★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100448
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100448
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100448.html
[リバイバル3] タンノイで まともな音が出るのはモニターシルバーを入れた小型システムだけ 中川隆
39. 中川隆[-10055] koaQ7Jey 2020年11月09日 13:19:04 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[17]
楠 薫のオーディオ三昧
http://www.kusunoki.jp/audio/audioindex.html

■ 2003年4月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html

 2001年から2003年にかけては我がオーディオシステムは激動の時を迎えました。
 職場の2階にオートグラフが納まり、岩手県一関市から、オーディオ評論家是枝氏の手による 300Bプッシュプルアンプが戻って参りまして、マランツ#5との激しいバトルと相成りました。

この300Bプッシュプルアンプ、私が注文したのですが、我が家よりも先に一関市のROYCEというジャズ 喫茶で鳴らしてもらい、なかなか好評でした。

 戻ってきた300Bプッシュプルアンプを聴いて、なるほどと合点。

 確かにマランツ#5はまるでサラブレッドの如く、ぐいぐい引っ張っていく力は見事という他 ありません。マランツ#1との組み合わせは、おそらく理想的と言って良いくらいです。

しかし、我が家のオートグラフ・ミレニアムは、オリジナルとは違い、ユニットも最新で、 しかもLINNのCD12という、最新のCDプレーヤーを導入しており、その最新のデジタル録音を 楽しむためには、やはりアンプも時代に合わせて最新のものを使用する方が、バランスが良い ようです。

 一時はコニサー4.0でマランツ#5を鳴らして、少しワイドレンジになって気に入っていましたが、 伸びやかで緻密、陰影表現が見事な是枝300Bプッシュプルアンプを聴いてしまうと、あのマランツ#5 の音がなんと古くさく聴こえてしまうのです。
レプリカ#9よりもオリジナル#8、オリジナル#8よりもオリジナル#5の方が聴感上も伸びやかで、 特に低域の寸詰まり感がなく、気に入っていただけに、これには正直、驚かされました。

マランツ#1と是枝300Bプッシュプルアンプの組み合わせでは、高域のみずみずしさは抜群でしたが、 低域方向がやや緩みがちになり、それを引き締める意味で、コニサー4.0をしばらく使用して、それで 落ち着いたかに見えました。

 しかし聴き込んでいくと、コニサー4.0は音像が大きめになり、ただでさえ大きめなオートグラフでは 巨大化してしまいます。さらに、S/Nが高能率スピーカーを前提としていないため(スキャンテック談) なんとマランツ#1より劣ることが発覚。
 しかしある程度のボリュームで聴いている分には問題なかったので、しばらくプリアンプはコニサーの ままでした。

 そんな折に出たのが、LINNのKlimax Kontrol。CD12と似たようなデザインで、ひょっとしたらこの プリアンプ、音的にもCD12の延長線上にあるのではないかと思い、MAXオーディオに頼んで、自宅で 試聴することになりました。

 これがまったくもって予想に違わぬ、CD12の延長線上に位置する、見事な出来映え。

 コニサー4.0よりもS/Nが良く、音像が肥大化せず、キュッとしまった感じで、それでいて低域の伸び やかさも一枚上手を行きます。

 同時に試聴したアンプジラ2000はスピーカードライブ能力とスピード感が見事で、JAZZのドラムスには 非常に相性が良かったのですが、女性ボーカルでは是枝300Bの色香には敵いません。 アンプジラはどこか乾いた感じがします。特にクラシックの教会音楽では、これが裏目に出てしまいました。

 というわけで、我が家にはLINNのCD12に加えて、Klimax Kontrolも居着いてしまうことになりました。

 世の中にLINNの製品を自分のシステムのどこかに入れると、だんだんLINNの製品が浸透して来て、 いつの間にかLINNの製品ばかりになってしまうという、LINN病なるものがまことしやかに言われていましたが、 何のことはない、我が家もCD12でバランスをとっているせいか、アナログもEMT927ではいかんせん、比較的 録音の新しいものがバランス的に合わなくなってしまいました。

 そこで、ついにLP12を入れることになりました。

 これがまた、CD12と似通ったサウンドというか何というか、まぁ、CD12がLP12のサウンド傾向を追随して いるわけなんですが、カートリッジが光悦の翡翠を使用し、ケーブル類を調整すると、デジタルもアナログも 違和感なく聴けるシステムと相成りました。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。

Main System

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power Supry        LINN LIGO

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier         LINN Klimax Kontrol

Power Amplifier        是枝(Koreeda) 300B push-pull amplifier
                        
Loud Speakers        TANNOY Autograph Millennium

AC Cables
 CD Player         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3
 Line Amplifier       Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier        BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 CD Player -> Line Amplifier       BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(60cm)
 Line Amplifier -> Power Amplifier   BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 
Speaker Cables        S/A Labs High End Horse3.5 (8m) with WBT-0645 (8m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html

■ 2005年7月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html

 2005年は、ちょっとした出来事がありました。

 それまでタンノイ一本槍で来た私でしたが、ヤフー・オークションでJBLのオリンパスの出物が あったので入手。これがなかなか素敵な音で、古いジャズのレコードを再生するのに、抜群の 相性を示しました。

 考えてみたら当然で、レコード全盛期のスピーカーですし、当時、パラゴンかオリンパスか、と 言われた、美しい格子模様のフロントグリルを有するオリンパス。復活したEMT927Fも加わり、 Marantz model 1が、俄然、光輝いてきました。

 となると、せっかくのMarantz model 1を活かすには、やはりMarantz model 9が必要。 と言うわけで、model 9も入手し、AET SCRのインターコネクトケーブル、スピーカーケーブルを 得て、生き生きとしたジャズの雰囲気を伝える組み合わせが出来上がりました。

 さて、メインシステムですが、オートグラフ・ミレニアムを石のアンプで動かしたらどうなるか、 ということでVIOLAのBravoを試聴。

 その頃使っていた、ユニゾンリサーチのS6のコクと色気、それに躍動感が及ばない様に思った のですが、実はこれはLINNのLINN Klimax Kontrolとの相性が悪かったためで、Cadenzaと Symphonyの組み合わせでは、Klimax KontrolよりもさらにS/Nが良く、チェロのアンプを手がけて いた方々によるアンプだけあって、高域の少し線は細いものの、美しくみずみずしいサウンドは、 他に類を見ないほど。

 発作が起きて、二つともセットで購入してしまうことになりました。

 このアンプ、現代最高峰のアンプと言っても良く、オートグラフ・ミレニアムの欠点をも露呈 することになってしまいました。

 これは設置した部屋のせいもあるのですが、オートグラフ・ミレニアムはコーナーにちゃんと ぴったり付けるようにしないと、十分な低域が出ません。しかも同軸2ウェイでは、高域が歪っぽく なり、澄んだ美しい透明な高域が出ないことがあります。

 これが逆に弦楽器では、眩のこすれる際の、生々しさをうまく出してくれるのですが、ジャズを 鳴らした際の、シンバルの「シャーン」と余韻を伴い、超高域まで伸びていく美しい音色や、デジタル 録音のS/Nが良く、ホールの余韻をふんだんに取り入れた優秀な録音を再生となると、どうも最新の スピーカーの方に分があります。

 もちろん、下手な録音の場合は、最新のスピーカーでは、録音のまずさも露呈してしまいますので、 ある一定レベルのサウンドを保証する意味では、タンノイのスピーカーは素晴らしいものがあります。  タンノイのスピーカーは、ユニットだけでなく、そのエンクロージャーの独特の響きでもって 音を再構築し、スピーカーで新たなライブの音を作り出す、と言うのが特徴です。ですから、 タンノイ・ホールと称されるほどの個性的な独特の響きは、そのサウンドを好きになれるかどうかが、 一番の問題でしょう。

 個人的な好みを申し上げるのなら、タンノイの音は「凄く好き」です。しかし、もう少し色彩感を 出して欲しい。セッティングの問題ではあるのですが、低域ももっと出て欲しい。

 こんなかなり贅沢な望みを満足させてくれたスピーカーが、Sonus FaberのStradivari Homageでし た。現代のスピーカーの中で、クラシック音楽を中心に、ジャズなどの最新デジタル録音を楽しく 聴くことが出来るスピーカーは、他にもいろいろあるかと思いますが、VIOLAのアンプが生きてくる 組み合わせで、となると、このスピーカーをおいて他にないように思います。

 実際、このスピーカーになって、FM放送が楽しめるようになりましたし、Jポップも気持ちよく聴ける ようになりました。Rie fu(りえ ふう)の曲に巡り逢えたのも、Stradivari無くしてはあり得なかった、 と言えましょう。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。


Main System

写真、真中の列が、ソナスファベールのストラディヴァリ・オマージュに
つながるメインシステムです。

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power supply        LINN LIGO(写真上段)

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier        VIOLA CadenzaA (写真上段)

Power Amplifier        VIOLA Symphony(写真下段)
                        
Loud Speakers        Sonus Faber Stradivari Homage

AC Cables
 LINN LIGO         Synergistic Absolute Reference AC Master Coupler x2-Series
 CD Player          AET SIN 1.2m
 Line Amplifier       AET SIN 1.2m
 Power Amplifier       Kharma KPC-GR-1a Grand Reference

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier : Kharma KIC-R-1a Reference
 CD Player -> Line Amplifier : AET SCR(1m RCA-RCA)
 Line Amplifier -> Power Amplifier : KHARMA KIC-GR-1b Grand Reference XLR 1m pai
 
Speaker Cables        AET SIN(7m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1085.html#c39

[リバイバル3] タンノイで まともな音が出るのはモニターシルバーを入れた小型システムだけ 中川隆
40. 中川隆[-10054] koaQ7Jey 2020年11月09日 14:14:13 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[18]
楠 薫のオーディオ三昧
http://www.kusunoki.jp/audio/audioindex.html


■ 2016年8月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2016/audiohistory20160812.html

恐らく、今までで最もシステムがたくさん存在し、ゴチャゴチャしていた頃だと思います。

白いB&W Sigunature Diamondがメインの部屋に移動し、パワーアンプがQUAD II、プリアンプが アルケミストで鳴らしておりました。

あまり高額で無く、もう少し低価格帯で何とか良い音が出ないものかと苦闘していた頃です。
その甲斐あって?、このシステムが東京の友人宅に納まることになりました。
B&W Sigunature Diamondの現代的なワイドレンジなサウンドが功を奏して、QUAD IIを 組み合わせても古くさくなく、実に鮮烈なサウンドでした。

System3

私の原点とも言うべき、タンノイのスピーカーの中でも、最も欲しかった スーパーレッドモニターのお目見えです!

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2016/AudioSystem20161225-2.jpg

アンプはプリがEAR864、パワーがEAR861。
クラシック音楽はもちろん、ジャズも実に気持ちよく鳴らしてくれます。

タンノイではジャズは鳴らない、タンノイはクラシック音楽専用、ましてや畳の へやではジャズは絶対無理、などと言って憚らない方々にお聴かせすると、 目が点になって、絶句するのが楽しくて、ついつい、やり過ぎてしまいます。

スピーカーケーブルはAET Evidence SP 2.7mです。
電源ケーブルも、インターコネクトケーブルも、皆、AET Evidence Evidenceシリーズで 固めているせいか、実にワイドレンジでスケール感抜群で切れ味もあり、拙宅には 欠かせないケーブルです。
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2016/audiohistory20160812.html

■ 2016年8月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2016/audiohistory20161002.html

夏休みの間に、白いB&W Sigunature DiamondとパワーアンプがQUAD II、プリアンプの アルケミストが都内の友人宅に嫁いでいきました。

お陰でスピーカーの部屋はスッキリとしました。


System3

タンノイはジャズを鳴らしても、JBLやアルテックとはまた違った、味わいがあります。
特に低域は底から沸き上がってくるような感触で、キックドラムなどは若干、質感が違う 気がしますが、それがまた寸詰まりにならずにスケール感があって、とても個人的には 好みです。

ただ、その部分が、JBLでジャズを聴くファンなどには、異質に感じられるのかも知れません。

ケーブル類はすべてAET Evidenceシリーズで固めているので、「これはAETのEvidenceの音だ」 とおっしゃる方もいますが、だとしてもこの音、なかなか他では出せません。
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2016/audiohistory20161002.html

■ 2017年12月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2017/audiohistory20171230.html

EARのEAR864BとEAR 861は故障することもなく、修理を終えたタンノイのスーパーレッドモニターと共に元気よく 鳴っています。

EAR912とEAR509 IIはKubala・Sosnaケーブルを介してSonus Faber Stradivari Homageを鳴らすと、実にエロティック、 デカダンスの極みのサウンドを聴かせてくれます。

バッハ(Johann Sebastian Bach)のヴァイオリン・ソナタや教会音楽、中でも女性2声によるCouperin 'Motets'には 高貴さを通り越して、禁断の香りが漂います。
Tim de Paravicini氏はまだ健在で、アナログレコードに現在は精力を傾けている模様。
長生きされることを心より祈るばかりです。
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2017/audiohistory20171230.html

■ 2019年5月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2019/audiohistory20190501.html

再びスピーカー3システムとなってしまいました。

新たに加わったのは、ご覧になっておわかりのように、マジコA3です。 マジコのスピーカーシステムの中では、比較的廉価ですが、これがけっこう良い音がします。

現在、マジコA3を鳴らす真空管アンプと言えば、Tim de Paravicini氏のEARでしょう。

と言うわけで、真空管プリアンプのEAR 864とEL34のプッシュプルパワーアンプEAR 534を置いているのです。

以前使用していた、EAR 861は、と言うと、出力段の 真空管、EL309がヨシノトレーディングにも無くなったため、メンテナンスが出来ない状況となってしまい、その代わりがこのEAR 534なのです。

サウンド的にはEAR 534の方が少し低域側にシフトして、 野太い印象。
しかし基本的にはTim de Paravicini氏のEARサウンドを受け継いでいて、濃厚でありながら みずみずしい中高域、しなやかで懐の深い低域が見事です。

ちなみに現在、Tim de Paravicini氏は300Bのパワーアンプを試作しているとの情報がありました。
また、ヨシノトレーディングは、Tim de Paravicini氏の奥さまの郷里に一緒に住まわれている ようで、ヨシノトレーディングの本社は、拙宅から車で2時間ほどの、福岡県朝倉市秋月今小路307に移転しています。
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2019/audiohistory20190501.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1085.html#c40

[リバイバル3] タンノイで まともな音が出るのはモニターシルバーを入れた小型システムだけ 中川隆
41. 中川隆[-10053] koaQ7Jey 2020年11月09日 14:19:24 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[19]

楠 薫のオーディオ三昧
■ タンノイ・スピーカーシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/TANNOY/TANNOY.html

1926年、ガイ・R・ファウンテン(Guy Rupert Fountain 1900年〜1977年12月)はタンタル合金を主成分とする、 電解整流器「Tantalum alloy」を開発。「ガイ・R・ファウンテン社」を設立(後のタンノイ社)、Tannoyという商標で 生産、発売を開始することになります。

1933年、タンノイ社は2ウェイ・スピーカーを開発。ただし当初はアメリカマグナボックス社製のウーファーを搭載して いて、タンノイオリジナルのウーファーを搭載するようになったのは、1936年からです。

1947年、ロナルド・H・ラッカムらと、デュアル・コンセントリック・ユニットを開発します。アメリカのアルテック社が 開発した同軸2ウェイの604にヒントを得、自社製マイクロフォン開発の校正用音源として試作されたのがそもそもの始まり と言われています。高域はコンプレッションドライバーによるホーン型、低域はコーン型ダイレクトラジエーターとして二つ を同軸上に一体構造とさせて、シングルマグネットに二つのボイスコイル用ギャップを刻み込むという手法が用いられました。

そして1947年9月に大戦後初めて開かれたオーディオショー、「オリンピア・ロンドン展」に出典。14kHzまでの広帯域、 低ノイズを誇るデッカのffrrシステムに適したスピーカーとして、デッカの「デコラ」に採用されます。

初期のデコラはモノラル仕様でしたので、真ん中にデュアルコンセントリック、両脇にダイレクト・ラジエーターが二つ付いて いました。出力段には直熱三極管のPX4が搭載。ステレオ時代になるとスピーカーはEMI、出力段はEL34に変更されています。

1953年、デュアルコンセントリック・ユニットを搭載した「オートグラフ(Autograph)」がニューヨーク・オーディオショーに 発表、同時に発売されます。搭載されたユニットは全体に丸みのあるデザインとなり、銀色のハンマートーンの塗装のため、 「モニター・シルバー」と呼ばれ、1953年〜1957年8月頃まで製造されています。型番はLSU/HF/15で、オリジナルと同じです。参考までに申し上げると、「モニター」の正式名称が付くのは、「モニター・レッド」からで、これも「モニター15」 「モニター12」と呼ぶのが正式で、型名はLSU/HF15と記されています。

1957年8月から1967年にかけて製造されたモニターレッドとシルバーの違いはピンク色のハンマートーンで磁気回路を覆うカバーが 塗装され、名称の元となったのはもちろん、マグネティックギャップの改良が施され、磁束密度の向上、耐入力upが図られている 点で、初期モデルは飴色のセンターキャップ、後期モデルは黒色に変更されています。

さて、オートグラフの最大の特徴は、オールホーンシステムで、低域のホーンはバックロードタイプとし、ホーンロードを折り 曲げることにより小型化していること、超低域再生のためにコーナーと床をホーンの延長、つまり仮想ホーンとして活用するた め、左右に分割した「マルチセルラー・ホーン」を採用しています。
もともと、ガイ・R・ファウンテン氏はクラシック音楽ファンで、オーケストラの再生音がそれまでのスピーカーシステムでは 不満でならず、特に低域のスケールアップを図るため、業務用のホーンシステムの技術を導入しようと考えたと言われていま す。

こうして、モノラルでありながら、スケールの大きい、あたかもコンサートホールに居るかの様な立体感とハーモニーの 美しさを兼ね備えたシステムが出来上がり、直筆の署名(Autograph)をすべてに入れたところからも、自信の程が伺えると いうもの。

ともすると「モッコリ」してしまうオリジナル・オートグラフの低域。しかし当時のスピーカーシステムとしては、これだけ 低域まで伸びたものは劇場用を含めてもほとんどなく、コーナーに設置することにより、部屋全体がスピーカーシステムの一つ として働き、その再生する音に包まれる快感を一般家庭でも味わえるようになったという点では、特筆すべきことだったと思われ ます。

これは私見ですが、ステレオ化したオートグラフは、その考え方として、小さなヘッドフォンで重低音まで聴くことが出来る のと同じで、仮想巨大ヘッドフォンの様なものなのではないか、なんて考えています。

また、ガイ・R・ファウンテン氏がセパレートの2ウェイ方式ではなく、同軸型を選んだのは、当時の技術では位相管理が同軸 型の方がし易かったことも無関係ではないでしょう。

加えてモノラル時代でもマルチマイクで収録しているため、金管楽器が突出して聴こえたり、あるいはマイクロフォンの性能が 悪くてバスドラムのピークのある低域やコントラバスの伸びやかな低域をうまく拾えていないのを、電気信号をもとに一点音源で、 まるでその場で楽器でも演奏しているかのように、音を再構築させる意図があったのではないか、と思えてなりません。

1953年のタンノイ・カナダに続いて1954年にはタンノイ・アメリカが設立され、1955年に北米大陸の販売拡充を狙って、 エンクロージャーのデザインがそれまでの高級家具調から一新され、現在の形となります。

ちょうどモニターレッドが開発された1957年というのは、アメリカ・ウエストレックスの45/45方式によるステレオレコード、 イギリスのデッカとサグデンによるVL方式によるステレオレコード技術が開発された頃。その際、チャンネル間の位相特性が問題 となり、デュアル・コンセントリックがその再生においても優れている点がプロの間でも評判となって、アメリカではアルテック 604が、イギリスでは「モニター・レッド」(正式には「モニター15」)がスタジオでもモニター用として使われる様になります。

モニターレッドを搭載したオートグラフを1964年、かの剣豪小説家、五味康祐氏が輸入。「オーディオ巡礼」などの著書で一 躍有名になります。

さらに1967年、インピーダンスが15オームから8オームになったモニター・ゴールドの時より、TEACが輸入代理店となり、 本格的に輸入を開始するようになります。

しかし、1974年、工場が火災の為にユニット製造が不可能になり、旧・西ドイツのクルトミューラー社製のコーン紙による、 HP(ハイ・パフォーマンス)Dシリーズに転換することになります。HPDシリーズが完成した1974年、ガイ・R・ファウンテン 氏が引退してハーマンインターナショナル社に株を売却。同年、オリジナル・オートグラフの製造が中止となります。

けれども1976年TEAC社製エンクロージャーによるHPD385内蔵のオートグラフが新生・タンノイ社から発売されます。 1977年12月にガイ・R・ファウンテン氏が亡くなりましたが、1979年にはK3808搭載モデルを出し、その後タンノイ社は株 をハーマンインターナショナル社から買い戻し、現在に至っているというわけです。

1981年、N.J.クロッカー社長、T.B.リビングソトンらはハーマンインターナショナルから株を買い戻し、タンノイ社が復活 したのを記念に、それまでクラシックモニターで使われていたK3838のバージョンアップ版、K3839Mを搭載した、 かつてのオートグラフの流れを受け継ぐ容姿を誇るG.R.F.Memoryを発売。その後も改良を重ね、現在に至っています。

1961年からは10インチ・ユニットを製造、IIILZとして発売。1967年にMk IIとなります。

タンノイ社が復活して2年後、10インチ、25cmユニットを搭載した「スターリング」が発売となります。

1982年に発売した「ウェストミンスター」も、「ウェストミンスター・ロイヤル」と発展し、これに「エジンバラ」を 加えた4モデルを中心にその後も生産が続けられています。

1983年には、それまでタンノイ社の承認を受けてTEAC社で製造していたレプリカ・オートグラフが製造中止となっています。

そして、2001年。新たにタンノイ本社が「オートグラフ・ミレニアム」と称した、現代にマッチした「オートグラフ」を発売しました。

話はそれますが、タンノイはウエストミンスター等々、地名に関連した名称を付けるのがお好きな様で、 Ardenはシェークスピアで有名になった、イングランド中部の地方の名です。

Cheviotはイングランドとスコットランドの間に広がる丘陵地帯で、羊毛が盛んな土地柄。羊の料理が美味です。

DevonもDevon種牛(乳&食用牛として有名)というのがあるくらいでして、イングランド南西部の州の名称です。

Berkeleyはアメリカ・カリフォルニア州の都市で、カリフォルニア大学の所在地として有名。せっかくだったら、 Berkshireにすれば、イングランド南部のブチ豚(正確には黒ベースの白まだら豚)の産地だったのですが……。 ということからおわかりの様に、価格の高いものからA→E(Eaton)までのラインナップとなっているわけです。

現在、オリジナルのオートグラフを最も素晴らしい音で聴かせてくれるのところとしては、長野県原村の 「ペンション・ムジカ」 が挙げられるかと思います。メインアンプは広島の音楽家(フルート演奏家)のお手製で、WE-262B-349A-284Dのモノラル構成。 ステレオプリアンプはカンノ・スーパーパーマロイ・トランス結合式タイプSPU、プレーヤはガラード401、カートリッジは オルトフォンSPU-G、昇圧トランスはカンノSPU30、CDプレーヤーはフィリップスLHH1000という組み合わせで鳴らしています。 さすがにマランツ#1&#2の組み合わせによる、低域まで伸びて凄みがあり、スケール感十分で、箱鳴りまで良くコントロ ールされた鳴り方とはいかないかも知れませんが、サッと吹き抜ける高域の美しさといったら、20年以上20軒以上ものオート グラフを聴いてきましたが、最右翼と言って良いでしょう。低域は決して出過ぎず、モコつかず、見事なコントロールでした。 ペンションですから、宿泊可能。お願いすれば誰でも聴けるというのも嬉しいですね。

以下、タンノイ・スターリング、G.R.F.Memory、Autograph Millenniumの写真を掲載いたしております。 いずれも「銘機」に相応しい、スピーカーです。


タンノイ・スターリングです。
真ん中にあるのはレプリカのMarantz model 9。 私は最初のスターリング、3代目のスターリング・TWと、続けて10年以上、スターリングを 使い続けました。室内楽を奏でる点では、G.R.F.Memoryよりも優れていると感じるくらい、 素晴らしかった!

ちなみにスターリングはオリジナルは1983年発売:アッテネーターはボリウム方式。

2代目HWは1986年発売:アッテネーターからロックネジ方式によるTREBLE ENERGYコントロールを採用。スピーカーターミナルが変更。
3代目TWは1992年発売:バイワイヤリング対応。
4代目TWWは1995年発売:コルクバッフルから通常タイプになった。
5代目HE(ハードエッジ)はトールボーイ型で1998年12月発売です。

G.R.F.Memoryです。
専用台を付けたスターリングより、こちらの方が背が高くなります。 TW,TWW,HE(ハード・エッジ)等、少しずつ改良が加えられています。ちなみに写真はTWWです。
このモデル、これだけ手の込んだ造りになっているのに、ペアで128万円。能率も95dBとよく、周波数特性は、 なんと29Hz〜25kHzと、このシリーズのトップモデルである、ウエストミンスター・ロイヤルよりも低域が出 るのです!
スケールの大きいオーケストラ曲、ジャズを聴くにはうってつけです。

タンノイ・オートグラフ・ミレニアムです。
詳しくはこちらをご覧下さい。
http://www.kusunoki.jp/audio/TANNOY/Autograph_Millennium/Autograph.html

http://www.kusunoki.jp/audio/TANNOY/TANNOY.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1085.html#c41

[リバイバル3] タンノイで まともな音が出るのはモニターシルバーを入れた小型システムだけ 中川隆
42. 中川隆[-10052] koaQ7Jey 2020年11月09日 14:21:24 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[20]

ウェストミンスター・ロイヤルが聴ける店 _ 一関市 _ ジャズ喫茶 ROYCE
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/212.html

オートグラフが聴ける宿 _ 原村 _ ペンション・ムジカ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/213.html

三重県 青山高原 タンノイ博物館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/714.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1085.html#c42

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 岸谷五朗・吉本多香美 らせん (フジテレビ 1999年) 中川隆
13. 中川隆[-10051] koaQ7Jey 2020年11月09日 14:27:37 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[21]

楠 薫のオーディオ三昧
http://www.kusunoki.jp/audio/audioindex.html

■ 2001年9月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2001.html

2000年3月にまたまた引っ越しで、今度は実家のある、北九州市です。
ここでの難問は二つ。

その一つが、大型のG.R.F.Memoryを 置くことの出来る部屋が実家にはないということ。

そしてもう一つが、50Hzから60Hzに周波数が変わったため、それなりの対策を立てないと EMT927が使えないということ。

結局、G.R.F.Memoryは宮崎の方に身請けされて行きました。
EMT927は現在の所、宝の持ち腐れ状態です。

そうなると、俄然、今までサブシステムだったソナス・ファーベルのアマトールが息を吹き返してきます。

かのマーク・レビンソンが興したRed Rose Musicのインターコネクトケーブル、 Red Rose Music Silver 1を得て、さらに その輝きを増し、ますます 美少女ぶりが発揮されてきた様です。

一方、我が機材は、その幾つかを陸奥は一関市のジャズ喫茶、「ROYCE」に委ねることとなります。

Marantz model 7、 McIntosh C22, MC240, MC75×2……。 そしてオーディオ評論家の是枝氏の手による300Bプッシュプルアンプも、一関のオーディオファンを 喜ばせている様です。

また、Marantz model 8は Yahooオークションで、HarbethのK6は山梨のとあるパン屋さんにそのまま 居着いてしまいました。C.R.ディベロップメンツ「REMUS」もオークションで売られて 行きましたし、C.R.ディベロップメンツ「ARTEMIS」は昨年末、山梨の須玉町郵便局長の 伊藤さん宅へ身請けされ、QUAD22& IIは本年5月、 ヴィンテージ・ オーディオショップに引き取られていきました。 大量にあったケーブルもYahooのオークションに売りに出され、整理されました。

 現在手元に残っているのは、メインアンプのスペクトラルDMA 50と、 プリアンプのC.R.ディベロップメンツ 「Kaster Pro」。 そして、ちょっとわけアリのルートで Marantz model7を 新たにもう一台入手しまして、代わりにそれまで持っていたプリアンプを、ROYCEにお譲りしました。

これだけものオーディオ機器を整理したわけは、新たに建築した職場と関係があります。 まぁ、お金もなかったですし……(笑)。

実はこの職場にオーディオルームを作っちゃおう、というわけなんです。

残念ながら、これだけのものを置いておくスペースと甲斐性はありませんので、現用の自宅で使用しているシステム の他、職場の待合室用システム、BGM用システム、そしてオーディオルームに置く予定のメインシステムの、 合計4システムとなる予定です。

待合室には「BOSE 111TR & 101」でBGMを流し、営業時間以外のお客さんが来た時には、 山本音響工芸社のエンクロージャー、BX280に アルテック 604-8Kを入れたシステムで鳴らす、 というところまでは何とか辿り着くことが出来ました。

そして、本命のタンノイ「 オートグラフ・ミレニアム」の登場!

 しかし、すんなり登場したわけではなく、当初はパラゴンの予定だったのですが、ヴィンテージ・オーディオショップにお預けしていて、 それを引き取る際、事故にあって(本当かな?)フイにしてしまったのです。で、その代わりにジャズ用にと アルテック 604-8K入り 山本音響工芸社エンクロージャーを求めたのですが、 これがなかなか素晴らしく、パラゴンのオーナーがこの音を聴いて、「ウチのパラゴンよりもスピード感が凄い!  音に厚みがあってが前に出てくる。 う〜ん、参ったなぁ」と仰ったので、こちらを残し、パラゴンの代わりにクラシック用に、やはりタンノイを入れようと思い立ったのです。 ちょうどその頃、まるで私を待っていたかの様に オートグラフ・ミレニアムが 発売になり、思わず電話一本、入れてしまったというのが実状。

 2001年6月28日木曜日に、ついにオートグラフ・ミレニアムが やってきたのですが、最初はパラゴンの予定だったので、設計がちょっと違って、コーナーにうまく設置出来ず、 残念でなりません。

 とは言うものの、今までに20軒以上の「オートグラフ」使いのお宅にお邪魔し、ノウハウをしっかり蓄積。オートグラフに合わせた家は後に建てる として、どの様に組み合わせていったら自分好みの音になるかは、十分把握済み。で、組み合わせるアンプは、プリが CONNOISSEUR(コニサー) 4.0、 メインがMarantz model 5という組み合わせ。 コニサー 4.0はMarantz model 1を上回る浸透力と質感の正確さに脱帽です。S/NがEARなどのスタジオ用のレヴェルあれば、本当に言うことがないの ですが……。

 ちなみに5月から7月までは、Red Rose Musicのプリメインアンプ、Model5を使用していました。これも素晴らしいアンプでしたが、 我が家にはレビンソンの色香よりも、質感の正しさと、浸透力のあるサウンドが必要であることに気付き、コニサーの導入と相成ったわけです。 メインアンプは以前使っていたものですが、今、新たに2〜3、物色している最中です。
CDはLINN CD 12。

 気品ある音で、かつ中低域にかけても桁違いの解像度を誇り、ステージに演奏者がビシッと並んでくれる CD 12です。 STUDER A730の情報量の多さ、音のフレッシュさと厚みを前面に出してくる音とはまた違って、非常に洗練された美しさを感じます。

 それでは、以下、ラインナップをお示しいたします。


Main System

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      EMT 927F(used 200v)
 Cartridge          Ortofon SPU A/E
 Tone arm          Ortofon RF297
 Stepup Transformer    Triad HS-1

FrontEnd(Digital):
 CD Player         LINN CD12

Pre Amplifier(used phono only) marantz Model 1(used 117v)
                  Used Tube V1-V3:Telefunken 12AX7

Line Amplifier         CONNOISSEUR 4.0

Power Amplifier         Marantz model 5
                        
Loud Speakers        TANNOY Autograph Millennium

AC Cables
 CD Player         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3
 Amplifier         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3

InterConnect Cables
 CD Player -> Line Amplifier    BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(60cm)
 Line Amplifier -> Power Amplifier  BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 
Speaker Cables        S/A Labs High End Horse3.5 (8m) with WBT-0645 (8m)

etc:
 BDR The Shelf : 68.3cm×53.5cm(for EMT927)
 Spike : Michael Green's Audio Points Brass Cones (for BDR The Shelf:used 3 points)
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE
 AC Step up Transformer :
  Noguchi trans. Power max E-1000(for EMT:100v -> 200v)
  Noguchi trnas. Power max U-1000EZ(100v -> 117v)

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2001.html


■ 2003年4月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html

 2001年から2003年にかけては我がオーディオシステムは激動の時を迎えました。
 職場の2階にオートグラフが納まり、岩手県一関市から、オーディオ評論家是枝氏の手による 300Bプッシュプルアンプが戻って参りまして、マランツ#5との激しいバトルと相成りました。

この300Bプッシュプルアンプ、私が注文したのですが、我が家よりも先に一関市のROYCEというジャズ 喫茶で鳴らしてもらい、なかなか好評でした。

 戻ってきた300Bプッシュプルアンプを聴いて、なるほどと合点。

 確かにマランツ#5はまるでサラブレッドの如く、ぐいぐい引っ張っていく力は見事という他 ありません。マランツ#1との組み合わせは、おそらく理想的と言って良いくらいです。

しかし、我が家のオートグラフ・ミレニアムは、オリジナルとは違い、ユニットも最新で、 しかもLINNのCD12という、最新のCDプレーヤーを導入しており、その最新のデジタル録音を 楽しむためには、やはりアンプも時代に合わせて最新のものを使用する方が、バランスが良い ようです。

 一時はコニサー4.0でマランツ#5を鳴らして、少しワイドレンジになって気に入っていましたが、 伸びやかで緻密、陰影表現が見事な是枝300Bプッシュプルアンプを聴いてしまうと、あのマランツ#5 の音がなんと古くさく聴こえてしまうのです。
レプリカ#9よりもオリジナル#8、オリジナル#8よりもオリジナル#5の方が聴感上も伸びやかで、 特に低域の寸詰まり感がなく、気に入っていただけに、これには正直、驚かされました。

マランツ#1と是枝300Bプッシュプルアンプの組み合わせでは、高域のみずみずしさは抜群でしたが、 低域方向がやや緩みがちになり、それを引き締める意味で、コニサー4.0をしばらく使用して、それで 落ち着いたかに見えました。

 しかし聴き込んでいくと、コニサー4.0は音像が大きめになり、ただでさえ大きめなオートグラフでは 巨大化してしまいます。さらに、S/Nが高能率スピーカーを前提としていないため(スキャンテック談) なんとマランツ#1より劣ることが発覚。
 しかしある程度のボリュームで聴いている分には問題なかったので、しばらくプリアンプはコニサーの ままでした。

 そんな折に出たのが、LINNのKlimax Kontrol。CD12と似たようなデザインで、ひょっとしたらこの プリアンプ、音的にもCD12の延長線上にあるのではないかと思い、MAXオーディオに頼んで、自宅で 試聴することになりました。

 これがまったくもって予想に違わぬ、CD12の延長線上に位置する、見事な出来映え。

 コニサー4.0よりもS/Nが良く、音像が肥大化せず、キュッとしまった感じで、それでいて低域の伸び やかさも一枚上手を行きます。

 同時に試聴したアンプジラ2000はスピーカードライブ能力とスピード感が見事で、JAZZのドラムスには 非常に相性が良かったのですが、女性ボーカルでは是枝300Bの色香には敵いません。 アンプジラはどこか乾いた感じがします。特にクラシックの教会音楽では、これが裏目に出てしまいました。

 というわけで、我が家にはLINNのCD12に加えて、Klimax Kontrolも居着いてしまうことになりました。

 世の中にLINNの製品を自分のシステムのどこかに入れると、だんだんLINNの製品が浸透して来て、 いつの間にかLINNの製品ばかりになってしまうという、LINN病なるものがまことしやかに言われていましたが、 何のことはない、我が家もCD12でバランスをとっているせいか、アナログもEMT927ではいかんせん、比較的 録音の新しいものがバランス的に合わなくなってしまいました。

 そこで、ついにLP12を入れることになりました。

 これがまた、CD12と似通ったサウンドというか何というか、まぁ、CD12がLP12のサウンド傾向を追随して いるわけなんですが、カートリッジが光悦の翡翠を使用し、ケーブル類を調整すると、デジタルもアナログも 違和感なく聴けるシステムと相成りました。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。

Main System

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power Supry        LINN LIGO

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier         LINN Klimax Kontrol

Power Amplifier        是枝(Koreeda) 300B push-pull amplifier
                        
Loud Speakers        TANNOY Autograph Millennium

AC Cables
 CD Player         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3
 Line Amplifier       Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier        BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 CD Player -> Line Amplifier       BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(60cm)
 Line Amplifier -> Power Amplifier   BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 
Speaker Cables        S/A Labs High End Horse3.5 (8m) with WBT-0645 (8m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html


■ 2005年7月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html

 2005年は、ちょっとした出来事がありました。

 それまでタンノイ一本槍で来た私でしたが、ヤフー・オークションでJBLのオリンパスの出物が あったので入手。これがなかなか素敵な音で、古いジャズのレコードを再生するのに、抜群の 相性を示しました。

 考えてみたら当然で、レコード全盛期のスピーカーですし、当時、パラゴンかオリンパスか、と 言われた、美しい格子模様のフロントグリルを有するオリンパス。復活したEMT927Fも加わり、 Marantz model 1が、俄然、光輝いてきました。

 となると、せっかくのMarantz model 1を活かすには、やはりMarantz model 9が必要。 と言うわけで、model 9も入手し、AET SCRのインターコネクトケーブル、スピーカーケーブルを 得て、生き生きとしたジャズの雰囲気を伝える組み合わせが出来上がりました。

 さて、メインシステムですが、オートグラフ・ミレニアムを石のアンプで動かしたらどうなるか、 ということでVIOLAのBravoを試聴。

 その頃使っていた、ユニゾンリサーチのS6のコクと色気、それに躍動感が及ばない様に思った のですが、実はこれはLINNのLINN Klimax Kontrolとの相性が悪かったためで、Cadenzaと Symphonyの組み合わせでは、Klimax KontrolよりもさらにS/Nが良く、チェロのアンプを手がけて いた方々によるアンプだけあって、高域の少し線は細いものの、美しくみずみずしいサウンドは、 他に類を見ないほど。

 発作が起きて、二つともセットで購入してしまうことになりました。

 このアンプ、現代最高峰のアンプと言っても良く、オートグラフ・ミレニアムの欠点をも露呈 することになってしまいました。

 これは設置した部屋のせいもあるのですが、オートグラフ・ミレニアムはコーナーにちゃんと ぴったり付けるようにしないと、十分な低域が出ません。しかも同軸2ウェイでは、高域が歪っぽく なり、澄んだ美しい透明な高域が出ないことがあります。

 これが逆に弦楽器では、眩のこすれる際の、生々しさをうまく出してくれるのですが、ジャズを 鳴らした際の、シンバルの「シャーン」と余韻を伴い、超高域まで伸びていく美しい音色や、デジタル 録音のS/Nが良く、ホールの余韻をふんだんに取り入れた優秀な録音を再生となると、どうも最新の スピーカーの方に分があります。

 もちろん、下手な録音の場合は、最新のスピーカーでは、録音のまずさも露呈してしまいますので、 ある一定レベルのサウンドを保証する意味では、タンノイのスピーカーは素晴らしいものがあります。  タンノイのスピーカーは、ユニットだけでなく、そのエンクロージャーの独特の響きでもって 音を再構築し、スピーカーで新たなライブの音を作り出す、と言うのが特徴です。ですから、 タンノイ・ホールと称されるほどの個性的な独特の響きは、そのサウンドを好きになれるかどうかが、 一番の問題でしょう。

 個人的な好みを申し上げるのなら、タンノイの音は「凄く好き」です。しかし、もう少し色彩感を 出して欲しい。セッティングの問題ではあるのですが、低域ももっと出て欲しい。

 こんなかなり贅沢な望みを満足させてくれたスピーカーが、Sonus FaberのStradivari Homageでし た。現代のスピーカーの中で、クラシック音楽を中心に、ジャズなどの最新デジタル録音を楽しく 聴くことが出来るスピーカーは、他にもいろいろあるかと思いますが、VIOLAのアンプが生きてくる 組み合わせで、となると、このスピーカーをおいて他にないように思います。

 実際、このスピーカーになって、FM放送が楽しめるようになりましたし、Jポップも気持ちよく聴ける ようになりました。Rie fu(りえ ふう)の曲に巡り逢えたのも、Stradivari無くしてはあり得なかった、 と言えましょう。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。


Main System

写真、真中の列が、ソナスファベールのストラディヴァリ・オマージュに
つながるメインシステムです。

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power supply        LINN LIGO(写真上段)

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier        VIOLA CadenzaA (写真上段)

Power Amplifier        VIOLA Symphony(写真下段)
                        
Loud Speakers        Sonus Faber Stradivari Homage

AC Cables
 LINN LIGO         Synergistic Absolute Reference AC Master Coupler x2-Series
 CD Player          AET SIN 1.2m
 Line Amplifier       AET SIN 1.2m
 Power Amplifier       Kharma KPC-GR-1a Grand Reference

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier : Kharma KIC-R-1a Reference
 CD Player -> Line Amplifier : AET SCR(1m RCA-RCA)
 Line Amplifier -> Power Amplifier : KHARMA KIC-GR-1b Grand Reference XLR 1m pai
 
Speaker Cables        AET SIN(7m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1029.html#c13

[リバイバル3] 頭が逝かれた信者が多いダメスピーカー タンノイ オートグラフ 中川隆
35. 中川隆[-10050] koaQ7Jey 2020年11月09日 14:28:20 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[22]
楠 薫のオーディオ三昧
http://www.kusunoki.jp/audio/audioindex.html


■ 2001年9月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2001.html

2000年3月にまたまた引っ越しで、今度は実家のある、北九州市です。
ここでの難問は二つ。

その一つが、大型のG.R.F.Memoryを 置くことの出来る部屋が実家にはないということ。

そしてもう一つが、50Hzから60Hzに周波数が変わったため、それなりの対策を立てないと EMT927が使えないということ。

結局、G.R.F.Memoryは宮崎の方に身請けされて行きました。
EMT927は現在の所、宝の持ち腐れ状態です。

そうなると、俄然、今までサブシステムだったソナス・ファーベルのアマトールが息を吹き返してきます。

かのマーク・レビンソンが興したRed Rose Musicのインターコネクトケーブル、 Red Rose Music Silver 1を得て、さらに その輝きを増し、ますます 美少女ぶりが発揮されてきた様です。

一方、我が機材は、その幾つかを陸奥は一関市のジャズ喫茶、「ROYCE」に委ねることとなります。

Marantz model 7、 McIntosh C22, MC240, MC75×2……。 そしてオーディオ評論家の是枝氏の手による300Bプッシュプルアンプも、一関のオーディオファンを 喜ばせている様です。

また、Marantz model 8は Yahooオークションで、HarbethのK6は山梨のとあるパン屋さんにそのまま 居着いてしまいました。C.R.ディベロップメンツ「REMUS」もオークションで売られて 行きましたし、C.R.ディベロップメンツ「ARTEMIS」は昨年末、山梨の須玉町郵便局長の 伊藤さん宅へ身請けされ、QUAD22& IIは本年5月、 ヴィンテージ・ オーディオショップに引き取られていきました。 大量にあったケーブルもYahooのオークションに売りに出され、整理されました。

 現在手元に残っているのは、メインアンプのスペクトラルDMA 50と、 プリアンプのC.R.ディベロップメンツ 「Kaster Pro」。 そして、ちょっとわけアリのルートで Marantz model7を 新たにもう一台入手しまして、代わりにそれまで持っていたプリアンプを、ROYCEにお譲りしました。

これだけものオーディオ機器を整理したわけは、新たに建築した職場と関係があります。 まぁ、お金もなかったですし……(笑)。

実はこの職場にオーディオルームを作っちゃおう、というわけなんです。

残念ながら、これだけのものを置いておくスペースと甲斐性はありませんので、現用の自宅で使用しているシステム の他、職場の待合室用システム、BGM用システム、そしてオーディオルームに置く予定のメインシステムの、 合計4システムとなる予定です。

待合室には「BOSE 111TR & 101」でBGMを流し、営業時間以外のお客さんが来た時には、 山本音響工芸社のエンクロージャー、BX280に アルテック 604-8Kを入れたシステムで鳴らす、 というところまでは何とか辿り着くことが出来ました。

そして、本命のタンノイ「 オートグラフ・ミレニアム」の登場!

 しかし、すんなり登場したわけではなく、当初はパラゴンの予定だったのですが、ヴィンテージ・オーディオショップにお預けしていて、 それを引き取る際、事故にあって(本当かな?)フイにしてしまったのです。で、その代わりにジャズ用にと アルテック 604-8K入り 山本音響工芸社エンクロージャーを求めたのですが、 これがなかなか素晴らしく、パラゴンのオーナーがこの音を聴いて、「ウチのパラゴンよりもスピード感が凄い!  音に厚みがあってが前に出てくる。 う〜ん、参ったなぁ」と仰ったので、こちらを残し、パラゴンの代わりにクラシック用に、やはりタンノイを入れようと思い立ったのです。 ちょうどその頃、まるで私を待っていたかの様に オートグラフ・ミレニアムが 発売になり、思わず電話一本、入れてしまったというのが実状。

 2001年6月28日木曜日に、ついにオートグラフ・ミレニアムが やってきたのですが、最初はパラゴンの予定だったので、設計がちょっと違って、コーナーにうまく設置出来ず、 残念でなりません。

 とは言うものの、今までに20軒以上の「オートグラフ」使いのお宅にお邪魔し、ノウハウをしっかり蓄積。オートグラフに合わせた家は後に建てる として、どの様に組み合わせていったら自分好みの音になるかは、十分把握済み。で、組み合わせるアンプは、プリが CONNOISSEUR(コニサー) 4.0、 メインがMarantz model 5という組み合わせ。 コニサー 4.0はMarantz model 1を上回る浸透力と質感の正確さに脱帽です。S/NがEARなどのスタジオ用のレヴェルあれば、本当に言うことがないの ですが……。

 ちなみに5月から7月までは、Red Rose Musicのプリメインアンプ、Model5を使用していました。これも素晴らしいアンプでしたが、 我が家にはレビンソンの色香よりも、質感の正しさと、浸透力のあるサウンドが必要であることに気付き、コニサーの導入と相成ったわけです。 メインアンプは以前使っていたものですが、今、新たに2〜3、物色している最中です。
CDはLINN CD 12。

 気品ある音で、かつ中低域にかけても桁違いの解像度を誇り、ステージに演奏者がビシッと並んでくれる CD 12です。 STUDER A730の情報量の多さ、音のフレッシュさと厚みを前面に出してくる音とはまた違って、非常に洗練された美しさを感じます。

 それでは、以下、ラインナップをお示しいたします。


Main System

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      EMT 927F(used 200v)
 Cartridge          Ortofon SPU A/E
 Tone arm          Ortofon RF297
 Stepup Transformer    Triad HS-1

FrontEnd(Digital):
 CD Player         LINN CD12

Pre Amplifier(used phono only) marantz Model 1(used 117v)
                  Used Tube V1-V3:Telefunken 12AX7

Line Amplifier         CONNOISSEUR 4.0

Power Amplifier         Marantz model 5
                        
Loud Speakers        TANNOY Autograph Millennium

AC Cables
 CD Player         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3
 Amplifier         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3

InterConnect Cables
 CD Player -> Line Amplifier    BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(60cm)
 Line Amplifier -> Power Amplifier  BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 
Speaker Cables        S/A Labs High End Horse3.5 (8m) with WBT-0645 (8m)

etc:
 BDR The Shelf : 68.3cm×53.5cm(for EMT927)
 Spike : Michael Green's Audio Points Brass Cones (for BDR The Shelf:used 3 points)
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE
 AC Step up Transformer :
  Noguchi trans. Power max E-1000(for EMT:100v -> 200v)
  Noguchi trnas. Power max U-1000EZ(100v -> 117v)

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2001.html


■ 2003年4月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html

 2001年から2003年にかけては我がオーディオシステムは激動の時を迎えました。
 職場の2階にオートグラフが納まり、岩手県一関市から、オーディオ評論家是枝氏の手による 300Bプッシュプルアンプが戻って参りまして、マランツ#5との激しいバトルと相成りました。

この300Bプッシュプルアンプ、私が注文したのですが、我が家よりも先に一関市のROYCEというジャズ 喫茶で鳴らしてもらい、なかなか好評でした。

 戻ってきた300Bプッシュプルアンプを聴いて、なるほどと合点。

 確かにマランツ#5はまるでサラブレッドの如く、ぐいぐい引っ張っていく力は見事という他 ありません。マランツ#1との組み合わせは、おそらく理想的と言って良いくらいです。

しかし、我が家のオートグラフ・ミレニアムは、オリジナルとは違い、ユニットも最新で、 しかもLINNのCD12という、最新のCDプレーヤーを導入しており、その最新のデジタル録音を 楽しむためには、やはりアンプも時代に合わせて最新のものを使用する方が、バランスが良い ようです。

 一時はコニサー4.0でマランツ#5を鳴らして、少しワイドレンジになって気に入っていましたが、 伸びやかで緻密、陰影表現が見事な是枝300Bプッシュプルアンプを聴いてしまうと、あのマランツ#5 の音がなんと古くさく聴こえてしまうのです。
レプリカ#9よりもオリジナル#8、オリジナル#8よりもオリジナル#5の方が聴感上も伸びやかで、 特に低域の寸詰まり感がなく、気に入っていただけに、これには正直、驚かされました。

マランツ#1と是枝300Bプッシュプルアンプの組み合わせでは、高域のみずみずしさは抜群でしたが、 低域方向がやや緩みがちになり、それを引き締める意味で、コニサー4.0をしばらく使用して、それで 落ち着いたかに見えました。

 しかし聴き込んでいくと、コニサー4.0は音像が大きめになり、ただでさえ大きめなオートグラフでは 巨大化してしまいます。さらに、S/Nが高能率スピーカーを前提としていないため(スキャンテック談) なんとマランツ#1より劣ることが発覚。
 しかしある程度のボリュームで聴いている分には問題なかったので、しばらくプリアンプはコニサーの ままでした。

 そんな折に出たのが、LINNのKlimax Kontrol。CD12と似たようなデザインで、ひょっとしたらこの プリアンプ、音的にもCD12の延長線上にあるのではないかと思い、MAXオーディオに頼んで、自宅で 試聴することになりました。

 これがまったくもって予想に違わぬ、CD12の延長線上に位置する、見事な出来映え。

 コニサー4.0よりもS/Nが良く、音像が肥大化せず、キュッとしまった感じで、それでいて低域の伸び やかさも一枚上手を行きます。

 同時に試聴したアンプジラ2000はスピーカードライブ能力とスピード感が見事で、JAZZのドラムスには 非常に相性が良かったのですが、女性ボーカルでは是枝300Bの色香には敵いません。 アンプジラはどこか乾いた感じがします。特にクラシックの教会音楽では、これが裏目に出てしまいました。

 というわけで、我が家にはLINNのCD12に加えて、Klimax Kontrolも居着いてしまうことになりました。

 世の中にLINNの製品を自分のシステムのどこかに入れると、だんだんLINNの製品が浸透して来て、 いつの間にかLINNの製品ばかりになってしまうという、LINN病なるものがまことしやかに言われていましたが、 何のことはない、我が家もCD12でバランスをとっているせいか、アナログもEMT927ではいかんせん、比較的 録音の新しいものがバランス的に合わなくなってしまいました。

 そこで、ついにLP12を入れることになりました。

 これがまた、CD12と似通ったサウンドというか何というか、まぁ、CD12がLP12のサウンド傾向を追随して いるわけなんですが、カートリッジが光悦の翡翠を使用し、ケーブル類を調整すると、デジタルもアナログも 違和感なく聴けるシステムと相成りました。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。

Main System

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power Supry        LINN LIGO

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier         LINN Klimax Kontrol

Power Amplifier        是枝(Koreeda) 300B push-pull amplifier
                        
Loud Speakers        TANNOY Autograph Millennium

AC Cables
 CD Player         Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3
 Line Amplifier       Aural Symphonics ML-Cubed Gen 3

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier        BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 CD Player -> Line Amplifier       BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(60cm)
 Line Amplifier -> Power Amplifier   BELDEN YR23169 T-203D FOR AUDIO OL(1.0m)
 
Speaker Cables        S/A Labs High End Horse3.5 (8m) with WBT-0645 (8m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/history2003.html


■ 2005年7月現在のオーディオシステム ■
http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html

 2005年は、ちょっとした出来事がありました。

 それまでタンノイ一本槍で来た私でしたが、ヤフー・オークションでJBLのオリンパスの出物が あったので入手。これがなかなか素敵な音で、古いジャズのレコードを再生するのに、抜群の 相性を示しました。

 考えてみたら当然で、レコード全盛期のスピーカーですし、当時、パラゴンかオリンパスか、と 言われた、美しい格子模様のフロントグリルを有するオリンパス。復活したEMT927Fも加わり、 Marantz model 1が、俄然、光輝いてきました。

 となると、せっかくのMarantz model 1を活かすには、やはりMarantz model 9が必要。 と言うわけで、model 9も入手し、AET SCRのインターコネクトケーブル、スピーカーケーブルを 得て、生き生きとしたジャズの雰囲気を伝える組み合わせが出来上がりました。

 さて、メインシステムですが、オートグラフ・ミレニアムを石のアンプで動かしたらどうなるか、 ということでVIOLAのBravoを試聴。

 その頃使っていた、ユニゾンリサーチのS6のコクと色気、それに躍動感が及ばない様に思った のですが、実はこれはLINNのLINN Klimax Kontrolとの相性が悪かったためで、Cadenzaと Symphonyの組み合わせでは、Klimax KontrolよりもさらにS/Nが良く、チェロのアンプを手がけて いた方々によるアンプだけあって、高域の少し線は細いものの、美しくみずみずしいサウンドは、 他に類を見ないほど。

 発作が起きて、二つともセットで購入してしまうことになりました。

 このアンプ、現代最高峰のアンプと言っても良く、オートグラフ・ミレニアムの欠点をも露呈 することになってしまいました。

 これは設置した部屋のせいもあるのですが、オートグラフ・ミレニアムはコーナーにちゃんと ぴったり付けるようにしないと、十分な低域が出ません。しかも同軸2ウェイでは、高域が歪っぽく なり、澄んだ美しい透明な高域が出ないことがあります。

 これが逆に弦楽器では、眩のこすれる際の、生々しさをうまく出してくれるのですが、ジャズを 鳴らした際の、シンバルの「シャーン」と余韻を伴い、超高域まで伸びていく美しい音色や、デジタル 録音のS/Nが良く、ホールの余韻をふんだんに取り入れた優秀な録音を再生となると、どうも最新の スピーカーの方に分があります。

 もちろん、下手な録音の場合は、最新のスピーカーでは、録音のまずさも露呈してしまいますので、 ある一定レベルのサウンドを保証する意味では、タンノイのスピーカーは素晴らしいものがあります。  タンノイのスピーカーは、ユニットだけでなく、そのエンクロージャーの独特の響きでもって 音を再構築し、スピーカーで新たなライブの音を作り出す、と言うのが特徴です。ですから、 タンノイ・ホールと称されるほどの個性的な独特の響きは、そのサウンドを好きになれるかどうかが、 一番の問題でしょう。

 個人的な好みを申し上げるのなら、タンノイの音は「凄く好き」です。しかし、もう少し色彩感を 出して欲しい。セッティングの問題ではあるのですが、低域ももっと出て欲しい。

 こんなかなり贅沢な望みを満足させてくれたスピーカーが、Sonus FaberのStradivari Homageでし た。現代のスピーカーの中で、クラシック音楽を中心に、ジャズなどの最新デジタル録音を楽しく 聴くことが出来るスピーカーは、他にもいろいろあるかと思いますが、VIOLAのアンプが生きてくる 組み合わせで、となると、このスピーカーをおいて他にないように思います。

 実際、このスピーカーになって、FM放送が楽しめるようになりましたし、Jポップも気持ちよく聴ける ようになりました。Rie fu(りえ ふう)の曲に巡り逢えたのも、Stradivari無くしてはあり得なかった、 と言えましょう。

 と言うわけで、以下、ラインナップをお示しいたします。


Main System

写真、真中の列が、ソナスファベールのストラディヴァリ・オマージュに
つながるメインシステムです。

FrontEnd(Analogue):
 Analogue Player      LINN LP12
 Cartridge          光悦(Kouetu) 翡翠(JADE)
 Tone arm          LINN EKOS
 Power supply        LINN LIGO(写真上段)

FrontEnd(Digital):
 CD Player          LINN CD12

Phono Amplifier        Benz Micro Switzerland PPI type9

Line Amplifier        VIOLA CadenzaA (写真上段)

Power Amplifier        VIOLA Symphony(写真下段)
                        
Loud Speakers        Sonus Faber Stradivari Homage

AC Cables
 LINN LIGO         Synergistic Absolute Reference AC Master Coupler x2-Series
 CD Player          AET SIN 1.2m
 Line Amplifier       AET SIN 1.2m
 Power Amplifier       Kharma KPC-GR-1a Grand Reference

InterConnect Cables
 Phono -> Line Amplifier : Kharma KIC-R-1a Reference
 CD Player -> Line Amplifier : AET SCR(1m RCA-RCA)
 Line Amplifier -> Power Amplifier : KHARMA KIC-GR-1b Grand Reference XLR 1m pai
 
Speaker Cables        AET SIN(7m)

etc:
 Audio Rack : Quadraspire Square table ST660
 AC Outlet : HUBBELL SPECIFICATION GRADE DUPLEX RECEPTACLE

http://www.kusunoki.jp/audio/audiohistory/AudioSystem2005/history2005.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1107.html#c35

[近代史3] 一度は行ってみたい _ 高樹沙耶が経営している石垣島『キャンピングロッジ 虹の豆』 中川隆
11. 中川隆[-10049] koaQ7Jey 2020年11月09日 15:18:45 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[23]
「相棒」を蹴って石垣島へ、最後に水谷豊さんに送った手紙…高樹沙耶が語る芸能生活30年
2020年11月9日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11091101/?all=1


オスカーに入りデビューしたばかりの頃(17歳)(他の写真を見る)
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11091101/?photo=1


 今やすっかり「大麻合法化活動家」という肩書きが板についた高樹沙耶(57)だが、元々は、大手芸能事務所「オスカープロモーション」に所属する売れっ子女優だった。なぜ彼女は、これまで築いた地位や暮らしを自ら放棄し、「大麻」へと行き着いたのか。彼女が住む石垣島を訪ね、30年間の芸能生活を振り返ってもらった。(「“大麻ツイート”をやめた理由をお話します……高樹沙耶が石垣島で語ったホンネ」「高樹沙耶が2年前に再婚していた 本人が語った“出会いからプロポーズまで”」の続き)

 ***

速報「伊藤健太郎」事務所社長が初告白、移籍トラブルの真相 事実無根の報道には法的対処も

「17歳の頃、原田真二さんのコンサートを観たのが芸能界を目指したきっかけです。舞台で輝く彼の姿を観て、私もやってみたいって」

 当時、高樹は静岡県浜松市で暮らす女子高生だった。しばらくして、ある募集広告が彼女の目に入る。ティーンエイジャーに人気があった女性ファッション誌「mc Sister(エムシーシスター)」(2002年廃刊)に掲載された「モデル募集」の告知であった。

