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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100402
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[近代史4] 音楽は女性ヴォーカル以外は必要ない 中川隆
30. 中川隆[-13598] koaQ7Jey 2020年3月22日 11:36:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1306]


ヘレン・メリル 『You'd be so nice to come home to』

Helen Merrill & Clifford Brown - 1954 - 02 You'd Be So Nice to Come Home To







Personnel
Baritone Saxophone – Danny Bank
Bass Clarinet – Danny Bank
Cello – Oscar Pettiford
Double Bass – Milt Hinton (1, 2, 7), Oscar Pettiford (3, 5, 6)
Drums – Bobby Donaldson (3, 5, 6), Osie Johnson (1, 2, 7)
Flute – Danny Bank
Guitar – Barry Galbraith
Lead Vocals – Helen Merrill
Liner Notes – Quincy Jones
Piano – Jimmy Jones
Trumpet – Clifford Brown
Arranged By – Quincy Jones


▲△▽▼


Helen Merrill - You'd Be So Nice To Come Home To - live 1960


Festival de Jazz d'Antibes Juan-les-Pins, France July 1960

▲△▽▼

Helen Merrill - You'd Be So Nice To Come Home To 1988


From the laser disc "Sings For You" - Japan/1988

▲△▽▼
▲△▽▼


『You'd be so nice to come home to』は、ジャズのスタンダード曲。

コール・ポーター作曲で、1942年に発表された映画 "Something to shout about" の挿入歌である。
映画ではジャネット・ブレアとドン・アメチーが歌った。またダイナ・ショアのレコードが1943年のヒットチャートに入った。

戦場に送られた青年が、愛する女性を思う気持ちを歌い上げたナンバーである。
色々な歌手により、またインストゥルメンタルとしてカヴァーされている。ウディ・アレンの映画『ラジオ・デイズ』ではダイアン・キートンが歌っている。

なお、題名は「あなたが待っている家に帰って来られたらすばらしいだろう」という意味であるが、『ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ』という題名で、日本では普及している。ジャズ評論家の大橋巨泉は「帰ってくれたらうれしいわ」という訳題をつけた[1]。


カヴァー

アメリカ合衆国
ヘレン・メリル - 日本ではセイコーウオッチの「ドルチェ&エクセリーヌ」のCM曲としても使用された。
ジム・ホール
アニタ・オデイ
ジョー・スタッフォード
ジュリー・ロンドン
サラ・ヴォーン
フランク・シナトラ
アート・ペッパー
ニーナ・シモン
エラ・フィッツジェラルド
メル・トーメ
ヒラリー・コウル

イギリス
ジョン・バロウマン
シラ・ブラック

フランス
バルネ・ウィラン

日本
JUJU
中島美嘉
松原みき
八代亜紀
由紀さおり
阿川泰子 - 三田工業のコピー機のCM曲としても使用された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ


▲△▽▼

ヘレン・メリル(Helen Merrill、1929年6月21日 - )は、アメリカ合衆国の女性ジャズ歌手。
本名はイェレナ・アナ・ミルチェティッチ(Jelena Ana Milčetić)。
そのハスキーな歌声は、しばしば「ニューヨークのため息」と評される[2]。


ニューヨーク生まれ。両親はクロアチア人移民だった。
14歳でブロンクス区のジャズクラブで歌うようになり、1946年から1947年にかけて、レジー・チャイルズ・オーケストラ(Reggie Childs Orchestra)というビッグバンドの一員として活動。
1948年、クラリネット奏者のアーロン・サクス(Aaron Sachs)と結婚するが、1956年に離婚。

2人の長男アラン・メリルは、後に元ザ・テンプターズの大口広司と共にウォッカ・コリンズで活動したシンガー・ソングライター、ギタリスト、又、英国でのバンド、アローズの時代の世界的大ヒット曲「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」 (I Love Rock 'n' Roll ) (1975) の作詞・作曲家、オリジナル・レコーディング・アーティスト、パフォーマーでもある。

1954年12月22日から24日にかけて、初のリーダー・アルバム『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』を録音。1956年に早世するトランペット奏者のクリフォード・ブラウンが全面参加し、クインシー・ジョーンズが編曲を担当。

同作収録の「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」(作詞・作曲はコール・ポーター)は、メリルの代表的なレパートリーとなった。

1956年の作品『ドリーム・オブ・ユー』ではギル・エヴァンスと初共演。1950年代末期になるとヨーロッパでの活動が増し、イタリア録音のアルバム『ローマのナイト・クラブで』ではニニ・ロッソと共演。 その他ジャズ巨匠と共演しており、ビリー・ホリデイ、チェット・ベーカー、スタン・ゲッツらがプロの仲間、又、友人として挙げられる。
1960年11月、初の日本公演を行う[5]。1963年にも日本を訪れ、山本邦山等と共演。1966年頃、UPI通信社のアジア総局長ドナルド・ブライドンと2度目の結婚し、それを機に日本に移住[6]。以後、渡辺貞夫との共演盤『ボサ・ノヴァ・イン・トーキョー』、猪俣猛とウエストライナーズとの共演盤『オータム・ラヴ』、佐藤允彦と共に制作したビートルズのカヴァー集『ヘレン・メリル・シングス・ビートルズ』、当時やはり日本在住だったゲイリー・ピーコックとの共演盤『スポージン』等を発表。その後ブライドンと離婚し、1972年にはアメリカに帰国して音楽活動を停止するが、1976年にはジョン・ルイスとの共演盤『ジャンゴ』を発表し、活動再開。

親日家であり、活動再開後は数多く来日、ライブ・コンサート活動をしている。近年では2015年に続いて、2017年4月に最後となる来日公演を行った。

また、1993年、日本映画『僕らはみんな生きている』(滝田洋二郎監督)の主題歌として、「手のひらを太陽に」を英訳してカヴァーする。クリフォード・ブラウンとの共演から40年後に当たる1994年には、『ブラウニー〜クリフォード・ブラウンに捧げる』発表。『あなたと夜と音楽と』(1997年)では菊地雅章と共演。プラハ録音の『ライラック・ワイン』(2003年)では、エルヴィス・プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」やレディオヘッドの「ユー」をカヴァーした。


ディスコグラフィ

『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』 - Helen Merrill(EmArcy、1955年)
『ヘレン・メリル・ウィズ・ストリングス』 - Helen Merrill with Strings(EmArcy、1955年)
『ドリーム・オブ・ユー』 - Dream of You(1956年、1957年録音)(EmArcy、1957年)
Merrill at Midnight(1957年)
『ザ・ニアネス・オブ・ユー』 - The Nearness Of You(1958年)
You've Got A Date With The Blues(1959年)
『アメリカン・カントリー・ソングス』 - American Country Songs(1959年)
『ローマのナイト・クラブで』 - Parole e Musica(1960年)
『イン・トーキョー』 - Helen Merrill in Tokyo(1963年)
The Artistry of Helen Merrill(1965年)
The Feeling is Mutual(1965年)
『シングス・フォーク』 - Helen Merrill sings Folk(1966年)
Autumn Love(1967年)
『ボサ・ノヴァ・イン・トーキョー』 - Helen Merrill sings Bossa Nova(1967年)
A Shade of Difference(1968年)
『シングス・スクリーン・フェイヴァリッツ』 - Screen Favorites(1968年)
Plaisir D'amour(1969年)
『ヘレン・メリル・シングス・ビートルズ』 - Helen Merrill Sings The Beatles(1970年)
『ヘレン・シングス、テディ・スウィングス』 - Helen Sings Teddy Swings(1970年)
ゲイリー・ピーコック・トリオと共同名義, 『スポージン』 - Sposin' with Gary Peacock trio(1971年)
ジョン・ルイスと共同名義, 『ジャンゴ』 - Helen Merrill John Lewis(1976年)
『ラブ・イン・ソング』 - Love in Song(1977年)
『チェイジン・ザ・バード』 - Chasin' The Bird(1979年)
『クール&ボッサ』 - Casa Forte(1980年)
Imagination(1982年)
Affinity(1982年)
Helen Merrill sings Rogers and Hammerstein(1982年)
No Tears No Goodbyes(1985年)
Cole Porter Album(1986年)
Jerome Kern Album(1986年)
HM sings Irving Berlin(1986年)
Musicmakers(1986年)
ギル・エヴァンスと共同名義, 『コラボレイション』 - Collaboration(1987年8月録音)(EmArcy、1987年)
ロン・カーターと共同名義, Duets(1987年)
スタン・ゲッツと共同名義, 『ジャスト・フレンズ』 - Just Friends(1989年)
Clear Out of This World(1991年)
Christmas Songbook(1991年)
Helen Merrill in Italy(1991年)
『ブラウニー〜クリフォード・ブラウンに捧げる』 - Brownie(1994年)
『あなたと夜と音楽と』 - You And The Night And The Music(1997年)
Carousel(1997年)
『ヘレン・メリル』 - Jelena Ana Milcetic AKA Helen Merrill(2000年)
『ライラック・ワイン』 - Lilac Wine(2003年)
『ライブ・アット・ニュー・ラテン・クォーター』 - Live At New Latin Quarter(2013年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘレン・メリル




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/575.html#c30
[近代史4] 音楽は女性ヴォーカル以外は必要ない 中川隆
31. 中川隆[-13597] koaQ7Jey 2020年3月22日 11:40:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1307]

You’d Be So Nice to Come Home To by Helen Merrill
Helen Merrill With Clifford Brown & Gil Evans / You’d Be So Nice To Come Home To


1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲。

「You’d Be So Nice To Come Home To」は「帰ってくれたら嬉しいわ」でなくて、「家に帰れると貴方が居るのはとても嬉しい」。

第二次世界大戦という時代背景を考えると、この歌詞の意味が当時の人たちに実感を持って受け入れられたことが分ります。また、そうでなくても帰りを待ってくれる愛する人がいるのは嬉しいものです。そんな誰もが想う気持ちをストレートに歌っています。人を愛するのに理由などいらないのですから、貴方が居てくれるだけでいいと思うのは純粋な愛の気持ちです。ですから、この歌は普遍的なラブソングと言えます。

この曲は多くの歌手がカバーしていますが、ヘレン・メリル(Helen Merrill:1930- )とクリフォード・ブラウン(Clifford Brown:1930-1956)、ギル・エヴァンス(Gil Evans:1912-1988)による1954年のデビュー・アルバムが有名です。

ヘレン・メリルのヴォーカルは個性的なハスキー・ヴォイスで、歌われている歌詞以上の深みを感じさせてくれます。クリフォード・ブラウンのトランペットとギル・エヴァンスのピアノが互いの個性を引き立てあっています。シンプルな構成、それでいて重厚。これに足すものも、これから引くものもない完璧な調和がこのアルバムにはあります。

ヘレン・メリルとギル・エヴァンスはこの時若干24歳、それでいてこのアルバムの完成度は驚異的です。収録曲はどれも傑作で、ジャズ・ヴォーカル・ファン必携の珠玉の名盤です。また、ヘレン・メリルには1989年の「ジャスト・フレンズ」(Just Friends)という傑作アルバムがあります。

ヘレン・メリルは、大の親日家としても知られています。1966年暮から1972年まで日本に住み、日本のジャズ・ミュージシャンに大きな影響を与えました。また、フランスでは日本以上の人気があります。彼女のレパートリーは多彩で、ジャズに限らず日本の「五木の子守唄」や「砂山」、映画音楽、ビートルズ・ナンバー、ブラジル音楽など、いろいろなチャレンジをしています。この音楽的に優れたものを認める柔軟な姿勢は、表現力をより豊かにしました。

このコスモポリタン的な性格は、ユーゴスラヴィア(現クロアチア)からの移民である両親から受け継いだものかもしれません。アメリカ人よりも、もう少しだけセンシティブなものを好む日本人やフランス人に人気があるのは、「移ろい」や「儚さ」といった微妙なニュアンスの情感を歌うことができる豊かな表現力、ヴォーカルの深み、によるものだと思います。


▲△▽▼


You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ above
You’d be so nice, you’d be paradise
To come home to and love
You’d be so nice to come home to
You’d be awful nice by the fire
While the breeze up on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ up there above
You’d be so nice, just like paradise
To come home to and love

貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば
貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば


http://www.magictrain.biz/wp/blog/2010/10/16/ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホー/


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/575.html#c31

[近代史4] ヘレン・メリル 『You'd be so nice to come home to』 中川隆
1. 中川隆[-13596] koaQ7Jey 2020年3月22日 11:42:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1308]

You’d Be So Nice to Come Home To by Helen Merrill
Helen Merrill With Clifford Brown & Gil Evans / You’d Be So Nice To Come Home To


1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲。

「You’d Be So Nice To Come Home To」は「帰ってくれたら嬉しいわ」でなくて、「家に帰れると貴方が居るのはとても嬉しい」。

第二次世界大戦という時代背景を考えると、この歌詞の意味が当時の人たちに実感を持って受け入れられたことが分ります。また、そうでなくても帰りを待ってくれる愛する人がいるのは嬉しいものです。そんな誰もが想う気持ちをストレートに歌っています。人を愛するのに理由などいらないのですから、貴方が居てくれるだけでいいと思うのは純粋な愛の気持ちです。ですから、この歌は普遍的なラブソングと言えます。

この曲は多くの歌手がカバーしていますが、ヘレン・メリル(Helen Merrill:1930- )とクリフォード・ブラウン(Clifford Brown:1930-1956)、ギル・エヴァンス(Gil Evans:1912-1988)による1954年のデビュー・アルバムが有名です。

ヘレン・メリルのヴォーカルは個性的なハスキー・ヴォイスで、歌われている歌詞以上の深みを感じさせてくれます。クリフォード・ブラウンのトランペットとギル・エヴァンスのピアノが互いの個性を引き立てあっています。シンプルな構成、それでいて重厚。これに足すものも、これから引くものもない完璧な調和がこのアルバムにはあります。

ヘレン・メリルとギル・エヴァンスはこの時若干24歳、それでいてこのアルバムの完成度は驚異的です。収録曲はどれも傑作で、ジャズ・ヴォーカル・ファン必携の珠玉の名盤です。また、ヘレン・メリルには1989年の「ジャスト・フレンズ」(Just Friends)という傑作アルバムがあります。

ヘレン・メリルは、大の親日家としても知られています。1966年暮から1972年まで日本に住み、日本のジャズ・ミュージシャンに大きな影響を与えました。また、フランスでは日本以上の人気があります。彼女のレパートリーは多彩で、ジャズに限らず日本の「五木の子守唄」や「砂山」、映画音楽、ビートルズ・ナンバー、ブラジル音楽など、いろいろなチャレンジをしています。この音楽的に優れたものを認める柔軟な姿勢は、表現力をより豊かにしました。

このコスモポリタン的な性格は、ユーゴスラヴィア(現クロアチア)からの移民である両親から受け継いだものかもしれません。アメリカ人よりも、もう少しだけセンシティブなものを好む日本人やフランス人に人気があるのは、「移ろい」や「儚さ」といった微妙なニュアンスの情感を歌うことができる豊かな表現力、ヴォーカルの深み、によるものだと思います。


▲△▽▼


You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ above
You’d be so nice, you’d be paradise
To come home to and love

You’d be so nice to come home to
You’d be awful nice by the fire
While the breeze up on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ up there above
You’d be so nice, just like paradise
To come home to and love

貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば

貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば


http://www.magictrain.biz/wp/blog/2010/10/16/ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホー/


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/628.html#c1

[近代史4] ヘレン・メリル 『You'd be so nice to come home to』 中川隆
2. 中川隆[-13595] koaQ7Jey 2020年3月22日 11:46:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1309]
You'd Be So Nice To Come Home To
-1943年 Cole Porter -
https://themuse.exblog.jp/9868889/


アメリカが生んだ偉大な音楽家コール・ポーターの代表作の一つです。

43年コロンビア映画“Something To Shout About”で主演のJanet Blair ジャネット・ブレアとDon Ameche ドン・アメチーがデュエットで歌っています。

この映画からはミュージカル映画音楽賞(モリス・W・ストロフ)と歌曲賞(この歌)がアカデミー賞にノミネートされましたが、残念ながら映画そのものはヒットしませんでした。

映画のあらすじ:

失敗続きのミュージカル・プロデューサー、サムソンは、離婚扶養手当をもらって裕福なドナから「出資するから、自分を主役にせよ」と迫られて困っています。彼女は歌えないし、演技も出来ないし、勿論、踊れないのです。そんな時サムソンの広報担当のケン(ドン・アメチー)が曲を売り込みにきたジーニー(ジャネット・ブレア)と出会います。やがて、ジーニーの才能に気づいたサムソンはドナを罠にかけて警察に逮捕されるよう仕掛けます。しかしショウの初日、釈放されたドナが現れ…

さて、コール・ポーターは、この映画を評して“something to cry about”と言ったとか言わなかったとか。

【 カヴァー 】

なんと言ってもこの曲の決定的名演として定評あるものは54年にヘレン・メリルがクリフォード・ブラウンをバックに歌ったものでしょう。

アレンジはクインシー・ジョーンズ。“HELEN MERRILL”(EmArcy)邦題「ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン」収録。CMにも使われました。

とは言え、多くのアーティストがこの名曲をカバーしています。Dinah Shoreのカバーもヒットしましたし、最近では中島美嘉(永遠の詩)さんも採り上げています。
ここでは個性的なニーナ・シモンの60年のライヴ"NINA SIMONE AT NEW PORT"(COLPIX)をご紹介。

地の底から湧き上がるような唄声と悪魔的なピアノの響き…
もう、貴方はニーナの呪縛から逃れられない ?

続いて、ジャズ・ファンに根強い人気のある1枚。
"Art Pepper Meets the Rhythm Section"(Contempoprary)
57年、西海岸(West Coast)を拠点にしていたArt Pepperと、NY(East Coast)からツアーでLAを訪れたMiles Davisの第1期黄金のクインテットのリズム隊(オール・アメリカン・リズム・セクションと呼ばれていました。詳細は"My Funny Valentine"注4参照)とのセッションが企画されました。

このセッションには色々なエピソードが伝えられています。

曰く、ペッパーはその朝にセッションがあることを知った。
曰く、ペッパーはこの曲を知らなかった。
曰く、演奏するのは6か月ぶりだった

…特に最後のものは彼の自伝に書かれているものですが、今日ではディスコグラフィ研究により、数日前にも録音していることが分かっています。

いずれにせよ、当時、ペッパーが薬中毒だったことは事実であり、それでも一旦サックスを吹き始めると、艶やかで輝きに満ちたサウンドが出てくるから、天才はすごい…


追加でもう1枚、これもベストセラーになりました。
"Concierto 「アランフェス協奏曲」" (CTI 75年)

ボサノヴァやフュージョンでヒットを飛ばしたクリード・テイラーが設立し、プロデュースしたCTIの作品の中で最も人気が高い1作です。ギターのジム・ホールのセンスの良さは折り紙つきですが、この時のサイドメンも素晴らしい。チェット・ベイカー(tp)、ポール・デズモンド(as)、ローランド・ハナ(p)、ロン・カーター(b)、スティーヴ・ガッド(ds) がそれぞれ、良い仕事をしています。
タイトル曲のアランフェスもマイルスのそれとは違った良さがありますが、冒頭の1曲目に収録されている、この曲も、ワクワクするようなジャズの持つ楽しさを感じさせ、個人的にも好きな演奏の一つです。

【 邦題について 】
さて、英語の先生でもある有美さんの向こうを張って、ここで少し英語のお勉強を。

この曲は嘗て「帰ってくれたらうれしいわ」あるいは「帰ってくれれば嬉しいわ」と言う日本語タイトルが付けられたことがあります。(注)
しかし、今日ではこれは歴史的誤訳と言うのが定説になっています。
まさか、「とっとと帰っちまえ!」と言う意味でつけたのではないでしょうから、この回りくどい日本語を好意的に解釈すれば「早く戻ってきてね」と恋人を待っているタイトルと言う解釈になります。
しかし、原タイトルを素直に読めば、あるいは文法的問題として、ここで省略された言葉を補って考えれば、こうなりますね。

You'd be so nice when I come home to you

♫ あなたが待ってくれているのなら
  家に帰るのは本当にうれしい


時はまさに第2次大戦の最中。
この曲がアメリカ人の心にフィットしたのはそんな背景もあったのでしょう。

因みに、有美さんは決定的名唱のある、この超有名曲を、この日(08年3月19日)彼女なりにボサ・ノヴァ・タッチでチャレンジしていました。


注)命名者は、ジャズ評論家・司会者からマルチ・タレントへ、会社経営者で参議院議員も務めた(任期中に辞任)大橋巨泉さん。
一時は、「これはこれで好いんだ」的発言もしておられましたが、後に撤回しておられます。

お嬢さんの大橋美加さん(ジャズ歌手:お母さんは同業の先輩、マーサ三宅さん)のエッセーにも、次のくだりがあります。

当時「帰ってくれたらうれしいわ」と言う邦題をつけた私の父は、最近テレビや文章のなかで、しきりにそれが若かった自分の誤訳で、正しい訳は「貴方が待つ家に帰っていけたら幸せ」という意味であると伝えている。
「唇にジャズ・ソング」(ヤマハミュージックメディア 98年)

https://themuse.exblog.jp/9868889/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/628.html#c2

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
93. 中川隆[-13594] koaQ7Jey 2020年3月22日 12:29:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1310]
1980年代にシオニストの一派、ネオコンがイラクのサダム・フセイン体制を倒して親イスラエル体制を築くべきだと主張した理由はシリアとイランを分断することにあった。バラク・オバマ政権のネオコンがウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行したのはロシアとEUを分断することにあった。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。

 締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。

 米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。

 そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c93

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
110. 中川隆[-13593] koaQ7Jey 2020年3月22日 12:29:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1311]
1980年代にシオニストの一派、ネオコンがイラクのサダム・フセイン体制を倒して親イスラエル体制を築くべきだと主張した理由はシリアとイランを分断することにあった。バラク・オバマ政権のネオコンがウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行したのはロシアとEUを分断することにあった。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。

 締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。

 米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。

 そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c110

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
96. 中川隆[-13592] koaQ7Jey 2020年3月22日 12:30:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1312]
1980年代にシオニストの一派、ネオコンがイラクのサダム・フセイン体制を倒して親イスラエル体制を築くべきだと主張した理由はシリアとイランを分断することにあった。バラク・オバマ政権のネオコンがウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行したのはロシアとEUを分断することにあった。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。

 締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。

 米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。

 そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c96

[近代史3] 平和主義者だったトランプがイラン革命防衛隊の精鋭組織コッズ部隊の司令官を殺害した理由 中川隆
55. 中川隆[-13591] koaQ7Jey 2020年3月22日 12:30:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1313]

1980年代にシオニストの一派、ネオコンがイラクのサダム・フセイン体制を倒して親イスラエル体制を築くべきだと主張した理由はシリアとイランを分断することにあった。バラク・オバマ政権のネオコンがウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行したのはロシアとEUを分断することにあった。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。

 締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。

 米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。

 そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/786.html#c55

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた
第一次大戦がヨーロッパを変えた


映像的世紀02 大量殺戮的形成(一戰)




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
1. 中川隆[-13590] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:15:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1314]

メリー・ホプキン 『Fields of St. Etienne』


Mary Hopkin - Fields of St. Etienne










▲△▽▼


サン・エティエンヌの草原 2010年02月08日
https://blog.goo.ne.jp/nostalgia2014kk/e/811229823bf796954e565bbf3a11f157

 昨年、メリー・ホプキンのCDを買ったので、このところよく聴いています。
 今を去ること40年くらい昔にビートルズが作ったアップルレコードからデビューした女性歌手で、ロシア歌謡を「悲しき天使」と言う題名で世界的に有名にした歌手です。愛らしい少女だったような印象がありますが、もう還暦のオバ(ア)さんです。

 この曲が目当てでCDをこの買いましたが、最近はまってよく耳にしているのは「The Fields Of St. Etienne」。
 元トワ・エ・モアの白鳥英美子さんが自分のレコードに吹き込んだこともあるうたですが、戦争に行って帰らない幼馴染を思い、あのトウモロコシ畑で共に遊んだ日は帰らないと言う反戦歌です。

 よく聴いてみるとバックで演奏しているのがビートルズらしく、エンディングのコーラスにポール・マッカートニーが入っているような気がします。

 時代が違うとは言え、白鳥英美子バージョンのほうが音質はもちろん、演奏も歌唱力も洗練され完成されていますが、メリー・ホプキン版のビミョーな下手さ加減や垢抜けなさが妙に琴線に触れます。


Through the fields of St Etienne
Amidst the corn I wonder
In my hand an ear of corn
The morning dew has kissed

Here beneath the skies
I lay with my lover
While the summer winds gave it clouds of war

Au revoir my love
Though the reasons pass me
Why we can't remain in the fields of St. Etienne

Weaving proudly, singing loudly
Being young and foolish

He was going never knowing
He would not return
Singing songs of war
Filled with God and country
Marching down the road with the boys that day

Au revoir my love
Though the reasons pass me
Why we can't remain in the fields of St. Etienne


サン・エティエンヌの野原をぬけ
とうもろこし畑を私は彷徨う
とうもろこしを手に持ち
朝露がキスをする

この空の下で
私は恋人と寝そべっていた
夏の風が空に戦争の雲を作るまで

さようなら私の愛
理由はわかってはいるけれど
なぜ私たちはサン・エティエンヌの野原に留まることができないのか

誇らしげに手を振り高らかに歌いながら
若くそして愚かにも
二度と戻れないことを決して知ることもなく
神と祖国愛の戦争の歌を歌いながら彼は行った
あの日、若者たちとあの道を行進して

さようなら私の愛
理由はわかってはいるけれど
なぜ私たちはサン・エティエンヌの野原に留まることができないのか
https://blog.goo.ne.jp/nostalgia2014kk/e/811229823bf796954e565bbf3a11f157

サン・エティエンヌの草原を抜け
とうもろこし畑の間を歩く
朝霧にぬれた穂を手にして
この同じ空の下
恋人の傍らに横たわったあのころ
夏の風は戦争と言う名の雲を集めていた

もう帰らない愛
わかってはいるのだけれど、、
どうして、ふたり、あのままでいられなかったの?
このサン・エティエンヌの草原に

誇らしげに手を振り 大声で歌い
幼く、愚かしく、、
二度と帰れぬとは知らず発って行ったあの人
神の名と愛国に彩られた歌を歌い
あの日、沢山の少年たちと並んで行進していた。。

(フランス語)さようなら 私の愛
解ってはいるのだけれど
どうして、ふたり、戻れないの?
この サン・エティエンヌの草原に

さようなら 愛しい人
解ってはいるのだけれど
どうして、ふたり戻れないの?
この サン・エティエンヌの草原に・・

https://ameblo.jp/tadashi999/entry-12140187784.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c1
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
2. 中川隆[-13589] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:41:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315]

イグナツィ・パデレフスキ Ignacy Jan Paderewski 1860年11月18日 - 1941年6月29日

ポーランド・クリロフカ出身 19世紀のカリスマピアニスト
ポーランド共和国・3代目首相


伝説のスーパースター
19世紀最大のピアノの巨匠
ポーランド独立運動の象徴的存在
アメリカ大統領トルーマンにピアノ指導
ポーランド共和国初代首相に就任
類いまれなカリスマ性
ショパン研究家
http://ameblo.jp/maritaka0504/entry-10577139972.html


▲△▽▼



洛南蓄音機で  ラ・カンパネラ ''LA CAMPANELLA'' Ignace Paderewski





Paderewski Chopin Waltz 1917




Paderewski recorded this Chopin Waltz in c# minor op.64 no.2, for Victor in New York City on May 23,1917. Matrix C 19923-2


パデレフスキ 画像
http://www.google.co.jp/search?q=Paderewski&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=wdJcUZjKDKi9iAe9r4CABw&ved=0CJgBEIke&biw=998&bih=892

パデレフスキ ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

パデレフスキ - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&oq=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&gs_l=youtube-reduced.12...0.0.1.44.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0...0.0...1ac.

Paderewski - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=Paderewski&oq=Paderewski&gs_l=youtube-reduced.12..0l3.2365.2365.0.3483.1.1.0.0.0.0.542.542.5-1.1.0...0.0...1ac.e7cOgo0BEqQ



▲△▽▼


イグナツィ・パデレフスキはポーランド(現在のウクライナ)のポドリア地方・クリロフカ出身のピアニストです。 政治家でもあり、元ポーランドの3代目首相でもあります。 首相になったピアニストとして知られています。

パデレフスキは12歳でワルシャワ音楽院に入学してナタリヤ・ヤノータにピアノを習い、グスタフ・ログスキに音楽理論を学びました。

1883年にウィーンに留学して テオドル・レシェティツキ に師事しました。

パデレフスキは現役当時、圧倒的な人気を博した伝説的なカリスマピアニストでした。

人気の理由は完成された演奏もありますが、それ以上にカッコいいルックスにありました。

金髪の情熱的なカールと篤いまなざし、神秘的な容姿など、パデレフスキがステージに立つと美神が舞い降りたようだと伝えられています。


パデレフスキは十九歳で結婚し、一児の父となったと思う間も無く妻と死別。しかも子供は重度の身体障害児だったので、周囲は心配して音楽教師の口を見つけてくれたが、ピアニストの夢を捨て切れず、止めてしまったという。

そんな若者の夢に惚れ込んだ女性が、彼に本格的な勉強を勧め、二四歲でウイ—ンに旅立つ。

やがて、科学者マリ— ^キュリー夫人も聴きに来たというコンサ—トで、まばらな聴衆は、青年の自由奔放な演奏に巻き込まれ、彼は「恐ろしいほどの成功」を収めた。


ステ—ジに登場したパデレフスキ—は音楽の美神が降り立ったかのような魅惑に溢れていたそうだ。しかも、彼は七、八力国語を操ったという。彼の内に潜むこうした才能ゃ魅力を、かってどんな教師達も見抜くこと、或は予見することが出来なかったという。

聴衆は殆んどが女性で、彼がステージに登場すると一種の集団ヒステリーが起きたそうだ。






▲△▽▼


イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Paderewski)
1860年11月6日ポドリアのクラウフカ生、1941年ニューヨーク没

ポーランドのピアニスト、作曲家、政治家

ショパンの楽譜を買ってもらう時、

「コルトー版にして。」とか

「パデレフスキ版で。」

などと、楽譜を指定することがよくあります。

パデレフスキは、ポーランドを代表する、ピアニストで、作曲家でもありましたが、初代ポーランド大統領でもあるのです。

彼は、ある意味、スーパースターだったとも言えるでしょう。

裕福な家柄に生まれたパデレフスキでしたが、生まれて間もなく母親は亡くなりました。

そういう意味では、何事も欠けたところのない幸福・・・というより、孤独も感じていたのではないでしょうか?

しかし、幼い頃から、音楽の才能を認められ、高名な音楽教師を家庭教師として雇い、次いで12歳の時には、ワルシャワ音楽院に学ぶこととなりました。

多くの著名な教師から、ピアノ、音楽理論、和声、対位法などを学び、18歳でここを卒業するとともに、同音楽院のピアノ科の教師になりました。

その後も、作曲、ピアノの研鑚を積み、当時の高名なピアノ教師レシェティツキーのもとで、ピアノを学び続けました。

レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言しましたが、1年間ストラスブール音楽院で教師を務める傍ら、熱心に練習を積み、再びレシェティツキーに師事することが許されました。

パデレフスキは、自身のピアニスト生活は1888年ウィーンがデビューの地であるとみなしていましたが、1883年パリで最初の演奏会をした時から、すでに巨匠への階段を昇り始めていました。

世界中で殺人的な演奏会スケジュールをこなす傍ら、夏休みには1889年以来永住の地となったスイスのモルジュ市にある、ヴィラ・リオン‐ボソンで作曲にも没頭しました。

第1次世界大戦勃発後、彼はポーランド国民の為に、援助委員会や救済基金を設立しました。

同時にアメリカ合衆国を中心とした演奏活動を行い、ポーランド独立を訴えました。

1918〜21年には、一時演奏・作曲活動を中止し、政治活動に専念しました。

1919年、独立を回復したポーランド共和国の首相兼外相に就任し、

国を代表してヴェルサイユ条約に署名しています。

1922年には、再び演奏活動と夏期講座の教授活動に復帰しました。

また1936年にはイギリス映画「ムーンライト・ソナタ」にも出演しています。

1937年、新ショパン全集の編集に着手しましたが、実際に出版されたのは大2次大戦後となりました。

ナチのポーランド侵攻後は、アメリカに渡り祖国支援のための大々的なキャンペーンを行いましたが、これが彼の最後の旅となりました。

彼はニューヨークで客死し、アーリントン国立墓地で国葬が行われました。

彼の演奏は、「レシェティツキー・タッチ」でしたが、時には華麗であるが、あまりに誇張され飾られ過ぎている・・・

と、批判もしています。

彼自身は、見かけの派手な効果以前に、楽譜に忠実な演奏解釈と、音楽感情の移入を心がけました。

その天分、音楽性、直感、たゆまぬ努力によって、彼は独自の演奏様式を作り上げました。

パデレフスキーのレパートリーの中心は、ショパン、リストといったロマン派のものが中心ですが、ほとんどすべてのリサイタルで、1曲目にベートーヴェンのソナタをおいたということです。

80年の彼の人生は、全く非の打ちようがないほど充実していますが、やるべき時に、全精力を傾け、音楽活動だけでなく、政治にも大きな役割を果たし、素晴らしい人生を全うしたといえるでしょう。

しかし、それは彼のたゆまぬ努力の結果であり、正しい考えを持ち、現実に甘んじることなく、常に誠心誠意、仕事をしてきた結果だと思うのです。

何気なく手にとっている、ショパンの楽譜ですが、このような素晴らしい仕事の結集とも言えるでしょう。
http://nishino-pianoschool.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_7035.html


見る人が見れば誰にでも直ぐにわかる事なのですが

パデレフスキの客観的評価は上にもちゃんと出ていますね:


『レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言した。』




パデレフスキのヨーロッパでの全録音


◎ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        夜想曲第5番 作品15の2
        ワルツ第7番 作品64の2
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3(初出)
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 シューマン  夜曲第4番 作品23の4
 ショパン   ポロネーズ第3番「軍隊」
        夜想曲第18番 作品62の2
        12の練習曲 作品25〜第9曲「蝶々」(初出)
                   〜第3曲 ヘ長調(初出)
 パデレフスキ メヌエット 作品14の1
        夜想曲 作品16の4(初出)
 メンデルスゾーン 無言歌第4巻〜第4曲「心の悲しみ」
 


 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ドビュッシー 映像第1集〜第1曲「水に映る影
 リスト    ラ・カンパネラ(初出)
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6(初出)
 ショパン   夜想曲第5番 作品15の2
        12の練習曲 作品10〜第12曲「革命」
                   〜第7曲 ハ長調
        12の練習曲 作品25〜第1曲「エオリアンハープ」
                   〜第2曲 ヘ短調
        12の練習曲 作品10〜第3曲「別れの曲」
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 


 シューマン  幻想小曲集〜第1曲「夕べに」
             〜第2曲「飛翔」
             〜第3曲「なぜに」
 ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        マズルカ第13番 作品17の4
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   12の練習曲 作品25〜第7曲 嬰ハ短調
 リスト    ラ・カンパネラ
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3
 リスト    演奏会用練習曲集〜第2曲 ヘ短調
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   子守歌
 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ルビンシテイン ワルツ・カプリース 変ホ長調
 

   パデレフスキ(ピアノ)

   英APR APR 6006 (2CD)


 歴史的なピアノ録音を数多くリリースしている英APRから,パデレフスキ
のヨーロッパ全録音という,大変希少な復刻盤CDが発売になりました。

 パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860-1941)は,ロシア領ポーラン
ドのポドリア地方のクルィウフカ(現ウクライナ領)に生まれ,ウィーンでレ
シェティツキに学び,1887年に同地でピアニストとしてデビューし,翌年
以降,パリ,ロンドン,アメリカでリサイタルを行いますが,その演奏はたち
まちにして評判となり,異様なほどの人気と賞賛を博するようになります。

 1900年頃からは作曲にも傾注するようになって演奏活動は急激に減少し,
1909年からワルシャワ音楽院長を務めました。

 1911年7月にはスイスのモルゲスでHMVに初めてのレコーディングを
行い,翌年にはパリとロンドンでもレコーディングを行います。本CDに収録
されているのはこの3回のレコーディングセッションでの全録音です。

 1913年にアメリカに移住し,翌1914年には米ヴィクターにレコーディ
ングを行いますが,同年,第1次世界大戦が勃発すると,パリの「ポーランド
民族委員会」のメンバーとしてポーランド独立のための活動に積極的に関わり,
1919年にポーランドが独立すると首相兼外務大臣となり,この職を辞して
からも国際連盟のポーランド大使を務めました。

 1922年に政界から引退して演奏活動に復帰し,再び米ヴィクターに数多
くの録音を行いました。

 パデレフスキのピアニストとしてのキャリアは上述のように,第1次世界大
戦とそれに続く時期の政治家としての活動によって中断しているのですが,パ
デレフスキの録音で入手容易なのは米ヴィクター録音が主で,これまでCD化
されていたのも9割方この米国録音でした。

 そのため,録音におけるパデレフスキの演奏もこれらの米国録音で語られる
ことが少なくないのですが,これらで聴かれるパデレフスキの演奏は,歳を重
ねるにつれて懐深さとスケール感を有しながらも,主観的で大袈裟とも言える
テンポ・ルバートやデュナーミクの変化を聴かせるようになっていき,賛否が
分かれるところでもありました。

 SP時代から愛好家の間では,パデレフスキの録音は1911〜2年のヨー
ロッパ録音の方がずっと良いというのが常識だったようなのですが,アコース
ティック録音ということもあって,入手は容易ではなく,これまでまとめて聴
く機会がありませんでした。

 今回の復刻は,1911〜2年のヨーロッパ録音を全て収録しており,これ
までリリースされていなかった録音についても,メリーランド大学のインター
ナショナル・ピアノ・アーカイヴに保管されていた未発表のテスト・プレス盤
から復刻して収録されています。

 非常に長い前置きになってしまいましたが,さっそく聴いてみると,復刻の
状態は予想以上に良好で,スクラッチノイズも抑えられていますし,ピアノの
タッチや響きも明瞭に聴き取ることができます。

 肝心の演奏は,形容する言葉に窮するほどの素晴らしさで,明瞭で粒立ちの
良いタッチ,明るく気品のある響き,デリケートで生気に満ちたフレージング,
格調高いパッセージワーク,そして決して過剰になることのない,ほどよく抑
制された表現など,ピアノ演奏の1つの理想,1つの究極を聴く思いがします。

 この演奏を聴くと,世界中が賞賛したというパデレフスキの演奏の姿は斯く
やと思わされますし,同時に米国録音で聴かれる演奏とのギャップの大きさを
改めて認識させられます。

 それにしても,これほど素晴らしく偉大な演奏が,これまで容易に聴くこと
ができなかったというのは,それこそ人類的損失だったのではないかと思いま
すし,それが良好な復刻によって完全復刻されたというのは,快挙であり偉業
であろうと思います。

 そんなわけで,これは控えめに言っても,100年を超えるピアノ録音の歴
史の中にあって最も偉大な演奏が刻み込まれた録音の1つであり,聴く者の演
奏観や審美観を変えかねないほどのインパクトと感銘をもたらしてくれる,時
代を超越した必聴の名演として,強力に推薦したいと思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2009-1/2009031501.htm



詳細は

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c2
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
3. 中川隆[-13588] koaQ7Jey 2020年3月22日 13:55:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1316]

ワルシャワに生きるショパン - ワルシャワの苦悩と愛国心が生んだ音楽の伝統 -
もう1つの美しい公園とパデレフスキ像

 ワジェンキ公園でも十分に豊かなのに、この公園に隣接してもう1つ美しい公園がある。このウヤズドフスキ公園は、ワジェンキ公園と比べて知名度が低いくて規模が小さいからか、観光客の姿をほとんど見かけない。しかしワジェンキ公園よりも優美で、ワルシャワが美しい公園にめぐまれた町であることを改めて実感するような場所である。

ここにも1体の立派なピアニストの銅像が立っている。ショパンと同じくピアニスト兼作曲家で、しかもポーランドの首相にまで登りつめた真の愛国家、パデレフスキの銅像である。

ウヤズドフスキ公園とパデレフスキ像

 パデレフスキは24歳になってから本格的にピアニストを目指した遅咲きながら、情熱的なプレイスタイルや上品でカリスマ性のあるいでたちで女性ファンをとりこにし、アメリカを中心にアイドル的な人気を誇った。

パデレフスキのトレードマークであった金髪の巻き毛ほしさに、はさみをもってパデレフスキを襲った女性ファンもいたほどだ。

パリのサル・エラールにおけるデビューコンサートには同郷のキュリー婦人も参加しており、初舞台とは思えない堂々ぶりは皇帝のようだったと証言している。

演奏活動のみならず、ピアノ曲からオペラまで作曲したり、ショパンの楽譜全集を編集したりもしている。ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語を操り、知的な語り口でヴィクトリア女王をはじめとした各国の要人とも親交が深かった。

第一次世界大戦ではポーランド独立のために奔走し、ポーランドが独立した1918年には首相にまで選ばれた。第二次世界大戦が勃発し、再度苦しみを味わったポーランドのために、再度立ち上がろうとしたパデレフスキは、直後の1940年にアメリカで80年の生涯を終えた。ポーランドに自由が戻った時に自分の墓をポーランドに移すことを決めていたが、それがかなったのは1992年になってからのことであった。

 2010年はショパンの生誕200周年のみならず、パデレフスキの生誕150周年の年でもあった。ワジェンキ公園のショパン像には無数の人が集まって写真を撮っているが、ウヤズドフスキ公園のパデレフスキ像には、情熱的な真っ赤なバラが囲んでいるだけで、まったくといってよいほど人気がない。ワジェンキ公園の混雑を避けてゆっくりするために来た人と思われる人がぱらぱらといるぐらいである。

パデレフスキ像は王座に座る皇帝のような姿で表現されており、まるでショパンの大胆で感傷的な銅像とは趣が違っている。人々に常に注目され激動の人生を送ったパデレフスキと、病弱で人前に出るのを嫌ったショパンのそれぞれの銅像は、お互いの人生とは間逆の結果になっている。
http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768


▲△▽▼


パデレフスキーはポーランドのピアニスト兼作曲家。

政治家・外交官としても活躍し、第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代の首相。

Paderewskiはポーランド発音ではパデレウスキ。

Ignacy は Ignace とフランス語表記されたり、Ignaz とドイツ語表記されることがある。
日本ではパデレフスキとも表記されている。


ポドリア地方の寒村クルィフカ(現ウクライナ領)生まれ。

父親は経済学研究者だったが、出身はポーランド系の小貴族。生母はパデレフスキーを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキーは遠戚者によって育てられた。

最初は個人教師についてピアノを学んでいたが、1872年(12歳)ワルシャワ音楽院に進学し、ナタリエ・ヤノータ(クララ・シューマンおよびブラームスの門下)に師事。

1878年(18歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、そのままピアノ科の教官になる。

1880年(20歳)アントニーナ・コルサクーヴナと結婚。しかし、翌年に生まれた長男アルフレッドに障害がある事が判明し、さらにその年の10月に妻アントニーナが死去。

1881年(21歳)ベルリンに留学。フリードリヒ・キールとハインリッヒ・ウルバンに作曲理論を師事。

1884年にウィーンに移り、テオドール・レシェティツキに入門。

1885年(25歳)レシェティツキの紹介により、ストラスブルグ音楽院教官として着任。2年間、音楽理論とピアノを担当。

1887年(27歳)、ウィーンに戻り正式にコンサートデビュー。

1889年パリ(29歳)、さらに1890年(30歳)ロンドンでもデビューして大成功をおさめる。ちなみにパリ・デビューは当時少年だったアルフレッド・コルトーも客席で聴いている。


1884年にレシェティツキの門を叩いたパデレフスキーは、ピアノ演奏法を基礎の基礎から徹底的にやり直しさせられたと伝えられる。

レシェティツキは、師のツェルニーの教則本をパデレフスキーに与え、パデレフスキーはそれを毎日10時間(実際はもっと長時間だったという証言もある)練習したという。

とはいえ、プロ志望には余りにも遅い24歳の入門者に、レシェティツキは最初は難色を示したという。

その入門希望者と来たら…テクニックは不完全で、規定の速度で演奏するのもままならない腕前しか持ち合わせていなかった。それ以前に、ピアニストを目指すには24歳という年齢はあまりに遅すぎた。

ピアニスト志望者は普通は10歳までに専門教育を受け、15〜6歳の頃にはある程度の技術は完成されていなければならない。18歳で音楽大学に入ってあちこち矯正されているようではプロにはなれない。

まして24歳と云えば音楽大学入学どころか、下手すれば大学のさらに上の大学院を出ようかという年齢である。

それでもパデレフスキー青年がレシェティツキ門下の末席に座る事が許されたのは、パデレフスキーが「ポーランド系ユダヤ人」であった事が関係していた可能性がある。

実はレシェティツキは、ピアニストとして成功するための基本要素として「ユダヤ人」である事と「ショパンと同じポーランド系」である事を提言していたからである。

もしもパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人でなかったら、果たしてレシェティツキが入門を許したかどうか…。

それでもレシェティツキは入門を許したとは言え、パデレフスキーが後に(あれほど壮絶かつ空前の大成功をおさめる)世界的なカリスマ演奏家にまで昇りつめるとは夢にも思っていなかったので、パデレフスキーにさっさと教職を紹介して、ウィーンから彼を遠ざけてしまう。悪い言い方をすれば厄介払いのつもりだったのだろう。

しかし、結果としてパデレフスキーはレシェティツキを頼る他はなく、スポンサーを見つけて再びレシェティツキのもとに通い始め、訓練を受けたのち漸くウィーンデビューをさせてもらえた。


これがきっかけとなってパデレフスキーはスターダムを昇りはじめ、「あのパデレフスキーの師匠」としてレシェティツキの名声が決定的になった事は運命の悪戯というものだろう。

レシェティツキは直接・間接指導を含め生涯に約1800人の弟子を指導したが、パデレフスキーの成功が無ければこれほどの入門志願者が門を叩いたかどうかは判らない。だが、門下の証言によればレシェティツキはどんな弟子に対しても辛抱強く教えたそうだから、スタートの遅かったパデレフスキーをとりあえず引き受けてくれる奇特なピアノ教師はおそらくレシェティツキをおいて他には居なかったであろうと推測する。(たとえパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人であったにせよ。)

パデレフスキーのパリ・デビューが行われたサル・エラール(ピアノメーカー『エラール』のホール)は、ポーランド貴族の末裔達やパデレフスキーの知り合いが駆け付けたものの、満席には程遠い客入り(聴衆の一人、ポーランドの物理学者マリー・キュリー夫人の証言)だった。

ショパン、シューマン、リストの曲が並んだコンサートは圧倒的なまでの成功をおさめ、やはり聴衆の一人だったアルフレッド・コルトー(当時11歳)は『ステージに神が舞い降りたかのようだった』と後に回想している。

コンサートは聴衆総立ちのスタンディングオベーションと万雷の拍手で幕を閉じ、観客だった指揮者ラムルーとコロンヌの二人が興奮してパデレフスキーの楽屋に駆け付けて共演を申し込んだ時、パデレフスキーは震え上がってしまった。

なにしろパデレフスキーは晩学だったが故に、オーケストラと共演するピアノ協奏曲のレパートリーなどひとつも無かった。

そればかりか、この日パデレフスキーがコンサートで弾いたプログラムが、パデレフスキーの「人前で演奏できるレパートリーの全て」だったのだ。

もちろんウィーンデビューの時とまったく同じプログラム。それもレシェティツキから3年間シゴかれまくって毎日長時間かけてやっと作り上げた「なけなし」のレパートリーである。

パデレフスキーは、プロを目指したのが遅かったために、通常のピアニストが少年から青年に至る時期に経験する『レパートリーの蓄積』が欠落していたのだ。それをパデレフスキーは誰よりもよく自覚していた。だからこそパリデビューがいかに成功しようが、これから先の事を考えて暗澹とした思いにしかならなかったのは無理もない。


しかし、パデレフスキーはサイボーグ並みの意志の強さと根性を持っていた。

持ち前の精神力で「長時間練習」をこなし、更なるレパートリーを蓄積して行く。1891年のアメリカ公演の時、パデレフスキーは1日おきのコンサートをこなしながら、コンサートの無い日に17時間の猛練習を続けたという。

アメリカ公演でのパデレフスキーは実に半年で100回以上のコンサートをこなし、ピアノ界のスーパーアイドルとなった。この時パデレフスキーは31歳。(下の画像)

その人気の凄まじさは半端なものではなく、おそらくパリ時代のフランツ・リストが唯一対抗出来たのではないかという超絶の人気だった。

……例えば、パデレフスキーがステージに登場するやいなや女性達は集団ヒステリー状態になってステージに殺到。(コンサートを始めるどころではなかったろう)

最後の演奏が終わるとアンコールを要求する拍手と歓声・金切り声・断末魔などが沸き起こり、それが1時間以上も続く。レパートリーの少なかったパデレフスキーは、このアンコール地獄でかなりのレパートリーを拡げる事になった。

アメリカの聴衆はひとたび熱狂すると世界一恐ろしい。

なにしろ、かの名優オーソン・ウェルズがラジオドラマで「火星人来襲」のドラマを朗読した時、それを実際のニュースと早トチリして全米が大パニックになった事もある国民性のアメリカ人である。

パデレフスキーの追っ掛け集団もコンサートツアーが進むにつれて次第に見境いがなくなって行く…。

サイン欲しさの女性ファンが楽屋や入口付近に隠れているのはまだいいほうで、中にはハサミを持った女性ファンが待ち伏せし、パデレフスキーを見るなり襲い掛かった事もあった。

殺されるか…と覚悟をしたパデレフスキーだったが、女性ファンが欲しかったのはパデレフスキーの命ではなく彼のブロンドの髪の毛だった。(…ここまで来ると完全に変態ストーカーである。)

こうして、変態ストーカーと化した熱狂的女性ファン達の見境いの無い襲撃をかいくぐりながら、パデレフスキーは半年で100回以上のコンサートをこなし続けたのであった。


パデレフスキーの演奏風景を描いた風刺画。右下の小箱には『私の髪の毛です。ご自由にお持ち下さい』と書かれている。


かのホロヴィッツやミケランジェリ、現代のブレンデルは自己所有のピアノを専属の調律師とともにコンサート会場に持ち込む。そのポリシーは来日公演であっても変わる事がない。自ら用意したピアノのコンディションが納得出来なければコンサートそのものをキャンセルしてしまう例(ミケランジェリ)もある。

いやはや、世界の超一流ともなると公演ツアーに大変な経費をかけるものだと溜息が出る。


だが世の中、上には上がある。

絶頂期のパデレフスキーのコンサートツアーはピアニストというより、王侯貴族も顔負けの超VIPツアーであった。

アメリカ国内を移動する際はパデレフスキー専用列車を使う。列車は車輌ごとパデレフスキー所有物だったばかりか、パデレフスキーのコンサートスケジュールに合わせてパデレフスキーコンサートツアー専用ダイヤ(もちろんパデレフスキーが購入したもの)で運行した。

列車には愛用のエラールのピアノが2台(専属調律師付き)、移動中の長時間練習の時に調律出来るよう2台搬入したと伝えられている。

さらに長時間練習の疲労を和らげるための専属マッサージ師、パデレフスキーの好みの料理人チーム、主治医、執事、秘書、専属ガードマン、夫人と子供たち、……こうした大名行列のような専用列車を見るために集まる群集、群集、また群集。


そうしたパデレフスキーでも、ドイツやロシアでは冷遇された。特にロシアからすれば分割統治下にあるポーランド人は人間以下という偏見があった。パデレフスキーもそのあたりは判っていたが、ペテルブルグでは帝政ロシアのユダヤ人に対する差別政策もあり、ロシアの首都(当時)ペテルブルグにユダヤ人は24時間しか滞在出来ない…という法律があった位である。ポーランド系ユダヤ人であるパデレフスキーなど、世界がどんなに騒ごうが意地でも認めない…という雰囲気が漂っていた。

ロシアはこの時、日露戦争に敗れていた直後であり、さらに第一次ロシア革命によって帝政ロシアは末期状態に突入して行く。

1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。ポーランドを分割統治していたオーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)は両陣営に分かれて戦う事になり、ポーランド国内は両陣営に別れたポーランド人達が内戦さながらに銃を向け合う悲劇に陥る。

54歳のパデレフスキーはここで立ち上がった。

当時居住していたアメリカで、自ら亡命ポーランド人10万人を集めてポーランド独立義勇軍を組織。さらにジュネーブ湖畔の別荘を売り払って資金を作る。

ただならぬ事態を察してパデレフスキー邸に取材に押し寄せて来た新聞記者達に対し、パデレフスキーは「ポーランド独立までは演奏活動を封印する」と宣言する。

一日練習を怠っただけで腕の筋肉が硬くなってしまう晩学ゆえのハンディを持っていたパデレフスキーにとって、演奏活動を休止する事……すなわちピアニストとしての「死」を意味する。

しかし、パデレフスキーは「祖国の英雄ショパンが見る事が出来なかったポーランド独立を果たすのは、今をおいて他にはない」と記者達に語った。

目に涙をため、断腸の思いで自宅ピアノの蓋を閉じるパデレフスキーの悲痛な姿は記者達によって撮影され、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストを筆頭に全世界の新聞のトップで公開された。

祖国の独立のために、ポーランドの生んだ世界ピアノ界のスーパースター・パデレフスキーが私財を投げうって立ち上がったというニュースに、全世界に散っていた亡命ポーランド人達の勇気は百倍した。

しかし、それはポーランドの独立と引き替えに、パデレフスキーが自らのコンサートキャリアに事実上の終止符を打った事に他ならなかった。


1917年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生し、翌年ポーランド人民共和国が誕生。晴れて念願の祖国独立を勝ち取ったパデレフスキーの感慨は想像を絶するものだったろう。

民族の英雄・独立の指導者として乞われて政治の檜舞台に押し出されたパデレフスキーは、1919年にポーランド人民共和国首相(兼・外相)となり、パリ講和会議に出席した。

政治的手腕はさすがに専門政治家とはいかなかったものの、母国語のポーランド語以外に英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語を母国語同様に喋れた語学力、加えてピアニストとして活躍していた頃の世界的人脈が、この時モノを言ったのである。

しかし、各国首脳はポーランドの首相パデレフスキーと接していて、複雑な気持ちだったという。例えば、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841年〜1929年)との間にこんな会話があった。


クレマンソー:貴公はあの著名な大ピアニストとして活躍されていた、あのパデレフスキー殿でおられますかな?

パデレフスキー:その通りです。

クレマンソー:そして、現在ではポーランド共和国の首相でおられる……。

パデレフスキー:…そうですが。

クレマンソー:お気の毒に……なんという転落!


クレマンソーもまた、大ピアニスト・パデレフスキーのファンだったのである。

政治の世界を去ったパデレフスキーを熱狂的なアメリカ人ファンが後押しし、ついに1922年、コンサート活動を再開する。

全盛期の輝きは戻って来なかったものの、ファンはパデレフスキーが祖国独立の為にピアニストとしての貴重なキャリアを犠牲にした事を知っていた。
それでも、すっかり錆びついたテクニックから演奏される音楽は、それが所々に破綻しかけた演奏であっても紛れもない「パデレフスキー節」であり、パデレフスキーにのみ可能な超一流の洒落弾きであった。

今日、ピアノロールやSPに残されているパデレフスキーの録音は、どの曲もパデレフスキーの個性と気品に溢れており、少年時代「君はピアニストにはなれない」と言ったピアノ教師達の感覚を疑いたくなる。パデレフスキーは確かに超人的な練習をした。しかし、パデレフスキーの気品は決して練習で身につけられるようなものではなく、理屈抜きに「持って生まれたセンス」だと感じるのは私だけだろうか。

私もピアニストの端くれとして、持って生まれたものか後天的なものかは、演奏を聴けば間違いなく判る。ひょっとして、師のレシェティツキはパデレフスキーに『…もしや』と感じていたのかも知れない。

ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを単独で満員札止めに出来るのは、パデレフスキーかモハメド・アリ(ボクシング)かマイケル・ジョーダン(バスケットボール)くらいのものだそうだ。こんな桁違いのピアニストは、あと300年は出て来ないのではないかと思う。

パデレフスキーの作曲したピアノ曲は、メヌエットがあまねく有名だが、ピアノ協奏曲イ短調もなかなかの名曲である(VOXレーベルからマイケル・ポンティの演奏するレコードが有り)。
http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/h/Paderewski.html


▲△▽▼


パデレフスキも30代まではまともな演奏をしていた様ですね。

しかし、ピアニストの場合は20代、30代の天才というのは存在しないのですね。

早熟だったコルトーやホロヴィッツでも40才過ぎてやっと巨匠に成った位ですから。

欧米の女性を熱狂させた20代、30代のパデレフスキーもエルビス・プレスリーやビートルズと同じ類の人気だと思った方がいいですね。

しかし、パデレフスキーに限らず、ポーランドの人間はみんなどこかおかしいですね。

ポーランドはヨーロッパの朝鮮みたいなものなのかな:

ポーランドの噂

1.東郷ビール。 これってフィンランドのはず。 フィンランドにもそんなモンねぇよ。 実際にある。ただし海軍元帥シリーズの一つとして。 正確には「あった」だね。つーか、「東郷ビール」なんていうネーミングは現地で存在してすらいない。フィンランドの超ローカルなAmiraaliという地ビール(92年に製造中止)のラベルの24人の海軍提督のうちの一人が東郷だったというだけ。「東郷ビール 伝説」あるいは「東郷ビール 伝説 独り歩き」でググろう!。

2.ズブロッカ 養命酒に似た味。
中に植物の茎が1本入ってるウォッカ。


3.世界最強の酒、「SPIRYTUS REKTYFIKOWANY(スピリタス)」 これをポーランド人は乾杯で何杯も一気飲みする。
度数96%だっけ?ほとんど工業用の精製アルコールと変わらん・・確か日本で売ってるビンのラベルには「火気厳禁」とか印刷してあった気がする。
普通に水気の入ったビンの感覚で持ち上げるとほとんどアルコールなので軽くてびびる。 日本酒みたいに薄い酒は慣れていないのか、かえって飲み過ぎてつぶれるらしい。

4.コペルニクス、キュリー夫人、ヨハネパウロ2世もポーランド出身。 「コペルニクスはドイツ人だ!」なんて言うと・・・。
クラクフ空港の愛称はヨハネパウロ2世空港。

5.バッハもこの国出身。 当時ドイツ(神聖ローマ帝国)領の地域だよね?違った?
指揮者・クレンペラー(ドイツ人)の生地も今はポーランド。
大バッハはアイゼナハの生まれだけど、あそこは当時からドイツ領では。ポーランドの民族音楽であるポロネーズを作曲してたりはしたけど。

6.ショパンって確かこの国じゃなかったっけ? 当たり。
ワルシャワの空港はフレデリック・ショパン空港
ワルシャワ近郊生まれ。但し父はナポレオン戦争に従軍してそのまま土着したフランス人(母は勿論生粋のポーランド人)。ショパンという姓も本来はフランスの姓。フルネームもフランス語式とポーランド語式の両方がある。

日本のピアニストでショパンの3度の練習曲を速く弾けない人が非常に多い。 同じく作品10・2番半音階の練習曲も弾けないピアニストが多い。 上記の二人はヘタレ音大卒の模様


彼の写真を見たらドラクロアの絵とのギャップが大きく、失望した。

7.初代首相(兼外相)は「メヌエット」で有名な作曲家&ピアニストのパデレフスキだった。


8.第二次世界大戦後国土がずれた。東側はソビエト領となったが、ドイツ東部をもらったため。

9.首都はワルシャワ。第二次世界大戦など対戦のたびに破壊されたが現在は復興した。 旧市街を完全再現したはずが、街の片隅に寸法ミスがある。

10.1980年代に共産党の一党独裁が崩壊。 時の共産党第一書記ヤエゼルスキは大のロシア嫌いだったがポーランドの為になにも言わなかった。盲目の指導者でサングラスをかけていたが、その視力はソビエトとの戦いで失ったもの 一部ウソ。ヤルゼルスキはむしろ心情的に親ロシア派。あくまでもポーランドの独立を守ろうとしたのであって、ロシア嫌いというわけではない。本人もよく「スラヴの同胞」という表現を使う。

ちなみにヤルゼルスキは戦後の歴代指導者の中で一番国民から嫌われている。理由はユダヤ系だったから(現地でポーランド人が教えてくれた)。帝政ロシアの頃から属国の統治手段として異民族出身の指導者を充ててロシアに対する反感を和らげようとしていた。「スラブの同胞」と言う表現はあくまで恭順の意を示しただけに過ぎない。


11.ドイツ第三帝国が築いた収容所の跡が残っている。 オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)収容所。世界遺産となっている。
同様にドイツ第三帝国が築いた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(現地名はヴィルチィ・シャニェツ)」も跡地ながら残っている。ちなみにかなり僻地にあるため、敷地内にはホテルまで隣接している。

12.各地にはドイツ軍の残していったブンカー(壕)が残っていたり、近年では近海にドイツ海軍の空母が沈んでいることが判明したりと、ドイツ軍の置き土産には事欠かない国。街角では何故か鉄十字章がひっそりと売られていることも。 ワルシャワの軍事博物館にナチス展みたいのがあってマウザーやパンツァーファウストが展示してありその筋にの人にははたまらない

13.人口は3800万、日本の関東地方と同じ。

14.ドイツ軍に戦車で攻め込まれたとき馬で対抗しようとした。 でも、ポーランド騎兵の獰猛さは有名だったため、ドイツ兵はびびりまくっていた。本気で勝てるのかと疑っていた節もある。 実はヒトラーが割譲を要求したのは伝統的なプロイセン民族の土地(ドイツ人、ヒトラーが言うアーリア人の土地)で、実際、この地域では第一次世界大戦終結後ドイツ系住民に対する迫害が起きていた。その度合いは初期のホロコーストなど真っ青である。

だがポーランドは突っぱねた上軍備で脅したのでヒトラーがブチきれて戦車で蹂躙された。だいたいポーランドが他国に侵攻されるときの理由はこういう態度なのだが、勝っている方の尻馬にのって被害者ヅラするため始末に負えない。アメリカがあっさりソ連にくれてやったのは相手するのが嫌だったから。長い記事 ウソくさ!いったいどこで読んだんだそんなホラを・・・

ヒトラーはチェコでドイツ人の多い所だけくれればいい、という約束を破った前科があったから、ポーランドが拒絶するのは当たり前。 チェコのそれはチェコ側のお家騒動が原因。

そもそも西プロイセンにはドイツ系よりポーランド系のほうが多数を占めていたからポーランド領になったのだが どうもフランスと挟撃すればいずれ勝てると考えていた節がある。仏との同盟は秘密同盟だった。戦争回避を第一に考えるなら普通は公表する。

日本人はあのにっくっきロシア人に日露戦争で勝った国なので「黄色人種だか身長は自分たちと同じくらい」と勝手に思い込んでいる。背の低い日本人がポーランド人におまえ何人かと聞かれた場合、「おまえはベトナム人か?、朝鮮人(韓国人)か?、中国人か?、もしかして日本人か?」と必ずもったいぶって「もしかして」がつくはず。


歴史を見れば分かるけど、もともとポーランドは愛国心は強いけど異教徒・異民族に寛容な国柄だからね。 ドイツ侵攻に際してポーランド国内ではドイツ系に対する虐殺事件が起きている(ブロンベルグ血の日曜日事件)。これに対してドイツ系ポーランド人が自発的に組織した自警団が報復している。

プロイセンはドイツ騎士団の東方植民でドイツ人が大量移住した土地だが植民者はドイツ人に限らず西側は長年ポーランド王領、プロイセン王国は宗教や民族に無頓着に移民を受け入れる多民族国家だったので「プロイセン人」はかなり多民族と混ざっていた。

当時のポーランドはどさくさに紛れてソ連の領土を掠め取ってるし、ドイツが攻めて来たときにも隙あらばドイツを逆に占領しようとしたのが当時の文書から分かっている。まぁ東の大国ソ連と西の大国ドイツ両方から恨まれてたんだね。
ちなみに当時のポーランドは非常に領土的野心が高い国と言われていたのも分かっている。

パデレフスキ首相が当時はれっきとしたドイツ領だったポーゼンで「ここはポーランドの領土」と演説したことからも明らか。 ぶっちゃけ、当時のポーランドはドイツに負けないくらいの陸軍大国だった。でも重工業化に失敗して機械化が遅れていたので、イギリスとフランスはポーランドがもって2・3ヶ月だろうと思っていた。なので2国とも最初から見捨てる気満々だった。


でもポーランド侵攻時のドイツの戦車は弱く、むしろ優秀な野砲がポーランド軍を蹂躙したと言って良い。

「騎兵隊で戦車部隊に突撃した」という逸話は実は従ドイツ軍イタリア人記者の「作り話」らしい。


15.美人と「ミリタリー系の雑誌」には事欠かない。前者は街中で、後者はキオスクで。 Wikiでその手のを捜してると、「English」のリンクが無いのに「Polski」と繋がっているという事がよくある。

ワールドカップの各国美女サポーターを集めたサイトを見たが、Brazilと並んでPolandのページが異様に多かった。美人が多いのはどうやら間違いないと思う。 世界有数の美女大国だが、30も過ぎるとウエストのないおばちゃん体系に...


16.最盛期は15世紀。

17.田舎の踏み切りは、列車が通過する前後で最低でも30分は閉じている。 目で見て渡れと…。

18.犯罪者の護送に在来線を使う。ちなみに車内では護送される犯罪者は手荷物の収納部屋のような場所に入り、その入り口の両脇を銃器を持った軍人さんがガッチリとガード。

19.何かあるたびに無くなったり分裂したり移動したり復活したりと忙しい国。 ヨーロッパのいじめられっ子。

4,5回ほどロシアに小突きまわされてるのに何度も不死鳥のごとく蘇る。国歌にすら「まだポーランドは滅びていない」というフレーズが入っている。 ちなみに国歌の名前は「ドンブロフスキのマズルカ」、ポーランドの友人に聞いても意味は知らんとのこと。

何度潰されても、虐げられてもしぶとく復活。ポーランドの子供は自国の歴史を学校で習うと愛国心が高まるそうだ。

800年間でもリトアニアに併合され、ドイツ・オーストリア・ロシアに全領土を没収され、第一次世界大戦後再び現れ、今度はドイツとソ連に侵略され、また復活したがソ連に西部を半分持ってかれドイツ東部が領土となり…今に至る。結構いそがしい国だ。

リトアニアに併合されていたというのは無理かも。ポーランド国王がリトアニア公爵を兼ねていた同君連合(西洋史にはちょくちょくあること)でした。ちなみに日韓併合も世界史的に見ると同君連合に分類されるようです。 ポーランド女王とリトアニア大公の結婚という比較的穏健な手段で連合している。ちなみに、女王様は御年11歳で三十路の大公殿下にお輿入れ。


実は結構自分から手を出したこともあるが、一般的にはヤラレ役のイメージが強すぎて目立たない。 ドイツ(チュートン)騎士団をぶちのめしたことも。 リトアニアと連合軍を組んですっごいかっこいい勝ち方をしてた。


20.帝政ロシアに虐められた時、シベリアに流されたポーランド人の子供を日本が世話したので結構日本に対する感情が良い。 そして阪神大震災でその恩返しをした。 阪神大震災の時「今こそ我等ポーランド人が日本人に70年前の恩返しを」という事で多くの被災孤児を招待して手厚くもてなしたとか。

でも国民単位では反日らしい。 そんなことはない。8月6日と9日には原爆犠牲者のための追悼をしてくれてますよ。 そう言うなら「ドイツをいじめると日本人はいい顔をしない」ということもそろそろ理解して欲しい。 そんなこと思う日本人はあまりいない。そもそもドイツはナチス時代にいじめられても仕方ないだけのことをしてるからなぁ(仕返しもしたけど)。 それが結構いるとこにはいる

そもそもドイツ国民の殆どは、同盟を結んでいた事なんて知らない。全く知らないよ。マジで。


ポーランドが反日国家なんて聞いたことがないよ。 むしろどちらかと言えば親日。シベリア孤児のこともあるし、クラクフには日本に関する博物館もある。


21.今でもロシアが嫌い。 ドイツも嫌い。本当はアメリカも好きではないが、「新しい欧州」扱いしてくれるから表には出さない。

その割りに御祭りではロシア人の商人が自国の空軍のパイロットスーツや、果ては日本なら遊就館にでも収蔵されていそうなン十年前の錆びて穴の開いた鉄帽やドラムマガジンを平然と売っている。というかそれ確実に何か憑いているだろ。

が、最近はポーランドの方からロシア側に関係修復を望んでいる。ロシア側も両国の関係進展を望んでいる。エネルギー、防衛の関係で時間はかかりそうだがこの両国の関係がよくなればEUとしてはおいしい。

アメリカへの愚痴意見は両国とも合致している。
ロシア人のエリートがワルシャワに訪問したら、ホテルでも冷たい態度を取られる。

22.でもロシアが嫌いな他の国家(大半はベタベタの親日)からは日本とドイツが第三次世界大戦を起こしたら、ポーランドとイタリアと韓国だけはなんとしてでも締め出そう、と思われている。 日本とドイツが手を結ぶより、日本とアメリカとイギリス+英連邦が組む可能性が高そうなんだが、その場合はどうするんだろ。この場合は戦争する以前にこの新連合国の勝利が決定していそうなんだが。

たぶんドイツやフランスは戦争に参加せず、中国などが敵になりそうな気がする。

アメリカ+日本+英連邦の「新連合国」とロシア+中国の「新似非共産圏」とドイツ+フランス+イタリアの「新枢軸国」でどうか。南米・アフリカ諸国は一番親しい国もしくは一番金をくれる国に付く。 中東なくないすか?

どうせ戦争になったら世界中のみんな「絆」なんて忘れて「金」と「勝利」にしがみつく様になるんだろう。今は仲が良くても心底では「もしアイツが裏切ったときのために一応装備しておこう」と思ってる人が少なからずいる。そう思ったら・・・しょせん世界中の「共存」と「友情」なんてその程度なんだ・・・って落ち込む。


23.ショパン国際コンクールが開催される。 昭和40年代内田光子が2位で、日本はいまだに優勝できない。 日本のピアニズムを認めたくないらしい。


24.去年(2005年)双子の兄が首相・弟が大統領という兄弟政権が誕生。 ドイツが大嫌いだ。ついでに口シアも。

インターネットで、2人の写真を並べて違いを判別するゲームがある。
ソ連に虐げられた日本人とは結構ウマが合うかもしれない。
そりゃそうだ。何回も理不尽な理由で攻め込まれてるからね。

25.国旗の赤と白を逆さまにするとモナコ(=インドネシア)の国旗になる 共産国家になっても、旧来の国旗の意匠を頑として変えなかった(他の東欧国の多くは社会主義っぽい紋章や赤い星を国旗に加えたケースが多い)この国旗にかけるポーランド人の思いはただならぬものがあるそうだ。 国章も、鷲の頭の王冠が消えただけで特に社会主義っぽくはなっていなかった。


26.インドネシアと紛らわしい国旗なので、配色を忘れたら、マルマインを思い出すべき。 じゃあ、マルマインとビリリダマの区別が付かなくなったらどうするの?

27.民族ジョークではイタリアをも凌ぐバカの名産地だが、本来の国民性は勤勉らしい。 戦争でボロ負けしてから必死こいて挽回するから、「一人が電球を持って残り四人がテーブルを回す」とかいう言い草になったんじゃないのか?

かなり我の強い国民性らしい。国王を差し置いて貴族同士が権力争いをしてたら(ポーランド継承戦争)気づけば国そのものが無くなっていた

どうやら、アメリカに大量に移住したポーランド系の移民がロクに英語を話せなかったから・・というのが事の真相らしい。元々は勤勉な国民性なので、二世・三世になって医者や代議士、大学教授等多くのエリートを輩出している。


28.国歌がなかなかかっこいい。 歌い出しが「ポーランドは滅びず 我等が生きる限り」か。ポーランドらしいな(笑) もともとポラン族という民族の集落だったらしい。

旧ユーゴスラビア国歌「スラブ人よ」と同じメロディー。元はスロバキア発祥で現在も同国の第二国歌。

そして何故かイタリアの名前が歌詞にある。ポーランドとイタリアは仲が良いみたいだ。 アンケートによればポーランドが一番好きな民族はイタリア人らしい。次が日本人とフランス人、次がイギリス人、アメリカ人。


29.餃子が名産。 ピエロギと申します。

30.映画・戦場のピアニスト 邦題 The pianist で有名。 「原題」では?
"AVALON"は"The Matrix"よりもクール。

31.アメリカンジョークでは、ポーランド人は時代遅れのバカという扱い。 有名なのは「Polish Remover」の話。

時代背景が古いハリウッド映画(舞台はアメリカ)など見ていると、ポーランド人やアイルランド人を馬鹿にした表現があったりする。何故?国が何度もなくなっているから?


32.あるポーランド人男性によれば、ポーランド女性は身も心も世界で最も美しいのだが、不幸なことに脳みそが入っていないのだそうだ。 どういう意味?おバカさんってこと?


33.ポーランド語人口が少ないにもかかわらずWikipediaの記事数では日本語、スペイン語を上回る第4位になっている。 ポーランド語版Chakuwikiがあったらいいのにw

ワールドワイドで売られている電機製品等では最近意外にポーランド語対応製品が多い。デジカメとかコピー機とか(日本製品で)。
日本ではwikipediaは自己満足の世界と理解されたから。ポーランド人はおバカだからまだそれに気づいていない。

34.「ポーランド人」「ポーランドの」を意味する英語Polish(ポウリッシュ)は、小文字にすると意味ばかりか発音まで変わってしまう唯一の英単語。 polish(ポリッシュ)……磨く。 ポーランドの柱。

polishの発音はパリシなんだが・・・。Polishならわかるけど アメリカ人でも気付かない人が多いらしく、作家のアイザック・アシモフが何回もネタに使っている。


finnishを無視するな。 完了はfinishなのだぜ!


35.ポーランド語は異常に「z」をよく使う。 特に頭文字に多い。

36.王天君にしてヤムチャ。

37.5月3日は憲法記念日。日本と一緒。


38.(9 + 13) * ( 24 - 2 ) を * + 9 13 - 24 2 と書く。 その逆が 9 13 + 24 2 - * ポルスキーもあながちバカばかりではないようだ.


