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2010年8月08日00時04分 〜
コメント [マスコミ・電通批評10] 日テレ社員3名は 電通の選挙の不正を知った口封じのために殺害されたのでは? 直人
20. 2010年8月08日 00:04:40: kbjD6Oqr1Y
>電通は、利権確保とライバル攻撃なら、何でもします。
本当に悪質な企業。
日本の悪い部分が集約された会社です

電通は、統計、データの改ざん、事件のねつ造、隠ぺいは、お得意。

お得意様のためなら、殺しもします。

マスコミの統制、誘導、規制は、任せて大丈夫。

NO.1 国賊企業です。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/768.html#c20

コメント [不安と不健康15] 学校で集団でフッ素うがいをさせるのは なぜ? つゆくさ
50. 2010年8月08日 00:15:17: BCdLwwLkAs
これは例のインドの学者などがフッ素の強い毒性を訴えるオーストラリアで放送されたニュース番組です。

日本でも是非放送して、国民に注意喚起を促していただきたい内容ですが、イギリスBBCがパキシルなどの抗うつ剤SSRIの危険性を訴える放送があったのが2004年、一方日本では去年NHKがようやく放送して自殺・他殺衝動をはじめとする様々な副作用の注意喚起につながった事を考えると、恐ろしい状況ですね。

http://www.youtube.com/watch?v=nZBRBPgTOt0&feature=player_embedded#!


http://www.asyura2.com/09/health15/msg/198.html#c50

コメント [口蹄疫・新型インフル02] 東国原宮崎県知事はおかしくないか? taked4700
59. taked4700 2010年8月08日 00:16:51: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
57さん、

供託金300万円は没収されています。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/754.html#c59

コメント [ニュース情報8] ザ・コーヴ、東京上映すべて中止 イルカ漁批判の米映画 吐息でネット右翼
06. 2010年8月08日 00:17:06: FTsXsV0ndw
事実を隠す目的の上映中止は、おかしい。
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/360.html#c6
コメント [口蹄疫・新型インフル02] どうしてサボタージュが行われたかを国は調査すべきであり、サボタージュの原因追及を棚上げして法の不備(?)を主張する知事に taked4700
04. taked4700 2010年8月08日 00:30:28: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
03さん、

今回の口蹄疫にしても、2000年の時の口蹄疫にしても、そして、2007年の鳥インフルエンザにしても、どれも、多分、人工的に起されたものですよ。

つまり、そういったウィルスを自由に取り扱うことができる連中が背後にいるということ。東国原知事にそんな力はない。彼は、そういった背後にいる連中によって動かされ、利用されているのでしょう。まあ、それだけの便宜供与も受けている様子だが。

日本の政界自体、または、官僚自体が、そういった勢力によってほとんど征服されていて、自分たちの判断ではなかなか動けない様子だ。ところが、一般市民は自国の政治家や官僚はきちんと自国の利益になるように動いていると信じ込んでいるから、今回のような事件が起こっても、その不自然さや不合理さに気づこうとしない。

多分、今回の事件では1000億円を超え、1200億とか1300億円が国費から使われるのだろう。そして、その内100億円ぐらいかもっと多くがくすねられ、一部の協力者へ払われたり、日本社会をより植民市化するために使われていくのだ。一時的に利益を得ても、社会全体の植民地化は、非常に悲惨なものになるはずだ。更に、日本はフィリピン型の植民地になるわけではなく、もっとひどい事態になる可能性が高い。だから、一時的に利益を得ることで良しとするのではなく、植民地化を止める必要がある。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/770.html#c4

記事 [テスト19] 投稿試驗
 
 
 
 
ロシアがフランスから強襲揚陸艦ミストラルを買う理由 : 週刊オブイェクト
http://obiekt.seesaa.net/article/146675771.html
 
 
2010年04月16日
ロシアがフランスから強襲揚陸艦ミストラルを買う理由

ロシア軍はポポフキン国防次官(装備担当、上級大将)の決断により、たとえ一時的にであっても国外から兵器を購入し、国内の兵器開発力が回復するまでの繋ぎとすることを決めました。具体的には先ずイスラエルから無人偵察機を購入する事と、フランスからミストラル級強襲揚陸艦を購入する方針です。どちらも2008年に勃発したグルジア戦争でその必要性を認識し、可及的速やかに調達する事が求められました。

この動きは周辺国に大きな影響を与えました。特に強襲揚陸艦ミストラルの購入は、ロシア軍の上陸作戦能力を飛躍的に向上させる事に繋がる為、バルト三国など周辺国は懸念を表明しました。それらの声に対し、ロシア側は「あくまで自衛的兵力である」と、以下のように反論しています。
 
 
"Мистраль" обеспечит безопасность
Курильских островов : Lenta.Ru

Министерство обороны России намерено использовать десантные вертолетоносцы класса "Мистраль" для обеспечения безопасности Курильских островов и Калининградского эксклава, пишет газета "Коммерсант" со ссылкой на слова заместителя министра обороны Владимира Поповкина. В экстренных случаях корабли будут обеспечивать масштабную переброску войск в эти регионы.

(ロシア国防省はクリル諸島とカリーニングラード飛び地領の安全保障に備える目的としてミストラル級強襲揚陸艦を使う事をコメルサント紙がウラジーミル・ポポフキン国防次官の言葉として伝えました。)
 
 
ロシアは強襲揚陸艦ミストラルを逆上陸用の防衛的兵器であると主張しています。これがなければクリル諸島やカリーニングラードに多数の兵士を張り付けて防衛しないとならず、今のロシア軍にはその余力が無い為、「取らせてから取り返す」方式しかないという説明です。孤立した土地にいくら多数の兵力を張り付けても、相手が十分に準備した上で先制攻撃してきたら持ち堪える事は困難で、どちらにしろ増援が必要になるからです。それならば張り付け戦力を最低限にして、増援用戦力を整備すれば兵力単位の自由度が増します。孤立した土地への張り付け戦力は動かし難く、別の場所の有事には投入できないので軍全体の負担が大きいのです。また、逆上陸以外には自国民を脱出させる為に使う事も強襲揚陸艦の重要な役割になります。港に接岸して避難民を収容していると、艦自体の港湾脱出が危うくなりかねないのですが、沖合に停泊してヘリコプターで反復輸送すればその危険性を大幅に減らせます。アメリカ軍はベトナム戦争でのサイゴン撤退作戦「フリクエント・ウィンド」で、洋上待機する複数の空母にヘリコプターが反復輸送を行い多数の人員を脱出させています。

"Курильских островов"・・・クリル諸島(北方領土)
"Калининградского эксклава"・・・カリーニングラード=飛び地領

ポポフキン国防次官はロシアが持つ東西の孤立した土地、孤島であるクリル諸島と飛び地であるカリーニングラードの両方に付いて言及していますが、報道はクリル諸島(北方領土)の方を強調しています。これはミストラル級調達第一隻目は先ず最初にロシア太平洋艦隊に配備される予定だからです。
 
 
Окончательное решение по "Мистралю"
будет принято в ближайшее время : РИА Новости

В случае положительного решения первые корабли этого типа планируется направить на Дальний Восток, на укрепление Тихоокеанского флота,

(肯定的な答えが出た場合、太平洋艦隊を強くする為、同型(ロシア向けミストラル級)の最初の艦は、極東地域の指揮下に置かれる計画です。)
 
 
これは太平洋艦隊の艦艇を修理維持できず、北方艦隊に比べ大きく戦力が低下しているからです。ロシアはソ連時代にイワン・ロゴフ級という大型揚陸艦を三隻建造し、うち二隻を太平洋艦隊に配備しました。しかし太平洋艦隊の1番艦「イワン・ロゴフ」は除籍され、2番艦「アレクサンドル・ニコラエフ」は予備艦扱いになり、北方艦隊に所属する3番艦「ミトロファン・モスカレンコ」のみが稼働しているのが現状です。その為、新しく取得するミストラル級を太平洋艦隊に先に廻す必要があります。

≪Иван Рогов≫・・・イワン・ロゴフ級大型揚陸艦(満載排水量14,000t)

≪Мистраль≫・・・ミストラル級強襲揚陸艦(満載排水量21,500t)

 
 
ロシアの立場からからすれば、これはあくまでイワン・ロゴフ級の更新用であり、他国から文句を言われる筋合いはない、という事になります。そもそも極東方面ではイワン・ロゴフ級を上回る大型揚陸艦が次々と就役しており、ミストラル級でも用意しなければバランスが取れない状況になっています。

日本・・・「おおすみ」級(満載排水量14,000t)×3隻
韓国・・・「ドクト」級(満載排水量18,850t)×1隻(2番艦計画中)
中国・・・「昆侖山」級(満載排水量17,600t)×1隻

日本の「おおすみ」級は固有のヘリコプターを持ちませんが、ヘリコプター護衛艦「ひゅうが」級2隻と連携運用すれば強襲揚陸作戦が可能になります。更にイタリアの新型多目的空母「カブール」に匹敵する能力を備えた満載排水量27,000tの拡大型ヘリコプター護衛艦(22DDH)の予算も通り、順当にいけばこれを2隻造る事になります。「ひゅうが」級2隻と合わせ、ヘリコプターを用いた強襲揚陸が可能な艦として数えると、日本はヘリ揚陸艦×4、ドック揚陸艦×3という強力な戦力を保有する事になります。ヘリコプター護衛艦の半数は本来の対潜任務に専念させるとしても、使える大型揚陸艦は5隻となります。ヘリコプター護衛艦と多目的空母は専用の揚陸艦よりは輸送能力が劣るので、それを割り引いて考えたとしても、合計でミストラル級3〜4隻分の戦力はあるでしょう。日本はこれを専守防衛用(逆上陸用)及び国際貢献用(災害派遣用)と称して整備しています。

「おおすみ」型輸送艦

「ひゅうが」型護衛艦

「22DDH」計画艦

 
 
韓国のドクト級揚陸艦は、ほぼミストラル級に匹敵する能力を有しています。韓国は自国が朝鮮戦争で負けなかったのは、マッカーサーの大博打「仁川(インチョン)上陸作戦」が成功したからだという事を身に染みて理解しています。その韓国軍が強襲揚陸作戦能力の獲得を目指すのは当然で、これもまた国家防衛用(逆上陸用)及び国際貢献用(災害派遣用)と称して整備しています。

「ドクト」級強襲揚陸艦

中国の「昆侖山」(071型ドック揚陸艦)は1隻のみで、試作艦の意味合いが強いです。これまで中国海軍は台湾攻略用に中型揚陸艦や小型揚陸艇の数を揃える事を重視して来ましたが、もっと遠距離での揚陸作戦を可能とする大型揚陸艦の整備に着手し、これがその第一弾という事になります。

「昆侖山」(071型ドック揚陸艦)

極東地域ではこの他に、佐世保にアメリカ海軍第七艦隊の強襲揚陸艦1隻とドック揚陸艦3隻の計4隻が居ます。アメリカ海軍の強襲揚陸艦は「ミストラル」級の2倍の大きさで、ドック揚陸艦は「昆侖山」級とほぼ同じ大きさです。

今から30年前の当時、ソ連太平洋艦隊にイワン・ロゴフ級大型揚陸艦とキエフ級航空巡洋艦が配備された時は、日中韓の海軍の揚陸作戦能力は著しく低く、アメリカ海軍第七艦隊を除けば極東地域ではソ連太平洋艦隊が突出して高く、当時叫ばれていた「北方脅威論」の象徴としてイワン・ロゴフ級大型揚陸艦「イワン・ロゴフ」「アレクサンドル・ニコラエフ」、キエフ級航空巡洋艦「ミンスク」「ノヴォロシースク」は日本人に恐れられていました。キエフ級の本来の役割は長距離巡航ミサイルによる対艦攻撃と搭載ヘリコプターによる対潜任務ですが、ヘリコプター搭載艦として揚陸作戦の支援も可能です。しかしイワン・ロゴフ級2隻とキエフ級2隻の揚陸能力は今日の目から見れば、日中韓の海軍がそれぞれもうすぐ獲得できる程度の能力という事になります。これは日中韓の海軍力が拡大してきた事、そして1980年代のソ連軍を対象とする「北方脅威論」が誇張され過ぎたものであった事の、両方の要素があります。

≪Минск≫・・・キエフ級重航空巡洋艦「ミンスク」(満載排水量41,400t)

※除籍後、屑鉄として韓国に売却され中国に転売される。

なにしろソ連‐ソビエト連邦は、1991年には消滅してしまうのです。崩壊に至るまで衰退は、既に1980年代から顕著になっていました。ソ連はアフガン侵攻で手一杯で、とても極東に攻め込む余力は無く、むしろ逆に攻め込まれる事を心配していました。アメリカのように二正面作戦を行える国力は有していなかったのです。この事はソ連崩壊後の資料公開で明らかとなります。ソ連は本気で日本人がクリル諸島を取り返しに来る事を警戒していました。フォークランド紛争(1982年)でアルゼンチンが行った事を、日本は行って来ないと何故言えるのか? ロシア人は日本の憲法9条など信用していませんでした。そして同じ事が今現在も言えます。ロシアは2年前のグルジア戦争からこう理解しています。

「グルジアのような軍事的弱小国が戦争を挑んできた。領土紛争とはそういうものだ。日本がクリル諸島を奪い返しに来ないと何故言える? ましてや日露戦争、太平洋戦争で日本は大国相手にばかり挑んできた。 平和憲法? そんなものを信用できるものか。」

常識的に考えれば、日本人がまともな政治判断をしている限りは、平和憲法の通り軍事力に訴えて北方領土を奪い返しに来る事は無いでしょう。しかし、グルジアのサーカシビリ大統領のような愚かな判断(アメリカが助けてくれると勝手に期待してロシアに戦争を仕掛けた)をする指導者が出て来ない保障など無いのです。可能性としては非常に低い話です。でも例えば今の日本の首相は何を考えているのか全く分からない、理解不能な面があります。とはいえ鳩山首相の方向性はグルジアのサーカシビリ大統領というよりは、ウクライナのキエフ市長レオニード・チェルノベツキー(Леонид Черновецкий)に近いのですが・・・鳩山首相は宇宙人に例えられますが、キエフ市長も宇宙的な人だったりします。

キチガイなキエフ市長:MURAJIの戯れ言

「"宇宙人リョーニャ"(レオニードの愛称)に匹敵する"宇宙人ハトヤマ"を総理大臣に据えてしまう日本国民が、次にサーカシビリと似たような人物を選ばないと何故言える? 選挙でマトモな判断が期待できるのか?」

そうロシア人に問い掛けられてしまったら、返答に困ってしまうのも確かです・・・。
 
 
さて以上は「ロシアから見たミストラル級配備の意義」です。あくまでロシア視点なので日本人には理解し難い面もあるかもしれませんが、ロシア人は結構本気で強襲揚陸艦を防御的な役割で必要だと考えているようなのです。孤立した地域が奪われた時に奪い返す為の役割と、孤立した地域から人員を脱出させる為の役割を考えています。ロシアがミストラル級を取得しようと思い立ったきっかけはグルジア戦争からですが、懸念しているのは黒海方面だけではなく、クリル諸島とカリーニングラードの維持もかなり気にしているのです。ロシア人から見れば日本自衛隊の揚陸能力の向上は著しいですし、仮に逆上陸用の戦力があってもウラジオストクから救援に行くには宗谷海峡を突破せざるを得ず、強力な空中援護と水上艦の護衛が無ければ辿り着く事すら難しいのです。地形的に見てロシアが北方領土を維持する事は大変難しく、もしロシアが核兵器を使わないのなら、現状の戦力では自衛隊が本気で北方領土を奪い返しに来たら、ロシアに勝ち目はありません。アメリカ軍抜きで勝敗は決します。

つまり逆説的な話ですが、宗谷海峡の安全通行を確保しなければクリル諸島の救援はおぼつきません。艦隊整備の関係と流氷の問題で、カムチャッカ半島に水上艦の根拠地を置くのは無理ですし、間宮海峡廻りで迂回して来るのも流氷の時期には無理です。つまりクリル防衛には北海道の海峡周辺へ限定侵攻し、安全通行を確保し、その上で救援に向かうのが最も確実です。地球温暖化で間宮海峡とオホーツク海の流氷が気にならなくなれば戦略も変わってきますが、現状では「もし日本が北方領土奪還作戦を掲げて攻めてきたら、ロシア軍はお返しに全力で北海道に攻め込む」という作戦が有り得ます。ロシアは2年前のグルジア戦争で、紛争地域の南オセチアとアブハジアを大きく超えてグルジア本領奥深くまで攻め込みました。同じように領土紛争で係争地以外への侵攻は十分に有り得るケースです。

しかし、それを行うには水陸両用戦能力の大幅な拡充が必要で、太平洋艦隊に廻すミストラル級1〜2隻程度では全く十分ではなく、陸海空全体の質の向上が求められる事になります。
 
 
 
 
 
 
 
 
今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時 : 週刊オブイェクト
http://obiekt.seesaa.net/article/158167285.html
 
 
2010年08月01日
今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時

今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時が来ました。国家の財政が赤字であろうと、今このタイミングを逃してしまうと取り返しが付かなくなってしまうからです。
 
 
露、今後3年で国防費60%増へ…原潜配備など:読売新聞

この予算方針は、プーチン首相が主宰した29日の政府会議で採択されたという。ロシアは財政赤字削減に取り組んでおり、国内の治安対策費も今後3年間減額されるなど多くの費目が削減対象となる中、国防費だけは聖域扱いされる形となっている。
 
 
ロシアは軍拡を行います。ヨーロッパ諸国が域内の金融危機に対応する為に、大幅な防衛予算削減(福祉予算はもっと減らされる)を行っている真っ最中なのに、このような決断を降した理由は、ソ連消滅から20年間の間に新生ロシア軍の装備が殆ど更新されておらず、これ以上この状態を放置してしまうと軍事的に二流以下に成り下がってしまう懸念があるからです。ロシア軍は組織の枠組みの大改革に着手し、装備の調達についても新たな取り組み(国内兵器産業を立て直すまで外国兵器の本格導入)を行っています。また、ロシアはNATO以外の軍事的脅威とも相対しており、これに対抗する必要性が生じているのです。
 
 
ロシア軍近代化、将校大幅削減…米中に対抗:読売新聞

改革の成果を試す機会となったのが、6月末から7月初めに極東地域などで実施された軍事演習「ボストーク2010」。軍事評論家イリヤ・クラムニック氏は、「装備は古いものが目立ったが、部隊運用は円滑だった」と評価する。

演習では、ハバロフスクに侵入した爆撃機の迎撃訓練などが、中国を想定したものとして注目された。ロシア政府は、「どの国も仮想敵国に想定していない」と強調。2月に公表した軍事ドクトリンでも中国の脅威には一切触れていない。だが、関係者の間では、「ロシアが中国を脅威ととらえているのは明らか」(クラムニック氏)と言われており、急速な軍改革も、強大化する隣国・中国に対抗する布石という面がありそうだ。
 
 
ボストーク2010演習は極東方面の各所広範囲で行われており、あらゆる事態を想定して様々な演習が行われました。中には朝鮮半島で武力衝突が発生した際に難民を受け入れる訓練や、日本との領土紛争を想定した北方領土展開訓練、中国が国境線を越えてハバロフスクに侵攻して来た場合の迎撃訓練などがありました。そしてロシアの軍事専門家イリヤ・クラムニク氏(イリヤとは男性名)は特にボストーク2010演習は対中国を意識したものだと解説しています。これについてはモスクワ在住の軍事ライター小泉悠氏(最近ロシア女性と結婚されたそうです。おめでとうございます)もイリヤ・クラムニク氏と近い意見です。
 
 
ヴォストーク2010演習小括:★くろいあめ、あかいほし

7月1日付の『産経新聞』は、択捉島で上陸作戦演習が行われたことや、今年2月好評の『軍事ドクトリン』に「領土要求」が脅威として盛り込まれたことを根拠に、今次演習が「日本を仮想敵としている」とした。

しかし、択捉での上陸演習は広大な演習地域の一部で行われたものに過ぎず、また、新『軍事ドクトリン』における「領土要求」への優先順位はむしろ前バージョンより低下している(以前は「脅威」の第一位にランクされていたが、今次ドクトリンではより脅威度の低い「軍事的危険」という項目の第4位にランクされているに過ぎない)。

したがって、今次演習が(少なくても主要な仮想敵として)日本を意識したものとは考えにくく、中国または朝鮮半島を睨んだものとする他の論評の方が、考慮に値すると考えられる。
 
 
実際問題として日本が突然、専守防衛の平和憲法を改正もせずに北方領土の武力奪還を行って来る事は考えられず、ロシアとしても中国や北朝鮮の有事を優先して考えるのが普通でしょう。ロシアは7年前には朝鮮半島で核兵器が使用された場合を想定した放射能除去訓練まで行っており、20万人の北朝鮮難民を受け入れる訓練はその時にも行い、今回のボストーク2010演習で2回目になります。

また現在、ロシアと中国の仲は急速に冷え込んでおり、ロシア製兵器を違法コピーする中国にロシアが激怒しています。以前からロシアは中国と敵対関係に戻る事(冷戦中は完全に敵対関係にあった)を考慮し、最新鋭の兵器は売却に応じて来ませんでした。結果としてそれは正解だったのです。

中国でのライセンス契約破棄検討 ロ戦闘機違法コピーで:共同通信

「中国に対する最後の信用を失った」とあります。この問題が発展すればジェットエンジンの供給も止まる事になるかもしれません。
 
 
 
 
白頭山、朝鮮自治洲周邊に巣喰つてゐる邪なる靈が、一部の朝鮮人共を狂はせ、露西亞を使つてb國日本に牙を剥く
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/468.html
投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 8 月 01 日 19:09:25: xsXux3woMgsl6
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/test19/msg/772.html

記事 [Ψ空耳の丘Ψ58] 極東に於ける露西亞の軍事事情
 
 
 
 
ロシアがフランスから強襲揚陸艦ミストラルを買う理由 : 週刊オブイェクト
http://obiekt.seesaa.net/article/146675771.html
 
 
2010年04月16日
ロシアがフランスから強襲揚陸艦ミストラルを買う理由

ロシア軍はポポフキン国防次官(装備担当、上級大将)の決断により、たとえ一時的にであっても国外から兵器を購入し、国内の兵器開発力が回復するまでの繋ぎとすることを決めました。具体的には先ずイスラエルから無人偵察機を購入する事と、フランスからミストラル級強襲揚陸艦を購入する方針です。どちらも2008年に勃発したグルジア戦争でその必要性を認識し、可及的速やかに調達する事が求められました。

この動きは周辺国に大きな影響を与えました。特に強襲揚陸艦ミストラルの購入は、ロシア軍の上陸作戦能力を飛躍的に向上させる事に繋がる為、バルト三国など周辺国は懸念を表明しました。それらの声に対し、ロシア側は「あくまで自衛的兵力である」と、以下のように反論しています。
 
 
"Мистраль" обеспечит безопасность
Курильских островов : Lenta.Ru

Министерство обороны России намерено использовать десантные вертолетоносцы класса "Мистраль" для обеспечения безопасности Курильских островов и Калининградского эксклава, пишет газета "Коммерсант" со ссылкой на слова заместителя министра обороны Владимира Поповкина. В экстренных случаях корабли будут обеспечивать масштабную переброску войск в эти регионы.

(ロシア国防省はクリル諸島とカリーニングラード飛び地領の安全保障に備える目的としてミストラル級強襲揚陸艦を使う事をコメルサント紙がウラジーミル・ポポフキン国防次官の言葉として伝えました。)
 
 
ロシアは強襲揚陸艦ミストラルを逆上陸用の防衛的兵器であると主張しています。これがなければクリル諸島やカリーニングラードに多数の兵士を張り付けて防衛しないとならず、今のロシア軍にはその余力が無い為、「取らせてから取り返す」方式しかないという説明です。孤立した土地にいくら多数の兵力を張り付けても、相手が十分に準備した上で先制攻撃してきたら持ち堪える事は困難で、どちらにしろ増援が必要になるからです。それならば張り付け戦力を最低限にして、増援用戦力を整備すれば兵力単位の自由度が増します。孤立した土地への張り付け戦力は動かし難く、別の場所の有事には投入できないので軍全体の負担が大きいのです。また、逆上陸以外には自国民を脱出させる為に使う事も強襲揚陸艦の重要な役割になります。港に接岸して避難民を収容していると、艦自体の港湾脱出が危うくなりかねないのですが、沖合に停泊してヘリコプターで反復輸送すればその危険性を大幅に減らせます。アメリカ軍はベトナム戦争でのサイゴン撤退作戦「フリクエント・ウィンド」で、洋上待機する複数の空母にヘリコプターが反復輸送を行い多数の人員を脱出させています。

"Курильских островов"・・・クリル諸島(北方領土)
"Калининградского эксклава"・・・カリーニングラード=飛び地領

ポポフキン国防次官はロシアが持つ東西の孤立した土地、孤島であるクリル諸島と飛び地であるカリーニングラードの両方に付いて言及していますが、報道はクリル諸島(北方領土)の方を強調しています。これはミストラル級調達第一隻目は先ず最初にロシア太平洋艦隊に配備される予定だからです。
 
 
Окончательное решение по "Мистралю"
будет принято в ближайшее время : РИА Новости

В случае положительного решения первые корабли этого типа планируется направить на Дальний Восток, на укрепление Тихоокеанского флота,

(肯定的な答えが出た場合、太平洋艦隊を強くする為、同型(ロシア向けミストラル級)の最初の艦は、極東地域の指揮下に置かれる計画です。)
 
 
これは太平洋艦隊の艦艇を修理維持できず、北方艦隊に比べ大きく戦力が低下しているからです。ロシアはソ連時代にイワン・ロゴフ級という大型揚陸艦を三隻建造し、うち二隻を太平洋艦隊に配備しました。しかし太平洋艦隊の1番艦「イワン・ロゴフ」は除籍され、2番艦「アレクサンドル・ニコラエフ」は予備艦扱いになり、北方艦隊に所属する3番艦「ミトロファン・モスカレンコ」のみが稼働しているのが現状です。その為、新しく取得するミストラル級を太平洋艦隊に先に廻す必要があります。

≪Иван Рогов≫・・・イワン・ロゴフ級大型揚陸艦(満載排水量14,000t)

≪Мистраль≫・・・ミストラル級強襲揚陸艦(満載排水量21,500t)

 
 
ロシアの立場からからすれば、これはあくまでイワン・ロゴフ級の更新用であり、他国から文句を言われる筋合いはない、という事になります。そもそも極東方面ではイワン・ロゴフ級を上回る大型揚陸艦が次々と就役しており、ミストラル級でも用意しなければバランスが取れない状況になっています。

日本・・・「おおすみ」級(満載排水量14,000t)×3隻
韓国・・・「ドクト」級(満載排水量18,850t)×1隻(2番艦計画中)
中国・・・「昆侖山」級(満載排水量17,600t)×1隻

日本の「おおすみ」級は固有のヘリコプターを持ちませんが、ヘリコプター護衛艦「ひゅうが」級2隻と連携運用すれば強襲揚陸作戦が可能になります。更にイタリアの新型多目的空母「カブール」に匹敵する能力を備えた満載排水量27,000tの拡大型ヘリコプター護衛艦(22DDH)の予算も通り、順当にいけばこれを2隻造る事になります。「ひゅうが」級2隻と合わせ、ヘリコプターを用いた強襲揚陸が可能な艦として数えると、日本はヘリ揚陸艦×4、ドック揚陸艦×3という強力な戦力を保有する事になります。ヘリコプター護衛艦の半数は本来の対潜任務に専念させるとしても、使える大型揚陸艦は5隻となります。ヘリコプター護衛艦と多目的空母は専用の揚陸艦よりは輸送能力が劣るので、それを割り引いて考えたとしても、合計でミストラル級3〜4隻分の戦力はあるでしょう。日本はこれを専守防衛用(逆上陸用)及び国際貢献用(災害派遣用)と称して整備しています。

「おおすみ」型輸送艦

「ひゅうが」型護衛艦

「22DDH」計画艦

 
 
韓国のドクト級揚陸艦は、ほぼミストラル級に匹敵する能力を有しています。韓国は自国が朝鮮戦争で負けなかったのは、マッカーサーの大博打「仁川(インチョン)上陸作戦」が成功したからだという事を身に染みて理解しています。その韓国軍が強襲揚陸作戦能力の獲得を目指すのは当然で、これもまた国家防衛用(逆上陸用)及び国際貢献用(災害派遣用)と称して整備しています。

「ドクト」級強襲揚陸艦

中国の「昆侖山」(071型ドック揚陸艦)は1隻のみで、試作艦の意味合いが強いです。これまで中国海軍は台湾攻略用に中型揚陸艦や小型揚陸艇の数を揃える事を重視して来ましたが、もっと遠距離での揚陸作戦を可能とする大型揚陸艦の整備に着手し、これがその第一弾という事になります。

「昆侖山」(071型ドック揚陸艦)

極東地域ではこの他に、佐世保にアメリカ海軍第七艦隊の強襲揚陸艦1隻とドック揚陸艦3隻の計4隻が居ます。アメリカ海軍の強襲揚陸艦は「ミストラル」級の2倍の大きさで、ドック揚陸艦は「昆侖山」級とほぼ同じ大きさです。

今から30年前の当時、ソ連太平洋艦隊にイワン・ロゴフ級大型揚陸艦とキエフ級航空巡洋艦が配備された時は、日中韓の海軍の揚陸作戦能力は著しく低く、アメリカ海軍第七艦隊を除けば極東地域ではソ連太平洋艦隊が突出して高く、当時叫ばれていた「北方脅威論」の象徴としてイワン・ロゴフ級大型揚陸艦「イワン・ロゴフ」「アレクサンドル・ニコラエフ」、キエフ級航空巡洋艦「ミンスク」「ノヴォロシースク」は日本人に恐れられていました。キエフ級の本来の役割は長距離巡航ミサイルによる対艦攻撃と搭載ヘリコプターによる対潜任務ですが、ヘリコプター搭載艦として揚陸作戦の支援も可能です。しかしイワン・ロゴフ級2隻とキエフ級2隻の揚陸能力は今日の目から見れば、日中韓の海軍がそれぞれもうすぐ獲得できる程度の能力という事になります。これは日中韓の海軍力が拡大してきた事、そして1980年代のソ連軍を対象とする「北方脅威論」が誇張され過ぎたものであった事の、両方の要素があります。

≪Минск≫・・・キエフ級重航空巡洋艦「ミンスク」(満載排水量41,400t)

※除籍後、屑鉄として韓国に売却され中国に転売される。

なにしろソ連‐ソビエト連邦は、1991年には消滅してしまうのです。崩壊に至るまで衰退は、既に1980年代から顕著になっていました。ソ連はアフガン侵攻で手一杯で、とても極東に攻め込む余力は無く、むしろ逆に攻め込まれる事を心配していました。アメリカのように二正面作戦を行える国力は有していなかったのです。この事はソ連崩壊後の資料公開で明らかとなります。ソ連は本気で日本人がクリル諸島を取り返しに来る事を警戒していました。フォークランド紛争(1982年)でアルゼンチンが行った事を、日本は行って来ないと何故言えるのか? ロシア人は日本の憲法9条など信用していませんでした。そして同じ事が今現在も言えます。ロシアは2年前のグルジア戦争からこう理解しています。

「グルジアのような軍事的弱小国が戦争を挑んできた。領土紛争とはそういうものだ。日本がクリル諸島を奪い返しに来ないと何故言える? ましてや日露戦争、太平洋戦争で日本は大国相手にばかり挑んできた。 平和憲法? そんなものを信用できるものか。」

常識的に考えれば、日本人がまともな政治判断をしている限りは、平和憲法の通り軍事力に訴えて北方領土を奪い返しに来る事は無いでしょう。しかし、グルジアのサーカシビリ大統領のような愚かな判断(アメリカが助けてくれると勝手に期待してロシアに戦争を仕掛けた)をする指導者が出て来ない保障など無いのです。可能性としては非常に低い話です。でも例えば今の日本の首相は何を考えているのか全く分からない、理解不能な面があります。とはいえ鳩山首相の方向性はグルジアのサーカシビリ大統領というよりは、ウクライナのキエフ市長レオニード・チェルノベツキー(Леонид Черновецкий)に近いのですが・・・鳩山首相は宇宙人に例えられますが、キエフ市長も宇宙的な人だったりします。

キチガイなキエフ市長:MURAJIの戯れ言

「"宇宙人リョーニャ"(レオニードの愛称)に匹敵する"宇宙人ハトヤマ"を総理大臣に据えてしまう日本国民が、次にサーカシビリと似たような人物を選ばないと何故言える? 選挙でマトモな判断が期待できるのか?」

そうロシア人に問い掛けられてしまったら、返答に困ってしまうのも確かです・・・。
 
 
さて以上は「ロシアから見たミストラル級配備の意義」です。あくまでロシア視点なので日本人には理解し難い面もあるかもしれませんが、ロシア人は結構本気で強襲揚陸艦を防御的な役割で必要だと考えているようなのです。孤立した地域が奪われた時に奪い返す為の役割と、孤立した地域から人員を脱出させる為の役割を考えています。ロシアがミストラル級を取得しようと思い立ったきっかけはグルジア戦争からですが、懸念しているのは黒海方面だけではなく、クリル諸島とカリーニングラードの維持もかなり気にしているのです。ロシア人から見れば日本自衛隊の揚陸能力の向上は著しいですし、仮に逆上陸用の戦力があってもウラジオストクから救援に行くには宗谷海峡を突破せざるを得ず、強力な空中援護と水上艦の護衛が無ければ辿り着く事すら難しいのです。地形的に見てロシアが北方領土を維持する事は大変難しく、もしロシアが核兵器を使わないのなら、現状の戦力では自衛隊が本気で北方領土を奪い返しに来たら、ロシアに勝ち目はありません。アメリカ軍抜きで勝敗は決します。

