★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100364
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100364
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100364.html
[近代史3] イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった 中川隆
4. 中川隆[-15123] koaQ7Jey 2019年12月16日 20:44:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2172]
二・二六事件 2014.02.13 by フジッコ
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48

真実を探すブログより引用

かなり確信に近い情報を見つけたので、メモも兼ねて紹介します。当ブログでは世界の裏事情と真実について、だれでも分かりやすいように少しずつ説明していますが、最終的には太田龍氏が述べているようなことに行き着きます。
ちなみに、彼が述べていることの大半は、それを示す資料などがあるので信憑性は高いです。もちろん、一般常識に染まっている人は無理に信じようとしなくても構いません。今は「こんな情報があるんだな」程度に思って、読んでみてください。


☆とある写真
URL http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

☆太田龍 二・二六事件の真相、全面開示
URL http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/721.html
引用:
太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (1/14)
http://www.youtube.com/watch?v=bxpAeRC6rvQ


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (2/14)
http://www.youtube.com/watch?v=H5ctMIV__js


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (3/14)
http://www.youtube.com/watch?v=dHNX0N867qk


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (4/14)
http://www.youtube.com/watch?v=qU6r9R-Epk4

太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (5/14)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4YkACG9v48


太田龍 二・二六事件の真相、 全面開示 (6/14)
http://www.youtube.com/watch?v=3p0VzYhU_sg


02. BRIAN ENO 2013年2月24日 21:08:42 : tZW9Ar4r/Y2EU : yhmbAsnuyo
2・26事件の全容を知り、天皇の呪縛を解こう

故太田龍氏の公開講義の録音テープを関係者の方から頂いた。太田龍氏の遺志を汲み取り、これについては自由に広めてもらってよいということなので、今回は、その中から、二・二六事件に関するものを紹介したいと思う。

これは日本人にとって超弩級に重要な内容だが、太田龍氏の話は少々聞き取りにくい上に、内容が難しいときている。それで音声だけでは伝わりにくいと思っていたが、今般、有志の方のご協力により、全部を文字起こしし、わかりやすい画像と字幕にしてYouTubeにアップすることができた。


全部で2時間15分ある。以下に講義の要約、続いて文字起こし全文を掲載する。これに関する私の解説は後日リリースする予定である。

講義のポイント

アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html#c4

[近代史02] 戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき 中川隆
56. 中川隆[-15122] koaQ7Jey 2019年12月17日 00:32:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2171]
【ノモンハン戦役】 L 日本兵士の隠されたトラウマ(戦争神経症疾患)


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html#c56
[近代史3] ヒステリー・神経症の実態
ヒステリー・神経症の実態


【ノモンハン戦役】 L 日本兵士の隠されたトラウマ(戦争神経症疾患)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/755.html

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
222. 中川隆[-15121] koaQ7Jey 2019年12月17日 10:01:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2169]

米中貿易戦争、第一段階合意の株式市場への影響2019年12月16日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8591


アメリカと中国は長らく貿易について争っていたが、先日ようやく「第一段階」の合意に達した。何度も繰り返しているように貿易戦争自体は世界経済に大した影響を及ぼしてはいないが、金融市場が貿易戦争に反応しているため、投資家としては合意の内容を見て行かなければならないだろう。

第一段階合意の内容

世界の株式市場はこの合意のニュースを受けて大いに上昇した。一番派手に上がったのは何故か日経平均である。日経平均のチャートは次のようになっている。

頭1つ飛び抜けた形となる。

しかし合意の内容を見てみればそれほどの内容でもないことが分かる。第一段階の合意の内、中国への関税に関する部分は次のようになっている。

•中国からの輸出品1200億ドル分に掛けられていた15%の関税は7.5%となる。
•中国からの輸出品2500億ドル分に掛けられていた25%の関税はそのままとなる。

つまり、それほど変わっていないのである。関税のほとんどは掛かったまま、第二段階の合意を待つことになる。

第一段階合意はそれほどの合意でもない

ということで、第一段階合意は株式の買い方にとっても売り方にとってもそれほど喜ぶべき内容ではない。特に株の空売りを狙ってきた筆者のような投資家にとっては、まだクリアするべき問題が残っていると言える。

•米中貿易戦争、合意なら株価暴落か

何故ならば、まだ残っている大規模な関税が第二段階合意で撤廃されれば、市場は更に上昇する余地を残していることになる。株価の天井とは今後上昇するシナリオがすべて尽きた状況のことであるから、まだここが天井であると確定することは出来ない。まだ上昇のシナリオが尽きていないからである。

しかし米中貿易戦争自体がそれほどの話でもない

しかし同時に思い出してもらいたいのだが、アメリカのGDPは20兆ドル程度である。これまで掛かっていた25%と15%の関税を合わせても800億ドル程度であり、アメリカのGDPの0.4%に過ぎない。

わたしはここで何度も繰り返しているのだが、何故この程度の話がニュースと市場を賑わせているのか自体がまったく意味不明である。しかし金融市場とは意味不明な理由で動くものであるから、そういう理由で動いている間はそれに付き合うほかない。しかしそうした口実が尽きた後、市場は本当の理由で動くのである。

•米中貿易戦争、合意なら株価暴落か

結論

ということで、第一段階合意は大した話ではないが、米中貿易戦争自体がそもそも大した話ではないということである。

それで問題は株価がどうなるかである。2018年の世界同時株安の時にはそこが天井であることが明らかであった。それで以下のように強気で全力で空売りが出来たわけである。

•バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)

しかし今は当時のような100%の売りシグナルとみなすべき状況ではない。まだ上昇シナリオが残っているからである。

一方で、関税の額を掛け算と足し算で計算できる人々にとっては、これまでの上昇は何の話でもないような話で上昇してきた相場ということになる。短期的な下落があっても可笑しくないだろう。しかし下落した場合にもトランプ大統領は関税を更に撤廃することで市場を喜ばせることが出来る。また、中央銀行は1.5%の利下げ余地を残している。この状況で株価指数を空売りするのはスマートではない。

そこで、筆者としてはファンダメンタルズの観点から既に天井圏に達している個別銘柄の空売りを強化して継続することとする。
•Teslaの株価が空売り可能圏内に突入

Teslaの株価は空売り可能圏内と書いた350ドルから400ドルの圏内に再び突入している。高くなったところをこれ幸いと売ってゆくのである。

世界市場を見渡せば、世界経済にとってポジティブな材料とネガティブな材料が交錯している。それについてもまた書いて行きたいと思っている。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8591
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c222

[リバイバル3] 無痛で安らかに1分で確実に死ねる『サルコー(Sarco)』と名付けられたマシンが完成した 中川隆
46. 中川隆[-15120] koaQ7Jey 2019年12月17日 10:15:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2168]

事項になった借金の為に自殺しないでね


時効知らぬ債務者からの取り立て 下関・市営住宅家賃滞納問題 「法的手続き」とは何か 2019年12月15日

 下関市が、市営住宅を退居した人の家賃滞納分の回収・納付相談を弁護士法人ライズ綜合法律事務所(神奈川県横浜市)に委託し、未納家賃の回収を開始したことが大きな問題となっている。なかでも深刻なのが保証人である。市は37年分・1100件の滞納について、保証人に一度も連絡・請求をしてこなかった。そのため今回、突然督促を受け、ふくれ上がった滞納家賃に加え、長期にわたる延滞金が発生する結果になっている。高齢になって多額の返済義務を負うことになった保証人もおり、「なぜこれほどになる前に一言連絡をくれなかったのか」「横浜の弁護士事務所に委託する前に市から連絡をするべきではないか」と市への不信が広がるところとなっている。

 この間、弁護士法人ライズ綜合法律事務所からの督促をめぐって、高圧的な口調で、また裁判や差押えなどの「法的手続」をちらつかせる形で納付勧奨がおこなわれていることが市内で話題になってきた。滞納の事実を知らなかった保証人も「まるで悪徳滞納者のような文書が届いた」と語っており、金銭的な負担もさることながら、その扱いに憤りを感じた人も少なくない。

 本紙でも紹介したAさんの兄(80代)の例を見ると、退居から約15年が経過した滞納家賃およそ87万円の支払いを求められている。15年のあいだに一度も市役所から連絡も請求も来ていない。しかし、11月6日付で届いた二度目の「督促状」と銘打った文書には、「下記期日までにお支払・ご連絡がない場合は、支払意思がないものと判断し、債権者と相談のもと、しかるべき法的手続きを検討させていただきます」と記載されている。

 「法的手続」といわれ、一般的に想起されるのは裁判である。驚いたAさんは病身の兄にかわり市役所・弁護士事務所と交渉のうえ、兄の年金から月5000円ずつ、年金月(2カ月に一度)に1万円を支払う約束をした。納付完了まで14年超かかる計算だ。また、退居日から約15年であり、家賃滞納はそれ以前のものである。Aさんの兄の場合、請求までの期間15年超に加え、分割払いが終了するまでの14年超、合わせて30年分近い延滞金が発生することになる。

 しかし、市議会12月定例会の一般質問(11日)のなかで明らかになったのは、ライズ綜合法律事務所に「法的手続」をおこなう権限はないということだ。

 江崎建設部長は答弁のなかで、「委託しているのは納付勧奨業務だ。今回の委託では弁護士法人が裁判をおこなうことはない。裁判をおこなうかどうかは市が判断し、地方自治法に基づき議会の議決をいただいたうえで、訴えを提起することとなる」と説明した。

 市が委託したのはあくまで納付勧奨業務・納付相談業務であり、内容としては、

@文書の送付、電話による支払い案内業務、

A分割納付等の支払い方法等の相談業務、

B所在不明者等の調査業務、

C債務者が死亡している場合、住民票、戸籍調査等による相続調査業務、

D指定口座の振込による滞納金の回収と回収金の市への納入等の業務−−とのことである。

 これを知った市民のあいだで驚きが広がっている。上記のように、二度目(11月初旬)に届いた督促状の文面は、約2週間後の期日までに支払い・連絡をしない場合、裁判になると受けとれる内容になっている。「債権者と相談のもと」と書いているのが逃げ道になるようだが、この一文は結局のところ、たんなる脅しであったといえる。

時効を成立させぬ手法

 市営住宅の滞納家賃には、他の債権と同じく消滅時効の制度があり、「債権者(今回の場合は市)が権利を行使することをできることを知った時から5年」、もしくは「権利を行使することができる時から10年」という二つの条件が設定されている。

 前者の「債権者が知った時から5年」という条件だけなら、債務者の側はいつ時効を迎えるか明確にならず不安定な地位に置かれる。そのため後者の「10年」という消滅時効が進行するようになっている。市営住宅の家賃の場合、支払い期限が過ぎた時点で市が滞納を認識できるため、時効は5年ということになる。

 今回市が業務委託したのは、1982(昭和57)年から2018(平成30)年分の1100人・約5億2000万円についてである。督促状には退居日(滞納額が確定した日)と合計額しか記載されておらず、滞納期間の詳細がわからない場合もあるが、少なくとも退居日から5年以上経過しているケースについては、本人なり保証人が援用(相手に通知)すれば、時効が成立する。

 これらの本来であれば時効が成立する案件について、「法的手続」などで驚かせ、「支払う」という言質をとる−−。このような今回の回収方法について、「消費者金融の回収業者などに見られる手法ではないか」と指摘する声も上がっている。民法上、時効が成立するケースでも、支払う意思を示した時点で「時効の利益を放棄した」と見なされることを利用したものだという。弁護士法人とのやりとりのなかで、「時効ではないかと投げかけたが、結果的に払わなければならない方向に誘導された」と話す人もいる。明確な認識がないのをいいことに、「時効の利益を放棄」させたものと見られ、こうした対応そのものが不信を抱かせている。

 市がこうしたやり方を容認しているのか、それも想定したうえで業務委託したのかが疑問視されるところだ。しかし、公募のさいの企画提案書を見ると、ライズ綜合法律事務所は市に対し、送付する文書の見本を示している。それを見ると第二段階の「督促状」で「債権者と相談の元、しかるべき法的手段を検討させて頂きます」、第三段階の「催告状」では「しかるべき法的手続に移行させていただきます」、第四段階の「最終催告状」は、「しかるべき法的手続(給与差押、自宅及び所有不動産等の強制競売、銀行口座差押等)を検討させていただきます」、第五段階の「最終通知書」では「訴訟提起及び、強制執行申立を含む然るべき法的手続きを検討させていただきます」との記載がある。市としてもこうした内容を認識したうえで同弁護士法人に業務を委託したようである。

 江崎建設部長は市議会の答弁のなかで、「住宅使用料の収入未済額は平成30年度までで約8億円ある。うち5億2000万円はすでに退居した方の滞納金だ。退去者のなかには市外に転出されている方、市外にいるが住所が不明な方もおり、これらの方の調査や対応に苦慮している」とし、「収入未済の改善や入居者間の負担の公平性をはかるため」にこのたびの業務委託をおこなったと説明している。

 公営住宅が「住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸し、国民生活の安定と増進に寄与すること」を目的としていることから、毎年の所得に応じて家賃を設定し、病気等で一時的に収入が減少した場合には、減免等をおこなっていること、滞納した入居者には督促や職員が夜間訪問するなどして相談に応じるなど努力していることを強調。そのうえで、滞納したまま退居した人のなかに行方がわからなくなったり、約束をしても納付が途絶えるケースなどがあり、多額の収入未済額が蓄積していると説明した。

 しかし、今回10月半ばにおこなった最初の通知から約1カ月半でおよそ4300万円が回収されている。市が電話や文書で連絡しさえすれば、支払う意志のある市民が多く含まれていたことを示している。「滞納者が支払う意思を示している場合は、保証人への連絡は控えていた」と説明しているが、そのようにして37年分を保留してきた結果、多額の滞納家賃・延滞金を抱える保証人が出ており、「保証人になった者の責任」では済ませられない問題となっている。何より「民間のノウハウを活用する」とした今回の業務委託の実態について、検証が求められる。
https://www.chosyu-journal.jp/yamaguchi/14722
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c46

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
166. 中川隆[-15119] koaQ7Jey 2019年12月17日 10:39:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2167]
#2019/12/16 グレンコさんに聞く(1)
クリミアは誰のもの?ウクライナ?ロシア?


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c166
[近代史3] 更新世におけるユーラシア東方から西方への大規模な移動

2019年12月17日
Y染色体から推測される更新世におけるユーラシア東方から西方への大規模な移動
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_30.html


 Y染色体の系統地理的データから更新世のユーラシアにおける大規模な移動の可能性を指摘した研究(Hallast et al., 2019)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。アフリカ以外の現代人集団のゲノムは、ほぼ完全に7万〜5万年前頃の単一の出アフリカ集団に由来し(関連記事)、その後すぐ出アフリカ集団はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と交雑し、出アフリカ系現代人全員のゲノムには、多少の地域差はあっても、ネアンデルタール人由来の領域が約2%見られます(関連記事)。このネアンデルタール人と出アフリカ系現代人の主要な祖先集団との交雑は、6万〜5万年前頃に起きたと推定されています(関連記事)。

 出アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカもこの頃と推測されており、現生人類(Homo sapiens)はその後急速にユーラシアとオーストラリア(更新世の寒冷期には、ニューギニア島やタスマニア島とも陸続きとなり、サフルランドを形成していました)にまで拡散しました。しかし、6万〜5万年前頃の現生人類のDNAはまだ報告されていないため、現生人類の詳細な移住経路は不明です。現代人集団のゲノム規模分析は、アフリカからの移動距離に比例した遺伝的変異の減少を示しており、連続した創始者効果として解釈されています。しかし、これは当初こそ妥当かもしれませんが、その後の移動および混合事象のため、初期の人口構造が5万年にわたって持続してきた可能性は低そうだ、と本論文は指摘します。そのため、現代人の常染色体データから最初の出アフリカ拡大を推測することは適切ではなく、出アフリカ当初の現生人類の古代DNAもまだ報告されていないので、代替的な情報が必要になる、と本論文は指摘します。

 本論文はその代替的情報として、基本的には父系でのみ継承されるY染色体を挙げています。これは、Y染色体の男性固有の領域からハプロタイプを特定でき、詳細な系統樹を作成できるからです。出アフリカ系現代人のY染色体ハプログループ(YHg)は、CTと分類されています。このうち、YHg-D2(本論文では以前のD0という分類名が採用されています)の分析(関連記事)から、YHg-CT内の最初の分岐は出アフリカ前に起きた可能性が高く、C・D・FTは出アフリカ系現代人の祖先集団によりアフリカから世界各地へと拡散していった、と本論文は推測しています。これら3YHgの割合に関して、Cは少なく、Dはかなり少ないのに対して、FTはひじょうに多くなっています。本論文は、これらYHgの分岐と地理的分布を再検証し、改めて現生人類の拡大史を推測しました。以下、YHg系統樹とその地理的分布を示した本論文の図1です。

画像
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2019/12/06/867317/F1.large.jpg

 出アフリカ系YHg-C・D・FTはそれぞれ、54000年前頃以後に急速に拡大した、と推測されます。5万年前頃までには、Cは7系統、FTは15系統に分岐し、45000年前頃までには、 FTは24系統に、Dも(アフリカに留まったD2を除いて)4系統に分岐していました。CはまずC1とC2に分岐します。C1は現在のアジア東部・南東部・南部とオセアニアに広く見られます。C2はアジア東部および南部だけではなく、アジア北部・中央部・西部にも見られます。Dはほぼ完全にアジア南部および東部にしか存在しません。FTは現在世界中に分布していますが、最初にFとGHIJKに分岐し、Fがアジア東部および南東部でしか見られない一方で、GHIJKは世界中に分布しています。オセアニア固有の系統を除くと、5万年前頃までに分岐したGHIJK12系統中11系統は、アジア東部と南東部もしくは南部に分布しています。YHg-H2という1系統のみがヨーロッパ特有ですが、その拡散経路と考えられるアフリカからアジア中央部および西部には存在せず、それらの地域には本論文で検証されたYHgの半数未満しか存在しません。

 45000年前以前の現生人類のY染色体DNAデータはまだ報告されていませんが、45000〜30000年前頃のユーラシアの21人分は報告されており、そのうち18人はYHg-C・D・FTのいずれかに分類されます。Cは10人で、そのうち6人がアジア北部、4人がヨーロッパに分布します。残りの8人はFTに分類され、3人がアジア北部、1人がアジア東部、4人がヨーロッパに分布します。これらは全て、5万年前頃までに分岐していた出アフリカYHg23系統に含まれます。また、現在ではアジア東部・南東部・南部とオセアニアに限定されるC1は、4万〜3万年前頃にはもっと広範囲に分布しており、現在では存在しないヨーロッパにも8000年前頃以後まで存在していました。

 大陸規模の再移動を伴わないようなアフリカからアジアとオセアニアへの漸進的な現生人類の拡散モデルでは、Y染色体系統樹の最初の分岐は、アフリカに近接した地理的場所で起き、現在のY染色体の系統地理的分布は、C・D・FTの早期分岐系統がアジア中央部および西部に存在する、と予想されます。しかし、上述のようにYHg早期分布系統はアジア中央部および西部の東方に分布しており、後期更新世における早期の分岐がユーラシア東方地域で起きた、と示唆します。つまり、現代人のYHgに関しては、アフリカからの連続した創始者効果で解釈するのは適切ではない、というわけです。

 父系のY染色体と同じく単系遺伝のミトコンドリアDNA(mtDNA)は母系を表し、配列が短いため詳細は不明ですが、6万〜5万年前頃の出アフリカ系統の分岐を示します。アフリカ以外でのmtDNAハプログループ(mtHg)の最初の分岐はMと祖型Nで、M内の分岐は55000〜44000年前頃に、N内の分岐は55000〜47000年前頃に起きました。現在のmtDNAの地理的分布はY染色体よりも特異性が低く、mtHg-M・Nは世界中に分布していますが、Mは現在のヨーロッパには見られません。しかし、少なくとも28000年前頃までは、ヨーロッパにもmtHg-Mは存在していました(関連記事)。また、ルーマニアでは、4万年前頃の現生人類でmtHgの祖型Nが確認されています。したがって、mtDNAでもY染色体と同様に後期更新世における大陸規模の変化が示唆されます。さらに、mtHg-Nは単一拡大モデルから予想される系統地理的パターンを示しており、西方における最初の分岐を示唆します。

 このようなYHgの地理系統的情報を、現生人類の単一の出アフリカ拡大とどのように整合的に解釈できるのか、本論文は検証しています。最も単純な説明は、最初の西方のYHgはその東方からのおそらくは複数回の拡大により完全に置換された、というものです。これは、YHg-GHIJKの起源は東方にある可能性が高い、という推測により支持されます。もう一方は、Y染色体系統の最初の分岐が西方で起きたとする説明で、YHg-C・D・Fが西方で見られるYHg-GHIJKのみを残して他のGHIJKとともに全て東方に移動したか、YHg-C・D・Fが西部では遺伝的浮動により失われたものの、東方ではそれが起きなかった、と仮定しなければなりません。

 最初の単純な説明でも、空前の水準の男性の遺伝的構造の移動が示唆され、それに続く数千年間のYHg-GHIJK内の分岐を整合的に説明するのは困難です。しかし、もう一方の説明は、遺伝的な有効人口規模ではヨーロッパよりもアジア東部の方が低いことから、成立する可能性は低そうです。そのため本論文は、現在利用可能な古代DNAとY染色体データでは、更新世におけるユーラシア東方からの西方集団の置換の方がより説得的である、との見解を採用しています。

 古代DNA研究は、現生人類の遺伝的歴史の複雑さのいくつかを見せ始めており、それには過去3万年の大規模な大陸間移動の証拠の提供も含まれる、と本論文は指摘します。本論文は、現生人類の出アフリカ仮説モデルにおいて、アメリカ大陸へのもっと後の拡大と同様に、6万〜4万年前頃の主要な大陸間移動を想定しなければならない、と指摘します。これらの観点から、大規模な移動は先史時代を通じて続いていた可能性が高い、と本論文は推測しています。Y染色体の特有の遺伝的特性は、他の遺伝学的方法での調査が現在では困難な、出アフリカ現生人類の早期移動の考察に有益である、というのが本論文の見解です。

 更新世におけるYHgのユーラシア東方系によるユーラシア西部系の置換という本論文の見解はたいへん興味深いのですが、これを考古学の研究成果とどう整合的に解釈できるのか、という疑問は残ります。もちろん、考古資料の変化と人類集団の遺伝的変容を単純に対応させることはできませんし(関連記事)、私の勉強不足もあるので、本論文の見解を直ちに否定するつもりはありませんが。また、ゲノムデータでは、ユーラシア西部系とユーラシア東部系が43000年前頃に分岐していた、と推測されていること(関連記事)とどう整合的に解釈できるのか、という問題も残ると思います。本論文が指摘するように、現生人類の出アフリカ前後の期間(60000〜45000年前頃)の現生人類の古代DNAが欠如している現状では、YHgの地理系統分布に多分に依拠せざるを得ないところはあるでしょう。やはり今後は、ユーラシアにおける60000〜45000年前頃の現生人類の広範な地域のゲノムデータの蓄積が必要になるでしょう。


参考文献:
Hallast P. et al.(2019): Early replacement of West Eurasian male Y chromosomes from the east. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/867317

https://sicambre.at.webry.info/201912/article_30.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/756.html

[リバイバル3] オールド QUAD の安物アンプは名機なのか? 中川隆
71. 中川隆[-15118] koaQ7Jey 2019年12月17日 12:14:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2165]
2019年12月16日 真空管トラブル発生!
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1974000808


QUAD2が完成した、けっこう真空管でも安定しているというような話を書いたところだが、さっそく覆すような出来事が発生。

スピーカーユニットを、Eikona2やE100HDmk2に戻す実験をしているところだったが、今朝は少しメタルコーんくさいかなとか思いながら、ふと右チャンネルをみると、すべての真空管が点灯してない!

この時期に壊れると、年末年始の絶好のオーディオシーズンを逃すし、いったんトマンアンプにするにしても、スピーカーユニットを取り外してケーブルの長さから換えないといけず大工事。
明日から連勤なのに、今日も聴けないか。

慌てて、オールオリジナル真空管に戻し、再起動もダメ。
ふと思ったのが、ヒューズがとぶというやつで、中古購入時にオマケのようについてたので、販売店にきいてみた。
すると、あれは前のオーナーが持っていたからつけただけということ。
ただ、電源スイッチのところにヒューズが入るところがあるということで、マイナスドライバーで取り出せた。

中に入っていたのは、2アンペアのもの。確かに中が切れている。3.15アンペアのが付属してたので、入れかえてみた。
これで安心と、しっかり接続してからスイッチオン。
やはりつかない!

絶望して、試しにもう一つの交換ヒューズを、向きを逆にして入れてみた。
諦めながらスイッチを入れると、ちゃんと通電した!

説明書を読むと、3.15アンペアSlowBlowタイプとある。じゃあなんで2アンペアが入ってたのだ。
噂のオーディオ用ヒューズを検索すると、フルテックの4000円ぐらいのやつがある。
良さそうだが、今回みたいにヒューズが飛ぶことが良くあるなら痛手だし、絶版になったら片側だけ揃わなくなったりと、面倒が多い。
比較的安価で5個セットみたいなやつがないだろうか。

もうひとつ、ゴールデンドラゴンのKT66だが、取り外しのさいにガラス部とハカマが接着剤が取れてぐらぐらルーズ状態に!
さすがチャイナ!
これはどうしたもんだろうか。

ヒューズが飛んだ原因ふくめ、やはりまだまだ先達のご意見が要りそうだ。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1974000808
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/840.html#c71

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
278. 中川隆[-15117] koaQ7Jey 2019年12月17日 15:54:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2164]
2019.12.17
情報機関と同様、捜査機関は個人の消費や金融に関する情報を集め、監視する


 アメリカの捜査機関FBIがクレジット会社に対して顧客の消費や金融に関する情報を提供するように求めていたことを明らかにする​文書​が公開された。情報機関と同じように捜査機関が個人情報を集めていることは有名な話だが、それに関連した文書が出てきたことは意味がある。

 電子技術の進歩は監視技術を発展させてきた。何らかの事件や出来事を調査する際、カネの流れを追うのは基本だが、国民の動向を監視する手法でもある。電子マネーになればカネの流れを支配者が容易に把握できるようになり、口座を閉鎖するなどして「懲罰」を課すことも簡単にできる。

 アメリカではDARPA(国防高等研究計画局)も監視技術を開発してきた。1990年代にはさまざまな個人情報、例えば学歴、銀行口座の内容、ATMの利用記録、投薬記録、運転免許証に関するデータ、航空券の購入記録、住宅ローンの支払い情況、電子メールに関する記録、インターネットにおけるアクセスの記録、そしてクレジット・カードのデータも集められ、分析されてきた。

 さらに、スーパー・コンピュータを使って膨大な量のデータを分析し、「潜在的テロリスト」を見つけ出す技術の開発も知られている。どのような傾向の本を買い、借りるのか、どのようなタイプの音楽を聞くのか、どのような絵画を好むのか、どのようなドラマを見るのか、あるいは交友関係はどうなっているのかなどを調べ、個人の性格や思想を洗い出そうというわけである。図書館や書籍購入の電子化、スマートテレビの普及などもそうした目的に沿うものだ。

 GPS付きの携帯電話やIC乗車券が個人の動きを追跡する道具になることは言うまでもないが、街中に張り巡らされた監視カメラも進化、顔認証機能で追いかけることもできる。盗聴器とセットになっているカメラもあり、街中での会話も盗聴される危険性がある。

 こうした監視体制の強化は1970年代から警告されていた。アメリカ上院で設置された情報活動に関する政府の工作を調べる特別委員会の委員長だったフランク・チャーチ議員は1975年8月にネットワーク局NBCのミート・ザ・プレスという番組に出演、そこでアメリカ政府の通信傍受能力はアメリカ国民に向けられる可能性があり、そうなると人々の隠れる場所は存在しないと発言している。

 支配層が監視体制を強化するために何を目論んでいるかは明確だった。それにもかかわらず、大半のに飛びとは反対の声を上げなかった。日本はそうした傾向が強く、個人的な経験で言うと、政治家は論外として、記者や編集者、学者、活動家も関心を示さなかった。

 そうした中、1970年代の終盤、監視システムに興味を持ち、実際にアメリカで動いていた日本人がいる。原田明夫(法務省刑事局長として組織的犯罪対策法(盗聴法)の法制化を推進)と敷田稔(後の名古屋高検検事長)だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912170000/
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c278

[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった 中川隆
4. 中川隆[-15116] koaQ7Jey 2019年12月17日 18:06:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2163]

北海道ニセコが海外高級リゾートに?外国人富裕層の影で地元民悲鳴 2019年12月17日


ざっくり言うと

外国人富裕層の投資により、北海道・ニセコが高級リゾート化しているという
土地や物価の価格が高騰し、地元住民の生活がどんどん不便になっているとも
家賃も高騰しており、「もう住めない」と悲鳴を上げる人が続出しているそう


北海道ニセコがまるで海外高級リゾート 大満喫する外国人富裕層の影で地元民悲鳴「もう住めない」


北海道のスキーリゾート、ニセコで土地や物価の価格が高騰している。もともとオーストラリアからの観光客が多かったが、SNSでニセコの評判が世界中に拡散。外国人観光客が右肩上がりに増え続け、2018年はおよそ13万4600人が訪れ、10年前の約4倍に増加。外国からの投資が増えたことで、高級別荘やペンションのある樺山地区は2019年の地価上昇率(前年比)が66.7%増。4年連続で全国1位になった。

地価の上昇で人々が去り、地元商店街は壊滅状態

中心部の「ひらふ坂」には、2018年、アメリカ人投資家で構成する不動産開発会社が高級分譲コンドミニアムを開業、最高額で4LDKで約8億円の物件で、シンガポールやタイなどの富裕層が購入した。購入者が不在の時は、ホテルとして貸し出しているが、冬季宿泊料は1泊で最高72万円だ。

スキー場近くの高級住宅は1棟5億円以上。2階建てで450平方メートルある住宅は、20人以上が食事できるリビング、天然温泉、24時間体制のコンシェルジュサービス、スキー場などへの送迎サービスもある。9棟のうちすでに4棟が売れているが、オーナーは主に外国人だという。

一方で、JR倶知安駅周辺の商店街では、次々と店舗がつぶれる影響が出ている。2012年に100店舗あったが、今は35店舗のみ。倶知安商店連合会の山崎隆史さんは「地価の上昇で住んでいた人が土地を売り去っていった。商店街としては壊れている」と話す。地元に残った人の生活がどんどん不便になっているというのだ。

スーパーには3万円の肉や1パック5万円のウニ

客の4割が外国人というスーパーでは、輸入食品や3万円の肉の塊など、富裕層向けの食材が並ぶ。1パック5万円以上のウニを売るスーパーもある。地元住民の女性は「高すぎて手が出ない」と話す。また、アパートの家賃も高騰しているため、「もう住めない」と悲鳴を上げる人が続出している。

青木理(ジャーナリスト)「地元の方々が不便に感じているのはその通りですが、その一方で、全国の自治体はなんとか観光客を誘致しようと四苦八苦しています。うまく地元とマッチングして旧来の地元の人も潤うような絵が描けないかな」

玉川徹(テレビ朝日コメンテーター)「言っちゃ悪いが、夕張よりはずっとマシです。だ、地元の人の知恵の絞りようがありますよ」
https://news.livedoor.com/article/detail/17538158/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html#c4

[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった 中川隆
5. 中川隆[-15115] koaQ7Jey 2019年12月17日 18:11:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2162]


「日本の中の外国」北海道ニセコ 中国語や英語飛び交うも恩恵小さく 2019.12.16


シンガポールの不動産開発大手が計画するコンドミニアムの建設予定地=7日、北海道倶知安町
https://www.sankei.com/economy/photos/191216/ecn1912160014-p1.html



 世界的スキーリゾート地の北海道・ニセコで、外国企業による海外富裕層向けビジネスで生み出された雇用が、英語を使いこなす外国人の季節労働者で埋まってしまうことが分かった。シンガポールや香港など外国企業による開発計画が進んでいるにもかかわらず、地元への経済波及効果は意外に小さいという。「日本の中の外国」と呼ばれるほど英語や中国語が飛び交うニセコの街を取材した。(岡田美月)

 北海道の玄関口、新千歳空港から西へ車で約2時間走ると、スキーリゾート地ニセコの比羅夫(ひらふ)エリア(倶知安(くっちゃん)町)に到着する。スキー場麓のホテルが立ち並ぶ中心地に白壁で囲われた広さ約1ヘクタールの空き地がある。

 シンガポールの不動産開発大手SCグローバル・デベロップメンツが計画する、長期滞在の富裕層向け宿泊施設(コンドミニアム)建設予定地だ。地域最大級の計190室を備え、令和3年12月の完成を目指す。

 近くには、香港の不動産開発事業者メトロポリーホールディングスによる大型複合施設「アルクザカストリート」の建設予定地も。約3ヘクタールに及ぶ土地にコンドミニアムや飲食店などを整備し、6年の完成を予定する。

 倶知安町とニセコ町からなるスキーリゾートのニセコは水分の少ないフワフワの「パウダースノー」で世界的に知られる。開発ラッシュに沸く倶知安町は国土交通省が今年9月に発表した都道府県地価(基準地価)の調査地点で全国最高の上昇率を記録したが、地元商店の関係者は複雑な表情を浮かべる。

 「毎冬、1000人ほどの外国人が短期アルバイトとして働きにくる」


PR

 倶知安町の統計によると、町内居住の外国人は、今年4〜10月は700〜900人台で推移したが、スキーシーズンの今年1〜3月と11月は1500〜2000人台に倍増した。

 商店関係者は、ニセコでリゾート開発を手掛ける外国企業が現地従業員に選ぶのは外国人で、「日本人を雇うことはほぼない」と雇用の実情を明かした。

 地元の別の関係者は、多くのスキー客はオーストラリアやシンガポールなど英語圏の外国人で、顧客対応や事務的な仕事を担ういわゆるホワイトカラーの仕事には英語が使える外国人が雇われると明かす。

 一度、ニセコに出稼ぎにきた外国人労働者は本国に帰ると、知人や友人にニセコでのアルバイトを勧め、次のシーズンには別の外国人労働者がニセコに来る循環ができ上がっているという。一方、地元の日本人向け雇用は、建設作業員などのブルーカラーが中心となっている。

 商店関係者は「外国資本が外国の富裕層向けにビジネスをしていて、偶然この地で商売が始まったというだけだ。日本なのに外国のような感じになっている」と打ち明けた。


PR




 倶知安町では先月から同町に滞在した人たちを対象に宿泊費の2%を徴収する宿泊税を導入した。ただ、町の試算では税収は通年で3億5000万円。この関係者が「冬の時期だけなので大きな税収とはいえず、ニセコの一部だけがにぎわっているという感じだ」とこぼすように、地元への恩恵は極めて限定的とみられる。

 比羅夫エリアから車で20分ほど走ると、倶知安町の中心市街地に出る。スキー客でにぎわう地域とは対照的に、町中心部のJR倶知安駅の駅前商店街に人影はまばらだ。地元の議会関係者は危機感を示す。

 「中国など外国資本に経済面で実効力を奪われてしまう」

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html#c5

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
14. 中川隆[-15113] koaQ7Jey 2019年12月17日 20:57:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2159]
緊迫の二十四時間 〜新資料が明かす二・二六事件の内幕〜


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c14
[近代史3] 高齢化する風俗嬢。60代どころか70代の風俗嬢さえも日本では現れている
高齢化する風俗嬢。60代どころか70代の風俗嬢さえも日本では現れている 2019.12.18


2020年は日本女性の2人に1人は50歳以上になる。さらに年代が高い女性がどんどん増えて若い女性がどんどん減っていく。さらに日本では婚姻率も下がっており、1970年代前半には10.0以上だった婚姻率は、2017年の人口動態統計では4.9と過去最低になってしまっている。


つまり、今の日本女性は高齢化し、単身世帯化しているということだ。これが意味するのは、女性は「自分ひとりで何とか稼がなければならなくなっている」という現実である。誰も助けてくれないのだ。

しかし、日本はまだ女性の賃金は男性に比べて低く抑えられており、女性は貧困化しやすい環境にある。単身世帯の女性の3人に1人は貧困であるという統計もあるのだが、これを見ても日本女性は今の社会でかなり苦しい生活を強いられているというのが分かる。

だから、日本のセックス産業は30代、40代、果ては50代の風俗嬢は当たり前になり、20代の女性よりも、むしろ30代から40代の女性が「主流」になるというのが見えてくるはずだ。

日本でこれから間違いなく増えるのは、どう考えても「高齢風俗嬢」である。年代の高い女性が圧倒的に増えて貧困化していくのだから当然だ。そして重要なことは、30代以上の風俗嬢には「需要がある」ということだ。
https://blackasia.net/?p=16248
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/757.html

[近代史3] 梅毒にかかっても治療せず、日本中を這い回って拡散していた風俗嬢

梅毒にかかっても治療せず、日本中を這い回って拡散していた風俗嬢2018.11.10

現在、日本では歓楽街のほぼ全域に渡って梅毒が広がっているのだが、中には四国の徳島県や愛媛県のような、あまり外国人が来ないと思われるようなところでも20代の女性の梅毒が蔓延するようになっている。

いったい、どうしてこんなことになっているのか。

徳島県や愛媛県でも梅毒が広がっているのは、徳島県では徳島市徳島駅付近に、愛媛県では松山市・道後(どうご)温泉付近にソープランド街を含めた風俗街があって、そこで20代の女性たちが性サービスをしているからだ。

20代の女性が圧倒的に梅毒に感染しているというのは、彼女たちが風俗に関わっているからだ。それは状況的に見ると否定しようがない。医師も国も早く認めて対策を取らなければならない。このままでは、状況は悪化するばかりだ。

今の風俗は生のフェラチオや口内射精が当たり前のサービスとなっている。世界でも類を見ない「異常な環境」である。このまま放置していたら日本は性病大国になる。風俗のあり方は、このままでは絶対にいけないのだ。

そして、この風俗での梅毒は、なぜ広がったのか、なぜ地方にまで及んでいるのか、という点も私はひとつの推論を持っている。ある、ひとりの風俗嬢の行動が問題になったことがある。彼女の「動き」は興味深いものだった。
https://blackasia.net/?p=10063


日本人よ。風俗から梅毒にかかる地獄の流れは定着したと覚悟せよ2018.07.16


梅毒の勢いが止まらない。マスコミは「若い女性の間でなぜか梅毒が大流行している」と書いているのだが、「なぜ」梅毒が若い女性の間で大流行しているのかと言うと、若い女性が内緒で風俗に働いているからだ。

一見、風俗で働いているように見えない女性が、風俗で働いている。主婦ですらも人知れず風俗で働く環境ができあがっている。(誰にも内緒で風俗に勤めているのであれば徹底的に隠すしかない?)

そして、その風俗には大量の外国人が流れ込んでいる。日本人の男たちが経済的な理由で風俗に行かなくなったことによって、風俗店は外国からやってくる男たちを視野に入れ始め、風俗のサイトも、英語・中国語・韓国語で客寄せをするようになっている。

実際、中国人・韓国人の客が大量に日本人の風俗嬢を買うようになっているのが日本のアンダーグラウンドの現状だ。そして何が起きたのか。

爆発的な梅毒の流行である。マスコミは必ずこのあたりをぼかして書くのだが、何かまずいことでもあるのだろうか。

日本で沈静化していたはずの性病が観光立国を志向するようになった2010年代から爆発的に増えたのは、まぎれもなく「外からもたらされた」からである。
https://blackasia.net/?p=8302
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/758.html

[近代史3] 韓国「反日」の現実 目の当たりにした反日教育の徹底ぶり 中川隆
1. 中川隆[-15112] koaQ7Jey 2019年12月18日 06:36:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2156]

「日本は敵、北朝鮮は友!」 韓国“反日教育”の実態を現役高校生が暴露!
「文藝春秋」編集部 2019/12/18WTO機能まひ、米政権非難の議長声明

「僕たちが通う仁憲高校では、反日行為の強要が日常的に行われてきました。先生たちは社会通念上、決して許されないことを言っても、それが反日を煽るものであれば、全て正しい教育であるかのように振る舞ってきた。仁憲高校は教師の支配下にある、『反日マシーン養成所』なのです」

 こう語るのは韓国・ソウル市にある仁憲高校3年生の金花浪君だ。10月23日、生徒たちが「反日行為を強要された」として仁憲高校の「反日教育」を批判する会見を開き、韓国内でも大きな話題を呼んだ。

 今回、同校3年生で、生徒たちが立ち上げた団体「仁憲高校学生守護連合」の代表である金花浪君とスポークスマンの崔仁鎬君の二人が初めて日本メディアの取材に応じ、弁護士同席のもと、反日教育の実態を赤裸々に語った。


金花浪君© 文春オンライン 金花浪君
反日スローガンを叫べ!

 彼らが会見を開くきっかけとなったのは10月17日に校内で開かれたマラソン大会だった。教師が生徒に対し、「安倍自民党は滅亡する!」、「日本の経済侵略に反対する!」など反日スローガンを叫ぶことを強要したという。

崔 反日スローガンの書かれたポスターを持たされ、大声で叫べと言われ、生徒たちは従わざるをえなかったのです。

金 マラソン大会は1、2年生が参加した行事ですが、疑問に感じた後輩が動画を撮影していて、僕たちに相談をしてきたのです。動画を見た僕と仁鎬はすぐに抗議の声を上げることを決意しました。

 金君と崔君が抗議の声を上げると、多くの生徒からマラソン大会以外にも反日行為を強要された事例が数多く寄せられた。そのほとんどは授業の場で日常的に行われてきたものだという。

金 歴史の先生たちからは、「日本は敵で、北朝鮮は友人だ」と考えている様子がありありと感じられました。「日本は昔の軍国主義が頭を離れず、世界を征服したがっている。アメリカと日本は韓半島を分断させ、南北統一されることを妨害しているんだ」といったことを平気で言いますから。ありえない妄想ですよ。

「不買運動やってるか?」

 今年7月に日本が対韓輸出規制を行って日韓関係が悪化すると、教師による反日行為の強要もエスカレートしていったという。

崔 僕が国語の授業が始まるのを待っていると、教室に入ってきた先生が開口一番、「お前ら、ちゃんと日本製品の不買運動をやってるか?」と聞いてきたこともあります。その先生は以前から個人的に不買運動を実践してきたそうですから、生徒に対しても、「当然、やるべきだ」と圧力をかけてきたわけです。

 不買運動のターゲットにされたのは、韓国全土で100店舗以上を展開するユニクロだ。

崔 やっぱり先生の影響力は大きいからね。よくわかっていない生徒は、「私もユニクロを買うのをやめます」と言っていたよ。ほかにも、どれくらい反日製品の不買を実践したか、一人ひとりに発表させる先生もいました。

金 ユニクロは日本企業の代名詞としてよく批判されることがあるけど、ユニクロ側に問題があるとは思えません。ちょっと反日感情がいきすぎてる気がするけど。

崔 だけど、ユニクロを毛嫌いしてる子なんて少数じゃないかな。僕はユニクロで買い物をしたことがないけど、いい商品があれば着ると思う。いまは好みの服が売ってないだけで(笑)。

 金君は「文藝春秋」の取材に応じた理由をこう説明した。

金 僕らは隣同士の国ですから仲良くした方がいいに決まっている。韓国にも僕たちのように、韓日関係を改善したいと願っている人や、いきすぎた反日行為に眉をひそめている人はたくさんいます。それを知ってもらいたいと思って、今回、日本メディアの取材を受けることにしたのです。

「文藝春秋」1月号および「文藝春秋digital」掲載の「 韓国高校生は『反日教育』に反対します 」では、金君と崔君が抗議の声を上げるきっかけとなったマラソン大会当日の様子や、仁憲高校の教師たちが大学受験を「人質」にして反日行為を迫った実態について詳述している。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2020年1月号)
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e6%95%b5%e3%80%81%e5%8c%97%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e3%81%af%e5%8f%8b%ef%bc%81%e3%80%8d-%e9%9f%93%e5%9b%bd%e2%80%9c%e5%8f%8d%e6%97%a5%e6%95%99%e8%82%b2%e2%80%9d%e3%81%ae%e5%ae%9f%e6%85%8b%e3%82%92%e7%8f%be%e5%bd%b9%e9%ab%98%e6%a0%a1%e7%94%9f%e3%81%8c%e6%9a%b4%e9%9c%b2%ef%bc%81/ar-BBY60nH?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/641.html#c1

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
121. 中川隆[-15111] koaQ7Jey 2019年12月18日 07:17:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2155]

2019年12月18日
農業は補助金で保護すれば良い フランス農業の9割は補助金


フランス農家は怠け者で非効率なのに高収入

その理由は国の補助金で労働する「実質国家公務員」だからです

農業を貶める日本の官僚・政治家・マスコミ

日本の農業は競争力がなく、補助金漬けで農家に多額の税金を投入しており、財政赤字の原因になっている、という話が定説になっている。

農水省が毎年懸命になって創作する食料自給率の嘘のグラフがあり、日本の自給率は39%なのだが現実は65%です。


農水省の操作は次のように行われる。



スポンサー リンク

神戸牛とか山形牛は肉は国内産牛肉として販売されているが、農水省は「アメリカ産牛肉」として自給率0%にしている。

なぜかというと牛が食べているエサがアメリカ産だからアメリカ産牛肉だそうです。

こうして国産の牛、豚、ニワトリなどで、日本生まれの外国産が大量生産されています。


一見すると理に叶っているようだが、アメリカ人は牛の世話をしているのでしょうか?

牛のエサなんか米国産でもアフリカ産でも中国産でも良いのだが、エサの輸入国を変えると産地が変わります。

養殖の魚とかも全てこのように、なるべく日本の自給率が低く見えるように操作してあります。


肝心のデータそのものも、世界中で日本しか使用していないカロリーで計算する事で、さらに低く見せかけています。

国連などで使われている金額で計算すると、日本の食料自給率は65%から70%で、世界でもかなり高い数字になります。


こうして「日本はダメだ、世界最悪だ、日本はどうしようもない」と繰り返すことで自分の存在を高めています。


まるで有名大学の左翼系教授や左翼系マスコミ人のような生き方です。

しゃべり出すと必ず「日本はダメだ」と言い始める有名な司会者がいますが、あれと同じで不安を煽って金儲けをしています。


補助金はばら撒け


次は補助金漬けで農家に多額の税金を投入しているという定説ですが、農業は世界の全ての国で補助金で成立しています。

考えれば分かると思いますがトヨタが1時間に10台づつポンポンと自動車を生産するのに、田んぼで米が成長するのを待つのでは競争にならない。


トヨタと農業を同じ資本主義ルールで自由競争させたら農業が崩壊し食べ物がなくなるので、トヨタの儲けを農業にばら撒きます。


アメリカでもフランスでもイギリスでも中国でもインドでも、全世界でそうしています。

日本の一部の人が理想として挙げるフランスの農業は、農家の収入の5割から9割が政府の補助金です。

ルノー日産とかが納税したお金をブドウ農家とかにばら撒いて、日本に輸出しているのです。


アメリカの農業も補助金漬けで、牛肉、トウモロコシ、小麦、オレンジなど全て補助金で維持しています。

農家の所得が工場労働者の半分だったら、だれも農業をやらず、食べ物がなくなるからです。


これを「補助金をなくして自由競争しろ」と言ってるのが日本の経済学者やタレント、マスコミ、官僚、政治家です。


農業補助金なんか空からヘリでばら撒くくらいの勢いでちょうど良いのです。

一時問題になったバター不足は、農水省が農家への補助金を減らしたせいで、牛の生産が減ったからでした。


国産バターが減った分、ニュージーランドから輸入しましたが、ニュージーランドの農家も補助金をジャブジャブ受け取っています。


農業は全世界がこんなものなのです。

欧州ではEUという組織があるが、予算の40%を農業補助金で使っている。

これだけで全EU加盟国GDPの約3%に匹敵します。

こんな組織が日本には「補助金撤廃」だの「自由貿易」を主張しています。


農家に補助金を出さないのは全世界で日本だけ


日本では多くの農産物が補助金ゼロや極めて低額しか支給しておらず、外国の農産物に価格競争で負ける原因になっている。

良くマスコミでは『日本の農産物は価格競争で負けている』と言い、その原因を農家や農業に求めています。


アメリカのように無限の土地がある国は置き、欧州の国は日本と同じくらい人件費が高く地価も高いのに、これは不自然です。


日本の農作物が欧州各国より高いのは、単に「政府の補助金が足りない」だけなのです。

EU各国の補助金を合計するとGDP比14%にも達しているが、日本の農業補助金はGDP比7%に過ぎません。

当然フランスの農作物は日本より低価格なのに、農家の収入は日本の2倍だったりします。


これが知識人が褒め称える欧州農業の正体です。

アメリカの農業も同様で、地平線の裏側までずっとトウモロコシを栽培している農業企業を除くと補助金で成り立っている。


シリコンバレーやIT企業との自由競争で農業が生き残る筈が無いので、資本主義など捨てています。


補助金で育てた牛肉を格安で出荷し、外国には「自由競争だ」といって関税を撤廃させています。

その尻馬に乗ってアメリカや欧州に加担しているのが、日本の官僚、政治家、マスコミという訳です。


農家への補助金をジャブジャブばら撒いて、外国に輸出すれば儲かるというのが各国の考え方です。

農家の所得が増えれば買い物をし、税金を支払うので、補助金程度の支出は元が取れているのです。


なぜ日本だけがそうしないのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/36339251.html

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c121

[近代史3] 補助金なしの価格では日本の農作物はアメリカや欧州より安く、日本の農業は欧米より効率的 中川隆
1. 中川隆[-15110] koaQ7Jey 2019年12月18日 07:18:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2154]

2019年12月18日
農業は補助金で保護すれば良い フランス農業の9割は補助金


フランス農家は怠け者で非効率なのに高収入

その理由は国の補助金で労働する「実質国家公務員」だからです

農業を貶める日本の官僚・政治家・マスコミ

日本の農業は競争力がなく、補助金漬けで農家に多額の税金を投入しており、財政赤字の原因になっている、という話が定説になっている。

農水省が毎年懸命になって創作する食料自給率の嘘のグラフがあり、日本の自給率は39%なのだが現実は65%です。


農水省の操作は次のように行われる。



スポンサー リンク

神戸牛とか山形牛は肉は国内産牛肉として販売されているが、農水省は「アメリカ産牛肉」として自給率0%にしている。

なぜかというと牛が食べているエサがアメリカ産だからアメリカ産牛肉だそうです。

こうして国産の牛、豚、ニワトリなどで、日本生まれの外国産が大量生産されています。


一見すると理に叶っているようだが、アメリカ人は牛の世話をしているのでしょうか?

牛のエサなんか米国産でもアフリカ産でも中国産でも良いのだが、エサの輸入国を変えると産地が変わります。

養殖の魚とかも全てこのように、なるべく日本の自給率が低く見えるように操作してあります。


肝心のデータそのものも、世界中で日本しか使用していないカロリーで計算する事で、さらに低く見せかけています。

国連などで使われている金額で計算すると、日本の食料自給率は65%から70%で、世界でもかなり高い数字になります。


こうして「日本はダメだ、世界最悪だ、日本はどうしようもない」と繰り返すことで自分の存在を高めています。


まるで有名大学の左翼系教授や左翼系マスコミ人のような生き方です。

しゃべり出すと必ず「日本はダメだ」と言い始める有名な司会者がいますが、あれと同じで不安を煽って金儲けをしています。


補助金はばら撒け


次は補助金漬けで農家に多額の税金を投入しているという定説ですが、農業は世界の全ての国で補助金で成立しています。

考えれば分かると思いますがトヨタが1時間に10台づつポンポンと自動車を生産するのに、田んぼで米が成長するのを待つのでは競争にならない。


トヨタと農業を同じ資本主義ルールで自由競争させたら農業が崩壊し食べ物がなくなるので、トヨタの儲けを農業にばら撒きます。


アメリカでもフランスでもイギリスでも中国でもインドでも、全世界でそうしています。

日本の一部の人が理想として挙げるフランスの農業は、農家の収入の5割から9割が政府の補助金です。

ルノー日産とかが納税したお金をブドウ農家とかにばら撒いて、日本に輸出しているのです。


アメリカの農業も補助金漬けで、牛肉、トウモロコシ、小麦、オレンジなど全て補助金で維持しています。

農家の所得が工場労働者の半分だったら、だれも農業をやらず、食べ物がなくなるからです。


これを「補助金をなくして自由競争しろ」と言ってるのが日本の経済学者やタレント、マスコミ、官僚、政治家です。


農業補助金なんか空からヘリでばら撒くくらいの勢いでちょうど良いのです。

一時問題になったバター不足は、農水省が農家への補助金を減らしたせいで、牛の生産が減ったからでした。


国産バターが減った分、ニュージーランドから輸入しましたが、ニュージーランドの農家も補助金をジャブジャブ受け取っています。


農業は全世界がこんなものなのです。

欧州ではEUという組織があるが、予算の40%を農業補助金で使っている。

これだけで全EU加盟国GDPの約3%に匹敵します。

こんな組織が日本には「補助金撤廃」だの「自由貿易」を主張しています。


農家に補助金を出さないのは全世界で日本だけ


日本では多くの農産物が補助金ゼロや極めて低額しか支給しておらず、外国の農産物に価格競争で負ける原因になっている。

良くマスコミでは『日本の農産物は価格競争で負けている』と言い、その原因を農家や農業に求めています。


アメリカのように無限の土地がある国は置き、欧州の国は日本と同じくらい人件費が高く地価も高いのに、これは不自然です。


日本の農作物が欧州各国より高いのは、単に「政府の補助金が足りない」だけなのです。

EU各国の補助金を合計するとGDP比14%にも達しているが、日本の農業補助金はGDP比7%に過ぎません。

当然フランスの農作物は日本より低価格なのに、農家の収入は日本の2倍だったりします。


これが知識人が褒め称える欧州農業の正体です。

アメリカの農業も同様で、地平線の裏側までずっとトウモロコシを栽培している農業企業を除くと補助金で成り立っている。


シリコンバレーやIT企業との自由競争で農業が生き残る筈が無いので、資本主義など捨てています。


補助金で育てた牛肉を格安で出荷し、外国には「自由競争だ」といって関税を撤廃させています。

その尻馬に乗ってアメリカや欧州に加担しているのが、日本の官僚、政治家、マスコミという訳です。


農家への補助金をジャブジャブばら撒いて、外国に輸出すれば儲かるというのが各国の考え方です。

農家の所得が増えれば買い物をし、税金を支払うので、補助金程度の支出は元が取れているのです。


なぜ日本だけがそうしないのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/36339251.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/528.html#c1

[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
41. 中川隆[-15109] koaQ7Jey 2019年12月18日 07:25:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2153]

2019年12月18日
農業は補助金で保護すれば良い フランス農業の9割は補助金


フランス農家は怠け者で非効率なのに高収入

その理由は国の補助金で労働する「実質国家公務員」だからです

農業を貶める日本の官僚・政治家・マスコミ

日本の農業は競争力がなく、補助金漬けで農家に多額の税金を投入しており、財政赤字の原因になっている、という話が定説になっている。

農水省が毎年懸命になって創作する食料自給率の嘘のグラフがあり、日本の自給率は39%なのだが現実は65%です。


農水省の操作は次のように行われる。

神戸牛とか山形牛は肉は国内産牛肉として販売されているが、農水省は「アメリカ産牛肉」として自給率0%にしている。

なぜかというと牛が食べているエサがアメリカ産だからアメリカ産牛肉だそうです。

こうして国産の牛、豚、ニワトリなどで、日本生まれの外国産が大量生産されています。


一見すると理に叶っているようだが、アメリカ人は牛の世話をしているのでしょうか?

牛のエサなんか米国産でもアフリカ産でも中国産でも良いのだが、エサの輸入国を変えると産地が変わります。

養殖の魚とかも全てこのように、なるべく日本の自給率が低く見えるように操作してあります。


肝心のデータそのものも、世界中で日本しか使用していないカロリーで計算する事で、さらに低く見せかけています。

国連などで使われている金額で計算すると、日本の食料自給率は65%から70%で、世界でもかなり高い数字になります。


こうして「日本はダメだ、世界最悪だ、日本はどうしようもない」と繰り返すことで自分の存在を高めています。


まるで有名大学の左翼系教授や左翼系マスコミ人のような生き方です。

しゃべり出すと必ず「日本はダメだ」と言い始める有名な司会者がいますが、あれと同じで不安を煽って金儲けをしています。


補助金はばら撒け


次は補助金漬けで農家に多額の税金を投入しているという定説ですが、農業は世界の全ての国で補助金で成立しています。

考えれば分かると思いますがトヨタが1時間に10台づつポンポンと自動車を生産するのに、田んぼで米が成長するのを待つのでは競争にならない。


トヨタと農業を同じ資本主義ルールで自由競争させたら農業が崩壊し食べ物がなくなるので、トヨタの儲けを農業にばら撒きます。


アメリカでもフランスでもイギリスでも中国でもインドでも、全世界でそうしています。

日本の一部の人が理想として挙げるフランスの農業は、農家の収入の5割から9割が政府の補助金です。

ルノー日産とかが納税したお金をブドウ農家とかにばら撒いて、日本に輸出しているのです。


アメリカの農業も補助金漬けで、牛肉、トウモロコシ、小麦、オレンジなど全て補助金で維持しています。

農家の所得が工場労働者の半分だったら、だれも農業をやらず、食べ物がなくなるからです。


これを「補助金をなくして自由競争しろ」と言ってるのが日本の経済学者やタレント、マスコミ、官僚、政治家です。


農業補助金なんか空からヘリでばら撒くくらいの勢いでちょうど良いのです。

一時問題になったバター不足は、農水省が農家への補助金を減らしたせいで、牛の生産が減ったからでした。


国産バターが減った分、ニュージーランドから輸入しましたが、ニュージーランドの農家も補助金をジャブジャブ受け取っています。


農業は全世界がこんなものなのです。

欧州ではEUという組織があるが、予算の40%を農業補助金で使っている。

これだけで全EU加盟国GDPの約3%に匹敵します。

こんな組織が日本には「補助金撤廃」だの「自由貿易」を主張しています。


農家に補助金を出さないのは全世界で日本だけ


日本では多くの農産物が補助金ゼロや極めて低額しか支給しておらず、外国の農産物に価格競争で負ける原因になっている。

良くマスコミでは『日本の農産物は価格競争で負けている』と言い、その原因を農家や農業に求めています。


アメリカのように無限の土地がある国は置き、欧州の国は日本と同じくらい人件費が高く地価も高いのに、これは不自然です。


日本の農作物が欧州各国より高いのは、単に「政府の補助金が足りない」だけなのです。

EU各国の補助金を合計するとGDP比14%にも達しているが、日本の農業補助金はGDP比7%に過ぎません。

当然フランスの農作物は日本より低価格なのに、農家の収入は日本の2倍だったりします。


これが知識人が褒め称える欧州農業の正体です。

アメリカの農業も同様で、地平線の裏側までずっとトウモロコシを栽培している農業企業を除くと補助金で成り立っている。


シリコンバレーやIT企業との自由競争で農業が生き残る筈が無いので、資本主義など捨てています。


補助金で育てた牛肉を格安で出荷し、外国には「自由競争だ」といって関税を撤廃させています。

その尻馬に乗ってアメリカや欧州に加担しているのが、日本の官僚、政治家、マスコミという訳です。


農家への補助金をジャブジャブばら撒いて、外国に輸出すれば儲かるというのが各国の考え方です。

農家の所得が増えれば買い物をし、税金を支払うので、補助金程度の支出は元が取れているのです。


なぜ日本だけがそうしないのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/36339251.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c41

[近代史3] 人類の寿命

脊椎動物の遺伝的な寿命予測 雑記帳 2019年12月18日
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_32.html

 脊椎動物の遺伝的な寿命予測に関する研究(Mayne et al., 2019)が報道されました。老化はほとんど全ての動物種で観察されており、多様な生物学的機能の低下を伴い、種の最大寿命を制約します。また、加齢はエピジェネティックな変化にも関連しています。生物種の最長寿命は定義が難しく、その長さは種によって大きく異なっています。最長寿命が遺伝子によって制御されていることは以前の研究によって示唆されていますが、現時点では、こうした違いの原因となる遺伝的多様体は見つかっていません。本論文は、寿命が分かっている脊椎動物種(252種)の参照ゲノムを用いて、寿命の予測に利用できると考えられる42種の遺伝子を突き止め、これらの遺伝子におけるCpG(シトシンとグアニンがホスホジエステル結合でつながった配列)密度から絶滅種を含む脊椎動物の寿命を高い精度で予測できる、と明らかにしました。

 本論文は、アフリカゾウのゲノムと平均寿命(65年)を基準とし、自らの予測モデルを用いて、マンモスとアンティクースゾウの寿命をいずれも60年と推定しました。現生人類(Homo sapiens)の推定寿命は38年です。しかし、近代以降、現生人類の平均寿命は2倍以上になりました。チンパンジー(Pan troglodytes)の推定寿命は39.7年です。また、現代人と初期人類とチンパンジーのゲノムを基準に用いたところ、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)という絶滅人類種の推定寿命は37.8年で、現生人類とほとんど変わりませんでした。

 さらに本論文は、この予測モデルを用いて使って、ホッキョククジラ(Balaena mysticetus)や絶滅したピンタゾウガメ(Chelonoidis abingdonii)のような長寿命種の寿命を推定しました。ピンタゾウガメは120年以上と推定されていますが、カメの長寿の一因として、他の脊椎動物よりも多い腫瘍抑制遺伝子が挙げられています(関連記事)。ホッキョククジラの推定寿命は268年ですが、これは既知の最長寿命個体よりも57年も長く、こうした長寿命種は観察者より長く生きることが多いため、寿命推定研究が困難になることもある、と指摘されています。本論文は、こうした知見が現生種と絶滅種の生態と進化や、絶滅危惧種の保護や、持続可能な漁業を研究するさいに役立つ情報になる、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生物学】脊椎動物の寿命を予測する遺伝子「時計」

 遺伝子マーカーを用いて、さまざまな脊椎動物(絶滅種を含む)の寿命を正確に推定するモデルについて報告した論文が、今週掲載される。この「寿命時計」は、あらかじめ選ばれた42種の遺伝子のスクリーニングを行って、CpG部位の密度を調べ、それぞれの脊椎動物種の寿命を予測する。これは、短いDNA断片であるCpG部位の密度が寿命と相関していることに基づいている。

 生物種の最長寿命は、定義が難しく、その長さは、種によって大きく異なっている。最長寿命が遺伝子によって制御されていることが以前の研究によって示唆されているが、これまでのところ、こうした違いの原因となる遺伝的バリアントは見つかっていない。

 今回の研究で予測モデルを構築するため、Benjamin Mayneたちの研究グループは、寿命が分かっている脊椎動物種(252種)の参照ゲノムを用いて、寿命の予測に利用できると考えられる42種の遺伝子を突き止めた。そして、これらの遺伝子におけるCpG密度から脊椎動物(絶滅種を含む)の寿命を高い精度で予測できることが判明した。

 Mayneたちは、アフリカゾウのゲノムと平均寿命(65年)を基準に用い、自らの予測モデルを使って、マンモスとアンティクースゾウの寿命をいずれも60年と推定した。また、現生人類、初期人類とチンパンジーのゲノムを基準に用いたところ、デニソワ人とネアンデルタール人の寿命は約38年と推定された。さらにMayneたちは、その予測モデルを使って、ピンタゾウガメやホッキョククジラのような長寿の動物種の寿命を推定できることを示した。こうした長生きの動物種は、観察者より長く生きることが多いため、寿命を推定する研究が困難になることもある。

 Mayneたちは、以上の知見は、現生種と絶滅種の生態と進化、絶滅危惧種の保護、持続可能な漁業を研究する際に役立つ情報になるという見解を示している。


参考文献:
Mayne B. et al.(2019): A genomic predictor of lifespan in vertebrates. Scientific Reports, 9, 17866.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-54447-w

https://sicambre.at.webry.info/201912/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/759.html

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
149. 中川隆[-15111] koaQ7Jey 2019年12月18日 12:14:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2154]

唐辛子に延命の効用 研究で明らかに
テック&サイエンス 2019年12月17日

地中海神経研究所(イタリア)の研究者らは、唐辛子を頻繁に摂取すると寿命が延び、すべての病気において早死にするリスクが23%低くなることを明らかにした。この研究結果は科学ニュースサービス「ユーレックアラート」に掲載されている。


この研究には被験者として22,811人が参加し、研究者らは被験者の健康状態を8年間観察した。


定期的な断食で心不全のリスクは大幅ダウン

研究者らによると、日頃から赤唐辛子を摂取(週4回以上)している被験者は、心臓発作で死亡するリスクが40%減少することがわかった。脳血管疾患の死亡リスクはさらに低まった。しかも赤唐辛子による予防効果は被験者の食事の種類に関係がなく、赤唐辛子を含むあらゆる食事でその効果は発揮される。

この結果を受けて研究者らは、次なる研究テーマとして赤唐辛子や似た種類のスパイスが体に作用する生化学的メカニズムの解明を掲げている。これらの野菜には舌が焼けるような味覚を与えるアルカロイドのカプサイシンが含まれている。カプサイシンはミトコンドリアに影響を与えることで、がん細胞を死滅させることはよく知られている。
https://jp.sputniknews.com/science/201912176943260/
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c149

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
15. 中川隆[-15113] koaQ7Jey 2019年12月18日 12:35:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2156]
二・二六事件 @|謎の「大臣告示」


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c15
[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
623. 中川隆[-15112] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:30:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2155]

2019-12-15
慰安婦(日本軍性奴隷)を南方に運んだ徴傭船船員の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/15/130500


日本郵船の大型貨客船三池丸(11,738トン)は、北米航路への就航を予定して建造されたが、結局一度も本来の航路を航海することなく、竣工直後の1941年10月に陸軍に徴傭され、南方への兵員や物資の輸送に使われた。

三池丸(画像出典:Wikipedia)

この三池丸に、徴傭直後から約1年半陸軍軍属として乗船していた元船員の男性が、南方の戦地への「慰安婦」の輸送の状況について証言している。この男性(以下、Sさん)は、戦後60年を経て関係者のほとんどが亡くなり、生き残りが自分ひとりとなったことを機に証言を決意されたらしい。他に類を見ない貴重な証言だと言える。[1]

 女性たちは、あまり人目につかぬように三等客船[船室?]の一番下の部屋に押し込められていたという。

 船の丸窓は、固く閉じられ、絶えず監視がついていた。監視には業者の男が二人ほどつき、船室から段が上がったとこで、始終、番をしていた。女性たちが用を足しに行くのにもその都度、監視がついた。

 絶海の波間に浮かぶ船内のどこに逃げ場があるというのだろう。女が絶望のあまり自死するのを怖れて、そこまで監視が厳しかったと考えるしかない。
 朝鮮人の女性たちは、大概二〇〜三〇人の規模で船に積み込まれていたとSさんは、記憶している。

 女性たちが、朝鮮から連れてこられたことは言葉でわかったという。髪はボサボサで化粧もしておらず、憔悴しきった様子に見え、絶えず泣いていたとSさんは、当時を振り返る。あまり容貌のきれいな人はおらず、年齢も二〇歳代後半から三〇歳ぐらいに見えたという。もっともこの時、Sさん自身がまだ非常に若く、絶望と憔悴の淵にある女性たちの面差しが年齢より老け込んで見えたのかもしれない。また、朝鮮半島から連れてこられていたら、監禁同然の状態を何日も過ごし、身仕舞を整えることもできなかったはずだ。

 当時、Sさんは三等給仕の職務にあり、閉じ込められた女性たちの部屋の係りを受持ち、寝具や食事の手配を行なった。体の具合が悪くなったりした者がいれば、上司に報告し、船内の医務室に連れていくこともあったという。

 ただ女性たちに話しかけることは、堅く禁じられていた。朝鮮語の会話の内容は聞き取れなかったが、女性たちは絶えず泣いていた。

 軍隊という巨大な機構は、兵隊の嗜好品を積み込む意識のまま、生身の女たちを船倉に押し込んだ。

 傍目から見ても女性たちの様子が可哀相だから、Sさんは女衒とみられる見張りの男性に思い切って、

「泣きよるやないか。どうしたんか。あんたたちは、どうしてこんなことをするのか。」

と問い質してみた。その男は、いきり立つでもなく思いの外、落ち着いた口調で答えたそうだ。

「おいたちも好んでじゃない…。やりとおない。しかし、軍の命令で、何日までに女を何人連れてきて船に乗せろと言われる。もし、その命令をきかんやったら、おいたちが憲兵にやられる。おいたちも命がけだ。」

 聞き取りの途中、私は思わず、もし業者の男が憲兵の命令に背けば、監獄に入れられることになるのかと問いかけた。Sさんは、クックックッと呆れたような笑い声を洩らし、かすれた声で言下に言ってのけた。

「憲兵なんて、そんな生易しいもんじゃない。すごい権力を持っていたんだから。警察でも震え上がるくらいのもんだった。今のひとたちには、わからんやろう。」

 Sさんは、三池丸と共に陸軍軍属として徴傭され、幾多の戦地に兵士を輸送し、また自身も一九四三年には召集され、陸軍開部隊に入隊、泥沼の中国戦線に送り込まれた経験をもつ。軍隊という機構の凄絶なまでの暴力性、システマティックな残忍さはいやというほど、知悉している。女衒の男の言い分は、おそらく文字通りのことであったろう。

三池丸は1942年に計3回、宇品から昭南(シンガポール)に航海している。Sさんの記憶が正しければ、このうちの2回の航海で朝鮮人「慰安婦」たちの連行が行われたことになる。

Sさんが船を下りた後、三池丸は1944年7月、パラオ北方で米潜水艦によって撃沈された。

[1] 平尾弘子 『慟哭の航路 ― 日本軍「慰安婦」を運んだ陸軍徴傭船』 季刊戦争責任研究 2006年春季号 P.62
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/15/130500
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c623

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
624. 中川隆[-15114] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:32:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2157]

2019-12-12
帝国陸軍「兵70名に一人慰安婦を用意しろ」←軍関与が確定
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/12/235319


■ 共同通信のスクープ
12月6日、共同通信が、日本軍慰安所(レイプセンター)制度への軍の関与を裏付ける外務省文書の存在をスクープした。


(略)在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。「酌婦・特殊婦女」は別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指している。(略)

断片的に報道されている内容からだけでも、軍が行政側に「慰安婦(軍用性奴隷)」の割り当てを要求し、提供された女性たちをまるで軍需物資のように軍の車両で戦地に輸送して、慰安所で将兵との性行為を強要していたことがわかる。
これらの文書は、日本軍と政府機関が組織的に慰安所制度の運用に関与していたことを示す明白な証拠と言っていい。

ちなみに、報告書にあるような「慰安婦」たちの輸送がどのようなものだったかは、村瀬守保氏が日中戦争時の中国で撮影した下の写真などから伺うことができる。[1]

 戦地での移動は、戦局の進むにつれて、前進します。多くは無蓋のトラックで、荷物同様に運ばれる有様でした。

 終戦後、彼女達には、敵国人としての、一層悲惨な運命が待ち構えているようでした。

■ ネトウヨ狂乱

公文書という証拠を突きつけられてネトウヨは逆上、上記のYahoo!ニュース記事にはわずか一日程度の間に5,000件以上のコメントが書き込まれている。

典型的なコメントをみつくろってみるとこんな感じだ。


サンプル1:
慰安婦はいた それは事実 だが誘拐や拉致かどうかが問われているのでは?
占領地で、無法な行為をしない為に慰安婦のような専門の職業があった。

「慰安婦」の大半は就業詐欺により集められ、騙されたと気づいたときにはもう逃げられない状態に陥っていたのだから事実上の誘拐である。また、日本軍が慰安所を作るようになったのは確かに日本兵による強姦があまりに多発したからだが、しかし慰安所を作ったからといって強姦が減ったわけではない。その理由は、例えば南京戦に従軍した兵士による下記の証言などから理解できるだろう。[2]

慰安所作っても強姦は減らんわ。慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。(略)わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら“ただ”やからな。


サンプル2:
歴史は善悪論でも、道徳論でもなく、その時代の価値観に沿って理解すべきものだと思います。それが完璧にできるようになったとき、恒久平和が訪れるのではないでしょうか。

慰安所の実態は「その時代の価値観」どころか当時の時点でも違法(日本も批准していた「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」「強制労働に関するILO 29号条約」等違反)だったし、だからこそ政府はバレないようにコソコソやっていたのだ。こんな寝言を言っている限り、恒久平和が訪れることなど永久にない。


サンプル3:
現在では、理解されないかもしれませんが・・当時は常識だったのでは
特に軍隊ともなれば当時ではどこの国の軍隊もほぼ近い事をしていたのではないかと思います。

当時、軍中央が強制売春施設の設置を計画し、推進していたのは日本とナチスドイツくらいのものだ。連合国の軍隊のまわりにも売春宿があったことは事実だが、軍がこれを作らせたり、管理・統制するなどということはなかった。また、沖縄戦のような激戦地の最前線にまで「慰安所」を作ったのは日本軍だけだろう。


サンプル4:
軍の《関与》が問題なのではなく、軍による《強制》があったかどうかが重要なのに、相変わらず卑劣な左派メディア共同通信はミスリードを続けてますね。単なる関与であれば、現在の風俗店を管轄してる警察と同じようなものです。

現在の警察が、業者を選定して警察官専用の風俗店を作らせたり、その利用規則を決めたりしているのか? 本当にそう思っているのなら、あんたらのやっていることは慰安所を設営した旧日本軍と同じだと警察庁に言いに行ったらどうか。
まったく、ネトウヨのバカさ加減には限りがない。

[1] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.106
[2] 松岡環 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.276
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/12/235319
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c624

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
625. 中川隆[-15113] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:35:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2156]

2017-05-05
「慰安婦」強制連行についての貴重な加害証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/05/162533


神奈川新聞のサイトに、日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)の強制連行に関する貴重な加害証言[1]が掲載されていたのでメモ。

証言者は92歳になる元牧師の男性で、衛生兵として中国に出征した際の体験を語っている。

 中国山西省盂県に出征したのは1944年2月。当時21歳。城壁で囲まれた大隊の拠点に慰安所はあった。

 「慰安婦としていたのは20代ぐらいの6、7人。日本の着物ではなかった。兵隊たちが『朝鮮ピー』と呼んでいたので、彼女たちが朝鮮の人々なのだと分かった」

 半年後、分遣隊として数十キロ離れた上社鎮という占領地区に移り、慰安所は強姦の歯止めになるどころか性的欲求をあおり、拍車を掛けていることを知る。

 「慰安所は大隊本部にしかなかった。だから兵隊たちは『討伐』と称し、村々で食料を奪うのと同時に女性たちを強姦していった」

 犯す前、松本さんは避妊具を手渡した。「気を付けろよ」。病気になるなという念押しだった。

(略)

 やはり分遣隊が「討伐」に繰り出したある日、逃げ遅れた女性を拉致した。

 「20〜30代ぐらいまでの7、8人。兵隊たちにとっては『戦果』だった」

(略)

 「女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない。その絶望になぜ思いをはせないのか」

 女性たちは駐屯地の兵舎の片隅に監禁され、「兵隊たちはそこで代わる代わる強姦した。私は避妊具を配り続け、やはり女性たちの性病検査を行った」。

 1週間ほどたち、隊長の判断で女性たちを村に戻すことになった。松本さんは

「女性たちの体力が低下したからだ」と思った。隊長は交換条件として、村長に命じた。
 「ほかの女を連れてこい」
 別の2人が連れてこられた。

(略)

 「私たちは中国や朝鮮の女性を性の奴隷として扱っていた」

 そして、自身がそう認識することができたのも戦後になってからという事実にこそ目を向けなければならないと、松本さんは言う。

 ニワトリや豚を盗むように女性を連れ去り、犯す−。「戦地は倫理、道徳、品性、誇りも何もないモラルのない人間がつくりあげられていく人間改造場だった」。松本さんは中国や朝鮮の人々には何をしても構わない、という空気が蔓延していたと振り返る。

(略)

 証言するということは過去の自分と向き合うことだ。「正直、つらい。できれば黙っていたかった」。過去の否定は、いまの自分を否定することでもある。

 同じように人は望みたい歴史にしか目を向けようとしない。

 「何をしてきたのかを知らなければ、同じ過ちを繰り返す。語らないことでまた責任が生じる」

(略)

 「悪いのは政治家だけだろうか。そうした政治家を選んできたのは、過去と向き合ってこなかった私たち一人一人でもあるはずだ」

日本軍性奴隷制度の研究者たちが繰り返し指摘しているとおり、性行為を拒否することも逃げ出すことも許されない慰安所での強制性こそが最大の問題なのだが、右派は連行時の物理的強制性だけに問題を矮小化してこれを否定しようとしてきた。
だが、この証言が示すように、中国や東南アジアのような戦地・占領地では、あからさまな強制連行による現地女性の性奴隷化が日常的に行われていた。「慰安婦」強制連行の存在もまた否定しようのない事実なのである。
 
[1] 『相模原の男性が語り続ける 慰安婦への加害の記憶』 カナロコ 神奈川新聞ニュース 2017.4.20
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/05/162533
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c625

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
16. 中川隆[-15118] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:04:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2161]
二 二六 事件 海軍は 1週間前に 詳細を知りながら 傍観 軍部の無責任さ・冷酷さ


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c16
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
214. 中川隆[-15117] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:14:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2160]
二 二六 事件 海軍は 1週間前に 詳細を知りながら 傍観 軍部の無責任さ・冷酷さ


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c214
[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
71. 中川隆[-15116] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:15:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2159]
二 二六 事件 海軍は 1週間前に 詳細を知りながら 傍観 軍部の無責任さ・冷酷さ


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c71
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
215. 中川隆[-15115] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:16:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2158]
2019年12月18日
終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか


開拓村のひとつ満州国弥栄村、日本軍が去った後でソ連軍が襲い掛かった

画像引用:満州国弥栄村の絵葉書が・・・・中国東北部にあった幻の村・・・ | 赤城山・赤城温泉 御宿 総本家 館主よもやま話http://souhonke.jugem.jp/?eid=6905

全人類にとって不都合な歴史

戦後ずっと中国、南北朝鮮、ロシアは自分たちが日本軍によって被害を受けたと言い続けてきました。

アメリカ、イギリス、フランスなど西側の連合国も、自分たちが正しいと言うために日本軍を批判してきた。

その一方で自分たちが日本人に行った行為は隠され、なかったかのように言いつくろっている。


安倍晋三をはじめとする歴代首相や政治家、言論人もこの事には目をつぶり、一種のタブーになっています。

終戦時に満州や半島、千島列島や樺太に居た日本人はソ連や中国に何をされたか、日本政府が口封じをして喋らないようにしていた。

終戦時に外地にいた日本人は数年後に復員や引揚げしたが、日本政府は棄民として扱い存在しないように振舞った。


日本軍が大陸から引き上げた時、満州周辺には200万人の日本人が居たが、民間人は置き去りにしました。

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、大本営は秘密裏に関東軍(大陸部隊)を日本本土に帰国させる計画を建てた。

この時200万人の日本人居住者は足手まといであり、船も食料もなく帰国させたらさらなる食糧不足を招くとして、現地に置き去りにする決定を下した。


200万人の居住者はソ連が侵攻してきたのを知らされず、移動や避難を禁止されその場に留まるよう命令された。

満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

日本軍に騙された200万人の日本人居住者

真に受けた日本人らは本当に軍はソ連と決戦に行くのだと信じ、感動して涙を流し日の丸の旗を振って見送りました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。

8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15日になってからでした。


8月15日の日本軍降伏と同時に、ソ連軍と中国軍、暴徒化した中国人らが日本人居住者に襲い掛かりました。

満州国の首都新京には100万人もの日本人が居たので団結して身を守ったが、地方に居た満州開拓団はされるがままでした。

満州開拓団とは日本の食糧危機を解決するため、日本軍が送り出した農村開拓団で、数十万人も居ました。


開拓団は表向き応募だったが、実際には県や村、集落単位で割り当てがあり、人数が決められていました。

長男は村に残るので開拓団に行くのは次男以下、満州で子孫を増やすため夫婦ものが選ばれたので、行く人は決まっていました。

もし満州行きを拒否したら村八分にされるので、個人の意思とは関係なく行かざるを得ませんでした。

開拓村の人口を増やすのに女性が必要なので、大勢の少女らを騙して満州に送り込んだ。

満州では内地よりずっといい暮らしができるとか、まだ判断力がない少年少女に吹き込んでいました。

実際の満州は見渡す限りの荒野だったので、現地に着いたとたん騙されたのに気づいたでしょう。


満州の開拓村とは荒れ地を手作業で開拓し、ゼロから村をつくるもので、日本からの支援はほとんどなかった。

それぞれの開拓村の人口は数十人程度で、ソ連軍に襲われたらひとたまりもなかった。

多くの村では若い女をソ連兵や中国人に差し出し、命乞いをしたという事実が記録に残っている。

ソ連や中国に酷い目にあわされ帰国したのに、祖国は彼らを犯罪者扱いした

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

被害者なのに帰国したら加害者扱い

関東軍は事前に終戦を知っていたので8月15日までに南朝鮮まで逃げ、38度線を防衛ラインとした。

日本まで逃げる船はアメリカにすべて撃沈されていたので、もしソ連軍が38度線を突破したら今度こそソ連と決戦するつもりでした。

ここで関東軍は計略をめぐらし、ソ連軍と接触して「もし自分達を助けたら東日本を差し出す」と提案したと伝えられている。


その効果があったのか関東軍は本土に帰還できたが、約束は反故にし東日本は米軍が占領した。

満州在留日本人や北朝鮮居住者には38度線の存在自体が隠され、「その場から動くな」と言って立ち去った。

せっかく北朝鮮まで逃げて来たのに38度線の存在を知らず、ソ連軍支配地域にとどまった人が多かった。


ここでまた朝鮮人は日本の女をソ連兵に差し出して、ソ連とのコネを作ったり食料を得たり、地位を得たりした。

千島列島や樺太でも同じ事が行われ、200万人居たソ連中国支配地域の日本人のうち、約50万人がなくなった。

強制的に開拓団に参加させられ散々な目に合って帰国した人々に日本政府は冷たく、軍人のような恩給も保証もなかった。


一般の日本人はGHQの宣伝によって「開拓団は中国を侵略した悪人」と思い込み、罵声を浴びせたり石をぶつけたりした。

こうして帰国した人々は開拓団や外地居住者だったのを隠すようになり、ソ連や中国からの被害もひた隠した。

連合軍だった国は自分たちの被害を訴え、日本政府すら満州ソ連居住者の被害を無視しつづけている。
http://www.thutmosev.com/archives/81755000.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c215

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
16. 中川隆[-15114] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:20:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2157]
2019年12月18日
終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか


開拓村のひとつ満州国弥栄村、日本軍が去った後でソ連軍が襲い掛かった

画像引用:満州国弥栄村の絵葉書が・・・・中国東北部にあった幻の村・・・ | 赤城山・赤城温泉 御宿 総本家 館主よもやま話http://souhonke.jugem.jp/?eid=6905

全人類にとって不都合な歴史

戦後ずっと中国、南北朝鮮、ロシアは自分たちが日本軍によって被害を受けたと言い続けてきました。

アメリカ、イギリス、フランスなど西側の連合国も、自分たちが正しいと言うために日本軍を批判してきた。

その一方で自分たちが日本人に行った行為は隠され、なかったかのように言いつくろっている。


安倍晋三をはじめとする歴代首相や政治家、言論人もこの事には目をつぶり、一種のタブーになっています。

終戦時に満州や半島、千島列島や樺太に居た日本人はソ連や中国に何をされたか、日本政府が口封じをして喋らないようにしていた。

終戦時に外地にいた日本人は数年後に復員や引揚げしたが、日本政府は棄民として扱い存在しないように振舞った。


日本軍が大陸から引き上げた時、満州周辺には200万人の日本人が居たが、民間人は置き去りにしました。

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、大本営は秘密裏に関東軍(大陸部隊)を日本本土に帰国させる計画を建てた。

この時200万人の日本人居住者は足手まといであり、船も食料もなく帰国させたらさらなる食糧不足を招くとして、現地に置き去りにする決定を下した。


200万人の居住者はソ連が侵攻してきたのを知らされず、移動や避難を禁止されその場に留まるよう命令された。

満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

日本軍に騙された200万人の日本人居住者

真に受けた日本人らは本当に軍はソ連と決戦に行くのだと信じ、感動して涙を流し日の丸の旗を振って見送りました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。

8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15日になってからでした。


8月15日の日本軍降伏と同時に、ソ連軍と中国軍、暴徒化した中国人らが日本人居住者に襲い掛かりました。

満州国の首都新京には100万人もの日本人が居たので団結して身を守ったが、地方に居た満州開拓団はされるがままでした。

満州開拓団とは日本の食糧危機を解決するため、日本軍が送り出した農村開拓団で、数十万人も居ました。


開拓団は表向き応募だったが、実際には県や村、集落単位で割り当てがあり、人数が決められていました。

長男は村に残るので開拓団に行くのは次男以下、満州で子孫を増やすため夫婦ものが選ばれたので、行く人は決まっていました。

もし満州行きを拒否したら村八分にされるので、個人の意思とは関係なく行かざるを得ませんでした。

開拓村の人口を増やすのに女性が必要なので、大勢の少女らを騙して満州に送り込んだ。

満州では内地よりずっといい暮らしができるとか、まだ判断力がない少年少女に吹き込んでいました。

実際の満州は見渡す限りの荒野だったので、現地に着いたとたん騙されたのに気づいたでしょう。


満州の開拓村とは荒れ地を手作業で開拓し、ゼロから村をつくるもので、日本からの支援はほとんどなかった。

それぞれの開拓村の人口は数十人程度で、ソ連軍に襲われたらひとたまりもなかった。

多くの村では若い女をソ連兵や中国人に差し出し、命乞いをしたという事実が記録に残っている。

ソ連や中国に酷い目にあわされ帰国したのに、祖国は彼らを犯罪者扱いした

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

被害者なのに帰国したら加害者扱い

関東軍は事前に終戦を知っていたので8月15日までに南朝鮮まで逃げ、38度線を防衛ラインとした。

日本まで逃げる船はアメリカにすべて撃沈されていたので、もしソ連軍が38度線を突破したら今度こそソ連と決戦するつもりでした。

ここで関東軍は計略をめぐらし、ソ連軍と接触して「もし自分達を助けたら東日本を差し出す」と提案したと伝えられている。


その効果があったのか関東軍は本土に帰還できたが、約束は反故にし東日本は米軍が占領した。

満州在留日本人や北朝鮮居住者には38度線の存在自体が隠され、「その場から動くな」と言って立ち去った。

せっかく北朝鮮まで逃げて来たのに38度線の存在を知らず、ソ連軍支配地域にとどまった人が多かった。


ここでまた朝鮮人は日本の女をソ連兵に差し出して、ソ連とのコネを作ったり食料を得たり、地位を得たりした。

千島列島や樺太でも同じ事が行われ、200万人居たソ連中国支配地域の日本人のうち、約50万人がなくなった。

強制的に開拓団に参加させられ散々な目に合って帰国した人々に日本政府は冷たく、軍人のような恩給も保証もなかった。


一般の日本人はGHQの宣伝によって「開拓団は中国を侵略した悪人」と思い込み、罵声を浴びせたり石をぶつけたりした。

こうして帰国した人々は開拓団や外地居住者だったのを隠すようになり、ソ連や中国からの被害もひた隠した。

連合軍だった国は自分たちの被害を訴え、日本政府すら満州ソ連居住者の被害を無視しつづけている。
http://www.thutmosev.com/archives/81755000.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c16

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
17. 中川隆[-15113] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:08:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2156]
2.26事件は天皇兄弟の謀略


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c17
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
216. 中川隆[-15112] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:09:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2155]
2.26事件は天皇兄弟の謀略


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c216
[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
72. 中川隆[-15111] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:09:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2154]
2.26事件は天皇兄弟の謀略


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c72
[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
18. 中川隆[-15110] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:47:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2153]
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c18
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
217. 中川隆[-15109] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2152]
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c217
[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
73. 中川隆[-15108] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:48:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2151]
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c73
[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
17. 中川隆[-15107] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:50:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2150]
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c17
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
218. 中川隆[-15106] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:08:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2149]
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c218

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
74. 中川隆[-15105] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:09:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2148]
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c74

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
19. 中川隆[-15104] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:09:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2147]
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c19

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
18. 中川隆[-15103] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:10:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2146]
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c18

[近代史3] イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった 中川隆
5. 中川隆[-15102] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:47:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2144]
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html#c5

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
19. 中川隆[-15101] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:48:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2143]
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c19

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
20. 中川隆[-15100] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:49:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2142]
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c20

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
219. 中川隆[-15099] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:50:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2141]
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c219

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
75. 中川隆[-15098] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2140]
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c75

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
76. 中川隆[-15097] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:57:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2139]
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c76

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
220. 中川隆[-15096] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:58:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2138]
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c220

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
21. 中川隆[-15095] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:58:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2137]
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c21

[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
20. 中川隆[-15094] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:59:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2136]
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c20

[近代史3] ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?


バーガミニの本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! 83年の新版に驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってます。

_

大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。

二・二六事件の「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。

だが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」で戦争に導いてきた軍人たちの一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
35. 中川隆[-15093] koaQ7Jey 2019年12月19日 14:25:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2134]
「今年を振り返って」シリーズ〜第2弾〜 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年12月19日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c58ff568dfe3b39265ff4e932c135b1

「今年を振り返って」音響効果の高かったものをピックアップしてみようという企画だが、シリーズの第2弾は「電源対策」。

オーディオというのはごくまれな例外はあるとしても、いくらお金をかけても矩(のり)というのか限界があるというのが率直な感想だが、「投資すれば明らかにそれに見合った効果がありますよ」というのが一つだけある。

それが「電源対策」である。

オーディオの土台というか基礎対策として音質の根源的な部分に関わってくる代物なのでゆめゆめおろそかにできないというのがこれまでの痛切な体験である。

我が家の「電源対策」3項目あって、

1 200ボルト電源の導入

2 電源タップ

3 電源ケーブル

に分類される。

1 200ボルト電源

家庭内の電気は冷蔵庫、電子レンジや炬燵などの電気器具で汚染されているので、隔絶させるために「200ボルト」電源を随分前から引いている。

10年以上も前に専門の電気工事士のもと配電盤をいじって専属スイッチを設定しオーディオルームまで配線してもらったが、このままではもちろん使えないので変換トランスを使って「100ボルト」に降圧しており、我が家のオーディオ機器はすべてこの電源を拠り所にしている。

その効果は歴然としており、わかる人にはわかるはず(笑)。

もし本当に音を良くしたいと思うのであれば「200ボルト電源」をぜひお薦めしたいところだが、おそらく大半の方々が「現状の100ボルト電源で十分いい音が出ているのでその必要はない」と思われていることだろう。

ところが、そこが危険な落とし穴で(笑)、病気でいえば痛みを伴わない「糖尿病」みたいなもので切実感が無い分これほど恐ろしい病いは無い。

一度でも200ボルト電源によってノイズっぽさが消え音の質感が向上する感覚を味わうと、もう手放せなくなる。

ただし、その効果を確認できるのはシステム次第のところがあり、けっして万人向きではなく、発展途上のシステムではあまり効果が望めない。

つまり「仕上げの段階」でこそ効果を発揮するとだけ申し添えておこう。

以上、少し「上から目線」の物言いになったかもですね(笑)。

2 電源タップ

この降圧電源を繋いで各種オーディオ機器に中継する役目を担うのが「電源タップ」である。ここをケチっては「画竜点睛」を欠く。
そこで、このほど手に入れたのがPADの電源タップだった。

  

差し込み箇所が8口あり、すべてのオーディオ機器が賄えるので大助かり。
 
  

導入してからいちだんとSN比が良くなって効果抜群である。精神的な満足感もばかにできないところだ(笑)。

3 電源ケーブル  

      

「200ボルト電源」「電源タップ」そして「電源ケーブル」とくれば「三位一体」の相乗効果が大いに期待できようというもの。

これまで再々述べてきたように現在、PADの「ドミナス」4本を駆使して微小電流を扱う「DAコンバーター」の2台「プリアンプ」2台に繋いでいる。結果的には、お値段でいえばこの部分が一番値が張ったことになる。

以上、これで我が家の電源対策はお終いだが、200ボルトから100ボルトへの降圧トランスがちょっと旧式なのが悩みの種だが、このところ何かと出費多端で懐(ふところ)が物淋しいので、しばらくの辛抱だ(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c58ff568dfe3b39265ff4e932c135b1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c35

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
110. 中川隆[-15092] koaQ7Jey 2019年12月19日 14:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2133]
「今年を振り返って」シリーズ〜第2弾〜 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年12月19日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c58ff568dfe3b39265ff4e932c135b1

「今年を振り返って」音響効果の高かったものをピックアップしてみようという企画だが、シリーズの第2弾は「電源対策」。

オーディオというのはごくまれな例外はあるとしても、いくらお金をかけても矩(のり)というのか限界があるというのが率直な感想だが、「投資すれば明らかにそれに見合った効果がありますよ」というのが一つだけある。

それが「電源対策」である。

オーディオの土台というか基礎対策として音質の根源的な部分に関わってくる代物なのでゆめゆめおろそかにできないというのがこれまでの痛切な体験である。

我が家の「電源対策」3項目あって、

1 200ボルト電源の導入

2 電源タップ

3 電源ケーブル

に分類される。

1 200ボルト電源

家庭内の電気は冷蔵庫、電子レンジや炬燵などの電気器具で汚染されているので、隔絶させるために「200ボルト」電源を随分前から引いている。

10年以上も前に専門の電気工事士のもと配電盤をいじって専属スイッチを設定しオーディオルームまで配線してもらったが、このままではもちろん使えないので変換トランスを使って「100ボルト」に降圧しており、我が家のオーディオ機器はすべてこの電源を拠り所にしている。

その効果は歴然としており、わかる人にはわかるはず(笑)。

もし本当に音を良くしたいと思うのであれば「200ボルト電源」をぜひお薦めしたいところだが、おそらく大半の方々が「現状の100ボルト電源で十分いい音が出ているのでその必要はない」と思われていることだろう。

ところが、そこが危険な落とし穴で(笑)、病気でいえば痛みを伴わない「糖尿病」みたいなもので切実感が無い分これほど恐ろしい病いは無い。

一度でも200ボルト電源によってノイズっぽさが消え音の質感が向上する感覚を味わうと、もう手放せなくなる。

ただし、その効果を確認できるのはシステム次第のところがあり、けっして万人向きではなく、発展途上のシステムではあまり効果が望めない。

つまり「仕上げの段階」でこそ効果を発揮するとだけ申し添えておこう。

以上、少し「上から目線」の物言いになったかもですね(笑)。

2 電源タップ

この降圧電源を繋いで各種オーディオ機器に中継する役目を担うのが「電源タップ」である。ここをケチっては「画竜点睛」を欠く。
そこで、このほど手に入れたのがPADの電源タップだった。

  

差し込み箇所が8口あり、すべてのオーディオ機器が賄えるので大助かり。
 
  

導入してからいちだんとSN比が良くなって効果抜群である。精神的な満足感もばかにできないところだ(笑)。

3 電源ケーブル  

      

「200ボルト電源」「電源タップ」そして「電源ケーブル」とくれば「三位一体」の相乗効果が大いに期待できようというもの。

これまで再々述べてきたように現在、PADの「ドミナス」4本を駆使して微小電流を扱う「DAコンバーター」の2台「プリアンプ」2台に繋いでいる。結果的には、お値段でいえばこの部分が一番値が張ったことになる。

以上、これで我が家の電源対策はお終いだが、200ボルトから100ボルトへの降圧トランスがちょっと旧式なのが悩みの種だが、このところ何かと出費多端で懐(ふところ)が物淋しいので、しばらくの辛抱だ(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c58ff568dfe3b39265ff4e932c135b1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c110

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
150. 中川隆[-15091] koaQ7Jey 2019年12月19日 14:39:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2132]
食品添加物だらけのペットボトル茶>茶業界は全く違法状態ですから業者はやりたい放題にしています!!
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/84a32a68a06c266e1e43775c3054130c

<食品添加物だらけのペットボトル茶>

茶業界は全く違法状態ですから業者はやりたい放題にしています!!

