンジニアですが、楽器は弾けなかった
と思います。


・菅野 沖彦(すがの おきひこ、1932年9月27日 - 2018年10月13日)はオーディオ評論家。
成蹊大学に在籍するかたわら、東京音楽学校(現・東京芸術大学)同声会で作曲を学ぶ。 大学3年で中退

・菅野 邦彦(すがの くにひこ、1936年10月13日 - )は、東京都出身のジャズピアニスト。学習院大学卒業。


菅野沖彦さんは元々ピアニスト志望で、毎日毎日必死に練習していたのですが、
いくら熱心にピアノの練習をしても、弟の菅野邦彦さんに敵いそうもなかったのでピアニストになるのを断念したのですね。

成蹊大学に入った後も全然授業に出ないで作曲の勉強をしていたのですが、才能が無いのがわかってまた断念。

それでレコーディング の会社に就職したんですね。


>成蹊大学に入った後も全然授業に出ないで作曲の勉強をしていたのですが、才能が無いのがわかってまた断念。

は単なる僕の想像です。


327: 777 :2019/04/09(火) 19:17:32 HOST:softbank221052219121.bbtec.net

それから、マーク・レビンソンはミュージシャンで電気回路図も読めない、交流理論も音響理論も知らないのに
平気でアンプの設計をしていますね。

天才にはそういう人が多いですね。

328: くろねき :2019/04/09(火) 19:44:21 HOST:fpoym3-vezC1pro07.ezweb.ne.jp

皆さんこんばんは。
>>322
> アンプやスピーカーの自作する人ってメーカー品と競うためにやってるんでしょうか?

一部そういう御仁もいるようですがここではほぼ居ませんよね。


>>327
初期のレビンソンで設計やってたのはバウエンさんでは?

329: 777 :2019/04/09(火) 20:01:17 HOST:softbank221052219121.bbtec.net
>>328
>初期のレビンソンで設計やってたのはバウエンさんでは?


マークレビンソンのアンプには3人の男が関わっている。


ひとりめは、LNP1、LNP2 の初期ロットや LNC1(LNC2の前身)に採用されたモジュールの設計者、リチャード・S・バウエン(ディック・バウエン)だ。

ふたりめは LNP2 の自社製モジュールの設計、ヘッドアンプの JC1、薄型コントロールアンプの流行をつくった JC2 を手がけたジョン・カール。

最後のひとりは、ML7L の設計者として、はじめて名前が明かされたトム・コランジェロ。


マークレビンソン・ブランド初のパワーアンプ ML2L の設計者は、当初、マーク・レヴィンソンだと伝えられた。かなり後になり、ML2L は、トム・コランジェロを中心としたチームの設計だと訂正された。

だがジョン・カールは「ML2 は JC3 と呼ぶべきアンプ」だと主張する。


別冊FM fan に瀬川先生が、マーク・レヴィンソンは、このまま、どこまでも音の純度を追求していくと、狂ってしまうのではないか、という主旨のことを書かれていた。
実際には狂うことなく、むしろ経営者として面が強くなっていったようにも、私個人は感じているが……。

LNP2 が出たころ、マーク・レヴィンソンはアンプの技術者でもあり、LNP2 の新モジュールは、当初はレヴィンソンの設計によるものだと言われていたし、ほとんどの人がそう信じていた。もちろん私も信じ切っていた。

1984年に MLAS (Mark Levinson Audio Systems) を離れ Cello を興したころ、レヴィンソン自身が、「アンプの技術者ではなかった」と語っている。

____

Mark Levinson と一緒に名アンプを作った技術者はみんな Mark Levinson と別れたらダメになっていますからね。

Mark Levinson が音決めしたから歴史に残るアンプになったので、技術者一人だけではいいアンプはできないのですね。

330: AD :2019/04/10(水) 04:38:15 HOST:210.227.19.69

みなさん、おはようございます。

なんだ、てめえはっ・・・ってなるかと期待した?のですが(笑)

豊富な知識と情報量、個人の感想、真面目に回答いただきましてありがとうございます。


>323

そう、それを天才って呼ぶのですね。

>324

わかってたら、納品してくれないでしょうね。

>329

日陰の身の方もいらっしゃるんですね、功労者がお二人も。

ネタふりやツッコミするだけにならないようこころがけます。 m(_ _)m
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1178940045/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c91

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
173. 中川隆[-10740] koaQ7Jey 2019年4月16日 19:52:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1310]
ゴーン氏を破滅させた「投機的預金取引」の全貌! スクープ! 作家・黒木亮氏が独自取材をもとに解説 新生銀行からの提案か
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/190.html

2019.4.16(火) 黒木 亮

 オマーンの販売代理店に支出された日産の資金を不正に流用した疑いで4度目の逮捕を受けた日産のカルロス・ゴーン元会長。これまでの逮捕容疑を振り返ってみると、1回目と2回目は、有価証券報告書に実際の報酬より低い額を記載した金融商品取引法違反、そして3回目が、自身の資産管理会社が運用していたデリバティブ取引で生じた18億5000万円の損失を日産自動車に付け替えた特別背任(会社法違反)である。

デリバティブ付き「仕組み預金」
 筆者はこの3回目の逮捕容疑に、少々ひっかかるものを感じていた。逮捕の原因とされる「為替スワップ」がどんなものか調べても、実態がさっぱり分からないからだ。さる1月8日の東京地裁でのゴーン氏の「意見陳述書」では、取引は「FX Forward contracts(為替先物取引)」であると述べられている。

 それによると、日産での報酬が円建てだったが、米国に住んでいる子どもたちや、レバノンなどで使うためにドルが必要で、為替先物取引契約を結んでいたという。しかし単純な為替の先物取引であれば、時価評価すれば評価損が出るのかもしれないが、それが大問題になるという話が腑に落ちない。たとえば、毎年10億円を何年間かにわたって1ドル=115円でドルに交換するという契約をしていた場合、1ドル=80円という円高になっても、当初想定していたドルの手取りが減るわけではない。引き続き毎回約870万ドルをもらい続けることができる(もし為替の先物契約をしていなければ、円高で相手に渡す円が6億9600万円で済むというメリットを享受できなかったというだけの話である)。

 他方、メディアや捜査関係者は当たり前のように「為替スワップ」という言葉を使って解説しているが、それを読んでもますます何のことか分からない。FXは確かに通貨の交換(スワップ)ではあるが、単純なFXや為替の先物予約は、スワップなどのデリバティブが登場した1980年代よりもっと前から存在しており、金融の実務ではこういうものを「為替スワップ」とは呼ばない。たぶん使っているほうもよく分かっていないのだろう。

 このように3度目の逮捕容疑は、私にとって判然としないものだった。そこでゴーン氏の資産管理会社の取引について色々当たってみたところ、ようやく内情を知る人から情報を得ることができた。

 それによれば、18億5000万円の含み損をもたらした取引は、為替先物取引や為替スワップなどではなく、デリバティブ付きの、いわゆる「仕組み預金」なのだという。ゴーン氏の資産管理会社が(たぶん円建てで)預金をし、ドルのプットオプションを売って、そのオプション料で預金の利回りを高めるという取引である。ドルのプットオプションは、オプションの行使期間中であれば、あらかじめ定めたストライク・プライスでドルを相手に売りつけることができる(そしてその対価として円を受け取ることができる)権利だ。

ゴーン容疑者を「フランスで公正な裁判に」、仏弁護士が政府に訴え
都内の日本外国特派員協会で公開された、カルロス・ゴーン容疑者の動画の一場面(2019年4月9日撮影)。(c)AFP PHOTO / Representatives for Carlos Ghosn〔AFPBB News〕

 オプション料は、ストライク・プライスの水準、行使時期、市場のボラティリティ(変動率)などによって異なる。読者に分かりやすいようごくごく大雑把に言えば、想定元本の5〜10%というイメージである。

預金の元手となったのは新生銀行の融資
 ストライク・プライスがどのレベルかは想像するしかないが、ゴーン氏の意見陳述書によると、この契約をしたのが2006年と2007年で、当時の為替レートはそれぞれ1ドル=約118円と約114円で、その後、2008年から2009年の金融危機の時には、1ドル=80円以下にまでドルが下落したという。

 実勢レートに近いストライク・プライスを設定すると、ちょっと相場が動いただけで、いきなりプットオプションが行使されてしまう。逆にあまりかけ離れていると、オプション料が安くなるというデメリットがある。そこで便宜的に107円のストライク・プライスだったと仮定してみる。実勢為替レートが1ドル80円になったのなら、オプションの想定元本1ドルあたり27円の含み損だから(単純化のため評価額に影響を与えるボラティリティの変化はゼロと仮定)、そこから逆算すると、18億5000万円の含み損をもたらす想定元本は約6851万ドルということになる。私が知り得た情報によると、預金には約3倍のレバレッジをかけていたそうなので、預金額は約2284万ドル程度(の円建て?)と推測される。そして見過ごしてはならないのが、情報源によれば、この預金の元本自体、新生銀行が融資をしていたのだという。ゴーン氏にとっては、元手ゼロで円をドルに換える取引にはなっているが、きわめて投機性の高い仕組みである。

ゴーン容疑者の「仕組み預金」のイメージ
 2284万ドル相当の預金が2006〜2007年の為替レート1ドル=116円程度で作られたものなら円建てで約26億4900万円で、これに含み損を反映すると、元本の約7割がぶっ飛んでいる。なお想定元本が約6851万ドルのプットオプションを売った場合、前述の通り大雑把に言って、343万ドル〜685万ドル程度のオプション料が入ってくるが、それを足してもやはり預金の元本の4割〜6割弱が消失していることになる。

 以上の数字は、読者に理解しやすくするための仮定で、これがそのまま当てはまるわけではない。たとえばオプションのストライク・プライスはゴーン氏が安心できるよう、もう少し低い水準だったかもしれないし、リーマンショック後のボラティリティの上昇で評価損が膨らんでいた可能性があるので、運用元本はもう少し小さかったかもしれない。いずれにせよ、仕組みの概要は、私が聞いた限り、上記の通りと考えて間違いないと思われる。なおこれら以外にも、色々な金融デリバティブやストラクチャー(仕組み)がくっ付いている可能性はあるだろう。ゴーン氏が陳述書の中でこの仕組み預金を「FX Forward contracts」と言ったのは、プットオプションを売る行為が、将来の為替取引を生じさせるので、非常に広い意味でそう言ったのかもしれない。あるいはこんな取引を裁判官にいきなり説明してもにわかには理解してもらえないので、単純化したのかもしれない。

http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/c/3/600/img_c33bc7c97d10f685582a0a4e8bd7236a69292.jpg

複雑な仕組み預金、新生銀行からの提案か
 こういう複雑な仕組み預金をゴーン氏が考案したとは思えず、新生銀行の提案によるものだろう。ゴーン氏の資産管理会社にプットオプションを売らせることで、新生銀行はオプション料の一部を鞘抜きし、融資の金利も稼ぐことができる(特にオプションは金融機関にとって収益性の高い取引である)。同行は2002年に富裕層との取引を推進する「ウェルスマネージメント部」を立ち上げ、ゴーン氏はその最重要顧客の一人だった。しかし、こういう投機性の高いデリバティブを駆使した金融商品を作ったり、利用したりすると、たいていろくでもない結果を招くものである。ましてやレバレッジなどかけると、リスクが倍加する。結局、新生銀行も、融資やオプション取引の担保として、日産の株価に連動した金融商品や(おそらく)預金そのものを担保にとっていたが、日産株の大幅値下がりなどもあり、融資を回収できなくなる可能性に直面し、窮地に陥って、日産自動車への付け替えを提案したということのようだ。

 含み損を抱えたゴーン氏の資産管理会社の取引を日産に付け替える交渉をした人物の一人は、当時同行のキャピタルマーケッツ部の部長で、現在は日銀審議委員を務めている政井貴子氏である。政井氏は「タンスにゴン」のCMをもじって、ゴーン氏のことを「タンスさん」と呼び、同僚などに「タンスさんって、誰のことか分かる?」と無邪気に訊いていたそうである。

 いずれにせよ、今後、ゴーン氏の資産管理会社がやっていた取引の詳細や新生銀行を含む関係者の責任は捜査によって明らかになっていくだろう。筆者個人から見ると、含み損のある取引の日産自動車への付け替えは、仮にゴーン氏が陳述書で述べたように日産に損失を与えていないとしても、ちょっと乱暴なやり方のように思われる。きちんとした取締役会決議は当然必要であり、また付け替えられた取引から生じる利益や損失はすべてゴーン氏の資産管理会社に帰属するという内容の日産自動車とゴーン氏の資産管理会社の間の「リスク・パーティシペーション」的な契約がないとしたら、契約の不備だろう。

 立派な会社役員や弁護士などでも、本業以外の投機で突如破綻したり、犯罪に手を染めたりすることがよくある。ゴーン氏の場合は、2015年(かそれ以前)に前妻と離婚してもおり、いろいろ物入りで、結局はお金のことが原因で無茶をしてしまったように思える。もしゴーン氏が、こうした投機的な仕組み預金ではなく、通常の為替の先物予約でドルを調達するようにしていれば、今回の事件は起きなかったかもしれない。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56123  

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c173

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される

世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される

funny driving india confusion street cars motos - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=pS4Ef16oreM

Rush Hour Traffic in Ho Chi Minh City, Viet Nam - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4phFYiMGCIY


▲△▽▼

管理が行き届くと秩序が国にみなぎるが、徹底されると不都合なことが起きる
https://blackasia.net/?p=12586

日本人は、特に国家に押さえつけられているわけではない。しかし、基本的に街にはゴミひとつ落ちていない。

人々は、たとえ車が一台も来ていなくても、ほとんど信号無視はしない。時間もきちんと守られる。人々は列を乱さない。人々は礼儀正しい。そして、街を走っている車もきれいだ。基本的に交通ルールもきちんと守られている。

いろんな面で、日本は細部まできちんと管理が行き届いている。

これが、どこかの途上国でも行こうものなら大変なことになる。「街はゴミだらけ、交通ルールは無視、列は常に割り込みされる、口論は始まる」は日常茶飯事だ。

走っている車の中には動いているのが奇跡のようなボロボロの車もあり、追い越し、割り込み、スピード違反、信号無視は当然で、人々も赤信号無視で好き勝手に横断歩道を渡って常に大混乱している。高速道路の脇で人が寝ていることもあれば、野良犬や牛がいたりすることもある。

途上国もゆっくりと変わりつつあるのだろうが、日本に比べるとまだまだ「混沌」の度合いは深い。ただ、その野放図な光景に言葉にならない魅力を感じ「人間的で、活気があっていいじゃないか」と不思議な開放感に心が打たれる人もいる。(鈴木傾城)


日本は驚異的に見える

日本の清潔・安全・秩序は、別に国家による国民監視と強圧で実現しているわけでもない。また日本人も「ルールを破ったら罰金がくる」から、しぶしぶ礼儀正しくしているわけでもない。

日本人のそれは、言ってみれば「国民気質」なのである。何事も、きちんとしていないと納得できない几帳面さが日本人にはあって、その几帳面さが日本という国の隅々に行き渡っている。

何から何まで細かい暗黙のルールがあって、日本人はそのルールを機敏に察して誰に言われるまでもなくそれを守る。たとえ、自分が損をかぶることになっても、当初の約束やルールを守ろうと思う。

これが、他国の人々から見ると、驚異的にも見えるし、恐怖にもなる。

たとえば、東南アジアやインドから来た人々は、みんな日本の感想として「あまりに秩序的、あまりの清潔さで、改めて日本はすごいと感じた」と言う。

それは、大きな称賛なのだが、「自分はこんな管理された国では息が詰まって生きていけない」と考える人もいる。日本は清潔できれいだが、そのきれいさはルーズな人間にはやっていけないほどの厳格さが求められているように彼らは思う。

大雑把な国からやってきた人たちから見ると、「敬意を表するが、自分にはやっていけないな……」という感情を呼び起こすようだ。

「東南アジアは、何事にもルーズで街も汚い」という印象を持つ日本人は今でもそれなりにいる。その裏返しで、「日本は、何事にも管理された国で住むには厳しい」という感想を彼らは持つようだ。

実はかなりエネルギーが要る

日本人の清潔好きは世界一と言ってもいい。だから、日本人から見れば、日本以外のすべての国は実際に行ってみると、「どこかルーズで汚れている」という感想になる。

先進国であるはずの、アメリカ・ロサンゼルスや、フランス・パリに行っても、やはり「思ったよりも街は汚かった」という印象を持って帰る。それは言うまでもなく、「世界で最も清潔な国、日本」に住んでいるからである。日本の基準に慣れてしまうと、とても海外で暮らせなくなってしまう。

清潔さを保つには、実はかなりエネルギーが要る。

日本は「ゴミひとつ落ちていない」というが、実際にはゴミを捨てる人はそれなりにいる。気付かなければいけないのは、それを毎日片付ける人がちゃんといるということである。

汚れたものを綺麗にするには、忍耐力と継続心がいる。どんなに街をきれいにしても、翌日にはもう汚れている。

「どうせ翌日には汚れるのだから、放っておけ」というのが大雑把な国に住んでいる人たちの考え方で、だから、行政が「仕方なく」街の片付けをする。それでも行き届かないところは、基本的に放置される。

しかし、日本人はかなりのエネルギーを使って、地域社会に住むひとりひとりが、毎日毎日、忍耐力と継続心を発揮してゴミをきちんと処理する。

実際には日本人もゴミを捨てたり汚したりしているのだが、普通の人たちが毎日家のまわりを「ゴミひとつ落ちていない」状態に仕立て上げている。ゴミの分別もまたしっかりと為される。

日本人にしてみれば、大したことをしているように見えないのかもしれないが、多くの外国人から見ると「あまりに秩序的、あまりの清潔さで、改めて日本はすごいと感じた」という話になっていく。

これが、「そこまで徹底できない自分には日本は無理かも」という気持ちを、無意識に外国人に与えている。

都合悪い存在は排除される

管理された状態というのは、美しくて、秩序だっていて、とても清潔である。日本人は非常に管理好きで、管理することやされることに対して違和感を持つことはない。

だから、管理社会が生み出す「裏側」については、無頓着な部分もあるし、気付かない人も多い。「管理が行き届くと、街は美しくなるし、秩序だって清々しいし、清潔であるし、いったい何の問題があるのか」と問う人もいるはずだ。

管理が高度に行き届くと、どうなるのか。

たとえば、タイでは野良犬がそのまま放置されている。バンコクにも、野良犬が住宅街にうようよしていて、十数匹が群れをなして闊歩していることもある。

これが日本ならば、すぐに通報されて保健所に連れて行かれて「処分」される。日本は管理された国なので、「管理に都合悪い存在は排除される」のである。「抹殺」と言ってもいいかもしれない。

存在が抹殺される。

管理が厳密になればなるほど、管理から外れた存在が生きながらえることができなくなる。

野良犬の話は一例であり、「人間自身」も管理から外れると通報されて排除・抹殺される危険性がどんどん高まっていく。

行き過ぎた管理社会の中では、「管理に都合悪い存在が排除・抹殺されている」という事実は、気付いた方がいいのかもしれない。管理される社会で得るものもあれば、失うものもある。高度に管理された社会は、管理できないものを抹殺していくという恐怖の一面も持っている。

いつしか、知らない間にいろんな存在が誰にも気付かないところで抹殺されているのである。もし、徹底した管理社会の中で、私たち自身が「管理に都合悪い存在」と認定されたら、私たちは排除・抹殺されることさえもあり得る。

良いことも行き過ぎると邪悪になるということだ。(written by 鈴木傾城)

東南アジアやインド圏ではどこでも野良犬がいて、市場や街をうろうろとさまよっている。しかし日本は野良犬をほとんど見ない。日本はなぜ野良犬がいないのか。それは「管理に都合悪い存在」なので排除・抹殺されているからである。

東南アジアはさすがに減ったが、インドでは今も路上でこのように生活している人は多い。途上国から来た人は、「日本はホームレスがいない」と言う。いないわけではない。日本はホームレスもまた「管理」されて見えなくなっているのである。
https://blackasia.net/?p=12586

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資料 小樽の「外国人お断り」事件 (原告側言い分)
 

有道 出人 さん プロフィール

1965年アメリカ・カリフォルニア州生まれ、ニューヨーク州出身。1986年に初来日し、2000年に日本国籍を取得。
 1998年〜2001年まで、全国語学教育研究学会のPALE特別分科会「PALE Journal」誌で編集長を務める。著書に「ジャパニーズ・オンリー 小樽温泉入浴拒否問題と人種差別」(明石書店)など。

(北海道情報大学講師)

「ジャパニーズオンリー
〜小樽温泉入浴拒否問題と日本社会の人種・民族差別〜」

2003年7月25日
2003多民族共生人権研究集会
記念講演

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 私は2000年に日本国籍を取りました。在日期間は、およそ15年間です。私は38歳で、日本人と結婚して、子どもが2人います。死ぬまで日本におりますので、これからそれぞれの社会問題に取り組もうと決心しました。その一つが、小樽の温泉問題です。

「外国人お断り」 〜小樽の温泉問題とは〜
 1999年9月、「外国人の方の入場をお断り致します」という看板がありました。英語で「Japanese Only」と書かれ、その下には、ロシア語で同じことが書いてあります。これは、小樽でいちばん大きい温泉「湯の花」にある看板なのです。
 最初に、入浴を拒否されたブラジル人の苦情を聞きました。日本人と結婚して子どもがいる方でした。子どもと一緒に入浴しようとして断られたわけです。それを聞いた私たち夫婦と友人たち(国際結婚した夫婦)は、その銭湯に行って、マネージャーに直接話を聞くことにしました。すると、私を含めて白人はダメで、アジア系の人達は入浴できるというのです。理由を聞くと、マネージャーは「ロシア人が来るから」と言いました。小樽は港町ですから、ロシア人はよく来ていましたが、かれらの中には酔っ払って入浴したり、パンツのままで浴槽に入るなど、入浴マナーが悪い人がいたそうです。注意しても日本語が通じない。だからロシア人を断らなければ、日本人が嫌がるということでした。
 しかし私たちは10年以上住んでいる永住者で、日本の入浴マナーを知っていました。「だから、入ってもいいのではないですか?」と言いました。しかしマネージャーは、ダメだといいました。「あなたがロシア人かどうか見分けられない。でもロシア人だけを断ることは差別になる。だから公平に外国人を一律お断りする」というのです。

パパに似たら「お断り」?
 私たちには娘が二人います。上の娘は、見かけがアジア人と変わりないですが、下の娘は、私と同じ茶髪で目が青い。同じ親から生まれて、日本生まれ、日本育ち、母国語は日本語、日本国籍を持っています。「この子たちは、どうなりますか?」とマネージャーに尋ねました。マネージャーは、上の子を見て、「こういう子は良い」と言い、下の子については、「大きくなってからお断り」と言いました。これは言後道断ですね。こんな非人道的なポリシーは良くないのではないかと主張しましたが、マネージャーは、「やむを得ない」と片付けました。だから私たちは運動を始めました。

差別撤廃のために行動を起こす
 私は、あらゆる手段を取って、このような差別を撤廃しようとしました。小樽市議会、小樽市長にもアピールに行きました。私が「このような外国人入浴拒否は、あってはならないのでは?」と言いましたが、小樽市議会と議員は、「人種差別撤廃条例を制定するのには早すぎる」と言いました。「今から作ろうとしませんか?」と言うと、「まだ早い」と言われました。北海道議会にも言いましたが、同じ返事でした。(法務省の)人権擁護部の小樽支部にもアピールしましたが、返事さえくれなかったのです。この温泉に行って、「看板を撤去しなさい」と言うことすらありませんでした。私たちは「人種差別撤廃条例」を制定するように、陳情を小樽市議会、道議会、国会にも出しました。その結果、小樽市では、定例会で継続審査。道議会と国会からは、返事さえきませんでした。

他にもある「ジャパニーズ・オンリー」
 この温泉(「湯の花」)以外にも、外国人を拒否する看板を出しているところがあります。例えば、紋別市に「日本人専用」とロシア語で書かれた看板を挙げた飲食店が90店あります。私たちはそこへ出向いて、「なぜそういうことをするのですか?」と聞きましたら、ロシア人の船員が暴力をふるう不安があるということでした。「看板をおろして下さい」と言いましたが断られました。今でもその看板はあるそうです。また、稚内市のある公衆浴場では、日本人は入場料が360円なのに、外国人客専用風呂は2500円だそうです。6倍です。マネージャーに理由を尋ねると、外国人を断るよりはマシだと言われました。私たちはそれが間違っていることを説明しました。

人種差別は悪循環
 小樽では皆が「外国人を断っても良い」という意識を持ち始めました。温泉や飲み屋だけでなく、理髪店、スポーツ店、レストランも断っています。最近このような「看板で人を断る」ことが出てきたわけではなく、1993年、つまり10年前から外国人を断っていたのです。悪循環です。このような看板によって人種差別行為が起こってしまうのです。
 道内で「外国人お断り」がある所は、稚内、紋別、小樽、留萌、根室です。(青森の)三沢でも見つけました。気になったのは、その看板が小樽の温泉のものにそっくりなのです。真似ているのですよ。看板で明確にすることで、差別行為を助長しています。東京の渋谷、新橋、名古屋でも秋田でも断っている所を見つけました。那覇ではもっと頻繁に見かけます。「外国人お断り」が暗黙の了解でなく、看板で見せるのが新しい傾向なのです。

外国人が騒擾を起こす? 〜石原発言の嘘〜
 小樽には「外国人お断り」の温泉が3つあり、そのうち2つのオーナーとは話し合って、看板を下げてもらいました。それは良かったのですが、残る1つはいまだに挙げています。
 ようやく進展がありそうな時、石原都知事が「東京では不法入国した多くの三国人(外国人)が極悪な犯罪を繰り返している。こういう状況で大きな被害が起きた時には、警察の力のみでは限りがある。だから治安維持の一つとして、外国人の留置を遂行しておきたい」ということを言いました。大地震があれば「不法外国人」を留置して治安を守るべきだと言っているのです。歴史的には、大災害の時に外国人が騒擾したことはありません。関東大震災の時、朝鮮人の方が日本人に殺されました。逆ではないでしょうか。

恐怖感をあおる警察
 警察署のホームページには、「イラン人薬物密売グループ、ロシアマフィア、韓国人スリ」などを挙げて、警戒をよびかけています。東京の銀行には、「注意! 来日不良外国人によるひったくり事件多発」というビラがあり、これは中野警察署の作ったものでした。私たちは中野区警察署に電話をして、どれぐらい外国人犯罪があるのかと聞きましたが、「わからない」という返事でした。別の銀行のATMにも「不良外国人によるひったくり事件が多発中!」という貼り紙があります。貼り紙には、包丁をもった外国人の周りに警察がいて、おばあさんが警察官に「期待してるわ」と言っているイラストが描かれています。

ワールドカップの裏で
 去年の6月にワールドカップがありました。その前にマスコミでは何が流行ったか覚えていますか?「フーリガン対策」です。札幌では、イギリス対アルゼンチンの試合があり、暴動の心配がありました。警察官4千人を本州から連れてきていました。観客よりも警察官の方が多かったですよ。その時、外国人はフーリガンじゃないかと、非常に敬遠されたのです。何度も、大通公園等を通る時に職務質問をされました。僕が国民であること、理由なく職務質問できないはずであることを言っても、ごまかされました。外国人は犯罪を起こす疑いをかけられていたのです。このことに対して私は警察本部にも、道本部にも電話で説明して謝罪を求めましたが、悪いことはしていないというのです。ワールドカップが終わってから警察本部に行きましたが、謝ってはもらえませんでした。

「外国人犯罪急増」のからくり
 外国人の犯罪は確かにあります。では、どのくらい多いですか? でっちあげということもあるのです。統計を見れば、去年犯罪が284万件ありました。そのうち3万件は外国人が起こしたもので、1.2%くらいです。でも人口割合にすれば外国人は1.5%です。すなわち日本人よりも外国人の犯罪率は少ないのです。「急増」ということだけが強調されやすいのです。もしあなたが犯罪を起こされても、98.8%は日本人が起こした可能性ということです。しかも、外国人の犯罪統計の中には、「ビザ」関係(資格外活動)があります。日本人はビザの犯罪が起こせません。それを除けばなおさら犯罪率は低くなります。

小樽温泉問題、裁判へ 〜憲法は住民を守るのか〜
 私が日本人になったのは、2000年の10月でした。これは運動と一切関係なく、日本が好きだったからです。日本国籍になった後、あの温泉「湯の花」に戻りました。まだ看板を挙げていました。「僕はもう日本人です。入ってもいいですか?」と聞きましたが、断られました。「あなたが日本人だと言うことは、マネージャーとして分かるけれど、あなたが裸になって入ると誰があなたを見て日本人だと思いますか。駄目です。入らないで下さい」と言われ、堪忍袋の緒が切れたのです。
 やはり裁判になりました。15ヶ月もかけていろいろなことをやりましたが、最終の手段でした。これは人種差別だと思い、我々のような住民は日本国憲法で守られているかどうかを問いたかったのです。2001年の2月裁判を起こし、翌年11月判決が出ました。温泉だけではなくて、小樽市も訴えました。ここまでの放置は行政官としても責任があると思ったからです。人種差別撤廃条約の中にも、あらゆる措置を取って人種差別を撤廃する責務があると書いてあります。

裁判の結果
 小樽温泉に対して我々は勝訴しました。200万円の賠償金を要求し、100万円の賠償を認定していただけました(お金のために裁判をしたのではありません)。温泉に対して、「外国人一律拒否の方法によってなされた本件入浴拒否は、不合理な差別であって、社会的に許容しうる言動を超えているものと言えるため、違法であって不法行為にあたる」という判決でした。「不合理な差別」と言いましたが、では「合理的な差別」はあるのでしょうか。この判決は「やりすぎたのだから、違法行為である」と認めてくれました。けれども、「人種差別だから違法行為である」とは認めてくれませんでした。
 市に対しては、こういう判決でした。「公権力の一部を担う機関として、国と同様に人種差別を禁止し、終了させる義務を負う」としても、「条約を制定することによって具体的な人種差別を禁止し、終了させること」が明確に義務付けられるものではないということでした。法律や条例を制定する義務はないと言っているのです。

日本政府に望むもの
 21世紀の日本のために政府にして欲しいことは、次のことです。

 一つは、国籍が異なっても住民であり、ここで社会的貢献をし、納税もしていることを認めてほしい。住民票がなくても住民なのです。タマちゃんさえ住民票をもらえるのに、なぜ外国人はもらえないのか。だから「外国人は住民である」と政府のレベルで言って欲しいのです。それをせずに、どうやって我々の人権が守られるのですか?
 毎日新聞の2003年4月12日の記事に、内閣府の「人権擁護に関する世論調査」の結果がありました。日本に住む外国人について、「日本人と同じように人権を守るべきだ」と考える人が、初めて50%台に落ち込み、「日本人と同じような権利は守らなくても仕方がない」が、前回1997年の調査の18.5%から11.8%増え、過去最高となりました。外国人に対する人権意識の低下と言えます。「外国人の人権を守らなくても仕方がない」という人が増えています。これでいいはずはありません。外国人であっても人間です。人権があります。外国人だから犯罪を起こすと思わないで欲しいのです。悪い人は日本人にも、外国人にもいます。人によります。国籍には関係ない。政府が、そう言って下さい。

 二つめは法整備です。日本人が外国人と国際結婚するケースが毎年4万組と、1999年からおよそ30%の増加です。その人たちの子どもはどうなるのでしょうか。子どもたちは日本国籍を持っているので、外国人の統計にも入りません。日本の社会はますます国際化しているのですが、見えないのです。
 国際化のために人種差別撤廃法を制定して下さい。そうしなければ私の子どもや、我々のように外見が日本人離れした人の人権は守られません。ちゃんと日本の憲法が守れるような制度を作って下さい。それを皆さん、プッシュしていきましょう。

http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0310_debito.html  

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<コメント>
 ふ〜ん、アメリカハクジン系ニポン人だったのですね。

 とりあえず、差別された側の資料です。
http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/661.html

小樽の「外国人お断り」事件は、悩んだ末のポスター


 こんばんわ

 世に有名でない「銭湯、ガイジン差別事件!!(^^)」について話題が出ましたので、一言


>日本の北海道の温泉(公衆浴場?)の、外国人おことわり騒動でも、感じたけど、
>まだまだ、日本全体が(一般的に)人種差別、に鈍感ですね。

 数年前に、小樽(北海道)の銭湯が「外国人お断り」というポスターを出して、ハクジン系ニポン人に「差別だ」と訴えられた事件のことですね。

 最初に事件をマスゴミの報道で知った時は、アホなことしよるなぁ・・・という感じでしたが、その後、小樽人をはじめ北海道人に聞いてみると、多少ニュアンスが違うのですね。

 銭湯の経営者団体は「ロシア人お断り」のポスターを出したかったのですが、それでは日ロ問題になりかねないので、悩んだ末に「外国人お断り」にして複数の銭湯が掲示したということです。

 「ロシア人お断り」の原因は、北海道の大きな港にはロシア船が入るのですが、その乗組員が旅の垢を落としに来る。観光客ではないですからサウナに行くほどの金はないですから、船単位で、どどっと銭湯に押しかけるわけです。

 で、やつらときたら、数日間風呂なしですから、垢くさいは、油くさいは、魚くさいはでニポン人の客は逃げてしまうのです。(笑)
(注;わしらも、同じようなものですけどね。出張帰りに飛行機に搭乗拒否された知人がいます。(笑))   

 しかも、浴槽につかる前に体を流す習慣がない。やつらが出て行った後の浴槽には、砂や鉄さびや鱗が堆積している。(笑)
 ロシア人が来たということを事前に感知した常連客は来ないし、知らないで来た客には、番台のオヤジが「すいませんねぇ・・・、今日は船員さんが来ましたんで・・・」とか言い訳しなければならない。

 零細経営の銭湯としては、一日分の売り上げがパーになるわけです。

 そんなことで、「ロシア人お断り」とかのポスターでは日ロ経済の比重が大きいせいもあって、「外国人お断り」なら特定しないから差別にならないだろうと考えたようです。
 ま、北海道の港町の場末の銭湯に入る外国人と言えばロシア人船員しかいないですから・・・

 で、それに銭湯趣味のハクジン系ニポン人が「外国人への差別」だと訴えたのですね。この方は、風体がガイジンなので、各地で入浴拒否された経験があるのだそうです。温泉旅館などでもハクジン系外国人と見なされる人の大浴場への入浴拒否はあるようです。

 以上が、小樽の銭湯のガイジン差別事件の背景です。

 この事件は、ナイチ(内地)ではあまり大きな報道はなかったですし、マスゴミは「外国人差別事件」として扱いましたが、北海道、とくに港町では結構大きな問題だったようです。

 各地の銭湯業者(公衆浴場組合?)は「ほならどうすればエエんじゃ」とか怒るし、銭湯趣味者は、「ガイジンを見たらわしらがマナーを教えんならんのか?!」とかね。
 当該ターゲットの「外国人」と同業のニポン人も「あいつらはマナーを守らんからねぇ」と言うし・・・


 小生は、「刺青お断り」とか、「極端に汚れている人お断り」と同様の対策とみていますから、銭湯(複数)のオヤジの気ちはわかります。
 「汚れた無作法な客」とわかっていても、「汚れてるからだめ」とか「銭湯の作法を知らないからだめ」と言い換えても、それは北海道の港町で見かける平均的ロシア人なのですから、どうせ国際問題になりましょうしね。

 それを、北海道の港町で見かける平均的ロシア人ではない見かけはガイジンの「ハクジン系ニポン人」から訴えられたつうのは番狂わせですね。


 なお、北海道の港町で見かける平均的ロシア人のために弁護しますが、やつらは気のいい連中で、ハクジンにしては良い子だと思ってます。強い酒をラッパ飲みして大声で歌う連中が多いけど、昔の歌声喫茶の雰囲気だと思えば大したことないし、露西亜民謡?を生で聞けるし・・・
 食堂で、わしらのテーブルの椅子を持っていくときも、きちんと了解を求めますしね。(^^)

 公衆浴場という習慣がないためのトラブルと言えましょう。


 銭湯業界としては、少ないロシア人船員のために別の浴槽を増設するわけにもいかないですから、日ロ友好のために公費で浴槽増設とか考えるべきでしょう。
 もっとも、ガイジン用浴槽とニポン人用浴槽なんてのは、これまた差別で訴えられかねないですね。(^^)

 ま、道庁と関係市町村は、ロシア船員用のパンフの「銭湯のマナー」欄を充実したようですけどねぇ。
http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/651.html


資料 小樽の「外国人お断り」事件に関する聞き取り調査 (大学生の卒論?)


 小樽での聞き取り調査の結果です。

平成14年10月24、25日に小樽市の温泉施設、公衆浴場、商店街で一般の市民の方を対象に、アンケート調査を行いました。

また、4つの施設の経営者の方にインタビューを行い、入浴拒否問題に関する様々な意見を聞かせて頂きました。

これら2つの聞き取り調査の結果は以下のようになりました。

1.アンケート調査の結果

今回、入浴拒否問題発生に深く関わる小樽市民の意識を探ることを目的に、聞き取り調査を行いました。

調査を行った場所と人数は以下の通りです。

3つの入浴施設・・・34人(男性12,女性22)

         商店街・・・23人(男性8,女性15)   

      → 合計―57人 (男性20人、女性37人)

 年代別の内訳は以下のようになっています。

10代:9人(男性2,女性7)    50代:7人(男性3,女性4)

         20代:10人(男性3,女性6)    60代:9人(男性1,女性8)

         30代:8人(男性6,女性2)    70代:5人(男性0,女性5)

         40代:7人(男性5,女性2)    80代:2人(男性0,女性2)


質問は以下の6つの項目で行いました。

     @温泉や銭湯で不快な思いをしたことがありますか。

     Aもしマナーを守らずに入浴している人を見たら、どうしますか。

     B温泉や銭湯で外国人と一緒になったら抵抗はありますか。

     C韓国朝鮮人、中国人、ロシア人(小樽市在住の外国人登録者数のうちの上位3カ国)に対して良いイメージを持っていますか、

    悪いイメージを持っていますか。

     D外国人に関する悪いうわさを聞いたことがありますか。

     E入浴拒否問題を知っていますか。

    入浴拒否問題をどう思いますか。

●調査を通して、28%の人が外国人との入浴に抵抗があることがわかりました。その中で「マナーや習慣の違い」を理由として

 あげる人が多く見られました。

   また、韓国朝鮮人に対するイメージを尋ねた回答の中では「特に何も感じない、日本人と一緒」という回答が最も多く、全体の

 60%を占めました(良いイメージだという回答は18%、悪いイメージだという回答は20%)。

  同様に中国人に対しても、「特に何も感じない、日本人と一緒」と答えた人が最も多く、全体の64%を占めました(良いイメ

 ージだという回答は13%、悪いイメージだという回答は21%)。

   一方でロシア人に対しては、「悪いイメージだ」と答えた人が最も多く、全体の52%にも及びました(良いイメージだという回答

 は4%、特に何も感じないという回答は42%)。「悪いイメージだ」と回答した人の中には、「密輸、盗難、売春のニュースや噂を

 聞くから」「自転車や車の部品などを持っていかれるから」という理由をあげる人が多かったです。

   入浴拒否問題に対する考えとしては、「拒否はおかしい、しない方がいい」という回答が最も多く、全体の44%を占めました。

 次に多かった回答は「入浴拒否は仕方がない」という回答で19%、「外国人の入浴は拒否すべきだ」という回答は15%でした。

具体的なアンケートの集計結果はこちらです。


2.入浴施設の経営者の方へのインタビュー結果

  平成14年10月24、25日に小樽市内の4つの入浴施設(A、B、C、D)の経営者の方にインタビューを行いました。

  どの入浴施設でも主にロシア人のマナー違反(石鹸をつけたまま湯船に入る、湯船に飛び込んで騒ぐ、酒を飲んで酔っ払う等)があったということです。

 

@どのような対処法をとったのかという質問に対する回答は以下の通りです。

   入浴施設Aでは「市が作成した注意書きを見せ、片言の英語で注意してしのいできた」ということです。

   入浴施設Bでは「初め“Japanese Only”の看板を掲げ、その後“Members Only”の看板に変更。

        現在の“Members”の条件は『楽しく入浴し、他人に迷惑をかけないこと』のみ」ということでした。

        対処法としては「五ヶ国語で注意書きを記したポスターを掲示したり、アンケートの実施やフォーラムの開催を行った」

        ということです。

   入浴施設Cの経営者の方は「口頭で注意するが、言葉が違うとなかなか伝わらない。今はマナーを知っているかどうかを聞いて入れて

        いるので、トラブルは減った」と回答されました。

   入浴施設Dでは「行政の対応が遅く、市から要請される前に独自にポスターを作成・掲示し、トラブルは減った」ということでした。


 A利用客の反応について尋ねたところ、以下の回答がありました。

  どの入浴施設でも嫌がる日本人利用客がいて、苦情が出たということです。

 入浴施設B、Dでは、特に年配の方からの苦情が多かったようです。

 また、入浴施設Dでは、ロシア人がいないかどうか確認の電話をするお客さんや、ロシア人がいるとわかると出て行くお客さんもいるとのことでした。

 


 B人種差別という視点での見解について意見を伺ったところ、以下のような回答が出ました。

   入浴施設Bの方は「入浴拒否は人種差別だと思うが、営業していくためには仕方なかった。

        現在は人権と営業権の両立はできている」と回答されました。

   入浴施設Cの方は「人種差別の意識はなく、民間企業として利益を出すことが重要なだけ」と答えられ、

        「マナーの悪い人は受け入れ、悪い人は断っているだけ」とのことでした。

   入浴施設Dの方は、「新聞報道には施設側の言い分がほとんど載せられなくて、人種差別に重点が置かれていた」とおっしゃっていました。


 ☆ホームページ掲載が予定より遅くなってしまったことをお詫びいたします。調査に協力して下さった入浴施設経営者の方、小樽市に在住の方々、本当にありがとうございました!! 宇都宮大学国際学部 田巻研究室4年一同

http://www.cc.utsunomiya-u.ac.jp/~tamakim/otaruindex.htm

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<コメント>
 被告側の主張を確認できないので、市民の意見代わり資料

 おそらくDが裁判の当事者だと思いますが、この場合は特定しても意味ないと思います。
http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/663.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
12. 中川隆[-10739] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:15:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1312]

「正しい子宮から生まれて来たか」で格差が決まって埋められない現実 │ ブラックアジア:鈴木傾城
https://blackasia.net/?p=8734


日本財団は「子供の貧困対策を取らなかった場合はどうなるのか」という点に関して、「子供の生涯所得が減る」「政府の税収も減ってしまう」という二点に問題が発生することを報告している。

しかし日本だけではなくアメリカもそうなのだが、この格差が社会に問題をもたらすと警鐘が鳴らされ続けているにも関わらず、問題を解決するのは難しい。

その理由は明らかだ。現在の資本主義の構造からして、格差の是正はほぼ不可能だからである。

資本主義の世界では、資本を持っている者が得するようにできている。そして、資本を持っている者と持っていない者の差は、何もしなくても、どんどん開いていく。

これは単純な話だ。配当の年利回りが3%の株式があったとする。資本を持っている人が1億円でそれを所持し、資本をあまり持っていない人が100万円でそれを所持したとする。

税金・手数料を考えないで考えると、1年経って手に入る配当は、1億円の人は300万円、100万円の人は3万円となる。

同じ3%の条件であっても、結果は297万円も違う。現実は1億円と100万円どころではなく、個人で数十億、数百億の資本を持っている人もいれば、ゼロの人もいる。資本主義では、これほど圧倒的な差が付いたまま競争をしなければならない。(鈴木傾城)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c12

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
13. 中川隆[-10738] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:19:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1313]

「お前たちはカネを持っているはずだ。奪ってやる」という社会に向かう2018.11.16
https://blackasia.net/?p=10125


嘘でも何でも、カネが取れれば他人を踏みにじってもいいと考える。これは弱肉強食の資本主義の行き着いた姿である。日本の夜の世界ではホストを巡ってこうした度を過ぎた弱肉強食が蔓延しているのが分かっている。

マスコミはホストを囃し立てているのだが、その裏側で彼らの強引であこぎな「営業」の犠牲になって破産したり自殺したりする女性が次々と出ている。今、歌舞伎町では「空から人が降ってくる街」になっている。(ブラックアジア:空から人が降ってくる街、歌舞伎町。境界線を踏み越えたら助からない)

ホストにカネも身体も骨の髄までむしゃぶり尽くされた女性たちが、すべて奪われた後に正気にかえり、そのまま死んでいく。あまりにも次々に死ぬので歌舞伎町では自殺の名所まで出てくる始末だ。(ブラックアジア:歌舞伎町の自殺の名所。ホストに疲れた女たちはここで飛び降りる)

日本人が「カネこそすべて」と傲慢になって弱肉強食の資本主義に染まったのは1980年代後半のバブル期だったが、1990年代になるとバブルは崩壊して「カネこそすべて」は急速にしぼんでいった。

しかし、2000年頃からグローバル化が日本内部にも浸透していくと、「カネこそすべて」はむしろ強烈な反動で人々を揺り動かしていくことになった。(鈴木傾城)

弱肉強食の資本主義が蔓延すると社会は間違いなく荒廃

経営者は正社員を減らして人件費を削減し、自らの年俸をアップさせていた。「カネで何でも買える」と豪語する経営者も出てきていた。

国民のカネを詐取する公務員もいた。政治家は不必要な工事を行って税金を投入し、そこからリベートとしてバックさせていた。宗教団体は無税を享受し、葬式で戒名に数十万もの金額をぼったくっていた。

官僚たちは不必要な組織を作ってそこに天下りして税金を奪い取っていた。証券会社は「手っ取り早く儲けられる」とFX(為替証拠金取引)やデイトレードのようなギャンブルを投資と煽って人々をカネに追い立てた。

FXが規制されると、今度は仮想通貨に舞台を移して「買えば儲かる、買わない奴は人間ではない」と煽り立てていた。金融業者は、資本主義をバクチ場に見立てて、人々に伸るか反るかのバクチを「投資」と言って煽り立てたのだ。

そして、バクチに勝った者が負けた者のカネを総取りし、それを賛美するような世の中になった。

気が付けば、日本でも弱肉強食の資本主義が着々と深まっていき、育っていたのである。こうした弱肉強食の資本主義が蔓延すると社会は間違いなく荒廃していく。

弱肉強食の資本主義の根本は「自分さえ良ければいい」「自分が儲かれば、他人が泣いてもいい」「世の中に貢献しようがしまいが、儲かりさえすればいい」というものだから、これで世の中が良くなるはずがない。荒廃して当然なのだ。

こうした社会は徹底的な利己主義を増長させる。最終的には、思いやりも、愛情も喪失させる歪んだ社会を生み出す。

格差が広がっていくと、最初は格差を何とかしようと問題意識を持った人々が救済に入るのだが、社会が格差を作り出す構図が止められないのであれば、救済する以上に格差が蔓延し、やがてそれは一般化していくのだ。

そして、人々はどうなるのか。格差を「受け入れる」のである。


「他人を騙してでも脅してでもカネを奪おう」と決意する

このような弱肉強食の資本主義が社会を覆い尽くすと、どうなるのか。もっと短絡的で、残酷で、救いのない事件が、次から次へと現れていく。「自分さえ良ければいい」のだから、他人から奪う社会が誕生するのだ。

実は、これから日本を覆い尽くしていこうとする弱肉強食の資本主義は、一足先にそれを取り入れたアメリカのような国では当たり前に見られる社会現象だ。

成功者は賛美されるのだが、失敗者は顧みられない。豊かな人間はより豊かになっていき、堕ちた人間はよりどん底に突き落とされる。

自家用ジェット機で世界のリゾート地を飛び回ってバカンスに明け暮れる富裕層がいる一方で、ホームレスになってダンボールの中で寝るしかない人々がいる。それが「当たり前」として許容される。(ブラックアジア:欧米では女性ホームレスも当たり前。日本だけがそうならないとでも?)

弱肉強食の資本主義は、貧困層が持てるものをすべて奪われていく中で強化されていく。それは、経済的な格差を拡大させ、固定させる。いったん固定化されたら、貧困が遺伝のように継承される。そして、どうなるのか。堕とされた人間は、ある時このように考えるのである。

「奪ってやる」

持たざる者が底辺に叩き落とされたとき、そこから這い上がるには持っている人間から奪い取るしかないと思うようになる。「努力して這い上がろう」とか「向上心を持って地道にやろう」という希望が貧困の固定化で打ち砕かれると、生まれるのは弱肉強食の資本主義に対する「怒り」でしかない。

精神的にも余裕をなくし、日々の食事にも事欠く。そんな中で、目の前にカネを持っている人間が通りかかったら、「脅してでも殺してでもカネを奪おう」と決意する人間が出てきても不思議ではない。

「お前たちはカネを持っているはずだ。奪ってやる」

そういった憎悪にも似た感情が、持たざる者の中から生み出されていく。そして、それが蔓延したとき、弱肉強食の資本主義は社会を一気に荒廃させていく。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

愛も慈しみもカネにならないので評価されない

弱肉強食の資本主義は、そうした苛烈な資本主義に合ったビジネスライクな人間がのし上がっていく社会だ。事業的才覚と豪胆な決断力と強運を持った人間が強欲に動き回り、苛烈な競争を生み出して、勝ち組と負け組を鮮明にさせる。

いまや普通の人々は、グローバル経済に叩きのめされて将来に対して不安どころか恐怖すらも感じるようになっている。

当然だ。企業も弱肉強食の資本主義の中で変質している。

つまり、企業は株主と経営者を富ませて労働者をコストとして切り捨てる体質になっている。今までのように会社を支える従業員のひとりとして一生懸命に働いても、会社側がコスト削減を思い立ったら、あっさりと切り捨てられる。(フルインベスト:労働の価値が下がり、ますます働く者が報われない社会になっていく理由)

人々は社会の底辺に転がり堕ちないように必死になって踏みとどまり、何とかこの資本主義の中で生きていけるように悪戦苦闘する。しかし、足元は限りなく不安定になっている。

いったん競争に敗れて社会の底部に転がり落ちていくと、這い上がれない。焦燥感や自暴自棄が生み出され、そこから堕とされた人々も「カネが手に入るなら、何でもする」という発想になっていく。

「エリートも儲けるために、やりたい放題やっているではないか。奴らがやっているのなら、俺たちもそうやって何が悪い」

だから、弱肉強食の資本主義になると、必然的に社会の底辺も弱肉強食と化していき、他人を騙しても脅しても「奪う」ようになっていく。嘘でも何でも、カネが取れれば他人を踏みにじってもいいと考え、それを実行するようになるのだ。

日本社会も「カネこそすべて」がすっかり定着するようになっている。

これが社会に何をもたらし、どのようなインパクトを与えるのかに気づいている人々はそれほど多くない。それは、社会を荒廃させていき、やがては地獄のような社会を出現させるのである。

弱肉強食の資本主義では、愛も慈しみもカネにならないので評価されない。カネしか評価されない。そうであれば、他人から奪ってでもカネを儲けたいと思う人間が主流になって何が驚きなのだろうか。(written by 鈴木傾城)


遠い昔の日本の光景だと思うだろうか。まさか。つい最近、鈴木傾城が横浜のとある地区で撮った写真だ。こうした光景が社会に何をもたらし、どのようなインパクトを与えるのかに気づいている人々は、今はまだそれほど多くない。
https://blackasia.net/?p=10125

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c13

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
14. 中川隆[-10737] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:21:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1314]

資本主義の中で「自由」という言葉が美しいと思っていたら騙されるだけ
https://blackasia.net/?p=10179


ドナルド・トランプ大統領は野放図な自由主義を制し、保護貿易を訴えて選挙に勝ち上がった人物だが、これに対して多国籍企業からマスコミまでが一斉に「ヒト・モノ・カネが自由に行き来する世界を壊すな」とトランプ大統領を攻撃した。

「自由を守れ」「世界の自由を阻害するな」

「自由」という言葉は、とても美しい言葉だ。「不自由であるのがいいのか、自由であるのがいいのか?」と問われて「不自由の方がいい」と答える人は、ほとんどいない。誰もが自由を愛する。

しかし、何でもかんでも自由にするのは正しいのだろうか。

多くの国では、実は自国の産業を守るためにいくつかの保護政策を取っている。守りたい産業を保護するために外国製品には高い関税をかける。

あるいは守りたい産業を国営化して、その重要な産業がつぶれないようにしている。インフラや農業は、多くの国で保護対象になる。なぜか。ここが潰れれば、一気に国民生活に影響が出るからだ。

根幹部分を持っていかれると、場合によっては国が回らなくなってしまうのだ。(鈴木傾城)


国民の多くは「安ければ何でも良い」

実は、この政府が保護する分野というのは、そこが乗っ取られたら国民生活が急激に困窮していく部分なのである。

たとえば、電気・ガス・水道を考えてほしい。この部分を外国企業に乗っ取られて、外国企業が儲かるためにどんどん値段を釣り上げたらどうなるのか。電気・ガス・水道が二倍、三倍になっていったら生活できなくなる層もいるはずだ。

だから政府はこの部分を保護して、国民が困窮しないようにしている。

そうであれば、外国企業がある国を乗っ取るには、この部分を掌握すればいいということになる。まず政治家を買収して、保護貿易を止めさせる法律を策定させて、重要なインフラをすべて民営化して、それを乗っ取ればいいのだ。

政治力と資金力のある外国企業は、場合によっては圧倒的な競争力でその分野を乗っ取ることが可能になる。

この乗っ取り方法で、乗っ取りたい側が常に訴えるのが「自由」という甘美な言葉なのである。たとえば、このような言い方をする。

「自由競争は重要です。競争によって企業同士が切磋琢磨して新しいサービス、安い商品が手に入るようになります」

自由競争によって、安い商品が怒濤のように入ってくるのは間違いではない。国民は常に安い商品を求めている。国民が欲しいのは自国製品ではなく、安い製品なのである。

新自由主義、構造改革、民営化によって、安い製品やサービスが入ってきたとき、それを提供しているのは外国企業の製品であるということを多くの国民は気付いている。

しかし、国民の少なからずは「安ければ何でも良い」ので、安い製品を買うことに躊躇はない。

その結果、安い外国企業の製品が市場を独占し、自国の産業は潰れていく。

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裏側の弊害やダメージの方は絶対に語られることはない

この自由競争の物語は続きがある。国をすべて乗っ取るには、ここからが本番だ。

外国企業はある国に自由競争を取り入れさせると、そこで自分たちが市場を独占したと悟られないように、弱体化した地場産業を買収して、その地場産業のブランドを残しつつ市場独占を進めていく。

国民は自国製品を買っているつもりでいるのだが、実はもう外国企業の手に落ちているので、自国のものではなくなってしまっている。

ブランドが残されると、それが外国企業であることに多くの国民が気付かないのである。それで、自由競争が行われていると勘違いするのだが、その裏では産業の乗っ取りと独占が粛々と行われているということになる。

市場を乗っ取り、市場を独占することが可能になると、その市場からは永遠に利益を吸い上げることが可能になる。

企業にとっては「利益」こそが生きる養分であり、利益を第一に動く。最も安定的かつ永続的な利益は、独占から生まれる。国を丸ごと乗っ取れば、その国から永続的に利益が吸い上げられる。

だから「自由」という言葉を表に出して、「乗っ取り=独占」という裏の意図を見えなくするのである。

(1)自由競争によって、世の中は発展していく。
(2)自由競争によって、どんどん良い物が生まれる。

このような神話は、資本主義社会に生きる私たちの誰もが脳に刻み込まれ、それが正しいものであると信じ込まされている。しかし、物事には表があれば裏もある。この裏側の弊害やダメージの方は絶対に語られることはない。

都合が悪いからだ。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

大事な部分を乗っ取られて国がめちゃくちゃになる

忘れてはならないことがある。競争は美しいというのは、「条件が同じ」であった場合の場合である。資本や組織力に圧倒的な差があった場合の競争は、強者が弱者を踏みつぶす残酷ショーと化する。

時価総額が1兆円の企業と10億円の企業とでは、その差は1000倍にもなる。社員10万人の企業と社員100人の企業とでも、その差は1000倍になる。

普通、これほどの差があった場合、同じ土俵では競争は成立しない。スポーツの世界で言うと、大人と赤ん坊が格闘技で戦うようなものである。それをするのが「自由」競争である。

競争の対象が洗剤やヒゲ剃り用のカミソリであれば、別に独占されたところで何と言うこともないと言えるかもしれない。

しかし、銀行や農業や医療や水道や電気と言ったインフラを外国企業に独占されると、「それが資本主義だ」と鷹揚に構えていられなくなっていく。

外国企業が国民の生命に関わるインフラ部分を掌握し、値段を吊り上げることによって国民の生活を危機に陥れることが可能になるからだ。

外国企業が水道事業を掌握し、ある日「水道料金を2倍にする」と言われても、国民は水道を拒絶することはできない。水が出ない家で人は暮らせない。

電気を外国企業に掌握され、ある日、電気料金を2倍にすると言われても、国民は「では、明日から電気は要らない」と言うことはできない。もちろん、ガスも同様だ。

アメリカは医療制度すらも民営化したことによって、「より良い治療を行って欲しければ、もっと金を出せ」という弱肉強食の世界になっていった。その結果、自分が病気になったり家族が病気になったりして「破産」する国民が増えた。

自分の痛みは我慢できても、自分の家族の痛みは何としてでも治して上げたい。金よりも家族の健康の方が重要なのだから、家族には選択の余地などない。

こういった国民の福祉や行政に関する部分には自由な競争を取り入れたらいけないというのが普通の考え方である。

しかし、「自由」という言葉に騙されると、大事な部分を乗っ取られて国がめちゃくちゃになってしまうこともあるのだ。美しい言葉には棘(とげ)がある。美しい物事には裏がある。私たちはそれを忘れてはならないはずだ。(written by 鈴木傾城)


もし、電気・ガス・水道のすべてが二倍に三倍に上がっていったら、国民生活はめちゃくちゃになるはずだ。「自由競争は重要です。競争によって企業同士が切磋琢磨して新しいサービス、安い商品が手に入るようになります」と言われて、インフラを乗っ取られると、そうなっても不思議ではない。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c14

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
15. 中川隆[-10736] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:27:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315]

植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳


ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html



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インド。改善されない貧富の差と腐敗、縁故主義が経済成長を阻害する
https://blackasia.net/?p=10432


2018年11月30日。日本経済新聞は『インド7.1%成長、消費・投資ともに堅調』というタイトルで、インド経済が好調であることを伝えている。7.1%とは大した伸びだと、感慨深くインドを思った。

しかし、私はインドに関しては、やや懐疑的なスタンスを崩していない。

私はシンガポールでインド系の女性と知り合ったあと、南アジアに興味を持って、インド・バングラデシュ・パキスタン・スリランカと立て続けに訪れた。インド圏の特異性や、文化や、凄絶な貧困や、人々の魅力に、すっかり取り憑かれた。

しかし、インドの最底辺の人々と付き合う時間が長くなるにつれて、インドの経済成長がまったく末端に行き届いていないことに気が付かざるを得なかった。

路上で暮らす物乞い家族、路上でセックスを誘う貧困女性、炎天下に衰弱した赤ん坊を抱えて物乞いする母親、野良犬と一緒にゴミを漁って食べている子供たち。

インドの貧困層の貧困ぶりは、東南アジアの貧困を知っている私ですらも絶句したほどだ。今後、インドが経済成長するにしても、こうした貧困層が普通の暮らしを手にいれるのは相当な時間がかかるはずだと私は確信したものだった。

実際にインドに行き、スラムの中を徘徊して一週間暮らしてみれば、誰でも私と同じ心境になるはずだ。圧倒的な貧しさと社会の見えない壁を知った瞬間に、インドで起きている経済成長というものが、表層だけのものであることに気がつくのだ。(鈴木傾城)


自分の器よりも多いカネは持ち続けられない

インドは本当に問題の多い国だ。

教育格差、貧困の放置、カースト間の断絶、民族間の断絶、人間性を無視した弱肉強食の世界、宗教間の断絶、隣国との断絶、官僚主義、汚職……。ありとあらゆるものが、スムーズな経済発展を拒んでいる。

すべてが経済発展を邪魔する要因ばかりなのである。インドの貧困問題が解消される見込みはないか、もしくは非常に長い時間がかかる。何よりも、貧困者があまりにも多すぎて、解決するにはハードルが高すぎるのである。

それならば、貧困者に直接カネを渡せばいいのではないかと考える人もいる。たとえば、バングラデシュで生まれたグラミン銀行の「マイクロファイナンス」はそのような発想から来ている。

しかし、貧困層にカネを渡したら豊かになると思うのは、先進国の人間の思い込みかもしれない。いくらカネが入っても貧困者がそれをを持ち続けることはできない確率は高い。

日本人は分からないかもしれないが、最低限の教育がなければカネを持ち続けることすらできない現実がそこにある。

カネを計画的に使うというのは、実はそれなりの教育が必要になるが、貧困層はその基本的な土台がない。

だから、あればあるだけ使う。計算ができないので、損得や物の価値が理解できない。金銭配分も、うまくできない。将来設計も立てられない。うまい話を持ちかけられても、それが詐欺だと分からない。

よく宝くじで大金を手に入れた人が、あっという間に蕩尽して以前よりも貧しくなったという話をよく聞く。それとよく似た現象かもしれない。金融リテラシーがないと、カネはあっという間に消えていく。

人は、自分の器よりも多いカネを手に入れても、それを持ち続けるのは不可能だったのである。


教育がないというのはどういうことなのか

金銭観念というのは、教育を受ければ身につくとは限らない。教育を受けていても、まったく金銭観念がない人がいる。しかし、基礎的な教育を受けないと身につかないというのは確かに言える。

分割払い、金利計算、割引率、確率……。

ほんのちょっとしたものだが、それを私たちは教育で身につけた。計算ができるから、こういったものが理解できる。計算を習っていなければ、概念すらも理解できない。カネを借りたら金利がかかると言われても、金利の意味も分からないし、その重さも分からない。

たとえば、借金を抱えて分割払いをしたとき、何回払いで返せばいいのかが分からないので、言われるがまま永遠に払い続ける貧困層も多い。金利25%でカネを借りても、それの何が問題なのか、まったく分からない。

教育がないので契約書の意味も分からないし、その重要性も分からない。字が読めなければ、そもそも書かれている内容が確認できない。インドの約37%は文字が読めない人たちである。

そのため、「カネが返せなければ娘を売り飛ばすことに同意する」と書かれた契約書を読めずにサインして、合法的に娘を取られた親もいる。彼らは、ありとあらゆる罠に簡単に落ちる。

貧困層の女性たちは鼻や耳のピアスで小さなゴールドを所持しているが、これはファッションのためではなく、銀行が利用できないのでそうやって財産を持つしかないからでもある。

銀行はカネを預けるところだが、彼女たちは自分の名前も契約書も書けないので口座を開くのも難儀する。その上に、銀行員というアカの他人をどこまで信用していいのか分からない。

そのため、手元のカネを「見も知らぬ赤の他人」の銀行員に渡すことに断固として抵抗する。

インドの貧困地区をさまよって、来る日も来る日もそういう人たちと接していると、インドという国が想像以上に分断されていることに誰でも気がつく。


貧困層はいつでも爆発する準備ができている

トーマス・フリードマンは、2005年に『フラット化する世界』という重要な本を発行している。

(アマゾン:フラット化する世界 経済の大転換と人間の未来)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B073S3BRZM/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=blackbook2tok-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B073S3BRZM&linkId=6af921b4663664b943c2683178604a2a


このフラット化という言葉を言い出したのはインドが誇るテクノロジー企業「インフォシス社」のナンダン・ニレカニ氏だ。

ここで言うフラット(水平化)は、世界はフラット化して教育があれば、個人が世界にフラットにアクセスできるのだという意味である。皮肉なことに、インドでは昔から人々がフラット化した各層の中で暮らしており、別の層(レイヤー)とはアクセスできないようになっている。それをカースト制度という。

カースト制度は恐ろしい文化である。

インド圏に身分があるというのは、外国人でも感じることができる。ジーンズをはいた洒落た女性の隣に、ボロボロのサーリーを着た女性が物乞いをしている。見かけも態度もまるっきり違う人間が、互いに相手が見えないように暮らしている。

同じ国でありながら人と人の間に線が引かれ、それぞれが同じ場所で別の国を生きているような状態だ。インドの圧倒的多数がそういう貧困層であることを考えると、どう考えても順調な経済発展をするとは思えない。格差も縮まるどころか逆に拡大してしまっている。

フォーブスは2018年2月20日にこのような記事を書いている。


『1980年代前半に全体の約7%を占めていたインドの所得上位1%の所得は、2014年には22%に増加。一方で所得下位50%の所得は、全体の約23%から15%に減少した』

インドの首相ナレンドラ・モディ氏は剛腕でインドをまとめているが、経済政策はそれほどうまくいっているわけではない。社会が混乱し、経済発展が頓挫した時には何もかも駄目になる可能性のほうが確率として高いのではないかと思わざるを得ない。

いったん政治が乱れて経済成長がとまれば、その瞬間にインドに投資されていた資金はブラックホールのように闇に飲み込まれてなくなっていく。フォーブスはこのようにまとめている。


『投資家たちは、インドの貧困と拡大する所得格差に細心の注意を払う必要がある。改善されない貧富の差と腐敗、縁故主義は、経済成長と好調な株式市場にとっての最大の脅威だからだ』

インドには極貧層が約6億人いる。格差が目立って社会不安が噴き上がっていくと、貧困層が上・中流階級を打ち倒す日があってもおかしくない。インドでは貧困層に革命を訴えかける煽動者が、それこそキラ星のごとく存在するのだ。

そのようなことを考えると、確かにインドは数字で見ると7.1%の成長を成し遂げているのかもしれないが、まだまだ国として乗り越えなければならない壁はかなり高いのではないかという感触を持っている。

インドの貧困はひどすぎるので、貧困層が経済成長によって底上げされるのを私は望んでいる。そうすれば、インドもアンダーグラウンドを這い回るハイエナにとっても、もっと快適な国になれるはずだ。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=10432

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c15

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
16. 中川隆[-10735] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:38:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1316]

年報酬10億円超の外国人経営者、年収6百万の日本人社員、時給5百円台の外国人労働者
https://biz-journal.jp/2018/12/post_25813.html


2018.12.09 文=山田稔/ジャーナリスト Business Journal

カルロス・ゴーン日産自動車元会長(AP/アフロ)


「カリスマ経営者」ともてはやされた日産自動車元会長、カルロス・ゴーン容疑者の逮捕劇を受けて、外国人経営者の超高額報酬がクローズアップされている。

「プロ経営者」として日本企業に招聘された外国人トップや経営陣の役員報酬は、すさまじく高い。東京商工リサーチの「役員報酬1億円以上開示企業調査」(2018年3月期)や各社の有価証券報告書によると、ソフトバンクグループ(SBG)のロナルド・フィッシャー副会長は20億1500万円。以下、SBGのマルセロ・クラウレ副社長兼COO(最高執行責任者)13億8200万円、ラジーブ・ミスラ副社長12億3400万円。武田薬品工業のクリストフ・ウェバー社長12億1700万円、トヨタ自動車のディディエ・ルロワ副社長10億2600万円と続く。

 過去には、もっとすごいケースもあった。SBG創業者の孫正義会長兼社長が、後継者としてグーグルから招いたニケシュ・アローラ元副社長の16年度の報酬は、驚くなかれ103億円だった。それに引き換え孫氏自身は、ニケシュ氏の100分の1のわずか1億3700万円(18年3月期)。日本一を達成したプロ野球・福岡ソフトバンクホークスの主力選手たちよりも少ない額だ。もっとも、孫氏は同社株を約2億3120万株保有しているので、年間の配当で巨額の収入を得ている。

 役員報酬高額トップ10のうち5人が外国人。ここに、報酬過少記載疑惑のゴーン容疑者(18年3月期の記載額は7億3500万円=この期も十数億円の過少記載の疑いが報じられている)が加わるのだから、日本は外国人経営者の天下である。

 一方、従業員の報酬はどうなっているのか。SBGの有価証券報告書を見ると、連結会社の従業員総数は7万4952人だが、持株会社のSBGはわずか195人。平均年齢40.5歳で平均年間給与1158万1086円となっている。上場企業の平均年収は約620万円(東京商工リサーチ調査)だから、2倍近い。SBGは高収入集団といえよう。それでも10億円超の外国人経営陣の100分の1レベルでしかない。破格の報酬を得ている外国人経営者が在籍する企業の従業員や子会社の従業員たちは、外国人役員の高額報酬をどう思っているのだろうか。

■最低賃金以下で働かされている外国人労働者たち

 世の中、オモテがあればウラもある。巨額報酬で脚光を浴びる外国人経営者がいる一方で、最低賃金を大幅に下回る時給500円台で働いていた外国人労働者の姿が浮かび上がってきている。

 舞台は外国人労働者の受け入れを拡大する入管難民法などの改正案をめぐる国会審議。失踪後に摘発された外国人技能実習生に対する法務省の聴き取り調査の「聴取票」を基に野党側が、月収と1週間の労働時間が記された176人分について時給を試算したところ、全国でもっとも安い鹿児島県の最低賃金761円を上回ったのはわずか33人。東京新聞は、もっとも多かったのが時給500円台の52人で、時給100円台、200円台という、信じられないようなケースもあったと報道している。

 むろん、これは氷山の一角にすぎない。技能実習制度は「国際貢献のため、開発途上国等の外国人を日本で一定期間(最長5年間)に限り受け入れ、OJT(現任訓練)を通じて技能を移転する制度」(法務省のHP)とされ、1993年(平成5年)に創設された。17年末の技能実習生の数は27万4233人で、技能実習2号(2年目・3年目)への移行者は8万6583人だった。技能実習2号移行対象職種は農業、漁業から建設、食品、繊維、機械など77職種139作業に及ぶ。

 技能実習生の受け入れ人数が多い国はベトナム(45.1%)、中国(28.3%)、フィリピン(10.1%)、インドネシア(8.0%)、タイ(3.1%)などとなっている。

「技能移転」は名ばかりで、日本人がやりたがらない単純作業や重労働の現場で酷使されている実習生の実態が、次々と報じられている。なかには建設会社で実習のはずが、いつのまにか除染現場で働かされていたケースもあった。制度を悪用して外国人実習生を「底辺労働力」として斡旋する業者、低賃金で仕事をさせる企業が後を絶たないのが現状だ。

■それでも経済成長の幻影を追いかけ続けるのか

 人口減、少子高齢化が急加速していくなかで、生産年齢人口は確実に減り続けていく。18年1月1日時点の人口動態調査によると、日本の総人口は1億2520万9603人で9年連続の減少。15歳から64歳の生産年齢人口は7484万3915人で全体の59.77%と調査開始以来初めて6割を切った。

 高齢社会白書によると、生産年齢人口は、20年7406万人、25年7170万人、30年6875万人と減り続け、40年には5978万人と6000万人の大台を割り込んでしまう。十数年後には今よりも600万人も減少し、逆に高齢化率は3割を超すという大変な時代が待ち受けている。

 そうした状況にあるにもかかわらず、官邸のHPには「アベノミクス 成長戦略で明るい日本に!」といった文字が躍っている。国会での首相の所信表明演説(10月)では「激動する世界を、そのど真ん中でリードする日本を創り上げる」と、なんとも勇ましい言葉が並んだ。

 その成長戦略に欠かせないのが、巨額報酬の外国人経営陣と、低賃金の外国人労働者ということなのだろうか。しかし、冷静に考えればこんな手法がいつまでも続くわけがない。グローバルな競争に勝つための近道なのかもしれないが、外国人経営者に依存しすぎれば、自前の日本人の後継者が育たない。経営力や経営体質だって本当に強化できるかどうかは、はなはだ疑問だ。

 FA(フリーエージェント)になった有力選手を大金を払って補強し続けたにもかかわらず、低迷が続くプロ野球の人気球団、読売ジャイアンツのようなケースもある。さらに、日産のように権限集中で不正と腐敗が生じ、悪しき土壌が出来上がる。

 外国人労働者の受け入れにしても、受け入れ人数は5年間で最大34万5000人というから、抜本的な生産年齢人口減少対策にはほど遠い。しかも、中国のように経済成長が進む国では、ブローカーに搾取されることを考えると自国で働いたほうが実入りがいいから、日本にやってくる労働者は確実に減っていく。

 日本で働く外国人実習生や労働者の待遇を含めた実態が、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)などを通じて広まっていけば、経済・産業界が思い描くような規模の労働力を確保できなくなるのは自明のことである。

 外国人に依存してまでも「強い国」「経済成長」にこだわるのは、いい加減やめにしてはどうか。20年後、30年後の国と国民生活のあり方を冷静に考え直すチャンスである


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2019年4月11日
中間層が縮小、所得の伸び悩みとコスト上昇で=OECD


[パリ 10日 ロイター] - 経済協力開発機構(OECD)は10日、先進国で中間層が縮小していると指摘した。賃金の上昇ペースが住宅価格や教育費、医療費の上昇に追い付いていないことが背景という。

OECDは中間層をその国の平均所得の75─200%に相当する世帯と定義している。加盟36カ国のほとんどの人が中間層に含まれる。

しかし、OECDのリポートによると、データが入手可能な加盟国における中間層の割合は現在61%と1980年代の64%から緩やかに低下している。

また中間層の割合は世代間でも縮小し、1942─64年に誕生したベビーブーム世代が20代のころに中間層に占めた割合が68%だったのに対し、1983─2002年に生まれたミレニアル世代では60%となった。

OECDは、所得の伸びが抑制されていることが中間層縮小の一因とみている。

一方、中間層の生活の柱となる住宅などの価格はインフレ率を大幅に上回るペースで上昇している。教育、医療にかかるコストも増えている。

OECDは、こうした状況と同時に労働者は職の不安定さにも直面していると指摘。近年、自動化が進んだことで中間層の6人に1人の職が脅かされているとの見解を示した。

また中間層の20%以上は支出が収入を上回り、生活のために債務を抱える状況が増えているという。

OECDのグリア事務局長は、声明で「現在の中間層は、荒波の中のボートのような様相が強まっている。政府は国民の懸念に耳を傾け、中間層の生活水準を向上させる必要がある」と指摘した。



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「誰でもできる仕事」をやっているのだとしたら、それは危険なことなのだ2019.01.10


日本ではバブル崩壊以後に非正規雇用が急拡大し、働いても働いても生活が楽にならずに追い込まれる人が増えてきた。2000年以後、こうした非正規雇用で働く若年層の経済格差が社会問題化した。

その次代の流れの中で何があったのかはこちらに書いた。(ダークネス:1971年〜1974年生まれは、自分たちは過酷な時代に生きる世代だと認識せよ)

非正規雇用の若年層は必死で働いているのだが、低賃金なので生活を支えることができない。こういった人たちのことを「ワーキング・プア」と呼ぶが、これはアメリカから直輸入された言葉だ。

低賃金労働者というのは真っ先に挙げられるのはファーストフードの店員や、ピザの配達員である。あるいは、ウェイターやウェイトレスや皿洗い等の外食産業に関わる人たちもまた低賃金の代表でもある。

それ以外にも日雇いの土木建設業、工場の組み立て工員に見られる単純労働、清掃作業員、レジ係も、どんなに真剣に働いても賃金が低くて生活が豊かになることはない。こういった労働者は失業者とは違うので、「仕事がないよりはマシ」だと言われている。

しかし、病気やリストラや職場の倒産によって、翌日から生活破綻の可能性もある。どんなに必死で働いても、底辺ギリギリの生活しかできない。身体を壊せば、生活も吹き飛ぶ。(鈴木傾城)


ワーキング・プアを量産する社会に

アメリカの貧困層はすでに5000万人を超えている。この5000万人の貧困層が既存の政治家を激しく憎んでドナルド・トランプという異色の大統領を生み出したのだが、トランプ政権になって彼らが豊かになったという話は聞かない。

今も依然として貧困層は下の生活レベルに落ちている。

最初は貧困層であっても、努力や才能で成り上がることを「アメリカン・ドリーム」と言う。

実際のところアメリカン・ドリームをつかめる栄光の人はとても少なくて、多くの人は逆にアメリカン・ナイトメア(アメリカの悪夢)の方に落ちているというのは統計を見ても分かる。

アメリカ自体は別に貧困国になっているわけではないのだが、国内の格差はあまりにも凄まじいものになっていて、景気が回復しようが株価が上がろうが、金融市場とはまったく何の縁のない国民の多くは追い込まれたままである。

景気回復で雇用は増える。しかし、貧困層の就ける仕事の多くが最初に挙げたファーストフードの店員のようなものばかりである。こうした職業では地道に働いても食べていくだけで精一杯の賃金でしかない。

現代の資本主義社会はワーキング・プアを量産する社会になっている。貧困層は貧困から抜け出せないまま人生を終える可能性が高まっている。

アメリカは身分制度などないのだから、努力したらアメリカン・ドリームをつかめるはずだという理想論はいまだにアメリカ人に根付いている。

確かにアメリカン・ドリームをつかめる人は少数であっても存在するから、その理想論は嘘ではない。宝くじは買っても一等が当たらないが、それでもどこかで当たっている人がいるのと同じである。しかし、大多数の人には、それは関係のない話だ。


スキルのいらない、つまらない仕事

日本もアメリカと同様に資本主義社会なのだから、アメリカと同じ状況にある。

資本主義社会の中では、すべての企業が競争に晒される。そのため、競争に打ち勝つには商品やサービスの価格は常に切り下げられる方向にある。

それは、すなわちコストの削減をするということであり、コストの削減のためには人件費の削減をするのが最も効果的なアプローチになる。賃金が常に最小に向かっていく理由はここにある。

企業が利益を出すためには、余計な出費を減らすのだ。すなわち利益の拡大のためには、従業員の賃金を引き下げるのが最も効果的なのである。

では、誰の賃金を引き下げるのか。もちろん、切り捨てても代わりがいくらでもいる人間の賃金を引き下げる。つまり、誰でもできる仕事をしている人の賃金を引き下げていく。

賃金が安いと言って辞めていったとしても、生活に困っている人をまた雇って、その人が潰れたらまた違う人を雇う。

だから、誰にでもできる仕事であるウェイトレス、皿洗い、レジ係、工場の単純労働、清掃員、小売り店の販売店等の仕事はどんどん最低賃金に近づき、場合によっては最低賃金以下の賃金に落ちていく。

そして、働いても働いても生活は楽にならず、黙って自分の手を見つめて「どうなっているのだ」と呆然とする。

職業に貴賎はない。しかし、誰にでもできるワーキング・プアの仕事というのは価値が低く、世間はその仕事を評価していない。つまり、「つまらない仕事」であると思われている。

もちろん、皿洗いにもスキルが要るが、そのスキルは世の中に重要なスキルではなく、言わば「時代遅れのスキル」と世間は見なす。

「スキルがない」「あっても時代遅れ」というのは、資本主義の社会では価値がない。それがゆえに「時代遅れ」を続けていると、どんどん困窮してしまう。


やればやるほど貧困になっていく

国が最低賃金を引き上げてワーキングプアの人々を救おうとしても、企業は機械化・ロボット導入・効率化・途上国の外国人雇用などの方法で対抗するので、最低賃金が引き上げられたらすべてが解決するわけではない。

むしろ、効率化することによって職場が消えることさえもあり得る。

「誰でもできる仕事」を続けていたら、それ以上の発展性はまったくない。どんどん追い込まれて窮地に落ちていく。

非正規雇用の若年層の他にも、高齢者やシングルマザーも追い込まれている。生活保護受給者の大半は彼らで占められているのだ。彼らは仕事が必要だ。しかし、その仕事は「誰でもできる仕事」である可能性が高い。

それは、貧困から抜け出せる足がかりになるだろうか。恐らく、ならない。

「誰でもできる仕事」は、やればやるほど貧困になっていく。なぜなら、「誰でもできる仕事」は価値がないと社会は見ているからだ。そして、価値がないものは叩き売られるのだ。

そんなところで長く時間を潰していれば、どんどん人生を消耗してしまう。それが資本主義の残酷な一面だ。

唯一そこから抜け出す方法があるとすれば、高度なスキルを身につけて、そのスキルを売り込んで生き残るしかない。誰でもできる仕事を一生懸命にするのではなく、スキルを磨く時間を増やして稼げる仕事にシフトする方向に一生懸命になるべきなのである。

しかし、ワーキングプアに陥っている人々は、いくつも仕事を掛け持ちして長時間労働を余儀なくされていることも多い。

スキルを身につけようにも、そうした時間的余裕もなければ精神的余裕もない。そのために、日々の暮らしに汲々としているうちに歳をとってますます這い上がれなくなる。

もし、「誰でもできる仕事」をやっているのだとしたら、それは危険なことなのだ。今はそうではなくてもワーキング・プアに落ちていく要因がそこにある。「誰でもできる仕事」は、やればやるほど貧困になっていく。

もし、そうした仕事についているのであれば、全力でそこから脱却しなければならないのである。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=10861


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多くの人間を貧困に固定化させ、飼い殺しするのが貧困ビジネスの神髄?2019.02.02


大阪のあいりん地区で働く労働者たちは「日雇い」の仕事を探し、手配師や斡旋屋や雇用主から「ピンハネ」されながら暮らしている。

多くの日本人は、それはあいりん地区や山谷のようなどん底の労働者だけで起きていることであり、一般社会には関係ないと思っていた。しかし、資本主義が暴走するにつれて、時代は「日雇い」や「ピンハネ」が横行する社会に変質しつつある。

「いい仕事」に就いている人でも、いったん会社を辞めると、そこから思うように仕事が見付からず、負のスパイラルに落とされるという地獄に堕ちることが多い。

仕事を辞めるのはリスクが高い時代だと言われても、人が仕事を変わらなければならなくなる理由はたくさんある。

たとえば、気付かないで入った「ブラック企業」でずっと勤められる人はいない。間違えて、そういった極悪企業に入ってしまった人たちは、心身共につぶされるので、遅かれ早かれ転職を余儀なくされる。

フリーターやアルバイトで入った仕事も、低賃金の単純作業であり、何年続けても進歩がないから、やがては辞めざるを得ない状況になる可能性がある。(鈴木傾城)


味方に思えた存在が自分の足かせに

あるいは、入ったときは良かったが、業績が悪化して給料やボーナスがカットされて生活できなくなることもある。あるいは、病気になったり、怪我をしたりして仕事が続けられず、退職を余儀なくされることもある。

待遇や、人間関係や、合わない仕事によって、ノイローゼや精神的な問題を引き起こし、会社を辞めないと心が壊れてしまうところまで追い込まれた人もいる。

仕事を辞めたくないと思っても、どうしようもない不可抗力によって、仕事を辞めなければならない状況に追い込まれる人は、決して珍しい存在ではない。

グローバル化が日本を覆い尽くし、終身雇用も年功序列も吹き飛び、リストラが常態化し、企業の寿命が非常に短くなっているのが現在の社会だ。

このような時代では、一度も転職をしたことがない人の方が少数派になっている。

会社から離れると、多くの人は不安に駆られる。それも当然だ。仕事をしなければ収入が入らないが、収入が入らなければ蓄えを取り崩すしかない。

仮に300万円の貯金があったとしても、1年も「充電」していたら、1年後は貯金ゼロになってしまうのだ。堅実な人であればあるほど、会社を辞めたらすぐに次の仕事を探し始める。

適職だと思う仕事がすぐに見つかればいいが、そうでなければ、人材派遣に登録する人も多い。

仕事が見つからなければ貧困に転がり落ちるのだから、何とか仕事を斡旋してくれる人材派遣会社は自分の味方のように感じるかもしれない。

しかし、追い詰められたときに頼った人材派遣が長い目で見れば貧困の入口であったということが多い。

なぜ、そうなってしまうのか。

なぜなら、人材派遣の仕事は「非正規労働」だからである。派遣されたら、人材派遣がその人の賃金から「マージン」や「手数料」を取る。そして、どんなに真面目に働いても状況が変われば相手先企業から切られる。


続けていても明日の見えない絶望

搾取されながら働く。相手の都合で切られる。同じ仕事をしても給料が安い。このような状況下で働き続けて安定した将来設計が描けるはずもない。

実績が認められて昇進するというような、キャリアの積み重ねができない。いつまで経っても使い捨て要員だ。

実際、あちこちに派遣され、何度も使い捨てにされながら、派遣労働者は荒んでいく。辞めればストレートな貧困、続けていても明日の見えない絶望が続く。

しかし、どんなに景気が回復しても、利益を出すことを株主に強制されている企業は、永遠のコストになる正社員を雇うようなリスクは冒さない。これからは、さらに非正規雇用を増やしていくことが確実視される。

そのため、人材派遣業は必要不可欠な業種になった。いつしか日本は、人材派遣を直接的・間接的に扱う企業が東証第一部だけでも20社近くも存在する国になっている。

そして、これらの企業が、非正規雇用者の賃金を吸い上げながら、空前の利益を上げるようになっている。

これに飽き足らず、次から次へと人材派遣関連の企業が上場を果たしている。今でも新興市場では30社近くがひしめいているが、さらに増えていくとも予測されている。なぜか。もちろん、儲かるからである。

これほど中間搾取で生きている企業が増えているというのは、ある意味、社会の底辺では労働者が搾取されるのが当たり前になっているということだ。

人に働かせて、自分たちはそこからマージンや手数料を取って稼ぐ。そんな企業が増えているのだから、底辺の見えないところで、搾取社会が急激に進んでいることが窺える。

この姿は、どこかで見た光景ではないか。そうなのだ。あいりん地区や山谷で起きていた労働者搾取とまるっきり同じものだったのだ。


貧困ビジネスの神髄とは何か?

