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2011年4月23日14時00分 〜
記事 [原発・フッ素9] <福島第1原発>4号機プールへの注水量倍増 水温低下狙う(毎日新聞)
>補強工事も実施する方針だ。

 この工事で、どれだけの作業員が大量被曝に晒されるのだろう。

 そもそも、あの惨状を修復することなど可能なのか?

**********************

<福島第1原発>4号機プールへの注水量倍増 水温低下狙う(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110423-00000038-mai-soci

経済産業省原子力安全・保安院は23日、東京電力福島第1原発4号機の使用済み核燃料プールに約140トン注水することを明らかにした。現在の2倍の量という。プールの水温が約91度と高いために注水分の大半が蒸発し、現在の水位は燃料上部から2メートル弱しかない。保安院は今回の注水で水位が上昇し、燃料上部からの高さが本来の4メートルに戻ることを期待している。

 プールには、使用済み核燃料棒を束ねた燃料集合体が、1〜3号機より多い1331体入っている。これまでコンクリート圧送車を使い、1日平均70トンを注水してきたが、燃料が多いために放出される熱量も高く、水が蒸発し水位が上がらない状態が続いている。

 一方、プール周辺では先月発生した爆発のために、プールを支える構造物が壊れている恐れがある。このため、東電は破損状況を調べた上で、補強工事も実施する方針だ。【関東晋慈、藤野基文】

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/756.html

コメント [原発・フッ素9] 東京関東地方で鼻血の出血者が増えているという。 チュルノブイリでも少量被爆で鼻血出血、から痰、喉のイガイガなどの症状があ てんさい(い)
250. 2011年4月23日 14:03:04: sjGBA7PYMg
今回のように人口の多い広範囲に放射性物質が広がったケースはほとんどないのでこれまでの臨床や既存の研究で認められていない現象が起きることがあることをなぜ医師は考慮しないのだろう。例えば複数の薬で低用量服用がもともとの薬理とは別の薬理作用を示すことがあることが知られている。放射性物質や線量がその量によって異なる症状を示すことは当然あってしかるべきとして考える。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/298.html#c250
コメント [原発・フッ素9] 放射能がまったく出ない状態に戻すには10年以上かかる 仏アレバ社CEO なんじゃこりゃー
05. 2011年4月23日 14:04:20: uh4ihpwQrK
アレバCEO、アンヌ・ロベルジョンは福島原発事故が起こる前に実は首になりそうだった。福島原発事故が起こり、この人はある意味救われたようだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/745.html#c5
コメント [原発・フッ素9] なんで無理して放射能を全国でばらまくの? がれき30都道府県受け入れ意向 処理量最大281万トン 中年A
13. 2011年4月23日 14:05:38: n6j3ReAJ9s
なんだ、元記事を見たら岩手、宮城、福島3県のがれきの話じゃないか。

その全部が放射能にまみれているみたいな論議はあまりに乱暴・粗雑では?

福島県のがれきにしても、ある程度以上の高濃度の放射能に汚染されている地域は
かなり限定されるはず。

元記事にも
「福島第1原発周辺の放射性物質で汚染された可能性のあるがれきをどう扱うかは、関係省庁が協議を続けている。」
とある。

投稿者は
> 1)汚染されていない瓦礫はありません

と言うが

逆に、原発周辺地域以外の、わずかに汚染されたがれきも受け入れられないほど
「きれいな」土地が日本のどこにあるのかと問いたい。

投稿者自ら
> 日本国、外国まで汚染は広がっています。
と言っているではないか。

ついでに
>>05さん

大事な話について具体的に書かれていますが
ソースを示していただけると幸いです。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/713.html#c13

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
12. 梵天 2011年4月23日 14:06:30: 5Wg35UoGiwUNk : bTwp1YEqdo
結局、チェルノブイリと同じ構図。

 国際基準と同じようにやると被害額が大きくなりすぎて国家でも賠償や補償ができない。

 チェルノブイリの被害を受けた某国は国民全員が実は被害者。
 救済なんか補償額が大きすぎて不可能。

 だから基準を緩める。

 つまり値切り、知らんふり。

 水俣病や薬害エイズ、イタイイタイ病と構図は全く同じ。

 背後には原子力ムラ(ヤクザ)が、自分たちの責任、利権、天下り先企業の東電を保護しようとする意図もある。

 国家は実際には必要悪でしかないのだが、国民国家なんてモノが作れるとまともにウソを信じているネトウヨ的思考だと理解できまい。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c12

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
13. 2011年4月23日 14:09:20: KXfzG5795W
学校給食はどこかでチェックできているのかね。
いつの間にか汚染食品混ぜられたらたまらん。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c13
コメント [原発・フッ素9] 福島第一原発のコアな作業員が、二百人程度になってしまっているという情報。(ジャーナリスト 木下黄太のブログ) gataro
17. 2011年4月23日 14:11:13: Et1vhJ5rpg
原発って、ほんとうにアナログだったんですねえ。
なんでも作業は人の手でしかできない。
作業場所まで人が入っていけないのだから、
もう、これは最悪のシナリオが待つしかない。

若い人は、すぐにでも、できるだけ遠くへ逃げること。
もう、これしかない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/718.html#c17

コメント [原発・フッ素9] ただの運動をしている時ではない! 小川みさ子さん情報 - 緊急!福島の子どもが危ない! 広瀬隆さん&或るお寺の住職... 千早@オーストラリア
38. 2011年4月23日 14:11:58: EO41OaTIcI
北海道人です。
地方は過疎化で、あいている公営住宅・教員住宅などあるはずです。
全自治体で疎開を受け入れるべきです。

とりあえず県内のお子さんと妊婦さんだけでも
早急に避難していただきたいです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/648.html#c38

記事 [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が
東海アマの掲示板で管理人さんが投稿しています。

これ以前にも、作家の山口泉さんがブログ『精神の戒厳令下に』で菅首相の発言を取り上げて「米国にも内緒で核兵器を作っていたのではないか」と書いておられましたが、私個人としては、イスラエルの軍事関連会社がセキュリティー担当だったりしていることから、米国やイスラエルにもすでに知られた行為だったろうと思っています。

シェリーはすべてに疑問を持つ」というブログに紹介されたカナダのグローバル・リサーチの記事はシマツ ヨウイチさんという、「ジャパン・タイムズ・ウィークリー」の編集者だった方が書いたもので、最初はニュー・アメリカン・メディアという媒体に出たものとなっています。

シェリーは紹介の冒頭で、

福島原発のもと核兵器が作られているだろうという話は何度も目にしたし、たいていそれを「陰謀論」とみなしてきたけれども、(中略)「陰謀論」というのは証明されるまで「陰謀論」なのであって、往々にして「陰謀論」は世界史のなかで真実だったことが証明されている

と書いています。
他のソースからずっと以前に「非核三原則なんて全然守られていない」という実態は聞いていましたが、「原発をもつ理由は核兵器を作ること」という見方を更に強化する話が出てきたのかもしれません。

とにかく原文ふたつに目を通していないので、あとで補足するかもしれません。
が、取り急ぎ東海アマ掲示板から転載します。

福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が
投稿者:管理人 投稿日:2011年 4月23日(土)12時12分39秒  

ジャパンタイムズの元編集者の暴露証言です。
政府は東電に対し弱い立場にあります。だから、事故の賠償金を国民に押しつけ東電を温存しようとしています。

なぜなら、福島第1原発は日本の秘密の「原爆製造工場」だったからです。
http://sherriequestioningall.blogspot.com/2011/04/former-editor-of-japan-times-says.html

「核爆弾が福島の地下で作られていました」

中国における、日本の軍国主義者が占領した1930年代に、満州国のかいらい国家は、人口過剰の日本とその軍事機構を支援するために完全に近代的な経済大国として切り開かれました。

軍と植民地のエコノミストの間の親密の絆が、新幹線のプロトタイプと北朝鮮での日本の原子爆弾プロジェクトを含め、衝撃的で技術的な業績に導きました。

岸信介の被保護者、ヤスヒロ・中曽根は、原子力基本法のカバーの下で核保有国になる日本のキャンペーンの先頭に立ちました。

岸は密かに米国軍が東京の外で、沖縄の原子爆弾と厚木海軍飛行場に保管するのを許すホワイトハウスとの取引を交渉しました。

海兵隊員伍長リー・ハービー・オズワルドは、厚木地下の弾頭兵器庫の見張りとして勤めました。

中略

これらの意外な事実は、日本の主要問題と思われますが、それでもなお主として西洋のメディアは無視しました。

福島原子力発電所で煙が上がるという状態で、世界は今そのジャーナリズム的な無視の代償を支払っています。

岸は1959年の英国への訪問で、軍のヘリコプターによってエセックスのBradwell 原子力発電所に連れて行かれました。

2年以内に、英国の強固な GEC は、茨城県の東海村で日本の最初の原子炉を作りました。

同時に、1964年の東京オリンピックのすぐ後に、富士山の先を滑走する新たに公開された新幹線は、核の情報源を持つ電気の完全な原理を提供しました。

岸は戦争を放棄する戦後の憲法9条の下で「核兵器は特別禁止されません」という有名な陳述を口に出しました。

彼の言葉は2年前、彼の孫の安倍首相によって繰り返されました。

進行中の北朝鮮「危機」は、政治的エリート集団のこの第3世代の子孫が核武装した日本の考えを持ち出すための口実の役をしました。

多くの日本のジャーナリストと情報活動の専門家は、秘密のプログラムは十分に弾頭兵器庫の速い組み立てのために進んで、そして重要な潜水艦レベルでのアングラのテストが小さいプルトニウムペレットで行なわれたと想定します。

代替エネルギーを破壊します

核ロビーの冷笑的な態度は、日本列島の唯一の代替エネルギー、沖合の実行可能な風力源を抑制して、未来に及びます。

何十年もの研究にもかかわらず、日本はただ中国の風力生産の5パーセント、(差し当たり、とにかく)類似の大きさの経済だけを持っています。

三菱重工業、ウェスティングハウスの原子力パートナーは、ウィンドタービンを生産します、しかしただ輸出市場のためだけです。

中略

理由は、 TEPCO は、東京に本拠地を置いて、最大のエネルギー市場をコントロールして、9つの地域の会社と国家の格子の上に極めて将軍として行動をするということです。

豊かな財源は、東京都知事石原慎太郎のような高い官僚、発行人と政治家に影響を与えます、他方核開発の意図がその側に軍需請負と将官を保ちます。

それでも TEPCO はまったくもって最高位です。

沖合の風の国立実験場は千葉県で、不幸にも吹きさらしの北海道あるいは新潟に位置してはいませんが南東にもっと遠いです。

風力の運命を決定するこれらのテストの調査結果は2015年まで公表されないでしょう。

そのゆっくりした試験プロジェクトのスポンサーはTEPCO です。

阻止の死

一方2009年に、国際原子力機関(IAEA)は、日本の核爆弾の抑制された警告を公表しました − そして即座には何もしませんでした。

ホワイトハウスは、同盟国による核拡散のあからさまなダブルスタンダードのアメリカの空またはリスクへの暴露で、放射線ストリーミングを看過しなければなりません。

そのうえ、日本の爆弾へのワシントンの落ち着いた賛成は、全く真珠湾か広島のどちらかの記念に受け入れられるというわけではありません。

中略

合法化された所有は、安全点検、福島の緊急回答を早めることができたはずの種類の厳密なコントロールと透明度を必要とするでしょう。

緊急事態の瞬間に起こることのように、無数の被爆者、または核の犠牲者を意味したとしても、秘密主義はすべてのコストで励行されなければなりません。

地域の阻止システムと大きい力のステータスへの復帰を可能にする代わりに、満州の取引は世界中に、今、放射能を噴出させている時限爆弾を仕掛けました。

人類に対するこの核の脅威の核心にある無政府主義は、福島第一の中にではなく、国家機密固定観念の中に横たわります。

自己破壊の怖いものは、合衆国 - 日本安全保障条約、致命的に融解に対する核労働者の戦いを遅らせた秘密の根本的な原因の廃止だけで終わらせることができます。

                                以 上


★転送・転載の際は、この記事のURL
http://insidejobjp.blogspot.com/2011/04/blog-post_6885.html
を必ず入れてください。

一人でも多くの人々に読んでもらうため、
これを読んだあなたも周りの人々に知らせてくださいね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html

コメント [経世済民71] ユダ金のメキシコ犬、アンヘル・グリアOECD事務総長が消費税20%を日本に提言 hirokumm
04. 2011年4月23日 14:18:02: FuZSPqOdAw
これも、消費税upの為の、洗脳行為、情報操作でしょう。

資金確保には、米国国債売却が必要なのに
その事には一切触れていない。

本当にこの国のマスゴミには困った物ですね
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/581.html#c4

コメント [マスコミ・電通批評11] 福島原発作業員いまだに「防護服の休憩、風呂なし、缶詰・カップ麺…」(J-CAST)あまりにも鈍感な放送  赤かぶ
08. 2011年4月23日 14:18:11: DhMjC6G9OE
以前からあるこのような報道。事実なのか、それとも、「福島原発では東電の方々はこのように過酷な状況でも頑張っています。国民の皆様も耐えてください。」 というプロパガンダなのだろうか。

  もしも事実であったとしたら、何か狂ってるな。宿泊施設など付近にホテルや
旅館が無数にあるだろう。どこも皆避難していて無人で将来的にも再営業する見込みはない。東電や国は借り受けて(買い取って)使えばよいではないか。原発から10−20キロであれば自動車で30分の距離で放射線量も原発付近よりは低い。
 食品や生活物資など最優先で運んでもらえるだろう。(運ぶべきだ。)

 現実は、作業員たちはVIP待遇で寝泊りし毎日あらん限りのご馳走を食べ、一日3時間労働、週休三日。芸者やホステスでの夜遊びはできないが、あらゆる種類の娯楽を与えられていると私は想像する。いや、そうすべきだ。そうあるべきだ。
 (作業員が栄養失調や過労、ストレスで十分な仕事ができない状況だとしたら、誰が悪いことになるのだろうか。)

 まあ、国民にそのようなことは伝えないほうが良いだろうが。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/746.html#c8

コメント [原発・フッ素9] 原発事故の収束に、国民の知恵と力を(更新) 伊予次郎
05. 2011年4月23日 14:20:21: EO41OaTIcI
03さま。
大賛成です。いんちき御用学者はもう結構です。

民主のまぶち議員のブログにも
コメントで『小出先生を対策本部のトップに・・!』

とお願いしたんですが、はたして
聞いていただけるのでしょうか。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/754.html#c5

コメント [原発・フッ素9] 東電、海外事業売却へ=原発賠償に数千億円規模 ← やはり解体しかない! jesusisinus
02. 2011年4月23日 14:23:14: c5anrFNI2Q

東電は、株主総会を延期してでも、総会前に優良資産〔本社ビルも含む〕を売却したらどうか。その上で本来の発電に用する、人、資産だけを所有する民間会社として、総会に臨むべきと思う。

即ち、これだけの現金はあります、他にあるのは、高い人件費の従業員と、いまだコントロールのままならず、放射能を撒き散らしている、原発と、〔正常に〕運転している原発と、火力、水力発電所と送電網です、という姿で。



http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/750.html#c2

記事 [カルト8] この投稿は削除でしょう
コ・ジョンスンなんて名前の会員はいない。

いつものガセなので削除が適当です。


http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/115.html

コメント [不安と不健康15] 福島産、首相が試食 風評払拭へPR(日経Apr.16,2011、NHK15日夕) 肥筑
04. 2011年4月23日 14:25:54: FZgGiDbYMh
英字紙、掲載漫画で遺憾表明へ

 21日、国際英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに掲載された白雪姫とおばあさんの漫画

 【ニューヨーク共同】国際英字紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンが、白雪姫がリンゴを見て「日本から来たの?」と問う漫画を掲載した問題で、同紙が25日付紙面に「編集者からの便り」(エディターズノート)を掲載することが分かった。遺憾の意を表明する内容とみられる。同紙を傘下に持つニューヨーク・タイムズ社が22日明らかにした。同社広報担当者は既に同漫画の掲載について「後悔している」としている。ニューヨークの日本総領事館が「日本からの食品に関して根拠のない不安をあおりかねない」と抗議していた。漫画では白雪姫が「日本」「放射線」と書かれた新聞を持っている。



http://www.asyura2.com/09/health15/msg/342.html#c4

コメント [カルト7] 西洋の達人が悟れない理由 中川隆
13. 中川隆 2011年4月23日 14:26:45: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

「ウィーンのムラヴィンスキー」


Carl Maria von Weber (1786-1826) Overture to "Oberon"
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=EZFcVhM8Jv0


Symphony No. 8 in B minor, D 759 "Unfinished" by Franz Schubert (1797-1828)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 30.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=tB4Y4XCDqEU
http://www.youtube.com/watch?v=4m_5m-WO4JA


Symphony No. 2 in D Major, op. 73 by Johannes Brahms
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinsky, 29.IV.1978

http://www.youtube.com/watch?v=H9wa1u_wn0o
http://www.youtube.com/watch?v=z86445C232k
http://www.youtube.com/watch?v=RlcRVdSCDoQ
http://www.youtube.com/watch?v=rMgBqckYMFg

_____________

Beethoven: Symphony No.4 Mov.IV (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=DG39ixkkx60
http://www.youtube.com/watch?v=EnCN-Et4t5M
http://www.youtube.com/watch?v=uqvdK6rUgt0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Qkv_F_--nrI&feature=related


Ludwig van Beethoven-Sinfonia nº 3, op. 55,
Orquestra Filarmónica de Leningrado / Maestro-Evgeni Mravinsky

http://www.youtube.com/watch?v=X1v46hSfdU4
http://www.youtube.com/watch?v=DzKKI8Tg9zk
http://www.youtube.com/watch?v=kmo7hakcklk
http://www.youtube.com/watch?v=7VRbZZLh-GA
http://www.youtube.com/watch?v=2hgxgmXqTSw&feature=related


Brahms: Symphony No.2 Mov.I (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=JcwTljrOOf8
http://www.youtube.com/watch?v=RHuG8HtNJTE
http://www.youtube.com/watch?v=fFazWLCQCqM
http://www.youtube.com/watch?v=7MDAs_NHlRQ


MRAVINSKY--BRAHMS Symphonie 3
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, 29-04-1978 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=RhufL4clBgs
http://www.youtube.com/watch?v=lkNcuQmFCXE
http://www.youtube.com/watch?v=xokztz210EY
http://www.youtube.com/watch?v=TPzc5ucKvfc

Brahms: Symphony No.4
Leningrad Philarmonic Orchestra Yevgeny Mravinsky 1973

http://www.youtube.com/watch?v=KF6XT6J87jo
http://www.youtube.com/watch?v=Jh-YITzzpZ8
http://www.youtube.com/watch?v=H0WFGui51Wo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SPfhx85pF7U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DyCBsPS7qOs&feature=related


Tchaikovsky: Symphony No.5
Live at the Great hall of Leningrad Philharmonia - 1973, Apr.

http://www.youtube.com/watch?v=yI3ifmdPPJE&playnext=1&list=PL03855A07538BC0A3
http://www.youtube.com/watch?v=_Fgvv_FYFsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bxD6K3Jo4h8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jr1Y3KS5KNk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RLV5hKU114A&feature=related


evgeny mravinsky
tchaikovsky 5th symphony 1983

http://www.youtube.com/watch?v=VQhzfTwwMlU
http://www.youtube.com/watch?v=Hcy4IM65KUc&feature=related

Mravinsky: Tchaikovsky Symphony no. 6 "Pathétique"

Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky
Stereo recording, 1960.

http://www.youtube.com/watch?v=UcJzjB8bwqE&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=6-LSwQyMrHw&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=q1SayVIFmyg&playnext=1&list=PLA125EC7B26EF3553
http://www.youtube.com/watch?v=lioGWy9sETw
http://www.youtube.com/watch?v=x2tTfTVzD0M


Tchaikovsky: Nutcracker-Suite (Mravinsky)

http://www.youtube.com/watch?v=9K0N16w0yjA
http://www.youtube.com/watch?v=HIzwLsX_RtI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vnJCGT8QsLY&feature=related

EVGENY MRAVINSKY - FRANCESCA DA RIMINI - TCHAIKOV
LIVE RECORDING: Great Hall of the Leningrad Philharmonic, 19 march 1983.

http://www.youtube.com/watch?v=x2FLZsAL8fA
http://www.youtube.com/watch?v=lIDpdr_dRH4&feature=fvwrel


Tchaikovsky, Capriccio Italien, Op. 45.
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky, Conductor.
Rec, 23-02-1950. Leningrad.

http://www.youtube.com/watch?v=flA32aBSmeo


P. Tchaikovsky Serenade for string orchestra/E.Mravinsky
Leningrad Philharmonic Orchestra. Conducter: Yevgeny Mravinsky. 1949.

http://www.youtube.com/watch?v=frv3gch4kg4
http://www.youtube.com/watch?v=YVrVxPsP9vk
http://www.youtube.com/watch?v=QOUgxhhqFWw&feature=related

Sviatoslav Richter plays Tchaikovsky Piano Concerto No. 1
Leningrad Philharmonic Symphony Orchestra, Yevgeny Mravinsky, 1959.

http://www.youtube.com/watch?v=DRBjzVkpiQ4
http://www.youtube.com/watch?v=NzcWYVkflcU
http://www.youtube.com/watch?v=E91B7soYX_A
http://www.youtube.com/watch?v=8ntF8ZUnclM


Piano Concerto No. 1 in B flat Major, op.23 by Piotr Ilyich Tchaikovsky
Emil Gilels, piano
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.III.1971

http://www.youtube.com/watch?v=ttUE8CHN5U8
http://www.youtube.com/watch?v=sRBqVyZcJT0
http://www.youtube.com/watch?v=IaEpqaPCyhc


EVGENY MRAVINSKY--TANNHÄUSER-OVERTURE
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1978,

http://www.youtube.com/watch?v=AYZzdsg6hSE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nn8kWu7H59E

Wagner, Lohengrin, Prelude act 3.
Leningrad Philharmonic Orchestra, dir Evgeny Mravinsky, enr 1965 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1jkNDaO8fRM&feature=related


EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-LOHENGRIN Prelude act 1
Evgeny Mravinsky, enr 1978 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1uliSlmMQcI

Wagner: Die Walküre - Ride of the Valkyries - Mravinsky/LPO (1965Live)

http://www.youtube.com/watch?v=82HCLqVhB6E

EVGENY MRAVINSKY--WAGNER-DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG
Leningrad Philharmonic Orchestra, enr 1982 LIVE

http://www.youtube.com/watch?v=1qLfxnEC0xI

EVGENY MRAVINSKY - PRELUDE UND LIEBESTOD - TRISTAN UND ISOLDE
Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky Conductor, Rec 1978.

http://www.youtube.com/watch?v=3g3otuOZhuQ
http://www.youtube.com/watch?v=LDd1u-w13hE


Anton Bruckner, symphony No 7 in E major,
25 February 1967,Leningrad Philharmonic Orchestra, Evgeny Mravinsky,

http://www.youtube.com/watch?v=pZrvBok8ARE
http://www.youtube.com/watch?v=NSfW9fEATRM
http://www.youtube.com/watch?v=W8vi3tK_w54
http://www.youtube.com/watch?v=TBVbx959PX4
http://www.youtube.com/watch?v=oDGwSKb0J3Q
http://www.youtube.com/watch?v=MsjjrfG2h50
http://www.youtube.com/watch?v=pDgVYIyL-B8&feature=related


Symphony No. 8 in C minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij, 30.VI. 1959

http://www.youtube.com/watch?v=cI60KTZrbfs
http://www.youtube.com/watch?v=KhUAWXUHwA8
http://www.youtube.com/watch?v=QME9yhje4tc
http://www.youtube.com/watch?v=FkUgDpkUxrU


Symphony No. 9 in D minor by Anton Bruckner (1824-1896)
Leningrad Philharmonic Orchestra Jevgenij Mravinskij,30.I.1980

http://www.youtube.com/watch?v=qPhWKo__ruk
http://www.youtube.com/watch?v=0AdprHOGxbY
http://www.youtube.com/watch?v=AX-JKolWuH4


Sibelius: Symphony #7 in C Major, Op. 105

http://www.youtube.com/watch?v=yqMJA9kvyHI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=0j8UsxvAZ_s&feature=fvwrel


Sibelius: Lemminkäissarjaan - Tuonelan joutsen - Mravinsky/LPO (1965Live)

http://www.youtube.com/watch?v=Uk9HNGH0XG4

Mravinsky, Glinka / Overture ''Ruslan and Lyudmila''

http://www.youtube.com/watch?v=GRPucWxV6Bo&feature=fvwrel


Evgeny Mravinsky conducts Anatoly Liadov: Baba Yaga op.56
date:11.03.1983

http://www.youtube.com/watch?v=fmpIiquC99g


Evgeny Mravinsky conducts Mussorgsky: Dawn on Moskwa River (Prelude to Khovantchina)
date:11.03.1983

http://www.youtube.com/watch?v=FMJCgL9GNFw

Yevgeni Mravinsky conducts Richard Strauss Ein Alpensinfonie
orch:Leningrad Philharmonic date:21.4.1960

http://www.youtube.com/watch?v=wfLeeNTPjeo&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=xqtkYD62Qxk&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=jyz5Y3eb4LY&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8pvfyVS_V0k&playnext=1&list=PLC5A564A7BCBFCF5D
http://www.youtube.com/watch?v=8xazO_BUsoo&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11
http://www.youtube.com/watch?v=_HK9CVKw-lU&playnext=1&list=PL52BC37C81E0BFC11

Mravinsky conducts Bartok Music for String, Percussion & Celesta
Leningrad Philharmonic Orchestra
Recorded Live at Great Hall Moscow Philharmonic on 28 February 1965

http://www.youtube.com/watch?v=5TeIPkomTnw
http://www.youtube.com/watch?v=Gwu63ZLv80g&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=_qwfIqw8kdk&playnext=1&list=PL0149E1DE3402806D
http://www.youtube.com/watch?v=Xrlxy7Bs3us


Sabre dance - Yevgueni Mravinsky.wmv

http://www.youtube.com/watch?v=3HbunC5nqxo&feature=related


Prokofiev Mravinsky Romeo & Juliet

http://www.youtube.com/watch?v=pQAwic28DzI&playnext=1&list=PLE4E1E5913B7472AE

Evgeny Mravinsky conducts Scriabin Le Poéme de l'extase

http://www.youtube.com/watch?v=SPdUI2eylBA
http://www.youtube.com/watch?v=3e4SiM3rsHc

http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html#c13

コメント [原発・フッ素8] 京大原子炉・小出裕章「再臨界の可能性」全文聞き起こし(たねまきジャーナル・MBS毎日放送ラジオ) ジャック・どんどん
293. 浅見真規 2011年4月23日 14:27:00: AiP1TYI88G3dI : MiOMuL8z3g
>>291 >>292
私は識者じゃないですけど、ちょっとコメントしておきます。
私が思いつく可能性として、(1)隠蔽工作、(2)測定ミス、(3)2号機のデータと取り違え、の三つの可能性があります。
東京電力は過去に原発トラブル隠し事件とかダムのデータ改竄とかしてますので、今回のように会社の存亡と幹部の刑事責任がかかった場合には「隠蔽工作」も十分あります。塩素38は半減期が短いので予備のサンプルがあっても今じゃ測定限界未満だし「隠蔽工作」しても検証不能ですから。
尚、実は、塩素38が含まれていたとの発表のタービン建屋地下階の溜まり水の採取日は3月24日ですけど、3月20日・22日・24日の夜には原子炉の1km強ほど南にある東京電力の展望台に設置されてる「ふくいちライブカメラ」の映像で原子炉建屋付近で青白く光っていたのが見つかってます。ただ、どの原子炉建屋のものかは私にははっきりとはわかりませんが2号機の湯気のあたりで光ってるように思えます。放射線か放射能が原因でしょう。発見者はチェレンコフ光を疑ってるようです。もしかしたら、いずれかの原子炉で核分裂連鎖反応が起きて中性子が発生したのが原因かもしれません。そして、東京電力は2号炉に対して3月26日になって初めてホウ酸投入しています。1号機と2号機のタービン建屋は棟続きみたいです。

[福島第一原発のふくいちライブカメラで青い光を確認 これはまさかチェ・・・ : 2のまとめR]参照。
http://2r.ldblog.jp/archives/4359572.html


以上を勘案すると「隠蔽工作」か「2号機のデータと取り違え」の可能性が高いように思えます。
また、「隠蔽工作」の場合にも、1号機のタービン建屋と2号機のタービン建屋が棟続きなら2号機で発生した塩素38が1号機タービン建屋地下の溜まり水に混じった可能性もあります。
*****
ただ、東京電力が測定ミスとして訂正発表したというのは、測定ミスか否かという過去の事実の真偽はともかくとして、今後は臨界事故は起こさない自信の表れだと思います。
http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/632.html#c293

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
04. 2011年4月23日 14:29:34: fORpJ3s5mk

【チェルノブイリの少年たち】運命の金曜日

http://www.asyura2.com/0311/genpatu1/msg/232.html

投稿者 エンセン 日時 2004 年 1 月 24 日


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c4

コメント [原発・フッ素9] 兵庫県神戸市三宮で脱原発デモを開催したいです。 地には平和を
05. 2011年4月23日 14:36:52: FKVMEhzyKM
http://datugeninfo.web.fc2.com/

脱原発系イベントカレンダーです!
掲載してはいかかでしょうか?

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/740.html#c5

記事 [雑談専用39] そこまでして巨人に勝たせたいんか!! (天木直人のブログ)
http://www.amakiblog.com/archives/2011/04/23/


 4月22日の日刊ゲンダイに20日に行われた巨人対阪神
の試合の判定について書いた記事を見つけた。私もたまたま
そのゲームを見ていたのでこの記事に目が釘付けになった。

 その試合は5対4で阪神が逆転負けを喫した試合だった。
三連戦の初戦を勝った阪神は、この試合の逆転負けにより水を
さされ、続く第三戦目も負けて、結局三連戦は1勝2敗で終わる
事になった。

 日刊ゲンダイのその記事は、勝負の流れを変えたその第二戦
について、三度に及ぶ巨人に有利な審判の判定について書いていた。

 その中でも明らかな誤審だったのは阪神が一点を勝ち越した7回
裏の阪神の攻撃の場面だ。逆転し、なおも2死一、三塁の好機で
5番のブラゼルが打った打球は高々とあがった。それを二塁手脇谷
がよろよろと落下地点に入り、そしてファンブルした。一度は
グラブから飛び出した打球を脇谷は倒れこみながら捕球したが、
その打球は一旦地面に落下したように見えた。一塁審判は、やや間
を置いて右手を上げ、アウトを宣告する。

 その時だ。阪神の真弓監督が怒って「落としてる!落としている
やないか!!」と詰め寄った。テレビで繰り返し流されたスロー映像
を見る限り、脇谷のグラブからこぼれ落ちたボールは明らかに一度
地面に落ちている。しかし判定は覆ることはなかった。

 ゲンダイの記事は続ける。微妙な判定はこれだけではない、と。
直後の8回、先頭打者の小笠原のショートへの内野安打。微妙な
タイミングだが同じ審判の判定はセーフ。これをきっかけに巨人
は3点を入れて逆転した。その後の無死一、二塁で迎えた高橋由
に対する外角低めの絶好球が「ボール」と判定された。テレビ解説者
も思わず「いいボールですけどねえ」と口にしたほどだ、と。

 私の年代の者がそうであるように私は野球少年だった。そして
大方の子供がそうであったように私もまた大の巨人ファンだった。
巨人が負けたゲームはテレビに物をぶつけて怒られるほどのファン
だった。

 その私が社会人になっていつの間にか巨人ファンでなくなった。
社会人になってしばらくはまだ巨人ファンだったと思う。それが
いつしかアンチ巨人になっていった。なぜ、いつごろから、そのよう
になって行ったかはわからないままだった。

 そしてこの記事を読んでなんとなくその理由がわかったような気が
した。私がアンチ巨人になったのは、世の中に出てだいぶ時がたって
からだ。家族ができ、世の中の仕組みがわかってきたときからだ。
社会の不条理を知ってからだ。何よりも外務省という官僚組織の中に
身を置いて組織の論理の矛盾を感じて行った時期と符号するような気
がする。

 その日刊ゲンダイの記事はこういう文章で締めくくられていた。

 「・・・(判定は)ことごとく阪神に不利に出た・・・星野仙一元
阪神監督なら間違いなく審判団にこう声を荒げているに違いない。
『そこまでして巨人にかたせたいんかっ!!』・・・」

 この言葉は、私が外務省にいた頃によく自分に言い聞かせていた言葉
と重なって見える。

 「そこまでして出世したいのか」、と。

 組織の中で出世できなかった不器用な者の負け惜しみと言われても
仕方がない。しかしそれは間違いなく私の思いであった。

 私が巨人を嫌いになったのは巨人のせいではない。巨人を勝たせよう
とする体制側の不正義に違いない。


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/315.html

コメント [原発・フッ素9] 福島県学校等環境放射線ダスト・土壌モニタリング実施結果(土壌)速報値表 なんじゃこりゃー
05. 2011年4月23日 14:40:17: 5hlD7zztpw
放射能汚染地域を認定する国際基準値は37000Bq/u(1Ci/平方キロメートル)

東京電力はまた偽装統計を発表か? 発表の土壌Bq/kgってどういうこと?普通はBq/m^2だろう?
http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/208.html
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/744.html#c5

コメント [お知らせ・管理19] なんじゃこりゃー さん、本文は200文字以上での投稿をお願いしています。ご理解いただけるまで投稿可能数を減らしておきます 管理人さん
13. 2011年4月23日 14:40:24: 6A1QsVIKOU
再度、二重投稿です。

東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住(NEWSポストセブン)
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/742.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 06:51:38: 0zLT2gtfzmeo.

先行投稿
東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住 ← 減給は当たり前!
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/708.html
投稿者 jesusisinus 日時 2011 年 4 月 22 日 12:16:53: veLsqfdw2ggms
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/718.html#c13

コメント [カルト8] この投稿は削除でしょう チベットよわー
01. 2011年4月23日 14:40:30: EGaQ73B5yp
>コ・ジョンスンなんて名前の会員はいない。

チベットよわーさんは、なぜ上記のように断言できるのですか?
全会員の氏名を掌握しているのですか?
さもなくば、こんな断言は決して出来ないはずです。

あなたは在特会の幹部ですか?
そうでなく、単なる妄想狂ですか?

>コ・ジョンスンなんて名前の会員はいない。

これは全会員のリストを証拠として示すか、
あなた自身が、全会員の氏名を掌握している証拠を示さぬかぎり
成立し得ない言辞です。

この発言を裏づける証拠を示してください。
それができないなら妄想を口走ったことを詫びるべきでしょう。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/115.html#c1

コメント [原発・フッ素9] <福島第1原発>4号機プールへの注水量倍増 水温低下狙う(毎日新聞) 最大多数の最大幸福
01. 2011年4月23日 14:42:09: iQinVlOl1c
建屋がグシャグシャなんだから使用済み核燃料プールも無事ではないはず。
チョロチョロ漏れてるに決まってる。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/756.html#c1
コメント [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が 千早@オーストラリア
01. 2011年4月23日 14:43:09: GVMFy9UA0g
モウちょっとマトモな日本語訳は出来んノ!!!!!!!!????????


コレじゃ、何書いてるのかサッパリ判んネーな!!!!!!!!!!!!!!!!


機械翻訳を使うのはヤメろ!!!!!!!!!!!!!!!!



http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html#c1

コメント [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が 千早@オーストラリア
02. 2011年4月23日 14:43:29: UJ4aY1PsV6
おまえら頭だいじょうび?
これだけ諜報技術、システムの発達した米国を相手に破れ障子みたく
情報駄々漏れ日本がそんなことできるわけないだろ。wwwww
山口泉もとうとう耄碌したのか。なさけない。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html#c2
コメント [お知らせ・管理19] なんじゃこりゃー さん、本文は200文字以上での投稿をお願いしています。ご理解いただけるまで投稿可能数を減らしておきます 管理人さん
14. 2011年4月23日 14:44:09: 6A1QsVIKOU
200文字未満の投稿です。

福島県学校等環境放射線ダスト・土壌モニタリング実施結果(土壌)速報値表
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/744.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 07:20:42: 0zLT2gtfzmeo.
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/718.html#c14

記事 [原発・フッ素9] 「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)/汚染されていない昨年産のコメにまで影響
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110422-OYT1T00281.htm
「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)

インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに掲載された漫画 【ニューヨーク=柳沢亨之】在ニューヨーク日本総領事館は21日、国際紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)が同日付の論説面に掲載した一コマ漫画が日本産食品への不安をあおりかねないとして、同紙の親会社ニューヨーク・タイムズに抗議した。

 漫画は、「日本の放射線」の見出しが付いた新聞を手にした白雪姫が、おばあさんが持つリンゴを虫眼鏡で見て、「ちょっと待って。あなたは日本から来たの」と尋ねている。総領事館側は、ニューヨーク・タイムズ社のIHT担当編集長に「日本産食品は検査済み。米当局も安全を認めており、遺憾だ」などと口頭で申し入れた。

 編集長は「重く受け止める」と述べ、パリのIHT本社と対応を協議する考えを示した。漫画は中国英字紙から転載されたとみられる。

(2011年4月22日11時51分 読売新聞)

==============================================

無理からぬこととはいえ、ことは想像以上に深刻で、放射能汚染されているはずのない昨年産の米にまで影響は及んでいる。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/758.html

コメント [お知らせ・管理19] なんじゃこりゃー さん、本文は200文字以上での投稿をお願いしています。ご理解いただけるまで投稿可能数を減らしておきます 管理人さん
15. 2011年4月23日 14:47:02: 6A1QsVIKOU
再度、200文字未満の投稿です。

放射能がまったく出ない状態に戻すには10年以上かかる 仏アレバ社CEO
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/745.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 07:46:16: 0zLT2gtfzmeo
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/718.html#c15

コメント [自然災害17] 緊急報告)3/11地震テロ特定!証拠保全完了!井口氏に連絡を! 平成の坂本竜馬
354. 2011年4月23日 14:47:33: HyJby5sqZs
どんな支離滅裂な空想であっても、頭の中で考えているのでしたら、それは個人
の思想の自由ですし、尊重されなければいけません。

しかし、阿修羅掲示板には本質的で鋭い記事もたくさんあるのに、こういうもの
があると、掲示板全体の信憑性に疑問符がついてしまい、それが残念でなりません。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/158.html#c354

コメント [原発・フッ素9] 内閣府原子力委員会が国民からの意見を募集しているそうです 有間姫
11. 2011年4月23日 14:49:27: jGKzU7J4XE
危ないな。都合のいい意見だけメディアに取り上げられるくらいなら御愛嬌だが、
即ブラックリスト作成して裏で回すとか、公安に丸投げとか。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/751.html#c11
コメント [原発・フッ素9] 秘匿されている3月13日午後の“重大事態”は何か?政府・東電のレポートに潜む奇妙な『空白』を読み解く あっしら
34. 恵也 2011年4月23日 14:49:34: cdRlA.6W79UEw : GVOwSyVq5o
>>32 一方で下のような理論もある。

あなたは人間に人体実験ができないという現実を知らないようだ。
科学風の理論を展開してるが、科学的に本当に確かめれた理論なのかね。
なんか俺にはまがい物の理論にしか思えん。

だいたい2000ベクレルの野菜や海産物を無数の人間が食べて、安全だと
確認した上での数字であるわけじゃなかろうに。
これくらいはしょうがないから「我慢して食べろ」という我慢量なんだよ。

生物濃縮で恐いのは、甲状腺などの臓器が破壊されたらそれで終わりなの。
人間が破壊される濃度まで集まらないようにするのが科学理論の目的。
あなたの理論には事実を単純化するだけで、その目的がない。

生物学的半減期とか有効半減期って何の目的で作られた言葉なのかさえ
あなたは考えない低劣な人間なのだろう。
根源的思考というものが不足してるよ。

言葉とは相手に自分のイメージを伝えるための、非常に不完全な道具なの。
そんな程度の低い言葉に振り回されないようにしなさい。

ーーーー引用開始ーーーー
サバンナリーバーというところで1959年に起こった事故なんですが、そこで1週間前後
で植物の種類によって違いますが、作物、自然の草、木も含むんですが、植物種に
よって200万倍から650万倍にも濃縮してたという報告です。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/kuroha/ichikawa_report5.htm

>> 放射性核種が、生殖腺内でどういう分布をしているかによって、被曝線量の
>> 空間分布もずいぶん違ってくる
何の事をいってるのかまったくイメージがわからん。
生殖腺が被曝したらただじゃ済まんよ。被曝するということは細胞が壊れるんだよ。
イラクに行った米兵のウラン粉塵による湾岸症候群でも、多くの病人が出てます。

ーーーー引用開始ーーーー
米軍は、復員兵の精液中からウランが検出されることを認めました。精液中にウラン
が出ているというのは、遺伝メカニズムがめちゃくちゃになっているということです。

その条件で受胎された子どもは、アルファ放射線によって凄まじい細胞損傷や遺伝
子損傷を受け、何もかもおかしくなります。湾岸戦争に従軍した男性兵士から奇形
児が生まれる確率は通常の2倍、女性兵士では3倍に上るという研究結果が出ています。
(劣化ウラン弾より)
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/582.html#c34

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ原発事故死100万人 2009革命はあったのか
09. 2011年4月23日 14:49:38: wLBMgueseI
チェルノブイリの真実を日本だけでなく世界の人々に伝えよう!
1986年から2004年までに98万5千人が亡くなったことを
死者数が今も増えつずけていること伝えよう!
死因は、癌、心臓病、脳障害、甲状腺癌、胎内死亡、生後の先天性障害であり、
放射能の悪影響は、何世代にもわたって生態系のすべてに及び、
この事故は、科学技術による最悪の事故であることを伝えよう!
チェルノブイリと福島の原発事故の教訓は、
すべての原発を廃止し、すべての原発の新設を止め、
風力、地熱、太陽光などによる発電を推進することだ!

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/617.html#c9
記事 [近代史02] その時、馬に神が宿った6 _ レッツゴーターキン


なんとびっくりレッツゴーターキン!!


1992年 第106回天皇賞(秋) レッツゴーターキン
http://www.youtube.com/watch?v=V_qY6F8Og1Y

大崎「天皇賞に行こう」

周囲「え?」

記者「レッツゴーターキンなんてwww」

大崎「レッツゴーを馬鹿にするな!」

記者「wwwwwwww」

大崎「坂路で鍛えているし、東京の坂だって大丈夫」

記者「はいはいwww」


________

「さあ、さあ17万の大歓声!

4コーナーをカーブして直線コースに入ってきた!

先頭はダイタク! ダイタク先頭! ダイタクが先頭だ! ダイタクが先頭だ!

さあ、まだか! テイオーはまだか! テイオーはまだか!

テイオーは2番手! テイオーは2番手!

外のほうから懸命にナイスネイチャ突っ込んで来ている! ホワイトストーンもやって来た!

さらにはヤマニングローバル!

さあインコース懸命にテイオーだが、トウカイテイオーがインコースから!

ダイタク! テイオー! さあS・B対決になるのか!

しかし外から一気に後続が押し寄せてきた!

外から一気に後続が押し寄せてきた!

一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!

レッツゴーターキン! ムービースター! レッツゴーターキン! ムービースター!

ヤマニングローバル! ヤマニングローバル! レッツゴーターキンだー!

何とびっくりレッツゴーターキン!

そして2着にムービースター! 大崎昭一やった!

レッツゴーターキン大外一気に駆け抜けた! 1分58秒6!

勝負はインコースのS・B対決ではなかった! 外から伏兵レッツゴーターキン、ムービースター!」

(三宅正治アナウンサー)

http://aimar.s18.xrea.com/meigen.htm

107 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:46:24 ID:yQsvRBcR0

ローカル帝王だったターキンを福島の後天皇賞に行かせたのが凄い。
前走福島の馬なんて買えるかってことで人気まるでなし。
あれは衝撃的だったなぁ。
パーマーとダイタクのバカ逃げ争いのハイペースに、
テイオーもついて言って巻き添え死亡してたなw


214 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 18:45:27 ID:vB5tBG450

レッツゴーターキンってローカル競馬なんかに出ていたんだよね。
馬は知らなくても府中の乗り方を騎手が知っていたってのが当時話題だった。w


66 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 18:20:56 ID:EGCs0QEmO

このレース前に大崎が、

「レッツゴーを馬鹿にするな!」

と息巻いていたのは名言w

「レッツゴー」ってw


100 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:36:31 ID:7NBbDFBm0

レッツゴーターキンはパドックでも

「ここは福島や小倉じゃねーぞ」って野次られてたらしいね


166 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 00:30:15 ID:BMhVto5i0

メジロパーマとダイタクヘリオスの喧嘩で超殺人ラップになった伝説のレースだな


169 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 00:47:38 ID:hX3WvZvAO
>>166
最近はそんなレースがほとんどなく、スローのヨーイドンばかり

その辺も競馬離れが進んでいる理由のひとつでは?

ツインターボが出るだけで楽しみだったし、ズルズル下がって“バックターボ”とか見るのも楽しみだった


______________

 『地獄を見た男』


6歳になってからも相変わらず不振が続いたレッツゴーターキンだったが、新潟に遠征した彼は、そこでようやく復活の兆しを見せた。谷川岳S(OP)に出走したレッツゴーターキンは、そこで実に1年1ヶ月ぶりの勝利をもぎ取ったのである。レッツゴーターキンに復活のきっかけを与えたもの、それはある男・・・かつて地獄を見た騎手との出会いだった。

 大崎昭一・・・それが、レッツゴーターキンが新潟で出会った男の名前である。大崎騎手は、当時既に47歳を迎え、騎手の中でも指折りの大ベテランとなっていた。そして、そんな彼の大レースでの実績は、一流騎手として十分誇るに値するものである。大崎騎手は、

1969年のダイシンボルガード、81年のカツトップエースで日本ダービーを2勝、
67年のカブトシロー、79年のグリーングラスで有馬記念を2勝し、さらに
天皇賞も、75年秋にフジノパーシアで勝っている。

「泣きの昭ちゃん」の愛称で親しまれた彼は、確かに関東の一流騎手であり、日本の騎手界を代表するスター騎手にふさわしい活躍をしていた。

 しかし、そんな大崎騎手の運命は、1985年8月を最後に暗転した。大崎騎手は、この時新潟競馬場でたいへんな「事件」を起こしてしまったのである。そのことをきっかけに、大崎騎手の運命は暗転し、その後の人生には暗い影が落ちることになる。

 1985年8月25日、第2回新潟競馬6日目第9レース、赤倉特別。レース前に馬が外ラチ沿いへ寄っていった時、大崎騎手に1人のファンが声をかけ、大崎騎手もそれに返事をした。・・・そのひとことが運命の分かれ道だった。


 数日後のスポーツ紙に踊ったのは、「大崎不正行為」「騎乗停止処分」というショッキングな見出しだった。大崎騎手は、外ラチ沿いで声をかけられて返事をしたことで、

「特定のファンに対して馬の調子を教えた」

という疑惑を持たれ、「公正競馬に反する」と問題にされたのである。

 この事件についての大崎騎手の言い分は、

「馬の調子はどうだ?」

と聞かれ、反射的に

「いいよ」

と答えた、というものだった。しかし、周囲は必ずしもそうは見てくれなかった。それどころか、一部では

「金の動きがあったのではないか・・・」
「予想だけでなく、八百長もしていたのではないか・・・」

という何の証拠もない憶測が乱れ飛び、大崎騎手の名誉を失墜させた。この事件を理由として大崎騎手に課せられた処分が4ヶ月間の騎乗停止処分という極めて重いものだったことも、そうした憶測に輪をかけた。・・・そして、時を同じくして、ある週刊誌で大崎騎手の暴力団員との交際疑惑が報じられた。記事自体は出所すらはっきりしない記事であり、こんな時期でさえなければ、あふれる情報の波の向こう側へとたちまち消えていくようなものにすぎなかったが、そんな記事でも、「不正行為をはたらいて4ヶ月間もの騎乗停止処分を受けた」ということで既にうさんくさい目で見られるようになっていた1人の騎手に致命傷を与えるには十分なものだった。

http://www.retsuden.com/vol8-02a.html

 今いろいろしゃべると主人に叱られますけど、新潟のあれは仕組まれたんです。あの事件の少し前、若い人たちが調整ルームに外の人を入れて、新聞を広げて○×を付けていたんですって。それを主人が注意したそうなんです。その逆恨みなんですよ。主人のあのレースのとき、変だと思ったら新潟の場長さんに言えばいいのに、直接競馬会の本部に密告してるんですからね。最初から仕組んでたんですよ。
 もしも、これが真相であれば、その若い騎手たちに話が及ぶかも知れない。だからこそ、大崎は語らない。そういう見方もできるだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090610/p2


 それまで大崎騎手を取り囲み、ちやほやしていた人々は、潮が引くように彼のまわりから離れていった。気がつくと、かつて彼を取り巻いていた人々の姿は消え、さらに彼に騎乗を依頼しようという調教師も、ほとんどいなくなっていた。

 ・・・この時のことについて、大崎騎手は多くを語らない。ただ、後にこの事件を振り返った彼は、

「あの時、俺は死んだんだ」

と述懐している。このひとことが、この事件で彼が失ったものの重みを感じさせてくれる。


 この事件の後、大崎騎手の本拠地である関東の調教師たちからは、大崎騎手への騎乗依頼がほとんどなくなった。馬に乗れない騎手が騎手を続けることはできない。こうして大崎騎手の騎手生命は風前の灯となったが、そんな苦境にあっても、すべての人々が大崎騎手を見捨てたわけではなかった。彼を救ったのは、関西を本拠地とする何人かの若手調教師たちだった。

「大崎の処分はおかしいんじゃないか」
「いくらなんでも、4ヶ月の騎乗停止は重すぎる・・・」

 大崎騎手が何をしたのか。その内容は、4ヶ月の騎乗停止処分という重い処分に見合ったものだったのか。・・・そんな基本的な部分さえもはっきりしないままに決まってしまった処分に対しては、当時から疑問の声も少なくなく、関東に比べて自主の機運が強いとされる関西では、特にその傾向が強かった。

 大崎騎手に対する処分に疑問を抱き、大崎騎手に同情した調教師たちの一部は、関東ではほとんど騎乗機会がなくなった大崎騎手のために自分たちの厩舎の馬の騎乗を依頼するようになった。この動きには、一流騎手とのつながりが薄い若手ゆえの、技術を持った騎手を確保するための動き、という側面もあったかもしれない。しかし、調教師たちが大崎騎手を信じてその再起を願い、大崎騎手もまた、彼らの助けによって引退の危機を免れることができたことは間違いない事実である。1986年以降の大崎騎手は、関東に本拠地を置きながら、その勝ち星のほとんどを関西馬で挙げるようになっていった。

 大崎騎手を支援する調教師たちは、一部で「大崎昭一に1000勝させる会」と呼ばれるようになった。それまでに通算631勝を挙げていた大崎騎手だったが、新潟での事件のせいで、騎手を引退した後に調教師になることは絶望視されていた。そんな大崎騎手を競馬界に残すため、事実上無試験で調教師になることができる特典を伴う1000勝を挙げさせてやりたい・・・。そんな思いを共有する調教師たちの中に、レッツゴーターキンを管理する橋口師も含まれていた。

http://www.retsuden.com/vol8-02a.html


 『ローカルのスペシャリスト』


 同じ宮崎県出身という地縁で結ばれていた大崎騎手と橋口師は、谷川岳Sを勝ったことにより、レッツゴーターキンという馬でも手を結ぶことになった。谷川岳Sを境として、レッツゴーターキンには大崎騎手が騎乗するようになっていった。

 すると、それまで成績の波が激しかったレッツゴーターキンが、安定した成績を残すようになってきた。北九州記念(Glll)ではヌエボトウショウ、小倉記念(Glll)ではイクノディクタスの2着に入り、さらに福島民報杯(OP)ではこの年2勝目を挙げた。そして、レッツゴーターキン陣営は、中央開催へと打って出ることを決意した。

 ただ、それまでのレッツゴーターキンの戦績を見ると、良績はローカル開催に偏っていた。それまでのレッツゴーターキンの戦績は29戦6勝2着5回だったが、そのうちいわゆる「中央開催」での戦績は16戦2勝2着1回だったのに対し、「ローカル開催」での戦績は13戦4勝2着4回である。全国の競馬場を回りに回り、このとき既に阪神・京都・中山・中京・小倉・新潟・福島に出走経験を持っていた(後に東京にも出走)レッツゴーターキンだが、そのことの背景には、そんな数字があった。

 ローカルが得意な馬は、「小回りが得意」「坂が苦手」といった理由があることが多い。そうした観点からすれば、コーナーのつくりが広く、さらに大きな坂もある東京競馬場は、最も不向きなコースにも思われる。事実、レッツゴーターキンはそれまで1度も東京競馬場でのレースには出走していなかった。しかし、そんなレッツゴーターキンが次走に選んだのは、東京競馬場のレースであるだけでなく、古馬の最高峰でもある天皇賞・秋(Gl)だった。

 レッツゴーターキンの関係者たちの中でも、橋口師などはレッツゴーターキンの天皇賞出走には消極的だったという。そんな彼に天皇賞行きを強く勧め、最終的に決断させたのは、大崎騎手の

「天皇賞へ行こう」

という言葉だった。・・・それでも橋口師の方は、レース当日まで半信半疑だったようだが。


 大崎騎手は、あらかじめ橋口師と話し合い、採るべき作戦を決めていた。レッツゴーターキンは、もともと末脚に賭ける差し馬である。ダイタクヘリオスとメジロパーマーという2頭の逃げ一手の馬が揃ってハイペースが必至と思われるこのレースでは、下手な小細工はせずに、最後方待機の直線勝負に賭けた方がいい。小回りのローカルで鋭い脚を使って勝ってきたこの馬なら、展開さえはまれば見せ場は作れるはずだ・・・。

 枠順の決定の際に、外枠不利といわれる東京2000mで、先行に有利な2番という内枠をひいた時には、ほんの少し好位につけての先行策に心が動いたという大崎騎手だったが、彼はついに作戦を変えることはなかった。ローカルとはいえ、それまでの競馬で築いてきた実績と信頼が、彼の作戦に自負と確信を与えていた。

 ただ、この作戦にはひとつだけ不安があった。レッツゴーターキンは、臆病といっていいほど繊細な馬である。初めての東京競馬場の大観衆、それもGlの異様な雰囲気に入れ込んでしまうと、最後方待機で我慢できないまま、なし崩しに脚を使ってしまうのではないか・・・それだけが心配のタネだった。

 レース直前になると、レッツゴーターキンは案の定、それまで経験したことのない大歓声に興奮していた。大崎騎手は、馬を落ち着かせようと思い、本馬場入場の時には、レッツゴーターキンを他の馬とは逆に回らせた。それで一度は落ち着いたかに見えたレッツゴーターキンだが、ゲート入りの際にはまた暴れ始め、今度は大崎騎手を振り落としてしまった。場内からは、思わぬアクシデントに苦笑いも起こった。

 ・・・しかし、大崎騎手を振り落としたことで、結果的にレッツゴーターキンは平常心を取り戻した。大崎騎手が再び騎乗すると、今度は至極冷静にゲートに収まったのである。しかも、大嫌いなゲート入りが最後に回されたおかげでゲート内にいる時間も短く済んだ。・・・そして、レースが始まった。


 この日展開されたレースの内容は、恐ろしいものだった。―それは誰もが予想したとおりの展開のはずだったが、まさかそこまで激しいものになるとは、誰1人予想していなかった。

 戦いは、メジロパーマーとダイタクヘリオスの激しい先頭争いによって始まった。1番人気のトウカイテイオーも、好スタートを切って2頭のすぐ後ろにつけた。

 この日のトウカイテイオーは、18頭立ての15番枠に入っており、外枠不利とされる東京府中2000mでは決して有利とは言いがたい位置にいた。スタートしてすぐに全馬が一斉に第2コーナーへ殺到するこのコース構造は、外枠をひいた場合、位置取りで大きな不利を受ける。トウカイテイオーの父シンボリルドルフが敗れたのも、17頭立て17番で出遅れたことが最後にたたったものである。

 しかし、府中コースを熟知した岡部幸雄騎手は、トウカイテイオーに見事なスタートを切らせることに成功した。・・・まさか、このことがトウカイテイオーにとってむしろ仇となっていくなどとは知る由もない。

 『死のハイペース』

 レースを引っ張るメジロパーマーとダイタクヘリオスは、互いにまったく退く気配を見せなかった。希代の逃げ馬であり、しかもいずれもGlをそれ以前に1つ、その後にもう1つ制した実力馬である彼らが互いに一歩も引かないまま激しく競りあったのだから、ペースがどうなるかは火を見るより明らかである。

 レースのペースは、みるみる吊り上がっていった。そして、トウカイテイオーをはじめとする先行馬たちも、否応なくこのハイペースに巻き込まれていった。

「速い!」

 ラップを見た人間は、皆自分の目を疑った。1000m通過は57秒5。通常の天皇賞・秋のラップより1秒は速い。それでもダイタクヘリオスとメジロパーマーは互いに譲らず、2頭の競り合いは第3コーナーと第4コーナーの間まで続いた。1400m通過が1分20秒8。これは、もはや驚異を通り越して狂気のハイペースである。いくら前の2頭が実力のある逃げ馬でも、これでは粘れるはずがない。

 トウカイテイオーは、前が失速していく中、第4コーナーのあたりから抜け出しにかかった。しかしいくらトウカイテイオーでも、この殺人ペースで3、4番手についてきて直線で抜け出し、後続を突き放すことは不可能だった。1600m通過タイムは1分33秒3であり、マイル戦の日本レコード1分32秒4と1秒も違わない。この年の春に同じ東京競馬場で行われたマイルGl・安田記念でのヤマニンゼファーの勝ちタイムは、1分33秒5だった。2000mの中間ラップなのにマイルGlを上回るタイムなのだから、いかに狂気のペースだったかが分かろうというものである。

 案の定、いったん先頭には立ったものの、坂を上がると、トウカイテイオーの行き脚はみるみる怪しくなっていった。無論、地獄を見たのはトウカイテイオーだけではない。先行馬有利のはずの府中2000mで、先行した有力馬がことごとく無惨な総崩れとなったのである。トウカイテイオーの横を、後方にいたがために殺人ペースに巻き込まれなかった格下の馬たちが駆け抜けて行く。その中に、大崎騎手に押されたレッツゴーターキンの姿もあった。

http://www.retsuden.com/vol8-03a.html

レッツゴーターキンは、ダイタクヘリオスとメジロパーマーが刻んだ狂気のハイペースに惑わされることなく、折り合いもしっかりとついたまま、直線まで後方に控えて脚をためていた。そして、先行馬たちが総崩れになる中で、彼の末脚は最大限の破壊力を発揮したのである。