39.たまにドイツに過去の清算だの言いがかりをつけてくるが、 モンゴル帝国が攻めてきた時、当時のドイツである神聖ローマ帝国と共にモンゴルの侵略と戦ったことはすっかり忘れている。 大昔から他人種と戦うなんて大陸はつながってるなあ。いまでもポーランドの路線はロシア経由で中国やモンゴル、北朝鮮にもつながっている。 侵略されたら戦うのは当然だろう。神聖同盟でロシア、オーストリアと組んでオスマントルコと戦ったりもしている。この時にポーランド騎兵の対外的な名声が高まった。

その四十年後に繋がってない日本もモンゴルと戦っている。西のヨーロッパから東の島国まで攻め込んでモンゴルも忙しい国だ。


40.ポーランド騎兵には羽が生えていた。 あの羽根飾りはカッコイイ。

41.ポーランド人はアメリカやイギリスに多く移民しており、親米らしい。 ロシア語までも嫌っている。英語がブームらしく、日本語も人気で始めた。 戦前はドイツ語とロシア語がブーム。戦中から戦後は英語ブーム。


42.チェチェン人を保護している。『殺してやる』というほどロシアを嫌っている人々に共感しているみたい。 さすが大のロシア嫌い。

ソビエト陣営所属の共産国家「ポーランド人民共和国」時代で3回も反ソ連暴動起こしてるしな・・

43.ポーランドのドラゴンボールzのopeningはなぜかナメック星編中心。 ハンガリーもポーランドと同じバージョン。

フィリピンの英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語バージョンはかっこいい。

44.♪さぁ踊ろう ポーレチケ、ポーレチケ、ポーレチケ…

45.優秀な人はみんな西に行ってしまったので、残っている人はそれなり。日本で言えば山口か鹿児島か。「ポーランド人は外国にいって成功するんだ(キューリー夫人とかショパン)」と真顔で語る波蘭人。

46.国が何度も消滅する歴史を持っているためかどこの国であろうと虐殺、弾圧が行われると真っ先に反応して講義する。天安門事件の慰霊碑が立てられているのが好例。

47.第二次大戦のポーランド軍最高司令官はヴワディスワフ・シコルスキという。 気持ちい? 女性ならシコルスカ/Sikorska、シコシコ・スカスカ、はぁー

48.ナチスドイツから2500人のユダヤ人の命を救ったイレーナ・センドラーというポーランド人がいた。 ナチスドイツ軍に処刑されたと思われたが実は生きていたという奇跡の物語。


49.ただいま日本語がブームである。 なんと日本ポーランド情報技術大学なんてのがワルシャワにある


50.ナポレオンが好き。(一時的に、ワルシャワ公国としてポーランドを独立させたから) 国歌の歌詞に「ボナパルトがいい例だ 勝つ方法を見せてくれた」との一節がある。

その結果ポーランドにはフランス語が元の言葉も多いとか
ボナちゃんの愛人がポーランド人。


51.ポーランドは西側の中古の路面電車を買っている、そしてリニューアルをする。 JR西日本とJR四国のような感じである。

52.ポーランド人はドイツとロシアも両方嫌っているが、ロシアのほうが嫌いだろう。 ポーランドはドイツ語を好んでいる。何しろ出稼ぎに便利。ドイツ語とポーランド語は違う系統だが隣国なのでよく通じる。 内心嫌いだが、金のためのドイツ語だろ?

ポーランド旅行ではドイツ語表記が多いので、ドイツ語がわかれば結構よいかも。
しかしロシア語で話すと横柄な態度を取られる、また第二次大戦後にロシアにより東側陣営にさせられた苦痛がある。 しかしポーランドではロシア語教育が復活している。まあBRICsだから。

ドイツは消極的選択肢で好かれている。まあナチス式敬礼しただけで逮捕するからね。一応はドイツは敗戦したし。 これはバルト3国、チェコ、スロバキアでも同じ事。


53.ポーランドは客車大国で、特急列車も高速鉄道も客車。高速鉄道を作らず、飛行機と競争しない旧共産圏の名残。 ドイツから鉄道を乗り継ぐ際にここを境にユーラシア大陸の極東まで特急列車はほとんどが客車になり、シベリア鉄道は超長距離だから特急は客車しかない、中国のハルビンで動力分散型の高速鉄道が見られる。

ちなみにベラルーシを越えると線路幅どころか車高も変わる。 標準軌のヨーロッパと直通運転の際にロシア国内では車高が高いCIS列車と車高の低いヨーロッパ車両の組み合わせが見られる。[1]

なんと日本に次ぐ早さで高速鉄道を開通させていた。ただし路線に見合った性能の高速列車の導入はこれから。


54.イタリアと仲がいい。

55.ポーランドとインドネシアは似た国旗以外にもナチスに関係がある。

56.東欧革命後に西側の安い労働力として毎年6%前後の成長しており、2008年ではGDPは世界18〜20位だった。ポーランドは旧共産圏で経済成長率が高い。 勤勉なポーランド人は英語が好きで、近年は嫌いな国の言葉のドイツ語、ロシア語教育に熱心である。

恵まれた国に隣接する国は飛躍的に経済成長する現象。アメリカとメキシコ、日本と韓国、ドイツとポーランド、イギリスとアイルランド。 シンガポールとマレーシア。ギリシャとトルコも?だけどスペインとモロッコ、オーストラリアとパプアニューギニア、イスラエルとエジプトは?


57.弱いイメージがあるが、リトアニア大公国との同君連合時のヤゲウォ朝(ヤギェウォ朝)はヨーロッパでも最強クラスの国家だった。ちなみに受験でポーランドの王朝が聞かれたら100%ヤゲウォ朝 昔から軍事的にもそこそこ強力な国だったが、ドイツ・ソ連の東西両国が強烈過ぎた。ナチス占領下でもワルシャワで数十万の武装市民がナチスSS武装親衛隊相手に壊滅状態になるまで徹底抗戦したりと、よく言われる「ヘタレ」のイメージでは無い。

58.ポーランド人は金持ちがドイツに留学、貧乏がロシアへ留学するらしい。 ポーランドは一応はドイツ語は学ぶ。

59.移民として行く国はイギリス。ドイツは当たり前だが少ない。

60.ウクライナとの関係はよくわからない。どっちも反ロシア ポーランドとロシアの綱引きのようなもの。綱(ウクライナ)を少しでも自陣に近づけようとしあっている。

ポーランドには12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。ポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。
どっちも美人大国!♪


西部ウクライナは歴史的にポーランドの影響を受けた地域で、ウクライナ語も東スラヴ語だが語彙はかなりポーランド語化しているのでポーランドとの心理的距離は近い。

61.18世紀に隣国によって分断され国が消滅、まるで現在のクルディスタン状態に・・・


62.童謡「森へ行きましょう」はこの国の民謡。 ポーランド語では「Szła dzieweczka(シュワ・ジェヴェチュカ)」と言い、「あの娘は歩いている少女」という意味らしい。

63.実はポーランドは17世紀においてオスマン帝国とマトモにやりあえる位の大国であった

64.ポーランド人は馬鹿といわれているがそれはジョークだけ、実際欧州でも1〜2位を争うほどIQが高い人が多い。

65.酒屋やスーパーのお酒売り場においてウォッカは売り場の7割ほどを占める でも最近若年層はワインを飲む人が増えてきた

66.ロシアとどっちがウォッカの元祖かしょっちゅう論争してる 記録上一番古い蒸留所はポーランドにある

67.最近はデスメタルの聖地。しかも、ものすごいテクニック(特に驚異的ドラマーが多い)と音圧、激しさ...ポーランド人の国民性?

68.G8の中で6ヶ国は好きで2ヶ国は大嫌いその国はどこでしょう?。 新大陸のアメリカとカナダは移民が多いから好き。極東の島国の日本は日露戦争の影響で大好き。ヨーロッパの連合国のイギリス、フランス、枢軸国でもすぐ脱落したイタリアは大好き。

ポーランドを侵攻したドイツ、ロシアは大嫌い。


69.フランスの環境相ナタリー・コシュースコ=モリゼはポーランド独立の闘士コシチューシコ伯爵の兄の子孫。

70.ポーランドの英雄ピウスツキの兄の子孫が北海道にいる。本国の家系は途絶えたらしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

2012年 6月30日〜7月3日ワルシャワ旅行

 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。毎回体調不良や予定があわず何度となく旅程を延期していたため、色々な意味で大きな犠牲を払った上での三度目の正直であった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように慎重に観光した。

訪問の主な目的はショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませること。飛行機の中や晩ホテルで寝る前、その世界になるべく近づけるよう最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いた。コペルニクス、パデレフスキ、ミケヴィッチについては、彼らの像をみることしかできなかった。

初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日のショパンコンクール審査員らの裏話を聞いたり、友人との会話を楽しんだりした。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚を確認すべく、ビッグマックを食べた。

二日目は一人で観光。ショパン博物館には昔から本などでよく見かけた絵やショパンのピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながらあいていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例していると考えているが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国よりやや大きいという感じであろうか。

キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究所)より多くの写真があった。その多くがパリの写真であり、パリで見たことがあったが、その中にもワルシャワでしか見られない少女時代の写真や、レアな写真もあった。パリのキュリー研究所で今自分がいる建物は100年前から外見は何も変わってなかった。

キュリー夫妻は、笑っている写真が1つも残っていない。長女のイレーヌは研究者になり、ノーベル賞を受賞したが、やはり笑った写真が1つもない。職業柄であろうか。次女のエーヴはピアノにハマり研究者にならず、いつもニコニコ美人で有名人の娘として社交界に出入りし、ノーベル平和賞をもらった組織のトップと結婚し、母の思い出を書いた伝記はベストセラーとなり、この時まだ102歳?で健在であった。

研究をした彼女の家族は全員放射能を浴び白血病で若くして亡くなった(父親は事故死)が、彼女は姉の2倍生きた。


生家をみる限り、伝記などで美化されるとなる生まれの貧しさは必ずしも正しくはないようである。それなりの家に育っていたようである。


晩は旧市街地でサッカーワールドカップ、フランス対ブラジル戦を見ながら地ビールを味わった。

三日目は午後から友人と合流し、南の離宮と有名なショパン像があるワジェンキ公園に向かい、ショパン像隣でのショパン音楽院教授によるショパンの演奏を聴いた。野外に粗末なピアノを置き、アンプとスピーカーを通しての演奏だったため、演奏者にもあまりやる気が感じられなかった。建築などで有名だった旧名門ワルシャワ工科大学前を通過し、晩は旧市街地で夕食をとった。

四日目は友人とショパンの家に行ってみたが、またしても開いていなかった。そのまま空港行きバスにのり、パリに帰った。二度と訪れないような気がして寂しさを感じた。
http://nanomicroscientist.blogspot.jp/2012/07/63073.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c3

[番外地7] 民間療法で効果が有るのは鍼療法と温泉療法くらい
民間療法で効果が有るのは鍼療法と温泉療法くらい


別に僕は主流派医療を薦めているのではなく、代替療法や健康食品は殆どがインチキだと言ってるだけです。
癌は免疫力で治せるという与太話が流行っているので、新型コロナウイルスも同じ類ですね。

癌を免疫力で治すと称する治療が殆ど間違いだというのは

癌掲示板 健康食品(アガリスク 乳酸酵素 フコイダン他 健康食品)
http://www.gankeijiban.com/bbs/kenkoushoku/

癌掲示板 民間医療(丸山ワクチン ハスミワクチン 温泉療法 他)
http://www.gankeijiban.com/bbs/minkan/

に出ています。

民間療法で効果が有るのは鍼療法と温泉療法くらいでしょう。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/556.html

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
4. 中川隆[-13587] koaQ7Jey 2020年3月22日 15:58:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1317]

セルゲイ・エイゼンシュテイン 十月(1928年。Октябрь)

レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握した十月革命の模様が描かれる。
この作品には実際に革命に参加した人々が多く参加しており、エイゼンシュテインの天才的な映像技術とともにそのリアリズムは際だっている。


October (Ten Days that Shook the World) (1928) movie


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c4
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
5. 中川隆[-13586] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1318]

十月
https://movie.walkerplus.com/mv12030/


監督
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ

脚本
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ

撮影 エドゥアルド・ティッセ

音楽 ディミトリ・ショスタコヴィッチ

美術 ヴァシリ・ゴブリーギン

ソビエトが生んだ偉大な映画作家セルゲイ・M・エイゼンシュテインがソビエト革命十周年記念映画として製作した作品。

彼一流のモンタージュを、ヴィジョン構成の方法として用い、一九一七年の三月から十一月までの激動するソビエトをとらえている。

監督・脚本は前記のセルゲイ・M・エイゼンシュテイン。また、共同監督・脚本にグリゴーリ・アレクサンドロフが名を連ねている。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はディミトリ・ショスタコヴィッチ、美術はV・ゴブリーギンが担当。無声。


革命前夜のソビエトは、大きく揺れ動いていた。帝政ロシアの第一次大戦の連戦連敗により、ツアーリズムは最期をむかえ、社会生活の困難にストライキが頻発。そのような情勢に、ボリシェビキの指導者レーニンは、来たるべき革命は、プロレタリア革命であることを強調。そして、四月にスイスより帰国したレーニンは、「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えた。

このレーニンの方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と、根本的に対立、次第に激化した対立をひきずったまま、六月中旬に、ペトログラードにて第一回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、ボリシェビキは少数で、メンシェビキと社会革命党のにぎる臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、七月一日に四〇万の人々によって、戦争反対のデモが起きた。

その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命。九月に入ると、ロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加し、亡命中のレーニンは、武装蜂起をうながした。十月二十日、ひそかにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第二回ソビエト大会の前日、十一月六日と決定した。

当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は、各連隊の兵士、クロンシュタットの水兵と共に行動をおこし、要所を占領。十一月七日(露歴十月二十五日)午前十時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言。そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で第二回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した。
https://movie.walkerplus.com/mv12030/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c5

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
6. 中川隆[-13585] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:08:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1319]
エイゼンシュテイン「十月」のモンタージュ
BeauMale 2012.2.20
http://beaubeau.jp/yuki/october.html

セルゲイ・エイゼンシュテインの「十月」である.制作年外が 1927 年というのと 1928 年というのがあるが、恐らく制作は 27 年で 28 年に公開ということではないかと思う.原作はジョン・リードの「世界をゆるがした十日間 (ちくま文庫)(Ten Days that Shook the World)」である.これの岩波文庫版を読んだが滅法面白い.アメリカのジャーナリストである彼はボルシェヴィキと行動を供のしていたのでレーニン贔屓である.ロシア革命はニューヨークの資本家から資金が提供されていたという話もある.エイゼンシュテイン自身はハリウッドに呼ばれたことがあるし、チャプリンなどとは仲が良かったらしい.尚この映画はサイレントであるが、DVD は音楽と群衆の声と馬の足音や銃声などの効果音が入っている.また、サイレントにしては字幕が非常に少なく画面だけで解るようになっている.

モンタージュはフィルム編輯のことである.エイゼンシュタインの編輯はカットで割ってその画面をどう繋ぐかにある.異なったものを繋いで一つの意味を作り出すと言うことに主眼が置かれている.冒頭の皇帝の銅像、群衆、銅像に縄を掛ける、群衆の歓呼という異なったショット群の繋ぎが意味を生成する.

参考:

YouTube - Search results for Octobre Eisenstein
https://www.youtube.com/results?search_query=Octobre+Eisenstein&search_type=search_videos&search=Search



全編のヴィデオがあるのだったらこんなに写真を拾う必要なかったが、以下は冒頭の部分を全ショットを拾ってみた、大きな彫像が九つのショットに分けられている.一回映せばよいのを何故カットを割って画面を作るかというと、これこそが画面に強度を与え、リズムを与えるからである.前回取りあけたラオール・ウォルシュの「限りなき追跡」の冒頭の駅馬車がカットを割ることによって力強さを獲得している.あのように一つの動きを幾つものカットに分けていく技法を Cutting on action [en] とかアクション・カッティングスというが、あるところに載っていたラオール・ウォルシュの「白熱」の解説に

この映画や「死の谷」など、ウォルシュの絶好調時を思うと、今のハード・アクションなんてちゃんちゃらオカシくって観てられない。暴力は溢れてるけど、映画自体の活動(アクション)が無いんですよ、今の映画は。

とあってこのアクションとはカッティング・オン・アクションまたはアクション・カッティングのことである.少し前に井口奈己という監督の「犬猫」を評して小津安二郎や成瀬巳喜男やベルトルッチやキアロスタミや黒沢清が共存しているというのでそれは凄いと DVD を買って観たが、なるほど箇々のショットは誰を思わすというのがあるが強度がないと感じた.思うにそれはこの意味でのアクションが無いことだと思う.



最後から二つ目のショットでこの像がアレキサンダー三世だと解ってそれも束の間、群衆が走り出す.そのシーンも角度を変えて幾つかのショットに分割される.




そしてまた皇帝像に戻る.今度は梯子が掛けられ何人かが登り綱を架ける.




そして綱が引かれる所でシーンは兵士、労働者、農民の歓声を上げている群像へと変わる.




ロシア革命の歴史を知らない人はこれがレーニン達の起こした「10月」革命と思うかも知れない.それ程に革命の熱気と祝祭空間がここには溢れている.面白いことに歓声は皇帝像が引き倒されてから起きるものだが綱が引かれる段階で起きている.この歓声の後実際に引き倒されるのであるが手や足がもげ、首がもげ最後に胴体が台から引き摺り落とされるという経過を辿る.その後もう一度群像の歓呼の画面が再現される.その様子は下のヴィデオにある.この革命は第二革命と言われた二月革命である.第一次大戦の連合国側に加わって参戦したロシアの民衆は三年近く続く戦争にうんざりして兎に角皇帝ツアーを退位させて、ブルジョワ政党による臨時政府を樹立した.

YouTube - TheFirstMinutesofOctober [en] この冒頭シーンのみ抜粋




併し祝祭気分は何時までも続かない.皇帝を退位させても何も変わらないのだ.戦争は継続され、兵士は塹壕で苦しんでいる.その様子も勿論複数のショットで表現されている.



そして飢えである.雪の中何時間も配給に並ぶ人々は映されている.時間が経つと雪の中で倒れるものが続出する.



四月、そんなときに待っていた人が帰ってきた.スイスに亡命中のレーニンである.ドイツは東西に戦線を広げていて、ロシアと対峙している東部戦線が離脱することを願っている.レーニンをロシアに送り込めば混乱が起きるかもと踏んでフィンランド経由で送り返した.ペテログラード(今のサンクトペテルブルク)はピヨートル大帝が作った都市でそれ以来ロシアの首都であったが、そのフィンランド駅に民衆はレーニンを今か今かと待ち構えていたのである.レーニンは革命は労働者農民によってなされたと演説する.



政権は臨時政府にあるが、無産階級からなるソヴィエトも力を持っていて二重の政府があるような状態であった.併し、段々臨時政府に対して不満を募らせ七月には大々的な武装デモを行うようになった.



レーニンらのボルシェヴィキは彼らを沈めようと必死になった.この写真はトロツキーだと思うが冷静に自重しろと呼び掛けているが民衆の声にはかき消されてしまう.



そこに大々的に臨時政府の反撃が行われる.デモ隊に対して実弾を発砲して弾圧を開始した.そして逃げ惑う人々



馬車を引く白馬が流れ弾に当たり、労働者地区から市の中心部に繋がる跳ね橋が上げられ馬が宙吊りになる.跳ね橋を上げれば労働者のデモ隊は市の中心に近付けない.



労働者を傘で刺しもしたブルジョワ夫人達が嬉々としてボルシェヴィキの機関誌「プラウダ」をネヴァ川に捨てる.



スモーリヌイの修道院にあったボルシェヴィキの本部はこの有様.



臨時政府の首班には陸海軍大臣兼任のケレンスキーが就いていた.ケレンスキーはこの映画一番の美男子である.



皇帝達の玉座に座るケレンスキーは今や皇帝としてこの映像が繰り返し一緒に挿入されナポレオンとも比較される.



反乱した兵士は前線に送られ、トロツキーを始め多くのボルシェヴィキの幹部は逮捕され、レーニンも潜伏を余儀なくされる.自然というものの描写のないこの映画で唯一こうした自然が描写される.舟で行く人がレーニンなのだろうか墨絵のような画面である.



そこに新事態が発生した.最高軍司令官に任命されたコルニロフ将軍が軍を掌握し、保守派の支持を集め革命で獲得した兵士の権利を剥奪しケレンスキーに同調を求めてきた.ケレンスキーはそこまで妥協は出来ない.今や二人の皇帝が並び立つ事態である.併し、ケレンスキーは保守派も離れボルシェヴィキからも支持を得られない.孤立無援の状態である.コルニコフ将軍は英国製戦車までも持つ機械化部隊で首都ペテログラードを目指して進撃している.



臨時政府は事態をこまねいてみているだけである.地下に潜伏中のボルシェヴィキが立ち上がった.捕まった同士は解放され、



民衆はスモーリヌイのボルシェヴィキの許に続々と集まった.武器庫が解放され武器が人々の手に渡る.



コルニロフ軍が軍用列車でペテログラードに近づくと列車は止められ、兵士達はボルシェヴィキに着く.各地で同じ事が起き最早軍隊は統制が取れない状態である.とてもかなう相手ではないがコルニロフ軍は自己崩壊してしまった.ボルシェヴィキの勝利である.



ボルシェヴィキの中央委員会が開かれ今後が話し合われる.トロツキーは時期尚早として政権奪取に反対する.トロツキーは理念的でマルクスの歴史の展開を信じているのであろう.先ずブルジョワ革命が起きそれが成熟してプロレタリア革命だと思っているようである.



レーニンは即時に政権を武力で奪取しなければまた弾圧されて散り散りになると現実的である.



結局武力による政権奪取を主張するレーニンの考えが通って政策が決定された.武器が配られ臨時政府のある冬宮が包囲される.また市内の重要拠点は全て占拠される.



アヴローラ号 もボルシェヴィキに着いてネヴァ川で冬宮に向けて大砲の照準が合わせる.



冬宮を守るのは士官学校の生徒と、この女性軍団と、コサック砲兵隊しかいない.女性軍団の兵士達は皇帝のビリヤード台であられもない姿で化粧をしたり寛いでいる.



一方、全ロシアのソヴィエト大会が開かれている.この組織が最高議決機関なのである.全戦代表、水兵代表、シベリア代表、と文字通り全ロシアから集まっている.政党もボルシェヴィキの他にもメンシェヴィキ、社会革命党などが来ている.政権奪取の賛否は圧倒的多数でレーニン達ボルシェヴィキの武力蜂起による政権奪取が支持される.これで公式に武装蜂起は承認されたのである.



冬宮は包囲されたがこのまま突撃すれば死傷者が出る.革命側から降伏勧告の最後通牒の軍使が遣わされる.これがこの映画では珍しい縦の構図である.



軍使は女性軍団の司令官に通報を渡す.渡すとき字幕が入ってこれがおかしい、女性軍団が何だい小父さんとでも言ったのであろう、小母さんと言いかけて同胞、最後通牒ですと渡す.最後通牒は閣僚にまで渡されるがケレンスキーはいない.ボルシェヴィキが武装蜂起を決めてからその様子を見るためか亡命のためかアメリカの国旗をつけた高級車で市内を走っていたが行方知れずである.最後通牒への解答は延々と来ない.



解答が来ない間、コサック砲兵隊はボルシェヴィキのオルグが入り降伏してしまう.女性軍団も多くが降伏する.それでも解答は延々と来ない.閣僚らはなすすべも無く寝転んだり座っているだけである.そんな閣僚の一人が窓の飾りに描かれた竪琴を指で爪弾くとロダンの「春」という彫刻が映され、そこに女性軍団の一人がやってくる.物語の大筋とは全く関係無い画面であるが、この革命劇の唯一のエロティシズムを表現している画面だと思う.以下このショットも全て拾ってみた.



一向に解答が来なくて待っていた軍使も引き上げた.そして一斉攻撃が始まった.



冬宮は千を越す部屋数のある巨大な宮殿であるが革命軍は突入する.殆ど抵抗もないまま制圧してしまった.捕虜になった士官学校生が皆宮殿の銀のスプーンやフォークを盗んで隠し持っているのはおかしい.



そしてレーニンによってプロレタリア革命が成就したことが告げられ、プロレタリア国家を建設しなければならないと宣言される.



今から観れば表現過多の所もあるが、この映画の力強さは素晴らしい.その力強さ細かくカット割りした画面によるものだと言う思いが強くなった.

http://beaubeau.jp/yuki/october.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c6
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
7. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:13:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1320]

エイゼンシュテイン監督「全線(古きものと新しきもの)」、「十月」を観る
〜 ショスタコーヴィチ「交響曲第12番『1917年』」が流れる 2019年01月14日
https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49

現在、高田馬場の早稲田松竹では、ソビエトが生んだ偉大な映画監督セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1898−1948)の生誕120年・没後70年祭を開催中です  

昨日、「全線(古きものと新しきもの)」と「十月」の2本立てを観ました

「全線(古きものと新しきもの)」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1929年ソ連映画(モノクロ・無声・90分)です

ロシアの貧しい農村で働く農婦マルファは、農業教師指導のもとに小さな協同組合を作る 組合では牛乳分離機という新しい機械を手に入れ牛乳の生産に取り組むが、それが評判になり組合員が増える 種牛も組合共有で飼育する。収穫の時期になると従来の牛や馬ではなく機械(トラクター)の必要を感じるようになり、マルファは組合の代表者として町へ出て官僚主義の役人と交渉する その留守中、種牛は富農の手によって毒殺されてしまう しかし、マルファたちはトラクターを手に入れ機械化による新しい農業の時代を切り開いていく
     

出演者は主人公の農婦マルファ以外は全員素人ということに驚きます この映画では1925年の「戦艦ポチョムキン」で新たに実験的に取り組んだ特殊なモンタージュ技法を使用しています それは、空に牛の姿が浮かび上がる映像として結実しています

この作品は無声映画なので、最初から最後まで90分間いっさい音がありません そのため睡眠不足の状態で観ると途中で目が閉じる可能性が高いので気を付けた方が良いと思います

それにしてもよく分からないのは「全線」という邦題です。「古きものと新しきもの」は、「古きもの=従来のしきたり・やり方、新しきもの=機械化・合理化」といった意味だろうと理解できますが、「全線」は理解できません。「全線不通」の全線ですか? 私は頭が良くなので理解できません

「十月」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1928年ソ連映画(モノクロ・109分)です

帝政ロシアの第一次世界大戦での連戦連敗により、1917年にはツァーリズム(絶対君主制)は最期を迎え、社会生活の困難にストライキが頻発していた そのような情勢の中、指導者レーニンは来たるべき革命はプロレタリア革命であることを強調した そして4月にスイスから帰国したレーニンは「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えるが、この方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と根本的に対立するものだった 

6月にペトログラードで第1回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、レーニンが率いるボリシェビキは少数派で、メンシェビキと社会革命党の握る臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、これに対し7月に40万人規模の戦争反対のデモが起きた その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命する。

9月に入るとロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加、亡命中のレーニンは武装蜂起を促した。10月20日 密かにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第2回ソビエト大会の前日、11月6日と決定した。当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は各連隊の兵士らと共に行動を起こし、要所を占領する 11月7日(ロシア歴10月25日)午前10時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言した

 そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声が轟く中、第2回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した

    

この作品はエイゼンシュテインが、ソビエト革命十周年記念映画として製作した作品で、1917年の3月から11月までの激動するソビエトを描いています この映画でも特殊なモンタージュ技法を駆使した映像表現を見せています

この映画は無声映画であるにも関わらず、音声のみならず音楽まで入っています 映画の冒頭ではショスタコーヴィチの「交響曲第12番作品112『1917年』」の第1楽章が流れます また、映画の末尾では同曲の第4楽章が流れます 曲のサブタイトルにあるように、この曲は1917年のロシア革命を描いた作品なので、これ以上この映画に相応しい音楽もないでしょう また、この映画では彼の他の作品(ヴィオラ・ソナタ?)なども流れます

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975)が「交響曲第12番作品112」を作曲したのは1961年で、初演も1961年です したがって、エイゼンシュテインが1928年に製作した無声映画に、後からショスタコーヴィチの交響曲や彼の作品、その他の音声を加えて編集したことになります 

因みに「交響曲第12番」は第1楽章「革命のペトログラード:モデラート〜アレグロ」、第2楽章「ラズリフ:アダージョ」、第3楽章「アウローラ号:アレグロ」、第4楽章「人類の夜明け:アレグロ〜アレグレット」の4楽章から構成されています 
エイゼンシュテインの巧みな映像表現にショスタコーヴィチの音楽が加わることにより、より一層深みが増し 作品の芸術的価値が高められています

https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c7

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
8. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:16:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1321]

ショスタコーヴィチ: 交響曲 第12番 ニ短調 Op.112 「1917」 ムラヴィンスキー 1984








EVGENI MRAVINSKY 30 April.1984
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra

1. 「革命のペトログラード」Moderato - Allegro 12:03
2. 「ラズリフ」Allegro - Adagio 11:24
3. 「アウローラ」Allegro - Allegretto 4:47
4. 「人類の夜明け」Allegro - Allegretto 10:15

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c8
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
9. 中川隆[-13582] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:18:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322]

レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c9

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
10. 中川隆[-13581] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:24:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1323]

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c10

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
11. 中川隆[-13580] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:25:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1324]

ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた


市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg


優柔不断な皇帝と革命農民

最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば、優柔不断なうえに騙されやすかったと言われている。

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった。

こうした突然の変更は、抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った。


優柔不断なのに騙されやすく、信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった。

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか、怪しげな助言者などの話を良く聞いた。

ロシア帝国は外部からの力というよりは、皇帝や周囲の人々の間違った行いによって、内部崩壊していた。


ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に、既にロシアは混乱していて、皇帝は何度も襲撃されていました。

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころ既に社会主義思想が蔓延していました。

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった。


ロシア農民は欧州と同様に、領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品だった。

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった。

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し、過激な革命運動を起こした。


皇帝が市民運動を奨励した

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった。

だが1894年には病没し、「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し、滅亡の道を歩き始める。

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の死を待ち望んだかのように結婚している。


妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したものの、ロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い、生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った。

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった。

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが、市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった。


ニコライ2世は責任者を処罰せず、何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される。

ニコライ2世は性格が弱かったため、市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった。

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ14世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました。


ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め、市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した。

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた。

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった。


革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った
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引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg


ロシア帝国の崩壊

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの、日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった。

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった。

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ、皇帝側は権威を失墜させてしまった。


ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました。

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました。

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました。


1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れ、ニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった。

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている。

だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている。


側近達はニコライに事実を知らせず、「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込まされた。

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に、何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく、皇帝側の軍人らも疑問を抱いた。

抗議運動が活発化すると、正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました。


1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから、暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった。

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆。

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

▲△▽▼

ニコライ2世の最後 亡命を拒否して帝政復古に期待していた

いつも姉に抱かれている息子のアレクセイは病弱で動かせないため、一家は脱出できなかった。
引用:https://learnodo-newtonic.com/wp-content/uploads/2015/03/Nicholas-II-Family-from-left-to-right-Olga-Maria-Nicholas-II-Alexandra-Anastasia-Alexei-and-Tatiana.jpg


ロシア脱出を拒否した皇帝

ニコライ2世はロシア革命が起きた1917年2月の後、3月7日に革命政府に拘束されたが、その前後に何度も逃げ出すチャンスがあった。

革命発生時にニコライ2世は第一次大戦を指揮するため前線に居り、妻と子供たちの皇帝一家は首都ペトログラード近郊の邸宅に居た。

軍司令官でもあるニコライ2世は、ひとまず不利な条件でも戦争を停止し、軍主力を首都に戻すべきだった。


だがニコライ2世は家族に会う事を最優先し、少数の側近を連れただけで、列車(当時最も早かった)で首都に向かった。

だが革命は鉄道沿線にも及んでおり、列車は途中で停止させられ、退位の文章に署名させられたうえに拘束されてしまった。

2月革命を起こしたのはニコライ2世が作った議会で、この時にはまだ皇帝が復活できる可能性もあった。


また軍や旧政府の人々には皇帝に忠実な人も居て、ロシアを脱出するのも不可能ではなかった。

だがニコライ2世は「ロシアを捨てる事はできない」と言い、また生来病弱な長男アレクセイが脱出に耐えられないのもあって脱出しなかった。

議会の臨時政府はニコライ一家を首都からトボリスクに移したのだが、これは皇帝一家を逃がそうとした可能性が高いと言われている。


というのは臨時政府はニコライ2世が作った議会であり、皇帝を退位させた後は国外に脱出してくれた方が、好都合だった。

トボリスクの守備隊は何度か交代しているが、ニコライ2世には好意的であり、脱出が可能な状態に置かれた。

この時もニコライはロシアを脱出する事に消極的で、まだ帝政復活や地位の回復に期待を持っていた。


トボリスクで臨時政府に軟禁されていた頃、まだのどかで脱出可能だった。
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引用:https://i.pinimg.com/736x/5e/4f/56/5e4f5604cafac0e8d922281d871c6394--russian-revolution-nicholas-dagosto.jpg


ソヴェトが権力を握る

トボリスクの警備は緩く、守備隊は皇帝に好意的であり、1917年8月から11月までの3ヶ月間、臨時政府はニコライ一家に逃げて欲しいと考えていた。

国民の皇帝一家への怒りは凄まじく、処刑するよう圧力が掛けられていたが、臨時政府はあくまで法に基づいて新政府を作ろうとし板ばさみになっていた。

最も望ましい解決法は、皇帝一家がみっともなく国外逃亡する事で、もう臨時政府は皇帝に配慮する必要がなくなる。


革命の前半には皇帝と政府には話し合いが持たれ、臨時政府は皇帝を葬るつもりは持っていなかった。

ニコライ2世はロシア脱出というプランにはついに同意せず、10月革命によって臨時政府は倒され、レーニンのソヴィエトが権力を握った。

臨時政府は強硬なレーニンらが主導するソヴェト評議会に代わり、レーニンは皇帝を葬り去ることで、自分が皇帝になろうとした。


ロシア革命後にすぐソヴェト連邦ができたのではなく、ロシアの中にいくつもの政府があり、いくつものソヴェトが主導権争いをしていた。

社会主義革命を目指す赤軍に対して、非社会主義を目指す白軍が一時期、赤軍を倒すかのような勢いを示した。

ニコライ2世家族は白軍が自分たちを救出して、再び皇帝に返り咲くというような期待も抱いていた。


だが実際には白軍は共産主義には反対していたが、ニコライ2世を助けたり、皇帝に復帰させようとは考えていなかった。

白軍が目指したのは皇帝の居ない民主国家であり、圧制で国民の恨みを買っていた皇帝に、生きていてもらっては困るのでした。

白軍は公式には皇帝に近い立場であり、多くは旧帝国軍の将校や兵士だったので、皇帝を保護したら再び帝位に就けざるを得なくなる。


最後の数ヶ月を過ごしたエカテリンブルクのイパチェフ館、カメラを没収されたので一家の写真はない。
Ipatiev_House_in_1918
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Ipatiev_House_in_1918.jpg


レーニン皇帝の野望

そこで白軍はわざと皇帝一家が閉じ込められていたエカテリンブルクには進軍せず、ニコライが追放されるか葬られるのを待っていた。

レーニンのペトログラード・ソヴェトは自分が手を汚す危険を恐れ、監禁しているウラル・ソヴェトに勝手にやらせようとした。

というのは内戦で頻繁に支配者が交代している状況では、皇帝に手を下した者は白軍によって標的にされる恐れがあった。


1918年4月にエカテリンブルクに移された一家は「囚人」として扱われ、外出や散歩も禁止され、脱出は完全に不可能になった。

警備兵もかつての皇帝守備隊から旧農奴崩れのソヴェト軍に代わり、農奴たちは皇帝を心底憎んでいた。

臨時政府時代には兵士が邸宅に入ってくることはなかったが、1918年になると農奴兵が1階部分を占拠し、皇帝一家は2階に押し込められた。


扱いはどんどん酷くなり、皇女たちは部屋のドアを閉めるのを禁止されたり、兵士と共同トイレを使ったりした。

トイレに行くには兵士らの詰め所前を通らねばならず、兵士らが使ったトイレは汚れ切っているという具合だった。

最後には窓を開ける事が禁止され、外の景色が見えないように高い塀を作り、窓には板を打ち付けた。


囚人として最後の日々を送る

洗濯や風呂やシャワーを浴びるのも全て禁止、家の中や各自の部屋にも兵士らが歩き回るという状況だった。

ニコライ一家は避難するに当たって持てるだけの宝石を持ち込んだが、兵士らは荷物をあさっては盗んでいった。

ここに至ってニコライ2世はやっとロシアを脱出するべきだったと後悔するが、今はドアを開けるにも農奴兵の許可が必要であった。


最後の日である1918年7月17日、深夜の2時すぎに家族を起こし、「暴動で危険だから避難しろ」と言って全員を地下室に連れて行った。

小さな窓がある半地下室なのだが、周囲に音を聞かれないために、1階や2階ではなく地下室を選んだ。

刑を執行したボルシェビキたちは、白軍の報復をおそれて痕跡を隠し、残った宝石類も盗んでいった。


ニコライ2世を葬ったレーニンは自身が新たな皇帝になり、強権国家のソビエト連邦を作った。

皇帝を退位させた2月革命は、民主主義的な国家を作る目的だったが、世界最悪の恐怖国家になった。

ニコライ2世のロシアは皇帝の優柔不断さゆえに、世界で最も自由だったのだが、10年後には世界で最も自由がない国になっていた。
http://www.thutmosev.com/archives/73745071.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c11

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
12. 中川隆[-13579] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325]

1918年11月11日に第1次世界大戦は休戦するが、その前からロシア侵略開始

 1918年、つまり今から100年前の11月11日に第1次世界大戦は休戦になった。その2日前にドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位している。この戦争ではドイツを中心とする同盟国とフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国が戦った。日本は連合国側についている。


 途中、1917年11月にロシアではボルシェビキが資本家主導で戦争を継続する方針だった臨時革命政府を倒し(十月革命)、ボルシェビキを率いていたウラジミル・I・レーニンは即時停戦を指示している。臨時革命政府にはメンシェビキや社会革命党(エス・エル)が参加していた。ロマノフ朝を支えていたのは地主貴族と産業資本家で、そのうち戦争をカネ儲けのチャンスと考える資本家がロシアを乗っ取ったようにも見える。


 臨時革命政府で法務大臣に就任したのはエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキーだが、この人物を通じてイギリス政府やシオニストは新政府に影響を及ぼしていたと見られている。ケレンスキーは後に首相となる。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)


 この大戦でドイツは東のロシア、西のフランス、ふたつの戦線を抱えていた。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキ。この党の幹部は1917年3月にロマノフ朝が倒された際(二月革命)、国外に亡命しているか、刑務所に入れられていた。そこでドイツ政府はボルシェビキの幹部を「封印列車」でロシアへ運ぶ。レーニンは1917年4月にスイスから帰国した。


 十月革命で軍事的に重要な役割を演じるレフ・トロツキーが二月革命当時にいたのはニューヨーク。そのころはメンシェビキのメンバーだった。トロツキーは1917年3月にニューヨークを離れ、途中で彼の乗った船がイギリス海軍に拿捕されてしまうが、4月には釈放された。ロシアへ着いたのは5月に入ってからだ。その後、トロツキーはボルシェビキに加わる。


 ロシアで実権を握ったボルシェビキはドイツと1918年3月に講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結ぶ。交渉の過程でドイツは領土などで過大な要求をしてくるが、レーニンは党内の反対派を抑えて講和を成立させた。


 これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは1918年8月にロシアへ軍隊を派遣し、ボルシェビキ政権を潰す目的で干渉戦争を開始する。日本は1万2000名をウラジオストックへ駐留させるだけだとして軍隊を派遣した。干渉戦争に参加した国々にとって十月革命は想定外の出来事だったのだろう。


 この年の11月に事実上、大戦は終了するが、日本は増派で7万人を上回る兵員を送り込み、1922年までシベリアにとどまった。この際、日本軍は金塊を持ち帰っている。この問題は憲政会の中野正剛による質問で表面化した。


 持ち帰られた金塊は1万2000キログラムに達すると現在では考えられているが、そのうち8割ほどは朝鮮銀行の下関支店へ運ばれ、そこから大阪造幣局へ移されたと信じられている。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。(金原左門著『昭和の歴史 1 昭和への胎動』小学館、1988年)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811120001/



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[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
13. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:26:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326]

2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)


 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080002/



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c13

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
14. 中川隆[-13577] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:27:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327]

2020年01月18日
ソ連と酷似してきた中国 急激な成長と衰退

レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々
1992F1 (15)
引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg


中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。

崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。


ソ連化する中国


最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。

かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。


ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。


中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。

不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。

ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。


「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。


世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。


理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg


負けたら国家消滅する共産国


ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。

無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。

ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。


しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。

ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。

日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。


ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。

共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。

ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。


軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。

ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。

中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。


兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。

「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。

逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。


ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。

ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。

昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。


中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。


中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。


土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。


ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c14

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
15. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:29:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1328]

ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。
 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/


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[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
16. 中川隆[-13575] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:31:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c16

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
5. 中川隆[-13574] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330]



ロシア革命|100年後の真実





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[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
17. 中川隆[-13573] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:42:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331]


ロシア革命|100年後の真実





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[経世済民72] 脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から… 中川隆
13. 中川隆[-13572] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:43:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332]



ロシア革命|100年後の真実





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[近代史3] 昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは 中川隆
3. 中川隆[-13571] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:43:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333]



ロシア革命|100年後の真実





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[近代史3] ロシア革命とは何だったのか? 中川隆
6. 中川隆[-13570] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:44:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334]



ロシア革命|100年後の真実





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[経世済民72] ロシアの若者の間でスターリンがじわじわ人気上昇中 中川隆
5. 中川隆[-13569] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:44:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]



ロシア革命|100年後の真実





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[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
33. 中川隆[-13568] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:47:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]


ロシア革命|100年後の真実





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【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




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[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
66. 中川隆[-13570] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:48:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334]


ロシア革命|100年後の真実





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【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c66
[近代史3] 革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない 中川隆
5. 中川隆[-13569] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:50:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]


ロシア革命|100年後の真実





【ロシア革命】@ 10月革命は 首都ペテルグラードソビエト議長 トロツキーの演説から始まった



【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html#c5
[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
28. 中川隆[-13568] koaQ7Jey 2020年3月22日 17:17:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]

2020年03月22日
最近の中国の農民 豊かな農村と貧困農村の格差


中国の農村で若い女性はとても希少な存在


引用:http://japanese.agri.gov.cn/xw/201504/W020150421481525577828.jpg


中国の農民は年収10万円

中国はこの30年間ほどの経済成長によって、かなりお金持ちになったように思われている。

確かにGDP(国民総生産)を人口で割った国民総所得は80万円を超え、北京や上海の給与所得はそのくらいだと言われている。

だが統計値では、農民の年収は10万円以下で、チベットやウイグル住民も同じです。



少数民族に対しては意図的に経済活動を制限して「テロリスト」の資金源を断つと言っていますが、民族弾圧とも言われている。

政府の公式発表では中国農民の一人当たり年収は17万円(1万元)だが、水増ししているとも指摘されている。

10万円でも17万円でも、買い物ができるのか心配になるほど低収入には違いありません。


区切り良く年収12万円なら月収1万円、一日に300円しか使えないのに、どうやって生活しているのか不思議です。

中国の貧農農家は現代でも電気が通っていない場合があり、もちろんそうした家にはテレビもありません。

村民がお金を持っていないので村には商店がなく、買い物する現金は必要ありません。


食料は自給や物々交換で手に入れ、衣類や日用品は農作物を売って行商人から買います。

日本でも昭和の中ごろまでの農家はそういう生活をしていて、50年くらい遅れているといえる。

報道でよく「農民工」とか「農村戸籍」「農村人口」という言葉を聞くが、それらは農民を意味しては居ない。

農村の実態

中国では江戸時代の日本と同じく、農村に生まれた人は一生農民と決められていて、勝手に職業や住所を変えると犯罪になります。

生まれながらに農民と決められているのが「農村戸籍」の人たちで、違法に住所を変えて都会で就職した人たちが「農民工」の人たちです。

農村にとどまったままで農業以外の職業に就いている人もいるので、政府の「農業収入」はそれらを含めて水増しされているのです。


という事はやっぱり公式発表の17万円より、推測値の10万円のほうが正しいと考えられます。

農民は都会や他の職業よりすごく貧しい訳で、そんなところに好んで嫁に行く女性はあまり居ません。

そこで最近まで(現在も)行われていたのが略奪婚で、どこかから女性をさらったり、旅行で通りかかった女性を監禁して花嫁にします。


こういう風習は昔の中央アジアでは一般的で、モンゴル帝国で普通に行われており、現在も一部で残っています。

2016年まで中国では「一人っ子政策」が行われていて、男子を産むために女子を間引きしていました。

なおさら女性の人数が足りなくなるので、ベトナムや北朝鮮など外国から、お金で花嫁を買っていました。


さらに「一人っ子政策」に反して生まれた女児が里子に出されると、養子として貰いうけて、自分の息子と結婚させる例がある。

実子として届けた場合、法律上は兄弟なので婚姻届を受理されないが、実際は他人なので、事実婚をする事は可能です。

貰った女児を養子として届けた場合には、法律上も夫婦として認められる。

貧農と富農の格差が拡大

余りにも女子が少なすぎて、もう結婚相手を選べないくらい嫁が来ないので、家を維持するにはそこまでする。

中国は毎年20兆円の農業予算を使っているが、いったいどこに消えるのか、お金は農民には届いていません。

農村でも都市に近い豊かな農村と、山間地の「本当の農村」では経済レベルに大きな差がある。


都市に近い豊かな農村は電気が通りインターネットで買い物をし、近代的な生活を送っている。

都市部より収入が低いといっても、山間部の数倍もの収入があり、とりあえず貧困ではない。


日本のマスコミではこうした「発展する農村」を報道し、もはや貧困ではないと言っているが、いわばモデルルームのようなものです。

http://www.thutmosev.com/archives/65909339.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c28

[近代史3] エイゼンシュテイン 十月 (1928年)
セルゲイ・エイゼンシュテイン 十月(1928年。Октябрь)


監督
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ


脚本
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ


撮影 エドゥアルド・ティッセ


音楽 ディミトリ・ショスタコヴィッチ


美術 ヴァシリ・ゴブリーギン


動画




ソビエトが生んだ偉大な映画作家セルゲイ・M・エイゼンシュテインがソビエト革命十周年記念映画として製作した作品。


彼一流のモンタージュを、ヴィジョン構成の方法として用い、一九一七年の三月から十一月までの激動するソビエトをとらえている。


監督・脚本は前記のセルゲイ・M・エイゼンシュテイン。また、共同監督・脚本にグリゴーリ・アレクサンドロフが名を連ねている。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はディミトリ・ショスタコヴィッチ、美術はV・ゴブリーギンが担当。無声。


革命前夜のソビエトは、大きく揺れ動いていた。帝政ロシアの第一次大戦の連戦連敗により、ツアーリズムは最期をむかえ、社会生活の困難にストライキが頻発。そのような情勢に、ボリシェビキの指導者レーニンは、来たるべき革命は、プロレタリア革命であることを強調。そして、四月にスイスより帰国したレーニンは、「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えた。


このレーニンの方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と、根本的に対立、次第に激化した対立をひきずったまま、六月中旬に、ペトログラードにて第一回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、ボリシェビキは少数で、メンシェビキと社会革命党のにぎる臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、七月一日に四〇万の人々によって、戦争反対のデモが起きた。


その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命。九月に入ると、ロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加し、亡命中のレーニンは、武装蜂起をうながした。十月二十日、ひそかにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第二回ソビエト大会の前日、十一月六日と決定した。


当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は、各連隊の兵士、クロンシュタットの水兵と共に行動をおこし、要所を占領。十一月七日(露歴十月二十五日)午前十時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言。そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で第二回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した。
https://movie.walkerplus.com/mv12030/



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/970.html

[近代史3] エイゼンシュテイン 十月 (1928年) 中川隆
1. 中川隆[-13567] koaQ7Jey 2020年3月22日 17:44:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1337]
エイゼンシュテイン「十月」のモンタージュ
BeauMale 2012.2.20
http://beaubeau.jp/yuki/october.html

セルゲイ・エイゼンシュテインの「十月」である.制作年外が 1927 年というのと 1928 年というのがあるが、恐らく制作は 27 年で 28 年に公開ということではないかと思う.原作はジョン・リードの「世界をゆるがした十日間 (ちくま文庫)(Ten Days that Shook the World)」である.これの岩波文庫版を読んだが滅法面白い.アメリカのジャーナリストである彼はボルシェヴィキと行動を供のしていたのでレーニン贔屓である.ロシア革命はニューヨークの資本家から資金が提供されていたという話もある.エイゼンシュテイン自身はハリウッドに呼ばれたことがあるし、チャプリンなどとは仲が良かったらしい.尚この映画はサイレントであるが、DVD は音楽と群衆の声と馬の足音や銃声などの効果音が入っている.また、サイレントにしては字幕が非常に少なく画面だけで解るようになっている.

モンタージュはフィルム編輯のことである.エイゼンシュタインの編輯はカットで割ってその画面をどう繋ぐかにある.異なったものを繋いで一つの意味を作り出すと言うことに主眼が置かれている.冒頭の皇帝の銅像、群衆、銅像に縄を掛ける、群衆の歓呼という異なったショット群の繋ぎが意味を生成する.

参考:

YouTube - Search results for Octobre Eisenstein
https://www.youtube.com/results?search_query=Octobre+Eisenstein&search_type=search_videos&search=Search



全編のヴィデオがあるのだったらこんなに写真を拾う必要なかったが、以下は冒頭の部分を全ショットを拾ってみた、大きな彫像が九つのショットに分けられている.一回映せばよいのを何故カットを割って画面を作るかというと、これこそが画面に強度を与え、リズムを与えるからである.前回取りあけたラオール・ウォルシュの「限りなき追跡」の冒頭の駅馬車がカットを割ることによって力強さを獲得している.あのように一つの動きを幾つものカットに分けていく技法を Cutting on action [en] とかアクション・カッティングスというが、あるところに載っていたラオール・ウォルシュの「白熱」の解説に

この映画や「死の谷」など、ウォルシュの絶好調時を思うと、今のハード・アクションなんてちゃんちゃらオカシくって観てられない。暴力は溢れてるけど、映画自体の活動(アクション)が無いんですよ、今の映画は。

とあってこのアクションとはカッティング・オン・アクションまたはアクション・カッティングのことである.少し前に井口奈己という監督の「犬猫」を評して小津安二郎や成瀬巳喜男やベルトルッチやキアロスタミや黒沢清が共存しているというのでそれは凄いと DVD を買って観たが、なるほど箇々のショットは誰を思わすというのがあるが強度がないと感じた.思うにそれはこの意味でのアクションが無いことだと思う.



最後から二つ目のショットでこの像がアレキサンダー三世だと解ってそれも束の間、群衆が走り出す.そのシーンも角度を変えて幾つかのショットに分割される.




そしてまた皇帝像に戻る.今度は梯子が掛けられ何人かが登り綱を架ける.




そして綱が引かれる所でシーンは兵士、労働者、農民の歓声を上げている群像へと変わる.




ロシア革命の歴史を知らない人はこれがレーニン達の起こした「10月」革命と思うかも知れない.それ程に革命の熱気と祝祭空間がここには溢れている.面白いことに歓声は皇帝像が引き倒されてから起きるものだが綱が引かれる段階で起きている.この歓声の後実際に引き倒されるのであるが手や足がもげ、首がもげ最後に胴体が台から引き摺り落とされるという経過を辿る.その後もう一度群像の歓呼の画面が再現される.その様子は下のヴィデオにある.この革命は第二革命と言われた二月革命である.第一次大戦の連合国側に加わって参戦したロシアの民衆は三年近く続く戦争にうんざりして兎に角皇帝ツアーを退位させて、ブルジョワ政党による臨時政府を樹立した.

YouTube - TheFirstMinutesofOctober [en] この冒頭シーンのみ抜粋






併し祝祭気分は何時までも続かない.皇帝を退位させても何も変わらないのだ.戦争は継続され、兵士は塹壕で苦しんでいる.その様子も勿論複数のショットで表現されている.



そして飢えである.雪の中何時間も配給に並ぶ人々は映されている.時間が経つと雪の中で倒れるものが続出する.



四月、そんなときに待っていた人が帰ってきた.スイスに亡命中のレーニンである.ドイツは東西に戦線を広げていて、ロシアと対峙している東部戦線が離脱することを願っている.レーニンをロシアに送り込めば混乱が起きるかもと踏んでフィンランド経由で送り返した.ペテログラード(今のサンクトペテルブルク)はピヨートル大帝が作った都市でそれ以来ロシアの首都であったが、そのフィンランド駅に民衆はレーニンを今か今かと待ち構えていたのである.レーニンは革命は労働者農民によってなされたと演説する.



政権は臨時政府にあるが、無産階級からなるソヴィエトも力を持っていて二重の政府があるような状態であった.併し、段々臨時政府に対して不満を募らせ七月には大々的な武装デモを行うようになった.



レーニンらのボルシェヴィキは彼らを沈めようと必死になった.この写真はトロツキーだと思うが冷静に自重しろと呼び掛けているが民衆の声にはかき消されてしまう.



そこに大々的に臨時政府の反撃が行われる.デモ隊に対して実弾を発砲して弾圧を開始した.そして逃げ惑う人々



馬車を引く白馬が流れ弾に当たり、労働者地区から市の中心部に繋がる跳ね橋が上げられ馬が宙吊りになる.跳ね橋を上げれば労働者のデモ隊は市の中心に近付けない.



労働者を傘で刺しもしたブルジョワ夫人達が嬉々としてボルシェヴィキの機関誌「プラウダ」をネヴァ川に捨てる.



スモーリヌイの修道院にあったボルシェヴィキの本部はこの有様.



臨時政府の首班には陸海軍大臣兼任のケレンスキーが就いていた.ケレンスキーはこの映画一番の美男子である.



皇帝達の玉座に座るケレンスキーは今や皇帝としてこの映像が繰り返し一緒に挿入されナポレオンとも比較される.



反乱した兵士は前線に送られ、トロツキーを始め多くのボルシェヴィキの幹部は逮捕され、レーニンも潜伏を余儀なくされる.自然というものの描写のないこの映画で唯一こうした自然が描写される.舟で行く人がレーニンなのだろうか墨絵のような画面である.



そこに新事態が発生した.最高軍司令官に任命されたコルニロフ将軍が軍を掌握し、保守派の支持を集め革命で獲得した兵士の権利を剥奪しケレンスキーに同調を求めてきた.ケレンスキーはそこまで妥協は出来ない.今や二人の皇帝が並び立つ事態である.併し、ケレンスキーは保守派も離れボルシェヴィキからも支持を得られない.孤立無援の状態である.コルニコフ将軍は英国製戦車までも持つ機械化部隊で首都ペテログラードを目指して進撃している.



臨時政府は事態をこまねいてみているだけである.地下に潜伏中のボルシェヴィキが立ち上がった.捕まった同士は解放され、



民衆はスモーリヌイのボルシェヴィキの許に続々と集まった.武器庫が解放され武器が人々の手に渡る.



コルニロフ軍が軍用列車でペテログラードに近づくと列車は止められ、兵士達はボルシェヴィキに着く.各地で同じ事が起き最早軍隊は統制が取れない状態である.とてもかなう相手ではないがコルニロフ軍は自己崩壊してしまった.ボルシェヴィキの勝利である.



ボルシェヴィキの中央委員会が開かれ今後が話し合われる.トロツキーは時期尚早として政権奪取に反対する.トロツキーは理念的でマルクスの歴史の展開を信じているのであろう.先ずブルジョワ革命が起きそれが成熟してプロレタリア革命だと思っているようである.



レーニンは即時に政権を武力で奪取しなければまた弾圧されて散り散りになると現実的である.



結局武力による政権奪取を主張するレーニンの考えが通って政策が決定された.武器が配られ臨時政府のある冬宮が包囲される.また市内の重要拠点は全て占拠される.



アヴローラ号 もボルシェヴィキに着いてネヴァ川で冬宮に向けて大砲の照準が合わせる.



冬宮を守るのは士官学校の生徒と、この女性軍団と、コサック砲兵隊しかいない.女性軍団の兵士達は皇帝のビリヤード台であられもない姿で化粧をしたり寛いでいる.



一方、全ロシアのソヴィエト大会が開かれている.この組織が最高議決機関なのである.全戦代表、水兵代表、シベリア代表、と文字通り全ロシアから集まっている.政党もボルシェヴィキの他にもメンシェヴィキ、社会革命党などが来ている.政権奪取の賛否は圧倒的多数でレーニン達ボルシェヴィキの武力蜂起による政権奪取が支持される.これで公式に武装蜂起は承認されたのである.



冬宮は包囲されたがこのまま突撃すれば死傷者が出る.革命側から降伏勧告の最後通牒の軍使が遣わされる.これがこの映画では珍しい縦の構図である.



軍使は女性軍団の司令官に通報を渡す.渡すとき字幕が入ってこれがおかしい、女性軍団が何だい小父さんとでも言ったのであろう、小母さんと言いかけて同胞、最後通牒ですと渡す.最後通牒は閣僚にまで渡されるがケレンスキーはいない.ボルシェヴィキが武装蜂起を決めてからその様子を見るためか亡命のためかアメリカの国旗をつけた高級車で市内を走っていたが行方知れずである.最後通牒への解答は延々と来ない.



解答が来ない間、コサック砲兵隊はボルシェヴィキのオルグが入り降伏してしまう.女性軍団も多くが降伏する.それでも解答は延々と来ない.閣僚らはなすすべも無く寝転んだり座っているだけである.そんな閣僚の一人が窓の飾りに描かれた竪琴を指で爪弾くとロダンの「春」という彫刻が映され、そこに女性軍団の一人がやってくる.物語の大筋とは全く関係無い画面であるが、この革命劇の唯一のエロティシズムを表現している画面だと思う.以下このショットも全て拾ってみた.



一向に解答が来なくて待っていた軍使も引き上げた.そして一斉攻撃が始まった.



冬宮は千を越す部屋数のある巨大な宮殿であるが革命軍は突入する.殆ど抵抗もないまま制圧してしまった.捕虜になった士官学校生が皆宮殿の銀のスプーンやフォークを盗んで隠し持っているのはおかしい.



そしてレーニンによってプロレタリア革命が成就したことが告げられ、プロレタリア国家を建設しなければならないと宣言される.



今から観れば表現過多の所もあるが、この映画の力強さは素晴らしい.その力強さ細かくカット割りした画面によるものだと言う思いが強くなった.

http://beaubeau.jp/yuki/october.html



▲△▽▼


エイゼンシュテイン監督「全線(古きものと新しきもの)」、「十月」を観る
〜 ショスタコーヴィチ「交響曲第12番『1917年』」が流れる 2019年01月14日
https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49

現在、高田馬場の早稲田松竹では、ソビエトが生んだ偉大な映画監督セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1898−1948)の生誕120年・没後70年祭を開催中です  



昨日、「全線(古きものと新しきもの)」と「十月」の2本立てを観ました

「全線(古きものと新しきもの)」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1929年ソ連映画(モノクロ・無声・90分)です

ロシアの貧しい農村で働く農婦マルファは、農業教師指導のもとに小さな協同組合を作る 組合では牛乳分離機という新しい機械を手に入れ牛乳の生産に取り組むが、それが評判になり組合員が増える 種牛も組合共有で飼育する。収穫の時期になると従来の牛や馬ではなく機械(トラクター)の必要を感じるようになり、マルファは組合の代表者として町へ出て官僚主義の役人と交渉する その留守中、種牛は富農の手によって毒殺されてしまう しかし、マルファたちはトラクターを手に入れ機械化による新しい農業の時代を切り開いていく
     


出演者は主人公の農婦マルファ以外は全員素人ということに驚きます この映画では1925年の「戦艦ポチョムキン」で新たに実験的に取り組んだ特殊なモンタージュ技法を使用しています それは、空に牛の姿が浮かび上がる映像として結実しています

この作品は無声映画なので、最初から最後まで90分間いっさい音がありません そのため睡眠不足の状態で観ると途中で目が閉じる可能性が高いので気を付けた方が良いと思います

それにしてもよく分からないのは「全線」という邦題です。「古きものと新しきもの」は、「古きもの=従来のしきたり・やり方、新しきもの=機械化・合理化」といった意味だろうと理解できますが、「全線」は理解できません。「全線不通」の全線ですか? 私は頭が良くなので理解できません



「十月」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1928年ソ連映画(モノクロ・109分)です

帝政ロシアの第一次世界大戦での連戦連敗により、1917年にはツァーリズム(絶対君主制)は最期を迎え、社会生活の困難にストライキが頻発していた そのような情勢の中、指導者レーニンは来たるべき革命はプロレタリア革命であることを強調した そして4月にスイスから帰国したレーニンは「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えるが、この方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と根本的に対立するものだった 

6月にペトログラードで第1回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、レーニンが率いるボリシェビキは少数派で、メンシェビキと社会革命党の握る臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、これに対し7月に40万人規模の戦争反対のデモが起きた その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命する。

9月に入るとロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加、亡命中のレーニンは武装蜂起を促した。10月20日 密かにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第2回ソビエト大会の前日、11月6日と決定した。当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は各連隊の兵士らと共に行動を起こし、要所を占領する 11月7日(ロシア歴10月25日)午前10時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言した

 そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声が轟く中、第2回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した

    



この作品はエイゼンシュテインが、ソビエト革命十周年記念映画として製作した作品で、1917年の3月から11月までの激動するソビエトを描いています この映画でも特殊なモンタージュ技法を駆使した映像表現を見せています

この映画は無声映画であるにも関わらず、音声のみならず音楽まで入っています 映画の冒頭ではショスタコーヴィチの「交響曲第12番作品112『1917年』」の第1楽章が流れます また、映画の末尾では同曲の第4楽章が流れます 曲のサブタイトルにあるように、この曲は1917年のロシア革命を描いた作品なので、これ以上この映画に相応しい音楽もないでしょう また、この映画では彼の他の作品(ヴィオラ・ソナタ?)なども流れます

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975)が「交響曲第12番作品112」を作曲したのは1961年で、初演も1961年です したがって、エイゼンシュテインが1928年に製作した無声映画に、後からショスタコーヴィチの交響曲や彼の作品、その他の音声を加えて編集したことになります 

因みに「交響曲第12番」は第1楽章「革命のペトログラード:モデラート〜アレグロ」、第2楽章「ラズリフ:アダージョ」、第3楽章「アウローラ号:アレグロ」、第4楽章「人類の夜明け:アレグロ〜アレグレット」の4楽章から構成されています 
エイゼンシュテインの巧みな映像表現にショスタコーヴィチの音楽が加わることにより、より一層深みが増し 作品の芸術的価値が高められています

https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/970.html#c1
[近代史3] エイゼンシュテイン 十月 (1928年) 中川隆
2. 中川隆[-13566] koaQ7Jey 2020年3月22日 17:46:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1338]

ショスタコーヴィチ: 交響曲 第12番 ニ短調 Op.112 「1917」 ムラヴィンスキー 1984











EVGENI MRAVINSKY 30 April.1984
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra

1. 「革命のペトログラード」Moderato - Allegro 12:03
2. 「ラズリフ」Allegro - Adagio 11:24
3. 「アウローラ」Allegro - Allegretto 4:47
4. 「人類の夜明け」Allegro - Allegretto 10:15

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/970.html#c2
[近代史4] エイゼンシュテイン(1898年1月10日 - 1948年2月11日) 中川隆
1. 中川隆[-13565] koaQ7Jey 2020年3月22日 17:47:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1339]

エイゼンシュテイン 十月 (1928年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/970.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/200.html#c1
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
18. 中川隆[-13564] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:07:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340]

スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)


スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。

当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある

 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。

 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。

 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。

 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。

 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。

このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。

 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している  


▲△▽▼

スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)で死んだ著名人

ギヨーム・アポリネール(文学者)
マックス・ヴェーバー(政治学者)
グスタフ・クリムト(画家)
エゴン・シーレ(画家)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
ヤーコフ・スヴェルドロフ(政治家)
エドモン・ロスタン(劇作家)
チャールズ・ヒューバート・パリー(作曲家)
竹田宮恒久王(皇族)
末松謙澄(政治家、元内務大臣)
徳大寺実則(公爵、元内大臣)
島村抱月(劇作家)
村山槐多(画家)
野村朱鱗洞(俳人)
辰野金吾(建築家)


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c18

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
19. 中川隆[-13563] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:09:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1341]

#184 ドキュメント Discovery Chanel
スペイン風邪の猛威 死者2400万人とも言われる20世紀最大のインフルエンザ



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c19
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
20. 中川隆[-13562] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:13:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1342]

戦争より恐れられた病 Posted October. 25, 2018 09:24,
http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85

昨今、インフルエンザは、1本のワクチン接種でそれほど心配しなくて済む病気だが、100年前までは、人類の歴史を揺るがした恐怖の病気だった。特に1918年に発生したスペイン風邪は、第1次世界大戦とかみ合って流行し、5000万人以上の命を奪った大災害だった。オーストリアの将来を嘱望されていた若い画家エゴン・シーレも、その災いを避けることができなかった。

シーレは、クリムトを凌ぐ才能が認められた天才画家であり、赤裸々なエロヌード画で20世紀の初め、ウィーン美術界を揺るがした問題作家でもあった。死への不安と恐怖、性的欲望をよどみなく表わした彼のヌード画は、しばしば芸術とわいせつの間で激しい論争をまき起こした。

1915年、シーレは4年間一緒に暮らした貧しい恋人の代わりに、中間層出身のエディトと結婚した。結婚から4日後、第1次世界大戦に徴兵されたが、軍でも才能を認められ、いくつかの展示会に参加して名前を知らせた。1918年は彼の名声がピークに達した年だった。ウィーン美術界の巨匠クリムトの死亡後、3月に開催された「分離派」の展示会で、シーレは作家として大成功を収めた。絵の価格が高騰し、肖像画の注文が殺到した。ようやく経済的にも精神的にも安定した時期を迎えたのだ。さらに嬉しいことに、妻が結婚から3年ぶりに妊娠したことだった。この絵は、まもなく生まれてくる子供を待つ喜びで、シーレが描いた家族画である。母にすがりつく赤子と、その赤子と同じ場所から見つめる母、そして家長として家族を守るというジェスチャーを取っている画家自身の姿が描かれている。何もかけていない純粋で無邪気な家族の肖像である。

しかし、幸せもつかの間。同年10月28日、ウィーンにまで広がったスペイン風邪で、エディトが妊娠6カ月のお腹の子供と一緒にこの世を去った。3日後、シーレもインフルエンザに感染して、この世を去った。彼がわずか28歳の時だった。当時スペイン風邪の犠牲者数は、第1次世界大戦の死者の3倍を超えた。戦争より恐ろしい災害は、まさにインフルエンザだったのだ。

http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c20

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
21. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:16:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]

エゴン・シーレの世界


天才画家 「エゴン・シーレ Egon Schiele」1906年−1911年の絵画まとめ




エゴン・シーレ(1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアのウィーン分離派の象徴主義、表現主義の画家。

シーレは28歳という若さで世を去ったがその短い生涯で大量のドローイングや水彩画、油彩画を残っている。

1906年はウィーン美術アカデミーに入学した。

1907年にクリムトとの出会って、シーレに初期の作品は影響を与えられた。

1909年、アカデミーを正式に退校して、本格的に独自の活動を開始した。
その後ゴッホやドイツ表現主義の画家達(ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンク)の絵画を目の当たりにし、自らの芸術観に多大な影響を与えられた。

1910年から1911年に、女性だけでなく子供や自分ヌードの自画像も急増した。



エゴン・シーレ「Egon Schiele」(1912−1918) 絵画集 U
https://youtu.be/2_c2rbQqdaw

デッサンの魅力「エゴン・シーレ Egon Schiele」素描 裸婦
https://youtu.be/Zp0wofj9FQ4

愛と官能の画家 「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」 絵画集
https://youtu.be/_6IJ1YRSDcg

デッサンの魅力「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」素描 T 人物
https://youtu.be/yMd8RX7_Unw

デッサンの魅力「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」素描U 裸婦
https://youtu.be/RZpCUJUNTTI

「後期印象派画家」ロートレック(Toulouse-Lautrec)の絵画集
https://youtu.be/vqiaglFs938

「白黒ペン画の鬼才」オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の挿絵集
https://youtu.be/q9VqWi4XoUY

裸体画 「モディリアーニ Amedeo Modigliani」絵画集 U ヌード 裸婦
https://youtu.be/-2QziPVUPnU

ウィーン分離派の画家 「マクシミリアン・クルツヴァイル Max Kurzweil」
https://youtu.be/Kj0yXLhVinM

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c21
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
22. 中川隆[-13560] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:24:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344]

ヒトラーがエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいた理由


ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。

 オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。

「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」

「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」

「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」

(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)

 絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。

 しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。

ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk

 その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。

 見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。


 ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。


■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー

 一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。

エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

 絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。

 もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。

 実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。

 これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」

 さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。

 一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。

■ヒトラーの矛盾

 さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。

adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より

 アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。

 その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。

 さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。

 しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。

 しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。

 ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。

 それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。

ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。

世紀末美術を嫌悪したヒトラー

当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。

ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。

そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。

以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。


ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。


彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。


ディズニー作品も

なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35

▲△▽▼

アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


フリーダが持っていた出生の秘密

Lebensborn 1Nazi girls 6

(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/3/c330f4d3.jpg


  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。

今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

Nolans 1ABBA 4

左: ノーランガ
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右: ABBA
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  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1

左: アグネッタとフリーダ
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中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。

現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida

(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7

(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

Magnus Hirschfeld 2Weimar Germany 2
(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

baby 3designer's baby 20

(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/d/b/db67cd3d.jpg


  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

Gregor Ebner 1German girl 2Himmler & daughter 1

(左: グレゴル・エーブナー

中央: ドイツ人の若い女性
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/6/c69a8c08.jpg

右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。

  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真 / ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、


(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。

(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。

(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。

(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。

(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。

(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。

(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。


  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

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(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

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左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

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左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

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(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

頽廃芸術が横行したワイマール時代

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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)

  今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )


  第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。

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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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  もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。

例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。

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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。

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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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  ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。

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(上絵画 / ヒトラーによる風景画)

  排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、

  ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)

  確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。

Otto Dix Portrait of the JournalistPaul Klee 21Eric Heckel 4
(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。

Picaso 3Picaso 1Edvard Munch 5Munch Girl Yawning
(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)

  だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。

Vermeer The_Girl_with_the_Peal_EarringRembrandt The Good SamaritanRembrant The prodigal Son

(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)


エロ・グロ作品を描いていた亡命者

  ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。

George Grosz 1Max Beckman photoErnst Ludwig Kirchner 1Eric Heckel 3
(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。

  ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。

George Grosz Pappi und MammiGeorge Grosz 5George Grosz Strassenszene Berlin
(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)

  憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。

Ernst Ludwig Kirchner 1909_MarzellaErnst Ludwig Kirchner 5Max Beckman 4Max Beckmann
(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )

  ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。

Eric Heckel 6Eric Heckel 2Ludwig Meidner
(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )

  ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。

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(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)

  しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)

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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)

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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)

大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。

Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)

  ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。

Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )

事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。

Leeann Tweeden 3Leeann Tweeden 4

左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識

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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )

  話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。

Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )

  昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。

Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)

  全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。

Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)

  一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。

  ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c22

[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
23. 中川隆[-13559] koaQ7Jey 2020年3月22日 18:29:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345]

額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり


ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。

https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)

先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。

上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。


https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)

※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。

なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。

https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c23

[近代史4] アメリカ人は頭がおかしい 中川隆
6. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2020年3月22日 20:40:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]

第一次大戦後のアメリカ

映像的世紀 03 那是從曼哈頓開始的


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/556.html#c6
[近代史4] 大恐慌の時代
大恐慌の時代


第一次大戦後のアメリカ
映像的世紀 03 那是從曼哈頓開始的



大恐慌の時代
映像的世紀 04 希特勒的野心


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
1. 中川隆[-13560] koaQ7Jey 2020年3月22日 22:59:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344]

累進所得税こそ経済を活性化させる

◆資本主義で失業率改善と税収増と株高を同時達成する 吉越勝之 2004年10月27日
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/454.html

「別表日米90年間の年度別最高税率と経済」を調べてみると、米国は1910年代
後半から、50−75%の高累進所得税制で空前の好景気に沸いたが、1925年に
最高所得税率を史上最低の25%へ所得規制緩和し、承継したフーバー大統領誕生の
1929年アメリカで株価大暴落が発生し世界大恐慌へ突入したのです。

その3年後、多数の米国会議員の努力で成立した失業率を大改善し、本格的経済成長
に大成功して世界恐慌を完全克服し世界大戦の膨大な戦費を賄った上、財政再建に大
成功して世界一の経済大国となり株価上昇の原点となった、最高所得税率63−92
%へ税制改革の「必要は発明の母で生まれたルーズベルト税制」を分析し理論化した
のが本論文であります。

日本は戦後一般消費税を拒否し、この米国型直接税制を採用し国税75%の高累進所
得税制で高度経済成長と財政健全化に大成功したのです。 
しかし米国の強力な競争相手に成長した我国が、税制への無理解から平成元年にEU
型間接税中心税制へ大転換し米国型経済成長税制を放棄してしまったのです。 

この日本の競争力低下に助けられクリントン米大統領はルーズベルト税制を参考に
「富裕層所得税の累進強化の税制改革」を断行し国家競争力を再強化し株高と景気回
復と財政再建の同時達成に大成功を納めたのであります。

逆に直接税の所得規制緩和税制改革のレーガン税制やブッシュ税制では所得再配分機
能の低下を招き、個人消費は停滞減少し本格的経済成長と財政再建の同時達成に必ず
失敗するのです。

さて成熟経済においてアメリカと同じく納税者番号制を伴った高累進所得税の増税で
所得を規制強化し、且つ消費税を廃止し個人消費を規制緩和すると、国民所得が大幅
増加して失業率低下と経済成長と大幅な税収増の同時達成という素晴らしい結果を得
られます。 