働いても働いても豊かになれないというのはなぜか。昇進もなく、福利厚生もなく、交通費支給もなく、最初から低賃金で、人材派遣会社に賃金をピンハネ(中間搾取)され、要らなくなったら捨てられるからだ。

そこで働いていると、どんなに必死で働いても浮かび上がれない仕組みができあがっている。人材派遣は、もともとドヤ街の「日雇い派遣」の「口きき」と同じことをシステマチックにやっているような業種なので、貧困ビジネスの一種なのである。

ここでよく考えてみてほしい。

貧困ビジネスというのは、労働者が働いて豊かになってしまったら寄生する対象がいなくなる。だから、彼らを無意識に労働者を貧困のまま固定化させる。

労働者が、向上心があり、能力があり、有能であったら、貧困から抜け出してしまうが、そんな人間も仕事を与えないで放置しておけば腐っていく。ブラック企業に送り込めば、心身が壊れる。

そうやって多くの人間を貧困に固定化させ、飼い殺しするのが貧困ビジネスの神髄なのである。いつまでもピンハネできるように永遠に貧困に固定化させる。

日本の社会の底辺で、こうした貧困ビジネスがじわじわと人々を取り込んでおり、ワーキングプアから抜け出せない社会を作り上げている。実は、こうした「口利き」と「ピンハネ」が横行する社会は、途上国では一般的な光景である。

先進国の底辺が、どんどん途上国の光景に似てきているが、それはこうした貧困ビジネスが拡大していることからも読み取れる。

いつしか日本は、落ちたら抜け出せない社会が広がった。日本社会がもっと一段上の経済成長をしない限り、この社会の暗部はこれからもずっと続いていく。そして、貧困ビジネスは自分たちの利益が膨らむように、多くの人間を貧困に固定化させ、飼い殺しするのだ。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=11175


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2019年03月19日
アメリカ人のお金事情 収入の半分は家賃、残りも保険や医療費に消える


アメリカの救急車は有料と無料があり、有料が来るとキロ1万円は取られる


画像引用:https://www.performancemagazine.org/wp-content/uploads/EMS-USA-Ambulance.jpg

アメリカ人のお金事情

アメリカは2009年から10年間も好景気が続いているが、国民全員がお金もちではありません。

むしろアメリカでは超富裕層に対して資産ゼロ、預金もゼロというゼロゼロ世帯が増加しています。

経済紙フォーブスによるとアメリカ世帯の34%が貯蓄ゼロ、69%が1000ドル未満でした。


預金は銀行などの現金資産だけですが貯蓄には株や土地などを含むので、これがゼロの人はまったくお金が無いことになります。

ING調査では欧州でも約30%が貯蓄ゼロ、日本も金融広報中央委員会の調査で30.9%が金融資産ゼロなのでアメリカだけが酷い訳ではなかった。

ただ日本の調査では「普通預金」「現金や貴金属」「事業資産」を除くので、本当の貯蓄ゼロ世帯は20%以下の可能性が高いでしょう。


アメリカでは仕事をしている人の約21%が全く貯金がなく、もちろん仕事をしていない人も貯金がない。

どうしてこれほどお金が無いかの分析では、ローンの支払い、医療費や保険料、住居費の高騰が挙げられている。

アメリカでは全国平均すると年収の4倍で住居が買えるが、NYやLAなど主要都市では10倍を超えている。


日本の東京都心のタワーマンションがやっと10倍くらいなので、米大都市はそれより遥かに高い。

これほど住居費が高騰すると収入の半分が家賃に消えるようになり、NYでは年収700万の人が家賃に年350万も払う。

NYの平均家賃はなんと33万円でサンフランシスコは37万円、人気の主要都市はどこもこんな感じです。


住居費、医療費、ローン支払い

住居費の次に高いのは医療費と保険費で、この2つはセットになっています。

アメリカの医療費の高さは知られていて、入院すると1泊100万円から500万円も取られるので、大手術でも入院しない人が居ます。

アメリカでは破産原因トップが医療費、しかも大半は医療保険に加入していたのに医療費で破産しています。


ちなみにアメリカは救急車や救急ヘリの類も有料で1キロ1万円ほどなので、ヘリで100キロ搬送されると1万ドルは請求されます。

なので救急車が来ても有料か無料か尋ね、有料なら「乗車拒否」する人も居ます。

次に高いのは学生ローンで、アメリカの有名大学を卒業するには授業料だけで2000万円もかかります。


アメリカでは自動車がないと就職もできないので自動車や駐車場にもお金がかかり、子供が生まれたら養育費もかかります。

アメリカ人の収入の半分は家賃に消え、残りの半分も保険や車などに消えていきます。

わずかな貯蓄も1回入院しただけで数百万円請求されるから、お金がない人が多いのです。
http://www.thutmosev.com/archives/79323973.html



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書評 『エスタブリッシュメント』 
オーウェン・ジョーンズ著、海と月社発行
(B6判・439ページ、定価2600円+税)
長周新聞 2019年3月21日
 
 イギリスのEU離脱をめぐり、日本のメディアは「合意なき離脱か」「離脱延期か」というだけで、いったい何と何が対立しているのか今ひとつわかりにくい。この本は1984年生まれのイギリスのコラムニストが、エスタブリッシュメントと呼ばれる人たちへの取材をもとに、新自由主義導入から30年あまりたってイギリス社会はどのように変貌したのか、英国人の意識はどう変わっているのかを描いたものだ。そこからEU離脱の背景も探ることができる。
 
 エスタブリッシュメントとは誰か? マルクス、エンゲルスが活動した19世紀のエスタブリッシュメント(一握りの特権階級)は、もし労働者階級に普通選挙権を与えたら富の平等な分配を要求するに違いないとおびえた。現代のエスタブリッシュメントは、世界を危機に陥らせながら最大のボーナスを要求する金融資本家やその代理人である政治家、特権階級の犯罪から庶民の目をそらすマスメディアなど、新自由主義を信奉する特権階級のネットワークのことで、同じように有権者を排除して自分たちの富と権力を守ろうとしている。それは保守党のサッチャー時代に生まれ、労働党ブレア時代に完成した、と著者は見ている。
 
 その先兵となったのは、新自由主義学派の祖であるフリードマンやハイエクの弟子たちだった。戦後、英国政府は社会主義国との対抗上、電力や鉄道の国有化や社会保障制度の整備を進めたが、彼らは金ドル交換停止を決めたニクソン・ショック(1971年)を奇貨として、民営化、規制緩和、富裕層の減税をメディアで拡散し始めた。もう一つの先兵が、無党派の草の根運動の姿をまとった「納税者同盟」などの民間団体で、政府の税金の無駄遣いを告発し、公共部門の支出の削減運動をやり始めた(削減した大部分が私企業に移された)。
 
 こうした団体には銀行や保険会社をはじめ大企業が資金を提供しており、そのメンバーが政治家になり内閣の一員になったりしている。著者によれば、右も左も財界とべったりになり、政界と財界のエリートは混合が進みすぎて区別がつかないほどになったという。
 
 その典型が、2001年に総選挙で「歴史的勝利」を収めたといわれるトニー・ブレアの労働党だった。ブレアは「富裕層への増税はしない」と誓い、法人税を減らし続け、反労働組合法を継続し、サッチャーを上回る規模で公共サービスの民営化を推進した。またアメリカのイラク戦争に参戦した。それはサッチャーをして「私たちの最大の功績はブレアを新自由主義者にしたことだ」といわしめたほどだった。
 
 その流れに乗って労働党の政治家たちが、多国籍企業の特別顧問になったり大企業の取締役に収まったりして荒稼ぎしまくったことを、本書は逐一暴露している。元共産青年同盟でブレアの政策の主要な推進者となったピーター・マンデルソンもその一人で、投資顧問企業の会長になったり、インドネシアの熱帯雨林の破壊で非難されたアジア・パルプ&ペーパー社のコンサルティングで大金を得、「大金持ちになる」夢を達成した。米ソ冷戦構造の崩壊で元からの性根が暴露されたわけだ。そして英国民は既成政党を見限った。
 

■ 富裕層千人が78兆円所有 大企業は納税拒否
 
 その結果、イギリスはどうなったか?
 
 最富裕層の1000人が5200億ポンド(約78兆円)の富を所有する一方で、何十万人の人がフードバンクで食べ物をもらう列に並んでいる。
 
 イギリスの大企業の5分の1がビッグ・フォー(四大会計事務所)の手ほどきで法人税を一切払っておらず、納税額が1000万ポンド(約15億円)を下回る企業が半数をこえている。大企業は国家に寄生しながら、租税回避地を使って納税を拒否している。
 
 一方労働者は、ゼロ時間契約(雇用主の必要があるときにだけ働く契約)を結んでいる者が550万人にのぼるなど、非正規化が進んでいる。自営業の英国人の収入は2006年以降、2割減り、リーマン・ショックの後で自営業になった10人中9人近くは週に30時間未満しか働いていない。
 
 たとえばブレアは2005年、障害者給付金の申請者を減らすのを目的にフランス企業アトスと契約を結んだ。給付を希望する者は、アトスに申し込んで就労能力審査を受けねばならないが、その審査というのがデタラメきわまりない。
 
 脳卒中で体が不自由な元警備員(57歳)が審査を受けたが、就労可能と判定されて給付金を止める通知がきて、その翌日に路上で心臓発作を起こして他界したという。そればかりか提出書類をそもそも受け付けてもらえない申請者が多く、アトスの医師による報告書の改ざんも見つかっており、審査した4割以上が否決となっている。
 
 こうした福祉削減のための委託金として、英国政府は年間40億ポンド(約6000億円)もの税金を民間企業に注ぎ込んでいる。英国メディアは生活保護受給者や障害者、移民などを「たかり屋」といってバッシングしているが、本当のたかり屋は彼ら民間企業にほかならない。
 
 そして、最大のたかり屋はリーマン・ショックのときの銀行だ。英国政府による銀行支援は、1兆1620億ポンド(約174兆3000億円)にものぼった。貧困者100万人が借金を返済できなくなっても政府による救済はないどころか、執行人が家財を差し押さえるため玄関口にあらわれる。ところが世界経済を大災害に巻き込んだ銀行には、国の「福祉」が救出にあらわれる。
 

■ 「右傾化」嘆く左翼の外側で新たな運動の息吹
 
 以上のような新自由主義・グローバリズムにNOを突きつけたのが、2016年のEU離脱国民投票だった。日本のメディアがいうような排外主義だけがそれをもたらしたのではない。右派ポピュリスト政党と報道されるUKIP(イギリス独立党)でさえ、七割以上の支持者は緊縮政策に反対し、電力や国鉄の国有化を求めていると著者はのべている。
 
 注目すべきは、既存の左翼がひたすら年長世代の右傾化と排外主義を嘆き、文句をいうだけなのに対して、著者が、それより先に自分たちが労働者階級の生活や共同体から遊離していることを直視すべきだ、とのべていることだ。左翼がアカデミック志向の人向けの仰仰しい学術書や、衰退していく左翼コミュニティーだけに読まれる本を出しているかぎり、自滅するしかないというのである。変化は、政治の外側にいる普通の人人が、集団の力を使って権力を圧倒することによって起こるものであり、それによってエスタブリッシュメントが私物化している富と権力を民衆の側に取り戻すのだ、と。
 
 新自由主義が破綻するなかで、欧米で巻き起こっている新しい運動の息吹を感じさせる一冊である。  
https://www.chosyu-journal.jp/review/11231  




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c16

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
17. 中川隆[-10734] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:43:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1317]

エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する – 2018/12/6
オーウェン・ジョーンズ (著), Owen Jones (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88-%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%A6%E5%AF%8C%E3%81%A8%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E3%82%92%E7%8B%AC%E5%8D%A0%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4903212637


内容紹介

『チャヴ 弱者を敵視する社会』著者オーウェン・ジョーンズ待望の第二弾!

イギリスでは30万部超、
各国で翻訳刊行され熱狂的支持を集める世界的ベストセラー

国に「たかって」いるのは、本当は、誰か?

新自由主義・緊縮財政のもと、国民を騙し、困窮させ、分断し
その一方で、臆面もなく自らの栄華を誇る人々のリアルな姿

イギリスと同じ不正義は、いま日本でも起きている

【本書への賛辞】

これはイギリスの現実の政治に関して、わが生涯でもっとも重要な本であり、
世の人々が読むべき唯一の本だ。読めばあなたも目が開かれ、怒りを覚えるはずだ。
──アービン・ウェルシュ(『トレインスポッティング』著者)

信念に貫かれ、元気をくれる本書を読んで以来、イギリスの政治を二度と同じ目で見られなくなった。
──ナオミ・クライン(『ショック・ドクトリン』著者)

政治家が人気スターになりたがり、人気スターが政治家になりたがる時代に、
本物の政治ジャーナリストがこれほどの人気を博すのは新鮮だ。
ジョーンズの分析に同意しようがしまいが、その声の正直さには魅了されずにいられないだろう。
──シャミ・チャクラバーテ( 「英国で最も影響力のある女性」に選出された人権活動家)

気分が悪くなるほど徹底的に腐敗した国イギリスの詳細な分析。
ジョーンズはすぐれた書き手で、これは本当に必要とされる本だ。
──フィリップ・プルマン(児童文学者『ライラの冒険』著者)

ごく少数の人間が都合よく物事をゆがめ、残りの多数を排除しているという本書を読んだあなたはもう、
ウェストミンスターの礎石を見ても、BBCのロビーのラテン語を見ても、
「この裏には真実が隠されている」というささやきが聞こえてきそうに思うのだ。
──マシュー・パリス(政治コラムニスト)

正義感と思いやりにあふれたこの著者は、無責任に権力をふるう人々の偽善を暴くのがじつにうまい。
──デイビッド・ランシマン(ケンブリッジ大学・政治学者)

ジョーンズは、われわれの世代のジョージ・オーウェルだ。
──ラッセル・ブランド(俳優・コメディアン)

著者について

オーウェン・ジョーンズ Owen Jones

イギリスのシェフィールド生まれ。オックスフォード大学卒(歴史学専攻)。
20代で上梓した初の著書『チャヴ』(小社刊)が世界的ベストセラーとなり、各国の政治運動に影響を与える。
その3年後に本書を刊行。前作をしのぐ「支配層に対する鋭い追及」が拍手喝采で迎えられ、
アメリカ、スペイン、フランスなど欧米各国のほか、中国・韓国でも翻訳出版される。
現在は、新聞・雑誌のコラムニスト、TV・ラジオのコメンテーターとして活躍。
いまや左派の重要な論客である。またLGBTQ問題にも関心が高く、国内外の幅広い運動に精力的に参加している。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c17

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
1. 中川隆[-10733] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:56:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1318]

日本の「ものづくり」は心配しなくても中国には絶対負けない

振り返って考えて欲しいことがある。

まず、マスコミは手を変え品を変え、日本人に「ものづくりからの脱却」を進め、もう日本人の物づくりはダメになったと10年以上も言い続けて来た。そうやって、日本人から「ものづくり=製造業」を奪おうとしてきた。

それと平行して、日本企業に中国・韓国に執拗に工場移転や技術指導をするように薦めていた。反日企業である中国・韓国に進出するデメリットはまったく説明することなく、ただ進出しないと時代遅れだという風潮を作っていった。

また、マスコミは意図的に日本企業を貶め、日本企業の人気がなくなるように誘導し続けてきた。

同時に、日本に進出しようとするサムスンのような企業を華々しく特集し、「サムスンに学べ」と上から目線で日本企業を嘲笑し、日本は敵わないような雰囲気作りをしていった。

マスコミはもう日本人の味方でも、日本の国益に沿った機関でもない。朝日新聞も、NHKも、いくつかの経済雑誌も、ことあるごとに中国・韓国を推し、日本の「ものづくり」をけなし続ける。


中国では物の価値よりも、価格が重視される

しかし、マスコミが何をやっても無駄だ。最終的に、日本の製造業は絶対に中国・韓国に負けることはない。これだけは、間違いなく言える。心配しなくても日本は最後に勝つ。

日本は技術を中国・韓国に移転せず、企業情報を盗まれないように徹底防衛し、日本人でものづくりに邁進していれば、必ず中国・韓国に勝てる。

日本企業が弱いのは、技術の防衛である。技術力ではない。

今後、中国企業の作った中国製品が世界を席巻すると言われているが、中国の製造業は遅かれ早かれ自滅する。なぜ、そんなことが断言できるのか。

中国は外国資本を国内に呼び寄せて、その技術を丸パクリすることによって成長を続けてきた国だ。

しかし、丸パクリしても、まったく同じ物にならない。必ず「劣化コピー」になってしまう。

その理由は簡単だ。中国では物の価値よりも価格が重視されるので、安ければ安いほど売れるからだ。

もちろん中国でもブランド品は売れる。しかし、ブランド品そっくりのニセモノがあって、そちらの価格がオリジナルの10分の1であれば、ニセモノの方が価値があると考える。

安く買えるのが、中国人にとっての価値なのである。

だから、外資を呼び寄せて何らかの製品や技術を手に入れて丸パクリしても、結局「安売り」の発想が優先されて、劣化コピーになっていく。


丸パクリしたものを安売りして「売り捨て」

これは製品だけにとどまらず、すべてに当てはまる。

たとえば、中国に何らかの料理店が進出したとする。ブランドもあり、味もしっかりしており、中国でもそれが評判になったとする。

そうすると、すぐに10店も20店も、同じタイプの店が林立する。ただ丸パクリして人気にあやかり、波に乗ろうとするのである。

しかし、丸パクリするのは自分だけではなく他人も同じなので、丸パクリ同士で競争が発生する。そうすると、必ずどこかで価格競争になる。つまり、安売り合戦になる。

そうすると、素材を安物に替えてコストを浮かしたり、素材の数を減らしたり、必要な工程を省いたりしていく。ここから本来のものからどんどん外れ、劣化していくのだ。

先進国では、「製品価値をより向上させて競争力を高める」という発想を持つ。

しかし、中国では逆だ。消費者に捨てられるまで劣化させて提供し、どうにもならなかったらそれを捨てる。

そして、また何か丸パクリできるものがないか探して、同じことを繰り返すのである。

中国にブランドがなかなか生まれないのは、中国人の発想が、製品価値を向上させてブランドを築くという発想よりも、ブランドを丸パクリしたものを安売りして「売り捨て」にする発想があるからなのである。

そんなことをしていると、技術の蓄積も、経験の蓄積も、信頼の蓄積も、まったく何もできない。

しかし、中国では信頼よりも金儲けの方が重要なので、粗悪品を売って金が儲かったら、あとはどうでもいい。売れなくなったら、また売れている他のものを丸パクリすればいいと考えているので、信頼などいらないのである。


中国の丸パクリは、先進国とはまったく違う

欧米でも、何らかの商品を丸パクリすることによって生きている会社はたくさんある。マイクロソフトも、グーグルも、アップルを真似して成長している会社であることは有名だ。

しかし、彼らは常に品質を向上させ、やがてオリジナルから別物に進化しようとしている。

丸パクリをすること自体は非常に嫌われるのだが、それを元にして別物になっていけば、やがては新しいチャンスも生まれる可能性は常にある。

「発想は借り物だが、そこから時間を掛けて、新しい独自の物に仕立て上げる」

丸パクリが許されるとすると、そのような動きがあるときだけだと言える。日本企業も、多くはそのような形で独自進化を遂げてきている。

しかし、中国の丸パクリは、まったく違う。丸パクリした上に劣化させ、どんどん粗製濫造にしてしまう。中国の丸パクリは使い捨てであって、根底にあるビジネス観が先進国のものとはまったく違う。

中国が自壊していくことが運命付けられているのは、丸パクリが劣化コピーとなって、品質がどんどん落ち、粗悪品の大量生産になっていくからだ。

目先のカネに目がくらんで、面倒な品質管理や信頼性構築がまったくできない。

とにかく、すぐに儲かりたい。自分が利益を独占したい。粗悪品で消費者が困惑しようが、死のうが、そんなことはどうでもよくて、ただ自分が儲かればいい。

カネが儲かって、何らかのトラブルが起きれば、さっさと逃げて行方をくらませばいい。

そのような利己的で強烈な拝金主義が蔓延しているからこそ、中国は自滅を運命付けられていると断言できる。


日本の製造業は、こんな馬鹿げた国に負けない

「日本も昔は欧米の丸パクリで生きていて、やがて高品質な製品を作れるようになった。だから、中国もまたそのような道を歩むはずだ……」

それが、今までの日本人の基本的な認識だった。

しかし、最近は「どうも違う」と考える人が世界中で増えている。中国はいつまで経っても「粗悪品生産国家」ではないかと、世界中が思うようになってきた。

つまり、中国は拝金主義であるがゆえに、自滅していくのではないかと世界は気づきつつある。

その認識は間違っていない。

中国に利己主義と拝金主義が蔓延している限り、自滅は避けられない。

中国の大気汚染も、極度の腐敗も、粗悪品の大量生産も、すべて根っこは同じだ。利己主義と拝金主義だ。それが中国大陸を汚染してしまっているのである。

今や中国は、自らが住む大気や、大地や、食品までも粗悪品にしてしまい、環境破壊で誰も住めない地獄のような場所になりつつある。

客観的に考えれば考えるほど、日本の製造業がこんな馬鹿げた国に負けるはずがないというのが分かる。

中国がやっているのは、「悪貨は良貨を駆逐する」そのものだ。真似できるものを探し、盗み、丸パクリし、安売りし、粗悪品をばらまいて「勝った」と言っているだけだ。

しかし、粗悪品はいずれ捨てられ、本物が最後に残る。本物と品質にこだわる日本企業は、必ず最後に残っていく。マスコミを鵜呑みにして駆逐されなければの話だが……。


日本のものづくりが中国に負けるなど、絶対にあり得ない。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/12/20171216T1645300900.html
 

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c1

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
2. 中川隆[-10732] koaQ7Jey 2019年4月17日 07:59:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1319]

平和と平等の限りない追求は日本独自のもの


世界人口の人口の62.5%は、「平和が第一」とはまったく思っていない


最近、また気になったことがある。「平和」に関する日本人の認識だ。次の元号が「令和」に決まって、日本人は「平和への祈りが込められている」と世界に誇っているのが、とても無邪気で無防備に感じた。

平成の「平」は平和の「平」だ。令和の「和」は平和の「和」だ。いずれも日本人に平和思想が強く根付いているというのが分かる。平和であることは良いことだと日本人は思う。そして、平和を願うことは当たり前だと日本人は信じて疑わない。

もうひとつ日本人が疑いもしない言葉に「平等」というものがある。平和と平等は美しい概念であり、世界中の人たちがこの概念を一緒に追求していると日本人は信じているかも知れない。

しかし、現実はそうではない。平和と平等の限りない追求は日本独自のものであって、世界は必ずしも「平和と平等」を第一に追求しているとは限らない。受け入れられない可能性もある。

「受け入れられない」と言うと多くの日本人は仰天するはずだ。「平和であることや、経済を優先することや、平等であることがなぜ受け入れられないのか分からない」と思うはずだ。(鈴木傾城)

平和よりも、もっと大切なものがある?

なぜ受け入れられないのか。それは、世界は「そんなもの」よりも、もっと大切なものがあると考える国も多いからだ。平和や平等や経済よりも、大切なものなどあるのか。もちろん、ある。

平和よりも大切なもの。イスラム教徒に聞けば、それは「神であり宗教である」と答えるだろう。その点に関しては絶対に妥協はない。

イスラムを侵す者があれば平和より闘争が優先されるのだ。宗教が優先される。そして、コーランは人間が平等など一言も書いていない。平和よりも、平等よりも、イスラムが大事であり、重要であり、神聖なのだ。

イスラム教徒の人口は全世界で約15億人。すなわち、日本の12.5倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としないということだ。すなわち、「価値観が違う」のである。

ところで、人口10億人を抱えるインドではヒンドゥー教が主流となっており、ここにシーク教やイスラム教やジャイナ教が絡んでインドが構成されている(仏教はインドでは少数)。

これらの宗教もまた「平和よりも大切なものは、神であり宗教である」と考えている。インドに根付くカースト制度を見ても分かる通り、人間が平等だとも考えていない。要するに、ここでも日本人の価値観とは違う価値観がある。

日本の人口の約8.3倍の人口が、日本人の持つ価値観とはまったく違う価値観を信じているということだ。

キリスト教はどうか。キリスト教は平和主義だろうか。

キリスト教が平和主義だったら、中南米は侵略されなかったし、アジア・アフリカは植民地にされなかったし、日本は核爆弾を2発も落とされたりしなかったはずだ。

彼らはキリスト教を信じない異教徒は虐殺しても奴隷化しても構わないという特異な特権意識を心の奥底に持ち続けて歴史を育んできた。それが過去の話であればいいが、今もまたそういった意識を心の中で持ち続けている可能性がある。

キリスト教徒の人口は世界で約20億人。すなわち日本の約16.7倍の人口が、平和を優先しないし平等であることも是としない。


62.5%は日本人の価値観を理解できない

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の3大宗教だけで、約45億人。世界人口が約72億人だとすると、それだけで人口の62.5%を占めている。この62.5%は日本人の平和への無邪気な盲信から一線を引いている人口であると言える。

残りの37.5%も、平和や平等が正しいと思っているかどうか分からない。

むしろ、我々の神を信じない異民族は滅びろとか、イデオロギーが正義だとか、戦争で他民族で打ち負かすことが正義であるとか、他から奪うのが正義だとか、自分の一族だけが栄えるのが正義だとか、そのように思っている可能性が高い。

神よりも平和を優先したいと思う民族は、世界ではまったくの「少数派」である。日本が異質だと言われるのは、そこから来ている。日本人が思っている世界と、現実が乖離しているのだ。

そして「平和や経済や平等」を世界に押しつけるのは、世界にとっては「冒涜」だと思われる可能性が高い。なぜか。「信仰や神よりも平和や経済を優先せよ」というのは、神が侮辱されても信仰が侵されても戦うなということだからだ。

また、「人類はみんな平等だと思え」というのは、自分の神を信じていない人間も自分と同じレベルであると認めることになる。神を熱烈に信じる自分と、神を信じない「未開人」が平等であるとは彼らは本音では認めないだろう。

ユダヤ教もキリスト・イスラムと同じ神を信じているが、このユダヤ人は神を信じない人間を「家畜」だと考える風潮もあった。「ゴイム」と彼らは異教徒を呼んでいたはずだ。日本以外の多くの国では、それほど神は重要な存在である。神以上に重要なものはない。

平和は決して第一優先ではない

「平和や平等」は、実に建前的なものだ。それが唱えられた時は、誰も意固地になって反対しない。

しかし本音の部分を言うと、平和や平等は信仰やイデオロギーが優先される社会にとって害悪であり社会を崩壊させるものである。

もちろん世界の多くの個人は、ほとんどが平和な社会が平等な社会を望んでいるのは間違いない。略奪と暴力が横行する社会では強者と強運者しか生きられない。ある程度の平和がなければ人生は過酷なものになる。

しかし、自分のアイデンティティを構築している宗教や共同体が侵されるとなると話は違ってくる。平和よりも前に、宗教や共同体が優先される。

これらが維持された中で、次に平和が来るのであって、平和が最優先ではない。

ちなみに、日本以外の国々で言われている「平等」というのは、日本人が言う平等とは程遠い。同じ言葉なのだが、概念が違っている。世界の人々が言う「平等」とは、「機会が平等であること」を意味している。

全員が同じ収入や、全員が同じ生活水準であることを世界の人々はまったく望んでいない。

「スタートは平等であるべきだが、結果は平等であるべきではない」というのが欧米先進国の考える平等なのである。だから、欧米では「一億総中流」のような考え方はない。ひとりひとり個人の能力も嗜好も目指す目的も生き方も時代も何もかもが違う。

だから、結果は違って当然で、結果を同じにする平等とはむしろ個人の自由を奪うものであると考える。「機会の平等」であって「結果の平等」はまったく違うものである。

現代の日本的倫理観は、あくまでも現代の日本人が考えるものだ。これが異質だと気がついていないのは、当の日本人だけかもしれない。

日本人はあまりにも無邪気に「平和や平等」を口にするが、それが日本人の「見識のなさ」であれば悲しいことだ。

自分の信じている宗教を侵されたら平和よりも闘争が優先される。自分たちの共同体が侵されたら平和よりも闘争が優先される。

この感覚が分からなければ、自分の国が侵される時のことを思い浮かべばいい。国というのは巨大な共同体である。この「共同体=国」が侵略されたら、平和主義者であっても侵略者と戦って当然だ。侵略されても戦わないというのは、おかしいと思わないだろうか?

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。

そういった意味で、すべての日本人が狂信的に「平和」という理想を疑わなくなっている時流を憂う。これが理解できないのであれば、日本という国は100年後は消えている。(written by 鈴木傾城)

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。
https://blackasia.net/?p=12503

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c2

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
3. 中川隆[-10731] koaQ7Jey 2019年4月17日 08:37:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1320]

日本人は些細な不正でも絶対に許さないルサンチマン人間


2019.04.16
小室母子・秋篠宮家に対する「国民の怒り」は壮絶である 皇室アンケート集計
https://rondan.net/20333


Contents

1 皇室アンケートの重要さ
2 総額43億円の“新”秋篠宮邸に納得できますか?
3 満足するだけの「手切れ金」があれば、小室圭さんは眞子さまを捨てると思いますか?
4 小室圭さんは、どうやってお金を返すべき?
5 小室親子と元婚約者、誰の品性が問題?


皇室アンケートの重要さ

皇室は「国民に寄り添う」ことを理念としてきました。ところが菊タブーなどもあり、必ずしも国民の声は皇室まで届きにくいという一面もあります。

先に行われた新潮社デモからも明らかなように、皇室の在り方に苦言を呈すると、言葉の暴力を持って攻撃されることも多々あります。皇室問題をめぐっては、このようなネット上のほうがホンネを呟きやすいのかもしれません。

当ブログでは、皇室記事を執筆した際、多く場合、それに関連するアンケートを実施してきました。しかも回答を追加可能な状態にして、自由な意見を述べられるように工夫しました。

今回は初期の頃に実施したアンケートを集計し、小室圭さんと秋篠宮家がどれほど国民感情を逆撫でてしまっているのかをまとめたいと思います。

今回はその第一弾です。

総額43億円の“新”秋篠宮邸に納得できますか?

これは秋篠宮家が新たに43億円(!)もの豪邸を建てることに対する国民の声。新天皇の「大嘗祭は簡素にすべき」という主張が国民感情を逆撫でました。


関連記事
秋篠宮殿下、10億円「仮住まい」、33億円「大豪邸」に批判の声 「大嘗祭を質素に」とのダブスタ 2019年2月19日
https://rondan.net/16228

総額43億円の“新”秋篠宮邸に納得できますか?

出来ない。勿論、一般より高額にならざるを得ないことは理解出来る。しかし、どうしてここまで高額になるのかが分からない。

大嘗祭には然るべき予算が掛かっても納得できるしするべきだと思うが秋篠宮邸こそ必要がないと思う。

秋篠宮は、皇族とは、思えない人達ばかりで、、品性がなさすぎて、恥ずかしくないのかな、だから、真子様が、あのような人間に、好意をもたれても、仕方ないかなと、思います!

なんで皇室関係にはこんなにお金かけるのか、税金使う事他にもあるでしょ!もっと弱者を救う日本で在りたい!

納得出来ない!

秋篠宮家のみならず、今上美智子のお金の使い方に疑問だらけで不愉快。自分たちさえよければ国民のことなど考えも及ばないのだろう。国民は平成四人組のお財布ではない。使途をはっきりさせるべき。立皇嗣も納得出来ない。こんな茶番はいつまで続くのか?

出来ません!増築・改築の必要性は納得しますが、金額が莫大すぎる!

それ庶民の血税ですが、貧困高齢弱者が大勢いるのに人の気持ちがまったくわかってない人だった。

できない!仮住まいに10億なんて!

納得できません。子供を勝手に国立小に入学させ定員枠を削り、優秀な生徒の進学機会を無くしても平気な人間に何を言っても無駄でしょうが。秋篠宮一家にだけは税金を使わせたくない。国民の総意で排除したい。


皇室は日本にとってとても、とても大切な存在。が、お金の使い方に関してはアンタッチャブルとはいかないのでは?私はお二人のお嬢様方が学習院大学からICUに移られた時から、おや?と違和感を覚えました。大きな進路変更ならともかく。。そしてこのお住まいの件。万民の理解を得るには少々無理があるかもしれません。

皇室を無くして欲しい。何故、あの人たちは必要なのか?

できない 高すぎる!皇族は何様のつもりだった!!

できない。一家で皇籍離脱してもらいたい。

少ない給料から強制的に税金引かれて、その使い道がこれとかないわっ!

出来ない。ご自分の身の丈を勘違いされてるのでは?まさか、身の丈って身長とか思ってないよね。

仮住まいでも十分暮らせるのでは?

できません。質素にと言う割には言葉と行動が違いすぎです。国民の税金をなんだと思っているのか。

国民に受けいられるように、税金を大事に使って頂きたい

本当に頭にくる話ですね。国民が税金で苦しんでいるのに…働く事が馬鹿らしくなりますよ。秋篠宮家は要らないです。

皇族に一般常識は当てはまらないと言いますが‥その一般の人間が汗水垂らした血税で建てるんですよね? 今の日本に、今の時代の我々に、そんな大金を皇族に使わせる価値は無いと考えてる方が大半だと思う。少なくともこの大金を使うのを良しとしたら皇族関係者は今野日本には必要ないです。

納得できるはずがない! 仮住まいが10億って!!その仮住まいは新居に引っ越したらどうするんでしょう…

狡猾であまりにも低レベルな秋篠宮夫婦にどこまで我々の血税を使わせ虚しい贅沢を許すのだろう?揃って劣悪なこの夫婦の遺伝子を継いだ劣悪な息子が将来我々の天皇?我々の象徴?これまでのように印象操作やウソでは隠し切れない日本の大恥。忌々しき大惨事が現実となる前に、今のうちに何とかしないといけないのでは??


皇族は誇りに思うけど、いくらなんでも、さすがに無いと思います。昭和天皇のお考え方が好きで皇族を尊敬してましたが、この件はそのお考え方とかけ離れ過ぎている。皇族にたいする国民の敬意が無くなっていくと思う

できない!血税をなんだと思っているのか。贅沢すぎ。

現在の一般庶民の暮らし、金銭感覚からは随分とかけ離れているように思います。大嘗祭の事に言及された時の秋篠宮様には共感できるものがありましたが、今回は如何なものか?と感じました。

許せない暴挙。天皇皇后が積み重ねて来た皇室のありかたを全て秋篠宮一家がぶちこわす。政府はなぜこんなデタラメを認めているのか。皇族はもう要らない。

納得できない!ナマズは兄宮のやる事にケチをつけ自分の立場を考えてものを言え‼

できません。どのように、税金使って、何故ここまで高額なのか、何故日本家屋風ではなく要塞風なのか納得できるように説明してもらいたい。

秋篠宮家は皇籍離脱せよ。国民が知らないうちに皇太子しか召すことができない色の装束を作っている。もう、明仁天皇と共に文仁紀子一家は皇室に残るな。皇太子一家と三笠宮一族のみが残れればいい。皇室自体が馬鹿の集合体になっているね。

絶対秋篠宮家の連中全て許せない

長い年月で他の人も使うでしょ。子供3人いるし婿取りのかたちで孫と同居するかもしれない。広くてセキュリティが良い方がいいでしょう。国の存続問題でもあるので。

出来ません。税金の使い方を見直して欲しい。

大嘗祭費にケチをつけたのは、4,300,000,000円を捻出させる為としか思えない。身の丈の本来の意味を御存知ない秋篠宮家へ一言 『♪出て行ってくれ〜!!!!!』

プレハブ小屋で十分

小室さんが批判されている学費とやらが400万円。億に直すと0.04億円。対する新宮邸造営費用は43億円。なんと1000倍の格差がありますが、皇族が庶民を会見で非難するって初めてですよ。なんか秋篠宮家だけが驕り昂ぶっているようです。驕る秋篠宮家は久しからずになりやしませんか?

税金を納めて無い人たちに巨額の税金を使う必要はない、皇室制度の根本的な改革が必要

血税を無駄な事に使うな!庶民は増税ばかりで苦しい思いをしてるんだそ!

納得出来るわけがない!秋篠宮家一家と美智子様には敬えないし、支持出来ません!日本の皇室というものを汚されてばかりです。皇太子様と雅子さま、愛子様には心から感謝し、敬っております。


今回の報道見てると今までボロ家に住んでたかのように書かせてたけど何回も改装してるだろ?特にそのうち一回は平屋の秩父宮邸を二階建てにほぼ新築。真子の公募研究員といい全てが姑息なんだよこの家は


美智子皇后と紀子さまが贅沢三昧し過ぎで皇室を我が物にしようとしているようですが川嶋家のみならず、創価学会の小和田家も皇室を乗っ取ろうとしているのではないか⁉️両家ともに昭和天皇ならきっと猛反対なさると思う。


小室圭さんが400百万で週刊誌のオモチャにされてるのに43億円?ふざけてるのか?外国の恵まれない子供に寄付してください


秋篠宮が問題なのではなく、「天皇皇后両陛下が東宮御所に入ることが、全ての原因では?」ないでしょうか?!が

国民健康保険も払えない若者がいっぱいいる!そこに回せ!


お金かけ過ぎだよね。みすぼらしい建物にも住めないし、セキュリティーの問題もあるけれども、どうしてこんなにかかるのか分からない。今の世に合わない生活していると思う。

私は小、中学生の娘を持つ自営業の者です。去年から税務調査されていて、僅かに貯めたお金を徴収されそうです。税金納めなくてはいけない国民の感情を逆撫でするような事は辞めて頂きたいですね。


消費税も上がるし、年金もどんどん遠のくのに、納得出来るわけない。もっと市民の声をちゃんと聞いて欲しい

自分ばかり贅沢。東日本大震災の慰霊によく来れたもんだ。恥知らず❗️まだ仮設住宅で暮らしている方たちに、ひどい仕打ち。

消費税アップで苦しむ国民の事が全くわかっていない 国民の象徴になっていない


皇嗣となれば、外国からの賓客などを招くこともあるだろうから、それなりの格の邸宅に住む必要性があるのは理解できる。ただそれならば、今上夫妻が東宮御所に住みたいなどと仰らずに、秋篠宮一家が東宮御所に移れば良かっただけの話ではないでしょうか?今上夫妻が他の空いている旧宮邸を増改築すれば、仮住まいに何億、皇嗣邸に43億などと多額の税金を削減できたはないかと思ってしまうのですが。


秋篠宮家には皇族をやめていただきたい

国民の血税で贅沢な

熊本地震から三年 未だに1億6千万の方々が仮住まいで、苦しい生活をされています。皇室予算を減らして被災地に税金を回して下さい


そのお金を安月給で泣いている公務員の給与に回すべき


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満足するだけの「手切れ金」があれば、小室圭さんは眞子さまを捨てると思いますか?

さて現在、秋篠宮殿下は総額43億円もの新邸を建築中です。しかしこの額が余りにも多いので、これを一部プールして小室圭さんへの「手切れ金」にするのでは? と疑念の声があがりました。

現在、純愛を貫いていると噂される二人ですが、同時にカネにあざとい小室母子。ならば「手切れ金」さえ用意されれば小室圭さんは眞子さまを捨てるのか?とアンケートしてみました。結果は恐るべき。


関連記事
秋篠宮殿下、33億円建築費「水増し」で、小室圭さん「手切れ金」を捻出 2019年2月21日
https://rondan.net/16366


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小室圭さんは、どうやってお金を返すべき?

母・佳代さんとその元婚約者との間で揉めている400万円の借金。一部評論家はYoutuberすればいいだの、クラウドファンディングすればいいだの好き放題言っていました。そこでどの様に返済すべきかアンケート。もちろん結果は瞭然です…。


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ニーチェ『道徳の系譜』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-genealogie/


「人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する」
「この生」「この世界」をどう肯定できるか?


『道徳の系譜』(1887年)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844年〜1900年)による著作だ。時代的には中期から後期の作品に分類される。

本書は『善悪の彼岸』が自分の思ったように受け取られず、ニーチェが自分の思想を解説する必要にせまられて発表したものだとされている。ここでニーチェは十八番のアフォリズムを封印し、論文形式で議論を展開している。なので読むのに多少の手間は掛かるが、言いたいポイントは分かりやすくなっている。

本書のテーマは道徳だ。冒頭でニーチェは次のように述べている。

(解読)
私は本書で、人びとがそもそも善悪の価値判断を考えだした理由は何か、そしてこの価値判断それ自体にどんな価値があるかを明らかにするつもりだ。

そのために私は、道徳の価値がなぜ、そしていかにして生まれ、発展してきたかについて見ていくことで、道徳的な価値それ自体がもつ価値を批判的に考察しようと思う。

(引用)
われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これら諸価値の価値そのものがまずもって問われねばならぬ、—そのためには、これら諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきたもろもろの条件と事情についての知識が必要である(結果としての、徴候としての、仮面としての、偽善としての、病気としての、誤解としての道徳。が一方また原因としての、薬剤としての、興奮剤としての、抑制剤としての、毒物としての道徳など)。

かくしてニーチェは道徳が発展してきた過程をさかのぼり、それが成立するために必要だった条件を見て取ろうとする。本書が『道徳の系譜』と名付けられているゆえんだ。


気をつけておくべきは、ニーチェは史実にもとづいて道徳の起源を取り出そうとしているわけではなく、ひとつの仮説を置こうとしているにすぎないということだ。何らかの起源を想定すること自体、ニーチェの思想の構えに反する。「ニーチェの主張する事実は歴史上存在したことがない」と反論することは、ニーチェの議論に正面から答えることにならない。

本書は3つの論文から構成されている。それぞれのタイトルは次の通りだ。

•第1論文:「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」
•第2論文:〈負い目〉、〈良心の疚しさ〉、およびその類いのことども
•第3論文:禁欲主義的理想は何を意味するか?

まずは第1論文について見ていく。

第1論文 … 自己肯定の道徳とルサンチマンの道徳

ニーチェの道徳論のひとつの重心は、私たちは何が道徳であるかをしばしば「ルサンチマン」によって規定してしまう、という点に置かれている。

ルサンチマンは一般に「怨恨」という訳語が当てられているが、これでは意味がよく分からない。

なので言い換えてみると、ルサンチマンとは「ちぇっ!なんだよあいつ…」と舌打ちするときの心の感じを思い浮かべると分かりやすいかもしれない。アイツばかりモテやがって…とか、アイツばかり昇進しやがって…などの「ちぇっ!」が、ニーチェのいうルサンチマンの内実だ。


ルサンチマンが私たちの道徳の根本にあると言われると、私たちはドキリとする。「これこれすることはいいことだ」という確信が、自分より優れているヤツに対する「ちぇっ!」によって支えられているならば、私たちの道徳は実はまったくの偽善であることになってしまうからだ。

ニーチェいわく、「よい」という判断のおこりは、「よい人」たち自身が彼らより劣った人たちと比べて自分の行為を「よい」と評価したことにある。つまり「よい」の判断は自己肯定の表現として現れたのだ。そうニーチェは言う。

(解読)
「よい」とは語源学的にいって、もともとどのような意味をもっていたのだろうか?

私が見るに、どの言語においても、身分的な意味での「貴族」とか「高貴」が基本概念であり、そこから派生して、貴族的とか卓越性としての「よい」が発展してきた。

しかしそれと並行してもうひとつの発展があった。つまり野暮とか低級といった概念が「わるい」schlechtの意味を持つようになってしまった。初めそれは単に素朴さ(schlechtwegsは「率直に」という意味をもつ)を指していたにすぎない。しかし次第にそれは現在の意味、つまり善と対置される「悪」das Böseへと意味を変化させていった。

(引用)
どの言語にあっても、身分上の意味での〈高貴〉・〈貴族的〉というのが基本概念であって、そこから精神的に〈高貴〉・〈貴族的〉とか、また〈精神的に高潔の資性をもつ〉・〈精神的に特権を有する〉とかいう意味での〈よい〉(優良)の概念が必然的に発展してくる。この発展とつねに平行してすすむ例のもう一つの発展があって、これは〈野卑〉とか〈賤民的〉とか〈低級〉とかいうのをついには〈わるい〉(劣悪)という概念に変えてしまう。

(解読)
身分的な意味でしか使われていなかった「よい」と「わるい」が次第にその意味を変化させる際には、「僧侶階級」が大きな役割を果たした。彼らは最初は政治的に最も高位にある階級にすぎなかった。しかし次第に精神的な面でも、最も優越していると考えられるようになった。

僧侶階級と対照的なのが「戦士階級」だ。僧侶階級が沈鬱的であり行動忌避的なのに対して、戦士階級は健康、力強さ、自由で快活であることを前提としている。

僧侶的民族であるユダヤ人は、敵対者である戦士階級に対して仕返しをするために、一切の価値の価値転換、すなわちルサンチマンによる価値創造を行った。ただし彼らは、これを現実の行為としてではなく、想像上の復讐として行ったのだ。

(引用)
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。

「よい」のが悪い、「悪い」のがよい

ニーチェによれば、この過程で生み出されたのがルサンチマンの道徳だ。ニーチェはこれを奴隷道徳と呼び、それに対して、戦士階級の道徳、自己肯定の表現としての道徳を貴族道徳と呼ぶ。

(解読)
いっさいの貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対して奴隷道徳は否定から生まれてくる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンをもつ人間にとっては、否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが、奴隷道徳の本質的な条件なのだ。

(引用)
すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。

(解読)
ルサンチマンの人間は「悪人」を思い描き、それと対比して弱い自分を「善人」と見なす。それゆえ「善人」とはルサンチマンをもとに生み出された反動形成にすぎない。 ではルサンチマン道徳の「悪人」とは一体誰だろうか?これこそまさに貴族道徳での「よい者」、すなわち高貴な者、力強い者だ。

(引用)
ルサンチマンの人間が思い描くような〈敵〉を想像してみるがよい、—そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず〈悪い敵〉、つまり〈悪人〉を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として〈善人〉なるものを考えだす、—これこそが彼自身というわけだ!・・・

そもそもルサンチマン道徳の意味で〈悪い〉とされるのは一体誰であるか、ということが問われねばならない。これにたいし、いとも峻厳な答えをするなら、こうだ、—ほかならぬあの貴族道徳での〈よい者〉、つまり高貴な者・強力な者・支配者が、ルサンチマンの毒々しい眼差しによって変色され、意味を変えられ、逆な見方をされたにすぎないものこそが、まさにそれなのだ。

かつて「よい」は自然な自己肯定の表現だった。しかしルサンチマンは、「よい」のが悪く、「悪い」のが実はよいのだというように、価値基準をいつのまにか逆転させ、反動的に「善人」のイメージを思い描く。

「善人」は「悪人」の鏡として思い描かれたものだ。それは自然な自己肯定の現われではなく、「よい」人たちの価値基準を前提とすることで初めて成立するにすぎない。そうニーチェは言う。

ルサンチマンの人間は自分固有の価値基準をもっていない

ニーチェのいう貴族的人間とルサンチマンの人間の大きな違いは、ルサンチマンの人間が価値の基準をみずからの外部に求めるのに対して、貴族的人間はみずからのうちからそれを創りだすという点にある。

ルサンチマンの人間は、何がよく何が悪いかを判断するために、まず自分の外側へと向かっていく。その一方で貴族的人間は、自分の内面に価値尺度を備えている。彼は何がよいかを自分のうちで了解しており、他者の価値基準にビクつくことがない。こうした貴族的人間を、ニーチェは自由な人間と呼んでいる。

以上が第1論文だ。

第2論文 … 約束のできる人間に「良心」は宿る

次に第2論文について見ていく。

ニーチェによれば、「自由な人間」が登場した背景には「習俗の論理」の存在がある。習俗の論理は人間を一様に数え上げられるようにするが、最終的には、習俗の論理から再び解き放たれた個人、つまり「主権者的な個体」が現れるにいたるという。

「主権者的な個体」と言われると、王様や偉人のような人たちを思い描くかもしれないが、ニーチェのいう主権者とは、自分の意志をもち、約束をきちんと守り、相手も自分も裏切らないようなひとのことを指している。

(解読)
「主権者的な個体」は自律的で自己固有の意志をもつ人間だ。彼は自由の意識、自己と運命を支配する権力の意識に満ちあふれている。

そして大事なのは、彼は約束できる人間であることだ。 彼は責任についての強い自覚をもち、自分がしっかりと約束を守ることのできる能力があることを知っている。こうした能力がいわゆる**良心**のことだ。

(引用)
責任という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。—もし彼にしてこれを、この支配的な本能を、一つの言葉で名づける必要に迫られるとすれば、これを彼は何と呼ぶであろうか?疑いの余地もなく、この主権者的な人間はこれを自己の良心と呼ぶ・・・

たとえば、友達と「明日10時にここで」と約束して、やっぱり面倒だなーと行きたくなくなったとき、「本当にそれでいいのか?」と引き止める感じが自分のうちからふつふつとわいてくることがあるだろう。

約束をした相手を裏切らず、しっかりと約束を守ろうとする自己確信、それがニーチェのいう良心の中身だ。この言い方は確かに納得感を与えてくれる。


ニーチェがいう権力感情とは、他人を制圧するための権力を求める欲求ではなく、むしろ相手を裏切らないだけの責任をもてるだけの自己コントロール(支配)能力のことを指している。権力感情と聞くと何だかアヤシク思えるが、その内実は「自分は責任をもってきちんと・・・ができる!」という「自負心」だと考えるとわかりやすい。

「負い目」に由来する疚しい良心

一方、ニーチェによれば、約束する能力に由来するのではない良心もある。それが疚しい(やましい)良心だ。


自負心による良心ではなく、後ろめたさや「罪障感」に支えられている良心、これがニーチェのいう疚しい良心だ。

では疚しい良心はどのようにして現れてくるのだろうか?ここで重要な役割を果たすのが「負い目」だ。なぜなら負い目をみずからの内面へと向け変えることによって疚しい良心が現れてくるからだ。そうニーチェは言う。

(解読)
「負い目」(Schuld)は物質的な意味での負債(Schulden)に由来して現れてきた。

(引用)
これら在来の道徳系譜学者らは、たとえば〈負い目〉(Schuld)というあの道徳上の主要概念が、はなはだもって物質的な概念である〈負債〉(Schulden)から由来したものだということを、おぼろげなりと夢想したことがあるだろうか?

(解読)
その一方で、刑罰が報復に由来して現れてきた。

これまでしばしば、刑罰は負い目の感情や良心のやましさ、良心の呵責を呼び起こすための道具だと見なされてきた。しかしそれはまったくの誤りだ。むしろ事実としては、刑罰によって負い目の感情が発達しないように抑制されてきたのだ。

刑罰の本来の効果は次のところにある。つまり刑罰は自己批判を改善させる効果をもつ。それは恐怖と用心深さを増し、欲望を制御させることで、ひとを馴致させる。

ここで私はひとつの仮説を提示したい。それは、ひとは社会と平和によって束縛されていることを悟ったときに良心の疚しさにとらえられたという仮説だ。疚しい良心は、社会や国家がひとびとの自由の意識、つまり自律的に約束する能力から防御するために用意した刑罰によって、私たち人間の本能が内向したこと(人間の内面化)で生まれたのだ、と。

以上が第2論文だ。

第3論文 … 禁欲主義的理想で生を肯定する

最後に、第3論文について見ていく。

ここでニーチェは、禁欲主義的理想が生まれてきた背景について論じている。

ニーチェいわく、これまでの哲学者は概して官能を拒否し、禁欲主義的理想に対して愛着を見せてきた。禁欲主義的理想は哲学者が存在するための前提であり、哲学それ自体が存続するための条件でもあったとさえいう。

(引用)
哲学者らに特有の世界否定的な、生敵視的な、官能不信の、官能棄却的な厭離的態度は、つい最近にいたるまで固持されてきたものであり、かくてこれがほとんど哲学者の態度そのものと見なされるほどになっているが、—しかし、こうした態度は何よりもまず、哲学が一般に成立し存続するための不可欠な諸条件から生じた結果なのである。つまり、禁欲主義的な外被と被服がなく、禁欲主義的な自己誤解がなかったら、いとも長きにわたって哲学がこの地上に存在することなど到底できなかったであろう。

(解読)
禁欲主義者は、この生を「あの世」までの仮の生と見なす。彼はそれを否定されるべきもの、誤り、もしくは反駁されるべきものと見なす。これは人類の歴史上どこでも見られる事実のひとつだ。

しかし、ニーチェによれば、禁欲主義的な生はそれ自体が矛盾している。そこでは生の条件を抑圧しようとするルサンチマンが支配的であり、生きんとする力を押さえ込もうとするからだ、と。

(引用)
そもそも禁欲主義的な生というのは、一つの自己矛盾である。そこには比類のないルサンチマンが支配しているが、これは生のある部分をではなく生そのものを、生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマンである。ここでは、力の源泉を閉塞するために力を利用するという読みがなされるのである。ここでは、生理的な発達そのものにたいし、とくにその表現や美や悦びにたいして嫉妬ぶかい陰険な眼差しがそそがれる。

「禁欲主義的僧侶」が弱者の味方となる

ここでニーチェは、いわゆる「禁欲主義的僧侶」がルサンチマンの方向転換を施し、疚しい良心を生み出したという説を立てる。

禁欲主義的僧侶?

禁欲主義的僧侶と聞くと、実際にそういう人たちがいたようなイメージをもつかもしれない。しかしこれは初期キリスト教の指導者、という程度に捉えるべきだ。誰か具体的に特定の人物を指しているわけではない。

(引用)
われわれは、禁欲主義的僧侶がいかに規則的に、いかに普遍的に、いかにほとんどあらゆる時代に出現するものかを、とくと考えてみるとしよう。禁欲主義的僧侶なるものは、個々の種族のいずれにも属するものではない。彼はいたるところに生えしげり、あらゆる階級から生えでる。

いずれにしても、ここでニーチェは、キリスト教は弱者のルサンチマンに呼応して現れ、これを助長することで、内面の価値尺度で良し悪しを判断する道徳のあり方を組織的に否定しようとしている、と言おうとしているのだ。

禁欲主義的僧侶は生を肯定する

(解読)
弱者たちは自分の苦痛の原因を外部に求めようとする。「私が苦しいのは誰かのせいだ」など。しかし僧侶は弱者たちに次のように告げる。「確かにそうだ。しかしそれはお前自身だ。お前自身が自分の苦痛の原因なのだ」、と。

(引用)
もしわれわれが僧侶的実存の価値をもっとも簡単な一句に言い表わそうとするなら、端的にこう言ってよかろう、僧侶とはルサンチマンの方向転換者である、と。

「私は苦しい、これは誰かのせいにちがいないのだ」—こうすべての病める羊は考える。ところが彼の牧者である禁欲主義的僧侶は、彼にむかって言う、「そのとおりだ、私の羊よ!それは誰かのせいにちがいないのだ。が、この誰かというのは、じつはお前自身なのだ。それはただお前だけのせいなのだ、—お前がこうなっているのに責めがあるのはお前自身だけだ!」

(解読)
このように見ると、禁欲主義的僧侶は生を否定しているかのように思えるかもしれない。

外見的にはそうだ。しかし実は禁欲主義的僧侶は、生を肯定する勢力のひとつだ。なぜなら禁欲主義的僧侶は「こうではなく別にありたい」とする願望、つまり禁欲主義的理想を思い描くことで、倦怠感や「死への願望」と闘う力を得ているからだ。

(引用)
事実を簡潔に述べれば、次のごとくである、—禁欲主義的理想は頽廃しつつある生の防御本能と救治本能とから生ずる、と。かかる生は、あらゆる手段をもって自己を保持しようと努め、自己の生存のために闘う。

じつは生は、この理想において、この理想を通じて、死と格闘し、死に抗して闘っているのである。禁欲主義的理想は、生の保持をはかる一つの策略なのである。

ただし、禁欲主義的僧侶は、苦悩を治癒しても、苦悩を生み出す原因については治癒することがない。禁欲主義は慰めでこそあれ、不快のもとを取り除くことはない。ニーチェいわく、ここに宗教の本質がある。それはつまり、生理的な抑圧感、沈鬱や不快を、ただ心理的・道徳的にのみ取り除くことにあったのだ、と。

(引用)
流行病とまでなるにいたった一種の疲労と重苦しさとに打ち克つことが、すべての大宗教にとっての主要問題だったからである。地上の特定の場所で時折りほとんど必然的にある生理的抑圧感が広範囲の大衆を支配するようになるにちがいないということは、はじめからありそうなこととして推定されうるところである。しかし、この抑圧感は、生理上の知識を欠いていることからして、そうしたものとしては意識されることがなく、したがってその〈原因〉も、それの治療も、ただ心理的・道徳的にだけ求められ試みられるにすぎない(—これこそがすなわち、通例〈宗教〉と呼ばれるものにたいする私のもっとも一般的な定式なのだ)。

(解読)
ここで宗教が取る方法は、機械的な活動に従事させること、隣人愛という「小さな喜び」を処方することだ。

機械的な活動によって苦悩を打ち消すことを、ひとは「勤労の祝福」と呼んでいる。たえず同じ行為を繰り返すので、苦悩に対する余地がほとんどなくなってしまうのだ。

隣人愛は、慈善や施しを通じて、共同体、畜群生活への意志を育む。それは弱者同士の相互扶助を促進する。禁欲主義的僧侶は弱者のそうした本能を見抜き、さらにこれを助長するのだ。

そこで禁欲主義的僧侶は負い目の感情を利用した。彼は悩める人間に対して、苦悩の原因を次のように説いた。

(引用)
「おまえは、その苦悩の原因を、おまえ自身のうちに、負い目のうちに、過去の一事情のうちに求めるがよい、おまえの苦悩そのものを一つの刑罰状態と心得るがよい」、と。

(解読)
こうして彼は、罪障感に支えられた疚しい良心を抱くようになるのだ。

「人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する」

では、なぜ人びとは禁欲主義的理想を受け入れ、禁欲主義的僧侶に従うのだろうか?なぜ彼を拒否しなかったのだろうか?

これについて、ニーチェは次のように言う。

(解読)
それは、これまで唯一禁欲主義的理想のみが人間に生の意味を与えることができたからだ。

彼が禁欲主義的理想を抱くようになった理由、それは人間が本質的にいって生の意味を求める存在だからだ。彼にとっては苦悩それ自体が問題なのではない。むしろ苦悩に意味が欠けていること、これこそが問題なのだ。

禁欲主義的理想は、人びとに苦悩の意味、目的を与えた。それによって人びとは何かを意欲することができるようになったのだ。

(引用)
人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。—しかるに禁欲主義的理想は人類に一つの意味を供与したのだ!それがこれまで唯一の意味であった。何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。

人間は一つの意味をもつにいたった。それ以来人間はもはや風にもてあそばれる一枚の木の葉のごときものではなくなった、もはや無意味の、〈没意味〉の手まりではなくなった。いまや人間は何かを意欲することができるようになった、—何処へむかって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。

(解読)
しかし禁欲主義的理想は、人間に苦悩の意味を与えると同時に、新たな苦悩をもたらした。「虚無への意志」がそれだ。動物的なものに対する憎悪、官能に対する、また理性に対する嫌悪、美に対する恐怖—そうしたものすべてが禁欲主義的理想によって生み出されたのだ。

(引用)
さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、—人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。

「この生」「この世界」をどう肯定できるか?

本書の流れを大まかにおさらいすると、次のような感じだ。


道徳、とりわけキリスト教的道徳が生まれた背景には人びとのルサンチマンがある。ルサンチマンが「よい」と「わるい」の価値秩序を逆転させてしまった。そうした人びとを導いているのが禁欲主義的僧侶だ。彼が人びとを内面化させ、疚しい良心(罪障感の良心)を生みだした。ところで人びとが禁欲主義的僧侶に従ったのは、人びとが生の意味を求めていたからだ。そこで人びとは禁欲主義的理想を手に入れ、みずからの苦悩には確かに意味があることを理解した。しかし同時に彼は「虚無への意志」に見舞われた。

ニーチェはこのように直観し、以後、生と世界を肯定するための価値を創造しようと自ら課題へとみずから取り組んでいく。しかしそれは完全な形では示されず、今日『権力への意志』として知られている草稿群のうちに断片的なアイディアとして残されるにとどまった。

道徳を「鍛え上げる」

部分部分を細かく見ると、確かに、ニーチェの議論には怪しいところもある。たとえばニーチェは国家、社会、文化を否定的に捉えすぎている向きがある。「それらは人間の自由の本能を抑制し、人びとを馴致する」という観点を前面に押し出しすぎているのは否めない。

それでもなお、ニーチェの議論は多くの納得感を与えてくれる。

私たちは油断するとついルサンチマンにやられてしまったり、ルサンチマンの力で生と世界を否定的に解釈してしまったりする。「自分の人生こんなはずじゃなかった…」とか「この世界はこうあるべきではない…」というように。

そこで反動的に「みな道徳的であるべきだ」とか「正しい生があるはずで、そこから外れた者はケシカラン」という感覚をもってしまうことがある。正しいのは自分で、間違っているのは世界の側だ、と。ニーチェを読むと、それがルサンチマンに発するねじ曲がった正義だということをズバリ指摘されたような感じを受ける。

素朴な正義はしばしば「この世界は間違っている!正しい世界を実現させるべきだ!」と主張する。しかしその理想はしっかりと確かめ直されてこそ、本当の意味で正義にかなうと言える。「その理想はルサンチマンに発していないだろうか?もしくは罪障感に支えられていたりしないだろうか?」、と吟味することによって、正義をより深く生かすことができる。ニーチェの議論はそのことを私たちに教えてくれる。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-genealogie/


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『道徳の系譜』(どうとくのけいふ、Zur Genealogie der Moral)——副題:「一つの論駁書」("Eine Streitschrift")——は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作であり、先に公にされた『善悪の彼岸』の中で略述されたいくつかの新しい見解について詳論するという意図のもとに、1887年に執筆され、公刊された。

ニーチェの著作の中では、最も直接的な叙述がなされており、形式や文体の面でアフォリズム的な要素が最も少ないことから、ニーチェ研究者からは、確固たる明敏さと力強さをそなえた作品であり、ニーチェの代表作であるとみなされている。[1]

序言と三つの論文(Abhandlung)から成り、これら一連の論述を通して、道徳的諸概念の発展に関わる挿話を追っていくことによって、「道徳上の先入見」——とりわけキリスト教の道徳——を転覆することを目指す。


ニーチェの三つの論文の主題をなすのは、「道徳上の先入見の由来」についての彼独自の思想である。この思想は、彼が長期間にわたって作り上げてきたものであり、すでに『人間的な、あまりに人間的な』において簡潔に不完全な形で表現されている。ニーチェが自らの「仮説」を公刊しようと思ったきっかけとなったのは、友人パウル・レーの小著『道徳的感情の起源』(1877年)を読み、その中で「系譜論的仮説」が不十分な仕方で展開されているのを見出したことである。

かくして、ニーチェは、「道徳的諸価値の批判」こそが理に適っており、「これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とされるべきである」と考えるに至る。この目的を果たすためには、レーのような(ニーチェが言うところの)「イギリス流心理学者」式の仮説的な説明よりも、実際の道徳史を提示することこそが必要不可欠である。


第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」

この論文では、ニーチェが『人間的な、あまりに人間的な』以来ほのめかしてきた君主道徳と奴隷道徳の間の区別が説明される。これら二つの相異なる道徳様式は、それぞれ一対の対立概念に対応している。

ニーチェによると、特権階級は、自分たち自身の行為を「よい」("gut")と定義した。この場合の「よい」とは、「高貴な」、「貴族の」、「強力な」、「幸福な」等々という意味である。その一方で、彼ら君主たちは、他の卑しい人々の行為を「わるい」("schlecht")とみなした。ただし、この場合の「わるい」とは、「素朴な」("schlicht")、「平凡な」、「貴族でない」という意味であって、ことさらそれらの人々に対する非難のニュアンスが込められているわけではない。

特権階級に従属する卑しく、貧しくて不健康な人々、つまり「奴隷」によって価値の序列が逆転される。彼らの感情は、ルサンチマンに基づいており、彼らはまずもって他者を「悪人」、すなわち「悪しき敵」とみなす。そして、その後ではじめて、彼らはまさしく悪人に対立する者として、自分たち自身を「善人」と定義する。換言すると、彼らは「悪」("böse")でないがゆえに、「善」("gut")である。つまり、貴族にとっての「よい」という概念が能動的であるのに対して、奴隷の「善」概念は反動的なのである。

ニーチェは、二番目の価値様式をユダヤ教とキリスト教の内に見出し、第一の価値様式をローマ帝国、ならびにルネサンスやナポレオンに割り当てる。もっとも、これら二つの道徳様式の対立は、内的葛藤を抱えた一人一人の人間の中でも依然として闘争を繰り広げることになるとされる。今日でも、比較的高邁な精神の持ち主においては、両方の価値評価様式がともに存在し、相争っている。しかしながら、全体としては奴隷道徳のほうが勝利をおさめることとなった。ニーチェ自身は——無条件に、見境なしにというわけではないが——はっきりと「貴族的」な世界観のほうに強い共感を表明しており、自らの哲学によって「賤民的」な道徳に対する闘争が再開されうることを期しているように思われる。


第二論文 「負い目」・「良心のやましさ」・その他

ここで探求の対象となるのは、人間は何かに対して「責任」を負うことができるという考え方の由来、ならびに、人間に特有で動物界ではほとんど見られない記憶力一般である。ニーチェは、「負い目」という道徳的概念は債権者に対する「負債」という物質的な概念に基づいていると考える。彼は、刑罰がさまざまな文化の歴史の中で担ってきた多岐にわたる表向きの目的と真の目的を示唆する。刑罰は、あらゆる事態がそうであるように、支配体制が新しくなる度に、新たな解釈を与えられてきた。ニーチェによると、良心のやましさは、人間の文明化に起源をもつ。人間は、組織的な社会で生きるという重圧の下で、自らの攻撃的な衝動を内向させ、自分自身に向けるようになるのである。

なお、この論文の第12節は、「力への意志」に関する教説を比較的詳しく取り上げているという点で、鋭い示唆を含んでいる。


第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

この論文は、すでにニーチェが序文で自ら指摘した形式的な特徴をよく表している。というのも、結論となる見解を最初の段落で簡潔なアフォリズムの形式で呈示しておいて——仮構の読者からの抗議に従って——論文本体において、そのアフォリズムを正確に敷延して完全な形で表現しているからである。

ニーチェは、禁欲主義的理想が、歴史の中や今日の社会の中で現れる際にまとってきたさまざまな形態、並びにその多様な目的を検討する(その中には、誤認された目的も実際の目的も含まれる)。ニーチェは、さまざまな人々——芸術家(リヒャルト・ワーグナーの『パルジファル』を例に)、哲学者(とりわけ、ショーペンハウアーの意志否定)、聖職者、ニーチェ自身が評価するところの「善人や義人」、聖人、そして現代において反-理想主義者と見誤られている人々、無神論者、科学者、批判的かつ反形而上学的な哲学者——における禁欲主義的理想の追求を解釈し評価する。そして、彼らの絶対的な「真理への意志」こそが、禁欲主義的理想の最後の純粋な形態であるとされる。そして、現代および将来のヨーロッパにおけるニヒリズムに関する考察に依拠して、ニーチェは、禁欲主義的理想がほとんど唯一の理想として尊崇されてきた究極の理由を示す。それは、つまるところ、より優れた理想がなかったからである。人間は「何も欲しない」ことができない。その結果、今日までの人間はむしろニヒリズムと禁欲において「無を欲し」てきたのである。

影響

「道徳の系譜」に影響を受けた人は、オスヴァルト・シュペングラー、ジャン=ポール・サルトル、ジークムント・フロイト、フランツ・カフカなどである。

また、ミシェル・フーコーは、この作品に影響を受け、狂気・性・懲罰について研究していた。

河出書房新社からは、この作品の標題を冠した叢書として「シリーズ・道徳の系譜」(1997年-)が刊行されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C

ニーチェ『道徳の系譜』

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫) – 1993/8/1
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080813/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&linkCode=li3&tag=beyondthesky-22&linkId=69210c63691be6bbe991350f0c4e78d2&language=ja_JP

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c3

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
4. 中川隆[-10730] koaQ7Jey 2019年4月17日 08:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1321]

神道は穢れを極端に忌み嫌う異常に潔癖な宗教


ポケモンが広める神道的な世界観〜マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』を読む 2018/12/30
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html


 自然への畏敬を説く神道は世界の諸宗教と両立し、その対立を和らげる可能性を持っている。


■1.ポケモンが広める神道的な世界観

 今年の春、北はフィンランドから南はギリシャまで欧州を回って、おみやげにポケモンのイラスト入りのクリアファイルを配ったら、各地で大人気だった。息子がポケモンに熱中している、とか、孫が大好きだ、など、ポケモンを知らない人は一人もいなかった。

 人間が様々なポケット・モンスターと心を通わせる、というのは、従来のキリスト教から完全にはみ出した神道的な世界観だ。人間以外の様々な生物・無生物に精霊が宿っているというアニミズムは、西洋では「原始宗教」として見下されてきた。しかし、ポケモンに夢中になって育った欧米の子供たちは、キリスト教の神よりも、アニミズムの方に親近感を覚えるようになるだろう。

 サンマリノの駐日大使にして在日外交団長を務めるマンリオ・カデロ氏と外交評論家の加瀬英明氏との対談集『神道が世界を救う』[1]を読むと、神道的世界観が現代文明の様々な問題から世界を救う可能性があることが説かれており、ポケモンがその旗振り役になるのでは、と期待をもった。


■2.「神道は信ずるものではありません。感じるものです」

 カデロ氏は日本滞在40年を超し、すでに80か所以上の神社を訪問されている。本書でも伊勢の神宮の式年遷宮への参列、福岡県の宗像(むなかた)大社の「みあれ祭」への参加などを語られているが、そのうち出羽三山を訪れた時の体験を引用しよう。

__________
カデロ 神道は日本文化の原型ですね。この原型が日本人をつくってきたし、いまもつくっています。
 出羽三山を訪れると、森林の霊気をいっぱいに感じます、
 樹木は、私たちと同じように呼吸しています。
 樹木は人間にとって有害な二酸化炭素を吸い込んで、新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれるから、きっと、霊気を感じるのでしょう。・・・

 三山は、月山、湯殿山、羽黒山の三つの峰ですが、のぼっていくと、木の香がまじった清い空気が胸をみたして、しだいに心身が安らぎます。いきいきとして、豊かな、贅沢な体験ですね。・・・

 樹木や森林が信仰のよりどころとなるのが、よく理解できますね。
 そして、山は、天と大地が接するところだから、霊気を感じるのでしょう。
 それに山は水の源です。現代人は日常、水の有難さを意識することがありませんが、昔の人々は生命(いのち)を支えてくれる水をもたらしてくれる山に、大きな恵みを感じたのでしょう。[1, P31]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 カデロ氏が「神道は信ずるものではありません。感じるものです」と言うのも、こういう体験からである。そして、この感じ方は日本人なら誰でも経験したことがあるだろう。


■3.「宗教」とは「縛る」もの

 カデロ氏の言う「神道は感じるもの」は上記の体験からもよく分かるが、「信ずるものではありません」という言葉は、もう少し説明が必要だ。氏は、対談の中で、こう説明している。

__________
カデロ 神社は、キリスト教の教会や仏教の寺に見られるような、神か仏を「信じれば、救われると、脅迫ーーいや説いたり勧誘したりすることが、まったく行われません。
 神道には、天国も地獄もなくて、賞も罰もないのも、大きな特徴ですね。[1, p76]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点を加瀬氏はこう補足する。

__________
加瀬 英語の「レリジョン(宗教)」も同じようにラテン語を根っこにしていますが、ラテン語では「レリギオ」religio で、レリギオの類語の「レリガーレ」religare は、「縛る、固く縛る、束縛する」を意味しています。
 宗教は、信者をかならず束縛します。しかし、神道は、ユダヤ・キリスト・イスラム教や仏教とちがって、人を束縛する教義や戒律が、いっさい存在していません。[1, p46]
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「宗教」とは「縛る」ものであり、「人を束縛する教義や戒律」からなる、という定義を踏まえれば、神道は「宗教」ではない、というお二人の指摘が腑に落ちるだろう。さらに、カデロ氏は、神道は宗教ではないから、他の宗教とも両立するという。

__________
カデロ 私はイタリアの古都であるシエナで、カトリックの家庭で育ちました。・・・
 幼児洗礼を受けたカトリック教徒なのですが、キリスト教徒であることと神道を受け入れることに、何一つ矛盾がないと確信しています。[1, p40]
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■4.「神道は他宗と競おうとまったくしない」

 宗教が発達すると、それを専門に説く神父やお坊さんのような人々が現れ、それが組織化されて教団ができる。

__________
カデロ いったん教団になると、その教団の力を増すために、できるだけ信者を増やして財力を蓄えなければなりません。
 だから、他宗がすべてライバルとなって競争します。
 コンビニ業界の激しい競争と似ていますね。(笑)
 すると、教団を維持し拡大することが、目的となってしまいます。
 しばしば信仰そのものよりも、教団を維持し拡大することのほうが、目的となってしまうのですね。[1, p75]
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__________
カデロ 他宗の信者を、神道に改宗させようともしませんね。
 神道は他宗と競おうとまったくしないからですね。
 このような宗教は、世界のどこにも存在していません。[1, p49]
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 宗教どうしの競争をコンビニ業界に譬えれば、神道とは競う合うコンビニ店の間に挟まれた公園のようなものだ。公園はコンビニ店とは競わない。ただ双方のコンビニ店の客も店員も、一緒に一休みできる場所である。


■5.「わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」

 仏教も宗教として教団を持ち、信者を得ようとする。しかし、その激烈さにおいて、ユダヤ・キリスト・イスラム教は特別だ。

__________
加瀬 キリスト教に、全能の神から授かった、「モーゼの十戒」としても知られる、「天主の十戒」がありますが、第一戒目が「あなたは、わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」というものです。・・・

カデロ ユダヤ・キリスト・イスラム教は、自分だけが絶対に正しいから、他宗がすべて邪教となっているのですね。[1, p48]
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 そのために、これら一神教は他宗教の神殿や彫像破壊を平気で行う。アフガニスタンのバーミアンの石仏をイスラム過激派のタリバン政権が爆破したが、こうした蛮行はイスラム教に限ったことではない。

__________
加瀬 ローマ帝国がキリスト教化すると、キリスト教徒によって、異教ーー邪教となった多神教の神殿や、彫像、列柱が、帝国の全域にわたって、手当たり次第に、無残に破壊されましたね。[1, p104]
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 破壊だけではなく、殺戮も行う。それも他宗どころか、同じ宗教内の他宗派との間で殺し合いをする。

__________
加瀬 今日、中東と北アフリカでは、イスラム教の二大宗派であるスンニー派とシーア派が、アフガニスタン、イラク、シリアから、イエメン、リビアにいたるまで、血を血で洗う凄惨な抗争を繰り広げています。・・・
 イギリスは、もちろん、超先進国の一つですが、ついこのあいだまで北アイルランドにおいて、カトリックとプロテスタントが殺し合って、四千人近くが犠牲になりました。[1, p102]
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__________
カデロ キリスト教も、イスラム教も、同じように愛を説いているはずなのに、そのかたわらで宗教が激しい憎しみを生むのは、本末転倒であって、恐ろしいことですね。[1, p104]
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 これが「高等宗教」の現実である。


■6.「人間が自然の支配者」

 一神教のもう一つの特徴は、人間と自然との特異な関係である。旧約聖書の冒頭の「創世記」には、こういう一節がある。

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 神は自分を象って男と女を創造した。神は人を祝福して言った。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ」
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 この点について、加瀬氏はこう指摘する。

__________
加瀬 一神教は、人間の天下ですね。人間が自然の支配者であるから、人間が自然を望むままに、“煮ても焼いても”好きなようにしてよい、というものですね。
 そして、ユダヤ・キリスト・イスラム教では、自然は敬うべきものでも仲間でもありません。
 自然は下僕(しもべ)か奴隷であって、人が征服したうえで、自由に使い捨てて役立てるべきものなのです。[1,p82]
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__________
カデロ 「シビリゼーション Civilization」(文明)の「シビル civil」は、「礼儀正しい」「人にやさしい」「親切な」という意味ですからね。
 でも、いったい、空気や水を汚し、森林や熱帯雨林を切り拓き、珊瑚礁を破壊するのがシビルなのでしょうか。(笑)[1, p93]
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 カデロ氏は、「人間が動物の上にある」という傲慢な発想は、牧畜が始まって、人間が家畜を飼育するようになったからだろう、と推察している。中東地域はもともと緑が豊かだった。そこに土地への負担の大きい牧畜や麦作を何千年も続けたために、砂漠になってしまった。その砂漠地帯に生まれたのが、「人間が動物の上にある」という特異な自然観を持つ宗教だった。

 それに比べて、神道が発達した縄文時代の日本列島では、豊かな自然の中で、その恵みをいただいて生きていた[a]。だからこそ、「人間が動物の上にある」という発想などは生まれようがないのである。多くの欧米人の先祖であるゲルマン人やケルト人はもともと森の民だった[b]。だから、神道的な世界観は彼らにとっては幼児期を過ごした故郷のようなものだろう。


■7.神道の感じ方が示す道

 冒頭で紹介したカデロ氏の「樹木が新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれる」という受け止め方には、人間と樹木が同じ生命(いのち)として、共に生きている、という感じ方がある。山は水の源として「大きな恵みを感じた」ということは、山への感謝である。

 現在の日本列島が世界有数の人口密度と経済規模を支えながら、緑地の比率でもフィンランド、スウェーデンに続いて先進国中三位という豊かな自然を保っているのも、この神道の「人間は自然の中で生かされている」という感じ方が今も日本文化の中に根づいているからだろう。地球環境の危機が叫ばれる中で、欧米でもこの神道の感じ方に近い環境意識が高まってきている。

 しかも、神道は自然を崇め、その恵みに感謝する「感じ方」であるから、宗教の違いを乗り越えて、人類が共感できる。カデロ氏がカトリックでありながら神道に共感できるように、イスラム教徒も仏教徒も、そして共産主義者ですら、神道には共感できるだろう。

 人間の窮屈な理性の束縛から、しばし脱して、共に自然の恵みをありがたく感することが、宗教やイデオロギーの対立から逃れる一つの道だろう。それは世界平和への道である。


■8.サンマリノに創建されたヨーロッパで最初の神社

 サンマリノはイタリア半島の中東部にある世田谷区ほどのミニ国家で、4世紀の初めに建国された世界最古の共和国と呼ばれる。この世界最古の共和国と、世界最古の君主国・日本との友好協会の会長が加瀬氏である。

 この友好協会の提案により、ヨーロッパで最初の神社がサンマリノに創建された。サンマリノには、欧州全体やアメリカなどから多くの観光客が訪れるが、このサンマリノ神社が神道と日本文化を理解するための文化センターの役割を果たすだろう。

 毎年6月にはこの神社を中心に、「ジャパン・フェスティバル」が催され、さまざまな和食を提供する屋台が並び、夜には提灯行列が行われる。

 日本の神社というと、はじめのうちはキリスト教と競合する、奇妙な宗教だという誤解も一部にはあったが、お祭りを通じて、神道が自然崇拝の営みであって、宗教と両立するものだ、ということが、しだいに理解されるようになってきている、という。

 今年の訪日外国人観光客数が3千万人を超え、世界各国で日本食がブームを呼び、子供達はポケモンに熱狂する。それらを通じて神道的な世界観は、無言のうちに自然への畏敬をひたひたと世界中に広めつつあるようだ。それは人間を宗教的対立と環境破壊から救う道でもある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「まえがき」、「縄文・弥生・古墳時代の独創性」
伊勢雅臣『比較 中学歴史教科書−国際派日本人を育てる』、勉誠出版、H30
アマゾン「中学生の社会」1位、「教科教育 > 社会」1位、「日本史」11位、総合252位(H30/11/10調べ)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585222251/japanonthegl0-22/

b. JOG(070) フランスからの日本待望論
 現代人をして守銭奴以外の何者かたらしめるためには世界は日本を必要としている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog070.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』★★★、勉誠出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585210482/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html


▲△▽▼

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________

 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________

 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________

神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

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 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
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 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
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 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c4

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
5. 中川隆[-10729] koaQ7Jey 2019年4月17日 08:47:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322]

神道は穢れを極端に忌み嫌う異常に潔癖な宗教 _ 2

KUMANO - 熊野 動画
https://vimeo.com/131426603

熊野古道 - Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93&biw=1024&bih=904&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0CJQBEIkeahUKEwi61JSR2uPGAhUDGZQKHSF4D5w

熊野古道 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93


1) 外国人「日本はレベルが違う…」熊野古道の風景が幻想的すぎて美しい 海外の反応
http://tamenal.com/13522

KUMANO - 熊野 動画
https://vimeo.com/131426603

「熊野」という地名を知っていますか?

和歌山県南部と三重県南部からなる地域の事を指すのですが、その美しい景観などが人気の観光地として「熊野古道」が有名ですよね。

その熊野にフォーカスを当てた動画を外国人が制作しているのですが、そのクオリティが凄すぎると多くのコメントを集めています。日本の良さが伝わってくる動画を見た外国人はどのように思うのでしょうか?

山伏の修行も撮影されています

幻想的な世界観が溢れています

美しい道ですね

修行中でしょうか?