「いくつかのモデル事務所が掲載していたんですが、なぜかオスカーを選んだんです。写真と応募書類を送ったら声がかかり、面接を受けることになった。両親は幼いときに離婚し、母親に育てられたので、早くおカネを稼いで助けたいと思っていました。母は『詐欺なんじゃないの』と心配しましたが、社長がちゃんと口説いてくれて、最終的には『好きだと思う自分の道を進みなさい』と承諾してくれたんです。それで、上京することになりました」

 社長というのは、“オスカー帝国”と呼ばれる同社を一代で築き上げた古賀誠一氏(現・会長)である。だが、

「私の場合、古賀社長の目に止まったものの、認めてはもらえなかったんです。当時、オスカーはまだモデル専門の事務所で、これから芸能部門に力を入れていこうというところだった。その頃、『パンジー』という3人組のアイドルユニットを作って売り出すことになったんですが、最終の5人まで残ったものの、結局、選ばれたのは、北原佐和子ちゃん、真鍋ちえみちゃんら3人で、私は落選してしまいました」

 その理由については、

「生意気だったから。当時から髪型はワンレンで、アイドルっぽさがなかった。母子家庭が影響してか、気を張って生きなきゃみたいなところがあったんですね。ただ、あのときは、“早く売れたい”一心だったんで、先にテレビに出て活躍している同年代の子たちを見て悔しかった」

19歳で挑んだ一糸まとわぬ演技「沙耶のいる透視図」でデビュー
 だが、まもなく高樹の運命を変える作品と出会うことになる。1983年、19歳で主役を務めた映画「沙耶のいる透視図」(公開は1986年)だ。

「『プレイボーイ』のグラビアに出ていたのを、プロデューサーが見て、この娘を使いたいって言ってくださった。そして、映画出演とセットでオスカーを退社し、『プルミエ・インターナショナル』という映画製作会社に移籍することになったんです。この作品がきっかけで、『高樹沙耶』という芸名もできた。それまでは、本名の益戸育枝でやっていたんですが、芸能界でやっていくには地味かなと思っていたところでした。役名から『沙耶』という名前をもらい、苗字の『高樹』は、プロデューサーが画数を調べてつけてくれました」

 同作で高樹は一糸まとわぬ姿になって、名高達郎と激しい濡れ場を演じたが、

「芸能界でやっていくからにはしょうない、くらいな感じでした。もちろん、当時はいまより一糸まとわぬ姿になる抵抗は大きかった。ただ、私の場合、両親が結婚で失敗しているので、あまりお嫁さんに夢を抱いていなかったんで、『ま、いいか』って」

 同作は興行的には成功とは言えなかったが、芸術作品としては高評価を受けた。一方、続いて出演した柴田恭兵との共演作「チ・ン・ピ・ラ」は大ヒット。高樹は女優としての道を歩き出すことになる。

「もう必死でしたよ。初めてラケットを持たされてコートに立たされたような感じ。あの頃の俳優さんたちは、みんな劇団で下積みしてからデビューという時代でしたから、私みたいにモデルからいきなり映画デビューなんて珍しいケースだった。『沙耶のいる』で、加賀まりこさんにご挨拶にいったときのことは忘れません。『新人の高樹です。よろしくお願いします』と頭を下げると、監督チェアみたいなのに座っていた加賀さんは、プロデューサーを一瞥して、『この娘が? 3人の男性から愛される役の割にはねぇ』って。ブルっちゃいましたよ」


「随分、男に貢がせました」 イケイケだった20代
 だが、2作の映画で名は売れたものの、後が続かなかった。

「移籍した事務所は映画製作会社だったんで、あまり売り出しがうまくいかなかったんですね。結局、3〜4年してまたオスカーに戻ることに。その後、『オールナイトフジ』(フジテレビ)のMCなど、いいお仕事はもらってはいたんですが、ちょっと納得いかないことがあって、また辞めることになり、今度は『ケイダッシュ』さんにお世話になることになりました」

 20代で事務所を転々とするさまは、“我が道を進む”いまの彼女の姿を彷彿とさせる。

「この時代はイケイケでしたしね。もっと有名になりたい、もっとお金持ちになりたいって、欲の塊でした。ガラス張りの高級マンションに住んで、シャネルで着飾り、ベンツに乗って。正直、モテましたよ。男性に貢がせたり、私生活もハチャメチャ。逮捕後に、そのあたりをボロクソに書かれましたが、まぁ仕方ないくらい遊んでいたのも事実」

 だが30代にさしかかり、旅番組に多く出演するようになったことが契機で、高樹の人生観は大きく変わっていく。

「朝日放送の『朝だ!生です旅サラダ』(朝日放送テレビ)では、北欧、リビア、南アフリカ、ケニアなど世界各国を回りました。あの頃はテレビもまだ力があって、ビジネスクラスで豪勢に、2〜3週間くらい行かせてもらえたんです。特に大きな転換期となったのが、02年頃、日本テレビの特番のロケでオーストラリアに行った経験でした。『パーマカルチャー』という農業をしながら自然と共存し、持続可能な暮らしを築いていこうとしている人たちと触れ合って衝撃を受けた。いまの私の暮らしの原点を見つけたのです」

 放蕩三昧だったこれまでの自分を、見つめ直したという。

「高い洋服をいくら買っても、まったく満たされないって。消費ばかり繰り返し、おカネに縛られているような自分の生き方がバカバカしく思えて。イルカセラピーをやっていらっしゃる女性にも会ったんですが、私もあんなふうに海に潜ってイルカと一緒に泳ぎたいって思いはじめたんです」

 ちなみに、この頃、海外で大麻の味を覚えたという。

「まだこの頃は、バレたらヤバいって、恐る恐るでした。海外に行ったときだけ、ちょいちょいやっていた程度。日本で吸うようになったのも、もっと先の、石垣島に移ってからのことです」

高樹沙耶水深53メートル
ハワイ島で開かれたフリーダイビングワールドカップでは水深53メートルの日本新記録を樹立した(39歳)(他の写真を見る)

結婚と離婚。芸能界に区切りをつけてハワイに移住
 ちょうどその頃、私生活でも大きな変化があった。35歳で、シンガーソングライターの中西圭三氏と結婚。だが長続きせず、2年で離婚する。

「芸能界は、みんなおカネもあるし、ルックスもいいから、男女の出会いやトラブルも多いんです。そんなごちゃごちゃした人間関係も含めて、嫌になった。私が求めていた理想って何なんだろうと、ふつふつ考えはじめるようになって。じゃあもうやめようって、ハワイに移住したんです」

 移住後、高樹はハワイ在住のカメラマン兼ダイバーの菅原真樹氏と出会い、フリーダイビングを始めた。02年11月に行われたワールドカップでは、水深53メートルの日本新記録を樹立。菅原氏とは同棲し、婚約もした。

高樹沙耶授賞式
授賞式で。日本チームは銀メダルを受賞した(39歳)(他の写真を見る)

 都会から離れ、自然と共存する新たな暮らしを始めた高樹であったが、完全に芸能界と縁が切れたわけではなかった。彼女と芸能界をつなぎとめたのは、ちょうどその頃スタートした、ドラマ「相棒」(テレビ朝日)だった。

「『相棒』は、単発の2時間ドラマで始まったんですが、人気が出て連続ドラマ化することになった。ちょうどそのタイミングでの移住だったんです。テレ朝からも引き続きお願いしたいと言われ、3カ月に1回くらい日本に戻って、まとめ撮りすることに。もちろん、自分でも完全に芸能界と縁を切ってしまうことに、経済的な不安がありました。実は、この間はケイダッシュを辞めて、フリーで仕事をしていたんです。ただ、これが本当に大変で……。ギャラの交渉からスケジュールの管理まで全部自分でやらなければならなく、事務所のありがたみを痛感した日々でした」


「相棒」を辞めるときに、水谷豊に送った手紙
 だが、ハワイ生活は4年で幕を閉じる。菅原氏との破局がきっかけで再び日本へ。

「また、ちゃっかりオスカーに出戻りしてね。ただ、そこから始まった40代は、エコロジー生活を本格的に実践していこうと千葉県南房総市に居を構えて、仕事と並行して農業を始めたんです。そして7年くらい、東京と千葉を行ったり来たりの生活を始めました。この頃から、もう芸能界で働き続けることには限界を感じはじめていましたね。07年には、フジテレビの朝の情報番組『ハピふる!』のメインMCもやらせていただいたんですが、方針を巡ってスタッフと衝突してしまって……」

 当初、番組からはエコや環境をメインにやりたいという趣旨の説明があったので、出演を快諾したというのだが、

「結局、テレビでそれは無理だったんです。そもそもテレビって、買って食べてって消費を煽るメディアでしょう。そのうち私は我慢ならなくなって、『CMが絡むときには私を映さないで』ってワガママを言い出すようになり、番組側は大わらわ。間に立った事務所も大変な思いをしたと思います」

 結局、番組は1年で打ち切り。それから2年半後、啓示のように、高樹を覚醒させる出来事が起きた。東日本大震災である。

「震災で反原発活動に目覚めたんです。『私が言ってきた通りになったじゃん』って燃え上がっちゃった。そして、もうこんなところにいたくないって、最後は『相棒』まで蹴って石垣への移住を決めました。それが芸能界との別れでした。

 水谷豊さんには、最後に“ごめんなさい”って手紙を書いたんですが、結局お返事はもらえませんでしたね。それが水谷さんのお返事だったんだと思います。すべてを急に投げ出しちゃった勝手な女。でも、あのときの私は、怒りで震え上がっていましたから。『東電ファッキュー、政府ファッキュー』って。ふざけんなって。みんな、よくこんなときにドラマだとか呑気にやっていられるねって」

 高樹は当時を、幼かったと素直に振り返る。

「千葉にいた時代から、大麻合法化運動にも関わりはじめていましたから、あのときは大麻問題も含めて、もう国が信じられないってパニックみたいになっていたんです。お世話になった業界なんですから、いま思えばもう少し時間をかけて、仁義を通すやり方があったと反省しています。逮捕後、テレビで中尾彬さんに『芸能界には挨拶ができない女が3人いる。その1人がこの女だ』って言われちゃいましたが、確かにそうでした」

高樹沙耶「虹の豆」
石垣島の民宿「虹の豆」にて(49歳)(他の写真を見る)

テレビもない石垣の暮らし。10年間離れた芸能界への思い
 その後は芸能界を離れ、石垣島で暮らしている。12年に石垣島に民宿「虹の豆」をオープン。16年には政治家を志し、「医療大麻解禁」を公約に掲げ参院選に出馬したものの落選。また島に戻った。だが、半年後に大麻取締法違反で逮捕され、翌17年4月に懲役1年・執行猶予3年の判決を受ける。今年5月に執行猶予期間が明けたばかりの身だ。

「いまは民宿を経営しながら、フルーツや野菜を育てるなど持続可能な暮らしを続けています。水も湧き水を使い、クーラーも使わない。自由ですよ。朝起きてから、さあ何をしようという感じ。気が向いたら海に入ったり、街に友人に会いに行ったり。これから本を書いてみようかなって思っているところです」

高樹沙耶選挙ポスター
新党改革から参院選に出馬したときの選挙ポスター(53歳)(他の写真を見る)

 芸能界を離れて10年。かつて身を置いた世界をどう見ているのか。

「実は家にはテレビがないんで、まったく観ていないの。ただ、朝から晩までずっとワイドショーみたいないまのテレビには、陰りを感じますね。芸能事務所もしかりで、騒動ばかりで変革期を迎えています。『おニャン子クラブ』とか『モーニング娘。』とかが出てきたときから、チープになったなぁって感じていました。単体では売れないから、セットでの売り出し方が流行り出したでしょ。売れる・売れないは、芸能事務所とテレビ局というムラのなかで、上の人たちが決める。

 その上の人たちも、ジャニー喜多川さんは亡くなっちゃったし、オスカーの古賀さんやケイダッシュの川村(龍夫・会長)さんのように、みんな高齢化している。そんななか、利権をどう保持するかみたいな、つまらない方向に行っちゃった部分もあると思うんです」

 自身が芸能界で活躍していた初期の頃は、違ったという。

「強烈なキャラクターを持った役者さんたちがまだ残っていて、すごい力で牽引していた。たとえば、ショーケンさん(萩原健一)とも共演したんですけど、こだわりがすごいなんてものじゃなかった。カメラマンさんや音声さん、私たち演者だろうが誰彼構わず、すぐに『チッ。違うんだよ!』って。毎日、ショーケンさんが現場に入るとピリピリです。あのときは、ぶっちゃけムカつきましたが、ああいうすごい先輩たちがいなくなって、芸能界全体の勢いが衰えてしまった、というのもある気がするんです」

 では、自分をそのなかでどう評価するか、と聞くと、

「中途半端でしたね。舞台も1回だけやったことがあるんですが、毎日同じ芝居やって毎日泣くなんて私には無理だって思った。あのとき、とことん女優魂がない人間だって気づいた。ただ、好き勝手、出たり入ったりしながらも、私を受け入れ、育ててくれた芸能界には本当に感謝しています。未練もちょっとありますね。映画でもドラマでも、なんでもいいんですが、私が実践してきた信条に合うようなお話がもしあれば、戻ってチャレンジしたいとは思っています」

週刊新潮WEB取材班


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/707.html#c11

[近代史4] 北朝鮮の本当の生活水準 農村は年収1万円以下

2020年11月09日
北朝鮮の本当の生活水準 農村は年収1万円以下

北朝鮮はソ連式の集団農業だが、アジアではうまく行かず貧しくなるだけ

引用:北朝鮮旅行記2015年http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/happytraveler/20150510/20150510215629.jpg

北朝鮮の統計は信用できない

北朝鮮は2017年に行ったミサイル発射と核実験のために、国際社会から制裁措置を受けている。

日本は以前から独自制裁をしていたが、輸出入の9割を占めるとされる中国まで、対北制裁に参加しました。

中国はアメリカの目をすり抜けて貿易を続けているが、石油取引の制限などが、次第に北を追い詰めている。

北朝鮮は日本の統治下では工業化が進み、独立後は韓国より発展していたが、朝鮮戦争で灰燼に帰した。

80年代まではソ連の援助を受けていたがソ連は崩壊し、90年代からは中国の援助を受けていました。

だがそれも度重なる核とミサイル実験で、アメリカが中朝貿易を槍玉に上げ、中国も北朝鮮貿易を制限せざるを得なくなった。


1990年代にはソ連崩壊による支援打ち切りや、金正日の失政の結果、数十万人が飢えてなくなったと推測されている。


その後も定期的に北朝鮮からは飢饉や旱魃や飢餓のニュースが伝わってくるが、公式発表では順調に人口が増えた事になっている。

中国もそうだがソ連の時代から、共産主義国は統計がでたらめなので、発表された数字をみても、どうなっているのか分からない。


ソ連は結局経済破綻して崩壊したのだが、崩壊するまでずっと「順調に発展している」事になっていました。

故に北朝鮮についても、国連や北朝鮮政府が発表する数字を読んでも、実態は分かりません。

北朝鮮に招待されるような「ゴミ・ジャーナリスト」によると平穣の暮らしぶりは貧しくないそうだが、これも真実とは思えない。

北朝鮮農民の平均年収は1万円以下

北朝鮮が決して外国人に見せない農村の生活水準は、発展著しいと言われる中国の農村が参考になる。

2014年頃まで公表していた中国農民の平均年収は7万円以下で、現在も年収10万円以下だと考えられています。

中国の沿岸部や工業都市ては「日本より収入が多い」などと言う場合があるが、恐らく北京や上海の超富裕層だけの話でしょう。

中国全体の平均年収は80万円程度と言われていて、これは日本とのGDPの差を考えると妥当な線と言えます。

北京と上海は飛びぬけて高くて100万円以上だが全国平均より高いのは北京と上海くらいしかない。

日本で平均年収を上回る都市が東京だけなのと同じで、中国の地方都市では年収70万円以下、農村部は10万円以下です。


あれだけ発展した中国すら今も内陸の農村部は貧困であり、北朝鮮となると年収で言えば1万円程度でしょう。

北朝鮮の1人当たりGDPは推定583ドル(2014年)で、日本の3.9万ドルの66分の1に相当します。

これも年収583ドル(約6万円)を超えているのは平穣だけの筈で、農民の平均は年収1万円以下で間違いないでしょう。

北朝鮮の人々の生活

年収1万円以下の生活とは一体どんな暮らしぶりなのでしょうか?

食料は配給制だが、最低限のカロリーにも足りないので、自給自足する必要がある。

北朝鮮の冬は北海道並みに冷えるが、燃料を買えないので薪を拾ったり木を切って燃やします。


脱北者の手記などには必ず「薪拾い」が日課だったと書いてあり、お陰で北朝鮮の山はほとんど禿山になりました。

電気製品を持っているのは恵まれた家庭で、電気が付けば良いほうでしょう。

お金を持っていないので服や日用品を買う事が出来ず、農作物と物々交換で手に入れていると考えられる。


金正日以来北朝鮮では闇市が盛んで、配給不足を補っていると言われている。

北朝鮮は極端な階級社会なので、平穣と地方都市では生活水準は大きく違い、農村ではもう一桁生活水準が劣る。

外国人が行く事ができる範囲では市場が立ち並び、それなりに賑わっているが、北京と上海だけを見て「中国は素晴らしい」と言うのに似ている。


北朝鮮の農村には外国人は誰も行く事ができないし、どれだけ貧しいのか情報は何も伝わってこない。

http://www.thutmosev.com/archives/72772616.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1162.html

[近代史4] 中華人民共和国は世界史上最悪の階級社会 中川隆
5. 中川隆[-10048] koaQ7Jey 2020年11月09日 15:43:02 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[24]
中国の農村

2014年頃まで公表していた中国農民の平均年収は7万円以下で、現在も年収10万円以下だと考えられています。

中国の沿岸部や工業都市ては「日本より収入が多い」などと言う場合があるが、恐らく北京や上海の超富裕層だけの話でしょう。

中国全体の平均年収は80万円程度と言われていて、これは日本とのGDPの差を考えると妥当な線と言えます。

北京と上海は飛びぬけて高くて100万円以上だが全国平均より高いのは北京と上海くらいしかない。

日本で平均年収を上回る都市が東京だけなのと同じで、中国の地方都市では年収70万円以下、農村部は10万円以下です。


あれだけ発展した中国すら今も内陸の農村部は貧困であり、北朝鮮となると年収で言えば1万円程度でしょう。

外国人が行く事ができる範囲では市場が立ち並び、それなりに賑わっているが、北京と上海だけを見て「中国は素晴らしい」と言うのに似ている。
http://www.thutmosev.com/archives/72772616.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/750.html#c5

[近代史4] どうしても戦争だけはやりたくなかったドナルド・トランプ大統領 中川隆
11. 中川隆[-10047] koaQ7Jey 2020年11月09日 17:23:32 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[25]
トランプ大統領の再選が今から可能な理由とは? 不正票は“透かし”で一発で見分けられる、暗殺、ディープステートとの対決…
2020.11.09
https://tocana.jp/2020/11/post_182551_entry.html


──ついにバイデンに当確が出ました!

ジェームズ 先ほど私のところにトランプ政権関係者から連絡がありまして、トランプ大統領の再選の可能性はまだあるということでした。理由は7日現在、州がどこもバイデン当確を宣言しておらず、主要メディアのみの宣言となっているためです。また、トランプ関係者からの話では、本物の投票用紙に透かしを加えていたそうで、フェイク票は一発でわかるようです。これが認められれば最高裁で勝てると思います。ただし、状況は緊迫しています。

──メディアがバイデン勝利のムードを凄く作ってますよね。Twitterにしても、トランプが「私は勝っている。投票所で悪いことが行われた」とツイートをしたら、「この不正選挙の主張は論争になっています」というメッセージが出て、クリックすると「不正選挙など滅多に起こらない」という記事が出てくるようにしています。バイデンが勝った感をすごく醸し出そうとしています。


ジェームズ Twitterなんかは、トランプはもう潰れた、と思っているので、やりたい放題なんでしょう。民主党にしてもトランプ派粛清組織をもう立ち上げています。この民主党の動きと呼応して、エスパー国防長官が辞職の手紙を書いています。


──エスパーって前から反トランプでしたよね。

ジェームズ トランプとの対立は以前から関係者の間では常識でした。しかし、彼は“Yes”perとあだ名されるほど完全なイエスマンでしたから、かろうじてトランプ政権にいられました。しかし、今回の急な辞任の話は自らメディアにリークしたもので、保身のためです。

 前国防長官のジェームズ・マティスもそうですが、元国防長官に用意されているのは年収数十億円クラスの天下り先です。マティスもトランプの命令を拒み、ケンカ別れしましたが、今ではディープステートの英雄で、天下りはもちろん、トランプの暴露本も書いて、ぼろ儲けしています。彼らが裏切る理由は軍産複合体が大金で釣るからです。ただし、エスパーもマティスももともと反トランプですから現時点では大した影響はありません。

──しかし、今後が懸念されますよね。ともかく、バイデン当確の報のインパクトがメディアによってありえないほど増幅されています。

ジェームズ これからが戦いです。なにしろ相手は、世界を操るグローバリストですから。

 そもそもバイデン及び民主党の勝利にしても、数年前から画策されていたことです。オランダ系、ヨーロッパ系、米国系グローバリストが、ビルダバーグ会議、外交評議会、三極委員会等で、これからは中国に世界覇権の譲渡をすることで合意しています。ですから、今回のバイデン当確はまさに世界エリートの思惑が反映された結果です。グローバリストが勝つかアメリカ憲法が勝つか、ですね。

──ということは、アメリカはグローバリストに捨てられた、とも言えるんですか?

ジェームズ そうです。アメリカがグローバリストの覇権転がしで重宝されるようになったのは、19世紀後半です。特にロックフェラー等が活躍した時以来で、セオドア・ルーズベルトはオランダ系隠れユダヤ人で、アメリカの海洋覇権を拡大しています。ウッドロー・ウィルソンは南部出身のイギリス系で、連邦準備銀行を創設し、第一次世界大戦参戦も決めています。国際連盟の設立を提唱したのもウィルソンです。彼は完全に、ユダヤ系国際金融資本家の手先となって動いています。ですから、この時代にアメリカ政治はガラッとグローバリスト側に様変わりしました。

 それまでのアメリカは、アメリカ第一主義とグローバリズムとの暗闘が続いていたんです。そもそもアメリカの独立戦争は米国第一主義の独立13州とグローバリストの大英帝国との戦いだったわけですから。ただし、グローバリストに反対した米国第一主義の大統領はほぼ全員、暗殺か暗殺未遂になっています。有名なのはアンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂、リンカーンの暗殺です。

──トランプ暗殺の可能性が増してきているんですね。

ジェームズ 高まってきましたね。もちろん、トランプもそれは承知していますので、警戒は怠っていないと思います。ちなみにバイデン当確が出た11月7日はロシア革命(10月革命)の日です。これも偶然ではないような気がします。

──共産ユダヤ系が裏で動いていると。

ジェームズ そうですね。また、日本にとっても、トランプのほうがいいはずです。トランプ政権の対日政策は米軍撤退ですが、強い日本を求めてもいます。一方、バイデン政権は日本など頭にもないです。実際、私が親しくしているバイデン関係者の情報によると、バイデン陣営の日本専門家はほぼ全員朝鮮系米国人です。実際にバイデン陣営内では慰安婦問題をどうするか等のレベルの話しかしていないそうです。つまり、バイデンは反日政権です。そこをもっとしっかり考えて日本のマスコミは報道しないと売国の片棒を担ぐことになります。すでにほとんどが売国メディアではありますが、それでも考え直すことはできるはずですよ。

文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1152.html#c11

[近代史5] バイデン「フェイク票」上乗せの卑劣な手口と真犯人判明! 「死者の不在者投票」も… トランプ“戒厳令”発動で米内戦勃発へ!! 中川隆
9. 中川隆[-10046] koaQ7Jey 2020年11月09日 17:24:07 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[26]
トランプ大統領の再選が今から可能な理由とは? 不正票は“透かし”で一発で見分けられる、暗殺、ディープステートとの対決…
2020.11.09
https://tocana.jp/2020/11/post_182551_entry.html


──ついにバイデンに当確が出ました!

ジェームズ 先ほど私のところにトランプ政権関係者から連絡がありまして、トランプ大統領の再選の可能性はまだあるということでした。理由は7日現在、州がどこもバイデン当確を宣言しておらず、主要メディアのみの宣言となっているためです。また、トランプ関係者からの話では、本物の投票用紙に透かしを加えていたそうで、フェイク票は一発でわかるようです。これが認められれば最高裁で勝てると思います。ただし、状況は緊迫しています。

──メディアがバイデン勝利のムードを凄く作ってますよね。Twitterにしても、トランプが「私は勝っている。投票所で悪いことが行われた」とツイートをしたら、「この不正選挙の主張は論争になっています」というメッセージが出て、クリックすると「不正選挙など滅多に起こらない」という記事が出てくるようにしています。バイデンが勝った感をすごく醸し出そうとしています。


ジェームズ Twitterなんかは、トランプはもう潰れた、と思っているので、やりたい放題なんでしょう。民主党にしてもトランプ派粛清組織をもう立ち上げています。この民主党の動きと呼応して、エスパー国防長官が辞職の手紙を書いています。


──エスパーって前から反トランプでしたよね。

ジェームズ トランプとの対立は以前から関係者の間では常識でした。しかし、彼は“Yes”perとあだ名されるほど完全なイエスマンでしたから、かろうじてトランプ政権にいられました。しかし、今回の急な辞任の話は自らメディアにリークしたもので、保身のためです。

 前国防長官のジェームズ・マティスもそうですが、元国防長官に用意されているのは年収数十億円クラスの天下り先です。マティスもトランプの命令を拒み、ケンカ別れしましたが、今ではディープステートの英雄で、天下りはもちろん、トランプの暴露本も書いて、ぼろ儲けしています。彼らが裏切る理由は軍産複合体が大金で釣るからです。ただし、エスパーもマティスももともと反トランプですから現時点では大した影響はありません。

──しかし、今後が懸念されますよね。ともかく、バイデン当確の報のインパクトがメディアによってありえないほど増幅されています。

ジェームズ これからが戦いです。なにしろ相手は、世界を操るグローバリストですから。

 そもそもバイデン及び民主党の勝利にしても、数年前から画策されていたことです。オランダ系、ヨーロッパ系、米国系グローバリストが、ビルダバーグ会議、外交評議会、三極委員会等で、これからは中国に世界覇権の譲渡をすることで合意しています。ですから、今回のバイデン当確はまさに世界エリートの思惑が反映された結果です。グローバリストが勝つかアメリカ憲法が勝つか、ですね。

──ということは、アメリカはグローバリストに捨てられた、とも言えるんですか?

ジェームズ そうです。アメリカがグローバリストの覇権転がしで重宝されるようになったのは、19世紀後半です。特にロックフェラー等が活躍した時以来で、セオドア・ルーズベルトはオランダ系隠れユダヤ人で、アメリカの海洋覇権を拡大しています。ウッドロー・ウィルソンは南部出身のイギリス系で、連邦準備銀行を創設し、第一次世界大戦参戦も決めています。国際連盟の設立を提唱したのもウィルソンです。彼は完全に、ユダヤ系国際金融資本家の手先となって動いています。ですから、この時代にアメリカ政治はガラッとグローバリスト側に様変わりしました。

 それまでのアメリカは、アメリカ第一主義とグローバリズムとの暗闘が続いていたんです。そもそもアメリカの独立戦争は米国第一主義の独立13州とグローバリストの大英帝国との戦いだったわけですから。ただし、グローバリストに反対した米国第一主義の大統領はほぼ全員、暗殺か暗殺未遂になっています。有名なのはアンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂、リンカーンの暗殺です。

──トランプ暗殺の可能性が増してきているんですね。

ジェームズ 高まってきましたね。もちろん、トランプもそれは承知していますので、警戒は怠っていないと思います。ちなみにバイデン当確が出た11月7日はロシア革命(10月革命)の日です。これも偶然ではないような気がします。

──共産ユダヤ系が裏で動いていると。

ジェームズ そうですね。また、日本にとっても、トランプのほうがいいはずです。トランプ政権の対日政策は米軍撤退ですが、強い日本を求めてもいます。一方、バイデン政権は日本など頭にもないです。実際、私が親しくしているバイデン関係者の情報によると、バイデン陣営の日本専門家はほぼ全員朝鮮系米国人です。実際にバイデン陣営内では慰安婦問題をどうするか等のレベルの話しかしていないそうです。つまり、バイデンは反日政権です。そこをもっとしっかり考えて日本のマスコミは報道しないと売国の片棒を担ぐことになります。すでにほとんどが売国メディアではありますが、それでも考え直すことはできるはずですよ。

文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/359.html#c9

[リバイバル3] 是枝アンプ 中川隆
30. 中川隆[-10045] koaQ7Jey 2020年11月09日 17:50:07 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[27]
H氏邸の水平線の向こう側は : GRFのある部屋 2020年 11月 08日
https://tannoy.exblog.jp/31878457/


前回、H氏邸で新たな水平線を見た私は、Hさんご自身が是枝さんの三つのパワーアンプを使いこなして三次元のステージを再現している音を三週間ぶりに聴きに行きました。インターからの道を走ると、空は高く、近くの桜の木も葉を落とし、季節がどんどんと過ぎて行く様子が感じられます。11月の空気は乾燥して音もどんどんと良くなっていくからです。今日は朝九時には家をでたので、10時を回った頃には付いたのですが、大山さんはもう着かれていました。

どのように使いこなしているのか、早速拝見しました。前回は新しいアンプを足したので、配線も混雑していましたが、今回は、きれいに整頓されていました。前のTroubadour80とPSD/TW3は以前からの6336Bアンプで鳴らされていました。


回路も、部品も私が使っている6336Bのプッシュプルアンプなのですが、違いは、ステンレスシャーシーではなく、ハンマートンで塗装されたシャーシーです。ところがこのアンプの音が良いのです。特に柔らかな高域が魅力的です。私のアンプも一組このシャーシーで作り直していただきたいと思っています。出力トランスではなく、電源トランスが赤く塗られています。グレーと黄色と赤の三色の同じアンプを使っていますが、塗ってある色で音が微妙に変わります。色も周波数ですから、当然共鳴する周波数が変わると音は違いますね。

そして後方の46センチアイソバリック型のウーファーをならすのが、KT-150 p.p.アンプです。圧倒的な駆動力で、46センチの大口径ウーファーをならしています。ほとんどウーファーは動きませんが、無くすと音は変わります。そして後方のTroubadour80をならしているのが、この19インチラックに入った電源にも6336Bを使った同じ6336Bのp.p.アンプです。


後方のセットはマルチアンプで鳴っているのです。全部で三つのパワーアンプですから、さすがにうなってしまいます。そして、それを駆動するのが、パワーアンプ用の出力端子を5セットも装備している、是枝さんのプリアンプLLAAの特別仕様です。全体を是枝さんのアンプでまとめたHさんならではの豪華な組み合わせですね。


このプリアンプが入って、Hさんの音がまとまりを見せ、いよいよコンサートホールの大空間が現れたのです。先日、若い音楽家が来られて、いろいろな装置を聴かれたそうですが、最後に聞いたこの装置では、一体どこにSPがあるのですかと聞いてきたそうです。コンサートホールの大空間がなっているのに、スピーカーらしき黒い塔が4本でているのだけれど、そのどこからも音が出ていない、ただコンサートホールでの音楽が出現しているととても不思議がったそうです。そのお話を語ってくれたHさんのお顔が輝いていました。

今日は、全体のバランスが合っているかを聞いてほしいという要請でした。でも、みごとな空間、奥行き、音が上に登っていきます。オーケストラも、ドイツリートも、ヴァイオリンソナタでの、ヴァイオリンとピアノのバランス。カンターテドミノの教会の奥行きのある大空間、そこに響いているオルガンと、コーラスの奥行きの差、そして、お好きなポール・デスモントの品のあるアルトサックス、そしてドラムやピアノの実態感、何よりも聴衆の話し声や食器の音、さっきまでコンサートホールの大空間だったところが、ナイトクラブになっているその驚き。


リヒテル・シュライアーの冬の旅の音は、会場の温度感まで感じられます。如何にリヒテルのピアノが素晴らしいか、ドレスデンのシュターツオーパーのホールに音が消えていく様は、とてもオーディオ装置が奏でている音ではないと感じました。


最近、映画ばかり追求している私に、衝撃を与えてくれる音になっていました。Hさんは、SPの位置調整もアンプの置き方も、バランスの取り方も完璧でした。これはうかうかしていられないと、冷や汗が流れたほどです。前回、Hさん邸での調整が念入りに行われたプリアンプの精緻な音に驚き、岡山の是枝さんのところまで運んだプリアンプと、先日映画の調整中にプリの電源が抜けて、具合をわるくしたアンプが、戻ってきたら私も後方のSPをTroubadour40から80に換えて、低域用の先日来実験している一回り大きなTW5をいよいよ添えないと、Hさんに大きく水を開けられてしまいます。家と同じ部屋で、同じ装置を使い、同じように調整されているので、こちらが少し気を抜くとすぐに追い越されてしまいます。

家と同じ音が、同じように作られているとは言え、よその家で家よりもいい音にならされては、師匠の立場がなくなります。同じ音が再現されなくては普遍的にはならないとは言え、本家よりいい音を出されてしまったら、のんびりしていられませんね。

お昼に何時もの名物のうどんをごちそうになって、急ぎ戻ってきました。帰りの車の中も音をどうするかであたまの中がいっぱいになってきました。でも、こういう瞬間が好きだからオーディオはやめられないのです。12月のGermanの会で、Hさん宅ツアーを呼びかけます。お聴きになりたい方はお声をおかけください。驚くと思いますよ。
https://tannoy.exblog.jp/31878457/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1090.html#c30

[近代史3] 東海アマ 霊界への扉

霊界への扉 2020年11月09日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1305.html


 東日本大震災で、東北太平洋岸のタクシー運転手たちは、たくさんの幽霊との接点を持った。不可思議な死者との接点を民話として調べて回った工藤優花さんという若い女性がいて、タクシー運転手の実体験を卒論にまとめて公開している。

 私は、彼女を民俗学研究者として深く尊敬している。民俗学を霊界にまで連れていってくれる価値ある仕事だ。
 今回は、ネット上から、当時の霊体験の文献を集めてみた。

 石巻のタクシー運転手は、なぜ幽霊を見たのか? 工藤優花さんが語る被災地の「グレーゾーン」
 https://www.huffingtonpost.jp/2016/03/07/yuka-kudo_n_9398868.html

 東日本大震災から3カ月ほどたった、ある深夜の出来事だった。タクシー運転手の男性がJR石巻駅(宮城県石巻市)の近くで客を待っていると、もう初夏だというのに、真冬のようなふかふかのコートを着た30代くらいの女性が乗車した。

 目的地を聞くと「南浜まで」と一言。震災の津波で、壊滅的な被害を受けた地区だった。運転手は不審に思って「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?」と聞いた。
 すると女性は震える声で答えた。「私は死んだのですか?」。運転手が慌てて後部座席を確認すると、そこには誰も座っていなかった。

 これは怪談ではない。1月末に発売された「呼び覚まされる霊性の震災学」(新曜社)に収録された女子大生の卒論に書いてある内容だ。東北学院大学教養学部4年生の工藤優花(くどう・ゆか)さん(22)は、震災の死者数が約3500人と最多となった宮城県石巻市の人々に「幽霊を見た経験がないか?」と聞いて回る実地調査をした。

****************************************************************

 「私は死んだのですか?」東北被災地で幽霊が出現した意味
生者と死霊の遭遇が意味すること
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54664

宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが霊と遭遇したという事例は、社会学を学ぶ大学院生の調査としても話題になった。

石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏であるにもかかわらずファーのついたコートを着ていた。目的地を聞くと、大津波で更地になった集落だった。

「コートは厚くないか?」とたずねたところ、「私は死んだのですか」と答えるのでミラーを見ると、後部座席にはだれも坐っていなかった……。

夏の深夜、小学生くらいの女の子がコート、帽子、マフラー、ブーツなどの厚着をして立っていた。「お母さんとお父さんは?」とたずねると「ひとりぼっち」と答えた。

女の子の家があるという場所の近くまで乗せていくと、感謝をあらわし降りたと思ったら、その瞬間に姿を消した……。

私自身、被災地になんども足を運んでいるが、霊体験を聞いたことはない。またなにかしらの怪異な出来事に遭遇した経験もない。
*******************************************************************

 「霊体験」に隠された被災地の病理〜ただの不思議体験ではない
ルポ・東日本大震災から6年
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51144

「被災地で、炊き出しのためのオニギリづくりが行われていた。その中で、地元に暮らす女性が、Fさんと楽しく話をしながらオニギリをにぎっていた。トイレへ行ってもどってきたところ、Fさんがいなくなっていた。
どうしたのかな、と思って別の人に尋ねたところ、『いるわけないよ。だってFさんは津波で流されたんだから』と言われた」

「Gさんという女性が津波で流された。何日しても遺体は見つからなかった。恋人だったH君も捜索に加わって、なんとか彼女の携帯電話だけは見つけることができた。
H君はその携帯電話を形見として手元に保管していた。

ある日、彼は何気なく携帯電話を耳に当ててみた。すると、電話の向こうから、Gさんの声が聞こえてきた。『私のこと毎日思ってくれてありがとう』。
天国からGさんがメッセージをくれたのだと思った」

「I君は、お父さんとおじいさんを震災で亡くした。お父さんの遺体は見つかったが、おじいさんは行方不明だった。
春に葬儀を終えた後、1匹の野良猫が家にやってきた。餌をやっていると、野良猫は庭にいついた。かわいいな、と思っていた。

ある夜、その猫がI君を呼ぶように手招きをする。ついていったところ、おじいさんがよく着ていた服が一枚だけ落ちていた。I君は喜んで、その服を骨の代わりに骨壷に納めて供養してあげた。その猫はその日以降姿を見せなくなった」
************************************************************

  大宅賞作家が記録した3・11後の「霊体験」
 https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20170809-OYT8T50014/

  宮城県石巻市の遠藤由理さん(42=年齢は取材時)は、津波で3歳9か月の長男・康生こうせいちゃんを失った。
 康生ちゃんは目がクリクリとした、とても愛らしい子どもだった。震災から約1か月後、遺体は見つかった。震災後、遠藤さん一家は「みなし仮設住宅」に住んでいたが、不思議な体験をしたのは、震災から2年たった頃。
 「康ちゃん、どうしてるんだろ。会いたいなあ」という思いが頂点に達したときだったという。

 「二〇一三年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、
『康ちゃん、こっちで食べようね』
 そう声をかけて『いただきます』と言った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

 (中略)

『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて』
 心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ。

 『康ちゃん、ありがとう』
 こんな近い距離で私たちを見てるんだ。そう思ったとき、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね。そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです」

(「『ママ、笑って』――おもちゃを動かす三歳児」から)
********************************************************************

 【私の経験談】震災後に多発した心霊現象
 https://note.com/beitogabaito/n/n8fdb88eb2e39

 実話系・怖い話「東日本大震災の体験」
 https://xn--u9jv84l7ea468b.com/kaidan/133wa.html

  携帯に届いたメール『ありがとう』――被災地での「霊体験」を初告白。遺族たちはこうして絶望から救われた
 https://www.dailyshincho.jp/article/2017/03101830/?all=1

 遺族が経験した「3.11後の霊体験」とは何か
亡くなった時間に、お別れのあいさつに
 https://toyokeizai.net/articles/-/160974

********************************************************************

 まだまだ、たくさんあるのだが、今回は、この程度にしておこう。
 実は、東日本大震災後、私も何回か霊体験をした。これは何度がブログに書いているが、2012年、札幌の講演会に講師として招かれて、エブリという自分の車で向かった。これは車泊できるので、宿泊代を節約できると思ったからだ。

 その後、網走に走り、開設されたばかりの「網走監獄博物館」に入った。ここで、たくさんの写真を撮影しようと思ったのだが、突然シャッターが押せなくなったり、撮影したはずの写真が、すべて白いカーテンのようなものが写っているだけで、完全にカメラが壊れたと思ったのだが、帰路、再び写すと正常に戻っていた。
 網走監獄の教誨礼拝室と処刑台を一生懸命、観察したのがまずかったかなと思った。

 それから大間を経由して、45号線を南下したのだが、久慈から田老に出て、立ち小便して車に戻ると、車内が、猛烈に魚とたばこ臭い。
 もちろん私は非喫煙者だ。釜石まで来て、また立ち小便に出ると、今度は臭いが消えていた。
 私は、「津波で亡くなった漁師さんが乗り込んで、釜石で降りたのだ」と思った。

 今回、このブログを書こうと思った理由も、千葉の友人から、「部屋にオーブが出現した」と数回、電話がかかってきたからだ。
 オーブとは、どのようなものか? 知人の故、生島秋雄さんからいただいたCDをYouTubeに投稿してあるので紹介する。(コントラストが薄く見えにくくなっている)
 https://www.youtube.com/watch?v=wWEklIVIqcA&ab_channel=%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%8B%E3%81%84

 私は、若い頃から霊感が強い方で、撮影した写真にオーブが写り込むのも珍しくなかった。紹介しようと思ったが、古いパソコンが動いてくれない。
 田辺鶴英と一緒に仕事していた当時は、ずいぶん、たくさん写ったものだ。
 大本教、亀山城址に行ったときは、まるで星空のようなオーブ写真が撮れた。それ以来、なぜか大本教信者との縁がたくさんできたのが不思議だった。

 だが、なぜか数年前から、オーブと無縁になり、写真にも写らなくなった。神社を参拝しても、まったく写らない。霊感体質が変わったのかもしれない。
 実は、冒頭に紹介した霊体験については、古い民話にも、似たような故事がたくさん記録されている。以下の百物語は、リアリティのある霊民話が並んでいて、私には、どれも、本当の体験に見えるのだ。

 http://hukumusume.com/douwa/pc/100monogatari/002.htm

  むかしむかし、ある村に、一軒のアメ屋がありました。
 ある年の夏の事、夜も遅くなったので、アメ屋さんがそろそろ店を閉めようかと思っていると、
 トントントントン
と、戸を叩く音がしました。

「はて、こんな遅くに誰だろう?」
と、アメ屋さんが戸を開けてみますと、一人の女の人が立っていました。
「あの、アメをくださいな」
「あっ、はい。少々お待ちを」
 アメ屋さんは、女の人が持ってきたうつわに、つぼから水アメをすくって入れました。
「へい。一文(いちもん→30円ほど)いただきます」
「ありがとう」
 女の人はお金を払うと、消えるように行ってしまいました。

 その次の日。
 今日もアメ屋さんが戸締まりをしようと思っていると、また戸を叩く音がします。
「あの、アメをくださいな」
 やはり、あの女の人でした。
 女の人は昨日と同じようにアメを買うと、スーッと、どこかへ帰って行きます。
 それから毎晩、女の人は夜ふけになるとアメを買いに来ました。
 次の日も、その次の日も、決まって夜ふけに現れては、アメを買って行くのです。

 さて、ある雨の夜。
 この日は隣村のアメ屋さんが訪ねて来て、色々と話し込んでいたのですが。
「あの、アメをくださいな」
と、いつものように現れた女の人を見て、隣村のアメ屋さんはガタガタ震え出したのです。
「あ、あ、あの女は、ひと月ほど前に死んだ、松吉(まつきち)のかかあにちげえねえ」
「えっ!」
 二人は、顔を見合わせました。
 死んだはずの女の人が、夜な夜なアメを買いに来るはずはありません。
 しかし隣村のアメ屋は、間違いないと言います。
 そこで二人は、女の後をつけてみることにしました。

 アメを買った女の人は林を抜け、隣村へと歩いていきます。
 その場所は、
「はっ、墓だ!」
 女の人は墓場の中に入っていくと、スーッと煙のように消えてしまったのです。
「お、お化けだー!」
 二人はお寺に駆け込むと、和尚(おしょう)さんにこれまでの事を話しました。
 しかし和尚さんは、
「そんな馬鹿な事があるものか。きっと、何かの見間違いじゃろう」
と、言いましたが、二人があまりにも真剣なので、仕方なく二人と一緒に墓場へ行ってみる事にしました。

 すると、
 オンギャー、オンギャー
と、 かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。
 声のする方へ行ってみると、
「あっ、人間の赤ん坊じゃないか! どうしてこんなところに?!」
 和尚さんがちょうちんの明かりをてらしてみると、そばに手紙がそえられています。
 それによると、赤ん坊は捨て子でした。

「手紙によると、捨てられたのは数日前。それから何日もたつのに、どうして生きられたんじゃ?」
 ふと見ると、あの女の人が毎晩アメを買っていったうつわが、赤ん坊の横に転がっていたのです。

 そして、赤ん坊が捨てられたそばの墓を見ると。
「おお、これはこの前に死んだ、松吉の女房の墓じゃ!」
 何と幽霊が、人間の子どもを育てていたのです。
「なるほど、それでアメを買いに来たんだな。それも自分の村では顔を知られているので、わざわざ隣村まで」

 きっと、自分の墓のそばに捨てられた赤ん坊を、見るに見かねたにちがいありません。
 和尚さんは心を打たれて、松吉の女房の墓に手を合わせました。
「やさしい仏さまじゃ。この子は、わしが育てるに、安心してくだされよ」
 こうしてお墓に捨てられた赤ん坊は、和尚さんにひきとられました。
 それからあの女の人がアメ屋さんに現れる事は、もう二度となかったそうです。
 ******************************************************************

 小泉八雲の霊体験物語は、どれもリアリティがあって、実話を土台にしていることがよく分かる。
 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person258.html

 うちの近所にも、いわゆる心霊スポットがたくさんあって、とりわけ恵那峡大橋では、遺体が大井ダムに上がった翌日、紅岩山荘に行ったら、全身金縛りに遭って怖い思いをした。
 また恵那峡源済橋でも怖い思いをした話を聞く。

 これらは、我々の世界の、あちらこちらに霊界との接点があり、扉が開いていることを意味していると思う。
 誰だったかは忘れたが、今年の11月を過ぎたら、霊界と現実界の距離が近づいてきて、霊的感受性の強い人は、霊界との障壁が薄くなって、両者の交流が深まると言っている人がいたと思う。

 今回、私はトランプが相当に汚い手(モサドという諜報機関の力を借りて)で大統領選に勝利すると思っていたが、どうも結果はバイデンになったようだ。
 これも、時代が本質的に変化していることの反映かもしれない。
 ただし、バイデンは、中国共産党と関係があって、今後、予断を許さない。むしろ、カマラ・ハリスの時代が来るのかも知れない。

 なお、大紀元や新唐人が、民主党に対して激しく誹謗中傷し、露骨にトランプを擁護しているのを見て、吐き気を催すような嫌悪感を抱いた。これでは、彼らが宣伝してきた法輪功弾圧の真偽まで疑問になってしまう。
 いったい、どうして彼らは、極右暴走を始めたのだろう?

 何か、時代の背後で、理解できないほどの変化が起きているような気がする。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1305.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1034.html

[リバイバル3] 日本のカレーライスはインド料理ではなく純然たる日本料理 中川隆
9. 中川隆[-10044] koaQ7Jey 2020年11月09日 20:13:27 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[29]
雪日記
スパイスカレーを自家製ナンでいただく。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3878.html


市販のルウやカレー粉に頼らない本格的なカレーを作ってみましたが、
本格的なカレーならやっぱりナンも食べたいよね。

ならば、作ってみよう。

こねる作業と熟成は機械にお任せします。

全粒粉を使用したので、ちょっと茶色っぽい生地が完成。

打ち粉を敷いて手でもコネコネして少し休ませます。

焼きやすい大きさに切り分けてナンっぽく成形していきます。

フライパンで焼いていきます。
窯で焼けば本格的になるのでしょうけど、ここはマンションなので…。

フライパンでもいい感じに焼けてきました。

自家製ナンのオリジナルカレー完成!!

さいこ〜!!

全粒粉を使用したので食べ応えがあります。
ふっくらもちもちのナンなら普通に強力粉と薄力粉で作った方がいいかも。
でもこれはこれでアリです。

こねる作業は機械任せなので完全に手作りではありませんが、
初めて作ったナン、美味しくて簡単でした。
ホームベーカリーって便利だね。

http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3878.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/998.html#c9

[番外地8] フィッシャーの交換方程式 MV=PQ 中川隆
20. 中川隆[-10043] koaQ7Jey 2020年11月09日 20:27:16 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[30]
また悪質なデマ流してる。 貨幣数量説に出て来るお金は銀行以外の民間に流通しているマネーストックだよ。
銀行が持って居る日銀当座預金は貨幣数量説の流通するお金には含まれないよ:
国債を発行すると、その金利でマネーストックが増え、増えた金が海外投資されるだけで、労働者の実質賃金は下がり続ける。円は現在も着々と紙屑化している。
この30年間汗水たらして働いた人の給料は実質1円も増えず資産は減り、一切働かず国債の金利収入だけを得た人の資産は倍増しました。経済学者によると現代は中世暗黒時代以上に貧富の差が大きく、人類史上最大の格差が生まれようとしている。

国債を大量発行すると、こういうメカニズムで労働者の実質賃金が下がる:


フィッシャーの交換方程式 MV=PQ

ここで

M はある期間中の任意の時点tにおける流通貨幣(通貨)の総量 (価値保蔵手段としての貨幣は含めない)
V は貨幣の"流通速度"(特定期間内に人々のあいだで受け渡しされる回数:貨幣の回転率のようなもの)売買契約の約定回数
P はある期間中の任意の時点tにおける物価水準(通常は基準年度を1としたデフレータ)
Q は"取引量" (特定期間内に人々のあいだで行われる取引量(quantity)の合計)

である。

交換方程式は取引経済の実態そのものの数式化であり、かならず両辺が一致する。

フィッシャーの交換方程式 MV=PQ は
販売価格総額=購買価格総額
という恒等式だから誰も否定できない。
フィッシャーの交換方程式は取引経済の実態そのものの数式化であり、かならず両辺が一致する。
新古典派経済学の考え方によると、労働供給が飽和する水準で実質GDPは均衡するので(セイの法則)、実質GDPは貨幣量や物価とは関係なく決定される。そこで貨幣量Mが一意的に物価水準Pを決めることになる。
フィッシャーのMが増加すればPも増加するという説明は、昔からある貨幣の中立性を数学的に洗練して叙述したものである。

古典派経済学の貨幣の中立説は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。古典派経済学の中心的な命題のひとつであり、中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。
貨幣数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。
フィッシャーは、貨幣の流通速度:Vと1期間における財・サービスの取引量:Qは慣習的に(大きな)変動はないとみなした(実際はVを観測するのは非常に難しく、観測はほぼ不可能である)。だとすると、MV=PQの左辺のV、右辺のQが大きく変動しないのであるから、自明なこととして、この方程式においてMとPは常に比例することになる。そうであるならば、M(貨幣量)を増やせば、P(物価)も上昇することになる。あるいは、M(貨幣量)を減らせば、P(物価)も低下するであろう。そうだとすれば、政策論的に言えば、例えばある経済の物価を上昇させたいのであれば、貨幣量を増やせば物価が上昇させることができるとこの方程式から言えるだろう。あるいは、もし物価が下がっているならば、それは貨幣量が足りないからだということができるだろう。これが古典派の貨幣数量説の基本的な考え方である。

ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリストは、Q/Vの構造に長期的な安定傾向を見いだし、短期的には貨幣の中立性が満たされないことはあるが、長期的には満たされるとする。このため貨幣量が増加すると一時的に実質GDPまで拡大することはありうるが、長期的には実質GDPは完全雇用できまる水準に低下し、物価Pの上昇をもたらすだけだと考える。Q/Vは一回あたりの発注ロット数の平均値をあらわすが、フリードマンは経済の期待成長力や期待収益率の多寡によって、1回あたりの受発注量が増減することは短期的に観察できる事実であるが、長期の統計においては安定した関係にあると実証した(この功績でノーベル賞を受賞)。

長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致している。
__

フィッシャーの交換方程式 MV=PQ を国内と海外で別にすれば正確に現状に当てはまっているよ
日銀が発行したマネーストックのかなりはドルに変えられて海外で流通している

だから超円安になって、スイスの最低賃金は時給4500円、昼食代1万円 になったのさ。

国内金融に対するフィッシャーの交換方程式 MV=PQ
M : 貨幣量 = マネーストックの内、実際に国内市場で流通している金額、ドルに変えられて海外で運用されている金額は含まない
V : 貨幣の国内での取引流通速度
P : 国内物価(基準年度を1とした GDPデフレータ)
Q:1期間における財・サービスの取引量 ≒ 実質GDP
PQ ≒ 名目GDP


ドルを商品、ドル価格を物価P、日銀異次元緩和で増えた円の総額を貨幣量Mとすると

海外金融に対するフィッシャーの交換方程式 MV=PQ
M : 貨幣量 (価値保蔵手段としての貨幣は含めない)V : 貨幣の取引流通速度
P : 物価(基準年度を1としたデフレータ)
Q : 1期間における財・サービスの取引量

が成立して、何故ドルが円ベースで高くなったか説明できる

国内で流通するマネーストックは異次元金融緩和以前と変わらないから国内物価も上がっていない
すべて フィッシャーの交換方程式 MV=PQ で説明できるよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/462.html#c20

[番外地8] 林千勝さんの話はすべて妄想です。 そもそも近衛文麿は反戦派で何とかして戦争を止めようとしていたんですね 中川隆
3. 中川隆[-10042] koaQ7Jey 2020年11月09日 20:36:53 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[31]
天皇のための戦争
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

昭和天皇が自身の秘密や財産を守るための戦争をした。完全に天皇が指揮していた。おまけに米国、スターリンそして西洋銀行家とも天皇が内通.
御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作りそこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ
それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけですだから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです
東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです他の連中もそういうシステムで戦争が進んでいく訳です

戦争はすべて八百長(00:38:51)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)


▲△▽▼

東京裁判で東条英機は作戦はすべて昭和天皇一人で決めたと証言しています。

そして昭和天皇の戦争責任を証言しようとした近衛文麿の運命は
牛場友彦と松本重治が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。

占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。

前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

鬼塚 英昭の著書
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E9%AC%BC%E5%A1%9A+%E8%8B%B1%E6%98%AD

▲△▽▼

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/521.html#c3

[番外地8] 新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺症を生じている
新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺症を生じているというのです。特に肺に起こった線維化は間質性肺炎の形でほぼ生涯に渡って残り、日常生活に大きな支障を生じうるというのです。これでは社会復帰も困難になります。

▲△▽▼
 
実は、私は間質性肺炎に罹患していて、その恐怖を身をもって体験している。

 間質性肺炎は、致死率100%の病気である。

 ただし、死ぬまで平均で5〜7年程度、ときには10年近く生きる人もいる。

 この病気は進行性で、一度、罹患すると、じわじわと呼吸機能が低下して、5年程度で死亡するのが普通である。

 原因としては、一種の自己免疫障害で膠原病などに近い。私のように、肝臓や腎臓に繊維化の基礎疾患があると、肺にも連鎖してコラーゲン繊維化が起きやすくなる。

 コロナ肺炎も、どうやら同じようなメカニズムなので、ステロイド(オルベスコ吸入薬)に効果が認められる。

 ということは、この病気も、肺間質細胞の繊維化をもたらしていることを意味している。

 つまり、新型コロナウイルス肺炎は、仮に治癒しても完治は望めず、じわじわと進行して最後には命を奪う、致死率100%の極めて深刻な病気ということになる。

 今、コロナ肺炎を治療して退院した人も、数年後に死亡することを意味している。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1083.html


特発性間質性肺炎 

肺は肺胞というブドウの房状の小さな袋がたくさん集まってできています。間質性肺炎は、肺胞の壁に炎症や損傷が起こり、壁が厚く硬くなるため(線維化)、酸素を取り込みにくくなる病気です。間質性肺炎の原因は様々ですが、原因不明のものを特発性間質性肺炎(IIPs)と総称します。


【予後】

 IPFは一般的には徐々に肺の線維化が進行していく病気で、平均生存期間は欧米の報告では診断確定から28〜52ヶ月、わが国の報告では初診時から61〜69ヶ月とされていますが、病状の経過は患者さんによって様々です。特発性非特異性間質性肺炎や特発性器質化肺炎は一般に治療がよく効きますが、中には徐々に悪化していく場合もあります。
https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=20

▲△▽▼

コロナは空気感染するエイズだというのが確定しました。新型コロナは、感染・発症したが最後、永遠に完治はしない!

肺や心臓や脳に重い後遺症が残って死ぬまで苦しむ!!!!!!!!:
新型コロナと HIV は「ほぼ完全な兄弟」であることが判明。双方のウイルスが「人間の免疫細胞を破壊するメカニズム」において同じであることが見出される
https://indeep.jp/coronavirus-uses-same-strategy-hiv-to-attack-immune-response/

「Covid-19 は HIV」:米ペンシルバニア大学の研究で新型コロナウイルスが人間の重要な免疫細胞を「エイズ同様に消滅させている」と結論付けられる
https://indeep.jp/how-novel-coronavirus-destruct-humsn-immune-system/

[衝撃] 新型コロナウイルスは「人間の免疫機能の中心であるT細胞を攻撃」し、免疫系を完全に破壊する「HIV / エイズウイルスと同じ特徴を持っている」ことが米中の研究者により確認される
https://indeep.jp/novel-coronavirus-is-determined-to-be-the-same-as-hiv-virus/

▲△▽▼

新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過
 
若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/622.html

[番外地8] 日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
「英国の戦略から見た米中戦争」
 アメリカと中国は経済的に「ズブズブ」の関係にあり、軍事的な緊張が高まることはないと主張する人がいましたが、そうした見通しは崩れています。

 1991年12月にソ連が消滅したことでアメリカの支配層は世界制覇はほぼ達成したと考え、ウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づく詰めの戦争を始めました。

 ところが21世紀に入ってロシアが曲がりなりにも再独立、2014年のウクライナでのクーデターや香港での反政府運動をアメリカが仕掛けたことを見て中国も警戒しはじめています。

 香港は19世紀のアヘン戦争でイギリスに奪われた土地ですが、その時は海岸部分を制圧できただけでした。内陸部を支配するためには軍事力が圧倒的に不足していたからです。イギリスにはロシア(ソ連)を制圧して世界の覇者になるという野望があるのですが、自力で達成することは不可能です。

 そこでイギリスが建てた長期戦略はユーラシア大陸の沿岸部分を支配し、海路を抑えて締め上げていこうというものでした。それでもイギリス軍だけでは無理で、ターゲット国同士を戦わせたり傭兵を雇ってきました。イギリスが明治維新に関与、明治政府の「富国強兵」に協力したのもそのためでしょう。

 そうしたイギリスの戦略をアメリカは引き継ぎました。彼らにとって中国やロシアは侵略の対象でしかありません。日本列島は侵略の拠点であり、日本人は手先ということになります。イギリスにしろアメリカにしろ、日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許しません。

 中国やロシアがアメリカに屈することを拒否すれば必然的に戦いは始まります。共和党にしろ民主党にしろ、アメリカの支配システムに組み込まれている政党はこの道を進むのです。新型コロナウイルスもそのために利用されているのです。

▲△▽▼

田布施システム
そもそも、あのあたりの土地は昔から地元ではc house n部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸はc house n半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。

まず、近代の半島を語る上で李氏c house nを理解しないといけません。李氏c house nは1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏c house n王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。

 とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。
彼ら政争に負けたc house nの人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

c house nと明治維新の濃密なつながり

 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏c house n王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。

田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。
 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保はc house n系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地はc house n集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新とc house nは極めて親しい関係なのです。

 このことを皆さんはどう感じますか?