つまり逆説的な話ですが、宗谷海峡の安全通行を確保しなければクリル諸島の救援はおぼつきません。艦隊整備の関係と流氷の問題で、カムチャッカ半島に水上艦の根拠地を置くのは無理ですし、間宮海峡廻りで迂回して来るのも流氷の時期には無理です。つまりクリル防衛には北海道の海峡周辺へ限定侵攻し、安全通行を確保し、その上で救援に向かうのが最も確実です。地球温暖化で間宮海峡とオホーツク海の流氷が気にならなくなれば戦略も変わってきますが、現状では「もし日本が北方領土奪還作戦を掲げて攻めてきたら、ロシア軍はお返しに全力で北海道に攻め込む」という作戦が有り得ます。ロシアは2年前のグルジア戦争で、紛争地域の南オセチアとアブハジアを大きく超えてグルジア本領奥深くまで攻め込みました。同じように領土紛争で係争地以外への侵攻は十分に有り得るケースです。

しかし、それを行うには水陸両用戦能力の大幅な拡充が必要で、太平洋艦隊に廻すミストラル級1〜2隻程度では全く十分ではなく、陸海空全体の質の向上が求められる事になります。
 
 
 
 
 
 
 
 
今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時 : 週刊オブイェクト
http://obiekt.seesaa.net/article/158167285.html
 
 
2010年08月01日
今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時

今こそ国防予算を聖域化して軍拡を行う時が来ました。国家の財政が赤字であろうと、今このタイミングを逃してしまうと取り返しが付かなくなってしまうからです。
 
 
露、今後3年で国防費60%増へ…原潜配備など:読売新聞

この予算方針は、プーチン首相が主宰した29日の政府会議で採択されたという。ロシアは財政赤字削減に取り組んでおり、国内の治安対策費も今後3年間減額されるなど多くの費目が削減対象となる中、国防費だけは聖域扱いされる形となっている。
 
 
ロシアは軍拡を行います。ヨーロッパ諸国が域内の金融危機に対応する為に、大幅な防衛予算削減(福祉予算はもっと減らされる)を行っている真っ最中なのに、このような決断を降した理由は、ソ連消滅から20年間の間に新生ロシア軍の装備が殆ど更新されておらず、これ以上この状態を放置してしまうと軍事的に二流以下に成り下がってしまう懸念があるからです。ロシア軍は組織の枠組みの大改革に着手し、装備の調達についても新たな取り組み(国内兵器産業を立て直すまで外国兵器の本格導入)を行っています。また、ロシアはNATO以外の軍事的脅威とも相対しており、これに対抗する必要性が生じているのです。
 
 
ロシア軍近代化、将校大幅削減…米中に対抗:読売新聞

改革の成果を試す機会となったのが、6月末から7月初めに極東地域などで実施された軍事演習「ボストーク2010」。軍事評論家イリヤ・クラムニック氏は、「装備は古いものが目立ったが、部隊運用は円滑だった」と評価する。

演習では、ハバロフスクに侵入した爆撃機の迎撃訓練などが、中国を想定したものとして注目された。ロシア政府は、「どの国も仮想敵国に想定していない」と強調。2月に公表した軍事ドクトリンでも中国の脅威には一切触れていない。だが、関係者の間では、「ロシアが中国を脅威ととらえているのは明らか」(クラムニック氏)と言われており、急速な軍改革も、強大化する隣国・中国に対抗する布石という面がありそうだ。
 
 
ボストーク2010演習は極東方面の各所広範囲で行われており、あらゆる事態を想定して様々な演習が行われました。中には朝鮮半島で武力衝突が発生した際に難民を受け入れる訓練や、日本との領土紛争を想定した北方領土展開訓練、中国が国境線を越えてハバロフスクに侵攻して来た場合の迎撃訓練などがありました。そしてロシアの軍事専門家イリヤ・クラムニク氏(イリヤとは男性名)は特にボストーク2010演習は対中国を意識したものだと解説しています。これについてはモスクワ在住の軍事ライター小泉悠氏(最近ロシア女性と結婚されたそうです。おめでとうございます)もイリヤ・クラムニク氏と近い意見です。
 
 
ヴォストーク2010演習小括:★くろいあめ、あかいほし

7月1日付の『産経新聞』は、択捉島で上陸作戦演習が行われたことや、今年2月好評の『軍事ドクトリン』に「領土要求」が脅威として盛り込まれたことを根拠に、今次演習が「日本を仮想敵としている」とした。

しかし、択捉での上陸演習は広大な演習地域の一部で行われたものに過ぎず、また、新『軍事ドクトリン』における「領土要求」への優先順位はむしろ前バージョンより低下している(以前は「脅威」の第一位にランクされていたが、今次ドクトリンではより脅威度の低い「軍事的危険」という項目の第4位にランクされているに過ぎない)。

したがって、今次演習が(少なくても主要な仮想敵として)日本を意識したものとは考えにくく、中国または朝鮮半島を睨んだものとする他の論評の方が、考慮に値すると考えられる。
 
 
実際問題として日本が突然、専守防衛の平和憲法を改正もせずに北方領土の武力奪還を行って来る事は考えられず、ロシアとしても中国や北朝鮮の有事を優先して考えるのが普通でしょう。ロシアは7年前には朝鮮半島で核兵器が使用された場合を想定した放射能除去訓練まで行っており、20万人の北朝鮮難民を受け入れる訓練はその時にも行い、今回のボストーク2010演習で2回目になります。

また現在、ロシアと中国の仲は急速に冷え込んでおり、ロシア製兵器を違法コピーする中国にロシアが激怒しています。以前からロシアは中国と敵対関係に戻る事(冷戦中は完全に敵対関係にあった)を考慮し、最新鋭の兵器は売却に応じて来ませんでした。結果としてそれは正解だったのです。

中国でのライセンス契約破棄検討 ロ戦闘機違法コピーで:共同通信

「中国に対する最後の信用を失った」とあります。この問題が発展すればジェットエンジンの供給も止まる事になるかもしれません。
 
 
 
 
白頭山、朝鮮自治洲周邊に巣喰つてゐる邪なる靈が、一部の朝鮮人共を狂はせ、露西亞を使つてb國日本に牙を剥く
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/468.html
投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 8 月 01 日 19:09:25: xsXux3woMgsl6
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/494.html

記事 [音楽3] 夏の追想曲 13


http://www.asyura2.com/10/music3/msg/258.html

記事 [Ψ空耳の丘Ψ58] 火と水の災害が各國を追ひ詰める
 
 
 
 
水害、旱魃、火災、飢饉

火と水の災害が各國を追ひ詰める。
世の立て替へ、建て直しが加速する。
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/495.html

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
02. 2010年8月08日 01:08:43: ethNHERqUg
> HPVに感染した人の99.85%はこの癌にならない ということですよね。
そのようですね。でも「1年間で」ですよね。こちらから引用されたのだと思いますが..
http://glaxosmithkline.co.jp/medical/cervical/hpv0101.html
「年間」罹患患者推定とあります。

> 10万人中なんとたったの6.89人しか死んでいない ことになります。
これは「たったの3,500人しか死んでいない」と仰っているのと同じですよ。(随分だな..)
頸癌による死亡率は増えているようですが、一定だとしても、20歳から40歳までの20年間で7万人!も
今丁度20歳の女性は、40歳までの間にこの7万人の中に入ってしまう可能性もあるわけですよね。

> 子宮頸癌の原因でもないというのに!
なぜそう思われるのですか?感染者の殆どが自然治癒するからでしょうか?死亡率が低いから?

「HPVは、実は原因ではない」のリンク先の男性のイボの話ですが、
> 「非常に珍しい遺伝障害ゆえに免疫システムが正常に機能しない」ことが、
> 彼の木の皮のような皮膚の原因だったのです。#HPVではない!
これを頸癌に言い換えれば、
「非常に珍しい遺伝形質ゆえに普通なら自然治癒するはずのHPV感染が治癒しない」ことが、
彼女が死亡した原因だったのです。#HPVではない!
ってことで済ますおつもり?
殆どの人は自然治癒するのだから、不幸にして頸癌を発症する人は見殺しにしてよい!ということ?
随分乱暴な論理のように思いますが..
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c2

記事 [戦争b5] がん 白血病…イラクの子どもたちは
イラクの子どもたちを救え
http://www.nhk.or.jp/worldnet/
http://www.nhk.or.jp/worldnet/monthly/1008.html#1week

イラクの医師によると、湾岸戦争以来、ガンになる子どもたちが増えているという。
原因は分かっていないが、強い貫通力から対戦車用に使われてきた劣化ウラン弾の影響が疑われている。
不十分な医療体制の中で、白血病などの子どもたちの治療は難しい状況だ。
子どもたちを支援している日本のNGOの活動も紹介する。

がん 白血病…イラクの子どもたちは
http://www.youtube.com/view_play_list?p=99549824283718A8

日本イラク医療支援ネットワーク
http://www.jim-net.net/

<参照>
小児がんに苦しむイラクの子供達
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/iraq/2009/02/post-6485.html

ファルージャの子供達の悲劇:Tragedy of Children in Fallujah / イラクでガン症状が急増
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/iraq/2009/10/post-5e20.html
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/467.html

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
05. 2010年8月08日 01:29:54: PJmW7feqxo
菅さんが核の抑止力は要らないと言えばイラン侵攻の大儀になってしまいませんか?
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c5
コメント [ニュース情報8] 売却の郵政資産、8割転売=かんぽの宿・社宅628施設−会計検査院 あややの夏
09. 2010年8月08日 01:31:21: FTsXsV0ndw
「郵政民営化」は「郵政利権化」に名称を変えるべきだ。
国民に正しく伝えないから、多くの無知な国民が騙される。
これなら「郵政利権化賛成」とみんなの党が言っても騙されない。

みんなの党の源流の小泉は法律名称詐欺を得意わざとしていた。
例えば、「障害者自立支援法」だ。
そのまま読むと、「障害者の自立を支援する法律」。
で、やることは、障害者の補助金をカットする。

名称とやることが一致しない法律は、「詐欺」として、政権が調査すべきだ。

http://www.asyura2.com/09/news8/msg/333.html#c9

コメント [ニュース情報8] 航空需要 国に配慮、過大予測 めっちゃホリディ
02. 2010年8月08日 01:41:01: FTsXsV0ndw
ほんと、嘘の責任を取らないですまされるのか。
無駄・浪費の共同正犯、つまりグルそのものじゃないか。
こんな、詐欺を促す「運輸政策研究機構」を処罰しない
かぎり、まともな国家は望めない。
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/327.html#c2
コメント [ニュース情報8] 日本株は先進国で最も割安、投資家は利益よりPBRに関心(ブルームバーグ) ぶぶちゃま
01. 2010年8月08日 01:45:04: FTsXsV0ndw
うーん、この投稿は証券会社は喜ぶでしょうね。
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/311.html#c1
コメント [ニュース情報8] 反捕鯨世論強まる恐れ=シー・シェパード船衝突で−豪 スタン反戦
04. 2010年8月08日 01:54:36: FTsXsV0ndw
まずは、日本のいう「調査」を「捕鯨」と正しく表現するよう
改めるべきだ。
でなければ、争点がちがったまま争っても解決しない。
それから、日本の「調査」団体は、研究所の名をかたった特殊法人
であることも、正直に明かすべきだ。
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/307.html#c4
コメント [ニュース情報8] 米兵の子4人 家裁送りと釈放(NHK) スタン反戦
04. 2010年8月08日 02:00:37: FTsXsV0ndw
東京地検だものな。
アメリカ側についている連中のやることだから、結果は見えていた。
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/303.html#c4
コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
06. 2010年8月08日 02:03:53: P5EoBf8LJ1
>>05
はて、いつイランが核武装をしたのやら?

そもそも先に核武装した北朝鮮は放置したままでイランを攻撃するなど、筋が通らないと思いますけどね。
まぁパキスタンやインドが放置な時点で既に全く筋は通っていないんですが。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c6

コメント [経世済民69] 民主デフレ脱却議連、インフレ目標導入など財務相に提言 | ビジネスニュース | Reuters 上葉
20. 2010年8月08日 02:20:35: FTsXsV0ndw
インフレ状態の不況は簡単にできる。
それが目的ではないはずだが、そうなってしまう施策
があふれている。

http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/387.html#c20
コメント [カルト7] シナ人は何やっても無罪!国内のシナ人には治外法権を認めよ!リチャード・コシミズ チベットよわー
12. 2010年8月08日 02:28:20: TcJwcmz5Jk
色々言ってみたらいいんじゃないの。少々の規則や法律論には目をつぶってやりましょうよ。人生も世間も一つしかない。議論が大事ですよ。

妨害や印象操作する工作員が来ても何と無くわかりますからね。

あと、朝鮮人達が戦後済州等などから大量に密入国してきて強制連行されたと嘘をいって生活保護を盗みとり税金も払わずにのうのうと暮らして日本人を滅ぼそうとしてるのも、絶対攻撃していきましょうね。大阪は済州等から戦後から継続して密入国して来てる人が多いみたいですね。シナ人や朝鮮人や日本人がごちゃごちゃになって争いが多くなるのがユダヤの企みでしょうね。

三重の在日が数千万円の住民税を免除されてたのを宣伝していきましょう。所得税も前は払ってなかったらしい。元東京地検の某氏?の本には○も税金を払ってないと書いてますね。税務署も入れない。入り口に毛皮とか架けてたら。この田中氏の言う事は本当ですかね。これは嘘でしょうね。そんなわけがない。朝鮮人やシナ人とは違いますからね。この本はガセですよ。情報は真偽あるから、検証するか直感しないとね。


http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/626.html#c12

コメント [日本の事件29] 世田谷一家殺害事件の真相(おそらくこれが正解) チベットよわー
10. 2010年8月08日 02:52:38: TcJwcmz5Jk
犯人は朝鮮人だったと本で読んだ記憶がありますが。違ってましたか。小さな子供までも肉の塊にするのは朝鮮人とシナ人の特性ではないですか。  犯人は日本人の少年なんですか。知らなかった。日本人もやるもんですね。 

チベットさんは朝鮮にいかれたことはありますか。向こうは肉食人種みたいですよ。普通の生活でどんな生き物も平気でバラバラにしてます。生き物に対して哀れみの心は無いと感じたのですが。だから犯人は大陸の人間だというのを信用してたのですが。

いや、ビックリしたことを聞きました。日本人もシナ人朝鮮人のように大殺戮が出来るということですね。気分悪いけど、少し安心したようなと言えば怒られますね。ごめんなさい。悲しいですが日本人も生き残れますね。朝鮮人やシナ人に伍して競争して生存競争の闘争が出来る。戦争などの時期が来れば人間を肉の塊に平気で出来る。ごめんなさい。しかしこれから、日本で同じようなバラバラ殺人が増えていくのは恐怖ですね。対策を早急に立てないと。殺生肉食禁止令の復活はどうですか。
http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/547.html#c10

コメント [カルト7] コシミズだせえーーーー チベットよわー
04. 2010年8月08日 03:09:36: TcJwcmz5Jk
輿水はいいこというよ。
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/628.html#c4
コメント [戦争b5] 医療崩壊板リンク 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
03. 千早@オーストラリア 2010年8月08日 03:27:10: PzFaFdozock6I: qb8ANSZABA
02.さん、

>グラクソスミス社のスキャンダルとか、

私から見れば、ここの

「原因」ではない「ヒトパピローマウィルス」 - 子宮頸癌ワクチンは打たないで!
http://insidejobjp.blogspot.com/2010/05/blog-post_24.html

下の方に書いたロイ・アンダーソンや、

知らなきゃ仏!? 糖尿病薬で、袖の下(?)をばら撒いていたと思しきグラクソ・スミスクライン
http://insidejobjp.blogspot.com/2010/07/blog-post_25.html

だって十分ひどい話だと思うんですが、そういう話を伝えないメディアが
困ったさんだ ということかと。

ロイ・アンダーソンの下にリンクしているタミフル関連の話だって、
日本国民のうちどれだけが知っているでしょうか?

加えて、グラクソではないけれども

出来レースだったノーベル賞 - 子宮頸癌ワクチンは打たないで!
http://insidejobjp.blogspot.com/2010/05/blog-post_14.html

↑だって立派な(?)スキャンダルですよね。
(子宮頸癌ワクチンの主成分を作った会社のスキャンダルですから)
結局もみ消されてしまって、おしまいだったようですが。

9/11もなんでも同じですが、「もっと表に出るべき話」が隠される。

これをどうにかしなければ、いいようにだまされる人々が表に出てくる話だけ
鵜呑みにして、「このワクチンを絶対打ちたい!」になるのですよ。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/464.html#c3

記事 [テスト19] Re: テスト
「超豪華」と非無する新議員会館だ。その右に国会議事堂があり、左下に首相官邸が見える。そして写真中央の交差点の右側に建つビルが、「国会記者会館」である。
 総両横6115平方b、地上4階、地下2階の各フロアに、政治部記者が陣取る。政局が急
http://www.asyura2.com/10/test19/msg/773.html
コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
03. 千早@オーストラリア 2010年8月08日 03:41:02: PzFaFdozock6I: qb8ANSZABA
02.さん、

>20歳から40歳までの20年間で7万人!

数年前から言われている「自殺者毎年3万人」はどうなるのですか?
20年で60万人? 下手すりゃ、今後数も増加してもっとになるかも?
原因が多種多様だろうから、ワクチンを一斉に売って、いや打って済ますわけにいかないから放っておく?

困難であろうと、手を打たなければいけないことは避けて
安易に税金を使って製薬会社にボロ儲けさせながら、少女に毒を入れる って。

>ってことで済ますおつもり?

その先もちゃんと読んでほしいですね。
「HPVの感染症は高リスクの病気ではない」ってあたりも。
そして、

>不幸にして頸癌を発症する人は見殺しにしてよい!

上に投稿した元の文すら読んでいないことがバレバレですか。
全米癌協会もお勧めのパップ・テストをやればいいと言っているでしょう。
その方がずっと安価で安全で確実だと。

第一このワクチンを売っている会社のサイトにすら、
「これで完全予防は出来ないから、定期的に子宮検診も必要です」
と書いてあるんだから! 

だから、こんなワクチンなんか全然打つ必要ないんですけど。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c3

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
04. 2010年8月08日 03:51:22: qQzZIhyYNA
02さん、いつまで戯言のような数字を挙げて正論のつもりをするつもりかね?
厚生労働省はグラクソのワクチンを承認したかもしれないが
そのデータや医学的根拠は日本の場合根拠は破綻している。
子宮頸がんのデータの検証は今から検証すると
日本産婦人科学会がゲロしているのだよ。
参照元のヤフーの記事はすでに削除されているが以下のコメントを読みなさい。

http://www.asyura2.com/09/health15/msg/272.html#c5

唾棄すべき「ワクチン商売」を推進している方へ加担するのなら
今後、擁護コメントした方の汚点として残るだろう。
阿修羅が存続する限り、「ワクチン商売」を擁護する方々のコメントは
ずっと残るのだ。

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c4

記事 [音楽3] Road to Rebirth(ハゲタカ エンディング曲)/tomo the tomo

http://www.youtube.com/watch?v=l9pqgFztnAQ
富なんてものは問題にもならない、
恋だって、考えただけで吹き出したくなる。
なるほど、名誉欲か? そういえば、昔夢見たこともあったが、
日が射すと忽ち消える朝露みたいなものだった。

もし私が祈るとすれば、自然に
口をついて出る祈りはたった一つの祈りだ。
「今の私の心をこのままそっとしておいてくれ、
そして、ただ自由を私に与えてくれ」という祈りだ。

−光陰矢の如しで、どうやら私の
終わりも近い、そこで私が求めるものは、ただ、

何ものにも囚われない一人の人間として、勇気をもって、
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけだ
http://www.asyura2.com/10/music3/msg/259.html

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
05. 2010年8月08日 04:22:37: qQzZIhyYNA
ついでにおせっかいコメントです。
欧米製薬会社で開発された薬をありがたがって全てを妄信している方々へ
東洋人と西洋人の免疫システムに違いがあるのは知っていて
欧米製薬会社で開発されたワクチンを推奨しているのなら
ワクチン商売を擁護している方々は日本のマスゴミと同じで3流以下ですね。
更には、食物を分解する体内酵素も全人類共通だと思っているのなら
救いようの無いバカです。
免疫システムは体内で食物を分解吸収するシステムと連動しています。
また皮膚の色で大別される人種間でも違います。


http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c5

コメント [経世済民69] 政治板でコメントしたけど、わいは馬鹿やから経済板でご意見を問いたい... めむめむ
41. めむめむ 2010年8月08日 05:33:34: lmDW19lBDnz8g: aRG5bE8RVE
>>38さん、

以前のわいとはちがます。まあそんなこと、おっしゃらずに、ポジティブthinkingで、行きましょうよ、と、言いながらこの場をお借りして、告白します。私もいい年こいて、最初の一行の後も、コメントをする人として、結構、悪行を重ねました。でも、はっ!とした一瞬!...なんでわいはあんなことがあったのにもかかわらず、いまだにここに来て阿呆なコメントを続けとるんや??...と、Wikipediaによるとここは、

>社会的問題に関心のある者たちによる、政治的主張の場であり、知的でありたいと指向する者たちの自己鍛錬の場でもあると主張している。

だからなんやねん!とまだ言われそーですが、もうちょっと、あしゅらという同じ釜の飯を食っている仲間として、その社会問題があまりにも大きくなりすぎた今は、それこそ、工作員らしき人(わいか?以前自己肯定したもんなー、でもちゃいますよ!)まで含めて、よりよい世の中になるための一助になるような前向きな話をしましょーよ。なにせここ、3,4ヶ月の間にぼろくそけなされるわ、けなすわ、でもそれやと、”憎しみ”っちゅー負のエネルギーしか生みまへんわ...まあ結局、わいはわいなりに悟って、自分の立ち位置を、おそらく、ええとこに変えたっちゅーわけですわ。宣言した限りは今後の言動には注意せんとあかんし、大変や!

>>39さん、いやNTさん、詳しい情報おそれいります、わたいも興味があるので、ゆっくりと勉強させて頂きます。

>>40さん、いや、houさん、いやいや、恐れ入谷の鬼子母神、ありがとうございます。でも、そうおっしゃっていただくとまじ、真剣にやらんと...とにかく時間のよゆーがあるときに必ず、宿題として、やらせていただきます。


http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/443.html#c41

コメント [環境・エネルギー・天文板4] 日本だけじゃなかった…世界の空がおかしい 炎暑 豪雨 寒波 gikou89
07. 2010年8月08日 06:15:17: zDvU4XRTjg
2011年から2012年に発生すると言われている最大級の太陽フレア爆発
その影響が始まったのではないか
メキシコ湾の原油流出事故も人為的な原因のほかにマントル対流の圧力が高まり、原油が噴出してきたとの噂もある
既に地球を取り巻くバンアレン帯に地球3個分にも相当する穴が開いている
次に来るのはやはり東海・首都圏直下型地震か
http://www.asyura2.com/09/nature4/msg/483.html#c7
コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
07. 2010年8月08日 06:24:10: dOnWwbZGlU
>>05
核なき世界の実現を軍事力の行使、すなわち戦争で果たそうとすれば
その失敗は自明のものとなります。
説明の必要もないでしょう。
この“理念”は始めから多くの矛盾を孕んでいるのです(笑)
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c7
コメント [日本の事件29] 大阪市のこども相談センターには日本全国から抗議の電話が殺到しているそうですが、こども相談センターの職員の怠慢は明らかだ。 TORA
07. 2010年8月08日 06:59:04: AiChp2veWo
10代、15歳かそれ以前の女子でも、望まれない子供を産まない為に、或いは、堕胎手術などで心に傷が憑かないように、との考えから、避妊具の使用に関する教育的の指導がいわれ始めてから、30年以上の歳月が流れたように記憶しています。この流れは、小学校高学年から高校生くらいまでの女子に、性交をするときは避妊具をしましょう、と、つまり中高生女子も性交するのは当たり前ですよとの考え方を、公然と社会の権力が推奨し始めた感があり、この状況に驚いたものです。中高生の性と好奇心からの妊娠が増加したために、やむを得ず、公器が避妊具の使用に関する指導や、或いは出版物がその避妊について記事にし始めたのではなく、十代への性の教育や避妊指導の方が先にあり、後にそれに影響されて中高生の好奇心と性欲だけの性交は当然、というおかしな風潮を作り出したように思っています。十代男子の性的エネルギーや女子のエネルギーは、羞恥心、憧れ、希望、純粋、熱中、大志、父母や兄弟姉妹への孝行や情愛、向上心、創造、修練、練磨に向かい、そして向かわせるのが教育や行政や大人社会の義務であるのに、不思議な合理性理論で、青少年少女の精神をかえって腐敗させているのが今の教育や出版物や行政や大人社会であるように思います。人間は肉欲を生きるのではなく、精神を生きなければ必ず崩壊に向かいます。肉欲を生きるのはさほど困難ではありません。、女子は何の精神的価値観も持たず、だらしない気ぶんや、遊びたい、怠けたい、楽をしたい、無防備、の心に向かえば、いくらでもその体をおもちゃにしてくる人間はどこにでも現れます。すると女子はそこからなかなかしっかりとした人間的生き方に戻りにくいのです。男子も同様ですが、男子はだらしない生き方から立ち直る事が女子よりも早く出来やすく、性的な傷が残りにくいのです。性は自由だという近代の考え方もありますが、早くにそんな体験を積むと、女子は大体は人生全体が崩れやすいものです。身心が大人になっていない場合の無目的な数多い性体験は、精神的判断力も散逸混乱し、或いは偏向して、年齢が進んで社会に生きるようになるほど人生に問題が生じてきやすいものです。昨今、いやこれも30年以上前頃から、米国やヨーロッパの映画などを中心にポルノ的、乱交的や、知らなくてよい過度の性描写が、テレビ、映画、出版物から全国に溢れ、「一度の人生だ好き放題に生きなければ」とか、「誰にも迷惑はかけていない」とか、「性はもっと自由に楽しめ」とか、それが少女が読む漫画本の形をとったりして異様に過度すぎる性描写が今の社会には子供から大人までくどいほど溢れています。これは人の性欲をこれでもかと刺激する社会でもあります。表現の自由はへんな理論なのです。人間は映像から洗脳を受けるものです。そこに、大人も社会も学校も、神も先祖霊も教えず、物質と計算ばかり教えますから、性とお金と物質が最重要になり、精神的のものはずっと後回しとなります。十代もこれに影響を受けないわけがありません。子供も大人も精神を生きる激しい練磨があって、初めてそこに性が乗っかるのが良いのです。性にだらしなくなるのは簡単ですが、精神を生き、仁や義を生きるのは激しいものです。然し男女ともそれが人生です。物質にいきるのも激しいものですが、精神に生きてこそ物質の貴さや、肉親や家族の愛情が深く理解できるのです。ある書物に、人間が肉欲に生きて極端に乱交的性体験や煩雑な不特定の人間との性を重ねるとどうなるかという事を書いていました。答えは、人間の情が欠落して、氷のような冷たい感情の人間になると書かれてあります。原因の全てを性に集約は出来がたいですが、先年、母親に少しずつ毒を食べさせていた女子高生が逮捕されました。若い姉妹がマンションに別々に帰宅したのを玄関内に隠れ待って、次々に刃物で刺し、半死出血でうめいている女性を犯し殺害した若い男が逮捕されましたが、これは魔物としかいいようがありません。霊的には獣以下です。
この20代の若い男は中学時代に母親をバッドで撲殺しています。何があったか判りませんが、人間の情がまったくうかがえません。ある記録で、子ゴリラが毎日甘えていた母親ゴリラが死んで、その子ゴリラはその母親の亡くなった場所から動かなくなり、何も食べずに死んでしまいました。
これに引き換えこの若い男は人間ですがまるで悪魔です。刺殺され断末魔の苦しみの中、強姦された女性の悔しさは想像を絶します。刺殺された姉妹は並べられていたようですが、そのほほに涙が流れていたと記事がありました。マンションで餓死したお子さんの苦しみ辛さ孤独感、寂しさ、不安恐怖感は想像を絶します。そして何より辛いのは下の子に食べ物を与えていたという記事です。この小さい女の子の母性的、女性的愛情を思うと息がくるしくなります。この加害者両者を同じ俎上に並べるわけではありませんが、双方とも何という恐ろしい悪業悪因縁を積んでしまったのでしょうか。
それにつけ、中学生、侍なら切腹もありえる年齢で母殺しと(親殺し)いう大罪をおかしてなぜ死刑にならなかったのか、或いは20年以上の懲役にでもいかなかったのか、現行の法が不思議でなりません。ひるがえって、一年間で堕胎は何十万件何百万件でしょうか。こんな恐ろしい事が日本では普通になっています。道路では犬や猫がペッタンコに車に踏み潰されています。原爆は実験的にわが国に落とされました。降伏を相手国に通知しているのに、それを無視して落としました。口にする薬剤や食品、洗剤、等にも害毒が言われています。鶏はコンベアーベルトに乗って次々と首をちょん切られ、ドナドナは殺されに行く牛の涙を歌っています。真面目で優秀な日本の多くの医師を上が侮辱し、古い歴史ある我が国の家族制度や価値観を馬鹿にし解体しようとし、耳をすませば、聞こえる、大切で美しい自然的な日本女性の貞操的価値観等の破壊と侮辱、が、さまざまな美名のもとに行われています。あらゆる小さな個人的要因と、世界的、国家的要因がこれら陰惨な事件と因果因縁として無関係ではないでしょう。わが国には、「一寸の虫にも五分の魂」、という諺があります。三センチの虫にも半分は魂がある、虫けらでも命をそこに見て大切に思い、それほど小さな弱い立場の生き物であっても、誇りも心もある、弱い物や、とるに足らぬものでも大事にしなさい。こんな諺が世界広しといえども他国にあるでしょうか。私たちの国柄に野蛮なものは元からありません。怖い伝染病、性病の多くは明治からのものです。然しながら、あまりにも特に戦後、多くの悪業を積みすぎたように感じます。自分自身をまず深く正してゆかねばならないと思います。これら世界的国家的の大因果がいよいよ廻り来たる、大変な時代を迎えようとしているように感じています。


http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/556.html#c7

コメント [日本の事件29] 大阪市のこども相談センターには日本全国から抗議の電話が殺到しているそうですが、こども相談センターの職員の怠慢は明らかだ。 TORA
08. 2010年8月08日 07:35:12: EWNeiAbClk
親が子を殺し、子が親を殺し、孫が祖父母を殺し祖父母が孫を殺すニュースを聞いてもなんら驚かなくなったのは

何年前からだろう?

毎日のように飛び込み事故で電車が止まって何万人に影響の記事も
天気予報と同じくらいの感覚に?