ひたすら山道を進みます

神聖な場所です

どこを見ても美しい風景が続きます

滝行をしていますね

法螺貝(ほらがい)を吹いている様子も

光が差し込むと更に美しい風景が広がります


▲△▽▼


2) 海外「日本は水の国だったんだ」 日本の大自然の映像集に外国人感動
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-785.html


Nature Time Lapse 3
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=cmRaVoqA5Fk

Nature Time Lapse 2 -微速度撮影動画まとめ2- (HD 720p)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=2t87TWp1Nxg

mockmoon2000 - YouTube 44 本の動画
http://www.youtube.com/user/mockmoon2000/featured
http://www.youtube.com/user/mockmoon2000/videos

動画では、新潟の大源太湖、群馬の草津白根山・谷川岳・弓池、長野の八方尾根・浅間山・燕岳・鏡平・横手山・唐松岳など、山や湖:池を中心に日本の自然がタイムラプス(微速度)で紹介されています。

雄大で、険しく、美しい光景に外国人からは感動の声があがっていました。

右下に撮影場所が記載されています。


▲△▽▼

3)「これはもう奇跡」 富士山を見た外国人の反応
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-80.html


Cool Japan! Mt.Fuji
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=LceQF-rxmPY

外国人が思い浮かべる"日本"のトップランナー、富士山。
独立した山は他にも世界中にあるわけですが、
あれほどの美しいフォルムを持ったものはまさに"不二"なだけに、
これだけの知名度を誇っているんじゃないかと想像します。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c5

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
6. 中川隆[-10728] koaQ7Jey 2019年4月17日 08:57:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1323]
「恥の文化」の力 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


このところ特に強く感じるんですが、最近の日本人って、ホントに自信を失ってますよね。といっても、周りの大学生などと話していると、若い世代はそれほどでもないように思うのですが、50代後半〜60代ぐらいの人たちは、なんか日本は経済も文化も根本的にダメダメみたいな感情をもっているように思います。

だから、「バスに乗り遅れるな」とか「世界の孤児になってもいいのか」「これからは英語、英語、留学、留学、トーフル、トーフル」「アジアに打って出るしかない」みたいな強迫的ともいえるグローバル化衝動が生じるのかなあなどと日々感じております。

こういう日本人の自信のなさの背景には、一つは、日本の道徳に対する不信感があるようです。

たとえば、「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ〜というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね。

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/

内田樹 2017.01.15 「民の原像」と「死者の国」


高橋源一郎さんと昨日『Sight』のために渋谷陽一さんをまじえて懇談した。
いろいろ話しているうちに、話題は政治と言葉(あるいは広く文学)という主題に収斂していった。

そのときに「政治について語る人」として対比的に論じられたのが「安倍首相」と「天皇陛下」だった。

この二人はある決定的な違いがある。

政策のことではない。霊的ポジションの違いである。
それについてそのときに話しそこねたことを書いておく。

なぜ、日本のリベラルや左翼は決定的な国民的エネルギーを喚起する力を持ち得ないのかというのは、久しく日本の政治思想上の課題だった。

僕はちょうど昨日渡辺京二の『維新の夢』を読み終えたところだったので、とりわけ問題意識がそういう言葉づかいで意識の前景にあった。


維新の夢 (ちくま学芸文庫) 2011/6/10 渡辺 京二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E5%A4%A2-%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4%BA%8C%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E5%8F%B2%E8%AB%96-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E4%BA%AC%E4%BA%8C/dp/4480093796


渡辺は西郷隆盛を論じた「死者の国からの革命家」で国民的規模の「回天」のエネルギーの源泉として「民に頭を垂れること」と「死者をとむらうこと」の二つを挙げている。

すこし長くなるけれど、それについて書かれた部分を再録する。

渡辺によれば第二回目の流刑のときまで西郷はスケールは大きいけれど、思想的には卓越したところのない人物だった。

「政治的な見識や展望はどうか。そういうことはみな、当時の賢者たちから教えられた。教えられれば、目を丸くして感心し、それを誠心実行に移そうとして。勝海舟、横井小楠、坂本竜馬、アーネスト・サトウ、みな西郷に新生日本の行路を教えた人で、西郷自身から出た維新の政治理念は皆無に等しかった。だから、この維新回天の立役者はハリボテであった。

だが、政治能力において思想的構想力において西郷よりまさっていた人物たちは、このハリボテを中心にすえねば回天の仕事ができなかった。これは人格の力である。

この場合人格とは、度量の広さをいうのでも、衆心をとる力をいうのでも、徳性をいうのでもない。それは国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱であり誠心であった。革命はそういう熱情と誠心によってのみエトスを獲得することができる。エトスなき革命がありえない以上、西郷は衆目の一致するところ最高の指導者であった。」(『維新の夢』、ちくま学芸文庫、2011年、341頁)

彼は戊辰のいくさが終わったあと、中央政府にとどまらず、沖永良部島に戻るつもりでいた。「官にいて道心を失う」ことを嫌ったのである。

島は彼の「回心」であったというのが渡辺京二の仮説である。

島で西郷は何を経験したのか。

渡辺は「民」と「死者」とがひとつに絡み合う革命的ヴィジョンを西郷がそこで幻視したからだと推論する。

「西郷は同志を殺された人である。第一回流島のさいは月照を殺され、第二回には有馬新七を殺された。この他にも彼は、橋本左内、平野国臣という莫逆の友を喪っている。」(343頁)。

この経験は彼に革命家は殺されるものだということを教えた。革命闘争の中では革命家は敵に殺されるだけでなく、味方によっても殺される。「革命を裏切るのは政治である」。

死者はそれだけでは終わらなかった。

寺田屋の変で西郷は旧友有馬を殺された。西郷の同志たち、森山新蔵、村田新八、篠原國幹、大山巌、伊集院兼寛も藩主の命で処罰された。渡辺は「これが西郷を真の覚醒に導いた惨劇である」と書く。

事実、この直後に西郷が知人に書き送った書簡にはこうある。

「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」

西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。

彼が維新回天の中心人物として縦横の活躍をするようになるのは、彼が「お見限り下さるべく候」と書いた「あと」の話なのである。同志朋友を殺した島津藩への忠義を断念し、死者のために生きると決意したときに西郷は政治家としてのブレークスルーを果した。

「いまや何を信ずればよいのか。ここで西郷の心は死者の国へととぶ。彼はもう昨日までの薩摩家臣団の一員ではない。忠義の意図は切れた。彼は大久保らの見知らぬ異界の人となったのである。彼の忠誠はただ月照以来の累々たる死者の上にのみ置かれた。」(346頁)

みずからを「死者の国の住人」と思い定めた西郷は島で「民」に出遭う。
西郷はそれまでも気質的には農本主義者であり、護民官的な気質の人であったが、民はあくまで保護し、慰撫し、支配する対象にとどまっていた。それが島で逆転する。

「彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。

西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。」(347頁)

「革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。」(348頁)

長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクトを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。

という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。

『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。

それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう。

「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。

だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない。

彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。

だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる。

日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。

靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。

どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。

どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。

世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。

政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。

リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。

極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。
それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。

安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出た存在である。

彼はたしかに岸信介という生々しい死者を肩に担いでいる。祖父のし残した仕事を成し遂げるというような「個人的動機」で政治をするなんてけしからんと言う人がいるが、それは話の筋目が逆である。

今の日本の政治家の中で「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的なのは安倍晋三くらいである。だから、その政策のほとんどに対して国民は不同意であるにもかかわらず、彼の政治的「力」に対しては高い評価を与えているのである。
ただし、安倍にも限界がある。それは彼が同志でも朋友でもなく、「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負っている」点にある。

これに対して「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っているのが天皇陛下である。

首相はその点について「天皇に勝てない」ということを知っている。

だから、天皇の政治的影響力を無化することにこれほど懸命なのである。

現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の負託を背負う首相」と「すべての死者の負託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している。
というふうな話を源ちゃんとした。

もちろん、こんなことは新聞も書かないし、テレビでも誰も言わない。
でも、ほんとうにそうなのだ。
http://blog.tatsuru.com/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c6

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
7. 中川隆[-10727] koaQ7Jey 2019年4月17日 09:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1324]

続・「恥の文化」の力
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

前回、「恥の文化の力」というタイトルで書かせていただきました。

http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/

少々くどいかもしれませんが、今回も「恥の文化」の話を少し。

前回のメルマガのあと、周囲の学生から、「日本の道徳は、「世間様」だけじゃなくて、「お天道様」も重視しますよね。この二つって、どういう関係なんですか?」と尋ねられました。

また、メルマガのHPやフェイスブックのコメントにも、「お天道様」関係に触れたものをいくつかいただきました。
(コメント、どうもありがとうございました)

私も、日本の道徳は、「世間様」だけでは終わらず、「お天道様」の目を意識するようになるのが本来の姿だと思います。単なる世間様倫理だけではないですよね。

ですが、前回書きましたように、ベネディクトの議論などの影響を受けて、

「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で主体性がなく同調主義的だ!」

というイメージがいまでも結構、根強いみたいです。
(__`;)トホホ

少々前の本ですが、一昔前のいわゆる「進歩的文化人」っぽい政治学者の本を読んでいたら、こういう趣旨のことが書いてありました。

「日本人が水戸黄門のドラマが好きなのは、日本人が、オカミに弱いからだ。権威に従属したり、権威にすべてを委ねてしまったりするのが好きなのだ」。

この進歩的文化人氏以外にも、『水戸黄門』についてこういうふうに語っている人、いまでもときどきいるように思います。大手新聞の社説とかにも、この手の観点から日本人をくさして、「だから日本人は新しい規範意識を身につけ、主体性をもった市民に生まれ変わるべきだ」みたいなの、結構ありそうです。

でも、日本の道徳に対するこういう見方って、一面的過ぎですよね。

確かに、日本人は、ふだんは他者との調和を好む人が多いと思いますが、時と場合によっては、その時代の大多数の人々の見方である「世間様」の見解に逆らっても、自分の信じる道を貫こうとする人もたくさんいますよね。

「世間が分かってくれなくても、己を貫き、歯を食いしばってがんばっていこう」。

そういう強さをしっかり持っている日本人も、決して少なくないと思います。

「世間様」だけではなく、「お天道様」を意識するようになるとはどういうことなのか、少し考えてみたいと思います。

確かに、日本人が、「人目を気にする」ことは多いようです。
発達心理学の本などをみると、子供のしつけの際に「他者が自分のことをどう見ているかを意識させることが多い」というのは、日本の子育ての一つの特徴のようです。

これは別にへんなことでもなんでもなく、他者の目から自分をみることを覚えさせようとしているのだと思います。他者の目を意識して、他者の観点から自分を振り返る。そして悪いところがあれば改めることを学ばせる。そういうことなのでしょう。

子供は、だいたい最初は、母の目を意識することを覚えます。次に父親、兄弟姉妹、友達、先生、先輩後輩、近所の人…という具合に、だんだんと意識する対象が広がっていきます。そして、いろいろな人のもの見方を、当人なりに整理して作り上げたのが、「他者の一般的な見方」である「世間の見方」といえるでしょう。

子供は、成長のある段階で「世間の見方」を身につけます。そして世間一般の観点から自分を見つめることができるようになります。たぶん思春期ぐらいでしょうか。

でも、そこで成長が止まり、世間のものの見方を絶対視してしまって、それに従属するというわけではないですよね。ほとんどの子は、世間のものの見方を身につけたからといって、世間の見方が絶対に正しいなどと考えたりはしないでしょう。

当然のことですが、世間が間違うこともあるってことが、だんだんわかってくるからです。世間が、自分のことを全部知っていてくれているということはまずないわけですから。

「自分は○○だけど、周囲はそうはみてくれない」とか、「世間は自分の学校のことを△△のようにいうけど、実はそんなんじゃない」ということを皆、経験するでしょう。それによって、「世間は間違うこともある」ということがわかってきます。
それで、世間の見方や期待に沿って生きていくだけでは満足できなくなるんですね。


たとえば、石川啄木のこの短歌、そのあたりの気持ちを詠んでいると思います。


へつらいを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

たぶん、啄木がある程度、売れてからだと思うのですが、おべっかを使う人が周りに集まってくる。でも、自分は、自分のことをよく知っているから、お世辞を聞いても素直に喜べない。そればかりか、自分自身の至らなさに逆に腹が立ってくる。そんな気持ちを詠んだ歌だと思います。(勝手な解釈です。違うかもしれません。スミマセン…)

世間の見方に満足できなくなると、人は、次のように感じると思います。


「世間は自分や自分を取り巻く事情をよく知らないようだが、よく知っているとすれば、どう判断するのだろうか」。

そして、多くの人は、現実の世間そのものではなく、こちらの問いかけ、つまり「世間が自分や自分を取り巻く事情をよく理解しているとすれば、どう判断するのだろうか」ということを基準にして生活するようになると思います。


この「事情をよく理解している世間」というのがいわゆる「お天道様」だといえるでしょう。(または、「ご先祖様」とか、前回触れた「祖霊」とか、あるいは「神様」でもいいと思います)。

こういう感じで、結構多くの日本人が、「世間は必ずしもわかってくれないかもしれないけれど、お天道様には恥ずかしくない生き方をしよう」というふうになっていくのだと思います。

ベネディクトは、「恥の文化」を「世間様」レベルで止まるかのように誤解してしまったようですが、そうではないんですね。日本の道徳は、そこで止まるものではなくて、「お天道様」レベルまで進んでいくと捉えるほうが自然だと思います。

そして大多数の日本人は、「世間様」レベルの道徳では満足せずに、自分の子供には「お天道様」レベルの道徳意識を身につけてほしいと願ってきたはずです。日本の道徳は、世間様倫理ではなく、「お天道様」の目を意識するように求めるものだといっていいと思います。

そう考えると、さきほどの某進歩的文化人氏の「日本人が水戸黄門好きなのは、オカミや権威に弱い日本人の性格をよく表している」というのは、いかにもアサハカ、あるいはイジワルな見方だなあと思います。

むしろ『水戸黄門』は、不当な権威や権力にこびない、己の倫理観に従った自律的な生き方を賛美し推奨する物語であると理解するほうが、自然ではないかと思います。

たとえば、『水戸黄門』のドラマでは、次のような設定がよくありますよね。

ある町では、悪代官が、強欲な商人と結託している。そして、その町で、頑固だが真っ当に生きている職人に辛い仕打ちを行っている。職人は、どうにか持ちこたえ、慎ましくも己の信念に従って生活している。

だが、職人があまりにひどい悪代官と強欲商人の仕打ちに負けそうになったとき、水戸黄門の一行がやってくる。黄門様一行は、職人の窮状をよく知るようになり大いに同情し、悪代官と強欲商人の不正をただすために立ち上がり、彼らに正当な裁きを加える。

以上のようなものです。

このようなおなじみの設定では、悪代官や強欲商人は、偏狭な世間やそこでの権威の象徴だと解することが適切でしょう。水戸黄門の一行は、実はすべてをお見通しの「お天道様」の象徴だと理解できると思います。

したがって『水戸黄門』の物語が与えるメッセージは、権威への従属とか、世間への同調とかではぜんぜんなくて、むしろ次のようなものだと思います。

「お天道様はきっとすべてを観ていてくださり、最終的には正直者こそ救われるはずだ。だから、たとえ現在、よこしまな権力者にいじめられていたとしても、あるいは世間に認められていないとしても、くじけずに己の倫理観を貫いて強く生きよ!」
m9(`・ω・_) キリッ

こういうメッセージに、多くの日本人は世代を超えて共感してきたんでしょう。それで『水戸黄門』は人気番組だったのだと思います。

『水戸黄門』を、日本人の権威に弱く主体性に欠けた同調主義的性格を表す物語だ!などと受け取る「進歩的文化人」系の人って、いまでもときどき目にしますが、日本へのまなざしが少し冷たすぎますよね。もっと共感的理解ができないものかと思ってしまいます。まあそれが商売なのかもしれませんが…。
https://38news.jp/archives/01761

「忖度」を悪者扱いするなかれ From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/11015


森友学園の問題以降、「忖度」(そんたく)という言葉をメディアで頻繁に聞くようになりました。年末の流行語大賞の有力候補にあがりそうです。

近頃、この「忖度」という言葉は、悪い意味を込めて使われているようですね。「権力を持つ相手におもねって、その意をくみ取る」というような意味で用いられる場合が多いように感じます。

例えば、最近の朝日新聞の記事。作家の椎名誠氏の新刊紹介のインタビュー記事ですが、このなかでインタビューアーの依田彰氏は次のように記しています。
(「(著者に会いたい)『ノミのジャンプと銀河系』」『朝日新聞』2017年8月20日付)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13094779.html?_requesturl=articles%2FDA3S13094779.html&rm=150

「そしていまも(椎名誠氏の)好奇心は子供のときのように健在だ。(略)では勉強やバイトに追われ、大人の忖度やウソを見せられている今の日本の子供たちは、椎名さんにどう見えているのだろう」。

依田氏のこの記事では「忖度」という言葉が、「ウソ」と並べられ、何か非常に悪いもののように扱われています。

ですが、もともとは「忖度」、「忖度する」という言葉に特に悪い意味はありません。国語辞典をみると、だいたい「他者の心を推し量ること」といった語釈が掲載されています。悪い意味どころか、むしろ他者の気持ちを敏感に感じ取って、それをおもんぱかるということですので、「思いやり」「やさしさ」「和」など日本人が大切にしてきた、また現代でも大切にしている道徳に大いに関係のある語なのです。

なのに、最近のマスコミでは、「権力者におもねって、その意をくみ取る」という意味で使われ、これが広まりつつあります。そのため「忖度」という語のイメージが悪化していますので、日本の古くからの道徳意識そのものにも悪いイメージが付着してしまわないかと心配になります。

ひょっとしたら、「忖度」をそういう悪い意味で好んで使う人は、日本人の道徳意識自体を、「長いものには巻かれろ」的な、「権力者・権威者に対しておもねりやすく、オカミに弱い」もので、「主体的・自律的ではなく、同調主義的で他律的でいかん」と暗に言いたいのかもしれません。

しかし、「忖度」や、この言葉の背景にある他者の気持ちをおもんぱかる日本の道徳を、悪くとる必要はまったくありません。

「忖度」とは、さきほど述べたように「他者の気持ちを推し量ること」「おもんぱかること」ですが、ここで、気持ちを推しはかる相手である「他者」とは、特に「権力者」「権威者」「オカミ」などに限られません。

例えば、「息子の気持ちを忖度する」とか「友人の行動の意図を忖度してみた」という具合に、「権力者」でも「目上」でもない他者の気持ちを推し量る場合にも使われます。

もちろん、他者の気持ちを重視する日本の道徳自体も、権力者に対しておもねりやすい同調主義的なものだなどと捉える必要はありません。

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、かつて著書『菊と刀』のなかで、日本人の道徳意識を「恥の文化」と名付け、周囲の他者の顔色を窺うばかりの同調主義的なものだと非難しました。また、ベネディクトに倣って、日本の多くの戦後知識人も、日本人の道徳は、同調主義的で主体性や自律性がなく、オカミや権威に弱いと批判してきました。


確かに、日本人の道徳意識は、西洋のキリスト教のように絶対的な戒律を前提にしたり、「正義」や「人権」といった抽象的原理を第一に強調したりするものではありません。そうではなく、日本人の道徳意識とは、様々な他者の気持ちや期待を感じ取り、それに配慮し、自分の行為や思考を絶えず反省し改めていくことを重視するものです。

ですが、このことが「権力や権威に弱い」とか「同調主義」につながるというわけではありません。

気持ちを感受し配慮すべき「様々な他者」には、権力者やオカミ、目上の人などだけではなく、身近な家族や同僚、あるいは見知らぬ外国人や世間様も含まれます。

それどころか、日本の道徳では、「様々な他者」には人間以外の者も含まれることが少なくありません。

植物など人間以外のものも含まれるのです。


私は、最近、なぜか園芸にハマっています。それで今年の夏は、朝顔やひまわり、ハイビスカスの気持ちを忖度するのに明け暮れてしまいました。
f(^_^;)

例えば、うちのベランダには、赤、黄、ピンクのハイビスカスの鉢植えがあり、7月のはじめごろまでは、ほぼ毎日、どれかの鉢が大輪の花を咲かせていました。

園芸初心者の私は、「ハイビスカスは熱帯の花だから、これから暑くなってくるとますます多くの花が咲くだろう!」(^^♪)と楽しみにしていました。

ですが、7月も半ばになり本格的に暑くなってくると、黄色いハイビスカスは、つぼみはたくさんつけるものの一向に開花しなくなってしまいました。つぼみは、花を咲かせないまま変色して自然と落ちてしまうのです。赤とピンクの鉢も、花こそ咲かせるものの、どんどん花が小さくなっていきます。

心配になりました。日照不足? それとも肥料不足? はたまたダニかアブラムシでも付いたか、病気にかかったか? あるいは鉢が小さくなって根詰まりを起こしたか?などといろいろ考えました。顔色ならぬ葉色を伺いながら、物言わぬ黄色のハイビスカスの気持ちをあれこれまさに忖度していました。

本やネットで調べたり、うちの大学の農学部の学生を捕まえて尋ねたりしたのですが、結局、「夏バテ」だったようです。ハイビスカスは熱帯原産ですが、最近の日本の夏の猛暑は熱帯地方以上のようですね。真夏は暑すぎるので、鉢植えをあまり直射日光に当てず、日陰の涼しいところに置くようにすると、秋になるにつれて元気を回復するそうです。
φ(・ω・ )フムフム

私だけでなく、園芸好きは皆、こんな感じで植物の気持ちを日々忖度しているのだと思います。

いとうせいこう氏は、様々な分野でマルチな活躍を見せている人ですが、ベランダ園芸界の大御所でもあります。いとう氏の園芸エッセイのなかでも、植物の気持ちを忖度する様子が描かれていました。

ニオイザクラの鉢植えが枯れてしまったのではないかと心配し、いとう氏は次のように書いています。

「…匂い桜は枯れ色の枝を固定したままで数か月、愚痴も礼も言わない。すねてしまった内省型の女のようで頭に来た。(略)何か言ってくれればこちらの気も晴れるのである。(略)その言葉からなにがしかのコミュニケーションが生まれ、互いの気持ちを忖度し合えるのではないか」(『ボタニカル・ライフ』新潮文庫、2004年)。

ことは園芸趣味だけにとどまらず、実は、植物など人間以外のものの「気持ち」を重視し、それに配慮するよう教えるのは、日本のしつけや教育の大きな特徴でもあります。

教育心理学者の臼井博氏は、教育学や心理学の様々な実証的研究を踏まえつつ、日本では、人間関係で他者との共感が好まれるが、これは人間同士の関係だけにとどまらず、人間と動植物との関係でもそうだと論じています(臼井博『アメリカの学校文化 日本の学校文化』金子書房、2001年)。

例えば、日本と英国の国語教科書の内容を分析した研究では、物語の主人公に動植物が擬人化されてでてくることが、日本の教科書では英国の教科書の3倍近く多いということです。

また、日本と米国の母親が子供にどのように言って聞かせるかを比較した別の比較研究では、日本の母親は、米国の母親と比べると無生物や動植物を擬人化することが多かったということも臼井氏は指摘しています。例えば、子供が家の壁にクレヨンで落書きをしているのをみかけたときに、「壁さん、泣いちゃうよ」と言ったり、夕食のおかずを食べないときに「人参さん、食べてもらえなくてかわいそう」と言ったりするというものです。

日本の母親がこういう言い方をすることは特にめずらしいことではないですが、この研究によると、アメリカの母親がこういう言い方をすることはほどんどみられなかったとのことです。

他にも例えば、文科省が作成した道徳の副教材『心のノート』(小学校3, 4年生向け 平成21年改訂版)には、「植物も動物もともに生きている」という項目があり、そこでは「植物も動物も、人間と同じような心や力をもって生きているんだなと感じたことはありますか?」という問いかけがなされていたり、傷ついた菊の花をかわいそうに思い、手当してやる子供の話などが出てきたりします。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302316_22.pdf

考えてみれば、日本人の多くはかつて農民だったわけですから、他者の気持ちの感受を重視する日本人の道徳意識というのは、植物など人間以外の者が対象として含まれるのは当たり前なのかもしれません。むしろ、植物や動物、山や川などの自然物が主で、そのなかの一部として他の人間が入ってくると考えたほうがいいのかもしれません。

内山節(うちやま・たかし)氏は、東京と群馬の山村を行き来しながら思索を続ける在野の哲学者ですが、日本の伝統的な主体性の観念とは、「他者のまなざし」を自分のものにし、そこから自分を見つめることが基本となって生じるものだと論じています。このとき、やはり、まなざしを意識すべき「他者」には、人間だけでなく、自然の事物も入ってくると指摘します。

内山氏は、村人とのある会合で、村人が農作業の様子を語るときの語り方について興味を持ちます。農作業について話す場合、村の人々は、「…作物や畑のまなざしで自分の仕事ぶりを説明する。春になった畑が自分に耕作を促し、伸びはじめた芽が村人に間引きを促す。もちろん、森での仕事も同じことである。大きくなった木が、人間に間伐を求める。村人は木のまなざしを自分のまなざしとしながら、森で仕事をする」(内山節『「里」という思想』新潮社、2005年)。

内山氏は、日本の伝統的な主体性の観念の特徴を、欧米の主体性の観念と比較しつつ、次のように述べています。

「欧米的な主体性は、自己や自我が出発点であり、自分の側からの働きかけとともにある。ところが日本的な精神では、他者が出発点にあり、その他者とのかかわりのなかに、主体性も発生する。(略)たとえばそれは、村の森であり、村の川や畑であり、村人であり、村を訪れた人々である。そういった具体的な他者とのかかわりのなかで、他者のまなざしを自分のものにしながら、主体性を発揮する」(同書)。


こう見てくると、「忖度」という言葉に表されるような他者の気持ちを推し量り、それに配慮するという日本人の道徳意識は、決して「権力者・権威者に対するおもねり」とか「同調主義」といったもので言い尽くされるものではないでしょう。また、「オカミに弱い」「主体性や自律性がない」といった批判も、日本人の道徳意識全体を捉えた上でのものではないと言えます。

日本人の道徳意識とは、言ってみれば、自己と、自然界を含む万物・万人との調和的関係を試行錯誤的に絶えず探求していくことを求めるものなのではないでしょうか。

また、日本の道徳は、こうした探求を可能にするために、幅広い、多様な他者の観点を鋭敏に感受する諸々の能力を伝統的に重視してきたのではないかと思います。「忖度」とは、そうした伝統のなかから生まれてきた言葉の一つなのです。

長い目で見れば、今後、世界では、おそらくエコロジカルな視点が重視されるようになると思います。そのとき、日本の伝統的道徳意識が世界的に評価されるようになることは大いにあるはずです。日本の道徳意識は、現代の日本人が十分に理解していない、非常に大きな可能性を含んだものではないでしょうか。

最近、「忖度」が悪い意味を帯びつつあり、またその背景としての他者の気持ちを推し量り、おもんぱかることを重視する日本の伝統的道徳意識も評価されにくくなっているように感じます。

日本人自身が、「忖度」や日本人の道徳意識を矮小化して理解し、それに引け目を感じるようになってしまってはいけません。それは、日本人の道徳的アイデンティティの喪失のみならず、人類の可能性の削減につながるものに他なりません。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c7

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
8. 中川隆[-10726] koaQ7Jey 2019年4月17日 09:03:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325]
伝統の意義と謙虚さ From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/media/11389


やっぱり、今年の流行語大賞に「忖度」(そんたく)が入りましたね。

森友学園の問題以降、「忖度」という言葉をメディアで頻繁に聞くようになりました。最近「忖度」は、悪い意味を込めて使われていいます。「権威ある相手におもねって、その意をくみ取る」というような意味で用いられる場合がほとんどとなっています。

ですが、もともとは「忖度」という言葉に特段に悪い意味はありません。国語辞典をみると、「(相手の気持ちを)おしはかること。推測」という語釈が掲載されています(『三省堂国語辞典』)。つまり、他者の気持ちを推測し、おもんぱかるということです。悪い意味どころか、むしろ「思いやり」「やさしさ」など日本人が伝統的に大切にしてきた道徳に密接な関係を持つ語なのです。

政権批判と絡めて使う最近の用法のおかげで、「忖度」という言葉のイメージがすっかり悪化してしまいました。その影響で、日本の古くからの道徳意識そのものにも悪いイメージが付着してしまわないかと心配になります。

私は、「忖度=権威者におもねり、その意図を汲むこと」という使い方をし、マスコミを中心に面白がっている風潮がどうも好きになれません。

「忖度」やその背景にある「他者の心を推し量ること」を重視する日本の伝統的な道徳意識は、ムラ社会的で遅れた、劣ったものだとする冷笑を奥底に感じるからです。

ですが、「忖度」やその背景にある日本の伝統的な道徳意識は、決して劣ったものではなく、また豊かな可能性を含み持つものなのです。

(この点については、以前、本メルマガで書きました。以下をご覧ください)
【施 光恒】】「『忖度』を悪者扱いするなかれ」(『新・経世済民新聞』2017年9月1日付)
https://38news.jp/economy/11015

日本人はもともと頭でっかちに「ことあげ」することを嫌う性質があるためか、自分たちの文化や慣習の意義をきちんと知的に(つまり言語化して)理解してこなかった面があります。日本人の間では、日ごろのなじみぶかい文化や慣習はごく日常のものですし、それに対して漠然と愛着を感じている場合が多いのであまり問題は生じません。

しかし、知的に理解していない分、文化や慣習のある側面について外国人などに疑問を投げかけられたり、批判されたりすると、その意義をうまく説明できず、そうした文化や慣習を遅れたもの、劣ったものだと考えてしまう場合が少なくないようです。下手をすると、その結果、そうした文化や慣習を「改革すべきだ!」となってしまいます。

例えば、「忖度」の場合だと、「他者の心を推し量ることを中心とする日本の道徳意識は改めるべきだ。小学校からディベート教育を大規模に導入すべきだ!」とかにつながりがちです。

伝統や慣習の意義がわからなくなってきていることを表す最近の例としては、徒弟制についてでしょうか。少し前に、「寿司職人になるための修行は必要か否か」ということがネット上で一時期、話題になっていました。

寿司職人がある程度長い期間、師匠について修行することの意義、つまり徒弟制の意義を、多くの人はきちんと説明できていないように思いました。

この点について私が感銘を受けたのは、大相撲の鳴門親方(ブルガリア出身の元大関・琴欧州)が簡潔ながら的確に語っていたことです。

もう半年以上前の記事ですが、『週刊文春』の阿川佐和子氏との対談記事で、鳴門親方は、付け人(付き人)制度の意義に次のように触れていました(「阿川佐和子のこの人に会いたい」『週刊文春』2017年5月4日・11日号)。

***
鳴門親方: 稽古すれば強くはなります。それよりは素直で気配りができるかどうか。関取が出れば付け人が必要になるわけで、食事のときに水がなかったりするとパッと持って来ることができるとかの気配りが必要。

阿川氏: いま何が必要なのか瞬時に気づく能力ですか?

鳴門親方: ええ。その力があれば、稽古場で私が教えていても、さらにそれ以上に自分で何が必要なのかわかって稽古することができます。そういう子はどんどん伸びていきますよ。
***

「付け人」制度や徒弟制一般について、暑苦しいとか、前時代的だなどと批判するのは簡単です。ですが、長年残ってきた慣習ですので、「付け人」制度にもなんらかの意義があるはずです。

鳴門親方は、実にサラッと、その意義の一つを語っています。

師匠や兄弟子(先輩力士)と同じ空間で長い時間を過ごし、稽古以外の雑用などもこなすことを通じて、師匠や兄弟子のものの見方を学び、その見方から自分自身を見つめる観点が習慣として身についていく。

すると、稽古場でも、自分の現時点での技量を常に師匠の観点から見つめ、吟味し、いま自分にとって何が欠けているか気づき、どうすればいいか、あれこれ考えることができるようになる。

こういう気づきや自己吟味の能力を身につけた者は、学ぶ速度や、その後の伸びが違ってくる。

鳴門親方は、以上のようなことを簡潔に指摘しています。

これは学問的にみても妥当だと思います。教育学者の生田久美子氏(東北大学名誉教授)も、相撲や日本舞踊、邦楽などの徒弟制のなかでの学習の意義について、同じような指摘をしています(生田久美子『「わざ」から知る』(コレクション認知科学6)、東京大学出版会、2007年(新装版)、70-91頁)。

徒弟制度は、様々な職人の世界や武道や芸道の修行で今でも多くの日本人にとって比較的身近なものです。ですが、その意義や効用を、うまく説明できる日本人はあまりいないのではないかと思います。鳴門親方は、外国出身だったからこそ、徒弟制度の意義を知的に理解し、説明できるようになったのかもしれません。

伝統は、何世代もの人々の検討をへてきたものですから、パッと見でわかりにくくても、実は奥深い意義や幅広い可能性を備えていることが多いのです。すぐに非合理だ、ムラ社会的だなどと判断し、改革するぞ〜となってしまうと、気づかぬうちに大切なものを失い、自分たちの可能性を狭めてしまう場合が少なくないように思います。

伝統の前には、ひとまず謙虚になってみる。その構えが案外重要でしょう。浅はかでゴーマンな「インテリ」にはご用心!ですね。

長々と失礼しますた

追伸1
ところで、上の本文中にリンクを張った2017年9月1日付のメルマガで触れた、夏バテして7月以降、花をつけなくなった我が家の黄色いハイビスカスですが、その後、忖度の甲斐があったのか11月末にやっと再び花をつけました!\(^o^)/ 12月になった今でも、大きな花を咲かせています。うちの子は、ハイビスカスなのに冬好きなのかな!?(ウェッブ版の冒頭の写真は、私が12月6日に撮ったものです)。

追伸2
「忖度」については、似たようなことを少し違う角度から、昨日付の産経新聞(九州・山口版)のコラムにも書きました。よろしければご覧ください。
(「『忖度』への冷笑と道徳の矮小化」(『産経新聞』2017年12月7日付)
http://www.sankei.com/region/news/171207/rgn1712070051-n1.html

創造性の土台と閉塞感 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


前回の本メルマガでは、徒弟制の意義について触れました。
日本人自身が、日本の伝統や習慣のよい点がわからなくなってきているのではないかと書きました。

外国人に「この習慣、変じゃない?」と言われると、お人よしの日本人は「そうかもなあ。変えるべきかも」と思ってしまう場合が多いように感じます。

厚切りジェイソンという米国人の芸人さん(兼 IT企業の役員)がいます。「Why ジャパニーズ・ピーポー?」などと問いかけて、日本の習慣の不思議なところに突っ込むのを一つの持ちネタにしています。(厚切りジェイソンの漢字ネタを動画でみたら、結構、面白かったですwww)

その厚切りジェイソン氏、以前、ツイッターでこういう書き込みをしていました。

***
幼稚園→周りと合わせろ
小学校→周りと合わせろ
中学校→周りと合わせろ
高校→周りと合わせろ
大学→周りと合わせろ
会社→周りと合わせろ
パターンパターン!見えてきたよ!

「やりたいことが分からない」とよく相談受ける理由。
自分で考える機会が今までなかったから。
***

これはあまり面白くありません。「日本人は同調主義的で主体性がない!」という欧米人がよくしたがる陳腐な日本批判です。
(´・ω・`)

ですが、こういう批判をされると、「そうだよなあ。日本人ももっと自律性や主体性をもたないといかん!」などと素直に思ってしまう日本人も少なくないようです。

地域によりますが、最近では、外国人の子弟が、日本の小学校や中学校に通うことも比較的普通になってきました。子供を通わせている外国人の父兄が、日本の学校の指導のありかたに素朴な疑問をもつことも増えてきています。

日本の学校には、班活動、給食当番、教室の掃除、部活動など、集団で共同作業をする場面が多くあります。例えば、こういうものについて「集団主義的過ぎないか。子供の個性を圧殺してしまうのではないか」などと心配になる外国人父兄も結構いるようです。

彼らにまさに「なぜ?」と問いかけられたとき、日本の学校の教師は、自分たちが普段やってきたことの意義をきちんと説明できないとまずいはずです。ですが、これ、結構難しそうです。

いくつかの答え方があるでしょうが、私だったら、例えば、次のように答えたいと思っています。

「「創造性」や「個性の発揮」についてのとらえ方が日本と欧米などとはかなり異なる。班活動や給食当番など、日本の学校で集団での共同作業を重視するのは、もちろん他者との協調や調和それ自体が大切だということもあるが、それだけではない。子どもたちの創造性や個性を十分に伸ばし、発揮させるためにも、他者と良い関係を築いていくことを覚えるのは重要だと日本では強く考えられているからである」。
(`・ω・´)

つまり、日本は、個々の子どもの創造性や個性を軽視しているのではない。むしろ、それを発達させるためにも、他の子どもたちとよい関係を作り、共同でいろいろなことをする練習を積むことが大切だと考えてきたということです。

この点について、以前、評論家の山崎正和氏が、日本文学者のドナルド・キーン氏に触れつつ、興味深いことを述べていました。日本と欧米の詩歌に対するとらえ方の違いです(山崎正和『室町記』朝日選書、1976年)。

欧米では、詩人や作家は、しばしば孤独で天才的な隠遁者のイメージがあります。実際、米国の著名な女流詩人エミリー・ディキンソンは今でいう「ひきこもり」に近い人でした。よく知られたところでは『ライ麦畑でつかまえて』でよく知られている作家J・D・サリンジャーも長く隠遁していました。

米国などの考えだと、詩歌は、神の啓示を受けて作られるので、詩人や作家は、あまり人付き合いせず、隠れ住むような暮らしをしていてもいいのです。詩歌をはじめとする芸術は、啓示を受けた個人が生み出すという発想が根底にあります。神を背負った個人が作ると想定されるのです。

他方、キーン氏は驚きをもって記していますが、日本の伝統では、詩歌は常に、人と人との関わりのなかで生まれると考えられてきました。

和歌も俳句も、歌会や句会といった社交の場で作られるのが基本でした。時には、吟行という具合に皆で出かけて行って、歌を詠むこともよくありました。

場の雰囲気や感情を共有し、人と人とが関わり、お互いに批評し合う中で、よりよき詩歌が生まれると想定されてきたのです。詩歌だけではなく茶道や華道にしても、日本の芸術は、社交の場で人をもてなす中で作られるものでした。

日本と欧米のこのような相違は、芸術観の相違であると同時に、創造性に対する見方の違いでもあります。欧米では、創造性を担うのはあくまで個人です。かつては背景に神の啓示がありましたが、世俗化の進んだ現代では神はあまり意識されず、個人の独創がそれを担うという発想に立ちます。

他方、日本では、創造性が生じるのは、人と人との間です。つまり、良き人間関係がある場です。状況を共有し、そこで生まれる感情を分かち持つ人々の相互作用のなかから新奇のユニークなものが生じるという発想です。

創造性についてのこうした日本的な見方は、教育心理学者も指摘しています。臼井博氏は、日米の比較研究の結果をいくつか参照しつつ、「個人主義の伝統の強いアメリカでは創造性を個人の中の特徴であると見やすいのに対して、日本ではそれをむしろ個人間に共有される特徴とみる傾向があるのではなかろうか」(『アメリカの学校文化 日本の学校文化』金子書房、2001年、91頁)と述べています。

つまり、日本では、創造性は、誰か特定の個人の内部から生じるものというよりは、人と人との間から生じると考えられる傾向があるということです。各人の個性の発達も、やはり、よき人間関係の経験を通じて、生じてくると考えるわけです。

そういうことから、日本の学校では、個々の感情移入能力を磨き、他者とのよい関係を築く能力を重視するのです。そのため、班学習や給食当番、清掃、部活動などの集団活動の場を数多く設定し、協調性を陶冶し、また、学級会や「朝の会」「帰りの会」といった皆の生活を振り返って話し合う場を作り、他者への感情移入能力を磨くことを大切だと考えてきたのです。

「創造性」に関する日米の発想の違いは、ビジネスの現場などにも表れます。例えば、米国では、イノベーションを起こす主体として想定されがちなのは、起業家です。独創的個人である起業家が天与の才でもってブレイクスルーを起こすというのが、ビジネスの場での創造性発揮のイメージでしょう。

最近では、日本でも起業家とかイノベーションとかシリコンバレーとか米国的な見方をもてはやすようになってきています。

ですが、それでも日本人にとってなじみ深いのは、やはり、いわば「プロジェクトX」的な見方ではないでしょうか。つまり、新製品の開発など創造性が必要とされる場合、ひとまず、よき信頼関係が得られる場を作り、その場における「知の共有」「感覚の共有」を図っていく。そして皆で、忌憚のないやり取りや試行錯誤をしながら、新奇な、優れたものを生み出していくという見方です。

例えば、「知識経営」を広めた経営学者の野中郁次郎氏は、かつてそのような見方で日本企業の創造性を分析し、大きな話題を呼びました(野中郁次郎、竹内弘高『知識創造企業』東洋経済新報社、1996年)。

気がつけば、また、ちょっと文章が長くなってきました…
f(;^ω^)

結局、何が言いたいかといえば、前回と同じ結論ですが、日本人は、自分たちの日頃の習慣や決まりごとといったものの意義を、知的に理解し、ある程度、言葉で説明できるようにしておくことが現在では必要ではないかということです。

そうしなければ、外国人にうまく説明できないばかりか、日本人自身が、日本的なものの見方を理解できなくなってしまい、みずから良かれと思って「改革」を進めてしまう。その結果、日本人の多くにとって暮らしやすい、また、能力を磨き発揮しやすい社会的基盤を壊してしまうということになってしまうのではないかと危惧します。

今回取り上げた創造性に関しても、米国型の起業家重視の見方が最近では広まりつつあるように、日本人自身が、日本的見方を忘れつつあるというか、きちんと理解できなくなっているように思います。

「創造性とは人と人との間に生まれるものであり、それゆえ、その発揮のためには、相互に信頼し合える良き人間関係づくりがまず大切だ」というような創造性についての日本的見方が忘れられ、改革によって米国型の組織がどんどん増えていけば、結局、創造性を発揮する条件が損なわれ、日本人は創造性を伸ばしにくくなってしまうのではないでしょうか。

その結果、改革すればするほど閉塞感が高まるという、ここ20年間繰り返されてきた光景がまたひとつ再現されることになってしまうのではないかと思います。
https://38news.jp/column/11440

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c8

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
9. 中川隆[-10725] koaQ7Jey 2019年4月17日 09:06:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326]
2014年11月14日「リカちゃん人形」と「いただきます」
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


2週間ほど前のNHKのテレビ番組で面白いことを話していました。
http://www4.nhk.or.jp/masakame/x/2014-11-01/21/30135/

タカラトミーが出しているおなじみの「リカちゃん人形」ですが、今年で発売47年になるそうです。

このリカちゃん人形ですが、47年間、変わらない特徴があるとのことです。

リカちゃんの眼です。リカちゃんの眼は、まっすぐに前を見つめておらず、少し左上に視線が行くように作られています。

なぜかと言えば、子どもがリカちゃんで遊ぶときに目が合ってしまうと、圧迫感を感じてしまうので、それを避けるためだそうです。

タカラトミーは、いかにも日本の企業ですね。

アメリカのバービー人形は、まっすぐ前を見つめています。画像検索して、バービー人形の画像をみてみましたが、なるほど目が合いそうです。私なんかは、バービー人形で遊ぶ子どもは、確かに人形の目から圧迫感を感じてしまいそうだと思いますが、アメリカ人の子どもは別に気にしないのでしょう。

日米の文化の違いですね。

文化の相違といえば、先日、大学院のゼミの時間に学生と「いただきます」についての話をしました。私のゼミは、一応、政治理論・哲学のゼミなのですが、その日はカナダのあるベジタリアン(菜食主義者)の政治哲学者のことが話題に上りました。

その関係で、食事の際に何に感謝するかという話になりました。

日本では、「いただきます!」というときは、料理をしてくれた人とともに、これから食す食べ物(肉や野菜など)にも感謝をします。つまり生命を提供してくれた魚やトリ、ブタ、ウシ、野菜、穀物、果物などに感謝の意を込めて「いただきます」と言うわけです。

欧米では、「いただきます」とは言いませんが、食事の前に祈る場合があります。この際、個々の食材ではなく、キリスト教の神に感謝の念を捧げるのが普通のようです。

私は、キリスト教の中学校に通っていたので、中学時代、たびたびキリスト教のお祈りを唱えさせられました。いまでも覚えているのですが、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という一節がありました。食物を与えてくれるのは神だと理解するわけです。

生命を捧げてくれた個々の食材に感謝する日本と、万物の創造主としての神を想定し、その神に感謝する欧米。この相違の根底にあるものは、食前の儀礼以外でもさまざまな面で見出すことができ、非常に興味深く感じます。

論者によって詳細は異なりますが、日本と欧米の文化の違いについて、よく次のような指摘がされます。

日本では、状況における他者の気持ちや期待、人々の関係性や社会的役割に注意を払う「関係重視の道徳」が優勢である。他方、欧米文化では抽象的な原理や非人格的なルールを尊重する「原理重視の道徳」が優勢である。

「リカちゃん人形」の件も、「いただきます」の件も、このような文化差から説明できるのかもしれません。

日本社会では、他の人々に敬意を払い、他者の気持ちを大切にしなさいと教えられます。あるいは、「もったいない」の精神に表現されるように、「万物に感謝の心を持ちなさい」などともよく言われます。

こう教えられるため、日本人は他者の気持ちに配慮するようになりますし、他者の視線に敏感にもなります。モノを大切にする文化も形成されますし、「いただきます」と食前にいう習慣も生じます。

当然ながら、日本と欧米の文化のどちらが優れているかという優劣の問題ではなく、文化の違いの問題です。

ただ、日本人は弱気なことが多いですよね。自分たちの文化の論理をうまく説明できず、主張されるがままに欧米の理屈を受入れてしまうことが少なくないようです。

このメルマガでよく取り上げる言語学者の鈴木孝夫氏が、ある本で次のように書いていました(鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書、1999年)。

アメリカ人の英語教師が、日本の学生たちによく要求することの一つに、人と話すときは相手の目を見つめながら話しなさいということがあります。会話の最中に目をそらすことは何か心にやましいことがある、何か良くないことを企んでいる、と解釈するのがアメリカの文化だからだそうです。

しかし、日本人の感覚からすれば、人の目をじっと見続けることは、失礼なことです。「ガンをつける」という言い方があるように、日本では相手の目を注視すれば見つめられる方は不快な気持ちになってしまう場合が多いでしょう。

ですが、日本人は、アメリカ人の先生に「相手の目を見て話しなさい」と言われると、照れくささや違和感を覚えながらも、おとなしく従うことがほとんどだと思います。

鈴木孝夫氏は、ここで黙って従ってしまうのはおかしい、それでは本当の国際的な相互理解は果たされないとします。国際的な相互理解という観点からすれば、この場合、日本人学生は、アメリカ人教員に日本の文化的見方をきちんと説明すべきだと鈴木氏は論じます。つまり、「相手の目を正面から見据えて話すことは、アメリカと異なり日本では相手を威圧することにつながりかねず礼儀正しいことではない」とはっきりと述べる必要があるというのです。

私もそう思います。日本では、他者の言い分を受入れ、自分を変えていくことが美徳だと考えられることが多いからか、どうも自分たちのものの見方の意味を言語化し、相手に説明し、納得させることをあまりしてきませんでした。日本人自身が日本的なものの見方は特殊だと思い込み、海外(特に米国)の基準に合わせようとしてきました。

近年は特にそうですね。いわゆる構造改革も、最近のTPP参加を見据えた国内の制度改革(例えば軽自動車の税制上の優遇措置の廃止など)も、そうでしょう。「グローバル化=英語」と言わんばかりのビジネスや教育での英語化の流れも顕著です。この調子でいけば、近い将来、日本人にとって生きづらい日本社会ができてしまい、我々の子孫は大変苦労することになりかねません。

何年かぶりに米国からメジャー・リーガーがやって来て、現在、日米野球が開催されています。近頃いつもそうですが、相変わらず、使用するボールの規格で日本人選手は苦労していると報じられています。

日本のプロ野球で使われているボールと、アメリカの大リーグで使用されているボールは、手触りや縫い目の高さなど細かいところで違うからです。

これなんかも私は、日本で開催するときは、基本的に日本のプロ野球が普段使っているボールを日米野球でも使用するべきではないかと素朴に考えます。あるいは、全試合中、半分は日本球、もう半分はメジャー球というふうに公平にすべきだと思います。

もちろん、メジャー・リーグ主催のWBCではメジャー使用球が使われるので、それに慣れるためという事情もあるのでしょう。

しかし、だったらWBCでも、あるいはメジャー・リーグ自体でも、品質がよりよいとされる日本式のボールを公式球として一部でも採用してもらうように日本野球機構などの上部組織は粘り強く交渉してもらいたいものです。

上に立つ者、あるいは組織が、相手方のルールや土俵を呑まされてしまい、現場の人間が苦労する。なんか最近の日本ってそういうことがやけに多い気がします。
https://38news.jp/archives/04679

2018.2.1 【国家を哲学する 施光恒の一筆両断】

リカちゃん人形の視線と日本文化

 先日、大学で学生たちと雑談していて知ったのだが、2月22日から福岡市博物館で「誕生50周年記念リカちゃん展」が始まるそうだ。タイトル通り、「リカちゃん人形」の発売50周年を記念する展覧会である。

 面白そうだ。リカちゃん人形は、その時々の流行をうまく取り入れてきた。世相の変化を映し出す展覧会となるだろう。現在のプロフィルによれば、リカちゃんの趣味の一つは「SNS更新」だそうだ。現代っ子のリカちゃんは、友達とラインしたり、「インスタ映え」する場所を探して、あちこちで出かけたりするのかもしれない。

 流行に敏感なリカちゃん人形だが、発売以来、変わらない特徴があるのを、ご存じだろうか。目である。リカちゃんの目は、まっすぐ前を見つめておらず、少し左上に視線が行くように作られている。子供がリカちゃんで遊ぶときに目が合ってしまうと圧迫感を覚えるので、それを避けるためだという。

 対照的に、米国のバービー人形は、真正面を見つめている。私などは、バービー人形で遊ぶ子供は人形の目に圧迫されないのかと心配になるが、米国の子供はあまり気にならないのだろう。日米の文化差である。

 言語学者の鈴木孝夫氏は以前、次のように書いていた(『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書)。米国人の英語教師が日本人学生によく要求する点の一つに、人と話すときは相手の目を見つめながら話しなさいということがある。会話の最中に目を逸(そ)らすのは何か心にやましさがあるからではないかと解釈するのが米国流だそうだ。

 しかし、日本人の感覚からすれば、人の目をじっと見続けることはあまり好ましくない。「ガンをつける」と言うように、日本では相手の目を注視し続ければ、見つめられる方は不快な気持ちになるか、当惑してしまう場合が多い。

 それでも日本人は、米国人教師に「相手の目を見て話しなさい」と言われると、照れくささや違和感を覚えながらも、おとなしく従うことがほとんどだろう。

 鈴木氏は、ここで黙って従ってしまうのはおかしい、それでは本当の国際的相互理解は果たされないと指摘する。この場合、日本人学生は、米国人教師に日本の文化的見方をきちんと説明すべきだ。つまり、相手の目を正面から見据え続けて話すことは、日本では相手を威圧することにつながりかねず、礼儀正しいことではないとはっきりという必要があるというのだ。

 私も同感だ。日本には「ことあげ(言挙げ)」を嫌い、謙譲の美徳を尊ぶ気風がある。そのため日本人は自分たちのものの見方の意味を言語化し、相手に説明し、納得させる努力を怠ってきた。こうした日本的なものの見方について、日本人自身が「特殊で劣っている」と思い込み、海外(特に米国)の基準に合わせようとしてきた。実際、ここ20年ほど「構造改革」の名の下に、日本社会を米国型に改造する動きが顕著であった。この調子でいけば、近い将来、日本人が違和感を覚え、生きづらく感じる日本社会ができてしまい、われわれの子孫が苦労することになりかねない。

 今後、日本でリーダー的立場に就く人々は、日本人の感覚や習慣をきちんと認識し、言語化し、外国人に向かってその意義を説明する能力と気概を身に付ける必要がある!

 …と、このように「リカちゃん人形展」の話題から、いつものように学生相手に長々と演説をしてしまった。「また始ったね〜」という具合に、学生たちが温かくも少々呆(あき)れた目でこちらを見ているのに気づき、気恥ずかしく思った次第である。
http://www.sankei.com/region/news/180201/rgn1802010033-n1.html

2018年2月2日【施光恒】リカちゃん人形の不易と流行
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


昨日付の『産経新聞』(九州・山口版)のコラムに、次のような記事を書きました。

「リカちゃん人形の視線と日本文化」(2018年2月1日付)
http://www.sankei.com/region/news/180201/rgn1802010033-n1.html

リカちゃん人形は1967年生まれですので、昨年で50周年を迎えたそうです。それで、昨年3月の東京を皮切りに「誕生50周年記念リカちゃん展」が全国のいくつかの都市を巡回しています。

以前、このメルマガにも少し別の角度から書いたことがあるのですが、リカちゃん人形の目は、まっすぐ前を見つめておらず、少し左上に視線が行くように作られています。子供がリカちゃんで遊ぶときに目が合ってしまうと圧迫感を覚えるかもしれないため、それを避ける配慮だそうです。

リカちゃんの目のこの特徴は、発売以来半世紀、変わっていないとのことです。

その一方、リカちゃん人形は、そのときどきの流行を敏感に取り入れてもいます。産経のコラムにも書きましたが、例えば、現在のリカちゃんの趣味は、「SNS更新」だそうです。

設定では、リカちゃんは小学校5年生ということですので、「SNS更新」が趣味とは、昭和生まれの私からすると「ちょっとませてるなぁ」とか思ってしまうのですが、まあ今の子はそんなものなのかもしれませんね。

リカちゃん人形が半世紀にもわたってながく親しまれてきたのは、「不易流行」の理念をよく踏まえているというのが一因でしょう。「不易」、つまり「いつの時代にも変えてはならないもの」と、「流行」、つまり「そのときどきの状況に合わせて変化を重ねていくべきもの」のバランスがとてもよいのだと思います。

日本の子どもが、米国などの子どもに比べて、他者の視線に敏感で、あまりじっと見つめられると圧迫感を覚えやすいという特徴は、時代を経てもなかなか変わらない部分です。

日本の家庭や学校での子育てでは、「やさしい子」「素直な子」「人の気持ちによく気がつく子」を育てようとします。これはかなり昔から変わらない特徴だと言えます。

この子育ての特徴から、人の気持ちによく気がつく敏感な子が育ち、それが「おもてなし」「思いやり」の文化を生んでいます。また世界に誇るべき日本の治安の良さや整然とした秩序、清潔さの源でもあるでしょう。(むろん、悪い面を強調すれば、他者の顔色を窺いがちで、自己主張が苦手な日本人を生み出す要因ともいえるわけですが)。

人の気持ちや視線に敏感だという日本人のこうした特徴が変わりにくいことは、「やさしさ」という言葉の語源からもうかがえます。

「やさしい」の語源についてはいくつかの説がありますが、「現在もっとも説得的でほぼ定説化している説」は、「痩せる」という言葉と同根だという説です。

つまり、「やさしい」という言葉は、「人の見る目が気にかかって身もやせ細る思いがする」「やせるほどつらい」「身もやせるように感じる、はずかしい」というのが原義だそうです(参照、竹内誠一『日本人は「やさしい」のか──日本精神史入門』ちくま新書、1997年、76-77頁)。

面白いですね。「やさしい」ことと「人の見る目が気にかかって身もやせ細る思いだ」ということは、元来、表裏の関係にあるようです。「やさしさ」を持つこととは、同時に、他者の目を気にして、ときとして胃が痛くなるような思いもしがちだということなのでしょう。

上記の原義に今の「おもいやり」「細やかな配慮」という肯定的な意味合いが千年ほど前から徐々に付け加わってきたようですので、日本人の性格は、かなり昔からあまり変わらないんだなと思います。

他者の視線に敏感であるというのは、日本文化の根幹の一つで、そうそう変えられるものではありません。

これは、実際、子育ての習慣や言語習慣(人の呼び方や敬語表現など)に深く根差しているものであって、変えようとすれば、「文化大革命」的な日本文化の根本的かつ大規模な変革が必要となります。これは不可能でしょうし、望ましくもないでしょう。

リカちゃん人形は、日本人の子どもは他者の視線に敏感だという変化しにくい事柄に配慮しつつ、そのときどきの流行を積極的に取り入れることによって長い人気を保っています。

このリカちゃんの知恵は、日本の政治や社会、経済の「改革」を考えるうえでも大いに役立つはずです。「リカちゃんに学べ」です。

「やさしさ」に代表される日本人の心のかたちは、良くも悪くも、そう簡単に変わるものではありません。無理に変えようとすれば、どこか歪みが生じます。

例えば、日本人が最も動機づけられるのは、つまり仕事などへの「やる気」を感じるのは、今も昔も、周囲の他者の期待を受け、それに応えようとするときだと言われています。

「きみはわが社の大黒柱だ」「〇〇さんのおかげで皆、助かっているよ〜」といった言葉が、日本人を一番動機づけるのです。

近年、日本人ビジネスマンの仕事への熱意の低下がときおり話題になりますが、この一因は、やみくもな「構造改革」の結果、アングロサクソン型の組織のあり方や雇用制度を取り入れようとし、結果的に、日本の会社組織が日本人のやる気をうまく引き出せなくなってしまったことにあるのではないかと思います。
(この点については、以下の拙コラムをご覧ください。「『仕合わせ』な改革を」(【国家を哲学する 施光恒の一筆両断】2017年6月1日付))
http://www.sankei.com/region/news/170601/rgn1706010026-n1.html

日本社会をよりよくするためには、何よりも、日本人や日本文化の特徴をよく知り、それを前提としたうえで、よりよき形に伸ばしていくことを目標にすべきではないでしょうか。

人々や文化の性格を根本から大変革してやるというのは、傲慢かつ不可能であり、様々な副作用を招くものだと思います。

リカちゃん人形のように、不易と流行のよきバランスを探していきたいですね。
https://38news.jp/column/11584

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c9

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
10. 中川隆[-10724] koaQ7Jey 2019年4月17日 09:08:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327]

日本語は奇跡の言語 _ 欧米人が日本人に絶対に敵わない理由:


世界で最も《 繊細 》な表現をもつ日本語


 雨や風といった自然の気象を表現する言葉や、魚を分類する言葉などの具体例を調べてみるならば、日本語の中に存在するそれらの数の多さに誰もが唖然とすることでしょう。日本語は、外的な事物を対象にした場合のみならず、内的な世界に向かう場合であっても極めて繊細なのです。

 日本語、英語、中国語、台湾語の4ヶ国語を自在に語れる、台湾の李登輝・前総統は、「じっくり考えたい時、私は日本語で考えている」 と語っているそうです。

 私は中国語を話せませんが、100ページ分の中国語を日本語に翻訳すると、どうしても150ページになってしまうことを経験しています。中国語には現在・過去・未来という時制がないこと等も原因の一つですが、対人関係や周辺状況などによっておのずと表現の異なってくる日本語の繊細さが、中国語にはないのです。

 この言語的特長は、「日本人が中国人(外国人)に対して、相手を気づかった繊細な表現をしても無駄である」 ことを示しています。中国語には繊細な表現がないのですから、日本語の繊細さがおのずと生み出している 「日本人の謙虚な態度が、中国人(外国人)には伝わらない」 のです。また、「中国の政治的傲慢さの出所は中国語を話す民族であるから」 とも言えるのです。


○《繊細さ》 それは日本語の中に生きている横の秘儀である 【現実世界での日本の優位性】○

 認知心理学の表現を借りると、「認識できないものは存在しない」 ことになります。言い換えるならば 「言葉で表現できないものは存在しない」 ということです。つまり、「細やかな表現を持つ日本人にとって存在する世界が、細やかな表現を持たない外国人には存在しない」 のです。このことを逆の方向から表現するならば、「言葉で表現できない外国人に創れないものが、言葉で表現できる日本人には創れる」 ということになります。

 常に未知の領域を目指して開発されてゆく最先端産業技術の領域や、繊細な感情表現を背後に内包するアニメなどのストーリー展開において、日本語を話せる人のみが、常に世界の先頭に立って、開発し生産し表現し続けることになるのは必然的なことなのです。

 さて、次に 《繊細》 さ とは全く逆と思われる、《曖昧》 な 表現が活きる日本語の特徴を、その背景から探って見ましょう。


曖昧な表現が活きる日本語の背景


 今日では、日本のアニメがもたらした 「カワイイ(可愛い)」 とか 「ビミョー(微妙)」 といった意味の曖昧な単語が、世界中に広がっています。輸入先の各国では、これらの言葉がいろんな場面によって、異なった意味に用いられているため翻訳できず、「日本語の音」 をそのまま印刷して出版しています。

 言うまでもないことですが、日本語を話す日本人どうしならば、曖昧語を用いた表現でも即座にコミュニケーションが可能です。その理由は、「細やかな感情表現」 や 「音が媒介する意味の広がり」 を言葉の背後で共有しているからです。


■ 細やかな感情表現を持つ日本語 ■

 細やかな感情表現の有無を比較するには、小説や映画のラブストーリーの描かれ方を見るのが例として相応しいでしょう。

 外国のラブストーリーの面白さは、階級や身分の異なる者どうしが、それらの障害を乗り越えて互いを求め合うという “ 状況の中 ” にある ものが殆どです。 故にストーリー展開に引き込まれる傾向があります。「ロミオとジュリエット」 や 台湾・中国でブレイクした 「寒玉楼」 など、みなこのパターンに分類されます。 一方、日本人が心打たれるラブストーリーとは、「相手を思いやる優しさ」 とか、「相手を労わる美しさ」 とか、「惻隠の情」 といった “ 情感の中 ” に見出されるものなのです。

 繊細な日本文学や、日本映画だけを対象にし日本人の審査員だけが選ぶ日本映画大賞の最優秀作品の良さ(美しさ)を、外国人が分るかどうか、日本語の特徴から考えて、かなり難しいと思うのです。


■ 音が媒介する意味の広がりをもつ日本語 ■


 具体例を挙げるならば、「神」と「火水」、「姫」と「秘め」、「松」と「待つ」、「結び」と「生す霊」、「日の本」と「霊の元」、「性」と「生」と「正」と「聖」と「誠」、「愛」と「天意」、「真剣」と「神権」 など、神道の世界では、一つの音を聞いて同音の単語を瞬時に複数思い浮かべることは、「一を聞いて十を知る」 ための大前提になっているのです。神道の世界はここから始まると言っても過言ではありません。

 派生的な事例ですが、日本語の特徴として、音で表現する擬態語や擬声語が非常に多いことが挙げられます。 「ヨタヨタ歩く」 と 「ヨロヨロ歩く」 の違いを日本人に説明する必要はありませんが、外国人にこの違いを理解してもらうためには、ややこしい単語を用いて説明することが必要になります。 前編に記述してきたように、古代の日本人は現代の日本人より遥かに音(言霊)に対して敏感だったようですが、現代の日本人であっても、音としての日本語の特徴に多くを依存して使い分けを行っているのです。


●《言霊》それは日本語の中に生きている縦の秘儀である 【精神(霊的)世界での日本の優位性】●


 音は言葉以前の原初的なものです。日本人が自然の美しさや自然に対する畏怖を感じた時、深い感情をともなって、「ああ」 とか 「おお」 等の母音の単音表現が出てくるのです。感情表現としての音、この原初的な音に細やかな感情表現が乗せられた時、日本語は繊細であるが故に強力なエネルギーをもった言霊となります。

 この原初的な音(母音)を日本語の中に持つが故に、日本は言霊を介して宇宙(神)へと通ずる回路を脳の中に保持している、世界で唯一の特殊な民族集団として<言霊の国・日本>を形成しているのです。
http://74.125.153.132/search?q=cache:Dsy-yxb-UusJ:blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf413/30487456.html+%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E+%E6%84%9F%E6%83%85%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

日本の成功の秘密は日本語にあるのですが、欧米人にも、そしてなぜか当の日本人にもそれがわからないのですね:


日本語は、マスターをするのが難しい言語かもしれない。しかし一旦マスターすれば、これほど便利な言語はないと考える。これは筆者の偏見かもしれないが、日本語は世界の中で一番進化した言語であり、優れた言語と思っている。

表意文字である漢字は、文字自体に意味を持つので、言葉を速く理解することができるという利点がある。特に漢字はパターンで認識するので、文字とイメージが結びきやすい。「犬」という文字を見ると、犬のイメージが頭に直ぐ浮かぶ。「京都」という言葉に当ると、京都という文字から京都に関するイメージが自然と頭に浮かぶ。


高速道路の標識も、漢字だから速く、しかも正確に認識できる。これがアルファベットなら一瞬のうちに認識することは難しい。例えば長い地名がアルファベットで記されていたなら、車を停車させなければ、書いてある行き先を読むことはできないであろう。これは言語の特徴を考える場合、重要な点である。

日本語の文書は、斜読みによって、ある程度の意味を把握することができる。これも日本語に漢字が使われているからである。速読の達人と呼ばれる人がいるが、もし文章が全て「かな」で書いてあったなら、とても一瞬のうちに読むことはできないであろう。アルファベットだけの英語も速読に向かない言語と思われる。


日本においては、昔から、一般国民の中に文章を読める者は大勢いた。特に明治時代に義務教育が始まり、誰もが日本語を書いたり読んだりするのが当り前になった。少なくとも日本では、中国のように、国語というものが、極少数の超エリートしか操ることができないという代物ではなかった。


戦後、GHQが日本人を色々調査した。当時、米国人から見れば「日本人は人間より猿に近い動物」という認識であった(失礼な話である)。

そのような日本人が、どうして短期間のうちに列強と対等の国力を持つことができたのか、不思議だったのである。しかし調査によって、日本では、どのような地方に行っても、またどれだけ年配の人でも、文字を知り、文章が読めることを発見した。これはGHQにとって驚きであり、これで日本を見直したのである。これも日本の教育制度が優れていたのと、日本語が誰にもマスターできる優れた言語であったからである。
http://www.adpweb.com/eco/eco395.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c10

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
11. 中川隆[-10723] koaQ7Jey 2019年4月17日 09:21:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1328]

日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

▲△▽▼


2012年09月03日
始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html


「始原の言語・日本語の可能性」シリーズも今回で最終回になります。
全編 黒川伊保子氏の著書「日本語はなぜ美しいのか」〜集英社新書 から紹介させていただきました。私たちは今回6名でこの著書を輪読し、特に心に響いた箇所をできるかぎり本編に忠実に転載させていただいたのですが、どこを切ってもじっくり味わいのある箇所ばかりで、黒川伊保子さんには大いに感謝しております。

黒川伊保子さんのいきいきしたインタビュー風景です。〜こちらよりお借りしました。

当ブログは日本人の心の原点である縄文時代を中心に記事をつくり、発信していますが、著者が捉えている日本人、日本語、日本は実にしっくりくる内容の連続でした。縄文人が豊かな自然に同化し、その恵みを得る中で感性が作られてきたその歴史のまま、日本語の成り立ちも形成も伺うことができます。黒川氏は豊かな潜在思念でそれらを捉え、既成観念や近代思想の壁をわけなく突破し、自由に伸びやかに書かれたこの著書は、言語学という域に捉われない珠玉の一冊だと思いました。


最後に本編の各記事のエキス(抜粋)を紹介させていただきます。詳しくはクリックして記事を読んでみてください。


始原の言語・日本語と、日本語に見る言語の本質・起源 プロローグ

日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。

発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

(1)日本の爽やかな朝(アサ)と英国の穏やかな朝(morning)〜

その国の風土と人々の意識とによって、長く培われてきたことばが、母国語である。中でも、一つの土地において、似た骨格をもつ民族が、同じ生活習慣を重ねながら作り上げてきた母国語は、風土と意識と、身体感覚と、ことばとがしっかり結びついているので、ことばに込められた情感が深い。

(2)実体と発音が一致している美しい日本語

ことばは音韻(ことばと音の最小単位)の並びであり、その発音体感が潜在脳にしっかりとことばの象を作り上げる。コロコロ、ソロソロ、ツルツル・・Kは固体、Sは空気、Tは液体。これらの法則は発音体感によって生じたものである。
私たちはこうして、事象に似た発音体感を味わいながら、ことばをしゃべっているのである。大きなものには大きな発音体感を、硬いものには硬い発音体感を、スピード感のあるものにはスピード感のある発音体感を、優しいものには優しい発音体感を・・・・そうして名を呼ぶ者は、名のもち主と響き合うのだ。

(3)2重母音が作り出すやわらぎの意識

クヨクヨ、フワフワ、ソワソワ・・・ヤ行とワ行、この2重母音の行は他の子音群にはない特徴を示している。単純なひとつの感情だけでなく重層した微妙なニュアンスの表現を求める日本人を現す特徴的な言語のひとつかもしれない。


(4)実体(対象)と発音体感の一致

サラリ、ヒラリ、ニコニコ、ホカホカ・・・ラ行(R)は哲学の響き、ナ行(N)は抱擁の感覚、ハ行(H)は熱さをあらわす。日本語にはその関係が、擬音語・擬態語などに特に特徴的に見られるように、鮮明に豊かに存在する(残存している)ことが分かる。


(5)母音が作り出す感性

母音は息を制動せずに、声帯振動だけで出す、自然体の発生音である。
自然体で発生される母音は、音響波形的にも自然の音に似ている。
自然体で素朴、ドメスティック(私的、内的、家庭的)な印象があり、ふと心を開かせる音。これが、母音の感性的な特徴になる。

(6)母音の感性が生む心開く会話

部下や子供、異性と接するとき、相手の本音を聞きたいと思ったら、母音のあいづちはよく効くので、覚えておくといいと思う。さらに、「おはよう」「お疲れさま」「ありがとう」など、母音の挨拶を心がけると、ぎすぎすした職場に連帯感が生まれる。


(7)〜相手と融合する母音語と境界線を作る子音語〜

潜在意識で母音骨格をつかむ私たち日本人は、話しているうちに、意識レベルで相手と融合してしまう。意味的な合意を得られなくても、一定時間話し合えば、なんとなくわかり合えた気になる。日本語はそういう特性の言語なのである。「話せばわかる」とは、いかにも日本人らしい名言だと思う。

一方、相手の音声の中から、機械音に近い、威嚇効果のある子音だけをつかみとる人たちは、話しているうちに、相手との境界線がしっかり見えてくる。この境界線を越えるための権利と義務について話し合わなければ・・・・・彼らの潜在意識は、そんな風に感じているはずだ。

(8)〜自然と同化する母音語人〜

母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

(9)〜環境は言語を作り、言語は人を作る〜

何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

(10)〜早期英語教育は危険!?〜

母国語は、自然に耳に入るから、放っておけば自然にしゃべれるようになると思っている親がごまんといるが、それは違う。脳が最初に出会う母語は、母親(主たる保育者)と触れ合いながら口頭で伝えられて、初めて脳に刻み込まれる。

そういう意味で3歳以下のまだ母語が定着していない時期での早期英語教育は極めて危険である。

(11)〜共認時代には日本語が相応しい〜

母音語を母語としている国は日本の他にはポリネシア地域の一部にしかいない。唯一日本に到達した一派だけが母音語を温存させた。それは日本列島が他の地域にない特徴(争いがない、温暖で豊かな自然)を有していたからであり・・・。

子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c11

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
12. 中川隆[-10722] koaQ7Jey 2019年4月17日 10:44:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329]

日本の風俗は日本人限定の超過激サービスなので外国人は絶対 NG


中国人客急増で梅毒大流行 _ 性病地獄に堕ちていく日本の風俗嬢
今は性病が蔓延しているので、もう風俗に行けなくなりました。


2017-11-01
あまり表側には出てきていないのですが、アンダーグラウンドの女性と話していたりすると、現在の日本の風俗が凄まじく危ないことになっているのが分かります。

何が危ないのか。性病です。

梅毒が私たちの想像をはるかに超えたレベルで蔓延するようになっており、吉原から雄琴から福原から、片っ端から女性が感染している事実があるのです。

これを放置していると日本のアンダーグラウンドは性病多発地帯と化す可能性がありますが、風俗店は放置状態なので問題は悪化していくばかりになると思います。不吉です。

ブラックアジアでは、アンダーグラウンドでも特に「女性」に焦点を当てて取り上げて来ました。私の関心は、常に社会の裏側に堕ちた女性に集中しています。

社会の裏側で、女性が数多くの理不尽な虐待を受けているというのも、普通の女性は「薄々と気付いている」はずですが、それがどんなものなのか、はっきりと知らないはずです。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171101T0103560900.html


裏で囁かれていること。風俗の主力客は日本人でなくなる?

高級、中級、格安問わず、すべての風俗で外国人の男たちが日本の風俗嬢を買いにやってきている。

外国人と言えばアメリカ人やイギリス人を思い浮かべるのは遅れている。

欧米の人々もくるが、日本で最も多い外国人は、日本政府観光局の出している2017年のデータによると、中国人・韓国人・台湾人・香港人・タイ人の順番となっている。

しかも、中国・韓国人の訪日客数は他を圧倒的に引き離しており、アメリカ人と比べるとその差は5.2倍近くもある。

だから、分かりやすく言おう。「男たちが日本の風俗嬢を買いにやってきている」と言えば、中国人と韓国人が日本の風俗嬢を買い漁っているということだ。

実際、大手の風俗サイトは中国人と韓国人の需要を見込んでいて、サイトをこれらの国の言葉でも作って客を募っている。

この動きは、風俗に関心がない表社会の人々にはまったく知られていない事実なのだが、ここ数年前から起きている大きな潮流である。

先日、超激安の地雷専門デリヘル店の女性にも話を聞いたのだが、私は気になって「この店にも外国人の客は来るのか?」と尋ねてみた。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180218T0446160900.html


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ZAKZAK【感染大陸中国】
中国人客急増で“性病”大流行 日本の風俗業界に猛威 2014.10.07


中国国慶節(建国記念日)の大型連休(1〜7日)真っ直中。円安・人民元高も加わり、日本を訪れる中国人観光客はいつになく多い。ここ数年、消費の起爆剤として期待されるようになった彼らだが、負の側面も顕在化。風俗業界では沈静化したはずの性病が再流行し、その原因として隣国からの“お得意さん”の影響がささやかれている。日本の風俗業界が直面する感染症の現実と中国人客、そして中国国内でのずさんな衛生実態をジャーナリストの奥窪優木氏が5回にわたってリポートする。

 70年ぶりに国内感染が確認されたデング熱は、17都道府県あわせて154人(4日現在)が発症する事態となった。西アフリカではエボラ出血熱の感染拡大が世界的な危惧となり、日本でも検疫所による水際対策が強化されるなど「対岸の火事」ではなくなってきた。

 新旧感染症への不安が高まるなか、日本国内の“ある場所”で猛威を振るっている別の感染症がある。

 都内デリバリーヘルスの男性店長、A氏(29)によると、店で働く女の子たちの間で、性感染症にかかるリスクが高まっているのだ。

 同店では、風俗嬢として働く女性に、月に1回の性病検査を義務付けているが、2年ほど前から陽性の結果が出る頻度が高まっているという。在籍する20人ほどの女の子のうち、最近はほぼ誰かが感染している状態で、クラミジアや淋菌のほか、梅毒が喉から検出されることが多いという。

 以前は、半年に1人に陽性が出るか出ないかの程度だったというから、アウトブレーク(感染爆発)状態にあると言えるかもしれない。

同店では、コンドームなしでのフェラチオや素股といった粘膜接触を通常サービスとして提供しており、さらに別の客へと感染が広がる可能性も高い。「あの店で性病をうつされた」という噂がネットで広がれば店にとって死活問題であるため、各店の店長らは対応に苦慮している。

 こうした異常事態の原因について、A氏が心当たりとして挙げるのが、外国人客の増加だ。

 日本の性風俗店のほとんどは、もともと外国人客お断りが原則だった。ところが長引く不況で客足が低迷するなか、方針転換を図った店も多い。

 A氏の店もその1つで、2年ほど前から外国人への門戸も開いた。ここ数カ月では売り上げの約1割がアジア系の外国人で、「おそらくほとんどが中国人」とA氏は話す。

 「日本語が分かる通訳か、ガイドが電話してきて、彼らが宿泊しているホテルに出張することが多く、中国系の団体旅行者の場合、4〜5人の客からまとめて注文が入ることもある」(A氏)。店にとっては上客なのである。

 外国人客を受け付けるかどうかは女の子に委ねられているが、「性病検査で陽性が出る割合は、外国人客OKの女の子が圧倒的に多い」というから感染経路は推して知るべしだ。

 昨年、日本を訪れた外国人旅行者は1000万人の大台を初めて突破。あらゆる業界が彼らの財布をターゲットにしているが、風俗業界も例外ではない。しかしそこには、負の側面も潜んでいるのだ。 =つづく

 ■奥窪優木(おくくぼ・ゆうき) 1980年、愛媛県生まれ。上智大経済学部卒。2004年に渡米、出版社・新聞社勤務を経てフリーに。07年から中国・広州で取材活動を開始。08年に帰国し、中国の社会問題を週刊誌などで執筆中。著書に『中国「猛毒食品」に殺される』(扶桑社)、『中華バカ事件簿』(同)など。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20141007/frn1410071545004-n1.htm  


抗生物質が効かない「スーパー淋病」が拡大している  2018/01/23
世界に広がるスーパー淋病

『世界保健機関(WHO)が、薬で治らない病気が世界に拡大しているとして警戒する病気がある。

それは「淋病」である。たかが性病と侮ってはいけない、現在大流行している新種の淋病は、薬が効かないのだ。

一度かかってしまえば一生治らない可能性もある。

淋病は一昔だとペニシリンを投与すれば、完治していたのに最近ではペニシリンに耐性をもつ淋菌が現れて抗生物質が効かなくなりつつある。

新しい薬を開発し耐性菌が現れ、また新しい薬を開発し、また耐性菌が現れ、淋病に関してはこのイタチごっこが特に続いています。


「スーパー淋病」とは

通常の淋病よりも強力になった淋病のことをいます。

菌の中で、突然変異によってある薬に耐性を持つ新種の菌となったのが薬剤耐性菌だ。治せないのでどんどん広がっていく。
その過程でさらに別の薬への耐性もつき、あらゆる治療薬が効かなくなったのが「スーパー淋菌」だ

しかも、新たな「スーパー淋病」が初めて見つかったのは日本だという

現在、多剤耐性菌「スーパー淋病」という抗生物質が効かない病気が日本と韓国の風俗店で発見されたという報告があります。

「京都市内のファッションヘルスに勤める女性(当時31歳)の定期検診で、咽が淋菌に感染していることがわかり、“最後の切り札”ともいえるセフトリアキソンを投与したところ、菌が消えなかったのだ。

採取した淋菌を解析したところ、セフトリアキソンに対する非常に強い耐性をもっていることが判明したのだ。「スーパー淋病」発見の瞬間である。

日本で確認されている「スーパー淋病」の事例は、今のところ京都の1件のみだが、海外ではヨーロッパとオーストラリアで発見され増加しつつある

WHOはホームページで「ペニシリンなどはもちろん、どの抗生物質を使っても治らないスーパー淋病にかかっている患者が数百万人いる」とし、オーストラリア、フランス、日本、ノルウェー、スウェーデンと英国で、抗生物質が効かない淋菌が報告されている」と警告した。

WHOによると、性感染症である淋病に毎年約8000万人が感染していおり、抗生物質が効かない淋菌がふえていてこのままでは淋病が制御不能になりと警告をしている。
http://soukai213.com/super-rinkin


東南アジアで多剤耐性を持つ淋菌に感染、抗生剤2種効かず 英男性症例
2018.03.29 Thu posted at 16:32 JST抗生剤への耐性を持つ淋菌に英国の男性が感染した


(CNN) 英イングランドの公衆衛生当局は29日までに、英国人男性が多剤耐性を持つ淋菌に感染したと報告した。

男性は今年、性サービスを受けて淋菌に感染した。一時治療としてアジスロマイシンとセフトリアキソンの2種類の抗生剤が投与されたが、いずれも効かなかった。両抗生剤への高度耐性を持つ淋菌の感染報告は世界で初めてだという。

男性は東南アジアで淋病に感染。その1カ月後に症状が出始めた。現在は抗生剤エルタペネムの静脈投与を受けており、今のところ効いている模様だという。4月に再び検査を受ける見通し。

イングランド公衆衛生当局の性感染症部門トップ、グウェンダ・ヒューズ氏は「他の選択肢で効果的に治療が行われ、伝染リスクが最小化されたことを確認するため、引き続きこの症例を観察している」と説明。安全な性行為を実践して感染を避けることの重要性を強調した。

薬剤耐性を示す症例の増加に伴い、国際衛生機関では淋病に対する懸念が高まっている。

世界保健機関(WHO)の専門家テオドラ・ウィー氏は昨年、「淋病を引き起こす細菌は特に賢い。われわれが新しい抗生剤を治療に投入するたびに進化して耐性を獲得する」と指摘していた。

WHOは淋病の年間感染者数を7800万人と推定。米疾病対策センター(CDC)によれば、米国での年間の新規感染者は推定82万人に上るという。

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2017-10-02
 ソープランド嬢の本当の地獄がこれから始まる理由とは?


2017年9月19日、西日本新聞は

『危機的状況。九州でエイズ感染急増 16年福岡は61%増 佐賀、熊本過去最多』

というタイトルで記事を出している。

HIV感染者、エイズ患者の新規報告者数が2015年と比べて61%も増えて一気に計92人になっていた。この内訳については9割が日本人ということなので、日本人83人、外国人9人が新たに陽性になったということになる。

また6割が同性間性的接触、4割が異性間性的接触ということなので、55人が同性間で感染、37人が異性間で感染したという状況だ。

このニュースはアンダーグラウンドで瞬く間に拡散されて、一種の「九州パニック」のようなものが起きていた。

理由は言うまでもない。同性間性的接触と異性間性的接触のいずれも、売春や風俗が感染の現場になっていることは明白だからだ。

特に4割の異性間性的接触は、すべて「風俗嬢が関わっている」と考えて間違いない。HIV感染は不特定多数の性的接触が行われている現場で感染する。業種で言えば、膣内射精を受け入れるソープランドが最も危険だ。

しかし、「九州パニック」に落ちたほとんどのソープ嬢は、もっと大きな事実を見逃していることを私は確認していた。彼女たちは重要なことを見逃していた。
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20171002T0319530900.html


 即尺に膣内射精。ソープランドの危険で無謀な性サービス

ここ数年で数十人もの風俗嬢と会って話を聞くのと同時に、最近になって私が労力をかけていることがある。

それは、インターネットで風俗嬢が書き込みをしている掲示板、SNS、ツイッター、ブログ等から書き込みを収集(スクレイピング)して、テキストファイルを莫大に集めて読み込む作業だ。

機械的なスクレイピングによって収集された400万ファイル以上のテキストデータをプログラムによってフォーマットを整えると旧約聖書が10冊あるくらいのボリュームになる。

その大半は価値のない会話や言い合いだったりするので目にするだけでウンザリするのだが、その中で読むに値する文章や情報や感情の吐露もある。

そうした部分に印をつけておいて、いつでも検索で呼び出せるようにする作業を繰り返していくと、日本の風俗嬢が何を考えているのか、その心境が浮かび上がってくる。

この作業で何が浮かび上がってきたのか。

それは、男たちの99%が無視している女性の心の闇だ。やってくる男たちにうんざりし、嫌悪し、罵り、絶望し、その中で発狂しない程度に性サービスをやりくりしている女性たちの赤裸々な心の裡(うち)が見える。

日本の風俗嬢たちは、男たちを憎んでいたのである。完璧な接客で気付かないかもしれないが、風俗嬢たちは男たちを嫌悪し、時には激しい憎悪を隠して、それでも表面では満面の笑みを浮かべている。裏側は拒絶心でいっぱいなのに……。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170907T0234380900.html


売春地帯をウロウロしているのであれば、そこは性病の温床であると認識しなければならない。売春する女性と縁が切れないのであれば、当然のことだがSTD(性感染症)の脅威は常にある。

ハイエナにとってHIVやSTDはいつでも「今そこにある危機」なのだ。自分だけ絶対にかからないというのは根拠のない自信に過ぎない。

カンボジアの売春地帯では、70ストリートの売春宿の入口で痩せ細ったエイズの女性が虚ろな表情で座っている姿を見ているし、性器にびっしりと尖形コンジロームを発症した女性を見て恐れおののいたこともあった。

尖形コンジロームの女性はインド売春地帯でもしばしば見た。インドではこれが流行っているのだが、女性たちはこれを性病とは知らないでいる。

コルカタの売春地帯では売春している娘の母親がエイズ末期のような様態で金を取りに来たり、部屋で身動きしない痩せた女性がいたりするのが我が目に焼き付いた。

こうしたこともあるので、ハイエナとして現役だった頃は半年に一度、最近も1年に一度は必ずHIV検査を受ける。さらに今年からは淋病や梅毒の検査も含めることにした。

なぜなら、日本で淋病や梅毒が再びアンダーグラウンドで猖獗を極めると確信したからだ。そんな考えもあって、STDの検査を先日受けてきた。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170830T0200570900.html


即尺に膣内射精。ソープランドの危険で無謀な性サービス

ここ数年で数十人もの風俗嬢と会って話を聞くのと同時に、最近になって私が労力をかけていることがある。

それは、インターネットで風俗嬢が書き込みをしている掲示板、SNS、ツイッター、ブログ等から書き込みを収集(スクレイピング)して、テキストファイルを莫大に集めて読み込む作業だ。

機械的なスクレイピングによって収集された400万ファイル以上のテキストデータをプログラムによってフォーマットを整えると旧約聖書が10冊あるくらいのボリュームになる。

その大半は価値のない会話や言い合いだったりするので目にするだけでウンザリするのだが、その中で読むに値する文章や情報や感情の吐露もある。

そうした部分に印をつけておいて、いつでも検索で呼び出せるようにする作業を繰り返していくと、日本の風俗嬢が何を考えているのか、その心境が浮かび上がってくる。

この作業で何が浮かび上がってきたのか。

それは、男たちの99%が無視している女性の心の闇だ。やってくる男たちにうんざりし、嫌悪し、罵り、絶望し、その中で発狂しない程度に性サービスをやりくりしている女性たちの赤裸々な心の裡(うち)が見える。

日本の風俗嬢たちは、男たちを憎んでいたのである。完璧な接客で気付かないかもしれないが、風俗嬢たちは男たちを嫌悪し、時には激しい憎悪を隠して、それでも表面では満面の笑みを浮かべている。裏側は拒絶心でいっぱいなのに……。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170907T0234380900.html


売春地帯をウロウロしているのであれば、そこは性病の温床であると認識しなければならない。売春する女性と縁が切れないのであれば、当然のことだがSTD(性感染症)の脅威は常にある。

ハイエナにとってHIVやSTDはいつでも「今そこにある危機」なのだ。自分だけ絶対にかからないというのは根拠のない自信に過ぎない。

カンボジアの売春地帯では、70ストリートの売春宿の入口で痩せ細ったエイズの女性が虚ろな表情で座っている姿を見ているし、性器にびっしりと尖形コンジロームを発症した女性を見て恐れおののいたこともあった。

尖形コンジロームの女性はインド売春地帯でもしばしば見た。インドではこれが流行っているのだが、女性たちはこれを性病とは知らないでいる。

コルカタの売春地帯では売春している娘の母親がエイズ末期のような様態で金を取りに来たり、部屋で身動きしない痩せた女性がいたりするのが我が目に焼き付いた。

こうしたこともあるので、ハイエナとして現役だった頃は半年に一度、最近も1年に一度は必ずHIV検査を受ける。さらに今年からは淋病や梅毒の検査も含めることにした。

なぜなら、日本で淋病や梅毒が再びアンダーグラウンドで猖獗を極めると確信したからだ。そんな考えもあって、STDの検査を先日受けてきた。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170830T0200570900.html

HIV感染は防げるが風俗嬢が見殺しにされる理由とは?