 レッツゴーターキンの末脚は、直線で炸裂した。後方待機を決め込んだ橋口師と大崎騎手の作戦が、ピタリとはまった形である。もっとも、騎手も調教師もここまでのハイペースを予想してはいなかっただろうが、このハズレは、レッツゴーターキンにとってむしろ好都合なものだった。

 失速するトウカイテイオー、ダイタクヘリオスをかわしたレッツゴーターキンは、残り100mで突き抜けた。第4コーナーでは馬が後ろに4頭しかいなかったレッツゴーターキンが、その数十秒後には先頭でゴール板を駆け抜けていた。


___________

 『嗚呼、天皇賞馬』


 長い旅路の果てにようやく栄光を手にしたレッツゴーターキンだが、その栄光の向こう側に待っていたのは、厳しい現実だった。 レッツゴーターキンは、種牡馬入りした年には、繁殖牝馬の質はお世辞にも高いとはいえないながら、何とか25頭の種付けを確保した。・・・しかし、それだけだった。高くない人気は、落ち込むのも早い。次の年から種付け頭数は早くも一桁になり、落ち込んだ人気はその後回復することもなかった。

 1990年代以降、北海道の生産牧場は構造不況の直撃を受け、おまけに外国産馬の大攻勢もあって、経営者の冬の時代へと入っていった。種牡馬レッツゴーターキンも、やがて種付けがなくなって最初の繋養先を出され、何処かへと消えていった。種牡馬登録こそ抹消されていないものの、その行き先は杳として知れず、様々な憶測が飛びかった。


 『牛の牧場にて』

 一度消息が途絶えたレッツゴーターキンの行方が知れたのは、ある競馬雑誌の取材によってだった。その雑誌が内国産Gl馬たちの近況を伝える特集を組んだ際にレッツゴーターキンを発見し、その現況を世に伝えたのである。レッツゴーターキンは、「牛の牧場」にいた。

 北海道の牧場といっても、馬の牧場ばかりではない。レッツゴーターキンは、牛の飼育をメインとする牧場に引き取られ、牛たちと一緒に放牧されていたという。レッツゴーターキンがどのような経緯を経て牛の牧場に辿り着いたのか、その雑誌は詳しく語っていない。

 しかし、取材に際して牛の牧場で繰り広げられたという光景は、非常に印象的である。レッツゴーターキンの写真を撮ろうとした記者に対し、牧場の人たちは

「やめて下さい!」

と強い口調で止めたという。

「天皇賞馬が牛と一緒にいる写真なんて、あんまりだ」

と・・・。


人気が思わしくない種牡馬の中には、登録の抹消すらされないうちに行方不明となり、闇に消えていく者も少なくない。そんな中で、レッツゴーターキンは、純粋に彼を愛する人によってその命を救われたようである。ちなみに、その牧場がレッツゴーターキンを引き取った理由については、牧場主がレッツゴーターキンと大崎騎手のファンだったからである、と伝えられている。

http://www.retsuden.com/vol8-04a.html


126 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 20:55:43 ID:e50lmUK30

2011年1月30日 午前5時30分

レッツゴーターキンは23歳9カ月をもって命終いたしました。生前のご厚情を心より御礼申し上げ慎んでお知らせ致します。 1月8日朝に突然倒れ専門医とともに加療、一時小康を得ましたが、食欲の回復不十分、手を尽くしましたものの力及びませんでした。
(所有者コメント)
http://meiba.jp/detail.php?sn=1223

用途変更になる2008年まで毎年種付けもできてた。お相手が婆さん馬ばっかりだったから仔を取る気はなかっただろうが。 多分幸せな余生だったと思う。


23 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:40:34 ID:eh6NGyrP0
ほんと馬肉にされずに召されたのは良かったな

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1296462251/

「醜いアヒルの子」


 干された騎手と期待されない馬。
 陽の当たらない裏街道を歩いてきた一人と一頭が、中央の桧舞台で光を放つ。
 誰にも認められることのない一度きりの煌き。


 平成11年1月9日。競馬サークルにあるひとつのニュースが流れました。大崎騎手引退。現役最年長の大崎昭一騎手引退のニュースです。15日に、54回目の誕生日を迎える、その目前にしての引退。通算970勝、1000勝まであとわずか30を残しての引退でした。

 大崎昭一・・・通称“泣きの昭ちゃん”私の、大好きな騎手でした。

 その昭ちゃんが、1頭のサラブレットを引き連れ、中央の、しかも天皇賞という檜舞台に出てきたのは、今からもうずっと前のこと。昭ちゃんの思い出を胸に、最後の天皇賞を語ります。


******  フロック  ******

 競馬は、人知の知り得ない意外性の連続でありかつ固まりである、と誰かが言いました。とはいえ、大波乱の主役には勝つためには、“それなりの、根拠・・・”というものがレースの後につき、解釈がされるものです。

 例えば、

「もともと潜在能力はあったものの、体調の不備が重なったため結果が出せなかったが、本番で絶好の状態に仕上がった。」

 例えば、

「能力はあるものの、展開や流れに注文が多く、たまたま本番で条件が揃った。」

 などなど。しかし、レッツゴーターキンの天皇賞制覇については、誰もが

 「夢のような・・・」

出来事だったと振り返るのです。それは、レース後のあらゆる解釈の前提となるべき勝馬の能力を、「ついに、信じきれなかった」からに他なりません。

 “フロックでGTは勝てない”という格言に対して、ファンは天皇賞馬レッツゴーターキンだけはフロックだったのではないか、と最後までその実力を疑い続けています。しかし、私はレッツゴーターキンにとって、ファンのそうした疑念でさえ、ひとつの勲章であると考えます。なぜなら、歴代天皇賞馬の中でレッツゴーターキン、ただ1頭だけが “フロックで勝った”希有な存在であった、とも言えるのですから。


******  期待されない馬  ******

 レッツゴーターキンは、そもそも社台ファームの“売れ残り”でした。ダイナースクールでも売れ残った馬で、会員さんも「これしか残ってないので、仕方なく、」買われたそうです。その年の社台の男馬の中では、一番安い馬でした。 入厩してからも、腹が上がっていて全く見栄えが悪く、気性の悪い。坂路コース
から逃げ出すこともあったそうです。

「気性が悪いというよりも臆病だったのでしょう。ですから全く期待なんてしていませんでしたよ。1つか2つ勝ってくれればいいなって感じでした。」

橋口弘次郎調教師が当時を振り返る言葉です。


 その言葉通り、レッツゴーターキンはほとんど誰にも期待されない一介の凡馬として、平成元年12月デビューしました。14頭立ての6番人気。結果13着。惨澹たるものでした。もちろん、デビュー前から凡馬とみなしていた橋口師は、この結果に落胆することはなかったでしょう。

 その後も未勝利戦を6着、8着と負け続けましたが、2ヶ月半の休養でリフレッシュした後、ようやく未勝利を勝ち上がります。このとき18頭立て12番人気。単勝3920円という高配当。

 レッツゴーターキンがその素質を垣間見せたのは、500万条件を勝ち上がって迎えた中日スポーツ賞4歳Sでした。12頭立ての11番人気の評価に反発するように不良馬場のなか鋭く伸びて、ロングアーチとタイム差なしの2着。何はともあれ準オープンのドアをノックする地位までステップアップしました。

 菊花賞は11着と惨敗でしたが、これは出られただけでよし。そして5歳になってちょっと成長したレッツゴーターキンは、小倉大賞典、中京記念と重賞を連覇します。


「あのときは、能力があるのかな、とも思いましたけど。その後は惨敗が続きましたからねえ・・・」

橋口師が言う惨敗の足跡を列挙すると、次の通り。


 陽春S 6着
 新潟大賞典 9着
 阪神競馬場新装記念 12着
 金杯 12着
 日経新春杯 12着
 小倉大賞典 6着
 マーチS 5着

 まさに目を覆うばかりの参状。しかし、ここで転機が訪れます。


******  干された騎手  ******

 レッツゴーターキンにとって大崎昭一という1人のベテラン騎手、そう昭ちゃんとの出会いは、まさに邂逅と言っていいものでした。コンビを組んで第1戦、ウラ開催新潟の谷川岳Sでハヤブサオーカンをクビ差押さえて久々の勝利。当時すでにJRAから干され、かつ若手騎手の台頭によってますます華やかな舞台から追いやられていたベテラン・ダービー2勝ジョッキーと、凡馬の烙印を押されたサラブレットは、このとき歩みを共にすることになったのでした。

 橋口師はこう振り返ります。

「大崎さんは意外性のあるジョッキーと言うか、勝負強い人でしょう。これまでダービーをはじめとしてGTレースをたくさん獲っているけれど、人気馬に乗って、というのはあまりないんじゃないですか。

 レッツゴーターキンという馬も意外性のある馬だと思っていましたから、相性がいいんじゃないかなあ、と思ったんです。大崎さんはレッツゴーターキンの能力を完全に掌握していたし、レース展開や流れに応じて上手く乗ってくれたと思います。」

 谷川岳S後、人気になった新潟大賞典で

「ゲートで馬が何かに怯えて硬直してしまった」(昭ちゃん)

ため13着に惨敗するものの、レッツゴーターキンと昭ちゃんはこの後後方一気の追い込みで安定した成績をあげるようになります。

 北九州記念ではヌエボトウショウにクビ差惜敗。 小倉記念では58.5Kgを背負ってイクノディクタスにハナ差負け。しかし福島の民放杯で3馬身差をつけ強い勝ち方を見せると、昭ちゃんは“泣きの昭ちゃん”の異名に反してこう橋口師に言います。

 「天皇賞に行こう!」

 この年の天皇賞ではイクノディクタスが人気になっていたほどですから、その比較からすればそう差はないはず。内容を考えれば天皇賞でもかなりいい競馬ができる、そう昭ちゃんは踏んだのでしょう。そして何より、嫌われ者の自分に乗る馬を与えてくれる橋口師に、少しでも恩返しをしたい、という気持ちが強かったと思います。橋口師は、昭ちゃんと同じ九州の出身でした。橋口師は最後まで天皇賞に出走させることは半信半疑だったといいます。

「福島民放では強い勝ち方をしたんで、これなら天皇賞に出しても笑われることはないだろうと思って出しました。レッツゴーターキンはクラブの馬でしたから、会員さんの希望も強くて。使う前は勝ち負けなんて毛頭考えていませんでした。 色気なんてものは本当に、100%持っていませんでした。」


******  信じること  ******

 第106回天皇賞(秋)が行われた東京競馬場は、天皇賞(春)で5着に敗れた後、骨折による長期休養を余儀なくされたあの2冠馬・トウカイテイオーの半年ぶりの復帰戦とあって、18万ものファンによって埋め尽くされていました。もちろん、私も18万分の1。

馬場コンディションはパンパンの良。ターフの帝王の帰還に舞台は整っていました。

 当然のことながら1番人気はトウカイテイオー単勝2.4倍。以下ナイスネイチャ、ダイタクヘリオス、イクノディクタス、ムービースターと好調馬が続き、レッツゴーターキンは18頭立ての11番人気。まあ、そんなものか。

 レースは予想された通りメジロパーマーの先行で始まり、これに毎日王冠をレコードで逃げ切ったダイタクヘリオスが絡む。それはもう、緩みのない、すさまじい流れとなりました。

 トウカイテイオー、先行馬を射程に入れる3番手。これをマークする各馬もつられるように前々を進みペースが上がる。メジロパーマーの1000m通過は57秒5という超ハイラップ。このハイペースに、ひそかにほくそ笑んでいたのが、レッツゴーターキンの昭ちゃんでした。もともとスタートのいい馬ではないレッツゴーターキンを無理せずにスタートさせ、速い流れになると確信して後方待機に徹します。

「橋口先生からも道中は我慢して直線勝負と言われてました。好位につけるレースも考えたんですけれど、この馬の末脚を信じることにしました。」

 スタートしてレッツゴーターキンと昭ちゃんはピタリ折り合い、最初のコーナーをスムーズに廻ると案の定の速い流れ。これを3コーナー過ぎから徐々に仕掛け、追ってみるとグッとくる手応え!

「いけるかもしれない、と思いました。このペースでは前を行く馬は4コーナー手前で脚が鈍くなるだろう。レッツゴーターキンは左回りだと内にもたれる癖があるので左に鞭を入れたのを覚えています。勝利を確信したのは坂を上りきったあたりでしたね。もう後は横なんか見ないで真っ直ぐ追っただけです。」

 “馬の能力を信じて、逆らわずにその馬に合った乗り方をする”

というのは、ほとんどの騎手が使う常套句です。ですがもちろん、これは言うは易し行うは難しのことで、レースの明暗を分けるのは、どこまで馬の能力を信じきれるかにあるといえるでしょう。騎手がその馬の能力を把握しきる、これは並大抵のことではありません。レースの流れの中で仕掛けどころをどう見極めるか、その
一瞬の決断は馬への信頼度によって微妙に変化するものです。

 とくにレッツゴーターキンのような追い込み馬の場合、馬への信頼が結果に直結することは明白。過信と不信の狭間で、騎手は決断を迫られます。そして昭ちゃん渾身のステッキに抜群の手応えを示したレッツゴーターキンは、総崩れとなった先行馬群をすさまじい勢いで捉え、同じ社台ファーム生産の僚馬・ムービースターを引き連れるようにして盾の栄冠に飛び込みました。

http://www.geocities.jp/anato_senka2/meiba/letsgot.html

16 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:37:03 ID:YkscA8IVO

昭ちゃんといえばテンノリのグリーングラス・・・
泣けました。


31 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:44:40 ID:VIopCf840
>>16
あれは滅茶苦茶上手かった。
あとカツトップエースのダービーも上手すぎ。

40 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:49:47 ID:/eCvUGks0

大崎は本当に仕事人だったよな
オグリローマンの勝った桜花賞でも最内をついてツィンクルブライドで
あっといわせたのが記憶に鮮明にのこってる


43 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:54:26 ID:VIopCf840
>>40
懐かしいなあ。
最内を縫って抜け出して来てやったと思ったら外にオグリローマンが・・・
あれも人気薄だったし。

111 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:51:46 ID:xd/Et79QO

カツトップエースみたいなどん臭い馬に二冠を取らせた大崎の技術は本当に凄かった
ただ映像見る限り太がモタモタモタモタしなければサンエイソロンがダービー快勝してたが


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1967年 有馬記念 カブトシロー
http://www.youtube.com/watch?v=WeUzRErZpAo

1979年 有馬記念 グリーングラス
http://www.youtube.com/watch?v=svXfIu-RnLU

1981年 カツトップエース 皐月賞
http://www.youtube.com/watch?v=68ma3xgt83E

1994年 桜花賞 ツィンクルブライド
http://www.youtube.com/watch?v=URbkJmCDU0k

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213 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 18:26:54 ID:LIgtNnGZ0

この頃の競馬が一番面白かった。

223 :デブネコ ◆DEBU/4SWxE :2011/02/01(火) 20:51:30 ID:6rLh15el0

昔の馬って一頭一頭に個性があったし差別化があった。
今は似たような馬と血統ばかりでつまらないレースばかり。
最近の若い女と同じでみんな同じ顔に見える。


233 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 22:41:40 ID:vB5tBG450

サンデーサイレンスが出てから急に競馬が面白くなくなったんだよ。
勝つのは社台の父サンデー馬だけだもの。


29 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:43:13 ID:n9R5dLVtO

競馬には展開があると痛感したレース、そして年末の有馬記念の伏線となった隠れた名レースだと思う。


122 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 20:15:02 ID:eVuW/PLm0

あの天皇賞は前年が伏線なんだよな。

マックイーンの降着事件で府中2000のコース不備が議論されるようになり
控えると不利を受けやすいという論が広まった。
そして92年。ムービースターの武も「後ろじゃ不利だからなるべく前に押してでも行く」と吹きまくる。

で、ゲートが開くとガッチリ控え。前々を意識しすぎた有力馬は全部討ち死に。

209 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 17:31:15 ID:FKcqh8q60

パーマーとダイタクが暴走して1番人気のテイオーが付いて行ったもんだから、他の馬も付いていくしかなかったんだよね。

案の定、直線で先行馬は逆噴射していった。
このレースで4着に残ったテイオーを評価できた人間が次のJCで美味しい汁を吸うことになる。

パーマーもダイタクもG1馬だから簡単には逃がせられないよね。

250 :名無しさん@恐縮です:2011/02/02(水) 12:52:40 ID:I4YZYdfY0

この翌年あたりから東京競馬場は極度のスローペース症候群になり、
直線ヨーイドン、ひどい時には残り400m-200mの坂だけ全力疾走するレースばっかりになってしまいましたとさ


18 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:37:50 ID:ST4oQwHZP

今の時代じゃG1ホースでさえ乗馬→肉の運命もおかしくないのにターキンは勝ち組の馬生を送れたな。 実績的にはフロックの秋天ホースだったけど この馬の名前だけは何かずっと覚えてたよ

35 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:47:24 ID:iurpDP5iO
>>18
この馬もオサイチジョージ同様にその手順を踏んでいたが それをたまたま聞きつけた牛の農家に拾われた

昔の別冊宝島の競馬読本とかに書いてあった結構有名な話


200 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 08:18:53 ID:9FUZVn130

一時期消息不明だったのになw
見つかったときは牛の牧場で片隅で草を食ってるような環境って出てたな


25 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:41:00 ID:ST4oQwHZP

丁度その年はミホノブルボンとライスシャワーのクラシック年でもあったな


30 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:43:43 ID:lVxTtS7F0

ライアン、マックイーン、ホワイトストーンの世代か
おつかれさん


28 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:42:05 ID:d40X8vAS0

この翌年トウカイテーオーが復活するんだよね。このころの競馬って、すっげーおもしろかったよ

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1296462251/


A. メジロパーマー


1992年 新潟大賞典 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=LtiIolm05-I

1992年 宝塚記念 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=XOemekB7rSU

1992年 有馬記念 - メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=YJnw9zJ_tf4

1993年 阪神大賞典 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=L9t9GvV2vF0&playnext=1&list=PL2ABC1EE7AA6BFCE2

20世紀の名馬 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=IdSqcUIEkME
http://www.youtube.com/watch?v=b6CmcqHreMc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=AT39ALRwuRA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=4ZR0PZEOLwA&feature=related

B. ダイタクヘリオス

1991年 高松宮杯(GU)
http://www.youtube.com/watch?v=hx0ULyetKUE

1991年 マイルCS ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=rzYzKmBKJow

1992年 読売マイラーズカップ ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=pK57QxK3rpM

1992年 毎日王冠 ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=IoC7lPDPNbs

1992年 マイルCS ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=KTpGEY0pm5w

栄光の名馬たち ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=87UKoHheKBw
http://www.youtube.com/watch?v=QnQZG_niPjk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5-0Vzhlz04k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hX3knTqTs5E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SwgClhbPKyE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IY0hDAkNqEI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CjziPTtv948&feature=related

C.トウカイテイオー


1991年皐月賞 - トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=zkKmmxiTNJg

1991年 日本ダービー
http://www.youtube.com/watch?v=0EVnCFFkmSM&feature=related

1992年 トウカイテイオー  産経大阪杯
http://www.youtube.com/watch?v=0G-mWLPkoak

1992年 天皇賞(春) メジロマックイーン
http://www.youtube.com/watch?v=WahaBVZO93E&feature=related

1992年ジャパンカップ トウカイテイオー 
http://www.youtube.com/watch?v=nY0LpQej_Sw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8ct0zx9dQTs&feature=related

1993年 有馬記念 トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=FRPSVXkvT2c&feature=related

淀がゆれた日トウカイテイオーvsメジロマックイーン
http://www.youtube.com/watch?v=14D5y43RZi4&playnext=1&list=PL450AC3D9D5F63345
http://www.youtube.com/watch?v=1zIZcyFJ6sA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=V5hLzlwNQRY&feature=related

20世紀の名馬トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=ypZ0aWdPOwg
http://www.youtube.com/watch?v=PQLSFRQjwf0&feature=related

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/480.html

コメント [原発・フッ素9] 自由報道協会主催 孫 正義  記者会見  2011/04/22 愚民党
11. 2011年4月23日 14:52:13: cqRnZH2CUM
再生エネルギーのコストを下げる、情報インフラの強化に推進するというのは重要なことだが

彼は関西の自然放射線が高いから、特に密閉空間などでは
0.2マイクロSv/h程度あってもおかしくないってことを知らないようだな

関東の0.05というのが、実は世界標準からは大分低いのだが
光の道のときも感じたが、どうもこういう些細な技術的なポイントでの
無知があると気になるね

まあ周囲の人材が充実してくれば大丈夫かもしれないな

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/735.html#c11

コメント [原発・フッ素9] 福島1号機、実質的に水没冷却 格納容器に水たまる  日経新聞 ダイナモ
27. 2011年4月23日 14:52:30: YBLHnRIN5Z

元原子炉解析担当者 孤艇 剛(@minazoko)さんの4月18日-22日のつぶやき

http://togetter.com/li/125663

「水棺」に関するツィート

時事通信によると、東電はロードマップ中に3ヶ月以内に「水棺」作業にとりかかる旨を表明しているとの事。本当だろうか。
だとしたら私の懸念が現実になってしまったということか
minazoko
2011-04-21 14:53:54

循環系の配管やポンプの損傷はそれ程酷いと確認されたということであろうか。それとも燃料棒の損壊により、例え復旧したとしても循環水流が正しく冷却に寄与しない可能性大なのか。
後者の可能性については私も危惧していた。今夜、情報を整理してみよう
minazoko
2011-04-21 14:59:05

1F1の水棺作業が始まった模様。帰宅してから各社の報道内容を比較。しかし… 東電は詳細を明らかにしていないようだ。
代わりに窒素注入前後の炉内圧力の推移等は事細かに発表されていた。
それはそれで有り難いのだが。注水、窒素注入と炉内圧力、温度の移り変わりの関係がどうにもよく判らない
minazoko
2011-04-21 23:54:44

データのcvsファイルがあるとの事なのであとで探してみよう。個人的に気になる点は多いが、再臨界から圧力容器破損→格納容器崩壊で大量の放射性物質漏洩という危険性は今の所、低いまま経過している。
圧力容器底面の温度が比較的低く推移してきた1F1だけに、このままでいてくれという思いが強い
minazoko
2011-04-22 00:01:49

水棺は石棺よりマシですが、隔離主体である事については否定的に考えています。
水棺となった炉心内部では何が起こるでしょか? …確かに冷却材たる水は確保されますが、それは直接に格納容器から圧力容器に流れ込む訳ではありません。
風呂にシャンプー瓶を入れたら泡だらけになりますか?なりません。
minazoko
2011-04-22 00:10:29


イメージとしての水棺は「内部水浸し」ですが、実際には「水の入った器を、もう1つの水の入った器にいれた」だけに過ぎません。
格納容器に満たされた水が配管の隙間や亀裂から圧力容器内に入ることは期待出来るかも知れませんが、流入口に相当する破断や亀裂がどの程度か不明では期待は少ないでしょう
minazoko
2011-04-22 00:16:49


圧力容器と、格納容器。この2つには当面、別々に注水する必要があるでしょう。
つまり注水の手間は2倍になります。それでも一旦は冠水すれば一息はつけるでしょうね。現地作業員の苦労も当然、倍になります。
仲間が心配です。今でもいつぶっ倒れてもおかしくないでしょうし。
minazoko
2011-04-22 00:22:20


圧力容器内圧が下がっているのも気がかりです。何処かに破損があるのか、圧力容器の蓋の接合部がダメージを負っている可能性があります。
この状況での二重注水は格納容器の破損にも繋がりかねません。慎重にも慎重を期さねばならないでしょう。
まして冠水を考慮して設計されていない格納容器です
minazoko
2011-04-22 00:27:14


水棺時の循環について。能動的循環による冷却は出来ません。圧力容器内部にアクセスする方法はなく、格納容器に冠水する事でその方法を考える事も断念しなければなりません。
手出しの出来ない状態で、では中はどうなっているかと言えば、残存した燃料棒と溶融した燃料の周囲で水が暖められます
minazoko
2011-04-22 00:33:22


ここからは皆さんにも容易に想像出来ます。つまり本当に「ただのドラム缶風呂」と同じになります。
暖まった冷却材は自然対流によりゆるやかに容器内を循環します。圧力容器の壁に触れている水は冷却され(外側はやはり水なので熱交換が起こります)再び下降、燃料の残留熱で暖められ…この繰り返しです
minazoko
2011-04-22 00:39:29


再循環ポンプのジェット水流による撹拌と比べ恐ろしくのろい循環です。しかも効率は悪く、人為的に制御することも不可。可能ならば避けて欲しかった所以です。
再循環系の復旧によしんば2ヶ月以上かかったとしても、一旦機能し始めれば冷温停止までは3日か4日、遅くても1週間あれば辿り着けます。
minazoko
2011-04-22 00:44:46

しかも緊急時には流量の調整で対処出来ますし、警戒すべき再臨界の兆候にもホウ酸水(ボロン)の急速注入で対応可能です。
ただの水浸しではボロンの急速注入すら既存の冷却水や炉内圧力に阻まれる可能性があります。緊急時の対応がよけいに難しくなってしまう、これが水棺方式の欠点なのです
minazoko
2011-04-22 00:50:36


とはいえ、高レベル放射線に阻まれ作業員が近づくことすら出来ない状態が「この先もずっと続くのなら」、東電の決定を否定する事は部外者である私に出来る筈もありません。
かっこ書きにしたのは、その確証がないからです。遠隔ロボットによる内部探索が始まった今、確かめることが出来る筈と思うのです
minazoko
2011-04-22 00:56:30

一般に「冷温停止」と言えるのは燃料温度が100度以下になった場合を言います。対流での冷却だと(私の目分量なのでかなりアバウトですが)恐らく通常の30倍以上の時間がかかるのではないかと。
通常時のゆっくりペースで1週間とすれば、約30週以上。半年かかってもそこまで行けるかどうか…
minazoko
2011-04-22 01:04:37

東電の見込みで3〜6ヶ月以内に冷温停止という根拠を示してもらわなければ、にわかには信じられないというのが感想です。
水棺を構築して尚、自然対流にプラス可能な冷却方式となると、今日少しツィートした外部ラジエター方式くらいしか思い浮かびません。冷却水自体の熱を奪う位しか選択肢はないかと
minazoko
2011-04-22 01:10:23


方法はともかく、この事態が長引くほど漏洩する放射性物質の危険性も長期化することになります。そして予測される最大級の余震や、別の直下型地震の懸念も増えます。
…書いてるそばから揺れてるし(^_^;)
minazoko
2011-04-22 01:13:22

今は、現地の仲間が倒れる事ないよう祈るのみです。人手も機材も不足している現状であのロードマップ… 政府も東電も、現地作業員に死ねというのでしょうか。
愚痴もでてしまいます。しかしサイは投げられてしまいました。やるしかないでしょう。菅そーりのどこか得意気だった顔が憎らしくてなりません
minazoko
2011-04-22 01:18:58


1F2の漏洩水は今の所処置無し状態らしい。組み上げては漏れを繰り返していて、とにかく近寄れないと。1F1は仕方無いとして1F2、1F3は何とか再循環系の復旧を祈りたいのだが、聞いた状況はどれも悲観的なものばかり。
このままだと3機全てが水棺処理も充分にありえるという感触
minazoko
2011-04-23 00:34:48
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/723.html#c27

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
14. 2011年4月23日 14:56:19: n6j3ReAJ9s
武田先生が書いていることに異論はないが
ここにはもっと重要で悪質な「風評」が抜けている。

例えば(これは政府が流しているものではないが)
「福島で採れたものは何でも汚染されている」という風評というかデマ。

TV報道で見たのだが
何と、「去年、福島県で収穫された米」を避ける動きがあるのだという。
そこである農家では放射線の検査をしてもらい、
放射性のヨウ素もセシウムも「不検出」の証明をもらって
出荷するまでに追い込まれているそうだ。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c14

記事 [原発・フッ素9] チェルノブイリの被災者が来日 「原発考え直すべきだ」(東京新聞)
チェルノブイリの被災者が来日 「原発考え直すべきだ」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011042201001209.html
2011年4月22日 23時06分 :東京新聞

 1986年のチェルノブイリ原発事故から26日で25年になるのを前に、被災した非政府組織(NGO)メンバー、パベル・ウドビチェンコ氏(59)が22日、来日。東京都内で記者会見し、福島第1原発事故について「チェルノブイリと同じく世界を震撼させた。どんな楽観論者でも原発の存続について考え直さなければならない」と指摘した。

 同氏が住む町はチェルノブイリ原発から約180キロ離れているが、土壌が放射性物質で汚染され、今でも木の実やキノコ類、魚などは食用禁止。甲状腺がんなども多発しているという。

 教師として汚染地域に住み続けNGOを結成、子ども向けの医療などに取り組んでいる同氏は「ロシア政府は事故による病気の調査に消極的だ。なぜ原発を造るのかという大きな問題に広がり、政府にとって危険な動きになるから」と指摘。「問題は山積しているが、政府はあてにできない。自分たちで行動するしかない」と訴えた。

 医師や教師が離れてしまい、医療や教育の水準が低下したとして「子どもたちは満足な医療が受けられず、差別的な目でも見られている。苦しみは続いている」と話した。

 全国の集会でチェルノブイリの現状を報告する。問い合わせは原水爆禁止日本国民会議、電話03(5289)8224。

(共同)



http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/759.html

コメント [原発・フッ素9] 自由報道協会主催 孫 正義  記者会見  2011/04/22 愚民党
12. フリークレーマー 2011年4月23日 15:01:43: 4oWWLmeCnmIdA : psPoljVujw
同じネットのサイバーエージェント藤田社長は全く沈黙・・・渋ちんだな


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/735.html#c12

コメント [原発・フッ素9] 「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)/汚染されていない昨年産のコメにまで影響 gataro
01. 2011年4月23日 15:02:11: 0GJJznkobY
ドイツなんかで8ベクレルが制限値のところ、
日本だと2000ベクレルなんだから
警戒されても仕方ないんじゃないか?

突然、放射能耐性が跳ね上がったのは
世界中でも日本人の身体だけなんだから。

NYタイムズももうちょっとはっきり書けばよかったのに。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/758.html#c1

コメント [エネルギー2] 新聞メモ2 びぼ
302. 2011年4月23日 15:03:09: RMJWfV6cjg
福島県、定期的な健康診断を検討 子どもは長期的に調査
2011年4月23日 12時58分

 福島県は23日、福島第1原発事故の影響で県内各地の放射線量が通常より高い状態が続き、不安を訴える相談が相次いでいることから、住民の定期的な健康診断と、子どもの長期的な健康調査を実施する方向で検討を始めた。

 松本友作副知事は「放射線量は健康への影響を心配するレベルではないとはいえ、通常より高いことは事実。不安を和らげるために何らかの対応が必要だ」としている。

 県の窓口には23日朝までに、妊婦や乳幼児への放射性物質の影響などについて、計1万373件の問い合わせがあった。

 文部科学省が学校での屋外活動を制限する通知を出したこともあり、「子どもへの長期的な影響が心配なので、継続的に調査して健康管理をしてほしい」という趣旨の要望が増加しているという。(共同)

http://www.asyura2.com/09/eg02/msg/283.html#c302

記事 [原発・フッ素9] 福島、汚染水移送は道のり長い 被ばく上限超え30人に(東京新聞)
福島、汚染水移送は道のり長い 被ばく上限超え30人に
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011042301000303.html
2011年4月23日 13時59分 :東京新聞

 福島第1原発事故で、東京電力は23日、2号機のタービン建屋や立て坑にたまった高濃度の放射性物質を含む水の移送を続けた。これまでの移送量は計画する1万トンの10分の1以下で、5月半ばの終了まで長い道のりが残る。

 被ばく線量が緊急時の上限の100ミリシーベルトを超えた作業員が1人増え、23日現在で30人になったことも判明。汚染水処理だけでなく、作業の長期化が確実で、作業員の被ばく線量が今後も増えることが予想される。

 東電は「200ミリシーベルトに近づいた場合は線量が高い作業から外す」としており、最高の約198ミリシーベルトを浴びた作業員は既に現場から外れたという。厚生労働省は今回の事故対策に限り上限を250ミリシーベルトに引き上げている。

 2号機の立て坑などには炉心から漏れた水が流れ込み、推定で計2万5千トンの高濃度汚染水がある。東電は海に流出しないよう19日からポンプで毎時10トンをくみ上げ、ホースで集中廃棄物処理施設に移送。23日午前7時までの移送量は推定約930トン。19日の移送開始から、同施設の水位は約50センチ上昇した。ポンプは今後増設する。

 東電は移送した汚染水を浄化して炉心冷却に再利用する方針。水に含まれる放射性物質や塩分を減らす処理施設を設置し、6月に運用を始めることを計画している。

(共同)

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/760.html

コメント [原発・フッ素9] 「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)/汚染されていない昨年産のコメにまで影響 gataro
02. 2011年4月23日 15:04:52: 4pT8wVoYI2
原発=福島じゃなくて、原発=日本だろう。
それに、これはよく分からないのだが「去年に収穫された米」といっても放射能濃度の高い地域に倉庫があれば結局汚染されるのでは?勿論ただ外部にあるよりは大分少ないだろうが、ある種類の放射線(プルトニウム?)は壁などは通り越してしまうんじゃなかったっけ?
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/758.html#c2
コメント [原発・フッ素8] 中国共産党と自民党&東電、ズブズブの原発関係---(反米嫌日戦線「狼」) 梵天
01. 2011年4月23日 15:08:50: CoVNVv4ZVY
人の欲って、ほんと、怖いです。

http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/453.html#c1
コメント [原発・フッ素9] 「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)/汚染されていない昨年産のコメにまで影響 gataro
03. 2011年4月23日 15:10:57: cqRnZH2CUM
EUなんて、わざと日本産だけ、日本並みに厳しい基準にして全量検査で排除している
まあ、この機会に日本からの高給食品輸入を排除して、国内農産物を守ろうと考えるのが自然だ
日本も、これまで散々海外にやってきたことだからなw

>ある種類の放射線(プルトニウム?)は壁などは通り越してしまうんじゃなかったっけ?

こういう風に考える外国人が多いってことだろうな

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/758.html#c3

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
15. 2011年4月23日 15:11:17: n6j3ReAJ9s
訂正

> もっと重要で悪質な「風評」
は筆がすべりました。撤回します。
政府の流している例えば「学校は20ミリシーベルトまで良い」
という方がよほど悪質ですね。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c15

コメント [原発・フッ素9] 菅は福島の小中学生を殺すのか 75.9%の学校が被曝量オーバーなのに放置のア然 (日刊ゲンダイ) 赤かぶ
51. 2011年4月23日 15:13:03: 8Nec9ZcaD6
日本の酪農おわた
原発避難牛、農水省受け入れ要請 「北海道が有力候補」
http://bit.ly/gKKBTD
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/700.html#c51
コメント [原発・フッ素9] ただの運動をしている時ではない! 小川みさ子さん情報 - 緊急!福島の子どもが危ない! 広瀬隆さん&或るお寺の住職... 千早@オーストラリア
39. 2011年4月23日 15:16:28: W9TKXfWtIY
福島の方は早く退避してください。
近県の方も他人事と考えないでください。

私は武田先生の「敵を誤るな」と「自分の家族を考えろ」の助言に、今からは従います。

できる人はヒントにしてください。私には経済的に不可能なこともかきます。
福島の人向けではありません。福島はもうDNA損傷が手遅れかと危惧しています。
@単身赴任先が放射性プルームの中心部の直撃を受けないなら引越し転校してください。新築の家は、また戻れます。戻れなくとも賃貸して費用にあてられます。
A新幹線通勤通学定期を利用してください。東海道は危険です。碓氷峠を越えれば関東平野より汚染レベルがとても下がります。転校しなくてすみます。
B宅急便を利用してください。ただし、自然食品会社の中には、平気で汚染物を売っているところがあります。ご注意ください。大気中核実験真っ盛りの時も、幼い私が食べた食品の放射性セシウム含有量は5ベクレル/キロほどのようです。

私の家族と私を今経済的に支えて下さる方々には、必要最低限の警告はしました。聞かれた場合は知っていることは全部かいつまんで話しました。今後、私は武田先生の助言に従います。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/648.html#c39

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
05. 2011年4月23日 15:18:34: cqRnZH2CUM
書いてあるのは、高放射線の場合の害ばかりだ

>国際原子力機関(IAEA)はチェルノブイリの死者数を
約4千人とホームページで発表しています。
これは本に発表されている98万5千人と大きく異なるのはなぜでしょう?
IAEAが発表したチェルノブイリフォーラムという調査書は
350の論文に基づき英文で公開されている資料でしたが、
ヤブロコフ博士とネステレンコ博士たちは5千以上の論文を基にしています。

読んだ論文の本数だけではなく、具体的な算定方法の違いや、元データがなければ
100万人と言っても、南京大虐殺と同じで、あまり信用されないだろう
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c5

コメント [原発・フッ素9] 汚染土壌浄化「ヒマワリ作戦」…復興の象徴にも jesusisinus
12. 2011年4月23日 15:19:09: 18Cf10Neqs
読売新聞に出てたよね。被爆地30キロ圏内の高校生に植えさせろ、って。馬鹿?生物濃縮したひまわりをどこに廃棄するんだよ?まーだ未成年者をこんな危険地域に放置して、この子たちは高い可能性で癌や白血病、悪性腫瘍で苦しみ死ぬ運命なのに、よくもまあこんな無知蒙昧な記事が書けるもんだな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/747.html#c12
コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
06. 2011年4月23日 15:19:17: 36ogYyuwLw
妊婦、幼児は何処に住んでいたかの証明を取っておいて
東電か保安員に追認してもらっておいたらどうでしょうか。

今後の奇形や障害に備えておいたほうが良いと思います。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c6

コメント [原発・フッ素9] 福島第1原発「工程表、実現は可能」 仏アレバCEOに聞く 「廃炉作業30年以内に」 sci
04. 2011年4月23日 15:23:31: GVMFy9UA0g
>03


違う、違う!!!!!!!!!!!!!!!!


実は、コノ工程表 現在 来日中のアレヴァと NRC ( アメリカ原子力規制委員会 ) のメンバーで作られたと謂われてイル。


つまり、自分達自身が作ったモノを自分達で否定する訳がナイというお粗末なインタヴュー!!!!!!!!!!!!!!!!


但し、絶対に実現出来ると確約してナイ所が味噌!!!!!!!!!!!!!!!!


このインタヴュー内の発言は非常に気に為る!!!!!!!!!!!!!!!!


「悪魔のシナリオには、既に少し入りかけている。ただ、チェルノブイリ原発事故とは全然違う。」

コレは、『 核爆発 』 は避けられても、『 水蒸気爆発 』 は有り得るとオレは理解した!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


オレはソノ場に居た訳でナイので、彼女がドウ言ったのか判らないが、インタヴューワーが、


「 最悪のシナリオは避けられたと思うか? 」


という、質問に対して 「 Yes 」 とか 「 Oui 」 とか言うのでは無く、前出の答えなのダカラ、とても安心なんか出来る状態ではナイのではナイカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


悪魔のシナリオって何!!!!!!!!????????

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/755.html#c4

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
07. 2011年4月23日 15:24:53: cqRnZH2CUM
>8割のベラルーシの子供達は
チェルノブイリ事故以前のデータと比べると
健康でない状態だということです。
医学的に健康でないだけでなく
知的にも標準以下

本当なら
ベラルーシ人や日本人の結婚市場での価値は暴落だなw
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c7

コメント [原発・フッ素9] ただの運動をしている時ではない! 小川みさ子さん情報 - 緊急!福島の子どもが危ない! 広瀬隆さん&或るお寺の住職... 千早@オーストラリア
40. 2011年4月23日 15:25:56: EMKuwNc9iI
30>>

なんとかこれをテレビでながせないか? 善良なマスメディアはいないのか?

官僚とはこんなレベルなのかと愕然.

上司の役人もきっとこんなもんだろ.

税金払うのが本当にばからしい.

こんな役人らのための天下り資金になってるとは・・・.


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/648.html#c40

記事 [自然災害17] グランドデザイン2 日本と世界を救うNRS構想
これは15年ほど前の構想で、8年前に2chに投稿したものです。
現在はかなり改良がなされていますが、理念にブレはないのでそのまま掲載させて頂きます。



日本と世界を救うNRS構想(2ch投稿)

http://money.2ch.net/seiji/kako/1046/10461/1046152080.html

1/33
 どの国の産業も動脈産業に対する静脈産業の比率が圧倒的に少ない。
これが現代文明の抱える病巣の根本です。人体がもしこのような状態に置かれればどうなるか、今こそ自然の摂理を手本とし、人類は謙虚に反省しなければ死は目前なのです。

批判ではなく、そう反省です。
本当に反省したなら、正にそこにこそ明るい未来が隠されていることに気づくべきです。
つまり、本来動脈産業と同じウェートで潜在する静脈産業の勃興が可能なのです。
従来の公共事業としての静脈産業ではありません。動脈から静脈へと正しく還流する、=で結ばれた官民一体となった全く新しい静脈産業の事です。
経済はそこにこそ活路を見出し、この眠れる超巨大マーケットを興した時、同時に動脈産業の血流も活性化し、地球環境も浄化され、失業問題は永久に解消されます。


191 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:07
2/33
このリサイクル政策を私は三段構えで構想しております。
 第一段階 物のリサイクル(血液循環)→ RNS構想
 第二段階 人のリサイクル(脳内伝達)→ テレブレーン構想
 第三段階 知のリサイクル(知覚神経)→ 痛覚発信網構想

RNS構想

 リサイクルネットワークシステム。略してRNS。大規模にして実現容易、その根幹を成す仕組みも、ノンコンピューターです。
 本構想の起案は約8年前。これまでの間にその実現に向けて、考えられる限り練り直し改良を加え、ここに提唱致しますが古くなったデータ(約5年前)に関わり無くその意義は不変とご理解戴けるはずと信じ、無修正で転記します。

192 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:10
3/33
はじめに
 5月23日付読売新聞コラムの要約だが、大半のスーパーの食品売り場は、入り口から野菜、そして魚、肉類の順番に並び、奥さんが台所で料理する順番に配列してあるという。
そしてこのアメリカで考えられた理論に基づかず、我流で順番や配列を変える店の売り上げは必ず落ちるらしい。以下続く一節を引用する。
「配列の変更ぐらいで行動を変える消費者にとって最近の変化はあまりにも大きかった。金融機関の相次ぐ大型破綻、高齢化社会の到来を前にした負担増というショックが財布の紐を固くした。
政府の総合経済対策で一番欠けていたのは、そうした消費者心理の分析ではなかったか。(中略)消費を回復させるには、国民に不安を与えた元凶に真正面から取り組むことである。」

193 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:14
4/33
 バブルの崩壊を引き金とした日本およびアジア各国に吹き荒れる経済不況、景気の低迷は未曾有のものとなった。
政府がこれを打開する為に打ち出した特別減税の効果も、貯蓄思考の国民性を考える時、懸念せざるを得ない。
 だが早急に消費の回復は待たれるところであり、これに伴って官民のリストラ(行財政改革並びに金融ビッグバン、生産効率やコストの改善など)も急務であり、
これらを悉く成功に導いて、不況脱出の糸口に繋げねばならない。
 2005年度を目処に郵政3事業の国営公社化も一応は決まったようである。もとより、官業が民業と競合して国益は得られまい。
民業の発展の上に官業があって、官業は民業の後ろ盾として存在している筈である。
 だが、こうした理念を踏まえても、昨今の経済活動(企業と消費者、及び企業間、個人間)に占める通信と郵便の役割は、
その可能性と影響力の点に於いて、民業には成し得ない、何か計り知れないものが在る。そこで民業のみに留まらず、消費者をも含めた、
中立で信頼し得る後ろ盾としての郵便事業と、その在り方について、今一度提案を試みたい。


194 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:18
5/33
 本省改革案が、そのディテールでは今後の課題とする所も多いようであれば、
案件の一つとして検討に値するかどうかをご精査戴き、多少でもお役に立てれば幸いである。
                  ◇

 郵政外務短時間夜間職員として採用され、約半年が過ぎた。
考えてみれば当たり前の事だったが、やってみて初めて実感し、身に染みて気付かされたことがある。
 それは、対象が宅配便などと違って区域の全家屋、全住人という、比類なき密度と頻度の配達業務という点。
加えて、重要な個人情報を扱う以上、高い信頼性と正確性を保たねばならぬ業務であるという点。
 従って、各郵便局員は配達する区域の、複雑に入り交じった番地表示や表札の全て、その住宅地図の丸ごとを、
リアルタイムで正確に把握、暗記しており、能率的な区分け、差し立て、道順組み立てに習熟していなければならない。
 いったい他にどんな職種のプロが、これ程まで軒並み正確に、一軒ずつ覚えているものだろうか。
車が通れない細道や地図にすら無い裏道もバイクで走り回り、道路の網の目の細部まで知り尽くしている。
又、そうでなければ、毎日の限られた時間の中で、滞り無い配達が可能で有りようはずも無いのだと云うことを、
軽い驚きと共に認識した上で、この事を踏まえた提案と致します。

195 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:21
6/33
1. 目的
 ここに提案するシステムは、利益優先、企業都合による消費経済・産業構造から脱皮し、企業と消費者双方のニーズを満たしつつ、本来あるべき官業主体の産業システムの構築を目指す。
そこからあらゆる浪費の構造と経済不況の解決の糸口を掴み、次ステップの雛型とし、その突破口を開きたい。つまり「防災」「人」「神経」ネットワーク(7Dで説明)の応用へと発展させる事である。

2. 理念
 自然のリサイクル(循環)システムから学ぶ時、資源は、本来無限に使い回していける可能性を秘めている。
これを有限と決めつけ、しかもそうと知った上で浪費し、その上で成り立った「文明」とは砂上の楼閣に過ぎない。
 それでも社会は、成長率病に侵され、生産神話を信じ、目先の利益と互いの欲望の実現に向かって人々が競争し合っている。


196 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:24
7/33
 その「使い捨て文明」或いは「F1品種文明(次世代へと受け継ぐ種を宿さない)」を生み出している、とてつもない浪費や無駄の中にいて、
どうにもならぬと諦め、目をつぶりつつ、社会に背を向ける閉鎖的な姿勢が、良識有る人々の中にも有ることを懸念する。
 この致命的な文明の欠陥にまず取り組み、解決出来なければ真の福祉国家に生きる事は適うまい。
システムとしてのリサイクルに取り組み、社会の浪費を極力押さえ込む施策を、可能な限り取り続ける事は、そのまま究極の社会のノウハウに育って行くはずである。
 これまで重ねてきた幾多の「文明の失敗」も、そこから学び取る事で、人々の意識の変革になれば、必要悪としての存在価値だけは見い出す事が出来るはずである。

197 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:28
8/33
3. 現状の問題点(浪費と廃棄)
 浪費とは何か?使えるものを使わずに、その価値を無駄に終わらせる事であり、更にこれを廃棄するためのコストも上乗せして、幾重にも浪費を浪費の上に重ねて行く事である。
@ 企業と個人の浪費
 企業にとっては「売り物の商品」が第一。売り上げる迄のその価値を維持する為に使われる手間と時間と資材だが、
その役目を果たした後に残る物をゴミと呼ぶが、実は資源(売れ残りの商品も含む)である。
この資源は企業にとって、再度商品を守り得る価値を認められねば、無用の物となり、廃棄するだけである。
この事例は多岐に渡り際限が無く、数例のみ取り上げてみよう。
● 外食産業やスーパーで、一定時間毎に売れ残った食品を、無分別に、ごみ箱へ投棄している。
● 梱包/運送業で、輸送時の商品保護のための木材などが、数時(日)間の役目を終え、廃棄される。
● 倒産や廃業した事務所、工場、飲食店などで、使用に全く問題のない机やテーブル、椅子やソファー、器具、機械などが放置、又は廃棄されている。
時間と共にこれ等は荒らされ、錆び付き、風雨にも晒されて、やがて本当のゴミとなって行く。

198 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:30
9/33
● 某巨大自動車工場内には、二十〜百人以上の規模で百ヶ所以上の事務所が散在する。そこではほんの2,3行のデータのプリントアウトでもB4大のストックフォームが無造作にミシン目の単位で剥ぎ取られていく。
百人からの事務所では、こうして安易にこの用紙が、一日数箱消費される。工場全体では、少なくとも推定一日百箱の紙資源が消費されていよう。更に、日本全体では…、そして世界全体では…。
全く、一々とり挙げていては、日が暮れる。日本、及び世界全体のこれ等の資源浪費をたった一日でも抑える事が出来たら、それだけで世界の飢餓や貧困が、少なくとも一年間は解決出来るのではないか。
それ位途方もない浪費、とだけ強調しておこう。そして問題の焦点は、これ等を解決する社会システムの不在なのである。

199 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:34
10/33
A システムの不在(中古品の流通不足)
 購入希望者には普通、それを必要とする動機と、計画的なニーズ(品目タイプや価格や数量)に基づいた選択肢というものがあって、そこから外れた品物には購入意欲は全く起こし得ない(衝動買いはこの限りではないが)。
 リサイクル市場の既存の媒体として、雑誌上の交換・売買情報、ガレージセールやバザー、フリーマーケット等(追記でネットオークション)はあるが、どれも限定区域上の特性で、その宣伝周知には限界があり、品目にも限りが有る。
そうした中で売り手は、ただひたすらに買い手側の検索労力に頼って待つしかなく、買い手は希望に沿う物品とのラッキーな出会いを期待するものであろう。
 運良くニーズを満たすものに出会えても、その出会いの場所が次回もニーズを満たせる場となるか何の保証も法則性も見い出せない。
それはその場限りで終わってしまうものなのだ。
 質屋などのリサイクル店舗にしても在庫のリスクを背負う分、条件は尚更、上記媒体よりも悪くなる事は、言うまでも無い。
 更に特筆しなければならない事は、いかに広く民間に浸透して、定着するシステムにしようとしても、利益が互いに反比例する売り手と買い手の、
どちらが主導する運動にもシステムとしての矛盾は根本的に解消されない事が明らかだという事である。

200 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:39
11/33
4. 企画
 これ等を解決するのに、最先端技術に頼る事や、今以上の文明の進化を待つ事は必要ではない。
不必要な所から必要とされる所へ、物資を無駄なく廻してやれるシステムが考案されれば良いだけの話なのである。
 不動産や車など、高額な中古売買システムなら、一応は存在する。
しかし、他の中古品の流通システムがネットワーク化されているとは云い難い。
 前記リサイクル媒体に欠けるもの。通信と物流を司るネットワークシステム(ネットオークションとて例外ではない)。
そしてこれを推進し、主導権を取り運営もする公共的に中立な組織。これが提案されていない事。
そして、そんなネットワークを検討してみようとする動きが、それこそネットワークを持たぬ個々の消費者サイド(中小企業も含め)からは発信しようも無い事。
ならば、郵便局が主体となるリサイクルネットワークシステム(RNS)を構築してみてはどうだろうか。
 中古品の既存の流通システムには大別すると三つのタイプが有る。
@ 取扱者が手数料をとる形(中古家屋、追記でネットオークション)
A 仕入れや在庫リスク{歩留り=売れ残り。店舗、倉庫の維持管理経費}を考慮した利益上乗せの形(中古車、質屋)


201 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:41
12/33
B 中間業者のいない直接取引(誌上交換、フリーマーケット、ガレージセール。)
ここに第四のシステムとして、提案したい。
C 全国郵便局の集配局による、売買情報の掌握と管理、及び斡旋と保険事業である。 
 端的に言ってしまえば、人宛の郵便があるように、これを物宛に置き換え、さらに銀行の不良債権処理とも絡んだ、
監督と保証(補償)機能をプラスした新たな通信販売システムとでも云えようか(5で説明)。
 その全権を委任され、企業ネットワークをも取り込んで、売主は売却代金を現金ではなく、企業別商品券としてこれを選択して受け取る形を構築する。

202 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:46
13/33
すると全国の家庭、企業に眠る失敗した購入品や場所を取るだけの不要品が、全動脈産業の新製品と化す魔法。
つまり一万円の商品の所有者が企業から消費者に移っても、後日その時点その中古価格(たとえば5千円)と同等の新たな売上を産業界に保証する(企業の手を離れた後も、良品は二度以上売れる。その恩恵は全産業界への需要増加として戻って来る)。
不要品売買の金の流れ(静脈)が、当事者同志、又はその間に入る中間業者で断ち切られていては静脈産業は興せない。
だが再びこれを動脈に還流すると、中間業者に流れる分の金が当事者双方へ折半して利益として流れる事にもなり、積極的新品購入層(高所得者)から節約買い控え我慢層(低所得者)へのリサイクルシフトの流れも活性化し円滑に行われる。
すると部屋の中も整理され、居住性も向上するし、官業の無用なゴミ処理支出が大幅に減ずるだけでなく、新たな新製品購買余力も消費者には発生する(上記の五千円+その恩恵による売買当事者、産業界の新たな消費意欲)。
お金は使ってこそ初めて価値をもつもの。売主が代金を金で受け取って「ハイさようなら」では、間に入る企業に何のメリットも無く、それこそ手数料でも取って不透明な利鞘を稼がせる口実を作る事になる。

203 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/03/09 00:50
。、さんて職業何ですか?
学生の論文みたいに貼りつけられても...。
参考文献は?
どこが自分の意見?
全部で33もあるんですか。要約して書き込んでほしい。
自分の思い入れを語るのはいいし、2CHは言い捨て型の掲示板の面もあるのでいいんですが...。


204 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 00:57
合いの手ありがとうございます。質問には後で答えますね。
14/33
 企業にはこの取引分同等の本業の新製品が売れて利益が得られる事を保証してやりさえすれば喜んでこのシステムに協力するはずだ。
繰り返すがこの手法により新製品購買意欲はむしろ倍増するといっても過言ではないのである。いずれお金は使うもの。
売主はどうせ死蔵している不用品が売れて、例えばそれが米などの生活必需品に替えられるならば誰にも異存は有るまい。

205 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:01
15/33
5.構成(シュミレーション)
◎ 登場人物と、その設定
            A 売主(東京在住)
@ 衝動買いしてしまった20万円のパソコンだが、早くも新機種が出て買い焦ったと後悔し、買い直すために多少の損を覚悟して質屋に持って行くと、8万円にしかならず(質屋での売値は14万円)売るのを止める。
A 使っていないストーブが物置に有り、場所食いなのだが廃棄することも出来ず、欲しいという人も見つからない。
            B 買主(北海道在住)
@ 機能さえ満たしていれば旧式でも構わないから、質屋の相場以下でパソコンを手に入れたい。
A もう一部屋暖房したいので、ストーブが欲しい。しかし新品を買う程ではない。
            C 大手コンビニエンスストア
 来店無くして売上は無い。とにかく集客力アップのための、あらゆる施策には枚挙に暇がない。消費者のあらゆるニーズを分析し、可能な限り実行する活力に富む。
実例 @宅急便の取り扱い。A公共料金の支払い窓口のサービス。などで店に足を運ばせて、商品の販促機会を増やす努力を惜しまない。

206 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:04
16/33
            D 大手運送会社
 かつての運送業界の顧客対象は企業のみであった。当時の常識としては大口輸送は利益を得る為に必然の手段であり、個人顧客の市場開拓などは対象の外であった。
この未開発の分野にいち早く目を付け、各戸別の宅配便システムを開発した業界のパイオニアは、其の画期的な成功に勢いづいて次々に新たな企画商品を打ち出して行った。
実例 クール&スキー宅急便、引越しシングルパック、ギフト&特産品パックなど、市場の開発に今だ余念が無い。
            E 郵便局
 巨大ネットワークとして既に存在する。ここでは売買情報の管理采配メディアとして、企業(作り手)と消費者(売り手と買い手)双方にとっての中立で信頼し得る機関の役目を担う。
その事業拡大と民業を圧迫する分、ゆうパックは廃止し、変わりに郵貯/簡保に新分野が登場する。
            F 銀行
 このシステムによって不良債権が、処理どころか回収可能となって行き、すぐに優良債権と化して、多大な恩恵を蒙る機関。

207 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:05
17/33
            A sA(サ)プライヤー(売り手)
            B バイヤー(買い手)
            C コンビニ
            D 運送業はドライバー
            E 郵便局が中心となるエンタープライズ(大事業)
            F 銀行はファンド(資金)
                    とでも覚えて下記をお読みください

 ◎システムの大ざっぱな流れ
A@「諦めていた買い手が見つかるかも」と、最寄のCへ登録用紙(C@で説明)
  を取りに行く。
A登録用紙に必要事項を記入、200円切手を貼り全権をEに委任するサインをし、
 物品宛ての郵便番号を記入してポストに投函。この時用紙の複写一枚目と半券
 を手元に残す(EAで説明)。
B 後日、売買中間価格通知(EEで説明)がEより届く。中止又は承諾のサイン
  をし、手元の半券でEへ再度同様に申し込む。
C更に後日、取引決定通知(EFで説明)がEより届く。無償譲渡も同様。
D数日後(BCの後)、希望の企業別商品券とプレミアム商品券(CCで説明)
 がDによって届けられる。これは同時に売買対象品との引き換え集荷でもある。
 この時、プレミアム商品券を貰う立場のAが、物品発送料をその場で支払う(無
 償譲渡や低額取引のケースは除く)。券は期限内に、通用する同系列のCや各
 企業店舗にて、使用する事が出来る。

208 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:07
18/33
B@Aに共通
 A “
 B “
 C “
DEからの取引決定通知を受けて、指定先のCに立ち寄り代金を支払い、レシー
 トを受け取る。
E数日後(ADの後)、Dから取引対象品が配達される。希望品であることを確
 認の上、これを受け取る。

C@保険付き売買登録用紙{※往復はがき大の三枚複写式用紙。売り(A用)と買
  い(B用)の用紙は色分けで区別がしてあり、売買対象物品の種類、品名、規
  格、性能、特徴(不良や傷の有無、状態、年式など)が数字表記される。これ
  はそのままEの物品担当集配局の各差し立て宛郵便番号となる。加えて、双方
  希望価格、Aの指定する企業別商品券aA最寄のCの所在地(Bのみ記入)共
  にEへの全権委任状と契約事項の承認などを記入する欄がある}を常備。
 A企業別商品券カタログを作成し、このサービスの宣伝周知に努める。
B B居住地のCに、取引決定の概要がEより通知される(EGで説明)。

209 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:11
19/33
C Bが代金を支払いに来店する。代金受領時にレジに売上を立て、レシートをB
 に渡す。又、本人宛の宅配便送り状を記入してもらい、その後Cの代筆で送主
 Aの氏名住所を記入。A指定の企業別商品券とプレミアム商品券(Cにとって、
 商品の店頭陳列や保管スペースが不要で、当該企業にとっては受注分の仕入れ
 計画と、前渡し金による運転資金及び金利運用益が見込まれ、確実に自店の売
 上を保証する、全く都合の良い通信販売となる。従って、事実上これらを肩代
 わりするAに対し、C及び当該企業はこの取引額の数%分を別に上乗せした、
 プレミアム商品券を発行する義務がある。これによりAの送料負担の軽減、B
 の前払い行為へのメリットを持たせて、本システムの一層の理解と普及を図
 る。)を添えてDに渡す(つまりAに対し送付する)。
D 取引成立伝票をEに発信。Eに月〆で1〜3%の保険付き手数料(Eが保証す
 る万一の事故の保険掛け金に相当する。)を納める。
D 従来の宅配便とほぼ扱いに変わりなし。労せずに売上が飛躍的に伸びる立場。
  Cと同様の保険付き手数料をEに納める。
    