明治維新はc house n系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新はc house n系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry_3.html 

▲△▽▼

日本は明治維新後、アングロ・サクソンの巨大金融資本に支配されてきた。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点とし、日本人を傭兵として使ってきたのである。ヨーロッパ人が日本人を東アジア侵略の手先に使うという構図は戦国時代にも見られた。(藤木久志著『新版 雑兵たちの戦場』朝日新聞出版、2005年)
 麻薬の取引で大儲けしていたイギリスの会社、ジャーディン・マセソンのほか、日露戦争で日本政府が戦費を頼ったロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブ、関東大震災の復興資金を調達したロスチャイルドから派生したJPモルガンを抜きに日本の近代史を語ることはできない。


 日本への影響力を強めた頃、JPモルガンを率いていたのはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。その結婚相手のいとこであるジョセフ・グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めたが、この人物は第2次世界大戦後、ジャパンロビーの中枢として日本の進路を決めることになる。


 グルーは秩父宮をはじめ皇室に強力な人脈を持っていたが、最も親しくしていた日本人は松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。日本軍が1941年12月7日(現地時間)にハワイの真珠湾を奇襲攻撃、グルーは翌年の6月に日本を離れるが、その直前に彼がゴルフした相手は商工大臣だった岸信介だ。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 いわゆる「戦後民主主義」とはウォール街の下に築かれた天皇制官僚システムという枠組みの中での「民主化」にすぎない。システムが民主化されなかった以上、「学問の自由」も「言論の自由」も砂上の楼閣だったと言えるだろう。


 アメリカでは1983年1月にNSDD11をロナルド・レーガン大統領が署名、プロジェクト・デモクラシーやプロジェクト・トゥルースを始めた。デモクラシーという看板を掲げながら民主主義を破壊し、トゥルースという看板を掲げながら偽情報を流し始めたのだ。その偽情報を信じ、あるいは信じた振りをし、アメリカは自由で民主的な国だという幻影を受け入れてきたのが日本の学者、記者、編集者といった人々だ。

アメリカの支配者の下に築かれた日本の天皇制官僚システムは政府を通じ、学問や言論の自由を侵害してきた。そうした傾向は1980年代から急速に強まったが、学者、記者、編集者といった人々は萎縮し、抵抗らしい抵抗をしてこなかった。ジャーナリストのむのたけじは1991年に開かれた「新聞・放送・出版・写真・広告の分野で働く800人の団体」主催の講演会で冒頭に「ジャーナリズムはとうにくたばった」と発言した(むのたけじ著『希望は絶望のど真ん中に』岩波新書、2011年)が、くたばっていたのは学者も同じである。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/623.html

[番外地8] 日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない 中川隆
1. 中川隆[-10041] koaQ7Jey 2020年11月10日 00:08:22 : tkQkWLqmCM : ZW14TmJkVjFwZG8=[32]
日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
「英国の戦略から見た米中戦争」
 アメリカと中国は経済的に「ズブズブ」の関係にあり、軍事的な緊張が高まることはないと主張する人がいましたが、そうした見通しは崩れています。

 1991年12月にソ連が消滅したことでアメリカの支配層は世界制覇はほぼ達成したと考え、ウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づく詰めの戦争を始めました。

 ところが21世紀に入ってロシアが曲がりなりにも再独立、2014年のウクライナでのクーデターや香港での反政府運動をアメリカが仕掛けたことを見て中国も警戒しはじめています。

 香港は19世紀のアヘン戦争でイギリスに奪われた土地ですが、その時は海岸部分を制圧できただけでした。内陸部を支配するためには軍事力が圧倒的に不足していたからです。イギリスにはロシア(ソ連)を制圧して世界の覇者になるという野望があるのですが、自力で達成することは不可能です。

 そこでイギリスが建てた長期戦略はユーラシア大陸の沿岸部分を支配し、海路を抑えて締め上げていこうというものでした。それでもイギリス軍だけでは無理で、ターゲット国同士を戦わせたり傭兵を雇ってきました。イギリスが明治維新に関与、明治政府の「富国強兵」に協力したのもそのためでしょう。

 そうしたイギリスの戦略をアメリカは引き継ぎました。彼らにとって中国やロシアは侵略の対象でしかありません。日本列島は侵略の拠点であり、日本人は手先ということになります。イギリスにしろアメリカにしろ、日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許しません。

 中国やロシアがアメリカに屈することを拒否すれば必然的に戦いは始まります。共和党にしろ民主党にしろ、アメリカの支配システムに組み込まれている政党はこの道を進むのです。新型コロナウイルスもそのために利用されているのです。

▲△▽▼


田布施システム

そもそも、あのあたりの土地は昔から地元ではc house n部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸はc house n半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。

まず、近代の半島を語る上で李氏c house nを理解しないといけません。李氏c house nは1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏c house n王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。

 とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。
彼ら政争に負けたc house nの人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

c house nと明治維新の濃密なつながり

 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏c house n王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。

田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。
 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保はc house n系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地はc house n集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新とc house nは極めて親しい関係なのです。

 このことを皆さんはどう感じますか?

明治維新はc house n系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新はc house n系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry_3.html 

▲△▽▼

日本は明治維新後、アングロ・サクソンの巨大金融資本に支配されてきた。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点とし、日本人を傭兵として使ってきたのである。ヨーロッパ人が日本人を東アジア侵略の手先に使うという構図は戦国時代にも見られた。(藤木久志著『新版 雑兵たちの戦場』朝日新聞出版、2005年)
 麻薬の取引で大儲けしていたイギリスの会社、ジャーディン・マセソンのほか、日露戦争で日本政府が戦費を頼ったロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブ、関東大震災の復興資金を調達したロスチャイルドから派生したJPモルガンを抜きに日本の近代史を語ることはできない。


 日本への影響力を強めた頃、JPモルガンを率いていたのはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。その結婚相手のいとこであるジョセフ・グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めたが、この人物は第2次世界大戦後、ジャパンロビーの中枢として日本の進路を決めることになる。


 グルーは秩父宮をはじめ皇室に強力な人脈を持っていたが、最も親しくしていた日本人は松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。日本軍が1941年12月7日(現地時間)にハワイの真珠湾を奇襲攻撃、グルーは翌年の6月に日本を離れるが、その直前に彼がゴルフした相手は商工大臣だった岸信介だ。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 いわゆる「戦後民主主義」とはウォール街の下に築かれた天皇制官僚システムという枠組みの中での「民主化」にすぎない。システムが民主化されなかった以上、「学問の自由」も「言論の自由」も砂上の楼閣だったと言えるだろう。


 アメリカでは1983年1月にNSDD11をロナルド・レーガン大統領が署名、プロジェクト・デモクラシーやプロジェクト・トゥルースを始めた。デモクラシーという看板を掲げながら民主主義を破壊し、トゥルースという看板を掲げながら偽情報を流し始めたのだ。その偽情報を信じ、あるいは信じた振りをし、アメリカは自由で民主的な国だという幻影を受け入れてきたのが日本の学者、記者、編集者といった人々だ。

アメリカの支配者の下に築かれた日本の天皇制官僚システムは政府を通じ、学問や言論の自由を侵害してきた。そうした傾向は1980年代から急速に強まったが、学者、記者、編集者といった人々は萎縮し、抵抗らしい抵抗をしてこなかった。ジャーナリストのむのたけじは1991年に開かれた「新聞・放送・出版・写真・広告の分野で働く800人の団体」主催の講演会で冒頭に「ジャーナリズムはとうにくたばった」と発言した(むのたけじ著『希望は絶望のど真ん中に』岩波新書、2011年)が、くたばっていたのは学者も同じである。

▲△▽▼


明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏 c house n の王族や両班階級の血筋だった?

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA


http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/623.html#c1

[近代史4] ダイナミック型スピーカーの音は静電型スピーカーの音には絶対に敵わない 中川隆
2. 中川隆[-10040] koaQ7Jey 2020年11月10日 07:39:45 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[1]

オールド QUAD の安物アンプは名機なのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/840.html

伝説の静電型スピーカー QUAD ESL57・ESL63
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/682.html

ESL57 が似合う店 喫茶店 荻窪邪宗門 _ ESL57 と QUADU の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/214.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1160.html#c2

[番外地8] 退院後半数が後遺症 新型コロナ、和歌山県調査
日本では海外でのコロナ後遺症の報道を必死で隠していますからね、最近少し表に出て来ていますが:
退院後半数が後遺症 新型コロナ、和歌山県調査
(2020年11月06日 14時30分 更新)
 和歌山県は5日、新型コロナウイルスに感染し、退院した県民のうち、約半数が後遺症を訴えているという調査結果を公表した。数カ月後も後遺症がある人もいるという。入院時の症状が重いほど現在も不調を訴えている人の割合が多いことも分かった。

 9月14日時点で退院後2週間以上経過している県内の216人を対象に、保健所が郵送や聞き取りでアンケートした。このうち163人が答えた。

 退院後も何らかの症状があったのは46%の75人。年代別で後遺症があった人の割合が最も多かったのは、30代の77%で、40〜60代も半数以上あった。一方、20代も39%、20歳未満も35%に後遺症があった。70代以上ではほとんどいなかった。

 後遺症の症状を聞いたところ(複数回答)、最も多かったのは「嗅覚障害」の30人だった。続いて「倦怠(けんたい)感」26人、「味覚障害」と「呼吸困難感」が20人ずつ、「頭痛」16人、「脱毛」12人、「胸痛」11人など。「脱毛」では洗髪時に髪の毛がまとめて抜けたという事例もあったという。このほか、忘れやすくなったなどの「記憶障害」「集中力低下」「睡眠障害」などもあった。

 6月末までに退院した51人のうち、2カ月半以上たった9月14日以降でも後遺症がある人は半数の26人いた。複数回答で「倦怠感」は10人、「呼吸困難感」と「頭痛」が8人ずつ、「脱毛」と「胸痛」が6人ずつ、「記憶障害」と「集中力低下」が5人ずつなどだった。

 入院時の症状の重さ別(無症状、軽症、肺炎、重症)では「呼吸困難感」や「倦怠感」などでは重症度が高い人の方が多い傾向にあったが、重症度による違いが見られない後遺症もあった。「味覚障害」や「嗅覚障害」は軽症、肺炎、重症それぞれの1〜2割の人に見られた。一部で無症状だった人に後遺症が出るケースも少ないながら見られた。また、症状が重かった人ほど、9月14日以降も回復していない人の割合が多かった。後遺症により受診した人もいるという。

 県福祉保健部の野尻孝子技監は「後遺症がある人が思ったより多く、さまざまな症状がある」と調査結果の印象を述べ「若いから、軽症だから大丈夫だとはなかなか言えない。感染予防の啓発や、感染者の心身面の継続的な支援が必要。かかりつけ医の協力も頂きたい」と話した。

■誹謗中傷の訴えも 「家族に嫌がらせ」

 アンケートでは、退院後の療養生活中やその後に困ったことについても聞いた。健康面への不安や療養生活のストレスなどのほか、風評被害や誹謗(ひぼう)中傷を挙げた人も多かった。「あることないことを言いふらされた」「身に覚えのない情報が会員制交流サイト(SNS)に書き込まれた」「仕事関係者から特別な目で見られた」「家族が職場で嫌がらせを受けた」などがあった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/624.html

[番外地8] 有史以来 戦争に勝った事が一度も無い中国人が巨大な領土を手に入れた手口
中国人の戦略は移民爆弾だから、実際に戦う事は無い。金にもならないのに死んだら損するだろ:
有史以来 戦争に勝った事が一度も無い中国人が巨大な領土を手に入れた手口
中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:

中国人は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には半島で勝利を得たりしているが、必ず半島の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=kanjin」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな中国人がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、中国人に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいるkan民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、中国人が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの中国人が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/625.html

[リバイバル3] 買ってはいけない JBL Project EVEREST DD66000・DD67000
買ってはいけない JBL Project EVEREST DD66000・DD67000


JBL DD66000 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=JBL+DD66000

JBL DD67000 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=JBL+DD67000

ヤフオク! -「JBL DD66000」(スピーカー本体) (JBL)の落札相場・落札価格
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch?va=JBL+dd66000&b=1&n=50&auccat=2084307216&tab_ex=commerce&ei=utf-8&aq=-1&oq=&sc_i=&exflg=&p=JBL++DD66000&x=0&y=0

▲△▽▼

Project EVEREST DD66000 (2006年9月発売 JBL創立60周年記念)
https://www.phileweb.com/news/audio/200609/08/6743.html

JBLとして、2001年に発売した「Project K2 S9800」(製品データベース)以来のフラグシップスピーカー。K2 S9800の発売後すぐに開発に着手したという。JBL60周年を記念するスピーカーとしてのみならず、同社社長の安田耕太郎氏が「数十年に一度の製品。これ以上は無理という極限のところまで到達した」というほど力の込められた製品。

DD66000は、「Project EVEREST DD55000」以来、代々のフラグシッププロジェクトに携わった、JBLコンシューマー製品のチーフシステムエンジニアを務めるグレッグ・ティンバース氏、同じく初代EVEREST以来、ハイエンドモデルのデザインを担当するデザイナーのダニエル・アシュクラフト氏など、JBLを代表する技術者が開発した。米JBLの社長であるポール・ヴェンテ氏は「JBLのドリームチームの能力がすべて入っている」とDD66000を形容する。同社の歴史を彩った「HARTSFIELD」「PARAGON」といった名機と肩を並べる最高品位のスピーカーとして、満を持して送り出す。

380mmウーファーを2発搭載
ユニットの構成は、380mm径のアルニコウーファー「1501AL」を2発、高域用の100mm径コンプレッションドライバー「476Be」、超高域の25mm径ベリリウムドライバー「045Be-1」の4ユニット。2本のウーファーのうち1本と、コンプレッションドライバーを700Hzのミドルレンジクロスオーバーで混合。1本のウーファーとコンプレッションドライバーで全可聴帯域をカバーしている。また、超高域用のコンプレッションドライバー「045Be-1」を加えることで、50kHzを超える超高音域まで再生帯域を拡張。さらに、もう片方のウーファーを150Hz以下で動作させることで、30Hz以下まで低域再生能力を拡張させている。JBLでは、2ウェイを基本に、超高域と低域に再生帯域を拡大させたこの方式を「拡張型2ウェイ」と呼んでいる。

ウーファー「1501AL」

ウーファー「1501AL」は、アルニコ5DGマグネット、大口径ボイスコイルを採用した380mm径パルプコーン・ウーファー。K2 S9800のために開発した「1500AL」の改良版で、ハイインピーダンスにしたほか、ロングボイスコイルに近い長巻きとした。ウーファー単体の許容入力は25%向上したという。

ウーファーには1.6mm厚のスチールリングを16枚と、0.8mm厚銅リング15枚を交互に積層させたインナーギャップリングをトッププレートに装着

ユニットの根幹となる磁気回路構造は、シミュレーション解析技術を駆使して設計。1.6mm厚のスチールリングを16枚と、0.8mm厚銅リング15枚を交互に積層させたインナーギャップリングをトッププレートに装着し、アルニコマグネットのウィークポイントだった大電力駆動による減磁の問題を解消。また、アルニコ磁気回路のために設計されたJBL伝統のSFG磁気構造を採用し、歪みを徹底的に排除している。

ウーファーの構造

ボイスコイルには新たに設計した100mm径30.5mm巻尺の大口径エッジワイズ巻きアルミリボンボイスコイルを採用。また振動板には、厳選したピュアパルプ・コーンを採用したほか、コーンの表面にコルゲーションリブを設け、裏面の外周部にJBL独自のアクアプラス・コーティングを施すことでコーンの分割振動を排除した。エッジ部はEPDMフォームラバーとし、耐久性と安定性を高めている。

高域ドライバー「476Be」

本機最大のハイライトが、この高域ドライバー「476Be」。世界で初めてベリリウム・ダイアフラムを採用した大型100mmコンプレッションドライバーだ。JBLでは、DD66000の本格的な開発に入る前に、コンプレッションドライバーの振動板に最適な素材を探るべく、アルミニウムやチタン、マグネシウムなどの素材を検証。アルミニウムやマグネシウムでは、18kHz以上の高域信号を入力した際、振動板全域で分割振動が大きく発生したが、ベリリウムは常に正確なピストンモーションを発揮できたことから採用を決めたという。

高域ドライバー「476Be」
476Beの構造

振動板の円周部にはJBL独自のダイヤモンドを一体成形。また、振動板から発したエネルギーをスローと開口部に集中させるフェーズプラグには、独自のコヒレント・ウェーブ・フェーズプラグを採用した。ボイスコイルは、アルミリボン線によるエッジワイズ巻きボイスコイルを高耐熱ボビンに装着。マグネットには高磁力・高耐熱のハイグレード・ネオジウムマグネットを採用している。

超高域ドライバー「045Be-1」

超高域ユニットには、25mm径ベリリウム振動板と50mm径ネオジウム磁気回路を搭載したコンプレッションドライバー「045Be-1」を採用。K2 S9800に搭載した「045Be」を改良したもので、ダイヤフラムとフェーズプラグの位置調整などを行い、30kHz以上の帯域で5dBの出力改善を果たしている。

超高域ドライバー「045Be-1」
「045Be-1」の構造

SonoGlass製ホーンリップ

ホーン部には、「SonoGlass」素材を採用。K2 S9800や4348などに採用したものと同じ素材だ。グラスファイバーを用いて特殊な高音高圧モールド成形技術により製造される高比重熱硬化樹脂で、ベースとなる素材は、スペースシャトルのメインエンジンなどにも用いられている。共振・共鳴が少なく、適度な内部損失を持ちダンピング特性にも優れているという。高域ホーンを構成する上下リップ部とスロート部、また超高域ホーンにこのSonoGlass素材が使われている。

ホーン部には「SonoGlass」素材を採用

ネットワーク/コントロールユニット/ターミナル

ネットワークは4つのユニット毎に独立して配置。ファスト・ポリプロピレン・キャパシター、メタルオキサイド・レジスター、大型空芯コイルなどの高品位パーツを備える。また、9VバッテリーでキャパシターにDCバイアスを加え、クラスA動作させることで、ゼロ電位でのクロスオーバー歪みの発生を抑える同社独自のチャージカップル・リニアディフィニッシュ方式を採用している。

ネットワークやコントロール部には高品位パーツをふんだんに採用

ウーファーバッフル下部にはコントロール部を備え、ユニットの出力レベルをハイ/ローの2段階で切り換えることが可能。また、高域ドライバー「476Be」の出力レベルを、-0.5/0/+0.5dBで調整できるスイッチも備える。背面に装備したスピーカーターミナルは2組で、バイアンプやバイワイヤに対応。金メッキを施している。

コントロール部はフロントバッフル下部に装備
背面のスピーカーターミナル

キャビネット

キャビネット外側の平面パネルは25mm厚のMDF製。曲面のパネルは、厚みの異なる2枚のMDFパネルで構成する。曲面を多用することでキャビネット剛性を高め、内部定在波の発生を抑えている。内部には複雑なブレーシング構造を採用し、振動によるカラーレーションを排除している。さらに、バッフル表面に天然レザーを貼っており、バッフル表面での音の吸収・拡散を図っている。
https://www.phileweb.com/news/audio/200609/08/6743.html

▲△▽▼

Project EVEREST DD67000 (2012年10月発売)
https://jp.jbl.com/DD67000RW-.html

創立60周年の年に登場したJBLの誇るフラッグシップモデル、Project EVEREST DD66000をベースに、さらに最新の技術と最高のマテリアルを投入。新開発380mm径ウーファー2基と100mm径コンプレッション・ドライバー、優美なラウンドキャビネットなどの構成要素を共有しながら新たな再生芸術の世界へと昇華させた、新世代フラッグシップの誕生です。

380mm×2 3ウェイ フロア型スピーカー
価格 : 3,000,000円(税別)/1本
カラー:ローズウッド
※メイプルカラーは、生産完了となりました。

仕様一覧

型式:背面バスレフ型、フロア型はい
クロスオーバー周波数 150Hz(LF1/LPFのみ)、850Hz、20kHz(UHF/HPFのみ)
出力音圧レベル(2.83V/1m)96dB
公称インピーダンス8Ω
再生周波数特性29Hz 〜 60kHz
許容入力(RMS)500W

スピーカー仕様
LF380mm径ファイバーコンポジットコーン・ウーファー(1501AL-2)×2
HF100mm径ベリリウム・コンプレッション・ドライバー(476Be)
UHF25mm径ベリリウム・コンプレッション・ドライバー(045Be-1)

サイズ
寸法 (HxWxD)1,109(足含む、スパイク含まず)x965x469mm
重量142kg(グリル装着時)
https://jp.jbl.com/DD67000RW-.html

進化するProject EVEREST
DD66000の登場以降に開発された最新の技術やマテリアルを投入し、数々の改良を施したアップグレード・モデル。新開発15インチ径ウーファー2機と4インチ径コンプレッション・ドライバー、優美なラウンドキャビネットなどの構成要素を共有しながら新たな再生芸術の世界へと昇華させた、新世代フラッグシップです。

DD66000との主な違い
・アルニコ5DGマグネット採用した380mm径ウーファー:1501AL-2搭載。 エッジは従来のシングルエッジから低質量という音響的優位性と共に耐候性、耐久性とを両立させたアコーディオン・プリーツ・クロスエッジに変更されました。
・クロスオーバー・ネットワークは1機のウーファーのクロスオーバー周波数を従来の700Hzから800Hz前後に、またHFドライバーのクロスオーバーも同様に800Hz前後に変更。UHFドライバーを20kHzから動作させ自然な高域拡張を実現しました。
・外観は従来MDF+革張りだったフロントバッフルはインナーバッフルにバーチの積層合板、アウターバッフルにMDFを組みあわせて、さらにカーボンファイバーの織布を貼り付けた結果、バッフル面のダンピングと表面伝送波の拡散を図り、高い解像度を誇る新型ウーファーを最大限に活かす設計が採られています。 
https://www.homeshokai.jp/product/
 

▲△▽▼

2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2018年04月19日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c186ce30301a4edc1cab900c1fb40ab

去る15日(日)、「2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア」(会場:福岡市、「マックス・オーデイオ」主催)に行ってきた。
         

JBLの「エベレスト」(648万円)だが、妙に低音域が膨らんでいて嫌な音だった。

2本のウーファーのうち1本はサブウーファーの役割とのことだが、「コルトレーン&ハートマン」(レコード)では音像(歌手の口元)がやたらに大きくなってとても聴けたものではなかった。

同行の仲間曰く「カートリッジの選択ミスですね。昔のレコードをこんなところで鳴らすものではありません。」

「成る程、スピーカー側の一方的な責任ではないかもしれませんがそれにしてもねえ。こんなスピーカーならただでくれるといっても願い下げですよ。」(笑)。

▲△▽▼

JBL 現行のスピーカーシステム
https://jp.jbl.com/premium-speakers

JBL 歴代スピーカーユニット一覧
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/index.html
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/index2.html

JBL 歴代エンクロージャー-キャビネット一覧
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/index3.html

JBL 歴代スピーカーシステム(民生用)一覧
http://audio-heritage.jp/JBL/speaker/index2.html

JBL 歴代スピーカーシステム(プロフェッショナルシリーズ)一覧
http://audio-heritage.jp/JBL/speaker/index.html

▲△▽▼

JBL Project EVEREST DD66000 | 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12494423549.html?frm=theme

JBL|禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/theme-10097864446.html

JBLの記事(12件)
JBL Project EVEREST DD66000 2019年07月15日(月)
JBL電飾 2019年07月12日(金)
JBL Project K2 S9800SE 2本セットお譲りします。※売約済み 2019年06月23日(日)
JBL S3100 2019年03月03日(日)
JBL Project K2 S9800SE 2019年03月01日(金)
JBL Project K2 S9500 JBL 1400NDのエッジ交換 2017年01月04日(水)
JBL Project K2 S9500 恐ろしい子!2016年12月21日(水)
JBL Project K2 S9500 導入編 2016年12月17日(土)
JBLスピーカー各世代の比較 2016年05月30日(月)
JBLスピーカーの買い方 2015年03月16日(月)
JBL K2 S5500 2014年01月27日(月)
JBL スタジオモニターとK2の比較 2011年11月17日(木)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1115.html

[近代史4] アメリカのスピーカー 中川隆
11. 中川隆[-10039] koaQ7Jey 2020年11月10日 13:08:24 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[7]
買ってはいけない JBL Project EVEREST DD66000・DD67000
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1115.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/110.html#c11
[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
40. 中川隆[-10038] koaQ7Jey 2020年11月10日 13:08:57 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[8]
買ってはいけない JBL Project EVEREST DD66000・DD67000
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1115.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c40
[リバイバル3] 買ってはいけない JBL Project EVEREST DD66000・DD67000 中川隆
1. 中川隆[-10037] koaQ7Jey 2020年11月10日 13:27:45 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[9]
楠 薫のオーディオ三昧
■ JBL DD66000 ■
http://www.kusunoki.jp/audio/JBL/JBL_DD66000/JBL_DD66000.htm

イタリア系アメリカ人のジェイムズ・バロウ・ランシングはその昔はジェイムズ・マーティーニと 言い、14人兄弟の9番目で、バロウ家に預けられて育ちました。12歳の時に小型無線機を作って海軍 無線局に電波妨害で捕まったという逸話が残るくらいの機械オタクで、その後自動車修理工を経て、 放送局のエンジニアとなります。1927 年その時の経験を活かしてロスにランシング・マニュファク チュアリング社を設立。ラジオ受信機用のスピーカー設計製造を始めます。1934年にWEのシステム に対抗して、15インチウーファー2基とホーンドライバーによる劇場用2ウェイシステムを開発。 「シャラーホーン・システム」が映画芸術科学アカデミー賞を受賞しました。

ところが共同経営者のケン・デッカーが飛行機事故で死亡。経営が破綻し、1941年12月、アルテ ック・サービス・コーポレーションに合併され、アルテック・ランシング・コーポレーションの技 術担当副社長となります。この時、WE社はアルテック・ランシング社にその製品製造ラインセンス契約 を行い、OEM供給なども行うようになります。1946年に辞めるまで、アルテックの重要な製品である 604スタジオモニター・シリーズやボイス・オブ・シアターのA4などの設計開発を行っています。

1946年J・B・ランシング・サウンド社設立。D101、D130、175ドライバーなどの開発 を行いますが、1949年9月24日、アボガドの木で首吊り自殺してしまいます。

その後、ウィリアム・H・トーマスが社長を引き継ぎ、1955年JBLがブランド名となります。

1954年「ハーツフィールド」が工業デザイナー、ロバート・ハーツフィールドのもとで開発。翌 1955年、ライフ誌が「究極の夢のスピーカー」として取り上げられます。

1957年パラゴン発売。工業デザインはアーノルド・ウォルフ。音響学的には陸軍通信大佐リチャード ・レンジャー・パラゴンが担当。そのため、パラゴンは「レンジャー・パラゴン」とも呼ばれました。 同製品は31年間に渡って製造、販売されています。

パラゴン、ハーツフィールドとともに、old JBLの銘機とうたわれている、OLYMPUS。

1962年に「D50SM/S8」スタジオモニターを開発。当初はLE15A,375,075+HL93の組み合わせでした。その後、S8Rとなり、 ツィーター 075、ドライバー 375、ウーハー LE15A、パッシブラジエター PR15という組み合わせになります。

新しいDD66000は、どことなくハーツフィールドを思わせるたたずまいながら、ベリリウム・ダイアフラムを採用した 大型100mm径コンプレッションドライバー476Beを中心に、アルニコ1501ALをウーファーとの2ウエイスタイルを 基本に、50KHz以上再生できるスーパーツイーター045Be-1と、1591ALをもう一本スーパーウーファーとして 追加した形をとっています。

ホーン部はSonoGlassという、グラスファイバーを用いて特殊な高温高圧モールド成形を行った、高比重熱硬化樹脂で、 これはスペースシャトルのメインエンジンの部品にも使われ、共振共鳴が極めて少ない素材だそうです。

9Vバッテリーによりネットワーク回路のキャパシターにDCバイアスを加えてクラスA動作させることで、ゼロ電位での クロスオーバー歪みの発生も抑えるという、チャージカップル・リニアディフィニッシュ方式を採用している、とのこと。

 出てくる音は、押し出しのある、分厚い低域がオリンパス以上で、しかもローエンドが非常によく伸び、高域も見事に 金粉が舞うが如く、伸びやか。
 基本的には豊かでレスポンスの良い低域に支えられた、ピラミッド構造の音と言ったら良いでしょうか。

 最初は籠もりがちな低域に悩まされましたが、100時間過ぎるころから低域も軽やかに、しかも押し出しがクッキリして来ました。

 それからもう一つ。タンノイやソナスファベールのスピーカーと違い、やはりモニタースピーカー的な部分もあるのか、 ソースの違いをよく描き分けます。
 モノラルはモノラルらしく、ビシッとセンターに位置し、あまり音が膨らみません。ステレオを強調した録音の場合は、 左右前後と音がよく広がり、分解能の良さを見せつけてくれますが、録音が悪いものは、悪い点を包み隠さず出してしまうので、 キックドラムがモコモコした感じの録音は、ソナスファベールの方が聴きやすかったりするのが不思議です。


片方がフロントグリルと、下のコントロール部のカバーをはずしたところです。

ウーファーのアップです。同じユニットですが、デフォルトは内側になる方にウーファー、外側になる方がスーパーウーファーに 設定してあります。もちろん、反対に変えることも出来ます。

HF部。下が476Be、上がスーパーツイーターの045Be-1

ウーファーの下にあるコントロール部。

コントロール部の蓋をはずしたところ。

HFコントロール部には、006P乾電池が装着されています。

ウーファーのコントロール部。6角レンチで止めねじを回してジャンパー金具を移動させます。

ジャンパー金具とネジ、専用6角レンチ工具です。

工具、説明書です。アタッシュケースに入っています。別にこんなにまでしなくても、その分、少し安くして欲しい 気がしないでもありません。

上からみると、こんな感じで、まるで三日月型。

二つのウーファーの後ろにダクトが2つ。その間にスピーカーターミナルがあります。

スピーカーケーブルの接続はこんな感じです。
http://www.kusunoki.jp/audio/JBL/JBL_DD66000/JBL_DD66000.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1115.html#c1

[番外地8] 騙せる奴だけ騙せればよい、と考えている詐欺師の元北海道議員の小野寺まさる
騙せる奴だけ騙せればよい、と考えている詐欺師の元北海道議員の小野寺まさる
デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性は人間社会の嫌な真理です。
もちろん、知識・情報が足りず、情報判断力が低いため、真実と確信して結果的にデマを流す人もいるでしょうが、常習犯のように次から次へとデマを流す人の中には、デマと知っているか、真偽や根拠が曖昧だと理解していながら、騙せる奴(いわゆる情弱)だけ騙せればよいとか、検証しようとする人間を疲弊させてやりたいとばかりに、この非対称性を利用している輩もいるのではないか、と考えたくなります。

騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているように思われる人物として、アイヌと「縄文人」との関係の否定に熱心な元北海道議員の小野寺まさる(秀)氏がいます(関連記事)。

小野寺氏は議員時代に、「アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて」北海道庁の幹部職員に北海道議会で質問していますが、幹部職員が「アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力」と答弁したところ、「単純な子孫ではないということで、関係ないということだと思います」と述べており、これも、小野寺氏が騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているからではないか、と私は推測しています。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_14.html
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/626.html

[近代史02] この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事 中川隆
21. 中川隆[-10036] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:02:11 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[11]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html#c21

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
84. 中川隆[-10035] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:02:35 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[12]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c84

[近代史3] 南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた? 中川隆
9. 中川隆[-10034] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:03:24 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[13]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html#c9

[近代史3] 日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが… 中川隆
28. 中川隆[-10033] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:03:48 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[14]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html#c28

[近代史3] 明治維新と日英同盟の背景 中川隆
5. 中川隆[-10032] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:04:48 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[15]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/605.html#c5

[近代史4] 独裁者列伝 _ 昭和天皇 中川隆
14. 中川隆[-10031] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:05:43 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[16]


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html#c14

[近代史5]  戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

[近代史5] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html


 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

**********************************************************************

 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。

 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/362.html

[近代史5]  戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
1. 中川隆[-10030] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:17:34 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[17]
天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html#c1

[近代史5] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
1. 中川隆[-10029] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:18:14 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[18]
天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/362.html#c1

[近代史5] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
2. 中川隆[-10028] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:20:03 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[19]
昭和天皇が戦争狂になった背景

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。

だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。

すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。

天皇は昭和の大戦争に深く関与した。 いかにユダヤ金融資本から仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。

慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、 2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。

だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。

このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。

中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。

だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、

わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/362.html#c2

[近代史5]  戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
2. 中川隆[-10027] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:21:16 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[20]
昭和天皇が戦争狂になった背景

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。

だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。

すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。

天皇は昭和の大戦争に深く関与した。 いかにユダヤ金融資本から仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。

慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、 2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。

だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。

このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。

中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。

だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、

わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html#c2

[近代史5]  戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
3. 中川隆[-10026] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:23:40 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[21]
【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。


ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。

阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html

自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html


狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。

 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。

 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。

 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。

 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html

1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。

これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。

後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。

里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)

また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html


1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。

 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。

 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。

 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。

 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。

 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html


 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。

 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。

 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。

 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。

 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。

 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。

東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html


1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。

元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。

第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。

しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。

 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。

 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。

 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。

当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。

このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。

 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?

 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。

アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。

 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。

稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。

そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。

石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html

1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。

 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。

 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。

 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。

 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。

(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 

 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。

世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。

そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。

 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  

 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。

恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。

 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。

第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html


 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。

 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。

 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。

 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。

 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。

 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604875.html

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。

ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605010.html

現代日本を作った男ブルーム

第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。

1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。

1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。

1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。

かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。

現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。

アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。

1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html

1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。

ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。

中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。

当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)

スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html


 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。

 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 

 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html

 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。

当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。


ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。

一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。

日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。

第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。

日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。

日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。

このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。

戦争が誰の自作自演であるか明らかである。

ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。

ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。

米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。

日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。

戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。

1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。

ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。

日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。

そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。

2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。

また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。

また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。

また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。

日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html
_______________________________________________________________________________


高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。

アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。
<中略>
至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。
<中略>
日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。
<中略>
片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。

男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。

このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。

1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。

多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html#c3

[近代史5] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
3. 中川隆[-10025] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:25:13 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[22]
【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。


ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。

麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。

阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。

日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html

自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html


狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。

 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。

 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。

 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。

 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html

1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。

これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。

後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。

里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)

また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html


1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。

 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。

 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。

 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。

 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。

 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html


 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。

 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。

 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。

 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。

 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。

 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。

東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html


1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。

元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。

第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。

しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。

 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。

 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。

 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。

当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。

このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。

 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?

 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。

アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。

 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。

稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。

そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。

石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html

1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。

 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。

 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。

 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。

 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。

(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 

 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。

世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。

そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。

 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  

 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。

恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。

 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。

第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html


 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。

 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。

 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。

 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。

 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。

 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604875.html

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。

ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605010.html

現代日本を作った男ブルーム

第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。

1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。

1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。

1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。

かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。

現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。

アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。

1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html

1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。

ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。

中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。

当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)

スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html


 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。

 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 

 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html

 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。

当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。


ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。

一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。

日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。

第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。

日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。

日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。

このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。

戦争が誰の自作自演であるか明らかである。

ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。

ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。

米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。

日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。

戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。

1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。

ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。

日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。

そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。

2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。

また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。

また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。

また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。

日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html
_______________________________________________________________________________


高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。

アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。
<中略>
至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。
<中略>
日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。
<中略>
片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。

男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。

このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。

1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。

多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/362.html#c3

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
173. 中川隆[-10024] koaQ7Jey 2020年11月10日 16:10:23 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[25]
【重要・緊急警告】12月に中国が台湾侵攻の可能性? 尖閣諸島に電撃侵攻も…プーチン引退説の真偽と本当の正体、トランプ、バイデン「ジェームズ斉藤の時事予測」
2020.11.10
https://tocana.jp/2020/11/post_182546_entry.html


──プーチン引退説がこのタイミングで出てきました。アメリカの混乱と関係ありますか?

ジェームズ 大いにあります。まず、プーチン引退説ですが、ネタ元が反プーチンの筆頭格の人物なので、ロシア発のフェイクニュースの可能性大です。このタイミングにしても、民主党がプーチンとトランプの間に亀裂を入れようとしている可能性があります。(この取材後、バイデンの当確の報が流れる。この件については別記事を参照のこと)。

──ジェームズさんは以前から、プーチンとトランプは裏で呼応していると言っていましたね。

ジェームズ そうです。反グローバル、反共産ユダヤという点でつながっていると思います。CIA右派は伝統的に反ソでしたが、現在は親露で、今のロシアは誇り高きキリスト教国家と思っている人のほうが多いです。実際に、大統領就任前の30年以上に及ぶトランプとロシアの不可解な関係は、トランプがCIA右派のプリンスとして米露関係の裏の関係を運営していたからです。実際、CIA右派は1991年にはプーチンとの関係を作っていました。何を隠そう、プーチン本人が冷戦末期と終結後一時期CIA右派のエージェントを務める一方で、所属していたKGBや後継組織のFSBの任務を淡々とこなし、1998年にはFSB長官に登りつめたのです。


──えーーっ!!! プーチンがCIA右派のエージェントだったんですか!? それ本当ですか!!!!!

ジェームズ そんな驚くことなんですか? この事実は諜報機関関係者の間では常識ですよ。いわゆるダブルエージェント(二重スパイ)ですが、プーチンの忠誠心は常に祖国ロシアにありました。当時はあえて米国のエージェントになることのほうがロシアの利益につながったんです。また、プーチンレベルの諜報員ではダブルエージェントをやるのは当たり前です。プーチンは出身地のサンクトペテルブルクでは伝統の親欧米主義支持者からスタートし、ロシアと欧米との対等関係を構築し、欧米を軸にロシア経済を向上させようと思っていました。そのような期待をやすやすと裏切ったのがCIA左派だったんです。彼らはロシアから資源を貪り、配下のウォールストリートが儲かった瞬間に、新生ロシア及びロシア人を「ポイ捨て」しました。

──CIA左派はプーチンを裏切っていたんですね。そういう図式だったのか……。

ジェームズ CIA左派が裏切ったのはロシアがロシア正教だからです。ユダヤ人のロシア正教に対する怨念は凄まじいものがあります。それもあってプーチンのロシアは反米親中的な、かなり危ない国家戦略をとっているんです。核ミサイルを常に欧米に向け、経済的には中国の属国になる勢いです。プーチンも本心は悔しいと思っているはずです。唯一の希望がCIA右派の対露裏ネットワークによって正常な米露関係を取り戻すことで、それにはトランプ大統領の再選が鍵を握っています。バイデン政権が誕生すると、米露関係の修復は不可能でしょう。


──いきなり凄い話が出てきてビックリしました。これについては今後また詳しくお聞きします。中国はどうでしょうか?

ジェームズ 12月に台湾侵攻の可能性があります。アメリカ国内があのような状況であれば、トランプも対中国に注意を向けていられませんから狙ってくる可能性はそれなりにあると思います。


──じゃあ、尖閣はどうですか? 危なくないですか?

ジェームズ 尖閣の前に台湾です。図を見てください。

https://tocana.jp/2020/11/post_182546_entry_2.html


 台湾は第一列島線の要です。台湾の戦略的重要性は、1941年12月8日(日本時間)に大日本帝国海軍が真珠湾攻撃と同時に台湾基地から香港やフィリピンを奇襲攻撃したことに証明されています。台湾は東シナ海や南シナ海の島の中でも大きく、しかも中華民国の軍隊がすでに存在します。また、北京にとっては台湾は中華人民共和国の一部で、併合することが2021年の中国共産党結成100周年に向けての悲願です。台湾を取らないと尖閣への侵攻はやりづらいので、まずは台湾です。

 逆に言えば、台湾を攻めたら尖閣への侵攻はかなり現実味を帯びてきます。トランプ側からすれば、中国の侵攻は選挙のカオスを口実にスルーする可能性があります。なにしろ、トランプは撤退屋なので、台湾のような小国にアメリカ市民の犠牲を払う道理はないと考えます。一方、軍のほうは台湾を見殺しにすることにはほぼ100%反対すると思いますが、軍の最高指揮官はトランプなので、最終的な判断は大統領になります。台湾問題で米軍が引くことにより、日本等が戦うことになるので、トランプにはメリットがあります。


──日本と中国が戦争になるということですか!?

ジェームズ はい。台湾侵攻があればですが。そして、尖閣を守りたいのであれば、自分の国を守りたいのであれば、これからはもう自分で戦うしかないと思います。これはバイデンが大統領になっても同じです。民主党は中国寄りなので、裏で中国側につく可能性が高いですね。


──う〜ん、今までジェームズさんの予測は全部当たっていますからね。

ジェームズ アメリカのカオスが続き、しかも、国防長官に空白があると電撃侵攻もやれなくはないですから。そろそろ日本も自国の行く末を本気で考えないといけません。

 とりあえず、アメリカ、ロシア、中国、そして日本に関して、いま気にしておかなければいけない点はこのぐらいです。今後も次々出てくると思いますが、動きが早いので順次、速報していきます。

文=ジェームズ斉藤

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c173

[近代史5] プーチンは CIA右派のエージェトだった
プーチンは冷戦末期と終結後一時期には CIA右派のエージェントだった


【重要・緊急警告】12月に中国が台湾侵攻の可能性? 尖閣諸島に電撃侵攻も…プーチン引退説の真偽と本当の正体、トランプ、バイデン「ジェームズ斉藤の時事予測」
2020.11.10
https://tocana.jp/2020/11/post_182546_entry.html


──プーチン引退説がこのタイミングで出てきました。アメリカの混乱と関係ありますか?

ジェームズ 大いにあります。まず、プーチン引退説ですが、ネタ元が反プーチンの筆頭格の人物なので、ロシア発のフェイクニュースの可能性大です。このタイミングにしても、民主党がプーチンとトランプの間に亀裂を入れようとしている可能性があります。(この取材後、バイデンの当確の報が流れる。この件については別記事を参照のこと)。

──ジェームズさんは以前から、プーチンとトランプは裏で呼応していると言っていましたね。

ジェームズ そうです。反グローバル、反共産ユダヤという点でつながっていると思います。CIA右派は伝統的に反ソでしたが、現在は親露で、今のロシアは誇り高きキリスト教国家と思っている人のほうが多いです。実際に、大統領就任前の30年以上に及ぶトランプとロシアの不可解な関係は、トランプがCIA右派のプリンスとして米露関係の裏の関係を運営していたからです。実際、CIA右派は1991年にはプーチンとの関係を作っていました。何を隠そう、プーチン本人が冷戦末期と終結後一時期CIA右派のエージェントを務める一方で、所属していたKGBや後継組織のFSBの任務を淡々とこなし、1998年にはFSB長官に登りつめたのです。


──えーーっ!!! プーチンがCIA右派のエージェントだったんですか!? それ本当ですか!!!!!

ジェームズ そんな驚くことなんですか? この事実は諜報機関関係者の間では常識ですよ。いわゆるダブルエージェント(二重スパイ)ですが、プーチンの忠誠心は常に祖国ロシアにありました。当時はあえて米国のエージェントになることのほうがロシアの利益につながったんです。また、プーチンレベルの諜報員ではダブルエージェントをやるのは当たり前です。プーチンは出身地のサンクトペテルブルクでは伝統の親欧米主義支持者からスタートし、ロシアと欧米との対等関係を構築し、欧米を軸にロシア経済を向上させようと思っていました。そのような期待をやすやすと裏切ったのがCIA左派だったんです。彼らはロシアから資源を貪り、配下のウォールストリートが儲かった瞬間に、新生ロシア及びロシア人を「ポイ捨て」しました。

──CIA左派はプーチンを裏切っていたんですね。そういう図式だったのか……。

ジェームズ CIA左派が裏切ったのはロシアがロシア正教だからです。ユダヤ人のロシア正教に対する怨念は凄まじいものがあります。それもあってプーチンのロシアは反米親中的な、かなり危ない国家戦略をとっているんです。核ミサイルを常に欧米に向け、経済的には中国の属国になる勢いです。プーチンも本心は悔しいと思っているはずです。唯一の希望がCIA右派の対露裏ネットワークによって正常な米露関係を取り戻すことで、それにはトランプ大統領の再選が鍵を握っています。バイデン政権が誕生すると、米露関係の修復は不可能でしょう。


──いきなり凄い話が出てきてビックリしました。これについては今後また詳しくお聞きします。中国はどうでしょうか?

ジェームズ 12月に台湾侵攻の可能性があります。アメリカ国内があのような状況であれば、トランプも対中国に注意を向けていられませんから狙ってくる可能性はそれなりにあると思います。


──じゃあ、尖閣はどうですか? 危なくないですか?

ジェームズ 尖閣の前に台湾です。図を見てください。

https://tocana.jp/2020/11/post_182546_entry_2.html


 台湾は第一列島線の要です。台湾の戦略的重要性は、1941年12月8日(日本時間)に大日本帝国海軍が真珠湾攻撃と同時に台湾基地から香港やフィリピンを奇襲攻撃したことに証明されています。台湾は東シナ海や南シナ海の島の中でも大きく、しかも中華民国の軍隊がすでに存在します。また、北京にとっては台湾は中華人民共和国の一部で、併合することが2021年の中国共産党結成100周年に向けての悲願です。台湾を取らないと尖閣への侵攻はやりづらいので、まずは台湾です。

 逆に言えば、台湾を攻めたら尖閣への侵攻はかなり現実味を帯びてきます。トランプ側からすれば、中国の侵攻は選挙のカオスを口実にスルーする可能性があります。なにしろ、トランプは撤退屋なので、台湾のような小国にアメリカ市民の犠牲を払う道理はないと考えます。一方、軍のほうは台湾を見殺しにすることにはほぼ100%反対すると思いますが、軍の最高指揮官はトランプなので、最終的な判断は大統領になります。台湾問題で米軍が引くことにより、日本等が戦うことになるので、トランプにはメリットがあります。


──日本と中国が戦争になるということですか!?

ジェームズ はい。台湾侵攻があればですが。そして、尖閣を守りたいのであれば、自分の国を守りたいのであれば、これからはもう自分で戦うしかないと思います。これはバイデンが大統領になっても同じです。民主党は中国寄りなので、裏で中国側につく可能性が高いですね。


──う〜ん、今までジェームズさんの予測は全部当たっていますからね。

ジェームズ アメリカのカオスが続き、しかも、国防長官に空白があると電撃侵攻もやれなくはないですから。そろそろ日本も自国の行く末を本気で考えないといけません。

 とりあえず、アメリカ、ロシア、中国、そして日本に関して、いま気にしておかなければいけない点はこのぐらいです。今後も次々出てくると思いますが、動きが早いので順次、速報していきます。

文=ジェームズ斉藤
https://tocana.jp/2020/11/post_182546_entry_3.html


▲△▽▼


プーチン大統領は神の申し子
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html

プーチン大統領
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/809.html

ロシア革命とは何だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/795.html

共産主義の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html

東西冷戦の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/719.html

ベトナム戦争の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/723.html

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/363.html

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと

ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと


ネオコンとはトロツキスト共産主義のことです。ですから、ネオコンにはユダヤ人が多いんです。

彼らは “民主化”の名の下に世界に戦争を輸出します。れが軍産複合体支持であり、シオニズム死守であり、世界民主化支持なのです。

“民主化”の中身が「ユダヤ・ファースト」のグローバリズムなのはそういうことです。

トランプ勝利が郵便投票で覆る可能性も!? 集計は不正だらけ、証拠も…暴動で今年中に大統領決まらない可能性
2020.11.04
https://tocana.jp/2020/11/post_181474_entry.html


ジェームズ 
米国民主主義はすでに崩壊しています。なにしろ、「Transition Integrity Project(TIP)」という組織の謀略文書には「determined campaign 」という文字がありますから。これは「揺るぎない決意に基づいたキャンペーン」という意味で、戦争のときのような、「死ぬか、生きるか、絶対に後退は許されない」といった行動のときに使われる意味合いの言葉です。

米国建国の父たちが危惧していた、民主主義の壊死が実際に起きようとしています。事実、いまの状況は南北戦争が始まったときとそっくりです。あのときは、南部州が「共和党のリンカーンを大統領として認めない。奴を大統領にするくらいなら出ていく」といって連邦から抜けていったんです。まさに、南北戦争前夜と言っていいでしょう。

──不思議なのが、なぜ、いまそんなことになっているんですか? アメリカ人たちは普通にやっていれば、何不自由のない生活ができるじゃないですか?

ジェームズ 裏で画策している人間がいるからです。それがさきほど言ったTIPです。メンバーはほとんどがネオコンユダヤ人で、彼らは911の前は「Project for the New American Century (PNAC)」と名乗っていました。アラブの春、シリア内戦、ウクライナ危機の前には「Foreign Policy Initiative (FPI)」という組織になっていましたが、メンバーはいまとほとんど同じです。

──ちょっと待って下さい。その言い方ですと、911やアラブの春、シリア内戦、ウクライナ危機にTIPは関係しているということですか?

ジェームズ はい、彼らが画策し、実行したといわれています。彼らは911の前にも報告書を出していて「真珠湾攻撃レベルの危機が冷戦後の堕落したアメリカにショック治療を与えるだろう」と書いています。

──それってまんま犯行予告じゃないですか!?

ジェームズ そうです。彼らのグループが長年、アメリカを分断に導いているのです。

──悪の親玉的な感じですか?

ジェームズ 普通のアメリカ人にすれば、そういえると思います。なにしろ、ネオコンユダヤ人には国という概念がありません。国よりも思想や理念のほうが大切なのです。なぜ、そうなったのかというと、共産ユダヤ人のレフ・トロツキーの亡霊に動かされているからです。


──トロツキーの亡霊!?

ジェームズ そうです。トロツキーは1929年にソ連から追放されたのち、30年代後半はアメリカで活動していました。ニューヨークで、同じくソ連から亡命してきたユダヤ系移民を集めて勉強会を開いていたのですが、そこでトロツキスト(=ユダヤ)共産主義の種が蒔かれたのです。

 トロツキスト共産主義は、あのコチコチの共産主義者のスターリンに「極左主義」と糾弾され、大粛清の対象にまでなった最凶の思想で、その目的は革命の永続による「世界のユダヤ化」です。ここでいう「ユダヤ化」とは世界の人民の家畜化で、トロツキスト共産主義は永続革命と全体主義思想によって米国を暴力で「ユダヤ化」し、米国民を家畜化するものです。

 そんなトロツキスト共産主義をトロツキー本人から叩き込まれたユダヤ系アメリカ人がアーヴィング・クリストルです。彼は「第四インターナショナル」の立ち上げにも参加しているゴリゴリのトロツキストで、アメリカのネオコンユダヤのドンの一人です。そして、このアーヴィングにはウィリアムという息子がいて、のちにパパ・ブッシュ政権時代のダン・クエール副大統領の主席補佐官を務めます。このウィリアム・クリストルが、ネオコン系シンクタンク「PANC」を作り、のちにTIPを作ったのです。だから、TIPはトロツキーの亡霊なのです。

──ということは、トロツキスト共産主義によってアメリカは混乱に導かれているってことですか?

ジェームズ ネオコンとはトロツキスト共産主義のことですからね。ですから、ネオコンにはユダヤ人が多いんです。彼らは “民主化”の名の下に世界に戦争を輸出します。それが軍産複合体支持であり、シオニズム死守であり、世界民主化支持なのです。“民主化”の中身が「ユダヤ・ファースト」のグローバリズムなのはそういうことです。

──いまの話で「ネオコン」というものがやっと見えてきました。

ジェームズ ここを理解しないと本当の世界は見えてきません。そして、本当の世界を理解するためにはネオコンユダヤの論理がわからないと見えないんです。かつて私はネオコンユダヤを直接理解する機会に恵まれたので、こうやって皆さんにお話しすることができるのです。ともかく、アーヴィング・クリストルの息子ウィリアム・クリストルが作ったPNAC、TIPはイラク戦争とカラー革命を画策し、親クリントン・反トランプ派としてロシアゲートをでっち上げている相当ヤバい集団です。ちなみに、2004年、ゴイ(非ユダヤ人や異教徒の意味)で両班朝鮮系の安倍さんが訪米したときには、呑気にアーヴィング・クリストルに敬意を評すパフォーマンスをしています。彼は価値観外交などキレイ事を言っていましたが、実際にはネオコンユダヤにかぶれ、日本外交を「ユダヤ化」したことはA級戦犯レベルだと思います。

──クリストルのほかに注目しておくべき人はいますか?

ジェームズ 作家のジョン・ポデスタとドナ・ブラジルですかね。ポデスタはクリントン陣営の選挙対策長をやっていた人物で、クリントン人脈ですから当然ペド好きの悪魔崇拝者です。米民主党元全国委員長のドナ・ブラジルも相当偏っています。なにしろ、9歳のときに公民権運動に目覚め、その年で有権者の家を回って投票を呼びかけている根っからの極左です。ほかのネオコンユダヤ人はウィリアム・クリストルの信者レベルです。こういった連中が大統領選挙を盗もうとしているのがいまのアメリカの状況なのです。ですから、今回の選挙はトランプ対ネオコンの戦いで、バイデンはすでに蚊帳の外と言ってもいいぐらいです。実際には来年、トランプになるか、ペロシになるかを見るべきものではないかと思います。

──う〜ん。アメリカ大統領選挙の底なし沼ぶりがよくわかりました。

文=ジェームズ斉藤
https://tocana.jp/2020/11/post_181474_entry_3.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
1. 中川隆[-10023] koaQ7Jey 2020年11月10日 16:58:36 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[26]
ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。

 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c1

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
2. 中川隆[-10022] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:02:10 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[27]
2020年09月13日
同胞の革命を支援するユダヤ人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68827456.html

ロシア革命の裏側

  「王朝潰し」と言ったら、ロシア革命がその典型だ。日本ではボルシェビキによる「ロシア革命」と言われているが、実際はユダヤ人極左による政府転覆、あるいは「ユダヤ人革命」と呼ぶべき殺戮行為だ。というのも、革命を実行した者、それを支援した者を調べると、矢鱈とユダヤ人が目立つことに気づくからだ。一般的に、レーニンは「ロシア人」と思われるが、実際はゲルマン系ユダヤ人とテュルク系ロシア人との混血で、ユダヤ人との自意識がどれほどあったのか判らないが、ユダヤ人はロシア人よりも優秀と見なしていた。共産主義者にはユダヤ人が実に多く、メンシェビキを率いたユリウス・マルトフ(Julius Martov)、永久革命を説いたレオン・トロツキー(Leon Trotsky)、カール・ラデック(Karl Radek)、レオニード・カシン(Leonid Krasin)、レフ・カーメネフ(Lev Kamenev)、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev)などが有名だ。例外はスターリンで、彼は「ヨセフ・ジュガシヴィリ(Ioseb Jughashvilli)」というグルジア人だった。

Leon Trotsky 4Karl Radek 3Leonid Krasin 1Grigory Zinoviev 4

(左 : レオン・トロツキー / カール・ラデック / レオニード・カシン / 右: グリゴリー・ジノヴィエフ )

Lenin 2( 左 / レーニン )
  所謂「ロシア革命」を検証する際に注目されるのが、ユダヤ人革命家と金融資本家との関係だ。なぜ、レーニンやトロツキーをウォール街の金持ち連中が支援したのかイマイチ解らない。社会主義政権の誕生となれば、民間企業の所有物だって政府に没収されるか政府の管理下に置かれるわけで、富裕層なら真っ先に反対するはず。そもそも、官僚による計画経済だから、市場経済の扼殺となってしまうじゃないか。したがって、私有財産を重視する大企業の大株主や経営者なら、たちどころに激怒するはずだ。でも、どうして裕福なユダヤ人は敵であるはずの共産主義者を金銭的に支援したのか? 例えば、ドイツ系ユダヤ人で投資金融家のポール・ウォーバーグ(Paul Moritz Warburg)やその兄弟であるフェリックス(Felix M. Warburg)やマックス・ウォーバーグ(Max M. Warburg)、「クーン・ローブ社(Kuhn, Loeb)」のヤコブ・シフ(Jacob H. Schiff)とその相棒であるオットー・カーン(Otto Hermann Kahn)、武器商人のアレクサンドル・パルヴス(Alexander Parvus / 本名 Israel Lazarevich Gelfand)は、革命家の新政府を助けていた。

Paul Warburg 002Felix Warburg 1Alexander Parvus 01Otto Hermann Kahn 1

( 左 : ポール・ウォーバーグ / フェリックス / アレクサンドル・パルヴス / 右 : オットー・カーン )

Jacob Schiff 8(左 / ヤコブ・シフ )
  西洋史の授業を取る日本の高校生や大学生は、思考能力や批判精神が欠落しているので、やっていることは受験勉強の延長だ。羅列された年号や人物名を暗記したり、内容抜きで条約や法令、社会制度の説明を受ければ満足する。一方、世間知らずの学校教師は、実社会に存在する裏取引とか銭の受け渡しなんか解らないから、外人学者が述べたことを紹介し、罪悪史観を刷り込むことで精一杯。どうして日露戦争の時、ヤコブ・シフが劣勢の日本へ資金を提供したのか、そして同じ人物が今度は、日本の敵となるボルシェビキに2千万ドルもの大金を譲与したのかを説明する事はない。貧しいプロレタリアを助けようとするトロツキーが、米国の資本家から財政的支援を受け、1917年にペトログラードに帰った時は、1万ドルの旅費を持っていたのだ。(当時の1ドルは現在のドルに比べ約20倍強もの価値があった。)

  第一次世界大戦中、ロシアと組んでいたブリテンは、レオン・トロツキーの動きを監視していて、トロツキーがカナダで逮捕された時、ブリテン政府は直ぐさま彼を釈放するようカナダ政府に働きかけていた。カナダ側はトロツキーをドイツのスパイと考えていたので、ブリテン政府の意向を理解できない。なぜなら、トロツキーはロシアにおける内乱を画策する不逞分子で、ブリテンにとったら「邪魔者」となるはず。それなのに、なぜか「釈放せよ」との命令が来る。しかも、米国のウッドロー・ウィルソン大統領がとても“親切”で、トロツキーがすんなりとロシアに帰国し、革命に奔走できるようパスポートを渡していたのだ。これはブリテン経由でロシアに入国できる米国旅券であったという。(Anthony C. Sutton, Wall Street and the Bolshevik Revolution, Arlington House, New York,1974, p.25.)