★ペットボトル茶の主成分「中国産の緑茶」
 茶葉を摘み取った後、捨てるしかない茎を使っている

★国産茶葉使用の表示をするために、お体裁程度に少量の国産茶葉を混ぜている

★香料と着色料、甘さを出す味の素や、
 グルタミン酸ナトリウム、ビタミンCの食品添加物を混入。
 >ビタミンCは、天然由来ではなく石油を原料とした化学物質

★「玉露入り」のお茶
 「玉露のクズの粉状をほんの少々」だけ使っている
 >味の素〜グルタミン酸ナトリウムを
 大量に入れることによって、玉露のような甘みを出している

★国産茶葉が少量でも入っているので、「国産茶葉100%」の表示

★安くて全く旨みのない茶葉でも、
 業者によって『味の素』が入れられると、
 「高級日本茶」として10倍もの高級品に生まれ変わる

★毎日『味の素茶』を飲み続けると味覚が狂う

http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/a5fdb504607a68eca5e093e7d7ffd0b7 より全転載

■ペットボトル茶・缶茶はお茶ではありません!


健康・和食ブームから、年輩の方はもとより若い方も「お茶」が見直されていますが、ペットボトル茶・缶茶は、飲んではいけません!


ペットボトル茶は、お茶ではありません。

茶葉ならまだマシで、重大なカラクリは、ペットボトル茶の主成分は茶葉を摘み取った後、捨てるしかない茎を使っているのです。

ゴミになった茎をタダ同然で買い取って、大量の泥・ゴミや針金などの混入物を中国から日本に運んで、日本で取り除くのです。

しかし除去には限界があり、ペットボトル茶に溶け出した成分には多くの不純物が含まれています!

茎を、お茶にするなど、言語道断、消費者をバカにしています。

こんな茎に栄養もなく、茶本来の効用は何一つありません。

茶葉を使ったペットボトル茶の原料は、中国産の緑茶です。

https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSxF-O5pQg2plQmH-SbML5q4nDkJWRE2EKMhfW23QggEizTQwQS

中国農家の個々から茶葉を集めて来る以上、農薬の把握やコントロールは不可能です。何が入っているかは解りません!

■お茶ではなく食品添加物の色付き液である!


国内にあるメーカーは、プール並のスペースにお湯を入れ大量の茎を煮立てます。

そこに国産茶葉使用の表示をするために、お体裁程度に少量の国産茶葉を混ぜます。

味や香りがあるはずもなく、中国産の茶葉から取った「緑茶抽出物(エキス)」を入れます。

成分が正体不明であり、何が混ぜられているか分かりません!

本来、お茶は粉の沈殿物にカテキンが多く含まれ、いっしょに飲むことによって栄養になるのです。

しかしペットボトル茶では、異物混入と錯覚されることから、取り除かれてしまいます。

その代わりに、香料と着色料、甘さを出す味の素や、グルタミン酸ナトリウム、ビタミンCの食品添加物を混入させています!

ビタミンCといっても天然由来ではなく、石油を原料とした化学物質なのです。

VCと記載される場合もあり、多くの食品や飲料に使用されています。

アスコルビン酸とも言われ、栄養のためではなく酸化防止です。

緑茶が、酸化して褐色にならないために入れています。

中には、500mlボトルで100mlも注入され、却ってビタミンCの過剰摂取からガンや尿路結石になってしまいます!

このような状況でも、国産茶葉100%の表示ができ、健康的なお茶だとして店頭に並んでいます!

玉露と銘打っても本当は中国茶の茎を使用しているので100円なんです


「玉露入り」のお茶は、玉露のクズの粉状になったものをホンの少々使っているに過ぎません。

味の素〜グルタミン酸ナトリウムを大量に入れることによって、玉露のような甘みを出しているだけなのです。

そもそも高級茶の玉露が、100円玉で飲める訳がありません!

京都・宇治や各地の茶所のイメージで宣伝しても、所詮、ペットボトル茶の成分は茎茶に過ぎません。

一般的なペットボトル茶が毒々しいほどに不自然な緑色を保ち続けているのは、着色料を加えた上に酸化防止用に化学物質のビタミンCが添加されているためなのです。

炭酸飲料でもないのに蓋を開けるとプシュと音が出るのは、さらに窒素を充填して酸化を防いでいるからなのです。

ペットボトル茶が、いつまでも色が変らないことに怪しいと認識すべきです。

国産茶葉使用の表示だからといって、安心してはいけません。

主成分は、何と全て中国の茶葉を摘み取った後の茎の部分です。

国産茶葉が少量でも入っているので、「国産茶葉100%」の表示は間違いありません。

狙いは、国産茶葉使用を見せ掛けるためだけに、お体裁に入れているだけです。ペットボトル茶は、お茶ではなく、着色料や香料を加えた単なる色付き液なのです。

こんな液体を飲むと、却って咽が渇いたり胸焼けを起こします。

極めて不健全なので、普通のお茶を飲みましょう。
(注)烏龍茶・麦茶なども、ペットボトル入り・缶入りは同様です。

■味の素で旨みや甘みを付けた“まやかし高級茶!

日本人が長年飲み続けてきた「お茶」だけに、まさか不純物の挿入や、インチキ品はないと長年思っていましたが、驚くことに、味の素(食品添加物)がたっぷり含まれているお茶(茶葉やペットボトル茶)が蔓延しているのですから驚いてしまいますし、厚生労働省はどのような検査をして許可をしているのでしょうか?

味の素茶・中国から輸入される緑茶の残留農薬・ペットボトル茶の酷さについて説明します。

http://ecx.images-amazon.com/images/I/416WgWCzWxL._SL500_AA300_.jpg

お茶を始め日本の伝統食品でさえ、メーカーに倫理観などありません!

醤油・みりん・日本酒・漬物など、「まやかし品」のほうが多いのです。

誰もが信じて疑っていない食品だけに、メーカーはやりたい放題なのです。お茶にどうして味の素が入っているのかをお伝えしますと、本来、お茶の旨みは、

グルタミン酸、テアニンなど20種類ほどの自然のアミノ酸によるものです。

中でも高級な玉露はアミノ酸が多く含まれており、それが旨み甘みでもあり、高級茶たる所以ですが、現実は、農家が茶葉を出荷する際、あるいは取りまとめ業者によって、茶葉にグルタミン酸ナトリウムつまり、味の素を添加します。

また鮮やかな緑色を出すために、重炭酸アンモニウムや炭酸水素ナトリウム(重曹)も混ぜ込んでいるのです。

お茶まで、食品添加物で味や色を付けるとは、暴挙でしかありません!

■尋常ではない割合で、味の素茶が出回っています!


人工旨みのグルタミン酸ナトリウムを混ぜ込んだお茶は、高く売れるようで

す。

安くて全く旨みのない安い茶葉でも、業者によって味の素が入れられると、

「高級日本茶」として10倍もの高級品に生まれ変わってしまうそうです!

お茶の自然な旨みが分かる関係者や、こうした食品添加物が入っていること

を知っている人でない限り、内緒でグルタミン酸ナトリウムを入れられたら分かりにくいと言います。

良いお茶は、低温のお湯でゆっくりいれると旨みが出ますが、普通のお茶に熱湯を注いで、妙な甘みを感じれば味の素の疑いがあります。

また袋を開けた時、茶葉にキラキラ光る粒子が付いていれば、食品添加物の可

能性があります。

なお本来、食品添加物は表示義務がありますが、茶業界は全く違法状態ですか

ら業者はやりたい放題にしています!

こんなお茶がどのくらい出回っているかは明らかではないものの、業界団体上部が自主規制を掛けたり、厚労省の指摘があるくらいなので、尋常ではない割合のようです!

自分の味覚で、確かめるしかないようです。お茶をゆっくり冷まし、渋味以外の不自然な旨みや後味がいつまでも残るようなら、味の素の疑いがあります。  

 苦めでさっぱりした味を選べば、食品添加物の可能性はないといえます。

会社のお茶に味の素が入っている可能性は?

ご自宅のお茶は、自分が選べば本物のお茶を購入できます。

しかし、あなたの会社で毎日飲んでいる職場用のお茶は、食品添加物と農薬の

両方とも一番危険なのです。

大きな組識ほど経費節減が厳しいので、安い価格で仕入れる職場用茶に味の素入り茶が蔓延しているのです。

原価が安いお茶は当然美味しくないので、食品添加物で味付けする訳です。

会社にもよりますが、一応あなたの会社のお茶も疑ってみることです。
 
■毎日味の素茶を飲み続けると味覚が狂ってしまいます!


 食品添加物入りのお茶を飲み続けると、味覚が狂ってしまいます。

ただでさえ食品添加物が懸念される食べ物が多い中、健康に良いお茶もこうしたインチキ品を飲み続けると、食品添加物まみれの生活に陥ります。

グルタミン酸ナトリウムなどを大量に摂ると、一過性のめまい・しびれ・頭痛が起きたりします。

こうしたお茶の量を減らすに越したことはありませんし、お茶のもう1つの問題は、残留農薬〜中国からの輸入緑茶の危険性です。

緑茶だけに全て国産と思いがちでも、約10%が中国から輸入されています。中国産だけに、残留農薬の怖さがあります。

中国茶の残留農薬は、発ガン性がある有機塩素系農薬のDDTやBHCが検出

されています。

野菜は洗えばある程度農薬は落とせますが、お茶はまさしく残留農薬そのものを飲むことになります!

農薬茶や食品添加物を避けるには、国産のさっぱりしたお茶を煎れて飲むことです!

または、有機表示のお茶を飲むしかありません!

JASに基く有機食品は、農薬の他に先程のグルタミン酸ナトリウムなどの食品添加物も許可されていません!

お茶が好きな人は毎日多く飲むので、 贅沢であっても有機のお茶を選ぶことですね!

と、これで終わりではありません!

なんとお茶には、このような問題以外に、放射能まで含まれているのですから、ただ事ではありません!

厚生労働省は、国民健康よりも業者の保護を優先しています!

悲しいね!

国民の代表が、聞いてあきれます!

(転載終了)


健全性評価技術
−添加茶および発色茶の化学的判別法−
機能解析部 茶品質化学研究室 木幡勝則
添加茶(グルタミン酸ナトリウムを添加して味付けした茶)および発色茶(アルカリで
処理することにより茶の色をよく見せた茶)は、適切な表示がなされないままに流通されることが多く、茶の健全な流通の妨げになることが以前から指摘されていた。数年前、表示のないまま添加茶が売られていたことが新聞紙上等で報道され、大きな問題となったことは今だ記憶に新しい。この影響で添加茶のみならず、発色茶に対しても厳しい目が注がれるようになり、今日に至っている。
当該研究室では、健全な茶の流通の確保に資するべく、処理や添加を受けた茶と、無処理・無添加の茶とを簡易・迅速に判別するための方法の開発に携わってきている。そこで、本研修では、開発した添加茶および発色茶の化学的判別法について紹介する。

全てのソース:https://www.naro.affrc.go.jp/training/files/2004_7-10.pdf

http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c150

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
330. 中川隆[-15090] koaQ7Jey 2019年12月19日 14:40:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2131]
食品添加物だらけのペットボトル茶>茶業界は全く違法状態ですから業者はやりたい放題にしています!!
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/84a32a68a06c266e1e43775c3054130c


<食品添加物だらけのペットボトル茶>

茶業界は全く違法状態ですから業者はやりたい放題にしています!!

★ペットボトル茶の主成分「中国産の緑茶」
 茶葉を摘み取った後、捨てるしかない茎を使っている

★国産茶葉使用の表示をするために、お体裁程度に少量の国産茶葉を混ぜている

★香料と着色料、甘さを出す味の素や、
 グルタミン酸ナトリウム、ビタミンCの食品添加物を混入。
 >ビタミンCは、天然由来ではなく石油を原料とした化学物質

★「玉露入り」のお茶
 「玉露のクズの粉状をほんの少々」だけ使っている
 >味の素〜グルタミン酸ナトリウムを
 大量に入れることによって、玉露のような甘みを出している

★国産茶葉が少量でも入っているので、「国産茶葉100%」の表示

★安くて全く旨みのない茶葉でも、
 業者によって『味の素』が入れられると、
 「高級日本茶」として10倍もの高級品に生まれ変わる

★毎日『味の素茶』を飲み続けると味覚が狂う

http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/a5fdb504607a68eca5e093e7d7ffd0b7 より全転載

■ペットボトル茶・缶茶はお茶ではありません!


健康・和食ブームから、年輩の方はもとより若い方も「お茶」が見直されていますが、ペットボトル茶・缶茶は、飲んではいけません!


ペットボトル茶は、お茶ではありません。

茶葉ならまだマシで、重大なカラクリは、ペットボトル茶の主成分は茶葉を摘み取った後、捨てるしかない茎を使っているのです。

ゴミになった茎をタダ同然で買い取って、大量の泥・ゴミや針金などの混入物を中国から日本に運んで、日本で取り除くのです。

しかし除去には限界があり、ペットボトル茶に溶け出した成分には多くの不純物が含まれています!

茎を、お茶にするなど、言語道断、消費者をバカにしています。

こんな茎に栄養もなく、茶本来の効用は何一つありません。

茶葉を使ったペットボトル茶の原料は、中国産の緑茶です。

https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSxF-O5pQg2plQmH-SbML5q4nDkJWRE2EKMhfW23QggEizTQwQS

中国農家の個々から茶葉を集めて来る以上、農薬の把握やコントロールは不可能です。何が入っているかは解りません!

■お茶ではなく食品添加物の色付き液である!


国内にあるメーカーは、プール並のスペースにお湯を入れ大量の茎を煮立てます。

そこに国産茶葉使用の表示をするために、お体裁程度に少量の国産茶葉を混ぜます。

味や香りがあるはずもなく、中国産の茶葉から取った「緑茶抽出物(エキス)」を入れます。

成分が正体不明であり、何が混ぜられているか分かりません!

本来、お茶は粉の沈殿物にカテキンが多く含まれ、いっしょに飲むことによって栄養になるのです。

しかしペットボトル茶では、異物混入と錯覚されることから、取り除かれてしまいます。

その代わりに、香料と着色料、甘さを出す味の素や、グルタミン酸ナトリウム、ビタミンCの食品添加物を混入させています!

ビタミンCといっても天然由来ではなく、石油を原料とした化学物質なのです。

VCと記載される場合もあり、多くの食品や飲料に使用されています。

アスコルビン酸とも言われ、栄養のためではなく酸化防止です。

緑茶が、酸化して褐色にならないために入れています。

中には、500mlボトルで100mlも注入され、却ってビタミンCの過剰摂取からガンや尿路結石になってしまいます!

このような状況でも、国産茶葉100%の表示ができ、健康的なお茶だとして店頭に並んでいます!

玉露と銘打っても本当は中国茶の茎を使用しているので100円なんです


「玉露入り」のお茶は、玉露のクズの粉状になったものをホンの少々使っているに過ぎません。

味の素〜グルタミン酸ナトリウムを大量に入れることによって、玉露のような甘みを出しているだけなのです。

そもそも高級茶の玉露が、100円玉で飲める訳がありません!

京都・宇治や各地の茶所のイメージで宣伝しても、所詮、ペットボトル茶の成分は茎茶に過ぎません。

一般的なペットボトル茶が毒々しいほどに不自然な緑色を保ち続けているのは、着色料を加えた上に酸化防止用に化学物質のビタミンCが添加されているためなのです。

炭酸飲料でもないのに蓋を開けるとプシュと音が出るのは、さらに窒素を充填して酸化を防いでいるからなのです。

ペットボトル茶が、いつまでも色が変らないことに怪しいと認識すべきです。

国産茶葉使用の表示だからといって、安心してはいけません。

主成分は、何と全て中国の茶葉を摘み取った後の茎の部分です。

国産茶葉が少量でも入っているので、「国産茶葉100%」の表示は間違いありません。

狙いは、国産茶葉使用を見せ掛けるためだけに、お体裁に入れているだけです。ペットボトル茶は、お茶ではなく、着色料や香料を加えた単なる色付き液なのです。

こんな液体を飲むと、却って咽が渇いたり胸焼けを起こします。

極めて不健全なので、普通のお茶を飲みましょう。
(注)烏龍茶・麦茶なども、ペットボトル入り・缶入りは同様です。

■味の素で旨みや甘みを付けた“まやかし高級茶!

日本人が長年飲み続けてきた「お茶」だけに、まさか不純物の挿入や、インチキ品はないと長年思っていましたが、驚くことに、味の素(食品添加物)がたっぷり含まれているお茶(茶葉やペットボトル茶)が蔓延しているのですから驚いてしまいますし、厚生労働省はどのような検査をして許可をしているのでしょうか?

味の素茶・中国から輸入される緑茶の残留農薬・ペットボトル茶の酷さについて説明します。

http://ecx.images-amazon.com/images/I/416WgWCzWxL._SL500_AA300_.jpg

お茶を始め日本の伝統食品でさえ、メーカーに倫理観などありません!

醤油・みりん・日本酒・漬物など、「まやかし品」のほうが多いのです。

誰もが信じて疑っていない食品だけに、メーカーはやりたい放題なのです。お茶にどうして味の素が入っているのかをお伝えしますと、本来、お茶の旨みは、

グルタミン酸、テアニンなど20種類ほどの自然のアミノ酸によるものです。

中でも高級な玉露はアミノ酸が多く含まれており、それが旨み甘みでもあり、高級茶たる所以ですが、現実は、農家が茶葉を出荷する際、あるいは取りまとめ業者によって、茶葉にグルタミン酸ナトリウムつまり、味の素を添加します。

また鮮やかな緑色を出すために、重炭酸アンモニウムや炭酸水素ナトリウム(重曹)も混ぜ込んでいるのです。

お茶まで、食品添加物で味や色を付けるとは、暴挙でしかありません!

■尋常ではない割合で、味の素茶が出回っています!


人工旨みのグルタミン酸ナトリウムを混ぜ込んだお茶は、高く売れるようで

す。

安くて全く旨みのない安い茶葉でも、業者によって味の素が入れられると、

「高級日本茶」として10倍もの高級品に生まれ変わってしまうそうです!

お茶の自然な旨みが分かる関係者や、こうした食品添加物が入っていること

を知っている人でない限り、内緒でグルタミン酸ナトリウムを入れられたら分かりにくいと言います。

良いお茶は、低温のお湯でゆっくりいれると旨みが出ますが、普通のお茶に熱湯を注いで、妙な甘みを感じれば味の素の疑いがあります。

また袋を開けた時、茶葉にキラキラ光る粒子が付いていれば、食品添加物の可

能性があります。

なお本来、食品添加物は表示義務がありますが、茶業界は全く違法状態ですか

ら業者はやりたい放題にしています!

こんなお茶がどのくらい出回っているかは明らかではないものの、業界団体上部が自主規制を掛けたり、厚労省の指摘があるくらいなので、尋常ではない割合のようです!

自分の味覚で、確かめるしかないようです。お茶をゆっくり冷まし、渋味以外の不自然な旨みや後味がいつまでも残るようなら、味の素の疑いがあります。  

 苦めでさっぱりした味を選べば、食品添加物の可能性はないといえます。

会社のお茶に味の素が入っている可能性は?

ご自宅のお茶は、自分が選べば本物のお茶を購入できます。

しかし、あなたの会社で毎日飲んでいる職場用のお茶は、食品添加物と農薬の

両方とも一番危険なのです。

大きな組識ほど経費節減が厳しいので、安い価格で仕入れる職場用茶に味の素入り茶が蔓延しているのです。

原価が安いお茶は当然美味しくないので、食品添加物で味付けする訳です。

会社にもよりますが、一応あなたの会社のお茶も疑ってみることです。
 
■毎日味の素茶を飲み続けると味覚が狂ってしまいます!


 食品添加物入りのお茶を飲み続けると、味覚が狂ってしまいます。

ただでさえ食品添加物が懸念される食べ物が多い中、健康に良いお茶もこうしたインチキ品を飲み続けると、食品添加物まみれの生活に陥ります。

グルタミン酸ナトリウムなどを大量に摂ると、一過性のめまい・しびれ・頭痛が起きたりします。

こうしたお茶の量を減らすに越したことはありませんし、お茶のもう1つの問題は、残留農薬〜中国からの輸入緑茶の危険性です。

緑茶だけに全て国産と思いがちでも、約10%が中国から輸入されています。中国産だけに、残留農薬の怖さがあります。

中国茶の残留農薬は、発ガン性がある有機塩素系農薬のDDTやBHCが検出

されています。

野菜は洗えばある程度農薬は落とせますが、お茶はまさしく残留農薬そのものを飲むことになります!

農薬茶や食品添加物を避けるには、国産のさっぱりしたお茶を煎れて飲むことです!

または、有機表示のお茶を飲むしかありません!

JASに基く有機食品は、農薬の他に先程のグルタミン酸ナトリウムなどの食品添加物も許可されていません!

お茶が好きな人は毎日多く飲むので、 贅沢であっても有機のお茶を選ぶことですね!

と、これで終わりではありません!

なんとお茶には、このような問題以外に、放射能まで含まれているのですから、ただ事ではありません!

厚生労働省は、国民健康よりも業者の保護を優先しています!

悲しいね!

国民の代表が、聞いてあきれます!

(転載終了)


健全性評価技術
−添加茶および発色茶の化学的判別法−
機能解析部 茶品質化学研究室 木幡勝則
添加茶(グルタミン酸ナトリウムを添加して味付けした茶)および発色茶(アルカリで
処理することにより茶の色をよく見せた茶)は、適切な表示がなされないままに流通されることが多く、茶の健全な流通の妨げになることが以前から指摘されていた。数年前、表示のないまま添加茶が売られていたことが新聞紙上等で報道され、大きな問題となったことは今だ記憶に新しい。この影響で添加茶のみならず、発色茶に対しても厳しい目が注がれるようになり、今日に至っている。
当該研究室では、健全な茶の流通の確保に資するべく、処理や添加を受けた茶と、無処理・無添加の茶とを簡易・迅速に判別するための方法の開発に携わってきている。そこで、本研修では、開発した添加茶および発色茶の化学的判別法について紹介する。

全てのソース:https://www.naro.affrc.go.jp/training/files/2004_7-10.pdf

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c330

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
28. 中川隆[-15095] koaQ7Jey 2019年12月19日 17:18:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2136]

2019年12月19日
サムスンが脱韓国 生産や本社を国外移転計画か



輸入できないのは韓国であり、サムスンが付き合う必要はない


画像引用:徴用工問題で日本が韓国に”報復”?元経産省キャリア「半導体材料輸出規制の背景に米中衝突が」 | AbemaTIMEShttps://times.abema.tv/posts/7009528


サムスンまで脱韓国

経済が悪化する韓国から外資が手を引こうとしているが、韓国企業も韓国からの脱出を試みている。

そして韓国最大の成功企業であるサムスンまでも、韓国から脱出しようとしています。

2019年9月、韓国メディアでは中国政府が韓国政府に、半導体素材共同開発を提案していたと報道されました。



韓国政府は乗り気でサムスンに働きかけたが、意外にもサムスン電子は中国政府の要求を断った。

中国が提案したのは7月中旬で、日本が半導体3品目の優遇措置を撤廃した直後だった。

半導体素材で日本が圧倒的シェアを持っているが、中国は韓国に「一緒に日本を倒そう」と呼びかけた。


サムスンは日本が優遇措置を撤廃してすぐ副社長が来日し、半導体素材を入手できるよう働きかけた。

考えてみると日本が優遇措置を撤廃したのは「韓国という国」であってサムスン電子ではなかった。

日本が半導体素材などの輸出を優遇しているホワイト国(現在はグループA)は韓国以外も26か国ある。


多くはアメリカや欧州、オセアニアだが当然サムスンはこれらホワイト国にも工場があり生産している。

サムスンとしては韓国が輸入できなければ他の国で生産すれば良いだけで、韓国とともに滅ぶ必要が無かった。

中国の狙いがサムスンや韓国から技術を盗む目的なのは明らかで、応じれば日本企業の二の舞になったでしょう。

サムスンは韓国と共に滅びたくない

サムスングループは韓国GDPの20%近くを占め、韓国の財閥すべてでGDPの80%を占めていると言われている。

財閥の起源は日帝時代の資産を引き継いだり、米軍占領時代や軍政時代に軍との関係で成長した企業でした。

サムスン以外の財閥もサムスンと同じく、韓国と共に没落する気は無いので、韓国脱出しようとしている。


サムスンの創業は日本占領時代で、創業者は早稲田に留学し(退学したが)日本でビジネスを学んで起業した。

創業時のサムスンの商売は日本の占領下の地域と貿易する貿易商で、日本撤退後は米軍と取引した。

米軍統治終了後は韓国軍政と取引し、軍政が終わった後は歴代政権と癒着している。


文在演を始めとして朴槿恵、李明博などすべてサムスンから不正献金を受け、見返りにサムスンは優遇措置を受けていた。

たとえばサムスンを始めとする財閥は納税しないし相続税も払わず、労働基本法を守らなくて良く、電気料金は格安だった。

こうして格安で製造できるサムスンは日本企業とのコスト競争に勝ち、半導体や家電で勝者となった。

韓国籍を放棄する在外韓国人も増加

サムスンが本社機能を韓国外に移転する計画も立てていると言い、オランダあたりに本社を移してEU企業になるかも知れない。

(オランダは規制が緩く政府が干渉しないので、多国籍企業の本社として利用されている。)

韓国の2018年対外直接投資は4年連続で過去最高だが、2019年も過去最高で推移している。


対外直接投資はアメリカに工場を建てるなども含まれるが、韓国から脱出しているのを示している。

一方で韓国への外国人投資や企業の国内投資は減少しているので、脱韓国は増えて入韓国が減っている。

企業だけではなく人も韓国から脱出していて、韓国は入国者より出国者がかなり多い。(日本は逆に入国者が多い)


就職難の韓国から出て日本に就職したり、東南アジアに移住する人も増えている。

韓国籍を放棄する韓国人も数年前から増加していて、年間3万人前後が国籍離脱や放棄している。

在米韓国人や在日韓国人が現地に帰化するようなケースが多く、韓国とのつながりが薄れている。
http://www.thutmosev.com/archives/81762701.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c28

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
30. 中川隆[-15094] koaQ7Jey 2019年12月19日 22:06:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2135]
中国のウイグルやチベットでの民族浄化


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c30
[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた


日本の真相1 明治天皇すりかえ


日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル


日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた


日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


日本の真相5 すべての戦争は八百長である


日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本


日本の真相7 超天才の悪魔


日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発


日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱


▲△▽▼


鬼塚 英昭(おにづか ひであき、1938年 - 2016年1月25日)は日本の作家、竹細工職人、郷土史家。家業の傍ら、自費出版で歴史書などの執筆を始める。菊タブーや国際金融、国際情勢分野を執筆し、タブーを恐れないノンフィクション作家として知られる。


大分県別府市生まれ[3]。大分県立別府鶴見丘高等学校卒業[4]。別府鶴見丘高校は地元名門校として知られ、同校出身の著名人の一人としても名前が挙がる[4]。


卒後は、上京して中央大学法学部に入学する。働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。故郷の別府にて家業の竹細工職人となる[4][2]。作家デビューは遅く、2002年になってからであった[3]。最初は自費出版であったが、執筆のスピードが速く、しかも著書の多くが上下巻分冊の大作であった[3]。


一方の竹細工でも、別府市内でギャラリーで個展を開催するなどしている[6]。竹の技を絵に生かした珍しい作風であったとされる[6]。竹細工の分野でも「豊の国の竹の文化史」という著書を出版している[7]。著書は、大分県内の合計170人もの細工職人や業界関係者から取材を行って纏め上げられ、竹細工や竹宵の祭りなど「大分県民」と「竹」の歴史的関わり合いを紹介したもので[7]、ここでも「現代の竹細工の源流をたどれば、この箕作りの世界に行き着く」との分析を記した[7]。2004年には別府市実相寺に居住していた[6]。


2016年1月25日胃癌で死去[3][8]。78歳没。



作風・評価
成甲書房によれば鬼塚は超人的な読書量により常識を覆す数々の発見を繰り返した[9]。国際情勢や経済動向、金相場などについて独特の見解を示し、リーマンショックを「八百長」と指摘するなどの論調でも知られる[3]。思い切った意見を発表することがあり、熱烈なファンも多い。経済学者の藤岡惇は鬼塚の著書『原爆の秘密 (国外篇)』のジェームズ・F・バーンズの記述を「正確さに難がある」と評しながらも出典として評価している[10]。


著書
『海の門 別府劇場哀愁編』(2002年10月20日、自費出版)
『石井一郎の生涯 別府劇場任侠編』(2003年3月、自費出版)
『豊の国の竹の文化史』(2003年12月、自費出版)
『天皇のロザリオ』上巻「日本キリスト教国化の策謀」(2006年7月8日、成甲書房)ISBN 9784880862019
『天皇のロザリオ』下巻「皇室に封印された聖書」(2006年7月8日、成甲書房)ISBN 9784880862002
『日本のいちばん醜い日』(2007年7月21日、成甲書房)ISBN 9784880862163
『日経新聞を死ぬまで読んでも解らない 金の値段の裏のウラ』 (2007年11月20日、成甲書房)ISBN 9784880862224
『原爆の秘密』国内篇「昭和天皇は知っていた」(2008年7月19日、成甲書房)ISBN 9784880862330
『原爆の秘密』国外篇「殺人兵器と狂気の錬金術」(2008年7月19日、成甲書房)ISBN 9784880862323
『八百長恐慌!「サブプライム=国際ネズミ講」を仕掛けたのは誰だ』(2008年11月8日、成甲書房)ISBN 9784880862385
『トヨタが消える日 利益2兆円企業・貪欲生産主義の末路』(2009年3月11日、成甲書房)ISBN 9784880862439
『ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する』(2009年11月6日、成甲書房)ISBN 9784880862552
『20世紀のファウスト』上巻「黒い貴族がつくる欺瞞の歴史」(2010年3月11日、成甲書房)ISBN 9784880862606
『20世紀のファウスト』下巻「 美しい戦争に飢えた世界権力」(2010年3月11日、成甲書房)ISBN 9784880862613
『金は暴落する!2011年の衝撃 ロスチャイルド黄金支配のシナリオを読み解く』(2010年8月21日、成甲書房)ISBN 9784880862668
『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』(2011年5月21日、成甲書房)ISBN 9784880862774
『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』[DVD] (2011年7月15日、成甲書房)ISBN 9784880869018
『世界最終恐慌への3000年史 時間とマネーを支配する怪物の正体』(2011年11月24日、成甲書房) ISBN 9784880862835
『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(2012年3月29日、成甲書房)ISBN 9784880862880
『八百長クライシス』あらかじめ決められた恐慌(2012年8月22日、成甲書房)ISBN 9784880862927
『日本の本当の黒幕』上巻 龍馬暗殺と明治維新の闇(2013年7月6日、成甲書房)ISBN 9784880863023
『白洲次郎の嘘』日本の属国化を背負った「売国者ジョン」(2013年12月10日、成甲書房)ISBN 9784880863092
『海の門 別府劇場哀愁編』(2014年5月9日、成甲書房)ISBN 9784880863146
『「反日」の秘密』朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(2014年8月1日、成甲書房)ISBN 9784880863177
『天皇種族・池田勇人』知るのは危険すぎる昭和史(2014年12月12日、成甲書房)ISBN 9784880863221
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E8%8B%B1%E6%98%AD



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 皇室関係投稿リンク 中川隆
52. 中川隆[-15093] koaQ7Jey 2019年12月20日 13:45:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2134]
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/458.html#c52
[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
34. 中川隆[-15091] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:28:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2132]
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c34
[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
21. 中川隆[-15090] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:53:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2131]
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c21
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
221. 中川隆[-15089] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:53:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2130]
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c221
[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
77. 中川隆[-15088] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:54:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2129]
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c77
[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
78. 中川隆[-15087] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:02:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2128]
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c78
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
222. 中川隆[-15086] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:03:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2127]
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c222
[近代史3] 篠原常一郎 ノモンハンの『真実』 中川隆
22. 中川隆[-15085] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:04:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2126]
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html#c22
[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
35. 中川隆[-15084] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:05:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2125]
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c35
[近代史02] 原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 中川隆
43. 中川隆[-15083] koaQ7Jey 2019年12月20日 19:18:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2124]

2019年12月20日
アメリカの方が日本より被爆者が多い 原爆の秘密


実験場の跡地にはラスベガスという都市が建設された


引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-6b-57/edy2milage/folder/622021/05/50567405/img_0


アメリカは200回もの地上核実験を行い、800回の地下核実験を行った。

その結果国土の大半が放射能汚染され、日本より多く被爆者が発生した。


核保有国の被爆者は日本より多い

8月の原爆の日には毎年日本の被爆者を追悼する式典や、被爆者支援集会が開かれる。


あまり知られていないが原爆や核兵器は、使用した相手国より使用した国の方が、何倍も被爆者が多い。



つまり日本よりもアメリカ人のほうが多く、原爆で被爆しています。

日本は核爆発2回だが、アメリカは合計1000回、地上200回、地下800回爆発している。


因みにソ連は700回で地上200回、中国・フランス・イギリスが数十回づつとなっています。


60年代まで初期の核実験の殆どが大気圏中で行われ、放射性物質が地上に放出されました。

よく福島原発の事故で「核爆発が起きた」という人が居ますが、爆発したのは建屋だけで、本体は爆発していません。

福島で放出されたのは建屋内の冷却水や空気中に含まれていた放射性物質で、本物の核爆発と比較すると微量です。


原子爆弾や水素爆弾の威力を現すのによく「長崎原爆の数百倍」という表現が用いられます。

広島・長崎タイプは最初期の原爆なので、威力も放出する放射性物質も、後のタイプよりずっと少なかった。


こう考えるとアメリカ、ソ連では日本の数百倍の放射性物質が放出されたのが分かると思います。


アメリカでは破壊力が大きい核実験は地下で行われ、地上では小型爆弾の実験が行われた。

だが地下だから無害だったという主張は、甲状腺検査などで疑わしくなっている。


しかも日本の2発の原爆は日本政府が調査し治療と保障にあたったが、アメリカでは最高軍事機密なので調査しなかった。


ましてソ連や中国では被爆者自体が存在しない事になっています。

投下された日本より、投下したアメリカの被害が大きいとしたら、究極の『アホ兵器』である。

一時ネットで有名になった事件に「シルクロード事件」というのがありました。

1980年代にNHKが放送した「シルクロード」という超大作ドキュメント番組の取材地の多くが、実験場跡地でした。

番組を見た多くの日本人が観光目的でシルクロードを旅行し、10万人以上が被爆したと推定されています。

もっとも広島を旅行しても被爆しないように、数十年前の実験場を旅行しても、健康被害は限定的だと考えられる。


核実験場に近いほど甲状腺被害が多い。広島・長崎・福島にこうした片寄りは無い
US_fallout_exposure
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/US_fallout_exposure.png

アメリカの被爆者


アメリカは太平洋上のビキニ環礁などで核実験を行いましたが、事故が多発して世界中から非難を浴びました。

そこで本国のネバダ砂漠などで大規模な核実験を繰り返すようになった。

ネバダでは約100回の地上核実験と約800回の地下核実験が行われたと推測されている。


自国本土の地表での核実験となると、アメリカは非常に少なく43KT(キロトン)しか行っていない。

ソ連は400KT、中国が4000KTと共産国で多くなっている。


中国は自国本土では核実験を行わず、周辺国のウイグルなどで大半の核実験を行ったとみられている。


大雑把に考えてソ連ではアメリカの10倍、中国では100倍の被爆者が存在するが、国家機密に隠されたままです。

本国内の砂漠なら他国から文句を言われる筋合いは無かったが、自国民に多くの被爆者を出した。


特に放射能の知識が不十分だった初期には、観光客みたいなノリで軍人が見物したり、周囲に兵士を立たせていた。


アメリカでは実験で被爆した兵士の告発が残されていて、上官に呼ばれて、爆心地から2キロほど離れた地点に置き去りにされた。

事前に「レントゲン写真より安全だ」と説明されたが、「絶対に訴えない」という誓約書にサインさせられた。


その後(彼によると)モルモット小隊は爆心地の中心まで歩かされて、その後帰還して放射能を測定された。


このような被害に遭った人を「アトミックソルジャー」と呼んでいる。

ずっと後になって米政府が公表した資料では、核実験で米国民1万人以上がなくなっていました。

広島・長崎と違って直撃したわけではないから、被爆者は1万人よりかなり多いと推測できる。


少なく見ても数十万人、もしかしたら百万人以上ではないかと思えるが、国家機密なので調査した事がない。

それどころではなく地下核実験でも大量の放射性物質が国土に蓄積された結果、明らかな甲状腺異常が全土で発生している。

これが核実験の影響だとすると、全米の被爆者は数千万人にも達している。


当然誰一人として被爆者の保障を受けられず、それどころか兵士は実験に立ち会ったことを口外すれば罪に問われる。

因みに核実験で廃墟になった跡地の近くに建設されたのが、ラスベガスという街です。


ソ連ではこの10倍、中国では100倍の被害が起きていた筈です。
http://www.thutmosev.com/archives/38084072.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
31. 中川隆[-15082] koaQ7Jey 2019年12月21日 10:21:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2123]
北海道に移住した樺太アイヌの形質人類学的研究*
小浜基次・加藤昌太良・欠田早苗
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


樺太アイヌ成人に関する計測学的研究としては、小金井(1894)、古屋(1937)の業績がある。

われわれは1951〜62年、北海道各地のアイヌコタンを訪ね、現代アイヌの人類学的調査を行っていたが、この間、北海道に移住した樺太アイヌや千島アイヌの資料を追加することができた。

樺太アイヌの第1回集団移住は、北千島樺太交換条約(1875)によったものであり、はじめ北海道宗谷地区に移住し、翌年より石狩地区に定住していた。日露戦争後(1905)にはふたたび樺太に復帰し、さらに第2次世界戦争後(1945)に再度北海道に移住したものである。

アイヌの純血度を判定することは、研究の本質上重大な問題であるが、アイヌは古くより和人と混血し、純血を保つものはきわめて少ない。多方面よりの聞込みによって家系図を作製して判定の資料とするのであるが、実際にははなはだ困難であり、真の純血を決定することは不可能に近い。従来、われわれの資料に純アイヌとしているものも「比較的に純粋なアイヌ」と解釈すべきものであろう。

樺太アイヌは明治初年以来、
樺太→ 北海道→ 樺太→ 北海道
とたびたび移動している。移動には同族の分散も多いし、現在形成されている集落も各地からの寄合い世帯の様相を示しているから、聞込みは一層困難である(北海道日高沙流川流域のように定住する同族集団では、5〜6代にさかのぼる家系の聞込みも可能である)。しかも第1表に示すように、稚咲内の現情は和人のほか北海道アイヌ、朝鮮人と通婚しているものも少なくない。この研究では現代樺太アイヌに残された特性を追究しようとしたので、資料のうち明らかに混血と判定されたものは除外したが、前述のような現況よりみて、この資料の性格は原樺太アイヌよりもかなり混血化が進んでいるものとみなすべきであろう。われわれと同一資料について趾指紋を調査した島(1959)も、この資料と集団は体質的には樺太混血アイヌとするのがむしろ妥当であると述べている。


資料と調査地概要

樺太アイヌを対象としてとくに調査した地区は、天塩郡豊富村稚咲内、常呂郡常呂町、斜里郡斜里町ウトロ、広尾郡広尾町である。そのほか各地のアイヌ部落で少数ではあるが、樺太アイヌを追加しえた地区は、釧路地方では白糠町、弟子屈町屈斜路コタン、日高地方では平取町ペナコレ、浦河町入船、ほかに名寄市内淵である。十勝地方の大津にも2,3世帯が在住するので訪ねたが、出稼のため調査不能であった。そのほか釧路市内、網走市内などにも移住している。

豊富村稚咲内(第1図):天塩サロベツ原野の東方海岸地帯で利尻島の対岸にあたる。


宗谷本線豊富駅前からバスの便がある。樺太在住当時の漁業組合員が協力してこの
地に開拓漁民として入殖したものである(1950)。

樺太西海岸の多蘭泊在住者がもつとも多く、ほかに久春内、智来、少数の東海岸白浜も含まれている。1952年の部落構成は第1表の通りである。

第1表 天塩郡豊富村稚咲内
第1図 北海道天塩郡豊富村稚咲内
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


この部落の三分の一が樺太アイヌ系であって、移住樺太アイヌの集落としてはもつとも大きい。大部分は漁業を専業とするが、漁閑期には農業や出稼をする。生活程度は全般的にやや良好である。

常呂町:住居は常呂町市街に散在するが、引揚者住宅に住むものが多く、漁業または日雇に従事する。和人の家族を含めて世帯数19、人口106人、生活程度は低い。

斜里町ウトロ:オヅペ附近の海岸に、漁業または日雇として6世帯が居住する。
広尾町:広尾町市街に約6世帯が移住しているが、少数を除き調査対象とすることは困難であった。
調査対象はアイヌ成人、児童のほか、とくに稚咲内地区では部落内の和人(一部はアイヌの配偶者)も含めたので計300人以上に達したが、この研究の対象に該当する樺太アイヌ成人は男子14人、女子15人にすぎなかった。ただし耳垂の形態、味盲については児童も含めた。
資料の年令構成はやや高年に偏している。


研究方法

生体計測は MARTIN(1957)および文部省科研の日本人の生体測定班(1949〜53)の協
定によった。計測者による個人差をさけるために、一般計測は小浜が担当し、従来と同一手法によった。計測項目と指数は成績表に示す通りであり、特殊な項目については表の脚註に説明を加えた。


鎌田(1958)のプロフィル計はわれわれの試作したものであり、基準軸を両側外耳孔に挿入して、ゴム帯によって計器を頭頂部に牽引固定する。基準軸上縁は外耳孔上縁(Tragionにほぼ一致する)に接して固定される。正中面において軸中心より顔面各点の長さとその角度が計測できる。
耳垂形態の分類は上田ら(1957)の基準によった。
味盲の検出に使用した P.T.C.(Phenylthiocarbamide)は1/40モルのアルコール溶液とし、これを濾紙に浸して乾燥したものである。判定には充分の時間をかけて味わせ、苦味を訴えないものを味盲とした。

この研究では樺太アイヌ成人男女の特性を追究するとともに、小浜ら(1951〜)によつて調査された北海道純アイヌ(*153、♀252人)、混血アイヌ(*132、♀185人)および樺太和人(樺太アイヌと同一部落に居住し、一部はアイヌの配偶者となっている。東北、北陸出身者が多い)と比較した。そのほか古屋(1937)、横尾(1939)、須田(1942)による樺太在の ギ リヤ,ーク、 オロッ コ と も対 比 した 。 そ れ ぞ れ の 測 度 、 指 数 を 比 較 す る と と も に、 平 住均比法1/SΣ|M1-M2|δ に よって 各 集 団 間類 以 度 を 数 量 的 に検 討 を 加 え た。

I)体部の計測について(第2表、第2図)
1)身長

樺太アイヌの身長(*159.74、♀148.49cm)はやや低いようであるが、資料が高年に偏しているから、これを修正(小浜1954)すれば、男子は160cmを突破し、北海道アイヌ男子(160.12cm)とも大差なく、また一般日本人平均(160.24cm)にも劣るものではなかろう。


2)下肢長、〓幹長、上肢長とその比例値

これらの測度は身長に相関が高く、
計測値は身長に比例することが多い
が、われわれがさきに指摘したよう
に、アイヌは日本人よりも比下肢長が
大きく、比〓幹長が小さい特徴をもつ
ている。その傾向はとくに北海道純ア
イヌに著しく、混アイヌは和人との中
間にある。樺太アイヌの比下肢長(*
54.94、♀55.28)、比〓幹長(*25.47、
♀25.05)は両性ともに北海道純アイ
ヌに近い。比上肢長もアイヌは一般に
すぐれているが、樺太アイヌも同様に
大きく、とくに女子は北海道純アイヌ
を凌駕する。
樺太アイヌの体部の特性は北海道純
アイヌにもつとも近く、ついで北海道
混アイヌであり、樺太和人とはかなり
(26)
北海道に移住した樺太アイヌの形質人類学的研究 27
第2表 樺太アイヌ体部(測度はcm)
(下肢長は腸骨上前棘高を代用、〓幹長は胸骨上縁高より腸骨上前棘高を引いた測度)
離れている。和人は東北、北陸系であり、畿内系日本人との差異はさらにはなはだしい。
)頭 部 の 計 測 につ いて(第3表 、 第3図) II

第3表 樺太アイヌ頭部(測度はmm)
(頭耳高は間接法による)

第3図 男子頭部の比較
1)頭長、頭巾、頭長巾指数
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja


アイヌ頭部のもつとも著しい特徴は
頭長の大きいことである。日本人のう
ちでは東北、裏日本系が畿内系に比し
頭長は大きいが、アイヌには及ぼな
い。混血アイヌはその中間に位する。
樺太アイヌ男子(194.08mm)は北海
道純アイヌ(197.65mm)よりは小さ
く、日本人としては大きい部類に入る
樺太和人(192.36mm)よりは大きく、
混アイヌ(194.73mm)に近似する。
頭巾は樺太アイヌ(151.85mm)と北
海道アイヌとの間に大差を認めない。
樺太アイヌ女子の頭長(189.60mm)、
とくに頭巾(147.47mm)は北海道ア
イヌよりも大きい。

樺太アイヌ男子の頭長巾指数(78.28)は中頭の中位にあり、北海道純アイヌ(76.55)より大きく、混アイヌ(78.03)に類似している。古屋による樺太アイヌはわれわれの成績よりも頭長(196.9mm)は大きく、頭長巾指数(76.73)は小さく、一層アイヌ的な特性を示し、とくに樺太東海岸に顕著な傾向を認める。樺太アイヌ女子の頭長(189.60mm)とくに頭巾(147.47mm)は北海道アイヌ(188.85,145.19mm)よりも大きく、頭長巾指数(77.85)は北海道純アイヌ(76.91)と混アイヌ(78.38)との中間にあり、樺太和人女子はさらに大きく79.77である。

第4図に示すように、アイヌは長頭または中頭の下限にあるが、頭長はもつとも大きく、頭巾は中等度であり、図の右上方に特異のサークルを形成している。

ミクロネシヤやメラネシヤの一部にも指数として長頭はあるが、頭長、頭巾の絶
対値においてアイヌとは著しい差異を認め、アイヌと同族とは解しがたい。

混血アイヌは日本人の東北・裏日本群と純ア第4図 頭長頭巾よりみた樺太アイヌと近隣種族との関係イヌの中間にある。

樺太アイヌを図上にプロットすると混血アイヌ群の右上に位している。

樺太在住のギリヤーク、オロッコはアイヌとは遠く離れ、短頭または超短頭であり、ツングス 、 蒙 古人サ ー クル に入 り、 ア イ ヌ とは 著 し くへ だ たって い る 。 ー


2)頭耳高、頭長高指数、頭巾高指数

樺太アイヌ男子の頭耳高(128.85mm)は北海道アイヌ(130.52mm)よりやや小さく、長
高指数(66.39)では大差ないが、巾高指数(84.88)ではやや小さい。樺太アイヌ女子の頭耳高(122.40mm)、長高指数(64.56)、巾高指数(83.08)は北海道アイヌよりは小さい。

樺太アイヌの頭部はアイヌ的特性を示すが、北海道純アイヌよりも混血アイヌに類似する。

日本人のうちでは、樺太和人などの東北・裏日本系に近く、畿内日本人やギリヤーク、オロッコとは著しくへだたっている。


)顔 部 計 測 に つ い て(第4表 、II第I 5,6図)

1)頬骨弓巾、頭巾頬骨弓指数(頭顔指数)

平井(1927)は樺太アイヌの頭蓋骨を研究し、顔頭蓋の特徴として、頬骨弓巾、顔面高が北海道アイヌに比し著しく大きいことを報告している。樺太アイヌ女子の頬骨弓巾(137.60(28)


第4表 樺太アイヌ顔部(測度はmm)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja

1)形態顔面高、鼻高Iの計測点は Supraorbitale と正中線の交点、鼻高IIは鼻背最凹点。

2)下顎角巾の計測は Gleitzirkel により両側 Gonion を下方より測る。この方法によれば咬筋附着部の厚さが加わらない。 Tasterzirke1 による従来の計測法は過大である。

第5図 男子顔部の比較(I)

は北海道アイヌ(136.61mm)よりも
大きいが、男子(143.62mm)は北海
道純アイヌ(145.08mm)よりもむし
ろ小さく、指数(94.63)も同様であ
り、混アイヌ(94.95)に近い。女子
は頭巾も大きいから、指数(93.39)
は北海道純アイヌ(94.07)よりも小
さく、混アイヌ(93.39)に近似する。
2)下顎角巾、下顎指数
樺太アイヌ男子の下顎角巾(97.67
mm)、下顎指数(67.84)はともに北
海道アイヌ(98.99mm,68.23)より小
さい。樺太アイヌ女子も同様である。
3)顔面高、顔面指数
樺太アイヌ男子の容貌顔面高(192.64
mm)、形態顔面高(137.67mm)はと
もに北海道アイヌ(191.46,135.43mm)
のそれを凌駕する。指数(134.81,
96.09)においても同じ傾向を認める。
女子についても容貌顔面高(182.31

形態顔面高(130.23mm)は北
海道アイヌ(180.22,126.89mm)より
大きいが、女子は頬骨弓巾も大きいか
ら、容貌顔面指数(132.99)は大差な
いが、形態顔面指数(94.97)では大き
い。樺太アイヌの顔面高は生体におい
ても明らかに大きく、前述の頭蓋(平
井)の特徴を裏がきしている。


4)鼻高、鼻巾、鼻高巾指数
北海道アイヌは和人に比し鼻高は小
さく、鼻巾が大きいことをすでに指摘
したが、樺太アイヌにおいては男子鼻
高I(61.43mm)とくにII(49.50
mm)は北海道アイヌ(59.43,46.30
mm)より大きく、鼻巾(37.50mm)
は北海道純アイヌ(38.51mm)よりは
小さく、混アイヌ(37.20mm)とは大
差ない。従って、樺太アイヌの鼻指数
(61.11)、II(76.04)は 明 らか にI北海道純アイヌ(64.97,83.61)より小さい。女子の鼻高I(57.67mm)、II(44.20mm)は北海道純アイヌ(56.03,41.94mm)よ
り大きいが、鼻巾(36.13mm)もまた大きく、鼻指数I(62.83)では北海道純アイヌ(62.57)と大差なく、II(82.33)では北海道純アイヌ(83.70)と混アイヌ(80.89)との中間にある。

樺太アイヌは両性ともに北海道純アイヌに比し、鼻高IIがとくに高く、鼻背最凹点は上位にあることがわかる。このことはプロフィル計の成績によく示されている。

5)耳長、耳巾、耳長巾指数

樺太アイヌ男子の耳長(66.57mm)は北海道純アイヌ(66.96mm)と大差なく、耳巾
(37.00mm)はやや大きいから、耳指数では樺太アイヌ(55.79)が大きい。女子の耳長(64.
31mm)は大きく、耳巾(35.00mm)は北海道アイヌに近いから、指数(54.42)としては
小さい。
樺太アイヌの顔部の特徴は、北海道アイヌに比し顔面高、鼻高の大きいことである。樺太アイヌの顔部は北海道純アイヌよりも混アイヌ、ついで和人に類似する。
)平 均 偏 差 比 に よ る類 似 度 の 検 討 IV
樺太アイヌ男子平均値を基準として、北海道純アイヌ、混血アイヌ、樺太和人との関係を偏差折線で図示した(第7図)。またこの関係を平均偏差法によって総合し、相互間の類似度を数量的に検討した。体部、頭部、顔部の特性のうち比較的相関の低い項目を選んだ。

体部:身長、比下肢長、比〓幹長、比上肢長
頭部:頭長、頭巾、頭長巾指数、頭耳高、頭長高指数、頭巾高指数
顔部:頬骨弓巾、頭巾頬骨弓指数、下顎角巾、下顎角指数、容貌顔面高、容貌顔面指数、


第7図 樺太アイヌを基準とした偏差折線

HA は北海道純アイヌ、HM は北海道混血アイヌ、SJ は樺太和人
形態顔面高、形態顔面指数、鼻高II、鼻巾、耳長、耳巾、耳長巾指数
樺太アイヌ男子に対するそれぞれの平均偏差比はつぎの通りである。
平均偏差比に示されるように、樺太アイヌは体部については北海道純アイヌ(0.106)にもつとも近似し、ついで混アイヌ(0.243)、和人(0.532)とはかなり離れている。頭部については北海道混アイヌ(0.150)に類似度高く、和人(0.208)これにつぎ、北海道純アイヌ(0.377)とは類似度がやや低い。ギリヤーク(1.795)、オロッコ(1.997)は1σ 以上の偏差を示し、遠く離れている。

顔部については北海道混アイヌ(0.242)に中等度近似し、和人(0.284)
これにつぎ、北海道純アイヌ(0.445)はややへだたっている。

総合類似度からみれば、樺太アイヌは3者のうち北海道混血アイヌ(0.212)にもつとも折い関係を示している。

V)側面観について(第5表、第8図)

第8図は男子について樺太アイヌと北海道日
高アイヌ(池田ほか1956)の側面観を重ねて作
図したものである。われわれのプロフィル計器
の軸は外耳孔上縁に固定され、ほぼ Tragion

第5表プロフィル計による樺太アイヌ側面観の計測
V は耳眼水平面においてOより鉛直な頭頂部の点
は鼻背最凹点 n
第8図 顔部側面観
樺太アイヌと北海道アイヌの比較*
第6表 耳垂型
第6図 味盲率の比較

に一致しているが、池田らの計器の軸は外耳孔
下縁に固定されているから、これを修正して比
較したものである。
樺太アイヌは北海道アイヌに比し Vertex は
低く、 Trichion,Glabella,Nasion (鼻背最凹
点)は高く、しかも後退している。従って樺太
アイヌ頭蓋(平井)の研究に示されているよう
に、前頭側面角は北海道アイヌより小さい。ま
た樺太アイヌ鼻高が大きいことも明らかに認め
られる。 Pronasale,Subnasale より Gnathionまでの各点はやや突出している。
この側面観によって樺太アイヌ顔部の特性が明らかに示されている。

)耳 垂 の 形 態 に つ い て(第6表) VI
北海道純アイヌの耳垂分離型は高率であり96.2%に達する。樺太アイヌは72.59%でやや低いが、和人59.3%よりは高率である。


)味 盲 に つ いて(第9図) VII

アイヌの P.T.C. 味盲については近藤(1951)、吉井・上森(1956)の研究がある。北海道純アイヌの味盲率(3.94%)は低いが、樺太アイヌは5.26%を示してこれに近く、日本人(10〜15%)よりは低率である。


要約
樺太アイヌは、はじめ1875年に北海道に移住し、1905年に樺太に復帰、1945年にふたたび北海道に移住して今日に至っている。したがってその純血度を追求することは、はなはだ困難である。

現代樺太アイヌの形質のうちで原樺太アイヌの特徴として残されている形質は、顔高と鼻高の大きいことである。そのほかの諸特性は認めがたく、恐らくは混血によってその特性を失ったものであろう。

現代樺太アイヌの諸形質を総合すれば、北海道混血アイヌにもつとも近似する。
体部は北海道純アイヌにやや近く、樺太和人とは遠いが、頭部、顔部は北海道純アイヌよりも和人に接近し、ギリヤーク、オロッコとはもつとも離れている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/72/1/72_1_24/_pdf/-char/ja
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
2. 中川隆[-15081] koaQ7Jey 2019年12月21日 12:56:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2122]
山本五十六の真実@
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html

まず最初にお詫びと訂正をします。

ゴードン・プランゲ著『トラ・トラ・トラ』を、山本五十六の弁護に使ったのは私の認識不足でした。
プランゲはGHQの諜報部門G2に所属する立場にあることは知っていましたが、
千早正隆氏の協力を得て膨大な資料と聞き取りで検証した力作であるという所感を持っていました。

しかし本書の目的はやはり、
真珠湾攻撃と山本五十六を分かちがたく結びつけるプロパガンダでした。
私の認識不足をお詫びします。

プランゲは貴重な資料をそっくり頂戴して、
奉職するメリーランド大学に「プランゲ文庫」を創設したそうです。
プロパガンダであることを念頭に置いても目を通す価値はあると、
今でも思っていることを付記します。
島崎和重隊長が当日の朝訓示を受ける写真を見ると、
いかに彼らが与えられた任務を遂行ずべく命を懸けたかが伝わってきます。


河合千代子についても私の認識不足でした。
彼女はシンプソン夫人と同類項であると考えるようになりました。
ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、
親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除したようです。
彼は自分のお城にエドワード八世を招待し、既婚で凄腕のシンプソン夫人を差し向けました。

シンプソン夫人は駐英大使リッペントロープ(後の独外相)とも愛人関係にあり、
ナチスドイツが英国に勝利した暁には「ナチス帝国イギリス領」をプレゼントする、
という餌が与えられていたと伝えられています。

ヒトラーとリッペントロープが二人の誘拐を図り、
それを阻止すべくチャーチルがMI6を動かす。
いざという時は二人を殺せという指令が出ていたようです。
チャーチルはエドワード八世の醜聞に一役買っていた張本人。
指令を出していたヴィクター・ロスチャイルドはMI5所属。
鬼塚氏によるとヴィクターはIQ184だそうです。
頭が良いだけでなく万能だったということです。

私は河合千代子もある意図を持って、山本五十六に近づいた刺客だと思っていす。
戦後になって河合千代子が自己申告した恋愛関係は捏造であると考えています。
19通だけ残したというラブレターの経緯について、
「大量にあったラブレターを海軍が没収し、
後で全て焼却するようにと返却してくれた。
19通だけ手元に残して焼いた。元は山のようにあった」
という証言は辻褄が合いません。
海軍が全て焼却すれば済む話です。
「海軍が自決を迫った」というのもマユツバです。
そんなに重要人物だったらさっさと片付けているでしょう。

里見ク(さとみとん)が昭和二十二年七月に発表した小説『いろおとこ』は、
真珠湾攻撃の二ヶ月前の山本五十六と河合千代子の交情を示唆する短編小説です。
里見クの家系図を見ると何と実兄の有島生馬が原田熊雄の妹と結婚している。
原田熊雄はヨハンセングループの中でも狂言回しを受け持つ重要な人物です。

阿川弘之の『山本五十六』に至っては、かなり露骨にバイアスが露骨が掛けられています。
工藤美代子は著書『海燃ゆ 山本五十六の生涯』で次のように指摘しています。

『千代子に関しては阿川弘之著「山本五十六」に詳しい。阿川は千代子について書くために五十六をテーマに選んだのではないかと思われるほど力を込めてこの女性を描いている。しかし、そのために、五十六と禮子(注 五十六の妻)が不仲であったと強調したり、禮子の人柄をおとしめるような記述がある。』

彼女は戦後、沼津御用邸の傍で料亭を開いています。
河合千代子を使って山本五十六を貶める。
そういうイメージ操作を図る勢力が裏にいたと思われます。
よって河合千代子の証言を引用したのは私の誤りです。
お詫びして訂正します。


では本論に入ります。


叩き台として中田安彦『山本五十六と聖書』を使います。
数ある誹謗中傷の中でも最低だと思うからです。
「・・・というのが私の仮説」
と称してくだらない言いがかりをズラズラと並べた挙句、
「検証する資料がない仮説だから証明できない」
と自らを免罪しています。
私はこんな卑怯な言辞を見たことがありません。


中田君、山本五十六は君の故郷の偉人ではないか。
どうして故人の心象を掘り下げてあげないのだ。
死人に口無しの誹謗中傷プロパガンダに飛びつくのだ。
私は君がこれほど情けないバカとは思わなかった。
山本五十六の無念を晴らすのは本来君の役目のはずだ。
君が山本五十六を貶め私が弁護してどうするのだ。


まず私の結論を述べます。


◎山本五十六は国家スパイでも売国奴でもない。

◎山本五十六は生きていなかった。

◎真珠湾攻撃は山本五十六の創案ではない。

◎真珠湾攻撃が準備されたのは第一次世界大戦の直後からである。

◎真珠湾攻撃の創案者はウイリアム・ヴィンセント・アスター卿である。

◎もしくは彼を中心とする親ドイツ派グループ「クリブデン・セット」である。

◎その元締めはドイツ国際問題研究所である。太平洋問題研究所はダミーである。

◎20世紀はドイツ・イルミナテイが乱を演出した世紀なのである。

◎英米は花形役者の役を振り当てられた囮である。

◎真珠湾攻撃のカウンターパートナーは昭和天皇である。

◎真珠湾攻撃は連合艦隊司令長官の宿命である。

◎山本五十六を人選した人物はヨハンセングループの中にいる。


◎総論

第一次世界大戦が終了した直後の1919年6月、
「パリ平和会議」という名前の次の戦争を練る会議が開催される。
日本の全権大使一行の内訳は西園寺公望、その私設秘書である近衛文麿、
牧野伸顕、その私設秘書である女婿の吉田茂。松岡洋右以下略。

直前の5月30日、世界に乱を演出して儲ける主要メンバーが集結する。
彼らはパリ・マジェステイックホテルの一室で談合し、
政府に政策(という名の悪事)を進言する(という形で命令する)機関として、
IIA、CFR、IPRを設立する。

この時IPRの創立に関わり財政支援したのがアスター家である。
真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。

彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、
英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。

そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。
パリ平和会議日本全権大使一行としてヨハンセングループがパリに赴き、
そのシナリオを受け取り昭和天皇に渡す。

ヨハンセングループは真珠湾攻撃を演じさせる役者を物色する。
悪意に満ち姦計に長けた人選がなされる。
日米開戦に絶対反対派の海軍次官であり、
かつての「賊軍」の名家を継いだ者に白羽の矢を当てる。

やがて時は流れ1939年9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻し、
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦の八百長が幕を切る。
直前の1939年8月30日に任命された海軍連合艦隊司令長官は、
真珠湾攻撃を遂行するために人選されたのである。

この連合艦隊司令長官は最初から汚名を被る宿命にある。
真珠湾攻撃の重要なポイントは鮮やかな奇襲ではなく、
わざと通達を遅らせ卑怯な騙まし討ちにすることにある。
アメリカ国民と議会を怒り心頭にし即参戦させ、
ジャップスを無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させるためである。
八百長だから連合艦隊司令長官が第二次第三次攻撃を指揮することは許されない。


フリッツ・ズプリングマイヤー著『イルミナテイ 悪魔の13血流』太田龍監訳 KKベストセラーズ刊行より

以下抜粋

『ベルギー南部に一つの城がある。(その地を旅行してこの城を見たいという人がいれば、地図で場所を示してご説明しよう)。これはマザーズ・オブ・ダークネス城である。城の中には聖堂があり、この聖堂の地下室では毎日小さな赤ん坊が生贄にされている。そしてその血はインクとして、反キリストが権力を握っていく歴史を特別大きな本に書き込むのに用いられる。この書物は二十四時間ほとんど休みなしに書き込まれる。この手書きの本のなかの歴史を読めば、世界の主要なマスメデイアがだまされやすい大衆に対して行っている宣伝活動の裏に、どんな真実があるのか明らかになるだろう』

以上抜粋。


◎総論続き

マザーズ・オブ・ダークネス城で二十四時間書き継がれてきた歴史書には、
真珠湾攻撃の謀略の仔細が記されているだろう。
真珠湾攻撃を創案した者たちの意図、それが用意された時期、
そして日本の海軍連合艦隊司令長官にその役を振り当てた経緯が、
赤ん坊の血のインクで細大漏らさず書かれていると確信する。


スプリングマイヤー氏の前掲書より再び抜粋。


『一九一九年五月三十日パリ平和会議に向う代表団の主要メンバー数人がパリのホテル・マジェステイックに集まり、国際問題について各政府に進言を行うことを目的とした国際グループの設立を話し合った。国際問題研究所という名称はこの会議で決定した。』


『六月五日の会議では相互協力し合う別々の組織を持つことが最善であろうと立案者たちは決定した。その結果外交問題評議会(CFR)がニューヨークの本部を置き、その姉妹機関でチャタム・ハウス研究グループとしても知られているロンドンの王立問題研究所(RIIA)がイギリス政府に進言する目的で組織された。(注 ユースタス・マリンズによるとこの逆でIRRAの下部組織としてCFRが創設されたとしている)補助機関の太平洋問題研究所(IPR)は極東問題を専門的に扱う(だけでなく、真珠湾攻撃を助成する)ために設立された。』


以上抜粋。


◎総論続き

スプリングマイヤー氏は、

『同時にフランクフルトに設立された「ドイツ国際問題研究所』に関する研究は、これまで目にしたことがないが、このグループが第二次世界大戦の発生に、どのように関わったか調べてみれば興味深いだろう』

と重要な示唆をしている。
LEGACY OF ACHESの管理人様によると、、
地図には載せられていないロスチャイルド家の本拠地が、
ドイツの「ダッハウ」にあるという。
ナチス・ドイツの強制収容所のあった地である。

ロンドンのシテイーにあるロス茶帝国は、見せかけの囮だと私は考えている。
イギリスもアメリカも、所詮シナリオを演じる舞台に過ぎないのである。
戦争に明け暮れた20世紀は、英米が八百長の主役を演じた。
しかし想起してほしい。イルミナテイのルーツはドイツにあるのだ。

恐らく彼らの「約束の地」とはクリミヤでもなければ勿論イスラエルでもない。


再び前掲書より抜粋。

『男の仮の名はアダム・ワイスハウプト(一七四八〜一八三〇)である。・・・一七七六年五月一日・・・ワイスハウプトは、ババリア公国(ドイツ)のインゴルシュタットでルシファー[堕天使]を崇拝する秘密教団を設立した。教団の名は「イルミナテイ」。この名称は「光を受けた者」「啓蒙された者」を意味し、そのメンバーはルシファーから秘密の(同盟団の)教えを受けたということを示していた。ルシファーは彼らにとっての光を掲げる存在、あるいは光をもたらす源と考えられた。ワイスハウプトは同盟団の悪魔の血流から潤沢な資金と特別待遇を受けていたが、彼らにとって使い勝手のいい理想的な表看板、広告塔に過ぎなかった。』


『イルミナテイが存続する唯一の道は姿を隠し続けることだった。それゆえ入会者はイニシエーションにおいて沈黙の宣誓を行い、秘密保持を誓わされた。誓いの言葉の一部には「和あたしは永遠の沈黙と、教団への揺らぐことのない忠誠と服従を誓い・・・」とある、誓いの言葉はさらに続き、もしも教団を離れたりその計画を洩らすようなことがあった場合には、どのような恐ろしい目に遭うかを語ってゆく。』


『イルミナテイを詐術の壁の背後に隠しておくため、ワイスハウプトは信者に対して、悪魔の目標の達成については嘘をつくように言っている。「あるときはそれなりのことを言い、別のときには違ったことを言わなければならない・・・そうすれば、本当はどういう方向で考えているのか、私たちの心を読まれることはなくなる。」世間の目を欺く手段としては、表象やペンネームの使用がある。ワイスハウプトのまたの暗号名はスパルタカスだった。』


『十九世紀の終わりごろになるとイルミナテイは外貌を変え始める。高位階の者が害のなさそうな名称でうわべだけの組織を作り、自分たちの会合を隠蔽し始めたのである。一九〇一年にはアスター家が尽力してピルグルム・ソサエテイ(巡礼者会)なるものが創設された。これは英米のイルミナテイのうち、プリンスと呼ばれる六親等のメンバーのための隠れ蓑である。』


『一九一九年、RIIAが作られ、アスター家はその財政支援の中心となった。RIIAは四親等以内のイルミナテイの隠れ蓑として機能している。アスター家はまた、イギリス版スカル&ボーン・ソサエテイともいうべき「ザ・グループ」のなかでも飛び抜けた存在となっている。イギリスではアスター家とその他の約二十の血族が「ザ・グループ」を支配している。』


『アスター家は他にもオーウエン・ラテイモアをアヘン貿易の代理人として使い、その代わりにラテイモアは、IPR(太平洋問題研究所)から資金を受けていたローラ・スペルマン(カトリック枢機卿)を利用していた。IPRは、イルミナテイの決定に従って、アヘン貿易に参加した中共を監督した。』


『世界の大事件の後ろで人形を操る意図は一般大衆には見えないかもしれない。が、いくつかの大事件の根源をたどっていけば、アスター家が手を貸して糸を引いていることが分かる。例えば、IPRは真珠湾攻撃の下地作りを助成した。』


以上抜粋。


◎総論続き

アスター家はドイツ南西部から、アメリカに移民してきたルーツを持つ。
ドイツ・ハイデルベルクでの魔女集会で、指導的な役割を果たしていた一族である。
アメリカに移住して、サタン崇拝のエリートたちを支配し、
麻薬貿易の他に、毛皮貿易を独占して貴族階級の地位を確保し、
その後イギリスに移住して貴族となる。

彼らは代理人を通じて、現在もアメリカで強大な金融力を振るっている。
アスター家のコレクションのなかに、ルーズヴェルト大統領の祖先デラノ家が入る。
デラノ家は千年以上も続くベネチアの黒い貴族の一つである。

アスター家は「IPR」を財政支援する一方で、「クリブデン・セット」を組織する。
アスター卿の屋敷に出入りする、親ドイツ派の政治家や金融家たちグループである。
彼らは営々とヒトラーを育てて「乱」を演出し、「真珠湾攻撃」の下地作りをする。
アスター卿はイングランド銀行の深奥にある小部屋に出入りを許されている。
ここが「世界権力政府」のロッジである。

私は真珠湾攻撃の創案者はヴィンセント・アスター卿だと思う。


鬼塚英昭著『20世紀のファウスト』成甲書房より


以下抜粋。


『二十年前の資料によってもアスター家の資産は四百億ドル以上である。ロスチャイルド家、ロックフェラー家と並ぶ世界の大富豪である。そのジョン・ジェイコブ・アルターはイギリスに渡って金で貴族の地位を買い、アスター卿となった。息子のウイリアム・B・アスターはアメリカの各企業に投資して巨大組織を作った。』


『一九一九年、RIIA(王立国際問題研究所)がつくられ、アスター家はその中心となった。ここからCFR(外交問題評議会)が生まれた。このことはすでに書いた。ハリマンとヴィンセント・アスターは長年の友人だった。ヴィンセント・アスターは「ヴィンセント・アスター財団」をつくり、アメリカの世論を対ドイツ戦に誘導しようとした。アスター家は、イギリスとアメリカで正反対の行動をとるのである。では彼らは仲違いしたのだろうか。ここに戦争がどうして起こるかの秘密がある。彼らはユダヤ王ロスチャイルドの「標準操作方式」を採用しているのである。』


『ヴィンセント・アスターについてもう少し書くことにしよう。イギリスのアスター家が「クリブデン・パーテイー」』を作り、ナチス・ドイツを讃えていた頃に、ヴィンセント・アスターを中心とした「ルーム」と呼ばれる秘密組織が出来た。アスターは情報を収集するために「ルーム」に人員を集めた。この情報をルーズヴェルト大統領に伝える一方で、アメリカの世論を誘導するための活動に入っていった。』


『アスターはセオドア・ルーズヴェルトの次男カーミット・ルーズヴェルトをこの「ルーム」に入れた。チェース・ナショナル銀行頭取のウインスロップ・オルドリッチも加わった。「諜報活動と破壊活動には金がかかる」とは、アスターがよく使っていた言葉である。』


『イギリスのバッキンガムにあるアスター卿夫妻の別荘に時折、奇妙な人々が集まり世界情勢について話し合っていた。その一部の政治家と金融グループは「クリブデン・セット」と呼ばれていた。ロンドン・シテイ(ユダヤ王ロスチャイルドの完全支配化にある)と金融業会から「多額の資金援助」を受けていた親ドイツ派グループであった。彼らは、ロックフェラー、モルガン、ハリマンなどのニューヨーク・ウオール街関係者たちと一脈を通じていた。当時の駐英大使ジョセフ・ケネデイ(JFKの父親)もこの一派とみなされていた。』


『イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン卿とハリマンにとって深い関係にあるのがアスター家である。このアスター家を知ると、戦争がどうして、何のために起こるのかが分かってくる。』

『イングランド銀行の深奥の部屋の中には、棺桶とアカシアの小枝が置かれている。この部屋に入った者はみな、誓いの言葉を述べるのである。”私はこれによって、ここにおいて、私が授かった、または授かろうとしている、あるいは将来授かるであろういかなる技術も、秘術も、古代フリーメーソンの神秘も、いつも喜んで受け入れ、隠匿し、その一部を一点たりとも決して外部に漏洩しないことを、最も厳重に心より約束し、誓います。”』


『イングランド銀行のロッジには世界の秘密が隠されたままである。イギリス王室、ロスチャイルド、ブラウン家以外にも、アスター家、サッスーン家、デボンシア家などの貴族が、このロッジに入ることができる。このロッジの中から、世界権力政府が数々の人材を世に送り出すことになる。イギリス首相のチャーチル、アメリカではルーズベルと大統領を操ったバーナード・バルーク、そして、レーニン、スターリン、ヒトラーたちである。』


『ヒトラーを支援し、総裁の地位に押し上げたのはイギリスの「クリブデン・セット」であるとすでに書いた。アスター子爵家に集う政治家ないし金融街シテイの連中のことだが、このアスター一族のほぼ全員RIIAのメンバーであった。中でも、M・L・アスターはタイムズの会長であり、ハンブローズ銀行の役員でもあった。タイムズ紙はRIIAの管理下にあることを知る必要がある。』


『RIIAの連中は「クリブデン・セット」を使い、一方でヒトラーに資金援助し、ナチス・ドイツを強大化し、同じやり方でヒトラー打倒の手を打っていくのである。こうすれば、戦争が勃発し世界が混乱するから、不幸な人々の富を奪い得るのである。一極集中の権威は戦争の中からしか生まれてこないのである。ユダヤ思想と反ユダヤ思想とは、黒い貴族たちの間では決して矛盾するものではない。彼らの思想の根底にはヘーゲル哲学の「決定論」が脈打っている。これを金儲けに応用しているのである。二つの相対する勢力をでっち上げ、これを互いに闘わせて、一つの「総合」を得るという方法である。親ユダヤ対反ユダヤの効果として、一つの総合であるユダヤによる世界統一
政府が出来るというわけである。』


『日露戦争を見るとこの方法が採用されたことがよく理解できる。ロスチャイルドは「西洋の敵」である日本に援助を与えた。それは帝政ロシアを滅ぼすための一手段として、日本を利用しようとしたのである。では日本が敗北していたらどうなっていたか。日本の諸権益を奪えばそれでよかったのである。債権を持つロスチャイルドは日本銀行をイングランド銀行やアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のような組織にしたであろう。ユダヤ王ロスチャイルドは、金を貸して利を得ることが第一の目的で、日露戦争に協力したということなのである。従って、次に日本を敗北させてしまえば、日露戦争で儲けた分の数十倍も金が儲けられると計算したということである。日露戦争から第
二次世界大戦にいたる軍拡国家日本に巨大な投資をし、巨大な利益を上げた。そして一気にぶっ壊すべく動いたのである。』


以上抜粋。


◎総論続き

ロス茶一族のバーナード・バルークと、
CFRの創始者であるエドワード・マンデル・ハウス大佐が、
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトを大統領に育てる。

アメリカに留学していた牧野伸顕と、ハウス大佐は知己である。
宮廷政治の王・牧野のお膳立てで、女婿の吉田茂がハウス大佐と面談する。
「外交感覚のない国民は必ず凋落する」
という有名なアドヴァイスを貰うのである。
この場合「外交」というのは連中の「シナリオ」のことである。

牧野伸顕の娘であり吉田茂の妻でもある雪子は、
グルー大使夫人アリスの大の「親友」になり、
「シナリオ」に沿った洗脳教育を施されている。
アリスはペリー総督の末裔でピカピカノイルミナテイである。
アリスの夫のグルーはヨハンセングループと連中の情報交換の窓口である。

牧野雪子と鍋島信子と九条節子(後の貞明皇后)。
アリスはこの全員と付き合いがある。
アリスの娘のエルシーも凄い。
雪子の娘・和子も、信子の娘・勢津子とも付き合う。
そこに来栖三郎の娘・ヤヱが加わる。

鍋島信子は元会津藩主・松平容保候の四男松平恒雄と結婚する。
信子の長姉は梨本宮伊都子、次姉は加賀前田家の当主に嫁ぐ。
凄い名家である。この信子と松平恒雄が結婚するのだ。
信子は貞明皇后に14年間仕えている。

貞明皇后と松平家の深い絆は更に強化される。
貞明皇后は盲愛する秩父宮の嫁に松平恒雄の娘を所望する。
使者に立てられたのは「堅く結ばれている」樺山愛輔。

松平恒雄が駐米大使としてワシントンに滞在中の縁談である。
この時の大使館付き海軍武官が山本五十六である。
会津藩と同盟を結んでいた長岡藩の山本家を継いだ五十六に、
松平恒雄は好意を抱いて家族ぐるみの付き合いをしている。
五十六は勢津子を中華料理店に連れ出してご馳走したりしている。

鬼塚氏によると後の2・26は皇位奪取を狙った秩父宮の画策だという。
これは松平恒雄を岳父に仰いだ第二の戊辰戦争だと私は思う。
起爆剤を仕込んだのは極端な長州嫌いの貞明皇后である。

貞明皇后がその出自ゆえに極端な長州嫌いであること。
貞明皇后と昭和天皇の間に確執があること。
これを理解するこが昭和の闇を解くことに繋がる。

昭和天皇は愛を知らない。
そして2・26の後で変貌を遂げる。
日本史上空前のモンスターになる。
私にはそのように見える。
これについては次回以降詳説する。

恒雄の娘・勢津子は、樺山愛輔の娘・正子と親友である。
松平恒雄と樺山愛輔も親友同士である。
樺山愛輔と吉田茂もご近所同士で親しい。
そこへ吉田の紹介で白洲次郎が加わる。
樺山愛輔邸に出入りして娘の正子と結婚する。

正子&次郎人気を煽るプロパガンダ写真集を眺めると、
白洲次郎の容貌も言動も日本人ではない。
彼は日本人を指して「They」と呼ぶ。日常語も英語である。
父親が破産して山奥に逃げ込んでいるのに、オックスフォードに留学して外車を乗り回す。
鬼塚氏は白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェントだと指摘する。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。

牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。
山本五十六は貞明皇后に連なる松平恒雄を通して、
こんな連中に挟まれていたのである。

海の向こうでもシナリオは着々として進行している。
ルーズヴェルトが大統領に就任する直前に、ステイムソンが打ち合わせに入る。
一九三三年一月フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、
”極東に揉め事を引き起こすこと必定”
と批判された「ステイムソン・ドクトリン」を引っ提げて歴史の表舞台に登場する。
以後、アメリカ史上空前絶後の大統領選四選を果たしつつシナリオを演じて行く。

一九三三一年一月、ほぼ同時にヒトラーが政権に就く。
極端な善玉と悪玉を東西に配置し、
12年後に同時に舞台から退かせる構想である。
やがてヒトラーに侵略戦争を開始させ、
徹底抗戦派のチャーチル英首相を登場させる。
次にバルバロッサ作戦で、
ヒトラーにスターリンを侵攻させ役者を揃える。

バルバロッサ作戦は日本に対英米戦争を開始させる合図でもある。
シナリオでは開戦劈頭「真珠湾攻撃」の「騙まし討ち」をさせることになっている。
アメリカ国民を怒り心頭に発させ、無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させる。
一九一九年のパリ平和会議でIPRが設立され「真珠湾攻撃」が創案された当初から、
「リメンバー・パールハーバー」は決定済み事項なのである。

では『20世紀のファウスト』ことアヴェレル・ハリマンに、以上の経緯を総括して貰う。


『ハリマンがドノヴァンと同時に、ルーズヴェルト大統領の陣容に入れるために動かした人物がいた。その男の名はヘンリー・ステイムソンという。ハリマンの古い友人の一人である。ステイムソンはハリマンと同じエール大学出身。しかもスカル&ボーンズの会員であった。ハリマンの先輩として、ウオール街でハリマンの仕事を手伝うパートナーとして、深い友情で結ばれていた。ステイムソンは黒い貴族の中でも特別の存在だった。ユダヤ王ロスチャイルドに最も近い人間であったからだ。世界権力(ザ・オーダー)の中にいたのである。大統領を動かすアメリカの黒幕だった。』


『大統領就任式まであと二ヶ月と迫った一九三三年一月九日、ルーズヴェルトはハイドパークの私邸にステイムソンを迎え、五時間に及ぶ二人だけの会談をした。この会談から一週間後、ルーズヴェルトはステイムソン・ドクトリンの支持を表明する。産経新聞取材班の『ルーズベルト秘録』のなかに、ルーズベルトのブレーンのレイモンド・モーレイが嘆く場面が描かれている。「・・・・・極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じことだ。いずれ米英が日本に対して戦争を仕掛けることになるかもしれない」モーレイの予感は見事に的中した。あの五時間に及ぶ会談こそが、世界権力(ザ・オーダー)がルーズヴェルトを見事に説得し終えた証左であった。』


『ルーズヴェルトは大統領に就任する前に、真珠湾攻撃のスケジュールをステイムソンから知らされていたものと思われる。ルーズヴェルトの見張り役であるラファイエット・パークのバーナード・バルークのお目に適ったステイムソンは、「ジャップスに真珠湾をやらせよ」を実現させる役を引き受けたのである。大統領も国務長官も、ロックフェラーやモルガンやハリマンたちより権力を持っていないのである。アメリカを実質的に支配するのは「合法的マフィア」である。そして彼らの背後にユダヤ王ロスチャイルドがいて、「合法的マフィア」を操るのである。』


『ハリマンがユダヤ人の実業家バーナード・バルークとアメリカの将来について話し合いを持つようになったのは、一九三一年から一九三に年の間であろう。バルークは、共和党のハーバード・フーバーに代えて、民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトを大統領にしようとしていた頃であった。ルーズヴェルトをニューヨーク州知事に祭り上げた主役はバルークであった。』


『一七〇〇年代、ドイツのフランクフルトにユダヤ人ゲットーがあった。その中に軒を寄り添うようにして、ユダヤ王ロスチャイルド家、カーン家、シフ家、そしてバルーク家があった。彼らはこのゲットーの中から出発した一族であった。バルークは第一次世界大戦のときウイルソン大統領の顧問となり、アメリカを戦争に導いた男だった。戦争産業局の長官となり、アメリカの軍需産業の利益のために活躍した。ハリマンの父エドワードの投機株を一手に引き受けてもいた。この関係は、父が亡くなってからも続いていた。バルークはハリマンにロスチャイルドの意向を伝えていたのだろう。』


『バルークはユダヤ人なのでWASPたちの名門クラブには入れなかった。そこで、ユダヤ人経営者たちを仲間に誘い、秘密結社的なクラブを作った。それは「ラファイエット・パーク」と呼ばれるようになった。このクラブには、バルークとともにウイルソン大統領を操ったエドワード・マンデル・ハウス大佐が加入した。アヴェレル・ハリマンやルーズヴェルト大統領の叔父フレデリック・デラノも、このクラブに顔を出すようになった。』


『ホワイトハウスから道を隔ててラファイエット・パークがある。この公園と同じ名前をつけた秘密クラブは「第二のホワイトハウス」とも呼ばれた。このクラブの中で武器貸与法の法案が作られたのである。ルーズヴェルトを大統領に育て上げたバルークとハウス大佐は、ルーズヴェルト大統領をラファイエット・パークの密室に呼びつけ、数々の政策の実行を迫った。この当時、アメリカの人々は、武器貸与法はイギリスとフランス、そしてポーランドに適用されると思っていた。それがソヴィエトに適用されると知り驚いたのである。ハリマンはスターリンと会見すべく海路モスクワに向う艦船の中で「与え、与え、そして与えよ、一切の見返りを考えず」と語り、記者団を驚かせた。』


『航空機だけをとっても一万機以上、戦車も軍需用燃料もタダで、しかも無尽蔵に近いかたちでアメリカから受領した。「貸与」ではあったが、戦後も返さなかった。アメリカも強く「返せ」とは要求しなかった。これも八百長と言われても仕方がない。戦争が終わった瞬間から、アメリカはソヴィエトを「悪の帝国」と言い出すのだから。』


『また、バルーク一族の財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアもこのパークの密室に出入りし、アメリカの財政についてバルークやハウス大佐と相談し、大統領にメモや書類を渡してアメリカの政治そのものを動かした。ルーズヴェルトが大統領に就任する前、一つの密約が成立していた。大統領はモーゲンソーの「メモ」の内容に無条件に従うというものである。ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社がナチス・ドイツへの投資窓口となったとき、正式な国交もなく政府の保証もないのにウオール街が湯水のように資金を投資したのは、秘密裡に米大統領の保証を得ていからである。』


◎総論続き

イギリスでヒトラーを育てた「クリブデン・セット」。
ホワイトハウスを操る「ラファイエット・パーク」。
では宿命の「連合艦隊司令長官」役に山本五十六を配した人物は誰か。

真珠湾攻撃の反対派を押し切るためには人望と実行力がいる。
それを兼ね備えている五十六の人となりを知る人物である。
一九一九年のパリ平和会議における日本全権大使一行、
すなわち「ヨハンセングループ」の首魁・牧野以下に連なる人物が仲介し、
最終決定者は昭和天皇その人であると私は考える。

山本五十六が「連合艦隊司令長官」に任命されるのは1939年8月。
その翌月9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が勃発する。
この時期に「連合艦隊司令長官」に選ばれた者が「真珠湾攻撃」を遂行する。
「真珠湾攻撃」は「連合艦隊指令長官」の宿命なのである。

「ナチスがポーランドに侵攻しただけで何で世界大戦になるの?」
という素朴な疑問を橋本治が呈している。そういうシナリオなのである。
山本五十六は「いつのまにか真珠湾攻撃を口にするようになった」ということになっている。
「いつのまにか」ではなく第二次世界開戦の翌年1940年11月に口にしている。
開戦は避けられないシナリオでなのある。五十六は自分に降りかかった宿命を悟る。

その翌年1941年1月には極秘裏に昭和天皇と検討に入る。
「真珠湾攻撃」を成功させて早期和平を図る。
死地に活路を見出すしかない。

しかし「奇襲」ではなく「騙まし討ち」であること。
早期和平はあり得ないこと。いざとなったら使い捨てであること。
それらは当然伏せられていただろう。

五十六は真珠湾攻撃を大西田瀧次郎と源田実に検討させ、
作戦会議に臨んで断言する。
「真珠湾攻撃が認められなかったら司令長官を降りる」
「本職が連合艦隊司令長官にある限り、真珠湾攻撃は絶対に遂行する」
五十六がブラフをかけたと非難されるネタの一つである

私はこれは五十六の身を振り絞るような逆説だと解釈する。
「連合艦隊司令長官」である限り「真珠湾攻撃」をしなければならない。
攻撃作戦を裁可させることが出来ない場合、司令長官の職を辞すまでである。

そして実際にそういう道もあったのである。
しかし五十六は攻撃を遂行する道を選ぶ。
どうして五十六は降りなかったのか。

この続きは次回に述べます。
中田君の『ジャパンハンドラーズと国際金融』の検証は、
その後にやります。もう少しお待ちください。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
3. 中川隆[-15080] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:03:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2121]
山本五十六の真実A吉田茂を中心にシナリオを読み解くと真実が見えてくる
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/674.html

五十六を連合艦隊司令長官に任命した人物は1919年パリ講和会議に出席している。
その人物はヨハンセングループの中にいると前回書いた。
ヨハンセングループとは、憲兵隊に付けられた吉田反戦グループをもじったものであるが、
牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎らが本命であって、他のメンバーは目くらましである。
その中でも本命はこの世に生まれおちた時からアヘン王の掌中にあった吉田茂である。
起きた事象を逆照射すると吉田茂が姿を現わす。彼こそがシナリオの主人公なのである。
CIAの最高傑作といわれる吉田茂とは何者か。
彼はザ・オーダーの隠し玉である。


1939年8月30日に連合艦隊司令長官に任命された人物は、
1919年ヴィンセント・アスター卿らによって準備され始めたシナリオを演じる宿命にあった。
アスター家は奴隷と麻薬貿易でオールドマネーに成り上がったドイツ移民である。
アスター卿と吉田茂はザ・オーダーの最終兵器である麻薬で繋がっている。


真珠湾攻撃のヤラセはまず人事移動から始まる。
人事の動きを見ると汚れ役が山本五十六に押し付けられると同時に、
舞台から退場したキーパーソンがいる。駐英大使・吉田茂である。
吉田はこの時以降現役から退き、戦時内閣とは一切関わらないようにしている。


吉田は1937年9月3日帰朝命令を受け、11月29日に帰国する。
帰国と同時に外務省を退官する決意を固めている。
吉田が退官願いを提出するや1938年3月20日付けで、
「願いにより本官を免ずる」との辞令が出され、戦争が終了するまで浪人生活を続ける。
浪人中の吉田茂は新橋の芸者通いをしながら、家族ぐるみでグルー米国大使一家と交歓する。
その吉田が引っ込んだ5ヵ月後、19398月3日付けで山本五十六が連合艦隊司令長官に任命され、
その二日後の9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻、即座にチャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。
一年後の1940年9月に三国同盟が締結され、同時期にナチス・ドイツがロンドン空爆を開始するのである。


「明治維新」によって確立した体制はトロイの木馬のようなものである。
「国体の精華」とはコンプラドールが権力の中枢を把握する体制なのだ。
この体制は戦後も不変である。邪魔になる人物は戦死か暗殺か戦犯処刑で始末された。
五十六の暗殺には吉田茂と白洲次郎と海軍主計が関わっている。
功を立てた海軍主計は、若手議員となって吉田内閣の予算委員会で原発導入を通過させた。
中曽根康弘である。原発利権の主役は中曽根&正力ではなく吉田茂&中曽根康弘なのである。
白洲次郎は原爆投下の交渉まで主役を務め、やがて講和条約締結の後は主流から外れる。
しかし彼は死ぬまで任を解かれることのない掟に生きなければならなかった。
彼は生まれた時からそのように育てられ墓場まで秘密を持っていった。


白洲次郎は生涯エージェントとして終わったが、吉田茂は第二の伊藤博文になった。
伊藤博文はアヘン王サッスーンが派遣したグラバーに魂を売り渡した下忍(インテリジェンス)である。
吉田茂も生後10日で吉田健三のもとに養子に出され長じて同じ道を歩む。
実父の竹内綱も養父の吉田健三もジャーデイン・マセソン商会の旨い汁を吸った仲間同士だ。
吉田健三は用済みになるや49才で心臓麻痺で急死させられ、茂に60億の遺産を残す。
茂は外務次官になるまでにこれを蕩尽したが、『使途は不明』というのが通説とされている。


吉田茂が白洲次郎と違って決定的に有利だったのは、自分のカネをもっていたことである。
ヴィンセント・アスターは「諜報活動には金がかかる」と言っている。
吉田茂は潤沢な資金を元手に、独自のコネクションを創って秘密工作を仕掛ける。
白洲次郎は独自のコネクションを持つことができないので、吉田茂の右腕となる。
吉田茂と白洲次郎には厳然とした違いがある。


『吉田茂は、明治11(1878)年9月22日生まれである。その業績は誰もが承知するところだが、奇妙なことながら吉田の出生にまつわるいくつかの問題にはまるで霧がかかったように曖昧なまま時間が過ぎてきた。昭和42年10月20日に没するまで、89年に及ぶ波乱の生涯を通じて、はっきりしているのは誕生日だけである。吉田がどこで生まれたか、母はどういう立場の女性だったのか−吉田茂という、これだけの人物にしてなお肝心な点が不明瞭なまま諸説乱れ飛んでいるのが実情である。吉田自身、長じて自らの出自や幼年時代を語ることをあまり好まず、かえって出生にまつわるなんらかの影を負っていたのではないかと後年指摘される素因ともなっている』(工藤美代子『赫ヤクたる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社より)


『さて、養父・吉田健三についてである。彼は嘉永2年(1849年)5月6日、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として生まれ、親戚の家を継いで吉田姓となった。元治元年(1864年)、15歳の時、大阪に出て医学を修めたが、これからは英学の時代だと思い直し、長崎への留学を決意する。そして慶応2年(1866年)には何と密航を企てる。見つかったら死罪だが、長崎から英国の軍艦にうまくもぐりこんだ彼は雑役夫として働かせてもらいながら、上海からシンガポールを経て欧州へと渡った。イギリスには二年滞在。この間に養った語学力がその後の彼の人生を決定付けた。ちょうど帰国した年に明治維新があり、健三は自分の時代が来たことを実感する。

まず手はじめに川村純義海軍卿(白洲正子の祖父)に食い込み、彼から軍艦二隻の発注を受けた。ジャーデイン・マセソン商会を通じて英国に注文を出した。当時、ジャーデイン・マセソン商会は極東における最大最強の英国商社である。とりわけ明治維新前後は最盛期に当たり貿易のみならず金融、海運、倉庫、保険、紡績等を世界各地に展開して巨利をあげていた。日本では横浜に支店を、長崎、兵庫、大阪、函館には代理店を置いていた。ちなみに長崎の代理店を任されていたのが、長崎名所のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーである。そのうちジャーデイン・マセソン商会は無給でなく月給300円(現在の600万円ほど)という破格の待遇をするようになる。土佐自由党の竹内綱は、高島炭鉱の経営に関してジャーデイン・マセソン商会・長崎支配人のグラバーと手を組んだことから、健三とも急速に親密の度を加えていった。』(北康利『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社より)


『吉田健三には並々ならぬ蓄財の才があったことが証明されている。商才に加えて、自信と勤勉さが備わっていた。彼は真冬でも午前四時に起きて、家族や使用人を叱咤して仕事を始めた。蓄財を重ねていた吉田健三は、当時の金で実に遺産五十万円という大金を養子の茂に残して亡くなった。茂が相続した遺産五十万円はその割合でみれば、なんと六十億円という莫大なものである。ところが茂は昭和初年の次官就任時頃までにはその遺産の大部分を使い尽くしてしまった。』(工藤美代子前掲書より)


戦後吉田と組んだ昭和天皇は奇しくも言った。
「戦前戦中戦後を通じて私に矛盾は無い。天皇制も連続している。
明治天皇が五箇条の御誓文で、すでに今日の民主主義の基礎を築かれていたからだ」
目を剥く方もいると思う。私もその一人だったが、しかしそれは思慮が足りないのである。
大宰相吉田茂に焦点を合わせ、明治以来の事象を逆照射すると確かに連続している。
彼を機軸にシナリオを読み解くと、福島原発事故に至る今日まで連続線が引かれている。
これを反対に遡れば、田布施村から輩出された連中が引いた始点に繋がっている。
その始点はアヘン戦争から始まる。


『「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」

この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。

デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。


1773〜1842年の「三角貿易」体制 イギリスは、アジアとの貿易を行なうため、1600年に「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。


ところで、中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。


トーマス・グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡しに関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。


彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。ジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている』(http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe100.html『アヘン戦争の舞台裏』より)


『ジャーディン・マセソン商会の前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。

1859年(安政6年)、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)が横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。1863年(文久3年)、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援する。彼らの英国滞在は、ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話した。

一方長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバーは、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。ウィリアム・ジャーディン - 創業者 ジェームス・マセソン - 創業者 ケズウィック・ファミリー - オーナー家 トーマス・ブレーク・グラバー - 「マセソン商会・長崎代理人」としてグラバー商会を設立 吉田健三 - 元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長(内閣総理大臣吉田茂の義父)』(ウイキペデイアより)


『日本は、1842年、アヘン戦争の結果、中国の実権が皇帝から宋財閥のものとなったこと、そしてこの宋財閥はサッスーンの代理人であったこと、さらにはサッスーンは英国ロスチャイルド家の東アジア代理人であったこと、そして最後に、英国ロスチャイルド家は初代ロスチャイルドがヨーロッパ五カ国に張り巡らした金融寡頭権力体制オリガルキーの中核であったこと、このロスチャイルド家は19世紀中葉、世界の富の大半を支配下に置いていたこと、こうした東アジアをめぐる世界の激動について何も知らない。上海に拠点を構築した英国ロスチャイルド、サッスーンは、日本が欧米列強によって半植民地状態に置かれると、間もなくトーマス・グラバーを長崎に派遣して、英国系フリーメーソン駐日代表、および英国の日本占領作戦の前線総指揮たらしめた。グラバーは二十歳代の若者に過ぎないが、その背後にひそむ勢力が日本人には見えない。』(太田龍『長州の天皇征伐』成甲書房より)