210 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:16
20/33
E@物品別・条件別に設定した各番号を連続して繋げ、物品の郵便番号とし、これ
  の宛先を、全国から約3,000の集配局からこれを割り当て、リストを作成。C
  作成の企業別商品券カタログと共に、E及びCに配布する。
 A売買希望者はCやEに備え付けのカタログ&リストで、物品別・条件別に設定
  されている取引対象中古物品の各番号を調べ、それを繋げて物品の郵便番号と
  し表記すれば、物品担当集配局の各差し立てボックス宛に届く仕組みにする。
  これに取引成立までの二往復分の200円切手(お見合い検索は無料)を貼り、
  ポストに投函すれば良い。
 6の項で述べるが、この市場規模は超巨大で情報量も膨大であり、現代のコンピューターでも恐らく対処不可能(そのソフト開発や初期入力の手間、その入力ミス、逐次データ更新等)と思われる。
しかし、以下に述べる手法では、情報入力の手間と責任はAB自身の肉筆が負い、郵便局という組織を使いむしろコンピューター以上の情報処理が可能になる。
先ず、約3,000の集配局(全体では4,000局以上)それぞれが手分けして、ある特定の物品専門の引き受け窓口となるのである。


211 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:18
21/33
 6のAで算出の引き合い件数を元に、これらの局にAB併せて年間1億2千万件の申し込みが想定される。
だが、郵政省発行の本年版「明日の郵政」によれば、平成七年度の郵便物数は、なんと247億8千6百万通。僅か0.4%に過ぎない。
言い換えれば一局当たり4万件、月間で3,000件強、一日では100件強の情報量に過ぎない。これはABを含む数であるから、条件一致のお見合い検索カード合わせは一日50件程ということになる。
仮に、これが10倍でも、トランプのババ抜きの数合わせのような手作業で、対処が可能なのだ。
 B収集した売買登録申し込み用紙は、地元の統括郵便局で先ず、グレー&ブラッ
  クリスト(Hで説明)チェック(バッチ処理)。過去にこのシステム内でトラ
  ブルを起こし、ブラックに該当した人物のものは封筒に入れ、返送される。
 C統括郵便局は、先ずその地域で売買条件が一致するケースを検索照合するため、
  AB用紙の各複写二枚目をファイルし、残る複写3枚目を、全国の各物品別担
  当集配局へ転送する。前者で取引が決定した時は、用紙に×印をし、後者にも
  通達し、随時登録を更新する(逆も同様)。
 D各物品の担当集配局は、届いた登録申し込み用紙の三枚目を人宛郵便物と同様、
  物品明細番号に従い区分し、差し立てる。

212 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:19
22/33
 E売り登録の区分は容易。買い登録は第一希望の差し立てに到着順で通しb刻
  印。ボックス内の仕切りで売り買い双方を分け、随時先着登録順に希望検索(お
  見合い)をする。一致した物件があれば、氏名・住所を伏せた形(ABの氏名・
  住所を双方に伏せるのは防犯上の問題が第一。第二は市場経済の活性化のため
  である。当事者間で連絡を取り合い、取引が終了してしまえば、利益はABに
  停まって、その分の購買力も貯蓄に回りかねない。CDEの利益は消滅する。
  第三に取引に被害者が発生した場合、当事者間では問題が解決しない。要は、
  EがCDより得る手数料益の中から、万が一の場合の被害者を救済する保証制
  度として存在する事で、このシステムを安心して利用する事が出来るのであ
  る。)で、コピーし、売買中間価格通知として、双方に通知する。
 FABより色違いの半券で、再度申し込み用紙による依頼が送られて来て、取引
  承認の確認が済んだら、今度は取引決定通知をABに送る。
 GB側のCにも、双方の申し込み用紙の複製をFAXにて通知しておく。

213 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:21
23/33 
 HABから仲介手数料としての利益は受けないシステムなので、原則的にEはA
  Bに対し責任を有しない。但し、ABから種々の不利益や被害の訴えがあった
  時、CとDが代表して立て替える保険料収入によって、そのクレームの窓口と
  して対応。その過失を判定し、賠償を勧告する。これに従わない場合、その者
  は、先ずグレー、二回目はブラックリストに登録され、今後の本システム利用
  権利を剥奪される。こうした措置で、悪意やいたずらの頻度は、微量な程度に
  押さえる事が可能なはずであり、万が一のケースでも、被害者への救済はEが
  保証できる範囲となる。
※ どちらかの虚偽(Bが受取後自損させた物をAにその責任をなすりつけるなど)で、
双方が過失を認めない場合も両者をグレーリストに登録。ブラックは同様トラブル二回、又は全権を依頼されたEの権限で下す判定を不服とし、被害者に弁償する責任を放棄した人物。
 ICからの取引成立伝票の回収と、取引決定データとの照合によって、取引の最
  終確認を行い、CとDの手数料計算と月極め請求を行う。

214 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:22
24/33
6.市場規模
@ 厚生省が5月24日発表した、昨年6月時点の国内総世帯数は、4,466万9,000世帯。これに基づき、約4,000万世帯として、若干少なめに見積もりをしてみよう。
A 売りニーズはどの世帯にも年間1〜10数回は潜在的にあるはず。当初、その内の半分の世帯が実際にアクションしたとする。
次に、この世帯に発生する年間利用回数の平均を3回と予想した時、売却希望の申し込みは年間で6,000万件。買いニーズは当初これを下回ると予想されるが、このシステムの利便性が広く認識されれば、同数以上の申し込みは期待できる。
B この内、取引成立に至る確率を50%として、年間3,000万件の需要がバッドケースでも想定できる。何故なら、このマーケットは、全て既存の物品と設備、組織とネットワークのノウハウで、実在のシステムを利用して直ぐにでも運営する事が出来る。
更に、Aは取引不成立に終っても、Cの代わりの在庫リスクを担う訳だが、元々Aの持ち物である以上、売上機会の損失はCには存在しない。

215 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:25
25/33
 つまり、生産拠点や販売拠点、更に在庫保管維持管理拠点などの立地条件の確
 保や、生産性や能率コストなどの課題、新たなる設備投資や資金繰りなどのリ
 スクや障害も存在せず、顧客対象層の限定が無く、国民の全世帯を対象とする、
 取り扱う品目となるとあらゆる種類の物品が対象となるのだから、これをひと
 つの通販と考えればとんでもない規模の巨大マーケットなのだ。
C バッドでも3,000万件の物資がリサイクルされる時、宅配便で動く個数もほぼ同数である。平均送料1,000〜3,000円で設定して、年間300 億〜900億円の売上増が宅配便に見込まれる事になる。
D コンビニで見込まれる企業別商品券の売上は、リサイクル取引平均1〜3万円で設定して、年間3,000億〜9,000億円。
E このシステムが隈無く普及して、バッドを解き、さらにAの発生件数が倍増した場合、上記CDは各4倍に跳ね上がり、CとDトータルでは1兆3,200 億〜3兆9,600億円。

216 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:27
26/33
F もしもこのシステムが個人消費者間だけでなく、リストラを推進する中小企業間にも拡大されるならDの窓口はCでなく、新たにEの貯金事業もしくは銀行(F)に取って代わることになるだろう(7@で説明)。
そして、一般家庭とは違い、その単価やABと同様のアクション頻度は、社内経費削減の熱意が伴い、極端に増大し得る。つまり、これまでに説明した規模の、更に一桁上の市場が登場する事になろう。
そうなれば実に年間40兆円規模の、経済波及効果を持つ市場とシステムが、金融と産業界に新たに誕生するわけであり、市場経済は大いに活気づくことになるだろう。
G これに伴い売買双方からの登録の申し込みと取引成立時のC間連絡の郵送に、郵便が使われる。この件数は、Aの6,000万件×2×200円=240億円。 Bの3,000万件×2×100円=60億円。
C間の3,000万件×200円=60億円。締締めて、郵便収入は年間360億〜4倍では1,440億円の増収となる。Fのケースも含めれば更にこの倍となる可能性すら秘めている。
H Eの収入源は他にもある。斡旋と保険事業に対してのCとDからの手数料である。仮に3%なら、CDでは108億〜324億円。Eでは4倍の432 億〜1,296億円となり、その収入で被害者への救済が可能であり、RNSが利用者に完全に保証されたものとなる。
更に、Fの中小企業間に普及が拡大した時点では、ABより得るE保険又はFの手数料収入は、更にこれの一桁上の規模となるはずである。

217 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:28
27/33
7.効果
@ 資金繰りに苦しむ中小企業と不良債権を抱える金融業界。この双方に益する。つまり、商品だけが売り物でも、不動産だけが担保でもない事を見出せば、暗闇に光が差して来る。
自社の資産を巨大な検索規模の中から最も適正な価格で買い手を捜しだし、処分することが可能なシステムである。捨て値で買い叩かれたり、むしろ廃棄の処分費用がかかる負の資産だったりした物も、
逆に現金に変えることが出来るのだ。その逆で、設備投資費用を何十%も節約する事で、事業展開を切り開ける中小企業も出て来よう(従って、この窓口となるのは、Cでなく、E、Fに取って変わる)。
あと100万の金が調達出来ず、不渡りを出して倒産するケースなど、この資産処分金で急場をしのげば、無用な倒産や悲劇の防止にもなる。銀行側から見れば、不可能だった不良債権の回収が、
動産をも担保評価の対象にし得るRNSによって、一つずつ解消されていけば、先行きの中小企業の救済にも熱が入り、新たな融資の実行にも弾みが着いて行くのではないだろうか。

218 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:32
28/33
A 消費者の心理から云えば使える不要品がより有利な取引で欲しい商品に変えられた時の余得感は、所得税の減税よりも大きい。
なぜなら一旦自己の意思で購入した、あるいは衝動買いした物によって、もう一度、生活必需品などを買い直すことが出来るからで、これは新たな消費意欲を起こし、貯蓄には向けられまい。
又、一度買い物を失敗しても、このシステムで補える安心感が、消費者の購買意欲を刺激するはずだ。つまり、中古市場とそのリサイクルシステムが後ろ盾となって、新商品開発と製造業界も活性化するのである。
逆転の発想をしてみよう。自動車、不動産もそうである。一度購入した物が転売出来ないとなれば、消費者は慎重にならざるを得ない。
もし購入物品に不満があっても、その耐久年数を我慢して使い続け、その間同種の物品は購入が控えられてしまう。買えない者は買えないのである。
これを打開するのがRNSであり、現在の景気を回復させる起死回生の処方箋となるのは間違いないだろう。

219 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/03/09 01:33
学生時代が懐かしい。
体力もあったし、論文書くのに何日か徹夜して、何百枚の原稿書いて。
しかも自分の専門に近ければ何枚でも書けた。人を打ち負かすのなんてたやすいと思った。
今じゃ無理だが、いろいろ経験してそのぶん人の話をよく聞くようになった。
人間、聞くというのは本当に苦痛なんです、聞いてもらうのはたやすい。
だから出来るだけわかりやすく短くが基本です。

えらそうな事いって申し訳ないが、コミュニケーションの基本です。
今よく言われる、引きこもり、人間オンチもそれに由来する。
人とのやり取りが出来ない。
言いたいことだけ言うが、人の意見を決め付けたりして聞けない、誤解する。
会社では上司の指示を的確にとらえず間違った仕事をする。等


220 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:33
29/33
B 当初企業はRNSによって、消費者の新品購入が控えられることを懸念するはずだ。だが、それはAでも触れたように、大きな間違いである。
消費者不在の商品開発。企業都合の競争戦略。これを強引にテコ入れする為の過剰な広告宣伝費。更に一時しのぎの無意味な機能や付加価値。
必要悪として、これらに使われるコストも、多少は認めねばならぬとしても、もっと商品そのものへのコストを払うべきなのだ。長くは役に立たない粗悪品は、やがてゴミ化して廃棄される。
そんな商品企業の行き着く先に、中古市場での消費者の厳しい判定が待っている。諦めと失望と我慢を覚えさせられた消費者の消費意欲は萎えて行き、新品市場も冷え込んで行くのは道理だろう。
この悪循環の輪を解いて、中古品が生かされ、再生される道を開いてこそ、新商品の真の販促行為となるのであり、耐久力のある商品の開発姿勢こそが、企業の競争力を生み出し、又、生き残る道であることを自覚させ、責任を持たせる事が期待出来る。

221 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:37
30/33
C いたずらに廃棄され、無用なゴミ処分に浪費される公共事業予算が軽減出来るだけでなく、その分が有益な事業予算を助けるのである。海外援助にも回せよう。
国内でのリサイクルに留まらず、それを必要とする海外にもRNSを開放すればよい。
D このシステムをそっくりそのまま、阪神・淡路大震災などのようなケースで活用することが出来る。そこには既に全国からの物品リストが存在しているのだ。
災害などの緊急事態には、郵便局より、所有者に支援物資としての供出をいち早く呼びかけ、必要とする所へ、均等に片寄らせず、それを把握する現地の郵便局員が、たとえ自動車が通れない所でも、届ける事が出来るのである。
又、物品だけでなく、行方不明者や動物保護などの情報交換などなど、幅広い応用も可能である。
特筆すべき事は、最悪、災害時に電気の供給が止まっても、コンピューターに依存したシステムでは無い点と、そのデータも全国集配局に分散、更に統括郵便局での二重ファイル管理により、万一の焼失や紛失に対して、完全な保存態勢の確立が可能な点。
正に危機管理の雛型として、首都機能移転問題にも通じる事である。こうした事態にあらゆる機能がマヒする、脆い現代文明の側面をフォローする保険としても、RNSは頼りになるはずである。  
非常時にはコンピューターもインターネットにも頼らず、文明のバックアップを最終的には人そのものの力でやる以外無い状況が、近い将来には必ずやって来る。

222 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:53
31/33
E 自然保護や乱開発予防に繋がり、この姿勢が全産業の根底の基盤にあって、初めて繁栄出来る事を知る意識変革となるだろう。
8.戦略予測(タイムテーブル)
 ベルリンの壁、ソ連の崩壊、チャウセスク政権。これらの国でメディアの発達は国民の決起を促がし、あっという間に国家を変革しました。
同じチェックメイトは不可能でしょうか?

するとどうなるか?の空想です。
 四月 あらゆる人々を幸福にする、即実行可能な政策と米欧も注目すれば、マスコミも騒ぐ。
 五月 日本の世論が沸騰する。国会が取り上げる。急遽法案化され、緊急可決される。
    中道に付、既得権益者たちも抵抗勢力も、共産も民社も、右左両勢力も、
    反対したくともそれはもう国民が許さなければ、全会一致も可能です。
 六月 このシステムのプロジェクト開始。
 七月 このシステムの立ち上げ(既存システム仕様に付、直ぐ準備可能)
 八月 その効果が現れ始める。

223 名前: 。、 ◆pR1J3MkHa6 投稿日: 03/03/09 01:54
32/33
こんな未来予測を企業トップに持ちかけます。協力するなら今の内ですよ、と。
いささか鼻持ちならない云い方をしています。実ははったりです。政治家とは駆け引きでしょうから、勢いで押していかないと時間のロスです。自信過剰、自惚れとか、好きに言ってください。要は一刻も早くこの世に実現したいのです。
一人でももうやるつもりで居りました。勝ち目があるので。
でも信に足る味方は欲しい。お願い致します。私の味方になってください。

9.事業展開(投入・運営費利益率等)    専門家の計算に譲りたい。

10.障害
@ 現行の法的規制に適うか?
A 公正取引委員会との関係
B 古物営業法への対応
C 独占禁止法の解釈
D 消費税・付加価値税の対応
つまり、全く新しいシステムの宿命だが、RNSの構築にとって、障害となるのは法のみである。
33/33
終りに
 中小企業が資金繰りに追われ、今こそ銀行融資が行われねばならぬ時に、銀行もバブルのつけが廻って身動きが取れない。消費者も先行き不安感を募らせ、消費がデフレスパイラルを起こし始めた。市場経済の立て直しは急務である。一刻の猶予すらないのだ。
 RNSにはスパコンの導入や、ソフト開発も不要。誰の不利益をも生じず、巨額な資本投資も必要としない、今すぐ準備出来るシステムである。仮に失敗したところで、そのリスクとは何だろう?始めてください。今すぐに。
 経済という種蒔きの後、リサイクルと云う肥やしに育まれ、物流は風や川や虫となり受精を助け、文明の花を開かせる。やがて実る産業という作物の中に、再び次世代へと受け継ぐ経済の種が、宿されていることを願って。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/235.html

記事 [原発・フッ素9] 4号機タービン建屋、10日で水位20cm上昇(読売新聞) 冷却のため水を入れると亀裂から高濃度放射能水となって漏れる
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/yomiuri-20110423-00357/1.htm

4号機タービン建屋、10日で水位20cm上昇
2011年4月23日(土)14時20分配信 読売新聞


東京電力福島第一原子力発電所4号機で、放射性物質を含む汚染水が増え続け、タービン建屋の水位が約10日間で20センチ上昇したことが明らかになった。

 原子炉建屋地下にも水深約5メートル、水量4000トンの汚染水がたまっていることを経済産業省原子力安全・保安院が明らかにしており、その処理が新たな課題として浮上している。

 東電は2号機の高濃度汚染水を集中廃棄物処理施設に移す作業を進めているが、施設の収容可能量は当初の半分程度になる見込みで、他号機の汚染水処理のめどは立っていない。

 東電によると、4号機のタービン建屋地下の水深は13日に0・9メートル、22日午後6時には1・1メートル。約10日間に20センチ上昇した。隣接する3号機では原子炉冷却のため1時間当たり約6トン注水されている。東電は炉から漏れた水が、3、4号機のタービン建屋を隔てる壁の亀裂などから4号機側に漏れていると見ている。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/761.html

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
08. 2011年4月23日 15:30:34: cqRnZH2CUM
こういう妄説が広がると、ただでさえ広がりつつある差別、
広島長崎の被爆者と同じく、福島近辺の関東・東日本の被曝者、特に子供たちへの結婚・就職差別が拡大することは間違いなさそうだ

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c8
コメント [カルト8] この投稿は削除でしょう チベットよわー
02. 2011年4月23日 15:32:10: Roqa4AY1Uk

黙れ。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/115.html#c2
コメント [原発・フッ素9] 原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」(J-CAST)大量の放射能を閉じ込めるのは極めて困難、と認める  赤かぶ
118. ミッチー 2011年4月23日 15:33:56: WblIWO/HiuO06 : Cc23Z0mUsk
国論を二分していた原発問題も今回の手痛い事故で、勝負あったと言うところだろう。しかし、この間、国民も余り関心を寄せていなかった結果と思うが原発推進派の政府および産業界とそれに連なる学者達によって世界第3の原発保有国になってしまった。
国民が知らなかったとと言うにしては時間が経ちすぎてしまった。
「我々国民は原発の知識がない」と言い訳するにしては世界の他の国と比較して高学歴社会なのではないか。
要するに国民が「政治や産業と自分の生活」との関連について無知に等しかったのではないか。

ここではだいぶ政府および学者や東電の悪口を見かけるが、この際これらの根源を徹底的に追求してみたらどうだらうか。
そのためにNHKがあり、民放の「朝までなんとか・・・・」などくだらない番組もある。

私は今回の原発の許認可権をもっている官庁の福島原発の認可を与えた官僚の意見を直接聞いてみたい。理由は権限を行使したのだから、相等の責任もあるのが普通の考えであるからである。
そして今回のような事故が起きたらどのように終息させるべきかを、設計をした会社および設計者の考えも直接聞いてみたい。

どうだろう。どこかのテレビ局、この提案を考えてくれないか。
それとも日本にはジャーナリズムなどは無いということか?

私たち個人は究極的なテレビ局のスポンサーであることを忘れないで欲しい。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/394.html#c118

コメント [原発・フッ素9] 東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住 ← 減給は当たり前! jesusisinus
16. 2011年4月23日 15:33:58: p9B89YgNYw
おいしい時代だけ東電にいて海外へおさらばとは最悪だよ、人間として。

賞賛コメントしている奴は頭が悪いんじゃないの?
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/708.html#c16

コメント [自然災害17] 緊急報告)3/11地震テロ特定!証拠保全完了!井口氏に連絡を! 平成の坂本竜馬
355. 2011年4月23日 15:34:28: sIq7hMGajk
>>354
ほんとたくさんの人の目に触れるのだからもっとよく調べてから載せて欲しいです。
>>346に書いてあるような3.11人工地震論者は自作自演までして何がしたいの?
すぐ書いてある事信じちゃうだけなの?
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/158.html#c355
コメント [お知らせ・管理19] 私の記事のURLが変わっているとの不正な誘導コメントを削除して下さい。 平成の坂本竜馬
25. フシギ空間 2011年4月23日 15:37:24: OmtZW.QhVGmO2 : UnlDWswqbU
>>平成の坂本竜馬
>。ヨ人の書いた記事」の改ざん行為がおかしいのではと考えています。
>勝手にURLが違うとかいいながらコメント欄に誘導URLを書く
>なんて行為、まともな人ならやりません。
誰もやってませんね。具体的にどれのことか示してもらえませんか?

フシギ空間がやっていることは、平成の坂本竜馬のデタラメの一つを暴いたことだけですよ。
平成の坂本竜馬が2008年に投稿動画情報で予告されていたと言い張るものが、
2010年6月以降に書き換えがあったという事実をね。

フシギ空間は「URLが違う」などとこれより前の投稿では言っていないはずですが。
平成の坂本竜馬が嘘を言っていないのなら、どこに書いてあるか明確に示してください。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/742.html#c25

コメント [原発・フッ素9] なんで無理して放射能を全国でばらまくの? がれき30都道府県受け入れ意向 処理量最大281万トン 中年A
14. 2011年4月23日 15:38:48: MPJAdj0bpQ
汚染されていない瓦礫がないのは事実です。

毎時の空間線量でもわかりますが、

問題は、降下物は累積です。

汚染度は大変なものです。


今、国や自治体のすべきことは、
これ以上汚染を拡大させないことです。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/713.html#c14

コメント [自然災害17] 首都圏、地震起きやすい状態…東大地震研が解析() 赤かぶ
03. 2011年4月23日 15:39:39: kkWYvj45eM
盲(めしい)=東大教授が、更に輪をかけて盲=B層国民を導いて断崖絶壁へまっしぐらに行軍中・・。
まるで意図的に“がめおべら”狙いのレミングスみたいだな、こりゃ。┐('〜`;)┌
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/231.html#c3
コメント [原発・フッ素9] 菅は福島の小中学生を殺すのか 75.9%の学校が被曝量オーバーなのに放置のア然 (日刊ゲンダイ) 赤かぶ
52. 2011年4月23日 15:39:45: S92nld6lDw
 08さんに感謝。この「主婦の声」を世界中の多くの人に広く伝え、早く対処しなけれ私たちはずっと後悔することになります。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/700.html#c52
記事 [原発・フッ素9] [原発事故]安全宣言のカラクリ そして子供になにが起きたか追跡(YOUTUBE)チェルノブイリで数年後に起こった健康被害

http://www.youtube.com/watch?v=tWWICnIQE9k

【原発事故】安全宣言のカラクリ そして子供になにが起きたか追跡

事故後、5年〜8年から急激に発病した。.当局は放射能による被害をできるだけ小さく見せて「安全宣言」をして幕引きをはかった。その間 取り残された住民達は無残にも切り捨てられてしまった。
フォトジャナリスト広河隆一氏が現地のありのままの姿を取材した。
広河隆一氏のツイッターhttp://twitter.com/#!/RyuichiHirokawa


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/762.html

コメント [雑談専用39] そこまでして巨人に勝たせたいんか!! (天木直人のブログ) 七転八起
01. 2011年4月23日 15:47:12: 0Mw6yFUajc
東電の扱い、福島の子供の扱い、農民の扱い、原発被災者の扱い、体制側の不正義に充ちている。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/315.html#c1
コメント [原発・フッ素9] 自由報道協会主催 孫 正義  記者会見  2011/04/22 愚民党
13. 2011年4月23日 15:50:17: cqRnZH2CUM
税金での原発ビジネスは、当分終わりってことだな
それより再生エネルギーの方が、将来性があると見るのは
起業家としては当然の読みだ

>原発に「通常ミサイル」撃ち込まれただけでもう終わり

テポドンやノドン、特に核や毒ガス・ウイルス付を何発か都市に撃ち込まれる方が困るだろ
逃げる暇がないからなw



http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/735.html#c13

コメント [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が 千早@オーストラリア
03. 2011年4月23日 15:54:58: 5f9YX0Nk7c
原発もまともに管理できない日本政府、東電が
こんな大それた秘密計画を実行できるワケがない。
アホらしい。
世界はアホで埋め尽くされてるな。
イルミナティは凄いわ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html#c3
記事 [原発・フッ素9] 福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院(asahi.com)
福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院
http://www.asahi.com/national/update/0423/TKY201104230170.html
2011年4月23日15時1分 :朝日新聞

 経済産業省原子力安全・保安院が、福島第一原子力発電所の事故について、事故やトラブルの深刻さを示す国際原子力事象評価尺度(INES)で当初は「レベル3」と暫定評価していたことがわかった。レベル3は「事故」ではなく「事象」に分類される。保安院の初動の認識が甘かったことを示した。

 保安院は3月12日夜の記者会見でINESで「事故」にあたるレベル4と発表した。その後、旧ソ連チェルノブイリ原発事故に匹敵する最高のレベル7にまで引き上げられた。

 レベル3の評価は地震発生から約10時間後の3月12日午前0時半の段階。福島第一1〜3号機、福島第二1、2、4号機について地震と津波の影響で、外部電源も非常用電源も使えなくなっており、原子炉から熱を除く機能が失われたことから評価した。

 その2時間半後には福島第一原発で放射性物質を含む蒸気を外部へ放出する排気(ベント)の方針が発表された。このころ、すでに原子炉につながる配管の隙間などから放射性物質が外部に漏れ出していたとみられ、12日午前6時には中央制御室の放射線量が通常の1千倍に上がったと公表された。

 保安院は3月18日に米国スリーマイル島原発事故に相当するレベル5、4月12日に旧ソ連チェルノブイリ原発事故と同じレベル7に暫定評価を引き上げた。

 INESはレベルが0〜7まで8段階ある。トラブル発生後、24時間以内に暫定評価して国際原子力機関(IAEA)に報告するのが原則的なルールだ。

 住田健二・大阪大名誉教授は「進行中の事故を評価するのは難しい」としたうえで、当初レベル3とした評価について「今からふりかえってみれば、認識が甘かった証しなのではないか」と話している。(小堀龍之)

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/763.html

コメント [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が 千早@オーストラリア
04. 2011年4月23日 15:56:51: GIvCq0wFSg
三菱がその気になれば核ミサイルなんて半年で作れます。

世界の常識です。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html#c4

記事 [原発・フッ素9] 福島・浪江町の放射線量、積算20ミリシーベルト超す(朝日新聞) 20倍にしたのに 1か月で年間被曝許容量を超す
http://www.asahi.com/national/update/0423/TKY201104230200.html


福島・浪江町の放射線量、積算20ミリシーベルト超す
2011年4月23日13時44分


文部科学省は23日、福島第一原発から北西に約30キロの福島県浪江町内で、3月23日から4月22日までの放射線量の積算が20ミリシーベルトを超えたと発表した。同町の赤宇木で20.27ミリシーベルトを測定した。同じく北西に約30キロ離れた飯舘村の長泥では22日現在、積算は11.65ミリシーベルト。

 菅内閣は計画的避難区域設定の基準として、年間被曝(ひばく)線量(積算放射線量)を20ミリシーベルトとしている。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/764.html

コメント [戦争b7] 動き出したHAARPとそのURL&白い不気味な化け物に攻撃される日本&ある真相究明家への質問 千早@オーストラリア
12. 2011年4月23日 15:57:23: HqPtvOyMyo
地震雲、ハープ、ケムトレイルとある地震雲関係の掲示板にのせたら、削除されました。 それも、三回くらい、平凡なただの主婦の投稿を削除するのは、本当に何か関係があるからかと、怖くなってしまいました。
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/555.html#c12
コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリの被災者が来日 「原発考え直すべきだ」(東京新聞) 赤かぶ
01. 2011年4月23日 15:58:19: ibwFfuuFfU
空き缶のリングネームが決まった。

それは「チェルノブイリ菅」
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/759.html#c1

コメント [自然災害17] トウホク食い荒らす?被災地に跋扈する不気味なアジア人(zakzak)☆あの衝撃映像流出の元海上保安官らが遭遇  赤かぶ
28. 2011年4月23日 16:00:14: 2OItNfXtEs
頭おかしいのか?
10年平穏でどうのというのは、例えば、本来道から20メートルが自分の土地だったのを、測量の間違いで21メートルの場所に塀を立ててしまい、隣の地主も気づかずそのままになっていたような場合だ。この場合でも、10年以内に隣の地主に気づかれて裁判を起こされたら時効は停止する。

まして悪意だ。20年も真の地主に気づかれずに済むと思うのか?

登記内容と実態がどうのって、解釈が正反対だぞ。
もし、登記を偽造されるなどしていた場合でも、自分こそ真の所有者だと証明できれば、裁判所はそっちを優先しなければならないという意味だ。実態? お前が留守中にお前の家に俺が押し込んでお前を無理矢理追い出したら、登記に関係なく自動的にお前の家が俺の物になるのか?

20年も真の地主に気づかれずに占拠し続けられる筈がない。
どうしてこう非常識なデタラメを平気で開陳できる馬鹿がいるのか。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/208.html#c28

コメント [原発・フッ素9] 小原課長、「一日あたり、100兆べクレル」 - 政府の「放射能隠し」はとんでもないレベル!? 千早@オーストラリア
24. 2011年4月23日 16:02:18: TPwceRHXy2

今回の福島第一原発事故について、副島隆彦氏とベンジャミン・フルフォード氏がそろって「どう見てもたいしたことにはならない」と述べています。
私にはこれで十分です。
おかげで心安らかに安心した日々を過ごしています。
でも皆さんの多くは違うようですね。
真実はこれから時間とともに明らかになっていくでしょう。
それでは皆様のご多幸をお祈りしております。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/695.html#c24

コメント [原発・フッ素9] 京大原子炉、小出裕章「工程表、被曝環境、今後数千人の作業員必要」毎日放送ラジオたねまきジャーナル4月18日 ジャック・どんどん
61. ミッチー 2011年4月23日 16:02:56: WblIWO/HiuO06 : Cc23Z0mUsk
人間生まれてきたからには何か社会に良いことをして名を残したいと思うのが普通の人間でしょう。しかし、不運にも何かの許されざる理由で国家権力によって近いうちに殺される運命の死刑囚と呼ばれる人が多数居ます。
そこで、この中から志望者を募り原発復旧処理の危険な作業をお願いしたら如何でしょうか。
勿論、死刑から有期刑に減刑し、将来の白血病の危惧に対しては万全の保証を行うと言う条件つきでです。

非人間的と言う人が出てくると思いますが何も社会の役に立たずに死を迎えさせるのも非人間的と思うのですが。
個々の犯罪被害者の家族も、当該囚人が社会ために危険な中で活躍する状況を見れば、きっと「許す」心が芽生えることと思います。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/525.html#c61

コメント [経世済民71] 米国は輸入超過大国、日本は輸出超過大国、何が何処が違うのか、エコノミストは不在なのか heiwatarou
02. 2011年4月23日 16:04:16: GIvCq0wFSg
法人税・所得税ともに15%までカット。消費税撤廃。お金の回りを良くして経済活性化。日本を元気にしましょう。

特別会計を東日本再建に。

米国債は紙屑になる前に処分しましょう。
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/586.html#c2

コメント [原発・フッ素9] 福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院(asahi.com) 赤かぶ
01. 2011年4月23日 16:04:28: GCLkjdiXmU
さすが御用学者国家だな。
国民の健康や命より自分達の利権が遥かに大事だと考える人間達が原子力発電所を支配してきたわけだ。
御用学者は一人残らず福島原発に行って現場で被曝しながら作業して来い!!!
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/763.html#c1
コメント [原発・フッ素9] 小原課長、「一日あたり、100兆べクレル」 - 政府の「放射能隠し」はとんでもないレベル!? 千早@オーストラリア
25. 2011年4月23日 16:05:14: YBLHnRIN5Z
原子力安全委員会 2011年4月22日
2011年4月22日、原子力安全委員会の会見です。

岩上安身は、7分20秒頃から質問してます。

http://iwakamiyasumi.com/archives/8797
(前日明らかになった、1日当たりの放射性物質の放出量について質問しています)
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/695.html#c25

コメント [原発・フッ素9] 福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院(asahi.com) 赤かぶ
02. 2011年4月23日 16:08:30: FmB0JlnSpg
灯台の関村、岡本の他に誰がいたっけ?
大坂代の奴、なんていたっけ?
広島大、長崎大、学習院大も頻繁にテレビに出て、
「安心です。これくらいならば何の影響もない。大丈夫です。」
って、連呼していたけっな

御用学者の名前を掲載したスレ立ててくれないかな。
名前を覚えておきたい。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/763.html#c2

記事 [近代史02] まともな人間に芸術は理解できない _ ゴッホは何故ゴッホになれたのか?


1. ファン・ゴッホは何故 突如として変貌したのか?


Fields of St. Etienne - Mary Hopkin
http://www.youtube.com/watch?v=s2UX7_kpNHg


Vincent van Gogh 画像

http://commons.wikimedia.org/wiki/Gogh
http://artchive.com/ftp_site.htm
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh-2.html
http://www.vggallery.com/
http://www.vangoghmuseum.com
http://www.vangoghgallery.com

フィンセントは最初の大作「馬鈴薯を食べる人々」を完成させた後、もう一度正式な絵の勉強をしてみる気になっていました。 1885年11月、フィンセントはアントワープに向かいます。 有名なアントワープの美術アカデミーに入学するためでした。 美術アカデミーは1月開始予定でしたので、それまでの間、フィンセントはモデルを雇い、人物画を描きました。その一方で、アントワープにあるルーベンスの絵画に熱中します。ルーベンスが描くピンク色に輝く裸体にすぐにフィンセントは影響されます。「馬鈴薯を食べる人々」にみられた灰色がかった陰鬱な色彩がかき消え、女性の肖像画には、唇や肌に混じりけのない強烈な赤が使われています。


 1月にようやくアカデミーに入学しました。しかし、アカデミーの教師たちは超保守的な時代遅れの連中で、フィンセントはすぐに衝突してしまいます。毛皮の帽子に家畜商人の青いスモックという異様な風体でアカデミーに現れたフィンセントは、恐るべき勢いで男性モデルの描き始め、たちまちのうちに、カンヴァスも床も絵の具だらけにしてしまいます。アカデミーの校長は怒り狂い、すぐに、フィンセントをデッサンクラスに格下げしました。

デッサンクラスでも、フィンセントは持参したデッサンを床いっぱいに広げて教師にみてもらおうとして、騒動を巻き起こします。フィンセントが床に広げたのは古典的な端正なデッサンとは似ても似つかぬ荒々しいデッサンでした。たちまち、学生たちが一斉に集まってきて、収拾がとれなくなります。学生の多くはその珍妙なデッサンを嘲笑いました。しかし、その強烈な線に魅了され、まねようとするものも現れ、教師を激怒させます。

油絵コースから外され、陳腐なデッサンを強要するアカデミーに飽きたらなくなり、フィンセントはアカデミーの学生たちが夜間行っているデッサン・クラブにも顔をだしてみました。しかし、モデルを描くことができる以外、アントワープでの絵画修行は得ることがほとんどありませんでした。


 アントワープでフィンセントはルーベンス以外にもう一つ強烈な絵画体験をしていました。日本の浮世絵です。浮世絵の大胆な構図と明快で単純な色調に魅了されたフィンセントは下宿の壁を浮世絵で埋め尽くします。

ルーベンスと浮世絵に開眼したフィンセントはさらに新しい絵画経験を熱望するようになります。そのためには方法は一つしかありません。さまざまな傾向の絵画芸術が渦巻いているパリにでることです。そして、実際、パリで、フィンセントは新たな絵画を切り開こうとしている天才たちとその傑作絵画群に出会うことになります。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

アムステルダムのファン・ゴッホ国立美術館について教えてください ケンさん
07/03/31 17:01


ご質問の内容とは異なりますが…。 nonann
07/04/01 01:05


「浮世絵」がある、と表示のある階にはお子様をお連れにならない方がよろしいかと。

今は違うかもしれませんが、13年前の「浮世絵」はほとんど春画でした。
ゴッホの本当の趣味はこっちだったの?と目がパチクリな経験があります。

その階の展示は大人だけでお楽しみください…。日本でもあれだけのコレクションはめったにみられないと思います。逆に今はあれが見られないとなると大変残念。貴重です。

http://bbs.arukikata.co.jp/bbs/thread2.php/id/221950/-/parent_contribution_id/221950/


            ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
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ゴッホ

あの炎の人と呼ばれた画家ゴッホ。

彼は世界的にも有名な春画のコレクターでした。

浮世絵全般に大変な興味を持ち、その影響を多大に受けたと言われています。歌川広重の「名所江戸百景亀戸梅屋舗」という作品をはじめ、400点以上もの名画を集めたそうです。 江戸時代の日本は鎖国状態にあったため、海外との流通は長崎が起点になっていました。オランダにいたゴッホにとっては好都合だったのかも知れませんね。

特に葛飾北斎のファンで、彼の春画や画集はいつも手元に置いていたそうです。又、歌川派の浮世絵も多数所有していたと言われています。

そんなゴッホの名作、「雨中の大橋」と「花咲く梅の木」には日本の文字がデザインとして一体で模写されています。

まさに春画は日本が世界に誇る芸術。その良さは海の向こうでもしっかりと評価され、多数のアーティストたちを虜にしていました。ゴッホばかりではなく、セザンヌは北斎の「快晴の富士」を、モネは鈴木春信の「蓮池舟遊び美人」といった、浮世絵や春画・枕絵をそれぞれ好んで手本とし、模写したそうです。

http://makurae.lovely-lovely.biz/archives/post_2.html

57. ノイズn(関東) 2009/11/13(金) 10:21:42.49 ID:U12kjNMv

ゴッホ

・生涯に一点しか絵が売れなかった貧乏画家だったが、400点以上に及ぶ浮世絵をコレクションしていた。弟テオのコレクションも含めた数は477点。


・当時、作品は所有者の死後、オークションで処分されるのが一般的だったため、他の印象派画家のコレクションの日本の浮世絵はほとんど残っていないが、例外的にゴッホだけは、近親者の子孫たちの努力もあり現在まで全てが完全な形で残されている。

・複数の絵師が共同で一枚の浮世絵を描いたりすることを知ったゴッホは、アルルのアトリエにゴーギャンたちを招いて共同生活を始めた。 しかし結局この試みは失敗に終わり、ゴッホは激昂して発作的に自分の耳を切り落とした。 その「耳切り事件」の直後に耳に包帯を巻いた一枚のポートレートを描いたが、その絵の元となったのも浮世絵。

56. ノイズn(関東) 2009/11/13(金) 10:20:21.30 ID:U12kjNMv

ゴッホ

「日本人が、稲妻のように素早くデッサンするのは、その神経がわれわれよりも繊細で、感情が素朴であるからだ」

「僕は日本人が何をやっても極めて正確に行うのを凄まじく思う。

それは決して退屈な感じを与えず、決して大急ぎでやったようにも見えない。

彼らは息をするのと同じくらい簡単で、狂いのない二、三本の線で同じように楽々と人物を描いてしまう。まるでチョッキのボタンをはずすかのようだ。」


「僕達印象派の画家達(モネ、マネ、ロートレック等)は日本の浮世絵を愛しその影響を受けている。」

http://www.nihongodeok.net/thread/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1258043676/

ファン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙で、北斎のことを次のように言っている。


「日本美術を研究すると、間違いなく聡明で博学な哲学者を発見することになる。 その男は何をして時間を過ごしていると思う? 地球と月の距離を測っている? ビスマルクを勉強している? 違う。 一枚の葉を探求しているのだ。

しかし、この葉の探求のおかげで全ての植物が描けるようになり、次に季節が、広大な風景画が、動物が、そしてついには人間が描けるようになるのだ。 こうやってこの男は人生を送っているが、すべてを完成させるにはこの人生は短すぎるのだ。

いいか、日本人が教えてくれているのは真の宗教だ。

 彼らはとても純粋で、まるで自分自身が花の如く自然の中を生きている。」

(ゴッホは「富嶽百景」の北斎の自跋(2-1参照)を読んだのであろうか!!!)

http://www.muian.com/muian08/muian08.htm


 アントワープでフィンセントは乏しい資金を画材やモデル代に回してしまったために満足に食事も摂れず、肉体的にぼろぼろになってきました。 歯も10本以上が抜けかかっていました。栄養失調が原因でしょうが、他にも歯が抜ける理由があったようです。

歓楽の街アントワープでどうやら梅毒に罹患してしまったようなのです。

但し、アントワープ時代にフィンセントが梅毒の診断を受けた時、既に彼は33歳でした。それから、アルルでのクリスマス直前の最初のクリーゼ(発作性精神変調)まで2年ちょっと経過しているにすぎません。第2期梅毒から麻痺性痴呆発症までには最低15年の潜伏期間があるはずですから、フィンセントの精神病が麻痺性痴呆の可能性は低いといえます。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

私の好きな小説「罪と罰」 ソーニャについて


当時のロシアペテルブルグは梅毒蔓延が社会問題で客の8人に一人は梅毒持ちのロシアンルーレット状態だったそうな。

黄色い鑑札を受けるってのは、何週間かおきに、警察に出頭して発症してないか性器を調べられるという意味。

ラスコがねちねちねち「君は確実に病気で死ぬ」といじめるのも、意地悪いが事実の指摘だね。

 小説にも出てくるが、一般の家族と娼婦は同じ部屋に一緒にいることはない。

ソーニャが父の葬儀の出席依頼をしにラスコの下宿を訪ねて来る場面がある。 そこに偶然、ラスコの母と妹がいるのだが、それを見たソーニヤは決してラスコの部屋に入ろうとせずにドアの外で用件を伝えようとする。
 
 たぶん、性病への感染リスクがある為だと思う。

http://psjfk.blog23.fc2.com/blog-entry-797.html


フィンセントの弟テオの病気とは


死の4年前、1886年頃からテオは激しい咳を伴う体調不良に悩まされ、心臓が弱っていました(「テオというもう1人のゴッホ」マリー=アジェリーク・オザンヌ フレデリック・ド・ジョード著 伊勢英子 伊勢京子訳 平凡社)。しかも、原因不明の発作におそわれ、脳溢血の後のような麻痺が一時的に出現したこともありました。

その後、フィンセントがアルルに移った直後の春にも体調を崩したようで、テオがかかりつけ医の「グリュビのところへ行った(No 489. 1888年5月20日頃)」ことを知ってフィンセントは心配しています。 治療の一つとしてヨードカリが使われていたようで、さらに、女性に接することを控えるようグリュビが言うだろうとフィンセントは予測しています。

「唇を固く結んで「女はいかん」と言うときのグリュビの顔をみたかね。あんな風な顔は見事な一枚のドガになるよ」

などと書いていますから、フィンセントも同じことをこの医者から言い渡されたことがあったようです。


1990年6月10日にはテオがヨハンナと甥のフィンセントをつれてオーヴェールにやってきました。フィンセントはおもちゃ代わりに小鳥の巣をとってきて甥を歓待しました。 その後もフィンセントは旺盛な創作活動を続け、麦畑の連作などを計画します。アルル時代の強烈な色彩は影を潜めたままですが、相変わらず、円熟した技法で自在に絵を描いていました。しかし、やがて、その絵のなかに影がさすようになります。

 オーヴェールからパリに戻った後、甥のフィンセントが牛乳のせいで体調を崩しました。ヨハンナの必死の看病でようやく一命をとりとめますが、7月6日、心配したフィンセントはパリに駆けつけます。しかし、そこでかれがみたものは、看病に疲れ果てたテオとヨハンナでした。しかも、この頃、テオは画商として独立しようと画策していて、そのことでテオとヨハンナの意見が対立していました。さらに、テオはその後悪化することになる精神的身体的不調もみせていたようです。

 このように、もともと思わしくなかったテオの健康状態はヴィンセントの死によって一挙に悪化します。 テオはパリの病院に収容されます。入院後、ある程度落ち着きを取り戻したため、オランダでの治療を要望するヨハンナの意向もあり、テオはユトレヒトの精神病院に移されます。 しかし、転院時、痴呆症状は急速に進行、わずかに「フィンセント」という言葉にだけ反応するようになります。舌がふるえ、食事がとれなくなり、嘔吐を繰り返し、げっそりやせ細って、衰弱がすすみ、1891年1月25日、兄の自殺の6か月後、テオは死にます。34歳でした。

 尿がでなくなり、幻覚症状を伴う意識レベルの低下がみられたことから、ピサロの息子は父親にテオの死因を尿毒症と報告しています。この腎臓病死因説は長い間信じられ、1989年にゴッホの伝記を上梓したスウィートマンも「厄介な腎臓病にかかり」と書いています。ですから、1989年の時点までは一般的にはそのような認識だったわけです。

 ところが、1992年、例のオランダのヴォスクイルが、テオが最後に入院したユトレヒトの精神病院から公開されたデータをもとに、その死因について従来とまったく異なる事実を明らかにしました(Voskuil pha(1992) het medisch dossier van Theo Gogh. Ned Tijdschr Geneeskd 136, 1770−1780)。

ヴォスクイルによれば、ユトレヒトの精神病院の診療録には、転院時の症状として歩行障害、言語障害、失認、異常興奮、誇大妄想、瞳孔不同が記載されていたとのことです。また、パリの病院からの紹介状には麻痺性痴呆と同義語である全般性進行性麻痺 paralysie progressive generalの診断名が記載されており、ユトレヒトでの最終診断も「急速に進行する麻痺性痴呆」だったというのです。

1886年にみられた一時的な片麻痺が麻痺性痴呆の初発症状だったようで、1890年7月にフィンセントがテオ夫婦と甥に会いにパリにでてきたときには、麻痺性痴呆の症状はもっとはっきり認められたはずだとヴォスクイルは指摘しています。そのことがフィンセントの自殺に影響を及ぼした可能性すらあるというのです。

 麻痺性痴呆は梅毒の晩期症状です。 テオの末期症状はたしかに神経梅毒症状と考えると矛盾なく説明できるのです。とくに、瞳孔不同の所見は決定的で、眼底出血でも起こさないかぎり腎不全で瞳孔の左右差をきたすことはありません。
また、「死の4年前から心臓が弱っていた」というのは、梅毒のいまひとつの晩期症状である梅毒性大動脈炎のせいだった可能性があります。梅毒性大動脈炎では、主として、上行大動脈が脆弱となり、大動脈弁閉鎖不全、冠状動脈狭窄をきたし、これらは最終的に死に直結します。

 テオの時代、梅毒は不治の病でした。水銀治療などというものが一応ありましたが、これは、治療効果より副作用のほうが圧倒的に勝るという悪夢のような治療法でした。さらに、グリュビがテオにも処方しているヨードカリも抗菌剤として当時用いられていましたが、梅毒を根絶するにはほど遠い薬です。

 テオやフィンセントの頃は梅毒の「全盛時代」で成人の梅毒罹患率が8〜14%でした。 20世紀への変わり目、パリなど西欧諸国の大都会でいかに梅毒がありふれた病気であったかがわかります。 実際、ゴーギャン、ニーチェなどテオやフィンセントの同時代人で梅毒に罹患していた有名人は少なくありません。 19世紀から20世紀に移り変わる頃、中年の中枢神経疾患、循環器疾患の主要病因は梅毒だったといわれています。

 神経梅毒にてんかん発作がみられることは先ほど述べましたが、中には、神経梅毒によるてんかん発作出現後に痴呆症状があきらかになる患者もいました。 現在、てんかん発症によって痴呆に到ることは、特殊な、まれな病気に罹患した人をのぞき、まず、ありません。その理由の一つが、てんかんと痴呆を合併する代表的疾患、神経梅毒の激減ではないかと思われます。

 進行性麻痺は梅毒の初感染から15年〜20年で発症しますから、テオが梅毒に感染したのは13歳から18歳にかけてということになります。 17歳頃からテオは「灼けるような性欲に苦しめられ」ハーグの娼館「快楽列島」に足繁く通っていたました。時間的経過を考えると、テオが梅毒に罹患したのはこのときだと思われます。

 ヨハンナや息子のフィンセントの手記をみる限り、ヨハンナはテオの死因が梅毒だとは知らなかったようです。

 麻痺性痴呆が発症するのは初感染から15年から20年してからで、その間、第二期梅毒から10年以上まったく無症状です。 主治医はテオの末期症状の原因として梅毒を疑っていた可能性はありますが、確証がないのですから、そのことをヨハンナに告げなかったとしても不思議はありません。

梅毒は第二期梅毒あたりで一番感染力が強く、性行為を通じて人から人に感染したり、胎内感染を起こしたりする可能性がありますが、発病から4年を過ぎる頃から感染性が急速に低下します。麻痺性痴呆症状が出る時期には、梅毒スピロヘータは性器や血液中には存在せず、他人にうつることはありません。ですから、ヨハンナやその子のフィンセントが梅毒に罹患する可能性はまったくなかったわけです。実際、二人とも、長寿を保ち、梅毒症状も出現していません。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm


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          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 梅毒にかかったら4年間は
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 女を抱いちゃダメよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
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2.何故、西欧の芸術家は日本文化に憧れたのか?


春画が海外で人気な理由  あまりに自由で即物的な性描くから


計700万点を超える収蔵品を誇る大英博物館。その中の日本絵画、浮世絵コレクション内に江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」が含まれている。

 明治時代以降、西欧の影響を受け、「性」に対する意識が変化するとともに春画も海外に流出。反対に西欧の美術愛好家たちは春画に魅了され、芸術品として収集してきたという経緯がある。近年では世界各地の有名美術館で展覧会が開催されている。

 世界最古にして最大級の公立博物館である大英博物館にも、春画は250点以上も所蔵されている。2013年には、同博物館で春画展の開催も予定されているほどだ。

 ここまで春画が海外で人気なのはなぜか。長年にわたり春画を研究してきた、浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「性をタブー視するキリスト教的宗教観が強い西欧では、あまりに自由で即物的に性を描いた春画のインパクトは絶大だった。

江戸時代の日本ではセックスの禁忌事項はほとんどなく、オーラルセックスや複数プレー、媚薬や道具を用いての行為なども普通のことでした。現代にあるセックス関連の事項で、江戸時代になかったものは皆無といっていいでしょう。

しかも、日本人がそれら奔放な性を屈託なく享受していたという事実も衝撃的で、日本の性文化を表わす資料としても価値が見出されたのです」

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110115_10251.html

日本人がガンガン“性”楽しんでいた昔、欧米人は禁欲生活


江戸文化史研究の第一人者で、法政大学教授の田中優子氏が興味深い示唆を与えてくれた。田中氏には、浮世絵研究家・白倉敬彦氏との共著『江戸女の色と恋――若衆好み』(学研刊)などがある。
 
「性に関するタブーのほとんどは西欧文化、特にキリスト教的宗教観の強い影響の下にあります。日本は明治維新とともに、政治と社会制度や経済体制、教育システムを刷新するだけでなく、性のタブーも受け入れてしまったのです」(田中氏)

 キリスト教的セックス観はいたってシンプルだ。性の営みは子孫繁栄のためにだけ存在するものであり、愉悦や快楽が介在してはいけない、というものだ。
「オーラルセックスやゲイなど生殖に関係ないセックスは、法律で厳しく罰せられました」(田中氏)

 欧米の一部では、今もこれらのセックスを禁止する法律が存在する。
“正常位”がカトリックの定めた“正しい体位”であり、後背位は獣と同じと否定されていたことも有名だ。ちなみに、江戸期に正常位は存在せず、この体位は“四つ手”と呼ばれていた。

 田中氏も笑う。「そもそも江戸の性には、正常と異常の境界線がなかったんです」
 
 欧米では、オナニーも生殖に直結しないという理由で罪悪視され続けた。ところが、江戸の自慰観は実に健全なうえ、医学的見地にも立脚している。江戸の性指南書『閨中紀聞枕文庫』は「男女とも若時婬欲をこらへるも頗(すこぶ)る毒なり」と看破しているのだ。

「おまけに西欧では女の性が抑圧され、快感はもちろん性欲すら抱いてはいけないという理不尽ぶりです」(田中氏)

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5019.html


今のエロ 江戸時代にほぼ全部あり、しかも彼らは楽しんでいた


江戸時代の浮世絵は芸術的な価値だけでなく、当時の市井に生きる人々の生活や風俗、習慣、事件、考え方などを見事に表現している。ことに「春画」は、セックスをテーマとした一大ジャンルを形成してきた。

 浮世絵の研究者であり、春画にも詳しく、『江戸の春画』(洋泉社新書y)や『春画にみる江戸の性戯考』(学研刊)などの著者がある白倉敬彦氏は、江戸のセックスライフの最大の特徴を「江戸期の性には、タブーがなかったということです」と断言する。

 白倉氏は同時に、江戸期のセックスライフが、今日をも上回る自由さと平等観に裏打ちされていたと力説する。

「もちろん階層別の法度や、婚姻などのルールは決められていました。でも、セックスの本質部分においてほとんど忌避事項は存在していません。フェラチオやクンニリングスなどのオーラルセックスばかりか、アナルセックスも日常茶飯事ですし、衆道とよばれるホモセクシャルだって盛んでした。不倫は男女を問わずに行なわれていたし、廓(くるわ)での売春や夜這いの風習は社会公認です。アダルトグッズも研究と改良が進み、バイアグラそこのけの媚薬もありました」

 白倉氏は「今の世の中にあるセックス関連の事項で、江戸期になかったものはほぼ皆無。しかも、すべてが、なんの衒(てら)いや遠慮もなく、嬉々としてエンジョイされていたんです」と語る。いやむしろ、まだまだ現在のほうが性の制約が強いくらいだ――。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4733.html


現代のようにラブホテルもなく、“公然わいせつ罪”のような罪もなかったため、江戸時代の男女は野外で行為に及ぶことも珍しくなかったという。

 不倫関係にある男女が庭の物陰に隠れて行為に及ぶ姿や、畑の中央に積まれた藁の上で性交する夫婦……。江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」には、そんな姿も描かれている。浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「出合茶屋という逢い引きの場所は存在しましたが、高額だったため利用者は限られていました。ですから、不逞な間男などは、野外で交わるか夜這いをかけることが多かったといわれています」

 夜這いといえば田舎の風習のように思われるが、江戸でも盛んに行なわれていた。その様子は春画にも多く描かれていて、女中が家の主人に狙われるシーンや、逆に女中が若旦那に夜這うものなどがある。

 一見して強姦のように見える絵もあるが、ほとんどが合意の上の夜這いなのだという。つまり、夜這いはノーマルなプレー。ここからもやはり、江戸時代が性をポジティブに受け入れていたことがわかる。

 春画は自由奔放で多種多様な江戸時代の性のすべてを活写した、“性の歴史絵巻”なのである。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110121_10489.html

春画 着衣のままセックスする絵柄はなぜ生まれたのか?