  ここで興味深いのは、ブリテン諜報部の米国支局長を務めていたウィリアム・ワイズマン卿(Sir William Wiseman)で、彼が住んでいたアパートには、ウィルソン大統領の補佐官であるエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandel House)が住んでいた。ちなみに、このハウスは軍人ではないが「大佐(Colonel)」と呼ばれ、まだニュージャージーの州知事だったウィルソンをスカウトし、ホワイトハウスに送り込んだ側近(導師)として有名だ。合衆国大統領というのは側近に操られることが多く、フランクリン・ローズヴェルト大統領を思い出せばよく分かる。FDRに囁くハリー・ホプキンス(Harry L. Hopkins)は有名で、ユダヤ人の取り巻きがゴマンと居た。ウィルソン大統領にも仕えた補佐官のバーナード・バルーク(Bernard M. Baruch)、ソ連のスパイだった補佐官のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)、財務長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)、最高裁判事のフェリクス・フランクファーター(Felix Frankfurter)、ポール・ウォーバーグの息子であるジェイムズ・ウォーバーグ(James Paul Warburg)などがズラリ。

Edward Mandell House 2Bernard Baruch 5James Paul Warburg 11Henry Morgenthau 22


(左 : エドワード・マンデル・ハウス / バーナード・バルーク / ジェイムズ・ウォーバーグ / 右 : ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア )

  一般の歴史家はユダヤ人富豪が資金提供をした理由として、「ロシアで迫害を受ける同胞を助けるため」としているが、本当はユダヤ人がロシアを支配し、そこから米国の同胞が巨額の利益を得るためだろう。かつてデイヴィッド・ロックフェラーが喝破した通り、財閥系ビジネスマンや国際資本家にとって「競争は悪で、独占は善」である。例えば、石油業界に10社ないし20社が参入し、薄利多売の競争をすれば各社の利益は思ったように伸びず、ヘタをすれば「共食い状態」となってしまうだろう。消費者が「得」をするなんて我慢できない。それよりも、「スタンダード・オイル社」が競争相手を叩き潰し、1社で市場を独占すれば巨万の富が手に入る。油田のある原産国と流通経路、それに加えて消費地域を支配すれば、価格設定は思いのままで、他の石油会社を探せない一般人は独占価格に従うしかない。これは穀物市場やレア・メタルの業界でも同じ。歐米の石油メジャーが中東アジアとロシアを牛耳れば、日本は手も脚も出ず、官民揃って土下座となり、「売って下さい !」と頼むしかない。

  グローバリストの冒険商人は独裁国が大好きだ。なぜなら、交渉の窓口が1つであり、独裁者とだけ合意に達すれば、後で厄介な問題は持ち上がらないからである。もし、ロスチャイルド家やロックフェラー家の番頭がロシアの石油や鉱物に目をつけ、独占的に採掘しようと考えれば、レーニンやスターリンとサシで話をつければいい。独裁者にとっては金銭と権力の維持が最優先なので、莫大な利益が転がってくるなれば食指が動く。一旦交渉が纏まれば、後はシメたもの。採掘による環境破壊なんて心配ないし、労働組合のストライキも無いから、歐米の資本家はやりたい放題だ。民衆政で選ばれた大統領でも、暴君の如き書記長でも、所詮「金に弱い俗人」だから、ユダヤ人ビジネスマンは「札束ビンタ」で相手を支配できる。ところが、世襲の義務に忠実な王侯貴族だと、この「札束ビンタ」が効かないことがあり、逆に猜疑心を招いてしまう。場合によったら、追い出される虞(おそれ)もあるのだ。ニコライ2世のような専制君主は狡猾で用心深いから、「旨い話」で近づいてくるユダヤ人を警戒し、彼らの魂胆を即座に見抜く。そもそも、皇帝や国王は成金の外人が自国にやって来て、先祖伝来の領土を好き勝手に荒らすことを好まない。国家と自分が一体となっているので、売国は売春と同じことになってしまうのだ。

Armand Hammer 01(左 / アーマンド・ハマー)
  ウォール街の野心家を知っているレーニンは、革命に資金を流すユダヤ人の狙いを解っていた。だから、レーニンはその強欲さを利用して自分の基盤を固めようとしたのだろう。この共産主義者はロシア系ユダヤ人のビジネスマンであるアーマンド・ハマー(Armand Hammer)と面会したことがある。ハマーは自伝を書いているが、レーニンと面会した時のエピソードは実に面白い。ちなみに、ハマーは元々医学部卒の青年であったが、父親の出身国であるロシアの惨状を知り、医療や食料の支援を決心したそうだ。この慈善行為にソ連の外務局が注目し、ロシア系アメリカ人の共産主義者でソ連に住むボリス・レインスティンが仲介者となり、ハマーはレーニンと会うことになったらしい。

  1928年当時のソ連は経済的に疲弊したので、「ネップ(NEP / 新経済政策)」を導入し、国民経済の蘇生を図っていた。1921年にハマーが訪れた時のソ連は目も当てられぬほどの状態で、貧困や飢餓で国民生活はボロボロだ。街の中心部でも人通りが少なく、時折、荷車や古い馬車が通る程度。自動車なんか稀である。人々はボロを着ており、靴下や靴を履いている者はほとんどいなく、薄汚れた布で足をくるんでいるだけ。中にはフェルトのブーツを履いている者もいたが、大半の子供は裸足だった。社会主義の理想郷が出現したというのに、街では一人として笑顔の者は見当たらず、みんな意気消沈。ただし、通行人の中には、皮のコートに膝下の半ズボン、編み上げ靴と軍服姿の人物がいたそうだが、それは共産党の役人だった。(アーマンド・ハマー 『ドクター・ハマー / 私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』 広瀬隆訳、ダイヤモンド社、昭和62年、p.93) 青白いロシア人に驚くハマーがエカチェリンブルクを訪れた時には、恐ろしい飢餓が蔓延しており、大勢の国民が苦しんでいた。

ハマーは色々な地域を廻ったそうで、ウラル地方で出逢ったある老人は、黙々と松の木材をノコギリで挽いていた。彼が「何をやっているんだ?」と爺さんに尋ねると、この老人は「自分の棺桶を作っているところだ」、と答えたそうだ。なぜなら、あと三週間の食料しか残っていないから、自分が死んだ時、犬っころみたいに土の中へ直に埋めらるのは真っ平御免。だから、こうやって今、自分用の棺桶を作っているんだ」と述べたらしい。(上掲書、p.108.) こうした惨状を目にしたハマーは、米国で安くなっていた小麦を取り寄せることにした。後日、百万ドル相当の穀物がウラル港に届けられると、これを目にしたロシア人は感動し、ハマー青年に拍手喝采だった。

  ソ連の赤い皇帝は、このユダヤ人青年(23歳)に着目し、彼に会うことにした。たぶん、ハマーを梃子(てこ)にして、アメリカの資本家を導こうとしたのだろう。ハマーによれば、レーニンはアメリカとロシアが助け合うことを強調したそうだ。レーニン曰わく、

   本当に我々が必要としているのは、ロシアの車輪をもう一度回転させるための、アメリカの資本と技術援助なのです。(上掲書、p.118.)

  新経済政策(ネップ)でロシアの経済的潜在能力を引き出したいレーニンは、アメリカ商人へのインセンティブを考えていた。きっと強欲な外国人には「旨い汁」が必要と考えていたのだろう。レーニンは言う。

   我々は外国人に商業や工業の営業許可を与え、ネップを迅速に進めたいのです。(上掲書、p.119)

  歐米の金融業者や貿易商にとって独占的営業権は垂涎の的である。ハマーが指摘したように、ロシアには世界最大級の鉱物資源が眠っており、天然ガスや石油はもちろんことこ、プラチナ、エメラルド、石綿、銅などの宝庫である。現在でもロシアの天然資源は魅力的で、パラジウム、ニッケル、マグネシウム、ボーキサイト、ウラン、コバルト、黒鉛、珪藻土、ゴールドに目を奪われるビジネスマンは結構多い。だから、外国で青い鳥を求めるアメリカの富豪連中が、あれやこれやと共産党政府を支援し、金の卵を産む赤い鳥を独占したいと思うのは当然だ。後に、大手石油会社のオキシデンタル・オイル」を所有するハマーも、ソ連との人脈を大切にし、米ソを結ぶ政商として活躍する。

  「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人について説明すると長くなるので、ここでは省略する。(ユダヤ人の活躍については、別の記事で紹介したい。) とにかく、グローバリストは大金を使って政治家を手懐け、子飼いにされた政治家は有権者ではなく御主人様のために働く。主要メディアは貯金箱から10ドルを献金した少女の話を美談にするが、現実の政治は1億ドルを寄附したパトロン、あるいは100億ドルの裏献金をした大富豪が操る。10ドルや20ドルといった端金(はしたがね)を100口集めたって、下院議員や上院議員は動かない。せいぜい、新聞記者やテレビ局員を呼んで、子供達と笑顔の記念写真を撮るくらいだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68827456.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c2

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
3. 中川隆[-10021] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:11:36 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[28]
スターリンは独立の悪党だった 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68694588.html

信仰より現世を選ぶ神学生

  国家総力戦が起こった第20世紀には、それに相応しい梟雄(きょうゆう)が謀略を張り巡らしていた。その中でも、一、二を争う悪党と言えば毛沢東とスターリンである。一般的に、ユダヤ人や西歐人はヒトラーを巨悪の代名詞にするが、本当に兇悪なのはロシアの独裁者と支那の赤い皇帝だ。ユダヤ人の虐殺数から言えば、スターリンの方が遙かにヒトラーを上回るし、チャーチルとローズヴェルトを手玉に取り、ソ連を超大国に仕立てた暴君の奸智は“超一流”としか言い様がない。戦争というのは政治「目的」を達成する為の「手段」であり、武力を使った「外政」の「延長」だから、最終的に戦争目的を達成した者が“勝者”である。大英帝国を没落させたチャーチル首相は、戦闘で勝ったとはいえ、外政上の「敗者」であるし、ソ連の東歐征服を助けたトルーマン大統領も「敗者」の側に片足を突っ込んでいるから、「勝者」とは言いづらい。翻って、毛沢東は日本軍対して劣勢だったけど、政治力学の秀才だったから、漁夫の利を得て「勝者」となった。この極悪人は単細胞の日本人を利用して蔣介石を追放し、宏大な支那大陸をまんまと手中に収めたんだから大したもんだ。一方、満座の席で笑われるのが我が国で、運搬方法も考えぬまま石油獲得のために東南アジアへと進出し、「大東亜解放」という妄想を叫んで米国と闘ってはみたものの、見事に惨敗。アジア諸国が独立できても、我が国は軍隊を失い、米国の属州になって未だに立ち直れない。深田祐介の解放論は「日本」を忘れているのだろう。 日本人は「自国の独立」を最優先にすべきだ。

Harry Truman 3Stalin 3winston churchill 3
(左: ハリー・トルーマン / 中央: ヨシフ・スターリン / 右: ウィンストン・チャーチル )

  第二次世界大戦で“最大の果実”をもぎ取ったスターリンは、毛並みの良い貴族でもなければ、名門大学出の御曹司でもなかった。後に「スターリン」と呼ばれるヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリは、1879年、グルジアにある「ゴリ」という町が故郷で、靴職人を営むヴィサリオンとその妻エカチェリーナとの間に生まれた。1879年と言えば、明治12年だから、スターリンは小説家の正宗白鳥や作曲家の瀧廉太郎、物理学者のアルバート・アインシュタインと同世代の人物となる。なるほど、同級生となるマルキストの河上肇はラッキーだろうが、大正天皇がお生まれになった年でもあるから、我々としては不愉快で気分が悪い。他人の命を平気で奪ったスターリンは結構しぶとく、1953年(昭和28年)に74歳で亡くなっているから、天の摂理は何とも不条理だ。大正天皇は1926年に崩御されたのに、この極悪人は吉田茂のバカヤロー解散くらいまで長生きしたんだから。


Stalin 6(左 / 青年時代のスターリン )
  スターリンと言えば泣く子も黙る大虐殺の達人であったが、少年時代はそれと全く異なり、周囲も認める優秀の神学生であった。世の中に尽くした偉人と同じく、悪党の経歴というのも意外性に満ちている。幼い頃、「ソソ」と呼ばれたスターリンは、病気ばかりしている虚弱児で、左腕が右腕よりも短く、その右腕すら動かすのがやっとの少年であった。ソソが母親から受け継いだ言葉はグルジア語であったが、ロシア人の友達と遊んでいたので自然とロシア語を流暢に話せるようになったらしい。彼が10歳の時、母のエカチェリーナは息子をゴリの神学校に入れようと思い、受験準備をさせたところ、ソソは優秀な成績で合格したという。しかも、月額3ルーブル50ペイカの奨学金まで得たというから、トップ・クラスに属する生徒であった事は間違いない。(バーナード・ハットン 『スターリン』 木村浩訳、講談社学術文庫、1989年) 学級で一番の優等生になったソソは、記憶力が抜群に良かったというから、小さい頃からギャングの親玉になる素質があったのだろう。

  世界を揺るがす独裁者が、幼い頃とはいえ、教会で賛美歌を独唱していたなんて冗談みたいな話だが、冷酷な革命家で神学校出身の人物は珍しくない。例えば、フランス革命で指導的役割を果たしたマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien F. M. I. de Robespierre)は、オラトリオ修道会の神学校を経て、パリのルイ・ル・グラン学院に入ったし、権謀術数を駆使して警察長官にまで上り詰めたジョセフ・フーシェ(Joseph Fouché)も、オラトリオ修道会の神学校に通い、結構な知識を身につけた姦雄の一人であった。(このフーシェという革命家は煮ても焼いても食えない奴で、シュテファン・ツヴァイクの伝記に詳しいが、本当に狡賢い“クセ者”である。) 地元の子供と変わりなく神学校に通うソソであったが、彼の関心は天上の来世ではなく、地上の俗世であった。ソソは旋毛(つむじ)に悪魔の刻印が出来る前に、民族意識が目覚めたようで、祖国解放の気概に満たこの少年は、友達を前にしてグルジア民族の英雄である「コバ」を讃えたそうだ。そして、自らもコバに倣い「民族解放の闘士になるんだ !」と息巻いていた。

Robespierre 2Joseph Fouche 2Karl Marx 1
(左: ロベスピエール / 中央: ジョセフ・フーシェ / 右: カール・マルクス )

  こうした野望に燃えた少年が退屈な聖書や神学書に没頭するはずがなく、少年「コバ」が好奇心を示すのはロシア政府から禁じられていた書物であった。彼は手当たり次第に図書室の本を貪り読んだそうで、バルザックの『人間悲劇』からヴィクトル・ユーゴーの『九十三年』、さらにカール・マルクスの『資本論』へと目を通していたそうだ。こうして、禁書と革命に興味を抱いた神学生は、次第に政治活動へと傾いてくる。彼はマルクス主義グループを組織するようになり、この集団に『ブルゾーラ(闘争)』という名前をつけると、その指導者になってしまった。メンバーは危険を避けるため、各人が匿名を用い、ソソは以前から憧れていた「コバ」の名前を選んだそうだ。

Kamenev 3(左 / カーメネフ)
  スターリンは神学生であったが、聖人が伝えた有り難い福音より、破壊分子の荒々しい雄叫びに興奮した。関根勤のギャグじゃないけど、「納得!」と言いたい。スターリンにとって、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という教えは、ナンセンスどころか愚の骨頂だ。それよりも、「憎い圧制者を容赦無く打倒せよ !」とか「刃向かう者は皆殺しにしろ !」というスローガンの方が似合っている。社会主義と暴力革命に馳せ参じるスターリンは胸がときめき、「これが我が人生 !」と生き甲斐を感じていたんじゃないか。今では、東大の赤い学生でも「将来の職業は?」と訊かれて、「職業革命家です!」と答える馬鹿はいないけど、ロマノフ王朝時代のロシアでは、そこら辺に赤ヘルの卵がゴロゴロいた。敵をぶっ倒すことで生きて行けるなら、スターリンにとって格好の天国だ。「陰謀」と「暴力」は彼の十八番。破壊活動やストライキに参加して、官憲に追われる姿も結構「絵」になっている。ちなみに逃走中、スターリンは後に夫人となるナジェージタと出逢っていた。そして、この「お尋ね者」は若きジャーナリストのレフ・ボリソヴィッチ・ローゼンフェルド(Lev Borisovich Rozenfeld / 後のKamenev カーメネフ)に匿われていたのである。(ちなみに、カーメネフはユダヤ人の父を持っていた。ロシアの革命分子にはユダヤ人が多い。)

犯罪者に向いている革命家

  人には「向き不向き」というものがあるようで、チフリスの神学校を去って社会民主党に移ったコバは、メキメキと頭角を現すようになり、22歳で党の指導的地位にまで昇ることができた。彼の才能は犯罪で開花する。例えば、コバは党の発展のためにも秘密出版所が必要であると悟っていた。しかし、あいにく党の金庫は空っぽで、印刷用の設備すら“無い”ときている。せっかく、グルジア語やアルメニア語、トルコ語、ロシア語のパンフレットを作成できるのに、それを刷ることができないなんて残念。だが、そんなことでヘコたれるコバではない。この策略家は、「お金や機械が無ければ、どこからか調達してくればいい」と考える。ある日、裕福なアルメニア人印刷業者の工場に強盗が入り、活字ケースや印刷機が強奪されるという事件が起きたそうだ。すると、「あら不思議 !」、コバのところに秘密印刷所が出来ました。(上掲書 p.28) さすが、スターリンは機転が利く。

Joseph Stalin 1(左 / 若い頃のスターリン )
  盗みが得意だったコバは、脱走の名人でもあった。官憲に目を附けられたコバは、ある事が切っ掛けで逮捕されてしまい、シベリアにある「ノーヴァダ・ウヤ」という僻地に流刑となる。だが、党の仲間から二年前に死亡した絨毯商、ダヴィド・ニジェラーゼ名義の旅券を手に入れ、その村を脱出することができた。人間の心理を察知するのが上手いコバは、クリスマス・イヴに脱走を図ったという。なぜなら、その神聖な夜であれば、どんな連中も仕事を放り出し、職務そっちのけで酔っ払うに違いないと踏んだからだ。確かに、ロシア人ならウォッカをがぶ飲みしてドンチャン騒ぎというのが目に浮かぶ。お祭りの日に真面目に働くロシア人なんて想像できない。今だって、サッカーやアイス・ホッケーの世界大会があれば、仕事をズル休みして会場に駆けつけるんじゃないか。それにしても、スターリンは強靱な体を持っていた。安全地帯のマカーロフ村まで20マイルもあるのに、極寒の中、気が遠くなるほどの道のりを歩いたんだから。しかも、途中には空腹を抱えた狼や熊までいたというから、いくら猟銃を所持していたとはいえ、随分と危険を冒したものである。スターリンの評伝によると、寒風吹きすさむ中、コバの足は痺れ、肌を突き刺す冷気で凍死寸前だったというから、悪人というのは本当に運が強い。

Leonid Krasin 2(左 / レオニード・クラーシン)
  ボリシェビキときたら威勢だけは良かったが、肝心の活動資金に困っていた。そこで、レーニンの腹心だったレオニード・クラーシン(Leonid B. Krasin)が「チフリスの国立銀行を襲って、金を奪ったらどうでしょう?」と提案したそうだ。この「解決策」を実行するに当たり、白羽の矢が立ったのはコバ。というのも、彼以外、適役がいなかったからだ。要請を受けたコバは軍資金として50ルーブルをもらい、ダヴィド・チジコフという偽名まで用いて故国へ派遣されることになった。大規模な強奪計画を練り始めたコバは、チフリス銀行が頻繁に100万から200万ルーブルに上る現金を輸送する事に着目し、彼はこの点を突くことにしたという。待望の掠奪行為はある早朝に実行された。武装したコサック隊は銀行を出発した貨物運搬車を襲撃し、護送車からの反撃を受けるも、34万1千ルーブルの現金と、農業銀行の国庫債券、株券、鉄道債券などを強奪したという。

  ところが、奪った金は危険過ぎて直ぐには使えなかった。なぜなら、掠奪したお札が全部、高額紙幣の500ルーブ札で、おまけに、全部が続き番号の紙幣であったからだ。当時のロシアでは、1ルーブル紙幣1枚あればお金持ちと見なされていたくらいだから、500ルーブル紙幣なんて使ったら大変だ。コバたちは警察当局の捜査が打ち切られるのを待ってから、その紙幣や債権を国外に持ち出し、「リトヴィノーフ」の偽名を持つワラッフがパリで処分るはずであった。しかし、「リトヴィノーフ」はこの段取りを実行できず、あっさりと官憲に捕まってしまった。警察はダヴィド・チジコフという男が事件に関与していると察知したが、その容疑者がコバであることまでは判らなかったという。

  コバはコーカサス刑事捜査部に務める友人から、この捜査情報を渡されので、偽名を用いて旅券を手に入れると、さっそく高飛びを図った。しかし、誰かの密告により捕まってしまう。この不運な男はロシアの極北地、ソリビチェゴッツクという町に送られてしまうが、またもや偽名旅券を手に入れ脱走できた。まったく、要領がいいというか、狡賢いというか、窮地に立たされても何とか抜け出してしまうんだから、スターリンは根っからの犯罪者である。巣鴨プリズンに収容されたA級戦犯は、みんな“しょげていた”というから、ちっとはスターリンを見倣うべきだ。ただし、服役者の中で岸信介だけが元気だった、というから長州出身の「元革新官僚」で、「昭和の妖怪」と呼ばれた豪傑は桁が違っていたのだろう。

  バクーに戻ったスターリンは、壊滅状態にある党組織を目にする。大部分の指導者が警察に逮捕されていたし、党を運営する資金も底をついていた。でも、スターリンには心強い仲間がいた。といっても、強盗犯や前科者ばかりだったけど。お金が欲しいスターリンは、商店主や銀行家、実業者などりリストを作り、党に「献金」してほしいと“鄭重”に頼んだそうだ。しかし、この「お願い」拒み、警察に訴える者がいると、「お礼参り」があったという。つまり、こんな「階級の敵」には容赦せぬとばかりに、ゴロツキどもが商店や邸宅を破壊したそうだ。それにもし、被害者がこの「仕返し」を警察に訴えようとすれば、「お前ばかりか、テメエの家族まで命をもらうことになるぞ」と脅したそうだから、何とも念が入っている。ロシア人やグルジア人の恐喝って、ヤクザの因縁よりも怖い。なんかエメリアエンコ・ヒョードルみたいな用心棒が出て来そうだもん。そう言えば、K-1チャンピオンのセーム・シュルトを破ったセルゲイ・ハリトーノフは驚愕を越えた恐ろしさを味わっていた。試合中、彼がシュルトの首に馬乗りとなり、その顔面に鉄槌を下したことがある。ハリトーノフの顔には、必殺仕掛人でさえ怯えるほどの狂気があった。案の定、シュルトの顔は鮮血まみれ。外人の格闘家さえ、そのドス黒く紫色に変わった顔面に驚き、ゾっとするような戦慄を覚えたくらいだ。ロシア人と比べたら、日本人の格闘家なんて温和な好青年である。

娼婦を搾取する共産主義者

  銀行強盗を実行したスターリンは、別の資金集めにも熱心だった。今度は売春宿の経営だ。彼は警察のブラックリストに載っているラヨス・コレスクと一緒に売春宿を切り盛りすることになった。スターリンは娼婦らに街頭や報酬の悪い所で商売せず、自分達のもとに移るよう説得したそうだ。やがて彼の売春宿は、チフリスでも、バクーやバツームでも大繁盛となった。女たちは体を売って得た料金の1割をもらい、コレスクは宿の運営、女たちの扶養、自分の取り分などを含めて5割を受け取り、残りの4割をコバに渡したそうだ。(上掲書 p.45) ところが、こうして売上げの一部を得ていたコバは、“ちゃっかり”と店の常連客になっていたというから、何とも図々しい野郎である。まぁ、後にローズヴェルトやチャーチルを騙すことになるんだから驚かないけど、“抜かりの無い”コバは、こっそりと上納金の一部をピンハネしていたそうだ。学校の先生は教えないけど、陰で“ほくそ笑む”スターリンって、とても「絵」になっている。

  仕事と趣味を両立してコバは満足だったが、この噂を聞きつけたレーニンは眉を顰めたという。そりゃ、そうだ。建前でも、一応、革命家たちは「人間による人間の搾取」に反対していたのだ。それなのに、当の革命家が娼婦の生き血を啜って肥え太っていたのでは世間体が悪い。(コバ自身はそんな矛盾をちっとも「悪い」とは思っておらず、娼婦の搾取など当然と考えていた。さすが、極道のスターリンは生きている次元が違う。) また、売春宿の運営実態は不透明で、帳簿や領収書も無かったから、党はコバの差し出すお金を黙って受け取るしかなかった。したがって、誠実なボルシェビキ党員がコバの遣り口を非難したのも当然だ。レーニンはコバ宛に手紙をしたため、売春商売が党の名誉を傷つけていると非難したそうだ。綺麗事を好むインテリのレーニンは、自分でお金を稼がないくせに、スターリンが売春で仕送りしている事に文句を長けていたんだから、何となくスターリンの方が偉く思える。

  レーニンから書簡を受け取ったコバは、怒れる党の指導者に返事を送り、自分は売春宿を悪いとは思っていないと述べ、むしろ女たちを以前よりも良い状態で暮らせるようにしてやったのだ、と自慢したそうだ。なぜなら、娼婦たちは雨の日も風の日も、通りに出ては客を拾い、警察にしょっ引かれる心配をしながら営業していたのだ。しかし、今ではそうした不安に怯えることもなく、ちゃんとした家に住み、まともな食事を取れるようになった。こうした改善を施してやったのだから、「いいじゃないか」というのがコバの主張である。こう聞くと、コバの言い分にも一理あると納得してしまうから不思議だ。まるでスターリンが慈悲深い元締に見えてくる。といっても、山口組の田岡組長とは違うぞ。ある新聞記者が、スターリンの売春業を記事にしようとしたらしい。すると、「自分の関係無いことに首を突っ込むな !」と怒鳴られ、「お前とお前の家族も皆殺しにするぞ !」と脅されたそうだ。それ以来、誰一人としてこの件を明るみに出そうとはせず、警察も女たちが口を割らないため介入できなかったという。

Lenin 2Trotsky 2Wilhelm II
(左: 若い頃のレーニン / 中央: トロツキー / 右: 皇帝ウィルヘルム2世)

  ボルシェビキ党は定期的に資金を得ることができ、各種の出版物やパンフレットをばらまくことが出来るようになった。しかし、コバは「党に大打撃を与える事になる」というレーニンの忠告に耳を傾け、これからは彼の指令通りに従うことを約束したそうだ。コバはコレスクと話をつけ、方々の売春宿に足繁く通うことを止めたという。その代わり、彼は別の資金源を開拓した。街頭で「他人に頼らず稼ぐ」娼婦たちの為に、「保護事業」なるものを起こし、コバは喜んで「保護者」になるという前科者を集めたらしい。この連中は町を巡回し、娼婦から稼ぎの上前をハネて、その一部を党に上納したそうだ。でも、これって間接搾取じゃないのか? つまり、サラリーマンの源泉徴収みたいなものだ。企業の会計係が社員の給料から税金をピンハネし、この「抜き取った金」を税務署に上納する。税務署の役人は自らの手を汚さず、“きっちりと”年貢を集められるから楽なもんだ。

  スターリンはとんでもない悪党だけど、ある意味、レーニンやトロツキーなんかより凄い。なぜなら、お金に困れば“自力”で工面したからだ。口ばかりが達者な党の幹部連中は、活動資金を資本制国家の金融業者に求めた。レーニンたちが革命を達成するため、ドイツの皇帝と銀行家に頼ったことは有名だ。ドイツに店を構えるウォーバーグ銀行のマックス・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)は、カイゼルに資金提供の話を持ち掛け、ロシアの内乱を拡大したかったカイゼルはこれを諒承する。ドイツ政府は充分な資金を用意して、レーニンとその取り巻き連中を安全にスイスからロシアに輸送する手筈を整えた。この資金調達のために動いたのは、マックスの弟であるポール・ウォーバーグ(Paul M. Warburg)であり、彼とパートナーを組むヤコブ・シフ(Jacob Schiff)、そしてウォール街の国際金融家であった。(この経緯は、アンソニー・サットン教授の『ウォール街とボルシェビキ革命』に詳しい。) 本質的に、“ロシア”革命は“ユダヤ人”の金貸しと扇動家によって画策された政府転覆事業である。ヤコブ・シフから軍資金を調達できた日本人は「誠に有り難う御座います」と感謝していたが、シフにとっては憎いロマノフ王朝を倒すための、便利な「駒」に過ぎなかった。ポグロムでユダヤ人を殺すロシア人に仕返しをする為なら、いくら大金を使っても惜しくはない。たとえ、我が国が日露戦争で勝てなくても、相当なダメージを与えたはずだから、シフとしてはおおよそ満足だろう。ユダ人の大富豪にしたら、日本なんて使い捨ての消耗品である。かくも現実は冷酷で厳しい。

Max Warburg 1Paul Warburg 1Jacob Schiff 1
(左: マックス・ウォーバーグ / 中央: ポール・ウォーバーグ / 右: ヤコブ・シフ )

  一般的に、インテリというのは口舌の徒で、演説は上手いが銭儲けに関しては素人だ。しかも、勇ましいことを述べても、いざ腕力で勝負となるや尻込みする。その点、スターリンは武闘派の革命家で、資金が無ければ強盗になるし、売春婦を使ってでも小銭を稼ごうとする。暗黒街で暮らしたスターリンにとっては殺人だって朝飯前だ。このような犯罪者は、実際にナイフを持って人の腹を刺し、グリグリと刃物を回転させ、腸をズタズタに切り刻む事ができる。鮮血で濡れた手を見ても驚かず、帰って喜びを感じるのがスターリンみたいな男だ。この独裁者と比べたら、卑怯者の菅直人や、機動隊にボコボコにされた全共闘の学生、ソ連の赤軍を待ち望んだ野坂参三や宮本顕治なんか、母親の背後に隠れる稚児に等しい。日本の左翼には自分で自分の運命を切り開く気概が無いのだ。スターリンはレーニンのように銀行家に「借り」を作らず、独立不羈の革命家を目指した。このレーニンが病に倒れれば毒を盛って暗殺するし、邪魔になったトロツキーは奸計を用いて排斥しようとする。自分にとって危険な者は誰でも抹殺し、ちょっとでも障碍となれば粛清の対象にしてしまうんだから、ロシアの君主になる奴は只者じゃない。観念的な共産主義に憧れた近衛文麿は、本当に世間知らずの「お公家さん」だった。近衛家のお坊ちゃんには、人殺しや強盗など出来ないし、任せることさえ出来ない。『ゴッド・ファーザー』のドン・コルレオーネ役には、マーロン・ブランドーじゃなくて、ヨシフ・スターリンが適役だったのかもね。でも、アカデミー賞を授与するユダヤ人は複雑な気持ちだろうなぁ。  
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68694588.html


▲△▽▼


〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者スターリンの狂気と悪夢〜


 20世紀は、戦争と革命の世紀だと言われている。国家の利害関係とイデオロギーが激しく火花を散らせてぶつかり合った世紀であった。事実、世界の各地で数えきれない革命や戦争が起き、多くの人間が犠牲となった。世界の半分以上を巻き込んだ二つの世界大戦は、何千万という人間の屍の山をいくつも築き上げ、計り知れない悲劇を生んだ。

 同時に、20世紀は、悪名高き独裁者が数多くあらわれた時代でもあった。しかし、ここに、異常なまでの人間不信と権力への飽くなき欲望を持ち、殺戮に明け暮れた独裁者がいた。彼の狡猾で冷酷非情な性格は、その後の世界史の行方を大きく左右し、その影響は今日も続いている。彼、スターリンこそは、ヒトラー以上の狂気を持ち、ヒトラーの悪業と比べても何ら見劣りしないばかりか、その殺戮した人間の数ではヒトラーをはるかに上回るのである。彼こそは、20世紀最大の狂気の殺戮者と言っていいだろう。

 ヨシフ・スターリン・・・彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、スターリンという名は、党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に考えたペンネームである。スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、考案者はレーニンだと言われる。ジュガシビリは、1879年12月21日、グルジア地方の貧しい靴直し職人の子供として生まれた。グルジアは、コーカサス南麓と黒海に挟まれた地域で、気候が温暖ながらも変化に富んだ地形は、現在でも風光明媚な名所として知られている。

 彼が生まれた家は、大変、狭く台所と小さな部屋が一つしかなかった。しかし、みすぼらしい窓から見える景色は絶景だった。

 コーカサスの雄大な景色が一望出来たのである。その上、春になれば、ラベンダーが山肌一面に咲き乱れ、印象派の絵画を見るようだった。そうした、美しい自然環境のもとで、彼は、三番目の男の子として出生した。

 上の二人の兄は、誕生して半年ほどで死んでしまっていた。それだけに、ジュガシビリが誕生した時は、母親は、特別な思いを持って育てられた。

グルジア地方の夏の景色(古い絵はがき)

 しかし、母親の期待に反して、彼は病気ばかりする虚弱児であった。しかも、彼は不具であった。少年時代に発病した天然痘により、左足の二つの指はくっついたままで、左腕もほとんど動かすことさえ出来ず、まるで義手をつけているようだった。顔にも無数の瘢痕があり、風采の上がらない小男であったという。

 母親は、将来、我が子を神学校に入れて神父にさせたかったが、十代後半から社会主義運動に異常な興味を持ったジュガシビリは、母親の期待に反して、革命家の道を歩み出してしまった。そして、様々な活動に参加しては、逮捕、流刑を何度も繰り返すことになる。

 やがて、神学校から見切りをつけられたジュガシビリは、退学処分とされてしまった。しかし、彼に取っては、その方が、むしろ、せいせいしたようで、もうその頃には、若干22才でありながら、彼は党の指導者的存在にまでなっていた。


20才頃のスターリン

 この頃、スターリンは初めてレーニンと会った。この時レーニンは30代半ば、彼は、一目見て若く精力的なスターリンを気に入り、革命運動の戦略家としての素質を見抜いていたという。その後、彼はレーニンらと強い結束のもと、ますます、革命推進の中心的メンバーとなっていくのである。

 1905年のロシア情勢は、余談の許さぬ状態だった。前年には、日露戦争が勃発し、一年半に渡る戦いの末、ロシアは疲弊してしまい、国内には不満が爆発、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの反乱を引き起した。ロマノフ王朝の権威は地に堕ち、ついに第一次大戦の最中、ロシア革命を誘発するのである。


 その結果、ロマノフ王朝ニコライ2世は退位し、代わって、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)による新政府が樹立した。

 1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、ついに、党の実権を把握し事実上の最高指導者の地位に躍り出ることになる。

血の日曜日事件、平和とパンを求めて、首都ペテログラード(後のレニングラード)の宮殿に押し掛けた民衆は、軍隊の発砲で多数の死者を出す流血事件に発展した。

 しかし、時が経つにつれて、彼は、急速に凶悪な独裁者の本性をさらけ出し始めた。対立者を巧妙で悪徳の限りを尽くした手段で倒していくのである。

 まず、最大のライバル、革命の功労者だったトロツキーを国外追放し、カーメネフ、ジノビエフなど自分と意見主張を異にする政敵たちを、除名処分にして党から追い出したのである。それが済むと、スターリンは、ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのがその目的だったが、その実態は、権力を思いのままに操るために、彼の意にそぐわない人物を手足となって粛正してゆく組織だった。まもなく、独裁体制樹立と同時に、恐怖の鎌首をもたげ、計り知れない恐怖の原動力となって活動を開始するのだ。

 1929年、スターリンは、第一次五カ年計画の発動を命じた。農業国ロシアを工業国に変えるのがその目的であった。その要となる政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて徴発しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられるのである。こうした彼の強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。

 しかし、スターリンは、農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られている。ある農民などは、見せしめのため、広場で自らの墓穴を掘らされた上、銃殺されたのである。しかし、これは、まだ序曲であった。血の粛清は、ますます本格化し、やがて凄惨なクライマックスに向かってゆくのである。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。時間のムダを省くために、トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と呼ばれる機関が暗躍することになった。それは、被告も原告もいなくても、その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、その場で、それこそ、10分以内に処刑されてしまった。全く、信じられないほどの素早さであったという。

「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」無論、これは体裁のよいスターリンの言葉である。しかし、その表向きと違って現実は、想像を絶っするほどひどく惨いものだった。

 日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。これでは、大人一人生きていくことは、到底不可能だった。人々は餓死から逃れるためには、ありとあらゆる努力をしなければならなかった。路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。あるウクライナから帰って来た学生は、身の毛もよだつ話をした。彼らによると、飢饉のために、食べるものがなくなった地方では、人肉を食べていると言うのである。餓死したと思われた死体は、細かく切って解体され、商品のように売りさばける準備がなされていたということであった。当然、この二人は秘密警察に逮捕され、拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。スターリンは、自らの考えをイメージダウンさせるものは、事実であろうが、すべて隠蔽し、片っ端から闇に葬っていたのだ。

 スターリンの女性関係は、かなり派手であったことが知られている。3度、結婚したが、その他にも、愛人、情婦など数えきれないほどいて、浮気は絶えることがなかったという。一度目の妻は、逃亡生活の隠れ家で知り合ったケケという女性だった。しかし、逃亡生活の無理がたたったのか、彼女は結核にかかり死んでしまった。

 二度目の結婚は、彼が40才の時で、相手は彼より22才も若いナジェージダという女性だった。しかし、結婚して14年後、彼女は、革命15周年記念の晩餐会の夜、謎の死を遂げてしまう。

 晩餐会が終わって二人の言い争う声を聞いたという証言もあるが、真相はわからない。死因にしても、夫スターリンに対する抗議の自殺だの、逆に、怒りを買ったスターリンに毒殺されただの言われるが、今となっては永遠に謎のままであろう。


結婚したての頃、ナジェージダと(1920年頃)


 三度目の妻はローザという女性で、スターリンよりも10センチほど背も高く、大変、利口で陽気な女性だった。彼女は、二番目の妻ナジェージダとの間に出来た二人の子供にも愛情を注ぎ、いつも優しく誠実だった。しかし、スターリンは、何が気に食わないのかローザとも離婚してしまった。その後、ドイツとの戦争中にもかかわらず、女優、バレーの踊り子、オペラ歌手、クレムリンのタイピストたちを次々と別荘に招いては、深夜の響宴に明け暮れる始末だった。

 私生活でも、彼は、大変な独裁者で、冷酷非情な面を、度々、見せている。彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないと言って、皿ごと床にぶちまけたこともあった。また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。愛人の浮気の現場を押さえた時など、ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、二人の髪の毛をわし掴みにして、裸のまま部屋から引きずり出し、監獄にぶちこんでやるとののしった。二人は、即刻、連行され、裏切り者として銃殺されてしまったという。また、スターリンは、女性の嫉妬という感情には耐えられない面があった。例え、献身的に尽くそうが、嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。

 スターリンは、恐ろしいほどの強靭な記憶力の持ち主だった。彼の頭の中では、日々の細々した私的な事柄から、党や軍内部のあらゆることまでが最大漏らさず記憶し尽くされていたのだ。例えば、どこそこの将軍が、どこの生まれでどういう性格と遍歴を持ち、どういった成果をおさめたか? あるいは、ヘマをしでかしたかということなどがビッシリと整理されていたのである。また、霊感力もするどく、軍事や外交面では、機が熟したと見るや、すばやく行動を起こした。それはいつも抜け目なく、まるで、鳶が油揚げをかっさらうようなすばやさであった。

 第二次大戦戦争が始まり、ドイツ軍がポーランドを屈服させた時も、スターリンは、東からポーランドに侵入し、労せずしてこの国の半分を占領した。スターリンとヒトラーとの間には、秘密裏に血も凍るような悪魔の取引がなされていたのである。

 この時、連合国は我が身可愛さから、ポーランドが東西の独裁者によって、なぶり殺されていくのを手をこまねいていただけだった。どの国も自国の利益のみを考えていた。


 フランスは、マジノ要塞に閉じこもり、イギリスなどは何もしなかった。そして、ポーランドがヒトラーとスターリンに食い尽くされてゆくのをただ見守っていたのであった。しかも、狡猾なるスターリンは、世界中がヒトラーのこの派手なパフォーマンスに気を取られている隙に、どさくさに紛れてバルト3国を武力で併合してしまったのである。第二次大戦の終戦直前には、日ソ中立条約を破って、怒濤のように満州に南下、息も絶え絶えとなった日本から、強引に北方領土を奪い取ることもした。

 このように、領土拡張の野望を夢見るスターリンにとって、国際法を踏みにじることなど朝飯前のことだった。彼は、室内に大きな世界地図を飾っていて、領土が新しく増えていく度に、色を塗っていくのが何よりの楽しみであったという。そして、地図を見ながら、今度はここをやる、ここが欲しい、これは気に食わぬなどと言って党の幹部たちの前でよくつぶやいていたらしい。

 スターリンは、地上最高の権力者になることに、この上ないあこがれを抱いていた。そして、何か、ピラミッドのような巨大なモニュメントを後世に残すことが夢だった。彼は、中世ロシアの暴君イワン雷帝をこよなく愛し、自らをそのイメージにダブらせるのが好きだったようだ。確かに、彼の政権下で、何十万という人間が、殴られたり蹴られたりして強制労働に従事する様は、陰惨な中世ロシアの時代を彷彿とさせるものがあった。

 スターリンは矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれない収容所をつくっていた。その数、百カ所以上・・・彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと言い張っていたが、その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。スターリンは、国家の工業化のために、大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。

 スターリンにとって、囚人はいくらでも代替のきく安価な消耗品でしかなかった。賃金など払う必要もなく、かろうじて生きられるだけの食料を与えておけばよかったのだ。過酷な重労働で囚人が、どれだけ凍死しようが餓死しようが、お構いなしなのであった。こうした国家建設のプロジェクトの担い手である労働力を大量に確保するために、彼は、抜け目なく、第58条という新しい条例をつくっていた。1926年に交付されたその条例によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ祖国の裏切り者と見なされるというのである。

 しかし、人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、どうにでもデッチ上げることが可能だったのである。全く意味もない行為が、ねじ曲げられて解釈され、その挙句に祖国の裏切り者というレッテルを張られて自由をはく奪されることが往々にしてあった。かくして、数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、全財産を国家に没収された上、処刑されるか、過酷な重労働を強制されることになった。この条例の目的は、罪のない人々を囚人にでっち上げ、スターリン体制を維持するための奴隷を合法的につくり出すことなのであった。裏切り者のレッテルを張られた者には、銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。

 シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な強制労働であった。その労働は、想像を絶するほどひどいもので、一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの囚人が凍傷にかかった。医者が、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった囚人の手足をパチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

 何をするにも『ダバイ!(動け!)』の罵声が飛び、反抗的な態度を取ると、それこそ目の玉が飛び出るほど殴られた。囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せおとり死んでいった。死んでコチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のそりに投げ込まれて片付けられていくが、その時、まるで木と木がぶつかり合うような音がしたという。ものすごい寒さと重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が一冬で死に絶え消滅した。夏になると、再び、新しい囚人の群れが送られてくるが、彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。毎年、補充のために、数十万単位の囚人が薄暗い船倉や列車に閉じ込められてピストン輸送されるが、決して囚人数が増えることはなかったという。こうして、死に絶えては補充されるという死のサイクルは休むことなく繰り返されるのである。

 スターリンは、金に異常な執念を見せた独裁者でもあった。全く、それは凄まじいばかりのものであった。彼は、ことあるごとに、金の備蓄量を増やさねばならないと口にし続けていた。そうして金を国家戦略の最重要資源に位置づけし、支配国の共産党へ金の提供を義務づけたのである。そうして、金を採掘するために、数百万の囚人が集められ、牛馬のごとくこき使われたのである。

 かくして、50年代の初めには、国家が保有する貴金属は、金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンという莫大な量にまで跳ね上がったのであった。しかし、それらを採掘するために強制労働に従事した数百万の人々は、とうにシベリアの凍土と化していた。白海・バルト海運河が開通した時など、スターリンは、蒸気船「カール・マルクス」号で完成したばかりの白海からオネガ湖までの227キロを快適な船旅としゃれこむ計画を立てた。その際、多くの役人や作家連中も招待された。彼は、第一次五カ年計画の中心事業であった白海・バルト海運河をわずか2年で開通させた偉業を世界に誇示したかったのである。招待された百名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメや高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンなどふんだんに振る舞われた後、スターリンと優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも、その時、ウクライナでは有無を言わさぬ食料調達によって数えきれない農民が飢餓に苦しみ、その挙句に埋められた死体を掘り起こし、人食いまで行われていたにもかかわらずである。

 彼らは、その後、「スターリン記念」と称する本を書き、その中で、彼の数々の偉業を美辞麗句を並び立てて絶賛し、囚人たちがいかに再教育されて鍛え直され、国家に貢献し得たかを賛美したのであった。しかし、実際は、工事期限を死守するために、運河はかなり浅く掘られ、役には立たない代物だったという。また、運河開通の担い手、30万の労働者の内、10万人がボロクズのようになって死に絶え、運河の土となったことなど一行も書かれることはなかった。

 スターリンは、後にこう述べている「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ」これほど、人間の尊厳を侮辱し冒涜した言葉もないだろう。しかし、この方法は、後になって、ヒトラーやムソリー二など西側の悪名高き独裁者たちも、見習って借用したということである。

 第一次五カ年計画が終わる頃、農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した彼は、さらなる粛清をもくろんでいた。スターリン独裁の陰では、トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って排除しようという動きもあった。ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。かつて、党から、追放したはずのカーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、要職につけたのである。これは、どういうことなのか? こうしたスターリンの心境の変化を西側のメディアは、「ロシアの赤がピンクになった」などという表現を使って「雪解け現象来る?」と大見出しで報道した。

 しかし、これは、さらなる大嵐が来る前の凪(なぎ)のようなものだった。スターリンは、何かとてつもないことをしでかす前には、必ずと言っていいほど、相手を油断させるためのフェイントを演出したからである。事実、スターリンの胸の内は、これから行われる大粛清のための構図が出来上がっていた。これまでに彼に楯ついた者、恥を掻かせた者、気に入らぬ者などが、彼の強靭な記憶力の中にインプットされ続けていた。そして、それらは、膨大なリストに細かく区分けされて、逮捕、拷問、処刑の瞬間を待ちわびていたのである。後は、スターリン自身が、合図を送るだけであった。

 キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。キーロフは、共産党の中央委員でもあり、人気があった。実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。

 スターリンは、表向きは、キーロフを同志として信頼しているように振る舞っていたが、本心は、彼の存在が我慢ならなかった。

 結局、キーロフの暗殺は、カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、彼らは、即刻、銃殺刑にされた。しかし、これは、とんでもないでっち上げで、キーロフの暗殺を仕組んだのは、スターリンの仕業に他ならない。


セルゲイ・キーロフ

(1886〜1934)スターリンを上回る人気があり、嫉妬したスターリンによって暗殺されたと言われる。


 こうして、彼は、次期に自分のポストを奪いかねないキーロフを暗殺し、その罪をかつての政敵、カーメネフとジノビエフらに擦りつけ、一挙に両方とも片付けることに成功したのである。後は、さらなる大粛清を行い、自らの独裁を揺るぎないものにしてゆくことであった。

 粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、37年には空前絶後の規模で行われた。「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」・・・スターリンは、大虐殺をこのように弁明し粛清の論理を正当化した。そのために、彼は密告を奨励した。自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、ことごとく粛清するのである。

 身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。一方、実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。

 夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が、復讐のため、あることないことを告げ口し、処刑隊が向かっているかもしれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののいた。それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。いつ何時、死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、決まって深夜か早朝だったからである。

 この年だけで何百万人も連行され、約半数が処刑されたと言われている。大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。軍に至っては、将校の8割が処刑されたと言われている。そして、ついには粛清を執行した本人たちにも矛先が向けられていった。スターリン政権下30年間で換算すると、ロシアだけで実に4千万を下らない人間が連行され有罪判決を受けたことになる。ソ連全土ともなると、その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。当局によって有罪判決を受けた者たちは、その半数以上が虫けらのように処刑されるか流刑先で悲惨な死を迎えたのである。しかし、悲劇はこれが、すべてではない・・・4年間に渡る独ソ戦の死傷者2千5百万人がその上に加わるからである。

 さらに、大戦中も、ソ連占領下の各地で、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。ソ連領内の北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺の憂き目にあっている。この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化を頑に守り、スターリンの農業集団化に協力しようとしなかったのだ。2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万の軍隊で村々を包囲した当局は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待っていた家畜輸送用の貨車に詰め込んだのである。その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、射殺されるか、崖から突き落としたのであった。貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。人々は貨車から5メートルも離れると、問答無用で射殺されたという。

 また、期限内に計画達成困難と見た当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、残った村の数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放ったこともあった。苦しみ抜いて煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにしてしまったという。グルジアに住んでいたある少数民族などは、こうして地上から永遠に抹殺されてしまった。

 スターリンの狂気は、敵対する民族のみならず、捕虜や自軍にも向けられ、止まることを知らなかった。戦時中、スモレンスク郊外のカチンの森の中で、数千人のポーランド将校が虐殺されて埋められているのが発見された。


 遺体はどれも、おがくずを口に詰め込まれて、銃剣で刺し殺されるか、後頭部を銃で撃たれるというひどいものであった。このような惨い虐殺現場は、その後、次々と発見されていくのである。

 また、スターリンは、捕虜は祖国の裏切り者とみなして、その家族はことごとく逮捕させていた。戦場を少しでも離れる者があれば、即刻、銃殺されるか戦車で引き潰したという。将兵を、生きたまま地雷を踏ませるために行進させることもあった。

カチンの森の虐殺現場

 かくして、スターリングラードの攻防戦だけでも、1万4千名のソ連兵が自軍に殺されたのである。つまり、一つの師団丸ごとが味方の手によって抹殺された計算となるのだ。こうした死者数まで漏れなく加算していくと、あまりに現実離れした数字となり計量することは、もはや不可能となる。

 彼の犯した罪が、いかに巨大なものか、自ずからわかると言うものだ。恐怖の戦慄の果てに、全身総毛立つ思いがして来るのも当然であろう。

この遺体は後ろ手で縛られた上、絞め殺されていた

 このような犠牲者の累積は、1953年、スターリンが死ぬ瞬間まで、急上昇を描くようにカウントされつづけたのである。この年、スターリンの突然の死によって、ようやく長引いていた朝鮮戦争も終結に向かっていった。彼は、晩年、殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれていた。何をするにも異常に疑い深くなり、食べ物はすべて毒味をさせ、自分が招いた客でさえも、深夜、こっそり入って来て、寝ているのを確認する始末だった。元々、若い頃から何事にも疑り深かったスターリンは、今では病的で、誰も信じられる者もなく、医者でさえ自分のそばに決して近寄らせなかった。そして、長寿の薬だと称して訳のわからぬ薬を飲んだり、ヨードを垂らした怪しげな水を飲んでいたという。

 独裁者の最期は、あっけないものだった。脳内出血を起こした彼は、パジャマ姿で食堂で転倒し、ほとんど、意志朦朧としたままで息を引き取ったのであった。ラジオは荘重な音楽を鳴らし、国民に4日間、喪に服することを伝えた。享年74才だったと言われる。

 スターリンが死んでもう半世紀にもなる。嘘やでっち上げで固められた政治体制、共産主義の腐敗と害毒、粛清の恐怖など・・・国民は、過去を払拭し忘れたいと思った。しかし、スターリンの残した負の遺産は、あまりにも強烈で、人々の心の奥深くに刻まれて今も存続し続けている。新生ロシアになっても、その悪影響は国家の負の遺伝子として溶け込み、断ち切ることは出来ないようだ。これほどまでに多くの人間を殺しまくり、死しても、その影響力は、依然、弱まりを見せてはいない。
 歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・

   旧ソ連から独立したラトビア共和国内のある歴史博物館には共産主義の墓と称するものがある。その墓碑銘には、「共産主義死す。1945ー1991年」という文字が彫られているという。
 
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_f.html


スターリンの、異常な人格については、さまざまに伝えられている。まず彼には、複雑な生い立ちから培われた「憎悪の心」が強かった。彼は田舎の、極貧の靴屋の息子として生まれたが、家庭には安らぎも楽しさも、まったくなかった。 

 父親は、短気で粗暴な男であった。スターリンは、父のひどい暴力に、いつも怯えていなければならなかった。幼い日の彼は、常に体のどこかが打ち身のあとで腫れていた。父の暴力がもとで、身体に障害も残ってしまった。彼は幼年にして、「憎む」ということを覚えた。環境を憎み、父親を憎み、すべての人間を憎むようになった。また、学校に入ると、友人たちが皆、自分より経済的に恵まれている、と悩んだ。自らの“生まれ”に対する劣等感は、他人への妬みとなって表れた。人が苦しむのを見て喜び、少しでも気に入らないと徹底的に暴力を振るった。彼にとって、人の不幸は“善”であり、人の幸福は“悪”であった。あわれにも、そのような見方が、染みついてしまったといわれる。自らの“育ち”に異常なまでの嫌悪を抱いていたせいであろうか。彼は、のちに権力を握ると、自分の幼少のころを知る人々を、次々に処刑している。人は自分の環境を克服して立派な人間になることもできる。しかし、彼は、環境に負けてしまったのである。
  
 また彼は、「自分さえよければいい」という卑怯な人間であった。彼の行動の基準は、“自分のため”という一点にしがなかった。自分がより大きな権力を得るためには、あらゆる人を利用し、多くの人々を平気で犠牲にした。若いころから革命運動に身を投じたが、常に「前進せよ、恐れるな」と、かけ声をかけるだけで、自分は決して危険な所へは現れなかった。事態が危うくなると、同志を見殺しにして、すかさず身を隠すのであった。三百人のデモ行進を指揮していたとき、リーダーの彼以外は全員、逮捕され、本人だけ逃走したということもあった。また、「進め!」という彼の号令で突撃した同志の多くが銃殺されたときも、彼はかすり傷ひとつ負わなかった。この卑劣な生き方は、生涯、変わることがなかった。 
  
 さてスターリンは、自分よりも優れ、恵まれている人に対しては、悪魔的ともいえる「嫉妬心」を抱いた。他人が勲章をもらうのを見れば、自分もそれを手にしなければ気がすまなかった。とにかく自分が一番にならなければ、おさまらないという性格であった。同時代のロシアの政治家であるブハーリン(のちにスターリンによって処刑された)は、こう語っている。

[スターリンは誰か他の人がもっているものは、自分も持たないと生きて行けないのだ」

(ロバート・コンクエスト著、片山さとし訳、三一書房刊、「スターリンの恐怖政治』上)と ― 。

  
 またスターリンは、極端な[幼児性」の持ち主であった。大変に“気まぐれ”で、ひとたび感情を害すると、すねて、数日間も会議に臨席しないことがよくあった。自分の思い通りにならないことに対しては、すぐさま“怒り”と“恨み”を抱いた。それゆえ彼は、他人と「対話」することができなかった。「納得」させるのではなく、自分の考えに反対する者には、すべて残忍な「暴力」を行使したのである。
  
 スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、「ウソ」を言いふらすことであった。巧みにウソをつき、「あいつは反レーニン主義者だ」などとレッテルを張り付け、攻撃したのである。また、自分を守り、飾り立てるためにも、多くのウソを作り出した。師ともいうべき立場のレーニンが死んだ時のことである。彼は、「スターリンは後継者として、ふさわしくない」としたレーニンの遺言をにぎりつぶした。その一方、レーニンと自分が仲良く並んで座っている写典を、新開やポスターなど、いたるところに掲げさせた。自分がレーニンの「正統の後継ぎ」であるかのような印象を、与えようとしたのである。しかも、その写真は、合成や修正を加えて作った偽物であったという。

自分の欲望のために、“師匠”をも利用したのである。多くの人が「おかしい」と思ったが、全部、封殺されてしまった。皆は知らないだろう、とウソをつく。事実をねじまげ、さも本当らしく、言いつくろう。だが、その場は、うまくごまかしたつもりでいても、真実は隠せない。隠せたところで、ウソはウソである。なかんずく仏法の世界においては、ウソは必ず、いつか自分への刃となって返ってくる。 

 スターリンは、民衆に対して、レーニンの死を深く悲しんでいるかのように見せかけた。しかし、実際は狂喜していた。彼の執務室に勤めていた職員は、「レーニンの死後の数日ほど、彼が幸せそうに見えたことはなかった」と語っている。彼は、権力の「座」にのぼりつめても、ウソをつき続けた。「スターリンは、レーニンの仕事の立派な後継者である」「スターリンは今日のレーニンである」と自ら宣伝した。自分に都合のいいように、歴史さえも「改ざん」していった。

  
 権力を手にしたスターリンは、自分の言うことは、すべて真実であるとした。あたかも神のごとく振る舞い、国民に「絶対的服従」を強いた。自分の思い通りになる人間しか認めず、人々の自由をうば奪い取ることで、絶対者として君臨したのである。思想統制にも力を入れた。出版物も厳しく制限。情報や表現の仕方まで、徹底して取り締まった。権力欲を満たすために、作家も利用した。自分の思いのままになる人間を作るために自分を礼賛する作品を書かせた。反対に、「絶対服従」しない者には、作品の出版を禁じ、すでに出版されていた作品も葬り去った。 
  
 スターリンは、人々の心から「安心」を取り除き、「恐怖」を植え付けることによって国民を支配した。秋谷会長が、現宗門を「恐怖政治」と呼んでいたが、まったく共通している。安心は信頼と自信を生み、人々を結び付ける。しかし恐怖は、疑いを生み、人々の間に「壁」を作る。圧政者に抵抗して結束することができなくなってしまう。彼は、そうした恐怖を与えるために、「密告制」を用いた。政府が一般市民の中から密告者を選ぶのである。町のいたるところに密告者がいた。家族や親友でさえ、密告者かもしれなかった。五人集まれば、そのうち一人は密告者だと言われるほどであった。そのうえ密告者は、告発された被害者の財産を分けてもらえた。だから、ますます密告に拍車がかかった。隣人の部屋や、同僚の仕事が欲しいと思えば、それが事実であろうとなかろうと、その人を、ただ告発しさえずればよかった。「だれも信じられない」世界は人々の欲望、嫉妬、憎悪をかきたてることで支配する。人間の最も醜い面を引き出す、やり方である。まさに、「魔性」であった。市民は、自分の身の安全と利益を守るために、心を閉ざすようになった。また、互いに敵意を抱き合い、公然と非難しあうようになっていった。
  
 当時の、さまざまなエピソードが残されている。裏側のページにスターリンの写真が載っていることに気づかず、新聞を空気銃で撃ち抜いた男性は、密告により懲役十年の刑に。また、ある集会で、スターリンの名が出ると、人々は一斉に拍手を始めた。三分、五分……拍手は、いっこうに鳴りやまない。やがて十分が過ぎた。一人が拍手をやめて席についた。その人は、翌日、逮捕された ― 。まさに「恐怖の世界」であった。 
  
 絶対者として振る舞う陰で、実はスターリンは驚くほど「臆病者」であった。常に暗殺の恐怖にとりつかれ、いかなる人間 ― 家族さえも信用することができなかった。例えば、何千人という護衛兵がいただけでなく、その一人一人に対しても、幾度も取り調べを行っていた。食事は、必ず検査室で調べさせ、そのうえで毒味をさせた。どんな時も、防弾チョッキを離さず、移動は、いつも装甲車で。屋敷の警備は、最も警戒が厳しい刑務所よりも厳重で、多くの錠や門、警備員、番犬などで守られていた。庭には地雷まで埋められていたという。しかも家の中は、暗殺者をまどわすために、同じ家具を備えつけた寝室をいくつも作り、毎晩、違う部屋で寝ていた ― 。
  
 スターリンは「自分を取り巻く、すべての人間が敵である」という妄想に、とりつかれていた。それは精神病の域にまで達していたといわれる。たった「一人」の狂気が、歴史に類を見ない大量の粛消をもたらしたのである。「狂った独裁者」を放置していてはならない。現代の“魂の大量虐殺者”も、断じて追放せねばならない。
  
 スターリンは、多ぐの無実の人々を捕らえては、拷問で“自白”させ、次々と処刑していった。彼は、こう語っていたといわれる。人の死は悲しいことであるが、それが百万人の死となると、単なる統計にすぎない」(アルバート・マリン著、駐文館訳刊、『スターリン』)  

 「自分の犠牲者を選び、自分の計画を詳しく練り、執念深く復讐をやって、それからベッドに入る……世の中にこれほど楽しいことはない」(前出、『スターリンの恐怖政治』上)と。 

 彼は、やがて、長年、自分に忠誠を尽くしてきた腹心の部下をも殺していった。だが、どんなことをしょうと、本当の安らぎを得ることは、決してなかった。最期は恐ろしい形相で、もだえ死んだという。
  
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/suta-rin.htm
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c3

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
4. 中川隆[-10020] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:31:51 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[29]
【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。


筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405


ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。



ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。



大粛清ー犠牲者70万人以上

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。


1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


抵抗の果てに

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。


戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。


同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。


激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c4

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
5. 中川隆[-10019] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:33:44 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[30]
レーニンの実像
 
ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」


内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm


▲△▽▼

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c5

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
6. 中川隆[-10018] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:34:41 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[31]
2020年01月18日
ソ連と酷似してきた中国 急激な成長と衰退


レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々

引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg

中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。

崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。


ソ連化する中国


最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。

かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。


ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。

中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。

不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。

ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。


「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。


世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。


理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg


負けたら国家消滅する共産国


ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。

無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。

ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。


しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。

ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。

日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。


ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。

共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。

ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。


軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。

ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。

中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。


兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。

「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。

逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。


ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。

ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。

昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。


中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。


中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。


土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。


ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c6

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
7. 中川隆[-10017] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:35:42 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[32]
パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html


▲△▽▼


革命は軍や警察が国家を裏切り市民側に就かないと成功しない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/574.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c7

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
8. 中川隆[-10016] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:40:51 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[33]
ロシア革命はユダヤ革命だったのか?