いつか見たテレビでチンパンジー?だったかニホンザルだったか?
子猿を育てていた母猿が何か病気で子猿が死んでしまったが
母猿は死んだ子猿をその後も放さずミイラになっても
抱いていた。



http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/556.html#c8

コメント [社会問題7] 児童養護施設で勤務し、職員の質の悪さに絶望しました 代理投稿1
07. 2010年8月08日 07:49:58: ZCDwBmjAO2
また、雇用契約書においてもこの奈良県の愛染寮では偽造がありました。
児童の直接処遇をしていましたが、雇用契約書には
「調理員」
となっていました。

寮長に問うと、「ただの間違い」と言われ、賃金に関しては全く触れられませんでした。

時給は、パート雇用規則に最低でも¥820と書かれていましたが、実際は¥800しか支払われていなかったのです。

労働基準監督署、奈良県にも通告しましたが、非常にめんどくさそうに対応されただけで、雇用される側の弱みに付け込まれたとも考えられます。

女性指導員も職務をこなさず、児童対応を放棄していました。
また、小学校低学年の児童が、目の前で高学年の児童数人から暴力をうけているのを見て、私が仲裁に入らなくていいんですかと聞くと、女性指導員は
「自分が悪いからいいんですよ」
などと暴力を容認していました。

この場合、児童の安全を守るために大人が仲裁にはいる必要があります。

また、中学生児童が、室内で夜間サッカーボールで遊んでいました。
ガラス、蛍光灯がある中、何度も口頭注意しましたが、聞き入れませんでした。
この中学生男児は特に問題があるわけでもなく、非常に良い子です。

しかし、だからこそ、室内での夜間のボール遊びはガラス等が目に入ったら失明する危険もあり、他の子にガラスの破片が飛ぶ危険もあります。
それを注意してもきかないので、ボールを取り上げると、
「困ったことがあった場合、あなたは動かないで下さい。職員室に言いに来てください」
などと、言われましたが、職員室に言いに行っている間に、ボールがガラスに当たる可能性は非常に大きいのです。

また、この男児とは別に、もう一人の中学生の男児が、朝食について、文句(暴言ではない)を言うと、あっさり
「文句言うなら食べないでいい」
と、朝食を取り上げました。

このことは、県、マスコミに言いましたが、事実無根であるとねじ伏せられてしまいました。

児童養護施設は、児童のプライバシーの保護という言葉を大人の都合の良いように利用しますので、外部からは施設の中で何が起こっているのか見えないと言う、経営者側からしたら、非常に便利なメリットが発生してしまっています。

日本全国ある児童養護施設で、大きな事件が多数毎年報告されています。
これを見ると、どこの施設も、ワンマン運営をしており、経営者の都合のよいように運営されている事実が見えます。

社会福祉法人は、税金から補助を受け、運営されています。
助成金をもらうかもらえないかで非常に大きな損得が生まれます。

また、児童のプライバシーの保護という法律を悪用し、外部に事実が漏れないように、自然になってしまっています。

平穏に見えるこの施設でも、こういう問題があるのですから、どこの施設でも大なり小なりの児童虐待、不正雇用はあるものと思います。
また、上層部はこういう投稿に関しては非常に敏感で、チェックして第三者を装って、事実をもみけしているかもしれません。

上記の、信じないことが大切ですよねというレスがありますが、この児童養護施設に限らず、児童の人権を完全に無視している施設が殆どであるという認識は広める必要があると思います。

また、職員は、殆どの相手が、健常、もしくは若干の障がいがある児童ですので、勤務しているうちに、自分は崇高で立派な仕事をしていると勘違いしがちです。

私が愛染寮に勤務したきっかけは、実は男性副主任から誘われたのです。
知的の児童のデイサービスの面接を受けるため、職安で紹介状を切ってもらったのですが、その面接で、児童養護施設で働かないかと誘われたのです。

私は、以前の児童養護施設でのあきらかな虐待をみていたので、一か月無賃金で働いてみて、実習をしたいと申し出ました。

途中、採用してもらえるかどうか、寮長にきいたところ、12月にもう少し実習に入ってもらえれば、早く答えが出せると言われました。
この事は、メールに残っています。

最終的に、私は、面接室で、主任、副主任の対応、言った内容の証明が欲しいこと、雇用契約書の偽造(先方が言う間違い)に対し、書面で印鑑をもらいたいと言いましたが、寮長は、
「そこまでするのは」
と、土壇場になって約束を破りました。

私も精神的に非常に疲れており、しかも、社会福祉法人に絶望を抱いていたので、それ以上の要求は辞め、公の場で、真実を公表して行く手段を選びました。

その後、違う職に就くに、奈良県の電話相談員に二度ほど、応募の資格はあるか聞いてみました。
勿論、児童福祉の分野の相談員ですので、愛染寮に対し、私が通告した事実は知っているはずです。

職安に求人を出しておきながら、二回ならず、三回も
「これは、女性希望なんですよ。でも、男女雇用均等法の関係で記載出来ないので」
という常識はずれな返答がありました。

こういうことはよくあるので、私は、事業所に事前に電話し、もし、私の条件でもよければ、職安で紹介状を切ってもらい、面接に行くようにしています。
その、全段階での電話での事実です。
http://www.asyura2.com/09/social7/msg/775.html#c7

コメント [戦争b5] がん 白血病…イラクの子どもたちは 妹之山商店街
01. 2010年8月08日 08:27:46: xgQrEp1sYs
ひろしま、ながさきでの被爆状況の精密な調査。
そして、デザート・ロック、スネジョークなどの実際に核爆弾を使用した核戦争演習での、武器、建物、生物への影響をはかり、データ蓄積して、核戦争マニュアルを作ろうとした米ソの二大核保有国。
アフガニスタン−イラクでは、対戦車戦闘-装甲貫通力を求めて、劣化ウラン弾の大量使用。
都市先頭においても、建物破壊のために使用した劣化ウラン弾。ファルージャの悲劇。
核戦争演習では、動員した何万人と言う兵士のその後の被爆状況を隠し、被爆後遺症を隠し続けている。
しかし、戦場に放置される運命にある市民は、隠される放射線被爆の実態を後の、ガン発症などによって示して「抵抗」せざるを得ない実情。そして、実際に戦闘に参加した兵士達の被爆状況は隠され続け、昨年のような「大佐の叛乱」のような軍内部崩壊の危機を生み出す。
たしかに、精密誘導兵器、現場戦闘状況把握のリアルタイム化で、ワシントンあたりのブラックカンファレンスルームで片手をお付きの女将校のマタグラに突っ込み、片手にクッキー、コーヒーカップを持ちながら、「叩き潰せぇー」「ぶち殺せぇー」とタケシみたいに吼え捲る「五つ星」達。既にこの時点で「五つ星」達の「精神崩壊」は進行する。
推測すれば簡単な事ながら、放射線などに対する防護をした海兵隊などが防護時間ぎりぎりまで戦闘−破壊の限りをつくし、その後を州兵-予備兵軍団などの防御力の薄い軍団に平定−制圧を任せる。そして、戦場の市民は「始めから終わり」まで付き合わされる。「いい面の皮」どころの話ではない。
「テロリスト」「ならずもの国家」を破壊し、「民主国家」を建設することのなんとも欺瞞に満ちた過程。
人が住めない国家を作り出すことがアメリカ−ネオコンの「冷戦以後」の戦略であるとしたら、それは否定の対象以外何者でもない。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/467.html#c1
コメント [社会問題7] 新人教育についてのつぶやき。 Aobadai Life 行雲流水
02. 2010年8月08日 08:44:59: KHM9IviPOc
自立した人格が大切でしょう。集団でよくなるというのは幻想です。富の公平配分か貨幣の廃止は貨幣を配る係りが重要ではなく本人の意見そのものが重要になる。今の大人というのは貨幣収奪競争のコマでありそれ以上の意見はない。いまの社会はどうでもいい商品のモデルチェンジ。必要以上の軍事兵器。単に個人崇拝集金集団の宗教。若い人のすることがすべていいというわけではないが、無用な競争を避けるというのは今後生きるうえで大切でしょう。具体的には集団に依存しない個人の生きる権利を尊重した経済が必要でしょう。日本は個人の生き方にまで集団の上下を強要する習慣が多い。職場外でも「先生」をつけるとかね。「さん」で呼ぶなど変えたらどうですか。案外戦争の起こる理由も、個人崇拝も小さなプライドに由来したりする。オレは庶民にくらべてとっても生まれながら優れているんだとか、選民だとか。それがならされれば人間関係も地球環境も安定するでしょう。

http://www.asyura2.com/09/social7/msg/862.html#c2
記事 [経世済民69] 「救国の秘策」への秘策を、ここに再び詳述し、その採用・実施を切言する(記事リンク)
「救国の秘策」への秘策を、ここに再び詳述し、その採用・実施を切言する
丹羽春喜の経済論
http://niwaharuki.exblog.jp/11096917/

見出し
今、まさに必要な旧稿提言の秘策の採用
日・米・欧、同時デフレ政策強行の危険
旧来の陋習脱却で、ケインズ革命の真の成就へ
政府貨幣は政府の負債にはならぬ!
政府貨幣の本質に基づく救国の秘策
現実的に最も簡便でスマートな方策
日銀法第43条および第38条の発動を
日銀からは保証小切手か電子的振込みで
経済政策の半身不随で、日銀に課せられた過酷な責務
日銀法第4条の重要な意味を真剣に認識せよ!
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/447.html

コメント [マスコミ・電通批評10] 「アフガン戦争秘密文書」をすっぱ抜いた「内部告発サイト」ウィキリークスと組んだニューヨーク・タイムズ|牧野洋 上葉
04. 2010年8月08日 08:57:15: xgQrEp1sYs
ベトナム戦争のときもウエストモーランド報告を巡っていろいろあったな。
それから、アメリカのベトナム戦争体制はガラガラと崩れ始まったな。
「いつか来た道」のアフガニスタン戦争で同じ様なことが始まり、アメリカのアフガニスタン戦争の虚構が崩れ始める兆候か?
NGOの米国医師団なるものがアフガニスタン東部でやられた。アフガニスタン東部の無人機による攻撃実態−結果検証のための「医師団」であったことが推定される。どんな武器が無人機による攻撃で使われていたかが推量されることなのだ。明らかに破壊力を高め、残存−生存する兵力があったとしても、後遺症発症によって「戦闘能力を懐失」させる兵器が使用されたことは間違いない。その結果検証のための「医師団」の巡回であり、「善意の医師団」でないことは確かなようだ。
テロリスト以上の「無惨な攻撃」をしておいて、その結果検証をする「善意の医師団」が殲滅されたといって「非人道的」と非難し、自らの「非人道的攻撃」を隠蔽する為にキャンペーンを張るであろう。
いよいよ、「破綻の結末」へ向かっての戦闘が展開されているということのようだ。
オバマもスンズロースや、ルーピー丸川、マダムスス小池のように、人の集まるところで「いい事」、「核廃絶演説」でいい格好をして、あたかも「平和の、人類救済の使者」のような格好をして、「大量アジリ込み」しか出来ない。
この11月でレームダックとなるか否かが決まる。自らが「大統領」でいたいだけのことであるならば、もっと欺瞞的な事を言い付けるがよい。しかし、実際の戦場では事の当否を決める戦闘が展開されている、ということだ。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/771.html#c4
コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
08. 2010年8月08日 09:14:27: i37fD8kRRc
アメリカからアジアへのシフトは、様々な意味において重要なことですね。
でも、それを阻むものが、在日米軍です。

思いやり予算を止め、在日米軍撤退の気運が高まればアメリカが素直に出て行くとも思われない。
逆に、日本が米軍を必要とするように何らかの謀略が仕掛けられることだろう。

日本籍タンカーがこの時期テロリストに攻撃されたこともその一つだろうし、つまり、テロリストをけしかけて日本の補給路を攻撃させまくれば日本はアメリカに頼らざるを得ないと言う算段だ。

日本が素直にイラン制裁に参加しないと、アメリカの息のかかった一味に日本籍タンカー等を攻撃させ、その上、トヨタ・バッシング以上の経済的制裁を受けさせると言う恫喝で制裁の片棒を担がせ、イランとの関係がひとたび悪化してくれれば、本当にアメリカに頼らざるを得ない状況に陥る日本の、出口なしの状況が見えてきます。

世界の平和の為には、米国が主導する戦争が必要なのだと考えるアメリカの暴力至上主義が見え透いてきて、うんざりします。
広島平和式典でのルース氏の献花拒否は、世界に冠たるアメリカ帝国としての独善的な暴力至上主義を象徴する出来事だったのだ、と個人的にはそう捕らえています。

http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c8

コメント [マスコミ・電通批評10] マイケル・グリーンは原子力潜水艦に乗り、ロックフェラー4世と親密な小沢一郎前幹事長に鞍替え!(板垣英憲マスコミ事務所) 愛国改善党
06. 2010年8月08日 09:19:31: HlwakAuqPc
原子力潜水艦には乗らないでしょう、放射能の怖さを知っているから。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/770.html#c6
コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
09. 2010年8月08日 09:22:49: XnqWYOP9ow
植草の話に付けて書くのなら、在特会に関する見解も書いたらどうなんだ?
コシミズやヒゲ戸田が固執しているから答えたら。

アメリカなどがイランに対する制裁を完全に解除するには以下の条件などを満たさないとおそらくだがダメだと推測想定する。
1、ウランを全て手放す
2、ホロコーストを盲信しない姿勢を撤回して600万人とガス室を盲信する
(逮捕を異常に恐れる雛さんのバルセロナは決して触れようとしないがイランの分析では嫌でも触れざるを得ない。
ホロコーストに触れないとこの問題ではミスリードになる可能性がある。)
3、大統領の辞任
4、アメリカ主導の国際選挙監視団を受け入れての大統領やり直し選挙
5、ハマスとヒズボラ支持援助応援の撤回
6、イスラム革命防衛隊の解体
7、イランの国家元首である最高指導者の廃止も含めた選出方法の民主化
他にもあるだろうが、殆どありえないし受け入れられないレベルだな。


>>02
お前は600万人確定に使われたユダヤ人の定義と南京大虐殺の立場を明らかにしろよ。
小沢が首相になっても911修正主義者になる所か911に異議を唱えるとは考えにくい。
辺野古のそばに土地を持っているといわれている小沢に期待しても無駄だろうな。
まあこっちがお前の立場なら政界再編に期待するしかないかもしれないが。
郵政は衆議院で3分の2を使いにくいし造反必死の法案なので成立は小沢が総理になってもほぼ無理だな。
郵政見直しも小沢が総理についてもまず無理だと思う。
亀井でさえ腰が定まらなくペイオフ限度額見直しを3日で撤回して朝令暮改したのに成立は難しいだろうな。
見直しは少なくても建前では反対しにくいかんぽの宿問題を防ぐなどの
民営化の行き過ぎを最低限の見直すに形にとどめるべきだった。
限度額引き上げなどの調子に乗って余計な事をし過ぎてかえって見直し絶対反対とは限らない
鳩山邦夫のかんぽの宿問題提起に一定の理解を示す中間派などの説得理解などにマイナスになった可能性がある。
ペイオフ上限引き上げを3日で撤回する位なら亀井も調子に乗って限度額引き上げなどの余計な事を一切せずに
鳩山邦夫ごとく亀井もかんぽの宿問題を連呼していた方が他党などもいくばくかでも反対しにくかったかもしれない。
国民新党は限度額引き上げなどをせずにかんぽの宿問題だけを連呼していれば議席を取れたかもしれない。
実際新党改革はこれも郵政見直し派で有名な荒井が議席を維持したし次点も鳩山邦夫の息子だからな。
当然ながら調子に乗って限度額引き上げを持ち出して国民新党なのに国民をなめた亀井の責任も小さくない。
限度額引き上げを言い出したせいもあってかんぽの宿問題が吹っ飛んだからなあ。
最初に穏健見直し派中間派離反の原因になったかもしれない限度額引き上げを思いついたのは誰なんだろうな。


そういえば医師会も蝙蝠二股虻蜂取らずで失敗したなって藤田は何やってるんだよ。
原中のご都合主義を黙認していると思われても仕方がない藤田をあきらめる。
原中を変にかばうと取られかねない藤田は信念のない原中と同じように最悪911修正主義を撤回しかねない。
やっぱり藤田や原中はコシミズやバルセロナのように都合悪い質問にダンマリを決め込む傾向の奴らにはあってるのか?
原中も医師会をまとめきれずに自民も民主も部分的にみんなも実質推しながらよく言うよ。
原中はあと2人で繰上げの民主党側の繰上げを期待しているのか?
http://www2.asahi.com/senkyo2010/kaihyo/C01.html
http://www2.asahi.com/senkyo2010/kaihyo/C02.html
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2010/news/20100718-OYT1T00281.htm
http://www.election.ne.jp/10870/83763.html

民主党を持ち上げるのなら最初から自民の候補者を推すなよ。
http://www.election.ne.jp/10870/83763.html
「自民党だったら上がらなかった医療費(診療報酬)を10年ぶりに民主党が上げてくれた。
自民党だったら上がらなかったし、むしろ2200億円の社会保障費削減まで行ったら、
相当医療費は下がったはずだった。
それを医療は大変だということを分かってもらって医療費を10年ぶりに上げたということは、
私たちもそれに応えなければいけないだろうという気持ちだったから、素直にそういうことを説明した。
医師会としては国民を守るということが大前提で、民主党が我々と一緒になって社会保障、
あるいは医療費を一生懸命守ってくれるという限りにおいてはずっと民主党を応援すると申し上げた。」と語りました。


会見した菅以下じゃねえか。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100715ddm005010119000c.html
14日の会見で日医連は
「今後は、政府与党および野党に対しても力強い働きかけを行っていく所存です」
とする原中委員長名のコメントを発表し、「民主支持一辺倒」の姿勢を改めた。
横倉義武副委員長は「一党に偏することなく私たちの医療政策を理解する与野党の国会議員を支援する」と述べ、
今後組織を挙げて推す候補を擁立しない可能性に触れた。
原中氏は「都合がつかなかった」(横倉氏)との理由で、会見に姿を見せなかった。

今後は民主支持にかじを切ろうとし、
支持候補の分裂を招いた原中氏に対する責任論が噴き出すのは確実だ。
3人の推薦・支援を決定した5月の執行委員会では、「3人とも落選したらどう責任を取るのか」とただされ、
原中氏は返答に窮した。
西島氏を支援したある県の医師会長は「原中氏の責任を追及する」と意気込む。
原中氏は今後の政治活動方針について、「是々非々」を強調する。
しかし、ある日医関係者は「力のない団体の要望など政党が聞くわけがない」と話した。


する気がないなら原中は余計な事を言うな。
http://plaza.rakuten.co.jp/honestyshimabara/diary/201008020000/
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100802/stt1008021027002-n1.htm
日本医師会が参院選後、自民党に社会保障に関する勉強会の開催を提案していたことが1日、分かった。
自民党は民主党支持にかじを切った日医が関係修復に動き出したとみていたが、
日医は民主党との関係も引き続き維持する方針を示していることから、真意を測りかねている。
自民党幹部によると、谷垣禎一総裁らが7月中旬に日医を訪問した際に、原中勝征会長らが提案したという。
谷垣氏はその後の自民党役員会で日医側の話を披露。
11日投開票の参院選では日医の政治連盟、
日本医師連盟が推薦する民主党公認候補が落選したため出席者からは
原中氏が自民党支持に転換したのかと驚きの声が上がったという。
実際、日医連は7月14日、民主支持一辺倒を見直す方針を打ち出した。
もっとも、原中氏は同月28日、菅直人首相に
「社会保障費や医療費を守ってくれる限り、民主党を応援する」と表明した。
自民党内からは、その後日医側から勉強会の具体的な話がないため
「単なる社交辞令のひとつだったのではないか」(党中堅議員)との不快感も出ている。


http://www.asahi.com/politics/update/0223/TKY201002230002.html
亀井金融相、「ペイオフ限度額見直し」を3日で撤回
欧米では金融危機を受けて預金への不安をぬぐうためにペイオフ上限の引き上げが相次いだ。
だが、国内の金融機関は比較的安定しており、預金は集まり続けている。
むしろ不景気で貸出先がなく「預金あまり」になっている。
また、限度額の引き上げは、金融機関が預金保険機構に払っている保険料負担の増加につながりかねず、
最終的には金利低下などのかたちで預金者に跳ね返る可能性もある。

http://www.asahi.com/business/topics/economy/TKY201004020507.html
郵政改革、ペイオフ議論に波及 「利点ない」民間は冷淡
保険料率の引き下げは、金融機関にとって一見、良い話のように映る。
メガバンクが毎年支払う保険料は数百億円に達し、この負担が軽くなれば、増益要因になるからだ。
もともと、料率引き下げは郵政問題に関係なく今年度中にも議論になると見られていた。
1990年代の金融危機以降、金融機関の破綻(はたん)が相次いだことから、
保険料を積み立てた預金保険機構の基金は赤字続きだった。
機構は96年度、緊急措置として保険料を前年の7倍に引き上げてから据え置き、
年間5千億〜6千億円の保険料収入で赤字を穴埋めしてきた。
だが、最近は大型破綻が減り、赤字が解消するめども立ってきた。
10年度の保険料率は3月、現行の0.084%を続けることを決めたばかりなので、
仮に変更するなら来年度からになる。
ところが、金融機関側は、政府の誘い水に冷ややかだ。
「預金保護の上限を引き上げるなら、保険料も引き上げないと理屈に合わない。
それなのに『保険料を引き下げてもいい』と言う。その場しのぎだ」と、地方銀行の幹部は話す。
保険料の引き下げで積み立てが不足したまま、
将来、金融危機が再発し「穴」を開けてしまえば、それを埋めるのは民間金融機関。
ある大手行幹部も「中長期的に見れば料率引き下げの利点はない」と言い切る。
郵政問題の「決着後」も、政府と金融機関との平行線の議論が続きそうだ。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c9

コメント [戦争b5] がん 白血病…イラクの子どもたちは 妹之山商店街
02. 2010年8月08日 09:34:16: HlwakAuqPc
大量破壊兵器がなかったのに一国家に攻めこみ110万人も殺して謝罪も保証もなし。
アメリカ合衆国

金融博打に失敗して世界に迷惑かけたのに謝罪も補償も無し。
アメリカ合衆国

日本の敗戦活動を知りながら実験のために核爆弾を短期に2種類2発投下も謝罪も保証もなし、
アメリカ合衆国

とても、とても恥ずかしい国だ。


http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/467.html#c2

コメント [雑談専用38] アメリカ大富豪、資産の半分寄付?!本来は税金で取るべき。 taked4700
11. taked4700 2010年8月08日 09:43:04: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
10さんへ。

>だから、テロ集団に地下で渡るよりは、税金としてまだ表で使われるほうがましだと言っている。

の発言に対して、


>いつも、「制度の欠陥」によるものと「犯罪性」とが区別されない議論に終始している。
>歴史的には根拠があってスターリン統治下の政敵つぶしの常道だった。
>日本では日共が輸入し、今ではリベラル、保守、ついには官僚までまでがまねしている

と書かれています。

制度の欠陥のことを言い出したら、それこそどんな社会問題もそのことに原因を求めることができてしまいます。交通事故はすべて信号機の設置システムに欠陥があるからだというように議論を誘導できます。しかし、運転手が酒を何リットルも飲んでいたら、普通、そちらに原因を求めるのではないでしょうか?

犯罪性も同じくで、どんなことも、犯罪性があると言えば、それはそれで正しいので、いくらでもそちらの方向で議論を誘導できます。

今回の投稿ではビル・ゲィツのこと以外書いていませんが、もともと、個人が数千億円を超える富を蓄積できるということのほうがあまりに異常なのです。背景には国家的なそれを支えるシステムがあるはずで、だからこそ、その富を本来作り上げた側に裏でよこせという動きが出てくるのです。

全体的に見て、寄付で社会還元するのは、実質的に社会的な歪みがより大きくなる結果になりがちなので、それよりは、税で補足していくほうが、そもそも富の極端な蓄積ができないのでいいのではということを書いたのですが、このこと自体については、どうお考えなのでしょうか?
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/677.html#c11

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
10. 2010年8月08日 09:45:46: PJmW7feqxo
>6
核開発してるでしょうに。
北朝鮮なんか攻撃しても旨みなんか無いんだから。
アメリカは完全に標的をイランに定めてますよ。
この投稿でも明らかw
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c10
コメント [戦争b5] 中国軍を怒らせる米国の戦略 - 田中宇の国際ニュース解説 スットン教
01. 2010年8月08日 09:55:07: kANs2NXWXB
> しかし、黄海対岸の中国が、黄海に空母を入れて演習をすることに猛反対した。米韓は、演習の予定を延期して中国と話し合った結果、譲歩し、演習の主たる実施地域を韓国東岸沖の日本海に移動し、黄海側でも演習は行ったものの、中国に配慮して小規模なものにとどめた。韓国軍は、8月も黄海側で軍事演習を続けるが、それには米軍は参加しない。

また、田中宇が硬直化した脳みそで知ったかぶり解説しています。
田中宇が書いた三日後にはアメリカは米原子力空母ジョージ・ワシントンを黄海に派遣すると発表しています。

米、黄海に空母派遣へ 韓国との合同演習 中国の反発必至(産経)
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100806/amr1008060903003-n1.htm

米、合同演習で黄海に空母派遣へ 中国の反発必至(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010080601000066.html

米韓軍事演習 空母GWを黄海派遣へ 中国の反発必至(Yahoo)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100806-00000003-maip-cn


http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/458.html#c1

記事 [ペンネーム登録待ち板6] 酒気帯び運転容疑:森元首相の長男逮捕
全国ニュースでは報道されていませんが、昨日石川県のニュース
で報道されました。
ビックリです、今までだったら、森元首相が抑えていたと思いますが。
今度ばかりは、それで即議員辞職を議会に提出して受理されたみたいです。
政権交代の効果がここでも
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100808k0000m040018000c.html
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/534.html
コメント [戦争b5] イタリア映画「ZERO 9/11の虚構」:「ZERO」への熱い思い〜日本人の覚醒に向けて〜 バルセロナより愛を込めて
40. 2010年8月08日 10:07:46: kANs2NXWXB
>>36 さん
「Have individuals with weapons」、「ビジュアル・ウェポン」って何のことだろうと思っていたらこんな事があったんだ。
これじゃ小学生レベルだわさ。


http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/415.html#c40

コメント [経世済民69] 「財政再建」なんて自殺行為だ 何十兆円も償還されて困るのは“借金”漬けの銀行 (三橋貴明) ダイナモ
32. 2010年8月08日 10:13:48: 9ZeIoVblso
これまでの統計資料が示すような金融資産が本当に日本にはあるのか?
あるのならこれほど硬直した金融政策しか取れないというのは、むしろ異常ではないのか?
膨大な金融資産があるといいながら、ここ数年の歳入の落ち込み傾向はどういうことなのか?
国も民間も緊縮財政というジリ貧状態に追い込まれつつあるのは何故なのか?
実際は国民が知らないところで資産の劣化が相当進んでいるか、負債が圧縮されているのではないのか?

結局、ギリシア同様、粉飾隠蔽されたバランスシートがやたらばら撒かれているだけのことではないのか。究極の大本営発表に思えてならない。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/432.html#c32

コメント [戦争b4] 島根県漁業協同組合連合会 代表理事会長 岸 宏 【Web 竹島問題研究所】 hou
04. 2010年8月08日 10:25:07: kANs2NXWXB
>>02 さん
>アフガン戦争「機密文書」暴露の衝撃度
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/427.html#c13

を見て判ったんだけど、子供ですよ。
子供相手にムキになりなさんな。


http://www.asyura2.com/10/warb4/msg/170.html#c4

コメント [不安と不健康15] BCG接種について 何故傷は消えないか? 何故9*2=18箇所なのか? 彩
09. 2010年8月08日 10:31:30: TcJwcmz5Jk
物理的に、、悪意のある連中が我々を攻撃して、言う事を聞かないのが延々とつずくのだから我々も自らの自衛団を結成して物理的に反撃するのですよ。これは戦争です。
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/272.html#c9
コメント [国際4] Video that indicts impostor group = international finance ca shiryu星
01. shiryu星 2010年8月08日 10:55:32: lZ5uA5QqjwzmM: dSZR7EKq7I
6〜11 is added.

6 Prohibition of resale by M&A
7 Setting of the lowest stocks tenure
8 Prohibition of leverage or, it reduces in the effect.
9 Restriction of stock prices regulation of a day
10 Taxation at each buying and selling
11 Prohibition of speculative act

A speculative act by the hedge fund gives destructive influences to the society, the enterprise, and the dweller in purport.

It lectures on the measures to prohibit a speculative act restricting.

http://www.asyura2.com/09/kokusai4/msg/858.html#c1

コメント [経世済民69] 「財政再建」なんて自殺行為だ 何十兆円も償還されて困るのは“借金”漬けの銀行 (三橋貴明) ダイナモ
33. 2010年8月08日 10:57:24: uIUSCZ2uro
何よりもまずアメリカから 独 立 し、アメリカのパシリの朝鮮勢力+最近進出中の中国人を追い出し、スパイ防止法、国家反逆罪法を作り、軍備防衛をしっかり行い、

「ま と も な 国 家 」

になることが先決。

官僚、政治家、メディア、大手多国籍企業にはまずアメリカ、朝鮮のスパイやロビイスト、外資系金融勢力がうじゃうじゃいるからまず日本のためになることが何一つできない。そして現在日本の経済体制はコーポラティズム・クローニー資本主義なのでまずそれを止めるべき。。(これが市場原理であり、自由経済のデメリット。政府や政治家にくっ付いて予算分配を支配する「自由」もありだとということがこの経済体制)

だから財政出動しても結局政府やメディアにくっついている企業や外資の連中がそのお金を仲間内の事業内で転がす計画経済だから駄目。金が身内の事業とその関連事業でグルグル回っているだけだから。

そして実は市場原理自由主義経済は、政府にくっ付いて税金の使い方を指図、コントロールしやすくするための 詭 弁 であり、さらにそれは「計 画 経 済」であり「社 会 主 義 」である。市場原理、自由経済と言われるアメリカがいい例。ウィール街の連中や私営銀行だが、政府の権限を持つ特殊な民間銀行 F R B の連中が財務省の高官の役職に常についている。完全に回転ドア化している。日本も同じ。

これをはっきり認識するべき。

市場原理、自由主義経済は

コーポラティズム・クロー二ー資本主義であり

計 画 経 済 

で 

社 会 主 義 

です。

>なんで庶民が貯蓄に走るかと言えば、将来が不安だからですよ

この不安を煽っているのが売国メディア連中。こいつらがそもそも外国マフィア勢の息のかかった フ ロ ン ト 企 業 だから全部潰すか、国営化するべき。その国営化もまず政府の売国連中を追い出してからだが。

ベネズエラは欧米連中のフロントメディア企業を潰したからそれを見習うべき。


http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/432.html#c33

記事 [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫対策に関して東国原宮崎県知事のおかしな点
東国原宮崎県知事はおかしくないか?
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/754.html
投稿者 taked4700 日時 2010 年 7 月 14 日 03:12:05

の第2弾目です。


7月13日の日記に次のような個所がある。以下、http://ameblo.jp/higashi-blog/より部分引用:

良く言われる質問・・・・・「この特例を認めると、今後リングワクチンをしようとする場合、拒否される農家が出て来て、防疫対策上如何なものか?」
 答・・・・・「まず、二度とリングワクチンを強行しなくて済むような、徹底的な初動防疫・防疫対策等のマニュアル化・法制化が必要。次に、もし仮にリングワクチンをしなければならないような事態が生じた場合は、国が責任と強い強制力を持って行うことが出来る法整備を急ぐこと・・・・」

以上引用終わり。

 まず、これは問と答えになっていない。特例を認めることがどんな効果を防疫対策に与えるかを聞いているのに、それに答えていない。

 次に、マニュアル化・法制化が必要だと言っているが、どんな点が不備だったかについて、まるで全体が不備だったというような印象を与える言い方であり、宮崎県の責任を回避している。かなり報道のあった「埋却地の確保が大規模農場が増えた結果できないので埋却を農家の責任にするのは現状に即していない」ということなら、理解できるが、「徹底的な初動防疫・防疫対策等のマニュアル化・法制化が必要」というのはあまりに大雑把な言い方で、当事者であった知事なら、もっと具体的な指摘ができなくてはいけない。具体的な指摘ができないということは、自ら宮崎県の初動体制が手抜きだったことを認めたくないからではないか?

1.2000年の口蹄疫の教訓、つまり、典型症状であるよだれや水疱が出ないという教訓は、どうして生かされなかったのか?つまり、宮崎県の獣医師会で、そのことの検討はしなかったのか?県の家畜衛生保健所でそのことを各農家や獣医師へ文書で伝えることはしなかったのか?そもそも、今年の韓国や台湾の感染を受けて農林省から注意喚起の文書が来ていたはずだがそれはどう処理したのか?

2.2000年の口蹄疫感染を受けて、マニュアル化されたはずだが、どうして、典型症状が2000年の時は出なかったことが記されていなかったのか?マニュアルに帰されなかったのは国の責任なのか県の責任なのか?

3.現行法のどこが不備なのか、もっと具体的に指摘するべき。鹿児島大学の岡本教授は現行法で十分に対処可能であったと書かれている。埋却処分地の確保を農家に義務付けていたことが現状に合わないこと以外、現行法のどこが不備なのか、疑問だ。

4.県の対応する部分が丸々抜け落ちている。もともと、口蹄疫などの疫病は、県単位の対応が基本だ。市単位だと、簡単に行政範囲を超えて伝染してしまうので、無意味だし、国単位だと、現状把握が難しい。結局県単位でやるしかないことは自明の理なのに、東国原知事は県の対応について、法改正でどんな対応ができるようになるべきなのかさえ述べてはいない。

5.自分のほかの記事でも繰り返し指摘しているが、1例目と6例目(水牛農家)の共通であった飼料会社は、他の農家へは飼料を配っていなかったのか?1例目の飼料会社と同じ飼料会社が6例目に入っているということで立入検査を県はしている。ならば、他の農家には行っていないのか?こういった基本的な情報さえ県や国は情報公開していない。もし、本当に口蹄疫被害を繰り返さないというなら、初期の防疫活動においてどんなやり取りを国と県がやっていたのか、それをまず公開するべきだ。いったいどんな防疫活動を県や国はしたのか。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/778.html

コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫検証委員会は機能するか?! taked4700
02. taked4700 2010年8月08日 11:05:54: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
問題は、現実に被害が出ていて、その被害の回復に全国民の税金が使われつつあり、しかも、その税金の使途がはっきりしない可能性が強いこと。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/776.html#c2
コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
37. taked4700 2010年8月08日 11:16:33: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
35さん、

>今回の口蹄疫騒ぎは宮崎の獣医の資質が低かったうえに、知事や市町村長の危機感、指導力不足で感染が拡大してしまい。

という解釈がそもそもあまりに表面的だ。福知山線の脱線事故で運転手の資質が問題だったというような議論がされたが、それと同じで、本質をわざと外している。

福知山線脱線事故は、線路脇のマンション一階の駐車場へ突っ込んだ一両目の発見が5時間以上も遅れた。これはあり得ないことで、明らかに、事故経過をよく分かっている運転手の死を待っていた、または、わざわざ殺したとしか思えない。

同様に、今回の口蹄疫は、県や国が意図的に防疫対策をせず、被害を広めたことは明白だ。背景にあるのは、これらのウィルスを利用してテロを行っている連中だ。今回の事件がテロであるという事実認識をしなければ、とんでもない事実誤認で終わるだけだ。

本当の原因を究明しなければ、また、同じようなことが起こるだけ。次は、もっとひどいことが起こる可能性が高い。だからこそ、今回の原因究明をきちんとするべきで、少なくとも行政の不作為は明白なのだから、その責任追及はするべきだと言っている。このことについて、どう考えられるのだろうか?
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c37

コメント [不安と不健康15] 学校で集団でフッ素うがいをさせるのは なぜ? つゆくさ
51. 2010年8月08日 11:19:41: uIUSCZ2uro
>>15の歯科医は情報操作が上手いな…。

取りすぎると何でも毒になる。しょうゆと同じ…。情報操作に慣れていない人は簡単に引っかかる詭弁だな。

フッ素は明らかに毒です。>>50さんが言われているように濃度調整できるわけないし、かりに絶対にするといってもあの薬害エイズや抗うつ剤、亜鉛の規制値など輝かしい犯罪をしている厚労省が最終的に許可出すわけでしょ?