この立証に世界一の経済大国アメリカと第二位日本で何回も大成功した実例を紹介し、
このメカニズムを詳細に分析しています。

逆にEU型間接税制で、消費税を大増税して高度経済成長と失業率大改善の同時達成
に成功した成熟経済大国の成功実例は皆無であり、消費税率を上げて個人消費と設備
投資を規制強化すると、景気は後退し、失業率は悪化し税収は増加出来ません。

消費税制では何故そうなるかについて解説しています。さて日本独特の消費慣行から、
消費税制の副作用は極端に出るので日本が消費税制に固執し、財政赤字をタレ流せば
財政は破綻し莫大な国債が残り必ず政治責任が発生します。

この税制改革理論は国家を誠実で正直な国民を要素部分とする全体、つまりシステ
ムと考え国民性に合致する国家システムで強力に経済成長させる手法を解説します。

◆この税制改革理論の結論の要約 吉越勝之


◆日本は戦前、マスコミ、政治家、官僚の広めた理念観念を礼賛し、武力によって膨大
な国土を獲得したが、7000万人の国民を食べさせることも困難な大不況の国家だ
ったのです。

ところが敗戦の昭和20年に「焼け野原の国富ゼロ」から出発し、日本固有の領土に
大幅縮小されたのに、国民と国家の「考え方」と「システム」を、「個人消費を課税
規制せず、逆に増進しながら徴税する自由と平等思想の高累進所得課税の税制改革」
によって、平成元年までに、何と1億2000万人の国民が食うに困らない「無から
有の年平均74兆円の国富を生み出し43年間でビルが林立する、国富3190兆円
増(経済企画庁発表)の国民が豊かに暮らすことが出来る国家」へ成長したのです。

ところが平成元年、個人消費を課税規制して個人消費を抑圧しながら徴税する間接税
中心税制へ大転換し、更に所得税の累進を弱体化させた税制改革以降、年々国富は減
少し、平成14年度の国富は2799兆円と確定発表されており、この14年間の国
富は391兆円減であり、年平均減少額はマイナス28兆円にもなるのです。

本論文は「経済は神の手ではなく人間が営むもので、人間の手で改悪も改善もできる」
のであり、分析の結果、経済不況が継続している原因は「平成元年の税制改革」にあ
ったことを後述の通り明らかにし、その改善方法を解説したものです。

さて「個人消費+設備投資=国民所得」の経済公式があり、更に設備投資の増減は、
個人消費の増減に正比例する重要な性質がありますので、結果として市場経済では個
人消費の増減が国民所得の増減を決定する、基本的な経済構造になっているのです。

所得税は所得を課税して規制する税ですが、所得は他人から稼得する性格から、他人
の意志決定で増加するため、本人所得に直接課税規制する方法は、他人の意志決定を
課税抑圧することにならず、ましてや本人の意欲と意志と全く無関係に増加するので、
直接税制の大きな利点は、所得増加の意欲と意志の人間行動を全く規制抑圧しないと
いう点なのです。

しかも「個々の所得を累進課税で累進強化すればするほど、消費性向が低い高額所得
者から、より多い税収を得、国家の基本的機能の一つである所得再配分機能が自動的
に作動し、国家財政は、公務員や公共事業や建設事業従事者等の中低所得者層の人件
費に使用され、低所得者層ほど個人消費性向が極めて高い事実から、国家全体の消費
性向は徐々に高まり、個人消費が増加し、比例して設備投資も増加し、個人消費と設
備投資の両者から等価変換される国家全体の国民所得は急速に向上するのです。

所得税の累進構造は個別の所得を課税規制し、国家税収を増収しながら、経済成長を
達成する巧妙なシステムを内在していたのです。

それに引き換え、消費税は、本人の意欲と意志で増殖する個人消費を、本人に直接課
税し個人消費増加の意志決定を抑圧して税収を得る、抑圧的なシステムであり個人消
費の増加そのものが抑圧され、設備投資も減少し国民所得も税収も停滞後退するので
す。

個人消費過少、貯蓄過多の日本人の国民性において経済成長と財政再建を同時達成す
るには、平成元年の間接税制への大転換は経済的合理性と科学性が全く無い税制改革
だったのです。

◆さて企業の生産設備が超進化しロボットが大量生産を行っても、国民総生産(GNP)
としては全く計算されないのです。

それを人間が現実にカネを支払い「個人消費した瞬間」に始めて国民総生産として計
算され把握されるのです。

この経済の仕組みの深い意味と個人消費を維持増強する経済システムの重要性を、ま
ず理解しなければなりません。

つまり個人消費は人間しか行なわず、どんなに機械化し生産性を挙げても、機械は絶
対に個人消費は出来ず、更に当たり前のことですが、世界最強の企業や最強の国家と
いえども現実に個人消費をするのは人間であるという現実は変えられないのです。
しかも人間は所得が順調に増加しないと継続して良好な個人消費が絶対に出来ない原
則があるのです。

更に進化システム(後段詳述)の科学技術の発達によって民間の生産力増強は、需要
さえあれば民間自身で可能なので、「国家は科学技術振興策より国家自身の責務とし
て国内個人消費を規制抑圧せず、更に財政再建のため増税しながら国家全体の個人消
費の増強効果を発揮する税制改革の実現」こそが重要なのです。

イギリスの大経済学者ケインズの言うとおり、個人消費こそ国民所得を増加させ国民
全体に国富をもたらすからです。

結局、経済成長は「消費の意欲」を規制抑圧しない税制改革が大切であり、資本主義
の間接金融国家日本では、設備投資や個人消費の増加意欲が強ければ、「国内総生産
と総需要の増加」の不足資金を賄うために「自己資金を活用する以外に国内民間銀行
の貸出総残高の増加」という形で現実のおカネの増加流通をもたらし、市場経済は経
済成長していくのです。

逆に「個人消費意欲を課税で規制抑圧する税制改革をすると」それに応じて国内資金
が国内消費や国内設備投資へ向かわず、国民所得は減少後退し、退蔵預金として固定
化し滞留し、国内資金の回転率が悪化し、更に海外投資や不正資金の逃避などで海外
へ流出して、経済成長は停滞、後退するのです。

結局進化システムの資本主義経済においては「お客様は神様であり」言葉を変えると
「個人消費は神様仏様である」のです。

◆次に国家の全租税収入は国民所得の一定割合であり、租税負担率を引き上げることな
く租税収入を増やすには結局の所、個人消費+設備投資(=国民所得)を増やす以外、
つまり経済成長を実現する以外方法はないのです。

日本経済の最大の問題点は、国民所得が連年低下状況であり経済成長どころか後退し
ています。

本論文では一貫して税制は、人間行動の意欲と意志への自然な動機付け手段であり、
個人消費+設備投資=国民所得の増加方法つまり経済成長に役立つ、強力な税制改革
を述べています。

「戦前の戦陣訓と同じく」知識人が頭の中で考えた「公平、中立、簡素」などの「言
葉の羅列による強制」では、人間文化の発展である意欲と意志で成り立つ資本主義の
成長発展には何の意味も為さず、経済成長に全く役に立たず害悪ですらあるのです。

大事なことは一台1000万円するベンツを年間10台買える消費者5人と一台一万
円する自転車を年間一台しか買えない消費者95人が存在する、国民所得5億95万
円の国家よりも、一台1000万円するベンツを年間3台買える消費者3人と、一台
450万円するクラウンを年間2台買える消費者33人と、一台180万円するカロ
ーラを年間1台買える消費者62人と、一台一万円する自転車を年一台しか買えない
消費者が2人存在する国民所得4億9862万円の国家の方が国家全体の国民所得が
ほぼ同一でも、国産自動車メーカーのトヨタ自動車が存在しうる存立基盤が国家内に
確保されるのです。

結局のところ資本主義の成長発展は、貧富の格差があまり無く中流意識を持った豊か
な消費者を、如何に多数作るかの、国民所得の増殖創出システムと、配分システムが
全てなのです。

したがって、市場経済の資本主義における問題解決方法は「人間の過剰性の本能(150参照)」と「個人消費の進化システム性」と「国民の所得階層別の消費性向の
事実(別表P4参照)」について科学的に理解することが最重要なのです。

◆更に付け加えれば、購買力平価へ近づけなければならない為替相場において、わずか
年間15兆円の貿易収支の黒字を得るために国家が推し進めた継続的な輸出振興策に
よる「異常な円高により」国内企業の見かけ上の人件費を高騰させ、国内の設備投資
環境を破壊し資本収支を14−15兆円の赤字とした上、国内外企業の対等で平等な
価格競争を破壊し、外国企業との仕事の奪い合いで国内人件費比率の高い産業は常に
国際競争で敗退を続け、結果として死に物狂いの生き残り競争により「単価・粗利益
率が継続的に減少」し、結果として国家経済と産業構造に大きな痛手となっているの
です。

国家全体をコントロールしなければならない、指導層が「自由貿易体制」を隠れ蓑に、
国家経営層の重大な責務である「貿易収支の均衡と資本収支の均衡がもたらす管理の
利益」を放棄しているために、起きている膨大な悲劇なのです。

根本的に年間500兆円以上の国内個人消費+設備投資の継続的で持続的な増殖を図
り続けることが、日本国の産業構造をゆがめず、アメリカ経済にも中国経済にも頼ら
ず、日本独自の力で経済成長を継続できる、真に日本経済の利益になるのです。

さて現状の最悪な税制の組み合わせを、昭和天皇の崩御の一週間前の昭和63年12
月30日法律107号として、急いで「税制改革法」として強行成立し、その「第4
条第一項」に、今次の税制改革は、所得課税において税負担の公平の確保を図るため
の措置を講ずるとともに、税体系全体として税負担の公平を資するため、「所得課税
を軽減し」「消費に広く薄く負担を求め」「資産に対する負担を適正化すること」等
により、「国民が公平感を持って納税し得る税体系の構築を目指して行なわれるもの
とする」と強制規定し、この税制改革が国民の幸福や福祉の向上に役立つ明確な証拠
も理論も実績も無いのに、如何にも、もっともらしい目的らしきものを掲げ法文化し
てしまったのです。

結局この条文によって現状の日本経済は最悪の事態に追いこまれた上「日本の税制改
革の方向性が固定的、観念的な税制イデオロギーに支配される結果」をもたらし、強
い経済規模縮小作用と税収減少作用を持つ税制を強制的に経済の中核システムへ持ち
込み財政再建が絶対不可能なレベルにしてしまったのです。

これこそが昭和天皇が奇襲攻撃に強く反対していた太平洋戦争開始時の状況と全く同
一の「日本のマスコミや国会議員や官僚等による事実を確かめないまま思い込みによ
る最悪の選択」だったのです。

この不幸の生い立ちと、誤った目的意識を掲げた平成元年の消費税導入の税制改革が、
国民へ絶対に幸福をもたらすことは無いのです。

この状況を根本的に改善するためには、まずこの税制改革法第4条第一項の税制改革
の目的を、観念的、信念的な税制イデオロギーから解き放ち「税制改革は憲法で規定
している国民の幸福と福祉の向上と資本主義経済の発展に役立つものでなくてはなら
ない」と、当たり前の税制改革の原則的な目的を再確認する本来の方式へ大改正する
ことです。

目的錯誤の法律は百害あって一利なしであり、政策立案者がフリーハンドの思考で経
済成長と税収増加と国民の福祉向上へ同時に役に立つ政策立案の強い障害になるだけ
だからです。

そのためには、まず全く誤った結論を法律化した「現行税制改革法の抜本的な改正」
が必要です。

一国の総理大臣が自分の任期中は消費税増税をせず、広く議論すべきと宣言している、
今こそ「日本経済にとって何が経済成長にとって役立つ税制なのか、何を規制緩和し、
何を規制強化すべきか、」事実を元に真実を再研究する最後の機会になると思います。

◆さて「経済成長とは」「科学技術の無限の進歩」により、絶え間なく上昇する労働生
産性を吸収して、企業売上を増加させ「全国民へ働く職場を提供し、資本や税収や、
国民所得を増加させるため」「個人消費(第三者へ所得を与える利他的行為)の持つ
無限の増殖性」を活用した、進化システム技術を言うのです。

分かりやすく表現すれば「経済成長とは」後述の通り「人間文化そのものである個人
消費の種類、質、量の増殖」の貨幣経済的表現なのです。

さて日米の全税制史を調べると「1925年米国は所得獲得者や資産所有者を優遇す
ることが正しい選択であると誤解し、税制は景気に無関係であると誤解し、当時50
−73%の高累進所得税率で好景気を謳歌していたのに、25%へ低下させる所得規
制緩和策を実施し、4年間継続した結果、1929年に株価大暴落に続く世界大恐慌
を引き起こしたのです」。

3年後に最高所得税率を25%から、63−>92%へ劇的に累進増税し所得規制強
化し「米国はわずか6年間で失業率の悪化を食い止めバブル崩壊前の国家税収を完全
に回復して、本格的景気回復軌道」へ載せたのですが、アメリカでさえ本論文の理論
は認識されておらず、このアメリカの増税策はやむをえず取られた政策と評価され、
50年後の大規模財政赤字を発生させたレーガン政権や現在の子ブッシュ政権の大減
税政策の強行でも明らかです。

しかしレーガン政権後のクリントン政権が場当たり的で失敗すると批判された累進所
得税等の増税政策で、本分析通り見事に本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成
功したのです。

これに対して日本の平成2年初からのバブル崩壊は税制を、最高所得税率75%―>
50%へ所得規制緩和し、更にアメリカが採用したことの無い3%のヨーロッパ型付
加価値消費税を導入し個人消費へ規制強化したことが「原因」であるのに、バブル崩
壊後、景気が完全回復していない、平成10年には、更に最高所得税率を50−>3
7%へ所得規制緩和し、更に消費税率を5%へ個人消費規制強化したため、日本経済
を更に最悪の経済環境へ陥れ、結果として、日本経済は泥沼に陥り国家税収は更に大
幅減少し「バブル崩壊後15年も経過してるのにバブル前の税収に遠く及ばず」若者
の実質的失業率は最悪化し、多くの結婚も出来ない経済状況の若者を多数出現させ、
合計特殊出生率はますます悪化し、年金問題はますます解決困難に向かい、日本民族
は消滅の未来に向かっているのです。

では、なぜ税制が、このように強力な効果を持つのかを分析し研究した結果が本論文
であり、「この税制改革理論の結論の要約」と「別表日米90年間の年度別税率と経
済」「日米と主要経済大国を基礎データーで比較」だけでも読み進めば「税制が持つ
誰でも理解できる簡単で巧妙な原理と、もたらされる結果のデーターに、びっくりさ
れると思います。」    

従来の税制改革論議は税制が経済的に中立を装うという市場経済を無視した、大きな
誤りがありますので、市場経済に適応した、資本主義の本家であるアメリカの税制と
日本の高度経済成長期の税制を基礎に、新たな税制改革理論を打ち立て、自立してア
メリカと対等に強力に経済競争しながら、地球環境へ適応して日本国が発展していく
「第二の明治維新」を目指さなければなりません。

◆さて人間の過剰性を悪く解釈するだけでは人間性の否定につながり、まして輸出に課
税せず内需と輸入のみを課税するのは「対等な平等競争ではなく」その国の不平等な
反人間的論理なのです。

国家コストを消費税という税制で、自国民に役立つために生産された内需商品と、輸
入商品のみに課税転嫁して自国民のみ負担させ、自国で作り出された輸出という自国
民に全く役立たない輸出商品の国家コストを、輸出相手国に全く負担させない偏った
性格を持つ間接税なのです。

それに比較して所得税等の直接税は国家コストである税金を、商品価格に転嫁して自
国民の作り出した価値にすべてに平等課税し、内需商品、輸出商品、輸入商品に関わ
らず、商品価格に混入させ国家コストを自国民へ役立つ内需、輸入商品については自
国民へ負担させ、他国民へ役立つ輸出商品については輸出相手国に負担させる「自国
民にも他国民にも国家コストを経済的に対等で平等に割り振り負担させる税制」なの
です。

さて競争の中で「何を規制すべきで何を規制すべきでないか判断するのが政治」なの
です。

本論では同時に、この税制改革理論で主張している政治改革が実現出来れば、「人間
の本質が進化と生き残り本能」である以上「地球環境をこれ以上悪化させず人類が生
き残る方向」へ、自動的に経済成長が進むことを確信しています。

なんとなれば膨大な数の人間は五感で生き残りの方向を本能的に判断するセンサーを、
動物として保持しているからであります。

現に経済成長につれ膨大な数の国民は医療、環境保護、社会福祉、エネルギーなどへ
の関心が高っていることをご理解頂けると思います。

◆さて成熟経済では、なぜ個人消費規制緩和の消費税廃止や、所得規制強化の直接税の
累進増税で強力な経済成長を達成し、経済問題を根本的に解決できるのでしょうか。

(任意行動)少数ですが、自ら所得獲得額の調整ができる企業経営に携わる人たちや、
寄付を多額にする利他的意識の強い人たちかいます。
所得が多いと税を多額に納付しなければならず過剰に所得を取りすぎるのを控える行
動が生じます。
これが「直接税の所得規制のインセンティブ(動機付け)効果」なのです。

これは強力なオスライオンでも満腹になったら順位の低いライオンにエサを譲る「畜
生でさえ遵守している大自然の掟である自然界の無意識の利他的ルール」と同一なの
です。

これによって力の弱いライオンや他の動物も生き残り自然は豊かに繁栄できるのです。
逆に人間社会の強者の所得独占行為は、大自然のルールでは極めて不自然な行為なの
です。

結局その人が満腹で放棄した所得は「任意の自由意志で中低所得者への所得配分」さ
れ、より所得の低い人が生き残り、新たな個人消費が発生する経済の無限連鎖が確立
し、これによって消費性向の高い中低所得者から、更に多くの所得の原資となる個人
消費の自己増殖が得られ、等価変換される国民所得の向上に寄与し、強者は更に所得
獲得チャンスが増加し、且つ中低所得者が生き残れて増殖できるので、将来中低所得
者から優れた人材を突然変異と競争で得られる機会が増加し社会を進化発展させる共
存共栄の利益を得るのです。

つまりライオン(高額所得者の所得)を増やすには下層の草食動物、更に下層の植物
層(個人消費)を増やさなくては、ライオン自身増殖できないのです。

(強制行動)直接税の税率が高くても、自分で所得や資産を全て獲得したい人は多額
の税を支払うことなり消費性向の低い高額所得者から得た税収は国家によって公務員
の給与や、公共事業を通じて、ほぼ全額中低所得者層に配分されることとなります。
これが「直接税の強制的な中低所得者への所得配分のシステム効果」なのです。
これを適正担保するため「納税者番号制はアメリカと同じく絶対に必要」なのです。

(結果)個人消費は強力な自己増殖性を発揮する進化システムであり消費税での課税
強化は悪影響が生じますが、直接税は全く個人消費を課税規制しないので、大幅増税
しても進化システム効果は自然に充分に発揮されます。

更に中低所得者の消費性向はきわめて高く、常に上の階層の消費を目指し個人消費の
増殖能力も高いので、任意や強制により中低所得者へ配分された所得は、結果として
中低所得者の個人消費を通じ国家全体の消費性向を押し上げ、次の所得の源泉となる
個人消費が活発になり「設備投資を伴った本格的景気回復」が達成されるのです。

つまり所得税は個人消費と貯蓄への所得の使い道に平等に課税する結果をもたらし、
消費税は所得の使い道のうち個人消費のみを課税し、貯蓄を非課税にするため個人消
費を最小限にして貯蓄へより多く回す、不自然な経済行動を取らせてしまうのです。

つまり所得税の他に消費税を導入するということは結果として個人消費に二重に課税
する結果になり個人消費への規制抑圧になって国民所得と経済成長が停滞します。

所得税は消費税と異なり、個人消費を直接課税抑圧せず、所得の使い道である個人消
費と貯蓄へ不平等競争条件も持ち込まず、更に販売現場へ販売抑制効果も持ち込まず、
更に高所得者層と中低所得者層の消費性向の違いを活用し、所得配分機能を持つ国家
を通じて高額所得者からの税収をより消費性向の高い中低所得者へ配分し国家全体の
消費性向を引き上げる強力なシステム効果を発揮します。

更に「所得税累進増税は所得の大幅増加をもたらし且つ所得の増加は税収の増加をも
たらす」ので「国家と国民の目的は同一」になり、国民所得を増加させると国民が喜
ぶ上、国家も税収増となるので、政治家と官僚は国民所得の向上つまり経済成長に本
気に取り組めるのです。

これも直接税のインセンティブ(動機付け)効果といいます。
これが「直接税の進化システム効果とシステム効果とインセンティブ(動機付け)効
果」の三位一体の効果なのです。

つまり直接税は税率を高くすればするほど、国民所得が向上し景気が良くなる上、税
収がドンドン増える便利な税金だったのです。

アメリカが世界大恐慌後の50年以上にわたり採用した高累進税制こそ、アメリカ資
本主義の基礎をしっかりと発展進化確立した税制なのです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/454.html

クリントン政権が本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成功した理由 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html
 

1929年10月の株価大暴落はアメリカ税制史上、直接税の最大の減税環境(最高所得税率25%)で発生したのであり、平成2年から始まった日本の株価の大暴落も全く同様であり、直接税の大減税は景気回復の手法という通説は全くの虚偽であり、景気悪化の原因そのものなのです。

その後この世界大恐慌を回復させ資本主義を発展させた、レーガン政権誕生までの、
50年間にわたる累進大増税政策(63−92%)と、その後の累進弱体化減税政策
のレーガン政権でもたらされた記録的な財政赤字を解消し、記録的な大成功をもたら
したクリントン政権の富裕層への直接税の累進増税政策と、日本の高度経済成長期の、
消費税無しの直接税の累進増税政策(国税のみで75%)を「手本に」「所得税等を
累進増税すると個人消費増強効果が強まるので素直に増税し」その分「個人消費の進
化システム機能を常時規制抑圧している消費税を完全撤廃し個人消費の自然な増加を
促進し」相乗効果で「500兆円以上の膨大な個人消費の種類・質・量の自己拡大を
図り財政負担無しに国民所得つまりパイの継続的拡大」を図る「経済の出発点」で
「経済再生の根本」である「個人消費を時代に応じて増殖する進化システム機能を自
由に発揮させ」豊かな内需環境を整備する税制改革を実行すべきです。

さて企業の消費税ばかりでなく法人税、源泉所得税等の全税金も全社会保障費も更に
全人件費も、実は企業が生産する全商品コストに算入され個人消費を通じて全国民で
ある最終消費者が実質全額負担しているのです。
つまり「個人消費があって始めて所得や税収が生み出されるという現実」は企業とい
う形式的で法的な存在が実質的に負担する税金や人件費などは、この世には全く存在
せず、全ての税金や人件費は実在する国民である最終消費者が個人消費を通じて全額
負担しているのであります。
トヨタ自動車の法人税も従業員の源泉所得税も「実質的に全額車購入消費者が購買代
金の中から負担している」のです。
「民間企業」が膨大な広告宣伝費をかけ「値引きやオマケを付け」強力に個人消費を
掘り起こしているのは「個人消費の増加がなければ設備投資と利益の向上が絶対に実
現できない原則」を本能的に知るからであり、逆に肝
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html


(別表) 90年間の日米の最高所得税率と失業率と税収と政府総債務の年度別推移
          税理士・中小企業診断士 吉越勝之 2004.8.20 (本文へ戻る)
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/481.html

 
 アメリカで発生した世界大恐慌以前の初期資本主義時代から現代までの約90年間
以上と日本の敗戦から現代までの約50年間以上の年度別「最高所得税率の推移」の
結果が、もたらした国家成績の指標として「失業率」「年間総租税収入額」「政府総
債務残高の年増減額(財政再建度)」の実額資料から国家成績の傾向と実態を確かめ
下表の通り掲載し、本文の税制改革理論との理論的一致を事実として確かめたもので
あります。
資料の収集には大変苦労し、国立国会図書館、県立図書館等に通って資料を集め、ま
とめたものです。 
アメリカの資料で苦労したのは年度別最高所得税率の資料が見つからず、公表されて
いる最高所得税率の年度別折れ線グラフから推定させてもらいました。  
その他の重要資料はアメリカの方がはるかに分かりやすく整備されていました。
それに引き換え日本の資料の収集には、はるかに苦労させられ、重要な資料ほど見つ
けにくくわかりにくくなっていた。両国の税制と国家成績の疫学的立証からの結論は
(1)直接税中心主義期間では例外なく国家税収は時間の経過とともに、必ず増収に
   なることが分かった。
(2)全商品課税対象の付加価値消費税を採用しない期間は、最高累進所得税率を高
   くすると国家の所得配分機能が作動し消費性向が向上し失業率も国家財政も極
   めて順調に改善できることがわかった。
(3)景気回復策という通説と異なり、最高所得税率を低下させると、結果として経
   済成長を低下させ、景気下支えの財政支出が必要となり、財政が極端に悪化す
   ることが日米の経済史から立証できた。
(4)全商品対象の間接税である付加価値消費税を採用すると、日本では特殊な社会
   慣行から、副作用が特に顕著に現れ、前(3)項の現象と重なり、日本の国家
   財政は最悪化し、失業率も最悪化した。
(5)経済競争の勝敗は競争当事国間の「税制の経済効果の相対関係で決定される」
   ことを示している。 
(6)貿易は輸出入の均衡が最善であり、貿易収支の不均衡は黒字赤字に関わらず経
   済に悪影響を与える。
(注)アメリカは、見た目と全く異なりヨーロッパ型消費税制を導入していない直接
   税中心国家です!!

1.アメリカのケース

(1)現在アメリカは付加価値消費税を導入していない世界で唯一の主要経済大国で
   あり、それゆえ成熟経済になっても経済成長が定常状態で成長し、世界一の経
   済大国となり世界に君臨しているのです。 
   つまり戦後一貫して、アメリカは付加価値消費税制中心のヨーロッパ大陸諸国
   と税制で一線を画し、直接税中心主義を貫き、ヨーロッパとの経済競争に勝ち
   続けていたのです。
   しかし唯一平成元年までは、最高所得税率が高く個人消費を大きく抑圧する付
   加価値消費税も、小さく抑圧する小売売上税も採用していない日本に対して、
   逆に大きく遅れをとっていたのです。
(2)資本主義国家アメリカは最高所得税率を、政権の経済政策に応じて極めて頻繁
   に、信じられないくらい大きく変更している。 
   アメリカの税制は同国の国家哲学であるプラグマチズムの影響を強く受け「政
   権毎に最適化を求めて試行錯誤を勇気を持って行い」、経済の復元力の強さに
   なっています。
   したがって「この税制改革理論のような、定まった理論によって税率を上下し
   ているわけではない。」
(3)しかし最高所得税率を低下させると、「世界大恐慌」が起こったり、「極端な
   財政赤字」に陥ったり「経済成長が停滞」したりすることが「事実」として示
   されています。
(4)経済危機に際しては最高所得税率を引き上げることにより、常にアメリカは経
   済危機を脱してきた、実績があります。
   その中で大成功したクリントン大統領の累進所得税の累進増税は言われている
   ほど大きくないのに大成功したのは、強力な競争関係にあった、当時の日本の
   取り入れた税制の失敗に大いに助けられた結果である。 
   競争とは競争当事者間の「相対関係」であることを示している。

2.日本のケース

(1)日本がアメリカに次ぐ第二位の経済大国になり得たのは、昭和25年間接税と
   して付加価値事業税の提案がなされたが、国民と中小企業の強い反対があった
   ため、政府がこれを素直に受け入れ昭和29年一度も実施されること無くこれ
   を廃案にしたことである。  
   これによって日本は国民性に全くなじまない間接税に頼らなかったことが、高
   累進直接税国家に進まざるを得ず、結果としてシステム的に自然に自動的に高
   度経済成長に成功したのが「日本の高度経済成長達成の秘密」です。
(2)最高所得税率を高めると、失業率も税収も改善し、財政再建されることが下表
   の日本のケースでも明らかになった。
   逆に最高所得税率を引き下げたり、消費税を増税すると失業率は悪化し、税収
   も極端に減少し、財政は極度に悪化することが確かめられた。
(3)平成元年消費税を導入するまでの日本は10年間で国家年税収は2.3−4.
   4倍に増加する超健全国家であった。
   しかし平成元年消費税導入後、途中で消費税を3%から5%へ1.6倍も増税
   したのに15年経過後の現在、増収どころか、国家年税収は0.75倍に大幅
   減少してしまった。
   直接税中心税制を採用していれば、累進税率を上げれば必ず国家税収は大幅増
   収になるのと比べると、現状は最悪の非効率税制である。 
   現状の税制では財政再建など絶対不可能であります。

(結論)
1. 消費税が無く累進所得税のみの期間の日本は「失業率」も「国家税収の伸び」も
  「財政」も極めて健全であり、経済成長も順調であり、アメリカ経済をはるかに
  上回っていた。
2. 消費税導入後、失業率は一貫して悪化を続け、後ろ向きの財政支出が膨大に増加
  し同時に税収減のため国家財政は一貫して悪化を続けている。
  企業をリストラさせて、利益の出る企業を作りあげたところで、そのリストラさ
  れた人間の生活は、憲法上国家が面倒を見なければならず、人件費を民間企業か
  ら国家へ負担を移し変えたにすぎず、財政負担ばかりが増加し、全く意味の無い
  税制政策であった。                 
3. 競争とは競争相手との相対関係である以上、日本の最高所得税率は「アメリカの
  最高所得税率+アメリカの国民一人当たりの社会福祉寄附金所得換算率」に最低
  限度するべきであります。
アメリカの国民性は社会福祉を原則民間でやるべきと考えているのに対して日本では
社会福祉を国家がやるべきと考えている以上、アメリカ国民が膨大に負担している民
間寄附金は日本では累進制所得税に吸収すべきであるからです。
これによって、はじめて「アメリカと日本の競争力は、対等に平等に均衡」するので
す。

(結論)
1.国家内の「国民と企業を良好状態に保ち、全体として継続的に経済成長させる」
  義務を持つのが国家なのであります。 
  国家経済の根本は自国民が生産した全商品を自国民が全て個人消費できるように
  如何に国民所得を増強できる仕組みを作るかであり、国民所得と個人消費の増強
  のための財政の所得再配分機能能を活用し、無から莫大な有を作りだす税制改革
  にかかっているのです。
2.とすると「貿易黒字を膨大に出して円高を招くことは」「人件費を見かけ上、高
  騰させ国内に設備投資が不利な環境を作り出し」結果として国内に良好な設備投
  資対象が激減するため、利潤を求めて資金は国外へ流出し「資本収支が大赤字に
  なり」本来は国内の設備投資に使われるべき、現実の資金が国外へ流出してしま
  い国内設備投資需要が激減し生産力は低下し失業率は高まり、景気は浮揚できな
  くなるのです。 
  この仕組みの怖さこそ変動相場制なのであり、貿易黒字を求める「無意味さ」を
  表しています。  
  貿易収支均衡政策と資本収支均衡政策の同時達成を目指すのが「他国の影響を受
  けず、日本が自分自身の力だけで経済成長を無限に継続できる」「真に正しい経
  済政策」なのです。
  貿易黒字を溜め込むことも貿易赤字を出すことも非基軸通貨国家の経済政策にと
  って最悪の選択なのです。  
  貿易収支と資本収支の均衡政策を目指すことが「国家経営における真の管理の利
  益」となるのです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/481.html

経済成長は直接税制の強化で可能(1) 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/490.html

得(食料)生産機関」であり、消費税のように「個人消費」に課税することは個人消費の所得生産機能や
  配分機能を大幅に低下させ、人間の自由意志を抑圧して経済成長に重大な悪影
  響を与えるのです。

7.「貯蓄」は個人消費しなかった残余の金額です。また「設備投資」は日本のよ
  うな間接金融国家では、銀行が貯蓄から企業に貸し出す形態となっており、
  「個人消費」が活発になると「貯蓄」がドンドン「設備投資に変換」され、更
  に企業売上へ再変換され、それによって企業から銀行へ金利が支払われ、労働
  者には所得が支払われ、銀行は預金者へ預金金利を支払えるのです。
  
  日本のように家計防衛本能が強く直感脳によって「税」を嫌う「女性が家計を
  支配している主要経済大国の中で唯一の国家」の個人消費に課税する消費税制
  の採用は過剰貯蓄体質が強化され個人消費が停滞し設備投資も停滞し継続的に
  悪循環となり経済は最悪の状態になるのです。

8.消費税以外の全税目の全税収も全社会保障費も、実は企業が生産する全商品の
  コストに算入され、個人消費を通じて最終消費者が全額実質負担しているので
  す。
  民間企業が膨大な広告宣伝費や販売促進費をかけ「値引きや割引をしたり、オ
  マケをつけたり」、強力に個人消費を掘り起こし企業売上を増進したりするの
  は、一面で国家国民のためなのです。

  「個人消費の増加がなければ全企業売上と国民所得と税収の増加と失業者の減
  少の同時達成が絶対に実現できない原則」があるのに国家が消費者心理に逆ら
  って商品価格に5%の消費税を上乗せするから、個人消費の増加が大きく鈍り
  国民所得も税収も増加出来ず失業者の減少も実現出来ないのです。

  更に消費者の心理を無視して消費税を10%〜15%にするという議論が喧伝
  されるところに消費者心理不在の「理念観念に凝り固まり真実を見誤る固定観
  念の政策集団」が日本国の大勢を占めている戦前と全く同じなのです。
  だから経済成長は人間の手によってコントロール可能である事実を知るアメリ
  カは超大国なのです。

株式市場、個人消費、市場経済、国会採決、選挙など「国民的環境において人間個
人が自らの意志で実質的、形式的に規制無く自由に決定でき、且つフェアーな競争
原理が働くも
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/490.html


経済成長は直接税制の強化で可能(2) 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/491.html


(国家の存在意義と民間企業の存在意義は全く異なる事実と、従来の経済学では解
決できない経済問題と進化システム原理による税制改革による解決)

第二の問題点(本題)として「ケインズの有効需要の原理やワルラスの法則を無視
し、進化システム原理に反している現状の日本の税制を根本的に改善する税制改革」問題に入りたいと思います。

さて経済学は後述するように万能の学問ではありません。もし万能ならそれ以外の
学問は不用になるはずです。伝統的な経済学は多くの前提条件(p179)の上で
成り立つ「数学に近い性格」を持つ狭く限定された学問なのです。

本書で提唱しているのは「人間が組織する外部競争原理(組織同士の競争)が働く
民間組織に従事する人間の個人や集団の意志や意欲の向上に資する運営の原理原則
を研究する(民間)経営学」を参考に「独占組織のため組織同士の外部競争原理が
働かない国家組織における国民の個人や集団の意志や意欲の向上を誘発し、経済社
会の進化発展に、最大の効果をもたらす個人による内部競争原理(構成員である人
間個人の参加の自由と対等に平等なフェアーな競争)を柱とする、国家運営の原理
原則を研究する(国家)経営学」を意識した立場を取る経済成長税制を提唱してい
るのです。

そして倒産して消滅する恐れのない「政党」には組織同士の外部競争原理は働かな
いのです。

この経済不況を克服するためには、全ての経済政策について「その政策が需要者で
あり国民である、消費者の真に幸福のためになるか」「その政策が生産者である、
企業社会の真に発展のためになるか」つまり両者を同時に満足させるには「真に経
済成長に役立つか」の「唯一の絶対基準」で一つ一つ吟味する必要があるのです。
本書は全て「経済成長に役立つ政策」の「理論と実証と目的論」でまとめられてい
るのです。

「公平、中立、簡素」とか「国際競争力」とか「経済の活性化」とか「努力が報わ
れる制度」とか「フラット税制」とか、我々日本人は経済成長に役立つことが証明
されていない、明確でない、あやふやなコンセプトや基準に惑わされることを、ま
ず絶対に止めなければなりません。 
  
1985年の有名な「アメリカの直接税」の税制改正の理念は「公平、公正、簡素
(for economic gross 経済成長のための)」となっており、
1989年の「日本の間接税である消費税」の導入理念は「公平、中立、簡素」と
殆ど変わりなく、ただアメリカと違い肝心の(for economic gross)(経済成長
のため)が付いていないだけなのです。

全く正反対な制度改革に同一のコンセプトとかキャッチフレーズが付くという、理
念と観念というものが如何にいい加減かの見本なのです。

どちらの国の政策が自国の経済環境へ適応した政策であったかは、結果で明らかで
す。

アメリカは大成功、日本は大失敗だったことは歴史が証明しているのです。

つまりアメリカには自国の経済環境に適応しようと言う「経済成長のため」と言う
明確な目的意識があり日本には明確な目的意識も実証理論も無かったのです。
 
全ては「経済成長のために役立つか」FOR ECONOMIC GROSS の
唯一絶対の統一基準によって国民の幸福に役立つのか、検証されなければならない
のです。国家は国民を不幸にする理念観念を優先してはならないのです。
個人個人の利己的満足は、個別企業の競争の中で実現すべきものであり、国家全体
の目標は、国民全体の均衡の取れた幸福の追求(利他的満足)なのであります。
「耳障りのよいキャッチフレーズやコンセプトの言葉の一人歩きこそ我々日本人の、最も嫌うべき悪弊なのであります。」そこで、はるかに早く成熟経済に達している特別の人間で構成されているわけでもないアメリカが何故「過去も現在も未来も」経済成長を継続できているのかを分析しながらアメリカ自身さえも気付いていない、根本原因がアメリカの国家体制に強烈にしみ込んだ「進化システム」にある事を発見し既に理工系の分野で活用され市場経済にも適用されている競争力発揮のための「自己拡大をもたらす進化システム」とその本質となる「フェアーな競争を実現する競争力均衡状態の活発な競争」概念を中心として「成熟経済における経済成長税制」を構築いたしました。  

そして消費税導入前の日本が何故アメリカ経済を追い抜き当時世界一の経済大国に
なり得たのかは、その時の日本の税制を始めとする個々の企業、国民に対する「進
化システム」と「競争力均衡状態の活発な競争」度がアメリカより高かったからで
あり、貧富の格差が少なく膨大な数の豊かな中産階級や新規企業が生まれる作用を
持つ税制を採用し実質的に多数者による参加の自由と競争状況を作り出せるように
なったことが、その本当の原因なのであり、現状の深刻な経済不況は税制を始めと
する経済哲学の、その後の「大きな変更」により、税制が貧富の格差や企業の格差
が開く方向に作用する税制を採用してしまったことが、実質的に少数者による参加
の自由という競争状況しか作り出せず、経済の進化システム度や競争力均衡状態の
活発な競争度が極めて低下してしまったことが現在の不況の原因なのです。

経済活動は「基本的に人間の意志と行動の結果である以上、全ては改善可能であり
何が不況をもたらしているのか、事実をもとに突き詰めて原因を究明すれば全ては
解決できるのであります。」

つまり国家が「人間の本来持つ生き残りたいとする個人や集団としての前向きの意
志や意欲のエネルギーを正しく引き出す」ことが経済成長にとって不可欠と考える
立場から本書は作られており、どうすればそれを引き出せるかの、ルールとそれに
基づく具体策を具体例をもとに本書は述べております。 
 
アメリカや諸外国から哀れみの目で見られることを、まず恥と感じ外資や外需に頼
らずに強力に内需を自己拡大し進化発展する日本経済へ再構築し、早くアメリカと
対等に競争できる経済環境を作らなければなりません。

1.国家の存在意義は人口も領土も狭く限定され「不完全閉鎖経済系の有限需要し
  かない」条件の中で日本国憲法で明文化されている如く、国民の幸福を追求す
  る権利を真に実現するには個人消費の無限連鎖の自己拡大を果たさなければな
  りません。

そして人間を幸福にする経済の唯一絶対の根本指標は「失業率の低下とその反対目
標であるインフレ率の低下」だけであります。 

これ以外の言葉やコンセプトの羅列は全く無意味なのです。

そして科学技術の発展により労働生産性が毎年高まる経済環境において領土も人口
も一定な国家という「不完全閉鎖経済系の有限需要」の中で失業率を低下させるに
は常時「個人消費の自己拡大」つまり「経済成長無しには、これを実現することが
出来ない」のです。
 
そして成熟経済における経済システムを考えるときは、国民の幸福の追求に反し地
球環境に悪影響を与える生産物については、その悪影響へ応じた個別生産規制(禁
止と規制)を、そしてそれを消費することが国民の幸福の追求へ悪影響を与える消
費については、その悪影響へ応じた個別消費規制(課税規制)を加える「明確な原
則」を確立して、生産者や販売者の業務に支障の無いよう実態としての設備耐用年
数に応じた経過期間を十分取った上で、遠慮会釈無く徹底して個別規制し、それ以
外については「進化システムである個人消費にも生産にも一切の一般規制を加えず」

人間本来の自然の本能に基づく進化システムによる個人消費の自己拡大と、生産の
自己拡大を容認し、企業の売上増加の基盤を図るメリハリの効いた本書で理論化し
た税制改革や政治改革等を採用すれば経済は望ましい方向へ自動的に成長しながら
進化発展するのです。

このように人間は経済環境でさえ「規制」という手法を使って、経済環境自身を変
化させ新たな進化条件を設定し、人間が本能的に持つ過剰性の本能と組み合わせて
新たな進化の方向つまり新たな望ましい方向への経済成長へ誘導し発展する事が出
来るのです。 
 
その後は企業と国民のフェアーな自由競争に任せれば良いのです。

そして日本国憲法において文化的な最低生活の保障を全国民へ宣言している以上、
国家の役割りは「その時代その時代の国民が許容する範囲内で国民の利他的意識を
醸成し相互扶助精神も取り入れ、効率的な機関として誠実に正直に勤勉に努力する
普通の国民の幸福の達成」つまり国家による所得の適正な配分構造の形成が最重要
課題になるのです。「民は足らざるを憂えず、等しからざるを憂う」からです。
これによって「進化システムの中心概念である参加の自由のもとフェアーな競争に
よる国民の競争力均衡状態での活発な競争を実現」し、「進化システムである個人
消費の自己拡大を強力に作動」させ、企業の売上増環境を完全に整備することにな
るのです。 
 
この考え方は国民一人当たり日本の200倍の社会的な寄付(民間の所得分配行為)を行いボランティア活動が極めて盛んなアメリカ国民の自国民に対する利他的意識の強さと、各人一人一人をアメリカのチームの一員と見なす哲学こそアメリカ自身も気付いていない経済成長の根源となるのです。 

そして日本では社会的寄付の慣習が乏しいので、その分国家が代行するのであるか
ら、日本では直接税の税率を、その分高くする理論的根拠が存在するのです。
この様な考え方は弱者への所得配分を税を通して効率的な民間の自由競争の中で行
う考え方なので、弱者の人間の精神的な尊厳が失われることが少なく、さらに現実
の競争のなかで競争する内に本人も鍛えられ勉強し、弱者と言えども成功するチャ
ンスや希望が与えられるシステムなのであります。
 
このように経済的弱者を競争社会からドロップアウトさせず、常に一体感の中で経
験させ鍛えるというシステムは、国家的に見ても有効な経済的生産戦力の拡大と、
個人消費拡大の強力な戦力となるのです。

ただ逆に国家の税制等は各個人の利益と利己的意識をストレートに表す構造にすべ
きであり相互扶助的であってはならないという主張もあり、その場合努力しても報
われない人には、セフティーネットなどの社会保障の拡大で、対処すべきとの論者
もいるが、これは実は「大きな国家を目指す論法」であり、如何にも資本主義的に
見えて、実は国家という極めて非効率な機関に過大な作業を求めることになり、非
資本主義的であり結果として非効率な国家を建設するだけなので好ましくない。
更に貧富の格差が大きくなりすぎ「進化システムの本質概念を形成する競争力均衡
状態の活発な競争」に反するので進化システムである個人消費の増加率は低下し、
企業の売上増環境は弱体化する。

その上国民所得に対する租税負担率を高めてしまうので、如何にも厳格な資本主義
的手法に見えて実は結果として「国家競争力」を弱めてしまう非資本主義的な非効
率な経済システムになってしまうのです。

その上、国に頼る社会慣習を国民へ植え付けることは大変望ましくない。

このように経済的弱者への所得配分を非効率な国家の負担に頼るという考え方は、
弱者を競争社会からドロップアウトさせ、実社会における再起のための経験も勉強
の機会も奪ってしまい、さらに競争社会におけるチャンスも希望も精神的な尊厳も
失わせるシステムであり、国家の貴重な戦力が損失し消耗してしまうこととなるの
です。

したがって資本主義国家の「企業システム」に資本主義的利己的意識に基づく効率
的な規範が存在するとき、更に「国家システム」には利他的な資本主義的愛国心に
基づく効率的な規範が存在するとき、その国家は「力強い資本主義的な経済成長に
役立つ国家となり」強く進化発展し成熟経済においても経済成長が継続するのです。

つまり大衆民主主義の資本主義国家では「パラドットス(逆説)を基礎とする国家」が、最も経済成長を果たす国家となるのです。そしてこの国家経済システムを守るためには「カネは天下の回りもの」を正しく実践することこそ大切であり「資金がスムースに漏れなく国内経済を回転するにつれて個人消費が自己拡大し経済成長が実現される」のが資本主義における経済成長原理であり、そのためには資本主義的正義を保証するため納税者番号制は不可欠であり、資金のプライバシー保護は最小限度に止めなければならない。

それは不正に資金が滞留したり、国内に資金が退蔵されたり一部の大金持ちに資金
が偏在して固定化されたり国外に不正に資金が流出することが、全国民を幸福へ導
く経済成長に大きなマイナスになるからであります。

2.民間企業の存在意義は、領土も人口も関係なく世界に雄飛出来る「開放経済系
  の無限需要」の中で活躍できる特性を持ち株主の利益追求つまり資本の利益追
  求「総資本利益率の向上」が唯一絶対の根本指標となるのです。


つまり「その時代その時代の国民が許容する範囲内で、企業分野では個人、集団共
に利己的意識の効率的な企業活動の徹底した追及を容認」して差し支えないのです。

そして資本主義は自由な競争を実現する無色透明で、競争の結果が明確に現れる極
めて優れたシステムであるところから、進化システムの補助手段として、人間社会
に根付いたのです。

その意味で企業の役割と国家の役割を混同してはならないのであって利己的意識を
中心に組み立てられる「外部との競争意識と営利精神を中心に組み立てられる機能
的な企業の存在意義」と利他的意識を中心に組み立てられる「協同意識とボランテ
ィア精神で組み立てられる機能的な国家の存在意義」は全く異なることを、まず強
く認識しなければならない。

各々が徹底してその役割を果たすところに豊かな消費者が形成され「成熟経済でも
個人消費の自己拡大と経済成長が可能」となるのです。

つまり「国家も企業も国民も苦しみ抜いている」、平成2年から開始した長い長い
経済不況は、後から詳しく述べるように、システム工学で研究されている、進化シ
ステムの自己拡大原理を持つ市場経済の最重要な要素である「個人消費に規制が加
えられたために総需要抑制政策として機能し経済の自己拡大が停止しているという
根本的問題」により発生しており「現状の経済学の研究対象外の税制が原因」で引
き起こされている深刻な不況なのです。

その原因は後述するように日本の「進化システムの自己拡大原理を持つ市場経済」
に元々存在していた進化システム原理の規制要因である後進的な社会意識や政治シ
ステムに加えて更に市場経済の発展拡大の根源である「個人消費」に決定的に強力
な消費税制という規制抑圧要因が人為的に導入されたからなのです。

その原因は個人消費の自己拡大と所得への自己回帰の繰り返しで起こる「経済成長
の仕組みの本質」を理解するのが大変難しく、更に国家の存在意義も、国民の幸福
を追求する権利を実現するという「憲法で明文化された国家の本質規定」でさえ、
当たり前すぎて厳格に考えようとしない人が多いことが原因なのです。

「成熟経済段階に到達した主要先進大国」のうち「現状のアメリカと平成元年以前
の日本だけ」が「間接税比率を低く抑え、直接税比率を高く維持することで進化シ
ステムの程度を高め」、良好な経済状況と高い一人当たり国民所得と、低い失業率
を実現できたのです。

現状の経済政策が正しいと言うならば成熟経済段階に達した主要先進大国のうちで、どの国が進化システムの破壊をもたらす、直接税比率の引き下げと間接税比率の引き上げを行い良好な経済状況と高い国民所得と低い失業率を達成できたのか見本を示して貰いたいものです。

これから本書を読み進む内に、物事を素直な科学的な目で見る重要性を認識し、タ
ブー視したり、固定観念で見たり、色メガネで見ると学問や科学の歴史で明らかな
ように社会経済の進歩は停滞してしまう危険性を十分理解しなければなりません。
特に理工科系学問は、これをぶち破る事こそ進歩であり、与件無し前提条件(p1
79参照)無しで真実を探求し、物事を考える気風がみなぎっているために、日本
の科学技術は高いレベルなのです。

科学技術分野で多くの俊英を生みだしている日本において、何故文科系の学問分野
で決定的に世界的業績を示す俊英が現れないのであろうか。

それは「与件無し、前提条件なし」の「フェアーな競争」で結果を求められる現実
の競争社会に適応しない研究方法に固執しているためなのです。

つまり日本の文科系学問は「学問の目的や学問の基礎となる哲学や科学の真の意義
を良く理解せず」言葉の魔力から抜け出せず、既存の考え方を与件や前提条件とし
て固定観念化し執着しているので異論をタブー視したり色メガネで見たり圧力をか
けたりするため、「参加の自由とフェアーな競争」が存在せず新しい考え方による
現実に即した詳しい研究が遅々として進まず、進歩が遅く、しかも日本人の最も劣
っている索敵能力の低さも重なり文科系学問の真の発達が大幅に遅れているのです。

これこそが文科系学問の発達に支えられている日本の国民を律する国家の諸制度や
法律が「システム」として現状に適応していない部分が極端に多く、社会経済制度
に多くの問題を生じ、不適応現象としての経済や社会の強い停滞として表れている
のです。

まず「現実に適応し役に立つ」(つまり人間の役に立つために)研究を行うことに、まず目を向け興味を持ち、勇気を持って当たる事だと考えています。

「役に立つ」というと、すぐに「ノウハウもの」の低俗な研究と決めつけますが、
良く考えればアインシュタインの相対性原理、ボーアの量子論、ソローモデルも
「人間の社会生活にとって極めて役に立つからこそ」ノーベル賞が授与されたので
す。 

役に立たない研究などにノーベル賞は与えられないのです。
 
人間にとって「役に立つ」と言うことは利他的行為や意識の結果なのであります。
人に役に立たない、研究のための研究は本人のみの利己的行為や意識なのでありま
す。

そして膨大な国民を対象にする以上「システム的な発想」が不可欠となります。
日本の民間企業が「質の良い供給力の増加を目指し世界に通用」しているのは「自
らの行動や努力が真に質の良い生産性の向上に役立っているのか」の基本的な視点
を決して忘れず「真実と事実に基づく立証と検証を常時行っている結果」であり、
それは常に同業他社との「熾烈な外部競争が常時行われている」からであります。
つまり常に競争に敗れると淘汰か倒産か失業の危機に迫られているため緊張感のあ
る非常に良い努力をした結果なのであります。

ところが国家は独占組織であるため「組織同士の外部競争が存在せず」競争もなく
倒産もなくリストラも無いため、常に緊張感が無く「全ての政策について憲法で明
確に求められている国民の幸福に真に役立つのか」の「真実と事実に基づく立証と
検証という重要であるが手間のかかる努力がおろそかにされ、頭の中だけで考えた
抽象的な理念や観念に陥るという戦前の哲学思想に回帰していると強く感じられ」
マッカーサーが述べた如く「日本人の精神年齢は12才」と言った当時と基本的に
日本人の国家観は変わっていないと強い危機感を感じています。

つまり日本の国家運営は政界、官界、マスコミ界を含めて「個々の国家政策が真に
国民の幸福に役立つか」といういう基本的視点を「現実と事実で立証し検証する」
という視点がスッポリと抜け落ちてしまっているのです。

戦前には「大東亜共栄圏」「五族協和」「神風」「欲しがりません勝までは」など、耳障りの良い言葉とコンセプトによって、「現実と事実による立証や検証もしないまま」、頭の中で考えただけの「現実の国際社会に全く適応しない誤った言葉やコンセプト」で安易に全国民が洗脳され、日本国民自らが大きな悲劇を招いたのです。

これは誰の責任でもない日本国民一人一人の自らの責任なのです。

同様に現代も「公平、中立、簡素」とか「直間比率の是正」とか「薄く広く」とか
の言葉とコンセプトで「税制政策」があたかも現実の経済原則へ正しく適応してい
るが如く、意味不明な言葉を連発し国民を誘導し同時に国民も安易に洗脳される危
険性を強く感じているのです。

政界も官界もマスコミ界もまず第一に国家の存在意義の大前提である「常にその政
策を押し進めるとするならば、それが真に国民を幸福に導く政策なのか、理念や観
念ではなく現実と事実に基づき立証し検証する義務があるのです。」と同時に国民
も適否を見極める能力を高めなければなりません。

国民を幸福に導くとは言葉を変えれば、その政策で国民全員を食わせることができ
ますか?と私は言いたいのです。

国家は特定の優秀な人だけを幸福にすれば良いのでは無いのです。

国家は憲法に明文規定があるように、優秀な人も、優秀で無い人も「正直で誠実で
勤勉に生きる全ての人を幸福にする義務があるのです。」もし出来なければ国家は、憲法で明文化されているように、国民へ文化的な最低限度の生活を保障しており、無尽蔵に生活保護費や雇用保険金を支払わなければならないのです。

したがって国家という独占組織には組織同士の外部競争が働かない以上、本書に詳
しく述べているように「進化システムが正常に作動する個人による内部競争ルール
を厳格に導入」しなければ、自己拡大し進化し発展する良い政策は立案出来ないの
です。
                       
そして進化し発展する国家になる為には、人間社会の現実の社会経済が、「現実と
事実の改善」によってのみ進歩する以上、「あらゆる政策の良否は、全国民の幸福
にとって真に役立つのかを判断基準とし」「国家が良くなるも悪くなるも、あらゆ
る政策は全国民とそれを代表する国会議員の進化システムによる参加の自由と対等
に平等なフェアーな競争(協同)によってのみ決定されるので」全国民や国家議員
が善悪、適応不適応を正しく意思表明出来るようにするための「適切なルール」と
「情報公開の徹底」と「全ての社会制度や法律は、全ての知的レベルの全国民へ強
制適用する以上、わかりやすさを最重要事項とすること」が重要であります。

また「国家の具体的な方針は、全国民の内部競争の結果によってのみ方向性が決定
するのであるから、その基礎になるのは、予め予定された理念観念の教育ではなく、現実や事実を重視する科学技術教育や、人や社会に役に立つ教育」となります。

またマスコミは目で見る結果ばかりを追い求めず、それを生じた目に見えない真の
原因を探求する努力をつくし、真の原因を明確にし、国民を啓蒙することが、真の
対策を確立する第一歩になるのです。

結果情報50%、原因究明50%が望ましいのです。つまり現状のマスコミ界も
「その政策が真に国民の幸福の為に役立つかどうか、現実や事実に基づく立証や検
証の努力が足りず、マスコミ自身も理念観念による言葉やコンセプトの羅列に惑わ
されている」と言わざるを得ないのです。

さて経済問題に話しを戻しますと、経済成長現象の枠組みは、「国民を動機づける
システムとしての税制」が基幹システムとなり、その「微調整手段として金融政策、財政政策」が存在し、金融政策、財政政策、税制政策の三位一体となって経済成長に向かって歩調を揃えるとき「進化システムの働き」によって達成されるのです。

結論から述べると地球上の動植物は荒涼とした地上に誕生した一個の単細胞の生命
体が過酷な環境に適応しながら「自己拡大と変異と競争」を繰り広げ「進化原理」
によって進化発展し「無から有」の膨大な動植物群さらに人類を作り上げたのです。

そして「システム工学」においては、人間のみが持つ「危険な要素を含む過剰性の
本能」を自然の深遠な進化原理を活用してコントロールしながら発展させる為に自
然の生態系で実質的に成立している「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争
(協同)原則」と「競争力均衡化の原則」(豊かな自然が成立するのは、生態系に
おいて強者の捕食量が下位の弱者の増殖量を上まわらないようにする力学が自然に
働く原則)を利用して、わずかな条件で成立する自己拡大する万能の「進化システ
ム原理」の概念を確立したのであります。
  
この考え方は「人間環境で成り立つ国家運営においても、日本を愛し日本で努力す
る全ての人間(人種、性別、思想にかかわらず)に等しく適用されれば進化システ
ムにより結果として日本の大きな発展の基礎」になるのです。 
これこそが真に現代国家の要件になると考えているのです。

進化というと、すぐに食うか食われるかの生存競争を思い浮かべ「競争に勝つため
の利己的意識の必要性」ばかりが強調されますが、これが大きな誤りなのです。

事実は強者の補食量が弱者の増殖量を上まわらない原則が自然に働いて自然は豊か
に進化するのであり、自然界には強者はいつも自分が生命を維持するために必要と
する以上に弱者を補食しないという自然な利他的意識も備わっているのです。

ところが人間には他の生物には全くない、生命を維持する以上に、物を欲求する強
い欲望があり、これを国家がコントロールしなければ強者が弱者を食い尽くすこと
になり、国家全体の経済の発展は全くないのです。 

つまり膨大な弱者が作り出す膨大な個人消費を変換して得る所得を、強者がより多
く食べるという弱者の利他的犠牲(意識)の上に、始めて強者は生きていけるので
あって、豊かな多数の弱者が存在しないと強者はより豊かになれないというパラド
ックス(逆説)が「真の生存競争の論理」なのです。
 
つまり強者は生きるために必要な分以上は、捕食しない作法(強者の無意識の利他
的意識)によって、厳しいはずの生存競争を乗り越え弱者の増殖スピードが強者の
捕食量を上まわるとき、自然は拡大し、豊かな生態系を保っているのです。

ところが人間だけが唯一持つ「生きるために必要なもの以上のものを欲求する過剰
性の本能」こそが、人類の最大の危険性であり、又逆にそれこそが科学技術の発達
に補完される人類社会の発展と「自己拡大する経済活動の根源」なのです。

そこで国家や国際社会は、人間が持つ過剰性の本能をコントロールしつつ、如何に
経済活動、社会活動を発展進化させるかという、二律背反の不可能に対する挑戦を
日夜努力しなければならないのです。

したがって国家が資本主義的利己的意識の必要性ばかりを強調し、資本主義は人間
の生活を豊かにする「手段」であり「目的」ではないという大原則を忘却するとこ
ろに大きな問題が存在し、日本の国策が経済の進化発展のために重要な利他的意識
の重要性を強く考慮しないところに経済の発展が停滞しているのです。

つまり直接税を大幅減税し、間接税を増税する政策は結果として経済行為の根本で
ある個人消費(自然の生態系で言えば最下位の植物の増殖)を規制することによっ
て自己拡大機能を大幅に弱め、更に国家の所得配分機能(農家が大地に与える肥料
に相当する)を大幅に弱め、自分だけ助かりたいという利己的意識(貯蓄)を増進
し、利他的結果をもたらす個人消費(他の人へ所得を得さしめる行為)の弱体化へ
国民を誘導し、結果として個人消費と設備投資が原資となる所得は縮小し、所得の
縮小に対する自己防衛のための「力(貯蓄)の増強」が結果として個人消費の更な
る減少につながり競争経済社会の中では豊かであった大多数の弱者が貧困化し、結
果として強者を支える多くの弱者で成り立つ経済生態系が縮小し、いずれ強者も生
存が難しくなるというパラドックス(逆説)の中に我々は経済生活を送っているの
です。

つまり国家政策は進化システム原理の下「競争力均衡化の原則」を意識しながら、
厳格な「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争(協同)」に基づく競争原理を
強化するという、利他的意識と利己的意識この二つの全く逆に見える原則を共に増
強しなければパラドックス(逆説)で成り立つ国家を発展繁栄させることは出来な
いのです。

つまり全ての人が自分だけ助かりたい助かりたいという利己的意識が逆に自分を誰
も助けてくれない結果を生じる場合があり、全ての人が他の人を助けよう助けよう
という利他的意識が、他人が自分を助けてくれる結果を生じる場合があるという、
パラドックス(逆説)の中に生きているのです。

つまり我々は常に利己的意識と利他的意識の両者の利点や欠点を良く認識して政策
を立案しなければならないのであり、時間の経過と現実、事実を確認しながら進化
発展する方向へ解決する手段が進化システムなのであります。

つまり過剰性の本能を唯一持つ人間の競争社会で重要な点は生物の生態系の保持の
原則である生存競争における作法、つまり新たに生み出されたものの内、生きるた
めに必要以上のものを欲求しない作法(利他的意識)を人間社会が不合理にならな
い範囲で常に意識する必要があり、これこそが逆に国民の幸福の追求を害さない経
済的自己拡大をもたらす要因であることを理解し、国家は常に利己的意識と利他的
意識の適切な調和を図る政策を取る必要があるのです。
 
膨大な数の経済的大衆が利己的意識と利他的意識を持ちながら、少数の経済的強者
に近づこうとする意欲意志が、自己拡大する進化システムである個人消費増進の根
源であることを良く理解しなければならないのです。

そして経済的強者は利己的意識ばかりでなく、利他的意識や行動を発揮しなければ
全体の発展進化は無いのです。

日本が今後未来に渡り、進化発展する国家になるためには、「進化や競争の正しい
意味」を理解し、国家は経済的強者に対して利己的意識ばかりでなく利他的意識を
持つべき事を啓蒙し実践しなければ、経済の発展や国家の繁栄は無いのです。
そこで適切に強力に発展する国家を目指すには、国家の法律や制度全体に国民環境
全体へ適応するための、「進化システム原理」を積極的に取り入れ、徹底して遵守
することが最も重要な手段になることが、明らかになったのです。
 
同時に、本格的景気回復と財政再建のためには、「現実の経済環境へ良く適応した
政策」を実行し、結果として「自然に自己拡大する経済を作り上げて」、本格的な
経済成長を達成しなければ、根本的な解決はできず、諸外国や経済機関などの国際
的指摘で明らかなように「進化システムである個人消費の継続的な増大」を図る為
には、個人消費増大の抑圧規制要因を徹底排除しなければなりません。

さらに国家が徴収する直接税を始め全税目の全税収は納税者や納税方法の形態の如
何にかかわらず実は「実質的に企業が販売する商品・サービスの全原価に算入され
て全消費者が個人消費を通じて全額負担している事実」が明らかとなったのです。
したがって「個人消費の増進」こそが「景気回復をもたらす経済成長の根源」と
「税収増をもたらす財政再建」の根本的解決策だったのです。

また自己回帰的に考えれば直接的間接的に企業が人件費、諸経費、利益(総合計は
売上と同一)を通じて負担する原価の中に、国家の全税収が含まれてもいるとも言
えるのです。

つまり我が国の有名な格言、「カネは天下の回りもの」は経済の本質を明確に言い
当てており、個人と企業間の「個人消費=販売」を如何にスムースにしてカネの回
りを良くし、取引を拡大して税収を上げるかの工夫が問われているのであり、この
点間接税は商品流通のたびに課税されるため金回りが悪くなり取引が縮小するとい
う大きな欠点(規制要因)を持っており、直接税には、その欠点が全く無いのです。

さて韓国で2001年11月より開始しました消費税の減税は、韓国の株式市場や
企業業績に極めて良い影響を与えているようでありますが、本書の提案はアメリカ
の事例やヨーロッパ諸国の事例を進化システムの立場から、参考にしたり批判を加
え、更に奥深い意義を持つ総合的で継続性のある基本的な内容になっているのです。
                                目次へ戻る

(与件に依存する経済学ではなく、前提条件無し、与件無しで現状を改善できる新
しい経済学が必要である。したがって新経済学は人間の本質を深く理解した哲学と
道徳と進化論に極めて密接な関係が生じてくる。)

本書はイデオロギーではなく「進化論」と厳しい精神性と実用的な哲学をちりばめ
た日本の「葉隠れの精神」とアングロサクソン民族の「帰納推論とプラグマチズム
哲学」と中国の知って行わざれば知らざるに同じの「陽明学」を基本にしています。

地球上生きとし生けるもの全ては荒涼とした35億年前の広大な地球に発生した一
個の生命体の単細胞が進化増殖し膨大な自然と人間を作り上げたのであります。
この神のような現象を成し遂げたのが「進化原理」であり更に進化により人間の各
臓器は部分システムとして機能し人間を全体システムとして成立させているのです。

そして経済も同様に「無に等しい」古代の貧しい生活から、現代の驚異的に豊かな
「有」の経済生活を持つまで進化発展させたのは、経済システムに、人間の本性に
合致した「進化システムを導入した結果」によるものであることは科学的に立証さ
れております。
 
成熟経済段階に達した日本経済では尚更この普遍的な人間の本性に合致した進化シ
ステム原理を、無意識的でなく意識して徹底的に活用しなければ経済は再生できず
「法律、制度などをシステムとして認識し、自由、平等、フェアーな競争を厳格に
遵守する進化システム原理を、システム(法律や制度)全体に積極的に組み入れる」ことが、人間が行う経済の自然で力強い発展をもたらす唯一の方法であり、徹底して活用すべきと提唱しているのが3年弱かけて完成した本論の結論であります。

現代の経済学が多くの分野を、与件(前提条件)として研究対象からはずしている
事実が進化システム原理の重要さを経済学が学問的に気付いていない原因なのです。

さて戦後44年目(平成元年)以降、日夜経済の最前線で働く直感が鋭い大多数の
国民が反対していたのにかかわらず理念や観念を重視し論理を駆使するエリート達
の判断ミスにより「経済進化システムに規制抑圧が混入してきた」のであります。
つまり無限の開放経済系である世界経済に羽ばたく民間企業と全く異なり、国家経
済は領土の広さも国民の数も狭く限定されている以上、「閉鎖経済系である限界」
があり成熟経済国家は進化システムによる「自己拡大原理」でしか経済成長は達成
できない「事実」を直視し「消費の選択肢の増大と科学技術の進歩に自由を与え、
これに対する全面規制を廃止して、やむを得ない場合は国民の幸福に反する場合の
みの個別規制に止め」、「参加の自由と対等に平等の原則によるフェアーな競争」
を遵守し自己回帰的に需要と供給の拡大体制を確立することが必要不可欠なのです。

本書はその基本分析編であり、第一線で活躍している人材と若者や研究者へ「成熟
経済下の経済成長を全く新しい科学的な視点で徹底して分析し人間の特性や経済の
本質を理解すれば時代と共に経済成長が無限に可能であることを証明し」、未来の
日本を築く最も効果の出る経済成長税制(ノーベル経済学賞のソローモデルへ附加
すべき本質)として分かりやすくルール化した長文の解説書です。

読者の経済観や価値観、行動基準、哲学を一新する上で本書は非常に役立ちます。
日本のように現実の成熟経済の中で経済成長を達成するには「人間は個人消費を増
大させながら所得に変換して生活している原理を直視し」これを阻害しない体系的
進化システム的な制度と国民と国会議員の参加の自由と対等に平等とフエアーな競
争の中から幸福を追求する政策を生み出す国民意志を徹底して尊重する政策決定方
法こそ適正な方向性の消費の増加をもたらすという結論に達しました。
「財政再建」と「経済成長」を同時達成する政策立案を模索する日本の超エリート
と不況で苦しむ中小企業、大企業の経営者、勤労者へ大きな希望を与える理論です。

さて筆者としては、1987年ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソロー博士
(アメリカ)の「科学技術の進歩」こそ経済成長の唯一の根源であるとするソロー
モデルの考え方は、一面でその通りであると考えておりました。

しかし他面では現代のように、科学技術の情報が世界中素早く伝播する時代であり、且つ貿易自由化の波が押し寄せている現状では生産設備さえ直ちに輸入できる時代に何故国によってこれほど経済成長に差があるのか、それを研究する過程において「余りにも当たり前すぎて誰も気付かなかった進化システム原理の存在が国家国民の経済社会発展のために根本的に重要である事実」を発見したのです。

そしてこの原理は莫大な投資が必要な科学技術の進歩より更に根源的な問題にもか
かわらず、意志と意欲さえあれば意識を変えるだけで、財政支出がほとんど不要で
実現が可能な実用的で、より一層の経済成長に役立つ原理原則だったのです。

そしてそれを発見するため、開明的な明治維新における五箇条のご誓文の第一条や
福沢諭吉が唱えた理想主義と敗戦で国民も企業も国家も焼け野原の無一文から出発
し、43年経過した昭和63年に3200兆円の国富を達成し世界一の経済大国と
称せられるようになった現実の日本の経済成長政策と、長い経済の低迷から脱却し
て、アメリカを再度世界一の経済大国に復活させたクリントン政権の現実の経済成
長政策を徹底して分析し「事実」と「事実」の関連を調べ上げて「真実」を探求し
た結果が「経済成長税制」となったのです。

経済成長期の日本とアメリカが実証した現実の結果を分析して経済成長の根本的要
因として「人間の社会経済のあり方は進化システム原理(後述)に則ったものが最
善であるという事実」と「経済成長にとって個人消費が進化システムとして主導的
な役割を果たしていた事実」と、「直接税が国民所得をシステム的に配分し、国家
全体の消費性向を高めることが経済成長に重要な役割を果たしていた事実」を発見
したのです。
 
そして国家が徴収する全税収は納税者や納税方法の形態の如何にかかわらず実は
「実質的に企業が販売する商品・サービスの全原価に算入されて全消費者が個人消
費を通じて全額負担している事実」が明らかとなったのです。

したがって、「個人消費の増進」こそが「景気回復をもたらす経済成長の根源」と
「税収増をもたらす財政再建」の根本的解決策だったのです。

そして資源の重要性については、輸入必要分の外貨準備高の輸出能力さえあれば、
資源が乏しいことなど自由貿易体制下の経済では大きな経済問題では無いのです。
但し平時にはこの通りでありますが、物流が止まる戦時には様相が一変するので、
常時対策を検討しなければなりません。

そして常に余力のある輸出競争力を保持しながら、国内産業に対して国内外の競争
条件の同一化を計るために貿易収支ゼロ政策(後述の理由による購買力平価の為替
相場)を取り、国内産業と外国企業との価格競争条件の実質的な同一化を図り、国
内の産業構造の適正化と国内需要を豊かに増進し、全体需要の確保を図る必要があ
るのです。 
   
したがって対外需要に依存せず国内需要で産業を維持するには個人消費の増進は不
可欠なのです。

結論として資源の有無等で、国力が左右される訳ではなく、個人消費力の国家規模
(需要)と、それを生産できる生産力の国家規模(供給)は均衡して増進すること
が最も望ましいが不均衡になることも多く、その場合経済的に不健全な現象が生じ、潜在的国力は別にして「現実の国力とは」国家規模の個人消費力と国家規模の生産力の「いずれか力の低い方を国力」と定義するのです。

現代日本の最大の問題点は「生産力」は充分に存在し、その増進圧力がかかり続け、さらにそのシステムの根源である科学技術の進歩も十分機能しているのに、それを吸収すべき「個人消費力」の増進システムが大きく破壊され全く機能せず停止しているために国力や経済成長の全体システムが全く停止状態に陥り、失業が深刻化し、企業倒産が続発し、際限のない金融不安に襲われているのです。

さて日本では消費税を導入した結果、消費者と面と向かって販売努力をしている企
業の第一線で、消費者がその所得を個人消費に変換する商品販売の瞬間において、
それを阻害し売上の低下要因を企業に強制し、更に「直接税率を意図的に引き下げ」

「間接税比率を意図的に引き上げ」経済成長の起点である自分の意志で自由に増加
も減少も可能な進化システムである個人消費を強制的に規制した日本の愚かな政策
の結果が、経済成長や税収の原資である個人消費の増加を停止後退させ財政再建ど
ころか財政を極端に悪化させ経済大不況となったのです。 
 
私の長い経営指導の経験では値引き、割引、景品、チップ、スタンプなどのお客様
に対し経済的利益を与え売上(個人消費)を増大させる販売促進策を採ってきまし
たが、買ってくれたお客様に外税でも内税でも経済的損失である消費税を支払わせ
て売上(個人消費)が増大できると考えるエリートの考え方は、ナンセンスで全く
理解できません。

税金を多く支払うくらいなら、安い物を買うか、買わずに貯蓄をするというのが、
消費者の実際の発想なのです。
     
「つまり消費者は消費税の課税されない非進化システムの貯蓄という選択肢を常に
選択出来る」からであります。

(人間はどんな困難な問題でも英知を傾け解決に努力し生き残りと幸福を求めて、
行動できる生物です。何が正しくて、何が正しくないかを決める基準は「善悪の絶
対的判断基準と自由と平等の正しい解釈」(p307)の通りであり、人間社会で
は自分自身が引き起こす経済社会現象は全て自分自身の意志で確率的にコントロー
ルすることが可能なのです。)

過去に大きな過ちを犯した軍務官僚と政治家による「当時の世界の大勢」である、
ヨーロッパ大陸列強の全体主義への同調と傾倒による「作為(政策を立案し実行し
た)」である真珠湾攻撃に始まる第二次世界大戦への参戦も、また「不作為(的確
な政策を立案せず流れに任せて何もしないこと)」である水俣病問題、エイズ薬害
問題、狂牛病問題など結局の所、「作為にしろ不作為にしろ日本と日本人に適応し
た適切な判断による作為、不作為でなければ現実に大きな人災」に発展するのです。

そして日本の現状の大規模な経済不況も、この「世界の大勢であるヨーロッパ型の
消費税」という、女性の個人消費の支配力が強い特殊な社会慣行を有する日本では
特に副作用が顕著に現れることを理解せず、今度は「内務官僚と政治家」によって
導入された全ての個人消費に規制を加えた総需要抑制政策による、全く同じタイプ
の「作為による大規模な人災」なのです。

つまり経済成長の根本は「まず総消費(個人消費+設備投資)が発生すると、等価
にそれが所得に変換される等価変換原理と時間的順序がある時系列原理」から成り
立っているのです。

したがって個人消費は後から所得に等価変換されるのであり、所得は次ぎの個人消
費の源泉と増減の判断材料になるのです。

そして「個人消費は進化システム」であり所得は非進化システムであったのです。
この当たり前なびっくりするような二つの簡単な原理が実は経済成長の根本原理で
あり、経済成長現象を完全に説明できるとは、アメリカを始め世界中の誰もが良く
理解していないのです。経済成長の根本要因が分からなかったからこそ、世界中の
国家で税制論議が混迷する原因があったのです。