『トマス・ブレーク・グラバーはスコッチ・メーソンで、上海経由で長崎に渡ったのは1856年、21歳の時である。グラバーは長崎で海産物の輸出をしていたが、薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩に倒幕の機運が生じたので、鉄砲、弾悪、火薬を諸藩へ調達した、薩摩の小松帯刀と親しくなり、小松を通じて土佐の坂本竜馬を職り、坂本竜馬とは特別な関係を持った。薩長離反のときなどには坂本竜馬に薩長同盟の組み立てをさせて革命勢力の統一を計っている。また坂本竜馬を通じて岩倉具視と親しくなり、官邸にも接近、日本とヨーロッパを結ぶ楔の役目をしている。とくに木戸孝允、伊藤博文、井上馨、五大友厚、森有礼、寺島宗則などには、公私の交際を続け、明治革命の裏方の役目を果たしている。(山石太郎『世界の改造者−楽園を創るフリーメーソン物語』世界連邦国際学会より)


『伊藤は松蔭の推薦で米原良蔵に従って長崎に行き、約一年間イギリス人グラバーの下僕として英語を学んだ。伊藤博文が成功した理由は、彼がれっきとした武士ではなく貧農の出身であったために、グラバー邸のハウスキーパーとなり、その愛顧を得て鉄砲の買い付けに成功したこと、および力士隊の総長として大室寅之祐と親しくしたことの二つである。伊藤は自らイギリス人グラバーの下僕となって武器弾薬を入手し、ついにイギリスの差別と侵略の政治を模倣した。』(鹿島昇『日本侵略興亡史』より)


『明治新体制になると、グラバーは日本に帰化して「倉場」と改姓し、日本人女性と結婚して一家を構えている。今日でも長崎には「グラバー邸」跡が保存され、いわゆる観光名所である。そこにはフリーメーソンのシンボルが刻印されており、幕末、このグラバー邸が、西洋フリーメーソンの策源地であったことを証明している。日本帝国内閣総理大臣伊藤博文が、そのグラバーの下男であったとはどういうことだ。通常の歴史書には、グラバーは「英国商人」「英国武器商人」「グラバー商会の長」として、ほんの申し訳程度に登場するに過ぎない。』(太田龍『天皇破壊史』成甲書房より)


太田龍『麻薬とユダヤの陰謀史』成甲書房より

以下抜粋。


『英国が中国(清王朝)に仕掛けた「阿片戦争」は、日本の歴史の教科書でも、名前ぐらいは出てきます。ところが、どうしたことか、筆者の知る限り、明治以降今日まで、この阿片戦争を本格的に掘り下げて解明した本は、ただの一冊もないのです。これは決して偶然ではありません。日本の学会(東京帝大と慶応大学を起点とする)とジャーナリズムの中に、英国の恥部を究明することを抑止する絶対的な悪魔の手が伸びていたのです。ユダヤは、この英国の仮面をつけて麻薬ビジネスを取り仕切っている。英国の王室と貴族階級が闇の中で麻薬ビジネスに取り込まれており、彼らは、労せずして莫大な悪魔のカネを手に入れる立場にあった。つまり、それほどに、この英国の王室と貴族は、腐敗と堕落のただ中に生きていたのです。ユダヤが吸血鬼として英国に取り憑いてから、約350年。その英国の現状は、いや惨状というべきか、どうでしょうか?』


『「ドープ・インク(Dope INC.)という、戦慄すべき著作を入手しました。その日本語訳は「麻薬株式会社」でしょうか。ドープは麻薬、インクはインコーポレーション(株式会社)。実質的な著者はリンドン・ラルーシュというアメリカの政治家です。ラルーシュはアメリカ労働党という小政党の指導者だったようですが、彼は1977年に、アメリカ国民は、カーター大統領の政権によって推進されている非合法な麻薬ビジネス汚染に、反対する戦いに立ち上がらねばならないことを自覚しました。1978年春にラルーシュは、アメリカ労働党内に麻薬問題の調査班を作り、こうして、「麻薬株式会社ドープ・インク」の第一版が1978年に公刊された、とあります。ラルーシュは「麻薬に反対する政治活動家」であり、ラルーシュによって組織された調査班の結晶としての同書の第一版は、全世界に広がる麻薬ビジネスの全貌を白日のもとにさらけ出した最初の著作である、とされます。』


『同書の出帆の直後から、ヘンリー・キッシンジャーと、ブナイブリス(”誓約の兄弟たち” ユダヤ人のみの高級秘密結社)のアンチ・デフオメーション・リーグ(”ADL ユダヤ人名誉毀損防止法” ブナイブリスの下部組織 麻薬ビジネスに関与)は同書の著者たちを沈黙させるための謀略活動を開始した、と記されています。1982年には、キッシンジャーの提案によって「ラルーシュ退治機動部隊タスク・フォース」が組織されたのだそうです。』


『1986年に、同書の第二版が出版されました。その1986年10月に、400名以上の警察官が動員されてラルーシュの関係する幾つかの事務所を襲いました。そして、ラルーシュと彼の仲間たちは逮捕され、外国の情報部と結びついていたなどとの理由で裁判にかけられた、というのですが、この事件の経過については、筆者の知る限り、日本のマスコミはたったの一行も報道しておりません。陪審員はラルーシュらに対し、無罪の票決を下したにも拘わらず、裁判所はこれを破棄して、1989年1月、ラルーシュに懲役15年の刑を言い渡したとありますから、現在、ラルーシュはアメリカの刑務所に幽閉されているわけです。』


『筆者が入手したものは、1922年発行の第三版で、697頁という大著です。これほどの著作(そして筆者)が、これまで日本人に全く知らされていなかった、一語も報道されなかった、というのはどういうことなのか。ラルーシュの本は、麻薬ビジネスを遂行しているのはアメリカ政府である、いや、アメリカ政府を背後で動かしているより大きな世界地下帝国であることを論証している、従って、アメリカ政府とそれよりも大きな世界的権力そのものをまな板の上に乗せて料理しようとするのが、ラルーシュの立場です。』


『ラルーシュは「麻薬株式会社ドープ・インク」の第七部で「組織された犯罪」を論じ、「犯罪インターナショナル」の実在を検証し、更に、英国の「国際暗殺局(ブリテイッシュ・インターナショナル・アサシネーション・ビューロー・バーミンデックス)」が1963年の米ケネデイ大統領の暗殺に関与した、としています。1963年の春から夏、秋にかけて、カリブ海のジャマイカ島モンテゴ湾の某所で、ケネデイ大統領を葬り去るための英国の秘密諜報部が主催する国際会議が開かれた、というのです。彼らがケネデイを暗殺しなければならなかった理由は、同大統領が麻薬ビジネスを抑止することを本気で考えたことである、つまり、地下世界帝国にとってケネデイは除去すべき障害物となったらしいです。』


『リンドン・ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」の第三部八章は、「RIIA(英国王立国際問題研究所)は、どのようにして麻薬その他の汚いお金を動かしているか」を詳細に解き明かしています。RIIAは1919年に設立された、と記録されています。つまり、まぎれもない、第一次世界大戦の終了の直後です。王立と名が冠せられているからには、れっきとした英国王室公認の機関であることが分ります。RIIAとその周辺、その関係諸団体の実相について、必ず参照しなければならない古典的学術書は、アメリカ、ジョージタウン大学(これはイエズス会系です)の教授をしていたキャロル・キグリーの「悲劇と希望−我が時代の世界史」という1300頁余の大著といわれています。』


『キグリー教授の説明によれば、19世紀の末に大英帝国の支配層の中に、ジョン・ラスキン、セシル・ローズを中心とする秘密結社が結成された。そしてこの秘密結社が次第に成長して、円卓会議(ラウンド・テーブル)、セシル・ローズ奨学金、ミルナーグループ、などとなり、アメリカにもその支部のごときものがつくられた(それをアメリカでは東部エスタブリッシュメントなどと称する)、この秘密結社の「フロント組織」としてRIIAが設立された、というのです。一応こんな具合に記述されるのですが、セシル・ローズもミルナーも、実は、英国ロスチャイルド財閥の使い走りに過ぎないように見えます。』


『ラルーシュらの「麻薬株式会社ドープ・インク」によると、世界の麻薬貿易(及びその他の汚い商売)の頂点に、RIIA司令部(ロンドン、セント・ジェームス・スクエア、チャタムハウス)が位置している、とあります。RIIAは英国の国家そのものと言ってもよい。英国政府の政治的承認及び、世界の金融市場、世界の金とダイヤモンド市場の力のすべてをもってする支援と便宜なしに、RIIAが管理する世界麻薬ビジネスの運営は不可能である−と、ラルーシュらは述べています。』


『幕末の尊王攘夷の志士たちは、英国が清国に仕掛けた阿片戦争の不正、邪悪をしっかりと意識批判していました。ところが、手品でも使ったように、明治の新政府から英国への警戒感、英国が悪魔的麻薬ビジネスに関与していることへの批判が消えてしまうのです。のみならず、世界の超大国、大英帝国への崇拝、媚びへつらいの感情が支配的になっていくのです。その結果、「日本の皇室のモデルは英国王室である」などという、途方もなく愚かな見解が、堂々とまかり通っているのです。歴史の真相を知ると、真に日本人として、顔から火が出るかと思われるほど恥ずかしい話です。「ユダヤ陰謀説は狂人の幻想だ!」などと、フリーメーソン直結の国賊、小和田元外務事務次官(雅子妃の父君)は口走ったそうですが・・・フリーメーソンは「三百人委員会」の下部組織であり、従って必然的に国際敵麻薬貿易を支えているものと推定されますので、日本民族のその最高指導層の、少なくとも三人(中曽根元首相、竹下元首相、金丸元副首相)が麻薬ビジネスとの関係を云々されるという、非常事態に突入しました。』


『筆者は最近、アメリカで発見され、復刻公刊されている、一冊の超極秘文書を入手しました。それは「静かな戦争のための沈黙の兵器(サイレント・ウエポンズ・フォー・クワイエット・ウオー)と題されています。この秘密文書は、1986年にカリフォルニアで、全く偶然に発見されたそうです。それによれば、1954年、国際エリートが会議を開き、全世界の大衆を家畜化(そして集団的大量殺害)するための第三次世界大戦をひそかに宣戦布告した、というのです。この静かな戦争の主たる兵器は、コンピューターであり、生物兵器、心理兵器であり、戦争を仕掛けられている大衆は、それに気づかない。この「国際」エリートが依拠する根本思想は、あの初代ロスチャイルドが発見した、と銘記されていますから、「彼ら」の正体が国際ユダヤ指導部であることは自明のところでしょう。現代の麻薬は、実に、この沈黙の兵器体系の一つ(しかも最も重要なものの一つ)として位置づけられているらしいのです。』


以上抜粋。


太田龍は中曽根と麻薬ビジネスについて言及している。
中曽根元海軍主計は吉田茂のコネクションである。
では吉田の「右腕」といわれた白洲次郎とは何者か。
昨今白洲次郎&正子ブームが到来する陰で、
次郎叩きも同時進行している。
次郎は「日本一カッコいい」「風の男」なのか。
はたまた「プリンシプルのない」「日本一最低の男」なのか。
次郎の相反する言葉の中にヒントがある。

『素朴な正義感は貴いものだと思う。これだけは死ぬまで捨てない。僕の幼稚な正義感にさわるものはみんなフッとばしてしまう。』

『僕は知らんよ!知ってたとしても僕は何も喋らんよ。僕は口が堅いからここまで生きてこれたんだっ!』

次郎は「葬式無用」「戒名無用」と正子に遺言した。
これはカッコいいセリフとして写真付きで公開されている。
しかしそこには無惨な心情が潜んでいると私は思う。
次郎の一見カッコいいセリフの裏には常に別の本心が隠されている。
私は白洲次郎という男は、正義感どころか誇りさえ持てなかったと思う。
白洲次郎はそういう宿命を負って生まれてきた子どもである。
彼は生涯『素朴な正義感』を持つことが許されなかった。
いざというときフッとばされるのは『僕の幼稚な正義感』の方だったのだ。
真実を知ってたとしても喋ることはできない。口が堅くなければ生きて行けない。
エージェントとして宿命づけられた白洲次郎のプリンシプルである。


『私が、学校の宿題などで辞書を引くのが面倒くさいときに英単語の意味を問いますと、父は英語を日本語に訳せないことがしばしばありました。息子さんの留学の相談にみえた方に、「僕のようになるからあまり小さい時に外国にやらない方がいいよ」と言っていたそうです。父の生涯を通じてのイギリスの友人、ロビンおじによりますと、ジローは大学に入ってきた時にはもう英語が出来たというのです。父にそのことを聞いてもはっきりとは答えてくれず、後年不思議に思って叔母に聞きますと、ハイカラだった彼等の家庭では、子ども達を神戸の日曜学校に行かせていて、教会の牧師様に英語を教わっていたということでした。』(牧山桂子『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』より)


日曜学校で英語を習った程度で、次郎のような言語的奇形にはならないだろう。
兄弟姉妹もケンブリッジ入学レベルを修得していたとでもいうのだろうか。
次郎は物心ついた時から有用な道具となるべく、言語矯正を受けさせられていた。
彼がどもる癖があったのは強制的な言語教育のストレスが考えられる。
友達と口論するとどもりながら次第に激昂し相手に手を出したという。


次郎は正子との日常会話でも英語を使っている。手紙はほとんどが英語である。
次郎のスマイソンのスケジュール帳も9割がた英語で予定が記録されている。

Masa:You are the fountain of my imspirationand the cliuax of my ideals.                             Jon

次郎が正子に送ったラヴレターも英語である。
二人には本物の情愛があったと私も感じる。
婚約者正子へ書き送ったこの最大級の賛辞も次郎の本心だと思う。
彼は最愛の正子への手紙の最後にジョンと署名している。これが彼の本当の名前なのである。
だから正子も「私の愛するJon」と返信している。彼にとって本名はジョンなのである。


S・G・ウオーバーグ投資銀行の元東京支店長クリストファー・バービスの証言

『次郎は吉田茂元首相の右腕だったと聞きましたが、なぜ彼が戦後、あれほど力を持っていたか分らないのです。また、彼は普段、手紙もメモも作成せず、口頭でメッセージを伝える事が多かった。電話でも多くを語らず、アポなしでぶらりとオフィスを訪ね、用件だけ言うと、すっと消えていきました。だから、彼のメモすら残っていないのです。 』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)


しかし彼は家族のためにシナリオの一部を洩らしている。


『白洲夫妻が東京郊外に移住を決めたのは、太平洋戦争開戦前夜の1940年のこと。それは白洲次郎がこのころ既に「日本とアメリカが戦争になれば日本が負けることが明白であり、物資の不足が懸念される」という予測を立てていたから。そこで二人は食料不足となっても困らないようにと田畑付きの農家を探したのです。鶴川で見つけたその家に移住したのだ43年のこと。その際は疎開のつもりだったものが、結局は終の棲家となり、それが現在公開されている、「武相荘(ぶあいそう)」なのです。』(和楽ムック『白洲正子のすべて』より)

もちろん次郎は日米開戦の正確な時期も知っている。
43年4月18日に五十六が暗殺され前半の区切りがつく時期も。
シナリオでは戦局が悪化していく合図なのである。
だから次郎は翌月の5月11日にに家族を連れて鶴川に疎開する。
彼は東京大空襲も事前に知っている。


『「確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・・と来たんです。私は本所に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」これは不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・』(柴田哲孝『下山事件 最後の証言』より)


『戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父がこの会社の重役であった。柴田は「我が家に白洲次郎と思われる人物が祖父や矢坂玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


『クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウオーバーグから肩書きも受けとっていなかった。しかも1982年創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見役を続けた。「ウオーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウオーバーグ卿に頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」』(徳本英一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』より)


『創業者のシグムント・ウオーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠地を持つウオーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウオーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウオーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


鬼塚氏は次郎がジミー(ジェイムス)・ウオーバーグの庶子だと推察している。
僭越ながら私も同意である。ジミーが次郎の父親だと言われても首肯できる。
次郎は父親の白洲文平より、はるかにジミー・ウオーバーグに風貌が似ている。

北康利は『次郎は母親似だ。兄弟姉妹の中で誰よりも顔立ちがよし子に似ている。
なかでも目から鼻筋にかけてのあたりはそっくりである。』
とその著書『白洲次郎 占領を背負った男』の冒頭に書いている。

しかし写真を見るとそっくりなのは、鼻筋は通っているがしょうゆ顔の長兄・尚蔵である。
よし子が小さい次郎を連れて港に行った時、「お父さんはもうすぐ外国から帰ってくるからね」
と慰められたエピソードがある。よし子にそっくりだったら言われるはずがない。
次郎の横顔を見るとかなり彫りが深く、彼の目にはアジア人の特徴である蒙古ヒダがない。

ジローという名前は白洲文平が適当につけたことになっているが、
本来ジミーをもじったものかもしれない。次郎はジローでありジョンなのである。
OSSに所属しドノヴァンの配下にいたジミーは、ジョンを通してヨハンセングループの極秘情報を得る。
スプリングマイヤー氏によると、イルミナテイは血のつながった子どもを養子に出すという。
二十年先三十年先の計画のために営々と育て、大事な局面で駒として使うためである。


『「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウオーバーグのユダヤ財閥である。一度彼等のエージェントになった者は、死ぬまで、その任を解かれることはない。FRBをつくりあげたのはポール・ウオーバーグ。その息子のジェームス・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当者となる。白洲次郎はウオーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセングループに流していく。

徳本英一郎が「一九八五年白洲次郎は生涯を閉じたが、英国流ダンデイズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起している。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した”密使”であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の”エージェント”としての顔だ」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウオーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。』(鬼塚英昭『原爆の秘密 国外編』より)


次郎は小さな子どものころからエージェントとして養育され、
望むと望まないに拘わらずケンブリッジに留学させられ、
生家の破産にともない帰国して任務についた。
次郎が外車を乗り回しているのは少年のころからである。
四万坪の敷地で高級車を乗り回していたオイリーボーイが、
ケンブリッジに行っても変らなかったというだけの話である。
「親が破産しながらウオーバーグの援助を受けて外車を乗り回していた」
という言い方は不当である。彼はそのように育てられていた。
彼は破産した親の肩代わりとして捧げられた生贄なのだ。


『白洲文平は築地大学校(一致学校、現・明治学院高校)卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。帰国後は三井銀行や鐘紡に勤めるが中途で退社。その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。

建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、それらは『白洲屋敷』と呼ばれた。兵庫県伊丹市に建築した邸宅は4万坪の敷地にコロー、モネ、マティス、ピカソなどの作品を収めた美術館や煉瓦造の給水塔などを備えたものだったという。

白洲商店は1928年(昭和3年)に昭和金融恐慌により倒産。その後は阿蘇山麓の大分県竹田市荻町に洋館を建てて移り住み、その地で死去した。』(ウイキペデイアより)


4万坪の敷地にコローやモネやマテイスやピカソを収める美術館・・・桁外れである。
白洲商店のこの繁栄もその後の破産も、すべてウオーバーグの掌の上で転がされていたと思う。
ニューヨークの大恐慌もポール・ウオーバーグが絡んでいる。彼らは好きな時に自由に恐慌が起せる。
シナリオのタイミングを見計らって恐慌を起こして白洲商店を潰し袋小路に追い詰める。
次郎はその宿命の中で「生涯を捧げなければならなかった」と私は書く。

昨今の次郎&正子ブームには、鬼籍に入った当人たちも困惑していることだろう。
白洲家の人間は二人をネタに商売しているようだ。
特にブームに乗じて紀行文やアルバム本を何冊も出している白洲信哉。
彼は小林秀雄の孫でもありながら、上っ面しか書けない不肖のボンボンである。
次郎&正子のスネをしゃぶるような本やエッセイをものして悦に入っている。
小林秀雄の名折れである。


近現代・系図ワールド参照

http://kingendaikeizu.net/seizi/asou.htm
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm

吉田茂の孫が三笠宮に嫁いでいるのが分る。


◎山本五十六を指名したのは吉田茂である。

◎山本五十六を暗殺させたのも吉田茂である。

◎吉田茂を中心にしてヤラセが行われた。

◎吉田茂が憲兵にスパイされたり逮捕されたのもヤラセ。

◎吉田茂が白洲次郎をGHQに対抗させたのは国益のためではない。

◎吉田茂は自分のものとし日本国を独立させたかったのである。

◎吉田茂はトロイの木馬の継承者である。

◎白洲次郎はプリンシプルを持てない宿命を生きた。

◎白洲次郎に中曽根康弘が取って代わった。

◎主計士官としてトラック島にいた中曽根は五十六暗殺に協力した。

◎白洲次郎と吉田茂のプロパガンダ本を量産している北康利は怪しい。


次に約束した中田君の五十六プロパガンダに反証します。

中田安彦『山本五十六の「聖書」』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/489.htmlより

以下抜粋。

『(五十六は近衛に呼ばれて)その際に「2年、3年なら暴れて見せる」と有名なセリフを語っている。これは一種のブラフであっただろうが、山本の心理を推察すれば、「最長でも2年か3年で講和に持ち込む事ができる」という彼の自信を表していたように思う。』

以上抜粋。


中田君、『2、3年』ではなくて「半年、一年」である。
これをいい加減にして山本五十六の早期講和の構想を検証しても、
仮説自体が成立しない。
もともとシナリオでも2、3年で終わらせる予定だったのだ。
五十六のブラフでも自信のほどを示すセリフでもない。
半年というのが悲願だったろう。
五十六は航空本部長として航空隊を育てているが、殉死した若者に寄せる哀悼は尋常ではない。
彼はヤラセによる戦争で犠牲者が出ることに堪えられなかったと思う。

五十六が原田熊雄に語る黙示録的予言は君も知っていることと思う。
自分の意に反して開戦しなければならない苦衷を語るものである。
自信とかブラフという言葉ほど五十六の心情から遠いものはない。
『半年や一年暴れて見せる』
というセリフが一人歩きして自信満々という誤解を生んでいる。
彼は海軍兵学校の面接試験で人生のモットーを訊かれて
『やせ我慢』と答えた人なのである。
避けられない開戦なら半年か一年は意地にかけて暴れてみせる。
どうかその期間内に講和してくれと懇願している真意を汲み取るべきだ。

五十六の黙示録と同じことを白洲次郎も語っている。
東京大空襲を予知して事前に避難しているのである。
二人ともシナリオを知っていたのだ。
同盟通信社は次郎と前出のOSSの連絡ルートだったようだが、
同盟通信社の松本重治もシナリオに一役買っている。
松本重治は神戸一中の同窓生である。
彼は広島原爆投下の演出に協力している。
この松本重治は牛場友彦ともに、近衛服毒自殺の前夜に荻外荘を訪ねている。
吉田茂は近衛服毒自殺の部屋に寝泊りし荻外荘を買い上げている。
私は吉田茂と昭和天皇が図って近衛を排除したと思う。
五摂家の筆頭である近衛家の当主は、昭和天皇の退位を勧めて抹殺された。
吉田茂にとって昭和天皇は絶対に退位してはならない掌中の玉である。
道徳的見地から退位を勧めた東大総長・南原繁を指して、
「曲学阿世の徒」と吉田茂が唾棄したエピソードは有名である。


再び「山本五十六と聖書」より以下抜粋。


『ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』

『そのような「欧風かぶれ」の気質が日本の天皇教原理主義の愛国右翼たちからは、疎まれていったのだろう。その結果、山本五十六フリーメーソン説が反ユダヤ系の国際政経学会に出回るようになったのだろうと考えられる。他にも海軍士官の立場でイギリス、豪州、米国の海軍人脈を持っていたはずである。だから、メーソンはなくとも「トランプ・ブリッジ結社」のメンバーではあったかもしれない。』

『山本は阿川弘之などの提督三部作ではこのようなキリスト教とのかかわりは一切紹介されていないはずだし、アメリカ駐在中に長岡出身の油田経営者の岸吉松とともにテキサス州のオレンジ油田を視察してもいる。そして、ハーヴァードではシェイクスピアなどを通じて語学を専攻した山本五十六だが、その際にトランプ遊びを覚えていって現地でのアメリカ人との交流を深めたのではないかと私は仮説を立てている。同時に半分はキリスト教徒ともいえる彼が現地人と共通の話題を持ったことも考えられる。』


以上抜粋。


「トランプ・ブリッジ結社」というのは初耳であるが、
トランプで現地でのアメリカ人との交流を深めて良かったではないか。
情報収集が五十六の任務なのであるから少しは役に立ったかも知れない。
仮に五十六が「半分はキリスト教徒ともいえる」としても、
「現地人と共通の話題をもったことも考えられる」ことがどうして不都合なのだろうか。
駐日大使グルー一家とヨハンセングループの家族たちは、
敬虔なキリスト教徒として家族ぐるみ交流してお互い情報収集しているのである。

また確かに五十六記念館には小さな古ぼけた聖書が展示してあり、
その説明書きには”駐在時代に買い求めたものである”とあるし、
シェイクスピア全集もコンパクトなものが数冊展示されている。
それは語学修得のテキストして買ったものであると同時に、
「仮想敵国の人間性を知るのが勝機につながる」という五十六の考えによる、
という説明がパンフレットに書かれている。
海軍大学選科(東京外語大委託生)では英文学をやらされる。
シェイクスピアを踏破するのは慣例のうちである。


再々度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。


『その背景にはいざとなれば自分のアメリカ人脈を駆使して戦争をやめることができると考えていたのだというのが私の仮説。もしかすると、五十六は実際に開戦前後も裏で交渉をしていたはずである。これは悪いいいかたをすれば「二重スパイ」のようなものだ。ところが、太平洋戦争はアメリカ国民を団結させてしまい、講話どころではなくなり、最終的には広島・長崎への原爆投下で終わった。』
そもそも駐在大使付き武官というものは情報将校ということある。
山本五十六がアメリカ国情に精通する情報将校というのは秘密でも何でもない。
油田の視察は最重要事項である。同郷の者が経営する油田を視察するのはほとんど義務といっていい。


以上抜粋。


山本五十六が二重スパイだったら、駐在付武官は全員二重スパイである。
大使館付海軍武官は、駐在員を指導する任務も帯びている。
五十六が新米駐在員に心構えを説いて聞かせている箇所を参照されたい。

反町栄一著『人間・山本五十六 元帥の生涯』 
昭和39年9月15日光和堂発行(売国奴呼ばわりされる遥か昔)より


以下抜粋。


駐米大使館附武官


大正八年四月五日には本職(軍務局局員)並びに兼職(教育本部技術員)を免ぜられ、米国駐在を仰せ付けられた。これは米国の敵情視察のためで、最初の駐屯地を米国発祥の地ボストン市に選ばれた。山本大佐の米国駐在武官たりし様子は、伊藤整一さん(元海軍中将)が最もよく語っておられた。(以下、伊藤氏の証言)

山本武官は、私が海軍大学校学生時代の軍政教官であり、また霞ヶ浦におられた時、私は航空隊附きとして三ヶ月余その部下であったが、ワシントンでお会いしたその日は、なかなか話の種が多く、全く時の移るのを忘れていたが、そろそろ空腹を感じたので、時計をのぞいて見ると、いつの間にか午後一時近くなっているが、全然昼飯は出そうにもない。二時にもなったが一向何のこともない、とうとう私も腹の虫に根負けして、「昼飯は食わせないですか」と質問した。山本武官は一寸妙な顔をされたが直ぐ「昼飯を食うのか」と反問された。

「食いますとも、腹が減ってやりきれんですよ」と答えた。武官は腕時計を見ながら「それなら早く言えばよかったに、もう二時だからレストランもホテルの食堂も刻限が過ぎている。やむを得ないから近所のイタリヤ料理にでも行こう」という事になった。私は食事をしながらどうも腑に落ちない。「武官は二食主義ですか」と質問して見た。武官は素朴な調子で「二食だとか三食だとか、そんな窮屈なことを考えるもんか。一食のこともあり二食三食のこともあり、その時に応じて融通自在さ。」との事であったが、まだ私には合点が行かぬことろがある。

その点を質すと、山本武官いわく「駐在員が一日三度の食事をしかも定刻にしよう等はもってのほかの贅沢だ。三度の食事をするの日本での話さ。君たちもアメリカに来れば、是非とも自動車は持たねばならぬ。生活費の高いこの国で、海軍士官としての体面を保たねばならぬ。何を勉強するにも高い月謝は掛けねばならぬから、極端に貧乏するに決まっている。その間にでき得るだけ視察旅行をする必要がある。否、米国の隅々、残る隈なく踏破してもらいたいのである。この旅行が将来のため、何より為になる勉強であり、研究である。室に閉じこもって英語の本を読むことも勉強かも知れぬが、それは日本にいてもできる。駐在中はこの国にいる時でなければ他所ではできないことに主力を注ぐべきで、そのうちでも旅行が一番重要だ。ところが米国は旅費がかさむことは世界一だから、平常あらゆる節約をして、旅費を蓄えることを心がける必要がある。それが為に食事なども我慢して、いよいよ空腹でやり切れなくなったら、昼食夕食を問わず食べるのだ。これで栄養不良になることもなければ元気の衰えることもない。僕が駐在時代に体験済みだ」

私はこれを聞いてすべてが氷解した。この言葉の中に山本元帥の面目躍如たるものを直感するのである。私どもはワシントン滞在中、今後の駐在地についても色々研究したり相談したりした時、山本武官の言われたことは、第一に日本語を使う機会の最も少ない所を選ぶこと、また出来得るなら大学の寄宿舎に入って、米国学生と起居を共にせよ、とのことであった。でその旨を体して、私はニューヘブンのエール大学に、小林少佐はパリストン大学に行くことにし、武官の同意を得た。


以上抜粋。


たかだか任務で計5年駐在員や駐在付武官をした五十六が「二重スパイ」なら、
アマースト大学に留学してクーリッジ(米大30代大統領)や
モロー(モルガン商会重役)とクラスメートだった樺山愛輔、
ハーバードに留学し、ウイルソン大統領を操ったマンデル・ハウス大佐と面識がある牧野、
若い頃ずっとフランスに留学して贅沢して遊んでいた西園寺公望、
グラバーに抱きかかえられ遊学していた長州ファイヴ、
官費で贅沢三昧に遊学していたこういう連中は何というのだろう。

再々再度『山本五十六と聖書』より以下抜粋。

『ここで今日になって米国のホルダー司法長官がビンラディンの暗殺について山本五十六の暗殺を例に正当化したことが思い出される。ビンラディンも当初は米国の同盟者であった。異なる勢力の間で「連絡がある」ということは重要なことである。山本五十六は戦時中、一定期間の間、泳がされていたのではないか。』

(ホルダー長官の発表)
『敵の指揮官を攻撃目標にすることは合法だ。例えば、第2次大戦中に山本(五十六・連合艦隊司令長官の搭乗機)を撃墜した時も行った
と証言し、殺害が正当だったと強調した。』


以上抜粋。


ホルダー長官のコメントには五十六をアセットと示唆する要素はない。
『敵の指揮官』という言葉以外何も提示されていない。
五十六がビン・ラデインと同類であるアセットであるという仮説は、
『すり替え』によって立てられている。

『すり替え』は中田君の全てであるといっても過言ではない。
彼のあまたの粗製濫造本はこれを機軸にして書かれている。
ブログでも同様である。
私が意見投稿をすると、即座にチャチを入れる人物の得意ワザでもある。
文章から共通の言葉を探し出して、因数分解してすり替えるのである。

ビン・ラデインは暗殺された。山本五十六も暗殺された。
暗殺で因数分解する→暗殺(ビンラデイン+と五十六)と括る。
これがすり替えの基本テクである。
括ってから違うカテゴリにすり替えるのである。

こんな風

暗殺(ビンラデイン+と五十六)=アセット。

中田君の『日本再占領』はほとんどすり替えである。
検証するためには今後も不毛な作業に耐えなければならない。

中田君のことだから、
『五十六は空軍の創設に反対し、航空戦力を削ぐことに腐心した』
という言い掛かりも信じているかもしれない。
海軍航空隊は五十六の指導のもとにゼロから始まり、血の滲むような研鑽を重ねて創ったものだ。
五十六は航空隊産みの親としてつとに知られている。民間の航空会社を指導したのも五十六である。
その五十六を差し置いて『空軍創設』が建議され、五十六が猛反対したということ自体が初耳である。


再び反町氏の前掲書より以下抜粋。


当時の思い出を美和義和氏は次のように詳しく語っておられた。(以下、美和氏の証言)

昭和二年二月から同年三月春まで、元帥が米国在勤帝国大使館附武官としてご在職中の後半を、私は後任補佐官として御仕えした。このころ武官は米国航空のことについて、犀利な眼で注視しておられた。当時大西洋横断飛行ということが米国航空界の大問題であったが、遂にリンドバーグがこれ成功し、続いてバードが最期に不時着したけれど、事実上はこれをなし遂げた。遺憾ながら我が航空界は、まだまだこれと比肩するまでに立ち至っておらぬ。

武官はこれらの飛行を研究して、意見を出せ、と言われたので、あれやこれや調べ、かつ考えている間に、フト気がついたことは、洋上長距離飛行上、計器飛行天測航法が絶対必要なことで、米国はすでにこれに着目して、立派な計器も使用していれば、またバードの飛行あたりは機上天測を実用している。これに反し、わが国では、海軍の航空でさえまだセンピル飛行から教わった、あの勘偏教育の域を脱していない。私たちはその前年、鳳翔で着艦訓練をしたが、その時でもまだ計器は当てにならぬ、勘を養わねばならぬ、と教わっていた。「チャント計器に合わせて来ました」と答えたら「何の計器が当てになるか、おれの勘の方が確かだ」となぐられてことがある。そのころは笑い事ではなかった。

そこで私は、我が海軍航空もすべからく勘飛行を脱却して、計器飛行を尊重するよう進めねば行き詰る。それにはこれこれの対策を執らねばならぬ、という意味で一文を草して武官に差し出した。武官は一読されて「その通りだ、僕も全然同意だ、ちょっと貸せ、少しなおしてやる」とて結論のところを注意を喚起さすためにか、だいぶ激しい論調に直された。その筆の跡を見ると、計器飛行及びその対策を、早く我が海軍航空に取り入れねばならぬことについては、武官の方が私よりはるかに明瞭に認識されているのが分かった。これは月報として所要の向きに送られた。


航空本部技術部長−航空技術陣の大刷新−

昭和五年九月一日には海軍省出仕航空本部長出仕を仰せ付けられ、次いで昭和五年十二月、海軍航空本部技術部長に任ぜられたのであった。ロンドン会議に於いて五・五・三を押し付けられた日本では、朝野を挙げて大論戦・大政戦が展開されていたのであったこの間にあって山本少将は、黙々として日本海軍の強化、国防の安全、ということについて、研究を重ねられたのであった。その結論が「航空建軍」であった。海軍航空を以って海軍の主力とせよ、との大結論に到達されたのであった。これは海軍に於いては、画期的な大革命であった。

しかし、当時における飛行機の実情は尚、すこぶる幼稚にして、その頃の海軍機は、母艦に搭載せる車輪付き艦船機と、軍艦に積まれた浮船付きの水上機とで、行動範囲もやっと二百海里くらいであったのだから、爆撃による補助的任務を果たすことは一般に認められたが、しかし決戦における主要兵力たるべし、とは何人も予想しなかった。「現実の飛行機は過去わずか十年間にこれだけの進歩を遂げた。将来十年における発達はさらに驚くべきものがあるに相違ない。されば将来、航空部隊が海軍の主役たるは、大地を打つよりも確かである」とは山本少将の信念であった。


本部内の消息通は次のごとく語っておられる。

「十二月、航空本部技術部長に就任した山本少将は、山梨勝之進時間の努力によって保証された政府の諒解の覚書中、航空兵力の整備、実験研究機関の奨励、及び充実のために、渾身の手腕をふるうことになった。昭和五、六年頃のわが国の飛行機の性能は、海上作戦における捜索偵察用として認められていたが、陸海軍の主要兵力としては、誰も予想している域に至っていなかった。この際、技術出身でない山本少将が、技術部長になったのには、相当の決心があったといわなければならぬ。すなわち前から胸中に描いていた『海空軍』を『空海軍』に成育させようとのどえらい抱負であった。

その具体的な方策として、航空技術神の大刷新であり、また軍部の補助に惰眠をむさぼる航空関係民間会社の徹底的な覚醒であった。飛行機は従来の幼稚な木製から、金属製の高性能機へと強推進されていった。これらの革新は、単なる言葉の上ではまことに容易であるが、利潤に生きる民間会社を指導し培養することは、決して技術問題に止まらなかった。このため山本少将の採った奨励策は、『すべてを国産品』というのであったが、他方、また外国新鋭機には惜しまず特許料を払って、この長所を学ぶことにも極めて勇敢であった。

かくて昭和六年には、基地航空隊十四隊の新設予算が成立し、同七年には、航空機の造修実験研究の綜合研究機関としての航空廠が新設されることとなった。後年雷名を馳せた中型攻撃機も、零式戦闘機も、いずれも当時苦心の結晶を結んだものであった。とにかく抽象的観念論に終始しがちの軍部の中に在って、進歩した生産設備、兵器及び技術の三拍子そろった具体的基礎の上に、海軍航空をすえ付けてやる、というのが、山本少将の根本念願であった。そしてその実現には、兵学校以来互いに心を許し合った無二の親友、堀少将が、軍務局長として相協力したことを看過できない。」


当時の航空技術につき、山本部長が血のにじむような苦心と努力をせられた事について、山県正郷氏(元中将戦死)の談話には次の如きものがある。

先ず第一の困難は、国内における航空関係工業の未発達ということであった。未発達よりも、むしろ皆無といった方が適当であった。それ程当時の海軍航空関係工場は貧弱なものであった。米・英はもちろん、伊・仏にも比較にならぬほど憐れなものであった。これを指導し充実して先進国を凌駕するの域に達せしむるのが、山本技術部長に与えられた任務であったのである。しかもこの立ち遅れた日本航空工業に対して、少将の与えられた方針は、「すべてを国産で」「国産品を使え!でないと日本の航空は独立もしないし、発達もしない」と徹底した国産品第一主義であった。

少将は、さればとて外国製品を無碍に排斥するのではなかった。外国で優秀な飛行機が製作されたとか、すばらしい発明が行われたとか聞くと、高い特許料も厭わず、真っ先に注文するのはいつも日本であった。勿論それをそのまま採用しようというのでないから、いつも注文するのは二台か三台であった。それが余りにもはげしいので、しまいには「新製作機のご注文は喜んで受けるが、どうかまとまった数を買っていただきたい」と悲鳴をあげて来たのであった。

輸入された外国機の長所はどこか、短所はどこか、長所はどうすれば国産機に採用できるか、短所は如何にして改良し得るか、こうして惜しみなく外国機を私見材料に供することにより、外国機を凌駕する国産機がどしどし製作されることになった。「外国機の輸入は我が航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ、それは日本科学の試験台なのだ。もし国産機が外国の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その代わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え。」

山本少将はこう言って、絶えず激励の言葉を送っていった。同時に山本少将は革製の回転イスに腰掛けたまま、関係者を叱咤激励するのみの、技術部長ではなかった。技術化出身でもない少将が、自ら航空工学の難問を買って出て、遮二無二技術の発達のため挺身する姿は、むしろ悲壮なものであった。それこそ真の陣頭指揮であった。少将が手がけた部品設計は、一々列挙に暇がないという。その後日本の飛行機が優秀になったのも、山本少将の精密なる頭脳と、精力絶倫の努力によるところであった。

当時の海軍航空関係の工場も貧弱であった。これを直接指導促進する技術部長の任務は並大抵ではなかった。この時までは海軍の航空機は、母艦または軍艦から発進する小型機以外、基地から発進するものは飛行艇のみであった。しかし将来海上作戦における、陸上基地より出発すつ大型機が必要なりと認められ、三菱に陸上攻撃機を製作せしめられたのは、松山部長・山本技術部長であった。この陸上攻撃機は幾多の困難があって、実用機として相当数が整備せられるまでは長年月を要したが、昭和十二年シナ事変が勃発するや、開戦劈頭、荒天を冒して渡洋爆撃を敢行し、世界を驚倒せしむるの遺功を奏したのは、要するに山本少将の先見の明と努力の賜物である。


以上抜粋。  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
4. 中川隆[-15079] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:06:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2120]
山本五十六の真実C鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/687.html

山本五十六とヨハンセングループとの関係に言及する前に、
まずみなさんの頭に入れてほしいことがあります。


DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房より

以下転載。


今日は日本の歴史について話したいと思います。それも近代から現代にかけて、明治・大正昭和にかけて、みなさんに語りたいと思います。なぜその近代というものが大事かというと、近代を知ることは、今、平成の時代に起きていることを知ることができると思っているからです。で、まず最初にですね、とんでもないって思われる方がいらっしゃるかも知れませんが・・・明治が始まる前、幕末のことを少しだけしゃべりたいと思います。


私がたぶん2006年の10月と思うんですけど、山口県の柳井(やない)市というところに行きました。そこにもうかなり高齢なんですが、松重楊江(まつしげようこう)さんという方が住んでおります。その人を訪ねて行きました。で、彼に会い色んなことを聞きました。彼の本もその前に読んでおりました。どうしても彼に会って本当のことを聞きたいと思って、色々な質問をしました。


柳井市というのは瀬戸内海に面した、山口県の広島寄りのところにある地なんです。光町(ひかりまち)というのがあって、柳井市というのがあります。その光町と柳井の間に、熊毛郡田布施町(くまけぐんたぶせちょう)という町があります。光町はかなり平野で、商業地帯で工業面も盛んです。柳井市も同じように小都市ではありますが、かなり平野部分があります。その光町と柳井の間に山が曲りくねるように競って、海に流れ落ちてるような狭い土地があります。


『熊毛』というのは、山が曲りくねるとか湾曲しているとか、そういう状態を日本人は昔から『熊毛』と言ったらしいんです。それで『熊毛』という町が日本にも沢山ありますが、大体そういう所を『熊毛』といっているみたいです。極端にいうと人が住むのにあまり適さないような所なんです。で、そこに田布施町というのがあります。海辺の、海に近い所なんですが、熊毛郡田布施町というのは、田畑もあまりなく、ほとんど雑草が生い繁るような所です。今でもコンビにがある程度ですね。商業地帯はほとんどない寂しい部落なんです。光市と柳井市にはさまれた寂しい市にですね、日本史の歴史の秘密が隠されています。田布施町と柳井の間に田布施川という川が流れています。その川の両岸から、大正から昭和それから戦争の前後にかけて凄い人材が出てきます。


ちょっと例を挙げてみましょう。明治から大正昭和期にかけて、明治では伊藤博文、ま、ちょっと場所が離れますけど山縣有朋、それから時代が昭和に近づくにつれて、岸信介・佐藤栄作の兄弟、それから田布施川を挟むようにして、代議士では難波作之助、これは難波大助という皇太子を銃でうとうとした男のお父さん、国光五郎これも代議士、で、私が注目するのは岸信介と並び3スケというのがいまして、
鮎川義介(ぎすけ)・日産コンチェルンの総帥、久原房之助(くはらふさのすけ)・日立グループの総帥、松岡洋右・戦前の外務大臣。まだいくらでもいます。共産党の書記長であった実力bPの宮本賢治、マルクス主義を世に広めた京大教授の河上肇、法律界の大御所といわれた岩田宙造、戦後最後の内務相の憲兵を組織して『日本のいちばん長い日』を演出した内務相トップの安部源基。こういうのが一度に溢れ出るように、田布施の町の周辺から登場するわけです。


なぜでしょうか。でね、そこの原因をたどる時に、どうしても一人の男にたどりつきます。私が田布施に行きまして、松重楊江という人に会って秘密を聞きました。松重楊江は私にこう言いました。「ここのそばに田布施川という小さな川がある。そこの田布施川−そのひとは柳井に住んでいます−を渡って、あの山の向こうの方から老人がいつも野菜を売りに来ていた。」


その時に私が色々雑談をしている時に奥さんも傍にいまして、奥さんもそう言いました。「そういつも野菜を売りにきていた」と。ところが時々変なことを言う。何を言ってんだといったら、『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うてるんですよ。で、松重楊江も笑っていたそうです。でも彼は宮本賢治の家のそばで宮本賢治の一族ですから、東京で共産党の幹部まで行き、宮本賢治の秘書になるような男です。故郷に帰ってきてダンボール工場をやったところが成功して、いっぱしの工場の経営者となり、息子に後を譲ってました。優秀な男なんです。で、どういうことかというと『うちのお爺ちゃんが大室寅之佑(おおむろとらのすけ)といって明治天皇になったんだ』というわけです。


話を聞いてみると何か辻褄が合うような気がする。それで色々調べているうちに、ひょっとしたらこの大室近佑(おおむろちかすけ)という老人が私に喋っているのは本当のことじゃないかと思い、萩の郷土史家を連れてきて調査した。萩の郷土史家とともに、山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。それを中央の鹿島昇という弁護士が読んで、松重楊江のところに訪ねて来ました。彼が言うのには「私は大室近佑の言う話を信じるから、近佑に会わせろ」と言った。で、まあ、近佑に会う。


それで鹿島昇と松重さんは−その当時はまったく歴史家じゃないんですけど−触発されて二人で本を出そうじゃないかと言った。それから松重楊江は近代史にのめり込むわけなんです。そして独自に調査をやり、大室寅之佑が明治天皇になった過程を、沢山の本に執筆するわけです。私も彼の本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を中心に引用するわけです。で、私はそこで止まれば別ですけど、背景を探ろうと思いまして、幕末から明治にかけての色んな文献を当たっていく過程で納得しました。たぶん間違いなく大室寅之佑が明治天皇になったんだと。


正当な歴史家には非常に申し訳ない話なんです。というのは、ある時私の所に電話がありました。

「もしもし鬼塚さんですか」
「はい」
「私はあのー歴史をやってるもんですが」
「何ですか?誰ですか?」
「秦(はた)といいます」
「秦って、先生あのー、秦郁彦(いくひこ)先生ですか?」
「そうです。あなたは、あなたの書いてる本の中で大室寅之佑を明治天皇と書いていますが証拠はあるんですか?」

と言われますから、私は数々の証拠を言いました。すると彼はこう言いました。

「大室寅之佑の戸籍を見たことがありますか?」
「いやありません」
「戸籍が無い人を、どうして明治天皇だったと言えるんですか?大室寅之佑は本当に存在したんですか?」

で、幾度も同じ質問をするので色んな面から説明したけど、彼は納得しませんでした。
で、それで今言ったように、田布施を中心とした付近から出てきた人も喋り、

「先生、宮本賢治も、野坂参三は少し場所が離れますけど、同じ山口出身ですよ」

と言ったら、彼はポッと言いました。

「鬼塚さん、私はそのことは詳しいよ」
「先生、どうして詳しいんですか?」
「私もその一族だ。田布施の川の近くで私は生まれ育った」

それで私はぴんと来ました。そうか。
歴史を隠そうとするべく現代史の大家になったのかと。
一時間くらい色々喋りました。結局、彼は最後まで

「大室寅之佑の戸籍が無いのに、どうして存在するのか?」

と言って最後は話が別れました。


戸籍が見たことがないから現実とは違うんじゃないか、という話には納得しません。明治天皇になった大室寅之佑を京都の御所に訪ねて、イギリスの外交官たちが謁見します。その時にイギリスの外交官の一人が日記に書いています。『御簾(みす)の中に大男がいた。顔色は真っ黒だった。唇に赤い紅を差していた。とても異様であった』。これは本当に異様な話なんです。孝明天皇というのは肖像画も残っていますが、細面の男です。そして睦仁(むつひと)というのがその子どもですけど、中山慶子(よしこ)と孝明天皇の間に生まれたのが明治天皇になる睦仁です。明治天皇になった大室寅之佑は中山慶子に一回も面接していません。僕はずいぶん調べました。一回も面接しない親子というのがあるでしょうか?ドナルド・キーンというのが明治天皇について書いてます。彼は一回だけ面接したというのを創生し親子の情を書いていますが、それとて一回だけしか面接をしたことがない。親子でありながらしかも一回も会ったことが無いというのは、これはもう正常ではありません。


それで中山忠能(ただやす)は公卿なんですけど日記をつけていて、『睦仁というのは非常に身体が弱くて細くていつも泣いていた』と。そしてまたある日記に突然彼は『奇兵隊天皇が生まれた』と書いてます。奇兵隊というのは高杉晋作が創り、大室寅之佑もそれに参加しました。特に身体が大きかったから、『力士隊』というのがありましたがその一員です。その『力士隊』の一員である大室寅之佑は、伊藤博文が大事に育てました。伊藤博文の家は大室寅之佑の家から歩いても、昔の人だったら30分ぐらいで行くんじゃないでしょうか、近いところに住んでいます。彼は伊藤博文に大事に育てられて、明治天皇に仕立てられたと私は思うんです。それは『奇兵隊天皇』という言葉を、中山慶子のお父さんがはっきり書いています。


そして朝彦(あさひこ)親王というのがいまして、これはショウレイインという悪名を持つ坊主が、天皇にほとんど関係がないんですけど、明治天皇が出来たときに万が一の場合に皇統が消えたら悪いというので、いくらか孝明天皇につながりのある男を探したらおりました、それを朝彦親王として、そこから日本のあの皇族たちが全部生まれて来ます。明治の皇族たちはみんなそこから、その家の子どもたちです。朝彦親王も『明治天皇は毎日将鬼の幽霊を−孝明天皇が亡霊として将鬼の姿として現れ−毎日泣きじゃくっている』という日記を残しています。


もう一つ大事なことがあります。みなさんはご存知かもしれませんが、『徳川家康』を書いた山岡荘八というのがいます。大ベストセラーでした。この人が『明治天皇』という小説を書いています。不思議なことに明治時代になっての天皇を書かず、孝明天皇とその妃のことを書いています。その中で明治天皇が小さい時のことを書いていまして、近所で豆腐屋が通って笛を吹くと「トーフィ、トーフィ」と言ったそうです。京都の八瀬童子という所の部落がありまして、天皇の葬式のときは棺を担ぐ役をしてまして、どうも中山慶子はそこの生まれであろうと山岡荘八は書いています。中山家の兄妹になる息子が中山忠光といいますけど、この人が長州の人によって殺されます。逆らったんですね。殺されます。そういう具体的なことを山岡荘八は書いて、『明治天皇』という題をつけています。山岡荘八は見事に明治天皇誕生の裏を描いていますが、ただ孝明天皇も睦仁も殺されたというところには一行も、まあ触れられなかったと思いますね、戦後書いてますから。


去年、東京大学でフランス展がありました。偶然私は東京にいまして、東大に行ってフランス展を見に行った折に、明治天皇を隠し撮りした写真が東大の資料館で飾ってました。大男です。今の相撲取りでいったらどうでしょうか、百何十キロの大男です。これが明治天皇の姿なんです。泣きべそっていた子どもが突然東京に現れたら、西郷隆盛と相撲を取り江戸城で白馬を乗りまわしたという有名な話があります。そりゃそうでしょう。大男です。『力士隊』にいた男に間違いありません。色が真っ黒くて大男でブサイクな男です。キョソーネという人が描いた肖像画による明治天皇とは似ての似つかん姿です。これはフランスの人が発表し東大が認めて明治天皇の写真として発表してるんだから、これこそ間違いありません。


ということは、私たちは田布施という町の、これははっきり申しますと朝鮮部落です。なぜ朝鮮部落かと申しますと、そうですね、これはちょっと語りにくい話なんですけど、歴史的にいいますと山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。守護大名・大内家がずっと支配してました。大内家は完全な、本人たちも言ってますが朝鮮人です。大内家の家臣が毛利が侵入して負けたために散っていくわけです。彼らが散り散りになって、ほとんどが部落民にされるわけです。この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中にはっきりと書いています。


まだあります。2006年10月6日か8日号の週刊朝日に『家政婦は見た!阿部晋太郎研究』というのが出ました。安部晋三は岸と佐藤栄作の直系の一族です。その一族の安部晋三のお父さんの晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をずっとやって晋太郎を子どもの時から育てた久米うめさんという女性が週刊朝日の記者に言ってます。「死ぬ時初めて分った。日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。棺に入れるとき初めて全体の姿を見た。晋太郎は生前いつも口癖のように私に言ってた、『俺は朝鮮人だ、俺は朝鮮人だ』。私はまさか晋太郎が朝鮮人とは思わなかったけど、死ぬ時に棺に入れる姿を見て、ああこれは日本人ではないということを認識した」。


ということはそういう面から見ても、あの部落は私も行ってみましたけど朝鮮部落です。そして非常に寂しい所なんです。そこからあの周辺の人が、日本を支配する人が沢山出て来るということは、大室寅之佑が明治天皇になったということの証しではないでしょうか。例外があるでしょうか。2キ3スケといって、2キは東条英機と星野直樹ですが、3スケといわれるのは先ほどいいました岸信介・松岡洋右・鮎川義介この3人が期せずして一致して満州帝国を創ります。そして膨大な利益を上げます。


※「2キ3スケ」とは満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。東條英機(とうじょう ひでキ、関東軍参謀長)星野直樹(ほしの なおキ、国務院総務長官)鮎川義介(あいかわ よしスケ、満業(満州重工業開発株式会社)社長)岸信介(きし のぶスケ、総務庁次長)松岡洋右(まつおか ようスケ、満鉄総裁)。5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。(ウイキペデイアより転載)


細川護貞(もりさだ)『情報天皇に達せず』という本があります。この本によりますと、東条があの当時数億円単位の金を政界工作に使ったとあります。岸信介が東条を追い落としたのは、近衛が秘書の細川に言ってます「あれはお前が言うような、世間で言われているような話じゃない。東条が金をバラまきすぎたのを岸信介がみんなに訴えて、東条を失脚させたんだ」ということです。東条は一族ではないために、金をたくさん貯めて日本の銀行に戦後入れます、そして戦犯で殺されますが、預金封鎖になって全財産を無くします。岸信介はちゃんと天皇と同じようにスイスの銀行に預けたために、岸信介・佐藤栄作・安部一族は大金持ちです。今、安部晋三が総理大臣になれたのも、最終的にはそのお金が役に立ってるんです。ということを持って私は大室寅之佑が明治天皇になったと、まずここから考えますと日本の歴史が見えてきます。


コンプライアンスというのは「情け」とか「いい加減」とか「気まぐれ」とか「気休め」、それにドールをつけてコンプラドールという言葉があります。これは要するに外人がオモチャのように使えるような、気休めの人材を集めて自由自在に操り、その国を支配するということです。中国にアヘン戦争をしかけて、香港・上海銀行を中心に支配していくユダヤ人たちは、中国人の連中をコンプラドールとして使いました。同じように日本人をいちばん大事なところで、権力の中枢でコンプラドールにされた可能性、大なんです。大室寅之佑が明治天皇になり、そして大正・昭和と続く過程で、色んなスキャンダルに巻き込まれていきまして、そのスキャンダルをヨーロッパ、殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。これが第二次世界大戦の遠因になったと思うんです。


どうでしょうか。そういう面から歴史を見ると、私に電話をかけてきた秦さんやら、それから半藤一利さんの歴史観とはまるきり異なるわけです。で、私はみなさんにお願いしたいのは、やはり日本を知るためには日本の暗い部分に目を向けるべきではないか。それを直視しないから日本人はいつまでたっても、今もそうですけど、アメリカ人に利用されてるじゃないかと。僕たちはそういうことを全部知ろうじゃないかと。知った上で堂々と外国の勢力に立ち向って行くべき時が来たんじゃないでしょうか。


それでまた、これで続きがいっぱいあります。日露戦争もぜんぶ同じパターンで仕掛けられたと思うんです。日露戦争を始めるとき、伊藤博文は反対します。「負ける」って、「するな」と。伊藤博文も孝明天皇や睦仁殺しに一番かんでいる男なんですが、彼でさえ「やったらイケン」と言います。でも戦争をするように仕掛けられて、高橋是清が「金がないのにやるのか?」「じゃ、お前金策に行ってこい」というので彼が金策に行って、いちばん最初にイギリスのロスチャイルドに会います。


イギリスのロスチャイルド家は自分では直接関与したくないので、クーン・ローヴ商会、イギリスのロスチャイルド家が金を出して全額投資したクーン・ローヴ商会に紹介します。高橋はイギリスからアメリカに渡ってクーン・ローヴ商会に「国債を買ってくれ」と言います。ちゃんと話が出来てたんでしょう、クーン・ローヴ商会が買います。シフという男ですけど買います。それでイギリスから軍艦を買ったりします。万が一日本が負けて国債がパーでもだいじょうぶ、日本を実質的に支配すればいいんですから。そして軍艦さえないのに、イギリスから軍艦を買って運良く勝ちます。全部これ仕掛けられたと思うんですよ。


で、日露戦争の後に第一次世界大戦があります。これも運良く日本がちょうど良いいところで甘い汁を吸わせてくれるように、イギリスを中心とする勢力が最後の段階で日本を迎えいれて、ドイツ敗北のために役立ったと言って、ヴェルサイユ条約で日本に太平洋の島々の委任統治を認めます。実質的に上げるわけです。日本が太平洋戦争でがんばれたのも、あの小さな島々をもらったからなんです。それがなかったら、日本はとてもアメリカに対抗できませんでした。


で、太平洋戦争の前に大正天皇のことを少し喋ろうと思います。東久邇(ひがしくに)というのが、戦後、首相になりますけど、この男のことを少し喋ろうと思います。もうスキャンダルだらけの日本ですけど、大正天皇は子種がありませんでした。歴史的にまちがいはありませんが、現代史家は認めません。でも子種はありませんでした。というのは、2・26事件で弟を亡くした河野司というのがおりまして、この人が2・26事件というのはどうして起きたんだろうと調べて回る時に、東久邇にぐうぜん遭って話を聞いた時に、東久邇がこういうように言いました。「お前の弟が死んだのは、遠因は昭和天皇と秩父宮の争いにある」。


で、それはどういうことかというと、大正天皇に子種が無かった。じゃ、昭和天皇はなぜ生まれたかということを、東久邇が河野司という男に喋ります。これは映画脚本家・笠原和夫という、東映全盛時代に脚本を書くんですけど、この人ものすごい勉強家でして、2・26やら色んな事件を映画につくるべく脚本を書きます。この男が河野司と対談をしてます。その中で河野司が笠原に言います。「私はあの時、『軍艦』というキャバレーでたまたま東久邇と遭った。それで東久邇が私に『河野、お前に今日は本当のことを話してやろうか』と言って話してくれた。」と。


◎河野司と三島由紀夫は親交がある。三島由紀夫がごく親しい人しか招きいれない自室の部屋に入れて語り合うほどの仲である。三島由紀夫はやはり2・26事件の処罰に連座した末松太平とも付き合いがある。


「じゃあ昭和天皇はなぜ生まれたんか」と言ったら「そこまでは言われない。だけど貞明(貞明皇后)はえらく昭和天皇の父親を嫌ってた」ということです。それで私はハッとしました。私は小学生のころだったと思うんですけど、戦後、カストリ雑誌のようなものを読んだことがあるんです。その中で西郷八郎という名が出て、これは西園寺八郎のことを書いたらマズイと思って西郷八郎になったと思うんですが、その西郷八郎という男が登場して、大正天皇の傍にいた妃を手に取って、大正天皇が嘆くのにもかかわらず山に連れて行ってチョメチョメした、という三文小説がカストリ雑誌に載ったことがあります。もうずい分前の戦後のカストリ雑誌です。ひょっとしてあれは本当の話じゃないのか。西郷八郎というのは西園寺八郎のことではないのか。それで西園寺八郎をいっぱい調べて見ました。


『木戸日記』というのがあります。木戸幸一が戦後、東京裁判資料として提出した資料です。都留重人(つるしげと)というのが、木戸の娘を貰ってまして、その関係で都留重人が木戸を説得して、「あんたの日記をもう出せ」というので世に出たものです。その中で年月不詳というのがあって、島津治子の話があって、この島津治子というのは貞明皇后の女官を長く務めたんですけど、主治医が亡くなった後に、貞明から女官を去るように言われまして、去った後に民間宗教に凝り固まって妙な言動をする女なんです。そのことを木戸幸一が書いていて、年月不詳という中にこう書いてます。『大正天皇の侍従の指令−貞明皇后のお相手八郎のこと』。『貞明皇后のお相手八郎のこと』とは西園寺八郎のことです。その西園寺八郎は隠れた重要な人物で、ちょっと余分なことを喋ります。


長州藩に徳山藩というのがあるんですけど、長州は萩が本家で(徳山藩はその)分家なんです。そこに毛利元徳(もうりもとのり)という分家なんだけれども一応城を構えた殿さまがおりまして、その殿さまの八番目に生まれたから毛利八郎といいます。その毛利八郎が本家の毛利頼近の養子になります。ま、形でしょう。で、頼近の息子として、形式なんでしょうけど、西園寺公望の養子として西園寺八郎となる。西園寺公望は女房がいませんでしたけれど、子どもを儲けていたんです。新子といいます。その新子と西園寺八郎が結ばれるんです。ちょうどその頃に、西園寺八郎は子どもの時から大正天皇と同じ学習院の同期で幼友達なんですが、大正天皇は子種がないので結局ある筋から西園寺八郎に「お前が強引にやってこい」と、で、西園寺八郎は命令されるがまま貞明とチョメチョメしまして、まチョメチョメという言葉はどうでしょうか、チョメチョメしまして子どもが生まれます。それが昭和天皇です。

◎私見では昭和天皇の母親は貞明皇后ではない。昭和の闇の本質は昭和天皇と秩父宮の確執ではなく、長州を後ろ盾にする昭和天皇VS極端な長州嫌いの貞明皇后の確執だと思う。これが昭和最大の分水嶺2・26事件を引き起こす。貞明皇后は田布施村政権を佐幕派に大政奉還しようと図り、樺山愛輔を二度も駐米大使・松平恒雄が駐在するワシントンへ往復させて、松平容保候の四男である彼の娘を秩父宮の妃に貰い受けた。貞明皇后が秩父宮を皇位につけようとした動機は盲愛ではないと私は思う。彼女の言動からは意思がはっきりしていて正義感が強い人となりが伝わってくる。笠原和夫は2・26は第二の壬申の乱と言ったが、私は2・26は第二の戊辰戦争であると考えている。そして田布施村王朝を転覆させようとした貞明皇后は、戦後心臓麻痺で急死している。私は吉田茂と昭和天皇が暗殺したと考える。白洲次郎は戦後は暗殺工作から身を引いている。


◎重松楊江はまた次のように述べている。『貞明皇后の本当の名前は朱』田布施村から輩出された人脈によって樹立された明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とは即ち朝鮮王朝のことである。明治維新で職を失った旗本の娘の中から、美女を選び城内に入れて「千代田遊郭」なるものを伊藤博文らがつくりました。そこは、天皇や重臣たちの遊び場でした。そこに朱貞明がやってきました。才色兼備ゆえ、天皇や伊藤博文に見初められて、やがて大正天皇の妃になったのです。』


◎つまり明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とはすなわち朝鮮王朝のことである。よって貞明皇后の出自が朝鮮であることは理にかなっている。貞明皇后が大正天皇と結婚したのは15歳である。白羽の矢を立てられた彼女が九条家に引き取られ、学習院に通わされ鍋島信子・牧野雪子と交友している在学中、大正天皇の妃候補として千代田城にお目見えしたのだろう。おそらく貞明皇后は朝鮮王朝を引き継ぐ嫡子を産む女性としてふさわしい出自なのだろう。


◎また私見では昭和天皇と貞明皇后は血縁がないと考える。貞明皇后は極端な長州嫌いで有名、かつ個性的な性格で意思が強い。西郷八郎が彼女の隙を狙って襲えたのは一回きり、貞明はガードを堅くして(例えば女官を常時周囲におく)防御しただろう。貞明皇后が西園寺八郎を拒絶したので、田布施村の大室家の血筋に連なる子どもが連れてこられたのが昭和天皇である考える。貞明皇后はDNAも強烈なのか、昭和天皇以外の三人の息子は彼女に酷似している。猛禽類のような鼻をしている。その中で昭和天皇一人だけ面立ちがソフトである。見目良い賢そうな子を選んできたのだろう。実際昭和天皇は恐るべき頭脳の持ち主である。鷹揚な生物学者然とした風貌で「あ、そう」を連発するほほえましいキャラを演じた千両役者でもある。幼少の時「昭和天皇と秩父宮は双子である」という風聞が根強くあったという。この兄弟は母胎に宿っている時期が一部重なっていたのだろう。双子ではなく母胎が二つあったのだ。昭和天皇には長州出身の西園寺八郎が後ろ盾になった。昭和天皇を銃撃しようとした難波大助は田布施川の辺に住んでいたから、そのことを知っていたのかもしれない。

で、彼(八郎)は西園寺家に新子という女がいながら、まったく寄り付きもしないで天皇家に入りこんでピッタリと自分の息子の昭和天皇の傍にいます。ずーっと侍従をします。一時、大正天皇の侍従武官長の奈良武次という男とけんかして、けんか両成敗で数年間、昭和天皇の傍を離れますが、死ぬまで傍にいます。ということは昭和天皇の行動も全部、西園寺八郎が牛耳ったであろうと言われるほど、傍にいます。その西園寺八郎の子どもが公一(きんかず)といいます。一番大事なのは、次女が春子といいまして、この春子が住友家の御曹子の住友吉左衛門(第十五代当主・住友友純)の嫁さんになります。ということは、住友と天皇家は血縁もいいとこなんです。そうでしょう?そこから考えると昭和の闇もまた見えてきます。

◎八郎の岳父・西園寺公望は1919年パリ平和会議全権大使。、シナリオについては知悉していただろう。日米開戦前夜に死んでいるのは、シナリオに反対して消されたと私は思う。公望の私設秘書・原田熊雄は住友に丸抱えされてヤラセの連絡係りとして活躍する。住友は確かに怪しい。

じゃあ秩父宮は二番目に生まれますが、秩父宮はどうなんでしょうか。秩父宮は東久邇が自分から言えないけど、東久邇の子どもなんです。「こいつは何を言ってるんだ」と思うでしょうけど、『西園寺候と政局』という原田熊雄という男が書いた本があります、その本を私が言ったようなことを頭に置いて読まれると、東久邇と秩父宮が親子であるということが良く分ります。いつも行動を共にして、西園寺が東久邇が妙な行動を取ると秩父宮を呼びつけて「東久邇に言え、妙な行動を取るな、と」。そして又、秩父宮が変な行動を取ると西園寺候が東久邇を呼びつけて「あの子どもをもう少しセーブしろ」と言います。東久邇は自分を自慢したくて、河野司を呼んで喋ったのかもしれません。(大正天皇に)子種がないことは事実です。で、貞明皇后はいろんな男とデキてます。で、樺山愛輔というのともデキているのはまちがいありません。そういうのから昭和の闇も見えてきます。


◎樺山愛輔は白洲次郎の岳父である。私には次郎よりよほど優秀なインテリジェンスに見える。白洲次郎はエージェントのくせに饒舌で注目を浴びすぎている。付き合っている文士たちにシナリオの一端をポロポロ喋り、本やエッセイでバラしている。エージェントとしては失格であるが、わざとやっているのかもしれない。「俺の正体を見抜け」という声がきこえてきそうなほど手がかりを与えている。それに比べて愛輔は寡黙である。まったく喋らない。だからほとんど歴史の俎上に上げられず、ノーチェックできたエージェントの鑑である。チャーチルも本質はエージェント、吉田茂もエージェント、ルーズヴェルトも下半身不随でなければ秘密裡に飛び回っただろう。自由に動き回れないので代わりにドノヴァンにOSSを組織させた。ルーズヴェルトはドノヴァンを『私の秘密の足』と名づけている。


◎ウィキペディアによると、樺山愛輔(1865年6月3日−1953年10月21日)は、日本の実業家、政治家。伯爵。1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。(注 白洲商会の倒産は十五銀行の不調が原因である。白洲文平に引導を渡して次郎を帰国させる舞台設定は、樺山愛輔がやったのかもしれない)1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年に貴族院議員に選任され、1947年に貴族院が廃止されるまで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。(注 山本五十六が呼び会議に出て世界に注目された)太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。妻常子は、伯爵川村純義の娘。(注 昭和天皇と秩父宮を養育した人物である)壮年に至るまで政官界官職にキャリアを残していないが、鹿児島大百科事典(1981年)によれば、原因は体を壊したためとする。(注 正子によれば愛輔は猪肉が好物で、食べたくなると猪を肩にかついで坂を上がってきたという。実に壮健な人物である。)


◎また樺山愛輔は20年以上も滞米経験がある。アマースト大学の同窓生には後のクーリッジ大統領、モルガン商会のモローがいる。アマースト卒業後に引き続きボン大学留学。当時ボン大学には次郎の父親(ということになっている)白洲文平が留学している。文平もその前にハーヴァード大学に留学しているのである。


◎ぴゅあ☆ぴゅあ1949http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50282676.htmlよりダイジェストさせてもらいます。『白洲次郎の英国人脈にはジャーディン・マセソン商会の創業一族のウィリアム・ケズィック(兄)、ジョン・ケズィック(弟)がいる。ウィリアムは昭和20年代マセソンの最高幹部、ジョンは白洲の友人。同社はイギリスの極東政策を実質的に支配していた商社であり、阿片戦争(1840-1842)の影の主役。このジャーディン・マセソンに白洲は日鉄・広畑工場(現・新日鉄)を格安の、わずか1億円で売却しようとし、日本の財界に阻止される。また、白洲がのちに会長となる東北電力にもジャーディン・マセソンは絡もうとしている。このJM商会はもともと吉田茂の父・吉田健三と深い関係があり、このJM商会が白洲次郎と吉田茂をつなぐきっかけになった思われる。さらにGHQ民生局(GS)文書より、「多くの人間は、白洲がビジネスで成功したのは、義父・樺山愛輔を通じた三井実力者たちとのコネクションのお陰と考えている」(1947年)。白洲次郎は徴兵を忌避したが、それが可能であった理由も同じくGHQ民生局(GS)文書より、「白洲は(戦前、戦中は)日本海軍と水産業会の諜報連絡役を務め」(1947年)とある。戦前/戦中、日本の商社や水産会社が情報機関に協力したのは事実である。仕事で欧米やアジアを回り、帰国後、入手した情報を提供した。必要なら、海外支店駐在員に諜報員を受け入れ、資金調達も支援してきた。』


http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221よりダイジェストさせてもらいます。『吉田茂はロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったそうであるが、養父の健三もも欧米エスタブリッシュメントと深い関係を持っていたようである。健三は、1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学した後、明治元年に帰国する。「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに、のち独立し、さまざまな事業を手がけ、横浜で1、2を争う富豪となる。健三の父である渡辺謙七もどうやらジャーディン・マセソン商会で番頭をやっていたようである。渡辺謙七は福井藩を脱藩して横浜へきて、ジャーディン・マセソン商会に入社し、その後、回船問屋になった。『渡辺謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した光明寺が立つ久保山の火葬場で戦犯が火葬され、その息子の吉田茂が戦後日本を率いていく・・・、なんだかものすごい因果を感じてしまいます。』


◎世界の真実の姿を求めて!http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.htmlより転載させてもらいます。『吉田茂の妻となった牧野雪子はアリス(グルー駐日大使の妻)を通じて、モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。』


◎麻薬&奴隷商人たちに繋がるのは、田布施村王朝を樹立した伊藤博文以来の伝統である。牧野と樺山の娘婿たちも同様である。吉田茂のあらゆる伝記本は、遺産60億円の使途は不明だと書いて済ましている。吉田茂がこの莫大な遺産を受けとったのはわずか11歳の時、平素頑健だった健三が心臓麻痺で急死したためであるが、恐らくザ・オーダーのデス・ノートに心臓麻痺と記載されていたのだろう。吉田茂は白洲次郎を使って山本五十六、近衛文麿、尾崎秀実を抹殺している。五十六暗殺のスケジュールは、13日に昭和天皇のお気に入り鮫島元侍従武官が行動予定時刻の詳細を打電、これが死を賜る合図である。暗殺劇の予定は15日だったが「天候が良くない」という理由で延期された。アメリカ側が傍受できなかったのである。17日旗艦『武蔵』から再度打電され、これが傍受される。そして翌日18日の暗殺が決行される。


◎『この時ブイン上空で待ち伏せしていたジョン・W・ミッチェル少佐率いるP38戦闘機十六機は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場から飛来してきたものであり、地点としても航続距離ぎりぎりのところであり、長時間滞留するわけにはいかなかった。有り難いことに山本五十六長官機一行が飛んでくる時間、コースは予め判明しており、時間に厳格な長官の性格まで分析した上での迎撃作戦なので、我が方がこの大編隊に気づかない限り、攻撃側の有利さは絶対であり、この勝負の帰趨は火をみるよりも明らかであった。』(衣川宏『ブーゲンビリアの花』より)


◎打電を幇助したのが海軍主計士官・中曽根康弘。陸海軍に秘密ルートを持つ白洲次郎が協力している。中曽根はこの功績によって吉田コネクションに加わり、戦後若手政治家として頭角を現わす。原発導入のためハーバード大学のサマースクールに参加、キッシンジャーの知己を得る。鬼塚さんも中曽根を転がして原発推進を図った黒幕は、吉田茂であると指摘されている。若手議員の中曽根や讀賣の正力が、『国策』を左右できるとは思えない。原発推進の『国策』は、国会議員でさえ立ち入れない奥の院で既定事項とされていたのである。

例えば2・26事件というのがあるんですが、昭和の闇というのは平成の闇もそうですが、ますます深まるのは、明治の時に話がさかのぼる訳ですよ。幕末に。その闇を私たちが直視してかからないから、今この福島の原発にも全部つながっていると僕は思うんです。福島の原発も真実を見るためには、そこから見ようじゃありませんか。そしてあえて言うなら日本人は、どこかでその巨大な闇に立ち向かうべき時に来ていると思います。  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
5. 中川隆[-15078] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:07:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2119]
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
6. 中川隆[-15077] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:09:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2118]
山本五十六の真実E鬼塚氏が発見した日本の真実−白洲次郎とは何者か
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。

以下本文。


で、もう一つあります。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。彼は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?


白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。


ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。


そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。


◎鬼塚さんの凄い卓見である。
徳本栄一郎氏は白洲次郎の優れた資料を発掘しているがここまで言及できない。
白洲次郎はユダヤ財閥ウオーバーグ家の庶子であると私も思う。
しかし資料を読むと父親はアビー・M・ウオーバーグだと思われる。
母親はフィレンツエにいた東洋系の女性だと思われる。

アビーはボン大学で美術史を学んだ関係で、フィレンツエを訪れる。
以後ずっとフォレンツエに執着して住んでいるのである。
ウオーバーグ財閥の棟梁息子がである。
その後アビーは、マリーという女性と結婚をする決心に8年もかかっている。
しかし結婚するやいなやフォレンツエに戻って暮らすのである。
そしてアビーは重度の心身症を引き起こす。
フォレンツエでの新婚生活は早くも破綻するのである。
アビーが本当に愛しているのは次郎の母親で、
おそらくマリーとは偽装結婚だったのだろう。
マリーは終生寡黙に欺瞞の結婚生活を耐えたようだ。
アビーは「神は細部に宿る」というあの有名な金言を作った美術史家である。
しかし生涯プーを貫き、後年フロイトの患者になるほど精神状態が悪化していく。


再び鬼塚氏DVDより

そこから見ると全部歴史の闇がはっきり見えて来ます。アメリカにジークムント・ウオーバーグの従兄弟が渡って、クーン・ローヴ商会の共同責任者、ロスチャイルドの作った会社の共同責任者になり、シフの娘をもらいます。経営者のね。そして彼が何をやったかというとFRBの創設者がウオーバーグです。


◎この辺は込み入っているので、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』
を参考に簡単にまとめてみる。

ウオーバーグ家は本家と分家の二つがあって、
アルスター湖の辺に居を構える本家と、ミテルヴェークに居を構える分家がある。
かの有名な五人兄弟を輩出したのは、分家のミテルヴェークの方である。
ミテルヴェークの者は、ミドルネームにモーリッツを表すMを入れる慣習がある。

アビー・M・ウオーバーグは五人兄弟の長兄である。
風貌はオッペンハイム家出身の母親シャルロッテの血筋を引いたのだろう、
黒髪・暗褐色の目・浅黒い肌をしている。
そんなアビーを母親シャルロッテは溺愛している。

まず四男のフィーリクスが、母親の実家のN・M・オッペンハイム商会に派遣される。
オッペンハイム家の晩餐にジェイコブ・シフ父娘が招かれ、
フィーリクスと娘のフリーダが引き合わされ結婚する。

三男のポールはフィーリクスの結婚式で、ソロモン・ローヴの娘と意気投合し結婚する。
ローヴはシフの義父であるので、ポールはシフと義兄弟になったことになる。
これが縁でM・M・ウオーバーグとクーン・ローヴ商会が固く結ばれる。

長男アビーが芸術志向だったので、代わりに次男のマックスが家を継ぎ、
ハンブルク・アメリカン・ラインを世界有数の船会社に育て上げる。
ハンブルクは世界の一大物資集散地へと変貌していく。
シフ家に高橋是清の娘・和喜子が三年間も滞在したように、
ハンブルクのウオーバーグ家にも三井家の一族がよく立ち寄る。

次男マックスはアステルダムに出先機関としての銀行を設立する。
次男マックスが会長、三男のポールと五男のフリッツが副会長に納まる。
この銀行はナチ政権出現後のウオーバーグ家の活躍の場として、かけがえのない役割を果たす。

ウオーバーグはナチスに最大の被害を受けた財閥のように振舞っているが、
裏ではナチスと結託して一般ユダヤ人を踏みつけにしている。
またウオーバーグは戦後汎ヨーロッパ同盟に6万金貨マルクを提供しているが、
この同盟はもともとナチスドイツの超ウルトラ諜報機関から生まれたものである。


◎『LEGACY OF ASHES』様より転載させていただきます。


『欧州連合はDVD(Devtsche Vertedigungs Digest)にとって長期展望に立ったものである。DVDはAbweherとゲーレン機関(Gehlen organisation)から生まれたもので、ナチの超ウルトラ諜報機関である。1943年マドリッドに本部が置かれたが、現在はミュンヘン郊外のダッハウ(Dachav)にあるが地図にはない。ここがロスチャイルドの司令塔だ。』


『ナチス・ドイツの千年王国(The Thousannd Year Reich)は変らず、実はこの欧州統合のためのマーストヒリト条約(Maastricht Treaty)の原点は、1942年ベルリンでのナチによるセミナーが叩き台になっている。Europian Economic Community(原文はドイツ語)と題する591ページの本が1942年ベルリンで発刊された。EDWARD HALE氏(クリストファー・ストーリー)が英国図書館のリーデイングルームで発見した。』


『恐ろしいことである。古い記事で三極委員会とゴルバチョフの密約まで書きましたが、当時フランスの大蔵大臣であったジスカール・デスタンのみが、3年後にこの条約が締結されることを知っていた。ゴルバチョフにソ連を解体しEU設立に協力する見返り(一億ドルの現金)が話し合われた。今のEUはナチの千年王国(New World Oreder)の実現のための過程なのです。FEMAキャンプでの人間の色分けは、ナチのSS物語・死者の順序に基づいている。』


『幸いなことにこの陰謀において、ソヴィエト側は事態に影響を及ぼす前に崩壊してしまいまいした。しかしもともとの理念には、彼らが乖離縮小と呼ぶものが含まれています。つまりソヴィエト連邦は幾分軟化して社会主義のようなものになる反面、西欧は社会民主主義と社会主義に変る。その後、互いの間にある距離はどんどん縮まり、ついに構造的に同化するという。これこそ欧州連合が初期においてソヴィエトの体制に合致することを目的としていた理由なのです。これこそ、なぜこの2つが互いに機能的・構造的に近似しているかの理由なのです。』


『このヨーロッパに出現した怪物の構造と特徴を調べれば調べるほど、それがソ連と似ていることにますます気づくことでしょう。もちろんそれはソ連ほど過激な体制ではありません。どうぞ私の発言を誤解しないでください。わたしはそれが「収容所」であると言っていません。KGBがあるわけでもありません。しかし、例えば、私はユーロポルのような組織に注目しています。私がこの組織を真に警戒しているのは、それが恐らくKGBよりも大きな権力を持つようになると予想しているからです。』


『ユーロポルには外交的特権が与えられるでしょう、外交特権を持ったKGBなど想像できますか?ユーロポルは32種類の犯罪について私たちを監視するでしょう。その一つはとくにゆゆしきものです。人種差別です。別名、外国人嫌悪症。地上どの刑事裁判所においても、このようなものを犯罪として扱うところはありません。(これは完全に事実とは限らない。ベルギーではすでにそうしている。−ベリーン)』


『私は今起こっている事柄によって、誰が迫害を受けているか注意深く観察しています。なぜならばこれは私が専門とする分野だからです。私は収容所の時代が迫りつつあるのを感じます。今後もっとも起こる可能性が高いのは、ヨーロッパの経済的破局です。特にユーロの導入は狂気の産物でした。通貨は政治的に決定されべきではない。私はこれについて確信があります。ソ連が崩壊したように、欧州連合も崩壊するでしょう。』


引き続き鬼塚氏のDVD本文。


そのウオーバーグの息子にジェームズというのがいます。彼がちょうど戦争が始まるとOSSのアジア担当の情報部に入ります。でウオーバーグがさかんに日本工作をして、グルー大使と交流します。その過程で白洲は、カントリー・ジェントルマンとかカッコ良い名前でみなさん呼んでますけど、鶴川に隠棲したってなってますけど、そうじゃありません。そこに巨大な無線基地を作り、全部イギリスからアメリカの情報をもらって、そして彼が吉田茂と樺山愛輔に情報を流すんです。


吉田茂についてなぜヨハンセン・グループなのか、吉田茂がなぜ首相になったかっていえば、ちょっと脇道にそれますが喋ります。吉田茂は長崎の女郎が生んだ訳の分らん子どもなんです。吉田健三という、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド系のアヘンを主に扱った商社があります。その商社の日本代理人に吉田健三というのがおりました。この吉田健三がある女郎屋に行って、「あの娘はどうした?」と言うわけです。店の人「あの娘は子どもが出来た」健三「誰の子供か?」店の人「分らない。それで今引っ込んでいる」健三「その子ども連れて来い」健三「お前はどうして子どもを作ったんだ?」娘「いや好きやから」健三「馬鹿なことするなあ。どうする気か?」娘「どうしようもない。育てないといけない」健三「じゃオレが子どもがいないから貰ってやろう」。で、女郎の子どもをもらって吉田健三が育てる過程で、友だちのある男を介して「お前の子どもにしてくれ」「分った」というので一応四国の名家の名前を借りましたけど、吉田健三がその子を育てるわけです。


(吉田健三は)金持ちですから、全財産を吉田茂が貰うんですから、長じて東大に入る時も、『回想十年』て本に書いてます「俺はバカやったけど裏口から入った」と本人がちゃんと告白してます。で、彼は東大出て、外交官になってイギリスへ行くけど、英語はうまく喋れない男なんですよ。これはもうはっきりしてます。講和条約の時英語で喋ろうとしたらアメリカから待ったがかかった。「お前の英語は意味が分らん。だから日本語を喋って通訳を通せ」。これはイギリスの外交文書を見ると、外交官が書いてます。「この男は何者なのかね?外交官のくせに英語が何も喋れない」。ところが白洲次郎は喋れるわけですね。完璧に。それで吉田茂は総理になった時に、マッカーサーと司令部と日本の外務省を結ぶ終戦連絡事務局というののトップに据えるわけですよ。そして交渉させる。


ウオーバーグのルートで吉田茂を育てたジャーデイン・マセソンという香港を舞台にした麻薬中心の会社に、白洲次郎が日本製鉄が四つに分かれる時に広畑製鉄所を作ってマセソンに売りつける。日本を売ることに何の心に痛みを感じない男なんですね。これがまさしくコンプラドール。吉田茂も同じなんですよ。日本の支配者はほとんどがみんなイギリスの金融機関ロスチャイルドからウオーバーグ、それからアメリカの金融機関の連中のコンプラドールであったと思います。だから松本重治といって、ロックフェラーに取り入って日米文化会館とか国債会館とか作ったやつもみんなコンプラドール。それから有末精三といいますが、これもみんなコンプラドール。悲しいかなコンプラドールだらけなんです。そこから見ると戦後がみんな見えて来ます。戦後もそういうやつが溢れていて、心の痛みを感じないやつらが、なぜ日本のリーダーになったのか。私たちはそこを正さなくては、未来はないと思います。


以上鬼塚氏のDVDからの抜粋。

◎徳本栄一郎『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』より抜粋。


『英国東部は教会を中心に発達した小さな町が多い。その一つケンブリッジはロンドンの来た80キロにある。中心部のキングス・パレードからトリニテイ・レーンの路地を進むと石造りの校舎が見える。ここがクレア・カレッジ、14世紀初め、英国王エドワード一世の孫娘クレアが設立した名門校だ。『ヒューズ女史「お待ちしていました。あなたが探しているのはこの人物でしょう」著者「ええ、これです。ミスター白洲に間違いありません」今から80年以上前、ケンブリッジ大学に入学した白洲次郎の記録だった。』


『1902年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた白洲は神戸一中卒業後、英国留学した。帰国後は様々な職業に就き、戦前は近衛首相のフブレーン、戦後は吉田茂首相の側近を務める。憲法制定などGHQと折衝を行い、通商産業省創設や電源開発に関わった。戦後の政財界要人だった人物だ。1985年、彼は生涯を閉じたが、近年「白洲ブーム」というべき現象が起きている。日本人離れした長身、英国流ダンデイズムを身につけGHQと対等に渡り合ったなどと言われる。「プリンシプルを貫いた」「従順ならざる唯一の日本人」などと形容詞も多い。』

◎後述するがこれは全部白洲本人が流布させたプロパガンダである。


『かつて私は白洲を戦後史の目撃者としつつ特別な関心はなかった。それが本格的に興味を持ったのは四年前、ロンドンの公文書館で戦前、戦後の日英関係ファイルを調べた時だった。英国外務省や情報機関が作成した膨大な文書である。その時不思議に感じたのは文書にしばしば白洲の名前が登場した事だ。その後入手したGHQの文書も大量の白洲ファイルを含んでいた。これを読むと占領期、彼がGHQと深く関わったのは間違いなかった。』


『さらに興味深いのは世間の白洲像の変遷である。白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。これを見て私は白洲に人間的興味を抱き始めた。占領の裏面を知る白洲次郎とはどんな人間なのか。彼とGHQにどんなドラマがあったか。』


◎後述するが白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。


『ヒューズ女史「当時のクレア・カレッジ入学者は上流界級の子弟か、極めて成績優秀な者に限られていました。女子学生も皆無で現代とは全く異なる環境でしたね」著者「つまりリッチな人間かスマートな人間、いずれかの条件が必要だった訳ですね」ヒューズ女史「その通りです」ヒューズ女史「これは第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦死したクレア・カレッジの卒業生ですよ」私は一瞬驚いて石碑を見つめた。表面に人命がびっしり刻まれ、第一次世界大戦の方がはるかに多い。ざっと200名はあるだろうか。』


◎後述するが白洲次郎は辰巳栄一に依頼して赤紙召集を誤魔化してもらっている。
辰巳は吉田茂のロンドン・コネクションの一人である。


『1928年、英国から帰国した白洲が就職したのは英字新聞ジャパン・アドバタイザーである。(後の白洲の妻・正子も白洲と同じ1928年、金融恐慌でニュージャージー州のハートリッジ・スクール留学を切り上げて帰国している。そして1929年11月結婚)ジャパン・アドバタイザーを読んで気になったことがある。白洲の記事の署名が「ジョン・シラス(Jon Shirasu)」となっていたのだ。なぜ本名でなく英語名なのか、他の日本人は本名で寄稿しており強い違和感を覚えた。また記事を丹念に読むと白洲が日本に一定の距離を置いていたのが分る。同胞を「彼ら(They)」と呼び、日本文化も欧米の視点で見た物が目立つ。まるで自分は日本人ではないと言わんばかりだ。白洲は独自の帰属意識を持っていたのではないか。それが日本人離れした観察眼、構想力を生んだのでは。この「彼ら」は後に占領期の白洲を知る重要なかぎとなるのだった。』


『終戦から間もない1945年の冬、日々やの第一生命ビルにある男が出入りしていた。長身をスーツに包み、顔見知りの米軍将校を見つけると「ハーイ」と叫んで手を振る。正面玄関でなく裏手通用口から入る事もある。身なりも態度も日本人らしくなく、高価な葉巻やウイスキーを会うたびに配っていた。いつしかGHQで「調子のいい男」と呼ばれていた。彼の名前は白洲次郎、43歳、新しく設置された終戦連絡事務局の参与である。これはGHQと日本政府の折衝を行う役所で、外務省が機能停止した当時、国の命運を握る組織だった。』


『後に次長となる白洲は第一生命ビルに通いGHQ人脈を広げる。そして彼の最大の仕事、それは6階の民生局に食い込む事だった。民生局は占領行政の中枢で憲法改正、公職追放を担当した部署だ。その政策が国の将来を左右し、意向を掴むのが不可欠だった。そのため白洲は局長のコ^トニー・ホイットニー准将、次長のチャールズ・ケイデイス大佐に接近していた。白洲が英国留学から帰国して17年が過ぎていた。』


『ジャパン・アドバタイザーの記者時代、彼は貴族院議員樺山愛輔の次女正子と結婚した。家庭を築く傍ら外資系のセール・フレーザー商会、日本食糧工業(後の日本水産)などの取締役を歴任する。水産加工品の輸出で北米や欧州を飛び回る日々が続いていた。だが太平楊戦争が始まると東京近郊の鶴川村に引っ越してしまう。以来終戦まで一農民として生きてきたのだった。その白洲をGHQとの折衝に抜擢したのは幣原内閣の外務大臣吉田茂だ。白洲とは吉田が駐英大使時代からの付き合いで気心も知れていた。』


『その後白洲は終戦連絡事務局を退任、初代貿易庁長官として通商産業省設立に関わった。また首相特使として訪米し講和条約締結を話し合う。1951年のサンフランシスコ講和会議には顧問として出席した。まさに占領を目撃した男といえる。ところが生前白洲は家族にすら占領期について話さなかったという。友人にも「不愉快だから忘れたい」「人に迷惑がかかる」と答えた。それどころか晩年、手元の大量の資料を「こういうのは墓場まで持っていくもんなのさ」と自宅の庭で燃やしてしまった。自分の過去はもちろん活動の痕跡まで消してしまったのはなぜか。』


『かつて「英国機密ファイルの昭和天皇」を書いた時、私はラドウンを取材した事がある。白洲とは1970年代、仕事で来日した際よく二人で食事したという。そのきっかけを作ったのが彼の父で国際石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェル会長ジョン・ラドウンだった。オランダの名家に生まれたジョン・ラドウンはユトレヒト大学卒業後シェルに入社、世界中の油田開発に携わった。1950年代、会長に就任。米国のデーヴィッド・ロックフェラーなど各国政財界にコネクションを持ち、ロックフェラー財閥の中核チェーズ・マンハッタン銀行のアドバタイザリー・コミッテイー委員長も務めた。1996年国際ビジネス界の重鎮だった人物だ。そしてこのジョン・ラドウンと個人的親交を結んだのが白洲だった。戦後の一時期、彼は日本でのシェル顧問も務めた。』


『「一言で言えば次郎はエリート主義だったと思いますよ。かれがケンブリッジで学んだ1920年代は今より上流階級がはっきりしていました。次郎は西洋化されていましたが傲慢な一面もありましたね」こう言ってラドウン(息子)はあるエピソードを教えてくれた。1970年代のある晩、ラドウンは白洲と夕食を共にした。場所は銀座ソニービル地下の「マキシム・ド・パリ」、日本初の本格的フランス料理店である。二人が食事していると一人の日本人がテーブルに近づいてきた。白髪の年配の紳士で穏やかな笑みを浮かべている。彼は白洲に丁寧にお辞儀して挨拶した。これに対し白洲は微かに頷いただけであった。後日ラドウンは相手がソニー創業者の盛田昭夫だったと知る。』


『これを聞いて私はケンブリッジの白洲の写真を思い出していた。ガウンを着た同級生の集合写真で貴族然とした若者たちだ。卒業後、彼らは政界や実業界に進むが生涯交遊を持ち続ける。特にオックスフォードとケンブリッジの学生は「オックスブリッジ」と呼ばれる強力なネットワークを誇った。白洲もその一員だったのでは。こう言うとラドウンが笑った。「一度英国のエスタブリッシュメントに入れば職場や仕事を変えても繋がりは消えません。それは情報収集にも効果的でしょう。例えば仲間の一人が海外に行くとき、事前に会員制クラブなどで会います。そして現地の政財界要人など調べて欲しい事柄を伝えます。帰国後、彼らが入手した情報をクラブで伝える仕組みです。その意味で皆がスパイと言えます」』


『コンピュータが発達した今日、情報はインターネットで入手可能と思われやすい。しかし、それは表に出た情報インフォメーションにすぎない。真にデリケートな情報は信頼の置ける者同士、対価を払って交換される。それがインテリジェンスである。英国の会員制クラブはその最高の舞台装置となってきた。そして白洲が通ったと思われる場所のひとつが「ホワイツ・クラブ」である。創立1693年の老舗で歴代会員はウインストン・チャーチル首相、ロスチャイルド男爵など錚々たる名前が並ぶ。政治家や外交官、ビジネスマンの社交場でSIS(別称MI6)長官も利用した。白洲自身はメンバーではないが彼のエピソードにこのクラブが登場する。』


『1946年3月、白洲は終戦連絡事務局次長に昇進した。やがて彼の力量を発揮する機会が訪れた。讀賣新聞の労働争議である。当時の讀賣は部数200万部、国内第三位の新聞社だった。その社長正力松太郎は警視庁出身で刑事課長を務めた男だ。1945年、正力はA級戦犯指定を受け収監、公職追放されてしまう。正力の後を継いだのは元ジャパン・タイムズ編集長の馬場恒吾だ。だが組合との争議に疲れた彼は辞表を出してしまう。馬場辞任から4日後の1946年6月11日、白洲はGHQ渉外局長のフレイン・ベーカー准将を訪ねた。その時彼は讀賣新聞業務局の幹部が作成した有力共産党員リストを持参した。「白洲はこのリストを手に、しばらく前から交際を深めていたベーカー准将に会いに行った。白洲はさり気なく「讀賣新聞事件」を論じ、馬場は共産党に対抗するために外部の激励を通説に必要としている善玉だとベーカーに納得させた」(「日本占領革命」)』


『白洲の説得は功を奏した。ベーカーは逗子の自宅にこもった馬場を呼び出し温かく迎えた。そして白洲情報をもとに鈴木ら共産党員6名の名前を挙げた。これを馬場は彼らをクビにしてもGHQが支持すると受けとった。その足で会社に戻った馬場は鈴木編集局長らに解雇を言い渡す。当然組合は荒れ狂うがGHQには無力だった。「こうして 讀賣新聞業務局の一反共主義者による手書きのリストが、まるで錬金術のようにマッカーサー指令に変身してしまったのである」(「日本占領革命」)』


『正力と讀賣にとり白洲は恩人となった。その後、彼は讀賣新聞系列の日本テレビ社外役員に就任し深い親交を築いていく。「降伏と第一次吉田内閣発足に伴い、首相はロンドン時代の友人に終戦連絡事務局を任せた。総司令部と日本政府の間の全文書は白洲のデスクを通過する。この時期にGHQの希望とは命令であり、それを知ることは権力であった。白洲は二つの政府の秘密を交わす中央交換台に座っていただ」(レイ・ファーク記者 1951年3月8日 ミルウオーキー・ジャーナル)』


『白洲はGHQ情報に精通し要人の素行まで目を通せたのだ。それは占領政策に影響を及ぼし公私混同と言える行動も生んだ。樺山愛輔の公職追放が良い例である。1846年1月、GHQは日本政府に軍国主義指導者の公職追放を指示した。そしてこの年8月、GHQは終戦連絡事務局に樺山愛輔の追放を指示した。愛輔は海軍大将樺山資紀の長男で、明治初期に米アマースト大学などに留学した。帰国後は千代田火災保険、日本製鉄所の役員や貴族院議員を歴任する。GHQは日本製鉄所が日本の軍拡に果たした役割から樺山を戦争協力者に分類したのだ。ところが約一年後、GHQはある事実を知って愕然とした。日本政府が樺山追放を実施してなかったのだ。』