絶対信用できないし、やるなら 勝 手 にどうぞです。50さんが言っているデメリットを一切伝えないで、メリットだけを伝えて国民の世論を 人 為 的 に形成して、

「はいこれが世論の意思です、多数決です」

と言って、一斉に計画を実行する時代。こんなのは北朝鮮と同じ。民主主義の仮面をかぶった社会主義です。体制(形)は民主主義だが、やり方(中身)は社会主義なのが日本。

どんな制度やり方にせよ、国民に


「選択の自由」


を与えない環境を作ることは北朝鮮と同じであり、社 会 主 義 です。
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/198.html#c51

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
11. 2010年8月08日 11:27:33: OU45NNHkXI
>>10
自国内では、兵器用の核開発していないという見方が(手先以外の人では)多いです。
ウランの濃縮は、原子力発電に必要な程度(2%から5%程度の低濃縮ウラン)にとどまり、
核爆弾に必要な程度(最低70%以上)は開発していないとのことです。濃縮施設の内容
をみれば判断できると思います(私は素人でわかりません)
イラン大統領は、国連で、どの国でも原子力発電の開発(平和利用)を行う権利がある
と発言しています。ただし、他国(中国、北朝鮮、ロシア、イスラエル、米国など 
米国は裏で何でもしますから)から、核を購入することは可能です。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c11
コメント [雑談専用38] アメリカ大富豪、資産の半分寄付?!本来は税金で取るべき。 taked4700
12. 2010年8月08日 11:39:59: b92pvRw1Ck
11さんへ

「個人が数千億円を超える富を蓄積できるということのほうがあまりに異常なのです。」

異常かもしれないが、これを言い切るにはもう少し多面的な検討が要るし、個人の感情・倫理観を超えた観点も必要だ。もちろんそういう感情を多くの人々におこさせているのなら、そのことも否定の論拠の一つには違いないが。

私は、事業に成功したからといって社長としての年間報酬が数百億円になったり、プロスポーツ選手の数十億円という年間所得も、契約する相手がいるからといっても、まともだとも思えない一人です。ただ彼らは犯罪行為によって稼いでいるわけではない。しているらしいなんて言うことを推測で軽々に言ってはいけないと思います(特に阿修羅にコメント投稿されるような人は)。
資本主義社会はいい面も多いのですが、際限のない高所得の一部への集中に関しては、この経済社会制度の欠陥だと自分では思っています。

私は、基本的にいわゆる陰謀論には与しません。しかし9.11に対して科学的に地道に、証拠・論拠を収集し共感を拡大していっていると思える、スティ−ブン・ジョーンズとそのグループには注目しています。彼らの主張は私に言わせると陰謀論ではないと思っています。公衆への責任の取り方、憶測・推測でなく事件・事象についての公開の場での仮説の提起、何よりも密室的な秘密結社に堕していないことからそう思っています(少なくとも今の時点では)。他の同様な論者との微細だが決定的な差を認めています。

言われるように、税制については民主党同様悩ましいですね。現在の経済社会のひずみを是正する方向を強調するか、政府に金を集めてケインズのような政府主導の産業政策を優先するか(といってもあまり効かないと思います。)、アメリカの自由主義とは違った形で民間・地域にファンドが可能な税制を作っていくかといった選択肢を、じっくり研究し我々国民にわかりやすく提示してもらうこと以外思いつきません。


http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/677.html#c12

コメント [経世済民69] -早い話が...-税の在り方、富者の役割とは 動画 gikou89
03. 2010年8月08日 11:44:22: 6kuobrWeYc
>政治的弱者である少数富裕層への搾取(累進課税)は、現代民主主義社会では必然である。

一般的には彼らは弱者とはいえないよ。
まず、彼らは金があるから政治的な宣伝力・発信力がある。
報道機関はスポンサーに逆らえない。

また、企業経営・投資などを通じて経済活動にかなり主体的に影響力を行使できる。
民意も彼らの主張はなかなか無視できないのが現実だろう。

http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/411.html#c3

コメント [マスコミ・電通批評10] マイケル・グリーンは原子力潜水艦に乗り、ロックフェラー4世と親密な小沢一郎前幹事長に鞍替え!(板垣英憲マスコミ事務所) 愛国改善党
07. 2010年8月08日 11:49:04: Yxlz0QZRMU
こんな話をマジで話してしまう板垣センセ。
接岸したのか、それともボートで艦に近づいて小沢氏が乗り込んだのか、いずれにしても原子力潜水艦が海面から顔を出しているわけで、こんなもの気付かない島民がいるわけがないが八丈島の島民から目撃例はない。
マスコミでさえ情報もない。管制報道のため?八丈島まで出かけたことが報じられていて原潜だけ外されることがそもそもありえない。
板垣センセは漫画の読みすぎと思われる。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/770.html#c7
コメント [経世済民69] 「財政再建」なんて自殺行為だ 何十兆円も償還されて困るのは“借金”漬けの銀行 (三橋貴明) ダイナモ
34. 2010年8月08日 11:51:33: 4Dau2huNPc
 
【老齢加算に続いて母子加算も廃止】
 
2009.04.02 きっこのブログ
 
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2009/04/post-a7f6.html
 

http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/432.html#c34
コメント [経世済民69] 「救国の秘策」への秘策を、ここに再び詳述し、その採用・実施を切言する(記事リンク) シャンプーhair
01. 2010年8月08日 12:02:03: 5ewtnZ4geY
政府発行通貨による財政危機克服のプランは、既に阿修羅では何度も提案されているが、日銀法によってそれが可能であることが明記されていることを明らかにされたことに感謝します。 不勉強で日銀法の改正が行われていたことを見逃していたから、慙愧に耐えないところです。 丹羽氏の提案の通り、政府が日銀に対して小切手を切れば済む話になる。 ただし、この話については事前の説明が国民に対して充分に行われないと誤解を招く恐れもあるし、あらぬ風説を流される恐れもあると思う。 なんとなく昔のナチス・ドイツの大蔵大臣だったシャハト博士のメフォー手形を思い出したが、それとの違いについてどなたかご説明願えないだろうか。 また平成十五年にステイグリッツ氏が来日した際、政府通貨の発行をサジェストしたと言う話も初耳だった。 重ねて不勉強に極みで赤面せざるを得ない。 際限なしに政府通貨発行の手段を毎年繰り返すことは、結局は通貨の増加を招き、それこそ今度はインフレを招きかねないような気がする。 この点についてもご教授賜れば幸いです。 N.T
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/447.html#c1
コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
06. 2010年8月08日 12:07:23: ethNHERqUg
阿修羅にもこんな投稿があるのですね..政治方面の議論が秀逸なだけに残念です。

リンク先の「薬事・食品衛生審議会 医薬品第二部会 議事録」も、各所にご自身が挿入された(疑問:)も読みましたが、とてもまともな議論になりそうもありませんので、要点だけ書いて終わりにします。
まず疫学データの読み方ですが、製薬メーカのグラフを見て「HPVに感染した人の99.85%はこの癌にならない」と大きな文字で書かれていますが、これはたった1年間の話であり頸癌の好発年齢は20年に及ぶのです。薬を売りたい製薬会社は、当然その程度のことは読み取れる相手に対してデータを公開しているつもりでいるはずです。「HPV感染者中の発症率が低いからHPV感染が原因のはずはない」に至っては、科学的議論以前の論理学の問題であり暗澹と..
加えて、あなたの主張のとおり、この好発年齢の期間中すべての女性に定期的に検診を行い、パップ・テスト→病理検査→外科手術を行う方が、HPVワクチンを未感染年齢の女性に投与するより医療業界は潤うのですよ。保険点数を比較してみてください。
すべての医薬品には副作用がありますので、期待される効果と副作用を臨床治験で評価して認可という手順になりますが,私が調べた範囲ではHPVワクチンのアナフィラキシーショックの発症率は、アジュバントを含む同様のワクチンと有意差はないとされています。

> 私が調べた事実を否定するコメントを書く人間がいますが、そういう人には「HPVが子宮頸癌の原因だ」
> という証拠を是非出してほしいものですね。

に対しては、千早さんは英語も読まれるようですのでこちらをご紹介します。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/
関連するキーワードで検索してみてください。
医学生物学には世界中の研究者による科学データに基づく熾烈な競争があります。製薬会社とは利害関係の無い生物系の若手研究者も多く含まれ、データの捏造などあれは他の研究者による再検で淘汰されてゆく厳しい世界です。政治の世界と違って、一ノーベル賞受賞者が効果の無い新薬を製薬会社と結託して捏造するなど、世界中の研究者の衆目の前では不可能なのです。

勿論、製薬会社に配慮して厚労省が副作用を隠すなどあってはならないことです。
その可能性に警鐘を鳴らす意味で、千早さんの投稿が全く意味が無いとは申しません。
ただ、千早さんがお調べになった内容を基に、すべての日本人に「頸癌ワクチンを打つな」と呼びかけるのは大変危険なことです。千早さんの呼びかけを間に受け、30年後に頸癌を発症した女性が居たとします。その女性が「HPVが未感染の若いうちに、あのワクチンを打っていれば」と後悔したら、あなたはその女性に対してどんな責任が取れるでしょう?(以降、返信はいたしません。これで終わり)
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c6

コメント [経世済民69] 直近のフードスタンプの受給者数も調べてみました。現在も受給者数の記録は伸び続けていて、5月は4,080万人の受給者数 TORA
01. 2010年8月08日 12:12:53: crnb8yOFMc
アメリカは、生活保護者が4,080万人もいるんだ。
日本のように非人道的な水際作戦がないからね。
アメリカのほうがセーフティネットが充実しているな。

■雇用環境も福祉も欧米以下!
▼日本は「世界で一番冷たい」格差社会  米国の著名社会政治学者が大警鐘
日本の格差問題も英米に比べればまだまし――。そう考える人は多いことだろう。
しかし、ハーバード大学のマルガリータ・エステベス・アベ教授は、
福祉機能で米国に劣り、雇用環境で欧州以下の日本こそが、
先進国で一番冷たい格差社会であると警鐘を鳴らす。
http://diamond.jp/series/worldvoice/10012/
ハーバード大学教授によれば、「雇用環境・福祉」は、先進国最悪だそうだ。
「小泉竹中インチキ改革」により、日本は、もはや、“張り出し先進国”に転落してしまったのかもしれない。
「高負担低福祉国家」が日本の実像に近そうだ。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/446.html#c1

コメント [経世済民69] 政治板でコメントしたけど、わいは馬鹿やから経済板でご意見を問いたい... めむめむ
42. 2010年8月08日 12:20:28: b92pvRw1Ck
あなたのような本質論だけが価値があるし、小手先でなく現状を打開する可能性がある。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/443.html#c42
コメント [経世済民69] マスコミが財政不安を煽るから経済が萎縮して需要がなくなってしまう。セカンドハウス減税で過剰預金の160兆円を住宅に回せ! TORA
04. 2010年8月08日 12:24:23: 6kuobrWeYc
富裕層の消費は、貴金属・絵画・高級時計など資産性のあるものが多いです。
家を建てたとしても外国製の高級品とかがメインで「一般的な」消費財をそんなに買うわけではないと思う。

そもそも日本に富裕層は少ないし。

http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/437.html#c4

コメント [地域13] 阿久根市長竹原信一氏のやり方について taked4700
01. 2010年8月08日 12:27:26: 6kuobrWeYc
家族企業の経営の延長の感覚なんだろう、竹原氏は
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/402.html#c1
コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
07. 2010年8月08日 12:44:54: MpYb7z0edo
>>06
これはワクチン推進関係者の方でしょうか?

ワクチンすべてが必要ないものです。
「後で後悔するのは無用有害ワクチン接種した本人と家族」です。
いくら調べても「大本営発表」的統計の取り方ですから、参考になりません。

専門職の人でさえこれに欺されているのですから、一般人がすぐ欺されるのは当たり前です。
いつものように、すべての日本人に「強制」する力はありません。
むしろ力ある方は国や医師やマスコミの方です。比較にならないほど影響力があります。
そして、彼らも決して責任などとりません。
いつも責任とっているのは国民です。(補償費賠償費は国民の税金)

医療関係のデータは捏造がまかり通る世界です。
たとえWHOでさえ、アメリカCDCでさえ、その癒着が暴露されてきたこんにち、もうそんな戯言は通用しません。

http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=10242298
現代医学教会」 の四つの聖水……その一・予防接種 by ユースタス・マリンズ
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c7

コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
38. 2010年8月08日 12:45:44: kANs2NXWXB
>>37
>福知山線脱線事故は、線路脇のマンション一階の駐車場へ突っ込んだ一両目の発見が5時間以上も遅れた。これはあり得ないことで、明らかに、事故経過をよく分かっている運転手の死を待っていた、または、わざわざ殺したとしか思えない。

当時、私の知り合いがあの現場近くの工場に勤務していて、消防、救急隊より早く共助に行ったそうです。
1両目、2両目が何処にあるかも判らないほどにつぶれており、特に1両目は地下に押し込まれた状態で、誰もそこに1両目があることすら判らなかったそうです。

現場を見てもいない貴方のような人が「運転手の死を待っていた、または、わざわざ殺したとしか思えない。」等というのは、懸命に救助に当たった消防、救急隊、市民にに対する冒涜としか言いようがありません。

まともな人間であればこんなコメントを書くことは出来ないでしょう。
「taked4700」さんの人間性を如実に表すコメントです。


http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c38

コメント [社会問題7] 若年求職者を喰いものにする「ジョブカフェ」利権。雇用問題はワークシェアリングで解決できる 「独りファシズム」 憂国青年烈士会
05. 2010年8月08日 12:47:57: 6kuobrWeYc
>>04
民間企業の利権になっているのが問題の本質。

民営化? 失業者が金払えるのかって。
貧困ビジネスがはやるだけ。

http://www.asyura2.com/09/social7/msg/841.html#c5

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
12. 2010年8月08日 12:48:46: J0o6rialnc
>01. 2010年8月07日 20:22:18: LvssWl3jrs さん

>これから民主党の正体がドンドン露わになって来るだろう。

確かに民主党の中に渡部派だか菅派だか、自民党と同じ輩が多数存在すると思っています。
しかしまだ民主党議員の多くが自民党のやってきた政治の改革を望んでいます。
しかしあなたは民主党の正体と言っていますが、自民党などはアメリカポチを65年も続けてきたではないですか。
アメリカに言われるままに差し出して、言われるままの政権運営をしてきたではないですか。
私は今アメリカ傀儡のポチ政権ではなく、もちろんアメリカとの友好姿勢は良いのですが
隷属関係のアメリカ傀儡政権から脱却して小さくとも誇りある一国となって欲しいと思っています。

民主党の正体ではなくて、菅派の正体だと思いますが、如何に?

http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c12

コメント [経世済民69] 今後25年間は給料下がり続けます。地球的賃金平衡化現象の恐怖.... 「独りファシズム」 憂国青年烈士会
20. 2010年8月08日 12:56:05: 6kuobrWeYc
>>07
あなたの言ってることは
ようするに小泉・竹中のネオリベ路線ですよね。

デンマークやオランダの実情をよく調べてください。

労働生産性を上げる?上げていいでしょう。
で、そうしで生産されたものをだれが消費するの?

>>08
北欧諸国なんて日本以上の「親方日の丸」だよ。
公務員めちゃくちゃ多いし。
それでもそれなりにやっているとしたら、他に問題があるんだろ。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/427.html#c20

コメント [雑談専用38] アメリカ大富豪、資産の半分寄付?!本来は税金で取るべき。 taked4700
13. 2010年8月08日 12:58:44: 6kuobrWeYc
>>08
富裕者の興味を持つ活動にしかお金が回らない、
という点で偏る。
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/677.html#c13
コメント [経世済民69] スイスのトランスオーシャン : メキシコ湾岸 BP油田掘削施設建設の損害は、保険金でカバー(スイスインフォ hou
01. taked4700 2010年8月08日 13:00:04: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
元記事自体が間違っている様子だが、

>第2四半期の純利益は、7億1500万ドル( 約615億円 ) で、前年同期比で11.3% 減少。また、第2四半期の総売上高も250万ドル ( 約2億1500万円 )で、前年同期比で13.1% 減少

は、おかしい。

純利益のほうが総売り上げの300倍もある。多分、総売り上げの単位を間違えているのではないか?


http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/444.html#c1

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
08. 2010年8月08日 13:01:41: MpYb7z0edo
先の続きです。

「製薬会社とは利害関係がない、データは捏造などあり得ない」

そんな事は昔からあり得ない世界です。
日本でもデータやエビデンスなどというものがいかに当てにならないか岡田正彦教授の本を何冊か読んでみればわかります。

もっとも医師でさえも欺されるくらいですから、このコメント投稿者も別に悪気で言っているのではないでしょうが・・・
問題は欺されている事に気がつかない、正しいと「思いこんでいる」ことに落とし穴があるわけです。

そういう方の方が実際は社会の多数派になっているからこそ(意図しない)大きな集団詐偽世界が創り上げられる事です。

この典型的なのが国家の思想統制が行われた戦争時代。

いつかしら騙された私や貴方がだます側になっていた! 医学の嘘が蔓延してしまった世界において「国賊」は語る
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/314.html

医者が嘘をつくはずがない、医学研究者がデータを捏造するはずがない、国が厚生省が、WHOが・・・・
こんな「思いこみ」があると、もう真実は見えてきません。盲従ロボット、盲従家畜と同じになります。
そして、一緒になって虚構を推進、守るために一生懸命になります。

そのご、いざ敗戦になって
私もだまされていた・・・と、責任などとりません。


「医療業界のストリートハスラー(詐欺師)」 
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/774.html
投稿者 寅蔵 日時 2010 年 8 月 04 日 06:57:23: 8X/teMCB5Xc.E


「現代医学教」の信者は妄信です。
http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=10242298

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c8

コメント [経世済民69] 円高はいつまで続くか taked4700
17. taked4700 2010年8月08日 13:09:40: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
>日本であればこのような不良品と言っても過言ではないレベルの製品を作ること自体、日本人のプライドが許さないでしょう。


 これも、現状を見たくないという甘い考えではないですかね。

 少なくとも欠陥住宅はさんざん報道もされ、実態として、不良住宅がかなりあることは分かっている。日本人が特別だとするのは、却って真実から目をそらすことになりはしませんか?

 日本人も中国人も韓国人も、イタリア人もアメリカ人も、基本的に人間であることは同じ。精度のよい工業製品をどこの国でも生み出すこと自体は可能であるはずで、問題は、技術教育がどの程度普及しているかとか、労働環境が整備されているかなど。
 日本も、戦後すぐは安かろう悪かろうという評価が一般的にで、made in USAがあこがれの的だった。

 今の日本の問題点は、植民地化がどんどん進んでいるのに、そのこと自体を認めようとしない人が多いことだ。それどころか、そういった体制に組み込まれていて、隠れた植民地化を進める役割を果たしている。まだ、破たんが表面化していないが、破たんが表面化したとき、そういった人たちは自らの責任について、どう考えるのだろうか?
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/434.html#c17

コメント [昼休み41] 4、潜水艦に詳しい人は、板垣ブログがガセと見立てているようで、空き缶ハゲタカ一派の回し者かもしれません。 小沢内閣待望論
01. 2010年8月08日 13:09:43: EMzXytPluA
ホワイトビーチというならよく考えましたね、と言えても横須賀では確かに話になりませんね。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/372.html#c1
コメント [戦争b5] 先週の欧米・東南アジアの新聞は、「米対中政策の転換」「ベトナムの大勝利」などと大騒ぎだった。日本のマスコミは報道せず。 TORA
04. 2010年8月08日 13:10:47: 8ZUsU1oS5g
>>01 さん
>事実誤認が甚だしいと思う。
>先ず第一に、サンケイの記事は古く、最終的に実施された現実の米韓合同軍事演習では、場所が日本海に変更されて居た。

これどういうこと?。
モレル報道官が会見で黄海に空母ジョージ・ワシントンを派遣すると言ったのは「8月5日」で最新の記事だと思います。


http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/457.html#c4

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
09. ダイナモ 2010年8月08日 13:11:36: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>07

>ワクチンすべてが必要ないものです。

笑止千万のコメントですね。 それほど断言するのなら「天然痘ワクチン」も必要なかったことになりますが(笑)。

あなたの挙げたリンク先に「天然痘ワクチン」のことが書かれていますが、意味不明の中傷は書かれていますが、ワクチン接種で天然痘が撲滅できたことについては何も書かれていないのは非常に怪しいですね。

猛烈な感染力と極めて高い死亡率を有し、国や民族の滅亡の遠縁となった天然痘が地球上から撲滅できたのは天然痘ワクチン接種のおかげだったのです。

 

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c9

記事 [Ψ空耳の丘Ψ58] PoliceState4
PoliceState4
http://vimeo.com/13603555

RED ALERT Wake Up To The Nwo - Resistnwo.com
http://vimeo.com/13924750

Chemtrails - Mystery Lines in the Sky
http://vimeo.com/13953373

Food- The Ultimate Secret Exposed - PT 1-2
http://vimeo.com/13795531

http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/496.html

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
10. 2010年8月08日 13:21:08: MpYb7z0edo

残念ですね。
天然痘は自然に終息したのですよ。インターネット捜してみてください。
本にも出ています。
トリックは統計年数を縮めて、さも医学上の勝利であるかの様に見せただけです。
結核も同様。
これが意識的にやったのか、それともオッチョコチョイでやったのかは分かりませんが、今もそれを表に出さないという事は「今は意図的です」ね。

後は皆おなじやり方で医学が貢献したかの様に統計の一部だけを見せる方法でした。
もっとも、
真実を知ろうとしない人には見ることの意欲がないから無駄でしょう。



http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c10

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
11. ダイナモ 2010年8月08日 13:22:39: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>08


>。ヨ製薬会社とは利害関係がない、データは捏造などあり得ない」

>そんな事は昔からあり得ない世界です。
>日本でもデータやエビデンスなどというものがいかに当てにならないか岡田正彦教授の本を何冊か読んでみればわかります。

そんなことは織り込み済みです。製薬会社が利益追求のために不都合な事実を隠そうとしようとするといったことはよくあることです。

そいうことは現場の医者がよく知っています。何せ製薬会社のMRと日常的に付き合ってきていますからね。そういう事実を承知した上で医者は治療を行なっているのです。

 

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c11

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
12. ダイナモ 2010年8月08日 13:24:42: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>10

>天然痘は自然に終息したのですよ。

ではその「科学的」根拠をあなた自身が提示して下さい。

 

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c12

コメント [不安と不健康15] 依存症を眠らせろ 新タイプの睡眠薬は薬物依存を抑える効果もあるようだ (日経サイエンス) ダイナモ
02. 2010年8月08日 13:26:56: shOrI4W1Tw
>>01

「日経サイエンス」の存在意義はサイエンスをねじ曲げるためにあるのです。
大目に見てやって下さい(爆)。


http://www.asyura2.com/09/health15/msg/275.html#c2

記事 [カルト7] 西洋の達人が悟れない理由 2 _ タルコフスキー2

Andrey Tarkovsky on "Andrey Rublev"
http://www.youtube.com/watch?v=nQVzjR8Y918

http://www.youtube.com/watch?v=97Ep4OtbSOM&feature=related


彼の発病は突然だった。

誰一人そんなことは思ってもなかったし、悲劇的なものとも思ってもいなかった。

1985年12月に体調がすぐれなくて、徹底的なメディカルチェックを受けたことは知っていたが、フィレンツェに発つ前、クリスマスイブに空港まで連れて行ってくれと頼まれたときには驚きが待っていた。

その道中で、彼はシンクロされたサウンドトラックの最終版の指示を始めた。
彼は映画の献辞を変えるように言った。

「我が息子アンドリューシャに捧げる、こうして闘うために私は彼から離れることになる」

とするように。

クリスマスの翌日、私はアンドレイが癌だと知った。


しかし1986年6月のあの日に、ドイツで彼は治ったように見えた。回復期が目前にあるかのようだった。私たちは高揚して、昔のように冗談を飛ばしていた。

アンドレイはベッドの傍らの小さなテーブルに置かれた聖書に手を伸ばして、「伝道者の書」の一節を読んだ。

1:2傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なり

1:3日の下に人の勞して爲ところの諸の動作はその身に何の益かあらん

1:4世は去り世は來る 地は永久に長存なり

1:5日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり

1:6風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる。

1:7河はみな海に流れ入る 海は盈ること無し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり

1:8萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし 日の下には新しき者あらざるなり

1:10見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや 其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

(伝道者の書第1章第2節から第10節)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

テクストが私を短調の気分に誘い、私たちの地上の生は時には無目的に思えると、地上的な反応を私がすると、アンドレイの反撃が閃光のように帰ってきた。

私たちの地上の生は、そんなひとつの見方で分類して片づけられるほど単純なものではない。

彼はページを繰って、また読んだ。

11:7夫光明は快き者なり 目に日を見るは樂し

11:8人多くの年生ながらへてその中凡て幸福なるもなほ幽暗の日を憶ふべきなり 其はその數も多かるべければなり 凡て來らんところの事は皆空なり

11:9少者よ汝の少き時に快樂をなせ 汝の少き日に汝の心を悦ばしめ汝の心の道に歩み汝の目に見るところを爲せよ 但しその諸の行爲のために神汝を鞫きたまはんと知べし

(伝道者の書第11章第7節から第9節)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

宗教は、タルコフスキーの生で重要な役割を果たした。

彼は宗教者と会って、彼らと信仰の問題を話し合いたいといつも願っていた。

私たちがよく話したテーマに、私の叔母の人生と宗教があった。

病気の時にアンドレイは彼女の見事な人生観から多くの力を引き出した。

彼女の精神的支えと宗教的省察は、アンドレイの魂にはっきりとした刻印を残した。

映画が完成すると、私は彼から、叔母への言葉を添えたポスターを受け取った。

彼は、一度もあったことのない、しかし、自分のために多くの祈りを捧げてくれたことを承知している女性に、それを贈ったのである。

アンドレイは、現代人が祈る力を失ってしまった、そしてそれこそ私たちの精神の枯渇を示すものだと信じていた。


彼はしばしば聖書のテクストに基づいた映画を作りたいという欲求を感じていたが、そんな大それた仕事をやり遂げるのに、自分は卑小すぎると思っていた。

しかし、他の誰がそんな試みを出来たであろうか?


療養所のまわりを午後に散策することがアンドレイの日課だった。
その道行きで、私たちはヨブ記に描かれた愛の複雑な性質について話した。
かくも厳しい試練にさらされた愛。かくも厳しき苦悩。
それと同時に苦痛と悲惨を生み出す愛について。


散歩はおよそ45分だったが、私たちが歩いたのは、あちこちに置かれたベンチに腰を下ろしたりして、300メートルほどだった。
そのとき初めて、私はアンドレイの体力がどれほど弱っているか、気がついた。


歩いたために疲れ果てて、アンドレイはベッドに横になり、聖書に手を伸ばして『伝道者の書』をまた読み始めた。

3:1天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり

3:2生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり

3:3殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり

3:4泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり

3:5石を擲つに時あり石を斂むるに時あり 懐くに時あり懐くことをせざるに時あり

アンドレイは言った。

「覚えているかい? 私が『石を擲つに時あり石を斂むるに時あり』という題を私たちの映画につけたかったのを。

スウェーデン語では響きが良くなくてね。」

タルコフスキーは床についたまま、療養所の部屋の壁に掛けられたイコンを見やった。

彼の言葉の響きが消えて、森のささやきとツバメのさえずりが聞こえてきた。

しばらくしてから、彼はまた読み始めた。

3:6得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり

3:7裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり

3:8愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり

3:9働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや

3:10我神が世の人にさづけて身をこれに勞せしめたまふところの事件を視たり

3:11神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり

(伝道者の書第3章第11節まで)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

アンドレイは聖書を脇に置き、毛布を引き上げて、うやうやしくそれを隠すと、沈黙が再び訪れた。

それは虚無の沈黙ではなかった。深い瞑想に満ちた沈黙だった。


暗くなり、私の帰るときが来た。私たちは抱擁とキスを交わし、「イタリアで会おう」と言った。それが最後の出会いだった。1986年7月26日。


* * *

12:1汝の少き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先

12:2また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ

12:3その日いたる時は家を守る者は慄ひ 力ある人は屈み 磨碎者は寡きによりて息み 窓より窺ふ者は目昏むなり

12:4磨こなす聲低くなれば衢の門は閉づ その人は鳥の聲に起あがり 歌の女子はみな身を卑くす

12:5かかる人々は高き者を恐る畏しき者多く途にあり 巴旦杏は花咲くまた蝗もその身に重くその嗜欲は廢る 人永遠の家にいたらんとすれば哭婦衢にゆきかふ

12:6然る時には銀の紐は解け金の盞は碎け吊瓶は泉の側に壞れ轆轤は井の傍に破ん

12:7而して塵は本の如くに土に皈り 霊魂はこれを賦けし神にかへるべし

12:8傳道者云ふ空の空なるかな皆空なり


(伝道者の書第12章第1節から第8節より)
http://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html


彼の葬儀の日、パリの聖アレクサンデル・ネフスキー教会で、私たちはろうそくを手に、偉大な芸術家に別れを告げようとしていた。

僧はろうそくに火をつけて、最前列に立つ人々にその炎を近づけた。

次々と炎が点されて、最後には、ちらちらと踊る火をいただいたろうそくのすべてが、私たちのアンドレイ・タルコフスキーの想い出の連鎖をつくり出していた。

http://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html


________________

サクリファイス (1986)

http://www.youtube.com/watch?v=zENPuEqgT4U

http://www.youtube.com/watch?v=kK9pHTyyKA4&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=k4izcNMy4rY

http://www.youtube.com/watch?v=ahxujJlYwZU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=2_aEjbYED0Q&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Mr5cYiRPf3E
http://www.youtube.com/watch?v=QeQCb5uyIFY

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9-DVD-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/B000062VMC


『ノスタルギア』の撮影前に書かれた、『魔女』と題された『サクリファイス』の最初の脚本コンセプトは、癌にかかった人間の治癒をめぐって展開した。

不治の病と知り、自暴自棄の状態になると、アレクサンデルは不思議な人物と出会う。

彼はアレクサンデルに、回復の唯一の希望は、魔力をもつ魔女と噂される女性のところに行って、彼女と寝ることだと告げる。

アレクサンデルがそうすると、彼は驚異的な治癒を経験し、医者は茫然自失することになる。

ところが、ある日その魔女がひょっこり姿を現し、雨にうたれながら家の外で待ち受けて、彼をさらおうとする。

脚本のこの段階で、アレクサンデルの犠牲は、家族と所有物を捨てて、貧者の姿に身をやつし、この女性と家を去ることだった。

『ノスタルギア』の撮影中に、タルコフスキーは、当時映画で気になっていることと自分の実生活との数多い平行関係に驚いた。

映画の主人公、アンドレイ・ゴルチャコフは短期間滞在するだけの予定でイタリアを訪れたが、望郷の念に消耗していく。

そして、ロシアに帰ることは叶わず、最後にはイタリアで客死する。

タルコフスキー自身、最初は、映画が完成するとロシアに戻るつもりだったが、 彼もまたイタリアで病気になり、滞在を延ばすしかなかったのだ。


タルコフスキーは、また、アナトーリ・ソロニーツィンの死にひどく心を痛めていた。

タルコフスキーの作品の多くで主役を演じたソロニーツィンは、『ノスタルギア』でもゴルチャコフの役を演じる予定だった。

また最初から『魔女』のアレクサンデルの役がふられていた。

ソロニーツィンは、物語の第1版でアレクサンデルの人生に転機をもたらすあの病気で死んだ。

そして「今では、数年後に、私もまたその病気で苦しんでいる」

林の木の下でアレクサンデルが、小さな息子に話す言葉は、痛いほどの意味を秘めている。

「死なんてものは存在しない。死の恐怖だけが存在する」

http://homepage.mac.com/satokk/pgreen.html


タルコフスキーは家にほとんど異常なほど愛着があった。

『サクリファイス』で家が焼け落ちるのをワンシーン、ワンカットで撮影するのは、それ自体が彼にとって目的になった。

我々は、『サクリファイス』で焼け落ちる家が、潜在的に実生活で病魔にむしばまれつつある彼の肉体の映像になるのを実感し、それを目撃する。

撮影は1度失敗して、2度目に成功した。
http://homepage.mac.com/satokk/house.html

サクリファイス製作風景
http://homepage.mac.com/satokk/offret/offret.html

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1. ノスタルジア 1983年

http://www.youtube.com/watch?v=IU1gNassY04
http://www.youtube.com/watch?v=KrmsCdaZb7Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Qvwei4WvMDM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Z5CZhY4S8Nk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=0uXHCiueZ2w&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=739uYeCImyA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=kyc9w8tYmM0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=g5BSEaHnbJg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Mv1dZKIFEgY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8eRKKgDiQLM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hS0M0YZd9G4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=kLZB8PDYaZU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=JWNVhaATCKI&feature=related

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A2-DVD-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/B00006S25R

サンガルガノ大聖堂の廃墟 


 アンドレイ・タルコフスキーの映画はすべてすばらしい映画的光景を映し出している。

『僕の村は戦場だった』はテーマの重さと拮抗するような映像のリリシズムがあった。

『惑星ソラリス』も突出したSF?映画だった。

東京の首都高速が未来都市のイメージとして活用されていることで話題になったが、むしろ、その後のタルコフスキーに頻出するブリューゲルとバッハの融合が印象に残る。

『ストーカー』も晦渋な映画だが、水のイメージがじつに美しい。

そしてタルコフスキー的な映像というてんでは、なかでも、『鏡』と『ノスタルジア』が秀逸だと思う。

 『ノスタルジア』は、イタリアが舞台だ。

ロシアから亡命してきた詩人(アンドレイ・タルコフスキーそのものだ)が、創作の自由のためにはロシアから離れねばならず、しかしその創作の源泉である故郷の原風景やロシアの大地から切り離されることによって生じる心理的葛藤(それをノスタルジアという)に苦しむ姿を美しい映像で描いている。

 ノスタルジアのラストに、ある廃墟の寺院が出てくる。

それがサンガルガノ寺院である

 私は、映画に導かれてこの寺院を訪問した。1993年のことである。


 資料として『タルコフスキーatワーク』(芳賀書店)の「ノスタルジアへの旅」(鴻英良)をみた。彼はノスタルジアのロケ現地をめぐる旅にでかけ、詳細にその発見を記している。

それによると、タルコフスキーの撮影チームは、ラストシーンをサンガルガノで、印象的な地下の聖母のシーンをトゥスカニアで撮影したことになっている。

私は、仕事でローマを訪れたさいに、フィレンツェに移動し、そこでレンタカーをして、トスカナ地方をドライブしてローマに戻る計画をたてた時、ぜひともこのサンガルガノの廃墟とトゥスカニアを訪れてみたいと思った(まぎらわしいが、トゥスカニアは、トスカナ地方にはない。ここもじつに素晴らしいところだった。町にはホテルが一軒しかなかったが、ここが素晴らしかった。)


(トゥスカニア全景と地下の聖母が撮影された場所)


 トスカナ地方をドライブしはじめると、すぐさま人生の至福につつまれるような感慨を味わった。

こんな素晴らしいドライブはそうはない。

フィレンツェもすばらしいが、サンジミニャーノ、シエナ、ペルージャ、アッシジといった小さな町々が途方もなく素晴らしい。

しかしサンガルガノは探し出しにくかった。

さきの鴻英良氏もサンガルガノへ行くのにはたいへん苦労している。
彼はレンタカーでなく電車をつかっていたのだ。

シエナから行くのだが、観光地ではないため、何もない田園のなかを迷いながら運転してたどりつくほかはない。

 うつくしいトスカナの田園のなかに、それはあった。

 夏のあいだには、臨時の売店なども開かれているから、訪れる人は案外少なくはないのかもしれない。絵はがきやカレンダーなども売っていた。

 サンガルガノがどういうものかは、次の写真をみてほしい。


 サンガルガノ大聖堂(廃墟)