そして日本のように間接金融国家では、設備投資は、個人消費が活発な時に「貯蓄」が「設備投資」に等価か拡大変換され経済も景気も拡大し好況となるのです。
そして個人消費が活発でないときは「貯蓄」から「設備投資」へ縮小変換となり、
過剰貯蓄分は経済的な無駄となり、経済は縮小し経済成長は後退するのです。
そして個人消費はその本質から進化システム原理が働き「幸福を追求する」人間の
特性と意志と意欲が働き、放っておいても自然に増加する特性がありますが、同時
に規制を加えれば人間の意志により自由に減少もできる特性も併せ持っているので
す。ここが他から稼得する性質上、自然には増加せず又自分の自由な意志により増
加や減少が出来ない非進化システムである「所得」との歴然とした差なのです。
したがって経済の根本である「進化システムである個人消費」は原則として自由に
すれば自然に増加するが、規制を加えると減少するという人間の意志や意欲によっ
て増減する性格があり、国家全体では国民の意志や意欲によって個人消費の総額は
直接増減するのです。

これに対して「非進化システムである所得」は「個人消費+設備投資」の等価変換
原理と時系列原理の結果による他から稼得した「実現された所得であるので」、
個々の人間の意志や意欲の変化があっても国家全体の所得額には全く変更が無く、
例え累進所得税高率なため所得追求意欲が減退する人が出て、その人が所得追求を
停止しても、その追求を止めた分の余剰所得は、所得の低いつまり消費性向の高い
所得追求者へ所得が配分されるので逆に経済成長にも効果的に役立つのです。

だから所得税率を高めると高所得の人材が他国に流出し、その所得分だけ日本の国
民所得が減少し日本の経済成長は低迷するというのは、真っ赤なウソであり、税が
高いから外国に移住したいというのであれば、自由に移住させれば良いのであり、
そこに残された余剰所得は日本でがんばる他の有能なより所得の低い人(消費性向
の高い)に配分され、日本を愛する国民が増加し、日本はより経済成長することな
るのです。

頭脳流出さえも直接税が高いことを理由に流出するのであれば、そのような利他的
意識や資本主義的愛国心の無い頭脳は流出すれば良いのであり、直接税が高いこと
により日本経済が順調であれば(直接税国家の方が国民所得が高くなることが統計
的にも既に立証されている)、税の増加を上まわる税引後所得の増加を得られる日
本を選ぶ良好な頭脳の持ち主が日本を選択するのであります。

高額所得者は利他的な行為(累進所得税の納税)を行うことによって貧しい人々を
普通の生活に押し上げる助力をしているのであり、それが結果的に個人消費の継続
的な増進を基礎とする経済成長をもたらし経済環境を更に良化し自己回帰的に高額
所得者の更なる所得獲得のチャンスをもたらしている、「経済成長の真実」を良く
理解し、そしてそのような自覚を是非持って貰いたいのです。

ただ国は主たる税を他国に支払い、日本で収入を得ているのに日本で少額の税しか
払おうとしない人々に対しては、税制をそれらの人にも適正に対処出来るように改
善すると同時に、国籍にかかわらず、日本国や地方公共団体へ主たる税を納める人
(居住者)かどうかを、常に情報公開し、国民へ知らしめなければならないのです。

なんとなれば「日本国民」や「日本に住む外国人」は日本国へ高い税を支払うこと
によって国民や人間相互に助け合って生きているからであり、その人々の権利を守
る義務が国家にはあるからであります。

この原則こそ経済成長と景気回復と財政再建の手段となる「税制構築の鍵」となり
ます。

そしてこれらの諸原理を組み合わせて分かることは「個人消費を自然に自由に規制
しなければ進化システムである個人消費が自然に増加し、循環的な景気の波があっ
たとしても、等価変換原理によって無限に国民所得の増加と自立的経済成長は継続
する」という経済原則と「進化システム機能のある個人消費に規制や抑圧を加えて
ると人間の意志と意欲の低下によって個人消費が減少し等価変換原理によって国民
所得は減少し自立的経済成長は、その分停滞後退し経済の過剰性は縮小し、いくら
公的資金を注入しても金融不安は経済の下方の均衡点に向かっていく間は際限なく
続く」のです。

また「個人消費を刺激して拡大させすぎると、これが正常と勘違いした仮需の設備
投資、仮需の在庫投資が発生し等価変換原理で国民所得は異状に増加し自立的経済
成長が異状に亢進され景気が過熱しバブルが発生する」という明確な「経済成長原
則」が導き出され基本的には極めて単純な原理なのです。

つまり経済は人間の意志によりシステム的に自由にコントロールが出来るのです。
さて資本主義の理論や資本増殖の原理さえ「進化システム」の一つの側面を表して
いるに過ぎず進化システムの人間社会における根本的な実用性は絶大なのです。

資本主義の理論も結局「人間の幸福追求」のための、手段にすぎないのです。

アメリカの経済学者はそれを良く自覚しているからこそ、アメリカの経済史の中で、資本主義理論を忠実に再現しようとする政策を重視する共和党政権時代より、最大多数の中低所得者層の人間寄りの政策を重視する民主党政権時代の方が、実は株の値段が高いという研究結果がアメリカで発表されている位なのです。
                                


(進化システムによる、めざましい経済社会の発展実例)

人工システム(制度・法律など)は進化システムの時に限ってシステムとして強力
に発展する原理を有するのが「進化システム原理」なのです。

実例としては進化システムである「市場経済」は進化システムの度合いが高ければ
高いほど、非進化システムの「計画経済や統制経済」によりはるかに進化発展する
のであり、進化システムである「民主主義」は衆愚政治といわれながらも進化シス
テムの度合いが高ければ高いほど、規律正しい観念を持った優秀なエリートが率い
る「全体主義、共産主義」という非進化システムよりはるかに進化発展するのであ
り、進化システムである「科学技術や科学的な論理」は進化システムの度合いが高
ければ高いほど、一部のエリートによる「非科学的な論理や優れた予言者の予言」
という非進化システムよりはるかに進化発展するのであり、「インターネット」は
進化システムであるからこそ、「優秀なエリート管理者が構築する複雑で精密なト
ップダウン形式の商用ネットワーク」という非進化システムに勝利し、各々今後将
来ともに、これらの進化システムは力強く進化発展するのであります。

同様に「個人消費」は進化システムであり、「所得」は非進化システムなのであり
ます。

したがって個人消費は進化システムの本質を持つので、時代と共に本来は自然に自
分自身で自動的に増加する性質を持っているのでありますが、これが心理的、経済
的に消費税という規制課税を加えられているために、自然の個人消費の増加が抑え
られる総需要抑制策になってしまっているのであります。 

つまり本格的に景気を回復し、税収の増加による財政再建を実現し、失業率を大幅
改善するには、総需要抑制政策を撤廃しなければならず、個人消費を選択的に課税
し経済成長に大きな悪影響のある消費に課税する間接税比率を劇的に低下させ、経
済成長に良い影響をもたらす「消費と貯蓄両者に同時に平等に課税」することとな
る所得に対する課税の直接税比率をその分大幅に強化する政策以外に改善する方法
は無いのです。

さて消費税は二つの経済要素の内「貯蓄に課税せず」「個人消費に対してのみ選択
的に課税するシステム」であることが、人間のカネの使い道に不平等を発生させ、
個人消費の発展拡大性を消滅させ国家経済全体に悪影響が生じているのです。

それに対して後述の通り所得税や法人税などの直接税は、「所得=消費+貯蓄」の
経済公式で明らかなように、非進化システムである所得を介して、実質的に個人消
費と貯蓄の全てに平等に課税するシステムであるので、カネの使い道に対して競争
条件が平等に保たれているので、課税される本人個人の経済的痛みはあったとして
も、個人消費に規制が無く経済システムに対する歪みや発展拡大性に対して何らの
悪影響が全く生じ無いのです。

さらに国家は税収を蓄える機関ではなく、収入した税収全てを使い、良い結果が表
れる政策を実行する機関であります。したがって国家を経済的に見れば、公共事業
や公務員の給与を通じた所得配分機能を持った機関でもあるのです。

この見方からすると直接税主導国家は「少数の消費性向の低い高所得個人法人から
多数の消費性向の高い低所得個人法人への巨大で強制的な所得配分促進機関」であ
り、間接税主導国家は「消費性向の高い多数の低所得個人から同じ低所得個人への
所得配分機能しか持たない国家であり、少数の消費性向の低い高所得個人の余剰所
得の配分を取り残し巨大で非効率な所得配分非促進機関」となるのです。

結局の所、間接税主導国家は個人消費拡大と所得拡大と失業率改善のための道具を
持たない国家であり直接税主導国家は逆にその手段道具を持っている国家なのです。
                                

(直接税は未来にも通用する究極の税制であり、間接税は未来に行き詰まります。)

さて直接税制を筆者が強硬に提案している理由は以上のような経済成長の促進に極
めて役に立つ道具となる利点ばかりでなく今後10年、20年、50年、100年
の経済発展を見据えた税制のあり方からも提案しているのです。

経済の歴史を調べると、およそ次のような事実が分かるのです。


1.国家は憲法で明らかなように人間である全国民へ幸福を追求する権利を保障し
  ており文字通り国家は全国民へ、この義務を果たすことが第一の使命なのです。
  法的存在である優良企業を育成することは、手段としての役割でしかないので
  す。


2.さて「消費」は人間しか行いません。しかしながら人間の「労働」は科学技術
  の発展に伴い「人間のやっていた仕事が機械に置き換わり爆発的に労働生産性
  が向上する」原理があります。しかしながら科学技術の発展は、他国との競争
  のためと、人間の好奇心の本能がある以上停止する事は出来ません。
  したがって人間の労働は「人間しか出来ない分野」か「機械より人間の労働の
  方が安上がりな分野」に限られて来ます。


3.しかしながら人間は「消費」をするためには「所得」が必要となります。
  所得は労働の対価として受け取るのが最も自然であり人間の本性に合致してい
  る。

4.さて「人間一人当たりの労働生産性が科学技術の進歩と共に向上する以上」、
  「人間一人当たりの個人消費が向上しないと需給にアンバランスが生じ大規模
  な失業が発生し労働の対価としての所得の獲得が難しくなる。」という事実が
  あります。したがって科学技術の進歩に合わせた個人消費の増進システムは絶
  対必要条件となり、それには個人消費の進化システム性の利用と直接税制の活
  用が重要となります。


5.さらに50年後、100年後になると機械化が進み、機械を活用する労働者が
  全生産を担当するので、そのような労働者は所得をより多く獲得し、それを担
  当しない労働者への実質的な所得配分が難しい時代がやってきます。

  直接税が発達しているとそれらを調整し更に労働者間の生存競争の競争力を均
  衡化する大きな手段になります。この時代になると税制に求められる主たる機
  能は所得配分機能となり、唯一直接税制が所得配分機能を発揮できるので生き
  残る税制となり、間接税制は全く機能できないことが明瞭になり直接税制国家
  が結局、国家間の競争に勝ち残ることになります。
 
たとえ話しをすれば、良い作物(国際競争力に勝ち残る超高生産性企業)を結果と
して生み出すには、農家(国家)は大地(大量の低所得者層や低生産性企業)を耕
し堆肥(所得)を与え、良い土作りしなければ良い作物は絶対に得られないのです。

したがって本文記載の如く国家にとって所得配分の切り札となる直接税制と良質な
低生産性企業の並立は所得配分の切り札となる重要性を認識しなければなりません。

産業のソフト化は避けて通れないのです。
そして経済や政治を正しく進化システム化すると人間の努力と合体し自然にこれら
は実現できるのです。

そして政策立案者は常にその政策が当初の予想通りの成果があがらない時は、その
個々の政策が人間に対して「参加の自由と対等に平等とフェアーな競争原理」が文
字通り完全に組み入れられているかどうか、進化システムが誤って規制されている
のではないか、逆に人間の幸福の追求に反する問題を適正に規制していないのでは
ないか常に再検討しなければなりません。

そして国家全体としては「不合理にならない範囲内で競争力均衡化の原理」が働い
ているかどうか確かめなければなりません。
あらゆる分野の政策は、この二つの原理を遵守さえすれば、放っておいても人間は、その本性、特性に基づき正しい政策効果を必ず発揮するからであります。
 
付言すれば中世から連綿と続いた一人一人の人間のあり方について騎士道や武士道
が尊ばれ、その存在が国家の評価にさえ影響を与えた事実は、この問題の人間社会
への重要さを表しています。

したがって単に世界の大勢を政策立案の根拠や逃げ口上にしてはならず「経済成長
原則の基本に忠実に日本と日本人に適応した適切な国家政策を追求する努力が官僚
と政治家に求められ、その解決方法を記載しているのが本書であります。」
そして国家は国民の望む方向へ、まず国家政策を変更しなければ、国家は国民の努
力と共に望む方向へやり直すことは出来ないのです。

それは人間が人生に対する考え方を変えて望む方向へ努力しなければ、人生を望む
方向へやり直せないのと全く同じなのです。
 
つまり本書の考え方は明治維新から始まる「トップやエリートの理念観念」を優先
する伊藤博文的な「非進化システム思想」から脱却し「事実に基づき全国民と全国
会議員の参加の自由と対等に平等なフェアーな競争で適不適の選択や淘汰をする」
決定ルール優先の福沢諭吉的「進化システム思想」への転換を提言しているのです。

アメリカにおいて現在バブルがはじけ、テロに見舞われ最悪の景気になったと言っ
ても、失業率は1985年(昭和60年)の7.2%と比べれば遥かに低く良好で
あり、株価は当時と比べれば3−5倍以上高くアメリカ経済のバブルがはじけ最悪
といっても当時と比べればはるかに好調なのです。

株価は信じられないことにバブルの絶頂期の一割減程度の9000−10000ド
ル前後を維持しており(2001.7現在)(筆者は少なくとも6−7000ドル
には下落すると予想していた)、アメリカの官僚と政治家が立案し実行したアメリ
カの国民が支持している政策の自分自身に対する経済的愛国心にはホトホト感心し
ております。

そして現代アメリカは消費好きのアングロサクソン民族の特性と消費性向を高める
ため高所得階層から低所得階層への実質的な所得配分機能を持つ直接税主力の税制
と、金持ちや一般市民の日本と比較して国民一人当たり200倍を超える恵まれな
い人々への社会福祉的寄付の利他的意識の強い社会慣行つまり寄付という民間の所
得分配行為による個人消費の促進機能、全産業のうち小売業と飲食業にしか課税し
ない小売売上税との組み合わせによる個人消費の進化システム度は現代は世界のど
の国家より順調に作動している(もちろん昭和63年以前の個人消費に規制が殆ど
無かった日本の進化システム度よりは劣るが)ので一定のペースで国民一人当たり
の個人消費は増え続け、科学技術の進歩による生産性の向上や金融不安を吸収し、
これからも一時的な循環的不況に見舞われても必ず不死鳥のようにアメリカ経済は、よみがえるのです。(寄付は偽善行為であるという曲がった意見も存在するが、筆者はその意見には組みしない。) 
 
つまりアメリカという国家は、その国民性に基づき国民一人一人、企業一社一社に
ついて参加の自由と対等に平等なフェアー競争による利己的意識に基づく個人主義
を強調しながらも、実は全ての国家システムはチームワークの重要性を強く認識し
良くルール化され、特に自国民に対しては自国内での競争力均衡化の理論と建国の
理想に基づく利他的意識を基本として徹底して構築されているのであります。
つまりアメリカは自国民をチームの一員として見なし、参加の自由と対等に平等に
フェアーな競争と利他的意識を育み、アメリカ憲法の掲げる理想の実現に規定通り
本気に取り組もうとしているのです。

さて日本が他国の国家政策を参考にするときは、自国人口の少なくとも半分以上の
大国で経済政策が適正に機能している国家でなければ参考にならないことを、自覚
しなければなりません。人口規模の小さい国家の政策は、たとえその国家で非常な
成功を収めていると言っても、直ちに日本の国家規模には参考にならないのです。
それは人口の規模によって、国家の自立的存立基盤が全く異なるからであります。
この観点から日本の国家政策の参考とするためには、現状の自立的経済状況も順調
であり、今後将来とも自立的な発展拡大の可能性の高い国家はアメリカが第一であ
り、だからこそアメリカの経済政策、税制を研究しているのです。

このアメリカと対等に競争するには、日本では経済的に女性主導の過少消費体質と
過剰貯蓄体質と更に利己的意識が極めて強い金持ちや一般市民の社会福祉への寄付
の社会慣行が極端に少ない国民性つまり民間の所得分配行為が極めて少ない国民性
を踏まえ、個人消費の進化システム機能を取り戻すためアメリカより更に徹底した
個人消費への規制緩和(現行の課税理由の明確な個別間接税は除き)つまり消費税
を全廃し、更に利他的意識を醸成し消費性向を高めるため全国民のアメリカより社
会福祉への寄付分だけ高い税率による直接税制を強化し、個人消費の自然拡大機能
を完全に取り戻し、個人消費の自然な増進を通じて縮小しつつある日本の市場経済
の進化機能や過剰性の拡大機能(P150参照)をアメリカ並に回復し科学技術の
進歩による労働生産性の向上を吸収し、失業率を改善し日本経済の自立的回復基盤
と金融不安を解消し日本人の生活基盤を確立することが、今正に国内的にも国際的
にも強く求められているのです。

日本の間接税は消費税を全廃しても、ガソリン、酒、タバコの間接税と事実上の間
接税とも言える自動車関係の諸税並びに第二税金とも考えられる高速道路料金(ア
メリカは無料)などを考慮に入れると、アメリカの地方税である小売売上税を考慮
に入れても間接税比率は高い位なのです。

昭和35年からの世界が驚愕した日本の高度成長時代には消費税は存在せず、当時
の所得税の最高税率は所得5000万円以上について70%であり、更にそれ以後
長年8000万円以上につき75%に引き上げられ、昭和60年−62年3月申告
分までは70%、63−64年(平成元年)3月申告分までは60%だったのです。

つまりこの間、痛みを伴う国家を通じた助け合いの精神、利他的意識の重要さが国
民へ求められていた時期であり、正に経済成長や好況と痛みを伴う直接税率の高さ
と個人消費規制税制の不存在は正比例の関係にあったのです。

それが昭和64年(平成元年)4月に消費税が導入され、平成2年3月に所得税と
消費税と両方の申告の納税時期になった時に、消費税3%、所得税の最高税率50
%の納税が始まったのであります。

実は経済成長システムが大きく傷つけられた、この消費税導入の一年後の現実に企
業の消費税の納税が始まった平成2年3月前後の確定申告時期から円、株、債券の
トリプル安が開始しバブルの崩壊が早くも始まったのです。

その後消費税が5%になったのに伴い、所得税の最高税率は37%に減じられ、高
所得者有利の資本主義的利己心を促進する政策へ変更され、それによって経済成長
を誘発しようとする政策の思惑とは正反対に急速な不況の更なる深刻化に突入して
しまったのであります。

そして日本国が外国に対する援助という対外的な利他的意識ばかりを政策に取り入
れ、肝心の自国民に対しては高所得者有利の利己的意識を強調する「経済哲学の変
更」に終始し、国民へ利己的意識を鼓舞して経済発展を実現しようするシステムへ
変更し続けた誤りが「本書の理論通り」経済の発展を大きく阻害しているのです。
つまり高所得税率の少しの痛みを避けよう避けようとしたために、不況の深刻化と
言う激痛を伴う死の苦しみが全産業と全国民へ「自己回帰的」に襲ったのです。

つまり日本人は近年特に、個人個人が利己的に行動する傾向が強いので、これと均
衡を保つためには、社会全体のために善悪、良否を明確に区分区別しながら、日本
人の心の奥底に眠っている良心と良識に基づく利他的な意識を引き出す政策運営を
しないと、経済成長は全く期待できないのです。

日本の高度成長時代を実現できたのは、消費税という個人消費規制税制が無かった
ため個人消費の進化システム機能が十分機能したこと、高い累進税率の存在により
消費性向の低い人(高所得者層)から消費性向の高い人(低所得者層)への所得配
分が直接税の機能を通じて常時実現していたために、その時期日本国の個人消費の
伸び率は極端に高く、そのために企業の設備投資意欲もケタ外れに高く、それが国
民所得へ自動的に等価変換され国民所得の爆発的な増加をもたらし所得倍増計画以
上の国民所得の圧倒的な増加を実現できたのです。

そして高い税を支払った多くの高所得者層は、決して損をしたわけでなく支払った
分の有形無形の配当やチャンスをものにしたのです。そして高所得者層は、同時に
必要経費を無税で使用できるという特権を持つ「企業経営」のおもしろさもチャン
スも身につけたのです。

したがって現状の経済不況は「人為的な政策ミスによる人災であり」「消費税の導
入までの25年間で265兆円の国債を、財政再建のための消費税導入の大義名分
にも拘わらず、わずか11年間で401兆円増加させ666兆円の国債」を残し未
来の子孫に負担させる責任から考えると、民間ではリストラ、給与カットが日常的
に行われている現状では、この様な日本国の経営内容に陥れた責任は大きく、与野
党を問わず国会議員と官僚の皆様は最低3割以上の給料カットを行なわなければな
りません。もしこれが無理であれば、可及的速やかに政策変更を行い、日本国の経
営内容の改善を行い「結果」を出さなければなりません。

民間では当たり前の事なのです。演繹的な論理や通説に惑わされず「事実」をしっ
かり分析することが大切なのです。本書の理論は内外の「実際の事実」によって証
明しているのです。

既成の学説によれば直接税は「貯蓄」を阻害し、「消費を優遇する」という誘因を
生みだし、貯蓄を減少させ、投資を阻害するというデメリットを強調しているが、
現在の経済成長停止状況における、日本の貯蓄過剰、消費過小の国民性にとっては、この直接税の欠点と言われる点こそ、正に大メリットなのであります。

そして累進所得税は個人の勤労意欲や事業意欲を阻害するから経済成長に悪影響を
及ぼすとの学説もあるが、実はその人が累進税率の高さゆえに、所得追求を止めて
も、既に述べた如く国民所得全体は減少しないので、余剰所得は所得の低いつまり
消費性向のより高い他の所得追求者に配分されるので、何ら経済成長には悪影響が
無いどころか、個人消費が更に増加し経済成長の促進要因になるのです。

忘れてはならないのは、「貯蓄」もまた銀行を通じて、全額国内企業の「設備投資」として全額活用されなければならないのが「経済の仕組み」であり、貯蓄は天国に貯めておくものでは絶対無いことを理解しなければなりません。

そして設備投資を活発にするには、個人消費が活発にならなければ不可能なのです。

そして設備投資が活発でなければ、国内で貯蓄された資金は、海外の投資に回るか、国債を購入するか「経済成長には全く役立たない資金」になり、国内の民間市場はますます活用できる実質資金が枯渇し、ますます不況が深刻になるのです。

そして一言付言したいことは、日本のバブル経済が発生した原因は決して直接税制
そのものの責任ではなく、「不動産の買い換え特例を認めすぎて不動産購入の無限
連鎖が生じてしまったこと」「金融政策、財政政策を誤り、バブルを沈静化するど
ころか、資産インフレを見逃し加速させてしまったこと」「将来発生するかもしれ
ない相続税の金銭納付に恐怖感を覚えた納税者が不動産購入と建物建築へ走ったこ
と」などから、「膨大な資産仮需」と「資産インフレ」が生じたのが、その原因だ
ったのです。

当時取るべきだ対策は、「不動産の買い換え特例を厳しく制限すること」、「金融
政策、財政政策を不動産の仮需や在庫仮需が発生しないよう工夫しながら引き締め
ること」「国家の余った財政収入はバブルの沈静化を図るため、財政需要として使
用せず、将来に備え確保すること」、「相続税の物納を徹底して拡充し、納税の金
銭資金調達の不安を納税者から取り除くこと」などを実行すれば良かったのです。
つまり直接税制の責任では無く、何が問題なのか索敵能力が充分でなく、したがっ
て適正な運用や対策が取れなかっただけなのです。
                               

(進化システムが作動する膨大な国民の意志に基づく政策決定方法の重要性と、弊
害ばかりをもたらす少数のエリートの理念観念による政策決定方法)

さて日本の現状の失業率は1985年(昭和60年はバブル絶頂期の数年前)の2
.6%よりも2倍以上悪化しており、株価はバブル期の1/3から1/4に下落し
アメリカとの経済的格差は言葉に言い表せないほど、広がってしまったのです。
日本の官僚や政治家が立案した国民が支持しない政策を強行した場合の、国民の経
済的愛国心の無さは当然であり、国民感情に適応していない経済政策の愚かな結末
が明確に表れています。(失業率が異状に高いドイツなどユーロエリアの理念観念
に基づく経済、税制にも、その疑念が、私にはいつもつきまとっています。)

さて当時の国会議員と官僚の皆様が個人消費への課税である消費税を導入したのは
決して不純な動機ではなく「この税制を導入した方が日本の将来に必ず良い結果を
もたらす」という未来予測を基に「理念観念」で導入したことは確かなことです。
それなのに現在「当時の未来予測が全く当たっていない」のに、これ以外ないと他
のいくらでもある選択肢を情緒的に排除し「理念観念」として更に凝り固まり消費
税制の維持は、与野党を問わず国会議員と官僚の皆様の固定観念になっております。

しかし進化システムの考え方は「結果が全ての世界」なのです。

私は「事実」として当時の未来予測が的中し「予想された良い結果」になりました
か?と問いたいのです。 まずこの事実認定をしっかり行わなければなりません。
つまり「理念観念」より「事実」の方が「真実」により一層近いからです。

日本人の大きな欠点は、いくつもの選択肢を並べて比較し、その時の状況に応じて
明確になった最悪を淘汰し、出来るだけ予測が確かな次善を選ぶという、しごく当
り前の作業を繰り返しながら微分積分的に最善に接近するという継続性のある精神
的タフネスさが無く、情緒的に一つの選択肢に凝り固まると「理念観念にこだわり」

「実質的な決定ルール遵守という進化システムの重要性を忘れ」理念観念ばかりに
固執するという精神的固さや幼さがあり、事実を基に善悪を、明確に区分区別する
精神的強さと最悪を淘汰する勇気と柔軟性と決断力が欠如している点であります。
筆者だけではなくアメリカ政府の要人が再三再四に渡り、消費税の再検討を忠告し
ているのに、「内政干渉と金切り声を上げ」忠告を無視し続けたため、現在ではア
メリカも忠告を止めてしまったのです。

つまり日本人は破滅の際まで来ないと真実や事実を理解する勇気が無い欠点がある
のです。固く考えず、事実を基にもっと素直に気楽に考えるべきなのです。
たかが人間の考えることです、失敗は付き物なのです。失敗すればやり直せば良い
のです。「失敗の事実」を素直に受け入れる勇気があるかどうか、国会議員の皆様
にやり直す勇気があるかどうかだけの問題なのです。

人間の人生も基本を遵守しながら10人10色、100人100様で本人の能力に
合わせて成功を目指せば良いのでありまして国家政策もまた国際的に遵守が義務づ
けられた基本を遵守しながら10国10色、100国100様で国民性と能力に合
わせて成功を目指せば良いのです。

もちろん失われた10年は全て無駄であった訳ではなく「どのように莫大な国費を
かけても、国家の基本政策が間違っていると、良い経済効果が現れない事実をあら
ゆる人が実感した事」や「日本の社会制度の多くの弱点が白日の下に明らかにされ、多くの事が改善された」という大きな利点もあったのです。 
 
しかし現状を継続することは、メリットよりはるかにデメリットが深刻であり、今
後の国家基本政策を本書で述べる進化システム政策と昭和63年以前の成功してい
た税制を参考にして、全面的に見直すべきなのです。

さて本来なら当時の世論調査の結果では、消費税制は国民の7−80%が導入に反
対しているのに国会で承認されてしまったという事実は、日本の政治システムが実
質的に「進化システムになっていないという」事実が証明されたのです。
したがって本書は経済ばかりでなく、政治に対しても進化システムを導入する必要
性を声を大にして訴えているのです。

それは国民大衆の意志の単純総和の決定ルールは「理念観念に決して凝り固まらず」

その時代の「国民が幸福になるための国民環境に柔軟に適応できる現実的判断」を
下せるからであります。なぜなら彼ら自身が幸福を求め、生き残りの本能を持つ国
民環境そのものだからであります。
                              

(膨大な数の国民で成り立つ国家経済を良好に保つには、競争力均衡化原則による
進化システム的発想で全体を有効に機能するよう組み立てなくてはなりません。)

私は根っからの自由主義経済論者であり、政治的には保守的な思想の持ち主です。
ここ十数年間エリート専門家や解説者による、テレビの経済討論番組や新聞の経済
解説記事を毎日のように見せられたり、聞かされたりしてきましたが、多くの国民
が感じているようにほとんどが「コンニャク問答か禅問答」のようで不況の根源的
原因を明確に指摘して、この政策を根本的に実行すれば財政再建にも景気回復にも
同時に役立ち経済成長が再度開始されると言った核心に迫る議論は見たり聞いたり
したことがありません。

現在では景気回復に全く役立たないこのようなメディアは見る気もしなくなってし
まった国民も多いのではないかと思っています。

したがってこれらの専門家の意見に基づく国の経済政策も目先の対症療法に追われ、膨大な国費を使用し、国の借金が増える一方で更に不況が深刻化し一向に改善の気配がありません。

したがって結論から言えば本格的な景気回復と財政再建を同時に完全に達成できる
正しい経済運営の進め方について現状の経済エリートの方々が「真の理論」を有し
ていないことが明確になってきたのです。

主張している理論も「事実」に基づかない「単純な理念観念という思いこみ」ばか
りが目立ち、全く事実に基づかない空理空論としか言いようのない意見が大半を占
め、専門家としての問題点の索敵能力に強い疑問を感じています。

その上広い学問的視野に立脚しているとは思えない木を見て森を見ない些末な議論
に終始しています。

結局正しい方針が立てられず、経済運営はその場しのぎの連続で混乱の極に達し、
その上「現状の経済政策は根本的に日本の国情に全く適応しておらず」このままで
は「本格的な景気回復や財政再建は全く不可能」であることが分かって来たのです。

その上政界、官界の大部分のエリートの方々は財政再建を達成するには、消費税の
増税以外方法がないという強迫観念に陥っておりますが、これでは経済の出発点で
ある進化システムである個人消費を抑圧し、個人消費の増進によって成り立ってい
る市場経済の拡大機能を更に破壊し日本経済のアポドーシス(自滅)を引き起こし
てしまいます。

つまり「個人消費」は結果として第三者へ所得を得さしめる行為、つまり第三者へ
カネをもたらす行為であり言葉を換えれば所得の配分行為であり日常的な助け合い
の行為なのであり「利他的行為」なのです。

したがって突き詰めて考れば消費は美徳という積もりはありませんが「個人消費」
の本質は人間の生活を支える基本行為であり「寄付して弱者の生活を支えるのと」
結果は同一の効果を生じる行為なのであり、これに間接税で課税を行って規制をす
ることは全く道徳的にも望ましくないのです。

それに対して「所得と資産」を獲得する行為は自分自身のみがカネや資産を得る行
為であり結果として「利己的行為そのもの」なのであり資本主義社会ではこれを無
制限に認めると人間社会では独り占めが発生し反道徳的になってしまうため「競争
力均衡状態の思想」(P137参照)から直接税で規制が認められる道徳的基盤が
存在するのです。

したがって少数の成功者の利己的意識をくすぐり優遇し国家政策を成功させようと
する試みは成功者でない大多数の国民を含む国家では成功はあり得ないのです。
つまり国家政策を成功させるには、人間の自ら所得を得たいとする利己的意識と他
のものに所得を得さしめようとする個人消費などの利他的意識を各々十分に発揮さ
せ全国民を各々の能力に応じ、全員に正直に誠実に勤勉に努力し、それを発揮する
意欲を持たせ、自由と平等に勝つチャンスを与えフェアーに競争させることによっ
て、全国民にとって各々の能力に応じて良い結果を出せるシステムを組み上げ、全
体として成果を出せる政策こそ、国家政策なのであります。

「競争しあいながら、助け合い協同して生活する政策」が人間という社会的動物に
最も適応していると、筆者は考えているのであります。

さて我が国経済は需要に対して供給力が大きく上回り始めた成熟経済段階に達した
のですが、それでも「与件(前提条件)無しでの完全に自由な競争」こそ経済の進
化発展のための最善の手段であると市場経済では考えられております。

それでは日本が成熟経済へ達した中で国民が望んでいる「真の経済成長の達成」や
「財政再建」を実現するためには六つの分野の与件(前提条件)から成り立ってい
る現代経済学は、現実の与件無しの競争社会にほとんど役立たないことは莫大な国
民の血税を使用した、十数年来の何度にもわたる景気回復のための経済政策の失敗
によって不況に苦しむ多くの国民が肌で知るところであります。

そこで本書の目的は多数の与件(前提条件)の上でしか、経済を説明できない現代
経済学を離れ、経済学の基本を活用しながらも与件(前提条件)無しで市場経済に
合致した経済成長を完全に説明できる理論を構築することによって「本格的景気回
復と財政再建を同時に完全に達成できる方法」を立案するため経済の現状を詳細に
分析し、現状の最悪部分を排除した「必要且つ十分な経済成長税制理論」を目指し
たものであり、「結果として根本的な唯一の解決策」として完成したものでありま
す。

そしてこの達成手段としてシステム工学で用いられている進化システムの原理を経
済分野に徹底的に活用し「進化システムであるべき経済と政治において完全に均衡
のとれた進化発展」こそが鍵であり、それを実現するためには「市場経済や民主主
義という進化システムにおいて進化システム原理が如何に完全に理解され遵守され
ているかどうか」に成否がかかり、それを遵守する度合いが高ければ高いほど結果
として持続的で本格的景気回復と財政再建を完全に同時に達成できることを発見し
たのです。

さて人間社会の全ての問題を解決する手段として、進化システムである民主主義と
いう手段がありますが謀術策に優れルール無視も平気で行う権力者や理念観念者に
よって全国民が洗脳され支配されやすい社会的動物としての人間の弱さや特性、問
題点を厳格に排除するために民主主義国家を運営する原則として参加の自由と対等
に平等とフェアーな競争(協同)ルールによって全てを決着し決定するシステムの
適正さを遵守するために、他の影響力を排除した「人間個人の独立性を実現する徹
底した規制ルール」がまず第一義的に重要となります。

つまり憲法で示されているが如く、国家は国民の幸福追求を実現するために存在す
るのであるから、まず幸福を感じるには「希望」が無くてはならないのです。
人間は「希望の達成−>幸福」のサイクルで始めて幸福を感じるからなのです。
「競争力均衡状態」の意味について解説しますと、人間を除く地球上に生存する何
百万種の生物の競争力は同種同士では、ほぼ一対一か一対二程度の競争力の差しか
ないことは生物の観察から明らかであります。

つまりどの個体でも仲間同士で競争して「勝つチャンスつまり希望」は大いにある
のです。

ところが唯一人間だけは権謀術策や経済力などを駆使し、人間同士の生の競争力の
差は、その人の地位や経済力によって一対十万倍にもなってしまう時があるのです。

それを放置すれば強大な競争力によって、戦う前から競争相手を簡単にけ落とし奈
落の底にたたき落とすことも出来るのです。 
これを不合理にならない自然な生物と同じ様な範囲内で規制し競争力を均衡させ競
争して勝つチャンスを全ての国民へ与えなければ全ての国民に希望を与えることは
出来ないのです。

しかも人間は希望があれば精一杯努力出来るし、多くのものを生み出せるのです。
しかし競争する前から勝敗が明確で、全く競争に勝つ希望が無ければ、人間は努力
を放棄し、多くのものを生み出すことや、生きる希望さえも意欲も失ってしまう、
そういう特性を持った動物なのです。

そしてこの原則の裏側には「不合理にならない範囲内で国家は国民一人一人、企業
一社一社の競争力の均衡を図る原則」が常に隠されているのです。

まず自然界では強者は生命を維持する以上にはむやみに弱者を捕食しない原則によ
って競争力の均衡が保たれており、人間を集団として把握し、全体の能力を引き出
すには競争力を均衡させ「競争で勝つチャンスつまり希望を全国民、全企業へ与え
ること」が、国家の重要な機能になるのです。

この「競争力均衡の考え方」は他のあらゆる生物と異なり「同一種」に拘わらず
「理念観念」や「権力の奪取」や「大きな不正」のために、人間は大規模な殺し合
いや闘争を平気で行い得る特別な動物であり、このような社会的動物としての危険
な特性を持つ自覚が自由と平等とフェアーな競争の原則(ルール)や国家権力の三
権分立の原則、独占禁止の原則など、誠実に正直に努力する者に対して、人間一人
一人の競争力の均衡概念の発展として生み出された根源的な概念なのです。

そして、この考え方は事実として生きとし生けるもの全てに現に適用されており、
自然の生態系では、そこに住む生物の生存のための競争力の均衡が保たれていると
きに、豊かな自然が築かれるのであり、また自らの身体を考えると体内で免疫系の
白血球やキラーT細胞などが、体内に常時進入してくる害になる細菌などを識別し、血みどろの戦いを体内で常時繰り広げ、均衡を保ちながら細菌などが増殖しない状況を人間は「健康」と読んでいるのであり、もし白血球やキラーT細胞などが死んで機能を停止すると、体内で細菌があっという間に繁殖し、二日もすれば身体は腐り始めるのです。 

善悪の識別と悪と識別されたものとの真剣な対応は、人間も避けて通れないのであ
り、見て見ぬ振りをすると後で大きな被害をもたらすのです。

つぎに少数の特定の権力者や理念観念者の幸福ではなく、自然な動物である大多数
の全国民の幸福を実現するには、自然の生態系である自然システムの延長線上に、
存在する「均衡論」に裏打ちされたシステム工学上の進化システムを活用すること
が、最も理にかなっており「国民一人一人と国会議員一人一人に参加の自由と対等
に平等な条件を遵守しフェアーな競争原理(ルール)で多数決で決定され立案され
たシステム(制度や法律など)の時に限って結果として力強く進化する」という進
化システム原理を有するので、日本の経済社会構造の中へ「あらゆる分野において
一人一人の人間に参加の自由と対等に平等な条件でフェアーな競争を展開できる競
争条件を整備するための徹底した規制強化を行い、つまりそのようなルールの厳格
な適用を行い」と「そのようなルール意識を醸成する政策」つまり厳格な民主主義
の確立こそが何より重要であり、人間社会においてこれが完全に実現できれば、あ
らゆる問題が時間は掛かっても「幸福を求める多数の人間の意志」と「進化システ
ム原理がシステム的に結合し」自動的に解決できるのです。

「参加の自由と対等の平等によるフェアーな競争のルール概念」も「所得税、法人
税、相続税などの直接税」も、人間社会における「競争力均衡化の思想」を実現す
るための手段であり、これこそが人間の本性に潜む利己的意識と利他的意識を適切
に引き出し、人間社会を進化発展させる手段としての進化システムの根源なのです。

これに対して参加の自由に対する規制や妨害など、何でもありの自由や特権を容認
する何でもありの平等やルール無視の何でもありのルール不存在の競争などは、
「競争力均衡化の思想」に役立たず進化システムも機能しないのです。

逆に所得税などの直接税は、所得=消費+貯蓄の経済公式から明らかなように実質
的に消費と貯蓄に平等に課税し、課税最低限以下の低所得者には、消費にも貯蓄に
も課税を免除し消費に対する参加の自由を促進し、それ以上の国民に対しては所得
に応じた税率で消費にも貯蓄にも「平等に課税」するから悪影響が生じないのです。

官僚のキャリアーとノンキャリァーの問題も「国家目標は、憲法で明示するが如く
国民の幸福を追求する権利を実現することだ」という大命題を正確に理解していな
いことと、少数の人間に特典を与え官僚組織内で政策立案の公正な競争が行われて
いない結果、国民に目を向けた良い政策が立案されて来ないのであり、また財政負
担ばかりが増加する特殊法人の問題も特殊法人を運営する少数の人間に特典を与え
民間企業との間に公正な競争が行われていない結果にすぎないのです。

そして政治の分野では国会議員に公正な競争を行わせる環境が整っていないため、
国民環境に良く適応した国家目標を達成する良い政策が生み出されないのであるし、「民主主義という進化システムである政治」に全国組織の強力な政党や特定の権力者という、国家目標を達成するために自由な公正競争を行うべき国会議員を「制御する制御機能としての規制が混入している」ために、「日本の社会経済の進化システムの作動が弱まり」進歩発展が大幅に遅れているのです。

そして経済の分野では「進化システムである個人消費」に税で規制を加えている結
果が現状の大規模不況の到来なのです。

「進化システムである個人消費への徹底した規制緩和」こそが本格的景気回復と財
政再建の基本であり完全達成の鍵なのです。

そして非進化システムの所得には、規制を強化しても何ら経済には悪影響はないの
であり、したがって逆に言えば「非進化システムの所得を規制緩和する大幅減税を
行っても、財政負担が増加するばかりで、その経済効果は他の財政支出方法と殆ど
変わりないか劣ると考えられる」からです。

その理由は所得のほぼ全部を消費に回さざるを得ない消費性向の高い低所得者には、減税の恩恵は全く受けないか、わずかしか受けないのに対して、減税の大部分が元々所得の一部しか消費を行わない余裕のある消費性向の低い高所得者への減税となり、減税分が個人消費へ全額回ら無い上、もし減税をやらず財政に余裕を持ち、その分有益な公共事業を行えば、その分全額が消費性向の高い中低所得者層の人件費として配分され、個人消費が増加するからです。 

つまり直接税(所得税・資産税)の減税は通説と正反対に景気浮揚に殆ど特別の効
果は無い上、高所得者に多く恩典を与える直接税の減税は社会の不公平感を助長す
る悪い政策と考えられます。

したがってアメリカのブッシュ政権の大規模減税も上記の理由から、その財源を他
の財政支出方法を採った場合と比べて特別に有効な景気浮揚策にはならないのであ
ることを理解しなければなりません。

もちろん若干の期間、景気回復効果があるように見えますが、継続性が全く無く、
人間の利己心に頼った政策であり逆に国家全体としては個人消費性向の低下を招き、持続性が乏しく景気回復の糸口になっても財政が悪化する対策であります。

クリントン政権が取った個人の懐の痛みが伴う利他心を強制する政策(所得の高い
階層を中心とした直接税の増税)こそが巨大な国家機関を活用し個人消費性向の国
家全体の向上(これこそが高所得層が未来に更なる所得を獲得する基礎になる)に
なる高所得層から低所得層への所得配分を実現し個人消費の増進による「景気回復
と財政再建の両者同時達成を目指す自己回帰的な継続性のある対策」なのです。

しかし現状のアメリカの不況は景気循環に過ぎず、どのように深刻になろうとも個
人消費や政治の進化システム自身は健全に作動しているので財政悪化を気にしなけ
れば減税も景気回復のための一つの政治的選択肢であり、どのような経済政策を取
ろうと、回復の強弱はあるにしろ、いずれ景気は回復するのであり、そこが進化シ
ステムの作動がほとんど停止状態のため景気回復が困難で下限が見えてこない下方
の均衡点へ向かって景気後退中の日本との大きな違いなのです。

さて進化原理では小集団の方が「進化スピードが早いという原則」があり、現代日
本のように意図的に必要以上に企業合併や持株会社政策を推し進め、小さな企業を
つぶし巨大企業形成政策を取ることは、寡占化を招き長期的には「進化の発生確率
低下させ、つまり進化の芽をつぶし」「企業の進化スピードが極端に遅くなること
は確実なのです。」そして寡占による競争力の低下現象がいずれ発生するのです。

つまり「構造改革問題」も日本のあらゆる分野に渡る人間一人一人と企業一社一社
につき国内的にも国外的にも「参加の自由と対等に平等な公正競争の実現」と「進
化システムをより強力に作動させるための進化システム化への徹底した規制緩和」
と「非進化システム分野の国民の幸福の追求に反する部分の徹底した規制強化と、
そうでない部分の規制緩和」を計るという視点で行うことが大切なのです。

現代経済学が必要とする6分野の複雑な前提条件とその経済学的効用の限定さと比
べ「自由と平等と公正な競争という進化システムの作動条件は何とシンプルで、何
と奥深いことでしょうか」、そして「その時代の人間の幸福の追求の努力とシステ
ム的に結合し、あらゆる分野に渡り桁違いの効用がある」のです。

そして重要なことは何が進化システムで何が非進化システムであるかの区分区別の
問題なのです。

そして進化システムの本質は特定の理念や観念をもたずフェアーな自由と対等に平
等な条件に基づくルールのみを持ち、「変異」を認め「変異が競争に参入して結果
として進化が起こる」構造を持っているシステムであり、競争の結果の優劣を判定
するのは、地球環境に囲まれた膨大な数の人間環境である国民に帰着することを決
して忘れてはならないのです。

自分で判断し結果は良くも悪くも全て国民に帰着するので、国民は自ら判断して生
じた結果を謙虚に自ら受け止め、一層現実に適応した計画に再改善して再提案する
という最善に対して微分積分的に接近するのです。

これによって国民は自らの判断を常に反省し経験し学習し逞しく成長するのです。
したがって全ての国民を幸福にする正しい政策を選択するには、特定の個人や組織
の影響力を排除し「人間である全ての国民や国会議員のフェアーな自由と対等に平
等な条件を厳しく守ることが唯一必要であり、これに基づいて各人の良識と良心に
基づく利己的意識と利他的意識を合わせ持ち強い生き残りの生存本能を持つ国民や
国会議員の意志の単純表決による判断で選択された政策がその時代その時代の国民
の人間、地球、時代の環境に総合的に適応する正しい政策」になるのであります。

したがって人間の自由と平等以外の固定的な理念や観念などは重要でないのです。

「進化システムの考え方の基本は国民に全ての情報を公開し国民を信頼し国民に判
断を任せて国家は行動する」というルール原則で貫かれているからであります。
さて人間社会のシステムは重層的構造を持っており、実際の社会構造は非進化シス
テムと進化システムが入り混じった状態になっているのであります。

しかも進化システムは意識的無意識的にかかわらず、ほとんど全てが目的論的に構
築されており、その最終目的は全て人間の幸福の追求や生き残りの追求や好奇心の
追及という人間の本能を達成するための目的に収斂しているのであります。

したがって進化システムも上層から下層まで、いくつもの進化システムや非進化シ
ステムが重なり合い、絡み合って全体の進化システムが作動しているのであります。

しかしその進化システムそのものに規制や抑圧が混入すると、全体の進化システム
の能力は低下し、進化発展のスピードは急速に落ちてくるのです。

逆にそのシステムが現実に非進化システムであり且つ規制することの方が国民の幸
福(道徳)追求に役立つものであれば規制することは一向に差し支えないのです。
この場合は進化スピードに悪影響は全く無くやり方によっては本文のように逆に進
化が促進される場合もあるのです。

ここに物事の一つ一つにつき国民の幸福のために真に役立つかどうか区分区別し
「規制緩和と強化の両者の必要性」があるのです。

さて進化システムはその本質から人によって作られるシステムであるのにかかわら
ず、これを誰かが制御し結果を左右できる構造を持ちこんだ瞬間フェアーな自由と
対等に平等な競争(協同)が出来なくなるのでそのシステムは進化システムではな
くなってしまうのです。

つまり「フェアーな競争」は「参加の自由」がなければ成立しない構造なのです。
したがって「参加を禁止」したり「各種の手法で参加を規制したり妨害したり」す
るとその分野が基本的に進化システムであっても進化は停滞し混乱し進化発展の度
合いはそれに応じて急速に低下するのです。

ゆえに現代の経済学に基づき、エリート達によって莫大な国家予算を使用して実施
される「財政政策」「金融政策」は本来「経済政策の微調整手段」に過ぎず、経済
システムを進化システムに改善しない限り抜本的対策になり得ない現実をエリート
達自身認識していないことが大問題であり「莫大な予算の使用の割にはほとんど根
本的な効果をあらわしていない」ことは既に多くの国民が知るところであります。
そこで日本国憲法が定めている国民の幸福を追及するという幅広い権利の第一歩と
なる成熟経済に達した日本経済の再成長を実現するためには、狭く研究対象を限定
した現代経済学ばかりに頼るのではなく広く哲学、進化論、人間行動学、システム
工学、心理学、物理学、生物学、社会政治学、経営学、会計学、税法、歴史学など
多様な分野の学問の力を借り「日本の経済成長システムを進化システムへ再構築す
るのに役立ちうる基本的な考え方」を総合的に取り入れ「日本の経済社会の進化と
経済成長を確実に実現できる基本的な進化システムへの改善を目指し」「結果とし
て財政再建を実現する国家システムの構築を目指す」真に役に立つ成熟経済におけ
る経済成長税制理論を構築することを心がけました。

そして「経済成長現象を一貫して完全に説明できる本書の経済成長税制理論」で経
済システムを進化システムで再構築すれば自らの力で力強い再生と復活が可能です。

さらに国民が規制すべきとする環境問題等における「問題商品の消費や生産の個別
規制強化を進んで行いながら新規開発商品の競争条件を整備し」国民の未来の生活
に貢献する新経済システムを目指しているのです。

そして本書は人間を生物学的側面と精神的側面の「連続」として捉えております。
更に国家に実在するのは人間である国民のみであり、組織や企業は法的概念でのみ
しか存在しないのであるから進化システムの働く真の民主国家では「国家は国民に
とって真に役に立つ機能的な存在であるべき」とする機能的国家論で本書を記述し
ております。

そしてあくまでも国民にとっての機能的国家観であるので、国家機能の色々の分野
において、機能的を強調する余りその分野の専門家に事実上の決定権を与えてはな
らず、あくまでも国民の代表者である国会議員と国民に事実上選ばれた内閣が決定
権を持たなければならないのであり、最も良い実例が軍事部門の「文民統制の原則」であります。

国家が国民にとって機能的な存在である以上、国家は一般国民の良識、常識、善悪
の判断で運営されなければならないからです。

軍事における生死の判断でさえ基本的な判断は軍事の専門家(現場の将軍、司令官、参謀など)ではなく、素人の総理大臣に委ねられているのです。

これこそが国民の正しい自己責任を伴った民主主義の原則なのです。したがって専
門家はその分野で素人である国民や国会議員や総理大臣に対する良き助言者として
振る舞わなければならないのであり絶対に決定権を有してはいけないのです。

ここで問題となるのは現代の日本の国家官僚組織に組み込まれている各種審議会、
委員会の事実上の役割でありますが決定に影響力を絶対に持たせてはならず、全て
良き助言者の役割を与え決定責任は、内閣と大臣と国会議員とそれを支える官僚で
あることを明記しなければなりません。厳に各種審議会、委員会が決定責任の隠れ
蓑になってはならないのです。

これを厳格に守ることが責任感の強い、経験豊かな良き内閣と大臣と国会議員と官
僚を育てる原点になるからです。
 
したがって本案の重要な点は日本の本格的な景気回復と財政再建のために、大規模
な財政支出などの必要性は全く無く、市場経済の進化システムの作動条件を強化す
るために単に税の課税方法を間接税中心から直接税中心へ復元を求めていることと、国家の経済と政治について進化システムへの自己変革を求めている点であります。

戦後43年間経験済みの直接税制主体の税制に復元すると、変更直後は税収増はプ
ラスマイナスゼロとしても程なく時間の経過と共に経済成長が再開され国民所得が
増加し、同時に超過累進税率であるため、消費税導入の大きな原因になったマスコ
ミが愚かな直接税の大減税キャンペーンを実施しない限り「自動的に税収増による
財政再建」が達成出来るのです。 

いずれも困難な努力はいりますが、子孫に借金の負担をかけないカネのかからない
対策で本格的景気回復と財政再建が同時に実現できるのです。
ただ消費税は人間の利己的意識に強く影響を与える極めて気むずかしい税金であり、増税しようとするとその増税の直前に駆け込み需要が起こり一時的には経済が好転したように見え、逆に全廃しようとすると、その直前に買い控えによる一時的な不況が起こる逆転現象が表れるやっかいな性格を持っている税なのです。

しかし少したてばその税制の国民経済に与える本来の効果は明確に表れるのです。
つまり自らの経済システムを進化システムの度合いが高いシステムへ改善すれば経
済成長が自己回帰的に自動的に再度開始することを、まず学ばなければなりません。

しかも本案は地球の有限性を視野に入れ、政治にも進化システムを導入することに
よって経済成長の方向性までコントロールできる「政治経済統合進化システム」を
提案しているのです。

つまり国家経営は常にその時代に適応しようとする、その時代の多数の国民自身が
解答を持っており「参加しフェアーに競争し最も現状の国民環境に適応した正しい
結果を選択すること」が進化システムのポイントなのです。

つまり「その時代の生存環境である地球環境に適応できた生物だけが生き残り進化
するのが、自然の生態系の自然システムによる進化なのであり」全く同様に「その
時代の人間環境である国民環境に適応できた政策だけが生き残り、更に国民環境に
適応して競争に勝ち残って進化発展していくのが本書が明示した進化システムによ
る政治経済政策の進化システム論」なのです。

国民環境に適応できず悪い影響を与えている政策は全て捨て去り、国民環境へ良い
影響を与え適応している政策は進化発展させなければならないのです。 

したがって本書以外の国民が望まない経済政策は常に失敗が待っているのです。

ここ12年以上の不況の連続の原因は日本の社会慣行や人間である国民の、心理や
感情の重要性も考慮せず、進化システムの原則に背き、その時の国民の強い反対を
押し切りエリート達の判断ミスにより平成元年に理念観念によって無理やり取り入
れた「進化システムである個人消費に規制・抑圧を加える政策」による「結果とし
て総需要抑制政策としての消費規制税制の導入による大規模な人災」なのです。
したがって財政再建も景気回復も達成できない既成税制理論や固定観念による洗脳
から、まず根本的に脱却しなければなりません。

つまり人間によって営まれている経済は「全く制御不能な神の手に握られているの
ではなく」「経済は人間の手による人為的な現象である以上、進化システムを規制
せず妨害せず遵守すれば進化発展の強弱のアクセルや方向性のハンドルは人間によ
ってしっかりとコントロール出来る」のです。

したがって役立つとは思えない空理空論や神学論争は紙面の無駄になりますので徹
底して避けるように努めました。

経済の進化発展を保証する進化システム原理とその根底を為す正しい自由と平等と
公正競争概念の詳しい解説については、この結論の要約の後段に記載しております。
                               


(研究すべき対象としてのアメリカと米国の国会議員の仕事ぶりと進化システム)

さて前置きはこのくらいにして、筆者が追い求めていたものは、アメリカが何故、
数千年もの歴史があり社会的インフラを年月を掛けて整備してきた先進国と比べて
荒野の中からわずか224年前にやっと独立した後進国が、あっという間に全ての
歴史ある先進国を追い抜き経済的にも総合力としても世界一の超大国になり得たか。

アメリカのように国土が広く多民族、多文化、多言語の国家は地球上に数多くある
というのに、何故アメリカだけがの思いが強く、その秘密を探ることに情熱をかけ
ておりました。

アメリカ国民一人一人の平均値の能力や勤勉さと日本国民一人一人の平均値の能力
や勤勉さを素直に比較してみると、日本人は決してアメリカ人に劣っていないと私
は強く実感しています。

同様なことはイギリス人もドイツ人もフランス人もイタリア人も感じていることと
思います。

そしてアメリカの多民族、多文化、多言語で地方分権国家というシステムは我々単
一民族、中央集権国家から見ると非効率の典型に見えます。
 
それではアメリカの指導者が特別に優秀だったかと言えば、アメリカ国民が選んだ
のは、エリートではなく二流の映画俳優だったレーガン大統領、女性問題で度々裁
判沙汰を起こしたクリントン大統領、若いとき大酒のみであったブッシュ大統領で
あり、とてもアメリカが超大国になり得た理由を説明できるものではありません。
しかし私はこれらの大統領の誠実で正直さの中にも、優れた駆け引きの才能と政治
的能力を見抜くエリートには無い大衆の目の確かさを、常に感心しているのです。
そしてこれらの大統領の実行した政策の結果は決して平凡ではなく、歴史に残る非
凡な成功を収めているのです。

これは指導者である大統領個人の資質というよりは国家や国民が持つ根本的な哲学
や思想が非効率さを乗り越え「問題点を正確に把握し、それを解決するために個々
の国民の能力を集団としてシステムとして最大限度引き出す国家統治システムの非
凡さ」にあることが徐々に分かってきたのです。

私は学問的には素人であり筆者の理論は色々の学問の間に存在する埋もれた部分か
ら取り出した「コロンブスの卵のような種を明かせば何だこんな事だったのかとい
う理論」なのですが非常に基本的で国家経済の発展に役に立つ重要な理論なのです。

その根本はアメリカは「後述」の「大量の国民を集団として扱うシステム工学上の
特殊な原理」である「進化システムをあらゆる国家統治システムへ厳格に活用して
いた国家」だったのです。

システム工学上システムには「大部分の非進化システム」と「特殊な進化システム」が存在するのです。

進化システムとは「人間の特性や本能を利用して、システムそれ自身が誰に命令さ
れるわけでもなく勝手に自分自身で進化発展していくシステム」を進化システムと
定義しているのです。

この場合進化システムの重要な要素に「競争」(必要なときは協同。以下同じ)が
あるところから、人間という権謀術策に優れた人間に対しては競争の前提となる
「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争条件が不可欠に必要な事が目からウロ
コが落ちるように分かってきたのです。」もちろんアメリカは進化システムを意識
して国家統治に活用しているわけではなく、移民国家であるアメリカ建国の精神
「参加の自由と対等に平等な条件のもとにフェアーな競争(協同)で物事を決着す
る精神」こそが正に進化システムの基本要素そのものだったのです。

したがってアメリカの経済を始めあらゆる制度が進化システム的であり、それこそ
がアメリカが超大国になり得た理由だったのです。

各界のトップエリートになればなるほど政治的な人物にならなければなりません。
政治的とは視野が広く、究極的に国民全体のことを真に心に掛ける利他的意識を強
く持つ人格のことであります。

特にアメリカの「国民の声を代弁する国会議員の一人一人の独立性の確保」は政党
に支配管理されないゆえに、国民のみを見据えて事実のみに基づき理念観念に基づ
かない国民環境に良く適応した政策(ルール)を国会議員が次々に選択し且つ時代
に合わなくなった政策を次々に淘汰し自分勝手に進化発展する判断に誤りが少ない
進化システムである政治システムが存在し、そのことがアメリカの社会経済の急速
な発展に極めて役だっているのです。
 
そしてアメリカ国民は、立案された法律や政策へ「どのように国会議員が賛成、反
対を表明し、どのような努力をしたか」を全て情報公開し、それを参考にして個人
別に国会議員の行動や考え方を把握し、それに基づき選挙によって投票するという、完全な事実に基づく間接民主主義をとっているのです。  
 
アメリカの政党には全国組織が存在せず、党中央も党委員長も党代表も党首も存在
しない、国会議員に対する政党の束縛が極めて微弱な、世界でも全く特異な進化シ
ステムである政治システムを持っている特別な国なのです。

これはアメリカ建国の歴史が反映した結果であり、別に進化システムを意識して作
り上げた政治システムではありませんが、結果としてこの政治システムは進化シス
テムなのです。

したがって政党は存在しても国会議員の個別の意志を決定的に束縛できない政党シ
ステムになっているのです。

スポーツ界を見てみると大リーガーに負けない活躍が出来る野茂投手やイチロー選
手、佐々木投手を日本が輩出できるのも、日本の野球界が高校野球、大学野球、プ
ロ野球をしっかりと発展させ且つ膨大な野球人口の母集団の中から「個人に対して
広く参加の自由と対等な平等を厳格に遵守し」そこで「フェアーな競争」が出来る
「システム」を永年維持し、多くの失敗や成功の経験を重ね試行錯誤繰り返す事に
よって大きな失敗は減少し、少しづつ最善へ近づき、自然にほおって置いても世界
に通用する名選手が生まれてくるのです。

現状の民間経済の発展も、サッカーの発展も同様なのであり、更に世界一までに発
展した日本の生産技術も同様なのです。

しっかりしたルールを作れば、良い結果は必ず手に入れることが、出来るのです。
したがって政治にも「国会議員個人に参加の自由と対等に平等なフェアーな競争を
させるシステムを作る重要性」があり、そこに「日本の社会経済環境へ適切に適応
できる最善へ近づく社会経済システムが作られる基礎」になるのです。
それが日本を未来に渡り「進化し発展し世界に貢献できる日本を作り上げる原点」
となるのです。

たとえば国家が自由貿易体制を言い訳にして「貿易収支ゼロ政策」という不可能に
対する挑戦を行わず「円高という価格面での不平等競走条件つまり個別企業にとっ
てフェアーではない競争条件」を放置したために、結果として現状の価格競争に勝
ち残りたいとする企業によって「日本の技術者が艱難辛苦をなめて作り上げた最も
大切な世界一と言われている最先端の生産技術やデーターまで」タダ同然で他国に
移転して結果として自己回帰的に日本の生産者を苦しめているのであります。

つまり企業としてはやむを得ない行動なのでありますが、それをコントロールすべ
き国家が怠慢なのです。

さてアメリカ議会における一年間の立法案件の提出件数は10000件にも及びそ
のうち成立件数は300件程度、成立率3−4%であります。

アメリカでは法律案件の提案権は国会議員にのみにあり、一人でも簡単に提案可能
であり、国会議員は国会に対して参加の自由と対等に平等でありフェアーな競争で
成立を目指すことが規定通り定められているのです。

フェアーなスポーツの試合のように、そこに政党の話し合いや協議や談合は少なく
国会議員個人の良心良識に基づく真に国民の為に役立つものか常任委員会でまず審
査され、9割が審査で淘汰され、残り一割が本会議に掛けられ個人として賛成、反
対の意志を表明する単純表決で機械的に良いものは良い、悪いものは悪いと決定す
れば良いのであって、これによってアメリカの国会議員はドンドン仕事をこなして
膨大な量の法律案を処理決定していくのです。

したがって成立率は低いとは言え、殆どの国会議員が良いと考えれば、どんな法律
案もアッという間に決定されるのです。

アメリカの国会議員は民間の経営者が行っている日々の意志決定と全く同様に機械
的にその良否を決定しているのです。

それに比べて日本では年間の政府・議員合計の提案数250件、成立件数150件
位であり国会議員個人が良い悪いで決めるのではなく、憲法にも定められていない
国会の議決の投票権も無い政党という組織の事前の根回しや話し合い、協議、談合
などの政治的な交渉に長時間をかけて決定しているのです。

如何に日本では国会内に日本国憲法に定められた正規の内部競争ルールが働いてい
ないのかの歴然とした証拠なのです。

これでは成熟経済に達した日本では政治経済の進化システムは全く機能しません。
その上日本では多くの利点がある議院内閣制を取っているため、アメリカでは認め
られていない多数の官僚を抱える政府提案が全体の50%年125件位あり、最近
著しく増加しているとは言え議員提案は50%年125件位なのです。

これから明らかなように600名弱のアメリカの国会議員は年間10000件の提
案を行っているというのに、700名強の日本の国会議員はわずか年間125件の
提案を行っているのに過ぎないのです。

これは驚きを通してあきれるほどであり、提出ルールに問題があることを示してお
り、民間では一般企業でも年間10000件程度の改善提案をこなしている企業は
ザラにあるのです。

どちらの国家が改善提案をより多くしているか、より国会議員が立案や淘汰や選択
のために働いているかは一目瞭然なのです。

これらの事実から分かることは、日本の国会内のルールが「固定的な理念観念を優
先し」「議決を通すための質ばかり追い求め」、「問題意識を持った提案が議論の
対象にもならず闇に葬られると言う」国会議員には対して参加の自由と対等に平等
とフェアーな競争原理が全く生かされていないという事実であり、法律は形式的で
あり事実として国会議員の立法機能という中身が実質的に殆ど機能していないので
あります。

日本の国会議員には一人では全く法律案を提案する事も出来ず、提案するには色々
な規制がついており、完璧さばかりを要求し試行錯誤の大切さが理解されず、参加
の自由が無くしたがって日本の政治経済の進化スピードが極端に遅いのも、これが
最大の問題なのです。日本の悪しき政治慣行は改善しなければならないのです。
 
さて国会は競争原理が働く法律案件の立案、淘汰機能を持つ淘汰機関でなくてはな
らず「淘汰」とは多数の中から、多くの不完全な提案を排除し最善の選択に近づく
作業であり、経験的に言って、その成立率は数%で当然なのであります。

また成立率が60%程度と高いのはフェアーな競争での成立ではなく、「通過させ
ることを目的とした恣意的な談合による成立」を強く予測させます。
 
またマスコミも愚かにも成立率の高さを、その内閣の力量の如く報道する姿勢にも
「フェアーな競走による淘汰の本質を全く理解していない報道姿勢」が強く感じら
れます。

しかもマスコミの政党間の話合いによる決着を強調する姿勢は談合による決着を奨
励しているのと同義語であり絶対に止めるべきです。
要するに決定は話し合いで決めるべきではなく、個人個人の国会議員が自らの良識
と良心によって、最高裁判所の判事のように国民と支持者の意向を代弁し多数決で
決定すれば良いのです。
 
協議や話し合いによる決着は過ちの元なのです。結局協議や話し合いを続けるため
の判断の極端な遅さは、国会議員が働いていないのではないかと疑われても仕方が
無く、他国を良く研究し根本的に改善しなければなりません。
仕事が少ないから国会で法律案と全く無関係な無意味な議論を長々と行っているだ
と思われても仕方がありません。 

本来日本の法律は筆者の経験では固定的理念観念を優先しているため「自由と平等
とフェアーな競争が無視されている条項が極端に多く、その他にも改善すべき点が
無数にあり」、少なくともアメリカの提案件数の十分の一、年間1000件位でも
良いので改善提案を最低毎年行って至急改善して欲しいと思っています。

「試行錯誤こそ最善へ近づく手段」なのであり、実行しやすいシステムを考えるべ
きです。そして採決は進化システムに基づく個人意志の良心と良識による、単純採
決を行えば良いのであるから、自派閥内も自政党内も対外政党間の交渉事も極めて
少なく、1000件など難なく採決できるのです。

したがって本書では詳しく述べておりますが、通説と全く異なり「国会議員への参
加の自由と対等に平等なフェアーな競走環境の整備」と「法律を現実に適応する改
善の政府提案のために当面、中央官僚を二倍に増員」し官僚間の競争激化を提案し
ているのです。

つまり情報の本質である「提案は質より量」なのであり多くの量の提案が競争する
所に向上があるのです。「日本のあらゆる分野のトップエリートの最大の欠点は情
報(事実)に質を求める」とんでもない間違いを犯している点です。

情報の本質は「量」こそ命であり、コンピューターのCPU(中央演算装置)の性
能も、実は「情報量」の処理能力を表示しているのです。膨大な情報量の中から情
報処理を行い、質の良い情報を区別し判別して評価することこそ、トップの仕事な
のです。

トップが始めから情報の大まかな判断を部下に求め、些細な情報を耳に入れようと
せず、部下に情報の判断を委ねてしまい、耳障りの良い重要な情報だけを得ようと
するところに日本のトップが常に過ちを犯す原因があるのです。
戦いにおいて決定的に重要さが確認された情報は、実は手遅れな情報であり重要な
情報では無いのです。

些細な情報から、確認される前に今後起こりうる確定的な結果を予想することが、
重要なのです。つまり「先んずれば人を制す」の格言が情報の命なのです。
日本でも優秀なトップは机の上の報告書のみに頼らず、自分が現場に出向き膨大な
情報を集め自分で情報を解析し判断するのです。それこそが優秀なトップなのです。

些細な情報が実は重大な徴候の表れであることは常に現実に起こっているのです。
日本の敗戦の転換点となったミッドウェーの海戦でも、日本の敗因は色々言われて
いますが、根本はアメリカ軍のトップが執念を燃やした些細な情報(事実)の積み
上げによって日本海軍の狙いが、実はミッドウェー島であることを事前に7−80
%確信し待ちかまえていたのです。 

ところが日本軍は自分たち自身が極秘行動をしていることを過信し、アメリカ軍を
90−100%奇襲できると、勝手に思いこんで油断していたのです。

アメリカのトップによる情報観つまり些細な事実を重要視する考え方と日本のトッ
プの情報観つまり些細な事実を軽視する考え方との大きな格差が決定的な場面で常
に「結果の重大な格差」として表れるのです。

さて政治の進化システムを実現するには、国家議員が有権者を代表して個人の自由
な意志で、他の国会議員や政党からも影響を受けることなく真に国民に役立つため
に、対等に平等に賛成、反対を意志表示する真の競争をしなければ進化システムは
作動しないのです。

そのためには政党や派閥内で行われる現在合法とされている全ての金銭の授受を公
職選挙法が適用されている国民と同じレベルに規制する政治資金規制法の法律改正
が必要なことと党議拘束など全ての国会議員の意志に影響を与える行為の規制や禁
止の立法化を促進しなければなりません。

政治は特別な事をやっているわけではないのです。国民に役に立つ仕事を、効率的
にドンドンやるべきなのです。失敗があれば素直にやり直し、最善近づく努力をド
ンドンするべきなのです。

うらやましい事にアメリカの国会議員には「独立性の強い自由と平等が存在し、さ
らに法律立案のプロ意識とフェアーな競争における誰にも影響されない純粋に個人
の単純多数決による決着精神が存在するのです。」そして「個人消費に対する規制
の弱い税制と直接税中心主義」の税制は「元々消費好きの国民性で個人消費という
進化システムに弱い規制しか存在しないため、放っておいても個人消費は拡大し」
また直接税中心主義は高所得の個人、法人から徴収した税収を国家機関を通じて低、中所得個人、法人へ所得を配分する実質的効果があり消費性向が低い高所得者から徴収した税収を消費性向が極めて高い低所得者へ分散し、更に「寄付」という巨大な民間所得分配機構の存在が、国民全体の消費性向を強く高めている結果、アメリカ経済は不死鳥のようによみがえるのであります。
                              


(進化システムのポイントとシステムの増殖原理の解説)

「進化システムは、その特性上最も自然に近い人工システム(制度・法律など)で
あり」「進化システムはその時代時代において、国民が良いと思うことは、規制せ
ず自由にドンドン実行させ、国民が悪いと考えていることをドンドン規制すると、
進化が自分勝手に良い方向へ進化発展するのが進化システムの特徴なのです。」
経済環境として機能する国民が悪いと考えていることを規制しなかったり、別に悪
くないと考えていることを無理に規制したりすると、進化システムに反して悪い結
果が生じるのです。

したがって良いことは規制せず、悪いことは規制するという区分、区別がしっかり
していなければならず、何を規制すべきかを決めるのは「参加の自由と対等に平等
のフェアーな競争」で投票する国民と国会議員だけなのです。

そこで時代時代の激変する環境にしっかり適応し豊かに増殖し進化する「生物進化
の基本となる自然システム」には基本的で重要なルールが存在し、そのルールは人
工進化システムにも必須条件となり「競争への参加の自由」「同一種内の対等で平
等な競争(内部競争原理)」「食物連鎖原則(外部競争原理)」「競争力均衡化原
則(強い動物でも自分の生命を維持する以上は捕食しない原則)」「システム内循
環原則」「突然変異の競争参加」の厳格なルールの中で「生存競争」を繰り広げ
「制御せず自然に任せれば」時代時代の地球環境に適応し進化システムは自動的に
強力に進化繁栄していくのであります。

それでは進化システム原理を完全に満たす4つの条件とは何であろうか。
日立デジタル平凡社の世界百科事典から引用すると

1.遺伝子を要素とするシステムとして遺伝子型が存在する。遺伝子型は対応する
  個体(表現型)を作りだし、表現型は遺伝子型の複製の場になる。

2.遺伝子型のシステム構造は変異する機会がある。
  それは遺伝子型と表現型の形質の変異を引き起こす。

3.表現型の間に資源獲得競争が存在する。 競争は「優劣の結果」をもたらす。
  それは遺伝子型の間の自己複製頻度の「競争」に他ならない。

4.生態系を支える外部資源が存在する。

つまり「外部資源を活用し」「自己複製という自己増殖構造を持ち」「変異しなが
ら」「変異も競争へ参入しつつ結果として環境に適応したものが勝ち残り進化する」という4つの機構を持つシステムが進化システムなのです。

人工の進化システムの場合は人間の持つ、より良い生活を求め幸福を追求する本能
や結果として生き残りたいと考える本能、好奇心の本能などを活用して人間の意志
と努力が加わると「更なる増殖拡大性」が生じ、そして自己回帰性、自己決定性、
反復性ならびに変異の容認性と競争による優劣の決定機構を持つことによって無か
ら有を産み出し最悪を排除しながら最善へ微分積分的に接近する手法なのです。
進化システムはシステムがそれ自身を作り出すことから、分野により自己組織シス
テム(組織論)、自己創出システム(生物系)、スーパーシステム(免疫系)など
色々の呼び名があり、現代ではその活用が急速に進んでいます。

さて更に人工システム(法律・制度・基準など)開発上のシステム作成の指導的原
理は以下の5点であります。

1.初期目的の達成度  2.社会的受容性 3.環境変化への適応性
4.機能性能の拡張性と柔軟性  5.経済性と信頼性

そこで国は膨大な数の国民に適用する一つのシステム(法律、制度、基準など)を
作り上げた場合又は作り上げる計画がある場合、上記の5点の「システム作成の指
導原理一点一点」について「条件を満たしているか」を常時チェックし、評価し、
反省し、改善し、新たに測定し、予測しなければなりません。
 
これが膨大な数の国民をシステム的に統治せざるを得ない国家が為すべき最も重要
な作業なのです。

ここが日本の政治・官僚組織に最も問題がある点なのです。

さらに現代において最も注目されているものに人間社会生活にとって真に役に立つ
「進化システム」があります。この進化システムには自然生物を作り上げた「自然
システム」ばかりではなく、人間が人工的に作り上げた「人工システム(法律、制
度、基準など)」にも原理原則さえ厳格に守れば多くの大規模な成功例があり社会
の発展進化に極めてすばらしい成果を提供しているのです。

(進化システム例) <―――――> (非進化システム例)
 1.個人消費・設備投資       1.所得(国民所得)
 2.市場経済            2.計画経済
 3.大衆主導の民主主義国家     3.真の全体主義・真の共産主義
                    (いずれも究極の官僚統制国家)
 4.科学技術            4.事実と遊離した理念・論理・迷信
 5.インターネット         5.管理主体がある商用情報システム


進化システムの作動メカニズム以下の通りであり、守るべき原理原則としては
1.進化システムは目的(理念や観念など)を持たず、進化の「過程つまりルール」
  だけを持つ。
  したがって人により作られたシステムにもかかわらず、特定の個人やエリート
  と言えども直接制御出来ないし、してはいけない構造を持つ。
  (つまりスポーツのルールと同じ)