『彼らは直ちに調査を開始した。ここで疑惑を持たれたのが連絡事務局次長の白洲である。彼の妻正子は樺山の次女で愛輔は舅に当たったのだ。その経緯を説明した報告書がある。「(追放の)覚書は吉田首相が受け取ったが実際の行動は保留された。これを命じたのは終戦連絡事務局次長で樺山の義理の息子白洲だったという。その後、吉田首相はマッカーサー元帥に樺山追放免除を要請する書簡を送った。(中略)これは拒否されたが白洲の命令で追放覚書は棚上げされたらしい」(1947年7月2日 民生局報告書)』


『白洲自身はどう釈明したのか。「彼が吉田首相に追放を伝えた時、吉田はこの問題は自分で取り上げると答えた。対象人物との個人的関係から白洲は関与を控えた。(中略)マッカーサーの回答がいつ来たかは思い出せないという」(同15日報告書)結局樺山は追放され、翌年のGHQファイルは「白洲の高潔さが疑われた」と記述したのだった。ここまで読んで私は言いようのない不快感、嫌悪感を覚えた。当時白洲にはGHQと日本政府のあらゆる文書が集まっていた。その中で最高司令官マッカーサーの回答を忘れる事があり得るのか。もし本当に樺山追放を見逃したなら明らかな公私混同だ。追放された軍人、官僚、実業家は失職し収入を断たれた。就職もままならず彼らの生活は困難を極めたのだ。』


『それ以上にアンフェアなのが白洲の徴兵忌避であった。戦前からの友人で東部軍参謀長だった辰巳栄一は次のような談話を残している。「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、ある日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、招集されちゃったよ”と言われるんです。(中略)白洲さんの時は早速に招集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです」(『風の男 白洲次郎』)一般庶民に白洲のようなコネは無縁だった。彼らは歯を食いしばり黙って戦地へ向って行った。』


『ニューヨーク市内のグランド・セントラル駅からメトロノース・ハドソン線に乗ると50分程でターリタウンという町に着く。デイトン通り15番地、ここがロックフェラー・アーカイブ・センター、世界有数の財閥ロックフェラーのあらゆる記録を保管する場所だ。ロックフェラー一族を初めロックフェラー財団、ロックフェラー兄弟基金など関連機関の記録だ。36000立法フィートの書類、50万点の写真は各国元首、王族、実業家の書簡も含む。「Shirasu,Jiro」、1950年代白洲がロックフェラーと交わした書簡リストだった。前述の通り、晩年の白洲は手元にあった大量の書類を焼却している。自分の過去はむろん活動の痕跡まで消そうとするかのように。これが彼の実像をわかりにくくする原因でもある。だが、さすがの白洲もロックフェラー・アーカイブの書類まで燃やすことは出来なかった。私はタリータウンに眠る記録から彼の足取りを追う事にした。』


『1951年1月25日、午後8時25分、羽田空港に一機の特別軍用機が着陸した。やがて機体のドアが開いて長身の米国人が現れた。ジョン・フォスター・ダレス、トルーマン大統領の特使である。マッカーサーや日本政府と協議して講和条約の中身を詰める、それがダレス訪日の目的だった。この軍用機からダレスに続いて一人の米国人が降り立った。年のころは40代半ば、ハンサムだが内気な雰囲気も醸している。彼の名前はジョン・ロックフェラー三世。二世の長男でロックフェラー財閥の継承者だ。今回は文化顧問の肩書きで動向していた。』


『ダレスが吉田と緊迫した交渉を進める中、2月1日の夜、ロックフェラー三世はある日本料理店を訪れた。ある日本人の夕食会に招待されたからだ。仲居に案内されて座敷に上がると数人が待っていた。一座の中心は痩身の老人である。若いときに米国留学して流暢な英語を話す。彼の名前は樺山愛輔、戦前の伯爵で日本政財界の重鎮だった。その横にある中年夫婦が座っていた。夫は平均的日本人より背が高く端正な顔立ちだ。長く英国で暮らしたらしく流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。妻も米国留学しており英語ができるようだ。二人とも洗練された印象だった。彼らは白洲次郎と正子、樺山伯爵の次女と義理の息子だった。他に樺山の長男紐二(ちゅうじ)、三世の前からの友人松本重治(注 白洲次郎の秘密工作の実行犯)が同席していた。』


『1952年4月16日、ロックフェラー三世はダレスに80ページの報告書を提出した。テーマは「日米文化関係」、後の駐日大使エドウイン・ライシャワーらの協力で作成したレポートだ。講和後は政治・経済に加え文化交流を促進するカルチャー・センターやインターナショナル・ハウスを開設するという。後者は樺山愛輔らの支援で国際文化会館として実現した。同時に彼らが注目したのが知識層へのアプローチだった。権威主義の日本では知識人が世論に大きな影響を及ぼす。彼らを活用する事で親米派を増やせると見た。その候補者の一人が正子だったのだ。』


『アーカイブの文書を読むと、当時ロックフラー家と白洲家が家族ぐるみの交際をしていたのが分る。来日した三世夫妻は軽井沢でゴルフを楽しみ、正子や長女桂子(かつらこ)にクリスマス・プレゼントを贈った。白洲との書簡も「ジョン」「ジロー」とファーストネームで始まり社交儀礼以上の関係だと分る。白洲は日本の財界人をロックフェラーに紹介する役も演じた。戦後間もない日本は経済復興に必死だった。その中でロックフェラーとのパイプは魅力的だったはずだ。白洲はロックフェラー三世と直接パイプがあった。一族の後継者とファーストネームで呼び合い、いつでも面会のアポを取れる。政財界が彼を頼ったのは当然であった。アーカイブは白洲正子のファイルも保管している。正子もロックフェラー三世、特に妻ブランシェットと仲が良かった。』


『一次書類が少ないため白洲の逸話は本人の言葉に頼りやすい。それは時に”白洲伝説”を生み一人歩きしていった。サンフランシスコ講和会議のエピソードが良い例だ。1951年9月8日、日本側全権代表の吉田首相は講和条約の受諾演説を行った。この結果、占領が終わり国際社会に復帰したのは歴史が示す通りだ。その演説直前ちょっとした騒ぎが起きたという。発端は白洲だった。この会議に白洲は全権団顧問の肩書きで参加していた。演説の二日前、彼は吉田から演説原稿に目を通すよう依頼された。一読して彼は激怒した。占領への感謝を並べた上、英語で書かれていたのだ。後に白洲は雑誌の回顧記事でこう述べている。「いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。ぼくは、外務省の役人らの身体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれかえるばかりだった」白洲の一喝で演説は日本語に変更された。急遽和紙と毛筆が容易され、巻紙に記された原稿を吉田は読み上げたのだった。白洲の気骨を示す逸話として今や史実とされる。』


◎『白洲気骨を示す逸話』を書いて『史実』にしているのが青柳恵介である。
その著書『風の男 白洲次郎』には、驚くべき白洲次郎の言動が描かれている。
吉田と白洲が組んで戦後占領期のドサクサにやっていたトンデモが、
彼らの手下の証言を引用しながら描かれているのである。
二人が組んでやった売国奴工作の実態が手に取るように分る。

しかし作者青柳の意識としてはそれをカッコいいと思って書いているらしい。
青柳恵介が白洲次郎の自己申告を『史実』にした代表例は、サンフランシスコ講和条約の逸話だろう。
NHKドラマでもこのエピソードソードが放映されて、白洲ブーム再燃となっているようだ。

◎青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より

『吉田茂が演説を行う二日前、白洲の許に吉田から電話が入り、主席全権の演説原稿に目を通してくれたかという。まだ見てないと答えると、早く見てくれという。「外務省は僕に見せると文句をいうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激とかいてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。(『昭和政治経済への証言』下)』


『白洲は外務省の随員に、書き直せと言いわたすと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すまいという姿勢をとった。白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った(外務省では、その後白洲次郎は怒ると言葉が英語になってしまうという評判が立ったという)。草稿をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良(憲法の草案を白洲とともに翻訳した人である)を呼び、こういう趣旨の演説に改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。そこに以前の原稿では一言も触れられなかった沖縄の施政権返還を白洲はもり込ませた。なるべく早期に沖縄を返して貰いたい、と。二日後、吉田茂は巻紙に書き記された日本文を読み上げた。しかし各国の高官たちには従来の英文が事前に配布されていた。』

『白洲は帰国早々、9月30日号の「週刊朝日」に「講和会議に随行して」という一文を寄せている。その一節に次の如くある。「調印の時も、演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなと言う感じが強かった。昔の人は我われ々と違って、出るべき所に出ると堂々とした風格を出したものだ。総理が、自分のポケットからペンを出してサインしたのも、いかにも一徹な総理らしかった。各国全権のうち、備え付けのペンを使わなかったのは、総理だけだったので、大変な反響を呼んだ。なぜ自分のペンを使ったのだろうかと、不審に思った人も沢山いたようだ。総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。だから、議場で演説と同時にイヤホーンで放送したのは、その草稿の英文だった。」』


『「なぜ日本語で演説したかという理由」云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう。吉田が巻紙の原稿を読み上げたとき、一部のアメリカ人は「あれはトイレット・ペーパーか」といぶかったという。自分のペンを使ったことを不審に思った人がいても不思議ではない。白洲は吉田を”昔の人”と言い、その堂々とした””一徹さ”に改めて感動を催している。』

以上抜粋。


◎青柳恵介は白洲次郎が掛けたバイアスの呪縛の中にいる作家である。
この白洲次郎の帰国直後の談話が、オトボケだと思い込んでいる。
白洲次郎が描くのはひとりカッコいい吉田茂像で、
そこには吉田の幇間としての白洲次郎がいるだけである。
白洲次郎が持っている権力はすべて吉田が与えたものだからである。
青柳恵介には、それが白洲次郎の実像であることが分らない。
彼は白洲次郎が吹聴する逸話と、帰国当時の談話との時間を考慮に入れない。
こういう迂闊な作家が白洲家の人間と協力して、
平成の世になってからも美麗なプロパガンダ本を量産しているのである。

『占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。』・・・はあ。
冗談でなく白洲次郎こそは占領に感謝感激していた当事者でなのである。
この時のためにこそ満を持して登場した男が白洲次郎なのだ。
もちろん吉田茂がいなければ為せないワザであった。
だから図式はこうである。

『風の男 白洲次郎』⇒『占領に感謝感激した男 白洲次郎』

占領期こそ売国奴工作に励んだ吉田&白洲の独壇場だった。
白洲はこの実態を韜晦すべく自ら『伝説』を吹聴する。


◎20年後の白洲次郎の自己申告

『昭和政治経済史への証言・下』1972年8月より
『講和条約への道 白洲次郎/ 聞き手 安藤良雄』

『−そこで、いよいよ講和会議となったわけですが、サンフランシスコでは順調にいきましたか』

『白洲 吉田さんの演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってききまして、主席全権の演説を見てくれたかというのです。見ないといったら、そんなことない、見ろというのです。外務省はぼくに見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ。そんなこといったら困ると外務省はいったけど、困るもなにも、冗談いうなといったのです。いま施政権返還といっても向こうは驚きませんが、そのときは、それを聞いてアメリカの人がびっくりしたらしいですね。』


◎白洲次郎の24年後の自己申告


白洲次郎『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮1975年8月21日号より


『占領下の日本人を語るためには、昭和26年の講和会議の舞台裏で起こったことにも触れておこう。僕はこの会議は、全権委員顧問の肩書きで列席したのだが、会議が始まる二日前、サンフランシスコのさる邸宅に宿舎を定めた吉田さんから、マーク・ホプキンズ・ホテルの僕のところに電話がかかってきた。僕が電話に出ると、吉田さんは「わたしの演説原稿に目を通してくれましたか」という。まだ拝見していなかったぼくは、さっそく随行の役人を呼んで、その原稿を取り寄せた。』

『ところが、僕は一読して、むらむらとくるのをどうすることもできなかった。その原稿は、日本の主席全権のものだというのに、なんと英語で書かれているのである。中身も、6年間にわたる占領について「感謝感激」と大げさな参事が述べられている一方、国民の悲願である沖縄返還については、一言も触れられていない。ぼくは思わず声高になった。「これはダメだ。全面的に書き直せ」。が、この外務省の役人は「これは、GHQ外交部のシーボルト氏と相談して書いたものですから、こちらの意思だけで簡単に書き直すわけにいきません」という。』


『いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。僕は外務省の役人らの体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれ返るばかりだった。幸い、演説原稿は二日間で全面的に書き改め、またこの恥ずかしいエピソードも外部に漏れなかったからいいようなものの、うっかりすれば、えらいことになっていたのである。』


『占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなり、ずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは、べつに国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども、一人ぐらいは、こういう人間がいてもいいと思い、べつにそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさた感ずる年でもないと思っている。』


◎これは白洲次郎のいわゆる”ネタ”なのだろう。
ではネタの実態を見てみよう。


◎徳本氏の前掲書の抜粋の続き。

『だが彼の足跡を追ううち、意外な事実が浮かび上がった。演説を日本語に変更させたのは米国だったのだ。東京の外交資料館は講和条約の過程を記録した文書を所蔵する。作成者は当時の西村熊雄条約局長、その中に次の記述があった。「5日夜、ホテルで入浴中、シーボルト大使から米国代表部のホテルに来るよう連絡があった。急いでいってみると大使は(中略)『総理の演説は日本語でされることがよろしいであろう」。デイグニテイのため、とサゼストするところがあった。この趣旨を白洲顧問をはじめ同僚諸君に伝えたところ、みな日本語で演説され、島内君が英語を読むのがデイグニテイのためのわが方の趣旨を議場に徹底さすためにも良かろうとの意見であった。ただ問題はそれをどう総理に進言するかであった」(「平和条約の締結に関する調書」)』


『日本語演説を提案したシーボルトは後年回顧録でこの件に触れていた。「(日本語に変更させた)理由は、根本的なものだった。吉田は、英語の知識こそ立派なものだが、発音は、多くの日本人同様に下手で、時々慣れない語句が出てくると、聞き取れないことがあった。非常に悪い演説原稿を、発音の下手な、妙な調子で読み上げる。それを考えただけで身ぶるいするほどだった」(「日本占領外交の回想」)』


『9月7日午前、米国代表部が演説原稿を見たいと申し出た。首相秘書官の松井明が英文を持参するとシーボルトらが待っていた。彼らはアジア諸国の記述で守勢を求め、より洗練された表現に書き換えた。この場で米側は日本語でやるよう重ねて要請した。「米代表部から日本のデイグニテイのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白洲顧問も総理にそうした方がよろしいと今朝手紙で申し上げたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ『そう白洲君にいいたまえ』とのことであった」(「平和条約の締結に関する覚書」)』


『こうしてみると白洲の「戦勝国の代表と同等の資格」云々は全くの作り話だ。”植民地根性”を一喝したのは白洲一流のカバーストーリー(事実を隠すための話)だ。』


以上抜粋。


◎カバーストーリーも何回も宣伝すれば『史実』となり、
イケメンの配役でNHKドラマで放映されるのである。
白洲次郎の”気骨を示す逸話”はほとんどが本人の捏造である。
白洲次郎には勇気も気骨もカケラもない。
正子にバラされているが、次郎は弱虫でケチで空襲が怖かった。

次郎は英国ダンデイズムで自身の身を一流品で飾るが、
正子はお誕生日を含めてプレゼントを一回ももらったことがないという。
(え?マジ?)
しかも正子が病気になる真っ青な顔になってトンズラしてしまったという。
「ほかの女性だったら耐えられなかったでしょうけど、私はこんな性格だから」
夫婦関係が保ったのだという。
「生まれ変わってもまた次郎さんと結婚したいですか?」と聞かれたら、
「迷っちゃうわねえ」と言う正子であった・・・
前々回次郎&正子の愛情は本物と書いたことを、
お詫びして撤回しなければならない。

◎『吉田茂 熱血ワンマン宰相』2007年刊行のビジュアル本には次のようにある。

『当初、茂は英語演説するつもりだった。ところが、アチソン議長が「ソ連がロシア語でやったのだから、日本語でやったらどうか」とすすめてきた。「まことに結構な申し出である」と、茂は了解する。慌てたのは随行員たちである。日本語でやるとなれば、草稿を和紙に書くのが正式だ。ところが、演説まで時間がない。手分けして書いたため、草書もあれば楷書もあり、しかも継ぎ目はにじんで見えにくいという、晴れの舞台にはいささかそぐわない珍妙なものになった。(講和会議に傾向した硯、筆、墨、水差しなど一式の写真の説明文⇒随行員たちは吉田の演説時間ぎりぎりまで草稿を巻紙に筆書していた)』


◎白洲次郎の『自己申告の逸話』には外務官僚を貶めるものが多い。
これはおそらくは白洲次郎の劣等感からくる嫉妬であろう。
彼は吉田茂の独裁権力を嵩にきた『私的外務大臣』と恐れられたが、
ついに公式に外務官僚の立場を得ることはかなわなかった。

白洲は外務官僚をけなす一方で、内務官僚はベタほめである。
むべなるかな、内務官僚は吉田&白洲のコネクションの尽きぬ源泉である。
その代表例が正力松太郎と中曽根康弘である。


◎さてジークムントに戻る。彼はケンブリッジ大学で講座を取る。
ロビン・ストラッドフォードが次郎の親友になったのは、
ウオーバーグの依頼でお目付け役になったからだろう。
そのロビンと次郎の二人のオイリーボーイは車で北部に卒業旅行に行く。
恐らくここで二人はジークムントに取り込まれ、MKウルトラのような洗脳が施される。
薬物を使った人格破壊・再凍結である。
白洲次郎は死ぬまでその任を解かれることのない任務に就く。

◎再び青柳恵介の前掲書より抜粋。

『シグムンド・ウオーバーグは日本を訪れ「almost his Japanese double(まるで双子の)」白洲次郎と出会う。ウオーバーグと白洲は意気投合し、白洲の紹介で野村證券の社長に会い、以後ウオーバーグは積極的に資本を日本に投資することになるのである。白洲は「S・G・ウオーバーグ」の顧問となる。ただし、顧問といっても、シグムンドへの友情の上に立った非公式な個人的なアドバイザーである。今回S・G・ウオーバーグのスタッフのマーチン・ゴードンが寄せてくれた白洲の思い出の記から一部引用しておこう。』

『「白洲氏とウオーバーグ氏の関係は、遠距離であるにもかかわらず、非常に親密なものだった。ウオーバーグ氏が最後に日本を訪れたのは、1978年の11月で、日本政府から勲一等瑞宝章を受授章した時である。私は当時の福田首相がウオーバーグ氏トウオーバーグ夫人と同席し、白洲氏が隣のイスで微笑んでいる写真を持っている。白洲氏とウオーバーグ氏およびS・G・ウオーバーグ会社の同僚との何年にもわたる交友関係の間、ウオーバーグ氏と私たちは白洲氏や彼の親しい交友サークル、すなわち宮澤氏、永山氏、故森永日銀総裁の目を通して日本を見てきた。その結果、ウオーバーグ氏は白洲氏の指導の下で、過去25年間に日本が経済大国になる原因となった多くの注目すべき資質を見ることができた。白洲氏はウオーバーグ氏やS・G・ウオーバーグ会社の長老であるエリック・ロール氏やデヴィッド・シューロイ氏等に、最も興味深く影響力のある日本人を紹介した。その結果、日本での仕事はS・G・ウオーバーグ会社の幹部達にとって、常に楽しみであり、私たちにとって日本は決して外国のように感じられなかった。」その東京事務所ではサー・シグモンドの肖像画と並んで白洲の肖像画を掲げている。』


◎ジークムントは本家の跡取り息子であるが、父親がウダツのあがらない人だったので、
息子であるジークムントは若いころは不遇の時代を過ごしている。
しかし非常なやり手であるので、後年S・G・ウオーバーグという投資銀行の経営者になる。

ジークムントはスイスに所有している製薬会社にLSDを製造させる。
それをOSSにいた甥のジミー・ウオーバーグが、CIAのMKウルトラとして活用する。
ウオーバーグ一族とフロイトは懇意であり、両者は深くタビストック研究所に関与している。
(白洲次郎の父親アビーはフロイトの治療を受けている)

◎ジミーの父親ポールはFRB創設者として知られているが、
ポールの本当の姿はドイツ諜報機関のトップである。
つまりドイツ諜報機関のトップがクーン・ローヴ商会の娘婿になり、
アメリカの中央銀行を創設したのである。

ポールは1918年から27年にかけ、連邦諮問評議会の副会長・会長として、
連邦準備制度理事会の際策を計画決定している。

◎ユースタス・マリンズ 著『世界権力構造の秘密』より抜粋

『1918年12月2日付けの「合衆国海軍情報部報告書」に次の記述がある。−ポール・ウオーバーグ ドイツ人、1911年に合衆国市民権を獲得。皇帝より勲章を受領。ドイツ銀行家よりレーニンおよびトロッキーに提供された巨額資金を取り扱う。兄マックスあり。ドイツ諜報組織の長官。』


『ヒトラーのドイツにおいてさえ、マックス・ウオーバーグの会社は迫害から除外されていた。マックスが合衆国に向けて出発したのは1939年のことだが、一般に想像されるようなユダヤ人に対する制約規制になんら拘束されなかった。』


『ポールの甥のエドワードは1941年にドノヴァン将軍の跡を継いで情報調整官に就任し、その後の第二次大戦中はロンドンのSHAEF連合国派遣軍最高司令部でアイゼンハワー将軍に特別政治顧問として仕えた。』


◎ウオーバーグはロスチャイルドと並んで、シナリオを画策するもう一つの雄である。
昨今の正子&次郎ブームは、連中が仕掛けたプロパガンダである。
『白洲次郎と正子 乱世に生きた二人 お互い、自ら信じた道に妥協はしない。
風のように韋駄天のごとく、激動の時代を駆け抜けた−』

実態
『白洲次郎と正子 乱世に楽した二人 お互い、他人が用意した道に妥協した。
コンプラドールとして激動の時代を食い物にした』   

私は思う。
自分のお世話を自分で出来ない連中を、
『貴族』と呼称する慣わしはいい加減やめたらどうだろう。
『人類の寄生虫』という真実の名前で呼ぶべきだ。
ノーブレス・オブリージ(高貴な者の義務)などという言い草もタワケだ。
人のお世話がないと生きていけない人種に高貴な義務も何もない。
どうか自分のお世話を自分でできるよう努力されたい。
今まで人類にかけた迷惑を考えたらもうそれだけで十二分である。

次郎&正子も自分で自分のお世話ができない。
風の男次郎と韋駄天お正は、寄生虫階級の価値観の中で生きた。
正子は次郎を指してこう言う、本当の本物は贋物と見まがうばかりの妖しさがあると。
ホワイツ・クラブのようなトップクラスの場所に出入りした吉田と次郎は本物だと。
彼女は人類の寄生虫ザ・オーダーの価値観を共有しているのである。
そんな白洲正子に何の真贋を見きわめる目などあろうか。


◎さて白洲次郎は第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任する。
ザ・オーダーのシナリオには「ここからが茂&次郎の本番」と書かれていだろう。


『ボクは昭和23年10月、第二次吉田内閣が成立した直後に、マッカーサーじきじきの”お名指し”で貿易庁の長官に就任する。貿易庁は商工省の外局にすぎなかったが、占領下わが国の貿易は、当時、まだ”政府貿易”しか許されていなかったために、海外への輸出は、政府のライセンスを必要とし、このライセンスの順番をめぐって、汚職のウワサが絶えなかったのである。貿易庁汚職のウワサは、国際的にも喧伝され、ワシントンでは”ボウエキチョー”という言葉が、一時、汚職の代名詞として使われた。ここに至り、マッカーサーは連合軍最高司令官の威信にかけ、占領下日本のスキャンダル摘発に乗り出すべく、ぼくを貿易庁長官に任命したらしいのである。が、それにもかかわらず、ついに貿易庁の汚職を根絶するまでには至らなかった。ぼくはやむなく、貿易庁の廃止を決意する。このほうが汚職を撲滅する早道と思われたからだ。そして貿易庁はやがて商工省に吸収され、通商産業省に衣替えするが、通産省誕生のきっかけは、実に貿易庁の汚職防止から始まったわけである。』(週刊新潮昭和50年8月21日号「占領秘話」を知りすぎた男の回想)


◎事実は真逆である。


再び徳本氏の前掲書より抜粋。


『日本国憲法制定に携わった後、白洲次郎は終戦連絡事務局を退任した。そして、第二次吉田内閣発足に伴い、1948年12月1日、貿易庁の長官に就任する事になっていた。その白洲は、以前から商工省の抜本再編論者で知られた。国内産業育成から、輸出産業の振興に軸足を移し、外貨獲得を目指すべきというのが持論だった。長官に就任した彼は、直ちに組織再編に取りかかった。翌年の19449年2月8日、通商産業省(仮称)の設置が明らかにされ、5月には設立されるスピードだった。その後、通産省は強力な輸出振興策を打ち出し、「日本株式会社」の代名詞になった。』


『だが一つの疑問が残る。この組織再編は、当の貿易庁はもちろん、商工省内でも反発が強かった。国内産業重視の看板を降ろすのに、官僚の抵抗が強かったからだ。現に彼らは、組織再編を進める白洲長官に最後まで抵抗した。ところが英国側文書によると、すでに1948年9月初め(つまり次郎が長官に就任する3ヶ月前)、貿易庁は駐日英国代表団に組織再編のアドバイスを求めている。』


『ちょうどこのころロンドンのボード・オブ・トレードに、駐日英国代表団から機みょな問い合わせがあった。組織再編を検討している日本の貿易庁が、英国のボード・オブ・トレードを模倣したいと言っている。至急、機構図や関連資料を送って欲しいという。当時貿易庁は商工省の外局で、本来商工省は国内産業育成を重視し、海外貿易は二の次だった。そこで抜本的な組織改革を行い、通商貿易全般をカバーする英国の組織を模倣したいとの事だった。』


『「貿易庁が英国式に再編される事で、わが国が日本の経済政策に影響を与えやすくなるかどうかの判断は、われわれよりボード・オブ・トレードが適している」「これが占領下の日本での、英国の地位向上にどれほど重要かは分らない。しかし、民主主義は米国の独占ではない事を日本人に示すため、あらゆる機会を生かすべきである」(1948年9月15日英国外務省報告)』


『明らかに(商工省の)組織として矛盾する、二つの力が働いていた。ここで一つの仮説が真実味を帯びてくる。それは、貿易庁に近い関係者が、独自に英国代表団にアプローチしたという推論である。その人物は、英国の政府機構を熟知し、ボード・オブ・トレードを貿易庁の再編モデルにしたいと考えていた。そして英国がGHQに焦りと反発を募らせている事も熟知し、彼らが飛びつくと見抜いていた。当時、日本側でこれだけの動機と知識を持った人間はごく限られてくる。白洲次郎である。戦前、日本水産幹部として渡英をくり返し、英国政府とGHQの内情に通じた彼なら可能性がある。』


『さらに興味深いのは、当時の日本市場を狙った英国企業の動きである。戦前、彼らは日本と活発な貿易活動を行ったが、GHQの占領下、身動きが取れないでいた。民間人の来日は厳しく制限され、現地の情報収集やコネクション開拓もできない状況だった。一方、米国企業は独自のGHQルートを築き、虎視眈々と日本でのビジネス拡大を狙っていた。このままでは、貴重は日本市場をむざむざ米国勢に明け渡してしまう。次第に英国企業は焦りを募らせ始めていた。日本国内に、彼らの目や耳として強力な代理人が必要だ。そして、これが白洲の人生の大きな転機となるのである。』


◎徳本氏は人格高潔なためか連中のシナリオが読めない。
吉田茂と白洲次郎の悪辣さが実感できない。
白洲次郎は予定通りの転機を迎えたに過ぎないのだ。
GHQで特権と情報を掌握して下地が整ったのだ。


◎徳本氏の前掲書の続き。


『白洲は戦後、数々の英国企業の顧問、アドヴァイザーを務めた。商社のジャーデイン・マセソン、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル、投資銀行のS・G・ウオーバーグなど錚々たる企業だ。しかも白洲はトップと個人的親交を結んでいた。S・G・ウオーバーグ創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿、ロイヤル・ダッチ・シェルのジョン・ラドウン会長など経済界の重鎮ばかりだ。白洲はGHQの集中排除命令で四社に分割された日本製鉄の、広畑製鉄が富士製鉄に返還されようとしたのをジャーデイン・マセソンと合併させようと吉田首相に根回し話を進める。これに激怒したのが後の富士製鉄社長の永野重雄だった。永野の必死の政治工作で阻止した事、銀座のクラブで白洲と乱闘を起したことは前著で触れた。もう一つは四日市の級海軍燃料払い下げである。各石油会社が落札に奔走する中、三菱石油と組んだのがロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを協力に支援したのが白洲だった。紆余曲折の末、昭和石油が落札に成功する。その後、彼らは三菱シェルグループと連携し一大石油コンビナートを建設する。ここで白洲批判が噴出した。通産省を動かし力づくで落札させたとの告発だった。』


◎徳本氏の前著『英国機密ファイルの昭和天皇』より該当箇所抜粋。


『戦後、日本製鉄はGHQの集中排除命令で、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の四社に分割される事が決まった。その広畑製鉄所は、当時、日産一千トンの高炉二基、二百万坪の工場を持つ最新鋭施設だった。奇跡的に戦火を免れ、やがて富士製鉄に返還されると見られていた。その広畑を白洲は、英国のジャーデイン・マセソンと合併させようとしたのだ。彼は吉田首相らに根回しして、話は順調に進んだ。』


『これに激怒したのが、後に富士製鉄社長を務める永野重雄だった。永野は「広畑を取れなければ腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と政治工作を行い、ぎりぎりで阻止する事に成功した。後に永野は、銀座のクラブで鉢合わせちあた白洲を怒鳴りつけ、彼の頭をテーブルに押しつけてしまった。外貨獲得の大儀名文があるとはいえ、白洲のやり方に相当頭に来たのだろう。』


『前述した通り、講和条約締結の直前、ジャーデイン・マセソンは、日本のビジネスを進める上で白洲に目をつけていた。白洲の影響力に冠する東京支店長の報告は、ロンドン本社から英国外務省に転送されたくらいだ。その後、彼がジャーデイン・マセソンへの広畑売却に動いた事実を考えると、両者が裏で手を組んだと見るのが自然だ。』


『さらに白洲は政治情報も先方に渡していた。サンフランシスコ講和会議の翌月、1951年10月3日つけの東京支店長報告は、白洲から入手した日米安全保障条約締結の内幕を記述している。当時の白洲は、東京電力会長に就任した直後だが、講和会議に主席全権顧問として出席した。帰国後、ジャーデイン・マセソンの東京支店長と会い、講和会議について意見交換したようだ。』


『最近英国大使館のカクテルパーテイーで太田一郎外務次官は同席した英国人外交官に、こう吐き捨てたという。「吉田首相と一緒に仕事なんか出来ないですよ。あの白洲次郎が、私的な外務大臣のように振舞っていますから」(1951年2月6日英国外務省報告)。吉田首相は外務大臣を兼ねている。その正確は倣岸不遜、手法はワンマンで、圧倒的存在感を持っている。その私的外務大臣という白洲次郎とは何者か。占領中、主な外務官僚が追放された間に、この男が日本外交を牛耳っているのではないか。直ちに彼らは、白洲の経歴と性格を調査し、「東京・パーソナリテイ・レポートbV0」という報告書にまとめた。その翌月の3月22日、今度は、ジャーデイン・マセソン商会という英国商社から報告が入った。差出人はエリック・ポロックという東京支店長だ。』


『その中に「只見川水力発電所」という記述がある。「次郎は、日本の権力構造で比類のない立場にある。公益事業委員会の松本烝治委員長や松永(安左エ門)委員長代理も、彼の影響力と友情に恩義がある。次郎は今、日本で最も強力な人間となりつつある」(1951年3月22日ジャーデイン・マセソン商会報告)。白洲をファーストネームで呼んでいるところを見ると、ポロックと白洲は、以前から面識があったようだ。その上でポロック報告は、英国の電力会社の代表団が翌月来日するが、只見川水力発電計画に彼らも参加させるべきだと提言した。何のことはない、東北電力で絶大な権限を持つ白洲を、商売に利用しろと言っているのだ。吉田内閣の私的な外務大臣、政財界に強力なパイプを持つ男として、白洲の存在は大きかった。日本に於ける強力な代理人として、彼の名は英国政府と企業に広がっていった。』


『さらに、白洲の政治工作は、四日市の旧海軍燃廠払い下げでも発揮された。この燃料廠は、旧海軍が太平洋戦争に備えて建設した施設だ。数隻のタンカーが同時に接岸でき、パイプラインで精製工場に陸揚げできるのが魅力だ。戦後、無傷でGHQに接収された燃料廠を、石油業界は熱い視線で狙っていた。日本石油、出光興産、日本鉱業など各石油会社が、何とか落札しようと奔走した。そのバックには、提携先の英米の国際石油メジャーがついていた。』


『その中で、三三菱石油と組んだのが英国系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを強力にバックアップしたのが白洲だった。紆余曲折の末、1955年、昭和石油が落札に成功した。その後、彼らは三菱シュエルグループと連携して四日市に一大石油コンビナートを建設していくのだが、白洲への批判が噴出した。貿易長長官時代、彼の部下だった通産省の永山時雄官房長を動員し、力づくで落札させたとの批判だった。強引な行政指導を行った永山は、退官に追い込まれたほどだ。』


『これら白洲の働きぶりを、私が会った英国人は「次郎は、我々の良き”コンタクトマン”だった」と評した。持ちかけられた案件によって、ある時は情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作者となる。日本進出を狙う外資の総合コンサルタント業である。吉田首相の側近で、通産省の産みの親ろいう立場は、白洲が国際的ブローカーの地位を築くには最高だった。』


『その彼を批判する者は英国にもいた。元英国外務省職員の証言によると、ある元駐日英国大使は、白洲を「蛇みたいな男だ」と忌み嫌っていた。二枚舌を持つヘビと同様、自分の立場を使い分ける狡猾な男とい意味だ。また、ある英国人ジャーナリストは、苦笑いしながら、「次郎はとてつもなく傲慢で、1920年代のケンブリッジ・イングリッシュを話していた」と語った。次郎は終生、若い頃に英国で身につけた英語を話していたらしい。良く言えば格調高い、意地の悪い言い方をすれば、骨董品のような英語をはなしていたのだ。その白洲らしさが如何なく発揮されたのが、戦後の占領期だった。焼け野原の東京で、格調高いケンブリッジ・イングリッシュを話す、傲慢で狡猾な日本人と出会い、GHQの将校もさぞ面食らったはずだ。』


◎白洲次郎は流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。
それをGHQ民生局の将校に褒められた時
「あなたも私のように勉強すれば上手くなりますよ」
と切り返したという。
これは次郎のカッコいい逸話として伝えられている。
しかし実のところは古色蒼然とした英語を話す自分が得意で、
それをからかわれているとは本人に分らなかったのだろう。


◎再び徳本氏『1945日本占領』より抜粋。

『「なるほど、その白洲とは一種のコンプラドールだったようだな」「コンプラ・・・何ですか、それは」一瞬面食らって訊ねた。デービスがにっこりと笑った。「コンプラドール、19世紀の中国っで外国企業は中国進出を狙っていた。時は帝国主義ノ全盛期、巨大な市場は大きな魅力だった。だがそこで彼らh厄介な障壁に直面する。言葉や商習慣の違い、現地有力者とのコネクションだ。それを同克服するかがビジネスの成否を左右した。ここで一部中国人が強力な助けを提供した。英語に堪能で有力者と太いパイプを持つ者だ。彼らは仲介者として中国進出を支援した。これがコンプラドールと呼ばれた中国人だった。その見返りに彼らは莫大な報酬を手にした。中でもジャーデイン。マセソンのコンプラドールは有名で中国の政治に関与する者も現れた」。』

『デービスの話を聞いて私は目の前の霧が晴れる気がした。19世紀の中国で外国企業のため働いたコンプラドール、占領下の日本で外資系を支援した白洲、両者の役割はピタリ重なる。持ち掛けられた案件の情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作人となる。日本進出を目指す外資の総合コンサルタントだ。そしてその働きにふさわしい報酬の支払われていた。私のインタヴューに応じた白洲の長女牧山桂子はこう証言した。「これらの会社と父には正式な契約書もなく個人の信用でやっていたはずです。定期的ではないけど報酬はもらっていたのではないかと思います。英国や米国の銀行に預金口座があったようです」。皮肉だが白洲がコンプラドールとして活躍できた理由、それは占領の賜物だった。』


以上抜粋。

◎白洲次郎は雑誌の対談で平然と「自分が貧乏なのはみんなが知っている」
「じぶんが一番嫌いなのは嘘つきだだ」などと言ってのけている。
次郎は大金持ちである。彼の英米の銀行口座には、
外資系企業からちょうだいしたリベートがたっぷり貯まっている。
白洲次郎の言動のほとんどは、傲慢なあるいは巧妙なウソでできている。

白洲次郎が付き合った文士たちは、揃いも揃ってボンクラである。
白洲次郎著『プリンシプルのない日本』には、彼ら文士たちとの座談会が収められている。
そこでは白洲次郎がいち早く日米開戦を予見し、悲惨な敗戦を見越して疎開していることを、
文士連中が「先見の明がある」「その通りになった」と激賞している。
次郎の自己申告を鵜呑みにして死後も虚像をベタほめしてやまない。

『若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し激しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。白洲次郎は真の意味での国際人であったが、『国際化』という言葉が叫ばれる今日、むしろ国際化の逆コースをたどっている。経済界で本当の”国際人”が何人いるか。白洲の目には寥々たるものに映ったであろう。日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにすら気づかず、あるいは孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、そういう人間を白洲は”イヤシイ奴だ”と言っていた。白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、そういう”イヤシイ奴”と決して付き合おうとしなかったことだろう、・・・』(青柳前掲書より)

私利私欲をもってつき合おうとする代表者が白洲本人である。
『それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない』というのは、
いかに私利私欲の塊であったかの証左として私は取る。
自分と同類項の人間を見ると鏡に映された自分を見るようで耐え難かったのだ。

私の知人に数年間かつての白洲次郎を接待したことがある人がいる。
接待場所はたいてい銀座のマキシム・ド・パリ、白洲は話す相手を区別していたという。
例えば裸一貫で成功した食品会社の社長には絶対に話しかけなかったという。
白洲はいわゆる『成り上がり者』を軽蔑していたという。
白洲の人品を物語るエピソードである。
『イヤシイ奴』とは白洲次郎のことだ。
どんなにイヤシイ小心者であるかを、茂&次郎コネクションの辰巳栄一が青柳にバラしている。
青柳恵介にはそれをイヤシイと思う思考回路がない。
『風の男 白洲次郎』なのである。

◎青柳恵介の前掲書より抜粋。

『昭和62年の夏、私は白洲正子夫人に伴われて世田谷区成城にある辰巳栄一氏のお宅を訪れた。辰巳氏は小柄な方であったが、92歳とはとても思われぬ、カクシャクとした様子だった・・・辰巳の知り合いで、戦前から疎開を実行し、実際に百姓を始めたのは白洲次郎一人であった。「まあ、白洲次郎さんというお人は、実に単刀直入な方で・・・」と嬉しそうに、野菜を放り投げて足早に去って行った人の後姿を追うように辰巳氏は遠くを眺めた。』


『「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、或る日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、召集されちゃったよ”と言われるんです。”白洲さん、あなたもう40を過ぎてるじゃありませんか。丙種でしょ”というと”ああ丙種”と。東部軍の参謀長なんていう役職についていると、方々の人から召集についてはいろいろ頼まれるんです。軍人の奥さんなんかからですね。私は一切そういうのを断っておったんですが、白洲さんの時は早速に召集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです。そうしたら白洲さん喜ばれましてね、いろんな缶詰を山のように持ってこられまして、”これは辰巳さんの分、これはその召集主任にやってくれ”と、とても感謝されました。」』


『辰巳の話を聞き、白洲正子夫人は一寸びっくりして「あら、私そんなこと何も知りませんでした」と呟いた。すると、辰巳氏は間髪を要れず、「そうです。あの方はご自分のことなど一切お話になりません」と断言したのだった。』


◎白洲次郎は『ご自分のことなど一切お話になりません』のである。
辰巳栄一が断言したことを胆に銘じてほしい。
白洲次郎の伝説は後年になって本人が吹聴した作り話であることを。
辰巳の箴言を念頭に置いて、白洲伝説を翻訳し直してほしい。
差し出すものは命だけしかない民草は、戦いに赴いて多くは異国の地で果てたのである。
そして召集令状をチャラにした非国民白洲次郎が、戦後の「占領を背負う男」になった。
吉田の私的外務大臣として最高権力を掌握し外資系企業との利権に繋げた。

吉田茂&白洲次郎の最強の売国奴コンビの独壇場である。
彼らは田布施王朝以来の、コンプラドールの掟と伝統をよくわきまえている。
アヘン王の出先機関ジェーデイン・マセソンの日本進出を助ける掟。
国際金融犯罪組織の便宜を図っておこぼれを頂戴して優雅な生活を送る伝統。
こんな野郎に「プリンシプルがない日本」と言われたらお終いである。

『ボクは人から、アカデミックなプリミテイヴ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思ってる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。』(昭和26年11月18日号週刊朝日)

私は自分の不明をお詫びして訂正しなめればならない。
白洲次郎は自己申告のプロパガンダの達人である。
ソエジなどは足元にも及ばないほど狡猾である。
白洲次郎に正義感などあろうはずもない。
彼が貴いと思うものは、階級と権力と金である
そもそも素朴で幼稚な正義感を貴いと思う者が、
白洲次郎のような利権漁りを生業とするだろうか。

第三者の目撃談が語る白洲次郎の人物像は、
傲慢で特権意識に凝り固まった貴族主義者である。
特権階級と成り上がり者を峻別して対応したという。
(友人や女性には例外的に接したようである)
しかしユダヤ財閥の元をたどれば、ゲットーからの成り上がりである。
白洲次郎がカブレていた英国貴族たちも同様である。
彼らのそのほとんどは濃淡の差はあれ、ゲットーのユダヤ人の血が混じっているのだ。
白洲次郎が成り上がりものをバカにするのは、目くそ鼻くそを笑うの類である。
名家といわれる家系もずっと元をたどれば、
ネアンデルタールとかアウストラロピテクスに行き着く。

白洲次郎とは何者か。
ユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。
「占領を背負った」「日本一カッコいい」「風の男」とは、、
戦時中の召集を免れて安全地帯に隠れていたくせに、
戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、
あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。
商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、
商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、
外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。

白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。
2・26の時から抹殺される要人は決定されている。
戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。
この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
近衛は五摂家筆頭の血統が昭和天皇の劣等感を刺激したのだろう。
白洲次郎と牛場友彦と松本重治は近衛親子に貼り付いて工作している。
白洲次郎は弱虫なので汚れ仕事の現場には行かない。

吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、
寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。
寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、
戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。
このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。

吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
7. 中川隆[-15076] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:11:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2117]
山本五十六の真実G吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文麿編
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/768.html

山本五十六のプロパガンダを解明するために、絡まった糸を一本一本解きほぐす作業を続けています。もう暫くお付き合いください。


まず訂正事項があります。前回、第二総軍を原爆投下の真下におびき寄せるシナリオを、昭和天皇に指示された畑俊六が前夜松本重治の別邸に避難した、という記述は松本俊一の間違いです。お詫びして訂正します。


それからデイヴィッド・バーガミニ著『天皇の陰謀』から原田熊雄の資料を孫引して、山本五十六が述べた以下の“黙示録的セリフ”についての考察も、お詫びして撤回します。


『私の考えでは、米国と闘うためには我々は殆ど全世界に挑戦する用意がなければならない。・・・私は最大限を尽くす覚悟でいるが、私の旗艦、戦艦長門の甲板上で死ぬつもりだ。そのような最悪の日々、東京は少なくとも三回は焦土と化すだろう。結果は人民の長い苦悩である。そしてあなたや近衛、その他の人たちは、考えるだけでも哀れなことだが、おそらく大衆によって八つ裂きにされるだろう。それは実に混乱した事態だ。我々は逃れられない運命として、このような道を通らなければならない。』


尚、これについての詳細は本文で述べます。

以下本文です。

近衛文麿は内閣首班として、日中戦争の拡大・泥沼化、大政翼賛会結成によるファッショ化、三国同盟締結、南進策と武力発動の国策要綱を決定した汚名を、山本五十六は連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃奇襲による日米開戦とミッドウエー海戦敗戦を初めとする拙策で海軍を破滅に導いた汚名を被せられている。そして共に歴史の闇に葬り去られている。最近は近衛文麿は共産主義者、山本五十六はフリーメーソンの売国奴という新たなプロパガンダも登場し、これでもかとバッシングしている。その一方で昭和天皇、吉田茂、伊藤博文らを持ち上げるプロパガンダ本が刊行され、白洲次郎ブームなる現象も起きている。そしてこのバッシングやプロパガンダが史実になりつつある。


例えば山本五十六が近衛文麿に日米開戦の不可なることを明言したセリフも、わざと曲解され色々な尾ひれが貶める材料として使われるようになっている。


『それは是非にやれといわれれば初め半年や一年の間は、ずいぶん暴れてご覧にいれます。しかしながら二年三年となると全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい』


五十六の注進の意味は、プロパガンダ作家たちによってズラされてきた。五十六は“半年一年暴れてご覧に入れます”とハッタリをかました。五十六がはっきり戦争は出来ないと言わなかったから、優柔不断な近衛が迷って戦争が回避されなかったのだ。等々。


中田安彦の『ジャパンハンドラーと国際金融』に至っては、五十六のセリフ自体が改変されている始末である。中田くんの『私の仮説』によると、五十六は“二年三年は暴れてご覧にいれます”と言ったことになっていて、その理由はアメリカ駐在大使付武官時代のポーカー人脈を使って早期和平に持っていく自信があったからだという。


中田君は問題外としても、五十六の言わんとするところは故意に捻じ曲げられてきた。『半年一年は暴れてご覧にいれる』というのは、『二年三年となるとまったく確信が持てません』の前置きに過ぎない。『開戦を極力回避していただきたい』と明確に答えている。五十六の結論ははっきりしているのだ。近衛自身も日米開戦を阻止すべく孤軍奮闘していた人物として、五十六の意図を正確に理解している。そして何度も昭和天皇に戦争を回避するよう上奏している。それが五十六は強引に真珠湾攻撃をし、近衛は責任回避したことになっている。近衛文麿と山本五十六は逆情報活動によって抹殺され続けている。近衛文麿のプロパガンダは五十六のそれよりもはるかに巧妙で徹底している。


我々はこう思わされている。近衛文麿という人間は優柔不断で粘りがなく、肝心な時に政権を投げ出す情けない奴だ。近衛こそは日中戦争を泥沼化し、蒋介石政権との和平工作を潰した張本人なのだ。それなのに近衛上奏文では全てを共産主義に責任転嫁し、ひたすら国体護持を唱えた。そして戦後マッカーサーに近づき、新憲法起草責任者になった。しかし戦犯指名されると、巣鴨に出頭する期日の前夜、屈辱に耐え切れず自殺した。

白洲次郎が「どうも近衛が自殺するらしい」と電話をかけてきたので、松本重治と牛場友彦が駆けつけ、近衛に翻意を促したが「このわがままだけは許してくれ」と言い張って服毒自殺したという。松本重治はその後もくりかえし近衛の自殺前夜の様子を語った。「近衛公は天皇さまよりプライドが高かったから、勝者の裁きを受けることは耐え難かった。近衛公は天皇さまを守るため出頭を拒否した」。天皇さま云々はともかく、裁判を受けることを断固拒否する態度は、確かに近衛文麿の『遺書』の内容と合致する。だから『史実』として定着している。

しかし私は次のように結論する。


◎近衛文麿は服毒自殺ではなく薬殺された。

◎指令を出したの吉田茂と昭和天皇である。

◎近衛文麿は出頭してすべてを話す決意を固めていた。

◎近衛家は篤麿、文麿、文隆の三代に渡って暗殺されている。

◎近衛文麿を破滅させるシナリオは、15年戦争ぐるみの壮大なものである。

◎近衛文麿が首相になった直後に、盧溝橋事件を起こす計画だった。

◎近衛文麿が首班の時に、日中全面戦争の拡大化を図るシナリオだった。

◎近衛文麿が首班の時に、三国同盟締結、大政翼賛会結成、
汪兆銘傀儡政権、武力発動の帝国要綱が作成決定されるシナリオだった。

◎近衛文麿に関する史料はほとんど全て改竄されている。

◎『近衛上奏文』も『近衛・マッカーサー対談』の外務省史料も、
『近衛文麿の手記』も『失われた政治』も捏造である。
近衛文麿が創設した近衛家の史料を収めた陽明文庫も盗掘されているだろう。

◎近衛文麿による画期的な新憲法起草案は、御用学者によってわざと曲解されている。

◎藤原菊と山本ヌイの手記は捏造である。

◎近衛文隆は吉田茂の指令によってソ連に抑留され、日ソ国交回復と同時に薬殺された。

◎鳩山一郎は、吉田茂に動かされていた駒に過ぎない。

◎鳩山一郎による日ソ国交回復も、吉田茂のシナリオである。

◎近衛文麿暗殺の主役は松本重治と牛場友彦、共演者は風見章、岸道三、後藤隆之助、山本有三。友情出演G2チャールズ・ウイロビー、ソ連代表部テレビヤンコ。

◎野坂参三は吉田茂と共謀していない。(吉田茂が嫌い)

◎野坂参三は独自のルートで昭和天皇のために尽くした。

◎尾崎秀実が一番信頼していたのは野坂参三である。

◎野坂参三は田布施村王朝に恩義を感じ、昭和天皇のために尾崎秀実を使い捨てにした。

◎伊藤博文、吉田茂、昭和天皇は近代史上不世出の三悪人である。

◎防衛庁に職員として潜入していた秦のように、田布施村王朝の草が逆情報活動している。

山本五十六と近衛文麿の暗殺は連動している。二人は2・26事件直後に、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されたと思われる。近衛抹殺指令には朝日新聞の緒方竹虎と嘉治隆、NHK、白洲次郎、松本重治、牛場友彦、岸道三、風間章、後藤隆之介、山本有三らは、全員がグルになって協力している。近衛を追い詰めた上で『自殺する』という風評を流し、近衛が周囲の制止を振り切り我意を通して『自殺した』、というシナリオを演じている。近衛の家族を除く全員が共犯者、謂わばアガサ・クリステイ―の『オリエント急行殺人事件』状態である。中でも主役を演じた松本重治は、晩年になってしつこいくらいに偽証している。


松本重治『わが心の自叙伝』聞き手・加固寛子 1992年初版 講談社より

以下抜粋。

『近衛さんが自殺されたのは、昭和20年12月16日。近衛さんはプライドというか、矜持が高かった。マッカーサーにだまされたということで、縄目を受けることはたえられなかった。それにもました「巣鴨」に行き戦犯として法廷に立てば、戦争責任の塁が天皇様に及ぶ危険がある。それを防ごうとされたのかもしれない。いろいろ考えて死を選ばれたのであろう。』


『私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところに行って二時間ほど二人で話した。恥をしのんでも、近衛さんが法廷に立って天皇さまを守らねばならないと言っても、「木戸がいるではないか、最後のわがままだ、勘弁してくれ」と言われると、なんともしようがなかった。自殺をするという噂があったので、翌日京都大学時代の親しい友人、後藤隆之助とか山本有三も顔を見せていた。今から思えばお別れに来ていたのだ。近衛さんは集まっていた人みんなにウイスキーをついでまわっていた。”別れの杯”のつもりだったのだろう。人びとが帰ってしまって、友さんと私は近衛さんの隣の部屋で寝た。翌朝六時ごろ、千代子夫人が友さんを呼んで「やっぱりやりましたよ」と言った。死に顔は安らかであった。』

松本重治『昭和史への証言』聞き手 國弘正雄 2002年初版 たちばな出版より

以下抜粋。


『松本  近衛さんはプライドが非常に高かった。プライドが高い点では、天皇さま以上ではなかったでしょうか。そういう近衛さんにとって、マッカーサーにだまされたということ、縄目を受けることは、たえられなかった。それより死んだほうがいい、という気持ちになったのです。プライドが高いから執着心がないわけです。私は近衛さんがなくなる前日、近衛さんのところへ行って二時間ほど二人で話をしました。近衛さんに、恥を忍んでも天皇さまを守る人がいなければ駄目ですよ、といったのです。木戸(幸一)がいるではないか、と近衛さんがいうので、私は木戸さんは内大臣としてはまだ新しいから、あなたが天皇さまのそばにいて下さいと頼んだのですが、近衛さんは、松本君のいうことはわからんことはないけれども、このわがままだけは許してくれないか、といわれるのです。最後のわがままだ、勘弁してくれ、といわれると、なんともしようがなかったのです。』


『−そのとき、先生が近衛さんのところに行かれたのは、自殺の決心を変えさせようと思われてのことですか。』


『松本  近衛さんが自殺するという噂があったのです。だから、後藤隆之介とか山本有三、二人は同級なのですが、あの二人がお別れに来た、とかいって、近衛さんの顔を見に来たくらいです。』


『−近衛さんと二時間話をされたのは、自決を思いとどまってほしいということに費やされたのでしょうか。』


『松本  そうでした。私は、近衛さんに、あたなが亡くなったら、天皇さまがお気の毒ではないか、といったのです。天皇さまが本当に信頼しているのは近衛さんだ、と私は思っていましたからね。近衛さんは、日独伊三国同盟をつくったとき、「おまえはどこまでも私についてきてくれるか、助けてくれるか」と天皇さまに頼まれたのですが、考えてみると、天皇さまに「お前頼むよ」といわれたのは、近衛さんと牧野伸顕くらいではないでしょうか。その牧野伸顕にしても、近衛さんより年齢はずっと上ですからね。』

昭和天皇と近衛文麿のこのエピソードは捏造であると私は思う。近衛がこれを閣議で披露し、松岡が号泣したという逸話も作り話だと思う。天皇さまが本当に信頼しているのが近衛のはずがない。近衛文麿こそは田布施王朝の不倶戴天の敵である。文麿はすでに少年の頃から田布施王朝を忌避していたのだ。昭和天皇と近衛文麿の間に心の交流など、ただの一瞬もなかったはずだ。私は昭和天皇は近衛文麿を憎悪すらしていたと思う。


『−近衛さんは先生に遺言のようなことはいいませんでしたか。』


『松本  何もなかったですね。近衛さんの気持ちは遺言にある通りです。グルーは自分の気持ちをわかってくれた。時がたてば、本当のことは全部わかる。いまは終戦のどさくさだ。みんな異常な心理だから、間違いも多く、誤解も多い。そういう客観情勢の下で勝ちおごった者から裁かれたくない−と。近衛さんは、それは悠々としていました。この最後のわがままを許してくれ、なんて言葉は余裕がなければとてもできませんよ。私たちは水割りのウイスキーを飲みました。それから、私はどんぶりものを食べて寝たのです。翌朝六時ごろ、千代子夫人が牛場友彦を呼んでいいました。「友さん、やっぱりやりましたよ」。前の日には、シーツを真新しいものに代え、寝衣から何から全部、新しいものを用意して近衛さんを寝かしたのです。千代子夫人はなかなか勘のいい人でした。』


現存する近衛の『遺書』は、偽造史料だと私は確信する。吉田茂の側近、おそらく『近衛上奏文』を創案したり、講和条約締結でも同行した外務省の吉田コネクションのによるものと思う。千代子夫人の冷淡な言動は松本や牛場の捏造である。文麿と千代子夫人は夫婦円満であった。藤原菊と山本ヌイとの一時的な関係はあったと思われるが、彼女たちが近衛の死後にマスコミに出した手記内容や子どもを為したことについては私は虚偽だと考えている。今後、関係者に調査したいと思う。

『−そういう話を伺っていると、とくに最後の近衛さんのせりふなどに、いかにも東洋的な感じを受けます。近衛さんの父君は東亜文書院の設立者ですが、近衛さん自身の中にも東洋への親しみといいますか東洋的なものを感じられましたか。』


『松本  それはありました。近衛さんには男の子が二人いましたが、とくにシベリアに連れていかれた長男の文隆を非常にかわいがっていました。ゴルフがうまく、からだも強く将来を待望していました。二男の通隆のほうは、からだも割合細くて、道楽してしようがないんですよ。それで、近衛さんが叱ったころがある。道楽してもかまわんが、しかし、それ以上大事なことを忘れるな−と。そこらへんも東洋的なんですよ(笑)。』


◎通孝は真面目な学者タイプ。道楽してしょうがなかったのは、長身ハンサムなモテ男文隆である。

『−死の前日まで、ずっと身近に近衛さんを見守ってこられた先生の近衛評は全体としてどういうことになるのでしょうか。』


『松本  非常に大事な時に、重大な正しい決意をされるけれども、粘着力が足りないのです。粘っこい点がないんですよ。うまくいかないと、やめちゃおうという気になるのです。(後略)』


『−それは、近衛さんの育ちのよさにもよるのでしょうか。』


『松本 まあ、そうもいえますがね。(中略)貴族意識とか、五摂家の筆頭の家柄である、といった意識はありませんでした。ただ、なんとなしに、天皇さまへの親近感はもっていました。』


『−近衛さんが自裁したとき、天皇がどう反応されたか、ということはもれ承るよしもないのですが・・・。』


『松本 私も聞いたことはありませんが、本当にがっかりされたと思います。』

以上抜粋。

松本重治『近衛時代』1986年初版 中公新書より以下抜粋。


『先日、近衛さんの長女の昭子さんにお会いできて、いろいろと話を聞いたが、その中で昭子さんによると、このソ連行きの際、近衛さんが、小さな小瓶を旅行カバンにいれているのをみて、「これはなに」とたずねたところ、はっきり「青酸カリ入りの小瓶だ」といわれたそうで、後日近衛さんが自殺に使われたのは、そのときの青酸カリだった、ということである。』

◎松本重治は白洲次郎から青酸カリを渡されて持参したので、入手経路について非常に気にしている。近衛の長女昭子を使って誘導尋問して喋らせている。

『日本最後の「公家」−愛娘野口昭子さんに聞く』

『野口  そのときに、父の部屋に行きましたら、こんな小瓶の青酸カリを持ってたんですよ。私あのときから、どっかから入手したのかと思うんですけどね。いざっていうときは、これを飲むんだよって、私に見せたことがあります。だから、あのとき手に入れてるから、自殺のときまでどこに隠してたのか分らないんです。あの場に及んで、その瓶をくださいなんて誰にいったって、くれやしないと思うし・・・。でも、その瓶が、父が亡くなるときに置いてあったの、空になって。コーヒーの中に・・・。それは、ソ連に行くっていうときに、もうすでに持ってたんですよ。』


◎次の二つは彼らのシナリオの定番ネタである。


『終戦連絡局にいた白洲次郎君からの電話で、「近衛さんはどうしても巣鴨プリズンに行くようすはない。自殺するのかな。」という。それで、私は牛場友彦君を誘い、二人して泊り込みのつもりで荻窪の荻外荘に急いだ。応接間に先客がいるらしかった。あとになってわかって、なあんだあということになったんだが、後藤隆之助さんと山本有三さんの二人だった。ともかくそれで、私たちは近衛さんを別室に呼んできてもらい、主に私からだが、二時間くらい「自殺反対論」をぶった。その甲斐はなかった。』

『最近友さんは、「あのときの重ちゃんの説得力には、ちょいと驚いたよ。もの凄く迫力があったからね」と、次のように話してくれた

−重ちゃんが、「近衛さん、あんたが(巣鴨に)行ってくれなければ、陛下が危ない」というと、近衛さんから、「それは木戸がいるから大丈夫です」という答えだった。しかし最後に、近衛さんは、「松本君、ねえ、もう話は分ったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」といった−

こういわれてしまえば仕方がなかった。夜が明け、友さんと一緒に近衛さんの寝室にいってみれば、すでに幽明界を異にしていた。こうして、私らと近衛さんとの絆は、永久に断ちきられたのであった。』

『誤解された近衛−牛場友彦君に聞く』

『牛場  吉田(茂)さんなんかも引っ張られたでしょう。僕だったら絶対あれはしないと、近衛さんいうんですよ。通隆君と僕で、”じゃ、どうするんですか、まさか立ち回りするわけにいかんでしょう””それは手があるさ”とうそぶいているんだな。あのときもう青酸カリを用意していたんですね。たとえば近衛さんがスパイの容疑やなんかで憲兵隊へ引っ張られるというはめになったら、そのときやっていますね、もう。絶対そういうことを許さないという気なんだから。だから通隆に書いた遺書でも”神の裁きを受ける”と書いているでしょう、最後にね。戦勝国の勝ち誇った裁きなんか、受けてたまるかという、裁きを受けるということは、絶対、近衛家の自分としては許さないという。」』


◎牛場友彦が言っているのは嘘八百である。トモは通隆をダシに使ってデタラメこいている。通隆は何も言わないだろうと踏んでいるのである。近衛の遺書も通隆の前で書いたものと、近衛の遺書として公開されているものとは別物である。これは松本がうっかり喋っている。


『牛場  さて僕が近衛さんとはじめて会ったのは、重ちゃんの話した通りで、昭和9年5月半ばのことだ。近衛さんが四十三のときですよ。僕が三十三、そのときの近衛さんの印象は、なんと眉目秀麗なハンサムな人だなと思った。実にスーッとしててね、実に親しみを感ずるんですよ、はじめからね。満州事変をその二年後に控えた年ですから、そのときは非常に騒然としてきた時期に近衛さんとお会いした。近衛家のことなんかぜんぜん知らなければ、近衛文麿という人もぜんぜん・・・そういうことはいっさいわからずに、いきなり二ヶ月間、アメリカ旅行のお供をしたわけなんです。あとで、牛場君は変ってるねって。何が変っているのかと思ったら、そういうことでぜんぜん・・・さもなきゃそんな機会を与えられたら絶好のチャンスなんですね。たとえば友達の尾崎秀実だとしたら、たいへんだったと思うんですよ。食いついてね。日本の政治の中まで入ろうとしてたいへん。』

◎牛場友彦は自分が無欲であることを誇示して尾崎秀実を貶めようとしているが、そもそも尾崎秀実を近衛父子に食いつかせたのは牛場友彦自身である。牛場友彦は書記官長の風見章と共謀して尾崎秀実を『朝飯会』に入れたり、近衛内閣の嘱託として首相官邸に一室を与えて、そこに文隆を出入りさせていた張本人である。尾崎秀実だけでなく、ゾルゲまで文隆に近づけたのも牛場友彦である。


牛場は前掲書の中で『昭和9年の8月にアメリカから帰ってきて、それから太平洋問題調査会のヨセミテ会議が11年かな。この会議の準備に忙殺されて、近衛さんのコの字も忘れていた。全然連絡なかった。そこへ昭和12年に近衛さんが組閣した。そうしたら突如として組閣本部へ来てくれっていうんで、なにごとかと行ってみたら、秘書官をやれって。』と証言している。このヨセミテ会議に出席した尾崎秀実の助手に文隆をくっ付けたのが牛場である。牛場は近衛内閣の秘書官になるとさらに文隆に貼り付いて政治志向を植え付け、やがて父親と一蓮托生の罠を仕掛けた。そのために尾崎とゾルゲを利用したのである。


IPRが謀略の巣窟であることはつとに知られているが、牛場友彦の片割れである松本重治はIPRでの人脈を最大限に生かす人生を送っている。ジョン・D・ロックフェラー三世と共謀して国際文化会館を創設したばかりでなく、IPRで知遇を得たロイターのアジア支局長チャンセラーの紹介で、ジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟と懇意になり、戦後は同商会の顧問を務めている。松本重治は国際弁護士として同商会の他にも、多くの外資系企業の進出の便宜を図った。松本重治はさらにチャタムハウス(RIIAイギリス王立国際問題研究所)のようなものも日本には必要だ、と提言している。松本重治と白洲次郎はまるで双生児のように良く似ている。


『いつだったろうか、正確な日時はみんな忘れてしまったが、牛場君が私に、「近衛さんが会っていて、気を置かずに話しのできる人は、ほんの二人か三人だ。その一人が、重ちゃん、君だよ」といったことがある。そこまで近衛さんが私を気に入ってたとは、友さんにいわれるまで、私は気づかなかった。』


◎人を中傷しながら自分ボメするのは、白洲次郎&松本重治&牛場友彦トリオの得意技である。


『歴史とはこういうものです』


『松本  近衛さんが自殺したときね、前の晩に、隆さん(後藤隆之介)と山本の有さん(山本有三)の二人で、近衛さんのところにお別れにといって来たでしょ。あのとき、なにか自殺するとかしないとか、話はあったの?自殺するなっていう・・・。』


『後藤  自殺って言葉は使わないけど、あったんだ。』


『松本  そのとき、近衛さんの親類の人とかなんか、巣鴨へあした行っちゃうので、会えないかもしれんというので、お別れのあいさつに来た人が、随分いたね。近衛さんはひとりひとり応対しておられた。』


『後藤  そう、そうだったかな。だが自殺すると思っておった者は、少なかったろうね。』


◎後藤がつい本当のことを言ってしまったので、松本が軌道修正する。

『松本  僕は近衛さんと議論したから覚えている。』

◎後藤は松本に注意されたのだろう。やおら芝居を始める。

『後藤  僕、山本がちょっとというから、外へ出た。ところが、「近衛は向こうへ行かないそうだ。君ひとりがそれに賛成しているそうじゃないか」と山本がいうから、「へえ、どうして?」って、僕はそういったんだ。ハハアと思ったんだ、僕は。

実は14日に、僕が近衛に会いたいといったら、運転手が迎えに来たよ。14日の4時ごろだったと思うよ。そしたら、近衛は、いつになくまじめくさった顔して、「今日来てもらったのは、自分はこんど−」あれは、軽井沢に僕らと一緒におるときは、刑は重くないと思っておったし、ぼくらもそう思っておった。ところが東京へかえってみたところが違う、重くなりそうだという気配がしてきた。アメリカは罪を軽くはしない。大物主義できてるから重罪を免れないということを観念しておったね。しかし、極刑にはならないと思うが、重罪は免れまいということを言っておった。そういう前提があった。

それでもなおかつ、僕は巣鴨に行くことを勧めたぐらいだからね。だが勧める前に彼は、「自分は重罪は免れない。日華事変以後、自分は失敗の連続であった。失敗ばかりしていた。しかし、志すところは別にあったんだということだけは後日明らかにしてもらいたい、それを頼みたいと思って来てもらった」と、こういうことを言った。

ははあ、これは遺言めいたことを言うなと思って、「それは承知しました。尚その他、公私を問わず、言うことがあれば承りますれば、何でも私の出来ることは致します」

それから僕も、巣鴨へ行くものと思ってさ、「ふとん1枚ぐらいだと寒いらしいぞ。ふとん二枚を重ねて1枚にして、さらに1枚上にかぶせて二枚を1枚にして・・・」といっても、近衛は聞こえたような、聞こえんような顔をしておったが、僕が行くことをすすめたぐらいだから行く気がなかったんだね。』


◎後藤隆之介には、己れの悪事に耐えられない良心がわずかながら残っているのだろう。日本語になっていないような証言が延々と続く。後藤に修辞文法の学習能力が無かった訳ではない。彼は篤志家が学資を出したくらいの秀才である。後藤隆之介は松本重治のように、とことん恥知らずで悪達者な芝居を演じることができないのだ。

『後藤  15日になって、近衛に会って聞こうじゃないかと(山本有三が)いうから、聞こうと荻窪に行って、近衛の部屋にいったら、いないけど待っておったんだ。ここに待ってりゃきっと来るって、で、来たよ。二、三十分してきた。今まで医者にかかっておったっていう。山本が医者はなんていったと聞いたわけだ。・・・診断書を書けといえば書きますということを、二人の医者が引き受けたわけだ。それは彼の周囲の者が、それをするために医者に来てもらったわけだから。

ところが、近衛はそのことについて「私は断った」というから、山本が「なぜ断ったのです」と、こう聞いたわけだ。「東京裁判を拒否する」という一言を言ったんだ。ピシッときたね、僕は。「行かない」という言葉なら穏当だが、「拒否する」という言葉は、ハハアと思ったね。「裁判は拒否する」と。そうすると山本は、「侯爵は最悪の場合をお考えになっておられやしませんか」と、こうきたんだ。それはね、山本だからああいうふうに婉曲なことをいえるんだよ。死ぬ気かと、僕なら言っちゃうところだが、そう言ったら「いいえ」と、首を横に振った。だけども、僕が聞いておって反対の・・・。

それから初めて僕が発言するんだよ。「こういう際に法廷に立って、ペタン元帥のように堂々と初心を披歴して、皇室のために盾になっていくのが近衛公のなすべき道ではないか」と言った。そうしたところが、彼は、初めて本音を吐いたですわ。

「自分がこんど、巣鴨に呼ばれておるのは、日華事変が根本です」と。「日華事変のことを追及していけば、これは軍のやったことである。政治家たる近衛の責任じゃなくて、むしろ軍の責任である。軍の責任であるということを追及していけば、統帥権問題に帰着する。そうすると結局陛下の責任だということになります。だからそうなれば、近衛の責任は軽くなります。私は、そういうことをはっきりと、所信を披歴することは出来ません」

だから法廷には立たないということなんだが、そう言われたので、頭の悪い僕も、もう一言もいえなくなっちゃったよ。「なるほど、そうだろう」。こう思ったから、仕方ないと。』


◎「」内の近衛のセリフは、松本重治が近衛から聞いたというセリフとほぼ同一である。これは打ち合わせ済み事項なのだ。後藤はそれをオウムのように口真似する役だから、ここだけスラスラ理路整然と喋っている。 


『後藤  そこで、これは自殺するなと思ったから、立派に死ねといおうと思ったら、僕の後ろに千代子夫人と通隆が立っているんだ。僕は気がつかなかった。山本ははやく気がついたもんで、いくらかたじろいだらしい。僕は二人が後ろに立っているのを見て、少し、意気阻喪したわけじゃないが、なんだか言いにくくなったね。

だけどこんなことで、言うべきことを言わずにおるわけにはいかないので、こういう時こそ、自分のいうべき時だ、ほかの誰もが言いにくいことを、僕が言わなきゃならん、という自負心が若干あったので、「東条のような、ぶざまなことはしてくれるな」と、ことばはそのとおりである、ぶざまといったよ。死に損ないだな、ぶざまなことをしてくれるなと、こう大きな声でやったよ。そうしたら、その一言を聞いたとき、近衛の顔がぐっと変わった。青白く、目の色が変わったね、唇の色が変わったね。僕は、ああいう時に目の色が第一に変わることは知っているんだ。僕は以前に、彼に目の色を変わらした経験があるんだ。目の色が変わりました、唇も変わった。鼻をつき合わしたような近いところで言っているわけだから。ぶざまなことをしてくれるな、といったら、顔の色が変わって、そして後黙っちゃった。

あと、何もいわないわな、誰も。そしたら、山本がまた、「ひとつ、書き残せるだけ書き残してもらいたい」ということを言いだしたよ。「ほほう、さすが文士だな、抜かりはねえな」と僕は思った。僕の気がつかないようなことだもの。書き残せるだけ書き残してもらいたいと。あ、いいことに気がついた、と僕は思ったら、「いや、書いてある」と、こうきた。それで僕は、「それは君、三国同盟とか日華事変とか、対米交渉とか、そういうことだろう?」といったら、「そうだ」と。

「山本君がここで、書き残せるだけ書き残してくれというのは、そういうことではないんだ。なぜ死んでいくか、死んでいく理由をはっきり、書き残せるだけ書きのこしてもらいたいということなんだよ」と言ったんだ。そしたら黙っちゃった。何にも言わないんだ、それっきり。

それから僕は「中野正剛って男は、雄弁で口八丁であったが、死ぬ間際には、“淡々たる心境で”なんていう言葉をもって、自分の心境を表現しておったようだが、中野としては不似合なことだと思う。もっと、言うべきことがあったでしょう。それを言い切らずに死んでいったということは、不似合なことであると今でも思っている」と、こう言ったんだ。「君に対しては、なぜ死んでいくかということを、はっきりと書き残してもらいたい、というのが、山本君のいっていることであり、われわれのいっていることはそれなんだ」と。そしたら、しいんとしちゃって。…』


◎中野正剛は東条の指示で憲兵隊に暗殺されたと言われている。しかし私は東条の指示ではなく、吉田茂と昭和天皇の指令によると思う。


『松本  いや、それでね、ウイスキーをみんなで飲んでさ、それからちょっと、二十分ぐらいしてから隆さんと山本さんと、二人が次の部屋で立って近衛さんと別れておられたよね。それで背丈の低い隆さんが、下から近衛さんを見上げてつくづくと眺めていたね。で、僕は、「あ、これでもう決まった」と、思ったんだ。』


◎松本重治は脚色が上手い。さすが国際文化会館の創設者である。この松本重治の誘い水で、後藤隆之介も俄然調子に乗る。


『後藤  山本は、あの時の僕のことをお別れをするとはいいながら、今は別れる時に、あれほどじろじろと人の顔を、自分には到底見られない、というておった、帰りに。僕は、あれが最後の別れと思うておったから、見忘れないように、じろじろと見た。』


『松本  見ていたよね。』


『後藤  うん、見た。ああなってくると、僕は肚が決まっているからね、真剣にぶつかったね。だから僕は、平素はろくろくものが言えないんだけれど、あんな時になると、遠慮ということを知らない男だから、言うべき時に言わずに別れるぐらい、あとで気持ちの悪いことはねえもの。ああいうことは、一生に何遍もないからね。』


『松本  そりゃないよ。僕、自殺する人の隣の部屋に寝ていたなんていうの、ないね。空前絶後。』


『後藤  あそこへ泊ったのか。』


◎後藤はギョッとしている。暗殺現場に立ち会ったのか?と驚いたのだ。


『松本  泊まったよ。牛場の友さんと二人で泊まったよ、あの部屋に。』


『後藤  ああ、そうか。あなたがたは、まだ、僕と山本とは違って、ああいう場面で一応やったのと、やらずに想像しておったのと、少し違いがあったね。』


◎後藤隆之介が山本有三宅に泊まって、『やらずに想像しておった』時分、松本重治と牛場友彦は『ああいう場面で一応やった』。松本と牛場は残って、近衛の暗殺を幇助したのである。後藤はまざまざと暗殺現場を想像して動揺しているようだ。それを察知した松本はこれはマズイと思って、すかさず話題を自殺反対論に持っていく。


『松本  いや、僕は自殺反対論を相当ぶったの。二時間ほど。』


『後藤  あ、そうか。あのあとで?』


『松本  いや、その前に。昼、日中だ。』


『後藤  あ、そうか。反対論ていうのは、どういうの?』


『松本  いや、自殺しちゃいかんというの、僕は。なんかね、白洲次郎さんだか友さんだか、僕が同盟通信にいたら、どうも近衛さんは、何か決心しているようだといって、僕に電話がかかってきたんだよ。で、僕は、さっとわかったものだから、「じゃ、すぐに荻窪に行くよ」って、それで行ったんだ。

二時間話したかな。友さんも傍らにいたよ。僕は、「この際は恥をしのんで巣鴨に行ってください。極刑にはならないんだと思うから」といったら、やっぱり、木戸がいるからいいっていうんだよね。「天皇さまのためには木戸がいるから大丈夫だ」と。だから僕は、木戸一人じゃ危ない。あなたが生きてなきゃだめなんだと、いうことを言ったんだよ。そしたら最後にね、「松本君ね、もう話はわかったけれど、最後の私のわがままを聞いてくれ」こういううんだよ。ま、そういわれると仕方がないから、それ以上言うのを諦めたんだ。しかし最後に近衛さんが僕に言ったのは、遺書に書いてあったと同じことを言ったのだ。』


◎ “どうも近衛さんは、何か決心しているようだ”と白洲次郎が風聞を流した。確かに近衛は決心をしていた。近衛が決意したのは自殺ではなく捨て身の闘いである。近衛は所詮は無責任な公家のボンボンと云われているが、近衛が起こそうとしたいくつかの行動や一切の言い訳をしない態度には、命を惜しまない勇気と責任感そして不器用さを感じる。むしろ古武士を髣髴とする。

近衛のいい加減さで尻切れトンボに終わったとされる政治資料は、かなりの部分が粉飾されていると思う。後述するが、外務省に保管されている近衛とマッカーサーの会談の史料も、会談の通訳を務めた奥村勝三外務次官が改竄していると思う。奥村勝三は真珠湾攻撃を騙し討ちにする工作をした、吉田茂と昭和天皇のコネクションである。彼は戦後も近衛とマッカーサー会談の内容を改変し、昭和天皇とマッカーサー対談は美化するなど、八面六臂の活躍ぶりである。この奥村勝三の片割れが、元駐米大使館員にして二重スパイ、昭和天皇御用掛・寺崎英成である。奥村勝三と寺崎英成は外務省のシゲ&ジローといったところか。寺崎英成の兄・寺崎太郎も、陸軍中将・辰巳栄一とともに吉田茂のロンドン・コネクションとして有名である。


『後藤  あの遺言はやっぱり言い尽くしているね、全部を。思うことはみな、あそこに書かれておるね。また、あのとおりになったね、事態が−。やっぱり、近衛らしい遺言であった。山本が、書き残せるだけ書き残してくれといって、あれを要求したからね。重ねて僕も。だからああいう遺言が出来たとも思うね。』


『松本  それはそうかもしれない。』


『後藤  なぜ死ぬかを書いてくれないと困るということを僕は・・・。山本もそれを言いたいんだけれど、山本はそういうことになると、そこまで露骨にには言えないたちですわ。だけど、それ以外にいうことないよ、僕は。やっぱり率直にいったのが近衛の−近衛という人間があの最後の遺言に全部出てる。』


『松本  あれはね、次男の近衛通隆君に会って、一時間ぐらい話したんだよね。それから、通隆君を部屋から外へ出さしといて、あと自分で書いたんだな、遺言は。そんな気がする。』


『後藤  そうかあ?』


『松本  うん。遺言を通隆君に渡したわけじゃないんだもん。』


『後藤  ああ、そうか。』


◎松本重治は遺言について重要なことを語っている。通説にないことを語る必要はないのに、これでもかと偽証を重ねているうちについ口を滑らしたのだろう。重大な証言だ。『近衛の遺言』として後に公表されたものは、通隆が退室した後に書かれたものだというのだ。つまり近衛が通隆の眼前で書いたものとは別物である。近衛文麿の本物の遺言は表に出ていないのだ。


後藤隆之介と松本重治は、戦犯指名された近衛を小心翼々とした人物に描いている。しかしこの時期、近衛の長男・文隆はソ連に抑留され消息を絶っている。最愛の長男の所在も生死も定かではない時に、私はもはや近衛が自分の運命を気にかけていたとは思えない。苦汁を嘗めつくしてきた近衛が、今また息子の命を人質に取られたのである。そういう時に、近衛が重罪であるとか極刑を免れないとか苦にしたとは思えない。近衛は四面楚歌の中でついに闘いの矛を取って立ったと思う。近衛は明治憲法を完全否定する民主的な改憲起草案を奉答し、同日栄爵拝辞している。


もし近衛気に懸けることがあるとすれば、残された家族に塁が及ぶことだけだ。文麿の通隆への真実の遺書は「自分は家族に塁が及ばないようにしたが、まさかの時は口を閉ざして母親を守れ」というものではないか。隣に松本と牛場が聞き耳を立てていたから、紙片に書いたのだ。それをいいことに、松本は昭和を偽証し続けた。松本は白洲次郎と同じ才能を持っている。見てきたようなウソをつくのが上手い。白洲はまたネタを創るのが上手い。松本はその白洲を上回る。これは松本重治のネタである。


松本と牛場は何か異変があれば即座に飛び込めるように、近衛の寝室の隣の部屋でまんじりともせず様子を伺っていたという。翌朝まで何の物音もしなかったのだが、近衛は死んでいたという。松本と牛場は近衛が殺害される一部始終を見ていたのである。松本重治はまた、野口昭子が青酸カリについて言及するまで延々と色々なことを喋らせ、ついでのように青酸カリの小瓶の話が出たように書いている。誘導尋問をしている箇所は省いているのだ。昭子が目撃した『コーヒーの中に・・』というのは、牛場友彦あたりが現場を偽装したのだと思われる。千代子夫人は不眠症になっていた近衛のために、毎晩水差しを用意していた。安定剤を服用するためである。彼女は松本らの偽証によって、青酸カリ服毒のための水差しを積極的に用意したことになっている。


近衛抹殺を実行したのは吉田茂の配下の工作部隊である。吉田茂は諜報機関も憲兵隊も自在に動かす。吉田自身をスパイさせ国家反逆罪で逮捕させ、しかる後に40日で釈放させることが出来る。吉田茂は白洲次郎を使って、ソ連に抑留させた近衛文隆を始末することも出来る。


鬼塚氏によると、アヴェレル・ハリマンは、1921年にレーニンからジェルジェンスキーを紹介されている。ジェルジェンスキーは、スターリンに任命されて、秘密情報機関チェーカを創設した人物である。モスクワのルビヤンカ通りにある本部には、対情報工作部と経済情報工作部がある。


ハリマンはそのジェルジェンスキーと組んで、ソ連とウオールスとリートのパイプを作った。ここにジミー・ウオーバーグが参入する。白洲次郎はこのジミーとパイプを持っている。ハリマンはスターリンの恩人であり、二人で『高度の政治的決定』が出来る立場にある。マッカーサーはその決定に逆らう権限を持っていない。文隆の命運は吉田茂の掌中に握られていた。


引き続き松本重治『近衛時代』より、文隆に言及した箇所を抜粋する。


『牛場  ああいうおかあさんの血を受けて呑気だった文隆君でも、モスクワの近くのシベリアの収容所での態度は、実に見事なものだったそうですね。自分は近衛文麿の息子だと、うしろ指さされることはいっさいしないと、帰国した人がみんな賛嘆してたものな。後藤隆之助なんかにいわせたら、あれは謀殺されたんだというけどね。・・・やはりソ連はずいぶん利用しようとしたんだろうというんですね。憶測ですがね。どうしても”ぼんち”(文隆の愛称)はなびかなかったんだな。そういう点は一貫してあるんですね。公家の血ですよ。これはほんとうに常人と違うからな。それは冷酷なこと、とことん冷酷、ひがみが強いという点もありますよ、それは。あんちきしょうなんて・・・あの目がいかん、近衛さんの目が、ヘビのような目ですよ、あれね。実に威厳のあるそれはいい顔をしているけど、目はやっぱ・・・』


『松本  ヘビの目をした近衛さんに友さんが傾倒したのはどういう点かね。』


『牛場  いや、非常にもうなんか感じのいいひとなんですよね、一緒にいて。またなかなか人を信用しないんだな。寂しい人ですよ。』


◎ヘビの目をしているのは、牛場、お前自身のことだ。ヘビのように執念深く文隆にまとわりついていたではないか。近衛は殺される直前に、自分が秘書官に選んだ牛場という男の正体を思い知っただろう。この対談も牛場の性格が良く出ている。褒め言葉の合間に猛毒を入れ、サブミナル効果を出している。こんな男を首相官邸や自邸に出入りさせ、文隆に貼り付かせていた近衛はあまりに迂闊であった。

この牛場友彦とクリソツなのが里美クである。里美クは白洲次郎と懇意で、次郎所有の山小屋に泊りがけでスキーをする程の仲である。里美は白洲に頼まれて山本五十六のプロパガンダ小説を書いたり、原田熊雄の日記を編集して発刊したり、せっせとガセネタを巷に流している。それでいて『私は嘘いつわりが嫌いである』と自己PRしている。


『里美ク伝 馬鹿正直の人生』を書いた小谷野敦によると、里美クには『まごころ哲学』なるものがあり、『嘘を許さない、何より自分に嘘をつかない』のがその眼目だという。里美クという人間は傍迷惑なほど『馬鹿正直』であり、小谷野が伝記を書きたいと強く思った理由は、里美クのこうした『正直病』に共感したからだという。私には里美という人間は『大ウソつき病』で、人にも自分にも平気で嘘をつく卑劣な男に見える。


里美クは原田熊雄と親戚関係にある。白洲次郎(ジロー)松本重治(シゲちゃん)牛場友彦(トモ)もお互い縁戚関係にある。3人とも田布施村王朝の薩摩閥である松方正義・樺山資紀・川村純義の子孫である。その内訳は、シゲちゃんは松方正義の孫、シゲちゃんがそっこんの恋女房・花子は松方直系の孫、ジローは樺山愛輔の女婿、その愛輔自身も川村の女婿、そしてトモは松方家と親戚でシゲちゃんともども松方ハルと近縁である。


後年松本重治は才能を見込まれて、吉田茂と樺山愛輔に愛顧される。松本重治が国際文化会館の館長に就任した経緯には、ジョン・D・ロックフェラー三世だけでなく、この松方ハルが絡んでいる。松方ハルはライシャワーと結婚して、ハル・ライシャワーとなったのだ。田布施村王朝の世間は狭いのである。


近衛文麿の死の直前の言動についての松本重治の偽証は、『近衛上奏文』を下敷きにしている。近衛文麿とマッカーサー対談といわれるものも、近衛の遺言とされるものも、『近衛上奏文』下敷きにしている。『近衛上奏文』は吉田の側近が創案したものである。近衛直筆とされる上奏文や遺言の筆跡鑑定をしてもらいたい。近衛は10月22日に新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞している。改憲起草案の骨子は、明治憲法の完全否定、すなわち田布施王朝による国体護持に真っ向から対立するものである。私はこれは近衛が昭昭和天皇に突き付けた果たし状であると思う。そのように腹を括って闘おうとしていた人間が、勝者の裁きを受けたくないと言って自殺する訳はないのだ。まして軍部赤化に責任を転嫁しひたすら国体護持と財閥勢力の温存を唱える対談を、マッカーサーとする訳はない。


冒頭で撤回した山本五十六の黙示碌的セリフも、山本五十六と近衛文麿の暗殺を偽装するための、原田熊雄の後知恵である。原田熊雄は住友の社員から西園寺公望の私設秘書になり、吉田茂の指令を中継する立場にあった(原田の家は吉田邸の真ん前にある)。住友財閥は原田を丸抱えして、東京本社の一室と資金を与えていた。原田熊雄が書いた『西園寺公と政局』は、証拠隠滅工作あるいはプロパガンダのための偽書である。


原田が書いた山本五十六のセリフを、私は最初、戦争回避のための黙示録として読んだ。しかし鬼塚氏の本を今一度仔細に読んで気が付いたが、バーガミニは資料の真偽を何と秦郁彦に依頼しているではないか。なるほどバーガミニは、五十六と河合千代子のガセネタを信じ込まされている。五十六関係者によると、『海軍省の部下が五十六の所在を知りたければ河合千代子の妾宅に行ったものだ、そこに行けばドテラ姿の五十六が出て来るからだ』という風聞を流していたのは海軍省の身内だという。海軍のガセネタを、秦郁彦は本物だとバーガミニに吹き込んでいたのだ。


前回シリーズで投稿した『鬼塚氏が発見した日本の秘密』には、秦郁彦が電話をかけてきて延々とイチャモンをつける逸話がある。そして最後に秦自身が田布施村出身であることを告げるに至り、鬼塚氏が合点するのである(ああ、この人は歴史を捏造するために近代史家になったのだなあ)と。事実、秦郁彦は、バーガミニの『天皇の陰謀』を偽書として告発し近代史を捏造している。その経緯を鬼塚氏は次のように述べている。

鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋。


『私はバーガミニの本が偽書扱いされる過程を調べて、日本の現状から見て納得した。この本ほど膨大な資料を駆使して書いた日本現代史は存在しない。日本の学者はバーガミニほど勉強していないし、その歴史の背後に蠢くものを追及しようとする者一人もなしである。では、どうして偽書よばわりされていったのかを見よう。』


『バーガミニの天皇伝を酷評し続けたのは、元駐日大使のエドウイン・O・ライシャワーである。この元駐日大使はたびたび昭和天皇と会い、天皇崇拝者へと変貌した。ここに彼の文章を紹介するまでもない。しかし、ライシャワーの天皇賛美の本は、アメリカでは逆に偽書扱いされだした。』


『エドワード・ベアーが「ヒロヒト−神話の裏側」を1989年に出版し、バーガミニの歴史的立場を支持した。スターリング&ペギー・シーグレーヴは「ヤマト・ダイナステイ」」(1999年)「ゴールド・ウオリアーズ」(2001年)を世に問い、バーガミニの立場から新しい日本現代史を書いた。シーグレーヴの本を読むことをすすめたい。たしかに、小さなミスはある(バーガミニもそうである)。しかし、シーグレーヴの本には、日本人のほとんどが知らされていなかった皇室の秘密が書かれている。』


『日本人の学者もジャーナリストもほとんどがバーガミニの本を無視し続けいる。この本を紹介した本について書く。1984年、松浦総三の「松浦総三の仕事」が出た。引用する。「この書物には、私たちの知らなかったことが実に多く出ている。それは、占領軍が接収した日本の資料をほとんど見ていることと、この本を書くのに10年近くかかっている努力と執念の結果であろう。」』


『私はバーガミニに関する日本人学者やジャーナリストの論評または引用について調べたが、松浦以外は見つけることができなかった。否、これは間違いである。強烈な批評の書を見つけたのである。それは前述した秦郁彦の「昭和史の謎を追う」の上巻に書かれていた。バーガミニは日本の資料を集め、整理するために、当時防衛庁の文官であった秦郁彦の世話になった、ということを書いた。たぶん、バーガミニは自分の資料の不確かさを秦郁彦にチェックしてもらっていたはずである。』


『バーガミニは秦郁彦の助言を受け、大いに感謝している。しかし、秦はバーガミニの本を偽書と決めつけるのである。どうしてか。この点を追及していくと現代の日本の学者たちの立場が見えてくるのである。1993年に“ついに出現した決定版昭和史”の惹句を付して、「昭和史の謎を追う」(上・下)が出た。その上巻の第一章に「“天皇の陰謀”のウソ」というタイトルで、延々とこれでもかと、秦はバーガミニを追及している。秦はこのバーガミニという男にまんまと欺されたという風に書いている。そしてバーガミニの履歴を書き、「まずは一流の経歴だが、ライフの科学記者として著書も何冊か出していたバーガミニが、日本の近代史に着目した理由はわからない」と記すのである。私には秦が書いている意味が分からない。科学記者は、科学の本だけを書けといいたげである。』


◎バーガミニは本書の冒頭で『著者から読者へ』と題して、天皇の陰謀を書くに至った理由を述べている。それは凄まじいまでの動機である。日中戦争のさなか、まだ少年だった彼は父親とともに南京の聖山の山頂で日本軍の蛮行を目撃した後、捕虜として拘留され1945年2月5日に処刑される予定だったが、アメリカ軍が侵攻してきて九死に一生を得たのである。


『秦は書いている。「真珠湾コンプレックスの強い米人読者を意識してか、“天皇は開戦11か月前に真珠湾攻撃の成否の検討を杉山参謀総長に命じていた”という“新事実”が、原書房から刊行されたばかりの“杉山メモ”で判明した、とバーガミニは強調しているが、筆者が何度調べても該当の箇所は見つからなかった。何かの錯覚と思われるが、仮に事実だとすれば検討を命じられるのは陸軍ではなく、海軍の軍令部総長でなくてはならぬ、という初歩的常識を筆者・訳者ともに持ち合わせてないようだ。」』


『私はこの秦の書いた文章を読んで、ほんとうにあきれた。「杉山メモ」をよく読めといいたい。秦がこの程度の知識しか持っていなかったのかと、ただただ、あきれた、とのみここでは書いておく。真珠湾攻撃はもっとずっと前から、裕仁が机上作戦に熱中していたのを知らないらしい。』


『彼は得意げに書いている。

「“悪書は良書を駆逐する”好例だが、そのバーガミニも1983年、53歳に若さで没したと聞く。死してなお偽書は千里を走る。“歴史とは意見の一致したウソを集めたものにすぎない”とうそぶく、歴史の偽造者たちの哄笑が聞こえてくるようだ」

私は秦郁彦のほうが、歴史の偽造者仲間の一人にちがいない、と思っている。』


◎私は秦の文章を読んで慄然とした。秦の哄笑の声が聞こえてくるようだ。私はバーガミニは、原爆投下を阻止しようとしたフォレスタル海軍長官のように暗殺されたのだと思った。激しい動機に突き動かされ、我々に真実を差し出して見せてくれた彼は、非業の死に襲われたのだ。


『もう一人のバーガミニの批判者を紹介する。その人は色川大吉である。彼はバーガミニが気に入らないらしい。彼は秦郁彦と同じ問題を論じるのである。「ある昭和史」から引用する。

「バーガミニによると、こんどの戦争は想うだに胸が悪くなるほどに醜悪な“天皇の秘密閥”によるアジア制服の大陰謀の結果であったという。書名どおりの“天皇の陰謀”を実現する“秘密閥”が成立したのは、皇太子裕仁がヨーロッパ旅行に出かけた1921年に夏のことであったというから驚く。天皇自身が“皇祖皇宗の遺訓”や“万民の敬愛”という幻想の領域に深く捉えられ、そのために彼の主体的行動も制約されて、混濁し、あるいは複合人格たらしめられてきた、そう私たちが考えているのに対して、バーガミニはそうした非合理的な態度をしりぞけ、天皇幻想の衣装をはぎとり、裕仁を一個の醜悪な野心家として通常世界史の帝王の系列のかなに据えおこうとする。」』

『私は色川大吉や秦郁彦のような天皇にたいする“幻想”をも持たない。秦郁彦や色川大吉にお願いしたい。あなたたちが、バーガミニの本を偽書扱いするならば、それは認めよう。私はあなたたち以上に彼の本の中の記述の間違いを発見できる。ならばあの“某中佐”が登場する場面を、どうか偽書であるとどうか証明してほしい。あなたがたの本の中に、一字たりとも某中佐は登場しないのだから。重箱の隅をほじくるような真似をやめて、堂々と“某中佐”の存在について書かれよ。その勇気があれば、日本の近現代史を大きく転回する契機の一つとなりうるであろう。』


◎秦郁彦も天皇に対する”幻想”を持っていない。彼は田布施村に生い育ち、長じて確信犯の歴史家になったのである。その秦が狙い撃ちにしたバーガミニは、日本近現代史に対する自身のアプローチを次のように明らかにしている。

『私は、天皇裕仁の行為と、後年彼についていわれている言葉との間には大きな懸隔がある、という結論を得た。私は史料の記録を読んで取ったノートを読み返し、考察し直して、第二次世界大戦以降に提示された日本現代史は、戦争末期に、一部は参謀本部の逆情報活動専門家たちによって、一部は行為の侍従たちによってつくられた、巧みに仕組まれた虚構である、と確信するに至ったのである。』


かくのごとく真摯なバーガミニを秦郁郁彦はまんまと嵌めたのである。秦のケースと異なり、G2のゴードン・プランゲと千早正隆の協力関係の場合は断然うまくいった。プランゲは千早と共に山本五十六のプロパガンダ本の決定版を作成した後は、アメリカにごっそり資料を持ち帰りゾルゲのプロパガンダ決定版も書いている。省庁に潜入している逆情報活動工作員は秦や千早のほかにもウジャウジャいるだろう。


再び鬼塚氏の前掲書抜粋の続き。


『私はこの惨殺事件(注 某中佐による8・15偽装クーデターでは、リアル感を出すために森近衛師団長を惨殺した)を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である、彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵大佐が戦後電通に入社すると、磐田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」になり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。』


『「日本のいちばん長い日」は一面、日本憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。』


◎「日本のいちばん長い日」とは、8・15宮城クーデターを描いた一群の本の題名である。半藤一利が決定版と言われるものを書いている。鬼塚氏によると半藤一利はクーデターに疑問を投げ返かける本が出た後、『都合のいいように、読者には分からないように文章を巧みに入れ替えて、ついに決定版とする』。鬼塚氏は半藤一利が近衛師団兵たちの真情を斬って捨てている態度に怒りを示している。半藤一利の歴史観は田布施村王朝のプロパガンダの域を半歩も出ようとしない。ヤラセに利用された近衛兵たちの気持ちを理解しようとしない。いやできない。『半藤一利にはまことに申し訳ないが、あなたの書く文章は全編、この調子である。そこには“情”の一片さえない。私はこれ以上の評をしない。』と。