 イタリアのガイドブックや、ミシュランの緑には、きちんとサンガルガノが紹介されている(小さくだが)。ミシュランによれば、人は、この廃墟を訪れると、あらためて栄華のはかなさと、人生についてしみじみと想いをいたすだろう、とある。

たしかに廃墟には、そういう想いへと人を誘う不思議な力がある。

ためにヨーロッパには廃墟趣味というのがあって、わざわざ廃墟を建築する!ことも多かったようだ。

もちろんサンガルガノは正真正銘の廃墟である。


 タルコフスキーのノスタルジアでは、ラストシーンで、イタリアに亡命した主人公が死んでゆく意識のなかで、故郷ロシアの原風景が蘇ってきて、その懐かしい風景の中に包まれて死んでゆくのだが、その故郷ロシアのノスタルジアに満ちた風景が、サンガルガノの廃墟のなかに再現されて、廃墟の建物と渾然一体となってえもいわれぬ効果を生み出していた。

そしてノスタルジアの風景のなかに、やがていちめん雪がふってきて静かに映画はおわってゆくのだ。この最期の風景だけでも、ノスタルジアは映画史に残るものではないかと思う。
http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm

Andrei Tarkovsky - "Tempo di viaggio" (italian with french subtitles)

http://www.youtube.com/watch?v=PY9DPNQSET0
http://www.youtube.com/watch?v=P0pcra3oGQk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OAP7Iv4Z0SI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bkygo4Kn7CI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yyXeDNPzXFs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=R8hrHfv2Ou4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5M4Md2S7Mtk&feature=related


イタリアのタルコフスキー

タルコフスキーは『ノスタルギア』を「単純なラブストーリー」だと言う。

(ヤンコフスキイ演ずる)アンドレイ・ゴルチャコフはロシアの大学教授で、長年講義してきた建築を実際に見るために、イタリアを初めて訪れる。

彼は自分の通訳兼ガイド(ドミツィアナ・ジョルダーノ)に思いを寄せる一方で、トスカーナの数学教授のドメニコ(ヨセフソン)に自分の一種の分身を見いだす。

ドメニコは世界の終末は近いと信じているので狂人と見なされているのだった。

ローマのRAIでの製作発表記者会見で、タルコフスキーはこう述べた。

「『ノスタルギア』のテーマは、人々がお互いを本当に知らずに共に生きるのは不可能なことと、相互理解の必要性から生まれる問題を扱っています。

名前を知るくらいなら非常に簡単だが、他者を深く認識する段階に達するのははるかに困難だ。

また表面にはさほど現れませんが、この映画には、文化を輸入したり輸出したり、異文化を取り入れるのは不可能だという主張を扱った一面もあります。

私共ロシア人もダンテやペトラルカが分かると主張出来る。

それはイタリア人の皆さんがプーシキンが分かると主張出来るのと同じ理屈です。

けれども実はそんなことは不可能なのです。

つまり同じ国民でなければならないのです。

文化を複製し伝播するのは、その本質に有害であり、皮相な印象しか広めない。

異文化を教えるのは不可能なのです。」

「この映画で、通訳のエウジェニアが『どうしたら分かりあえるのかしら』と訊く。

アンドレイ・ゴルチャコフは『境界を壊すことだ。』と答えます。

これは複雑な地球規模の問題で、単純なレベルで解くか、全然解けないかのどちらかです。

単純なレベルでは子供が解決してくれると言えますが、もっと複雑なレベルでは自己認識の問題と関連しています。

アンドレイは自分の分身とも言える狂人にこうした難題を肩代わりさせようとします。
アンドレイは真理を探求しているのですが、自分が直接分かってもいないものを教えても無駄じゃないかという思いが心をよぎることがあります。

彼は、あの狂人に、自分の行動に確信を抱いている人物を見いだす。

世界の救済法を知っていると言って、それに基づいて行動する人間を見いだします。

ドメニコは反省を知らぬ、ただ行動するだけの無邪気な子供に似ています。

ですからある意味でアンドレイに欠けているものを代表しているのです。」

ドメニコのキャラクターは、部分的には脚本が既に脱稿した段階で、グウェラがたまたま見た新聞記事からインスピレーションを受けたものだった。

タルコフスキーによると、それは映画に重要な総合性をもたらす幸運な発見であった。

「グウェラは類い稀な才能に恵まれた詩人で、偉大な発見が出来る。

幸い私は映画畑で、グウェラは詩の方ですから、嫉妬しなくてすんでいますがね。」

タルコフスキーは最初はモスクワでかなりの部分を撮影する計画だったが、ソヴィン・フィルムとの協約が破棄されて、彼はモスクワのシーンに振り分けたフィートを半分に減らさねばならなかった。


「運命は私たちに救いの手を差し延べてくた。

トスカーナで見付けた家はモスクワより映画的にはるかに興味深いものです。

イタリアに、ロシアのこのささやかな一角を拡張出来るのを私はとても嬉しく思っています。」

タルコフスキーは今でも水にとりつかれたままなのだろうか?

「水は神秘的な要素です。一個の分子であり、とてもフォトジェニックです。」

とタルコフスキーは語る。

「水は運動と、変転と流動の感覚を伝えることができる。

『ノスタルギア』にもたくさん水があるでしょう。

たぶん水には潜在意識の反響があるのかも知れない。

ひょっとすると、私が水を大好きなのは、先祖の輪廻転生を隔世遺伝で記憶していることから生まれるのかも知れない。」


彼の映画の「悲観主義」とイタリアの人生観の「楽観主義」に生じうる軋轢について、また、イタリア人には彼の映画を理解するのが困難なのでは? と問い質すと、タルコフスキーはこう答えた。

「私にだって楽観主義はある。

今度の映画は比較的単純で分かり易いラブストーリーです。

けれども同時に私は、表面下に潜むもっと深遠で混沌としたものを、底まで掘り下げる努力をしています。

悲観主義は、気遣いと人が自分に課す問題の複雑さが絡んで生まれてくる。

こうした問題は、歓喜に満ちた態度で世界に向かっても解けるはずもない。

私の関心は、世界の現状を気遣い、胸を痛めている人々にあります。

このために、時には、余りに複雑になるのかも知れません。」

「映画は高度の緊張を伴う芸術形態です。

一般には理解されないことかも知れませんがね。

私は理解されたくないというのではなく、例えばスピルバーグのように、一般大衆向けに映画を作るのは私には出来ないということです。

もし自分にそんなことが出来ると分かったら、恐ろしく恥ずかしいでしょうね。

一般大衆に届きたいなら、芸術とは何ら関係のない『スターウォーズ』や『スーパーマン』のような映画を作らなければならない。

私が、大衆を白痴のように扱っていると、とらないでください。

ただ確かに私は、大衆を喜ばせようと苦心したりしない。

ジャーナリストの皆さんの前で、どうして私はいつもこんなに自己弁護ばかりしているんでしょうね。近頃私には、皆さんが欠かせないでしょう。

私の映画がアンゲロプロスと同じくらいの配給を得るのなら、特にそうでしょう!」
http://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html

タルコフスキー、『ノスタルギア』を語る

内面への旅 ギデオン・バックマン


バックマン:
まず最初に、西側で仕事をする感想を話してもらいたいですね。

アンドレイ・タルコフスキー:今回は初めて外国で映画を撮るだけでなく、私は外国の条件下で初めて仕事をしています。

世界中どこに行っても映画を作るのは難しいと思います。

でも、何が難しいかが場所によって変わってくると私は気づきました。

こちらで、最も大きい障害は金と時間の不足がずっと続くことです。

特に資金不足は創造性を妨げ、また資金が不足すると時間が足りないということになる。

映画に取り組む時間が長くなるほど、コストも高くなる。


ここ西側では、お金が支配する。

ソビエト連邦で私は一度も費用のことは考える必要がなかった。

とにかく心配無用だった。

イタリアのテレビ会社RAIがとても気前よく、この映画製作に招いてくれました。
実際そうなんですが、割り当てられた予算は明らかに乏しい。

これまで外国で働いた経験がないので、いくらかは私の思いこみかも知れませんが。
現在のプロジェクトは実際に「文化的なイニシアチブ」と分類されていて、商業的ヴェンチャーとは思われていません。

一方では、イタリアの映画チームと技術的クルーと一緒に仕事をするのは、とびきり報いのある経験です。

彼らは極めつけのプロで、高度な知識があり、自分の仕事を楽しんでいるようです。
誰もが自分のやっていることを愛しているように見えます。

しかし私は、私たちロシア人の方法とイタリア人のやり方の比較をしたくない。
どこへ行っても、理由が何であれ、映画作りは複雑で骨の折れる仕事です。
私が西側で一番批判に値すると思うのは、全く経済的な要素に全面的に依存していることです。

これは、芸術形式としての映画の未来そのものを危難にさらす可能性をもっています。

ギデオン・バックマン:
あなたが20 年間に作った5作品:『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ルブリョフ』、『ソラリス』、『鏡』そして『ストーカー』すべてに、個人と個人を取りまく環境の間にいつでも強い対立があります。
『ノスタルギア』でもこれがテーマですか?

強いのは常に葛藤そのものであり、個人ではありません。

それどころか、私の中心人物は必ずと言っていいほど、弱い人間です。

その人間の強さは彼らの弱さから生まれてくる。

彼らがその環境に上手く適応していない、環境と調和していないという事実から彼らの強さは生まれてきます。

当然、個人と社会の間には、際だった個人と彼を取りまく環境の間には、いつでも葛藤があります。

すなわち、これらの間にはいつでも対立が存在していて、これこそ私たちは葛藤だと言うのです。

人間関係の存在しないところには、葛藤もまた存在しない。

私は、社会との関係が対立の強い要素によって特徴付けられる人物を使うことに興味があります。

そういう人は自分を囲む現実に対して強烈な関係を持っていて、このために、そういう人は常に、最後には環境と衝突してしまうようです。

私はそういう人間を追いかけて、彼が自分の問題をどのようなやり方で解決するのか見つけだしたいのです。

自分のなかに閉じこもってしまうのか? 
それとも自分自身に誠実であり続けるのか?

ある意味で、これは私の作劇法のまさに根っこにある問題だと言えるかもしれません。


ギデオン・バックマン:
どのようにして『ノスタルギア』が誕生したのか、話していただけますか?

私は何度かイタリアへ来たことがありますが、およそ3年前に、よい友人で、イタリアの作家、詩人であり脚本家であるトニーノ・グウェッラと一緒に映画を作ることに決めました。

映画は私のイタリア体験をめぐるものになる予定でした。


オレグ・ヤンコフスキー演じるゴルチャコフは仕事でイタリアに来たロシアの知識人です。

映画のタイトルは、『ノスタルジア』という言葉では非常に不満足な翻訳でしかないのですが、私たちから遠く離れたものを求める苦悩、憧れても憧れても一体化することの出来ない諸世界を求める苦しみを示しています。

しかし、それは内面の故郷への憧れ、何らかの内的帰属感を表してもいるのです。

映画の「アクション」、出来事そのものの順序は、何度か修正されました。

一部は脚本を書いている準備段階で、また一部は撮影中にも修正されました。

私は分断された世界で、引き裂かれて砕け散った世界で生きることが不可能であることを表出したいのです。


ゴルチャコフは歴史の教授、国際的に知られたイタリア建築史の専門家です。

彼はそれまで複製と写真だけで知っていた、そして教えていた記念碑と建物を今こそはじめて、眼で見て手で触れる機会に恵まれたのです。

イタリアに到着するとすぐに、彼は、芸術作品を生みだした文化の統合的な部分にならない限り、芸術作品を伝えたり、翻訳することは出来ない。

知ることすら出来ないと実感し始めます。

さて、彼は18世紀の少しは知名度のある作曲家の足跡をたどるためにイタリアに来ます。

その作曲家は元はロシアの農奴だったのですが、主人によって宮廷音楽家として教育を受けるようにイタリアに送られたのでした。

彼はボローニャ音楽院でジャンバティスタ・マルティーニを師とし、やがて有名な作曲家となり、その後は自由人としてイタリアで生活をしました。

映画の重要なシーンに、ゴルチャコフが、イタリア人の通訳であり旅の連れである若い女性に、作曲家がロシアに書き送った手紙を示すところがあります。

そこで彼は、ホームシックを、彼の「ノスタルギア」を表現しています。

それが何を指示しているかと言うと、この作曲家は実はロシアに帰ったが、アル中になり、最後に自殺したということです。


ゴルチャコフにとっても、イタリアの経験は人生を変えるものになります。

イタリアの美とその歴史は、彼の魂に大きな印象を刻み込み、彼は苦しみます。

なぜなら、彼は自分自身の背景をイタリアと内的に和解させることができないのです。

彼のイタリア体験ははじめは全く外的な性格しか持っていないのに、ソ連に帰ったらそれが何かの終わりを内包するだろうと、彼はやがて気づきます。

そのため彼は憂鬱になります。

自分がイタリアで経験したことを忘れることも、捨ててしまうことも決して出来ないと知っているからです。

自分のイタリア経験を生かすことが自分にはできないのだと思い知ると、彼の内的な苦痛、「ノスタルギア」は増します。

このノスタルギアには、彼が自分の体験を故郷の愛する人々と共有することが出来ない、イタリアに出立する前には彼の最も近しい人々とも共有できないということを自覚することも含まれます。

他者と、自分の印象と経験を共有できないことをこのように意識すると、彼の滞在はひどく辛いものになります。

彼の魂は拷問をされたようになりますが、同時に、心の友を見いだす欲求が彼の中で揺れ動きます。彼を理解し、彼の経験を共有出来る者を求めます。


映画はノスタルギアの本性を探る一種の論考です。

あるいは、ノスタルジアと称されるかも知れないが、実際には憧れよりも多くのものを含んでいるあの経験に関する論考です。

ロシア人は、最大の困難を経験しなければ、新しい友人や知人と別れることが出来ない。

ソ連への帰郷が迫ると、それは悪夢になりますが、このイタリアへの憧れも、「ノスタルギア」と呼ばれるこの複雑な現象を創り出す多くの要素のひとつにすぎないのです。

ギデオン・バックマン:
映画では何が、魂の友を求める気持ちをあらわしているのですか?

ゴルチャコフは彼の経験を本に書くという最初の意思を放棄し、むしろ出会ったイタリア人に、その経験を手渡す、あるいは渡そうと心を決めます。

エルランド・ヨセフソン演じるトスカナの村の出身の数学教師に手渡そうとします。
7 年間このイタリア人は、彼が最も恐れる災害から妻子を救うために妻と子どもたちを家に閉じこめました。

彼は世界の終末を恐れていたのです。


この幾分異常で、神秘的な狂信者はゴルチャコフにとって、一種の「第二の自我」になります。

ゴルチャコフは彼に自分自身の感情と疑惑を認めます。

ドメニコ、その教師は映画の肯定的な力と見なせるかも知れません。

彼の性格は、未来に必要な状況を人格化しているからです。

彼はゴルチャコフの主な話し相手になりますが、彼は、ゴルチャコフが自分の内面に現れ始めていると感じる精神的な不安の極端な事例を表しています。

ドメニコはまた、人生の意味、自由と狂気の概念の意味の、絶えざる探求を表象しています。
もう一方では、彼は子どもの受容性を、しばしば子どもに見つけられる並はずれた感受性を、保持しています。

しかし、彼は、ロシア人に欠けているある特徴を併せ持っています。

ロシア人が容易に傷つき、生命の深い危機に陥る状況でも、このちょっと頭のおかしいイタリア人は単純で、核心にずぱっと斬り込んで、彼自身の啓発された外向性で、一般的な問題の解決を見いだします。

トニーノ・グウェッラが新聞の切り抜きでこの人物を見つけてきて、私たちはそれをもう少し展開しました。私たちは彼に子供じみた気前の良さといった感じを与えました。
一種無邪気な寛大さが彼には強力にある。

彼を取りまくものとの関連で彼の率直さは、子どもに見られるような信頼感を強く思い出させます。

彼は信念の行為を遂行するという思いに取り憑かれています。

火のついたロウソクを手に、トスカニアの村の真ん中にある巨大な、四角い古代ローマの温泉、バーニョ・ヴィニョーニの湯を抜いた温泉場を渡りきるといった行為です。

ゴルチャコフがこれをやろうとするのですが、ドメニコはさらに大きな犠牲が必要だと考えて、ローマに行き、カピトレウムのマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をします。

それは暴力的な犠牲行為ですが、しかし狂信の要素はいささかもなく、 啓示の瞬間に啓示される救済への心穏やかな信念で行われます。

ギデオン・バックマン:
主人公の2人、建築学の教授と数学教師は、あなたが個人的に自己同一視出来る性格を持っていますか?

私が2人のどこが一番好きかと言うと、狂人の行為にある信頼感であり、旅人のほうは、より大きな理解を達成しようとする執拗さです。

その執拗さは希望と呼ぶことも出来るでしょう。

ギデオン・バックマン:
この2人を結びつける関係はご自身の気持ちを反映していますか?…

私のヒーローは、「狂人」を首尾一貫した強い人格だと考えている。

「狂人」は自分自身の行動に確信があるが、ヒーロー自身にはこのような確信が欠けている。

それで彼はドメニコにすっかり魅了され、最後には、ドメニコこそ、私のヒーローがいつも考え込んではすべてを合理化していたのを、そうすることなく生きる勇気を与える助けになります。

この意味で—この展開のおかげで—ドメニコはゴルチャコフの「もう一つの自我」になるのです。

人生で最も強い者は、子供の信頼と直観的な安心感を保持することに成功した者である。

ギデオン・バックマン:
この映画を作る何らかの外的な理由があるのですか? 
その内的緊張を解読する鍵を与える何らかの明らかなテーマが?

私にとって、人々が互いに出会って一緒に働くことがどれほど重要であるかを何度でも示すことがとても大切なのです。

独りで、自分の秘密の片隅で生きるときには、欺瞞的な平穏が支配するように思えます。しかし2人の人間が互いに接触すると途端に、この接触がどのように深められるか、意味深いものになりうるかという問題が生じます。

この映画は、ですから、何よりもまず、文明の2 つの形式、2 つの生き方、2つの異なる考え方に内在する葛藤を扱っています。第二に、人間関係で巡り会う類の困難を扱った映画です。

男女の愛情関係ということになると、一緒に生活することがどれほど難しいか、お互いをよく知らないときにお互いに感じた愛情を感じるのがどれほど難しいか、そういうことを示したいと思います。表面的に知り合うことは簡単ですが、お互いを本当に知るようになるのはずっと困難です。ゴルチャコフはイタリア女性の通訳と一緒です。若い女優ドミツィアーナ・ジョルダーノがエウジェニアを演じています。

それは—単純に言うと— 教授と女性との、始まりもしないラヴストーリーでもあります。


しかし、もっと広いパースペクティヴから見ると、映画は文化を輸入したり輸出することが不可能であることを示すでしょう。ソビエト連邦の私たちはダンテとペトラルカを理解していると思っているが、これは正しくない。またイタリア人はプーシキンを知っていると思っているが、これもまた誤った考えである。抜本的改革がない限り、その文化に疎遠な人に、ある民族の文化を移植することは絶対不可能でしょう。

ゴルチャコフの苦悩がはじまるのは、彼を取りまくすべての新しいもの—イタリア滞在中に彼の関心を惹いた感情と人間に魅了されるのを自分が遅かれ早かれ止めなければならないと気づくときです。新たな魅惑と興味が彼の中でうごめき始めます。

彼はある人物に出会う。彼自身のように、真の関係を築くのは不可能であると理解していて、それゆえに自分自身を犠牲にする人物です。その人物、ドメニコは同じような心の断片化に苦しんでいます。自分の内側で全世界と、あらゆる良きもの、人間、情緒、そして霊性と、一体化することが出来ないことで苦しんでいる。

誰もがドメニコを「狂人」だと思っている。もしかするとそうなのでしょう。
しかし彼が狂人だと見なされる理由、彼の反応と感情を生み出す理由、ゴルチャコフが非常にはっきりと認識する感情は、全く正常なものです。

ギデオン・バックマン:
それは別の受肉をした自己との出会いなのですか?

ゴルチャコフは類似を認識し、出会いが比較的短いという事実にもかかわらず彼は2人の間のつながりを感じることができます。2人の苦しみが似ていることが、2人を結びつけるのです。

映画を撮影していくうちに、ドメニコはさらにもっと重要になり、私たちは彼に、当初よりずっと堅固な造形を与えました。真の触れあいが不可能だとゴルチャコフがますます自覚するようになったことを、彼はさらに明確に表現します。

ある程度、彼はまた私たち全員が生きざるを得ない恐れ、来るべき未来の私たちの不安をも、表現しています。恐怖こそ、未来を待ち受ける私たちの心理状態の問題なのです。—未来が抱えた問題なのです。


誰もが未来を憂慮している。未来に安心できない。

この映画はこの私たちの不安と深く関わっています。
また我々の無感動もテーマです。

無感動がいかなる方向にでも状況を展開させてしまうからです。私たちは憂慮していますが、それと同時に状況を変えるために何もしていない。確かに、私たちは実際には多くのことをしていますが、私たちが「実際に」していることは、絶望的に不十分です。もっと多くのことをすべきなのです。

私がかかわっている限りでは、私にできるすべてがこの映画です。私が捧げるささやかなすべてです。ドメニコの苦闘は私たちすべてと関わっているのだと示すこと、あまりに受け身だと私たちすべてを責めるときドメニコが全く正しいのだと示すしか私には出来ない。彼は「正常者」が怠惰すぎると訴える「愚者」です。彼を取りまくものすべてを揺すり起こすために、自己を犠牲にして、自分自身の警告を強調します。これが彼の犠牲であり、彼に出来るすべてなのです。

彼の意図は、私たちに行動を強制することであり、「現在」を変えることです。

ギデオン・バックマン:
ドメニコにこの行為をさせる世界観はあなたのものでもありますか?

ドメニコの性格の本質的な要素は、彼の世界観そのものではありません。

究極の犠牲行為へと彼を導くあの世界観ではありません。

むしろ彼が内面の葛藤を解決するために彼が選択するやり方なのです。

従って、私は彼に立ち現れる葛藤ほど、彼の出発点に興味がありません。

私は彼の抗議がどのように生まれたのか、彼がどのようにそれを表現したのかを、理解したいし、示したいのです。

私は実は、彼がそれを「どのように」表現するかにも興味がないのです。

最も重要な事は、抗議そのものの存在自体なのです。

私は、個人が抗議を表現するのに選ぶ方法が重要だと思います。

恐れることなくはっきりと表明された素朴な意見すら(頭がおかしいと思われても仕方がない意見でも)、いわゆる「正常人」の話より、怠慢なおしゃべりに身を委ねて、決して何も実際は「行動」しない人の言葉よりも、多くのことを意味しうるのです。

ギデオン・バックマン:
あなたの考えが多数の聴衆に達することが重要だと思われますか?

万人が理解できる芸術映画の形式が存在すると私は思わない。

従って、すべての観客の役に立つ映画を作ることはほとんど不可能です。もしそれが出来たら、芸術作品ではなくなるでしょう。芸術作品は、異議申し立てを受けずに、認められることはないのです。

スピルバーグのような監督には大変な観客がついていて、巨万の富が懐に入り、だれもがそれを喜びますが、彼は決して芸術家ではないし、彼の映画は芸術ではない。もし私が彼のように映画を作るなら—自分に出来るとは思いませんが—私はまったくの恐怖で死んでしまうでしょう。芸術は山のようなものです。山頂があり、それを取りまいて丘陵がある。山頂に存在するものを誰もが理解できるわけではない。


観客を虜にして、私がやっていることに興味をもたせることが私の課題だとは思いません。それが暗示しているのは、私が彼らの知性を過小評価しているということだからです。結局、観客が馬鹿ばかりだとは思いません....

しかし私が芸術作品をつくるということだけ、プロデューサーに約束したら、世界のプロデューサーは誰も私に、びた一文投資しないということを私はしばしば考えます。

ですから、私は自分の作る映画の1作1作に私の精力と勤勉さのすべてを投資します。

私は私のベストを尽くそうとします。そうしなければ、私は二度と映画を作るチャンスに恵まれないかも知れません。

私は私なりのやり方で、自分の理想を妥協させずに、観客の関心を獲得するのに成功してきたと思います。

そしてそれが、結局、大切なのです。

私は、青い空の彼方をただよう知的なタイプではないし、別の惑星からやって来たわけでもない。

それどころか、私は地球と地球の人々に親密な絆を感じます。

端的に言うと、私は知的に実際以上にも実際以下にも見られたくない。

私は観客と同レベルですが、私には別の役割がある。私の使命は観客の使命とは異なっている。

あらゆる人の理解を得ることは私には重要でありません。
私にとって最も重要ことは、万人に理解されることはないということです。

映画が芸術形式なら—私たちは同意見だと思いますが—芸術の傑作は消費財ではない、むしろ、創造性の見地からも、それを生み出す文化に関しても、時代の理想を表現する芸術的頂点なのです。それを忘れてはいけない。

傑作は、私達が生きている特定の時代の理想に形式を与えます。

理想は、決して万人にすぐ近づけるものではない。

理想に近づくには、精神的に発達し、成長しなければならない。

大衆の精神的なレベルと芸術家が証す理想の間の弁証法的な緊張が消えるなら、芸術が本来の目的と働きを喪失してしまったということになります。

残念ながら、目にする映画が単なるエンターテインメントのレベルを超えていると言えるのは稀です。

私がドヴジェンコ、オルミ、ブレッソンの映画を大切に思うのは、彼らの純粋で素朴な禁欲的な感触に私が惹かれるからです。芸術はこうした特徴に到達する努力をしなければならない。それから信頼感に。


観客の意識に創造的な理念が到達する前提条件は、創作者が観客に信頼を寄せているということです。両者は共通のレベルで相互に意思疎通することが出来なければならない。他に道はありません。

創造者にとって全く明白なものに関するときですら、観客に理解を暴力的に強制しようとしても無価値です。しかし、観客の倫理原則を尊重しなければならないとしても、近代的映画芸術形式を創造する自らの義務に妥協があってはならない。

観客の後ろ向きの趣味に支配されてはならない。

私は、文学的、演劇的、劇的な構築を信じない。


それは芸術形式としての映画特有の作劇術と共通点がない。

ほとんどの現代映画はアクションをとりまく情況、映画の叙述を観客に説明することに終始する。しかし映画に説明は要らない。むしろ情緒に直接訴える必要がある。その時高められた情緒の状態が知性を自ずと前進させるのです。


私は、主題自体の論理の代わりに主観的な論理—思念、夢、記憶—を伝えさせてくれる映画を編集する原理に到達しようと努力しています。

私は、現実の状態と魂の人間的な状況、言い換えると、人間の行動に影響を及ぼす要因から発生する形式を探しています。

それは心理的な真実を提示する最初の条件です。

ギデオン・バックマン:
「主題の論理」は映画のプロットと同じですか?

私の映画では、物語自体は特に重要ではありません。

私の作品で真に意義深いものは、映画のプロットに表現されたことは一度もない。

私は不必要に気を散らすものを排除して、重要なことについて話そうとします。

純粋に論理的なレベルでは必ずしも結びつかない事物を示します。

内的な人間性において、私たちにそうした事物を結びつけるもろもろの思念をひっかきまわすのです。

ギデオン・バックマン:
ということは、あなたにとって重要なことは映画で伝えられる情緒であって、語られるストーリーそのものではないと言うことですか?

私は、私の映画であれはどういう意味なのか、これはどういう意味かとよく尋ねられます。

ひどい話です! 

芸術家は自分の狙いを答える必要はない。

私は、自作に関して特に深い考え、深遠な思想を持っていません。

私の象徴が何を表すのか、私はまったく分からない。

私が唯一追求しているのは、そういう象徴が特定の情緒を生み出すということです。

どのような感情が出現するにしろ、それは内面からのあなたの応答に基づいているのです。

ひとは常に、私の作品に隠された意味を発見しようとします。

しかし映画を作り、同時に、自分の思考を隠そうとするのは変ではないですか?私のイメージは、ありのままのイメージであり、何の意味もない.... 私たちは自分自身をあまりよく知らない。

つまり、 時々私たちは慣習的なやり方では計りきれない力を表出することがあるのです。

ギデオン・バックマン:

あなたの映画で「旅人」が頻繁に隠喩として用いられて来ましたが、『ノスタルギア』の場合のように、はっきり定義された主題であったことはありません。あなたはご自身を「旅人」と思われますか?

1 つの旅しか可能でない. 内面への旅です。

地球の表面をあちこち駆けめぐっても大したことは学ばない。

いつか出発点に帰り着くように旅をするとも私は信じない。

人間は決して出発点には戻らない。

なぜなら旅の過程で彼が変わってしまうからだ。

そして言うまでもなく、私たちは自分自身から逃れられない。

私たちは、私たちであるものを、担っている。

私たちは私たちの魂の住処を、カメが甲羅を運んでいるように、運んでいる。

世界中の国をめぐる旅は、単なる象徴的旅でしょう。

どこに到達しようとも、探しているのはやはり自分自身の魂である。

ギデオン・バックマン:
自分自身の魂を探索するためには自分自身に強い確信がなければならない。しかし今日、自分の立場を取りうる自分自身の能力への人間の信念は、 —いたるところで—外的な出来事、外側から来る理念への信念に価値をおく狂信に屈服してきたように、私には思えます。

そうです。私は、人類が自分自身を信じることを止めてしまったと感じています。

言い換えると、「人類」そのもの—ではなく、そんな概念は存在していません—むしろひとりひとりの人間個人を信じる気持ちがなくなってしまった。

現代人の魂を考えるとき、私には合唱隊の女性歌手に見えます。

彼女は音楽のリズムに合わせて口をパクパクするのですが、一音も発声しないのです。

結局、他の皆が歌っているのです!

彼女は歌っているふりをしているだけです。

他の人たちの歌で十分だと思っている限り、そうです。彼女がこんなふうに振る舞えるのは、自分自身の個人の行動の大切さに信頼を失っているからです。

現代人は信念を欠いている。自分の行動で社会に影響を及ぼすことが出来るという希望を喪失している。

ギデオン・バックマン:
そのような世界で映画を作る意味は何ですか?

人生の唯一の意味は、精神的に成長するときに求められる努力にあります。

誕生したときとは別の何かに私たちは変わる。

人生の意味は、発達してそうなるのに必要な努力にある。誕生と死の間の期間にこれを成就するなら、それが困難であり、進歩が時にはのろのろしたものに思えるとしても、私たちは実際、人間性に奉仕したことになるのです。

私はますます東洋哲学に興味をそそられています。

そこでは、人生の意味は観想にあり、人は宇宙の不可分の部分なのです。

西洋世界はあまりにも合理的になり、西洋の人生観は、より実用主義に根ざしているように見えます。
つまり、あらゆるものを少しずつ完璧なバランスに保ち、体を生き続けられるようにして、出来るだけ長い間ただ「存在」していればよい。

ギデオン・バックマン:
存在の経験を描く計器としての時間の概念を信じないのですか?

私は、「時間」が本質的に客観的なカテゴリーでないと確信しています。

「時間」は、人間がそれを知覚しなければ存在できないからです。

科学的な発見の数々も同じ結論を引きだしているようです。

私たちは「今」に生きていない。

「今」はあまりにも移ろいやすいので、ゼロではないが近づくほどにゼロに近づくので、それをつかまえる方法がない。

私たちが「今」と呼ぶ時間の瞬間はただちに「過去」になり、「未来」と呼ぶものが「今」になり、それもまたすぐに「過去」になる。

「今」を経験する唯一の方法は、自分自身を「今」と「未来」の間に存在する深淵に突き落としてみることです。

こういう理由から、「ノスタルギア」は過ぎ去った時をめぐる単なる悲嘆と同じではないのです。

ノスタルギアは、私たちが自分の内的な天賦を当てにするのを諦めて、それらを適切に整え利用しないとき、そうすることで自分の義務を行うのを怠ったとき、そうやって消え去った時をめぐる強烈な悲しみの感情なのです。
http://homepage.mac.com/satokk/bachman.html

カンヌのタルコフスキー

50歳になるアンドレイ・タルコフスキー、この繊細な詩人にして見事な映像芸術家(20年で5作−5つの傑作映画の創造者)がカンヌ映画祭にやってきた。

明日『ノスタルギア』を上映してイタリアの旗を高く掲げることになる。

この映画は彼とトニーノ・グウェッラとの共同脚本で、RAIとゴーモンの出資でローマで撮影された。

真剣なテーマの映画を見せることになる彼は、真剣なテーマを語ることになる。


ポルロ:
何への郷愁なのでしょうか、タルコフスキーさん?

タルコフスキー:私たちの「ノスタルギア」はあなたたちの「ノスタルジア:郷愁」ではありません。

個人的な感情ではなく、国外に出たロシア人が経験するとても複雑で深遠なものなのです。

それは、病です。

魂の力、仕事の能力、生きる喜びを枯渇させる病気です。

私は、このノスタルギアを、具体的な物語、イタリアに来たソヴィエトのインテリゲンチャの話と突き合わせて、分析します。

ポルロ:
そのノスタルギアにさいなまれながら、イタリアでの仕事はどうでしたか?

きわめて良好でした。

なぜなら、なんといっても、映画というものはどこでも大きな家族なのです。

この映画をつくるのに通訳もいらなかった。

ブロークンなイタリア語で言いたいことは通じましたから。

映画は普遍的な言語を使っています。

お互いを理解し、自分を説明するのに役立ちます。

ところが、この手の仕事、つまり映画作りの財政面に関して、議論が多すぎるのには驚きました。ロシアでは、議論にもならないことですから。

ポルロ:
ロシア人の主人公を見ていると、自伝的な映画として見たい気持ちに駆られるのですが。

そうですよ。ただし芸術的な観点からに、限られますが。

実際、そういう意味では、この映画ほど暴力的なほど私の気分を反映させた映画をつくったことがありません。

私の内面世界をこれほど深く解放させた映画は初めてです。

私自身、完成した映画を観たとき、この表出力に直面して愕然としました。

気分が悪くなったほどです。

鏡に映った自分の姿を見たときや、自分のもくろみを踏み越えてやりすぎたと感じたときに経験するのと同じ気分です。

ポルロ:
それでは、何があなたのもくろみだったのですか?