日本の風俗は性病に無防備すぎる。ソープランドではコンドームなしの性行為が日常的に行われていたり、デリヘル等では精液を口で受けたりする。

こんな危険な性サービスが常態化していたのは、日本人は「病気にかかったら病気を治す」というのが常識として定着しているため、性病を持ったまま風俗を渡り歩く人が男女共に少ないからだと言える。

世界は違う。淋病にかかろうが、梅毒にかかろうが、尖圭コンジローマにかかろうが、HIVに感染しようが、それでも医者にかからない人が大勢いる。

貧困で医者にかかれない人もいるのだが、もともと身体の異常に無頓着な人も多い。性病の発症があっても、それを性病と認識しないこともある。

だから、性病を放置したままになりやすい。淋病も梅毒もエイズもいったんそこで流行すると、アウトブレイクするのはそのせいだ。

近年の日本は大量の外国人を受け入れており、欧米人からアジア人までが日本の風俗嬢を買い漁る状況になっている。無防備極まりない日本の性サービスと、性病に無頓着な外国人が出会うことによって何が起きるのかは火を見るより明らかだ。

日本の風俗嬢は、今後は性病地獄に陥るのである。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180117T0200420900.html


風俗嬢が危険にさらされているのに、日本人は冷淡過ぎる

日本の性の現場は、私に言わせると異常であるとしか言いようがない。なぜ日本人はこんな異常を黙って受け入れているのか分からない。

まず、日本の性風俗は「本番行為が禁止」という建前があるので、デリヘルのようなところでは女性が口でサービスして射精させるような行為が一般化している。

コンドームは使わない。生の精液をそのまま口で受ける。

ソープランドはどうか。ソープランドだけは本番行為が黙認されているのだが、ここではコンドームなしの性行為が蔓延していて、それが「売り」になっている店もある。

店は女性に膣内射精を受け入れるように教育しており、女性はそれをやっている。

デリヘルでは口内射精が一般化し、ソープランドでは膣内射精が一般化しているのだから、風俗嬢がいかに危険な状況にあるのか誰もが分かるはずだ。

ところが、日本はこんなものが一般化しているし、誰も何も言わないのである。風俗嬢が危険な状況にあると危機感を持つ人間もどこにもいない。

日本人は、風俗嬢に冷淡すぎるのではないか。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180207T0250450900.html


オーラルセックスが癌の原因に!?厚労省も警鐘鳴らす危険性
ダイヤモンド・オンライン 2016/11/25

 11月25日から12月1日までの1週間は、「性の健康週間」。実は、先進国で性感染症が増加傾向にあるのは日本だけと言われる。その理由は正しい知識が広く浸透していないせいかもしれない。特に、アダルトビデオなどでお馴染みのオーラルセックス(口腔性交)は「妊娠の心配がない」と無防備な人も少なくない。性感染症を無症状のまま、広げてしまうリスクもある。(医療ジャーナリスト 木原洋美)

● オーラルセックスで咽頭がん!?  米国有名俳優の話に脅威

  (おいおい、勘弁してくれよ)

 都内在住の会社員Sさん(40代)は、スマホを見ながらつぶやいた。2013年のことだ。

 配信されていたのはアメリカの俳優マイケル・ダグラスのニュース。

 マイケルは、映画『氷の微笑』『危険な情事』など過激なエロティックサスペンスで人気を博したと同時に、「セックス依存症」を告白したことでも知られる、"とんでもエロおじさん"だ。

 2010年にステージWの咽頭がんを患いながらも、無事生還を果たしたマイケルだったが、なんと自分ががんを発症した原因は「クンニ(クンニリングス)のし過ぎだった」と語っていた。

 自他共に認める大の酒好き、かつヘビースモーカーのマイケルに対して、英ガーディアン紙の記者が「がんを患ってみて、悪しき習慣を後悔していますか」と尋ねたところ、「後悔なんかしてないよ。咽頭がんになったのは、飲酒や喫煙のせいじゃないからね。このがんの主な発症原因はクンニによるHPV(ヒトパピローマウイルスという子宮頸部がんなどの原因になるウイルス)感染なんだから」とご機嫌で答えている。

 これにSさんは動揺した。
 というのも当時、SさんはステージWの咽頭がんと告知され、闘病中だったからだ。

 「喉頭がんの原因が、ヒトパピローマウイルスへの感染かもしれないという話は知っていました。でも、まだはっきりしたわけじゃない。喫煙や飲酒、声の出しすぎだって、関係していますよね。何より僕は、酒は飲むけど、毎日じゃない。タバコだって飲み屋に行った時にたまに吸う程度で、会社の健康診断では一度もひっかかったことがありません。それなのに、いきなりステージW.その上、あのセックス依存症おやじと同じように、『クンニのし過ぎ』でがんになったなんて周囲から思われたら、恥ですよ。悲惨過ぎる」

 ごもっとも。

 Sさんのために補足しておくと、HPVには150以上のタイプが存在し、性交渉の経験がある男女なら誰でも持っている可能性がある。マイケルのようなセックス依存症でなくても、感染してしまうリスクは常にあるのだ。

 そしてHPVのなかには、がんの原因となるハイリスクなタイプもあり、その一部は、性器の内部にある細胞を好み、なかに侵入する性質があるため、主にセックスを介して感染し、がんを発症させてしまうこともある。ただし、HPVが原因で男性ががんを発症する頻度は、子宮頸がんの10分の1程度だ。

 その後、Sさんは幸いにも放射線治療が功を奏して、がんは完治。定期的に検査を受けながらも、元気に暮らしている。

 しかしながら、咽頭がんの治療後の5年生存率は、ステージWの場合約40%。命が危うくなったことへの恐怖から、飲酒、喫煙に加え、妻へのクンニといったオーラルセックス(口腔性交)も一切できなくなってしまった。

● 無症状のままうつしまくる オーラルセックスの危険性

 クンニやフェラ(フェラチオ)など、オーラルセックスでうつる病気には、がん以外にも次のような性感染症があり、厚生労働省はホームページで、「オーラルセックスにより性感染症に感染するということには2つの意味があります」と警鐘を鳴らしている。

 ◎オーラルセックスによる性感染症

 ・淋菌
 ・クラミジア
 ・ヘルペス
 ・梅毒トレポネーマ
 ・AIDSを起こすHIV

 特にオーラルセックスで、性器から口腔に感染した場合は無症状のことが多いので、自分が感染していることに気付かないままに、更に別の性交渉相手にオーラルセックスを介して性器に感染させてしまうことがあります。
 (オーラルセックス(口腔性交)による性感染症に関するQ&A 厚生労働省より)

 無症状で気づかないまま、どんどん他の人たちにも感染を広めてしまうのは、相当恐ろしいことなのではないだろうか。

 まさに、オーラルセックス恐るべし、なのだが、この件に対する日本人の危機意識は呆れるほど低い。

 インターネットを使って8700人から回答を得たアンケート調査(北村邦夫:「日本人の性意識・性行動調査」、2011)によると、全体の49.5%(男性54.4%、女性42.7%)がオーラルセックスを行っており、その際、性感染症を予防するためにコンドームを使用していたのは、わずか17.2%。全体の82.8%(男性79.4%、女性87.9%)は、「まったく使わない」と答えている。

 また、別の調査によると、コンドームを使わない理由は、「口でなら妊娠しない」、「口でなら性病はうつらない」という思い込み、あるいは「ゴムをつけたままは気持ち悪い」という嗜好が大きいという。

 オーラルセックスは妊娠しないし、ゴムは確かに不味くて気持ち悪いが、性感染症は、たとえばフェラしただけでも、してもらっただけでもうつるということを覚えておこう。クンニも同じだ。

 感染症の専門医は、「先進国で性感染症が増加傾向にあるのは日本だけ。その理由は正しい知識が広く浸透していないせいかもしれない。日本性教育協会の調査によると、女子高校生の13%(男子高校生は6.7%)は、クラミジアに感染しているというデータがあるほか、性交渉の相手が多い人ほど、コンドームの使用率が少ないというデータもあります。10代女子の罹患率は世界トップクラス」と語る。

 女子高校生に限らず、日本人は老若男女総じて、「快楽のためなら、性感染症なんて怖くない。場合によっては死んでもいい」と思っているのだろうか。

 まさか、そんなはずはないと信じたい。

● キスでうつるがんも!?  ウイルスが関与する場合は要注意

 さて、日本人の性感染症に対する危機感が薄いのはわかったが、咽頭がんや子宮頸がんに対してはどうだろう。

 これらのがんは性感染症ではないが、セックスを介してうつるという点では一緒だし、オーラルセックスとの関連性も深い。ヒトパピローマウイルスが直接ガンになるわけではないが、細胞の構成を変えることでがんを誘発する。

 だが、この、「うつるがんがある」という事実は、あまりはっきりと語られることはない。

 実際、行政のホームページを見ても、「がんがうつる」という表現は、がん患者への差別や偏見を広めることになるため、正確をとことん期す、というか注意深く避けられているように思う。

 例えば、千葉県のホームページでは、「がんはうつるのですか」という質問に対して、

「基本的にはがんは他人にはうつりません。(中略)しかしウイルスによって生じるがんがありこれらは例外となります。この発がん性のあるウイルスとしては、肝炎ウイルス(B型およびC型)、EB(エプスタイン・バー)ウイルス、ヒトパピローマウイルス、ヒトT細胞白血病ウイルスがあり、それぞれ肝がん、B細胞リンパ腫、皮膚がん、子宮頚がん、T細胞白血病を引き起こす可能性があります。(中略)がんがうつるというよりもがんの原因となるウイルスに感染することがあるとお考えください」と、かなりまどろっこしい表現になっている。

 ちなみに、EBウイルスによる代表的な感染症には「伝染性単核球症」という風邪に似た病気があり、「唾液」によって感染することから、別名「キス症」とも呼ばれ、日本人の90%以上が感染経験を持ち、たいていが成人時にはすでに抗体を備えているとされている。そして、同ウイルスは咽頭がん、胃がんの発生に関係していることがわかっている。

 つまり、とっても極端な話、絶対がんになりたくなかったら、「セックスは必ずコンドームを使用し、オーラルセックスは厳禁、キスもやめておいたほうがいい」ということになってしまうのだ。

 性感染症も然り。

 人類が本能の赴くまま、自由に愛し合えた時代は、もう過去のものなのである。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161125-00109205-diamond-soci


風邪をこじらせて朦朧としながら、夜の世界の賃金を考える

数日前から風邪をひいた。こじらせないように注意していたのだが、意に反して症状は悪化してしまい、悪寒と頭痛と激しい咳が止まらない状態が今も続いている。

10ヶ月ほど前にインフルエンザにかかっているので、インフルエンザと普通の風邪を比較できる立場にある。インフルエンザの症状は急激かつ強烈なのに比べて、重い風邪の方は身体の奥底から疲労感が湧き上がる感じだ。

どちらにしても普通の能力が発揮できないのは間違いないのだが、風邪は誰でもいつでもかかるものなので、めったにかからないインフルエンザよりも、むしろ風邪の方が深刻度が高いのではないかと考えた。

こんな時にも、ふと夜に生きている女たちのことを思う。

昼職と夜職の大きな違いは、昼職は「月給」が基本であり夜職は「日給」が基本であることだ。また昼職は有休なども整備されていて一定時間働けば賃金が保障される「固定給」なのだが、夜職の多くは「歩合給」である。

業種によって、固定給と歩合給を組み合わせたものや、本人が月給か日給かを選択できる形態のものがあるのだが、基本的に夜職は「日給、歩合制」が普通である。


その仕事を長く続けないことを前提とした支払い?

ところで、一般の勤め人にはあまり馴染みのないものに「年俸制」という賃金の支払い方もある。外資系の会社の役員や経営者やエリート社員、あるいはスポーツ選手などは「年俸制」のことが多い。

年俸制、月給、日給……。

一般的に言えば、社会的な立場が強い側であればあるほど年俸制に近づき、社会的な立場が弱い側であればあるほど日給に近づく。

会社から見ると、個人の能力や才能を最大限に発揮して長く会社に留まって欲しい人を年俸制として雇う。

逆に、いくらでも代替がきく仕事に就いている場合や、長く働いてもらえない環境にある場合や、期間が限定されている季節労働などの場合は日給で雇う。

日給というのは、会社も本人も「その仕事を長く続けない」ことを前提として組み立てられた給与体系なのである。

さらに、夜の世界は雇用も企業の存続も浮き草のように不安定である。会社は「いつ飛ばれるか分からない」という疑いを個人に持ち、個人も「いつ会社が潰れるか分からない」という不安を持っている。

だから、「働いた分だけしか払わない」という会社と「働いた分だけもらう」という個人の利害が一致し、それが「完全歩合制」という給与形態になる。

いつ働いている人が飛ぶか分からない仕事、いつ給料が払えなくなるのか分からない会社であればあるほど完全歩合制の日給で払いたがる。

逆に、自分がいつ辞めるか分からない仕事、いつ潰れるか分からない会社で働く場合は、完全歩合制の日給が最も合理的な働き方だ。

社会の底辺になればなるほど、そして浮沈の激しすぎる真夜中の世界であればあるほど完全歩合制の日給になっていくのは、そのような理由がある。


人は頑強な機械のように常に一定の能力で働けない

ところで、完全歩合制の日給は真夜中の世界で働く人間に最適化されたシステムであるのは間違いないのだが、この完全歩合制の日給には、働く側にとって大きなデメリットがある。

それは「働かないと1円も稼げない」ということだ。

年俸制や固定給の月給で働いている人たちは、たとえ風邪や事故で一週間くらい働けなくても、固定賃金の部分で収入の激減をカバーすることができる。

年俸制の場合は、年間の給料が保証されているのでブランクがあっても何の問題もない。月給の場合も3日や4日の休みくらいは、ほぼ賃金に影響がないようになっている。

しかし完全歩合制の日給は、そうではない。

その日働けなければ入ってくる金はゼロだ。3日休めば3日分ゼロだ。一週間も休めば収入は激減する上に、会社からも「もう来なくていい」と見捨てられる可能性もある。

夜の人間たちの収入が月によって増減し、日によって増減するのは、まさに「働いていない分はゼロ」というシビアな現実がそこにあるからである。

では、人は頑強な機械のように常に一定の能力で働くことは可能なのだろうか。常識的に考えると、それは不可能だ。

人の体調は日によって変化するし、時には病気もするし怪我もする。精神的に不調になったりすることも珍しくない。

その振幅は人によってまったく違うが、どんな頑強で強い精神力を持った人であっても、病気もすれば怪我もすれば精神的に落ち込む日が必ずある。

さらに、自分がいかに体調管理に気を付けていたとしても、仕事自体が景気や天候に左右されることも多い。

「大工殺すにゃ刃物は入らぬ。雨の三日も降ればよい」というが、雨が降ったら大工仕事は中止になり、完全歩合制の日給で働いている大工は1円も稼げない。

風俗なども意外に天候に左右される職種で、雨が降ったら客が来なくて風俗嬢はまったく客が付かないことも多い。客が付かなければ、収入はゼロである。

雨が降って喜ぶのは日給で雇われているタクシーの運転手だが、それでも都合良く雨が降るわけではなく、タクシーの運転手もまた仕事を転々とする。


休まなければ身体を壊すが、休んだら生活に窮する

人は誰でも重い風邪にかかる。どんなに体調管理をしていてもそれは避けられないことであり、それが軽く済むか重症化するかも運によるところが大きい。

風邪を抑える薬はあるが、風邪を治す薬はない。だから、風邪をひいたら症状が去るまで大人しく寝ているしかない。そこで無理すると症状はより悪化して自滅する。

しかし、仮にもし貯金が充分でなければどうなるのか。休むのが一番だと分かっていても、生活のために休むことができない状況に追い込まれる。

休まなければ身体を壊すが、休んだら生活に窮してしまう。

真夜中の世界では、そのギリギリのところで働いている人たちも多く、だから夜の女たちは生き急いで自滅するドッグ・イヤーのパターンになる。

最近、日本の風俗業界では梅毒が爆発的に流行しており、日本各地の風俗街のすべてで梅毒感染の風俗嬢が報告されている。

風俗が外国人を受け入れるようになっているので、危険度は凄まじく増している。しかし、風俗業界はまったく変わろうとしないので、梅毒の感染は絶対に止まらない。

そのため、これまでの感染数拡大は始まりに過ぎず、これから風俗嬢の感染は倍々ゲームで増えていくのは確実だ。

梅毒はきちんと治療したら治る病気だ。だから、表社会ではエイズと違ってあまり深刻に受け止められていないように見える。しかし、現場の風俗嬢の恐怖は相当なものがある。

もし梅毒にかかったら、風俗嬢は完治するまで仕事を休まなければならないのだが、治療は1ヶ月から2ヶ月かかることも多い。

治療が遅れた女性の場合だと、半年も働けなかったりする。それは、半年も収入がゼロになることを意味している。

固定給で働いている昼職の人間でも、半年も仕事を休んだら甚大な影響がある。

そう考えると、日給で完全歩合制なのにしばしば仕事ができない状況に追いやられる夜の女性たちの深刻さは、相当なものがあると分かるはずだ。

今は順調でも、一瞬で生活が崩壊してしまう可能性があるのが夜の世界なのである。風邪をこじらせて朦朧としながら、私はずっと夜の女たちのことを考えている。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171111T0048410900.html


2017-12-04
それでも日本は梅毒が爆発的に増えており今後はHIVが続く

Business Insider Japanというウェブメディアが、

『「梅毒感染者の増加は訪日中国人が原因」は本当か?』
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%A2%85%E6%AF%92%E6%84%9F%E6%9F%93%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A2%97%E5%8A%A0%E3%81%AF%E8%A8%AA%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%80%8D%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8F&lr=lang_ja&gws_rd=ssl


という記事で、感染症に詳しい「専門家」の証言で、中国人が梅毒を持ち込んでいるという「説」を否定する論調を出している。興味のある人はグーグルで検索してみて欲しい。

これをつぶさに読むと、中国人が梅毒を持ち込んだのかどうかというよりも、それを言っている鈴木信行氏の攻撃に終始して梅毒云々よりも鈴木氏への攻撃がしたいだけの記事であることが分かる。

それで、その感染症に詳しいという「専門家」は、「訪日客の増加は関係ない」と言っている。

『訪日客が梅毒の感染源という『説』は私も聞いたことがあるが、もしもそれが正しいなら、他の性感染症も増えていなければならないが、そのような事実はなく……』

と言っているが、この感染症に詳しいという「専門家」は、さらりと事実誤認を言っている。西日本新聞では、2017年09月22日13時43分に、

『エイズ感染 九州で急増 佐賀、熊本 過去最多 16年福岡は61%増』
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%A2%85%E6%AF%92%E6%84%9F%E6%9F%93%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A2%97%E5%8A%A0%E3%81%AF%E8%A8%AA%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%80%8D%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8F&lr=lang_ja&gws_rd=ssl


と事実に基づいて説明しているではないか。

「他の性感染症も増えていなければならないが、そのような事実はなく……」と言っているが増えているのである。その適当なことを言っている「専門家」は九州に行って確認した方がいい。でないと本当に専門家なのかと疑惑を持たれる。


他の性感染症も増えているのを知らないのか?

西日本新聞の記事を引用すると、以下のようになっている。

『国のエイズ発生動向調査によると、2016年の福岡県のHIV感染者、エイズ患者の新規報告者数は、いずれも46人で計92人と過去最多。15年と比べて61%増えており、特に40代や50歳以上が増加している。佐賀計9人、熊本計19人も過去最多となった。16年の地域別では九州が計169人で32%増。これに対し、関東・甲信越は695人で4%増と横ばい、近畿は265人で11%減など、5地域は前年より減少していた(福岡県以外は速報値)』

西日本新聞の記事では福岡県でのHIV感染者は2000年からうなぎ上りに増えていて危険な状態であるのが見て取れる。この数字やグラフを見て「他の感染症が増えていない」と思う人がいたらどうかしている。

ところで、なぜ福岡県なのか。

福岡県は「韓国」と非常に近い土地柄である。当然のことながら、福岡市博多区の歓楽街である中洲(なかす)のソープランドやデリヘルやその他風俗店では韓国人の利用も多い。

では、韓国でのHIV事情はどうなのか。2017年8月28日の朝鮮日報では、『世界で減少するエイズ感染者、なぜか韓国では増加』という記事が掲載されている。抜粋すると、以下のような事実が分かる。

『世界的には、エイズウイルス(HIV)に新規感染するケースが減っているが、韓国国内ではHIV感染者と後天性免疫不全(AIDS、エイズ)の患者数がむしろ増えている。』

『疾病管理本部は8月11日、「2016年 HIV/エイズ申告現況」を発表し「昨年新たにHIV、またはエイズに感染した人は1199人と集計され、増加傾向にある」と明らかにした。特に新たな感染者は、男性(1105人)が女性(94人)の11.8倍で、国内の男性感染者の3人に1人(35.1%)は20代というのが特徴だ。 (抜粋)』

HIV感染者が多い韓国。そして韓国に近い福岡県でのHIVの爆発的感染。これにまったく因果関係がないと考える方がどうかしている。

だから西日本新聞も『感染者の多いアジアとの往来が増えてウイルスが持ち込まれるケースや、予防啓発活動の不十分さが一因』と分析しているのである。


梅毒が右肩上りに増えていることと「普通」の意味

Business Insider Japanは、その取材した「専門家」のところでは『過去10年で梅毒の罹患者数に変化はない』と言っているが、いったい何が言いたいのか。

その専門家の医院だけは変化がないかもしれないが、日本全体を見ると梅毒が爆発的に増えているから問題になっているのである。

国立感染症研究所の集計(9月15日発表)によると、2017年第1〜35週(1月2日〜9月3日)の報告数(感染者届出数)は3728人に上り、前年同時期(2016年第1〜35週)の報告数2876人より約3割増えたことがデータで出ているではないか。

2010年は621人に過ぎなかった梅毒は、2017年は「年間5000人を突破する恐れもある」ことが憂慮されているのである。右肩上がりとはまさにこのことだ。

Business Insider Japanの専門家は「梅毒の罹患者数に変化はない」とわざわざ記事に書いているのだが、「梅毒が増えている」という事実に対して「自分のところは増えていない」と言うところに事態を矮小化しようとしている意図が見えるがどうなのか。

なぜこの専門家はここだけ客観ではないのか? 梅毒が増えていないという印象操作をしたいのか?

さらにこの専門家は「感染しているのは普通の日本人の男女」と言っているが、この「普通」は何を指しているのか。

もし、風俗関係者ではなく表社会の人間という意味で「普通」を使っているのであれば、これも客観的ではない。

この専門家は知らないかもしれないが、日本の風俗嬢の多くは「昼職」を持っていたり、あるいは昼職と風俗を行ったり来たりして生活している。

これは、私自身が何人もの風俗嬢に話を聞いたので確認できている。

(『デリヘル嬢と会う(彼女は、あなたのよく知っている人かも知れない)』)
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%A2%85%E6%AF%92%E6%84%9F%E6%9F%93%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A2%97%E5%8A%A0%E3%81%AF%E8%A8%AA%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%80%8D%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8F&lr=lang_ja&gws_rd=ssl


「普通の主婦」でさえも住宅ローンの返済のために風俗で働いているケースも見た。


葛飾区議の鈴木信行氏の攻撃をしたいだけの記事

梅毒が増えている理由にこの専門家はこのように分析している。

『梅毒は無症状のことも多く、今までは自然治癒や別の抗生剤を飲んで治る「意図せぬ治療」をしていたが、「梅毒が増えている」というニュースを聞いた医師が積極的に梅毒の可能性を考慮するようになり、きちんと届け出しようと考えるようになった可能性が高い。』

これも、おかしいではないか。梅毒は完治しても痕跡が残るので血液検査をしたら必ず分かる。

だから妊婦や病人の血液検査で梅毒の増減はつかめる。今まで「意図せぬ治療」をしていたとしても梅毒であれば把握できたのである。

また、梅毒は第二期に入るとバラ疹が発症して日本人であれば誰でもその症状に驚く。決して無症状ではない。また、抗生剤を適当に飲んで治ることもない。

梅毒は増えていないと無理やり説明しようとして「意図せぬ治療をしていた」とこじつけているとしか思えない。

Business Insider Japanでは、『年齢別にみると最も増加率が高いのは20代女性だが、感染者数は男性が圧倒的に多く、30〜40代の男性が最も多い』と書いている。

これは「男性が多いから風俗ではない」という意図があるのかもしれないが、これもアンダーグラウンドを知らない人間の間違いやすい部分である。

「年齢別にみると最も増加率が高いのは20代女性だが、感染者数は男性が圧倒的に多い」というのは、風俗の世界を知っていれば、むしろ「やはり風俗じゃないか」という話なのだ。

ひとりの風俗嬢がいったい1ヶ月に何人の客を相手にしていると思っているのか。1日5人の客を相手にしている風俗嬢なら1ヶ月100人、年間1200人を相手にすることになる。

ひとりの女性が圧倒的多数の男に性病をうつすのだから、「年齢別にみると最も増加率が高いのは20代女性だが、感染者数は男性が圧倒的に多い」というのは、「だから風俗だ」ということなのである。

「国立感染症研究所は2014年の報告書で梅毒のみ感染者が増えている理由として、男性の同性間性的接触感染をあげている」とあるのだが、この論は破綻している。

それなら日本では2000年以後、急に同性愛者が増えたのか。そして、同性愛者が梅毒増加の原因なら、なぜ「年齢別にみると最も増加率が高いのは20代女性」なのか。

Business Insider Japanの記事はいろいろと事実誤認が多い上に、梅毒感染は外国人が原因ではないという論調に持っていきたくて矛盾をあちこちに露呈させている。

『こうした分析を踏まえると、訪日中国人の増加が原因だとする根拠はなく……』

という結論そのものに根拠がない。

この記事は、ただ葛飾区議の鈴木信行氏の攻撃をしたいだけの記事であり、風俗での梅毒の感染をうやむやにして、日本に梅毒を拡大させる危険性がある。

風俗嬢の置かれている危険な環境が放置されると、多くの日本女性が被害に遭う。

今の風俗がいかに性病に無防備なのか、私は声を大にして訴えたい。今の風俗の性サービスのあり方は間違っている。このままでは、梅毒もHIVもその他の性病も、爆発的に増えていくことになる。

下らない分析なんかしていないで、さっさと風俗嬢の危険を取り除くために動かないと手遅れになる。


梅毒は増えているし、韓国に近い福岡ではHIVも増えているのだ。風俗嬢の置かれている危険な環境が放置されると、多くの日本女性が被害に遭う。下らない分析なんかしていないで、さっさと風俗嬢の危険を取り除くために動かないと手遅れになる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/12/20171204T1446070900.html


「梅毒」が一般女性にも感染拡大。スマホの影響か 2016.09.18
https://nikkan-spa.jp/1181432

「梅毒」の流行に歯止めがかからない。特にここ数年は全国的にはもちろん、若い女性に感染者が急増している。その原因、そして危険性とは?


風俗嬢、さらに一般女性にも感染拡大


https://nikkan-spa.jp/1181432/bk3_160816_01
梅毒の湿疹はかゆみや痛みを伴わないうえ、数週間で消えるため、放っておいてしまうケースが極めて多い


 箸やコップに付着した唾液から病原体が入り込むほど、感染力の強い梅毒。症状も出づらいため、自覚のないままさらなる感染を引き起こすこともしばしばだ。また、保菌者が気づかずに菌を撒き散らす理由がほかにもある。梅毒の感染経験がある20代のデリヘル嬢、小田えり子さん(仮名)は「中国人のお客さんにうつされたかも」と語る。

「ウチの店は本番NGなんですけど、ここ数年で中国人の客がすごく増えて、強引にプラス3万円くらい出してヤラせちゃうことも。検査で陽性が出た後、『治療中はセックスしちゃダメ』って店長に言われたから仕事も休んで、お客さんからの連絡も『体調が悪い』『生理だから』って逃げていました」

 都内で風俗店の検査を請け負っている医師も「近年は中国人観光客の影響は大きい」と語る。

「中国では梅毒感染者が’13年の時点で40万人と極めて多く、中国人団体客を受け入れていた店で感染者が増えたという話もあります」


また、感染に関しては一般女性が怖いという指摘もある。

「これまで風俗で働く女性に陽性反応が出るケースはありましたが、ここ数年は一般女性に感染者が拡大している。また、風俗従事者たちは危険を自覚しているので定期検診を受け、治療も早期にします。一方、一般の女性はまさか自分が梅毒感染者だとは思わないので、パートナー男性の感染が発覚するまで気づかないことが多いんです」(「池袋クリニック」の院長を務める村上雄太氏)

 また、「若年層の感染拡大はスマホによる影響が大きいのではないか」という意見もある。

「私の医師仲間から聞いた話では、感染経路と疑われる相手が会社内の地味な若い女のコで『まさかあんなコが……』と絶句した患者さんもいたとか。スマートフォンの普及や見た目がかわいい出会い系アプリが増えたことで、若い女性が見知らぬ男性と気軽に出会えるようになったことが感染の拡大した要因かもしれません」(内科・泌尿器科医の大和宣介氏)

 現役女医として多くの患者を診てきた清水なほみ氏も「若い女性は梅毒をよく知らない」という。

「梅毒という名前自体、今の若い女性にはピンとこないのか症状が一旦、治まったことで安心して受診しない事例が多いんです。しかも妊娠期に感染していると母子感染の恐れがある。子供が先天性梅毒になったり、最悪、流産してしまう場合もあります。予防のため、妊娠前は一通りの性感染症検査を受けることを勧めます」

 大和医師も「もっとも危険なのは症状が治まったからといって治療を放置すること」と言う。

「手足や性器に痛みのない湿疹が出た場合や、微熱や咳が続く場合は早期の検診をオススメします。また、梅毒に感染している人はHIVを合併感染している事例が多いです。命の危険にもかかわることなので、基本中の基本ですが、不特定多数とのセックスはなるべく避けるべき。万が一、そういったシチュエーションになってもコンドームの着用を心がけてください」
https://nikkan-spa.jp/1181432


2017年09月27日 "私、梅毒になりました"
https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/1000/280591.html
※2017年6月27日にNHK News Up に掲載されました。

ある国立大学の最寄り駅。待っていたのは、肩までの黒い髪に、紺色のスカートをはいたごく普通の女子大生でした。
前日、NHKに「私は、梅毒になりました」というメールが届きました。「このままでは感染の広がりが止まらない。危険を知らせてほしい」彼女が思いつめたのは、自分が感染を広げてしまったかもしれないという後悔からでした。

ネットワーク報道部 岡田真理紗記者

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<学費と生活費>
女性が通っている国立大学は首都圏にある有名大学。大学に合格した時、親に迷惑はかけたくないと、学費と生活費は働きながら自分で払うと約束しました。学費は年間50万円ほど。奨学金は返済できるか自信がなかったので諦め、代わりにいろいろなアルバイトをしました。

しかし2年前、大学の学費を払い終えた後、家賃の支払いができなくなりました。足を運んだのは風俗店の面接でした。面接に行くと、1時間ほど説明を受けて、「もうお客さんがついたから」と言われました。店ではお客が払った料金のおよそ半額が女性の取り分。1日働いて数万円を手にし、家賃を払うことができました。

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<梅毒に感染 まさか自分が>
それから2年間、複数のお店で働きました。どの店も「女性は全員、性病の検査していて安心」が宣伝文句でした。しかし実際は、検査結果の提出を求められたことは一度もなかったといいます。女性は去年の秋ごろから大学と仕事で精いっぱいで、検査に行っていませんでした。

すると、ことしに入って首にニキビのような発疹が現れ、腹部にも広がりました。慌てて検査に行くと「梅毒:陽性」でした。交際している男性はなく、お店で感染したとしか考えられませんでした。

「言葉にならないほどショックでした。梅毒の流行は知っていたけど、感染するとは思っていませんでした」と女性は言いました。「お客さんへの感染が心配」と店に伝えましたが、口止めされたといいます。「何も知らない、お客さんの奥さんや恋人に感染させてしまったかもしれない」と、いたたまれなくなりました。私は女性の話を聞き、風俗で働く人たちが情報交換をするインターネットの掲示板を見てみました。

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<“守ってくれない”>
掲示板には、梅毒になったという人の投稿がいくつも出てきました。
「大々的にニュースで取り上げ、検査を義務化してほしい」
「自分が治っても、お客さんに危機意識がなかったら意味がない」

風俗産業で働く人と支援者が、啓発活動や情報共有を行う団体「SWASH」の代表の要友紀子さんは、働く人を守る仕組みが必要だと指摘します。

「日本では、オーラルセックスなどの接客時にコンドームをつけない店がほとんど。働く人もお客さんも病気の危険にさらされています」

「風俗サービスの法律上の位置づけがグレーで例えば梅毒となっても働く人を誰も守ってくれない。やめさせることだけが解決策とされてしまいます。そうではなく求められているのは感染を防ぐ支援や対策です」


国立感染症研究所の調査では、10年前は718件だった梅毒の感染報告は、去年は4557件。爆発的に増加しています。特に20代前半の若い女性の増加が目立ちます。さらに取材を進めると、いまや感染の危険は風俗で働く人だけにとどまりませんでした。


<彼氏としか、していなくても>
東京・新宿区の新宿レディースクリニックの釘島ゆかり医師に話を聞くと、梅毒に感染する若い女性が急増したのはここ3年ほどだといいます。

doku170627.4.jpg釘島ゆかり医師
「医師になって20年、梅毒は知識としては知っていましたが、患者を直接診察したことはありませんでした。それが、今では梅毒に感染した子が見つかるのは日常茶飯事です」

クリニックで梅毒への感染が確認されたのはこれまでおよそ150人。風俗で働いている女性とそうではない女性の割合は“50対50くらい“といいます。

「彼氏としか性交渉していないのに感染した女性もいます。感染者の半数以上が24歳以下と若い人たちです」


<見過ごされる感染 “消える”梅毒>

doku170627.5.jpgその梅毒。感染を引き起こすのは梅毒トレポネーマという菌。粘膜同士の接触で感染するため、セックスだけでなく、キスでも感染します。怖いのは梅毒の症状は、出ても消えてしまったり、まったく出なかったりすることです。

感染してまもない1期は、性器や肛門、口に3ミリから3センチ大のしこりができます。ところが痛みはなく、実はおよそ1か月ほどで自然に“消える“のです。ここで「しこりが消えた=病気が治った」と勘違いされるそうです。

2期は、手のひらや足の裏など、体全体に赤い発疹が出ます。これもかゆみや痛みはなく、放置すると“消える”のです。そして感染後、3年程度となる3期は全身に炎症が発生。4期は脳や心臓に菌が入り、死に至ることがあります。

痛みがなく、出ても症状が自然に消えてしまうこと。さらには、無症状の人も3割程度いること。これが感染が見過ごされ、ほかの人に広げてしまう大きな原因です。

さらに、梅毒は一度感染して抗体ができても、再び感染し進行します。釘島医師は「梅毒の診察経験がある医師が少ないため、違う病気と勘違いされ適切に治療されないケースも多い。診断するには、血液検査をするしかない。感染が拡大してまだ3年くらい。いまは3期まで進む患者はまれですが、症状が進行した状態で発覚するケースも今後は出てくるのではないか」と危機感を抱いています。
そしてもう一つ心配なことがありました。母子感染です。


<母子にも感染 流産も死産も>
匿名・無料で月2回、保健所で梅毒など性病の検査をしている新宿区。新宿区保健所の神楽岡澄係長は「妊娠適齢期の女性で梅毒が広がっている」と強く懸念しています。妊娠中に感染すると、流産や死産の原因となるほか、赤ちゃんに先天性の障害が出るおそれがあるからです。

母子感染による先天梅毒の報告数は、平成25年は4例で、平成26年は10例、平成27年は13例、去年は14例。「自分は配偶者や恋人としか性交渉がないとしても、その相手の以前の性交渉の相手が感染しているかどうかまではわかりませんよね。もっとさかのぼれば例えば元カノの元彼の感染の有無もわかりません。少しでも不安があれば、パートナーと一緒に検査を受けることをすすめます」
(神楽岡係長)


<消えない後悔>

doku170627.6.jpgメールをくれた女子大生は、1か月にわたって薬を飲み続け、症状はおさまってきたといいます。

「私は誰かから感染させられた被害者かもしれないけれど、同時に自分も感染させた加害者かもしれません。私は直接”検査して”と言えませんでしたが、みんなに検査を受けてほしい」彼女は後悔の思いを込めてそう話していました。

(HIVの検査と同時に、梅毒の検査も無料で受けられる保健所もあります。全国の検査実施機関がこちらから検索できます。http://www.hivkensa.com
https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/1000/280591.html


5年で5倍に…梅毒は1カ月しないと感染有無はわからない
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/lifex/195386
2016年12月9日 日刊ゲンダイ

 梅毒感染者の増加が止まらない。国立感染症研究所の調べによると、2016年第47週(11月21〜27日)までに報告された全国の梅毒感染者の総数は4077人。前週より88人増えた。2011年の全国の感染者数が827人だから5年でおよそ5倍に急増したことになる。

 都道府県別の感染者数のトップは東京で、前週より33人増の1524人。2位は大阪で8人増の532人、3位は神奈川で1人増の257人となっている。東京都医師会の理事のひとりは「梅毒についての知識がほとんどない医師も多く、見逃されているケースもあるのではないか」と心配する声が上がっている。そこで、梅毒について、サラリーマンの病気に詳しい、弘邦医院(東京・葛西)の林雅之院長に聞いた。

「ペニシリンが発見されるまでは不治の病として有名でしたが、いまは早期治療すれば注射薬や飲み薬で完治する病気です。ただ、梅毒に感染すると、HIV(エイズウイルス)に感染しやすくなる。梅毒感染が確認されたら、必ずHIV検査を受けるべきです」

 梅毒はトレポネーマと呼ばれる病原菌が皮膚や粘膜の小さな傷から侵入し、全身に広がる感染症。感染から時間が経つにつれ段階的に症状が進行し、4段階に分かれる。ちなみに1期と2期は「早期梅毒」、3期と4期は「晩期梅毒」と呼ばれる。

■保健所では匿名検査もOK

 アナルセックスでの感染が目立つため、男性同士のセックスでの感染者が多かったものの、最近は異性間での感染が増えている。オーラルセックスで口に感染することもあり、キス感染もある。

「梅毒に感染すると初期硬結と呼ばれる5〜20ミリくらいの赤い隆起ができます。男性では陰茎やくちびる、女性は大陰唇や小陰唇やくちびる、肛門、口やのどにでき、太ももの付け根の部分などが腫れます。いずれも痛みはありません」

 その後、これらの症状は消えてなくなるが、病気が治ったわけではない。

 感染3カ月後くらいから顔や首、お腹や背中などの皮膚や粘膜に赤い円形のあざができる。いわゆる「バラ疹」だ。こちらも痛みやかゆみなどなく、数週間すると消えるのが特徴だ。

「バラ疹が消えてしばらくすると梅毒性丘疹と呼ばれる、1センチ程度のワイン色の丘疹が現れます。さらにえんどう豆くらいの扁平に隆起した丘疹ができ、梅毒による円形脱毛症がみられることもあります」

 ほかに発熱や倦怠感などの全身症状も表れるが、他の病気でも見られる症状なので、決め手にはならない。大切なのは、この段階までに治療を始めることだ。

「病院での検査が、どうしても嫌というのなら保健所で調べてもらうこともできます。HIV検査と同時に受けることが条件というところもあり、匿名・無料でも受けられます」

 なお、梅毒の検査は感染から1カ月ほどして抗体ができてからでないと診断できない。覚えておこう。


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20代女性「梅毒」急増に医師が懸念 そのリスクとは?〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170202-00000017-sasahi-hlth
週刊朝日 2017年2月10日号より抜粋


13年以降、感染者数が急上昇し、16年の1年間で4518人(速報値)と、42年ぶりに4千人を超えた 


 過去の病気と思われていた梅毒が急増中だ。2012年と比べ16年の感染者数は約5倍とすさまじく、主に若い女性の罹患が増えているという。

 梅毒の2012年までの20年間の感染者数は、年千人未満にとどまっていた。そのころの主な感染経路は男性の同性間の性的接触によるもので、感染経路が似たHIV(エイズウイルス)の合併例も多かった。

 それが13年以降、感染者数が急上昇し、16年の1年間で4518人(速報値)と、42年ぶりに4千人を超えた。急増分の多くは、若い女性の異性との性的接触によるものであり、女性の感染者の半数以上は20歳代だ。東京慈恵会医科大学病院皮膚科の石地尚興医師は、

「男性の同性間から、なぜ異性間に広まったのかは不明ですが、対象者が圧倒的に多い異性間の性的接触への拡大が感染者の急増につながったのでしょう」

 とみている。

 梅毒は「梅毒トレポネーマ」という細菌が原因の感染症だ。主に、性的接触に代表される濃密な接触により、トレポネーマが粘膜や傷ついた皮膚などから体内に侵入する。肛門性交やオーラルセックスでも感染し、病変部が口にあればキスでもうつる可能性がある。

 感染しても3週間ほどは症状が出ないが、その後、性器や肛門、唇など、トレポネーマが侵入した箇所で増殖して病変が生じる。

 最初(第1期)にできるのは小豆程度の大きさの赤いしこり。放っておくと、崩れてただれたようになる。さらにトレポネーマがリンパ管を通って移動し、太ももの付け根などのリンパ節が腫れたりする。ただし、ほとんど痛みはない。

 感染後3カ月ほどすると、トレポネーマは全身に回り、皮膚や粘膜に発疹ができる(第2期)。全身のリンパ節が腫れることもある。手のひらや足裏の発疹は梅毒に特徴的な皮膚症状である。

「1期でも2期でも、何もしなくても症状は消えてしまいます。はじめから症状の出ない無症候性梅毒もあります。感染に気づかない人が増えると、そこから感染が広がっていく可能性が出てきます」(石地医師)

 第3〜4期となると病変が皮下や、さらには脳や神経にまで及ぶが、近年ではここまで進行する例はほとんどみられない。

 東京都在住の会社員・川口幸三さん(仮名・43歳)は口と手のひらの発疹が気になり、15年7月、皮膚科クリニックの紹介で石地医師のもとを訪れた。

 診察した石地医師は発疹の出方などから梅毒を疑い、皮膚の生検や血液検査などをおこなった。

 梅毒の血液検査は、トレポネーマの侵入によって血液中にできた物質の量(抗体価)を測る方法などを組み合わせて判定する。

 川口さんには、梅毒第2期の目安となる肛門の扁平コンジローマ(発疹)が確認された。

 梅毒にペニシリン製剤(抗生物質)の筋肉注射が認められていない日本では、同製剤の内服が標準治療である。1日3回の服用を、1期なら2〜4週間、2期なら4〜8週間続ける。

「この治療で梅毒は治るのですが、症状が消えてしまうこともあり、決められた期間の内服を続けられない患者さんも少なくありません」(同)

 服用開始後、定期的に採血して抗体価を調べ、服薬終了後も基準値以下に低下していれば治癒とされる。

 川口さんは8週間の予定で服用を始め、最初の1カ月は順調に抗体価が低下。これに安心しすぎたのか、受診が半年間途絶え、その後に受けた検査では抗体価が上昇していた。石地医師はこの間に再感染したものと推測した。その後も不規則な受診が続き、治癒の確認までに合計3回治療し、1年ほどかかった。

 そして、最近急増している若い女性患者には、妊娠・出産時に別のリスクもあるという。石地医師は、

「トレポネーマをもったまま妊娠・出産となると、胎盤を経て胎児に感染し、流産や死産、赤ちゃんの先天性梅毒のリスクが高くなります。先天性梅毒の治療はまだ難しいのが現状です」

 と警告し、早めの検査や治療を呼びかけている。

▲△▽▼  


「性病のインバウンド効果 大阪で梅毒が大流行」 (FRIDAY・YAHOOニュース 2018/11/1)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181101-00010001-friday-soci
「大阪市の梅毒患者は’12年時点で男性65人、女性10人でした。それが’17年には男性375人、女性260人。5年間で男性は6倍、女性は26倍になっています。しかもこれは保健所に届けられた数です。実際の数はこんなもんじゃありません」

大阪市・東成区にある石川泌尿器科院長・石川泰章氏はこう警告する。

近年、梅毒の患者が急激に増加している。全国では昨年、患者数が44年ぶりに5000人を突破、今年は9月末時点ですでに5081人となり、昨年を上回るのは確実だ。特に大阪は患者数の増加が目立ち、府全体では昨年、男性514人、女性332人の合計846人で、前年の約1.4倍となった。なぜこんなにも増えているのか。石川氏が続ける。

「以前はゲイの方たちに梅毒患者が多かったのですが、今は男女間の感染が増えている。風俗に遊びに行って、そこで風俗嬢にうつされて、さらに合コンやクラブ、友達の紹介などいわゆる自由恋愛で感染しています。風俗嬢に梅毒患者が増えている理由は、インバウンド(外国からの旅行者)の増加が原因といわれ、特にアジア系観光客が持ち込むケースが多いとみられています」

中国では最も繁栄している沿岸部の都市でも梅毒の感染率が高い。東南アジアの諸国も含め性教育が遅れているため、そうした国々からの観光客が梅毒を持ち込み、風俗嬢を介して広まっているというのだ。大阪の風俗街で働くキャリア5年のホテヘル嬢が言う。

「忘れもしません。今年3月に首のリンパ腺が腫れて37〜38℃の熱が出て、検査を受けたら、その日の夕方に梅毒だとわかりました。梅毒は潜伏期間があるので、誰にうつされたのかわかりません。お店にきちんと報告し、連絡がとれるお客さんには、検査を受けるよう勧めたのですが、15人全員、誰も感染していませんでした。完治するまで2ヵ月以上かかりましたが、梅毒の場合は治っても体内に“抗体“が残るんですね。そのため、あの子は梅毒陽性だ、うつるという噂が広がってしまい、結局退店しなければならなくなりました」

梅毒は性的接触で感染し、約3週間で陰部や口、肛門にしこりができ、数ヵ月後には全身に発疹がでる。抗菌薬で治療できるが、放置すると脳や心臓に異常が出てしまう。感染に気づかず、結果として拡散させてしまうケースも多い。風俗店にとっても、性病の蔓延は命取りとなるので、女性に月1回検査を受けて報告させるなど、対策を講じている。

「梅毒が増えているという話は、風俗業界全体で噂になっています。外国人観光客が増えたためだと思われるので、基本的に、ウチでは日本語を話せない人は入店を断っています。病気の問題もあるし、ルールをわかってくれないとリスクばかり高まりますから。昔は外国人NGが当たり前で、受け入れる店を探す方が難しかった。それがこの風俗不況で、数年前から受け入れだした。でも、最近では再び門戸を閉じる方向に変わってきています」(風俗店の店長)

特に大阪で患者が増えているのは、海外からの旅行者が多い上に、外国人でも風俗遊びOKとPRしてきた事情もあるという。日本橋にあるホテヘルの店長が話す。

「キタでは外国人観光客があまり風俗では遊ばないのですが、ミナミの日本橋エリアはホンマに多い。島之内にはチャイナタウンやコリアンタウンもあり、民泊も多いですから外国人も暮らしやすい。日本橋のホテヘルには、中国語のサイトを持っている店もあるほどです」

顕著なのは20代の女性患者が急増していることで、その多くは風俗嬢だと思われる。不特定多数との異性間接触をする彼女たちが感染することで、患者数は急増していく。実際、前出の石川泌尿器科を訪れる男性は風俗嬢からうつされた患者がほとんどだという。

「梅毒は現代のパンデミック(大流行)と言われるくらいで、僕らの間では風土病になるのではと危惧されています。来年はラグビーのW杯、再来年は東京オリンピック。さらにインバウンドが増えるので心配です」(石川氏)

最悪の事態を防ぐためには、一刻も早い対策が急務だ。


▲△▽▼

◆梅毒にかかっても治療せず、日本中を這い回って拡散していた風俗嬢2018.11

現在、日本では歓楽街のほぼ全域に渡って梅毒が広がっているのだが、中には四国の徳島県や愛媛県のような、あまり外国人が来ないと思われるようなところでも20代の女性の梅毒が蔓延するようになっている。

いったい、どうしてこんなことになっているのか。

徳島県や愛媛県でも梅毒が広がっているのは、徳島県では徳島市徳島駅付近に、愛媛県では松山市未知語温泉付近にソープランド街を含めた風俗街があって、そこで20代の女性たちが性サービスをしているからだ。

20代の女性が圧倒的に梅毒に感染しているというのは、彼女たちが風俗に関わっているからだ。それは状況的に見ると否定しようがない。医師も国も早く認めて対策を取らなければならない。このままでは、状況は悪化するばかりだ。

今の風俗は生のフェラチオや口内射精が当たり前のサービスとなっている。世界でも類を見ない「異常な環境」である。このまま放置していたら日本は性病大国になる。風俗のあり方は、このままでは絶対にいけないのだ。

そして、この風俗での梅毒は、なぜ広がったのか、なぜ地方にまで及んでいるのか、という点も私はひとつの推論を持っている。ある、ひとりの風俗嬢の行動が問題になったことがある。彼女の「動き」は興味深いものだった。
https://blackasia.net/?p=10063


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c12

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
174. 中川隆[-10721] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330]
ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/664.html

 4月7日からの過去ログ/各無名氏

@http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/884.htmlc14
 安倍と同様で完全否定、証拠があっても完全否定、知らない知らないボク知らないもん、の連呼だ。
 これがいわゆるグローバル・エリートの常識で、絶対に認めないこと。
 認めたら有罪が確定するが、認めなければ「推定冤罪」で済む。
 ものすごくみっともない言い逃れに終始することになることから日本のように名誉を尊ぶ国ではこんな恥ずかしいマネをする者はこれまでいなかった。
 ところが安倍とその一派は別らしい。

Ahttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/884.htmlc15
> 「私は日本を愛し、日産を愛しているということです。もし愛情や愛着、心からのつながりがなければ。20年間をその国で過ごしたり、20年間をその会社のリーダーとして務めることなど誰もしないでしょう」

 もし愛情や愛着、心からのつながりがあれば、2万人のリストラと5つの工場閉鎖を断行することはしないでしょう[1]。
不正報酬分の50億円あれば社員8千人の解雇は不要だったとの指摘もある[2]。

 ゴーンの言う「もし愛情や愛着、心からのつながりがなければ。20年間をその国で過ごしたり、20年間をその会社のリーダーとして務めることなど誰もしないでしょう」に納得する労働者は皆無だろう。

[1] ゴーン報酬99億円の生贄に…日産8000人非正規労働者の叫び
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242129
公開日:2018/11/22 06:00
 日産のカルロス・ゴーン容疑者がメディアに「カリスマ経営者」と持ち上げられた理由は、言うまでもなく“コストカッター”。要するにクビ切りだ。ゴーン容疑者は日産の社長だった2009年2月から、国内工場などで働く約8000人に上る非正規労働者の大量のクビ切り策を強行。働き盛りの20〜40代の労働者も生活の基盤を失った。
 同年5月、クビを切られた男女5人が全日本金属情報機器労組(JMIU)に加入。原告となって日産と日産車体を相手に地位確認と損害賠償を求める裁判を起こした。原告側の意見陳述書には、ゴーン容疑者に対する怒りと苦悩が読み取れる。日産のデザイン本部で働いていた女性の叫びだ。
 
[2] 日産ゴーン逮捕、不正報酬分の50億円あれば社員8千人の解雇は不要だったとの指摘も
https://biz-journal.jp/2018/11/post_25613.html
「ゴーンの奇跡」のまやかし
 また、逮捕を転機に、かつては称賛された「ゴーン流改革」「ゴーンの奇跡」に対する懐疑的な見方も広がっている。
 ネット上では、「コストカッターとして冷酷な首切りをやりながら、自分は莫大な不正蓄財をやっていたのか」「そもそもゴーンのやったことは“日産版ショック・ドクトリン”にすぎない。経営陣と労組の争いに外から入ってきて、2万人のリストラと5つの工場閉鎖を断行したんだから」「『日産の業績を奇跡的にV字回復させた』と言われるけど、その陰に大勢の解雇者がいることに納得できない」という声があがっており、「もし松下幸之助が生きていたらなんて言うだろう?」と、業績が苦しいときでも従業員を解雇しない方針だった“経営の神様”と比較する声も見られる。

Bhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c33
 おふらんすはええかげんな国だよ。
 ゴーンファミリーはマネロンにかかわっていたかもな。

Chttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c34
 仏政府が、「日本の司法に口出しはしない、尊重する」 と言って河野と握手したのと同様に、河野は韓国の徴用工問題での韓国司法に、「口出しは出来ない」。

 よく、覚えとけよ。

Dhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c41
 ゴーン容疑者には個人的には恨みはないが沢山の報酬を受け取る事には 疑問を抱く。一連の流れも不信感は拭えない。
 ここまでは検察頑張れで応援したい。

  ただ、人質司法はあまり好きではない。権力の恩恵がそこに見え隠れするから。一番の問題はマスコミの報道の自由権である。
  国民にとっての知る権利を蔑ろにするのであれば報道の自由を剥奪すべきであると考える。今の国会議員も人っ子一人命を張った政治家はいない。
  この国民は国政に関心を示さなければいけない。大国に併合される。
  ・・・。

Ehttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c48
 どちらにしても、金持ちの横暴は一人でも、二人でも、片付いたほうがいい。
どちらが勝っても、負けても、日産とルノーが一緒に、落ちてゆく事が望ましい、と「黄色いベスト運動」は申しております。

Fhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/844.html#c2
 普通なら従業員、株主らが突き上げて即刻辞任する事案だな。
 高額報酬の他に息子たちの学費、起業すれば資金横流し、嫁も。。。。 オーナー企業のオーナーでさえここまでやらない。理由は従業員のモチベーションだ。
 返金すれば済むので司法が入る話では無いが、初動で仏政府がゴーンを庇ったのでこうなってしまったという感じだ。

 (拙コメ)
(この問題の原点は、日産の内部告発から始まった)
Ghttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/835.html#c9

 元々、日産の内部告発から始まったもの(Nスペ)。地検のイニシアとは言えない。

・『ゴーンショック』がつきつけたもの〜思い出すのはリーマンショックの際に指摘された、強欲資本主義という言葉/~子田・清永
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/203.html
投稿者 仁王像 日時 2018 年 11 月 25 日 21:03:15: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

 (上のコメ1から)
 http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/203.html#c1

(下のNスペ)番組をざっと見ただけだが、識者の日産クーデター説を紹介していた(実際この話は、日産内部の調査グループが東京地検に持ち込んだもの)。
 マクロン、ルノー、ゴーンのやり過ぎである。ある閾値を超えていしまった。日産従業員の不満・怒りがこの数年凝縮してきて、ついに噴火したのだ。
 どう決着をつけていくのか予断はできない。元鞘に収まるのは到底不可能。

(補)仏の有力な政治家「ルノーはフランスそのものであり、ルノーなしのフランスは考えられない」と。120年の歴史を持ち、国営から出発した特異な歴史を持つ。

・"ゴーン・ショック" 〜逮捕の舞台裏で何が(予告動画)/Nスペ
 http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20181125_2
 総合 2018年11月25日(日)

 日産自動車のトップに君臨してきたカリスマ経営者、カルロス・ゴーン会長。金融商品取引法違反の疑いによる突然の逮捕は、世界に衝撃を与えた。
 日産と連合するフランスのルノー社内は騒然。フランス政府も捜査の行方を注視している。国際社会を揺るがす逮捕の裏側で、捜査はどのように進められ、どのような思惑が交錯していたのか。番組では、日産やルノー、捜査の関係者を徹底取材。不正な資金の迂回路となっていた、海外の現場にもカメラを入れる。独自取材から、逮捕の深層に迫る。
 キャスター 有馬嘉男、田中泉

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c174

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
175. 中川隆[-10720] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:12:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331]
続・ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/665.html

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/443.html#c1
まず刑務所で刑期を務めたあとの話だ。出られる頃にはもうジジイだ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/443.html#c3
泥棒を雇う人いるのか? 雇うわけないでしょう。見向きもしない。ゴーンは終わっているのだ。

ゴーンの力で日産再生したと思いますか?なら、ルノーはなぜ再建できない?
ルノーは、日産なしには潰れる会社ですよ。引き留めに賢明だろう、見ていて判らないかな。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/397.html#c13
 ゴーンになって日産は金額にうるさくなった 整備費や部品代...部品を売り上げようと整備士が奮闘していた 
昔の日産はこうではなかったけど、それで沈没したのかな 昔の経営者の問題だけどね ゴーン時代は車も華奢になったし、ブレーキなんて心細い 儲けよう儲けようと言う社内があった。
ゴーン時代に一度、営業所にあるCS葉書を出したことがある フロントが頑張っていた所為だけど、その葉書がFEED-BACKされたのか
営業所に行ったとき数人から葉書を出してくれと渡された なんか寂しくなったよ...日産
昔のように自慢できる車が欲しいものだ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/395.html#c1
馬鹿な論調だ。今回の取り調べで私的な流用は事実として浮かび上がってきた訳だ。経営者モラルとして有り得ない訳だからルノー、ニッサンへの返り咲きや、他の企業への転出も無い(受け入れ先は無いでしょう。前はカリスマ云々であったと思うが)。

ゴーンのやった事はオーナー企業のオーナーなら誰しもやっている話だ。つまりお手盛りで報酬を決めたり、経理的に問題無いように名画・高級リゾートを買ったり。同じ調子でやりたいならレバノンかブラジルで起業をしなさい、オーナーになりなさいということだ。やり過ぎれば従業員から不満が出るが…。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/386.html#c4
ゴーンが無罪なら、誰が有罪だ! 日本をなめるでないぞ!レバノン人。

日本は、法治国家だ! と言いたいのだが、安倍によって崩れかけている沈みゆく国です。
ゴーンの腐りきった金の使い方、日産から泥棒したのだな〜許されんわ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/249.html#c17
 無能ほど保身には長けている・・・それだけだな とはいえ、ゴーンに味方する意味も無いんだけどね
ゴーンのせいで何人の日本人が人生を無茶苦茶にされたのかを考えれば、こいつの事を案じる理由は政治的な意味しかない
そして、それも上手くいきそうではある
気がかりなのは、これを主導するのがトランプである以上、事が終わった時に北米日産が日産の親会社になる可能性が高過ぎる、ということだな
ついでに、北米トヨタがトヨタの親会社になってる可能性もある・・・マツダとスバルをトヨタが吸収した上で、ね

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/249.html#c18
 ゴーンの取引の損失はゴーンの資産から支払われるべきだ。
そうだろう?
 オマーンの会社が支払ったなら、ゴーンはアウトだ。
新生銀行は、はっきり情報を出せ! ゴーン、所詮は泥棒よ、日産の寄生虫だ。あの顔を見ろ!悪だよな、、、
追放してしまえ!

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c175

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
176. 中川隆[-10719] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:16:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332]
ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集〜 郷原信郎 編
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/666.html


 出るわ出るわ〜チョンチョンワ

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/339.html#c12
 西川氏はよく健闘し、粘り強く交渉を継続してきたと思っている。
 ゴーン氏がやってきたことを、そのまま日本人に置き換えてみたなら、郷原氏はその日本人に対し、ゴーン氏に対すると同様の主張を展開するだろうか。はなはた懐疑的である。
 従業員を大量に解雇し、子会社などを大幅に縮小させることにより、難局を打破してきたとはいえ、その原動力は日本人の従業員あっての事ではないのか。どれだけの人員が生活苦にあえいできたか。そう思うと日本社会では不当な高額所得ではないのか。
 かつて土光さんが住専問題解決にあたったときでも、日本人のTOPであれば、これほどまで多額な報酬を得ることはなかった。ゴーン氏の報酬は、不当である。
 西川氏はよく嫌われ役を堪え忍んで、オープンにしながら冷静に対処してきたと思っている。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/339.html#c14
 郷原信郎って 何でいきがってるんだろうね!

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c1
 ニッサンはゴーンを法廷に釘付けにしている間に仏政府の関与を減らすこと、そして新役員人事の策略を巡らすことだ。西川社長はゴーンに抱き付き心中を図って仏政府とゴーンの癒着を完全に断ち切ることだ。仏政府とゴーンの関係は気味が悪い。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c6
 ヤメ検郷原は、いつもどうでもいいことをエラソーに語りたがる ゴーンなんかより、現在の日本の主権在民、三権分立について語ったどうだ?
 ちょっとは日本が良くなるような事を語ってみなさいってことだ まあ、ヤメ検にそれを言っても無理か
 アヘ一味に取り入って、弁護士資格を与えてもらったようなもんだろうからな
 現役時代は、さぞ「でっち上げ」検挙と起訴を繰り返して出世したのだろう 顔見りゃわかるってもんだ
でっち上げで捕まり、あの顔で毎日毎日ネチネチやられたら、誰でもウソの自供して早くラクになりたくなるだろうよw

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c8
 ゴーン原信郎

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c12
 ゴーンは「おれは無実だ」と罪人につきもののワンパタをいっただけ。^^
 郷原さん、ちょっと頭冷やしたほうがいいよ。^^

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c13
 ゴーンは有罪だ!
 郷原を担いでで無罪煽り。
 どちらも同じ勢力。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c15
 日経の記事で、ゴーン元会長意見陳述前文を読み、次に、「ゴーン元会長弁護人が会見『交流する理由ない』」の記事を読んだ。弁護人が『大鶴基成』という名前なのであきれた。地検特捜部時代の業績(wiki参照)を知っていれば、こんな弁護人を使うだけで、ゴーン氏無罪が眉唾に思えてしまう。
 元福島県人の私には、地検特捜部の中でも、恨み骨髄の一人(平凡社「知事抹殺 つくられた福島県汚職事件」参照)。同様のことを陸山会事件でもしている。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/148.html#c2
 郷原信郎はなぜ「ネオコンの手先」になるのか

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/148.html#c5
>勾留が90日近くに及んでいる日産自動車の前会長カルロス・ゴーン氏の事件、
 日本の「人質司法」の“悪弊”を海外に露呈する状況が続いている。

 パヨクは海外ではといつも持ち出すが、フランスでも拘留1年〜2年などザラにあるではないか。
皆が知らないと思って・・・ いや郷原が知らないのかな??

 郷原はゴーンが無罪の可能性が高いとか言っていた様だが、フランスでもゴーンの会社の私物化が報道されだした。

ゴーンは完全に黒だ。また郷原の敗北だよ!!


http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/110.html#c55
 やはり郷原氏は(愛憎入り混じってるんでしょう)検察のことしか関心がないのだとよくわかった。
 視野狭窄。
 国民のために、ではどうすればいいのかという視点が全く欠けている。

http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/110.html#c60
 郷原氏の一部検察官の反乱で統制がとれていない組織というフレーズに非常に違和感を覚えます
 彼らは実に組織的に事件をでっち上げ違法な捜査を繰り返し証拠改竄・隠蔽、彫塑捏造なんでもありだ最高裁事務局と三味線をひき
方では訴追できないから神ならぬ偽の民の力まで使って罪をなずりつけようとしたもう検察は解体sるしかないでしょう
 財務省や法務省などの官僚組織は財界の利権を確保してそのおこぼれを召し上げ、税金を無駄な仕事で浪費させそこにも引退したあと住みつく輩だ
 しかしその構図の中心にいるのはアメリカという金融資本であり前後ずっとコントロールされてきたこの状況打破はやはり国民がどう感じどう行動するかにすべてかかっている糞みたいな政治家を絶対当選させない事。
 そして行政や司法を議会にちゃんと監視させる事 詠じが民意に離反してきたら激しい抗議活動をあらゆる手段をつかっても意思表示することいだ
 アメリカと対等の関係、それが戦法が嫌なら追い出すまでは 内外道のりだが我々が問題意識を持ち民意を託す議員を応援することだ

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c10
 郷原信郎
 日産ゴーンの起訴話の中で高額報酬自体が「悪」として非難されるべきことではない?

 これはこの男がゴマカシ屋である証拠である 高額報酬のデドコロに言及しなければいけない。

 トヨタ日産等の大手輸出依存企業は政権と癒着し悪法を立法させ(社会保障と税の一体改革などの寝言にダマサレタ)国民の税金をかすめ取っている。

 消費税の戻し税からの高額報酬は品格以前であり悪徳による重大犯罪。
 何を斬る?これでは大根でも切れないだろう

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c12
 郷原はフェアーでリベラルだと思っていたがいつから変節したのだろう。
「日本人の品格」を問う前にゴーンの品格を問わなければならない。
 たかが雇われ経営者が立て直しが成功したとされて分をわきまえず他の日本の大企業のCEOをはるかに超える報酬を得ていてさらにそれに倍する報酬を得ようと画策したのだから。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c16
 郷原の品格が試されています。変質したのかな? 郷原ちゃん。 
 犯罪者ゴーンにえらい肩を持つ出ないか?
 
 日本検察・特捜はしっかり仕事しています。任せましょう。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c25
 郷原先生は、カルロスゴーンより日本人のほうが品格がないと言いたいのでしょうか?
 日本人の一般庶民よりカルロスゴーンの方が1000倍以上品格ないというのは事実ではないでしょうか?
日産の利益は労働者が稼ぎ出したものですから、労働者への還元を最優先にすべきでしょう。経営者が私利私欲を最優先したら批判されるのは当たり前ですよ。
 フランスのメディアですら、強欲ゴーンを批判していますよ。

 ゴーン氏逮捕、フランスのメディアは「それ見たことか」と冷ややかな論調
 https://news.yahoo.co.jp/byline/puradonatsuki/20181122-00105016/

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c27
 検察の暴走は許せないが、しかしただそれだけでなぜ突然「日本人の品格」まで批判しなければいけないのか?
論理が飛躍しすぎている。これが法曹関係者の発言とは思えない。

この郷原という男も怪しいといわざるえない。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/613.html#c8
ルノーの役員二人もゴーン会長解任に賛同した意味合いはそれなりのことがあるとのことだろ。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/613.html#c14
 日産には長年に渡って蓄積された生産部門、工場群、協力業者、技術部門、販売網があった。一時的に財務的に厳しい状態にあったに過ぎない。
 彼が日産というインフラを一から作ったわけでは全くない。経営のネックを外部の目で外科手術を行って成功させたことは認めてもいい。
 しかし、言われているように法外な報酬を取り、子会社を私物化していたとなると。これは社会的には寄生虫だし、背任横領ではないか。
 やったことは下請けいじめ、労働者の首切りが中心だ。加えてゴーンはオーナーではなく、雇われ社長に過ぎない。
まあやり過ぎたな、潔く罪を償うのがいいだろう。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c176

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
249. 中川隆[-10718] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:31:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333]

踏切切断男「弁償します」 「仕事が入って急いでいた」 2019年4月15日

千葉・船橋市で13日、京成電鉄の踏切の遮断機を切断した疑いで逮捕された男が、「正午に仕事が入っていたので急いでいた」などと話し、「弁償します」と話していることがわかった。


板金業・中野勝徳容疑者(53)は13日午前7時すぎ、船橋市の京成電鉄・船橋競馬場駅近くの踏切が、人身事故の影響で、およそ30分間閉まったままだったため、遮断機の棒2本をのこぎりで切断した疑いで、15日朝に送検された。


中野容疑者は、「渋滞で車が動かなくなり、腹が立ってやってしまった」と供述していて、警察のその後の調べで、「正午に引き渡しの仕事が入っていたので急いでいた」と供述し、「弁償します」との趣旨の話をしていることが新たにわかった。


京成電鉄は、今回の踏切切断について、損害賠償を請求する方向で検討している。
https://www.fnn.jp/posts/00416176CX

2019.04.15
中野勝徳容疑者の会社は板金業で妻のfacebook顔画像は?
在日韓国人の疑いや住所は市川市大町で踏切遮断機をのこぎり切断で逮捕!
https://wolf-log.com/archives/24071


船橋競馬場駅すぐ近くの踏切でのこぎりを使って遮断器2本を切断したとして、市川市大町で板金業を営む中野勝徳容疑者(なかのかつのり・53)が逮捕されました。

twitterで撮影された動画によって逮捕されたようです。

今回の記事では、中野容疑者のプロフィールや妻などまとめてみました。

踏切の遮断機をノコギリで切断


千葉・船橋市の踏切で、遮断機の棒をのこぎりで切った疑いで逮捕された男は、およそ30分間にわたって踏切が開かず、腹を立てて犯行に及んでいたことが新たにわかった。

板金業の中野勝徳容疑者(53)は、13日午前7時半ごろ、船橋市の京成線船橋競馬場駅近くの踏切で、遮断機の棒2本をのこぎりで切断した疑いが持たれている。

当時、現場の踏切は、人身事故の影響により、およそ30分間にわたって、開かない状態が続いていたという。中野容疑者は、仕事に向かう途中で、持っていたのこぎりで犯行に及んでいた。

調べに対して中野容疑者は、「仕事があるのに、渋滞して車が動かなくなり、腹が立ってやってしまった」などと容疑を認めている。

引用:Yahoo!ニュースト名

人身事故があり、その影響でずっと踏切が開かなくて仕事に行かなければいけないからという理由遮断機を切断したと証言しています。

仕事に行かなければいけないのはわかりますが、電話すればよいのではないでしょうか?行けないのはどうしようもないことですからね。

というか人身事故で電車が止まっているならなぜ、遮断器が上がらないのでしょうか?これは本当に意味がわかりません。電車が通らないのに踏切が開かないなんて運用方法がおかしいと感じます。

中野勝徳容疑者のプロフィール

名前:中野勝徳(なかのかつのり)
年齢:53歳
職業:板金業
住所:千葉県市川市大町

中野容疑者は市川市に住む53歳で自営業をしている方です。

仕事は板金業ということで、仕事先に向かう途中とのことだったようです。

事件当日車の中には妻も同乗していたために、妻も一緒に仕事をしていたということかもしれません。

板金業とは金属板を加工して、屋根や外壁、雨樋などを工事したりする仕事だそうです。

このことがあった為にノコギリなどの工具を持っていたんですね。

そして、このような奇行から検索キーワードに在日というキーワードも出ていました。しかし本当にそうかどうかは不明です。facebookについてもやっていないのか見つかりませんでした。

中野勝徳容疑者の妻

そして中野容疑者の妻についてです。

当時中野容疑者と一緒に車に乗っていたようですが、テレビのインタビューに答えていたようです。

急いでいたが、踏切がもう開かないんじゃないかなと思っていたそうです。そして人身事故だなという感じがして、その時に中野容疑者が行ってしまったそうです。

遮断機の棒が切れちゃうとも思っていなかったそうで、これはもうまずいと思ったそうです。

妻によると中野容疑者は短気な性格らしくその為にこのようなことをやってしまったということのようです。

いくら短気だからといって、ここまでするのは筋違いですよね。
https://wolf-log.com/archives/24071
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c249

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 

ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 


【ヨーロッパの戦い】こうして始まった! 
「開戦(ドイツ国防軍の電撃戦)」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rdktSBDeAto
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html

[リバイバル3] 暖炉型電気ヒーターの実用度 中川隆
5. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2019年4月17日 13:18:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/876.html#c5

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
13. 中川隆[-10716] koaQ7Jey 2019年4月17日 17:38:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]

2019年4月17日
MMT(現代貨幣理論)とは、「現代社会の実態に即した、貨幣に関する政策論」です。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/13499

昨今俄に注目を集めているMMT(現代貨幣理論)。

今年の年明け頃までは、
一部の学者や評論家、あるいは、
ネットユーザー達にしか知られていなかったこの理論が、
今、俄に注目を集めているのは、
その主張の「衝撃度」が極めて高いからです。

例えば、ウィキペディアを見れば、

「政府は将来の支払いに対して非制限的な支払い能力を有して・・・いる。そのため、政府の債務超過による破綻は起こりえない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Modern_Monetary_Theory#cite_note-MMTreply-1

という、Tymoigne and Wrayの言葉が紹介されていますし、日経新聞は、MMTを

『通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる貨幣を自在に創出できるため、「財政赤字で国は破綻しない」と説く。』
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO43695190S9A410C1EA3000/

と紹介しています。

国内の多くの論者は今、
この「財政赤字で国は破綻しない」という一点だけをとって、
MMTを徹底的に批判・批難しています。

例えば、日本のメディア上では今、

MMTは「異端」だ

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO43692690S9A410C1EA3000/
https://www.asahi.com/articles/ASM444VCTM44ULFA02C.html

と報道するのが一般的流儀、となっています。

しかし、MMTの論者達は別に、
「実際に」政府は無限に債務を拡大しても「良い」、
とは言っておらず
「理論的には」政府は無限に債務を拡大「できる」
という、控えめな主張をしているに過ぎず、
そこまで批判・批難される筋合い等何もないのです。

・・・・

では、MMTの本質とは一体何かといえば、
(筆者なりの方法で説明するとするなら)

「『貨幣とは“負債”である』という「客観的事実」を前提とし、
「現代社会の様々な現実」を踏まえながら
なすべき経済政策の在り方を考える理論体系』

というもの。

そしてこの
『貨幣とは“負債”である』(あるいは、借用書である)
という一点を前提とすれば、
(主流派経済学からは)「革命的」とも言い得るような
様々な「理論的帰結」
を導き出す事が可能となります。

(MMTの論理にご関心なき方は、
下記の「帰結」だけでもご参照ください)

帰結1:「借り手がいる限り、貨幣は、原理的には、銀行によって無制限に増やすことが可能」
(現実:全ての銀行で行われている現実)
(理由:そもそも、「貨幣は負債」だから、借り主達が銀行からカネを(準備金制度やbis規制の制約、借り手の返済能力の制約の下で)「借り続けられていられる限り」においては、「負債は拡大する」=「貨幣が創造される」こととなる)

帰結2:「政府は、税収に制約されず、任意に財政支出量を調整(拡大・縮小)できる」
(現実:GDPの240%もの国債を発行している)
(理由:そもそも、「貨幣は負債」だから、政府が(自国通貨建ての)国債を発行し「カネを借りる」ことを通して、税収とは無関係に、貨幣の創造量=貨幣の供給量=国債発行額を調整できる)

帰結3:「ただし、政府が、過剰なインフレになってしまう程に大量の国債を発行すると、国民生活は苦しくなる」
(現実:幸か不幸か、デフレ日本の現状は、そうした状況からはほど遠い・・・)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行は貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、国債を発行しすぎると、国内の供給力を大幅に上回るほどの需要が発生し、過剰なインフレとなり、国民生活が苦しくなる。)

帰結4:「したがって、政府が、望ましいレベルのマイルドなインフレになる程度の国債を発行すると、経済は順調に成長することになる」
(現実:誠に不幸なことに、PB規制をかけているデフレ日本の現状は、そうした状況に達していない)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行に伴う政府支出の拡大は、貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、国債を「適切」に発行すると、国内の供給力を幾分上回るほどの需要が発生し、マイルドなレベルのインフレとなる。)

帰結5:「逆に言うと、政府が、『望ましいレベルのマイルドなインフレになる程度の国債額』を下回る水準でしか国債を発行しなければ、デフレ化し、経済は低迷する。そして、国民は貧困化する。」
(現実:誠に不幸なことに、PB規制をかけているデフレ日本の現状はまさにこうした状況にある)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行は貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、逆に言うなら、国債を「適切」に発行しなければ、総需要は、国内の供給力に比して十分でない水準となり、ゼロ成長、あるいは、デフレとなる)

帰結6:「したがって、デフレ下の政府が、『PB黒字化』のために国際発行額を抑制すると、デフレがさらに深刻化する。」
(現実:誠に不幸なことに、今の日本はこの状態)
(理由:「貨幣は負債」だから、税収が低いデフレ下で「PB黒字化」を目指すために国債発行額を縮小すれば、政府支出が縮小し、政府による貨幣供給量が下落する。結果、需要はさらに縮小し、デフレが深刻化する。)

帰結7:「政府が全ての国債を返済(償還)してしまうと、市場内の貨幣は大幅に縮小し、深刻なデフレとなるリスクが拡大する」
(現実:デフレ化の日本でPB赤字を縮小しようとして、デフレが深刻化し、日本経済は今、混乱状態になっている)
(理由:「貨幣は負債」である以上、市場におけるあらゆる貨幣は、民間および政府の負債である。そのうちの政府の負債がゼロになれば、当然、貨幣は縮小し、その結果、需要も大幅に縮小し、激しいデフレとなるリスクが拡大する。ただし、「バブル経済」状況では、そのリスクは最小化される。)

帰結8:「政府の徴税能力が崩壊すれば、貨幣が流通しなくなる」
(現実:日本では徴税能力が十分あるため日本円は十分流通している。一方、政府の徴税能力が無くなった国家では、当該国の通貨は――当該国民の信頼を無くしてしまうので――流通しなくなり、ドルなどの国際通貨が使用されはじめるようになる)
(理由:「貨幣は負債」である以上、「信用」がなければ、負債が出来なくなる。そして通貨創造における国内最大の信用は「政府の徴税能力」によって産み出される。だから(統合)政府は、その徴税能力のお陰で、「負債」を負うことが可能なのであり、その借用証書としての「貨幣」を、人々が受け入れる形で発行することが可能となっている。しかし、徴税能力が無くなれば、その政府はもう「負債」が不可能となり、(統合)政府の借用証書である「貨幣」を人々が受け入れなくなってしまう。結果、例えばアメリカ政府の徴税能力に裏打ちされた米ドルを、外国においてすら人々が使うようになってしまう)

帰結9:「政府の国債がどれだけ増えても、金利は上がらない。むしろ、下がる。」
(現実:国債はGDPの240%も発行しているが、金利は極めて低い状況にある)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債を発行すると貨幣が市場に供給され、さらに国債を買う余地が市場において拡大する。そうなると必然的に、各銀行の準備金等も拡大し、それらを通して金利は下がる。)

・・・以上の他にも、
様々な帰結を導くことができるのですが、
これらは全て、
「貨幣は負債」だから・・・
から出発して、導かれるのです。

それはまるで、
物理学における古典力学は、
「ma=f」を出発点とし
(後は現実的な制約条件を導入していけば)
全て解けるようになる・・・
という話とそっくりです。

にも拘わらず、
今日の主流は経済学や経済財政政策は全て、
貨幣を「負債」ではなく
紙幣そのものに価値がある「商品」と捉えています。


この、「貨幣についての認識」の間違いにこそ、
今の経済学や経済政策が間違え続けている、
根本的原因があるのです。

(すなわち、皮肉な事に、
「主流派経済学が間違った貨幣観に基づいて、
間違った経済政策を演繹し続けている」
という事実からも、
MMTの正しさが証明されているわけです)

ついてはこれからは是非、
「オカネとは負債であって、借用書なのだ!」
という「真実」に基づいて
あらゆる経済政策を考えて頂きたいと思います。

そうすれば、後はじっくり時間をかければ、
誰でも必ず、「正解」にたどり着けるのです。

追伸:
私たちは今、こうしたまっとうな議論に基づいて、
「令和時代」を作らねばなりません。
ついては今、表現者クライテリオンでは、
「令和への建白書」を最新号として取りまとめました!
その根幹は、「令和八策」。
令和ピボット運動の「理論的支柱」ともなり得る
この建白書、是非、ご一読ください!
https://the-criterion.jp/backnumber/84_201905/

—発行者より—
総理「政権中にこれを破棄できなければ、日本はオシマイ」

三橋貴明と総理との会談時で明かされた真実。

●総理が、三橋との会食をオープンに
(世に公開)してまで国民に伝えたかった事とは…?

●この会食で明らかになった、
私たちの邪魔をする[3つの敵の正体]とは?

●2020年に訪れるかもしれない
日本の危機的状況とは一体何なのか?

日本が発端となり、
2008年のリーマンショックが再来する?

などなどメディアが決して報道しない
「安倍総理の告白」と「日本経済2020年危機」
について解説した書籍を出版致しました。

こちらから詳しい内容をご覧ください。
https://keieikagakupub.com/38JPEC/1980/


https://38news.jp/economy/13499
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c13

[リバイバル3] 恐怖の温泉 _ 女は何をやるかわからない 中川隆
27. 中川隆[-10714] koaQ7Jey 2019年4月17日 18:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1338]
お風呂の浴室でオシッコをした経験がある人は60%以上!日常的にしている人は◯◯%も!
2015年12月8日 ハレルヤ編集部 サニー佐藤
https://halleluja.jp/22540

m

関ジャニ∞の村上信五さんとマツコ・デラックスさんがMCを務める『月曜から夜ふかし』、「様々な確率について調査した件」にて本記事の調査結果が使用されました。(2017年5月29日23時59分〜放送)


毎日の疲れを癒やしたり、身体の汚れを洗い流すのに欠かせないお風呂。
特にこの寒い時期は、シャワーだけでも冷たい身体を暖めてくれる至福の時でもあります。

そんなお風呂ですが、友人達と話しているとたまにこんな話題になることがあります。

「お前、お風呂でオシッコする?」

「もちろんオシッコするよ」という人から「汚いからオシッコなんてする訳ないじゃん」という人まで賛否両論です。みなさんはどうでしょうか?

ということで今回は、お風呂でオシッコをした経験があるかどうかを調査してみました!

お風呂の浴室でオシッコをした経験がある割合は60%以上!

全国500名の男女を対象に調査を実施したところ、なんと62.4%の人がお風呂場でオシッコをした経験がある(312人/500人)という結果になりました!
浴室でオシッコをしたことがありますか?

トイレ以外でのオシッコは「汚い」という理由で嫌な顔をされがちかと思いきや…半数を超える62%以上の方は日常的もしくは、過去にお風呂でオシッコをしたことがあるのです。さらには、全体の15.8%にあたる79人が「毎回する・よくする」と回答しています。

仮に渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で「俺はお風呂でオシッコしてるぞ〜っ!」と叫んだとしても、40%にも満たない人に気持ち悪いと思われるだけで、その他の人たちは共感してくれるのです。みんなあなたの仲間です。安心してください、(みんな)オシッコしてますよ。

ただ、仮の話なので本当に叫ぶと別の理由で嫌な顔をされるのでご注意ください。

お風呂場でオシッコをする割合は、男性の方がかなり多い

62.4%の人がお風呂場でオシッコをしたことがあるという結果でしたが、男女で比べてみたらどうなるのでしょうか。

男性の浴室オシッコ経験者は70%超。日常的にしている人も20.7%

浴室でオシッコをしたことがありますか?(男性)
男性(232名)に限定してみると、浴室でのオシッコの経験者は全体で見た時より約10%アップの70.7%。「毎回する・よくする」という人は約5%アップの20.7%という結果に。次に女性の場合はどうでしょうか。

女性の浴室オシッコ経験者は約半数

浴室でオシッコをしたことがありますか?(女性)
女性(268名)に限定すると浴室オシッコの経験者は55.2%、「毎回する・よくする」という人は11.6%という結果になりました。男性のグラフと見比べると「したことがない」という割合が大きく違うのがよく分かりますね。

何故男性の方がお風呂場でのオシッコ経験が多いのか

結果を見ると、男性の方が経験者が多い結果になりました。一体それは何故なんでしょうか。簡単にですが自分なりに考察してみました。

トイレ習慣の違い

トイレでオシッコをする時の習慣として、男性は便座に座らず立って用をたすというのが一般的です。公衆便所だと沢山設置された小便器で、まるでコンビニでお会計をするような手軽さとスピードでこなしていくわけです。また、外で立ち小便をしたり、酔っ払って勘違いし、押入れの中や冷蔵庫の中等に間違えてオシッコをしてしまったという話も聞くことがあります。

そのことからわかるように、男性はオシッコをするということに関して抵抗が少なく、女性よりスピーディーで手軽なものになっているといえるのではないでしょうか。
できるところでササッとする。というトイレ習慣の違いが結果にも反映されているように思えます。

世の中の目の違い

偏見になってしまうかもしれませんが、男性がしてよくても、女性がするとダメだ(やらないで欲しい・イメージが崩れる)と言われることってあると思うんです。
例えばこんな感じで。
おならをする
ゲップをする
鼻くそをほじる
大の方をする

女性的でないというか、なんというか。どれも人間ならしょうがない生理現象なわけですが、例えばアイドルはおならをしないとか、女性を良い意味で美化した世間の目の違いなわけです。このグループにお風呂でオシッコをするという項目が入ってくるのではないでしょうか。

それによって女性はお風呂でオシッコをするのは美しくない、することは良くないという抑制が働くのではないかと推測します。

おわりに

今回の結果で60%以上の人がお風呂でオシッコをしたことがあるというこということがわかりました。

お風呂でオシッコをすることは悪いことではありません。ただ、色々な人が利用する温泉や銭湯など公共の場ではしないほうが良さそうですね。同居人がいる場合も後々問題になる可能性もあるのでカミングアウトしてオシッコをしていいか聞いてみてはいかがでしょうか。

また、お風呂でのオシッコに慣れ過ぎると美容院でシャンプーをしてもらう際に条件反射でオシッコをしてしまうという話も聞いたことがあるのでくれぐれもお気を付け下さい!