私は半藤一利という作家は何の苦悩も葛藤もなく近現代史を書いている人だと思う。そこにはただお気楽さがあるだけである。山本五十六の「述志」が発見されたという触れ込みで、半藤一利と保坂正康の対談が載せられている。この二人が語る五十六の「述志」は、田布施村王朝のプロパガンダそのものである。私は「述志」の真贋自体を疑っている。


半藤一利監修・原作による「山本五十六60年目の真実」という映画も観たが、陳腐なだけでどこにも『60年目の真実』などなかった。ただ役所広司が入魂の凄い演技をしていたのでもったいないと思っただけだ。事実関係で間違いがあることにも気が付いた。例えば五十六の傍を片時も離れずに世話をしていた渡辺安次参謀が、なぜか三宅義勇(みやけよしたけ)参謀になっていた。これは三和義勇の間違いである。おまけに三和義勇が五十六と一緒に撃墜される場面がクライマックスになっていた。三和義勇はマラリアに罹って入院していたので、当日は五十六に同行していない。


確かに三和義勇は五十六の数々の重要なシーンに立ち会っている。だから貴重な歴史の証言者として捉えられている。しかし私は三和義勇は偽証をしていると考えるようになっている。三和義勇は数々の偽証をした後、始末されたと思う。私が三和義勇の偽証を信じて引用したことを訂正してお詫びしなければならないが、詳細は次回以降明らかにしたい。尚、黒島亀人も「わがまま、気まぐれ」から、五十六の偵察に同行しなかった。黒島亀人は三和義勇と組んで偽証している。黒島は戦後、宇垣纏の日記を遺族から借り出し、重要な箇所を破り捨てて証拠を隠滅している。


山本五十六と近衛文麿の名前は、吉田茂と昭和天皇のデス・ノートに記名されていた。その時期は2・26直後で、理由は2・26で松平恒夫に協力したからである。今回は近衛文麿父子に焦点を絞っている。近衛父子と山本五十六の抹殺工作には、類型が見られるからだ。二つの抹殺工作は、周囲全員が共犯して行われた。では引き続き近衛父子のケースを見ていこう。


鬼塚氏は近衛文麿が暗殺されたことを、次のように示唆している。

『松本重治が神戸一中の五年生のとき白洲次郎は二年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。二人はもっぱら民生局長ホイトニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被害者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたかも、この一件の中に見えてくる。』(鬼塚英昭氏『昭和天皇は知っていた原爆の秘密 国内編』成甲書房より)

◎松本重治と牛場友彦は近衛文麿に自殺を強要した。彼らは近衛を2時間あまり脅し、服毒自殺を迫った。しかし近衛は頑として拒否したため、吉田茂の暗殺工作部隊が薬殺した。白洲次郎が松本に持参させた青酸カリは、牛場友彦が犯行現場を細工するために使われた。青酸カリの小瓶をコーヒーカップの中に入れた。それで近衛の長女明子は、父親がコーヒーの中に青酸カリを入れて飲んだと信じた。吉田茂とウイロビーが組んでいたので、現場検証はおざなりで済ませられた。家族を除いて全員が共犯者だったので問題はなかった。


近衛文麿抹殺工作が秒読み段階に入った昭和20年10月22日の前後の事情を見ていこう。近衛は田布施王朝を完全否定する新憲法起草案を奉答、同日栄爵拝辞してルビコン川を渡った。吉田茂と昭和天皇は東京裁判を待たずに殺害を決意する。まず吉田はマスコミを使って近衛を追い詰める世論操作をする。朝日新聞とNHKを組ませ、近衛に戦争責任を帰し、激しい人格攻撃を加えさせる。


朝日新聞昭和20年10月27日社説『近衛公ついに栄爵拝辞』より以下抜粋。


『自ら常に問題を蒔き、世間からも終始問題にせられていた近衛文麿公もついに栄爵を拝辞するの決意を表明した。さきに総理大臣の前官待遇を拝辞した事実に接した時その態度があまりに小出し的な責任逃れの観があるというので、国民の中にはその良心の健在を疑った向きもあった。ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに内外の新聞に公表して見たり、これを取り消して見たりする癖のあるのは、心ある人々をして困ったものだと思わせるに十分なものがあったといってよかろう。』


『マッカーサー元帥の勧めであるとか、陛下の思し召しによるとかいうのは、今の場合、確かに一つの根拠になり得るには相違ない。しかし国民の真情は、むしろ最高指揮官や至尊からいかなる事柄が洩らされたという点よりは、夫子ら自身が過去に対する責任をどう取るつもりかという点に集中せられているのである。換言すれば、外からの声、上からの声に対してどう振舞うかというよりは、自己内心の声をいかに忠実に聞くか、自らの政治的良心をいかに素直に働かせ、そしていかに道義的行動に出るかを国民は固唾を呑んで見守っているのである。』


『支那事変への責任、三国同盟への責任、そしてまた大東亜戦争への責任等々どれ一つとって見ても、若しあの時、近公にして今一段の勇断ありせばの嘆きを抱くものひとり吾人のみに限らないであろう。』


『しかしながら、社会的進化は、絶えず並々ならぬ犠牲を必要とすることを思えば、外よりこの犠牲を求められるに先立って、自発的にこれを提供する場合の歴史的意義こそ一層大きい事実の前に何人も頭を下げねばならないのである。犠牲は避けがたいが、それは務めて最小限に止められるべきであり、それがためには、各自が自発的に、迅速に棄つるべきものを棄つるべきである。明治維新の先ジュウが何よりもこのことを証明している。』

以上抜粋。


『ことに日本人として軽々しく口にすべからざる天皇御退位の問題を無考えに・・・』という箇所は、朝日の編集主幹にこれを書かせた吉田茂の本音が良く表れている。吉田茂は昭和天皇を掌中の玉と操ってこそ、権力の頂点を狙えるのである。


退位は東大総長南原繁も勧めていた。昭和天皇のために命がけで高木八束らと終戦工作に尽力した後、南原は次のような意味の講話をした。今次大戦の道徳的倫理的な責任は天皇にある。それは天皇自身が一番痛感しているはずだ。だから退位した方が気持ちが安んじるだろう。天皇は日本の道徳の体現者である。天皇が退位してこそ我が国の倫理道徳は廃れない。吉田茂は南原繁を『曲学阿民』として唾棄した。正しく『曲学阿世』と言えなかったのだ。孫の麻生太郎も踏襲を『フシュウ』と言った。


それにしても朝日新聞のオトボケはたいしたものだ。自分たちこそ戦争を鼓舞し煽っていた当事者である。いったい戦時中に何を書いていたのか、朝日新聞こそ『自己内心の声を忠実に』聞いて見たらどうなのだ。最後の部分などは、田布施王朝の走狗そのものである。こういうのが朝日新聞の真骨頂なのだろう。


生き残った国民はすでに夫や息子の命を棄てさせられている。彼らは疲弊し飢餓線上にある。それをさらに速やかに棄つるべきを棄てろという。兵役を忌避しフルコースを食べている連中の手先が言いそうなことである。


1946年5月12日、『米よこせ世田谷区民大会』の諸団体が天皇の居城に向った。栄養失調の母親、赤ん坊、子ども、老人も加わっていた。「今や我々は餓えている。昨日も今日もこの瞬間も我々の兄弟はバタバタと栄養失調で倒れている。生き抜かんとする人民大衆はいまや暴動化の一歩手前にある。宮城内の隠匿米を開放せよ」


「諸君、日本歴史はじまって以来、 初めてこの門の中へ俺たち人民の赤旗が進むのだ。俺たちは貧乏人だ。だが秩序正しく、ガッチリ腕を組んで、 胸を高く張って、堂々と行進しようではないか」


「天皇よ、あなたがあなたの言う通り、本当に我々人民大衆と信頼の絆でつながっているなら、聴けわれら人民の声を。」


人民大衆は緊急動議を発令した、「天皇の台所を見せてもらいたい」。宮廷官吏「いくら何でも天皇のはヤバいから、皇族のでいいにしてくれ」。ということで民草は、皇族用の台所と冷蔵庫を見学させてもらうことになった。


当時人民大衆は皇族から民草と呼ばれていた。戦後ずいぶん経っても、三笠宮ェ仁は民草と呼称していた。その民草が皇族用の冷蔵庫を開けると、ブリ、ヒラメ、鯛などの高級魚と牛肉が詰まっていた。食べたことはおろか、姿さえ拝んだことのない高級食材に民草は圧倒された。しかも傍らにある皇族用のゴミ箱には、何と大量の残飯があふれているではないか。だが民草を決定的に打ちのめしたのは、皇族用献立評を見つけてしまったことだった。


皇族用献立表

○お通しもの

平貝 キウリ 海苔 酢の物

○おでん

種物 マグロ ハンペン ツミレ 大根 わさび

○さしみ

マグロ

○からあげ

ヒラメ

○御煮付け

竹の子 ふき みそおでん ねぎ さといも

○他二品


さらに毎日千葉県三里塚の牧場から、

○バター45貫

○豚2頭

○卵1200個

○鶏40羽

○牛肉・牛乳

が届けられていた。


当時、民草は二合一杓の配給米さえ遅配されていたのである・・・。


実はこの『米よこせ世田谷区民デモ』には、裏がある。信じがたいことだが、昭和天皇の策略だったのだ。区民デモのリーダーたちを抱き込んで皇居に突入させ、皇族の冷蔵庫を見させ、皇族たちに注目を集めさせる。それによってごく潰しの皇族たちを整理する。という一石二鳥の作戦である。昭和天皇の脳みそは常時謀略のためにフル回転している。


民草よ想起せよ。父、息子、夫、兄弟の命が、赤紙一枚で使い捨てにされていたことを。少年航空兵がトンボ(練習機)で沖縄の空に飛び立って行ったあの時期、皇太子明仁は軍服も着ないで疎開先の那須でテニスやスキーに興じていた。敗戦のシナリオは予め決定済みである。だから民草は使い捨てにされ、皇太子は無傷で温存されたのだ。


優秀な学徒兵たちにも爆弾を抱えさせ、人間兵器に仕立てて大量殺戮した。田布施村王朝の将来の敵になるかもしれない奴らである。始末しておくに如くはない。第二総軍の頭上に原爆を投下させたのもその事例の一つだ。日米戦争は優秀な民草の種を絶やす絶好の機会なのだ。


今も昔も田布施王朝の敵は日本国民である。田布施王朝はGHQの諜報部を自在に駆使して旧右旋回を謀った。G2のウイロビーの元には、旧右旋回のための旧日本軍参謀たちが集結している。河辺虎四郎(陸軍中将・対ソ戦エキスパート)、辰巳栄一(陸軍中将・吉田のロンドン大使時代以来のコネクション)、下村定(陸軍大臣)、有末精三(陸軍中将・情報畑)、芳仲和太郎(陸軍中将・海外)。吉田茂は辰巳を通じてウイロビーと共謀していた。


辰巳はかの有名なパケナム邸の『夕食会』にも出席している。ニューズ・ウイークの東京支局長パケナムが、ジョン・フォスター・ダレスを主客に、宮中のスポークスマン松平康昌を招いて開いたものである。朝鮮戦争のヤラセを直後に控えた状況で、日本の再軍備が検討されたのだ。この『夕食会』に辰巳が参加しているのである。


ニューズ・ウイーク編集局長ハリー・カーンを通じて、パケナムに『夕食会』を開かせたのはアヴェレル・ハリマンである。吉田はマッカーサーをバイパスして『高度の政治的決定』を仰ぐことが出来た。昭和天皇も松平康昌を通して、ダレスと直接交渉するようになる。御用掛・寺崎英成に託して口頭メッセージを送る。『主権を残すというフィクションのもとに長期に渡って沖縄を占領してほしい』有名な沖縄メッセージである。天皇のこれ以上はないくらい好意的な戦略的メッセージを受けて、米国務省の政策課長は感激した。ジョージ・F・ケナン、冷戦を演出したハリマンの使い走りである。


マッカーサーはこれら『高度の政治的決定』に従う立場にある。近衛文麿はマッカーサーから憲法作成を依頼されていたが、依頼は無かったことになり、戦犯パージを受けた。当時、戦犯を検察局に密告するルートは2つあった。昭和天皇のルートと吉田茂のルートである。昭和天皇による密告は、御用掛・寺崎英成を通じて行われた。


寺崎は国際検察局課長のロイ・モーガンとは旧知の仲である。寺崎が駐米大使館員だった時に、モーガンはFBI捜査課長時代だった。寺崎英成はFBIにも内通していた二重スパイである。日米開戦前夜、寺崎英成の送別の酒宴が設けられ深更にまで及んだ。翌日の出勤が大幅に遅れた奥村勝三は、東京から送られてくる電文を、同僚の助けを拒んで一人で人差し指一本を使って雨だれ式にポツポツ打った。奥村が全てをタイプし終わって野村大使に手渡したころ、大日本帝国連合艦隊は真珠湾をほしいままに蹂躙している真っ最中だった。昭和天皇は真珠湾攻撃騙し討ちの功労者寺崎英成と奥村勝三を嘉し、戦後マッカーサー対談の通訳としてリサイクル活用した。


俗に『東京裁判史観』なるプロパガンダ用語がある。東京裁判は『勝者による復讐裁判』であり戦犯は復讐の犠牲にされたのだという史観である。実のところ東京裁判は、田布施王朝が存続するために催された裁判ショーである。そのために市ヶ谷陸軍省は大改修され、ヤラセにふさわしい舞台に生まれ変わった。昭和天皇と吉田茂が『高度の政治的決定』者の承認を得て、キャステイングを担当した。


マッカーサーはもちろん、裁判長にも検察官にも権限はなかった。頑強に逆らっていたウエッブ裁判長は、本国に呼ばれてお説教された。キーナン検事長は素直にヤラセに協力した。東条が開戦に至る真相を話し始めると急遽裁判を中止し、田中隆吉と松平康昌を使者に立て、巣鴨にぶち込まれている木戸に東条を説得させた。再開された法廷で東条は前言を撤回し、昭和天皇と戦争は無関係であると偽証した。


かくのごとく東条は昭和天皇命の単細胞だったが、近衛は決定的に違った。近衛は五摂家の筆頭の家系に生まれついたというだけでなく、すでに少年期に父・篤麿から田布施村王朝の秘密を知らされていた。五摂家も始祖である藤原鎌足までさかのぼれば、同じような怪しい素性なのである。近衛文麿は青年のころから栄爵拝辞を考え、明治天皇の拝謁を拒絶した。


後年、政治の表舞台に引きずり出され内閣首班になってからも、直立不動で硬直し上奏する臣民の中にあって、ひとり近衛だけはゆったりとイスにすわり、その長い足を組んで天皇と対等に話した。彼は田布施村王朝の天敵である。昭和天皇は戦前にも天敵近衛の暗殺を試みている。辻政信を通じて児玉誉士夫に近衛爆破命令を下した。児玉は近衛を殺すのが偲びなかったので未遂に終わった。


近衛文麿は文隆をソ連に抑留され、自身は戦犯に指名されいよいよ覚悟を決めた。彼は真実を話すと明言した。出廷したら本当に真実を話しただろう。近衛はすでに10月22日、田布施王朝を完全否定する新憲法を奉答、同時に栄爵拝辞し敢然と戦闘状態に入っている。近衛が命運を賭して奉答した近衛改憲草案とは、どのようなものだったのか。


近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より以下抜粋する。

『肝心の近衛案は新聞に報道されるなどしたものの、その後は行方不明となってしまった。それが1961年になって内閣官房参事官室の金庫から偶然発見された。佐藤達夫氏が内容を確認し、初めて近衛案の全貌が明らかになった。近衛案は奉答された後に幣原首相に「お下げ渡し」され、やがて封筒に密封されて金庫の奥にしまわれてそまったのだった。幣原首相は当然ながらこの近衛案を見て検討しただろう。しかし、結局のところ近衛案は幣原内閣の改憲草案にはほとんど影響を与えなかったといわれているから、金庫の奥に「お蔵入り」という「冷遇」もうなずかれよう。』


幣原喜重郎はさぞかし仰天して、直ちに吉田茂と昭和天皇に報告しただろう。しかし金庫なんぞに後生大事にしまいこんで、焼却しなかったのはくれぐれも迂闊であった。近衛が何をしようとしていたかの歴然とした証拠を白日のもとに晒してしまった。

○天皇の統治権行使は万民の翼賛に依る。

○天皇大権を制限する。

○議会は自らの解散提議権を持つ。

○緊急命令は事前に憲法事項審議会にかける

○宣戦、講和、条約締結には議会か、緊急の場合は憲法事項審議会にかける。

○他の大権事項も議会の協賛を必要とする。

○軍の統帥及び編成も国務に属する。

○臣民の自由を尊重する。

○非常大権(戒厳宣告)の削除を考究する。

○国務大臣の地位を明確化し、議会も天皇同様国務大臣の責任を問う。

○議会の予算審議権を尊重する。

○皇室経費も議会の権限とする。

○予算審議権の衆議院優位。

○改憲発議は議会もできる。国民投票も考究する。

近衛が振り捨てた栄爵は、田布施村王朝の瞞着の象徴である。田布施王朝の栄爵は、版籍奉還と廃藩置県で従来の公家・諸侯を廃止して公家と武家の区別をなくし、まとめて華族とした上で与えられたものである。田布施村王朝はここに身内や仲間をすべり込ませ、彼らにも公・侯・伯・子・男の爵位を授けた。白洲正子が伯爵令嬢である仕掛けはここにある。明治維新とともにウンカのように湧いて出てきた皇族も似たようなものである。

『侯爵の地位や華族制度そのものにまで疑問を投げかけるようになった近衛は、栄爵を拝辞して哲学を本気で専攻し、学者になろうと考えたりもしていた。とりわけ周囲を困惑させたのは、宮中に対して彼が率直になれなかったところだった。

それは明治43年7月8日のことである。明治天皇が本郷の前田家へ行幸する運びとなった。前田家では光栄のきわみであり、送迎には前田家だけでなく姻戚関係にある近衛家としても参列するのが礼儀だった。近衛の実母、継母ともに前田家の出である。兄弟たちは皆揃って行ったが近衛だけは行かなかった。遅れて十日、同じく皇后の行啓があったが、これにも参列しなかった。

さらに翌年44年10月20日、この日近衛は20歳を迎え天皇から杯を賜り、従五位に叙せられることになっていた。当然、宮中に参内しなければならない。彼は何日か前から日光へ行っており、帰郷するよう催促を受け前日東京へ帰った。しかし、馬鹿馬鹿しいと考えたか近衛は遂に参内しなかった。』(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』より)


工藤美代子の前掲書には、近衛文麿の父・篤麿の臨終の模様も詳しく書かれている。篤麿は牛や馬にしか存在しない菌によって体中に腫物ができ、手術で切り刻まれた末、『心臓麻痺』で急死している。享年41才。日露戦争開戦の40日前のことである。この篤麿の急死には西園寺公望が関与していると私は考えている。


鬼塚英昭氏によると、西園寺公は若いころフランスに遊学していた時、女関係のゴタゴタでヒドイ目に合わされ、それを脅しのタネにされてコンプラドールになったようである。西園寺公望は田布施村王朝の協賛メンバーでもある。近衛文麿を政界に引きずり出す役目を仰せつかった西園寺は、しかし悪人になりきれなかったのだろう。暴走する日本を憂いた西園寺は、日米開戦前夜に排除されている。西園寺暗殺には養子の八郎が関与していると思われる。


近衛篤麿、文麿、文隆も抹殺されねばならなかった。文麿はそのために首相に担ぎ出され、文隆には尾崎秀実とゾルゲが近づけられた。近衛内閣発足の一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発したのは偶然ではない。最初から近衛を日中戦争の泥沼の中に放り込む筋書きである。息子の文隆多も、首相秘書官を務めたにもかかわらず異例の召集を受けた。しかも予備役に編入された直後に、またも臨時招集という理由で呼び戻された。文隆を敗戦まで満州にくぎ付けにし、ソ連に抑留させるためである。


昭和天皇は文隆を罠にかけるためには、義理の姪を利用することさえ辞さなかった。天皇の命令で皇后良子(ながこ)の姪・大谷正子と文隆は見合い結婚する。これは天皇命令であったあろう。媒酌人を務めたは木戸幸一は、文隆と正子の結婚式が挙げられた満州くんだりまで出かけている。父親である近衛文麿は、多忙を理由に欠席している。サイパンが陥落し敗戦色濃厚な時期、正子は満州とソ連との国境の近くに赴き、文隆と短いが幸福な新婚生活を送ったのだ。この正子のひたむきな思いが、文隆を陥れる罠として使われるのである。敗戦の混乱状況に正子を囮に使って、文隆を捕まえたのである。ソ連に抑留された文隆は、近衛上奏文の反共的な内容のせいで禁固25年を言い渡される。


『近衛上奏文』の仕掛け人は吉田茂である。吉田は近衛に上奏させるために、歴代首相をダシに使って参内の機会をつくった。『近衛上奏文』は徹頭徹尾、田布施村王朝の存続のテーマで貫かれている。全文これ昭和天皇と吉田茂のシナリオを反映したものである。田布施村王朝の真実を告げようとしていた近衛が、こんなアホくさい上奏をすることは絶対にない。世上『近衛上奏文』として伝えられるものは、改竄された資料である。昭和天皇や現場証言者のセリフも全て偽証である。近衛文麿の女婿であり秘書である細川護貞さえ、偽証に協力している。彼の日記にも記載された“近衛直筆による上奏文の写し”というのはガセだ。おそらく本物はどこかに保存されている。近いうちに必ず出てくるだろう。


吉田茂と昭和天皇に追い詰められた近衛は、『僕は運命の子だよ』と通隆に呟いた。私は近衛文麿は『藁の女』だと思う。近衛は『藁の女』という推理小説の主人公と同じ運命をたどった。破滅に至る罠を予め仕掛けられた上で、完全犯罪に利用されたのだ。吉田茂と昭和天皇が仕組んだ完全犯罪である。


近衛文隆は塁が及ばないように家族に何も知らせていないから、家族は松本と牛場を信頼して後事を託した。近衛は松本と牛場が来た時点で覚悟を決めただろう。親孝行をろくにしなかったことを詫びた通隆に、「親孝行っていったい何だい?」とそっけなく問い返している。お前の親はもうすぐ殺される。お前の兄も生きては帰ってこない。親孝行っていったい何だい?


一人になった近衛に、松本が青酸カリを服毒するよう強要した。しかし近衛は拒んだ。そこで吉田茂の秘密工作部隊の登場である。松本と牛場の手引きにより家屋に浸入して待機していた彼らは、抵抗する近衛を取り押さえ静脈注射をして薬殺した。近衛の死に顔は安らかだったと松本が回想している。『自殺しようとする人間の隣の部屋で寝たのは、後にも先にもあれがたった一度きりだった。死に顔が安らかなのが何よりだった』と。


GHQはろくな検死もせず、青酸カリ服毒自殺だと認定した。服毒自殺の状況証拠を捏造するために、松本以下共犯者全員が口裏を合わせた。後藤隆之助は近衛内閣の書記官長だった人物である。山本有三は『路傍の石』を書いた作家である。両者とも近衛とは一高以来の友人である。この二人が近衛暗殺のスタンド・プレーヤーを演じたのだ。近衛文麿は孤独だっただろう。


松本重治は晩年になるにつれ、偽証をくり返し聞き書きさせている。死んだ後の自己保身も忘れないセコイ奴だった。往々にして犯人は凶器の入手経路から割り出されるという。だから松本はしつこいくらい青酸カリの入手経路を脚色している。また犯人は犯行現場に戻るというのが通説らしい。なるほど吉田茂は家人に頼んで近衛の寝室に宿泊している。吉田はさぞかし満足感にひたって眠りについたことだろう。


白洲次郎は文隆の抹殺工作にも暗躍した。白洲次郎はOSSのジュームズ・ウオーバーグと秘密のルートを持っていた。ジミー(ジェイムズ)・ウオーバーグはポール・ウオーバーグの長男。白洲次郎はポールの長兄アビーの庶子。ジミーと次郎は従兄弟同士である。(ただし白洲はアビーが父親であることまでは分らなかったと思われる。弟たちは長兄アビーを、フロイトの怪しげな薬物投与で早死にさせているようだ)


白洲次郎は英米の諜報機関と深い関係にある。渡英の際はニューヨークにしばしば出没している。文隆はプリンストン大学留学時代にニューヨークに足を伸ばして遊んでいたが、しばしば白洲次郎が出没していたこと、いかがわしいユダヤ人ジャーナリストたちが出入りする酒場に自分を誘ったこと、そこで共産スパイの未亡人とFBIの間諜に近づきになったことなどを、ソ連抑留時代に周囲の者にせがまれて語っている。白洲次郎が英米の諜報機関と深く繋がる人物であること、ニューヨーク時代から文隆にまとわりついていたことが分かる。


白洲次郎は吉田茂に命じられて、御前会議クラスの国家機密情報をジミー・ウオーバーグに流していたが、ケンブリッジ時代に次郎を取りこんだのは、ウオーバーグ本家のジークムントである。ジークムントは生涯にわたって、次郎と個人的親交を結んだと言われている。ジークムント・ウオーバーグは、スイスに所有している製薬会社にLSDを製造させ、ジミー・ウオーバーグはLSDを使ったマインド・コントロールをプログラミングした。OSSの後身CIAで実験されていた悪名高きMKウルトラである。白洲次郎はジークムントに取り込まれる際、このMKウルトラを受けていた可能性が高い。


自殺者や廃人が続出したMKウルトラを作成したジミーは、タビストック研究所にも資金提供しフロイトの理念を実践させた。(アビーはフロイトの治療を受けているがどうも実験台にされたようだ)このジミーの父親が、ポール・ウオーバーグ。ポールはドイツ諜報機関のトップとしてアメリカに渡りFRBを創設した。これは何を意味するのか。英米諜報機関は、ドイツ諜報機関の支配下にあるということではないのか。


OSSはルーズヴェルト大統領の命令で、ウイリアム・ドノヴァンが創設したことになっているが、実のところアヴェレル・ハリマンが血族のドノヴァンに作らせたものである。ジミーはOSSに入いると、ドノヴァンから可愛がられ特別な任務を与えられた。一方アヴェレルはソ連に利権を開拓し、ジミーはそれにも参入していた。


OSSはソ連情報部にせっせと機密情報を流していた組織である。マッカーサーも、OSSはナチスより危険だと認識している。ジミー・ウオーバーグはそういうOSSを体現する人物である。経済活動においても諜報活動おいても、ポールの血筋を引いた一流のやり手なのだ。白洲次郎はこういう男とパイプを持っていたのである。ソ連に抑留された近衛文隆の命は風前のともし火であった。


吉田茂は近衛文麿抹殺を完了すると、息子の方はゆっくり料理することにした。父子が連続して死んでは不審を抱く向きもあるだろう。文隆をじわじわと虐待した。文隆は白洲や松本と違って徴兵を忌避せず、1940年から敗戦まで兵役を務めた男だ。生かしておいては親父の復讐をすることは必定である。吉田茂が政権にある間、文隆は収容所をたらい回しされていた。文隆ほど引きずり回された人物は他にいないという。11年後、吉田は鳩山一郎が政権を取りソ連との国交回復調印に松本重治を同行させ、文隆の始末してくるよう命じた。松本重治は近衛父子抹殺に立ち会った重要参考人物である。


山本五十六と近衛父子抹殺工作の総指揮を執った吉田茂は、伊藤博文の再来である。伊藤博文は、孝明天皇・睦仁父子を抹殺しクーデターを成就させた、田布施王朝の始祖である。貧困のどん底にあった田布施村ゲットーの人々は、解放されるやいなや保守反動に突っ走った。クーデターは山間の不毛な地に押し込められていた彼らを、広大で肥沃な関東平野にある将軍の居城へといざなった。大室虎之祐は千代田城のあまりの広さと豪華さに驚き、歓声を上げて走り回った。彼らは新しいゲットーに日本の粋を集め、これでもかと豪華絢爛な装飾を施した。それはお召列車の過剰装飾にまで及んだ。


ムシロ一枚で外気を防ぐようなどん底の生家に生まれ育った人々は、権力の座に座るとある者は個人財閥となり、ある者は広大な別邸を複数所有した。彼らは広大な大名屋敷をより取り見取りで物色した。それらは華族令によって伯爵邸や男爵邸と呼ばれるようになった。そして彼らは食い詰めた武士や元旗本の見目良い娘たちを、千代田城に連れてきて慰み者にした。


大室寅之祐の息子の大正天皇の妃がここかから誕生した。貞明皇后はこの『千代田遊郭』に騙されて連れて来られ、ひどい目に遭わされて以来、田布施村ゲットーを不倶戴天の敵として憎悪した。彼女は西園寺八郎に無体なことをされたときに悟った。こいつらにとって自分は道具なのだ。もうこいつらをやるか、自分がやられるかそのどちらかしかない。そして彼女は第二の戊辰戦争を画策する。結果、敗れた貞明皇后は、戦後間もなく亡くなっている。昭和天皇のデス・ノートに、『謀反人の朱貞明は戦後に心臓麻痺で急逝する』と書かれていたのである。『朴重徳は秘密財産隠匿工作の後、獄中死』とも書かれていただろう。


『鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は状況して小泉又二郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二台の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。』(鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より)


鬼塚氏によると、鹿児島には田布施村のほかに遺棄された朝鮮の人々の村があるという。苗代川というその村に、東郷重徳は朴茂徳として生まれ、5歳のときから東郷重徳を名乗るようになったという。

『私はどうして終戦時の外相、東郷重徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。

もうひとつは、終戦内閣にどうして東郷重徳が外相として迎えられたか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷重徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。

さらにもう一つ、東郷重徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠ぺいする役を東郷重徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。』(鬼塚氏の前掲書より)

鬼塚氏は8月14日〜15日までの内閣を見るとき、大分県出身の大臣や軍人の多さに注意を喚起している。阿南惟幾(陸軍大臣)、梅津美治朗(陸軍参謀総長)、豊田副武(海軍軍令部総長)、重光葵、池田純久らである。大分県の国東半島沿岸部と田布施や曽根が昔から盛んに交流し、その交流の中から血族関係が生まれ田布施ゲットーの底辺を広げていった。

『天皇制を悠久の昔からのものと考えることは出来ない。天皇家と天皇制はひとつにして見るべきではなかろう。天皇制は近代百年の政治的創作で、新しいわれわれと同時代のものである。ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して臣茂と言いはじめ、人びとを驚かしたが、昭和のはじめ、わたしの子どもの頃には、昼間の銭湯には、伊藤博文がはじめて臣博文とやらかした時のことを、覚えている老人たちが集まっていた。禁裡様から天子様、天皇陛下へ移り変わったことをかれらは知っていて、天皇ファンが多かったが、大した出世をしたものよ、と感心されてもいた。一代の成り上がり者明治天皇を偉いとほめ、皇子の大正天皇の精神異常のエピソードをさまざまに公言する老人たちの寄合は、数年後にはもう銭湯からも姿を消した。安政・万延・文久生まれが急速にいなくなったからである』(益田勝美『天皇史の一面』を鬼塚氏の前掲書より孫引き)

貞明皇后は田布施ゲットーが苦心して創作した体制を、本気でぶっ壊そうとした最悪の強敵である。2・26は貞明皇后が導火線を引き発火させた。彼女は最愛の息子秩父宮に、田布施ゲットーに滅ぼされた会津藩主の孫娘・松平勢津子(本名は貞明と同じ節子)を娶わせた。これで松平容保の四男・松平恒雄が秩父宮の岳父になった。そうして貞明皇后は松平恒雄に辰戦争の雪辱戦を開始させたのである。これに山本五十六と近衛文麿が陰で支援していた。


しかし肝心の秩父宮が途中でビビって昭和天皇側に寝返った。行き場を失った青年将校たちに、秩父宮は使者を遣わして「こうなった以上は、お前たちは死に方をきれいにしろ」と命じさせた。貞明皇后の血を分けた3人の息子たちはそろって意気地なしの小者である。彼らは束になってかかっても昭和天皇に太刀打ちできない。昭和天皇は田布施ゲットーが生んだ空前絶後の怪物である。吉田茂はこの怪物を掌中の玉として操った化け物である。


1919年パリ平和会議は、吉田茂と近衛文麿の運命の岐路であった。アメリカ全権大使のハウス大佐の傍らにはグルー特命大使もいた。ハウス大佐はシナリオの主役を選出する権利を持つ人間である。


『12才のときにエドワード・マンデル・ハウスは脊椎髄膜炎に冒され、のちにはさらに熱射病で不具になった。彼は半病人となり、病気は彼を風変わりな東洋人のような風貌にしてしまった。どのような職業にも就かなかったが、父の資金を使ってテキサス政界の黒幕となり、1893年から1911年までのあいだに5人の知事を当選させることに成功した。1911年、ハウスはウイルソンを支援しはじめ、大統領候補の指名権を確実なものとするために決定的なテキサスの代議員団を彼へと投入した。ホワイトハウスへ行きウイルソンに会って3万5000ドル渡した、とハウスはヴィーレック(『歴史に残るもっとも奇妙な関係−ウッドロー・ウイルソンとハウス大佐』の著書)に語った。この金額は、バーナード・バルークがウイルソンに5万ドルを与えるまで超えられることはなかった。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)

このようなハウス大佐は、実はポール・ウオーバーグの代理人であった。


『1912年12月19日、私は通過改革にかんしてポール・ウオーバーグと電話で話をした。私はワシントンへ旅行し、そこで作業手順を整えるために行ったことを話した。上院議員と下院議員はウオーバーグが希望することを行うのを切望しているように見え、当選した大統領ウイルソンはその問題にかんして変更なしに行うことを考えているようだと、私はウオーバーに伝えた。』(マリンズ氏の前掲書の中に引用されている『ハウス大佐の親書』より)

太田龍が監訳したユースタス・マリンズの複数の著書を読むと、ポール・ウオーバーグがドイツ諜報機関のトップとしてFRBを創設し、そのFRBによって必要な時にドルを創造し、世界大戦を創出する主要な役割を果たしていたことが見えてくる。ポールがFRBを創設する以前には、米国の債務はほとんど存在しなかった。ロンドン・シテイ―もFRBが創造した巨額なドル取引によって、初めて国際金融同盟足り得たのである。FRBによって、『アメリカの独立はひっそりと、だがどうにもならない状態で英国の勢力範囲に奪回』された。


ウイルソン大統領が主催した1919年パリ平和会議で、第二次世界大戦のシナリオが検討された。そこにはウイルソンの顧問ハウス大佐と書記官グルーがいた。後の駐日大使ジョセフ・グルーである。ハウス大佐はすでに、若き海軍次官フランクリン・D・ルーズヴェルトを見出している。当時ルーズヴェルトはアポロンのようなスポーツ万能の美青年だった。ハウス大佐は、ルーズヴェルトが小児麻痺に罹患して下半身不随になってから、ニューヨーク州知事にそして大統領へと押し上げる。


ハウス大佐を背後で動かしていたのはウオーバーグである。フーヴァー大統領もポール・ウオーバーグの力で大統領になった。ポールはフーヴァーの選挙資金を賄って政権を取らせると、フーヴァー・モラトリアム(ドイツ債務繰り延べ)を実施させた。世界を動かしていたのはロスチャイルド家の五人兄弟ではなく、ウオーバーグ家の五人兄弟なのかもしれない。世界五人会議もあるいは見せかけかもしれない。20世紀のファウストは表舞台で活躍していたアヴェレル・ハリマンではなく、諜報コネクションを持っていたヴィンセント・アスターかもしれない。


アヴェレル・ハリマンは死後、全ての財産を回収されている。再婚相手のパメラ・ハリマンが回収したのである。彼女はロスチャイルドと組んでいる。アヴェレルとパメラは元不倫関係にあった。ハリマンが第二次世界大戦のヤラセ工作に奔走していた頃、パメラはチャーチルの息子ランドルフの嫁であった。二人の不倫関係は短期日で終わりを告げる。パメラはほどなくランドルフと離婚してフランスに渡り、社交界で華やかな浮名を流したが、ギイ・ド・ロスチャイルドに取り込まれた。


その後30年の時を隔てて高齢のアヴェレルと再婚した彼女は、アヴェレルの死後、財産強奪に成功した。これを幇助したのが、ヒラリー・クリントンである。ヒラリーは駆け出しのころでさえ全米弁護士トップ100人の中に入る精鋭で、ニクソン大統領の弾劾裁判に若手弁護士として選ばれている。強奪に成功したパメラはビル・クリントンのパトロネスとなる。クリントンがウインスロップ・ロックフェラーの落胤であり、ローズ奨学金を受けたバリバリのエージェントであることは周知の通りである。


ハウス大佐の続きに戻る。


『連邦準備制度は、1914年に業務を開始し、連合国に250億ドルの貸付を行うようアメリカ国民に強要した。かなりの利息がニューヨークの銀行家たちに支払われたが、貸付金は返済されなかった。アメリカ国民は狩り立てられ、ドイツ国民と戦争を起したが、われわれにはドイツ国民に対して政治的あるいは経済的に反目する理由がまったく思い及ばなかった。あまつさえ合衆国はドイツ人で構成される世界最大の国家となっていた。また半分近くの市民がドイツ出身であり、わずかな票差でドイツ語を国語とする議案を否決したこともあったのである。』(ユースタス・マリンズ『民間が所有する中央銀行』より)


ポールの操り人形だったハウス大佐は、『半人間』であった。ハウス大佐が操り人形に選んだルーズヴェルトも『半人間』であった。ルーヴェルトが選んだ最側近も『半人間』であった。みんな大病を患い異様な風貌をしていた。ハウス大佐には、日本からも『半人間』を選出する任務があった。


彼は候補者をパリ平和会議に出席させるよう、旧知の仲の牧野伸顕に依頼した。牧野は女婿の吉田茂を随行し、西園寺公望には近衛文麿を随行させるように取り計らった。西園寺公望はずいぶんシブったという。彼はフランスに遊学していた若いころ、女関係の罠に引っかかってヒドイ目に遭わされ、それを脅しのタネに使われてコンプラドールにされた人間である。牧野に説得されてパリ平和会議日本全権として出席したが、会議に出席する以外はホテルから一歩も出なかったという。当時の情景が頭の中でフラッシュバックしていたのかも知れない。さぞかし怖かっただろう。


さてハウス大佐はパリで近衛文麿と吉田茂を面通しした。そして1930年代、再度アメリカで両人と面談し再確認している。『半人間』の資質を持ち合わせているのは吉田茂であると。吉田茂は『半人間』どころか人非人であった。


『外務省の裏街道に追いやられていた吉田は、ここに来て表舞台への飛躍を画策した。パリ講和会議が間もなく開催され、牧野伸顕と西園寺公望の名が全権大使として取りざたされている情報を知った彼は、岳父の力を借りてでも外交の表舞台に立つ腹を決めた。雪子と結婚してから岳父の牧野に一度たりとも猟官運動のようなことをしたためしはなかった。寺内首相からの秘書官の誘いをも蹴った男だ。それが吉田の意地でもあったし、自負でもあった。だが、ここにきてはじめたこうした内容の手紙を書こうとした心境を自分で書き残している。

「パリ会議と聞いては、たとえ外交官の末端とはいいながら、これに列席し得るのは、千載一遇の好機ともいうべきであるから、さすがの私もこの時は猟官運動をせざるを得なかったのである」(「回想十年」第四巻)

パリ講和会議のメンバーを眺めれば、いかにその後の日本外交の主軸を揃えて臨んでいたかがよく分る。このパリで吉田と近衛はなじめての挨拶を交わした。タフなネゴシエーターとしてアメリカ側の若き随行員だったジョン・フォスター・ダレスと顔を合わせたことが、吉田の最大の収穫となったかもしれない。吉田はまもなく41歳、ダレスは31歳であった。』(工藤美代子『カクヤクたる反骨 吉田茂』より)


ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂の元へ、エージェントが送り込まれる。ジョセフ・グルー駐日大使である。グルーの駐日大使着任は1932年6月6日、ノルマンデイー上陸と同じ6月6日に、モルガン財閥の刺客を日本に上陸させたというシャレなのかもしれない。ザ・オーダーはシナリオの細部にまでこだわり、舞台設定にも手を抜かないという。彼らはマメで凝り性なのである。


果たしてグルーの妻アリスは、黒船に乗って幕末日本に恫喝外交に来たペリー提督の子孫である。彼女はペリー提督の兄の曾孫で、ベンジャミン・フランクリンの直系の子孫でもある。しかも父親トマス・サージャントペリーは慶応義塾の英文学の教授だったので、子どものころ一緒に来日していたアリスは日本語ぺらぺらである。そういう妻を同伴したグルーの日本上陸には、まさにノルマンデイー上陸の観があった。


上陸したグルーに早速接近してきたのが、モルガン商会と懇意な樺山愛輔である。


『天皇謁見が14日に決まると、樺山愛輔伯爵がそれに先立って会いたいとグルーに面会を申し出てきた。深い親交を結ぶことになる二人の最初の出会いである。薩摩の樺山資紀の息子である樺山愛輔は、宮中関係にも通じており、また、グルーの出身地であるボストンを州都とするマサチューセッツ州内陸にある名門アマースト大学で学んで英語も堪能で(注 後のクーリッジ大統領とモルガン商会のラモントは同級生)、アメリカの事情にも通じていた。』(廣部泉『真の日本の友 グルー』ミネルヴァ書房より)


しかしグルーにとって最重要人物は牧野でも樺山でもない。ハウス大佐のお眼鏡にかなった吉田茂である。その吉田は戦後『回想十年』の中で、グルーに『日本の真の友』という賛辞を捧げている。吉田茂とグルーはヤラセのシナリオの『真の友』となったのだ。


『1939年2月末、駐英大使を辞して帰国した吉田茂はたびたびグルーを訪問するようになっていた。日米関係が悪化してから、多くの日本人がグルーを初めとするアメリカ人と一緒にいるのを見られるのを避けるようになっていたが、吉田は、樺山愛輔の娘・正子の夫、白洲次郎とともにグルーを誘ってよくゴルフに出かけた。

吉田茂との付き合いは家族ぐるみとなり、グルーの妻アリスはよく吉田の雪子夫人に誘われて歌舞伎に出かけた。牧野伸顕の長女として生まれた雪子は、父牧野がイタリヤやオールトリア公使時代に同行し、欧米の社交術を学んでおり、また、努力家で英語を初めとする外国語も相当なものであった。グルーは雪子のことを「アリスの日本人で最も親しい友人」と日記にしるしている。』(廣部泉前掲書より)

しかしグルーの回想記には、『真の友』としての吉田茂は全削除されている。廣部泉は『日本の真の友』を副題にしながら、その辺の事情には触れない。触れたらプロパガンダが崩壊するからである。廣井泉の後書きには次のようにある。

『本書執筆中に東日本大震災が起きた。日ごとに明らかになる震災の甚大さに呆然としていたとき、グルーの言葉を思い出した。戦中グルーは全米で講演をする際、日本人はどれほど困難な戦争を前にしても「道徳的にも心理的にも経済的にも倒れない」「ベルトの穴を一つきつく締め直して、食事を米一杯から半杯に減らし、最後の最後まで戦うだろう』と日本人の強靭さを訴えつづけていた。むろん、これは戦争における日本人観である。しかし、グルーが見出した日本の強さは、その軍事力や技術力ではなく、日本国民の精神力であった。震災からの復興というとてつもない大きな戦いを前にして、敵国人にもかかわらず「日本の真の友」であった親日家グルーが最後まで信じ続けた日本人の計り知れない底力がいまこそ発揮されることを、我々日本人自身が信じるべき時がきたのだと私は感じている。』

「日本の真の友」を演じ続けたグルーが、その実モルガンのエージェントであり、ヨハンセン・グループとステイムソンの間に立って原爆投下に協力したことを考えると、廣部のこの後書きはブラック・ジョークを超えてもはやシュールである。


副島カルトビジネスの右腕・中田安彦は、自分のブログを利用してプロパガンダ本を宣伝する一方、中田君の見解は岩波文化人には理解できないと言って、岩波をバカにしている。しかし岩波には往々にして掘り出しものがある。グルーの日記の原本と『滞日十年』を比較して、吉田茂の暗躍を検証した素晴らしい本がある。

中村政則『象徴天皇制への道−米国大使グルーとその周辺』岩波新書より以下抜粋。

『序 「滞日十年」の成立事情』


『1979年3月から80年12月まで、私は米国ハーバード大学東アジア研究センターに籍をおき、「1930、40年代のアメリカの対日認識」をテーマに留学生活を送った。研究テー眼の関係からしても当然とはいえ、私はこのグルーの存在には強い関心をよせた。さいわいハーバード大学には稀こう書・貴重資料のコレクションで、世界的にも名高いホートン・ライブラリーがあり、グルー文書もその一つとして所蔵されている。グルー文書は大別すると、日記・手紙・演説・会談・電文類・新聞雑誌切抜き・個人メモ・断簡などに分類・整理されており、個人文書としては第一級の質量を誇っている。なかでもグルー日記と手紙はグルーの日本観、対日政策の特徴などを知るうえで最も貴重な資料であり、これを抜きにしてグルーを語ることはできない。』

前述の廣部泉も東大教養学部を卒業した後、ハーバード大学大学院博士課程を修し、歴史学のPh.D.を取得している。『日本の真の友 グルー』の前書きに、”『滞在十年』に収録されていない箇所については日記原本から訳出した”とはっきり書いてあるように、ハーバード大学で原本に目を通していたお方なのだ。そういう立場にありながら廣部泉はプロパガンダ本を書くことを選択した。廣部泉のグルー評伝は10月20日に第2刷が出版され、最新刊として公共の図書館に並べられている。ネット対策の一環として、田布施王朝のプロパガンダ本が公共図書館を席捲しているのを感ずる。彼らはいよいよは人海作戦に出たもようである。

『グルー文書の中で最も重要な日記と手紙を検討するにあたって、まず注意しなければならないことがある。第一は公刊された”Ten Years in Japan”とその邦訳本『滞日十年』は、グルー日記の原本のすべてをふくむものではなく、その分量は、原本のわずか十分の一にしかすぎないという事実である。約十分の九を、なんらかの事情でグルーは公表しなかったのだ。この点についてグルーは『滞日十年』の序言で次のように書いている。「・・・これは内密な、非公式な日記なので、私は多数の同僚、その他の個人の名前を発表することをさし控えねばならなかった。名前が知られるとそれらの人々が迷惑したり一身上の後累を被るようなことが起こるかもしれないからである」。』

『事実、日記原本と公刊本とを比較すると、グルーが実に多くの事実をスペースの関係で削除したり、あるいは意図的に隠したりしたことがわかる。グルーは何を公表し、何を隠したのか。とまれグルーは、先の序言引用につづけて、「しかし主要な物語は、この種の省略によって損なわれてはいない」と述べているが、それを額面どおりに受け取ることは危険だ。これが、第一に指摘しなければならない点である。第二に、われわれは「滞日十年」の刊行目的と刊行の時期に細心の注意をはらわなければならない。グルー日記を公刊する動きは、グルー帰国後まもなく始まったようだ。グルーは、このころ国務省顧問という公的な地位にあり、国家機密に属する事項をそのままの形で公表することは許されていない。さらに43年7月10日付けのサイモン社あての手紙を見ると、「滞日十年」を出すにあたって、グルーが1ページ1ページ注意深く原稿の削除、訂正をおこなっていることがわかる。』

『1944年1月15日、アメリカ国務省に極東局が設置され、中国派のスタンレー・ホーンベックが局長に就任する。しかし、ホーンベックは三ヶ月半で辞任、かわってグルーが極東局長のポストについた。いまやグルーを先頭とする日本派の発言権は強まり、彼らは国務省の対日政策に大きな影響力を行使するようになった。グルーの最大の関心事は、日本の降伏条件をいかに規定し、それをいかに日本政府に受諾させるかに移っていた。「日本版のために」を引用すると、「1944年合衆国での本書の出版は、二重の目的を持っていた。その一つは、1941年の戦争勃発を導くにいたった日本の趨勢と各方面の進展を明瞭にすることであり、その二は、米国の公衆に日本と日本人のより深く、精しい心象をあたえようと務めたことであった」とグルーは記している。「滞日十年」が出版されると、それは大きな反響をまきおこした。なぜならば、同書は個人日記の範囲を超えて、まさにアメリカの、来るベき対日政策の基本、とくに天皇問題に触れるテーマを提出していたからである。』


『X 穏健派とは何か−牧野伸顕・樺山愛輔・吉田茂−』


『グルーの外交スタイルは、ひとこといってしまえば宮廷外交であった。東京滞在中、彼は日本の著名人をアメリカ大使館での晩餐会に招待したり、逆に、日本人の友人から夕食会や葬儀に呼ばれている。グルー日記に登場するそれらの人々を列記すると、牧野伸顕、樺山愛輔、近衛文麿、松平恒雄、広田弘毅、吉田茂、出渕勝次、幣原喜重郎、重光葵、新渡戸稲造などの名前をあげることができる。そのほかに、三井・住友などの財閥系の指導的実業家や海軍将官がグルーとの接触を保っていた。なかでも重要な情報源は、宮中側近グループであった。彼らはいずれも欧米に留学あるいは勤務した経験があり、品位と威厳をそなえ、謙虚で強要の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであった。』

『グルー日記を読むかぎり、彼が穏健派のなかでも最大の信頼を寄せていたのは、牧野伸顕(1861−1949年)であった。「滞日十年」には、牧野に対する賞賛の言葉がしばしば出てくる。グルーは天皇を穏健派の頂点に立つ人物と見ていた。牧野伸顕と並んで、グルーの信頼をかちえていたのは樺山愛輔(1865−1953年)である。当時、樺山はいく人かの日本人にとってあまりにも親米的すぎるといわれ、またアメリカ外交官からは「国際的お愛想屋」とか、「救いようのないおせっかい屋」と評されていたという。グルーは、そんな評判を知っていたが、むしろ黙認していた。樺山はアメリカ大使館にひんぱんに出入りし、グルーのよき情報源となり、また宮中派との接触を仲介したのである。』

『グルーが吉田茂の名前を徹頭徹尾隠そうとしたことはのちに述べるが、樺山もまたグルーにとって秘匿を要する人物であった。なぜなら、樺山は、グルーと宮中派をつなぐ仲介人と自他ともに任じており、事実、機密を要する情報あるいは高度な政治判断をくだすに必要な情報をしばしばグルーのもとに届けていたからである。「滞日十年」には、氏名を伏せて、「完全に信頼すべき情報源」、「著名なる日本の自由主義者」、「私の通報者」が語るところによると・・・と記している箇所がいくつかあるが、それは樺山をさしている場合が少なくない。』

『「樺山伯爵がやってきて、長時間話す。彼は私がアメリカへ発つ前に、現情勢にかんする直接のメッセージを届けるために首相と会ってきたところだった。樺山は国内政治について多くを語り、現在の日本で最も影響力のある人物は西園寺公と牧野伯爵であるといった。そしてこの二人は、他のいかなる先帝よりも穏健な考えの持ち主である現天皇の絶対的な信頼を得ているとも語った。(1935年7月5日付け)」』

『牧野といい、樺山といい、これら宮中派は、終始、天皇=平和主義者というイメージをグルーに植えつけ、穏健派こそが日本政治の安定をもたらす真の政治勢力であり、かつ平和的な日本外交の推進者であると力説した。それにしても牧野、樺山はいずれも高齢であって、グルーはいつまでも彼らに頼るわけにはいかなかった。日本の次の世代を背負う穏健派的人物、彼らとの継続的な接触をグルーは望んだ。その一人が牧野伸顕の女婿、吉田茂(1878−1967年)であった。』

『その頃、吉田は駐伊大使であったが、駐伊大使辞任の意向を持って日本に帰国したばかりであった。初対面以来、吉田はグルーに対して自己を英米派、穏健派の一人として位置づけ、その立場から日本を取り巻く内外情勢を率直に語った。また、日本の政界上層部とグルーとのパイプ約を買って出てもいる。初対面から約二週間後の1932年10月24日の日記に、グルーは早くも樺山愛輔と吉田茂の斡旋で幣原喜重郎と会見することができたと記している。さらに33年9月39日の項には、吉田の仲介でグルーは広田弘毅外相と親密な個人的関係をつくりあげることができたこと、会見の場所は外務省のかわりに広田の私邸をえらぶことにしたと書いている。しかしながら、右の事実は公刊本の「滞日十年」ではいっさい削除されている。グルーは、「吉田は率直に物がいえる数少ない友人の一人」とか「アメリカのよき友人で、私の良き友人」であると書いているが、その背後には右のような内密な情報ルートが設定されていたのであり、やがて吉田の存在はグルーノ日本での外交活動にとって不可欠のものとなっていくのである。』

『グルーが吉田とひんぱんに接触を保っていたのは、1932年10月から36年4月までと、39年1月ころから41年秋までであった。中間の36年から38年末まで、吉田は駐英大使としてロンドンに赴任していた。従って、この期間は、日記原本にも吉田の名前はほとんど出てこない。この全期間をつうじて吉田茂は樺山愛輔らとともにグルーと日本の政界上層部とのパイプ役を演じつづけた。日記原本を読むと、右の二人がグルーにとっていかに重要かつ信頼すべき情報源ないし仲介者となっていたかがわかる。』

『事例1−晩餐会のあとの長時間の談話の中で、吉田は近衛公が元老として西園寺公爵のいあとをつぎ、天皇・政府の緊密な助言者としての地位につくことになろうと語った。今回の近衛の合衆国訪問の主たる目的は、彼がいずれ埋めることになるであろう重要な政治的立場の準備のために、アメリカ的な思考や制度に慣れ親しむことにある、と吉田は私に語った。近衛は”親善使節”として、あるいは日本の宣伝のために行くのではない、自分の勉強のために行くのだ。したがって近衛の合衆国訪問の印象が楽しいものになることは最重要のことになるとも吉田はいって。この話を聞いて、これは政界最上層からの直接のメッセージであり、私が近衛のワシントン訪問の途を開いてあげれば、彼らはよろこぶに違いないと判断した。当然にも、吉田は著名な岳父牧野伯爵の考え方や、時によっては伝言をそれとなく示す。牧野伯は天皇に非常に近い人だ。さっそく、ハル国務長官に一部始終を書き送った。(1934年4月2日付日記)』

『事例2 前駐英大使吉田夫妻と松方翁、白洲次郎氏、ピアソン夫人、マックス・シュミットが晩餐会にやってきた。夕食後、吉田・白洲と、日本に対するアメリカ世論の動向とその理由について長時間話し合った。彼らはこの件をすべて首相(安部信行)に話すようにすすめた。会合の準備は二人がするという。それに対し、私は外務大臣の頭越しにそのようなことをやりたくないが、もし安部首相が望むのなら、もちろん、よろこんで首相に会い、すべてを率直に話すと答えた。さらに吉田と白洲は現内閣の組閣にあたって影響力を行使したとみなされる近衛公との会談をおこなうようすすめた。(1939年10月13日付日記)』


『穏健派』とは何者か。敵対国に国家最高機密情報をせっせと流す行為を、『リベラルな平和主義』と自称する究極の自己チュー集団である。多大な人命の犠牲の上に優雅な生活を送る人非人集団である。あるいは田布施村王朝の権益とそのおこぼれに与ることを最優先するエゴ集団である。シゲちゃんも終生、オールド・リベラリストを自認している。


『穏健派』とは何者か。秘密裡の和平工作と併行してヤラセ工作をしていたマッチ・ポンプ集団である。その中心人物は吉田茂と昭和天皇、日本史上不世出のコンビ、謀略の天才二人組である。

昭和天皇に上奏させたかの有名な近衛上奏文の仕掛け人は吉田茂である。歴代首相の上奏は、近衛に上奏させるためのダシに過ぎない。その後吉田は憲兵に自分を逮捕させ、40日で無罪放免させる。『穏健派』リベラリストという免罪符を自分に与えるためである。


『穏健派』とは何者か。ロンドン・シテイ―に巣食う連中と連携することを、穏健・平和主義・リベラルと称する者たちである。彼らは自分たちを押込め抑圧してきた世界に復讐をしているのだ。彼らにとって田布施王朝は絶対正義である。牧野伸顕は熱涙とともに田布施王朝の正当性を語っている。しかしこの絶対正義には隠さねばならない秘密が多すぎた。その秘密を守らされるために、民草が払った代償はあまりに大きなものであった。もうこの辺で手打ちにしてもらえないだろうか。


最後に近衛の致命的な失策とされる『国民政府を対手とせず』声明について、実際に近衛のために草案を書いていた中山優の説明を添付する。近衛文麿への追悼の文章からの抜粋である。


中山優『近衛家の悲劇』より以下抜粋。


『私が近衛公を間近く見たのは昭和12年の夏の頃、虎ノ門の霞山(かざん)会館においてであった。…私の同窓の先輩が、公のまえに鞠躬如(きっきゅうじょ)としている姿を見て、むしろ苦々しくすら感じたものである。また公爵その人が、いつも湯上りみたいな端麗な顔立ちで、何か天皇陛下の次といった超然たる態度であるのを見て、そもそもわれわれとは人種の違うような気持ちで何の関心も起こる余地はなかった。満州事変以来、中日領国の間には緊張のとけた日はなく、その間二回、私は二か月ずつくらい満州から北京、上海と廻って、現地の容易ならぬ雰囲気は体験していたことだし、当時外務省の情報部の嘱託をしていながら、外交関係の座視には評論めいたものを寄稿していた。』


『そういう頃のある日、近衛公が霞山会館で中国通を集めて忌憚のない意見を聴きたいということで私も呼ばれた。尾崎はどうしたものか、その日は卑屈に映ずるくらいに近衛公の前では精彩を欠いた話しぶりであった・・・私は何を言ったかはいまは思い出せぬ。しかし、絶えず中国問題を注意していた者には、すでに病膏肓に入っていることはよくわかっていた。何よりも禍根は日本政府の不統一にある。政府は軍部に引きずられ通しであるが、その軍部の内部が色々に分立し、したがってその頃になると、私のような者ですら、日本側の発表をそのまま信用することは出来ず・・・歴代も内閣が持て余したままの懸案を、如何に盛名に富んではいるにせよ、この45歳の貴紳に押しつけるというのは言語道断の無責任であると思っていたので、自然近衛公の立場の苦しさにも同情的気持ちが自然に出た点もあるかと思われる。この間近衛公は木像のように一語も発せずに聞いていた。』


◎軍部=昭和天皇として読んでほしい。吉田茂も軍部に強力なコネクションを持つ。


『とにかく、第一次近衛内閣時代に関する限り、私は数回、公のために草稿を書かされた。その一つに問題になった「近衛声明」がある。これについてはいまなお世間に誤解があるようであるから、私の記憶の許す限り真相を伝えておくことも無意味でないと思う。近衛公の対中国政策に関する重要な声明は二つある。その一つは昭和13年の1月8日に出された、「蒋介石を対手にせず」のあれである。あれは、その前の年、12年の暮れに、南京陥落の直後、ドイツの駐中大使トラウトマンが仲に立って中日両国間に和平交渉が行われた。その交渉が駄目になったときの用意にと言って半枚足らずの簡単な覚書程度のものを、秘書官が持ってきて字句を修正してくれということであった。』


◎「対手にせず声明」は単独に用意されたものではなく、トラウトマン工作失敗の時の用意として覚書程度のものがあった。修正を中山氏に依頼した秘書官というのは、内閣書記官長・後藤隆之介である。


『後日出た本で風見氏は、その原案は陸軍省が作ったと言っているし、矢部氏は外務省の起案で、後の北支臨時政府の王克利の要望により、陸軍が、これに便乗したものと書いているが、いずれにせよ、当時の空気では、陸軍・外務の間で打ち合わせたものであったに相違ない。それはどう考えても閣内会議rの申し合わせで、総理大臣が、正式に外に向かって発表するという文体のものではなかった。老練な広田外相の目の届く下で、そつがあろうとは思わなかった。当時まだ私は外務省にいたが、あれが発表されたときはハッとした。陸軍の主流の圧力がどんなに強かったにせよ、近衛公ほどの人が、あの一貫して中日間の親善を心から希望した人が、このような粗笨な発表をしたということは、抗すべからざる時の勢いというものであろうか。如何にも残念で、これが結局近衛公の命取りの種となった。近衛公を弱いという人は、何よりもこの問題を取り上げるであろう。』


『石原莞爾もその一人である。しかし、その強い石原氏でも、当時の圧倒的な陸軍の大勢を左右することは出来ず、かえって満州に左遷(?)されたことを思えば、近衛公だけを責めるわけにはいかない。否、たとえ辞句だけにせよ、私も、それを事前に見た一人である。多年中国問題に従事している一人として、私はもっと敏感にその機微を把握し、命がけででも、それを阻止するべきであったのである。当時の私は、それほど自ら任ずるものがなかったことを、いまにして自ら鞭打たざるを得ぬ。しかしこれやいわゆる近衛声明ではない。不用意に出されたこの対手にせずの声明を一年がかりで訂正したのが翌年12月の近衛声明である。とにかくそれから内閣改造が行われ広田外相が退陣し、宇垣一世老が外務大臣に就任した。私もそのころ外務省に行き詰まりを感じ、退職して浪人していた。』


『13年の3月頃には新京に建国大学が創立され・・・石原氏あたりの肝いりで私に教授としての招聘が来た。東京に未練がないこともないが、反面中国問題で日本の運命が決しようとするとき、半生を中国問題ですごした私としては、筆を捨てて、職場に実践せんとする意欲も動いてきた。私の担当は東亜政治論というのであった。大学の教授と言っても私には中日問題の解決に応分の寄与をする以外に専門の学も、また目的もない。・・・尾崎君が朝日をやめて内閣の嘱託となったのはこの前後と思う。10月になると、総理の代理として令息の文隆君が大陸の前線を慰問するから東道の役を引き受けてくれという依頼が電報で公から来た。』


『それとほとんど同時に、また航空便が来て、11月の明治節の頃に漢口が陥落する。中国の政局にも重大な変化が起こる可能性がある。そのとき総理の名で重大声明をやるから目を通してくれといって、簡単な要領が封入してあった。その他にまた、この趣旨に従って11月3日の明治節に日比谷の公会堂でやる総理の演説の草稿を思い切ってこれは自由に書けという依頼であった。この11月の正式声明及びその夜のラジオ放送は一言にして言えば、近衛内閣の癌となっていた「対手にせず」の声明を訂正し「日本の目的は日支満三国の提携による東亜新秩序の建設にあり、日本の精神を理解し、人的要素を新たにして来たり投ずるにおいては、重慶の国民政府といえども拒否するものにあらず」という筋のものであった。』


『この声明で「新秩序」という語句を使ったのは、前年近衛公が渡米したとき、第一次大戦当時のウイルソンの顧問であったハウス大佐が「日本がワシントン会議の体制を否定するなら、それに代わるわれわれの納得するようなニュー・オーダーを提示すべきだ」と言ったことにヒントを得たわけである。近衛公のための案文を私が書いたのは第一次近衛内閣の期間だけであって、その間このことは、誰にも知らさなかった。中野正剛氏は私のもっとも親しい先輩であったが、これにも黙っていたら、中野さんは知っていた。「どうして知られましたか」と尋ねたら「近衛さんが言っていましたよ」ということであった。』


◎ここに驚くべき『新秩序』のルーツが明かされている。中山優はもちろん近衛文麿は直に会っていたくせにハウス大佐が何者かも知らずに、『ニュー・オーダー』の何たるかも知らずに、言われたままをヒントにして『東亜新秩序』を掲げたのだ。


『旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出会ったら、「英国大使のカーが、誰か日本人の有力者に重慶を見せて日本人の認識を改めたい。安全は英国国旗で保証するから行かぬか、と言うが、僕にはその勇気がない、文隆さんが行かぬか」と勧められた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら、ようやく引っ張って日本に帰った。あの時、侯爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あのとき、もし文隆君の主張に従って二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異なったものが出来たかもしれぬ。』


『私には公爵は淋しい人に思われた。公の周囲にはいわゆるブレーンなるものがあり、昭和研究会関係がそれを占めていた。私はブレーンの中には入らなかった。私の関係は、むしろ文隆、護貞両君を挟んで個人的であった。敗戦後の21年春に上海から帰国した私は、それでも公の一年祭には出席した。礼儀の正しい千代子夫人は、わざわざ私の草蘆にも回礼に立ち寄られた。そして門の側に咲いていた冬のサフランの花を珍しいと言って、株を分けて行かれた。悲しみの影だに外面に出されぬことがかえって私を暗然たらしめた。』


◎この時文隆の消息も途絶えていたことを考え合わせると、中山優が千代子夫人の淡々といた挙措にかえって暗然たる思いを抱いたことに、中山のまともさを感じる。松本重治と牛場友彦の証言による千代子夫人の言動はあまりに冷酷で言葉を失う。松本重治と牛場友彦の対談もまったく非道である。


『皇室以外の特権階級が消滅するのは、歴史の当然の発展であろう。私は一度も、いわゆる上流の生活を美しいと思ったこともないし、終戦後の不如意にかまけて、毎年12月の慰霊祭にも、その後は失礼を重ねている。しかし、残された近衛家の人たちの幸福を祈る心は常にいっぱいである。』


私は皇室も例外ではないと考える。天皇も五摂家も田布施王朝も権力者による創作である。太田龍は縄文人の魂が好きだと言う。私も縄文人は素晴らしいと思う。そして太田龍は倭姫も孝明天皇も縄文魂を持っているという。しかし私は縄文魂と特権階級を作ることは矛盾すると思う。リチャード・コシミズも縄文時代が好きだという。ザ・オーダーに都合の良い情報操作をするRK先生は、原発利権のために全国を公演して回っているようだ。彼は前置きにご当地ネタと縄文時代の考古学的なスライドを見せ、そうやって聴衆を信用させてから、やおら低線量放射能は健康に良いというトンデモをぶつ。ウラン水を毎朝飲んでいると言って実演もして見せている。もはや問題外である。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
8. 中川隆[-15075] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:12:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2116]
山本五十六の真実H吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文隆編
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/771.html

先ず、前回文麿編で『道楽したのは長身ハンサムなモテ男文隆である』と書いたことをお詫びして訂正します。松本重治の『通隆が道楽してしょうがない』という偽証に対する反証として書きましたが、やはり『道楽』という言葉には語弊があります。モテることと『道楽する』ことはまったく別ものです。文隆はいわゆる放蕩息子ではありません。文隆の名誉を傷つける発言であったことをお詫びして訂正します。


以下本文です。


あるいは松本重治が『道楽』という言葉を使ったのは、白洲次郎の『プリンシプルのない日本』の中で使われた近衛父子を貶める手法を真似たものかもしれない。訂正ついでといっては何であるが、その手法を以下に披瀝する。吉田茂の指令で近衛父子を嵌める工作をしていた張本人である白洲のバックレぶり、一部外国大使館員らに『二枚舌を使うヘビのような男』と評されていた白洲の人となりの『生態』が『如実』に現れている。


白洲次郎『プリンシプルのない日本』より以下抜粋


『吉田茂は泣いている 


近衛さんの強気と弱気


悲劇の政治家の標本みたいにいわれている近衛文麿氏も、私には非常に印象の深い人である。近代の政治家であの人ほど頭脳明晰だった人は少なかったろう。しかしおしむらくは、公卿の特性として決断力にはかけていたように思う。一面気の弱かった半面に、また常人には考えられない一種特有の図々しさというか、盲者蛇におじず的のところがあった。

(中略)

そんな強気の反面、自分の子供にすら小言を言えなかったような弱気の面もあった。この弱気はほとんどだらしなさに通じるものであった。戦死した長男の文隆はとても可愛い奴であった反面、一種の不良性も充分に持ち合わせていた。この長男に全然面と向かって小言が言えなかった。文隆にこういってくれ、ああいってくれ、とよく御用を仰せつかったものだ。


ある時、麹町永田町の私宅の二階で文隆をつかまえてどなりあげている最中に、御自身二階にあがってきて、私のあまりの剣幕に、「そんなにいわなくても文隆はわかるよ」と泣きをいれたので「これはもともと、あなたの指図でやっているのですよ」と暴露したところ、ほうほうの体で階下に逃げさったような滑稽な場面もあった。

これは終戦後よく思ったことだが、戦前にこの知能のかたまりのような近衛さんと、度胸と実行力の吉田さんのコンビの内閣が出来ていたら、あるいは悲惨な戦争は避け得られたかも知れない。これは単なる話で実現の可能性はゼロであったし、また万一実現していたところでご両人とも殺されてしまうのがおちであったろう。また近衛さんのうちの「公卿」は殺されるまでとてももたなかったろうとも思うが』


全文ガセであると私は思う。奸智のかたまりのような吉田と組んで近衛父子を抹殺した白洲が、二枚舌をチラチラさせている光景が浮かぶような文章である。近衛文麿を惰弱な公卿のように吹聴しているが、白洲自身が卑怯な弱虫なのである。白洲は敗戦に至るシナリオを知っていて、いずれやってくる東京大空襲が怖くて、五十六を暗殺した1943年4月の翌月には早々と山村に疎開している。招集令状が来ると吉田の陸軍コネクション・辰巳栄一中将に泣きつき、チャラにしてもらうと大喜びでお礼の缶詰を山のように贈っている。


悲惨な戦争は避け得られたかも知れないというが、吉田と白洲たちが悲惨な戦争を継続すべくマッチポンプしていたのではないか。白洲は東京大空襲だけでなく原爆投下も事前に知っていたし、広島原爆被災者を見殺しにする田布施村王朝の方針にも協力した。
白洲がどなりあげている(これ自体ねつ造であると私は思う)文隆は、そういう悲惨な戦争の召集に二度応じている。最初のころは糞まみれになりながら、1940年から敗戦まで兵役を務め上げている。文隆は敗戦と同時にソ連に抑留され11年間拘留された挙句、鳩山一郎が日ソ国交修復に調印すると同時にソ連国家保安省によって薬殺された。


白洲は『戦死した文隆』を使って近衛を親として貶めようとしているが、白洲は文隆が『戦死した』のではないことを一番よく知っている人間である。吉田茂の指令でみんなで寄ってたかって近衛父子暗殺工作をしたのだ。その吉田を『吉田茂は泣いている』という章題に使って、その章の中で近衛父子の誹謗中傷と吉田のヨイショと自分ボメをしているのである。白洲次郎の心根の卑しさというものは比類がない。


文麿は子供を叱れないのではなくめったに叱らないだけで、叱るときは叱っている。
白洲はすぐ人を怒鳴りつける癖があり、怒鳴ること=叱ることだと勘違いしている。
このような浅はかな人間に、どこの親が子どもを叱ってくれなどと頼む訳があるのか。白洲が一番かわいがっていた娘の桂子でさえ、白洲は親としてほとんど有用性がなかったと認めている。


白洲は文隆が『不良性』を持っているというが、文隆は親子兄妹仲睦まじいい家庭で真っ直ぐに育っている。だから文隆は白洲の姦計に簡単にはまってくれるのである。
『不良性』というのは白洲自身を反映した言葉であり、白洲は自分が持っている『不良性』をかっこいいと思っているらしいが、白洲が持ち合わせているのは薄汚い不良な根性だけである。


さて前回引用した中政則氏によるグルー日記原本の事例1に注目されたい。吉田茂はグルーに近衛文麿に関する機密情報を提供するだけでなく、近衛の渡米にタイミングを合わせて牛場友彦指令を出しているのが分かる。彼らの秘密工作を追跡調査してみよう。


『近衛文麿は長男の文隆を、昭和七年にアメリカのローレンスヴィル高校へ留学させ、卒業するとプリンストン大学へ入学させた。文隆のアメリカ留学の世話をしたのは、樺山愛輔だった。樺山は、元駐日大使であったローランド・モリスに文隆を預けた。文隆が樺山の世話でアメリカ留学を続けている昭和九年(1934年)に、白洲次郎の幼馴染みの牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月間のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅がきっかけで昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。近衛文麿が46歳、牛場友彦が36歳の時である。牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から「ジロー」「トモ」と呼び合う仲であったが、昭和12年以降その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

NHK取材班によると、近衛文麿はルーズヴェルトと私的な会見をし、サンランシスコでは米国のメデイアに向けて英語でスピーチもしているようだ。

『そのフィルムが米国立公文書館(ナショナル・アーカイヴス)に残っていた。落ち着きのある、はっきりとしたスピーチだ。

「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちとも出会いたいと思っています。そして、太平洋の反対側にいる私たちが、80年にわたって育んできた日米間の友情をどれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです」

約50日に及んだこの米国旅行で、近衛は先に日記から紹介した人物たちのの香に財界人や軍人とも会談。新旧政府の要人や財界人からマスコミ人まで、当時これほど幅広く米国のオピニヨン・リーダーたちと意見を交わした日本の政治家はおそらくいないだろう。近衛の帰国報告は、駐米大使の報告よりも有益だと評されたという。』(近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より)

牛場友彦はこの旅行中、近衛文麿に貼りつくのに成功している。やがて牛場は近衛内閣が発足すると書記官長の風見章と共謀して「朝飯会」を主催し、そこに尾崎秀実と西園寺公一を引き入れる。そして牛場は近衛の長男文隆にも、尾崎秀実を接近させる。ヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、文隆を呼びつけて尾崎秀実の助手にする。文隆が日本に帰国すると、さらにゾルゲにも引き合わせ懇意にさせている。牛場は後年文隆がソ連に抑留され処刑される伏線を張っているのである。米国留学中の文隆には、白洲次郎も貼り付いている。


西木正明氏の『夢顔さんによろしく』は近衛文隆に捧げられた鎮魂歌である。もとより西木氏はジロー&トモを疑ってかかってはいない。しかし見事に彼らの本質を描いている。小説仕立てではあるが、綿密な取材を重ねて文隆の死に至る経緯を検証している。実録として十分鑑賞に堪える優れた作品である。事実と懸隔していると思われる部分を割愛して引用させていただく。

西木正明『夢顔さんによろしく』文藝春秋より以下抜粋。

『昭和11年(1936)5月20日午後。文隆は、ワシントン駐在大使館に呼ばれた。「おう、近衛君」斉藤大使は、文隆が執務室に入って行くなり、待ちかまえていたように立ち上がった。「8月半ばに、太平洋問題調査会第64回大会という国際会議が、カリフォルニアのシエラネヴァダ山中にある保養地、ヨセミテで開催されることになった。この会議に、日本から元外務大臣の芳澤謙吉さんを団長とする代表団が乗り込んでくることになっている。これを手伝ってほしいんだ」』


『「太平洋問題調査会、ですか。それはどんなことを話合う組織ですか?」「太平洋調査会は太平洋地域に利害を持つ国々、すなわち日本、シナ、アメリカ、ソヴィエト連邦、それにオーストラリアなど、直接太平洋に関わりのある国々と、この地域に植民地を持つイギリスやフランス、オランダなどが参加して設置された常設機関だ。二年ごとに一堂に会して、折々の問題を討議する。今回は日本とアメリカなど欧米諸国との貿易問題、シナ事変、満州国などが議題の中心となりそうだ。君に手伝ってもらいたいというのは、団長の芳澤さんの意向だということだ」「芳澤さんのご指名とあらば、お断りするわけにはいきませんね。それでわたしはどんなことをするのでしょうか」「いわば、秘書兼連絡係りというところだな」』


『「おう、ボチ君(文隆の愛称)。ひさしぶりだな」まっさきに声をかけてきたのは、長旅の後にもかかわらず、灰色の背広を粋に着こなした、代表団の通訳兼秘書団長を務める牛場友彦である。イギリスのオックスフォード大学を卒業した後、太平洋調査会書記に就任、得意の英語を生かして各国との調整に走り回ってきた。「近衛君、この人は、西園寺公望老公の孫で、私と同じく太平洋調査会で働いている、西園寺公一君だ」彼も牛場と同じ時期、オックスフォード大学への留学経験を持つ。』


『「そしてこちらは朝日新聞の敏腕記者にして、太平洋調査会の嘱託を務めてくれている尾崎秀実君だ。尾崎君はシナ語に堪能で、日本の新聞界では右に出る者がいないといわれているシナ通でもある」尾崎と牛場は一高東大を通じての同期生である。尾崎は東大を卒業すると同時に朝日新聞に就職した。以後特派員として中国大陸にわたり、足かけ四年間に渡って上海、北京で活動した。そんな尾崎を、東大同期生で親友の牛場は、アメリカで開催される太平洋調査会議の日本代表の一員に招いた。実のところ、日本代表団の事務助手として文隆が選ばれたのも、牛場の推薦があったからだった。牛場が尾崎秀実の助手に文隆をあてがったのも、近衛公の意向をおもんばかってのことだた。』


『8月15日、太平洋調査会第64回大会は、無事開催された。会議の間中、文隆は牛場や尾崎の雑用を一手に引き受け、分厚い体躯を忙しく動かして、文字通りコマネズミのように走り回った。当初、名門近衛家の遊び好きな御曹子くらいの認識しかなかった日本代表団の面々の、文隆を見る目が変った。尾崎の論文は、各国それぞれの立場からの反論はあったものの、その内容についてはひとしく賞賛を浴びた。いつも穏やかに笑っているこの新聞記者に対して、文隆はいちだんと尊敬の念を深めた。8月29日、会議は無事終了した。』


『年が明けて昭和12年になった。6月4日近衛内閣発足。外相に元総理の広田弘毅、陸相杉山元、海相米内光政。戦後の官房長官にあたる内閣書記官長には、ジャーナリスト出身の衆議院議員風見章が任命された。近衛内閣発足から一ヶ月余りたった昭和12年7月8日、北京郊外を流れる永定河にかかる盧溝橋付近で、日中両軍が衝突した。』

近衛文麿は『藁の女』であると既述した。破滅されることが予め決められていた『運命の子』である。近衛文麿を日中戦争の泥沼に放り込むべく大命が降下され、近衛内閣が発足すると一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発した。ユン・チアン著『マオ』によると毛沢東の仕業であるという。しかし私は吉田茂が奉天駐在時代につくったコネクションのヤラセ工作だと思う。これを演じた支那駐屯軍は、熱河産アヘンをヘロインにする作業に励んでいた。事変はこの後拡大していくばかり、近衛は抜き差しならない立場に追い込まれていく。近衛が放り込まれた日中戦争とは、実はアヘン戦争であった。

江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書より以下抜粋。

『重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国家として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。』


『この日本の国家犯罪について東京裁判はある程度の追究をした。しかし日本政府もアヘン政策の当事者も、この事実については今日まで触れようとしない。あまりにも犯罪性・反人道性が明確で、弁解の余地のないことだけに、関係者が触れたがらない真情は理解できる。』


『しかし、いかに恥ずかしくとも、いや恥ずかしいことであればあるほど、歴史の真実は直視されなかればならないはずである。日中戦争がいかに不当で不法な戦争であったかを明証する歴史的事実に目をふさぐこと によって、日中間の相互理解と有効に寄与がもたらせるとは考えられない』

再び西木氏の前掲書より抜粋。

『北支の状況が風雲急を告げたこの時、文隆は日本郵船浅間丸で、太平洋上を日本に向っていた。プリンストン大学で政治学を教えているライシャワー教授が、7月2日シアトル発の船で、教え子数人とともに日本を訪れることになっている。日本の政治の現状をつぶさに見たいという教授の希望で、文隆は彼らに便宜をはかってくれるよう、父文麿に手紙を書いた。自らも一行の世話をするつもりだ。』


文隆はライシャワーの正体を知る由もなかった。


『盧溝橋事件勃発後、文麿公は、ほとんど帰宅しなかった。以前は嫌がって寄りつかなかった、首相官邸に隣接する公邸に泊り込んで政務に没頭していたのだ。この日は久しぶりに帰宅するという連絡が入ったので、文隆も夜の外出を控えて待っていた。文麿公を囲むようにして、一群の男たちが玄関に入ってきた。先頭は、黒いカバンを手にした秘書の牛場友彦だ。それに風呂敷堤をぶら下げた、同じく秘書の岸道三が続く。「ボチ(文隆の愛称)、すまんがひどく疲れている。つもる話は、近くゆっくりやろう」文麿公はそう言って、千代子夫人にささえられるようにして、寝所にひっこんだ。文隆は、牛場、岸両秘書官、弟の通隆(みちたか)と、ビールを飲んだ。牛場が文麿公の立場をおもんばかるように、憮然としてつぶやいた。「総理がお疲れになるのも当然だ・・・。」それから急に笑顔になって話題を変え、「ところでボチ訓、ヨセミテで君が世話してくれた朝日新聞記者、尾崎秀実君を覚えているかい?彼はボチ君をいたく気にいったみたいだから。だからというわけではないが、近々彼とメシを食わないか?」「もちろんオーケーです」』


『尾崎との会食の場所は、虎ノ門交差点近くにそびえる満鉄ビル七階のレストラン「あじあ」と決めてあった。数分後、グレイの背広に上着を小脇にかかえた尾崎が、汗をふきながら姿を現した。「いやあ、近衛君、ひさしぶりです。あの節は、ほんとうにお世話になりました」彼の声があまりに大きかったのだろう。隣で話し込んでいた白人客が、顔を上げて尾崎を見た。「なんだ、ずいぶんにぎやかな人がいると思ったら、オザキさんじゃないですか」「なんだ、ドクター・ゾルゲじゃないの。これは奇遇ですな」そう言ってから、笑顔を文隆に向けて、その男を引き合わせた。「ドクター・ゾルゲ、この方は内閣総理大臣近衛文麿公のご子息、文隆君です。文隆君、わたしの友人で、ドイツのフランクフルター・ツアイトウング紙特派員、ドクター・リヒアルト・ゾルゲです。」文隆は1メートル80センチ近い長身だ。しかし、尾崎に紹介されたゾルゲというジャーナリストは、その文隆よりもさらに数センチ背が高かった。「首相のご子息ですか。はじめまして、ゾルゲと申します。」その時、ゾルゲの脇に立っていた小柄な男が控えめに話しかけてきた。「プリンス・コノエ、私を覚えておられますか。ニューヨークのピーター・ルガーでお会いした、ギュンター・シュタインです。」「あっ、そうか。いや、実はボチ−ぼくも先刻お見かけした時に、どこかで会ったことのある方だ、と思ったんですよ。いやあ、これはうれしい」「驚いた。世の中、せまいもんですね」ゾルゲとシュタインは、以前から牛場と顔見知りだった。シュタインは今、ロンドンのニューヨーク・クロニクル紙特派員として、日本に滞在中だという。』

牛場友彦の策略によって、文隆は驚くべき包囲網に囲まれつつある。鬼塚氏によると尾崎とゾルゲは穏健派に利用されたのだという。昭和天皇がスターリンに機密情報を流すために尾崎が利用され、その尾崎がゾルゲを引き込んだのである。

『牛場はしばらくの間、文隆を無言のまま見つめていたが、やがてぽつりと、「こんなことを言うと、近衛公にお叱りを被るかもしれないが、どうせボチ君は、いずれ政治の世界に入ってくることになるのだから、留学は程ほどのところで切り上げて帰朝し、日本の政界の空気にじかに触れたほうがいいのかもしれないね」と言った。四日後の7月28日午後11時。外出から帰った文隆は、牛場友彦と玄関先でばったりと顔を合わせた。およそ30分後。二階の自室で本を読んでいた文隆に、母の千代子が声をかけた。「ボチさん、牛場さんが、ひとりでンビールをお飲みになってます。よろしかったら、話し相手になってあげてくださる?」』

この後牛場は、「ボチ君。君は近衛公のご子息として、守るべき秘密はちゃんと守れるはずだよな」と念押しして文隆に近衛文麿の苦衷を説明する。牛場は文隆の自覚を促し、首相秘書官になる道を開く。こうしておけば近衛父子をセットで始末できる。

『秘書官になって一週間後の8月9日朝9時前、文隆は官邸二階の廊下で、意外な人物に会った。「尾崎さん!」「おう、近衛君。秘書官就任おめでとう」尾崎はさほど驚いたようすもみせずに立ち止まってそう言った。「ありがとうございます。それで、尾崎さんは誰かに会いに見えたんですか?「いや、出勤してきたんだよ。実は私もここの住人になってね」「ここの住人?」「もちろん、住み込んでいるわけではない。通ってきているだけさ。内閣嘱託という、いわば居候の身分でね」「すると朝日新聞は辞められたのですか」「うん。新聞記者というのは、いろいろな人に会うのには好都合な職業だが、反面自分がほんとうにやりたいことをやろうとしても、思うにまかせないところがある。わたし自身について言えば、長い間支那問題についてもっと勉強したいと願いつう、雑事に追われて果たせないできた。そこへ今回たまたま、内閣嘱託として、支那問題を徹底的に研究してもらえないかという、ありがたいお申し出が、君の父上や風見書記官長からあってね」「そうだったのですか。では、毎日ここに通っておいでなのですね」「そう。ちゃんと部屋ももらっているぞ。見てみるかい?」たどりついた先は、官邸二階の東南端にある、こぢんまりとした部屋だった。薄暗い部屋が多い官邸の中ではめずらしく日当たりも良く、いごこちの良さそうな部屋だった。「ここで、存分に支那問題の研究をさせてもらっているんだ。ありがたいことだよ」この日以後文隆は、ちょっとしたヒマがあると、ぶらりとこの部屋にやってきて、支那問題について尾崎にあれ
これ質問した。尾崎は自らの支那問題に関する知識を、惜しむことなく文隆に伝授した。』

『9月26日朝、文隆はいつものように、荻外荘(てきがいそう 近衛家自宅)から官邸に向う車の助手席に乗り込もうとした。それを文麿公が押し止めた。「ボチ、この前話した支那行きの件だがね、そろそろ実行してくれないか。表向きは、わたしの名代として前線部隊を慰問することだ」「はあ。それで、表向きでないほうの任務は戦地の実情把握ですね」「それでだ、ボチひとりではいろいろと大変だろうから、誰か支那問題に精通した者を随行させよう」「尾崎さんにお願いしてはどうでしょうか」「尾崎さん?ああ、最近内閣嘱託になってくれた尾崎君か。なるほど、尾崎君なあ・・・たしかに尾崎君は、支那問題に通暁している、すぐれた人物だ。だが、彼にはほかにやってもらわねばならぬことがある。尾崎君とはだいぶちがうタイプだが、支那に関する識見においては勝るとも劣らぬ人物がいる。彼に行ってもらおう」』

東亜同文書院中退の中山優である。『対支対策の本流』という論文が文麿の目にとまり、以後、文麿の演説原稿を起草するほどの信頼を得た人物である。先に投稿した文麿編の最後に、この中山の追悼文を載せた。同文書院は文麿の父篤麿が創設したものである。中山の一年先輩に後に阿片王として知られる里見甫がいた。実は松本重治はこの里見と組んで、同盟通信社設立の裏工作をしていた。

佐野真一『阿片王 満州の夜と霧』新潮社より以下抜粋。

『里見の関東軍第四課での最大の仕事が、国通設立に向けての工作活動だった。ことの発端は、新聞聯合専務理事の岩永祐吉が関東軍に提出した「満蒙通信社論」だった。その要旨は、満州にすみやかにナショナルエージェンシーを設立すべし、外国通信社や営利目的の通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人心の混乱を招くおそれともなる、というものだ。関東軍第四課に派遣された里見の役割は、この岩永論文を火急のうちに現実化することだった。』


『国通設立にあたって最大に難関は、いかにして電通を説得するかにあった。

「この同意があって初めて満州における通信社の統一が成立する。両社のうち一社が嫌だと言えばそれでお仕舞いである。特に電通が承知するや否や中々疑問である。すでにその頃両社も薄々気配づき、特に電通側はひどく神経過敏であった。私は命を受けて、東京行きの途上、実は大変なことを引き受けたとつくづく思った。」里見甫”国通十年史”

当時の電通は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告の分野に加えて世界的ネットワークをもつ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。』

里見はまず大阪電通社長の能嶋進の懐に飛び込み、次に陸軍省の鈴木貞一に会って根回しをし、電通社長の光永星郎に面会して案を固めていく。

『そして2・26事件がおきる一ヶ月前の、昭和11(1936)年1月、電聯合併による同盟通信の発足を見ることになった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。

「国通の出現を契機に、政府は国内の通信統制に乗り出した。すなわち国家代表通信社の設立であり、国策遂行のための文字どおりの非常手段であった。」(”電通66年”より)』

岩永祐吉が論文で国通設立を説き、里見甫が奔走して同盟通信が発足する。岩永がIPRで活躍していた松本重治を見初め、上海支局長に据える。上海で合流した里見と松本は裏工作のパートナーになった。松本は里見のことを天馬空を翔けるような胸のすく男だと絶賛している。確かに軍と財閥を手玉にとった里見のスケールのでかさは、松本にはないものだった。国通設立の謀略には樺山愛輔・板垣征四郎・小磯国昭が関与している。主役は小磯国昭である。

『国通の創立で軍の信頼も高まり、軍が表面立てない特殊工作が里見に廻されるようになる。』


松本重治はこの里見甫と組んで、ロイターとの通信提携契約を取るのである。ロイターの極東支配人チャンセラーと松本重治はIPRでの知己である。後に阿片王の名をほしいままにする里見と組んだ松本重治は、やがてチャンセラーの斡旋でジャーデイン・マセソン商会に食い込んでいく。いや取り込まれていく。

松本重治『上海時代』中公新書より以下抜粋。

『この会議(IPR)で知り合ったイギリス人のうちに、その後、私の上海時代に、切っても切れぬ縁を持つようになった人がいる。それはクリストファー・チャンセラーである。ロイター通信社の極東支配人として、数日前に上海に着任した・・・チャンセラーは私と四つ違い。私は32でチャンセラーは28。イートン、ケンブリッジを出た、いわゆるエリート・コースをたどってきた名門出の長身の美男で、そのシルヴィア夫人は有名なグレイ卿の姪に当たる人。そのときが縁となって、今日まで40年余りのあいだ、私はチャンセラーと友人として付き合うことになった。上海での英国人社会に私を紹介してくれたのは、この当のチャンセラーであった。』

『ロイターのチャンセラーと交友を深めつつあるうちに、チャンセラーは、「私の親友で日本との縁故の深い二人の人物を君に紹介したいから、上海クラブでランチを一緒にしよう」といってきた。彼の親友二人というのは、トーニー・ケジックと弟のジョン・ケジックであった。この兄弟とチャンセラーとは、三人ともケンブリッジ大学とトリニテイ・カレッジの同窓生で、ケジック兄弟はジャーデイン・マセソン商会の大株主であり、重役であったが、二人とも、チャンセラーが上海に来る以前から、上海その他で活躍していた。ともに30歳になるかならぬかの年齢ではあったが、ケジック兄弟は大学卒業後、彼らの叔父のきびしい教育方針に従って、すぐ平社員として香港、上海、漢口などの各支店をお互いに交替しつつ、一種の丁稚奉公の数年間の年季を終え、一人は上海で、一人は香港で、彼らの店を主宰していた。』

『かれらの厳父ヘンリー・ケジックは、ジャーデイン・マセソン商会の対中国および滞日貿易を通じてどえらい財産をつくった。ケジック兄弟は、もちろん、貿易商であり実業家ではあるが、たんなる貿易商、たんなる実業家ではない。彼ら二人は、イギリスの極東政策、ことに対中国政策について、ロンドン政界に発言権をだんだんと持つようになり、南京政府の要人と密接に付き合ったり、日本外交官とも始終連絡していたわけで、すでに政治力ある実業家となっていた。この二人を友人にもつことになった私は、さらに上海のイギリス人社会でいろんな知友をつくることができた。交友を深めるにつれ、ケジック兄弟のそれぞれの人間の味が感ぜられるようになった。』


◎アヘン王の発言権は強力なのだろう。


『当時、二人ともまだ独身であり、しばしば、私たち夫婦を友人とともに招いてくれた。話題は、主として、日中問題と、それとの第三国関係であった。今日では、チャンセラーともども三人とも、ロンドンに帰って、それぞれ英国政財界に重きをなしているが、40年近くを経た今日でも、彼らと私との親交は続いている。ケジック兄弟の血管には、父祖三代の知日的な血が流れている。ジャーデイン・マセソン商会は、インドのカルカッタを起点として、香港、アモイ、上海を経て横浜までまたがった極東貿易に、多年、覇をとなえてていた会社であった。ケジック兄弟の父祖ウイリアム・ケジックは、明治維新直前に横浜の居留地に支店を開いたが、当時は「英一番館」という名称であった。横浜居留地の錦絵にもこの「英一番館」が載っている。』


◎「英一番館」は吉田健三に一代で財を築かせ、彼が40歳のとき『急逝』してもらった。当時11歳の養子吉田茂には60億近い遺産が譲与された。


『文久二年(1862年)のある夕、ウイリアム・ケジックが支店から家へ帰ろうとして人力車に乗ったところを、五人の日本青年が、にわかに立ち現れ、車のかじ棒を押さえた。「何の用かね」と尋ねると、これらの青年は、「私どもはイギリスに行きたいのです」と答える。「何の目的で行くのかね」ときくと、「航海術と砲術をイギリスで学びたいのです」と彼らは、率直に答えた。その老英国人は、眼が高かった。彼は眼前の算盤よりは、将来の日英関係とその貿易の可能性を考えていた。これら五人の青年は、伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤勤介であった。ウイリアム・ケジックは、この五人の情熱にほだされて、彼らに上海までの密航の便宜を与え、さらに上海からロンドンまでの船便の世話をしてやった。』


◎吉田茂少年は第二の伊藤博文を夢見てアヘン王の特殊教育に耐え、昭和天皇を凌ぐインテリジェンスに成長して望みを達成する。そういう自分を嘉する意味も含めて、後年大磯の豪邸に伊藤博文ら田布施王朝の勲功者を祀る五賢堂なるものを立てたと思われる。


『こういう話をトーニーは祖父から聞いており、私にも話してくれた。トーニー自身は横浜生まれでもあったし、日本には特別の親近感をもっていた。ジョンは、トーニーが上海から帰国してからも、長らく中国に滞在し、しばしば日本にも来訪して、私に「僕の心は、西洋的というよりも東洋的なものだ」といったことが、一度ならずあった。1935年、中国の幣制改革のため、イギリスのリース・ロスが上海に来たとき、日本側の大体の意向を知りたければ、「シゲ・マツモト」にまず会うべきだといって、私をリース・ロスに紹介したのも、この兄弟であった。』

『吉田首相が、戦後初めて渡英したとき、出航前に私を大磯の邸に招き、「君の友人の三人組に君からよろしく頼んでくれないか」という話があった。私は、よろこんで長文の手紙をそれぞれに書いたが、まだ反日の空気の強かった英国で、彼ら三人は吉田さんのために、いろいろと配慮してくれた。吉田さんが帰朝されて、その話を聞いてみると、吉田さんの訪英が大成功であったのも、彼ら三人による努力が一つの原因だったと知った。』

『ジョンは、その後も今日にいたるまで、文化革命の二、三年を除き、必ず一、二年の一回は北京を訪れ、中英貿易のことで、周恩来首相とは、毎回サシで三、四時間は話していた。それから、東京に来て、必ず私とゆっくりくつろぎ、さしつかえない限り、北京の話をしてくれたものであった。ケジック兄弟との交友の話は尽きないが、二人とも、若いときから、大物の風格を具えており、私は彼らを心から敬愛していた。私の上海時代に、公私ともに少なからず助けてくれたのは、どの英国人よりも、この兄弟とチャンセラーの三人であった。私は戦後、国際文化会館やユネスコの仕事の関係で、1945年、57年、60年、65年四回イギリスへ行った。多くのイギリス人に会ったが、いつもこの三人とは旧交を温めることを欠かさなかった。』

◎松本重治はアヘン王と直結したのだ。白洲次郎も昭和通商に出入りしてアヘン密売に関与している。

『白洲次郎君が一ぺん上海に来たことがあるんですよ。三井の仕事かなんか頼まれてね。そうしたら帰るときに、飛行機の席がない。それで白洲次郎君が電話をかけてきて、何とかできないかっていうから、里見君に「一つ友だちに席くれないか」と言ったら、「ああ、やるよ」って言って、すぐくれたんですよ。それで白洲君に「おい、席できたよ」といったら、「ああ、シゲちゃんは、三井財閥より強いんだねえ」なんて言って・・・』(『われらの生涯のなかの中国』 佐野真一前掲書より孫引き)