私の願いは、イタリアにやってきて、自分に関して思いがけない情緒を発見するロシア人を観察することでした。

もちろん、私がアフリカに行っても、どこに行っても、同じことが起きたことでしょう。

この男は国と国を隔てる障壁がある理由が分からない。

人間同士を分離しようとする人工的な慣例を受け入れない。

こういうことは当然、彼に恐ろしい苦悩を引き起こします。

お互いにもっと理解するにはどうしたらいいか聞けば、子どもでも、国境を開放したらいいと答えるでしょう。

もちろん、これは素朴で、理想主義的な答えですが、基本的には正当なものです。

この素朴な世界観と祖国を出た人間の現実的な生活状況がこのように衝突することから、ドラマが生まれるのです。

ポルロ:
お仕事が助けになりましたか?

映画はもっとも高貴で重要な芸術です。

とはいえ、商業と商品市場から誕生したという原罪をいまだに贖っているところなのですが。

ポルロ:
このすべては悲観論に非常に近いとは思いませんか?

その逆です。真の悲観論者は、幸福を求め続ける人たちです。

2,3年待って、それからどこまで実現したか、訊いてみたらいいのです。

ポルロ:
あなたの楽観論がどこにあるのか訊いてもいいですか?

私たちの文明のドラマは、科学技術のニーズが、精神性の要求から調和を欠いて、一方的に発達していることにあるのです。霊性の完成こそ、人生の本当の目的なのです。
http://homepage.mac.com/satokk/canne.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタビュー2

(ナタリア・アスペシ)1983年カンヌ
私たちロシア人には、あの優しい感情が致命的な病なのです

アスペシ:
賞に関心はないのですか?

タルコフスキー:ないと言えば、嘘になります。

自分の本が読まれようが読まれまいが、気にしないという作家のようなことになってしまいます。

映画は観られるためにつくられるのです。

万が一、『ノスタルギア』がここカンヌで受賞したら、私はとてもうれしいでしょう。

『ノスタルギア』はイタリアで構想、撮影、製作されましたが、私の映画の中で最もロシア的な映画です。

アスペシ:
イタリアの生活はどうですか?

とても気に入っています。

イタリアは私が長期間いられる唯一の国です。

他なら一週間以上いられないでしょう。

けれども、月末にはモスクワに戻ります。

私の国、私の人々から離れて私は長くは生きられないのです。

私には多くの企画があります。心を決めなければならない。

なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に基づく映画を構想しています。

私の教養は、偉大なロシアの作家たちによって、形成され、養われました。

彼らのように、私は物質生活と精神生活を融和させようと苦闘する劇的な状況を経験しています。

アスペシ:
カンヌ映画祭に持ってくるまでに『ノスタルギア』を一度しか観ていないというのは本当ですか?

そうです。大満足です。私の一番うまく実現した映画だと感じています。

私の内面世界を最も良く表現した映画です。

主人公は私の「分身」みたいなものです。

私の感情、私の心理、私の本性、そのすべてを持っています。

彼は鏡に映った私の姿です。

アスペシ:
なぜ自分の映画について話したくないのですか?

それは正確ではありません。映画のプロットを繰り返したくはない。

それ自体は意味がないからです。

ロシアの作家が、同郷の人間の研究をしにイタリアに来た。

その音楽家の足跡は2世紀前に失われている。

そこで、イタリア人の教授と金髪の通訳に出会って・・・。

こんなことを知って、何が面白いのですか? 

しかし、映画が言おうとしていることは説明しようとすることは出来ますよ。

それは情緒の表出です。私の中に最も深く根ざしている感情です。

ソ連を出るときに、それを最も強烈に感じたのです。

まさにその理由のために、イタリアだから『ノスタルギア』を撮影できたと言うのです。

私たちロシア人にとって、私たちにとって、ノスタルギアは優しく優しく甘い感情ではありません。

あなたたちイタリア人にとってはそうかもしれませんが。

私たちにとって、それは一種の死の病です。命に関わる病気です。

この深い共感が私たちを、自分だけの苦しみ、あこがれ、別離に縛らないで、他の者の苦悩に結びつけるのです。情熱に満ちたエンパシーです。

アスペシ:
『ノスタルギア』をご自分の作品のどこに位置づけされますか?

『ノスタルギア』は私にとってきわめて重要な映画です。

私が自分自身をすっかりと表出することができた映画です。

こう言いましょう。映画というものが真に偉大な芸術形式で、人間の魂のもっとも知覚不能な動きすら忠実に表象できるということを私に確証してくれました。

アスペシ:
たとえ一度でもご覧になって、完成した映画でもっとも心に残ったのは何でしょう?

そのほとんど耐え難い悲しみです。

ところが、それが精神性に自分を浸したいという私の欲求を非常に見事に反映しているのです。

とにかく、私は悦楽に耐えられない。

陽気な人たちは有罪だと私には思えます。

なぜなら、彼らは存在の憂慮すべき価値を理解できないのだから。

子どもと老人には幸福を許しますよ、でも、他の連中に関して、私は不寛容だ。


アスペシ:
23年のキャリアで、なぜ6作しか作っていないのですか?

作りたい映画だけを作ったからです。

相当な資金が必要でしたね。今、50歳になり、このような慎重さや、私自身の欲張りな点といった問題を自問し始めています。

私は急がなければならない。

もっと仕事をしなければならない。すべてを言わなければならない。
http://homepage.mac.com/satokk/aspesi.html

20年ぶりのタルコフスキー映画「ノスタルジア」


群馬会館でタルコフスキーの「ノスタルジア」を20年ぶりぐらいで見ました。

むかしはタルコフスキーに熱狂していた一時期もあったのですが、しばらく前からその熱も冷めてしまってよいのか悪いのか映画の中身とは関係ないところを見てしまいます。

登場する犬はシェパードみたいですが、この犬がとてもかしこい。

おそらくこの犬がうまく「演技」していなかったら、「ノスタルジア」の完成はおぼつかなったでしょう。


ロシアの田舎のシーン、詩人アンドレが滞在するホテル、狂人ドメニコの家などさまざまのシーンで犬が登場しますが、よほど訓練されていて勝手に動き回るような無駄な演技をしません。

まあ、動物のことですから何度かはNGを出したのだろうが、いい演技をしています。

追記 : このシェパードだが、タルコフスキー自身が飼っていたダックス(ダーネチカ)という愛犬じゃないかと思う。


あと、あらためて思ったのはカメラの撮影がとても丁寧に撮られていたこと。

その前に見た河瀬直美の「火蛍」の撮影ハンディ・カメラだったので対照的に感じられました。

「ノスタルジア」は人物など画面の中心を見ているとわからないのですが、画面の端を見ていると超スローでアップしてゆくのがわかります。

あれはカメラ自体に備わっている機能を使ってズームしたのか、それともレールの上でカメラを移動させたのだろうか?

ラストシーンのロシアの田舎とイタリアの遺跡を合成させたシーンもあらためて見るととても奇妙です。前景と後景とでは雪の降り方が異なっているのだ。

CG全盛の今日からすれば新鮮に感じられます。

もっともタルコフスキーには東京の首都高速を撮って未来都市を表現するというウルトラCの大技がありますね。撮影を担当したのはジョゼッペ・ランチという方らしい。

詩人アンドレのホテルの部屋、アンドレが窓を開けると外は雨降りなので部屋の向こうがわからないのです。

最初植え込みか森だろうと見当をつけていたが、しばらくすると薄黒いかたまりがゆっくりと下に流れていくのです。

なんだろう思っていると、また黒いのがゆっくりと下に落ちていく。
フィルムのキズでもなさそうだし。

窓ガラスはないはずなのですが仮にガラスがあったとすれば、窓に貼りついた木の葉が雨に打たれて流れ落ちている感じがした。

そのシーンではその黒いものの正体はわからずじまいだったのだが、ラスト近くで雨ぬきのシーンがあったので確認してみる。窓の外は土壁。

つまりあの黒っぽいものはどうやら土壁が剥がれて流れ落ちていたのだ。
詩人アンドレのホテルの部屋は映画用のセットだろうから、インスタントにこしらえた壁がホースで散水した水で流れてしまったようです。
ノスタルジア・コム http://www.acs.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/
http://fuqusuke.s32.xrea.com/archives/000050.html

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2. ストーカー 1979年 


http://www.youtube.com/watch?v=dGwpgSW8wQA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=dTakMaoJUl0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=2O_XGItZVOc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=fxkBTdnNd0k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=dp2rdb4wCyM
http://www.youtube.com/watch?v=VZ0FczfG8yY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Rw8zxBuB4zg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=dgn7E0yUERo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nGEhToOddk4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=dodyR5TAKRg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=G0bNz5SYDCA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8ivMGe56awI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=eRG5gD_euMs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=tCVgsPzucho&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=VGhdyYnhyeg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=bSxqIH3h2Kg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5Ej387lNJGk&feature=related


http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-DVD-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/B00006RTTS/ref=pd_cp_d_0_img

『ストーカー』でゾーンが出来た説明の1つとして、4号炉の崩壊が挙げられていた。
6年後にチェルノブイリ原子力発電所の4号炉とその建屋が爆発しようとは…
この映画、タルコフスキーが祖国で撮った最後の映画は、予言と予兆に満ちあふれている。

ちょうど20年前に『ストーカー』はスクリーンに映し出された。

…ストルガツキー兄弟もタルコフスキーも名を挙げていない地域に突然ゾーンが出現した…

謎が出現し、それと軌を一にしてそこを調査したいと願う人々が現れた。

ストーカーもまた出現した。

ストルガツキー兄弟によると、ストーカーはうろついている観光客にゾーンの謎を売る略奪者だ。

タルコフスキーによると、ストーカーは、失われた魂をゾーンに導く運命にあり、彼の目標はそうした魂の救済である。

…『ストーカー』が封切りとなり、ゾーンに注がれる観客の関心がいっこうに冷めることもなく、20年が経過した。

何たることか! 映画に大きな貢献をした人たちはほとんど誰もこの世にいない。

偉大なロシアの芸術家アンドレイ・タルコフスキーは 墓地で眠っている。

ラリッサ夫人もまたこの世を去った、『ストーカー』の助監督だった。

編集のリュドミラ・フェイギノーワは悲劇的な焼死をした。

才能豊かなカメラももういない。ゲオルギ・レールベルクが最初のカメラだった。

撮り直しをしたアレクサンダー・クニャジンスキーもいない。

主役の俳優たちも死んだ。

傑出した俳優たち、アレクサンダー・カイダノフスキー、アナトーリ・ソロニーツィン、ニコライ・グリンコ…『ストーカー』に関わった数少ない生き残り、音響デザインを手がけたウラジミール・イヴァノヴィッチ・シャルンは、『ストーカー』の長期に及んだ過酷な撮影スケジュールこそ、キャストとクルーの状況に影響を及ぼして、それが彼らの若死にを招いたのだと、考えたくなるという…


耐えられないタルコフスキー


ヴラジミール・シャルンはこう回想する。

偶然タルコフスキーと仕事をする者はいなかった。

この人物がまさしく手強い人物であると誰もが知っていた。

一方で誰もが彼の厳しい要求を恐れていた。

もう一方でタルコフスキーの映画はひどい時間超過になることも知られていた。

ソ連時代にクルーは残業しても金にならなかった。

そしてタルコフスキーの「欠点」のなかで最も重要なものは、この偉大な芸術家が何でもかんでも自分でやろうとすることだった。

結局彼は『ストーカー』のセットデザイナーも務めることになった。

撮影の全ショットで草の葉先の一本いっぽんまで彼自身の手で位置を決められたものである。

私が『ストーカー』の仕事の契約に署名したとき、同僚はこう警告した。

「ダビングが始まって、プリントの準備をしようとすると、ますます困ることになるぞ。

最後の最後の瞬間に何か新しいアイデアが浮かんで、あんたは独りですべてをやり直すような羽目になるぞ。」


作曲家エドゥアルド・アルテミエフはこう想い出す:

「私がタルコフスキーに初めて会ったのはー『ソラリス』の時だったがー私は困り果ててしまった。

自分に必要なのは、音楽ではなく、音楽的にアレンジされた一連のノイズだと言明したのである。

おまけに、『アンドレイ・ルブリョフ』と『僕の村は戦場だった』のスコアを書いたヴャチェスラフ・オフチンニコフ以上の作曲家は想像できないと宣言した。

タルコフスキーと仕事をしている間ずっと、信頼されてないのではないのかという思いが私を去らなかった。

一作ごとに試験を受けて、自分のベストを絞り出そうとしている感じでした…」


タルコフスキーとUFO


「タルコフスキーは奇蹟があると信じていた、それは間違いない。」とシャルンは続ける。

「彼は空飛ぶ円盤の実在を堅く信じていたし、リャザン郡のミアスノエにある自宅の近くで見たと主張すらした。

彼の確信を覆すことは誰にも出来なかった。

地球外生命の存在にタルコフスキーは何ら疑念を差し挟もうとしなかった。

ちなみに、こういうことが神への信仰と見事に合わさっていました。

聖マタイと聖ルカ福音書を文字どおり暗唱していて、全文を空で言うことが出来ました。

「尋常でないものならタルコフスキーは情熱を傾けたので、エドゥアルド・ナウモフという男がいつの間にか私たちの仲間に入ってきました。

彼は超常現象に関して人気のある映画を何本か作っていて、超常現象に関する講座をやっていました。確か、彼はこういう自分の大規模な集会のチケットを不法に販売したために実際に臭い飯を食ったことがあります。

タルコフスキーのサークルは彼を可能な限り援助していました。

一度ナウモフは彼の映画の1本を見せてくれました。

当時有名なサイキックであったニネル・セルゲイエヴナ・クラギナを扱ったものでした。

戦時中彼女は戦闘機の射手ー航空士でしたが、ドイツ人にパイロットもろとも撃墜されました。

そのパイロットとそれから結婚して、3人の子どもをつくりました。

3人目の子どもが出来た後、テレキネシスの能力があることに彼女は気づきました
ー視線で物体を動かせたのです。

スクリーンに映ったクラギナは、科学者のような人々に囲まれて、透明のテーブルの向こうで腰掛けていました

ーいかさまと言われるのを避けるためにです。

テーブルの上にはライター、スプーン、その他のものが載っていました。
クラギナの顔が緊張で暗くなりました。

瞬き1つしない視線をライターに向けると、ライターは彼女の視線のままに動いたのです。

タルコフスキーは興味深げにナウモフのフィルムを見て、上映が終わるや否や叫びました。

「やあ、どうだい、これは『ストーカー』のエンディングだぞ!」

「あいにくセットにサイキックはいなかった。

ストーカーの娘の半ば呆けた視線を受けて動くことになっているカップは、見えない糸1本で結ばれていて、テーブルの向こうから私たちがそれを引っぱりました。

私はこの引っぱる仕事をしっかりやろうとしたのですが、タルコフスキーは私を蹴飛ばしてー犬の鳴き声の録音に行かせた。

それでカップは自分で引っぱったのでした。」

『ストーカー』の数々の拷問


「『ストーカー』にはいくつか問題があった。

映画の運命は不思議なものだった。

西ベルリンにガンバロフというプロデューサーがいた。

彼はタルコフスキーのいくつかの映画の世界配給権を持っていて、タルコフスキーに、当時まず手に入らないコダックのストックを供給した。

『ストーカー』のために、出たばかりの新しいコダックフィルムを送ってきた。

ゲオルギー・レルベルクがその頃『ストーカー』のカメラマンだった。

彼はタルコフスキーの『鏡』の撮影を務めたカメラマンだ。

しかしそこで災いが襲ってきた。

モスフィルムの掘り抜き井戸が壊れて、フィルムを加工するのに必要な水がなかった。
連中は私たちに何も言わずに、フィルム素材は現像されないまま17日間ほったらかされた。

感光されたまま現像されないフィルムは質が落ちる。感度が落ちて劣化する。

簡潔に言うと、第1部の素材の全部がスクラップの山になった。

おまけにーこれはアンドレイ本人が私に言ったことを繰り返しているのですータルコフスキーはフィルムをぱくられたと信じていました。

『ストーカー』のために特別にガンバロフが送ってきたこの新しいコダックは盗まれて、どうわけなのか、タルコフスキーの敵である、さる著名なソ連映画監督の手に入った。

そして、連中はアンドレイに普通のコダックを与えたが、誰もそれは知らなかった。
それで彼らはいつもと違う現像をやった。

タルコフスキーは敵の計略の結果だと思っていた。
しかし私は、日常的なロシアの怠惰さの結果にすぎないと思います。」

「おシャカになったフィルムの試写はスキャンダルになった。

タルコフスキー、レールベルク、ストルガツキー兄弟、ラリッサ夫人が映写室に集まっていた。

突然ストルガツキー兄弟のひとりがレールベルクのほうを向いて、ナイーブに訊いた。

「ゴーシャ、なぜここで何も見えないのかな?」

レルベルクは、自分のやることには一点の非もないといつも自負しているので、こう言った。


「うるさいぞ、黙っていろ、お前だってドストエフスキーじゃないだろ!」


タルコフスキーは怒りで我を忘れた。

しかしレールベルクの気持ちも分かりますね。

カメラマンにとって素材のすべてがおシャカになっているのを見るのがどういう意味か、想像してみてください! 

レールベルクはドアを乱暴に開け閉めして、車に乗ってどこかへ行ってしまった。
二度とセットに現れなかった。

それでカメラマンのレオニード・カラシニコフが登場した、間違いなく名人だ。
2週間一緒にいて、最後に、タルコフスキーが自分に何を望んでいるのか、分からないと正直に認めた。カラシニコフは自分から現場を離れたが、タルコフスキーはそういう誠実で勇気ある行動のために、彼に感謝していた。

それから、アレクサンドル・クニャジンスキーが加わった。」

ゴスキノUSSRの前代表議長ボリス・パヴリオノクの回想録から:


「タルコフスキーが映画を再撮影するチャンスを与えられないなら、映画が出来上がらないのは明らかだった。

政府は決定を下した:映画を再撮影せよ、必要な資金を供出せよ(40万ルーブルほど)…」

予想外の撮影日

タリンでの撮影が新たに始まったが、クルーはあまりうまくやっていなかった。

6月のある日に雪が降った。

木の葉が一枚残らず散ってしまったので、撮影機会もまた散ってしまった。

またぞろ製作中止の問題が持ち上がった。

クルーは2週間何もすることがなかったので、退屈をまぎらすために多くの者が酒瓶を愛するようになった」とウラジミール・シャルンは回想する。

「タルコフスキーはこの状況がどれほど危険であるか、承知していたので、行動する決意を固めた。

私たちはタリン郊外のひどいホテルに泊まっていた。

部屋に電話があるのは私だけだった。

ある夜タルコフスキーは私を呼んで、明日の7時から撮影を開始するとみんなに言ってくれといった。

しかし言うのは簡単ですよ! 

この間私の助手は退屈を紛らすために「トロイナヤ」というオーデコロンに砂糖で味付けをして飲んだくれていたんだ!
 
ソロニーツィンの部屋にはいると、トーリャと彼のメーキャップもすっかりへべれけだった。

明朝の撮影の話をすると、彼はパニックになった!
 
彼はアンドレイ・アルセェーニヴィッチを神のように崇拝していたからね。

彼のメーキャップは優れた技術をもっていたので、ジャガイモを3キロすぐ持ってくるように求めた。

下ろし金でおろして、2週間も飲んだくれてむくれてしまった顔につけるためだった。

しかし早朝3時のホテルのどこでジャガイモが手にはいるだろうか? 

外の店まで走っていったら、その女性警備員は警備を私に任せて、ジャガイモを取りに自宅に行ってくれた。

私は一生懸命ソロニーツィンのためにボウルいっぱいのジャガイモを下ろし金でおろした。

おかげで私の両手は切り傷だらけで血まみれですよ。

よくやったという思いで私の助手に、おろしたジャガイモを渡した。

で、戻ってみると何を見たと思いますか。

メーキャップの奴は酔いつぶれて床にころがり、ソロニーツィンがジャガイモのローションを自分で顔につけていたのです!」

骸骨の話


ヴィチアという名前の監督官が私たちのグループにいた。

悪い奴じゃなかったが、行動が読めない。

ある日タルコフスキーは時間をかけて、[映画の]登場人物達が藪の中に、まるで愛し合う瞬間にあるかのように絡み合っている ひと組の骸骨を発見する場面を準備していた。


むきだしの頭蓋骨に白髪が生えたー奇妙な女性の骸骨があって、その上に男性の骸骨が乗っている。

爆発なのか何なのか、ゾーンを創造したものの後に残ったのがそれだけだった、というわけだ。


タルコフスキーはずいぶん前からそのシーンの準備をしていた。

カツラも自分で見つけてきた。

2体の骸骨はなかなか見つからないし、おまけに値が張った。

とうとう撮影の用意がととのった。

白いシーツを広げて、その上に2体の骸骨を寝かせて、撮影の準備をした。

ところがここで監督官ヴィチアがセットに姿を現し、シーツを見るや、横になってすぐに眠ってしまった。彼は骸骨に気づかずに、2体とも壊してしまった。

タルコフスキーの4日がかりの仕事がおじゃんになった。

鼻息の荒い監督官のいろいろな難癖にずっと苦しめられていたから、タルコフスキーはもう我慢できなくなり、ヴィチアを荷造りしてモスフィルムに即刻送り返した。

奴は空港に車で送られたが、タルコフスキーは私の所にやって来て、言った。

「いいかい、あの馬鹿たれを連れ戻してこい、そうしないとまた厄介なことになる。」

それで私がヴィチアを連れて帰ってきた。

クルーの全員はタルコフスキーの善意の発露を喜んだ。

しかし骸骨の場面はタルコフスキーが本来望んだ形にはならなかったのである。

4号炉の崩壊

『ストーカー』では、ゾーンが実は何なのか、何がゾーンをつくり出したのか、はっきりとは説明されていない。

フィルムではゾーンの出現理由がいくつか挙げられている。

地球外生命が残した物である。落下した隕石が創造した。

作家(ソローニツィン)が主張しているようにー4号炉の崩壊で出来た。

インタビューでタルコフスキーは、プロットには全然興味がない、厳密に言って映画の出発点が唯一ファンタジーと関わる要素なのだと述べている。

映画が完成した6年後にチェルノブイリの4号炉と建屋が爆発して、30kmのゾーンが実在となった。

フィルムの美術監督としてタルコフスキー自身がゾーンの荒れ地の風景の複雑なパノラマをデザインした。

そうしたショットのひとつには、カレンダーからちぎれた12月28日という日付の紙が水に沈んでいるのが見える。

この日はタルコフスキーの人生最期の日だった。
彼は1986年12月29日に死んだ。


「私たちはタリンの近くで、半分稼働している水力発電所があるピリテ河という、そう大きくない河の周辺で撮影していました。」

とウラジミール・シャルンは言う。

「上流に化学工場があって、有害な液体物質を垂れ流していました。

『ストーカー』にこんなショットがありましたね:夏に雪がちらついて、白い泡が川面に浮かんでいる。

実際にあれは恐ろしい毒だったのです。

多くの女性クルーの顔面にアレルギー反応が出ました。

タルコフスキーは右の気管支のガンで死にました。

トーリャ・ソロニーツィンも同じです。

『ストーカー』のロケ現場とすべてがつながっていることが私にはっきりしたのは、ラリッサ・タルコフスカヤがパリで同じ病気で亡くなったときでした…」

「死んだら途端にタルコフスキーには友人が増えました。

私は自分がそういう一人だとは思わなかった。

私たちは『ストーカー』で一緒に仕事をしただけです。

アンドレイが祖国で撮った最後の作品です。

彼は私とアルテミエフを『ノスタルギア』の仕事に招きましたが、残念ながら、彼はイタリア人のクルーと仕事をせざるをえなかった。

写真は、ゾーンを出来るだけリアルに見せるために指導するタルコフスキーの姿。
http://homepage.mac.com/satokk/chernobyl.html


●ゾーンの謎

映画「ストーカー」で大きな謎はゾーンです。ゾーンとは何でしょうか?

81年日本公開時の映画パンフレットのあらすじから言葉を三つ拾い上げます。
その言葉からゾーンの正体を連想してみることにします。

                鉄条網が張られ
                発電所の跡
                足の動けない娘


この映画の完成は1979年。この時点でゾーンの正体を連想することは困難です。
事故は1986年に起こりました。タルコフスキーが予言者にも思えてきます。
ゾーンはチェルノブイリ原発事故跡地です。


  ●ストルガツキ―兄弟

原作と脚本は旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟。

映画「ストーカー」の脚本をめぐってのアルカジー・ストルガツキーの証言。


サイトより引用
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「アルカジー、『路傍のピクニック』を10度も書き直すのはうんざりするだろ
うね。」

「うん」私は慎重に、そして、全く誠実に答えた。
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脚本はうんざりするほどの書きかえが行われたようです。原作のオリジナルタイトルは「路傍のピクニック」。原作と映画はまったく違う話になっていて、共通点はゾーンという設定だけのようです。


サイトより引用
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彼は、時間をかけて読んでは読み返す。彼の口ひげがぴんとなっている。
そして、ためらいがちに言う。

「まあ、今のところはこれで間に合う。少なくとも、とっかかりができた・・・・
この対話は書き直すことができるし。」

何だか私がしづらい言い訳をやっているかのようだ。
それを、その前後のエピソードに合うようにしなければ。

「合ってないよね?」「うん、合ってない」
「会話の何が気に入らないのですか?」
「分からない、とにかく直してよ。明日の夜までに仕上げて」

とうの昔に公式の許可と承諾を得ていたこの脚本をめぐる私たちの共同作業はこんな具合だった。
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タルコフスキーに促されながらも、ストルガツキー兄弟は脚本を書きかえていたようです。


サイトより引用
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「どうだろう、アンドレイ、この映画にSFがどうして必要なんだ?
SFはやめよう」
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脚本の書きかえで、SFとしての形すらなくなってしまったようですが、映画「ストーカー」はSF大作として知られています。

この映画は「不自然なSFの意匠」をまとっている。ということが言われています。

また、この映画は「原作が意匠」である。と言う人もいます。
さらに、この映画は「脚本すら意匠」である。と言えるかもしれません。

なぜタルコフスキーはこのような意匠を映画「ストーカー」にまとわせる必要があったのでしょうか?


  ●ゾーンの設定

冒頭のタイトル。パンフレットのシナリオより引用
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”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。そこがゾーンだ。

軍隊を派遣したが、かれらは全滅してしまった。
それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。
手の打ちようがないんだ・・・・

ノーベル賞受賞物理学者ウォーレス博士がライ記者に語った言葉より”
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戦車の残骸シーンが映画には出てきます。
しかし、原発事故が発生したら「軍隊を派遣」しないはずです。
「全滅してしまった」はわかります。放射能で汚染された地域だからです。

なぜ、ここに戦車や軍隊が出てくるのでしょうか?

いろいろと考えてみました。いろいろと考えてみた結果は・・・・、
ゾーンは果たして原発事故跡地なのか?ではなく、ゾーンは果たして原発事故跡地だけなのか?です。

ゾーンにはもう一つの設定があったのです。そのもう一つの設定と原発事故跡地との組み合わせによって、国家批判が発生します。

映画に意匠をまとわせることによって、タルコフスキーはこの国家批判を隠そうとしていたのです。

冒頭のタイトルは、おおまかにゾーンを説明したような文章です。
このゾーンの設定が二つあるために、おかしなことになっているわけです。
二つの設定がぶつかってパラドックス(矛盾)になっています。

「”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。
そこがゾーンだ。」

これは原発事故発生のことです。もう一つの設定では何にあたるのでしょうか?

「軍隊を派遣した」

これはもう一つの設定に関係します。ここから連想できることは?

「それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。手の打ちようがないんだ・・・・」

これは、原発事故跡地ともう一つの設定と両方に共通します。


パンフレットのあらすじより引用
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「部屋」を眼前にして、三人とも無事にここにたどりついたことを喜ぶストーカー。

がこの時、教授は、かって友人と共に製造した爆弾をリュックから取り出す・・・・。

かれは、人間が胸に秘めている最も大切な夢をかなえるというゾーン内の「部屋」が、犯罪者に利用され、人類が不幸に襲われるかもしれないという危倶を抱いていたから、「部屋」を爆破することを目的にゾーンに来ていたのだ。
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「部屋」は原発事故の中心部、事故をおこした原子炉のあった部屋です。
もう一つの設定でも、「部屋」は中枢部にあたります。

「軍隊を派遣した」から連想するのは軍事体制。
「奇怪な現象が起きた」は、軍事体制の始まり。

タルコフスキーはゾーンを原発事故跡地との組み合わせによって、もう一つの設定を放射能で汚染され、立入禁止になった手の打ちようがない地域に喩えたのです。

そして事故を起こした原子炉のあった「部屋」をもう一つの設定の中枢部として、これを爆破しようとしたわけです。

ゾーンのもう一つの設定は、スターリン体制後のソ連です。


  ●ノスタルジア

チェルノブイリには放射能汚染地域に今でも住み続ける人々がいます。
また、避難先から戻って来た人々もいるそうです。
チェルノブイリはそこに住む人々にとって故郷です。


ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
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「さあ、着きました。この静けさ。ここが一番ですよ。
いま、ご案内します。きれいな所で、人ひとりいません。」
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この映画は単なる国家批判ではありません。
タルコフスキーの故郷に対するノスタルジアのようなものが感じられます。


あらすじより引用
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ゾーンには鉄条網が張られ、警戒厳重な警備隊がゾーンを守っていた。
だが、このゾーン内には、人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるといわれていた。
そこで、禁を犯してゾーンに侵入しようとする者たちが現われる。
彼らを「部屋」まで案内する者はストーカー(密猟者)と呼ばれた。
この日も、ストーカーは妻が引きとめるのを振り切って、ゾーンヘと出発する。
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ストーカーもチェルノブイリに住む人々と同じく、ゾーンへと戻っていくのです。

しかし、タルコフスキーはこの映画の次の映画「ノスタルジア」完成後、亡命を宣言しました。


  ●母なる大地

映画では、教授、作家、ストーカーが「部屋」へと進む道筋を決定するのに、ナットに白くて細長い紐を結んだものを投げ、それが落ちた場所へと一人ずつ進み、3人がその場所に揃ったら、もう一度同じことを繰り返す。これを何度も繰り返して、「部屋」へと進みます。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは何を意味するのでしょうか?

ところで、「部屋」に到着して、ゾーンの外へ出る行程のシーンがないことを不自然だと言う人がいました。


シナリオより引用
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3人の男たちは"部屋"の前に、互いに背を向けあったまま坐り、考えこんでいる。
ひとしきり雨が降って、"部屋"の中の水面が波紋で光る。
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ポスターにも使用された印象的なシーンです。
このあと数分のシーンの後、すぐゾーンの外です。
これは何を意味しているのでしょうか?

ある人は眠っているストーカーが胎児のようだ、と言います。

別のある人はゾーンとは子宮ではないか?と言います。

ゾーンにはもう一つの設定があります。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは男性の精子。
「部屋」はゾーンの出口、女性の性器です。


あらすじより引用
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かれらは、水が滝の如く流れ落ちる「乾燥室」という皮肉な名を持つトンネルを通り、何人もの生命を奪った「肉挽き機」と呼ばれる非常に危険で恐ろしい管(バイプ)をくぐりぬけ、深い井戸をもつ、波紋が連なる砂丘の部屋を通過し、ついに「部屋」の入口にたどりつく。
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胎児のシーンは「乾燥室」と「肉挽き機」の間に入るシーンです。
「管(パイプ)」とは産道です。

母なる大地という言葉があります。ゾーンの三つめの設定は母体。
彼ら3人は胎内回帰をはたし、そしてもう一度新しく生まれたのです。


  ●ラストシーンの謎

この映画のラストシーンは、ゾーンとともに大きな謎です。

大江健三郎の小説「案内人」で、このラストシーンと関連するシーンを指摘しているようです。

それは冒頭シーンです。

シナリオより引用
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ベットには娘をはさんでストーカーと妻が寝ている。
かすかに汽笛が聞こえくる。

ベットの傍の椅子の上には綿や水を入れたコップが置いてある。
列車の近づく音と振動につれて、コップが静かにずり動く。
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ラストシーンは超能力でコップが動きますが、冒頭シーンは列車の振動でコップがずり動きます。


  ●20世紀の精神

想像力―ベケット『ゴドーを待ちながら』 より引用
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このヴラジーミルの言葉は、夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる。
決して分からないゴドーを、まるで会う約束をしていて、彼に会うと救われるような相手として人格化しているのも夢と似た置換ではないか?