それでは良い浴室オシッコライフを!
https://halleluja.jp/22540
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/296.html#c27

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
13. 中川隆[-10713] koaQ7Jey 2019年4月18日 07:36:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1339]

日本の風俗嬢は清楚で上品な女性でないと客が付かない

◆あなたは「清楚な女性」が好きですか? 日本の男は「清楚」にカネを払う2019.04.18
 

ある風俗嬢と話していた時、あまりのおかしさに笑ってしまったことがある。客の男の好みは「清楚な女性なので、そのイメージに合うように派手派手しい格好はしないように指導されている」というのである。

彼女たちは、セックスワーカーである。性サービスをするのが仕事だ。表社会の常識で言うと、彼女たちは「清楚」とは180度対極の世界にいる。

そんな女性に「清楚」だとか「貞淑」だとかのイメージを求めることは、なかなか滑稽なことのようにも思えるのだが、客となる男たちは真面目にそれを求めているのだ。その現実に笑わずにいられなかった。

日本の風俗のバラエティは世界でも最強の部類に入るので、中にはタトゥーだらけの女性を集めた風俗や、クラブで踊るような派手な格好の女性を集めた風俗も当然あるわけで、こうした女性たちを好む男たちもいる。

しかし、そのコンセプトが大当たりするのであれば、次から次へと類似店が登場して、それが主流になって「清楚」を売りにする風俗店は廃れる。

現実は逆だ。「清楚な雰囲気を持つ女性」は圧倒的に好まれていて、そうした女性を集めた風俗店が大きな売上を上げ、安定的な経営を行っている。男はカネを払って女性を選ぶ。「清楚な女性」を集めた店が圧倒的に強いのであれば、それが男の本音だということだ。
https://blackasia.net/?p=12610
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c13

[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/

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ソ連・中共・東欧も含めた世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです。

特に自称社会主義国のソ連や中共は極端な階級社会で、下の階級の人間は絶対に上に上がれない社会でした。


戦後の日本が理想の共産社会に近い一億総中流社会になったのは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホ左翼が沢山いたのです。


赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでましたからね。


当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


因みに、現在の日本共産党は親米保守で反動極右勢力に変わっていますね。

昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。

戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。


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中島みゆき「世情」動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


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中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
 


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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
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日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
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引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html

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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで

プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg


日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。

こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

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ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 

株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235


メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。

一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。

銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。

日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。


69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。


いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。


資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  


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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。
コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html

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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由

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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


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米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。


(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm


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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107

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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は
「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/


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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
1. 中川隆[-10712] koaQ7Jey 2019年4月18日 08:16:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340]
講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員 川端純四郎
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。

 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。

 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。
 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。

 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。
 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。

 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。

 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。
 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。
 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。
 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京〜上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。

http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c1

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
18. 中川隆[-10711] koaQ7Jey 2019年4月18日 08:25:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1342]

平等な社会はもう実現している。
99%が貧困に収斂する平等社会だったが │ ダークネス:鈴木傾城
https://fullinvest.xyz/?p=6176
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c18
[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
8. 中川隆[-10710] koaQ7Jey 2019年4月18日 09:24:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]
米NYタイムズ、嘘報道でイラク戦争起こし多数の犠牲者…嘘のロシア疑惑で政権批判も
https://biz-journal.jp/2019/04/post_27535.html
2019.04.17 文=木村貴/経済ジャーナリスト Business Journal


イラク戦争(2003年4月12日)(写真:ロイター/アフロ)


 2016年の米大統領選でトランプ陣営がロシア政府と共謀して得票を不正に操作したという「ロシア疑惑」は実際にはなかったことが、モラー特別検察官の捜査によって結論付けられた。2年以上にもわたって大手メディアが振りまいてきたロシア疑惑報道は、フェイク(偽)ニュースだったわけである。

 バー米司法長官は3月24日、ロシア疑惑について捜査結果の概要を公表した。モラー特別検察官の捜査で、トランプ大統領の選挙陣営がロシアと共謀した疑惑を裏づける証拠は見つからなかった。
 
 2017年5月にモラー特別検察官による捜査が始まってから、今年3月末で22カ月。実際には2016年10月、米国土安全保障省が大統領選挙においてサイバー攻撃による妨害が行なわれていたことを認める声明を出し、ロシア疑惑に火がついた。この間、実に2年以上にもわたり、メディアは洪水のように大量のロシア疑惑報道を流してきた。大半はトランプ氏側を「クロ」と決めつける内容だ。

 しかし、それらの報道は、前回の本連載でも指摘したように、いずれも根拠に乏しいものだった。ワシントン・ポスト、CNN、NBC、ABC……。米国を代表する大新聞やテレビが誤報や問題のあるニュースを連発した。それにもかかわらず、トランプ陣営がロシアと共謀したという疑惑そのものは、あたかも事実であるかのようにメディア上で語られてきた。

 今回の捜査結果によって、大手メディアが争って伝えてきたロシア疑惑そのものに証拠がなかったことが明らかになった。報道機関の存在意義すら問われかねない、由々しき事態といわざるをえない。一体なぜ、このような事態を招いてしまったのだろうか。

■政府の情報に頼りすぎる危険

 米メディアが振りまいたロシア疑惑報道を読んで気づくのは、その大半が情報源を政府関係者に頼っている点だ。記事によって「米当局者によれば」「行政当局者によれば」「捜査当局者によれば」などと多少の違いはあるものの、いずれも行政・司法などの政府関係者が情報源であることに変わりはない。

 大手メディアの強みは、政府上層部に太いパイプを持つことにある。政府上層部が握る重要情報をいち早く入手することによって、小規模のメディアやフリージャーナリストなどに書けない記事を書くことができる。

 けれども大手メディアのこの強みは、逆に弱みにもなりうる。政府上層部が意図する情報操作に利用されかねないからだ。政府の意図に気づいても、日頃の貸し借りから拒否はしにくい。記者によっては、むしろみずから進んで協力することで、情報源とより親密な関係を築こうとする者もいるだろう。

 政府によるメディアを利用した情報操作といえば、頭に浮かぶのは、2003年に始まったイラク戦争である。

 イラク戦争開戦の根拠とされたのは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているという主張だった。開戦に先立ち、当時ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、この主張を肯定する多くの記事を執筆した。

 米同時テロから1年後、2002年9月8日付の1面トップで、ミラー記者は同僚記者と連名で「フセインは原子爆弾の部品調達を急いでいる」との記事を書いた。イラクが原子爆弾製造に向け、ウラン濃縮用の遠心分離機に使われる特殊なアルミニウム製チューブを購入しようとしているとの内容で、「大量破壊兵器の決定的証拠はきのこ雲になるかもしれない」と危機感を煽った。

 同日、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がそれぞれ違うテレビ番組に出演し「フセインが大量破壊兵器を保有しているのは間違いない」と強調。3人はそろって、「証拠」としてミラー記者が書いたニューヨーク・タイムズの記事に言及した。さらに数日後、ブッシュ大統領が国連総会で演説し「イラクは高強度アルミ製チューブを購入しようとしている。核兵器入手に躍起になっている動かぬ証拠」と断じる。

 しかし今では周知の事実だが、大量破壊兵器は結局、発見されなかった。アルミ製チューブも従来型ロケット砲用との見方が有力になった。ニューヨーク・タイムズは2004年5月、編集局長の見解として「2001年以降のイラク報道は問題含み」と認め、具体例として12本の記事を挙げた。このうち10本はミラー記者が単独か連名で書いた記事だった。

 ニューヨーク・タイムズは少なくとも結果として、多数の犠牲者を出したイラク開戦のお先棒を担いだ格好だ。こうした事態を招いたのは、戦争正当化に向けて世論を誘導したい政府高官のほか、フセイン政権の転覆を願う亡命イラク人の情報に頼りすぎたからだ。

 イラク開戦時の報道のあり方を問う新作映画『記者たち』(ロブ・ライナー監督)のなかで、ニューヨーク・タイムズを退社したミラー元記者のテレビインタビューの様子が流れる。その中でミラー氏はこう発言する。「政府の情報は誰も疑わないわ」。

 政府権力に対峙するジャーナリストの心構えとしてあまりにもナイーブと言わざるをえないが、実際にはミラー氏の言うとおり、イラク開戦当時、『記者たち』で描かれるナイト・リッダー社を除き、政府の主張に疑義を申し立てるメディアはほとんどなかった。けれどもその後、大量破壊兵器が存在しないことがわかり、メディアは政府の情報に頼りすぎる危険を学んだはずだった。

■ジャーナリズムの敗北

 ところが今回のロシア疑惑で、ジャーナリズムの世界でイラク戦争の教訓がまったく生かされていないことが明らかになった。大手メディアの記者たちは、情報機関との対立も辞さないトランプ大統領を排除したい政府関係者の情報に頼りきり、ロシアとの共謀という嘘の物語を垂れ流し続けたのだ。

 米コラムニストのマット・タイービ氏は「ジャーナリズムの敗北という点では、大量破壊兵器はロシア疑惑に比べれば小さなもの」と述べる。ロシア疑惑の誤報や誇張の規模は大量破壊兵器に関する報道をはるかに上回るうえ、報道機関が事実と虚構の区別という役目を忘れ、一方の勢力に肩入れする存在に変貌してしまったからだ。「大量破壊兵器で報道機関の評価は傷ついた。もし状況を変えなければ、ロシア疑惑でその評価は崩れ去るだろう」とタイービ氏は警鐘を鳴らす。

 だが実際には反省の機運は乏しい。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストは昨年、ロシア疑惑報道により、報道の世界で最高の権威とされるピュリッツァー賞を受賞しているが、これを返上するという話は出ていない。

 米大手メディアの報道を鵜呑みにしてきた日本のメディアも責任は免れない。大手の論調に批判的な独立系メディアに目配りする努力がもっと必要だし、伝えた内容が誤っていたなら、読者に対する説明責任があるはずだ。ほおかむりを決め込めば、タイービ氏が指摘するように、報道機関としての評価を失うことになるだろう。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
牧野洋「イラク戦争に火をつけた『大量破壊兵器』スクープは『御用記者』の誤報だった」現代ビジネス
Matt Taibbi, It's official: Russiagate is this generation's WMD - Hate Inc. - Substack
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c8

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
86. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年4月18日 09:25:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344]
米NYタイムズ、嘘報道でイラク戦争起こし多数の犠牲者…嘘のロシア疑惑で政権批判も
https://biz-journal.jp/2019/04/post_27535.html
2019.04.17 文=木村貴/経済ジャーナリスト Business Journal


イラク戦争(2003年4月12日)(写真:ロイター/アフロ)


 2016年の米大統領選でトランプ陣営がロシア政府と共謀して得票を不正に操作したという「ロシア疑惑」は実際にはなかったことが、モラー特別検察官の捜査によって結論付けられた。2年以上にもわたって大手メディアが振りまいてきたロシア疑惑報道は、フェイク(偽)ニュースだったわけである。

 バー米司法長官は3月24日、ロシア疑惑について捜査結果の概要を公表した。モラー特別検察官の捜査で、トランプ大統領の選挙陣営がロシアと共謀した疑惑を裏づける証拠は見つからなかった。
 
 2017年5月にモラー特別検察官による捜査が始まってから、今年3月末で22カ月。実際には2016年10月、米国土安全保障省が大統領選挙においてサイバー攻撃による妨害が行なわれていたことを認める声明を出し、ロシア疑惑に火がついた。この間、実に2年以上にもわたり、メディアは洪水のように大量のロシア疑惑報道を流してきた。大半はトランプ氏側を「クロ」と決めつける内容だ。

 しかし、それらの報道は、前回の本連載でも指摘したように、いずれも根拠に乏しいものだった。ワシントン・ポスト、CNN、NBC、ABC……。米国を代表する大新聞やテレビが誤報や問題のあるニュースを連発した。それにもかかわらず、トランプ陣営がロシアと共謀したという疑惑そのものは、あたかも事実であるかのようにメディア上で語られてきた。

 今回の捜査結果によって、大手メディアが争って伝えてきたロシア疑惑そのものに証拠がなかったことが明らかになった。報道機関の存在意義すら問われかねない、由々しき事態といわざるをえない。一体なぜ、このような事態を招いてしまったのだろうか。

■政府の情報に頼りすぎる危険

 米メディアが振りまいたロシア疑惑報道を読んで気づくのは、その大半が情報源を政府関係者に頼っている点だ。記事によって「米当局者によれば」「行政当局者によれば」「捜査当局者によれば」などと多少の違いはあるものの、いずれも行政・司法などの政府関係者が情報源であることに変わりはない。

 大手メディアの強みは、政府上層部に太いパイプを持つことにある。政府上層部が握る重要情報をいち早く入手することによって、小規模のメディアやフリージャーナリストなどに書けない記事を書くことができる。

 けれども大手メディアのこの強みは、逆に弱みにもなりうる。政府上層部が意図する情報操作に利用されかねないからだ。政府の意図に気づいても、日頃の貸し借りから拒否はしにくい。記者によっては、むしろみずから進んで協力することで、情報源とより親密な関係を築こうとする者もいるだろう。

 政府によるメディアを利用した情報操作といえば、頭に浮かぶのは、2003年に始まったイラク戦争である。

 イラク戦争開戦の根拠とされたのは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているという主張だった。開戦に先立ち、当時ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、この主張を肯定する多くの記事を執筆した。

 米同時テロから1年後、2002年9月8日付の1面トップで、ミラー記者は同僚記者と連名で「フセインは原子爆弾の部品調達を急いでいる」との記事を書いた。イラクが原子爆弾製造に向け、ウラン濃縮用の遠心分離機に使われる特殊なアルミニウム製チューブを購入しようとしているとの内容で、「大量破壊兵器の決定的証拠はきのこ雲になるかもしれない」と危機感を煽った。

 同日、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がそれぞれ違うテレビ番組に出演し「フセインが大量破壊兵器を保有しているのは間違いない」と強調。3人はそろって、「証拠」としてミラー記者が書いたニューヨーク・タイムズの記事に言及した。さらに数日後、ブッシュ大統領が国連総会で演説し「イラクは高強度アルミ製チューブを購入しようとしている。核兵器入手に躍起になっている動かぬ証拠」と断じる。

 しかし今では周知の事実だが、大量破壊兵器は結局、発見されなかった。アルミ製チューブも従来型ロケット砲用との見方が有力になった。ニューヨーク・タイムズは2004年5月、編集局長の見解として「2001年以降のイラク報道は問題含み」と認め、具体例として12本の記事を挙げた。このうち10本はミラー記者が単独か連名で書いた記事だった。

 ニューヨーク・タイムズは少なくとも結果として、多数の犠牲者を出したイラク開戦のお先棒を担いだ格好だ。こうした事態を招いたのは、戦争正当化に向けて世論を誘導したい政府高官のほか、フセイン政権の転覆を願う亡命イラク人の情報に頼りすぎたからだ。

 イラク開戦時の報道のあり方を問う新作映画『記者たち』(ロブ・ライナー監督)のなかで、ニューヨーク・タイムズを退社したミラー元記者のテレビインタビューの様子が流れる。その中でミラー氏はこう発言する。「政府の情報は誰も疑わないわ」。

 政府権力に対峙するジャーナリストの心構えとしてあまりにもナイーブと言わざるをえないが、実際にはミラー氏の言うとおり、イラク開戦当時、『記者たち』で描かれるナイト・リッダー社を除き、政府の主張に疑義を申し立てるメディアはほとんどなかった。けれどもその後、大量破壊兵器が存在しないことがわかり、メディアは政府の情報に頼りすぎる危険を学んだはずだった。

■ジャーナリズムの敗北

 ところが今回のロシア疑惑で、ジャーナリズムの世界でイラク戦争の教訓がまったく生かされていないことが明らかになった。大手メディアの記者たちは、情報機関との対立も辞さないトランプ大統領を排除したい政府関係者の情報に頼りきり、ロシアとの共謀という嘘の物語を垂れ流し続けたのだ。

 米コラムニストのマット・タイービ氏は「ジャーナリズムの敗北という点では、大量破壊兵器はロシア疑惑に比べれば小さなもの」と述べる。ロシア疑惑の誤報や誇張の規模は大量破壊兵器に関する報道をはるかに上回るうえ、報道機関が事実と虚構の区別という役目を忘れ、一方の勢力に肩入れする存在に変貌してしまったからだ。「大量破壊兵器で報道機関の評価は傷ついた。もし状況を変えなければ、ロシア疑惑でその評価は崩れ去るだろう」とタイービ氏は警鐘を鳴らす。

 だが実際には反省の機運は乏しい。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストは昨年、ロシア疑惑報道により、報道の世界で最高の権威とされるピュリッツァー賞を受賞しているが、これを返上するという話は出ていない。

 米大手メディアの報道を鵜呑みにしてきた日本のメディアも責任は免れない。大手の論調に批判的な独立系メディアに目配りする努力がもっと必要だし、伝えた内容が誤っていたなら、読者に対する説明責任があるはずだ。ほおかむりを決め込めば、タイービ氏が指摘するように、報道機関としての評価を失うことになるだろう。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
牧野洋「イラク戦争に火をつけた『大量破壊兵器』スクープは『御用記者』の誤報だった」現代ビジネス
Matt Taibbi, It's official: Russiagate is this generation's WMD - Hate Inc. - Substack
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c86

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由

自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由

紅い皇帝毛沢東と狂爛の文化大革命【东方红】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=AtJy-yu2rHw


東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。


▲△▽▼
▲△▽▼


【我那覇真子「おおきなわ」#62】
川島博之氏が見た中国〜「戸籍アパルトヘイト」9億人の農民奴隷[桜H31-3-29] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=aFLdzfrGKM8

【我那覇真子「おおきなわ」#63】
川島博之氏に聞く超監視社会の行く末〜中国共産党支配は終焉するか?[桜H31-4-5] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=fkC-3pChis0

【川島博之】【特集】中国経済は本当に崩壊するの? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=qPOCgC6EOEY

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平等な社会はもう実現している。
99%が貧困に収斂する平等社会だったが │ ダークネス:鈴木傾城
https://fullinvest.xyz/?p=6176


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2018年09月22日
中国人のお金事情 可処分所得年42万円、農家は今も年収10万円

農村の貧しさが目立つ。2500元は年4万円に過ぎない


画像引用:http://news.livedoor.com/article/detail/13230542/


富裕層を見て中国を判断できない

中国で富裕層が増加したり高級自動車が「爆売れ」したり海外で消費しているので、中国人はお金持ちというイメージができた。

だが中国の1人当たりGDPは約90万円で、平均年収はもっと低い70万円台とみられます。

日本の場合は一人当たりGDPは約400万円でサラリーマン平均年収は約420万円、だがこれは正社員の年収です。

非正規やパートを含む平均年収は300万円台がせいぜいで、このように平均年収は一人当たりGDPよりかなり低くなります。

中国で各省が報告した2017年時点の平均給与は、役所が7万4318元(約129万円)で、民営企業は4万5761元(約79万円)でした。

これがいわゆる正社員の給与なので、全労働者の平均ではこの数字より低くなり、やはり80万円以下でしょう。


北京日報によると2017年度の北京労働者の平均給与は10万1599元(約173万円)だったがこれは飛びぬけて高い。

上海と北京は中国の最高収入都市であり、低い地域の2倍以上にも達している。

見逃せないのは農民の収入の低さで、北京上海など大都市に隣接した豊かな農村と、貧しい農村の格差が大きい。


2017年10月の中国農業部発表では、農民工(出稼ぎ労働者)の平均月収は3459元(5万6000円)だった。

中国の農家の収入は2015年に1万1千元(17万円)を超えたが、その後は発表されていないようです。

この発表には「政府が水増しして良く見せかけている」という批判が相次ぎ、その後数字自体を発表しなくなった。


中国人の預金はひとり80万円

実態としては2015年に年収10万円だったと思われ、それも一部の富裕農家の収入で平均値が押し上げられている。

2018年の現在も最大限過大評価して年収20万円というところで、富裕農家を除くとやはり年収10万円でしょう。

年収10万円でどうやって生活するのか、日本人には想像できないが、生活手段は物々交換だと思われます。


さて中国人の「預金」については6月の個人預金残高は約68兆4000億元(約1100兆円)と一見かなり多い。

だが人口は日本の10倍なので人数で割ると、1人当たり5万元(約82万円)に満たなかった。

1人当たり可処分所得(税金と公的費用を引いた金額)は国家統計局によると2万5974元(約42万4000円)に過ぎなかった。


税引き後の可処分所得42万円という数字からは、本当の平均年収は60万円以下かも知れないと想像できる。

一部の富裕層や北京上海のエリートを除く中国人は、想像よりずっと貧しくお金を持っていない。

庶民の夢である家と車を買うため、住宅ローンや自動車ローン残高が急増して多くの家庭で年収の何倍にも達している。


こうした数字を見ると中国人の未来は明るくない。
http://www.thutmosev.com/archives/77594894.html



▲△▽▼

日本の若者が知る由もない 中国人女子の悲し過ぎる「格差事情」
http://www.asyura2.com/17/china12/msg/811.html

2015年8月24日 中島 恵 :フリージャーナリスト
日本の若者が知る由もない
中国人女子の悲し過ぎる「格差事情」
ジャーナリスト・中島恵
湖南省の専門学校で出会った
哀しくも健気な女子専門学校生

寮は8人部屋で簡素な2段ベッドが4つと、勉強机と椅子のセットが8つ。気温35度でもエアコンはない
 上海から空路で約2時間。中国南部の内陸部に位置する湖南省に行った。湖南省と言ってすぐにピンとくる日本人は少ないと思うが、ここは毛沢東、胡耀邦といった中国共産党の政治家たちを生んできた土地柄。気温が高く、辛い料理が有名だ。

 今夏、筆者は同省のとある専門学校を訪ね、学生たちと共に短い寮生活を送った。ここで1人の農村出身の女子学生(20歳)と知り合った。彼女を通して、改めて中国の厳しい現実を知った。

「中島老師(先生)、ようこそいらっしゃいました」

 おかっぱのツヤツヤとした黒髪、華奢でかわいらしい女の子が、モジモジしながら女子寮の入り口で迎えてくれた。筆者の大きなスーツケースを他の女子学生らと共に3Fまで階段で運ぶと、丁寧に自己紹介してくれた。彼女の名は黄さん。高校卒業後、この二年制の専門学校に進学し、卒業したばかりだという。筆者はここで学生たちと交流したり、日本語を教えさせてもらう予定で、黄さんは筆者のお世話係としてそばについてくれた。

 寮は8人部屋。北京や上海の大学では最近は4人部屋も多いと聞くから、ここはまだ古いタイプだ。簡素な2段ベッドが4つと、勉強机と椅子のセットが8つ。ちょうど夏休みに入ったため、筆者は8人部屋を1人で使わせてもらえることになった。しかもエアコン付き。他の学生たちは気温35度でもエアコンなしだ。

 到着してすぐ、寮の担当教師からバケツとシーツを買いに行くようにと言われた。そういえば、以前取材した広東省の部品工場でも「バケツは必須」と言われたことがあった。かつて内陸部からはるばる出稼ぎにやってくる若者たちは、ボストンバックとバケツも持参した(昨今はスーツケースに様変わりしているが)。荷物や洗濯物を入れる桶として、また掃除の際にも幅広く使用できるからだ。だからバケツと言われても驚かなかったのだが、ここでは洗濯(手洗い)用の小さな桶で十分だった。

 学校近くには数軒、雑貨や食品を売る売店があり、そこで最も小さい3元(約60円)の桶とシーツ(28元=約600円)を購入。部屋に戻ると黄さんがすぐに袋を開けてシーツを取り出すと、洗面台に持って行ってジャブジャブと水洗いし始めた。

「えっ? 何してるの? 新品なのにどうして洗濯するの?」

 私の素朴な質問に彼女は笑いながら「中国では新品のものでも、最初に洗ってから使います。ほらっ、これだから」と言って、小さすぎる桶からはみ出したシーツを指差した。流れ出ていたのは大量の染料。溶け出した鮮やかなブルーが水に広がっていた。

 以前、中国で買ったぬいぐるみを枕元に置いていたら顔に湿疹ができ、皮膚科に通っても治らなかったという話を、日本人の友人から聞いたことを思い出した。中国では強い農薬を落とすための野菜専用の洗剤があり、多くの家庭でこの洗剤を使っていることは知っていたが、新品の寝具や洋服もまず一度洗ってから着ると聞いて、驚いた。

 黄さんはその専門学校で日本語を学んでいた。高校卒業時、成績はよかったのだが、大学に進学するほどの経済的余裕はなく、一時は看護師の専門学校に進学することも考えたが、「看護師は給料が安すぎる」という周囲の反対で断念。日本のアニメやドラマが好きで、「日本語を学べば都会に出て、よい就職先があるのでは」と考えて、日本語を学ぶことにしたという。2年間学んだといっても彼女の日本語は理解不能なものが結構あったが、日本には好感を抱いているようで、日本人女性(筆者)と初めて接触するのを楽しみにしていたと話してくれた。

両親が共働きで出稼ぎは当たり前
久しぶりに会った母の顔がわからない
 故郷はバスで6時間も離れた山間部。何も産業がない地域で、老人と子ども以外は沿海部に出稼ぎに出ているという。黄さんの両親も中学卒業と同時に広東省にある部品メーカーに就職。そこで出会って結婚した。1人っ子政策を実施している中国だが、農村では2人以上子どもを持つことが少なくない。黄さんにも姉と弟がいる。女の子が2人続いたので、おそらく両親は後継ぎである男の子が欲しくて3人の子を産んだのだろう。

 といっても、彼女は両親と暮らした記憶はほとんどない。祖父母と姉、弟と5人で暮らしていて、両親が田舎に帰ってくるのは1年に1回、春節(旧正月)のときだけだったからだ。

「小さい頃、両親のことはほとんどわからなかったです。祖父母もあまり親の話はしませんでした。5歳くらいのとき、おばあちゃんに『あの人、誰?』って聞いたら、それが母だったんです……」

 この話を聞いたとき、筆者は軽いショックを受けると共に、以前行った中国人の子育ての取材を思い出した。「やっぱりあの話は本当だったのか……」と。

 中国では一般的に男女共働きで、専業主婦は非常に少ない。育児の主な部分は自分か夫の祖父母に任せっ切りで、母親は出産後、仕事に復帰するのが普通だ。日本では考えにくいことだが中国では当たり前の現象であり、中国の祖父母も、孫の世話は自分たちの仕事だと思っている。「子育て=家族全員でするもの」という観念があるからで、母親1人に子育ての負担が集中することはない。そういう意味では、中国は働く女性が生活しやすい環境ともいえるが、農村の場合は状況が異なる。

 母親、もしくは両親共に都会に出稼ぎに行っている場合、子育ては100%祖父母の仕事になる。都会ならば夜や週末は父母の元に帰れる子どもも、農村では1年に1回、数日程度しか親に会えない。そのため、親の顔を知らないで育つ子どもは珍しくない。戸籍制度の問題もあり、戸籍のない都会にいる間は社会保障や福祉、正当な教育を受けられないため、子どもは田舎に預けるしかないのだ。

「死ぬことが長年の夢だった」
中国に6100万人もいる留守児童
 そうした子どもたちは「留守児童」と呼ばれ、中国共産党系の組織が発表した資料によると、人口13億7000万人の中国で約6100万人もいるといわれている。そのうち約920万人が、1年間に一度しか親に会うことができない。

 今年6月にも、中国で最も貧しいといわれる貴州省で、留守児童だった4人兄妹が農薬を飲んで自殺した、という悲惨なニュースが流れたばかりだ。父親は出稼ぎ労働者で、母親は家出。14歳を筆頭として5歳までの子どもたち4人だけで暮らしており、この家には祖父母もいなかった。14歳の子どもは「死ぬことが長年の夢だった」と走り書きを書き残しており、この子たちがいかに厳しい環境で暮らしてきたかがわかる。

 こうした留守児童の取材のときも衝撃を受けたが、今、目の前にいるこの可愛らしい黄さんもその1人だったと知り、私は話を聞きながら自分の目が潤んでいくのがわかった。ごまかしてご飯をかき込んでいると、彼女はこちらをちらちらと見ながら、「でも、私は幸せなんですよ。祖父母は優しいし、近所にたくさん(同じような境遇の家庭で育った)友だちがいましたから。全然平気です」と笑っていた。そして「だって、私は専門学校にも進学させてもらえたんですから。これも両親が長い間、故郷を離れて働いてくれているお蔭です」ともつけ加えた。

 専門学校の学費は1年で約1万元(約20万円)。彼女はきれいに折り畳んで大切に財布にしまっている学費の領収書を見せてくれた。私立なので国立の大学や専門学校よりも学費は高いが、長女は中学を出てすぐに広東省に出稼ぎに行ったため、優秀な次女には進学をさせてあげたいという両親の希望もあって、この学校を選んだという。

「うちは少しずつ裕福になっているんです」。そう彼女は言ったが、専門学校の1年目と2年目の夏には、他の学生が故郷に帰省するのを尻目に、自分だけ広東省の工場にアルバイトに行った。この町から夜行バスで13時間。両親が働く工場で臨時に雇ってもらい、母親と同じベッドで寝て、1日12時間働いて、1ヵ月で3500元(約7万円)の収入を得た。

 食事代などのお小遣いは毎月決まった額ではなく、足りなくなったときだけ両親に話すという。両親は筆者と同世代の40代半ば。中国人ならば、今や老人でさえ持っているスマホも持っていなくて、ガラケーしかないという。中国人のコミュニケーションツールとして幅広く普及している微信(中国版ライン)もできないので、週に1回電話をかけて近況を報告しているという。

 父親は電話のたびに「お金は足りているか?」と聞いてくれるが、彼女は両親に心配かけたくないと話していた(そんな彼女でも、他の若者と同じくスマホだけは持っていた。寮に近い携帯電話ショップで、一番安い900元(約1万8000円)のスマホを買ったという)。

 彼女によると、6歳のときから自分の衣服の洗濯(手洗い)をやり、7歳のときから祖母を手伝って料理もしていた。農村では当たり前のことだという。この学校の教師の家で家庭料理をご馳走になる機会があったのだが、そのときも彼女が手際よく料理している姿を見て、祖母が彼女をどのように育てたかが目に浮かぶようだった。

お金がないのに精一杯客人をもてなす
今の中国にもこんな純朴な子がいるのか……。
 ある日、一緒に夕食を食べて寮に帰る途中、洋服を売る露店の前を通りかかった。彼女がそこで立ち止まったので、2人で吊るしてあるTシャツやブラウスを見て歩いた。どれでも2枚で50元(1000円)。筆者は思いついて、「今回のお礼に好きな洋服を買ってあげる。どれでも遠慮なく選んで。さあ」と言ったのだが、それを聞いた彼女はさっと表情を変えて「いいです。本当にいいです。たくさん持っていますから……」と言って手を振り、急いで立ち去ろうとした。

 食事のとき、朝ご飯(屋台で売っている蒸まんじゅうや餃子)は1元か2元なので、いつも彼女が買ってくれた。筆者がどんなに「私が買うから」と言っても「ここは中国。先生は日本からきたお客さんなんですから」と言って、どうしても譲らなかった(その代わり、15元、20元と値段がはる昼食や夕食のときには、自分には払えないとわかっていたのだろう。お財布を出さなかった。もちろん筆者が払うのでよいのだが、いつも申し訳なさそうにしていた)。彼女はそういう子だった。

 彼女との会話は筆者にとってとても新鮮で、北京や上海の取材で出会う若者とは大きく異なっていた。今どきこんなに純朴な子がいるのかと感心させられることが多かったのだが、その中でも特に印象深い出来事がある。1日だけ遠出して毛沢東の生家に旅行したときのことだ。

 学校の職員が車を出してくれることになった。旅行といっても自動車で1時間の距離だったが、黄さんは前夜から「中島老師、私、うれしくて眠れないです」とウキウキしていた。しかし、乗り込んで20分くらいすると、黄さんは急に具合が悪くなってしまった。乗りもの酔いだ。聞けば、20歳になるまで自動車に乗ったことはほとんどなく、乗り物といえば、長距離バスしか経験がないという。

 専門学校からバスで20分乗った先にある大型のショッピングセンター(学校の他の生徒たちはそこに行って、カラオケをしたり食事をしたりすると話していたが)にも行ったことがないということだった。「うちは少しずつ裕福になっているんです」と彼女は言ったが、節約してつつましく暮らしていた。

 毛沢東の生家は、平日だというのに大勢の観光客で賑わっていた。周辺地域からの団体観光バスが何十台もやってきていて、ゲートから生家まで30分以上も行列に並ぶほど混雑していた。おみやげコーナーには、3000元(約6万円)、4000元(約8万円)という値札がついた毛沢東の銅像のレプリカや、毛沢東の顔を印刷したトロフィーみたいなもの、マグカップや関連書籍などがズラリと並んでいて、それを2人で眺めていたときだ。

 いくつかある安いおみやげの中に、2つで5元(約100円)という、破格に安い金メダルがあった。おもちゃのような安くて軽い記念メダルで、表には「毛主席故居留念」と書いてあり、中央に名前と日付を刻むことができるようになっている。店員が「名前を刻字するよ。さあ、記念にどうだい?」と勧めてきた。

 すると、彼女は金メダルを手に取り、店員に「1枚には中島恵、もう1枚には黄江(弟の名前)と刻字してください」と言ったのだ。筆者は驚いて、「いいよ。私は要らないよ。本当に要らない」と何度も断ったのだが、聞かない。仕方がないので「じゃあ、私があと5元払うから、自分の分も記念につくったら」と言うと、「私は今日ここに来られただけで幸せなんです。こんなところには、一生来られないと思っていたから。弟には普段何も買ってあげられないから、すごくいい記念です」と言うと、筆者に1枚プレゼントしてくれた。

 その金メダルは今、この原稿を書いている筆者のパソコンのすぐ横に置いてある。

北京の女子とはまるで別世界の住人
改めて感じる厳し過ぎる中国の格差社会
 その後、北京に移動して同世代の中国人に会った。彼女の話をするとみんな驚き、中には涙ぐむ子もいた。中国のテレビのニュースなどでは「留守児童」の問題をかなり取り上げているが、都会の多くの中国人は実際そういう場所に行ったこともないし、交流する機会はない。同じ中国人とはいえ、一生に一度も交わることがない別世界の存在だ。

 北京の女の子は私の著書にも登場するエリートで、この秋から高校3年生。両親は大学教授と官僚という家庭で育った1人っ子だ。進学校の国際クラス(英語で重点的に勉強するクラス)に入り、アメリカの大学に進学を予定している。毎月のお小遣いは500元(約1万円)で、それ以外に親のクレジットカードも使用できるなど、何不自由のない暮らしをしている。都市部では、このような子は珍しくない。

「私は本当に幸せなんですね……。私たち、同じ中国人なのに……」

 北京の女の子が声を詰まらせながら言った言葉が、厳しすぎる中国の格差社会を物語っているように聞こえた。
https://diamond.jp/articles/-/77120  


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中国国内の「農村国」と「沿海国」

 たとえていえば、中国の社会とはには事実上、国内に「沿海国」と「農村国」の2国があって、住民はそれぞれ別の国籍を持っているようなものである。「農村国」の国民は原則的に一生農村国内で生活することが求められており、「都市国」で働くためには「都市国」に対して就労許可を申請し、原則的に期限付きの「労働ビザ」を取得して就労しなくてはならない。在留期限が切れたり、無許可で働いていると、あくまでヤミの就労ということになってしまう。

 つまり日本国内で外国人の不法就労が大きな問題となっているが、中国で農村戸籍の人が都市で働こうとすれば、原理のうえでは同じ問題が発生するのである。

 またちょっと状況は違うが、日本政府はつい先頃まで中国からの観光客に対して、上海市や北京市、江蘇省、浙江省、広東省など沿海部の比較的生活水準の高い地域の住民に対してしか観光ビザの発給を認めていなかった。その他の人々は門前払いである。つまり同じ中国の国民なのに、ある地域の人にはビザが出るのに、ある地域の人には申請の資格すらなかった。これも中国の戸籍制度がある意味で「国籍」のような性格を持つことのひとつの証左と言えるだろう。
 
 中国の現在の戸籍制度の基本となる「戸口管理条例」が制定されたのは1958年。社会主義中国の誕生から10年を経過、革命後の過渡的な時代から、いよいよ本格的な社会主義計画経済の時代へと突入しようかという段階だった。

 この制度は国民を農村戸籍と非農村戸籍に分け、農村に生まれついた人間は大学入学などごく一部の例外を除いて一生農村で暮らすことを強制するもの。当時は生産力が乏しく、モノやサービスは極端な供給不足。都市機能も貧弱だったため、人口の自由な移動を許すと国の基盤が崩壊しかねないとの判断が根底にあった。

 その後、文化大革命という極左原理主義の時代を経て、1978年に改革開放政策がスタート。国民生活や経済活動を管理してきたさまざまな規制が徐々に取り払われてきたが、戸籍制度は運用面で一定の緩和はあったものの、基本的には現在でも機能している。

40年前の制度が限界に

 もちろん中国でも戸籍制度で制限されているのは、他の地域に居住して公共サービスを受けることであって、旅行したり短期間の出張などに制限があるわけではもちろんない。あくまで障壁があるのは正式に就労しようとした場合であって、別に行った先で正式な公共サービスを受けなくても構わないと割り切れば、別に地方の住民が大都会に住みついて働いていても、それだけで単に警察に捕まってしまうことはない。ただ同じ国内で転居の自由がなく、他の地域で働くのに、その地方の就労許可がいるというのは日本ではちょっと想像がしにくいだろう。
http://www.actiblog.com/tanaka/10640

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官僚・地主/商人・知識人を兼ねた強力な支配層「士大夫」
 

中国三千年(特に後半)を実質的に支配してきたのは、「士大夫」と呼ばれる階層だった。特に中国の場合、地主や豪商も、士大夫に収束していき、極めて強力で固定度の高い支配層を形成していった。

・士大夫が黒幕になれたのは、儒教のおかげである。儒教の本質は「士大夫の、士大夫による、士大夫のための教養体系」であった。儒教の開祖・孔子は、士大夫層だった。彼の思想は、中間支配階級のものだった。被支配階級の目線に立つ老荘思想とも、君主の目線に立つ法家思想とも、発想の出発点が違った。

・前6世紀の孔子の時代、士大夫は、まだ単なる役人にすぎなかった。前二世紀の武帝の時代、儒教が官学化されると、士大夫層は知識人としてのステイタスをもあわせもつようになり、その地位は格段に上昇した。

・6世紀末、隋の文帝は「科挙」の制度を始めた。新たに「高学歴」というステイタスを得た士大夫層は、ますます強くなった。

・漢詩人も士大夫ばかり。有名な王維も杜甫も韓愈も白楽天もみんな士大夫。その理由は、漢詩・漢文の難しさにある。

昔の日本人はカナを発明して、誰でも使えるようにした。中国は違った。士大夫は、自らのステイタスを高めるため、漢詩や漢文をわざと難しいものにした。

儒教、科挙、漢字。この3点セットが、士大夫層のステイタスを支えた。

・科挙の受験準備のためには、ある程度の資力が必要であったため、多くは地主や豪商の家から受験者が出た。地主や豪商は、自分の子弟を科挙に合格させて士大夫階級の仲間入りをさせて、社会の甘い汁の分配にあずかろうとした。

・こうして、北宋の時代に、士大夫層は、科挙官僚・地主。商人・文人を兼ねた強力な支配階級(士大夫階級)となった。

・中国社会は、落ち葉が一面に浮いている池に似ていた。
嵐が来れば、池の表層の落ち葉はすっかり吹き飛ばされ、また別の木の葉でおおわれる。しかし池の中の水は変わらない。
中国の王朝交代も同様であった。皇帝とその一族は、社会の最上層に、落ち葉のように浮かんでいるにすぎなかった。

・中国では、王朝が滅んでも、中間支配層たる士大夫層は不滅だった。その一例がふう道”(882〜954)という人物である。10世紀、短命な王朝が目まぐるしく交代する乱世の中で、士大夫のリーダー(宰相)だったふう道”は、なんと「五朝八姓十一君」に仕えた。

・17世紀半ば、中国は、満州人の「清」に征服された。当時の満州人の人口は老若男女合わせて20万人程度だった。漢民族の実人口は約1億。

満州人が超人的に強かったわけではない。しかし、漢民族は「被征服慣れ」しすぎていた。

「征服者」たる満州人は、科挙の制度を維持し、士大夫階級が引き続き社会の「甘い汁」を吸うことを保障した。そのおかげで清朝は三百年近くも続いた。

現代の中国共産党もこの「士大夫」支配の変形バージョンと言い換えられるだろう。

参照 「貝と羊の中国人」加藤 徹著
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=295161


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戸籍なき子1300万人 学校にも病院にも行けない「ブラックチルドレン」の苦悩 2015.12.3
https://www.sankei.com/world/news/151125/wor1511250006-n1.html


豊かとはいえない農村が広がる崇明島の地元食堂で働く敏敏さん(仮名) =20日


 11月24日付の中国紙、第一財経日報によると、中国公安省は「黒孩子(ブラックチルドレン)」と呼ばれる戸籍のない子たちの問題解決に向けた検討を開始した。

 習近平指導部が「一人っ子政策」を廃止し、年内にもすべての夫婦に2人目の出産を認めるのを受け、従来は放置されてきた社会矛盾の解消をめざす。具体的な救済策は今後詰める。

 「黒孩子」は女性が大半とされ、内陸部など把握できていないケースを含めると、数千万人に上るとの推計もある。


 「中学校に上がるとき通学を断られ、初めて両親が本当の親ではなく自分には戸籍さえないと知らされ、家でふさぎ込んでいた」

 行政管轄上は上海市の一部ながら、豊かとはいえない農村が広がる崇明島。とある食堂で最近、働き始めたという敏敏さん(16)=仮名=はこう言って言葉を詰まらせた。中国で「黒孩子(ブラックチルドレン)」と呼ばれる戸籍のない子供の一人だ。

 敏敏さんは生後数カ月のころ、崇明島の市場でカゴに入れられて泣いていたところを、近くで商店を営む夫婦に救われたという。

ふびんに思った夫婦は養女として育て始めたが、地元政府は出生証明すらない敏敏さんの戸籍申請を頑として拒み続けた。人口抑制を目的とした「一人っ子政策」での「成果」を競っていた地方政府にとっては、存在すら隠しておきたい“お荷物”だった。

 養父母によると、敏敏さんは小さいころからぜんそくに苦しめられたが、戸籍に基づく身分証がないため病院で診察を受けることができなかった。読書も大好きだったが、図書館で本も借りられなかった。

 敏敏さんは「小学生のとき、クラス名簿に自分の名前がないのが不思議だった」と話すが、それは養父母が懇願し、地元小学校が聴講生のような待遇で通学を許したからだった。不幸中の幸いだった。「黒孩子」の中には満足に読み書きできない子供も多い。

 昨年末の時点で中国の総人口は約13億7千万人。それとは別に中国政府は2010年の国勢調査で、「戸籍なき子」が約1300万人いることを把握している。東京都の人口にも匹敵する規模だ。地元紙によると、崇明島だけで200人以上が確認されている。

 後継ぎに男の子を欲しがる古い観念にとらわれた農村では、女の子の出生届は出さず、違法と知りつつも誰かに売るか、拾ってもらうか、こっそり育てるかを選び、その後やっと生まれた男の子を「第1子」として届ける夫婦がいる。


 教育も医療も受けられなかった子供たち。きちんとした就職先などなく、結婚も出産も手続き上はできない。小学生のころの敏敏さんは、「将来は大学に進んで教師になりたい」と夢を描いていたというが、戸籍がなければそれも果たせない。36年間にわたって続いた「一人っ子政策」の闇が残した心の傷痕は、そう簡単に消えそうもない。

 「一人っ子政策が終わるのはいい知らせ。でも2人目の出産を誰にでも認める前に、政府は私たちのような子を真っ先に救ってくれなければ不公平よ。私は外国人じゃない。中国人なのよ」。敏敏さんの悲痛な叫びが耳に残った。(崇明島 河崎真澄)

一人っ子政策 中国政府が人口抑制のため、夫婦の子供は1人と出産を制限した国策。1979年に導入された後、農村の一部や少数民族に2人目や3人目を産むことを例外的に認めたほか、13年には都市部でも夫婦の一方が一人っ子であれば第2子を認めるなど、段階的に規制を緩めた。しかし、許可なく2人目を出産した違反者への巨額の罰金や、地元当局による強制的な堕胎への反発が強まり、農村で抗議や暴動が発生するなど深刻な社会問題も引き起こした。今年10月に廃止が決まった。


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戸籍のない8歳婚外子 「将来、闇世界入りして当局に復讐」
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/730.html


中国には無戸籍の黒孩子が2〜7億人いると推定されている
 実際の人口は20億
彼らには一切の社会的権利が存在せず、超低賃金奴隷待遇を強いられ、それが中国経済躍進の原動力であった
http://www.epochtimes.jp/jp/2013/12/html/d11906.html

【大紀元日本12月27日】「大きくなったらマフィアに入って復讐してやる」―わずか8歳の子供が発した言葉を、中国社会はどう受け止めるだろうか。婚外子として生まれ、生活上のあらゆる苦難を体験してきた少年についてスポットを当てた記事がこのたび、中国で話題になっている。

 中国には戸籍のない子供がたくさんいる。2番目以後の子や婚外子などは年収の3〜10倍という高額な罰金を払わなければ戸籍を登録することが出来ない。冒頭の言葉を発したのは北京房山区に住む劉菲さん(女性、仮名)の子、小傑君(8歳、仮名)。劉さんは結婚しておらず、罰金33万元(約530万円)を支払っていないため、小傑君は戸籍を得ることが出来なかった。

 「黒孩子(ヘイハイズ)」と呼ばれる戸籍外の子供は人口統計上に存在が認められていないため、一般社会で生活するのに様々な困難を抱える。無償の義務教育を受けられないため教育レベルが低く、職に就くことは難しいため貧しい。医療保険加入、自動車免許取得、婚姻も認められていない。

 黒孩子の苦境

 現在、小傑君は小学1年生。母親と暮らしている。学校に通わせるために、劉さんはあらゆる「関係者」を介するなど紆余曲折を経たという。しかし小傑君の在籍証明書には戸籍番号(注:戸籍登録者全員が持つ番号)が空欄のままだ。

 北京の地方紙・新民周刊の記者は劉さん宅を尋ね、小傑君から話を聞いた。困窮した生活のなかでも明るく活発な様子を見せていた小傑君だったが、質問が戸籍の話に及ぶと、少年にはあるはずもない無念さ、落胆、噛み殺したような怒りの表情を浮かべたという。

 小傑君は戸籍を得るために母親が腎臓を売りたがっていると小さな声で記者に話した。また、計画出産委員会や公安局の関係者が直接、あるいは電話で何度も罰金を払うよう母親に強いているのを何度も耳にしたという。

 「計画出産委員会と公安局は本当に悪いやつだ」「大きくなったら暴力団やマフィアの世界に入って、奴らに復讐してやる」―8歳の男の子の口から出た言葉に、記者は愕然とした。

 インターネットの声

 小傑君の、少年が口にするにはあまりにも悲しい言葉を受けて、インターネットでは社会格差や不平等さを嘆く声が広がっている。「張芸謀(注:チャン・イーモウ、中国人の世界的映画監督。子供が7人との疑惑が持たれている)の子は皆戸籍があるのに、結婚しなかった彼女の子は一人でも戸籍を持てないのか」「闇の世界が恐ろしいのではなく、(普通の)社会が黒くなっていくことが恐ろしい」

 一人っ子政策が導入された後、1980年代に生まれた世代「80後(パーリンホウ)」からも同情と怒りのコメントが相次いだ。「私は82年生まれ。計画出産委員会の野蛮さは私の子供時代に影を落としていった。この子の気持ちがよく分かる!」「87年生まれ。子供が2人以上というだけで、彼らは私の家を壊し、食料や家具、家財を没収した」「私には弟がいるはずだった。母親が妊娠9ヶ月の時、すでに活発に弟が母親のお腹の中で動いていたのに…!彼らは弟の頭に注射針を突き刺した(注:薬物注射して強制堕胎させた)」

 小傑君の戸籍について、母親は北京房山区の公安局を相手取り訴訟を起こしていた。最近になり「婚外子の戸籍登録を拒否したことは違憲」とする判決が下り、幸いにも小傑君は戸籍を得る見通しが付いた。

 11月に開かれた共産党第18期中央委員会第3回全体会議(三中全会)では戸籍制度改革の実施方針が発表された。それによれば福利厚生や経済格差を生む都市・農村戸籍の違いを徐々に緩和し、2020年までに撤廃するという。

 中国国家統計局の2010年の国勢調査によれば、戸籍がない人は全人口の1%に当たる1300万人に及び、大半は黒孩子だという。罰金を免れるために貧困層は出生届も出さないため、実際の黒孩子の数は数千万から数億人と言われており、明確な数はわかっていない。


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馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

「ひとりがたり馬渕睦夫」#17
朝鮮半島問題とは何か?@ 朝鮮戦争に見る近代史の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=B2p75lnFBfU

「ひとりがたり馬渕睦夫」#18
朝鮮半島問題とは何か?A 米国DSは北朝鮮を温存してきた - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Miq6ZkDy-kY

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

河添恵子#12-2 ゲスト:馬渕睦夫
★1%の大富豪がつくる世界共産主義体制 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q0-jbet_YWA


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馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった

・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている


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馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。

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馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html

[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
2. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年4月18日 10:39:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1346]

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策

左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた

2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c2

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
14. 中川隆[-10707] koaQ7Jey 2019年4月18日 10:48:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1347]

日本の風俗嬢は清楚で上品な女性でないと客が付かない _ 2

この横浜の地は私が青春時代を送った地なのだ。

大学を卒業して会社勤めをしていた。新入社員の俺は部署の新歓飲み会に参加した。 2次会のカラオケを終えて、30台前半の先輩社員に風俗店に連れて行ってもらった。 その時初めての風俗だった。これが社会か!と興奮しきり。

軽く緊張しつつ、風俗嬢のカタログを開く。高校の時好きだった子に似た子をセレクト。待合室にやってきた風俗嬢のAちゃんは好きだったあの子に本当に似ている。

部屋で、シャワーで仕事と飲み会の汗を流す。シャワー中でのフェラで発射。
ベッドの上で絡み合い、手コキに前立腺マッサージ。

来て良かった?と大満足でいると、おもむろにゴムを突き付けてきた。噂に聞いた基盤? と思ったら。


「○○君(俺の名前)だよね…本番するから内緒にしてください」


と土下座された。 いや、俺はそんなつもりじゃ…

無言でゴムを装着するAちゃん。 意志とは裏腹に俺の性器は怒張している。そこに腰を沈めていくAちゃん。 ベッドの軋む音。これってありなの??意外にも冷静な俺。 揺れるおっぱい。俺の腹辺りに視線を落とし浅い呼吸をするAちゃん。


気まずい、がしかし、押し寄せる快感。本日2発目。

ゴムを抜き取り、お掃除フェラをしてくれる。

目が合い、引きつる笑顔のAちゃん。


「絶対言わないでね」

と淡々と処理を済ませていくAちゃん。その後は客と風俗嬢としての定型文のやりとり。 個室を出ると先輩社員は既に事を終えていた。会計も済んでいるようだ。店を後にする。


後日、その石和 風俗嬢店のサイトを見た。Aちゃんの退店イベントが催されているようだ。 右手で顔を隠し、パンツ一丁で女座りのAちゃんはトップ2の人気嬢で、得意技はフェラ。性感帯は全身。 俺が大学に入って初めての彼女ができる少し前まで、一番好きな人だった。


俺はそれから一度もあの店に行っていない。 今では何ともなくセックスを楽しめるのだろうが若かった頃の俺には初恋の相手が風俗嬢になっていてまさか本番までしてしまったという事に耐えられなかったのだ。 若かったのだ。だが間違いなく女性の気持ちよさを最初に教えてくれたのは彼女だった。

http://風俗嬢.autostm.net/ishiwa/Category1/category1_01.html



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母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ

私の行きつけのソープは岐阜の金津園、総額35000円の店だった。
当時私はスデに常連の部類になっており、店員もなじみになっていた。
あろうことかあるとき私に店がダブルブッキングをぶちかました!
(俺を誰だと思ってるんだ)
当然に店は平謝り、最高の女性を付けるから勘弁してくれとの事。
吹くじゃねぇか。この手のパターンで良い女が付いたためしは無いが、ここは、なじみの店員の顔を立ててやることにした。
貴様の大風呂敷に付き合ってやる。
。。。。。

私は期待薄だった。
ところがその女性は徹底的に違っていた、部屋に入るなり電気を暗くしていきなりディープキス。
いつもと違うぞ。私は面食らった。
彼女は私の口の中を舐め回しながら器用に私の服を1枚づつ脱がして行き、私の全身にキスの嵐を浴びせつつもいつのまにか自分も全裸になっている。

そしてシズシズとひざまづくと唐突に洗っていない私のチンポをフェラし始めたのだ。
チンポは当然ギンギンで破裂しそうになっている。通常の2割増しだ。(当社比)
それはそれはとてもやさしいフェラだった、慈しむようなフェラだ。

僕の亀頭に彼女の舌が微妙なタッチでまとわりつく筆で撫でられているようだ。
声が出そうだった。
これが一生続けばいいのにと思った。
が、彼女はすぐにフェラを止め、私をベッドに横にした。

そして彼女は天を突いた私のチンコを優しくつかむのだ、まさか?

彼女は遠慮がちに私の上に跨ってきた。
ずぶずぶと入っていく、「ナマだ」 うわ、死ぬほど気持ちが良い。
それもそのはず私は当時プライベートを含め生挿入した事がなかったのだ。

彼女はゆっくり動き出した、(ちゅぷっ、ちゅくっ)静けさの中に、お互いの性器同士が生でこすれる音がする。

こんな気持ちが良いSEXは初めてだ。

「もう出ちゃいそっ、いいの?」
「うん、キテ」
彼女は吐息まじりにそう言うと、ほんの少しだけスピードを早めた。

射精が永遠に続きそうなほどの快感に体が包まれた。

(ちなみに彼女の中に入っていたのは多分30秒くらいだけ)まさに秒殺です。
実際はもっと早かったかも。

イク瞬間ケンシロウの声が聞こえてきた。
「天に帰る時が来たのだ」(嘘)

僕がイってしまった後も彼女は僕のチンコが萎えるまで挿入したままだった。

しばらくして、彼女は体を引き上げる。
彼女からチンポが抜けると彼女のアソコからポタポタと僕の体に精液が落ちてきた。
中に出したのだ、という実感がさらに湧いた。

すごい。これが本当のSEXなんだ、
比べれば今までのゴムツキのSEXなんてお遊びではないか!

彼女はベッドで放心状態で寝ている横に添い寝して僕を優しく見つめた。

そして、当然「早いのね」などとは言わず、

「私のお○こ気持ち良かった? 今日は一杯しようね」

と微笑んだ。
(母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ)
ここまでで、まだ出会って10分足らずだった(ここは100分の店)
そしてその後、マットで一発。ベットで一発。もちろん全部中出しです。

彼女はイスでも風呂でも暇さえあれば挿入してくるし、咥えてくるしとても礼儀正しいし、何も言う事ありませんでした。(アンタにゃ教える事など何もない)
まさか33000円の大衆ソープでこんな高級ソープなみのサービスを受けるとは…。
非常にギモンです。何か病気を含めて心配になってしまう。

聞けば、彼女はあの阪神大震災で住んでいた家を無くし、岐阜へ流れて来たのだという。

彼女は以前神戸の福原にある超高級ソープに在籍し、念願のマンションを購入したばかりだったが、地震によって10階建てのマンションが5階建てくらいの高さに潰れてしまったらしい。
(まったくもって恐ろしい話だ:彼女は笑ってたけど…)

ちなみに彼女は7階に住んでいたので難を逃れたと言うはなしだった。

なお、その店は総額75000円だったそうです。(そりゃ、サービス良い訳だ)

金津園のも6万円以上の高級ソープはあるんですが、なぜあそこに居たんでしょうか?

謎です。 しかし翌月、彼女は店から姿を消していました。
http://www.ippu-do.com/so-pu.htm


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2005年01月06日 10万円ソープに行ってまいりました


 ここ数年、年が明けてすぐの一発目のお遊びを、超高級ソープで始めてみるということが自分の中の恒例となっています。ま、ゲン担ぎみたいなもんですね。
一昨年は、吉原の総額8万円の「P」、昨年は堀之内の総額9万2千円の「K」。じゃあ、今年はさらに上いっちゃいましょうかということで、総額10万円行っちゃいました〜っ。

西川口の「D」であります。わずか2時間でちょっとしたマンションの家賃分を浪費! 
これぞ、大人の男の遊び! 

ま、ゲン担ぎみたいなもんですからね、ケチっちゃいけません。昨年、一昨年もいい年だったもんね、ソープのおかげってわけじゃないでしょうが(笑)。


 僕の事務所のある高田馬場から西川口までは、山手線と京浜東北線を乗り継いで30分。西川口といえば、今や全国にその名を知られたNK流の本場! 摘発の嵐が吹き荒れたおかげで、すっかり寂しくなってしまった都内の風俗街とは違って、いまだ店舗型風俗店が健在! 看板が賑やか! しかも、そのほとんどがNK流店なわけでしょ。

今は西川口も女の子のレベルもサービスもグッとよくなってて、んで、最後まで出来て1万円台という夢のような街なわけですよ、西川口。そんなリーズナブルな街で総額10万円払う価値がある店なのでしょうか、「D」は…。


 西川口駅西口から、客引き軍団が女の子の写真を手に襲い掛かかってくるNK流サロン街をくぐり抜けるとソープが20軒近く並ぶエリアがあります。その中央あたりに、目指す「D」はそびえ立っておりました。いやね、実は開店すぐの午後1時に予約を入れたんですが、となるとお昼ご飯をどうしようかという問題がありまして。朝食が遅めだったから、まだお腹は空いていないけど、プレイ終了の3時まではもたないかも。でも、プレイ前にがっつり食べちゃうのもなぁ…というわけで、結局駅前の立ち食いそば屋で軽く食べておくことにしました。10万円ソープ行く前に250円の月見そばを食う僕って、なんか間違ってますな(笑)。


 さて、お店に入りましょう。他のソープの店頭にはもれなく佇んでいる客引きがいません。さすが超高級店ですね。白と黒で統一された大理石作りの店内は、シティホテルのようです。受付もありますが、そのまま待合室に通されます。待合室には壁沿いに一人がけのソファがぐるりと並び、中央のテーブルには花が生けてあります。ソファに腰掛けると、すぐに黒服の店員がやってきます。ここで、予約名を名乗り、料金を払います。ソープでは入店時には入浴料だけを払い、個室で女の子にサービス料金を払うのが普通なのですが、ここで全額10万円を払いました。超高級店では、こういうシステムのとこが多いみたいですね。

 スーツ姿の女の子が抹茶(!)を立てて運んできます。店員が女性って珍しい。彼女はソープ嬢ではないんでしょうか。いや、ま、実はこの子が、あんまり可愛くなくて、「え、もしかしてこんなレベル?」と不安になったんですが(笑)。

 先客はいませんでしたが、すぐにもう一人お客さんが入ってきました。ツナギを着た50代くらいの職人さん風でした。

 さぁ、いよいよご案内です。さっきとは別のスーツの女の子がエレベーターで案内してくれます。いや、この子も器量がイマイチで、「もしかして、お相手はこの子かな」とちょっと心配になりましたが、5階に到着すると、ちゃんと別の女性が待っていてくれました。Mさんです。

ピンクのノースリーブのドレスを着ています。いとうまい子系の癒し系美人というところですか。すごい美人というわけではないですが、はっきりいって僕の好みのタイプです。実年齢は二十代終わりくらいでしょうか*1。

ええ、そのくらいの年齢、大好きですよ、僕。第一印象で、なんとなくエロそうな匂いが感じられました。

*1:お店のサイトを見ると22歳ということになってますが、まぁ、その辺はお約束で(笑)。

 手を引かれて個室に入るや否や、Mさん、いきなり抱きついてきてキスですよ。僕は上着どころかバックも持ったまま。そのままんまで、ずーっとキスです、ディープキス。舌べろべろ。ただでさえキスは大好きですが、入っていきなり立ったままで5分くらいキスされるというのは不意打ちで、うれしいなぁ。興奮するなぁ。

 いきなりのキス攻撃で、見回す暇もありませんでしたが、個室も素晴らしいですね。ベッドルームとバスルームがガラスで完全に分けられていて、ドアはタッチ式の自動ドアですよ。ベッドルームの方は、やはりシティホテル風、それもパークハイアットとか、そういう高級な感じ。きちんとしたダブルベッドにソファ。壁はつくりつけの棚になっています。ガラスの向こうに見えるバスルームには、大理石造りの大きな浴槽があり、壁に埋め込まれたモニターには環境ビデオが映し出されております。僕もこれまでに超高級店は、何軒か行ってますが、中でもトップクラスの豪華さですね。広さ自体はそれほどでもありませんが。

 

 長いキスから解放されて、上着を脱がしてもらったら、今度はソファでキス(笑)。体をぴったりと密着させての濃厚なキス。キスしながら手は僕の体をまさぐってきます。キスしながら少しずつ僕の服を脱がしていきます。うわぁ、たまんねーっす。そして、そのままフェラですよ。高級店ならではの即尺プレイですね。そして、ガーターだけの姿になるとMさん自ら跨ってきますよ。これまた高級店ならではの、即入れという奴ですね。いつのまにかにゴムかぶせられてました(笑)。

 ここでは以降の細かいサービス描写は省略しますね。その辺は「ヴァッカ」(バウハウス刊)で連載中のコラム「風俗自腹主義」で書く予定です。興味のある方はご覧下さいませ(笑)。

 その後のプレイの流れでいいますと、ソファでの即尺・即入れで一発目発射、バスルームに移ってスケベイスで体を洗ってもらって、お風呂に浸かり、マットプレイ。ここで二回戦目もあるんですが、ここでは発射せずに、もう一度お風呂に二人で入ってイチャイチャ。そしてソファでビールなどいただきつつ、また抱き合ってキス。んで、ベッドに移ってフィニッシュ、と、まぁ、こんな具合で、あっという間の二時間だったのですね。夢を見ているような、なんて表現がぴったりでした。

 個室も実に豪華でよかったのですが、やっぱりMさんのエロさが素晴らしかったですねぇ。何度も書いているように、とにかくキス。キスの嵐。まるで二村ヒトシ監督のAVに出てくる痴女のようですが、襲ってくるというよりも甘えるように迫ってくるのが、たまりません。マットでも、テクニック的に派手なことはしないんですね。いわゆる大技とか、ほとんどやりません。愛撫に直結するようなことしかしないんですよ、Mさん。

 ほら、ソープのテクって、気持ちいい云々よりも「わー、こんなことまでするんだぁ」的な技が多いじゃないですか。でもMさんは、そういう余計なことはしない。そんなヒマがあったらキスする、みたいな感じ(笑)。イスプレイも潜望鏡もなかったですね、そういえば。

 ソープに限らず風俗って、そのサービスが「愛撫」ではなくて「作業」になってることが多いんですよね。まぁ、特に工程の多いソープでは、そうなりがちなんですけど、やるべきことを、こなしていくだけ。相手を気持ちよくしてあげようということが、どっかにいっちゃってる。そんなのはね、どんな過激なサービスをされてもね、ちっとも気持ちよくなんかないわけですよ。時々いるんですよ、あからさまに「作業」している風俗嬢。そんな子にあたった時は、ホントに絶望的な気分になります。どんなに若くて可愛くてスタイルがいい子でも、「作業」なんてされたら、そのまま帰りたくなります。

 その点、Mさんは素晴らしかったなぁ。あの過剰なまでのキス攻撃も「作業」の人には出来ないサービスだと思うんですよ。ベッドプレイ時などの感じっぷりが、大袈裟すぎて少々興醒めというのが気になりましたけど。そこまでスゴイこと、僕してませんよ(笑)。まぁ、あれもサービスなのですが。

 後で店員に聞いたら、彼女はこのお店のナンバー2だったんですね。あー、さすがだわ。指名ナシでナンバー2に入れたなんて、ラッキー! 「そこそこお仕事できて、ケバくない子」とは言っておいたんですが。

 実は今まで超高級店で満足したことというのは、なかったんですが今回は大満足。10万円という金額が「安い!」とまでは、さすがに思いませんでしたが、「これなら10万円、惜しくないかも」という気分にはなれました。

 身も心もとろけるような2時間。男と生まれたからには、一度は体験しておくべきなのでは、と思いますね。自分に合う合わないは別として、こういう快楽が世の中にはあるんだと知らずに死んでいくのは、もったいない。

 ところで不思議に思うのが、ソープ特有の建前のお約束が超高級店では見当たらないこと。たとえば、入浴料とサービス料を別に払うのは管理売春ではないという建前のためだったり、決して使うことのないサウナ器を狭い個室の中にも置くだけ置いておかないといけないという建前とか…。なんでなんだろ?
http://d.hatena.ne.jp/rioysd/20050106

▲△▽▼


106 :名無しさん@ピンキー:2010/06/02(水) 00:26:00 ID:XSpzTN5mO

シャワータイムは大切な時間ですね。

何度も指名してるオキニとでも1番照れる時間でもあるけど。 プレイ前は工夫してる嬢さんが多いけど、プレイ後のシャワータイムはどう考えていますか?

例えば、終了10分前を切ってからのシャワータイムだとやっぱり時間が気になり事務的になりますか?

108 :名無しさん@ピンキー[sage]:2010/06/02(水) 00:49:56 ID:Tu8UyR5i0

それこそが「素人ほど事務的になっちゃう瞬間」なんでしょうねorz

内心どれだけ急いでいても、ラスト数分で次の指名が決まるといっても過言じゃないから、そこはもう丁寧にやるしかないです。 それか、もう

「きゃー、こんなに時間経つの早いなんて!?」

とびっくりしたふりしつつ、さりげに急かすとかw


「ごめんね、最後バタバタになっちゃったね、楽しい時間ってあっという間だぁ」

みたいに、あなたとの時間が楽しかったのよアピール忘れずに、 最後別れる瞬間も、仕方なしに急いでる雰囲気しながらも、離れて、 それから一度取って返して手を握って、改めて

「またね(はぁと」

とにっこり笑ってからバタバターっと小走り、 でもまた振り返ってバイバイして名残惜しさMAXな感じで。

まあここまではなかなかやりませんがw 

あなたと離れたくないのよ、ちょっとでも沢山一緒にいたいのよアピールは必須です。 だって悲しいやん。せいせいしたって感じでさっさと嬢に帰られちゃったらさ。

http://www.unkar.org/read/qiufen.bbspink.com/nuki/1275120877

21 :名無しさん@入浴中 :2009/09/05(土) 20:26:12 ID:dRb3X5fG0 (1 回発言)

目を伏せながら姫が言った。

「付き合ってた彼に似てる・・・」

「学校で好きだった先輩に似てる・・・」


92 :名無しさん@入浴中 :2009/09/15(火) 23:15:18 ID:j0S5A3cE0 (1 回発言)

黙り込んだあとに、急にじっとオレの顔を見て、

「ありがとう」

なんか、ズキュンってハート打ち抜かれた気がした。


98 :名無しさん@入浴中 :2009/09/16(水) 15:36:01 ID:VZi/Zga90 (1 回発言)

帰り際に

「やっと目を見て話してくれるようになったね、うれしい」

108 :名無しさん@入浴中 :2009/09/18(金) 20:48:07 ID:VYQ8MoXYO (1 回発言)

●●さんが来てくれてよかった。

こすれる感じがたまらない…。
あたしをおかしくして…。

111 :名無しさん@入浴中 :2009/09/19(土) 06:47:59 ID:kSI26+5b0 (1 回発言)

やっぱり相性ってあるのね
他のお客さんだと濡れないの

120 :名無しさん@入浴中 :2009/09/21(月) 12:13:34 ID:kHdbTfoyO (1 回発言)

『○○の好きにして良いよ。』

って耳元で囁かれた

天涯時に言われて萌えた一言


125 :名無しさん@入浴中 :2009/09/22(火) 11:23:25 ID:jFMHqJGF0 (1 回発言)

「前好きだった先輩に良く似ていて、恥ずかしいからあんまり見つめないで」


479 :名無しさん@入浴中 :2010/01/16(土) 15:28:03 ID:Y8lQLqSH0 (1 回発言)
人生リセットして、どこかでひっそり暮らしたい。

でも、○○さんにだけは連絡先を教えてあげます。迷惑ですか?


514 :名無しさん@入浴中 :2010/02/02(火) 23:07:11 ID:llIn8lT50 (1 回発言)

「キレイな目をしていて吸い込まれそう、

だからキスするときに目を開けてワタシを見ていてほしいの・・・」


572 :名無しさん@入浴中 :2010/02/24(水) 02:01:38 ID:mcdzHjwlO (1 回発言)

「素敵すぎて感じちゃった」

と言われて指を掴まれるやいなや液が溢れる秘部に指を押し当てられ…。


847 :名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 21:21:48 ID:qll7JNrwO (1 回発言)

終ったあと膝枕して頭を撫でていたら急に胸のなかで泣きながら

今までの客のなかで一番やさしくて安心する、

お仕事で気持ち良かったのはじめて

http://logsoku.com/thread/qiufen.bbspink.com/soap/1251646098/#23


612 :名無しさん@入浴中:2010/09/19(日) 16:19:56 ID:LpBStQZV0

お別れのキスした後、

「わたしの事忘れないでね」
http://qiufen.bbspink.com/test/read.cgi/soap/1233669324/

▲△▽▼


149 :名無しさん@入浴中[sage]:2007/01/19(金) 14:25:40 ID:F0YiZrFB0
いままでいたした中で思い出に残るのは

ラテンのみゆき
迎賓館の舞咲
プレジの一夜

特にみゆきは絶品だったなあ・・・遠い目・・・

ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)


もう上がっちまったが姫だが、ラテンのみゆきは慶応卒だったらしい。

真偽の程は別として、100人を悠に越える常連の予約を公平に受け、さばくため、貸切はおろか、Wすら受けずに一休一勤の全コマを一月先まで常に売り切っていた、伝説の嬢だ。

パスワードを知ることの出来た幸運な常連は、直接個人HPで予約状況を確認し、彼女にメールで予約を入れる。

一時期店に管理を任せたが、ダブルブッキングなどのトラブルが発生した為、以降引退まで全ての予約は彼女が完璧に個人管理した。

予約の前日、すなわち公休日には明日の確認メールを各常連宛に、逢瀬を期待させる一言を添えて個別に送る。

逢瀬の後には決して次をねだらぬトーンで、かつ逢いに行った男の自尊心を確実に満たしてくれる丁寧な礼が届く。

11月の解禁日以降はヴィラージュヌーボを自費で仕入れ、訪れる客全てに振る舞い、クリスマスには個別のメッセージを少ない休みの時間を削ってグリーティングカード形式のメールで百数十人の顧客全てに送る。

決して饒舌ではないが、何より多くを語る眼差しに込められた気持ちは うたかたの逢瀬の間は、全ての客にとって真実だった。

最後のメリークリスマスを通った回数の多寡に関わらず連絡先のわかる全ての客に送り終えた後、年が変わり彼女の出勤は突然途絶えた。

一月余りの後、店のHPに引退を告げるメッセージと個人HP を閉鎖しメールアドレスを無効にする事の詫びを残し、彼女はこの世界から完全に姿を消した。

見事な引き際だった。

http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html


215 名前: 名無しさん@入浴中 投稿日: 02/10/24 23:51 ID:vdA5zOU4


みゆきさんは決して美人ではありません。ごく普通レベルの可愛らしい子といった感じ。

彼女は出勤すると自分の持ち部屋に行き、毎日食事も取らずに付きっぱなしであとは店の車で帰るだけです。

彼女の技は基本に忠実なだけで、特筆すべき点は何らないのです。
マットにせよイスにせよベッドにせよ・・・どこにでもあるありきたりです。

彼女が今あるのは、類まれなる演技力・記憶力・心配り・顧客管理 だと思われます。

それプラス、2時間限定でお客さんの恋人になりきる努力。

それぞれのお客さんの趣向にあわせるコツ。それを見抜く眼力。

ああ、来て良かった、また来ようと思わせるような最善の努力です。


彼女は普段から装飾品の一切をしていません。ネックレス・ピアス・ネイル等々

爪はいつも綺麗に切り揃えてあるだけです。服装も華美ではありません。

そんなものが無くても、彼女自身があるだけで男性にとっては十分なのです。

彼女が現在の地位になるまで、吉原や他の地域で足掛け4年掛かっています。

それだけの歳月を要して、コツコツと積み上げて今の彼女があるわけです。
まさにローマは一日にしてならずと言ったところでしょうか。

http://okazu.bbspink.com/soap/kako/1030/10304/1030415082.html


35 名前:名無しさん@入浴中 mailto:sage [2008/02/12(火) 00:33:08 ID:hgiuxE6I0]

みゆきは女神だったなあ・・・二度とあんな子には会えないだろうね。


37 名前:名無しさん@入浴中 [2008/02/12(火) 00:39:47 ID:DdnMEtq30]
>>35さん

みゆきさん、すごい人でしたよね。だいぶ前に伝説になって・・・

163:名無しさん@入浴中

初めての潮吹き?体験は みゆきさんだったよ。

1度の燈篭で いろんな女を演じてくれたなあ。


585 名前:名無しさん@入浴中 [2007/01/14(日) 17:58:00 ID:+yUOArhCO]

その道の達人達は凄いぞ。

普通のHが高校野球とすれば、プロや大リーグの違いだろう。 並の人間じゃかすりもしない、見えないの世界だ。

系列店の娘に講習しているお姉さんに入った。 靴下の脱がし方から教えると言っていた。 立ち位置から、目線、体に触れる時の指の先まで、能やフイギュアスケートの様に計算されていたと思う。

それを、自然な動きで行うだけで女性の所作や体がこれだけ美しいのかと舞い上がった。
http://yomi.mobi/read.cgi/idolbbspink/idolbbspink_soap_1139581149


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c14

[リバイバル3] 現生人類の起源 中川隆
29. 中川隆[-10706] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:04:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1348]

デニソワ人に別グループ、アジアでまた驚きの発見
現生人類と交配した「旧人」は多様だった、現代人のDNAで判明、インドネシア 2019.04.15
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/


復元された初期人類ネアンデルタール人の鋭い目。デニソワ人の外見は不明だが、ネアンデルタール人に近縁の人類だったと考えられている。(PHOTOGRAPH BY JOE MCNALLY, NAT GEO IMAGE COLLECTION)

 10年近く前、謎に包まれた初期人類の小指のかけらがシベリアで発見された。この未知の人類は、骨が発見されたアルタイ山脈のデニソワ洞窟にちなんでデニソワ人と名付けられた。(参考記事:「デニソワ人 知られざる祖先の物語」)

 彼らはネアンデルタール人に近い種で、何万年もの間アジアで暮らしていたと考えられている。そこまでわかったのはDNAが採取できたおかげだが、化石は指の骨、数本の歯、頭蓋骨のかけらが1つしか見つかっていない。しかも、発掘された場所はデニソワ洞窟だけと、試料の数自体はきわめて少ない。

 ところが、4月11日付けで学術誌「Cell」に発表された論文により、驚きの新事実が明らかになった。いや、むしろデニソワ人の謎が深まったと言える。東南アジアの現代人のDNAを大規模に調べたところ、デニソワ人は実は1つのグループではなく、独立した3つのグループが存在したことが示唆されたのだ。そのうちの1つは、ネアンデルタール人とデニソワ人の違いと同じくらい、他のデニソワ人と異なっているという。

 さらに、1つのグループは、およそ4万年前に姿を消したネアンデルタール人よりも新しい時代まで生き残っていたかもしれない。論文によると、デニソワ人は少なくとも3万年前、おそらく1万5000年前まで、ニューギニア島で現生人類と共存し、交配していた。この年代が確かなら、デニソワ人は、知られている限り、私たち現生人類以外で最も最近まで生きた人類ということになる。(参考記事:「ネアンデルタール人の暮らし、なんと週単位で判明」)

パプアニューギニアの少数民族アスマット族。インドネシア、西パプア州でのジパエの復活祭に参加するところ。現代パプア人のゲノムには、2つの異なるデニソワ人グループの祖先の痕跡が残っている。デニソワ人は、ネアンデルタール人の近縁種にあたるが謎に包まれた人類であり、わずかな化石と何千もの世代にわたり受け継がれたDNAしか手がかりがない。(PHOTOGRAPH BY JOSHUA IRWANDI)

 近年、古代アジアの人類が驚くほど多様だったことを示す発見が相次いでいる。4月10日にも、フィリピンで新種の初期人類ルソン原人が見つかったと発表されたばかりだが、今回の刺激的な発見もそうした流れに連なるものだ。(参考記事:「解説:新種の人類、ルソン原人を発見、フィリピン」)

「初期人類の多様性の中心は東南アジアの島々だということが、突然表面化したようなものです」と、論文の共著者でニュージーランド、マッセー大学のマレー・コックス氏は、フィリピンやマレーシア、アジアの先の広大な海域に浮かぶその他の諸島を指して言った。


2018年、米ワシントン大学のシャロン・ブラウニング氏らが、デニソワ人と現生人類の交配の波が2度起きていたことをすでに明らかにしていた。今回の論文はそれを拡張するものだが、ブラウニング氏は今回の結果と意味に興奮しつつも、こう注意をうながす。

「人類史のほんの一部にすぎません。でも、こうした小さな発見の積み重ねで、全体が明らかになるのです」

 デニソワ人は、少なくとも40万年前にはネアンデルタール人との共通祖先から枝分かれした可能性が高い。そして、ネアンデルタール人がヨーロッパと中東に広がる一方、デニソワ人はアジアに広がり、やがてアジア系の現代人の祖先と交配した。そのおかげで、デニソワ人の遺伝子の痕跡が現代のホモ・サピエンスに残され、デニソワ人の謎を解き明かす手がかりとなっているのだ。


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/?SS=imgview&FD=-861245705

人々の健康から激動の人類史へ

 コックス氏の研究チームは、もともとデニソワ人の多様性を研究していたわけではない。興味があったのは、インドネシアと近隣の東南アジアの島々における医療だった。この地域の病気に関連する遺伝子変異を解明すれば、もっと住民に特化した治療法につながる可能性がある。(参考記事:「遺伝子変異の早期発見、病気予防のカギとなるか」)

「私たちにとっては、とても重要なことです」と、論文の共著者ヘラワティ・スドヨ氏は話す。同氏は、インドネシア、エイクマン研究所のシニアリサーチフェローで、論文の共著者の一人だ。インドネシアの人々の遺伝子は非常に多様だが、「ここインドネシアでは、遺伝子分析の技術がなかなか普及しなかったので、遺伝子研究は行われてこなかったのです」と同氏は述べる。

 こうした多様な遺伝子を調べたところ、はるか昔に初期人類の分離が起きていたことを示す証拠が見つかった。アフリカからやって来た新参者の現生人類ホモ・サピエンスと、その前からアジアにいたより古い初期人類の流れをくむ人々が交配し、その証拠が現代人にまで世代を超えて受け継がれていたのだ。

結婚式の準備をする教師のマリア・フランシスカ(チカ)さん(23歳)。ニューギニア島に住む少数民族アスマット族の一人だ。研究者は、現代パプア人のDNAに残るデニソワ人の遺伝的痕跡を明らかにし、パプア人がより健康的な生活を送れるよう役立てようとしている。(PHOTOGRAPH BY JOSHUA IRWANDI)

 たとえば今日、アフリカ人以外の人の最大2%に、ネアンデルタール人のDNAが見られる。その一部は有益で、感染症を防ぐ人の免疫システムに貢献している。しかし、ホモ・サピエンスが6万4000年ほど前にアフリカを出た後に交配した人類は、ネアンデルタール人だけではない。アジア系の大半には、デニソワ人のDNAがある程度含まれている。しかもニューギニア島を含むメラネシアの人々では特に多く、ゲノムの最大6%にもなる。現代メラネシア人の祖先は、メラネシアの島々へ向かう途中でデニソワ人と出会い交配したと考えられる。(参考記事:「人類の出アフリカは早かった?アラビア半島で足跡」)

 コックス氏の研究チームは、その痕跡を詳しく調べるため、ニューギニア島を含むインドネシア14島の住民161人のゲノムを解析した。このデータと世界中の317人のゲノムのデータを統合し、ネアンデルタール人とアルタイのデニソワ人のゲノムと比較した。ニューギニア島先住民である現代パプア人のDNAのデータからは、デニソワ人の痕跡のピークが1つだけ浮かび上がると研究チームは予想していた。だが、明らかに異なるピークが2つ現れた。

「世界一くだらないデータ処理のミスか、本当に素晴らしい研究成果かのどちらかでした」とコックス氏は話す。


入り混じった遺伝子を解き明かす

 今回の研究で見つかった2つのピークは実に興味深い。これはおそらく、2つの異なるデニソワ人グループの影響を示している。しかも、アルタイ山脈の洞窟で見つかったデニソワ人とは、遺伝的にまったく異なるという。

 その1つであるグループ1は、ネアンデルタール人と枝分かれした後5万年も経たずに、36万3000年ほど前にアルタイのデニソワ人とさらに分かれた。その後、現生人類と交配し、子孫が現在東南アジアからインドにかけて広がっている。

「今回の研究成果を完全に支持します」とカナダ、トロント大学の古人類学者ベンス・ビオラ氏は話す。同氏は、謎に包まれたデニソワ人の化石形態学の第一人者だ。(参考記事:「人類3種が数万年も共存、デニソワ人研究で判明」)

 同氏の研究チームがデニソワ人について初めて報告した2010年の時点で、現代メラネシア人に含まれる初期人類のDNAが、デニソワ洞窟の骨と歯から採取したDNAとは明らかに異なることに科学者たちはすでに気付いていた、と同氏は振り返る。2014年、同氏の研究チームは、デニソワ人が27万6000年前〜40万3000年前に2つのグループに分かれたと推定した。今回の論文の推定年代は、この範囲に収まる。(参考記事:「20万年前の人類の歯、また正体不明、謎深まる」)


デニソワ洞窟。これまでにデニソワ人の化石が見つかっている唯一の場所。しかし、その遺伝的痕跡は、現代人に広く残されており、今後多くの発見が期待される。(PHOTOGRAPH BY ROBERT CLARK)

[画像のクリックで拡大表示]


デニソワ洞窟で発掘された臼歯。デニソワ人の化石は、わずかに歯3本、小指の骨1本、頭蓋骨の欠片1つしか見つかっていない。他種とは異なる決定的な特徴の1つは、驚くほど頑丈な歯だ。(PHOTOGRAPH BY ROBERT CLARK)

[画像のクリックで拡大表示]

 しかし、今回の論文で本当に悩ましいのは、第3のデニソワ人グループという説だ。この第3のグループ(今回の論文のグループ2)は、約28万3000年前にアルタイのデニソワから分かれ、現在のニューギニア島先住民の祖先とのちに独占的に交配し、混血したと考えられる。

 この結果に困惑する科学者もいる。理由の1つは、デニソワ人が深くて海流のきつい海を渡る方法を見つけていたと考えられる、と論文の著者が述べている点だ。異議を唱える科学者は、そうした海を渡れるのは船を作れた現生人類だけだと長い間考えてきた。しかし、今世紀になされた多くの発見が、この説を否定している。例えば、体の小さなフローレス原人は、おそらく70万年前にはインドネシアのフローレス島にいた。インドネシアのスラウェシ島で見つかった石器は、11万8000年前〜19万4000年前のものだ。ごく最近では、ホモ・ルゾネンシスと新たに命名されたルソン原人は、5万年前にはフィリピンのルソン島にいたとされる。(参考記事:「解説:約70万年前の超小型原人発見、フローレス島」、「南太平洋の島で謎の石器を発見、現生人類の到達前」)

 とはいえ、これがデニソワ人にも当てはまるかどうかは、まだ議論の余地がある。


「問題は単純で、ニューギニア島やオーストラリアでは、近代以前の人類の考古学的な証拠や化石などが、見つかっていないことです」とビオラ氏は話す。これは、存在しないという意味ではない、と同氏は言う。しかし、「この地域については、わかっていないことがあまりに多いのです」

 最新の分析法を開発している進化遺伝学者ベンジャミン・バーノット氏は、データ分析の仕方についてさらなる懸念を抱く。今回の研究では、現代人のゲノム中にあるデニソワ人の大小さまざまなDNAを特定したにもかかわらず、正確さを期すために、デニソワ人のものと同定された最長のDNAのみに限定して分析した。

 バーノット氏は論文の説には同意しているものの、「何かを分析する必要があり、何万ものサンプルを同定したのに、そのうちの500個だけを選んで分析を行うのであれば、強い疑念を抱かざるを得ません」と話す。

 それでも、バーノット氏や他の研究者たちは、この新たな遺伝子データベースを使って何を研究しようかと前向きだ。今回の研究で収集した遺伝子データは、現在、他の人でもダウンロードして利用できるようになっている。「こうして科学は進歩するのです」と同氏は話す。

 コックス氏やスドヨ氏の研究チームは、現在、デニソワ人のDNAの断片が、現代人の健康にどう影響しているのかの解明に取り組んでいる。さらなる研究が必要だが、一部の遺伝子が、免疫システムと脂肪の代謝において中心的な役割を果たしているという有望な手がかりを、すでにいくつかつかんでいる。一方、コックス氏は、インドネシアの研究から将来何がわかるのかと興奮しているという。

「私の勘では、興味深い説がさらにいくつかこの地域から出てきますよ」

ギャラリー:4万年で「イギリス人」の顔はこんなに変わっていた 写真7点


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/013000491/


ホワイトホークウーマン、5600年前
小柄でやせた女性で、25歳に達する前に出産が原因で死亡したとみられている(骨盤のあたりに胎児の骨が見つかった)。ブリテン島の新石器時代初期の埋葬地跡であるホワイトホークエンクロージャーで1933年に発掘された。最新のDNA解析により、ここに埋葬されていた人々は、後にブリテン島にやって来たビーカー人と比較して、一般的に肌も瞳の色も濃かったことが示唆された。彼らは、約4400年前にビーカー人に取って代わられた。(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)



文=MAYA WEI-HAAS/訳=牧野建志

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/?P=1

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/735.html#c29

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
82. 中川隆[-10705] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:08:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1349]

死後の脳、一部機能回復 ブタで実験、米チーム
4/18(木) 2:00配信 共同通信

 【ワシントン共同】死後4時間たったブタの脳に血液の代わりをする液体を循環させ、一部の細胞を働かせることに成功したと、米エール大などのチームが17日、英科学誌ネイチャーに発表した。脳は血流が止まり酸素や栄養が途切れると、すぐに組織が壊れて回復しないと考えられてきたが、少なくとも数時間は持ちこたえられる細胞があることを示した。

 意識や知覚を表す脳波は見られず、チームは「臨床的には死んだ脳に変わりない」と強調。だが生命倫理の専門家らは同誌で、将来的には人が脳死や心停止した後でも、一定程度の脳蘇生ができるようになる可能性を指摘。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c82

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
1. 中川隆[-10704] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:19:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1350]

秦の始皇帝や随の煬帝に憧れた毛沢東


 林彪 クーデタ計画書 「五七一工程紀要」


「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の愛読書は歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だった。 毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王だったという。

<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。


<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>


 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、

「自分は3億の人民を失うことも辞さない」

と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>


<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>


 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。 (李志綏 毛沢東の私生活)

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の私生活 李 志綏 (著, 原著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%8E-%E5%BF%97%E7%B6%8F/dp/416730970X

この本は、22年間(1954-1976)付き添った主治医(李志綏・生家は代々清朝の主治医を勤めた)が「半神半人」と言われた独裁者・毛沢東の知られざる人間像を初めて赤裸々に描いた回想録である。

共産革命後の中国で何千万人と餓死する人間が出ようと、ぜいたくな暮らしを続けた党幹部たち。やりたい放題の生活と政治の内奥を詳しく記したものだ。


「究極のひねくれ思考」とでも、言いたくなるほど読み進むたびに、気分が悪くなる。


なんと、毛沢東は物事をすべて悪くわるく解釈して相手を陥れる。

人間らしい情の感じられない毛沢東や、妻・江青のあまりの人間的レベルの低さに読むに堪えない気持ちが大きく、途中で何度も読むのをやめようと思った。

最初にアメリカで出版されたとき、世界に大きな衝撃を与えたという。もちろん中国では発禁本である。その理由のひとつは、中国内で神格化される続ける毛主席の秘められた皇帝ぶりを白日のもとにさらしたこと。

それも死人の山を築こうとも動じない権力闘争、稚拙な経済政策、原爆戦を辞さない対外戦略などを通して覗かせた独裁者の人間性を語りつくした回想録だったことだ。


毛沢東が評価していた中国歴代帝王をみると、彼の残虐さがわかる。


殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝と言えば中国史上暴君として有名だ。
毛沢東による王者の評価基準は、殺した人数ではなく中国の統一と強大化にどれだけ貢献したかにあるらしい。

あの文化大革命で、あらゆるものが「ブルジョア的」「反革命」と標的に合い、攻撃され破壊されるなか、毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画が上映されたりダンス・パーティも毎週のように行なわれていた。

中国全土から選ばれた美女達が毛沢東の相手をするために集められるのだ。

気に入った女性を、料理の日替わりメニューのように寝室に連れ込む。

それが毛沢東の日常だった。


これを読むと、いったい「人民のための革命」とは何だったのか?と政治に疎いわたしも歯ぎしりし、憤懣やるかたない思いになる。


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言葉を残しこの著書が発売された3か月後に、李志綏はシカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。亡命して6年後に米市民権を得た直後だった。他殺の疑いが濃く、いまだに急死は疑問視されている。


日本人は、李白や杜甫を代表とする漢詩の世界から中国人を『文人墨客』と永年想ってきた。しかし、それは大変な誤解だったのではないかと思う。

http://d.hatena.ne.jp/mursakisikibu/20110806/1312613829

毛沢東は中国人民共和国という国家の主席というより毛帝国の皇帝という感じですね。
特製の木製の大型のベットで臥し好きな歴史書を読み耽りながら政敵の追放を画策し、気分転換にプールで水泳を楽しむのが日常のパターン。 身の回りにはお気に入りの若い女性を侍らせ、豪勢な地方巡視旅行の際にはダンスパーティ会場から気に入った女性を予め用意していた部屋に連れ込むという漁色家。

興味深いのは、毛沢東は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝という中国史上暴君として有名な人物を評価し、李志綏に自分は聖人君子、坊主になるのはまっぴらだと普段から広言していたんですね。

江青は神経経衰弱の持ち主でお付きの看護婦には威張り散らし嫌われ者、猜疑心も強く文化革命の際には毛沢東に忠実な周恩来首相の追放まで画策するですね。面白いことに江青は毛沢東を和ますという名目でアメリカ映画を日夜上映していたんですね。