ユダヤ陰謀論の無責任 (2014年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

イデオロギーを優先し、事実を無視した言論――。慰安婦報道の誤りで叩かれている大新聞の話ではない。元外交官が保守系出版社から最近出した本のことである。

元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫は『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック)で、手垢にまみれたユダヤ陰謀論を縷々述べる。持ち出される数々の「証拠」は、これまで陰謀論者によって散々繰り返されてきたものばかりである。

たとえば、ロシア革命の指導者の多くはユダヤ人であり、革命を資金支援したのも米英のユダヤ系金融機関だったと馬渕はいう。しかしロシアのユダヤ人の多くは共産主義者ではなく、穏健な立憲君主制支持者だったし、共産主義を支持するユダヤ人も、その多数はレーニン率いるボルシェヴィキ側ではなく、対立するメンシェヴィキ側だったので、ソ連政権下では生き残れなかった。

資金については、歴史学者アントニー・サットンが1974年の著書で、モルガン、ロックフェラーといった米国のアングロサクソン系金融財閥が支援していたことを公式文書にもとづいて明らかにし、ユダヤ人陰謀説を否定している。

また馬渕は、米国の中央銀行である連邦準備銀行について、連邦政府の機関ではなく100%の民間銀行だと述べる。たしかに各地の地区連銀はその株式を地元の民間銀行が保有し、形式上は民間銀行といえる。しかしその業務は政府によって厳しく規制されているし、利益の大半は国庫に納めなければならない。地区連銀を統括する連邦準備理事会になると、完全な政府機関である。

馬渕はニューヨーク連銀の株主一覧なるものを掲げ、主要な株主は欧州の金融財閥ロスチャイルド系の銀行だと解説する。そこにはたとえば「ロスチャイルド銀行(ベルリン)」が挙げられているが、ベルリンには昔も今も、ロスチャイルドの銀行は存在しない。ドイツではフランクフルトにあったが、それも米連銀が発足する以前の1901年に廃業している。

前防大教授でもある馬渕はこうした嘘を並べ立てたあげく、ユダヤ人の目的はグローバリズムによって人類を無国籍化することであり、日本はナショナリズムによってこれに対抗せよと主張する。規制や関税に守られ、消費者を犠牲にして不当な利益を得てきた事業者やその代弁者である政治家・官僚にとってまことに都合のよいイデオロギーである。

約二十年前、オウム真理教が国家転覆を企てたのは、ユダヤ陰謀論を信じ、その脅威に対抗するためだった。無責任な陰謀論は、新聞の誤報に劣らず、害悪を及ぼすのである。
http://libertypressjp.blogspot.com/2017/06/blog-post_95.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c8

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
9. 中川隆[-10015] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:44:27 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[34]
ロシア革命はユダヤ革命だったのか? _ 2


グローバリストの戦略 2013-11-22

消費税を増税しただけで、安倍不支持になる
TPPに交渉参加しただけで、安倍不支持になる
私は、そんな「お花畑保守」にひとこと言ってやりたい
お前らは、日本の総理がカダフィのように殺されてもいいのか?・・と

ちなみにボイドはリベラルだす〜(・ω・)/

それはそうと(笑)


最近、グローバリズムは「共産主義」だって人がいるんですね

でも、「資本主義」、「共産主義」って考える時点で、あなたは既に「昭和のお花畑」です(笑)

グローバリズムって「企業」の理論なんですよ

自分たちが儲かれば、国家や国民なんてどうなろうが、知ったこっちゃないわけです

つまり、「資本主義」(A)、「共産主義」(B)も、金儲けの道具でしかない

AとBが対立したら、AにもBにも武器(核兵器含)が売れて儲かるよな〜

これが、企業の戦略なんです

かつて、植民地時代に彼らは考えたんですよ

奴隷制度だと、奴隷のモチベーションもいまいち上がらないし、労働生産性が低いよな、と・・

やっぱ、奴隷にも必要最低限の「希望」と、必要最低限の「お金」を与えて、生産効率性を上げたほうがいい、と

生産効率化がもたらす利益−新奴隷に与えるコスト>旧奴隷がもたらす利益

考え方は、まさにROIであって、この損益分岐の上に生まれた新奴隷管理制度が「グローバリズム」です

なので、グローバリズムは、共産主義も、資本主義も一切関係なし

「生産効率性の向上と、最低限の統治コストを実現した新奴隷制度」

つまり、グローバリズムは「奴隷制度」なんです

さて、世界の歴史ってものは、国家戦略をベースに国家管理視点で書かれているんですね

なので、グローバリズムを理解するには、それを「企業戦略」の視点から、読み直す必要があるのです

労働者(奴隷)には、労働をさせるので、ストレスが溜まります

これが溜まりすぎると、暴動とかデモとかになって厄介なんですね

なので、適度にストレスを解消させる必要があります

人間には、そもそも闘争本能があって、本能的に「殺し合い」を見るのが好きなんです

古くはコロシアムですけど、今は、それが、サッカーとか、ボクシングとかになってます

政治的論争、民族的論争なんていうのも、同じです

そういうものを見て、わーわー応援、批判させることで、社会や企業に対するストレス、欲求不満を解消させるというのが、基本的な戦略です

今の東アジアだって、「韓国ガー」「日本ガー」ってやってるでしょう?(笑)

古くは、「右翼ガー」「左翼ガー」・・・

でも日本の戦後の右翼も左翼も、グローバル企業が人工的に作ったものだって、ご存知でした?(笑)

この形を変えたものが、軍事戦略です

(この軍事戦略というのは、国家の軍事戦略ではなくて、企業の軍事戦略ですね)


対立するAとBという勢力がある

AにもBにも武器を売ると儲かる

※日露戦争なんてまさにこれ

まずこういう基本戦略があります


AとBが平和的な状態であれば、争うように仕向ける

そして、AにもBにも武器を売ると儲かる

※北朝鮮がミサイル撃つぞ〜ってなると、日本がアメリカの迎撃システムを買う、なんてのはこれですね
※北朝鮮に払う賄賂<日本から入るお金、であればビジネス成立です


Aに敵対する勢力がなければ、人工的に敵対する勢力Bを作り出す

そして、Bから攻撃を仕掛ければ、Aに武器が売れて儲かる

※まぁ、これは中東でよく見かける光景です、反政府勢力とかですね


東西冷戦
朝鮮戦争
ベトナム戦争
イスラエル建国
イラク戦争
リビア紛争
シリア紛争←ついに失敗
(実は金融も、この軍事戦略の応用でかなり読み解けるんです)


で、100年近く騙されてきたのが、私たち新奴隷であると

さぁて、どうしてくれようか、と

それが2013年です(・ω・)/

大切なのは、国家戦略の視点だけでなく、企業戦略の視点からも世界を見ていくということですね
https://ameblo.jp/newliberal/entry-11705384946.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c9

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
10. 中川隆[-10014] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:50:13 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[35]
ロシア革命はユダヤ革命だったのか? _ 3

ユダヤ陰謀論者が決して語らない フランクリン・ルーズベルト vs. ハーバート・フーバー 1932年 アメリカ大統領選挙の真相


1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の関係が良くなかったことが知られている。ルーズベルトが初めて大統領に就任した1933年にJPモルガンをはじめとするアメリカの金融資本がファシズム体制の樹立を目論んでクーデターを計画したことはスメドリー・バトラー海兵隊少将が証言している。

 そのJPモルガンの創始者はジョン・ピアポント・モルガン。その父親であるジュニアス・モルガンはイギリスでジョージ・ピーボディーと銀行を経営していた。その銀行が苦境に陥ったとき、助けたのがネイサン・ロスチャイルド。ロスチャイルド家はウィンストン・チャーチル、そして父親のランドルフ・チャーチルはロスチャイルド家をスポンサーにしていた。またルーズベルトは反ファシスト、チャーチルは反コミュニストだ。

欧米金融資本は巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。そのベースになる考え方はイタリアの経済学者ビルフレド・パレートから学んだのだという。

 後に西側では全体主義をファシズムとコミュニズムを一括りにするタグとして使うようになるが、これは巨大資本の情報操作。本来は企業主義(企業支配)と結びつけるべきものだった。巨大資本が定義した意味で全体主義というタグを使うのは、情報操作に踊らされていることを意味する。

 1933年11月といえば、アメリカの巨大資本が反フランクリン・ルーズベルトのクーデターを計画していたころ。その5年後の4月29日にルーズベルトはファシズムについて次のように定義している。

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

スターリングラードでドイツ軍が降伏した段階で第2次世界大戦の帰趨は決したのだが、戦争はしばらく続く。その間にアレン・ダレスやライマン・レムニッツァーはナチスの幹部と善後策を大統領に無断で協議しはじめる。サンライズ作戦だ。

第2次世界大戦の終盤、CIAの前身であるOSSはドイツの科学者やエンジニア1500名以上を雇い、アメリカへ連れてきた。ペーパークリップ作戦だ。当時、OSSや軍の反ソ連勢力はフランクリン・ルーズベルト大統領を無視する形でナチスの元高官らを逃がすラットラインを作り、その元高官たちを保護、雇用している。ブラッドストーン作戦だ。

 アメリカの金融資本は大戦の前からファシズムに傾倒、国務省は親ファシスト派の巣窟だった。第2次世界大戦の終盤、フランクリン・ルーズベルト大統領は各国の首脳と会談しているが、そうした会談に同行させたのは基本的に軍人。外交官を信用していなかった。

 そして1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、5月にドイツは降伏。その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論み、作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。

 その声明発表から15日後、レスニー・グルーブス少将に対してローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。

 チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010260001/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c10

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
11. 中川隆[-10013] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:57:16 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[36]
レフ・トロツキー

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(1879年10月26日 - 1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、マルクス主義思想家。

トロツキーという姓は、最初の革命でオデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである[1]。

本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン(ロシア語: Лев Давидович Бронштейн, ラテン文字転写: Lev Davidovich Bronstein)。


1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。

1920年代、政策を巡って政治局内の多数派と対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、権力闘争に敗れたトロツキーはソ連共産党を除名された。初期のトロツキーは、ヨーロッパのファシズムに対する赤軍による介入の提唱者であり[2]、1930年代にソ連とドイツが結んだ和平協定(en:Soviet–German relations before 1941)にも反対している。

メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、官僚制に反対し続けたが、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺された[3]。トロツキーおよびその継承者の思想を、トロツキズムと呼ぶが、この語自体は、対立者によって1905年の早い時期に作られた造語である。その意味するものも、1905年革命、その後のロシア社会民主労働党内での対立、1917年革命、スターリン派による権力掌握、といった時期によって変化してきた。


生涯

生い立ち

1879年、ロシア帝国時代のウクライナ南部のヘルソン県エリザヴェトグラード近郊の、最寄の郵便局から15マイル離れた小さな村ヤノフカにて父ダヴィード(1847年 – 1922年)と母アンナの第5子として生まれる。両親はユダヤ系の富農であった。父のダヴィードは、粘り強く、企業家精神に富む家長であり、ウクライナ・ヘルソン県のボーブリネツという小さな町の近くにある土地100ヘクタールを退役軍人大佐のヤノフスキーから買い受け、貯蓄に励み、その後は働きづめに働いて持ち前の如才なさで次第にのし上がって裕福となる。土地を次々に買い込み、賃借りし、大土地所有者となった[4]。母のアンナはオデッサ近郊の典型的なユダヤ人の町人階級出身で、同地で教育を受けた。後にダヴィードと恋愛結婚し、農民となる。アンナは読書に励み、子供たちに教養をつけさせるために努力した。ダヴィードとの間に子供を8人生んだが、夭折する子も多く、最終的には2人の姉妹、レフの兄、そしてレフと、4人のみとなった[5]。

家族は民族的にユダヤ人であったが、信心深くはなく、自宅ではイディッシュ語ではなくロシア語とウクライナ語で会話していた。レフの妹オリガは、ボリシェヴィキの指導者の1人であるレフ・カーメネフと1900年代の早期に結婚し、子供を2人儲けることになる。レフが9歳のとき、父は教育を受けさせるために息子をオデッサに送り、ドイツ人学校に入学させた。これは母親の強い希望でもあった。ブロンシュテイン家の親類で、南部で出版業者として成功したシュペンツェルの援助により、レフは国費で勉強する有名校に入学できた。教育機関へのユダヤ人子弟の受け入れ数が制限されていた当時としては、これはかなり大変なことであった[6]。在学中に、トルストイ、シェイクスピア、プーシキン、ネクラーソフ、ディケンズ、ウスペンスキー、ヴェレサーエフらの作品を大方読破したほどの読書家であった。

アイザック・ドイッチャーがレフの評伝で書いているように、オデッサは当時の典型的なロシアの都市とは大きく違って、活気に満ちた国際的な港湾都市であった。この環境は、青年レフが国際的な視野をつちかう一因となった。レフは自伝『わが生涯』で「ロシア語とウクライナ語のほか、完全に流暢に話せる言語はなかった」と述べているが、レイモン・モリニエ(Raymond Molinier)は、トロツキーはフランス語を流暢に話していたと書いている[7]。

革命活動と流刑
1896年 – 1902年

ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)に移動したあとの1896年に、レフは革命活動に関わり始めていた。学生時代に初めてマルクス主義に触れたレフは共産主義運動に加わった。当初ナロードニキ(narodnik)のレフがマルクス主義を紹介されたその年は、当初はその思想に反対していたが、流刑と投獄の時期に徐々にマルクス主義者となっていく。1897年の早期に、レフはニコラーエフにて数学の学位を追求する代わりに南ロシア労働者同盟の組織化を手伝い、幹部として働いた。レフは「リヴォフ」という名前を用いて[8]小冊子と声明を印刷し、革命の小冊子を配布して工員や革命学生たちのあいだで社会主義の考えを大衆化させた。1898年1月、レフを含めたメンバー200人が逮捕され、裁判を待つのに2年費やした。懲役刑2年を受けたレフはオデッサに収監された。投獄から2ヶ月後、新しく結成されたロシア社会民主労働党の初の会議が開かれた。以来レフは、自分自身を党の一員であると見なすようになった。レフは仲間のマルクス主義者のアレクサンドラ・ソコロフスカヤ(Aleksandra Sokolovskaya)と獄中結婚し、刑に服しているあいだに哲学を勉強した。 トロツキーという姓は、最初の革命でオデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである[9]。

1900年、トロツキーはシベリアのイルクーツク地域のウスチ・クート(Ust-Kut)とヴェルホレンスク(Verkholensk)に4年間流刑の判決を受けた。彼は同地で、ニーナ・ネヴェルソンとジナイダ(ジーナ)・ボルコヴァ(Zinaida Volkova)という2人の娘を儲けた[10]。シベリアでのトロツキーは、1898年と1899年に多数の党員たちが逮捕・殺害されたことで、党内で争いがあったことに気付いた。「経済学者」として知られている一部の社会民主主義者は、「産業労働者の生活の向上の尽力に重点的に取り組むべきである」と主張し、他の者たちは「君主制の打倒と、よく組織化され、規律を守る革命党がもっとも重要である」と主張した。後者は1900年に創立されたロンドンに本拠地を置く機関紙『イスクラ』を統率していた。トロツキーはすぐにイスクラの見解を支持した。 2年後の1902年の夏、トロツキーはシベリアから逃亡した。

最初の海外移住と2度目の結婚

1902年 – 1903年
トロツキーは1度、ゲオルギー・プレハーノフ、ウラジーミル・レーニン、ユーリー・マルトフ、その他のイスクラの編集員とともにロンドンへ移住したことがあった。トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで『イスクラ』を出版していたロシア社会民主労働党と合流した。翌1903年に社会民主労働党が分裂すると、トロツキーはレーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属した。トロツキーは「ペロ」(「羽」や「ペン」「文筆家」を意味するロシア語)というペンネームで、すぐに新聞の第一人者の1人となった。トロツキーに知られていないイスクラの編集員6人は、プレハーノフによる「保守派」のあいだで均一に分かれ、ニュー・ガードはレーニンとマルトフによって統率された。プレハーノフの支持者は古参であるのみならず、以前のヨーロッパへの20年間の亡命もともにしていた。ニュー・ガードのメンバーは30代前半の、ごく最近のロシア出身者であった。当時23歳のトロツキーが期待していたイスクラ内で永続的に大多数を確立しようとしていたレーニンは、ニュー・ガードを味方につけるため、1903年3月に次のように書いた[11]。


ロシア革命

1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネラル・ストライキにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命して、雑誌『プラウダ』で永続革命論を提唱した。

1914年に第一次世界大戦が始まると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。


1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導し、印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧するなどしてボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。

レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト=リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。

1918年2月に外務人民委員を辞任し、かわって軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長に就任する。軍事的な組織と扇動に巧みで、大衆の人気も高かったといわれるトロツキーは赤軍の組織に着手し、内戦において赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげた。しかし、1922年のクロンシュタット軍港の「第三革命」を呼号する水兵たちの蜂起とそれに呼応したストライキに対する革命政権による武力弾圧や、ウクライナ地方のネストル・マフノ率いる農民アナキズム運動の圧殺を支持するなど、「トロツキーには後のスターリンとの共通点を見出せる」とする指摘・批判もある。


失脚
10月革命で最も指導力を発揮したのはトロツキーであった。トロツキーは赤軍(赤衛軍)の創始者で、白軍(白衛軍)に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。

1924年のレーニンの死後、中央委員会で七人組が台頭すると、トロツキーはルィコフやツゥルーパを筆頭とする中央委員会の多数派と対立、次第に政策決定の場から外れる。トロツキーはイデオロギーでも党の主流派と対立。「左翼反対派」、ついで「合同反対派」を組織して抵抗するが、戦争と内戦に疲弊した大衆を味方につけた主流派の前に敗北し、1925年トロツキーは軍のコミッサール・外務人民委員の地位を解任され、閑職に追いやられた。1927年には政府・党の全役職を解任され、1928年に中央アジアのアルマ・アタ(現在のカザフスタンのアルマトイ)へ、1929年にはソビエト連邦から国外追放されるに至った。


晩年

トロツキーは国外から運動を続けた。まず、トルコが彼に亡命を認めた。イスタンブールからも近い、マルマラ海のプリンスィズ諸島(アダラル)での生活の中で、現体制の批判をソ連へ届けるために事実上の個人雑誌「反対派通報」の発行を開始する(トロツキーの死の一年後の1941年まで計87号・65冊刊行されたが、ソ連ではほとんどNKVDおよびスターリン個人しか目にすることは事実上なかった)。その後、1933年にはフランスへ、1935年にはノルウェーに移った。この時、現体制の批判書「ソ連とは何か、そしてソ連はどこに行きつつあるか」を著す。この書は後にフランス語版の表題「裏切られた革命」の名で知られるようになる。しかし、翌1936年、ソ連の圧力でノルウェーのトリグブ・リー法務大臣は彼に国外退去を求めた。トロツキーはラサロ・カルデナス体制のメキシコに居を定めた。この間、1938年には第四インターナショナルを結成し、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出す。当時のスターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、国外にいたトロツキーの身辺にもエージェントや襲撃者が現れるようになっていた。特に、パリにいた長男レフ・セドフ夫妻を通して接近した「チューリップ」ことマルク・ズボロフスキはトロツキー親子から信頼を得て彼らの資料をソ連へ送ったことで知られる。

1940年に先立つ数年間、スターリンはオールド・ボリシェヴィキを大量粛清している。反対派を「見せしめ裁判」と呼ばれる公開裁判、つまりモスクワ裁判によって自らの「反革命活動」を「自供」させたうえで処刑した。ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ブハーリン、ピャタコフ等のかつてトロツキーと敵対した中央委員会多数派も含まれる。


トロツキーの親族も粛清の例外ではなく、トロツキーの息子レフ・セドフはパリに留学中NKVDの刺客により暗殺された。息子を誘拐・殺害されたことで身辺への危機がさらに迫ったトロツキーは、自宅を要塞化して防衛するが、1940年8月20日、秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この時、「スターリン伝」を執筆中だったという。メルカデルは現場で逮捕されるが、取り調べではあくまで「単独犯行」を強調、自身の背後関係を隠蔽した。彼はメキシコで20年間服役した後、ソ連に帰国し1961年にレーニン勲章を授与されている。なお、当時メキシコに滞在(事実上の亡命)していた、日本の演劇人佐野碩が、トロツキー暗殺に関係していたという説がある(詳細は佐野の記事を参照)。


逸話

文芸評論家でもあり、イプセン論もある。

1920年に著作『テロリズムと共産主義』(英語版はIn Defense of Terrorism テロリズムの擁護)を刊行し、ドイツ社会民主党のカウツキーらの「ソビエトはボルシェビキによる赤色恐怖支配」という批判に対して、「革命のさなかにおいて、資本家のテロは歴史を若干遅らせるだけだが、革命派の資本家へのテロは歴史を促進する」と革命のためのテロを擁護した。この著作はスターリンの蔵書の一冊として、現在も旧ソ連共産党古文書館にて保管されている。なお、政敵のスターリンもこの本のテロを賛美している箇所全てに「同感!」「的確!」などと書き込みを入れている。

赤軍を率いていた際、兵士の間で「白い虫(白軍)を殺せ」という歌がはやったが、トロツキーは「赤軍の役目は、白軍兵士を殺すことではなく彼らを武装解除することであり、白軍兵士も同じ階級なのだから、彼らを組織するつもりで戦おう」と訴えて、その歌を歌うことを禁じた。

トロツキーの亡命先のメキシコで、トロツキーが身を寄せていた住居が銃撃される。住居は要塞化され、トロツキーは秘書や支援者とともに「避難訓練」を繰り返した。トロツキーの秘書だったジャン・ヴァン・エジュノール(Jean van Heijenoort)は、トロツキーの性格を考えて何故トロツキーが避難訓練に熱心なのか訝ったが、実はトロツキーにとって愛人宅に行くための「脱出訓練」だったことを知り、エジュノールは避難訓練をボイコットした。なお、この時点でトロツキーはすでにフリーダ・カーロに愛想をつかされており、この愛人は別の無名の女性である。(出所:避難訓練はエジュノール『トロツキーとの7年間』p.163, フリーダ・カーロとの関係途絶については Service Trotsky)

革命当初、地方を回って督戦中、乗っていた車が反対派に包囲された。銃を突き付けられ万事窮したトロツキーは即興の演説を行い、敵を説得して味方にしてしまった。

鍋山貞親がコミンテルン第六回拡大執行委員会に出席した際、休憩の席でトロツキーと初対面し、そこで彼はニコニコと笑いながら「中国の同志か?」と聞いて、鍋山が「日本人だ」と言ったら、いきなり鍋山の腕を抱えて喫煙室まで行って、人なつかしげに「ロシア語はわかるか、英語はどうだ」と問いかけた。どちらもうまく話せない旨を鍋山が伝えると、トロツキーはそれじゃあしょうがない、という面持ちをしながら手帳を広げ、慣れてない日本字で「日本の友」と書いて見せた。鍋山はこのことを、「どこで、誰に教えてもらったのか知らぬが、器用な人である。」と評価している。(出所:鍋島貞親「非合法下の共産党中央委員会」『文芸春秋・特集』1956年12月号)


著作
『レーニン』
『バルカン戦争』
『ロシア革命史』
『永続革命論』
『わが生涯』(1930年)
『裏切られた革命』(1937年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c11

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
12. 中川隆[-10012] koaQ7Jey 2020年11月10日 17:59:46 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[37]
トロツキズム

トロツキズムまたはトロツキー主義(英: Trotskyism、露: Троцкизм)は、レフ・トロツキーによって主張されたマルクス主義および共産主義革命理論のこと。トロツキズムを主張する者をトロツキストという。

当初の呼称はボリシェヴィキ・レーニン主義(英: Bolshevik-Leninism)[1][2]で、「トロツキスト」はヨシフ・スターリンらによる批判用語を自称に採用したものである。

トロツキストの国際組織には第四インターナショナルなどがある。


トロツキーの思想

トロツキズムの思想としての構成要素は、以下を主な柱としている。

プロレタリアート・労働者階級の前衛党の建設なくして、社会主義革命はあり得ない。また、革命党の掲げる「社会主義-革命」という最終目標と、労働者大衆の日々の要求の媒介となる「過渡的綱領-過渡的要求」による大衆の革命への組織化。(第一次世界大戦のさなかに「帝国主義戦争を内乱へ」を掲げ「平和などフィクションである」としたウラジーミル・レーニンに対して、トロツキーは「目標としての『内乱』は正しいが大衆を組織する直接のスローガンにはならないし、平和を求める大衆の要求を軽視してはならない」と批判する。論争の結果、レーニンがトロツキーの主張を受け入れ、ボリシェヴィキのロシア革命時のスローガン「パン・土地・平和」が採用された。)

永続革命論の立場から、ヨシフ・スターリンの一国社会主義建設に反対し、世界革命による世界社会主義の達成を目指す。あるいは、世界革命の達成なくしてスターリンの提唱する「一国による社会主義建設」は不可能であり、それは必然的に官僚の特権とその既得権防衛のための専制体制へと堕落する。

社会民主主義政党およびスターリン主義的共産党をも含む、多様な政治傾向を含む労働者階級の統一戦線の結成による二重権力の形成から、最終的な労働者階級の権力奪取。プロレタリア民主主義に基づくソビエト(労働者評議会)権力による絶えざる社会革命と国際革命の有機的結合によって資本家の搾取を廃止する社会主義の建設。

世界社会主義革命を目指す単一のインターナショナル組織の建設と、それを媒介にする労働者階級・被抑圧民族の国際連帯の形成。

また、それらの柱から導き出される政治理論として、社会ファシズム論(社会民主主義主要打撃論)批判、人民戦線批判、あるいはスターリンが支配したソビエト連邦を「革命の成果を簒奪したスターリニスト官僚が堕落させた労働者国家であり、官僚を追放する政治革命は必要だが、依然としてブルジョワジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家であることから帝国主義の包囲・攻撃からは世界の労働者階級はソビエト連邦を防衛しなければならない」(「官僚によって歪められ、堕落した労働者国家」論)とするテーゼ。同様に、非政権共産党についても(「反スターリン主義」派的な)「国家権力と同等な打倒の対象」とはみなさず、「誤った綱領・路線で指導されているとしても、労働者階級内部の革命をめざす一潮流」と認知し、批判しつつも必要な共闘は追求するという立場を取る。また、「社会主義への過渡期経済では市場をも利用し、資本主義・帝国主義との競争に耐えられる経済建設」の提唱などのトロツキーの思想・主張・実践の総体を「トロツキズム」という。

スターリンが指導していたコミンテルンに対抗して、トロツキーの呼びかけによって1938年に結成された国際革命組織第四インターナショナル系のトロツキスト自身は、自らを「第一インターナショナル以来の世界革命による社会主義建設の原則を擁護する古典的マルクス主義者」、「1917年のロシア革命の意義と原則を擁護し、コミンテルンの最初の四回の大会の決議を出発点とした新しい革命党を目指すボリシェヴィキ・レーニン主義者」とし、「スターリンによるマルクス主義の歪曲に最も抗したトロツキーの立場と思想を擁護するという意味で“トロツキスト”の称号を受け入れる」と自己定義する。

日本共産党を含めた第三インターナショナル(コミンテルン)の系譜からは、反革命の烙印が押されてきたが、1956年のフルシチョフによるスターリン批判で、日本でもトロツキズムに拠る左翼活動家が現れる。

(国際トロツキスト運動の展開については第四インターナショナルの項参照)

レッテルとしての「トロツキスト」

長年、各国共産党は、自党の指導に従わない共産主義者を、トロツキーの思想の影響下にあるなしとは関係なく「トロツキスト」と呼んで非難していた。「トロツキスト」とは、共産党にとって最悪の裏切り者の代名詞であり、スターリンが1936年に開始した大粛清時の定義「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」「ファシストの第五列」をそのまま踏襲し、「左翼を装った挑発者」「スパイ反革命集団」を意味していた。すなわち、共産党とは別の立場にある共産主義思想・およびそれを信奉する者全般を指したレッテルとして「トロツキズム」「トロツキスト」と総称していた。

例としては、スペイン内戦時に独自の反ファシスト民兵を組織していたマルクス主義統一労働者党(POUM)に対するコミンテルンおよびスペイン共産党の「トロツキスト」という非難が挙げられる。POUMは指導者のアンドレウ・ニンがトロツキーの秘書を務めたことがあるが、トロツキーの指導する国際的な左翼反対派の運動(のちに第四インターナショナルを形成する)とは一線を画していた(トロツキーもPOUMを「中間主義」と批判していた)。にも拘らず、POUMは「トロツキスト」と規定され、のちに「ファシストの手先」とされ共和国政府およびスペインに潜入していたソ連の秘密警察に組織ごと抹殺されることになる。

日本においては、日本共産党は、新左翼発生以前には共産党結成初期に共産党から分離した労農派をトロツキストと呼んでいた。1950年代後半に六全協に対する反発やハンガリー動乱の影響で新左翼が生まれると、彼らをトロツキストと罵倒した。60年安保闘争時の、決してトロツキーの思想の影響下にあったわけではなかった共産主義者同盟および全学連を「極左冒険主義のトロツキスト集団」と口をきわめて非難した。あるいは、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スタ、反純トロ」を標榜する革マル派、中核派、果てはそもそもレーニン主義を否定している社青同解放派まで、一括りに「トロツキスト」と規定していた。

しかしスターリン批判以降、日本社会でも凶悪な独裁者というのがスターリンの評価として一般的になっていく中で日本共産党もスターリンについて「科学的社会主義を歪曲した」「大国主義」と批判的になっていき、1982年(昭和57年)には不破哲三が著作『スターリンと大国主義』を著してスターリン批判を行い、その中において「ロシア革命におけるトロツキーの役割」を一定認める見解を発表した。そのため以降日本共産党は新左翼党派を「トロツキスト」と呼称することを公式には取りやめるが、現在でも主に高齢・古参の党員を中心に新左翼諸党派を一括りに「トロツキスト」「トロ」などと軽蔑を込めて指す者もおり、若手党員や民青同盟員にも稀に「トロ」などと口にする者がいるという。[誰?]現在では共産党の新左翼に対する公式的な蔑視用語は「ニセ『左翼』暴力集団」[要出典](口語で略するときは「ニセサヨク」)に取って代わられている。

なお、英語にも「トロット(Trot)」(複数形は「トロッツ (Trots)」)というトロツキストへの蔑称が存在する。


「ネオコンの出自はトロツキスト」論をめぐって
アメリカのトロツキスト・グループから、「ネオコン」と呼ばれる現在のアメリカの政治に影響力を及ぼしている新保守主義が生まれているという説がある[3]。

この点をもって、トロツキズムとネオコンの根は同一であると説く論者も存在する[4]。

これらはネオコンの創始者ともされるアーヴィング・クリストルが第四インターナショナルに所属していたこと、どちらも世界に武力を用いてでも理想(世界革命、自由化、民主化)を広めるという側面を根拠としている。

しかし、ネオコンとトロツキズムとの「思想的連続性」という説についてはトロツキスト側から反論もなされている[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c12

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
13. 中川隆[-10011] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:06:22 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[38]
新保守主義 (アメリカ合衆国)

アメリカ合衆国における新保守主義(英: Neoconservatism、ネオコンサバティズム, 略称:ネオコン)は、政治イデオロギーの1つで、自由主義や民主主義を重視してアメリカの国益や実益よりも思想と理想を優先し、武力介入も辞さない思想。1970年代以降に米国において民主党リベラル派から独自の発展をした。それまで民主党支持者や党員だったが、以降に共和党支持に転向して共和党のタカ派外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えている[注 1][1]。


アメリカ新保守主義の呼称

「Neoconservatism」の直訳として「新保守主義」が使用されている。この言葉は形容矛盾であるが、元祖ネオコン思想家の一人であるノーマン・ポドレツによれば、

「ネオコンは元来左翼でリベラルな人々が保守に転向したからネオなのだ」

として、伝統主義などを提唱する旧来の保守派である「PaleoConservatism(ペイリオコンサヴァティズム。旧保守主義)」と区別している。

当初はマイケル・ハリントン(英語版)が左翼から保守派に移行した知識人を指して新保守主義者と批判的に呼び始めたが[2]、新保守主義者を初めて自称したのはネオコンのゴッドファーザー的存在とされるアーヴィング・クリストルとされる[3]。

略称として近年では「Neocon(ネオコン)」と呼ばれる事が多い。

新保守主義者の歴史

起源

アメリカ合衆国の新保守主義の源流は、後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるようになる、1930年代に反スタ左翼として活動したトロツキストたちにまで遡る。彼らの多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の一つ、ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)に学んでいる。CCNYは、高度に選択的な承認基準と自由教育により、20世紀初頭から中期にかけて「プロレタリアのハーヴァード」(“Harvard of the Proletariat”)と称されていた。これは当時、ハーヴァード大学をはじめとするアイビー・リーグの私立学校が、WASPを優先し大多数のユダヤ系アメリカ人や有色人種たちに関し排他的な入試制度を持っていたからである。

当代のニューヨーク知識人には、社会学者ダニエル・ベル、政治学者シーモア・リプセット、リチャード・ホフスタッター、政治学者マーティン・ダイアモンド、文芸批評のアーヴィング・ハウ(英語版)などがおり、こうした人の中に、のちにアメリカ新保守主義の創設者と考えられている文芸批評家のアーヴィング・クリストル、その妻であり歴史家のガートルード・ヒンメルファーブ(英語版)、ネーサン・グレイザー(英語版)、シドニー・フック(英語版)らがいた。したがってニューヨーク知識人の中で新保守主義へと転向したのは、一部に過ぎない。

また、重要な人物としてマックス・シャハトマン(英語版)が挙げられる。ポーランド移民である彼はトロツキズムの党派社会主義労働者党 ー 第四インターナショナルから、独ソ不可侵条約締結とソ連によるバルト3国侵攻を期に、ソ連の国家性格やその「帝国主義からの防衛」の是非をめぐってレフ・トロツキーらと論争し、社会主義労働者党から分裂して労働者党(英語: Workers Party (United States))を結成する。ハリントンやハウは、彼に魅了され左翼になった(後に転向)。


第二次世界大戦後、シャハトマンのグループはアメリカ社会党の統一執行部を掌握して民主党への統合を主張し、民主党に入り込むと、党内最左派として全米自動車労組(UAW)やヘンリー・M・ジャクソンの派閥などを基盤に活動していく。人数的には少数派だったがアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)の会長や政府高官にメンバーを送り込んでいた。1970年代に入るとさらに保守化し、シャハトマンの死後このグループは分解の方向に向かった。このシャハトマン・グループ傘下の青年社会主義同盟(英語版)に入っていたのがジーン・カークパトリックなどである。

シャハトマンの新保守主義への貢献は、戦前にはトロツキスト・グループを形成し青年ユダヤ人に知的公共空間を提供したこと、戦後はユダヤ人たちが米国の現実政治のなかで影響力を与えていく回路をつくりあげたことだろう。

なお、左翼からネオコンに至ったことで、両者に通底する何らかの部分があったとするマイケル・リンド(英語版)は、新保守主義の「民主主義の輸出」というコンセプトは彼らが青年期に信奉したトロツキズムの「革命の輸出」の焼き直しであるとしているが、これは全米民主主義基金が創設された当時左翼からの転向者が幹部に居たことから指摘されていたものである[4]。


新左翼及びソ連との緊張緩和(デタント)への反対

最初の社会政策批評家の重要なグループが労働者階級から出現したのち、元祖ネオコン(当時この言葉はまだ存在しなかった)たちは、基本的に社会民主主義者か社会主義者であった。彼らは第二次世界大戦を強く支持した。

元祖ネオコン思想家こと、アーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレツは、『コメンタリー(英語版)』誌に関係していた。

初期ネオコンたちは反スターリン主義であり、1950年代 - 1960年代初頭の時期に公民権運動・キング牧師を強く支持していた。しかし、彼らはジョンソン政権のいう「偉大な社会(英語版)」に幻滅を感じ、1960年代のカウンターカルチャーを軽蔑した。そして彼らは、ベビーブーマーの間、とりわけベトナム反戦運動や新左翼運動の中に反米主義が広がっているのを感じた。

アーヴィング・クリストル(『コメンタリー』元編集長、アメリカンエンタープライズ公共政策研究所(英語版)上級フェロー、タカ派雑誌『ナショナル・インタレスト』の出版者)によれば、ネオコンは、「リアリティに襲われたリベラル」である。

アメリカ合衆国の保守合同

ウィリアム・バックリィ(左)とロナルド・レーガン大統領(1986年撮影)
アメリカ合衆国の保守の立場を採る組織や個人の間では、必ずしも利害が共通しているわけではなかった。特に伝統主義とリバタリアニズムはしばしば対立する。例えば、キリスト教精神に重点を置く伝統主義者やキリスト教原理主義者と、完全なる自由競争を唱えるリバタリアニズムの間で、政治的対立を引き起こした。しかしリバタリアニズムを信奉する人物がキリスト教の中絶・ゲイ反対に賛同していることからもわかるように、必ずしも両者が激しい意見の相違があると決め付けるのは誤りである。

また、外交政策や安全保障政策に重大な関心を払わない(モンロー主義や孤立主義を提唱する)伝統主義者や、リバタリアニズムの対外不干渉主義は、反共主義者の積極介入主義との間で、極めて深刻な政治対立を引き起こした。

この保守思想の分裂を1つの大きな「保守主義」としてまとめあげることに成功したのが、1955年に創刊された『ナショナル・レビュー(英語版)』という雑誌である。この雑誌は伝統的な保守派だけでなく、リバタリアンやウィルモア・ケンドール(英語版)、ウィリー・シュラム(英語版)、ジェームズ・バーナム、フランク・マイヤー(英語版)のような元共産主義者や元左翼も集結させた点が特徴であった。この雑誌の編集者のウィリアム・バックリー・ジュニアは、上記3つの保守派に対し、それぞれの問題の起因はリベラリズムにあると主張した。「リベラリズムは反共主義者の嫌う共産主義を容認し、リベラリズムは伝統主義者の嫌う伝統の破壊者であり、リベラリズムはリバタリアニズムの嫌う大きな政府の支持者である。」とし、リベラリズムと対立する3つの異なる保守の合同に成功したのである。この試みは、1960年代のアメリカの保守主義運動と連動して、1つの潮流を作り出した。

1964年、共和党大統領候補バリー・ゴールドウォーターの有名な演説が行われた。

「自由を守るための急進主義は、いかなる意味においても悪徳ではない。そして、正義を追求しようとする際の穏健主義は、いかなる意味においても美徳ではない」
保守派はこの演説を大歓迎した。そして、このゴールドウォーター演説に影響された多くの保守派の政治家が、アメリカの次代を担うことになる。

また重要な指摘として、それまでの共和党は、現在のような保守主義ではなかったという点がある。共和党が保守派を利用したのではなく、保守派が共和党を利用したというのである。これにより、共和党の保守化が進み、1980年代のレーガン政権誕生へとつながっていくこととなる。

2001年、それらの政治勢力に後押しされる形で元共産主義者で「思いやりのある保守主義の父」[5]と呼ばれるマーヴィン・オラスキー(英語版)を顧問にしていたブッシュ大統領が登場し、前述のような背景、思想を持つ人物がブッシュ政権の中枢を担った。

ネオコンの軍事・外交政策

ネオコンは、自由主義・民主主義・グローバリゼーション(アメリカニゼーション)を理想に掲げ、自由民主主義は人類普遍の価値観であると考え、その啓蒙と拡大に努めている。その例として、旧ソ連圏の色の革命や中東のアラブの春と呼ばれるドミノ現象への関与があげられる。また、西半球での勢力回復を目指してアメリカの裏庭(英語版)と呼ばれる中南米での反米左派政権がドミノ現象で倒れた保守の波(英語版)を支持しており、中南米の親米右派勢力とのつながりも指摘されている。

また、ネオコンは軍事戦略において、元トロツキストでランド研究所の重鎮アルバート・ウォルステッターの予防戦争や限定戦争などの議論に強い影響を受けている。

「緊急事(同時多発テロなど)にはアメリカの国防に何ら寄与しない」として、ネオコンのジョン・ボルトンなどは唯一の超大国アメリカはそれ自体が「世界の警察」(Globocop[α 1][α 2][α 3][6][α 4][α 5][α 6])であるとし、湾岸戦争のような国際連合の集団安全保障措置に批判的である。国連安保理決議による事前承認のない先制的自衛権行使での単独の制裁戦争と予防戦争を主張しているが(ブッシュ・ドクトリン)、単独行動主義(英語版)的であると批判されることも多い。「有志連合」は、武力行使容認決議ではなくて国際連合安全保障理事会決議1368を根拠として集団的自衛権に基づいた多国籍軍として注目されたが、アメリカ合衆国はこの有志連合を恒久的に維持する姿勢を現時点では見せていない。


ネオコンとイスラエルの関係

ネオコンを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ(イスラエル)・ロビーである。

アメリカのユダヤ系市民はアメリカの総人口3億人に対して600万人に満たないが、その内富裕層の割合が多くアメリカの国防・安全保障政策に深く関わっている。

歴史的に数多くの差別を受けてきた経緯からかつてはリベラル派の民主党支持者が多かったが、民主党政権が進めた中東政策に対する不満から共和党に鞍替えしている有権者が多い。共和党の掲げる中東の民主化や親イスラエル政策が結果的には中東唯一の民主国家と主張するイスラエルを利することになるからである。また、同時にイスラエルの右派政党リクードも共和党と利害が一致しているため手を結ぶことが多い。このような経緯から、2001年に登場した共和党ジョージ・W・ブッシュ政権には数多くのネオコンが参入しており、同時多発テロ以降の強硬政策を推し進めた。


ネオコンと深い関連のあるとされている著名人


政治家
ディック・チェイニー - 米国副大統領、元国防長官、前ハリバートン会長
ウィリアム・ウェルド - リバタリアン党、元共和党員
ゲーリー・E・ジョンソン - リバタリアン党、元共和党員
ジェブ・ブッシュ - 共和党
ジャック・ケンプ - 共和党
ジョー・リーバーマン - 元上院議員、東欧系ユダヤ人
ジョン・コーニン(英語版) - 共和党上院議員、元テキサス州司法長官
ジョン・マケイン - 共和党下院議員
ジェフ・セッションズ - 共和党上院議員
ティム・ポーレンティー - 共和党、元ミネソタ州知事
テッド・クルーズ - 共和党上院議員
ドナルド・ラムズフェルド - 共和党、元大統領首席補佐官、元国防長官
ニュート・ギングリッチ - 共和党[7]
ヒラリー・クリントン - 元国務長官、民主党上院議員
フランク・カールッチ - 共和欧、元国防長官
マルコ・ルビオ - 共和党下院議員
マイク・ポンペオ - 共和党下院議員。中央情報局(CIA)長官。第70代アメリカ合衆国国務長官。
ミット・ロムニー - 共和党
リチャード・アーミテージ - 共和党、知日派の軍人、元国務副長官
リンゼー・グラム - 共和党上院議員


官僚・役人
エリオット・アブラムズ(英語版) - 外交官、ユダヤ人
ウィリアム・ジョン・ベネット - 共和党、元民主党、哲学者、元教育長官
カール・ローヴ - 共和党
ジーン・カークパトリック - 外交官、政治学者、反共産主義者
ジョン・ボルトン - 元国務次官補、元国際連合大使、トランプ政権で国家安保担当

大統領補佐官 国務省最右派・強硬派
ダグラス・ファイス(英語版) - 前国防次官、ユダヤ人
ビクトリア・ヌーランド - 外交官、元チェイニー氏外交アドバイザー、ロシア系ユダヤ人
ポール・ウォルフォウィッツ - 世界銀行総裁、元国防副長官、ポーランド系ユダヤ人
ポール・ブレマー - 外交官
リチャード・パール - 共和党、国家防衛政策委員長、政治家、ユダヤ人
ルイス・リビー - 弁護士、政治家、チェイニー副大統領の首席補佐官、ユダヤ人


学者・公共知識人・ジャーナリスト
アーヴィング・クリストル - ネオコンの創始者と考えられている。東欧系ユダヤ人
ウィリアム・クリストル - アーヴィング・クリストルの子、東欧系ユダヤ人
フランシス・フクヤマ - 政治学者でネオコンのイデオローグの一人とされた、日系アメリカ人
カナン・マキヤ(英語版) - 研究者、イラク人
オリアーナ・ファラーチ - イタリアのジャーナリスト
クリストファー・ヒチェンズ - イギリス出身の解説者
グレン・ベック - ラジオ・パーソナリティ、コメンテーター
シーモア・リプセット - 政治学者、ロシア系ユダヤ人
ダニエル・パイプス - 歴史家、政治評論家、ポーランド系ユダヤ人
ダニエル・ベル - 社会学者、「イデオロギーの終焉」論。東欧系ユダヤ人
チャールズ・クラウトハマー - コラムニスト
デーヴィド・フラム - カナダ出身の記者、「悪の枢軸」という単語を考案した。ユダヤ人
ドナルド・ケーガン - 歴史学者、リトアニア系ユダヤ人
ナタン・シャランスキー - ジョージ・W・ブッシュの拡大中東構想に影響を与えた、ウクライナ出身のイスラエル人
ノーマン・ポドレツ - 政治学者、ウクライナ系ユダヤ人
ピーター・バーガー - 研究者
フィリップ・メリル(英語版) - 輸出入銀行会長
マイケル・グリーン - 知日派の政治学者
マイケル・ノヴァック(英語版) - 研究者
マイケル・レディーン(英語版) - 歴史学者、哲学者
ラッシュ・リンボー - ラジオ・パーソナリティ、コメンテーター
リチャード・ホフスタッター - 政治史家、ユダヤ系
リンダ・チャヴェズ(英語版) - スペイン系ユダヤ人
リン・チェイニー - チェイニー元副大統領夫人、反ネオコン学者の評論家
ロバート・ケーガン - 政治評論家、ビクトリア・ヌーランドの夫、リトアニア系ユダヤ人
ロナルド・ロトゥンダ(英語版) - ジョージ・メーソン大学法学教授

注釈

^ 共和党は1970年代まで孤立主義を主張し、棍棒外交など付近の非列強諸国にのみ干渉し、列強には自国の権益干渉を武力で牽制する外交をしていた。欧州や日本など列強諸国とは直接的な戦争よりも、介入しないことで得られる自国の国益や経済的損得を最優先して、列強とは互いに不干渉を守らせるための外交をするとの考えを強く持っていた。1970年以降の民主党にもネオコンと呼ばれないが、党内に近い思想の議員や党員が存在する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BF%9D%E5%AE%88%E4%B8%BB%E7%BE%A9_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c13

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
14. 中川隆[-10010] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:09:28 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[39]
「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張
 かけはし2003.4.14号より
http://www.jrcl.net/frame03414g.html


姜尚中とトロツキズム

 三月二十一日午後六時半から八時まで、ワールド・ピース・ナウが行ったアメリカ大使館抗議行動の現場に駆けつけた政治学者のダグラス・ラミスさんが、「今夜のNEWS23に呼ばれているので、こう言えと注文があったら言ってください」と呼びかけていた。

 帰ってテレビをつけると、筑紫哲也が司会で姜尚中(東大教員)、ダグラス・ラミス、嶌信彦(ジャーナリスト)の三人がコメンテーターになった、イラク戦争の特集番組が始まった。そのなかで姜尚中が、びっくりするような意見を開陳した。
 彼はいつもの謹厳な顔で、「ブッシュを戦争に駆り立てているネオコン(ネオ・コンサバティブ=新保守主義派)の思想的背景には、トロツキズムの世界同時革命論がある」と述べたのである。

 言うまでもなくトロツキズムは、帝国主義と資本の支配を打倒し世界社会主義革命をめざす闘いの理論であり、したがって帝国主義の侵略戦争を阻止しようとする闘いの指針である。姜尚中はこのトロツキズムを、アメリカの武力によって「自由市場」「自由貿易」などの新自由主義的な資本の支配を世界化しようとするネオコンの帝国主義的侵略戦争の、思想的背景だとして全く正反対に描き出したのである。

 東京新聞(3月11日)の「こちら特報部」は、姜尚中と同様の「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張を展開している。姜尚中のこのトンデモ発言が、この記事の受け売りなのかどうかはわからない。しかしとにかくこの記事によれば、チェイニー、アーミテージ、ラムズフェルドらブッシュ政権の首脳が結集するネオコンのシンクタンクPNAC(新しいアメリカの世紀プロジェクト)の議長クリストルが、『トロツキストの思い出』という著書の中で、一九四〇年に大学を卒業するまで、YSA(青年社会主義者連盟)のメンバーだったと語っているのだという。

 そしてこの記事は、「その過去を踏まえれば彼らの過激な政策も納得がいく」として、武力によるアメリカの世界支配という現在のネオコンのウルトラ帝国主義的な思想が、六十数年前にクリストルが信奉していたという「トロツキズム」と、あたかも直接の連続性があるかのように描き出しているのである。

 YSAは、第四インターナショナルと連携するトロツキスト組織であったSWP(社会主義労働者党)の青年組織であった。クリストルが六十年数前、本当に「トロツキスト」だったかどうかはいまや知る由もない。しかしかりにはるか昔、彼がYSAに所属していたことがあったとしても、ネオコン=トロツキストとするにはいささか無理がある。

 左翼活動家が思想転向し、右翼あるいは極右になった例は古今東西、文字通り掃いて捨てるほどある。たとえばファシストの代表的人物であるムッソリーニは、イタリア社会党の機関紙「アバンティ」の編集長まで務めた社会主義革命をめざす左翼活動家であった。日本でも戦前・戦後を通じて、同様の例は数え切れない。

 戦後政治の黒幕の一人として暗躍した極右政治屋田中清玄は、戦前の一時期、共産党委員長だったことがある。ファシスト漫画家小林よしのりの盟友である極右イデオローグの代表的人物の一人西部邁や、自民党総裁候補であり続けて汚職で議員辞職に追い込まれた加藤紘一は、新左翼のブント(共産主義者同盟)のメンバーであった。

 戦後の日本経済を取りしきった大資本家のなかには、「昔はマルクス・ボーイだった」と懐かしげに語る人物もたくさんいた。すでに八十歳をはるかに過ぎた老極右活動家としてのクリストルが、左翼活動家であった青年時代を懐かしむのは、それほど奇異なことではない。「若気の至り」で一時かぶれた左翼思想を捨てたからこそ、あるいは大資本家として労働組合を弾圧する側に回り、あるいは極右イデオローグになったのである。

 日本共産党は、極右政治屋に転向した後の田中清玄の思想と行動に責任を負うことはできない。それと同様に、六十数年前にトロツキズム運動から離脱し転向したネオコン指導者の今日の帝国主義的侵略戦争の思想に、帝国主義支配の打倒をめざすトロツキズムは責任を負うことはできないのである。

 姜尚中の「トロツキストの世界同時革命論」という発言にもびっくりする。「世界同時革命論」とは、日本共産党から分裂して作られた新左翼グループ共産主義者同盟(ブント)が、青年エンゲルスが『共産党宣言』の草案として起草した『共産主義の原理』の一節にヒントを得て打ち出した、底の浅い党派コマーシャル「理論」にすぎない。したがってそれはトロツキズムの国際主義的な「永続革命論」とは何の関係もないし、トロツキーの膨大な著作や国際トロツキズム運動のあらゆる文献を調べても、「世界同時革命論」なる「理論」は一回たりとも出てこない。
 まさか姜尚中は、六十数年前にYSAをやめたというクリストルが、それから二十年近く経って結成された日本のブントから学んだなどという奇怪な主張をしているわけではないだろう。いずれにせよ、姜尚中のトロツキズムに関する知識は『知恵蔵』や『現代用語の基礎知識』以下の水準であるようだ。

 もちろん『トロツキー著作集』や『トロツキー研究』のバックナンバーを全部読めとは言わない。エルネスト・マンデルの『トロツキーの思想』一冊でいいから読めとも言わない。しかしテレビ番組という「公共空間」で「トロツキズム」について発言するのである。『知恵蔵』以下の「知識」では、政治学の研究者としてはあまりにも恥ずかしいし、無責任のそしりを免れることはできないだろう。
 姜尚中は、反戦運動や憲法改悪との闘いをはじめとする市民運動の周辺で発言する知識人の中で、最も良心的な人物の一人である。市民運動の中での彼の影響力は大きい。だからこそ、今回のような無責任な発言は許されない。どんな媒体を通じてでもいいからちゃんと訂正し、彼に誹謗中傷された「トロツキスト」に対してというよりも、彼を信用している市民運動に対して、無責任な発言をしたことを謝罪すべきだろう。(義)
http://www.jrcl.net/frame03414g.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c14

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
15. 中川隆[-10009] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:12:35 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[40]
「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張 2

極左から極右への転向例


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


▲△▽▼

2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

▲△▽▼
60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c15

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
16. 中川隆[-10008] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:26:26 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[41]
「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張 3

極右から極左への転向例


はる爺
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。

帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。

今も共産主義で全体主義のC国好きで有名な総合商社伊藤忠の元会長が瀬島である。特務機関の原田統吉から、ソ連の「8月上旬侵攻」の至急電文を握りつぶし、婦女子を含む155万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも関東軍の参謀部が、松村知勝や瀬島らのコミュニストに支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪され、レイプさせることを計画的に実行するためだったのだ。それに反して内蒙古を守る駐蒙軍の司令官だった根本博中将は、武装解除を無視し敵の侵入を阻止するため白兵戦を繰り返し、多くの犠牲を出しながら4万人もの邦人を守り抜きました。日本軍人の鏡です。
https://www.youtube.com/watch?v=wl2sBVCXIG8&lc=Ugym7Hf_aBI_lRokWw54AaABAg.9E3heQvDZCU9E5TXEaKV18  



▲△▽▼

近衛文麿の上奏文

近衛文麿は日本陸軍がソ連に使嗾されて革命を起こすかもしれないと上奏する


東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。


2013年8月15日木曜日
近衛上奏文現代語版(加筆しました)

 昭和20年という終戦の年の今で言うバレンタインデーに元首相近衛文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」です。

 私が初めて読んだ時すごくショックでした。

 これをきっかけに「太平洋戦争」が「大東亜戦争」に私の中で変わっていったのです。この内容が多くの人に触れられるように現代語にしてみました。細かい間違いはあるかもしれませんが、要旨は間違っていないと思います。


近衛文麿公の昭和天皇への上奏文
昭和20年2月14日

木戸幸一内大臣が侍立(後に近衛文麿や真崎甚三郎のグループの人が逮捕されている)

 敗戦は残念ながら、最早必至であると考えます。以下この前提の下に申し述べます。敗戦は我が国の国体(国柄、国のあり方)破壊につながる可能性があるものの、イギリスやアメリカの世論は今日までのところ、(日本の)国体の変革(を求める)とまでは進んではいません(もちろん一部には過激論もあり、また将来どのように変化するかを予測することは困難です)。従って、敗戦だけならば、国体上はそうまで心配する必要はないと考えます。国体を守るという建前より、最も危惧すべき事は、敗戦よりも敗戦に伴って起こりうる共産主義革命であります。

 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段(階)革命戦術(ブルジョワ革命の後プロレタリア革命を起こす)の採用以来、ことに最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著です。しかし、これは表面的かつ容易な見方であると思います。ソ連が究極において、世界赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策謀により明瞭となりつつある次第です。

 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国には「ソヴィエト」的政権を樹立しようとし、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。
 ユーゴのチトー政権は、最も典型的で具体的な表現であります。ポーランドに対しては、あらかじめソ連内に準備していたポーランド出国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在イギリス亡命政権を問題とせずに押し切りました。ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見ると、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエト」政権でなければ、どうすることもできないようになっています。

 イランに対しては、石油利権の要求に応じないという理由によって、内閣総辞職を要求しました。スウェーデンがソ連との国交開始を提議した事に対して、ソ連はスウェーデン政府に対して、親枢軸的であると一蹴し、この理由で外相の辞職が余儀なくなりました。

 英米に占領されているフランス、ベルギー、オランダにおいては、対ドイツ戦に利用した武装蜂起団と政府との間で深刻なる闘争を続けられ、かつこれらの諸国はいずれも政治的危機に見舞われつつあります。そうしてこれらの武装団を指揮しているのは、主として共産系(の人達)であります。これは英米にとり、今日の頭痛の種となっていると思われます。

 ソ連はこの通りヨーロッパ諸国に対し、表面上は内政不干渉の立場を取っていますが、事実においては、極度の内政干渉を行い、国内政治を親「ソ」的方向に引きずりこもうとしています。

 ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に延安(中国共産党の本拠地)にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊と連絡し、日本に呼びかけていました。
 このように形勢から推測すると、ソ連はやがて日本の内政に干渉するようになる危険性が十分にあると考えられます(即ち共産党が公認した「ドゴール」政府、「パドリオ」政府に要求したように、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止など)。

 翻って国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらの内、特に憂慮すべきは軍部内一味の(事実上国家社会主義を目指した)革新運動であります。

 少壮軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた、ここにあると思われます。職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立をもって、彼らを引きずり込もうとしつつあります。そもそも満州事変を起こし、これを拡大して、遂に大東亜戦争にまで導いてきたことは、軍部内の意識的計画であったことは、今や明瞭であると思われます。支那事変当時も「事変が長引くのがよく、事変解決したら国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心であり、これら軍部の革新論者の狙いは、必ずしも共産革命でないとしても、これを取り巻く一部官僚および民間有志(これを右翼というも良いし、左翼というも良い、右翼は国体の衣を着けた共産主義者です)は、意識的に共産革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知単純である軍人がこれらの人達に踊らされていたと見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。この結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らして見た時、そこに思い当たる節々が非常に多いと感じるのであります。私はこの間、三度まで(総理大臣の)大命を拝したが、国内の相克摩擦を避けようとしたため、できうるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の実を挙げようと焦慮した結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に看取することができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります。

 昨今、戦局の危急を告げたとともに、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを増しつつあると考えています。このような主張をしている者は、いわゆる右翼者流であっても、背後よりこれを煽動しつつあるのは、これは例によって国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達しようとする共産主義分子であるとにらんでいます。一方においては、徹底的に米英撃滅を唱える反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつあるようにあります。軍部の一部は、いかなる犠牲を払ってもソ連と手を握るべしとさえ論じている者がいました。また延安(中国共産党)との提携を考えているものもあったとの事であります。以上のように国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば、形勢は急速に進展するでありましょう。

 戦局の前途につき、何ら一縷でも打開の望みありというならば別ですが、敗戦は必至の前提の下に、論じてみても勝利の見込みはありません。戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと思われます。従って国体護持の立場より見れば、一日も速やかに戦争終結を講ずべきものであると確信いたしました。