このとき夢という言葉は、当人にも分からない願望から、ある種のメカニズムを経て形成されるものをさしている。
ベケット劇に固有な性格は、不在の中心(ゴドー)があり、すべての行為、すべての科白は、この不在の中心との関係であるが、決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。
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「決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。」

これは映画「ストーカー」にもあてはまります。
映画の登場人物の科白も「夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる」ようです。

 
無意識−フロイト『精神分析入門』 より引用
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無意識はすべての意識的に生きている人びとが、それぞれの精神世界を生きているときに気づかずにもっている願望が宿る心的な領域である。

無意識に関係する重要な研究のひとつは夢の形成に関するものである。

いうまでもなく夢には奇妙なところがある。
たとえば何人かの人が一人の人物に合成されていたり、出来事が不明瞭で非合理的なのに、夢のなか
ではそれなりに物語になり、一向に不思議に思わないのである。

夢思考が夢内容に変換する際に、夢内容にこうした歪曲を生み出す過程を「検閲」と名づけた。
「検閲」という言い方が出てきたのは、彼の時代ではまだ政府による検閲が新聞にたいして行われていたからである。

フロイトは『夢判断』の終わりで次のように述べている。

「夢形成に際しての心的作業は二つの仕事に分かれる。

夢思考〔潜在思考〕の生産とそれの夢内容〔顕在内容〕への変容である」とし、

後者、すなわち潜在夢を顕在夢に置き換える作業、つまり材料の省略、模様変え、編成変えが「夢の作業」と呼ぶに相応しい、と。

それと反対の方向、つまり顕現夢から潜在夢に到達しようとする作業が「解釈作業」である。


フロイトによれば「夢の作業」には四つの機制が働いている。

まず「圧縮」である。顕現する夢は「潜在する夢の、一種の短縮された翻訳である」。

第二に「置換」がある。

夢の作業はフロイトを超えて、言語化の方向に発展させられている。
ラカンはさらに発展させ、置換を換喩、圧縮を隠喩と見なすようになる。


第三に思考の「形象性への配慮」がある。
つまりすべてが視覚化されるとは言えないにしても、多くの場合、思考は視覚像に置き換えられる。
われわれの通常の思考の前段階は感覚的印象の記憶像であるとするなら、夢の作業とは、思考になんらかの退行的な処理を行って記憶像にまで戻ることを意味する。

言語によって論じられることと、視覚的イメージは食い違う。
したがって視覚化は、思考を変容させる。
しかし夢内容は、なんらかの方法によって因果関係を仄めかす方法をとっている。

第四に「二次的加工」と呼ばれる夢の作業がある。
これはむしろ顕現夢に関するものだと言えよう。
つまりこれまで述べてきたような夢の作業の直接の結果は知的に理解することが困難な結果をもたらすが、右の三つの夢の作業の結果にたいして働きかけ、それを一種の物語に整えていくもうひとつの作業がある。

三つの作業の結果を組み立て直し、「ある全体的なものとし、ほぼ調和したものとする」ことである。

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ゾーンには、さらにもう一つの設定があります。

四つめの設定、それは夢の中です。

  ●夢

感覚的に上の引用文と映画「ストーカー」を結びつけてみました。

無意識は「部屋」。3人は無意識へと向かっていたのです。

検閲は文字通りソ連当局の検閲。

換喩と隠喩はゾーンの設定。
タルコフスキーの父親は詩人です。
タルコフスキーも映像において換喩と隠喩を用いる、いわば映像詩人です。

そして、潜在夢は冒頭シーン、顕在夢はラストシーンとすると、3人は「夢の作業」をしていたことになり、顕現夢を冒頭シーン、潜在夢をラストシーンとすると、3人は「解釈作業」をしていたことになります。

3人はゾーン内で冒頭の列車の振動でコップがずり動くシーンを、ラストの超能力でコップが動くシーンへと、置き換える作業をしていたわけです。


  ●眠り

この映画には多くの眠りのシーンが出てきます。冒頭シーンも眠りです。

作家と教授、そして、胎児も眠っています。

シナリオより引用
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妻の声「"私が見ていると大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のようになり、月は血のようになり・・・・」

ストーカーうつ伏せになって眠っている。
(画面は変わってモノクロとなる)
ストーカーのあお向けの寝顔のクローズ・アップ。
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画面がモノクロとなり、ゾーンの外でストーカーは夢を見ています。

そして、画面はカラーとなり、ゾーンの中。


シナリオより引用
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(画面は再びカラーとなる)
コンクリートの広場に坐っていた黒い犬、突然、立ちあがる。
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黒い犬も謎です。

シナリオより引用
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眠っているストーカー、夢うつつでため息をつきながら、目を覚まし、上目づかいにちょっと見て、起きあがる。

ストーカー(つぶやく)

「この日、ふたりの弟子が・・・・」

眠っている教授に重なるようにして横になっている作家。

ストーカーの声(つぶやくように)

「エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、語りあい、論じあっていると、イエス自身が近づいて来られた。

しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」

折り重なるように横たわっていた作家と教授、すっかり目を覚まし、ストーカーに注視している。

ストーカーの声

「イエスは彼らに言われた。
互いに語りあっているその話は、何のことか?」
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胎児が目を覚し、ストーカーが生まれかわる。


  ●再びストルガツキ―兄弟

ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
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ストーカー、草叢にひざまずいて、溜息をもらす。
やがて草叢に顔をうずめ、大地にうつ伏せになる。
そして静かにあおむけになり、額に手を当てて何か瞑想している。
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「瞑想」という言葉は、ストルガツキー兄弟がタルコフスキーの意図を理解せず、ストーカーを観念論者として脚本を書いている為です。

アルカジー・ストルガツキーの証言。サイトより引用
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私たちは、SFのシナリオではなく、寓話を書いた。
(寓話では、登場人物が時代の典型であり、典型的な理念と行動を担う者として登場するお話であると理解するならば、の話である。)

流行作家、及び、傑出した科学者が、自分の最も大事にしている夢を実現してくれるであろうゾーンに入る。2人を導くのは、新しい信仰の使徒、一種の観念論者である。
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あらすじより引用
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わが家に帰って、ストーカーは

「あんな作家や学者ども、何がインテリだ!・・・・骨折り損だった」

と絶望的に叫ぶ。
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  ●ラストシーンと黒い犬の正体

映画「ストーカー」はタルコフスキーの一種の「芸術論」に近いものとして観ることもできます。


3人がゾーンの外へ出て、画面はモノクロとなり、そして、しばらくして画面は再びカラー。

黒い犬が夢の中からゾーンの外までついて来る。ストーカーは眠る。

カラーは夢の続き。

そしてラストシーン。


シナリオより引用
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机の脇に少女が本を読みながら腰かけている。
やがて少女はふと眼をあげ本を膝に置いて、じっと窓の方を見据える。

少女のモノローグ

「ふと、まなざしを上げ、まわりを閃光のごとく、君が眺めやる時その燃える魅惑の瞳を、私はいつくしむ
だが一層まさるのは、情熱の口づけに目を伏せそのまつ毛の間から、気むずかしげでほの暗い、欲望の火を見る時・・・・」
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黒い犬は原作からの置き換え。
そして黒い犬は映画「ストーカー」へとさらに置き換わり、映画「ストーカー」そのものが自らのラストシーンへと置き換わる。

シナリオより引用
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犬が鼻を鳴らす声が聞こえる。
少女はいったん、窓の外に眼をやると、その眼差しを机に置かれたコップに注ぐ。

コップはひとりでに静かに机の上を滑りだす。少女は机の上のコップと花びんに次々と視線を向ける。
視線を受けると、コップが静かに動き出し、床に落ちる。
少女は机の上に頬を載せて、眼を凝らしている。
ベートーヴェンの”歓喜の歌”が響き、やがて消える。
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http://www.he.mirai.ne.jp/~ssrc/stalker.htm


タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:あなたのフィルムに登場する人物はロマン派のヒーローに似ています。いつも旅の途上にあり、この旅ー巡礼が秘儀参入になる。例えば『ストーカー』は典型的なロマン派の秘儀参入のパターンに沿ってつくられています。

その場合-ドストエフスキーがロマン主義者だとあなたが主張するとは思いませんが。
彼は全然ロマン主義者ではないー彼が生きた時代、彼の人生観が示しているように。
しかし、彼の主人公はいつも旅の途上にありましたね。

Q:むしろ迷路に入ったような。

それはどうでもいいです。
いつも、探求する人間の物語です。

目標に向かって進んでいく人間です、カンテラを下げたディオゲネスのように。

『罪と罰』のラスコーリニコフーこれももちろん同じ事です、いささかの疑いもない。
アリョーシャ・カラマゾフも、そうです、もちろん。

彼もまたいつもどこかを目指しているーしかし彼は全然ロマン主義者ではない。

こういう訳で、「いつも旅の途上にある人間」とあなたが言うとき、それは必ずしもロマン主義の決定する特徴ではないのです、それはロマン主義でもっとも重要なことではありません。

物質の崩壊と精神の創造


Q:あなたの主人公たちについて話しているとき、私たちは彼らを放浪者、巡礼と呼びました。ここで疑問があります:あなたの主人公、放浪者、巡礼者にとって、彼を脅かす混沌とした出来事から抜け出すチャンスはあるのでしょうか? あなたの作品に現れる時間は無慈悲です。すべてを廃墟に変えてしまいます。つまり、時間と出来事が登場人物を害し、無力にしてしまう、すべての物質的なものを損ない、無力にする。あなたは、誠実さ、個人の尊厳の感覚、個人の自己実現の権利といった価値の永続性を信じますか?


うーん。これを質問というのは難しい。

あなたは、おびただしい、さまざまな問題を列挙したといったほうが良い。

そんなおおざっぱに組み立てられた質問に答えるのは、私にはとても困難です。

一方では、登場人物を無力化する無慈悲な時間に言及されるー
それから「すべての物質的なもの」と言われる。

これが私にははっきりしません。

結局、あの登場人物たちはもっぱら「物質的な」ものではない。

物質的なものはすべて破壊にさらされますが、これらの登場人物は物質だけではないー
何よりも彼らは精神なのです。

Q:もちろんです。


だから、私はいつも大切だと考えてきましたーどの程度人間の精神は不壊であるのか、破壊不可能なのかー崩壊と破壊を被る物質を示すこと、破壊不可能な精神に対立するものとして、物質を示すことが、です。

まだ『ルブリョフ』には見つからないでしょう。

明らかにあそこで私たちは破壊、無力化を扱っていますが、それは或る意味で道徳的な破壊です。

物質性と精神性の対立ではありません。

一方『ストーカー』では、いやすでに『鏡』には、例えば、もはや存在しないあの家があります。

そしてもしかすると、永遠に残るその場所の精神の感触があります。

母は、外へ出るときー覚えていますかーいつも同じです。

母のこの姿、魂は朽ちない、不死であると示すことが私には重要だったのです。
それ以外のものは崩れ去ります。

もちろんこれは悲しいことですー
魂は、時には自らが身体を離れつつあるのを見守りながら、悲しく感じるものですから。

そこには何かノスタルギアのこもった憧れがあります。

アストラルの悲しみです。

この破壊が登場人物に関わるものではない、物質だけに関わるものだということは私には自明のことなのですが。

だからこそ、この対比を獲得することが重要だったのですー
移りゆくものの視点から現実を提示するために、です。

それが古くなったとか、その時を生き抜いたとか、或る特定の時期のその存在を生き抜いたといった狙いがないとしてもです。

一方、人間のほうはいつも同じです、いやもっと正確に言うと、同じままではなく、発達を続けます、無限にまで。

尊厳と言われましたね。

明らかに人間の尊厳はとても大切です、きわめて大切です。

それから、道のことも、旅のことも。

もし旅を、比喩的な意味でも、語るとするなら、どこにたどり着くか、は実は重要でないと言い添えておかねばなりません。

重要なのは、旅をはじめたということです。

『ストーカー』をめぐって

Q: 例えば『ストーカー』で-

いつでもそうです。いかなる状況でも。

『ストーカー』の場合は?
 
さあ、どうでしょう。

ただ、私は別の事を言いたかった。

つまり、重要なことは、最後にひとが達成したことではなく、最初にそのひとがそれを達成する道に足を踏み入れたということです。

なぜ、どこにたどり着いたのかが、重要でないのでしょうか。

なぜなら、この道に終わりはないからです。

そのために、まだ出発点に近いか、すでに終点に近いかはまったくもってどうでもいいことなのです。

あなたの前には旅があり、それに終わりは決してないのです。

で、もしあなたがその道に足を踏み入れていないなら?

そのとき、一番重要なことはそこに足を踏み入れるということです。

これこそ問題なのです。


そういう訳で、私にとって重要なのは、道そのものではなく、人がその道に、どの道でもいいです、踏み込む瞬間なのです。

 例えば『ストーカー』の場合、もしかするとストーカーは私にはそれほど重要ではありません

私にとってずっと重要なのは作家です。

冷笑家として、プラグマティストとして、ゾーンに入って、自分は善人でないと悟って、人間の尊厳を口にする人間になって帰って来る作家なのです。

初めて彼は次の問いに直面します。

人は善なのか悪なのか?
 
で、もし彼がすでにそのことを考えていたなら?

こうして彼は道に踏み込むのです-

ストーカーが自分の努力のすべては無駄に終わった、だれも何も理解していない、だれも自分を必要としていない、と言う時?彼はまちがっているのです。

なぜなら作家はすべてを理解したからです。

そういうわけで、ストーカー自身もそれほど重要でないのです。


この文脈で、もう一つ重要なことがあります。

実は、私はもう1本映画を、『ストーカー』の続編を作りたかった。

まあ、そんなことはロシアなら、ソ連なら出来たでしょうが、もはや不可能です。

ストーカーとその妻は同じ役者が演じる必要がありますから。ここでは別のことが重要です。

つまりストーカーはひとが変わります。

人々が、この幸せにたどり着くことができる、自己変容の浄福、内なる変化に向かって進んでいけると、もはや信じていません。

それで彼は人々を力づくで変えはじめます。

怪し気なやり方で人々をゾーンへと拉致しはじめます?

彼らの生活をよりよいものにするために、です。

彼はファシストになります。

ここには、純粋な理想が?
純粋にイデオロギーと関わる理由から?
その否定になりはてる姿があります。


つまり、目的が手段を正当化すると、ひとは変わるのです。

ストーカーは3人の男を力づくでゾーンに連れて行きます。

これこそ続編で描きたかったことです。


彼は自分の目標を達成させるためには流血も辞さない。
これはすでに大審問官の理念です。

大審問官は自ら犯罪を引き受けます、いわば-

Q:救済

救済の名において。このテーマはドストエフスキーがいつも問題にして来たことです。

Q:『悪霊』-


『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』で。

『悪霊』ではそれに触れてすらいない?

あそこで彼は一般にそうした最初の衝動すら否定している。

どんなものであれ、たとえきわめて高貴な衝動であれ-。
彼はそれすら否定している。

Q:それは『悪霊』ですね。


そうです、『悪霊』です。

しかし『カラマーゾフの兄弟』で彼は社会主義について、大衆の幸せの名において暴力の罪を引き受ける人々について 、書いています。

Q:あるいは、何らかの理念の名において。


そう、理念。それは重要ではありません。

この意味で、私にとってそれよりずっと重要なものは、道そのものではありません?
もちろんそれも重要ですが?

むしろ、道に足を踏み込む人、踏み込まない人の問題全般です。

彼らが旅を引き受けるか否か、なのです。

精神の自由

ですから、ここに挙げたこれらの側面のすべてが私には当然重要なのです。

あらゆる人間の特質が私にはきわめて重要なのです。

尊厳、自由-内的な自由ーご承知のように政治的な自由と精神的な自由は2つの異なる概念だからです。

政治的な自由について話すときには、実は自由の話をしていないのですー権利の話をしているのです。

私たちの良心に好ましいやり方で生きる権利、私たちが必要と考えるやり方で生きる権利。

社会に奉仕する権利ー私たち自身がこの課題を理解する限りでですが。

自由に感じる権利。権利です。いくらかの義務ももちろん伴います。

他のものとは関係なく、人は権利を有していなければなりません。

しかし私たちが自由について話すとき、私たちが心に描くのは-わからないなあーもし自由になりたければあなたはいつでも自由なのです。

人間は、牢獄に閉じこめられても、自由でいられるのだと私たちは知っています。

また自由を進歩と結びつけるべきではありません。これは絶対だめです。

人間の意識と個我が始まって以来、人間は自由であるか自由でないか、どちらかしかありえないー自由という言葉の内的な意味においてですよ。


こういう訳で、自由を話題にするときには権利の問題を、自由、内的な、精神の自由と混同すべきではないのです。

ここまで来ると、このテーマについて私が何を言っても連中には分からない。

先頃私はそういう会合に出ていました。

彼らは新聞に書きました。

「タルコフスキーが精神性について語るとは非常に不思議だ。」ー

彼らには不思議なのです、彼らにはさっぱり分からない、私が何を言っているのか、理解できないのです。

私が精神性について語っているとき、人間は、なぜ自分が生きるのか、知るべきである、自分の生の意味について考えるべきである、という意味なんですが、それがまったく理解できない。

それについて考え始めた人は、或る意味で、すでに精神の光に照らし出されているのです。

彼はこの問いを二度と忘れることはないでしょう。

この問いを投げ捨てることはないでしょう、彼は道に足を踏み入れたのです。

しかし、彼がこの問いを決して自分に問いかけないなら、精神性が剥奪されているのです。

動物のように、功利的に生きるのです。

こうなると人は何も決して理解することはないでしょう。

連中にはこういうことがまるっきり理解できない。

あの記事を書いたジャーナリストということになるとー私にはとにかくショックでした。

彼は確かに考えています。

つまり、精神性に触れていますから、これは間違いなく、正教会に関わっているものでしょう。

聖職者主義に関わっていると言ってもまず差し支えないでしょう。

彼にとっては、人間の魂とか人間が生きている間に果たすべき道徳的な努力といった疑問はまったく存在していないのです。

Q:彼らは自由の奴隷、進歩の奴隷に思えますね。

そうです、その通りです。そういう人には自由の理念は-

Q:価値である。

その通り。

それで、私が彼に自由とは何かと訊いたら、決して答えてくれないでしょうね。
なぜなら分からないのだから。

なぜならそれをどう扱えばよいのか、この自由をどうしたらいいのか、知らないからです。

でも脱線しましたね。質問はこんな風には述べられなかった。

しかしこの問題は私には恐ろしく重要なのです。

私は人間の権利の問題を決して持ち出そうとはしなかった。
私には興味のないことです。私は内的な自由の問題に興味があるのです。
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」

使われた音楽 バッハ「マタイ受難曲」 等
使われた意図 芸術の荒廃と受難


20年ほど前に「ゾーン」という「思いがすべて実現される領域」が出現した。

ここで主人公はそのゾーンの案内人でストーカーと呼ばれる。

今回そのゾーンに連れて行く人間は、小説家と学者(いずれも固有名詞はなし)の2人。
ストーカーはこの2人を苦心のはてにゾーンに導くが・・・

今回は79年の作品「ストーカー」を取り上げます。
この作品のあと、タルコフスキーはソ連から亡命となったわけです。

ちなみに、ストーカーという言葉は、元々は「領域侵犯者」という意味ではなかったかな?
「入っちゃいけないところへ入っていく。」

その点では、女性を付回すストーカーと基本的には同じ意味なんですね。


このタルコフスキー監督の「ストーカー」では、クラシック音楽が4つ使われています。


ワーグナーのオペラ「タンホイザー」から巡礼の合唱。
バッハの「マタイ受難曲」から「哀れみたまえ。わが神よ」。
ラヴェルの「ボレロ」。
ベートーヴェンの「第9交響曲」。

まず、このゾーンへの旅の前にワーグナーの「タンホイザー」の「巡礼の合唱」が鳴らされます。

つまり、このゾーンへの旅は一種の巡礼である。

そのことをタルコフスキーは示しているわけですね。
「聖」なるものへの巡礼。


ソーンは「聖」なるものの象徴ではないか?
映画を見ている観客はそのように予感することになるわけです。


次に使われるのはバッハの「マタイ受難曲」からの第39番のアルトのアリア

案内人たるストーカーに導かれながら、ゾーンを進んでいく小説家が口笛を吹くわけです。


イエスが捕らえられて、ペテロ(イエスの第1弟子)が心配そうにしている。
そんなペテロを見つけた周囲の人から「アンタもイエスの仲間だろ!」と追及されるわけです。

自分も逮捕されたくはないペテロは、それを否認するわけです。
「オレはイエスなんて男は知らないよ!」ってね。

新約聖書で有名なシーンです。

心ならずもイエスを否認したペテロの心情を歌ったアリアが、この第39番のアルトのアリアですね。

「憐れみたまえ、わが神よ。

私のこの涙を。ご覧ください。

私の心と目はあなたの御前でさめざめと泣いています。」


という歌詞です。

深い悔恨の音楽と言えるものです。

一番重要であるはずの神の子たるイエスを、自分の弱さから否認してしまった悔恨です。

イエスを否定してまで、自分は生きるに値するのか?

自分自身の弱さから、イエスを否定したペテロは、心の弱さを持つ人類そのものですよね。


映画では小説家が口笛で歌っています。まあ、口笛には不向きな曲ですよね?

「サクリファイス」でも使っていることとも合わせて、よっぽどの意図があるわけですね。

イエスを否認したことについてのペテロの悔根の曲を使って、この「ストーカー」という作品においては、誰が何を否認したの?

鼻歌でうたっているのは小説家なので、小説家が否認したとみるのが自然ですね。

では、何を?

多分小説家が否認したのは神なのでしょう。

あるいは超越的な存在と言い換えることもできるでしょうか?

それとも「聖」なるもの?あるいは「良心」と言えるものかも?

映画を見ていた観客の方ならスグわかるでしょうが、この小説家はなかなかに鋭い洞察を持っている。

特に意識が朦朧としている時には、実に的確なことを言う。

今日における芸術の位置づけとか、
芸術家の創作の原動力とか・・・

例えば

「人間がものを書くのは苦しみ、疑うからだ。
自分自身や周囲に自分の価値を証明しようとするからだよ。」


とか・・・

このあたりの言葉はタルコフスキー自身の考えと全く共通でしょう。
そのような意味では、この映画における小説家とタルコフスキーは同じ問題意識を持っているわけです。

しかし、小説家は否認した。
イエスを、というより神を否認したわけ。


映画においては、この小説家はこのマタイ受難曲を口笛で吹いて、「イエスの否認」を示すだけでなく、様々な堕落した様相を見せています。

敬虔さがないし、
意思が弱いし、
妙な自意識がある。

つまり、この名前も与えられていない小説家は「堕落した芸術家」の象徴なんでしょうね。

そして同行する学者は物理学者という設定ですが、どうやらテクノクラート(官僚)のような組織内のインテリを象徴しているようです。

つまりこの「ストーカー」という作品は極めて知性の高い人間2人を、「聖なる場所」に導く巡礼の旅を描いた作品なんですね。

そして結果はどうなったの?

見事に大失敗ですよね?


2人のインテリは「望みがすべてかなう場所」に到達しても何もできなかった。

望むことができなかったわけです。

人間が最高の歓喜に至ることができるはずの場所で、どうすることもできない。

案内したストーカー(これも名前なし)の労苦は徒労に終わったわけですね。

人々の望みがすべてかなう場所。
「聖」なる場所であるゾーン。

これが「芸術」の世界を象徴していることは明白。
人々をその芸術の世界に導くストーカーはまさに芸術家。

世俗のことに全く無能で、できることといったら、聖なる世界への案内人。
この設定はまさにタルコフスキー本人を象徴しているわけですね。

そして、散々な労苦のあとで、人々に文句を言われることもタルコフスキーと同じでしょう。
特にタルコフスキーはソ連の人でしたし、周囲から色々と文句を言われたはずです。

その「芸術家」を象徴するストーカーにとって、今までに行った案内で、一番苦労した案内が、その小説家と学者を案内した旅の時。

妙な自意識があるインテリが、「聖なる世界」とは一番無縁である。
当時のソ連だけではなく、人類の歴史ではいつものことですね。


しかし、そのような不遜な人間なのに何故にゾーンに到達できたの?

この映画の中でストーカーは言います。

「不幸な人しかゾーンには到達できない。」

そのようなインテリが一番不幸というわけです。
だから文章を書いて自分を証明する必要があり、とにもかくにもゾーンには到達できる。


ゾーンという存在が象徴するものといえる芸術だって同じなんでしょうね。

「聖なる芸術」に到達できるためには、「不幸でないとダメ!!」・・・

ちょっと身もフタもない発想ですが、残念ながら現実でしょう。


芸術ということで、ストーカーは言ったりします。

「ここではまっすぐが一番近道とは限らない。」

これも、ソ連に限らず事実でしょう。

とはいえ、ソ連の音楽家のショスタコーヴィッチの音楽がいかにヒネリがあったのか、その点を思い出す人もいらっしゃるかも?


ゾーンへの旅から帰還したストーカーが、2人を散々に酷評します。

その酷評の言葉は、本物の芸術家が、ブランドだけの芸術家を評するときの常套句がちりばめられています。

「自分を売り込むことしか考えていない!」とか・・・

実はそのストーカーも、教養のある人なんですね。
だって、ストーカーの部屋の本棚を見てごらんなさいな。
いかにも本を読んでいる本の並び方になっていますもの。

このようにストーカーの仕事は世間に報われないシジフォス的な仕事の繰り返し。
まあ、だからラヴェルのボレロなのかな?

最後ではベートーヴェンの第9交響曲が使われます。

交響曲の中で何回も繰り返されるフレーズ「歓喜よ!美しい天上の火花よ!歓喜の楽園の娘よ!・・・」

映っている映像はストーカーの娘。生まれたときから足がないという設定です。

「楽園の娘」という言葉を背景に映っているということは、この娘が大きな意味を持っているわけですね。

映画では、その足がない娘が超能力を使えることが示されています。

コップを念力で移動させたりする。
いつからその能力が使えるようになったのかは描かれていませんが・・・

そして、それまでゾーンにいて守護していた犬がストーカーについてきてしまった。

つまり、「聖」なる「楽園」であるゾーンがその娘のもとに移動したということですよね?

それまでのゾーンの「力」が衰えつつあることは、映画の中で描かれています。

花が咲かなくなってしまったり、あと「もう誰もあの部屋を必要でないんだ!」とストーカーが嘆いたり・・・もう人が必要としなくなってしまった。

もう、従来のゾーン・・・つまり芸術が末期的であることが示されているわけです。

この「従来のゾーン」を「ソ連の芸術界」とみると、実に意味深長になります。

従来のゾーンの限界を示しているわけですから、こうなると新たなゾーンを作るために環境を変える必要が出てくる。亡命という発想も現実味を帯びてくるわけですね。

20年前に登場したゾーンという設定も、映画製作から約20年前頃にあったフルシチョフによる「雪解け」と関係があるのかも知れません。

父であるストーカー以上に、世俗の能力に欠け、父であるストーカー以上に「超越的な力」を持つ。
その娘がアンドレイ・タルコフスキーの父の詩を読む。
親子2代にわたってのストーカー・・・つまり芸術家の姿が見えるわけ。

その娘は新たな「楽園の守護者」になった。ということで、芸術家(ストーカー)の子供であるその脚のない娘も、タルコフスキー本人を表しているんでしょう。
アンドレイ・タルコフスキーの父親は詩人で芸術家でしたものね。


この「ストーカー」という作品。実に個人的な作品と言えるんでしょうね。
しかし、タルコフスキーという芸術家の姿を臆面もなくさらしているために、逆に普遍的な芸術家の姿を映し出していることになる。
だからこそ、この映画では登場人物が画面に正対するシーンが多い。観客に直接語りかけているわけ。

当時のソ連からの語りかけなので、ちょっと晦渋になっていますが、語っていることはどこの国でも、どの時代でも芸術家の関わる問題として全く同じ問題なんですね。

様々なクラシック音楽によって、芸術家の境遇や受難が象徴されている・・・
まっすぐではなく、回り道の表現で・・・そんな作品なんだと思います。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-06/04-06-22.htm
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-30.htm

バッハ「マタイ受難曲」

Maestro Mengelberg's Massive Mammoth "Matthew"
http://www.youtube.com/watch?v=xU2Ivcz-nKs

Mengelberg: "Matthäus-Passion" - Final Chorus
http://www.youtube.com/watch?v=10HEjbrW5UQ


http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/629.html

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
13. 2010年8月08日 13:29:36: W8w8t7Fek2
「がんになった女性にどう言ういい訳ができるのか。」という投稿で初めてこの話を信じることができました。
打っても打てなくてもそれに対する言い訳などできるはずが無い。
どんな患者でもかかった時は、後悔と自責と恨み辛みが同時に来る、それを口に出して、論を封じ込めようとする。
これは意図があり、その上隠さなければならない事があると判断します。
それだけはやめたほうが良い、人間性を疑われます。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c13
記事 [戦争b5] タリバン、米国人ら10人射殺=「改宗」支援の証拠発見と主張−アフガン(時事通信)
タリバン、米国人ら10人射殺=「改宗」支援の証拠発見と主張−アフガン
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010080800008


【ニューデリー時事】アフガニスタン北東部バダクシャン州警察長官は7日、州内の森林地帯で5日に米国人・ドイツ人ら8人を含む11人の病院関係者が武装勢力の襲撃を受け、うち10人が死亡したことを明らかにした。反政府勢力タリバンは7日、「外国人を襲撃した」と犯行を認めた。
 アフガンで活動するキリスト教系のNGO「インターナショナル・アシスタンス・ミッション(IAM)」は、全員が同組織の所属であり、死者の国籍は米国人6人、ドイツ人1人、英国人1人、アフガン人2人だと発表。医師も含まれているとしている。
 タリバンのムジャヒド報道官は取材に対し、車を止めて拘束しようとしたが逃げたため射殺したと説明。所持品から「スパイの証拠」文書や、イスラム教からキリスト教への改宗方法が書かれた文書が見つかったと主張した。
 IAMは医師らが同州に隣接するヌリスタン州での医療支援を終えて首都カブールに戻る途中、襲撃に遭ったと説明。当初は12人のグループだったが、襲撃前日にアフガン人1人が治安上の理由からグループを離脱したという。事件で唯一生き延びた別のアフガン人は警察に対し、昼食を取っていた際に突然襲われたと話している。(2010/08/08-00:56)
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/468.html

記事 [カルト7] 西洋の達人が悟れない理由 3 _ タルコフスキー3

3. タルコフスキーが伝えたかった事


Andrey, what is art?
http://www.youtube.com/watch?v=7Me--xHG-mQ&feature=related

Tarkovsky on Art
http://www.youtube.com/watch?v=V27XlEDLdtE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=aedXnLpKBCw&feature=related


Tarkovski interview
http://www.youtube.com/watch?v=gy1DpCOON6Q&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=2MoVQr1t8kU&feature=related

The Law of Life – Tarkovsky
http://www.youtube.com/watch?v=ueDsS48uZaY&feature=related

象徴について ―隠喩で自己表現するのが私の好みです―

私たちは詩的媒介か描写的媒体によって、自分をとりまく世界に関する情緒を表出することが出来ます。

隠喩で自分を表出するのが私の好みです。

力説しておきましょう、隠喩で、です。

象徴によってではありません。

象徴はその内部に、明らかな意味を、ある種の知的な公式を、含んでいます。

それに対して、隠喩はイメージです。

それが表象する世界と同じ際だった特徴を保持するイメージです。

イメージは―象徴とはちがって―意味は定かでありません。

輪郭の定かな、限定された道具を用いることによって、無限定の世界を語ることは出来ません。

象徴を構成する公式は分析出来ますが、隠喩は自己完結した存在なのです。
それ自体で独立した一項式です。

それに触れようとした途端に、隠喩は砕けてしまいます。(1983年5月12日)


―小鳥は邪悪な人の元には来ない―

私の意見では、映像は象徴ではありえない。

映像が象徴に変換されると必ず、思念はいわば壁で閉ざされ、十分に謎解きをすることができる。

ところが映像はそういうものじゃない。

象徴はまだ映像になっていない。

映像は説明できないけど、映像は真実をくまなく表出する。

その意味は知られざるままだ。

『鏡』の少年の頭にとまる小鳥は何を意味するのかと訊かれたことがあります。

しかし説明しようと努力すれば必ず、何もかもが意味を失うことに私は気づきます。

本来の意図と全く異なる意味を獲得して、正当な場から移動してしまう。

小鳥は邪悪な人の元には来ないとだけは言えるけど、それではまだ足りない。

真実の映像は抽出されたものであり、説明することは出来ない。

それは真実を伝達するだけであり、自分のハートに問いかけてはじめて、それを包括理解することが出来るのです。

そのために、作品の知的意義を利用することから、芸術作品を分析することは不可能です。
(1976年)

―芸術的な映像を解読することは出来ません―


私は象徴の敵です。

象徴は、読み解かれるために存在するという意味で、私には狭すぎる概念です。

それに対して、芸術的なイメージは読み解くことが出来ません。

芸術的なイメージは私たちを取り巻く世界と等価なのです。

『ソラリス』の雨は象徴ではありません。

特定の瞬間に主人公にとって特定の意義を持つ雨にすぎません。

しかし何かの象徴ではありません。

それは表出するだけです。

この雨は芸術的な映像です。

私にとって象徴は複雑すぎるものなのです。(1984年)


―人は、尋常な手段では把握できない諸力を表出することがある―

私の映画で、あれはどういう意味なのか、これはどういう意味なのかとしょっちゅう訊かれます。

我慢できないですよ! 

芸術家は自分の意図をいちいち説明する必要はないんです。

私は自分の作品について深く考えたことなんかないですよ。

私の象徴が何を意味するのか、私は知らない。

私は観客に、感情を、何らかの感情を誘発したいと願っているだけです。

誰もが、私の映画に「隠された」意味を見つけようと努力していますがね。

しかし、自分の考えを隠そうと努力しながら映画を作るのは妙じゃあないですか。
私のイメージは、イメージのままです、それを越えた何かを意味するわけではありません…

私たちは自分のことをそれほど知っているわけじゃないでしょ―
時折私たちは、通常の手段では把握できない諸力を表出するものなのです。(1984年)

―1日の間に起きた出来事を、ひとつひとつ、全部思い出して、スクリーンに映し出すなら、その結果はとても神秘的なものになるでしょう―


私の映画の神秘的な要素? 