本の題名は『毛沢東の私生活』ですが、毛沢東が推進した強制的な農業集団化の人民公社推進とか農家の庭先での裏庭鋼炉設置とかの大躍進政策やのちのプロレタリア文化革命等の政治動向についても著者の知る範囲で詳述しています。性急な大躍進政策の失敗による膨大な餓死者やフルシチョフのスターリン批判を受けて政府幹部の中でも彭徳懐元帥や劉少奇、ケ小平らが大躍進政策を批判し毛沢東個人崇拝に代わる集団指導制や農民のやる気を起こさせる農業請負制の導入等が検討されるが、毛沢東がいわゆる紅衛兵を動員し江青らの四人組を指揮し文化革命を推進し清廉な彭徳懐元帥や実務能力のある劉少奇、ケ小平らを反革命主義者として糾弾していく過程を活写しています。

民主主義国家の日本の国民の一人の私としては、到底理解に苦しむイデオロギー闘争、というよりはイデオロギーに名を借りた権力闘争が行われ何千万人とか言われる多数の人々が処分処理されていったかを、知らされると唖然としたものを感じざるを得ませんね。

そして現代の中国で国民的人気のある周恩来については、李志綏は毛沢東に対する卑屈なまでの忠誠ぶりを皮肉をこめてコメントしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/saitou602002/59466398.html

毛澤東は始終、「わしや“和尚打傘" の男じやよ」と言つてゐました。   これは闕後語 (ケツゴゴ) と言ひ、言葉遊びの一種で、言ひたい言葉の前半分だけを擧げたものです。


「和尚が傘さす」類の男だ、といふのです。

「和尚が傘をさせば」→「無髪 (=無法) 無天」


つまり、法律にも道コにも縛られぬ男だ、といふ意味です。


正しい譯語=「わしや無法者だよ」


毛澤東は 1965年 1月 9日、スノーにかう語りました。 ところが通譯はこれを直譯し、

「私は傘を持つ僧侶」とやつたものですから、


「毛澤東は、自分は破れ傘を手にした修道士だと言つた」


と傳はり、その謙虚さに、世界中から尊敬の念を集めました。  何のことはない、

「わしや無法者、これから文革で中共をひつくり返すよ」

と 文革の豫告をしただけなのに。  毛澤東は


  「少年時代には二百年生き抜き、洪水の勢ひで三千里を壓倒しようと夢想」して、 先づは真面目な  儒教的理想主義青年として思想形成し、多くの友から尊敬されますが、 禮儀正しく行動するだけでは權力は得られぬと悟り、 權力獲得に手段を選ばなくなります。

平氣で人を踏み台にしてより大きな權力を追求するのです。 
1936年作の「沁園春・雪」では、


  「秦の始皇帝もジンギスカンも何する者ぞ。 

「中國史上の眞の英雄はこの俺樣だぞ!」


と胸を張ります。  そして、權力獲得後も政治家(建設者)に轉身せず、革命家(破壞者)であり續けました。 自分の權力慾のために何千何萬もの同志をいびり殺し、何千萬もの人民を飢死させた奸雄! 

http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum181.htm


毛沢東主席は「皇帝であり教主」で、「思うままに人を殺した」。

文化大革命時代の青少年の熱狂と本人の満足ぶり

「皇帝はみんな、そうだった」。


「ヒトラーは外国人を殺戮」、

「スターリンは自国民を殺戮。ただし、法律的手段を用いた」

「毛沢東は、殺したいと思っただけで、自国民を次々に殺した」。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0511&f=national_0511_025.shtml


産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。


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毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ


 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。

 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。

 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879〜1942年)に中国共産党を設立させます。

 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。(以上PP19による。)

 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。

 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。

 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866〜1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。

 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。

 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884〜1951年)を送り込んできます。 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。

 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。 (以上、PP31〜34による。)

 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883〜1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。

http://blog.ohtan.net/archives/51115860.html
http://blog.ohtan.net/archives/51116597.html

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新たな毛沢東の伝記の出版


1991年に上梓されたワイルド・スワン(Wild Swans)という世界中で1000万部以上売れたベストセラーの自伝本の著者であるチャン(Jung Chang。支那出身)と彼女の夫のハリデー(Jon Halliday。英国人で歴史学者)の共著、Mao: The Unknown Story, Jonathan Capeが、7月2日に発売された。 この本の内容のさわりをご紹介しましょう。


 毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この二人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。 毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1936年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。

 毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

 毛沢東は、ゲリラ戦略家でも共産主義思想家でも貧農の友でも先見の明のある政治家でもなかった。それどころか、決して雄弁家ではなかったし、オルグとしても凡庸だった。彼が支那における共産主義の父であるなんて悪い冗談だ。

 彼は、ソ連の意向に添うことに汲々とし、ソ連の全面的な支援のおかげで支那の最高権力者になることができたのだ。(そもそも、中国共産党自体、ソ連の工作でできたものだ。)

 毛沢東は、いかなるイデオロギーも全く信じておらず、支那に社会主義のユートピアを建設しようなど露ほども考えたことがない。彼にとっては、平等主義は唾棄すべきものであり、彼が口先だけでは称えていた貧農に対し、破壊的政策を繰り返し行って恥じなかった(注4)。彼が関心を持っていたのは、自らの個人的権力の追求だけだった。支那も支那の住民も彼にとってはその手段以外の何ものでもなかった。

 (注4)一回目は、1920年代末から1930年代初にかけて、毛沢東が農村地帯でゲリラ戦を行っていた時のことだ。当時共産党ゲリラの食糧は貧農達からの徴発でまかなっており、貧農達を塗炭に苦しみに陥らせた。


彼は、人がいくら死のうと無頓着であり、自らの個人的権力を追求する過程で殺人を厭わず、人々の死への恐怖心をもてあそんだ。彼は、人々が拷問されたり虐殺されたりするのを見物するのが趣味であり、文化大革命当時には、文革における暴力的衝突や拷問の場面を撮影したドキュメンタリーを好んで鑑賞した。人の弱みを握ってその人物を意のままに動かすこともまた彼の得意とするところだった。

毛沢東がいかなる人物であるかは、彼が密かにある本の余白に書き記した以下の文章が物語っている。

「他人のためを考えて自らの行動を律せよ、といった道徳観などクソ食らえだ。

私のような人間は、・・自分の欲求をとことん満たそうとする。それこそが最高の道徳律だ。

この世界には様々な人やモノがあるが、それらはことごとく私だけのために存在しているのだ。・・

私のような人間は、義務は自分達に対してだけ負っているのであり、他人に対しては何の義務も負っていない。」


こんな毛沢東の人類へのユニークな「貢献」は、全く新たな恐怖統治手法を編み出したことだ。

延安時代(後述)に彼は、人々に自己批判や他人の批判を強要し、「悪行」の告白や告発を導く、という手法を始め、後にこれを支那全土に広めた。

毛沢東は、全支那の権力を掌握すると今度は世界の制覇をねらい、そのためにいかなる犠牲をも厭わずひたすら核兵器の獲得を追求した。


 毛沢東は支那の最高権力者であった間、酒池肉林の生活を送った。

(風呂嫌いで25年間風呂に入らなかったが、)彼は中共各所に50箇所以上専用別荘を持っていた。もっとも、これは臆病者の毛沢東が、米国やソ連による爆撃を恐れ、居場所を隠したかったからでもある。

 グルメの彼は、1000キロ離れている揚子江沿いの武漢から北京の本宅まで、せっせと新鮮な川魚を運ばせていた。

相次いで4人の妻を娶った彼は、高齢になってもなお無数の情婦や一夜妻と情交に勤しんだが、これらの妻や情婦及び自分の息子や娘に対し、一欠片の愛情も懐いていなかった。毛沢東は、長征(Long March)の途次、生まれたばかりの彼の息子を放置して殺すように命じている(注5)。

 (注5)ヒットラーだって、自分の飼っていた犬や他人の子供には優しかった。金正日だって自分の子供達はかわいがっている。毛沢東が人並みの家族愛を持っていたら、恐らく「皇帝」毛沢東(コラム#204)は毛王朝の創始者となっていたことだろう(太田)。

 毛沢東は中国共産党ができてから一年後の1921年に共産党に入党した。

 スターリンによってゲリラ戦をやれと命ぜられた中国共産党は、襲撃による金集めをしながら、国民党相手のゲリラ戦を始め、その中から毛沢東は頭角を現わす。

 国民党軍に敗れた共産党軍は1934年に長征を始めた時点で80,000人(公式には90,000人)の兵力だったが、延安に到着して長征が終わった1936年には4,000人(公式には20,000人)に減っていた。その減耗分の少なからざる部分が毛沢東が行った物理的粛清によるものだった。

 長征が成功したのは、一にかかって蒋介石(Chiang Kai-shek)のおかげだ。蒋介石は、共産党軍を深追いして、国民党支配が確立していない地域で軍閥と衝突することは得策ではないと考えた。しかも、蒋介石は、息子の将経国(Chiang Ching-kuo)がソ連国内で実質的に人質とされていたことからも、共産党軍を壊滅させてソ連の逆鱗に触れることは避けようとした。それどころか、蒋介石は、長征路の所々に食糧を満載した付近の詳細地図つきの無人トラックを配置し、共産党軍を手助けした(注6)。


 (注6)中共の公式説明:「共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、2万5000華里(1万2500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の35年10月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。」


 長征の過程における有名な、大渡河(Dadu River)渡河英雄譚は、事実と違うどころか、全くの捏造だ。瀘定橋での戦いなどはなかったし、そもそもその付近に国民党軍は一兵もいなかった(注7)。


 (注7)中共の公式説明:「長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは?それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。」(peoplechina上掲)


 そうは言っても長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。  しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

 延安で毛沢東は、資金調達のためにケシを栽培して麻薬の製造と共産党支配地域外への販売を盛んに行い、現在のドル表示で6億4,000万米ドル相当の売り上げを達成している。

 1936年の西安事件(コラム#178、187、234、256、290、292、353)は、張学良(Chang Hsueh-Liang)が蒋介石に代わって国民党の主席になろうとして起こしたクーデターであり、毛沢東は張学良に蒋介石を殺せと言ったが、国民党が弱体化し、日本が後顧の憂いなくソ連に対峙することを恐れたソ連が介入し、蒋介石は命を長らえ、毛沢東の意に反して国共合作がなった。

 毛沢東は日支事変勃発を喜び、日本軍と国民党軍とを戦わせて国民党軍を消耗させる一方で共産党軍は日本軍と基本的に戦わせず、共産党軍の温存を図った。それどころか毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ(注8)。


 (注8)毛沢東は、日本軍が引き起こした1937?38年の南京事件に対し、一貫して何の関心も示していない


さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8)毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている。


 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward。1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。


 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済や生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・


有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・

また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。


 (注10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 
 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。


トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということです。

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[近代史3] 謝晋 芙蓉鎮 1987年

謝晋 芙蓉鎮 1987年


監督 謝晋
脚本 阿城、謝晋
原作 古華
音楽 葛炎
撮影 蘆俊福
製作会社 上海電影製片廠
公開 1987年
製作国 中華人民共和国の旗 中国
言語 中国語


動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8807762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8809932
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8814407
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8816141
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8816911
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm8821276
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8825013
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8825693


▲△▽▼

キャスト

劉暁慶(胡玉音):映画の主人公。文化大革命の政治的混乱に巻き込まれる若い女性。
劉利年(黎桂桂):玉音の最初の夫。
姜文(秦書田):玉音と恋に落ちる右派「ブルジョワジー」。
徐松子(李国香):芙蓉鎮の政治運動を取り仕切る党員。


『芙蓉鎮』は、文化大革命期の混乱を生きた若い女性の辛苦に満ちた人生を描き出した映画である。1980〜1990年代に現れた「傷痕ドラマ」 (zh:伤痕文学) の1つで、同期に受けたトラウマを描く。映画は上海映画作製所により制作された。

この映画は中国湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州永順県の鎮の1つ、王村鎮をロケ地に撮影されたが、これにより有名になった王村鎮は2007年、名を芙蓉鎮 (zh) に変更した。

あらすじ

文化大革命直前の1963年、中国・湖南省の南にある小さな町、芙蓉鎮。器量好しで気立てのよい胡玉音(フー・ユゥーイン)は人気者で、夫婦で営む米豆腐(中国語版)の店はおおいに繁盛していた。玉音の元恋人で党員書記の黎満庚(リー・マングン)や、復員軍人で米配給主任の谷燕山(グゥー・イェンシャン)も玉音を支えてくれる。昼も夜も夫婦で必死で働いたおかげで、店を新築することもできた。

しかし1964年、四清運動(中国語版)のため、党から政治工作班が送り込まれ、反体制者や資本主義者を追及、やり玉にあげ始めた。班は、独身女性の李国香(リー・グォシャン)に率いられており、それを手伝う王秋赦(ワン・チウシャー)は、飲酒癖のために土地を失った貧農である。党の大会で最初に攻撃されたのは、民謡収集や党への批判を理由として1957年の反右派闘争の際に「五類分子」と断じられ、皆にさげすまれていた秦書田(チン・シューティエン)であった。次いで玉音夫婦も「新ブルジョワ分子」として吊るし上げに遭ってしまう。玉音を親戚の家に避難させても国香の追及はやまず、夫婦は家も仕事も財産も失い、黎書記や谷主任も攻撃の的になって自己批判を強制される(この時、谷には玉音との不倫の嫌疑がかけられるが、谷は朝鮮戦争での戦傷が原因で不能になっていた事が判る)。親戚の家から戻った玉音は、夫の黎桂桂(リー・グイグイ)が国香の命を狙ったとされて死んでしまったことを知らされる。

1966年に文化大革命が始まると、玉音や書田らだけでなく、李国香も「ニセ者の左派」さらに「身持ちの悪い女」(古靴を紐に連ねて首から掛けさせる描写があるが、これは中国のかなりの地方で「身持ちの悪い女」を見せしめにする時に行われる習慣である)として激しい攻撃にさらされる。一方で王は「文革の忠実な戦士」ともてはやされ、支部書記となっていた。玉音は書田とともに街路掃除人へと追いやられ、谷は酒びたりに、黎は玉音を裏切ることで生き延び王の秘書になっていた。

書田は自ら道化て見せ、玉音をかばい、その嘆きを受け止め、看病もしてくれた。復権した国香と王の密会に気付いて少々のいたずらをし、ささやかな復讐も果たす。絶望の底にいた玉音に、もう一度米豆腐を作る気力を取り戻させたのも書田であった。

玉音は書田の子を宿し、結婚の許可を求めるが、党上層部は不吉な白い対聯を書かせる。涙を流す玉音に、書田は「考え方次第だ、とにかく二人は夫婦と認められたのだ」と気付かせる。二人の「結婚式」に列席してくれたのは谷だけであった。しかしこの結婚は国香の不快を買い、書田は懲役10年の労働刑に、玉音は懲役3年のところ執行猶予で芙蓉鎮での労働刑に処せられる。書田は玉音に「豚になっても(何があろうとも)生き抜け」と言い残して労働改造に連行される。

大きなお腹で労働に耐える玉音をこっそり手助けしたのは、一度は彼女を見捨てた町の人々であった。玉音は、谷の手助けで生まれた子に谷軍(グゥージュン)と名付け、じっと耐えて見守り育てる。

1979年、文化大革命がようやく終わり、玉音の名誉は回復され、家もお金も返却される。帰ってきた書田と、再び芙蓉鎮に赴任してきた李国香が同じ船に乗り合わせたのは皮肉であった。まさにそのとき、芙蓉鎮党支部だった王の古い家が川に崩れ落ちてゆく。

玉音と書田の米豆腐の店は、15年前と同じように繁盛している。その前を、もはや正気を失った王が、「政治運動の始まりだ」と不気味な声を響かせながら通ってゆく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%8E%AE

▲△▽▼

言わずと知れた中国映画の最高傑作で,文革の悲劇を正面から描いた初めての作品。文革という狂気の嵐が地方の小さな町で如何に荒れ狂い,善良な人々を悲劇のどん底に落としていったかを,小さな料理屋を営んでいた一人の女性・胡玉音の受けた幾多の苦難を通して描く。その嵐の中を耐え忍びながら生き抜いた彼女の感動の物語でもある。

1963年(文革が始まる少し前),芙蓉鎮という小さな町。市が立つ日に玉音(ユイイン)が夫の桂桂と開く米豆腐屋は大繁盛し,彼女は町の男たちの人気の的にもなっていた。国営食堂の女店主・李国香はそれをずっとねたんでいて,その後,しばらく町を離れていたが,県の政治工作班長に昇格し「四清運動」の指導のために再びこの町に戻って来たときに,国香(グオシアン)は集会で玉音夫婦をブルジョア分子と決め付け,玉音を援助する仲間たちをも批判の対象にするのだった。

玉音は,汗水流して一生懸命働いて貯金もし,家も新築した自分たちがなぜ非難されなければならないのか納得がいかず,「ひき臼の柄がすり減るほど,鍋底に穴があくほど働いたのよ。私たち人を搾取した?」と夫に泣きながら訴える。

難を逃れるため一時,田舎に避難していた玉音が町に戻ってみると,夫は処刑され,玉音を支援してくれていた仲間たちも職を奪われたり自己批判させられていた。さらに,新築の家と1500元の貯金も没収されていた。
そして1966年に文革が始まると,「新富農」と認定されていた玉音は,労働改造のため右派分子の秦書田と一緒に早朝の道路掃除をさせられることになる。

秦(チン)と玉音は雨の日も雪の日も毎日毎日,朝早くから石畳の道を竹ボウキで掃除し続ける。玉音は党の命令に従い決められた掃除をして,毎日を耐え忍ぶことしかできない。一方,秦は”♪1,2,3・・ ♪1,2,3・・”と踊りながら道を掃く。これが秦のできる,文革に対しての唯一の「反抗」だった。玉音は秦の人柄をだんだんと理解し,いつしか二人の間に愛が芽生える。

しかし,文革は愛し合う二人の間をも容赦なく引き裂く。玉音が身ごもったため秦は党に結婚嘆願書を出すが受け入れられず,逆に反革命分子として裁判にかけられ,秦は懲役10年の刑に処せられることになった。判決のシーンがこの映画のハイライトで,絶望した玉音を勇気付けるために秦があの有名なセリフを言う。「生き抜け。ブタのように生き抜け。牛馬となっても生き抜け。」と。文革当時,身に覚えのない理由で投獄されたり迫害された数多くの人たちは,本当にこう思いながら耐え忍んだのだと思う。

その後,玉音は前と同じように道路掃除をしながら,秦の帰りを待ち続ける。そして,1979年,文革が終了して3年経ち,玉音と秦の名誉も回復され,玉音は新築の家と貯金を返してもらい,また元と同じように米豆腐屋を今度は秦と始めるのだった・・

ハッピーエンドで終わったかに見える転回に,謝晋監督が皮肉を入れている。秦が,出所して町に帰るために乗り込んだフェリーボートの中で偶然国香に出会うところだ。文革前や文革中に,町の革命派のリーダーとして好き勝手に人々を苦しめた国香は,文革後も,失脚することなく,逆に県の幹部から省の幹部に昇格していた。きまり悪そうな国香は秦に「同志」と呼びかけるが,秦は「私も同志ですか?そう呼ばれちゃ面食らっちゃうな」と笑い飛ばす。文革の責任の所在,本当の総括はまだ終わってないよと謝晋監督は当局に訴えたかったのだろう。

(1987年上海映画製作所/監督:謝晋/出演:劉暁慶,姜文,徐松子(李国香),劉利年(桂桂)/サロンシネマ,2000.12.8renewal)

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[近代史3] ベルトルッチ ラストエンペラー The Last Emperor 1987年

ベルトルッチ ラストエンペラー 1987年

ラストエンペラー The Last Emperor

監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 ベルナルド・ベルトルッチ マーク・ペプロー
音楽 坂本龍一 デイヴィッド・バーン 蘇聡
撮影 ヴィットリオ・ストラーロ
配給 コロンビア映画
公開 1987年11月20日


動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887

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キャスト

ジョン・ローン(男優) 愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン(女優) 婉容
ピーター・オトゥール(男優) レジナルド・ジョンストン
坂本龍一(男優) 甘粕正彦
リック・ヤング(男優) 戦犯収容所尋問官
リサ・ルー(女優) 西太后

『ラストエンペラー』(英: The Last Emperor、中: 末代皇帝、伊: L'ultimo imperatore)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。


溥儀の自伝『わが半生』を原作に、ベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。メインキャストである溥儀の青年時以降の役は、香港生まれの中国系アメリカ人俳優のジョン・ローンが演じた。

西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、退位し連合軍に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描く。歴史的事実には重きをおいておらず、大胆な創作が随所に盛り込まれている。

清朝及び満州国を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主なキャストを占めており、主な台詞は英語であったり、独自の脚色も多い。故宮で世界初のロケーションを行われたことが公開前から大きな話題を呼んだ。観光名所として一日5万人が訪れる故宮を、中国共産党政府の全面協力により数週間借り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は圧巻の一語に尽きると高い評価を受けた。特に故宮太和殿での即位式の荘厳、華麗なシーンは映画史に残る有名なシーンとなった。


あらすじ

1950年。第二次世界大戦の終結による満州国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルビン駅の構内。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返す中で、列から外れた1人の男が洗面所で自殺を試みる。男は監視人の手により一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。この男こそ清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝、紀元前以来から続く中国王朝の最期の皇帝「ラスト・エンペラー」と呼ばれた愛新覚羅溥儀その人であった。

1908年11月14日、北京。清朝第11代皇帝・光緒帝の崩御に伴い、長きに渡って清朝の最高実力者として君臨してきた西太后は溥儀を紫禁城へ呼び出す。事態を察知した溥儀の実母福晋幼蘭は、乳母アーモに溥儀を託す。物々しい様子の宮中で、溥儀は動じることなく、無邪気に「お家に帰れる?」と繰り返すばかりであった。瀕死の西太后は、溥儀を皇帝に指名して崩御する。即位式の日、家臣たちが三跪九叩頭の礼で新皇帝に拝礼する最中、溥儀はコオロギの鳴き声を追って列中を歩き回る。そして居場所を突き止めると、コオロギを入れ物ごと家臣から譲り受ける。

再び、1950年、一命を取り留めた溥儀は、中華人民共和国の戦犯として撫順の政治犯収容所(撫順戦犯管理所)に送られる。そこの所長は溥儀を助けた男だった。そこで待っていたのは「戦犯」としての自己批判の強要や要人の立場を奪われた生活習慣だった。そこで溥儀は厳しくも善良な所長相手に、孤独で不遇だった私生活を「すべては、(空虚な)儀式でしかなかった」と振り返り、過去を回想していく。

収容所では、実弟の溥傑と再会する。紫禁城を出ることが認められず、宦官ら大人にかしずかれて育った溥儀にとって、溥傑は初めて出会った同世代の子供であり、大切な存在となった。しかしながら、乳母のアーモからは依然として乳離れできず、溥傑の目を盗んでアーモの乳房に顔をうずめる。その様子を、先帝妃たちが見ていた。ある日、溥傑が皇帝しか許されないはずの黄色い衣服を着ていたことから、兄弟喧嘩となる。溥傑は「兄ちゃんは皇帝じゃない」と言い、すでに辮髪もしない洋服の新しい「皇帝」がいると話す。溥儀は皇帝である証明に、宦官に命令して墨汁を飲ませるが、溥傑は自動車に乗った袁世凱が、新たな皇帝として君臨する姿を見せる。ショックを受け、宦官らに問いただすと「紫禁城の外では皇帝ではないが、紫禁城の中では皇帝である」と説明を受ける。そしてアーモは紫禁城を追放され、溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。アーモは乳母以上に、初恋の女性だった。

再び1950年代、収容所所長は溥儀の過去を知るため、家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが記した『紫禁城の黄昏』[4]を開く。学生のデモで物々しい北京市街を経て、ジョンストンは紫禁城へ赴く。城内は城外と打って変わって旧態依然としており、伝統や慣習がそのまま息づいていた。10代になった溥儀は知的好奇心旺盛で、盛んに城外へ出たがっていた。ジョンストンは家庭教師として、勉強だけでなく城外の知識や常識を溥儀に与え、溥儀にとって信頼できる友人となる。1921年、溥儀の実母が逝去し、溥儀は自転車で城外へ出ようとするが、衛兵に妨げられる。さらに城外へ出ようと屋根に上った際、頭を打ち、西洋人の医師から「眼鏡をかけないと失明する」と診断される。先帝妃らや宦官は反対するが、ジョンストンは眼鏡を認めないなら、紫禁城の腐敗を新聞を通じて世界に伝えると言い返す。

眼鏡を認められた溥儀が最初に見たものは、お妃候補たちの写真であった。17歳の婉容を皇后に、12歳の文繍を淑妃(第2皇妃、側室)に選ぶ。古式ゆかしい婚礼が行われ、婉容と文繍は友情を結ぶ。彼女を古風な女だと思っていたが、実際には溥儀の理想通り、外国語が話せてダンスが踊れる「モダンな妻」であった。溥儀は2人でオックスフォードへ留学したいという夢を語り、婉容も彼を気に入り好きになりそうだと、互いに好印象を抱く。

再び1950年代、溥儀は日本と接近した経緯と理由を激しく詰問される。成長した溥儀は、もはや城外への脱出ではなく改革を志すようになっていた。その始まりは辮髪の断髪と、宦官らの不正を露呈させるための美術品目録作成であった。その夜、不安を感じた婉容は自ら溥儀の寝所を訪れる。さらに文繍も現れ、3人で仲睦まじく過ごすが、屋外では炎が燃え盛っていた。一部の宦官らが、証拠隠滅のため美術品ごと建福院に放火したのであった。溥儀は激怒し、共和国軍の支援も得て1000名以上の宦官を全て追放する。日本への接近が決定的となったのは1924年、北京政変だった。溥儀を対象としたクーデターで、溥儀ら一族は1時間以内の退去を命じられる。ついに溥儀は紫禁城を離れることとなった。ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局溥儀に手を差し伸べたのは、同世代の天皇もおり親近感もあった大日本帝国のみだった。

日本の庇護下、天津での生活は、軍閥との交渉はあったものの、総じて楽しいものだった。溥儀と婉容は「ヘンリーとエリザベス」となり、社交界でも注目の的だった。一方、文繍は紫禁城の外では(社会的に)妻として認められず、孤独な思いから離婚を望んでいた。ダンスパーティーの最中、蒋介石の上海制圧のニュースが伝えられ、居合わせた欧米人らが拍手喝采する中、輪から外れた溥儀らに甘粕正彦が「日本公使館へお越し下さい」と誘いかける。文繍は車中で離婚の意思を告白し、混乱の中ついに出奔する。友を失った婉容の護衛のため「東洋の宝石」(Eastan Jewel)こと川島芳子が現れる。彼女は溥儀の遠縁であり、あらゆる情報に通じていた。彼女は清朝の陵墓(清東陵)が国民党により略奪されたニュースをもたらし、溥儀を激しく憤慨させる。そして芳子は、婉容にアヘンを勧める。

再び1950年代、溥儀が自発的に満州国皇帝になろうとしたか否か、激しく論争が起こる。溥儀自身は告白には「日本に誘拐された」と記したが、ジョンストンは『紫禁城の黄昏』に溥儀が望んだと記していた。そして、かつての使用人も天津出立前日に荷造りをしたと告白していた。当時、溥儀は満州国の支配者の家系に生まれた自分抜きで満州国の成立はあり得ないと考えていた。清朝復活に魅かれる溥儀に対し、婉容は慎重な姿勢を示す。所長は事実を思い出せ、と『紫禁城の黄昏』を溥儀の目の前に置く。

1934年に、溥儀はついに満州国皇帝となる。告天礼が行われた後、即位を祝う舞踏会の最中、婉容は涙を流しながら蘭の花を食べる[5]異常な様子を示す。溥儀は婉容をたしなめるが、彼女は日本の傀儡でしかない現状だけでなく何故自分を抱かないのか抗議する。溥傑の横で客人から挨拶を受ける嵯峨浩[6]を見やり、自分も彼女のように子供が欲しいと訴えるが、溥儀はアヘン中毒が理由だと説明し、訪日にも連れて行かないと告げる。宴を中座した婉容は、芳子の導きでアヘンと同性愛関係に溺れていく。

日本で歓迎を受けた溥儀が帰国すると、満州国内の様子が異様だった。国務総理大臣鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū)は息子の暗殺を機に隠棲し(=辞職に追い込まれ)、代わって軍政部大臣張景恵(Zhāng Jǐnghuì)が関東軍の推薦の元、溥儀から後任の承認を得ようとしていた。御前会議の場で、溥儀は自分のあずかり知れないところで決められていた張の首相就任を認めないばかりか、諸外国からも承認されつつある独立国として日本のみならず各国と対等な関係を築こうと話すが、関東軍の息のかかった家臣は次々に退席する。

夕食の席で、婉容は溥儀に懐妊を告げる。相手は満州人の男で、溥儀のためにもなると話す。そこへ甘粕が現れ、承認のサインをするよう迫る。溥儀は皇后の懐妊を告げ、満州国の後継者が誕生すると強気に出るが、甘粕は逆に相手の男の名を溥儀に教える。溥儀は帝室の名誉のため、傀儡となることを余儀なくされる。やがて婉容は出産するが、生まれた子はすぐ殺害され婉容は静養のため皇宮を離れる。溥儀は彼女を必死で追うが、会えずに終わる。その様子を見ていた甘粕と芳子は指を絡めあうのだった。

再び1950年代、戦犯たちに対し中国共産党視点での歴史映画が放映される。大日本帝国は満州で侵略の足場を固め、上海での無差別爆撃、南京での20万人以上の虐殺、真珠湾奇襲、そして満州における細菌戦のための人体実験にアヘン生産――満州の映像が流れたとき、溥儀は思わず立ち上がる。日本の敗戦、そして満州国の滅亡により、溥儀は溥傑の勧めにより日本への亡命を図る。出立直前、皇宮に戻った婉容と再会するが、中毒症状で変わり果てた姿の彼女はもはや会話が成立する状態ではなかった。そして亡命の途上、ソ連に捕えられたのであった。

溥儀は、共産党政府が用意したあらゆる「告白」に一転して署名を行った。1959年に特赦により収容所を出所する。文化大革命の嵐が吹き荒れようとしていた折、一介の庭師として植物園に職を得ていた溥儀は、紅衛兵のデモの中に罪人として引き回され晒し者にされているかつての収容所所長の姿を見つける。紅衛兵に話しかけ懸命に庇おうとする溥儀であったが、徒労に終わり所長は連れ去られていく。

溥儀はその足で街をさすらい、博物館として一般公開されている紫禁城へ、そしてかつては自分のものだった玉座へと赴く。そこには彼の顔も知らない博物館の守衛の子供が一人いるだけだった。玉座への立入をとがめる子供に「昔ここに住んでいた」と語る。溥儀は皇帝だった証拠として、幼い頃玉座の隅に隠し持っていたコオロギの壷を手渡す。そして子どもが目を上げたとき、そこにはもう溥儀の姿はなかった。

時代は移り、1987年(公開当時の「現在」)。歴史を直接に知らない国内外から訪れた大勢の観光客たちが紫禁城を訪れ、騒がしさの中、20年前に亡くなった過去の皇帝溥儀の玉座を眺めるのだった。

事実との相違点

史実を元に製作されているが、演出のために脚色された部分が多く史実とは違う点が複数みられる。

ソ連軍の捕虜となった溥儀が自殺未遂を起こした事実はない。
西太后が溥儀を召見したのは1908年10月20日で、崩御したのはそれから26日後の11月15日である(映画では召見中に崩御)。

西太后の崩御シーンはセットによる撮影で、実際に西太后が崩御したのは紫禁城ではなく、西苑(現在の中南海)に建てられた儀鸞殿(現・懐仁堂)内の福昌殿。龍が柱に巻き付いた内装なども美術チームの創作。

溥儀が紫禁城から城外へ出ようと屋根に上った際に頭を打ち、これをきっかけにメガネをかけるようになったのは史実ではない。

婉容が溥儀の年上に描かれているが、史実では2人とも1906年生まれの同い年。
婉容が川島芳子と同性愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
ジョンストンが帰国する際、溥儀が自ら天津港まで見送った事実はない。史実では、ジョンストンが天津の溥儀寓居「静園」を訪れ暇乞いをした。

史実の嵯峨浩は溥儀の満州国皇帝即位関連行事に参列していない。即位式は1934年に挙行され、溥傑と浩の結婚は1937年。

舞踏会シーンを撮影した満州国皇宮の同徳殿は1938年竣工で、溥儀の即位当時には存在しない。

甘粕正彦が溥儀の監視役となっているが、実際この役目は吉岡安直が行っていた。
甘粕正彦が川島芳子と恋愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
甘粕正彦は切腹して自決する筋書きになっていたが、これに強い違和感を持った坂本が監督を説得し、拳銃自殺に変更された。史実上の甘粕は服毒自殺した。

張景恵は麻薬取引に暗躍した実績を買われて満州国の国務院総理になったという設定だが、このような事実はない。

張景恵が戦犯刑務所内で長年の麻薬の吸引により廃人同然になったと描かれているが、このような事実はない。

溥儀より先に溥傑が戦犯刑務所より出所していたが、このことには触れられていない。
晩年の溥儀が中国人民政治協商会議全国委員を務めたことには一切触れられず、庭師として死んだことになっている。


エピソード

陳凱歌が武装解除される満州国近衛兵隊長役として、溥儀が収監されていた当時の戦犯収容所長だった金源が溥儀に特赦を知らせる共産党幹部役として、それぞれカメオ出演している。

溥儀の即位式では満洲語が用いられている。
甘粕正彦役兼音楽プロデューサーで坂本龍一[9]が参加。坂本がベルトルッチ監督から音楽についてのオファーを請けるのは、撮影が終了して半年も後のことだった。
キャストとして昭和天皇が登場する想定で撮影が進められ、来日した溥儀を東京駅ホームで出迎える大礼服姿や溥儀と対面する後ろ姿のシーンがスチール写真に残されているが、公開版、ディレクターズカット版とも登場シーンは全てカットされた。
日本での劇場公開に際しては、配給元が「溥儀が中華人民共和国の収容所で南京大虐殺の映像[10]を見せられるシーン」をベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。


ロケ地・撮影スタジオ

綏芬河駅:溥儀の自殺未遂場面
故宮博物院:即位大典など紫禁城全般
頤和園:紫禁城内の庭園場面
北京電影制片廠:醇親王府、西太后寝所のセット
満州国皇宮同徳殿・萊椁蛛F満州国宮廷(舞踏会会場となる玄関大広間)
大連港第二埠頭船客待合所:天津港でのジョンストンとの離別場面
大連中山広場:天津の夜景(背景は旧横浜正金銀行大連支店)
チネチッタ:撫順戦犯管理所、満州国宮廷(御前会議室・皇帝執務室・大食堂)のセット
パラッツォ・デイ・コングレッシ(イタリア語版):天津のダンスパーティー会場
北海植物園:溥儀が勤務する植物園
東絨線胡同:自転車退勤場面、文革批判大会会場(※ロケ地点は国家大劇院建設地になり消失)

受賞

第60回アカデミー賞:作品賞[3]、監督賞[3]、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞[3]
第45回ゴールデン・グローブ賞:ドラマ部門作品賞、監督賞、脚本賞、作曲賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC

▲△▽▼

ベルトルッチか。

2人の后とベッドで戯れる…紫禁城の衛兵にダンスパーティー〜実に絢爛豪華。阿片を吸って足を舐められる婉容の絵は妖しい…ってか、いきなり収容所で自殺未遂なのだが…

ラストエンペラーが突然消えて、幼い頃の虫籠から生きたクリケットが出てくる…実にファンタジーな幕引き。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24562#2


ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』を見た時、終わりの方で意味不明なシーンに出くわしました。

1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告。8月15日、日本は無条件降伏します。ソ連軍は満州に殺到し、日本へ脱出しようとしたラストエンペラー「溥儀」は、長春の空港でソ連軍兵士に捕えられ捕虜となりました。中華人民共和国建国後、その身柄はソ連から中国に引き渡され、撫順の戦犯管理所に入れられ思想改造を施されます。10年間の収容所生活を送った後、1959年に特赦を受けた溥儀は、皇帝から一市民となり、園丁として北京植物園に勤務することになりました。 問題のシーンはここからです。

1967年、町へ出た溥儀は若者達のデモを見かけます。人民服を着た若者達は腕に赤い腕章を巻き、赤い手帳を掲げて何やらシュプレヒコールをしています。中には、毛沢東の大きな肖像画を掲げている者、赤い旗を振り回している者もいます。

行列の半ばに、白い紙で作った三角帽子を被せられ、反革命分子と書かれたゼッケンをつけて連行されている人々がいました。溥儀は、その中に撫順の収容所所長の姿を見つけます。思わず走りよって、連行している若者に

「同志よ、何かの間違いだ。彼は善良な人だよ。何をした?」

と問いかけます。周囲の若者が

「犯罪だ」
「皇帝に追従した」
「反動だ」
「罪を告白しろ」
「毛主席に礼を」


と口々に叫びながら所長を跪かせようとします。割って入った溥儀は

「この人はすばらしい教師だ。ひどい仕打ちだ。いいか、立派な先生なんだ」

と食い下がりますが、若者達に突き飛ばされて道端にうずくまりました。
http://home.catv-yokohama.ne.jp/cc/hitomi/100satu/wairudo/wairudo.htm


▲△▽▼


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「清朝の最盛期第六代乾隆帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=av0eVeXxSsA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「第七代嘉慶帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6Gkih3r_LFg

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pn6mzjLpiLA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cBqwC5moJS0

皇帝たちの中国「清朝最後の皇帝溥儀」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qn5Z3Bs_xD8

特別番組「満洲国から見た近現代史の真実」
宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら・4月13日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=90Py-KyxCXg


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90++%E6%BA%80%E5%B7%9E
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/356.html

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
2. 中川隆[-10703] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:48:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1352]

中国最後の皇帝 毛沢東のした事


中国の現代史を振り返ってみて、そこに浮彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。  これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。  毛沢東は、

「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」


と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


中国共産党が殺した中国人の数は実に8千万にのぼる。間違いなく中国共産党は人類史上最悪の殺人集団といえよう。

 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されたとき、多くの人民は期待と希望に胸を膨らませたことであろう。だが建国とほぼ時期を同じくして、6億の人民の淡い期待はたちまち恐怖へと変わる事になる。

 中国共産党は政権を握ると早速土地改革を実行に移した。土地改革はすでに抗日戦争や国共内戦時代から根拠地で行われていたが、政権獲得後は全国で虐殺と略奪の嵐が荒れ狂った。土地改革とは表向き地主や富豪から土地と財産を没収し、貧しい農民に分配するというものだ。中国共産党は土地改革により、暴利を貪る地主の搾取から農民たちが解放されたと自画自賛しているが、実態はどうであったかを以下に見て見よう。

 共産党は土地改革を行うにあたり、破落戸たちから積極的に情報提供などの協力を得ることにした。破落戸とは日本語では「ごろつき」という読ませ方をする(ほかにも「ならずもの」とも読む)。要するに素行が悪く、人間性の欠如したチンピラのことだ。そして破落戸は、生活が豊かで、財産と文化的教養を身に付けた地主や裕福な家庭に憎しみを抱いている。そういうこともあり、毛沢東は破落戸こそが農村革命の勇敢な参加者と位置づけたのだ。

 土地革命は次のような手順で行われた。家族が朝食をとる時間を見計らって共産党軍が地主の家に乱入し、家族全員を一箇所に監禁し、金銭、金品、土地の所有証書などを徹底的に略奪。見つからなければ地主を拷問して場所を聞き出す。奪うだけ奪いつくすと、地主及びその家族を広場に引きずり出して、村人たちに裁判を開かせる。この裁判でも破落戸たちが協力している。破落戸たちは地主の罪状を次々とでっちあげて糾弾する。そして死刑判決が下される。地主を地面に跪かせてライフル銃で射殺する。脳みその半分は飛び散ってしまう。

このような殺戮が中国国内のありとあらゆる村で行われた。中国共産党が掲げた「一村一焼一殺」という方針により、1952年までに240万人の地主や富裕層が虐殺された。命は助かったが財産と家屋を略奪されたものも400万人近くにのぼった。建国前に革命根拠地で行われていた土地改革では地主の家屋までもが破壊されたが、建国後の土地改革では地主の家屋は共産党の支部として利用するために温存された。

 こうして土地改革により、中国共産党は全国に共産党の支部を設立し、地主から金品や財産を略奪し、6億の人民に恐怖心を植え付けるという成果を収めたのである。


 土地改革と同じ時期に鎮反運動、いわゆる「鎮圧反革命分子運動」が開始された。1950年10月10日、毛沢東は「反革命活動鎮圧に関する指示」を発令し、それに基づき1951年2月21日、中国共産党は「懲治反革命条例」を制定した。「匪賊、悪党、スパイ、国民党員、反動的団体の幹部、反動的セクト組織のリーダー、麻薬反」などが鎮圧の対象とされた。だが裁判や刑執行に関する法律が全く不明確で、なおかつ
毛沢東は全国に殺害のノルマを制定した。

「人口の千人に一人以上」

というものだ。なぜ千人に一人という数字なのかは不明であるが、毛沢東が気まぐれで、これだけ殺しておけば人民に恐怖を受え付けることができると判断したとしか解釈しようがない。こうして中国全土で殺人の嵐が吹き荒れた。まず各地の共産党組織が人民代表連合大会という動員大会を開き、群衆たちに反革命分子を告発させる。それに基づき公安が告発された反革命分子を一斉に逮捕する。即座に人民法廷が開かれ、その場で死刑を言い渡し、即座に銃殺する。

 処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共にとってどうでもよい問題である。《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができるのだ。実際のところ、千人に一人の犯罪者を探すことなど容易なことではなく、ほとんどの人々は匪賊にもスパイにも反革命活動にも心当たりがないまま告発され、処刑された。

 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。

 鎮反運動と土地改革が一通り終わってからわずか3年後の1955年、中国共産党は粛反運動(粛清反革命分子運動)を繰り広げた。実態は鎮反運動とほぼ同じである。この運動で逮捕されたのは130万人。そのうち処刑されたものは8万人に上った。普通の国であれば短期間で8万人が虐殺されれば、その国の歴史にとって最も暗黒な時代として記憶されることであろう。しかし中国共産党暴虐独裁政権にとって8万人の虐殺ぐらいは日常茶飯事であり、大きく取り上げるほどのことではないのである。

 人民を恐怖に落としいれ、全国で虐殺の限りを尽くした中国共産党の残虐行為はこの程度で留まることはなかった。さらに大規模で残虐な無差別大量虐殺が中国全土を襲うことになる。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui06.htm


 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の復讐


 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのに慣れていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思い巡らしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。
<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中に少なくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにも怖くてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>


<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みの薄い、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>


 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。しかしこの運動は過去の土地改革、鎮反運動、粛反運動とは全く趣旨が異なるものだった。文学、芸術、科学技術に従事するものたちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。だがこの運動は予想に反して盛り上がりを欠いていた。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。毛沢東や人民日報からは


「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」

「言う者に罪無し」

「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」

という発言が飛び出し、1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。 問題は毛沢東はそもそも本気で党外人士や知識人の批判に耳を傾けるつもりがあったのか、それとも始めから「右派分子」を弾圧するために百家斉放、百家争鳴運動を開始したのか。

どう考えても後者である。すでに中国共産党は300万人の無実の人民を虐殺しているのだ。大虐殺の悪夢が過ぎ去ってからまだ1年足らずである。人民に強烈な不満がないはずがない。自由な言論を認めれば政権を揺るがすほどの批判が殺到するのは分かりきっている。この後の運動は血に飢えた毛沢東が更なる大粛清を楽しむためにしかけた運動とみなして間違いない。

 1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。今回は集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

 毛沢東自身は1958年5月8日の会議で次のように述べている。

「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。

私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。

私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」


と言って自ら大笑いしたという。 反右派闘争によって当に対して反対意見を持つ知識人や党外人士が一掃されたことから、中国共産党の独裁は大幅に強化された。それと同時に党内でも毛沢東の絶対的な権力が強化された。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui07.htm

大躍進運動


1957年の反右派闘争をきっかけに毛沢東の権力は絶対的なものとなり、ほとんど異論を唱えられない雰囲気が醸成されていた。それ故、反右派闘争から1年を待つことなく、人類史上中国以外では例のない悲劇が幕を開けることとなった。

 1957年11月に毛沢東は訪ソし、フルシチョフと会談した。フルシチョフが掲げた目標は15年で米国を追い越すというものだった。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカに追い越すという自信が確かにあったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。

 翌年、中共政府は鉄鋼生産量年間2億7千万トンという前年比2600%(260%や26%の誤記ではない)増の生産目標を発表した。その前段階として、中共は農民を鉄鋼生産に専念させるため、とりあえず1958年は穀物生産高年間5億トンという目標を掲げて邁進することになった。前年比100%増、つまり2倍である。

 穀物生産高倍増のための効果策があるわけではなかった。効果策はなかったが具体策はあるにはあった。1958年2月に中共政府は蝿、蚊、鼠、雀を駆除することを目的とした四害駆除運動を開始した。特に農作物を食い荒らす雀に対する徹底的な捕獲作戦が実施された。だが雀は農作物を食うだけでなく、害虫も食べるのであり、生態系バランスを完全に無視した中共の政策により蝿、蚊、いなご、ウンカなどの害虫が大量発生し、農業生産に大打撃をもたらすこととなった。

 さらに、同じ種であれば互いの成長を阻害しないという誤解に基づく極度の密植、深く埋めるほど根が発達するという誤解に基づいて2メートル以上の深さに種を埋めるなど、農業理論を完全に無視した農業政策が実行に移された。

 目標が達成できないことは目に見えていた。だが中国共産党の地方幹部にとって、毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であった。1958年秋、地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。そして党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのだが、水増し報告をしている以上命令に従わざるを得ない。必然的に人民の食糧が欠乏することになる。

 そのような状況で1959年を迎えると、毛沢東はこの1年間は農業生産はほどほどにし、全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった。また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、特に中国の北部は禿山だらけとなってしまった(そのため今でも中国では毎年洪水が発生している)。

 そして1959年の夏にはついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も全くの不作で飢饉をさらに深刻化させた。早くも1959年7月の中国共産党政治局拡大会議(いわゆる廬山会議)で彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も支持を表明するものが少なくなかった。しかし毛沢東は7月23日の演説で、彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判した。彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。

 8月2日から始まった中国共産党八中全会で毛沢東は彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」として激しく非難し、彼らを失脚に追い込んだ。毛沢東は自信を持って大躍進に誤りなど全くないと主張し、彭徳懐反党集団との闘争を20年でも50年でも続けなければならないと発言した。そのため、1960年まで彭徳懐反党集団との闘争が続けられることとなった。毛沢東は自らの正当性を主張するため、さらなる鉄鋼大増産政策の貫徹を全国に命令した。

この廬山会議で毛沢東の間違った政策を修正することができれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができたであろう。しかし誰もが間違いに気づいていながらもはや誰も毛沢東に逆らうことはできず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。

 こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた。(大躍進運動による餓死者の数は4000万、5000万、6000万という説もあるが、私は批判をするときはできるだけ控えめな数字を取り上げる方針であるので、3000万という数字を用いている。実際にはもっと多い可能性が十分にあることを留意していただきたい)。餓死者3千万ということは、当然ながら飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。

 一般的に大躍進運動は、政策の失敗のほか、ちょうどこの時期に旱魃が発生したことが被害を拡大させたと言われている。だがその後の研究により、この時期に自然災害など発生していないことが現在では明らかになっている。数千万人規模の餓死は明らかに毛沢東ならびに中国共産党による人災なのである。

 驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、中共政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに中国共産党は国内における大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は中国共産党による人民への大量虐殺といっても過言ではなかろう。

 飢餓に襲われた人民の境遇はこの世のものとは思えない、それどころか映画の世界でもあり得ないような悲劇的なものであった。食糧不足が深刻化した1959年夏ごろ、当初はご飯をお粥にすることで何とか凌いでいたが、お粥にするほどの米も底を尽きると、人々は籾殻も稲の藁もとうもろこしの茎さえも食べるようになった。それさえも尽きるようになると、樹や草の根を掘り出して食べるようになり、中毒死する人が続出した。ついにあちこちの家庭で餓死者が続出するようになり、埋葬しきれないほどであったので、遺体の多くは雑木林に捨てられた。遺体が捨てられるとすぐさま尻や太ももの部分が誰かによって切り取られていった。すでに事態は食人にまで及んでいたが、悲劇はまだ終わらない。

 口にできそうなあらゆるものが底を尽いたときに人間がとる行動とは、平時の人間には想像をすることさえ困難である。人々は自分の子供を他の家庭の同じ年頃の子供と交換するようになった。自分の家庭で養育するためではない。いくらなんでも自分の子供を食すことはできないので、他人の家庭の子供と交換して食すのである。家に持ち帰った交換物は台所で調理される。脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうしてなんとか1週間ほど凌ぐことができるのである。

 家庭によっては自らの子供を食す親もいた。ある農家では家族はすでに父親と息子一人と娘一人しか残っていなかった。あるとき、父親は娘にしばらく外出するよう命じた。娘が戻ってくると、弟がおらず父親が台所で料理をしていた。鍋には油が浮いており、何やら白っぽいものが入っていた。鍋の横には骨が放り出されていた。それから1週間ほど後、父親は再び鍋で料理の準備を始めた。そして娘を呼び寄せた。娘は号泣しながら父親に、

「お願いです、お父さん、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります!」

と叫んだという。

 1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇とケ小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。中華人民共和国建国から13年、すでに中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。過去に中国が経験した列強による侵略も、抗日戦争をもはるかに上回る悲惨さであった。にも関わらず、悲劇は終わらなかった。大躍進運動という人類史上他の国では例がないような悲劇を経験しておきながら、さらに悲惨でさらに長期間に及ぶ悲劇が待っていた。毛沢東は健在だった。低下した影響力を取り戻すための機会を虎視眈々と窺っていたのである。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm


毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 フランク・ディケーター (著),
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794218400/founder-22/

毛沢東は1957年5月17日の党大会で「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅される程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている。人口の半分が残れば最善であり、3分の1が残れば次善である」と言っている。これが毛沢東の誇張表現なのか、中国共産党の統治意識なのか、中国人の宇宙観なのか、不明というしかない。

ともあれ、死者4500万人という数だけが問題なのではない。あとに紹介するように、文字通りの愚策・愚行によって耕作地、木、鉄、住居、衣服、生産物まで、あらゆる資源が無駄に浪費されたため、大飢饉後には中国の多くの農村は、比喩ではなく石器時代の生活に戻ってしまったのだ。その後の文化大革命でも中国は大打撃を受け、20世紀中は米欧の資本主義国も近隣諸国も中国の脅威を気にする必要がなくなった。日本が近隣防衛まで米国任せにすることができ、それゆえに資源を経済に投入することで、高度成長できたことは毛沢東によって担保されたといっても良いかもしれない。

ほとんどの中国共産党幹部は周恩来もケ小平も趙紫陽も唯々諾々としたがった。彭徳懐と劉少奇だけが反対の立場であった。毛沢東は「大躍進」で失脚したが、7年後に「文化大革命」で復活し、彭徳懐と劉少奇に復讐することになる。文化大革命中に彭徳懐は紅衛兵に肋骨を折られ、末期癌であるにも関わらず痛み止めの注射はされず、窓を完全に塞がれた部屋で下血と血便にまみれて死んだ。劉少奇もやはり恥辱の中で亡くなっている。

著者はオランダ生まれの香港大学教授だ。著者は北京の外交部をはじめ、各省の党档案館などから1000点を超える資料を収集した。档案館とは国公立の公文書資料館のことである。1999年に档案法が改正され、50年を超える文書が公開されることになったのだ。そのなかから驚くべき事実を知ることになる。

1957年11月、毛沢東はソ連のフルシチョフに張り合うため、中国は15年以内にイギリスを追い抜くと宣言した。しかし、その後それなりに発展したソ連とは異なり、中国は愚か極まりない思いつきと狂気じみた統治組織で、大量の労働力と資本を使い、計画が成就しなかっただけでなく、将来にわたる巨大な負の資産を残したのである。大躍進で行われた複数の巨大プロジェクトのすべてがそうだった。

たとえば、農産物の生産量を増やそうとして、無謀な肥料作りを始める。糞尿だけでなく女性の髪まで切って使われる。泥と藁で作った建物も肥料にされる。麻城県というところでは肥料にするために何千軒もの家が解体されたのだが、『人民日報』が成功例として紹介したため、気を良くして、年末までに5万軒の家屋や牛舎、鶏舎が壊された。しまいには肥料にするといって農地に白砂糖を撒くという倒錯ぶりだ。

中国共産党は愚かにも、土地を深く耕し、作物を密集して植えると収穫が増えると思いこんだ。何千万人もが自分の家を燃やして暖を取りながら夜を徹して掘り続けた。最大3メートルもの深耕は無駄であっただけでなく、結果的に表土が損なわれるという事態にも陥った。飢饉の真っ最中にもかかわらず、食糧でもある苗や種を密集して植えつけ、苗が呼吸できずに枯らしてしまうことも行った。

いっぽうで、鉄を増産しようとして「土法高炉」なる手製溶鉱炉を作りはじめた。全国4000万人の労働者を使い50万基を建設した。所詮鉄器時代に近い製法である。クズ鉄だけでは足りず、鍋釜、農機具まで原材料として投入されたのだが、出来上がったのはやはりクズ鉄だった。クズ鉄を使って作った農機具は1年も持たなかったため、農家は文字通り素手で耕作することになる。それ以上に深刻なのは燃料だった。国内の山々は丸裸になり、しまいにはなぜか果樹まで燃やしてしまう。南京では7万5000本の果樹が倒された。

これらの愚行で餓死者がでているにも関わらず、地方政府や官僚は毛沢東に水増しした生産量を報告していた。そのために毛沢東は大豊作だと思い込み、休耕地を増やすように指令する。余剰物は輸出に回そうということになり、農産物や木綿などの繊維製品まで輸出した。結果的に農民たちは衣服まで手に入らなくなってしまう。驚くことに千万人単位の餓死者が出ているにも関わらず、毛沢東の国際的な対面を保つために輸出は続けられ、他国からの援助は断りつづけた。

三門峡ダムを始めとして多数のダムが作られたが、ほとんどが欠陥工事だった。1961年までに40万個の小さなダムが破損した。115の大型ダムが洪水を引き起こし、1975年には時限爆弾となったこの時期に作られたダムが決壊し、23万人が亡くなっている。

バカバカしいことに害鳥だとしてスズメを全国一斉に退治した。当然のことながら害虫が増えた。空が暗くなるほどのイナゴに襲われ、南京付近では農地の60%が虫害にあった。やっと気づいたときにはすでに遅く、スズメが絶滅しかかっていたため、あわててソ連からスズメを輸入するという始末だ。

自然に対してこれほどのことをやってのけた毛沢東と中国共産党である。当然、国民に対しての仕打ちは過酷を極めていた。農家は肥料や燃料として家を燃やされ、人為的な飢饉が起こっているうえに、鍋釜にいたる鉄器も取り上げられ、布団どころか衣服もないのである。文字通り石器時代に戻ったのである。その結果人々がどうなったのかは本書を読んでみてほしい。4500万人が死亡したということはその数倍以上が死の淵をさまよったはずである。当時の中国の人口は6億5千万人だった。

http://d.hatena.ne.jp/founder/20110823/1314083823

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c2

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
3. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1353]
毛沢東の学歴コンプレックスが引き起こした文化大革命


1) 文化大革命は何故起きたか


 まず文化大革命は中国にその後どんな影響を与えたかですが、結論から言って中国はこの文化大革命によって発展が三十年は遅れたとまで言われております。中でも最大の損失ともいえるのが知識人で、ちょうど日本での団塊の世代に当たる年齢に、中国の大学では教授などの人間がすっぽり抜けてほとんど存在しません。これはこの世代がまさに文革で排斥される対象となった世代で、文革期に殺されるか、社会的に抹殺されたかのどちらかで存在していません。

 文革期には中国でも知識人が文字通り根絶される勢いで摘み取られていきました。ここでちょっと想像してほしいのですが、たとえば今、当たり前のようにいる設計士、技術者、熟練工といった人たちがこの社会から突然いなくなってしまうとしたら。もちろんそうなればあらゆる工事から工場の作業、開発製造といった行為がすべてストップしてしまいます。しかも、いざそういった人材をまた育てようと思っても、技術や知識を一から教えてくれる教員すらいない状況であればなおさら悲惨です。

 70年代の中国はまさにこうでした。一度は育てたあらゆる人材がいなくなり、技術や知識の継承をまた一からやり直す羽目となったのです。ただ中国はこれを奇貨として文革後に優秀な学生を選抜して、一気に東大など海外の大学へ留学させて建て直しをはかったりしています。今、中国の経済界ではそのような留学帰りの人たちが大きな力を持っているらしいです。

 中国が文革から受けた損失はなにもこの人材だけではありません。連載中にも書いていますけど何の計画もない土地開発のために自然環境は徹底的に破壊され、また歴史的遺物も「過去の残滓」として数多く破壊されています。

 そして元紅衛兵だったたくさんの若者たちも地方に下放されたまま、故郷へ戻ることすら叶わなくなりました。

 こうしてみると、何故これほどの悲劇が繰り広げられたのか、誰も止めることが出来なかったのかと疑問に思えてきます。この文化大革命は毛沢東の手によって引き起こされたものの、中期以降は一般民衆もむしろ率先してこの混乱を加速させ、いうなれば集団パニック、もしくは集団ヒステリーのような現象だったと思います。日本も戦前は教育上は軍部が国民を扇動させたことになっていますが、実際にはかなりの部分で国民も戦争へ突入するのを応援していました。何でも、朝日新聞が当時に反戦の記事を書いたら部数が一気に5%にまで落ちて、慌てて戦争賛美へと論調を変えたほど民衆も戦争一色だったらしいです。

 よく集団ヒステリーというと、大体二、三十人くらいの小集団で起こるもの、大きさにすると学校のクラス単位くらいなものと思いがちですが、歴史的に見ると日本を始めとした国家単位でも起こっていますが、さすがに中国という巨大人口国でも起こるというのはなかなかに驚きです。まぁ実際、集団ヒステリーに人数は関係ないのかもしれませんけど。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_05.html

文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 

 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは燕の駆除で、燕は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大燕駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、燕を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に燕の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに燕が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。

 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、


「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」


と詰め寄ったらしいです。 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇とケ小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。

 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。

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失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇とケ小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。

 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。

 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。

このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、

「共産党の指導部内に裏切り者がいる」

と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、事態は徐々に深刻化していきました。

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『文化大革命』とは、その原因を言うならば『太平洋戦争(対日戦争)』後の、中国共産党の政策失敗にあるとも言えます。 中国共産党は内戦の果てに『国民政府』を台湾に追い、『社会主義国家』を建国しますが、その後、国家主席であった『毛沢東』が信奉する『マルクス・レーニン主義』の理論の下に、『数年間で米英を追い越す』として、1958年から1960年まで『大躍進政策』と銘打って農工業の大増産政策を行います。 
しかし、この政策は農業現状の無視の上に行われたと言え、自然災害も重なったこともあり、結果的に2000万人から2億人と言われる餓死者を出して終了を見たという事なのです。

 この失敗の原因は『マルクス主義』そのものとは無関係な物であり、具体的な経済の発展方法にあるとして、国民に謝罪すると共に『毛沢東』は『自己批判』を行って国家主席を辞任する事になったと言うのです。 つまり。国家主席の座を、当時NO2であった『劉少奇1898〜1964)』に譲る事に成ったのです。
 
 つまり、『文化大革命』は『毛沢東』のこの様な失敗からの回復を目指して行われた物であった様なのです。 なんと言っても、『毛沢東』の存在意義は、かっての『日中戦争』の折りに、中国人民に向かって呼びかけたところにあったと言える様なのです。 言わば、中国共産党の存在意義を示す物とも言えますが、

 『戦争と言う巨大な力の最深の根元には、人民が存在するのである。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ、この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放たれた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ。』

と言う物であると言います。 これが、後の『毛首席語録(毛沢東語録・毛語録)』の根幹ともなって行った様なのです。

 ところが、1960年当時の世界は、『社会主義国』と見られる国々でも、その基本たる『マルクス・レーニン主義』は、その理論にも『変革』を求められる時代にも入っていたと思われます。 勿論、その『変革』を行う事は、本道を自負する人達から『修正主義』とも非難され、その論争は国間でも深刻な問題ともなっていたのですが、『中国』も否応無くその洗礼を受ける事に成ったと言えます。 その発端は、1960年代に行われた『中ソ論争』にあったと言うのです。

 『中ソ論争』と言うのは、1956年に起きたソ連首相『フルシチョフ(1894〜1971)』の『スターリン(1878〜1953)批判』が発端で起きた『平和共存路線』を『修正主義』と批判する中華人民共和国の『毛沢東(1893〜1976)』等によって起こされた物とも言える様なのです。 この事は、1960年に至り『人民日報』や『紅旗』等が『レーニン主義万歳』を記載するに及び、決定的なものとなります。 ソ連指導部は中国に派遣していた『技術専門家』を引き揚げる事になり、両国の関係は悪化の一方を辿るようになります。 ともあれ、1962年には『中印紛争』『キューバ危機』等が起こり、中国・ソ連の対立は理論的にも決定的なものとなり、1964年には『フルシチョフ』の失脚を見るものの、両国の関係に回復を見る事は無く、対立は深刻化して行ったと言う事なのです。

 『劉少奇』が国家主席となった1959年の中国にとっても、『毛沢東思想』の信奉だけでは、既に遅れを見る時代に成っていたと言わざるを得ないとも言えます。 『劉少奇』はこの後、市場主義を取り入れた経済調整政策を実施、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めたと言う事なのです。 此れに対して『毛沢東』は

『矯正し過ぎて、右翼日和見の誤りを犯している』

と批判したそうなのです。飽くまでも『毛沢東思想』の貫徹を要求した様でもあるのです。 つまり、見方によっては『文化大革命』とは、『毛沢東』が現状を『修正主義』に占拠されると感じた結果起こした運動でもあった様なのです。 しかし、単に『劉少奇』を放逐する為に起こした運動ではなかったかと評する人も多いのです。 

 確かにその頃『劉少奇』には、中国の状況を憂い、彼に組する人も多かった様で、『毛沢東』は『毛語録』などに見られる人気、思想的背景は持っていたものの、『毛沢東』の意に従う者は、共産党幹部には決して多くはなかった様なのです。 まして、『劉少奇』には『フランス語』『英語』『ロシア語』を話す夫人『王光美(1921〜2006)』がいたと言うのです。 彼女は、物理学を専攻し理学博士でもあった人であったというのですが、その語学の才能をかわれ、1946年頃から中国共産党の中でも重要な仕事をして来た人でもあった様なのです。

 『劉少奇』とは1947年に結婚し、『劉少奇』が首席となった1959年からはその『ファーストレデイ」として国際的にも注目を浴びた人でも有った様です。 この様な状態を見るにつけ、おそらく『毛沢東』には、焦りが募る毎日でもあったのかも知れません。 すなわち『毛沢東』は大衆の前でこそ絶大なる指示を受けていたと言えますが、彼の取った政策の失敗は、目を覆うばかりで共産党の内部等には信用は失墜、『劉少奇』等の『実権派』が取って代わろうとしていたのです。 その対抗策として『毛沢東』が取る事に成ったのが、『文化大革命』でもあったのです。

 具体的には、当時軍の実験を握っていた『林彪(1907〜1971)』を擁し、行動に出る事であったというのです。 つまり、『林彪』は1959年に『解放軍向け』として『毛首席語録』の編集・刊行にかかります。 そして、1966年の『文化大革命』の発動と共に、一般向けにも大量に発行されたという事なのです。記録によれば1966年3月から1976年8月までの約十年間『毛沢東語録』の印刷部数は、『文化大革命の象徴』として、実に65億冊を越えたと言うのです。
 
『毛沢東』は腹心とも言える『上海組(四人組)』を使い、1966年以降『紅衛兵』と呼ばれる団体を結成し、其れを行って行ったと言うのです。 すなわち彼は、彼の理論の推進者として、抵抗感の少ない学生・少年少女を選んで、その推進力と仕様とした事になるのです。

 この『紅衛兵』とは、よくドイツの『ヒトラーユーゲント』の引き合いに出される物である様なのですが、確かに、狂信的でその目的は似ているとも思いますが、実体はかなり違うようなのです。 つまり、レベルがかなり違うと言わざるを得ないのです。 

『紅衛兵』に、特に資格と言ったものは無かったのです。 其れが『無知』とも言える暴走を生んで行ったと思われます。僅か10代の少年少女達が『毛語録』を手にしただけで、続々と加入し拡大を続けたと言うのです。

 『毛沢東思想』を権威として暴走する事になった彼等は、多くの派閥に別れ、互いに『反革命』とのレッテルを張り合い、武闘を繰り広げて行ったと言うのです。 つまり、指導者の不足が如実に『統制不可能』な現象を起こして行ったのです。


 結果的とは言え、無知なる青少年が『国家政策』を専横して来る様になったと言うのです。共産党幹部ですら其れを防ぐ事は出来ず、その時既に党幹部でもあり、後の中国共産党の重要な指導者となった『トウ小平(1904〜1997)』は『紅衛兵』の暴行を直接身に受けているのです。 言わば、『思いつき』に似た行動が多かった様で、

『農村から学ぶ必要がある』と成れば、どんな人達も、『上山下運動』に狩り出されたと言いますし、

『孔孟の匂いのある物』と成れば、すぐ破壊されたと言うのです。 

事情は一切顧みられる事は無かったと言うのです。

 つまり、この様な事が頻発した為に,中国の高等教育は機能を停止したと言われ、中国の進展は、この『文化大革命』で20年は遅れたと言われているのです。 この世代は教育、及び倫理的に大きな影響を受けた世代と言われ、その影響は今も尚、大きなものを残していると言うのです。 すなわち、『文化大革命』は当初、政治・社会。思想・文化の全般にわたる『改革運動』として企画された物であったと言うのですが、結果的には『粛清』『破壊』その物であった様なのです。 

実体は、単に彼等の『勧善懲悪』的な指導の下に行われた様なのです。


 つまり、『善人』とされたのは、

『少正卯』
『呉起』
『商鞅』
『韓非』
『荀況』
『李斯』
『秦の始皇帝』
『漢の高祖』
『漢の文帝』
『漢の景帝』
『曹操』
『諸葛亮』
『武則天』
『王安石』
『李卓呉』
『毛沢東』

などであり、それにつながるものは『善』であったのです。


 『悪人』とされたのは、

『孔子』
『孟子』
『司馬光』

等であったと言うのです。


 つまり、中国の思想家の内

『法家を善とし、儒家を悪として、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされた』

と言うのです。 すなわち、この後は、これらの人々になぞらえても、『紅衛兵』の行動は激しさをまして行ったと言うのです。

 何でも彼等の携帯する『毛語録』には


『革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりする事でもない。

そんなにお上品でおっとりしたり、雅やかな、そんなに穏やかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、控え目な物ではない。

革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。』


とあり、

『革命には犯罪は無い』

としたと言うのです。 

これが、『無知なる少年少女』達の『粛清運動』ともなり、結果的に約1000万人〜3000万人の『大量虐殺』を産み、結果的に犠牲者数億と言う、数字も定かならぬと言う『内戦』とも言える惨状を多分に示した運動ともなって行ったのです。 

この『文化大革命』のエピソードを拾ってみれば、其れは更に容易に想像がつくかとも思えますので列挙してみます。 


 *『紅衛兵』は『赤は革命に色であるから赤信号で止まるのはおかしい、赤信号で進んで青信号で止まるべきだ』

 *『寝室に毛沢東の写真を飾っていた新婚夫婦』に『首席の前でセックスをした』と非難した『紅衛兵』に、『その時は電気を消していた』と反論した。

 *ある『紅衛兵』は『富農家』や『官僚』批判が絶頂だった頃、彼らに対する迫害を多くしたと言うが『毛沢東』の実家も『富農』であった事で候補に上げた。

 *中華人民共和国の新聞には、その頃多くの毛沢東の写真等に占領されていたが、その新聞を尻に敷いたり、たきつけに使った事で吊るし上げられた者が多数いた。

 *旧思想・旧文化の否定がスローガンとされた為、陶磁器や金魚・月餅等古い歴史を持つ商品の製作や販売まで旧文化とされ、それに携わるだけで、職人や関係者は『帝国主義者』と認定され、つるし上げの対象者でもあった様なのです。


 
 この様に見ていけば、実際はその行動に『思想』や『展望』の一切なかった事が、偲ばれるものとも言えます。 『無軌道』とも言える『紅衛兵』の産物でもあったと言えますが、この結果どれだけの犠牲が払われているかは想像できない事である様なのです。

 ところで、『文化大革命』は1970年代に入ると、内戦状態とも言える経済的疲弊等から、それに伴って終息に対する雰囲気も高まって来たと言われ,1972年のアメリカのニクソン大統領訪中等が契機となり、沈静化して来たと言うのです。 1976年には『毛沢東』が死去した事もあり、1977年8月には『共産党声明』として『文化大革命の終結』を宣言する事に成ったのです。 その後始末として、1981年には『紅衛兵』の指導に大きな影響を与えたと言う『林彪グループ』や『上海組』の要人には死刑から懲役刑の判決が下される事に成ったと言う事なのです。

 すなわち、『林彪』は『劉少奇』追放後の1966年の党大会に於いて『毛沢東』に次ぐ序列第2位の席に昇格し『毛沢東』の後継者と公式に認定されていたとも言うのですが、『毛沢東』が『劉少奇』の失脚によって空席に成っていた『国家主席』の廃止案を提案すると、それには同意しなかったと言うのです。 1970年になり『林彪』は毛沢東の首席就任や毛沢東天才論を連発し、毛沢東の持ち上げにかかったと言うのですが、其れが逆に『毛沢東』の疑心を呼ぶ物ともなり、『毛沢東』の批判論を呼び起こす元ともなったと言うのです。

 この様に見れば『毛沢東』と言う人が、『権力の座』にこの上なく執着した人である事は疑いの余地の無い人とも思えます。

 かくて、1971年9月『毛沢東』との決別を覚悟した『林彪』は『毛沢東の暗殺』に動いたと言うのですが、失敗しソ連への逃亡を図り、モンゴル上空で事故死したと言う事なのです。 この『暗殺事件』をして、『毛沢東』は

『雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い』

と言ったとされている様だが、それ程余裕があったかは定かで無いとも言えそうである。  

 この『林彪』と同じ時期に、頭角を表わしたのが後に『四人組』と呼ばれた『上海組』の人達でもあります。 彼等は逮捕された後『四人組』と呼ばれる様になりますが、実体は『毛沢東』の四番目の夫人『江青(1914〜1991)』と、その取り巻き連中であった様なのです。
 
当初は『劉少奇』の追放を目論む『毛沢東』に従って『林彪』と共に『紅衛兵』の指導に当たり、『林彪』失脚以後は『プロレタリア独裁』『文化革命』を隠れ蓑に、極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧して行ったと言うのです。
 
『王洪文』『桃文元』『張春橋』と言う政治局員の名前が見えますが、言うなれば彼等は『毛沢東夫人』の付き人みたいな者であったようです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。

 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_22.html


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2) 煽てればガキンチョは何でもしてくれる


悪事を成功させようと思ったら、ガキンチョを集めて、うまく煽てて女と飴を適当にあてがっておけばいいんですね:


毛沢東は中華人民共和国が成立して以降、一貫して権力者であったかのように誤解されがちなのですが、実際には彼は一度失脚しています。何故失脚したかというと、農業政策や社会政策などで明らかな失政を犯してしまい、一度ケ小平といった経済政策などに明るい政治家らに引退を迫られ、一旦は政権の中枢から降りています。しかし彼自身は未だ引退する気はさらさらなく、表面上は穏やかに政権の座を譲ったかのように見えましたが、その後自らは隠遁したふりを見せ、未だ政権に残っている自らの腹心を使い徐々に世論を誘導して、

「ケ小平らは毛沢東を騙して政権から追い出した」、

というような世論を作っていきました。

 以前に大学の授業にて中国政治の先生がこの文化大革命のことを、毛沢東が権力を奪回させるために敢えて社会を混乱させたところ、終いには自分にも手がつけられなくなったと評しましたが、まさに的確な表現でしょう。

毛沢東は民衆、特に精神的に純粋な十代の少年少女らを使い、自らを神格化させることによって見事ケ小平を追放し、政権の奪回に成功します。 しかし少年少女らを扇動する際に毛沢東は、

「お前たちが正しい。しかし大人は間違っているから、お前たちが修正してやらなければならない」

 といったような言葉で動員し、この言葉を真に受けた若者たちは一切権威を信じず、自らが組織した団体の決定を強引に推し進め、更には本来それを取り締まる警察や軍隊は毛沢東らの中央政府の命令によって鎮圧ができずに静観するだけという、悪循環な環境を生んでいくことになります。

 この時代について私に中国語を教えてくれた中国人教師の方などは、当時は軍隊が全く機能しておらず、子供だった先生は勝手に基地の中に忍び込んでは手榴弾を取ってきて投げて遊んでいたというくらいですから、その混乱振りがうかがえます。 このように、ごくごく一般の社会機能がほぼすべて失われ、当時の中国はさながら無政府状態のように、殺人があっても誰も気に留めず、また好き勝手に泥棒や強奪が頻発したらしいです。

文化大革命中、少しでも学識のある人間は「知識分子」と呼ばれ、激しい批判や暴力を受けて社会的にほぼすべてが抹殺されたと言われ、ちょうどこの年代に当たる知識人層が何十年も立った今でもすっぽりと抜けているということを知った時、寒気にも似た気持ちを覚えました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_6756.html

1962年1月の中共中央拡大工作会議でついに毛沢東は大躍進運動の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、ケ小平などが実権を握るようになった。

劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにし、生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から65年にかけて中国経済は目覚しい回復を見せていた。

 だが毛沢東は再び権力奪還の機会を窺っていた。 1966年 8月1日から中共十一中全会が開催され、8日に「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。この決定では「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が掲げられた。この会議では劉少奇の党内序列が2位から8位に格下げされ、ケ小平は平の党員なみに格下げされた。その一方で林彪が序列2位に急上昇した。

 これ以降劉少奇、ケ小平打倒のキャンペーンが本格化し、二人を名指し批判する壁新聞が大量に貼り出され、劉少奇、ケ小平は自己批判文書の提出を強要され、事実上の軟禁状態に置かれた。

11月以降は他の古参幹部に対する公開批判闘争が紅衛兵によって大々的に進められるようになった。1967年に入ると批判闘争はますます激化し、各地で実権派打倒の集会が行われた。すでに劉少奇は執務不能状態に陥っていた。1968年10月、劉少奇の党からの永久除名、ケ小平の留党観察処分が決定された。

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

 毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、ケ小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。

中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。

 文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。

 紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。

 1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。

 虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。

 こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。

 中国共産党が文化大革命の時期に行った犯罪行為のひとつに文化遺産の破壊がある。宗教は阿片と看做していた中共は、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。例えば後漢時代に建立され、文革当時現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったがこれさえも破壊された。明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

チベットでは6千箇所の仏教寺院がことごとく破壊され、文革が終わったときには8箇所しか残っていなかった。こうして中国人や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。

 宗教に対する弾圧はことのほか激しかった。イスラム教徒に強引に豚肉を食べさせ、チベットのパンチェンラマには人糞を食べさせた。ハルビンの極楽寺の三名の僧侶は

「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」

と書いた看板を持たされた。多くの僧侶が強制的に還俗させられた。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm


毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは

「孤立無援の毛首席を救え」

とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。

 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、

「あいつは反革命的なことを言っていた」

とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、


「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」

「この場で俺たちに謝れ!」

「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」


 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。毛沢東は若者らを煽動する際に、

「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」

と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、

「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」

というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、

「謝れ!」 とか

「自分がろくでなしであることを認めろ!」

などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。

 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_24.html

自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。 田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。

 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。

「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」

 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。

 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。

 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

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毛沢東の死と文革の終わり


 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放されたケ小平を招聘するに至るのです。

時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後にケ小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼はケ小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘したケ小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らくケ小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなったケ小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、ケ小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここがケ小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒もケ小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりもケ小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこのケ小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒はケ小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_8107.html


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3) 林彪 _ 中国皇帝の恐ろしさがわからなかった策士の末路


 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。

 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。

 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。

毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。


 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。

 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。

 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派のケ小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_27.html

 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。

彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」

と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。  1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。 羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。

「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。

彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
 
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は

「司令部を砲撃しよう──私の大字報」

を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。  しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、

「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」

とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。

 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


林彪の功績


文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。

林彪(一九〇七年〜一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六〜二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。

三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。

日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。
遼瀋戦役(四八年九月〜一一月)、平津戦役(四八年一二月〜四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。

その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──

これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。

出世術、クーデタ術を研究


林彪は戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。 しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。

林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。

しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。

毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。

一九六〇年から六四年にかけて、林彪は内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。

一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている。

一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。

毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。

大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。

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腹心で固めたセクト


林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

林彪の第三戦略は、異分子の排除である。

一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。

元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年〜六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。
国防部長になった一九五九年以来、五〜六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。

このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。

羅瑞卿を解任


羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。 林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八〜一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

一九六六年三月四日〜八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。
この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。

羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。

党内の敵を摘発


羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。

第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。

要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。


第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。

第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。

羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。

文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。

この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。 林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。

林彪昇進の背景


一九六六年八月一日〜一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。

第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。

第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。

第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。


林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。
一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。
八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。

林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。

表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。

警戒を深める毛沢東


では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。

毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。
七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。

毛沢東は八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。

九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。

毛沢東は林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。


林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。

上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。

中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。

下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

毛沢東暗殺計画


一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。

九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。

一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。

これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。

周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。

九月一二日の経過はこう描かれている。

林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。

一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。

林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。

8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。
夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。

一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。

8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。

このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。

車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。

モンゴルで墜落死


林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。

まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。
周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く

「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。


一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。

一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。

九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge140.htm


林彪は毛沢東の14歳下で、1956年に初めて中央政治局委員に選ばれた。それからわずか10年で、並み居る先輩を追い抜き、No2の座を獲得するのだが、その出世の手段は要するに「よいしょ」である。トップである毛沢東を徹底的に持ち上げることで、その座をつかんだのである。

 1962年1月に拡大工作会議、いわゆる「七千人大会」が開催された。これは、毛が提唱した「大躍進」等の失政について総括することが目的であった。「当時毛沢東本人は〜話したいことは全て話して『鬱憤晴らし会』を開くように求めた」とある。林彪が巧みなのは、そこでも

「現在の困難は『われわれが毛主席の指示に従って行わなかったがためにもたらされたものだ』」

と発言した点だ。 権勢を振るっている最中は、誰しもがお追従を言う。それであれば、多数の中の一人に過ぎず、「よいしょ」が与えるインパクトも小さかろう。ところが、失意の中、周りがきつい言葉を吐く中で、一人変わらず支持を続けたとしよう。毛も失地回復の最中は周りを見る余裕もなかったが、何とか態勢を回復すると、ふと思い出す。そういえば、林彪はあの七千人大会でも鬱憤晴らしをしなかったな、と。林彪が本格的に毛に取り入ったのは、そこがターニングポイントだったのではないだろうか。


 林彪のもう一つの手段は、ライバルを容赦なく蹴落とすことであった。本書で紹介される粛清の記録を読んでいると、卒塔婆が立ち並ぶ墓地を見ているような気になる。

 羅瑞卿(らずいけい)は、毛沢東の忠実なガードマンとして有名な人物である。毛が黄河などを泳ぐ時、近くで泳ぎながら見守っていた姿が印象深い。

 彼は毛に厚い信頼を受け、総参謀長の要職にあった。

 羅は、「毛思想は『最高』というが、最高ではそこで停滞してしまうのではないか」と林の考え方を批判した。

 また、羅は、軍服を要求した江青に対し、軍服は支給するが襟章などは貸与しないとした。

 そのうえ、葉群(林の妻)が要求した准将の地位を拒否した。一人でも危ないのに、三人とも敵に回してしまい、羅はとことんまで追い詰められた。

 悲惨なことに、羅は飛び降り自殺を図る。ところが、さらに悲惨なことに大腿骨を折ったものの「生き残って」しまうのだ。 瀕死の重傷を負ったというのに、批判集会には「かご」に乗せられ、無理やり担ぎ出される。暴力を受け傷はいつまでも癒合せず、病院で転倒し、さらに骨折する。 

「治療してくれ。さもなくば、この脚を切断してくれ」

という悲痛な訴えも、尋問が済むまで治療は延期され、結局羅は命を落とすのである。

 賀龍といえば、長征の時の第二方面軍のリーダーだ。

 ところが、1966年7月に、ごくつまらないことで「二月クーデター」なる陰謀を企てたとでっち上げられる。

 周恩来は、ほとぼりをさます意味で、賀龍を郊外の病院に入院させる。しかし、67年1月、林によって、別の場所に移送され、適切な医療はおろか、必要な水や薬さえ与えられない状態が続いた。

 67年6月9日、国民党が10万元の賞金首としてまで命を狙った英雄は、同じ共産党の林の陰謀によって重度の糖尿病による昏睡状態に陥り、還らぬ人となった。


 彭徳懐は、59年の廬山会議で、毛沢東の大躍進政策について諫言したため毛の不興をかい、失脚する。しかし、政治局委員の地位は留任していた。林は彭徳懐にも目をつけ、追い詰めていった。

 62年6月16日、彭は毛に真情を訴える手紙、いわゆる「八万言の書」を出す。

 毛は彭に面会に来るよう自ら電話をかけ、「君というやつは、普段は全然顔を見せないで、手紙は書くとなったら何万字も書くんだからな」とユーモア交じりの暖かい言葉をかける。「ああ、やっぱり主席はわかってくれている」。そう安心した彭を待っていたのは、さらにエスカレートする吊し上げだった。

 本書P65には、批判集会でいわゆる「ジェット式」に腕をねじり上げられている彭徳懐の写真が載っている。

 周恩来は、彭徳懐に対しても必死に病院を手配したが、やはりそこにも江青らの魔手が及び、74年11月29日に彭徳懐は死亡した。


 陳毅の例も印象深い。

 批判集会でも陳毅は毅然としていた。発言冒頭には毛語録から一節を読み上げるのが当時の習慣だったという。陳毅は言った。「語録271P!」自分の語録のページをめくる聴衆。そして会場がざわめいた。語録は270Pまでしかないのだ。

 さらに、陳毅は声を張り上げた。「陳毅は良き同志なり!」

 会場の周恩来が、毛主席が以前、実際にそうおっしゃったのだと解説したため聴衆は感心し、批判集会でありながら陳毅の言葉に真剣に耳を傾けたという。

 67年8月26日、林彪らに煽動された群集は周恩来を取り囲み、批判集会に陳毅を連れ出すと怒号した。その時の周のセリフが泣かせる。

「君たちが陳毅を吊るし上げると言うなら、私が立ちふさがる。それでもやると言うなら、私の体を踏みつけて行け!」

 さまざまなでっち上げ、言葉尻をとらえた告発は枚挙に暇がないので、一番くだらないな、と思ったのを一つだけ紹介する。

 風下にいて煙突の煙にむせた人が「西風が吹けばいいのに」ともらしたのを、毛主席の「東風は西風を圧倒する」(中国の革命は西欧資本主義を駆逐する)を批判したものだとされて、7年間もぶち込まれたそうである。

 文革関係の記述を読んでいると、本当に、もっと古い時代の史書を読んでいるような気分になる。林立果は、林彪の息子である。立果は空軍に入ったのだが、林彪の取り巻きたちは、ことあるごとに「彼は副主席の代理だ。空軍は彼に指導されるべきだ」と持ち上げた。

 林彪は、息子に何か実績をあげさせようと考え、ブレーンに命じて毛思想の解説書をこしらえ、息子にその解説を空軍で講演させ、しかもその講演録を大量に印刷させ配布したという。「親バカ70万冊」である。

 しかも、林彪や葉群は、息子の嫁選びのため全国から美女を選抜する大会を開いたという。将来の「皇后」候補という訳だ。

 周知のように、九全大会において、林彪は正式に「後継者」と決定した。前代未聞だが、党規約に明記されたのである。続く九期一中全会で、林彪は自分の取り巻きで人事を固めた。

 69年末に、劉少奇が死亡する。林彪は、ここで一気に自分が後継者に!と思ったのだろうか。

 その機先を制するように、毛は、70年3月に国家主席のポストは設置しないように提案した。しかし、あえて同年4月、林彪は毛沢東に、国家主席を設け、就任してくださいと提案する。言うまでもなく、国家主席のポストがなければ、自分がその座につけないからである。肩書きの有無など問題にしない毛沢東のようなカリスマ性は自分には皆無だと知っていたのだろう。

 その時の毛の言葉が痛烈だ。

「私は曹操になりたくない。諸君も孫権になるな」

 孫権は、後漢を擁立していた曹操に、自ら帝位に即くようすすめた。曹操は、自分に即位を勧める孫権自身が帝位に即きたいのだろうと皮肉った訳だ。 笑顔で話しながら背後で剣を振り被っていた林彪は、気が付くと逆に自分の喉元に剣が突きつけられているような気分になったのではあるまいか。

 70年8月23日の9期二中全会で事態はさらに風雲急を告げる。林は、陳に命じ「主席設置」議事を強行しようとするが、8月25日、毛ははっきりと討論停止を命じた。

 林彪の平和的奪権は失敗した。次の奪権の機会まで、毛がこのまま安穏と林を見逃し続けてくれる筈はない。

 71年3月27日、林らは「五七一工程」を起草する。毛沢東暗殺計画書である。自ら招いた事態とは言え、最早「殺られる前に殺る」しかないのである。

 71年8月14日、毛は南方へ、「謎の」視察に出かける。クーデターに失敗し、いわば「窮鼠」になった林らが不穏な動きをすることは予想できたであろうに、なぜ、北京を離れたのか。

 視察先で毛は引きこもっていた訳ではなく、多方面の人物と接触した。林彪サイドの人物にも、毛が林を厳しく批判していることが伝わった。危機は近い。林は凶行の実施を決意した。

 ここで私は思った。毛は、かつて戦術論としてこう語っている。「蛇」は顔を出した所をすぐに叩いたのでは、また穴に潜ってしまう。しばらくはほって置いて、完全に姿を現した所でこっぴどくやっつけるのだ、と。