 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた、軍部内のそれら一味の存在であると考えています。彼らは既に戦争遂行の自信を失っていますが、今までの面目上あくまでも抵抗するであろうと思われます。もし、この一味を一掃せずに早急に戦争終結の手を打とうとした場合、右翼左翼の民間有志がこの一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、企図した目的の達成が困難になる恐れがあります。従って戦争を終結しようとすれば、まずその前提としてこの一味の一掃が肝要であります。この一味さえ一掃すれば便乗の官僚、並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むようになるでしょう。確かに、彼らは未だ大なる勢力を結成しておらず、軍部を利用して野望を達成する以外方法がないため、その本を断てば、枝葉は自ら枯れるものと思います。

 なおこれは希望的観測かもしれませんが、もしこれら一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶(国民党)の空気が、あるいは緩和するのではないでしょうか。元来米英及び重慶(国民党)の目標は「日本軍閥の打倒にあり」と言っているので、軍部の性格が変わりその政策が改められれば、彼らとしても戦争の継続について考慮するようになるのではないかと思われます。

 それはともかくとして、この一味を一掃し軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提、先決条件であるとすれば、非常のご勇断をこそ(天皇陛下に)お願いしたいと思います。
                                     以上

 中川八洋氏は「近衛文麿こそ共産主義者であり、大東亜戦争を起こした最大の黒幕である」と主張しています。この上奏に加わったグループの人達の中の認識では近衛文麿は理知的であるがいろいろな人の影響を受けやすい優柔不断な人、そして「革新(共産主義もしくは国家社会主義)からの転向者」となっています。

 しかし、近衛文麿が首相として行ったことは、支那事変時にすぐに軍に予算を付けたり、三国同盟を結んだり、国民党政府との交渉を拒絶したり、南インドシナへの進駐を進めたりと、やっていることはあくまでも戦争を継続し拡大するという動きです。しかも近衛文麿は絶妙なタイミングで首相を辞め、東条英機らにその責任の多くをなすり付けています。もし近衛文麿が確信犯的に大東亜戦争を起こしたのであれば、スターリン並の謀略家ということになります。もしそうでも真実を知っていたのは第一次内閣時の書記官長の風見章(共産主義者)と内大臣の木戸幸一(京都大学時代からの共産主義仲間)ぐらいかもしれません。多くの共産主義者も知らなかったかもしれません。味方をも騙す天才謀略家だったのでしょうか。

 この説が正しいとなると、近衛上奏文は大事な部分が欠けていることになります。つまり、「共産主義者による敗戦革命を目論んでいた最大の黒幕は、この私近衛文麿である」という部分です。共産主義者による敗戦革命謀略を暴露し、その責任を自らは逃れ、陸軍の統制派に押し付けるという絶妙な上奏文になっています。敗戦後責任者を別に押し付け、自分が敗戦革命を最後まで完遂するつもりだったのでしょうか。今となってはなかなか証明が難しい問題です。

 近衛文麿の家に掲げられた「黙」と言う字は死んでもこの謀略を黙っているという意味だったとしたら、亡くなった300万人の人達はどう思うのでしょうか。
http://hiizurutokoroshinbun.blogspot.com/2013/08/blog-post.html

▲△▽▼

近衛文麿上奏文 - 電脳 大本営
https://daihonnei.wpblog.jp/konoe-report-to-the-throne-1945

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c16

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
17. 中川隆[-10007] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:51:28 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[42]
「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張 4

中国は共産主義国ではなく古来からの皇帝が支配する儒教国家です。


自称共産国家は国名に民主主義共和国とか付けて民主主義国みたいに装っているのと同様、実際には民主主義国でも共産主義国でもないのです。

世界で本当の共産社会に近かった国はバブル前の日本だけです。

それは、終戦後、共産主義者・ニューディ−ラーばかりだった GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて日本を無階級社会にしたからなのです。

日本共産党や労働組合もGHQが合法化しました。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしていません。

本来の共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は絶対に存在しません。つまり、 中国共産党員は共産主義者ではなく正統派の儒教者なのです。

そもそもこの現代に左翼なんか存在しません。

日本共産党は典型的な保守反動政党だし、現在の中国・北朝鮮・韓国は古来の儒教思想が現在まで続いている国です。 習近平も毛沢東も昔ながらの中国皇帝ですしね。

グローバリズムは左翼思想だとか、チュチェ思想が共産主義だと言っているアホがいるけど、

・グローバリズムは21世紀型の帝国主義で典型的な資本主義思想

・チュチェ思想は天命を受けて統治している天子をみんなで支えなければいけないという儒教思想


詳細は


朝鮮人が嘘をつく理由
儒教は徳治主義、徳治主義とは徳のある正しい人間が上に立つとうまく行くという思想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/512.html

中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c17

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
18. 中川隆[-10006] koaQ7Jey 2020年11月10日 18:58:51 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[43]
「ネオコン=トロツキスト」というとんでもない主張 5


《櫻井ジャーナル》 2016.06.22
ファシズムとは巨大資本が支配する統制経済の事
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606210000/

アメリカをはじめ、西側の支配層は現在、巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。そのベースになる考え方はイタリアの経済学者ビルフレド・パレートから学んだのだという。

 後に西側では全体主義をファシズムとコミュニズムを一括りにするタグとして使うようになるが、これは巨大資本の情報操作。本来は企業主義(企業支配)と結びつけるべきものだった。巨大資本が定義した意味で全体主義というタグを使うのは、情報操作に踊らされていることを意味する。

 1933年11月といえば、アメリカの巨大資本が反フランクリン・ルーズベルトのクーデターを計画していたころ。その5年後の4月29日にルーズベルトはファシズムについて次のように定義している。

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 ここに書かれているようなことをアメリカの支配層は目論んでいる。その突破口になる協定がTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)の3点セット。このうちTTIPはアメリカとEUの協定で、EUから離脱した国には適用されない。勿論、EUが解体されればTTIPは雲散霧消だ。

 ところで、前にも書いたように、ヨーロッパ統合は米英支配層の計画だった。1922年に創設されたPEUに始まり、第2次世界大戦後にACUEが作られ、その下にビルダーバーグ・グループもできた。NATOの創設は1949年だ。EUの前身であるECについて、堀田善衛はその「幹部たちのほとんどは旧貴族です。つまり、旧貴族の子弟たちが、今ではECをすべて取り仕切っているということになります。」(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』集英社、1993年)と書いている。EUでも同じことが言えるだろう。その旧貴族をカネと暴力で支配しているのが米英の支配層であり、その支配のためにNATOやUKUSAは存在する。

 こうした仕組みを作り上げた米英の支配層は当初、イギリスが主導権を握っていた。そのイギリスで1891年に「選民秘密協会」が創設されている。セシル・ローズ、ナサニエル・ロスチャイルド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、ウィリアム・ステッドが中心メンバー。ブレッドは心霊主義の信者としても知られるビクトリア女王の相談相手で、後にエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。

 ジョージタウン大学の教授だったキャロル・クイグリーによると、1901年までローズがこの結社を支配していたが、それ以降はアルフレッド・ミルナーが中心になる。そのミルナーはシンクタンクのRIIA(王立国際問題研究所)を創設した。後にRIIAのアメリカ支部と見なされるようになるアメリカのCFR(外交問題評議会)は設立直後、JPモルガンに乗っ取られた団体だ。

 モルガン一族が富豪の仲間入りする切っ掛けは、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンにあったジョージー・ピーボディーの銀行の共同経営者になったこと。1857年にその銀行が倒産寸前になるが、そのときにピーボディーと親しくしていたナサニエル・ロスチャイルドが救いの手をさしのべている。

 1864年にピーボディーは引退し、モルガンが引き継ぐ。その息子がジョン・ピアポント・モルガン。この息子はロスチャイルド財閥のアメリカにおける代理人となった。この人物の名前から彼の金融機関はJPモルガンと名づけられたわけだ。

 本ブログでは何度も書いているように、関東大震災の復興資金調達で日本政府が頼ったのがこのJPモルガンで、それ以降、日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。有り体に言うなら、ウォール街の属国になり、ファシズム化が始まった。だからこそ血盟団による暗殺や二・二六事件が引き起こされたのだろう。

 ニューヨークの株式市場で相場が大暴落した1929年から大統領を務めたハーバート・フーバーはウォール街の巨大金融資本を後ろ盾にしていたが、その経歴をさかのぼるとロスチャイルドが現れる。スタンフォード大学を卒業した後に鉱山技師として働いた鉱山を所有していたのがロスチャイルドだった。そのとき、利益のためなら安全を軽視する姿勢が気に入られたようだ。

 相場は大きく変動するときがチャンス。下がれば損をするというものでもない。暴落のタイミングを知っていれば、つまり暴落を仕掛けられれば大儲けできるのだ。1929年にもそうしたことが起こったと言われている。相場の下落で儲かるだけでなく、二束三文で価値あるものを手に入れられる。その時に政府をコントロールできていれば、やりたい放題だ。

 そうした意味で1928年や32年の大統領選挙は重要だったが、32年の選挙でフーバーは再選に失敗する。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。当然のことならが、JPモルガンをはじめとする巨大金融資本はショックを受けた。

 当時、大統領の就任は3月。選挙から4カ月のギャップがある。その間にルーズベルトはフロリダ州マイアミで銃撃事件に巻き込まれるが、弾丸は隣のシカゴ市長に命中、市長は死亡した。引き金を引いたのはレンガ職人のジュゼッペ・ザンガラなる人物で、足場が不安定だったことから手元が狂ったとも言われている。この銃撃犯は直後の3月20日に処刑されてしまい、真相は不明のままだ。

 ルーズベルトが大統領に就任した後、支配層はニューディール政策の実行を妨害する。その最前線にいたのが最高裁判所だった。そして1934年にクーデター計画が発覚する。名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人で信望が厚かったスメドリー・バトラー海兵隊少将は議会でこの計画を明らかにしたのだ。

 バトラーによると、クーデター派はルーズベルト政権を倒すため、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、フランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていたという。

彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃、50万名規模の組織を編成して圧力をかけ、大統領をすげ替えることになっていたという。

現在、アメリカの支配層がカネ儲けに邪魔な政権、体制を倒すために使う手法と基本的に同じだ。

バトラー少将の知り合いだったジャーナリストのポール・フレンチもクーデター派を取材、その際に「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で証言している。

 このクーデター計画を聞いたバトラー少将はカウンター・クーデターを宣言する。50万人を動員してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げたのだ。つまり、ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろというわけである。

その結果、クーデターは中止になるが、クーデター派を追及して内戦になることを恐れたルーズベルト政権は曖昧なまま幕引きを図った。大戦の終盤、ルーズベルトはドイツや日本の略奪財宝を回収するのと同時にナチスと巨大企業との関係を明らかにしようとしていたと言われているが、これはルーズベルトが執務室で急死したため、実現しなかった。


 何度も書いてきたが、JPモルガンと日本とを結ぶキーパーソンはジョセフ・グルー。

駐日大使として1932年に赴任してきたが、彼のいとこのジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻だ。またグルーの妻、アリス・ペリーは少女時代に日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで後に大正(嘉仁)天皇の妻(貞明皇后)になる九条節子と友人になったという。


 グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めているが、妻と皇室との関係も利用して松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らと親しくなったという。

1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカに宣戦布告した直後、グルーは大使の任を解かれたが、42年になって岸信介(つまり安倍晋三の祖父)はグルーをゴルフに誘っている。それから間もなくしてグルーはアメリカへ戻った。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心メンバーとして「右旋回」、つまり戦前回帰を推進する。安倍首相やその仲間たちはこの政策を促進しようとしているだけである。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606210000/


▲△▽▼

《櫻井ジャーナル》 2016.06.30

戦前日本は米巨大資本に従属、その巨大資本と対立していたルーズベルト政権と日本の対立は必然

 安倍晋三政権は「戦前への復古」と「アメリカへの従属」を目指しているが、これは矛盾していないどころか、コインの裏と表の関係にある。幕末から日本の支配層は基本的にイギリスやアメリカの巨大資本を後ろ盾としてきた、つまり強い影響を受けてきたのだ。この関係が機能しなかったのは、ニューディール派政権だった1933年3月から45年4月、あるいはジョン・F・ケネディが大統領だった1961年1月から63年11月くらいだろう。

 現在、この従属関係を「日米同盟」と呼ぶが、かつては「対米協調」と表現されていた。そうした政策を打ち出した代表的な政権は1929年7月から始まる浜口雄幸内閣。アメリカ巨大資本の要求に従った政策、フランクリン・ルーズベルトやベニト・ムッソリーニが言うところのファシズム(注)を導入、例えば、緊縮財政と金本位制への復帰を実行した。最近の表現を使うならば、新自由主義的な政策を導入したのだが、これによって貧富の差が拡大、東北地方で娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になる。

 こうした経済政策の中心にいた人物がJPモルガンと緊密な関係にあった井上準之助であり、こうした背景を抜きにして、1932年の血盟団による井上準之助や団琢磨の暗殺、また1936年の二・二六事件を理解することはできない。二・二六事件では、昭和天皇も井上たちと同じ立場だということが明らかになった。

 ウォール街が支援していたハーバート・フーバー大統領をルーズベルトは1932年の大統領選で破ったのだが、その3年前にニューヨークで株式相場が暴落、経済破綻が顕在化していた。

 第1次世界大戦(1914年から18年)でライバルのヨーロッパ諸国は疲弊したが、アメリカは戦場とならずに物資の販売や金融で大儲け、自動車の大衆化が進み、映画やラジオの登場など技術的な進歩で豊かになっているように見えた。

 しかし、富が一部に集まる政策が推進され、社会は衰退する。大戦後に兵士が帰国すると街には失業者が溢れ、ストライキやデモが続発していた。そうした中、1919年にボストン近郊で起こった現金輸送車襲撃未遂事件が起こり、ニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが逮捕された。1920年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件でも有罪とされた。

 いずれの事件もふたりを有罪とするような証拠、証言はなく、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視して死刑を言い渡している。ふたりが「アナーキスト」だったということが理由だと見られている。ふたりは1927年の8月に処刑された。

 勿論、1950年代から60年代にかけて公民権運動が高まるまでアメリカでは人種差別が公然と行われ、決して「自由で民主的な国」とは言えない。そうした国の内部で庶民の不満は強まり、1932年の大統領選でニューディール派を勝たせることになる。

 当時、日本の支配層が従属していた相手は「自由で民主的な」アメリカ人でなく、富を独占し、人種差別を行う人びと。フランクリン・ルーズベルト政権の誕生は、日本の支配層がウォール街に従属するという関係を崩した。この関係が復活するのは、1945年4月にルーズベルトが執務中に急死してからだ。

 このアメリカと日本が戦争を始める切っ掛けは、言うまでもなく「真珠湾攻撃」。この攻撃がいかに無謀だったかを語る人は多いが、日本はすでに戦争をはじめていた。1927年5月に山東出兵、31年9月に柳条湖事件と呼ばれる偽旗作戦を実行して侵略を開始、中国東北部に「満州国」と称する傀儡国家を樹立させた。1937年7月の盧溝橋事件後、宣戦を中国の全域に拡大、そして41年12月の真珠湾攻撃だ。

 しかし、日本が東アジア侵略を始めたのはその遥か前、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置したところから始まる。本ブログでは何度か指摘したが、1871年7月に廃藩置県を実施済みなわけで、この琉球藩設置は台湾へ派兵する口実作りの可能性が高い。実際、そのころ来日していた厦門の領事のチャールズ・リ・ジェンダーは外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めていた。そこから江華島への軍艦派遣(朝鮮に対する挑発)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦へとまっしぐらだ。この背後にはイギリスとアメリカが存在していた。

 東アジアを侵略している間に盗んだ財宝も曖昧なまま、アメリカ支配層と山分けした可能性が高い。その過程で吸った甘い汁を日本の支配層は忘れていないはず。アメリカ支配層の最近の動きを見ていると、過去の「成功体験」を再現しようとして失敗しているようで、日本がアメリカの真似をして再び中国を侵略しようとしたなら、取り返しのつかないことになりそうだ。

 こうした道へと日本を導いているのが安倍政権。危険な流れを察知した人びとが小沢一郎の率いる民主党を選挙で勝たせたのだが、それをマスコミと検察が潰し、菅直人や野田佳彦は国民の期待を裏切って現在がある。ここで諦めたなら、支配層の思う壺だ。


【注】

(1) ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。

(2) 1938年4月29日にフランクリン・ルーズベルトはファシズムについて次のように定義した。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606300000/



▲△▽▼

《櫻井ジャーナル》
アメリカの支配層が世界的な規模でファシズム体制を樹立させようとしていることは本ブログで何度も指摘してきた。その計画は遅くとも大恐慌の時代から始まる。

米英の巨大金融資本とナチスとの関係も明らかになっている。

ホワイトハウスからニューディール派を排除してファシムズ体制を樹立しようというクーデター計画が1933年から34年にかけて進められていたことも書いてきた通り。スメドリー・バトラー少将らの証言によると、その中心的な存在がJPモルガンだった。

 1933年はニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任した年。1945年4月に執務中に急死するまでルーズベルト政権が続くのだが、その政権で45年1月まで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスは44年4月、アメリカをファシズムの脅威が襲うピークは第2次世界大戦の後だとニューヨーク・タイムズ紙に載せた記事の中で指摘している。

 1944年の大統領選挙でもルーズベルトは圧勝しているが、その選挙の際、民主党の幹部はルーズベルトに信頼されていたウォーレスを次期副大統領候補から外し、シオニストの富豪アブラハム・フェインバーグを後ろ盾とするハリー・トルーマンを据えていた。副大統領に就任した3カ月後、ルーズベルトの急死でトルーマンが副大統領から大統領へ昇格している。大戦後、アメリカでは反ファシスト勢力が粛清された。

 その後、アメリカにおける金融資本の影響力はさらに強まるが、FBIと並ぶ支配の重要な道具として機能してきたのが情報機関のCIA。この機関は1942年、ウォール街とシティ、つまりアメリカとイギリスの金融資本によって作られたOSSが大戦後に生まれ変わってもの。その人脈は大戦の終盤からナチスの幹部や協力者を救出、ラテン・アメリカなどへ逃亡させ、保護、雇用している。当時の動きは本ブログで何度か書いたことなので、今回は割愛する。

 アメリカやイギリスの支配層にとってファシズムは長期戦略の柱だともいえる。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202004180000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c18

[近代史5] 副大統領カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者
副大統領カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者


副大統領に指名カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者、エプスタイン大量献金…ジェームズ斉藤が暴露!
2020.08.17
https://tocana.jp/2020/08/post_166847_entry.html


──民主党のアメリカ大統領候補ジョー・バイデンがカマラ・ハリスを副大統領に指名しましたが、結構、クセのある女性らしいですね。

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 彼女は極左地域である、サンフランシスコエリアで育った人で、両親ともに極左の学者でプロ市民ですね。ですから、本人もプロ市民の道をずっと歩んできた人です。彼女は後に地元サンフランシスコの検事総長になり、熾烈な法適用で、冤罪を大量生産して、黒人や有色人種を徹底的に弾圧しました。

──えっ、極左なのに白人至上主義者なんですか?

ジェームズ いえ、民主党はもともと白人至上主義者で、奴隷制賛成派なんです。アメリカ人も含めて、ほとんどの人がそこを誤解しています。民主党は南北戦争の時には南軍を応援していましたし、白人至上主義者組織KKKの支援者でした。事実、ハリスの父の家系も19世紀ジャマイカの大奴隷地主だったんです。逆に共和党は北軍を支持し、奴隷制反対だったんです。それがいま逆転していることを多くのアメリカ人は忘れているんです。移民たちはもともとそんな歴史を知らないですし、CNNも絶対に放送しません。ですから、民主党=移民の味方、黒人の味方と思っているんです。

──民主党が黒人の味方だとずっと思ってました。

ジェームズ 真相はその逆です。表では黒人の公民権保護を謳っていますが、裏では奴隷制を彷彿させるような基本的人権弾圧を行なっています。実際、ハリスは検事総長の時代に刑務所の囚人を利用した労働事業を拡大しているんですが、その内容がひどいんです。囚人を1日わずか2ドルの報酬で消防士に仕立てて、カリフォルニア州でよく起こる山火事の火消しという究極の3K労働をさせていました。

──いくら囚人とはいえ1日2ドルですか!? これ日本円で200円とかですよ。

ジェームズ ひどいですよね。日給200円強で命がけの山火事消火ですからね。絶対何人か死んでいると思いますし、事実上の奴隷制です、これは。彼女がこんなことをする背景には検事総長の選挙があったんです。検事総長は市民の投票で決めるので、地元の極左利権を牛耳る白人富裕層に認められたいという野望があったんです。ですから、安価な労働力として囚人を提供したんですよ。

──その極左の白人富裕層にしても、「私は移民や黒人の矯正に一役買っていますよ」という宣伝になるわけですしね。 

ジェームズ もちろんです。いまの白人至上主義者はムチを使わないんです。彼らの代わりに有色人種がムチをふります。つまり、それがハリスの役割で、彼女が検事だった時期は、ストリートの黒人やヒスパニックは見た目が悪いってだけでガンガン捕まえていました。お陰で、犯罪数は減ったんですけど、それはそうですよ、ストリートにいる黒人たちは犯罪予備軍であることには間違いないんですから。犯罪を犯す前に捕まえてしまえという、究極の人権無視です。

──今、ふと思ったんですが、これってスリーストライクス・ユー・アー・アウト法とも関係してますか?

ジェームズ そうです、ありますね。犯罪を3回犯したら3回目はどんな軽い罪であっても何十年もの禁固刑に処すという法律ですよね。実はあれはジョー・バイデンがもとを作ったんですよ。この頃からバイデンは差別主義者で「信号無視だって人が死ぬかもしれない重罪だ。死刑以外の重い罪を科すべきだ」と発言しているんですが、スリーストライクス法で捕まるのはほとんどが黒人で、バイデンだって、それはわかっていたはずです。実際、米国法曹界では「法のマクドナルド化」と批判していました。その意味はハンバーガーのように見た目がイカツイ黒人の囚人が大量にできあがる、というもので、事実そうなりました。

副大統領に指名カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者、エプスタイン大量献金…ジェームズ斉藤が暴露!の画像2
ジョー・バイデン。画像は「CNN」より引用
──バイデンは先日「民主党に投票しない黒人は黒人じゃない」とも言ってましたね。

ジェームズ ですから、彼は根っからの差別主義者だと思いますね。黒人を軽蔑して、とことん利用するというのが民主党の極左議員の特徴です。これはハリスも一緒で、彼女が犯罪者を刑務所に次々にブチ込むことができたのもスリーストライクス法のお陰です。それで囚人を使った奴隷ビジネスを始めるのですが、あまりにもやりすぎてサンフランシスコの刑務所が一時囚人で溢れかえって大問題になっています。これを見ても彼女が囚人を更生させる気がないことがわかりますよね。

──それが民主党の副大統領なんですね。

ジェームズ そうです。バイデンが勝てば本当の副大統領になります。ですから、アメリカの黒人はますます不幸になると思いますね。で、不幸になるのはアメリカの児童も同様です。

──えっ!? もしかして、また、ペド案件ですかぁ。

ジェームズ そうです。実はハリスの法律の専門分野は児童性虐待なんですよ。しかも、立ち位置としては反児童側で、検事時代にはセレブによるペド事件の捜査中止命令を下したり、ハリウッドのペド防止法施行を拒否したりもしていますね。しかも、彼女は、エプスタインの法律事務所からも大量の献金をもらっています。

──えーっ、ここでもまたエプスタインですか!!

ジェームズ アメリカのペド事件はすべてエプスタインにつながるんですよ(笑)。まあ、彼が元締めだったわけですから。注目なのは、2011年にはトランプからも彼女は献金をもらっています。おそらくこれもペド関連だと思います。

──う〜ん、ということは、一時はトランプ派だったということですか?

ジェームズ 違います。この時トランプは大統領ではなかったですし、ビジネスマンとして民主党にも共和党にも献金するというスタンスだったと思います。逆に、トランプから金を貰ったことで民主党の大統領候補として出馬した時に、対立候補から責められていますね。彼女は移民支援の団体に寄付したと言っていますが、それは何年もあとの話で、検事総長再選の時に使っているはずです。

──それにしてもバイデンは凄い人を持ってきましたね。

ジェームズ 実はバイデンは認知症がかなり進んでいまして、だから、バイデン陣営はヤリ手の元極左検事総長のハリスを副大統領に任命したという背景もあるんです。さらにもうひとつ彼女を起用した理由には、政権奪取後にトランプを逮捕したいという思惑があると思います。ですから、バイデン陣営としては「Lock him up!」を狙っていると思います。トランプをぶち込めです。一方、トランプは「Lock her up!」でヒラリー・クリントンの収監を狙っています。牢屋に入るのはトランプか、ヒラリーか、今年のアメリカ大統領選挙はそういう戦いとして見るのも、いいとっかかりになると思いますね。


文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/365.html

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
218. 中川隆[-10005] koaQ7Jey 2020年11月10日 19:28:57 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[44]
副大統領に指名カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者、エプスタイン大量献金…ジェームズ斉藤が暴露!
2020.08.17
https://tocana.jp/2020/08/post_166847_entry.html


──民主党のアメリカ大統領候補ジョー・バイデンがカマラ・ハリスを副大統領に指名しましたが、結構、クセのある女性らしいですね。

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 彼女は極左地域である、サンフランシスコエリアで育った人で、両親ともに極左の学者でプロ市民ですね。ですから、本人もプロ市民の道をずっと歩んできた人です。彼女は後に地元サンフランシスコの検事総長になり、熾烈な法適用で、冤罪を大量生産して、黒人や有色人種を徹底的に弾圧しました。

──えっ、極左なのに白人至上主義者なんですか?

ジェームズ いえ、民主党はもともと白人至上主義者で、奴隷制賛成派なんです。アメリカ人も含めて、ほとんどの人がそこを誤解しています。民主党は南北戦争の時には南軍を応援していましたし、白人至上主義者組織KKKの支援者でした。事実、ハリスの父の家系も19世紀ジャマイカの大奴隷地主だったんです。逆に共和党は北軍を支持し、奴隷制反対だったんです。それがいま逆転していることを多くのアメリカ人は忘れているんです。移民たちはもともとそんな歴史を知らないですし、CNNも絶対に放送しません。ですから、民主党=移民の味方、黒人の味方と思っているんです。

──民主党が黒人の味方だとずっと思ってました。

ジェームズ 真相はその逆です。表では黒人の公民権保護を謳っていますが、裏では奴隷制を彷彿させるような基本的人権弾圧を行なっています。実際、ハリスは検事総長の時代に刑務所の囚人を利用した労働事業を拡大しているんですが、その内容がひどいんです。囚人を1日わずか2ドルの報酬で消防士に仕立てて、カリフォルニア州でよく起こる山火事の火消しという究極の3K労働をさせていました。

──いくら囚人とはいえ1日2ドルですか!? これ日本円で200円とかですよ。

ジェームズ ひどいですよね。日給200円強で命がけの山火事消火ですからね。絶対何人か死んでいると思いますし、事実上の奴隷制です、これは。彼女がこんなことをする背景には検事総長の選挙があったんです。検事総長は市民の投票で決めるので、地元の極左利権を牛耳る白人富裕層に認められたいという野望があったんです。ですから、安価な労働力として囚人を提供したんですよ。

──その極左の白人富裕層にしても、「私は移民や黒人の矯正に一役買っていますよ」という宣伝になるわけですしね。 

ジェームズ もちろんです。いまの白人至上主義者はムチを使わないんです。彼らの代わりに有色人種がムチをふります。つまり、それがハリスの役割で、彼女が検事だった時期は、ストリートの黒人やヒスパニックは見た目が悪いってだけでガンガン捕まえていました。お陰で、犯罪数は減ったんですけど、それはそうですよ、ストリートにいる黒人たちは犯罪予備軍であることには間違いないんですから。犯罪を犯す前に捕まえてしまえという、究極の人権無視です。

──今、ふと思ったんですが、これってスリーストライクス・ユー・アー・アウト法とも関係してますか?

ジェームズ そうです、ありますね。犯罪を3回犯したら3回目はどんな軽い罪であっても何十年もの禁固刑に処すという法律ですよね。実はあれはジョー・バイデンがもとを作ったんですよ。この頃からバイデンは差別主義者で「信号無視だって人が死ぬかもしれない重罪だ。死刑以外の重い罪を科すべきだ」と発言しているんですが、スリーストライクス法で捕まるのはほとんどが黒人で、バイデンだって、それはわかっていたはずです。実際、米国法曹界では「法のマクドナルド化」と批判していました。その意味はハンバーガーのように見た目がイカツイ黒人の囚人が大量にできあがる、というもので、事実そうなりました。

副大統領に指名カマラ・ハリスの知られざる正体! 究極の人権無視、白人至上主義者、エプスタイン大量献金…ジェームズ斉藤が暴露!の画像2
ジョー・バイデン。画像は「CNN」より引用
──バイデンは先日「民主党に投票しない黒人は黒人じゃない」とも言ってましたね。

ジェームズ ですから、彼は根っからの差別主義者だと思いますね。黒人を軽蔑して、とことん利用するというのが民主党の極左議員の特徴です。これはハリスも一緒で、彼女が犯罪者を刑務所に次々にブチ込むことができたのもスリーストライクス法のお陰です。それで囚人を使った奴隷ビジネスを始めるのですが、あまりにもやりすぎてサンフランシスコの刑務所が一時囚人で溢れかえって大問題になっています。これを見ても彼女が囚人を更生させる気がないことがわかりますよね。

──それが民主党の副大統領なんですね。

ジェームズ そうです。バイデンが勝てば本当の副大統領になります。ですから、アメリカの黒人はますます不幸になると思いますね。で、不幸になるのはアメリカの児童も同様です。

──えっ!? もしかして、また、ペド案件ですかぁ。

ジェームズ そうです。実はハリスの法律の専門分野は児童性虐待なんですよ。しかも、立ち位置としては反児童側で、検事時代にはセレブによるペド事件の捜査中止命令を下したり、ハリウッドのペド防止法施行を拒否したりもしていますね。しかも、彼女は、エプスタインの法律事務所からも大量の献金をもらっています。

──えーっ、ここでもまたエプスタインですか!!

ジェームズ アメリカのペド事件はすべてエプスタインにつながるんですよ(笑)。まあ、彼が元締めだったわけですから。注目なのは、2011年にはトランプからも彼女は献金をもらっています。おそらくこれもペド関連だと思います。

──う〜ん、ということは、一時はトランプ派だったということですか?

ジェームズ 違います。この時トランプは大統領ではなかったですし、ビジネスマンとして民主党にも共和党にも献金するというスタンスだったと思います。逆に、トランプから金を貰ったことで民主党の大統領候補として出馬した時に、対立候補から責められていますね。彼女は移民支援の団体に寄付したと言っていますが、それは何年もあとの話で、検事総長再選の時に使っているはずです。

──それにしてもバイデンは凄い人を持ってきましたね。

ジェームズ 実はバイデンは認知症がかなり進んでいまして、だから、バイデン陣営はヤリ手の元極左検事総長のハリスを副大統領に任命したという背景もあるんです。さらにもうひとつ彼女を起用した理由には、政権奪取後にトランプを逮捕したいという思惑があると思います。ですから、バイデン陣営としては「Lock him up!」を狙っていると思います。トランプをぶち込めです。一方、トランプは「Lock her up!」でヒラリー・クリントンの収監を狙っています。牢屋に入るのはトランプか、ヒラリーか、今年のアメリカ大統領選挙はそういう戦いとして見るのも、いいとっかかりになると思いますね。


文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c218

[近代史5] アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民
アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民

帝政ロシアは歴史的にユダヤ人を迫害してきているので、200万人以上のユダヤ人が国外に逃げています。彼らがアメリカに逃げてきて共産主義者になっていったんです。
逃亡ユダヤ人たちはレーニンの共産革命をユダヤ開放運動と見ていたんです。


ジョージ・ソロスやビル・ゲイツが資金提供する極左組織「アドバスターズ」の陰謀とは? ユダヤ系金融家の真の目的…ジェームズ斉藤が解説
2020.08.18
https://tocana.jp/2020/08/post_167074_entry.html


■ソロスやビル・ゲイツがバックアップする極左組織

──今、アドバスターズという極左組織がワシントンD.C.で不穏な計画を立てているということですが。

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 9月17日から大統領選投票日の11月3日までホワイトハウスを包囲するWhite House Siege戦を展開するとホームページで宣言しています。彼らは2011年にオキュパイ・ウォールストリートやオキュパイ・ワシントンD.C.を行っています。9年前の戦いをもう一度復活させるつもりでしょうね。シアトルやニューヨークのCHAZ運動はこのための地ならしだった可能性が高いです、実際CHAZもオキュパイ・シアトル、オキュパイ・NYシティホールと言ってましたから。

──アドバスターズ(ADBUSTERS)ってどんな組織なんですか? 

ジェームズ AD=広告をバスターするという無広告の極左系カルチャー雑誌で、カナダが本拠地です。創設者のカレ・ラースンは旧ソ連時代のエストニアの生まれで奥さんは日本人です。60年代には日本でマーケットリサーチの会社を経営してました。

──それって広告業界の人ってことですよね? 電通とかとも関係してるんですか?

ジェームズ 直接の取引はなかったみたいです。ただ、世界各国でテレビの広告枠を買い取って、そこで「今日は何も買わない日、無買デーにしましょう」というメッセージを流しています。反消費社会を謳う極左ですね。かなり変わった人で、自著『カルチャージャム』には、スーパーマーケットのショッピングカートのコイン投入口に曲げたコインを突っ込んで使えなくしてすっきりしたと書いています。これが都市生活を快適に生きる方法らしいです。ほかには気に入らない企業のホームページにメール爆弾を送れとか、ビルの壁に落書きしろといったことを書いています。

──面倒臭いモンスタークレーマーじゃないですか。

ジェームズ そうです。不思議なのは、そんなことしかやっていないのに、テレビの広告枠を買ったり、雑誌を作ってることです。資金の出処を調べてみたところ、お馴染みのジョージ・ソロスやビル・ゲイツらCIA左派勢力の名前が出てきました。彼らがバックアップしてます。

──単純な話、彼らがやってることって選挙妨害にならないんですか?

ジェームズ 当然なります。極左側はトランプが占拠妨害だといって軍や警察を動員し、徹底的に弾圧してくるのを待っています。米国版天安門事件にしようと画策しているんです。もちろん、トランプ側もそれはわかっているので、まずは司法省が極左勢力を国内テロ組織として正式に認定し、その後に破壊活動が制御のきかない状態になるまで待って、軍を投入するはずです。すでにアドバスターズ側にはトランプ側のスパイが浸透している可能性もあります。

■アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民?

──とはいってもトランプ陣営は結構追い詰められていませんか?

ジェームズ CNNやMSNBCなどの主要メディアは完全に極左なので当てになりません。実際、シアトルやポートランドなどの暴動はCNNなんかが伝えるような平和的なものではないですし、現在でも続いています。

──それにしても不思議なのは、なぜアメリカに共産主義者がこんなにいるんですか? メディアも含めて、かなりの勢力だと思うんですけど。 

ジェームズ もともとは19世紀末に、帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げ込んできたことが原因です。帝政ロシアは歴史的にユダヤ人を迫害してきているので、200万人以上のユダヤ人が国外に逃げています。彼らがアメリカに逃げてきて共産主義者になっていったんです。

──なぜ共産主義者になったんですか? 別に資本主義でもいいんじゃないんですか?

ジェームズ 逃亡ユダヤ人たちはレーニンの共産革命をユダヤ開放運動と見ていたんです。

──あっ、そうでした! マルクスもレーニンもユダヤ人でした。

ジェームズ そうです。共産主義はユダヤ人が作ったものです。実際、トロツキーもニューヨークに一時亡命してたくらいで、アメリカに逃げてきたユダヤ人は共産革命を応援していたんです。ところが、スターリンが現れてボリシェヴィキ党を乗っ取ると、再び、ユダヤ人を虐殺する大粛清を始めたので、トロツキーもニューヨークに逃げてきたんです、結局、暗殺されますけど。そこで、アメリカのユダヤ人たちはソ連を捨てて、アメリカで共産革命を起こすことを画策するんです。

──やっとわかってきました。アメリカで本物の共産革命=ユダヤ解放運動を実現させようとしているんですね。

ジェームズ そうです。ただし、彼らがやろうとしているのはマルクスレーニン主義ではありません。現在の共産主義はグラシムの文化マルクス主義に基づいています。グラシムとは1920〜30年代のイタリアの共産主義者アントニオ・グラシムのことです。彼はイタリアで共産革命を起こそうとしたのですが、イタリアはムッソリーニのファシズムを選びました。その失敗から、マルクス・レーニン主義の唯物論に限界を感じ、労働者が資本家を倒し、物質の再分配を促すのではなく、支配者側の文化や価値観を破壊することが共産革命につながると唱えました。なので、彼らはいまアメリカの文化を破壊しているのです。BLM(Black Lives Matter)やキャンセル文化がその典型です。

──キャンセル文化というと、重箱の隅をつついて否定のための否定しかない、まともな話ができない人たちですね。

ジェームズ どこの国でも極左はそんな人たちばかりです。ヒラリーとオバマはこのグラシム流革命論を研究しました。特にオバマは、文化マルクス主義を恣意的に歪ませています。寛容性を逆手に取って自分の極左的価値観を押し付けてくるのです。例えば、BLMは正しいですが、ALM(All Lives Matter)は白人のわがままだという風潮を作り出します。ALMでは黒人に対して不寛容だという主張です。それを日米の主要メディアはそのまま無批判に受け取ってしまうのです。

──反対しにくいですしね。

ジェームズ 寛容性を謳った瞬間、反対意見を言えない雰囲気を作り出すからです。議論をさせない、オバマのそのやり方は非常に汚いです。はっきり言いましてtolerance(寛容性)、kindness(親切さ)などを口にする勢力は信用しないほうがいいですね。これらの用語は極左勢力のキーワードです。日本ですと、辻元清美、福島瑞穂あたりが口にするレベルの言葉です。

──ということは、もしかして、バイデンが選んだ民主党の副大統領カマラ・ハリスはアメリカの福島瑞穂って感じで捉えるとわかりやすいんですか? 

ジェームズ いえ、アメリカ民主党全体が福島瑞穂レベルの議論しかしていません。ハリスは福島瑞穂というよりも、前法務大臣で死刑反対派だったのに大臣になった途端に死刑を実行した「民主党の死刑執行人」千葉景子に似ています。

──千葉景子(苦笑)。それはかなり最低感がありますね。

ジェームズ アメリカの政治は日本と基本的にほとんど変わりません。例えば、アンティファは日本でいうところの「しばき隊」です。ただし、資金力と動員力で決定的な差がありますが。BLMも日本で活動していますが、これは東京にあるアメリカ民主党の日本支部が裏で糸を引いています。アドバスターズも日本に支部があるようです。

──対岸の火事じゃないんですね。

ジェームズ 日本にいるアメリカ人で大学院生、教授、英会話の講師などは要注意です’(※全員ではありません)。彼らは本国でやっていけないので日本に住み着き、しかも時間をもてあましていますので、極左活動をする傾向にあります(※あくまでも傾向です)。実際、私の知っているアメリカ人大学院生は日本に留学し、極左活動をしていました。

■ユダヤ系金融家の真の目的

──再び、アドバスターズに戻りますが、彼らはオキュパイ・ウォールストリートをやってるんですよね? でも、ウォールストリートって民主党系を応援しています。つまり左派なんじゃないんですか?

ジェームズ いえ、ウォールストリートは右でも左でもありません。彼らは儲けで判断しますので、あまりイデオロギー的ではないです。イデオロギー的なのはジョージ・ソロスのような金融家です。さっきも言ったようにユダヤ系金融家の多くは歴史的に極左勢力です。また、金融の本質は売買損益で儲ける仕組みなので、常に変動を誘発する極左のほうがありがたいというのもあるんです。ただし、極左ではない、保守系ユダヤもいて、彼らはトランプ側の主要な支持層になっています。


画像は「Getty Images」より引用
──ウォールストリートと金融家は分けて考えるんですね。

ジェームズ 同じ場合もありますけど、まったく同じものではないです。ウォールストリートはただの金の亡者なので右にも左にも転ぶということです。

──ただ、ユダヤ系金融家は金融市場を維持したいわけじゃないですか? ということは、本当に共産主義になるのはゴメンのはずですよね。市場がなくなってしまいますから。つまり、極左の金融家にしても本音は共産化はイヤで、ただカオスが作りたいだけの、なんちゃって極左ですか?

ジェームズ そうです。ただし、ユダヤ系金融家はアメリカなどの主要な金融市場だけが維持できればいいのです。彼らにとっての辺境であるロシアなどが共産化するのは問題ないです。逆に積年の恨みがある土地なので、共産主義化して潰れてしまえと思っているくらいです。また、中共に関しては政治が儒教的共産主義なだけで、経済は実質資本主義ですから、中共はユダヤにとってとても都合がいいんです。

──いろいろバッググランドがわかってきました。最後に、この選挙はどうなりそうですか? こんなに暴動が起きてどちらが勝つにしてもただでは済みそうにはないんですが。

ジェームズ いまの状況はリンカーン大統領を選出した1860年の大統領選挙に似ています。この時は共和党のリンカーンが勝って第16代大統領になったのですが、これを不服とする南部州が合衆国から分離し、南北戦争にまで発展しています。今年の大統領選はすでに分離運動の暴動が起き、死者も出ています。ですから、どちらが大統領になったとしてもその後、流血騒ぎになる可能性は高いと思っています。そのぐらい今年の大統領選はカオスです。

文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/366.html

[近代史5] ジェームズ斉藤のユダヤ陰謀論は何処がおかしいか?
ジェームズ斉藤のユダヤ陰謀論は何処がおかしいか?


陰謀論の主役はなぜユダヤなのか ー 本当の支配者と新興ユダヤについて某国諜報機関関係者が徹底解説!
2020.03.21
https://tocana.jp/2020/03/post_145368_entry.html


 今回は、ずばりユダヤについて語っていきましょう。なぜユダヤなのかというと、今年のダボス会議が謎のユダヤ人だらけだったからです。

 例えば、全ロシアユダヤ教会の会長でプーチンの最側近の人間も来ていましたが、彼がダボスにいること自体おかしいんですよ。なぜなら、ここ数年ダボス会議にロシアは呼ばれていません。暗号通貨を巡って、ロシアと中国は欧米とは別の独自路線を歩んでいて、しかも欧米や日本よりも進んでいるんで、いい顔されないんです。なのに、プーチンが最も信頼するユダヤ人の側近がいるというのが不可解ですし、それはそれである意味でダボスらしいなとも思いましたね。

 もうひとり気になったのはビル・ブラウダーというユダヤ系アメリカ人です。1990年代にユダヤネットワークを駆使して、ロシアでヘッジファンドを経営してボロ儲けした彼ですが、ロシア政府の不正を暴こうとしたために、プーチンの目の敵にされて、今は国外逃亡しています。彼の弁護士はロシアから出ず、引き続き、ロシア政府の不正を暴こうとしていたのですが、別件で逮捕され、警察内部で不審死をしています。ブラウダーは彼の弔いのため、弁護士の名前にちなんでセルゲイ・マグニツキー説明責任法をアメリカで成立させ、これがベースとなって西側諸国にあるロシア人の資産を凍結できるようになったんです。今ブラウダーがやろうとしているのはプーチンの資産、約8兆円の凍結で、それがスイスの銀行などに置いてある、という状況の中で、ブラウダーはダボスにいたわけです。

 たぶん、そのためでしょう。ブラウダーが宿泊していたホテルにロシアのスパイが潜入していたことが発覚。スパイたちは国外退去になっています。ブラウダーの監視あるいは暗殺が彼らの目的だった可能性は高いですね。

そもそも工作活動をする以上、どこの国でもしっかりした偽装工作をします。ですから、ダボス会議の数日間でエージェントの身元が割れてしまうなんてことは通常ではありえないのです。ところが、ロシアのスパイが即国外退去となったのは、彼らがスイスの水道工事の職員に化けていながら、ロシアの公用パスポートを所持していたためでした。

 スイスの水道工事の職員がロシアの公用パスポートを持っているなんて不審にもほどがありますよね。だから即国外退去の措置を取られたわけですが、こんな失態をやっていてロシアは本当に大丈夫なんでしょうか? 

 まずひとつ考えられるのは、軍事インテリジェンスGRUのオペレーションだった可能性です。現在、世界のインテリジェンスをリードしている最強組織は旧KGBのFSBで、彼らは暗殺などの危険なミッションをここ100年ぐらいやっているエキスパートです。ですから、彼らはこんな失態は決しておかしません。

 一方、GRUは軍事機密を盗むのが専門で、太平洋戦争開戦前の日本で暗躍したスパイのリヒャルト・ゾルゲもここの所属でした。しかし、ここ数年GRUはサイバー攻撃でコケまくっていて評価が下がっており、起死回生のオペレーションとして慣れない工作にも手を出すようになっています。それがまた評価を落とすことにつながっているのですが、今回もその可能性が高いですね。

 ただし、この話はちょっと胡散臭いところもあるんです。というのも、ビル・ブラウダー事件で謎の死を遂げたマグニツキーの事件が、実はフェイクかもしれない可能性が浮上してきているんです。マグニツキー変死事件に疑問を投げかけるドキュメンタリーが反プーチンの急先鋒のロシア人によって制作されたからです。マグニツキー法は「ロシアにおける人権侵害に関わったすべての者に制裁を加える」法律ですからプーチンはかなり苛立っています。ところが、その大本になったマグニツキー事件が西側のフェイクであったとなれば話は大きく変わってきます。

 いずれにせよ、ビル・ブラウダー事件はもう一波乱ありそうで、実際、ブラウダーを軸にした諜報戦はダボスでも行われていたのですから今後も注目でしょう。

いよいよ本題のユダヤですが、もちろん、ダボスにも金融エリートたちがかなり来ていました。特に今回は暗号通貨の話題でもちきりでしたから、本会議周辺の小さな集まりでユダヤ人たちが盛んにこそこそ話をしていました(笑)。

 ともかく陰謀のド真ん中に必ず彼らはいます。エージェントにとって、これはもう常識中の常識です。ユダヤが陰謀を巡らせ、ユダヤがこの世界を思うように破壊し創造しようとしているのです。実際、いま現在もそれは進行しています。

 そのいい例がSDGsです。Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略ですが、これは2015年の9月に突然国連で採択されて、世界中のすべての人々が目指すべきゴールとして示されたものです。

 不思議なのは、なぜ、我々のゴールを国連が勝手に決めるのか? ということです。しかも、大した議論もなく、あっという間に全会一致の決定です。いや、その前に会議当日の国連ビルにはすでにSDGsの17のゴールのロゴ(よく見ると13番目はプロビデンスの目、14番目はイクトゥスにも見えます)が全面にディスプレイされているのです。つまり、やる前から全会一致の結果は決まっており、会議とは名ばかりの出来レースだったのです。


https://tocana.jp/2020/03/post_145368_entry_3.html

画像は「国連広報センター」より引用

 もちろん、「いや、そんなゴールは国連が勝手に決めたことだから我々に守る義務はない」と言えなくもないのですが、すでに先進国はこぞって17のゴールの達成に向けて積極的に動いています。日本の外務省&環境省のホームページにもSDGsに向けたさまざまな取り組みが提示されています。

 また、肝心の内容についても結構問題があります。一見すると「飢餓をなくす、貧困をなくす」といった耳障りのいいお題目がならんでいますが、よく読めば、すべて大企業や多国籍企業が有利になることばかりなのです。

しかし、それは当然です。なぜなら、SDGsのテーマは「持続可能」であり、持続可能とは言葉を変えれば「現状維持」だからです。すでに既得権をたっぷり持っている多国籍企業にとって、現状維持こそ一番の利益。つまり、持続可能と言った時点で、現在の格差社会は絶対になくならないし、飢餓もなくならないのです。

 そもそも飢餓を本気でなくしたいのであれば、多国籍企業が貧困国からの搾取をやめて、正当に税金を払えばいいのです。しかし、彼らは最も有効な納税という対策は取らず、持続可能=現状維持を推し進めるばかりです。

 そして、多国籍企業とはなにかといえば、ユダヤなのです。事実、多国籍の代表格であるIT企業のCEOやオーナーはほとんどがユダヤ系です。マイクロソフトのビル・ゲイツ&元CEOのスティーブ・バルマー、アップルのスティーブ・ジョブス、アルファベットのラリー・ペイジ&セルゲイ・ブリン、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、DELLのマーク・デルらは有名ですし、ウォルト・ディズニーの会長兼CEOロバート・アイガー、ネットフリックスの創業者マーク・ランドルフ、スターバックスのCEOのハワード・シュルツもそうです。このほか、インテルのアンドリュー・グローブ、シスコシステムズのサンディ・ラーナー、オラクルのラリー・エリソン、コムキャストのラルフ・ロバーツ&ブライアン・ロバーツなど数え上げたらキリがありません。

 決定的なのはアメリカの大統領とユダヤとのつながりで、ビル・クリントンの娘チェルシー・クリントンは保守派のユダヤ教徒と結婚して保守派ユダヤ教に改宗していますし、トランプ大統領の娘イヴァンカは正統派ユダヤ教徒ジャレッド・クシュナーと結婚、正統派ユダヤ教に改宗しています。ユダヤ教徒を身内に迎え、娘をユダヤ教に改宗させることまでしているのです。ユダヤ人は母方の家系が引き継がれていきますから、クリントンの孫、トランプの孫は正真正銘のユダヤ人となるのです。

 これが世界の現実なのです。


ところで、トランプは昨年「民主党に投票するユダヤ系アメリカ人は国賊だ」と言っています。これはなにを意味するのか、というと、ユダヤといっても一枚岩ではないことを意味します。

 トランプは左派のユダヤ人はいらないんです。娘婿のクシュナーも保守派のユダヤ人富豪ですし、トランプはそういう右派ユダヤ人だけを味方につけたいのです。

 保守系ユダヤを大きな支持母体にしているのはトランプだけではありません。ロシアのプーチンも同様です。理由はトランプと同じで、保守系のユダヤ人に富豪が多いことがあげられます。

 なぜ大富豪が多いのかというと、彼ら保守系のユダヤ人は歴史的には宮廷ユダヤといわれる人たちで、もともとはヨーロッパの王室に仕えて王様の財政を握っていました。彼らは人数が多いわけではないのですが、昔から大きな影響力を持っており、彼らこそ世界を裏側から動かしてきた人たちなのです。さきほど挙げた大企業のユダヤ人創業者たちとも違う、本当の支配者が彼らなのです。もちろん多国籍企業の創業者たちだって大きな影響力を持っていますし、世界を動かす力もあります。しかし、その彼らに資金を提供していた者たちこそ、宮廷ユダヤ人なのです。トランプやプーチンが味方につけたいのはそういうユダヤ人のほうなのです。

 ユダヤ人といっても2つのあるということです。名前や顔を出している新興のユダヤ人億万長者と、影に隠れて滅多に表に出てこない本当の支配者です。そして新興のユダヤ人支配者の多くは肌が白く、目の色が青いのが特徴です。一方、宮廷ユダヤ人たちの多くは、肌は浅黒く、目の色は黒いのが特徴です。

 つまり、彼らは人種が違うのです。ここを理解しないと本当のユダヤをわかったことにはならないのです。 

【後編につづく】


▲△▽▼


陰謀論の主役はなぜユダヤなのか ー 世界の本当の支配者、セファルディとアシュケナージ、目の色が黒いユダヤ人…諜報機関関係者が徹底解説!
2020.03.22
https://tocana.jp/2020/03/post_145392_entry.html

■アシュケナージユダヤの青い目の秘密

 前回、世界の本当の支配者は肌の色が浅黒く、目の色が黒いユダヤ人だと書きました。新興IT企業の創業者やCEOたちの多くは肌が白く、目が青いユダヤ人で、世界の本当の支配者ではないと。

 TOCANA読者であればユダヤにも2種類あるということぐらい先刻ご承知のことでしょう。ただし、多くの日本人にとってはユダヤ人といえば、ホロコーストの被害者、あるいはイスラエルに住んでいる人といった感覚ぐらいしかないでしょう。しかし、それではユダヤを理解するのは到底ムリですし、ユダヤが理解できなければ、世界の成り立ちと仕組みもわからないのです。

 現在、イスラエルに住んでいるユダヤ人の多くは、ロシア帝国にずっと閉じ込められていたユダヤ人で、ロシア帝国の崩壊とともに世界に分散していきました。彼らはアシュケナージと呼ばれ、先祖をたどると、諸々異説はありますが、東ヨーロッパはコーカス山脈の北側にあったハザール帝国に行き着きます。紀元740年頃にハザール王がユダヤ教に改宗し、国全体がユダヤ教になったことで彼らはユダヤ人となりました。

 一方、肌の浅黒いセファルディ・ユダヤ人たちは地中海貿易で稼いでいたラテン人たちでしたから人種が違うのも当然なのです。

 ここで興味深いのは、アシュケナージであるハザール帝国の人々がティルク系民族であることです。ティルク系とはトルコ系民族のことで実際ハザールの王は代々カガン(可汗)を名乗っていました。可汗とはカーンあるいはハーンとも読む中央アジアの流れを汲む君主号です。モンゴル帝国のチンギス・ハーンも君主号「可汗」を使っています。ただし、そうなるとアシュケナージの白い肌、青い目がどこから来たのかわからなくなりますよね。

 実は、ここがわかってくると世界の支配者であるセファルディ・ユダヤのこともわかってくるのです。

アシュケナージの肌が白く、目が青い理由はとても簡単で、ハザールの王族の多くが、肌が白くて目が青かったためです。10世紀のアラブの地理学者イスタフリはこんな記録を残しています。「ハザール人はトルコ人には似ていない。彼らはカラ・ハザールと呼ばれ、浅黒い肌をしている者と、アク・ハザールと呼ばれる白い種がいる」と書いています。ハザール王族のカガンはアク・ハザールで、ユダヤ人に改宗する前から白い肌、青い目をしていた人々が多かったのです。たぶん、彼らはティルク系とは言いながらもスラブ系の血の濃い民族だったのでしょう。

 中央アジアと東ヨーロッパがぶつかるこのあたりは人種がかなり混じり合っており、いまでも黒髪に白い肌、青い目の人たちと茶色の目の人たちがともに暮らしています。こういったことはロシアのモスクワでも同じで朝青龍的顔なのに青い目という人はいまでもよく見かけます。東欧と中央アジアは日本人が思っている以上に昔から交流があったのです、人種が混じり合うほどに。

 東と西の頻繁な交流はフン族やモンゴル族たちが東欧を何度も襲ったことも大きな要因でしょう。彼らは東欧を頻繁に襲い、略奪と殺戮を繰り返しました。ときには数ヶ月、数年東欧を支配していた時期もあります。ですから、血が混じり合うのも当然だったのです。ハンガリーでは自分たちのことをフン族の末裔だと思っている人が少なくないですし、東欧を荒らし回ったフン族の王アッティラはハンガリーではヒーローです。

 実はこの人種の混じり合いにセファルディ・ユダヤ人も一役買っているのです。

セファルディ・ユダヤ人の起源は、イタリアのベネチアやジェノバ出身の商人で、地中海貿易で儲けていたグループでした。

 彼らはハザール帝国の西の海、黒海で頻繁に商売していたのですが、黒海は古代から奴隷貿易のメッカだったのです。黒海ではギリシア人やアラブ人、ハザール人らが北方のスラブ人らを拉致して売っていました。セファルディ・ユダヤ人たちはスラブ人らを買って、ギリシア、イタリア、スペイン、北アフリカなどの地中海の国々に売り払っていたのです。英語で奴隷のことをスレイブと言いますが、それは奴隷の多くがスラブ人だったためです。

 セファルディ・ユダヤ人は人身売買で稼いだ資金をもとに金融ネットワークを作り、やがてヨーロッパの王様の金庫番となって宮廷ユダヤ人となっていったのです。

 セファルディとアシュケナージは同じユダヤ人といってもこれほど違ったのです。アシュケナージは売られるほう、セファルディは買うほうだったかもしれないのです。

 ただし、私は奴隷貿易が悪いと言っているわけではありません。当時、貿易といえば、それは人身売買であり、奴隷が最も価値の高いコモディティでした。商売人が人気の商品を買って売るのは当たり前の商行為ですから誰からも責められる筋合いはありません。しかも、古代ギリシアでも古代ローマでも奴隷がなんとしても必要だったのです。当時は王族も市民も働きません。働くのは自由民としての恥で、労働はすべて奴隷の仕事でした。だからこそ、ギリシアやローマでは哲学や文学、芸術などの文化が花開いたのです。ですから、西洋の文化の裏には常に奴隷と人身売買の習慣があったのです。西洋人のモノの考え方の基本、自分の民族以外に対する根本的な姿勢がそこに根付いているように感じて仕方ないのです。

 実際、今年のダボス会議で私がお会いした有力なユダヤ人も、先祖はイタリアのベネチアでした。要はベニスの商人時代のユダヤビジネスにまで遡れる家系で、その人がダボスで主催していた部会のテーマが前回言及したアジェンダ2030(SDGs)でした。世界の未来を彼らは勝手に決めるのです。決めていいと本気で思っています。その無意識の傲慢さが怖いわけです。

もっとも、「だからユダヤは悪いんだ」とは言うつもりはありません。奴隷貿易に手を出したのはそれ以外に商売の道がなかったわけですから。当時、ローマ教会がユダヤ人を排撃し、ユダヤは金融か、人身売買ぐらいしかやることがなかったのです。それに、人間を商品として認めたのもローマ教会で、特にボルジア家出身のローマ教皇が勅令で奴隷を認めています。また、ボルジア教皇たちがあまりにも私利私欲に走っていたのでプロテスタントが生まれ、ユダヤ商人たちはプロテスタントのカルヴァン派(ルター派はユダヤ人を排斥)と手を組み、金融ネットワークを世界的に拡大していきます。

 すると、ローマ教皇はプロテスタントに対抗するためにイエズス会を作ります。ローマ教皇の懐刀とも言われた彼らはキリスト教に改宗したユダヤ人で構成されており、日本人にも有名なフランシスコ・ザビエルも改宗ユダヤ人でした。ザビエルのあとを継いだルイス・デ・アルメイダも改宗ユダヤ人の家系で日本にはもともと奴隷商人としてやってきていました。それがのちにイエズス会の宣教師となって日本の娘たちを奴隷として海外に売り払う片棒を担ぐのです。

 ユダヤとカトリックと奴隷貿易。この3つが西洋文化の根幹であり、ダボス会議の大元になっていることを私たちはもう一度理解しないといけません。でないとなかなか世界の真実は見えてきませんよ、という話でした。

 それでは、また! ジェームズでした(笑)。

文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/367.html

[番外地8] 新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺… 中川隆
1. 中川隆[-10004] koaQ7Jey 2020年11月10日 21:59:56 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[46]
すぐに死ななくても5年で死ぬんだよ:
新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺症を生じているというのです。特に肺に起こった線維化は間質性肺炎の形でほぼ生涯に渡って残り、日常生活に大きな支障を生じうるというのです。これでは社会復帰も困難になります。

▲△▽▼
 
実は、私は間質性肺炎に罹患していて、その恐怖を身をもって体験している。
 間質性肺炎は、致死率100%の病気である。
 ただし、死ぬまで平均で5〜7年程度、ときには10年近く生きる人もいる。
 この病気は進行性で、一度、罹患すると、じわじわと呼吸機能が低下して、5年程度で死亡するのが普通である。
 原因としては、一種の自己免疫障害で膠原病などに近い。私のように、肝臓や腎臓に繊維化の基礎疾患があると、肺にも連鎖してコラーゲン繊維化が起きやすくなる。

 コロナ肺炎も、どうやら同じようなメカニズムなので、ステロイド(オルベスコ吸入薬)に効果が認められる。
 ということは、この病気も、肺間質細胞の繊維化をもたらしていることを意味している。
 つまり、新型コロナウイルス肺炎は、仮に治癒しても完治は望めず、じわじわと進行して最後には命を奪う、致死率100%の極めて深刻な病気ということになる。

 今、コロナ肺炎を治療して退院した人も、数年後に死亡することを意味している。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1083.html

特発性間質性肺炎 
肺は肺胞というブドウの房状の小さな袋がたくさん集まってできています。間質性肺炎は、肺胞の壁に炎症や損傷が起こり、壁が厚く硬くなるため(線維化)、酸素を取り込みにくくなる病気です。間質性肺炎の原因は様々ですが、原因不明のものを特発性間質性肺炎(IIPs)と総称します。

【予後】
 IPFは一般的には徐々に肺の線維化が進行していく病気で、平均生存期間は欧米の報告では診断確定から28〜52ヶ月、わが国の報告では初診時から61〜69ヶ月とされていますが、病状の経過は患者さんによって様々です。特発性非特異性間質性肺炎や特発性器質化肺炎は一般に治療がよく効きますが、中には徐々に悪化していく場合もあります。
https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=20

▲△▽▼

コロナは空気感染するエイズだというのが確定しました。新型コロナは、感染・発症したが最後、永遠に完治はしない!