江戸時代の識字率の高さや教育制度の充実は世界的にも群を抜いていた。大名や武士などの上層階級だけではなく、職人や商人など庶民も書物に接し、高度な文化を享受した。

彼らは西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。出版文化という切り口から江戸時代の寛容で奔放なる性に迫る――。


 * * *

 エロティック・アートの普及は、肉筆から木版という出版文化の興隆と密接にリンケージしている。とりわけ元禄期は、『好色一代男』に代表される好色本(浮世草子)の井原西鶴や、『曽根崎心中』で知られる近松門左衛門ら実力ある作家の台頭で京・大坂の出版業者が活況を呈した。
 
 同時期、上方絵師の西川祐信や吉田半兵衛、月岡雪鼎らが春画を描き、浮世草子の挿絵も担当した。ことに祐信は、町人や庶民の性生活を、情景も含め思い入れたっぷりに活写してみせた。彼の着想と作品は江戸絵師たちに衝撃を与え、従来の武家社会や古典から、庶民へとモチーフを転換させる原動力となった。

 一方、江戸では菱川師宣が木版春画を創始し、肉筆浮世絵から墨摺絵へと形態を激変させた。そこに前記の上方出版文化がなだれ込むことで、エロティック・アート全盛の素地は固まったといってよいだろう。

 さらに、文化文政期は江戸庶民のパワーが爆発する。『江戸の出版事情』(青幻舎刊)の著者、昭和女子大の内田啓一教授に当時の状況を聞いた。

「カルチャーの中心は上方から江戸に移ります。文学では滑稽本、黄表紙、人情本や川柳などが流行しました。絵画も金銀摺、空摺、艶摺など技術の飛躍的向上により、縮緬模様や透かし、ぼかし、凹凸まで印刷できるようになり、浮世絵は一気にカラフルとなり大人気を博します。当然、江戸の出版業は繁栄し、流通システムも発達しました」

 春画に関する著書が多数ある、浮世絵研究家の白倉敬彦氏は頂点を極めた印刷技術と春画の相関関係を語る。「春画で着衣のままセックスする絵柄が多いのは、着物の色彩や柄、文様まで表現可能になったからです。女性にとって春画は、最新ファッションテキストでもありました」

 春画や艶本はたびたびの規制、弾圧を受けたものの、しぶとく生き残る。しかも購買層は庶民だけではない。大名や旗本たちは当代一流の絵師や戯作者たちを呼び、私家版の絵暦を春画仕立てで制作、正月には殿中で交換しあっていた――まさに、エロティック・アートは江戸の華だったのだ。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110312_14482.html


江戸時代は確かに生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。しかし、色道指南書は何も江戸期の専売特許ではない。

『衛生秘要抄』(1288年)は鎌倉時代に編まれた、わが国の代表的医学書であり同時に性指南書でもある。本書は隋唐医学を体系化した『医心方』や宋代の医書『証類本草』のダイジェスト版であり、その意味で、いわゆる「艶本」として編纂されたものではない。

 本書は右大臣で皇后宮権太夫だった西園寺公衡(1264‐1315)の命により、宮廷医師の最高位にあった丹波行長が撰述した。西園寺公の役職を考えれば、本書が当時の貴族や高位の武士に読まれたのは間違いない。

『衛生秘要抄』は全31章のうち、17章以降のすべてが「房中術」すなわち性に関する記述で埋められており、わが国におけるセックスの高い位置づけが窺われる。同時にセックスが日常生活の健康に大きく関わっていることの証左ともなろう。

 文章は中国の黄帝が女医の素女に質問しつつ、さらに采女なる神仙の方術に長けた者からアドバイスをもらうという形で進む。黄帝の目指すところは不老不死であることは論をまたない。

「一夜の中に、女色にふけることが十度に及んだとしても、決して射精をしないことだ」

 接して漏らさず――貝原益軒が『養生訓』で広めた訓戒の源泉はここにある。『衛生秘要抄』によれば、「射精しない者は、さまざまな病気が治り、寿命が一日、一日と長くなる」のだ。そればかりか「ひと月に2回、年に24回射精するように制限すれば、誰でも100歳、200歳と長生きできる」という。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110313_14516.html


江戸時代、日本の自由な「性」には「文化」があった。だからこそ性を描いた「艶本」もブームになったが、その中でも作者の英泉が、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語し、初版が刊行されるやたちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)では、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。その中から白眉ともいうべき心得を現代語訳で紹介してみよう。

 まずは、「量度情訣」。「女を口説くには、まず世間話などをして近づき、だんだんとエッチなネタへもっていくのがよい。さらに、女は欲深きものなれば、カネやファッション、流行の小物(本書では“煙管や煙草入れ”とある)で落とせ。あの手この手で迫れば、女は押し黙ったり、手が温かくなったり、頬が赤くなったり、乳房や腹も熱くなるものだ。そういうサインを見逃さす、ぐいと押し込んでいくべし」

「戯弄真情」では、セックスで大事なのは、まず女にエクスタシーを堪能させることだと強調する。「男が快楽にまかせて先に射精してしまうことは、大いに戒めなければいけない。男は真心をもって、女体を懇切丁寧に、焦ることなく愛撫し、クリトリスをやさしく弄んでやる。挿入に際しても、男は女の様子をつぶさに観察し、自分がいきそうになったら気をそらして、長く保つこと」

 いつの世も、男はガマンが大事ということか――。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14395.html

江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である春画は、性の秘技も紹介されている。意外にもオーラルセックスを描く春画はそれほど多くないのだが、平安末期の春画にすでにその場面が登場しているように、古くから日本で行なわれていたプレーであることは間違いない。

 ただし現代のように前戯として当たり前に行なわれていたものではない。尺八は“吸茎”ともいわれ、江戸時代では、女性が男性に“再戦”を促すためにするものだとされている。そのため、春画で尺八を描く場合は、男性が疲れきった表情であることも少なくない。数多く存在した性の指南書に尺八の方法は描かれていないそうだが、それは「女性に秘技を覚えられると疲れて後が面倒」という心理が影響しているのかもしれない。

 一方、クンニリングスは“舐陰”と呼ばれていた。女性が“私への恋心が真実ならば舐めて”と、男性の心情をはかるための行為だったという。春画に描かれるオーラルセックスからは、男性以上に性欲旺盛な“肉食系女子”が多く存在したことがわかるのだ。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110118_10382.html

門外不出の性指南書、備州岡山藩秘伝『秘事作法』。『秘事作法』は上、中、下三巻構成で、江戸初期の1652年に成立した。筆者の秀麗尼は岡山藩の池田家奥御殿に仕えた女中だった。

『秘事作法』の特色は、何といっても懇切丁寧な記述にある。江戸期の性愛文化を代表するセックスガイドブックといっても過言ではあるまい。そのなかで明らかにされる、奥女中の性の秘儀の数々の中でも、上巻で述べられる、若君に対するセックスの所作は驚愕に値する。

 幼少君は、学問や武芸だけでなく帝王学の一環として、御殿女中たちから性の手ほどきを受けていた。当時の武家は現在の中学生の年齢で元服し、妻を娶って子づくりに励むののだから当然のことではあった。

 幼少君は5歳で割礼し、7歳になるとペニスの皮をむく(現代でいうところの「むきむき体操」)。早くから亀頭部を露出させ、刺激になれさせるのだ。10歳ともなれば、女中は若君の会陰部へのマッサージを入念に施してさしあげる。同時にペニスを布で巻き、厳しく鍛えることも忘れてはいけない。まだ子どもだけに、快感とは程遠く、痛みや辛さで泣き出すこともあろうが、それを叱り、あるいは慰め、励ますのも女中の務めであった。

 幼少君が12歳になったら、さらに本格的なセックス指南に進む。その作法を現代語訳してみよう。「最初は殿のペニスを指でさする。時には口に深く含み、亀頭を喉の奥深くに入れ強く吸う。続いて亀頭を舌で愛撫し、勃起の兆候がみられたら、舌先で鈴口を押さえ、亀頭をリズミカルに締めたり緩めたりする」

 いわゆる“手コキ”で奉仕するだけでなく、積極的にフェラチオをするように指導している。それもディープスロートあり、亀頭や尿道口への微妙かつ繊細な愛撫ありと、現代の性技と比べて遜色がない。いや、むしろ約360年前に、このようなテクニックが開発されていたことを称賛すべきだろう。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101218_8130.html

江戸時代の大ヒット本は中国の性書や欧州の性知識網羅する艶本


江戸時代は、西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。
 
 艶本『閨中紀聞枕文庫』全4篇は文政5(1822)年に、版元青林堂から初篇が刊行された。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。

「艶色の一道此巻中に尽きせり」 英泉は、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語した。果たして、たちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った。改訂や増補、新版、ダイジェスト版などの編纂が重ねられ、8冊とも9冊とも10冊とも、いやそれ以上のシリーズがあるとも推察されている。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏は話す。「この本は江戸の性指南書の白眉です。日本に伝わっていた性のエッセンスのみならず、中国の性書やヨーロッパの性知識までもが網羅されています。その内容の豊富さと広範さに加え、挿絵の精密さと意表をついたアイデアが江戸っ子たちのド肝を抜きました」

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110310_14434.html

江戸の大ベストセラーとなった艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。そこでは、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。

「三峯採戦」とは上峯つまり唇、中峯の乳房、下峯の女陰という3つの性感帯を同時に責める技だ。「セックスの前戯としては、まず戯れにおかしき噺などして、乳を捻りなどして、そろそろ股へ手を入れろ」

 江戸期のセックスにおいて、前戯としてのキッスは皆無だと知りおきいただきたい。「三峯採戦」の法にもあるように、女の心を動かすトークで迫ったら、速攻でタッチに入っていく。しかも、攻撃目標は乳房よりも下半身重視だ。これを「くじる」という。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏が解説してくれた。「パンティーを穿かない文化だったこともあるのでしょう、江戸の男はその気になったら、すぐ着物の裾をめくって女陰に手をやりました。さらに、春画の題材をみても歴然としているのですが、乳房や尻といった女性の第二次性徴には女性器ほど興味を抱かなかったようです」

 また、本書における女門の品別と解説の詳細さや、図版のリアリティー、さらには度を越した誇張(どの艶本、春画も性器をビッグサイズにデフォルメして描いている)を見ても、江戸のセックスにおける性器の重要視ぶりが理解できよう。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110308_14361.html


キスには挨拶、親しみと友愛、性愛と欲情という3種類があるが、江戸期の日本では、セックスにまつわる“舌偏重”のキスだけが一般化していた。軽く唇や頬、手の甲に押し当てるキスという形式は普及していない。だから幕末期に英語がどっと押し寄せてきた際、「口吸い」だけでは訳語に困り「接吻」という新しい言葉をひねくりだしたのだという。

 また、口吸いのセックスにおけるポジショニングも男女差があったようだ。口吸いが、交合への第2ステップであり決め手だったのは男の場合で、女から仕掛けるケースでは口吸いからスタートすることが多かった。まず、抱きつき口吸いして男を誘惑する。男がその気にならねば、果敢に股間へ手を伸ばす……こんな流れが春画に描かれている。

 もっとも「口吸い」にも時代的な変遷があった。当初「男の舌を女に吸わすことなかれ」だったのが、いつしか男が女体をくぢるときに欠かせぬ性技として定着した。やがて女も負けじと口吸いするようになり、結局は男女を問わず積極的なほうが、主導権を握る展開になっていく。

 艶本『艶紫娯拾餘帖』では、奥女中が小姓の若衆にかぶさり、しっかりと彼のペニスを握りながら、口吸いを強要している。書入れ(春画の中に記された説明書きやセリフ)はいう。「初心な男はままならないわ。まずは口をお吸わせなさい」

 江戸の性を大らかに描いた歌麿の春画にも口吸いのシーンは多く、この性技の日常化が見てとれる。『歌満まくら』のように、女のほうから舌を出して男に吸わせるスタイルもあれば、『艶本葉男婦舞喜(はなふぶき)』では、坊主にくぢり放題にくぢられた後家が、「舌をしごき、あるいは食いつき」と口吸いによる反撃に転じている。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4739.html

上半身は口吸い、中間部の乳房を手で愛撫するという同時三点攻撃を「三所攻め」といい、大事なセックス技術とされていた。

 何より江戸期の性指南書は、男だけが快感を満喫する身勝手を厳しく非難している。溪斎英泉の記した江戸時代を代表する性科学百科『閨中紀聞枕文庫』でも、男女和合のため二人が一緒にオーガズムに達するべきだと説く。

 その極意が、前書にいう「三峯採戦」の法として紹介されている。「三峯とは、女体の口と鼻の先を“上峯”、乳房を“中峯”、陰戸(ぼぼ)を“下峯”という」「上峯の口を吸いながら、中峯の乳首をひねったりさすったりしながら女の唾を飲めば、女の精気をとって薬になる。下峯では玉門(ぼぼ)が淫水で潤い、子宮(こつぼ)がひらいたときをみはからって、とっくりと玉茎を挿入し、ゆるゆると九浅一深(くせんいっしん)の法で交合する」

 ポイントは三所攻めで女にオーガズムを得させることであり、かくして男も安心かつ満足のうちに射精することができる。これぞ、同書にいう「男女相感をもつてたのしむ」だ。

 現代のAVへ眼をやってみると、潮吹きや電マなど下半身への愛撫と執着が著しい。残念なことに三所攻めのシーンは実に少ないのだ。一方、江戸の春画には、二所攻めからまさに三所攻めへ移行しようとする絵柄がたくさん見られる。

 たとえば『正写相生源氏(しょううつしあいおいげんじ)』における、後座位で抜き差しの快感を与えつつ、乳房をさわり、いよいよ口吸いをも狙って、三所攻めを完成させようという場面は秀逸そのもの。

 絵の書入れで、女の台詞がオーガズムの到来も近いことを予感させる。「あなたは、まァどうしてこんなにお上手でいらッしゃるか」――男なら、女にこういわせてみたいものではないか。

『色道取組十二番』でも、男が後側位の体勢から身体をねじって女の乳首を吸っている。彼の一連の動きからして、口吸いへ移行し、空いた手で再び乳房を弄ると想像できよう。 多くの性研究者は、江戸において「三所攻め」は珍しくなく、むしろ一般的な性技だったと指摘している。彼らの性技のレベルの高さを証明するエピソードといえよう。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5023.html

性の文化が花盛りだった江戸時代。さまざまな性に関する工夫があったようだ。たとえば、江戸時代の性指南書『好色旅枕』によると、射精を遅らせる鍵は「蟻の門渡り」だという。

発射しそうになったら、蟻の門渡り(肛門と陰嚢の間)を中指で押さえよ、と説き、また、左の人差し指で睾丸の根元を押さえ、両足の親指を強く反らして10回ほど呼吸をしても、射精を止めることができる、と解説している。

また、江戸時代は一流絵師たちが競いあって春画や艶本を描き、豊かな性文化を形成した。性指南書『房内経戯草』によると、女性の陰部には48の名があるという。

良い名は、「しほいずみ」(皺泉)、「りんゑのごう」(輪廻刧)、「てんやくのすけ」(典薬助)、「ちごのて」(稚児手)、「みずはじき」(水弾)、「さこめ」(小籠)など。悪い名は、「すぎばり」(杉針)、「あしのよ」(葦節)、「ふるせ」(旧瀬)、「にもちゐ」(似餅)、「ひきめ」(蟇目)など。

そして、江戸時代の人々は西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。そんな時代の性指南書は、女性器の鑑別や品定めが必須事項でもあった。『好色訓蒙図彙』によると、良い女性器の陰毛は「ラッコの皮」だという。

上開(良い女性器)の陰毛は濃すぎず薄すぎず、やわやわと柔和であり、猟虎(らっこ)の皮を想像させるばかりである。「猟虎の皮」は、手で撫でるとその方向になびくといわれる。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110307_14349.html

Gスポットは江戸時代からすでに発見されていた


江戸の性技法の特色であり、現代セックスとの際立った差異はイントロダクションにある。江戸の男たちは、女と言葉を交わし、春画や艶本などを見せてエッチなムードづくりにいそしんだ。

 艶本『艶道日夜女宝記』は、そのまま今のセックスに通じる技法を伝授しているから驚く。「膣の入り口の上側に、袋のようなものがある。そこを指腹で撫でよ」

 この「袋のようなもの」とはGスポットに他ならない。Gスポットの存在が江戸期、すでに知れ渡っていたのは間違いなく、『艶本幾久(えほんきく)の露』という喜多川歌麿の作にも「膣の奥に“名所旧跡”がある」の記述がみえる。ちなみに、性医学界でGスポットが紹介されたのは1950年、ドイツ人医師エルンスト・グレーフェインベルグによってとされているのだが――。

 春画『會本 拝開よぶこどり』では子宮口周辺のポルチオ性感や、オーガズムに達する際の膣の変化も鋭く観察し、描写しているから仰天だ。

「指を深く入れると、子宮が進み出てくる」――この状態を「玉が出る」といいGスポットと並ぶ“名所旧跡”に数えた。本番の交合前に、ストレートかつ、たっぷりと指でくぢる――なるほど、江戸のセックスは奥深い。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101105_5021.html

江戸時代自作女性向け自慰グッズ 1650回以上の抜き差し推奨


古くから、適度なセックスは肉体ばかりか精神面にも良好な影響を及ぼすことが知られていた。だが、「大奥」の女中(奥女中)は男との性交渉のチャンスが極端に少なかった。

 江戸初期の1652年に成立した、セックスガイドブック『秘事作法』の中巻では、奥女中が積極的に実践すべき健康法として「独楽」すなわちオナニーを奨励。“マイ張形”の製法と独楽の楽しみ方の指南も述べている。

「わらび湯か葛湯に紅絹布を浸して丸め、乾かし、何重にも巻く」――これが作り方だ。 サイズは太さ約3センチ、亀頭部が約4.5センチ。全長は約20センチで、先端から16センチあたりに陰毛を模したつけ毛を施す。おそらくリアリスティックかつ勇猛な外観であろう。

 用意万端、いよいよ独楽を開始するわけだが、その回数が凄まじい。「性器の表面を愛撫すること50回、それと同時に乳房を100回ほど揉み、張型を浅く挿入し100回、クリトリスから陰唇への刺激を300回、騒水が湧き出たら深く挿入して200回」

 さらに張型を枕台箱で挟んで固定し、ヒップを落としていく。ここからの所作も回数つきで紹介しよう。「尻を上下にグラインドさせ200回、それをスローテンポに落としながら、空いている手で陰核にアップテンポの刺激を加え、尻を上下左右に強く揺らして200回……」

 ちなみに絶頂までの抜き差し、摩擦の回数は、割愛したものも含め実に1650回以上! これを生身の男に置き換えると……想像するだにおそろしい。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101215_8101.html

春画とは江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵だが、そこには人々の性への願望も描かれている。日本が世界と比べても自慰が盛んな国だったことは、数々の春画が証明している。

 かつて西欧では、自慰は生殖に直結しないというキリスト教的観念から禁じられ、中国では「接して漏らさず」の『養生訓』の教えのごとく精液の節約という意味で良しとされていなかった。ところが日本の春画は自慰シーンのオンパレード。その方法は実に多岐にわたり、現代からは想像もつかないような性具や媚薬が豊富にあったことがわかる。

 男性器を模した“張形”を使ったり、他人の行為を覗き見て、あるいは想像で手淫するなど、設定はバラエティに富んでいる。
男性器に巻きつけることで挿入時に女性を刺激する“肥後芋茎”や、金属の玉を女性器の中に入れて性行為をすると女性が快楽を得られるという“琳の玉”、また女性器に塗る媚薬など多彩だった。

 江戸時代は、『四つ目屋』というアダルトショップが堂々と表通りで営業されており、この手の性具は簡単に手に入ったという。

http://www.news-postseven.com/archives/20110119_10417.html


浮世絵

http://www.youtube.com/watch?v=qqKarRHRtaM
http://www.youtube.com/watch?v=3fAY9gBqjLs

Kitagawa Utamaro
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Shunga_by_Kitagawa_Utamaro

http://www.akantiek.nl/shunga.htm


Ukiyo-e, UTAMARO, 'Michiyuki koi no futusao, shunga, erotic
http://www.degener.com/1793.htm


Prints by Utamaro, Kuniyoshi, Kunisada I/II, Eisen & Utagawa School
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Toyoshige
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Tomioka

http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/index.html
http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/super.html
http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/toku.html

http://www3.tokai.or.jp/youko45/0602edayo/edayo00mokuzi.htm


浮世絵の展示室
http://homepage3.nifty.com/itoti/index.html


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3. 西欧の画家に衝撃を与えた浮世絵

 デフォルメされた男のイチモツが天井まで届かんばかりに隆々とそそり立ち、枕、炬燵(こたつ)、火鉢、食器も打ち遣る、アクロバティックな体位でねっとり絡み合う男と女。

 葛飾北斎、喜多川歌麿、菱川師宣といった江戸時代最高峰の浮世絵師も、多くの春画を描いた。外国では、日本人の男性器を指して「ウタマロ」と呼ぶこともあるほどにメジャーなジャンルだ。19世紀の終わりごろ、ヨーロッパでジャポニスム・ムーブメントがあり、印象派やアール・ヌーボーの画家たちに大きな影響を与えた。

http://www.cyzo.com/2009/12/post_3371.html

ゴッホやモネなどの印象派画家 春画から大きな影響受ける


江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である春画は、明治時代以降、西欧の影響を受け、「性」に対する意識が変化するとともに海外に流出。大英博物館にも所蔵されている。

春画は、描かれている内容だけでなく、構図や色彩感覚など、アートの技法に対しての評価も非常に高い。春画で特徴的な性器の誇張表現は、西欧の美術理論に多くの影響を与えたのだという。

「性器を大きく描く“デフォルメ”という表現は、当時写実主義全盛だった西欧にはない発想でした。日本には、現実そのままの描写では面白くない、いかに絵画を絵空事にするかという芸術理論があったのです。こうした日本絵画の装飾性は、『ジャポニズム』という形でブームを呼び、ゴッホやモネなどの印象派画家を生むきっかけとなりました」

http://www.news-postseven.com/archives/20110117_10354.html

33. ノイズn(コネチカット州) 2009/11/13(金) 09:11:26.65 ID:kurydIXX

いや真面目な話し、絵画を学ぶ者にとって、春画は貴重な良い手本なんだよ。

女性の毛髪の一本一本がもの驚くほど繊細に表情豊かに描かれていたり
デフォルメされた人間の絡み合う姿の動きある四肢の描き方だとか
それまでの西洋絵画にはなかった技法だったので
当時の海の向こうの画家達は、それこそ度肝を抜かれたらしい。

http://www.nihongodeok.net/thread/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1258043676/

浮世絵を学んだ印象派


1986年オルセー美術館がオープンしたとき、「ジャポニズム展」がパリと上野で開催された。その副題は「19世紀西洋美術への日本の影響」というもので絵画だけでなく版画・彫刻・工芸・建築・写真など400点が出品された。浮世絵は印象派の画家はほとんど学んで影響を受けている。あまり学んでいないのはピサロ、シスレー、スーラなど少数である。

モネは北斎の「富嶽三十六景」をもとに描いた、また200点をこえる浮世絵を収集して居間にも飾っていた。日本趣味がこうじて庭に太鼓橋をつくり、屏風絵のような庭園を造っている。「衣装・扇子・団扇のモネ夫人」という絵がある。ゴッホには広重の模写の絵がある。「タンギー爺さん」の背景には浮世絵の画がある。日本びいきで「僧侶としての自画像」という画も描いた。マネは日本の団扇、扇子を描いた屏風の画がある。セザンヌの絵の構成は浮世絵の影響が強く出ているといわれる。異国趣味もあるがジャポニズムとして多かれ少なかれ影響を受けていたことは確かである。

http://www.tranzas.ne.jp/~smikio/insyouha.html

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4.ファン・ゴッホは何故キリスト教を捨てたのか?

伝道師を目指した若き日のゴッホ


「よきサマリア人」は、中世から近代までの数多くの美術作品に描かれている。
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh56.html

サマリア人をイエス、宿屋を教会に見立てて、ユダヤ教の祭司が見捨てた人間をキリスト教が救済したと言う寓意として、教会のステンドグラスを飾ったりもしている。 遠景に急ぎ足で去っていく人物を描く絵も多く、ゴッホの作品でも、画面の左側に小さく2人の人物が描かれている。遠くに見えるのが最初に通りかかった祭司、手前に見えるのが次に通りかかったレビ人である。いずれも、見て見ぬふりをして遠ざかる足早な後ろ姿で描かれている。

無心に旅人を抱き抱えるサマリア人に対して、遠ざかる人影の背中には、いかにも小心翼々として事なかれ主義がにじんでいる。一度は伝道師を志し、狂信的なまでに献身を尽くしたゴッホとしては、この後ろ姿には容赦ない批判があったに違いない。

ゴッホはオランダの厳格な牧師の家庭に生まれている。 そして、ヴィンセント・ファン・ゴッホと言う名前は、なんとゴッホの誕生日に1年前に同じ日に死産した兄の名を継いでいる。 家が教会だった為に、ゴッホは幼い頃から教会墓地のヴィンセント・ファン・ゴッホと言う名を刻んだ兄の墓石を見て育っているのである。

恐らく、その反動だろう。若い頃からゴッホは、病的なまでに自分自身のこの世における存在意義と言うものを探求している。 死んだ兄の代理として自分自身が生存している事への、恐ろしいまでの自責の念を抱き続けていたに違いない。 そうした心情と家庭の事情からすれば、ゴッホが伝道師を志した事へ当然の結果と言える。ところが、この伝道師への道は、破門と言う手ひどい形で閉ざされている。

原因は、ゴッホの余りに献身的な生活にあった。 極貧の炭鉱街に派遣された見習い牧師のゴッホは、人々の貧しさに衝撃を受け、衣服から寝具まで全てを与えてしまい、自分自身は藁の中に寝起きしていたという。最低限の衣類しか身に付けず、家畜小屋のような住居に暮らすゴッホの姿に伝道師協会へ怒り、協会の威厳を損なうものとして破門にしてしまった。 困窮する人々と苦難を分かち合おうとしたゴッホの情熱は、理解されないどころか、むしろ狂気の沙汰と見られこれが原因で伝道の世界から追放されてしまうのである。

この時の痛手は、終生ゴッホの心から消えず、以降、彼は形骸化した教会を批判し続けている。彼が手紙に書いた「宗教はうつろい、神は残る」と言う言葉には、痛切なでもにこうした思いが語られている。

イエスの弟子としてのゴッホ


「よきサマリア人」は、そんなゴッホが激しい発作の合間に精神病院で描いた作品。南フランスのアルルで試みたゴーギャンとの共同生活が破綻、口論の挙句、自分で自分の耳を切り落としてしまったと直後に描かれている。この共同生活は、ゴッホがアルルに構想した画家の共同体の第一歩として始められたのだが、こうした構想にしても多分に修道僧的である。

絵柄はオリジナルではなく、ドラクロアの原画の複製版画を模写している。この他にもレンブラントやミレーの宗教画を版画で見て、自分なりに色を着けて模写しているが、ゴッホのオリジナルの宗教画は1点も残されていない。

手紙によれば、ゲッセマネの園で祈るイエスの苦悩(第7章)を描こうとした際に、どうしても描く事が出来ず画面を引き裂いてしまったらしい。 友人に宛てた手紙には、聖書の場面を借りなくとも、人間の苦悩を描き、心に癒しをもたらす作品は描けるはずだと書いている。

その実、必死に祈るイエスを描こうとして描けず、断念したと言う事実を思えば、この主張自体も痛々しい。そんな彼が、宗教に代わるものとして選んだのが自然であった。

「ラザロの蘇生」は、その事を物語るような作品。

http://stundenbirne.jugem.jp/?eid=92


レンブラントの「ラザロの蘇生」を模写したものだが、奇跡を起こしたイエスは画面から省かれ、代わりに白熱する太陽が描かれている。あたかも太陽の熱線が死者を蘇らせたかのようである。作品は「よきサマリア人」と同じ精神病院で描かれており、この少し後にはゴッホは、絵の具を飲み干すほどのすさまじい発作に襲われている。

どうやら太陽の描写は発作の誘因になるようで、代表作「ひまわり」にも見られる黄熱の色彩は、ゴッホに極限までのエネルギーを費やさせると言う事は、本人も手紙に書いている。これ以降は、好んで夜空の星を描いている。 うねるような夜空にまたたく有名な作品「星月夜」も、この時期に描かれた作品である。 この星について、ゴッホは手紙にこう書いている。

「それまでもなお、僕はやはり、何というか、宗教がどうしても必要だと感じる。そんな時、僕は、夜、外に星を描きに出る」

絶とうとして絶てない信仰への思いが滲む文章である。

「それでも人間は、何か偉大なものなしにはやって行けないと思う」

この言葉は、ゴッホの脳の奥に潜む考え方の本質であると同時に、人が信仰というものを求める際の最も基本的な心情を語った言葉と言える。 ゴッホは、膨大な数の独創的な索引を描きながら、宗教画に限っては、どうしても自分なりのイエスの顔を描く事が出来なかったのである。 が、その実、ゴッホは「宗教はうつろい、神は残る」と言う精神において、律法学者達の偽善を突いたイエスに、最も忠実な画家の一人であったのだろう。

http://www.geocities.jp/tomoching2/goch.html


ベルギー時代のヴァン・ゴッホ 


<ボリナージュでの伝道>

ベルギー・プロテスタント教会ユニオンの1789-1880年の年報にワムという項目があり、伝道師ゴッホのついての言及があります。そこにはゴッホが誠心誠意で怪我人や病人を看病して面倒を見たこと、自分の衣服を裂いて包帯代わりにしたこと等が書かれています。しかし、最後に「伝道師としての資質に欠ける」と断定したうえ、任期更新は行わずに、すでに現地入りしていたユトン氏を後任者として任命したと結んでいます。

 中略

それではワム村の村民達はゴッホのことを実際にどのように見ていたのでしょうか。私の手元に、隣のフラムリ村出身でベルギー普通選挙の父と呼ばれるルイ・ピエラール代議士の書いた「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの悲劇的人生」という本があります。氏は30数年間モンス選出の代議士として活躍し、戦後は王立学士院の会員にもなりました。1920年頃に書かれたこの著書は、半世紀に渡りゴッホ研究者が頻繁に引用しましたが、現在では入手不可能な幻の名著です。現在出回っているゴッホの伝記の多くはこの本の焼き直しといっても言い過ぎではありません。

その中に、1910年代にワム村で元鉱夫達に伝道師ゴッホに関して取材をした箇所があります。ゴッホがワムを去って30年も経っていたにもかかわらず、“ゴッホが坑内から出てきたばかりの鉱夫たちの姿を縦坑出口のすぐ横で素描していたこと”を老鉱夫が覚えていたり、下宿していたドウニ家の息子の“ゴッホが作った子供向け聖書教室”の鮮明な記憶などに代議士は驚嘆しています。

ゴッホの記憶はワムの村人から消えてはいなかったのです。その証拠に、早くも1925年9月13日にゴッホの妹エリザベツの立会いの下で、ドウニ家の外壁に記念大理石プレートが住民によって付けられました。この記念碑は今も荒れ果てた家とともに残っています。それには「オランダ人ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853−1890)がこの家に1878−1879年に住んだ。伝道師で後にその時代で最も偉大な画家の一人となった」と刻まれています。この記念プレートが付けられた際、妹エリザベツは当時プチ・ワム村で牧師をしていたピエール・スクレタン・ロリエールに、ゴッホがボリナージュ時代に愛用したという聖書の詩篇集を贈りました。この詩篇集は後にアムステルダムのゴッホ美術館に寄贈されました。

また1924年、ピエラール代議士の求めに応じて、前述のボントウ牧師は伝道師ゴッホの思い出について3ページ半にわたる書簡を送りました。その中で牧師は

「ゴッホは最も不幸な者、怪我人、病人を好んで訪ね、彼らの傍に長い間とどまりました。苦しむ者のためにすべてを捧げようとしていました」

「彼の奥深い感受性には人間愛を超えたものがあって、動物たちやさらに虫けらの類にいたるまで大事にしていました」

ワム村を追われて半世紀近くたってからゴッホに贈られた元上司の賛辞といえます。

聖職者というのは医者と同様に、苦しむ者から一歩距離を隔てて活動すべき職業かもしれません。ミイラ取りがミイラになってはいけないのです。その意味ではゴッホは確かに伝道師失格だったかもしれません。しかし、自分の持ち物をすべて分け与えて、貧しい者や苦しむ者のみならず動物や昆虫まで愛したクリスチャン、ゴッホの生き方はそれゆえに村の人々の心に末永く生き続けたのでしょう。

すべてを神への奉仕の為に捧げたにもかかわらず、伝道師失格の烙印を押されてストライキ扇動者と罵られたゴッホは、失意の中、信頼していたピーターセン牧師を頼ってメヘレンに、着の身着のまま徒歩で北上しました。その一年前の夏、手っ取り早く宣教師になる道を探していたゴッホは、父と英国滞在中に世話になったジョーンズ牧師に付き添われてベルギー北部とブラッセルの牧師たちを訪ねて歩きました。その時に世話になったのがピーターセン牧師でした。


<牧師を志す>

ゴッホ自身の手紙によるとオランダでは聖職者になるには最低5年間大学で神学を学ぶ必要があり、しかも神学部入学にはラテン語とギリシャ語の知識が予め必要でした。ゴッホはその語学の勉強につまづき、アムステルダム大学入学を断念した苦しい経緯がありました。「息子はオランダでは牧師になれないが、ベルギーでなら何とかとなる」と判断した父のアイデアだったのでしょう。そのゴッホにブラッセルの北、ラーケンにあるベルギー・プロテスタント教会ユニオンによって創設されて間もない小さな宣教師養成学校から3ヶ月の試用期間付で入学許可がおりたのです。ここではたった3年間で宣教師を養成していました。しかも試用期間中はフレミッシュの学生と同様に、学費無料で宿泊代と食費のみを払えばよいという好条件でした。この学校の詳細は残念ながら詳しくわかっていません。またゴッホの書簡に出てくるボクマという教師についても記録がみつかりませんが、名前から判断する限りオランダのフリスラントウの出身者のようです。そうであればこの入学に関しては当然ゴッホの父のコネが効いたことでしょう。

残念ながらここでも彼は挫折してしまいました。彼の非社交的な性格と宣教師として不可欠な仏語の雄弁術に欠けていたのが最大の理由でした。当時の同級生はゴッホについて「従順さに全く欠けた」と回顧しています。

そして同年11月15日にテオに送った長文の手紙でボリナージュで伝道したい旨を説明して、最後に追伸で学校の試用期間に失敗したと告白したのです。その手紙にゴッホは有名な「炭鉱」というデッサンを添付しました。

彼はなぜこのデッサンを手紙と一緒に送ったのでしょうか。

当時、ボリナージュで採掘された石炭の多くはフランスに輸出されていましたが、一部はモンス・シャールロワ間のソントウル運河とブラッセル・シャールロワ運河を使って船でブラッセルに運ばれていました。船といっても現在のようにエンジン付の船ではありません。運河の両側に設けられた小道で、人や馬が石炭や貨物を満載した船にロープを付けて引っ張って行ったのです。そしてブラッセルの運河には、この作業道に沿って様々な工場や会社が並び、多くの労働者が肉体労働に従事していました。

ゴッホの描いた「炭鉱」はこういう肉体労働者の為に設けられた休憩所です。そこは労働者がお弁当を食べたり、水代わりのビールを飲んだりするところでした。また夜は綺麗所の来るキャバレーにもなりました。いわば「キャバレー炭鉱」だったのです。ゴッホはこの絵を描きながら、まだ行ったことのない炭鉱地区ボリナージュを思い浮かべたことでしょう。彼自身はこのデッサンを「くだらないデッサン」と書簡に書いていますが、私は非常に個性的で誠意に満ちていると評価しています。しかも画面の上の三日月や、意図的に直線を避けた建物のラインと、瓦と石畳の曲線は後にアルルで制作した「夜のカフェ」、サン・レミの「星と糸杉のある道」を彷彿させます。

神学校を3ヶ月で落第したゴッホはそれにもめげず、1879年の12月に自費でボリナージュに伝道に出かけ、モンスの南にあるパチュラージュ村の行商人ヴァン・デル・ハーフンの家に月30フランで下宿しました。子供に読み書きを教えたり、病人を見舞って看護したり、文盲の鉱夫や農民達に聖書を朗読したりといった活動をしながら、伝道委員会に伝道師任命を懇願しました。幸い前年に、それまでワム村の一集落にすぎなかったプチ・ワムは独立した村に昇格しました。当時の習慣で、村民が望めば村専属の牧師を国費で呼び寄せることができました。村から要請をうけたベルギー・プロテスタント教会ユニオンは、適任の牧師が直ぐに見つからなかった為に、とりあえず、ボリナージュにいたゴッホを6ヶ月の期限付きで伝道師として任命し、プチ・ワムに送ったのでした。


<ボリナージュでの再出発>

さて失意と疲労にもかかわらず、メヘレンまで訪ねてきたゴッホをピーターセン牧師は温かく迎えてくれました。恐らく久しぶりにオランダ語で話し合えたのでしょう。そして牧師の趣味だった水彩画を見せられたゴッホは、息を吹き返したかのように元気になってまたボリナージュに戻っていきました。でも今度は画家として修業を始めたのです。そして、クエム村のフランクという伝道師が借りていた鉱夫の家の離れに1879年の8月から翌年の10月まで居候しました。彼が住んだ離れ家は今はなくなっていますが、荒れ放題になっていた母屋は近年「ゴッホの家」として修復されています。

ここで画家になる決意を固めた彼は デッサンの習得の必要性を感じて農民や鉱夫のデッサンに没頭します。その修業期間中に、彼がお手本として重宝したのがミレーの「種まく人」や「鋤を使う人」の版画でした。弟のテオが勤める「グーピル画廊」が名作の版画コピーを主たる商売としていたので、ゴッホは1880年の夏にテオに宛てた手紙でミレーの「畑仕事」という数枚の版画を郵送してくれるよう頼んでいます。

現在の「ゴッホの家」には彼がこの家で制作したミレーのコピー「鋤を使う人」が展示されています。ミレーの原作はパステル画ですが、当時のコピーが白黒の版画で売られていたのでゴッホはその版画を手本としました。ゴッホはずっと後、1889年にも油絵の具でまた「鋤を使う人」を制作しています。構図は原作と同じですが、油絵コピー上の土と空の部分を注意して見ると、まるで波打っているかのように描かれています。また原作では単純に暗く描かれた胸の部分がブルーで置き換えられています。対象となる農民への限りない愛情と信仰心という点では、ミレーとの共通点を持ち続けたゴッホですが、ミレーを乗り越え独自の芸術を築いていった過程がうかがえます。

クエム時代のゴッホに関しては 残念ながらクエムの教会には記録が残っていません。しかし、クエム時代のゴッホを知る地元のデルソーというプロテスタント信者がピエラール代議士に宛てた手紙に次のように回想しています。

「彼は大変質素な生活をおくり、朝起きると二切れの乾パンを食べて、大きなコップで冷えたコーヒーをブラックで飲み、食事以外には水を飲んでいました。いつもたった一人で食事を取って、他の人と一緒に食事をしないようにしていました。食べながら膝の上で素描するか本を読むといった具合に、一日中素描に充てていました」

「ゴッホが私の義姉の家に滞在していたとき、彼が描いた一枚のデッサンが義姉の記憶に鮮明に残っています。それはジャガイモを収穫する農民の姿を描いた絵です。何人かが鋤でジャガイモを掘り起こし、他の者がそれを拾い上げる姿でした」

このデッサンは残っていませんが、この回想によって、ゴッホが5年後にオランダのヌエネンで制作した代表作「ジャガイモを食べる人」のコンセプトがクエム期にすでにできつつあったことを思わせます。

ゴッホのボリナージュ期は1880年10月にブラッセルの美術学校入学で終了します。彼が下宿したブールヴァール・ドゥ・ミディ72番地は現在の国鉄ミディ駅の真横で、今では大きな交差点と国鉄の高架になっていて当時の面影は偲べません。

http://blogs.yahoo.co.jp/prof_japonais/3946797.html

再びフィンセントは「女性問題」を引き起こします。 こんどの相手は、あばた面の年上の娼婦でした。

ハーグに舞い戻った年の冬、フィンセントは「一人の身ごもった女」にでくわします(No 192. 1882年5月)。このシーンと呼ばれる女は「男に捨てられ、その男の子どもを宿して」いました。

「みもごったおんなが冬の街頭に立たねばならなかった、パンを得なければならなかった」のを見過ごすことができず、フィンセントはシーンをモデルとして雇います。

「十分なモデル代は払ってやれ」ませんでしたが「家賃は払ってやれ」ました。「自分のパンを彼女と分けることによって、女とその子どもとを飢えと寒さから守ってやれた」のです。かれは、シーンを産科病院連れて行き、シーンの住まいをたびたびたずねるようになります。

旧約聖書の「ホセア書」の冒頭に述べられた「汝ゆきて淫行の婦人(をんな)を娶り淫行の子等を取れ」というエホバの命令をそのまま実行に移したかのようでした。


組んだ腕の中に頭を埋めた妊娠した裸婦の側面像を描いた素描「悲しみ」はこの頃のシーを描いたものです。フィンセントとしては珍しくロマンチックなイラスト風の絵で、「僕の一番よくできた素描(No 219. 1882年7月23日)」とフィンセントは誇らしげに書いています。この妊婦は聖書にあるように男の子を産むことになります。

しかし、まもなくシーンが出産という時になって、フィンセントはシーンにうつされた淋病のために入院を余儀なくされます。3週間してなんとか退院し、シーンが入院している病院に着くと、前日、シーンは難産の末、男の子を産んでいました。生まれた赤ん坊をみて感動したフィンセントはシーンと二人の子どもを引き取るために大きな屋根裏部屋を借りて移り住みます。夢にまで見た家庭生活でした。

この頃、フィンセントはベビーベッドに寝ている赤ん坊とそれを見守るシーンの娘の素描も描いています。そこには「家庭生活」の一コマが何気なく描出されていて、「悲しみ」以上に印象的なスケッチです。この子どもたちのスケッチを忘れがたいものにさせているのは、画家の憧れかもしれません。

司馬遼太郎がいうように「分際に応じて適当に愛され適当に嫌われ適当にずるっこけて甘えて暮らして」いれば、たいていは子どもの一人や二人はできてしまうものです。しかし、ケーに失恋して愛情が「枯死するのを」感じて以降、フィンセントにとって、たったそれだけのことが、この世で金輪際実現しえない夢物語と思えるようになっていました。それだけに憧れも強烈でした。フィンセントは誇らしげに次のように書き記します。

「陰気な気持ちになったとき、荒涼とした浜辺へ歩いていて、長く白い波が糸を引いている灰緑色の海を眺めるのはなんといいことだろう。しかし、何かしら壮大なもの、何かしら無限のもの、何かしら神のことを呼び覚まさせるように感じさせるものがほしいと感じたら、それを見出すために遠くまで行くには及ばない。大洋よりももっと深く、もっと無限でもっと永劫の何かが、朝眼ざめてゆりかごに輝いている日光に喉を鳴らしたり、笑ったりしている小さな赤ん坊の眼の表情の中に見えるように僕は思う(No 242. 1882年11月5日)」。

たとえ、その赤ん坊が見知らぬ男の子どもであっても、フィンセントはかまわなかったのです。 フィンセントはシーンが出産から戻ってきたら結婚するつもりでした(No 198. 1882年5月14日)。そして、そのことによって世間の信用をなくすことは覚悟の上でした。

 しかし、世間の風当たりは予想以上に厳しく、フィンセントは四面楚歌の状態に追い込まれます。生活費を弟に頼る身でありながら、えたいの知れない売春婦、父親もしれぬ子どもたちを養い、結婚しようとしているフィンセントにテルステーフもマウフェもコル叔父も驚き呆れ、許容することができなかったのです。テルステーフもコル叔父もフィンセントの絵を全く購入してくれなくなります。

マウフェは手足の石膏像をデッサンするか否かでフィンセントと言い争いになった後、全く会ってくれなくなりました。たまたま砂丘で出会って、フィンセントがもう一度教えを乞うたときも「俺はけっして君には会いには行かない。万事おしまいだ」「お前は卑劣な性格を持っている」と非難するだけでした(No 192. 1882年5月3日)。フィンセントは親戚一同とかつての仕事仲間の顔に泥を塗る恥知らずな人間と軽蔑されるようになっていたのです。両親も同意見でした。

 最後の頼みの綱はテオでした。テオからの送金が途絶えれば、シーンたちを養えなくなり、結婚するどころではありません。

 送金をやめるという強硬手段にはでませんでしたが、テオはハーグまでやってきて、散らかし放題のフィンセントの「家庭」のあまりのひどさに驚きあきれ、必死になって結婚を止めようとしました。「ヘール事件」のときのように両親がフィンセントを禁治産者にしてしまうかもしれないとまで脅しました。


 実際、シーンは投げやりで無気力でだらしない、とてもまともな「家庭」生活など営むことのできない女性でした。売春婦になったのも、生活に追いつめられてというよりも、それが手っ取り早かったからにすぎません。叔父たちのいう「自堕落な女」という表現がぴったりの女性だったのです。

絵画のための費用を差し引くと、テオからの送金だけでは生活費の捻出も間々ならず、やがて、フィンセントは借金をせざるを得なくなります。フィンセントはこのような状況にあっても絵画を精力的に描き続けており、マウフェの教えを受けられなくなったにもかかわらず、絵画において長足の進歩を遂げていました。絵を描き続けているということでテオは金を送ってくれているのですし、それ以上に、フィンセントにとって絵画は人生において残された唯一の生きる糧であり、これをやめるわけにはいきませんでした。しかし、このような経済状況にあっても絵画のために金と時間を「浪費」する男は、シーンにとっては不可解な存在でしかありません。彼女はだみ声を張りあげ、フィンセントを罵ります。

 やがて、母親の煽動もあって、シーンは再び体を売って金を得る生活に戻ろうとします。テルステーフやマウフェや叔父たちにいわれなくともシーンの「性格が損なわれている」ことはフィンセントもはじめからわかっていました。シーンとの家庭生活を夢見るにあたっては「彼女が立ち直ること」に望みをかけていたのです。

その前提条件が崩れてしまうのではどうしようもありません。シーンを更生させるためにがんばってきたフィンセントは精根尽き果てます。そして、結局、彼女と別れる決心をします。自分がいなくなれば彼女がもとの生活に戻るだろうという思いが彼の心を苛みました。しかし、どうしようもありません。

 つらい別れでした。とくに、シーンが出産した男の子をフィンセントは我が子同然にかわいがっていました。

「あの小さな男の子は僕にとてもなついていた。すでに僕が列車の席についたときも、僕はあの子をひざの上にのせていた。こうして僕らはお互い別れたが、お互い口では言えぬ悲しい気持ちだった(No 326. 1883年9月22日)」

とフィンセントはのちに書いています。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

フィセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1853-1890)のハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クリスティーヌ(ゴッホはシーンとよんだ)を拾い、20ヵ月間同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。

「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。

そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。

http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bd9f.html

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5.そしてゴッホはゴッホになった

歴史の中のゴッホ ― 有川 治男


ゴッホの社会的、個人的環境


 ゴッホの個人的な生活を成り立たせていたいくつかの要素がありますが、たとえば、印象派の画家たちとゴッホの個人的な環境の違いといえば、彼はオランダ人でした。つまり、マネ以降、今回のシリーズで取り上げた画家たちはみんなフランス人であり、フランスで活躍します。これらの画家たちは、19世紀後半から世界の美術の1つの中心になったフランス文化に初めから接していたのに対して、ゴッホはオランダ人だったことが、彼個人の特別な事情であるわけです。

 さらに言えば、幼少時代に暮らしていたのはオランダの中でも都市部ではなく、南部の農村地帯ですが、農村地帯の出身だったことは彼の個人的な環境が持っている特殊性であるわけです。

いま左側には、ゴッホがオランダ時代に描いた農家の様子とか、農夫の頭部とかが映っていますが、ゴッホにとってこれはとてもなじみの深いものでした。たとえば、農村出身ではない印象派のモネもルノワールも農村地帯を描いています。ピサロも描いていますけれども、彼らは都会で育った後、自分たちとは違うものとして農村に接したわけです。ゴッホは、農民の子どもではなかったわけですが、生まれたときから農村地帯に暮らしていました。そういう意味では、ゴッホが描く農村とか農民の姿は、大人になってから自分と違う世界として初めて知ったものではなくて、子どもの頃からその中で知っていたわけですから、ずいぶん大きな違いがあるわけです。

 ゴッホはオランダ時代にも、アルルへ行っても、こういう農民の姿を描いています。アルルへ行って初めて知ったわけではないのです。ゴッホの生涯にわたって、こういう農民に対するまなざしはあったわけですし、ゴッホは自らの姿を都会に暮らす都会人というよりも、農民と同じような粗末な麦わら帽をかぶって自分の足で道をテクテク歩いて行くといった姿でも描いています。

たとえば、左側はパリ時代に描かれた自画像ですけれども、都会の住民とは思えない田舎っぽい服装をして、服は青い上っ張りのようなものを着ています。当時の証言がありますが、これは農民の服装ではないんですね。工事人夫などが着ていた青い上っ張り、つまり労働着を着て絵を描いていたという証言があります。

右側もそのような服を着ている。これはアルルで描いています。写生のスケッチに行くために麦わら帽をかぶって、労働着を着て、道を歩いているといった農民、あるいは労働者として自分の姿を描くところにも、都会の知的な環境の中で育ったわけではない、むしろ自分の手で働く農民たちの中で育ったゴッホの個人的な環境が大きく働いているように思われるわけです。

 初期のオランダ時代から、アルル時代、サン=レミ時代に至るまで、ゴッホは繰り返し繰り返し「大地の上で働く農民の姿」を描いています。そういう点で言えば、農民画家と言われているミレーも農村地帯で育ったということで、フランスの19世紀後半の絵画を担ってきた画家たちの流れでみると、ゴッホは生い立ちの点でもミレーに共感する部分があったと思われます。

 ゴッホが生まれたのは南オランダのフロート・ズンデルトというところなんですが、このあたりで一番近い町はブレダという町です。ブレダの町から、ずっとこういう農村地帯、畑が続いています。そういう環境の中で育っているわけです。 オランダの平坦な地面がどこまでも続いていく大地の上で育ったということは、たとえばパリという都会で育ったのとはずいぶん違うものをゴッホの絵画に及ぼしていると思われます。

 ゴッホは、アルルでも、わりと何ということのない、取り立ててどうということのない、ただ耕した、堀り返された畑といったようなものを描いています。印象派の画家たち、モネなんかでも、こういうものは題材にしないですね。つまり、色彩的にもそう面白いわけでもない。そういう何の変哲もない、ただの土塊だけの大地を描いているところには、ゴッホの個人的な生活環境、成長してきた環境が影響しているように思われます。これはサン=レミ時代の麦畑です。 ゴッホの場合は、とりわけ生涯にわたって農地、畑、麦畑を描き続けたことには、そういう個人的な要素が大きく関わっていたと思われます。これも何の変哲もない、一面に広がる麦畑。これは晩年のオーヴェール時代の作品です。


宗教の影響


ゴッホのお父さんはプロテスタントの牧師であり、主に南オランダの各地、フロート・ズンデルトとか、エッテンとかヌエネンとかというところの小さな町、村の牧師をやっていた人です。お父さんが牧師だった。農村地帯に暮らし、農民の労働、土というものを知っていると同時に、牧師と言えば知的階級ですから、知的な教育も受けた。これがある意味ではゴッホの持っている2つのルーツであるわけで、ゴッホにとって宗教は生涯にわたってとても重要な役割を果たしています。
 たとえば、右側の(機を織る男)でも、男は家の中で機を織っている。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Weber_vor_offenem_Fenster_mit_Blick_auf_den_Turm_von_Nuenen.jpeg

女の人は外で仕事をしている。その向こうに教会の墓地にあった塔が描かれています。ゴッホは単独でもこの塔をしばしば描いていますけれども、こういうように労働と宗教が結び付いている。その点でもミレーとも共通するところがあるわけで、大地で手に汗して働くということと、それが人間としての務めであるといったことが宗教的に解釈されている。それが南オランダに育って、しかも牧師の息子として生まれたゴッホの2つのルーツが融合したところであるわけです。

 ゴッホの宗教観が非常にハッキリしているのは左側の作品で、ここに描かれているのはゴッホのお父さんが使っていた聖書です。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Stillleben_mit_Bibel.jpeg

お父さんが亡くなった後、ある意味では記念のようなものとして描いているわけです。ゴッホは子どもの頃からよく聖書に親しんでおり、ゴッホの手紙等には非常にたくさん宗教的な発言があり、聖書からの引用もあります。こういうようにお父さんの思い出として聖書を描いているわけで、牧師であったお父さんからとても大きな影響を受けつつ、同時にお父さんに対する反発のようなものもあって、ゴッホにとっては宗教は、単にとても大事なものであるだけでなく、とても複雑な要素を持っているわけです。

 教会の姿ということで言えば、これは一番有名な晩年のオーヴェール時代に描いている、オーヴェール時代の締めくくりのような作品です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_eglise00&picture=%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%8B%B3%89%EF%81i%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%90%B9%93%B0%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_eglise


そこにも教会の姿が出てきています。こんな具合に、彼はオランダ時代に宗教的なものを身に付けたわけですけれども、それは生涯ずうっと流れています。たとえばゴッホがしばしば描いた農民の姿に、(種まく人)とか(刈り取る人)がありますけれども、彼が手紙の中で書いていることを見ると、ゴッホは「種まく人」とか「刈り取る人」に宗教的なイメージを重ねています。


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たとえば「種まく人」は「神の言葉をまく人」といったような意味でしばしば出てきます。
 
 ミレーの(種まく人)についても、しばしば宗教的な意味合いが考えられていますけれども、ゴッホの場合はもっとハッキリと、

「種まく人は神の言葉をまく人なんだ」

という意味が重ねられています。特にこの作品の場合は、種まく人の後ろに沈み行く太陽を描いていますが、ちょうどキリスト教の聖者の頭の後ろに付いている「ニンブス」、「円光」、「光輪」のようなものが付いていて、ここではハッキリと種まく人に「聖なる意味」をかぶせているわけです。こんなふうに、実は宗教画でないものにしても、ゴッホの作品は、見ていくとずいぶん宗教的な意味合いがたくさん重ねられていることが分かるわけです。

 たとえば(ルーラン夫人)は身近にいる人、近くにいる人の肖像画ですが、ひまわりを両方にはさんで、宗教的な三幅対、祭壇画のように仕立てているわけです。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv009.htm

風景画であるけれども、宗教的な意味合いがあるし、肖像画であるけれども、宗教的な意味合いがあるわけです。

宗教画は不得手


 第1回目でお話しましたが、ゴッホはどうも人物画より風景画のほうが得意である。とりわけアルル時代以降、人物画から風景画に重点を移していくと申し上げましたが、宗教的な主題に関しても基本的にはそうで、ハッキリと聖書の中に出てくる物語を描いたゴッホの作品は基本的にはゼロです。聖書の中の物語を描いたものが何点かありますけれども、それはいずれもゴッホが自分で独創して描いたものではなくて、先人のものをコピーしたものです。左側はドラクロワが描いた(良きサマリア人)という作品をもとにしたもの。右側は、レンブラントの(ラザロの復活)がもとになっています。実はゴッホがお手本にしたレンブラントの作品は版画ですし、左側のドラクロワのものも、直接お手本にしたのはドラクロワの油絵を版画にしたものです。したがって、ゴッホは白黒である作品の構図を借りながら色を付けているという点ではかなり創作の部分もあるんですけれども、しかし、人物の組み合わせとか物語の情景のとらえ方を自分でつくり出すのではなくて、模写という形でこういう宗教画を描いているわけです。

 ゴーギャンは「頭で描け」と言った。たとえば宗教的な物語にしても、実際に見たことがないから描けないゴッホに対して、ゴーギャンは「頭で想像して描け」というわけです。ゴッホは何かお手本があって描くことはできるけれども、自分で宗教的な場面を想像して描くことは得意ではなかったし、実際に目にすることができないものを描くことに関してはかなり抵抗があったようです。それに対して、実際に目の前にあるものよりも、むしろ目の前にあるものをもとにしながら想像力でいろんな概念を込めた絵を描くというのがゴーギャンの主張で、たとえば左側の(黄色いキリスト)であるとか、右側の(オリーブ園のキリスト)あるいは(ゲッセマネの園のキリスト)などでは、宗教的な場面を自分の頭の中でこしらえています。ゴーギャンは人物画がメインですし、宗教的な意味合いを込めた作品もたくさん描いています。たとえば右側の作品では、ゲッセマネの園で一人苦悩し、思いをこらすキリストを描くときに、ゴーギャンは自画像を使っています。つまりまったく想像で描くのではないのだけれども、自分の顔をキリストになぞらえて描くというかなり大胆なことをやっているわけです。ゴッホはそういう大胆なことはできない。

 ゴーギャンが右側の絵を描いたのは、アルルでゴッホと一緒に暮らした後、つまりゴッホとゴーギャンのいさかいがあった後ですけれども、それでもゴッホとゴーギャンは文通等はしているわけで、あるとき、ゴーギャンはこういう絵を描いて「自分はこういう絵を描いた」と説明して、簡単なスケッチを添えてゴッホに知らせています。しかし、ゴッホは、こういうような、まったく空想で描くような絵はどうも受け付けなかったようです。

 それに対するゴッホのひとつの答えがこの作品です。ゴーギャンは苦悩するキリストの姿に自分の姿を重ねている。つまり「苦悩するキリスト」に「苦悩する芸術家」を重ね合わせて作品を描いているわけです。それに対して左側はオーヴェール時代にゴッホが描いた有名な(ガッシェ博士の肖像)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_gachetb00&picture=%83%7C%81%5B%83%8B%81E%83K%83V%83F%88%E3%8Et%82%CC%8F%D1%91%9C%81i%83K%83b%83V%83F%94%8E%8Em%82%CC%8F%D1%91%9C%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_gachetb


ゴーギャンの(オリーブ園のキリスト)が首をうなだれて何か物思いにふけっているのに対して、この作品ではガッシェ博士にほおづえをつかせて、物思いにふけっている姿を描いていますが、ゴッホはそういう人間の苦悩とか悩みをあらわすにしても、ゴーギャンのように宗教画の形を借りるのではなく、(ガッシェ博士の肖像)という肖像画の形を借りています。

 ですから、ゴッホが持っていた宗教観は、ストレートに宗教画を描かせるようなものではなかった。彼は肖像画なり風景画なりに仮託して描くという、従来の宗教画とはかなり違う描き方をしている。ゴッホの宗教観は必ずしも彼の作品にストレートに出てくるわけではない。そこがゴッホの作品を複雑にしている要素であるわけです。

さらに、ゴッホはゴーギャンに対して、「見たこともないようなゲッセマネの園、オリーブ園を描くぐらいだったら、目の前にあるオリーブの畑を描くほうがずっとましだ」というようなことも言っています。「想像力で変な宗教画を描くよりも、目の前にある風景を描くほうがいいじゃないか」とゴッホは言っています。

そんな発言から考えると、まったく人物のいないこういうオリーブの園といった風景画でも、そこには何かしら「宗教的なこだま」のようなものも感じられるわけです。 「ゴッホは人物画よりもむしろ風景画だ」と言いましたけれども、その風景画は、これまでこの講座で見てきた、たとえばモネの風景画とはちょっと性格が違う。同じ風景画であっても、そこにかなり人間の世界、あるいは宗教的な意味合いとか象徴的な意味合いとかいうものも重ねられていると思われるわけです。

 これはサン=レミ時代の(星月夜)ですけれども、夜空の月とか星が渦巻くようになっている。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_night00&picture=%90%AF%8C%8E%96%E9-%8E%85%90%99%82%C6%91%BA-&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_night


この夜空を見ていると、「これはただの風景画ではなくて、もっと意味が込められているのではないか」という気がしてくるわけです。実際、この作品の場合は、ここに地上のサン=レミの村、そこにハッキリと天に突きささるような教会の塔も見えていますし、これは単なる星月夜、目の前に見える綺麗な星月夜を描いただけのものではなさそうです。

ということで、これまでいろんな研究家がこれを宗教的に解釈しようとして、新約聖書の最後のところ、世の終わりを記述している「黙示録を背景にしているのではないか」とか、いろんなことを言っている人がいます。ゴッホの作品の場合、何か1つの解釈にうまく収まるかどうかは分かりません。いろんな見方ができると思いますけれども、確かに何か天と地の間で大きなコスミックなドラマが展開されているような気のする風景画であるわけです。

 ゴッホにとっての宗教はとても複雑なものであろうということは、いろいろあって、先程言ったように、お父さんは牧師であったけれども、お父さんとゴッホは常にいさかいをしているわけですね。いさかいをして家を飛び出るんだけれども、結局なかなかうまくいかなくて、また家に戻って来るようなことを繰り返す。そのこともあって、おそらくゴッホにとって、お父さんは、ゴッホからみるとプロテスタントの牧師なんですけれども、伝統的な宗教観にとらわれていて、ある意味では現代の人間の生き方に対してうまく対応していないとゴッホは反発するわけですから、ゴッホにとっての宗教は非常に複雑なものがあったという気がします。

ゴッホの個人的な背景 家族との関わり

 
お父さんはちょうどこの絵が描かれた頃、ヌエネンの教会で牧師をしていました。お父さんとの関係はそれほど簡単なものではなかったわけで、お父さんが亡くなるときに、ちょうどゴッホもヌエネンにいましたが、うまくいかなかった。しょっちゅう喧嘩を繰り返している。その中でお父さんが死んでしまうということがあった。お父さんが死んで、一方では精神的に楽になったという部分と、ずっと反発してきて、とうとううまく和解しないままお父さんが死んでしまったという後悔のようなものと、ゴッホにはとても複雑な感情が残ったと思われます。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_bible00&picture=%90%B9%8F%91%82%CC%82%A0%82%E9%90%C3%95%A8&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh

この作品は、ある意味ではお父さんとの関係を象徴しているわけで、この作品に描かれているバイブルと火の消えた蝋燭、これはお父さんか死んだことのひとつの象徴ですね。

 それともうひとつ重要なのは、ここに黄色い表紙の本が置かれていることです。これはゴッホが愛読していたフランスのゾラの現代小説です。 ゾラの小説は当時非常に流行っていた。絵画で言えば、印象派ではなくて、もっと社会の底辺に暮らす人々を描く写実主義から自然主義の絵画があるということをお話しましたが、印象派ではなくて写実主義とか自然主義というところに関わっているのがゾラですね。ゾラは当時次から次へと大都会の底辺でいろいろ苦しむ人々の姿を描きだしていたわけです。誰が見ても明らかに分かるこの黄色い表紙の小説本、ここには題名までちゃんと書いてあります。

 これはどういうことかというと、いろんな解釈があります。しかし、間違いなく、こちらはお父さんの世界ですね。2000年近く続いてきている伝統的な世界です。それに対して、こちらは自分の世界ですね。つまり現代の、しかもオランダではなくて、近代文明の先を行っている新しいフランスの最先端の文化であるわけです。しかも、色も白から灰色と黄色で対比になっていますし、何よりも印象的なのは、過去はとても巨大であって、それに対して近代の文明はまだとても小さい。たとえばお父さんとゴッホとの関係を重ねてみれば、お父さんはある意味では大きな存在で、自分は小さい。新旧の世代とか親子の関係とか、オランダとフランスとか、いろんな関係がここに重ねられているわけで、そういう意味では、ゴッホはいろんな思いを込めてこの作品を描いたのでしょう。

 家族関係のことで言うならば、まさに偉大な父親、常に正しいと思われることを人々に対して説いているお父さんと、この作品を描いた時点で言えば、いろんな職業を転々として、どれもうまくいかないで、しかも親のところに居候していて、この先もどうなるか分からない画家といった仕事に手を染めている、お父さんからはどうしようもない出来損ないだと思われている自分。そういう立派なお父さんと、そうではない自分という対比が込められているわけで、まさにこの作品は、家族の中でゴッホがどのような立場にあったか、自分をどのようなものとしてとらえていたかを大変分かりやすく示している作品です。

 宗教的なものも、個人的な家族関係といったものも、この作品からは読み取ることができると思われます。ゴッホは生涯にたくさん肖像画を描いています。これはゴッホの肖像画のひとつの特徴なんですけれども、ほんとうに親しい、描きたいと思う人を描いたものは少ない。つまり、家族の肖像画は基本的にはない。あれほど親しかった弟のテオに関しても、パリ時代、テオを描いたらしいと言われている素描が1点残っているだけです。お父さんの肖像画はありません。お母さんに関しては1点ありますが、実際お母さんを目の前にして描いたのではなくて、写真を送ってもらってそれを元にしたものです。当時ですからモノクロの写真です。これもある意味では直接描いたのではなくて、模写のようなものです。
それから左側はゴーギャンに影響を受けて、ゴーギャンからすすめられて想像で描いた(エッテンの庭)です。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh86.html

自分の子どもの頃のエッテンの庭の思い出ですが、しかし子供の頃ではなくて、お母さんと妹ですから、現在なんですね。そういうとても不思議な作品であって、これはやはり想像で描いたものです。そういう意味では、家族を実際に目の前にして描いた肖像画というのは、まったくないわけです。これもまた家族とゴッホとの関係、あるいは家族に限らず、身近な者との関係を示しているもので、こういう肖像画のあり方を見ても、ゴッホと家族との関係はなかなか難しいものだったんだろうと考えられるわけです。

 弟のテオとの関係はどういうものだったかというと、とても親しかった。テオは、兄フィンセントが画家になることを志して以来、経済的援助を一手に引き受けていたわけで、経済的な面からいえば一方的に「借り」なんですけれども、ゴッホは負い目を感じながらも、いろんなことにおいて常に「自分はお兄さんだ」ということで、テオには常にお兄さん顔をして助言を与えたりしていくわけで、精神的にはテオのほうでもお兄さんを尊敬している。けれども、現実の生活の上では、テオはちゃんと仕事を持って、お金を稼いで、しかもそれを一文も稼いでいないお兄さんに仕送りしている。その兄弟の関係、これも「ねじれ」ですね。つまり、年長と年下、精神的な指導者とそれに従う者の強弱の関係が現実生活では逆転しているという、とても複雑なものがあると思われるわけです。先程、宗教関係の「ねじれ」を説明しましたが、そういう意味では、ゴッホは、家族関係の中でも、かなり「ねじれた環境」を持っていたと考えられるわけです。

 ゴッホの身近にいた人といえば、ある時期、オランダのハーグでゴッホと生活をともにしていたシーンという女性がいました。何人かの子持ちで、ときには他に生活の方法がなくて、身を売るようなことをしていた女性ですけれども、その女性とかなり長いこと一緒に暮らしています。ハーグ時代には、既に油絵を描き始めており、シーンに関しても素描はたくさんありますけれども、油彩での肖像は描いていません。


http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bd9f.html
http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm


 アルル時代には、アルルで一番親しくしていた郵便配達夫ルーラン一家の一連の肖像を描いたことについてもお話しました。ゴッホが描いた肖像画の中で、一番親親しかった人といえば、せいぜいこのルーラン一家ぐらいかと思います。ルーラン一家に関しては、お父さん、お母さんの他に、2人の息子、長男、次男がいる。それからゴッホが滞在しているときに、もう一人赤ん坊が産まれるわけですけれども、その赤ん坊まで含めて描いています。ルーラン一家のこれだけたくさんの人物をそれぞれ赤ん坊までも取り上げて1点の肖像画として描いています。ルーランの肖像画を描いたとき、ゴッホは手紙の中で「家族の肖像を描きたいんだ」と言っています。ゴッホは自分の家族とは必ずしもうまくいっていなかったのですが、ある意味では理想的な家族に対する憧れは常にあったわけです。

 ハーグでは子どもを抱えたシーンと同棲生活をしています。ほんとうは結婚するつもりだったんですが、周りからいろいろ反対があって、どうもうまくいかなくて、最終的には自分から手を引くことになります。家族を持ちたいと思ったけれども、うまくいかなかった。そういう意味では、自分が持てなかった家族の姿をアルルでルーラン一家に見ていたのではないかと思われます。

 シーンを描いた絵の中にも子どもを抱いたものがありますが、ゴッホは肖像画とか人物画の中でも「母と子」をオランダ時代から繰り返し描いています。ここでもルーラン夫人が赤ん坊を抱いている姿を描いています。これはサン=レミ時代です。両方とも模写です。右側はミレーが描いた版画をもとにしているもので、農家にお父さんとお母さんがいて、赤ん坊がいる。英語で言うと(ファースト・ステップ)という題名になっていますけれども、赤ん坊がヨチヨチ歩きを始めたという微笑ましい家族の姿を示しています。左側は、デュモン=ブルトンという女性の画家が描いた母子像の版画をもとにして描いたものです。ゴッホの作品の中には、生涯、「母親」、「子ども」、「家庭」といったイメージが、常に自分が得たかったものとしてあったと思われます。けれども、自分は最後まで家庭、子どもを持つことはできなかった。


対人関係が苦手


 家族にかかわらず、ゴッホは対人関係をつくるのがうまくなかったようです。たとえばこのパリで描いた(タンギーおやじ)とか、右側のアルルで描いた(ウジェーヌ・ボック)というような、それほど重要でない、毎日顔を突き合わせるような関係ではない人の場合には、わりと気軽に肖像画が描けたわけです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh20.html
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh69.html

両方とも、パリ時代の肖像画として、あるいはアルル時代の肖像画として代表的な、とてもよくできた肖像画です。

先程、ゴッホは家族の肖像画を描いたことがないと言いましたけれども、大事な人を描きたいと思うと、なかなかうまくいかないということがあります。その典型的な例が、まさにゴッホが対人関係の中で最も苦労したゴーギャンですね。ゴッホにとってゴーギャンはとても大事な人でしたし、シーンとか家族を除いては、数カ月でしたけれども、同じ部屋で生活をした、とても重要な画家だったわけです。ゴーギャンがアルルにやって来たときに、お互いに肖像画を描き合うことにしたようです。画家仲間で、肖像画、自画像、あるいは相手を描いたものを交換するのは、19世紀のヨーロッパでは、たとえばドイツ・ロマン派あたりからずっとありました。ゴーギャンとかゴッホの仲間うちでも肖像画を交換し合うことがありました。


 ゴッホの自画像の中にも、仲間の画家に贈るために描いたものが何点かあります。ゴッホとゴーギャンは、アルルでお互いの姿を描き合うということをやりました。ゴーギャンがゴッホを描いたのは、先々週お見せした有名な(ひまわりを描くゴッホ)という作品です。それに対してゴッホが描いたゴーギャンはどうだったかというと、この左のものです。

これはどう考えても失敗ですね。ともかく正面からうまく見ることができなくて、斜め後ろから見ている。実際のゴーギャンが目の前にいるんだけれども、どう描いたらいいか、ゴッホは戸惑ってしまうわけです。 左の絵は、顔だちからしてゴーギャンだろうということは昔から言われていて、しかも現在アムステルダムのゴッホ美術館にあります。つまりゴッホが残した作品の中に含まれていたわけで、ゴーギャンを描いたことは明らかだ。けれども長いこと、「いくら何でもこんなに下手なものはゴッホの作品ではないだろう」と言われていたものです。

 長いことゴッホの作品カタログの中から省かれていたのですけれども、近年になって、絵が描かれているキャンバスとか絵具を科学的に調べた結果、この絵が描かれているキャンバスは、間違いなくアルルにおいてゴッホとゴーギャンがこの時期に使っていたキャンバスと同じものであって、その巻のどこからとったかや絵の具までほぼ分かっています。そのことから、これを描いたのは「ゴッホかゴーギャンに違いない」ということで、ゴーギャンでないとすると、ゴッホしかない。ということで、何年か前から、これはゴッホが描いたゴーギャンの姿であると認められているわけです。一時期、「いくら何でもゴッホではあるまい」と思われていたぐらい、どうもうまくいっていない。鼻なんか、どうなっちゃっているのかというようなものです。

つまりゴッホという人は、何か大事な意味を持ったものを描こうと思うと、かえってうまくいかないということがあって、これはゴッホの人間関係の特徴で、まさにゴーギャンとの共同生活がそうですけれども、「頑張ろう」「ほんとうに大事にしたい」と思うと余計悪いほうへ悪いほうへと行ってしまう傾向があるように思われます。

 したがって、ゴーギャンとゴッホという関係をあらわす場合も、人物や想像で描くより、こういうやり方のほうがうまくいったようです。これも有名なもので、(ゴーギャンの椅子)と(ゴッホの椅子)です。


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http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_chaise00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%83S%83b%83z%82%CC%88%D6%8Eq%81i%89%A9%90F%82%A2%88%D6%8Eq%81A%83p%83C%83v%82%AA%8D%DA%82%C1%82%C4%82%A2%82%E9%88%D6%8Eq%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_chaise


つまり、ゴーギャンが座る椅子と自分の座る椅子。ゴーギャンの椅子には、ゴッホが精神の糧と考えていたフランスの小説であるとか、明かりのついた蝋燭が置かれています。先程のお父さんの絵には、明かりの消えた蝋燭がありました。明かりが点いているということは、まだ生きている光という意味です。さらにそれを強調するように、光を放っているランプがあります。ゴーギャンの椅子が立派で、ひじ掛けもついているのに対して、ゴッホの椅子は粗末な藁で出来ていて、ゴッホが好んでいたパイプタバコが置いてある。これは対になる作品ですが、こんなふうに自分とゴーギャンを表す場合も、肖像画で対にするのではなくて、物であらわす。こういうやり方のほうがゴッホにとってはうまくいくようで、人間と直接対して、人間の姿として表すことは苦手だった。そう思われるわけです。


男女関係も苦手


 もう1つゴッホにとって苦手な対人関係で、作っていくのが難しかったのが男女関係です。シーンとは一生に生活しているし、その他、生涯に大きな失恋を3回か4回経験しています。そういうものとか、お母さんとの関係、妹との関係も含めて、ゴッホの女性関係はどうだったかという本が最近出たばかりです。ゴッホの女性関係も彼の個人的なキャラクターからいうと、とても重要です。

 ゴッホはパリ時代に2〜3点ヌードを描いています。けれども、ゴッホがヌードを描いたのはパリ時代の2〜3点のみです。生涯にわたって油彩画はこれだけです。パリ時代に若干、その前のアントワープ時代にはデッサンのための女性ヌードがありますが、油彩画で描いたヌードはこれだけです。


http://kaigastory.seesaa.net/article/143700634.html
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Weiblicher_Akt_auf_einem_Bett.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Liggend_naakt_anagoria.JPG
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Liegender_weiblicher_Akt.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vincent_van_Gogh_-_Liggend_naakt_1887.jpg

この女性ヌードにしても、一体女性のヌードに何を求めていたかがどうもよく分からない。伝統的な西洋絵画で女性のヌード画に求められていたものは、ここではほとんど感じられない。つまり、女性の裸の体の美しさ、あるいは曲線の美しさであるとか、肌の白さ、滑らかさなどが見られない。


(中川隆 注 : アントワープ時代は毎日朝から晩まで日本の春画ばかり見ていていて、娼館にも入り浸って梅毒に罹ったから、戒めに女性を態と醜く描いただけでしょうね)


 今日の我々の見方からすると、19世紀の画家たち、ルネッサンス以降の西洋の画家たちが女性の裸の姿を美しいものとして、とりわけ男性が鑑賞するものとして絵画の中で描き続けてきたことに関してはフェミニズムの問題とか、ジェンダーの問題があります。つまり、男性が社会を支配している中で、女性は単に見られるものとして描かれてきたという女性ヌードについての問題が、美術を見るときの重要な問題として最近浮かび上がっています。しかし、ゴッホが描いた女性のヌードは、ルネッサンス以来伝統的な、男性が目で見て楽しむようなヌードにはなっていないわけです。ゴッホがこういうヌード画をどういう視点をもって描いていたのかは、伝統的な女性美を描くといった、西洋の伝統的な絵画の描き方の中では必ずしもうまく説明できない部分があります。

 人物のプロポーションといった点でも、これがもし当時の美術学校で学生が習作に出したら、「こんなプロポーションはないだろう」と先生からすぐに突っ返されるような大変おかしなプロポーションになっています。左のものは美術学校にしばらく通っていた頃のモデルを描いたものですけれども、これなんかも、伝統的な女性のデッサンに見られる女性らしい体つきとか、理想的なプロポーションとはずいぶん大きくかけ離れています。右側は油彩画に描かれたもので、ここにある女性のヌードは、見てもお分かりのように石膏のモデルです。


http://blogs.yahoo.co.jp/pagannudes/17171225.html

けれども、ここでも女性の体が持っている、たとえば胸とか肩の線とか、お尻の線というものがあまりうまく表現されていないように思われます。

 この右側の作品における女性の体、ヌードは、作品を構成している意味からしても、けっこう重要なものなのです。と言いますのは、やはりここにもゴッホが愛読していた精神の糧としてのフランスの小説本があるのです。それからその外に、誰が見ても疑いない愛の象徴としてのバラがあるわけです。精神の糧としての現代小説、愛の象徴としてのバラがあるわけですから、当然そこにあるのは「たまたま自分の近くに画家が訓練するための石膏像があった」というだけではなくて、女性のヌードであることが深く関係しているに違いない。「愛」「精神の愛」あるいは「美」、そういったものが関係しているに違いないのですけれども、しかし、それを表すにしては、ヌードの石膏像は、必ずしも我々が一般に考えるような女性美をあらわすものにはなっていない。ゴッホが愛とか女性とか女性との関係といったものをどのように捉えていたかは、そう単純には読み解けないという要素がこの作品の場合にも示されているわけです。

 ゴッホが女性美をどう考えていたかに関しては、いくつか考える手だてがあります。たとえば、こういうものも、ゴッホが考える女性美が我々が一般に考えるものとは違うと思わせる例です。

ゴッホは独学で勉強した人ですから、美術学校へ行ったわけではない。独学で素描の勉強から始めるわけですけれど、そのときに、当時フランスで出ていた素描のお手本集という画集があった。それを全部うまく模写する。しっかり模写すると、だんだん素描の腕が付いてくる。基本的には素人画家のためのお手本集なんですが、そういうものがあって、それをゴッホは模写しています。生涯に3度ほどやっていますけれども、これは最も最初のものです。

左側はオリジナルです。もともとはルネッサンス期のスイスの画家であるホルバイン、肖像画で有名だったホルバインの素描です。そのお手本集にこれが複製で載っているわけです。右側は、ゴッホが一生懸命それに似せて描いたものですが、左のホルバインが描いた若い女性の美しさが、右側ではほとんど飛んでしまっている。顔だけ見ると、武田鉄矢じゃないかと思えるような顔になっているわけで(笑)、女性美に対する感覚は、ちょっと特異なものだったのではないかなと思われます。

ゴッホの特異な女性像


 そういうふうに見てくると、ゴッホが生涯で描いた女性の姿には、あまり美しいものがないですね。右側は先週「失敗作だろう」と言ったもので、左側は晩年のオーヴェールで描いたものです。


http://ameblo.jp/hansehi/entry-10215346033.html

下宿をしていた宿屋の若い娘さんの姿です。写真が今日残っていますが、とても可愛らしい、美人の部類に属する人です。しかし、目と眉のところをしかめたような顔をしていて、顔の色もちょっと青ざめたような色になっています。

 これは、やはり晩年、オーヴェールで描いたガッシェ博士の娘さんです。 晩年のゴッホが肖像画を描いているわけですから、何らかの形で親近感を感じていた、身近にいた数少ない若い女性だったと思われますが、両方とも、若い女性の持っている魅力が引き出されているかというと、必ずしもそうではないように思われます。ゴッホが生涯、実生活において女性とうまくいかなかったことが、ゴッホの描いた女性像にも反映されているように思われます。

 そういう意味で、ゴッホは、これまで見てきた印象派の画家たち、あるいは19世紀後半の画家たちの中でもちょっと変わったところがあるという気がするわけです。と言いますのは、これまでシリーズの中で見てきた画家たちの中でも、たとえばマネの場合は、大変なスキャンダルになった最初の作品からして、そもそも女性の裸婦がメインになっていたわけですし、ルノワールも風景画というより若い女性ですね。印象派の画家の中でもルノワールは、19世紀末から20世紀にかけて、ピアノを弾いていたり、水浴をしていたりといった美しい健康的な女性美を描くことを中心にしていたわけです。後期印象派の中でもスーラには(ポーズする女たち)という大作があるし、80年代にモネと一緒に風景画をメインとしていたセザンヌにしても、生涯最も大きな大作は、こういう(大水浴図)と言われているようなヌード像であるわけです。それから、言うまでもなく、ゴーギャンがこの後タヒチで描くのは基本的に裸婦の世界ですし、ゴーギャンの仲間であり、ゴッホと親しかったベルナールにしても、やはりこういう人物像を描いています。さらにもう1つ、次の世代のマティスにしても、ピカソにしても、初期を飾る最も重要な大作と言われるものは、たとえばマティスの(豪奢)と言われている作品とか、ピカソの(アヴィニョンの女たち)のようにヌードを主題にしています。マネ、印象派、後期印象派からフォーヴィスム、キュービズムに至るまで、画家たちがここ一番という大作を制作するときにに出てくる主題は「ヌード」なのです。

 そういうことからすると、生涯にわたってヌードをほとんど描かなかったゴッホは、この時代においてもかなり例外的な存在だったわけです。生涯にわたってほとんどヌードを描かなかったもう一人の例外はモネです。ゴッホが例外になった理由の1つには、ゴッホの女性関係という個人的な条件もある程度関わっていたと思われます。

 もちろん、それだけではないわけで、一方ではモネがなぜヌードを描かなかったのかといった問題とも関連します。先程申し上げたように、ルネッサンス以来、脈々と続いている女性ヌードという流れ、美術史の流れ、社会史の流れの中にジェンダーの問題があります。社会史の流れ、近代社会の中で、男性と女性の役割がどうなっていたかという観点も考えなければならないわけですが、そのようなものも含めて、ゴッホの女性像の特異さは一つの重要な要素としてあると思います。

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画家としてのゴッホの特殊な環境

 
ゴッホは基本的には画家としてきちっとした教育を受けていない。つまり素人画家から始まったということがあります。そういう意味では、ゴーギャンと似ているところがあります。ゴーギャンも最初から画家になろうと思ったわけではなく、株式仲買人として金融業に勤めるところから始まったわけで、ある程度の年齢に達してから画家を始めたということで、ゴッホはゴーギャンに親近感を持っていたのだと思われます。しかし、大きく違うのは、ゴッホは自分が正規の教育を受けていないことをかなり気にしている。と同時に、正規の教育を受けていないことがある意味ではゴッホの強みになった部分もあります。

 ゴッホが油絵を描きだしたのは1880年というずいぶん遅い時期であるわけです。画家になることを志してからも、ずいぶん長い間、彼は素描しかやっていなかった。つまりペンで描いたり、鉛筆で描いたり、木炭で描いたり、チョークで描いたりという作品だったわけです。

ハーグ時代から油絵を始めるわけですが、たとえばヌエネンで描いた左側の油彩画と右側の素描を比べてみると、左側の油彩画はそれほど出来のいいものではない。まぁ平凡な出来です。たとえば木の葉の部分など、全体としてとても平坦だし、これは柳の一種ですけれども、太い幹から枝がシュッシュッと出ている様子は、右側の素描のほうがとても力強く、木の生命力を感じさせます。油彩画の柳はヒョロッと立っていて、しかも素っ気なく葉が出ている。あるいは枝が出ていて途中で消え入りそうなところなどを見ると、この時代のゴッホは筆の使い方、油絵の具の使い方に慣れていないようです。

 自分でやってみると分かりますが、絵具をどれくらい固くするか、柔らかくするか、油で溶くか、どれくらいの太さ、どのくらいの固さの筆を使うかの選択は難しい。毛の種類によって筆の反発力が違うし、それを使いこなしていくのは結構大変なことです。ゴッホはオランダ時代には、まだ筆と絵の具の使い方に慣れていなくて、それよりも右側の作品のように、自分が慣れ親しんでいるペンの素描のほうがずっとうまくいっています。このオランダ時代のものには、主に固いペンを使って、縦方向と横方向の細かい線を重ね合わせていくハッチングというテクニックによって、奥行きや濃淡、ボリュームなどを大変見事に描き出しています。19世紀の素描作品として見ても、これは第一級の作品と言っていいと思います。

素描の腕前は一流


 それに対して、左側のオランダ時代の油彩は、もしゴッホが描いたものでなければ、今日とうてい美術館に入るような代物ではありません。彼は長い間、素描を描いていたわけですが、素人であって、油絵に慣れていないから描いていたという域を超えて、初期から素描に関しては大変な腕前を示していたと言えます。素描に親しんでいただけではなくて、素描がうまかったと言っていいと思います。

 これは、同じヌエネン時代の同じような並木道を描いた油彩画と素描です。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv001.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv065.htm


道がずうっと奥まで続いていく遠近法を使った様子も、右のほうがずっとうまく、明暗の感じ、光がどういうふうに射しているかという感じも素描のほうがうまく出来ていると思います。オランダ時代には、若干水彩を加えた作品も残していますけれども、これなんか、とても見事な水彩ですね。鉛筆の下書きの上にペンと水彩を非常に巧みに使っています。空間の描き方、対象の描き方、ボリューム、雨が降った後でぬかるんでいて、そこに吊り橋の影が映っている様子、空気とか天候とか、そういうところまで大変見事に描き出している。専門的な訓練を受けた当時の画家の作品と比べてもまったく遜色のない、あるいはそれ以上のたいへん見事な作品です。

 当時の画家は、素描の訓練をある程度受けて、すぐ油絵に移っていきます。当時の絵画の概念から言えば、素描や水彩より油絵のほうが本格的な絵ですから、ある程度の技量がつけば、すぐに油絵の訓練を受けるのが普通のやり方で、美術学校へ行けばそうなるわけです。しかし、ゴッホの場合はそういう教育を受けなかったために、非常に長いこと素描だけに専念できた。ある意味では、そのことで、伝統的な美術教育の中では発揮されなかったゴッホの素描の展開がもたらされたのではないかと思われます。

 これも初期の素描の一部ですが、細かい鉛筆、太いチョーク、白いハイライト、いろんな素描の材料を使用し、描く対象にふさわしいいろんなタッチを使って描いています。そういう意味では、ゴッホの素描は細部まで見ても見応えがあるもので、とりわけオランダ時代には、素描のほうが油彩画より実際見ていて面白い、見応えのあるものがたくさんあります。

アルル時代に素描と油彩画が対応


 先程は「主に直線」と言いましたが、直線だけではなくて、木の幹のこういう膨らみは回るようなタッチで描いている。また、縦の草の部分なども、まったく一様ではなくて、アクセントをつけながら、重なり具合によって濃いところ薄いところと、たいへん見事に線を使い分けて画面を構成しているわけです。左側のオランダ時代の柳を描いた作品における素描の線の扱い方は、ゴッホがアルルで獲得した油彩画における自由な筆のタッチとある意味では対応していると思われます。まったく同じような主題を描いているわけですが、ヌエネン時代、オランダ時代には、まだこれに対応するような、油絵の具でのうまい筆の使い方ができなかったわけです。

 アルルまでくると、素描でやっていたようなシュッシュッと長いタッチとか、放射状に広がるようなタッチとか、細かい部分の短いタッチとか、油絵の具にしても、いろんなタッチを使い分けて対象を描けるようになっている気がします。そういう意味では、ゴッホは、オランダ時代に素描でずいぶん長い時間を費やしたわけですが、それは決して遠回り、あるいは時間の無駄ではなかった。オランダ時代に素描という分野でいろんなやり方、いろんなタッチの使い方、いろんな線の引き方を訓練しました。パリでは新しい絵具のタッチの使い方、点描とか、平面的な塗り方を学びました。それがオランダ時代に獲得した素描の技法と合わさって、アルルでは、油彩画においても自由なタッチを獲得できたのではないかと思います。

 このように、ゴッホが最初からきちっとした画家の勉強を受けたのではなく、ずいぶん長いこと素描に取り組んだことは、ゴッホの油彩画の展開にとっても、きっと重要なものだったのでしょう。

 正直言って、パリ時代でも、まだ素描、水彩のほうがうまいですね。パリ郊外の工業地帯を描いた左側の作品は、構図からいっても、空間の奥行きからいっても、あまり出来のいい作品とは思えません。右側の素描の上に水彩を乗せたもののほうが、ずっと自由に画面構成も出来ていると思われます。ですから、パリ時代までは、ゴッホにとっては素描のほうがやり慣れた使いやすい技法だったと思います。それがアルルに行くと、素描と油彩画がほぼ対応するようになってきます。

 これは今回も来ている(種まく人)ですけれども、アルル時代あるいはアルルからサン=レミ時代に描いた重要な作品に関しては、それに対応する素描があります。その素描には2通りあって、1つは油絵を描く前の習作として描いたもの。もう1つは、油絵を描いた後、それをもとにしてパリにいる弟や画家仲間のベルナールに「こういう作品を描いたんだ。でもこの作品はアルルにあるから見せることができない。だからこういう素描を描いた」ということで、素描を描いておく。その2つがあります。

 この素描と油彩画を見比べると、性格がよく似ています。どういう性格が似ているかというと、それぞれの部分に使われているタッチの扱いがほんとうによく似ています。たとえば、地上の部分はこういうブツブツとしたタッチ、この部分は点描、麦の部分ではこういう縦長のタッチ、空の部分は放射状に少し点々が混じったようなタッチになっている。ゴッホは、基本的に、油絵と、それを基に描いた素描あるいはその基になった素描で、同じようなタッチの使い分けをしているわけです。したがって、ゴッホは、アルル時代に素描と油彩画をほぼ同一のものとして並行して描いていくことができる。自分が油彩画でやったことに関しても、色は抜けるけれども、ある程度素描で伝えられる。それを弟やら画家仲間のベルナールに伝えられるとゴッホは思っていたわけです。

 そういう意味では、ゴッホにとっては、色も重要だけれども、それ以前に何よりも重要なのはタッチである。ゴッホが油彩画のタッチを素描に移し得る、あるいは素描のタッチを油彩画に移し得るということが、こういう作例を見るとよく分かると思います。

 有名なアルルの(ラクローの野の収穫)といった作品でも実にさまざまなタッチが使われていますね。長いもの、曲線のもの、点々のもの。そのタッチが、油彩画の上でも、油絵具を使った筆のタッチとして、ほとんどパラレルに実現されています。さらに言えば、油彩画の基には水彩画があります。ゴッホというと、とかく色を使ったネットリとしたツヤのある油絵と思われていますが、実はゴッホにとっては、素描もとても重要だったわけで、ゴッホが素描でやっていることと油絵でやっていることにかなり密接な関連があるということは、たとえばこういう作品をご覧いただければお分かりかと思います。これなんかも、ほとんど色は1色で、「タッチで見せている油彩画だ」とお話したと思いますけれども、まさにエッセンスとしてのタッチは右側の素描にあります。ほとんどの重要な作品には、それと対になる素描が残っています。

 ゴッホにとって素描は、アルル時代以降、ずっと絵画の裏側にしっかりとくっついており、表裏一体を成しているものです。左側の麦の刈った束、そのタッチそのままが素描の上にあります。そういうことから考えると、ゴッホの油彩画におけるタッチは、ある意味でとても素描的です。とりわけアルル時代のゴッホはペン、葦のペンを使っています。葦の茎を切ったペンを使うと、グイグイッとした太い線が引けるのですが、ゴッホが素描において実現した線がそのまま生きている。そういうことからすると、印象派やゴーギャンと比べても、ゴッホの油彩画における絵具のタッチは素描的だ、デッサン的だと言えると思います。

 積み藁を描いたこの作品の面白いところは、実際の油彩画ではない、積み藁の渦巻くようなペンのタッチが見えていることです。この素描でも、いろんなペンのタッチの絡み合いが見どころになっています。こういうふうに見ていると、「なるほど、ここのタッチの動きは素描のこういうところに対応しているのだな」という感じがします。これは植物が絡み合うアルルの公園の様子です。この作品をお見せしたときは、「ほとんど風景画なんだけれども、抽象的なタッチの渦になっている」と申し上げましたが、それを素描にしてみると、一層抽象的な画面構成という感じが強くなっています。


水墨画に近づく素描


 これはアルルの近郊の風景で、ほぼ同じような場所を描いています。これなんかを見ると、ここでは岩や木のタッチの処理がどうもうまく出来ていない感じがするんですが、右側では、岩のゴツゴツとした感じとか、木が威勢よく葉を伸ばしている様子が非常に見事に描かれています。

 右側の素描に関しては「ペンの使い方の巧みさは西洋絵画を超えて、日本の水墨画のような感じがある」とよく言われます。場合によっては、ジャポニスムという部分もあると思います。日本の水墨画の画家たちは1本の筆を使いながら、それを様々に使い分け、濃淡を使い分けて、岩や葉っぱや流れを描き分ける。タッチの使い方、濃淡の使い方によって、1色なんだけれども、風景の全体をつくり上げるといった水墨画のやり方を感じさせるような素描の巧みさをゴッホは見せているわけです。

 アルル時代のこういう作品を見ると、ゴッホにとっては素描が油彩画を考えるうえでも重要な要素だったことが分かると思います。油彩画と素描を比べると、明らかに素描のほうが面白いというものもあります。これはゴッホがアルルから地中海にあるサントマリーというところへ出掛けたときに描いたものですが、右側を現地で描いて、アルルに帰って来てから左の油彩画を描いています。この草の生い茂る様子などは、油絵になると、タッチの変化がなく、おとなしいものになってしまったような気がします。これも現地で描いたものですが、こちらのほうがずっと力があるような感じがします。そういう意味では、アルル時代においても、画面のタッチの力という点では、素描が油彩画をある程度リードしていた面もあるかもしれません。

 これはやはりサントマリー、地中海を描いたものです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh26.html

現場で油彩画を描いて、アルルへ戻って来てから、それを基にして素描を描いています。たとえばこれなんかもハッキリしています。現地で描いた油彩画の場合は、波のような不定型で動いているものをどう扱ったらいいのかよく分からない。ところがペンで描いたもだと、実に見事に波の砕ける様子が描けている。こういうものに関しては、油絵ではどう処理していいか分からないけれども、素描ではきちっと処理できていると言えると思います。

サン=レミで完成したタッチ


 これも同じものを基にした作品で、もう1点、これは現地で描いた油彩画です。このへんがうまくいっていませんね。波がどうなっているかはっきりしません。しかし、それを素描にすると、こういうふうに出来るわけですね。波が押し寄せて砕けていく。ですから、サントマリーへ行った時点でも、まだゴッホは海のような難しい対象に関しては素描のほうがうまく扱えたようです。これもそうですね。まさに渦巻く波の様子が見事に描かれています。最初にお話したように、ゴッホはまだアルルにおいては完璧には自分のタッチを完成させていなかったわけで、それが完成されるのはサン=レミです。

 右側の素描に見えているような渦巻く様子、あるいは空の部分の雲でもそうですね。油彩画では頼りなくフワフワ浮いていますけれども、素描の場合は、渦を巻いて、しっかりとした雲という存在感を持っている。こういう存在感を持った対象を油絵で描くには、アルルはもう一歩であって、ゴッホがこういうことを達成したのはサン=レミだった。それをタッチのところでお話したわけですけれど、こうして素描で比べてみると、そのことが一層よく分かるかと思います。海を描くときには、アルルでもうまくいっていなかったように思われるわけです。

 これは右のものと対応している油彩画ですけれども、この油彩画の場合、波の部分は素描に見えているようにうまく処理されています。雲の部分もさっきのような頼りない様子ではなくて、しっかりと実在感を持った、まさにゴッホがサン=レミ時代に達成したようなしっかりとしたタッチをもっています。

 ただし、左側の作品はゴッホの真作ではなく、贋作です。かなり前まで真作だと思われていたのですけれども、贋作です。科学的な調査の結果、それが明らかになったのですが、これは様式的にも明らかに贋作です。どうしてかというと、先程見たように、アルル時代においては、ゴッホはまだこんなタッチは達成できていなかったわけです。素描においては既に達成できていたけれども、油彩画においてこのようなタッチが達成できるのはサン=レミへ行ってからです。ですから、アルル時代にこのテーマでこのような作品が描かれることはない。その意味でも間違いなくこれは贋作であるわけです。

 贋作者は当然サン=レミ時代のこういう作品を知っているわけですから、これとこれをうまく対応させているわけです。こういう渦巻くような空を描くんだったらこういうものを描くだろうと。贋作者が失敗したのは、アルル時代の主題なのにサン=レミ時代の様式で描いてしまったことです。

 そういうことから考えても、サン=レミに達成されたものはアルル時代にはまだ達成されていなかった。しかし、素描においては達成されていたものが、サン=レミに達成されたということが場合によっては言えるわけで、1時間目にお話した、ゴッホがいかにして自分の様式を達成したかという話の裏には、そもそもゴッホが個人的に素人画家として素描から出発したことが大変な強みとして働いていると言えるわけです。

サン=レミ時代


 サン=レミ時代になると、素描と油彩画が完全に1対1で対応するようになります。これが(星月夜)に対応する素描です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_Starry_Night_Drawing.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:VanGogh-starry_night.jpg


サン=レミの病院の庭を描いた油彩画と素描です。試しに左側の油彩をモノクロで撮って素描と並べてみると、こうなります。絵の性格としてはほとんど同じであることが分かるとかと思います。タッチの部分、空の部分なんかも、よくよく注意しないと、どっちが素描でどっちが油彩画だか分からなくなってしまう感じさえあるわけです。

 これも病院の窓から見た麦畑の油彩画と素描です。これも油彩画のほうをモノクロにしてみると、こんな具合です。つまりゴッホの素描は、色を抜いた油彩画とほとんど変わらないような性格のものであるわけです。これはサン=レミ時代の(糸杉)。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Zypressen1.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Zypressen.jpeg


糸杉の渦巻くようなタッチ、空の渦巻くようなタッチは、素描で実現されているものと同じです。これは、大変抽象的な絵になっていると申し上げた(オリーブの果樹園)と、それに対応する素描です。素描を見てみると、油彩画に見られる「うねっている線」が、油彩画の線というより、もともと自由に動くペンで達成された「素描の線」であることが見てとれるかと思います。

 オーヴェール時代にも、その自由な線をもった素描、あるいはそれに水彩をさした作品は、こんなふうに見られます。オーヴェールの農家の藁葺き小屋を描いた作品。こういうものにしても、特に右側のようにちょっと淡い色がついているものは、素描と油彩画がほんとうに近い性格のものであることが分かると思います。そういう意味では、ゴッホの作品は、油彩画であっても、とても素描に近いものである。素描は素描であっても、ゴッホの油彩画にとても近いものである。右側は水彩画、左側は油彩画ですけれども、こういうところのタッチなんかも、この油彩画から色さえ抜けば、素描じゃないかと思われるような作品になっているわけで、ゴッホの画家としての特殊性、素描家としての特殊性、素人画家という特殊性が、美術史の中でゴッホの油彩画を考えるときにも、とても重要なものであることがお分かりいただけたと思います。

静物画の意味するもの


普段はあまり重要視されないんですが、ゴッホにとってとても重要なものに静物画があります。最初の時間にご覧いただいた表の中で、パリ時代にとても静物画が多いことをお話しました。パリ時代に風景画よりも人物画よりも多いのが実は静物画なのです。

 たくさんの静物を描いています。最後に「パリ時代の静物画にはどういう意味があったか」に触れておきたいと思います。パリという大都会にあって、ずいぶん人もたくさんいて、仲間もたくさんいるにも関わらず、たとえば大都会の風景とか、周りにたくさんいる人物とかではなくて、なぜ、どんな場所でも描けるような静物画を描いたのか。静物画には場所とかまったく関係ないわけで、どこにいようと花とか果物とかさえあれば描けるわけです。どうして場所に関わりのない静物画を描いたのだろうか。これも一つの謎です。ゴッホはパリにいて、一番人々との交わりもある中で、どうして自分だけの一番小さな静物の世界に閉じこもったのか。そして、なぜそれだけ作品が多いのかは謎ですけれども、その理由は別としても、ゴッホがやったことは、とても重要です。

 これはゴッホが描いた静物画です。最初の時間にお話したように、こういう静物画において、ゴッホはタッチの盛り上げをたいへん強調して使っています。そのようなタッチに関して、ゴッホは、とても尊敬していたモンティセリという画家から、何ということのない花瓶をゴツゴツと盛り上げた絵具で粗いタッチで描いていくことを勉強したに違いないわけです。

 これはモンティセリの(花)の部分図です。間違いなくこういう作品において、ゴッホはモンティセリから大変大きな影響を受けたと思われます。これはゴッホの作品の部分図です。花びらをグイグイと盛り上げた絵具で構成していくのは、ゴッホのパリ時代の初期の静物画の特徴です。それに対して、こういうモンティセリに習ったようなゴツゴツとした、しかしタッチとしては全体としてまとまりのあるものがなくて、雑なタッチが画面全体に満ちているといったようなものに比べて、パリ時代の後半になると、ゴッホは静物画において、ある意味では違う実験を行います。


(ひまわり)の実験


 それはどういものかと言えば、アルル時代の(ひまわり)に見られるような実験を既にゴッホはやっています。アルル時代の(ひまわり)は、黄色の中に黄色を描く。どうやって背景といろんなものを区別していくかというと、たとえば背景の部分はザラザラとしたタッチで見せる。そして花弁の部分はグイグイと放射線状のタッチで見せる。それからこういう部分はまた別のタッチを使うといったような、タッチの描き分けをやる。同じ色なんだけれど、タッチの使い分けで示していくということをやっているわけです。実は静物画においてタッチを見せていくことは、アルルで初めて起こったことではなくて、パリにおいて既に行われていることでした。

 これはパリ時代の中で最も注目すべき静物画です。まさにこれはアルル時代の(ひまわり)の先駆であって、画面全体真っ黄色です。しかも、ゴッホがつけたオリジナルの額まで真っ黄色です。その真っ黄色の中に、梨とかブドウといった果物を描きながら、それをタッチの描き分けで見せています。これが部分図です。こういう長いタッチであるとか、回っていくようなタッチ、それからハイライトの部分では点々。この静物画に見られるこういうタッチの使い方は、今日お話したような、ゴッホが素描でやってきた使い方、あるいはアルルの風景画でやっていたこと、それらにある意味では対応しているわけです。それから、たとえばこういうところでは濃淡を線でつけていく。暗い部分には暗い部分で線をつけていく。こういうハッチングもそうですね。油彩画の場合、明暗をつけるときには、暗い部分から明るい部分までをなだらかに塗っていくわけですが、このように線を重ねることによって、暗い部分、明るい部分を描き分けていく。これはどちらかというと素描のやり方なんですね。

 ですから、ある意味ではこの作品も油彩画ではあるけれども、ゴッホが素描で試みていた様々なタッチで構成されている。しかもこの場合はモノクロームです。モノクロームは普通白黒ですけれども、黄色一色でもモノクロームなんで、黄色という一つの色の中で、白から一番濃い黄色にちょっと緑がかかったところまでの範囲の中で、明暗とタッチの違いで画面を構成していくといったこのやり方は、実はパリの静物画の中で一番ハッキリしてきます。そういう意味では、おそらくパリのたくさんある静物画は、ゴッホが一番慣れた、一番身近で自由に扱いやすい静物画を素材にして勉強していた証拠でしょう。静物画は自分でテーマを決められるし、どういうものをどう構成していくか、自分で組み立てることができるわけです。机の上に置けばいい。いつでも果物さえ買ってくればできるわけですから一番簡単である。

 そういう一番簡単な素材を使って、自分がそれまで勉強してきた素描の使い方、タッチを組み入れながら一つの勉強をしていく。そういう場であったように思われるわけです。これなんかでもそうですね。「梨」といった対象だけを扱いながら、そこにどういうタッチを見せていくか。これなんかも机の上に置いてあり、これにしてもこれにしても、ここに何があるかよく分からない。机の上にこんな渦巻いているわけはないんですけれども、ここで対象の周りにタッチをつくり上げている。こういう放射状のタッチは、この後、アルルでもサン=レミでも空なんかに見られますね。人物の背景とか空とかに見られます。具体的に何を描いているわけではないけれども、画面全体を統一して、画面に描いている対象に視点を集中させるといった意味で、何を描いているかということからすると、ほとんど意味のないようなものを描いていく。この素描なんか一番ハッキリしていると思います。

 パリ時代の油彩画は、こういうふうに見ていくと、ある意味では実にシュールレアリスム的ですね。空間の中に果物が自分の生命をもって浮かび上がっているようです。そのような感じを生み出しているのは「タッチ」であるわけで、ゴッホの風景画における生命の源であったタッチがパリ時代にはそれを先取りする形で静物画に生かされていると言えると思います。

 最後にパリ時代の静物画のひとつの頂点をお見せして終わりたいと思います。(ひまわり)といえば何といっても有名なのはアルル時代の(ひまわり)です。しかし、個人的には、見方によってはパリ時代の切り花を描いた(ひまわり)の方がすごいものだという気がします。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Vier_verbl%C3%BChte_Sonnenblumen.jpeg

つまり、もう「枯れてしまったひまわり」という、ただそれだけの対象を机の上に置いて、それをどう見せるかというときに、色彩としてはそれほど大きなバリエーションがあるわけではない。右側はほとんど黄色から緑まで、左側は基本的に黄色と青との2色です。色彩的にはそれほど変化がない。しかも、さほど花弁がたくさん伸びているわけではない「枯れたひまわり」という、それほどの対象ではないものを2つボンと置いて、それをどう見せるか。この作品を見せている力は、タッチ以外にはないです。それもこういうザクザクとした、絵の具でしかあらわせないタッチから、画面の上にペンで描いたかと思われるようなこういうタッチまで使っている。つまり、油彩画のタッチと、素描におけるペンのタッチの両方を知り尽くした画家が、その両方を動員して、ここに「ひまわり」を描きだしている。アルルのひまわりは生命の象徴であり、光であり、躍動であり、生命力であるわけですけれども、このひまわりの場合には、枯れてはいても、なおかつ「生命を持っているような力強さ」があるわけで、それはまさにゴッホが素人の画家として駆け出しの頃から熟達してきた素描の力のに基づいているのだと思われます。

 もう1点、これは私が個人的にゴッホの(ひまわり)の最高傑作と思っているものですけれども、背景は何だかほとんど分からないですね。

赤の点々は何だろう。この明るい部分は何だろう。縦に通っている筋は何だろう。ほとんど抽象絵画としか思えないような背景。そこに4輪のひまわり。しかも切られたひまわり。特にこのひまわりは、手前のところで切った切り口が見えていますけれども、それがグイッとわれわれのほうに突き出しているようです。ゴッホの作品の持っているゴッホらしい、ある意味では最良の部分が、既にパリ時代の「ひまわり」にあらわれていると思うわけで、そういう意味では、ゴッホの作品における静物画も、決して無視できないものだと思われるわけです。


烏のいる麦畑


 最晩年の代表作である(烏のいる麦畑)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_champ00&picture=%89G%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81i%83J%83%89%83X%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_champ


これはもちろんゴッホがメインにした風景画の主題で、ゴッホが好んできた麦畑の主題です。青と黄色という色彩をぶつけ合わせて、なおかつその間に地面の赤という色、草の緑といったようなアクセントを配しながら、地面の部分でも地上の部分でも様々なタッチのうねりを絡み合わせており、この前に立つと、我々はこの道をたどって奥にも行くようだし、また向こうから烏が我々のほうに向かって飛んで来るようでもある。とても単純な構成ではあるけれども、横長の画面に幅広い空間がつくられていて、その空間の前に我々が立っている。その空間の前に我々はただ止まったものとして風景を見るのではなくて、我々が歩いて行くし、またその中で雲が渦巻いているし、麦畑は風に揺れているし、烏は声を上げて向こうから飛んで来る。その空間の中で、植物も動物もあるいは天も地も動いて、その揺れ動きが1つのタッチの絡み合いの中で1つの画面を構成している。タッチ自体の性格はずいぶん違っていますけれども、基本的なことから言えば、右側のパリ時代の横長の(ひまわり)にも共通するものではないかと思われるわけです。

 そういうことから考えてみると、風景画と静物画は必ずしも切り離されるものではなくて、ゴッホの全体像を考えるときには、メインのものだけではなくて、サブのもの、他の画家ならあまりやらないもの、あるいはゴッホの特殊な状況の中から生まれてきたものにも目を注いでみると、またメインの部分に対しても、いろいろな新しい光が投げかけられるのではないかと思います。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari3/ar3.htm


オランダ時代の主題


 右側はゴッホがまだ画家になろうと決める以前、ごく初期に描いた作品です。ゴッホは画家になる前にさまざまな仕事を転々としました。一時は貧しい人びとや労働者たちに教えを伝える伝道師になろうと心掛けましたが、うまくいかなかったのです。その一環で、ベルギーのボリナージュ炭鉱地帯で教会へ行くこともできない労働者たち、鉱夫たちのあいだを巡回しながらキリスト教を説くという仕事をしています。(袋を担ぐ女たち)(1879年)は、そのときの体験を基に描いた絵ですが、炭鉱地帯で重い袋を背にかついで歩いていく女性労働者たちの姿が描かれています。
 左側はセシル・ドゥアールという、先ほど見た、くたくたになって休憩している炭鉱夫を描いている画家の絵です。やはり炭鉱地帯、しかも女性の、とても過酷な労働を描き出しています。それと同じような様相をゴッホは描いているのです。ゴッホは、ただそれを絵にしたのではなく、むしろ画家以前に、その炭鉱地帯へ入り込んで彼らと一緒に寝起きしており、まさに最下層の人びと、ほんとうに生きているだけの最低限の生活を共にしています。かつキリスト教を伝道するという活動に挑んだわけですから、当然のこと、後に画家となったゴッホのスタート地点においては、社会の明るい面ではなくて、むしろ社会を底辺で支えている人たちの姿、人物を描こうということが一つの目標であったわけです。とりわけオランダ時代のゴッホの関心は、田舎の人びとの生活という「主題」に向けられることになります。

 ハーグ時代、ゴッホは画家になることを志していましたが、とにかくたいへんな貧乏生活でした。彼が描きだすのは、彼と同じように苦しい生活をしている人たちであり、ハーグの町中の風景を描くにしても、歩いているのは裕福そうな人たちよりも、むしろ労働者ふうな人びとですね。右側は国営宝くじ売場に群がる貧しい人びとの姿を描いたもので、こういうような都会の姿をゴッホは絵にしています。

 ゴッホは、農民の姿を描いた画家としてミレーを非常に尊敬していました。有名なミレー(種播く人)を基にしたゴッホの素描があります。ゴッホは生まれがオランダ南部の農村地帯で、子供の頃から農業に大変に親しみがありました。それもあって、偉大なる先輩ミレーをお手本にしたわけですが、まさにこれはミレー(種播く人)を手本にして模写した作品ですね。が、そういう模写をするだけではなく、オランダ時代、ヌエネンに暮らしていた頃には、実際の農夫にポーズをとってもらって、やはりミレーの絵で見たポーズが手本になっているのですが、農民の労働の絵を描いています。


人物画の割合が多い


 その時期の人物画のうち、圧倒的多数は農民の姿を描いたものでした。ゴッホが、たとえば種播く人という農民たちの姿を描いたのは、アルル時代からサン=レミ時代まで続いていきます。これは先週も見たアルル時代のゴッホ(種まく人)(1888年)です。ここでのポーズはやはりミレーを借りていることが分かるかと思います。

 ミレーやクールベと同じように、ゴッホの場合も田畑で働く男や女をいろんな形で描きだしています。腰を曲げて草を刈ったり、土を掘り返している女性の姿を描いた右側の絵はヌエネンで1884年に制作したものです。

 左側の絵で描かれているのはもっと過酷な労働かもしれません。本来は馬に引かせて地面を掘り返す鉄製の「馬鍬」というものですが、馬を雇えないので、その重い道具を農夫が自分で引っ張っている姿ですね。これは手紙の中の素描ですが、オランダ時代のゴッホは、たいへん苦しいけど大地に密着した農民の仕事振り、労働の様子を繰り返し描き、制作しています。それがオランダ時代ゴッホのメインの「主題」であったと言えます。

 左側のオランダ時代の絵には農民の顔、パイプも見える。ただ働いている姿のほかにも、農民のさまざまな様相、ヌエネンに過ごしていた男や女の顔を丹念に描いています。本来、画家は農民たちの肖像画を描こうなんて考えません。普通、肖像画というのは、誰かが自分の姿を描かせたり、誰か有名人を描くということです。だから、農民から肖像画の依頼など基本的にあり得ない。農民が注文することはないし、特定の農民の顔を見たいから絵を買うという人もいません。だけど、ゴッホはヌエネンで、何人でもはっきり区別できる個性あるものとして農民の顔を何十点となく描いています。そのゴッホの農民を描く興味は、アルル時代にも続いていくわけです。

 オランダ、ヌエネン時代の農民の姿を描きたい、あるいは農民の現実生活の場を描きたいという狙いの頂点にあるのがゴッホ(馬鈴薯を食べる人々)(1885年)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_mangeurs00&picture=%94n%97%E9%8F%92%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81i%82%B6%82%E1%82%AA%82%A2%82%E0%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%81X%81A%83W%83%83%83K%83C%83%82%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81A%90H%91%EC%82%C9%82%C2%82%A2%82%BD5%90l%82%CC%94_%96%AF%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_mangeurs


彼は、できるだけ多くの人たちに見てもらいたいと考えて、自ら版画も作っているわけです。このように見てくると、ゴッホがオランダ時代に主たる関心をもって描いた作品は、印象派時代の絵画の中で考えれば、大都会の人間が見た近代化と明るい未来へ向かって展開していく近代社会や工業化の明るい側面というよりも、むしろ近代化を大地に立って支えているという側面でした。少なくともオランダにいた時期までは、それを自身の関心の中心に置いていたと言えます。要するに、印象派の画家たちの興味よりも、むしろそれとは違う、同時代に流れていたクールベからの写実主義ないし自然派リアリズムの流れにゴッホの主題、様式があったということです。

 これはまさに農民の素朴な食事の様子です。しかし、家族というものが目的を共にして働いて、共に糧を得て、生きているという一つのあり方をゴッホは描きだしているわけです。その意味でも、オランダ時代のゴッホの社会的関心は、いわゆる印象派の画家たちとはかなり異なったものであったと言えます。

 (馬鈴薯を食べる人々)を見ると、とても苦しいのだけど、みんなで一つの働きをして、ジャガイモのような寒冷地にしか育たない、地味悪い土地でも育つような最低限の食物を得ている。とにかく家族一緒に同じ場所で生きていく。ある意味ではミレーから流れてくるような、大地にしっかり根を下ろした農業共同体社会といったものが描かれています。

 しかし、ゴッホが描いていたヌエネンという南オランダの農村地帯では、何百年も続いていた農業共同体あるいは家族の生活が実は変わりつつあったのです。それを示す機(はた)織りのテーマは、今回の展覧会にもちょっとしたコーナーがありました。左側は農村地帯の農家ですが、大きな機織機を使ってはた織りをしている人々の姿を描いています。なんとなく女性の仕事と思われますが、実はここで織機に従事しているのは男性なのです。左側はゴッホの絵で、右側は同じ時代のドイツ人、リーバーマンという画家が描いたものです。ドイツの農村地帯でも同じようなことが見られました。狭くて暗い農家の部屋の中に、入りきれないくらい大きな機織り機械が置かれて、はたを織っているのは男性です。こういうテーマがドイツでもオランダでも共通してこの時代に見られます。

 農村地帯に工業が入ってくる、いわゆる工業化展開の中では、家内制手工業はかなり古くからあったのですが、その次の段階に問屋制家内工業と言うか、大きな問屋という資本が機織り機という設備も原材料もすべて提供して、それぞれの家で加工させて、できた製品を問屋が引き取り、各戸に手間賃を払う形態があります。さらにその次の段階が工場制労働形態となりますが、これはその前段階で、農村の労働力を、まずそれぞれの家にいるままで、資本は全部問屋が出して製品をつくるという、この時代にオランダやドイツの農村地帯で共通して起こっている現象ですね。大きな織機で能率を良くする。そして、しっかり織るためには、女性ではなく、力強い男性労働力が必要である。

 女性はどうなるか。このゴッホの作品が典型的ですが、ヌエネン墓地の塔も見えますけど、外に見える畑で働いているのは女性たちです。ゴッホが描いたこういう姿が意味するのは、農村の中で男女が一緒に畑を耕すという昔ながらの情景がこの時代の工業化によって崩れつつあったということですね。

 つまり、より多く現金を稼げるものとして、男は農地へ出るよりも機を織る方が魅力になってくる。そうなると、畑の方は女性が主に耕すわけです。右側もゴッホが描いた素描ですが、男が機を織っており、その狭い部屋の中に赤ん坊もいる。男は赤ん坊の面倒を見ながら機を織る。お母さんは外で畑仕事をしている。そのように近代化が農村地帯ヘ進展していくことによって農村が解体されていく状況をゴッホは描きだしていたのです。なにげなく窓の外に見える情景ですけど、やはりこの当時、1870年代のオランダの農村地帯における近代社会化の流れ、真実を的確に映し出していますね。

 そう考えれば、ミレー(晩鐘)に表されていたような姿は1870〜80年代にかけては、ある意味で、もう過ぎ去った昔の理想のような世界になっていたと思うわけです。

 オランダ時代のゴッホは農村の実際の姿を描きだしていましたが、それに対して印象派の画家たちはどうだったでしょうか。先ほどモネやルノワールが大都会を描くときに影の部分より、もっぱら光の部分を描いたというお話をしました。農村を描くときにも、やはり、印象派の画家たちは、どちらかというと農村の明るい面を正面に押し出していますね。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari2/ar2.htm


印象派の中でのゴッホの位置


今日お配りした資料の裏側の年表をご覧いただくと分かりやすいかと思いますけれども、ここに「印象派・後期印象派の主要な画家たち」が並べてあります。

 ピサロから始まってシニャックまで、生まれが早い順に並んでいますが、「マネからゴッホまで」ということになります。そして、それらの画家が、印象派の1回目から8回目までの展覧会に参加しているか、していないかを示す○を付けてあります。ここでハッキリすることは、一番初めのマネと、最後のゴッホというのは、実は印象派の展覧会自体には出品していない画家であることです。


兄貴格のマネと弟分のゴッホ


 マネは印象派の画家たちからとても尊敬され、親しいグループの仲間であったのですが、印象派の展覧会には参加していません。言ってみれば、印象派の兄貴格といったようなところにあたります。またゴッホは、自ら画家になることを志したのが遅かったこともあり、印象派の画家たちとは直接接触はありませんでした。けれども、印象派からとても強い影響を受け、そのすぐ後に活躍した、言わば印象派の弟分と言ってもいい人です。

 年齢からいっても、ピサロという年長の印象派の画家を除いては、マネの1832年生まれからゴッホの53年生まれまでの間に大体入ってしまう。ちょうど印象派の世代の前後をマネとゴッホが囲んでいることになります。

画家としてのスタートが遅かったゴッホ


 ゴッホは印象派の展覧会にはまったく参加していません。それどころか、ゴッホがパリへ出て来たのは、まさに印象派の最後の展覧会があった1886年のことです。もちろんゴッホは画家になる前に画廊の店員としてロンドンの支店、あるいはパリ支店に勤めていたことがあるので、パリをまったく知らないわけではないのですが、彼が画家を志したのは、いろんな職業を転々とした後の1880年になってからです。そして、80年から85年まで、地元のオランダで、ほとんど独学で絵の勉強をしています。そして、アントワープを経て86年にパリに来て、そこでいろいろな印象派の作品にもある意味で初めて接して、そこから彼の画業というのが一気に進んでいくのです。つまり、ゴッホの実質的な意味でのスタートは「1886年」で、それはまさに印象派最後の展覧会の年であったわけです。

短期間に一気に学び、制作した


 それからゴッホは、パリに2年ほどいた後、アルルに1年、サン=レミに2年、そしてオーヴェールに数カ月という、南仏からパリ近郊にたどり着くまでの本当に短い間に、今日我々が見てパッと「ゴッホだ」と分かるような作品の多くを制作していきます。

 今日からの3回の話の大きな枠組みとして申し上げておきたいことは、ゴッホが活躍し始めた1886年は印象派最後の展覧会となった年ですが、そこから数年の間に、印象派が1870年代から80年代の半ばまで15年ほどかけていろいろと開拓してきたことを一気に学んで、自分の作風を展開させていったことです。

オランダ時代のゴッホ


 ここに出しているのは、ゴッホがまだオランダにいた頃に描いていた絵です。ゴッホが油絵を始めたのは1881年で、左側の絵はごく初期の油絵の1点です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv061.htm

木立の中の少女を描いたものですが、右側のものはゴッホのオランダ時代の作品で、ずいぶん後の1885年に農家の様子を描いたものです。オランダ時代の5年間は、ゴッホの様式、たとえば色彩の使い方であるとか、絵具のタッチの使い方は大きく変化はしていません。