2.進化は変異が起こり、変異が「競争」に参入し「結果」として進化が起こる。
  (つまり「結果が真に良ければ」すべて良しなのです。)(また変異とは積極
  的に試行錯誤を行って改善し経済環境に適応するかどうかを確かめるという哲
  学的意味が含まれています。)


3.外部環境、内部状態の変化に対してシステム全体として柔軟に適応し頑健。


4.システムの一部が競争による淘汰圧力からはずれたとき、その部分は爆発的に
  増殖する。(進化システムにはバブル発生の可能性あり。反対目標の必要あり)


5.分化と系統が発生する。(完全な進化システムは必ず増殖成長進化し、分化や
  系統が発生するので、人間の個性や文化の多様性が発揮されるシステムである。

  したがって発展成長進化しない場合は、その進化システムのどこかに欠陥があ
  ると認識して差し支えない。)

つまり進化システムとは人間環境に対して良く適応する判断をどう次々と発見する
かの手続きのルールを定めたものとして考えられたものであり一つが「組織同士の
外部競争方式であり、もう一つが構成員個人による内部競争方式」なのであります。

「外部競争方式」は競争環境にある組織体同士の競争方式であり、「内部競争方式」は独占組織に適用される組織体内部の構成員個人による競争方式のことなのです。

いづれも競争とは現実の経済環境(全国民の)に適応接近しようとするための手段
がその本質なのです。 

そして人工システムは「進化システムであるときに限ってシステムとして強力に発
展する」特徴を有しているのであります。

そして進化システムは時間が掛かっても必ず非進化システムに勝利してゆくのです。

さて進化システムにおけるキィーワードは「競争」であります。
しかしながら競争と正反対の概念の「協同」と言う概念を、どのように理解するか
が重要なポイントなのであります。

本書は「協同」という概念は「競争」という概念の正反対であるゆえに広義におい
て進化システムにおける競争概念の一部と判断しています。

気を付けなければならないのは国の最高の目標は「国民全員の幸福の追求」という
不可能と思われる目的への挑戦であり、これを達成するためには自然システムにお
ける人間が持つ二つの本能つまり種(人類全体)の保存本能から生ずる利他的意識
を基本とする協同体意識と、本人自身の生存本能から生ずる利己的意識を基本とす
る競争意識の同時存在(人間の本能)こそがこれを達成するための重要な手段なの
であります。 

つまり人間は「競争意識・利己的意識・営利精神」と「協同意識・利他的意識・ボ
ランティア精神」を本能的に同時に持っており本書では密接不可分なものとして理
解する調和のとれた競争を提案しているのであります。

そして人間は「消費者」(需要)であると同時に「労働者」(供給)であり、「国
家運営の費用の負担者」であると共に「国家政策の受益者」であるという二面性を
持ち、この場面場面により正反対の経済的行動をする自己回帰的な存在として把握
するものとします。

そして人工的進化システムの競争には人間は組織を作って行動する以上「主として
民間の組織同士の競争」(組織同士の外部競争方式)と「国などの独占組織の組織
内部の競争」(構成員個人による内部競争方式)の2つの重要な競争が存在するの
です。

そしてその各々の競争において必要な条件としては「自由(参加の)」と「平等
(対等な)」の正しい定義が厳格に守らなければ「フェアーな競争」による「進化
発展は実現出来ない」ことを理解して頂きたいのです。

さて進化システムは生物の進化の本質である「自然システム」が基本になります。
そして生物以外、人工的には自己自身で繁殖しながら進化する個体を作れないので、

「人間が作る人工の進化システムの本質」は、人間がより良い生活をするための生
きている人間の個人や集団としての拡大能力や増殖能力や進化能力を十分に発揮さ
せ活用し役に立つ手足となるような人工システムである進化システム(遺伝子とし
ての法律や制度など)を構築するのが目的であるから、まず上記の進化システムの
条件を備えた上に自然人である人間のより進化し、より幸福になろう、生き延びよ
うとする内在する強い力を引き出す心理や意識的無意識的な感情、嗜好、本性、特
質、相互作用など人間の自然で有機的な本質に合致したシステムでなければ効率の
良い進化システム(遺伝子としての法律や制度など)は作りえないのです。

つまり人間というものを「事実」として深く深く理解した上でシステムを組まなけ
れば良いシステムは作れないのであり頭の中で組み立てた都合の良い論理や理念や
観念だけを重視すると誤ったシステムや極めて不効率なシステムを組み立ててしま
うのです。

さて進化システムは自己自身が持つ、自己決定性や反復性や自己回帰性や自己拡大
性や自己進化発展性を最大限度活用するシステムであり、元手不用の自立的な自己
拡大システムであることが非常に優れた点であります。
 
つまり人間は他の生物と全く異なり拡大された遺伝子型と継承が可能な表現型を持
つ極めて特殊な生物であり、それこそが個人消費の拡大を通じて文化の発展と他の
生物には全く無い「経済の真の根源」である「経済の過剰性」を生み出しているの
であります。

このような概念を含めて経済問題の根本的な解決策を提案しているのが本書であり
ます。 生物の進化論から導き出された人類発展の進化システムは強力な力を内在
していることは既に述べた通り生物の進化と人類の文化発展の歴史が証明しており
ます。
                                

(人間の本性から生ずる経済の過剰性と、その過剰性の重要性)

そこで何故日本では普通に努力している山一証券、拓銀から始まって青木建設、マ
イカル、新潟鉄工所等の一流企業、一流銀行、一流保険会社が次々と際限なく会社
更生法等を適用申請し、会社消滅等の道を歩んでいくのでしょうか。

また何故ちまたの誠実に努力している多くの中小企業や商店街が経済不況に塗炭の
苦しみを味わっているのでありましょうか。

もし現状が異状であると真剣に思うならば行動を起こさなければなりません。
「知って行なわざれば、知らざるに同じ。」なのです。

さてこの真の原因は現代経済学では殆ど強調されておりませんが「日本国内の経済
の過剰性が急速に縮小しつつある結果の表れ」なのです。

それでは「経済の過剰性」とは何なのでしょうか。

実はこれは現代経済学では与件として研究対象から外されている人間の持つ生物学
的、人間行動学的、心理学的特徴から生じているのです。

地球上に生息する何百万種の動物・植物の内、唯一人間だけが持っているのが、こ
の過剰性の本能・特性なのです。

地球上に生活する人間以外の全生物は、その生物本来の本能に基づく行動、食性以
外に過剰性は、殆ど皆無なのです。

「経済の過剰性」とは個人消費の拡大を通じて人間のみが持つ「単に物理的に生存
する為に必要なもの、以上のものを欲求する性質・特性・本能」を言います。
我々人類は「個人消費」としてカネを支払って過剰性に彩られた「衣」を身にまと
い、過剰性の「食」に舌鼓を打ち、過剰性の「住」に居を構えて、協同して生活し、その個人消費の原資となる「所得」を稼得するために過剰性を競争しながら「生産」し、そして次の所得を得るためそれを「消費」している地球上唯一の社会的生物なのです。

したがって戦前の正しいと思っていた「欲しがりません勝つまでは」の標語は経済
的には最悪だったのです。

つまり人間社会では他の動物と全く異なり「個人消費こそが所得の源泉」なのです。

したがって個人消費額が減少すると、給料切り下げ、リストラが生じるのは当然な
のです。

だからこそ個人消費は規制してはならず「個人消費は自己拡大する性質を持つ進化
システム」であり、生産力はそれを裏打ちする「自己拡大する性質を持つ科学技術
が進化システム」であり、その「両者がシンクロナイズして合体した自己拡大する
市場経済進化システム」を形作るであり、原則を遵守すれば経済成長は時代時代に
適応し無限に続くのです。

この経済原理を理解しなければ、経済成長原理は全く理解できないのです。
したがって人類は一日たりとも、過剰性無しには幸福に生存できない生物なのです。

例えば人間以外どの動物がカネを支払って野球の試合を見に行くでしょう。
人間以外どの動物がカネを支払ってディズニーランドへ行きたがるでしょうか。
したがって株式市場の発展や金融の発展、年金、高度医療、社会福祉の発展などは
究極の経済の過剰性であり、「個人消費の拡大を通じてのみ達成される」のです。

人間は常にこれらを欲求として強く追い求める特性、性質があるのです。

このように生存する為に必要以上の欲求をすることが経済の維持発展を支えている
のであり、経済の過剰性という他の生物には無い人間文化の特異性そのものであり、「進化システムである個人消費の増大こそがこの人間文化の本質である経済の過剰性を根本的に支える根源」なのです。

それなのに「個人消費を減退させると経済の過剰性が急速に縮小し」結果として個
人消費が増加しない以上設備投資が不活発になり、更に土地価格の下落、株式市場
の不振が発生し先行き不安の国民が更に消費を手控えるという悪循環が始まり、預
金ばかりが増加しても、個人消費が増加しない以上、設備投資をする貸出先が無い
ので資金ばかりがダブつき更に不況による業績不振から既存の貸付債権も不良債権
化し、結果的に金利で経営を成り立たせる銀行は経営が成り立たなくなり、預金者
に金利も支払えず、自分自身も経営危機に陥っているのが金融不安なのです。

個人消費の減退は金融不安や資産価値の下落と極めて大きな相関関係があるのです。

しかるに何故日本では進化システムである個人消費が本来の進化発展を開始せず、
停滞し後退し不況を発生しているかは、ひとえに「個人消費に課税という規制を加
え、個人消費の増加を抑圧している消費税」による総需要抑制効果と間接税比率を
高め結果として直接税比率を低下させて国家を通じた所得配分が低所得者から低所
得者への所得配分という消費の増加に結びつかないシステムに固定化されてしまっ
た事によるのです。

消費税の個人消費抑制効果については、巻頭の四表で掲載の通り間接税主導国家に
おいて、選択の余地の無いくらいに全ての消費に対する課税の度合いが高ければ高
いほどその国家の失業率は高く、国民一人当たりの所得が低いことでも実証出来ま
すし、私が多くの消費者懇談会に出席し、日本全体の個人消費の70%以上を支配
し、一円二円の価格差で買い物に勝負をかける日本の主力消費者である主婦の実感
を調査した経験では、商品には消費税がついている以上、出来るだけ無駄なく買い
物し、買い物を節約すると回答した人が80−90%に達していたのです。

つまり「これらの事実」が消費税の個人消費の抑制効果の証拠なのです。
  
逆に商品コストの中に法人税分や従業員分の源泉所得税が含まれているから買い物
を節約する等という意見は聞いたことも無いし、またトヨタ自動車は巨額の利益を
出して法人税を商品コストの中に算入しているのでトヨタの車は買わない等という
意見も聞いたことがありません。

消費税も法人税も源泉所得税もあらゆる税金は消費者から見て企業の生産する商品
のコストに算入されているのは全く変わらないのに、これを意識させず個人消費の
拡大を抑圧せず巧妙に税収を上げるのが法人税、所得税等の直接税なのです。
したがって消費税だけが消費者が負担している税金ではないのです。

同時に人間に人件費を支払っている企業は、法人税を一円も支払っていなくても、
従業員を通じて、その生活費を国に代わって(大不況であれば国は失業保険金や生
活保護費を支払わなければならない)支払っている上に従業員の所得税、住民税を
負担しているのでありかつ、法人税を莫大に支払う高収益企業の原価を安く引き下
げ当該高収益企業の多額の法人税を支払うのに貢献しているのです。

赤字企業はけしからんからという理念観念で現状を良く分析もせず、すぐに外形標
準課税等を持ち出す誤った資本主義的道徳観は考え直さなければなりません。
                                目次へ戻る

(個人消費の70%以上の決定権を女性が持つ、世界で特異な社会慣行を持つ日本
における消費税制は、総需要抑制政策として作用し大きな弊害をもたらす。)

さて女性が個人消費市場の70%以上を支配している国は世界で日本以外では私の
知る限り1−2国しかなく、この特異な社会慣行はアメリカやヨーロッパ諸国など
の白人社会にも存在せず、もちろんイスラム教圏にもない特異な社会慣行であり、
よって日本では個人消費を規制する間接税の副作用が極端に表れる国家なのです。
現代経済学では余り強調されていませんが、男性と異なる脳の構造を持つ女性に受
け入れられる生理的、心理的に抵抗感のない税制にしないと日本では本質的に経済
の悪循環は断ち切れず、経済の良循環は決して達成しないのです。

個人消費の回復こそ「経済の良循環」の唯一絶対無二の方法なのですから。

つまり本来人間は時代時代に合わせ、環境環境に合わせて適応するために無常(常
無し)であり、生き残りたい幸福になりたいとする欲求は無限なのであり、個人消
費は時間と共に進化システムにより少しずつ増加するのが人間の本質なのです。
経済の過剰性はファッション、言論の自由、金融の発展、年金、社会福祉などあら
ゆる場面に表れ、その根源は人間のDNAに刻み込まれた人間の文化そのものであ
り、これを支えているのが経済的には「個人消費の拡大」が起点になり消費を所得
に変換して実現される「個人所得の増大」なのであります。

したがつて国民所得を増大させるには、その原資となる自己拡大が可能な進化シス
テムである個人消費を抑圧・規制してはならないのです。

成熟経済段階に達した経済状態になると労働生産性が機械化により極端に上がり、
少人数でも基本物資の全生産は可能になり大幅に人間が余り、そこに生産とシンク
ロナイズした増加する個人消費が存在すると余った人間が歌手として、野球選手と
して、アニメ製作者として、サッカー選手として消費を吸引する存在として活躍の
場が与えられ新産業が創出されるのです。

もし個人消費の増加を意図的に抑圧・規制すると余った人間を吸収するゆとりのあ
る需要が無く、結果として新産業が創出されず人間の活躍の場が狭まれ大量の失業
が発生するのです。如何に個人消費の進化システムによる自然の増加が必要かお分
かり頂けたと思っています。
                                目次へ戻る

(理念観念を重要と考える国会議員の後進性と、国民へ決定を任せる先進性)
さて日本では理念観念に凝り固まった政党などに支配され、国民の幸福のために満
足な行動が出来ない独立性のない国会議員という752人の少数のエリートで決定
した政策などに対しては、一億二千五百万人の国民の大部分は愛着や愛国心など持
てないのです。

国民の70−80%の反対を押し切り無理矢理に政党の理念観念で国会議員を拘束
し束縛し成立させた個人消費規制税制などは競争社会に生きる現実の国民環境には
全く適応しなかった結果が現在の大規模な経済不況をもたらしているのです。

情報公開が十分行われている環境において日本人の経済的愛国心を明確に発揮させ
るには大多数の国民自身(出来れば2/3以上の)が望む経済政策を一人一人の国
会議員が独立性を持って良心と良識によって、国民の大多数の意志を良く確認しな
がら政策を立案し国会議員の単純表決で議決し実行すれば、それだけで現場で常に
競争(必要なときは協同。以下同じ)しながら生活している感性鋭い国民大衆の主
体性つまり成功も失敗も自分自身の責任体制が確立されることになり、自分自身の
経済に悪影響のあるものは遠慮会釈無く淘汰し、自分自身の経済に良い影響のある
ものは遠慮なく選択し経済の流れはスムースになり「経済は良循環を回復し」日本
人も経済的愛国心を発揮できるのです。
 
国などの外部淘汰の働かない倒産の危険の無い組織の幹部は「弱い理念や観念しか
持ってはならず機関決定の正しい内部競争ルールの遵守意志が重要となります。」
さもないと危険な理念観念が淘汰されず、いつまでも生き残るからであります。 
しかし国家指導者の弱い理念は、国民の支持よってのみ強い理念に変われるのです。

これと全く正反対に民間企業経営者は常に外部競争に曝されており、その経営者の
理念観念ですら常に外部競争で淘汰され倒産が発生し不誠実な理念観念は自然にこ
の世から消滅するので民間経営者は強い理念観念を持とうと一向に差し支えないの
であります。理念観念の持ち方さえ民間経営者と国会議員では全く異なるのです。
そして国家は大多数の国民が望まない政策を強行すると、どんなに努力しても「望
んだ結果は得られず、停滞と後退が開始されるのです。」

しかし国民にまかせるとバラマキ政治になり、国家財政は破綻すると言う意見があ
りますが、それは全くの間違いなのです。真に国民と国会議員の一人一人が責任を
持って、政治を担当するようになると、国家の運営費である税の負担と国家政策の
受益が同一の国民自身が担っている事実を、良く自覚するようになり、国家財政に
対する目は現状より、はるかに厳しくなり、全ては国民の目線で行われるようにな
り、普通の人の家計の財布と同じように国家財政は改善されるのです。

そして国会議員は国民の為に効率を考えながら真の努力をするようになるのです。
つまり国家財政を税を負担してもいないエリートに任せる所に自分自身痛みを感じ
ることなく理念観念を持ちだして他人のカネを使用しているから破綻するのです。
そして絶対に間違ってはならないのが、国家の全税目の全税収は消費者である国民
が負担しているという現実です。

人間世界には人間しか存在しない以上、選挙権は人間しか無く、そして実質的に全
ての税は人間が負担するのであり、企業や組織が負担する税などこの世には存在し
ないのです。消費税だけが消費者が負担している税ではないのです。

学者の学説にごまかされてはならないのです。現実は全く異なるのです。

消費税以外に法人税も勤労者の所得税も社会保険料もありとあらゆる税金や負担金
は企業が生産し販売している商品・サービス原価の中へ算入され、消費者が全額負
担しているのです。
    
つまり国民は全て消費者でありますので、商品の購入を通じて、実は企業の法人税
も勤労者の所得税も巧妙に全額負担させていたのであって、消費税システムという
景気を悪化させ個人消費を減退させ経済のアポドーシス(自滅)招く恐れのある無
用の長物である消費税を特別に並列して創設する必然性は全く無かったのです。
したがって全ての税金が、全商品の商品コストに算入されて国庫へ回収される性質
がある以上、どのような理論を振りかざしても個人消費の増進無くしては税収の増
加は望めず、財政再建は果たせないのです。法人税による法律上の建前の納税者は
企業であっても、企業はお札の輪転機を持っているわけでもなく、天からお金が降
って来るわけでもなく、それ以外の儲けがあるわけでもなく、全ては商品を消費者
に購入して貰い原価を負担して貰う以外納税することなど出来ないのです。
だから「カネは天下の回りものなのです。」

成熟経済になれば尚更個人消費の増加力は弱くなるのであるから、少しでも個人消
費の抑制効果のある税制は取ってはならないのです。

それでは同じ個人消費に納税を依存している法人税は何故滞納が少なく、消費税は
ケタ外れに滞納が多いのでしょうか。それは法人税の仕組みが人間の特性に巧妙に
合致した税制で人間社会に心理的、生理的にも適応しており、それに比して消費税
は単細胞な税制であり、心理も感情も持つ人間の複雑な特性に適応出来ない結果に
過ぎないのです。

したがって消費税は結果として企業経営という主として男性社会でも事実として心
理的、生理的に適応していない税制なのであり、経済の良循環を阻んでいるのです。

なお付け加えれば何故「国税庁統計年報書」や「経済企画庁 経済要覧」の「租税
負担率」が国民所得で割って算出しているかというと、正に租税というものは全て
直接間接、対象納税者の如何を問わず人間である国民一人一人の個人消費を通じて
形成される国民所得が実質的に負担していることを明確に表しているのであります。

日本人は目に見える問題を改善するずば抜けた能力を発揮しますが、逆に日本人の
最大の欠点は「目に見えない真実を見抜く追究能力が乏しい国民性」と「大勢に流
されやすい国民性」を強く感じています。

このために常に日本人は正確な問題点の把握が出来ないために決定的に大きく判断
を誤る時があるのです。たとえ目に見えない問題でも事実かどうか常に疑い、徹底
して真実を追究する態度を失ってはならないのです。
                                


(アメリカを甘く見て親米路線から常に脱線する日本のエリート層の判断ミス)

親米路線であった明治、大正の日本と比較して、昭和の日本の「軍務官僚など」に
よるヨーロッパの全体主義に傾倒し反アメリカ的政策でアメリカを敵に回すという
第二次世界大戦の参戦の判断ミスと同様、戦後のアメリカに影響を受けた、親米路
線の成功が頂点に達した瞬間日本人特有の我々は特別であるというおごりが生じ今
度は「内務官僚など」による国民の強い反対を押し切ってヨーロッパ型の消費税の
導入という反アメリカ的経済政策を取るという判断を下した官僚と政治家の判断ミ
スによって引き起こされた、この不況は第二次大戦と同じく大規模な人災なのです。

消費税導入前には日本経済に良いにしろ悪いにしろ適応していたアメリカ的政策に
基づき対等の経済競争において本家のアメリカを大きく凌駕したにもかかわらず、
第二次世界大戦と同じく反アメリカ的政策(ヨーロッパ型の消費税の導入)を取っ
てから、わずか十数年で決定的に対等な経済競争に敗れたうえに、100年後には
日本では人口が6000万人程度減少し人口が概ね半分になり国内需要も半分にな
り苦労して実施している公共投資も多くが無駄になると言う、このままいけば日本
の歴史上かつて無い事態に見舞われることが予想されているのです。

これは第二次世界大戦の敗戦の比ではない国家の存亡にかかわる重大な問題を含ん
でいるのです。

しかもこの人口問題や経済問題は実に驚くべき事に、第二次世界大戦の敗戦国であ
る日独伊の旧枢軸国に共通の問題であるのです。

我々の思想哲学の中に何か基本的に欠けている問題があるのかもしれません。

なお政策がしっかりしているアメリカの100年後の人口は現状維持が予測され未
来の明るい展望も超大国の地位も安泰なのです。これらの事から日本のエリート層
による「国家運営の仕組みや考え方」に大きな問題があることを示しています。
やらなければならないことは徹底してやり、やらなくても良いことは絶対やら無い
という区分や区別が出来ていないために、ひどい有様が生じているのです。

まず正確な情報を元に基礎を改善しなければならないのです。

さて日本は事実として直接税比率を意図的に急速に低下させ、間接税比率を急速に
上昇させるに比例して「当初の未来予測と全く異なり」経済の不況の深刻化が急速
に進展していることが分かります。日本ほどではありませんがドイツも同様です。
それと全く反対にアメリカの好況の原因はアメリカ自身の多民族、多文化、多言語
で且つ地方分権国家という日本と比べて圧倒的に不利な非効率さを「直接税比率を
高く維持して後述の個人消費と所得の変換システムである経済の自己循環拡大シス
テムを強化」して経済の自己拡大を徹底して維持しているのです。

つまり日本、ドイツと対極の経済政策をとったアメリカと比較した結論から言えば
日独のように個人消費に対する間接税率を高めると本書で分析の通り進化システム
機能が大幅に低下し、経済の自己拡大機能が低下し経済成長が停滞し不況が必ず到
来するのです。

第二次世界大戦においてアメリカの政策を程度の低い政策と見てアメリカに戦争を
しかけたエリート層の判断ミスの結果引き起こされた敗戦の憂き目と同じ状況を二
度にわたり今我々は味わっているのです。アメリカの政策立案の確かさと奥深さを
良く研究し、決して外見の粗雑さを過大に低評価して甘く見てはいけないのです。
アメリカ社会はアングロサクソン中心の国家でありながら「出身民族や男女を問わ
ず国民に等しく厳格な自由と平等の権利」を与え、本人の「人間性と能力を十分発
揮させ」フェアーな競争の結果によってのみ国家の中枢さえも多民族で構成してい
る様子はこれ以外の方法は無いと思うほど将来の地球社会のあり方を先取りしてい
ると感じています。これは長い歴史による社会慣行と大多数の国民の一体化した意
識が伴わないと簡単に出来ることでは無いのです。

であるからこそ社会的インフラが全くなく現在まで独立後わずか224年しか経過
していないアメリカが何故世界一の超大国になり得たか、研究すべき対象なのです。

さて直接税比率を高く維持すると、時間の経過と共に本書の理論により消費性向が
高まり、個人消費が活発化し経済成長が開始し好不況の波がたとえあっても進化シ
ステムが良好に作用し経済成長は無限に続くのです。

つまり直接税負担は重くなるにしても、間接税負担は軽減し需要は潤沢になり経済
の過剰性は拡大し、国民所得は増大して株式市場は回復し、金融は発展し、年金、
社会福祉、医療制度、環境問題へ対応する経済的余力が生じ、そして普通に努力す
る企業は生き残る経済環境が得られるのです。「何故そのような結果がもたらされ
るのかを詳しく解説し理論を完成したのが、本書であります。」

また日本ではこの消費税の強引な導入を契機として新政党が乱立し、この十数年間
日本の政治風土に混乱が続き経済にも大きな悪影響を与えた原因は、正しい判断を
下すために個人の良心や良識を必要とする「一人一人の国会議員個人の意志の単純
表決で全てを決定すべき国会への国会議員の参加の自由と対等に平等であるべきル
ール」が与野党を問わず「政党」や「特定の実力者」と言われる国会議員の「目的
のために手段を選ばない政治ルールの曲解を平気で許す日本の社会慣行の存在」か
ら党派性や理念、観念を優先させる党議拘束や束縛によって権謀術策がまかり通り
国会議員個人の意志が左右されるのを間近に目にした国民の反乱が選挙に表れ混乱
に拍車を掛けたのです。

日本にはこの様にあらゆる分野に渡り「一人一人の国民と国会議員に対する自由と
平等の厳格な必要性が真に正しく理解がされていない」社会慣行が存在するところ
に「社会経済の進化発展が停滞したり方向が誤ったりする根源的な原因」があるこ
とへの理解が遅れているのです。

特に一人一人の国会議員には形式的にも実質的にも全くフェアーな自由と対等な平
等が保証されていないと強く感じています。

それと正反対にアメリカの好況の原因と政策の正しさは、「政党の全国組織が無く
党委員長も党代表などの政党エリートが存在しない、党派性が希薄な特異な政治シ
ステムを採用している国家であるために、国民一人一人と国会議員一人一人に参加
の自由と対等に平等があらゆる分野で徹底され、国民環境に良く適応した政策をフ
ェアーな競争によって選択される」進化システムを強化することでこれを乗り越え
て発展しているのです。

日本においても、国民が選挙の投票において公職選挙法を適用されるのと同じ程度
で、国会議員の国会における投票活動(採決)においては、憲法にも主要な法律に
も基本規定が存在しない任意団体である政党が国会議員に対して党議拘束や束縛す
ることを禁止すべきとする筆者の理論(憲法も同趣旨)の正しさを証明しています。

さて選挙民はその独立性を保証するため国会議員からでも、他の選挙民からでも、
1000円を受け取っても買収として徹底的に警察に追求され、罰せられると言う
のに、国会で投票する国会議員が有権者個人からの献金を受けるのは良いとしても、有権者とは無関係な政党や他の団体や企業や他の国会議員からの莫大な寄付を合法としている現在の政治資金規制法によって、有権者のみの代理として国会採決を行う国会議員の行動に寄付者が強い影響を与えフェアーな競争を歪め「カネまみれの政治を法律が容認し」、さらに政党の人事などによる影響力の行使など各種の方法で実質的に国会議員を陰に陽に影響を与え束縛し拘束していることは明らかであり、これらが有権者の意志ではない「政党や他の団体や特定の国会議員の理念観念を優先させ」国会議員の採決に重大な影響を与え国の進化発展を歪めているのです。

国会議員は憲法の趣旨に従い、国民と国権の最高機関である国会にのみ忠誠を尽く
さなければならないのです。

したがって国会議員は間違っても政党や政党の幹部や特定の国会議員その他の利害
関係者の理念観念に忠誠を尽くしてはならないのです。

そしてそのような国民や国会に対する忠誠心に基づくフェアーなルールの多数決で
採決された時に限って、その法律については強制力が生じ個人的意見が例え反対で
あっても、これは遵守しなければならないのがルールなのです。

もちろん時代と共に反対意見が優勢となり、国会採決で否決されればその法律は廃
止されるのであり、固定的理念無しの無常(常無し)の世界なのであります。
このような政治慣行が確立するよう規制法規を立案すべくマスコミは啓蒙しなけれ
ばならないのです。

アメリカの独立宣言で述べられているように「政府の権力はそれに被治者(国民大
衆)が同意を与える場合にのみ、正当とされる」という現代民主主義の究極の哲学
が大前提であり「その時々の世論を重視するアメリカの政治スタイル」として確立
されており、本書はこれと極めて似た結果を説いているのです。

それこそが遠回りのようで最も日本に豊かな社会経済を構築する早道なのです。
特に日本はしっかりした選挙制度が確立しており、選挙期間が短い欠点を除けば、
国会議員の選挙区も余り広くなく、そのためアメリカと比べて選挙費用は少なくて
済む分、アメリカの選挙制度最大の問題点である経済界や労働界の献金者の大きな
政治に対する影響力は、日本では少なくて済み、逆に日本において大きな問題であ
る政党の影響力とカネを使って他の国会議員の意志や意識に影響を与え、自分の野
心を果たそうとする行為を禁止すれば資金集めも最小限度で済み、政治分野でのフ
ェアー競争が確保され日本の経済は国民という人間環境を的確に反映し通説とは正
反対にアメリカより良い方向へ進化する可能性の方が極めて大きいと考えています。

政党の影響力は小さいとしても、大口献金者である経済界の意見が大きい影響力を
持つアメリカ政治における経済の方向性のチェック機能の脆弱性の危険は常に感じ
ています。そして日本人の持つ国民性が全体として決してアメリカ人より劣ってい
ないと筆者は実感しているからであります。

自国のルールやシステム(法律や制度など)を決定するのは「素粒子と同様に相互
作用を持ち自由な意志と意識」を持つ「国民一人一人」と、国民の声を代弁する
「国会議員一人一人」が完全に独立性を保ち、形式的にも実質的にも「完全な民主
主義」へ近づけば、経済はより一層発展し需要に満ちあふれ失業の少ない社会を実
現できるのです。

そしてこのような政治改革が早く確立していれば、昭和63年の国民の世論からし
て本来ならば消費税法などが国会で成立することはなかったのです。

そしてそれが実現すればするほど国民一人一人の身近な人間環境、地球環境の変化
に適応しようとする意志や意識が国家政策に素直に反映され、国民環境や地球環境
へ適応し生き残りを目指す良い経済政策が選択され、適応しない生き残れない悪い
経済政策は淘汰され、「経済成長は進化システムによって、人間環境、地球環境へ
適応しながら常無く無限に続くのです。」

したがって政党の役割は、「秘密結社ではないので一致団結を決して目指してはな
らず、バラバラの国会議員の意志を束縛や拘束してはならず」、「似たような思想
の有能な政治家が党議拘束をしない緩い集合体の政党を作り、そのような政党の存
在の中で国民と国会にのみ忠誠を尽くす良心と良識に基づく国会議員の単純表決で
物事を決する体制を作る」べきなのです。

政党の役割は、全国組織を保持するのであれば、この「国会議員の意志の束縛拘束
機能を厳しく規制し、これ以外の政党本来の機能の充実を計るべきなのです。」
この競争条件が遵守される環境で全ての国民と国会議員が参加するフェアーな内部
競争で、国家内の全ての善悪が決定されるのが真の大衆主導の民主主義なのです。
この「根源的な意義を正確に厳格に理解しなければ成熟経済においては経済も社会
も的確な進化発展は得られないこと」を、まずマスコミ関係者が目を開かなければ
なりません。 

進化システムでは「国家には自由と平等以外のあらゆる理念、観念は不要であり」
「その時代その時代の問題毎の善悪、適不適の判断は一人一人の国民と国会議員に
対してフェアーな自由と対等に平等が厳格に守られた環境での国民と国会議員の意
志の単純表決で形成される」システムつまり「真の民主主義」が必要なのてす。
つまり自分のことは自分で決める自己責任原則と自分で決めた結果は自分に戻って
くる自己回帰原則が働くところに「国民と国家の反省と進歩」があるのです。

このように特に国会議員に対するルールが日本では徹底していないところに、中立
を厳然と守っていたアメリカに対する真珠湾奇襲攻撃に始まる第二次世界大戦への
日本国の参戦が決定され、また昭和63年当時の世論調査によると国民の70−8
0%の反対にかかわらず与野党問わず理念観念を優先し、お互い一致団結するヤク
ザの組織か秘密結社のようにお互い党議拘束を平然と行い国会議員の自由であるべ
き意志を束縛し政党主導によって国会での国会議員の良識を封じ込め洗脳し党議拘
束して消費税が導入されたのです。

そして当然のように国民意志に反した決定を怒った国民によって導入直後の参議院
選挙には、政権与党が記録的な大敗を喫し、長年に渡る政治経済の大混乱の始まり
となったのです。

この問題は憲法の第9条問題より、はるかに根源的な真の民主国家として重要な問
題なのであり、第9条問題などは本件が真に解決すれば歴史と国民意識の変化と共
に、その時代時代に適応した解決策が採択される問題なのです。 

一人一人の国会議員のフェアーな自由と対等な平等の遵守つまり独立性は何にも増
して重要であり、この点マスコミ関係者は徹底して政党批判を行わなければならな
いのです。

そこで全ての国民が選挙で投票する時に厳しい公職選挙法を適用されるのと同様に
国会議員にも国会採決という投票行動においては、現状とは全く異なる公職選挙法
と類似の金銭や人事で影響力を行使できない完全にフェアーな自由と対等に平等が
守られる規制を法律化し、政党などの強い影響を受けず誰からも独立した「日本の
最高裁判所の判事や政党の全国組織が無く党委員長も党代表も存在しないアメリカ
の国会議員に近い独立的な性格を持つ税の負担者であると同時に政策の受益者であ
る国民のみに影響を受ける国民の代表者としてふさわしい国会議員一人一人が自ら
の良識と良心のみにしたがって判断し行動できる、国会議員の存立基盤」を構築し
なければ、国家の真の進化システムの作動能力は著しく低下するのです。

国会議員一人一人の独立性を確保する法律整備は緊急を要しますが、政党のあり方
や政党助成の方法、選挙制度を含め極めて広範囲で根本的な作業が必要になります。

そしてこのような国民や国会議員一人一人に対する自由と平等が形式的にも実質的
にも厳しく守られている国であればあるほど実は経済も社会も発展しているのです。

この点はそのような国の実例や経済発展の理由を本文で詳しく解説しております。
                                


(直接税国家と間接税国家の経済格差の実証的研究)

さらに元ジョンズホプキンズ大学八田達夫教授が1986年データーをもとに国民一人
当たりGDPと直接税比率の相関関係を自著「消費税はやはりいらない」で表して
おり、人口の多い大国(つまり国内市場が大きく結果として自国のみで総合的な消
費市場を形成し外国の影響が少ない国)では明らかに直接税比率が高い国家ほど国
民一人当たりのGDPが高いことを、明確に指摘している。

つまり各種の要因があるとしても、意図的に間接税の比率を低く設定し、直接税の
比率を高くすることが本書の指摘通り個人消費と所得の自己循環拡大システムが良
く機能する結果として国民一人当たりのGDPを高める大きな要因になることが現
実の統計的にも証明されているのです。

消費税導入前の日本が正にその典型だったのです。

これらのことから日独という何かというと「理念観念に基づく言葉のコンセプト」
を持ち出し、これを「演繹推論で拡張するマクロ思考の強いエリート主導国家」で
ある旧枢軸国は、エリート自らの理念観念を実現しようと、第二次世界大戦の開戦
時の判断と同じく、特に日本は意図的にこの十数年間一貫して国庫収入の直接税比
率を引き下げ間接税比率を引き上げた為に、自らの未来予測と全く反し結果として
自己回帰的に不況に突入しているのに対して、アメリカは自由と平等以外固定的理
念や観念を持たず「現実の諸事実」に基づき国民大衆の判断を優先する「帰納推論
のミクロ思考に基づく多民族、多文化、多言語の地方分権国家という非効率な大衆
主導国家」であるのにかかわらず、自由主義陣営国のリーダーとして成熟経済にお
ける経済成長を達成するためには経済環境つまり人間環境に適応する正しい判断を
下すことが第一義と考え「国民とそれを代表する国会議員一人一人にフェアーな自
由と対等に平等の判断が下せる環境を堅持した競争条件を遵守」し経済成長に良い
効果があり且つ国民一人一人の個別の成果を正しく評価し個人消費と所得の自己循
環拡大システムと変換システムの役割を持ち且つ国民相互に実質的に適正な競争条
件を実現するためハンディキャップを与える税制(強い者の頭を押さえ競争力を平
準化する思想つまり競争力均衡化の思想)として厳しい直接税システムを維持する
のが最善と判断した結果、弱いものも競争に参加しやすく国民が能力を最大限度に
発揮し経済は好転し自己回帰的に経済の回復と記録的な財政再建が図られたのです。

つまり「景気」と「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争と直接税制」は「自
己回帰的な相関関係」があることは明らかであり、したがって因果関係論から、こ
れらが原因となって「国民へ失業の少ない良好な経済環境と同時に税収の増加」と
いう結果をもたらし、また目的論からそのような自由と平等と税制を構築する目的
を達成するには、本書のように好況をもたらす「真の原因を徹底して分析」しなけ
ればならないのです。

進化システムに適応しやすい世界でも唯一帰納推論を主として駆使して論理を構成
し、物事の判断を決定するアングロサクソン民族の本家であるイギリスとその分身
が建国したアメリカの経済発展の違いは、正に「人間個人個人の自由と平等」と
「直接税比率の高さ」をどれだけ徹底しているかに掛かっているのであります。
つまりイギリスはアメリカより民族的に遥かに単一性を保ち国家の存立基盤として、有利な条件を持っているのにかかわらず多くの貴族やそれらに類似の身分制度を維持し、微弱とは言え人間個人の自由と平等に反し、実質的に生まれながら差異を認めている社会であるため、人間個人の能力が十分競争によって切磋琢磨され開花する社会でないことと、またイギリスでは全国組織の政党が存在し党首が率いる党中央が国会議員を管理統制する仕組みが出来上がっているため、独立性のある国会議員個人の自由と平等が遵守されて各々の競争(協同)によって物事を決着するシステムが出来上がっていないので国民環境に良く適応した政策を立案する国会議員の能力が開花する機会が少ないこと、直接税比率が低く個人消費と所得の自己循環拡大システム能力が低い間接税重視の税制システムが原因となる等、アメリカとの間に大きなシステムギャップが存在し、これがアメリカとの格差を生じる原因となっているのです。

アメリカが建国時に「自由と平等の徹底」を掲げたことは、進化システムを意識し
て行ったわけではないが、これが偶然にも進化システムの基本概念だったのです。
進化システムは自然システムと全く同一な「無常(常無し)」と固定的理念無しで
「輪廻」という自己回帰原則のシステムであり、人間の幸福を追求するという不可
能な事を実現するために「参加の自由と対等に平等にフェアーな競争の結果」で、
これを実現しようとするシステムなのです。 
 
そしてそれこそが自然の生態系がそうであるように、自然システムが素直に働くと
ころに、豊かな自然が形成されるのと同様に、進化システムが素直に作動する環境
こそ豊かな社会を築く基本となるのです。 
  
この様な哲学で日本を改善できれば、科学技術や生産技術ならびに社会システムで
ある教育面や医療福祉面などの点で日本は潜在的にアメリカより良い面を多く持っ
ており、経済面でも必ず再度アメリカとフェアーに対等に競争し追いつく時代が来
ることを私は確信しているのです。

さて本文で詳しく指摘していますように「日本は女性が家計支出の大部分を実質的
に支配している世界でも希な特殊な社会慣行を有する国家」であり、日本経済をア
ポドーシス(自滅)から救い、再度経済成長を開始させ財政再建と本格的景気回復
を同時に達成するには個人消費の回復を図る以外に方法は無く、したがって人間に
内在する幸福になりたいとする強い意志に基づく本能的な力で個人消費を自由に拡
大増進させる進化システムの力を活用しながら、直感力に優れた女性に受け入れら
れる個人消費を規制しない経済税制システムが必要であるという事実認識が必要な
のです。

私は日本に存在するこの特異な女性主導の個人消費システムは今後将来とも世界の
中で経済競争に勝ち抜くには、その文化のオリジナル性と特異性のゆえにこれを踏
まえて政策を立案すれば非常に有利な点であると考えているのです。
                                目次へ戻る

(経験不足の未来予測と、消費に回らない過剰貯蓄が問題であり、それには経済学
において与件として研究対象から外されている分野の研究が重要です。)
さて既存の経済理論は後段記載の六分野の与件(p179参照)の上に成りたって
おり「財政政策」「金融政策」は現状の経済の微調整手段に過ぎないのです。

したがって現代経済学の欠点を大きく補完し与件無しの現実の競争社会において、
経済成長を実現するには現代経済学の与件(前提条件)として研究対象から外され
ている分野にこそ、経済停滞の真の原因が潜みこれにメスを入れ抜本的に進化シス
テムへ改善する手法が今求められており、それが実現してはじめて1億2500万人の
国民自ら個人消費の創造を開始し個人消費を自己回帰的に拡大しながら、これを国
民所得へ自動変換し、本格的景気回復と財政再建を達成することが出来るようにな
るという事実認識が必要なのです。

今回の不況はエリートによるこのような事実認識の不足に基づく経済の微調整手段
にしか過ぎない「財政政策」と「金融政策」という小手先の経済政策に大きく頼っ
たために引き起こされた度重なる失敗と当然のことながら政策の未来予測が全く誤
っていた結果に過ぎないのです。

そしてエリートという人達の最も不得意の分野が、「問題点の把握という現場のた
たき上げが持っている索敵能力」と「経験豊かな未来予測」なのであります。
「日本人の国民性や現状を苦労して良く調査もせず、税制理論の基本を自ら徹底し
て追求もせず、手軽に見た目の良い海外の手法や理念ばかりを良く研究し、快適な
机上で仕事をしているエリートの方々の、厳しい現実における前提条件無しでの経
済競争の中では、現実の分析からかけ離れたこのような手法と演繹的論理で政策を
立案した場合どのような結果がもたらされるかの、未来予測の正確性に全く欠けて
いる」のです。未来予測の正確性に欠ける政策など立案する意味すらありません。

したがってエリートの方々は現実の政策を立案する時に日本人のあるべき「理性的、合理的、理念的」な精神部分のみを取りだし都合の良い演繹推論だけで論理構成するのではなく現場で厳しい経験を積んで人間の社会動物的側面である「利己的遺伝子」によって発現する、日本人独特の社会慣行に根ざす「利己的意識、利他的意識」の意志を持ち個々別々に判断し、さらに「相互作用」を発揮しながら行動する「人間の現実の利己的行動や利他的行動の入り混じった現実の心理や行動を予測し帰納推論しなければ実効ある経済政策を立案し未来を予測するなど出来ない」のです。
                                


(貿易黒字を貯め込む弊害について)

また同様に国家が貿易黒字を貯め込むことも、日本が金持ちになったと錯覚してい
るだけで為替相場を通じて経済学の基本である購買力平価以上の円高になっており
国家経営的には「商品・サービスの販売において適正な価格形成という産業政策の
根本において大きな弊害」つまり輸入品と国産品さらに外国人件費と国内人件費の
大幅な為替差による価格差を日本の産業界へもたらし国内経済や雇用の空洞化と輸
出採算性の悪化や安い輸入原料に対抗できない新製品や新規産業の創出まで阻害し
ているのです。

まず「国家は結果として国民を幸福にするために存在するのであるという大目的を
正確に認識し」、その上で経済構造を適正に保つためには、経済学や経営学の基本
である「企業経営にとって国内外のフェアーな競争条件を保つ根本的な条件となる
為替相場を購買力平価に近づける必要」があり貿易収支ゼロ目標値を定め基本に忠
実な輸出入政策、為替政策を取るべきなのです。

自由貿易体制であるからコントロール不可能であるという言い訳は常に不可能と戦
って利益の追求を行っている民間企業や競争社会で常に困難と闘っている国民には
全く通用しない論理なのです。不可能であるからこそ、その実現に努力する国家が
必要なのです。

輸出入に関する個別企業の情報公開や啓蒙活動や国内需要を大幅に上回る生産設備
増強は規制し出来る限り現地生産を奨励し、それらの個別企業の情報公開や規制な
ど国際ルールを破らないで貿易収支ゼロ政策を国民や企業へ協力を依頼する方法は
いくらでも存在するのです。
 
貿易政策の基本は輸入代価を支払うための輸出に原則として限定するべきであり、
それ以上の他国への輸出は、直接投資で当該他国への民間の経済協力と当該他国の
国家と国民の努力と協力して行うことが結果として日本文化や生産技術や経営技術
の伝播や当該他国への身になる援助となると考えています。

さらに今回の「ニューヨークのテロ事件で明からになった教訓」は経済の安全保障
問題です。 

5000万人が戦死した第二次世界大戦と比較すると遥かに小規模なしかもテロ事
件においてさえ「航空路の安定性が破壊され」これによって海外からの物流(部品
や製品輸入など)に支障が発生したことを考えると日本周辺で万一事変が起こった
場合「航空路ルートならびに海路ルートの物流が完全に遮断されることは明らかで
あり」「日本国民の生命を維持する生産を安全確実に行えるのは、国内に残留して
いる国内産業だけ」なのであるという認識が重要となります。

しかし筆者は国内産業を保護しろとか有利にしろとか主張するつもりは全くありま
せん。

言うなれば「不利にするな」と言うことであり「国の内外を問わず」競争条件を平
等にしろ、競争力を均衡させろ、そのために為替相場は購買力平価を実現するため
に貿易収支ゼロ政策を推進すべきだとする当たり前の主張をしているのです。
私の主張は「国内産業には国民への所得配分機能と雇用の確保機能があり、さらに
国の安全保障機能がある」のであるから、少なくとも「国内産業をそのような機能
の無い輸入(海外産業)より不利に陥れてはならないという原則」を国家は遵守し
なければならず、成熟経済に達し且つ基軸通貨でない円の為替相場では国家は海外
産業と自国産業の競争力を平準化する貿易収支ゼロ政策を確実に実行し、経済学の
基本である購買力平価を実現し国内産業が長期に渡って海外産業と正しい競争が出
来る「競争力の平準化環境」を遵守する事が自由貿易の理念より重要なのです。
                                

(税制改革による自動循環型自己拡大経済システムが未来の日本を築く基礎)
そこでこれらの点を踏まえて生命維持装置のような消費と所得の自動自己拡大循環
型の巧妙な経済システムが必要になるのです。
  
まず国民にとって真に役に立つ進化システムである日本の市場経済機能を完全に回
復し、結果として日本経済を自動的に自己進化拡大する真の市場経済体制へ再構築
することを基本命題とします。

(1)市場経済における「需要の自己増加エンジン」である進化システムの「個人
   消費」は自己決定性や反復性や人間のより幸福になりたいとする本能などに
   よる自己拡大性を持つので規制しなければ自動的に増加しようとする本質的
   な特性がある。

   これと進歩しようとする特性がある進化システムである「供給の自己増加エ
   ンジン」の「科学技術」が供給力の拡大と増大をもたらし、両者がシンクロ
   ナイズして自動的に自己拡大進化する需要と供給の合体した進化システムで
   ある市場経済システムを構築しているのです。

   したがって左脳である論理脳を活用する男性が消費の主導権を握っている白
   人のキリスト教社会などと全く異なり右脳の直感脳を併用する女性が消費の
   主導権を握っている特殊な社会構造を持つ日本では、「次々と強化される個
   人消費への規制が原因」となり、これを直感的に総需要抑制政策と見抜き、
   過敏に反応し、供給力の増大にもかかわらず個人消費が過剰に規制抑圧され、
   需要が極端に不足して経済成長が実現せず国民所得が低下し、失業が増加し
   ているのです。

(2)そこで「経済成長の出発点」となる、進化システムである「個人消費」に対
   する「徹底した規制緩和」を行い心理的や経済的負担を課する現状の規制を
   全廃し、個人消費(その商品の生産に携わった人々への、所得を得さしめる
   利他的行為)の増加を規制しない女性にやさしい抵抗感のない経済税制体制
   を実現し進化システムにより自動的に増加する本質を持つ個人消費の自然な
   増加を図る。

   また個人消費は表現の自由の一形態でもあり本質的に規制してはならないの
   です。

(3)さらに「個人消費と設備投資が所得へ変換される原理」から「個人消費」の
   増加は「所得」の増加をもたらすので、「税収の確保」を図るため自己決定
   性も自己拡大性も無い非進化システムである「所得」に超過累進課税の直接
   税を強化し税収の増加を図る。

   他人から得るしか方法がない自己決定性も自己拡大性も無い非進化システム
   である「所得」に課税を強化しても需要や経済成長へ悪影響を与えず、やり
   方次第で経済成長の促進作用さえある。

   これによって結果として「消費性向の低い」高額所得者や法人から徴収した
   税収を国家機関を通じて「消費性向の高い」中低所得者や赤字法人へ、実質
   的な所得分配が実現し「国全体の消費性向を高める個人消費の拡大循環シス
   テム」が完成する。

   これによって消費市場は更に拡大し力の強い高額所得者は納税に見合う更に
   大きなチャンスを得ると同時に中低所得者も普通の生活が送れるようになる。

   副次的効果として超過累進課税により、個人、法人の競争力の平準化効果も
   ある。

   それに対して現状の間接税制による消費性向の高い膨大な数の中低所得者層
   より、消費を削減させて得た税収を、国家という非効率機関の莫大なエネル
   ギーを使用して再度同じ中低所得者に所得を再配分する現状のシステムは
   「経済的に何の意味があるか意味不明な非進化システム」であり「消費性向
   の低い高額所得者の膨大な余剰所得をそのまま取り残してしまうため」個人
   消費の拡大循環には全く役に立たないのであります。

   「個人消費」が活発にならなければ設備投資は活発化せず、それが不況をも
   たらし貯蓄ばかり増加しても企業業績は悪化し銀行に国内の貸出先が無く、
   預金金利は低下し銀行経営は不安定になり日本の資金は海外の投資先に流れ
   日本国内の資金需要は細るばかりで経済の回復は全く実現しないのでありま
   す。 

   これらの結果は統計書や学者や専門家が発表している直接税国家の方が間接
   税国家より国民所得が高い事実でも立証されている。

(4)このように需要側の個人消費自動拡大システムと供給側の科学的生産自動拡
   大システムの並立こそ市場経済の根本であり、このシステムが完成すれば個
   人消費は自動的に拡大を開始し設備投資も活発化し「結果として人間は消費
   を所得へ変換して経済生活を営んでいる」ので、これによって国民所得の自
   動的な増大システムが完成し、少し時間が掛かっても「経済成長と財政再建
   の同時達成」が実現されるのです。

   そして国内経済は自ら国内で生産したものを自ら大部分国内で消費するとい
   う原則つまり人間は消費者であると同時に生産者であるという自己回帰原則
   が維持されるときにのみ他国に影響されること無く「経済の循環と拡大が適
   切に達成される」のであります。

   これは進化システムを十分活用すれば人類の経済発展の歴史が他の天体から
   隔絶された地球という完全閉鎖系の経済環境でも十分発展している事実で証
   明されており、一部輸出入が生じる不完全閉鎖系である国家経済もまた地球
   環境における資源や原料の偏在による貿易を除けば、国家の置かれている実
   状や地域に適応した個別の発展が十分可能なことを示しているのです。

   これはまるで自然環境における生物が「競争を通じて」その環境環境に応じ
   て独自の進化発展を遂げて分化と系統に分かれ豊かな自然を形成するのと極
   めて類似しており、経済も生物の進化も同じ進化システムの流れの中に存在
   しているのです。

(5)しかし国民の真の幸福を追求するために「地球の有限性」や「熱力学エント
   ロピーの法則」からの実質的制限が経済に付されるのはやむを得ない事実で
   あり、時代時代に合わせた個人消費の選択肢の無限の拡大を担保すべく個人
   消費の方向性を確定する、その時代に適応しようとする「真の進化システム
   が機能する政治改革」つまり生き残ろうとする国民意志の総和を正しく反映
   することが必要になるのです。


(6)この日本の「市場経済と政治」の自動拡大進化システムの完成により、天下
   の大軍である1億2500万人の膨大な国民が一人残らず進化システムに基
   づくこの市場経済システムによって活動を始め、日本の市場経済は少しずつ
   拡大発展を開始し、加速がつきはじめ同時に国民の自由な意志による、その
   方向性も試行錯誤しながら最適化へ動き出すのです。

   日本人の国民性や社会的雰囲気から判断すると一見組織に流されているよう
   に見えて、実は「努力する人間個人を重視する思想、いわゆる個人主義の重
   視」は進化システムを構築するのに極めて有利な国民性の条件であり、さら
   に国民意識として高額所得者の莫大な寄付が社会基盤になっている、民間社
   会福祉が発達しているキリスト教圏やイスラム教圏と異なり、日本国民の利
   他的意識は任意の篤志家による寄付に頼る協同体意識より、直接税を強化し
   ても国民全体の協力に基づく国家による強制的な相互扶助的な公平な協同体
   意識を重視しているので、その経費に相当する部分は他国より税率が少し高
   くても直接税の強化を受け入れやすい土壌が存在しています。

つまり以上の結論は1987年ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソロー博士
(アメリカ)の「供給側の科学技術の進歩」こそ経済成長の唯一の根源であるとす
るソローモデルの考え方を、本書では更に発展させ経済成長を説明するのに進化シ
ステムの概念を取り入れ「科学技術」が進化システムであるところから成熟経済に
達した日本では「需要側の進化システムの本質を持つ個人消費の完全な規制緩和つ
まり個人消費の進化システムへの再構築」もあわせて重要であり、さらに「需要と
供給を結びつける本来は進化システムの本質を持つべき形式的民主主義体制を更に
強化し一人一人の国会議員の意志の総和が素直に反映できる、大衆主導の進化シス
テムによる真の政治改革」を実現することを、ソローモデルに付加すれば個人消費
の力強い増加と、進化システムによって消費の方向性を政治が定めることが同時に
可能となり「成熟経済でも力強く適切な方向性を持つ国民の幸福に役立つ経済成長
が可能」となる基本を発見したのです。

このシステムは一見アメリカのシステムに似ているように見えますが、得られる結
果は必ず日本的な結果になるのです。それはルールは似ていても我々日本国民はア
メリカ人ではなく、日本人であり日本人に適応した結果のみが選択され、淘汰され
るからであります。
  
さて戦後43年間かけて焼け野原の無一文から民主主義や市場経済などの進化シス
テムの絶大な力により「日本国民の内在する力を顕在化させる」ことによって好不
況を繰り返しながら「本当の無」から3200兆円の「有」の国富を産み出し世界
一の経済大国に成長した日本が44年目(平成元年)以降、進化システムの作動が
衰え景気の循環を失い不況の連続で経済が瀕死の状態が続いている理由は以上の通
りなのです。

本書では、システム工学が「国民を対象とした制度や法律をシステムとして認識」
することが出来ますので、このシステム的概念を徹底して解決策に活用するべく、
「実用的で確実に効果の出る進化システム」を提案しているのです。

そしてシステムを理解する上で重要なポイントは、システムには「進化条件を備え
た進化システム」と、そのような条件を備えていない「非進化システム」の区別が
存在することです。

そして法律や制度などの「人間社会のルールは遺伝子のような役目をする」ので、
これを進化システムへ大改善すると、法律や制度へ進化システムが注入され、良い
遺伝子として作動し「結果として国家経済は自動的に良好に進化発展する」のです。

戦後43年間の経済を分析すると、この時期細部は別にして基本的な部分は世界で
唯一と言っていいほど日本の経済システムに完全に近い形で実質的に進化システム
が作動していた時期であることが本書は詳しく指摘しているのです。
                                


(シングル・スタンダードの重要性について)

日本の現代社会において、「国民一人一人、国会議員一人一人につき参加の自由と
対等に平等とフェアーな競争(協同)原理」と「不合理にならない範囲内で国家は
国民一人一人(企業一社一社)、国会議員一人一人の競争力の均衡を図る原則」と
が正確に理解されているかどうか、色々な法律、制度を徹底して検証してみると、
国会議員に参加の自由と対等に平等な競争条件が整備されていないため「政党の理
念観念によって」それらの法律、制度の競争ルールが多くの点で意図的に強くゆが
められているのが放置されたままになっていることが分かります。
 
人間は大人になり異性と付き合い、結婚して未来の国家を託す子供をもうけ扶養し
教育し独り立ちさせ、いづれ老いて老後を送るのであり、そして人生は無常でリス
ク(危険)が伴うことを、全ての人間が知りうる故に、人間はどの段階を進むにし
ても「勇気と覚悟」が必要になるのです。

したがって国家の重要な機能としては「国民一人一人につき切迫した危機が生じた、

あらゆる異常時には、無条件で危機の内容に応じてサポート(応援)の体制」を設
けて、国民の「次代の国家を支える国民を育てる最小単位である家族」を維持する
「勇気と覚悟」に答えなければならないのです。

「切迫した危機でない問題」に莫大な国費を使用する政策を立案し、「切迫した危
機」に対して充分な対策を立案してこなかった不平等さが問題なのです。 
 
更に「家族」を形成するシステムを保有している利己的意識と利他的意識を持った
社会的動物としての根源的な人間の生態を遵守して誠実で正直で勤勉に生きている
「大多数の普通の家族を形成している国民を公正であるべき通常時の生存競争や経
済競争において不利にしているあらゆる政策」が日本を経済不況に陥らせたり10
0年後に人口が半減させたりしている現実をもたらしているのです。

つまり家族というライフスタイルを取るか取らないかという家族的要素によって、
本人に有利不利を国が作ってはならない、という公正競争条件が必要なのです。

同じように直接税で行われている、健常高齢者本人への税の各種減税制度は、普通
の成年労働者と比較して「弱者救済的理念観念」によって異状に手厚く減税されて
おり、税制上本来は競争ルールを同一にすべきなのに「事実」として成年労働者と
比べて特に個別的な理由なく公正な競争条件が保たれていないことが、結果として
成年労働者の負担を重くしており、競争条件の大きな歪みとして表れてきています。

この健常高齢者を含めた税制における全国民統一の競争条件の均一化の方向(個々
の所得に対しては超過累進課税)は重要な課題になるのです。

しかしながら逆に健常者と比べて競争条件が極めて問題のある特別障害者などへの
配慮が税制上充分でなく、ここにも生活する上での競争条件という、事実としての
「個別対応政策」が充分ではないのです。

つまり国家は人間の生命に切迫した危機等の「異常時に対応する個別対応政策」と
通常の「正常時に対応する一般政策」とを常に区別して異常時の個別対応対策は手
厚く、正常時の一般対策は広く薄く政策を立案する必要があるのです。

つまり社会を歪めず進化発展させるためには「本人の選択意志が関与できる正常時
に対応する一般政策については対象一人毎の同一基準で競争する環境」つまり「シ
ングルスタンダード化」を徹底して計ることが、最も財政需要を最小限度に止め、
且つ適正な社会経済の進化発展が期待できる方法なのです。

そして本書では高齢者の税の負担が多くなるので、その反対給付として人間にとっ
て死に至るまでの過程で、安心して本人の意志により色々な選択肢を選べるように、

現在非常に不足している選択肢は何であるかを高齢者の本音を徹底的に調査し、人
間の本性に合致した個別対応策を立案し実現することが、新規需要の創出と高齢者
の安心が求められるのです。

自由主義経済でこれを実施するには納税者番号制と公的扶助で行われているミーン
ズ・テスト(資力調査)の整備が不可欠なのです。

さて刑法が比較的良く機能しているのは、全国民に対して聖域を設けず全国民一律
に法を犯した本人一人のみの「同一基準」のみによって本人に刑罰を科す体制が出
来上がっているシングルスタンダードだからなのです。

特別の役職とか、家族の有無とか、年齢とかで何ら刑には影響がないのです。

同様に国政選挙に適用される公職選挙法は本人一人以外誰にも影響されない独立性
を尊重するため、役職の有無や家族の有無や年齢などに全く関係なくシングルスタ
ンダードの規制が強化されており、これこそが日本の公正な選挙の実現に役立って
いるのであります。

したがって法律を立案するときに最も考慮すべき事は、その法律がどの分野であっ
ても、参加の自由と対等に平等のフェアー競争を遵守するものであり、理由なく他
の理念観念を持ちだして、これを侵害してはいけないこと、さらにその法律が国民
大衆を規制する同一分野の他の法律とシングルスタンダート(同一基準)であるこ
とが社会経済と国民感情に合致する法律になるのであります。
 
したがって日本の現状につき上記の「参加の自由と対等に平等の競争基準を守るた
めの規制を強化」し「進化システム部分については徹底して規制緩和を行う」正し
く区分区別した変革をすることが、成熟経済における経済社会の進化発展をもたら
し、そしてこの様な哲学を持つ政党が正に国民政党であり、この様な哲学思想を持
つ団結の緩い政党が登場し日本で多数を占めれば、成熟経済に達した日本において
も今後とも良き未来に向かい、その時代時代に適応した良き政策を選択し、適応出
来ない悪い政策を淘汰する進化システムである社会経済システムが完成するのです。

つまり「民は足らざるを憂えず、等しからざるを憂える」のです。

そしてこの様な公正な競争で国民の幸福を目指す政党は国民政党として必ず国民へ
迎えられ選挙に勝利すると確信しています。

したがって副次的には「参加の自由と対等に平等な条件でフェアーな競争を展開す
るための条件を整備するための規制強化」を行わないと進化システムは良好に作動
しないのであるし、そして進化システムそれ自身に対しては直接的にも間接的にも
規制を強化すると人間の特性、本性に反し、社会経済の進化発展に強い悪影響があ
るので、これは徹底して規制を除去する規制緩和を行わなければならないのです。
また非進化システムに対しては、国民の幸福の追求に反するものについては規制を
強化しても、社会経済の進化発展に何ら悪影響が無く、競争基準を明示する上で極
めて良い影響があるからであります。

したがって成熟経済に達した段階において、経済成長を実現するためには、これら
の区分区別をしっかりした上で強い生存本能を根源的に持つ人間である国民の本性
を信頼し、既に述べた指針によって規制緩和と強化をすれば経済の無限の成長と社
会の無限の発展が達成できることを提案しているのであります。
                                


(資本主義経済における純資産増加額課税の検討について)
さて最後に税制について若干述べたいと思います。

本書の経済成長税制理論さらに日本の時代時代の税制の経済効果を総合的に検討す
ると、資本主義経済社会においては全くの私見でありますが「企業会計原則」に基
づく「純資産増加課税の法人税制」が最も基本的な姿であると実感しています。
出来れば個人所得税にも完全にこの考え方を取り入れ、全収入−全消費=純資産増
加額(個人利益)に対する課税こそ最も優れた方法と考えています。

この場合の費用にあたる全消費には「必要経費はもちろんのこと食料品や衣服や住
居(減価償却費)や教育費など全ての生活出費」を経費と見なし、複式簿記で経理
して「個人家計の純資産増加額を把握し、法人と全く同じように課税すること」が、

「資本主義社会」においては個人も企業も国も「競争力均衡化の環境における参加
の自由と対等に平等な競争による自己拡大原理による経済の過剰性が最も順調に増
進し且つ三者の財務内容の適正化が最も保たれると予測しています。」
つまり純財産の増加があった人に課税するので課税された人は所得分配を行った人
であり、課税の少ない人や課税されなかった人は実質的に国家を通じて有形無形に
所得分配を受けた人になるのであります。

そして課税が少ないか課税されなかった大多数の人は個人消費の多かった人であり、

実は個人消費の増加が純資産の増加という経済成長を支えている根源であるので、
課税の少ない人や課税が無かった人が、実は純財産の増加を支えている人となる
「パラドックス(逆説)」と「輪廻」と「因果関係」になるのです。
しかしこの様な考え方に基づく所得税制は実際問題として技術上無理が伴うため、
日本の高度成長時代に取られた消費税が無く高累進所得税率の税制は、この考え方
を実質的に焼き直し、変換し、事実上簡素化した税制であったのです。

また現状法人税制において「企業会計原則の利益」と「税法の法人所得」の乖離は
企業を管理統括する資本主義経済のシステム上、非常に望ましくなく人間社会にお
いて道徳的に望ましくない経費や支払先が明確でない経費以外は全額経費として認
めるべきと考えています。  
 
真理は常に単純で美しい姿をしているものなのです。 
さらに相続税は相続し、財産をタダで貰った人に課税するのです。

特に資本主義社会ですので「生存競争においては現実問題として資産所有者有利の
社会」でありますので、相続税の課税を大幅減税すると大金持ちの莫大な財産を相
続した子供が有利な社会となり、生まれながらにして不平等な社会となり教育の機
会均等などが妨げられ、優秀な人間が社会で認められる機会が減少し「参加の自由
と対等に平等なフェアーな競争」は行われなくなり、優秀な人間の輩出率が著しく
衰え「競争力均衡化の原則」に反する上、人間の本性、特性から更に加えて所得分
配機能が大幅に落ち個人消費が低迷し経済成長は急激に衰え、国家税収も国家発展
も急速に低迷状態となるのです。
  
日本のような厳しい相続税制が無く大金持ちが幅を利かす特権階級を形作る国家は
世界中にたくさんあり、そのような国家は決して日本のように経済が発展出来なか
ったのです。

日本が高度成長を達成出来た大きな原因は、敗戦によって全ての人が、本当の無か
らの自由と平等の出発になったことと、マッカーサー元帥による「財閥解体」「農
地解放」による特権的な経済的存在を全て破壊した結果と、厳しい所得税と相続税
が存在し、所得分配機能が個人消費性向の高い所得階層(低所得階層)へ良好に作
動しため、個人消費の増加は常時順調であり変換される国民所得も順調に推移し、
貧富の格差の少ない豊かな中産階級である大量の良質な消費者と大量の良質な生産
者を生みだした結果がすばらしい平和で豊かな経済国家を作り上げたのです。  
この無意識に作り上げられた税制が世界一の経済大国を生みだしたのであり、日本
人や官僚が優秀だったわけでは無かったのです。

現代の税制は消費税を5%に増税し、所得税、相続税を大幅減税し、生まれながら
に不平等の社会、特権グループの存在する社会、社会階層を固定化する社会を作り
続け、所得分配機能を大幅に低下させた結果、当然の事ながら個人消費の増加率は
大幅に落ち、それにつれて国民所得は停滞し、貧富の格差は広がり貧しい消費者が
大量に増加し、安売りに群がり全産業の企業経営者を苦境に陥れているのです。
つまりこのような国家政策を立案した政策担当者の残念ながら自業自得なのです。
つまり「相続税」は平時におけるマッカーサーの役割をする税制であり、不合理に
ならない範囲内で人間を生まれながらに実質的に平等に保つ社会を実現することが、

「真の競争によって勝ち残る真に強く逞しい人間を作る秘訣であり」「国家は税収
が上がり」「経済成長には極めて良い効果が上がり」「自由と平等とフェアー競争
が実質的に保証される結果をもたらし」「多くの財産を相続し強制的な利他的行為
を強いられる痛みを伴う納税者以外の多くの国民が喜びを分かちあえる」極めて資
本主義経済には有用な税制なのです。
 
ただ納税については痛税感を和らげるため金銭納税を強制するのは望ましくなく、
徹底した物納の拡充(出来れば全ての財産につき)が必要となります。    
実は相続税については、アメリカでは敗戦の経験がないため、理論研究がなされて
いない分野であり、アメリカでも相続税の減税問題が良く検討もされず度々議論さ
れている経緯があるのです。

アメリカでこの相続税の大幅減税が実施された暁には、アメリカの進化システムは
実質的な競争条件の不平等化つまり生まれながらにして資本保有の不平等が顕在化
し、必ず社会の進歩に悪影響を与えるようになるでしょう。       
たまにはアメリカの失点も望まれる所です。 

さて日本で直接税率の累進強化が実現した時には、これによって納税する税額は、
強制的な利他的行為であるので、これが極めて高額である場合は、これを経済的特
典を与えるのではなく名誉として表彰する制度が出来れば良いと考えています。 
また納税額の新聞発表は所得額と国税、地方税を含めた全納税額(現状は国税のみ)
を全て情報公開し納税という利他的努力に国民は敬意を表すべきであります。

http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/491.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c1

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
2. 中川隆[-13559] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:00:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345]

バブルで稼ぐ国債金融資本の手口

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからバブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。

1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。

 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。

 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。

 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。

 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。

 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。

 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。

ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。

 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。

 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。

 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。


ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。

 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。

 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。

 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。

 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。

 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。

 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。

 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。

 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。

 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。

 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c2

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
3. 中川隆[-13558] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:02:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1346]
「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06    

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』


 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c3

[近代史4] アドルフ・ヒトラーの世界 中川隆
8. 中川隆[-13557] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:19:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1347]

ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。

 オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。

「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」

「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」

「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」

(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)

 絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。

 しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。

ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk

 その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。

 見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。


 ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。


■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー

 一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。

エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

 絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。

 もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。

 実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。

 これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。

「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」

 さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。

 一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。

■ヒトラーの矛盾

 さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。

adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より

 アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。

 その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。

 さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。

 しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。

 しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。

 ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。

 それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html


アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。

ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。

世紀末美術を嫌悪したヒトラー

当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。

ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。

そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。

以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。


ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。


彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。


ディズニー作品も

なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35


▲△▽▼


アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


フリーダが持っていた出生の秘密

Lebensborn 1Nazi girls 6

(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/3/c330f4d3.jpg


  最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。

今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。

Nolans 1ABBA 4

左: ノーランガ
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右: ABBA
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  日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。

  個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。

Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1

左: アグネッタとフリーダ
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/8/d/8deac829.jpg

中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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  1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。

現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)

Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida

(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)

  不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。

Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7

(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設

  ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。

Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)

  ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。

Magnus Hirschfeld 2Weimar Germany 2
(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)

  さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)

  勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。

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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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  そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)

  レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)

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(左: グレゴル・エーブナー

中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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  それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。

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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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  ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。

  我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。

  血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
  存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
  生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
  男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
  我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
  そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
  (上掲書 p.64)

  ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。

恨み骨髄のユダヤ人

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(写真 / ユダヤ人の集団)

  しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、


(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。

(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。

(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。

(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。

(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。

(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。

(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。


  これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。

  第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。

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(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)

  激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。

  映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。

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左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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  こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。

住むなら白人地区

  口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。

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左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )

  アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。

そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。

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(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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  もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?