 また、豊臣家を完膚なきまでに叩き潰すため、恭順の意を表しようとしていた豊臣側をさかんに挑発し、関が原、冬の陣、夏の陣に追い込んでいった徳川家康の手口(もちろん、これは豊臣びいきに偏った見解だが)も想起した。

 林らが毛暗殺の総指揮者に指名した江騰蛟(こうとうこう)は、71年9月9日に「毛の列車が上海で停まったら決行」すると内部で宣言した。

 71年9月11日、停車中の毛は、許世友と会うが、王維国の乗車は許さなかった。実は、林らが計画していた暗殺方法には、

(1)火炎放射器とロケット弾で列車を襲撃する、

(2)高射砲で列車を水平砲撃する、という方法のほかに、

(3)王維国が毛と接見する際、車内で銃撃する


という方法も含まれていたから、もし、王が乗車していたら運命はどうなっていたかわからない。 思うに、毛沢東のことであるから、スパイを忍ばせていて、林らの計画はほとんど筒抜けだったのではあるまいか。単に強運、天性のカンだけなのだろうか。

 同日、昼食後、毛は密かに列車を北京に出発させる。同日夜、王維国は「列車は上海を出た」と電話した。林らは目の前が真っ暗になったことであろう。 途中の鉄橋での爆破計画もあったのだが(関東軍の張作霖爆殺事件にならったものである)、毛は途中駅にも一切停車させず、12日夕方に無事北京に帰り着いた。毛の完全勝利だ。


 71年9月12日に林一派の中では「林副主席は広州へ行き、南北朝のように割拠」するのだという話が取り沙汰されたと言う。やはり大時代な話だ。

 ここからは分刻みのサスペンス。9月12日午後8時15分に林立果は、山海関空港から北載河へ向かった。

 12日午後10時30分、周恩来は、北載河の異常を知った。周は、捜索を開始する。

 12日午後11時、周宇馳(しゅううち)は仲間に「ばれた、中止だ」と電話をする。

 午後11時22分、事態を糊塗するため葉群は、周恩来に平静を装って「林が空路で移動します」と連絡した。

 午後11時40分、林は葉群に「すぐに出発だ」と告げる。

 林らは、車を100km以上で疾走させ山海関空港へ急ぐ。

 9月13日午前0時22分、林一行は、トライデント256機のもとに到着する。

 13日午前0時32分、副操縦士らも揃っていなかったが、林たちは離陸を強行する。

 午前1時50分、周恩来は怒りを込めて毛に報告した。毛はこう答えたという。「雨は降るもの、娘は嫁にゆくもの。好きにさせるがいい!」

 これは毛の達観か。それとも、予想された結末だったのか。

 9月13日午前2時30分、林らを載せたトライデント機はモンゴルで墜落し、全員が死亡した。あまりの準備不足のため、燃料切れを起こし、副操縦士もいないため不時着に失敗したのではないかと考えられているそうだ。


 後継者として信頼していた林彪に命を狙われ、毛はその後、一気に老け込んだという。


http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

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4) 終生、呂后、則天武后や西太后を演じ続けた名女優 江青女史


江青 1914.3.−−1991.5.14

 悪女、妻、女優、野心家、愛人、グレタ・ガルボ信奉者、イプセン愛読者、共産主義唱導者−−江青の異名だ。

 江青の一生は「復讐と野望」に彩られている。

まず、幼いころの貧困と搾取への復讐。 江青は、女優を目指すが、「スターダムに乗れるところだったのに、国民党の宣伝映画に出ることを強要されたので断念した」のだった。

「これを画策したのが、四人組の悪党ども。そのために、あらぬ中傷を書き立てられた」と江青は復讐心に燃えた。

 江青の生涯には何人もの男が登場するが、毛沢東の存在は大きい。彼との間には、李納という娘をもうけた。

 一九三七年、日中戦争が激しくなり、戦火は上海にまでおよんできた。その上海を江青は脱出し、西安にたどり着いて、さらに洛河に沿って北上して延安を目指した。そこには、共産党の首都があった。

「ずっと歩き通しでした。一文なしで、何度か危ない目に遭ったけれどなんとか生き長らえたわ」
 
江青は細い足がむくんでいるのが気になった。若い共産党員たちが全員出て彼女を歓迎した。ほっそりとした若くて美しい女優だ。上海からきた売り出し中の新進女優に男たちの眼が輝いた。

 江青は男好きのする顔に、もって生まれた性的魅力がある。上眼使いに話して男に媚を売る方法も身につけていた。
 
そんな女性が中国共産党の最高指導者、美男で権力もある人気絶大な毛沢東と出会った。

「もの静かで、知的な美人」が好みという毛沢東にぴったりとあっていたのが当時の江青だ。女好きな彼が見逃すはずはなかった。

「彼は美男で、大学教授みたいだった」

 講演する毛沢東に積極的にアプローチして、疑問点があれば押しかけて行って質問をする彼女の行動力が二人を急速に近づけた。 ときに江青二十三歳。毛沢東は四十五歳。二十二歳の年齢差は、まったく問題とならず、二人は熱愛した。 当時毛沢東には賀子貞という妻がいたが、夫妻の間は冷えきっていた。江青と毛が愛人関係になるのに時間はかからなかった。

 毛沢東の愛人になった江青は、やがて正妻になることを望んだ。 問題は党の承諾である。江青は男性遍歴が多いうえ、結婚する相手が自殺未遂までしてスキャンダルを起こしている。その女性を正式な毛沢東夫人として認めるわけにはいかない。それに当時、女優の地位は著しく低かった。評判のよくない映画女優、江青が認められないのは当然だろう)。

 この二人の間を取りもったのは、周恩来と江青の同郷である康生だ。 毛沢東夫人とは呼ばず、江青同志と呼ぶこと。江青は党の職務には関わらず、毛沢東の身辺の面倒だけを見る。しぶしぶながら、江青はこの条件をのんで結婚した。

「私はファーストレディよ、こんな屈辱的な条件を絶対に許すものですか」

 当時は毛沢東を愛していたが、このお返しはいつかすると決めた。 賀夫人と別れる前に、毛沢東には数人の女性がいた。 江青は後年、毛沢東との関係を述懐している。

「セックスは、最初は重要な要素になるけれど、その後は男に権力があるかどうかが大切なの」

 江青の本名は李青雲(李雲鶴という別名あり)一九一五年三月、中国山東省の諸城生まれ(一九一二年、一四年説もある)。その町の中流家庭に生まれたが、両親が離婚したため、貧乏な少女時代を送っている。(父が死亡したとも)貧しい大工の家庭だったともいわれる。  最初、親類のもとに引きとられたが、母は住みこみの職を見つけて最低の生活をなんとか維持してきたのだった(母が身を売っていたという噂もある)。

「いつも腹をすかしていたし、汚い身なりなので、苛められてばかりいたけれど、泣きはしなかった」

 そんな江青は、やがて済南の小学校を出ると、山東省立の演劇学校に入った。授業料も食費も無料で、多少だが、手当てもくれるというのが何より嬉しかった。当時の世相は不安定で、辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国として生まれ変わったばかりだった。
 一九二九年に、江青は巡回劇団に加わる。三三年には、青島で入党。一九一五年生れ説をとると、当時まだ十八歳だ。

 女優グレタ・ガルボに心酔していて、映画好きな江青は女優になる決心で上海に出る。諸城という小さな田舎町から大都会に出るのは勇気がいった。女優になって有名になるという女心と、共産党員として忠実であろうとする彼女の葛藤が始まったのもこのころだ。 青島で最初の結婚をし、上海では唐納(監督であり、著名な批評家でもあった)と再婚した。

 一九三〇年代の上海は東洋のパリと呼ばれた国際都市。この魔都上海は、あらゆる人間の欲望がうずまく場所で、彼女は生きた。  彼女は、貧しいが野心をもった女性で、いい役を得るために上海の映画会社に足しげくかよった。

監督で共産党幹部の張健の情婦だったとか、手段を選ばない「淫乱な女」とも噂された。(当時江青は、藍ぴん=青い林檎と名乗っていた)。

 江青が二人の子どもを残して唐納を捨てると、彼は自殺すると脅した。新聞はその話を煽情的に取りあげ、藍ぴんに罪をかぶせ、悪意のある醜聞を書きたてた。

 そして毛沢東と出会うのは、先に述べた一九三七年のことだ。  一九三九年、毛沢東と結婚した後、江青は平凡で従順な主婦となった。それが党の指導者たちが取り決めた結婚の条件だった。  一九四九年、共産党は国民党を打ち破り、ついに中華人民共和国を成立させた。毛沢東の時代になるが、それに比べて江青との愛は急速に冷めていく。

 毛沢東は新しい女を見つけた。

それを黙認する代わりに、江青は四人組を組織して、政治の表舞台に出始めた。

まるで、嫉妬に狂った女が片端から「恨みつらみ」を何かにぶつけるように、ヒステリックで残酷な行動に出た。

 文化大革命(一九六七年)の主役として、ふたたび政界に浮上したのである。 京劇に現代的なレパ−トリ−を演じさせようとした。そのレパ−トリ−は、いつも共産革命の讃美をテ−マにしていた。


 紅青は粛清の陣頭に立ち、旧幹部の吊るしあげをした。

 過去を知る邪魔者は無差別に殺した。その数は、「十人や二十人ではないだろう」といわれる。

すさまじいばかりの殺戮を断行した。これには年老いた毛沢東には手がつけられなかった。

 しかし、一九七六年に毛沢東が死ぬと江青は四人組とともに捕らえられ、投獄された。四人組の裁判はテレビで公開されたが、三人の男たちが、憔悴しきっているのに対して、江青だけは怒鳴り散らしながら自己を正当化し、最期まで闘い続けたのだった。

http://www.ainoue.com/ai/71-80/75.html


“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。


迫害狂−−江青


毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。
江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。

こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。 “四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。

その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。

それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。

このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。


毛沢東夫人としての強力な権限


かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、

暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」

と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、

「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。

随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。


このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。

文革のテロリズムと先祖返り現象


もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。

私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。

革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。

明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。

ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。

林彪派と江青派


“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。

張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。
葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。

武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。


権力者たちのプライバシー


林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日〜九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。

なお、、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。

中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシーが容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。

これが文化大革命のもう一つの側面であった。

周恩来、ケ小平 批判へ


概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。

一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇〜二〇二頁)。

事柄は「ケ小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東はケ小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、ケ小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。

この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。

その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。

もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm


 『江青』と言う人は、今では『中国四大悪女』の一人と言われている人でもありますので、如何しても、その悪行を書き連ねる事になります。 結果的に言えば『江青』は1976年の逮捕後1981年の『最高人民法院特別法廷』で『クーデター計画』や『幹部及び大衆の迫害』等の四つの罪で『死刑判決』を受け、その後減刑されるも1991年首吊り自殺をしたのです。

 それにしても、その行状を視てみると、『女って此れほど陰湿』なのかと思わされる物が多いのです。

 その伝聞によりますと、彼女は当初は図書館で副司書をしながら演劇を勉強していた『女優志願者』であったと言うのです。つまり、器量もそれなりのものであったようで1931年に最初の結婚をしたと言うのですが約2ヶ月で離婚、その後学生運動家と知り合い同棲,これが契機で1933年『共産党入党』、しかし同年、その運動家逮捕されるに及び『上海』移住、その後『女優』を始め1994年に映画監督と結婚するも2ヵ月後には他の男性の元へ走り、『上海芸能界』から去り、当時『中国共産党』の本拠地であった『延安』に逃げる形になったと言うのです。

何でも、この時から『江青』と名乗るようになったと言います。 この事が、彼女にとって大きな転機にもなって来た様なのです。

この時『江青』25歳、ここで20歳も年上の『毛沢東』と知り合う事となるのです。 しかし、『毛沢東』は当時三番目にはなりますが妻がいる身であったのです。 『毛沢東』は前妻と離婚し、『江青』との結婚を決意するに至ったと言うのですが、共産党の指導的立場にあった『毛沢東』には、『不倫』を噂される結婚は似合わないとして党の反対を受けた様なのです。

 党幹部であった『朱徳(1886〜1976)』や『周恩来(1898〜1976)』にとっては『毛沢東』のイメージダウンを招きかねないと言う危機感から、『江青』との結婚に反対の意見が続出し、最終的には『江青』を政治の表舞台には立たせない約束をさせられたと言うのです。 果たして、見直してみれば、これらの事が後に『江青』の報復となって現われて来たのかも知れません。 何れにせよこの様な事が起きたと言う事は『毛沢東』の存在が絶対的なものではなかった事を意味してると思いますが、『毛沢東の絶対的な支配』へと志向したものが『文化大革命』でもあったようです。 

ともあれ『江青』と『毛沢東』は『日中戦争』の真っ只中の1939年に正式に結婚したと言うのです。 『国共内戦』を経て、『文化大革命』の実行へと、その挙に出て来たと思われるのです。 

つまり、大筋では『毛沢東』がその目的を示し、具体的には『江青』が手を下したと言えそうなのです。『江青』をして『文革の女帝』と呼ぶ謂れがそこにあった様なのです。 1991年5月14日『江青』は自殺に及んで


『毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が 今・・・・会いに行きます』
と書き残したそうです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は王世英という人物を糾弾している時、重病になった王に

「もっと審査しなさい。死んだって構やしない」

とか

「もっと厳しく闘争にかけ〜場合によっては死ぬかもしれないが〜閻魔さまの別れの酒でも飲ませてあげるさ!」

と言い放ったという。 本書には四人組一派による自供捏造の「テクニック」?が描かれている。いや、テクニックと呼べるようなものかどうか。

「アメリカ特務機関の住所は東四六条の何号だ?」

と聞く。知らないのだから当然答えられない。

「では、一から順番に数を数えよ」

仕方なく、「一、二、三・・・」と読み上げていく。そして「・・二十八」

「やはり知ってたのか!」

と突然周りの人間が取り押さえ、「東四六条の二十八号である」と自供したことになるというのだ。実にグロテスクな茶番劇。


 康生は、こうした尋問に長けていたそうである。「かもしれない」、「類推する」といった用語をつなぎ合わせ、仮定に仮定を掛け合わせれば、どのような状況もでっち上げることができる。 たしか宋代の岳飛も、秦檜に「莫須有」(謀反の可能性があったかもしれない)だけで謀反の罪が確定されてしまったのだが、思わずそれを想起した。

 江青には、1934年に国民党政府に逮捕され、「これまで共産党に参加したことはなく、これからも決して参加しない」という声明を出して、はじめて保釈された。 江青は自分の触れられたくない過去を知っている30年代の同棲相手であった鄭君里を捕らえ死に追いやった。まさに死人に口なしである。

 孫維世(周恩来の養女)も殺した。これは『毛沢東最後の女』の書評(04年2月の「書評」)の中で少し紹介してある。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。
養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

 もっとも本書ではそうした男女関係ではなく、孫が江青と同じ反日劇に出演したのだが、孫の方が人気を博してしまい恨みをかったとか、孫に演技上のアドバイスをしてやるから会いに来いと言ったのに孫が行かなかったとか、養父である周恩来や兄の孫央(彼は打倒の対象である朱徳の秘書だった)に対する敵意などが迫害の理由として挙げられている。

 その他にも、『賽金花』という芝居の主役をさらわれた王瑩という俳優を意趣返しで逮捕し、王瑩は恨みをのんでこの世を去った。

 他にもセーターを受け取らなかったためスター女優の趙燕侠は大部屋入りとなり、白叔湘という女優は、ドーランの使い方で江青と意見が違ったため、「反革命の現行犯」という汚名をきせられるなど、実にくだらない理由で多くの人が手ひどい復讐を受けている。

 根っからの「武闘派」である毛は、1927年に「革命は暴動である」と宣言したが、自らの奪権闘争でもある文革において原点回帰をした。文革が血腥い臭いに包まれたのは毛のこの言葉と決して無縁ではない。 王洪文は「文攻武衛」というスローガンを打ち出した。文革で攻め取ったものを武力で防衛するということだ。「暴力」がますます加速する。

 これも文革におけるグロテスクなユーモアの一つと思うが、頭上開花、面部掛彩といった言葉がある。中国人はなぜこのような巧みなネーミングをするのだろうか。煎じ詰めれば、脳天が砕ける、顔面が血に染まるという、反対派へのリンチの名称なのだが。

 中巻でも触れたが、奪権が失敗し逃亡を決めた林彪と葉群は時間稼ぎのため江青を利用した。9・13事件の前日、林彪はわざわざ西瓜を江青に届けさせている。 江青は、周囲に、林彪副主席から手土産をもらえるほど親密であることを自慢したが、事件が明らかになるや、これまで私は林彪から迫害を受けていたと鉄面皮にも言い募ったとのことである。

 江青は自らを呂后にも則天武后にもなぞらえた。

 江青ワンピース、太后靴というものがあるそうだ。「黄袍」は皇帝しか着用を許されない。江青はそれを意識していたのだろう。また、68年9月に呂后の所持品と目される玉璽が出土した。江青は目の色を変え、急いで北京に取り寄せたとのことである。それがあれば、女帝に即位できると考えたのであろうか。

 毛は「江青は野心を抱いている」とか「私が死んだら江青は騒ぎを起こすだろう」と語っていたそうだ。 その予言のとおり、76年9月8日には、周りの制止を無視して、江青は重態の毛の身体を動かして、病状の悪化を招いた。遺言状の所在を探ったようだ。自分の名前が出ていれば大々的に騒ぎ立てただろうし、もし都合の悪い内容であれば握りつぶそうとしたのであろう。

 翌9日の午前0時10分に毛沢東は死去した。時間の問題であったのだろうが、タイミング的には江青が殺したようなものであり、しかも、死の直後に張玉鳳(「毛沢東最後の女」とも呼ばれる、毛の秘書)に毛に関連する文書を提出するよう強要した。意図は同じであろう。

江青は、「党主席に就任したくてうずうずしており」、周囲の者に「このリンゴは、私が女帝に即位した時のお祝い用に取っておきましょう」というような発言をしたそうだ。

 しかしながら、毛から後事を託された華国峰は、葉剣英ら古参幹部と図って76年10月5日に四人組逮捕を決定し、翌6日には一網打尽にした。 ところで、華国峰は四人組逮捕に関しては果断であったが、それ以外の点では結局ケ小平の敵ではなかったようだ。

 華は自分の権力を守るために「二つのすべて」という手法を取った。これは過去の毛主席の決定、指示をすべて厳守するというもので、その解釈権を握ることで自らの権力を維持しようとするものだが、これでは林彪の毛個人崇拝と変わらないのである。 76年6月に華は、毛に報告したいことがあったが、身の周りの世話をしている張玉鳳が起きてくれず、2時間あまり待ったが、結局そのまま退出したというエピソードがあるそうだが、実に象徴的だ。いわゆる「押しが弱い」タイプだったのだろうか。

 本書には、権力が世襲されなかった点以外は毛は「皇帝」そのものだったと書かれている。嫡男というか「皇太子」がいれば、世襲されていたかもしれないと私は思うのだが。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


 『周恩来』の養女『孫維世(1922〜1968)』


文化大革命時代には、女優としての名声の高さと毛沢東との男女関係から江青の嫉妬を買い、迫害を受けた。

孫維世は養父である周恩来が署名した逮捕状を以って、北京公安局の留置場に送られ、1968年10月4日に獄中で死亡した。

遺体は一対の手枷と足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。

江青は刑事犯たちに孫維世の衣服を剥ぎ取らせて輪姦させ、輪姦に参加した受刑者は減刑を受けたと言う。

また、遺体の頭頂部には一本の長い釘が打ち込まれていたのが見つかった。

これらの状況から検死を要求した周恩来に対し、「遺体はすぐに火葬する」という回答のみがなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%B6%AD%E4%B8%96


 『孫維世』は1946年当時『延安四大美女』の一人とも言われる『女優』であり、人気も格別なものであったと言う事なのです。 女優としての略歴もしっかりした物であった事から1935年以来『周恩来』の信頼も受け、16歳で中国共産党に入党していた事から彼の養女ともなった様なのである。 美人な上に幹部の信頼も厚かったことから、『毛沢東』の1949年の『訪ソ』の際には『毛沢東』の通訳を務めたと言うことである。

 彼女を知る人の話では、『彼女の美しさは尋常の物ではなかった』らしく、彼女にプロポーズした幹部は『林彪』を始め多くいたそうである。 『毛沢東』もこの『訪ソ』の際、彼女と関係を持ったのではないかといわれているそうである。

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ィ彡三ミヽ  `ヽ     ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
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  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.|  周恩来の養女 孫維世です。
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠| 
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 本日はご指名頂きまして
      `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"| 
 ,ィ彡三ニミヽ  __ノ ヽヘ`" 彡' 〈     | ありがとうございます
彡'      ` ̄       `\   ー-=ェっ |
      _  __ ノ  {ミ;ヽ、   ⌒   |
   ,ィ彡'   ̄        ヾミミミミト-- '  |
ミ三彡'        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
       ィニニ=- '     / i   `ー-(二つ
     ,ィ彡'         { ミi      (二⊃
   //        /  l ミii       ト、二)
 彡'       __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
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            ノ / ヾ\i、   :.:.:.:.:|
      ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
    /     /  `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|
   ノ     _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|

 『江青』にすれば、総ての恨みが迸り出たのかも知れない、1968年『江青』は『周恩来』の署名の入った逮捕状をもって、彼女の元へ乗り込み彼女を逮捕したと言うのです。

 『孫維世』は10月4日死亡したとされていると言うのですが、その時の彼女の死体は全裸の状態であったというのです。 『江青』はその時、刑務所の刑事犯に彼女の衣服を剥ぎ取らせ『輪姦』をさせたと言うのです。 『輪姦』に参加した刑事犯を減刑する措置もとったという事なのです。
 
http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24

 江青は孫維世(周恩来の養女)も殺した。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

1949年、ソ連に向かう中共代表団付きのロシア語通訳が、周恩来の養女である彼女であった。

 毛沢東は「自分専用の書斎兼寝室の車両で美しい孫維世からロシア語を教わ」る毎日であったが、

「ある晩のこと〜『主席』はしっかりと握った手を放そうとしなかった。

〜次の日の朝、目覚めた孫維世はここがどこで、何がおこったのかをようやく理解した。

『偉大な人物』は大きな鼾をかいて寝ていた」。


「娘のことで周恩来はひどく心が痛んだが、慰め、我慢し、泣き寝入りするしかなかった」。


 よくドラマで夫の浮気現場に踏み込んだ妻が、夫ではなく愛人に対して「この泥棒猫!」なんて言ってつかみかかるシーンがあるが、江青も、毛ではなく、彼女を深く憎悪した。

 文革で権力を握った江青は存分に恨みをはらした。

「北京のある監獄に一人で監禁された彼女は、あらゆる酷刑をうけた。
〜素っ裸にされた彼女の身体は傷だらけで、一糸まとわぬ姿のままこの世を去った」。

 何か、呂后や西太后の凶行を連想させる。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-04-02.htm

孫維世さんの遺体の状況はこれに近かった様ですね:


台湾のアイドル白暁燕


1997年4月14日、私立醒吾高級中学 2年に在学中の暁燕は日系を嫌悪する外省人系のマフィアにとって、格好の標的となり通学途中に誘拐された。

犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。
さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。

冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、犯人グループは身代金受け取りを断念する。

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。

4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。

4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。

直接の死因は窒息だったが、

暴行による打撲で肝臓が破裂しており、

その内出血で腹腔は大きく膨張し、

肋骨もほとんど折れており、

両手両足の爪も全て剥がされていた。


顔も髪の毛はまばらにされ、

両目はえぐり取られ、

舌は引き伸ばされ、

両耳の鼓膜は爆竹で破られ、

前歯は上下三本しか残っていなかった。


報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、あまつさえ


膣と肛門に鉄パイプが2本突き刺され、

子宮内には釘が48本も打たれていた。


長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。

さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9A%81%E7%87%95
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3730785.html


5) チベットでも行われた文化大革命


* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。


* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、

尼僧に対し警棒の形をした5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。


* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は

「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術によって奪う事)」や

「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」

等の民族浄化に力を入れた。


* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍はそれを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」


特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。 大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。

アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。


おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。

僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、

「仏陀はどうしたんだ?」

と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、

死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、生きながら焼かれた。

ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。


こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。

犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」


とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。

尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と嘲られ、挙句に全員射殺された。 おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。

http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html


   ( . .:.::;;;._,,'/ __:::::ヽノ::::/´>  )
     ).:.:;;.;;;.:.)(___):::::::::::/ (_/  ズシーン
    ノ. ..:;;.;.ノ  | ::::::::::::::::::: /
   ( ,.‐''~ ワー  | ::::/\::::\      皇帝が来たぞ〜
(..::;ノ )ノ__.  _  | ::/  _ ):::: )_  キャー .__       _ 
 )ノ__ '|ロロ|/  \∪.___.|ロロ|/  \ __ |ロロ| __. /  \
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1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。

紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。
民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。

宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。

チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった。

チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm

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          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 文化大革命は
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 下手な時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
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        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c3

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
4. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:51:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1354]

劉少奇 _ 皇帝に逆らった義人の運命


劉少奇〔Liú Shàoqí リウ・シャオチー/1898.11.24-1969.11.12〕は、中国共産党が結成された年に、中国共産党へ入党した創初期からのメンバーである。1937年、盧溝橋(マルコポーロ橋)事件(日中戦争発端の事件)の首謀者(劉自身が自分の手柄話として語っている。)1945年に中国共産党の2となり、1959年には毛沢東に代わり、「国家主席(国家元首)」となる。ま、「国家主席」とは言え、中共は毛沢東の独裁政権であったので、2のままではあったが・・・

毛沢東の「大躍進」・・・と、云う実質「大後退」に等しい大失策によって、中国全土で数千万の餓死者が続出し、国家の荒廃を憂いたが、「大躍進」に異を唱える事は、毛沢東独裁の中では、確実に粛清の対象になるのも知りながら、国家の退廃と民衆の窮乏を救う為に、敢えて自己犠牲の精神を以って、毛沢東に敢然と立ち向かった。

しかし文化大革命の中で、権力強化を図る毛沢東の標的とされ、“実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に晒され、1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死した。 劉少奇と王光美の子供の何人かは獄死した。

1958年、毛沢東は「大躍進」と云う政策を打ち出したが、実際には「大後退」・・・と、呼ぶに相応しい、惨憺たる大失策で、経済・生態系システム無視し合理性を全く欠いた、大躍進政策は結局として産業・農業基盤は崩壊、生態系を破壊し、発生した大飢饉は日に日に深刻さを増していった。

国家主席の劉少奇は大飢饉に深く憂慮しており、1961年初頭迄に全土で3000万人が餓死したことも承知していた。 1961年4〜5月に、劉少奇は故郷の湖南省を視察した折に、自分が関わった政策が齎した惨劇の結末を直接目にした。

※最終的には「大躍進」では最大推計5000万人余りが餓死した。


劉少奇は、視察中に姉の家に立ち寄った。姉は「地主」の家に嫁いでいたので、共産党政権下で「階級敵人」に分類されていた。其の為に、国家主席の姉弟であっても特別扱いされずに、迫害を受けたし、1959年に発生した飢饉のことを訴える手紙を姉の夫(義兄)が劉宛に書いたが、途中で検閲に引っ掛り、義兄は懲罰として、凍死寸前になるまで木に縛り付けられ、その後間もなく亡くなった。 体が弱っていたのに、ふすまで作ったパンを食べた(その様なものしかなかった)のだが、弱った胃腸は消化の悪い物を受け付けず、医者を呼ぼうにも医者もおらず、苦しみ続ける病人を運ぶ病院すらなかった。

行く先々で、劉は胸を引き裂かれるような光景ばかりしか目にする事が出来なかった。そして、多くの悲惨な話を耳にした。共産党・・・ひいては自分自身に対する人民の憎悪を感じざるは得なかった。故郷の村では12歳の少年が劉の実家に 「打倒劉少奇」 と、書いた。この少年は、1年の間に家族6人が病気で死ぬのを目の当たりにして来た。最後に死んだのは一番下の弟だった。少年は幼い弟に母乳を飲ませてくれる人を探している最中に、弟は少年の腕の中で亡くなった。何故なら、少年の母は其の少し前に亡くなったばかりだった。劉は地元の党幹部に命じてこの少年を罰しないように命令した。劉は、地元当局が食物を盗んだ罪で農民を罰するのをやめさせ、村人に対して、

「寧ろ、政府が農民から食物を強奪しているのだ」

・・・と、衝撃的な発言をした。更に

「そっちがわしらから取るなら、なんでわしらがそっちから取ってはいかんのか?
そっちが沢山取っていくのに、なんでわしらが少しばかり取ってはいけないのか??」

と、農民を代弁する発言をし更に前例の無い事をした。劉少奇は共産党政権の失政について農民に謝罪したのだ。

「同郷の皆さんが此れほど過酷な暮らしをしているのを見て、私はショックを受けました・・・・・

皆さんにこれほどの苦しみを与えてしまったことに対して責任を感じます。謝らなければなりません」

――ーと。


北京へ帰った後、劉は共産党最高幹部たちに

「このまま(大躍進政策を)続けるわけにはいかない」

―――と、語った。 8月には、周恩来が河北省視察の結果、毛沢東に対して

「人民の食べ物は、木の葉、野菜の漬物、野草だけで他には一切無い。穀物は一粒たりとも残っていない」

・・・と、報告したが、毛沢東は

「何をそう大騒ぎすることがあるのか??」
―――と、吐き棄てた。

そして劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に劉少奇夫婦揃って引きずり出された時だった。 劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし、

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。 しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


『文化大革命十年史(上)』(著:厳家祺(げんかき)・高皋(こうこう)。監訳:辻康吾。岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E5%AD%A6%E8%A1%93-%E5%8E%B3-%E5%AE%B6%E7%A5%BA/dp/4006000723/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1314366635&sr=1-1

 文革は、いったいいかばかりの損害を中国に与えたのだろうか。

 本書では「経済的損失は五千億元に達した」という記述があるが、金銭に換算できるものばかりではないだろう。

 各書でもそうだし、本書でも、文革の根本原因として、スターリンを貶めたフルシチョフ体制を目の当たりにして毛沢東が不安になった、ということが挙げられている。きっかけとなったのが、三面紅旗の失敗を彭徳懐が指摘したことだ。

「この批判を認めてしまうと、毛沢東の党内での最高権力が動揺するのは必至」

とある。気にしていることをズバリと指摘されたので、彭徳懐は毛沢東の不興をかって失脚した。彭は、「文革」の最も初期の犠牲者と言ってもよいかもしれない。

 1965年11月10日、上海の『文匯報』に有名な、姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論評が発表された。 どこが逆鱗に触れたのかよくわからないのだが、とにかく江青が、この作品(『海瑞免官』)には腹を据えかねたようだ。しかし、北京では「海瑞」批判の動きを起こすことに失敗した。

 彭真は、毛に「呉ヨ(ごがん)と彭徳懐は無関係」と訴えている。本書の注によると、時期的に見て、呉ヨが、この作品に彭徳懐擁護の意図を秘めることは不可能だったようだ。(作品ができたのが1959年6月。彭が毛を批判したのは同年7月)

 66年5月25日、聶元梓(じょうげんし)らは党委員会に反旗を翻した。それを知った大衆はもちろん深く驚きもしたろうが、反面カタルシスというか、心中快哉を叫んだ者も多かったのではないだろうか。

 66年5月30日、文革小組の一派は、「人民日報」を手中にしたそうだ。これで今後の世論操作が可能になったのだから、この重要性は大きいのではないか。

 その後、反工作組の動き、つまり、従来の「権威」に対する動きが出てきた。

 例えば66年6月18日、陸平ら「黒い分子」を吊し上げたいわゆる北京大学「六・一八事件」である。固定的な(ある意味、安定した)時代であれば、党中央が派遣した工作組の指示には素直に従うことになっていただろう。

 本書には、風向きがおかしくなってきた劉少奇が毛に事情を説明しようとして66年7月18日に家を訪ねたが、(電気はついており、誰かと会っている様子なのに)門番から「主席はもう寝ているから帰れ」とすげなく追い返されたとある。いかにも象徴的なエピソードである。

しかし、劉は、まだ自分の陥っているピンチを正確には理解していなかっただろう。むしろ、理解したくなかった、直視しようとしていなかったという方が近いかもしれない。


 文革は暴力的で残酷なのだが、その中でふとグロテスクなユーモアを感じさせることがある。

 本書でいうと、例えば、江青が、反工作組(=反劉少奇)を叫び、自分が最も「革命」的であるとアピールするための66年7月26日の大会の中で、興奮のあまり私怨を絶叫したというあたり。

「興奮のあまり訳が分からなくなり、われを忘れた江青が毛沢東の前妻の〜息子〜の妻との間に起こった衝突のことまで持ち出し、毛家はこの嫁を認めない、と声の限りに叫んだとき、人々の心にこの革命に対する一抹の不安がよぎった」

とある。会場の聴衆は「なに、関係ないことゆうとんねん、このおばはん・・・・」と思ったやろうねえ。

 また66年8月19日から始まる「四旧打破」の大キャンペーンの中で、紅衛兵が信号表示に異議を唱え、革命の象徴たる「赤」は「進め」を表わすべきだと言い出したそうだ。紅衛兵たちがむりやり

「青で停まれ、赤で進め」

と命令し、数え切れぬほどの無意味な交通事故を引き起こしたあげく、周恩来総理が自ら

「信号は全世界の統一規定で、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果がある」

と説得したというくだりも非常に馬鹿馬鹿しい。


 有名な写真で、劉少奇の妻王光美がネックレスをつけた状態で吊るし上げをくらっているものがあり、本書にも載っている。これも、何と63年の「ネックレス事件」が根本原因らしい。しかし中味といえば、外遊する王に江青が「ネックレスはつけるべきでない」とアドバイスしたのに、ネックレスをつけた姿をニュース映像で見て以来、宿怨を抱いていたという実にせこいもの。

 しかしながら、67年4月10日王光美批判集会では、

「紅衛兵が勝手に持ち出したシルクのストッキングとハイヒールを履かされ、体に合わなくなった細身の旗袍(チーパオ)を着せられて、さらに、このためにわざわざ作ったピンポン玉のネックレスまでつけさせられ」たのである。

 劉少奇への迫害は目を覆いたくなるものがある。67年1月6日に、王光美は

「娘平平が下校途中に脚を折り切断しなければならず、保護者のサインがいる」

という電話を受けた。王は「絶対に中南海を離れるな」という周恩来の再三の忠告を思い出し、すぐに出かけようとする劉少奇を止めたが、

「あんな小さな子が私たちのせいでひどい目にあったのだ」

と迷うことなくきっぱり言ったそうだ。(しかし、やはりこれは罠だった)


 67年7月18日、劉少奇糾弾集会が開かれ、陶鋳、ケ小平にも暴力がふるわれた。

 8月5日、毛が壁新聞「司令部を砲撃しよう」を貼り出してから1周年にあたるこの日、劉少奇批判集会はさらにエスカレートした。

「劉少奇の顔は腫れ上がり鼻には青アザができていた」そうである。


 劉少奇は家族から引き離され一人で監禁された。適切な医療も食事も水も与えられなかった。

 69年10月17日、劉少奇は河南省開封に移送された。
11月12日午前6時45分、彼の心臓は鼓動を停止した。救急チームが来たのは、その2時間も後だったそうだ。

 「人民共和国の主席はこうして誰にも知られずひっそりとこの世を去った。彼が黄泉の国へ持って行ったのは彼に押し付けられた『劉衛黄』という仮名と『無職』の肩書きであった」という。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


劉 少 奇 の 晩 年 99/11/12 半島震報 王小岩 


 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。

当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。


 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。

 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は

「黒は黒を守る」とか
「お前らが悪魔を守れるのか」

とか言いたい放題であった。 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。


劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。

造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。 彼らは言う。

「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」

と叫んだ。劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。

 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。


訳注:中南海は建国後北京城内に高級幹部が住まいとしたところ。大衆の接近を禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまりこの闘争の時、肩書き無しの毛沢東が劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を全て聞いていた。


 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 

 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。

 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。これを見た張さんは、思わず声を掛けた。

「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」

と言った。 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は

「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」

と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。 その直後、王光美は中南海から他へ移された。


 劉少奇を厨房に立たす


 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。

中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。

 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。


 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。 中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。

 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。

 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。

 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。

 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。


 訳者注:これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。
 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。

 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。

 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。

 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。

 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/shouki.html


劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm

劉少奇・王光美夫妻 真実の愛とは? 人間の強さと美しさとは??


王光美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%89%E7%BE%8E


劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 王光美の回想による

―――私は

「今度こそお別れになるような気がします〔最近、末日的||感觉好象被分别。〕」

と、云いながら、涙を止める事が出来なかった・・・。

・・・一緒に暮らした日々の中で初めて、少奇は私の荷造りをしてくれるといって、私の衣類をキチンと畳んでくれた。

最後の数分間 私達は互いに見つめ合ったまま座っていた。 其の時、滅多に冗談を口にしない彼が云った。

「なんだか、君を迎えに来る花かごを待っているみたいだね!

〔是什么吗、来接你好象正等待花“車喬”!〕」

―――私達は笑い出してしまった。


その後、二人は別々の場所で独房監禁状態に置かれ、その後二人が顔をあわせたことは一度だけあった。

・・・それは、1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に夫婦揃って引きずり出された時だった。しかし、劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。

裁判の途中で、王光美は、群集の手を振り解き、数分の間、夫の服の端にしがみついた。その間、群衆は殴る蹴るの暴行を夫妻に喰らわせる中、夫妻は手を堅く握り合い、真直ぐ立ち続けようと抵抗した。この勇敢な行動には、恐ろしい報復が待っていた。王光美は米国・日本・蒋介石のスパイと云うレッテルを貼られ、12年の間、最も厳しい刑務所に収監され、立って歩くことすら許されず、刑務所から釈放後、数年間は歩く事すら出来なかった。

また親兄弟が悉く投獄され、70歳を超えた王の母は獄中死し、夫妻の子供達は孤児となり、劉の息子(母は前妻)は自殺した。刑務所に収監されたとしても、日々、聞くに堪えない罵声や暴行を浴びせられ、病気になっても薬は与えられず・・・刑務所とは名ばかりで、強制収容所と何も変わらなかった。

しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

夫妻を見て思うのは、毛沢東に叛旗を翻さず、毛沢東に服従していれば、享楽的な生活を営めたのにも関らず、指導者として成すべき事を確固たる信念を以って、対峙し、そして幾ら非道な仕打ちを受けても、絶対に毛沢東に屈しなかった。王光美は夫と共にあることを望み、王も毛沢東に屈服しなかった。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


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江青に妬まれた故の悲運


 元々『女優』としての経歴のあった江青は、とても『嫉妬深い女性』でもあった様で、一定の評価はされていたと言うものの、その評価には至極不満であったらしく、『演劇界』には恨みを抱いていたとも言われます。 特に、伝統芸能と言われていた『京劇』や自分より評価の高かった『女優』等には特に異常とも言える敵愾心を燃やしていたと言うのです。


 先ず、『劉少奇』失脚事件です。
1966年『劉少奇』は『毛沢東』によっ
て『トウ小平(1904〜1997)』等と共に『修正主義』と批判され、『自己批判』の上、政治局員の地位は保全された物の、自宅に幽閉されたと言うのです。 その後、スパイ容疑等の名目で紅衛兵などの襲撃を受け何度も『つるし上げ』の標的ともなり、1968年夫人の『王光美』も逮捕されると共に一人軟禁状態となり病の床に着くことになったと言うのである。

 『江青』は、彼の完全失脚を狙い、様々な事を仕掛けたと言うのであるが、その時既に彼の病状は見る影も無いほど悪化していたと言うのである。 にも拘らず、彼女は彼から薬をも取上げ、ベッドに縛り付けた状態で、コンクリートむき出しの部屋に閉じ込めたと言う事なのです。 かくて彼は1969年11月、放置された常態で死を迎える事になりますが、その惨状は余りにも物凄く、直ちに『火葬』されたと言う事なのです。

 一方、夫人の『王光美』も、その容貌が華やかで知性に溢れていた事から『江青』の嫉妬心を刺激したらしく、執拗な攻撃を受けたと言うのです。 『劉少奇』の夫人であった事もあり、『劉少奇』や子供達の何人かはその迫害の下に死んでいったのですが、彼女はそれに耐え抜き約12年間の獄中生活の末、中国共産党の職務に復活していると言うのです。

 聞く所に拠れば、『江青』は彼女を死刑にする為に案件を捏造し、結果『死刑』と判決させたと言う事なのですが、『毛沢東』は此れを聞くに及び『暫くは死刑にしない』と言ったそうなのである。 彼にすれば、運動の初期から一緒に働いてきた同志でもあり、『劉少奇』死した今、『美人』でもあった事から『殺す』には忍びない女性であったのかも知れません。

王光美は、中国国家主席劉少奇の5番目の妻です。 王光美は、カトリック系の大学を主席で卒業し、中国共産党の軍事調処執行部で英語通訳を務めていました。延安の共産党本部で劉少奇と出会いました。 王光美の父親は、4度も離婚歴のある男との結婚を反対し、彼女を勘当しています。劉少奇の最初の妻は、共産主義者として国民党に銃殺されるという悲運に遭いました。その後、2番目から4番目の妻までは、すぐにくっついては別れる、を繰り返していました。

しかし、5番目の妻である王光美人は、26歳で結婚後、劉少奇が出世街道を進んでいく過程から非業の死を遂げるまでの20年間を、妻として、秘書として彼に連れ添うのでした。 王光美は、聡明で模範的な妻でした。結婚した瞬間から、前妻たちが産んだ5人の子の母親になりました。

一番始めの妻の子供たちは、すでに成長してソ連に留学していましたが、 三番目の妻が産んだ子は、まだ2歳と4歳でした。王光美は、生さぬ仲の2人の子供たちを愛情を持って接しました。その後、王光美は、一男三女を生みますが、一切わけ隔てなく育てます。 前妻の子を虐待していた江青(毛沢東の4人目の妻)とは、雲泥の差だったのでした。
江青は、後に、王光美をひどく憎むようになりますが、自分と比べて評価の高い王光美人に嫉妬していたためだと言われています。

1962年に毛沢東が文化大革命を行なった時、劉少奇も自己批判を強いられ、殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった様子がテレビで実況放送されました。 党籍も剥奪され、1969年獄死しました。 何の罪も無い王光美も、逮捕されてしまいました。 美貌も知性も人望も何もかも自分より優れていた王光美を許せなかった江青が、 「彼女はアメリカ中央情報局のスパイよ!」とでっちあげたのでした。

http://www.deaik1.com/01829.html

「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。

おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>


毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。

陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして

若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、

これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。

この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。 李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。王さんは、紅衛兵のいたぶりに、

「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」

と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。


 ■王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。


 ■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。


 ■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。


 ■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。


 ■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。


 ■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。


 ■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。

江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。


 ■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。


 ■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。


 ■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。


 ■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。


 ■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。

 ■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。


 ■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995−2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。


 ■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。


 ■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/58218


毛沢東も美女にだけは優しかったんですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c4

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
5. 中川隆[-10700] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:54:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355]

周恩来が夢見た共産社会とは…


周 恩来(ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)

周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1917年に、日本に留学
1920年パリに留学

1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人ケ穎超と結婚した。周恩来・ケ穎超夫妻の人気は中国国内でも高く「おしどり夫婦」として有名であった。夫妻の出会いの場所である天津南開大学の近くには周恩来・ケ穎超記念館が建設された。

子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。


中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、古来の中華帝国の形式に則るような「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した。 彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。

周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は

「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」

と叫び、身を挺して守った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。

彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。 周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。  しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1976年、中華人民共和国建国以来国務院総理(首相)を務めてきた周恩来(1898〜1976)が毛沢東より一足早い1月に世を去っている。品格と知性と忍耐強さを兼ね備えた彼の人物に関しては欧米からの評価も極めて高い。廃帝と成った溥儀を気遣ったのも周恩来だった。

勿論、中国が文革の嵐に巻き込まれた時、彼が心を痛めながらも毛沢東に従った事は否定出来ない。しかし、彼が毛沢東とは常に一定の距離を置いていた事も確かで、民衆の人気は高く、その人徳故か、あまり彼の事を悪く言う人はいない。そして、死ぬ迄首相の座を保持した彼は「不倒翁」とも称されている。

http://homepage3.nifty.com/mahdes/asihe3c.htm


溥儀は1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。 1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。

溥儀は中国を文化大革命の嵐が覆う中で癌に罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自であった溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、事態を聞いて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80

溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮 中日友好協会副会長  王效賢


日本語の名通訳として知られる王效賢さんは、毛沢東主席や周恩来総理のそばで、長く仕事をしてきた。その中で忘れられない思い出の1つは、日本がつくった「満州国」の傀儡皇帝だった溥儀氏とその弟、溥傑氏の2つの家族に対し、周総理が心のこもった配慮をし、溥傑氏の日本人の妻子を遇したことであるという。


一市民となったラストエンペラー

1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのはこの年の12月4日である。

溥儀氏は、自分が戦犯の中で、自分がもっとも早く釈放されるとは、夢にも思っていなかった。12月9日、彼は34年ぶりに北京に帰り、家族と団欒した。清朝の末代皇帝(ラストエンペラー)は、北京市の普通の市民になったのである。


1961年6月10日、周恩来総理(前列右から3人目)は西花庁で、溥儀氏(左から2人目)、溥傑氏(右端)、嵯峨浩さん(右から2人目)らと会見し、宴会を開いた。左端は筆者、左から3人目は老舎

それからわずか1カ月半後の1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。そこで周総理は彼らと直接、今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。

周総理は溥儀氏にこう言った。「身体検査をしてから3年計画を立て、自然科学を少し学び、技術を少し身につける。思想を改造するには、第1に客観的な環境が必要であり、第2に主観的努力が必要だ。現在、各民族は平等になった。各民族はともに発展している。満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」

これに対し溥儀氏はすぐに「私は毛主席と周総理の期待に決して背きません」と答えた。間もなく周総理は、郭沫若・全人代副委員長と相談して、溥儀氏が中国科学院に属する植物園で労働に参加するよう手配した。

中国行きを望んだ浩夫人


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(右端)

溥儀氏の弟の溥傑氏も1960年に特赦され、北京で兄や妹と再会した。しかし溥儀氏とは違い、溥傑氏には、日本にいる妻子が中国に帰ってこられるかどうかという問題があった。

この問題をめぐって溥一族には意見の違いがあった。特に溥儀氏は、溥傑氏の婚姻は日本帝国主義が画策したものであり、溥傑氏は日本の妻子と一線を画し、古い関係を断ち切らなければならないと考えた。

周総理は、また西花庁で、溥儀、溥傑の両氏とその家族と会見し、宴会を催した。周総理は溥傑氏の心配をよく理解し、こう言ったのである。

「あなたの日本国籍の夫人、嵯峨浩さんが中国に帰って来るのを歓迎します。あなたは手紙を書いて、新中国の状況を彼女に知らせなさい。中国政府は、彼女が帰ってくるのを歓迎するし、中国での生活に慣れなければまた日本に帰ってもよい。

中国には皇族はなくなったし、社会主義の国となって、人々はみな同じ生活を送るようになり、人より身分が高いということはなくなった。彼女も1人の平民の立場に立って、人と人が平等な生活を送らせなさい」


1961年3月、許広平さん(魯迅の夫人)が率いる中国婦女代表団が日本を訪問した。私は団長の通訳として加わった。出発前、周総理は溥傑氏の書いた手紙を代表団の丁雪松秘書長(後に新中国で初の女性大使となる)に渡し、なるべく早く浩夫人に手渡すよう、廖承志・中日友好協会会長に言いつけた。

代表団が日本に滞在中、浩夫人は中国式の「旗袍」を着て、私たちの泊まっているホテルにやって来て、団長と秘書長に面会した。浩夫人は非常にかしこまって、完璧な中国語でこう言った。

「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。必ず中国に帰らなければなりません。鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随うといいます」

私は呆然とし、浩夫人の眼に浮かんだ涙を見ていた。その時の情景を、40年経った今も、私ははっきり覚えている。

この年の6月10日、周総理が嵯峨浩さんと彼女の母の嵯峨尚子さん、妹の町田幹子さん、娘のコ生さんらと会見するので、通訳として参加するように、という通知が来た。こんなに早く、浩夫人が中国に戻ってくるとは、と私は驚いた。

このときの宴会には、溥儀、溥傑の兄弟の一族ばかりでなく、満州族の傑出した人物である作家の老舎氏と夫人の胡巨ツさん、京劇俳優の程硯秋の夫人、日本の貴族出身で、周総理が「民間大使」と称えている西園寺公一氏らが招かれていた。

周総理はこう述べた。

「我々共産党の目的は、素晴らしい世界をつくりあげて、みなが生きてゆくことができ、良い暮らしができるようにすることにあります。今日この席には、かつての皇帝や皇族もいるが、今はみないっしょに生活しています」


そして周総理は、とくに溥儀、溥傑兄弟の3番目の妹が東城区の政協委員を、5番目の妹が会計を、6番目の妹が芸術家を、7番目の妹が小学校の教務主任で模範工作者であると紹介した。そして「かつての皇族、官僚、貴族はみな変わり、みんな平等である」とし、

「皆さん、考えてみてください。封建制度を覆し、共和国を打ち建てた後も、以前の皇帝がなお生き残り、平等な地位を与えられる国、そんな国が世界のどこにあるでしょうか。これは我々の国策なのです。もちろん本人が努力しなければならず、皆が協力しあわなければなりません」と述べた。

さらに周総理は浩夫人に対し「どうぞご安心なさって下さい。我々はあなたを差別扱いするようなことはいたしません。あなたの亡くなられた娘の慧生さんから手紙をいただいたことがあります。私は彼女が父親と手紙のやりとりをすることに同意しました。彼女は大変勇気のある若者です。彼女の写真があれば、記念に1枚いただけませんか」と言った。

来るのも自由、帰るのも自由


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(立っている人物)。左端は筆者

会見の時間は、非常に長く、家庭の問題から民族問題、更に中日関係に話が及び、内容もきわめて豊富だった。

日本の問題に話が及ぶと、周総理はこう述べた。


「日本軍国主義は1894年から1945年までの50年間、中国人民に損害を与えました。解放後10年このかた、万を数える日本の友人が毛主席、劉主席と私にも会って、謝罪の意を表明しました。我々に言わせれば、中日両国は2000年近い往来の歴史があり、経済、文化の交流を発展させてきました。この2000年に比べれば、50年間という時間は、ほんの短いもので、しかもすでに過ぎ去ったことです。

我々は前向きに、中日両国の友好関係を促進し、国交を回復し、経済と文化の交流を発展させるために努力するべきです。毛主席は、日本軍国主義の侵略が中国人民を団結させたと言ったことさえあります。我々は日本人民に対し、いささかも恨んでおりません。

日本人民もまた日本軍国主義の被害者なのです。皇族、華族、ブルジョアジーでも勤労人民でも、ただ中国と友好を願うのであれば、我々は彼らとみな友好的に付き合います。日本の侵略政府に参加したメンバーでも、中日友好に賛成するなら、我々はやはり歓迎します」

こう語った周総理は、浩夫人に対し

「あなたは日本人ですが、中国人と結婚したので今は中国人になりました。我々はあなたを中国人として、中国の社会活動に参加するのを歓迎します。あなたは中日友好の事業に力を注ぎたいと思い、実際に中国に帰ってきたのですから、これこそ中日友好を象徴しています。中国での暮らしに合わないと感じたときはいつでも、日本に帰って結構です。日本に帰って比較してみて、やはり中国が良いと感じたら、また帰ってくることもできます。来るのも自由なら帰るのも自由。私が保証します。私がサインします。当然のことながら、私のサインが必要になることはないと信じますが」と話した。


周総理の話の中で、もっとも忘れられないのは、娘のコ生さんについて周総理が語ったことである。周総理はこう言った。

「彼女が日本に帰りたいなら帰らせるのがよいでしょう。無理強いして残すのは良くありません。若い人はよく変わります。後になって中国に来たいと思ったら、いつでも申請すればよいのです。日本人と結婚しても、どこが悪いのでしょうか」

コ生さんが帰るか留まるかという問題は、溥傑氏と浩夫人の悩みの種だった。コ生さんが中国に来てから、夫妻は朝な夕なに、唯一の娘が身近に留まってくれるよう説得した。しかしコ生さんには自分の考えがあり、両親のもとに留まることを承知しなかった。

このため父と娘は喧嘩になり、母と娘はともに泣いた。当時、浩夫人一家のお供をして中国国内を旅行した周斉さん(中国国際貿易促進委員会連絡部長)が会見前に周総理にこの模様を報告していたので、周総理は、溥傑一家のためにこの難題を解決したのだった。

コ生さんは日本に帰った後、日本人と結婚した。周総理の言った通り、しょっちゅう日本と中国を往来し、父母のそばで暫く住み、一家団欒するのが常だった。現在、コ生さんには幸せな家庭があり、4人の子どもの母であるばかりか、孫まである。

最近、コ生さんは、中日友好協会の招きで中国にやって来た。私たちは11年ぶりに再会し、ともにあの心のこもった周総理の話しを思い出し、懐かしんだのだった。(参考資料:『周恩来年譜』『周恩来選集』)(2005年10月号より)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

母の死刑を無罪に変えたのは周恩来


崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白


■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」

■ 医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。
母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。
スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 それから半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。ここの日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」
崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。

母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。

この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。

周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」は建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。

その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。

答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

http://www.houmasa.com/newsletter4-4.html


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:


日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm

山極さんは、日本軍と八路軍の捕虜政策の違いについて触れ、日本軍は捕虜を否定し、捕虜になってはならない、捕虜になることは恥だとされ、日本軍捕虜は存在しないという前提になっていたのに対し、八路軍は優待政策をとり、日本兵捕虜を「尊重・優遇し、彼らを教育し、彼らを通じて他のものに影響を与え、反侵略統一戦線の樹立に努力させる」方針をとったこと、その結果、

1937年から43年までに、捕虜総数2407名のうち2085名が釈放され、八路軍は捕虜を殺さないで優遇することを日本軍に知らせ、日本軍内にもそれが次第に浸透し、自発的投降が増加したこと、しかし、日本軍は、釈放した捕虜を処罰したり、自決の強要も広がったことを話されました。

http://yamatea.at.webry.info/201101/article_17.html


日中友好協会 製作ビデオ第3巻上映

 2月9日(日)御南公民館で、協会製作の証言ビデオ「3」が、岡山県ではじめて上映されました。

中国人の生体実験にかかわった元軍医の証言、赤ちゃんを泥靴でふみ殺し、ずっと夢に出てきて悩んでいた元特務機関員の証言、

八路軍の捕虜となった元兵士の見たものは、負傷した日本兵を背おって山をのぼる八路軍軍医の姿だった……

40分のビデオは若者が問いかける侵略戦争、そんなことがなぜ?なぜ?に答えきれているだろうか。

 おそろしい日本軍の組織とは反対に、井上愛子さんの1時間のお話は、中国人民解放軍のやさしさ、心の広さにうたれました。看護婦として捕虜になった気がせず、東北三省をかけめぐり、にわか作りの病院で炭をおこし湯をわかすことからはじめ、中国人と朝鮮人と日本人がほんとにとけあって生命を大切にした青春でした。その時の赤ちゃん(長男雅俊さん)も会場に見えられ、紹介されました。 
 
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/gangshanban030209.htm


戦後、シベリアに捕虜として収容された60万人の中の969人が、5年後の1950年に戦犯として中国に引き渡された。収容された「撫順戦犯管理所」には中将から二等兵まで、また溥儀も収容されていたが、此処は日本軍が作った監獄であった。当初、彼らは「なぜ戦犯!?、上官の命令」などと反抗していたが、管理所では一切の強制労働も学習もなく、ただ反省するのを待った。
 
 彼らは3〜4年経ったころから過去を振り返り自ら「認罪」して行った。56年の戦犯法廷では起訴された政府・軍高官の45人以外は起訴免除、起訴された45人もシベリアの5年と撫順戦犯管理所の6年が刑期に参入され、一人の無期も死刑もなく全員刑期満了前に帰国を許された。 

 この映像はその「撫順戦犯管理所」のドキュメンタリーで、当時の管理所生活などの記録映像を交え、収容されたご健在の元戦犯10人と、管理所側の医師、看護婦、教育、経理、人事、炊事係など8人の「証言」で構成したもので非常に貴重な記録である。

 この放送後、番組(映像)で証言した元戦犯のうち既に4人が鬼籍に入っている。彼らは「撫順戦犯管理所の6年に感謝している」とまで話しており正に「奇蹟」の体験である。この事実に一部から「洗脳だ、強制だ」との批判があるか、強制が無かったことはこの映像記録と証言が裏付けている。
 

 管理所は周恩来の直轄指示で

「戦犯といえでも人間であり、人格と日本人の習慣を守れ」

と徹底された。そして、戦犯への優遇措置に反発する管理所職員には

「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」

と諭した。周恩来はワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

との全く同じ意の、

『前事不忘 後事之師』(前の事を忘れず、後の教えとせよ)

と言っていた。
http://www.janjannews.jp/archives/2600539.html


 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。


「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。

しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/kunitomo_taiken.htm

私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。 被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。


 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。

 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。

 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。

職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわらず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱いだった」と坂倉さんは振り返ります。それは

「罪を憎んで人を憎まず」

「兵士も軍国主義の犠牲者」

との人道主義政策の実践でした。 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。

http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/genki/2010/230/genki230-06.html


この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。

 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html


日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行った陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。

判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は、


「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。


 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」

(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

サイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』の著者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。 この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、


「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」

というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

しかし歴史の流れは容赦しない苛酷な面を見せる。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放されたと聞いた。 

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/sawada_kikokumade.htm


中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄した。


『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光(編) 、岩波書店


 驚いたのは、中共が日本に対する賠償放棄の意向を示すところ。これは密使となった竹入義勝公明党委員長に対して、いきなり周恩来から伝えたんですね。
周 毛主席は賠償請求権を放棄するといっています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。

清の時代には二億五千万両、日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。これを全部払ったかどうか知りません。八国連軍の賠償は四億〜五億両でした。
四億ドルど、今では大した額ではありませんが、負担を人民にかけることは良くない。賠償の請求権を放棄するという事を共同声明に書いても良いと思います。

竹入 お礼の言葉ももありません。

周 当然のことです。二十数年来の両国人民の友好によって、国交が回復するのですから、私たちは、これから次の世代を考えなくてはなりません。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/21667/23829/67385764

戦争賠償の問題


日本側は、高島益郎・外務省条約局長が外相会議で意外にも

「蒋介石がすでに日台条約の中で賠償の請求権を放棄すると宣言しており、日中共同声明でこの問題を重ねて提起する必要はない」

と発言した。これに対し周総理は、首脳会議でとくにこうした主張に厳しく反駁した。

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

最終的には田中首相が中国側の好意に感謝の意を表し、共同声明の本文に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明確に書かれたのだった。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-03/31/content_107971_3.htm
http://hyakka.seesaa.net/article/171605985.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html


以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。

 この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。

「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」

先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。

 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。

 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」

 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。

 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。

 話を日中関係に戻すと、先生は


「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」


 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。  最近、

「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」

といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。

 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。

 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。

 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。

http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/


中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、

「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」

という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。

かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は

「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」

とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。 このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< 周恩来が日本を救ってくれたのサ
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
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林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm

 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。

 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html


周恩来の死


周恩来は田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。

 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。

 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇とケ小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放されたケ小平自身も理解を示しています。ケ小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していたケ小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺してケ小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、このケ小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html


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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c5

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
6. 中川隆[-10699] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:55:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356]

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書) 新書 – 2015/11/13
遠藤 誉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%A8%E5%85%B1%E8%AC%80%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E8%AA%89/dp/4106106426


毛沢東とはもちろん中国共産党の創設者であり中華人民共和国の太祖(始祖)ですが、日本でその正体は正確に伝えられていません。

 毛沢東は中国でも正体が正確に伝えられていないうえに、日本ではさらに毛沢東に限らず中国批判に抵抗する勢力が多いため、ますます謎に包まれ神格化されたままの存在となっています。

 しかし現在のますます傍若無人となっていく中国と対峙するためには中国共産党を理解する必要があり、そのためにも毛沢東を正しく理解する必要がでてきます。

 本書はその毛沢東について余すところなく正確かつ公正に解説していますが、単なる中国歴史書でも陰謀論書でもなく、もちろん親中書ではなくまた一方的に日本の中国における軍事行動を肯定しているわけでもありません。

 本書をお勧めする最大の理由は、中国最大の攻撃対象である日本の軍国主義および中国における軍事行動のお蔭で(共謀して)、毛沢東は中国共産党を支配し蒋介石の国民軍を放逐し中華人民共和国を建国した「客観的事実」が証拠とともに書かれているからです。

 著者の遠藤誉氏(女性)は1941年に満州の新京(現・長春)に生まれ、終戦後も1952年まで中国に残留させられ毛沢東思想教育も経験しています。何よりも毛沢東率いる中国共産軍が国民軍の占拠していた長春を食糧封鎖して数十万人を餓死させた「完全に歴史から抹殺された事実」の生き証人でもあり、帰国後も多方面で活躍する中国分析の第一人者です。

 本書では著者が中国・台湾・日本に残された多数の資料を丹念に突き合わせて解明した「客観的事実」が書き連ねられています。

 つまり毛沢東こそコミンテルン(モスクワにあった共産主義インターナショナル)の指示を受けながら潘漢年らスパイを使って日本軍や日本の諜報機関である岩井公館に蒋介石の情報を売り、さらに日本軍とその蒋介石率いる国民党政府(重慶)、軍閥の張学良(張作霖の息子)、汪兆銘の国民政府(南京)らを謀略で戦わせ、自らは勢力を温存したまま戦後は「戦勝国」の地位を国民党から奪い取った稀代の策謀家と結論づけています。

 何よりも「腑に落ちる事実」がいくつもでてきます。

 つまり現在の習近平らの勢力基盤である中国共産党とは、日本および日本軍のおかげで今日があることになり、現在も日本を批判する「最大の理由」が全く見当はずれであることになります。

 もっとも毛沢東は中国を統一後、手先として働いた潘漢年ら「事情を知る者」を1000人以上も投獄して死ぬまで放免せず、その後継者である習近平も知っている事実であるにもかかわらず「おくび」にも出しません。さらに著者も危惧しているように、習近平はその「戦勝国」の地位を奪い取られた台湾・国民党の馬英九総統まで抱き込み、毛沢東の陰謀を完全に歴史から抹殺してしまおうとまでしています。

 日本は国内にすでに張り巡らされた親中国ネットワークの「工作」のなかで、まずこれらの事実を正確に認識し中国および中国共産党と対峙していかなければなりません。そのためにも「必読の書」です。繰り返しですが安直な陰謀論でも嫌中論でもなく、証拠を丹念に突き合わせた「客観的事実」そのものが書かれています。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1588.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c6

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
7. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:57:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1357]

毛沢東は親日家で、西郷隆盛に憧れて革命運動に参加した
引用:https://jp.sputniknews.com/images/115/56/1155613.jpg

記憶では中国と台湾が対立していたころ、台湾が自らを「親日国だ」と主張してマスコミや出版物で宣伝活動を始めた。

それまで台湾は韓国と同じように「従軍慰安婦を謝罪しろ、植民地支配を賠償しろ」とだけ言って来る迷惑な存在だった。

だが台湾の中華民国は国連を追放され、歯抜けのように支持する国が減って、次々に共産中国の方を支持した。


すると台湾は今まで「反日」だったのをコロリと転換して「昔から台湾は親日国でした」と言い始めたのだった。

金がなくなると急に「親友」になって近づいてくる人のようで、不気味なのだった。

自ら親日国を名乗るのは、たいていこんなカラクリがあり、何かの目的を持ってやっている。


今では考えられないが日米貿易摩擦が激しかったとき、共産主義のほうの中国が「中国は親日国」だと言っていた。

アメリカは敵だが中国は4000年来の友人だという本が書店に溢れ、NHK「シルクロード」という歴史に残る番組を放送した。

日本テレビも中国をロケして「西遊記」を放送し、本当に日本と中国は親友になったように思えたが、今はこのザマである。


昔は親日国だった中国

要するに中国は日米対立を利用して日米同盟を引き離し、味方の振りをして経済援助を得るのが目的だった。

目的を達したら親日をやめて反日になり、また別な事情ができたら親日を始めるでしょう。

中国を作ったのは毛沢東だが、その毛沢東が「親日家」だったという資料が最近続々と発見されている。


少年の頃の毛沢東は明治維新の本を読むのが好きで、特に西郷隆盛に憧れ、自分も中国で維新を起こしたいと考えていた。

毛沢東が少年の頃はまだ「清国」の時代で、清や欧米列強を倒していく日本帝国を恐れ、尊敬していた。

このため日本軍が大陸から撤退するまで、毛沢東の共産軍は一度も日本軍と戦わず、戦後も(国民党の中国よりは)日本人を優遇した。


つまり毛沢東の中国は親日であり、時代によってそれが反日になったり、また親日になったりしている。
http://thutmose.blog.jp/archives/66287375.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c7

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
8. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:58:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1358]

共産主義の独裁者はインテリを憎んで無学な子供たちを好む


カンボジアで狂気のポル・ポト政権が成立したのは1975年4月17日のことだった。狂気の指導者であるポル・ポトが当初から敵視していたのは「インテリ層」だった。

ポル・ポト自身は教師出身のインテリなのだが、極端な共産主義に染まっていたポル・ポトは、新しい国「民主カンプチア」を設立するにあたって知識人は不要だと考えた。

ポル・ポトは自分が支配するカンボジアを「原始共産主義」の国にしようと考えていて、「国には指導者と農民がいれば、あとは必要ない」と割り切っていた。

そのため、まだ西洋思想や民主主義や資本主義のような「堕落した思想」を知らない子供たちを親から引き離し、原始共産主義の思想を洗脳し、邪悪な思想に染まった人間を殺すように命令した。

子供たちは忠実にそれを実行した。インテリを敵視し、医師や教師や経営などの職に就いていた人間はことごとく殺害していった。

国からインテリが一掃できればできるほど「民主カンプチア」は理想に近づくとポル・ポトは本気で考えていた。それほど、ポル・ポトは「物を知った人間」を嫌ったのだ。


混じりっけのない純度100%の共産主義国家の樹立

ポル・ポトのこのインテリ嫌いにはお手本があった。

それは、中国の毛沢東である。毛沢東もまた独裁者となってからはインテリを激しく嫌っていた。

文化大革命では「知識人は反動(反革命勢力)だ。知識が多ければ多いほど反動だ」と言い放って、インテリを徹底的に自己批判させて迫害した。

自己批判というのは、インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回すものだった。

そうやって、毛沢東はインテリを次々と吊し上げて殺害したり追放したりしていたのだった。

そして、人民には「教育は不要だ」「勉強するな」と呼びかけた。それは「叩き潰すべき古い文化」であると言われたのである。ただ、唯一読むことが勧められたのは「毛沢東語録」だけである。もちろん、それは洗脳の書でしかない。

(1)インテリはブルジョア(資本家階級)になる。
(2)資本家階級は人民を搾取する。
(3)資本家階級は共産主義の敵だ。
(4)インテリを吊し上げろ、追放しろ、殺せ。

これが文化大革命の嵐として吹き荒れていったのが毛沢東時代の中国だった。

クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、この毛沢東に心酔しており、それを自分の国で徹底的に行うことを決意していた。そしてカンボジアに混じりっけのない純度100%の共産主義国家を樹立しようと目論んだ。

そのためには、共産主義思想とは相容れない「民主主義や資本主義に染まったインテリ、ブルジョアども」を根絶やしにしなければならない。

また、ブルジョア的な生活に染まった都市住民を全員「再教育」しなければならない。

それが都市住民の農村への強制移住となり、インテリやブルジョアの皆殺し政策となって結実したのである。

文化大革命。インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回す。


自分の政策を批判する人間を排除する政治システム

毛沢東とポル・ポトはインテリを嫌悪したが、自分たちはインテリであるというところも似ている。ふたりとも共産主義の活動家になる前は教師だった。

毛沢東は自ら進んで勉学に励み、北京大学の図書館で司書補として働き、アダム・スミスの国富論を読み耽り、さらに思想を中心とした出版社すらも立ち上げている。

毛沢東はそれほどまで書物を愛する生粋のインテリだったのである。

しかし、やがて日中戦争や蒋介石との戦争を経て、中華人民共和国建国の指導者となった毛沢東は自分の政策に批判的なインテリたちを疎ましく思うようになり、やがては資本主義者やインテリを迫害し、弾圧し、粛清していくような独裁化への道を歩むようになっていった。

ポル・ポトはこの毛沢東を手本にしていたので、政権を樹立してから一気呵成に過激な粛清に入って超独裁政権に入った。

独裁というのは、自分の政策を批判する人間を排除する政治システムである。

自分の政策を批判する人間というのは、その政策を多角的に見ることができて、分析ができて、欠点を見つけて、それを言葉にすることができる人間だ。

それこそがインテリである。

だから、独裁者がインテリを嫌って排除するようになるのは、独裁主義を取る以上は必然的な流れとなる。

インテリは自分の政策や思想に反対してくる強敵であり邪魔者だ。だから、物理的に彼らを抹消するのが良いと独裁者は考える。それを共産主義の世界では粛清と呼んでいる。

逆に、独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。

独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた

独裁を志向する政治家は、教育をないがしろにする。なぜなら、無駄に教育を与えて人民に知識が付いたら、自分を崇拝させることができなくなってしまうからである。

教育を与えたら、自分の政策の矛盾や思想の欠陥を指摘して独裁の世界を破壊する可能性が高い。

だから、共産主義系の指導者は絶対に人民に教育を与えず、単なる労働だけをする人間を賛美し、インテリや資本主義者に対して敵意を植え付ける。

人民が無知であればあるほど指導者は安泰でいられる。だから、独裁者は異様なまでに無学の労働者、農民、学生、子供が好きなのである。

共産主義の指導者は毛沢東のやり方を研究しているので、今でも「無学な人間、無学な子供たち」が好きだ。

たとえば、偏差値28くらいの頭の悪い子供たちなんかは、共産主義の指導者が最も好む子供だ。よく言うことを聞くし、簡単に洗脳できるし、操りやすい。

子供たちに何らかの思想を植え付け、自分たちの望む方に運動させ、活動させる。そして、それを賛美する。今どき共産主義の活動をする時点で頭がおかしいのだが、洗脳された子供たちはそれに気付かない。

子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。

かくして、指導者に洗脳された子供たちは、指導者の手先となって共産主義を支えていくようになっていく。

共産主義者が無学な若者たちを使って、勉強させずに活動をさせるようになったら注意した方がいい。それは、結果的に極端な暴力活動に結びついていくからである。

そしてどうなるのかは、毛沢東の文化大革命が何を生み出したのか、そしてポル・ポト政権の原始共産主義が何を生み出したのかを見れば分かる。

そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた。

誰がキリング(殺戮)を行っていたのか。それは、無学な子供たちである。共産主義者の指導者が子供を使って何をしていたのか、私たちは改めて知っておかなければならない。

ポル・ポト派兵士。子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160914T0616450900.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c8

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
9. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:06:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1359]

2018年9月4日
「嘘」と「洗脳」で突き進んだ文化大革命の真実
児童書で読み解く習近平の頭の中(7)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。

写真:アフロ

 1966年に入ると文革派の動きは激しさを増し、これに呼応するかのように若者たちが動き出す。生まれた時から毛沢東思想で教育された彼らの頭の中は、「毛主席万歳、万歳、万々歳」でしかなかったはずだ。洗脳教育の成果というものだろう。

 6月初めには北京の地質学院、鉱業学院、石油学院、北京大学などの付属中学に加え、北京第25中学などのエリート学生が「紅衛兵」組織を相次いで結成し、「偉大な領袖・毛主席を守るために最後の血の一滴まで断固として捧げよう」と叫び、「四旧打破」を掲げ、毛沢東の敵と思われる人物を求めて街頭に飛び出して行った。旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を中国全土から一掃しようというのだ。

 8月18日、林彪、周恩来らを従え天安門楼上に立った毛沢東が全国から集まった100万余の紅衛兵を初めて接見したことで、天安門広場は興奮の坩堝と化した。毛沢東から「造反有理」「革命無罪」のお墨付きを与えられた紅衛兵運動は、この日を境にして中国全土というより全世界を震撼させることになる。文革の主導権を握った文革派陣営から、毛沢東を「百戦百勝」「絶対無謬」と神聖視した青少年向け印刷物――紙の爆弾――が次々に出版される。その典型が『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』(解放軍文芸社 1967年)だろう。

「英雄的行動」と讃えられた下級兵士の死

 1966年10月9日午前、江西省吉安市第二中学の紅衛兵と革命的教師の一団は、天安門広場で毛沢東の接見を受けるために南昌発北京行きの汽車に乗った。「僕らの心は、もう北京に、毛主席の身辺に飛んでしまっていた」。「汽車もまた飛ぶように奔る。2日目の深夜2時過ぎ、銭塘江辺りにさしかかると、汽車は鉄橋の上で急停車した。なにが起こったのだ。数十分が過ぎると、汽車は何事もなかったかのように動き出す」。車掌は「銭塘江大橋手前数十メートルのところで線路を塞ぐ大木を発見したが、解放軍の戦士の英雄的犠牲によって我ら紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける列車を救ってくれた」と説明する。

「この知らせを聞くや、列車に乗り合わせた誰もが深い悲しみを覚え、毛主席にとって真の戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手に惜しみない賞賛を送り、一斉に声を張り上げた。『解放軍は紅衛兵をイチバン慈しむぞォーッ、我らは解放軍にシッカリと学ぶぞォーッ』とシュプレヒコールの嵐だ」。やがて北京到着。「10月18日のこの日は僕らの生涯で忘れ難い一日となった。午後2時19分53秒、僕らは偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たしたのだ」。

 文革開始直後の66年10月である。インパクトのある話題が欲しかった文革派メディアにとって、蔡永祥の死は願ってもない宣伝材料となったはずだ。解放軍下級兵士の死は「紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける汽車を救った」とされた。「一心を公の為に捧げた共産主義戦士英雄」の物語は瞬く間に全土に広められ、「毛主席の真正の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手」と崇める学習運動が展開される。

 その一方で、街に飛び出した紅衛兵は「劉少奇叛徒集団を打倒せよ」「満腔の怒りをこめて、労働大盗賊の劉少奇を糾弾するぞ」「劉少奇の反革命のツラの皮を剥がせ」「地主階級の孝行息子・劉少奇の姿を暴露せよ」「劉少奇は『左』を装った『右』だ」「造反の粉砕を目論む劉少を告発するぞ」などあらん限りの罵声を浴びせ、劉少奇を血祭りにあげた。劉少奇が占めていた国家主席という肩書は、怒れる紅衛兵にとっては無意味だった。

 1953年6月生まれだから、文革勃発時に習近平は13歳である。当時の高級幹部の子弟がそうであったように、彼もまた紅衛兵運動の高まりの中で毛沢東を崇め、蔡永祥の英雄的行動を学習し、「造反有理」「革命無罪」のままに暴れ回ったに違いない。だが、父親である習仲勲が毛沢東に敵対したと批判され失脚したことで、習近平もまた1969年には陝西省延安市延川県に下放され、北京を追われている。

 1969年、毛沢東が「勝利の大会」と呼んだ第9回共産党全国大会が開かれた。麾下の人民解放軍を挙って毛沢東を支援した林彪は「毛沢東の親密なる戦友」と呼ばれ、公式に毛沢東の後継者に指名される。毛沢東は自らにとってふたつの敵のひとつである劉少奇派を林彪の力を借りて共産党中核から一掃する一方、もうひとつの敵であった「ソ連社会帝国主義」と国境紛争を戦うことになる。

『毛主席語録』を振り回して敵を撃退!?


 中ソ国境を流れる黒龍江の中州の珍宝(ダマンスキー)島を戦場に展開された国境紛争には、双方で100万人近い兵力が投入され、全面戦争一歩手前というほどに深刻な事態を招いた。全面戦争とは聞こえはいいが実際は人海戦術で戦うしかない解放軍に対するは、近代兵器で武装されたソ連軍である。戦いの帰趨は明らかだろう。だが、中国としては毛沢東の軍事思想に支えられた解放軍の大勝利をウソでも宣伝するしかない。そこで連環画『珍宝島英雄賛』(本社美術通訊員編絵 上海人民出版社 1970年)が出版される。

 連環画とは中国伝統の解説付きの絵本式読み物であり、『三国志』『水滸伝』『西游記』なども、こういった形で子供たちの間に広まった。いうならば伝統的メディアによって子供たちに祖国防衛の意義を学ばせようというわけだ。

 表紙を開けると「警戒を厳に、祖国を防衛せよ。人民のための戦に備え、飢えに備えよ」との『毛主席語録』の一節が記され、次いで「偉大なる領袖の毛主席と彼の親密なる戦友の林副主席の批准により、中共中央軍事委員会は珍宝島におけるソ連修正主義の武装挑発を反撃する自衛戦争において鮮血と生命を盾に偉大なる祖国の神聖な領土を防衛した孫玉国ら10人の同志に『戦闘英雄』の光栄ある称号を授与した。人民に、党に、偉大なる領袖の毛主席に無限に忠誠を尽くした英雄たちの気高き心を、よりよく学習せよ」とある。

 67年11月24日、酷寒で珍宝島の最前線警備に当たる孫玉国ら兵士は、国境を侵犯する完全武装のソ連兵を発見する。直ちに「中国人民に対する重大な挑発だ。即刻立ち去れ」と厳重に抗議するが、厚顔無恥にもソ連兵は雪の上にひとつの島を描いて「1868」と記し、この島は1868年からソ連(ロシア)領だと主張する。そこで孫玉国らは強く抗議し、雪の上に記された島と1868の上に大きく「×」を記した。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=2


「1868年当時、ここは島ではなく中国側の河岸の一部だったが、土砂の堆積により20世紀初頭に島となった。1860年にロシアの老いぼれクソ皇帝が中露北京条約を中国人民に強要した。この島は一点の疑義もなく中国の領土だ」「これは断固として改竄することのできない歴史的事実だ」との意味を込めていたというが、「×」だけで、それほどの意味を表すことができるのか。この時、孫玉国らの右胸に『毛主席語録』がシッカリと抱かれていたことはもちろんだ。

 3カ月余が過ぎた69年3月初め、ソ連機甲部隊が狂ったように国境を侵犯する。烈火のごとく怒る孫玉国らは敵機甲部隊の前に立ちはだかり、「止まれ。ここは中国の領土だ。お前らの強盗行為は中国に対する重大な挑発だ。直ちに撤退せよ」と叫ぶ。ソ連軍の前進は止まず戦端が開かれる。中国兵士は銃の代わりにした『毛主席語録』を打ち振りながら、「我らは毛沢東思想で武装し筋金入りだ。天が崩れてきても支えることが出来るぞ」と立ち向かう。

 かくて「ソ連修正主義の戦車、装甲車、武装部隊による狂気の進攻を粉砕し、祖国の神聖なる領土を勝利のうちに防衛した」という。『毛主席語録』が近代的兵器で武装したソ連軍をも打ち破ってしまうほどの無敵の兵器であることを、子供たちの脳裏に」刻みつけようとしたわけだ。


不可能も可能に変える「偉大なる領袖の教え」


 1970年代に入ると、文革派の牙城であった上海における宣伝中枢たる上海人民出版社は、毛沢東思想万歳の児童書を連続的に出版している。典型例として、『夜航石頭沙』(上海港工人業余写作組)を挙げておく。


中国で1960年代後半から1970年代前半に出版された青少年向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=3


 秋も深まった一夜、長江の河口を白波を蹴立て進む航標五号は北部海岸に碇を下ろす。静まり返った船内では、その日の作業を終えた党支部副書記の程志敏が、いつものように灯火の下で一心不乱に毛沢東の著作を学習している。そこに「近くの呉淞口に停泊中の外国船が折からの強風に座礁し船体破断の危機。大至急救援に向かうべし」との緊急電報が届く。早速、乗組員全員が非常呼集され、幹部からの命令を待った。

 呉淞口は上海港の喉元に位置するだけに、事態を早急に収拾できなかったなら多くの船舶の航行にとって障害となるばかりか、「中国革命と世界革命とに大きな損失をもたらす」と程志敏は考えた。早急に救難作業に着手すべきだが、安全航路では現場到着は大幅に遅れる。そこで最短航路の石頭沙水路を抜けようと提案したが、そこは穏やかな天候でも航行が容易ではない難所中の難所だった。

 程志敏の提案を傍で聞いていた「反動技術“権威”」の船長は飛び上がって驚き、「石頭沙は解放前から難所中の難所であり、夜間航行など絶対に不可能だ」と主張する。

 そこで程志敏はスックと立ち上がり、「石頭沙の夜間航行が難しいことは先刻承知だが、我われ共産党人には、毛主席の支持がある。コレが難しい、アレは出来ないなどと弱音は吐かない。刀の山であれ猛火の海であれ、飛び込んでみせるのだ」と敢然と言い放つ。すると、その場の誰もが程志敏の手を固く握るのであった。

 じつは、程志敏は超人的な努力で最下級の船員から現在の地位を築き上げたのである。「旧社会で母と2人の兄弟は敵の醜い刀によって惨死させられた。共産党、毛主席がプロレタリア革命を教え導いてくれたことで暗雲を払い明るい太陽をみることが出来た。『毛主席がいなかったら、程志敏の今日はありえない』」と心の中で叫びつつ、全員に状況を説明し任務遂行を求める。乗組員の心はひとつになり、航標五号は暴風雨の中を現場に急行した。

 水路は狭く浅瀬や岩礁が続き、風雨は増すばかり。この時、甲板に立った「程志敏と同志たちが偉大なる領袖毛主席の『我われが全人民とが団結し共同して努力すれば、あらゆる困難を押しのけ勝利という目的に到達できる』との教えを心にシッカリと刻んだ」。天候はいよいよ荒れ、航標五号の行く手を遮る。その時、程志敏の脳裏に「勇敢なる戦闘精神を発揮せよ。犠牲を恐れるな。疲れを恐れず連続作戦の作風を発揮せよ。短期間に休むことなく波状攻撃で戦い抜け」との「偉大なる領袖の教え」が浮ぶ。

 やがて現場に到着し沈没寸前の船から乗組員を救助し、任務は完了した。そこで程志敏が「この軍隊は比類なき精神を秘めている。敵の一切を圧倒し断固として敵に屈服しない」との『毛主席語録』の一節を声高らかに読み上げた。かくして「キラキラと光り輝く金波銀波を蹴立てて、程志敏と同志たちが操舵する航標五号は革命の航路を勇敢に前進する」のであった。


英語教育にも「毛沢東賛歌」


『夜航石頭沙』と前後して上海出版社からは、文革工作に挺身する小学生が、蔣介石一派の秘密工作員で元教師の破壊工作を摘発し毛沢東派を守った『英雄機智的紅小兵』、毛沢東思想で武装し、自然災害を克服し豊かな収穫をもたらした人民公社の英雄を描く『胸懐朝陽戦冰雹』、毛沢東の訓えのままに「一に苦労を恐れず、二に死を恐れず」に革命精神を発揮して多くの人々を救った人民解放軍兵士を讃える『優秀共産党員――陳波』、さらに旧社会では教育の機会すら与えられなかった港湾労働者の宋懐宇が、毛沢東思想学習をキッカケに英語を学び、やがて海外からやってくる外国船員に英語で毛沢東思想の意義や文革の理想を語るに至るまでの『宋師傅学外語』などが出版されている。

 どれもこれも定型化された毛沢東賛歌であり、いわば紋切り型の結論ではあるが、『宋師傅学外語』を読んでいて興味を持ったのは、当時、実際にはどのような英語教育が行われていたのかといった点だ。そこで『簡明英語語法』(湖北省中小学教学教材研究室編 湖北人民出版社 1973年)のページを繰ってみた。

 同書は書名で判るように英語文法解説書だが、出版時期からいって単なる文法解説書で終わってはいない。徹底して毛沢東賛歌である。目に着いた例文を紹介しておくと、

・Chairman Mao is our great teacher.(毛主席は我われの偉大な導き手である)

・Down with the landlord class!(地主階級を打倒せよ)

・Imperialism,revisionism and all reactionaries are paper tigers.(帝国主義、修正主義と一切の反動派は張子の虎である)

・Only socialism can save China.(社会主義のみが中国を救う)

・China will never be a superpower.(中国は断固として大国にはならない)

 このように激烈な例文が次々に記されているが、最終的には「The sea is deep,but our love for Chairman Mao is deeper than the sea.(海は深い。我われの毛主席に対する熱愛は海よりも深い)」に収斂していく。かくして外国語学習であれ、一瞬たりとも毛沢東思想から離れることはなかったわけだ。

なぜ、「99%の火傷」を負っても完治可能なのか?