白洲次郎が頼まれた「三井の仕事かなんか」というのは、イラン産アヘンの輸入・取引である。三井物産の手で上海に輸入されたアヘンは、里見甫のとりしきる宏済善堂によって売りさばかれていた。ジロー&シゲちゃん&里見君はアヘン密売で繋がり、ジローとシゲちゃんが懐にいれている潤沢な金はアヘン密売のアガリである。ジローはそういう金でブランド品を買って身を飾り、クラッシックカーを乗り回し、召集をチャラにしてもらったのだ。シゲちゃんも仮病を使って召集を逃れている。武見太郎と出世を餌に取引したのである。ジローもシゲちゃんもこういう汚い手を使って兵役を忌避していたくせに、裏で戦争を煽る工作はひそかに続けていた。そして戦後になって偉そうに日本の国民性や文化を批判するのである。

ジローのネタはやがて伝説となり、次郎&正子の写真集となって平成の世に売り出された。シゲちゃんは国際文化会館の館長に収まり、死ぬ直前まで昭和史の偽証を続けた。しかしジローとシゲちゃんのネタも、昭和天皇と吉田茂に比べたらささやかなものだ。昭和天皇と吉田茂はヤラセの天才である。民草がバーベキューになることも承知していたし、第二総軍をおびき出して頭上に原爆投下もさせた。昭和天皇は血も涙もない。吉田茂はその昭和天皇を操った化け物である。

だから東京大空襲されても皇居が焼失しないように、吉田一味が集団疎開していた大磯も無傷である。吉田を逮捕しに大磯に行った憲兵隊は、その別世界ぶりにしばし茫然としている。

吉田逮捕の理由は近衛上奏文に関与したことであるが、近衛上奏文の主要テーゼの一つである『陸軍赤化説』は、吉田茂が世上流布させていたものである。これを念頭に置きながら、以下のジョン・ダワーによる吉田逮捕劇の検証を読まれたい。

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』より以下抜粋。

『1944年11月か東京憲兵隊のはなはだぶっきらぼうな隊長だった大谷敬次郎によると、「陸軍赤化説」は前からあったが、1945年のはじめには政界、実業界に広く流されており、すでに崩れやすくなっていた国民心理に非常な悪影響を及ぼすものとみられていた。そのうえ、こうした傾向は明らかに吉田・近衛グループと結びついていたから、憲兵隊としてはグループの主張や近衛上奏前の活動を鋭く査察していた。』

『しかしながら、このような有害な思想を徹底的に排除するとなると、その結果日本社会のまさに最上層部の人々まで逮捕することになるが、それ自体動揺のもとになる行為であるから、はなはだ重大な問題を引き起こす。そこで憲兵隊は、吉田・近衛一派の容疑者を、影響の大きさにしたがって三段階に分類し、そのうち第一の最も影響の少ない者として、吉田、岩淵、植田を実際に逮捕したのである。この三人がほかの者への見せしめであったことは、明らかであろう。』

◎ジョン・ダワーも大谷憲兵隊長も、吉田逮捕がヤラセだと分かっていない。

『大谷は、「逃げ出した自由主義者たち」が箱根や軽井沢などの安全な別荘地などで書いて快適な生活をしながら戦争の悲惨さを嘆いているのをさげすんでいたが、彼の述べる吉田逮捕の様子は、日本の都市が直接に戦争の惨害を受けていたときでも、特権階級はひきつづき快適な暮らしをしていたことを具体的に描き出している。4月15日の早朝、大磯の吉田邸に到着した憲兵の一隊は、そこに桜の花が夢のように遠近の山々の緑を点々といろどり、潮の香を乗せてくる浜辺には漁船も見られる「別世界」を見出した。』

『大谷が後に述べているところでは、戦後に吉田は戦争を終結させるために大きな努力をしてようにいわれているが、話をしている以外にほとんど何もしていなかった。そこで取り調べはもっぱら「造言蜚語」常習が中心になった。彼が樺山に送った手紙が、軍を敗北主義と中傷した証拠として使われたが、尋問の大半はなんといっても近衛上奏文に集中した。この点について憲兵隊は、この文書作成に果たした吉田の役割だけでなく、むしろそれよりも、その内容を他にもらしたことを大きく問題にした。』

『彼(大谷)はほかのどこからも手に入らない吉田の尋問調査から二つの引用を提供している。そのひとつは本当らしく思われる。もうひとつは、吉田が最後まで頑強に立場を守り通したという通説に挑戦したものである。・・・最後の長所からの大谷の引用文を見ると、吉田は植田と同じく、認識を誤ったことを認め、こういう言葉で謝っている。』

『「私の思慮の足らないために、軍を誹謗し、まことに申し訳ないことをしたと思う。この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい。」』

『吉田の獄中の待遇はよかったと一般に認められている。吉田自身はこれを、東京でかつて近所に住んでいたことのある阿南惟幾のとりなしによるものとしている。彼は外から食物の差し入れを受けていた。そして吉田と同じグループの仲間二人の待遇は、社会階層の微妙な差が獄中まで浸透していたことを描き出している。三人のなかで血統も社会的な関係もいちばんいい吉田は第一号の独房に、それより身分の低い植田は第二号独房に、無位無官の平民、岩淵は小さな雑居房に入れられた。一説によると、吉田の食物に毒が入れられないように、黒崎中佐さる者が部下の兵を憲兵にやって調べさせたという。』

『この逮捕事件は不愉快なエピソードではあるが、それは吉田の「反戦」信任状にひとつの刻印を押した。それはちょうど、共産主義や「危険思想」の持ち主たちが戦前のはるかに長い年月にわたって入獄を経験したことから信望を得たのに似ていたが、彼らは解放されると戦後の時代における吉田の政治的敵対者になっていくのであった。』

吉田は一年のうちでもっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適な独房に差し入れ自由という状態で40日間拘束されただけで、反戦主義という天下御免の印籠をもらったのだ。また共産主義についてのジョン・ダワーの認識は甘い。共産主義とは、資本主義を追求していった究極の形態である。マルクスを育てレーニンを支援したのは、ユダヤ国際金融同盟である。日本共産党は、田布施ゲットーが創出した天皇教のバリエーションなのだ。

鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より以下抜粋。

『天皇教が創作した神話の一つが、日本共産党である。日本共産党は反天皇ではないのか、と考えている読者がおられれば、天皇及び国家体制に疑いの目を向けよ、と説得する。』


『大室寅之祐の田布施の小さな特殊被差別村から、多くの政治家や実業家たちが輩出した。その中で忘れてならないのが、マルクス主義者たちも、この部落とその周辺から出てきたということである。その中の傑出した人物が川上肇であり、宮本賢治であった。そして彼ら二人は天皇教護持のために、その生涯を捧げるのである。』


『どうして天皇と共産党が結びつくのか。これはいたって簡単な答えで読者を納得させうる。田布施村を出て、一代の成り上がり者の「てんのうはん」となった明治天皇と伊藤博文らは、優雅なる生活をたのしんだ。大室寅之祐は馬に乗ったり、相撲をとったりし、それに飽くと、江戸城に造った千代田遊郭で女たちを抱きまくった。』


『生活が一変した。彼らは自分たちの秘密を隠す方法を数多く、しかも巧みに採用した。大名や貴族たちを優遇するために華族令をつくり、公・侯・伯・子・男などの新しい貴族たちを大量につくった。』

◎この中に自分たちももぐり込んで、素性を粉飾したのである。

『その反面、不満分子を抑えねばばらなかった。治安維持体制を強化した。明治、大正、昭和へと時代が変化すると、彼らは赤化革命を恐れるようになった。日露戦争の勝利の後にロシアに革命が起こった。天皇制を維持するには、赤化革命を防止するしかない。天皇制は赤化革命を逆手にとり、これを採用することにした。日本はマルクス主義を極端に取り入れた天皇教国家社会主義の国家となったのだ。日本ほど、マルクス主義を巧妙に取り入れた国家はなかったのである。』

『あの田布施から川上肇が出て、京大でマルクス主義の教授となり、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄(西園寺公望の秘書、国際金融財のエージェント)らにマルクス主義を教えたのである。河上肇と宮本賢治が田布施村から出たが、同じ山口県の萩から野坂参三が出てくる。天皇の銀行・横浜正金銀行から金をもらい続け、モスクワ・アメリカ・中国へとわたり諜報活動した多重スパイであった。ソヴィエトのスパイ、アメリカのスパイであった野坂参三は、何よりも天皇教のスパイであった。』

『私は、日本が南進策をどうしてとるようになったのかを、すなわち、どうしてアメリカと戦争をするようになったのかを書く。そのために野坂参三も書かなければならない。「日本共産党は唯一、太平洋戦争に反対し続けた政党である」とは、日本共産党が主張し続けている“定説”である。本当にそうであろうか。この“定説”に挑戦する。』


『1933年、野坂参三は日本の公安の助けを受け、変名(「ロイ」)となり、ゾルゲに日本を売るための工作をすべくアメリカに渡る。野坂参三は画家の宮城与徳をゾルゲのもとに送り込む工作に入る。ゾルゲ機関とは、日本の公安と野坂参三一味が天皇教護持のために組織したものである。』


『私は西園寺公一と尾崎秀実から、ゾルゲが日本の重要機密文書を得て、これをスターリンに送り、スターリンは日本の南進政策を知った、という説を認めるわけにはいかない。どうしてか。日本の公安の犬、野坂参三がゾルゲのために働いているとみられるからである。』

『私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。』

『野坂参三が日本に送り込んだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味−天皇一族が日本共産党をつくった−を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里美という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。』


『木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。多くの資料がソヴィエ連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。』


『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに浸入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第64回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年の8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』


『野坂はこの年の5月9日、モスクワを出発し、南回りルーマニア経由でパリに行き、ニューヨーク経由で空路、ロサンゼルスに行く。ニューヨークよりコミンテルン宛に「アメリカで活動せる情報部員、組織部員をモスクワで養成させる」ことを提案している。「実録野坂参三」(近現代史研究会編著)の中に、このことが書かれている。』


『私は、太平洋問題調査会の第64回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。』


『南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

『ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方ソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのであろう。』

◎私はこの一味から近衛を除外する。太平洋問題調査会のヨセミテ国際会議で、尾崎秀実のコネクションを手配したのは野坂参三だけではない。前述したように牛場友彦が尾崎秀実の助手に近衛文隆を手配した。ただし野坂と牛場の手配は個別に行われている。野坂は吉田とは組んでいない。再び話を文隆に戻す。

西木正明氏前掲書より以下抜粋。

『出発は昭和13年10月1日と決まった。それまでの約20日間、文隆は支那関連の本を集めて読みふけった。中山優の「支那対策の本流」にも目を通した。一読して父文麿公が中山を高く評価する理由が分かったような気がした。支那に対する深い洞察は余人にないものだったからだ。文隆がとりわけ熱心に読んだのは、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)が編纂した「支那事変戦跡の栞(しおり)」という上中下三冊からなる書物だった。これは、盧溝橋にはじまる支那事変の流れを丹念に記録してあるのみならず、戦場となった各地の故事来歴をも簡潔に記述してあり、手っ取り早く現地の実情を把握するには便利な文献だった。同時にこれは、現地に派遣された日本軍が、政府の不拡大方針を無視して、いかに独断専行を繰り返したかの、あからさまな記録でもあった。文隆は、腹立ちを抑えて二度繰り返して読んだ。』

◎昭和天皇は常に現地軍の独断専行を追認し、よくやったという勅語を与えていた。満州事変以来これが習慣化していた。これを現地軍の独断専行と言うのだろうか。現地軍の判断に任せていた現地優先主義というべきではないのか。

『帰国してから四日後、文隆は総理大臣執務室で、近衛首相と風見書記官長に対し、今回の前線視察の報告を行った。すべて口頭での報告だった。表向きの慰問旅行としての報告だけでなく、現地軍の動向や将官将兵たちの言動など、見聞したすべてについてくわしく話した。報告のまとめとして、文隆はこう述べた。「現地軍は、政府の不拡大方針など、まったく無視して行動しております。このまま事が推移しますと、かなりの確率で重慶まで行くと思います。そして・・・」ここからは私見ですがと断って、文隆は次のようにしめくくった。「万一皇軍が重慶に迫り、蒋介石が進退極まった場合、一番問題になるのは、アメリカの出方だと思います。彼らがこのまま手をこまねいているとは、とうてい思えません」近衛首相は、しばらく瞑目していたが、やがて目を開き、ぽつりと言った。「ボチ、ご苦労だった。今の最後の言葉は、覚えておく」』

『11月末日午前10時。近衛首相のお供をして、宮中参内から帰ってきた文隆に、牛場が声をかけてきた。「例のボチ君の慰労会だが、明日午後七時から、銀座五丁目のビア・レストラン、ラインゴルドということにした。ボチ君なら、堅苦しい料亭なんかより、そういう所のほうがくつろげるだろうと尾崎君が言うんで、そこに決めた。明日の夜はあけておいてくれよ」「ありがとうございます」いつもながらの牛場の配慮に、文隆は心の底から礼を言って頭を下げた。』

◎いつもながらの牛場の策略に、文隆は気が付かなかった。

『12月1日夜七時。左手奥のテーブルに、尾崎が座っていた。そして、彼の右手には、大柄な白人が腰を下ろしていた。文隆を認めた尾崎が、こっちだ、という風に手を上げた。文隆は、外国人が同席するということは聞いていなかったので、牛場が到着するまでのことだろうと思いつつ、そのテーブルに近づいて行った。尾崎が笑顔を浮かべて立ち上がり、「お役目ごくろうさん。大変だったでしょう」と言いながら、文隆の手を握った。その白人も立ち上がった。「近衛さん、ゾルゲです。去年、満鉄ビルの”あじあ”でお目にかかりました。」瞬時に記憶が戻ってきた。「もちろん覚えていますよ。ドクター・ゾルゲ。あの節は失礼しました。」「昨日、たまたまほかの要件でゾルゲさんにお目にかかり、今日ボチ君と飯を食うと言ったところ、さしつかえなければ自分も参加したいとおっしゃるんでね。いいだろ?」「いいにきまってるじゃないですか。わたしも、ひさしぶりにドクター・ゾルゲと旧交を温めたいですし」ほどなく牛場が到着した・牛場には一人の同伴者がいた。「ボチ君、しばらくぶりだね。その後、大変なご活躍で、ご苦労さん」そう言って手を差し出したのは、西園寺公一だった。西園寺とは、アメリカのヨセミテ以来である。西園寺はすでにゾルゲとも親しいらしく、鮮やかな英語であいさつを交わしながら、手を握り合っていた。「結局あの時の因果が今に及んで、私は現在、日本太平洋問題調査会の事務局長なる役割を仰せつかっているよ。事務局長といったって、実態は小間使いだがね」』

◎まったくあの時の因果が今に及んで、文隆は、尾崎秀実・ゾルゲ・西園寺公一に取り囲まれているのだ。牛場友彦が手引きした結果である。

『ゾルゲが「ああ、楽しい夜だ。よかったら、河岸を替えてもう一杯飲みませんか」と言った。ひとり牛場だけが「ちくしょう。いつも俺は、いいところでリタイヤしなくてはならん。明日の閣議で来年度予算概算を大蔵原案どおり承認するための段取り作りがある。くやしいが、これで失礼する」』

◎36計、逃げるに如かずである。いずれ使い捨てにする尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲ。いずれ抹殺する予定の近衛文隆。西園寺公一は昭和天皇の身内も同然の身分で、天皇の依頼で尾崎とゾルゲと付き合っている。しかし牛場友彦はこれ以上の長居は危険である。


『「ドクター・ゾルゲは、ドイツ生まれですよね。ドイツのどこで生まれたんですか?」「別に隠す必要もないことだから、言いましょう。わたしの両親はまちがいなくドイツ人です。だけど、わたしが生まれたのは、ドイツではありません。カスピ海のほとりの、アゼルバイジャンです。」「アゼルバイジャンって、ソ連の?」「そうです」ゾルゲは平然として頷いた。「父は、優秀な石油採掘技師でした。ロシアがまだ帝政だった頃、アゼルバイジャンの油田開発にドイツが協力することになり、多くの石油採掘技師が現地に住み込んで働いたのです。わたしはそこで生まれました。正確に言うと、アゼルバイジャン最大の都市バクー郊外に広がる、ムガン平原という油田地帯の片隅です。おかげで、ドイツに引き揚げてからのあだ名がムガンだったんですよ。友だちの悪ガキどもに。おい、ムガンって呼ばれてね。わたしにはもうひとつ、イカというニックネームがあって、自分ではそっちが気にいっていたので、くさりました。でもまあ、ムガンも悪くはないですけど。ところで、近衛さんは、なぜボチなんですか?」』

◎『夢顔さんによろしく』という表題の謎がここで解き明かされている。夢顔とはムガン、すなわちゾルゲのことである。後年ソ連に抑留された文隆は、故国の家族あてに手紙を書くことを許されるようになると、『夢顔さんによろしく伝えてくれ』という謎の言葉を繰り返した。ゾルゲによろしくという意味だったのだ。当時尾崎とゾルゲが処刑されたことを知らなかった文隆は、ゾルゲと自分が捕虜交換で帰国する可能性があると考えていた。


近衛内閣が退陣すると尾崎秀実も官邸を去ることになった。風見章は引き続き尾崎を近衛に近づけておくために、赤坂溜池の山王ビルに尾崎のために一室を確保して「支那研究室」の看板を掲げ、ここに『朝飯会』の連中を出入りさせた。文隆も折に触れて顔を出し、尾崎から支那に関する薫陶を受けた。


文隆は再度上海に渡り、テンピンルーという美しい日中混血のスパイに出会う。ピンルーは蒋介石政権の要人と日本女性の間に生まれた美貌の二重スパイである。彼女は蒋介石政権と日本政府の和平交渉工作をしていた。ピンルーは文隆を橋渡しにしようと接近するが、文隆の人柄に触れて熱愛関係に陥る。文隆はピンルーの主張に共鳴し、重慶の蒋介石とのに直接交渉を試みる。官憲の包囲網を突破しようとするが、二人の逃亡劇は未遂に終わる。

文隆は保護され帰国を命じられる。ピンルーは『ジェスフィールド76号』に銃殺される。『ジェスフィールド76号』とは、当時泣く子も黙ると恐れられた秘密工作部隊の名称である。反日分子の始末と汪兆銘傀儡政権の樹立のために設けられた機関だった。ピンルーが自分の処刑を察知して泣き喚いたという目撃談は、ピンルーをひいては文隆を貶めるためのねつ造である。


帰国した文隆に召集がかかる。

『1940年1月29日、文隆のもとに召集令状が届いた。徴兵に応じることを命じた、いわゆる赤紙がきたのだ。なにもかもが異例ずくめの召集だった。ふつう赤紙による召集は、次のような手順を経て行われる。満二十歳に達した壮丁(男子)は、戸籍を有する役所や役場に、徴兵年齢届を出す。それにもとづき、4月26日から7月31日の間に徴兵検査が行われる。徴兵検査に合格し、現役兵となった者の入営は。1月10日と決められている。これを定めた兵役法には免除や延期の規定があり、中学校や大学予科、大学などに通う学生は一定の年齢まで兵役を免除される。また、この時期に外国に滞在している者には、帰国まで兵役につくことを延期するという規定もある。文隆は、プリンストン大学在学中および、上海で東亜同文書院に勤務している間、これらの適用を受けていた。また首相秘書官在任中は、総理大臣という最高位の勅任官に付属する立場ということで、兵役を免除されてきた。そして、首相秘書官などを務めた経験を持つ者は、以後も高位の官吏と同等の地位に就く可能性が強いということで、兵役は免除されたままになることが多い。文隆はそれらすべてに該当する上、徴兵検査も受けていない。したがって、召集の対象となる現役兵ではないのである。なのに召集令状がきた。臨時招集の形をとった徴兵であった。なにがなんでも、文隆を軍隊に放り込む、そういう意図が感じられる召集だった。』

『牛場らが驚いて、異例の召集の背景をさぐってくれた。その結果、背景に憲兵隊の強い意向があるということがわかった。』

◎牛場はよくこういう臭い芝居を平気でやると思う。

『はたして、指定された入営場所は満州であった。』

◎はたしてシナリオ通りであった。

『文隆が配属されたのは、手塚という中尉に統率される第三中隊だった。中隊内での担当は内務班で、下士官の班長以下、隊内のこまごまとした雑務を一手に引き受けることになった。入営した翌日から、きびしい練兵教練が待っていた。教練だけではない。兵舎の雑巾がけ、便所掃除、古年兵の衣類洗濯も、文隆たち初年兵の仕事だった。なかにはわざとやったのではないかと思われるほど、糞だらけの褌もあった。糞といえば、便所の汲み取りも難物だった。酷寒地なので、便所の中の糞はかちかちに凍って石のようになっている。それが日に日に増えていく。これを汲み取るために、鉄棒でつついて、凍った糞を細かく砕く。それスコップ等ですくい取る。凍った糞の破片が軍服にこびりつく。それが暖かい室内に戻った後で溶け、ひどい臭気を発した。こんな時は、内務班に配属されたことがつくづく嫌になった。支給された寝具毛布状袋は、大柄な文隆には丈が足りなくて、もぐり込んだ後ろ足を縮めて寝るしかなかった。そうやって聞く消灯ラッパの音色は、たしかに、誰言うともなく言われるようなった、♪新兵さんはかわいそうだなー、また寝て泣くのかなー、と聞こえるような気がした。』

◎糞まみれの文隆であった。

『1941年4月25日、第一次幹部候補生考査が行われた。この試験に文隆は、周囲はもちろん本人も予想外の一番で合格した。筆記試験はともかく、口頭試問の人物考査で断然の好成績を収めた結果だと、後で試験を担当した上官に知らされた。文隆は意外だった。口頭試問の折に、アメリカ留学を途中で切り上げた理由を根掘り葉掘り聞かれ、正直にこう答えたりしたからだった。「落第しまして、学業を続ける見込みがなくなったからであります」自分ではまずい答えだと思ったが、それが正直で飾らない人柄だと評価されたのだという。』

『1941年10月15日、尾崎秀実は、上目黒の自宅でのんびりと朝食をすませ、新聞などに目を通していた。そこに来客があった。女中が客の名刺を尾崎に渡した。東京地検の玉沢三郎検事のものであった。>という走り書きがしてあった。わずかの間考えた末、尾崎は妻の英子を呼び、「ちょっと出かける」と告げて、背広に着替えた。それから尾崎は、ポケットから銀行預金通帳と印鑑を取り出して、妻に手渡した。その通帳の残高は、三百円であった。』

『尾崎秀実逮捕から三日後の18日早朝。午前6時、麻布区永坂町にあるリヒャルト・ゾルゲ宅の玄関前に、五人の男が立った。「お早うございます、ゾルゲさん。朝早くから申し訳ありませんが、先日の自動車事故の件で、伺いたいことがあっておじゃましました」ゾルゲが、え、という顔をした次の瞬間、裏庭のほうから号令がかかった。「今だ!」斉藤以下四人の刑事がゾルゲに飛びかかった。腕をねじ上げて表に連れ出す。ゾルゲはまだ事態が呑み込めないのか、抵抗せずに歩きだした。』

『この事件そのものは極秘扱いとされ、半年以上にわたって世間に発表されなかった。10月30日、文隆は現役満期となり、予備役に編入された。平時であれば、これで娑婆に戻れる。しかし、日米関係の緊張がそれを許さず、即日臨時召集され、陸軍少尉任官となった。それから一か月余り後の12月8日、日米開戦。日本は同時にイギリス、オランダ、オーストラリアなどとも戦争状態に入った。局地戦争にすぎなかった支那事変とはケタちがいの、未曽有の大乱に突入したのだ。』

◎文隆は二度の召集に応じ、この後満州にくぎ付けにされる。

『文隆は異色の小隊長であった。教練時など、余計なことをいっさい言わず、要点だけを指示して、あとは下士官や兵士の判断に任せた。配下の不始末も、一身に引き受けて懲罰を甘受、平然としていた。その悠々たる指揮ぶりに、部下の下士官や兵士が感服し、深い信頼を寄せた。上下関係を問われる公の場ではともかく、個人的には、部下も同僚も、みな文隆をボチさんと呼んだ。』

『この頃親しく行き来した民間人に廣兼篤郎という人物がいた。ビールを飲みながら談笑しているうちに、廣兼がふと、こんなことを言った。「ボチさんは、以前父上が総理大臣だった当時、秘書官をなさっておられたんですよね」「そのとおりです。しかし、すでに昔話に近くなりましたよ」「ここに出ている尾崎秀実さんという人は、第一次および第二次近衛内閣当時、内閣嘱託を務めたと書かれています。もしかして、ボチさんもご存じなんじゃないですか?」「えっ、尾崎さんがどうかしたんですか?」「やはりご存じでしたか。大変な嫌疑をかけられているようですよ」「嫌疑?−なんの嫌疑だろう」まさか、と思いつつ、廣兼から新聞を受け取り、さっと目を通した。文隆はしばらく茫然としていた。これは何かのまちがいだ。文隆はそう思った。尾崎秀実は牛場友彦の親友で、近衛内閣の書記官長だった風見章の信頼が厚く、官邸内に専用の部屋まで与えられていた。』

◎何かのまちがいではない。牛場と風見が共謀していたのである。この廣兼篤郎も連中が差し向けたお目付け役で、文隆をソ連に拘留させる工作の陰の主役の一人である。

『「だいぶ驚かれたようですね」「驚いた、なんてものではないですよ。でもボチは、これはなにかのまちがいだと思います」そう言いながら文隆は、それにしても今まで、尾崎と親しい風見章や牛場友彦らが、なぜ手をこまぬいていたのだろうと思った。記事によると、尾崎らが検挙されたのは昨年の10月15日だという。かれこれ7か月前のことだ。友誼に厚い風見や牛場のことだ。この間なにもしなかったということはないはずだ。まして尾崎は、近衛内閣嘱託という公的な立場にあった者ではないか・・・。第一、検挙されたのが10月15日というのがおかしい。第三次近衛内閣が総辞職したのは、この翌日の16日であった。−これはなんらかの謀略だ。』

◎そうだ、これは昭和天皇と吉田茂の謀略だ。尾崎をスパイとして利用して、その尾崎を近衛内閣の嘱託にする。そして近衛内閣が総辞職した翌日に尾崎を逮捕させる。悪知恵と底意地の悪さでは、この二人の右に出るものはいない。まさにゴールデン・コンビである。

『1942年12月1日、下城子駐屯部隊の将校のみを対象とした、座学講座が開かれた。講師は、下城子の北方約400キロの、ソ満東部国境の町虎頭(フートン)に駐屯している、第四国境主守備隊長、秋草俊大佐である。秋草大佐は、陸軍士官学校を終了後、東京外語専門学校に入り直し、ロシア語を修めた。その後ハルビン特務機関員やドイツ星機関長を歴任後、陸軍中野学校の別名で知られる後方勤務要員養成所の初代所長を務めた。陸軍きってのソ連通として知られるばかりでなく、経歴からもわかるように、諜報工作畑の権威でもある。』

◎秋草俊も連中の回し者である。彼はこの後も、文隆のターニング・ポイントの要所要所で登場する。

『「ソ連の状況についえ話せとのご要望ですので、浅学をも顧みず、若干の時間をいただいてお話申し上げます。わたしどもの知るかぎり、トハチェフスキーらは、まったくのでっち上げ。すなわち無実の罪をきせられて処刑されました。スターリンは、国民的に人気のあるトハチェフスキーらが、自分の地位をおびやかすという妄想にとらわれ、先手を打って抹殺したのです。彼らの肉親も、ことごとく殺されるか、遠隔地に流刑になったという情報があります。」』

『秋草はこうした犠牲者が出る裏には、国民同士を相互に監視させ、密告させるシステムができていることがある、と説明した。続いて秋草は、ソ連に点在するおびただしい数の監獄と共生収容所について触れ、その存在が、いかにしてスターリンの恐怖政治を支えているかを、実例を挙げて説明した。「たとえば、モスクワ市街のど真ん中にあるルビアンカという元保険会社の建物は、現在NKVDなる秘密警察の本部になっております。この建物の中庭の一角と地下が監獄になっていて、おもに政治犯が収容されております。ここに入ったが最後、生きて帰ることは不可能とされている場所で、ソ連人たちにとっては泣く子も黙る存在であります。トハチェフスキーらが逮捕されたのも、このルビアンカの地下の処刑場でした」』

◎数年後、文隆と秋草大佐はソ連収容所で再開する。文隆は秋草の前講義を受けていたので、自分の置かれた状態を良く把握することが出来た。秋草は文隆と同じ房に収監されて自分の運命を悟り、全てを打ち明けた。秋草はある夜突然連れ去られ、生きて故国の土を踏むことはなかった。

話は戻って、文隆は帰国して見合いする。

『1943年11月29日。文隆は二か月の長期休暇を与えられて、下城子を出立した。応召以来あしかけ四年ぶりのまとまった休暇である。12月5日昼前、東京駅に帰着。荻外荘に荷ほどきし、この日はゆっくりして、昔年の軍隊の垢を落とした。翌日、体調を崩して入院中の文麿公を見舞った。文隆に満州方面の状況を聞いた後、ぽつりと、「万一満州にソ連が入ってくるようなことがあったら、この戦争は終わりだ」と言った。』

『12月10日、荻外荘に牛場友彦が顔を出した。「近衛公をお見舞いしたら、ボチ君が帰ってきたとおっしゃるんで、顔を見にきたよ」牛場はそう言って、しばらく一別以来のよもやま話をした後、ふいに声をひそめて言った。「ボチ君は、もちろん尾崎の事件を知っているだろう?」一瞬のためらいの後、文隆は小さくうなづいた。牛場はたたみかけるように、「では、彼に死刑判決が出たことも、知っているか?」と言った。「えっ?・・・それは知りませんでした。」「風見さんなどがいろいろ尽力しているようだ。それに、まだ上告審がある。それまでに、何か動きがあれば、判決がくつがえる可能性も出てくるだろう」「動き、というと」「例えば、ソ連がゾルゲの引き渡しを要求してきて、それに我が国が応じる場合などだ。向こうにも、我が国の人士で、スパイ容疑で捕まってる者がいるから、それとの交換ということになるだろうがね。主犯のゾルゲが刑の執行を免れたのに、尾崎らを極刑に処すわけにはいかんだろう」「おもうさん(お父さん)に、上告審が有利に展開するよう、力添えを頼んでみましょうか」「だめだめ。それこそ、軍部の思う壷にはまる。日米開戦直前の16年10月、あの事件が発覚したこと自体、何者かの意図があるとわれわれは睨んでいる。事実、事件発覚後、風見さんはもちろん、近衛公まで検事の尋問を受けた。かくいう私も、尋問を受けた口だがね。われわれは、塁が近衛公に及ばないようにするために、必死だったんだ。そのことは尾崎も良く分かっていて、調べに対し、近衛内閣の関係者は一切無関係だと言い張ったらしい。彼は骨があるよ」』

◎さっそく牛場が偵察にやって来た。牛場友彦は風見章と組んでマッチポンプ役を演じている。風見章は1933年に発足した「昭和研究会」のメンバーに、まっさきにゾルゲを推薦した人物である。牛場は岸道三と謀って1937年に「朝飯会」を作り、まっさきに尾崎と西園寺公一をここに引き入れた。風見と牛場は尾崎とゾルゲを罠にはめ、近衛に塁を及ぼすようにした張本人たちだ。

明けて1944年1月23日、文隆は見合いする。昭和天皇の勅命である。相手は浄土真宗本願寺派本山、西本願寺法王、大谷光明の娘、母は良子皇后の妹・大谷正子。つまり昭和天皇の義理の姪である。

『この頃から、太平洋方面の戦況はいよいよ切迫の度を深めた。7月に入ると、7日にはサイパン島守備隊が全滅、4万人以上の将校と住民1万人が玉砕した。18日、東条内閣がついに総辞職、前朝鮮総督小磯国昭陸軍大将に組閣の大命が降下した。こうした騒然たる雰囲気の中で、文隆の結婚準備が進められた。逼迫した状況に鑑み、近衛公は文隆にふたたび長期休暇を取らせるころはできないと判断、満州において簡素な結婚式を挙げさせることにした。』

サイパン陥落で日本の敗戦は決定した。将棋でいえば「まいりました」である。米内光正でさえ「誰がどうどう考えても負けである」と言った。このような時期に大元帥昭和天皇は義理の姪に満州で結婚式を挙げさせ、現地で兵役に就いている文隆と新婚生活をさせたのである。媒酌人は木戸幸一。


昭和天皇と吉田茂は、敗戦のシナリオを知悉している。いずれソ連が満州に侵攻し、戦後世界は米ソによって二分され。ソ連国境に近い満州は地獄となる。昭和天王と吉田茂はその危険な満州に正子を送り込む。敗戦直後の混乱した状況の中でも、正子を囮に使えば文隆をおびき寄せることが出来るからだ。昭和天皇は皇后の姪を、文隆に罠を仕掛ける道具に選んだのである。


10月12日文隆と正子は満州で挙式する。近衛文麿は多忙という理由で欠席した。出席者の中には秋草少将の顔があった。『大任』を果たした木戸は、心の底からうれしげだった。そして11月1日、牛場友彦と岸道三が、満州くんだりまで偵察にやって来る。

『「あの後、尾崎さんたちはどうなりました?大審院に上告した結果はもう出たんでしょう?」「機密扱いで発表されていないが、伝え聞くところによると、上告棄却らしい」「えっ、ということは死刑が確定したと」「しかし、まだ諦めるには早すぎる。普通、死刑が確定しても、実際に処刑がなされるまでにが、数年の時間的余裕がある。その間なにか社会的慶事があれば、恩赦が期待出来る」「そうですね。とりあえずは、大東亜戦争の終結と、それに続く講和発効などが、ひとつのチャンスですね」』

◎牛場はオトボケの名人である。何が伝え聞くところによるとだ。謀略関係者の一員なのだ。牛場はすべて知っている。尾崎とゾルゲは用済みになり口封じされる運命にある。この会話のわずか10日後、尾崎とゾルゲは刑された。


1944年11月7日ソヴィエト革命の記念日の朝、尾崎が約3年を過ごした東京拘置所2舎1階11房に執行人が迎えに来た。尾崎は処刑場の入り口の小部屋で、勧められたお茶を続けざまに二杯うまそうに飲み干した。絞首台の手前まで来ると、尾崎は後ろに控える人々に軽く頭を下げて言った。「では、さようなら」尾崎の最後の言葉だった。その後目隠しをされ死刑執行台の上に乗った。獄中の尾崎と家族の往復書簡は『親友』の松本慎一が奔走して一冊の本となって出版された。本は大ベストセラーとなり、印税は遺族の生計を支えた。尾崎が口をつぐんだままあの世に往ってくれたご褒美であった。

『満州に本格的な冬が訪れた。酷寒の中、文隆は平和で静かな日々を送っていた。なにもない、辺境の軍人生活。しかし文隆は幸せだった。夕刻、文隆の小さな影が、草山の稜線付近にぽつんと現れる。正子は外に飛び出して、その影が大きくなりつつ近づいてくるのを、飽かず眺めていた。』


私はここを読んで胸が痛くなった。西木氏の筆によって正子のひたむきな慕情が伝わってくる。この慕情が道具に利用されるのだ。

『戦況の悪化とともに、満州でも何が起こるか分からないという雰囲気になってきた。「なるべくすみやかに家族を内地に引き揚げさせるように」という命令が、さりげなく下された。』

いったん正子は廣兼篤郎宅に泊まって、帰国手続きを取り始めた。しかし文隆から家族同伴での赴任が認められたという手紙が届く。


『正子は大喜びで手続きを中止した。』


『7月1日、文隆が正子を迎えにきた。「家族同居が認められたものの官舎がない。知り合いのお宅に間借りすることになる」文隆にそう言われたものの、夫といっしょに生活できるのであれば、住まいなどどうでもいいと正子は思った。文隆が用意した住まいは、山本庄吉という人の家の、二階の一間だった。家族同然とは名ばかりで、文隆は山中の駐屯地で兵と起居をともにし、週に一度くらいの割で町場に出てきた。しかし、それを埋め合わそうとするかのように、文隆は正子を楽しませようとした。』

文隆は1940年からずっと満州で兵役に就いていた。最初の召集を満期務め上げ予備役に編入されたが、臨時招集をかけられ引き続き満州で兵務に就いた。昭和天皇と吉田茂は文隆を拘束し続け、そういう状況の中で正子とお見合いさせた。幸か不幸か二人は強く惹かれ合った。正子は文隆と一緒にいるためなら命を懸けた。

『8月9日未明、宿舎のテントで熟睡していた文隆は、「中隊長殿、中隊長殿、起きてください」という呼びかけに眠りを破られた。「つい先ほど入った連絡によれば、ソ満国境数か所でソ連軍の越境が認められると・・・」「なんだと!」跳ね起きた文隆は、すぐさま連隊長のテントに出向いた。「ソ連軍が越境したというのが本当でありますか?」文隆の問いに、飛松大佐は小さく頷いて、「いよいよきたぞ」と言ってから、声を張って号令した。「全員即刻戦闘配置につけ!空爆が予想されるので、砲の遮蔽を十分考慮すべし」』

『7日間に渡って断続的な爆撃が繰り返された。8月14日、ソ連軍が駐屯地の周囲に迫った。しかし、警戒してのことか、なかなか攻撃をしかけてこなかった。8月15日午後4時前。飛松連隊長が各中隊の中隊長に集合を命じた。「関東軍司令部からの無線連絡によれば、本日正午、畏くも天皇陛下におかせられては、直接ラジオを通じ、御自らの玉音を持って大東亜戦争終結を宣言された。それを受けて関東軍司令官は停戦命令を発した。したがってわれわれも、今現在をもって戦闘行為を終結する。」』

『一度も敵と戦火を交えることなく、戦争が終わってしまった。それにしても、下城子にいる正子は大丈夫だろうか。下城子はソ連との国境に近く、戦車だと数時間で到達されてしまう。11日、女子供は急いで後方に退避せよという命令が出され、避難用のトラックが用意された。正子は着の身着のままでトラックに乗せられ、下城子を脱出した。』

正子はハシカを患っている女性を看病しつつ、途中でトラックを降り廣兼篤郎宅に向かった。文隆を待つためである。やがて周辺から日本軍の姿はまったく消え失せ、代わってソ連軍が大挙して入ってきた。廣兼は正子を足止めし、ソ連将校イワノフ中佐に通報する。イワノフ中佐は廣兼宅に当直将校をつけて『護衛』させ、もし正子が望むなら文隆を探してあげようと持ちかける。正子には謀略が分からない。

『正子は、イワノフが突然神様に変身しように感じられた。思わず強い調子で「お願いします!」と言った。イワノフは頷いて、「ではやってみましょう。ついては、少し手がかりが必要です。終戦前、ご主人が最期におられた場所はどこですか?」』

イワノフは正子から聞いた文隆の所属部隊をメモして帰って行った。文隆は探し出され、正子のもとに連れて来られる。正子は大喜びで迎えた。本当に文隆本人かどうかテストされたのが分からなかったのだ。本人確認が取られた文隆は、三日後、再び連れ去られる。これが文隆と正子との永訣となる。

『日本時間の10月23日夜10時。東京・麻布狸穴にある中日ソ連代表部の一室。中日代表クズマ・テレビヤンコ中将に、通信担当将校が解読したばかりの暗号電文を手渡した。モスクワの赤軍情報管理本部GRUが発信元で、極秘扱いだった。 テレビヤンコは、電文をしばらく睨みつけた後、細かく破り裂いてクズかごに捨てた。』

◎テレビヤンコ中将は吉田茂にこれを報告した。吉田茂はテレビヤンコに金を与え、近衛文麿プロパガンダを依頼した。テレビヤンコはGHQ民生局のホイットニー少将とランチを楽しんだ折、近衛文麿が新憲法草案策定作業の責任者になっていることに苦情を申し立てた。

『この時ホイットニーは、反論も賛成もしなかった。だがテレビヤンコの目的は、東京から1万3千キロ以上離れたニューヨークで、さっそく果たされた。アメリカ東部標準時間で10月26日付けのニューヨークタイムズ紙は、この日の社説で次のように論じた。』

◎吉田はウイロビーにも依頼して、朝日新聞に近衛プロパガンダの社説を掲載させた。前回掲げた記事である。息子の身柄を抑留すると同時に、父親を追い込む包囲網が敷かれる。昭和天皇と吉田茂による近衛父子抹殺指令の本格的に始動したのである。

『文隆がノヴォニコリスク収容所に連行されてきたのは、昭和20年の10月31日である。ここには日本軍の将官クラス、および満州各地に展開していた日本の在外公館職員、満州国政府に派遣されていた日本人高官などが収容されている。』

『文隆は満州に駐屯していた部隊の一員だったとはいえ、終戦時の戦闘にも関わっていない。だから、ソ連に留め置かれる理由などなにひとつないはずだ。文隆はそう確信していた。』

◎文隆は知らなかった。自分たち父子を抹殺する工作が東京ですでに二か月前に進行していたことを。

『9月11日、東条自殺未遂の報に世間が騒然としている午後七時。東京・麻布狸穴にあるソ連代表部では、テレビヤンコ中将を中心とした数名の男たちが、ロシア語に翻訳された書類に目を通していた。読み終えたテレビヤンコが、書類を机の上に放り出して、小さく頷いてつぶやいた。「これはつかえる」』

◎ロシア語に翻訳された書類をテレビヤンコに見せたのは吉田茂である。

『ロシア語で極秘と記されたその書類の表紙には、“1945年2月14日の近衛上奏文およびそれに対応して行われた近衛文麿に対する憲兵隊訊聞調書』というタイトルが付されていた。』

ここに何故吉田茂の名前が出てこないのか。吉田茂は近衛上奏に関与した人物として、訊問どころか逮捕されてムショにぶち込まれているのだ。『敗戦はもはや必須なりと存じ候』の書き出しで始まる近衛上奏文はあまりにも有名だが、これを起草したのが吉田茂であることはほとんど知られていない。原田熊雄は側近から近衛を支えるフリをして吉田のために内偵工作をしている。この原田熊雄を丸抱えして潤沢な工作資金と事務所を提供していたのが、田布施ゲットー御用達・住友財閥である。住友財閥は表舞台で汚れ仕事をしている三井・三菱よりも力を持っている。

工藤美代子は近衛上奏について次のように内幕を描いている。

『近衛上奏の前夜に時間は戻る。永田町の吉田邸を近衛文麿が訪れた。近衛「吉田さん、お聞き及びとは思いますが、明朝お上に拝謁がかなったので上奏いたすことにあいなりました。上奏文の叩き台を持参したので、お手入れなどしていただきたい。」吉田「ふむ、これは容易ならざる上奏文だが、この際は思いっきりやりましょう」吉田はそう言うや硯を側に引き寄せ、ところどころ書き直し足り、修正を加えた。近衛「存分に筆を入れて欲しい」お互いの意見を言い合い、もう一度近衛が清書し終わったころは、深夜二時になっていた。


話し合いと手入れが深夜に及んだので、モーニング姿の近衛はそのまま吉田邸に泊まり込み、翌朝の上奏に備えた。吉田は近衛を先に休ませると、上奏文の写しを丁寧にとった。近衛から、「牧野伯にもぜひよんでもらってほしい」と頼まれたためである。だが、その写しは吉田が寝込んでいる隙に、マキの手で密かに移され、翌日「ヤマ」の手に渡っていた』(工藤美代子『かくやくたる反骨 吉田茂』新潮社より)

工藤美代子は不思議な作家である。正義感と使命感から近代史を検証しているのは伝わってくる。厖大な資料を渉猟し、貴重な文献を提示してくれている。吉田茂、近衛文麿、山本五十六、マッカーサー、貞明皇后、香淳皇后、平成天皇の評伝を総なめしている。しかも工藤は田布施ゲットーの中にまで食い込んで聞き取りをし、どうやって入手したのか希少な写真を貼りつけ、国会図書館憲政室の資料にも目を通して、誰も書かけないことを書いた歴史本を量産している。中田君が自己PRとカルト・ビジネスのために、パクリ粗製乱造本を量産しているのとはエライ違いである。しかしその工藤が肝心のことが何も分かっていないのだ。

保坂正康はもっと何も分かっていない。保坂の編著による『私は吉田茂のスパイだった』を読むと、保坂とスパイは完全に吉田茂に手玉に取られているのが分かる。保坂は吉田にいいように転がされているスパイの手記を読んで、スパイと一緒になって吉田に心酔し絶賛している始末である。東輝次という陸軍中野学校から派遣されたスパイは、真面目すぎて使い物にならない。吉田はこういう堅物を選ばさせて自分に貼り付かせたのだろう。東の手記は、吉田茂の正体を見抜けなかったトンマなスパイの日誌である。これを入手した保坂はただただ有頂天になり、東を心酔させた吉田を絶賛している。昨今保坂の全集が刊行され、図書館の近代史の棚を埋めている光景にはため息が出る。

さて寄り道して、東輝次の手記による吉田の逮捕の場面を見てみよう。ヤラセを知らない彼は思いっきり同情している。

『余はかわいそうになった。年老いたこの「吉田」が、それほど軍部にとって強敵なんだろうか。もし検挙すれば、2,3年の禁固だろうと、C大尉は言っていた。けれど、この老人は悪人ではない。

任務上、こうして密偵として余がいるけれど、決して憎める人ではないのである。よく海岸の散歩にお供をした。自転車に乗せ回った。そして色々と尋ねた。よく何でも笑って答えてくれた。この人が2,3年も留置されれば、ほんとうにその間死んでしまうかも分からない。そして後に残ったこの家族の人たちは、どうなるのだろう。

余は出ていく主人の背の低い姿がいじらしく、瞼に灼けつけた。玄関を離れるとき、「ヨハンセン」は振り返り、心配顔で見送る五人のものに、「心配しなくてもよいからね。すぐ帰るから」と、笑顔を残した。

5月31日、その日も一日の仕事を終え、本を出して読んでいた。突然、「おい」「おい」と、表玄関で声がする。「東さん、旦那様ですよ」しづの嬉しそうな声。ガラガラと開かれた玄関から、いつもと変わらない「ヨハンセン」の顔が現れた。「お帰りなさい。お帰りなさい」家の者の喜びは、たとえもなかった。

余は内心、びっくりした。何の連絡(諜報機関から)もないのである。一体、どうしたと言うんだろう。なぜ釈放したんだ。こんなに早く釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかったではないか。余は口惜しかった。でも主人の室に行って、喜びの言葉を述べねばならない。

一通りの挨拶のすんだ後、余は尋ねた。「ご感想はいかがですか」「君、人間一生に一度は入ってみてみるのも、よいところだよ」と言って、大笑した。この笑顔を見ていると、余らの工作班、いな軍閥が完全なる敗北をしたように思えた。』

東はたった40日間で『いつもと変わらない顔』で帰宅した吉田に吃驚している。そして怒り心頭に発している。自分の役目は何だったのだ?と。さしずめ東は、吉田逮捕に花を添えるピエロといった役どころだ。ヨハンセンは憲兵隊に自分を逮捕させ、もっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適なムショ生活を短期間すごしてきただけである。吉田茂はこれを次のようにとぼけて見せている。

『召喚される原因は、多分秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。ところが件の憲兵隊での取り調べは、秋月翁のことは一切触れない。「二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ」というのである。これはいささか見当が外れた。しかし私はこの憲兵隊での取り調べでは、一切答えないことに肚を決めた。旧憲法ですら親書の秘密が保障されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。今流でいう黙秘権を行使したのである。』(吉田茂『回想十年』より)

吉田茂はその後、陸軍刑務所に移され短期間で釈放される。保坂は『なぜ釈放になったのかは、定かではないが』と前置きして、いくつかの伝聞による理由を挙げた後、結局、『憲兵隊の勇み足というのが、案外、的を射ているのではないかと、私には思えるのである』と結論している。簡単に釈放された理由などヤラセ以外にない。しかし保坂正康は東の手記と同じようなマヌケな歴史観を書く。まさに吉田の思うツボである。

『戦後になって、連合国の占領支配を受けたときに、吉田は軍部にもっとも抗した外交官OBとして政界に引き入れられ、外相や首相も経験する。そして昭和23年10月からは、第二次吉田内閣を組閣し、以来昭和29年12月までの6年余にわたって首相として日本の土台づくりを行った。とくに歴史的には、占領下にありながら日本の国益を守り続けただけでなく、前述のようにアメリカと交渉し、講和条約を締結したことが挙げられる。大仰にいうなら、吉田は20世紀の日本、それは明治34年から平成12年となるのだが、このなかで大久保や山形、原敬と並んで語り継がれる宿命をもつ首相といえるだろう。


その吉田が、日米安保条約を結んだのはどのような哲学や思想があってのことか。さらにその心理の底には逮捕事件はどのようは糸を引いているか。あるいは、なぜこの条約は将来問題になると考えて自らだけで調印したのか。そして吉田はその晩年において、この安保条約をどのように捉えていたか。その辺りのことは十分に検証されなければならない。』(保坂編著の前掲書より)

吉田茂が『近衛上奏文』の関与を理由に、自分を憲兵に逮捕させたヤラセは十分に検証されねばばらない。逮捕劇によって戦後占領期に台頭する免罪符を手に入れた吉田に比して、近衛文麿は上奏した本人でありながら訊問されただけであった。なぜ近衛は逮捕されなかったのか。なぜ吉田茂は現役を退いている間ずっと友人を装って近衛に張り付いていたのか。近衛が憲法起草案を奉答して栄爵拝辞した直後にニューズ・ウイ―クと朝日新聞に近衛排撃の社説を書かせたのか。これを合図にマッカーサーの態度が豹変し、近衛の立場は一転し戦犯になった。吉田の免罪と比較対照して十分に検討されねばならない。吉田茂は田布施村王朝次世代リーダーとして、大久保利通、山形有朋、伊藤博文と並べて検証されねばならない。昭和天皇と吉田茂のゴールデン・コンビがそれぞれのコネクションを使ってダレスと直結し、国益に反する口頭メッセージを送っていたことは十分検証されねばならない。

西木氏の『夢顔さんによろしく』に戻る。

『ジェルジェンスキーは、革命直後に創設された反革命取締り組織全ロシア非常委員会、略称チェーカの初代委員長だ。チェーカは後にいくたびかの変遷を経て巨大化し、世界屈指の秘密警察KGBとなる。』

アヴェレル・ハリマンが単身ソ連に乗り込んで、フェリックス・ジェルジェンスキーに大金を渡してソ連の利権を開拓したことは既述した。これにOSSにいたジミー・ウオーバーグが参入したことも、ジミーが白洲次郎と繋がっていることも。チェーカがある通りはルビヤンカ通りといわれている。その裏手には政治犯の重罪人を収容する監獄がある。その入り口をくぐれば生きて出ることはないと恐れられたルビヤンカ監獄である。文隆は昭和20年10月、将官クラス、在外公館職員、政府高官が収容されるシベリア・ノヴォリコフ俘虜収容所に入れられた後、半年ほどでモスクワのルビヤンカ監獄に移送された。悪名高いルビヤンカについては、満州に駐屯していた間、なにかと目をかけてくれていたハルビン特務機関長秋草俊少将から、その概略を聞かされている。実は秋草俊は文隆に貼り付いて情報収集していたのだが、文隆と同じようにソ連に抑留されルビヤンカに収容されている。生きて出ることがないと言われたルビヤンカを、しかし文隆は昭和22年6月2日に生きて出て同じモスクワ市内のレフォルトヴォ監獄に移送された。ここで文隆はラヴレンテイ・パヴロビッチ・ベリアに聴取されている。

『恐怖政治を敷くスターリンの最大の腹心、教案等中央委員会政治局員べリアだった。べリアはスターリンンと同じグルジアの出身で、1937年から1938年にかけて吹き荒れた、トハチェフスキーらに対する大粛清で辣腕をふるい、スターリンの信任を得た。以後NKVD(内務人民委員部)長官をへて、政治局員に抜擢されている。ソ連における公安・秘密工作組織の総元締的な立場にある男だ。』


言葉ひとつ交わさないべリアとの会見を終えた深夜、文隆は突然部屋替えになる。これまでは未決囚だったが、戦争捕虜の扱いになるという名目だった。


『翌日から、これまでとは比較にならない、密度の濃い取り調べがはじまった。』


文隆を取り調べたのは、スメルシュに出向しているレフシン海軍大尉だった。文隆は秋草の言葉を思い出していた。


『シュメルシュは、その名の通りきわめて危険な防諜機関です。単なる軍事警察ではなく、通敵分子の暗殺や誘拐、テロなども彼らの守備範囲です。』

1年2か月後の昭和23年8月3日夜、文隆は独房713号から112号室へ引っ越しを命じられる。そこには意外な人物が文隆を待ち受けていた。

『「あ、秋草さん!」「これは・・・近衛君」新しい住処となる112号の先住者は、あろうことか、元陸軍中野学校初代校長にして哈爾賓(ハルビン)特務機関長の秋草俊少将だった。目の前にいる秋草は、ふたまわりも小さくなった感じだった。頬がこけて目は落ち窪み、軍服はぶかぶかである。秋草は文隆の耳元に口を寄せて「紅耳あり、だ。ここの房の壁の中には、まずまちがいなくマイクが埋め込まれている。奴らが俺と君を同じ房に入れたのは、なにか魂胆があるからだろう。」』

秋草はここに移送される前に文隆と同じくルビヤンカにいたこと、そこでアバクーモフ保安省長官じきじきに訊問されたこと、それは多岐にわたり且つ徹底していたことを話した。陸軍中野学校の詳細や、哈爾賓特務機関の役割に関しては、『微に入り細にわたってしつこく尋ねられた』。秋草は同じ房に文隆が連れて来られた時に、自分の運命を悟った。事情を知りすぎた自分は、文隆と同じ運命をたどるのだ。秋草は罪滅ぼしのつもりで、『自分が経験したことをすべて伝えておこうとするかのように、看守の目をかすめては、文隆の耳にささやき続けた。』

『昭和24年1月8日夜8時、房の扉が開かれ、秋草ひとりが連れ出された。そして、それっきり、彼は戻ってこなかった。』

◎秋草は間もなく『病死』したことになった。

4月19日夜8時。文隆は突然呼び出しをかけられ、陸軍司法大佐ブイレンコフから禁固25年の起訴を受けた。罪状は文隆が近衛内閣首相秘書官として、関東軍を訪れさらなる侵略の策謀をなしていたことや軍需産業を訪問して督励していたことに加えて、近衛上奏文にまで言及していた。

『「さらに1945年2月14日、コノエフミマロが大日本帝国天皇ヒロヒトに対して行った上奏の原稿たる、いわゆる近衛上奏文においては、国際共産主義に対するあからさまな妨害を意図し、その実現を図った。被疑者コノエフミタカは、総理大臣秘書官当時、この上奏文の骨格をなす政策設定に力を尽くした。よってここに起訴し、量刑禁固25年を求刑する。』』

◎昭和26年11月16日、またも文隆は移送される。やはりモスクワ市内にあるプトルイスク監獄である。ルビアンカとレフォルトヴォは保安省管轄だったがプトルイスクは内務省管轄である。文隆は特別会議ですでに禁固25年の刑が確定されていたのだ。

『特別会議には、誰も太刀打ち出来ない。1917年革命が成功した後、さまざまな反革命の動きがあった。それを封ずるために、レーニンは、あらゆる機関に超越する特別会議の設置を承認した。特別会議は通常3人で構成される。めんばーは、内務省の最上層部しかわからない仕組みになっている。この特別会議は、商人や被告の立会いなしに、犯罪者を裁く権限を与えられている。』

『文隆がまるで身に覚えのない罪状で禁固25年を言い渡される3か月ほど前の昭和26年9月8日。アメリカ西海岸のサンフランシスコでは日本の戦後に一区切りをつける対日講和条約が調印された。』

◎吉田茂は講和条約を調印した3か月後に、文隆に禁固25年の刑を確定させたのである。翌年の1月20日、またも文隆は移送される。イルクーツク州キーロフ区アレクサンドルフスク監獄である。『帝政ロシア時代から、3ツエントラル(三大中央監獄)と呼ばれた国内最大の監獄のひとつである』。

文隆が入る49号室にはすでに20人余りの先住者がいた。文隆はここで、歌を歌ったり、せがまれて何回もプリンストン大学留学中の武勇伝を語ったりして雑居房の人気者になる。西木氏が描く文隆のアメリカ留学時代のエピソードは、40号室の生還者からの聞き取りである。『第49雑居房においては、軍隊での階級や軍人地方人のちがいに拘わらず、文隆を媒体にしてなごやかな時間をすごすことが出来るようになった』。


しかしここでも文隆に貼り付く工作人が用意されていた。脇田という名前で登場するが、彼は文隆の『脇』にいるから脇田という名前が付けられたのだ。10月、脇田は文隆にアバクーモフが処刑されたことを告げる。秋草俊をルビヤンカで訊問した国家保安省長官アバクーモフが、国家反逆罪で銃殺されたのである。11月3日、文隆らは家族に葉書を書くことを許されるようになる。文隆は自身が無事であり、正子の身の上や家の生活状態を尋ねた後、差し入れてほしいものを列記した。この葉書はもちろん検閲を受けた。

翌年昭和28年3月6日、ザ・オーダーの意向に逆らい始めたスターリンが、息の根を止められた。7月10日、スターリンの最側近だったベリヤも失脚する。翌年昭和29年12月7日、吉田茂の長期に渡ったワンマン政権体制が倒れ、鳩山一郎が内閣首班となり日ソ国交回復を掲げた。これも吉田の自作自演である。鳩山は吉田に一時使われた駒に過ぎない。中田安彦が新著で鳩山一郎の友愛主義を賞賛し、鳩山の友愛主義が吉田茂に突き崩されていく過程を知らずに戦後日本の民主主義の変遷を語ることはできない、としているのは幻想である。


翌年昭和30年12月、文隆はまた移動を命じられた。車で10分ほどの国家保安省管轄の監獄だった。ここで文隆に対して『痔疾の治療』が開始された。文隆は尻の皮下注射と腕の静脈に『ペニシリン』注射を打たれるようになる。

昭和31年1月21日、文隆はまたも移動を命じられる。イルクーツクを出発して三週間後、モスクワ東方およそ250キロの所にあるウラジーミル中央監獄である。ここでも文隆の『治療』は続けられた。


『あなたには特別の治療をするようにとの申し送りがきている。人道主義にもとづき、貴重なペニシリンを用いての治療だ。今から担当医がその治療を行う』。


6月14日、またもや突然の移動命令が出た。イワノヴォ州チェレンツイ村、ここが文隆終焉の地である。そこには関東軍参謀長・秦日彦三郎、関東軍ソ諜報部隊・福田稔少佐が収容されていた。秦は文隆が正子と哈爾賓で結婚式を挙げたときに秋草とともに出席した人物であり、福田は文隆の戦友である。彼らは最期の仕上げとして、文隆の最期を見届ける任務を帯びて待機していたのである。


10月12日鳩山首相一行がモスクワに到着する。ニュースはただちに文隆のいるイワノヴォ収容所の日本人たちにも伝わった。

『紆余曲折があったが、ほんとうにこれで帰れる。モスクワ時間10月19日午後5時50分、日本時間では午後11時50分、領土問題を棚上げする形で決着、調印された。この瞬間、文隆ら日本人虜囚の帰国も確定した。』


◎この瞬間文隆の死刑執行が決定されたのである。国家保安省から派遣されたノビコフ中佐によって、、文隆の『治療』が集中的に行われ容体が急変した。10月29日午前5時ちょうど、文隆の最後の脈が消えた。

『午前7時、文隆の遺体は車に乗せられ、イワノヴォ大学医学部に移され、病理解剖に付された。その結果、死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎臓炎とされた。』


以下、文隆の葉書から抜粋する。

『なつかしいマコ。皆元気か。小包有難く受領。・・・岸、牛場、白洲、廣兼諸氏にそろそろ歓迎準備をする様に頼んでくれ。それには夢顔さんと相談するがよかろう。尚、岸、牛場、白洲さんに、西園寺の公ちゃんに宜しく伝言の程頼んでくれ。』


『尻は今ペニシリンで治療を受けている。全治するかもしれぬ。これが手術なしで治ればしめたものだ。細川、岸、牛場、白洲、廣兼さんに呉々も宜しく。もうすぐ帰れるでしょうと伝えてほしい。夢顔さんとなんでも相談せよ。』


『マコ、また移った。今度の所は全く今迄と違って別天地。・・・帰ったら生まれ変わったボチを期待していてほしい。夢顔さんに呉々も宜しく。』


『もし交渉が妥結したら、今年の9月か10月にはなつかしの祖国の土をふむことが出来るかもしれない。ではもう少しの辛抱頑張ってくれ。夢顔さん始め皆によろしく。』


『母上、お変わりありませんか。当方元気故御安心下さい。・・・マコ、しばらく手紙が来ないので心配している。変わりないことを祈っている。・・・夢顔さん始め友人諸氏にも宜しく。』


『なつかしいマコ。その後如何。母上はじめ皆変わりない事だろうと思っている。当方元気。当地では既に晩秋の感がする。今日あたり松本さん(注 松本重治)がモスコーに着く筈。鳩山さんが来られる様になったら交渉もまとまるのではないかと期待している。・・・皆さんによろしく。夢顔さんに呉々も宜しく。』


文隆の葉書には犯人たちが名指しされている。松本重治、牛場友彦、白洲次郎、岸道三、細川護貞、廣兼篤郎。


松本重治は文隆の父親文麿が暗殺される一部始終を見届けたが、今回も文隆の処刑を確認すべく鳩山一郎に随行してモスクワまで来ている。文隆は鳩山の側近を介して、松本重治に「帰国したら文麿の死因を追及するつもりである」と伝えた。文隆は100%帰国できると思い込んで、松本に復讐を予告したのだ。文隆の伝言は松本に残っていた最後のわずかな逡巡を払い去った。松本は文隆を始末することにもう何の迷いもなかった。


満州での短い新婚生活で、正子は文隆の帰宅を待つ時間が好きだった。文隆の人影がポツンと草山の上に現れると、飛び出して行ってそれがだんだん大きくなって近づいてくるのを飽かず眺めた。そして文隆がソ連に抑留されてからも、正子は11年間待ち続けた。姉の家に間借りして一人暮らしをしながら、働いた給料で文隆への差し入れをせっせと小包にして送り続けた。ついに文隆が帰国することがないと知らされた時も、近衛家から籍を抜いて再婚する話を断った。正子は心の中にある満州の草山の上に、文隆の影がだんだん大きくなるのを生涯待ち続けたのだろうか。

文隆と正子の間には子供が出来なかったので、近衛家の跡取りとして細川護貞の二男が養子に入り、さらに三笠宮の娘の血が混入された。一方、吉田茂も孫娘を三笠宮家に嫁がしている。田布施村王朝と吉田茂の、“高貴な血筋”に対する怨念と執念を感じる。


しかし神武天皇は天皇家が朝鮮から渡来したと明言しているし、近衛家を筆頭とする五摂家の始祖である藤原鎌足も素性が怪しいし、徳川300年の封建制を樹立した徳川家康の祖父も乞食坊主だったというし、田布施村王朝による明治維新だけでなく、ずーっと元をたどれば何処も同じである。


聞くところによると麻生太郎は、所信演説で開口一番『平民のみなさん』『下々のみなさん』と言ったという。麻生太郎君、しかし君の祖父の吉田茂だってれっきとした平民で下々のみなさんの一人だった。どこの馬の骨ともわからない生まれだったのだ。君のお祖父さんが執着し、君が誇りにしているらしい田布施村王朝の血統も、やはり同じ穴のムジナなのである。あの皇居の広大な森の中に巣食う人々は、サスペンスドラマ顔負けの乱脈さではあるが、一般市民であることには間違いない。


我々はもういい加減人の素性に上下をつけるのを止めて、天皇陛下とか皇后とか女王とかいう称号も止めて、みんなでただの人間になるのはどうだろうか。私はそれが一番良いと思う。


田布施村を抑圧し続けてきた対価を、明治維新以来、我々の祖父母や両親は十分支払ってきたと思う。そして近衛父子も過酷な運命の支払いに正面から対峙して、最後まで逃げなかったと思う。


今この国では若者の未来が見えなくなりつつある。日本国憲法には、天皇の世襲に当たっては、国民の総意が問われることが銘記されている。田布施村王朝は中国で麻薬栽培・密売して儲けた天文学的な秘密財産を明らかにし、麻薬王の傀儡政権として国民に対する暴力装置として機能し続けた実態を明らかにした上で、あらためて国民の総意を問い直してはどうだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
9. 中川隆[-15074] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:13:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2115]
山本五十六の真実I 河合千代子と阿川弘之
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/224.html

今回は山本五十六の愛人とされる河合千代子、
及び五十六の評伝を書いた阿川弘之について検証する。


先ず私の結論を述べる。

 
◎河合千代子はプロパガンダの道具として使われている。


◎背後にいて操っていたのはヨハンセングループの原田熊雄である。


◎米内光政は協力者である。


◎愛人プロパガンダの発注元は昭和天皇と吉田茂である。


愛人ネタの検証については、次の三つに掲載されているものを扱う。


○週刊朝日昭和29年4月18日号の巻頭記事

○PDF 望月良夫『山本五十六の恋文』医科芸術34巻11号平成2年初出

○望月良夫『山本五十六の恋文』考古堂書店平成4年初版

望月良夫氏のプロフィールを、著書『山本五十六の恋文』より抜粋する。


『著者紹介  望月良夫(もちづき・よしお)


1929年(昭和4年)東京都生まれ。
1948年(昭和30年)東京府立第九中学校、旧制新潟高等学校を経て、1955年(昭和30年)千葉大学医学部卒業。インターン修了後、母校産婦人科教室に入局、研究生、副手、文部教官となる。1964年(昭和39年)医学博士 学位論文「子宮経腟部部上皮に於けるグリコーゲンの組織化学的研究」 


1965年(昭和40年)沼津市立病院産婦人科部長として赴任、そのかたわら母校の非常勤講師をつとめる。1972年(昭和47年)沼津市内に望月産婦人科を開業、自らの理想とする産婦人科開業医生活をおくりつづけて二十年、診療の余暇は趣味に没頭。


旅行、食べあるき、美酒探究、ゴルフ(H26)、囲碁(二段)、読書、映画、写真、観劇、ショッピング他。主宰する趣味の会、「随筆春秋」「駿河豆本の会」「沼津の文化を語る会」「沼津落語会」「沼津旨いもの会」など三十余。


日本産婦人科学会、日本ペンクラブ、日本エッセイスト・クラブ、日本旅行作家協会、沼津北ロータリークラブ各会員。


著書・「あなたのからだ」(サイマル出版会)、「最新の産婦人科」「友ふたり」(随筆春秋)、「おいしく食べるテーブルマナー」(淡交社)ほか。』

裏表紙より

『望月先生のこと 


望月先生は旧沼津御用邸もある風光明媚な沼津市で、産婦人科病院の院長として、もう20年も地域医療を支えておられる。最新の医療技術を駆使し、温厚誠実に患者さんのために奉仕し、開業以来死亡ケースゼロという稀有な実績を挙げておられる。


ということであれば、医師望月先生の毎日は本業のために忙しいかというと、とんでもない!もともと仕事が早い「超能力」に加えて、早くからOA機器を診療室に取り入れて医療業務を能率化し、こうして生み出された時間を百パーセント、文化的、趣味的活動に投入している。エッセイの執筆、味の探訪、さまざまな集いの世話・・・。それらが並のものでなく、みな一流であるところが凄い。日本ペンクラブ会員、日本エッセイスト・クラブ会員、日本旅行作家協会会員、日本味の会会長、「沼声」、「沼津の文化を語る会」、「随筆春秋」各主幹・・・など、活動の質と量に圧倒される。


利を追わず、自ら理想とする開業医を目ざして、毎日を常人の二倍、三倍に生きておられる望月先生が世に送りつづけるエッセイの数々は、全文化人の琴線に大きく共鳴するにちがいない。』

◎週刊朝日の暴露記事はヤラセである。

週刊朝日の記事と望月氏の著書では、『五十六の恋文』の内容が異なる。
殊にミッドウエ―出撃直前の三通の手紙はまったく別物である。

◎阿川弘之は確信犯である。


これについては阿川本人の著作を検証する。


○阿川弘之『山本五十六』新潮社昭和40年初版

○阿川弘之『新版 山本五十六』新潮社昭和44年初版


阿川弘之は里美クからバトンを引き継いで、五十六プロパガンダを書いている確信犯である。里美クがプロパガンダ小説を書いた経緯について、阿川は次のように説明している。尚、文中に出てくる古川敏子は新橋中村家の女将、里美クのプロパガンダ小説のネタ提供者である。志賀直哉は阿川弘之の師匠である。

『新版 山本五十六』より

『中村屋の古川敏子はそれから三十年幾年経た今でも、昔の美しさを残したたいへん豊満な女性であるが、その頃は土地で、「とし子姉さん」と呼ばれていて、一説によるとこの敏子も山本に相当「お熱」だった一人であった。しかし「お熱」でも「お熱」でなくても、敏子には彼女が「主人」と呼んでいる佐野直吉という人があった。


佐野直吉は絨毯商である。現在山形県の産業の一つになっている支那絨毯は佐野が中国から技術を導入したもので、当時彼は北京に佐野洋行という店を持っていた。昭和五年の一月、志賀直哉と里美クが満州旅行のついでに北京へまわって来た時、新聞でそれを知った佐野は支那服を着て二人の作家を宿へ訪ねて行った。それ以来。彼は日本へ帰って来ると志賀や里美の家へしたしく出入りするようになった。』

古川敏子の旦那と親しくなったきっかけを演出しているのである。

『志賀直哉も里美クも、花は引く。(注 花札のこと)佐野直吉も好きである。古川敏子の表現によれば、「お花ときたら、そりゃ死ぬほど好きなの」であった。山本はよく中村家へやって来て、佐野直吉や敏子の母親を相手に、八八や賭け将棋ばかりやっていた。』 

五十六の部分はガセねたである。古川敏子は新橋中村家ののれんを掲げる女将でありながら、客の行状をベラベラ喋っているのである。

『山本五十六と二人のこの白樺派の作家とは、一度も一緒に花を引いた事、会った事は無かったが、そういう縁で、戦後里美クは佐野直吉から聞いた話をもとに、山本と梅龍をモデルにして、「いろおとこ」という短編を書いたのである。「いろおとこ」の中には、山本の名も千代子とか梅龍とかいう名も出て来ない。読めばしかし、戦死の模様や国葬の事が書いてあるから、山本がモデルだという事はすぐ分かるそしてこれは、山本が小説のモデルになったおそらく唯一の例である。


山本の死後、彼の伝記や電気的文学作品は、数多く世に出たが、純然たる小説のモデルとして彼を扱った人は他にいない。「いろおとこ」が書かれたのは、昭和二十二年の七月である。もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見るなら、里美クは「週刊朝日」に七年先んじたわけであった。』

『純然たる小説』は『純然たる小説』であって、『もしこの作品を以て、山本にそういう女性がいた事を公にしたものと見る』という仮定は成立しない。成立されたら、書かれる方はたまったものではない。しかし阿川は詭弁を使ってでも、『純然たる小説』が『事を公にしたものと見る』という公式を打ち立てたいのである。この公式を当てはめれば、『週刊朝日』のような純然たる捏造記事も、事を公にしたものと見ることができる。

では週刊朝日の記事を検証していこう。

週刊朝日は昭和29年4月18日号、すなわち山本五十六の13回忌の祥月命日の号に、純然たる捏造記事を巻頭特集としてブチ上げた。表紙をめくるといきなり、河合千代子と山本五十六が並んでいる写真が載っていて、大文字で『山本元帥の愛人』『軍神も人間だった!』という題名が掲げられている。写真は、料亭の縁側らしき庭先に、河合千代子と五十六が並んで座っている姿を写したものである。千代子は額が広い逆三角形の顔で、頬がこけてやつれた感じの十人並の年増芸者といった風情である。額がかなり広く、本来は聡明なのかもしれない。五十六はダブルの背広を着て、帽子を右手に持っている。つまり正装である。千代子は微笑んでいるが、五十六は真顔である。五十六の表情には、馴れ馴れしさは微塵もない。芸者が有名人と一緒に記念写真に収まった、そういう一枚である。色町に詳しい人に聞いたが、そういう慣例があるそうである。

掲載されたもう一枚の写真は集合写真である。河合千代子と五十六の普段の格好のツーショットはない。河合千代子の自己申告が本当だったら、海軍の焼却命令から死守した五十六の恋文だけでなく、千代子だけに見せたであろう五十六を映した、スナップ写真やツーショットがあるはずである。しかし週刊朝日に掲載された写真は、記念写真と芸者と客たちの集合写真だけである。後者は若くて美人の芸妓がウヨウヨいる中で、千代子は影が薄く、他の年増たちと一緒に後列に紛れている。

最後の一枚は週刊朝日の記者が千代子に取材した時に撮られた写真である。沼津の料亭の女将をしている千代子が、日記を読む姿を写したものである。落ちついた佇まいで、別人かと思うくらい清楚な表情をしている。

河合千代子と山本五十六が一緒に映った写真は、実は週刊朝日の他にもある。それは原田熊雄の女婿・勝田龍夫著『重臣たちの昭和史』に掲載されている写真で、河合千代子は原田熊雄と米内光政に挟まれ、山本五十六は反対の端っこに端座している。この写真の構図は河合千代子と原田熊雄の男女関係及び共謀関係、河合千代子と米内光政との男女関係、河合千代子と山本五十六の疎遠な関係を正確に表している。だから週刊朝日はこの写真を掲載しない。

勝田龍夫の本書には、里美クが跋文を寄せている。里美クも原田熊雄と姻戚関係にある。阿川弘之は師匠の志賀直哉を通じて、里美クと懇意である。里美クの葬式では、阿川は今日出海とともに遺族席に座っている。今日出海(こんひでみ)もプロパガンダの名手である。白洲次郎の神戸一中時代の学友である今は、幇間のごときお追従を白洲次郎のために書く。白洲次郎と閨閥である堤清二も、心にもない賛辞を書く。白洲次郎の家に疎開して真実を知っている河上徹太郎も、しらばっくれて旨い汁を吸っている。子ども同士を結婚させた小林秀雄も、真実を知りながらとぼけている。みんなトモダチである。利害関係でツルみ、損得勘定で仲間褒めする。そうやって田布施王朝から文化勲章を貰うのである。文壇とはそういうムジナたちが生息するするところであった。では週刊朝日記事の内容を見てみよう。


週刊朝日より

『「提督の恋」といえば誰しもネルソンとハミルトン夫人のことを思うだろう。ところが山本元帥にもそれに似た一つの秘めたる恋物語があったとはだれが想像したろう。これは決して暴露記事ではない。軍神ともいわれた人も、やはり人間だったという、ひとつの人間記録としてここに掲げるわけである。おりしもこの十八日は故元帥の十二周忌という、心から冥福を祈ろう‐』

12周忌ではなく13周忌である。

『遺影に額づく姿  沼津八幡町の繁華街から少し外れたところに料亭「せせらぎ」がある。その離れ座敷から、朝晩、「曹洞宗日課諷経集」を読み上げる声が聞こえてくる。そして、夜はまた「般若心経」を読む声が流れる。その主は美貌の女将で、故山本元帥の遺影と「大義院殿誠忠長陵大居士」の位牌を祭った仏壇に額づいているのだ。来る四月十八日、早くも十二周忌を迎える故山本元帥の冥福を、日夜祈る女性。‐それは、かつて元帥と愛情を誓い合った河合千代子さん(51)の姿なのである。諷経集は、太平洋戦争勃発前、曹洞宗を宗旨とする元帥が、彼女に残していった遺品である。』

子息義正氏によると、山本家の宗旨は曹洞宗だが五十六に読経する習慣はない。頭を垂れて黙祷するのみである。仏教全般、キリスト教、宗派にこだわらず学んでいたようである。

山本義正著『父 山本五十六』恒文社には次のように書かれている。

『父が、黒い手帳を肌身はなさず持つようになったのは、霞ヶ浦航空隊副長のころかららしい。草創期の航空隊の訓練は、熾烈をきわめたという。その訓練の最中に、不幸にも墜落して命を落とすパイロットたちが、たくさんいた。戦史者の栄誉にくらべて、殉職者には、国の態度が冷たかった。しかし、父にとっては、みなひとしく可愛い部下であり、尊い犠牲者であった。父は、訓練中の事故で死んだ部下たちの名を手帳に書きとめ、毎朝、その冥福を祈るようになった。ただ、その場合でも、父が仏壇に向かって合掌するとか、神棚に祈るとか、そういうことをしていたのを見たことはない。


父は、特定の宗教や宗派に帰依していなかった私の家族の宗派は曹洞宗であるが、そういう宗派上の意識は持ってなかったようだ。しかし、広い意味で、父は仏教的思想の持ち主だったといえると思う。祖父貞吉はきわめて熱心な仏教徒で、毎朝一時間以上も仏間にこもって頭をたれていたという。同時に、牧師になった父の兄丈三(じょうぞう)伯父の影響から、キリスト教にも深い理解をもっていた。もちろん、後年外国生活のあいまには、キリスト教のしきたりや慣習に親しむ機会も多かったはずである。また、少年時代にも米国の宣教師のところへいき、バイブルの勉強をしたらしい。』

週刊朝日の続き。

『元帥と結ばれるまで  いまから二十年ほど前、昭和七年十二月二日のことである。東京新橋の検番の玄関先にしょんぼりと立った女がある。目が大きく瘦せ型の美人だが、年はもう三十に手がとどこう。「二十九の年で天下の新橋から出たいなんてどうかしてやしないか」「まるで芸事もできんくせに」何といわれても、ただ「お願いします」一点張りで頭を下げたきりのこの女、河合千代子はやがて新橋の「野島家」から「梅龍」と名のって左ヅマを取る身となった。』

色町に詳しい人に聞いたところ、京都の祇園ではゼロから習い事をするのが鉄則であるが、新橋はコネさえあればド素人でもすぐに上に行けるそうである。30に手がとどこうと言う女が検番の前でしょんぼり立っていても埒は明かないが、原田熊雄がコネを使って交渉すれば即決である。

『彼女の前半生は不幸だった。明治三十七年名古屋市の生まれ、父の稼業は株屋だった。名古屋女子商業学校を卒業後、両親とともに上京、兜町に落ち着いたが、関東大震災で、」名古屋に舞い戻り、一家は零落の一途をたどった。千代子はある資産家の世話になったが、愛情はわかなかった。二十五のとし、母と父があいついで病死し、彼女は心の痛手に服毒自殺を計ったが、失敗。転々として、二十九歳のこの年に妓籍に身を置いたのである。』

借金の肩代わりに、資産家の妾にされたらしい。

阿川弘之の旧版『山本五十六』には、河合千代子の素性は次のように書かれている。

『彼女は、明治三十七年、名古屋の生まれで、父親は株屋、千代子が名古屋の女子商業を出る頃には、家は零落していた。二十四の年、父と母がつづいて亡くなった。はじめ、名古屋の会社で、タイピストとして働いていた。それから、新橋芸妓として出るまでの間の千代子の生活は、あまりはっきりしないが、美貌のために、男関係は色々あったらしい。東北の馬持ちと一緒になって、ゴタゴタをおこし、睡眠薬を飲んで自殺未遂をやったりしている。多分、此の事件で髪を切られ、男の許を追い出された直後だと思われるが、彼女はカバン一つ提げて、芸妓になりたいと、東京の新橋へやって来た。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。』

人身御供として売られたことが消えている。私は千代子の感性が狂っているのは、多感な娘時代にいきなり資産家の妾にされたことに由来しているのではないかと考えている。思う。新橋へ流れ着くまでの10年間にも、色々なことがあっただろう。

阿川弘之の続き

『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くしたようである。彼女には、男同士双方承知の旦那があった。梅龍は、土地で、「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは、実に遠慮会釈なく取ったらしいが、一方気前もよくて、出すほうもどしどし出した。千代子は、あでやかで、頭もよく、次も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判もある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしかったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』

阿川弘之は師匠の志賀直哉を介して里美ク経由で仕事を受注、五十六プロパガンダを河合千代子の偽証を補完する目的で新旧『山本五十六』を書く。旧版『山本五十六』では週刊朝日に掲載された記事に触れて、


『河合千代子個人に対しても、同情や共感と共に、非難は殺到した。多分、反響があまり大きすぎたのにこりたのであろうが、彼女はそれ以後、二度と報道関係者の取材には応じなくなってしまった。私も、此の女性には会うことが叶わないままである。今後、此の物語の中に出て来る、山本の川千代子あての手紙は、会えないままこれを書いている。だから五十六の恋文はすべて週刊朝日誌上に掲載されたものからの引用である』


と断っている。そして中村家の女将の古川敏子に取材して、千代子のプライベートなことに関する非常に立ち入ったことまで書いているのだが、なぜ『恋文』に関してだけ『会えないまま』と、わざわざ断るのであろうか。それは阿川が河合千代子に会ったと言えば、19通の恋文を手元に残してあると言った手前、週刊朝日に載せなかった16通の恋文の存在について、何か言及しなければならなくなるからである。阿川は『五十六の恋文』など一通も存在しないことは、百も承知である。あと16通もデッチあげるのはかなわない。そういう厄介をはぶくために、『会うことが叶わない』言って予防線を張っているのだと思う。そういう小細工を悟られまいとして、『聞くところによると週刊朝日が掲載をためらったほど濃厚な内容の恋文もあったらしい』などと、思わせぶりなことを書いている。


阿川は新版を出すに当たっては、千代子本人に聞き取りをしている。しかしそれを明文化しない。巻末の聞き取りのリストに、『後藤千代子』とのみある。千代子は週刊朝日に暴露記事を載せた翌年の昭和30年、後藤銀作と結婚して後藤姓になっている。後藤千代子だけ書かれても、事情を知らない読者にはそれが河合千代子だとは分からない。そういう仕掛けをした上で、従前通り週刊朝日に掲載された『恋文』を取り上げ、あれこれ枝葉をつけている。まったくの創作であり、『純然たる小説』である。


当の千代子も言うことがコロコロ変わり、五十六の手紙を19通残したと言っていたのが、前出の望月良夫氏に『恋文』を贈呈した時には5通残したと証言している。しかも望月氏がもらった『昭和16年12月5日付』の手紙と、週刊朝日に掲載された『12月5日付 五十六の恋文』の文面は全然違う。つまり河合千代子は『12月5日付の五十六の恋文』を、少なくとも2通持っていることになる。


ミッドウエ―出撃前夜の『五十六の恋文』の場合は、もっと顕著である。週刊朝日に掲載したものには機密情報が書かれているが、望月良夫氏に見せたものには機密情報は書かれていない。内容もまったく穏当なものである。河合千代子は『五十六の恋文』と称して、何通ものバリエーションを作成していたようである。


『五十六の恋文』ばかりではない。千代子は『五十六の遺品』と称するものを柳行李いっぱい所持していた。千代子が気前よく人にあげたり、夫の後藤銀作が持ち出して受注先に賄賂として贈呈したので、望月氏が取材したころには残っているのはもうわずかいう状態であった。『五十六の恋文』『五十六の遺品』というのは、いわば商標なのである。


しかし阿川弘之のもっとも不審な点は『山本五十六』を描くのにあたって、一番肝心な遺族の聞き取りをしないことである。これが、阿川の『山本五十六』が当初から河合千代子のプロパガンダを補完する目的で書かれたものであることの、もう一つの証左である。

阿川は五十六が千代子に溺れた原因を、妻に対する不満に求めている。そのために阿川は遺族から名誉棄損で訴えられるほど、妻の礼子の誹謗中傷を書きまくっている。もし礼子本人に会って聞き取りをしたら、このような冒涜はできなくなる。河合千代子のプロパガンダを補完することもできなくなる。大切な請負仕事をダメにしたというので、志賀直哉と里美クの顔を潰し、文壇で干され、田布施村王朝の文化勲章も貰えなくなる。


週刊朝日の続き。

『昭和八年の夏のこと。彼女は築地の「錦水」に呼ばれた。上座には、ややすりきれた茶と白の縞の背広をきたイガグリ頭の色の黒い男が座っている。酒は飲まぬが、周囲のものと朗らかに談笑していた。そのうち、自分の前にでた前の上の吸い物のフタをとろうとしたが、どうしても取れない。』


子息義正氏によると、五十六は指のハンデを克服して、目にも止まらぬ速さで身支度できるようになっていた。損傷した二本の指は第一関節まであるので、これを他の指と紛らわせて見せる技も体得していた。だからあまり親しくない関係の者は、損傷していることに気がつかないままの人もいたという。河合千代子もそのうちの一人である。次の一節を読むと、自称愛人の千代子が、五十六の損傷した指に触れたことはおろか、見たことさえないのが分かる。


週刊朝日の続き

『指のない男   黙ってお酌をしていた千代子がふとみると、その左手の人差し指と中指が根本からない。ハッとして、彼女はそばへ寄って、「とって差し上げましょう」というと、男は鋭い目で彼女を見つめたまま、「自分のことは自分でする」といって、椀のフタを取った。千代子は(イヤな方)と思った。』

10年近く愛人だったと自称しながら、五十六の左手の人差し指と中指が根本からない、というのは非常に迂闊な話である。五十六の二本の指は第一関節でボキっと折れたので、ここまではしっかり残っている。千代子はそれを知らなかったし気がつかなかった程度に、第三者の人間である。


阿川弘之も『山本五十六』に次のように書いている。

『もっとも、山本は、手の指が八本しか無かった。昔、日露戦争の時に、少尉候補生と
して乗り組んでいた軍艦「日進」に、ロシヤの砲弾が命中して、彼の左手の、中指と人差し指を、根本から持って行ってしまった。』


週刊朝日の続き。

『この男が、当時第一航空戦隊司令官、海軍少将五十一歳の山本五十六だったのである。(左手の指が二本ないのは、日本海々戦に少尉候補生として軍艦「日進」に乗組中、負傷いたものだった) 一年近くの月日が流れた‐昭和九年六月、山本は海軍軍令部出仕となり、軍備制限準備委員を命ぜられた。対象十一年六月調印されたワシントン会議の有効期限があと、二年にせまったので、その予備交渉がこの秋、ロンドンで開かれることになり、その代表に選ばれたのである。』

『千代子はある夜、お座敷でフトこの山本少将がいるのに気づいた。イガクリの頭、軍服であるが、まがいもなく一年前の男だ。「いつぞやは失礼しました」と挨拶すると「俺はあまりこういう席へはこんから知らん」という。彼女が吸物の一件の話をすると「サア、覚えてないな。君のことも知らんね」とブッキラ棒な返事である。彼女は(憎たらしい人だワ)と思った。』


身辺警護と称して五十六を見張っていた憲兵隊の中のある一人だけを除いて、御用聞きでも小学生でもどんな人間に対しても五十六は礼儀をもって接している。これがもし本当だとしたら、千代子は憲兵隊と同じような拒絶反応を、五十六から引き起こしたことになる。あるいは河合千代子が色仕掛けで誘い水をかけても五十六が乗ってこないので、振られた千代子が(憎たらしい人だワ)と思ったことはあったかも知れない。


『二、三日してまた山本と出あった。山本の隣には同期生の吉田善吾(後に海軍大臣)が座っていた。何か話のハズミに吉田から、「梅龍、お前はチーズが好きか」ときかれ、「大好き」とこたえると、山本がそばから、「じゃあ、御馳走してやろう。明日十二時に帝国ホテルにおいで」という。吉田がそばから、「この男がこんなことをいうのは珍しいな。行け行け」とけしかけた。千代子は冗談とも思ったが、失礼しては、と思い、翌日、帝国ホテルにでかけると、山本はもう食堂で待っていた。やがて、カクテルが一ぱいづつとチーズの山がはこばれる。あとは何も出てこない。山本はカクテルに口をつけず、二人は黙々とチーズを平らげて別れた。』


『二人で黙々とチーズを平らげて別れた』場面について、阿川弘之は全然違うことを書いている。


旧版『山本五十六』より

『それで梅龍は、かねて仲よしの菊太郎、菊弥という二人の妓と一緒に、翌日の昼飯を、帝国ホテルのグリルで、山本の馳走になった。食後、山本は三人を、三十間堀の中村家まで送っていった。「九時か十時になったら、身体が空くから」と言って帰って行ったが、その晩彼は、梅龍たちを上げて、プライベートに遊んだらしい。山本と千代子とが、親しくなったのは、此の時からである。』

千代子本人に取材した新版『山本五十六』では、週刊朝日とも旧版とも違うストーリーになっている。


新版『山本五十六』より

『それで梅龍は、翌日、帝国ホテルのグリルで軍服を着た山本と初めて食事を共にした。それから一二回淡い逢瀬をかさねたあと、千代子はある晩帝劇で山本の手を握りながら恋愛映画を見ていて、今夜このままあなたと別れるのはいやだと言い出した。』

大切な馴れ初めの場面の証言が、どうしてこんなに二転三転するのだろうか。


さらに千代子は後年になって、また違うことを証言している。

望月良夫『山本五十六の恋文』より

『「山本元帥に初めて出会ったときのことを話してくれませんか」「お座敷でした。何かの送別会だったと思います。威張ってむっつりしていました。しゃくにさわって、この男を誘惑してやろうときめました。同席していた軍務局長が、山本は堅物だから何とかしてやれ、と言いました」 初印象をはっきり覚えていた。「ところが三、四回会っているうちに、こっちが参ってしまったのです、元帥は私に、援助はできないから妹してつき合いたい、と言いました」』


吸い物のお椀の一件は軍務局長にけしかけられた話にすり替わり、一方、吉田善吾にけしかけられてチーズを黙々と二人で食べた馴れ初めの一件は消えている。かくも場当たり的に、千代子の証言はころころ変わるのである。だから『五十六の恋文』も、ころころ変えて作成しているのである。


チーズにまつわるエピソードは、家族との間にもある。これを事前にどこかで漏れ聞いてパクったのかもしれない。


山本義正『父 山本五十六』には次のように書かれている。

『病床の私に、父が直接見舞いに来てくれたり、やさしい言葉をかけてくれた記憶はあまりない。が、ときどき黙ってなにか買ってきて、母にわたしてくれていた。そのひとつがチーズで、私の体にいいからと、父がたくさん買ってきてくれた。当時、チーズなどを食べる習慣はふつうの人にはなかったし、私としてもはじめて食べる味だった。最初はくさくて、いくら体にいいからとすすめられても、なかなか食べる気にはなれなかった。が、それでもすこしずつかじっているうちに、だんだんとくさみも気にならなくなり、ついには、あのなんともいえぬ味と香りが気にいって、大好物になってしまった。私がチーズを好んでたべるようになったことは、父をたいそう喜ばせたようで、そのころ家に来た客と談笑しながらそのことにふれて、「こんなものをいまから好きになられたんじゃ、破産しちゃうよ。」と言って笑っていたのを記憶している。現代のように、洋風の食生活が普及していなかった当時、乳製品、とりわけチーズを食べることは、ごくかぎられた人たちだけだったらしい。』

週刊朝日の続き。

『彼は吉田や、長谷川清(当時海軍次官)らの常連から、千代子の身上を聞き、同情したのである。彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった。そこから自然一種の「女嫌い」にもなっていた。が、「チーズの御馳走」以来、二人は急速に親密になり、九月二十日の出発の直前には、彼女を呼ぶにも「梅龍」から「梅ちゃん」、さらに「千代子」と呼ぶ仲となった。』

『彼自身、いろいろの意味で、家庭的に恵まれず、淋しい男であった』というのは、阿川のガセネタである。阿川弘之は『新版 山本五十六』の後書に、山本家から名誉棄損で訴えられたこともあり、新資料も交えて大幅に加筆修正したと書かいている。しかし修正してあるのは、河合千代子ネタの前後の辻褄の合わないところである。


阿川弘之の犯罪はこればかりではない。彼は鶴島正子に聞き取りをして、さらなる愛人ネタも捏造している。鶴島正子がトランクいっぱいのラブレターを空襲で焼いたとか、鶴島正子は五十六を愛するためだけに生まれたようだと言ったとか、これらは鶴島正子が自己申告したことではない。阿川弘之が第二の河合千代子ネタを作るべく、聞き取りと称して鶴島正子に導尋問を行ない、言葉質を取った上で脚色したのである。鶴島正子と五十六の間に恋愛は成立していない。幼馴染に毛が生えた程度の付き合いである。それが阿川弘之の筆にかかると、鶴島正子も愛人に列せられプロパガンダの恰好の材料に使われるようになる。


週刊朝日の続き。

『誰にも話さないで   翌十年二月十二日山本は帰国した。予備交渉で、各国兵力の制限、兵力の均等、攻撃的兵力(空母など)の撤廃を主張して物別れとなり、故国に帰った彼の心中は複雑だった。世論はワシントン、ロンドン両条約の廃棄にまっしぐらに進み、彼も派遣もある意味で形式にすぎず、その予備交渉での奮闘も一人相撲に終わった感があった。彼が対欧中の前年の十二月末に、条約破棄の通告があったのである。帰国後、三月ほどして、旅先から千代子あてに中将となった山本五十六は、こんな手紙を出している。』


五十六の奮闘が『一人相撲に終わった感があった』というのは、悪意のある言い方である。軍縮の条約破棄は不可抗力である。週刊朝日の記者の言葉の端々には、五十六を持ち上げるフリをして貶めよう貶めようとする意図が見える。

『「ロンドンへゆくときは、これでも国家の興廃を双肩にになう意気 と覚悟をもっておりましたし、あなたと急速なる交渉の発展に対する興奮もありまして、血の燃ゆる思いもしましたが、ロンドンにおいて全精神を系統した会議も、日を経るにしたがい、世俗の一般はともかく、海軍部内の人たちにすら、これに対しあまりに無関心を装うをみるとき、自分はただ道具に使われたに過ぎぬような気がして、誠に不愉快でもあり、また自分のつまらなさも自覚し、実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。それで孤独のあなたをなぐさめてあげたいと思っていた自分が、かえってあなたの懐に飛び込みたい気持ちなのですが、自分も一個の男子として、そんな弱い姿を見られるのが恥ずかしくもあり、また、あなたの信頼にそむく次第でもあると思って、ただ淋しさを感じるのです。こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでください」 出発のときと比べて、少しも変わらぬ態度で出迎えてくれたのは、わずかな先輩、親友と、千代子だけだったことが、彼にはよくわかったのである。』


前述した阿川の創作は、この手紙に尾ひれをつけたものである。『純然たる小説』の倣いとは言え、これはほとんど阿川自身の恋文である。


阿川が付け足した尾ひれの部分。

『この三四年が夢の間に過ぎ去った事を思ひ更に今後十年二十年三十年と先の事を想像すると人生などといふものは真にはかなき幻にすぎず斯く感じれば巧妙も富貴も恋愛も憎悪もすべて之(これ)朝露の短きに似たりと思われ無常を感ぜぬわけには参りませぬ   あなたは孤独だから寂しいと云われます 世の羈絆(きはん)につながれた死ぬに死なれず苦しむ人の多き世に天涯の孤児は却って神の寵児ならずやと云はれぬこともないでせう こんなことを考えると何も彼もつまらなくなって来ます 理屈は理屈としてとにかくあなたにかりにもなつかしく思われ信頼してもらえる私は現実においてまことに幸福です 只僕はこの妹にして恋人たるあなたにとつてあまりに貧弱なる事を心から寂しく思って居ります 僕は寂しいよといふ言葉は決してあなたや先生の真似ではなく実は自分を省みて自分をあなたの対象物として客観的に見て心から発する自分を嘲る言葉です あなたのあでやかに匂ふ姿を見るほど内心寂しさに耐えぬのです どうか悪く思はんで下さい 倫敦へゆくときは これでも国家の興廃を双肩にになふ意気と覚悟を持ってをりましたし・・・』


筆の滑った、言葉の氾濫ともいうべき、饒舌な恋文である。阿川は尾ひれを付け足しただけでなく、原文の改変もしている。オリジナル『実は東京に勤務しておるのが淋しくて淋しくてならぬのです。』→阿川『実は東京に勤務してをるのが寂しくて寂しくて且つ不愉快でたまらないのです』。せめてキーワードの『寂しい』という漢字を、オリジナルの『淋しい』に統一するくらいの配慮が出来ないのだろうか。