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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)

  ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。

白人の赤ん坊は高い

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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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  とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)

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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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   気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。

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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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  日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html


ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html

頽廃芸術が横行したワイマール時代

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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)

  今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。

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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )


  第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。

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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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  もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。

例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。

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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。

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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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  ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。

Hitler's painting 1Hitler's painting 6Hitler's painting 2
(上絵画 / ヒトラーによる風景画)

  排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、

  ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)

  確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。

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(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。

Picaso 3Picaso 1Edvard Munch 5Munch Girl Yawning
(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)

  だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。

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(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)


エロ・グロ作品を描いていた亡命者

  ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。

George Grosz 1Max Beckman photoErnst Ludwig Kirchner 1Eric Heckel 3
(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)

  このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。

  ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。

George Grosz Pappi und MammiGeorge Grosz 5George Grosz Strassenszene Berlin
(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)

  憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。

Ernst Ludwig Kirchner 1909_MarzellaErnst Ludwig Kirchner 5Max Beckman 4Max Beckmann
(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )

  ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。

Eric Heckel 6Eric Heckel 2Ludwig Meidner
(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )

  ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。

Lucian Freud 112Lucien Frud 7Lucian Freud Sleeping
(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)

  しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)

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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)

Taraji Henson 2Oprah Winfrey 1111Queen Latifah 2Courteney Cox 3
(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)

大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。

Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)

  ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。

Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )

事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。

Leeann Tweeden 3Leeann Tweeden 4

左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識

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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )

  話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。

Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )

  昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。

Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)

  全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。

Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)

  一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。

  ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html




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額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり


ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。

https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)

先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。


上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。

この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。


https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)

※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。

なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。

https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c8

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
4. 中川隆[-13556] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:27:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1348]

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/


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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

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[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
5. 中川隆[-13555] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:29:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1349]
評論家 中野剛志:悲劇は繰り返す!忍び寄る「令和恐慌」

景気後退にもかかわらず、消費増税を断行。自分で自分の首をしめるがごとく、ことさらに不景気を造っている。

2020年2月号 BUSINESS by 中野剛志(評論家)

「昭和恐慌」招いた井上準之助の愚行


野心にとり憑かれた井上準之助蔵相


国内外が不況であるにもかかわらず、緊縮財政を断行するという愚行の記録は、日本の近代史にもある。最悪の例は、昭和初期に、民政党の浜口雄幸内閣の下で、井上準之助蔵相が断行した「金(輸出)解禁」である。「金解禁」とは、第一次世界大戦を契機に離脱していた金本位制への復帰を指す。金本位制とは、自国通貨を固定レートで金と交換することを約束する制度である。金本位制下の国は、一定量の金準備を必要とする。したがって、例えば、財政支出の拡大が輸入増を通じて国際収支の悪化をもたらすと、金準備が不足してしまうので、財政支出を制限して輸入を減らさなければならない。こうして金解禁(金本位制復帰)は、財政規律を強制したのである。

当時、金本位制は、言わば文明の根幹をなす基本的な制度と信じられており、大戦後の欧米諸国も、順次、金本位制への復帰を果たしていた。こうした潮流の中で、日本も金本位制への復帰を目指していた。しかし、当時の日本は、27年の金融恐慌の爪痕がまだ残っており、為替レートも低位の状態であった。このため、金本位制への復帰は見送られてきたのである。

だが、井上蔵相は、金解禁の断行へと邁進した。彼の論理は、こうだった。政府が財政を緊縮し、国民も消費を節約すれば物価が下がり、輸入も減る。そうすれば、為替レートが上昇する。そういう準備を行った上で、金解禁を実施すれば、問題ない。これは、当時の主流派経済学の教科書通りの論理ではある。しかし、要は、金解禁の準備のために、デフレ政策を行うというのである。そんなことをすれば大不況になるのは当然であった。しかも、もっとまずいことに、金解禁実施の直前の29年10月、世界恐慌の端緒となったニューヨーク株式市場の大暴落が起きていたのである。それにもかかわらず、30年1月、金解禁は断行された。その結果、金が大量に流出し、世界恐慌の影響が日本を直撃し、昭和恐慌が勃発した。しかし、井上蔵相は、緊縮財政を強硬に押し通した。翌31年9月18日には満州事変が勃発し、さらに、その直後には、金本位制の守護者であったイギリスが金本位制から離脱した。それでもなお、井上は路線変更を拒み続けた。

結局、31年12月に民政党政権(第二次若槻礼次郎内閣)が倒れ、政友会の犬養毅内閣が誕生したことで、緊縮財政路線は終わった。そして、蔵相高橋是清の下で、金輸出再禁止が実行され、「高橋財政」と呼ばれるケインズ主義的な積極財政政策が行われた。この高橋財政が昭和恐慌からの脱出を実現したのは、周知の通りである。しかし、井上は、下野した民政党の筆頭総務としての立場から、高橋による金輸出再禁止を攻撃し続けたのであった。

後知恵で考えるならば、国内外ともに不況というタイミングで、緊縮財政を行った井上の政策は愚行と言うほかない。しかし、浜口内閣が金解禁を掲げた時、それに反対する声は、財界、学界そしてマスメディアにおいても、少数だった。当時、金本位制は、欧米諸国においても、文明の根幹をなす制度であると固く信じられていたからだ。当時の主流派経済学においても、金本位制は疑うべからざる仕組みであり、それに異を唱える経済学者は、日本のみならず海外でも、異端であった。こうした当時の知的・政治的環境の下において、大勢が金解禁に傾いたのも無理はなかった。しかし、注目すべきは、かかる状況においても金解禁に反対し、緊縮財政の危険性を理論的に理解していた者が少数とは言え、存在したという重要な事実である。
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「緊縮財政」に松下幸之助の嘆き

最も有名なのは、言うまでもなく、高橋是清である。高橋がケインズ主義的な「高橋財政」を行ったのは、ケインズの主著『雇用・利子・貨幣の一般理論』が刊行される前のことだった。高橋は、ケインズの理論を知らずして、ケインズと同じ理解に達していたのである。例えば、高橋の次の言葉は、ケインズ経済学の有効需要の原理や乗数効果を先取りしたものとして、後世の研究者を驚かせたものである。

〈緊縮といふ問題を論ずるに当つては、先づ国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。(中略)更に一層砕けて言ふならば、仮にある人が待合へ行つて、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。(中略)即ち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであらうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使つたとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それが又諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなつて働く。ゆゑに、個人経済から云へば、二千円の節約をする事は、その人にとつて、誠に結構であるが、国の経済から云へば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなつて働くのであるから、むしろその方が望ましい訳である。茲が個人経済と、国の経済との異つて居るところである〉

高橋は、この洞察を経済理論からではなく、自身の豊富な実務経験から得たのであろう。だが、このような発想は高橋だけのものではなかった。政友会の大物政治家三土忠造も『経済非常時の正視』(1930年)の中で、緊縮財政が消費の減退とデフレを招くメカニズムを正確に示していた。

〈先づ政府が一番大きな消費者であり、次は地方公共団体である。この大なる消費者が急に財政を緊縮して事業の中止又は繰延を行ひ、物資の購入を激減し、事業に従事する多数の人々の収入を杜絶する結果として、生産者及商人に大影響を及ぼし、これ等の人々の購買力を減退せしめることは明かである。又政府の奨励に従つて多数国民が消費を節約することになれば、これが生産者及販売者の利益を減少せしめることも云ふを俟たない。即ち国家及び公共団体並びに多数国民が急に消費を減少するだけでも、経済上に相当大なる打撃を与へ、不景気を招来することは初めより明かであるが、それよりも更に不景気を深刻ならしめるものは、之に依つて起る所の物価先安見越である。(中略)苟も常識あるものは如何なる品物でも今買ふよりも後になつて買ふ方が利益であると云ふ打算をする。かくの如くにして物価先安見越が強くなつて来れば、一般に差当り止むを得ざるものゝ外は購入を見送る気味に一致する〉

実務家のセンスから、ケインズと同じ洞察に達したのは、高橋や三土のような政治家だけではない。かの松下幸之助も、当時、こう考えていたという。

〈緊縮政策もここまでくると、自分で自分の首をしめるがごとくことさらに不景気を造っている(中略)物を使った上にも使ってこそ、新たなる生産が起り、進歩となって不景気が解消され、国民には生気がみなぎり、国力が充実されて繁栄日本の姿が実現するのだ。それにはかかる政策はことごとくその反対の結果を招来するものである。私のような学理を知らない者にとっては不思議でならなかった〉

「学理を知らない」松下が訝しんだ緊縮政策を断行した井上は、エリート中のエリートであった。二高で高山樗牛と首席を争い、東大法学部に進み、卒業後は日本銀行に入り異例の昇進を遂げる。19年日銀総裁、23年には大蔵大臣、27年から28年にかけては再び日銀総裁を務めた。しかし、この経歴から明らかなように、井上もまた豊富な経験をもつ実務家であった。しかも奇妙なことに、彼は29年夏に民政党に入党する直前までは、金解禁は「肺病患者にマラソン競走をさせるようなものだ」と述べていたのである。それが、民政党政権で蔵相となるや、突然、金解禁論者の最右翼に豹変し、少なくとも公式には、死ぬまで自説を改めなかった。なぜ、井上はこのような頑迷な姿勢を貫いたのか。
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「怨念」吸い上げるポピュリスト勢力

井上は、浜口内閣の蔵相に任命され、金解禁を政策課題として与えられた際、かつて誰も為し得なかった金解禁を実現して、歴史に名を刻みたいという野心にとり憑かれたのだ。そして、その政治的野心が、冷静な情勢判断を妨げたのである。金解禁後、その失敗が明らかとなったが、失敗を認めることは政治的敗北を認めることに等しい。批判の声が高まれば高まるほど、井上はますます己の立場に固執せざるを得なくなるというディレンマに追い込まれた(中村隆英『昭和恐慌と経済政策』)。

しかし、井上が自らの政治生命を守ることに執着したせいで、国民、特に中小企業と農民層が絶望的な困窮に追い込まれた。既存の支配層に絶望した彼らは、過激な右翼思想へと引き込まれていった。井上の緊縮財政がもたらした危機がファシズムを生み、日本を軍国主義へと駆り立てたのだ(長幸男『昭和恐慌:日本ファシズム前夜』)。
https://facta.co.jp/article/202002024.html
 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c5

[近代史4] エゴン・シーレの世界 中川隆
1. 中川隆[-13554] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:56:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1350]

エゴン・シーレ(1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアのウィーン分離派の象徴主義、表現主義の画家。

シーレは28歳という若さで世を去ったがその短い生涯で大量のドローイングや水彩画、油彩画を残っている。

1906年はウィーン美術アカデミーに入学した。

1907年にクリムトとの出会って、シーレに初期の作品は影響を与えられた。

1909年、アカデミーを正式に退校して、本格的に独自の活動を開始した。
その後ゴッホやドイツ表現主義の画家達(ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンク)の絵画を目の当たりにし、自らの芸術観に多大な影響を与えられた。

1910年から1911年に、女性だけでなく子供や自分ヌードの自画像も急増した。



エゴン・シーレ「Egon Schiele」(1912−1918) 絵画集 U



デッサンの魅力「エゴン・シーレ Egon Schiele」素描 裸婦




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/356.html#c1
[近代史4] エゴン・シーレの世界 中川隆
2. 中川隆[-13553] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:57:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1351]
戦争より恐れられた病 Posted October. 25, 2018 09:24,
http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85


昨今、インフルエンザは、1本のワクチン接種でそれほど心配しなくて済む病気だが、100年前までは、人類の歴史を揺るがした恐怖の病気だった。特に1918年に発生したスペイン風邪は、第1次世界大戦とかみ合って流行し、5000万人以上の命を奪った大災害だった。オーストリアの将来を嘱望されていた若い画家エゴン・シーレも、その災いを避けることができなかった。

シーレは、クリムトを凌ぐ才能が認められた天才画家であり、赤裸々なエロヌード画で20世紀の初め、ウィーン美術界を揺るがした問題作家でもあった。死への不安と恐怖、性的欲望をよどみなく表わした彼のヌード画は、しばしば芸術とわいせつの間で激しい論争をまき起こした。

1915年、シーレは4年間一緒に暮らした貧しい恋人の代わりに、中間層出身のエディトと結婚した。結婚から4日後、第1次世界大戦に徴兵されたが、軍でも才能を認められ、いくつかの展示会に参加して名前を知らせた。1918年は彼の名声がピークに達した年だった。ウィーン美術界の巨匠クリムトの死亡後、3月に開催された「分離派」の展示会で、シーレは作家として大成功を収めた。絵の価格が高騰し、肖像画の注文が殺到した。ようやく経済的にも精神的にも安定した時期を迎えたのだ。さらに嬉しいことに、妻が結婚から3年ぶりに妊娠したことだった。この絵は、まもなく生まれてくる子供を待つ喜びで、シーレが描いた家族画である。母にすがりつく赤子と、その赤子と同じ場所から見つめる母、そして家長として家族を守るというジェスチャーを取っている画家自身の姿が描かれている。何もかけていない純粋で無邪気な家族の肖像である。

しかし、幸せもつかの間。同年10月28日、ウィーンにまで広がったスペイン風邪で、エディトが妊娠6カ月のお腹の子供と一緒にこの世を去った。3日後、シーレもインフルエンザに感染して、この世を去った。彼がわずか28歳の時だった。当時スペイン風邪の犠牲者数は、第1次世界大戦の死者の3倍を超えた。戦争より恐ろしい災害は、まさにインフルエンザだったのだ。

http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85


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スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)

スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。

当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある

 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。

 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。

 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。

 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。

 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。

このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。

 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している  


▲△▽▼


スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)で死んだ著名人

ギヨーム・アポリネール(文学者)
マックス・ヴェーバー(政治学者)
グスタフ・クリムト(画家)
エゴン・シーレ(画家)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
ヤーコフ・スヴェルドロフ(政治家)
エドモン・ロスタン(劇作家)
チャールズ・ヒューバート・パリー(作曲家)
竹田宮恒久王(皇族)
末松謙澄(政治家、元内務大臣)
徳大寺実則(公爵、元内大臣)
島村抱月(劇作家)
村山槐多(画家)
野村朱鱗洞(俳人)
辰野金吾(建築家)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/356.html#c2

[近代史4] エゴン・シーレの世界 中川隆
3. 中川隆[-13552] koaQ7Jey 2020年3月22日 23:58:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1352]

額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり


ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。

https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)

先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。


上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。


https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)

※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。

なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。

https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/356.html#c3

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
298. 中川隆[-13551] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:18:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1353]
「新型コロナ暴落」で個人投資家が取るべき行動
「過去の暴落とは別物」と見なすべきなのか

平野 憲一 : ケイ・アセット代表、マーケットアナリスト 2020/03/23
https://toyokeizai.net/articles/-/338858

トランプ大統領は「最大2兆ドル規模」の経済対策を表明した。23日以降の株式市場はどう動くだろうか(写真:AP/アフロ)

2019年10月の消費税増税実施の際、安倍晋三首相は「リーマンショック級の事象が起きない限り、予定通り実施する」と念を押して、増税を強行した。
新型コロナ対策の「小出し」は避けよ

だが、まさに、そのリーマンショック級の事象が起きたのだ。その意味で言えば、消費税は元に戻すのが道理と言える。しかし、人の動きを止めている今、経済効果やシステム変更による現場の混乱を考えると、現実的ではない。

再び、2008年のリーマンショック時に行われた現金給付が取り沙汰されている。あの時は1万2000円だったが、実は筆者はもらった記憶がない。一方で、辞退した記憶もないので結局はもらったと思われる。つまり記憶に残っていないのだ。ここは記憶に強烈に残り「もらった実感」もわくように、10万円は欲しいところだ。

額の多寡などはさておき、「リーマンショック級の激震への対策」が必要なのは論を待たない。2008年秋以降を振り返ってみると、米リーマンブラザーズが9月に破綻した後、当時の政権は同10月に「生活対策」、同12月に「生活防衛緊急対策」と、矢継ぎ早に対策を出したはずだった。

だが、小規模対策だっただけに、まったくと言っていいほど効かず、翌2009年4月の経済危機対策でようやく底打ちを示したように、「様子を見ながらの対策」では効果がない。政策は1度に出すべきだ。当時は総事業費130兆円(財政支出30兆円)がトータルの数字だったが、今回も、この規模の対策を出せるかと市場は疑心暗鬼だ。

1つの希望は、当時、この小出しの政策を出したのは麻生内閣だったことだ。このときの経験を生かせるか。世界の政権中枢メンバーでリーマンショックを知っているのは、今や日本の麻生太郎財務相などわずかだ。

まさか麻生財務相のアドバイスを受けたとは思えないが、米トランプ政権が当初打ち出した「1兆ドルの経済対策」は、「最大2兆ドル」(約220兆円)に倍増される模様だ。現在、各州の移動制限措置はまさに「戒厳令」のような状態だ。第2次世界大戦下でも、ハワイ以外の本土にはまったく被害がなく、2001年の同時多発テロも、アメリカ人にとっての精神的ショックは大きかったが、経済的被害は今から考えれば限定的だった。

しかし今回は「アメリカ経済の約3割が事実上の休止状態(大手新聞)」とは、「さながら、3割の国土が火の中にある」と言った感じで、トランプ大統領が自身を「戦時下の大統領」と言う所以だろう。投資家が「アメリカ史上最大の危機」と感じても不思議はない。

また、ここへ来て伊藤忠商事が米国不動産ファンドを立ち上げるという。「緩和によって行き場をなくしたマネーの受け皿」ということで、次の展開を考えての戦略だ。「さすがは商社」と言ったところだが、これだけ世界的追加経済対策が多発すると、新型コロナウイルスと同じように、マネーもどんどん増殖していく。つまり、いずれはインフレになると考えられる。不動産も良いが、まずは株ではないか。


ショック時に株式投資を諦めるな

筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年の第1次オイルショック、1987年のブラックマンデー、1990年の平成バブル崩壊、2000年のハイテクバブル崩壊、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災ショック、2016年のチャイナショックなどだ。これらのほか、中規模な下落まで数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きていることになる。

そのたびに失望し、株式投資から手を引く投資家を見てきたが、一方で多くの投資家は今でも市場にとどまって投資を楽しんでいる(あるいは苦しんでいる)。こうした投資家たちは「下げた時、諦めないで我慢した人たち」であり、「安く買えると喜んだ人たち」だった。

今回のコロナショックは人知を超えているかに見える。だが、市場は人が作っており、過去の大きな下げと本質的には変わらない。

今回の救いのひとつは配当利回りだ。株価が1カ月前には予想もしなかったレベルに下がった結果、東証1部全銘柄の配当利回り加重平均で3%を超えた。4%を超える配当利回りの優良株も多くある。

つまり、5年の期間で考えれば、4%の配当がもらえる優良株は、配当が変わらないとすればだが、さらに(4%×5年=)20%下がっても、事実上実損はないということだ。筆者は、箪笥の引き出しからマネーを出して投資資金に継ぎ足すタイミングではないかと思う。


政策の効果が出るのは意外に早いかもしれない

もちろん、新型コロナの影響で減配なしとは言えず、すべての銘柄にあてはまるわけではない。だが、ここからもう大きく売られる可能性は少ないと見る。

昨年3月の日経平均株価の配当落ちは180円ほどだった。今週はその配当の権利が付いている最終週だ(3月末が権利確定日なら、最終日は27日)。今、価格を下げているのは株式や原油先物だけではない。安全資産とされていた金先物や債券先物も下げている。パニック状態の中で、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいる。同じことをやっていて良いのだろうか。

日米の対策の比較をしたが、例えば、イギリスは当面、レストラン、パブ、ジム、映画館その他全ての事務所の閉鎖を命じ、その間の従業員の賃金の80%を政府が肩代わりするという。

このように、次々に新しい政策が繰り出され、個人の人権が強い自由主義国家では難しいと思われていた都市封鎖や、戦時中のような戒厳令的行動制限が容認され、世界的に危機意識が共有された。結果が出るのは意外に早いのではないか。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c298

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
253. 中川隆[-13550] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:19:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1354]
「新型コロナ暴落」で個人投資家が取るべき行動
「過去の暴落とは別物」と見なすべきなのか

平野 憲一 : ケイ・アセット代表、マーケットアナリスト 2020/03/23
https://toyokeizai.net/articles/-/338858

トランプ大統領は「最大2兆ドル規模」の経済対策を表明した。23日以降の株式市場はどう動くだろうか(写真:AP/アフロ)

2019年10月の消費税増税実施の際、安倍晋三首相は「リーマンショック級の事象が起きない限り、予定通り実施する」と念を押して、増税を強行した。
新型コロナ対策の「小出し」は避けよ

だが、まさに、そのリーマンショック級の事象が起きたのだ。その意味で言えば、消費税は元に戻すのが道理と言える。しかし、人の動きを止めている今、経済効果やシステム変更による現場の混乱を考えると、現実的ではない。

再び、2008年のリーマンショック時に行われた現金給付が取り沙汰されている。あの時は1万2000円だったが、実は筆者はもらった記憶がない。一方で、辞退した記憶もないので結局はもらったと思われる。つまり記憶に残っていないのだ。ここは記憶に強烈に残り「もらった実感」もわくように、10万円は欲しいところだ。

額の多寡などはさておき、「リーマンショック級の激震への対策」が必要なのは論を待たない。2008年秋以降を振り返ってみると、米リーマンブラザーズが9月に破綻した後、当時の政権は同10月に「生活対策」、同12月に「生活防衛緊急対策」と、矢継ぎ早に対策を出したはずだった。

だが、小規模対策だっただけに、まったくと言っていいほど効かず、翌2009年4月の経済危機対策でようやく底打ちを示したように、「様子を見ながらの対策」では効果がない。政策は1度に出すべきだ。当時は総事業費130兆円(財政支出30兆円)がトータルの数字だったが、今回も、この規模の対策を出せるかと市場は疑心暗鬼だ。

1つの希望は、当時、この小出しの政策を出したのは麻生内閣だったことだ。このときの経験を生かせるか。世界の政権中枢メンバーでリーマンショックを知っているのは、今や日本の麻生太郎財務相などわずかだ。

まさか麻生財務相のアドバイスを受けたとは思えないが、米トランプ政権が当初打ち出した「1兆ドルの経済対策」は、「最大2兆ドル」(約220兆円)に倍増される模様だ。現在、各州の移動制限措置はまさに「戒厳令」のような状態だ。第2次世界大戦下でも、ハワイ以外の本土にはまったく被害がなく、2001年の同時多発テロも、アメリカ人にとっての精神的ショックは大きかったが、経済的被害は今から考えれば限定的だった。

しかし今回は「アメリカ経済の約3割が事実上の休止状態(大手新聞)」とは、「さながら、3割の国土が火の中にある」と言った感じで、トランプ大統領が自身を「戦時下の大統領」と言う所以だろう。投資家が「アメリカ史上最大の危機」と感じても不思議はない。

また、ここへ来て伊藤忠商事が米国不動産ファンドを立ち上げるという。「緩和によって行き場をなくしたマネーの受け皿」ということで、次の展開を考えての戦略だ。「さすがは商社」と言ったところだが、これだけ世界的追加経済対策が多発すると、新型コロナウイルスと同じように、マネーもどんどん増殖していく。つまり、いずれはインフレになると考えられる。不動産も良いが、まずは株ではないか。


ショック時に株式投資を諦めるな

筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年の第1次オイルショック、1987年のブラックマンデー、1990年の平成バブル崩壊、2000年のハイテクバブル崩壊、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災ショック、2016年のチャイナショックなどだ。これらのほか、中規模な下落まで数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きていることになる。

そのたびに失望し、株式投資から手を引く投資家を見てきたが、一方で多くの投資家は今でも市場にとどまって投資を楽しんでいる(あるいは苦しんでいる)。こうした投資家たちは「下げた時、諦めないで我慢した人たち」であり、「安く買えると喜んだ人たち」だった。

今回のコロナショックは人知を超えているかに見える。だが、市場は人が作っており、過去の大きな下げと本質的には変わらない。

今回の救いのひとつは配当利回りだ。株価が1カ月前には予想もしなかったレベルに下がった結果、東証1部全銘柄の配当利回り加重平均で3%を超えた。4%を超える配当利回りの優良株も多くある。

つまり、5年の期間で考えれば、4%の配当がもらえる優良株は、配当が変わらないとすればだが、さらに(4%×5年=)20%下がっても、事実上実損はないということだ。筆者は、箪笥の引き出しからマネーを出して投資資金に継ぎ足すタイミングではないかと思う。


政策の効果が出るのは意外に早いかもしれない

もちろん、新型コロナの影響で減配なしとは言えず、すべての銘柄にあてはまるわけではない。だが、ここからもう大きく売られる可能性は少ないと見る。

昨年3月の日経平均株価の配当落ちは180円ほどだった。今週はその配当の権利が付いている最終週だ(3月末が権利確定日なら、最終日は27日)。今、価格を下げているのは株式や原油先物だけではない。安全資産とされていた金先物や債券先物も下げている。パニック状態の中で、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいる。同じことをやっていて良いのだろうか。

日米の対策の比較をしたが、例えば、イギリスは当面、レストラン、パブ、ジム、映画館その他全ての事務所の閉鎖を命じ、その間の従業員の賃金の80%を政府が肩代わりするという。

このように、次々に新しい政策が繰り出され、個人の人権が強い自由主義国家では難しいと思われていた都市封鎖や、戦時中のような戒厳令的行動制限が容認され、世界的に危機意識が共有された。結果が出るのは意外に早いのではないか。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c253

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
277. 中川隆[-13549] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:40:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355]
306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c277

[近代史4] 日本人は本当に縄文人の子孫なのか? 中川隆
4. 中川隆[-13548] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:41:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356]
306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/402.html#c4

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
1. 中川隆[-13547] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:42:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1357]
306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c1

[近代史4] 天皇一族は本当に朝鮮からの渡来人ではないのか? 中川隆
4. 中川隆[-13546] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:43:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1358]

306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/416.html#c4

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
6. 中川隆[-13545] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:48:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1359]

錬金術師と呼ばれたヒトラー総裁
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/


ナチスの経済的錬金術


Germany 2Germany 11Germany 7
(左 : ハイパーインフレに苦しむドイツ人 / 中央 : 札束で遊ぶ子供たち / 右 : 紙幣を燃やして料理を作るドイツ人女性 )


  話を戻す。現在の日本はデフレ経済で苦しんでいるけど、こんな状態になるのは昔から分かっていたんじゃないか。筆者だって長谷川慶太郎の本を読んでいたから、「あぁ〜あ、こりゃ重症になるぞぉ〜」と思っていた。しかし、バブルが弾けた後の処方箋は比較的簡単で、民間企業が元気をなくしているなら、政府が公共投資を増やして景気を回復するしかない。小室直樹先生のファンなら、ケインズの経済学を想い出すかも知れないし、一番分かりやすいのはヒトラーの経済政策だ。
戦勝国から巨額の賠償金を課せられ、ルール地方まで奪われたドイツは、ハイパーインフレの嵐に見舞われ絶望の淵に沈んでいた。(それでも、李氏朝鮮よりマシだろう。) 極度の疲弊は歴史に刻まれている。例えば、

1923年のベルリンではパン1斤の値段が4千280億マルクで
1kgのバターを買うとなれば5兆6千億マルクを払わねばならない。

新聞を読もうとすれば「2千億マルクになります」
と言われ、ギョッとする。

電車賃でさえ1千500億マルクもしたんだからしょうがない。(Constantino Bresciani-Turroni, The Economics of Inflation : A Study of Currency Depreciation in Post-War Germany, G. Allen & Unwin Ltd., London, 1937, p.25.)
さらに、世界大恐慌で失業者が巷にドっと溢れ出したんじゃ、もう泣きっ面に蜂みたいで毎日が青色吐息。

企業の倒産や金融危機が荒れ狂うドイツでは、国内総生産がガタ落ちで、1932年の失業者数は約558万人に上ったそうだ。

(Deutsche Bundesbank, ed. Deutsches Geld und Bankwessen in Zahlen 1876-1975, Knapp, Frankfurt am Main, 1976.)

  このように滅茶苦茶になったドイツを救おうとしたのがヒトラーで、彼は1933年2月に新しい経済計画を発表する。この元伍長は、公共事業による失業者問題の解決や価格統制を通してのインフレ抑制を図ったのだ。一般の労働者を支持基盤にするヒトラーは四年間でドイツ経済を何とかすると約束し、その実現を目指して強権を発動した。

今の日本人はヒトラーを狂暴な独裁者とか、ユダヤ人を虐殺した悪魔と考えてしまうが、当時のドイツ庶民にしてみたら結構評判の良い指導者だった。ユダヤ人に対しては閻魔大王みたいだったけど、ドイツ人労働者に対しては親方みたいな存在で頼りになる。ヒトラーは偉大な救世主を目指したから、国民の福祉厚生に力を入れ、社会の底辺で苦しむ庶民の生活水準を上げようとした。

Schacht 2( 左 / ヒャルマー・シャハト)

  誰でも大々的な公共事業をやれば景気が良くなると分かっている。が、肝心要の「お金」が無い。傘が無ければ井上陽水に訊けばいいけど、資金が無ければ優秀な専門家を探すしかないから大変だ。

でも、ヒトラーは世界的に著名なヒャルマー・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht)博士に目を附けた。奇蹟の復興を目論む総統は、シャハトを口説き落とし、ドイツ帝国銀行の総裁および経済大臣になってもらうことにした。

ヒトラーの抜擢は功を奏し、シャハト総裁はその手腕を発揮する。ドイツ経済はこの秀才のお陰で潤滑油を得た歯車のようにグルグルと動く。

マルクの魔術師はドイツの経済状態を診断し、インフレを起こさない程度に国債を発行する。ナチスに元手が無ければ、ドイツ人が持つ「労働力」を担保にすればいい。

労働者を雇っている事業主が、その労働力に見合った手形を発行し、それを自治体が受け取り、銀行に割り引いてもらう。すると、銀行は自治体にお金を渡して、自治体は公共事業を請負業者に発注する。

こうして、仕事が増え、手形がお金に変わって、世の中をクルクルと回ればみんなハッピーだ。「すしざんまい」の木村社長みたいに笑顔がこぼれる。

  ドイツ人のみならずアメリカ人までもが、「シャハト博士は錬金術師か?」と思うほど、彼は金本位制からの脱却に成功した。戦前、通貨の発行は金の保有量を考慮せねばならず、政府が無闇矢鱈に欲しいだけ紙幣を刷るなんて暴挙だった。確かに、当時のドイツを観れば理解できよう。

1935年当時、ドイツの帝国銀行が保有する金は、たったの56mt(メートル・トン)しかないのに、通貨額は約42億マルクもあった。(換算すると1,800,441 troy ounces)

ちなみに、外国が持つ金の保有量を見てみると、

ブリテンが1,464mt、
フランスは3,907mt、
アメリカだと8,998mt、
ネーデルラントは435mt、
ベルギーが560mtで、
スイスは582mt

となっていた。(Timothy Green, World Gold Council and Central Bank Gold Reserves : A Historical Perspective Since 1845, November 1999を参照)

国債反対より、何に使うのかを議論せよ !

Hitler 7Hitler & kids 1
(写真 / ドイツの子供たちから歓迎されるヒトラー)

  ナチスの経済計画でドイツの国民総生産が増大したのは有名だが、注目すべきは公共事業費の流れ方だ。つまり、ヒトラーはアウトバーンなどのインフラ整備を目指したが、その際、末端の労働者に充分な賃金が行き渡るよう心掛けたという。
建設工事にかかる支出の約46%までが労働者の給料になったのだ。これにより、一般労働者の懐が温かくなり、前から欲しかった衣料品を帰るようになった。

日本だと、政府や議員がゼネコンに丸投げし、たっぷりピンハネしてから子会社に仕事を回すのが普通だ。そして、この中抜きには「続き」がある。子会社は更なるピンハネを行って、立場の弱い孫会社に分配するから、下っ端の職人が手にするのは雀の涙ていど。これじゃあ、地上波テレビ局と同じだ。例えば、ドラマを制作するためにスポンサーがフジテレビに1億円払えば、局がごっそりピンハネして、子飼いの制作会社に丸投げ。受注した制作会社もピンハネして孫会社に任せ、その孫請けが曾孫会社を使って実際の番組を作るんだから、出来上がった作品が貧相な代物になるのも当然だ。もしも、このドラマがブラック企業をテーマにした作品なら、お金を払って俳優を雇わず、社員の日常を撮影してドキュメンタリー・ドラマを作った方がいい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c6

[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
7. 中川隆[-13544] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:51:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1360]

ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持した理由

 マイナス金利政策を巡る顛末からも分かる通り、現在の日本が抱える問題は、
「特効薬が効かない!」 という話ではなく、普通の薬を飲まず、特効薬を追い求めている、という点に本質があります。

 と言いますか、ここまで一貫して普通の薬(財政政策)から目をそらし、効果のコミットができない特効薬を探し回る光景は、もはや喜劇です。普通の薬は、効果について事前にコミットできるにも関わらず、頑なにそこから目をそらす。

 実は、現在の日本や欧州同様に、主要国の政策担当者が病的なまでに財政均衡にこだわり、国民経済を貧困化させるという光景が、80年前にも見られました。

『[FT]21世紀におぼろに見えるドイツ帝国銀行総裁の影
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97052220Y6A200C1000000/


 ジョン・ワイツによるヒャルマー・シャハトの伝記『Hitler’s Banker(邦訳:ヒトラーを支えた銀行家)』を読み返したら、これまで筆者が考えていなかった1930年代と現在の興味深い共通点に気づいた。
ヒトラーが再軍備計画の資金を賄うために、配下の中央銀行総裁だったシャハトに頼ったことは、よく知られている。

だが、ワイツは――そしてここが今日のユーロ圏に潜在的に関係するところだが――、シャハトがライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)で非伝統的な政策を追求できたのは、ひとえに独裁者の後ろ盾があったからだとも指摘している。(中略)
 欧州北部諸国に共有されているブリュッセルとフランクフルトの現在の正統的政策には、30年代に一般的だったデフレマインドとの類似点がいくつかある。

今日の政治家と中央銀行家は、財政目標と債務削減に固執している。30年代前半と同様に、正統的な政策には病的なところがある。今日の中央銀行家は、言うことが尽きると「構造改革」に言及するが、そうした改革が一体何を達成するのか決して口にしない。

 原則としては、ユーロ圏の経済問題を解決するのは難しくない。欧州中央銀行(ECB)が市民一人ひとりに1万ユーロの小切手を手渡せばいい。物価の問題はものの数日で解決されるだろう。あるいは、ECBは独自の「IOU(借用証書)」を発行することもできる。

シャハトが行ったのは、それだ。

または、欧州連合(EU)が債券を発行し、ECBがそれを買い上げてもいい。紙幣を印刷する方法はたくさんある。どれも皆、素晴らしい方法だ。そして違法でもある。(後略)』

 ナチスがドイツで政権を握ったのは、デフレーションで国民の間にルサンチマンが蔓延し、「攻撃的」な政党が喜ばれるという形で社会が歪んでしまったためです。

 とはいえ、ナチスが「支持された」のは、これはもう、ヒトラーとシャハトのコンビが、各国が財政均衡主義の魔物にとらわれ、緊縮財政政策を推進する中において、アウトバーン建設に代表される大規模景気対策を打ったおかげなのです。
ヒトラーが率いるナチスは、1932年には43%(!)だった失業率を、五年間で完全雇用に持ち込んでしまいました。

 それはもう、ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持したのも、無理もない話なのです。

 ちなみに、わたくしは別にナチスを賛美したいわけではなく、「人類」は歴史的に財政均衡主義を「愛し」、デフレ期の財政出動という普通の薬を飲むことができず、デフレの原因を(なぜか)、

「構造改革が不足しているから」

 という、意味不明というか逆効果(構造改革はインフレ対策)の政策を採用。
 緊縮財政と構造改革、つまりは需要縮小策と供給能力拡大策によりデフレを深刻化させ、

「国の借金で大変だ〜っ!」
「構造改革が足りないからだ〜っ!」

 と、バカの一つ覚えのように自縄自縛となる愚かな政策を繰り返してきたという話です。

 特に、デフレ期には単なる「債務と債権の記録」に過ぎないおカネに国民総じて固執し、政府が普通の薬(財政出動)を飲もうとすると、

「政府は無駄なカネを使うな!」

 と、やるわけです。結果、デフレギャップは埋まらず、国民が貧困化し、ルサンチマンが蔓延し、最後には「他の国民を攻撃する」ことで人気を博すポピュリスト政治家が権力を持ち、民主主義が壊れます。

 あるいは、貧困化が行き着くところまで行き着き、国家は虎の子の供給能力を失い、発展途上国化します。

 民主主義の破壊や、発展途上国化を回避するために必要なのは、「特効薬」でも「万能薬」でもありません。しつこいですが、普通の薬、財政出動を中心とした景気対策という普通の政策なのです。

 それにも関わらず、政治家や国民が「普通の薬」について議論しようとさえしない現状に、わたくしは恐怖すら覚えるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12128570302.html

▲△▽▼

現在の状況は、1930年代のヨーロッパとそっくりです。

 1929年のNY株式大暴落に端を発した大恐慌により、ドイツは失業率が43%(32年)に達してしまいました。国民のルサンチマンがピークに達した状況で、ナチス・ドイツが政権を握り、ヒットラーが首相の座に就きました。

 ナチスはヒャルマル・シャハト(ライヒスバンク総裁)の下で、大々的な財政出動を実施。アウトバーンや国道が建設され、WW2開戦までに、3860kmが建設されました。ナチス・ドイツという独裁的な政権の下で、ドイツ経済は瞬く間に回復。わずか五年間で、失業率が完全雇用の水準に至りました。

 当然ながら、ドイツ国民はナチスを熱狂的に支持します。

 妙な話ですが、現在や大恐慌期のような需要低迷期には、なぜか「民主主義国」の方が大々的な財政出動に踏み切れず、状況が悪化します。逆に、独裁国は政府が剛腕をふるい、財政を拡大し、国力を強化してしまうのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12137232005.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c7

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
2. 中川隆[-13543] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:53:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1361]

人間にとって猿とは何か。 哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。

人間は超越せらるべき或物なり。 汝等は人間を超越せむが爲めに何をか爲したる。
一切の事物は從來、其自體の上に出づる或物を造りたり。

然るに汝等は此大なる潮《うしほ》の退潮《ひきしほ》となり、人間を超越するよりも、寧ろ禽獸に復歸せむとするものなるか。

猿猴は人間にとりて何物ぞ。哄笑のみ、或は慘《いた》ましき汚辱のみ。
曾て汝等は猿猴なりき。今も尚人間は、如何なる猿猴よりも猿猴なり。

我は、最も侮蔑するべきものの事を彼等に語らむとす。
最も侮蔑すべきは末人なり。

嗚呼。人間が遂に如何なる星をも産まざるの時來らむ。
嗚呼。遂に自ら卑むることはざる、最も卑むべき人間の時來らむ。

見よ。我は汝等に末人を示す。

「愛とは何ぞ。創造とは何ぞ。憧憬とは何ぞ。星辰とは何ぞ。」 -- 末人は斯く問ひて瞬《またたき》す。

其時地は小《ちさ》くなりて、一切を小くするところの末人其上に跳躍せり。
彼の種族は地蚤の如く掃蕩し難し。末人は最も長く生く。

「我等幸福を案出せり。」 -- 斯く言ひて、末人は瞬す。
http://web.archive.org/web/20040506045015/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/zarathustra/zarathustra-0.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c2

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
3. 中川隆[-13542] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:57:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1362]
ニーチェと超人思想〜超人と末人〜
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-251/


■末人

末人 ・・・ 不吉な響きをもつ言葉だが、何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間。哲学者ニーチェはそれを末人とよんだ。さらに、ニーチェは、このような末人が「神が死んだ」終末に出現し、ノミのように地球にはびこると予言した。

なんとも暗い未来だが、根拠はあるのだろうか?

今から3000年前、古代ギリシャでオリュンピア祭が始まった。4年に一度の競技大会で、現代オリンピックの起源である。ただし、競技種目は今よりずっと少なかった。水泳競技はなく、トラック競技、やり投げ、レスリング、ボクシング ・・・ 早い話が「バトル(戦闘)」。つまり、スポーツの原点は疑似暴力(アグロ)だったのである。

ところで、オリュンピア祭で讃えられたのは?

もちろん、敗者ではなく、勝者。

つまり、この時代は、

・強者=価値が高い → 善
・弱者=価値が低い → 悪

だったのである。

じつは、「強者=善、弱者=悪」には科学的な根拠がある。そもそも、現実世界は「弱肉強食」。そして、われわれ人間が今あるのも弱肉強食のおかげ。弱肉強食セット「突然変異と自然淘汰」で、原始細胞から人間に進化したのだから。

ところが、この自然の摂理にかなった価値観をユダヤ教とキリスト教が逆転させたとニーチェはいう。

つまり、

・強者=価値が低い → 悪
・弱者=価値が高い → 善

なんのこっちゃ?だが、気を取り直して、ユダヤ教とキリスト教のバイブル「旧約聖書」をチェックしてみよう。

じつは、「旧約聖書」は一人で一気に書きあげたものではない。複数の予言者のメッセージを編集したものである。内容は、壮大で一大叙事詩の感があるが、中にはユダヤ教徒への教訓もある。

たとえば ・・・

ユダヤ民族は神に選ばれた民である。だから、唯一神ヤハウェを信仰せよ。そうすれば、神はユダヤ民族の敵をことごとく滅ぼしてくれる。

ところが、敵は滅びるどころか、増える一方だった。そして、1932年から1945年にかけて、歴史に残る「ユダヤ人の迫害」が起こる。ナチスドイツの強制収容所で、600万人のユダヤ人が殺害されたのである。震撼すべき犠牲者の数だが、「殺戮」視点でみれば、最悪でない。

というのも ・・・

米国の図書館員マシュー ホワイトの著書「ランキング・残虐な大量殺戮上位100位」によれば、歴史上、ナチスを超える大量殺戮は3つ存在する。

・チンギスハーン(約4000万人)
・中国の毛沢東(約4000万人)
・ソ連のスターリン(約2000万人)
(※1)

もうすぐ1億 ・・・ ここまでくると、残酷な殺戮も「数字」にしかみえない。

じつは、ユダヤ人を迫害したのはナチスだけではなかった。程度の差こそあれ、ヨーロッパ全土に蔓延していたのである(デンマークは例外)。

1894年、フランス、ユダヤ人将校の冤罪に端を発する「ドレフュス事件」。さらに、1940年、ナチスに占領されたフランス・ヴィシー政府は、過酷なユダヤ人政策を強行した。様々なユダヤ人法を成立させ、次々とユダヤ人を強制収容所に送り込んだのである。

特に、1942年7月に実施されたユダヤ人狩り「春風計画」は凄まじかった。フランス側官憲4500人がユダヤ人の住居を襲い、1万2884名を捕え、アウシュヴィッツ収容所に送り込んだのである。その徹底ぶりは本家ナチスを凌駕する。意外に思えるかもしれないが、フランスの反ユダヤ主義は歴史的にみて根が深いのである。

また、東ヨーロッパでもユダヤ人の迫害が横行した。たとえば、1930年代、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、リトアニア、ポーランドで大規模な暴力沙汰が起きている。ユダヤ人が路上で襲撃されたり、住居が放火されたり、店舗が破壊されたのである。

とくに、バルト海諸国やウクライナでは反ユダヤ感情が強かった。そのため、第二次世界大戦中、多くの住民がドイツ軍に協力した。たとえば、1941年6月28日、リトアニアで起きた「死の砦事件」。コヴノの第9要塞でユダヤ人8万人が虐殺されたのである。

さらに、キリスト教もユダヤ人を差別した。

1936年、ポーランドで、それを象徴するような事件が起きている。

まず、キリスト教イエズス会の機関誌にこんな記事がのった。

「われらの子弟が、ユダヤの低劣な倫理観に汚染されないよう、ユダヤ人学校を別にもうける必要がある」(※3)

さらに、ポーランドのカトリック教会のフロンド枢機卿は、

「ユダヤ人たちが詐欺行為を働き、高利貸しを仕事とし、白人売春婦の売買をもっぱらにしているのは事実である」(※3)

それが事実かどうかはさておき、神がユダヤ人を助けてくれなかったことは事実だ。

そこで ・・・

ユダヤ教の教えは変質した。力で勝ち目がないなら、道徳をでっちあげて、そこで優位に立とう。そして、このような価値観を集大成したのがキリスト教である ・・・ ニーチェはそう考えたのである。

ゴルゴダの丘で磔刑に課せられたとき、イエスはこうつぶやいた。

「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」

殺される弱者・イエスは、殺す強者・ローマ兵に哀れみをかけることで、「弱」から「善」に大変身したのである(命と引き替えに)。

つまり ・・・

相手が力づくできたら、負けてあげましょう。力で負けても、本当に負けたわけではないから。そもそも、力づくで思いを遂げようなんてサイテー。神の前では、力をふるう方が「悪」で、犠牲者は「善」なんだからね。

こうして、ユダヤ教とキリスト教の出現によって、「強善弱悪 → 強悪弱善」のコペルニクス的転回が起こったと、ニーチェは考えたのである。

ところで、よく考えると ・・・

「弱者=善」というのもヘンな話。

「強弱」は物理学、「善悪」は概念。属性が違うものをいっしょにしてどうするのだ?

■超人

ここで、ニーチェの哲理を一度整理しよう。

ユダヤ教とキリスト教は、現実世界で負けた恨みを晴らすために、精神世界で勝利しようとした。その仕掛けが「道徳」である。

つまり ・・・

弱者は協調的で優しいので「善」。一方、強者は自己中で強引なので「悪」。こうして、強者は表彰台から降り、かわりに、弱者が上ったのである。つまり、弱者が勝者にすりかわったわけだ。

それにしても ・・・

負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか。そこで、ニーチェはこのような道徳を「奴隷道徳」とよんだ。奴隷道徳は、道徳の名を冠しているが、弱者を救済するための方便にすぎない。詭弁を弄して、正当化しようが、根源はひがみとねたみ。そこで、ニーチェはこのような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。

そして ・・・

ニーチェの鋭い批判は祖国ドイツにも向けられた。ドイツ人もルサンチマン化しているというのだ。実際、ニーチェは著書「偶像の黄昏」の中でこう書いている。

「かつて思索の民とよばれたドイツ人は、今日そもそも、思索というものをまだしているだろうか。近頃では、ドイツ人の精神にうんざりしている ・・・ ドイツ、世界に冠たるドイツ、これはドイツ哲学の終焉ではあるまいか、とわたしは恐れている。ほかのどこにも、ヨーロッパの『二大麻薬』、つまり、アルコールとキリスト教、これほど悪徳として乱用されているところはない」(※2)

アルコールとキリスト教は「二大麻薬」!?

やっぱり、ニーチェはナチスのお仲間?

というのも、1937年9月12日、ニュルンベルクで開催された第9回ナチス全国党大会で、ヒトラーはこんな演説しているのだ。

「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)は、人類がかつて経験したことのない最大の危機であり、キリスト教出現以来最大の危機である」

ボリシェヴィキとキリスト教は「二大麻薬」!?

つまり ・・・

ニーチェとナチスは、キリスト教(道徳)の天敵、そして、力の賛美者。だから、ニーチェとナチスはお仲間というわけだ。もちろん、ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という根本的な違いがあるのだが、ナチスの磁力があまりに強力なので、わずかな一致で、お仲間にされたのである。

ではなぜ、ニーチェはルサンチマンと道徳を否定したのだろう?

このような卑屈な考えは、人間本来の欲望を押し殺すと考えたから。

人間本来の欲望って?

今ハマっているアクションRPG「ディアブロ3」の世界なら、

・筋力:9999(最大値)
・敏捷性:9999(最大値)
・知力:9999(最大値)
・生命力:9999(最大値)

現実の世界なら、権力、金力、名誉!

ニーチェは、このような純粋で健全な欲望を「力への意志」とよんだ。そして、この意志を持ち続ける人間を「超人(ウーヴァーメンシュ)」とよんで、人間かくあるべしと鼓舞したのである。

ただし、ここでいう「超人」は、まれな資質を有し、困難な目標を成し遂げるスーパーマンではない。資質がイマイチで、成功の見込みがうすくても、自分の欲望から目をそらさず、挑戦する人間をいう。つまり、結果ではなく、意志。だからこそ、ニーチェは「力への意志」とよんだのである。

さらに、ニーチェは超人とルサンチマンがせめぎ合う未来を予言した。

ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。

その結果 ・・・

誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。

その瞬間、道徳も崩壊する。なぜなら、道徳は神なくしてありえないから。

一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるからである(少なくとも、そう教えられる)。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。

こうして、遠くない未来に、二大宗教的価値観「信仰と道徳」が崩壊する。そのとき、ルサンチマンはよりどころを失い、ただ生きながらえるだけの生き物になる。それが「末人」というわけだ。

一方、「超人」は、時代や環境に左右されることはない。自分で価値観をつくることができるから。だから、神が死のうが、既存の価値観が崩壊しようが、迷わず、まっすぐ生きていける。つまり、超人とは、何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」を持った人間なのである。

これが、ニーチェの「超人思想」。

力強く、斬新で、カッコイイ。でも、暴力的で危険である。根っこにあるのは「背神」と「反道徳」、つまり、反宗教だから。

ところが、ニーチェは、初めは熱心なキリスト教徒だった。少年時代に、こんなことを書いている ・・・

「神はすべてにおいて、あやまちを犯さないよう、わたしを導いてくださった。だから、わたしは一生を神への奉仕に捧げようと決心した」

一体、何がニーチェを変えたのか?

おそらく、「狂気」。

ドーパミン過剰の激しい性質は、中庸と安定を好まず、左右のどちらかに振り切れる。その結果、既存の価値のことごとく破壊する。それで、新しい価値を生めばよし、破壊でおわれば、その先に待っているのは ・・・ 狂気の世界。

つまり、勇ましいニーチェの超人思想も、結末は超人か狂人か?

それを自ら体現してみせたのが、ニーチェ自身だったのである。

参考文献:

(※1)殺戮の世界史〜人類が犯した100の大罪 マシュー ホワイト著、住友進 訳 早川書房

(※2)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)

(※3)ヒトラー全記録 20645日の軌跡 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-251/


▲△▽▼


ニーチェとナチス〜レニの意志の勝利〜


■ワーグナーの信奉者

神は死んだ ・・・ ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」でかく語った。

この不用意な一言が、キリスト教徒の心情を逆なでにし、反キリストの烙印を押されたことは想像に難くない。大哲学者ニーチェも、熱心なキリスト教徒からみれば、ただの背信者なのだ。つまり、20億人が敵!?

さらに ・・・

ニーチェは「ナチスのシンパ(賛同者)」の嫌疑もかかっている。もし、それが本当なら、全人類が敵!?

歴史的名声をえているニーチェ像も、じつは薄氷の上にあり、いつ水没してもおかしくないわけだ。

では、本当のところはどうなのだろう?

第一の疑惑はワーグナーがからんでいる。

ワーグナーは、言わずと知れたドイツの大音楽家である。19世紀ロマン派歌劇の王様で、「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」など、荘厳かつ芝居がかった楽曲で名声をえている。

そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。

そして ・・・

ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。

「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」

ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。

ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。

ところが ・・・

ワーグナーは偉大な音楽家にみえるが、うさん臭いところもあった。天上天下唯我独尊で傲慢不遜、しかも、金遣いがあらく、年中金欠だったが、問題はそこではない。

彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。

北欧ゲルマン?

じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。

ゲルマン人最高&ユダヤ人最低?

ナチスの教義そのままではないか。

じゃあ、ワーグナー夫婦はナチス信奉者だった?

ノー!

この二人がナチス信奉者であるはずがない。ナチスが創設される前に死んでいるから。

それに、17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。

ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。

そもそも、ニーチェは人種差別主義者ではなかった。彼は「ユダヤ教」を嫌っていたが(厳密には一神教)、「ユダヤ人」を差別していたわけではない。

というわけで、ワーグナーをからめて、ニーチェを「ナチスシンパ」呼ばわりするのは正しくない。

ところが ・・・

やっかいなことに、そう思われてもしかたがない事実があるのだ。ニーチェは著書の中でこう書いている。

「ちっぽけな美徳やつまらぬ分別(道徳)、惨めな安らぎ(宗教)を求めることなかれ、強固な意志と不屈の精神で成し遂げるのだ」

つまり、「道徳」と「宗教」を否定し、内なる声に従い、雄々しく生きよと鼓舞したのである。

これがニーチェ哲学の根幹をなす概念「力への意志」である。そして、この勇ましい思想が、ナチスに利用されたのである。

■ナチスの映画

1934年、ナチスは党のプロパガンダ映画「意志の勝利」を制作した。1934年9月4〜5日に開催されたナチスの全国党大会の記録映画である。

タイトルといい、内容といい、ニーチェの「力への意志」を彷彿させる。

ところが、この映画は、現在、ドイツで上映が禁止されている。ドイツでは、映画であれ、TVであれ、Tシャツであれ、「ナチス」の露出は禁じられているのだ。

禁じられると、よけいに観たくなる!

心配無用。日本ではDVDがふつうに手に入る(amazonで3,730円)。

それにしても日本はいい国だ。言論・思想の自由とかで、言いたい放題、見せたい放題、何をしても許されるのだから(皮肉です)。そこで、DVD版「意志の勝利」(※1)を購入してみると ・・・ 暴力シーンやエロいシーンはゼンゼンない。むしろ、荘厳で美しく、芸術的(そして眠くなる)。

ということで、発禁の理由は、ひとえに「題材=ナチス」。

では、映画の内容はどうなのか?

「ナチス」がムンムン伝わってくる。

冒頭、いきなり、鷲と鉤十字をかたどった像の下に、「Triumph des Willens(意志の勝利)」が映し出される。

そして、重々しい文言 ・・・ 1934年9月5日、世界大戦勃発から20年後、ドイツの受難から16年が経過、ドイツの復興が始まって19ヶ月、アドルフ・ヒトラーは閲兵のため、ニュルンベルクを再訪した ・・・

シーンは変わって、飛行機のコックピット。眼前にみごとな大雲海が広がっている。重厚なサウンドと相まって、気分が高揚する。飛行機は徐々に高度を下げ、雲の割れ目から古都ニュルンベルクが見える。大聖堂をはじめ、荘厳な石造りの建物が整然と並ぶ。中世を思わせる美しい街だ。

飛行機がニュルンベルクの飛行場に着陸する。大勢の民衆が出迎え、歓声をあげている。ヒトラーが飛行機から降り立つと、「ハイル、ハイル、ハイル」の大合唱だ。

オープンカーで、ドイッチャー・ホーフ・ホテルに向かうヒトラー。その途中、道の両側の建物から鉤十字のナチス旗が垂れ下がり、人々が熱狂的に手を振っている。

ホテルに到着すると、母と娘がヒトラーに花束をわたし、笑顔でこたえるヒトラー。絵に描いたような演出だ。ヒトラーがホテルに入ると、

「われらの指導者、姿をみせて!」

の大歓声がわきおこる。ヒトラーが窓から姿をあらわし、それに笑顔でこたえる。強固な意志と不退転の決意を秘めながら、民衆には心を開く、我らが指導者というわけだ。

映像はモノクロだが、美しく、荘厳で、力強い。演出もカメラワークも、時代を考慮すれば新鮮だ。映画全体に一大叙事詩のような風格がある。こんな映画を撮れる監督はそういない。現代なら、スタンリー・キューブリック(故人)かリドリー・スコットか?

■レニ リーフェンシュタール

ところが ・・・

「意志の勝利」を撮ったのは、キューブリックやリドリースコットのような映画界の重鎮ではなかった。レニ リーフェンシュタール、当時まだ32歳の美しい女性だった。

この映画の2年前、1932年3月、レニ リーフェンシュタル監督兼主演の映画「青の光」が公開された。ヒトラーはこの映画をみて感動したのである。その後、レニはヒトラーの大のお気に入りになり、1938年のベルリンオリンピック「民族の祭典(オリンピア)」の監督も任されている。

「意志の勝利」は高い芸術性が評価され、数々の賞を受賞し、レニも栄光と名誉を手に入れた。ところが、戦後、評価は一変する。ナチスが全否定されたのだ。結果、「意志の勝利」は上映が禁じられ、レニ自身も、ナチスに協力した罪で訴えられた。最終的に無罪になったものの、誹謗中傷はその後もつづいた。

この不遇に対し、レニはこう反論した。

「わたしはナチスに加担したわけではない。美を追求しただけだ」

たしかに、レニの映像は「美」をねらっている。しかし、その「美」は穏やかな自然の美ではない。超越した力の美である。そして、脚本は明確に「ナチス礼賛」。これでは、「ナチスの協力者」と言われてもしかたがないだろう。もっとも、そうしないと、映画は完成しなかったのだが。実際、ナチス宣伝相ゲッベルスがあまりに口うるさいので、レニはヒトラーに苦情を訴えている。

ということで、レニはヒトラーから依頼されてこの映画を撮ったのだが、結果として、ナチスを利用して自己実現することになった。フォン ブラウンが、ナチスの超兵器V2ケットを利用して、ロケットの夢を叶えたのと同じように。

論より証拠、映画の内容を精査してみよう。

脚本と演出から、この映画のテーマは3つ確認できる。
1.ヒトラーは偉大な指導者
2.ドイツの若者は健全でパワフル
3.ナチスドイツは階級のない社会

では、この3つが映像でどう表現されているかみていこう。

【ヒトラーは偉大な指導者】

飛行場に到着したヒトラーを出迎える熱狂的な民衆。オープンカーで移動中、道すがらナチス式敬礼でヒトラーを讃える民衆。母娘から花束を渡され、笑顔でこたえるヒトラー ・・・ ヒトラーは国民から崇拝されると同時に、愛される指導者でもある。

さらに ・・・

ヒトラーの演説は分かりやすく、力強い。要点をしぼって、カンタンな言葉で何度も繰り返す ・・・ ヒトラーは頭がよくて、頼りがいがある。ドイツを再び繁栄に導いてくれるに違いない。

というわけで、ヒトラーの演出は「偉大な指導者」にフォーカスされている。

【ドイツの若者は健全でパワフル】

ニュルンベルク郊外に設営された無数のテント。ヒトラーユーゲント(青少年団)の野営地だ。ここで、多くの若者が共同生活をおくっている。

朝起きて、ヒゲをそり、顔を洗う、こんな日常でさえ、限りなく健全で明るい。水掛けをしてふざけあうカットも、民族の一体感を感じさせる。そして、みたこともない大鍋でスープをつくって、大量のソーセージを煮込んで、みんなでモリモリ食べる。調理と食事という日常の風景なのに、物量が多いだけで、力強さを感じさせる。

食事が終わると、相撲とボクシングをあわせたような格闘技や騎馬戦に興じる ・・・ じつは、スポーツは疑似暴力(アグロ)。

というわけで ・・・

ドイツの若者は、共同生活を楽しみ、スポーツを愛する。だから、健康的で、明るく、パワフル。心の病気などどこ吹く風だ。

そして ・・・

こんな若者にささえられたドイツの未来は明るい!

とはいえ、これが当時のドイツ青少年のスタンダードと言うわけではない。この映画が撮られた1934年、ドイツの若者がすべてヒトラーユーゲントとは限らなかったから。ところが、1936年、「ヒトラーユーゲント法」が成立し、すべての青少年の入団が義務づけられた。つまり、「ドイツの青少年=ヒトラーユーゲント」。

以前、265代ローマ教皇ベネディクト16世が、ヒトラーユーゲントの団員だったことが取り沙汰された。もちろん、的外れ。この時すでに、ヒトラーユーゲント法が成立していたから。

【ナチスドイツは階級のない社会】

民族衣装に身を包み、収穫の行進をする農民たち。ナチスは農業・農民を重視します!が映像からヒシヒシ伝わってくる。そもそも、ヒトラーが東方生存圏の拡大をもくろんだ理由は、ドイツの食料不足にあったのだから。

ヒトラーがドイツ労働者戦線指導者ロベルトライをともない、労働戦線の隊員たちを観閲する。続いて、ナチス幹部の労働者を讃える熱い演説。

この2つの映像は、ナチスドイツが農民と労働者を重視する、つまり、「階級のない社会」であることを示唆している。また、先の「ヒトラーユーゲントの野営地」の映像は、ナチスドイツが個人が全体に従属する「全体主義」であることを暗示している。

つまり、ヒトラーの狙いは、「階級のない社会=共産主義」と「個人より国家=全体主義」にあったのである。

そして ・・・

後者の「全体主義」は、おそらく、ヒトラーの戦争体験によっている。

1918年10月13日、第一次世界大戦中、イープルの前方の南部戦線で、イギリス軍は毒ガス「マスタードガス(ドイツ軍は黄十字ガスとよんだ)」を使用した。ヒトラーはその毒ガスをもろにあびたのである。

その時の苦悩と覚醒が、ヒトラーの著書「わが闘争」に記されている ・・・

ガスに倒れ、両眼をおかされ、永久に盲目になりはしないかという恐怖で、一瞬、絶望しそうになったときも、良心の声がわたしを怒鳴りつけたのだ。あわれむべき男よ、なんじは、幾千の者がなんじより幾百倍も悪い状態に陥っているのに、それでも泣こうとするのかと ・・・ わたしは、祖国の不幸にくらべれば、個人的な苦悩というものが、すべてなんと小さいものかということを知ったのだ(※2)。

まさに、全体主義 ・・・

でも、「共産主義+全体主義」なら、まんまボリシェビズム(レーニン式共産主義)では?

たしかにやってることは変わらない、では身もフタもないので、ムリクリ両者の違いを捻出すると ・・・ 憎む相手。

ボリシェビズムの敵は、資本家、つまり「階級」。一方、ナチスの敵は、ユダヤ人とスラヴ人、つまり「人種」。

ヒトラーは「ヨーロッパの新秩序」を掲げ、人種ヒエラルキー社会をもくろんでいたのである。それが、イデオロギーとよべるかどうかはさておき、上から順番に ・・・
第1位:ゲルマン人(ドイツ・オーストリア)
第2位:ラテン人(南ヨーロッパ)
第3位:スラヴ人(東ヨーロッパおよびロシア)
第4位:ユダヤ人

ヒトラーは、ドイツの資源不足(特に食糧)を憂慮していた。そこで、新たな生存圏を獲得するため、上記リストの下位の土地をねらったのである。ところが、第4位のユダヤ人は広い領土をもたない。一方、第3位のスラヴ人が住むロシアは広大で、天然資源は無尽蔵(特に鉱物資源は世界トップ)。そこで、ヒトラーはロシアを征服しようとしたのである。

ヒトラーは、「優れたドイツ人が狭い土地に住み、劣ったスラヴ人が広い土地に住むのはがまんならない」と側近にもらしていたという。その意識が、第二次世界大戦を招いたのである。

ただし、第二次世界大戦の直接原因はヒトラーにあるのではない。イギリス首相チェンバレンの愚策にある(イギリス議会の総意でもあったが)。ヒトラーはフランスはもちろん、ポーランドも侵攻するつもりはなかったのだから。

ということで、ナチズムもボリシェビズムも「敵を憎んでやっつけろ」が基本で、異民族や価値観の違いを認めて、折り合う気がさらさらない。だから、隣国にとってはハタ迷惑なのだ。

日本のお隣にも、お仲間がいるって?

否定はしませんけどね。

話をレニにもどそう。ゲッベルスにちゃちゃを入れられたか、身の危険を感じたか分からないが、結果として、映画は「ナチス礼賛」になってしまった。

その真骨頂が、ナチスの副総統ルドルフ・ヘスの演説だろう。映像を観ていると、歯が浮いてくる ・・・

わが総統 ・・・ 人々は理解することになるでしょう。我々生きるこの時代の偉大さを、我が国にとって、総統がいかに重要な存在であるかを。

あなたはドイツです。

あなたの指導のもと、ドイツは真の祖国となる目的を達成するでしょう。世界中すべてのドイツ民族のために。あなたは我々に勝利を約束なさった。そして、今、我々に平和を与えてくださる。ハイル・ヒトラー!ジークハイル!

それにつづく、「ジークハイル!」の大合唱。

ところが ・・・

このヘスの演説の合間に、2秒ほど、ナチスナンバー2のゲーリングの表情が映るのだが ・・・ その白けた顔。そこにはこう書いてある。

「よう言うわ」

これはカットですよ、レニ監督。

■ニーチェとナチス

というわけで、ニーチェの思想とナチスの教義は似ているが、共通するのはイケイケぐらい。そもそも、ニーチェの「力への意志」の核心は個人主義にあるが、ナチスは頭のテッペンからつま先まで全体主義。だから、根本が真逆なのだ。つまり、ナチスは、都合のよいところだけ、ニーチェ・ブランドを利用したのである。宗教的道徳を捨て、力を信じて、お国のために死んでくれ!と。

ところが、ヒトラーがニーチェを愛読していたという証拠はない。ヒトラーは大変な読書家だったが、ジャンルは歴史と地理と戦争物に限られていた。ただし、第一次世界大戦中、戦場でショーペンハウアーを読んでいたという記録がある。

ショーペンハウアーといえば、19世紀を代表する大哲学者だが、大学入試(大阪大学)の現国の問題にもなっているので、特別難解というわけではない。とはいえ、個人的には難解だし、そもそも陰気臭い。でも、ひとつだけ感動した言葉がある。

「人間、40才までが本文、それを過ぎたら注釈の人生」

偉人の名言の中でも、ひときわ目立っている。あまりのインパクトに卒倒しそうになった。

それはさておき、ショーペンハウアーは「意志」にからんで、ニーチェに影響を与えているので、ヒトラーの心をとらえた可能性はある。

一方、イタリアのファシスト党首ムッソリーニは、ニーチェを愛読していた。彼は自著「力の哲学」の中で、

「ニーチェは19世紀最後の4半世紀で、最も意気投合できる心の持ち主だ」

と持ち上げている。

ムッソリーニの「覇道の人生」を正当化しているのだから、無理からぬ話だ。とはいえ、ムッソリーニは、世間に流布されたような無教養で粗野な人物ではなかった。大変な読書家で、数カ国語をあやつるインテリだったのである。

というわけで、ヒトラーがニーチェの信奉者だった証拠はないが、お仲間のムッソリーニはそうだった。だから、ニーチェはファシズムを産んだわけではないが、加担したことは否定できない。

しかし、ニーチェの一番の問題はそこではない。

彼の理想と現実の埋めようのないギャップ。

■ニーチェの末路

ニーチェは読者にむかって ・・・

「己の内なる声に耳を傾けよ。その声に従って、生きよ。道徳やルールに惑わされてはならない」

と、危険な生き方を強要しておきながら、自分は35歳でニートになってしまった。体調不良で、大学の教授をやめたのである。その後、気候の良い土地を転々としながら執筆に専念した。早い話が在野の学者。

ところが、ニーチェの転落はここでとどまらなかった。45歳で、生きながらにして、アリ地獄に落ち込んだのである。

1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、突然、馬の首にしがみつき、泣き崩れてしまった。気が触れたのである。その後、実家のナウムブルクから近いイェーナの精神病院に入院した。

病室では、たいてい口をきかず、ふさぎ込んでいた。かとおもうと、突然、大声でわめきだし、自分を皇帝とか公爵とよんで、窓を叩き壊すこともあった。そして、頭痛がはじまると、看護人をビスマルクだと言って、ののしるのだった。

「私は愚かだから死んでいる。私は死んでいるから愚かだ」

と、芝居のセリフのような呪文を繰り返した。

これはうつ病レベルではない。重度の精神障害「統合失調症」である。

やがて、病院は回復の見込みがないことを認め、1890年5月、ニーチェは退院した。その後、ナウムブルクの実家にもどり、一度も回復することなく、55歳でこの世を去った。

じつは、ニーチェの狂気は、鞭打たれる老馬をみて、突然、発現したわけではない。子供の頃、すでに、予兆があったのだ。ニーチェはこう書いている。

「僕が恐ろしいと思うのは、僕の椅子の後ろの、ぞっとする姿ではなく、その声である。どんな言葉だって、その姿が発する声ほど、身の毛もよだつ、言葉にならない非人間的なものはない。人間がしゃべるように話してくれさえすればいいのだが」(※3)

幻聴や幻覚は統合失調症の典型的な症状である。誰もが子供のとき経験する夢想世界とは別ものだ。結局、ニーチェの幼少時の予兆は現実になったのである。

■クラーク博士の末路

ニーチェの理想と現実の人生をみると、

「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」

を残したクラーク博士を思いだす。

ウィリアム・クラークは、アメリカ合衆国の教育者で、札幌農学校(現北海道大学)の立ち上げに尽力した。先の名言は、これから巣立つ若者へのはなむけの言葉として有名である。

ところが、そのクラーク博士 ・・・

帰国後、大学の学長になり、順風満帆だったのに、自分の名言を実践することにした。学長を辞めて、新しい大学の創設、会社の創業に挑戦したのである。

「Old boys,be ambitious(中年よ、大志を抱け)」

ところが ・・・

結果はすべて失敗。最後は破産に追い込まれた。その後、心臓病をわずらい、寝たり起きたりで、59歳でこの世を去ったという。

大志を抱き、現実で失敗し、悲惨な末路をたどり、名声だけが残る ・・・ 詳細はさておき、大枠、ニーチェと同じではないか。

というわけで ・・・

挑戦する人生は素晴らしいが、身の丈を超えると、後が良くない。欲をかかず、つつましく生きるのも良き人生かな ・・・

■ゲーテの末路

ニーチェは、寄宿学校時代、文学サークル「ゲルマニア」をつくり、シェークスピアやゲーテをよみあさった。

そのゲーテだが、詩人、劇作家、小説家、科学者、弁護士にして政治家と、ニーチェの「力への意志」を地で行くような「攻め」の人生だ。

ところが ・・・

その「攻め」のゲーテが、晩年、こんな言葉を残している。

気持ち良い人生を送ろうと思ったら ・・・

済んだことをクヨクヨしないこと、
むやみに腹を立てないこと、
現実を楽しむこと、
人を憎まないこと、
そして、未来を神にまかせること。

人生は複雑である。

参考文献:

(※1)意志の勝利[DVD] 販売元:是空

(※2)わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) アドルフ・ヒトラー (著), 平野 一郎 (翻訳), 将積 茂 (翻訳)

(※3)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳) 白水社
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-249/


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ニーチェとルサンチマン〜道徳の正体〜
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-250/


■ニーチェかサルトルか

昭和51年、日本の高度経済成長のまっただ中、こんなTV CMが流行した ・・・ 「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか〜、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか〜、みーんな悩んで大きくなった〜」 作家の野坂昭如が歌ったウィスキーのCMである。哲学者をまとめてコケにしたようなバチ当たりなCMだが、悪意は感じられない。彼の不思議なキャラのおかげだろう。野坂昭如は、言動はハチャメチャだが、どこか憎めない。何をしても許されそうな ・・・

そういえば、大島渚監督の結婚30周年パーティで、主役をグーで殴って大騒動になった。犯行映像も残っており、証拠は万全なのだが、訴えられたという話は聞かない。 とはいえ、彼のすべてが不真面目というわけではない。直木賞を受賞した「火垂るの墓」は何度もみても泣ける(ただしアニメ版)。

ところで ・・・ 冒頭のCMは、哲学者の有名どころはソクラテス、プラトン、ニーチェ、サルトルと言っているようなもの。つまり、ニーチェは日本でもポピュラーな哲学者なわけだ。 では、ニーチェと聞いて、何を思い浮かべるか? ツァラトゥストラはかく語りき 神は死んだ 超人思想 ・・・・ ニーチェの象徴、3大キーワードである。

ところが、この3つはすべて、ニーチェ哲学の重要な概念「力への意志」にからんでいる。 ニーチェは著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で、「神は死んだ」と宣言し、人間のあるべき姿「超人思想」を提唱したから。 しかし ・・・ ニーチェが本当に言いたかったのは、「神は死んだ」ではなく「神は妄想である」だったのだ。

そこで、100年後、生物学者リチャード ドーキンスはニーチェを代弁した。彼は著書「利己的な遺伝子」で、生物は遺伝子の乗り物にすぎないと暴露し、さらに、著書「神は妄想である」で、人間を創造したのは進化の法則で、神ではないと言い切った。つまり、神と宗教を否定したのである。 ということで、ニーチェは哲学、ドーキンスは生物学、それぞれ異なったアプローチで同じ結論に到達したのである ・・・ 神は妄想ナリ。ところが、ロジックの鋭さと辛辣さでは、ニーチェが一枚上手。

■ルサンチマン

ニーチェ版「神は妄想」は用意周到である。まず、彼が最初に持ち出したのが「ルサンチマン」だった。 ルサンチマン? 響きはいいが、非常に危険な言葉である。フランス語で「恨み」とか「嫉妬」という意味だが、哲学用語としての意味は最悪 ・・・ 絶対にかなわない強者に対し、ねたむ、ひがむ、陰口をたたく ・・・ ここまでは想定内だが、ルサンチマンは陰湿でしつこい。相手を悪者に仕立てあげ、自分を正当化する。そして、ここが肝心なのだが ・・・ すべて想像の中で、行動は一切ナシ。

なんで?

立ち向かえば瞬殺されるから。 なんと惨めな。 「あんた立派だね。頑張れば ・・・」 ぐらいの皮肉の一つも言って、あきらめればいいのに。 ところが、ルサンチマンは、それでは腹の虫がおさまらない。卑屈というか、偏屈というか、いびつというか ・・・ 具体例をしめそう。 マイクロソフトは、OS(Windows)とOffice(Word、Excel)で成功し、ソフトウェア業界の王族として君臨している。革命でも起こらない限り、王座は安泰だろう。なぜなら、OSとOfficeは初めにやったもん勝ちだから。

たとえば、何か面白いアプリを思い付いて、開発するとしよう。どのOSを選ぶ? もちろん、Windows、次に余裕があれば、Macかな。もっとも、昨今は、タブレットやスマホが急伸しているので、AndroidかiOSかもしれない。つまり、普及しているOSほど、アプリが多いわけだ。だから、一旦、劣勢になったOSが挽回するのは不可能。

さらに、ビジネス現場ではWord、Excelがデファクトスタンダードになっている。外部とのデータのやりとりはPDFが多いが、Word、Excelのファイルを使うことも多い。だから、カネを惜しんで中国製のOffice互換ソフトを買ったところでさほど意味はない。 つまり、マイクロソフトの目を見張る成功は、実力ではなく、既得権益によっている。だから、どんなに優れた商品を開発し、どれほど広告を打とうが、勝ち目はないわけだ。これが、王族と言われるゆえんである。

さて、ここで、ルサンチマンの登場である ・・・ オデは知ってるぞ。マイクロソフトが成功したのはタナボタ、実力があったわけじゃない。1980年、IBMがパソコンに参入したとき、マイクロソフトのMS-DOSが採用され、「パソコンOS=マイクロソフト」が既成事実になったことがすべて。運というか、成り行きというか ・・・ 実際、あのとき、最有力はデジタルリサーチのCP/Mだったんだからな。

だから、マイクロソフトが市場を征服しようが、神様よりお金持ちになろうが、絶対に認めん。 じゃあ、WindowsとOfficeは使っていないの? あ、いや、使っているけど ・・・ 好きで使ってるわけじゃないぞ。みんなが使っているから、使っているだけだ。 では、WindowsとMacどっちがいい?

そりゃもう、Mac!

Appleと比べれば、マイクロソフトなんてゴミみたいなもんだ。いいか、よく聞け、オデはAppleには一目置いているけど、マイクロソフトなんか絶対に認めないぞ(Macを実際に使ったことあるのかな)。 それに ・・・ マイクロソフトはあんなに稼いでいるのに、WindowsXPのサポート打ち切りとか、ふざけたこと言いやがって。売るだけ売っておいて、無責任な話だ。たしかに、金持ちかもしれんが、性根はサイテーだ!