 最後に文革期を代表する子供向けの百貨全書とでもいうべき『十万個為什麼』(上海人民出版社 1970年)を紹介しておくのも、当時の子供たちを取り巻く時代状況を知るうえで意味あることだろう。

 これは全部で13冊という大部のシリーズで、出版し終わるまでに4年ほどの歳月が過ぎている。第1巻の出版が1970年9月で最終13巻が74年7月である。この間の重要な動きを拾ってみると、毛沢東と林彪の対立顕在化(70年)、林彪のナゾの逃亡とモンゴルでの墜落死(71年)、林彪事件総括の第10回党大会(73年)、四人組台頭と批林批孔運動(74年)。まさに文革後半の激動期を通じて出版されたことになる。それだけに編集者も執筆者も作業途中で方針や内容を変更せざるをえない立場に立たされ、大いに戸惑ったに違いない。

 書名は『十万個のナゼ』となっているが、「十万個」は沢山という意味である。第1巻冒頭の「ナゼ、我われは10進法を使うのか」からはじまり第13巻最後の「ナゼ、勝手にツバを吐くのはダメなのか」まで、各巻に主に自然科学関連の100から130前後の「ナゼ」が挙げられ、その回答がイラスト入りで判り易く解説されている。

 このシリーズ初版の出版は、大躍進失敗から毛沢東の権威が後退し、どん底経済立て直しに辣腕を揮ったことで国民間に劉少奇への期待が高まった時期の1962年である。ここで取り上げる上海人民出版社版の『十万個為什麼』は62年版の改訂版に当たるが、劉少奇が毛沢東の敵として国民的糾弾の標的となり抹殺された後であり、政治状況が大逆転してしまった以上、さすがに初版をそのまま印刷するわけにはいかなかったはずだ。

 その辺りの事情を各巻冒頭に掲げられた「重版説明」は、「これまで叛徒・内奸・工賊の劉少奇の反革命修正主義文芸の黒い方針とその影響下にあったことで、多くの誤りが存在し、マルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想を積極的に広めないだけではなく、(中略)知識万能を宣揚し、趣味性を追及し、封建・資本・修正主義の毒素を撒き散らす内容の書籍が少なからず横行していた。偉大なるプロレタリア文化大革命の過程で広範な労働者・農民・兵士と紅衛兵の小将軍は、それら書籍の持つ誤りを厳格に批判し、修正主義文芸の黒い方針と黒い方針による出版がもたらす害毒を徹底して粛清した」とする。

 なにが「害毒」で、内容をどのように「徹底して粛清した」のか判然とはしない。たとえば「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の項目をみると、「資本主義国家の医学の“権威”は、火傷の面積が体の表面積の85%を超えた場合、死亡率は100%だと結論づける」が、「1958年に毛主席が定めた『意欲を奮い立たせ、先頭に立つよう努め、より多く、より早く、より立派に、より倹約して社会主義を建設せよ』との耀ける総路線の下、工農業生産の大躍進の高まりに鼓舞され、我国の医学関係者はこの迷信を打破し、大胆に実践し、80%以上の火傷患者を救うことに成功した。偉大なる文化大革命の過程で(中略)99%の火傷を負った患者、さらには3度の火傷で94%という広い面積の火傷を負った患者を治癒することに成功し、資本主義国家の“権威”の定説と文献上の記載を完全に乗り越え、世界医学界における奇跡を創造」と記すのみである。これでは、「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の疑問に対する科学的な回答ではないだろうに。

 因みに13巻の最後――ということは『十万個のナゼ』の最後の「ナゼ」は「ナゼ、どこにでも唾を吐いてはダメなのか」。病原菌を撒き散らすから「僅かな唾でも被害は甚大だ。だから、辺りかまわずに唾を吐くといったような悪い習慣は絶対に改めねばならない」で終わっている。「悪い習慣は絶対に改めねばならない」とは、なんとも“意味シン”な回答だと思う。

「政権は鉄砲から生まれる」と、毛沢東は革命における「搶扞子(武力)」の重要性を強調する。だが「筆扞子(メディア)」の働きを忘れていたわけではない。いや、むしろ時には筆扞子に重きを置いていた。文革はその典型だろう。人民解放軍(=搶扞子)を掌握して劉少奇追い落としに成功して後、「未来の大人」であり「小さな大人」である子供に向けて、いよいよメディア(=筆扞子)戦略は巧妙に激烈に展開されることになる。




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2018年3月29日
習近平の幼き頭に刷り込まれた「毛沢東思想」の正体
児童書で読み解く習近平の頭の中(1)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353

 建国以来の中国歴代指導者を

毛沢東(1893年〜1976年)、
華国鋒(1921年〜2008年)、
ケ小平(1904年~1997年)、
胡耀邦(1915年〜1989年)、
趙紫陽(1919年〜2005年)、
江沢民(1926年〜)、
胡錦濤(1942年〜)

と列記してみると、1953年生まれの習近平主席は初の建国後生まれの指導者である。おそらく驚天動地の政治的地殻変動でも起こらないかぎり、常識的には今後の中国は建国後生まれによって運営されることになるはずだ。


『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著 1955年)と『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著 1956年)。当時の児童向け書籍から、「社会主義思想」や「毛沢東思想」がどのように刷り込まれていったかを読み解く
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353


 習近平主席以下、昨秋の第19回党大会と今春の「両会」――全国人民代表大会と政治協商会議によって選出された現在の共産党政権指導部は、最高齢の王岐山(1948年〜)を除く他は1950〜60年代の生まれである。物心がついた頃にはすでに毛沢東は強固な権力基盤を背景にして、極論するなら“箸の上げ下げまで”が毛沢東思想によって規定されるようになっていた。毛沢東が「白いモノでも黒だ」と宣えば、国民すべてがそれに従わざるを得なかったのである。この世代を「完全毛沢東世代」とでも名付けるなら、その第一世代のトップランナーが習近平主席といえる。

「完全毛沢東世代」の幼き頭に刷り込まれた記憶とは

 この世代は幼年期には社会主義の素晴らしさを柔らかい頭脳に存分に刷り込まれ、少年から青年に成長する過程で毛沢東思想が「百戦百勝」であることを身をもって追体験し学習させられている。であれば、この世代の心の奥底に社会主義の理想、毛沢東への憧憬や愛憎半ばするような畏怖の念が隠されているとも考えられる。

 たとえば習近平政権が推し進める「一帯一路」である。これを「総合国力でアメリカに追い着き追い越し、アメリカに代わって世界に君臨しようとする試み」と読み替えるなら、フルシチョフ率いるソ連に対抗心を燃やした毛沢東が1958年に社会主義大国への道を一気に推し進めようと発動した大躍進政策が重なってみえる。現実無視で妄想にも近く杜撰極まりない計画ゆえに4000万人を超える餓死者を出して大失敗に終わった大躍進政策ではあったが、当初は全土が社会主義大国建設の夢に湧きたったことは確かだ。

 であればこそ、当時掲げられた「超英趕美(世界第2位のイギリスを追い越し、アメリカに追い着け)」の勇ましいスローガンを幼い日の習近平主席が深く記憶していたとしても決して不思議ではない。ならば一強体制を築いた現在、かつての熱狂がフラッシュバックすることはないだろうか。

 中国は2010年にはGDP世界第2位の日本を追い越し(「超日」)、いまやアメリカに肉薄している(「趕美」)。だからトランプ政権が中国産品に高額な関税を掛けるという貿易戦争を仕掛けているに違いない。だが、それは見方を変えれば毛沢東の悲願であった「超英趕美」――現在では「超日趕美」だが――が実現しつつあることを意味しているようにも思える。

 かりに習近平政権が現在内外で喧伝されているような長期政権を担うことなく2期10年で終わったとしても、2022年から始まる“ポスト習近平”の時代を担うことになるのは完全毛沢東世代の第2世代とでも呼ぶべき1960年代前半生まれとなる公算は大だ。この世代は幼少期に文化大革命が始まり、少年期は紅衛兵の少年版である紅小兵として文化大革命を体験し、10代半ばに毛沢東の死に直面している。

 じつは当分の間、日本のみならず世界は、毛沢東思想によって育てられた世代の中国指導者と向き合わねばならないのだ。であればこそ彼らが成長の過程で受けた教育――それは、とりもなおさず共産党政権が自らの将来を托そうとした人材の理想形だろう――を考察することは、今後の中国の進路を見定めるうえで必須の作業になるだろう。


「歴史爺さん」が熱く語りかける戦いの歴史


 共産党政権は発足直後には兒童讀物出版社(上海)と中國少年兒童出版社(北京)を創設した。両社が出版する絵本などによって、社会主義は正しく、世界は社会主義社会に向って進化している。その最前線に立つ共産党は絶対無謬だなどと教え込もうとしたに違いない。教育は娯楽であり、娯楽は宣伝であり、宣伝は教育というのが共産党の根本理念である。「白い紙にはどんな画も描ける」と説いていた毛沢東は、幼い子供たちの真っ白な頭脳に共産主義社会の夢のような将来を描こうとしたはずだ。

 1955年に兒童讀物出版社が出版した『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著)からは、当時の共産党が子供たちに教え込もうとした歴史観や歴史認識が浮かび上がってくる。

 著者の崔巍は個人ではなく、おそらくは共産党の教育・宣伝部門に連なる歴史学者たちの集団ペンネームと考えられる。当時、簡体字はまだ正式に使われてはいなかったから、横書きながら繁体字のままで全42ページ。当時の物資不足を反映して、表紙にもザラザラでペラペラの質の悪い紙が使われている。

 表紙の上半分に描かれているのは人々が力を合わせてマンモスを断崖に追い詰めている光景で、下半分は溶鉱炉を中心とした工場だ。前者で支配・被支配の関係がなく貧しくも平等で心豊かに暮らしていた原始共産制社会を、後者で重工業化された豊かな社会主義社会を訴えようというのだろう。

 表紙を開くと先ず「歴史爺さん」なる人物が登場し、「子供たちよ! ワシがキミらの友だちになって1、2年になるかのう」と切り出す。「ワシは歴史という名前じゃが、みんなも知っているだろう」と呼び掛け、「歴」とは「経歴」で「史」とは「記載」であると説明しながら、「ワシはえらく歳をとっていて、ワシが歴史を記録するようになってから換算すると、かれこれ4000年ばかりにもなるだろうか」と、それとなく民族の歴史の長さを誇ってみせる。

「遥かに遠い昔だ。ワシが生まれて間もない頃じゃが人々は農業を知らず、河南省一帯の黄河の辺りで魚を捕ったり、猟をしたり、放牧などして苦しい生活を送っておったんじゃ」。かくて勤労人民の力によって現在の中国がある。「考えてもみておくれ。中国の国土はこんなにも大きいが、隅から隅まで我らが祖先の熱い汗と涙が流されなかった場所はないんだよ」と続ける。

 当初は支配も被支配もなく働き誰もが平等な生活を送っていたが、やがて「奴隷の持ち主、大地主、資本家など働かない奴らが生まれ」た。彼らは「日々に悪知恵を働かせて土地、工場、人々の労働の果実を掠め取り」、「“国家”や王朝をでっち上げて労働人民を圧迫し始めた」。そこで「陳渉、張角、王薄、黄巣、李自成・・・」など多くの民族の英雄たちが「搾取鬼たち」に戦いを挑み勝利した。だから「中国の広大な土地の到る処に、革命烈士の鮮血が流されているんじゃ」。

 そこで歴史は一足飛びに20世紀に移り、「八路軍、新四軍、中国人民解放軍、中国人民志願軍など、彼らは祖国人民にとっての最も優秀な児女なんだ。考えてもみるがいい。中国の広大な領土は祖国防衛のための英雄たちの鮮血に染まっていることを」と同意を求める。

「将来の人民は共産主義の生活を過ごすことになる。これは全く正しいことだ。キミは共産主義の生活が好きかい。だったら共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか。キミが指導しなければならないのだ。さあ、キミたちよ! ワシはキミの好い友達だ。キミが一日たりとも離れることのできない素晴らしい友人じゃよ!」と、熱を込めて語り掛けた。

 予定調和気味に共産党創建以来の“偉大で栄光に包まれた戦いの歴史”が綴られているが、ご丁寧にも子供たちの学習の成果の一例が次のように記されている。

●「本来、社会に階級はなかった。人々は階級のない原始公社において長期に亘って暮らしていた」

●「資本主義社会において資本家は労働者を搾取し、工業生産の発展を妨害した。労働者は断固として資本家を打倒し階級のない社会主義社会――共産主義社会に作り変えなければならない。だから歴史発展の法則に基づくなら、共産主義は必ずや実現する」

●「歴史を学んで、祖国人民の全ての労働成果を熱愛すべきことを理解した。全力を尽くし、一木一草に至るまで祖国を防衛する」

●「ボクらの麗しき前途の凡ては、解放軍兵士のおじさんたちの犠牲によって得られた。ボクらは、さらに偉大なる中国の共産党と人民解放軍とを熱愛する」

「共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか」の囁きに続く「キミが指導しなければならない」という“殺し文句”に幼い子供たちは、さぞや血を沸かせ肉を踊らせたことだろう。そのうちの1人に、幼い頃の習近平チャンはいなかっただろうか。


「社会主義色」が濃厚すぎる算数の問題


 同じ1955年に『算術 小学教師進修用書』(兪子夷編著 浙江人民出版社)が出版されている。建国から6年、朝鮮戦争終結から2年が過ぎ、いよいよ国家建設に本腰を入れようにも、やはり科学技術の立ち遅れは如何ともし難いと気づいたようだ。

「編著者自序」は「基礎的教育である小学校教育の質を高めることは、中学・高校教育の質を根本的に高めることにつながる。小学校における算数教育は重要な位置を占めているにもかかわらず従来は誰もが重視してこなかったことから、極めて低いレベルのままであり、今後は可及的速やかに質を高めなければならないことは疑う余地はない」と記すが、やはり編集方針は「真っ白な紙にはどんな絵も描ける」との毛沢東の考えに基づく。

 全体の構成はイデオロギー抜きに整数と筆記法からはじまり、加減乗除、倍数、比例、平均、度量衡、数の分解、最大公約数、最小公倍数、分数、通分、分数の加減乗除、少数、比例などに関する解説へと系統的に並べられているが、応用問題は一転して社会主義イデオロギーの色に溢れている。

 モノは試し。そんな応用問題のいくつかを挙げてみると、

 1)ある工場には6つの作業場があります。第1,2,3の作業場には210台の旋盤が備えてあり、第4作業場は第1作業場より15台少なく、第5作業場は第2作業場より21台多く、第6作業場は第3作業場より10台少ない。6つの作業場を合計すると工場全体では何台の旋盤があるでしょうか。

 2)3つの農業生産合作社は余った1250袋の食糧を国家に売ることになりました。乙合作社が売った量は甲合作社の2倍で、丙合作社が売った量は甲と乙の合作社の合計より350袋多い。3つの合作社が売ったそれぞれの量を求めなさい。

 3)2組の道路補修隊が道路の両端から同時に工事をはじめました。その速度は甲隊が毎日2里で、乙隊は3里です。4日後には2つの補修隊の間の距離は35里でした。彼らが補修する道路の距離を求めなさい。

 4)ある労働者の1年の給与は、最初の3ヶ月は毎月43元、次の5ヶ月は毎月46元、最後の4ヶ月は毎月47元5角でした。1年平均すると1ヶ月当たりいくらになりますか。

 ――社会主義社会建設期の溌剌とした雰囲気が伝わってくる応用問題ではあるが、工場、旋盤、農業合作社、道路補修隊、労働者など社会主義イデオロギーが前面に押し出されている。


空想小説「鼻を切り取られた象」の正体とは?


 1956年、共産党政権は学術・芸術の分野での自由化を進める「百花斉放・百家争鳴」運動を発動した。この政策によって知識人や民主派からの猛烈な共産党批判を誘発させ、やがて反右派闘争に転換され、結果として大躍進から文化大革命へと毛沢東の過度の神格化に雪崩れ込むことになる。

 同じ年の2月、ソ連ではフルシチョフがスターリンを全面批判する秘密演説を行った。中国共産党機関紙『人民日報』は4月5日になってスターリンによる個人崇拝を「重大な誤り」と認めはしたが、ソ連で見られたスターリン全面否定に同調することはなかった。スターリン批判をめぐる中ソ両国の見解の差が、後に国境軍事衝突にまで発展した中ソ対立の遠因の1つとなるわけだ。

 中国共産党政権のみならず毛沢東にとっても大きな節目の年に当たる1956年、中國少年兒童出版社は2種類の子供向け空想科学物語を収めた『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著)を出版している。“夢のように豊かな社会主義中国”を描き出そうというのだろう。この絵本を手に小躍りした子供たちは社会主義の未来に目を輝かせたに違いない。そんな理想社会を建設するために、やはり「キミが指導しなければならない」のである。

 巻頭を飾る「割掉鼻子的大象」は、この本の幼い読者たちが20代の半ばから後半に達する頃の1975年の夏を舞台に、科学専門記者の「私」が取材のため国営農場を訪れるところから始まっている。

 その地は草1本も生えない不毛の地であったが、人民の奮闘努力によって5年という短期間で「緑の希望」と呼ばれるまでの大農場に改造されていた。取材のために農場の中心街に立った「私」は「象を見に行こうよ。象だ、象だ」の子供たちの歓声に誘われるように走りだす。「国営農場のだ!」「どうして国営農場で象が飼われているんだ?」「鋤を引かせるためだよ!」「トラクターがあるじゃないか。象なんて使う必要はないよ!」――子供たちの感想である。一見すると象ではあるが、不思議なことに鼻が切り取られていた。

 この農場で働いている科学好きの中学時代の同級生から届いた招待状を持って、農場事務所を訪ねる。すると「私」の目の前に薄いピンクがかった白い肉の壁が現れた。街で見かけた鼻の欠けた象は、友人が改良を重ねて生み出した「奇跡72号」と呼ぶ超大型のブタだった。友人は「図体はデカいが子ブタだ。柔らかく脂が乗っていて栄養満点。そのうえ簡単に消化する。味はバツグンだろう」と語りかける。だが「私」は口いっぱいに肉を放り込んだため、口がきけずに目を白黒させて頷くしかなかった。象のように大きいブタを生み出す社会主義の科学技術によるなら、食糧問題も一気に解決してしまうのだ。幼い読者が瞳を輝かせたであろうことは想像に難くない。

 第2話の「没頭脳和電脳的故事(脳無しクンとコンピューターの物語)」の主人公は小学生の孫少年である。「鞄は」「帽子は」「ソロバンは」「教科書は」と孫少年の登校準備に巻き込まれ、毎朝家族中が大わらわ。彼が「没頭脳(脳無しクン)」のあだ名で呼ばれるのも、前日に学用品を置いた場所を忘れてしまうほどに整理整頓が不得手だからだ。

 そこで我が息子の将来を案じた電気技師の父親は「養いて教えざるは父の過ち」という古くからの教訓に従って、孫少年に20万個の半導体を組み込んだ「電脳(コンピューター)帽子」を創ってやった。翌日、電脳帽子を被った彼は意気揚々と登校する。電脳は難問を素早く解いてくれるが、地理の問題や友達のトンチ話にはサッパリ反応しない。そこで父親は半導体を脳細胞の数と同じ140億個までに増やそうとするが、電脳帽子が巨大化してしまい被ることができない。かくて「電脳の奴隷にはなるな」と、苦心の末に作り上げた電脳帽子を廃棄処分してしまった。

 孫少年は父親が作ってくれた電脳帽子を賢明に学習し、「自分で考え、大脳を鍛錬し」、「演算、資料保存、翻訳、機械管理のできる電脳」の発明を目指す。やはり子供たちに、社会主義社会のバラ色の将来を教えようとしたのだろう。

 1950年代前半、中共中央宣伝部長兼政務院文教委員会副主任を務め党と政府の思想宣伝工作を切り盛りし毛沢東の寵臣として振る舞っていたのは、習近平チャンの父親である習仲勲だった。ならば教師用の『算術 小学教師進修用書』はともあれ、幼い息子に『怎樣學習歴史』や『割掉鼻子的大象』を与え、橋橋と安安の2人の姉が弟の習近平チャンに読み聞かせていたと想像してみる。

 どうやら現在の共産党政権の中枢に居並ぶ首脳陣は、歴史爺さんの話を真に受け、社会主義イデオロギー満載の算数応用問題を解き、社会主義社会の将来に幼い心を躍らせた世代となりそうだ。このことを、改めて肝に銘じておきたい。




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子どもたちの思想改造を狙った毛沢東の手口
児童書で読み解く習近平の頭の中(5)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


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http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587


 中国では、1963年から66年春にかけて「社会主義教育運動」が展開された。1958年に毛沢東が強引に進めながら大失敗に終わった大躍進政策への対応をキッカケとした教育運動であり、後の文化大革命につながる政治闘争の前哨戦でもあった。

 大躍進の失敗を自己批判した毛沢東に代わって国家主席に就任し共産党政権の舵取り役に就いた劉少奇は、毛沢東が進めた急進的な社会主義化・集団化を取り止め、限定的ながら個人所有を認めて生産意欲を刺激することで落ち込んだ経済の回復を図った。自らの労働によって自らの生活向上が期待できることから、人々は労働に励み生活も向上する。

 すると当然のように劉少奇への期待が高まり、民心は毛沢東から離れる。この動きによって自らの権威が崩れ権力が失われることに危機感――有態にいうなら、劉少奇に対する政治的嫉妬心――を抱いた毛沢東は、早くも1963年9月の中共8期10中全会において資本主義復活の危険性を指摘し、階級闘争の拡大化・絶対化を訴えた。このような環境において社会主義教育運動は始まる。

 社会主義教育運動の3年余に出版された児童書を読んでみると、イデオロギー色が微塵も感じられないものと毛沢東思想万々歳のものとに大別できる。前者は生活向上を目指す経済優先の劉少奇路線を背景にしていると見做すことができる一方で、後者からは政治を第一とする毛沢東路線の徹底を子供に刷り込もうとする狙いが強く感じられる。

 現状を肯定するのか。はたまた「為人民服務(毛沢東式滅私奉公)」の路線を徹底して社会主義社会建設を目指すべきか――やはり注目すべきは、洗脳によって子供を毛沢東思想のサイボーグに改造しようと狙う毛沢東の強い意志だ。こうして育った世代が文革初期において毛沢東を絶対無謬の神と崇め、毛沢東の手足となって毛沢東の敵を殲滅する戦いに邁進していったことを思い起すなら、劉少奇の悲劇は、毛沢東の狙いを読み違った。あるいは毛沢東の政治的妄執を甘く見た点に求められそうだ。


「太陽とヒマワリ」に込められた寓意


 先ずはイデオロギー色を全く感じられない代表例として、劉少奇に対する毛沢東の反撃が表面化する数カ月前の1963年5月に出版された『動脳筋爺爺@』(少年児童出版社)を挙げておきたい。同書は全4冊で構成され『動脳筋爺爺A』と『動脳筋爺爺B』は1964年、『動脳筋爺爺C』は1966年、つまり社会主義教育運動の全期間を通じて逐次出版されたシリーズものである。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587?page=2


 「脳筋」は脳みそを指し、「動脳筋」は“頭を働かせろ”を意味する。そこで動脳筋爺爺とは智慧爺さんといったところか。「小問号(ハテナちゃん)」と「小無智(オトボケ君)」が投げかける「なぜ魔法瓶の湯は冷めないの」「なぜ雲は空から落ちてこないの」など日頃の生活で感じている素朴な疑問を、智慧爺さんが判り易く説明している。4冊全体に共通する特徴は、社会主義、共産党、ましてや毛沢東にすら言及した記述が全く見当たらない点だろう。

 その典型が「なぜヒマワリは太陽に向って動くのか」の項である。文革時代、太陽は毛沢東を、ヒマワリは人民を無条件に寓意していた。太陽もヒマワリも当時の中国では問答無用の政治的記号だったのだ。偉大なる太陽があればこそ人民は育つ。それゆえにヒマワリの人民が育つためには、太陽である毛沢東を常に崇め奉り学ばなければならなかったのである。だが『動脳筋爺爺』では太陽の動きに従って動くヒマワリの植物学的なメカニズムが懇切に説明されてはいるものの、太陽にもヒマワリにも政治的メッセージは込められていない。

 やはり『動脳筋爺爺』シリーズの作者にとって、太陽は飽くまでも太陽であり毛沢東を指し示す政治的記号ではなく、ヒマワリは植物のヒマワリ以上でも以下でもなかったということだろう。

「明るい世相」が映し出された児童書

 1965年に出版された『飛機会干些什麼(飛行機は何ができるのか)』(劉子吉 少年児童出版社)に描かれている子供にも、政治役割は全く与えられていない。近代化され安定した豊かな社会で伸び伸びと遊ぶ子供たちの健気な姿が感じられるだけである。

 表紙の色は淡い青。おそらく紺碧の空に見立てたのだろう。上半分には大型旅客機、ジェット戦闘機、農薬散布中の複葉機、さらには真紅のヘリコプター。下半分には模型の飛行機やグライダーを手にはしゃぐ子供たち。誰の首にも、少年先鋒隊を示す真紅のスカーフが巻かれている。男の子は白いシャツに濃紺の半ズボンで、女の子は揃って長いお下げに中国風ブラウス。明るさが横溢している絵柄だが……1年後には文革が始まる。

 最初の頁の下半分には背中姿の女の子とこちらを向いた2人の男の子――花壇に座る3人を前に、男の子が立っている。その向こうには模型飛行機で遊ぶ子供たち。誰もが真紅のネッカチーフを首に。遠景は、大きな入道雲が浮かぶ青い碧い大空。

 「飛行機は天空を飛んでゆく。まるで一羽の雄々しい鷹のようだ。見るほどに、より高く、より遠く。なんと素晴らしいことだろう。飛行機って何をするものなの、僕が話して聞かせるよ」と、立った男の子が説明をはじめる。

――毎日、数え切れないほどの数の飛行機が高い山を飛び越え、白い雲をつき抜けて、上海から昆明、広州から北京へと、旅客、貨物、郵便をいっぱい載せて、限りなく広い大空を飛んでいるんだ。日照りの時なんか、空から薬剤を散布して雨を降らすよ。広い田や畑だって一気に肥料を噴霧すれば、どんな害虫だってイチコロさ。豊作間違いなしだ。農村で収穫用の農機が欲しかったら、いつだって飛行機が運んでくれるさ。正確な地図作り、国家防衛、森林保護、海難事故救助、遠隔辺境への物資輸送だって、飛行機なら簡単だよ――

 と、飛行機の果たす様々な役割が微笑ましいイラストと共に判り易く説明され、この本は「大空を飛ぶ飛行機は、雄々しい鷹のようだ。祖国を建設し、国の守りを固め、なんとステキだ。飛行機は、いったいどんなことが出来るのか。みんな一生懸命考え聞かせてください」で閉じられている。

 大躍進の後遺症も癒え、国民が将来に光明を見い出すことができるようになった劉少奇路線が光芒を放っていた時期に出版されたことを考えれば、『飛機会干些什麼』から漂ってくる何とも微笑ましい雰囲気に納得させられる。

「劉少奇への攻撃」を予感させる物語


 同じ1965年、『雪山上的号手』(趙鷔・秦大虎 上海人民出版社)が出版されている。

 この物語の主人公は、于魯紅という14歳のラッパ卒である。彼は毎日ラッパをピカピカに磨き上げ柄のところに赤い布を結びつけ、それを背中に威風堂々と行軍し勇猛果敢に戦闘に参加し、全身全霊を革命のために捧げてきた。

 辛い長征のある日、部隊は小休止し体力と装備を整え明日からの難関の大雪山越えの準備に掛かる。彼の任務は、近隣の農家から厳寒の行軍にとって必需品の唐辛子と焼酎を調達することだった。冷えた体を芯から暖めるためだ。「大雪山は豪雪に加え強い風だ。さらに空気は希薄。だが革命的英雄主義を発揮し、団結して闘い困難を克服し、勝利のうちに大雪山を越えようではないか」と、部隊長が檄を飛ばす。

 戦友で病弱の江戦雲の手を引きながら、一方で木を掴み峻険な山道を登る。部隊は一振りの宝剣のように一直線になって、大雪山の頂を目指して進む。すると突然に狂ったように強風が吹きだし、ついで横殴りの猛烈な雪である。あっという間に辺り一面が真っ白になり、なにも見えない。「団結だ、戦闘だ、隊列から落伍するな」との部隊長の叱咤激励を聞きながら、彼は戦友の手を引いて雪中行軍を続ける。

 山が高くなれば雪も深くなる。部隊は「堅固な革命的毅力」を発揮し、一歩一歩と山頂を目指した。山頂にたどり着いた部隊からの「頑張れ、同志諸君」の声に励まされ、彼は江戦雲に「大雪山に勝つんだ」と声を掛ける。

 やっと山頂に到着したが、風はさらに強く、鶏の卵大の雹に見舞われる。2人の少年兵は進退谷まり部隊から取り残され、吹雪の中に立ち尽くすしかなかった。2人が雪道で悪戦苦闘していた時、近くを通りかかった別の部隊の隊長の「ラッパ卒がみつからず、我が部隊の所在地点連絡不能」との声を聞き、彼は衰弱する体に鞭打って声を限りに「隊長同志、自分は……」と申告する。

 彼の声を耳にした部隊長が近寄って来て、体全体を雪に包まれながらもラッパを高々と掲げる少年ラッパ卒を見つけた。彼の唇は寒さで切れてしまったが、部隊長の命令を受け力の限りラッパを吹く。ラッパの音が伝える「部隊長は山頂に到達せり。諸士の現在地を伝達あれ」の信号は轟々たる吹雪をものともせず、全山にこだまする。このラッパの音に勇気づけられ、多くの兵士が部隊長に合流すべく山頂を目指した。

 突然、ラッパの音が途切れる。彼は任務を果たし、精も魂も尽き果て昏倒する。「小同志、しっかりしろ」。部隊長の腕の中で気がついた彼は「隊長、戦友の江戦雲が……」

 この時、彼の部隊の部隊長が2人を探しに山頂に戻って来て、江戦雲を雪の中から救出する。「貴下部隊の少年ラッパ卒の格段の軍功により、我が部隊は勝利のうちに大雪山越えを達成せり。感謝の意を表す」。すると我が部隊長は力強く、「我らが毛主席の英明なる指導の下、抗日の前線に赴き、共に侵略者を打ち破ろう」――

 『動脳筋爺爺』や『飛機会干些什麼』に登場する子供は子供でしかない。だが『雪山上的号手』の子供には飽くまでも大人と同じ働きが求められる。“小さな大人”であらねばならなかった。子供に対する扱いの違いが気になるが、『雪山上的号手』の出版元が文革の10年間を通して毛沢東派が拠った最重要宣伝機関であった上海人民出版社であることを考えれば、主人公に毛沢東思想を体現する革命的少年を配したことも納得できるだろう。上海では劉少奇攻撃の準備が秘かに進められていたということか。

仲間を救うために爆死した若き兵士の日記


 同じ1965年には、児童書を読む世代よりもう少し高い年齢層を読者対象とした『王杰日記』が、文革の前半期、毛沢東の忠実な部下として文革を推し進めた林彪が率いていた人民解放軍の機関紙『解放軍報』の編輯部から出版されている。

 この日記を記した王杰(1942年〜65年)は山東省出身の解放軍兵士である。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認された。遺品の中から63年に書きはじめた10万字を超える日記が見つかり、主だった部分を抜粋し、この本が編まれている。そこで興味深い個所を拾ってみた。

■63年(日付なし)=「俺はレッキとした革命者であり、革命のための優秀な種となろう。党と国家から遣わされるなら、何処にでもいって根を張り、花を咲かせ、実を結んでみせるぞ。必ずや砂漠を緑の長城に、荒れ果てた山をたわわに稔る果樹園に、田を一面の黄金色の大地にしてみせるぞ」

■63年4月22日=「王杰よ、王杰、お前に警告しておこう。任務を遂行する際には、誠心誠意で言行一致、裏表なく苦労を厭わず、生真面目に取り組め。王杰よ、深く心に刻んでおけ。自らの欠点をしっかりと自覚し、断固として改め、虚心に学び、生真面目な人間にならんことを」

■63年8月21日=「旨いものを食べ、キレイな衣装を身に着けるなんてことは幸福でもなんでもない。貧苦に喘いでいる世界中の虐げられた人々が平穏な生活を送れるようになってこそ幸福といえるのだ」

■64年7月25日=「毛主席の著作学習は長期的視点から着目しなければならないし一生の大事だ。林彪同志が指し示す『問題意識を持って学び、活学活用し、実際の問題に結びつけ、先ず学び本質を掴め』の原則を生真面目に徹底して貫かねばならない」

■64年9月3日=「毛主席の著作学習を通じ、革命こそが我が理想であり、闘争こそが本当の幸福であることを身に沁みて学んだ」

 『王杰日記』は「新しい中国の次世代を見よ! 彼らは重い任務を担うことができる。彼らには祖国の建設と防衛ができるはずだ」で結ばれている。

社会主義教育運動を経て、時代は「文革」へ

 ここで改めて1965年前後の毛沢東の動きを振り返ってみる。

 1964年8月、エスカレートするヴェトナム戦争に米軍の中国侵攻の可能性を読み取り、同時に北方から軍事圧力を強めるソ連を警戒し、毛沢東は南北からの敵を想定した戦争準備を提起する。10月に初の核実験に成功し、翌65年1月になると毛沢東は初めて「党内の資本主義への道を歩む実権派」に言及した。「実権派」、つまりは毛沢東を蔑ろにする政権中枢、就中その頭目たる劉少奇に戦いの的を絞ったということだ。だが劉少奇が毛沢東の狙いに気づいたフシはみられない。

 9月になって本格化するアメリカの北ヴェトナム爆撃(北爆)に対抗するかのように、林彪が「人民戦争勝利万歳」と題する論文を発表し、劉少奇派が提起した解放軍の近代化とソ連を含む反米統一戦線結成の動きを牽制した。毛沢東の軍事思想に従い、解放軍は断固として人民戦争路線を歩むべし、というのだ。11月、後に四人組の一員として名を馳せる姚文元が「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し文革の導火線に火を点けた。

 翌66年8月、毛沢東と林彪は全国から百万人の紅衛兵を天安門広場に集め気勢を上げ、文革の戦端が開かれたのである。

 1953年生まれの習近平にとっては社会主義教育運動の3年間は、9歳から12歳に当たる。習近平9歳の年、父親の習仲勲は毛沢東の逆鱗に触れ失脚。12歳の年には毛沢東の指示で洛陽鉱山の機械工場へ“島流し”となる。実質的な労働改造処分であった。


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2018年7月12日
歴史的悲劇の裏で進められた「子供たちの洗脳」
児童書で読み解く習近平の頭の中(4)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代後半から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


 1955年の夏以来、共産党政権内部では経済建設の速度と農業の集団化を巡って、毛沢東が率いる冒進(急進)派と、それに異を唱える周恩来、陳雲らの間の対立が続いた。だが、1957年の反右派闘争勝利をバネに毛沢東が周恩来らの異見を圧倒し、1958年5月に開かれた第8回共産党第2回会議で大躍進が正式に採択されることになる。かくて「超英趕美」――鉄鋼生産第2位の英(イギリス)を追い越し、経済超大国の美(アメリカ)に追い着け――のスローガンを掲げ、(1)鉄鋼と農業の大増産、(2)農村における人民公社と公共食堂の建設が全国規模で展開された。

 大躍進政策を推進することで、そう遠くない将来、中国に共産主義社会を出現させるという強い意気込みで始めたものの、毛沢東が描いたバーチャルな世界は中国社会の現実の前に脆くも崩れ去り、惨憺たる結末を迎えざるをえなかった。工業部門の大後退に3年続きの自然災害が追い討ちを掛け、3000万から4000万人が餓死している。この当時、共産党政権は子供たちに何を求めていたのか。

「大躍進の悲劇」はなかったことに……

 大躍進政策決定直前の1958年3月に出版された『民間少年游戯』(顧也文編 上海文化出版社)は、浙江、江蘇、安徽、湖北、雲南、四川などの民間に古くから伝わる60種類の遊びを集め、イラスト入りで遊び方を解説している。一見すると他愛のない児童向けの書籍のようだが、「本書が集めた遊びは全て子供を対象とし、大部分は祖父から父に、父から子に伝わり現在に残されたものであり、日々の生活感が色濃く感じられる。民間に流布する他の遊びと同じように、我が国労働人民の智慧、勇気、誠実、朴訥さを明らかに示し、我が国労働人民の積極性、楽観性、勤倹性、労働に向う心意気という思想感情を伝えている」と書かれた「前言」からは、大躍進直前という時代の雰囲気が十分に伝わって来る。

 はたして当時の子供たちは、鬼ごっこや綱引きをしながら「我が国労働人民」の「思想感情」を学べたのだろうか。

 大躍進政策の悲劇が明らかになりつつあった時期の1961年5月に出版されたのが『游戯官』(林・張・王・楊編 潘晋華画 上海少年児童出版社)である。たとえば「誰と誰が話をしているの?」と題された絵には、糸がこんがらがった糸電話で遊ぶ6人の子供が描かれていて、それぞれの話し相手を探そうというのである。この本からは、政治的意図も思想性も、ましてや大躍進の悲劇など匂わせる記述は一切ない。


子供たちさえ洗脳してしまえば“こっちのモノ”


 毛沢東は「我われには社会主義の経験が不足していた」と反省の素振りも見せないばかりか半ば居直ったまま、権力の頂点から一時身を退いた。大躍進の惨憺たる失敗という危機的状況を打破し「V字回復」を果たした最大の功労者は、毛沢東の後任として国家主席に就いた劉少奇だった。

 であればこそ、『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)が出版された当時は劉少奇が大いに讃えられてしかるべき時代だったはずなのだが、この本には劉少奇への賛辞は一言半句も見られない。得意の“搦め手”による劉少奇追い落とし策――《毛沢東の正しさ》を子供に植え付け、毛沢東を《絶対無謬の神》と思い込ませ、しかるべき政治決戦に備え、虎視眈々と一剣を磨こうとする毛沢東の底意が感じられる。まさに洗脳である。後に文革派がメディア戦略の拠点としていた上海人民出版社からの出版というのも気になるところだ。

 小栄クンはちびっ子だが肝っ玉が据わっている。日本鬼子(ぐん)が駐屯する東港を流れる平洋に飛び込んで、今日も魚獲りだ。水に潜ったかと思えば川面に浮かんでは遊んでいた。ふと岸辺を眺めると、兄の小順たちが手に手に槍を持って玉蜀黍畑の中に消えてゆく。日本兵を偵察しようというのだ。小栄クンは慌てて岸に上がって、小順兄チャンたちを追いかける。

 やっと追いついてしばらく行くと、川の方からジャブン、ポトンと音がする。川辺の葦の間からソッと覗き見ると、日本兵が川に入り測量をしている。どうやら、この川に橋を架けるための準備をしているらしい。この光景を目にした小栄クンは子供心にも、「チクショウ、日本鬼子に橋を架けられたら、おいらたちの村は全滅だ」と直感する。「子供たちの目は日本鬼子に釘付けとなり、目からは復仇の怒りの炎がメラメラと燃え上がった」。

 小栄クンは小順兄チャンの命令を受け、村の民兵隊に報告に行った。相変わらず偵察を怠らない子供たちの目に飛び込んできたのは、メガネの「ちびデブの日本軍隊長」。歩きながら部下を叱り付ける姿は、「まるで生きた凶暴な猪」。すると川上からスイカを満載した小船が下って来た。船にはおじいさんと子供が乗っている。見ると小栄クンだった。「ヤバイよ、ヤバイよ。小栄のヤツ報告に行かずに船の上でさぼって遊んでいやがる」と、仲間の少年たちは気を揉むばかり。

 炎天下である。川の中で測量していた日本兵は喉が渇いたのだろう。小船に近づいてはスイカを勝手に取り上げ、喉をゴクリと鳴らしながら、冷えたスイカをムシャムシャ。その時、ピューン、ピューンという銃声がした。スイカを手に慌てて逃げ惑う日本兵。デブの隊長は船尾でブルブル。そこで小栄クンがデブの腹を目掛けて頭突き一閃。やつは、もんどりうって川の中へ転落だ。

 船上のおじいさんが付け髭を取り外すと、なんと民兵隊長。大声で「生け捕りだ」。一斉に川に飛び込んだ子供たちは、必死に逃げようとする日本兵の足や手を掴んで川の中に引きずりこんで溺れさせる。戦闘はしばらく続いたが、全員が民兵に捕まってしまった。

 静かになった川面をスイカ満載の小船が行く。船上の子供たちはハシャギながらスイカを頬張る。そこに「日本の侵略者を我われ立ち上がった数億の人民の前に引きずり出し、一匹の野牛を火陣の中に追い込むように仕向ける。一斉に声を上げてビックリさせれば、この野牛は焼け死ぬしなかい」と毛沢東の教えが重なり、「毛主席の教えは何とすばらしいことか」と呼び掛けている。

 無邪気であるがゆえに喜々として冷血・残酷にもなりうる子供たちを洗脳し煽り操って反劉少奇の大混乱を起してしまえば、こっちのモノ――この本から、こんな“仕掛け”が感じられるのだが。


子供たちの世界では2年も早く始まっていた「文革」


 『石荘児童団』出版の翌年には、同じく上海人民出版社から同じような書名の『草原児童団』が出版されている。

 舞台が長江下流域の水郷で子供たちが退治した敵は日本軍であった『石荘児童団』とは違い、『草原児童団』の舞台は内蒙古の草原で、子供たちが立ち向かった敵は「地主、富農」であり、彼らと結託して社会を大混乱に陥れ社会主義社会を転覆させ封建社会の復活を目論む土匪である。

 「東の空が紅く輝き、太陽が昇る。毛主席の英明な指導によって草原は解放された。至るところに紅旗が翻り、農民は地主を倒し、農地を分け合い、喜びの気が充ち溢れる。児童団は喜び勇んで地主と富農の監視活動に努める」と書き出される。最初の数行からして、すでに「毛主席の英明な指導」である。こうなったら文革当時の「毛主席、万歳、万歳、万々歳!」までは、もう一歩だろう。いや、子供の世界では大人の世界に2年程先んじて文化大革命が始まっていたとも考えられる。


(Imaginechina/アフロ)

 『草原児童団』の主役は13歳の黒牛クン。彼は村の児童団の団長である。

 ある日、民兵隊の王隊長から「これから土匪討伐に出掛ける。地主や富農が土匪と連絡を取らぬよう注意して監視してくれ。異常があったら鉄柱アニキに報告だ」との命令を受け、黒牛クンは仲間と共に地主の「大花蛇」の屋敷を見張る。それにしても地主が大花蛇で、その妻が「狐狸精(バケモノ)」というのだから、名前を見ただけで子供にも地主は極悪人と判る。“見事な印象操作”というべきか。

 地主の家から外に向かう足跡を発見した黒牛クン率いる児童団は、それを追って草原を突き抜け山に向い、洞窟に隠れる大花蛇を見つけ出し、槍で脅して立ち木に縛り付け尋問を繰り返す。“正義”を手に入れた子供たちが毛沢東によって進められた土地改革に敵対する地主を攻撃・尋問するという構図は、文革において紅衛兵や紅少兵がみせた毛沢東の敵に対する残酷・残忍で血腥い仕打ちを彷彿とさせる。やはり子供の世界は、大人の世界に数年先んじて「革命無罪」「造反有理」が讃えられていたのだ。

 最後は鉄柱アニキと黒牛クンたち児童団が、地主や土匪を縛り上げて村に凱旋するシーンで幕となる。毛沢東思想式予定調和といっておきたい。


毛沢東思想式ハッピー・エンドの物語


 同じく文革開始2年前に出版されたのが『林紅和她的伙伴』(費・林・陳・童子編絵 人民美術出版社 1964年)である。

 この物語の主人公である林紅は、農村の中学校を卒業したばかり。可愛らしく気立てがよく、そのうえ肉体堅固で我慢強い娘さんである。共産党の下部組織の共産主義青年団員で、両親が都市で仕事をしているので本来なら都市で進学できるのに、「農村こそが広大な天地だ。そこでは、なんだってできないことはない」という毛沢東の“有難い教え”を堅く信奉し、農村に留まり、自分から率先して困難な仕事に立ち向かおうと決意したというのだから、これまた文革時に毛沢東が「上山下郷(若者よ、農村で農民に学べ!)」をスローガンに都市の若者を農山村に送り込んだ「下放運動」の先駆けのような若者だ。

 そこで、「農業は国民経済の基礎である。党は我われに大いに農業に励み、力を農業の第一線に注ぐよう呼び掛けている。農業の持続的な躍進を望むだけではなく、工業を大いに振るわせ国民経済全体の持続的躍進を果たし、我が国の社会主義建設をより速く発展させ、より速く社会主義強国を完成させよう」(「内容説明」)と、彼女は獅子奮迅の働きをみせる。目指すは「社会主義強国」である。

 林紅が大活躍する物語は、国を挙げて大躍進政策が展開された1959年秋の早朝。河北省東部の中新人民公社の某生産隊から始まる。

 厚い暗雲に覆われた空からは大粒の雨が稔りの大地に叩きつける。「解放後、人々は政府の指導の下で毎年、堤防の修理を進めてきたが、この雨で水かさが急激に増し、堤防決壊の危険性が高まった」。そこで生産隊の書記を先頭に村人が総出で護岸補強工事に向かう。かくいう林紅も友達に呼び掛けて現場へ急行する。

 彼女は逆巻く怒濤に飛び込んで杭を打ち土嚢を積む。男勝りで八面六臂の大活躍だ。雨も止み、穏やかな日差しに照り映える川面を2隻の大きな船が船着場に接岸した。積まれているのは、政府から林家荘生産隊に送られる食糧や物資だ。村人の顔はほころび、誰もが川岸に飛んでゆく。その中に77歳の老人がいた。彼は政府から贈られた籾を手に、「毛主席、あなた様はワシにまで心を砕いて下さる。あなた様のご指導があらばこそ、ワシらは最期の日まで戦うことができますんじゃ」と、「解放前までのあの苦闘の日々を思い浮かべ、止め処なく感動の涙を流す」のであった。

 傍らに控えるのは、もちろん林紅だ。彼女は、「私は党の呼び掛けに応え、この村で皆さんと一緒に自然災害や食糧危機と戦い、ここに新しい農村を建設することを誓います」と、キッパリと言い切る。もちろん周囲の村人は誰もが感動の拍手であり、称賛の声だ。

 この村は相当に貧しい。過酷な自然環境の改造は焦眉の急だ。消極的な友人を励まし、村人に呼びかけ、彼女は自然改造の戦いの先頭に立つ。書記が「林紅同志よ、任務は極めて困難だが堅く覚悟を決めさえすれば、この荒野を無限の稔りの里に改造することができるんだ」と呼び掛けると、彼女は「そうです。党の指導があり、人民公社があれば、どんな困難があろうとも、我われは戦いに勝利する信念を持つことができるんです」と応える。

 押し寄せる数々の困難を克服し、「林紅と彼女の仲間たちは農業戦線において輝ける勝利を次々に勝ち取り」、「幾千万の林紅は祖国に降り注ぐ春の陽光を浴び、社会主義の新しい農村を建設するため勇猛邁進するのであった」と、林紅の物語は“毛沢東思想式ハッピー・エンド”で結ばれる。

 毛沢東がムリにムリを重ねて強行したことで全国民が塗炭の苦しみを舐めざるを得なかった大躍進が、『林紅和她的伙伴』では大いに讃えられ、人民にとっての理想として描かれている。

毛沢東の悲願を達成しつつある習近平

 『石荘児童団』の小栄クン、『草原児童団』の黒牛クン、それに『林紅和她的伙伴』の林紅さん。どうやら子供や若者の世界では、大人に先駆けて文革――毛沢東の敵に対する戦いの準備に入っていたようだ。

 習近平主席は1953年生まれだから、『石荘児童団』や『草原児童団』が出版された頃は、小栄クンや黒牛クンと同世代になっている。小栄クンや黒牛クンの手に汗握る戦いに心躍らせ、習近平クンは毛沢東の偉大さに強く憧れたに違いない。

 因みに毛沢東の壮大な夢である「超英趕美」の悲願は、GDP第2位の日本を追い越したわけだから、「英」を「日」に換えて考えれば、習近平政権の手で達成されつつあるともいえる。後は一帯一路を掲げてアメリカを猛追するだけだ。全面対決か、双贏(ウイン・ウイン)か、はたまた全面降伏か。であればこそ、米中貿易戦争には断固として負けるわけにはいかないと思うのだが。




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2018年6月21日
習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?
児童書で読み解く習近平の頭の中(3)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。

 毛沢東が党や国家を超越した絶対的権力を掌握するキッカケとなった反右派闘争が発動された2カ月後の1957年8月に出版された『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)に収められた一編の詩は、子供たちに「毛主席」にどのように報いるべきかを教える。そこに、文革時代に言い古された「海よりも深く、山よりも高い毛主席の御恩」の萌芽を読み取ることができる。

 この時代から文化大革命の終わる70年代後半まで――建国直後に生まれた習近平世代からすれば乳幼児から児童・少年期を経て青年前期までの人間形成期全般にわたって――毛沢東は「偉大的領袖毛主席」であり、毛沢東思想は「百戦百勝」と形容され絶対無謬であることを徹底して刷り込まれたのだ。

 ここで毛沢東の権威が確立させる前後の冷戦時代における中国を巡る内外状況――といっても主には中ソ関係だが――を簡単に振り返っておきたい。というのも、この時代にソ連の進んだ科学技術、物資豊かな日常生活を紹介する子供向けの書物が翻訳出版されているからだ。


中国で1950年代に出版された児童書(写真:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178


頂点に立つ「ソ連に学べ」

 1953年3月にスターリンが死去し、1956年2月にはフルシチョフによるスターリン批判報告が秘密裏に行われ、東ヨーロッパでは反共産党暴動が6月のポーランド、10月のハンガリーと連続して発生する。一方、1950年6月に勃発した朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定調印となり、1954年9月に開始された人民義勇軍の撤退は1958年10月で完了した。

 毛沢東が東側社会主義陣営の優位を高らかに宣言した「東風が西風を圧する」と題する演説がモスクワで行われたのが1957年11月である。毛沢東のフルシチョフに対する不信感・優越感は芽生えていただろうが、ともあれ“中ソ一枚岩の団結”が内外に強く印象づけられていた時代である。

 一方、中国国内に目を転ずると、1956年5月に毛沢東は「百花斉放 百家争鳴」を掲げ言論の自由化を提唱し、年末までに農村では高級農業合作社化、都市では私営企業の国有・国営化が完了し、社会主義への道を一歩踏み出し、9月には中国共産党第8次全国代表大会が開かれている。

 大会冒頭で毛沢東は「同志諸君、いま中国共産党第8次全国代表大会が開幕した」と宣言した後、活字に起こして2万7千字ほどになる基調演説を行った。彼の口調を真似てゆっくりと読んでみると所要時間は12,3分といったところだが、この間、「(拍手)」が13ヶ所、「(熱烈拍手)」が14ヶ所、「(長時間熱烈拍手)」が2ヶ所、「(全員起立し長時間熱烈拍手)」が3ヶ所ほど。

 一例を挙げれば、「いま我が党は過去の如何なる時期より団結している(拍手)」「国際社会における我われの勝利はソ連を頂点とする平和民主社会主義陣営の支持に依拠している(熱烈拍手)」「帝国主義が造りだす緊迫した情勢と戦争準備の陰謀を徹底して破産させなければならない(長時間熱烈拍手)」「今日、この場に出席している50数カ国の共産党、労働者党、労働党、人民革命党の代表に〔中略〕熱烈なる歓迎の意を表す(全員起立し長時間熱烈拍手)」といった具合だ。

 これを要するにソ連は、「国際社会における我われの勝利」を支持する「平和民主社会主義陣営」の「頂点」に在ったわけだ。まさにソ連に学べ、である。


「邪悪な勢力」から身を守るには?


 そんな時代に『一晝夜二十四小時』(楊瑞槐訳 上海衛生出版社)が出版されている。この本は「1937年、7月のある爽やかな一日、モスクワは異常なまでの心躍る気分に包まれていた」と書き出される。


スターリン像(iStock.com/alf75)

 その日、モスクワ発北極圏経由でアメリカまでの航路120,000キロを63時間25分で無着陸飛行に成功した3人の飛行士を、モスクワの街は挙げて大歓迎した。黄昏が迫る午後6時、3人を乗せたソ連製最高級車は天をも揺るがすような歓呼に包まれた赤の広場を疾駆する。クレムリンで待ち構えていたのは、もちろん党と政府の最高幹部を従えたヨシフ・スターリン。独裁者は、3人の手を固く握り熱い抱擁を交わした。

 まさにスターリン賛歌と見紛うような情景が綴られているが、この本の狙いはそこだけにあるわけではないようだ。ソ連の高い科学技術は当然のことながら、スターリン理論に支えられた「パブロフの高級神経活動学説」(?)に基づく規則正しい生活によって鍛えられた飛行士の心・技・体こそが、祖国に無上の栄光をもたらした。だから、我われ中国の子どもたちも規則正しい生活を送るべきだと、力強く呼び掛ける。

 「我われ社会主義国家は一貫して平和を渇望し平和を築く事業をしっかりと守ってきた。だが資本主義の世界には、なんとしてでも戦争を引き起こそうと虎視眈々と狙っている邪悪な勢力があることを断固として忘れてはならない。それゆえ、戦争の危機が消え去ることなどない。ソ連の青年は祖国を自らが防衛するという光栄ある責任を全うするための準備を完璧にしておくべきだ。先の偉大なる大祖国防衛戦争における経験が、優秀なるスポーツマンが優れた戦士であることを明らかにしてくれた」。「戦場では、より遠くまで跳躍し、より高く飛び、どのような障害も飛越し、長い距離を速く走るなどの能力が求められる」。

 言い換えるなら、ソ連の社会主義は優れているし平和を守ってきた。だが、劣った資本主義の世界が戦争を仕掛け、平和が侵される可能性は常に存在する。だからこそ社会主義の祖国を守るためには24時間を規則正しく送り、自らを鍛錬し健康を守らなければならない。「生活制度――凡ての疾病から身を守る最も基本的であると同時に主要な手段――は任務遂行の上での基盤であり、組織性を涵養するだけでなく、社会秩序の基礎である」。

 たとえば中学生の日課は、起床=7:00〜7:15、体操・身体摩擦・洗面・身の回りの整頓=7:15〜7:45、朝食=7:45〜8:00、登校=8:00〜8:20、学習(教室及び社会)=8:20〜14:30、下校=14:30〜15:00、昼食=15:00〜15:30、戸外での遊び=15:30〜17:00、予習=17:00〜20:00、夕食と自由時間=20:00〜21:00、就寝準備=21:30〜22:00、睡眠=22:00〜7:00

 このような規律正しいソ連式24時間生活を送ることで「党と政府が常に示す無限の恩愛に愧じることなき人生」を送るよう、当時の「党と政府」は子供たちに求めたというわけだ。

「月旅行」に「原発」、ソ連の科学技術を絶賛する児童書


 同じ1956年には『少年兒童讀物 到月亮上去(月に行く)』(魯克編著 山東人民出版社)が出版されている。

 ある日、主人公の小飛馬クンが共産党が少年教育のために設けた少年宮での天体クラブの活動を終え帰宅すると、妹が「兄ちゃん、電報」と。モスクワのソ連科学院で研究を続ける父親からの電報だった。

 「小飛馬クン、元気かい。/父さんは元気でソ連科学院で順調に研究活動に励んでいると母さんに伝えてくれ。/とってもいい知らせがあるんだ。ソ連のオジサンたちは月旅行の準備を完了し、もうすぐ出発だ。そこでソ連科学院と相談したら、お前を一緒に連れて行ってくれるというのだ。天文学が好きで、将来は天文学者になるつもりだったね。いいかい、人類が最初に地球を離れ別の星に行くのだ!/我々は地球の主人であるだけではなく、宇宙の主人になるんだ!一生懸命に頑張るんだよ!小飛馬クン/電報を受け取ったら、すぐにやってきなさい。モスクワで待っている/父より」

 小飛馬から事情を知らされた母親は、「よかったね。早くお休み。明日、航空券を買って来るから」。

 モスクワに着いた小飛馬は、月に向け今にも飛び立たんとする「月球一号」と名づけられたロケットに乗り込む。原子燃料エンジンが轟音をあげるや、月球一号は地上を離れ宇宙空間を飛んで月へ。月面探査の状況を綴りながら、月の持つ様々な謎を解き明かしながら物語は進む。

 やがて月面を離れ地球へ。小飛馬はロシア人の歓呼に迎えられ抱きかかえられるようにして父親の許へ。「なぜ、人々は喜び昂るのか。小飛馬たちが人類最初の月旅行という重大な任務を完了したからである」。

 この物語が、ここで終わる訳はない。月旅行は幻想ではなく科学的根拠に基づいていると解説した後、ソ連科学者の「月旅行は完全に可能である。ただ時間の問題だけだ」との言葉を紹介する。さらにソ連の科学技術の高さを紹介して、「ソ連では最近、世界初の原子力発電所を建設した。発電能力は石炭の350万倍であり、将来的には船舶に利用すれば燃料補給なく数ヶ月の航海が、航空機では地球一周飛行も可能だ。ソ連の科学者は1957年から58年の間に人工衛星を打ち上げる。将来的には月はおろか、火星、金星などの惑星へ行こう」と、ソ連の科学技術賛歌で終わっている。

習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?

 1957年にはソ連の最新細菌学の成果を紹介する『奇異的眼鏡(奇妙なメガネ)』少年兒童出版社 彭中仁訳)、最先端の科学技術にサスペンスを加味した『第二顆心臓(第2の心臓)』科学普及出版社 李敏訳)などが出版された。

 「科学幻想小説訳叢」と題された後者は、電離層を経由して中国に送電する任務を負ったソ連の科学者が最初に試みた実験は某国のスパイに妨害されただけでなく、心臓を銃弾で射抜かれてしまう。そこで登場するのがソ連の革新的医療技術であり、新しい心臓の移植に成功するというストーリーだ。

 おそらく当時の子供たちは、ソ連の科学技術の素晴らしさに憧れたに違いない。想像を逞しくするなら、習近平少年もまた小飛馬に自らを重ねながら「中国の夢」を思い描いていたかも知れない。

 この時、すでに中ソ両国の共産党は、スターリン評価と議会主義国家建設への方法を巡って抜き差しならぬ対立へと向かっていた。もちろん、その影響は徐々ながら子供たちの身の上にも及ぶことになる。





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2018年6月6日
中国の権力者たちの「悪癖」は直りそうもない
児童書で読み解く習近平の頭の中(2)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代に出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034


汚い場所には「妖精」がいる?

 先ず習近平国家主席が誕生し(1953年6月)、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ(7月)た1953年の11月に出版された『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)を取り上げたい。

 「私がこの科学機器展示館にやってきて、もう数日が過ぎた」で書き出される『顕微鏡的日記』は、顕微鏡である「私」が書いた日記を通じ子供たちに公衆衛生の大切さを判り易く教える。


『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034


 「ポチャポチャっと太って可愛らしい珍珍チャン」は展示館の学芸員のお嬢チャン。イラストでは髪の毛は西洋人風にタップリとウエーブが掛かっていて、目元パッチリで可愛らしいワンピース。ついでにいうなら、珍珍チャンの同級生の男子児童もボッチャン刈り。ストライプの入ったスポーツシャツに短い半ズボン。足元をみれば、ハイソックスにスニーカー。豊かな西欧世界への淡い憧れが見て取れ、なんとも微笑ましい。とてもじゃないが、当時の中国ではお目にかかれそうにないほどにモダンだが、おそらく高級幹部の公子(おぼっちゃまクン)である習近平チャンは、こんな服装をしていたに違いない。

 珍珍チャンは毎週土曜日午後、展示館にやって来て「これ、なあに」「あれ、なあに」と展示されている最新科学機器について館員に質問する。今日は「私」を指して、「これ、なあに」。すると若い館員が「これは照妖鏡だよ」と応える。目を真ん丸くした彼女は、「照妖鏡って、前にお話ししてくれた照妖鏡なの」。「そうだよ。照妖鏡さえあったら、どんな妖精だって姿を現すんだ」。

 「妖精なんかいない」と言い張る珍珍チャンに対し館員は、「いいかい、空気の中にだって妖精はいるよ。キミが食べる果物の皮にも、沸騰させてない生水の中にも妖精は必ずいるんだ。それにゴミ箱、排水溝、ハエの足〔中略〕汚い場所には汚い場所だけ妖精はたくさんいるんだ」と付け加える。

 以下、妖精とは人体に害を及ぼす病原菌のことであり、照妖鏡と呼ぶ顕微鏡を使って病原菌を見つけ公衆衛生を確立することが国造りに繋がっていることを教え諭す。ジフテリア、天然痘、コレラ、下痢などについて判り易く解説しているから、これらの病気が当時の国民病だったことが想像できる。

 本書には病気対策のための歌が納められている。建国当初の社会状況を知るうえで興味深く思えるので、そのうちの下痢と伝染病対策の歌を紹介しておく。

下痢=「下痢の予防だ、下痢予防。最初はハエを退治して。布巾で食べ物よく拭いて。箸や茶碗はキレイに洗う。食事の前には石鹸手洗い。下痢の細菌、人殺し。まだまだいるよ下痢の菌。果物、野菜、生水に。下痢の細菌、数知れず。野菜はしっかり火を通す。生水、ちゃんと煮立たせて。果物、消毒しましょうね」

伝染病=「伝染病をみつけたら、患者を早く病院へ。伝染させてはイケマセン。服や道具の病菌を、直ぐにも消毒しましょうね。馬桶、川に流さない。病菌を、川に撒いてはダメですよ。病原菌を消毒し、丈夫な体で生産競争頑張ろう」

 この歌に依る限り、当時の生活ぶりは不衛生極まりなく、下痢は一種の国民病だったと考えられる。馬桶とは家の中に置く排便・排尿用の桶である。毎朝の日課は馬桶に溜まった家族の糞尿を川に捨てることだった。当時、一般には個人住宅には便所がなかった。


卑屈なまでのゴマすり、中ソ蜜月時代の珍風景


 「砂と土は、地上で最も多く、最も簡単に手に入れることのできるものです。だが、キミたちは、その用途が大きくないなどと思わないで下さい。いいですか。それがなければ、ボクたちは1日だって生きていられません。わが祖国の建設事業において、とっても重要な役割を果たしています。将来、もっともっと科学が発達したら、砂と土の用途はますます拡大します。チッポケですが、この本は、キミたちに砂と土についての色々な知識を伝えようとするものです」と書き出される『少年兒童知識叢書 沙和泥(砂とドロ)』(李家治 少年児童出版社)が出版された1955年には、チベット動乱が勃発している。因みに我が国では左右両派の社会党の再統一に刺激された保守が大合同し自民党が生まれ、「55年体制」が発足した。

 数万年、あるいは数十万年もかかって岩石は砂や泥に、砂や泥は岩石に変化する。砂と泥は兄弟の関係であり、粒子の大きい砂が兄で、細かいのが弟の土、そして兄弟の母親は大きな岩石であると、砂と土と岩石の関係を家族に擬え判り易く説明した後、「土を使って陶器を作ったのは中国人の偉大な発明です。我われ中国人は、すでに4、5千年の昔に美しい彩陶器を作り出したのです」と、中華文明の偉大さを説く。

 改めて表紙のイラストを見ると、稼働中の建設用クレーンが数基と、いままさに建設中の近代都市が描かれている。その街のビルは、どれもが旧ソ連式の無骨なスタイルで、当時の中国が建設技術の多くをソ連に頼っていた、あるいはソ連をモデルとした都市建設がブームだったことを明らかに示している。

 全ページを通じて中国への言及は極めて抑制的であり、反対に随所にソ連に対する“忖度”が感じられる。石綿を発明したのはソ連であり、「セメントが発明される以前では、上海の中ソ友好ビルや国際飯店のような背の高いビルの建設は、はっきりいって不可能だった」。板で型を組み、工場でいろいろな形のセメント版を造り、出来上がった製品を現場に運んで組み立てれば、たちどころに1棟、2棟と建物が完成する。この「ソ連の先進的経験」を学び、我が国でも続々と新しい工場を建設している。「すでにソ連の科学者は様々な色彩のセメントを発明しました。このカラー・セメントで作られた住宅は、まるで空中に輝く虹のようであり、本当に綺麗なものです」。

 ソ連への卑屈なまでのゴマすりを、子供にまで覚えさせよう――スターリンの死(1953年)とソ連でのスターリン批判(56年)の間の、中ソ蜜月時代の珍風景だろう。


諫めても戒めても「悪癖」は直りそうもない


 同じく1955年に出版された『五個杏子(5個のアンズ)』(寇徳璋 少年児童出版社)は、人民に服務することと正直の大切さを教えようとしている。

 ある夏の夕暮時、半袖の開襟シャツに半ズボンの王徳生クンが、淡い水色のワンピースに真っ白な前掛けをした妹の手を引いて学校に向かって息を切らせて走っている。王クンの頭は坊ちゃん刈りで妹の頭には長く延びた2本のおさげ。2人共、こざっぱりしたソックスにスニーカー。つつましやかな家庭で、規則正しく伸び伸びと育てられている風情だ。

 学校から帰り近所の友達と遊んでいて、王クンは宿題を思い出した。そこで慌てて家に引き返し宿題をはじめようとしたが、筆箱がないことに気づいた。「しまった。学校に忘れたんだ」。兄が家を飛び出すと、そこに妹が。学校に行くといっても、おやつでも買いに行くんだろうと信用しない妹は、兄についてきた。校門が閉まる前に学校に着かねばと焦る兄は妹の手を引っ張る。懸命に走ったことで、妹は喉が渇いた。そこに「酸っぱくて甘い杏だよ」と物売りの声。

 「兄ちゃん、杏の菓子を買ってよ」

 妹思いの王クンはポケットに手を突っ込むが、「しまった、おカネは鞄の中だ」。しゃがみ込んで駄々をこねる妹を、「家に帰ったら買ってやるから」となだめて一目散に学校へ。

 教室に飛び込みまっすぐ自分の机に。あった、筆箱があった。筆箱を手に校庭に飛び出すと妹がいない。妹は校庭の隅の杏の木の下にいた。

 「兄ちゃん、あれ取って。わたし喉が渇いちゃったの。食べたい、食べたい」

 それは生徒全員で育てている杏の木だった。みんなのもの、つまり公共財産だ。「妹のためとはいえ、それを取ることは公財私用の罪だ。ボクは地主や資本家のように利己主義者にはなれない」と王クンは煩悶するが、幸いなことに誰も見ていない。そこで5個の杏を取って妹に。喜ぶ妹。些か大袈裟だが、悩みは深い王クンだった。

 翌日の休み時間。みんなで校庭でサッカーだ。王クンはゴールキーパー。杏の木の下に置かれたゴールを守りながら、杏の実が気になって仕方がない。友達が「おい、王クン。何かあったの。杏の木ばっかり眺めているけど」「別に……」

 教室に戻ると先生が、「みんなが水をやったり、害虫を駆除したりして一生懸命に育てたから、今年は豊作で240個も杏を収穫することができました。このクラスの生徒は40人ですから、1人何個になりますか」。すかさず「240÷40=6だから、1人6個」の声。

 先生が6個ずつ渡そうとすると、王クンが前に進み出て先生の横に立ち、級友に向かって昨日のことを包み隠さず正直に話した。すると、

 「自分の利己心じゃなくて妹のことを思えばこそだ。王クンは悪くないよ」

 「違うよ。妹にも話して判らせるべきだった。『公共財産』を私的に取っちゃあダメだよ」

 最後に先生が、「妹のためといいますが、やはり王クンには公共財産を守るという自覚が欠けていました。妹に教える努力を怠りました。こういった点はよくありません。ですが王クンには素晴しい点があります。それは自分の間違いを正直に話し、それを認め、自分から改めようとすることです。これこそ立派な心掛けです。王クンが犯した過ちを認めたこと。正しくありませんか」。すると教室は「そうだ、そうだ」の大合唱に包まれる。

 このように子供の頃から公共財産の私的流用は不正であることを厳しく教えたはずだが、「虎もハエも一網打尽」の大号令で習近平政権が始めた不正摘発によって暴かれた幹部たちの不正蓄財の額――最多は胡錦濤政権(2002年~12年)で最高権力集団のチャイナ・ナイン(共産党中央政治局常務委員)の一角を占めた周永康の1兆数千億円という天文学的規模――を考えると、どうやら『五個杏子』の教育効果は当初の期待ほどではなかったわけだ。諫めても戒めても公財私用(=公の財産を私する)という悪癖は直りそうにない。ならば、それは子々孫々と受け継がれる民族のDNAとしか考えられないのだが。


幼少期から「政治的役割」を与えられた世代


 1957年6月には反右派闘争が始まり、7月には『従石頭到紙(石から紙へ)』(李懋学 少年児童出版社)が、翌8月には『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(学前児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)が出版されている。

 それから3カ月が過ぎ1957年11月、社会主義12カ国会議参加のためにモスクワに乗り込んだ毛沢東は中国人留学生を前に、「東風圧倒西風(東風が西風を圧倒する)」と傲然と語りかけた。いまや東側社会主義陣営が西側資本主義・帝国主義陣営を圧倒しているというのが一般的な解釈だが、翌58年の動きを振り返ると、この考えは変わるはず。58年5月には大躍進運動がはじまり、7月に北京を訪問したフルシチョフによる中ソ共同艦隊建設提案を毛沢東が拒否し、8月には人民公社建設と鉄鋼大増産を軸とする大躍進の大号令が下され、人民解放軍が台湾の“解放”を狙って金門・馬祖島へ砲撃をはじめた。

 つまり、「東風」は毛沢東であり中国、「西風」はフルシチョフでありソ連・東欧社会主義陣営と看做すほうが、当時の毛沢東の意気軒昂たる心境を言い当てているだろう。

 『従石頭到紙』は、「小さな友人諸君、キミたちは知っておくといいよ。古代人はどのようにして字を書いたのか。どんなもので書いたのか。何処に書いたのか、を。するとキミたちは、きっとこういうだろう。『誰にそんな知恵があったの。気が遠くなるような昔のことなど、ボクたちに伝えることができるの?』って」と書き出される。

 中国人の地質学者や考古学者が歴史以前の世界を“旅行”し、様々な地層の内部まで出かけて行ったり、人類の祖先の住まいを訪問し彼らの当時の生活ぶりを研究した結果、遥かに昔の原始人は岩山の洞窟に住んで狩猟や木の実などを採って生活していたことが判った。石を細工して武器など作って狩猟したが、絵も描いていた――こんな説明文の後に、「そんなことがあったの。原始人は絵を描けたの」と子供口調で素朴な疑問を示し、それに「そうなんだよ。文字のお母さんこそが絵なんだ。最初、原始人は字を書くことを知らなかったというわけさ。その頃は、字なんてなかったんだよ。だけど絵は描けたんだ」と優しく噛み砕いて教えている。

 「毛筆も鉛筆も、紙もなかったんでしょう。どうしたら絵が描けたの」

 「だからさあ、磨いた石や骨が彼らにとっての筆記用具だったんだ」

 「じゃあ、紙は」

 「彼らが住んだ洞窟の大きな石の壁さ。それから平らな石の表面や獣の骨・・・こういったものが彼らにとっての“図画用紙”だったんだな」

 かくして竹簡、木簡にはじまり、優秀な中華民族が世界で最初に紙を発明し、紙は用途を拡げたと説明し、「人々の知恵と労働が色んな種類の紙を生みだしたんだ。だから、ボクらは紙を無駄にすることなく、丁寧に扱おうね」と結んだ。

 中華民族の優秀さが語られると同時に、「小さな友人諸君」の脳髄にも政治の影、つまりは毛主席の存在が刷り込まれるようになる。そこで『美麗的樹葉』の表紙を開いてみたい。花の咲く草むらに坐る袖なしシャツに半ズボンの男の子と白いブラウスに赤いジャンパースカートの女の子。どちらも丸々と太っている。2人は胸に大きなリンゴを抱きながら、上空を飛ぶ小鳥に呼び掛ける。


(画像:筆者提供)

 「小鳥サンが飛ぶ、小鳥サンが飛ぶ/小鳥サンは何処まで飛ぶの/どうかこっちに飛んできて/お願いがあるんです/母さんがくれた大きなリンゴ/お願い、毛主席に届けてね」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034?page=4


 いよいよ子供たちの目の前に、《偉大な毛主席》が立ち現われるのであった。

 『従石頭到紙』と『美麗的樹葉』の出版翌年の1958年、大悲劇の大躍進が始まり、中国は国を挙げた長く重苦しく激しい政治闘争の時代に突入し、子供が子供であることができた幸せで長閑な時代は終わりを告げ、“小さな大人”として立派な政治的役割を与えられ、政治闘争の前面に躍り出るのであった。そんな子供たちこそ、現在の中国を動かす中核世代――最高権力を掌握するチャイナ・セブンから全国各地の党と軍の幹部、国有企業と私企業の経営幹部、大学学長など――であることを忘れてはならないだろう。





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中国はいかにして「地獄の門」を開けるに至ったか
児童書で読み解く習近平の頭の中(6)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13723

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


 1963年当初から毛沢東最側近の2人――夫人の江青と「中国のベリア」と呼ばれた康生――は上海を拠点に京劇を軸とする文芸部門において、政権を掌握している劉少奇に対する攻撃を画策していた。

 この動きは1964、65年と年を追うごとに激しさを増す。『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)、『草原児童団』(上海出版社 1964年)、『草原児童団』(上海人民出版社 1964年)、『雪山上的号手』(上海人民出版社 1965年)と、これまで見てきた児童書からも、その動きは傍証できるだろう。加えて1965年11月には、毛沢東思想に殉じた若き人民解放軍兵士の王杰を讃える『王杰日記』(人民出版社)が出版されている。

『王杰日記』には、「毛主席の著作を読むことは革命戦士としての第一の任務である」「革命の同志は団結しなければならない」「毛主席が話されたことは、なんでも実行するぞ」「断固として階級闘争を忘れるな」「革命の徹底が理想であり、革命の事業こそが前途であり、人民に尽くすことが幸福である」など、文革時に全国を覆ったスローガンそのもののような記述が溢れている。まさに、文革へ向けての準備は着々と進められていたはずだが、劉少奇側に危機感は感じられない。その象徴が1965年11月に出版された『新的“石器時代”』(陳仁 中国青年出版社)だろう。


毛沢東に対する揶揄が感じられる一冊


「新型硅酸塩材料的世界」という副題が示しているように、この本は、無限の可能性を秘めた新素材と大いに期待されていた硅酸塩(silicate)と人類の関わりを石器時代から説き起こし、やがて人類の輝く未来を約束する万能の科学素材であることを語る科学ドキュメンタリーであり、空想科学物語でもある。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)

「古代の労働人民は絶え間ない実践の末に」、「湿った粘土を捏ねて器のようなものを作り火に放り込んで焼くと、冷めた後に石と同じ程度に固くなることに気づいた」。そこで「我われ人類は銅や鉄といった金属材料を発明して後、(腐りも錆びもしない)石器に似た素材の陶器とガラスを産み出す」と書き出される。

 ここで不思議に思えるのが、「古代の労働人民」という表現だ。おそらく文革期なら「古代の労働人民」ではなく「古代の奴隷労働者」としていたに違いない。なにがなんでも古代は奴隷制であり、ましてや技術の進歩を担ったのは奴隷でなければならないという硬直した文革史観からすれば、「古代の労働人民」が「陶器とガラスを創造した」などという曖昧な表現は人類の進歩に尽くした奴隷の働きを否定するものであり、断固として認められないものだったはずだろう。

 その後、人類は誰もが知っている硅酸塩の家系の始祖である玻璃(ガラス)」に様々な工夫を加え、鉄より固く超高温にも耐えられるガラス、光線を遮断するガラス、レーダー波を透すガラス、さらには繊維のように細いガラス、鋼より固いガラス、ダイオード、電子計算機の「脳細胞」などを次々に発明する。セラミックの発明によってジェット機やロケットの燃焼機関の性能は飛躍的に向上し、「特殊玻璃鋼」で作られた先端部分を取り付けることで大陸間弾道弾の弱点が克服され兵器としての性能・威力が格段に増した。原子炉内部に新型の硅酸塩素材を使うことで超高温環境での核反応コントロールが可能となり、有限の化石燃料に頼らなくてもいい夢の発電システムが約束された。やがては「ラジオは繭玉ほどに、電子計算機はたばこの箱程度の大きさになるだろう――夢物語は続く。

「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」である。「失敗を恐れずに敢えて挑戦する革命精神を発揮して、多種多様な用途を秘めた新型硅酸塩素材を創造し、古くから知られた硅酸塩を進歩する新しい時代に生かしていこう」と締め括られているが、「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」などの表現からは、大躍進の失敗を回復させた劉少奇路線に不快感を隠さない毛沢東に対する揶揄が感じられないわけでもない。

劉少奇派の無防備ぶりが感じられる一冊


 1966年に入ると、林彪と江青を軸に文革派は一気に動き出す。1月後半には、林彪が率いる解放軍は全軍政治工作会議を開き、毛沢東思想教育を重点的に進めることを全軍に訓令する。2月2日から20日までの間、林彪の要請を受けた形で江青は上海で「部隊文芸工作会議」を開催し、文芸部門による解放軍の政治教育の徹底化を進める。20日には「文革のイデオローグ」でもあった張春橋によって文芸部門での劉少奇路線に対する徹底批判を暗示する文書が公表された。

 解放軍における劉少奇派の象徴と目された羅瑞卿への批判が激しさを増し始めた1966年3月、「少年自然科学叢書」と銘打たれた『煤的故事』(朱志尭編著 少年児童出版社)が出版された。この本には文革時代の出版物に溢れた過剰なまでの毛沢東への賛仰が見られない代わりに、共産主義に対する素朴で明るく、根拠なき希望が溢れている。

 この本は「工業のコメ」であり、「ありとあらゆる工業製品の原料」であり、「鋼鉄を精錬し、汽車を動かし、電力を起こし、日常生活において暖房・炊飯をなす」だけでなく、「加工処理を経て、ガソリン、プラスチック、合成繊維、化学肥料、農薬などの数多の種類の工業原料や化学産品」となるだけに「黒い宝石」と呼ばれている石炭について、その生成から発見、使用の歴史、さらには採鉱の歩みを判り易く解説しているが、小学校高学年から中学生程度に理解させ、科学少年を育成しようとの狙いが感じられもする。

 数十億年の昔から現在までの石炭という鉱物の歩みと人類と石炭のかかわりの歴史を語りつつ話を進めるが、1949年10月1日に「偉大なる中華人民共和国」が誕生したことで、「人間の地獄、悪魔の天国」「死人の倉庫」と呼ばれていた旧中国の炭鉱は一変したと熱く語る。「炭鉱は人民のものとなり、かつて圧迫され搾取されていた炭鉱夫は鉱山の主人公となった」のである。

ここで興味深いのが共産主義的SFの世界を語る「未来への展望」の章だろう。

――ロケットは空中を突き進むだけでなく地中をも疾駆し、探索し、地下に眠る「黒い宝石」を余すところなく僕らの目の前に示してくれる。そこで僕らは、手助けしてくれる多くの友達に手助けを依頼しなければならない。機械という友達はもちろんだが、じつは凄い能力を持つ物理化学という友達もいるのだ。こいつは、どんな機械よりもスイスイと地中を軽快に動き回り、効率も高い。僕らが目にすることのできない電磁波や超音波という友達が地中深く探って、埋蔵されている石炭の様子を知らせてくれる。

そこで僕らは直ちに「万能溶解剤」を地中深く流し込み、溶剤の力で石炭を液化させ、地上に吸い上げる。液化した石炭を地上に設けた「総合利用工場」に送り、複雑な化学処理と加工をすれば、工場から出荷される時には色々な人造繊維、衣料や食品に代わっている――

 なんとも荒唐無稽でステキな夢物語だが、ここからがさらに凄まじい。

「これこそ一枚の、美しくも麗しい風景ではないか。こういう世界を一日も早く実現させ、人類が生み出した労働の成果を真に人民のモノとするためには、断固として搾取者を消滅させなければならないのだ。地主・資本家を打倒し、人類にとっての最高の理想である共産主義に向かって進もうではないか」

 この本には政治主義一辺倒の記述も、毛沢東思想式の杜撰で身勝手な歴史観も、ましてや文革に見られたド派手な血腥さも感じられない。進歩する科学技術への素朴な期待と信仰が行間に溢れるばかりだ。文革に向け戦いの準備を進める毛沢東ら文革派とはあまりにも対照的に過ぎる内容だけに、やはり劉少奇派の無防備ぶりが感じられて仕方がない。


紅衛兵の若者の心を捉えた“金言”


『《少年英雄故事》叢書 林森火』(中国少年児童出版社)は、『新的“石器時代”』や『煤的故事』が万能の科学技術を誰もが享受できる共産主義社会の明るい未来を熱っぽく語っているのとは対照的な、暗く辛かった蔣介石政権時代の物語である。

『煤的故事』の出版が1966年3月で『《少年英雄故事》叢書 林森火』は5月。この僅か2ヶ月の間に政治状況は激変する。毛沢東が政治の前面に躍り出て、劉少奇追い落としを匂わせる動きを見せ始めた。

 3月中旬、毛沢東は共産党政治局拡大会議において文化大革命の発動を提言し、これを承けた形で林彪は解放軍を挙って文芸部門における文革を宣言した。いわば文革派が態勢を整えつつあるにもかかわらず、劉少奇は王光美夫人を伴ってパキスタン、アフガニスタン、ビルマを断続的に訪問する(3月26日から4月19日)。劉少奇の北京不在を見透かしたかのように、毛沢東、林彪、陳伯達、康生、江青、王力、張春橋ら文革中核メンバーが連携を強め、党と解放軍における劉少奇派炙り出しに動きだす。いわば劉少奇打倒への狼煙をあげたわけだ。

 北京中枢で進んでいたこのような政治状況を考えるなら、やはり『《少年英雄故事》叢書 林森火』は毛沢東ら文革派が子供を“大人の政治”の世界に引きずり込もうとする道具と見做して間違いないだろう。

『《少年英雄故事》叢書 林森火』の舞台は1946年に始まった国共内戦である。

 浙江省玉環県に生まれた12歳の林森火は、「旧社会」で苦難の日々を送った。父親の僅かな収入では一家を満足には養えない。2人の兄のうちの1人は2歳で餓死し、1人は医者に払うカネも無いままに生後10ヶ月ほどで病死している。たった1人の姉は11歳で奴隷に買われ、数年後には苦労のなかで死んでいる。

 蔣介石ら封建反動勢力の実態を教える小学校の先生に導かれ、彼は共産党支援のために組織された「地下児童団」に参加し、「毛主席万歳」「中国共産党万歳」などのスローガンを街に貼ったり、共産党ゲリラのための伝令・情報員を務める。1950年11月20日、16歳になった林森火は司令官の退去命令に逆らい「怖くはない、この戦場で敵を殲滅するんです」と決意し戦場に赴くが、敵の砲弾の犠牲となってしまう。

 先生が林森火少年に語りかけた言葉――革命とは生きるか死ぬかの階級闘争だ。そこには数多くの危険がある。様々な危険を克服し、死を恐れず、敢えて革命の犠牲者たれ――こそ、文革において紅衛兵を名乗る多くの若者の心を捉えて離さなかった“金言”だった。かくて青少年は毛沢東の手の平で踊りだし、毛沢東の敵を求めて“躍動”することになる。

若者を“純粋過激なサイボーグ”に育て上げた教材


 1966年8月に出版されている『一心為公的硬骨頭戦士』(中国青年出版社)の表紙には、銃を背負い、右肩に鶴嘴を担ぎ、『毛沢東選集 第四巻』を左手で胸に大事そうに抱え込む目鼻立ちのはっきりした若者が描かれている。若き鉄道兵士の張春玉だ。背景には鬱蒼と茂る森林が描かれ、その向こうに昇る大きく真っ赤な旭日――もちろん真っ赤な太陽は毛沢東を指し示している。表紙イラストこそ、この本のすべてを物語っているといえるだろう。『一心為公的硬骨頭戦士』『一心為公的硬骨頭戦士』は、張春玉の日記の一部と『人民日報』『解放軍報』など文革派の宣伝メディアに掲載された彼を華々しく讃える数編の論文で構成されている。

 まるで“お約束”ででもあったかのように、彼もまた「貧困家庭出身」だ。「張春玉同志は毛沢東思想に育まれながら、労働に、任務に、階級闘争において艱難辛苦のかなで成長し、強靭なる共産主義戦士に成長した」。「彼は生死の間を彷徨う苦しい経験、さらには重傷を負う闘争を繰り返すなかで、階級闘争における鋼鉄の戦士に鍛え上げられていった」。かくて、「毛主席の階級闘争学説は、張春玉同志に階級闘争を永遠に忘れてはならないことを教えた」のである。

 それゆえに張は日記に、「毛主席は『社会主義制度の建設は、我われのために理想郷に到る道を切り開いてくれるのだ。だが理想郷の実現はひとえに我らの真摯な労働にかかっているのだ』と教えている。そうだ。毛沢東の時代に生きていることは幸福であり、なんにもまして誇り高いことなのだ。だが、幸福への道の上でなにもせずに立っていられることなど出来はしない。断固として出来るわけがない。幸福への道において全身全霊で働き、さらに幸福な生活を創造し、我が国をより富強で、より麗しくしなければならない」と綴り、「心の底から革命を想い、人民のために如何なる苦労も厭わず、一分一秒を党に捧げ、心から同志を想い、己より戦友に心を配り、一瞬一瞬を他人のために尽くそう」、或いは「我が一生を土塊、石、枕木と化し、共産主義に進む大道の建設に邁進しよう。革命の列車を我が五体を乗り越え、全速で前進させよう」と、その“崇高極まりない決意”を表明する。

 当時、自らを蔑ろにする劉少奇に狙いを定め、その失脚を策謀していた毛沢東にとって最大の関心事はやはり強力な助っ人であり手駒だったはず。毛沢東は最大最強の「暴力装置」である人民解放軍の指揮権を持つ林彪を仲間に引き入れる一方、純粋無垢であるがゆえに凶暴・無謀で過激な若者を唆し、彼らに政治的前衛であると同時に社会の道徳的前衛を担わせた。毛沢東に盲従し、毛沢東の指し示す規律を厳守し、勤勉で大義のために殉ずる。なによりも全身全霊をなげうって毛沢東に奉仕し、誰もが純粋で、毛沢東を守るためには、自らの命を捧げ尽くすことを厭わない政治的サイボーグに仕立て上げた。この本は若者を純粋過激な毛沢東主義者に育て上げるための教材だった、ということになる。

『一心為公的硬骨頭戦士』が出版されて2ヶ月が過ぎた1966年8月、「毛主席の親密なる戦友」だった林彪を従え、毛沢東が天安門楼上に立ち、眼下に広がる広大な広場を埋め尽くした100万人余の紅衛兵を接見している。この時、中国全土を舞台にして、興奮と熱狂とに包まれた文革は悲喜劇の幕を開けた。否も応もなく、中国人は地獄の扉の前に立たされたのである。

 以後、1976年9月の毛沢東の死まで、中国全土は激動に次ぐ激動の10年を体験することとなるが、宣伝部門を牛耳ったことによって、文革派による青少年に対する洗脳工作は激しさを増し、50年代生まれの習近平世代、60年代生まれのポスト習近平世代は「百戦百勝・絶対無謬の毛沢東思想」を頭の中に叩き込まれることになるわけだ。


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