『此の物語の中に出て来る、山本五十六の河合千代子あての手紙は、全部当時の「週刊朝日」からの引用である』と書いているのである。千代子本人に聞き取り取材したら、こういう文面の『恋文』があったということなのか。創作にしても、こういう辻褄は合わせるべきである。こんなにいい加減なのに、大宅壮一は『大きな記録的価値』という賛辞を寄せ、『英雄の赤裸々な人間像を描いてあますところなく、「太平洋戦争裏面史」としての記録的価値も大きい』と絶賛している。気は確かだろうか。


阿川『山本五十六』は、映画化されたりテレビドラマ化された。千代子役の女優が五十六の妻に怒鳴り込んでいくシーンや、酔って着物を脱ぐシーンを観て、千代子本人は「訴えてやる」と息巻いていたと、千代子に30年以上付き添ったさとさんという女性が、望月氏に証言している。五十六が死んだあとになって、愛人を騙る方がよっぽど醜悪であるが、千代子はそういう役回りを演じている自分の姿を客観視することができない。阿川弘之の他にも、松村剛や渡辺淳一が河合千代子を取り上げているが、彼らはそういう千代子の姿を客観視した上で道具に使っている卑劣漢である。


評論家の村松剛は、五十六プロパガンダ小説の嚆矢『いろおとこ』を賞揚してやまない。里美クは白洲次郎のダチにして原熊の親類、その陳腐で薄汚れていて読み続けるにはかなりの忍耐がいる里美の文章を、『印象を点綴して人間像を浮かび上がらせる名人芸は、現在の文学の世界には求めがたいものであろう。』と手放しで絶賛している。(『プレジデント“ザ・マン”シリーズ山本五十六』に寄稿した村松剛の『五十六の恋』より)


ご丁寧にも村松剛は、里美クの全集から、次のような里美自身の手による解説文まで引用している。『女なぞいくらでも出来放題だし、頼まれれば全海軍力だろうと、日本国そのものだろうと、軽く背負って立つ、まではいいとして、目はしが利くから、十三階段でひょろつくようなへまはやらず・・・』。これは里美ク自身による、里美クのプロパガンダのための、里美クを投射した五十六像である。


村松剛はさらに次のように書いている。

『さびしがりやの彼には、平生ひとまえにはあらわさない孤独感を、抱きとってくれる存在が必要だった。それが千代子であって、彼は中将時代に彼女に宛てた手紙のなかでそのことをみずから書いている。「実は東京に勤務してをるのが淋しくて淋しくてならぬのです。・・・・こんな自分の気持ちは、ただあなたにだけはじめて書くので、どうぞ誰にも話をなさらないでおいてください」 千代子は山本にとって、単なる「マドロスの恋」の相手ではなかったのである。永遠に母なるものは洋の東西を問わず、文学の古くからの主題とされて来た。山本が彼女に求めたのは、ほぼそれに近い。もうひとりの鶴島正子は彼女がまだ子どものときからの知り合いで、若い山本におんぶしてもらったくらいだから、「母なるもの」というわけには行かなかっただろう。』


恋文の真贋は置くとして、誰にもいわないでくれと懇願しているのにマスコミに暴露して悲劇のヒロインを演じる女の、いったいどこが「永遠に母なるもの」なのか。千代子を背後から操る者たちの意図は見え見えである。私は仮に五十六に愛人がいたとしても(笹川良一が証言しているように五十六は女性には小学生のように純情で、モテたというのは精神的なものだと思うし、また堀悌吉が五十六を一言でいえば「チャイルデイッシュ」と証言しているように、情を交わす愛人がいたとは思わないが)構わないし、それは個人的な問題である。


しかし本人自筆の恋文と称して、最前線にいる連合艦隊司令長官のたるんだ『生態』が『如実』である手紙を、大手の週刊誌誌上に暴露して物議をかもすのは公的な問題である。連合艦隊司令長官はミッドウエ―海戦出撃前夜の機密情報を漏らしたり、前線へ出かける日程や参謀名を一々教えていることにされている。このような連合艦隊司令長官として忌々しき言動を暴露する千代子を指して、村松剛は「永遠に母なるもの」と形容しているのである。どっちに転んでも確かなことは、河合千代子は五十六を愛していない、相手の迷惑も顧みず自己陶酔しているだけ、ということである。私はついぞ知らなかったが、村松剛という批評家は頼まれればこういうプロパガンダを平然と書ける人間だったのだ。

週刊朝日の続き。

『九月、千代子あての手紙。「ゆうべ夢をみました。どうしてこんな夢をみたのか自分でも不思議に思います。一緒に南欧のニースの海岸をドライブした夢をみました。これが実際だったらどんなに喜ばしいだろうと思いました。」ここには英雄もなければ、軍神の匂いもない、五十歳を超えた男には珍しいみずみずしい感傷があるだけだ。』


どこが珍しいみずみずしい感傷なのだろうか。記者の願望なのだろうか。中年男のエゴを美化した渡辺淳一の『失楽園』(映画の主役は奇しくも役所広司)みたいだが、阿川弘之も同じようなことを書いている。『山本五十六は生きていた』プロパガンダも、この延長線上にあると言えるだろう。高橋五郎は現地に飛んで目撃証人を見つけ出し、五十六生存説の根拠としているが、高橋のこの見解はBC級戦犯裁判の決めつけと同じで、目撃証言があれば即有罪、その証拠能力が問われることはない。


週刊朝日の続き。

『昭和十四年八月、山本五十六は連合艦隊司令長官になり、十五年十一月、海軍大将となった。千代子は、十二年、妓籍をひいて、「梅野島」という料亭を経営、その女将となり、一方、芝の神谷町に小さな家を買い、山本を迎えた。彼に無駄な金をかけさせまいという心づかいからである。』


リアル感を醸し出すために、梅龍を落籍させ料亭や小さな家を購入させたのである。原田熊雄を丸抱えしているのは、田布施王朝御用達財閥の住友本社である。料亭や小さな家の一軒や二軒、芝居の書き割り小屋として用意するくらい朝飯前である。何せ国家プロジェクトなのだ。憲兵隊のみならず海軍省のスタッフも友情出演している。彼らが梅龍の家に出入りして見せたので、五十六と個人的に親しい関係者までこのプロパガンダを信じている。


週刊朝日の続き。

『開戦・再開・別離   日本の風雲急を告げた昭和十六年十一月の末。連合艦隊長官として旗艦長門に乗込んでいた山本から招かれ、彼女は安芸宮島に旅をした。二人は、静かに厳島の散策に、時を過ごした。小鹿が、傍らに寄って来ては「クウクウ」と鳴いた。「ああ、ヨシ、ヨシ」彼女は、小鹿の頭を撫でてやった。山本は、静かに、彼女を見つめて、微笑した。しんみりとした宮島の二日だった。その後、数日して十二月一日山本は、突然、飛行機で上京、四日、帰艦するまで、あわただしい公務に忙殺された。だが、この多忙の寸暇にも、彼女を訪なうことを忘れなかった。‐四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。彼女の家を訪ねる時は、いつも、花をもってくるのが慣わしであった。』


五十六が上京したのは、飛行機ではなく汽車である。極秘裏に上京するために飛行機を使わず、密かに私服姿で汽車に乗って上京したのである。飛行機で上京したというだけでも十分ガセであるが、その五十六が四日の午後に愛人と銀ブラをして千疋屋でバラの花束を買ったというのは、言語道断のガセである。五十六は天皇と先例のない特別な個人的な拝謁をするために、徹底的に隠密行動を取っている最中である。前日の三日は、拝謁の後、姪と堀に束の間会っただけで、家族と最後の晩を過ごしている。四日の朝、五十六は家族と訣別、午前九時海軍官舎から壮行する際、堀を呼び、横浜駅での束の間の再開を約し、午後三時二十七分に横浜駅プラットフォームで堀としばしの立ち話をして別れている。


週刊朝日は『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』という一文で、地雷を踏んだのである。この暴露記事に対しては賛否両論で、千代子に対する抗議が沸騰したらしいが、正午から出立までの三時間という限られた時間の中で、連合艦隊司令長官が女連れでバラの花束を買い求めたかどうかは、千疋屋の店員なら知っているだろう。だから阿川は週刊朝日のオリジナルネタは使わない。

阿川弘之 旧版『山本五十六』より

『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子が、郵便局の帰り、梅野島に寄ってみると、山本は千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。敏子は、しばらくして、女中にタクシーを拾わせ、山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が、持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のようなものが入っているらしく思われた。そして山本は、円タクで、銀座から東京駅は向かった。』

週刊朝日のオリジナルネタ『四日の午後、二人は銀ブラに出かけた。そして、花の好きな山本は、千疋屋でバラの花を一束買って、彼女に与えた。』は姿を消して、『五十六は一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。阿川は、五十六が千代子を訪ねてきて差し向かい二人で茶漬けを食っているシーンから始め、その前の『銀ブラ』『千疋屋』には触れない。地雷を踏まないためである。新版ではもっと小細工を施している。

阿川弘之『新版 山本五十六』より

『飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。中村家の敏子は前から山本に頼まれていた画仙紙を買いに鳩居堂へ行き、「呉局気付軍艦長門山本五十六様」と送り先を書いて、その帰り道に梅野島へ寄ってみると、思いがけず当の山本が千代子と差向いで、おそ昼の茶漬けを食っていた。山本の買って与えた薔薇の花が、花瓶いっぱいにさしてあった。其処へ鳩居堂の使いが追いかけて来、郵便局でこんな漠然とした宛先じゃあ受け付けられないと言ったという。敏子は「それじゃあちょうどよかったわ」と画仙紙の包みを渡し、しばらくして、女中にタクシーを拾わせて山本と一緒に外へ出た。山本は、顔が目立たないように、マスクをし、片手に紫の縮緬の風呂敷包みを、大事そうにかかえていた。敏子が持とうとすると、彼は、「いや」と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰書のような物が入っているらしく思われた。そして山本は敏子と別れ、円タクで銀座から東京駅へ向かった。』

『新版 山本五十六』を書いた時、すでに阿川は千代子本人に取材している。にもかかわらず本人のオリジナルネタではなく、古川敏子ネタで通している。相変わらず『二人で銀ブラ』ではなく、『山本はそのあと、私服に着更えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った』ことになっている。バラの花束も五十六が一人で買ってきたことになっている。『千疋屋』は禁句である。さらに阿川は『千疋屋』に対抗させるために、老舗の鳩居堂を登場させている。古川敏子が鳩居堂で五十六に頼まれていた画仙紙を買って、郵便局で送った帰りに千代子の家に寄るというネタに、マスク、紫の縮緬の風呂敷、勅語か御沙汰書のような物・・・と些事を細々と描写して付け加えることでリアル感を出し、何とか無難な筋書に読者を引っ張っていこうとしている。阿川弘之は確信犯である。


河合千代子当人も阿川の姑息さを本歌取りして、阿川バージョンの『恋文』を創作する。阿川バージョンがオリジナルネタを凌いだのである。望月良夫の本に載っているのは、千代子が創作した阿川バージョンの『恋文』である。

望月良夫『山本五十六の恋文』より

『「奥さんは気前がよく、手紙をひとにあげたりするので行李にはもう殆どありません」と(さとさんは)口早に話すのだった。黙って聞いていた千代子は急に立ち上がり、「元帥の手紙を二通大事にしまってあります。先生がそれほど元帥を好きなら一通あげましょう」と奥へ消えた。しばらくすると、元帥から千代子あての手紙と元帥へあてた米内光政の手紙の二通を手にあらわれた。(略)はからずも貴重な遺品を手にした私は、千代子の深い好意を感じた。千代子は、「元帥の手紙はたくさん持っていましたが事情があって二通となりました。米内さんのも大切にしていたものです」(略)帰って手紙をひろげたが、読み取りにくい箇所が二、三あった。


「此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ(ママ)折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした 汽車は少し寒かったけれど風もひかず今朝六時数分かに宮嶋に着いてとても静かな黎明の景色を眺めながら迎いに来て居った汽艇で八時半に帰艦しました  厳島の大鳥居の下で小鹿がクウクウといっとったからウ・ヨシヨシと言ってやりましたら後から大きな鹿が飛び出してきて頭で臀の処ヲグングン押して来ようとしたけれど艇まで一浬ばかり距離があったので駄目だったよ  薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜  五」』


望月氏は「山本五十六から河合千代子への手紙 昭和16年12月5日」と但し書きをつけ、実物写真を口絵に掲載している。写されているのは、次の部分の文章である。

『此のたびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』


『雄弁女史の来襲で一緒に尾張町まで行く事も出来ず残念でした』とは、古川敏子が梅野島にやってきたので、五十六の出立の際、尾張町まで千代子と二人でタクシーを拾いに行けなかったことが残念だ、という意味である。オリジナルネタは消え、阿川バージョンを取り入れていることが分かる。


◎阿川バージョンを取り入れた『恋文』の筆跡は五十六のものではない。望月良夫『山本五十六の恋文』は国会図書館にあり、地方図書館で取り寄せてもらえる。館内閲覧のみであるが、現物を見ることが出来る。週刊朝日のバックナンバーも同様に、県外の図書館から借り出してもらうことが出来る。閉架を併設している図書館であれば、地方図書館にも保存している所があるので、問い合わせて見てください。


古川敏子を雄弁女史とは言い得て妙である。古川敏子ほど阿川にガセネタを提供した人物はいないだろう。金と引き換えとはいえ、新橋女将の風上にも置けない奸物である。CIAに沈黙(オメルタ)の掟があるように、新橋芸者にも守秘の鉄則はあるのだ。


望月良夫氏に寄せられた感想文より

『新橋芸者を思う      有賀 博 


東京の花柳界は、新橋、赤坂、柳橋が一流と言われる。新橋は官僚、財界が客筋。赤坂は政治家が多い。柳橋は、きさくな下町好みの客筋。従って、芸者衆の気風も、明らかに違う。隣座敷の客が誰それと分かっても、「知らない」と答え、昨夜会った客でも、「昨晩はどうも」とも言わない。口の堅いのが新橋芸者。決してお客の機嫌きづまをとらない。朋輩の噂をしない。 』


五十六プロパガンダに協力した河合千代子と古川敏子を並べて見るとき、素人上りの千代子よりも、新橋のれっきとした女将の敏子の方がはるかに罪が重い。古川敏子の協力なしには、里美クも阿川弘之もプロパガンダ小説を書くことが出来なかっただろう。


阿川弘之『新版 山本五十六』より

『山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽くした。彼女には、男同士双方承知の旦那があって、土地で「ダイヤモンドのお茶漬け」と言われ、取るとこから、取るものだけは「ザブザブ」と実に遠慮会釈なく取ったらしいら、一方気前もよくて、出す方もどしどし出した。山本はそんなに自由に金は使えないし、実際使いもしなかったらしい。当時妓籍にあり、傍らから見ていて、「男としてあれでよく耐えられるな」と不思議な気がしたと言っている女性もある。


古川敏子が昔の思い出話をしながら、「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』

『「梅ちゃん、あんたは心と身体とを上手につかいわけたわね」とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。』という箇所は、狐と狸の化かし合いのような諧謔味が出ているが、千代子は着物を脱ぐ映画のシーンにも激怒したのだ。心と身体とを上手につかいわけたわね・・・笑ってうなずいて・・・んな訳ないだろうが。阿川は『梅龍の千代子はしかし、「長門」が入港すれば、一人でも必ず一度は横須賀へ山本を訪ねた。山本の下着類や沓下、副官や副官夫人への贈物まで用意して来、長官室の洋服箪笥の中やベッドまわりをせっせと片づけた』とも書いている。


阿川の『山本五十六』は、副島隆彦のようなトンデモ本だと思って読むべきである。阿川弘之は副島隆彦よりはるかに底意地が悪い。古川敏子も、千代子に対する本当の意味での好意を持っていない。阿川と古川敏子は共謀して、五十六プロパガンダには不必要な千代子の過去をスキャンダラスに書き立て、千代子の酔った時の醜態を面白おかしく脚色し、二人して千代子を玩具のように扱っている。

阿川前掲書の続き

『河合千代子の梅龍は、新橋から出ていたが、新橋の土地っ子ではない。明治三十七年名古屋の生れ、父親は株屋で、女学校を出て娘時代は何不自由の無い暮らしをしていたが、大正十二年東京鎧橋のたもとで大震災にあい父の店が倒産して両親とともに名古屋へ帰り、一家心中をしようという話まであった末に、明治銀行の頭取の生駒という人の世話になることになった。


それから二年して母親が亡くなり、次の年に父親が亡くなり、再び条項して烏森に家を借りて暮らしているうち、今度は盛岡の馬持ちと関係が出来た。その男はなかなかの美男子であったそうだが、千代子も美しい女で男関係が絶えず、髪を切ってやるとか硫酸をかけるとか脅され、色々ゴタゴタの挙げ句に睡眠剤を飲んで自殺をはかった。


それが助かってから、新橋へあらわれて芸妓志願をした。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。山本と深くなったのが昭和九年の夏と考えると、それより約一年半前である。三十に手のとどく齢で、いきなり天下の新橋から出たいなど、少しどうかしてやしないかというので、最初は誰にも相手にされなかったらしいが、何と言われても彼女は、「お願いします」の一点張りで、とうとう一念通して、間もなく野島家の梅龍を名のる事になった。


だから梅龍は、芸事はそれほど出来なかった。とても、名妓の列に入れられるような妓ではなかった。ただ。額の広い、面長の色っぽい女で、芸妓というよりお職の花魁のような風情があり、その色っぽさで、すぐ一部に嬌名をうたわれるようになったらしい。賢い人で、普段は行儀もよく、「わたし馬鹿だから、何ンにも分からない」などと言っているが、酔うとがらりと人が変わり、座敷から帰って来て、「取ってえも、取ってえも」と、名古屋弁で朋輩にみな着物を脱がさせてしまうのが癖で、手がつけられなかったという。


梅龍が「おかあさん」と呼んでいた野島家の丸子は、井上馨の妾だった人である。その関係もあり、彼女が少し有名病だったせいもあり、色っぽい梅龍には政界財界の誰彼との間に色んな噂が立ち、やがて決まった人も出来た。』

『取ってえも、取ってえも』という露出癖は、千代子本人が激怒したネタである。わざわざ書くところに、阿川の底意地の悪さがある。また野島家の女将が井上馨の妾であったことを千代子の有名病に結び付けているが、これは田布施村王朝と結びつけるべき要素である。

週刊朝日の続き

『バラの花散る頃   だが、この日、山本は、「この花ビラの散ることを見ていて下さい」と、言い残したまま帰艦していった。十二月五日付、軍艦長門から、千代子に宛てた手紙‐「このたびは、たった三日で、しかも、いろいろ忙しかったので、ゆっくり出来ず、それに一晩も泊まれなかったのは残念ですが、かんにんして下さい。それでも、毎日寸時だけでも会えてよかったと思います。出発のときは、折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに、いっしょに尾張町まで行くことも出来ず、残念でした。・・・・・・薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら」』 


逆に言えば、週刊朝日の『恋文』には『雄弁女史の来襲で』が脱落している。また望月氏が貰った恋文の『薔薇の花はもう咲きましたか。其の一ひらが散る頃は嗚呼、 どうぞお大事に、みんなに宜しく、写真を送ってね。さようなら 十二月五日夜  五』の部分は、週刊朝日の恋文では『薔薇の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗚呼。どうか、御大事に、みんなに宜しく。写真を早く送ってね。左様なら』となっている。句読点が違うし、『どうぞ』が『どうか』になっている。私はこんな風に大同小異の『五十六の恋文』なるものが、もっとバラ撒かれていると思う。


千代子は望月氏に恋文の箱書きを頼まれると、『お兄さんと呼んでたから、お兄さんでいいでしょう』と言って『お兄さんの手紙』と箱書きしている。やっていることは、ほとんどストーカーである。思うに『お兄さん』というアイデアは、吉行淳之介のかつての内縁の妻が吉行を『お兄ちゃん』と呼んでいたパクリではないだろうか。

週刊朝日の続き

『ちょうど、七日のことだった、千代子の鏡台にバラの花ビラの散ったのは。千代子は、八日朝のラジオ・ニュースで、開戦を知り、山本の言い残した言葉を、改めて考えてみた。ハワイ空襲の成功で日本中が湧いていた十二月二十八日、千代子あての手紙の一節には、「方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか。」とある。越えて翌年一月八日付けの手紙。「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書きたしてもらうつもりで居ったところ、元日のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」(記者注=クウクウというのは二人が出撃の直前、宮島で撫でた小鹿の鳴声だ)』


望月良夫氏がもらった『五十六の恋文』は、これを換骨奪胎したものである。千代子は同じネタ、フレーズを使いまわして、複数の『山本五十六の恋文』を書いていたのだろう。


週刊朝日の続き

『一月には、八日、十二日、十九日、二十七日と、五日をあけず、千代子のもとに手紙がとどいた。三月十九日に千代子は肋膜炎を病んだ。絶対安静を命ぜられ、一時は酸素吸入で生命を支えたこともあった。四月十八日、東京がはじめて空襲をうけた日、彼女は日記にこう書いている。「苦しき呼吸困難を助けられ、驚きて思わず起き上がる。わが身は先生に見離され、いまさら運命に従うより外になし。悲し」』

『五月十日、連合艦隊は呉に帰港。山本は早速、千代子に電話をかけた。「呉よりしきりと電話くるけれど咳多く出ずるため、電話にて話すことできず、ただただ心あせるのみにて涙とめどなく出ずるのみ」と、彼女は日記に書き、さらに十三日には、「死んでも・・・・・・と心に強くいいきかせて夜の汽車にて呉に向かう。まだ床に起上る勇気もないこの身は看護婦さんの心配するのもきかずとうとう列車に乗せてもらう」十四日、午後四時、彼女は呉に着いた。人目をはばかり、眼鏡をかけ、マスクをした背広姿の山本が、ホームに出迎えていた。彼は瘦せて軽くなった彼女を背負い、ホームから人力車まで歩いた。彼女の日記にはこう記されている。「呉の駅に懐かしの人は待っていて下さった。ああうれしい。これでよかった。うち震える全身を抱きかかえられて、車にて菊川旅館まで運んでもらう。呼吸困難の私はいくたびとなく注射をして頂き、やっとの思いでたどりついたのでした。もう死んでもよい・・・・」』

『再び握らぬ手と手   別れた翌日の彼女の日記。「あの駅頭のお別れはどうしても私は帰るのがいやでございました。あのまま汽車から飛び降りてあなたのそばにいたかったのですのに。……汽車が動き出したとき力一ぱいに握り合ったあの手が私には離したくなかったですのに。あのとき私はちょうど弱った体のために思うような力が出せなかったのに、あなたはずいぶん強い力で、私の手を握って下さいましたね。どこまでも私の手を離さないでつれていって下さいませ」しかし、ふたたび二人の手は結ばれることはなかったのである。』


読んでいると身体が痒くなる文面である。千代子本人の言葉ではなく、ゴーストライターが書いているヨタ文である。


『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、帰艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』


あろうことかミッドウエ―作戦の出撃日と戦闘期間を知らせている。こんなことを書いた手紙が検閲を通ることは不可能である。後になって辻褄を合わせるために、この手紙は秘書官によって29日の幸便に託されたという作為が施されている。山本五十六がいかにもたるんでいたように思わせる恋文は、源田実がわざと慢心しているように見せかける言動を取っていたことと連動している。これらは、ミッドウエ―の惨敗は相次ぐ勝利に慢心していた海軍の驕りによるものだ、というシナリオの布石である。ミッドウエー海戦の真相についてはいずれ検証するが、アメリカが最後の五分間で奇跡の大逆転を起こすというシナリオは、アメリカ側はヴィクター・ロスチャイルドが送り込んだスプルーアンス、日本側は源田実が中心になって、日米共同演出で行ったヤラセである。『運命の五分間』というのはプロパガンダ用語で、実際はかなりの幅を設けられてヤラセが行われている。但し、私はこのヤラセから山本五十六と南雲忠一を除く立場である。


望月氏が千代子からもらった『恋文』は、前述した他にも次のものがある。五十六バッシングの中でも筆頭に上げられる、ミッドウエ―出撃前夜の『恋文』である。望月氏は、自分がもらった『恋文』は阿川の本にはない、と書いている。阿川が自著に引用した週刊朝日の『恋文』とは違うそれを、望月氏はもらっていると言っているのである。5月27日付の手紙をそれぞれ較べると、阿川本と望月氏の『恋文』はまったく別物である。


望月良夫『山本五十六の恋文』より以下抜粋。

『しばらく訪ねなかったからだろうか、ある日、電話をもらったので早速訪ねた。応接室で待っていると、さとに支えられるようにして入ってきた千代子が、「先生に貰っていただきたいものがあります」と一通の封書を差し出した。何枚もの便箋に墨書きした五十六の手紙だった。最後の一通と直感し、千代子に済まないような気持ちになった。私は重いものを貰ってしまった。


午後の診療が一段落して書斎に入り、便箋十二枚にびっしり埋められた二千字を読んだ。この稿の最後に掲げるが、前の手紙より達筆で、昭和十七年五月二十五、二十六、二十七日間の、すこしの時間をさいてていねいに書かれたものである。封筒の上書きは、「京橋区銀座七の三 河合千代子様」裏は山本五十六だけで、切手、消印、検閲印はないから、人伝てに千代子にわたった私信である。


なお、この私信を託した同じ日に、もう一通千代子に手紙を投函している。(注 週刊朝日に掲載された手紙)いただいた私信の読後感はここに書かない。千代子の病身をきづかっている部分が多いが、阿川氏の著書を参考に、当時の千代子の病状を書かないと五十六の気持ちを理解しにくいだろう。


「新版山本五十六」によれば、五月十三日から六日間、戦艦「大和」は呉軍港に投錨した。入港時の慣例で、乗員の希望者はみな、細君を呼び寄せ別れの夜を過ごした。五十六のその日のうちに千代子に電話をかけた。千代子は三月から肋膜炎にかかり、一時は重体で絶対安静を命ぜられていたが、その晩、医師につきそわれて下関行きの夜行列車に乗った。翌日午後、呉駅のプラットホームに、背広に眼鏡とマスクをした五十六が待っていた。病弱の千代子は注射をうけながら、旅館で五十六と四晩を過ごした。


五十六の五月二十七日付の手紙、“あの身体で精根を傾けて会いに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだっかた(中略)私の厄を皆引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は万事を放擲して世の中から逃れたった二人きりになりたいと思います(後略)”


同じ二十七日に秘書官に託した私信、つまり、私がもらった手紙は、阿川氏の著書にはない。


恋文

けふ廿五日東京へよりし参謀が中村勝平君よりの手紙とかねて御依頼せし万葉集小註を持って段取りしてくれたので千代子がその後経過順調で先月末より本月はじめまで静浦へ静養に出かけ其後は立花で来月になればどこでも行けると先生に言われたとの事を承知して本当に安心しました。

私もことによったら今月は横須賀方面へ行き東京へ打合せに行くかもしれぬ(此前手紙に書いた)と話したのでしたが後其方(横ス賀へ回航しないことになり)は都合で必要がなくなり從って当分上京の機会もなくなりましたそれに此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。

此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)其後引きつづき経過もよいとすればもう注射も大体予定の回数が終わった頃であとは体力の恢復だけで段々全快なのでしょうと想像して嬉しくてたまりませんどうか此夏のあつさだけを充分に気をつけて夏まけしない様にして下さい。

東京からは先日君梅さんからとけふ中村武官の外一切手紙が来ず様子もわかりませんが外に萬々かはった事はないでしょうか。戦争も追々本格の長期戦になり船や飛行機や油やいろいろ入るものばかりになりますが懦座の方はどんなものかそれにつれて花柳界などの影響はどうです結局うちの様子はどんなかなと思い出して居ます追々暑くなると二階もたまらなくなるでしょうと心配です私も出来れば千代子の箱根への転地前にもう一度あって元気のところを見たいのですが次の大きな作戦のことでいろいろ心肝をくだいたり練ったりして居るので当分其機会が得られませんからどうぞ我慢して涼しくなる頃まで待って下さい、そうしてその間に充分からだを丈夫にして元気一杯の千代子になっとって下さいどうぞお願いします。また明日にでも書きたします御機嫌よふ(写真の千代子がジーッとこっちを見てるよ何とか言ってよ)二十五日午後五時

あすは大臣がこちらへ見える相だから東京の話なども出ると思ふけれど千代子は其後島田さんには会ふ機会もなかったでしょうね昨晩澤本さんからの手紙で「河合氏のお見舞いに羊かんを少々送ったらおすしを沢山に貰って恐縮でした丁度よい機会だから御依頼の手紙は直接届けるつもりだ」とかいてあったので自分で中村家へ行ったかそれともうちへ直接行ったかとにかく自分で訪ねていっただろうと思っています。

此手紙は丁度返事もかかなければならぬので中村武官に届けて貰ふ様に頼むつもりですから中村さんも御見舞がてら来る事でしょうがそうなるとうちは海軍省の出張所の様になりますね大臣には秘書官か誰かついて来るのか此頃秘書官は代ったのかどうかちっともわかりません島田さんは明日朝ついて一泊して徳山あたりの工場を廻って二十九日頃は東京へ帰るらしいから今月中には此手紙が届くと思います

今度又何時手紙が出せるかわからぬからお中元の分、少々ばかりわけてあげて下さい入れといたから此手紙のつく頃は或は強羅あたりへ転地して居るのではないかなどとも思いますが来月からかとも思って居りますそれとも他にしましたかおひささんの話の御殿場あたりの田舎もよいかも知れないねともかくこちらからははがきや名刺でも出しますからこれからさきの行動予定など知らせて下さいねどうぞお大事に

うつし絵に口づけしつゝ幾たびか千代子とよびてけふも暮しつ 五月二十六日夜

けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になったでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。五月二十七日朝九時五十六千代子様

萬葉集小註はとても面白く読んでいますありがたふ(引用の手紙三通はすベて原文のまま)』

もう一度27日付の手紙を比べて見よう。


週刊朝日に掲載された手紙(投函され検閲を受けた手紙)

『五月二十七日、ミッドウエ―へ向かう直前、旗艦大和から、千代子あてに便りがとどいた。「あのからだで精根を傾けて、会いに来てくれた千代子の帰る思いはどんなだったか。しかし、病勢を日々克服してゆく千代子の気力は本当におどろくべきものですね。私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は‐万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまりおもしろいことはないと思いますが。今日は記念日(記者注=海軍記念日)の晩だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふもくらしつ 五月二十七日夜」』


望月氏がもらった手紙(人伝に届けられた私信)

『けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にしますそれではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になっ
たでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。
五月二十七日朝九時五十六』


望月氏が貰った手紙は、

『此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)』

という事情のもとに、人伝で千代子に届けられた私信である。機密情報も書かれていない。

一方、週刊朝日に掲載された手紙は検閲を受けたものである。にも拘わらず、『万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたい』という失楽園的コメントや、『二十九日はこちらも早朝出撃して、三週間ばかり全軍を指揮します。』という機密情報の漏洩、『多分おもしろいことはないと思いますが』という不謹慎なフレーズがある。


しかも週刊朝日の続きには、六月二十一日付の手紙が掲載されていて、これが五月二十五日付の文面とほぼ同一のものなのだ。

こんな支離滅裂な話をデッチあげているのである。


週刊朝日続き

『ミッドウエ―敗戦・戦死・国葬   六月初旬に行われたミッドウエ―開戦は、惨憺たる敗北に終わった。「このごろ作戦行動などが、だいぶ世間や外国へ洩れる形跡があるというので、しばらく艦隊から封書は出せないということになったので、此間は名刺に簡単に書いたのです。千代子もどうしたのか変に思ったでしょうね。」(六月二十一日) 』

すでに五月二十五日付の手紙で、私信にした理由を説明しているのだから、『変に思ったでしょうね』と書く方が変なのである。『同一の文章を書いて、変に思ったでしょうね』というならまだ話は分かるが、まったく辻褄が合わない話である。否、辻褄を合わせようとする配慮が千代子には欠けている。週刊朝日のこの二十七日付の『恋文』に限らず、望月良夫にプレゼントした『五十六の恋文』も、海軍省の焼却命令で焼いたという『恋文』も、焼かずに密かに隠し持っていたという『19通の恋文』も、後には隠し持っていたのは『5通の恋文』ということになっているそれらを含めて、全ての『山本五十六の恋文』は創作物である。


週刊朝日の続き。

『最後の便り  昭和十八年四月二日付の手紙は、旗艦大和の長官室で散髪した遺髪を同封されて、千代子の許にとどけられた。ガダルカナル失陥後二ケ月、南方戦視察に赴く直前の手紙である。これが最後の便りとなった。「三月二十七、八日の御手紙、昨四月一日の夕方受け取りました。それから今度はあまり度々だからと思っておったのに参謀長藤井、渡辺、鹿岡、佐雉(記者注=みな連合艦隊の参謀)と沢山よんで貰って、本当に嬉しく御礼申します。皆んなもとても喜んで、入れかわり立ちかわり、神谷町(記者注=千代子さんの家)のことや、山口での話などをしてくれて私もなんだか、ちょっと家へかえって千代子にあったようの気持ちになりました。・・・・藤井君も押しかけて御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、いつまでもご迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事まで話し始めたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行っていたらしいなど、とても気の付く人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。本当に楽しかったよ。私のからだは先日言って上げた通り、血圧は三十代の人と同様、とてもよいという事です。それから手がしびれるというのは、右の薬指と小指のあたまがほんのわずかいびれるようでしたが、しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って、もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけないように言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないで下さい。・・・・・・それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。それでに収監ばかり御ぶさたをしますから、そのつもりでね。私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します。四月四日は誕生日。愉快です、一寸やるのは」』

週刊朝日の記事には、『千代子さんに宛てた元帥最後の手紙』として封書の写真が掲げられている。表書きの左端には『戦時郵便』と記され、下に『検閲済』の印が押してある。つまり通常のルートで検閲を受けた手紙である。先の五月二十七日付の手紙同様、こんな『恋文』を書いたとしても検閲を通るのは到底不可能である。しかも参謀の役職名がデタラメ。『それから明日からちょっと前線まで出かけて来ます。参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等が一家です。』→参謀長は宇垣纏、黒島亀人は先任参謀、渡辺安次は戦務参謀。『渡辺参謀長』などと五十六が書くことは間違ってもない。

だから阿川弘之は、この最後の手紙も勝手に改変している。例によってあれこれ尾ひれも付けている。改変を目立たなくさせるための小細工と思われる。改変や尾ひれの部分に※を付けておく。相変わらず語句や句読点などいい加減で、オリジナルに合わせていない。

『新版 山本五十六』より

『三月廿七日、八日のお手紙はお天気がわるく飛行機が飛ばなかったのでおくれて漸く昨四月一日の夕方受けとりました  ※それと浴衣や石鹸や目刺山口の煮豆などいろゝとどきました ありがとう※  夫れから今度はあまり度々だからと思って居たのに参謀長 藤井 渡辺 鹿岡 佐雉など沢山よんで貰って本当に嬉しく御礼を申します 皆んなもとても喜んで 入れかはり立ちかはり 神谷町のことや山口での話などをして呉れて私もなんだか一寸家へかへって千代子にあった様の気持ちになりました 


 ※渡辺君はことに神谷町のうちの様子や千代子の健康のことやいろゝ親切にしてもらった事などを事詳しく三時間も話して十二時過になりました さうして長官へは古い浴衣だのに私に新しいのをどうしても持って行けといはれ又雨で靴下をぐちゃゝにしたら洗濯したり新しいのを沢山頂いたり大変度々ご馳走になったりして恐縮でしたと云ふから夫れは君が三年半も下で一生懸命働いて呉れて居るのを度々話してあるので能く知って居って感謝して居るからだよと言ったらあんなに能く気のつく親切な方はありませんねというふてしんみりと感激して居りました※ 


藤井君も押しかけで御馳走になり 夜おそく酔った一杯機嫌で上がり込んで(オリジナルは「藤井君も押しかけで御馳走になり、夜おそく帰った。一杯機嫌で上り込んで、」) いつまでも御迷惑をかけ、おまけに鹿岡と公務の事迄話しはじめたら、いつの間にか、気をきかせて下へ行って居られるなど(オリジナルは「居たらしいなど」)、とても気のつく人ですねと感心して居ったから、僕が天皇陛下の外に(オリジナルでは「前に」)内心あたまの上がらぬのは あの人なんだが そのねうちはあるだろう云ふと いやいくら言われても致方ありません 負けましたといって 皆で陽気に笑いました 本当に嬉しかったよ(中略)(オリジナルでは中略の表示はない)


※梅駒さんも許可が下りて何よりでした。あの家が其のまゝ立って行けば気持ちがよいわけですね※


私のからだは先日言って上げた通り 血圧は三十代(オリジナルでは「台」)の人と同様とてもよいという事です。夫れから手がしびれるといふのは 右の薬指後小指のあたまがほんのわづかしびれる様でしたが  ※東京へは少し大げさにわざと云ってやりましたので少し問題になった様です(問題になる様にしたのです)※  しかし軍医長にヴィタミンBとCの混合液を四十本注射して貰って もうすっかり能くなりました(表面はまだ少しいけない様に言っておきましたが)から、本当は少しも心配しないでください。 ※又此の事は誰にも言わないでなんだか暑い処で土も踏まないので少し弱ったらしい位に言つといて下さい 夫れから明日から一寸前線まで出かけて来ます※  参謀長黒島参謀渡辺参謀等(オリジナルでは「参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等」)が一処です(オリジナルでは「一家です」) 夫れで二週間ばかり御ぶさたしますからそのつもりでね 私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します 四月四日は誕生日です 愉快です 一寸やるのは ※夫れではどうぞ御大事に 御きげんよふ 四月二日 五十六 千代子様』


阿川が付け足している『このことは誰にも言わないでください』は、『五十六の恋文』のキャッチコピーである。問題の『参謀長、黒島参謀、渡辺参謀長等』の部分も、変わらず姑息な手を使ってごまかしている。まず間合いを詰めて『参謀長黒島参謀渡辺参謀等』と列記し、『渡辺参謀長』から『長』をさり気なく取っている。渡辺安次は勅令で戦務参謀として五十六に貼り付き、河合千代子の自宅に出入りしてアリバイ工作をして昵懇になっている。藤井茂は千代子の家に出入りしたこともないし、渡辺安次のように一線を越えたこともない。ちなみに藤井茂は渉外参謀である。

五十六は慰問の手紙をもらえば、それが小学生であろうと必ず直筆の返信を書く。長岡小学校の小学生にも一々返信をするので、校長先生が自粛を呼びかけたほどである。河合千代子はそのことを利用すれば、五十六本人直筆の返信を入手できるし、実際入手していただろう。もちろん中身は普通の礼状である。

藤井茂はトラック島に碇泊中の武蔵に待機、昭和18年4月17日に五十六の視察スケジュールを打電している。4月2日からラバウルの前線に二週間ほど指揮を執りに行っている五十六が、18日にブインを視察する前夜のことである。その際、藤井茂は4月から大幅に刷新された暗号乱数表ではなく、すでに米軍に解読されていた古い暗号表を使って打電している。これが米軍に視察スケジュールを解読された真相である。この勅令を藤井茂に伝えたのは、海軍主計中曽根康弘である。パシリ中曽根に指令を出したのは、フィクサー吉田茂である。

文中、『僕が天皇陛下の前に内心あたまの上がらぬのは、あの人なんだが、そのねうちはあるだろうというと、いやいくら言われても致方ありません、まけましたといって皆で陽気に笑いました。』というのは、「五十六が天皇陛下の次に、内心、頭の上がらないのは河合千代子であり、千代子にはその値打ちがるだろうと言うと、いやいくら言われてもその通りです、負けました、ごそうさま、と皆で陽気に笑った」という意味である。

五十六は成りすまし昭和天皇に恐懼しことはない。また五十六がこの世で一番頭が上がらないのは、陰で支えてくれた妻の礼子である。五十六が最後に家族と過ごした夜、礼子は肋膜炎に罹って枕から頭さえ上がらぬ状態であったが、苦しいとも痛いとも一言も言わずに家の中のことに気を配っていた。五十六はそうやって家庭を守ってくれてきた妻と最後の一夜を過ごし、夫婦水入らずの訣別をしたのである。五十六が瞼に焼き付けたただ一人の女性は、その夜の礼子である。だから礼子は、戦後、新橋のガード下で石鹸の叩き売りをしたり保険の外交員をしたりして子どもたちを育て上げ、『神様は信じられないけど、パパちゃんのことは信じられるわ』と言ったのである。

しかし阿川弘之は、これ以上はないというくらいにその礼子をこき下ろしている。誹謗中傷しか書いていないといっても過言ではない。彼は『山本五十六』を書くにあたって、まったく遺族に聞き取りをしていない。伝聞と風聞だけで妻を貶め、愛人を持ち上げている。五十六の結婚は失敗であるという大前提のもとにひたすら妻を人格否定し、五十六が愛人を持つことの妥当性を強調している。すでに物故している堀悌吉をダシに使って、さまざまなガセネタを創作している。

阿川が遺族から名誉棄損で訴えられた後で出したのが新版『山本五十六』である。どこをどう配慮してあるのかまったく分からない。新版ではさらに堀悌吉にみっともない真似をさせ、デマカセを喋らせている。阿川が配慮しているのは、愛人ネタで辻褄の合わないところをごまかしてある所だけである。

五十六の無二の親友である堀を狂言回しに使う方法を思いついた時、阿川は(しめた!)とほくそ笑んだのであろうか。堀悌吉は海軍の至宝と言われた秀才で人格者であるが、阿川弘之の筆にかかると、いつも五十六とつるんで色事に協力している俗物になり下がっている。

もう一人の友人である古賀峯一も、千代子のガセネタのダシに使われている。


『新版 山本五十六』より

『古賀は、かつて河合千代子に、「山本の将来を思って、つらいだろうが別れてやってくれ」という話を持ちかけ、千代子に、「古賀さんの言うこと、分からないじゃないけど、今どき新派悲劇は流行らないわよ」と、あとで笑われたという堅人であったし翌昭和十九年の三月、連合艦隊司令部をひきいてパラオからフィリッピンのダバオに向かう途中、乗っていた二式大艇が嵐に巻き込まれて行方不明になって、あまり華々しいいくさもしないままに山本のあとを追うてしまったので、一般にはあまりパッと印象を与えているようだが、山本とは仲のいい古い友達でその志操も米内と全く同じであった。』

古賀峯一は勅令で『行方不明』にされたのである。福留繁が古賀を『行方不明』にして、機密書類を敵側に『奪われる』ようしている。米内光政に志操はない。昭和天皇に唯々諾々と従うだけの哀れな便利屋である。

阿川弘之『山本五十六』より

『彼の沓下には、よく穴があいていた。お洒落の癖に、彼のスボン下は、いつも、そんなにきれいではなかった。これは、山本があまり家庭に寄りつかなかったか、家庭の方で山本をあんまり構いつけなかったか、どちらかの結果である。女たちは、彼の沓下につぎをあて、ズボン下を洗濯し、次に来るまでに乾かして、アイロンをあてておいてやる。こういう事は、彼女らの母性本能を刺激したであろう。


山本源太郎大将は、禮子の母親と従兄妹で、したがって山本の家と、山下大将の家とは、親戚づき合いである山下の妻の徳子が、山本の家へ遊びに行っていると、夕方、山本が帰って来る。「やあ、小母さん来てたの?」などと言って、山本は出されている林檎を、手を使わずに、ナイフと フォークだけでむいて見せる芸当などして見せて、それから着更えに別室へ立って行くが、禮子は知らん顔をしている。「禮ちゃん、あんた、行って、旦那さまの着更えぐらい、手伝って上げなさいよ」と、徳子が言っても、「あら、そう?」と、彼女はけろりとしているという風であった。』


いったい阿川はこれを誰から聞いたのであろうか。旧版『山本五十六』には引用元が明示されていなかったが、新版には聞き取り証人の名前が明記されている。その中に山下徳子の名前はない。もとより阿川は禮子に一度も会っていない。どうしてこんなシーンが描けるのか。フィクションなのかノンフィクションなのか、はっきりさせるべきである。阿川の『山本五十六』をあたかも既成事実のように捉え、文献として引用している作家はたくさんいる。その弊害は甚大である。

『山本と結婚するまで、一度も東京へ出た事がないという、根っからの田舎育ちで、押しが強く、茶碗が欠けていようが不揃いであろうが、そんな小さな事は一向に気にならないという性であったらしい。山下夫人の徳子は、「あそこの家じゃ、女中の給料、五十六さんが自分で渡してるんだってよ。禮ちゃんは一体、何をしてるんだろうね」と言っていたそうである。黒潮会のある新聞記者は、山本の留守宅に訪ねて行って、海軍中将の家の玄関に、洗濯盥がほうり出してあるの見て、びっくりしたと言っている。山本はその反対で、何にでもよく気がつく。彼は、部下の夫人たちにでも、どうかすると誤解を受けはしまいかと思われるほどよく気を使って、外国へ行けばコテイの白粉と口紅を土産に買って来る、部下が新居へ引っ越せば、奥さんの方がかねて欲しい欲しいと思って眺めていたコーヒー・セットを、ちゃんと知っていて祝いに持って行ってやる。』


『・・・そうである』は阿川の十八番である。これを使っていくらでもガセネタを書きまくる。


『禮子の方は、家に客が来ても、髪でも結っていれば、三十分でも四十分でもほったらかして、出ては来ない。山本は、海軍関係で、家庭と家庭との付き合いをするのを、次第にいやがるようになり、禮子をめったに人前に出そうとしなくなった。現在、彼女を識っている人々に訊いてみると、太っ腹で、親切な、いい方なのだが、都会人の神経で接すると、やはりちょっと・・・・と、大抵の人がそう答える。禮子にして見れば、なぜ自分のやり方がそんなに山本の気に入らないのか、よく理解が出来なかったかも知れない。彼女はある時、「わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ」と、悲しげに人に語ったことがあるそうである。』


阿川はよくこういう事を書けると思う。五十六と禮子は部下や知り合いの仲人を何回もしている。その行き帰りには一緒に歩いたことだろうし、伴侶を人前に出したくないほど不和な夫婦に仲人が務まろうはずもない。


『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。堀悌吉から話が出て、山本がこの三橋禮と、東山温泉で見合いをした前後、彼が長岡の家兄に宛てた手紙の中には、「本人は大正三年会津高等女学校卒業後女中代としては母を捕け現業に従事東京と見たる事なし 身体頑健困苦欠乏に堪ふとのこと・・・」とか「先方は最も質朴の家風らしく当人は丈ケ五尺一寸許り躰格極めて頑健の女なれば大抵の困苦には可堪ものと認め整婚に同意致候次第に御座候」とか、まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。


堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと。前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈夫人とは、姉妹であった。四竈幸輔(ママ)は、のちに中将となったが、山梨勝之進らと同期の、当時大佐で、堀は此の四竈と親しくしていた。話は四竈幸輔(ママ)から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。


だが‐「所謂栄達の人々」を避けるのはよいとして、候補者が「身体頑健困苦欠乏に堪ふ」「東京を見たる事なし」の、若松の人間だからというので、「明日あると期し難き身に」「ややつり合」い、それで万事うまく行くだろうと考えたとすれば、いくら昔風の、軍人の結婚でも、夫婦生活というものに対し、山本は少し浅慮であったというそしりは免れまい。あとになって、禮子に、都市的な繊細な神経が書けていると不足を想って見ても、それは山本の勝手である。彼の結婚生活が失敗であったとするなら、少なくとも其の責任の半分は、やはり山本が追わなくてはなるまい。


それまでも、山本は禮子を人前に出すことを嫌い、海軍士官の家同士の交際をさけたがっていたが、部下の細君に、「奥さま、お元気ですか?」と訊かれて、「あんな、松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたり、艦内の幕僚が細君の写真を飾っているのを見て、「お前は、恋女房でいいなあ、俺はもう匙を投げたよ」と、彼が言ったりするようになるのは、すべて此の時期(注 次男が生まれた昭和7年11月。昭和9年ごろ河合千代子とデキたとされている)あたりよりあとである。山本夫婦は、それぞれもう、両方で勝手に独立しているように見えたという。


禮子は、趣味の無い人であったが、土地や家作の売買には、男勝りの、なかなかの手腕を発揮した。山本は鎌倉に住んでいた大佐の頃、「鎌倉の材木座で、一番小さな家を探して来りゃ、それが俺ンとこだよ」と言っていたくらいで、将官になっても、売り買いする程の財産は持っていなかったけれども、何かで少しまとまった金が入り、長い苦労をかけているからと、彼が禮子にそれを渡すと、禮子はすぐ其の金で、土地を買ってしまったという事もあった。


山本は情に溺れる方で、そういう潤いの無い禮子のやり方は、気に入らなかったに違いない。しかし、一旦言い出したら、禮子はめったに後へは引かなかった。喧嘩になると、山本はすぐ、蒲団をひっかぶって寝てしまったそうである。山本はもはや、家庭に慰めを見出していないように見え、事実、彼は、次第に家庭から遠ざかるようになって行った。結婚十五、六年後、そういう状態の下で、山本五十六の前に不意に立ちあらわれて来たのが、河合千代子の梅龍であったのである。』

『身体頑健困苦欠乏に堪ふ』『明日あるを期し難き身にややつり合う』という理由の、どこが浅慮のそしりを免れないのであろうか。すばらしい長所ではないか。五十六は部下にもなるだけ晩婚を勧めるほど、軍人未亡人をつくることを憂慮している。山本家を継いだ責任感、嗣子を儲ける義務がなければ、五十六はもっと晩婚かあるいは生涯独身を通したかもしれない。わざと曲解しているにしても、『浅慮のそしりを免れない』のはそれを解さない阿川の方である。


そもそも阿川のいう『都会的な繊細な神経』というのは、何を指すのか。会津若松にも独特の文化と伝統がある。千代子こそ『都会的な繊細な神経』を持ち合わせていて、それが五十六の趣味だとでも言いたいのだろうか。しかし前述したように、阿川は河合千代子のことも本当の意味ではほめていない。阿川は千代子を持ち上げる文章の合間に、古川敏子から仕入れた千代子の過去の素性や、見ず転芸者としての行状をそこまで書く必要があるのか?と思うほど晒け出している。


夫婦の仲は夫婦にしか分からないという。人前では完璧に夫婦円満を装う仮面夫婦もいるし、横暴で亭主関白で愛情表現など一切しないが熱愛している夫婦もいる。阿川は当事者に取材さえせずに決めつけ、その決めつけは今や『史実』になっている。『わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをしたことがないのよ』を歴史的人物の一言として取り上げているブログを見たことがある。ウイキペデイアの山本五十六の項にも河合千代子が愛人として堂々と記載され、五十六の『戦死』については、妻の礼子ではなく千代子の言動が取り上げられている始末である。


『山本はしかし、宵のうちに官舎に戻っている事はめったになかった。家族は青山の私宅の方に置いて、官舎では女中と二人だけの所帯で、山本は天長節の重い礼装なども、自分で着つけをやっていたそうであるが、帰館は大抵一時頃で、此の時刻になると、女中ももう寝ている、山本が、自分用の鍵を持っていて、勝手に官舎の玄関を開けて入り、女中の入ったあとの風呂に入るというのは、新聞記者の間で有名な話であった。』


この阿川のプロパガンダに対する反証として出版されたのが、山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』である。義正氏は名誉棄損の訴えを起こしたが、マスコミにもっとひどいことになるとやんわり脅され、訴えを取り下げざるを得なかった。その代りに本書を反証として上梓したのである。


山本義正『父・山本五十六 その愛と死の記録』光文社より

『母との結婚にあたっても、父は、くどいほど自分の体のことを、母方の人びとに念を押したそうである。東京で、あらましまとまりかけた縁談に乗り気だった父は、見合いのために母の里会津まで出かけて行った。それは、自分が相手を見る目的というより、自分を赤裸々にして見てもらうことを目的としたようである。この会津における見合いのときに、父は、自分の欠点を洗いざらい書きつづった身上書を持参し、母方の人に見せている。自分の至らない性格についてふれ、とくに体の傷については、その原因、負傷部位、傷痕の大きさなど、詳細に書き記されてあった。「欠点ばかりくわしく書いてあって長所らしい点は、なにも書いてなかった。」と、後年、母は私に語っている。』

身体頑健困苦欠乏に堪ふ嫁を娶るために、五十六は自分を丸裸にして見せている。そし
て五十六は、礼子の見てくれにも惚れている。阿川は千代子を美人だと持ち上げる一方で、いかにも礼子のことは人前に出せないような女として描いているが、礼子は色白で大柄な器量良しである。結婚式の白無垢姿はあたりを払うような美しさで、周囲にいる女性たちを霞ませている。

阿川がクサした材木座の家も、礼子が五十六の許可を得て創意工夫で建てたものである。

義正氏前掲書の続き

『父の生存中、私の一家は十回近く引っ越しをしている。私が小学校へ入学したころ、一家は鎌倉の材木座に住んでいた。病気がちだった子どもたちの健康のために、父母が場所を選んで建てた、はじめての自宅であった。


父と母が結婚したとき、新居は、東京・麻布の高樹町であった。会津からポッと出て来たばかりの母のために、当座は何かと心細かろうという配慮から、仲人の四竈氏の家の近くに、父が見つけた借家だったという。家を選ぶことや、必要な道具をそろえることなど、父はまめにやったらしい。その後、千駄ヶ谷に転居し、そこで、長男である私が生まれた。三年後に、父が霞ヶ浦海軍航空隊勤務となったため、一家は、茨城県・土浦に転居する。


まもなく父は駐米大使館勤務となり、留守を守る一家は、もう土浦にいる必要がなくなったので、神奈川県・鎌倉に引っ越し(略)鎌倉への転居は、父がアメリカに行って不在中のことだから、すべて母がとりしきった。もっとも、手紙でアメリカにいる父とは相談を重ねたらしく、父から、鎌倉は空気のよいところだから子どもの体によいだろうということ、古い歴史の地であり教育環境としてもよいだろうということなどにふれた手紙が来ている。「九月三十日 五十六  礼子殿 忽ち秋となり年も追々終わりに近づき申し候。当地目下秋晴の好時節、詩人玩月遊子懐郷の頃と相成り候。あいかわらず頑健、御安心くだされたし。御地も避暑客退散、落ちつきたる旧府鎌倉として住み心地よきことと存じられ候。貴地にある幾多の名所は、これを中心として日本歴史に幾多の意義を留むるもの、多日、子女教養のため、このごとき時機に於いて、青史の『趣味を喚起し修養に資せらるるの要ありと存じられ候(中略)  坊、澄子、もとちゃん(当時家にいた女中さんのこと)も元気のことと存じられ候。」


このころから、母はなんとかして自分の家を持ちたいと考えたそうである。ひとつは家賃を毎月払わねばならないのがつまらないことと、父がいないので、家計をきりつめれば、そうとうの余裕ができること、出来合いの家でなく、好みの間取りの家に住みたいこと、などの理由からだった。海軍から渡される月給の中から、少しずつたくわえた貯金と、郷里の両親や親類からの借金で、なんとか一軒の家を建てられる見通しがついたようだ。こうして、鎌倉の材木座に、山本家としては、はじめての自分の家を持つことになった。物色した土地は、滑川の川べりで、一面のネギ畑の一角であった。そこに、母が間取りを設計した家が、大工さんの手で建てられたのである。三角屋根の二階家で、二回の二部屋は、屋根裏部屋で、そのうちの一部屋は最後まで造作ができないままだった。


借金の末に建てた家なので、門や庭木にはとても手が回らなかった。近くの家で、大きなビワの木を切り倒そうとしたとき、頼んでゆずりうけ、庭の片隅に植えたりした。このビワの木は、その後もすくすくとのびて、毎年の初夏には小粒ながらいっぱい実がなり、わが家の庭の主役であった。そのほか、庭に植えられたのは、なにか実のなるものがいいという実利的な母の考えで、書き、梅、イチジク、トマト、サヤエンドウ、ナス、イチゴなどが、ごたごたと植えられた。門は、大きな生木を買ってきて、これを縦に割り、皮のついたほうを外側に向けて、左右二つを埋め込んで代用した。扉はなしで、それでも外から見ると、一軒風雅な感じであった。時期がくると、この門柱から、キノコがにょきにょき生えたもので、八百屋の小僧さんが、「これは食えますよ。毒はありません」と教えてくれた。が、けっきょくこのキノコだけは、だれも食べなかった。この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった。


そのころの私は、いたずらばかりする反面、やせていて病気がちの子だった。(略)母が心配して、たぶんアメリカにいる父の指示だと思うが、横須賀の海軍病院へ私を連れていき、伊蜜検査を受けたとがある。(略)こんな私の健康のために、父は、鎌倉に住むことをたいへ喜んでいた。それは、母へのよりの中で、しばしばふれており、また二年後に帰国してからも、自分の通勤の不便をしのんで、鎌倉に長くとどまっていたのである。』


五十六が渡した金で礼子が勝手に土地を買ってしまった、五十六は材木座の家を不満気に思っていた、と阿川が『伝聞』で書いていることとはまったく違う。

海軍次官時代、官舎で五十六が女中と二人暮らしで、女中の入った後の風呂に入るというのは新聞記者の間で有名だった、というのも阿川の悪意である。五十六は家族と一緒に住んでいたし、風呂の残り湯の件も全然ニュアンスが違う。五十六の帰宅が再々深夜に及ぶので、先に風呂に入って十時前には就寝するようにという配慮である。


義正氏前掲書の続き

『私たち一家が、霊南坂の官舎へ引っ越したのは、昭和十一年の暮れも押しつまったころである。この年の十二月一日、海軍航空本部長であった父が、海軍次官に就任したからである。


はじめて見る官舎は、とほうもなく大きくて、広かった。青山の自宅にいたころは、置くところにも困った家財道具が、官舎に運ばれると、いったいどこへはいったのかと思うほどだった。


夕方、父が役所から帰ってきた。送ってきた車を帰したあと、父は、官舎の部屋をひとつひとつ見てまわりはじめた。つぎつぎに部屋のスイッチを入れてゆき、そのたびに広い館の部屋が明るくなった。全部の部屋を見おわったとき、樹林にかこまれた暗闇の中で、建物全体が、明々と光に満ちたのである。


「おれの家は太平洋。家の大きさや、ちっぽけな庭なんか、どうだっていいよ」と来客に笑って話していた父を覚えている。しかし、その夜、どこもしこも広びろとしていて、明るく電灯のともった家を、庭から眺めながら、父の顔はやはりうれしそうだった。


母にしてみれば、この広い家は、いろいろな意味でたいへんだった。まず掃除、これはとうてい母ひとりの手に負えなかった。大型の電気掃除機があったが、それを操作するために海軍省から掃除の小母さんが派遣されてくる。母は恐縮して、たびたびの掃除をことわっていた。それでも、週に一度ぐらいは小母さんが電気掃除機で掃除に来ていた。


ただ、自宅とちがって、官舎には多少なりとも公的な来客や仕事もあり、母だけは、帯をとくひまもないほどきりきり舞いをさせられたらしい。政府や海軍関係の来客、あるいは新聞記者などの訪問も、毎日のようであったと記憶している。しかし、母は、「忙しかったけど、やはり霊南坂がいちばん楽しかった」と、いまも語っている。』


阿川のいう『官舎に女中と二人住まいで云々』と比べると、多少の違いどこではない。阿川は戯作者なのである。阿川は会津には行かなかったが、長岡には反町栄一からネタを仕入れるために出かけている。そして長岡での五十六の言動をパクって、五十六が合千代子との逢瀬に泊まった宿の宿帳に『山本長陵 職業船乗』と書いたかもしれないないと書いている。こういう阿川弘之の『山本五十六』を、なぜに世の作家連中は史実として引用するのか。阿川の本書のカバーの前の折り返しには小泉信三が『みごとな伝記』、後ろの折り返しには大宅壮一が『大きな記録的価値』、と題して絶賛の言葉を寄せている。小泉信三は成りすまし天皇家のために、生き残り戦略を考案した人物である。『みごとな伝記』というのは、本音だろう。大宅壮一は、『日本人一億総白痴化』を唱えたことで有名な評論家であるが、一億の勘定の中に自分を入れてないのだろうか。


では阿川の『みごとな伝記』『大きな記録的価値』と、工藤美代子の聞き取りを比較対照してみよう。工藤の関係者に食い込んで取材する才能は、大したものである。成りすまし天皇家の嫁っ子たちにも直かにインタビューして、姑・貞明皇后との私的にわたることまで聞き取っている。この分野おいては工藤の独壇場である。

○礼子の出自について


阿川弘之の『みごとな伝記』『大きな記録』より

『山本夫人の里は、会津若松の、農家を兼ねた牛乳屋で、父三橋康守、母亀久の、禮は三女であった。』


工藤美代子『山本五十六の生涯 海燃ゆ』より

『三橋家は現在でも会津若松の名家として知られている。礼子の父、三橋康守は安政六年に会津藩士として生まれた。戊辰戦争のときは、わずか九歳だった。今ではあまりにも有名になった白虎隊は十五歳からしか参加できなかった。そこで康守は燃焼の子供たちだけを集めて隊を作り、出陣した。明治維新の後、康守は上京し山川健次郎の家へ寄宿して学校へ通った。山川家に寄宿しながら苦学しえ司法官となった。裁判官として康守は日本各地を転々とした。後一年勤めれば恩給が尽くと言う時に、何を思ったか康守は仕事を辞めた。山川健次郎に頼み東京大学農学部の教授を紹介してもらい、牧畜の研究を始めた。康守には気宇壮大な計画があった。新天地を開拓して牧場を作りたかったのである。明治四十二年、五十歳になったのを機に、康守は牧場経営へと乗り出していった。まずは若松氏の郊外に牧場を開き、これを成功させると大正元年に単身朝鮮に渡った。そもそもはブラジルに行き開墾をする夢があったのだが、あまりに遠いため朝鮮にしたのだという。康守の発想は明治末から大正の時代にしては、おそろしく斬新だった。アメリカから牛を輸入し、農家に貸し付けて牛乳を集め、それを殺菌して卸し売りをするといった新しい商法を考え出した。また、北海道から種芋を取り寄せて、農場でじゃが芋を栽培した。三橋のじゃが芋は出来が良いと評判になった。当時としては珍しいトマトも、もうこの頃から栽培していた。康守が米沢へ一歩足を踏み入れると、牛の値段が上がると噂されるほど、牧畜に関しては目利きだった。その三女である礼子は会津高等女学校を卒業した後、自宅で家事の手伝いをしていた。』

○見合い話から成婚にいたる経緯


阿川弘之

『結婚の事情を詳しく見ると、其の点、山本も勝手であった。(略)堀悌吉から話が出て、東山で見合いをした前後、彼が長岡の実兄に宛てた手紙の中には、(略)まるで身体頑健で、大抵の困苦に堪えそうなところだけが禮子の取り得で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。(略)堀悌吉は、どこから此の縁談を持って来たかというと、前述の通り、禮子の母親の三橋亀久は、山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と、四竈孝輔夫人とは姉妹である。(略)堀は此の四竈と親しくしていた。話は、四竈から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。』

工藤美代子

『と阿川はかく。しかし、これは全くの間違いだと指摘するのは五十六の長男、山本義正氏である。実際の月下氷人はもっと身近にいたのである。(略)三橋礼子のいとこにあたる水野礼司という人が帝大附属病院の医者をしていて、婦長だった京(注 高野京  五十六の姪だが、密かに五十六に慕情を抱いている)と親しかった。その関係で水野は五十六とも友人になった。独身の五十六は、「嫁さんもらってもいいな。ただし、別嬪で、体格のよい、気立ての優しいのがいいなあ」と話したという。それを聞いて、水野が礼子のことをさっそく紹介したのだった。もともと三橋家は美人系で、六人いる娘たちはそろって器量良しだった。(略)「あなたがもらわないのなら、僕がもらうことになるよ」と冗談めかしていったりしたくらいだから、水野も礼子を気に入っていたのだろう。礼子の写真を見せられた五十六は、あまりに美しいのですっかり乗り気になってしまった。よし「これに決めた」といった。もう見合いをする前から、五十六は礼子の写真に一目惚れをしてしまったのである。(略)形式的に仲人としては四竈孝輔が立てられた。三橋家に山本少佐の写真と経歴、それに山本自らが自分の欠点を赤裸々に書いた七枚の手紙が届けられた。その手紙は公開されていないのだが、自分は御奉公のため世の常の人のように妻子をかまっていられないと思うが、その点よく承知してほしいということと、公務に関しては絶対に口を出さないことをしかと心得てもらいたいという二点が書かれていたという。読みようによってはずいぶんと厳しい内容である。しかし、この手紙を読んだ礼子の妹は、「お姉様、この方はやさしい方ですね。私はこんなやさしいお手紙はもらったことがありません」といった。礼子も同じ気持ちだった。自分の思いを正直に打ち明けるのは勇気がある証拠だ。そして相手への配慮がるからこそ初めにきちんと夫婦間の約束を告げてきた。(略)お互いに写真ろ履歴書を交換して、すっかり心は決まったので、いよいよ五十六と礼子は見合いをする運びとなった。(略)この見合いの席で、五十六はわざわざ上半身の衣を脱いで、戦傷や手術の跡があるのを見せ、「こんな身体だが良いか」と尋ねたと伝えられる。(略)五十六はいつも礼子の写真を大事に懐に入れていた。あるとき、それを京に見つけられてしまうと、「懐に入れて風をひかないようにしているのさ」と、照れくさそうに弁解した。後に京が義正氏に語った話である。』

○礼子の手蹟


阿川弘之

『字などはこれまた極めて達筆の男まさりで、非常に太っ腹のところもあったらしい。』

工藤美代子

『亀久は見事な筆跡で字を書いたといわれるが、それは礼子も同じだった。一説によると、礼子の書を見て五十六はまず惚れ込んだのだという。』

礼子の書は山本元帥景仰会が発行した『山本五十六の「覚悟」』の中に写真が掲載されている。これを見て『男まさり』『非常に太っ腹』と感じる人は、おそらく阿川だけだろう。

○礼子の嫁ぶり


阿川弘之

『ある時、禮子の母親の亀久が、会津から出て来て、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずで、さぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどくと、山本は、これを読んで下さいと、紙に、「見る人の心々にまかせおきて雲井にすめる秋の夜の月」という和歌を一首書いて渡したそうである。』


事実無根である。


工藤美代子

『「お母様がお父様をずっと長岡から東京まであおぎ続けたというのは本当ですか?」「ええ、本当だと思います」義正氏は静かな声で答えた。「母はたくさんいる兄弟、姉妹の中で一番辛抱強い性格でしたからね」(略)もともと五十六は恩師や親族などを経済的に援助することをいとわぬ性格だった。(略)月給が全額手渡されることは絶対にないわけである。薄給の中から山本家や河野家の親類に送金し、長岡社にも寄付をする。やっと生活できるだけの金額しか残らなかった。(略)少ない給料でも家を守っていくことが礼子に課せられた義務であり約束だったのである。』


阿川が一言のもとに斬って捨てた材木座の家についても、工藤は細部まで聞き取りをしている。

工藤美代子前掲書

『(略)つまり、礼子はいつも家計のやりくりをしなければならない。ところが、夫はアメリカに赴任した。その間は日本の家族のために支給される給料がある。それを貯金すれば、家が建てられるかもしれないと考えたのである。貧乏生活に慣れている礼子にしれみれば、余った給料で贅沢をするなどとは思いもよらなかった。むしろ、爪に火をともすようにして、それらのお金を蓄えて、鎌倉に土地を買った。


さて、礼子は鎌倉の材木座の一角で、滑川に沿ったところに、変形になった土地を見つけた。入り口が狭くて、そこから入ると中の地形も四角ではない。そのため相場よりずっと安く土地を手に入れることができた。


まず材木は、日本産のものは高いので、米材と呼ばれる外国産の木を使った。設計図はすべて自分で引いた。(略)たとえば押し入れは、二部屋の間に作り、両方から引き戸をつけて中のものを取り出せるようにした。また台所と茶の間の真ん中に棚を作り、台所で作った料理をその棚に載せ、茶の間から受け取れるようにした。(略)部屋と部屋の間に半畳ほどの板敷を作り、そこを通れば、他の部屋に足を踏み入れないないでどの部屋にも行けるように設計した。各部屋に電気用品用の差込口をつけたのも、当時としては斬新だった。


部屋の隅に小さな四角い切り口を作り、戸をつけた。掃除をしたゴミはその戸口から外へ掃き出した。その先にみかん箱が置いてあり、ゴミが溜まると処理した。家を建てると、どうしても屋根裏が無駄になる。そこで、三角屋根にして屋根裏部屋を作ろうと礼子は思いついた。そのため屋根は軽くする必要があるので、昭和初期には珍しいスレートを使用した。(略)階段は周り階段にして幅を広くとり、なだらかな傾斜で、子供が怪我をしないよう気を配った。まさに礼子の創意工夫に満ちた家だった。


礼子にはこういう才能があり、ペンキ塗りなど男のする仕事もやすやすとこなした。家が出来上がったとき、もう礼子には門柱を作る金がなかった。それで近所から生木を買ってきて、それを真っ二つに切って代用した。(略)そんな状態なので、庭も、もちろん手造りだった。今から考えると「たべられるものばかり植えました」と義正氏はいう。


「お金がかからない生活をする」ということで、雑誌「主婦の友」などの付録を見て勉強し、編物は独学でマスターした。その他、洋裁、和裁もできたので、子供たちや自分の服はすべて手製だった。義正氏の瞼に焼きついているのは、暇さえあれば身体を動かし、手を動かして働いている母の姿だった。家にはオーブンもあり、礼子は新しい料理にも挑戦してみた。また、圧力釜を買って、玄米を炊き、魚の骨まで調理した。


「母は家族の病気もほとんど自分で治したのですよ」と義正氏はいう。子どもだったのではっきりと覚えてはいないが、「完全看護の秘訣」と言ったような題の赤い表紙がついた分厚い本を克明に読んでいた。そして、一家の誰かが病気になると、素早く手当をしてくれた。その手当は、まさに万全だった。まず見立てが確かなのである。この子は腸チフスだとか肺炎だとかいうことをすぐに見抜いて、自宅で治せるかどうかを判断する。ただちに病院へ連れて行くこともあったが、たいがいは自分で手当てをした。


「母のお陰で父もずいぶん助かったのです」とは義正氏の回想だ。もともと五十六は呼吸器系統が弱かった。五十六が風をひいたときの礼子の看護の仕方は完璧だったという。絶対に安静にさせて、吸入器をかけた湿布をする。「部屋にね、蚊帳を吊るのです。そして火鉢を置いてやかんをかけて湯気を立てます。それから練り辛子を塗った湿布を胸につけます。五分くらいピリピリ痛いのですが、それを何べんも繰り返したのです」そのお陰で五十六が長患いをすることはまずなかった。


いずれにせよ、礼子が無理をしてまで鎌倉の家を建てたのは、子供たちの健康のためだった。義正氏は自著の中で「この、はじめての自分の家は、私たちにとって、まったくすばらしい家だった」と書いている。(略)のびのびと育つ留守宅の子供たちに、五十六はアメリカからクリスマスカードや手紙を送っている。』

○妻子に対する五十六の態度


阿川弘之

『一体、今までたくさん世に出た山本五十六の伝記のどれをあたってみても、彼が部下や、郷士の人人や、兄姉甥姪に対して、親身によくつくした話はいくらでも出て来るが、妻に対しても同様情が厚かった事を証するような記述は、ほとんど見出すことができない。(略)部下のある人々にとって、敬愛措く能わざる上官であったようには、彼は妻に対してよき夫ではなかったし、子供たちにも、あまりよき父親ではなかったように見える。』

工藤美代子

『五十六と礼子の最も大きな共通点は、二人とも、人一倍子煩悩であったところだ。礼子は、いわゆる口うるさい母親ではなかった。逆におっとりしたやさしい母親で、子供たちのいたずらにも、あまり怒ることはなかった。(略)五十六は五十六で、子供たちとたわむれるのが大好きだった。家にいるときは必ず子供たちと一緒に風呂に入った。


礼子は五十六と二人のときは「あなた」と呼び「お父さん」とは言わなかった。子供たちに対しては、夫を「パパちゃん」と呼んだ。


また五十六は実に小まめに礼子の親類ともつきあった。(略)礼子の兄弟姉妹は九人もいた。その配偶者たちも含めた家族ぐるみの往来を、五十六は全く厭わぬどころか、楽しんでいるふうだった。義正氏は両親が夫婦喧嘩をしているところを見た覚えがなかった。


ある意味ではサービス精神が旺盛な五十六だったが、こと自分の家族となると話は全く別だった。家族を人前に出すのを五十六は極端に嫌った。長男の義正氏が今でもはっきりと記憶している光景がある。それは五十六がロンドンから久しぶりに青山の家へ帰って来たときのことだった。会議の結果がうまくいかなかったと、家族はなんとなく察知していた。五十六の表情もすぐれなかった。しかし、そんな事情にはおかまいなく、どっと新聞記者たちが山本家に押しかけて来た。家の中に入って来て、家族との写真を撮らせてほしいと口々に叫んだ。そのとき、五十六がすっくと立ち上がり大声で一喝した。「君たちは家庭には来ないでくれ」そして、玄関の前に一人で立つと、好きなだけ写真を撮れといった。しかし、家族の写真は絶対に許可しないと毅然とした態度で伝えた。(略)ロンドン軍縮会議から帰国した五十六は、めっきり白髪が増えていたという。


ロンドン軍縮会議から帰った五十六は、礼子の身内の者それぞれに珍しい外国のお土産を用意していた。末子さんもコテイのおしろいや口紅をもらって嬉しかったという。「でもねえ、姉にはもう、そりゃあ沢山お土産を買ってきました。お化粧品ばかりじゃなくて、姉は洋裁も上手だったので、向こうでわざわざ姉の好きそうな柄の布地を選んで持って帰ってくれたんです。もちろん、姉も喜んでいました。」末子さんは昨日のことのように、昭和十年当時を語る。礼子の姉妹が集まると、よくそれぞれの夫も悪口が出る。ところが礼子だけは絶対に夫の悪口をいわなかった。いつでもおだやかで控えめにしているのが礼子であり、それは阿川の「山本五十六」に登場する礼子像とは全く違う姿だった。「なぜ、あんなふうに書かれたのか不思議だと末子さんはいう。


「あの関東大震災のときね、義兄は出張でロンドンに行っていたのです。その義兄に姉はすぐに電報を打ちました。この大地震の後は必ずケーブルがダメになって電報が打てなくなるから、今のうちにといって、もう地震の直後に電報を打ちに行ったんです。(略)義兄は、はやばやと姉から無事だという電報をもらっていましたから、安心していられたんですね。」』

この件について阿川は次のように書いている。

『また此の年、彼がロンドン滞在中に、関東大震災の報が届いた。ロンドン在留の日本人一同、大いに驚き騒ぐ中で、山本は、実業家連中に向かって、「大丈夫だよ。日本は必ず、前以上に復興するよ。今のうちに、東株でも買占めておけばいい。」などと言って、泰然自若としていたという。泰然自若はいいが、彼は一体、国に置いて来た妻の禮子と、生まれた十一か月の長男義正の身の上は案じたのか案じなかったのか、家族の無事はそれとも、早く電報で分かっていたのか、そのへんのところは、どうもあまりはっきりしない。』


全文、五十六に対する冒涜である。五十六は航空兵が練習中に行方不明になると、真っ青な顔をして一晩中心配する。着艦が下手な航空兵が海にドッポンしそうになると、一人で飛びかかって止めようとする。関東大震災が起きても、「大丈夫だよ、東株でも買占めておけばいい」などと言って泰然自若として・・・そんな訳ないだろうが。妻子の『身の上は案じたのか案じなかったのか』とは何という言いぐさだろう。こんな雑駁な神経の持ち主である阿川を、『記録的価値が大きい』などと持ち上げる大宅の神経も相当なものだ。


しかし阿川のいい加減さを実証している当の工藤美代子も、阿川の河合千代子ネタをガセだとは思わないのである。工藤美代子は不思議な作家である。


阿川弘之『山本五十六』より

『千代子は、あでやかで、頭もよく、字も上手であった。しかし、前に書いた通り、なにぶん新橋の名妓というわけではない。名古屋にいた頃から先の素性も、あまりはっきりはしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将連中は、決してよくは言わない。真偽とりまぜて、色々悪い評判がある。そういう女性に、山本五十六が、五十を過ぎて、どうしてそれ程まで夢中になってしまったのかと言えば、結局は、彼が家庭で求めて得られなかったものを、梅龍の千代子のうちにさぐりあてたからと解釈するより他はあるまい。』


再び週刊朝日の暴露記事の続きに戻る。

『さらにこんな短歌も、小さい紙片に書かれて同封されていた。「大ろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや」』


短冊の写真が掲載されている。地方図書館でも閉架を併設している所であれば、昭和初期の週刊朝日のバックナンバーは保存してあるので、探してご覧になられたい。『毎夜』の傍らに『ヨゴト』とルビが振られたり、『大ろかに』の側にカッコして(ナミ大テイニ)という言葉の注釈が書いてあり、万葉集の歌から取ったものと言われている。


週刊朝日の続き。

『戦死の公報   大本営発表(昭和十八年五月二十一日十五時)連合艦隊司令長官山本五十六ハ本年四月(十八日)前線ニオイテ全般作戦指導中敵ト交戦飛行機上ニテ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ。 時に六十歳。千代子は、この悲報を、発表前日、知ったが、日記には次のように書き記している。  五月二十日  いつも見る堀さん(元浦賀ドッグ社長、元帥と同期生)の顔が、今朝は何となくこわばった色にさえなく、私もただ胸のひきしまる感を覚えつつ承る。その言葉、「突然に意外にもこの悲しきお知らせを・・・・」山本五十六戦死とは。ただ茫然として切なく力なく、堀氏の顔さえ見上げる術さえ知らず。すべては終わりぬ。武人の死とは私には限りなき淋しさの極みのみなり。 五月二十一日  心の準備なれるはずなりしも、少しも落ち着かず。午後三時のニュースをいま一度耳にして確かなるやをただしたく。堀氏の言葉信ぜざりしか?信じたくなし。浅ましき女心よ。 五月二十二日 心の動揺激しく依然として落ち着かず。浮世に何事も絶えし心地ぞする。  五月二十三日  無言の凱旋とか。悲しさに耐えこらえて今日の日を待ちぬ。されど表に迎える勇気もなし。みな、「お迎えに」と電車通りへ走りいでしあと、のこされし千枝(女中)としずかに二回の窓一ぱいに引きあけて、  五月二十四日  今日は一般焼香の許されることとて水光社に歩む。このとき、わが手足はつめたく、感じさえなきようなりしも、安置された英霊の前に額づきぬ。夜、渡辺中佐(参謀)訪問。・・・許される範囲の事、いろいろと話し聞かされしも、語られる君の顔のいとも青く沈みたりき。遺骨捧げし中佐殿には、神谷町あたり通過の折には、心もいたく知らず知らずのうちに遺骨の小箱を高々と捧げられし、と語れる君の心中いかばかりかと。 六月一日  悲しさも落ち着かぬわが胸に、また悲しさはめぐり来し。亡き君が心からなるあの懐かしのお便りを、堀氏来訪とともに残らずもちゆかれたり。  六月五日 国葬。限りなき悲しみの中に静かに更けてゆく今宵。おくやみ孟子あげるこの心に一生涯の最も悲しい記憶として、今宵は永劫に刻みつけられましょう。 六月三十日 六月も悲しみの中に終わりぬ。あくまでも世の誤解と冷遇と闘わねばなりません。魂よ魂よどこへもゆかずここにきて、千代はどこへもゆかずここにおりますと、窓辺によりて呼び入れぬ。声なきいとしの人は一年ぶりにて、わが許に参られしか。さぞやおつかれなされしを・・・・・』


河合千代子と渡辺安次は男女関係にある。千代子は金にならない客とは寝ない主義であるが、渡辺安次とは保身のために寝たのである。借金のかたに妾にされ、身を持ち崩して以来、身を守るものは金だけなのだ。千代子に30年以上付き添った女性の証言によると、夫になった後藤銀作は嫉妬深くて千代子を束縛したが、一方では五十六グッズを持ち出しては商売に利用していたという。後藤銀作にとって『元帥の元愛人』という触れ込みの千代子を妻にすることは、戦利品を獲るような意味合いがあったのだろうか。望月氏が取材した晩年の千代子は、五十六との関係妄想だけを支えに生きている状態にあった。それは千代子にとって唯一のプライドだったのだろう。千代子がなぜ死んだ人間のストーカーになったかを考える時、私はそう思う。だから故人のストーカーになった千代子の沼津時代の顔は、新橋時代よりも落ちついた人相をしている。

渡辺安次は五十六暗殺を事前に知っていて、見殺しにした張本人である。彼は戦務参謀でありながら五十六のブイン視察について行かず、先任参謀の黒島亀人と共にラバウルの基地に残っている。もちろん黒島もシナリオを知っている。長官機には航空戦の神様といわれた若き天才樋端久理雄(といばなくりお)も同席する。三和義勇の代わりに連合艦隊航空甲参謀になっていた樋端は、五十六と一石二鳥で始末されたのである。私が渡辺安次の正体が見抜けずにいたころ、彼が戦後になって米軍の調査に協力した折、五十六暗殺の真相について逆に米軍に誰何したことを以て、渡辺の無実の根拠として書いた。しかしこれは渡辺のクサい芝居であった。不明をお詫びして撤回したい。

阿川はこの渡辺安次にも取材している。

『新版 山本五十六』より

『聯合艦隊参謀の中で、山本に最も目をかけられ、山本が戦死した時その遺骨の収容にいった渡辺安次は、山本にすべてを託して安らかにという意味で地震「安山」という俳号をつけているほど彼に私淑した人で、「山本さんに女があったというなら、私などは五十人ぐらい女があった」と言って彼をかばうが、それは、渡辺安次に「五十人」女があった計算程度には、山本にも女関係があったということである。』

阿川の詭弁である。渡辺安次は、自分に「五十人」女がいることはあり得ないと言う意味で、この「五十人」を使っている。渡辺安次に「五十人」も女がいることはあり得ない、それと同じくらい五十六の女関係もあり得ないと言わんがための例えなのである。渡辺安次は殊勝にも真実を話している。


週刊朝日続き

『“誤解と冷遇”に耐えて   「世の誤解と冷遇」とは何であったか?国葬直前の六月四日、過去十年、一尺四方の高さにまでなった元帥から千代子あての手紙のうち、昭和十六年以降の部分が、堀氏の手を通じて海軍省へ持ち去られたのである。のちに一年ほどたって、この手紙は再び堀氏の手で千代子の手にかえされたが、「全部焼却するよう」という海軍省の命令が言い渡された。彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった。紫色の煙と真赤な焔はいまだに、彼女の眼裏にやきついている。


この国葬前後の迫害はそれだけではなかった。ある軍人は、海軍省へ彼女を呼びつけて、「国葬までに自決されたい」といい渡し、彼女を知る軍人のある者も、暗にそれをすすめた。軍神のかげに女があっては困るというのである。彼女自身、元帥の死報を耳にしてから、何度か自殺を思いたっている。愛する人への強い思慕からであった。夜中に鴨居を見つめたまま、寝床の中で一睡もせぬこともあった。知人の医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した。』


手紙を取り上げておいてからまた返却し、「全部焼却するよう」と命令する間抜けがいるだろうか。五十六の恋文が本物で、それを海軍省が取り上げたのが本当なら、この週刊朝日に暴露したような機密情報が書かれている恋文などは、その場で直ちに焼却しているだろう。また千代子は焼かないで残した五十六の手紙の数について、週刊朝日では『彼女はとりわけ思い出深い十九通を残して、マッチをすったのだった』となっているが、望月良夫氏には全く違う証言している。

望月良夫前掲書より

『またあるときは、自決を迫られる話をしてくれた。「自決しろ!」と
五十六が戦死したその日か翌日、軍務局長を含む三、四人の海軍省の軍人が
来て、元帥にあなたのような女がいると恥辱だからすぐ自決してくれ、と言わ
れた。しかし、三十九歳の若さではとても死ねなかった(五十六の戦死は五月
十一日の大本営発表で一般国民に知られた)。その後しばらくして海軍省から、
元帥から来た手紙を全部提出せよ、命令に従わないなら家宅捜索をして取り上
げる、という通達が来た。仕方なしに、五、六通を隠し、六十通ほどの来信を
提出した。』

昭和十六年以降の五十六の手紙は、堀悌吉が海軍省に持ち去り、一年後にまた堀の手を通じて「全部焼却せよ」という命令と共に返された。千代子はその中から十九通残して焼却した→海軍省から提出命令が来たので、千代子は五、六通を隠して六十通を提出した・・・・全然違う話である。

軍務局長が自宅まで来て愛人に自決を迫ったというが、軍神に愛人がいても別にかまわないではないか。軍務局長は海軍省の各局の中で最も重要なポストで多忙を極めているから、そんな酔狂なことに割くヒマはないだろう。それとも軍務局長というのは、元軍務局長の堀悌吉のことを指しているのだろうか。何でもかんでも堀にお鉢を回せば済むと思っているのだろうか。また『医者から薬を手に入れようとしたが、失敗した』というが、夜中に一睡もせず見つめた鴨居で首を吊れば済む話である。海軍省が自決を迫ったというのも、恋文の焼却命令と同じ作り話である。千代子の存在が本当に邪魔なら、秘密裡に始末している。彼らは五十六のみならず、南雲も三和義勇も朝倉隆も殺害しているのだ。

週刊朝日続き

『悶々の日々に明けくれていた彼女は、昭和十九年三月、神谷町の自宅を、元帥の旧部下渡辺参謀に貸して、沼津市静裏の保養館に疎開していった。ここは、東京の地主、故清水栄三氏の別邸で、一部、海軍の施設に利用されていた。清水家の仕事を手伝ったりしながら、終戦を迎えたが、平安な途は残らなかった。』

海軍省に自決を迫られた河合千代子が、海軍の施設に利用されている保養館に疎開するというのは矛盾している。静浦の手前に牛臥(うしぶせ)という風光明媚な海岸沿いの村があり、沼津御用邸があった。貞明皇后はこの御用邸に滞在中、暗殺されている。後に河合千代子はその沼津御用邸のそばで、料亭を経営する。

週刊朝日続き

『ペンを持つことが好きだった彼女も、戦後は、日記を綴る意欲さえ起らなかった。ただ、強く生きることだけ。幸い、温暖な気候のせいで身体が回復したので、東京時代に蓄えた資産で沼津市内に料亭を建築するとともに、夫婦養子をとり、昭和二十五年からささやかに営業を続けているのである。「山本さんが、ああして戦死なさったのも、仕合わせだったかもしれません。生きのびて、戦犯として処刑されることなどを考えましたならば・・・・・私は悲しみません。ただ、心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きてゆくばかりです」いま、彼女は、こう述懐する。そして、古い日記を涙にむせびながら、読み聞かせるのであった。』(以上、週刊朝日の記事終了)


この翌年、千代子は後藤銀作と結婚する。暴露記事を出したこの時期には、すでに後藤の想い人である。しかも千代子は以前から五十六との関係を吹聴していたので、近所では元帥の元愛人として知られていた。『心の恋人として、山本さんの姿を胸に秘めて、強く生きていくばかりです』も何も糞もないのである。


望月良夫氏の前掲書に寄せられた感想文より

『後藤千代子さんの思い出                  熊倉弘二

(前略)私が同女にお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃です。八幡町の割烹“せせらぎ”で行われた沼津市内の酒屋の会合で同行した方から「ここの女将さんは新橋に出ていた名妓で、山本五十六元帥のお妾であった人ですよ」と密かに告げられ、山本元帥が名提督として戦中国民の畏敬を一身に集めていた当時の思い出もあって、どんなお人柄であろうと興味を持ったものの、かかわり合いなど聞くわけにもいかず、あでやかさを期待していたのとは裏腹に、どちらかといえば地味な清楚な感じの方という初印象でした。


二十七年夏、沼津税務署の関税課長から、名古屋国税局へ転任することとなり、“せせらぎ”で催された送別会に出席、同女とはとおり一辺の挨拶をして去ったのですが、妻子を伴って名古屋に赴任してみると、すでに発送した筈の引っ越し荷物がまだ届いておらず、沼津の運送屋に問い合わせの電話を掛けたところ、どう間違ったのかその電話がせせらぎ荘に繋がり、千代子さんが電話口に出られました。「それはお困りでしょう。私が運送屋さんのほうに連絡してあげますよ」、そんなことでいろいろご親切な手配をして頂き、それから一か月余り経って沼津に出張したさい、“せせらぎ荘”にお礼の挨拶に参上、同女と初めて話す機会を得ました。


お茶を頂きながら、「あの人(元帥のこと)は、困るとよく逆立ちしていましたよ」「熊倉さん、いずれは中央の大きな舞台で活躍することが大切よ、何でも勉強し、努力していかれることが大切よ」、そんなとりとめもない会話でしたが、今でも鮮烈な印象として記憶にあります。(後略)』

阿川は週刊朝日に暴露記事が載る経緯について次のように書いている。

『新版 山本五十六』より

『しかし、山本五十六にこういう女がいたという事は、戦前戦中はもとより、戦後も約十年間一般にはまったく知られていなかった。それを素っ破抜いたのは、昭和二十九年四月十八日号の「週刊朝日」である。ある方面から、沼津八幡町の料亭「せせらぎ」の女将河合千代子という人が、昔、山本五十六の思われ人で、山本の恋文をたくさん持っており、それを公表する意志があるらしいという事を聞きこんで、「週刊朝日」の記者とカメラマンとは沼津へ彼女を訪ねていった。千代子は快く彼らを迎え、手紙の束を出して見せ、達筆すぎて若い記者には読めないところは、自分で声を出して読んで聞かせ、自分の境遇についても語って聞かせた。』

かつてワシントン・ポストの二人の若手敏腕記者が、ウオーターゲート事件を素っ破抜いて大スクープを上げたヤラセを髣髴とする場面である。ワシントン・ポストはイルミナテイの身内組織である。ニクソンも連中の使い走りの小僧だが、金本位制を敢行しようとして失脚させられたのである。一方、ヤラセの立役者ボブ・ウッドワードは、ホワイトハウス関連のプロパガンダ本の大家になっていく。あれほどどうしょうもないジョージ・ブッシュを堂々と賞賛する稀有な才能を持っているのは、ウッドワードを措いて他にない。しかしウッドワードの人相がだんだんゾンビ化しているように見えるのは、私の錯覚だろうか。

『堀悌吉はこの時未だ健在で、発表の寸前にこれを知り、さる筋を通して、「出すのをやめてもらえないか」と朝日に差し止めを望んで来たが、新聞社の輪転機はもう廻りはじめたあとで、堀が、「まあ、嘘じゃないんだし、それじゃ仕方がないだろう」と言って、あきらめたという説もあり、実際は非常に憤慨していたという説もある。しかし少しのちになって気持ちが落ち着いてからは、「世間じゃ色々言うけど、結局山本はあれで一つ偉くなったじゃないか」と堀は言っていたそうである。』

堀悌吉をここまで虚仮にできる稀有な才能を持っているのは、阿川を措いて他にない。  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
10. 中川隆[-15073] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:15:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2114]
山本五十六の真実J   偽証者たち
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/225.html

前回に引き続き、偽証者たちについて検証する。


最近のネットには、日米戦争の要所要所で負けた海軍の将官たちに対する非難が湧き上がっている。しかし司令塔の昭和天皇が指弾されることはない。すでに塚英昭氏が大著『20世紀のファウスト』で、第二次世界大戦が完全な八百長であることを余すところなく実証しているのである。私はひとり昭和天皇だけが、この出来レースの蚊帳の外にいたとは思わない。むしろ日米英独ソ首脳の中で、昭和天皇ほど準備万端整えて八百長に臨んだ用意周到な国家元首はいないと考えている。


DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』には、昭和天皇が山本五十六に真珠湾攻撃をやらせた動機が語られている。日米戦争はやれば負ける、そう言って政府も軍人もみんなが反対していた。しかしこの八百長戦争に参加しなければ、成りすまし天皇家のスキャンダルをバラされ、昭和天皇は全てを失う。だから敗戦が既定のシナリオである日米戦争に踏み切らせたのであると。私は昭和天皇の背後には、フィックサー吉田茂がいると考えている。ヤラセを隠蔽するために、昭和天皇を使って現場将官に勅令を出させ、防衛省戦史史料や外務省資料を改竄させプロパガンダ戦史に塗り替えている。中でも近衛文麿と山本五十六のプロパガンダは、長期スパンで大掛かりである。

国際金融寡頭勢力によって田布施村王朝という傀儡政権が創出されて以来、日本はひたすら富国強兵路線を突っ走ってきた。換言すれば日露戦争も日清戦争も満州事変も日中戦争も、国際金融寡頭勢力のために田布施村王朝が用意したものである。そして歴代の成りすまし天皇の中で(といっても3人、実質ほとんど2人)、昭和天皇はきわめて自覚的にやっている。満州事変を起こした関東軍は、昭和天皇のマイ軍隊である。盧溝橋事件を仕掛け、日中全面戦争を引き起こし、麻薬で荒稼ぎするための精鋭たちである。昭和天皇の真意は、彼らの暴走に激怒するお芝居ではなく、帰国した彼らを宮中に呼んで勅語を与え陪食を賜る行為にある。


昭和天皇は千両役者である。日米開戦を危惧して参謀総長や軍令部総長を問い質したり、御前会議で思わせぶりな歌を詠むのも、宣戦の詔勅に『どうしてこの戦争が朕の意思であろうか』と何気に入れておくのも、すべて責任逃れの伏線である。日米戦争における昭和天皇の最大の命題は、いかにボロ負けして見せ、戦後も何も失わないで統治者のままでいるかということだけである。


日米戦争は日米共同演出によるヤラセで、日本側の司令塔は昭和天皇と吉田茂であるという大前提のもとに何か月か考えて出した結論を述べる。

◎必然的に戦史史料もガセである。

そうしないとヤラセであることがバレる。


◎そのために現役軍人が偽証者として現場に送り込まれている。

予め現場に貼り付き、『目撃』したことを日誌や日記に書く。


◎偽証者たち


○源田実 

主犯。 ミッドウエー海戦で『肺炎』になりかかる。 私は仮病だと思う。


○淵田美津雄

主犯。 同海戦直前「虫垂炎の開腹手術」をする。 これも仮病だと思う。


○三和義勇

プロパガンダ日記を書く。後にテニアンの前線に送り込まれ『戦死』する。


○宇垣纏

わざと驕慢な言動をしている。プロパガンダ日記『戦藻録』を書く。敗戦直後に自決。


○黒島亀人

吉田茂のコネクション。五十六に『偏愛された』と役を演じる。戦後は隠棲。


○草鹿龍之介

源田実のフォロー役。父親は住友財閥の東京本社理事。自己正当化が激しい。


○渡辺安次

戦務参謀として五十六の身近に貼り付く。河合千代子の家に出入りしている。私は渡辺安次と河合千代子は男女の仲にあると思う。


○藤井茂

1943年4月17日トラック島碇泊中の武蔵に於いて、五十六のブイン視察の詳細スケジュールを、改変したばかりの新暗号ではなく、すでに敵に解読されている旧暗号で打電する。これが暗号解読の真相である。さらに藤井茂は従兵長の近江兵治郎に五十六の私物を管理させ、隠蔽工作もしている。すべて勅令である。


○河合千代子

原田熊雄に指示されて、愛人プロパガンダを吹聴する。


○近江兵治郎

最後の『目撃証人』として、『60年目の真実』『70年目の真実』を訴える。


○統帥本部の両総長 永野修身 杉山元 

いずれも天皇のポチ。 杉山元は2・26の暗躍で台頭した。 


○軍令部スタッフ

福留繁

富岡定俊

三代一就 


五十六が辞職をちらつかせて真珠湾奇襲攻撃とミッドウエ―作戦作戦を強行突破させた、そのやり方に情けなくて涙が出たというシナリオを演じている。


◎リメンバー・パールハーバー

日米共演演出によるオトボケである。
騙し討ちにすべく奥村勝三がノロノロとタイプを打ったが、
45分前には野村大使がハル国務長官に電文を手交している。


○日本側出演者

野村吉三郎

来栖三郎

寺崎英成

奥村勝三


○米側出演者

フランクリン・D・ルーズヴェルト

コーデル・ハル

ジョージ・マーシャル

国務省スタッフ

偽証者たちはすでに開戦前から統帥部と連合艦隊司令部の現場に送り込まれている。三和義勇は1938年、山本五十六が連合艦隊司令長官に任命される直前に勅令を受けている。宇垣纏も勅令を受けて『戦藻録』を書いている。黒島亀人、源田実 淵田美津雄、渡辺安次、藤井茂、草鹿隆之介も勅令を受けている。黒島亀人は、吉田茂から直接に指令を受けて動いている。源田実はヤラセの主犯格。淵田美津雄は別格の存在である。