もう一声 ・・・ 創業者のビルゲーツも二代目CEOのスティーブンバルマーもユダヤ人っていうじゃないか。「ベニスの商人」の金貸しシャイロックだな。オデは、こんなエゲツナイ商売する連中とやり合うつもりはない。そこで、焼鳥屋をやることにした。あいつらと違って、オレは品があるからな。 これが、ルサンチマン。 では、ルサンチマンの逆は? たとえば、Google。 ボクたち、マイクロソフトがソフトウェア業界の王族だってことは認めるよ。大したもんだよ、ここまで来るのは。もちろん、ボクたちもイケてるけど、まともにやっては勝ち目はない。だけど、逃げたりはしない。土俵を変えて勝負するんだ。マイクロソフトはデスクトップのキングなら、僕たちはウェブのキング。そして、いつかウェブがデスクトップを超える日が来る。そのとき、マイクロソフトを打ち倒すんだ! その「いつか」だが、遠い未来ではなさそうだ。

ということで、ヘソ曲がりをのぞけば、100人中100人がGoogleを絶賛し、ルサンチマンを軽蔑するだろう。 とはいえ、ラッキーなマイクロソフトや、ルサンチマンなソフト会社や、今をときめくGoogleでたとえても、いまいちピンとこない。ところが、ニーチェが説く「ルサンチマン」は強烈だ。

■一神教と多神教

ニーチェは著書「道徳の系譜」の中でこう書いている ・・・ 「高貴な道徳」は、どれも誇らしげにみずからを肯定するところから発展するものだが、「奴隷道徳」は最初から外部のもの、異なっているもの、自分以外のものを否定する、この否定こそが、この道徳の創造的な行為なのだ。 まわりくどいので、カンタンにまとめると、 ・高貴な道徳 =社会の道徳 ・奴隷道徳  =宗教の道徳 そして、「奴隷道徳=宗教道徳」の本質は、自分以外を否定することにあると言っているのだ。ちなみに、ここでいう宗教とは「旧約聖書=ユダヤ教&キリスト教」に限定される。

では、なぜ、仏教やヒンズー教ではなく、「ユダヤ教&キリスト教」なのか? 一神教だから。 一神教は、他の神を一切認めない排他的な宗教である。たとえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 ・・・ じつは、この三大宗教には「唯一神」以外にも共通点がある。 旧約聖書をバイブルにしていること、「普遍的な道徳」をもつことである。ここで、「普遍的道徳」とは、国や民族を超えて有効な道徳をいう。たとえば、ユダヤ教の「十戒」。読んで字のごとく、10の戒めがあるのだが、両親を敬えとか、人を殺してはいけないとか、嘘をつくなとか ・・・ 誰でも理解・納得できるルールだ。

一方、一神教の反対言葉「多神教」は ・・・ 文字どおり、複数の神を包含する。さらに、多神教の神は、地域に根付いており、普遍性がない。たとえば、古代都市テオティワカンでは「ジャガー神」があがめられたが、ジャガーがいない地域では、宗教そのものが成立しない。 さらに、多神教は、普遍的道徳をもたない。それどころか、生贄(いけにえ)を要求する性悪の神までいた(決めたのは人間だが)。2012年人類滅亡説で話題になったマヤ文明はその最たるものだろう。生贄を制度化していたのだから。

また、古代では、地球上のいたる所でシャーマニズムが存在した(一部の地域では今も存在する)。霊と交信するシャーマンが、占いや儀式を取り行い、為政者を補佐するのだが、王を兼ねることもあった。邪馬台国の卑弥呼もその一人だろう。 というわけで、多神教やシャーマニズムは、太陽や星々、森や動物の霊など、自然をモチーフにしている。つまり、自然と結びついた「自然神」なのだ。ところが、一神教は抽象的な唯一神をつくりあげ、それを崇めるよう強要する。さらに、文明化の名のもとに、森林を伐採し、神々などいないことを証明する。つまり、多神教が「自然神」なら、一神教は「人工神」なのだ。

一方、日本は世界に類を見ない無神論の国である。もっとも、戦国時代までは、日本は熱心な仏教国だった。ところが、織田信長がそれを一変させた。信長は、宗教が政治に口出しすることを極端に嫌い、宗教勢力を根絶やしにしたのである。一向宗「本願寺」との熾烈な総力戦の果てに。 その結果、日本の宗教勢力は弱体化し、無神論の国となった。盆は仏壇の前でチーン(仏教)、クリスマスイヴはケーキをほおばり(キリスト教)、正月には神社(神道)でパンパン。はた目で見ると、花見と変わらない。

ところで、一神教で道徳が重視されるのはなぜか? 治安と秩序をたもつため。 じゃあ、一神教は性悪説!? イエス! そもそも、キリスト教の教えによれば、人間には七つの大罪があるという。ところが、人間は神が創造したというではないか。全知全能の神が罪を作った!?矛盾してません? それとも、神はあえて不出来な人間を造り、大罪で苦しむの眺めて楽しんでいる? やっぱり、この世界は神の見世物小屋かもですね。

話をもどそう。 宗教が治安と秩序に一役買っているとしたら、無神論の日本はどうなるのだ?日本の治安と秩序は世界最高なのに。 1946年、アメリカで、この謎を解く書が出版された。タイトルは「菊と刀」、著者は文化人類学者のルース フルトン ベネディクトである。若き日のエリザベステーラーを彷彿させる美人だが、文体は陰気くさく読みづらい。その中で、彼女はこう説明している。 西洋人は「罪の文化」で、神罪を恐れて悪いことをしない。一方、日本人は「恥の文化」で、「世間体」を気にして悪いことをしない。 たしかに、江戸時代のハラキリ、太平洋戦争中の玉砕をみるまでもなく、日本人は世間体を気にする。つまり、「恥の文化」は宗教同様、治安と秩序に貢献しているわけだ。もっとも、最近は「恥知らず」な犯罪が増えているので、新しい「××の文化」をつくる必要がありそうだ。

■奴隷道徳

「ルサンチマン」に話をもどそう。 ニーチェによれば ・・・ 宗教も神も、ルサンチマンというひねくれ者が作りだした「妄想」にすぎない。戦っても勝ち目はないので、想像上の復讐で埋め合わせしているだけ(身もふたもない)。 そして、ルサンチマンの源流はユダヤ教と言い切ったのである。 これは興味深い。さっそく、ユダヤ教の歴史をみてみよう。 ユダヤ人が最初に王国を築いたのは紀元前1021年のイスラエル王国である。その後、強国エジプト王国と共存しながら、ダビデとその子ソロモンの治世で全盛期をむかえた。ところが、ソロモン王が死ぬと、内部抗争がおこり、王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂した。

そして、ここからユダヤ人の苦難が始まる。 まず、紀元前597年、南方のユダ王国が新興の新バビロニアに滅ぼされた。さらに、ユダヤ民族の支配階級が新バビロニアに連行されたのである。歴史上有名な「バビロン捕囚」である。 ところが、バビロン捕囚には副産物があった。ユダヤ人が新バビロニアの優れた文化に接することができたのである。中でも、重要と思われるのがギルガメシュ叙事詩(古バビロニア版 or ニネヴェ版)である。 というのも ・・・ 後に、ユダヤ人が編纂する「旧約聖書」に、ギルガメッシュ叙事詩とソックリの部分があるのだ。 時間軸にそって説明しよう。 バビロン捕囚から60年後、ユダヤ人に転機が訪れる。紀元前539年、アケメネス朝ペルシアがバビロンに侵攻し、新バビロニアを滅ぼしたのである。ペルシアは異民族に寛大な帝国だった。王キュロス2世の命により、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのである。その後、ユダヤ人は旧約聖書とユダヤ教を成立させた。 その旧約聖書の中に、「ノアの方舟」というエピソードがある。

じつは、それがギルガメシュ叙事詩の「ウトナピシュティムの洪水伝説」ソックリなのだ。というわけで、バビロン捕囚がユダヤ教成立に一役買ったの間違いない。 しかし、重要なのはそこではない。 イスラエル王国が滅亡し、現実世界で強者から弱者に転落したタイミングで、ユダヤ教が成立したこと。しかも、その教義というのが ・・・ 「ユダヤ民族は選ばれた民である。絶対神ヤハウェを信仰せよ、そうすれば、神が敵対する民族をすべて滅ぼしてくれる」 ところが、その後の歴史をみれば明らかだが、神はユダヤ民族を救ってはくれなかった。それどころが、第二次世界大戦まで、ユダヤ人の迫害が続いたのである。

そのユダヤ教の流れをくむのがキリスト教だが、初めから苦難の連続だった。創始者イエス キリストの受難から始まり、その後も、ローマ帝国で迫害されたのである。しかも、その迫害は常軌を逸していた。女子供を含む多数の信者が、コロッセウムに引きずり出され、ライオンに噛み殺されたのである。ところが、いくら祈っても、神はライオンを退治してくれなかった。 つまり、キリスト教は、創設当初から、強者に立ち向かう術を持たなかった。そのぶん、教義はパッシブであり、それはイエスの最期の言葉からもうかがえる。 イエスは、ゴルゴダの丘で手と足にクギを打ちつけられたときこう言ったという。

「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」

自分を殺そうとする敵をかばうのだから、慈悲深くみえる。しかし、見方を変えれば、勝ち目のない敵を蔑むことで、自分を上に置く、欺瞞(ぎまん)ともとれる。このように、現実では勝つことのできない弱者(キリスト教徒)が、精神世界での復讐のために創り出した価値観を、ニーチェは「僧侶的・道徳的価値観」とよんだ。そして、このような卑屈な負け惜しみをルサンチマンと呼んだのである。 つまり ・・・ 勝ち目のない惨めな現実から逃れるため、自己を正当化しようとする願望が「奴隷精神」、その手段が「奴隷道徳」なのである。そして、「奴隷道徳」こそが人間を堕落させたのだと。 なんという危険な思想だろう。 ニーチェは背神者であり、偶像破壊者であり、反逆者なのだ。

ところが、二ーチェは宗教と神を否定するだけのクレーマーではなかった。神が死んだ後、人間がどう生きるべきかを示したのである。 神を捨てて、オーヴァーマン(超人)たれ! これがニーチェの十八番「超人思想」である。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-250/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c3

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
4. 中川隆[-13541] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:58:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1363]

ヒトラーが愛読したツァラトゥストラ



ツァラトゥストラ歳三十の時、其郷里と郷里の湖とを去りて山に入れり。 其處《そのところ》に彼は、自らの精神と自らの孤獨を樂めり。十年を經て勞るることなかりき。 されど遂に彼の心機は一轉せり、 -- 或る日の朝、黎明と共に起き出でて、日輪の前に歩み寄り、 斯く彼は日輪に語りき。

『汝大なる星よ。汝が照らすところのものなきとき、何の幸福なることか汝にあらむ。十年の間、 汝は此我が洞に來りき。我と、我が鷲と、また我が蛇とのあるに非ずば、汝は其光と其道とに倦じたりしなるべし。

されど我等は朝毎に汝を待ち、汝の氾濫を受けて汝を祝せり。

見よ。我わが智慧に勞れたること、餘りに多くの蜜を集めたる蜜蜂のごとし。 我はこれを獲むとて差伸べらるる手を要《もと》む。

我は賢き人々が今一?d《たび》その愚なるを悦び、貧しき人々が今一?d《たび》その富めるを悦ぶに至るまで、 自ら有てるものを分ち與へむことを希ふ。

されば汝が夕々《ゆふべ》に、海のあなたへ降り行き、光を幽界に齎す時の如く、 我も亦深きところに降り行かざる可からず。汝、豐饒なる星よ。

我は汝の如く沒落せざるべからじ。我が降り行かむとする人々、 これに名けて沒落と云ふ。

されば汝、過大の幸福をも嫉まざる靜平の眼《まなこ》、我を祝せよ。

將に溢れむとする觴《さかづき》を祝せよ、金色なる水の此《これ》より流れ、 普く汝が悦樂の反照を及ぼさむが爲めに觴を祝せよ。

見よ、此觴は再び空しからむとす。而して、ツァラトゥストラは今一?d《たび》人間とならむとすなり。』 -- 斯くしてツァラトゥストラの沒落は始りき。



ツァラトゥストラはただ一人山を下りしが、途《みち》に相會ふものなかりき。 されど彼が森に來りし時、忽ち一人の老翁ありて其前に立ちぬ。食ふべき根を森林に求めむとて、 隱遁の庵を出でたりしなり。さてツァラトゥストラに語りて言ふ。
『此漂泊者は我が未だ知らざるの人に非ず,多くの年の前、彼は此處を過ぎぬ。ツァラトゥストラと呼べりき。 されど彼は變りたり。

かの時汝は、汝の灰を山に運びき。今汝は、汝の火を谷に運ばむとするか。汝は放火者の刑を恐れざるか。

然り、我はツァラトゥストラを認めたり。其眼は清く、其口の邊《あたり》には、何等の厭ふべき影もなし。 彼は舞踏者の如くして行くに非ずや。

ツァラトゥストラは變りぬ。ツァラトゥストラは小兒となりぬ。ツァラトゥストラは目覺めたり。 汝そも眠れるものの間に何をか爲さむとす。

汝海に住む如く孤獨に住みき。而して海は汝を運びき。嗚呼、汝いま陸に上らむとするか。 嗚呼、汝再び自らの身體を曵き行かむとするか。』

ツァラトゥストラ答へき、『我は人間を愛す』と。

聖徒は言へり、『如何なれば我は、森に行き、野に行きしか。人間を愛すること餘りに甚しかりしが故に非ずや。

今は我、神を愛して、人間を愛せず。人間は我に取りて、餘りに不完全なる事物なり。 人間に對する愛は、我を殺すべし。』

ツァラトゥストラ答へき、『我愛に就きて何を言ひしや。我は人間に施すべき物を齎せり。』

聖徒は言へり、『彼等には何物をも與ふるなかれ。寧ろ彼等より或物を取り、 彼等と共にこれを負へ。そが、汝にはただ悦ばしきのみなる時、彼等には最も悦ばしきならむ。

而して汝若し、彼等に與へむことを慾《ねが》はば、施物の外何物をも與へざれ。施物も亦、 彼等をして之を乞はしめよ。』

ツァラトゥストラ答へき、『否。我は施物を與へず。我は未だ施物をするほどに貧しからざるなり。』

聖徒はツァラトゥストラを笑ひて斯く言へり、『然らば、彼等をして汝の寳を受けしめむことに意を用ひよ。 彼等は隱遁者を猜疑するの心あり、我等の與へむとて來れることを信ぜざるなり。

我等の跫音《あしおと》は餘りに寂しく彼等の街に響く。乃ち夜彼等の床にありて、日出に長き前、 或る一人《いちにん》の行けるを聞かば、彼等自ら問うて言はむとす、 「かの盜人《ぬすびと》は何處《いづく》に行くや」と。

人間に行かずして、森林に留まれ。寧ろ禽獸に行け。汝如何なれば我の如く、 -- 熊の中なる熊、鳥の中なる鳥としてあるを慾はざるか。』

『さて聖徒は、森林にありて何をか爲す。』 -- ツァラトゥストラは問ひき。

聖徒は答へき、『我は歌を作りて、之を歌ふ。歌を作るとき、或は笑ひ、或は泣き、 或は低唱す。かくして神を讚ずるなり。

歌を歌ひて、泣きて、笑ひて、低唱して我が神なるかの神を讚ずるなり。されど汝は如何なる施物を我等に齎すや。』

ツァラトゥストラ此等の言葉を聞き、稽首して聖徒に言ふ、『我は汝に與ぶべき何物をか有たむ。 されど我も亦汝より何物をも受けざらむ爲め、我をして速かに去らしめよ。』 -- 斯くて老いたると若きとは、二人の童子の笑ふが如く笑ひて相別れき。

さあれ、ツァラトゥストラただ一人になりしとき、彼は斯く其心に言へり、『誰かよくその有り得べきを思ふものぞ。 此老いたる聖徒は森林にありて、未だ全く、神の死せるを聞かざるなり。』 --



ツァラトゥストラは森林に續く最寄りの市《まち》に來りし時、彼は多くの人々の市塲に集まれるを見き。 踏索者《つなわたり》の技を觀むとて集れるなりき。乃ちツァラトゥストラかく人に言へりき。
『我汝等に超人を教ふ。人間は超越せらるべき或物なり。 汝等は人間を超越せむが爲めに何をか爲したる。

一切の事物は從來、其自體の上に出づる或物を造りたり。然るに汝等は此大なる潮《うしほ》の退潮《ひきしほ》となり、 人間を超越するよりも、寧ろ禽獸に復歸せむとするものなるか。

猿猴は人間にとりて何物ぞ。哄笑のみ、或は慘《いた》ましき汚辱のみ。人間も超人にとりては同樣なるべし。 哄笑のみ。或は慘《いた》ましき汚辱のみ。

汝等は蟲より人間に進みき。汝等の中なる多くは尚蟲なり。曾て汝等は猿猴なりき。 今も尚人間は、如何なる猿猴よりも猿猴なり。汝等の中最も賢き者も、草木と幽靈との雜種に過ぎず。 されど我は汝等に、幽靈もしくは草木たらむことを命ずるものならむや。

聽け、我は汝等に超人を教ふ。

超人は地の意義なり。汝等の意志をして言はしめよ、超人が地の意義なるべきことを。

切に願ふ、我が兄弟よ、地の忠なれ。 而して汝等に天上の希望を説くところのものを信ぜざれ。彼等は、自ら知れると知らざるとを問はず茶毒者なり。

彼等は生命の侮蔑者なり。自ら頽敗し行くもの、自ら茶毒せられしもの、地は此等の人々に勞れたり。 されば彼等をして去らしめよ。

曾ては神を涜《けが》すこと、最大の褻涜なりき。されど神死したれば、此褻涜者も共に死したり。 今は最も恐るべきもの、地を涜すにあり、不可思議の内臟を地の意義の上に置くにあり。

曾て、靈魂は肉體を侮蔑しき。其時此侮蔑は最高のものたりしなり。 -- 靈魂は肉體の乏しきを、 忌はしきを、飢ゑたるを慾ひき。斯くして肉體と地とを脱れむことを思ひき。

あはれ、其靈魂こそは乏しく、忌はしく、飢ゑたりけれ。殘酷は其靈魂の耽樂なりき。

然《され》ど我が兄弟よ、汝等も亦我に語れ。汝等の肉體は汝等の靈魂に就きて何をか告ぐる。 汝等の靈魂は貧弱と、汚穢と、はた憐むべき安逸とに非ざるか。

實に人間は濁流なり。人自ら濁ることなくして濁流を容るるを得むが爲めには、須くまさに海となるべし。

見よ、我汝等に超人を教ふ。超人はかの海なり。汝等の大なる侮蔑はよく其中に陷沒す。

汝等がよく經驗するところの最も大なるものは何ぞや。大なる侮蔑の時是なり。 ただに汝等の幸福のみならず、汝等の理性と汝等の徳操とまたひとしく、汝等の嘔吐を促すの時是なり。

其時汝等は言ふ、「我が幸福に何の價値ありや。ただ貧弱と、汚穢と、はた憐むべき安逸とのあるのみなり。 されど我が幸福は其れ自ら這の存在の理由を提供せざるべからざりき」と。

其時汝等は言ふ、「我が理性に何の價値ありや。その智識を追ふこと獅子の其食を追ふが如きものありや。 そはただ貧弱と、汚穢と、はた憐むべき安逸とに過ぎざるなり」と。

其時汝等は言ふ、「我が徳操に何の價値ありや。そは未だ我を狂暴に驅りしことなし。 我如何に我が善と我が惡とに疲れたるかな。其一切は貧弱と、汚穢と、はた憐むべき安逸となり」と。

其時汝等は言ふ、「我が正義に何の價値ありや。我は我が炎熱たり、炭塊たるを見ず。 されど正しき者は炎熱なり、炭塊なり」と。

其時汝等は言ふ、「我が憐憫に何の價値ありや。憐憫は人間を愛する者の磔けらるる十字架に非ずや。 されど我が憐憫は決して磔刑に非ず」と。

汝等已に此の如く語りしか。汝等已に此の如く[口|斗]びしか。嗚呼我、汝等のかく[口|斗]ぶを聞き得たりしならむには。

呪詛すべきは汝等の罪惡に非ずして、汝等の中庸なり。また汝等の罪惡に於ける汝等の吝嗇其物なり。

その舌をもて汝等を舐むるところの電光は何處にありや。それをもて汝等の接樹せらるべきかの亂心は何處にありや。

見よ、我は汝等に超人を教ふ。超人は其電光なり。超人は其亂心なり。』 --

ツァラトゥストラ斯く語りし時、群集の一人は[口|斗]びぬ。『我等踏索者に就きて聞きしこと足れり。 今我等をして彼を見せしめよ』と。人々皆ツァラトゥストラを笑ひき。されど、 踏索者と呼ばれしを自らの事なりと思へる踏索者は、頓《やが》て其業にとりかかりき。



されどツァラトゥストラは人々を視て驚きぬ。さて彼は斯く語りき。
『人間は禽獸と超人との間を繋ぐ一の索《なは》なり、 -- 深潭に懸れる一の索なり。

越ゆるも危し、越え了らざるも危し、顧るも危し、戰慄停留するも亦危し。

人間の大なるは、そが橋梁にして標的に非ざるところにあり。人間の愛すべきは、 そが一の過渡たり、沒落たるによる。

我はかの沒落の外に生くべき道を知らざる者を愛す。そは超越せむとする者なればなり。

我は大なる侮蔑者を愛す。そは大なる崇拜者なればなり、彼岸に對する憧憬の箭なればなり。

我はかの、沒落して犧牲となるべき理由を、星辰の彼方に求むることをせず、 寧ろ地が他日超人の手に歸せむ爲め、地に自らを獻ぐる者を愛す。

我はかの、認識せむが爲めに生き、他日超人の生きむが爲めに認識せむとする者を愛す。 斯くして彼は、自らの沒落を慾《ねが》へばなり。

我はかの、超人の爲めに家を建て、超人の爲めに地と、禽獸と、草木とを備へむとて勞作考案するものを愛す。 斯くして彼は、自らの沒落を慾《ねが》へばなり。

我はかの、自らの徳を愛するものを愛す。徳は沒落を慾ふの心、憧憬の箭なればなり。

我はかの、一滴の精神をも自らの爲めに保有することなく、寧ろ全く其徳の精神たらむことを意《おも》ふものを愛す。 斯く彼は、精神として橋梁を越ゆるなり。

我はかの、自らの徳を自らの性癖並びに自らの運命となすものを愛す。 斯くして彼は、自らの徳の爲めに生き、自らの徳の爲めに死す。

我はかの、餘りに多くの徳を追はざるものを愛す。一の徳は二の徳よりも更に徳なり。 そはより多く、その運命の繋るべき結節となるものなればなり。

我はかの、其靈魂の浪費せらるるもの、感謝を慾はず、報復を爲さざるものを愛す。 そは常に與へて、自ら貯へむことを慾はざればなり。

我はかの、僥倖なる骰子の投ぜらるる時耻づるものを愛す。その時彼は問うて言ふ、 「我は正の博奕者にあらずや」と。 -- 彼は沒落を慾ふものなればなり。

我はかの、其行爲に先ちて金言を放ち、又其誓約よりも多くを踐《ふ》むものを愛す。 そは自らの沒落を慾ふものなればなり。

我はかの、將來を辯護し、また過去を救濟するものを愛す。そは現實に依りて沒落せむことを慾ふものなればなり。

我はかの、其神を愛するのよりて、其神を懲戒するものを愛す。そは其神の怒の故に沒落すべければなり。

我はかの、負傷の際にも其魂の深きもの、一些事の爲めに能く沒落するものを愛す。 そは喜びて橋梁を越ゆべければなり。

我はかの、其魂の横溢せるによりて、自ら忘るるもの、一切の事物の其中に在るものを愛す。 斯く一切の事物は其沒落の因となる。

我はかの、自由なる精神と、自由なる心情とを有するものを愛す。斯く彼の頭腦は彼の心情の内臟たるのみ。 されど其心情は彼を沒落に驅る。

我はかの、人間を覆へる暗雲より、ひとつ〜落ち來る、重き滴《しづく》の如きもの一切を愛す。 彼等は電光の來るを告示し、告示者として沒落す。

見よ、我は電光の告示者なり、雲より落ち來る重き一滴なり。其電光に名けて超人と云ふ。』



此等の言葉を語りしとき、ツァラトゥストラ再び人々を視て默しき。彼は其心に語りき、 『彼等は立てり。彼等は笑へり。彼等は我を了解せず。我が口は彼等の耳に適はざるなり。
彼等が其眼をもて聞くことを學ぶに先ち、其耳を粉碎するの要あるか。 鑵鼓並びに齊日の説教者の如く怒罵するの要あるか。或は彼等ただ吃々として言ふ能はざるものをのみ信ずるか。

彼等は其誇とするところの物を有つ。其誇とするところの物に名けて何とか云ふ。 之に名けて教育と云ふ。彼等と牧羊者とを區別するもの是なり。

故に彼等は、自らの上に用ひられたる「侮蔑」てふ言葉を聞くことを悦ばず。 乃ち、我は彼等の誇とするところを藉《か》りて語らむとす。

乃ち我は、最も侮蔑するべきものの事を彼等に語らむとす。最も侮蔑すべきは末人なり。』

偖てツァラトゥストラかく人々に語りき。

『今は人自ら其目標を立つるの時なり。今は人自ら其最高希望の種子を植うるの時なり。

彼の土壤は、尚肥沃にして之をなすに足る。されど此土壤は早晩疲弊し去りて、喬木の生ずるものなきに至るべし。

嗚呼。人間が人間の彼方へ、其憧憬の箭を發《はな》つこと能はざるの時來らむ。 其?|弦《ゆみづる》の鳴るを忘るるの時來らむ。

我汝等に言ふ、人は舞ふところの星を産むことを得む爲めに、自ら混沌たるものなかるべからず。 我汝等に言ふ、汝等は尚自ら混沌たるものあるなり。

嗚呼。人間が遂に如何なる星をも産まざるの時來らむ。嗚呼。遂に自ら卑むることはざる、 最も卑むべき人間の時來らむ。

見よ。我は汝等に末人を示す。

「愛とは何ぞ。創造とは何ぞ。憧憬とは何ぞ。星辰とは何ぞ。」 -- 末人は斯く問ひて瞬《またたき》す。

其時地は小《ちさ》くなりて、一切を小くするところの末人其上に跳躍せり。 彼の種族は地蚤の如く掃蕩し難し。末人は最も長く生く。

「我等幸福を案出せり。」 -- 斯く言ひて、末人は瞬す。

彼等はその生くるに難かりし地方を去りぬ。温熱を要すればなり。 人々尚隣人を愛して、之と相摩擦す。温熱を要すればなり。

病患と猜疑と、彼等にありては罪惡なり。人々細心に道を行く。然るに尚、岩石に躓き、人間に躓くものは愚なるかな。

聊かの毒藥は、時に快き夢を誘《いざな》ふ。而して多量の毒藥は、終に快き死滅に導く。

人々は尚勞作せり。勞作は娯樂なればなり。されど彼等は、這《こ》の娯樂によりて自らを害はざらむことを心に用ふ。

人々今や富裕となることなく、貧困となることなし。二者何れも煩はしきなり。 何人か尚統御せむとするものぞ。何人か尚服從せむとするものぞ。二者何れも煩はしきなり。

實に一人の牧者もなき畜群よ。各一樣に慾《ねが》ひ、各全く同等なり。 思ふところを殊にするものは、自ら進むで癲狂院に入る。

「曾ては世界を擧げて狂人なりき」。 -- 斯く言ひて最も智慧あるものは瞬《またた》きす。

人々聰明にして、凡べての出來事を知るにより、彼等の嘲笑は極ることなし。 彼等相爭ふと雖、直にまた相和す。 -- しかせざれば胃の腑を滅すべし。

彼等は日中に小歡をなし、夜間にまた小歡をなす。されど彼等は健康を尊重す。

「我等幸福を案出せり」 -- と言ひて、末人は瞬きす。』

斯くてツァラトゥストラが第一の演説、即ち『緒言』は此處に終りき。 此時群集の喧噪[口|喜;#1-15-18]戲彼を妨げければなり。『我等に其末人を與へよ、ツァラトゥストラよ』。 -- 斯く彼等は[口|斗]びき -- 『我等を其末人となせ。我等悦びて超人を棄てむ』。 かくて人々皆歡呼して其舌を鼓しぬ。されどツァラトゥストラは悲しくなりて、其心に言へけり。

『彼等は我を了解せず。我が口は彼等の耳に適はざるなり。

恐くは、我が山に住むこと長きに過ぎしならむ、我が細流と樹木とに聽くこと多きに過ぎしならむ。 今我が彼等に説くは、牧羊者に説くと異らず。

我が靈魂は不動にして、午前の山の如く朗なり。然るに彼等は我を目して冷酷なるもの、 恐しき諧謔を弄する嘲笑者となす。

偖て今彼等は、我を視て笑ふ。彼等の笑ふ時、彼等はまた我を憎む。彼等の笑には氷あり。』



されど頓て、各人の口を噤《つぐ》ましめ、各人の目を注がしむる事起りき。 即ち此時已に踏索者は其?ニ《わざ》を始めたりしなり。彼は小き戸を出でて、二の塔の間に、 市塲と人々との上に張り渡したる索《なは》を歩めり。彼恰も其中程にありし時、かの小さき戸は再び開き、 華かなる色の衣裳をつけし、道化者《ちやり》の如き漢《をとこ》跳り出でて、足早に追行きぬ。 『進めよ、蹇《あしなへ》』と、其恐しき聲は[口|斗]びぬ、『進めよ、怠惰なる者、密賣者、白面者よ。 我我が踵をもて、汝を擽《くすぐ》ることのなからむ爲め進めよ、 汝何の用ありてか這《こ》の塔の間を行く。汝の處は塔にあり。汝は監禁の中にあるべかりき。 汝は汝に優れる者の、自由なる進路を阻む。』 -- 斯く言ひながら道化者《ちやり》の如き漢《をとこ》は益々近きぬ。 されどそのお相去ること一歩の處に到るや、各人の口を噤《つぐ》ましめ、各人の目を注がしむる恐しき事起りぬ。 -- 其?ソ《をとこ》は魔の如き[口|斗]を發して、先《さきだ》てる踏索者を跳越えぬ。 競敵の勝利を見て、踏索者は其頭と索を失へり。彼は其竿を投げ、其竿よりも速かに、 手足の旋風の如く射下りぬ。市塲と群集とは荒立てる海の如くなり、人皆右徃左徃に逃げまどひぬ。 取り分け踏索者の落ち來るべきところは甚しかりき。
ツァラトゥストラは獨り其ところに留りたりしが、恰も彼の傍に踏索者は落ち來れり。 淺間しく姿變り、傷《きづつ》きたりしかど、尚ほ死せざりき。稍ありて息吹き返し、ツァラトゥストラのその傍に跪けるを見き。 『汝何をか爲せる』と、遂にツァラトゥストラに問ふ、『我は夙《つと》に、惡魔の我を飜弄すべきことを知れりき。 今彼は我を地獄に曵く。汝之を防がむとするか。』

『我が名譽によりて誓ふ、友よ。』 -- ツァラトゥストラは答へき。『汝が語るところの物は總て在ることなし、 惡魔もなし、地獄もなし。汝の靈魂は汝の肉體よりも速かに死せむ。是より後亦再び恐るること勿れ。』

踏索者は狐疑の眼をもて見上げしか、やがて言ふ、『汝若し眞《まこと》を語らば、 我は我が命を失ふとも何物をも失はざるなり。我はかの、毆打と食餌とによりて舞踏を教へらるる禽獸と、 多く異るところなきなり。』

ツァラトゥストラは言へり、『否、然らず。汝は危險を汝の職業となしぬ。何の卑むべきことかあらむ。 今汝は其職業の故に死す。されば我、我が手を以て汝を葬るべし。』

ツァラトゥストラは斯く言ひし時、臨終の人は答を爲さで、僅に其手を動しぬ。 そは宛《あたか》も、ツァラトゥストラに謝せむとて、其手を求むるものの如く見えき。



さる程に夕《ゆふべ》は來り、市塲は闇に包まれぬ。人々は散り行きぬ。好竒の心と恐怖の念とまた倦怠しければなり。 然れどツァラトゥストラは死者の傍に、地上に坐し、思ひ沈みて時を忘れぬ。遂に夜となりて、 冷き風は寂しき者の上を吹き渡りぬ。乃ち、ツァラトゥストラ起ちて其心に言へり 『實《げ》に今日のツァラトゥストラが漁《すなどり》は宜しかりしかな。彼は人間を捕へずして、死體を捕へたり。
人生は凄慘にして、しかも無意義なり。道化者《ちやり》は能く其運命となることを得む。

我は人間に其存在の意義を教へむとす。即ちそは超人なり、人間の黒き雲より來る電光なり。

然《され》ど尚ほ我は人間を遠ざかれり。我が心は彼等の心に語らず。我は尚ほ人間に取りて、愚人と死體との中間なり。

夜は暗し、ツァラトゥストラの道は暗し。いざ汝、冷き硬直の伴侶よ。 我は我が手をもて汝を葬るべきところに汝を運ばむ。』



ツァラトゥストラは斯く其心に言ひし時、死體を負ひて其途に出で立ちぬ。未だ百歩を行かざるに、人あり、 濳に追躡し來りて耳語す。 -- 而して見よ、 -- 語りしはかの塔の道化者《ちやり》なりき。 『ツァラトゥストラよ、此?s《まち》を去れ』と彼は言ふ、『此處には餘りに多くの人々汝を憎む。 善き人、正しき人は汝を憎み、汝を其仇敵と呼び、侮蔑者と呼ぶ。正しき信仰に忠なる人は汝を憎み、 汝を多數者の爲めに危險なるものと呼ぶ。笑はるるは汝の僥倖なり。而して眞《まこと》に汝は道化者《ちやり》の如く語る。 死したる犬と交はりしは汝の僥倖なり。斯く自らを卑うすることによりて、汝は今日自らを救へり。 されど此市を去れ、 -- 去らずは、明朝我汝を越えて跳ばむ、生きたるもの、死せるものを越えて跳ばむ。』 斯く言ひて道化者《ちやり》の姿は消えぬ。ツァラトゥストラはなほも暗き小路を辿りぬ。
市《まち》の門にて彼は塋穴掘《あなほり》と出で會ひぬ。彼等は炬火《たいまつ》をもて彼の面《おもて》を照し、 そのツァラトゥストラなるを認めて、太《いた》く嘲りぬ。『ツァラトゥストラは死したる犬を運び去る。 彼自ら塋穴掘《あなほり》となるこそよけれ。彼等の手は此燔肉に對して餘りに清ければなり。 思ふにツァラトゥストラは、惡魔の餌食を盜まむとするものか。亦可なり。 その晩餐の羔なかれかし。但だ恐る、かの惡魔がツァラトゥストラにも優れる盜人なることを、 -- 惡魔は、二者何れをも盜み、何れをも食ふ。』かく言ひて彼等は、笑み交はしながら頭を寄せぬ。

ツァラトゥストラは之に答へずして、其道を行けり。森林沼澤の間を行くこと二時《ふたとき》餘りにして、 餓ゑたる狼の頻りに咆ゆるを聞き、彼自らも餓を覺えぬ。乃ち彼は或る寂しき家に足を止《とど》めぬ。 家の中には燈《ともしび》燃えたりき。

ツァラトゥストラは言へり、『空腹は盜賊の如く我を襲ひぬ。森林沼澤の間に、夜深うして我が空腹は我を襲ひぬ。

我が空腹に竒異なる習癖あり。屡々食事の後始めて我に來る。而して此日は終日來ることなかりき。 何處《いづこ》に在りしや。』

かく言ひて、ツァラトゥストラは其家の戸を叩きぬ。間もなく一人の翁現はれぬ。 燈《ともしび》を携へ來りて問ふ、『我と我が惡しき眠とに來るものは誰ぞや』。

ツァラトゥストラは言へり、『生きたるものと、死したるものと。食ふべき物、飮むべき物を我に與へよ。 我は之を晝の間に忘れたり。飢ゑたる者に食はしむるは、自らの靈《たましひ》を養ふなり。 斯く智慧は言ふ。』

翁は一旦《ひとたび》去りて、復《また》歸り、麺包《パン》と葡萄酒とをツァラトゥストラに與へぬ。 而して言ふ、『飢ゑたる人々にとりては惡しき處なり。此故に我は留まるなり。禽獸と人間と、 隱遁者なる我に來る。されど汝の伴侶にも飮み且つ食はしめよ。彼は汝よりも勞れたり』。 ツァラトゥストラは答へぬ。『我が伴侶は死したり。彼をして飮み且つ食はしめむこと難し』。 『何の關《かゝは》るところぞ』と、不興氣に翁は言ふ、『我が家を訪るる者は、我が與ふる物を受けざるべからず。 之を食ひて行け。』

是《こゝ》に於てツァラトゥストラ更に行くこと二時間、道路と星辰の光とに信頼せり。 彼は夜行することに慣れければなり、眠れる者の面を見ることを好みければなり。されど夜の明けしとき、 ツァラトゥストラは深き森林の中に在り、已に行くべき道なかりき。乃ち空洞《うつろ》なる樹の内に、 己《おの》が頭に近く、死したる者を横へ、 -- 死したる者の狼に襲はれざらむ爲め、 -- さて自らも土と苔との上に横はりぬ。間もなく彼は、勞れたる體をもて、泰然たる魂をもて眠に就きぬ。



ツァラトゥストラは長く眠りぬ。ただに黎明のみならず、午前もまた其面上を過ぎ行きぬ。 されど遂に其眼は開きぬ。ツァラトゥストラは森林と靜寂を見て驚き、自らを省みて愕けり。 其時彼はかの、忽ち陸を見る水夫の如く、蹶起して歡呼しぬ。 彼は新しき眞理を見たればなり。され彼は斯く其心に語りき。
『我は一道の光明に接したり。我は伴侶を要す、我が行かむと慾するところに携ふる、 -- 死したる伴侶と死體とに非ざる、 -- 生きたる伴侶を我は要す。

我は我に從ひ行く、生きたる伴侶を要す。彼等は自ら、我が行かむと慾する處に從ひ行かむと慾すればなり。

我は一道の光明に接したり。ツァラトゥストラは民衆に説くべからず。寧ろ伴侶に説くべきなり。 ツァラトゥストラは群畜の牧人となり犬となること能はず。

群畜より多くのものを誘惑し去ること、 -- その爲めに我は來れり。民衆と群畜とは我を怒るべし。 ツァラトゥストラは牧人によりて盜賊と呼ばるるならむ。

我は彼等自らは善き人?`《たゞ》しき人と呼ぶ。我は彼等を牧人と呼べど、 彼等自らは正しき信仰に忠なる人と呼ぶ。

善き人義しき人を見よ。彼等の最も憎むところのものは何ぞや。彼等が價値の卓子を粉碎し去るもの、 破壞者、犯罪者是なり。されど此破壞者、犯罪者ことは眞《まこと》の創造者なれ。

總ての信仰に忠なる人を見よ。彼等の最も憎むところのものは何ぞや。彼等が價値の卓子を粉碎し去るもの、 破壞者、犯罪者是なり。されど此破壞者、犯罪者ことは眞《まこと》の創造者なれ。

創造者は伴侶を求めて、死體を求めず、また郡畜並びに信仰ある人をも求めず。 創造者と共に創造するもの、新しき卓子の上に新しき價値を創造するものを求む。

創造者は伴侶を求め、彼と共に收穫すべきものを求む。彼にありては一切の物成熟して收穫せらるるを待てばなり。 されど彼に百挺の刈鎌缺げたり。乃ち彼は穀物の穗を毟《むし》りて怒る。

創造者は伴侶を求め、その刈鎌を研《と》ぐことを知れるものを求む。 彼等は斷滅者と呼ばれ、善惡の侮蔑者と呼ばるべし。されど彼等は收穫者にしてまた祝賀者なり。

ツァラトゥストラは彼と共に創造するものを求む。ツァラトゥストラは彼と共に祝賀するものを求む。 郡畜と牧人と死體とによりて、彼はた何うぃか爲さむ。

さて汝、我が第一の伴侶よ、いざさらば。我は汝が空洞《うつろ》なる樹の内に、好く汝を葬りぬ。 我は狼を防ぎて、好く汝を隱したり。

然《され》ど我汝に別を告ぐ。時已に到れり。黎明と黎明との間に、新しき眞理は我に現はれぬ。 我は牧人たるべからず、塋穴掘《あなほり》たるべからず。我はまた再び民衆と語らざるべし。 之れ我が死したる者に語りし最終なり。

我は創造するもの、收穫するもの、祝賀するものと相交らむ。我は彼等に虹を示し、 超人のあらゆる階級を彼等に示さむ。

我は隱遁者に我が歌を歌はむ。而して未聞の事物に耳あるものの胸を、我は我が幸福をもて重くせむ。

我が標木に我は志す。我自らの道を我は行く。我は遷延遲滯するものを超えて躍進す。 かく我が進行をして彼等の沒落たらしめよ。』



ツァラトゥストラ斯く其心に言ひし時、日は正に午なりき。彼は怪みて天《そら》を見上げぬ。 鋭き鳥の[口|斗]を聞きければなり。而して見よ。鷲あり、大圓を書きて空中に翔べり。 纒《まつ》はるところの蛇は、餌食の如くならずして朋友の如し。其體を鷲の頸に卷きたればなり。
『彼等こそ我が動物《いきもの》なれ』と言ひて、ツァラトゥストラは心より悦びぬ。

『日の下にありて最も尊大なるもの、日の下にありて最も聰明なるもの、 -- 彼等は偵察の爲めに出でたるなり。

彼等は、ツァラトゥストラの尚ほ生きたるや否やを知らむことを慾《ねが》ふ。 實《げ》に、我は尚ほ生きたるか。

我が人間にあるは、動物の中にあるよりも危かりき。危き道をツァラトゥストラは行く。 我が動物よ、我を導け。』

ツァラトゥストラは斯く言ひし時、森林に見し聖徒の言葉を思出《おもひい》で、嘆息して其心に言ふ。

『更に聰明ならましかば。嗚呼若し、根本より、我が蛇の如く聰明ならましかば。

されど我は不可能の事を願ふなり。我は我が自負の、常に我が智慧と並行せむことを願ふなり。

乃ち、若し我が智慧の我を去ることあらば、 -- 動もすれば我を棄てて去らむとす、 -- 希くは、我が自負も亦、我が愚昧と共に我を棄てて去らむことを。』

斯く、ツァラトゥストラの沒落は始まりき。
http://web.archive.org/web/20040506045015/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/zarathustra/zarathustra-0.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c4

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
5. 中川隆[-13540] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:59:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1364]

『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』著者:適菜収 なぜ日本人は騙され続けるのか? 【第3回】
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/32408


『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』
著者:適菜 収
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062727560/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062727560


ニーチェは一八四四年にプロイセン(今のドイツ)で生まれました。

 幼少期から才覚を示したニーチェは名門のプフォルタ学院に進み、ボン大学で古典文献学の権威フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(一八〇六〜一八七六年)に師事します。その後、リッチュルの推薦により、二五歳の若さでスイスのバーゼル大学の古典文献学教授になりました。当時のニーチェは博士号も教員資格も取得しておらず、異例中の異例の抜擢でした。つまりニーチェは、世の中から天才として扱われていた。その後、体調を壊したこともあり、大学の教員を辞め、スイスやイタリアを周遊しながら執筆活動を進めていきます。

 一八八九年に発狂。一九〇〇年八月に肺炎で亡くなります。

 『ツァラトゥストラ』は、この周遊生活の中で書きあげられました。

 「ツァラトゥストラ」は、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ(紀元前一一世紀〜紀元前一〇世紀頃)のドイツ語読みです。英語で読むと「ゾロアスター」になります。

 しかし、ゾロアスターの思想とニーチェの哲学は関係ありません。

 ゾロアスターと『ツァラトゥストラ』の主人公であるツァラトゥストラは別人です。


では、ツァラトゥストラとはなにか?

 ニーチェは著書『バイロイトにおけるヴァーグナー』について次のように述べます。

 「読者はあの本にヴァーグナーという語が出て来たら、それをかまわず私の名前か、あるいは『ツァラトゥストラ』という語かに読みかえてしまってよろしい」(『この人を見よ』)

 つまり、ニーチェはツァラトゥストラに自らの哲学を語らせたのです。

 『ツァラトゥストラ』の冒頭は物語になっています。後半になるにつれ、物語の要素は薄くなり、ツァラトゥストラが一方的に自分の哲学を語るようになります。

 この冒頭の物語は、近代大衆社会およびB層の問題を考えるうえで非常に重要です。

 そこでは《終末の人間》が描かれているからです。

 《終末の人間》は典型的なB層です。

 私なりの抄訳ですが、しばらく『ツァラトゥストラ』の世界にお付き合いください。

〈 ツァラトゥストラは三〇歳になると、故郷を捨てて山に入った。

 そして自分の精神と孤独に向き合った。それが一〇年間も続く。

 しかし、ついに、彼の心は変わった。

 ある日の朝、彼は夜明けの太陽に向かってこう語りかけた。

「太陽よ。もし、あなたが照らすものを持っていなかったら、あなたは幸福と言えるのか?」

 太陽は一〇年間、ツァラトゥストラの住居を照らし続けてきた。しかし、もしそこに誰もいなかったら、太陽だって退屈だろうというわけだ。

「わたしもまた自分の知恵に飽きてしまった。まるで蜜を集めすぎたミツバチのように。この能力を人間に贈り与えなければならない」

 というわけで、ツァラトゥストラは山を下りることにした。

「わたしは人間たちのところへ、下界へ下りていく」

 山を下りる途中で森に入ると、突然、老人の聖者が現れ話しかけてきた。

「いまさら山から下りて、眠っている者どもに対してなにをしようというのか?」

 ツァラトゥストラは答えた。

「わたしは人間を愛しています」

 老人の聖者が反論する。

「わしは神を愛している。人間を愛することはない。なぜなら、人間は不完全なものだからだ」

 ツァラトゥストラは一人になってから、つぶやいた。

「あの聖者は森の中に長年暮らしていたから、《神が死んだ》ことを知らないんだな」 〉

大衆はサル以下である

 ツァラトゥストラは久しぶりに会った町の人々に悪態をつきます。

〈 ツァラトゥストラは森からもっとも近い町に到着した。

 広場には大勢の人がいた。これから綱渡り師の公演が始まるようだ。

 ツァラトゥストラは、さっそく人々に語りかけた。

「あなたたちに《超人》について教えましょう。《超人》から見れば、人間なんてサル以下の存在なんですよ。昔、あなたたちはサルでしたが、今ではサル以下です」

 ツァラトゥストラはさらに語る。

「《超人》は大地そのものです。大地から離れた希望を信じてはいけません。そして、大地から離れた人の言うことを信じてはいけません。そこには毒があります。大地から離れた人間は、さっさと死ねばいいんです」

「あなたたちも似たようなものです。だから、わたしはあなたたちに《超人》について教える。それにより、あなたたちは《幸福》《理性》《徳》《正義》《同情》といったものを徹底的に軽蔑するようになるのです」


すると、群集の中の一人が叫んだ。

「そんな綱渡りみたいな話、もう聞き飽きたよ!」

 群集は、ツァラトゥストラのことをあざ笑いました。

 それを聞いていた綱渡り師は、自分のことを言われたのかと勘違いし曲芸にとりかかった。 〉

 ツァラトゥストラは、人間を一本の綱に喩えます。

 人間は動物と《超人》の間に張られた危険な綱を渡るべき存在であると。

 《超人》とは自らの高貴な感情と意志により行動する人間、健康で力強い人間です。

 ツァラトゥストラが愛するのは、今の世の中から離れていく者=没落していく者です。

 くだらないものを、くだらないと拒絶する者です。

 人間はもっと高いところを目指さなければならない。

 ツァラトゥストラは《綱を渡るべき人間》について具体的に挙げていきます。

〈 今の世の中が肌に合わない人。

 今の世の中を軽蔑している人。

 空想の世界より大地に身をささげる人。

 大地が《超人》のものになるように認識する人。

 《超人》のために家を建てる人。

 自分の徳を愛する人。

 自分から徳の精神になりきろうとする人。

 自分の徳を宿命とする人。

 あまりに多くの徳をもとうとしない人。

 気前がいい人。

博打で儲けたときに恥じる人。

 自分に約束したことを、それ以上に果たす人。

 未来の人たちを認め、過去の人たちを救う人。

 自分の神を愛するがゆえに、自分の神を責める人。

 ささやかな体験によって滅びることのできる人。

 魂が豊かな人。

 自由な精神をもつ人。

 雷を告げる人。

「見なさい。わたしは雷、そして《超人》を告げ知らすものです」 〉

 ツァラトゥストラが《高みを目指すべき人間》についてたくさん並べてみたものの、群集にはなんのことやらさっぱりわからない。まあ、当然のような気もしますが・・・。

 そこでツァラトゥストラは、今度は反吐が出そうな《終末の人間》を例に挙げてみることにしました。

〈 民衆はものごとを理解しない。

 彼らに聞く耳をもたせるにはどうしたらいいのだろうか?

 太鼓をたたいたり、懺悔を迫る説教師みたいに、がなり立てればいいのか?

 それとも、もっともらしくドモリながら話せばいいのか?

 いや、違う。

 彼らは自分たちの《教養》を誇りにしている。

 それなら、彼らの誇りに向けて話しかけよう。

彼らは軽蔑されることを嫌がっている。

 それなら、もっとも軽蔑されるべき《終末の人間》について話そう。 〉

 こうしてツァラトゥストラは、民衆に向かって再び語り始めます。

民衆が選んだもの

〈 皆さん、まず自分の目標を定めてください。まだ間に合います。

 しかし、いつの日か人間は可能性を失ってしまう。

 そして、軽蔑すべき《終末の人間》の時代がやってきます。

「愛とはなにか。創造とはなにか。あこがれとはなにか」などと生ぬるいことを言いだす。

 そのとき、大地は小さくなります。

 《終末の人間》は虫けら同然です。


 《終末の人間》は、ぬくぬくとした場所に逃げ込み、隣人を愛し、からだをこすりつけて生活している。

 やたらと用心深くなり、適度に働き、貧しくも豊かにもならない。

 支配も服従も望まない。そういうのは、わずらわしいと思っている。

 みんなが平等だと信じている。誰もが同じものをほしがり、周囲の人間の感覚と異なると思えば、自分から進んで精神病院に入ろうとする。

 ケンカもするけど、すぐに仲直りする。そうしなければ、胃が痛くなるからだ。

 一日中、健康に注意しながら、ささやかな快楽で満足する。

 これが《終末の人間》です。

 ツァラトゥストラがここまで話すと、民衆がニヤニヤしながら叫んだ。

 舌打ちをする者もいた。

「オレたちは、そういう《終末の人間》になりたい。オレたちを、そういう《終末の人間》にさせておくれよ! 《超人》はあんたに任せるからさ」

 ツァラトゥストラは悲しくなった。

 民衆はわたしをバカにして笑っている。笑いながら、わたしを憎んでいる。彼らの笑いの中には氷がある。

 わたしは、山の中であまりにも長く暮らしすぎたのだ。

 だから、彼らにはわたしの言葉が届かない。 


 ツァラトゥストラの意図に反して、民衆は《終末の人間》を選んでしまったのです。

 ニーチェは自分の言葉が民衆に届かないということを、物語で描いているわけですね。

 『ツァラトゥストラ』は一八八三〜八五年に刊行されましたが、そこで描かれた人々はB層そのものです。

 民主主義や平等が大好きで、グローバリズムと隣人愛を唱え、健康に注意しながらささやかな快楽で満足する。

 自分たちが《合理的》《理性的》《客観的》であることに深く満足している。

 こうした軽蔑すべき《終末の人間》の時代を、われわれは生きているのです。

ひとりで生きる人たちのために

〈 ツァラトゥストラは考え込みます。

「わたしはまだ、民衆の心に語りかけることができない・・・」

 ツァラトゥストラは星の光を頼りにして夜道を歩き始めます。

 空が白みかけたころ、ツァラトゥストラは深い森の中にいることを知った。

 もはや道は見つからなかった。

 ツァラトゥストラは森の中で眠り込む。

 ツァラトゥストラは長い時間眠った。

 朝が過ぎ、そして昼になった。

 彼はようやく目を覚まし、立ち上がった。

 そして喜びの声をあげた。

 一つの新しい真理を発見したからだ。

 わたしは悟った。

 わたしには道連れが必要なのだ。

 自分自身に忠実になった結果、わたしに従うようになる人。

 そして、わたしの目的に向かって一緒に進む道連れが必要なんだ。

 だから、民衆に話しかけても仕方がない。

わたしは、道連れに向かって語るべきなのだ!

 わたしは、畜群の牧人や番犬となるべきではない!

 それよりも、わたしは民衆や畜群から盗賊と呼ばれたい。

 奴らは自分たちを善人だと思っている。自分たちを正しい信仰の持ち主と呼ぶ。

 そして、奴らは、奴らの諸価値を破壊する者を憎むのだ。

 しかし、それこそが《新しい価値を創造する者》なのである。

 彼は道連れを求める。

 畜群も信者も求めない。

 共に創造し、新しい価値をつくりあげる人を求める。

 共に創造し、共に収穫し、共に祝う人をツァラトゥストラは求める。

 それ以外は、いらない。

 わたしは二度と民衆とは話すまい。

 そして仲間に対して語りかけよう。

 ひとりで生きる人たちのために、語りかけよう。

 これまで聞いたことのないことに対して聞く耳をもつ人たちのために。

 わたしは彼らに《超人》への階段のすべてを示す。 〉

バカを論破するのは不可能

 要するにバカになにを言っても無駄なのです。

 「非学者論に負けず」ということわざがあるように、バカは論破できません。

 貝に権利を認め、誠実に語りかけても意味がない。なぜなら、彼らは自分の殻に閉じこもっているからです。

 ニーチェもツァラトゥストラと同様、民衆に語りかけることを諦めます。

 「私は多年人々と交際してきて、私が心にかけている事柄についてはけっして語らないというほどにまで、諦めるにいたり、慇懃となった。いや、私はそういう仕方でかろうじて人々とともに生きてきたのだ」(『生成の無垢』)

 そしてニーチェは、自分の言葉が届くところに向けて語りかけようとします。

 しかし、聞く耳をもった人間はごく少数です。

ニーチェもそれを知っています。

 「今日誰もが私の説くことに耳をかさず、誰も私から教えを受けるすべを知らないということは、無理もないというだけでなく、むしろ至極当然のことだと私自身にも思える。(中略)私の著書を読んでもかいもくわからない純なる愚者となると、これは多すぎる!」(『この人を見よ』)

 「ああ! 私のツァラトゥストラはまだまだ長い間、読者を捜さねばならないことであろう!」(『この人を見よ』)

 今の世の中が肌に合わない人。

 今の世の中のどこかがおかしいと感じている人。

 今の世の中を深く軽蔑している人。

 そういう人はニーチェの言葉に耳を傾けてみるべきでしょう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/32408

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c5

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
6. 中川隆[-13539] koaQ7Jey 2020年3月23日 09:00:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1365]

ヒトラーが愛読したニーチェ『道徳の系譜』

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫) – 1993/8/1
https://www.amazon.co.jp/dp/4480080813/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&linkCode=li3&tag=asyuracom-22&linkId=69210c63691be6bbe991350f0c4e78d2&language=ja_JP


▲△▽▼


ニーチェ『道徳の系譜』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-genealogie/


「人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する」
「この生」「この世界」をどう肯定できるか?


『道徳の系譜』(1887年)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844年〜1900年)による著作だ。時代的には中期から後期の作品に分類される。

本書は『善悪の彼岸』が自分の思ったように受け取られず、ニーチェが自分の思想を解説する必要にせまられて発表したものだとされている。ここでニーチェは十八番のアフォリズムを封印し、論文形式で議論を展開している。なので読むのに多少の手間は掛かるが、言いたいポイントは分かりやすくなっている。

本書のテーマは道徳だ。冒頭でニーチェは次のように述べている。

(解読)
私は本書で、人びとがそもそも善悪の価値判断を考えだした理由は何か、そしてこの価値判断それ自体にどんな価値があるかを明らかにするつもりだ。

そのために私は、道徳の価値がなぜ、そしていかにして生まれ、発展してきたかについて見ていくことで、道徳的な価値それ自体がもつ価値を批判的に考察しようと思う。

(引用)
われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これら諸価値の価値そのものがまずもって問われねばならぬ、—そのためには、これら諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきたもろもろの条件と事情についての知識が必要である(結果としての、徴候としての、仮面としての、偽善としての、病気としての、誤解としての道徳。が一方また原因としての、薬剤としての、興奮剤としての、抑制剤としての、毒物としての道徳など)。

かくしてニーチェは道徳が発展してきた過程をさかのぼり、それが成立するために必要だった条件を見て取ろうとする。本書が『道徳の系譜』と名付けられているゆえんだ。


気をつけておくべきは、ニーチェは史実にもとづいて道徳の起源を取り出そうとしているわけではなく、ひとつの仮説を置こうとしているにすぎないということだ。何らかの起源を想定すること自体、ニーチェの思想の構えに反する。「ニーチェの主張する事実は歴史上存在したことがない」と反論することは、ニーチェの議論に正面から答えることにならない。

本書は3つの論文から構成されている。それぞれのタイトルは次の通りだ。

•第1論文:「善と悪」、「よい(優良)とわるい(劣悪)」
•第2論文:〈負い目〉、〈良心の疚しさ〉、およびその類いのことども
•第3論文:禁欲主義的理想は何を意味するか?

まずは第1論文について見ていく。

第1論文 … 自己肯定の道徳とルサンチマンの道徳

ニーチェの道徳論のひとつの重心は、私たちは何が道徳であるかをしばしば「ルサンチマン」によって規定してしまう、という点に置かれている。

ルサンチマンは一般に「怨恨」という訳語が当てられているが、これでは意味がよく分からない。

なので言い換えてみると、ルサンチマンとは「ちぇっ!なんだよあいつ…」と舌打ちするときの心の感じを思い浮かべると分かりやすいかもしれない。アイツばかりモテやがって…とか、アイツばかり昇進しやがって…などの「ちぇっ!」が、ニーチェのいうルサンチマンの内実だ。


ルサンチマンが私たちの道徳の根本にあると言われると、私たちはドキリとする。「これこれすることはいいことだ」という確信が、自分より優れているヤツに対する「ちぇっ!」によって支えられているならば、私たちの道徳は実はまったくの偽善であることになってしまうからだ。

ニーチェいわく、「よい」という判断のおこりは、「よい人」たち自身が彼らより劣った人たちと比べて自分の行為を「よい」と評価したことにある。つまり「よい」の判断は自己肯定の表現として現れたのだ。そうニーチェは言う。

(解読)
「よい」とは語源学的にいって、もともとどのような意味をもっていたのだろうか?

私が見るに、どの言語においても、身分的な意味での「貴族」とか「高貴」が基本概念であり、そこから派生して、貴族的とか卓越性としての「よい」が発展してきた。

しかしそれと並行してもうひとつの発展があった。つまり野暮とか低級といった概念が「わるい」schlechtの意味を持つようになってしまった。初めそれは単に素朴さ(schlechtwegsは「率直に」という意味をもつ)を指していたにすぎない。しかし次第にそれは現在の意味、つまり善と対置される「悪」das Böseへと意味を変化させていった。

(引用)
どの言語にあっても、身分上の意味での〈高貴〉・〈貴族的〉というのが基本概念であって、そこから精神的に〈高貴〉・〈貴族的〉とか、また〈精神的に高潔の資性をもつ〉・〈精神的に特権を有する〉とかいう意味での〈よい〉(優良)の概念が必然的に発展してくる。この発展とつねに平行してすすむ例のもう一つの発展があって、これは〈野卑〉とか〈賤民的〉とか〈低級〉とかいうのをついには〈わるい〉(劣悪)という概念に変えてしまう。

(解読)
身分的な意味でしか使われていなかった「よい」と「わるい」が次第にその意味を変化させる際には、「僧侶階級」が大きな役割を果たした。彼らは最初は政治的に最も高位にある階級にすぎなかった。しかし次第に精神的な面でも、最も優越していると考えられるようになった。

僧侶階級と対照的なのが「戦士階級」だ。僧侶階級が沈鬱的であり行動忌避的なのに対して、戦士階級は健康、力強さ、自由で快活であることを前提としている。

僧侶的民族であるユダヤ人は、敵対者である戦士階級に対して仕返しをするために、一切の価値の価値転換、すなわちルサンチマンによる価値創造を行った。ただし彼らは、これを現実の行為としてではなく、想像上の復讐として行ったのだ。

(引用)
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。

「よい」のが悪い、「悪い」のがよい

ニーチェによれば、この過程で生み出されたのがルサンチマンの道徳だ。ニーチェはこれを奴隷道徳と呼び、それに対して、戦士階級の道徳、自己肯定の表現としての道徳を貴族道徳と呼ぶ。

(解読)
いっさいの貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対して奴隷道徳は否定から生まれてくる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンをもつ人間にとっては、否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが、奴隷道徳の本質的な条件なのだ。

(引用)
すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。

(解読)
ルサンチマンの人間は「悪人」を思い描き、それと対比して弱い自分を「善人」と見なす。それゆえ「善人」とはルサンチマンをもとに生み出された反動形成にすぎない。 ではルサンチマン道徳の「悪人」とは一体誰だろうか?これこそまさに貴族道徳での「よい者」、すなわち高貴な者、力強い者だ。

(引用)
ルサンチマンの人間が思い描くような〈敵〉を想像してみるがよい、—そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず〈悪い敵〉、つまり〈悪人〉を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として〈善人〉なるものを考えだす、—これこそが彼自身というわけだ!・・・

そもそもルサンチマン道徳の意味で〈悪い〉とされるのは一体誰であるか、ということが問われねばならない。これにたいし、いとも峻厳な答えをするなら、こうだ、—ほかならぬあの貴族道徳での〈よい者〉、つまり高貴な者・強力な者・支配者が、ルサンチマンの毒々しい眼差しによって変色され、意味を変えられ、逆な見方をされたにすぎないものこそが、まさにそれなのだ。

かつて「よい」は自然な自己肯定の表現だった。しかしルサンチマンは、「よい」のが悪く、「悪い」のが実はよいのだというように、価値基準をいつのまにか逆転させ、反動的に「善人」のイメージを思い描く。

「善人」は「悪人」の鏡として思い描かれたものだ。それは自然な自己肯定の現われではなく、「よい」人たちの価値基準を前提とすることで初めて成立するにすぎない。そうニーチェは言う。

ルサンチマンの人間は自分固有の価値基準をもっていない

ニーチェのいう貴族的人間とルサンチマンの人間の大きな違いは、ルサンチマンの人間が価値の基準をみずからの外部に求めるのに対して、貴族的人間はみずからのうちからそれを創りだすという点にある。

ルサンチマンの人間は、何がよく何が悪いかを判断するために、まず自分の外側へと向かっていく。その一方で貴族的人間は、自分の内面に価値尺度を備えている。彼は何がよいかを自分のうちで了解しており、他者の価値基準にビクつくことがない。こうした貴族的人間を、ニーチェは自由な人間と呼んでいる。

以上が第1論文だ。

第2論文 … 約束のできる人間に「良心」は宿る

次に第2論文について見ていく。

ニーチェによれば、「自由な人間」が登場した背景には「習俗の論理」の存在がある。習俗の論理は人間を一様に数え上げられるようにするが、最終的には、習俗の論理から再び解き放たれた個人、つまり「主権者的な個体」が現れるにいたるという。

「主権者的な個体」と言われると、王様や偉人のような人たちを思い描くかもしれないが、ニーチェのいう主権者とは、自分の意志をもち、約束をきちんと守り、相手も自分も裏切らないようなひとのことを指している。

(解読)
「主権者的な個体」は自律的で自己固有の意志をもつ人間だ。彼は自由の意識、自己と運命を支配する権力の意識に満ちあふれている。

そして大事なのは、彼は約束できる人間であることだ。 彼は責任についての強い自覚をもち、自分がしっかりと約束を守ることのできる能力があることを知っている。こうした能力がいわゆる**良心**のことだ。

(引用)
責任という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。—もし彼にしてこれを、この支配的な本能を、一つの言葉で名づける必要に迫られるとすれば、これを彼は何と呼ぶであろうか?疑いの余地もなく、この主権者的な人間はこれを自己の良心と呼ぶ・・・

たとえば、友達と「明日10時にここで」と約束して、やっぱり面倒だなーと行きたくなくなったとき、「本当にそれでいいのか?」と引き止める感じが自分のうちからふつふつとわいてくることがあるだろう。

約束をした相手を裏切らず、しっかりと約束を守ろうとする自己確信、それがニーチェのいう良心の中身だ。この言い方は確かに納得感を与えてくれる。


ニーチェがいう権力感情とは、他人を制圧するための権力を求める欲求ではなく、むしろ相手を裏切らないだけの責任をもてるだけの自己コントロール(支配)能力のことを指している。権力感情と聞くと何だかアヤシク思えるが、その内実は「自分は責任をもってきちんと・・・ができる!」という「自負心」だと考えるとわかりやすい。

「負い目」に由来する疚しい良心

一方、ニーチェによれば、約束する能力に由来するのではない良心もある。それが疚しい(やましい)良心だ。


自負心による良心ではなく、後ろめたさや「罪障感」に支えられている良心、これがニーチェのいう疚しい良心だ。

では疚しい良心はどのようにして現れてくるのだろうか?ここで重要な役割を果たすのが「負い目」だ。なぜなら負い目をみずからの内面へと向け変えることによって疚しい良心が現れてくるからだ。そうニーチェは言う。

(解読)
「負い目」(Schuld)は物質的な意味での負債(Schulden)に由来して現れてきた。

(引用)
これら在来の道徳系譜学者らは、たとえば〈負い目〉(Schuld)というあの道徳上の主要概念が、はなはだもって物質的な概念である〈負債〉(Schulden)から由来したものだということを、おぼろげなりと夢想したことがあるだろうか?

(解読)
その一方で、刑罰が報復に由来して現れてきた。

これまでしばしば、刑罰は負い目の感情や良心のやましさ、良心の呵責を呼び起こすための道具だと見なされてきた。しかしそれはまったくの誤りだ。むしろ事実としては、刑罰によって負い目の感情が発達しないように抑制されてきたのだ。

刑罰の本来の効果は次のところにある。つまり刑罰は自己批判を改善させる効果をもつ。それは恐怖と用心深さを増し、欲望を制御させることで、ひとを馴致させる。

ここで私はひとつの仮説を提示したい。それは、ひとは社会と平和によって束縛されていることを悟ったときに良心の疚しさにとらえられたという仮説だ。疚しい良心は、社会や国家がひとびとの自由の意識、つまり自律的に約束する能力から防御するために用意した刑罰によって、私たち人間の本能が内向したこと(人間の内面化)で生まれたのだ、と。

以上が第2論文だ。

第3論文 … 禁欲主義的理想で生を肯定する

最後に、第3論文について見ていく。

ここでニーチェは、禁欲主義的理想が生まれてきた背景について論じている。

ニーチェいわく、これまでの哲学者は概して官能を拒否し、禁欲主義的理想に対して愛着を見せてきた。禁欲主義的理想は哲学者が存在するための前提であり、哲学それ自体が存続するための条件でもあったとさえいう。

(引用)
哲学者らに特有の世界否定的な、生敵視的な、官能不信の、官能棄却的な厭離的態度は、つい最近にいたるまで固持されてきたものであり、かくてこれがほとんど哲学者の態度そのものと見なされるほどになっているが、—しかし、こうした態度は何よりもまず、哲学が一般に成立し存続するための不可欠な諸条件から生じた結果なのである。つまり、禁欲主義的な外被と被服がなく、禁欲主義的な自己誤解がなかったら、いとも長きにわたって哲学がこの地上に存在することなど到底できなかったであろう。

(解読)
禁欲主義者は、この生を「あの世」までの仮の生と見なす。彼はそれを否定されるべきもの、誤り、もしくは反駁されるべきものと見なす。これは人類の歴史上どこでも見られる事実のひとつだ。

しかし、ニーチェによれば、禁欲主義的な生はそれ自体が矛盾している。そこでは生の条件を抑圧しようとするルサンチマンが支配的であり、生きんとする力を押さえ込もうとするからだ、と。

(引用)
そもそも禁欲主義的な生というのは、一つの自己矛盾である。そこには比類のないルサンチマンが支配しているが、これは生のある部分をではなく生そのものを、生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマンである。ここでは、力の源泉を閉塞するために力を利用するという読みがなされるのである。ここでは、生理的な発達そのものにたいし、とくにその表現や美や悦びにたいして嫉妬ぶかい陰険な眼差しがそそがれる。

「禁欲主義的僧侶」が弱者の味方となる

ここでニーチェは、いわゆる「禁欲主義的僧侶」がルサンチマンの方向転換を施し、疚しい良心を生み出したという説を立てる。

禁欲主義的僧侶?

禁欲主義的僧侶と聞くと、実際にそういう人たちがいたようなイメージをもつかもしれない。しかしこれは初期キリスト教の指導者、という程度に捉えるべきだ。誰か具体的に特定の人物を指しているわけではない。

(引用)
われわれは、禁欲主義的僧侶がいかに規則的に、いかに普遍的に、いかにほとんどあらゆる時代に出現するものかを、とくと考えてみるとしよう。禁欲主義的僧侶なるものは、個々の種族のいずれにも属するものではない。彼はいたるところに生えしげり、あらゆる階級から生えでる。

いずれにしても、ここでニーチェは、キリスト教は弱者のルサンチマンに呼応して現れ、これを助長することで、内面の価値尺度で良し悪しを判断する道徳のあり方を組織的に否定しようとしている、と言おうとしているのだ。

禁欲主義的僧侶は生を肯定する

(解読)
弱者たちは自分の苦痛の原因を外部に求めようとする。「私が苦しいのは誰かのせいだ」など。しかし僧侶は弱者たちに次のように告げる。「確かにそうだ。しかしそれはお前自身だ。お前自身が自分の苦痛の原因なのだ」、と。

(引用)
もしわれわれが僧侶的実存の価値をもっとも簡単な一句に言い表わそうとするなら、端的にこう言ってよかろう、僧侶とはルサンチマンの方向転換者である、と。

「私は苦しい、これは誰かのせいにちがいないのだ」—こうすべての病める羊は考える。ところが彼の牧者である禁欲主義的僧侶は、彼にむかって言う、「そのとおりだ、私の羊よ!それは誰かのせいにちがいないのだ。が、この誰かというのは、じつはお前自身なのだ。それはただお前だけのせいなのだ、—お前がこうなっているのに責めがあるのはお前自身だけだ!」

(解読)
このように見ると、禁欲主義的僧侶は生を否定しているかのように思えるかもしれない。

外見的にはそうだ。しかし実は禁欲主義的僧侶は、生を肯定する勢力のひとつだ。なぜなら禁欲主義的僧侶は「こうではなく別にありたい」とする願望、つまり禁欲主義的理想を思い描くことで、倦怠感や「死への願望」と闘う力を得ているからだ。

(引用)
事実を簡潔に述べれば、次のごとくである、—禁欲主義的理想は頽廃しつつある生の防御本能と救治本能とから生ずる、と。かかる生は、あらゆる手段をもって自己を保持しようと努め、自己の生存のために闘う。

じつは生は、この理想において、この理想を通じて、死と格闘し、死に抗して闘っているのである。禁欲主義的理想は、生の保持をはかる一つの策略なのである。

ただし、禁欲主義的僧侶は、苦悩を治癒しても、苦悩を生み出す原因については治癒することがない。禁欲主義は慰めでこそあれ、不快のもとを取り除くことはない。ニーチェいわく、ここに宗教の本質がある。それはつまり、生理的な抑圧感、沈鬱や不快を、ただ心理的・道徳的にのみ取り除くことにあったのだ、と。

(引用)
流行病とまでなるにいたった一種の疲労と重苦しさとに打ち克つことが、すべての大宗教にとっての主要問題だったからである。地上の特定の場所で時折りほとんど必然的にある生理的抑圧感が広範囲の大衆を支配するようになるにちがいないということは、はじめからありそうなこととして推定されうるところである。しかし、この抑圧感は、生理上の知識を欠いていることからして、そうしたものとしては意識されることがなく、したがってその〈原因〉も、それの治療も、ただ心理的・道徳的にだけ求められ試みられるにすぎない(—これこそがすなわち、通例〈宗教〉と呼ばれるものにたいする私のもっとも一般的な定式なのだ)。

(解読)
ここで宗教が取る方法は、機械的な活動に従事させること、隣人愛という「小さな喜び」を処方することだ。

機械的な活動によって苦悩を打ち消すことを、ひとは「勤労の祝福」と呼んでいる。たえず同じ行為を繰り返すので、苦悩に対する余地がほとんどなくなってしまうのだ。

隣人愛は、慈善や施しを通じて、共同体、畜群生活への意志を育む。それは弱者同士の相互扶助を促進する。禁欲主義的僧侶は弱者のそうした本能を見抜き、さらにこれを助長するのだ。

そこで禁欲主義的僧侶は負い目の感情を利用した。彼は悩める人間に対して、苦悩の原因を次のように説いた。

(引用)
「おまえは、その苦悩の原因を、おまえ自身のうちに、負い目のうちに、過去の一事情のうちに求めるがよい、おまえの苦悩そのものを一つの刑罰状態と心得るがよい」、と。

(解読)
こうして彼は、罪障感に支えられた疚しい良心を抱くようになるのだ。

「人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する」

では、なぜ人びとは禁欲主義的理想を受け入れ、禁欲主義的僧侶に従うのだろうか?なぜ彼を拒否しなかったのだろうか?

これについて、ニーチェは次のように言う。

(解読)
それは、これまで唯一禁欲主義的理想のみが人間に生の意味を与えることができたからだ。

彼が禁欲主義的理想を抱くようになった理由、それは人間が本質的にいって生の意味を求める存在だからだ。彼にとっては苦悩それ自体が問題なのではない。むしろ苦悩に意味が欠けていること、これこそが問題なのだ。

禁欲主義的理想は、人びとに苦悩の意味、目的を与えた。それによって人びとは何かを意欲することができるようになったのだ。

(引用)
人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。—しかるに禁欲主義的理想は人類に一つの意味を供与したのだ!それがこれまで唯一の意味であった。何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。

人間は一つの意味をもつにいたった。それ以来人間はもはや風にもてあそばれる一枚の木の葉のごときものではなくなった、もはや無意味の、〈没意味〉の手まりではなくなった。いまや人間は何かを意欲することができるようになった、—何処へむかって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。

(解読)
しかし禁欲主義的理想は、人間に苦悩の意味を与えると同時に、新たな苦悩をもたらした。「虚無への意志」がそれだ。動物的なものに対する憎悪、官能に対する、また理性に対する嫌悪、美に対する恐怖—そうしたものすべてが禁欲主義的理想によって生み出されたのだ。

(引用)
さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、—人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。

「この生」「この世界」をどう肯定できるか?