オランダ時代の作品


 ゴッホのオランダ時代の作品は、これまでみなさんがご覧になってきたような印象派の作品とはずいぶん違います。風景画もずいぶん違っていて、まだ印象派以前の、あるいは印象派たちが60年代に見せていたような茶色とか黒とか、灰色とか、そういう色を使っています。ひとつ前の時代の、たとえばクールベ、ミレーなど、バルビゾン派の画家たちの作風に似ています。もちろん、それに並行するようなフランスの19世紀半ばの影響というのがオランダでもあって、ゴッホの先輩たちはこういう絵を描いていた。それをまずゴッホは学んだわけです。またゴッホは、オランダ時代には、風景画だけではなくて、こういう広い意味で言う人物画もたくさん描いています。

 左側のものは、ゴッホ美術館にある大変有名な(馬鈴薯を食べる人々)という作品で、ゴッホが接していた農民の生活を描いたものです。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_mangeurs00&picture=%94n%97%E9%8F%92%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81i%82%B6%82%E1%82%AA%82%A2%82%E0%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%81X%81A%83W%83%83%83K%83C%83%82%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81A%90H%91%EC%82%C9%82%C2%82%A2%82%BD5%90l%82%CC%94_%96%AF%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_mangeurs


右側は、ゴッホが生活していたヌエネンというゴッホのお父さんが牧師をしていた町です。正確に言うと、オランダの発音では「ニューネン」といいます。今回の展覧会では「ヌエネン」ではなく、「ニューネン」という表記になっていますけれども、我々は「ヌエネン」という言葉に慣れているので、今日のお話でも「ヌエネン」と呼ばせていただきます。これはヌエネンの、ある農家での機織りの様子を描いたものです。タッチがずいぶん荒くて、ゴツゴツしている。そういう意味では、ずいぶん新しい要素も含んでいるのですが、しかし、基本的なタッチの使い方とか、色彩全体があまり派手でない暗い色彩であるといった使い方は、まさにゴッホのオランダ時代の典型であって、古い様式を示しています。

 これはオランダ時代、ヌエネンで描かれた静物画です。右側のものは(聖書と本のある静物画)と呼ばれるヌエネン時代の代表作で、今回の展覧会でも最初の部屋に出ている、とても立派な堂々とした作品です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv054.htm

ここに描かれているのは、フランスで当時はやっていた「黄表紙本」という黄色い表紙のゾラの小説です。この絵からは、ゴッホがオランダにいたときもフランスの文化にたいへん憧れを持っていたことが偲ばれます。しかし、この作風は、当時の印象派の向かっていた方向からはほど遠い作風を示しています。左側はリンゴの入ったバスケットですが、これもやはり同じような暗い色調を示しています。左側の作品は、1885年の(ヌエネンのポプラ並木)という題名の作品で、ゴッホがオランダを去って、アントワープを経てパリへ行く直前のオランダでの最後の作品の1点です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv065.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv001.htm


右側は逆に、アントワープを経てパリへ出た1886年の一番初期の作品です。


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1886年パリへ

ゴッホを待ち受けていた印象派の画家たち


 オランダからパリへ着いた直後のゴッホはどういう様式を持っていたかを示す作品が右側の作品で、このようにオランダの最後の作品とパリの最初の作品を比べてみると、パリへ到着した時点では、ゴッホは、まだそれほど新しいものを学んでいるわけではありません。オランダの様式をそのまま引き継いでいる。ただ、オランダのヌエネンの教会の見える田園風景から、パリのちょっと気のきいたレストランへと主題は移っていますが、まだこの最初の段階では、色彩の扱いはオランダ時代とまったく変わっていないことがお分かりいただけると思います。

 さて、70年代からヨーロッパ各国、あるいは日本の画家たちの間で、美術の都としてのパリの名声が高まっていきます。そこにいろんな様式が流れ込んでくる。そして、パリ自身が次から次へと新しい美術の動向を生み出す。そのパリにあって、ゴッホはすぐにいろんなものを吸収していくことになります。

 たとえば同じレストランを描いた絵ですが、右側もレストラン。左側はもちろん違うレストランですが、左側になると、もうみなさんがこのシリーズの中でご覧になってきたのに近い、鮮やかな色彩で、タッチなんかも細かい点々を使っています。暗い茶色でも、いろんな色を混ぜ合わせてつくるという筆触分割で表現し、絵具の鮮やかな色をできるだけ失わないように、画面の上でそれを併置していく印象派の典型的な色の使い方、タッチの使い方があらわれています。右の作品と左の作品の間は1年ほどしかないのですが、ゴッホがもうすっかりパリの最新流行の印象派の作風を吸収したことを示しています。

 これが部分です。こういう部分なんかでも、ほんとうに明るいタッチを並べていくという描き方で描いています。こちらは1887年にパリで描かれた、なんということのない主題なのですが、パリ郊外の傾斜地にある木と草とかを描いたものです。全体がとても明るい。そして点々であるとか、やや短めの、あるいはやや長くてスッとしたいろんなタッチを重ねることによって、郊外の明るい自然光の下の印象をサッと素早く描き止めるといった方法をゴッホはここで学んでいます。

モネ


 たとえば、主題は違うのですが、右側は1887年のゴッホの作品で、左側のモネの作品は1886年の、ちょうどゴッホがパリへやって来たぐらいの年に描かれたものです。たとえば空のタッチであるとか、地面の草をあらわすタッチ、全体の色調といい、まばゆい程の夏の明るい印象を生み出している絵具の色遣いと言い、筆の使い方といい、ゴッホが左のモネのような作品に学んだことが良く分かると思います。あるいは、右側はゴッホの作品、左側はモネが1878年に描いた作品ですが、たとえば、町中に三色旗が溢れている。その三色旗がチラチラと揺れている印象を、ザクザクッとしたタッチで描いている意味で有名な作品ですが、モネのものに比べると、ゴッホの場合には、もう少しタッチが大きなまとまりを持っています。ゴッホが右のような作品を描くにあたっては、左のモネの作品などをお手本としたことは、まず間違いないと考えています。

 もちろん、印象派の中にも、あるいはモネの中にも、いろんなタッチの使い方があるわけで、もう一つ違う作例をお見せしますと、左側はモネの作品の中でも全体がとても細かいタッチになっている。セーヌ河沿いのポプラ並木で、木の葉がチラチラと光を照り返す様子を大変細かいタッチに分割して表現しています。右側はゴッホのセーヌ河を描いた1887年の作品ですが、木の葉あるいは川岸の草が夏の明るい光をチラチラと反射する様子をあらわすために、こういう細かいタッチを散りばめています。この手法を見ると、やはりゴッホは印象派から、とりわけモネから学んだと言えると思います。


後期印象派の影響


 しかし、ゴッホは、印象派の展覧会に出品していたような、つまり自分より1世代ちょっと上のモネとかルノワールとかいう画家だけではなく、当時パリにいて新たに活躍を始めた、ちょうどゴッホと同世代で、後に我々美術史家が「後期印象派」と名付けることになった画家たちからも多くのものを学びます。その1例をここにお見せします。両方ともゴッホの作品ですが、ゴッホは印象派のようなタッチをモネ等から学ぶと同時に、それをもっとシステマティックにした「点描」を身に付けている。画面全体を点々点々で描いていく。点で描くことによって、より一層明るい状況を描きだすといった手法も身に付けることになります。


スーラ


 右側はパリ郊外の道の様子を描いたもの。左側はゴッホが転がり込んだ弟のテオの住居から眺めたパリの町の様子で、こういうところにまだ少し長めのタッチがありますけれども、全体を細かい点々で表現していくポワンティリスム、「点描派」の様式をゴッホはここで学んでいます。そして、その点描の様式の代表者がスーラです。ゴッホと並んで後期印象派の中に数えられます。スーラはゴッホより6つも年下ですが、ずっとパリで暮らしていて、最後の印象派展である1886年の第8回印象派展に出品しています。ゴッホからみれば、6歳も年下なのだけれども、これから本格的に絵の勉強を始めようかという状態で、出て来たばかりのまったく無名の自分に比べて、印象派の次の世代として頭角をあらわしてきた、それも印象派の手法を展開させて、印象派とは違う新たな点描の様式を紹介するような大胆な試みをやっている、言ってみれば当時の前衛画家の最先端を走っていた画家なわけで、そのスーラから、ゴッホは点描のやり方を学んで、自分でも試みます。


シニャック


 左側はスーラの典型的な点描の作品です。右側はそれを学んだゴッホの作品です。これはスーラの仲間であったシニャックの作品です。ゴッホはスーラにひかれてこういう典型的な点描の作品を描いていくわけです。ゴッホとの関係から言えば、何回か会ったことはあるのですが、それほど親しいというわけではない。それに対してゴッホとシニャックとは、個人的にもわりと親しいところがあったようです。それで、アルルでゴッホがゴーギャンとの問題を起こして入院した後、ちょうど南仏に行きがけだったシニャックが、ゴッホのことを心配してアルルに立ち寄っています。

 シニャックのこういう作品は、もしかすると、右側のゴッホの作品の直接のお手本になったのではないかと思われる節もあります。主題の点でも、ゴッホがずいぶんシニャックから学んだと思われるのは、左側はシニャックが描いたパリの郊外のアニエールにあったガスタンクが見える工場街ですが、そのアニエールの工場街をゴッホも描いています。様式の上からいうと、シニャックほどの点描ではなくて、もう少し印象派風の長いタッチなんかも見えますけれども、テーマから言うと、パリの郊外の工場地帯なんていうのは、シニャックから学んだものかも知れません。あるいは、テーマが似たもので言えば、左側は、ここにサインがあるように、シニャックが84年に描いたモンマルトルの風車です。右側はゴッホが86年に描いたモンマルトルの、風車がここにあるところで、風車の前の手すりと街路樹なのですが、同じような一連のものですね。同じような手すりと街路樹とガス灯があります。

 こんなふうに、ゴッホはパリへ出て来て、それまで自分があまり扱ったことがない都会的な風景、そういう主題、パリという町、そしてパリで活躍していた画家たちから学んでいくわけです。ゴッホはパリで風景画も描きますし、静物画もたくさん描いています。静物画といえば、先程オランダ時代のところで右側に(聖書のある静物画)と左側に(リンゴの入ったバスケット)をお見せしました。右側の作品は、バックが暗くなっていますけれども、手前の花瓶から花のところ、手前の机のところなんかは、ずいぶん鮮やかな色彩で描かれています。たとえば左側はモネが描いた静物画。モネは風景画を主体とした画家ですが、けっこう静物画にもいいものがあります。これはモネが描いた(ひまわり)の静物ですが、ゴッホはパリへやって来て、印象派の静物画のタッチもずいぶん学んだように思われます。

 これなんかは右のものに比べれば、さらに一層パリで学んだものがハッキリしているわけで、こういうところは大変鮮やかな色彩、ザクザクとしたタッチ、背景のところには、スーラとかシニャックから学んだような点々の点描のタッチが見えています。左側の作品なんかは、どう見てもオランダの画家の作品ではなくて、まさにパリの画家の作品になっています。


 
ジャポニスムの洗礼


 みなさんご存じだと思いますけれども、ゴッホがパリで学んだもう1つ重要なものがあります。それは日本の浮世絵です。「ジャポニスム」です。調べてみると、ゴッホは既にオランダにいた頃から、ある程度日本の浮世絵、日本の美術には興味を持っていたのですが、それを本格的に勉強して自分でじっくり研究したのはパリに行ってからです。

左側は安藤広重がつくった(名所江戸百景)の中の(大橋あたけの夕立)という作品ですが、それをゴッホは自分で持っていて、コピーしています。彼なりに翻案して、周りに日本風の文字などを書き込んでいます。


http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_bridge.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_sluie00&picture=%93%FA%96%7B%8E%EF%96%A1%20:%20%89J%82%CC%91%E5%8B%B4%81i%91%E5%82%CD%82%B5%82%A0%82%BD%82%AF%82%CC%97%5B%97%A7%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_sluie


ここでゴッホが学んだものは、いくつかありますが、たとえばよく言われる「大胆な視点」ですね。橋を上から見下ろす鳥瞰図の試みや「色使い」です。あるところをハッキリと青、ハッキリと緑と塗り分けるような大胆な色使いとか、いろんなものを学んでいます、

 もう1点お見せします。やはり広重の(名所江戸百景)の中から(亀戸の梅屋敷)ですが、特にここでは広重の作品が持っている「地面は緑色」(緑色の地面なんてどういう地面だろうと思いますが)「空は赤い」というこの大胆な「緑と赤」という、いわゆる補色、ぶつかり合う色を平面的に処理していくやり方。あるいは、テーマである「梅の木」を、全体像を見せるのではなく、一番手前に持ってきて、上下左右どちらもトリミングしてしまう大胆な構図の取り方などをゴッホは学んだのです。ゴッホは印象派から学んだものとは別のものを学んでいます。


http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_kameido.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_prunier00&picture=%93%FA%96%7B%8E%EF%96%A1%20:%20%94~%82%CC%89%D4&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_prunier


印象派の作品からゴッホが学んだものは、言ってみれば、全体はとても明るく、そして同時に全体を細かいタッチに分割していくことによって全体の明るさ、光の様子をあらわすという手法です。

 ところが、ゴッホが日本の浮世絵版画から学んだものは、それとは逆で、全体を細かいタッチに分割するどころか、むしろどちらかと言うと、タッチを見せないで、大きな平面的な塗りに還元してしまうことです。

それはまさに日本の浮世絵が持っていたものですね。あんまりハッキリとした陰影付けもなく、たとえば木の幹の部分は若干濃淡のあるベタ塗りである。版画なのですから当然そうですね。1つの版の上に絵具を塗っていくときに若干濃淡をつけることによってしか差がつけられないわけで、本来、日本の木版画はとても平面的な表現を持っている。ゴッホがパリで日本の浮世絵版画から学んだものは、印象派から学んだものとはずいぶん違う。

 1つ共通しているのは「非常に鮮やかな色彩」です。けれども、それをどう表すかという表し方からすると、

日本の浮世絵版画からゴッホが学んだものは、むしろ平面的なベタ塗り、強烈な色彩のぶつかり合い。

それに対して、印象派から学んだものは、どこかで強烈な色彩がぶつかり合うのではなくて、さまざまな青も緑も黄色も使われているけれども、それがどこかで直接ぶつかり合うのではなくて、細かい点に分割されて画面全体に散りばめられている。


絵具を塗っていくやり方からすると、ずいぶん相反するような、その2つのものをゴッホは同時にパリで学んでいます。 もしこれがゴッホのような画家でなければ、いきなりそれが出てくるのではなくて、たとえば2〜3年は一方の方向に進んでみて、それで行き詰まったと思ったら別の方向を試みるような行き方があったかも知れないのですが、ゴッホの場合は年齢も考えて、そんな悠長なことはやっていられない。しかも、パリにいつまでいられるか分からないという事情でしたから、とにかくものすごく旺盛にさまざまなものを吸収していくことになります。


ゴーギャンとの邂逅


 ちょうど、当時ゴッホの近くにいて、ゴッホに影響を与えつつ、一方で自分自身も日本の浮世絵の表現から強い影響を受けた画家にゴーギャンがいます。左側はゴーギャンが1888年にブルターニュで描いた(説教のあとの幻想)と呼ばれる作品ですが、たとえばこの左側のゴーギャンの作品には、ゴッホが手本にしたような日本の浮世絵の影響が歴然としています。たとえばゴーギャンは、重要なモチーフである木の幹を画面の一番手前のところでぐっと部分だけ見せるという表現、地面の色としてあり得ないような赤い色を完全にベタ塗りするようなやり方を日本の浮世絵から学び、また別の部分は、ヨーロッパ中世の伝統的なステンドグラスから学びながら、大胆な色彩を輪郭線のハッキリとした平面的な色面によってぶつけていくという表現を開拓していたわけですが、ゴッホは日本の浮世絵と同時に、こういったゴーギャンのやっていたことも近くにいて十分学んでいたと思います。
 
 ゴッホがパリで学んだものは、まず先輩格であった印象派、とりわけモネなんかのタッチ、それから、そこを引き継いで、彼と同じような世代の前衛の先頭に立っていたスーラの点描のやり方、それから、後にゴッホやスーラと一緒に後期印象派にくくられることになるゴーギャンが示していた強烈な色彩による平面的な画面構成です。そういうさまざまな異なるものをゴッホはパリで吸収し、そしてそれをまとめていく次の段階に入っていくのです。

印象派の発展的解消と後期印象派の台頭


 1886年から88年にかけてがゴッホのパリ時代ですが、実は86年にパリへやって来て、88年頃までパリに暮らしたというのは、たまたま偶然だったのですが、西洋の印象派以降の絵画史の中でとても重要な偶然だったと思います。というのは、先程も申し上げたように、1886年というのは最後の印象派の展覧会の年でした。最後の印象派の展覧会をゴッホは見ることができたわけです。さらに重要なのは、たまたま最後の印象派の展覧会のあった1880年代の半ばというのは、印象派の画家たち、60年代後半から活動を始めて74年に第1回の印象派展というデモンストレーションから世にだんだん知られるようになっていった印象派の画家たちが、ある程度世の中から評価を得る一方で、同時にひとつの曲がり角に差しかかった時期でもありました。

 1886年の印象派展というのは、参加している人を見ても、それまでの印象派展とはずいぶん違います。当初からのメンバーで参加しているのはドガとピサロだけです。シスレーもセザンヌもモネもルノワールも参加していません。それに代わって、第4回から参加していたゴーギャンが最後にも出品しています。それから先程お話をした前衛のトップを走っていたスーラ、そしてシニャックが参加しています。つまり第8回の印象派展というのは、もう印象派展というよりも、今日の我々からすると、後期印象派展のような様相を呈していたわけです。

 さらに言うと、1886年の第8回の印象派展には、今日の我々からすると想像もつかないような画家の名前が見られます。その代表格は誰かというと、ルドンです。ルドンというと象徴主義の画家であって、印象派とはまったく反対のように思われる画家ですが、そのルドンが参加しています。そういうことから考えると、もう第8回の印象派展というのは、ほとんど印象派展とは言えないものです。

印象派の中でも、その周辺でも、次の世代が80年代から登場し始める。そういう状況があって、印象派の画家たちもちょっと売れるようになってきている。けれども、もう次の世代が新しい様式をもって追いかけて来るときに、自分たちはどうやってそれに対抗して世の中に訴えかけていくかということを印象派の画家たちが本気で考えなければならない。それが1880年代に起こったのです。 そのような印象派と後期印象派、新旧の世代がちょうど交差する、その一番いいときにゴッホはパリにやって来たわけです。

印象派の画家たちの中でも、ほんとうに「風景画がメインだ。風景画が勝負なのだ」というのは、実はモネ一人ぐらいなわけで、考えてみると、印象派の画家たちは風景画をずいぶん大事にしたわけですが、彼らが美術界の中で、あるいはパリの画壇の中で、ここ一番勝負というと、やっぱり伝統的な人物画を描く。これは西洋絵画の長い伝統ですから、それに逆らえない部分があります。

 ゴッホが86年にパリへやって来て出会った印象派の画家の多くは、その心中にまだ根強く人物画の重要度を認識している人たちで、印象派の画家たちが曲がり角に差しかかって、人物画が再びクローズアップされつつあった。まさにそういう時期でした。この86年から88年という時点において、風景画をメインに描いていたのは二人。一人はセザンヌ、もう一人はモネだったわけですね。左側はセザンヌが82年から85年にかけて描いた南仏のエスタックの風景です。右側は86年から90年頃だろうと言われているエスタックの風景です。

 印象派の中で風景画を描くセザンヌとモネの二人のうち、ゴッホがパリにやって来たとき、セザンヌは既に南仏へ帰っていて、こういう南仏風景をパリへ送って発表していたわけです。もう一人、モネという人は、最初から風景画家になるつもりはおそらくなくて、できれば人物画で成功したかったはずです。モネが初期にサロンに送ろうとしていた、あるいは送った作品は、こういうものだったわけですね。等身大の大画面の人物画ですが、それがうまくいかなかったのでモネは風景画に転向していったという部分もあると思います。この左側の1886年の(日傘をさす女性)、これは2点あって、対になっています。それから右側、これは西洋美術館にある(舟遊び)という作品ですが、この2点がモネが大画面で描いた人物画のほとんど最後のものです。86年、87年にもう一度こういう人物画を描いたのを最後として、モネは決然として大画面での人物を捨てて、風景画へ戻っていくことになります。

 このように、ゴッホがパリにいた86年、87年というのは、まさにモネにとってもルノワールにとっても大きな曲がり角でしたし、印象派の中で風景画がどういう位置を占めるかということにとっても、とても大きな曲がり角であったわけです。そして、もう1つ、非常に興味深いことは、そのような印象派の中でも、風景画を自分の当面のメインのフィールドと考えたセザンヌとモネという二人の画家が、ちょうどこの頃、二人とも南仏風景を描いていたことです。先程も言ったように、セザンヌは1882年にエクスへ戻って、それからしばらくは、もちろんパリと行ったり来たりしますけれども、彼の主題は南仏風景なります。他方、これは、両方ともモネが描いた、モナコの近くのボルディゲラの風景ですが、モネは1884年に初めて南仏へ行って、こういう南仏の植物が生い茂るような、そして青い海がある地中海の風景を発見します。そして84年に地中海を発見したモネは、もう一度88年に南仏へ行って、このような作品を描きます。

 これは偶然なのですが、84年代の半ばから後半にかけて、印象派を代表する二人の画家たちが、自分たちの風景画の新たなテーマとして南仏を発見した。これはとても重要なことで、なぜこのことを強調して申し上げるかというと、ゴッホがパリでいろんなものを吸収した後、パリを離れて、何か独自のものを描きたいと思ったときに選んだのが南仏だったからです。

パリを去るゴッホ

南仏の開拓者になりたい

 パリを去ったとき、ゴッホはいくつかの選択をしました。その1つの重要な選択は、パリでいろんなものを見てきた末、自分は人物画ではなくて、風景画を当面メインにしようという選択です。それをゴッホは決意したと思います。そして、自分が風景画で生きていくために、風景画で新しい分野を開拓していくために、どこへ行けばいいのかと考えたときに、ゴッホの重要なお手本になったのは、セザンヌとモネであったと思います。南仏の明るい光、まだパリの人達があまりよく知らなかった新鮮な南の明るい光の中での風景画を自分が開拓したい。ゴッホは手紙に書いています。アルルから弟のテオに宛てて、「自分はいまようやく始まった南仏の開拓者の一人になりたいのだ」と言っています。


何のために?


 ゴッホは、当時の印象派の風景画の中で、明るい色彩と明るい絵具のタッチで戸外の風景を描きだしていく印象派に最もふさわしい主題として、これからは「南仏があるんだ」ということをセザンヌやモネの作品から学んで、そして南仏へ行く。ゴッホはなぜ南仏へ行ったのだろうか。そして、南仏の中でもなぜアルルだったのかは分かりませんが、南仏という選択は、ゴッホが風景画という選択をしたことと強く関わっていると思います。

 ゴッホが実質的に絵画を制作していた期間は10年にならないんですね。その間に880点の油彩画を描いていますから、1年間に90点近く。これはものすごい制作力です。そのことは別として、いまこの話の中で参照していただきたいのは、油彩画の中で、風景画と人物画とその他がどれくらいの割合であるかということです。ゴッホは最初は人物画でいきたいと思っていました。誰でもそうです。最初から風景画でいこうなんて思う画家は、この時代にはまだいなかったでしょう。

 絵画として一番ランクの高いのは人物画ですから、画家を志そうとした人は、まず人物画を描きたいと思うわけです。たとえば本格的に絵画を始めた最初の頃の作品数を見ると、ハーグ時代は25点、ドレンテは10点ですから、ある程度の有効な統計的な数字があらわれるのは、ヌエネンでの190点ですが、その190点のうち、風景画はたった25%で、大部分、半数以上が人物画です。(馬鈴薯を食べる人々)を含めて、様々な農民の姿とか(機を織る人)とか、風景が背景にあっても、メインに人物が大きく描かれた作品、これがゴッホのメインです。

 そしてゴッホがやりたかったことが一番典型的にあらわされたのは、テーマはもちろん「農民の家族」ですが、複数の人物。実際に彼が描いた(馬鈴薯を食べる人々)はそれほど大きくない作品ですが、あれを大画面に描くことが彼の夢であった。大画面の複数の人物からなる群像構成が彼の夢であったわけで、ヌエネンで描かれた、たくさんの農民の頭部などは、そういう大画面構成の群像構成の習作であったわけです。そういう意味では、ヌエネンでのオランダ時代の彼の興味は人物画にあった。それからアントワープの10点というのは、これはちょっと過渡的なところで、あまり参考にならない数字ですが、人物画が7点です。

 パリに行くと、これはとても不思議なのですが、人物画も風景画もパーセンテージは減って、その他が多くなります。その他の圧倒的多くは静物画です。 その後、アルル、サン=レミ、オーヴェールと行くにしたがって、彼のたくさんの作品の中で風景画の占める割合がだんだん高くなっていきます。それに対して、人物画の占める割合がだんだん少なくなっていきます。ハッキリと統計的な数字から分かることは、ゴッホがかなり意識的に自分のメインをだんだん人物画から風景画へ移していったことです。

 美術史という学問は、ただ何となく感覚的に見ているだけではなくて、このようにある程度数字で出してみる。そうすると、特にゴッホのように作品点数が多い画家の場合は、ある程度有効な統計的な数字が出て来ます。これを見ても、ゴッホがパリを発ったとき、アルルで何をやろうかと考えたときのメインは、おそらく風景画にあった。風景画をやりたいと思ったからこそ都会を離れた。風景画のテーマとして当時セザンヌやモネが開拓しつつあった南仏へ行ったのは、気まぐれの思いつきではなく、自分の道はどこにあるかを考えた上での結論だったと私は思っています。

アルルで明確になった進路


 ゴッホの進む道は、アルルへ行った時点でかなりハッキリしていたと思います。アルルでゴッホがやることは戸外の明るい風景画です。自分が使う様式、手段は、「明るい絵具」と、印象派から学び、部分的にはスーラから学んだ「点描」、モネから学んだ「自由なタッチ」であることをゴッホはハッキリと意識していたと思います。2月にアルルに行くのですが、左は最初の花咲く時期に描いた作品で、右は夏の盛りになってきた時期のものです。こういう明るい戸外の花咲く庭ですが、とりわけ右の絵は花の1つ1つが点々というタッチで描かれていて、アルル時代の作品の典型的な様式を示しています。こういう自由なタッチで明るい風景を描くことをゴッホはアルルで展開していきます。 

 テーマからすると、もうほとんど何ということのない、何かとりわけて見どころがある風景というわけではなくて、身の回りにある明るい光の中の風景を手当たり次第にゴッホは描いていくことになります。アルルという町は地中海に面してはいないのですが、地中海に面したサントマリーというところに3泊程で遠足に出掛けて、地中海の海の様子とか、サントマリーの町、青い空の下でラベンダーの花が咲いている典型的な南仏の風景をゴッホは熱につかれたように描いていくことになります。アルルの周辺は穀倉地帯であり、6月も盛りになってくると、あたり一面、小麦が黄金色に実ります。何が描かれているかというモチーフからいっても構図からいっても、とても単純なものですが、右の作品も左の作品も、そうした様子を明るい色彩と活き活きとしたタッチで描いているところが見どころです。

 ゴッホは弟のテオ宛ての手紙で、南仏の明るい太陽に照らされた運河の水を「エメラルド色のような」と表現していますけれども、そういう水の美しさをゴッホは描きました。海、空、麦畑、花畑、運河、そういったものをゴッホは描き続けていく。今日われわれが典型的なゴッホだと思うような作品が次から次へと生み出されていくことになります。それだけではなくて、夜の風景、とりわけ青い空に星が輝く、澄みきった南仏の深い青い空に星が輝く、そういう夜景も描いています。右側のものは、一昨年日本でやった「ゴッホ展」にきていたもので、左側は今回の「ゴッホ展」にきている、アルルで描かれた夜景の中でも代表的な作品です。


人物画を描きたい


 こういうふうにゴッホは、アルルで次から次へと風景画の素晴らしい作品を生み出していったわけですが、もちろんある程度、人物画も描いています。またアルルでも、ゴッホは最終的には人物画を描きたいという希望を捨ててはいません。何しろ自分と同じ世代で、自分より先を走って行くスーラやゴーギャンが人物画でとても素晴らしい作品を描いていることを知っています。だから「自分はできれば人物画を描きたいのだ。でもまだ自分は人物画を描くほどの力がない。力がないから、とにかく、いまは風景画を描いているのだ」と弟のテオには言っていますけれども、それでもモデルが得られて人物画を描くチャンスがあれば、肖像画のようなものを描いています。

 たとえばアルルで描いた代表的な肖像画でいえば、アルルにたまたま滞在していたベルギー人の画家であるウジェーヌ・ボックという人を描いた左側の作品、それから右側はアルルで知り合った年老いた農夫を描いた作品ですが、こういうような、とても力強い肖像画も何点か残しています。ただ、アルルで描いた肖像画に共通することなのですが、風景画と比べると違う。


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アルルでの風景画で、ゴッホは、パリで学んだものの中で言えば、モネとかスーラから学んだものを生かしていたのですが、たとえばこの2点の肖像画はどうでしょうか。ゴッホがパリで学んだものからすると、お手本は何でしょうか。モネやスーラではないですよね。たとえばゴーギャンとか、日本の浮世絵とかいうものですよね。

つまり、輪郭線がハッキリしていて、その中であんまり細かい筆のタッチを見せない。大胆な色彩、たとえば「オレンジと青」とか、「青と黄色」とか、強烈にぶつかり合う補色関係に近いような強烈な色面を、いきなり輪郭線を通してぶつけ合う。つまり日本の浮世絵とか、ゴーギャンやその仲間のベルナールがやっていたような「クロワゾニズム」、黒い輪郭線の中に鮮やかな色彩を埋めていくやり方に近いものを示しているのです。

 メインは印象派、スーラの流れを引く鮮やかな細かいタッチで色彩を散りばめていく風景画だったのですが、一方では、このような違う様式を持った人物画、肖像画もアルルでは並行して描かれていました。そのようなゴッホの持っているアルルでの二面性が、ゴーギャンが来ることによって大きくバランスを崩すことになります。言うまでもなくゴーギャンはこちらの様式を持った人ですね。そして人物画をメインとする画家であるわけです。

人物画への傾斜


 1888年の秋にゴーギャンがアルルにやって来ると、これはハッキリとパーセンテージ的にも言えますけれども、ゴッホの中では人物画が増えます。これは、私が学生時代にクレラー・ミュラー美術館で手持ちで撮影したものなので、ちょっとぼけているかもしれませんけれども、今回の展覧会にきている(ラ・ベルスーズ)と呼ばれている、ゴッホがアルルで親しくしていた郵便配達夫、左側のジョゼフ・ルーランという人の奥さんの肖像ですが、こういう人物画が多くあります。


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この2点とも、ゴーギャンが来てからゴッホが描いたものです。秋から冬に向かうにしたがって、南仏でも寒くなりますから、戸外での風景画より室内での人物画ということはあると思いますけれども、何よりもゴーギャンが来てから人物画が増えたのは、ゴーギャンの圧倒的な影響によるものに間違いありません。

 これは先程右側に出ていた、オーギュスティーヌ・ルーランという同じモデルをゴッホとゴーギャンがイーゼルを並べて描いたものです。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Gauguin_-_Madame_Roulin.jpg

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv009.htm


中央にモデルがいて、右側と左側から描いています。たとえば、このゴッホの作品の場合は、左側のゴーギャンの作風ですね。画面全体を輪郭線をもった大きな色面で構成していくことが非常によくあらわれていて、とにかくキャンパスを並べて描いていますから、影響がないわけはない。とりわけゴッホはゴーギャンのことをとても尊敬していますから、ゴーギャンの影響がとても強く出てきます。
これもゴーギャンを手本にしたもの。ゴーギャンがアルルで描いたアルルの公園の様子。

http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin20.html

ゴッホはそれを見た上で描いた。これはアルルの情景ではなくて、ゴッホが(エッテンの庭の思い出)、つまり昔両親と一緒に暮らしたオランダの様子を思い出して描いているものです。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh86.html

 タッチからすると、まだここにはスーラ張りの点描が見えます。けれども、スーラ張りの点描はありながら、画面の構図とか、それぞれの部分を大きく輪郭線でくくって色と色をぶつけ合うといったところは、完全にゴーギャンの影響下にあります。そして何よりもゴーギャンの影響が最も強くあらわれているのは、そもそも(エッテンの庭の思い出)という主題自体です。

 それはどういうことかというと、ゴーギャンという人は、とにかく人物画を描く。そして

「人物画でも最高のものは、宗教画とか歴史画とか物語画とかいうもので、そういうものを画家は想像力で描くんだ。あくまでも一人一人の人物はモデルがいて、描くのだけれども、たとえばイエス・キリストを描くときに、イエス・キリストそのものがいるわけではなくて、誰か男のモデルを写した上で、しかし描かれる世界は空想の世界なのだ。絵画は頭で描くのだ。テキストを読んで、そのテキストをどうやったら視覚化できるかを考えて頭で描くものなのだ。抽象のものなのだ」

という考え方をゴーギャンは持っていました。 ですから、ゴーギャンはゴッホにいつもこう言います。

「君はとにかく目の前にあるものしか描かないけれども、それでは画家としてほんとうの歴史画とか宗教画は描けない。ほんとうに歴史画とか宗教画とかを描きたければ、目の前にある人物をモデルにしてもいいけど、作品の主題自体は頭でこしらえて描かなければいけない」。

そのゴーギャンの言うことを受けた上で、ゴッホはゴーギャンがいるときに何点か頭で描く作品を描いています。そのうちの1点がこれです。つまり、いま目の前にはない、自分の記憶の中にしかないエッテンの庭の光景、実際いま目の前に見えていない人物、具体的に言えば自分のお母さんと妹なわけですが、それを自分の想像力で描くことをゴッホはここでやっている。

 ただ人物画であるというだけでなく、あるいは構図とか色彩の扱い方にゴーギャンの影響が強くあらわれているだけではなくて、作品の描き方、描く態度、主題自体が実はゴーギャンの影響をとても強く受けているのです。ゴッホがそれまであまりやってこなかったことを、ゴーギャンとの共同生活の中でゴッホは行っています。

 先程お見せした絵で描かれているモデルは、オーギュスティーヌ・ルーランという、当時アルルに暮らしていた郵便配達の奥さんですが、しかし、この作品は単にオーギュスティーヌ・ルーランの肖像であるだけではなくて、ここに(ラ・ベルスーズ)とわざわざ題名が書いてあります。「ラ・ベルスーズ」とはどういうことかというと、「子守女」あるいは「子守歌」ということです。ゴッホは自分の弟のテオに宛てた手紙の中で「この作品はこういうふうに飾ってほしい」と書いています。真ん中に「ラ・ベルスーズ」を置いて、両脇にひまわりを置くという構成は、昨年、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館でやった「ゴッホと花の展覧会」でこういう飾られ方をしたので、覚えていらっしゃる方もあるかと思います。

 結論だけ言うと、ゴッホはこういうふうに飾ることによって、宗教的な三幅対、真ん中に聖母子像があって、両脇に複数の聖者たちがいる三幅対を考えているので、ゴッホはこれを宗教画として考えている。

つまり実際に描かれているのは、目の前にいるオーギュスティーヌ・ルーランという個人なのですが、そこに描きたかったものは、個人であるよりも、むしろ母親、たとえば聖母マリアといったものだった。

そういう意識があるわけで、そういうことからすると、やはりこれもゴーギャンがいたからこそ描かれた、とても概念性の強い作品だと言っていいと思います。
 これもやはりゴーギャンの影響下で描かれたもので、左側はゴーギャンがアルルの酒場を描いたものであり、この手前に描かれているのは、その酒場の女主人であったジヌー夫人という人です。

http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin18.html


この作品を見て、ゴッホはこういう作品を描いています。人物画です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_ginoux00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%8F%97%81i%93%C7%8F%91%82%B7%82%E9%83W%83k%81%5B%95v%90l%81A%96%7B%82%F0%8E%9D%82%C2%83W%83k%81%5B%95v%90l%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_ginoux


そして、ここでもゴッホは、単にジヌー夫人の肖像画ではなくて、ここに本を置いており、(読書する人)というような、単なる肖像画ではない意味を与えています。これも、主題の上でも描き方の上でもゴーギャンの影響がとても強いものです。くっきりした赤、緑、黄色、青というような色をぶつけ合っています。


本領を封じられたゴッホ


 けれども、ゴーギャンの影響下で描かれたこういう作品、とりわけ概念性の強い人物画の大多数は、結論から言ってしまうと、失敗作だったと言っていいと思います。つまり、ゴッホは本来目の前にあるものを目の前にあるように描く。それから何よりも、きっちりとした枠取りの中にものの形をおさめるよりも、自由なタッチを使って描く。自由な色彩を画面全体に散りばめて描くのがゴッホの本領だったと思うわけで、ゴーギャンに強くひかれたアルル時代の88年の秋から89年の初めまでは、ゴーギャンが来なければ、本来ゴッホがパリで印象派から学んだことからアルルの風景画で一気に進められたものが、ちょっと逆戻りした時代だと私は思っています。

 本来ゴッホが持っていたものに本来のゴッホとは異質なゴーギャン的なものが入ってきたことが、単に美術史の上だけではなく、、ゴッホとゴーギャンが個人的にぶつかったことの1つの原因でもあったと思います。 様式の上で、ゴッホとゴーギャンがアルルで暮らしていた時代は、ゴッホにとってはちょっと不本意ながら、ゴーギャンに強くひかれ過ぎた時代だと私は考えています。

アルル時代に描かれたゴッホの駄作


 ゴッホがアルルで描いた、ゴッホの全生涯を含めて最も駄作と思われる作品をここでお見せします(笑)。これは日本の個人蔵となっています。もしかすると、この中にお持ちになっている方がいらっしゃるかもしれません(笑)。そうでしたら大変申し訳ないと思うのですが、これはゴッホが想像で描いたものです。まさに右にあるのと同じような(読書する)という絵。ここに電球か太陽かよく分からないものがある。つまり「読書」によって「精神の光」をあらわそうとした、とても概念的なものです。しかし、電球だか太陽だか分かりませんし、図書館の中で本を読んでいる女性なのですが、手といい顔といい、デッサンも何もなっていなければ、構図もないというような作品です。これもゴーギャンの影響で、「読書は精神の糧なのだ。光なのだ」ということを無理やり表現しようとした結果、どうしようもない作品になっている(笑)。

 やはり本領はこういうところにないという1例と思っていただきたいと思うわけです。ゴッホの本領はこういうところですね。これは残念ながら今回の展覧会にはきていませんけれども、クレラー・ミュラーが持っているとても素晴らしい作品ですが、何の変哲もない平べったい平地を縦にくるタッチ、横にくるタッチ、細かいタッチ、様々なタッチのバリエーションをつけながら見せていく作品です。
 これは先程右側に出ていた作品の部分です。全体として、どこが緑色、どこが青というように大きな塊はないけれども、画面全体にいろんな色彩があり、花とか草とか木とか、それぞれ描く対象に応じて、それを描くのにふさわしいタッチを見せていく。これがやはりゴッホの本領だと言っていいと思います。これもアルルの作品です。これはアルルの郊外のモンマジュールというところに修道院の廃墟があるのですが、そこの風景です。これは部分図です。

 部分図だとよく分かると思いますけれども、ゴッホにとって絵具は単にものを描写する手段、たとえば木の幹だとか葉っぱを描写する単なる描写の手段ではなかった。まさに画面の中に絵具というツヤのあるものを置く。しかも同時にそれが葉っぱであったり、雲であったり、木の幹であったりする。絵具であると同時に葉っぱであり、葉っぱであると同時に絵具である。そのようなものとして、筆を使って絵具を画面に置いていく。場合によっては、指を使ってこねていくといったように。

 ゴッホにとって絵は、概念的なものであるというより、絵具、絵具のタッチ、筆が画面の上に残していく痕跡といったようなものです。目の前にある葉っぱとか岩とか雲がダイレクトに黄色い絵具とか緑の絵具に結び付くのが彼の制作のあり方です。もちろん、そういう制作のあり方を最初に開拓したのは印象派の画家たちです。中でもとりわけモネだったと思いますが、そのようなモネが開拓した、絵具と目に見える世界との関係をさらに先へ進めたのはゴッホであった。その道を如実に示しているのがアルルでの風景画だといわれています。 

 左側はアルルでの風景画の1つの極です。細かいタッチよりも長いタッチで、枯れていくような、あるいは夏の光でまっ黄色になった草と柳の枝が描かれている。太陽から発する光を絵具の筋、タッチだけで示している。

 右側の絵は、アルルの運河に輝く光、水の輝きを、単なる色だけではなく、タッチであらわしていくというゴッホの目指していたもの、印象派からゴッホが引き継いで完成させていったものを示していると思います。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Starry_Night_Over_the_Rhone.jpg

こういう作品を見ると、ゴッホにとっての印象派は、必ずしも鮮やかな色彩が充ち満ちているものとは限らなかったのですね。

 たとえば印象派の中でも、ほとんど色彩がない「雪景色」などがけっこう重要な役割を果たしていますから、「印象派の作品=鮮やかな色彩」とは必ずしも言えないのですが、ゴッホの作品の中でもそうです。たとえば、左側の(星月夜)にしても、色からすると単なる青と部分的な黄色だけです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh49.html

だけど、その青と黄色という非常に単純な2色が、さまざまな絵具のタッチの組み合わせによってこれだけ複雑な画面を生み出し得ることをゴッホは示しています。左側の作品には鮮やかな青があります。

色彩、タッチ、絵具のツヤ


 右側の作品なんかには、ほんとうに色らしい色はない。みんな中間色、もやっとした灰色に近い色です。これは耕された畑をあらわしています。印象派の作品と比べると、とても地味な作品ですが、この作品が何でもっているかと言えば、まさに掘り返された畑のうねの盛り上がった土の様子、ここの部分図です。鋤(すき)を押して畑を耕している人物が描かれている部分ですが、こういう畑の土の盛り上がり、あるいは人物、馬、空の雲、そういうものが、まさにハッキリとした手応えをもった絵具のタッチでこしらえられている。ゴッホにとってほんとうに風景画で大事だったのは「色彩、タッチ、絵具」なんですが、こういう作品を見ると、その中でもほんとに「タッチ」がとても重要だったことが分かると思います。

絵具のツヤ


 スライドで見るとよく分かりませんが、ゴッホにとって絵具が大事だったことは、展覧会の会場で見ていただくとよく分かります。今回の展覧会の会場には30点のゴッホの作品の他に、ゴッホに影響を与えたシニャックとか、ゴーギャンの仲間だったラバールであるとか、セザンヌの作品も出ています。それをご覧になっていただくとよく分かるのですが、そもそもセザンヌにしてもゴーギャンにしても、こういう「盛り上げ」というのは使っていません。わりと全体に層の薄い絵具です。それをゴッホと比べてみると、とにかくゴッホは絵具の盛り上がりがものすごいことが分かります。 

 もう1つ違うところは、ゴッホがセザンヌやゴーギャンやシニャックとハッキリ違うところは「絵具のツヤ」です。ゴーギャンやセザンヌやシニャックの画面の表面はカサッとしています。セザンヌやゴーギャンやシニャックは、絵具をわりと多くの揮発性の油で溶いて、表面をカサッと仕上げます。とりわけゴーギャンという画家は、ちょっと粉をふいたような、白っぽくなったくらいの表面のテクスチュアを好むのですが、ゴッホは絞り出したまま、ほとんど揮発油で溶かないツヤツヤとした絵具を好みます。会場でご覧になると、そのことがとてもよくお分かりになると思います。

 ゴッホはそれほど絵具のツヤを大事にした。セザンヌやゴーギャンやシニャックにとって、絵具は、自分が描きたい対象なり主題なりを描くための手段という部分があります。けれども、ゴッホの場合は、絵具が単なる手段ではなくて、絵具がそのもの自体としてツヤを持ち、盛り上がりを持ち、存在感を持っている。絵具は「畑の土であると同時に絵具である」といったこと、それはゴッホがパリで印象派に学び、スーラやゴーギャンからもいろいろ刺激を受けながら自らの道としてアルルで確信し、展開していったと思われています。

 これなんかも、色彩からいってもテーマからいっても何の変哲もないもので、まさに「絵具のタッチを見せる」「絵具のタッチを感じてほしい」それだけで成り立っているような作品ですね。あるいは、今回来ているアムステルダムのゴッホ美術館の(種蒔く人)。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh35.html
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh36.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_semeura00&picture=%8E%ED%82%DC%82%AD%90l%81i%8E%ED%82%F0%82%DC%82%AD%90l%81A%94_%95v%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_semeura


この左側の(種蒔く人)は6月に描かれたもので、まだゴーギャンが来る前のものです。ですから、画面全体はわりと単純であるし、(種蒔く人)という主題は、ゴッホにとっては概念的なものなのですが、種蒔く人の姿もそれほど大きくはなっていません。

 先程の話にもう一度戻ると、同じ(種蒔く人)でも、これはゴーギャンが来る直前に描いたものです。種蒔く人が風景画全体の中で一番小さくなっている。色彩の点でも地味なものになっていて、むしろ畑のごつごつとした土がメインになっている。ゴーギャンが来る直前には、ゴッホはここまで風景画の試みを進めているのですが、ゴーギャンが来ると、この同じ(種蒔く人)という主題でも、ずいぶん違ったものになります。

 これがゴーギャンが来たときに描かれたもので、ゴーギャンが来る前はこうだったものが、ゴーギャンが来ると、いきなりゴーギャン張りのものになって、「種蒔く人」も画面の後ろのほうにいるのではなくて、中央に出て来ることになります。そして、これが一番ゴーギャンの影響の強い(種蒔く人)です。先程、ゴーギャンが来たことによって人物画がメインになってきたと言いましたけれども、風景画の中でも、たとえば(種蒔く人)を描いた風景画の中では、これだけハッキリとゴーギャン張りの作風が強くなってきます。

 これなんかは、ゴーギャン張りであると同時に、パリで学んだ広重、日本の浮世絵から学んだようなものが強く反映されています。あるいはゴーギャンが直前に描いたこういうものの影響は明らかです。それから、ゴーギャンの影響という点で忘れることができないのは、左側のゴーギャンが描いた(青い木のある風景)。これも当時のゴーギャンの典型的な風景画で、ゴーギャンはこういう様式を持っていたのですが、おそらく「風景画もこういうふうに描け」とゴッホに言ったのでしょう。
 それがよく分かるのは、ゴーギャンがゴッホと机を並べて描いた(ルーラン夫人)です。背景にあるこれ、何だと思いますか? 実はゴーギャン自身の絵なんですね。おそらくゴーギャンは、この絵をアルルへ持って行き、ゴッホに見せることによって、ゴッホの目の前で「風景画はこう描くものだ」と示したのでしょう。
 これだけではありません。これはゴーギャンがアルルで描いた有名な(ゴッホの肖像)です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Gauguin_104.jpg

ゴッホが(ひまわり)を描いているところ。アルルで、ゴッホの前でゴッホの肖像を描いた、その背景にも、やっぱり同じ作品の部分があります。ちょっと構図は違いますけれども、黄色い道があって、緑の道があって、青い木が生えている。だからゴーギャンはゴッホの前で、風景画においても「とにかくこう描くのだ」ということを、とてもハッキリと強要したと言ってもいいと思います。そういうことをやっている。ですから、人物画ではなくて、風景画においても、ゴッホの中には大変ハッキリとゴーギャン張りがあらわれてきます。 

 これはアルルの有名な名所である古代の石のお墓が並んだ並木道です。実際のアルルの景色を前にゴッホが描いたものですが、これは明らかにゴーギャンのこの作品を手本にしていますね。


http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin98.html

ゴーギャンの作品を手本にして、それを非常に単純にしたようなもの。
ですから、ゴーギャンが来たことによって、人物画がメインになっただけではなく、風景画においても、ゴッホがそれまで持っていたアルルで獲得した持ち味がなくなって、言ってみれば、紋切り型というか、型にはまったような風景画になってしまったのです。

サン=レミからオーヴェールへの旅立ち


 もう1点、これなんかも典型的ですね。左の絵なしにはあり得ないもので、これなんかも、ゴッホの作品の中では、ほんとうに型にはまった身動きのとれないものになっています。もちろん、手前に木の幹を並べて、画面の上とか下で切ってしまうというのは、広重の作品なんかでも見たような、日本の浮世絵の影響がありますが、そういう日本の浮世絵から受けた影響なども、とても図式的なものになっていると言わざるを得ないと思います。

 こういうふうに、88年の10月からゴーギャンの影響があって、12月にゴーギャンとの決定的な衝突があって、耳切り事件があって、ゴッホは入院する。その間にゴーギャンは怪我をして入院したゴッホを置き去りにして、パリに逃げ帰ってしまうわけです。しかし、ゴーギャンがパリに逃げ帰ったことは、個人史としてはともかく、美術史の立場からすると、ゴッホにとってはとてもよかったと思います。つまりゴーギャンがいなくなったことによって、制作の上ではゴッホはすぐに自らを取り戻します。

 自らを取り戻したところ。これは、ゴッホが入院していたアルルの病院の中庭を描いたものです。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_jardin00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%95a%89@%82%CC%92%EB%81i%83A%83%8B%83%8B%82%CC%97%C3%97%7B%89@%82%CC%92%EB%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_jardin

もうここでは、ちょっと前の、とてもゴーギャンの影響の強かった、画面全体を非常にハッキリとした輪郭線で描き、タッチが見えないほど激しい色彩をぶつけ合っていくといった様式は、すでに跡形なくなっています。たとえば、直前に見た作品と比べてみれば、ゴッホがここで再び、画面全体に散りばめられた鮮やかな細かいタッチを取り戻していることがわかります。

 左側も1889年の初めに描かれたもので、主題から言えば、手前に木を置いて、日本の浮世絵の構図の影響があるものですが、画面全体は青、白から水色、青緑という1つの色調に整えられており、その中で、手前の部分はこういう方向へ、この部分はこう、幹はこういうふうにうねるような色彩で、花咲く果樹はこういう色彩と花をあらわすプツプツとしたタッチで、空の部分は横の方向へ進む短いタッチで、というふうに、ゴーギャン滞在中に抑えられていた様々なタッチのニュアンス、バリエーションといったものが再び登場しています。

 ゴーギャンが去った後、すぐにまた本来の自分の様式を取り戻したゴッホは、この後、誰にも邪魔されず、アルルから離れたサン=レミの病院に閉じ籠もります。個人史からすると、「病院に閉じ籠もる」というのは大変なマイナスですが、誰の影響も受けず、誰からも何も言われずに、自らの思うまま、周辺にある自然を相手にして描く、そういう環境が生まれたという点においては、アルルからサン=レミに移ったことも、美術史からすると、ゴッホの様式の展開のためには幸運だったという気もします。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari1/main.html

重工業化、近代工業化とともに、前の時代までの支配階層(王候貴族等)と市民と農民階層(平民たち)という身分制社会構造が、いわゆる資本主義の構造へと変化していく過程として急速に出現してくる。それが19世紀半ばから第1次世界大戦までの時期です。

 その間に大変な転換が見られるわけで、いわゆるバブル期もあれば、その反動としての恐慌もあるといったバブル・恐慌を繰り返しながら雪ダルマ式に近代資本主義世界が展開していく時代が、まさに美術史の上で言う印象派の登場からゴッホが死ぬあたりまでの大きな転換期であったわけです。 印象派やゴッホの絵画には、そのような社会的な大きな流れがいろいろな意味で深い関係を持っていたということがきょうのお話になります。


ゴッホの自画像

 
このスライドは、左右両方ともゴッホが描いた(自画像)です。左側のパリで描いたものは、印象派あるいはスーラなどの影響を感じさせます。明るく鮮やかな色彩、細かいタッチで描いていくという作風だったわけですね。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:WLANL_-_MicheleLovesArt_-_Van_Gogh_Museum_-_Self-portrait_1887_-_1888.jpg


 それに対して、右側はアルルで描いた(自画像)です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vincent_Willem_van_Gogh_111.jpg


先週見たように、アルルでは、風景画でずいぶん大胆な展開がいろいろあったわけですが、人物画の場合にはどちらかというと、奔放なタッチを見せるというよりは、わりと輪郭線がはっきりとして、大きく色の面が並べられるといった作風になっています。もう一つアルルでの人物画の特徴は、わりと抽象的な概念が付いているということでした。これも有名な、日本のお坊さんとしての(自画像)というものですが、かなり概念性の強いものですね。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_memec00&picture=%91m%97%B5%82%C6%82%B5%82%C4%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh


 アルルでの人物画の特徴をいちばん典型的に示している(自画像)といえば、この作品です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_memeb00&picture=%83p%83C%83v%82%F0%82%AD%82%ED%82%A6%82%E9%95%EF%91%D1%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C%81i%93%AA%82%C9%95%EF%91%D1%82%F0%8A%AA%82%AB%96%D1%94%E7%82%CC%96X%8Eq%82%F0%94%ED%82%C1%82%BD%83p%83C%83v%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh


ゴーギャンとの事件があり、入院して、まだ退院できるかできないかという頃に描いた、パイプをくわえて、耳を切ったあとの包帯がある(自画像)ですが、まさにゴーギャンの影響が典型的に表れていますね。

 ちょうど同じころゴーギャンが描いたゴーギャンの(自画像)もずいぶん概念性の強いものです。頭の上にはまるでキリスト教の聖者であるかのように光輪が付いています。このゴッホの(自画像)は、ゴーギャンの作品に典型的に見られる、輪郭線がはっきりして、背景なんかもキッチリ色で分けて塗っていくようなやり方を示しているわけです。

 しかし、遂にゴッホはゴーギャンの影響から脱して、サン=レミからさらにオーヴェールへ移り住みます。そして最晩年の作品になると、完全にゴーギャンを越えてゴッホ自身の様式を確立しています。

 たとえば、これも有名なサン=レミでの代表的な(自画像)ですが、画面は鮮やかな色彩がぶつかり合うというよりも、ほとんどもう1色で、顔のオレンジっぽい色と背景の薄青というほとんど2色になっています。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:SelbstPortrait_VG2.jpg

画面がどう構成されているかというと、特に重要なのは背景の部分で、べっとりと二つの鮮やかな色に塗られていたアルル時代の(自画像)に比べれば、後ろの部分は1色で、しかし、その1色の部分に炎のように渦巻くような筆のタッチが見られます。こういうふうに、色彩、絵具の力、それ以上にタッチのうねり、タッチの組み合わせで画面を見せていく作風が、このサン=レミの(自画像)にも非常にはっきりと表れています。

サン=レミからオーヴェール


 このようなことが典型的にサン=レミ時代の油彩画に見られます。これなども、パッと見ると風景画というより抽象絵画ではないかと思われるぐらいです。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv032.htm


サン=レミの近くにあった岩山や洞窟地帯の風景画ですけど、画面に何が描かれているかというよりも、われわれの眼前には「絵具のうねりがある」「タッチの絡み合いがある」といった作品です。ほんとうにパッと見ると抽象画じゃないかと思えるような絵具の力を見せている。そのタッチのうねり、組み合わせで見せていくことが、もうサン=レミ時代にはごく当たり前のことになっています。

 タッチの使い方にもいろいろあります。これはもう少し分かりやすい、サン=レミの病院の入口を描いたものですが、空の部分、木の部分、幹の部分、地面の部分と、さまざまなタッチを組み合わせている。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hospital_in_Saint-Remy.jpg

もしこれが平面的にペタッと塗られていると、ずいぶん違った感じになるだろうと思わせる作品です。

 ゴッホのサン=レミの病院の窓から見た風景があります。病院の近くの麦畑とか(オリーブの果樹園)です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv034.htm


先ほどの岩山の様相などと並んで、このオリーブ園などは、「オリーブが描きたい」「山が描きたい」というよりも、山やオリーブの樹という形を借りて「タッチの躍動感を見せたい」というか、「絵具がうねるような世界」といった感じの作品になっています。そういう意味では、ゴッホのサン=レミ時代の作品の中では最も抽象性の強い作品だと思います。


 この麦畑もそうですね。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh110.html


(刈取る人のいる麦畑)ですが、画面全体がほとんど真っ黄色になっている。そして、地面の刈り取られた麦の部分と空の部分とは、タッチの違いだけで対象の違いを描き出しています。

 次はサン=レミ時代、ゴッホの見事なタッチの頂点にくる2点です。左側は(星月夜)(何年か前MOA展覧会で日本にも来ている)、右側は(糸杉と星の見える道)(1890年)(今回のゴッホ展に来ている)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_night00&picture=%90%AF%8C%8E%96%E9-%8E%85%90%99%82%C6%91%BA-&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_night

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_cypres00&picture=%8E%85%90%99%82%C6%90%AF%82%CC%8C%A9%82%A6%82%E9%93%B9%81i%96%E9%82%CC%90%AF%8B%F3%81A%89%D7%8E%D4%81A%92%CA%8Ds%90l%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_cypres


この(星月夜)は、ほんとうの空には渦巻きなんてないのですが、夜空の星の輝き、星と月の光が満ちている夜空をこういう大胆なタッチの渦で描いていくことをゴッホは行っています。

 つづいて、最後の半年ほどのオーヴェール時代の作品をお見せします。サン=レミで培われた彼の手法はオーヴェールでも一層展開されています。右側は広島美術館所蔵の(ドービニーの庭)という作品ですが、色彩の変化はそれほど大きくありません。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv079.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv080.htm


ゴッホは色彩の画家と思われがちですが、サン=レミとかオーヴェール時代の作品だと色の幅はそれほど大きくない。どちらかといえば、わりと一つの系統の色ですね。(ドービニーの庭)にしても、白から青と緑の幅を越えていないのです。でも、それほど大きくない色彩の揺れの中で、濃淡と明暗、タッチの違いで画面をこしらえているわけです。

 有名な(オーヴェールの教会)と(カラスのいる麦畑)といった作品は、どちらかといえば色の塗り方が平面的で、鮮やかな色彩がぶつかり合っています。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_eglise00&picture=%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%8B%B3%89%EF%81i%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%90%B9%93%B0%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_eglise

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_champ00&picture=%89G%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81i%83J%83%89%83X%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_champ


しかし、同じ麦畑でも、ほとんど同じ時期に描かれた、黄色と青の色彩のぶつかり合う(麦畑)もあるかと思えば、先ほどの(ドービニーの庭)と同じように、白から青、水色、薄緑、青、緑といった辺りまでのおとなしい控えめな色彩でタッチの変化を見せていく麦畑も描かれています。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh109.html

 ゴッホにとって、手段は単に強烈な色彩だけではなくて、タッチがとても重要な役割を果たしていたのです。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari2/ar2.htm