肺や心臓や脳に重い後遺症が残って死ぬまで苦しむ!!!!!!!!:
新型コロナと HIV は「ほぼ完全な兄弟」であることが判明。双方のウイルスが「人間の免疫細胞を破壊するメカニズム」において同じであることが見出される
https://indeep.jp/coronavirus-uses-same-strategy-hiv-to-attack-immune-response/

「Covid-19 は HIV」:米ペンシルバニア大学の研究で新型コロナウイルスが人間の重要な免疫細胞を「エイズ同様に消滅させている」と結論付けられる
https://indeep.jp/how-novel-coronavirus-destruct-humsn-immune-system/

[衝撃] 新型コロナウイルスは「人間の免疫機能の中心であるT細胞を攻撃」し、免疫系を完全に破壊する「HIV / エイズウイルスと同じ特徴を持っている」ことが米中の研究者により確認される
https://indeep.jp/novel-coronavirus-is-determined-to-be-the-same-as-hiv-virus/

▲△▽▼

退院後半数が後遺症 新型コロナ、和歌山県調査
(2020年11月06日 14時30分 更新)
 和歌山県は5日、新型コロナウイルスに感染し、退院した県民のうち、約半数が後遺症を訴えているという調査結果を公表した。数カ月後も後遺症がある人もいるという。入院時の症状が重いほど現在も不調を訴えている人の割合が多いことも分かった。

 9月14日時点で退院後2週間以上経過している県内の216人を対象に、保健所が郵送や聞き取りでアンケートした。このうち163人が答えた。

 退院後も何らかの症状があったのは46%の75人。年代別で後遺症があった人の割合が最も多かったのは、30代の77%で、40〜60代も半数以上あった。一方、20代も39%、20歳未満も35%に後遺症があった。70代以上ではほとんどいなかった。

 後遺症の症状を聞いたところ(複数回答)、最も多かったのは「嗅覚障害」の30人だった。続いて「倦怠(けんたい)感」26人、「味覚障害」と「呼吸困難感」が20人ずつ、「頭痛」16人、「脱毛」12人、「胸痛」11人など。「脱毛」では洗髪時に髪の毛がまとめて抜けたという事例もあったという。このほか、忘れやすくなったなどの「記憶障害」「集中力低下」「睡眠障害」などもあった。

 6月末までに退院した51人のうち、2カ月半以上たった9月14日以降でも後遺症がある人は半数の26人いた。複数回答で「倦怠感」は10人、「呼吸困難感」と「頭痛」が8人ずつ、「脱毛」と「胸痛」が6人ずつ、「記憶障害」と「集中力低下」が5人ずつなどだった。

 入院時の症状の重さ別(無症状、軽症、肺炎、重症)では「呼吸困難感」や「倦怠感」などでは重症度が高い人の方が多い傾向にあったが、重症度による違いが見られない後遺症もあった。「味覚障害」や「嗅覚障害」は軽症、肺炎、重症それぞれの1〜2割の人に見られた。一部で無症状だった人に後遺症が出るケースも少ないながら見られた。また、症状が重かった人ほど、9月14日以降も回復していない人の割合が多かった。後遺症により受診した人もいるという。

 県福祉保健部の野尻孝子技監は「後遺症がある人が思ったより多く、さまざまな症状がある」と調査結果の印象を述べ「若いから、軽症だから大丈夫だとはなかなか言えない。感染予防の啓発や、感染者の心身面の継続的な支援が必要。かかりつけ医の協力も頂きたい」と話した。


▲△▽▼

新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過
 
若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/622.html#c1

[番外地8] 新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺… 中川隆
2. 中川隆[-10003] koaQ7Jey 2020年11月11日 05:24:13 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[1]
若い軽症者もすぐに死なないだけで5年で死ぬんだよ:
新型コロナウイルスに感染した人の87%が感染から回復後に倦怠感や発熱、呼吸難や嗅覚・味覚異常、胸痛、頭痛などの何らかの後遺症を生じているというのです。特に肺に起こった線維化は間質性肺炎の形でほぼ生涯に渡って残り、日常生活に大きな支障を生じうるというのです。これでは社会復帰も困難になります。

▲△▽▼
 
実は、私は間質性肺炎に罹患していて、その恐怖を身をもって体験している。
 間質性肺炎は、致死率100%の病気である。
 ただし、死ぬまで平均で5〜7年程度、ときには10年近く生きる人もいる。
 この病気は進行性で、一度、罹患すると、じわじわと呼吸機能が低下して、5年程度で死亡するのが普通である。
 原因としては、一種の自己免疫障害で膠原病などに近い。私のように、肝臓や腎臓に繊維化の基礎疾患があると、肺にも連鎖してコラーゲン繊維化が起きやすくなる。

 コロナ肺炎も、どうやら同じようなメカニズムなので、ステロイド(オルベスコ吸入薬)に効果が認められる。
 ということは、この病気も、肺間質細胞の繊維化をもたらしていることを意味している。
 つまり、新型コロナウイルス肺炎は、仮に治癒しても完治は望めず、じわじわと進行して最後には命を奪う、致死率100%の極めて深刻な病気ということになる。

 今、コロナ肺炎を治療して退院した人も、数年後に死亡することを意味している。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1083.html

特発性間質性肺炎 
肺は肺胞というブドウの房状の小さな袋がたくさん集まってできています。間質性肺炎は、肺胞の壁に炎症や損傷が起こり、壁が厚く硬くなるため(線維化)、酸素を取り込みにくくなる病気です。間質性肺炎の原因は様々ですが、原因不明のものを特発性間質性肺炎(IIPs)と総称します。

【予後】
 IPFは一般的には徐々に肺の線維化が進行していく病気で、平均生存期間は欧米の報告では診断確定から28〜52ヶ月、わが国の報告では初診時から61〜69ヶ月とされていますが、病状の経過は患者さんによって様々です。特発性非特異性間質性肺炎や特発性器質化肺炎は一般に治療がよく効きますが、中には徐々に悪化していく場合もあります。
https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=20

▲△▽▼

コロナは空気感染するエイズだというのが確定しました。新型コロナは、感染・発症したが最後、永遠に完治はしない!

肺や心臓や脳に重い後遺症が残って死ぬまで苦しむ!!!!!!!!:
新型コロナと HIV は「ほぼ完全な兄弟」であることが判明。双方のウイルスが「人間の免疫細胞を破壊するメカニズム」において同じであることが見出される
https://indeep.jp/coronavirus-uses-same-strategy-hiv-to-attack-immune-response/

「Covid-19 は HIV」:米ペンシルバニア大学の研究で新型コロナウイルスが人間の重要な免疫細胞を「エイズ同様に消滅させている」と結論付けられる
https://indeep.jp/how-novel-coronavirus-destruct-humsn-immune-system/

[衝撃] 新型コロナウイルスは「人間の免疫機能の中心であるT細胞を攻撃」し、免疫系を完全に破壊する「HIV / エイズウイルスと同じ特徴を持っている」ことが米中の研究者により確認される
https://indeep.jp/novel-coronavirus-is-determined-to-be-the-same-as-hiv-virus/

▲△▽▼

日本では海外でのコロナ後遺症の報道を必死で隠していましたが、流石に最近は真実が少し表に出て来ています:

退院後半数が後遺症 新型コロナ、和歌山県調査
(2020年11月06日 14時30分 更新)
 和歌山県は5日、新型コロナウイルスに感染し、退院した県民のうち、約半数が後遺症を訴えているという調査結果を公表した。数カ月後も後遺症がある人もいるという。入院時の症状が重いほど現在も不調を訴えている人の割合が多いことも分かった。

 9月14日時点で退院後2週間以上経過している県内の216人を対象に、保健所が郵送や聞き取りでアンケートした。このうち163人が答えた。

 退院後も何らかの症状があったのは46%の75人。年代別で後遺症があった人の割合が最も多かったのは、30代の77%で、40〜60代も半数以上あった。一方、20代も39%、20歳未満も35%に後遺症があった。70代以上ではほとんどいなかった。

 後遺症の症状を聞いたところ(複数回答)、最も多かったのは「嗅覚障害」の30人だった。続いて「倦怠(けんたい)感」26人、「味覚障害」と「呼吸困難感」が20人ずつ、「頭痛」16人、「脱毛」12人、「胸痛」11人など。「脱毛」では洗髪時に髪の毛がまとめて抜けたという事例もあったという。このほか、忘れやすくなったなどの「記憶障害」「集中力低下」「睡眠障害」などもあった。

 6月末までに退院した51人のうち、2カ月半以上たった9月14日以降でも後遺症がある人は半数の26人いた。複数回答で「倦怠感」は10人、「呼吸困難感」と「頭痛」が8人ずつ、「脱毛」と「胸痛」が6人ずつ、「記憶障害」と「集中力低下」が5人ずつなどだった。

 入院時の症状の重さ別(無症状、軽症、肺炎、重症)では「呼吸困難感」や「倦怠感」などでは重症度が高い人の方が多い傾向にあったが、重症度による違いが見られない後遺症もあった。「味覚障害」や「嗅覚障害」は軽症、肺炎、重症それぞれの1〜2割の人に見られた。一部で無症状だった人に後遺症が出るケースも少ないながら見られた。また、症状が重かった人ほど、9月14日以降も回復していない人の割合が多かった。後遺症により受診した人もいるという。

 県福祉保健部の野尻孝子技監は「後遺症がある人が思ったより多く、さまざまな症状がある」と調査結果の印象を述べ「若いから、軽症だから大丈夫だとはなかなか言えない。感染予防の啓発や、感染者の心身面の継続的な支援が必要。かかりつけ医の協力も頂きたい」と話した。


▲△▽▼

新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過
 
若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/622.html#c2

[番外地8] 緊急寄稿(1)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のウイルス学的特徴と感染様式の考察(白木公康)
水俣病や福島原発の時も正しい情報は何年も表に出て来なかっただろ。
橋洋一さんが典型だけど、パニックになると困るからみんな必死に隠しているんだよ。
コロナが間質性肺炎だというのは早い段階で定説になっていたよ:

緊急寄稿(1)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のウイルス学的特徴と感染様式の考察(白木公康)
No.5004 (2020年03月21日発行) P.30
白木公康 (千里金蘭大学副学長,富山大学名誉教授(医学部))
木場隼人 (金沢大学附属病院呼吸器内科)
登録日: 2020-03-18
最終更新日: 2020-03-18
コーナー: 学術論文 学術論文

COVID-19の肺炎のCT所見の検討によると,発症後すぐにはすりガラス陰影を呈し,3週間までに徐々に浸潤影を呈するものが多くなるとされており,肺線維化が進行していくことを示唆している21)22)。
また経過で線維化をきたすグループは予後不良であった21)。

SARSを振り返ると発症4週間後,55〜62%に線維化を残していた23)。

非可逆的な変化の可能性があり,拡散能・肺活量低下による肺機能低下も危惧される。

COVID-19でも若年者の肺炎は死亡率が低く軽症であると早計せず,後遺症の予防において早期治療が重要である可能性がある。

21) Shi H, et al:Lancet Infect Dis. 2020 Feb 24.
22) Pan F, et al:Radiology. 2020 Feb 13.
23) Ooi GC, et al:Respirology. 2003;8 Suppl:S15-9.
https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=14278
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/627.html

[近代史5] アメリカを中心とする資本主義体制が行き詰まって、支配システムの中心にいる人びとは体制のリセットを始めた 中川隆
10. 中川隆[-10002] koaQ7Jey 2020年11月11日 06:39:58 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[4]

2020.11.11
次期米大統領はバイデンだとする宣伝が繰り広げられる中、監視システムの強化へ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011110000/

 テロ行為を口実として、​欧州連合理事会は暗号化された通信文にアクセスする権限をプロバイダーに求めようとしている​と伝えられている。アメリカやイギリスの情報機関はこれまでも通信を傍受してきたが、それをEUは合法化しようとしているわけだ。

 通信の電子化が進んでいなかった時代、通信は封書が中心だったが、その封書をCIAは開封していた。その工作を指揮していたのはアレン・ダレスの側近で、ファシストやイスラエルと緊密な関係にあったジェームズ・ジーザス・アングルトンだが、その工作が発覚して1974年12月にCIAを辞めている。

 1965年4月にインテルサット1号が打ち上げられてから通信衛星を利用した情報のやりとりが増大するのだが、それは通信傍受の進歩を伴った。アメリカの電子情報機関NSAは1966年にFROSTINGというプログラムを開始、そこからECHELONという通信傍受システムが作り出された。そのシステムは1988年にダンカン・キャンベルが明るみに出している。このECHELONの傍受は全地球の通信が対象で、全てが記録されているという。(Duncan Campbell, 'Somebody's listerning,' New Statesman, 12 August 1988)

 アングルトンは秘密工作の発覚で辞任に追い込まれたのだが、1970年代には様々な情報機関の秘密工作が浮上している。そうした工作を調査するため、1975年1月にアメリカ上院では情報活動に関する政府の工作を調べる特別委員会が設置され、2月には下院で情報特別委員会が設置された。

 上院の委員会で委員長を務めたフランク・チャーチ議員は1975年8月17日、NBCのミート・ザ・プレスという番組で、アメリカ政府の通信傍受能力はアメリカ国民に向けられる可能性があり、そうなると人々の隠れる場所は存在しない語っている。

 この当時、CIAと有力メディアとの緊密な関係を明らかにされた。例えば、ウォーターゲート事件を追及したことで有名なカール・バーンスタインは1977年、ローリング・ストーン誌に「CIAとメディア」という記事を書いている。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 その後、エレクトロニクス技術は急速に進歩、社会のコンピュータ化が進んだが、これは監視技術の進歩をもたらす。銀行のATMでカネを降ろせばその情報が銀行のシステムに記録され、クレジットカードを使えばその記録が残る。電子化の進んだ図書館なら何を読んだかが記録される。通信販売を利用しても記録は残る。個人の学歴、投薬記録、運転免許証のデータ、航空券の購入記録、住宅ローンの支払い内容、インターネットでアクセスしたサイトに関する記録などあらゆる個人データが収集、分析されている。スーパー・コンピュータを使い、膨大な量のデータを分析して「潜在的テロリスト」を見つけ出すシステムも開発されている。

 また、GPSを搭載した携帯電話を持っていれば、それを持っている人の位置が記録され、どこで誰といつ会ったかが割り出されてしまう。IC乗車券の動きも追跡、記録される。街に張り巡らされたCCTVの性能も向上、顔を認識して特定の人物を追跡することが可能だ。

 監視システムの強化にCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)も利用されている。感染者の近くにいることをブルートゥースの技術で察知し、その情報をスマートホンを通じて知らせるシステムが考えられたのだが、これは監視システムにほかならない。(​ココ​や​ココ​や​ココ​)

 そうした追跡システムが整備されたなら、COVID-19はコミュニスト、ナショナリスト、反戦派などに切り替えられる。システムを支配する人びとが危険だ、目障りだと考えるターゲットはみな「ウイルス」とみなされる。

 アメリカを中心に次期米大統領はジョー・バイデンになるとする宣伝が繰り広げられているが、それと並行する形で監視システムが強化されている。年明け後、社会の収容所化はさらに進みそうだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011110000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/156.html#c10

[リバイバル3] 音がわからないアホ・オーディオマニアが良く引用する「オーディオの科学」の何処がおかしいか 中川隆
52. 中川隆[-10001] koaQ7Jey 2020年11月11日 07:58:16 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[6]
鳴らし込みの大切さについて 2020年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6669421078b914d24cb87c33bd063c82

アンプにしろスピーカーにしろ「鳴らし込み」は大切だ。大概のオーディオマニアは「鳴らし込み」の大切さが理解されていない。新品にしろ中古品のしても「鳴らし込み」の重要性は変わらない。

その理由は、

1)プラグ類の接続を安定化させるには累計5Hrの時間が必要
  15分程度のケーブル類の比較試聴など以ての外(話にならない)

2)新品であれ中古品で在れ、2000Hrの鳴らし込みをしないと、内部のパーツまで完全には「活性化」しない。(殆どの方が2000Hrに届かない状態で使っている・・・その機器の性能を出し切る処まで行っていない)

2000Hrの鳴らし込みとは? システム全体を「活性化」させると云う事である。

スピーカーはセッティング次第で「生きた音」と「死んだ音」に分かれる。大概のオーディオマニアの方たちは「セッティング」に無頓着。SPのセッティングを見ればその方のスキルが分かる。何気なく2階建てに積み上げているが、要所は押さえている。本来は2階建てが良くない事は理解しているが、スペースの無い実情では止むを得ないでしている場合も有る。現状ではアンプの台数が多すぎて、1セットだけでは賄いきれない。アンプの鳴らし込みに「主眼」を置いているのでやむを得ない。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6669421078b914d24cb87c33bd063c82
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/881.html#c52

[昼休み52] 名張ぶどう酒毒殺事件の真犯人は? 中川隆
42. 中川隆[-10000] koaQ7Jey 2020年11月11日 08:03:06 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[7]
名張毒ぶどう酒事件 弁護団が新証拠提出 「真犯人が偽装工作」
毎日新聞2020年10月28日


 三重県名張市で1961年に5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」で、奥西勝・元死刑囚の弁護団は28日、ぶどう酒瓶の王冠を覆っていた封かん紙から、製造段階とは違うのりの成分が検出されたとする再鑑定の結果を、第10次再審請求の異議審が行われている名古屋高裁に新証拠として提出した。弁護団は「封かん紙が貼り直されたことが明らかになった。真犯人が偽装工作をした可能性を示している」と主張している。

 封かん紙の裏面9カ所を赤外線で測定。製造時に塗られたのりとは別に、一般家庭で洗濯などに使われていた合成樹脂製のりの成分が8カ所から検出された。

 弁護団は2016年にも封かん紙を鑑定し、5カ所で違うのりの成分が検出されたとする結果を第10次再審請求で提出したが、高裁は分析結果が誤っているとして退けた。今回の再鑑定は20年7月に高裁が許可し、違う方法で鑑定が行われた。名古屋市内で記者会見した鈴木泉弁護団長は「結果をより裏付けるため、鑑定した専門家の証人尋問を求めている」と話した。


報道関係者にぶどう酒の入った瓶の封かん紙の新たな鑑定結果について説明する鈴木泉弁護団長=名古屋市で28日午後

 この事件では61年3月、名張市葛尾で開かれた懇親会で、毒が混入されたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した。奥西元死刑囚は15年10月、収監先の八王子医療刑務所で死亡。妹の岡美代子さん(90)が再審請求を引き継いだ。【井口慎太郎】

https://mainichi.jp/articles/20201028/k00/00m/040/206000c
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/254.html#c42

[昼休み52] 分かっていても公表できないこともある 中川隆
32. 中川隆[-9999] koaQ7Jey 2020年11月11日 08:03:45 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[8]
名張毒ぶどう酒事件 弁護団が新証拠提出 「真犯人が偽装工作」
毎日新聞2020年10月28日


 三重県名張市で1961年に5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」で、奥西勝・元死刑囚の弁護団は28日、ぶどう酒瓶の王冠を覆っていた封かん紙から、製造段階とは違うのりの成分が検出されたとする再鑑定の結果を、第10次再審請求の異議審が行われている名古屋高裁に新証拠として提出した。弁護団は「封かん紙が貼り直されたことが明らかになった。真犯人が偽装工作をした可能性を示している」と主張している。

 封かん紙の裏面9カ所を赤外線で測定。製造時に塗られたのりとは別に、一般家庭で洗濯などに使われていた合成樹脂製のりの成分が8カ所から検出された。

 弁護団は2016年にも封かん紙を鑑定し、5カ所で違うのりの成分が検出されたとする結果を第10次再審請求で提出したが、高裁は分析結果が誤っているとして退けた。今回の再鑑定は20年7月に高裁が許可し、違う方法で鑑定が行われた。名古屋市内で記者会見した鈴木泉弁護団長は「結果をより裏付けるため、鑑定した専門家の証人尋問を求めている」と話した。


報道関係者にぶどう酒の入った瓶の封かん紙の新たな鑑定結果について説明する鈴木泉弁護団長=名古屋市で28日午後

 この事件では61年3月、名張市葛尾で開かれた懇親会で、毒が混入されたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した。奥西元死刑囚は15年10月、収監先の八王子医療刑務所で死亡。妹の岡美代子さん(90)が再審請求を引き継いだ。【井口慎太郎】

https://mainichi.jp/articles/20201028/k00/00m/040/206000c
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/289.html#c32

[番外地8] 橋洋一さんの様に常習犯のように次から次へとデマを流す人は騙せる奴(いわゆる情弱)だけ騙せればよいと考えているのです
コロナに限らず、橋洋一さんの話はすべて意図的に拡散しているデマなので、信じたら悲惨な結果になります。
もちろん、知識・情報が足りず、情報判断力が低いため、真実と確信して結果的にデマを流す人もいるでしょうが、橋洋一さんの様に常習犯のように次から次へとデマを流す人は騙せる奴(いわゆる情弱)だけ騙せればよいと考えているのですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/628.html
[近代史5]  戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
4. 中川隆[-9998] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:41:27 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[12]
正力松太郎を振り返る 2020年11月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html#c4

[近代史5] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話) 中川隆
4. 中川隆[-9997] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:42:20 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[13]
正力松太郎を振り返る 2020年11月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/362.html#c4

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
85. 中川隆[-9996] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:43:58 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[14]
正力松太郎を振り返る 2020年11月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c85

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
237. 中川隆[-9995] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:44:39 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[15]
正力松太郎を振り返る 2020年11月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c237

[近代史5] バイデン「フェイク票」上乗せの卑劣な手口と真犯人判明! 「死者の不在者投票」も… トランプ“戒厳令”発動で米内戦勃発へ!! 中川隆
24. 中川隆[-9994] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:58:03 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[16]
【速報】「ペンシルベニア、バイデン当確取消し」公正な政治メディアが発表! 大統領選不正が公式捜査対象に…決定的証拠入手か! ジェームズ斉藤
2020.11.11
https://tocana.jp/2020/11/post_183076_entry.html


ーー混迷を極める米大統領選だが、10月9日にトカナで配信したジェームズ斉藤の記事は、今回の大統領選の動きを見事に“全的中”た(記事はこちら)。そんなジェームズ氏に今後の行方について聞いた。

ジェームズ 速報をいくつかお伝えします。まず、先日の記事どおり、エスパー国防長官が解任され、National Counter Terrorism CenterというODNI傘下のトップ、クリストファー・ミラーが臨時長官になりました。(←エスパー国務長官の解任は、世界で正式ニュースとして流れる前にジェームズ斉藤が記事で配信し、見事的中)彼は米国陸軍特殊部隊のグリーンベレー出身です。バックグラウンド的にはCIA右派と繋がっているので、国防総省に国内治安維持を任せる思惑が見て取れます。これは完全にinsurrection act発動への舵取りで、軍の動員は避けられないでしょう。

──軍の動員というのは暴動対策ということですか?

ジェームズ そうです、極左のデモ対策です。

──でも、いまアメリカで軍が出動するような大規模な暴動って起きていますか? それともこれから起こしていくという意味ですか?

ジェームズ いえ、そうではありません。今回の国防長官交代は、裁判でトランプ側に勝ち目があり、その後に想定される極左による反トランプデモを睨んだものなのです。

──あっ、トランプにはまだ勝ち目があるんですね。いまや世論はすっかりバイデン勝利で埋め尽くされているんで、どうなるんだろう?と思っていたんです。

ジェームズ それはよくわかります。いまやディープステート、そしてその上部構造のグローバリストが完全に世論を作っていますからね。しかし、選挙はまだ終わっていません。マスメディアが勝手にバイデン当確と言ってるだけで、実際にはまだ続いています。その証拠に、Real Clear Politicsという米国大手メディアが、今回の大統領選の天王山であるペンシルベニア州でのバイデン当確を消しました(TOPページ右側に表示されている)。RCPは米国政治専門メディアではおそらく最も公平で信頼できるところで、統計データも正確です。


https://twitter.com/RobertRandal5/status/1325954197469224962?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1325954197469224962%7Ctwgr%5Eshare_3&ref_url=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2020%2F11%2Fpost_183076_entry.html


──ということは、まだ集計すら終わっていないんですね。

ジェームズ 終わっていません。それをメディアは終わったかのように言ってバイデン勝利の記事を垂れ流していますが、まだ開票途中なんです。

──メディアは、トランプには開票途中で勝利宣言したと言って怒っていましたが、自分たちがやるぶんには構わないんですね。

ジェームズ そこが、マスコミが支配する選挙の実態です。アメリカでは憲法に則って選挙に終止符が打たれます。なぜ、そうしたのかというと、建国の父に代表されるような知性、品性、資産、愛国心、自己犠牲の精神を兼ね備えた、モラルある実力主義からなる擬似貴族制をモデルとした、エリート主導の新型共和制を基にした選挙人制度を作ったわけです。それでも、ここ最近のアメリカの大統領選は、マスコミの力が強すぎて、憲法の精神が形骸化していました。理由は近代マスコミという、発信者から受信者に一方通行のコミュニケーション構造で、口だけのフェイクなエリートを量産し、かつ彼らを守ってきたからです。典型的なフェイクエリートが故ジョン・マケイン上院議員です。


──アメリカでは英雄扱いされていましたが、トランプは嫌っていましたね。

ジェームズ 実はかなり怪しい軍歴からスタートしていた人なんです。本物の軍人から好かれていませんでした。トランプが彼の悪口を言った時にはよく言ってくれたという意見が結構出ていたんです。しかし、マスコミはそういったことは一切報道せず、常に彼を英雄として描いてきました。なぜなら、彼は最凶のディープステート傀儡政治家として35年も君臨し軍産複合体の利権を貪っていたからです。しかも彼の虚構を暴いたトランプを徹底的に潰しにかかったのです。しかし、ソーシャルメディアの登場及びトランプの台頭で状況が変わりました。個人レベルでフェイクエリートやディープステートを暴き、それを自分で発信し、大統領にいいね!やシェアしてもらえる時代が来たのです。皮肉にも1776年の独立戦争で建国の父や植民地アメリカ人が自己犠牲を経て勝ち取った「自由(liberty)」の精神が、今になって見事に発揚されるようになりました。

──そういうことだったんですね。考えてみれば、まだ12月4日の選挙人投票も終わってなかったです。

ジェームズ そうです。ただし、今回はすでにバー司法長官が本格的に動き始めています。本格的に、という意味は、今回の大統領選が公式に司法省の捜査対象になったということです。つまり、フェイク票に関する物的証拠が多数上がっていることを意味します。

https://twitter.com/thehill/status/1325958374471634946?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1325958374471634946%7Ctwgr%5Eshare_3&ref_url=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2020%2F11%2Fpost_183076_entry_2.html


──トランプ側は勝てると踏んでいるんですね。

ジェームズ そのとおりです。だからこそ、ミラーを長官にして、いつでも軍を動員できるようにしたんです。いま極左は勝ったつもりでいるのでおとなしいですが、裁判で負けたら、これまで以上に暴動を起こすでしょう。そのための対応です。こういうことを見ても、トランプ側は裁判で勝てると踏んでいると思います。

──それは頼もしいですね。ただ、これまでの報道によると選挙差し止めの訴えは各州で棄却されているそうですが、どうなんでしょうか?

ジェームズ 今までは民事裁判のレベルでした。しかし、これからの裁判は不正の証拠を揃えた上でやっていくのですから、刑事裁判にもっていくことができます。証拠のレベルによってはいきなり最高裁もあり得ます。

──日本のように地方裁判所、高等裁判所、最高裁みたいに進んでいくわけじゃないんですね。

ジェームズ 違います。今回は司法長官マターになっているので、いきなり最高裁もあり得ると思います。そもそも最高裁は高度な政治的判断を必要とする法的案件に管轄権があり、例えば、東條英機等の日本のA級戦犯を裁いた東京裁判の合法性も過去に審査しています。その時は東京裁判が国際裁判なので、そもそも米国憲法に関係ないという判決が下され合法性はついに審査しませんでしたが(苦笑)。大統領選関連では、2000年の大統領選で共和党のジョージ・ブッシュJr.と民主党のアル・ゴアがフロリダ州の投票結果で揉めた時も、最高裁が審査し、ゴア当確を退け、ブッシュJr.に当選を言い渡しました。最高裁の権限は凄まじいものがあります。すでにペンシルベニア州で不正投票を審査しており、バー司法長官が決定的証拠を上げ、その他の州も審査対象になるように、各州の検事総長と調整に入っているそうです。


──まだまだ、決まってないんですね。ここ最近すっかり大統領が決まったような報道ぶりだったので勘違いしてましたね。

ジェームズ そうやってキバを抜いていくのがグローバリストたちのやり方です。彼らのやり方は偏向報道だけではなく、トランプ政権内の裏切り者を操り、政府そのものを機能不全に追いやろうとしています。実際、トランプ政権の中にも隠れディープステート派やグローバリスト派がおり、バーの部下である司法省選挙犯罪部長のリチャード・ピルガーが司法長官の命令を拒否し突然辞任しています。前回の記事で紹介した、エスパー元国防総省長官もそうですが、トランプ側が徹底抗戦の構えを見せるや否や、わざと辞任して妨害しています。しかし、トランプ側は最初からそういったことは想定済みですから、ここからが本番になってきます。ただし、決して楽観視はできません。なにしろ、相手は現在のコロナ危機に乗じてロックダウンというフェイクな政策を全世界に押し付けることができるような人たちです。世界中のメディアや有力な人材を操れる人たちですから、トランプ側も全力で当たらないと勝てないでしょう。ここ数週間こそ、よく見ておく必要があります。一気に状況が変わる可能性大です。それはトランプ側もバイデン側もです。まだ何も決着していません。

文=編集部、文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/359.html#c24

[近代史5] バイデン「フェイク票」上乗せの卑劣な手口と真犯人判明! 「死者の不在者投票」も… トランプ“戒厳令”発動で米内戦勃発へ!! 中川隆
26. 中川隆[-9993] koaQ7Jey 2020年11月11日 16:29:35 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[18]
──どういうことですか?

ジェームズ テニスプレイヤーの大坂なおみさんが、極左側に乗っている点が懸念されます。フロイドさん、ブレイクさんなど白人警官に殺された7人の名前を書いたマスクを着用して話題になっていましたが、あれはもう少し調べてからのほうがいいと思います。自分も黒人だから、という彼女の気持ちもわからなくはありませんが、さきほども言ったように、ブレイクさんの行動にも問題がありました。そういったことをまったく理解しないで、ただただ、『defund the police(警察解体)』を主張するのは混乱を助長するだけだというのが、私の意見です。
 しかも、彼女の国籍は日本ですから、日本にいる米民主党系極左勢力に、祭り上げられる可能性が高い。実をいうと、すでに日本にはBLM(Black Lives Matter)Japanが活動しており、日本の警察はノー天気にもデモの許可を与えてしまっているんです。今後、日本の極左活動が激化する可能性が非常に高まっています。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/359.html#c26

[近代史5] バイデン「フェイク票」上乗せの卑劣な手口と真犯人判明! 「死者の不在者投票」も… トランプ“戒厳令”発動で米内戦勃発へ!! 中川隆
27. 中川隆[-9992] koaQ7Jey 2020年11月11日 16:36:32 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[19]
「超極左のドン」ナンシー・ペロシが米大統領になるシナリオが存在!? 選挙が年内に決着する可能性が超低い理由!ジェームズ斉藤が徹底解説
2020.10.09
https://tocana.jp/2020/10/post_175393_entry.html


 投票日まで一カ月を切ったアメリカの大統領選挙。民主党のジョー・バイデンが有利だ、ドナルド・トランプの巻き返しも十分に考えられるなど侃々諤々言われているが、実際のところどうなのだろうか? 日本の大メディアはこぞってバイデン有利。一方、いわゆるアメリカ通は「トランプの勝利は動かない」が大勢を占めている。

 某国現役エージェント、ジェームズ斉藤もこれまでの話を総合すると多分トランプ派。当然、トランプ有利と予想すると思いきや、意外や意外「どちらでもありません」と言い出したのだ。勝ち負けしかない選挙で「どちらでもない」とはどういうことか!? 権謀が術数過ぎて完全にカオス状態の2020アメリカ大統領選挙の真実をここに大暴露!!


──考えてみれば、あいちトリエンナーレ2019の中止に反対していた市民団体もAntifaでした。

ジェームズ Antifa Japanは立憲民主党の大会でも「安倍はやめろ」とコールしてましたね。そういう人たちに利用されるわけです。アメリカでもCIA左派に上手に誘導されて、自覚なきエージェントに仕立て上げられてしまうハリウッド俳優がいくらでもいるのですが、彼らは、これを日本でもやろうとしているのです。それが大坂さんです。彼女は堂々と日本で政治活動ができますし、国会議員になることも可能です。とてもシンボリックな存在になるでしょう。その上、中国共産党までアメリカの極左側について「フロイド事件、ブレイク事件に関して、米国が人権状況に関する平等と正義および国際的な懸念の要請に留意し、深刻な人種問題を真剣に受け止め、適切に対処できることを願っている」という声明を出しています。


https://twitter.com/MFA_China/status/1298997931651948544?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1298997931651948544%7Ctwgr%5Eshare_3&ref_url=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2020%2F10%2Fpost_175393_entry.html


──よく言いますね。新疆ウイグル地区問題とか、チベット問題をどう考えているんですかね。

ジェームズ まったくです。自分たちのことを棚上げにして便乗するにもほどがあります。ともかく、アメリカの暴動は世界各地にも影響を与えています。
 しかも、それはこれからさらに激しくなると思います。というのも、民主党&CIA左派は最近、新たなメディア戦略を展開し始めたのです。それがFacebook、Twitter、Googleといったソーシャルメディアを動かして、トランプ派を締め出したことです。以前、TwitterがQアノンなどのトランプ派を危険な思想ということでアカウントを停止していましたが、SNS メジャーのFacebook、Googleもそれを始めるようです。トランプ派の発言をすべて削除する構えです。表向きには、過激な政治的発言の締め出しですが、BLMなどの極左勢力は擁護していますから、完全にトランプ派狙いです。さらに、注意が必要なのはSNSも含めた極左系メディアが「11月3日の一般投票で、例えトランプが大統領に再選されても認めない」といったキャンペーンを始めたことです。

──どういうことですか? 選挙結果を認めないってことですか?

ジェームズ そうです。今年はコロナもあって郵便投票が増えると予想されています。郵便投票の集計には時間がかかりますから、選挙の結果が2週間後になるのか3週間後になるのかわからない状態なんです。ですから、FacebookもTwitterも選挙前後は選挙に関するツイートを制限すると言っています。特にどちらか一方が勝ったといった勝利宣言の流布は徹底的に排除すると。

──それはバイデンが勝ってもですか?

ジェームズ そこはわかりません。わかっているのはトランプの勝利宣言は絶対に潰すということです。この背景には、すでに民主党側が、11月3日はトランプが勝つと分析しているためのようです。もしくは郵便投票に持ち込めば民主党が勝つと踏んでいます。

──直接投票だと負けると。逆に郵便投票だと勝てると。なぜ、郵便投票だとバイデンは勝てるんですか? トランプが言うように不正があるからだとしか思えないんですけど。

ジェームズ 実際に不正の可能性はかなり高いんです。すでに証拠も上がっています。Project VeritasというCIA右派の代表的組織が、少し前の下院選挙で不在者投票用紙を大量に買っていた民主党議員がいたことを突き止めています。イルハン・オマルというソマリア出身の極左議員で、彼女の運動員たちが、一票2万円ほどで不在者投票が入った封書を買っていたのです。運動員が買う様子を撮影した動画がありますし、運動員自身が車の中には山のように投票用紙があると自慢している動画も出回っています。

 オマルはアルカイダ系のテロリスト集団アルシャバブとの噂が消えない危険な人物で、スタッフもソマリア系ばかりで、普通の米国人とは最も乖離している議員の一人です。そういう者が民主党の極左のスター扱いを受けていますからアメリカ人とすれば世も末でしょう。

https://twitter.com/Project_Veritas/status/1310788161166024704?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1310788161166024704%7Ctwgr%5Eshare_3&ref_url=https%3A%2F%2Ftocana.jp%2F2020%2F10%2Fpost_175393_entry_2.html


──郵便投票に不正が混在しているのは間違いないところなんですね。

ジェームズ まず間違いありません。そういった証拠はいくらでも上がっています。2016年のときは、共和党支持者が多い場所にある郵便局の反トランプ局員が郵便投票を投げ捨てていたという話もあります。共和党支持者が出す不在者投票ですからトランプ票に決まっています。そのトランプ票を民主党の息のかかった郵便局員が大量に捨てていたわけです。郵便投票は不正の温床であることに疑いはありません。ですから、トランプ側は郵便投票に反対しているわけです。


──聞いていると民主党も相当デタラメですね。例えば、バイデンが11月3日に勝った場合はどうなるんですか? トランプは黙って大統領の座を明け渡すんですか?

ジェームズ それは絶対にありえません。投票に不正があったと言って裁判に持っていくでしょう。そこで重要になってくるのが最高裁判事の存在です。これまでは極左のユダヤ人ルース・ベイダー・ギンズバーグが判事だったので訴えても絶対に勝てなかったのですが、先日ギンズバーグががんで亡くなったので、トランプは即座にカトリック保守のエイミー・コニー・バレットを判事に指名しました。バレットはトランプ側ですから、バイデンが勝った場合、選挙は無効とされると思います。やり直しになるのか、その時点でトランプが勝利宣言するのか、わかりませんが、もしもやり直しになった場合は、不正を排除するという名目で投票所に軍隊を派遣して選挙をコントロールしようとするでしょうね。すでにその動きは出ています。ですから、トランプ側はトランプ側で、法の精神を乗っ取っているんです。


──結局、両派ともなにがなんでも相手の勝ちは認めないってことですか!? それってもう選挙じゃなくなっています。

ジェームズ その通りです。もはや選挙の体をなしていません。ですから、選挙結果はどちらでもないのです。はっきり言っておきますが、年内に大統領が決まる可能性はかなり低いです。もしも、年内に決まるのであればトランプ以外にはありえないでしょうね。いずれにせよ、選挙でトランプが勝とうが、バイデンが勝とうが関係ありません。互いの勝ちを絶対に認めない両陣営が全米各地で暴動を起こし合うだけです。


──でも、それって最悪の泥仕合を世界中に晒すことになりますよ。

ジェームズ なりますね。しかし、民主党がカマラ・ハリスを副大統領に指名した時点である程度予想はしていました。彼女は選挙後の混乱を煽るにはおあつらえ向きの破綻した人格の持ち主だからです。しかも、彼女は副大統領候補に指名された当初から、選挙後もデモを続けると言っていたぐらいですから、今よりも激しい暴動が各地で起きるでしょう。その暴動を指揮するための副大統領候補ですから。


──いま以上のカオスになるんですね。それで肝心の大統領は誰になるんですか?

ジェームズ 民主党のナンシー・ペロシの可能性があります。


──えっ、誰ですか、その人!?


ジェームズ 合衆国下院議会の議長です。実は民主党の本命は彼女といっても過言ではありません。というのも来年の1月20日12:00までに大統領が決まらないと自動的に下院議長が臨時大統領に就任することが法律で決まっています。いまの下院議長はさきほど言った極左の親玉ナンシー・ペロシですから民主党の政権簒奪がそこで成功します。これが民主党のシナリオなのです。

──いやぁ、凄いことを考えていたんですね、民主党は。

ジェームズ 多分、これは今年の最初から計画されていたことだと思います。実際のシナリオが下のURLです。

https://assets.documentcloud.org/documents/7013152/Preventing-a-Disrupted-Presidential-Election-and.pdf

 この中には「選挙が11月3日に決まることは過去の思考である。1月20日までの持久戦にして勝利を掴む」といったことがはっきり書かれています。この謀略文書を作ったのが「Transition Integrity Project(TIP)」という組織で、去年末には結成されていました。

──TIP!? もしかして、この組織が民主党の後ろにいるんですか?

ジェームズ ディープステートのフロント組織で、トランプの再選を“盗む”ための民主党戦略を作っています。この謀略文書を読むとわかるのですが、11月3日の結果を受けて4つのシナリオが用意されています。バイデンが勝った場合、トランプが勝った場合、決まらなかった場合、ギリギリでバイデンが勝った場合です。

 興味深いのはやはり「トランプが勝った場合」で、共和党は勝利宣言を出す一方で、民主党は郵便投票が残っているので勝利宣言は無効だと主張します。ソーシャルメディアがトランプ派を締め出したのは、この11月3日の勝利宣言を既成事実にさせないための布石です。その後、トランプ派は、郵便投票は不正だといって郵便投票のカウントの中止を求めてきます。民主党は、それは違法だと言って各地で暴動を起こさせます。そうやって時間稼ぎをするシナリオです。

──当然、それはトランプ側も知っているんですよね?

ジェームズ もちろんです。ですから、司法と最高裁を押さえたのです。司法長官にCIA右派の親玉のバーを据えて、最高裁判事はバレットですから、裁判になれば勝てます。彼らを使って、トランプとしては年内に勝利宣言したいのでしょうが、年明けになってしまうんじゃないでしょうか?

──というか、選挙なんかやらなくてもいいんじゃないですか? ここまで国民不在だと。

ジェームズ その通りです。米国民主主義はすでに崩壊しています。なにしろ、TIPの謀略文書には「determined campaign 」という文字がありますから。これは「揺るぎない決意に基づいたキャンペーン」という意味で、戦争のときのような、「死ぬか、生きるか、絶対に後退は許されない」といった行動のときに使われる意味合いの言葉です。米国建国の父たちが危惧していた、民主主義の壊死が実際に起きようとしています。事実、いまの状況は南北戦争が始まったときとそっくりです。あのときは、南部州が「共和党のリンカーンを大統領として認めない。奴を大統領にするくらいなら出ていく」といって連邦から抜けていったんです。まさに、南北戦争前夜と言っていいでしょう。

──不思議なのが、なぜ、いまそんなことになっているんですか? アメリカ人たちは普通にやっていれば、何不自由のない生活ができるじゃないですか?

ジェームズ 裏で画策している人間がいるからです。それがさきほど言ったTIPです。メンバーはほとんどがネオコンユダヤ人で、彼らは911の前は「Project for the New American Century (PNAC)」と名乗っていました。アラブの春、シリア内戦、ウクライナ危機の前には「Foreign Policy Initiative (FPI)」という組織になっていましたが、メンバーはいまとほとんど同じです。

──ちょっと待って下さい。その言い方ですと、911やアラブの春、シリア内戦、ウクライナ危機にTIPは関係しているということですか?

ジェームズ はい、彼らが画策し、実行したといわれています。彼らは911の前にも報告書を出していて「真珠湾攻撃レベルの危機が冷戦後の堕落したアメリカにショック治療を与えるだろう」と書いています。

──それってまんま犯行予告じゃないですか!?

ジェームズ そうです。彼らのグループが長年、アメリカを分断に導いているのです。

──悪の親玉的な感じですか?

ジェームズ 普通のアメリカ人にすれば、そういえると思います。なにしろ、ネオコンユダヤ人には国という概念がありません。国よりも思想や理念のほうが大切なのです。なぜ、そうなったのかというと、共産ユダヤ人のレフ・トロツキーの亡霊に動かされているからです。


──トロツキーの亡霊!?

ジェームズ そうです。トロツキーは1929年にソ連から追放されたのち、30年代後半はアメリカで活動していました。ニューヨークで、同じくソ連から亡命してきたユダヤ系移民を集めて勉強会を開いていたのですが、そこでトロツキスト(=ユダヤ)共産主義の種が蒔かれたのです。

 トロツキスト共産主義は、あのコチコチの共産主義者のスターリンに「極左主義」と糾弾され、大粛清の対象にまでなった最凶の思想で、その目的は革命の永続による「世界のユダヤ化」です。ここでいう「ユダヤ化」とは世界の人民の家畜化で、トロツキスト共産主義は永続革命と全体主義思想によって米国を暴力で「ユダヤ化」し、米国民を家畜化するものです。

 そんなトロツキスト共産主義をトロツキー本人から叩き込まれたユダヤ系アメリカ人がアーヴィング・クリストルです。彼は「第四インターナショナル」の立ち上げにも参加しているゴリゴリのトロツキストで、アメリカのネオコンユダヤのドンの一人です。そして、このアーヴィングにはウィリアムという息子がいて、のちにパパ・ブッシュ政権時代のダン・クエール副大統領の主席補佐官を務めます。このウィリアム・クリストルが、ネオコン系シンクタンク「PANC」を作り、のちにTIPを作ったのです。だから、TIPはトロツキーの亡霊なのです。


──ということは、トロツキスト共産主義によってアメリカは混乱に導かれているってことですか?

ジェームズ ネオコンとはトロツキスト共産主義のことですからね。ですから、ネオコンにはユダヤ人が多いんです。彼らは “民主化”の名の下に世界に戦争を輸出します。それが軍産複合体支持であり、シオニズム死守であり、世界民主化支持なのです。“民主化”の中身が「ユダヤ・ファースト」のグローバリズムなのはそういうことです。


──いまの話で「ネオコン」というものがやっと見えてきました。

ジェームズ ここを理解しないと本当の世界は見えてきません。そして、本当の世界を理解するためにはネオコンユダヤの論理がわからないと見えないんです。かつて私はネオコンユダヤを直接理解する機会に恵まれたので、こうやって皆さんにお話しすることができるのです。ともかく、アーヴィング・クリストルの息子ウィリアム・クリストルが作ったPNAC、TIPはイラク戦争とカラー革命を画策し、親クリントン・反トランプ派としてロシアゲートをでっち上げている相当ヤバい集団です。ちなみに、2004年、ゴイ(非ユダヤ人や異教徒の意味)で両班朝鮮系の安倍さんが訪米したときには、呑気にアーヴィング・クリストルに敬意を評すパフォーマンスをしています。彼は価値観外交などキレイ事を言っていましたが、実際にはネオコンユダヤにかぶれ、日本外交を「ユダヤ化」したことはA級戦犯レベルだと思います。


──クリストルのほかに注目しておくべき人はいますか?

ジェームズ 作家のジョン・ポデスタとドナ・ブラジルですかね。ポデスタはクリントン陣営の選挙対策長をやっていた人物で、クリントン人脈ですから当然ペド好きの悪魔崇拝者です。米民主党元全国委員長のドナ・ブラジルも相当偏っています。なにしろ、9歳のときに公民権運動に目覚め、その年で有権者の家を回って投票を呼びかけている根っからの極左です。ほかのネオコンユダヤ人はウィリアム・クリストルの信者レベルです。こういった連中が大統領選挙を盗もうとしているのがいまのアメリカの状況なのです。ですから、今回の選挙はトランプ対ネオコンの戦いで、バイデンはすでに蚊帳の外と言ってもいいぐらいです。実際には来年、トランプになるか、ペロシになるかを見るべきものではないかと思います。


──う〜ん。アメリカ大統領選挙の底なし沼ぶりがよくわかりました。

文=ジェームズ斉藤

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/359.html#c27

[番外地8] 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
日本がアジア人から嫌われた理由
戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。
明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。

 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・c house nで大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/629.html

[リバイバル3] 苗場スキー場 中川隆
74. 中川隆[-9991] koaQ7Jey 2020年11月11日 19:32:34 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[21]
雪日記
20-21シーズンリフト券の準備。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3892.html

先日町民シーズン券を湯沢町公民館にて申込して参りました。
発行は11/26より、利用できるのは12/1からです。

12/1時点の町内でオープンしている予定はかぐらスキー場のみ。
しかし、そのかぐらは11/21よりオープンの予定です。
この10日間が微妙にもどかしい(笑)
3連休明けの平日からでもいいから使えたら凄いありがたいのですが…。

11月から5月までガッツリ滑る為のシーズン券って、
結局、プリンスプレミアムが最強であり最安なのですよね。

町民券のデメリットは11月と4月以降にリフト券の追加投資がかかってしまう所。
春はかぐらの春券、11月は日数が少ないのでプリンスポイントの引換券で、
と、計画しておりました。

が、
今年は中々プリンスポイントのリフト券交換情報が発表されませんでした。
10月中旬から毎日毎日プリンスのホームページを確認する日々…。

これは…、今シーズンはリフト券交換を行わないのではないか?と疑心暗鬼に(笑)

別プランも考慮しなくてはと色々シミュレーションしました。

かぐら全日券にしてしまえば11月と春に使えて、土日の駐車場代も無料になる。
それならばいっその事プリンスプレミアムにして軽井沢から富良野まで滑り倒す?
ん〜ベストプランが思いつかない(笑)

そんな悶々とした日々にやっと発表がありました!

しれっと昨日から追加されていました(笑)

昨シーズン極改悪された必要ポイント数と平日券の廃止、
もちろん変わる事はなく、これがスタンダードに。

プリンスホテルが運営する全スキー場のリフト1日券が一律1,500ポイント。

ふと、見慣れないアイコンに気が付きました。
アプリ限定
eバウチャー限定

アプリ限定
西武プリンスクラブ専用アプリからのみ申込できるみたいです。

これは、単純に顧客囲い込みですね。

eバウチャー限定
チケットレスでeバウチャーでのみ利用ができるみたいです。

これは、今までみたいに郵送で紙チケットの到着を待たなくていいから便利。
本人限定となり使わなくなった分の譲渡売買防止策でもある。
例年オークションサイトで相当数の売買が行われていましたが、
あの相場は今後無くなるのかもしれません。

無駄なアプリは増やしたくないのだけど、仕方ないダウンロードしました。
こんな企業の自己満アプリ、今回のような目的がなければ全く不要だし、
使用後即削除確定ですよ。

例えば、GPSログで滑走記録が連動したり、
フェリカでそのままリフト券として使えるとか、
スキー場内の(まともな!ここ重要)情報発信と連動したり、
スキー場内のレストランの注文や席予約がオンラインで待ち無しになったり、
そんな機能があればアプリとして有能だけど、
大手企業の公式アプリにそこまで期待しません(笑)

18-19までの内容を知っていると、平日組に至っては倍以上の値上げ相当ですが、
それでもまだポイント交換のレート的には美味しいレートではあります。
(リフト券1日分が1500円で買えると思えば安い。)

以前紹介した、有効期限が短いプリンスポイントを有効期限無しにしている場合、
永久不滅ポイントからプリンスポイントに変換するのに数日かかります。
かぐらオープンまで残りわずかなのでお早めに。

これで、11月中のリフト券の準備も万全となりました。

あとはオープンを待つばかり。
昨夜も降雪がありかぐらはいつになく順調な11月前半の積雪量です。
問題は来週全部融けてしまうんじゃないか!?って所ですが…。

神楽魂に期待し雪乞いをするしかない!!

http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3892.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html#c74

[番外地8] 日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者だった
三橋貴明さんは日本の歴史を何も知らない
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者だった。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:

1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
____

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/630.html

[番外地8] 大西さんは誤解しているけど、マネーストックが増えても物価が上がるだけだよ、所得再分配以外の問題は起きない。

「ベーシックインカム」でインフレにすれば資本家の資産が目減りして所得を再分配する事になるんだよ。
インフレに合わせて「ベーシックインカム」の額を上げて行けばいいんだ。
大西さんは誤解しているけど、マネーストックが増えても物価が上がるだけだよ、所得再分配以外の問題は起きない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/631.html
[近代史5] ロスチャイルドのエージェントのソロスは反共・反中国だった 中川隆
1. 中川隆[-9990] koaQ7Jey 2020年11月12日 06:07:34 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[2]

2020.11.12
ソロスのアルメニアとトルコのアゼルバイジャンの戦闘をロシアが止めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011120001/


 ナゴルノ・カラバフの領有を巡って軍事衝突していたアゼルバイジャンとアルメニアは11月9日、ロシアの仲介で停戦に合意した。アゼルバイジャンはトルコやイスラエル、アルメニアはジョージ・ソロス(つまり米英金融資本)との関係が深いのだが、仲裁に入ったのはロシアで、平和維持部隊として1960名を派遣しはじめたという。

 アゼルバイジャンはイスラエルからドローンなどの武器/兵器を調達、​ネゲブにあるイスラエル空軍の基地にアゼルバイジャンの輸送機が着陸​するところも目撃されている。

 それに対し、アルメニアへはクルド人戦闘員2000名が送り込まれたという。同国のニコル・パシンヤン首相は2018年のクーデターで実権を握ったのだが、そのクーデターの黒幕は投機家のジョージ・ソロス。アルメニアへクルド人部隊を送り込んだのはこのソロスだ。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2003年3月にアメリカ主導軍でイラクを先制攻撃、ネオコンの戦略に基づいてサダム・フセイン体制を崩壊させたものの、親イスラエル体制の樹立には失敗、ムスリム同胞団やサラフィ主義者をジハード傭兵として使う戦術に変更した。

 その戦術変更を引き継ぐ形でバラク・オバマは2010年8月にPSD-11を出し、中東から北アフリカにかけての地域を制圧するためにムスリム同胞団を中心とする戦闘集団を編成する。そこにはサラフィ主義者も加わった。

 このジハード傭兵の部隊はアル・カイダ系とも言えるが、こうした部隊とNATOの航空兵力が連携してリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制を2011年10月に破壊したが、シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒せない。そこでオバマ政権は2012年からジハード傭兵への支援を強化、そして作り出されたのがダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)。2014年にこの戦闘集団は売り出され、残虐性が宣伝された。

 その残虐なダーイッシュを叩くという名目でシリアへ軍事侵攻することを目論んだのであろうオバマ政権は政治の陣容を好戦派に切り替えていく。つまり2015年には2月に国防長官をチャック・ヘーゲルからアシュトン・カーターへ、9月には統合参謀本部議長がマーチン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代させた。

 ヘーゲルは戦争に慎重だったが、カーターは2006年にハーバード大学で朝鮮空爆を主張した人物。シリアからバシャール・アル・アサド大統領を排除しようとしていたバラク・オバマ大統領とは違い、サラフィ主義者やムスリム同胞団を危険だと考えていたデンプシーはシリア政府と情報を交換していたと言われている。

 アメリカ軍、あるいはNATO軍の軍事侵攻は時間の問題だと見られていたが、デンプシーが退役した直後の9月30日、ロシアはシリア政府の要請を受けて軍事介入、ダーイッシュを敗走させはじめ、アメリカは大規模な軍事介入できなくなった。

 そこでオバマ政権はアメリカ軍の地上部隊をシリアへ侵入させる一方で、敗走したダーイッシュに替わってクルドを使い始める。そのクルドをソロスはアルメニアへ派遣したわけである。ロシアとイランに挟まれた地域でクルドとジハード傭兵が戦うという事態をロシアは容認できなかっただろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011120001/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/215.html#c1

[近代史3] ロスチャイルドの番頭で殺人鬼だったジョージ・ソロスがやった事 中川隆
4. 中川隆[-9989] koaQ7Jey 2020年11月12日 06:08:21 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[3]

2020.11.12
ソロスのアルメニアとトルコのアゼルバイジャンの戦闘をロシアが止めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011120001/


 ナゴルノ・カラバフの領有を巡って軍事衝突していたアゼルバイジャンとアルメニアは11月9日、ロシアの仲介で停戦に合意した。アゼルバイジャンはトルコやイスラエル、アルメニアはジョージ・ソロス(つまり米英金融資本)との関係が深いのだが、仲裁に入ったのはロシアで、平和維持部隊として1960名を派遣しはじめたという。

 アゼルバイジャンはイスラエルからドローンなどの武器/兵器を調達、​ネゲブにあるイスラエル空軍の基地にアゼルバイジャンの輸送機が着陸​するところも目撃されている。

 それに対し、アルメニアへはクルド人戦闘員2000名が送り込まれたという。同国のニコル・パシンヤン首相は2018年のクーデターで実権を握ったのだが、そのクーデターの黒幕は投機家のジョージ・ソロス。アルメニアへクルド人部隊を送り込んだのはこのソロスだ。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2003年3月にアメリカ主導軍でイラクを先制攻撃、ネオコンの戦略に基づいてサダム・フセイン体制を崩壊させたものの、親イスラエル体制の樹立には失敗、ムスリム同胞団やサラフィ主義者をジハード傭兵として使う戦術に変更した。

 その戦術変更を引き継ぐ形でバラク・オバマは2010年8月にPSD-11を出し、中東から北アフリカにかけての地域を制圧するためにムスリム同胞団を中心とする戦闘集団を編成する。そこにはサラフィ主義者も加わった。

 このジハード傭兵の部隊はアル・カイダ系とも言えるが、こうした部隊とNATOの航空兵力が連携してリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制を2011年10月に破壊したが、シリアのバシャール・アル・アサド政権を倒せない。そこでオバマ政権は2012年からジハード傭兵への支援を強化、そして作り出されたのがダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)。2014年にこの戦闘集団は売り出され、残虐性が宣伝された。

 その残虐なダーイッシュを叩くという名目でシリアへ軍事侵攻することを目論んだのであろうオバマ政権は政治の陣容を好戦派に切り替えていく。つまり2015年には2月に国防長官をチャック・ヘーゲルからアシュトン・カーターへ、9月には統合参謀本部議長がマーチン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代させた。

 ヘーゲルは戦争に慎重だったが、カーターは2006年にハーバード大学で朝鮮空爆を主張した人物。シリアからバシャール・アル・アサド大統領を排除しようとしていたバラク・オバマ大統領とは違い、サラフィ主義者やムスリム同胞団を危険だと考えていたデンプシーはシリア政府と情報を交換していたと言われている。

 アメリカ軍、あるいはNATO軍の軍事侵攻は時間の問題だと見られていたが、デンプシーが退役した直後の9月30日、ロシアはシリア政府の要請を受けて軍事介入、ダーイッシュを敗走させはじめ、アメリカは大規模な軍事介入できなくなった。

 そこでオバマ政権はアメリカ軍の地上部隊をシリアへ侵入させる一方で、敗走したダーイッシュに替わってクルドを使い始める。そのクルドをソロスはアルメニアへ派遣したわけである。ロシアとイランに挟まれた地域でクルドとジハード傭兵が戦うという事態をロシアは容認できなかっただろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011120001/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/148.html#c4

[番外地8] ファシズムとは巨大資本が支配する統制経済の事
完全に誤解してるけど、新自由主義は社会主義や共産主義じゃなくて帝国主義
グローバリズムは共産主義ではなく極右ファシズムだよ:
ファシズムとは巨大資本が支配する統制経済の事
アメリカをはじめ、西側の支配層は現在、巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。そのベースになる考え方はイタリアの経済学者ビルフレド・パレートから学んだのだという。


 後に西側では全体主義をファシズムとコミュニズムを一括りにするタグとして使うようになるが、これは巨大資本の情報操作。本来は企業主義(企業支配)と結びつけるべきものだった。巨大資本が定義した意味で全体主義というタグを使うのは、情報操作に踊らされていることを意味する。

 1933年11月といえば、アメリカの巨大資本が反フランクリン・ルーズベルトのクーデターを計画していたころ。その5年後の4月29日にルーズベルトはファシズムについて次のように定義している。

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 ここに書かれているようなことをアメリカの支配層は目論んでいる。その突破口になる協定がTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)の3点セット。このうちTTIPはアメリカとEUの協定で、EUから離脱した国には適用されない。勿論、EUが解体されればTTIPは雲散霧消だ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/632.html

[番外地8] 中共はマルクス主義ではなく純然たる儒教国家
完全に誤解されていますが、中共はマルクス主義ではなく純然たる儒教国家です。
そもそも毛沢東は資本論なんか読んだ事はないし、最初から自分は中国皇帝だと宣言していました。
自称共産国家は国名に民主主義共和国とか付けて民主主義国みたいに装っているのと同様、実際には民主主義国でも共産主義国でもないのです。

世界で本当の共産社会に近かった国はバブル前の日本だけです。

それは、終戦後、共産主義者・ニューディ−ラーばかりだった GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて日本を無階級社会にしたからなのです。

日本共産党や労働組合もGHQが合法化しました。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしていません。

本来の共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は絶対に存在しません。つまり、 中国共産党員は共産主義者ではなく正統派の儒教者なのです。

そもそもこの現代に左翼なんか存在しません。

日本共産党は典型的な保守反動政党だし、現在の中国・北朝鮮・韓国は古来の儒教思想が現在まで続いている国です。 習近平も毛沢東も昔ながらの中国皇帝ですしね。

グローバリズムは左翼思想だとか、チュチェ思想が共産主義だと言っているアホがいるけど、

・グローバリズムは21世紀型の帝国主義で典型的な資本主義思想

・チュチェ思想は天命を受けて統治している天子をみんなで支えなければいけないという儒教思想

儒教というのは、人間活動の原理に身分差別を置くもので、「序列が下の者は、上の者に従う」という単純明快な原理で、人間社会のすべてを管理しようとする思想です。

 それは儒教の最大教書、「論語」にある「知らしむべからず、依らしめるべし」とともにあって、序列が上の者は、知識や財産を独占して、下の者に分け与えることで権威を維持するというシステム。

儒教社会では、人々に、「生まれながらにして人間には貴賤の超えがたい格差がある」と教えてきた。だから国民は、社会の支配秩序に従う義務があるという理屈を強要するのです。
 だから金王朝が存在し、中国共産党支配体制が存在するのです。

なぜ、中国が、共産党思想宣伝の柱として孔子を持ち出しているのかといえば、それが秩序と権威を絶対視し、人間に序列をつけて、「下の者は上の者に黙って従え」という長幼秩序が共産党支配に非常に都合が良いからである。

 孔子の思想的核心
  「民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず。」(泰伯)

 これが儒教朱子学の最大骨子である。儒教が権力宗教と批判される核心論理でもある。
 権力者だけが何でも知っていればいい、民衆には何も教えず、無知のまま置くのが支配に都合が良いという意味であり、まさに愚民政策である。
 中国共産党もまた、民衆に真実は教えない。都合の悪い事実は、すべて隠して、民衆を無知蒙昧に置いてコントロールしようと考えているわけだ。
 中国共産党が孔子を持ち上げて、世界に強要しようとしている本質でもある。

  「女子と小人とは養い難し。」(陽貨)

 孔子は男尊女卑の人だった。生涯、五回ほど妻を得たようだが、すべて、「食事が気に入らない」という理由で、ちゃぶ台をひっくり返して追い出している。
 彼に必要なものは性奴隷であり、妻ではなかったのだ。

 忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕・譲・恭・敬・悌

 @主君に忠節を尽くせ
 A長幼序列を守り、親に忠孝を尽くせ
 B人に仁(思いやり)を持て
 C義理を重んぜよ
 D礼が秩序の本質
 E智謀が大切
 F信義、誠実を持て
 G恕は「おのれの欲せざるところ、人に施すなかれ」
 H譲は、しゃしゃり出るな
 I恭は、目上の者に素直に従え
 J敬も、目上の者を尊敬せよ
 K悌は、年長者に従え

 孔子が広く支持されてきた理由は、なかなか意味の深い人生訓がたくさん含まれているところだが、その骨子は、上に示したように、年長者、権力者に都合の良い社会にせよと諭しているものだ。
 孔子の思想体系からいえば、社会のなかで、もっとも価値の高いものが国家権力であり、それは人々の生活や命よりも上だ、ということになる。
 だから国家権力は、大喜びで民衆に広く儒教を宣伝洗脳しようとしてきた。


中共はマルクス主義ではなく純然たる儒教国家


●中共は儒教国。儒教は徳治主義。
●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。
●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。


徳治主義について

中共は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中共ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。

それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いか

さて。
ここで問題です。

Aさんがいます。

このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?