本書の流れを大まかにおさらいすると、次のような感じだ。


道徳、とりわけキリスト教的道徳が生まれた背景には人びとのルサンチマンがある。ルサンチマンが「よい」と「わるい」の価値秩序を逆転させてしまった。そうした人びとを導いているのが禁欲主義的僧侶だ。彼が人びとを内面化させ、疚しい良心(罪障感の良心)を生みだした。ところで人びとが禁欲主義的僧侶に従ったのは、人びとが生の意味を求めていたからだ。そこで人びとは禁欲主義的理想を手に入れ、みずからの苦悩には確かに意味があることを理解した。しかし同時に彼は「虚無への意志」に見舞われた。

ニーチェはこのように直観し、以後、生と世界を肯定するための価値を創造しようと自ら課題へとみずから取り組んでいく。しかしそれは完全な形では示されず、今日『権力への意志』として知られている草稿群のうちに断片的なアイディアとして残されるにとどまった。

道徳を「鍛え上げる」

部分部分を細かく見ると、確かに、ニーチェの議論には怪しいところもある。たとえばニーチェは国家、社会、文化を否定的に捉えすぎている向きがある。「それらは人間の自由の本能を抑制し、人びとを馴致する」という観点を前面に押し出しすぎているのは否めない。

それでもなお、ニーチェの議論は多くの納得感を与えてくれる。

私たちは油断するとついルサンチマンにやられてしまったり、ルサンチマンの力で生と世界を否定的に解釈してしまったりする。「自分の人生こんなはずじゃなかった…」とか「この世界はこうあるべきではない…」というように。

そこで反動的に「みな道徳的であるべきだ」とか「正しい生があるはずで、そこから外れた者はケシカラン」という感覚をもってしまうことがある。正しいのは自分で、間違っているのは世界の側だ、と。ニーチェを読むと、それがルサンチマンに発するねじ曲がった正義だということをズバリ指摘されたような感じを受ける。

素朴な正義はしばしば「この世界は間違っている!正しい世界を実現させるべきだ!」と主張する。しかしその理想はしっかりと確かめ直されてこそ、本当の意味で正義にかなうと言える。「その理想はルサンチマンに発していないだろうか?もしくは罪障感に支えられていたりしないだろうか?」、と吟味することによって、正義をより深く生かすことができる。ニーチェの議論はそのことを私たちに教えてくれる。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-genealogie/


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『道徳の系譜』(どうとくのけいふ、Zur Genealogie der Moral)——副題:「一つの論駁書」("Eine Streitschrift")——は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作であり、先に公にされた『善悪の彼岸』の中で略述されたいくつかの新しい見解について詳論するという意図のもとに、1887年に執筆され、公刊された。

ニーチェの著作の中では、最も直接的な叙述がなされており、形式や文体の面でアフォリズム的な要素が最も少ないことから、ニーチェ研究者からは、確固たる明敏さと力強さをそなえた作品であり、ニーチェの代表作であるとみなされている。[1]

序言と三つの論文(Abhandlung)から成り、これら一連の論述を通して、道徳的諸概念の発展に関わる挿話を追っていくことによって、「道徳上の先入見」——とりわけキリスト教の道徳——を転覆することを目指す。


ニーチェの三つの論文の主題をなすのは、「道徳上の先入見の由来」についての彼独自の思想である。この思想は、彼が長期間にわたって作り上げてきたものであり、すでに『人間的な、あまりに人間的な』において簡潔に不完全な形で表現されている。ニーチェが自らの「仮説」を公刊しようと思ったきっかけとなったのは、友人パウル・レーの小著『道徳的感情の起源』(1877年)を読み、その中で「系譜論的仮説」が不十分な仕方で展開されているのを見出したことである。

かくして、ニーチェは、「道徳的諸価値の批判」こそが理に適っており、「これらの諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とされるべきである」と考えるに至る。この目的を果たすためには、レーのような(ニーチェが言うところの)「イギリス流心理学者」式の仮説的な説明よりも、実際の道徳史を提示することこそが必要不可欠である。


第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」

この論文では、ニーチェが『人間的な、あまりに人間的な』以来ほのめかしてきた君主道徳と奴隷道徳の間の区別が説明される。これら二つの相異なる道徳様式は、それぞれ一対の対立概念に対応している。

ニーチェによると、特権階級は、自分たち自身の行為を「よい」("gut")と定義した。この場合の「よい」とは、「高貴な」、「貴族の」、「強力な」、「幸福な」等々という意味である。その一方で、彼ら君主たちは、他の卑しい人々の行為を「わるい」("schlecht")とみなした。ただし、この場合の「わるい」とは、「素朴な」("schlicht")、「平凡な」、「貴族でない」という意味であって、ことさらそれらの人々に対する非難のニュアンスが込められているわけではない。

特権階級に従属する卑しく、貧しくて不健康な人々、つまり「奴隷」によって価値の序列が逆転される。彼らの感情は、ルサンチマンに基づいており、彼らはまずもって他者を「悪人」、すなわち「悪しき敵」とみなす。そして、その後ではじめて、彼らはまさしく悪人に対立する者として、自分たち自身を「善人」と定義する。換言すると、彼らは「悪」("böse")でないがゆえに、「善」("gut")である。つまり、貴族にとっての「よい」という概念が能動的であるのに対して、奴隷の「善」概念は反動的なのである。

ニーチェは、二番目の価値様式をユダヤ教とキリスト教の内に見出し、第一の価値様式をローマ帝国、ならびにルネサンスやナポレオンに割り当てる。もっとも、これら二つの道徳様式の対立は、内的葛藤を抱えた一人一人の人間の中でも依然として闘争を繰り広げることになるとされる。今日でも、比較的高邁な精神の持ち主においては、両方の価値評価様式がともに存在し、相争っている。しかしながら、全体としては奴隷道徳のほうが勝利をおさめることとなった。ニーチェ自身は——無条件に、見境なしにというわけではないが——はっきりと「貴族的」な世界観のほうに強い共感を表明しており、自らの哲学によって「賤民的」な道徳に対する闘争が再開されうることを期しているように思われる。


第二論文 「負い目」・「良心のやましさ」・その他

ここで探求の対象となるのは、人間は何かに対して「責任」を負うことができるという考え方の由来、ならびに、人間に特有で動物界ではほとんど見られない記憶力一般である。ニーチェは、「負い目」という道徳的概念は債権者に対する「負債」という物質的な概念に基づいていると考える。彼は、刑罰がさまざまな文化の歴史の中で担ってきた多岐にわたる表向きの目的と真の目的を示唆する。刑罰は、あらゆる事態がそうであるように、支配体制が新しくなる度に、新たな解釈を与えられてきた。ニーチェによると、良心のやましさは、人間の文明化に起源をもつ。人間は、組織的な社会で生きるという重圧の下で、自らの攻撃的な衝動を内向させ、自分自身に向けるようになるのである。

なお、この論文の第12節は、「力への意志」に関する教説を比較的詳しく取り上げているという点で、鋭い示唆を含んでいる。


第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

この論文は、すでにニーチェが序文で自ら指摘した形式的な特徴をよく表している。というのも、結論となる見解を最初の段落で簡潔なアフォリズムの形式で呈示しておいて——仮構の読者からの抗議に従って——論文本体において、そのアフォリズムを正確に敷延して完全な形で表現しているからである。

ニーチェは、禁欲主義的理想が、歴史の中や今日の社会の中で現れる際にまとってきたさまざまな形態、並びにその多様な目的を検討する(その中には、誤認された目的も実際の目的も含まれる)。ニーチェは、さまざまな人々——芸術家(リヒャルト・ワーグナーの『パルジファル』を例に)、哲学者(とりわけ、ショーペンハウアーの意志否定)、聖職者、ニーチェ自身が評価するところの「善人や義人」、聖人、そして現代において反-理想主義者と見誤られている人々、無神論者、科学者、批判的かつ反形而上学的な哲学者——における禁欲主義的理想の追求を解釈し評価する。そして、彼らの絶対的な「真理への意志」こそが、禁欲主義的理想の最後の純粋な形態であるとされる。そして、現代および将来のヨーロッパにおけるニヒリズムに関する考察に依拠して、ニーチェは、禁欲主義的理想がほとんど唯一の理想として尊崇されてきた究極の理由を示す。それは、つまるところ、より優れた理想がなかったからである。人間は「何も欲しない」ことができない。その結果、今日までの人間はむしろニヒリズムと禁欲において「無を欲し」てきたのである。

影響

「道徳の系譜」に影響を受けた人は、オスヴァルト・シュペングラー、ジャン=ポール・サルトル、ジークムント・フロイト、フランツ・カフカなどである。

また、ミシェル・フーコーは、この作品に影響を受け、狂気・性・懲罰について研究していた。

河出書房新社からは、この作品の標題を冠した叢書として「シリーズ・道徳の系譜」(1997年-)が刊行されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c6

[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
7. 中川隆[-13538] koaQ7Jey 2020年3月23日 09:01:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1366]

ニーチェの思想 2006-07-10
https://blog.goo.ne.jp/journal008/e/c774a8819e1f564fac5d9c5324a64aaf


ソクラテス以前も含むギリシア哲学やスピノザやショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。近代の終焉を告げる思想家ともされる。

神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

そのなかには、有名な永劫回帰(永遠回帰)説がある。古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

「神は死んだ」と宣し、西洋文明が始まって以来、哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、恨みという負の感情ルサンチマンによって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩や矮小化の原因であり、それを超越した超人をめざすことによって解決されるべきとした。

その思想は、ナチスのイデオロギーに利用されたが、多くのニーチェ主義者が喝破していたように、それはニーチェ哲学の曲解、通俗化でしかなかった。そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いて叱責している。

お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』(引用者注:ニーチェの思想を歪曲して利用した反ユダヤ主義文書らしい)は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。

また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛てのおよそ気が確かだと思われる最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」で結んである。主著『善悪の彼岸』では「ドイツ的なもの」とその喧伝者への批判に一章を割き、死後に刊行された草稿ではドイツ人のいう「偉大な伝統」なるものを揶揄して「ユダヤ人こそがヨーロッパで最も長い伝統をもつ、最も高貴な民族である」と、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いており、ヒトラーはおろかナチス高官の誰一人としてニーチェをまともに読んですらいなかったことは自明である。

にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。しかし、たとえこれほどの悪意的な操作がなかったとしても、〈善悪の彼岸〉〈超人〉〈力への意志〉など、文字面だけを見れば強権に迎合するものとも見えかねないキーワードをニーチェ自身が多用していたことも問題を紛糾させた一因である。

ニーチェの思想がナチズムや反ユダヤ主義と相容れないものであるという主張は、第二次世界大戦前からすでになされており、比較的早いものとしてはジョルジュ・バタイユをはじめピエール・クロソウスキー、アンドレ・マッソン、ロジェ・カイヨワらによる同人誌『無頭人(アセファル)』(1936年 - 1939年)などが有名である。
https://blog.goo.ne.jp/journal008/e/c774a8819e1f564fac5d9c5324a64aaf

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c7

[近代史4] インド人は汚い

インド人は汚い 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html


 不潔と言えば、インド人を忘れてはならない。インド人というのは独特の感性を持っているのか、鼻と口が曲がってしまうほど臭いガンジス川でも水浴びができてしまう民族だ。彼らは動物の死骸やゴミが浮いていても平気である。インド人の子供や老人は免疫力が桁外れなのか、嬉しそうに顔や体を洗って元気溌溂。除菌クリーナーで便座を拭いている日本人には到底真似できない。でも、こんな国が真夏を迎えたらどうなるのか。未だにインドは階級社会で格差社会。自宅に便所が無い庶民も多く、近くの穴や共同便所で排便だ。インドの田舎だと約50%の家庭が屋内の便所を持っていないので、排便の時は外に出て、草むらや林の中で用を足すらしい。さすがに都会では“路上排便”は少なくなったけど、ムンバイに住むある映画プロデューサーの夫人が外出したら、野糞をしている人を見かけて驚いたという。


(写真 / インドにおける野外便所 )

  下水設備や衛生施設が普及していないインドだと、都市部でも7.5%の人々が適切なトイレを利用できず、一般世帯の39%くらいしか便所附自宅に住んでいなそうだ。こんな状況だから、ボリウッド(インドの映画界)は民衆が共感できる『トイレ : ある愛の物語(Toilet : Ek Prem Katha)』というラヴ・コメディーを作った。日本人だと信じられないが、インドではそれなりにヒットした。この作品では、主人公のジャヤが新婚の女性という設定になっている。だが、彼女は夫のもとを離れてしまう。なぜなら、二人の新婚家庭には屋内便所が無いからだ。近代的生活に憧れるインド人女性には、トイレ無しの住宅なんて我慢できない。野外便所が普通の田舎では、排便に出掛けた女性が強姦されるという事件がよくあるから、野原で下半身を露出するのは危険である。

(左 : 街角に貼られた円河の宣伝ポスター / 右 : インド人の一般女性)

  日本人女性がインドを旅行すれば、ちゃんと綺麗な便所が設置されているホテルに泊まり、外人観光客が訪れる施設を巡ると思うが、地方の観光地だと衛生的なトイレは期待できない。たぶん、真夏の便器から漂う臭気は強烈だから、排便を断念する人もいるだろう。一般の観光客だと悲鳴を上げて卒倒するんじゃないか。普通の日本人は口にしないけど、インドには色々な雑菌やウイルスが存在する。だから、インドを旅行するなんて、黴菌を浴びに行くようなものだ。仮に、たけし軍団が「お笑いウルトラ・クイズin インド」を企画しても、インダス川に飛び込む“罰ゲーム”は恐ろしくて出来ないぞ。もし、若手藝人が何らかの病原菌に感染したら、番組のプロデューサーやディレクターは左遷か降格だ。バブル時代には無謀な企画が数々あったけど、平成から令和の不況時代だと無理。

牛の小便は特効薬?

  日本では武漢ウイルスが流行し、老人から幼児まで、アルコール消毒液で両手を殺菌だ。一部の人々は、無駄と分かってもマスクをしたり、と涙ぐましい努力で感染拡大防止に努めている。しかし、インドでは別の方法が“実行”されていた。何と、牛の尿を呑んでコロナウイルスを退治しようとする集団がいたのだ。スワミ・チャクラパニという人物に率いられた「牛尿党(gaumuta party)」のメンバーは、コップに牛の小便を注ぎ、その液体を一気に飲み干していたのである。("Coronavirus : Group hosts Cow urine party, says COVID19 due to meat-eaters", The Hindu, March 14, 2020.)

(左 / 牛の尿を飲み干すインド人)


  このチャクラパニという党首は、「アキル・バラト・ヒンドゥー・マハサバ(Akhil Bharat Hindu Mahasabha)」という団体の議長であるという。彼によれば、今回の新型コロナウイルスは、非菜食主義者を罰するためにやって来た神様の化身であるそうだ。つまり、肉を食べる奴らを懲らしめるために、神様がウイルスに化けて現れたという教義らしい。なるほど、牛を神聖な動物と考えるインド人にしたら、ハンバーガーを食べるヨーロッパ人や日本人は「けしからん連中」だから、病気になっても“当然”という理屈だ。件(くだん)の党首様は歐米の記者に向かって、「君らが動物を殺す時は、破壊をもたらすある種のエネルギーを創りだしているんだぞ !」と言い放ち、「世界の指導者達は、インドから牛の小便を輸入すべきだ。なぜなら、全知全能の神様はインドの牛にしか存在せず、外国で育った牛には居ないんだからな !」と説教した。もちろん、インド政府や衛生当局のクリティ・ブシャン局長は、牛の尿にウイルスを殺す効果は無く、科学的根拠のない話である !」と否定したそうだ。

(左 / 牛の小便をタンクから出すインド人 )


  確かに、動物の尿を飲んだからといって、ウイルスの感染を防止できる訳じゃない。たぶん、大多数のインド国民は「馬鹿らしい迷信だ !」と思っているはずだ。しかし、「牛尿党」の一般党員は信じている。サヴィタという主婦は自慢げに、「私は毎日これを飲んでいるわ! これ異常に健康的なものは無いのよ ! 私の家族も牛の尿を毎日飲んでいるの !」と笑顔で話し、グラスに注いだ牛の尿を啜っていたそうだ。「世田谷自然食品」とか「青汁」なら分かるけど、牛が排出した黄色い液体なんか御免である。でも、まぁ、「病は気から」という格言もある。牛の小便を飲んで元気ならいいじゃないか。ただし、目の前で牛乳ならぬ「牛尿」を飲まれては、ちょっと距離を置きたくなる。インドのネレンドラ・モディ首相は、「清潔なインド(Swachh Bharat)」運動を提唱し、各家庭に屋内便所を普及させる、と意気込んでいたが、それなら同時に「啓蒙活動」も展開した方がいいんじゃないか。

  筆者は「アジア人が全て不潔」と断定している訳じゃない。単に「異なった風習や信仰、伝統文化を持つ外国人を日本に招くのは危険だ」と言いたいだけである。特に、アジアやアフリカの異民族を受け容れると、日本人の拒絶反応を増加させるばかりか、日本社会の破壊にも繋がってしまうのだ。多文化主義というのは、ホスト国の住民に「我慢」と「譲歩」を要求する一方で、異質な移民の主張を正当化するイデオロギーとなっている。これは有害思想以外の何物でもない。もし、普通の日本人が支那人や朝鮮人、あるいはインド人やアラブ人の慣習を嫌うと、いくら「自然な拒絶反応」であっても、日本人による「民族差別」とか「異国人への偏見」と見なされてしまうのだ。とりわけ、大学時代に文化人類学とか国際関係論、社会学などの講義を受けた日本人ほど、アジア移民に譲歩し、卑屈な態度を取ってしまう。一般的に、高学歴の日本国民は“無自覚”のリベラル派、つまり確固たる信念無き“なんちゃって左翼”になりやすい。

  多文化主義の弊害は具体例を考えてみれば解るはずだ。例えば、インド人の青年が日本に移住し、日本語を習得して寿司職人の修行を始めたとする。貧しいアジア国から来た移民が日本人以上にコツコツと働き、熱心に努力すれば、巷の日本人は「大したもんだなぁ〜」と感心するだろう。しかし、この見習い職人が休憩時間に便所に入り、左手の指で肛門を洗えば、「えぇぇぇ〜、嫌だぁぁ !!」と身震いし、彼が握る寿司をつまむことはないはずだ。

いくら、この見習い職人が「ちゃんと洗面所で石けんを使って手を洗いました」と述べても、日本人の顧客は彼の寿司店を敬遠し、常連客でも寄りつかなくなる。もちろん、インド人の観光客がこの寿司店を嫌い、同胞の寿司を食わないのは理解できる。インド人によれば、左手は不浄なので、見ず知らずの他人が両手を使って握る寿司なんか、とても食えたもんじゃない。なにせ、下層民が触れた食器でさえ厭がるんだから。したがって、もし、この見習い職人が下層階級の出身者なら、上流階級のインド人は決して彼の料理を食べないだろう。実に酷い話だが、これはインド人の伝統的風習だから非難されることはない。

ところが、日本人に「左手は不浄」と見なす文化は無いから、インド人が握った寿司を拒めば、不合理な「民族差別」となる。机上の空論をもてあそぶ大学教授は、気軽に「異文化との共存」を説くが、実際の社会では文化の衝突や軋轢の方が多い。インド人からすれば、紙で肛門を拭く日本人の方が汚く、水を掛けて、肛門を入念に洗浄するインド人の方が清潔だ。一般の日本人は、こう説明されると反論しにくく、感情的に反撥するしかない。だが、もし、日本人がインド人の風習を否定すると、異文化の否定に繋がってしまい、「違った文化を尊重すべし」という多文化主義のドグマ(教義)に反してしまう。だが、多文化主義の“洗脳”を受けていない普通の日本人だと、「そんなの嫌だ ! ふざけんじゃねぇ!」と激怒してしまうから、こうした人々は「ネオナチ」とか「排外義者」と呼ばれてしまうのだ。テレビに出てくる御用学者はよく「寛容の精神」を説くが、そんなのは「屈服の根性」に過ぎない。日本は「日本人のホームランド(自宅のような国家)」であるから、「嫌なものは嫌」と言える自由があるし、不愉快な外人を排除するのは我々勝手である。

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[近代史4] ユダヤ人とは関わらない方がいい理由 中川隆
2. 中川隆[-13537] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:01:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1367]

日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。


(左 : カール・ラデック / ゲンリフ・ヤゴーダ / イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。

呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ〜」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。


(左 : マチヤス・ラーコシ / ジョルジ・ルカーチ / エマ・ゴールドマン / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

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[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
8. 中川隆[-13536] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:05:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1368]

ヒトラーがユダヤ人を嫌った理由


日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。

(左 : カール・ラデック / ゲンリフ・ヤゴーダ / イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。

呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ〜」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。


(左 : マチヤス・ラーコシ / ジョルジ・ルカーチ / エマ・ゴールドマン / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

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[近代史4] アドルフ・ヒトラーの世界 中川隆
9. 中川隆[-13535] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:06:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1369]

ヒトラーがユダヤ人を嫌った理由


日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。

(左 : カール・ラデック / ゲンリフ・ヤゴーダ / イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。

呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ〜」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。


(左 : マチヤス・ラーコシ / ジョルジ・ルカーチ / エマ・ゴールドマン / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

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[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
6. 中川隆[-13534] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:10:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1370]

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


▲△▽▼


『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


▲△▽▼


カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c6

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
7. 中川隆[-13533] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:12:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1371]

天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは


ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。

ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。

彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。

スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。


1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった[19]。

ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した[20]。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。

ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において共産党中央委員書記のニコライ・シャターリンによって告発された。シャターリンはベリヤが多くの女性と性的交渉を持ち、娼婦との関係の結果梅毒にかかったと述べ、ベリヤと交渉をもった25人の女性のリストについて言及した。やがてこの非難はより劇的な展開を迎える。フルシチョフは彼の死後に出版された回想録において「我々は100人以上の女性の名前を記したリストを見せられた。彼女たちはベリヤの部下によって、ベリヤの元へ連れて行かれたのだ。彼はいつも同じ手口を使った。女性が彼の家に到着すると、ベリヤは彼女をディナーに招待する。そしてスターリンの健康を祈って乾杯しようと持ち掛ける。その乾杯のワインには睡眠薬が混入されていたのだ」と述べている。

1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。ベリヤの伝記を著したアントン・アントノフ=オフセーエンコ(Anton Antonov-Ovseenko)はあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。このときに行ったとされる行為は、「ベリヤのフラワーゲーム」と名づけられている。それは、部下に5人ないし7人ほどの少女を連れてこさせ、靴だけ履かせたまま彼女たちに服を脱がせた上で、頭を中心に向けた四つんばいの姿勢で円陣を作らせるというものだった。ベリヤは歩き回りながら彼女たちを品定めして、そのうち1人の脚をつかんで引っ張り出して連れ去り、レイプしたという[21]。ここ数年の間にベリヤが私的に犠牲者を殴り、拷問し、殺害したという数多くの物語が流布している。

1970年代以降モスクワの子供たちは、ベリヤの以前の住居(現在はトルコ大使館)の裏庭、地下室、あるいは壁の中から骨が発見されたと言う話を繰り返し噂し合っている。2003年12月、ロンドンの日刊紙 デイリー・テレグラフは「(トルコ大使館で)キッチンのタイルが改装された際、大きな大腿骨と小さな足の骨が発見されたのは、ほんの2年前のことだった。この大使館で17年働いているインド人のアニルは、地下室で彼が発見した人間の骨が入ったプラスチックのバッグを見せてくれた」と報じた[21]。政治的に動機付けされた非難として、性的虐待とベリヤに対する強姦告訴については、妻のニーナ、息子のセルゴといった近親者と、元ソビエト情報部長官パヴェル・スドプラトフによる議論がある。

歴史学者のサイモン・セバーグ・モンテフィオーリによると、ベリヤは個人的知り合いであるアブハジアの指導者ネストル・ラコバが1936年末に粛清された後、その家族を拷問にかけた。彼の未亡人サリヤは独房で毎日拷問にかけられ、衰弱死。息子ラウフは死ぬほど叩かれ、その後強制収容所送りになったという[22]。後に生還している。モンテフィオーリは、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と暴露している[23]。

ベリヤは小さな子供を拷問・強姦するために、自分の事務室に隣接した特別室を独占したという[24]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4


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天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは _ 3


ベリヤが支配した国はこうなる:

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c7

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
8. 中川隆[-13532] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:13:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372]

【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。


筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405


ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。



ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。



大粛清ー犠牲者70万人以上

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。


1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


抵抗の果てに

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。


戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。


同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。


激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c8

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
9. 中川隆[-13531] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:14:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373]

ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。

 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c9

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
10. 中川隆[-13530] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]

スターリンは独立の悪党だった


信仰より現世を選ぶ神学生

  国家総力戦が起こった第20世紀には、それに相応しい梟雄(きょうゆう)が謀略を張り巡らしていた。その中でも、一、二を争う悪党と言えば毛沢東とスターリンである。一般的に、ユダヤ人や西歐人はヒトラーを巨悪の代名詞にするが、本当に兇悪なのはロシアの独裁者と支那の赤い皇帝だ。ユダヤ人の虐殺数から言えば、スターリンの方が遙かにヒトラーを上回るし、チャーチルとローズヴェルトを手玉に取り、ソ連を超大国に仕立てた暴君の奸智は“超一流”としか言い様がない。戦争というのは政治「目的」を達成する為の「手段」であり、武力を使った「外政」の「延長」だから、最終的に戦争目的を達成した者が“勝者”である。大英帝国を没落させたチャーチル首相は、戦闘で勝ったとはいえ、外政上の「敗者」であるし、ソ連の東歐征服を助けたトルーマン大統領も「敗者」の側に片足を突っ込んでいるから、「勝者」とは言いづらい。翻って、毛沢東は日本軍対して劣勢だったけど、政治力学の秀才だったから、漁夫の利を得て「勝者」となった。この極悪人は単細胞の日本人を利用して蔣介石を追放し、宏大な支那大陸をまんまと手中に収めたんだから大したもんだ。一方、満座の席で笑われるのが我が国で、運搬方法も考えぬまま石油獲得のために東南アジアへと進出し、「大東亜解放」という妄想を叫んで米国と闘ってはみたものの、見事に惨敗。アジア諸国が独立できても、我が国は軍隊を失い、米国の属州になって未だに立ち直れない。深田祐介の解放論は「日本」を忘れているのだろう。 日本人は「自国の独立」を最優先にすべきだ。

Harry Truman 3Stalin 3winston churchill 3
(左: ハリー・トルーマン / 中央: ヨシフ・スターリン / 右: ウィンストン・チャーチル )

  第二次世界大戦で“最大の果実”をもぎ取ったスターリンは、毛並みの良い貴族でもなければ、名門大学出の御曹司でもなかった。後に「スターリン」と呼ばれるヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリは、1879年、グルジアにある「ゴリ」という町が故郷で、靴職人を営むヴィサリオンとその妻エカチェリーナとの間に生まれた。1879年と言えば、明治12年だから、スターリンは小説家の正宗白鳥や作曲家の瀧廉太郎、物理学者のアルバート・アインシュタインと同世代の人物となる。なるほど、同級生となるマルキストの河上肇はラッキーだろうが、大正天皇がお生まれになった年でもあるから、我々としては不愉快で気分が悪い。他人の命を平気で奪ったスターリンは結構しぶとく、1953年(昭和28年)に74歳で亡くなっているから、天の摂理は何とも不条理だ。大正天皇は1926年に崩御されたのに、この極悪人は吉田茂のバカヤロー解散くらいまで長生きしたんだから。


Stalin 6(左 / 青年時代のスターリン )
  スターリンと言えば泣く子も黙る大虐殺の達人であったが、少年時代はそれと全く異なり、周囲も認める優秀の神学生であった。世の中に尽くした偉人と同じく、悪党の経歴というのも意外性に満ちている。幼い頃、「ソソ」と呼ばれたスターリンは、病気ばかりしている虚弱児で、左腕が右腕よりも短く、その右腕すら動かすのがやっとの少年であった。ソソが母親から受け継いだ言葉はグルジア語であったが、ロシア人の友達と遊んでいたので自然とロシア語を流暢に話せるようになったらしい。彼が10歳の時、母のエカチェリーナは息子をゴリの神学校に入れようと思い、受験準備をさせたところ、ソソは優秀な成績で合格したという。しかも、月額3ルーブル50ペイカの奨学金まで得たというから、トップ・クラスに属する生徒であった事は間違いない。(バーナード・ハットン 『スターリン』 木村浩訳、講談社学術文庫、1989年) 学級で一番の優等生になったソソは、記憶力が抜群に良かったというから、小さい頃からギャングの親玉になる素質があったのだろう。

  世界を揺るがす独裁者が、幼い頃とはいえ、教会で賛美歌を独唱していたなんて冗談みたいな話だが、冷酷な革命家で神学校出身の人物は珍しくない。例えば、フランス革命で指導的役割を果たしたマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien F. M. I. de Robespierre)は、オラトリオ修道会の神学校を経て、パリのルイ・ル・グラン学院に入ったし、権謀術数を駆使して警察長官にまで上り詰めたジョセフ・フーシェ(Joseph Fouché)も、オラトリオ修道会の神学校に通い、結構な知識を身につけた姦雄の一人であった。(このフーシェという革命家は煮ても焼いても食えない奴で、シュテファン・ツヴァイクの伝記に詳しいが、本当に狡賢い“クセ者”である。) 地元の子供と変わりなく神学校に通うソソであったが、彼の関心は天上の来世ではなく、地上の俗世であった。ソソは旋毛(つむじ)に悪魔の刻印が出来る前に、民族意識が目覚めたようで、祖国解放の気概に満たこの少年は、友達を前にしてグルジア民族の英雄である「コバ」を讃えたそうだ。そして、自らもコバに倣い「民族解放の闘士になるんだ !」と息巻いていた。

Robespierre 2Joseph Fouche 2Karl Marx 1
(左: ロベスピエール / 中央: ジョセフ・フーシェ / 右: カール・マルクス )

  こうした野望に燃えた少年が退屈な聖書や神学書に没頭するはずがなく、少年「コバ」が好奇心を示すのはロシア政府から禁じられていた書物であった。彼は手当たり次第に図書室の本を貪り読んだそうで、バルザックの『人間悲劇』からヴィクトル・ユーゴーの『九十三年』、さらにカール・マルクスの『資本論』へと目を通していたそうだ。こうして、禁書と革命に興味を抱いた神学生は、次第に政治活動へと傾いてくる。彼はマルクス主義グループを組織するようになり、この集団に『ブルゾーラ(闘争)』という名前をつけると、その指導者になってしまった。メンバーは危険を避けるため、各人が匿名を用い、ソソは以前から憧れていた「コバ」の名前を選んだそうだ。

Kamenev 3(左 / カーメネフ)
  スターリンは神学生であったが、聖人が伝えた有り難い福音より、破壊分子の荒々しい雄叫びに興奮した。関根勤のギャグじゃないけど、「納得!」と言いたい。スターリンにとって、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という教えは、ナンセンスどころか愚の骨頂だ。それよりも、「憎い圧制者を容赦無く打倒せよ !」とか「刃向かう者は皆殺しにしろ !」というスローガンの方が似合っている。社会主義と暴力革命に馳せ参じるスターリンは胸がときめき、「これが我が人生 !」と生き甲斐を感じていたんじゃないか。今では、東大の赤い学生でも「将来の職業は?」と訊かれて、「職業革命家です!」と答える馬鹿はいないけど、ロマノフ王朝時代のロシアでは、そこら辺に赤ヘルの卵がゴロゴロいた。敵をぶっ倒すことで生きて行けるなら、スターリンにとって格好の天国だ。「陰謀」と「暴力」は彼の十八番。破壊活動やストライキに参加して、官憲に追われる姿も結構「絵」になっている。ちなみに逃走中、スターリンは後に夫人となるナジェージタと出逢っていた。そして、この「お尋ね者」は若きジャーナリストのレフ・ボリソヴィッチ・ローゼンフェルド(Lev Borisovich Rozenfeld / 後のKamenev カーメネフ)に匿われていたのである。(ちなみに、カーメネフはユダヤ人の父を持っていた。ロシアの革命分子にはユダヤ人が多い。)

犯罪者に向いている革命家

  人には「向き不向き」というものがあるようで、チフリスの神学校を去って社会民主党に移ったコバは、メキメキと頭角を現すようになり、22歳で党の指導的地位にまで昇ることができた。彼の才能は犯罪で開花する。例えば、コバは党の発展のためにも秘密出版所が必要であると悟っていた。しかし、あいにく党の金庫は空っぽで、印刷用の設備すら“無い”ときている。せっかく、グルジア語やアルメニア語、トルコ語、ロシア語のパンフレットを作成できるのに、それを刷ることができないなんて残念。だが、そんなことでヘコたれるコバではない。この策略家は、「お金や機械が無ければ、どこからか調達してくればいい」と考える。ある日、裕福なアルメニア人印刷業者の工場に強盗が入り、活字ケースや印刷機が強奪されるという事件が起きたそうだ。すると、「あら不思議 !」、コバのところに秘密印刷所が出来ました。(上掲書 p.28) さすが、スターリンは機転が利く。

Joseph Stalin 1(左 / 若い頃のスターリン )
  盗みが得意だったコバは、脱走の名人でもあった。官憲に目を附けられたコバは、ある事が切っ掛けで逮捕されてしまい、シベリアにある「ノーヴァダ・ウヤ」という僻地に流刑となる。だが、党の仲間から二年前に死亡した絨毯商、ダヴィド・ニジェラーゼ名義の旅券を手に入れ、その村を脱出することができた。人間の心理を察知するのが上手いコバは、クリスマス・イヴに脱走を図ったという。なぜなら、その神聖な夜であれば、どんな連中も仕事を放り出し、職務そっちのけで酔っ払うに違いないと踏んだからだ。確かに、ロシア人ならウォッカをがぶ飲みしてドンチャン騒ぎというのが目に浮かぶ。お祭りの日に真面目に働くロシア人なんて想像できない。今だって、サッカーやアイス・ホッケーの世界大会があれば、仕事をズル休みして会場に駆けつけるんじゃないか。それにしても、スターリンは強靱な体を持っていた。安全地帯のマカーロフ村まで20マイルもあるのに、極寒の中、気が遠くなるほどの道のりを歩いたんだから。しかも、途中には空腹を抱えた狼や熊までいたというから、いくら猟銃を所持していたとはいえ、随分と危険を冒したものである。スターリンの評伝によると、寒風吹きすさむ中、コバの足は痺れ、肌を突き刺す冷気で凍死寸前だったというから、悪人というのは本当に運が強い。

Leonid Krasin 2(左 / レオニード・クラーシン)
  ボリシェビキときたら威勢だけは良かったが、肝心の活動資金に困っていた。そこで、レーニンの腹心だったレオニード・クラーシン(Leonid B. Krasin)が「チフリスの国立銀行を襲って、金を奪ったらどうでしょう?」と提案したそうだ。この「解決策」を実行するに当たり、白羽の矢が立ったのはコバ。というのも、彼以外、適役がいなかったからだ。要請を受けたコバは軍資金として50ルーブルをもらい、ダヴィド・チジコフという偽名まで用いて故国へ派遣されることになった。大規模な強奪計画を練り始めたコバは、チフリス銀行が頻繁に100万から200万ルーブルに上る現金を輸送する事に着目し、彼はこの点を突くことにしたという。待望の掠奪行為はある早朝に実行された。武装したコサック隊は銀行を出発した貨物運搬車を襲撃し、護送車からの反撃を受けるも、34万1千ルーブルの現金と、農業銀行の国庫債券、株券、鉄道債券などを強奪したという。

  ところが、奪った金は危険過ぎて直ぐには使えなかった。なぜなら、掠奪したお札が全部、高額紙幣の500ルーブ札で、おまけに、全部が続き番号の紙幣であったからだ。当時のロシアでは、1ルーブル紙幣1枚あればお金持ちと見なされていたくらいだから、500ルーブル紙幣なんて使ったら大変だ。コバたちは警察当局の捜査が打ち切られるのを待ってから、その紙幣や債権を国外に持ち出し、「リトヴィノーフ」の偽名を持つワラッフがパリで処分るはずであった。しかし、「リトヴィノーフ」はこの段取りを実行できず、あっさりと官憲に捕まってしまった。警察はダヴィド・チジコフという男が事件に関与していると察知したが、その容疑者がコバであることまでは判らなかったという。

  コバはコーカサス刑事捜査部に務める友人から、この捜査情報を渡されので、偽名を用いて旅券を手に入れると、さっそく高飛びを図った。しかし、誰かの密告により捕まってしまう。この不運な男はロシアの極北地、ソリビチェゴッツクという町に送られてしまうが、またもや偽名旅券を手に入れ脱走できた。まったく、要領がいいというか、狡賢いというか、窮地に立たされても何とか抜け出してしまうんだから、スターリンは根っからの犯罪者である。巣鴨プリズンに収容されたA級戦犯は、みんな“しょげていた”というから、ちっとはスターリンを見倣うべきだ。ただし、服役者の中で岸信介だけが元気だった、というから長州出身の「元革新官僚」で、「昭和の妖怪」と呼ばれた豪傑は桁が違っていたのだろう。

  バクーに戻ったスターリンは、壊滅状態にある党組織を目にする。大部分の指導者が警察に逮捕されていたし、党を運営する資金も底をついていた。でも、スターリンには心強い仲間がいた。といっても、強盗犯や前科者ばかりだったけど。お金が欲しいスターリンは、商店主や銀行家、実業者などりリストを作り、党に「献金」してほしいと“鄭重”に頼んだそうだ。しかし、この「お願い」拒み、警察に訴える者がいると、「お礼参り」があったという。つまり、こんな「階級の敵」には容赦せぬとばかりに、ゴロツキどもが商店や邸宅を破壊したそうだ。それにもし、被害者がこの「仕返し」を警察に訴えようとすれば、「お前ばかりか、テメエの家族まで命をもらうことになるぞ」と脅したそうだから、何とも念が入っている。ロシア人やグルジア人の恐喝って、ヤクザの因縁よりも怖い。なんかエメリアエンコ・ヒョードルみたいな用心棒が出て来そうだもん。そう言えば、K-1チャンピオンのセーム・シュルトを破ったセルゲイ・ハリトーノフは驚愕を越えた恐ろしさを味わっていた。試合中、彼がシュルトの首に馬乗りとなり、その顔面に鉄槌を下したことがある。ハリトーノフの顔には、必殺仕掛人でさえ怯えるほどの狂気があった。案の定、シュルトの顔は鮮血まみれ。外人の格闘家さえ、そのドス黒く紫色に変わった顔面に驚き、ゾっとするような戦慄を覚えたくらいだ。ロシア人と比べたら、日本人の格闘家なんて温和な好青年である。

娼婦を搾取する共産主義者

  銀行強盗を実行したスターリンは、別の資金集めにも熱心だった。今度は売春宿の経営だ。彼は警察のブラックリストに載っているラヨス・コレスクと一緒に売春宿を切り盛りすることになった。スターリンは娼婦らに街頭や報酬の悪い所で商売せず、自分達のもとに移るよう説得したそうだ。やがて彼の売春宿は、チフリスでも、バクーやバツームでも大繁盛となった。女たちは体を売って得た料金の1割をもらい、コレスクは宿の運営、女たちの扶養、自分の取り分などを含めて5割を受け取り、残りの4割をコバに渡したそうだ。(上掲書 p.45) ところが、こうして売上げの一部を得ていたコバは、“ちゃっかり”と店の常連客になっていたというから、何とも図々しい野郎である。まぁ、後にローズヴェルトやチャーチルを騙すことになるんだから驚かないけど、“抜かりの無い”コバは、こっそりと上納金の一部をピンハネしていたそうだ。学校の先生は教えないけど、陰で“ほくそ笑む”スターリンって、とても「絵」になっている。

  仕事と趣味を両立してコバは満足だったが、この噂を聞きつけたレーニンは眉を顰めたという。そりゃ、そうだ。建前でも、一応、革命家たちは「人間による人間の搾取」に反対していたのだ。それなのに、当の革命家が娼婦の生き血を啜って肥え太っていたのでは世間体が悪い。(コバ自身はそんな矛盾をちっとも「悪い」とは思っておらず、娼婦の搾取など当然と考えていた。さすが、極道のスターリンは生きている次元が違う。) また、売春宿の運営実態は不透明で、帳簿や領収書も無かったから、党はコバの差し出すお金を黙って受け取るしかなかった。したがって、誠実なボルシェビキ党員がコバの遣り口を非難したのも当然だ。レーニンはコバ宛に手紙をしたため、売春商売が党の名誉を傷つけていると非難したそうだ。綺麗事を好むインテリのレーニンは、自分でお金を稼がないくせに、スターリンが売春で仕送りしている事に文句を長けていたんだから、何となくスターリンの方が偉く思える。

  レーニンから書簡を受け取ったコバは、怒れる党の指導者に返事を送り、自分は売春宿を悪いとは思っていないと述べ、むしろ女たちを以前よりも良い状態で暮らせるようにしてやったのだ、と自慢したそうだ。なぜなら、娼婦たちは雨の日も風の日も、通りに出ては客を拾い、警察にしょっ引かれる心配をしながら営業していたのだ。しかし、今ではそうした不安に怯えることもなく、ちゃんとした家に住み、まともな食事を取れるようになった。こうした改善を施してやったのだから、「いいじゃないか」というのがコバの主張である。こう聞くと、コバの言い分にも一理あると納得してしまうから不思議だ。まるでスターリンが慈悲深い元締に見えてくる。といっても、山口組の田岡組長とは違うぞ。ある新聞記者が、スターリンの売春業を記事にしようとしたらしい。すると、「自分の関係無いことに首を突っ込むな !」と怒鳴られ、「お前とお前の家族も皆殺しにするぞ !」と脅されたそうだ。それ以来、誰一人としてこの件を明るみに出そうとはせず、警察も女たちが口を割らないため介入できなかったという。

Lenin 2Trotsky 2Wilhelm II
(左: 若い頃のレーニン / 中央: トロツキー / 右: 皇帝ウィルヘルム2世)

  ボルシェビキ党は定期的に資金を得ることができ、各種の出版物やパンフレットをばらまくことが出来るようになった。しかし、コバは「党に大打撃を与える事になる」というレーニンの忠告に耳を傾け、これからは彼の指令通りに従うことを約束したそうだ。コバはコレスクと話をつけ、方々の売春宿に足繁く通うことを止めたという。その代わり、彼は別の資金源を開拓した。街頭で「他人に頼らず稼ぐ」娼婦たちの為に、「保護事業」なるものを起こし、コバは喜んで「保護者」になるという前科者を集めたらしい。この連中は町を巡回し、娼婦から稼ぎの上前をハネて、その一部を党に上納したそうだ。でも、これって間接搾取じゃないのか? つまり、サラリーマンの源泉徴収みたいなものだ。企業の会計係が社員の給料から税金をピンハネし、この「抜き取った金」を税務署に上納する。税務署の役人は自らの手を汚さず、“きっちりと”年貢を集められるから楽なもんだ。

  スターリンはとんでもない悪党だけど、ある意味、レーニンやトロツキーなんかより凄い。なぜなら、お金に困れば“自力”で工面したからだ。口ばかりが達者な党の幹部連中は、活動資金を資本制国家の金融業者に求めた。レーニンたちが革命を達成するため、ドイツの皇帝と銀行家に頼ったことは有名だ。ドイツに店を構えるウォーバーグ銀行のマックス・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)は、カイゼルに資金提供の話を持ち掛け、ロシアの内乱を拡大したかったカイゼルはこれを諒承する。ドイツ政府は充分な資金を用意して、レーニンとその取り巻き連中を安全にスイスからロシアに輸送する手筈を整えた。この資金調達のために動いたのは、マックスの弟であるポール・ウォーバーグ(Paul M. Warburg)であり、彼とパートナーを組むヤコブ・シフ(Jacob Schiff)、そしてウォール街の国際金融家であった。(この経緯は、アンソニー・サットン教授の『ウォール街とボルシェビキ革命』に詳しい。) 本質的に、“ロシア”革命は“ユダヤ人”の金貸しと扇動家によって画策された政府転覆事業である。ヤコブ・シフから軍資金を調達できた日本人は「誠に有り難う御座います」と感謝していたが、シフにとっては憎いロマノフ王朝を倒すための、便利な「駒」に過ぎなかった。ポグロムでユダヤ人を殺すロシア人に仕返しをする為なら、いくら大金を使っても惜しくはない。たとえ、我が国が日露戦争で勝てなくても、相当なダメージを与えたはずだから、シフとしてはおおよそ満足だろう。ユダ人の大富豪にしたら、日本なんて使い捨ての消耗品である。かくも現実は冷酷で厳しい。

Max Warburg 1Paul Warburg 1Jacob Schiff 1
(左: マックス・ウォーバーグ / 中央: ポール・ウォーバーグ / 右: ヤコブ・シフ )

  一般的に、インテリというのは口舌の徒で、演説は上手いが銭儲けに関しては素人だ。しかも、勇ましいことを述べても、いざ腕力で勝負となるや尻込みする。その点、スターリンは武闘派の革命家で、資金が無ければ強盗になるし、売春婦を使ってでも小銭を稼ごうとする。暗黒街で暮らしたスターリンにとっては殺人だって朝飯前だ。このような犯罪者は、実際にナイフを持って人の腹を刺し、グリグリと刃物を回転させ、腸をズタズタに切り刻む事ができる。鮮血で濡れた手を見ても驚かず、帰って喜びを感じるのがスターリンみたいな男だ。この独裁者と比べたら、卑怯者の菅直人や、機動隊にボコボコにされた全共闘の学生、ソ連の赤軍を待ち望んだ野坂参三や宮本顕治なんか、母親の背後に隠れる稚児に等しい。日本の左翼には自分で自分の運命を切り開く気概が無いのだ。スターリンはレーニンのように銀行家に「借り」を作らず、独立不羈の革命家を目指した。このレーニンが病に倒れれば毒を盛って暗殺するし、邪魔になったトロツキーは奸計を用いて排斥しようとする。自分にとって危険な者は誰でも抹殺し、ちょっとでも障碍となれば粛清の対象にしてしまうんだから、ロシアの君主になる奴は只者じゃない。観念的な共産主義に憧れた近衛文麿は、本当に世間知らずの「お公家さん」だった。近衛家のお坊ちゃんには、人殺しや強盗など出来ないし、任せることさえ出来ない。『ゴッド・ファーザー』のドン・コルレオーネ役には、マーロン・ブランドーじゃなくて、ヨシフ・スターリンが適役だったのかもね。でも、アカデミー賞を授与するユダヤ人は複雑な気持ちだろうなぁ。  
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c10

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
11. 中川隆[-13529] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:16:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375]


〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者スターリンの狂気と悪夢〜


 20世紀は、戦争と革命の世紀だと言われている。国家の利害関係とイデオロギーが激しく火花を散らせてぶつかり合った世紀であった。事実、世界の各地で数えきれない革命や戦争が起き、多くの人間が犠牲となった。世界の半分以上を巻き込んだ二つの世界大戦は、何千万という人間の屍の山をいくつも築き上げ、計り知れない悲劇を生んだ。

 同時に、20世紀は、悪名高き独裁者が数多くあらわれた時代でもあった。しかし、ここに、異常なまでの人間不信と権力への飽くなき欲望を持ち、殺戮に明け暮れた独裁者がいた。彼の狡猾で冷酷非情な性格は、その後の世界史の行方を大きく左右し、その影響は今日も続いている。彼、スターリンこそは、ヒトラー以上の狂気を持ち、ヒトラーの悪業と比べても何ら見劣りしないばかりか、その殺戮した人間の数ではヒトラーをはるかに上回るのである。彼こそは、20世紀最大の狂気の殺戮者と言っていいだろう。

 ヨシフ・スターリン・・・彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、スターリンという名は、党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に考えたペンネームである。スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、考案者はレーニンだと言われる。ジュガシビリは、1879年12月21日、グルジア地方の貧しい靴直し職人の子供として生まれた。グルジアは、コーカサス南麓と黒海に挟まれた地域で、気候が温暖ながらも変化に富んだ地形は、現在でも風光明媚な名所として知られている。

 彼が生まれた家は、大変、狭く台所と小さな部屋が一つしかなかった。しかし、みすぼらしい窓から見える景色は絶景だった。

 コーカサスの雄大な景色が一望出来たのである。その上、春になれば、ラベンダーが山肌一面に咲き乱れ、印象派の絵画を見るようだった。そうした、美しい自然環境のもとで、彼は、三番目の男の子として出生した。

 上の二人の兄は、誕生して半年ほどで死んでしまっていた。それだけに、ジュガシビリが誕生した時は、母親は、特別な思いを持って育てられた。

グルジア地方の夏の景色(古い絵はがき)

 しかし、母親の期待に反して、彼は病気ばかりする虚弱児であった。しかも、彼は不具であった。少年時代に発病した天然痘により、左足の二つの指はくっついたままで、左腕もほとんど動かすことさえ出来ず、まるで義手をつけているようだった。顔にも無数の瘢痕があり、風采の上がらない小男であったという。

 母親は、将来、我が子を神学校に入れて神父にさせたかったが、十代後半から社会主義運動に異常な興味を持ったジュガシビリは、母親の期待に反して、革命家の道を歩み出してしまった。そして、様々な活動に参加しては、逮捕、流刑を何度も繰り返すことになる。

 やがて、神学校から見切りをつけられたジュガシビリは、退学処分とされてしまった。しかし、彼に取っては、その方が、むしろ、せいせいしたようで、もうその頃には、若干22才でありながら、彼は党の指導者的存在にまでなっていた。


20才頃のスターリン

 この頃、スターリンは初めてレーニンと会った。この時レーニンは30代半ば、彼は、一目見て若く精力的なスターリンを気に入り、革命運動の戦略家としての素質を見抜いていたという。その後、彼はレーニンらと強い結束のもと、ますます、革命推進の中心的メンバーとなっていくのである。

 1905年のロシア情勢は、余談の許さぬ状態だった。前年には、日露戦争が勃発し、一年半に渡る戦いの末、ロシアは疲弊してしまい、国内には不満が爆発、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの反乱を引き起した。ロマノフ王朝の権威は地に堕ち、ついに第一次大戦の最中、ロシア革命を誘発するのである。


 その結果、ロマノフ王朝ニコライ2世は退位し、代わって、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)による新政府が樹立した。

 1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、ついに、党の実権を把握し事実上の最高指導者の地位に躍り出ることになる。

血の日曜日事件、平和とパンを求めて、首都ペテログラード(後のレニングラード)の宮殿に押し掛けた民衆は、軍隊の発砲で多数の死者を出す流血事件に発展した。

 しかし、時が経つにつれて、彼は、急速に凶悪な独裁者の本性をさらけ出し始めた。対立者を巧妙で悪徳の限りを尽くした手段で倒していくのである。

 まず、最大のライバル、革命の功労者だったトロツキーを国外追放し、カーメネフ、ジノビエフなど自分と意見主張を異にする政敵たちを、除名処分にして党から追い出したのである。それが済むと、スターリンは、ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのがその目的だったが、その実態は、権力を思いのままに操るために、彼の意にそぐわない人物を手足となって粛正してゆく組織だった。まもなく、独裁体制樹立と同時に、恐怖の鎌首をもたげ、計り知れない恐怖の原動力となって活動を開始するのだ。

 1929年、スターリンは、第一次五カ年計画の発動を命じた。農業国ロシアを工業国に変えるのがその目的であった。その要となる政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて徴発しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられるのである。こうした彼の強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。

 しかし、スターリンは、農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られている。ある農民などは、見せしめのため、広場で自らの墓穴を掘らされた上、銃殺されたのである。しかし、これは、まだ序曲であった。血の粛清は、ますます本格化し、やがて凄惨なクライマックスに向かってゆくのである。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。時間のムダを省くために、トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と呼ばれる機関が暗躍することになった。それは、被告も原告もいなくても、その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、その場で、それこそ、10分以内に処刑されてしまった。全く、信じられないほどの素早さであったという。

「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」無論、これは体裁のよいスターリンの言葉である。しかし、その表向きと違って現実は、想像を絶っするほどひどく惨いものだった。

 日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。これでは、大人一人生きていくことは、到底不可能だった。人々は餓死から逃れるためには、ありとあらゆる努力をしなければならなかった。路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。あるウクライナから帰って来た学生は、身の毛もよだつ話をした。彼らによると、飢饉のために、食べるものがなくなった地方では、人肉を食べていると言うのである。餓死したと思われた死体は、細かく切って解体され、商品のように売りさばける準備がなされていたということであった。当然、この二人は秘密警察に逮捕され、拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。スターリンは、自らの考えをイメージダウンさせるものは、事実であろうが、すべて隠蔽し、片っ端から闇に葬っていたのだ。

 スターリンの女性関係は、かなり派手であったことが知られている。3度、結婚したが、その他にも、愛人、情婦など数えきれないほどいて、浮気は絶えることがなかったという。一度目の妻は、逃亡生活の隠れ家で知り合ったケケという女性だった。しかし、逃亡生活の無理がたたったのか、彼女は結核にかかり死んでしまった。

 二度目の結婚は、彼が40才の時で、相手は彼より22才も若いナジェージダという女性だった。しかし、結婚して14年後、彼女は、革命15周年記念の晩餐会の夜、謎の死を遂げてしまう。

 晩餐会が終わって二人の言い争う声を聞いたという証言もあるが、真相はわからない。死因にしても、夫スターリンに対する抗議の自殺だの、逆に、怒りを買ったスターリンに毒殺されただの言われるが、今となっては永遠に謎のままであろう。


結婚したての頃、ナジェージダと(1920年頃)


 三度目の妻はローザという女性で、スターリンよりも10センチほど背も高く、大変、利口で陽気な女性だった。彼女は、二番目の妻ナジェージダとの間に出来た二人の子供にも愛情を注ぎ、いつも優しく誠実だった。しかし、スターリンは、何が気に食わないのかローザとも離婚してしまった。その後、ドイツとの戦争中にもかかわらず、女優、バレーの踊り子、オペラ歌手、クレムリンのタイピストたちを次々と別荘に招いては、深夜の響宴に明け暮れる始末だった。

 私生活でも、彼は、大変な独裁者で、冷酷非情な面を、度々、見せている。彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないと言って、皿ごと床にぶちまけたこともあった。また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。愛人の浮気の現場を押さえた時など、ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、二人の髪の毛をわし掴みにして、裸のまま部屋から引きずり出し、監獄にぶちこんでやるとののしった。二人は、即刻、連行され、裏切り者として銃殺されてしまったという。また、スターリンは、女性の嫉妬という感情には耐えられない面があった。例え、献身的に尽くそうが、嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。

 スターリンは、恐ろしいほどの強靭な記憶力の持ち主だった。彼の頭の中では、日々の細々した私的な事柄から、党や軍内部のあらゆることまでが最大漏らさず記憶し尽くされていたのだ。例えば、どこそこの将軍が、どこの生まれでどういう性格と遍歴を持ち、どういった成果をおさめたか? あるいは、ヘマをしでかしたかということなどがビッシリと整理されていたのである。また、霊感力もするどく、軍事や外交面では、機が熟したと見るや、すばやく行動を起こした。それはいつも抜け目なく、まるで、鳶が油揚げをかっさらうようなすばやさであった。

 第二次大戦戦争が始まり、ドイツ軍がポーランドを屈服させた時も、スターリンは、東からポーランドに侵入し、労せずしてこの国の半分を占領した。スターリンとヒトラーとの間には、秘密裏に血も凍るような悪魔の取引がなされていたのである。

 この時、連合国は我が身可愛さから、ポーランドが東西の独裁者によって、なぶり殺されていくのを手をこまねいていただけだった。どの国も自国の利益のみを考えていた。


 フランスは、マジノ要塞に閉じこもり、イギリスなどは何もしなかった。そして、ポーランドがヒトラーとスターリンに食い尽くされてゆくのをただ見守っていたのであった。しかも、狡猾なるスターリンは、世界中がヒトラーのこの派手なパフォーマンスに気を取られている隙に、どさくさに紛れてバルト3国を武力で併合してしまったのである。第二次大戦の終戦直前には、日ソ中立条約を破って、怒濤のように満州に南下、息も絶え絶えとなった日本から、強引に北方領土を奪い取ることもした。

 このように、領土拡張の野望を夢見るスターリンにとって、国際法を踏みにじることなど朝飯前のことだった。彼は、室内に大きな世界地図を飾っていて、領土が新しく増えていく度に、色を塗っていくのが何よりの楽しみであったという。そして、地図を見ながら、今度はここをやる、ここが欲しい、これは気に食わぬなどと言って党の幹部たちの前でよくつぶやいていたらしい。

 スターリンは、地上最高の権力者になることに、この上ないあこがれを抱いていた。そして、何か、ピラミッドのような巨大なモニュメントを後世に残すことが夢だった。彼は、中世ロシアの暴君イワン雷帝をこよなく愛し、自らをそのイメージにダブらせるのが好きだったようだ。確かに、彼の政権下で、何十万という人間が、殴られたり蹴られたりして強制労働に従事する様は、陰惨な中世ロシアの時代を彷彿とさせるものがあった。

 スターリンは矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれない収容所をつくっていた。その数、百カ所以上・・・彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと言い張っていたが、その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。スターリンは、国家の工業化のために、大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。

 スターリンにとって、囚人はいくらでも代替のきく安価な消耗品でしかなかった。賃金など払う必要もなく、かろうじて生きられるだけの食料を与えておけばよかったのだ。過酷な重労働で囚人が、どれだけ凍死しようが餓死しようが、お構いなしなのであった。こうした国家建設のプロジェクトの担い手である労働力を大量に確保するために、彼は、抜け目なく、第58条という新しい条例をつくっていた。1926年に交付されたその条例によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ祖国の裏切り者と見なされるというのである。

 しかし、人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、どうにでもデッチ上げることが可能だったのである。全く意味もない行為が、ねじ曲げられて解釈され、その挙句に祖国の裏切り者というレッテルを張られて自由をはく奪されることが往々にしてあった。かくして、数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、全財産を国家に没収された上、処刑されるか、過酷な重労働を強制されることになった。この条例の目的は、罪のない人々を囚人にでっち上げ、スターリン体制を維持するための奴隷を合法的につくり出すことなのであった。裏切り者のレッテルを張られた者には、銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。

 シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な強制労働であった。その労働は、想像を絶するほどひどいもので、一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの囚人が凍傷にかかった。医者が、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった囚人の手足をパチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

 何をするにも『ダバイ!(動け!)』の罵声が飛び、反抗的な態度を取ると、それこそ目の玉が飛び出るほど殴られた。囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せおとり死んでいった。死んでコチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のそりに投げ込まれて片付けられていくが、その時、まるで木と木がぶつかり合うような音がしたという。ものすごい寒さと重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が一冬で死に絶え消滅した。夏になると、再び、新しい囚人の群れが送られてくるが、彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。毎年、補充のために、数十万単位の囚人が薄暗い船倉や列車に閉じ込められてピストン輸送されるが、決して囚人数が増えることはなかったという。こうして、死に絶えては補充されるという死のサイクルは休むことなく繰り返されるのである。

 スターリンは、金に異常な執念を見せた独裁者でもあった。全く、それは凄まじいばかりのものであった。彼は、ことあるごとに、金の備蓄量を増やさねばならないと口にし続けていた。そうして金を国家戦略の最重要資源に位置づけし、支配国の共産党へ金の提供を義務づけたのである。そうして、金を採掘するために、数百万の囚人が集められ、牛馬のごとくこき使われたのである。

 かくして、50年代の初めには、国家が保有する貴金属は、金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンという莫大な量にまで跳ね上がったのであった。しかし、それらを採掘するために強制労働に従事した数百万の人々は、とうにシベリアの凍土と化していた。白海・バルト海運河が開通した時など、スターリンは、蒸気船「カール・マルクス」号で完成したばかりの白海からオネガ湖までの227キロを快適な船旅としゃれこむ計画を立てた。その際、多くの役人や作家連中も招待された。彼は、第一次五カ年計画の中心事業であった白海・バルト海運河をわずか2年で開通させた偉業を世界に誇示したかったのである。招待された百名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメや高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンなどふんだんに振る舞われた後、スターリンと優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも、その時、ウクライナでは有無を言わさぬ食料調達によって数えきれない農民が飢餓に苦しみ、その挙句に埋められた死体を掘り起こし、人食いまで行われていたにもかかわらずである。

 彼らは、その後、「スターリン記念」と称する本を書き、その中で、彼の数々の偉業を美辞麗句を並び立てて絶賛し、囚人たちがいかに再教育されて鍛え直され、国家に貢献し得たかを賛美したのであった。しかし、実際は、工事期限を死守するために、運河はかなり浅く掘られ、役には立たない代物だったという。また、運河開通の担い手、30万の労働者の内、10万人がボロクズのようになって死に絶え、運河の土となったことなど一行も書かれることはなかった。

 スターリンは、後にこう述べている「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ」これほど、人間の尊厳を侮辱し冒涜した言葉もないだろう。しかし、この方法は、後になって、ヒトラーやムソリー二など西側の悪名高き独裁者たちも、見習って借用したということである。

 第一次五カ年計画が終わる頃、農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した彼は、さらなる粛清をもくろんでいた。スターリン独裁の陰では、トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って排除しようという動きもあった。ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。かつて、党から、追放したはずのカーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、要職につけたのである。これは、どういうことなのか? こうしたスターリンの心境の変化を西側のメディアは、「ロシアの赤がピンクになった」などという表現を使って「雪解け現象来る?」と大見出しで報道した。

 しかし、これは、さらなる大嵐が来る前の凪(なぎ)のようなものだった。スターリンは、何かとてつもないことをしでかす前には、必ずと言っていいほど、相手を油断させるためのフェイントを演出したからである。事実、スターリンの胸の内は、これから行われる大粛清のための構図が出来上がっていた。これまでに彼に楯ついた者、恥を掻かせた者、気に入らぬ者などが、彼の強靭な記憶力の中にインプットされ続けていた。そして、それらは、膨大なリストに細かく区分けされて、逮捕、拷問、処刑の瞬間を待ちわびていたのである。後は、スターリン自身が、合図を送るだけであった。

 キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。キーロフは、共産党の中央委員でもあり、人気があった。実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。

 スターリンは、表向きは、キーロフを同志として信頼しているように振る舞っていたが、本心は、彼の存在が我慢ならなかった。

 結局、キーロフの暗殺は、カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、彼らは、即刻、銃殺刑にされた。しかし、これは、とんでもないでっち上げで、キーロフの暗殺を仕組んだのは、スターリンの仕業に他ならない。


セルゲイ・キーロフ

(1886〜1934)スターリンを上回る人気があり、嫉妬したスターリンによって暗殺されたと言われる。


 こうして、彼は、次期に自分のポストを奪いかねないキーロフを暗殺し、その罪をかつての政敵、カーメネフとジノビエフらに擦りつけ、一挙に両方とも片付けることに成功したのである。後は、さらなる大粛清を行い、自らの独裁を揺るぎないものにしてゆくことであった。

 粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、37年には空前絶後の規模で行われた。「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」・・・スターリンは、大虐殺をこのように弁明し粛清の論理を正当化した。そのために、彼は密告を奨励した。自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、ことごとく粛清するのである。

 身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。一方、実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。

 夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が、復讐のため、あることないことを告げ口し、処刑隊が向かっているかもしれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののいた。それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。いつ何時、死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、決まって深夜か早朝だったからである。

 この年だけで何百万人も連行され、約半数が処刑されたと言われている。大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。軍に至っては、将校の8割が処刑されたと言われている。そして、ついには粛清を執行した本人たちにも矛先が向けられていった。スターリン政権下30年間で換算すると、ロシアだけで実に4千万を下らない人間が連行され有罪判決を受けたことになる。ソ連全土ともなると、その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。当局によって有罪判決を受けた者たちは、その半数以上が虫けらのように処刑されるか流刑先で悲惨な死を迎えたのである。しかし、悲劇はこれが、すべてではない・・・4年間に渡る独ソ戦の死傷者2千5百万人がその上に加わるからである。

 さらに、大戦中も、ソ連占領下の各地で、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。ソ連領内の北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺の憂き目にあっている。この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化を頑に守り、スターリンの農業集団化に協力しようとしなかったのだ。2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万の軍隊で村々を包囲した当局は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待っていた家畜輸送用の貨車に詰め込んだのである。その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、射殺されるか、崖から突き落としたのであった。貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。人々は貨車から5メートルも離れると、問答無用で射殺されたという。

 また、期限内に計画達成困難と見た当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、残った村の数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放ったこともあった。苦しみ抜いて煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにしてしまったという。グルジアに住んでいたある少数民族などは、こうして地上から永遠に抹殺されてしまった。

 スターリンの狂気は、敵対する民族のみならず、捕虜や自軍にも向けられ、止まることを知らなかった。戦時中、スモレンスク郊外のカチンの森の中で、数千人のポーランド将校が虐殺されて埋められているのが発見された。


 遺体はどれも、おがくずを口に詰め込まれて、銃剣で刺し殺されるか、後頭部を銃で撃たれるというひどいものであった。このような惨い虐殺現場は、その後、次々と発見されていくのである。

 また、スターリンは、捕虜は祖国の裏切り者とみなして、その家族はことごとく逮捕させていた。戦場を少しでも離れる者があれば、即刻、銃殺されるか戦車で引き潰したという。将兵を、生きたまま地雷を踏ませるために行進させることもあった。

カチンの森の虐殺現場

 かくして、スターリングラードの攻防戦だけでも、1万4千名のソ連兵が自軍に殺されたのである。つまり、一つの師団丸ごとが味方の手によって抹殺された計算となるのだ。こうした死者数まで漏れなく加算していくと、あまりに現実離れした数字となり計量することは、もはや不可能となる。

 彼の犯した罪が、いかに巨大なものか、自ずからわかると言うものだ。恐怖の戦慄の果てに、全身総毛立つ思いがして来るのも当然であろう。

この遺体は後ろ手で縛られた上、絞め殺されていた

 このような犠牲者の累積は、1953年、スターリンが死ぬ瞬間まで、急上昇を描くようにカウントされつづけたのである。この年、スターリンの突然の死によって、ようやく長引いていた朝鮮戦争も終結に向かっていった。彼は、晩年、殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれていた。何をするにも異常に疑い深くなり、食べ物はすべて毒味をさせ、自分が招いた客でさえも、深夜、こっそり入って来て、寝ているのを確認する始末だった。元々、若い頃から何事にも疑り深かったスターリンは、今では病的で、誰も信じられる者もなく、医者でさえ自分のそばに決して近寄らせなかった。そして、長寿の薬だと称して訳のわからぬ薬を飲んだり、ヨードを垂らした怪しげな水を飲んでいたという。

 独裁者の最期は、あっけないものだった。脳内出血を起こした彼は、パジャマ姿で食堂で転倒し、ほとんど、意志朦朧としたままで息を引き取ったのであった。ラジオは荘重な音楽を鳴らし、国民に4日間、喪に服することを伝えた。享年74才だったと言われる。

 スターリンが死んでもう半世紀にもなる。嘘やでっち上げで固められた政治体制、共産主義の腐敗と害毒、粛清の恐怖など・・・国民は、過去を払拭し忘れたいと思った。しかし、スターリンの残した負の遺産は、あまりにも強烈で、人々の心の奥深くに刻まれて今も存続し続けている。新生ロシアになっても、その悪影響は国家の負の遺伝子として溶け込み、断ち切ることは出来ないようだ。これほどまでに多くの人間を殺しまくり、死しても、その影響力は、依然、弱まりを見せてはいない。
 歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・

   旧ソ連から独立したラトビア共和国内のある歴史博物館には共産主義の墓と称するものがある。その墓碑銘には、「共産主義死す。1945ー1991年」という文字が彫られているという。
 
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_f.html


スターリンの、異常な人格については、さまざまに伝えられている。まず彼には、複雑な生い立ちから培われた「憎悪の心」が強かった。彼は田舎の、極貧の靴屋の息子として生まれたが、家庭には安らぎも楽しさも、まったくなかった。 

 父親は、短気で粗暴な男であった。スターリンは、父のひどい暴力に、いつも怯えていなければならなかった。幼い日の彼は、常に体のどこかが打ち身のあとで腫れていた。父の暴力がもとで、身体に障害も残ってしまった。彼は幼年にして、「憎む」ということを覚えた。環境を憎み、父親を憎み、すべての人間を憎むようになった。また、学校に入ると、友人たちが皆、自分より経済的に恵まれている、と悩んだ。自らの“生まれ”に対する劣等感は、他人への妬みとなって表れた。人が苦しむのを見て喜び、少しでも気に入らないと徹底的に暴力を振るった。彼にとって、人の不幸は“善”であり、人の幸福は“悪”であった。あわれにも、そのような見方が、染みついてしまったといわれる。自らの“育ち”に異常なまでの嫌悪を抱いていたせいであろうか。彼は、のちに権力を握ると、自分の幼少のころを知る人々を、次々に処刑している。人は自分の環境を克服して立派な人間になることもできる。しかし、彼は、環境に負けてしまったのである。
  
 また彼は、「自分さえよければいい」という卑怯な人間であった。彼の行動の基準は、“自分のため”という一点にしがなかった。自分がより大きな権力を得るためには、あらゆる人を利用し、多くの人々を平気で犠牲にした。若いころから革命運動に身を投じたが、常に「前進せよ、恐れるな」と、かけ声をかけるだけで、自分は決して危険な所へは現れなかった。事態が危うくなると、同志を見殺しにして、すかさず身を隠すのであった。三百人のデモ行進を指揮していたとき、リーダーの彼以外は全員、逮捕され、本人だけ逃走したということもあった。また、「進め!」という彼の号令で突撃した同志の多くが銃殺されたときも、彼はかすり傷ひとつ負わなかった。この卑劣な生き方は、生涯、変わることがなかった。 
  
 さてスターリンは、自分よりも優れ、恵まれている人に対しては、悪魔的ともいえる「嫉妬心」を抱いた。他人が勲章をもらうのを見れば、自分もそれを手にしなければ気がすまなかった。とにかく自分が一番にならなければ、おさまらないという性格であった。同時代のロシアの政治家であるブハーリン(のちにスターリンによって処刑された)は、こう語っている。

[スターリンは誰か他の人がもっているものは、自分も持たないと生きて行けないのだ」

(ロバート・コンクエスト著、片山さとし訳、三一書房刊、「スターリンの恐怖政治』上)と ― 。

  
 またスターリンは、極端な[幼児性」の持ち主であった。大変に“気まぐれ”で、ひとたび感情を害すると、すねて、数日間も会議に臨席しないことがよくあった。自分の思い通りにならないことに対しては、すぐさま“怒り”と“恨み”を抱いた。それゆえ彼は、他人と「対話」することができなかった。「納得」させるのではなく、自分の考えに反対する者には、すべて残忍な「暴力」を行使したのである。
  
 スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、「ウソ」を言いふらすことであった。巧みにウソをつき、「あいつは反レーニン主義者だ」などとレッテルを張り付け、攻撃したのである。また、自分を守り、飾り立てるためにも、多くのウソを作り出した。師ともいうべき立場のレーニンが死んだ時のことである。彼は、「スターリンは後継者として、ふさわしくない」としたレーニンの遺言をにぎりつぶした。その一方、レーニンと自分が仲良く並んで座っている写典を、新開やポスターなど、いたるところに掲げさせた。自分がレーニンの「正統の後継ぎ」であるかのような印象を、与えようとしたのである。しかも、その写真は、合成や修正を加えて作った偽物であったという。

自分の欲望のために、“師匠”をも利用したのである。多くの人が「おかしい」と思ったが、全部、封殺されてしまった。皆は知らないだろう、とウソをつく。事実をねじまげ、さも本当らしく、言いつくろう。だが、その場は、うまくごまかしたつもりでいても、真実は隠せない。隠せたところで、ウソはウソである。なかんずく仏法の世界においては、ウソは必ず、いつか自分への刃となって返ってくる。 

 スターリンは、民衆に対して、レーニンの死を深く悲しんでいるかのように見せかけた。しかし、実際は狂喜していた。彼の執務室に勤めていた職員は、「レーニンの死後の数日ほど、彼が幸せそうに見えたことはなかった」と語っている。彼は、権力の「座」にのぼりつめても、ウソをつき続けた。「スターリンは、レーニンの仕事の立派な後継者である」「スターリンは今日のレーニンである」と自ら宣伝した。自分に都合のいいように、歴史さえも「改ざん」していった。

  
 権力を手にしたスターリンは、自分の言うことは、すべて真実であるとした。あたかも神のごとく振る舞い、国民に「絶対的服従」を強いた。自分の思い通りになる人間しか認めず、人々の自由をうば奪い取ることで、絶対者として君臨したのである。思想統制にも力を入れた。出版物も厳しく制限。情報や表現の仕方まで、徹底して取り締まった。権力欲を満たすために、作家も利用した。自分の思いのままになる人間を作るために自分を礼賛する作品を書かせた。反対に、「絶対服従」しない者には、作品の出版を禁じ、すでに出版されていた作品も葬り去った。 
  
 スターリンは、人々の心から「安心」を取り除き、「恐怖」を植え付けることによって国民を支配した。秋谷会長が、現宗門を「恐怖政治」と呼んでいたが、まったく共通している。安心は信頼と自信を生み、人々を結び付ける。しかし恐怖は、疑いを生み、人々の間に「壁」を作る。圧政者に抵抗して結束することができなくなってしまう。彼は、そうした恐怖を与えるために、「密告制」を用いた。政府が一般市民の中から密告者を選ぶのである。町のいたるところに密告者がいた。家族や親友でさえ、密告者かもしれなかった。五人集まれば、そのうち一人は密告者だと言われるほどであった。そのうえ密告者は、告発された被害者の財産を分けてもらえた。だから、ますます密告に拍車がかかった。隣人の部屋や、同僚の仕事が欲しいと思えば、それが事実であろうとなかろうと、その人を、ただ告発しさえずればよかった。「だれも信じられない」世界は人々の欲望、嫉妬、憎悪をかきたてることで支配する。人間の最も醜い面を引き出す、やり方である。まさに、「魔性」であった。市民は、自分の身の安全と利益を守るために、心を閉ざすようになった。また、互いに敵意を抱き合い、公然と非難しあうようになっていった。
  
 当時の、さまざまなエピソードが残されている。裏側のページにスターリンの写真が載っていることに気づかず、新聞を空気銃で撃ち抜いた男性は、密告により懲役十年の刑に。また、ある集会で、スターリンの名が出ると、人々は一斉に拍手を始めた。三分、五分……拍手は、いっこうに鳴りやまない。やがて十分が過ぎた。一人が拍手をやめて席についた。その人は、翌日、逮捕された ― 。まさに「恐怖の世界」であった。 
  
 絶対者として振る舞う陰で、実はスターリンは驚くほど「臆病者」であった。常に暗殺の恐怖にとりつかれ、いかなる人間 ― 家族さえも信用することができなかった。例えば、何千人という護衛兵がいただけでなく、その一人一人に対しても、幾度も取り調べを行っていた。食事は、必ず検査室で調べさせ、そのうえで毒味をさせた。どんな時も、防弾チョッキを離さず、移動は、いつも装甲車で。屋敷の警備は、最も警戒が厳しい刑務所よりも厳重で、多くの錠や門、警備員、番犬などで守られていた。庭には地雷まで埋められていたという。しかも家の中は、暗殺者をまどわすために、同じ家具を備えつけた寝室をいくつも作り、毎晩、違う部屋で寝ていた ― 。
  
 スターリンは「自分を取り巻く、すべての人間が敵である」という妄想に、とりつかれていた。それは精神病の域にまで達していたといわれる。たった「一人」の狂気が、歴史に類を見ない大量の粛消をもたらしたのである。「狂った独裁者」を放置していてはならない。現代の“魂の大量虐殺者”も、断じて追放せねばならない。
  
 スターリンは、多ぐの無実の人々を捕らえては、拷問で“自白”させ、次々と処刑していった。彼は、こう語っていたといわれる。人の死は悲しいことであるが、それが百万人の死となると、単なる統計にすぎない」(アルバート・マリン著、駐文館訳刊、『スターリン』)  

 「自分の犠牲者を選び、自分の計画を詳しく練り、執念深く復讐をやって、それからベッドに入る……世の中にこれほど楽しいことはない」(前出、『スターリンの恐怖政治』上)と。 

 彼は、やがて、長年、自分に忠誠を尽くしてきた腹心の部下をも殺していった。だが、どんなことをしょうと、本当の安らぎを得ることは、決してなかった。最期は恐ろしい形相で、もだえ死んだという。
  
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/suta-rin.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c11

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
12. 中川隆[-13528] koaQ7Jey 2020年3月23日 10:19:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1376]
レーニンの実像  

ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」


内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm




▲△▽▼

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c12

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