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
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通常は、公共のための、地質や地震の研究のための。
誰でも知っています。
それは、自然現象により起こる、自然災害とは言いません。
また、宣戦布告のない人工兵器となれば、政治的、カルト的、社会経済的、独善的、拡大主義的、優生学的人間主義・・・反公共、反平和的な陰謀、謀略です。
学問は、完全に公開されて初めて学問になります。
だれかが、隠蔽し、支配独占し、操作するのは、学問でも科学でもありません。
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食いもんなんか地元をはじめ世界中にあるから、わざわざあやしい日本のを選ぶ理由ないもんな。命に直結する問題だし。
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グランドデザイン2 日本と世界を救うNRS構想
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/235.html
投稿者 日 日時 2011 年 4 月 23 日 15:27:19: IR1H95zbmUf8k
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/706.html#c6

コメント [原発・フッ素9] 4号機タービン建屋、10日で水位20cm上昇(読売新聞) 冷却のため水を入れると亀裂から高濃度放射能水となって漏れる なんじゃこりゃー
01. 2011年4月23日 16:21:13: iQinVlOl1c
冷却水を入れては放射能汚染水を出すこのイタチごっこが何年も続くんだろうな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/761.html#c1
コメント [雑談専用39] そこまでして巨人に勝たせたいんか!! (天木直人のブログ) 七転八起
03. 2011年4月23日 16:22:16: dhLAl5sbY2

こんなの毎年の繰り返しじゃないか。
必ずスポーツ紙で取り上げられていた。

世の中正直者が馬鹿を見る。
すべては金のなせる業。
これが常識。
少年野球だって勝つためなら手段を選ぶなと教え込まれてきた。

大人の世界も子供の世界も同じ。
泣きたくなかったら、弱いものを踏み台にしてのし上がれ。
これが経団連の訓示。

やばくなったら、東電の従業員のように海外に逃亡する方が、利口だ。

寸んません、ただの愚痴です。


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/315.html#c3

コメント [原発・フッ素9] 東海アマ掲示板より - 福島第一原発は日本政府の秘密核兵器製造工場だったとジャパンタイムス編集者が 千早@オーストラリア
05. 2011年4月23日 16:23:14: iQinVlOl1c
政府東電は嫌いだがヘタレなんでそこまで大それた計画は考えてないだろうと思う。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/757.html#c5
コメント [経世済民71] 今年前半はマイナス成長の見通し=白川  財源含む震災復興ビジョンは5〜7月に=枝野 sci
01. 2011年4月23日 16:28:01: cqRnZH2CUM
小島明のWebコラム
http://www.jcer.or.jp/column/kojima/index280.html
4月21日 サプライショック−需要刺激よりボトルネック対策を

 原発事故を伴った大震災で企業も家計のマインドも萎縮気味だが、いま重要なのは総需要刺激策ではない。被災地の復興のための大規模支出は不可欠だが、経済全体でみるとこれからの問題は電力不足が長期化するなかで生産活動において発生しているボトルネックをいかに緩和するかである。

 BNPパリバ証券のチーフエコノミスト、河野龍太郎氏は大震災直後から、この電力不足によるボトルネック問題に注目していた。それは電力不足が長期化するとの判断からだ。事故のあった福島原発による直接的な影響を受ける関東圏においては電力不足が経済活動を大きく制約するボトルネックとなっているし、対応次第でその状況が長期化し経済全体の供給制約も長期化しかねない。

 まず、東京電力による当初の“無計画な計画停電”が企業の生産活動に深刻な打撃を与えた現実を直視する必要がある。停電の実施をする前に、各産業・企業から生産活動への影響や在庫の状況、自家発電能力などを聞いていたら、被害は軽減できたはずである。原子力による発電は福島以外の地域にある多くの発電所は点検中だし、点検が終わっても簡単には再稼動できないかもしれない。これから大規模な復興需要が動き出すと、関西地区での電力供給にゆとりがなくなるかもしれない。それによって企業の生産活動が抑制されれば、資材、製品の価格上昇を生む。復興のための大規模な需要は確実に生まれる。そのとき電力不足による生産ボトルネックが生ずると、復興活動そのものも制約される。

 そうした状況で重要なのは被災地の復興のための需要は別として、経済全体の需要刺激ではなく、供給不足対策である。マクロ的に、10余年にわたって続いた需要不足の状況は変わった。不足なのは供給のほうである。

 だとすると、いかにボトルネックを軽減し供給を確保するかが課題となる。ボトルネックを緩和するには電力不足を緩和しなければならない。短期間で発電能力を大幅に高めることはできないから、まずは電力の消費節約が必要になる。ただ、産業の電力消費は長期にわたってほとんど増えておらず、消費が増えているのはもっぱら家庭においてであることに注目する必要がある。家庭での電力消費をいかに抑制するかが課題である。それには電力料金の引き上げではなく、「復興支援のための電力消費税」のようなものを導入してはどうか。電力料金引き上げで電力会社の収入支援をするのではなく、あくまで被災地復興のために一人ひとりが協力する協力税である。

 原子力による発電に制約があり、火力発電依存が高まるだろうから発電用以外の石油消費も抑制したい。それには高速道路の料金をむしろ引き上げるとか、化石燃料全般へ課税するという手もある。

 復興財源を確保するにも、復興需要が本格的に動き出すまでに、電力不足によるボトルネックをいかに緩和するかという視点が肝要ではないか。一部で議論されだした消費税を復興財源確保のために時限つきで引き上げ、期限がきたら増税分を社会保障のための財源に切り替えるというのも一つの発想だろう。

 確かに、企業家マインド、消費者心理は冷え込んでいる。これには過剰な自粛ムードもある。だがボトルネックで生産活動が落ち込んだことがいっそう響いている。後者は需要刺激策ではなく、ボトルネック緩和策がなければ回復しない。

 大震災を境にして日本経済のマクロ環境が需要不足から供給不足に転換したことを再確認したい。

(日本経済研究センター研究顧問)

http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/587.html#c1

コメント [自然災害17] 崩れた地震学、学者ら予測できず 「歴史の空白」盲点に sci
08. 2011年4月23日 16:29:17: Ey9ocC9aAg
産業技術総合研究所の宍倉正展さんらは、宮城、福島両県のボーリング調査などから、869(貞観11)年に東北地方を襲った巨大地震・津波の実態を解明し、「いつ、再来してもおかしくない」と警鐘を鳴らしていた。

「島崎邦彦東大名誉教授」都から遠く離れた東北地方では平安時代半ばから江戸初期までの数百年間、記録がまったくない。今回のような巨大地震は江戸以降もなく「起きないという考えに自然と傾きがちだった。
やはり、東京大学は、ダメダ。
東大がなにもかも、だめにする。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/210.html#c8

コメント [原発・フッ素9] 福島・浪江町の放射線量、積算20ミリシーベルト超す(朝日新聞) 20倍にしたのに 1か月で年間被曝許容量を超す なんじゃこりゃー
01. 2011年4月23日 16:29:58: 0GJJznkobY
いつになったら記録が取られている16日からの累積で書くようになるんだろうか?
12日あたりからの累積も推定できるだろうに。
たぶん空間線量だけで50くらい。食べ物、ほこり、水などで50くらいってとこか。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/764.html#c1
記事 [昼休み46] ネット世代は、米国と読売の関係を知ってしまい、長嶋の天覧試合本塁打も怪しげで、二度と巨人ブームは起きないと思います。

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そこまでして巨人に勝たせたいんか!! (天木直人のブログ)
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/315.html
投稿者 七転八起 日時 2011 年 4 月 23 日 14:39:09: FjY83HydhgNT2

http://www.amakiblog.com/archives/2011/04/23/


 4月22日の日刊ゲンダイに20日に行われた巨人対阪神
の試合の判定について書いた記事を見つけた。私もたまたま
そのゲームを見ていたのでこの記事に目が釘付けになった。

 その試合は5対4で阪神が逆転負けを喫した試合だった。
三連戦の初戦を勝った阪神は、この試合の逆転負けにより水を
さされ、続く第三戦目も負けて、結局三連戦は1勝2敗で終わる
事になった。

 日刊ゲンダイのその記事は、勝負の流れを変えたその第二戦
について、三度に及ぶ巨人に有利な審判の判定について書いていた。

 その中でも明らかな誤審だったのは阪神が一点を勝ち越した7回
裏の阪神の攻撃の場面だ。逆転し、なおも2死一、三塁の好機で
5番のブラゼルが打った打球は高々とあがった。それを二塁手脇谷
がよろよろと落下地点に入り、そしてファンブルした。一度は
グラブから飛び出した打球を脇谷は倒れこみながら捕球したが、
その打球は一旦地面に落下したように見えた。一塁審判は、やや間
を置いて右手を上げ、アウトを宣告する。

 その時だ。阪神の真弓監督が怒って「落としてる!落としている
やないか!!」と詰め寄った。テレビで繰り返し流されたスロー映像
を見る限り、脇谷のグラブからこぼれ落ちたボールは明らかに一度
地面に落ちている。しかし判定は覆ることはなかった。

 ゲンダイの記事は続ける。微妙な判定はこれだけではない、と。
直後の8回、先頭打者の小笠原のショートへの内野安打。微妙な
タイミングだが同じ審判の判定はセーフ。これをきっかけに巨人
は3点を入れて逆転した。その後の無死一、二塁で迎えた高橋由
に対する外角低めの絶好球が「ボール」と判定された。テレビ解説者
も思わず「いいボールですけどねえ」と口にしたほどだ、と。

 私の年代の者がそうであるように私は野球少年だった。そして
大方の子供がそうであったように私もまた大の巨人ファンだった。
巨人が負けたゲームはテレビに物をぶつけて怒られるほどのファン
だった。

 その私が社会人になっていつの間にか巨人ファンでなくなった。
社会人になってしばらくはまだ巨人ファンだったと思う。それが
いつしかアンチ巨人になっていった。なぜ、いつごろから、そのよう
になって行ったかはわからないままだった。

 そしてこの記事を読んでなんとなくその理由がわかったような気が
した。私がアンチ巨人になったのは、世の中に出てだいぶ時がたって
からだ。家族ができ、世の中の仕組みがわかってきたときからだ。
社会の不条理を知ってからだ。何よりも外務省という官僚組織の中に
身を置いて組織の論理の矛盾を感じて行った時期と符号するような気
がする。

 その日刊ゲンダイの記事はこういう文章で締めくくられていた。

 「・・・(判定は)ことごとく阪神に不利に出た・・・星野仙一元
阪神監督なら間違いなく審判団にこう声を荒げているに違いない。
『そこまでして巨人にかたせたいんかっ!!』・・・」

 この言葉は、私が外務省にいた頃によく自分に言い聞かせていた言葉
と重なって見える。

 「そこまでして出世したいのか」、と。

 組織の中で出世できなかった不器用な者の負け惜しみと言われても
仕方がない。しかしそれは間違いなく私の思いであった。

 私が巨人を嫌いになったのは巨人のせいではない。巨人を勝たせよう
とする体制側の不正義に違いない。

 


http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/321.html

コメント [原発・フッ素9] 東電、海外事業売却へ=原発賠償に数千億円規模 ← やはり解体しかない! jesusisinus
03. 2011年4月23日 16:30:59: iQinVlOl1c
そのうち海外からも訴訟の津波が押し寄せる。
英BP社のメキシコ湾石油流出事故も今訴訟関係でエライことになってる。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/750.html#c3
コメント [自然災害17] 「東日本大震災津波・岩手からの報告」達増岩手県知事 (日本一新第45号より) 玄米
04. 2011年4月23日 16:34:13: exgrA7Zvag
有言不実行のカンナ音

無言実行の小沢イチロウ。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/233.html#c4

コメント [音楽3] レーダーマン 地には平和を
02. 2011年4月23日 16:36:28: JbjRNIKokk
01. 2010年10月29日 20:25:49: JaCMnXk1X2

戸川純は自殺未遂だよウスラバカ!今でも現役でライブやってるぜ。
レーダーマンはハルメンズのカバー曲だ。でも歌ってる内容は今の情報社会の画一性の中で疑いもせずにのほほんと暮らしていることに疑問をもたないわれわれを皮肉った歌詞だから痛いというならこの歌ではなくおまえさんやわれわれが痛いのだ。
歌詞の内容も聞き取れないんじゃ話しにならんな。死んでくれ。
http://www.asyura2.com/10/music3/msg/339.html#c2

記事 [お知らせ・管理19] 島唄さん、投稿規定違反を削除しておきました。投稿規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。
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http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/561.html
Re: ガイトナー長官:赤字削減合意へ意見の対立解消へ 英10年債利回り3.55% 欧州株1カ月ぶり反発 ヘッジファンド2兆ドル - 島唄 2011/4/20 07:10:44

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/753.html

記事 [原発・フッ素9] 放射能が福島より怖い世界の観光名所 環境汚染は原発の専売特許にあらず
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5907
放射能が福島より怖い世界の観光名所 環境汚染は原発の専売特許にあらず
2011.04.21(Thu)  竹野 敏貴
映画の中の世界
アフリカでのフランスのプレゼンスが増している。多国籍軍を引っ張る形で行われたリビア空爆がNATO(北大西洋条約機構)主導となってからも中心的立場は譲っておらず、旧植民地コートジボワールでの内戦でもバグボ前大統領への攻撃を仕かけ身柄を拘束している。
サルコジ政権の積極策が裏目に
ニジェールの原子力産業の宣伝パンフレット。なぜか有料だ
 両国での作戦には4000人もの兵力を投入する力の入れようである。あくまでも人権擁護のための軍事行動と謳ってはいるが、支持率が低下しているニコラ・サルコジ大統領が来年に迫った大統領選に向け、人気回復に躍起になっている姿が見えてくる。
 しかし、そんな積極性が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。今年1月、西アフリカの内陸国ニジェールの首都ニアメでフランス人青年2人が誘拐された時は、早速救出に向かった仏軍特殊部隊が犯人グループと銃撃戦となり、人質は死亡してしまっている。
 「テロリストには屈しない」と、早急なる出動を命じたサルコジ政権の積極性が裏目に出てしまったのである。
 同じニジェールでは、昨年7月にもフランス人救出に失敗している。これらはすべて「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織(AQMI)」による犯行である。
 今ではニジェール、マリ、アルジェリアあたりのサハラ砂漠西域最大の治安不安要因ともなっているが、もともとアルジェリアで宗教色が薄まったアブデルアジス・ブーテフリカ政権に対し反旗を翻したイスラム原理主義勢力が母体。
ニジェール人の富はウラン
 現在劇場公開中の『神々と男たち』(2010)で描かれたアルジェリアの修道士誘拐惨殺事件を引き起こしたGIA(武装イスラム集団)が、2006年、アルカイダ組織に合流してできたものである。
 こうして多くの人質事件が急展開を見せる一方で、昨年9月、ニジェール北部アーリットで発生した誘拐事件はいまだ解決を見ていない。
 この時もAQIMが犯行声明を出していたのだが、そこには「我々の富を搾取してきた者は立ち去れ」とのコメントも付け加えられていた。その「富」とはウランのこと。
 実は、フランス経済の一翼を担っている原子力産業の最大手アレバ社の社員5人が人質に含まれていたため、「慎重な」対応をしている、と推測されているのである。
 フランス領西アフリカから1960年に独立したニジェールでウランが見つかったのが69年。誘拐事件が発生したアーリットは、そのウラン鉱山のある街である。
フランスのアレバが利権持つニジェールのウラン鉱山
ニアメ。ニジェール川の夕日
 開発には日本資本も参入しており、ここから産出するウランは日本へも輸出されているが、その利権の中心にいるのはアレバ社。
 鉱夫の肺がん発症率が高いといった健康不安や、放射性物質放出による環境汚染といった問題が指摘されているものの、クーデターが繰り返される不安定極まりないこの国では、有効な手はなかなか打てないようである。
 パリからニアメまでは直行便で難なく行ける。アフリカ第3の大河ニジェールのほとりにあり、ウランという稀少商品を抱えるわけだから、さぞかし金ぴかの近代都市、と思っていると見事に期待を裏切られる。
 とにかく砂っぽく、基本インフラもままならない地で、軍人や警察がウロウロしているうえにこれといった見物もないのだから、観光客などやってくるはずがない。
 せいぜい国立博物館にある「ウラン・パビリオン」で原子力産業の宣伝を見るぐらいしかやることがないのだが、その展示も実に陳腐なもので、女川、浜岡、敦賀といったところにある立派な原発展示館とは比べものにならない。
ウランの道だけが舗装されている
砂漠の移動はこんな具合。原住民も今では4WD車を使う
 ウランというエネルギー資源を持ちながらも、一般家庭には電気も通っていないところも少なくなく、清潔な水にさえアクセスできないその日の食事にも事欠く地なのである。
 生活道路を進もうと思えば間違いなく砂塵まみれになってしまうのだが、アーリットで掘り出されたウランが南方へと運ばれていく「ウランの道」だけはきれいに舗装されている。
 逆にアーリットから北へと進む道は、かつて金と塩の交易で栄えたサハラ縦断路で、今やAQMIが出没する物騒な地域となっている。
 そこをこれまで支えてきたのが、その鮮やかな青装束が際立つ「青い民」トゥアレグ族、フランスが本格的に植民地化するまでアラブ商人たちからも通行料を巻き上げ、まさに「砂漠の支配者」として君臨していた遊牧民である。
しかし、近年は度重なる飢饉で家畜も減少してしまい、世界遺産にも登録されている隊商都市トンブクトゥ(マリ共和国)などで観光業に従事したりしている。
サハラが緑で覆われていた頃の壁画
アルジェリア南部に広がる砂漠。こんなところでフランスは核実験を繰り返した
 その観光業さえもが頻発するテロでしぼむ一方で、逆に自身が観光客を襲撃する側になってしまうケースもあるようだ。
 そんな道を北上しアルジェリアに入ると、やがて地域の中核都市タマンラセットにたどり着く。
 東方にあるタッシリナジェールというトゥアレグの言葉で「川のある台地」を意味する岩壁画が残る地への入り口となっていて、平時であれば観光客も数多く見られる。
 その壁画の中には1万年ほど前のものもあり、まだサハラが緑に囲まれていた頃の生活がうかがえる貴重なものだ。
 一方、西方には、かつてフランスが大気圏核実験を行ったレッガヌ実験場があり、北方150キロほどのあたりでは1960年代、地下核実験が度々行われていた。
 そうなると、実験に従事した兵士や現地住民が多数被曝したことは想像に難くないが、フランス政府は長い間知らんぷりを決め込んできた。
先住民の保障など知らんぷり決め込む白人
タッシリナジェールの岩壁画。サハラに緑があった頃のもの
 ようやく昨年になって賠償法案が発効したものの、対象となる地域にいたことを証明できるアルジェリア人などほとんどおらず、あたりを行き来していたトゥアレグなどの遊牧民ともなればその証明は絶望的となる。
 何事にも蚊帳の外の先住民は知らぬ間に被害者となってしまうということなのだろうが、それは原爆の発祥地、米国本土でも同様である。
 日本に落とされた原爆の材料となったウランはベルギー領コンゴのものが中心と言われているが、米国本土で掘り出されたものも使われていた。
 マンハッタン計画が進められていたロスアラモス国立研究所は、ニューメキシコ州にある。そのニューメキシコを含む4つの州境界が1点で交わる「フォーコーナーズ」と呼ばれる地域で採掘されたウランなのである。
 フォーコーナーズを居留地とする先住民ナバホ族はそのウラン採掘に多くが従事していたのだが、彼らの間では肺がん発症率が異常に高くなっているという。
放射能汚染を知っているのか、モニュメントバレーの観光客
サイパン島に残された戦車の残骸
 このあたりは、我々にもなじみ深い風景が続く西部劇ロケの本場で、ジョン・フォード監督の名作『駅馬車』(1939)でも有名な奇岩が並ぶ荒野、モニュメントバレーもある。まさにその周辺にもウラン鉱山はある。
 放射性物質による環境汚染の指摘もあるのだが、観光客はそれを知ってか知らずか、悠然とあたりでトレッキングを楽しんでいる。
 1979年には、大量にためられていたウラン鉱滓ダムが決壊しコロラド川支流に流れ込む事態となり、ナバホ族居留地を中心に広大な地域の環境汚染を引き起こしたこともあった。
 しかし、スリーマイル島原発事故から間もない頃だったためか、はたまた、被害の中心が先住民たちだったからなのか、メディアで大きく取り上げられることはなかった。
 そんなモニュメントバレーの雄大な空撮シーンから始まる『ウインドトーカーズ』(2002)は、ナバホ語が対日戦の暗号として使われることになったため暗号通信兵としてサイパンに行くことになったナバホ族の物語だ。
オーストラリアでも先住民無視の原爆実験
 そのサイパンのすぐ近くにあるテニアン島から、ナバホ族を苦しめ続ける鉱山で採掘されたウランが使われた原爆を積み爆撃機が日本へと飛び立っていったことを知るナバホ族は、あまりいない。
 そんな米国と違い、国土が狭く砂漠もない英国の核実験は「英連邦王国」オーストラリアで行われた。しかし、白豪主義というあからさまな人種差別が横行していた頃のこと、先住民アボリジニは無視に近い形で実験は行われ、多くがその存在も知らずに被曝した。
 その補償は白人軍人に対しても十分とは言えないのが現状だから、被曝を証明することが難しいアボリジニには期待のしようもない。
 オーストラリアは、1996年、国連で包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択された時も中心的役割を果たした。そして、核兵器を保有していないばかりか、商用原発も持たない数少ない先進国でもある。
 しかし世界一のウラン埋蔵量を誇るため、英国の行った核実験とは別に放射性物質による問題は起こり続けている。
アボリジニの聖地はウランの宝庫
オーストラリアの一本道。とにかく広大だ
 ウランが埋蔵される地がアボリジニの聖地であったことから起こる問題を描いた『緑のアリが夢見るところ』(1984)では、聖地論争が法廷にまで持ち込まれ、結局は白人世界に属する法律によりアボリジニ神話が否定されることになる。
 映画はそれで終わってしまうが、今ではアボリジニに「土地権」が認められるようになり、高額の「使用料」をアボリジニに支払ったうえでウラン採掘が行われているという、さらなるジレンマが発生している。
 それが北部にあるレンジャー鉱山。
 歴史あるアボリジニの紀元前5000年頃の壁画があるカカドゥ国立公園は世界遺産にも登録されているが、その中でぽっかりと穴があいたように公園から除外されている地域にある鉱山で、汚染された水が公園内に流れ込んでいるとの批判も聞こえてくる。
 この地のウランは日本へも輸出されており、決して日本人にとっても他人事とは言えない。
南半球に核兵器はなく、原発もごくわずか
 オーストラリアに限らず、南半球に核兵器はない。原発も南アフリカ、アルゼンチン、ブラジルに数カ所あるだけで、北半球に比べれば極めて少ない。
 原発が一般的でなく、核戦争の恐怖の方がより現実的だった1959年に撮られた『渚にて』は、北半球が核戦争で死滅し、最後に残ったオーストラリアも徐々に死の灰に侵されていくという壮絶なストーリーだ。
 もっとも、核戦争が起こらなくとも北半球に集中している原子炉が多数崩壊してしまえば、同じシナリオとなってしまう。
 しかし、そのオーストラリアにしても、北半球の原子炉を走らせるためのエネルギーメーカーとなっているし、ウラン鉱山での汚染の問題もある。原発はない、とは言っても小型の研究用原子炉はシドニー郊外にはあるし、やはり他人事として逃げることはできないだろう。
原発が危ないものであることが分かっていても、現代社会に豊富な電気は必要だ。化石燃料はいつか枯渇するから、やはり切り札は太陽光発電、と誰もが思うだろう。
ジェネシス計画の現実性
 昼しか発電できないという欠点も、速やかにそしてロスも気にせずに長距離送電できる技術があれば、各地から電気をかき集めればいいから、問題は解決する。
 そんな技術を提示する「ジェネシス計画」というものが現実に考えられており、太陽光の採光部としては世界の砂漠の4%で十分であると聞けば、気持ちも明るくなってくる。
 それならば、核実験で汚染され人が住めなくなっているアルジェリアなどの砂漠でも有効活用できるし、途上国に拡がる砂漠での発電なら、南北問題の解消という違った効果ももたらす。
 しかし、もしそんな送電網が実現できるようになれば、まず先進国にとって汚染など他人事となる遠隔地に効率の良い原発を造ってしまおう、ということになってしまうのだろうな・・・。
(本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号)
(351) 神々と男たち (352)駅馬車 (353) ウインドトーカーズ
(354) 緑のアリが夢見るところ (355)渚にて
351.神々と男たち Des homes et des dieux 2010年フランス映画
神々と男たち
(監督)グザヴィエ・ボーヴォワ(出演)ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデール
 1996年、アルジェリアの山間にある修道院で修道士たちが誘拐され殺害された事件をもとに、信仰と地域住民への思いから危険を承知で修道院を去ろうとしなかった修道士たちの姿を描いている。2010年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。
 アルジェリアの地中海寄り地域は、ローマ遺跡やアルジェのカスバといった観光資源に恵まれ、その陽光ともども平時であれば観光客が数多く訪れる地域である。
 しかし、1991年の総選挙でイスラム主義勢力イスラム救国戦線が圧勝したにもかかわらず、翌年世俗主義の軍部によるクーデターが発生、ヨーロッパ諸国もそれを支持しイスラム色が薄められてからは、イスラム原理主義過激派によるテロが頻発する国となってしまった。
 そんな中で標的となったのが外国人でありキリスト教徒で、本作が描いた事件も起こるべくして起こってしまった。
 そして今、一部過激派がアルカイダと合流して結成された「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織」がより広域で活動しており、一層不安定な状況となっている。
352.駅馬車 Stagecoach 1939年米国映画
駅馬車
(監督)ジョン・フォード(出演)ジョン・ウェイン、クレア・トレヴァー、トーマス・ミッチェル
 監督ジョン・フォード、主演ジョン・ウェインという西部劇随一の黄金コンビが誕生した作品にして、西部劇の最高峰とも言われる記念碑的作品。
 アリゾナからニューメキシコへと向かう馬車がモニュメントバレーをはじめとした「荒野」を疾走する、ダイナミックなシーンが最大の魅力だ。
 簡素でありながらしっかりと構成された人物描写によるドラマも見事な仕上がりとなっており、作品の評価を高いものとしている。
 先住民に襲撃される馬車という筋立てには、本作が製作された「時代」というものを感じずにはいられない。
 しかし、ロケ地に住むナバホ族がエキストラや裏方として使われており、貧困に苦しむ彼らにフォード監督は規定額以上の報酬を与えた、というエピソードも伝わってきている。
353.ウインドトーカーズ Windtalkers 2002年米国映画
ウインドトーカーズ
(監督)ジョン・ウー(出演)ニコラス・ケイジ、クリスチャン・スレーター
 太平洋戦争において、先住民言語であるナバホ語を暗号として使うことで盗聴による情報漏洩を防ぐことになった米軍に、通信兵「コードトーカー」としてやって来たナバホ族兵士の物語。
 外国(この場合日本)にその言語を理解する者がおらず、新たな教育も不要であるために、暗号として先住民言語を使うことは第1次世界大戦でも行われていたが、太平洋戦争では400人ものナバホ族が従軍しコードトーカーとして活躍した。
 本作ではコードトーカーの「護衛」として配属された兵士が、コードトーカーが敵の手に落ちそうな時は安全を図るために味方であるコードトーカーを殺す、という理不尽な任務を帯びていた、という設定となっており、そのことが本作のドラマとしての核心となる。
354.緑のアリが夢見るところ Wo die grünen ameisen träumen 1984年西ドイツ映画
緑のアリが夢見るところ
(監督)ヴェルナー・ヘルツォーク(出演)ブルース・スペンス、ワンドゥク・マリカ
 「ここは緑のアリが夢見るところ。掘ったり爆破したりすれば、緑のアリの住み処が壊れ、それが4万年前からこの地に住む我々自身の生活をも壊す。それでも土地を掘るというのなら、我々をまず殺せ」と主張し、ウラン鉱山採掘予定地に座り込みをするアボリジニの人々。
 はるか昔から住み続ける先住民の生活に密着した神話をメルボルンの最高裁が判断することとなり、移り住んでせいぜい200年程度の白人の振りかざす「英連邦法」で「すべての土地は国王のもの」という決着をみる。
 西洋人がオーストラリアを「発見」した頃100万人以上いたと言われるアボリジニの人口は、1920年代には僅かに数万人。オーストラリア随一の観光名所でもあるエアーズロックが彼らの聖地であることはよく指摘されるところだ。
 歴史のスケールがまるで違う先住民を現代社会のルールで押しのける白人たちは、アボリジニや白人との間の混血の子を連れ去り、白人として育てる同化政策を1969年まで行っていた。
355.渚にて On the beach 1959年米国映画
渚にて
(監督)スタンリー・クレイマー(出演)グレゴリー・ペック、アンソニー・パーキンス、エヴァ・ガードナー(音楽)アーネスト・ゴールド
 米ソ核戦争で北半球の人類はすでに死滅。僅かに残されたオーストラリアの人々は、迫り来る死の灰に怯えながらも日常的な生活を送ろうともがき続ける。
 北半球に集中していた石油も手に入らなくなり、「省エネ」状態に陥ったメルボルンの町並を走る自動車はなく、自転車と徒歩で通常通りの賑わいを見せている風景は、創作ではあるのだが、日本的な「自粛」とは少々違うことを感じさせられる。
 そんな時、世界を偵察に出かける潜水艦の動力は原子力。映画はまだ原発や原潜が世に出て間もない頃のものだが、東西冷戦の緊張が高まっていた時期であったことから、原子力に対する警戒心が強かったことがうかがえる。
 テーマ曲として「Waltzing Matilda」のメロディが使われているが、この曲はオーストラリアの正式な国歌とされる「Advance Australia Fair」よりも一般によく知られることから「第2の国歌」とも呼ばれ、多くの公式行事でも演奏されている。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/765.html
コメント [原発・フッ素9] 東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住 ← 減給は当たり前! jesusisinus
17. 2011年4月23日 16:40:05: W9WAY7pptQ
広瀬さんは「原子炉時限爆弾」を書き終えたとき、「テレビが一番許せない」と言っていたお。
政府・学会・産業界・電力会社・マスコミ、みんな許せないけどでもやっぱり一番ダメダメなのが「ジャーナリスト」だって。
そういや上の連中で一番頑強な感じがマスコミのような気がする。罪悪感から「やりなおせない感」が強いのかな。
別に東電かばうつもりはないけど。正直言って日本最大の官僚組織。上から下まで腐りきっているらしい。この前ある用事で電話で話したけど、「何処ふく風」って感じだったな。このままですむはずはない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/708.html#c17
記事 [昼休み46] 孫さんの脱原発が本気なら、商人らしく原油・原発両メジャーをあやしながら、藻油と地熱で自給率100%を実現すべきです。
孫正義氏の電力事業参入を支持する まずは東電国有化からはじめよ! (世相を斬る あいば達也)
http://www.asyura2.com/11/senkyo112/msg/158.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 4 月 23 日 15:50:00: igsppGRN/E9PQ

孫正義氏の電力事業参入を支持する まずは東電国有化からはじめよ!
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/b70535ebbe0c68152fbe0706e9d477a6
2011年04月23日 | 日記 :世相を斬る あいば達也

自由記者クラブ主催、孫正義ソフトバンク社長のニコニコ生放送は必見である。先ずは皆さまに視聴される事をお勧めしておく。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv47117671?ref=top 


日本の大富豪、ソフトバンクの孫氏が東日本大震災に際し、個人で100億円及び役員中の今後の収入を合わせ寄付をしたことが話題となっていた。この行為に対して、賞賛も多いが斜に構えて狭量に、「どうせ、事業に繋ぐための売名だ」、「名前を出すな」、「韓国人じゃないか」みたいな誹謗中傷の類も散見する。筆者からみれば、彼は日本生まれ日本育ち、明らかに日本人であり、日本の有数な事業家である。素直に彼の行為を賞賛する。

孫氏はその後、福島原発事故を受け経済人では突出する形で、「反原発」を宣言した。彼自体が、2011年3月11日まで、原発に対しそれ程の意識を持っていなかった、と自らの無知を認めた。しかし、ここ1カ月必死で原子力発電を学び、研究したようだ。そして、原発の重大な欠点と原発推進勢力の「原発安全神話」の嘘を見抜き、日本のエネルギー問題の諸課題に思いを馳せた結果、脱原発を誰かが強烈に発信しないと、日本は重大な誤った道を反省もなく突き進むことを強烈に思ったようである。

筆者のように、原発の怖さよりも、電力マフィア・原発マフィアに牛耳られた日本のエネルギー政策を悪とみなして、既得権益勢力全体を悪とみなすような過激さは持っていない。(笑) あくまで事業家らしい事実の把握と、それに対する瑕疵の有無、嘘の証明などをした上で、その対応の方法論を提示している。

孫氏の類稀なプレゼン能力が会見全体に色濃く流れ、それこそ筆者は洗脳される思いだった。(笑)世界を駆けまわる自由主義経済の中でたくましく生きる男の実像をみることが出来た。 彼も1か月前まで、原発マフィアの原発神話を深く考えることなく、何となく信じていたそうだ。氏も認めるが洗脳されていたそうだ。

しかし、ここ1カ月必死に学び、検証し、問題点を抽出した上で、結論として脱原発に至ったと述べている。また、上場企業のトップとして、この問題にどう関わるか、相当に悩んだことも素直に露呈している。しかし、原発の危険性、取り返しのつかない人類への負の遺産を考えると、今を持ってエネルギー政策転換の主張を大声で、ヒステリックに見えても語るべき時はないと結論に至ったようである。

現時点で孫氏は政治的思惑や経済的思惑にコミットしていないと言っている。今回の原発事故と永遠に負わされるであろう「放射能汚染国家」がこのままで良いのだろうか?ここで、この時「言うべきことを言わず、するべきことをしないのは駄目だ」その情熱をおおいに語っている。韓国人の血を持つ孫氏だが、今は日本の国士として声を上げた、と筆者は素直に理解する。

言うべきことを言い、理想に燃えて未来を実現するという情熱に燃えている。原発の順次廃止と太陽電池など環境エネルギーへの大転換を熱く語っている。「自然エネルギー財団」の創設を決意。当面10億円を基金とし、世界の自然エネルギー科学者の叡智を結集、自然エネルギー情報の発信と政府に政策提言して行く構想を発表した。

東日本大震災の被災地域を中心に「東日本ソーラーベルト」を作る構想なども提案、普及促進策の為には、自然エネルギー電力の全量買い取り制度の導入も重要だと語っている。発電・送電の分離にも言及している。 また、太陽電池の最大の輸出国である日本は、当然最高の技術力を持っている。その日本が原発に突き進む矛盾を指摘、「世界最大のソーラーベルトを作ろう。もう一度日は昇る。希望あふれるビジョンを作ろう」と大きな目標を掲げた。

日本中の国民が重大な関心を持つ、この原発事故・放射能汚染を解決する壮大なビジョンを持つことは、日本に夢を与える可能性を秘めている。 太陽光、地熱、風力、バイオ、考えられる自然エネルギーへのシフトは、筆者も拙ブログで語っているが、充分に可能過ぎる話しだ。

猛烈な勢いで「自然エネルギー大国」としての日本を実現し、「日はまた昇る」を実現し、それを産業化させることで、経済的諸問題も同時に解決し得る重大な提言と受けとめる。このエネルギー問題の解決と農漁業などエンクロージャー(囲い込み)と云う自由を制限してしまう難点はあるのだが、個別の地域の状況を加味して共存は可能と考える。

筆者としては、このウネリをどのように国民的ビジョンに育てていくか、そこが勝負どころと考えている。勿論本質的に事業家である孫氏がビジョンの構築・実現により、その一部を事業化で利益を得るかもしれないが、壮大なビジョンの中では取るに足りない問題である。

そんな事よりも、電力・原発マフィアと呼ばれる既得権益集団に、寄ってたかって孫氏のビジョンが踏みつぶされないように、注意しなければならない。質疑で答えていたが、そう云うリスクも考慮した、と答えている。事業上或いは税務上或いは司法上、同氏はリスクを抱えた事になるのだが、故に彼のビジョンは貴重なものなのだ、と筆者などは強く感じるのである。

コラムの見出し、「孫正義氏の電力事業参入を支持する まずは東電国有化からはじめよ!」は筆者の願望に過ぎないが、このような状況も冗談ではない、と考えている。東京電力はまんまと原発賠償法で免責されそうな勢いだが、事実上は債務超過の更生法適用企業だ。独占大企業だから潰せないと云う論理で、問題を抽出せず、対処療法を繰り返す限り、日本のエネルギー問題は永遠の負の遺産になる。東電株を50円以下にして、先ずは国が全株取得国有化から、すべてをスタートされるべきである。
 


http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/322.html

記事 [お知らせ・管理19] なんじゃこりゃーさん、投稿規定違反が多発しています。投稿規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。
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二重投稿です。

東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住(NEWSポストセブン)
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/742.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 06:51:38: 0zLT2gtfzmeo.

先行投稿
東電社員「東電は国民を見殺しにしている」と退社し海外移住 ← 減給は当たり前!
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/708.html
投稿者 jesusisinus 日時 2011 年 4 月 22 日 12:16:53: veLsqfdw2ggms

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200文字未満の投稿です。

福島県学校等環境放射線ダスト・土壌モニタリング実施結果(土壌)速報値表
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/744.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 07:20:42: 0zLT2gtfzmeo.

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再度、200文字未満の投稿です。

放射能がまったく出ない状態に戻すには10年以上かかる 仏アレバ社CEO
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/745.html
投稿者 なんじゃこりゃー 日時 2011 年 4 月 23 日 07:46:16: 0zLT2gtfzmeo

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http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/754.html

コメント [原発・フッ素9] 4号機タービン建屋、10日で水位20cm上昇(読売新聞) 冷却のため水を入れると亀裂から高濃度放射能水となって漏れる なんじゃこりゃー
02. 2011年4月23日 16:44:46: UJ4aY1PsV6
今年中にも本州列島の地盤は放射能汚染されるのじゃないか?
そうなるともうこんな国、だれも住めなくなる。
いったい、どうしてこんなことを平然と続けられるのか?
気が狂っているとしか思えない。
また、気が狂っている行為を平気で見ていて、お笑い番組にうつつをぬかす国民も
気が狂っているとしか思えない。
まともなおれはどうすればいいのか? 同じように気が狂えばいいのか?
だれか教えてくれ。ギャグ返答はいらない。また、罵倒返答もいらない。
グラッチェ。ピース。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/761.html#c2
コメント [お知らせ・管理19] 今日の削除 管理人さん
03. 管理人さん 2011年4月23日 16:47:01: Master
板違い。議論・雑談・空耳板のいずれかに投稿をお願いします。

グランドデザイン2 日本と世界を救うNRS構想
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/235.html
投稿者 日 日時 2011 年 4 月 23 日 15:27:19: IR1H95zbmUf8k

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/747.html#c3

記事 [お知らせ・管理19] 「私の記事のURLが変わっている」と言っているのは平成の坂本竜馬だけであり、また彼の妄想です。
コメント欄にも書きましたが改めて。

平成の坂本竜馬は、とあるyoutubeの投稿について、
『2008年10月24日に投稿された動画の動画情報に「2011」「Fukushima」「Nuclear」と書いてある。
 これは福島原発を地震兵器で狙うというテロ予告だった。』と主張しています。

しかしながら、youtubeの動画の動画情報は後で書き換えができます。
ここで重要なのは動画情報であって、視聴者のコメントではないということです。

後で書き換えた証拠としては、Internet ArchiveのWayback Machineで確認することができます。
とは言っても、これはこれで
「2010年6月5日以前の動画情報と現在の動画情報が違う」というところまでしかわかりませんが。

ところが平成の坂本竜馬はこの事実を認めません。2008年の投稿で予告があったと一点張りです。
それどころか『私の記事のURLが変わっているとの不正な誘導コメント』と嘘を平気でついています。
Wayback Machineを通じて、過去の情報を検索しているからURLが長くなっていることを、
なぜか『URLが変わっている』とされていると勝手な解釈をされているわけです。

たしかに、フシギ空間が貼ったURLがおかしな動作をしていたという事実は存在するわけで
反省すべき点がこちらにあったことは間違いありませんが『URLが変わっている』とされたなどという
主張は平成の坂本竜馬による印象操作以外でしかありません。
これはフシギ空間の投稿とコメントを読めば書いていないことがわかります。

平成の坂本竜馬はいい加減、現実をみて反省するべきです。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/755.html

コメント [原発・フッ素9] ただの運動をしている時ではない! 小川みさ子さん情報 - 緊急!福島の子どもが危ない! 広瀬隆さん&或るお寺の住職... 千早@オーストラリア
41. アルデバランの見る前に跳べ 2011年4月23日 16:50:31: RE5xNHwIoY4Ec : nnS2RjV2A2
福島一小だけではなく、似たような数値の学校は50校以上にのぼります。
子供達の将来に禍根を残さないために、ただちに学童の集団疎開を行うべきです。一刻の猶予もありません。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/648.html#c41
コメント [原発・フッ素9] 日本の原発事故用レスキューロボットを全破棄したのは、小泉政権だった(ジャーナリズム) なんじゃこりゃー
08. 2011年4月23日 16:51:39: UJ4aY1PsV6
>06
>やってることとしては、恥ずかしいことじゃないかな?

小泉を叩く理由なんかほんとうでもウソでもどっちでもいいんだ。
ようは、小泉ごときは、なんであれ叩けばそれでいいのだよ。
それだけのことをしてきているのだからな。
本来なら国家反逆罪、売国の罪で絞首刑、斬首が相当のゴミだからねえ。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/743.html#c8

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
16. 2011年4月23日 16:52:41: 6kuobrWeYc
>>14
>放射性のヨウ素もセシウムも「不検出」の証明をもらって
>出荷するまでに追い込まれているそうだ。

そのくらい努力しないと買ってもらえないのは当たり前。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c16

記事 [昼休み46] イエズス会の正体・slicer93(彼らがどうしてもハルマゲ大戦を望むなら、全人類VSイエズス会となる筈です)
http://slicer93.real-sound.net/0-iq-space-7409.html
イエズス会の正体 


千成記

以下は、

「日本人が知らない 恐るべき真実」

サイトよりです。

歴史の大きな流れが俯瞰できます。


http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/

イエズス会の正体B 10:43 引き続き『バチカンの暗殺者たち』(エリック・ジョン・フエルプス著)より引用します。


(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。

そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。

将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!

常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。

その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。

将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。

1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。

この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。

北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。

1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。

フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。

そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。

天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。

そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。

親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。

イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。

それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。

そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。

冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!

イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。


■イエズス会の正体A 06:55

米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。


イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。

日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。

しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。

家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。

そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。

その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。 将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、

「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」

徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、

プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。

1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。

1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。

「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」

そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?

イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。

 そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。

(つづく)


■イエズス会の正体@ 03:58

フリーメーソンに続いては、バチカンについてみていきたいと思います。

バチカンは、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地で、いわばカトリックの「総本山」です。

バチカンの統治者はローマ教皇であり、ローマ教皇庁によって統治されています。

バチカン市国の面積は0.44平方kmと、ほぼ東京ディズニーランドと同じくらいの世界最小国ですが、中国にも匹敵する10億人以上の信徒を全世界に有している一大勢力であり、また、信徒の中には国家元首クラスがたくさんいるので、その情報力および外交力そして影響力は世界でもトップクラスなのです。

『アメリカ ネオコン政権 最期の強敵 バチカン』によれば、そのようなバチカンの重要性を最も認識していたのは昭和天皇であり、太平洋戦争勃発のおよそ二ヶ月前に、当時の木戸幸一内大臣に「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのように和平工作を進めるのか、今から考えておくように…。そのためにはバチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、すみやかにその手配をするように」と密命を与えたということです。

昭和天皇が誰よりも国際情勢に精通していたことをうかがい知ることができるエピソードではないでしょうか。

さて、そんなバチカンを支える強力組織がイエズス会*1です。

※イエズス会については『キリスト教は植民地支配の先兵だった』もご参照ください。

以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。

イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本−文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだ」と答えた。

1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?

小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。

「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震えおののいた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」

小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。

ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。

<中略>

『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。

「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。

もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。

堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)

それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。

「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」

堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。

ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。

80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。

<中略>

「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。

「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」

 こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。

 そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる“硝石”でした。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)

「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」

<中略>

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。

鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。

 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)

キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。

また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。

イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。

大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。

信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。

 宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。

 宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。

さて、次に鹿島fの『昭和天皇の謎』の中の一文を紹介する。

「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。

しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。

 家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」

鹿島fは、明智光秀が織田信長を殺したとしていますが、八切止夫はイエズス会が火薬で信長を吹っ飛ばしたとしています。

☆八切止夫作品集は下記で読むことができます。

http://rekishi.info/library/yagiri/

何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう?

その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。

大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。法王の答えは一定していた。

「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」

実に恐ろしきは“一神教”の偏狭さ也、ですね。

(つづく)

*1:イエズス会は、カトリックとしては二番目に大きな修道会。2万人の会員が112カ国で活動しています。ちなみに、一番大きな修道会は『ダ・ヴィンチ・コード』で有名となったオプス・デイです。 [コメント]

# kaihuuinternet 『昔々、ある日の新聞募集で幅1センチほどのそれに、八切止夫さんが求人で、電話したことがあった。ペンネームかともおもったが、それきりだった。「キリシタン大名」は、点訳講座が終了して、点訳奉仕で受講者が選べる本の中の一冊ではあった。でもそれ以上の参加はしなかった。戦後愛盲のタイプライターが普及の時期があり、現在はインターネットで彼らはパソコンやケータイのメールで全国的にサークル活動している。』

# noharra 『「ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人( マラーノ)」という記述も誤り。ザビエルはバスク貴族の家系で、マラーノではない。 ...」

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/
5a197e856586baf726f6a0e68942b400

』 2006-09-25 研究メモ

■イエズス会とフリーメーソン 13:07

1900年代初頭、ロシアで出版された『シオンの議定書』は、“ユダヤ人が世界を裏面から支配するための計画”として世界的な大反響を呼びましたが、実はその約50年前に、フランスで出版された『ユダヤの民の神秘』という“イエズス会の悪魔的な計画”について書かれた本の中に「議定書」がそっくりそのまま掲載されていたことが判明しています。

『シオンの議定書 第十五議定』では、「われわれの王国実現までは、フリーメーソン支部を世界各国に増設する」という内容が記されています。

われわれの王国を実現するまでの期間は(略)フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。

それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。メーソンの全支部は、われわれだけが承知していて他には絶対に誰も知らない中央管理機構の下に置く。

その機構を構成するのは、われらの学織ある長老たちである。支部には代表者がいるが、彼らは上記のメーソンの真の管理機構を覆い隠すために置かれるものであり、標語や計画は蔭の管理機構から発せられるのである。

これらの支部に、革命的分子やリベラル分子をすべて集めてしっかり結び合わせる。この中には社会の全階層が含まれるのである。

極秘の政治計画なるものもわれわれは熟知しているし、計画が立てられたその日のうちにわれらの指導部の手に入手される。

<中略>

秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、彼らを御してわれわれが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではない。(略)計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいないというわれらの下僕が先頭に立っている。

われわれだけがメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせないのは、極めて当然のことである。

ゴイムに至っては無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は何であるかを知っているのは、われわれだけだからである。

ゴイムは、通常、彼らの考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。

しかも、その自説たるや、われわれが彼らに吹き込んだものであって、本当に自分が考え出したものではないことに気が付きもしない。

ゴイムは、物好きからか、あるいは、大きなパイに一口あずかる手段としてメーソンに入ってくる。

中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させるために、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もいる。

彼らは成功と拍手喝采に飢えているが、その成功や拍手喝采こそは、われわれが気前よく振る舞ってやっているのである。

われわれがそういう大盤振舞いをするのは、彼らが持っている鼻持ちならぬ自惚れを利用するためである。

<中略>

われわれは、同胞のほかには誰も気付かないように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らないように、巧みにメーソンを処刑する。必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである……そのことが解っていても、同胞はあえて抗議はしない。

かような方法を用いて、われわれはメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのである。

われわれはゴイムにはリベラリズムを説くけれども、同時に一方では、わが民やわれらの代理人たちにはひたすら恭順に服させる。

 イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラとNo.2のフランシスコ・ザヴィエルは共にマラーノ(隠れユダヤ人)でした。

 イルミナティを創設したアダム・ヴァイスハウプトもイエズス会出身です。

『ユダヤの民の神秘』が信頼に値するものだとすれば、イエズス会はカトリックでありながら、実体はユダヤ人組織であり、親プロテスタント的なフリーメーソンさえ支配していたということになります。

山中豊吉氏の指摘『キリスト教に隠れたユダヤ教の陰謀』は、やはり慧眼と言えるでしょう。

[コメント]

2006-09-24 研究メモ





http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/323.html

コメント [原発・フッ素9] チェルノブイリ・百万人の犠牲者 動画+日本語キャプチャー 知的能力に影響 西側世界の目に触れるのは初めての資料 てんさい(い)
09. 2011年4月23日 16:53:21: FmB0JlnSpg
08の馬鹿よ

事実だ。
目、耳があるのかよ
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/753.html#c9

コメント [原発・フッ素9] 小原課長、「一日あたり、100兆べクレル」 - 政府の「放射能隠し」はとんでもないレベル!? 千早@オーストラリア
26. 2011年4月23日 16:56:28: FmB0JlnSpg
真ん中のはげ爺、人でなしだな
夜叉面悪鬼の面している
税金泥棒、子供殺し
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/695.html#c26
記事 [原発・フッ素9] 原発の安全性は、週1回48分の会議で決まった 何も発言せずに年間1600万円報酬のやれやれ・・・
ついでに言うと
1rem=10mSv remは検査の単位でも使うが 
トモダチの国では、公式でもよく使うようだ http://blog.energy.gov/content/situation-japan/

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5917
原発の安全性は、週1回48分の会議で決まった 何も発言せずに年間1600万円報酬のやれやれ・・・
2011.04.22(Fri)  伊東 乾
世界の中の日本 
福島第1原発事故、深刻度最悪の「レベル7」に

福島第一原子力発電所〔AFPBB News〕

手元に4月18日夕刻に行われた原子力安全委員会の議事録があります。この種の報告書を網羅的に見たわけではないですが、率直に言ってやや呆れました。

 原子力安全委員会、と名はついていますが、主として担当官僚の報告があり、それに質問があれば時折口を挟む。とは言っても大半は式次第通りに進み、この場で実質的な討議などはまるでない。

 「会議」は48分で終了、週1回の勤務で「常勤扱い」月給90万何がし、年収1600万ということは、やや下品な計算ですが1回の会議が20万円以上に相当するわけで、席に座っていれば1分当たり5000円のおひねりがつくことになります。

 全く発言のない委員さんは、ただ役人の話を聞くだけで25万円?

 まあ、まさか毎回、この種の報告を聞くだけではないでしょうけれど、ちょっと呆れないわけにはいかない「委員会」だと思いました。
人間の安全を議論しない委員会

 と同時にそういうものかという気もしたのは、大学の教授会の類と同じなんですね。事務方と委員長など首脳が内容は綿密に詰めておく。大半の人は当日座ってるだけで、多数決に1票を投じればそれで結構という図式。

 「原子力安全委員会が独自の調査団を現地に送っていないことが判明」というような報道を目にした気がするのですが、これが独自の云々という空気かどうか、議事録と各々の発言を見れば、問うのも野暮と分かる気がします。

 まあ、しょせんは長老会ということで、その他のすべてを捨て置いたとして、先ほどの「第23回委員会」議事録を見て、ほとほと「ひどいなぁ・・・」と思ったのは「人間の安全」という観点が1度も出てこずに、1回の会議が終わったことになっている、縦割り官僚制の最末期症状ですね。

 「炉の状態」が報告される。その確認をする。正規の仕事で、大変重要なことだと思いますが、そこでの健康への影響、つまり「人間の安全」がほとんど顧慮されない会議もある「安全委員会」。

 これでは、アリバイと言われても仕方ないでしょう。一応国の中では大切な位置づけになっているはずのものが、これくらい形骸化した状況で、いったいどうしようというのか?

米国のエネルギー長官、スティーブン・チューは精力的な男で、自分で率先して手を動かして仕事に目鼻をつけていきます。昔一緒に仕事をしたことがありますが、よくできる人物で、1997年のノーベル物理学賞受賞者の、本物のプロでもあります。

 右の写真、腕まくりをして青年のように見えますが、これで60歳。いまは63歳と思いますが、我が国の名誉教授諸兄が完璧に茹で上がった風情のが多いのと、仮に好対照と言わなくてもおのずと知れるものがあると思います。

 ちなみに今見てみたら、以前大学でよくお見かけした斑目春樹さん*1とスティーヴンは1948年生まれで同い年でした。

 スティーブンは物理の道具をゲノムなど生命科学に転用する端緒を開きました。そういう幅広の視点から、現在の福島の事態にも縦横に試算を発表しています。

 日本国内とずいぶん空気が違うのは、まあ後々の補償など心配して、などもあるでしょうが、基本的に文系官僚がシナリオを書いて、専門家先生にOKを取ったことにするという日本のテクノクラシーのベースが、緊急事態に即応していない表れと思います。

 企業であればこのまま放置すれば左前一直線確定という気がします。
放射能と健康被害:確定的影響と確率的影響

 さて、以下では「人間の安全」に関わる基礎を確認しましょう。私たち人間が放射能を浴びると、どのような影響が出るかを、整理しておきます。

 放射能とは、目に見えない妖怪などではなく、ヘリウム原子核(アルファ線)や電子線(ベータ線)、威力の強い光線(ガンマ線)など、私たち人間の体を形作っているのと同じ小さなちいさな材料が、強い勢いでぶつかって来るものでした。

 こうした小さな部品によるアタックは、私たち人間の「器官」や「細胞」にダメージを与えます。例えば、高濃度の放射性物質が確認された水に足をつけて作業していた人は「ベータ線熱傷」という火傷のような症状になりました。

 私たちは、熱いやかんに誤って触ってしまったり、高温の水蒸気が当たったりすると火傷を負います。また、夏に日焼けしすぎると、皮膚が水ぶくれになったりもしますね。

 日焼けの方は、太陽の光の中に含まれる紫外線が、私たちの細胞をアタックすることで起きる、やはり火傷に似た症状です。

*1:斑目春樹氏=原子力安全委員会委員長

高温の水蒸気を吹きつけられる火傷というのは、強い勢いで飛んでくる水分子で皮膚や身体をアタックされる症状です。

 私たちの身体は、壊れてしまった細胞を修復するように、新たに遺伝子を読み出して、一生懸命修繕の作業に努めます。途中ばい菌が入ってきたりしたら、白血球などの免疫系も頑張って働くことでしょう。

 放射線被曝による症状が、こうした通常の怪我や病気と大きく異なるのは、極めて小さな部品である放射線が単に器官や細胞を破壊するだけでなく、私たちの細胞の中に収められている遺伝子までも、ずたずたに切ってしまうことがあるため、非常に危険なのです。
放射線は人間の自然治癒力をも破壊する
政府、原発事故の避難者を差別しないよう呼びかけ

福島県二本松市で放射線量を測る住民たち〔AFPBB News〕

 普通の怪我なら、遺伝子に書き込まれた指示の通りに修復することで、怪我は癒え、傷口はふさがり、たとえ時間がかかっても回復することが期待できます。

 しかし、その回復のための筋書きが書かれた遺伝子まで傷つけられてしまうと、私たち人間が持っている自己保存の力、自然な治癒力そのものが働かなくなってしまう可能性がある。ここに注意しなければなりません。

 被曝線量の問題を考える時、覚えておくべきことは、短期間に集中して多くの線量を浴びてしまうと、単に器官や細胞が破壊されるだけでなく、それを修復する遺伝子までも数多く傷つけられてしまい、治癒の能力を失ってしまうこと。これが恐ろしいのです。

 こうした被曝量の目安として、シーベルト/毎時とか、シーベルト/毎年といった被曝の許容量が考えられるわけです。

 いまお話しした部分は、放射線を浴びると、短期的にまず間違いなく起きる「確定的影響」と呼ばれるものです。

 これとは別に健康への「確率的影響」が懸念されます。

 これは主として遺伝子へのアタックで起こるもので、元は自分自身の細胞の遺伝子だったものが、放射線によって遺伝情報の内容が傷つけられ、制御不能な細胞を作り出してしまうようになること、つまりガンなどが後になってから発症することが心配されるわけです。


 放射線被曝による私たちの健康への「確定的影響」と「確率的影響」は、どちらも放射線、つまり電子や光線などが極めて小さく、私たち人間の生命をコントロールする最も細かなメカニズムが異常になるため、細菌やウイルス、化学物質などによる他の病気と大きく違う危険をはらんでいるのです。
シーベルトとグレイ:疫学量と物理量
広島に原爆を投下した元B-29爆撃機の機長が死去

広島に原爆を落としたエノラ・ゲイのクルー(1945年8月)〔AFPBB News〕

 原発の事故や核兵器の被害による被曝・被爆では、多種多様な放射性物質から様々な放射線を浴びている可能性があります。このため、1つの原因だけで病気を正しく理解することは容易ではありません。

 また、お医者さんの立場に立つなら、診療の目的は人を治すことであって、原因や症状を分類・整理することが医の本来の目的ではありません(医学が先にたち患者がサンプルと化すような事態は、医の倫理に照らしてあってはならないことと思います)。

 1945年の広島・長崎への原爆投下以降、核の悲惨な影響によって、多くの人が健康を蝕まれ、尊い命を奪われていきました。

 そうした診療情報の積み重ねから、どれくらいの放射能を浴びると、身体にどんな影響が表れ、どのような病気が懸念されるか、といった健康と病気に関する統計情報、つまり疫学情報が積み重ねられていきました。

 よく目にする単位「シーベルト」の裏には、こうした膨大な数の被爆者の悲惨な経験に基づく莫大な疫学的データが存在しています。そのことを、まず認識してください。

 先ほどお話しした通り、各地の線量計は物理的な方法で放射線の量を測ることしかできません。実際には半導体検出器やシンチレーションカウンター、そのほかの器具を使って電子や光を計測するだけです。

 そのようにして得られる、物理的に測定することができる「吸収線量」という数値があります。この単位がグレイ(Gy)です。

 いま、原子力発電所を設計する技術者の立場で考えてみてください。タービン建屋など原子力プラントを建設・維持するためには、コンクリートや鉄など、建築材料が放射能によってどれくらい脆くなるか(脆性破壊試験)、といったデータが必要になります。

 そこで、素性の分かった放射線を鉄やコンクリートに照射して、強さの変化を調べます。

 この時、鉄やコンクリートなど物質1キログラムに対して放射線が1ジュール[J]の「仕事」をした時の「吸収線量」を1グレイ[Gy = J/kg]と言います。

 この「仕事」という言葉は高等学校の物理で教えるエネルギーの単位で、分かりにくければ熱量、カロリー[Cal=J=m×kg m/s2]と同じものと思っていただいてかまいません。

 「1グレイの吸収放射線量」というのは、鉄が浴びても、コンクリートが浴びても、はたまた人間が浴びても、物理的な量ですから変わりはありません。
同じ放射線を浴びても受ける側によって被害が異なる

 しかし、それによって照射された側が受ける影響は大きく違ってきます。コンクリートと鉄が各々1グレイの放射能を浴びて、どれほど強度が変わるのか、細かなことは知りませんが、人間が1グレイの放射能を浴びると、かなり健康に影響が出てしまいます。

 ここで放射能にもいろいろな種類があることを思い出してください。同じ1グレイつまり体重1キロ当たり1ジュール分の「熱量」を放射線から受けるとしても、アルファ線(ヘリウム原子核)によるのと、ベータ線(電子線)によるのと、X線やガンマ線(高エネルギーの光線)によるのとでは、影響の度合いが違います。

 これが陽子線や中性子線でも、各々また違ってきます。

 そこで、原爆病の治療などの過程で、いろいろな種類の放射線1グレイを浴びた時、それがどの程度健康に影響を及ぼすかを見積もるための、疫学的な値が工夫されました。それがシーベルトという単位なのです。

 基本になるのはX線、ガンマ線などの光線で、

1グレイ[Gy](光)=1 シーベルト[Sv]

 で換算します。またベータ崩壊で放出される電子についても、

1グレイ[Gy](電子)=1 シーベルト[Sv]

 と見積もることにしました。これに比べると、原子炉内で放射される中性子は、私たちの健康をより強く害する性質を持っており、

1グレイ[Gy](低速中性子)=5シーベルト[Sv](10KeV以下)
1グレイ[Gy](中速中性子)=10シーベルト[Sv](10−100KeV)
1グレイ[Gy](中超高速中性子)=20シーベルト[Sv](100−2000KeV)
1グレイ[Gy](高速中性子)=10シーベルト[Sv](2000−20000KeV)
1グレイ[Gy](超高速中性子)=5シーベルト[Sv](20000KeV以上)

 と中性子の持っているエネルギーによって健康に与えるダメージが異なっています。しばらく前に「ベクレル」は打率だけれど「シーベルト」は打点だと言ったのは、このことなのです。

 同じ1個の中性子でも、健康に与える被害の「打点」はエネルギー次第で様々に異なり、それを統計平均的に加算したものが「シーベルト」という単位なのです。

 アルファ(α)粒子は重く、また電荷を帯びているので、

1グレイ[Gy](アルファ粒子)=20シーベルト[Sv]

 となり、また重い原子核線を直接被曝したときのインパクトも、

1グレイ[Gy](重粒子)=20シーベルト[Sv]

 と計算します。
疫学量と物理量

 グレイが物理量であるのに対して、シーベルトが疫学量である、というのは、人間の感覚とちょっと似たところがあるかもしれません。

 例えば塩水を作るとします。いま塩水の濃度を2倍にしても、私たちはその「塩辛さ」を2倍とは感じません。人間に対する影響が物理的な変化と違う一例です。

 あるいは、ステレオのボリュームを上げて、出力のパワーを2倍にしたとしても、人間は決してそれを2倍にうるさいとは感じません。人の耳は精妙にできており、きちんと聴くことができる音のパワーは最小の音から最大まで10万倍もの幅があります。

 このため10倍、100倍になってようやく2倍くらいに感じる、ということも少なくありません(現実には音の高さや種類によってさまざまですが)。

 報道やテレビで1ミリシーベルトの線量が測定された、などと耳にしたら、それが「毎時」かどうか、また物質「1cc当たり」などなのか、それとも空間線量なのか、などに注意すべきだ、とお話ししましたが、さらに「シーベルト」という量そのものが、疫学的な情報によって見積もられた、便利のための数値である、ということを思い出してください。

 目的は、あくまで、私たちの健康を守ることで、数値は目安に過ぎません。より安全を見て判断、行動することが、何より大切です。

 私が冒頭の「原子力安全委員会」を問題以前と断じたのは、雰囲気でものを言うわけではなく、物理量ベースの議論だけでの「安全」で、臨床や疫学の量、つまり人にとっての安全という観点が(少なくとも上の回に関しては)ほぼ完璧に抜け落ちていること、そしてそれに特段、異論をさしはさむ空気もなく、議事がつつがなく進む様子を見て、この中に人間の安全という配慮は、全くないのだなと呆れ果てたというものでありました。

(つづく)

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http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/766.html

コメント [原発・フッ素9] 菅は福島の小中学生を殺すのか 75.9%の学校が被曝量オーバーなのに放置のア然 (日刊ゲンダイ) 赤かぶ
53. 2011年4月23日 16:58:30: 2cV5GYU6gY
36の方に激しく賛同します。7の方の沈着な文章にも敬意を表します。自分が書くより数段 大切なことを確認できます。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/700.html#c53
コメント [原発・フッ素9] 小原課長、「一日あたり、100兆べクレル」 - 政府の「放射能隠し」はとんでもないレベル!? 千早@オーストラリア
27. ももん爺 2011年4月23日 16:59:49: QnfuyB5RKZq9U : OyjYKSb0hQ
最初のころに、ウソというか、事態を過小評価するような報告をする目的は理解できるのですが、6週間もたって未だに過小評価に期待する思考プロセスっていうものを理解できないのですが。

一度の過ちを、とことん引きづるしかないのが役人根性なのかな?