普通の国ならBさんが悪い

普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。

事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。

まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。


儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い

でも儒教ではそう簡単にはいきません。

「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。

この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。


騙す人の論理

ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。

儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。

もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。


無論、中韓以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。

参考:儒教には神がいない。だから嘘に罪悪感を抱かない。
https://nihonsinwa.com/page/881.html
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/633.html

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
19. 中川隆[-9988] koaQ7Jey 2020年11月12日 06:51:11 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[5]

左翼=新自由主義 という誤解の原因 1

中共はマルクス主義ではなく純然たる儒教国家です。

そもそも毛沢東は資本論なんか読んだ事はないし、最初から自分は中国皇帝だと宣言していました。

自称共産国家は国名に民主主義人民共和国とか付けて民主主義国みたいに装っているのと同様、実際には民主主義国でも共産主義国でもないのです。

世界で本当の共産社会に近かった国はバブル前の日本だけです。

それは、終戦後、共産主義者・ニューディ−ラーばかりだった GHQ が農地改革したり、意図的にインフレを起こして資産家の財産を取り上げて日本を無階級社会にしたからなのです。

日本共産党や労働組合もGHQが合法化しました。
一方、自称共産国家の中国はそんな事はしていません。

本来の共産主義国には、現在の中国みたいな階級も極端な貧富の差は絶対に存在しません。つまり、 中国共産党員は共産主義者ではなく正統派の儒教者なのです。

そもそもこの現代に左翼なんか存在しません。

日本共産党は典型的な保守反動政党だし、現在の中国・北朝鮮・韓国は古来の儒教思想が現在まで続いている国です。 習近平も毛沢東も昔ながらの中国皇帝ですしね。

グローバリズムは左翼思想だとか、チュチェ思想が共産主義だと言っているアホがいるけど、

・グローバリズムは21世紀型の帝国主義で典型的な資本主義思想

・チュチェ思想は天命を受けて統治している天子をみんなで支えなければいけないという儒教思想

儒教というのは、人間活動の原理に身分差別を置くもので、「序列が下の者は、上の者に従う」という単純明快な原理で、人間社会のすべてを管理しようとする思想です。

 それは儒教の最大教書、「論語」にある「知らしむべからず、依らしめるべし」とともにあって、序列が上の者は、知識や財産を独占して、下の者に分け与えることで権威を維持するというシステム。

儒教社会では、人々に、「生まれながらにして人間には貴賤の超えがたい格差がある」と教えてきた。だから国民は、社会の支配秩序に従う義務があるという理屈を強要するのです。
 だから金王朝が存在し、中国共産党支配体制が存在するのです。

なぜ、中国が、共産党思想宣伝の柱として孔子を持ち出しているのかといえば、それが秩序と権威を絶対視し、人間に序列をつけて、「下の者は上の者に黙って従え」という長幼秩序が共産党支配に非常に都合が良いからである。

 孔子の思想的核心
  「民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず。」(泰伯)

 これが儒教朱子学の最大骨子である。儒教が権力宗教と批判される核心論理でもある。
 権力者だけが何でも知っていればいい、民衆には何も教えず、無知のまま置くのが支配に都合が良いという意味であり、まさに愚民政策である。
 中国共産党もまた、民衆に真実は教えない。都合の悪い事実は、すべて隠して、民衆を無知蒙昧に置いてコントロールしようと考えているわけだ。
 中国共産党が孔子を持ち上げて、世界に強要しようとしている本質でもある。

  「女子と小人とは養い難し。」(陽貨)

 孔子は男尊女卑の人だった。生涯、五回ほど妻を得たようだが、すべて、「食事が気に入らない」という理由で、ちゃぶ台をひっくり返して追い出している。
 彼に必要なものは性奴隷であり、妻ではなかったのだ。

 忠・孝・仁・義・礼・智・信・恕・譲・恭・敬・悌

 @主君に忠節を尽くせ
 A長幼序列を守り、親に忠孝を尽くせ
 B人に仁(思いやり)を持て
 C義理を重んぜよ
 D礼が秩序の本質
 E智謀が大切
 F信義、誠実を持て
 G恕は「おのれの欲せざるところ、人に施すなかれ」
 H譲は、しゃしゃり出るな
 I恭は、目上の者に素直に従え
 J敬も、目上の者を尊敬せよ
 K悌は、年長者に従え

 孔子が広く支持されてきた理由は、なかなか意味の深い人生訓がたくさん含まれているところだが、その骨子は、上に示したように、年長者、権力者に都合の良い社会にせよと諭しているものだ。
 孔子の思想体系からいえば、社会のなかで、もっとも価値の高いものが国家権力であり、それは人々の生活や命よりも上だ、ということになる。
 だから国家権力は、大喜びで民衆に広く儒教を宣伝洗脳しようとしてきた。


中共はマルクス主義ではなく純然たる儒教国家


●中共は儒教国。儒教は徳治主義。
●徳治主義は「徳のある」人には「良い結果」が訪れるという理屈。
●もしもお金を騙し取られた場合、騙されたのは「徳が無い」からとなる。

●もしもお金を騙し取り、うまく逃げおうせたら、それは「徳がある」から、お金を手に入れたとなる。

●よって騙されるより、嘘をついて騙す方が得。嘘がバレたらケンチャナヨ(まぁいいか)となる。

●嘘をつくというよりは、嘘のハードルが低い。


徳治主義について

中共は儒教の国です。儒教は徳治主義です。徳治主義というのは「徳のある人が統治者になると国が栄える」というものです。これは統治者に関わらず、国民全体に浸透しています。よって中共ではこの徳治主義が倫理の基礎となっています。

それで庶民にとっての徳治主義をというのは、何か良い結果があれば、それはその人に徳があったからということになります。逆に悪い結果があれば、その人に徳がない、つまり、悪い人であるか、もしくはバカということになります。
この理屈をよく覚えておいてください。

騙す人と騙される人はどちらが悪いか

さて。
ここで問題です。

Aさんがいます。

このAさんが、騙されてBさんにお金を取られたとします。
このとき、AさんとBさんはどちらが悪いでしょうか?

普通の国ならBさんが悪い

普通の国ならノータイムで悪いのはBさんになります。
Bさんが騙しているからです。

事実と異なることを言って、誤解させてお金をせしめているからです。Bさんが嘘をついているから、Aさんは悪くないということです。

まぁ、場合によっては、「よくそんな嘘に騙されたな」ということもありますが、ほとんどの法治国家ではAさんに非は無く、Bさんの犯罪ということになります。


儒教の徳治主義に照らすとAさんが悪い

でも儒教ではそう簡単にはいきません。

「悪い結果があったのは、その人に徳がないから」

という原則があるからです。

この原則に照らすと、Aさんが悪くなります。
お金を騙し取られるという「悪い結果」が起きたのはAさんに徳が無いからです。


騙す人の論理

ではBさんの側で考えてみましょう。

Bさんは普通の国では問答無用で「悪い」のですが、儒教では「嘘をついた時点で悪」というわけではありません。

儒教では警察に捕まるなどしないと、「悪い結果」と受け取られません。

もしも、うまく逃げおうせたら、単に「BさんがAさんのお金を手に入れた」というBさんにとって「良い結果」だけとなり、なぜBさんがお金を手に入れることが出来たのかというと、それはBさんに徳があるからということになります。つまりBさんはうまくやった立派な人であり、徳のある正しい人となります。


無論、中韓以外の国では警察に捕まろうと捕まらなくとも嘘をついた時点で「悪人」なのですが、儒教ではこういった結論と成ります。バレなければOK。バレたらケンチャナヨ精神です。

参考:儒教には神がいない。だから嘘に罪悪感を抱かない。
https://nihonsinwa.com/page/881.html  
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c19

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
20. 中川隆[-9987] koaQ7Jey 2020年11月12日 06:54:49 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[6]
左翼=新自由主義 という誤解の原因 2

《櫻井ジャーナル》 2016.06.22
ファシズムとは巨大資本が支配する統制経済の事
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606210000/

アメリカをはじめ、西側の支配層は現在、巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。そのベースになる考え方はイタリアの経済学者ビルフレド・パレートから学んだのだという。

 後に西側では全体主義をファシズムとコミュニズムを一括りにするタグとして使うようになるが、これは巨大資本の情報操作。本来は企業主義(企業支配)と結びつけるべきものだった。巨大資本が定義した意味で全体主義というタグを使うのは、情報操作に踊らされていることを意味する。

 1933年11月といえば、アメリカの巨大資本が反フランクリン・ルーズベルトのクーデターを計画していたころ。その5年後の4月29日にルーズベルトはファシズムについて次のように定義している。

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 ここに書かれているようなことをアメリカの支配層は目論んでいる。その突破口になる協定がTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)の3点セット。このうちTTIPはアメリカとEUの協定で、EUから離脱した国には適用されない。勿論、EUが解体されればTTIPは雲散霧消だ。

 ところで、前にも書いたように、ヨーロッパ統合は米英支配層の計画だった。1922年に創設されたPEUに始まり、第2次世界大戦後にACUEが作られ、その下にビルダーバーグ・グループもできた。NATOの創設は1949年だ。EUの前身であるECについて、堀田善衛はその「幹部たちのほとんどは旧貴族です。つまり、旧貴族の子弟たちが、今ではECをすべて取り仕切っているということになります。」(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』集英社、1993年)と書いている。EUでも同じことが言えるだろう。その旧貴族をカネと暴力で支配しているのが米英の支配層であり、その支配のためにNATOやUKUSAは存在する。

 こうした仕組みを作り上げた米英の支配層は当初、イギリスが主導権を握っていた。そのイギリスで1891年に「選民秘密協会」が創設されている。セシル・ローズ、ナサニエル・ロスチャイルド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、ウィリアム・ステッドが中心メンバー。ブレッドは心霊主義の信者としても知られるビクトリア女王の相談相手で、後にエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。

 ジョージタウン大学の教授だったキャロル・クイグリーによると、1901年までローズがこの結社を支配していたが、それ以降はアルフレッド・ミルナーが中心になる。そのミルナーはシンクタンクのRIIA(王立国際問題研究所)を創設した。後にRIIAのアメリカ支部と見なされるようになるアメリカのCFR(外交問題評議会)は設立直後、JPモルガンに乗っ取られた団体だ。

 モルガン一族が富豪の仲間入りする切っ掛けは、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンにあったジョージー・ピーボディーの銀行の共同経営者になったこと。1857年にその銀行が倒産寸前になるが、そのときにピーボディーと親しくしていたナサニエル・ロスチャイルドが救いの手をさしのべている。

 1864年にピーボディーは引退し、モルガンが引き継ぐ。その息子がジョン・ピアポント・モルガン。この息子はロスチャイルド財閥のアメリカにおける代理人となった。この人物の名前から彼の金融機関はJPモルガンと名づけられたわけだ。

 本ブログでは何度も書いているように、関東大震災の復興資金調達で日本政府が頼ったのがこのJPモルガンで、それ以降、日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。有り体に言うなら、ウォール街の属国になり、ファシズム化が始まった。だからこそ血盟団による暗殺や二・二六事件が引き起こされたのだろう。

 ニューヨークの株式市場で相場が大暴落した1929年から大統領を務めたハーバート・フーバーはウォール街の巨大金融資本を後ろ盾にしていたが、その経歴をさかのぼるとロスチャイルドが現れる。スタンフォード大学を卒業した後に鉱山技師として働いた鉱山を所有していたのがロスチャイルドだった。そのとき、利益のためなら安全を軽視する姿勢が気に入られたようだ。

 相場は大きく変動するときがチャンス。下がれば損をするというものでもない。暴落のタイミングを知っていれば、つまり暴落を仕掛けられれば大儲けできるのだ。1929年にもそうしたことが起こったと言われている。相場の下落で儲かるだけでなく、二束三文で価値あるものを手に入れられる。その時に政府をコントロールできていれば、やりたい放題だ。

 そうした意味で1928年や32年の大統領選挙は重要だったが、32年の選挙でフーバーは再選に失敗する。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。当然のことならが、JPモルガンをはじめとする巨大金融資本はショックを受けた。

 当時、大統領の就任は3月。選挙から4カ月のギャップがある。その間にルーズベルトはフロリダ州マイアミで銃撃事件に巻き込まれるが、弾丸は隣のシカゴ市長に命中、市長は死亡した。引き金を引いたのはレンガ職人のジュゼッペ・ザンガラなる人物で、足場が不安定だったことから手元が狂ったとも言われている。この銃撃犯は直後の3月20日に処刑されてしまい、真相は不明のままだ。

 ルーズベルトが大統領に就任した後、支配層はニューディール政策の実行を妨害する。その最前線にいたのが最高裁判所だった。そして1934年にクーデター計画が発覚する。名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人で信望が厚かったスメドリー・バトラー海兵隊少将は議会でこの計画を明らかにしたのだ。

 バトラーによると、クーデター派はルーズベルト政権を倒すため、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、フランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていたという。

彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃、50万名規模の組織を編成して圧力をかけ、大統領をすげ替えることになっていたという。

現在、アメリカの支配層がカネ儲けに邪魔な政権、体制を倒すために使う手法と基本的に同じだ。

バトラー少将の知り合いだったジャーナリストのポール・フレンチもクーデター派を取材、その際に「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で証言している。

 このクーデター計画を聞いたバトラー少将はカウンター・クーデターを宣言する。50万人を動員してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げたのだ。つまり、ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろというわけである。

その結果、クーデターは中止になるが、クーデター派を追及して内戦になることを恐れたルーズベルト政権は曖昧なまま幕引きを図った。大戦の終盤、ルーズベルトはドイツや日本の略奪財宝を回収するのと同時にナチスと巨大企業との関係を明らかにしようとしていたと言われているが、これはルーズベルトが執務室で急死したため、実現しなかった。


 何度も書いてきたが、JPモルガンと日本とを結ぶキーパーソンはジョセフ・グルー。

駐日大使として1932年に赴任してきたが、彼のいとこのジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻だ。またグルーの妻、アリス・ペリーは少女時代に日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで後に大正(嘉仁)天皇の妻(貞明皇后)になる九条節子と友人になったという。


 グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めているが、妻と皇室との関係も利用して松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らと親しくなったという。

1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカに宣戦布告した直後、グルーは大使の任を解かれたが、42年になって岸信介(つまり安倍晋三の祖父)はグルーをゴルフに誘っている。それから間もなくしてグルーはアメリカへ戻った。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心メンバーとして「右旋回」、つまり戦前回帰を推進する。安倍首相やその仲間たちはこの政策を促進しようとしているだけである。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606210000/


▲△▽▼

《櫻井ジャーナル》 2016.06.30

戦前日本は米巨大資本に従属、その巨大資本と対立していたルーズベルト政権と日本の対立は必然

 安倍晋三政権は「戦前への復古」と「アメリカへの従属」を目指しているが、これは矛盾していないどころか、コインの裏と表の関係にある。幕末から日本の支配層は基本的にイギリスやアメリカの巨大資本を後ろ盾としてきた、つまり強い影響を受けてきたのだ。この関係が機能しなかったのは、ニューディール派政権だった1933年3月から45年4月、あるいはジョン・F・ケネディが大統領だった1961年1月から63年11月くらいだろう。

 現在、この従属関係を「日米同盟」と呼ぶが、かつては「対米協調」と表現されていた。そうした政策を打ち出した代表的な政権は1929年7月から始まる浜口雄幸内閣。アメリカ巨大資本の要求に従った政策、フランクリン・ルーズベルトやベニト・ムッソリーニが言うところのファシズム(注)を導入、例えば、緊縮財政と金本位制への復帰を実行した。最近の表現を使うならば、新自由主義的な政策を導入したのだが、これによって貧富の差が拡大、東北地方で娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になる。

 こうした経済政策の中心にいた人物がJPモルガンと緊密な関係にあった井上準之助であり、こうした背景を抜きにして、1932年の血盟団による井上準之助や団琢磨の暗殺、また1936年の二・二六事件を理解することはできない。二・二六事件では、昭和天皇も井上たちと同じ立場だということが明らかになった。

 ウォール街が支援していたハーバート・フーバー大統領をルーズベルトは1932年の大統領選で破ったのだが、その3年前にニューヨークで株式相場が暴落、経済破綻が顕在化していた。

 第1次世界大戦(1914年から18年)でライバルのヨーロッパ諸国は疲弊したが、アメリカは戦場とならずに物資の販売や金融で大儲け、自動車の大衆化が進み、映画やラジオの登場など技術的な進歩で豊かになっているように見えた。

 しかし、富が一部に集まる政策が推進され、社会は衰退する。大戦後に兵士が帰国すると街には失業者が溢れ、ストライキやデモが続発していた。そうした中、1919年にボストン近郊で起こった現金輸送車襲撃未遂事件が起こり、ニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが逮捕された。1920年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件でも有罪とされた。

 いずれの事件もふたりを有罪とするような証拠、証言はなく、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視して死刑を言い渡している。ふたりが「アナーキスト」だったということが理由だと見られている。ふたりは1927年の8月に処刑された。

 勿論、1950年代から60年代にかけて公民権運動が高まるまでアメリカでは人種差別が公然と行われ、決して「自由で民主的な国」とは言えない。そうした国の内部で庶民の不満は強まり、1932年の大統領選でニューディール派を勝たせることになる。

 当時、日本の支配層が従属していた相手は「自由で民主的な」アメリカ人でなく、富を独占し、人種差別を行う人びと。フランクリン・ルーズベルト政権の誕生は、日本の支配層がウォール街に従属するという関係を崩した。この関係が復活するのは、1945年4月にルーズベルトが執務中に急死してからだ。

 このアメリカと日本が戦争を始める切っ掛けは、言うまでもなく「真珠湾攻撃」。この攻撃がいかに無謀だったかを語る人は多いが、日本はすでに戦争をはじめていた。1927年5月に山東出兵、31年9月に柳条湖事件と呼ばれる偽旗作戦を実行して侵略を開始、中国東北部に「満州国」と称する傀儡国家を樹立させた。1937年7月の盧溝橋事件後、宣戦を中国の全域に拡大、そして41年12月の真珠湾攻撃だ。

 しかし、日本が東アジア侵略を始めたのはその遥か前、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置したところから始まる。本ブログでは何度か指摘したが、1871年7月に廃藩置県を実施済みなわけで、この琉球藩設置は台湾へ派兵する口実作りの可能性が高い。実際、そのころ来日していた厦門の領事のチャールズ・リ・ジェンダーは外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めていた。そこから江華島への軍艦派遣(朝鮮に対する挑発)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦へとまっしぐらだ。この背後にはイギリスとアメリカが存在していた。

 東アジアを侵略している間に盗んだ財宝も曖昧なまま、アメリカ支配層と山分けした可能性が高い。その過程で吸った甘い汁を日本の支配層は忘れていないはず。アメリカ支配層の最近の動きを見ていると、過去の「成功体験」を再現しようとして失敗しているようで、日本がアメリカの真似をして再び中国を侵略しようとしたなら、取り返しのつかないことになりそうだ。

 こうした道へと日本を導いているのが安倍政権。危険な流れを察知した人びとが小沢一郎の率いる民主党を選挙で勝たせたのだが、それをマスコミと検察が潰し、菅直人や野田佳彦は国民の期待を裏切って現在がある。ここで諦めたなら、支配層の思う壺だ。


【注】

(1) ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。

(2) 1938年4月29日にフランクリン・ルーズベルトはファシズムについて次のように定義した。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606300000/


▲△▽▼

《櫻井ジャーナル》
アメリカの支配層が世界的な規模でファシズム体制を樹立させようとしていることは本ブログで何度も指摘してきた。その計画は遅くとも大恐慌の時代から始まる。

米英の巨大金融資本とナチスとの関係も明らかになっている。

ホワイトハウスからニューディール派を排除してファシムズ体制を樹立しようというクーデター計画が1933年から34年にかけて進められていたことも書いてきた通り。スメドリー・バトラー少将らの証言によると、その中心的な存在がJPモルガンだった。

 1933年はニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任した年。1945年4月に執務中に急死するまでルーズベルト政権が続くのだが、その政権で45年1月まで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスは44年4月、アメリカをファシズムの脅威が襲うピークは第2次世界大戦の後だとニューヨーク・タイムズ紙に載せた記事の中で指摘している。

 1944年の大統領選挙でもルーズベルトは圧勝しているが、その選挙の際、民主党の幹部はルーズベルトに信頼されていたウォーレスを次期副大統領候補から外し、シオニストの富豪アブラハム・フェインバーグを後ろ盾とするハリー・トルーマンを据えていた。副大統領に就任した3カ月後、ルーズベルトの急死でトルーマンが副大統領から大統領へ昇格している。大戦後、アメリカでは反ファシスト勢力が粛清された。

 その後、アメリカにおける金融資本の影響力はさらに強まるが、FBIと並ぶ支配の重要な道具として機能してきたのが情報機関のCIA。この機関は1942年、ウォール街とシティ、つまりアメリカとイギリスの金融資本によって作られたOSSが大戦後に生まれ変わってもの。その人脈は大戦の終盤からナチスの幹部や協力者を救出、ラテン・アメリカなどへ逃亡させ、保護、雇用している。当時の動きは本ブログで何度か書いたことなので、今回は割愛する。

 アメリカやイギリスの支配層にとってファシズムは長期戦略の柱だともいえる。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202004180000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c20

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 菅義偉 中川隆
25. 中川隆[-9986] koaQ7Jey 2020年11月12日 06:57:09 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[7]
菅首相に抵抗し飛ばされた元総務官僚・平嶋彰英がジブリの雑誌で青木理に語った恐怖支配の実態!「あそこまでひどい人はいない」
https://lite-ra.com/2020/11/post-5696.html

2020.11.11 菅首相に飛ばされた元総務官僚が語った恐怖支配!「あそこまでひどい人は…」 リテラ
     
     「熱風」11月号

 日本学術会議の任命拒否問題をめぐり、菅義偉首相の説明が二転三転どころか四転五転している。当初は拒否した理由を「総合的、俯瞰的に判断」と言っていたのに突如「多様性」と言い出し、実際には「多様性」と矛盾していることを突かれると、5日の参院予算委員会では「推薦前の調整が働かなかった」などと「事前調整」がなかったからだと強弁。「事前調整」とは法的根拠も何もない、まさに政治介入にほかならないものであり、過去の学術会議会長からも「調整」を否定する証言が飛び出すと、菅首相は10日の衆院本会議で「事前調整」を「すり合わせ」に表現を修正したのだ。

「調整」を「すり合わせ」に表現を変えたところで問題は変わらないし、何より任命を拒否した理由の説明にはまったくなっていない。菅首相は否定しつづけているが、「政府の法案に反対」したから任命拒否したことはもはや隠しようもないだろう。

 8日に共同通信は「官邸、反政府運動を懸念し6人の任命拒否」と報道し、その後、批判が集まるとタイトルにあった反政府運動を括弧つきの「反政府先導」と表現を改めたが、しかし、菅首相にとっては根拠を挙げて政府の法案に異論を唱えるといういたって当然の行動さえも「反政府運動」だと映っているのだろう。

 いや、菅首相がこれまで見せてきた強権性を鑑みれば、「反政府」というよりも「俺に楯突くような奴は絶対に認めない」という独善的な考えから任命を拒否したのではないか。

 そして、そのことを強く感じさせる証言がある。それは、スタジオ・ジブリが発行する小冊子「熱風」11月号に掲載されている、ジャーナリスト・青木理氏との対談に登場した元総務官僚・平嶋彰英氏の証言だ。

 平嶋氏は2014年7月に総務省の自治税務局長に就任したが、菅首相が総務相時代に肝いりではじめた「ふるさと納税」制度の拡充に反対。すると、官房長官だった菅氏は2015年の人事で事務次官候補とも呼ばれた平嶋氏を、極めて異例の自治大学校長に“左遷”させた。つまり、平嶋氏は菅氏に楯突いたことで排除された官僚のひとりだ。

 その平嶋氏は、「熱風」での対談で菅首相の実像を、こんな強烈な言葉で語っている。

「率直に言って菅さんほどひどい方はいませんでした」

「とにかく乱暴なことばかり言って、乱暴なことでも言い出したら聞かなくて、気に入らないと人事権を振るうという印象しかありません」

「とにかく極端な人です。あそこまでひどい人はほかにいません」

「正直、私はいまも怖くて仕方ない」

●「ふるさと納税」制度をめぐる提案をすべてはねつけた菅首相の恐るべき主張

 もちろん、これは人事で飛ばされた「逆恨み」で語っているような言葉ではない。菅首相は、官僚にそう思わせるだけのことをやってきたということだ。

 実際、2005年に小泉純一郎政権で総務副大臣となった際から、菅氏の“恐怖政治”ははじまっていた。

「最初に菅さんが総務副大臣に就いたとき、私は上司らと一緒に食事をしたことがあります。その際に菅さんがいきなりおっしゃった台詞は忘れられません。「役人を動かすのは人事だと思っているからな、俺は」と」(平嶋氏)

 食事の席で出し抜けに人事を盾にした脅迫を口にする──。これには対談相手の青木氏も「いきなりそんなことを」と驚くが、平嶋氏は「面と向かって平然とそうおっしゃいました。実際に菅さんが総務相になった際、南君がいきなり飛ばされましたからね」と語っている。

 この「南君」というのは、菅氏が総務相時代に推し進めようとしたNHK受信料支払いの義務化などの改正案をとりまとめていた情報通信政策局放送政策課長だった南俊行氏のこと。南氏が菅氏の方針に対して否定的なことを口にしていたことが菅氏に伝わり、菅氏が激怒して更迭したといわれているが、先日、改訂版として発売された菅首相の自著『政治家の覚悟』(文春新書)でも、菅首相はこの南氏の更迭劇を〈「いいから、代えるんだ」と押し切りました〉などと誇らしげに記述している。

 公文書管理の重要性を説いた箇所は改訂で削除したというのに、あからさまな報復人事のエピソードは削除することなく残した。このことからも菅首相は人事権という権力の濫用を悪いとも恥ずかしいこととも感じていないことがよくわかるが、菅首相の問題は、それ以前の“自分の意見は絶対だ”という頑迷さにある。

 それを象徴するのが、平嶋氏が左遷されるまでにいたった過程だ。前述したように平嶋氏は2014年に「ふるさと納税」制度の拡充に抵抗。それは「ふるさと納税」制度が高所得者層のほうが得をするという「極めて不平等で、不健全」な問題を孕んでいたからだ。それを拡充するなんてありえないというのは、平嶋氏個人の考えではなく、さんざん議論を繰り返してきた自治税務局の総意でもあった。「せめて返礼品問題だけでもなんとかしなくちゃいけない」と考えた平嶋氏は、旗振り役であり当時官房長官だった菅氏を説得しようとさまざまな案を持って何度も説明をおこなった。

 だが、菅氏はすべてを撥ねつけ、こんなひと言でシャットアウトした。

「純粋な気持ちでふるさと納税している人を俺は何人も知っている」
 
  税の公平性が保たれない問題点を無視し、客観性もへったくれもない独断で異論を退ける──。実際にこのときの平嶋氏らの危惧は的中して返礼品競争は加熱し、結果的に自治体との訴訟にまで発展、国が逆転敗訴するという事態にまで陥っているが、官僚から寄せられた予見に菅氏が耳を傾けていれば、こんなことにはなっていなかったのだ。

■「ふるさと納税」制度をめぐる提案をすべてはねつけた菅首相の恐るべき主張

 しかし、菅氏がおこなったのは、官僚を罵り、怒り散らすことだけだった。実際、平嶋氏は「何度も怒られました」「最後は面罵に近かったですね」と言い、「ふるさと納税制度をめぐってここまで問題点が浮き彫りになってくれば、多少なりとも普通の感覚を持っている政治家ならわかってくださいます」と無念さを滲ませている。

「こんな制度、最初はおそらく菅さんの思いつきの類だったんだと思うんです。(中略)税や寄付の原則論から言ってもおかしな制度であって、住民税の基本的なありようを壊すことになりかねませんから、私の5代前ぐらいの自治税務局長も制度の導入時、抵抗したわけです。でも、その人も結局は飛ばされてしまった」

 しかも、平嶋氏が菅氏とやりあったのは「ふるさと納税」の問題だけではなかったという。2014年、平嶋氏は都市部商業地に適用されていた固定資産税を軽減する特例廃止を高市早苗総務相(当時)を納得させた上で進めていたのだが、「国交省が菅さんのところに泣きついた」ことから官邸が動き出した。菅氏の最側近である和泉洋人首相補佐官が横やりを入れてきたというのだ。

「しばらくして和泉さんから電話がかかってきて、「こんなことをやろうとしているのか」と。ですから私は和泉さんのところに説明にうかがい、「これはやらないとマズいことになります」「場合によっては憲法違反で裁判に負けます」「民主党でもやったのに(編集部註:民主党は住宅地の特例を廃止)、自民党でやらないわけにはいかないでしょう」とお伝えしたら、「そうか」とおっしゃる。
ただ、菅さんは一度言い出したら聞かないともいうんですね。そこは理屈も何もなくて、和泉さんがおっしゃるには「とにかく国交省の幹部と握ってこい」と。そうすればできるから、というんですが、国交省と握れるわけなんかありませんよ。後ろに業界団体が控えているんですから。
そうこうしていたら、日経新聞に記事が出たんです。この問題の議論がいよいよ税調でスタートする、と。
それを目ざとく見つけた菅さんは「俺がダメだと言っていることを新聞まで使ってやろうとするのか」と激怒しているという話が和泉さんから伝わってきて、実際に次官(総務事務次官)にも菅さんから直接電話があって猛烈に怒られたそうです」

 裁判に負ける可能性があるという問題点がはっきりしていることでも、自分の右腕である和泉首相補佐官が「そうか」と納得したことでも、理屈もなく「一度言い出したら聞かない」。そして、平嶋氏は2度も菅氏の逆鱗にふれたことで、前述したように左遷されてしまったのだ。

 もちろん、平嶋氏はこうしたことを覚悟の上で抵抗したのだ。平嶋氏は人事について聞かされたときのことも「「ああ、やっぱりか」と思うだけで驚きませんでした。そうなるだろうと予想していましたから」「何かされるだろうなと(思っていた)」と語っている。

■固定資産税軽減をめぐっても菅首相がゴリ押し「菅さんは一度言い出したら聞かない」

 公平性を保たなければならないという当たり前の意見でさえ、人事で報復されることを覚悟しなければ言えない──。平嶋氏の姿勢は「国民全体の奉仕者」たる官僚として極めて真っ当だが、そうした官僚の真摯なあり方を、菅氏は“俺の言うことを聞かない”という理由だけで、人事権を濫用し壊しつづけてきたのである。

「もちろん私は、政治主導を否定するつもりはありません。われわれ官僚は選挙で選ばれたわけではありませんから、最後はやはり政治家が政治責任を伴う形で決断すべきでしょう。
ただし、それは別に政治家の思いつきをすべて実現しろということではないはずです」
「私は菅さんの指示に従い、最終的にはおっしゃる通りにしました。ただ、その途中段階で異議を唱えた。すぐには「うん」と言わなかった。要するに「お前は俺の前で鐘と太鼓を叩いて『これはいいですね!』と言わなかった」という理由で飛ばされたわけです」
「「俺の手柄に傷をつけようとした」と思われたのかもしれません。これを手柄と思うこと自体、現実を直視されていないのだと私は思いますが、私が最後に菅さんにお目にかかったとき、その顔に書いてありましたよ、“こいつだけは許さん”と(苦笑)。
実際、私が菅さんから最後に言われた言葉が「逃げ切りは許さんぞ」でしたから」

 しかも、重要なのは、平嶋氏が抵抗したとき、菅氏は直接の上司である総務相ではなく官房長官だった、ということだ。平嶋氏も「官房長官たる菅さんに本来、私を直接指示する権限などないはずです。内閣官房長官は、内閣の中に異なる意見があった際に調整する権限などはあるかもしれませんが、行政各局に直接指揮命令する権限などありませんよ」と述べているが、まさに言うとおりだろう。

 では、なぜ官房長官が平然と現場に介入するという異常事態になったのか。その背景を、平嶋氏はこう推測している。

「ふるさと納税制度に関して言えば、おそらく安倍総理にも相談していないでしょう。そんな官房長官の指示が「菅案件」などと呼ばれ、役人が振り回される状況になってしまっている。要は人事権を持っている人間が一番強く、これでは「法治」ではなく「人治」です。なぜそうなってしまったかといえば、単に安倍さんが任せてしまっていたからでしょう」
「安倍さんは結局、ご自分で厳しいことができないから、そこを菅さんに全部任せてしまった。霞ヶ関のコントロールはすべて菅さんでした」

 そうして人事で官僚を脅し、忖度を蔓延させた張本人が総理大臣の座まで登り詰め、さっそく日本学術会議の推薦者任命拒否という問題を起こした。この問題についても、平嶋氏は「自身が権力を持っているというのを見せびらかしたいとしか思えません。権力は実際に行使し、見せつけた方が権力基盤が固まると考えてらっしゃるのではないか」と語っているのだが、一方でこうも述べている。

「ただ、そういう残酷なことができるというのもある意味では能力ではあるのでしょう。人を切ったり飛ばしたりっていうのは、普通の人はなかなかできるものではありません。誰だって情もあるし、罪の意識だってある。精神的によほど強くなければ、そういう冷酷なことをできないでしょう。
また、これは私の考えなのですが、菅さんは自分がなさってきたことと同じことを他人にも求めているのかもしれません。ご自身が官房長官という地位に就いて権力を維持するため、いったいどれだけ安倍さんに尽くしてきたか。それと同じものを私たちに求める」

 自身の権力維持のためには手段を選ばない、人並み外れた冷酷さ。そして、利己的にすぎない安倍首相への献身と同じものを官僚にも要求する──。あまりにも歪みきっていると言わざるを得ないが、これこそが菅首相の本質・正体ではないのか。

■菅首相が平嶋氏に最後に言ったセリフは「逃げ切りは許さんぞ」

 しかし、問題はこうした“俺が絶対”である菅政権のもとで、官僚たちは平嶋氏のようにおかしなことにはしっかりとおかしいと抵抗できるのか、という点だろう。

 対談では、最後に青木氏が「後輩官僚へのメッセージというか、伝えておきたいことがあればお話いただけませんか」と言うと、平嶋氏は「日本という国がおかしくならないようにがんばってくれと申しあげたい」と語り、さらに「それからもうひとつ」と付け加えた上で、こう述べている。

「ふるさと納税制度の拡充などは典型的ですが、国民に迷惑をかけてしまうような結果になれば、自分が死ぬときにものすごく後悔する。それだけは嫌だと私は思いました。
政治家はもちろんですが、責任ある立場にいた官僚もいずれは歴史の法廷で裁かれます。そして自分の心に嘘はつけない。いずれ歴史の法廷に立って裁かれることを常に考え、自分の心に従い、官僚の後輩たちはそれに恥じないような行動をとってほしい。自分の行動を律し、おかしなことには誠実に声をあげていってほしい。心からそう願っています」

 じつは、この対談記事のあとには、青木氏の「付記」が加えられている。そこでは〈後輩官僚へのメッセージを尋ねた際、(平嶋氏の)語りはじめた声がかすかに震え、うっすらと赤らんだ眼には涙が浮かんでいた〉ことが書かれており、青木氏はその理由をこのように推察している。

〈自らがおかしいと感じた政策に必死の抵抗を試み、しかし最終的には屈服させられてしまい、従わざるをえなかった無念。その上にクビを切られた無力感と憤り。一方で、できる限りの抵抗は試みたことへのひそやかな自負……。
それらがないまぜとなり、後輩官僚へのメッセージとして伝えようとした高揚が、平嶋氏の感情を根っこから揺さぶったのだろうと私は感じた。〉

「正直、私はいまも怖くて仕方ない」とさえ口にする平嶋氏だが、官僚としての矜持を失わなかったその勇気にあらためて拍手を送りたい。そして、その勇気を称えると同時に、いま進行中の日本学術会議問題をはじめとする菅首相の暴走を止めなければならない。そうでなければ、菅首相のこの危険な独善性と強権性がさらに増長することは、火を見るより明らかだからだ。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1084.html#c25

[近代史5] ネオコンとはトロツキスト共産主義のこと 中川隆
21. 中川隆[-9985] koaQ7Jey 2020年11月12日 07:02:52 : Un6vbLYjB8 : ekZlRVNXWlE4ek0=[8]
左翼=新自由主義 という誤解の原因 3


内田樹 独裁者とイエスマン 2020-10-30
http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html

 日本学術会議の新会員任命拒否に私はつよく反対する立場にある。それは私がこの問題で政府への抗議の先頭に立っている「安全保障関連法に反対する学者の会」の一員であるということからもご存じだと思うけれど、私は一人の学者としてと同時に、一人の国民として、それも愛国者としてこのような政府の動きに懸念と怒りを禁じ得ないでいる。その理路について述べる。

 任命拒否はどう考えても「政府に反対する学者は公的な承認や支援を期待できないことを覚悟しろ」という官邸からの恫喝である。政権に反対するものは統治の邪魔だからである。

「統治コストを最少化したい」というのは統治者からすれば当然のことである。だからその動機を私は(まったく賛成しないが)理解はできる。
 けれども、統治コストの最少化を優先すると長期的には国力は深く損なわれる。そのことは強く訴えなければならない。

 これまでも繰り返し述べてきた通り、 統治コストと国の復元力はゼロサムの関係にある。統治コストを最少化しようとすれば国力は衰え、国力が向上すると統治コストがかさむ。考えれば当たり前のことである。

 統治者は国力を向上させようと望むときはとりあえず国民を締め付ける手綱を緩めて好きなことをさせる。統制がとれなくなったら経済発展や文化的創造を犠牲にしても、国民たちを締め上げる。飴と鞭を使い分ける。そういうさじ加減は為政者には必須の能力であり、すぐれた政治家はこの緩急のつけ方についてのノウハウを熟知している。

 日本の場合、60〜70年代の高度成長期は国力向上のために、国民に気前よく自由を譲り渡した時期である。「一億総中流」はそれによって実現した。おかげで私は10代20代をまことに気楽な環境の中で過ごすことができた。けれども、その時期は同時に市民運動、労働運動、学生運動の絶頂期であり、革新自治体が日本全土に生まれ、あきらかに中央政府のグリップは緩んでいた。その後、バブル期が訪れたが、このときは日本人全員が金儲けに熱中していた。たしかに社会規範は緩み切っていたけれど、とにかく「金が欲しい」というだけだったので、市民の政治意識は希薄だった。足元に札束が落ちているときに、「坂の上の雲」を見上げるやつはいない。

 そして、バブルが終わって、日本が貧しくなると、政治意識はさらに希薄化した。

 ふつうは中産階級が没落して、階層の二極化が進み、貧困層が増えると、社会情勢は流動化し、反政府的な機運が醸成され、統治が困難になるはずだけれども、日本はそうならなかった。市民たちはあっさりと政治的関心を失ってしまったのである。「自分たちが何をして政治は変わらない」という無力感に蝕まれた蒼ざめた市民たちほど統治し易い存在はない。そのことを7年8カ月におよぶ安倍政権は私たちに教えてくれた。

 なんだ、簡単なことだったんじゃないか。統治者たちはそれに気がついた。
 統治コストを最少化したければ、市民たちを貧困化させ、無権利状態に置けばよいのだ。マルクスやレーニンはそれによって「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」プロレタリアート的階級意識が形成され、彼らが蜂起して、革命闘争を領導するだろうと予言したけれど、そんなことはイギリスでもフランスでもアメリカでも起きなかった。もちろん日本でも。

 市民を無力化すれば、市民は無力になる。わかりやすい同語反復である。無力化した市民たちはもう何か新しいものを創造する力がない。ただ、上位者の命令に機械的に従うだけである。当然、総合的な国力は低下し、やがて一握りの超富裕層=特権層と、それにおもねるイエスマンの官僚・ジャーナリスト・学者、その下に圧倒的多数の無権利状態の労働者という三層で構成される典型的な「後進国」の風景が展開することになる。

 今の日本は「独裁者とイエスマン」だけで形成される組織に向かっている。少なくとも、官邸は日本中のすべての組織をそのようなものに改鋳しようと決心している。そういう組織なら、トップの指示が末端まで遅滞なく伝達され、ただちに物質化される。どこかで「これは間違い」と止められたり、「できません」と突き返されたりすることが起こらない。たいへん効率的である。

 だが、この組織には致命的な欠点がある。創造力がないこと、そして復元力がないことである。

「独裁者とイエスマン」だけから成る組織では、トップは無謬であることが前提になっている。だから、メンバーにはシステムの欠陥を補正することも、失敗事例を精査することも許されない。システムのトラブルというのは、同時多発的にシステムの各所が不調になることである。そういうトラブルは、トラブルの予兆を感じたときに自己判断で予防措置をとれる人間、トラブルが起きた瞬間に自己裁量で最適な処置をできる人間たちをシステムの要所にあらかじめ配置しておかないと対処できない。けれども、「独裁者とイエスマン」の組織では、それができない。トップが無謬であることを前提にして制度設計されているシステムでは、そもそもトラブルが起きるはずがないので、トラブルを自己裁量で処理できるような人間を育成する必要がない。だから、「何も問題はありません」と言い続けているうちにシステムが瓦解する。

 トラブルが致命的なものになるのを回避し、崩れかけたシステムを復元するのは、トップとは異なるアジェンダを掲げ、トップとは異なる「ものさし」でものごとを価値や意味を衡量することのできる者たち、すなわち「異端者」の仕事である。

 けれども、「独裁者とイエスマン」から成るシステムはそのような異物の混入を許さない。

 たしかに、短期的・効率的なシステム運営を優先するなら「独裁者とイエスマン」は合理的な解である。しかし、長いタイムスパンで組織の存続とメンバーたちの安寧を考慮するならば、異物を含む組織の方が安全である。

 異物を含む組織は統率がむずかしい。合意形成に手間暇がかかる。

 だから、安全保障のために異物を包摂したシステムを管理運営するためには、成員たちに市民的成熟が求められる。「大人」が一定数いないと堅牢で復元力のある組織は回せないということである。だから、異物を含むシステムでは、成員たちに向かって「お願いだから大人になってくれ」という懇請が制度的になされることになる。

「独裁者とイエスマン」の組織では成員が未熟で無力であることが望ましい。それが統治コストの最少化をもたらすからである。

 今の日本社会では、統治者のみならず、市民たちまでもが「統治者目線」で「統治コストの最少化こそが最優先課題だ」と信じて、そう口にもしている。それは言い換えると「私たちを未熟で無力のままにとどめおくシステムが望ましい」と言っているということである。

 彼らは「大人が一定数いないと回らないシステム」は「統治コストを高騰させる」と思っているので(事実そうなのだが)、「大人がいなくても回せるシステム」への切り替えをうるさく要求する。「対話だの調停だの面倒なんだよ。トップが全部決めて、下はそれに従うだけの組織の方が楽でいい。」それが今の日本人の多数意見である。

 今、行政も、営利企業も、学校も、日本中のあらゆる組織が「管理コスト最少化」に血眼になっているのは、そのためである。「独裁者とイエスマン」の国はそういう日本人の多数派の願望がもたらしたものである。
 たしかにそういう国は統治し易いだろう。市民たちは何も考えず、鼓腹撃壌して、幼児のままで暮らすことができる。けれども、そのような国は長くは生きられない。それは歴史が教える通りである。
http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html



▲△▽▼


なぜ日本は自発的に「貧困化」へと向かうのか? 内田樹が語る“日本再建のビジョン”2020/11/08

新型コロナウイルスの危機はグローバル資本主義のあり方に急激なブレーキをかけ、疑問符を投げかけた。今後、アンチグローバリズムの流れで地域主義が加速すると分析する思想家の内田樹が、新著『 コモンの再生 』にこめた日本再建のビジョンを語る。

◆◆◆

――ポストコロナ時代における1つの大きな見立てとして、今後、「地域主義」が加速していくというのはどういうことでしょうか。

内田 パンデミックによってヒトとモノの流れが停滞して、グローバル資本主義が事実上、機能不全になりました。クロスボーダーに人と商品と資本と情報が超高速で移動することを前提に制度設計されてるのがグローバル資本主義です。


 電磁パルスはこれからも国境を越えて移動するでしょうけれど、生身の人間は身動きがならない。そして、生身の人間が移動しないとどうにもならないことが世の中には思いがけなくたくさんあった。これから先も間欠的に新型ウイルスが発生して、その都度パンデミックが起きるとすると、早晩グローバル資本主義というシステムは破綻するでしょう。

 今回わかったことの1つは、「本当に必要なもの」が金で買えないことがあるということです。ビジネスマンたちは「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」という「在庫ゼロ」を理想とするジャスト・イン・タイム生産システムにこれまでなじんできました。とくにアメリカではそれが徹底していた。ですから、感染拡大の初期には、防護服やマスクまで戦略的備蓄がほとんどなかった。その後「主要な医療器具と医薬品に関しては、輸入に依存せず、国産にする」と方針を切り替えました。

 事情はヨーロッパも同じです。イタリアは医療崩壊したときにドイツとフランスに支援を求めましたが、両国とも医療品の輸出を禁止した。危機的事態になると友邦さえ門戸を閉ざすということをそのとき世界の人々は学んだ。ですから、医療品やエネルギーや食料といった社会にとって必要不可欠なものは、たとえ国際価格より割高でも自国内で調達できる仕組みにどこの国も切り替え始めてゆくと思います。

中産階級が没落し、市民の政治参加意欲が失われた日本
――日本でも深刻なマスク不足がおきて、国内での増産体制を強化しました。

内田 グローバル資本主義では、メーカーは税金が安く、人件費が安く、環境保護規制がゆるいところに生産拠点をアウトソースしてきました。でも、そういう手荒なやり方自体がこれからはもう成り立たないでしょう。

 生産拠点を海外に移せば、国内の雇用が失われ、賃金が下がり、国内市場は縮小します。でも、企業は「国内の購買力が落ちたら、海外に市場を求めればいい」と考えて、国内市場を底上げする努力を怠ってきた。その結果、ブラック企業が増え、雇用条件は劣化し、中産階級が痩せ細り、消費は冷え込み、階層の二極化がさらに進んだ。

 でも、中間層の空洞化はもともとはビジネスサイドの要請に応じたらそうなってしまったということですけれど、実際にそうなってみたら、政治的に望外の結果が得られた。それは政権の安定です。国民が貧しくなったら、統治コストが安く上がるようになった。

 普通に考えると、中産階級が没落してプロレタリアート化すると、この「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」人々は収奪されたものを奪還するために立ち上がって、革命を起こすはずなのですが、そうはならなかった。貧困化し、権利を奪われた市民たちは、ただ無力化し、政治への期待を失っただけでした。考えてみれば、たしかにそうなって当然だったのです。

 近代史を振り返ると、中産階級が勃興すると、市民の政治意識が高まり、それが市民革命をもたらしました。ということは、逆から考えると、政治意識の高い中産階級が没落して、貧困化し、無力化すれば、むしろ市民の政治参加意欲は失われる。そんな歴史的実験をした先進国はこれまでありませんでしたが、日本ではそれが起きてしまった。

 実際に中産階級が痩せ細って、プロレタリア化したら、彼らは無力化して、政治参加意識を失い、むしろ消極的にではあれ政権を支持するようになった。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」という手垢のついた事大主義的な言明を上から下まで、知識人から労働者までが唱和するようになった。「国民が貧乏になると、国民は統治し易くなる」という意外な命題が成立したのでした。

 振り返れば、1960〜70年代の高度成長期、国民が「1億総中流」化した時代は「荒れた時代」でもありました。学生運動も市民運動も労働運動もその時期が一番激しかった。革新自治体が日本中に広がったのもその頃です。経済がぐいぐい成長し、若い人たちが元気に走り回り、あらゆる分野でイノベーションが起き、国としての発信力が高まった時には、実は中央政府によるコントロールが難しい時期だった。国運の向上期には統治コストが嵩むということです。

 だから、その逆に、経済活動が非活性化し、貧困化が進むと、国民の権利意識は萎縮し、政治運動は沈静化する。統治する側から見たら、ありがたい話なんです。統治コストを最少化しようと思ったら、国民を無権利状態に落とせばいい。福祉制度を空洞化し、社会的弱者は「自己責任で弱者になったのだから、公的支援を期待すべきではない」と突き放す。国民たちは貧しくなればなるほど、口を噤んで、黙って下を向くようになる。なにしろ「現状を改革したければ、現状を改革できるくらい偉くなってから言え」という強者の理屈に社会的弱者たちが進んで拍手喝采するような世の中なんですから。

国民を無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がない
――貧困化で統治コストが最少になるというのは、ドキリとする指摘です。

内田 安倍政権の7年8ヶ月の成功体験だと思います。安倍政権は反対する国民については、これを「敵」と認定して、その意向をすべて無視しました。逆に、自分の身内や味方には公権力を使って便宜を図り、公金を使って厚遇してきた。ふつうはそんなことすれば国民が怒り出すはずですけれども、そうならなかった。あまりに当然のようにはげしい身びいきをしたせいで、国民はすっかり無力感に蝕まれてしまった。権力のある人は何をしても処罰されないのだ、権力者は法律より上位にあるのだと国民は信じ始めた。そのような圧倒的権力者に逆らっても仕方がない、大人しく服従しようということになった。

 その時の成功体験を踏まえて、菅政権もそれと同じことをしようとした。反対者を潰し、社会福祉制度は骨抜きにして、中産階級の無権利化をさらに進めるつもりでいると思います。

 お隣の中国は、監視カメラによる顔認証システムやSNSでの発言チェックやカード利用歴のビッグデータを利用した全国民監視システムを作り上げました。国民監視のために膨大な国家予算を投じている。治安対策費が国防予算を超えたと聞いています。それだけの統治コストをかけるのは、国民が中産階級化してきたからです。豊かになると市民の権利意識が高まり、政治的な動きが始まる。そのことを中国政府は恐れているのです。

――2億台を超える監視カメラによる顔認証システム「天網」が中国全土に導入されていますね。

内田 ところが日本ではそんなことのために予算を使う必要がない。中国とは逆に、国民が貧しくなるにつれて、権利意識が希薄になり、政治参加意欲が減殺されているからです。うっかり反政府的なことを口走ると、すぐにお節介な奴らが「こいつ反日ですよ」とご注進に及んでくれて、公的な場から叩き出し、公的支援を止めるように陳情してくれる。だから、政府には国民監視の実務をする必要がない。官邸で寝転んでテレビを見て、「問題発言」をする人間をブラックリストに書き足すくらいの仕事で済む。マイナンバーとかほんとは要らなかったんです。別に大金をかけて国民監視システムを作るより、国民を貧乏で無権利な状態に叩き落せば、監視する必要がないほど弱体化するんですから。今や統治コストの安さにおいて、日本は東アジアでは群を抜いていると思います。

 自民党の西田昌司議員が「そもそも国民に主権があることがおかしい」と発言する画像がネットでは繰り返し流されていましたけれど、あれはまさしく自民党の本音だと思います。うっかり国民の意見を聞くと、国民の側に権利意識が芽生える。次々と要求してくる。1度でもそれを聞いてしまうと、病みつきになって、どんどん要求が増えてくる。だから、初めから「お前たちの要求は何も聞かない。お上が施してくれるものを口を開けて待ってろ」と、ピシッと言って聞かせた方がいい。そう考えている。

社会的弱者を攻撃する「貧乏マッチョ」な人たち
 統治コストを最少化したければ、国民に権利を与えないのが一番いい。口には出しませんが、今の自民党の政治家はそのことがわかっている。とはいえ、国民がみんな死んだような顔になって、社会がどんより暗鬱なものになり過ぎるとそれはそれで困る。だから、ときどきは五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだと中味のない景気のいい話で気分を盛り上げる。そんなのは所詮「打ち上げ花火」で一過性の効果しかないことは仕掛ける側だってわかっています。本気でもう1度経済をV字回復させようと思ったら、戦後日本の成功体験は「1億総中流」しかない。でも、それだけはやりたくない。だから、国運が衰微することと、国民が無力化して統治コストが安く済むことのどちらがいいか天秤にかけて、安倍政権は国運の衰微を選んだのです。

――政権批判はかっこ悪い、デモに参加するなんて「ダサい」みたいな空気もここ数年で急に強まった印象があります。

内田 そうです。デモをしたりするのは社会的弱者であることをカミングアウトすることであり、それは恥ずかしいことだという考え方がもう深く広まっています。弱者に転落したのは自己責任だから、公的支援を期待してはならないと言い出したのは英国のサッチャー首相です。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉社会から「小さな政府」への切り替えは70年代に始まりましたが、その時に「社会など存在しない」とサッチャーは公言して、労働者階級を攻撃しました。それに当の労働者たちが拍手喝采した。「福祉制度のフリーライダーは国民の敵だ」というアイディアを最も熱烈に支持したのは労働者階級でした。

 オレは貧乏になっても国には頼らない、自己責任で貧苦に耐えると宣言する「貧乏マッチョ」な人たちが福祉制度の受益者である社会的弱者を攻撃する先頭に立った。そうやって労働者階級は分断され、市民のアトム化が進行して、市民たちの権利意識は希薄化し、統治コストは削減されました。この新自由主義の流れはそれからずっと続いています。アメリカでも、日本でも、それは変わりません。トランプの最も熱烈な支持者はまさにこの「貧乏マッチョ層」ですから。

――たしかにみなが互いに協力して守り合うという感覚が現代社会では極めて希薄です。

内田 相互支援のための互助的なネットワークの解体を進めたのは、マーケットと政治です。マーケットの側の理屈では、相互支援ネットワークが存在して、身内の間では市場を介さずに商品やサービスが活発に行き来すると、資本主義的には困ったことになります。ものが売れないから。だから、まず血縁・地縁共同体を解体した。市民を孤立させれば、生きるために必要なものは市場で、貨幣を投じて調達しなければならない。資本主義の発展のためには相互支援ネットワークは邪魔なんです。

 政治の側の理屈で言うと、市民を孤立させ、無力化させると統治コストは削減される。この点でマーケットと政治の利害が一致した。国民を分断して、誰からも贈与されず、誰からも支援もされない状態に置いた方が消費活動は活性化するし、統治はし易くなる。いいことずくめじゃないかという話になった。

 そういう歴史的文脈の中で、再び相互支援の公共性を再構築することが喫緊の課題だと僕は考えています。それが「コモンの再生」というこの本のテーマです。

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『サル化する世界』『日本習合論』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。

「僕が死んだあと、私有地も道場も“面倒な”コモンにする」 内田樹が門徒に苦労させるワケ へ続く

(内田 樹/ライフスタイル出版)

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%81%aa%e3%81%9c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e8%87%aa%e7%99%ba%e7%9a%84%e3%81%ab-%e8%b2%a7%e5%9b%b0%e5%8c%96-%e3%81%b8%e3%81%a8%e5%90%91%e3%81%8b%e3%81%86%e3%81%ae%e3%81%8b-%e5%86%85%e7%94%b0%e6%a8%b9%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%86%8d%e5%bb%ba%e3%81%ae%e3%83%93%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3/ar-BB1aNqud?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/364.html#c21

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100448  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。