淵田美津雄はプロパガンダの天才である。彼が昭和二十四年に出版した『真珠湾作戦の真相』には、五十六プロパガンダの全てがある。これは淵田本人も前書きで書いているように、未だ誰も書いていない『真相』を初めて明らかにしたもので、全てはここから始まっているのだ。後発のプロパガンダ作家たちは、ここからプロパガンダ用語や構想をパクっている。まさしく五十六プロパガンダの教則本である。父親譲りの漢詩の素養を生かして、ノンフィクションとフィクションの手法を巧みに混在させ、読者を幻惑するその表現力は傑出している。あの有名な特攻精神を嘉する勅語を代作したのも淵田美津雄である。その格調高い名文には、草鹿龍之介も思わず唸ったという逸話がある。

淵田美津雄が真珠湾攻撃の飛行総隊長に選ばれたのも、技量だけでなく優れた表現能力を買われてのことである。彼はミッドウエ―海戦では仮病を使って、戦闘には参加していない。ボロ負けすることが既定のシナリオのミッドウエー海戦では、飛行総隊長となる者は生還を期すことができないからである。友永丈市大尉を飛行総隊長の身代わりに立て、淵田自身はフリーの立場になって甲板上でヤラセを観戦したのである。戦後、淵田美津雄は奥宮正武(源田実のパシリ)と組んで、ミッドウエ―海戦のプロパガンダ本を矢継ぎ早に出版する。その際、淵田美津雄は敗因をデッチあげるために、死人に口なしで友永大尉に罪を被せるのみならず、友永のミッドウエー島攻撃のやり方をおちょくってさえいる。

淵田美津雄は友永大尉が手際よく第一次攻撃をしていれば、第二次攻撃を進言することはなかったと思わせようとしている。しかしこれは友永の不手際ではなくそういうシナリオなのである。私は「友永が第二次攻撃を進言した」というのはガセだと考えている。ミッドウエ―島の航空機が出払っていたのは、真珠湾奇襲攻撃の時に敵空母が不在だったのと同様ヤラセである。淵田美津雄はこれを韜晦するために、味方の総隊長をおちょくっているのだと思う。以下に淵田美津雄の偽証の場面を抜粋する。淵田の相手をしている村田重治は戦死していることに留意されたい。

淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウエ―』朝日ソノラマより

『そこへ友永指揮官から「第二次攻撃の要あり」との意見とともに、第一次攻撃隊の攻撃成果を報告してきた。私はこの攻撃成果の電報を聞きながら、村田少佐に話した。「オイ、友永のやつは、ずいぶん中国で基地攻撃をやったくせに、なぜあの手を使わなかったんだろうかね?」


あの手というのは、こうである。敵の基地航空兵力制圧の目的で、基地攻撃に行った場合、あらかじめ敵がこれを察知して、飛行機全部を空中に退避させ、地上にいないことはよくあることである。そんなとき、あっさり大地をたたいて簡単に帰って来たのでは始まらない。そうとみたならば、まずもっている爆弾の三分の一ぐらいを投下して、そのまま帰投するとみせかける。向こうはもう帰ったと思って、燃料の関係もあり、基地へ戻ってくる。その間、一時間もすれば大体空中退避の飛行機は、着陸してまず燃料補給の作業にとりかかるものである。そこでこちらは三十分ぐらいのコースを往復して、再び襲えばうまく網にかけることができる。これは日華事変では、たびたび奏功した戦術であった。


村田少佐は苦笑しながらいった。「やっこサン、しばらく内地でアカを落としていたもんだから、素直になったんでしょう。しかしこんど、第二次攻撃隊も、ミッドウエ―基地の攻撃に向けるんだそうですから、私がうまくやってきます。安心していらっしゃい。バッサリと一網かけてやりますから」私はオヤオヤと思った。「愛二次攻撃隊をミッドウエ―基地に向けるって、もう命令が出たのか?」「ヤ、いま、司令部で話し合っているのを艦橋で聞いていました」「だってインド用作戦のときみたいに、出たあとで、偵察機から“敵艦見ゆ”と来るかも知れんぜ」「イヤ、しかし偵察機は、もう全部とうに索敵線の前端まで行きついた時刻なのに、報告がありませんから、攻撃圏内には敵艦隊はおらんと判断されていますよ」「そうか、しかし魚雷を抱いているんじゃないか?基地攻撃はちょっと困るね」「えゝ、それでいまから、陸用爆弾に積みかえろって命令が出るんですよ」「いやあ、それは大変な騒ぎだ。それに、もうそろそろ敵の陸上機が来るころだぜ」このとき、司令部ではすでに、第二次攻撃をミッドウエ―攻撃に振り向けることに、一決していた。』


実はミッドウエー海戦の直前に行われたインド洋作戦で、淵田美津雄は同じ情況のもとで南雲に爆装転換の進言をしている。本来、戦闘中の爆装転換は厳禁である。だから淵田美津雄は南雲に爆装転換のリハーサルをさせて、タブーを犯すハードルを取り払ったのである。しかし淵田美津雄はインド洋作戦で、自分が同様の決定を促したことには一言も触れていない。そんなことはおくびにも出さずとぼけている。

淵田美津雄続き

『私はふと、インド洋作戦でのコロンボ攻撃と、ツリンコマリ攻撃とを思い出した。あれはいかん。あのときは二度とも第一次攻撃隊が基地攻撃をやっているときに、索敵機が敵の水上部隊を発見した。「いつもの通りだと、またミッドウエ―を攻撃しているときに、索敵機は敵艦隊を発見するぜ。その手当はいいのかい?」村田少佐が代わって答えた。「大丈夫ですよ。そのために、第一次攻撃隊が出たあと、第二次攻撃隊が艦船攻撃兵装で待機していますからね。・・・」』

ミッドウエ―海戦のヤラセにより、友永大尉はもとより同胞三千人が海の藻屑と化している。しかし淵田美津雄の文章からは葛藤が伝わってこない。後に淵田美津雄はテニアンから自分一人だけ抜け出して、三和義勇や角田角治を見殺しにしている。やがて玉砕したテニアンは、原爆を搭載したエノラゲイが広島に飛び立つ基地となる。投下前夜、淵田美津雄は広島に集結した第二総軍の運命を知りながら、一人岩国基地に逃れている。


『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』編/解説 中田整一 講談社より

『以下、述べる挿話は、私ひとりがいい子になって、広島で被爆して死んで行った人たちは、神の恩寵から外されていたのかと、ひがむ人も出るので、私はあまり話したことはないのであるが、私自身にとっては、満ち溢れる神のめぐみであって、結局、この事実が後日、私をキリスト信仰へと導いて行ったのである。


実は、私は八月六日の前日五日まで、広島に滞在していたのであった。用件は、私は海軍総隊(昭和二十年四月設置。連合艦隊壊滅後の全海軍を指揮する)の航空参謀で、兼職として南方総軍参謀でもあったので、広島の第二総軍司令部にはちょくちょく出向いていた。


本土決戦について、九州防衛の共同作戦の打合せや、図上演習などは、もう済んでいたのであるが、今回はくしくも、眼にあまるB29の跳梁をなんとか制圧出来ないものかという、航空総軍案の「剣号作戦」なるものの打合せで、航空総軍の作戦参謀が主催した。当時、海軍総隊としては、「剣作戦」というのを準備中で、これはマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムのB29の基地に、陸戦隊を強行着陸させて、亀の甲爆弾と呼んだ特別に工夫公安された爆弾でB29を一機一機爆破しようとの特攻作戦であったが、これにも陸軍兵力が協力しようとの打合せであった。


会議は三日ほどで、五日の昼前に終わった。私はやれやれと腰を伸ばしながら、今晩も広島に滞在するつもりで、宿舎の大和旅館に戻った。旅館は細工町にあった。宿舎に戻って、先ずは昼寝と横になっていると、室内電話のベルが鳴る。受話器をとってみると、東京近郊日吉台にある海軍総隊司令部からで、矢野志加三(しかぞう)参謀長の声である。「航空参謀、広島の用件が済んだら、帰りに大和基地に立ち寄って貰えないか。久安(房吉)参謀副長が航空総軍との通信施設で、あなたの助言がいるそうだ。皇子関係者が明日総長に集まるから、今夜中に来てほしいそうだ」


私は、「承知しました」と返事はしたものの、やれやれ厄介なことを言って来たものだと思った。本土決戦に備えて、海軍総隊司令部は大和基地に移ろうとして、天理市外の竹ノ内という部落のみかん山の下に通信施設などの防空壕を掘っている。その作業を監督するために、久安参謀副長が現地に出張しているのであった。また航空総軍司令部は八尾基地に移るとかいうので、両司令部間の連絡を密接にするための通信施設は必要だけれど、直通電話の一本も布けばよいので、別に航空参謀サマの助言を必要とするほどのことではない。もう一晩、広島で泊まろうと思っている矢先に、しょうもない用事をいいつかるもんだと、ぶつくさ言いながら、それでも早速に車を岩国基地に走らせ、置いてあった連絡機で、私は大和基地に飛んで、その夜は、久安参謀副長の泊まっていた竹ノ内部落のお百姓さんの家に一緒に泊めて貰った。


翌日早朝は、工事関係者との打合せを済ませて、午前十一時頃、すこし早いお昼を戴いていると、また矢野参謀長からの電話である。話を聞いて、びっくり仰天した。今朝八時十五分頃に、広島に原子爆弾らしいものが落ちて、全市は壊滅したという。


今日、思い出すたびに、胸がうずく。多くの人々は、何が起こったのかも分からずに、一瞬のうちに死んで行った。しかし、この幼い少女は、あれから一昼夜半あまり、兄に助けられて生きていた。そしておぼろげながら、何が起こったのかを知った。仇を取って貰わねばならぬ敵がいるのだ。畜生!』


これに対して鬼塚英昭氏は次のようにコメントしている。


鬼塚英昭『昭和天皇は知っていた 原爆の秘密 国内編』成甲書房より

『「淵田美津雄自叙伝」は延々とこの間の事情を書き続ける。簡単に記せば、三日間も続いた会議は存在せず、彼は夜半ひそかに広島を離れて岩国基地に移ったということである。淵田大佐は海軍が畑元帥の元へ送り込んだ“使者”であった。淵田は戦後、クリスチャンになった。ヨハンセン・グループ、同盟通信社グループも全員クリスチャンになることで、一原爆孤老が書いたように「日米協力プロジェクト」の一員となり、「幸せという名の身分」をアメリカから与えられた。私は太平洋戦争開戦以前から、淵田たちはアメリカの隠れエージェントであったと思っている』


淵田美津雄は源田実と共に、G2(GHQ諜報部)戦史室長ゴードン・プランゲと共謀してヤラセ戦史を作成している。プランゲは戦時中に淵田美津雄と源田実が果たした役割に敬意を払い、この二人だけに対しては夕食を挟んで一回四、五時間にも渡る聴取を計70〜80回も実施している。この間、淵田美津雄がプランゲに妙なる霊感を与えたことは疑うべくもない。淵田美津雄の『真珠湾作戦の真相』を読めばそれは歴然としている。千早正隆はこの尻馬に乗っているだけである。


千早正隆『元連合艦隊参謀が語る日本海軍失敗の本質』PHP文庫より

『ミッドウエー海戦のシンポジウム  昭和六十三年(一九八八)五月六日、アメリカノペンサコラ市で、それより四十六年前のミッドウエ―海戦のシンポジウムが、かつてなかった形式で行われた。それは、戦場で国家の命運を担って激しく戦った日本とアメリカ海軍の戦士の代表が、公開の席でその海戦を話し合うというものであった。太平洋戦争が終わって四十三年になっても、そのような大々的な試みはいまだかつてないことであった。


アメリカ側としては第一航空艦隊の航空甲参謀であった源田実氏(海兵五二期)と、同海戦でアメリカ側が手痛い目に合されたゼロ戦のパイロットおよび日本側の同海戦の研究家という要望であった。・・・問題は目玉となる源田氏がたまたま階段で足を踏みはずして歩行が困難なことであった。そこで急にその代人として同艦隊の航空乙参謀であった吉岡忠一氏(海兵五七期)に白羽の矢を立てたが、同氏もまたその健康上から長途の旅は不可能であった。あげくの果て、航空関係者でもなく、ミッドウエ―海戦にも参加していない私が、その代わりとして参加することになった。


歴史著述家のウオルター・ロード氏は、アメリカ海軍のミッドウエ―における成功は幸運に恵まれた賜にすぎないとしていた。アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読したことと、日本の索敵機がアメリカ空母の発見に失敗したこと、さらに「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃機隊がほとんど同時に南雲部隊に殺到して必殺の攻撃をしたことを、その事例として挙げていた。』


私見ではミッドウエ―海戦に勝利したのは日本である。日本はミッドウエー海戦に於いて完勝している。楽勝である。アメリカが情報戦を制し『奇跡』の逆転勝利を果たしたというのは、プロパガンダである。『アメリカ海軍のミッドウエ―における成功は幸運に恵まれた賜にすぎない』。それをもたらしたのは日米共同演出による詐術である。『「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃隊がほとんど同時に南雲部隊に殺到して必殺の攻撃をした』のは戦闘行為ではない。そのような情況を日米共同で演出したのである。ニミッツ自らそのように述べている。


C・W・ニミッツ/E・B・ポッター『ニミッツの太平洋戦史』恒文社より

『スプルーアンス提督が希望していたように、両艦の飛行甲板は燃料の補給を終え、まさに発艦しようとしていた飛行機でいっぱいであった。この真ん中に、米軍パイロットは爆弾を投下したのである。彼らが爆弾投下器の引き金をひき、急降下の飛行機の姿勢を水平におこすまで、なんら戦闘機の反撃は見られなかった。』


しかし千早正隆は日本海軍の驕りを得々と披露する。千早正隆は海軍驕り症候群を流行らせた張本人である。


千早前掲書の続き

『それよりはるかに重大なことは、ミッドウエ―戦り二ケ月前の四月に南雲部隊がインド洋に作戦した時に、イギリス艦隊に待ち伏せされたという事実があったことである。南雲部隊はイギリスの複葉旧式のスウオードフィシュ型の艦上攻撃機を認めて“この付近に敵空母存在の疑いあり”としながら、その敵を索敵すらしなかった。それかりでなく、それから悪一か月後にミッドウエ―作戦計画を研究した時に、第一航空艦隊でそのことを想起した人は一人もいなかった。この心の驕りがミッドウエ―の敗戦につながったと私が述べると、拍手が起きた。アメリカ側の戦史には、南雲部隊がインド洋でイギリス艦隊に待ち伏せされたことは、全く述べられていないからであったろう。事実、シンポジウムに参会していた私の知人のあるアメリカの戦史研究者は、南雲部隊がインド洋でイギリス艦隊に待ち伏せられていたことを初めて知って、驚いたと述べていた。』


千早正隆は得々とミッドウエー海戦に日本海軍がボロ負けしたのは驕りによるものである、というプロパガンダ戦史を述べている。源田実が『鎧袖一触』のような驕慢な言辞を吐いたり、宇垣纏が傲慢きわまりない図上演習をやって見せたり、連合艦隊スタッフはミッドウエ―惨敗のための下地作りをしている。その臭い芝居を『海軍驕り症候群』として広めたのが千早正隆である。千早はプランゲのインタビューを引用しながら、自分自身でもミッドウエー海戦の『敗因』を検証している。千早の検証は、シナリオのト書そのものである。


千早正隆・柳田邦男『ミッドウエ―の決断』プレジデント社より

『南雲司令部のこの計画が成功するためには、少なくとも、攻撃隊全機が発艦し終わる午前十一時過ぎまで敵機の来襲がないか、あったとしても、日本側は一弾たりとも被弾してはならなかった。もし飛行甲板に被弾すれば、攻撃機が発艦できなくなり、ガソリン・爆弾を満載した攻撃機に命中すれば、次から次へと誘爆して大惨事となる。南雲艦隊にとっては最も危険な時間帯を迎えるわけである。』

軍令部スタッフ、総長永野修身、福留繁、富岡定俊、三代一就らも偽証者である。真珠湾攻撃とミッドウエー作戦に対する彼らの偽証は、同じパターンを反復している。黒島亀人と渡辺安次が上京して軍令部を説得したが猛反対を受けた、そこで黒島亀人が五十六の伝言だといって辞職をちらつかせたり、あるいは渡辺安次が中座して山本五十六に電話で問い合わせ、『作戦が通らなければ辞職する』と五十六が言っていると伝えた、そういう五十六の態度が情けなくて富岡定俊と三代辰吉は涙が出た、ということになっている。このガセねたを考案した人物こそ淵田美津雄である。


この淵田美津雄と二人三脚を組んだのが、奥宮正武である。淵田と共著で精力的にプロパガンダ本を量産する傍ら、座談会でもプロパガンダを吹いている。


『徹底討論 “運命の五分間”はなかった


兵装転換の混乱がもたらした“運命の五分間”は真の敗因だったのか、従来の定説を一つ一つ点検し、歴史的な海戦が持つ意味をさぐる


出席者・階級は当時


阿部平次郎(海軍大尉 「蒼龍」艦上攻撃機分隊長)

板谷隆一(いたや たかいち 海軍大尉 「長門」乗組  八分隊長)

大井 篤(海軍中佐 海軍省人事局員)

奥宮正武(海軍少佐 第四航空戦隊参謀)

雀部 利三郎(ささべ りさぶろう 海軍中佐 機動部隊参謀)

澤地久枝(作家)

土肥一夫(どひ かずお 海軍少佐 第四艦隊参謀)

司会 秦郁彦(筑波大教授)

♪ 私の感想


「講和へ導くための大バクチ」


♪上記は座談会の小見出しの題名である。のっけからプロパガンダである。

(大幅に略)

「敵情判断に見る驕慢」

♪この小見出しもプロパガンダである。連戦連勝に驕り高ぶった海軍が、敵情視察を甘くみて惨敗したというシナリオに添ったプロパガンダである。秦は千早正隆とともにこのプロパガンダを吹いた張本人である。

秦郁彦(司会)  しかし、当時は行けば勝つ、というムードが全般的にあったから、この作戦をそれほど深刻な大バクチだとは考えていなかったのではないですか。

♪秦は誘導が得意である。

奥宮正武  いや、大バクチと考えてたんですよ。軍令部が反対するのにとうとう説きつけたんですから、これは容易な決心じゃなかった。

♪奥宮も秦のトモダチである。

板谷隆一  しかし、私なんかの印象では、ハワイ作戦のときはともかく、ミッドウエ―作戦の時は勝てるという前提で出発した感じがしてますね。・・・

大井篤  第一航空艦隊の「戦闘詳報」に目を通すと、「機動部隊指揮官ノ情況判断」という項目がある。それにこう書かれているのです。「敵ハ戦意ニ乏シキモ我ガ攻略作戦進捗セバ出動反撃ノ算アリ」。つまりこの程度の判断で出ていった・・・。

雀部利三郎  それは出撃前の図上演習で宇垣纏さんが強調したんですよ。敵の艦隊は出て来ないだろうと。それが先入観念になっている。もし出て来ても、とにかく敵は弱いんだと、これを非常に強く言っていましたね。

奥宮  それはもう真珠湾作戦いらいの驕りなんです。

♪奥宮はムードメーカーである。

大井  しかし、驕りにしても、ひどい。「敵ノ飛行索敵ハ・・・・・・厳重ナラザルモノト認ム」。こんなことは書く必要がない。

♪大井篤も同類項である。

雀部  確かに書く必要はない。しかしこの「戦闘詳報」は後から書いたんですよ。

雀部   機動部隊が作戦命令を作ったのは五月十五、六日じゃなかったかと思うんです。これは主として源田実中佐が書いた。

「無視した米軍の強さ」

♪ミッドウエー海戦で何が驚異的だったかというと、米軍があまりに弱かったことである。殊に搭乗員の技量が信じられないくらい稚拙であった。使い捨ての高学歴の要員を、ミッドウエーのヤラセに投入したためである。彼らが滑走路を走り始めた瞬間に棺桶に入ったと指揮官は覚悟するべきである、とゴードン・プランゲでさえ述べている。特攻の嚆矢はこのミッドウエー海戦における米海軍である、と指摘している。この座談会の小見出しはすべてプロパガンダである。

阿部平次郎   出撃の前に横須賀で源田さんと千早猛彦君にばったり出会ったんですが、「源田さん、今度のM作戦は止めなさいよ、袋叩きになりますよ」と言った記憶がある。というのは、南海島の陸戦隊から軍事郵便が、ぼくんとこの兵隊に届いて「今度はM作戦らしいが、大いに頑張ってくれ」と書いてきている。こりゃ機密が全海軍に筒抜けだと。それに人事異動。大事な作戦を前に、分隊長が替り、超隊長が替り、そして新しく配属された連中は無敵機動部隊の搭乗員になったと言って、もう乗っただけで鼻高くなってね。これじゃいかんと思って、源田さんに言ったが。

♪そういうシナリオである。

秦  耳をかさなかった?

阿部  私は昭和十二年八月十五日いらい戦場に出てるんですが、今度だけはもういよいよ死神のお迎えだ、と覚悟した

秦  予感があった?



秦は狂言回しも得意である。

阿部  友さんとは昭和十二年に加賀で一緒に戦った仲だが、以後彼はずっと内地にいてあまり戦場へ出ていないんです。

「無茶苦茶だった図上演習」

♪これもヤラセのお芝居である。

秦  そこで有名なGF統裁のミッドウエ―図上演習の話ですが、この演習は五月一日から四日間、戦艦大和の艦上で行われた。宇垣参謀長が審判長だったということですが・・・・。

♪秦はシナリオの勘所を掴んでいる。

奥宮   サイコロ振ったのが私なんです。青軍の空母に計九発爆弾が命中したのに、宇垣さんが「今のは三発命中とする」とやるんですから、もう無茶苦茶ですよ。

♪宇垣纏の仇名は黄金仮面、無茶苦茶な役どころがピッタリである。

板谷  実に宇垣さんの傍若無人なやり方にはびっくりしましたが、それ以上に驚いたのは、普通の図演なら状況判断に天候や海の状態などの各種条件がつくなずなのに、あのときは天気は良好としたままどんどん進んでいっちゃうんだね。(笑)

奥宮  そしてミッドウエ―で沈んだはずの空母が、フィジー・サモア作戦ではいつの間にか浮き上がって参加しているんですからね。(笑)

♪サイコロ振ってた奥宮も共犯者である。

「山本長官出撃の理由は?」

♪拙劣な指揮を執ったという汚名を被せるためである。私見では、戦闘中、山本五十六は大和の中で、勅令を受けた者たちによって拘束された状態にあったと考えている。

秦  それでいよいよGFあげての総出撃となるわけですが、いま考えるといちばん奇妙なのは、山本長官みずからが大和に座乗して、三百カイリ後から進撃したということなんです。観艦式のつもりだったとか論功行賞のためだとか、いろいろ言われていますね。

♪秦は急所を外さない。

板谷  私は長門で出撃しましたが、昔から海軍には指揮官先頭という伝統があるから、われわれも出ていくんだということでしたね。主将出陣という感じで。論功行賞などは考えていないと思いますよ。桂島でじっとしていることでとかく言われていたのは事実ですが。

澤地久枝   戦闘の局面次第では、大鑑巨砲にもの言わせて、大いにやろうという気もあったんでしょうね。

板谷   それはあったと思います。でも敵は出て来ないだろうという感じでした。

大井  だから、やっぱり世間でいう論功行賞、これはぬぐい切れないと思うよ。・・・

雀部  山本さんは機を見てハワイを奪う、という考えを持っていたらしい。

奥宮  いや、ハワイ攻略など考えていなかったと思いますよ。輸送船などの準備が全然ありませんからね。

♪奥宮の人柄が伝わってくる。


「敵空母を叩くために」


 
澤地  「戦史業書」などを見ますと、GFとしてはミッドウエ―攻略とともに、これを阻止しようと出てくる敵機動部隊を叩くという、つまり二重の目的を持った作戦であると一航艦に念を押した。ところが一航艦の方はミッドウエ―攻略で頭がいっぱいだったらしいですね。雀部さんは桂島出撃の時は作戦目的をどう理解しておられましたか。

雀部  はじめは、敵の艦隊をおびき出して、これを叩くのが作戦の主眼だと言われていたように覚えています。ところが、大海令には、そう書いてない。「陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」(AFはミッドウエ―、AOはアリューシャン列島の略語)と書いてある。それにつられたように、GFの作戦命令にも似たようなことが書いてあったんです。だから、山本長官の考えが変わったのか、とにかくミッドウエ―攻略が第一義なんだなというような頭がありましたね。

奥宮  あのときの空気では、ミッドウエ―を叩かなければ、空母は出て来ないということが支配的でしたからね。矛盾はしてないわけですよ。両方ともできる、優先順位を付ける必要なはい、出撃時はそんな空気でしたね。

♪奥宮は「二兎を追う」ボケ作戦を肯定している。

奥宮  戦艦大和の会議で、トップの頭を支配していたのは、敵の空母が出て来なかったらどうしようかということなんです。

秦  ところで、ミッドウエ―爆撃の一日前にアリューシャンを叩いたのは何が狙いだったんですかね。


♪アリューシャンに戦力を割き、ミッドウエ―の戦力を削ぐことである。

奥宮  二隻の空母でアリューシャンをたたけば米空母が釣られてハワイから出てくるだろう。それを南雲さんの四隻で叩く。だから牽制作戦なんですな。六隻が堂々と出ていったのでは、敵は逃げるだけだ。二隻なら出てくるだろうという驕りですよ。

♪奥宮、ミッドウエ―を叩く&敵機動艦隊を撃滅する『二兎を追う』作戦を肯定したばっかだろうが。なんでアリューシャンを叩く必要があるのだ。何でもかんでもGFの驕りのせいにするシナリオなんだな。

阿部   そのための索敵や哨戒のために潜水艦がずらりと並んだ。

奥宮   ところが位置はよかったのだが、展開の時期が遅れてしまった。

♪皇族の小松侯爵が責任を持って哨戒を四日間も遅延させ、敵艦隊を無事にスルーさせてあげたのである。

澤地  潜水艦が所定の海域に布陣したときには、米機動部隊はすでに通過していたというわけですね。

♪シナリオの予定通りである。

大井  あなたは蒼龍だったかな。

阿部  蒼龍です。それから格納庫には第六航空隊の戦闘機を六機積んでいる。これも占領したらすぐ陸揚げして基地防空に使うという。冗談じゃないよ、いまある飛行機かででも発着甲板をやり繰りするのが大変なのに、六機も余分を積んでゆく。これを幕僚は反対しなかったのか、こんなことで戦争が出来ますか、と意見具申にいったり。まあ、敵をナメていたんですな。

♪「二兎を追う」作戦は、戦闘機を余分に搭載する口実でもある。六機も余分に積んで発着甲板の混乱を狙う筋書きである。それを「まあ、敵をナメていたんですな」と深く考えず、即『驕り』のせいにする。ほぼパブロフの犬状態である。


この件では千早正隆も声高に吠えている。

プランゲ著『ミッドウエ―の奇跡』千早正隆訳 訳者あとがきより

『四隻の空母の固有搭載機は、補用機を入れて合計二百六十三機であったが、それ以上に第六航空隊の戦闘機を二十一機も搭載していた。一艦宛てでは五機の増加ということになるが、五機の増加がそれでなくても窮屈な格納庫の格納をより一層窮屈にしたことは否めない。そればかりでなく、合戦前には不要な物件はできるだけ陸揚げして、被害を極限するという原則に反する行為であった。余分に搭載したためにどれだけ被害が増大したかを、計量することはできないが、第六航空隊の戦闘機を余分に搭載したというこの一事に、下算と慢心の一端を看ることが出来ると指摘せざるを得ない。』


♪下算でも慢心でもなく、奇跡の逆転劇を演出するための小細工である。

再び座談会の続き

「被爆直前の飛行甲板」

秦   いよいよ六月五日攻撃の日となりますが、阿部さんは第一次攻撃隊でミッドウエ―爆撃にいかれたんでしたね。

阿部  はい、島が見えるか見えないかのところで、四、五十機の敵戦闘機が待ち伏せていた。(略)

秦  敵の戦闘機は強かったですか。

♪秦は地雷を踏んでいる。

阿部  まだ戦争慣れしていないなという感じでした。(略)

♪戦争慣れしていないどころではない。国家の命運を賭けた世紀の決戦だというのに、米軍は練習時間が必要量に満たない搭乗員や、実戦経験がない搭乗員まで投入していたのである。米軍は正規の戦闘ではまったく勝ち目がない、ヤラセでなければ勝機は見いだせないということを十分自覚していたので、戦闘の場面では使い捨て要員を投入し、『運命の五分間』の時だけ手練れを用いたのである。

「日本軍の戦死者総数三○六四名」

澤地   しかし、赤城の搭乗員がそんなに戦死していないというのは、どういうことなんでしょうか。


大井   聞くところによると、澤地さんはコンピューターを使ってミッドウエー海戦の全戦死者を調べられたということですね。

澤地   はい、日本側の飛行機搭乗員の戦死は計一二一名です。戦死者総数が三〇六四名。比率でいうと三・九五%にしか当たりません。アメリカ側の搭乗員戦死者は二一〇名。戦死者総数は三六四名ですから、搭乗員の戦死率は五七・六旧%。ミッドウエ―海戦は日本海軍の搭乗員に大きなダメージを与えた、というも言われてきましたが、数字上からみるとむしろ逆なんです。

大井   予備学生はどのくらいいますか。

澤地   アメリカ側で、二一〇名のうち七二名、割合は三四・二九%で、つまり三割以上が予備学生出身の搭乗員ということになります。

奥宮   アメリカの搭乗員は日本と違ってほとんどが将校ですね。

澤地   それからこの搭乗員戦死数を、各鑑別に申しますと、赤城七名、加賀二一名、飛龍七二名、蒼龍一〇名、三隈四名、最上二名、利根二名、筑摩三名。ここにさっき話に出たミッドウエ―攻略後の要員である第六航空隊所属者もふくまれています。つまり赤城の戦死は七名(うち機上以外の戦死四名)ということです。定説のように、飛行甲板にずらっと勢揃いして、まさに発進が始まろうという状況での被爆であったということが本当なら、もう少し死んでいるはずです。それで疑問に思われるのですが。

♪『飛行甲板にずらっと勢揃いして、まさに発進が始まろうという状況での被爆』→飛行甲板にずらっと勢揃いさせているが、搭乗員を乗せないのである。敵にスムーズに爆撃させることがシナリオの合意点である。敵の爆撃を受けるまで発艦させない、という意図が働いていたと思う。

大井  どうやって調べたんですか。

澤地  独自の調査です(笑)。四年もかかって調べたのです。ご参考までに、戦史者リストを表にしてご報告しておきますと、


兵科      一〇三三名    三三・七〇%
飛行科     一〇七名     三・四九%
整備科     七四一名     二四・一八%
工作科     六九名      二・二五%
医・看護科    一八名     〇・六〇%
主計科      一二五名    四・〇八%
軍属       二名      〇・〇六%
機関科      九六九名    三一・六二%


となります。これでみても、機関科と整備科の損耗はその後の戦いに響いたと思いますね。

阿部  機関科の九六九人は大きいですね。彼らはいったんは這い出してきているんですよ。だが通路などにいっぱいに積んだミッドウエ―占領後陸揚げの荷が、いっせいに火を噴いていて、逃げ場を失ったらしいんです。

秦   この調査にざっとどのくらいかかりました。

澤地   調査と取材とコンピュータの仕事を含めて四千万円を超えたでしょう。

大井   とにかく大変な調査だと思いますよ。敬服しました。

秦   澤地調査をふまえて核心に入りたいのですが、第一次攻撃隊がミッドウエ―爆撃にいっている途中に、よもやと思っていた敵空母発見電が入ったわけです。どんな感じで受けとられましたか。

「護衛戦闘機付きの正攻法で」

♪ここからヤラセ本番の検証に入る。小見出しはヤラセを正当化するためのコジツケである。

雀部    源田参謀でしたか、吉岡参謀でしたかがすぐにこう言いました。「まだ余裕があるな」と。敵空母とは約二百マイル離れている。当時の飛行機は時速二百ノットですから、来るまでに一時間はかかるだろう、という意味でしょうね。それで「戦闘機をちゃんと付けて、正規の隊形でやりましょう」と源田が言い出し、吉岡が三世して、草鹿参謀長も賛成した。それで決まったんで、だからあのときガタガタ大騒ぎした覚えはないですね。

♪指揮系統の決定は、源田と吉岡と草鹿でやっていたのである。

澤地   決定するまでどのくらいの時間が。

雀部   長い時間はかからなかったと思いますよ。そしてその命令が発せられてから、源田が「まだ時間があるから第一次攻撃隊をとりましょう」と言った。収容するという意味です。それですぐ第一次攻撃隊が着艦しはじめた。

秦   敵機動部隊の先制を恐れあわてて、判断を誤ったんじゃないわけですね。

雀部   動転なんかしていません。ただ「敵ラシキモノ見ユ」の第一報の位置が誤っていて、実際には百五十マイルしかなかった。だからこっちが考えているより早く、敵の機動部隊が来た。そこに錯誤があったと思いますよ。

♪『第一報の位置が誤っていて、実際には百五十マイルしかなかった。』というのは、驚くべき情報である。なるほどそういうストーリーだったのだ。

秦   山口多門少将(二航戦司令官)からの意見具申「タダチニ発艦ノ要アリト認ム」を却下したのも・・・。

雀部   あれを握り潰したのは、南雲長官と言われていますけど、源田参謀ですよ。

大井   一航艦の人的構成も研究してみる必要があるね。源田は話が上手だし、三段論法でくる。それにくらべて南雲忠一という人は・・・・。

雀部   その源田が内地を出た翌日から風邪をひいて肺炎になりかかって、ずっと寝込んだままでした。起きてきたのは五日の攻撃の朝でしたからね。判断力なんか鈍っていたと思いますよ。

♪こう思わせるための『肺炎』である。

秦  雷爆転換よりは、直衛戦闘機の都合がつかないたけに出発が遅れたんでしょうか?

雀部  ええ、雷爆転換で遅れたとは、私は考えませんな。

澤地   魚雷を陸用爆弾に転換するのに、どのくらい時間がかかったのでしょう?

雀部  大体、二時間とみていました。その逆も同じくらいです。

澤地  あのとき、兵装転換中にも敵機が後から後から、切れ目なしに襲ってきていますね。平常航海中に飛龍が訓練で兵装転換をやったときも、二時間以上もかかっているのです。大角度で転舵という戦闘中なんですね、あのときは。それで二時間でできますか。

♪戦闘中の兵装転換は厳禁である。この鉄則を最初に破らせたのが、飛行総隊長の淵田美津雄である。ミッドウエー海戦の直前のインド洋海戦で、戦闘中の兵装転換を南雲にさせてハードルを越えさせている。

雀部  〇一三〇に第一次攻撃隊が出たあと、〇二二〇に兵装転換の予令が出ているんですよ。だから魚雷なんか弾庫から揚げてあったと思うんですがね。だから割合に早いんですよ、転換が。

澤地 問題の〇二二〇の予令は、一航艦の「戦闘詳報」には「敵情特ニ変化ナケレバ第二次攻撃ハ第四編制ヲ以テ本日実施ノ予定」と表現されていますが、この第四編制は爆装を意味するんじゃないか。それに、予令なのに気をきかして、実際に爆装して待機していたんじゃないかという疑いがあるんですね。

♪ここでたまらず奥宮が口をはさむ。

奥宮  あのときのことは淵田美津雄さんと私の共著である「ミッドウエ―」にしっかりと書いてあります。この海戦に関しては彼の研究がいちばん早く貴重なものですよ。私は彼を信じますね。

♪そうです。淵田美津雄は仮病を使って観戦し、『しっかりと書いてあります。』奥宮正武はその淵田と二人三脚を組むことで、プロパガンダ作家として順調なスタートを切ることが出来たのです。

「敵艦隊か、ミッドウエ―基地か」

♪ハムレットのようなクサい芝居をするために、二兎を追うヘボ作戦が用意されたのである。

澤地  では、淵田さんのご本に基づいてお尋ねします。最初に魚雷を積んでいたという前提で話させていただきますが、〇一三○に第一次攻撃隊が発進する。同時に索敵機が出ていく。このうち問題の利根四号機が三十分遅れて飛び立つ。淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。そしてそろそろ日の出で薄明るくなってくる。「飛行甲板は第二次攻撃隊の飛行機で埋まった」と書いてあるんです。

奥宮   〇二二〇の予令はあくまで予定です。「用意せよ」じゃない、予定ですよ。『戦闘詳報』には「実施ノ予定」とあり、しかも「敵情ニ変化ナケレバ」と条件がついている。

♪おかしいではないか。あくまで“予定”であって“用意”でないなら、どうして『淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。』と書いているのか。

澤地 詳報の〇二二〇ではそうです。

♪詳報はそうです。淵田美津雄の書いていることと全然違います。

奥宮  この“予定”がそのまま実行に移される前には、必ず「予定のごとく行動する」という命令が出るはずです。ところが、その日は敵情が変化した。つまり米空母が発見されたので予定どおりにはいかなかった。

♪ますますおかしい。「敵情に変化があったのに第二次攻撃隊が用意された」と淵田は書いていることになる。

澤地  もう一度〇二二〇の予令に戻って考えますが、甲板上の艦攻隊は状況の変化がなければ、ミッドウエ―へもう一回爆装にかえて陸上攻撃に行くようになるかもしれんから、その心構えだけはしておけと・・・・・。

阿部  そう、心構えでしょう。

奥宮  “予定”というのはあくまでも心構えであって、行動に移すわけじゃない。

♪くり返すけど、観戦していた淵田自身が行動に移しちゃってると書いてるんだよ。『淵田さんは第一次攻撃隊が出撃したあと、「第二次攻撃隊、用意」という号令が拡声器から伝えられたと書いています。そして赤城ではエレベーターでチャンチャン音をたてて戦闘機や雷撃機が揚げられて「一方兵器員は弾薬庫のエレベーターで上がって来る魚雷を・・・・・飛行機に装備する」。』ね、行動に移してますね。

澤地  ところが、甲板上の飛行機は魚雷をつけて待機しているというのでしょう。そこへ予令を出すというのは、どういう意味なのか、ということです。

阿部  索敵機も出していることだし、ミッドウエ―からの戦果報告もあるだろうし、両方を見合して今後の作戦行動をどちらかに決める。が、いまの状況では陸上攻撃になる場合もありうることを考えておけよ、ということでしょうな。

♪だから陸上攻撃の準備を行動に移してしまっているのはなぜなんだ?という質問なんだよ。

奥宮  そうです。心の準備です。

♪だから心の準備を行動に移してしまっているのはなぜなんだ?という質問なんだよ・・・阿部と奥宮には澤地の質問を理解する能力がないのかもしれない。

秦  しかし気の利いた整備員や兵器員が弾庫から陸上用の爆弾をあげておけとなることも・・・・。

♪ついに秦が助け舟を出す。

奥宮  それはありえたでしょう。艦によって違います。

♪しかし澤地は追及の手を緩めない。

澤地   その状況下で、〇四〇〇に友永機から「第二次攻撃ノ必要アリ」という電報がくる。ところが数分後に米基地空軍の攻撃がはじまって、赤城は急角度で回避運動をやりながら、〇四一五に「第二次攻撃隊本日実施」、つまり予令どおりにやる、という命令がお下る・・・。

奥宮  「本日実施」で切ってしまっては駄目ですよ。その次を読まなきゃ。

澤地  「待機攻撃機爆装ニ換ヘ」となっています。ところが、〇四二八に利根四号機の「敵ラシキモノ一〇隻見ユ」電がとびこんでくる。そこで〇四四五に「敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装ノ儘」という命令が下りる。〇四一五から〇四四五まで、三十分しかたっていません。

「兵装転換が敗因ではない?」

♪兵装転換は、「敗因」の言い訳のために用意された一つである。そのために二兎を追うヘボ作戦が必要不可欠であった、というだけの話である。真の「敗因」はヤラセでボロ負けすることが既定のシナリオだったからであり、そのようなヤラセを昭和天皇がする必要があったからである。鬼塚英昭氏が検証しているように、そのように国際金融寡頭勢力から昭和天皇が脅されていたからである。国際金融寡頭勢力の傀儡政権として発足した田布施村王朝のいかがわしさ、成りすまし天皇家のスキャンダルをばらされると、昭和天皇は全てを失うからである。


秦 訓練でも二時間近くかかる兵装転換だから、三十分ではあまり爆装は進展せず、ほとんど雷装のままということになりませんか。

澤地  そうです。大部分はまだ魚雷を抱えているのではないか、と。よくいわれている魚雷→爆弾→魚雷という三ステップの定説が、時間的におかしくなるのじゃないでしょうか、ということです。

♪〇二二〇の予令の時点ですでに行動に移している、と淵田美津雄が書いているのは創作ということになる。

秦  つまり、その気ならすぐ雷撃隊を出せたはずだと?

奥宮  しかし、そのときは、直衛戦闘機が上空に出ていて直衛につけてやるのがいないから、駄目なんですよ。

♪奥宮はヤラセのシナリオに添って発言している。参謀長の草鹿隆一がこれとまったく同じことをプランゲのインタビューに対して答えている。草鹿は即時発進させなかった言い訳、こじつけ、自己正当化を延々と述べている。

澤地  それはわかります。でも、この兵装転換の混乱が“運命の五分間”の遅れとなったという定説は、成立しないんじゃないか、ということです。

♪私も『運命の五分間』説については疑問を持っている。実際はもっと幅があったはずである。

秦   やはり戦闘機をつけねばということにこだわったんですかねえ。

奥宮  そうです。

澤地  それにしても赤城の被爆が〇七二六ですから、その後二時間半も発進できないまま放っておいたことになりますよ。

♪つまりこれが『運命の五分間』の実質の幅である。この『定説』を捏造したのは淵田美津雄と奥宮正武である。二時間半も発進させない理由をずらずら並べたあげく、『運命の五分間』などとドラマチックな言葉で粉飾している。正しい表記は『運命の二時間半』である。

秦  戦闘機をつけてやりたいという親心といいますかね。それは源田さんでしょうか。

雀部  南雲さんじゃないですか。

♪源田実と草鹿隆一である。

澤地  繰り返しますが、兵装転換問題が命取りになった、といままで言われてきた定説は崩れるわけですね。

奥宮  そうも思いませんがね(笑)、戦闘中には、冷静な時にはちょっと考えられないことが起こるものなんですよ。

♪こんな人間を相手になおも澤地は健闘するのである。

「戦闘詳報」は正しくない

♪もちろん戦闘詳報は真実を伏してあるだろう。真実を書いたらヤラセが崩壊する。しかし、淵田美津雄、奥宮正武、源田実、草鹿隆一らの偽証や、秦郁彦のようなデマゴギーに較べたら、それほどデタラメは書いていないだろう。

澤地  なお私はこだわるんですが、戦史業書の「ミッドウエ―海戦」には、「〇二二〇南雲長官は状況に変化がなければ、第二次攻撃をミッドウエ―に施行する予定と予令。各艦陸上攻撃用爆弾に準備を開始したものと思われる」と書いている。これは間違いないでしょうか。

奥宮  それは「思われる」と書いてあるように、書いた人の主観であって(笑)、「開始した」ではないでしょう。

♪奥宮の詭弁ここに至れり。奥宮はたったさっき、これとそっくり同じことを書いている淵田美津雄のことを、『あのときのことは淵田美津雄さんと私の共著である「ミッドウエ―」にしっかりと書いてあります。この海戦に関しては彼の研究がいちばん早く貴重なものですよ。私は彼を信じますね。』と持ち上げている。淵田美津雄は『いちばん早く貴重なもの』、しかし戦史業書は『書いた人の主観』・・・。奥宮は澤地の質問の意味が分からないだけでなく、こんな情けない使い分けまでするのだ。使い分けのスペシャリスト中田安彦君でさえ、ほとぼりを冷ましてから使い分けるくらいのデリケートな神経は持ち合わせている。こんな芸のない雑駁なことはしない。

澤地  これは公刊戦史なんです。

奥宮  公刊戦史といっても間違ったところ、正確でないところがいっぱいあるんですよ。これは資料だが、戦史じゃないと私は思っています。

澤地   でしたら〇二二〇の予令は、どう考えるのがいちばんよいのか・・・。

奥宮   僕は心の準備だと。

澤地  整備員も兵器員も予令の段階ではやはり心の準備どまりですか。

澤地  予令の時に既に何かが行われていたのでないか。これは素人の勘ぐりですが。

♪いや、観戦していた淵田自身が既に第二次攻撃の準備をしていた証言しているのである。

澤地  さらに、もう一つこだわるんですが(笑)、源田さんと奥宮さん共著の「ミッドウエ―」は、先刻珍重すべき文献だと奥宮さんが言われました。それでお尋ねするのですが・・・・・。「敵艦隊攻撃準備」命令が出されるのは〇四四五でしたね、「戦闘詳報」によれば。ところが「ミッドウエ―」によると、南雲長官が敵艦隊撃滅を決心したのは午前五時四○分、つまり〇五四〇になっているんです。これはどう考えたらいいのか。

奥宮  この「戦闘詳報」が正しいとは限らないと、私は確信しています。

♪奥宮は澤地が「戦闘詳報」の矛盾点を突くと、“公の戦史史料は主観的なものが入っているから正しいとは限らない ”と言い、『この「戦闘詳報」は正しいとは限らないと、私は確信しています』と言う。しかし二兎を追う作戦が追究された時には、「戦史業書」の妥当性を強調していたのである。奥宮正武はプロパガンダを吹いていると、私は確信しています。

澤地  エッ、正しくないのですか。

奥宮  正しくないところがある。

♪奥宮は、正しくないところがあり過ぎる。

秦  澤地さんが言いたいのは、利根の四号機の〇四二八の「敵ラシキモノ」発見電ではなく、〇五二〇になって判明した「空母ラシキモノ一〇隻ヲ伴フ」電によって、南雲長官はやっと戦艦隊攻撃を決心したということなんでしょうか。それまでは、「いるのかな、どうかな」というので、何となく・・・。

澤地  ええ。〇五二〇まではミッドウエ―第二次攻撃の方にだけ頭がいっていたんじゃないかということです。

雀部   そう、確かにその傾向はあった。「敵ラシキモノ」でピーンときたわけではないのですね。それに、利根の索敵機の位置が予定とかなり違っているでしょう。それに気がつかなかった。

♪索敵機の位置が違っているという重大ミスは、シナリオなのだと私は思う。

澤地   そうなると、「戦闘詳報」の〇四四五の「敵艦隊攻撃準備」命令はなんだったのか。私が「戦闘詳報」にメイキングがあると考えた一点はここにあります。源田さんの本の〇五四〇の方が正しいのか。

♪澤地の果敢な粘りは素晴らしいと思う。しかし木を見て森を見ない弊害がある。だから淵田美津雄や源田実が仮病を使っていることも、面と向かって座談している奥宮の正体も分からない。


「運命の五分間」の内幕

澤地  さらに驚かされるのは、「戦闘詳報」では〇五五四に、赤城から利根四号機に「方位測定用電波輻射セヨ」と命じています。

♪この失策はヤラセである。この重大ミスを止められなかったのは、源田が肺炎になりかかって寝ていたからだというシナリオである。その命取りの命令に驚いた源田が、慌てて止めようと病床から飛び起きた、まさにその時命令が発せられてしまった、という筋書きになってます。

澤地  その上にですね、〇五二〇の「空母ラシキモノ一隻」電が入った後にも、赤城の艦爆隊がまだ上空で収容を待っている、その艦爆隊に「二次攻撃準備、二五〇爆弾揚弾」という命令を、〇五三〇に出している。

雀部  その二次攻撃というのは艦船用でしょう。

阿部  陸用爆弾じゃない。

澤地  どっちだかわかりませんが、お尋ねしたいのは、格納庫が艦攻の兵装転換で大混乱しているであろう最中に、そこへ、これから収容する飛行機の爆弾を揚げている。これはどういうことなのか。

♪あらゆる手を使って甲板と格納庫をパニック状態にするためです。

阿部  要するに着艦したらすぐに格納庫へ降ろして、爆装できるように。

澤地  すいぶん余裕綽々なんですね。(笑)

阿部  そうそう、まだ余裕があった。

澤地  敵空母が発見されているのにね。

阿部  いやいや、見つけているからこそなおのことです。急速に整備して出すためには、爆弾を出しておいて、格納庫に収めたらすぐ爆弾をつけて、敵艦を攻撃できるようにしておく・・・。

澤地  順序からいうと、この揚弾命令がでて、方位測定用電波が出されるというわけです。一航艦には時間が十分にありすぎた・・・・。(笑)

♪澤地以外は顔が引きつっていたのではないだろうか。

奥宮  結果からみて「運命の五分間」になったけど、やられる前は、源田参謀の思うとおりに事は運んどったんです。

♪結果からみて「運命の五分間」になるために、源田参謀の思うとおりに事を運んどったんです。

澤地  しかも無線封止を破りますね。もしかすると敵にキャッチされたかもしれないのに、そうは考えないで五日の朝になっても「敵ハ我ガ企図ヲ察知セズ・・・発見セラレ居ラザルモノト認ム」と思う、このズレは大きすぎます。

♪敵と我が企図にはどこにもズレはない。日米はヤラセの相性が良いと思う。

「生かされなかった戦訓」

大井  ずっと聞いていると、戦闘場面の方はどうも責めてもしかたのないことが多すぎる(笑)。しかし、元凶は軍令部だとか、GFにあるな。

奥宮  私もそう思います。それと日本人の国民性ですね。

♪元凶は成りすまし天皇家にある。そういや戦犯対策用に急拵えした昭和天皇独白録も、日本人の国民性に罪をなすりつけていたっけ。

秦  われわれが不思議に思うのは、なぜ飛行機に素人の南雲さんを長官にしたのか、ということなんですね。

雀部  そうね、すべて源田の言うとおりになって、「源田艦隊」と呼ばれました。その源田が鼻っ柱が強くて。

♪そうね、すべて源田の言うとおりになって、ヤラセを完遂させるためだね。あと南雲が元長岡藩士の息子であるというのが大きいと思う。

奥宮  司令長官クラスに航空作戦を知ったひとがいなかった。

♪栗田は例外であるが、司令長官クラスにはヤラセを知ったひとがいなかった。GFの参謀クラスや軍令部スタッフには、ヤラセを知悉した工作員がウヨウヨいた。

板谷  戦訓は、大きな戦争指導の面でもついに生かされることはなかったわけです。

秦  では、この辺で。

♪ヤラセの戦訓を生かすには、ヤラセの元凶を断ち、二度とさせないことしかない。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
11. 中川隆[-15072] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:17:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2113]
山本五十六の真実M 『山本五十六は生きていた』 再検証
http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/457.html


前回の私の検証が間違っていたため、今回もう一度再検証します。


前回は大野芳『山本五十六自決セリ』を参照し、
自決説に半ば同意しましたが、
これは私の完全な誤りです。お詫びして撤回します。


大野芳の説は逃亡説のバリエーションとして捉えるべきでした。
同時に蜷川親正氏の労作を葬り去るという明確な意図を持って、
『山本五十六自決セリ』を著しているようです。


前回その意図が見抜けずに、
蜷川親正氏の亡兄蜷川親博軍医大尉の五十六検死カルテを軽んずる、
大野芳の見解に安易に同調していました。
今回お詫びして全撤回いたします。


では再検証にあたって、なわふみひと氏がアップした、
ヤコブ・モルガンの記事より抜粋させてもらいます。


山本五十六は生きていたC
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html

『大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。

ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」


同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。


にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。


前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。


戦死が狂言であったこれだけの証拠    


山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。


2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。


3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。


4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。


5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。


6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。


7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。

事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。』

蜷川親正『山本五十六の最期 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社より
結論部分を抜粋します。


『そのとき虫の息で救出を待っていた

山本大将は少なくとも、十八日の午後、または夕方まではハエを追いうる生命現象があった。全身打撲か、内臓などの破裂により、十八日夜から十九日早朝に体力の限界がきて、夜明けとともに死亡したと判断する・・・さきに述べた各項目より考察すると、山本元帥の死因は、全身打撲か内臓破裂により、不時着時はそのショックで天蓋を打ち抜いて飛び出していた。やがて正気になり、座席に座り、救助を待っていたが、前述したように十八日午後よりは容態が急変して、夜を迎えるとともに体力の消耗はなはだしく、十九日夜明けとともに、息を引きとったものであろう。


事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で全身して捜索するという「面」の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである。』


一つずつ検証します。


◎任務を終えたので姿を消した


海軍はまだ壊滅状態になっていません。海軍の天王山はマリアナ沖海戦の決戦です。


◎暗号を漏洩した


ブイン視察の詳細スケジュールは、二回打電されています。4月13日に打電したのは月初めに変えたばかりの新しい暗号です。天候不順を理由に視察を18日に延期して、前夜の17日に戦艦武蔵から旧暗号で打電しています。これはアメリカの暗号班が新暗号を解読できなかったので、旧暗号で打電したのだと思います。


◎第三種軍装の色


ヤコブ・モルガンは草色、大野芳はもえぎ色を主張しています。殊に大野芳は意図的にもえぎ色を刷り込もうとしている節があり、第三種軍装の話がでるたびにもえぎ色であることを強調しています。ヤコブ・モルガンの草色の出所は、大野芳のプロパガンダ本しれません。蜷川親正氏が直接聞き取りをした捜索隊の生存者たちは、紺色だと証言しています。


○陸軍第二十三連隊第一中隊捜索班・中村見習士官(当時)の証言


『いずれの死体も顔面に血のついた者は見当たらず・・・ただ一つ、元帥の紺色をした制服の上衣のすその部分と、ズボンの上部が黒くこげていて、きな臭かったのが印象的だった。』


○富山伍長(当時)の証言


『・・・ある死体は海軍の紺色をした上位を四つに折って、それを枕にして上向けに寝ているように死んでいた。』


○陸軍第六連隊第三中隊中隊長・阿部茂大尉(当時)の証言


『山本長官の紺色の軍服と、そばの軍医の白色の軍服もまったく乱されたり、よごれたちしていなかった。二人ならんで腰かけておられ、五十センチとは離れていなかったものと思う。』


◎パラシュートで脱出した


当日、ブインの山頂には見張りが立てられ、長官機が撃墜される一部始終を目撃しています。そういう状況で人目につかずにパラシュート脱出するのは、撃墜されるかなり前でなければなりません。長官がそのような行動を取ることに、機内に残る者たちに不審を抱かせず、そのままブインに直行させ敵に待ち伏せ攻撃させるためには、どのような説明がされたのでしょうか。長官機には天才といわれた航空参謀・樋端久理雄が同乗しています。それとも樋端久理雄がヤラセの共犯者とでもいうのでしょうか。


◎顔がきれいなのは毒殺したから


長官機は撃墜されましたが、操縦士たちは最後まで持ち場を離れずに不時着を試みています。実際、大木に激突しなければ多くの生存者がいたであろう、限りなく水平不時着陸に近い状態のようです。操縦士たちは操縦席を一歩も動かず焼死しています。五十六の死体の損傷がほとんどないのは、操縦士たちが黒焦げになるまで持ち場を離れずに、必死の努力をしたからです。五十六の顔がきれいなのは身代わりを毒殺したから、という邪推は、長官を死守しようとした操縦士たちのそういう気持ちを踏みにじるものです。


蜷川氏前掲書より該当箇所を抜粋します。

○吉田雅維氏の証言(元佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊第一小隊長)


『操縦士はみずからの操縦席で、通信員はその通信席で、機関銃手はその銃座で、それぞれ座席を一歩もはなれることなく、黒こげのまま死んでいるのを発見した。ことときは私も、おもわず頭が下がった。現代の年齢でいうなら、十七、八歳から二十歳ぐらいの少年飛行兵が、忠実にその任務をはたしつつ、燃えさかる飛行機上で戦死していたのだ。


現場のジャングルからは、約一キロちかく、樹林の上部をけずりつつ、約五、六度の角度で、だんだんとジャングルに深く進入して、不時着をしていったことがよくわかった。やがて地上にたっする地点に、不幸にして、五、六本の太い二かかえも三かかえもある大木があったので、それに衝突し、機体はばらばらになったのである。機内の各自は、完全に任務を遂行していたし、現場をみても、けっして墜落ではなかった、といえる。あの状況は高等な技術による不時着だったのだ。


私は、若き少年航空兵たちのりっぱな飛行機の操作と、その持ち場を守り身は焼けようとも、死して護国の鬼となった人を、永久にたたえていただきたいと思う。それにしても、じつにりっぱな不時着で、あの大木さえ機をさえぎらなかったら、あるいは、二、三人はモイラ岬の二番機のように、重、軽傷の程度で救助できたものをと、残念でならなかった。』


◎身代わりを連行した


最初に長官機を発見したのは、浜砂大尉率いる陸軍歩兵第二十三連隊の第一小隊です。第一小隊が五十六に良く似た人物を連行して、現場で毒殺して長官の身代わりにしたというなら、彼らは海軍に頼まれてグルになっていたのでしょうか?また捜索隊は陸海軍から複数出されていますが、困難を極めた捜索の過程を見ると、歩兵二十三連隊第一小隊がジャングルをかき分けかき分けして、最初に長官機までたどり着いたのは僥倖に過ぎません。身わり毒殺説が成立するためには、最初に現場に到達した陸軍歩兵第二十三連隊第一小隊以外の全捜索隊が、五十六に良く似た身代わりを連行する必要があります。全捜索隊の一覧表は次の通りです。


陸軍捜索隊の内訳


歩兵第二十三連隊長の命令より出動したもの

○蜷川軍医中尉を長とする捜索救助隊

○中村見習士官を長とする捜索隊


墜落を認め自主的に編成されたもの

○浜砂盈栄少尉を長とする捜索隊

○野砲連隊小隊長柴田少尉を長とする捜索隊

○高妻秀年見習士官を長とする捜索隊


海軍からの要請で輜重兵第六連隊から出されたもの

○阿部茂大尉を長とする捜索隊

○竹内睦祐軍医中尉を長とする捜索隊

海軍


海軍第一根拠地隊司令部の命令によるもの

○田淵義三郎海軍軍医を長とする捜索隊


佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第司令の命令によるもの

○吉田雅維少尉を長とする捜索隊

○倉橋繁巳兵曹長・担架隊長

○野崎末男上機曹を長とする一個分隊による捜索隊

○永溝征紀兵曹長を長とする捜索隊

○水上航空隊


これら陸海軍併せて13グループある捜索隊が、それぞれ五十六に良く似た身代わりを用意したのでしょうか?13グループ全員が機密を守ったということなのでしょうか?浜砂氏が連行した身代わりの男だけが毒殺され、他の12人の身代わりはお役御免となり、陸海軍に箝口令が布かれ、五十六はまんまと逃亡した・・・非常にシュールな仮説です。


◎機上戦死の偽装


蜷川検死メモには顔面にも顎にも損傷は認められず、生存している目撃者全員も顔面はきれいだったと証言しています。翌二十日、五十六の遺体は大変な難儀の末に海岸に到着、発見72時間後になってようやく海軍の田淵義三郎軍医少佐が検死します。左顎下に貫通銃創を認めたのはこの時です。これが公式検案書となり機上戦死として発表されます。


私も田淵軍医が検死する前に死後損傷が加えられ、機上戦死が偽装されたことには同意します。しかしなぜそれを以て、逃亡説が成立するのでしょうか?


ヤコブ・モルガンの逃亡説をもう一度おさらいしてみましょう。


陸軍が連行した身代わりを毒殺した。

当然死体の顔は無傷だった。

これではまずいと渡辺安次らが死後損傷を加えた。

海軍軍医に機上戦死のカルテを偽造させた。

これこそ五十六が生きて逃亡した動かぬ証拠である。


何でわざわざ毒殺死体を用意させるのでしょうか?
機上戦死を偽装したいのに?
何で最初から貫通銃創の死体を用意しないのでしょうか?
これがいちばん簡単なのに?


何でわざわざ毒殺死体を用意して、
72時間後に顔面に損傷を加えて、
カルテを偽造させて、
それが五十六が逃亡した証拠?


訳分りません(笑


なわふみひと氏はもっと支離滅裂です。


なわふみひと氏の読書遍歴より
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1005-1.html


『このようなアメリカ(を支配する層)の巧妙な戦術に協力するために、体を張って真珠湾攻撃を主張したのが山本五十六という人物でした。この真珠湾攻撃が日米両国にどのような意味を持つものであったかがわかると、アメリカが2400人もの犠牲者を出しながら、本来であれば超A級戦犯とも言うべき山本五十六を全く批判せず、支配下のおいている日本の主要マスコミが今なお彼を英雄扱いしている理由が理解できると思います。しかも、山本五十六の死が全くの偽装死であったことは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社)を読むとよくわかります。要するに、大東亜戦争(太平洋戦争)では、山本五十六を頂点とする海軍の中枢が結託して日本の敗戦のために動いていたのです。私たち日本国民がこのような真実を知ることこそ、先の戦争の犠牲者に対する、せめてもの弔いの意味を持つのではないかと思います。(なわ・ふみひと)』


上記のなわふみひと氏の論旨を裏付ける資料として、蜷川親正氏の本ほどふさわしくないものはありません。蜷川親正氏とアイクの本に限っていうと、なわふみひと氏が『読書』したという時、それは恣意的に読んだという意味しかありません。蜷川親正氏の本を『読書』」という言葉が持つ本来の意味で読めば、「五十六の死が偽装されたのは、海軍が意図的に見殺しにしたことを隠蔽するためである」という作者の強い怒りが伝わって来ます。  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
21. 中川隆[-15071] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:32:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2112]

2019年12月21日「安いニッポン」の今後
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/15094

一週間ほど前の『日本経済新聞』の特集記事「安いニッポン」((上)2019年12月10日、(下)2019年12月12日)がいくつかのテレビなどでも取り上げられ、大きな話題になっていましたね。

一部引用してみます。

*****
「…マーサー(注、米系人事コンサル大手)が世界129カ国と中国19都市を対象に実施する「総報酬サーベイ」を基に、2007〜17年の報酬を分析してみよう。システム開発マネジャーの場合、07年を100とすると17年の年収は日本は99と微減。一方、ベトナムは145、中国・上海は176、タイは210に達した。

新興国は経済発展で報酬が伸びた面もあるが、先進国でも米国は119、ドイツは107に増えた。

実額ベースではどうか。17年の報酬中央値は日本が約10万ドル(1090万円)。シンガポールや中国・北京より安く、タイも7割近い水準に迫る。…」
(安いニッポン(下) 「香港なら2倍稼げる」 人材流出 高まるリスク)(『日本経済新聞』(2019年12月12日付))
*****

上記の日経の記事にあるように、多くの業界で日本の実質賃金は伸びていません。全体で見ても、1997年ごろをピークに大幅に下落しています。

例えば、別の東京新聞の記事によると、1997年比で日本だけ減っており、それも8.2%も低下しています。(残業代も含めた時間当たりの賃金の各国比較。OECDの数値による)。

「<働き方改革の死角>日本、続く賃金低迷 97年比 先進国で唯一減」(『東京新聞』2019年8月29日付)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201908/CK2019082902000151.html

ひと世帯当たりの平均所得も、日本は1994年をピークに大幅に下がっています。

厚労省の「国民生活基礎調査」によりますと、世帯の平均所得は1994年のピーク時には664.2万円でしたが、2017年には551.6万円となりました。約17%も低下しています。

物価についても日本は全然上昇せず、いつの間にかアジア諸国と比べてみても、さまざまなものが割安に感じられるようになってしまいました。

例えば、ディズニーランドの入場料や、ダイソーの価格です。
日経の記事を引いてみます。

***
「海外から見た日本のモノやサービスの割安さが際立っている。
日本経済新聞は世界のディズニーランドの大人1日券(当日券、1パークのみ、10月31日時点)の円換算価格を調べた。東京は7500円でカリフォルニア(1万3934円)の半額ほど。パリ(1万1365円)や上海(8824円)と比べても安さは群を抜く。」

「…海外26カ国・地域でダイソーを展開する大創産業(広島県東広島市)。日本では「100円ショップ」として知られるが、同じ商品が米国では約162円、ブラジルでは215円、タイでは214円だ。中国で生産した商品も多いが、その中国でも153円する。…」

(「安いニッポン(下)価格が映す日本の停滞 ディズニーやダイソーが世界最安値」(『日本経済新聞』(2019年12月10日付))
***

しかし、こうした日本の現状は、新自由主義にかぶれている財界人や投資家、政府関係者は、それほど危惧すべきことではなく、むしろねらいどおりなのかもしれません。

日本の実質賃金が他国に比べて下がった結果、ある意味、「国際競争力が増した」とも言えるのですから。安い人件費で生産に当たれるわけです。

賃金の低下は、1990年代から進めてきた雇用制度などの改革がうまく行き、非正規雇用も増え、「フレキシブルな」労働力が使えるようになった結果ですし。日本がここ20余年取り組んできた構造改革の帰結なのです。

物価が上昇せず、いつのまにか日本がアジアのなかでも割安感のある国になったことも、新自由主義にかぶれた財界人や投資家にとっては、それほど深刻視すべきことではないでしょう。

相対的に金持ちになった外国人を大勢、日本に呼び寄せ、彼らにいろいろと買ってもらえばいいわけですから。

「インバウンド重視」「観光立国」の旗を掲げる最近の日本の「成長戦略」からすれば、日本の物価が相対的に安くなったことは、歓迎すべき事柄だと言えるでしょう。政府は、2020年には4000万人、2030年には6000万人の外国人観光客を呼んでくるという目標を掲げています。

これらの実現のためには、日本の物価が安いことはもってこいのはずです。

しかし、普通に暮らしている我々日本の一般国民にとっては、当然ながら、賃金が下がり続け、物価もアジアのなかでさえ割安感が出てきた日本の現状は、大いに困ったものです。

いまに、日本人は、海外から資源などモノが買いにくくなっていくでしょう。日本人の賃金は上がらず、その一方で、輸入品などなかなか手が届かなくなってしまう恐れがあります。

また海外の資本が、日本の土地や企業、施設などを次々と買収していく事態も多くみられるようになるでしょう。

日本は、発展途上国に落ちぶれ、本当に否応なく「インバウンド」にしか頼れなくなる国になってしまいそうです。

やはり、どうにかしないといけません。経済政策の進め方を、根本から変えなければなりませんね。日本の一般国民を豊かにするまさに「経世済民」路線をとらなければなりません。

来年は、「経世済民」路線が大復権する年にしたいですね。
https://38news.jp/economy/15094
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html

[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった 中川隆
7. 中川隆[-15070] koaQ7Jey 2019年12月21日 13:33:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2111]

2019年12月21日「安いニッポン」の今後
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/15094

一週間ほど前の『日本経済新聞』の特集記事「安いニッポン」((上)2019年12月10日、(下)2019年12月12日)がいくつかのテレビなどでも取り上げられ、大きな話題になっていましたね。

一部引用してみます。

*****
「…マーサー(注、米系人事コンサル大手)が世界129カ国と中国19都市を対象に実施する「総報酬サーベイ」を基に、2007〜17年の報酬を分析してみよう。システム開発マネジャーの場合、07年を100とすると17年の年収は日本は99と微減。一方、ベトナムは145、中国・上海は176、タイは210に達した。

新興国は経済発展で報酬が伸びた面もあるが、先進国でも米国は119、ドイツは107に増えた。

実額ベースではどうか。17年の報酬中央値は日本が約10万ドル(1090万円)。シンガポールや中国・北京より安く、タイも7割近い水準に迫る。…」
(安いニッポン(下) 「香港なら2倍稼げる」 人材流出 高まるリスク)(『日本経済新聞』(2019年12月12日付))
*****

上記の日経の記事にあるように、多くの業界で日本の実質賃金は伸びていません。全体で見ても、1997年ごろをピークに大幅に下落しています。

例えば、別の東京新聞の記事によると、1997年比で日本だけ減っており、それも8.2%も低下しています。(残業代も含めた時間当たりの賃金の各国比較。OECDの数値による)。

「<働き方改革の死角>日本、続く賃金低迷 97年比 先進国で唯一減」(『東京新聞』2019年8月29日付)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201908/CK2019082902000151.html

ひと世帯当たりの平均所得も、日本は1994年をピークに大幅に下がっています。

厚労省の「国民生活基礎調査」によりますと、世帯の平均所得は1994年のピーク時には664.2万円でしたが、2017年には551.6万円となりました。約17%も低下しています。

物価についても日本は全然上昇せず、いつの間にかアジア諸国と比べてみても、さまざまなものが割安に感じられるようになってしまいました。

例えば、ディズニーランドの入場料や、ダイソーの価格です。
日経の記事を引いてみます。

***
「海外から見た日本のモノやサービスの割安さが際立っている。
日本経済新聞は世界のディズニーランドの大人1日券(当日券、1パークのみ、10月31日時点)の円換算価格を調べた。東京は7500円でカリフォルニア(1万3934円)の半額ほど。パリ(1万1365円)や上海(8824円)と比べても安さは群を抜く。」

「…海外26カ国・地域でダイソーを展開する大創産業(広島県東広島市)。日本では「100円ショップ」として知られるが、同じ商品が米国では約162円、ブラジルでは215円、タイでは214円だ。中国で生産した商品も多いが、その中国でも153円する。…」

(「安いニッポン(下)価格が映す日本の停滞 ディズニーやダイソーが世界最安値」(『日本経済新聞』(2019年12月10日付))
***

しかし、こうした日本の現状は、新自由主義にかぶれている財界人や投資家、政府関係者は、それほど危惧すべきことではなく、むしろねらいどおりなのかもしれません。

日本の実質賃金が他国に比べて下がった結果、ある意味、「国際競争力が増した」とも言えるのですから。安い人件費で生産に当たれるわけです。

賃金の低下は、1990年代から進めてきた雇用制度などの改革がうまく行き、非正規雇用も増え、「フレキシブルな」労働力が使えるようになった結果ですし。日本がここ20余年取り組んできた構造改革の帰結なのです。

物価が上昇せず、いつのまにか日本がアジアのなかでも割安感のある国になったことも、新自由主義にかぶれた財界人や投資家にとっては、それほど深刻視すべきことではないでしょう。

相対的に金持ちになった外国人を大勢、日本に呼び寄せ、彼らにいろいろと買ってもらえばいいわけですから。

「インバウンド重視」「観光立国」の旗を掲げる最近の日本の「成長戦略」からすれば、日本の物価が相対的に安くなったことは、歓迎すべき事柄だと言えるでしょう。政府は、2020年には4000万人、2030年には6000万人の外国人観光客を呼んでくるという目標を掲げています。

これらの実現のためには、日本の物価が安いことはもってこいのはずです。

しかし、普通に暮らしている我々日本の一般国民にとっては、当然ながら、賃金が下がり続け、物価もアジアのなかでさえ割安感が出てきた日本の現状は、大いに困ったものです。

いまに、日本人は、海外から資源などモノが買いにくくなっていくでしょう。日本人の賃金は上がらず、その一方で、輸入品などなかなか手が届かなくなってしまう恐れがあります。

また海外の資本が、日本の土地や企業、施設などを次々と買収していく事態も多くみられるようになるでしょう。

日本は、発展途上国に落ちぶれ、本当に否応なく「インバウンド」にしか頼れなくなる国になってしまいそうです。

やはり、どうにかしないといけません。経済政策の進め方を、根本から変えなければなりませんね。日本の一般国民を豊かにするまさに「経世済民」路線をとらなければなりません。

来年は、「経世済民」路線が大復権する年にしたいですね。
https://38news.jp/economy/15094
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html

[昼休み52] 海外「日本は水の国だったんだ」 日本の大自然の映像集に外国人感動 富山誠
4. 中川隆[-15069] koaQ7Jey 2019年12月21日 14:28:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2110]
【海幸山幸の詩 #36】那智の火祭り〜神話と自然信仰、熊野で出会う日本の原点[桜R1/12/21]


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/774.html
[リバイバル3] KUMANO - 熊野 中川隆
10. 中川隆[-15068] koaQ7Jey 2019年12月21日 14:29:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2109]
【海幸山幸の詩 #36】那智の火祭り〜神話と自然信仰、熊野で出会う日本の原点[桜R1/12/21]


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/587.html
[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
79. 中川隆[-15067] koaQ7Jey 2019年12月21日 15:25:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2108]

2019年12月21日
沖縄の反基地運動を操る者 金儲けの指導者と全共闘


反基地に集まるのは1970年安保闘争に参加した「元若者達」ばかり。
反原発も反安保法制も、集まるのはいつも白髪頭の集団

引用:http://peace-asahikawa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/04/20/dscf2329.jpg


沖縄の反基地運動はとても奇妙で、沖縄経済の7割は米軍と自衛隊に依存し100%日本国に頼っている。


自分の生活基盤を破壊するような「独立国」「反基地」を主張しているが、沖縄は貧困層になりたいのだろうか。


沖縄県は所得や失業率が「日本から搾取され全国最低だ」と言っているが、統計の取り方を誤魔化して最下位に見せかけている。


反基地運動とプロ市民


宜野湾市の騒音訴訟では、「訴訟を起こせば金儲けができる」として住民から会費を徴収して訴訟を起こした市議がいたという。


普天間騒音訴訟では3500名が訴訟に参加して、訴訟団体は約2億円以上を受け取りました。



普天間騒音訴訟では住民一人当たり保証金70万円の支払い判決が出ている。

このように「反基地」で金儲けをしている政治家、弁護士、マスコミは大変多い。

公安調査庁の資料によると、辺野古移転反対運動に革マル派などの過激派が含まれている。


革マル派とは1970年代に猛威を振るった左翼運動の過激グループで、思想的に中国を母国としている。

中国共産党の指示によって日本で革命を起こし、日本政府と天皇を倒して共産国家の実現を目指している。


沖縄の反基地運動もまた中国を思想の拠り所にしている点で共通している。


「沖縄独立」を言い出したのは中国だし「琉球は独立国だった」と言いふらしているのも中国です。

「日本が植民地支配する前の琉球は中国との貿易で栄えていた」という嘘もついている。


無礼を承知で言えば、沖縄の人は無知で扇動されやすいので、こうした嘘を容易に信じてしまう。


琉球が日本や中国のような「独立国」だったことは、何千年遡っても一度も在りませんでした。

琉球は常に大陸の皇帝か、大和朝廷のどちらかに臣属して「琉球の統治を任された」ので、身分は日本か中国の地方役人でした。


これは朝鮮王も同じで、明や清の皇帝から朝鮮の統治を任された王という事で、解任されれば出て行かねばなりませんでした。


むろん琉球時代に明などの皇帝が琉球独立を認めたことは一度も無く、常に支配下に置いていました。

これは日本政府にとっては困ったことで、中国に支配されていたと言うと、沖縄は中国の領土だと言い始めるので黙っています。


日本政府が黙っているのを良い事に、琉球は独立国だった、琉球は地上の楽園だったという創作をしています。


以前から日本中で問題を起こしている「プロ市民」と呼ばれる連中が、現在は沖縄で活動している。

この連中の話し方や態度、プラカードの文字などに共通の特徴があり、70年代全共闘の連中です。

年齢的にも白髪の生えた初老の世代で構成されており、1970年には20歳だとしたら、現在は70歳でピッタリです。

プロ市民は間違いなく元全共闘の生き残りでしょう。


無知な「市民」を操る者


反基地運動に参加している沖縄の人は、生活はどうなっていて、どこから資金が出ているのだろうか?

首相官邸や国会前の「市民」もそうだが、一年中ふらふらとプラカードを持って行進し「日本政府を倒せ!」とやっている。

働いているように見えないし、身なりはホームレスか浮浪者に近い。


人間一人が活動して生きていくには、月10万とか20万が必要な筈で、誰かが払っている筈です。

辺野古反対運動では沖縄の各地から辺野古まで「市民」を運ぶバスが存在し、毎日何本も走っていました。

このバスは往復1000円の会費を取って運行されていて、無料ではなかったようです。


市民団体『沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議』がバスを運行させていました。

反対派の司令塔である沖縄タイムス・琉球新報がそのように書いているので間違いないでしょう。

この団体には市議や県議が多数参加し、辺野古移転を妨害する目的で2014年に創設された。


県内の市町村の長なども参加しており、どうやら沖縄県や自治体からの支援で活動している。

つまりこの団体を運営していたのは、実体として沖縄県と市町村という事になる。


沖縄県の多くの市町村は反基地の首長なので、多くの市民団体は有形無形の支援を受けて活動しています。

支援は例えば自治体職員が反対運動に参加したり、バスの運転手をしたり、準備を手伝うのを黙認するような事です。


こうして自治体から給料を貰いながら反対運動をしたり、残業代まで貰っている奴がいたとも言われている。

重要なのは普天間を移設しなければ、永遠に普天間周辺の自治体、住民に国から膨大な補助金が支払われる点です。


辺野古工事を妨害して普天間を継続させれば、自治体には金儲けになり、移転すれば補償金が打ち切られます


沖縄の自治体はこうした市民団体を利用して無知な市民を動員し、座り込みや占拠、工事関係者や警官への暴行を奨励している。


自分で警官を殴れば市長が逮捕されるが、市民が殴れば捕まるのは市民であり、自分は痛まない。


年老いた市民の後ろには元共産ゲリラの生き残りや、補助金で金儲けする市長などが存在する。


基地闘争の指導層は教員と地方公務員などが多いが、彼らを出勤している事にすれば、自治体は報酬を支払うことが出来る。

白髪頭の「辺野古老人」たちは50年前、勉強もせずデモや暴動をしていました

今は官邸前や沖縄で同じことをしています


zenkyu
画像引用:http://file.arequiem.blog.shinobi.jp/zenkyu.jpg

沖縄の豊かな自治体


その沖縄の市町村や沖縄県の潤沢な資金はどこから供給されているかといえば、米軍基地と自衛隊、日本政府が払っている。

沖縄のGDPは約3.7兆円で沖縄県の予算は約7000億円ほどになっています。


沖縄県が米軍の貢献と認めているのは軍用地料880億、軍雇用員給与460億、軍関係消費500億だけでだが、他にも多くの貢献をしている。


軍人と家族用の住宅だけで4000戸が存在し、建設費と借地料、家賃など全て米軍が支払っている。

軍人と家族による消費も相当な金額だし、産業の波及効果が何倍も見込める。

さらに辺野古の移設に関する補助金だけで、既に2000億円が支払われた。


これからも毎年数百億円の辺野古関連の補助金が支払われ、しかも移設を引き伸ばして延期するほど、貰える期間も長くなる。

さらに沖縄振興費という意味不明な名目で、年間3000億円以上が支払われる約束になっている。

沖縄の道路には95%の補助金、学校整備では85%、公営住宅75%、水道75%、空港95%、港湾90%など沖縄の公共事業は平均90%が国の補助金である。


日本政府が支払っている沖縄への各種ばら撒き、米軍が沖縄に落とすお金を全てあわせると、優に毎年1兆円を超えている。

沖縄経済の70%以上が米軍基地と自衛隊、日本政府に依存しており、米軍に依存しないのは農業と観光だけである。

こうして沖縄県の自治体には何の努力もせず、毎年1兆円が支払われている。


本土では考えられない優遇措置は、沖縄の米軍基地と自衛隊基地への見返りとして支払っている。

原発立地県の補助金が多いのと同じで、原発を停止させたら原発補助金も無くすのが筋でしょう。


本土の日本人が汗水流して納税した金を、沖縄人は反基地団体にばら撒いて、反日運動を支援していたのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/37917225.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
12. 中川隆[-15066] koaQ7Jey 2019年12月21日 19:22:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2107]
故 鬼塚英昭 氏_日本のいちばん醜い日


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html
[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
13. 中川隆[-15065] koaQ7Jey 2019年12月21日 23:29:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2106]
明治天皇が、種なし寸前だったため、また交配相手の側室も天皇家の女性だったため、ほとんど障害児しか産まれませんでした。正室にいたっては、まったく出産できてません。

大正天皇も、知恵が遅れてましたが、なんとか育ったため天皇即位までもっていけました。

大正天皇の奥さんは、健康で皇室と血縁のない、かなり若い人が選ばれました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1353053733

117 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/03/11 20:04

ではこの辺で大正天皇がどうしてアホになったか説明しましょう。

確か同じ年同じ月(同じ時期)、大正天皇候補が2人いたんだよね。

一人は明治天皇の胤で柳原愛子のおなかの中にいた大正天皇候補1。
もう一人はやはり明治天皇の胤で某女官(名前忘れた)のおなかの中にいた大正天皇候補2。

結果的に柳原愛子のおなかにいたほうが大正天皇になったわけだが、もう一人のほうは柳原愛子派の九の一忍者により始末されたわけだ。だから当然柳原の方も敵にいつ殺されるか判らない精神不安ていな状況下でこっそり大正天皇を生んだわけ。

この頃一条勝子が明治天皇と女官の間の子を嫉妬して次々赤ん坊の口をふさぎ窒息死させたから柳原愛子としても気が気でなかったのであろう。

かくして妊婦は安静を保って子を産まなければならないのにいつ自分が殺されるかびくびくびくついて大正天皇を生んだため赤ん坊に十分な酸素が行き渡らなかった
ため脳に障害のある子が生まれてきたというわけだ。


まあ、どちらにしろ知恵遅れの家系だから結果も大して変わらなかっただろうなwwww


_____


厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。

その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。

が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。

というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家
の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。

▲△▽▼


昭和天皇は明治天皇を深く尊敬していたといわれる。日本の近現代史のなかでは特別の理由も示されないまま,この裕仁に限らず天皇家関係者すべてが,そして歴史家たちもごく当たりまえに「大正天皇を軽視し,ときには無視していた」かのような位置づけで,とりあつかってきている。

大正天皇は4人の男子を生んだが本当は「種なし」であったために,前段のように,東久邇宮稔彦のような〔皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族の立場にあった〕男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。

 明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。

明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。

この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをした話もある。


 大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業 [大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉] に参与したという筋書なのである。

貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落,鬼塚,前掲書,408頁, [ ] 内のみ 422頁)。


 それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。

秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2709626


日本のいちばん醜い日 鬼塚 英昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
笠原 和夫 (著), スガ 秀実 (著), 荒井 晴彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8A%87%E2%80%95%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%84%9A%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E3%83%BB%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%92%8C%E5%A4%AB-%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E5%A4%AB/dp/487233695X


昭和天皇の出生の疑惑


1 : 日本@名無史さん[] : 投稿日:2007/10/19 19:28:40ID:QjGviBga0 [1/1回(PC)]

大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。
私個人としては昭和天皇(弟3人含めて)の父親は、大正天皇だと思っている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。


まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。

この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、

「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」

と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。


次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。

この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。

また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。


ここで疑問に思うのは、以下の3点である。


1.東久邇稔彦の発言の信憑性

東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。


2.三笠宮誕生の必要

明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。


3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと

大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。
あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。

原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。

10 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2007/10/20 16:22:03ID:vGuCDJA40 [1/1回(PC)]

問題なのは三笠宮出生だろ。
なぜほかの兄弟と10年以上も違うのか。

紀子様の場合は様々な事情があって12年間ブランクがあったということはみなわかってるけど。


17 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2007/10/22 19:17:23ID:7W//g5Re0 [1/1回(PC)]

知的障害者の大正天皇が父親だからこそ、あんな出来そこない(裕仁)ができたんじゃないの
http://www.logsoku.com/r/history2/1192789720/

大正天皇
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=0mNIQLIhgR8


大正天皇は知的障害者だったんだよ?


497 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:34:59

なんか大正天皇のDNAが愛子に出てきたみたいで騒ぎになってるな。


506 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 00:55:27

大正天皇は明治天皇の子でないから、どうでもいいですよ〜
明治生まれの、明治天皇の末子が昭和天皇です。


3 :名無し象は鼻がウナギだ!:2007/01/18(木) 15:06:14

大正天皇の和歌や漢詩や書は、専門家のあいだでは、お世辞ぬきで評価されてるぜ。
・・・・ただ、あの方は、奇行が多かったようだけど・・・・。


5 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:17:46

書は確かにうまいよね。


7 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:42:16

詔勅の紙を丸めて覗いてたって言うけど、それで知的障害ですか?
そういうことってオレもよくやるんだよね
辞令の紙を丸めて覗いたことあるし


41 :NONAME:2009/10/24(土) 21:36:54 8 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:16:16
>>7
ちゃんと巻けてるかどうかを確かめたのをそう勘違いされたと聞いたことある。


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


53 :日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:44:44

厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。
が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。


58 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:12:31
>>53
「見える 見える よく見える」

世紀の名言だなw


42 :NONAME:2009/10/24(土) 21:41:29

巻けてるかどうかというより、国会の開会の際に巻いてある詔勅の紙をパッと広げて読もうとしたら、上下逆だったため持ちかえて読んだことがあった(ハズカシ)
そのため、それ以降は広げる前に丸めた状態で中をのぞいて事前にちゃんと確認するようにした
その様を見た当時のある国会議員が

「あの馬鹿帝、のぞいて遊んでやがる(プギャー」

と言いふらした。 近年それを裏付ける当時の女官の日記が発見されたらしい


11 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 02:12:48

山県が流したんだっけ、確か


290 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:43:36

つうか宮内庁やら政府が隠したいのは山県との確執(と言うより山県によるイジメ)では?

「遠眼鏡」の件がどうであれ「御発語に難あり」とされ赤子の時脳膜炎やったのはもう隠し様が無いし
少なくとも心身共に問題無ければヒロヒトが摂政になる必要は無かった訳で…

山県にすれば自由奔放な嘉仁は御しにくく気にいらない存在だったらしい。
「遠眼鏡」やその他のネガティブ情報は山県の発信と言うのは良く囁かれるところw

因みに山県はヒロヒトの結婚の相手を選ぶ時もイチャモン付けているwww


335 :日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:13:42

真面目な話、思い通りに操れない大正天皇を排除して、昭和天皇に摂政として事実上譲位させるため、山縣有朋らが仕組んだ風説なんだよね。


79 :日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:36:45
>>53
これ名誉毀損だろw特に後半の存命の人物に触れてるとことか
ていうか近親相姦云々いうが、嘉仁は妾腹だったんだが、、、


289 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:03:25
>嘉仁
確か生まれた時に脳膜炎にかかりそれが知的障害?に繋がったと聞く。

母親の愛子は先に男女二人を生んでいるがこれも脳膜炎で死んでいるとか。
小学校の過程を14歳でやっとの事卒業したとか。
多動症(極端に落ち着きの無いってことらしい)であったとか。

多動症ってものに付いては奇行が多かったという話に繋がるんだろうが
即位後はかなりのプレッシャーがあったろうし
>>11にもチラっと出た山県との軋轢とかもあったらしい。

ただ堅苦しい宮中より旅行等で外に出て庶民に気軽に話しかけたと言うから息子や父親よりは人間的にはイイ奴だったかもしれんw


…ところで昭和天皇も障害者だったって言う話は出ないのかな?
「脊柱側湾症」という背骨のゆがみだったと思うが、
確かに異常に猫背だったようなw


296 :日本@名無史さん:2008/01/02(水) 08:02:59
>>289
望遠鏡事件。皆を驚愕させました。 <原敬日記


111 :日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:54:18

父親から聞いた話(正しくは曽祖父→祖父→父)だが、

学習院初等科の卒業式の際、大正天皇(当時は皇太子)は卒業証書で折り紙を折れと御付の方に言い、作ってもらった何か(飛行機や兜の類だったと思う)でケラケラ笑いながら遊んでいたという。
当然級友は見て見ぬ振りをさせられ(下手したら退学)、先生は叱るに叱れず(下手したら死刑)、学友の父兄は失笑すら禁止(左に同じ)。
公には写真すら出してはいけなかった。やんごとなき御家の黒歴史。

123 :日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:10:26

漏れの曽祖父、徴兵されて入営した後、近衛兵に抜擢されて明治帝に仕えていたそうなんだ。 曽祖父は漏れが生まれる前に他界していて、直接話を聞いたことがあるわけではないんだけど、曽祖父が、当時、皇太子殿下の身辺警護の任に就いていたときのエピソードを、母より伝え聞いたことがある。

皇太子殿下から、「おまえ、馬になれ!」と命令されて、四つん這いになって背中に皇太子殿下を乗せて、ハイドウドウとやらされたことがあったそうな。
また、皇太子殿下は紙をくるくると丸めて、望遠鏡のように周囲を眺める癖があったそうな。
別に漏れは、大正帝の知的能力がどうこうと言及するつもりはない。
だが、彼と同時代に生きた人間の証言を、ここに、参考材料として提供しておく。


386 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:00:53

中学の時に社会科の教師から、
大正天皇の乳母が乳を上げるときに、普通の胸から飲ますのは恐れ多いから乳房に鉛の入った成分の化粧をしてそれで乳を飲んだから大正天皇に傷害があるようになったと聞いたな。


393 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 17:57:08
>>386
俺の中学の時の社会科の教師は
当時、乳母たちが子供を寝かしつけるために睡眠薬を使っており、その影響で脳に障害が残ったのだと言ってた。
明治天皇の子供の多くが早死にしたのもそのせいだと。


396 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:39:33
>>393
それがほんとなら当時の上流階級が全滅してるだろ.


423 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:50:26

梅の毒が脳に廻ったと、普通に聞いた事があるのだが、


420 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:04:52

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1243743674806.jpg

1912年8月15日、即位したばかりの32歳の大正天皇と側近たち、
左から、杉孫七郎(子爵、枢密顧問官) , 山県有朋(公爵、元帥), 大正天皇、 
桂太郎(公爵、内大臣兼侍従長)、 村木雅美(男爵・陸軍中将、東宮大夫)

同年7月30日、明治天皇崩御を受け践祚。「大正」と改元した。
3年後の大正4年に京都御所で即位の礼を行なうが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、 即位後の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つようになる。


425 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 15:11:11
>>420
いらん口出しして山縣の怒り買ったんだから自業自得


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


374 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:48:15

山県が毒を盛らせて大正天皇を暗殺した。


406 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:24:32

毒殺です。神道の明治天皇南朝説では、 昭和天皇は、 明治天皇56歳の末子
明治男子なかなか生まれず、江戸入城に際し、徳川警戒し明治天皇の替え玉の
大西という男子らしい〜昭和天皇に早く、 継がせたかったかららしいー

189 :日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:46:04

あの一家馬鹿しかいない。
ブサイクだしね。
日本の恥。


307 :日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:59:25

天皇誕生日に、皇族がお立ち台で勢ぞろいしてるのを見ましたが、全員、見れば見るほど、顔(マヌケズラ)も人格(ボーーーーっとしている)もお粗末な連中ですね!
こんな連中を270億円も払って飼っる日本って、ワーキングプアなんて存在しない、裕福な国ですよね!


350 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:10:55

愛ちゃんもショウガイシャでしょ。


319 :日本@名無史さん:2008/02/08(金) 17:50:17

精神薄弱者じゃないのか?


112 :日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:25:10

生まれ持った汚い血筋と、近親相姦の連続のなせる業ですな
池沼がよだれをたらしながら玉座にふんぞり返る、それを崇拝し昆虫の群れの如く付き従う蛮族、まさに野蛮な原始社会w


113 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:24:33

大正天皇は明治の第三皇子なんだね。
調べたら、柳原愛子が産んだ子供は帝以外は全員夭折か・・・
で、第一皇子は愛子腹ではないね。
誰が産んでその後どうなったのか?


114 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:26:33

>>113明治天皇の第一皇子は稚瑞照彦尊、誕生した日に亡くなった
生母は権典侍葉室光子(長順の娘)光子も4日後に20歳の若さで亡くなった
ちなみにこのお産にシーボルトの娘楠本いねが携わっている

あと明治天皇の皇女4人(全員生母は、園祥子権典侍)は成人して旧宮家に嫁いでる


206 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 03:35:48
天皇は近親相姦に起因する劣等遺伝子を盛った奇形野郎だ


251 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 13:41:31

天皇家は1500年間も近親婚やってたんだぜ?
5代や10代の話ではない。
それでも普通に続いていけるってことだ。


253 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:01:46
>>251
 高貴な血筋が要求される皇后の嫡子が天皇になる場合は本当に少ない。


254 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:10:16
>>253
歴代天皇の生母を調べたことある?
歴代天皇だいたい半数が皇后腹。
残る半数の母親も、藤原氏や源氏などの公家の娘たちだよ。
天皇の女官となって側へあがるにはそれなりの家柄が求められるからね。
生母が皇后でない天皇であっても、母親が公家の姫である以上、血筋は非常に濃い。
結果的に近親婚である例がほとんどだよ。


257 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 16:25:32
>>254
藤原氏は特に露骨だったね。
血筋的に叔母と甥の関係にあっても平気で結婚させたし。
入内した藤原の姫君たちも、近親婚の影響を受けて「鬼に憑かれた」状態になる人がいたり。


43 :NONAME:2009/10/24(土) 21:44:57

明治帝の息子で皇太子の身分になる男にあてがわれた妻は華族の父親が女中に手をつけて生ませた娘。
母親の出自があまりに低いので、赤ちゃんの頃から豪農に預けられて育った
いわば「野育ち」の娘。
大正天皇が健康で知的で美貌だったら、わざわざ女中を実母に持つ娘を正妻にしなくてもいくらでも美貌の華族令嬢や宮家の姫がお相手になったはず。


194 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 22:46:29

てか、五摂家で年齢がつりあうのが貞明皇后とその姉しかいなかったんじゃない・・・?
宮家に範囲を広げても全員側室腹。
美貌でしかるべき身分の母を持つ鷹司家の姫君(貞明皇后の従妹)などはは年下過ぎる。
年齢が釣り合い美貌でしかるべき身分の母を持つ伊都子妃は大名家の時点で×
おそらく美貌でしかるべき身分の母を持つ岩倉具視の孫も候補にいたが時代が時代なら側室身分なので×


195 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:45:42

貞明皇后は、妾にもなれなかった、お手つきの女中の子ですが?


196 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:24:15

大正天皇の妃には最初、伏見宮貞愛親王の娘・禎子女王が内定していた。
しかし、健康上の理由から破談となり、健康的な九條節子(貞明皇后)が選ばれ、妃となった。


200 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:13:44

明治天皇の皇后一条美子も側室腹。
そもそも、大正天皇自身が側室腹なのに、貞明皇后が側室腹で悪いことは何もない。
大正天皇の生母柳原愛子も、生母の名は公されず、父光愛の正室ではない。愛妾腹であったことは確実。


201 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:28:38
>>199
>邸内ではそんなに引け目を感じることはなかったのでは?

その頃の日本は、妾を持つことは合法だったから
公爵の娘を産んだのだから、別邸を構えて堂々と妾生活も送れたはず。
ところが、貞明さんの実母の女中は、出産早々に子供と引き離され、九条家の屋敷から出され、実の娘の貞明皇后とは生涯会わなかったから女中と言う身分は当時の感覚では相当な引け目だったんだろう。


202 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:36:45

昭和天皇は、母の出自を恥じていらしたそうですね。
特に英国留学から帰国して以降は。


203 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:32:40
>>201
貞明皇后と生母は皇后の誕生日とかにあってるよ ただ皇居は正門から入ることを許さず皇太后になってから大宮御所に住まうようになってから正門から通した
大正天皇とも道実夫妻とともに京都御所で拝謁してる この時浄操院(野間幾子)が道実夫妻より先に馬車に乗ろうとして道実に降ろされた事件?がありそれをみていた侍従かなんかが複雑な気持ちになったらしい


205 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:49:10
>>203
昭和帝は遊学先の英国で妾腹の子=庶子とはどういうものか、知ったんだよ。


204 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:28:34
>>199
>>201
野間幾子は貞明皇后を産んだとき結構な年齢だったからお褥下がりになったのでは?(貞明皇后以前に道実、範子、籌子を産んでいる)

あと建前上は父の正室が母となるから生母が側室だと生母を母上とは呼べなかったらしい(有名どころでは徳川慶喜側室新村信・中根幸、松平慶永側室糟屋婦志、松平容保側室田代佐久・川村名賀他)
それと道孝の正室宗和子は大正初期まで生きていたはず
http://mimizun.com/log/2ch/history/1169050628/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100364  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。