だとすると、不思議な生き物なんだよな。   妖気が感じられるな。

被災者が、全部、背負いこまさてるってのも、狂気の沙汰としか言えないよな。

制度が悪いか。   律令制度を、ソノママ引き継いでいるってことの意味か?
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/695.html#c27

記事 [昼休み46] イエズス会とナチス・icke(民族による括りは、カトリックによる撹乱で、訳の分からぬ独裁者達は彼らの傀儡だったようです)
http://icke.seesaa.net/article/31740465.html
2007年01月20日 Tweet It!
イエズス会とナチス
アイクのニュースレターより

LEAD TO ROME ....? (ローマへの道)

20世紀の2つの世界大戦などのような世界を変えてしまうような出来事に対して、イエズス会は根本的な関与を持っていたが、それについて、これまで話題にのぼることはまれであった。通常、取り上げられ非難されるのは、ロスチャイルドと結びつきで存在し、シオニズムの名のもと運営されている、あるユダヤの陰謀団である。この陰謀団はイルミナティの重要な一部分であるが、それは、中心にいる蜘(クモ)そのものではない。それは(たぶんクモ:不明)、イエズス聖職位階制とバビロン教会の下部組織であり、現在ではローマ教会として知られているものだ。

※(下記の色の変わった部分訳自信なし)

イエズスの上層部は、「ユダヤ人が指導している陰謀である」と描かれることにきわめて満足している。真の黒幕が誰なのかを分からなくしているからだ。ババリアのイルミナティの創設者アダム・ワイスハウプトだけでなく、イエズス会もその組織を教育し、支配していたし、スターリンも、多くのナチの主要メンバーもそうであった。ナチのダンチヒ政府を率いていたヘルマン・ラウシュニングが、ヒトラーが次のように語ったと、1939年に打ち明けている。

「(ヒトラー)イエズス会からは多くのことを学びました。現在までに、カトリック教会の聖職位階制組織ほど壮大な組織は地球上には存在していない。私は、この組織から多くのものを、私自身の『ナチ』党に注入した。私の『Burgs of the Order』では、将来世界を震撼させる若者を一人育て上げるつもりだ……」

ドイツ防諜組織の長官であったワルター・シェレンベルクも、次のように、ヒトラーが語ったと言っている・

ヒムラーはイエズス会の理念にしたがってS.S組織を作り上げた。Ignatius of Loyola(ロヨラ)が定めた規約と精神修養をヒムラーは正確にコピーしようとしていた。ヒムラーの肩書きであるS.Sのsupreme chief(最高指導者:別の用語があるように思う)は、Jesuit General(イエズス・ゼネラル)と同等のものであった。そして、組織の全体構造と命令系統は、カトリック教会の位階制のイミテーションに近いものであった。

ヒトラーもヒムラーもイエズスで訓練されたゲッペルスも、また、ほかの主要なナチス党員も、みな、カトリックであった。このことが、ナチスドイツとバチカンの間で連携共同関係が深かったことの理由であり、第二次大戦後何十年もの間にわたって、何度となく暴露されていることである。

The Jesuit leadership has been quite happy to portray the conspiracy as Jewish-led because it hides where the true string-pullers are. Not only was Bavarian Illuminati founder, Adam Weishaupt, Jesuit educated and controlled, so was Joseph Stalin and many of the key Nazis. Hermann Rauschning, former Nazi head of the Danzig government, revealed in 1939 that Hitler had said:

アイクの文章は、時々、バートランド・ラッセルさんのように「高尚」な調子になり、意味がとれない場合があります。
また、時間がないのでナチスの用語については調べるのは省略しました。
ここで出てくるロヨラさんはザビエルと関係がある人。
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posted by 狭依彦 at 09:29 | Comment(10) | TrackBack(1) | イルミナティ | |
この記事へのコメント
ローマ帝国を内部から腐らせ、ゲルマン民族を利用して崩壊に至らせたのはバチカン・キリスト教会勢力ではないかと
推測しております。
ユダヤの陰謀=イエス・キリスト(ユダヤ人)の陰謀=バチカン(キリスト教)の陰謀=イエズス会(バチカン)の陰謀
なんにせよ繋がってるわけです。
Posted by にーろく at 2007年01月21日 15:36

>我々は、ゴイム(家畜)にそれぞれ相反する意見を植え込み、互いに弁じさせる。
>その結果大衆は政治家の空疎な言葉の氾濫にうんざりする。
>何がなにやらわからなくなった大衆ゴイムは、結局政治に無関心になる。
>社会を複雑化させ、基準を混沌とさせることで、相互理解を抹殺する。
>ゴイムの個人的独創に富んだ創造精神は我々にとって危険である。
Posted by    at 2007年01月21日 21:21

何がなにやらわからなくなった大衆ゴイムがそのまんま東さんを宮崎県知事に選んだようですよ。
ここまでくると「操り人形」というより「ただの飾り」ですね。
Posted by にーろく at 2007年01月21日 21:49

>個人的独創
センセー、分かりました。だから、「仲間外れはいじめだ」なんて言うのですね。みんな、同じようになって、みんなで、みんなを監視するなんてね……
Posted by 狭依彦 at 2007年01月21日 22:15

>ローマ帝国
ここまでは手を拡げられませんが、最近次のような妄想を抱いています。

真のユダヤ本体は[コーカサスにいる]->かなりの数で自由民として、ギリシアを建て「別民族の奴隷」を使った
->少数の者を派遣して宗教支配層となり「中東ユダヤ民族」をコントロール。真のユダヤの思想の一部を教え込む。
->少数の者を派遣して政治的支配者となりローマを作る。被支配層は「ラテン民族」
->アーリア系のゲルマン人として、真のユダヤの下層層がヨーロッパ北方へ移動。
Posted by 狭依彦 at 2007年01月21日 22:23

◆放送プロデューサーのデーブ・スペクターさん(非ゴイム)
「東氏の当選は、東氏本人よりも官僚や政治家に対する宮崎県民のウンザリ感、不安感を象徴していると思う。淫行問題やフライデー事件もずいぶん昔の話だし、県民は覚えていないのでは。番組で何度か一緒になり早大で地方政治を一生懸命やっていると感じたが、県に対して本当に関心があるか分からない。ただ政治家経験ゼロでしがらみがなく、クリーンだから期待はできる。若くて忍耐力と根性があるし、選挙戦そのまんまこれからも頑張ってほしい」
Posted by   at 2007年01月22日 15:04

今度は北野たけし氏が出馬?。フライデー襲撃後のさなか軍団はコンタクト遠い石垣島でゴルフでバカンス、ゴルフになんねーカラスが玉持って行く石垣は、そういえばオウムもきていたな、石垣島には最後に辿りつける所、そういう大物闇あるという、たけし氏メンスリーかも?、蘇生し変質した、東氏に政治を進めたのか?、最近政治にコメントしている武氏を注目しています。
Posted by chuji at 2007年01月22日 15:30

>県民は覚えていない
そうなんでしょうね。日本人の特質でしょう。

>石垣島には最後に辿りつける所
まさに。秘密郷かも。
Posted by 狭依彦 at 2007年01月22日 21:09

北野映画「ソナチネ」
舞台は石垣島
最後の死に場所として描かれている・・・
Posted by   at 2007年01月23日 00:46

バチカンにある安土城の屏風と信長暗殺のテレビを見ましたが、結構思わせぶりでした。
硝石と信長の関係。また、宣教師の関係。本能寺が日蓮宗で、堺、種子島と繋がっていること。
大工に西洋建築を教えた宣教師のこと。
宣教師ヴァリニャーノなんかも怪しい。
少年使節はアイクのいう少年愛のプレゼントではないか……
最後に、提供がマイクロソフトというのも、とても怪しい。
Posted by 狭依彦 at 2007年01月29日 23:33

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http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/324.html

記事 [自然災害17] 遺体漂流…津波犠牲者120キロ先で発見(zakzak)
遺体漂流…津波犠牲者120キロ先で発見
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110423/dms1104231547002-n1.htm
2011.04.23 :夕刊フジ

 茨城県ひたちなか市の沖合約60キロの太平洋で12日に女性の遺体が見つかり、県警は22日、身元が東日本大震災で被災した福島県南相馬市鹿島区南右田、漁業、宮本恵子さん(63)と判明したことを明らかにした。遺体発見場所は自宅から120キロ以上離れている。茨城県沖で県外の犠牲者が見つかったのは初めて。

 遺体は海上を漂流しているのをタンカーが発見。傷みが進んでいたため身元確認は難航したが、歯の治療痕などから本人と分かった。夫が遺体を引き取った。

http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/236.html

コメント [原発・フッ素9] 原発まとめ(10)4月12日〜 レベル7検討…最も深刻 関東・東北から離れろ! という情報が華僑社会を駆け巡った てんさい(い)
77. 2011年4月23日 17:02:14: bagXH0lhII
【チェルノブイリの少年たち】運命の金曜日
http://www.asyura2.com/0311/genpatu1/msg/232.html
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/138.html#c77
コメント [自然災害17] 作家伊集院静氏の怒り”コイツらみんな戦犯だ”[杉並からの情報発信です:自らも仙台で被災した著名作家の言] 一市民
103. 2011年4月23日 17:05:00: BmbQ7crdxg
戦後利得者(敗戦利得者)である在日と組んで戦後レジームの脱却はありえない。
在日は違法なパチンコマネーで政治家、マスコミなどを買収して
日本に対して内政干渉を(外国人参政権などの運動を)してはいけない。
日本に住みながら不当に日本を辱めるような事をしてはいけない(日本に住む
日本人の子供たちの心を不当に踏みにじってはいけない)。
あなたたちは帰る国のある(日本以外にアイデンティティーの帰属する国のある)
外国人なのだから。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/211.html#c103
コメント [原発・フッ素9] 「数値で人の命を買うな!」〜何も答えられない文科省・原子力安全委員会〜(レイバーネット日本) gataro
11. 2011年4月23日 17:05:09: dv1PHh8yUs
で、22日10時までに回答は発表されたのでしょうか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/717.html#c11
記事 [昼休み46] 東日本大震災=アフガニスタン戦争・alternative(イエズス建設は「受注兵器」で津波や地震を起こしたようです)
http://alternativereport1.seesaa.net/article/197287010.html
2011年04月23日
東日本大震災=アフガニスタン戦争

東日本大震災では、被災地が、ガレキの山と化した。

震災地の復旧には、莫大な建設工事の、「需要、が見込まれる」。

イラク戦争、アフガニスタン戦争では、戦地が、ガレキの山と化した。

戦地の復旧には、莫大な建設工事の、「需要、が見込まれる」。

戦争と、大震災は、建設企業=公共事業・担当企業にとって、「金モウケのためには、どうしても必要」である。

イラク、アフガニスタンの戦争の「復旧」で、莫大な建設工事を受注し、多額の金モウケを行った研究所、企業が、

「人工的に地震を作り出す、兵器を所持している」。

戦争と、大震災は、建設企業=公共事業・担当企業にとって、「金モウケのためには、どうしても必要」であり、「必要は、発明の母」である。


http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/325.html

コメント [原発・フッ素9] 食べ物から放射能を取り除く効果的な方法(一般社団法人 日本リスク研究学会 災害対応特設サイトより) 有間姫
07. 恵也 2011年4月23日 17:08:51: cdRlA.6W79UEw : nduH99pX5Y
>> 葉菜(ホウレンソウ、シュンギク等):煮沸処理(あく抜き)で50~80%を除去できます。

除去して2000ベクレルなんだから、暫定基準は大アマだよ。
百姓だって徹底的に洗って、しかも放射能が少なそうなのを検査に出すだろうしにな。

調査機関も放射能があまり高くならないように、真面目に洗うのじゃないかね。
検査する方も、費用を出す百姓も放射能は少ない方が良いし、それでも限度が
あるし・・・

俺としてはアメリカの限度170ベクレルを信用したい。
仕方のない暫定基準とはいえ、2000ベクレルなんて言語道断。
暫定基準値をぜんぶ公表しろ!

>>05 葉物野菜はあきらめる。生乳もあきらめて輸入の加工乳製品、
葉物野菜なんて、外国産はないのじゃないの。
取ってすぐ店に出さないと、簡単に萎れてしまうし日持ちしないのに値段が安い。
飛行機で運んでたら大赤字だろ。

沖縄や高知、青森、札幌の空間線量と茨城のを比べると1:10くらいの差があります。
この際だから高知産の葉物野菜で我慢したらどうだね。

ーーーー引用開始ーーーー
全国の放射能濃度一覧
http://atmc.jp/
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/741.html#c7

コメント [原発・フッ素8] 福島第1原発:2号機の高濃度汚染水、流出止まる  sci
10. 2011年4月23日 17:09:22: MVtNBcd9FE
信じられない生コンの使い方、
 生コンは打設後数時間絶対安静、流れる水には裸で打たない、これ常識!この度は[セメントペースト,砂等が流亡し、粗い骨材だけが残った水みちが出来た。]ので止水効果を失った。
 水中コンクリートは形を保ち流れを起こさない役目を持つケーソン等を沈め、更に分離抑制剤を添加した生コンを慎重に打つ。
今回は、耐水ベニヤ板をブルーシートで包んで孔に宛がい、然る後投入すれば一発成功!
 おが屑と新聞紙を骨材としたポリマーは更に無意味!英誌が笑うのも当然、コンクリート構造物は自立するまでに何日かかるか全く知識が無い文系は触るな!
 水ガラスも栗石基礎の様な単粒度には殆ど効かないが、砂等を混入した液を圧入したのかな?
 DIY親父にさえ遠く及ばぬ関係者の無知には原発など関わらせてはならぬ!
 止まったのは奇跡に近い。
時間稼ぎにしても余りにお粗末!本気で遣ったのなら稀代のバカ!
 
http://www.asyura2.com/11/genpatu8/msg/665.html#c10
コメント [原発・フッ素9] 福島第1原発「工程表、実現は可能」 仏アレバCEOに聞く 「廃炉作業30年以内に」 sci
05. 2011年4月23日 17:09:36: UJ4aY1PsV6
フランスあたりにオシメを取り替えてもらっている日本。
がっかりだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/755.html#c5
コメント [原発・フッ素9] ただの運動をしている時ではない! 小川みさ子さん情報 - 緊急!福島の子どもが危ない! 広瀬隆さん&或るお寺の住職... 千早@オーストラリア
42. 2011年4月23日 17:10:39: daZG8jFzgA
とりあえず身近な、国会議員や県議・市議あたりにこの事実を
メールして対策を依頼しましょう。
わたしは政治献金で森ゆうこ議員事務所のアドレス知ってたのでメールします。


http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/648.html#c42

記事 [テスト22] You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」
You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」

出典 http://www.youtube.com/watch?v=dLbgmGbNzdI

 東電と政府当局のやり口をパロディにし徹底的に皮肉った曲と画像がアップされています。もと唄は○○○の「自衛隊に入ろう」というパロディ曲です。
 断った起きますが、元曲は自衛隊の存在と憲法との関係をパロディとした曲です。
 私はオリジナル曲の内容については必ずしも賛同するものでありませんが、純粋に東電と政府の対応、最近の世相について鋭く風刺して歌っており、一聴に値すると思いますので紹介します。

「福島第一原発 Japan Nuclear Power Plant 東電に入ろう♪ 」


    ♪東電に入ろう♪〜 (パロディ歌詞)

みなさん方の中に 東電に入りたい人はいませんか
ひと旗あげたい人はいませんか 東電じゃ人材求めてます
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発やりたい人いたら いつでも東電にお越し下さい
ウランでもプロトニウムでも何でもありますよ
下請け使えば平気です
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発推進派の皆さんは 原子炉の真下にお集まり下さい
今すぐ体に悪いわけがありません シャワーで流せば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発はクリーンなエネルギーです
プルトニウムはそんなに怖いもんじゃありません
放射能をだすといっても半減期は たったの2万と4000年です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


ニホンのエネルギーを支えるには 原子力に頼らないといけません
多少の被爆は止むを得ません イゾジン飲んでおけば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


使用済みの核燃料は全部まとめて ドラム缶につめたら大丈夫
六ヶ所村のプールで冷やしてます たった300年の我慢です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


水が漏れてるけど騒ぐんじゃない  煙が出てるけど慌てるな
屋根がぶっ飛んだけどぜんぜん大丈夫 とにかく塩水で冷やしてます

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


今すぐ危険てワケじゃない 牛乳も野菜もすてましょう
政府のお偉いさんが言っています 保証は税金で払いましょう 

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る

ガイガーカウンターは売切れてます 君たちそのなモノ持っちゃダメですよ
放射能の値はこちらで発表します   信じる者は救われる

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る

http://www.asyura2.com/11/test22/msg/116.html

コメント [自然災害17] 前回記事からお見せできなかったオリジナル画像を一部紹介します。 平成の坂本竜馬
60. 2011年4月23日 17:11:52: mFgTpz8XMI
やつらってアレですよね?
Terrible Horrible Evil Members

でもユーリリア達に倒されたはずですが???
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/173.html#c60

記事 [昼休み46] イエズス新聞・フジは、微かに残る大和魂を振り絞り「津波爆弾の仕業だよ」と行間に匂わせています。
 
次へ 前へ
遺体漂流…津波犠牲者120キロ先で発見(zakzak)
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/236.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 4 月 23 日 17:01:36: igsppGRN/E9PQ

遺体漂流…津波犠牲者120キロ先で発見
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110423/dms1104231547002-n1.htm
2011.04.23 :夕刊フジ

 茨城県ひたちなか市の沖合約60キロの太平洋で12日に女性の遺体が見つかり、県警は22日、身元が東日本大震災で被災した福島県南相馬市鹿島区南右田、漁業、宮本恵子さん(63)と判明したことを明らかにした。遺体発見場所は自宅から120キロ以上離れている。茨城県沖で県外の犠牲者が見つかったのは初めて。

 遺体は海上を漂流しているのをタンカーが発見。傷みが進んでいたため身元確認は難航したが、歯の治療痕などから本人と分かった。夫が遺体を引き取った。


http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/326.html

コメント [原発・フッ素9] 小原課長、「一日あたり、100兆べクレル」 - 政府の「放射能隠し」はとんでもないレベル!? 千早@オーストラリア
28. 2011年4月23日 17:12:44: ZHG6nRrOgo
24さん

副島隆彦氏とベンジャミン・フルフォード氏

浅学につき、どちらも真っ当な方に見えないのですが、安心できる理由を教えていただけますか。文科省の数値を信じる限り、福島市民は、1日1回胸部レントゲンを受けているのと変わりません。線量が底を打ったように減っていないので、これからもずっと変わらないのでしょう。本当に何ともないのですか。教えてください。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/695.html#c28

コメント [原発・フッ素9] 東電、海外事業売却へ=原発賠償に数千億円規模 ← やはり解体しかない! jesusisinus
04. 2011年4月23日 17:13:58: oWbillhalg
現状のレベルでも福島第一20km圏内、第二原発10km圏内の避難指示区域8万人、20〜30km圏内の屋内待避区域13.6万人に対する、健康、土地・家屋・資産、所得保証、漁業・農業の賠償、土地・水汚染除去費用など国内賠償のほか、海洋汚染で外国からも賠償請求される可能性あるうえ、さらに事故は拡大するおそれさえ十分ある。

東電! 海外資産売り払いの1兆や数千億円で許されると思ってるのか?そんなはした金で足りるわけないだろうが!

今回の事故は「未必の故意」で起こした人災、いや犯罪だ。
原賠法など犯罪者に適用する必要は無い。

お前達東電幹部とその御用学者、原発官僚は大量破壊兵器を使用した殺人罪で全員死刑だ。無差別殺人の東電が国内事業に専念とか寝言を言うな!全資産を売り払い国営化だ。それで足りない分は、関西、中部ら電力会社全部、電事連、原発関連法人、原発企業ら、「安全」を捏造し原発建設を散々煽ってきた原発マフィアに連帯責任を負わせ10兆か数十兆になるか判らんがすべて出させろ。

国(=血税=国民)が補填するなどはその後だ!

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/750.html#c4

コメント [経世済民71] 今年前半はマイナス成長の見通し=白川  財源含む震災復興ビジョンは5〜7月に=枝野 sci
02. 2011年4月23日 17:14:22: cqRnZH2CUM
思ったほど、復興需要は強くない可能性がある
いずれにせよ増税は早まらない方がいいか
http://www.sumitomotrust.co.jp/RES/research/PDF2/721.pdf
住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
東日本大震災の発生で、企業の銀行借入に対する需要が高まっているという見方がある。しかし、経済活動の下振れに伴って実際に必要な運転資金・設備投資資金は減少すると見られる上に、リーマンショックの時と異なって直接金融市場での混乱が深刻化しているわけでもないことから、銀行借入への需要の高まりは一部、あるいは一時的なものに留まるだろう。
1.震災前の銀行借入需要 〜 企業部門の資金余剰反映して借入需要は弱い状態
震災前の国内企業部門は、フローとしての資金余剰幅(キャッシュフローから設備・土地・在庫の実物投資額を引いた分)を拡大させていた。リーマンショック後に企業収益とともにキャッシュフローは減少したが、実物投資がそれ以上に減少したために資金余剰の度合いが強まったのである(図1)。このため、2009年度後半からは銀行借入をはじめとする企業の資金調達が減少に転じている。リーマンショックが発生した2008年度に、国際金融市場の混乱に直面した企業が念のための手許資金を確保するために銀行借入を増やした反動で、2009年度内の銀行借入減少幅は特に大きくなったが、その反動が出る期間が終わった後の2010年に入ってからも銀行借入の減少が続いている。少なくとも震災前までは、企業部門が資金余剰の状態にあり、そのために銀行借入への需要は弱い状態が続いていた(図2)。
-30-20-100102030T2008UVWT2009UVWT2010UVWCP事業債公的金融機関借入民間金融機関借入有利子負債合計図2民間非金融法人企業の有利子負債(前年同期差、兆円)(資料)日本銀行「資金循環統計」
05101520253050607080901000203040506070809資金余剰額(a-b、目盛右)キャッシュフロー(a)実物投資合計(b)(兆円)(兆円)図1企業のキャッシュフローと投資の推移(資料)内閣府「国民経済計算」(年度)
当部の標準的な経済見通しに基づいて2010年度以降の企業部門資金余剰額を試算すると、2010年度は2009年度と同程度の大幅な資金余剰となり、2012年度まで10兆円前後の資金余剰が続くという結果が得られた(次頁図3)。資金余剰額と有
1
住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
利子負債の間には、前者が拡大すれば後者が減るというある程度安定した関係があり、有利子負債が増加に転じるには、少なくとも資金余剰額が10兆円を下回ることが必要であるというのが過去の経験則である(図4)。これを踏まえると向こう1〜2年は銀行貸出減少が続くと見られる、というのが震災前の姿であった。 -30 -20 -100 10 20 30 40 -60 -50 -40 -30 -20 -10 0 10 20 30 (有利子負債増減、兆円)(企業部門の資金余剰、兆円)図4企業部門の資金余剰幅と有利子負債増減の関係(1990〜2009年度のデータ)(資料)内閣府「国民経済計算」
10.2
2.震災による銀行借入需要増加の持続性
一部報道では、今回の東日本大震災発生を受けて銀行への借入需要が増えているとされる。この先、企業の銀行借入需要はどのように推移するだろうか。
今回の震災で、日本経済の活動水準は大幅な下振れを余儀なくされた。2011年度に入ってからの日本経済の見通しは、前月の調査月報「東北地方太平洋沖地震が日本経済に与える影響について」で述べた通り、国内サプライチェーン寸断や関東圏における電力供給不足という供給制約要因などでしばらく低迷を続けた後、2011年度後半から回復していくというのをメインシナリオにしている。この経済環境を前提として、今後の銀行借入需要がどのように推移するかを検討していく。
震災によって発生する借入需要の種類としては、@資金回収の遅れなどに伴う必要運転資金増加、A毀損した設備の復旧資金、B金融市場混乱による直接金融ルートの機能喪失を受けた銀行借入へのシフト、C念の為の資金確保−が挙げられよう。以下では、それぞれについて見ていくこととする。
@資金回収遅れや在庫増による必要運転資金増加
経済活動の下振れによって売上が減少し、意図せざる在庫積み上がりが起これば、その分運転資金が必要となり、銀行貸出への需要が高まることになる。ではマクロ的な視点から見て、過去に経済活動が下振れ始めた時の運転資金需要は、どう推移したのだろうか。 0.3
4 .7
2.9
16 .9
1 7.2
1 2.8
9.7
7.7
0
5
10
15
20
05 06 07 08 09 10 11 12 13
(兆円) 3 企業部門の資金余剰額試算値
試算

(資料)内閣府「国民経済計算」 (年度)
2
住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
そこで景気後退局面入り直後の必要運転資金額を、法人企業統計季報のデータ(売掛債権・受取手形+棚卸資産−支払債務・手形)から計算したのが図5である。これによると、97〜98年の金融危機発生の時とITバブル崩壊期には、下振れショックが発生した直後は若干増加しているが、2〜3四半期後にはいずれも明確な減少基調となっている。景気に下押し圧力がかかった直後は、資金回収の遅れや意図せざる在庫の積み上がりによって必要運転資金が一時的に増加するものの、しばらく時間が経てば減少した売上高に見合う水準まで縮小していくのが通常のパターンであることがわかる。リーマンショックの時は直後から必要運転資金が減少に転じている。この要因としては、リーマンショックの際の生産減少ペースが過去の後退局面よりも圧倒的に速いなど景気悪化の波及スピードが速かったために急激な在庫削減が行われたことが大きいと見られる。
82 84 86 88 90 92 94 96 98 100 102 012345山一ショック後(基準時=97/4Q)ITバブル崩壊後(基準時=00/4Q)リーマンショック後(基準時=08/3Q)図5マクロデータによる景気後退期の必要運転資金の動き(基準時=100)(基準時からの経過期間、四半期)(資料)財務省「法人企業統計季報」(注)必要運転資金=売掛債権・受取手形+棚卸資産−買掛債務・支払手形
70 75 80 85 90 95 100 105 012345山一ショック後ITバブル崩壊後リーマンショック後(参考)景気後退期の鉱工業生産の動き(基準時=100)(基準時からの経過期間、四半期)(資料)経済産業省「生産・出荷・在庫統計」
3
住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
今回の震災による生産下振れの要因としては、過去の生産減少の主因であった需要減退よりも電力不足など供給制約の方が大きい。このため全体としては、需要の読み誤りによる在庫の積み上がりは起こりにくく、逆に減少する可能性の方が高い。これを前提とすると、必要運転資金の水準とともに、運転資金のための借入需要も減っていくと考えるのが妥当であろう。逆に資金回収の遅れなどで一時的に必要運転資金が増加することがあったとしても、その状態は長続きせず、半年ほど経過すれば売上とともに必要運転資金、および銀行借入需要も弱まっていくと見る。
A毀損した設備の復旧資金 〜 被災地以外の設備投資下振れで相殺
震災で毀損した設備の復旧に必要な資金について、内閣府の試算によると、今回の震災による民間企業設備毀損額は9〜16兆円(設備全体の0.75〜1.25%前後)となっている。阪神大震災時の兵庫県における設備投資額の推移を見ると、震災後2〜3年に亘ってこの復旧が行われたと見られる(図6)。毀損した設備が全て復旧されるという前提で、この経験則を今回に当てはめると、2011年度以降3〜5兆円の復旧投資が行われる計算になる。
2.5 3.0 3.5 4.0 9495969798(兆円)図6阪神大震災後の兵庫県における名目設備投資額(資料)内閣府「県民経済計算」
震災
(年度)
この復旧投資が必要な企業において、銀行借入への需要が発生するケースは多いだろう。しかし、震災による経済活動水準の下振れや、先行きの不確実性が高まったことで被災地以外の設備投資が相当程度減るために、設備投資全体では下振れる可能性が高いと見ている(当部は経済見通しにおける2011年度の名目設備投資伸び率予想値を、震災前の+4.6%から震災後▲0.2%に下方修正した)。毀損した設備が完全に元の水準まで復旧されるとは限らないことも踏まえると、設備復旧のための銀行借入需要は個別企業レベルでは出るものの、企業部門全体として「資金余剰のため借入需要は出にくい」という状態を脱するほどの規模には至らないと考えるのが妥当であろう。
B直接金融から銀行借入へのシフト 〜 金融市場が特段混乱しておらず期待薄
リーマンショック直後に銀行貸出が大幅に増えたのは、直接金融ルートの機能低
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住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
下による間接金融へのシフトが最大の要因であった。これは、当時の銀行貸出増加幅拡大の殆どが、直接金融による資金調達割合が相対的に高い大企業向けによるものであったことからも窺える(図7)。
-2.0 -1.0 0.0 1.0 2.0 3.0 4.0 5.0 TUVWTUVWTUVWTUVW2007200820092010中堅中小企業向け大企業向け銀行貸出合計図7銀行貸出伸び率と貸出先規模別寄与度の推移(前年同期比、%)(資料)日本銀行「貸出先別貸出金」
0501001502002503003502007年2008年2009年2010年2011年AAA格AA格A格BBB格図8社債スプレッドの推移(JCR、5年)(bp)(資料)Bloomberg(注)それぞれの格付の社債利回りと5年国債利回りの差。
リーマンショック時は、CP・社債市場の機能が著しく低下し、これがCP発行レートと社債スプレッド(社債と国債利回りの格差)の急上昇に現れたが、今回は東京電力と関係のないA格・BBB格のスプレッドがリーマンショック時を大きく下回る落ち着いた水準を維持していることに加えて、CP発行金利にも殆ど変化はないため(図8、次頁図9)、直接金融市場の機能は低下していないと判断するのが妥当であろう。4月下旬現在、一般事業会社による普通社債の発行は止まっているが、今後は徐々に復活していくと見る。既に日銀が包括的金融緩和政策の枠組みにおいてCP・社債の買入れという異例の枠組みを設定しており、今後何らかの異常事態が
5
住友信託銀行 調査月報 2011 年 5 月号 経済の動き〜震災発生後の銀行借入需要をどう見るか
発生すれば更なる買入れ枠拡大余地があることも踏まえると、電力業界など一部を除いて、リーマンショックの時と同じような規模で直接金融から間接金融へのシフトが起こるとは考えにくい。
図9 CP発行残高と発行レートの推移
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2 1.4 1.6 -40.0-30.0-20.0-10.00.010.020.01234567891011121234567891020082009CP発行残高(銀行引受分)平均発行金利(3か月、目盛右)(前年同月比、%)@リーマンショック前後(資料)日本銀行(%)0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2 1.4 1.6 -40.0-30.0-20.0-10.00.010.020.012345678910111212320102011CP発行残高(電力除一般事業会社)平均発行金利(3か月、目盛右)(前年同月比、%)A今回局面(資料)株式会社証券保管振替機構ホームページ掲載データより住友信託銀行調査部作成(%)
C「念のため資金を確保しておく」ための借入需要
この先、企業が先行きの不透明感によって念の為に資金を積み増す動きが強まるか否かは、原発問題の帰趨など不確定要素に左右される部分が大きいため、現時点では予測が難しい。但し、現時点で直接金融市場には特段の混乱が起きていないこと、そしてこの先の日本経済が徐々に震災前の状態に戻っていくことを前提とするならば、先行きへの不透明感の高まりに伴う予備的な資金積増しの動きは徐々に弱まっていくと考えるのが自然であろう。既に民間企業部門の保有している預金残高が過去最高水準にあることも踏まえると、今後企業が念のために確保する資金を更に増やすために、銀行借入を積み増していく可能性はゼロではないものの、かなり低いと考えている(図10)。
160 170 180 190 200

3.まとめ
以上見てきたような材料を踏まえると、震災後に高まったとされる国内企業の銀行借入への需要は、一部の企業で発生しているケースはあるものの、その範囲はさほど広くなく、企業部門全体で実際に必要な運転資金・設備投資資金は減っていると考えられる。また、実際に必要となる資金以外に、念の為に手許資金を確保する目的で銀行借入を増やした企業もあるが、リーマンショックの時と異なって直接金融市場の混乱が特段見られないことから、緊急時に備えるための借入は一時的なものに留まり、この先徐々に弱まっていくだろう。経済活動が震災前の水準に戻っていくにつれて、銀行借入に対する需要も「企業部門の資金余剰、銀行貸出の伸び悩み(市場全体で資金余剰の状態)」という震災前の状態に戻っていくと予想している。
(花田:hanadah@sumitomotrust.co.jp)
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/587.html#c2

コメント [原発・フッ素9] 4月20日 TBSみのもんたの朝ズバッ!に小出裕章氏〔小出裕章(京大助教)非公式まとめ〕 gataro
50. 2011年4月23日 17:15:07: G3gj6mvDCw
小出裕章先生「まだ拘束を受けていない」

http://p.tl/40Lw 差別の世界と戦争より

マルチン・ニーメラーについて

「ナチスがコミュニストを弾圧したとき、私はとても不安だった。が、コミュニストではなかったから、何の行動も私は行わなかった。その次、ナチスはソシアリストを弾圧した。私はソシアリストではないので、何の抗議もしなかった。それから、ナチスは学生・新聞・ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げて行き、その度に私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧して来た。そして私は牧師だった。が、もうその時はすべてがあまりにも遅すぎた。」
「ナチスに責任を押しつけるだけでは十分ではない。教会も自らの罪を告白しなければなりません。もし教会が、本当に信仰に生きるキリスト者から成り立っていたならば、ナチスはあれほどの不正を行うことができたでしょうか」

いま、私は日本の国家からも、また米国からもなんらの拘束も受けていませんし、この会場にお集まりの宗教者の方々もそうだと思います。その私たちは、歴史の審判に耐えられるように今を生きているでしょうか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/608.html#c50

記事 [テスト22] You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」
You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」

出典 http://www.youtube.com/watch?v=dLbgmGbNzdI

 東電と政府当局のやり口をパロディにし、徹底的に皮肉った曲と画像がアップされています。
 もと曲は高田渡の「自衛隊に入ろう」というパロディ曲です。
 断っておきますが、元曲は自衛隊をパロディとした曲です。
 私はオリジナル曲の意図するものについて必ずしも賛同するものでありませんが、純粋に東電と政府の対応、最近の世相について鋭く風刺して歌っており、一聴に値すると思いますので紹介します。


「福島第一原発 Japan Nuclear Power Plant 東電に入ろう♪ 」

http://www.youtube.com/v/dLbgmGbNzdI?version=3">http://www.youtube.com/v/dLbgmGbNzdI?version=3" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" allowScriptAccess="always" width="640" height="390">


    ♪東電に入ろう♪〜

みなさん方の中に 東電に入りたい人はいませんか
ひと旗あげたい人はいませんか 東電じゃ人材求めてます
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発やりたい人いたら いつでも東電にお越し下さい
ウランでもプロトニウムでも何でもありますよ
下請け使えば平気です
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発推進派の皆さんは 原子炉の真下にお集まり下さい
今すぐ体に悪いわけがありません シャワーで流せば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発はクリーンなエネルギーです
プルトニウムはそんなに怖いもんじゃありません
放射能をだすといっても半減期は たったの2万と4000年です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


ニホンのエネルギーを支えるには 原子力に頼らないといけません
多少の被爆は止むを得ません イゾジン飲んでおけば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


使用済みの核燃料は全部まとめて ドラム缶につめたら大丈夫
六ヶ所村のプールで冷やしてます たった300年の我慢です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


水が漏れてるけど騒ぐんじゃない  煙が出てるけど慌てるな
屋根がぶっ飛んだけどぜんぜん大丈夫 とにかく塩水で冷やしてます

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


今すぐ危険てワケじゃない 牛乳も野菜もすてましょう
政府のお偉いさんが言っています 保証は税金で払いましょう 

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


ガイガーカウンターは売切れてます 君たちそのなモノ持っちゃダメですよ
放射能の値はこちらで発表します   信じる者は救われる

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る
http://www.asyura2.com/11/test22/msg/117.html

記事 [経世済民71] 路上キスも影響か…みずほ銀頭取、ATM障害で辞任へ(zakzak)
路上キスも影響か…みずほ銀頭取、ATM障害で辞任へ
http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20110423/ecn1104231608001-n1.htm
2011.04.23 :夕刊フジ

 東日本大震災の発生直後、大規模なシステム障害を起こしたみずほ銀行。経営責任の行方に注目が集まっていたが、西堀利頭取(58)が辞任する方針を固めたことが分かった。業界では「これだけの被害を出した以上、いまのポジションにはいられるはずがない」(他のメガバンク幹部)と厳しい声が上がっていた。

 トップがけじめをつけることを決断した。23日付の朝日新聞が報じたもので、6月にも辞任するという。

 問題の障害は3月15日に発生。前日14日に震災の義援金の窓口だった都内の一部店舗に振り込みが集中し、システムの許容量がオーバー、一部のシステムが止まった。これにより、給与振り込みなど約116万件の入金が滞り、みずほ銀では、直後の3連休、現金自動預払機(ATM)の引き出しを停止して対応。各店舗で1人あたり10万円までの引き出しを手作業で対応するなど混乱を極めた。

 みずほグループは複数のシステムを併用し、その複雑さから2002年4月にも大規模なシステム障害を起こしている。それでも抜本的にシステムを見直してこなかったため、「いずれは似たような障害が起きる」とグループ内でもささやかれていた。

 西堀頭取の辞任の方針が伝わった23日、みずほ関係者は「経営陣が路上でキス写真を撮られるなど金融庁からガバナンス(企業統治)がまったくなってないと指摘されてきた。(西堀頭取の)全銀協会長就任の辞退だけですまないと思っていたので意外性はない」と話す。

 後任候補には、旧富士銀行出身でみずほ銀の吉留学副頭取(57)らの名前が挙がっている。

http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/588.html

記事 [原発・フッ素9] You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」 過激すぎる歌詞とメロディー
You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」

出典 http://www.youtube.com/watch?v=dLbgmGbNzdI

 東電と政府当局のやり口をパロディにし、徹底的に皮肉った曲と画像がアップされています。
 もと曲は高田渡の「自衛隊に入ろう」というパロディ曲です。
 断っておきますが、元曲は自衛隊をパロディとした曲です。
 私はオリジナル曲の意図するものについて必ずしも賛同するものでありませんが、純粋に東電と政府の対応、最近の世相について鋭く風刺して歌っており、一聴に値すると思いますので紹介します。


「福島第一原発 Japan Nuclear Power Plant 東電に入ろう♪ 」


    ♪東電に入ろう♪〜

みなさん方の中に 東電に入りたい人はいませんか
ひと旗あげたい人はいませんか 東電じゃ人材求めてます
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発やりたい人いたら いつでも東電にお越し下さい
ウランでもプロトニウムでも何でもありますよ
下請け使えば平気です
  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発推進派の皆さんは 原子炉の真下にお集まり下さい
今すぐ体に悪いわけがありません シャワーで流せば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


原発はクリーンなエネルギーです
プルトニウムはそんなに怖いもんじゃありません
放射能をだすといっても半減期は たったの2万と4000年です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


ニホンのエネルギーを支えるには 原子力に頼らないといけません
多少の被爆は止むを得ません イゾジン飲んでおけば平気です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


使用済みの核燃料は全部まとめて ドラム缶につめたら大丈夫
六ヶ所村のプールで冷やしてます たった300年の我慢です

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


水が漏れてるけど騒ぐんじゃない  煙が出てるけど慌てるな
屋根がぶっ飛んだけどぜんぜん大丈夫 とにかく塩水で冷やしてます

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


今すぐ危険てワケじゃない 牛乳も野菜もすてましょう
政府のお偉いさんが言っています 保証は税金で払いましょう 

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る


ガイガーカウンターは売切れてます 君たちそのなモノ持っちゃダメですよ
放射能の値はこちらで発表します   信じる者は救われる

  東電に入ろう、入ろう、入ろう 東電に入ればこの世は天国
  男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/767.html

コメント [原発・フッ素9] 「白雪姫の毒リンゴは日本産」国際紙が漫画(読売新聞)/汚染されていない昨年産のコメにまで影響 gataro
05. 2011年4月23日 17:18:25: iQinVlOl1c
内需拡大の良い機会だ。日本のモノは日本で消費しよう。
福島・茨城産はイヤだが。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/758.html#c5
コメント [自然災害17] 作家伊集院静氏の怒り”コイツらみんな戦犯だ”[杉並からの情報発信です:自らも仙台で被災した著名作家の言] 一市民
104. 2011年4月23日 17:23:01: vQUmWOPB0E
  > 02. 2011年4月21日 02:15:36: PgGEzDs2v2
■ 著名な作家かどうか知らんけど・・・・
 今頃 世の中狂ってるとか 日本人はどーなったんかとか

 言ってるようじゃ 周回遅れも 甚だしい!

いい事言うなあ。著名な作家さんよ、売国奴小泉・竹中に文句の一つでも
いったことがあるのかね。今からでも遅くない、屁のモンタ、売国奴小泉に天誅を加える、パンチをやってから、文句を言ってくれ。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/211.html#c104

コメント [原発・フッ素9] 原発 緊急情報(62)   「風評」を流し続ける政府・自治体 [武田邦彦 (中部大学)] 純一
17. 2011年4月23日 17:23:54: FsmwW6uY3E
武田邦彦も少しは学習したのか、従来デタラメを言っていた罪滅ぼしか、多少まともなことを言うようになったのかな?

まあそれもパクリの集積に過ぎないようだけど・・・・・・・・・



http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/752.html#c17

コメント [原発・フッ素9] You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」 過激すぎる歌詞とメロディー 梵天
01. 梵天 2011年4月23日 17:23:56: 5Wg35UoGiwUNk : bTwp1YEqdo
 歌詞の一部が間違えてました。

× 男の中のの男はみんな 東電に入って花と散る
○ 男の中の男はみんな 東電に入って花と散る

 すみませんでした。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/767.html#c1

コメント [原発・フッ素9] 4月20日 TBSみのもんたの朝ズバッ!に小出裕章氏〔小出裕章(京大助教)非公式まとめ〕 gataro
51. 2011年4月23日 17:26:01: UJ4aY1PsV6
東大卒の原子力技術者の傲慢な精神も問題だが、こういう連中が生まれた背景には
かれらが心置きなく原発研究ができるように
科学技術に先立って「哲学思想」が露払いとして先行しているんだよな。
それはなにかというと、
戦後の反核運動を一掃してしまった吉本隆明とかいう「戦後最大の思想家」の原発思想だろう。
これがすべての反核、反原発活動家の論説を打ち破り、原発推進科学者たちを思想的に後押ししたともいえる。
当時、吉本が原発についてどんなことを語っていたかここにコピペしてみよう。

その1:「『反原発』という場合の『核』は核エネルギーの利用開発の問題を本質とする。かりに  『政治』がからんでくる場合でも、あくまでも取り扱い手段をめぐる政治的な闘争で、核エネ  ルギーそのものにたいする闘争ではない。核責任論の問題は、石油、石炭からは次元のすすん  だ物質エネルギーを科学が解放したことを問題の本質とする」
その2:「自然科学的な『本質』からいえば、科学が『核』エネルギーを解放したということは、  即時的に『核』エネルギーの統御(可能性9を獲得したと同義である。また物質の起源であ   る宇宙の構造の解明に一歩進めたことを意味する。これが『核』エネルギーに対する『本質』  的な認識である。
その3:「宇宙はあらゆる種類と段階の放射能物質と、物質構成の素粒子である放射線とに充ち満  ちている。半衰期がどんな長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的  にはまったく自在なのだ。

こんなことを言っていた吉本隆明。この惨状を前にして、出てきて釈明してもらいたいものだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/608.html#c51

コメント [原発・フッ素9] You Tubeで見つけた笑えない替え歌「東電に入ろう♪」 過激すぎる歌詞とメロディー 梵天
02. 2011年4月23日 17:27:08: iQinVlOl1c
東電に成り代わりまして御礼申し上げます。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/767.html#c2
コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] 映畫「Knowing」を「328(審~[サニワ])」せよ 聯中が次に仕掛けて來る日附は5月9日(月)午前12時だ 不動明
06. 2011年4月23日 17:27:08: jt9ctlLL4Y
>>04さま
>何れにせよ、多くの人に伝えようと言う意思を感じない。
>昔から思ってたが、真剣な姿勢が感じられない。

>お前は昔から、オカルト情報で遊んでるだけだろ。
>せめて読み難い文章を元に戻せ。
>この未曾有の状況で、真剣に大勢の人に伝えようとしている人間は
>お前の様な、読み難い文章を使わない。

>せっかく知識だけは有るのに
>お前に足りないのは真剣さと、謙虚さだ。
>ここが欠落してる事に気付かない限り、支持を得られないんだよ。

私もこの方の投稿を初見の頃、読み辛い漢字使うなあ…と感じたのですが
よく考えてみるとわざと誰にでも読めない文字(漢字)を使用しているのでは?
と考えるようになりました。
日本人でも読み辛い漢字は外国の人にはさらに難解なはずで、ある意味この時点で振るい別けが出来ますよね、そう考えるとある程度納得出来たり…。

ただ、読み辛い(苦笑)

不動明さま、ありがとうございます、感謝。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/479.html#c6

記事 [原発・フッ素9] 民家倒れても原発は倒れない…中電の展示、近く撤去(asahi.com)
民家倒れても原発は倒れない…中電の展示、近く撤去
http://www.asahi.com/national/update/0423/NGY201104230005.html
2011年4月23日17時2分 :朝日新聞

 中部電力の「でんきの科学館」(名古屋市中区)の原子力発電所を紹介する展示の一つが、東日本大震災後「内容がふさわしくない」として公開を中止、近く撤去されることがわかった。原発の安全性をPRする内容だが、同館の担当者は「被災者への配慮が欠けていた」としている。

 問題になったのは「アースシェイカー」という展示。観覧者が手前の装置を左右に揺らすことで「地震」が起き、震度7に達すると、軟らかい地盤の上にある民家は倒れるが、強固な地盤の上の原発は倒れない、という内容だ。同社の浜岡原発(静岡県御前崎市)の安全性のPRや原発の仕組みを紹介するフロアに展示されていた。

 中部電力の広報担当者は「内容が妥当かというご意見も数件いただいた。原発が強い岩盤の上にあるということを理解していただく意図だったが、被災者への配慮が欠けていた」としている。

http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/768.html

コメント [原発・フッ素9] 福島・浪江町の放射線量、積算20ミリシーベルト超す(朝日新聞) 20倍にしたのに 1か月で年間被曝許容量を超す なんじゃこりゃー
02. 2011年4月23日 17:28:08: cqRnZH2CUM
放出が収まらない限り、今後も、こういう地域が増えて来そうだな
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/764.html#c2
記事 [昼休み46] 八百万の神・ffortune(何でも神様にしてしまう日本は「一神教ぼったくり組合」からすると営業妨害に映るようです)
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/index.htm
八百万の神々50音順index
味鋤高彦根神 あじすきたかひこねのかみ。農業神。武神。賀茂大神。
天照大神 あまてらすおおみかみ。高天原の主宰者で皇室の祖先神。
天宇受売神 あめのうずめのかみ。巫女の元祖。道祖神。
天忍穂耳神 あめのおしほみみのかみ。邇邇芸命の父。
天児屋根神 あめのこやねのかみ。藤原氏の祖先神。
天之常立神 あめのとこたちのかみ。
天穂日神 あめのほひのかみ。出雲族・武蔵族などの祖神。
天之御中主神 あめのみなかぬしのかみ。古事記で最初に出てくる神。
天若日子 あめのわかひこ。アマノジャクのルーツ?。
淡島明神 あわしまみょうじん。婦人病に霊験あらたか。
伊邪那岐(伊弉諾)神 いざなぎのかみ。日本の祖父神。
伊邪那美(伊弉冉)神 いざなみのかみ。日本の祖母神。
五十鈴姫神 いすずひめのかみ。事代主神の娘。神武天皇の后。
市杵嶋姫神 いちきしまひめのかみ。水の神様。弁天様と習合。
稲荷神 いなりのかみ。穀神・商売繁盛の神。
宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ。稲荷神社の御祭神。
鵜葺屋葺不合命 うがやふきあえずのみこと。神武天皇の父。
保食神 うけもちのかみ。食べ物の神。
海幸彦 うみさちひこ。邇邇芸命と木花咲耶姫の長男。
恵比寿神 えびすのかみ。商売繁盛と漁業の神。
大国主神 おおくにぬしのかみ。国土開発の国。出雲の主宰神。
大気津姫神 おおげつひめのかみ。食べ物の神。
大年神 おおとしがみ。年を司る神。
大物主神 おおものぬしのかみ。三輪山の神。大国主神の奇魂幸魂。
大山咋神 おおやまくいのかみ。日吉神社・松尾大社の御祭神。
大山祇神 おおやまずみのかみ。日本全国の山の総管理者。
河童 かっぱ。農作業を手伝ったりもしてくれるイタヅラ好きな者。
竃神 かまどがみ。各家庭の台所を守る神。
神産巣日神 かみむすびのかみ。出雲系の根本神。
神大市姫神 かむおおいちひめのかみ。
賀茂別雷神 かもわけいかづちのかみ。上賀茂神社の御祭神。
賀茂建角身神 かもたけつぬみのかみ。下鴨神社の御祭神。
賀茂玉依姫 かものたまよりひめ。下鴨神社の御祭神。
菊理媛神 くくりひめのかみ。白山神社の御祭神。
櫛名田姫神 くしなだひめのかみ。農耕神。夫婦円満の神。祇園社の妃神。
国之常立神 くにのとこたちのかみ。日本書紀で最初に出てくる神。
熊野大神 くまののおおかみ。熊野神社の御祭神。
闇淤加美神 くらおかみのかみ。水の神・龍神様。
事代主神 ことしろぬしのかみ。恵比須様の候補の一。託宣の神。
木花咲耶姫神 このはなさくやひめのかみ。富士山の神様。
木花知流姫神 このはなちるひめのかみ。
猿田彦大神 さるたひこのおおかみ。道の神。道祖神。天狗。
三宝荒神 さんぽうこうじん。竃の神。各家庭の台所を守る神。
下照姫神 したてるひめのかみ。安産の神様。
七福神 しちふくじん。庶民に信仰される福の神。
白山姫神 しらやまひめのかみ。白山神社の御祭神。
少彦名神 すくなひこなのかみ。大国主神と一緒に国土開発。薬の神。小人神。
須佐之男神 すさのおのかみ。ヤマタノオロチを倒した荒ぶる神。祇園の神。
住吉の神 すみよしのかみ。海上交通の守り神。
造化三神 ぞうかさんしん。
だいこく様 だいこくさま。福の神。
高淤加美神 たかおかみのかみ。水の神・龍神様。
高照姫神 たかてるひめのかみ。
高御産巣日神 たかみむすびのかみ。高天原の根本神。
建御雷之男神 たけみかづちおのかみ。鹿島神宮の神。
建御名方神 たけみなかたのかみ。諏訪大社の神。
蹈鞴五十鈴姫神 たたらいすずひめのかみ。事代主神の娘。神武天皇の后。
田の神 たのかみ。
玉依姫神 たまよりひめのかみ。神武天皇のお母さん。
玉依姫神 たまよりひめのかみ。下鴨神社の御祭神。
月読神 つくよみのかみ。月の神。
天狗 てんぐ。人々に知識を与えてくれる山の者。
道祖神 どうそしん。村の境界の守り神。
豊受大神 とよけのおおかみ。伊勢神宮外宮の神。
豊玉姫神 とよたまひめのかみ。海の宮のお姫様。
邇邇芸命 ににぎのみこと。天孫降臨の主役。
一言主神 ひとことぬしのかみ。託宣の神か。
福助 ふくすけ。商売繁盛。
経津主神 ふつぬしのかみ。葦原中国平定の実行者。剣の神。
火遠理命 ほおりのみこと。山幸彦。邇邇芸命と木花咲耶姫の三男。神武天皇の祖父。
火照命 ほでりのみこと。海幸彦。邇邇芸命と木花咲耶姫の長男。
招き猫 まねきねこ。人やお宝を招く。
宗像の神 むなかたのかみ。海上交通の神様。水の神様。
三島明神 みしまみょうじん。伊豆の三嶋大社におられる神。
溝咋姫神 みぞくいひめのかみ。事代主神の后。神武天皇の后の母。
罔象女神 みづはのめのかみ。水を司る神。雨乞いの神。
山幸彦 やまさちひこ。邇邇芸命と木花咲耶姫の三男。神武天皇の祖父。
山の神 やまのかみ。
綿津見の神 わたつみのかみ。海の神様。


http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/327.html

コメント [原発・フッ素9] 福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院(asahi.com) 赤かぶ
04. 2011年4月23日 17:29:16: oWbillhalg
良く知らないが、このバツの悪い言い方をする住田というやつは、NHKずっぱりで「まだ平気、まだ平気、(想定外で運が悪かった、東電、保安院は事故処理良くやっている)」と必死に原発擁護をしてきた、原発推進組織副会長の東大関村と同じく原発御用学者だろ?

言い回しひとつで素性が判る。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/763.html#c4

コメント [原発・フッ素9] 福島県学校等環境放射線ダスト・土壌モニタリング実施結果(土壌)速報値表 なんじゃこりゃー
06. 2011年4月23日 17:30:04: InOEdLVvc2
>>05のリンク先でも指摘されているように、土壌汚染度に Bq/kg 単位では、深さを大きく取ればいくらでも数値が下がるので、全く意味のない測定だな。
測定値を小さく見せるか、他の事故での汚染度と比較されないための意図的なゴマカしとしか考えられない。
そうでなくてもあまりにマヌケすぎで、いずれにしてもサンプルの採取方法を問い質して単位面積あたりに換算するか、測定をやり直しさせるべきだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/744.html#c6
コメント [原発・フッ素9] 福島原発、当初は事故でない「レベル3」と評価 保安院(asahi.com) 赤かぶ
05. 2011年4月23日 17:31:03: rIV9vR6jYg
恥ずかしい国だなぁ。日本って。
http://www.asyura2.com/11/genpatu9/msg/763.html#c5

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