スクリーンに映ったものは何でもすぐに理解できるべきだと誰もが思っているみたいですね。

私の意見では、私たちの日常生活の出来事のほうがスクリーン上に目撃できるものよりずっと神秘的です。

人生のたった一日の間に起きた出来事を、ひとつひとつ、全部思い出そうとしてそれを全部スクリーンに映し出すなら、その結果は私の映画[『ストーカー』]よりも百倍も神秘的になるでしょう。

観客はどうしようもなく単純なドラマに慣れてしまった。

実在の瞬間、真実の瞬間が銀幕に出現すると必ず、「訳がわからん」と叫ぶ声が聞こえるのです。

多くの人が『ストーカー』をSF映画だと思っています。

しかしこの映画はファンタジーに基づくものではなく、フィルムに定着されたリアリズムなのです。

その内実を3人の人物の人生の1日を記録したものとして、受容するようにしてみてください。

そのようなレベルでこの映画を見るようにしてください。

そうすれば複雑なもの、神秘的なもの、象徴的なものは何もないとお分かりになるでしょう。(1981年)
http://homepage.mac.com/satokk/about_symbol.html


映画監督の仕事に関して


私は、自分で書いていない脚本に基づく映画作りが想像できない。

他人の脚本に全面的に基づいた映画をつくる監督は、必然的にイラストレーターになるのだ。[…]

脚本というときそれが何を指すのか、脚本家という言葉そのものが何を指すのか、もっと詳しく説明してみよう。

「プロの脚本家」は存在するが、私に言わせれば実はそんなものは存在しない。
そういう人は映画をよく理解した作家になるか、(文学的素材を自分で組み立てる能力を発揮して)自分自身が映画監督になるべきだ。

なぜなら、脚本というような文学ジャンルは存在しないからだ。


今や私たちはジレンマに直面している。

脚本を準備しながら、監督が、映画に固定すべき具体的な時間群として自分が想像したものだけを、出来事とエピソードの形式で書き留めようと決心したとしよう。

文学作品と見なすなら、そういう脚本は、きまぐれな読者だけでなく、映画の仕事に関わるものには、無縁のものであり、理解不可能であり、まったく訳がわからないだろう。
また一方で、脚本家が自分の独自の考えを作家のように文学的形式で表出するなら、彼の作品はもはや脚本ではないだろう。

それは、たとえば、タイプされた70ページのストーリーになり、文学作品になる。
脚本家が撮影台本も準備しているなら、彼はカメラまで歩いていき、自分で映画を撮った方がいいだろう。

彼以外の誰も作品のヴィジョンを持っていないからだ。

彼以上によい仕事をどんな監督もすることができないだろうからだ。


だから、非常にすぐれた「映画らしい」脚本を与えられたなら、それを引き受けた監督は、やることが何もないだろう。

そして文学作品の形式で脚本が提供されるなら、監督はすべてを一から始めざるを得ないだろう。

監督が脚本に取り組みはじめると必ず、脚本は変わりはじめる。

どれほど深く、細部が出来上がった脚本であろうとも、そうだ。

監督は、脚本の鏡像、正確な逐語訳である映画を生み出すことは決してないだろう。
必ずある種の変形が生じるだろう。

だから、監督と脚本家の協働は、一般に闘いとなり、妥協を探ることになるのだ。
このようにしてよい映画を作ることは不可能ではない。

たとえ、準備段階で元々のアイデアがダメになって、監督と脚本家が古い「がらくた」に基づいて新たな概念を構築せざるをえなくなったとしてもである。


そうは言っても、映画作りで最も自然な流れは、アイデアを壊して変形させる必要がなく、その代わりに有機的にアイデアを展開させていくことである。

監督が自分で脚本を書く場合や、別の流れの時のように…脚本を書いたものが自分で映画を撮ろうと決心したときのように。[…]
手っ取り早く言うと、監督にとって唯一のよい脚本家とはよい「作家」であると私は思う。


________________________________________


ノート

タルコフスキーが『ソラリス』でレムの原作を大幅に変えてしまったこと、『ストーカー』でもまたストルガツキー兄弟と衝突してしまったことを、思い出すなら、この発言はさらに興味深いものになる。

まあ、こんなことを信条としているから、大騒ぎを引き起こすのだ。

映画になってしまうと、それはまさしくタルコフスキーの映画であり、原作を読んだから映画の理解が深まるというものではない。

タルコフスキーの映画はいつも自立している。

だから彼自身が自作に、特に『鏡』に新たなアプローチで言及することを楽しんだのだ。
http://homepage.mac.com/satokk/directing.html


オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー

映画は、劇場とちがって…


俳優にとって、映画は生そのもののようなものであるべきだ:

映画は、謎、秘密、神秘であるべきなのだ

私の場合、劇場より映画のほうがやりやすい。

映画の場合、全責任が私ひとりにあります。

劇場の場合、俳優の責任が大幅に増すことになる。

俳優がセットに到着しても、俳優が監督のアイデアと意図を一から十まで知っておく必要は全くない。自分で自分の役をつくり出すと、まずいことすらある。

映画俳優は、監督が準備するさまざまな状況下で、自発的に直観的に行動すべきなのです。

監督の役割は、俳優を適切な精神状態に持ち込んで、俳優が完全に信じていられるように後ろ盾をしてやるように、気を遣うことだ。

やりかたにはいろいろなやり方がありえる。俳優のタイプにもよる。

役者を教導して、シミュレーション不可能な心理状態に持ち込むことが必要なのです。
このように、映画監督の役割は、役者が銀幕上で実存的な真実を表出するように、取りはからうことなのです。

カメラレンズの前で、俳優は真実で自発的な状態でいなければならない。
俳優は現存しなければならない。
高度に自然な様態で現存しなければならない。

それ以外で、監督がなすべき仕事は、映画の素材を実際に編集することだけなのです。
その素材は、カメラの前で実際に起きたことの単なるコピーです。

芸術映画のカテゴリーにとどまりながら、俳優のなまの存在が提供するように思われる観客との接触のレヴェルに達するのは不可能である。

それこそ、劇場のカテゴリーにおいて、きわめて魅力的な特徴なんですがね。

というわけで、映画は芝居の代わりにはならない。

この誤解は数年前には流行りましたね。

劇場は観客と舞台の間にこのような親密で直接的な関連を可能にするという…
映画は、無限の回数にわたって、時間のまさに同じ瞬間を、再創造する能力のお陰で存在する。

映画の本性がノスタルギアなのである。

劇場では、すべてが進歩する。生きて、動いていく。

劇場は、人間の創造する欲求を実現させるもう1つの方法なのだ。

映画監督は多くの点で収集家に似ています。
その愛着の対象ー映像ーは生そのものです。

彼にとってー親密な細部、部分、断片の膨大な量の中で永遠に凍り付いた生そのものです。

俳優がいようがいまいが、状況は変わりません…


バレットが言うように、劇場俳優は、雪を素材にする彫刻家になぞらえることが出来る。

俳優が肉体的に存在し、身体と魂において生きている限り、その間だけは芝居が現存する。

俳優がいなければ、劇場は存在しない。


劇場では、役者のひとりひとりが個人で、最初から最後まで、役の全部を造形して、芝居の全体の理念と文脈に対応して、自分の情緒をかたどらなければならない。

ところが、映画では、俳優が自分の知的能力を使って役を作りあげることを避けることが肝要だ。

その代わり、俳優の唯一の課題は、生そのものに私たちを接近させることだ。
つまり、俳優の仕事は、純粋であること、真実であること、自然であることなのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。

映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。


例を挙げましょう。『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。「解決のマニュアル」に触れることはありません。

与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。

映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。

俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。
別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。

結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。
この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。

俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…

テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。
出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。

くり返しくり返し、私が役を把握しているということを完全に信頼することの出来ない俳優たちに出会ってきました。

何らかの理由で干渉を止めることができなかったのです。
彼らは私のアプローチをプロらしくないと思っていたのです。

そういう場合、私は彼らこそプロの俳優らしくないと思ってきました。

私の意見では、プロの俳優は容易にかつ自然に、目に見える努力も見せずに、どんなときでも、どんな指示でも受け容れて、あらゆる即興的な状況のなかで、個々の反応において自発的であることが出来なければなりません。


私も、そのタイプの俳優と仕事したいですね。
私に言わせると、それ以外の俳優は、型にはまった演技しかしない。

ルネ・クレールが俳優とどのように仕事をするのかと訊かれたことがありました。
自分は俳優と仕事をしない、ギャラを払うだけだと彼は答えました。

この逆説的で刺激的な考え方は、監督と映画俳優の間に存在する独特の関係に深い根を張ったものです。この名高いフランスの監督の言葉に含まれるように思われるシニシズムには、俳優という職業に対する深い敬意が隠されています。

ここには有能なプロに対する深い信頼が表明されています。
監督は、俳優にあまり向いていない類の人とだけ、仕事をすべきなのです。

しかし、アントニオーニの『情事』の俳優たちとの仕事、フェリーニとベルイマンの俳優たちとの仕事ぶり、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』の仕事ぶりについて、何が言えるでしょうか? 

彼らは全然仕事をしているようには見えません。

登場人物に関して独特の真実さを感じるだけです。

しかしこれは、質的に異なる、映画だけに言える、真実さなのです。

原則として、言葉の演劇的な意味での表現力とは区別しなければいけません。

映画俳優は、無垢でナイーヴな性格の持ち主でなければいけません。

誠実で率直でなければなりません。
無用な思慮にふけるべきではありません。
むしろ単純に信頼を寄せるべきなのです…

自分の役のことを、映画での自分の役割とその全体の出来映えを、ああだこうだと考え始めると途端に、ー私の考えではー最も大切で最も根本的なものを失ってしまいます。
監督でも、自分の探り当てようとしているものを正確に知っている監督でも、前もって結果を知っているわけではないのです。

分析的で、理詰めの傾向のある俳優が脚本の全体を知ると、最終的な映画を知っていると思ってしまう。少なくとも、映画の最終的な姿を必死で想像しようとする。
まるで、それが演劇作品であって、劇場の役をリハーサルし始めたのだと勘違いしてしまう。

ここで、最初の間違いを犯しているのです。


映画がどうなるべきが自分には分かっていると信じる俳優は、役に対する自分の考えに型を与え始めます。

そうなると、映画の全体がひどいことになる。
望もうと望むまいと、演技で、映画そのものの理念と映画芸術をダメにしてしまうのです。

すでに指摘したように、俳優によってやり方が変わってきます。

時には、同じ俳優でもケースによっては別の方法が必要です。

ここで、監督は望ましい結果に到達する試みで創意工夫が出来なければいけません。
こうやって話していると、『アンドレイ・ルブリョフ』で鐘職人の息子ボリースカを演じたニコライ・ブルリャーエフのことを思い出します。

撮影中私は助監督にしょっちゅう、彼に私は彼の演技に大いに不満で、別の俳優で撮り直さなければいけないかもしれないと言わせてました。

私は、彼に災厄が待ち受けているという感触を植え付けて、彼が不安な気持ちにさいなまれるようにする必要があったのです。

俳優として、ブルリャーエフはひどく集中力に欠けていてわざとらしい。
彼の場合、この映画で私が望んだ結果を得るのに私が成功したとは思えない。
結局、彼はあの映画に出演した私のお気に入りの俳優の演技レベルに達していない。
イルマ・ラウシュ、ソロニーツィン、グリンコ…

言いたいことを明確にするために、ベルイマンの映画『恥』を考察しましょう。
あの映画には俳優が監督の理念を「暴露する」エピソードはほぼ1つも存在していません。

監督の理念は、登場人物が生活を生きるその背後にすっかり隠れて、その中に溶けこんでいます。

俳優たちはこうした状況と完全に一致した演技をしています。

現在に対して何らかの理念を浮かび上がらせようとしたり、何らかの態度を示したりはしません。

こうした人々を善人か悪人かであっさり片づけることは出来ない。無理です。
ずいぶん深く、複雑なものです。

実生活と同じくらいに、そうです。
例えば、主役(フォン・シドー)が悪人だと、私はカテゴリー的に主張することはない。

たぶん全員が善人であり悪人の両方なのです。しかしそれは重要なことではない。


一番大切なことは、俳優にいかなる偏見の暗示も存在させない、そして監督が人間の選択の多様性を探求するために状況を利用するということです。
アプリオリに先取りされた何らかの理念を単に例証するだけではダメです。

マックス・フォン・シドーの見事な役の描き方に注目してください。

非常に繊細な人間、立派で優しい心根の音楽家をめぐって描かれます。
しばらくすると、彼が実は惨めな臆病者だということが明らかになります。

現実ではこういうことがありえるのですが、勇敢な人間が必ずしも善人でない、臆病者が必ずしも悪人でないということを忘れないでください。
そうです。彼は弱い性格です。妻のほうが彼よりもずっと強い。
妻もまた恐れていますがね。


彼女の強さは、困難を克服するのに充分です。
マックス・フォン・シドー演じる主人公は弱くて傷つきやすいために苦しみます。
そして困難を耐え抜くことが出来ない。

彼はあらゆる手段で困難を避けようとする。逃げ出そうとする。
自分の手でそこから身を守ろうとするーしかしナイーブに愚直に…

生きるために自分と妻を守らざるを得なくなると、彼はあっと言う間にイヤな奴になる。

かつては存在していた善良さを失ってしまい、それと同時に、この新しい特徴が彼の妻には必要なものになってしまう。
妻は保護と救済を夫に頼るようになる。
以前は夫を軽蔑していたというのに、そうなってしまう。

夫は妻の顔を殴打し、出て行けとわめくが、妻は夫にすがりつく。
「悪は積極的で、善は消極的だ」という古い諺の陰にある叡知が目に見えはじめます。

しかし、なんと複雑なやりかたでこれが表現されているのでしょう! 

最初、ベルイマンの主人公は鶏の首をはねることすら出来ない。
しかし自己防衛の手段を見いだすや否や、彼は残酷な冷笑家になる。
何も恐れない。ひたすら行動し、殺し、仲間の人間を助けるために指一本動かさない。

そういう暴虐に直面して嫌悪と戦慄を感じるためには高潔な人間でなければならないという事実を、私たちは話しているのです。

人間がこの戦慄を喪失すると、彼は自分の精神性を、自分の精神的な能力を喪失してしまう。

この場合、これらの人々にこの種の憎悪を引き起こしたのが戦争でした。
戦争は、彼の人間観を伝えるためにベルイマンが利用した装置になったのです。

ベルイマンの別の映画『鏡の中にある如く』で、この同じ役を果たすのが病気です。
俳優の役割を論じる私たちのディスカッションとこれを結びつけるために、私は次の事実を指摘したいと思います。

ベルイマンは、登場人物が投げ込まれた状況を俳優が「超越する」ことは決して許さないのです。

これは非常に重要です。

映画芸術では監督が、俳優に生命を吹き込まなければいけないー俳優を自分の思想を喧伝するメガフォンに変えてはいけない…

映画の観客にとって、映画のフレームの中で登場人物に起きていることは闇に包まれている。

人間のひとりひとりが壮麗な秘密のままであるーそれは実生活と同じですー
一般に探究しつくすことは決してありえない秘密なのです。

ところが、劇場では、儀礼そのもの、舞台の芝居、その背後にある理念こそ、その最終的表出において、無限に魅力的で、包括理解不可能な秘密であり続けなければならないのです。

劇場では、演出家自身の理念がキャストの演技の土台にあります。

映画では、演技の基礎は隠されていなければならない。

映画芸術は人間の生を反映するからです。

言うまでもなく、それはまず理解不可能なものなのです。

劇場の俳優は、知的に構築された儀礼で機能を満たします。

演出家の思念は役を演じる人間が舞台に目に見えて存在することによって伝えられます。

映画の場合、時間に固定された瞬間のひとつひとつが、実生活の最奥の存在の本質そのものを、いくらかなりとも、含んでいなければなりません。

映画術の逆説がまさにここにありますね、生きた魂が冷たく機械的な鏡に再構築されるという…
http://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

映画との出会い

映画が自分にぴったりだと最初から知っている映画監督もいる。
私には疑問点があった。あまり好みというわけではなかった。

技術的に大きな利点があることは分かっていたが、映画が詩や音楽や文学のような立派な表現手段だとは理解していなかった。

『僕の村は戦場だった』を撮った後も、私は監督の役割を理解していなかった。
もっと後になって、私は映画が霊的な本質を成就する可能性を与えてくれることを悟ったのだった。

映画について

映画は、2つの異なるタイプの映画を作る2つのタイプの監督に基づいている。
自分の生きている世界を模倣する監督と、自分自身の世界を創造する監督ー映画詩人だ。

そして、映画詩人だけが映画史に残ると私は信じている。
ブレッソン、ドヴジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤のように。

時間について


映画は時間という概念の中で動く唯一の芸術だと私は思う。
映画が時間とともに展開するからではない。

そういう意味なら他の芸術形式もある。バレエ、音楽、芝居がそうだ。
私が言うのは、文字どおりの「時間」という意味だ。
「アクション」と声をかけた瞬間から「カット」という瞬間までの、テイクとは何か。
実在、時間の本質を固定することだ。

永遠に巻いては巻きなおすのを許す時間の保存手段だ。
他の芸術形式ではそれが出来ない。
だから、映画は時間で出来たモザイクなのだ。

水について

私の映画には必ず水がある。
私は水が好きだ、特にせせらぎが好きだ。

海は大きすぎる。
怖いのではない。海は単調なのだ。

自然の中で、私は小さなものが好きだ。
マクロコスモスでなく、ミクロコスモス。

限られた表面。私は、日本人の自然観を愛する。
日本人は無限を反映した限られた空間に集中している。

水はその単一構造のために神秘的な要素である。
それに映画にぴったりなのだ。
水は動き、深さ、変化を伝える。水ほど美しいものはない。

色彩について

カラー映画はその黎明期にはリアリスティックに思えたが、今では袋小路に入ってしまった。

カラー映画は大きな間違いだ。

すべての芸術形式は真実を目ざし、それゆえに一般化、モデル理念を求める。

しかし生における真実は芸術における真実に照応していない。
色彩は私たちの外的な世界の生理学的かつ心理学的知覚の一部である。
私たちは色のある世界に生きているが、何かが色を意識させない限り、色に気づかない。

私たちは、この色のある世界を見ながら、色彩のことは考えない。
しかしカラーシーンを撮るとき、私たちは色彩を組織して、クロースアップでフレームに閉じこめて、それを観客に強制する。

私たちは観客にそういう絵はがきを何千枚何万枚と与えるのだ。

私にとって、モノクロのほうがカラーより表現力があり、リアリスティックだ。
なぜなら白黒は、観客の気を散らさず、映画の本質に集中できるようにするからだ。
カラーは映画芸術を嘘くさく、真実味をなくさせたと私は思う。


職業として、生き方としての映画作り

私は映画を創作するのを楽しむ。
スクリプトを書き、シーンを創造し、ロケ地を探す。

しかし撮影は面白くない。
いったんすべてを考えつくすと、実際に映画に仕立て上げる必要があるが、それは退屈だ。

私は自分の人生を映画と区別したことがない。
私はいつも重大な選択をせざるをえなかった。

多くの監督の作品は、自分の生き方と違う理念を表出している。
つまり、彼らは自分の良心を分裂させることができるのだ。
私にはそれができない。

私にとって映画は単なる仕事でない。映画は私の命だ。

観客について

私は観客の態度を気にしたことがない。

観客におもねるのは難しい。
役に立たないし不愉快なことだ。

映画の未来の成功を予言しようとする人もいるが、私はその手の輩ではない。観客に対する最良の態度は、自分自身であり続けることだ。
彼らが理解するような個人的な言葉を使うことだ。

詩人と作家は好かれようとはしない。
彼らはどうやれば読者が気に入るのか、知らない。
しかし、彼らは大衆が自分を受け入れるだろうと知っているのだ。
http://homepage.mac.com/satokk/remarks.html


タルコフスキーは語る 空中浮揚について

なぜ私はよく、空中浮揚のシーンを、浮き上がった身体のシーンを含めるのか? 

そのシーンが大きな力をもつからにすぎない。
このようにして、より映画的な、より映像的なものが創造できるのだ。

この観点から水が非常に重要になる。

水は生きている。深みがあり、動き、変化し、鏡のように反射し、私たちを溺れさせることも出来るし、私たちが飲むこともできるし、水で何かを洗うことも出来る、といったように…

また、水が不可分の実体であること、モナドであることは今さら言うまでもあるまい。

それと同じように、人が空中で浮揚しているのを想像するとき、私はそれが好きだ…
何か意味があると私は信じる。

少し頭の足りない人が私に、この前の映画でなぜ空中に浮かんでいる人々がいるのかと訊くなら、「魔法です」と答えるだろう。

もし同じ質問がもっと洗練された人から、詩的な感受性を備えた人から来るなら、アレクサンデルとマリアにとって愛は『ベッティー』の作者が考えているものと同じものではないのだと答えるでしょう。

私にとって、愛は相互理解の究極的な開示なのだ。
だから性交行為で示すことは出来ない。

映画に「愛」がなければ、それは検閲が原因だと、だれもが言う。
実は、スクリーンに映されているのは「愛」ではなく、「性行為」なのだ。

人間ひとりひとりにとって、それぞれのカップルにとって、性行為は個別のものなのだ。

それをスクリーンに映すと、状況は逆になってしまう。

「フランス・カトリック」1986年6月20日のインタビューから
http://homepage.mac.com/satokk/levity.html

自分をベルイマンと比較すると

私とベルイマンとの違いはこうだ。

私にとって神はもの言わぬ存在ではない。

あのスウェーデン監督の映画のオーラが『サクリファイス』に存在すると主張する人たちの意見に、私は全面的に反対する。

ベルイマンが神を語るとき、彼は沈黙する神、私たちと共にいない神の文脈で、そうするのだ。

だから私たちには共通点が何もない。ちょうど正反対なのだ。


主役の俳優がベルイマンとも仕事をしているとか、私の映画に残った風景を根拠にして、皮相な意見が提出されている。

そういう主張をする人たちはベルイマンのことを何も理解していないのだ。
実存主義とは何かを知らないのだ。

ベルイマンは宗教の問題より、キルケゴールに身近な存在なのだ。
(1986年6月20日のインタヴューから)


映画の音楽に関して

明らかに、音楽は私にとって非常に重要である。
重要なのは、私が撮影できた映像だけではない。

この映像のために、私はまさにバッハのこの抜粋が必要なのだ。
これが見つからなかったら、他のものでは代わりにならないし、第一に、あの映像を撮影しないだろう。このスウェーデンで私は、私に心躍る影響を及ぼした素晴らしい民俗音楽を発見しました。

この音楽を中心にして、私の新作の全素材が組織されます。

この音楽はフィルムに、伴奏として入るのではなく、情緒的な織物として入ることになります。
これもまた、いつものことですが。


音楽はフィルムと競います。

音楽は映画の有機的な要素になりえますが、映像を制御することも出来るのです。
これは深刻な問題です! 

音楽のないシーンは完全な別物です。
シーンは挿入される音楽で変わります。

純粋な映画は音楽なしで何とか出来るはずですが、それは全くの理論です。
音楽は映画の有機的な一部だからです。

音楽はシーンを説明する形式にとどまるものではないのです。(1987年発表のインタヴューから)


詩人について

詩とは何か。
詩は、世界を表現する、世界を思索する高度に独創的な様式です。

一般に人は、普遍的な世界観を表出することが出来ません。
そんなことは不可能です。

彼のヴィジョンはいつも断片的なものにとどまるでしょう。
詩人は、普遍的なメッセージを送り出すために一個のイメージを利用することの出来る人です。

ある人が、もうひとりの人のそばを通ります。
その人に視線を送ることは出来ますが、目に見ることは出来ません。
別の人が同じ人を見て、突然微笑みます。

はじめて見かける人が彼に連想の爆発を引き起こしたからです。
芸術の場合も似たようなものです。

詩人は小さな断片を出発点として、それを首尾一貫した総体に変えるのです。
この過程を退屈だと見なす人もいます。

そういう人は、重箱の隅をほじくるように、何もかもを知りたがる人です。
税理士や弁護士みたいにね。

ところが、詩人には、靴下の穴から飛び出した親指を見せればいいのです。
彼に全世界の映像を生み出すのにはそれで充分です。(1984年のインタヴューから)


『サクリファイス』を含む後期の作品について

『サクリファイス』からシークェンスを選び出して、舞台脚本が出来ないか、ですって? 

出来るかも知れませんが、別の2作、『ソラリス』と『ストーカー』のほうがもっと適していると思いますね。ただし、そういう戯曲は、もったいぶって、弱いものになるでしょう。

私にはフィルムであるということが重要なのです。

なぜなら映画は観客の時間とリズムを勘定に入れていないからです。

フィルムはそれ自身のリズムと時間を持っています。
映画を舞台に脚色すると、映画の内側に含まれた時間というこの非常に重要な問題が無視されるのです。

そういう脚本は成功しませんね。


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私は何であれ偶然に任せるのは嫌いです。

最も詩的な映像すら、最も無垢な映像すら、偶然には出現しません。

『サクリファイス』は私にとって最も首尾一貫した自作です。
この首尾一貫性の感覚は、人を狂気の淵にまで追いやることができます。
そういう意味で『サクリファイス』は私の初期のフィルムとは比較できません。


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現代人の世界に対する私の洞察という視点から考察すると、『サクリファイス』は私の他のフィルムより優れています。

しかし、芸術的な、詩的な創造としては、『サクリファイス』より『ノスタルギア』のほうを私は高く評価します。

『ノスタルギア』はなにものにも支えられていません。

それ自身の詩的な映像によってのみ存在しています。
それに対して『サクリファイス』は古典的なドラマツルギーに基づいています。
だから私は『ノスタルギア』のほうを身近に感じるのです。(1986年)

http://homepage.mac.com/satokk/sundry.html


1982年9月9日にチェントロ・パラティーノで開催された「映画泥棒ー国際的陰謀」会議で、タルコフスキーは自らの理念を披露した。

彼は『七人の侍』『少女ムシェット』『ナサリン』『夜』のクリップを映した。

彼に影響を及ぼしたのではなく、彼に最も決定的な印象を刻印した映画である。

以下は彼の話のあらましである。


アンドレイ・タルコフスキー:

「影響、何か流れ込んできたもの、すなわち相互活動の問題は複雑です。

映画は真空では存在しません。

つまり共に働く仲間がいて、その影響は避けられない。

それでは影響、流れ込んできたものとは何でしょうか。

自分の働く環境や共同する人々の選択は、芸術家にとって、レストランで料理を選ぶようなものです。

黒澤、溝口、ブレッソン、ブニュエル、ベルイマンそしてアントニオーニが私の仕事に与えた影響について申し上げますと、『模倣』という意味では何ら影響はありません。

つまり私の観点からは、そんなことは不可能です。

何故なら、模倣は映画の目指すものとは何ら関係ないからです。

自己を表現する自分の言語は自分で発見しなければならないのです。

ですから、私にとって、流れ込んできたものというのは、私が賛嘆し高く評価する人々と共にいるという意味なのです。」


「もしフレーミングやシークェンスに他の監督の反響があると気付いたら、そのシーンは避け修正するように努めています。

こんなことはめったに起きないのですが、『鏡』から例を引きましょう。

私は主人公が室内にいてその母が隣の部屋にいるフレームを採りました。

二女性のクロースアップです。

パノラマショットで、女が鏡を見ながらイヤリングをつけてみて、母もまた鏡を覗き込んでいます。

実際シーン全体は鏡に映ったかのように撮られています。

ところが、実は鏡は存在せずに、女性はキャメラを直に見ているだけなのです。

つまり鏡がある錯覚がある。

この類いのシーンはベルイマンにそっくりのものがありうると気が付きました。

けれども、やはり、そのままで、私の同僚ベルイマンに謝意を表明し、肯定する証として撮ることに決めました。


「このリストにドブジェンコも追加しなければなりませんが、これまでに挙げた監督がいなければ、映画は存在していないことでしょう。

誰もが自分のオリジナルの様式を当然探していますが、もしこれらの監督がコンテクストや背景を与えてくれなかったなら、映画はいわゆる同じ映画にはならないでしょう。

現在多くの映画作家が非常に厳しい時代を経験しているようです。

イタリアの映画は窮地に落ちています。

私のイタリアの同僚たちは、私は映画で最も名声のある監督の幾人かについて語っているわけですが、イタリア映画はもはや存在しないと言いました。

もちろん、映画の観客がこの主な原因です。

久しく映画は大衆の趣味を追ってきましたが、今や大衆はあるタイプの映画は見たくないのです。

実際なかなか良いものなのに、敬遠するのです。


「映画監督の範疇には基本的に二つあります。

一つは、自分が生きている世界の模倣を求める人々で出来ています。

もう一つは自己の世界の創造を求める人々で出来ています。

第2の範疇には幾多の映画詩人が含まれます。ブレッソン、ドブジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤という映画史上最も大切な人たちです。

これらの映画作家の作品の配給は難しい。

その作品は作家の内的霊感を反映しているので、これが必ず大衆の趣味とぶつかるのです。

映画作家が観客に理解されたくないという意味ではありません。

そうではなくむしろ作家自身が観客の、観客も気付いていないような内的感情を捕らえ理解しようとしていると言った方がよいでしょう。


「映画の直面している現在の苦境にもかかわらず、映画は芸術形態であり続けます。

芸術形態の一つ一つが個別のもので、他の芸術形態の本質に含まれない内実を担っています。

例えば、写真は、カルティエ=ブレッソンの天才が実証しているように、芸術形態になれますが、写真は絵画になぞらえることは出来ません。

何故ならば絵画と競合しているわけではないからです。

映画作家が自問しなければならない問いは、何が映画を他の芸術と区別するのか、ということです。

私にとって映画は時間の領域を包括する点で、他に見られない独創的なものです。

音楽や芝居やバレエのように、時間の中で生起するという意味ではありません。

文字どおりの意味での時間です。

フレームとか、「アクション」と「カット」の間のインターヴァルは一体何でしょうか。

映画は時間の観点で実在を固定します。

フィルムは時間を保持する手段なのです。

これほど時間を固定し停められる芸術形態は他にありません。

フィルムは時間で出来たモザイクです。

そのためにはもろもろの要素を集約する必要があります。

3、4人の監督やカメラマンが1時間同じものを撮影したと想像して下さい。

一人一人独自の映像になるはずです。

結局出来上がるのは、3つか4つ全く異なるタイプのフィルムです。

なぜなら、一人一人がこれは捨て、あれは残してと選択して自分のフィルムを作るからです。

そうして、映画に関わる時間を固定する作業をしているにもかかわらず、監督は必ず自分のマテリアルを磨いて、それを通して自己の創造力を表現出来るのです。

「美意識の観点から言いますと、映画は今ひどい時代にあります。

カラーで撮影するのが、可能な限り実在に迫る手段だと考えられているのですから。

私はカラーは袋小路だと思っています。

あらゆる芸術形態は真理に到達して、一般化した形態を得るために苦闘しています。

色彩を使うのは人が実在世界をどのように知覚するのかと関係しています。

カラーであるシーンを撮影するのは、必然的に、フレームを有機的に構成し、このフレームに囲まれた世界の総ては色彩の中にあり、しかも観客にこの事実を自覚させねばならないという事なのです。

モノクロの利点は、その表現力が強烈で、観客の関心を脇にそらさないということです。


「カラー映画にもすぐれた表現様式の例があります。
でも今述べた問題に気付いている監督のたいていは、必ず白黒で撮影する努力をしています。

誰も、カラーフィルムで新しいパースペクティブを創造したり、白黒ほど効果的パースペクティブを作り出すのに成功したためしはないんです。

イタリア・ネオリアリズムが重要なのは、日常生活を掘り下げることによって映画に新境地を開いたという事実からだけではなくて、本質的に言うと、モノクロームでその探求がされたからでもあるのです。

人生の真理は必ずしも芸術の真理に照応していません。

だから今やカラーフィルムは純粋に商業的現象になりさがったのです。

映画は色彩を通して新たなヴィジョンを創造しようとする時代を通って来ましたが、結果は不毛です。

映画は体裁ばかり飾るものになってしまいました。

つまり、私が今見ているような映画は全然立場の違う人には全く違ったものになっているのです。

今ご覧に入れている映画のクリップは、私の心に一番近しいものを表象しています。

ある思考形態の実例であり、この思考がどのようにフィルムを通して表現されるかの実例です。


ブレッソンの『少女ムシェット』で少女が自殺を図るその様子は特に驚異的です。


『七人の侍』の一番若い侍が怖じけづくシークェンスで、黒澤がこの恐怖感をどうやって伝えているでしょう。

若者は草むらで震えていますが、身震いしている姿は目に見えません。

草むらと花々が震えている、揺れているんです。

ここは雨中の決戦です。

三船敏郎演ずる菊千代が死ぬとき、倒れた彼のその脚は泥に埋もれてします。

こうして私たちの目の真ん前で菊千代は死んでしまいます。

ブニュエルの『ナサリン』の、傷付いた娼婦がナサリンに助けられて、椀から水を飲む姿です。

アントニオーニの『夜』の最後のシークェンスは映画史上、ラブシーンが必然となり精神的行為の似姿を取った唯一のエピソードかもしれません。

肉体が相手の近くにあるのが大きな意味を秘めた独創的なシークェンスです。

2人ともお互いに対する感情は涸れ果てているのに、それでも相手の身近にいるのです。

ある友人が昔こう言いました。

夫と5年以上もいるなんてまるで近親相姦よ。

2人がお互いの近くから逃れる出口はありません。

お互いがまるで死に瀕しているかのように、死に物狂いで相手を救おうとしている姿です。


「撮影を始めるときは必ず、『私の仲間』と思っている監督のフィルムを見ます。

模倣するためではなく、彼らの醸し出す雰囲気を味わうためにです。

今お見せしているクリップがみんなモノクロームなのも偶然ではありません。

監督が自分に身近なものを何か掛け替えのないものに変容しているからこそ、これらは重要なのです。

しかもこれらのシーンは日常生活の出来事とは似ていないという点で独創的です。

ここには偉大な芸術家の刻印があり、私たちに彼らの内世界を垣間見せてくれるのです。

これらのシーンの総てが、娯楽を与えるよりはむしろ美を保持することによって、観客の欲求に応じるのです。

今日この種の主題を扱うのは困難を極めています。

そんな話をするのすらほとんど馬鹿げていると言えます。

誰もそんなものにはびた一文払わないでしょう。

でも映画が存在し続けているのは、これらの詩人たちのお陰なのです。

「映画を作るには金が必要です。

詩を書くのに必要なのはペンと紙だけです。

これが映画の不利なところです。

でも映画は屈さないと私は思います。

万難を排して自己の映画を実現する努力をする監督全員に、私は頭を垂れます。

実例としてクリップをご覧戴いた映画は皆、固有のリズムを持っています

(最近は、たいていの監督が快速で短いシーンを使い、カッティングとスピードのある監督こそ本当のプロだと思われています)。

真の監督なら誰でもその目的は、真理を表現することなのですが、そんなのはプロデューサーの知ったことでしょうか。

1940年代にアメリカでストレスのかかる職業をランク付けする調査がありました。

広島に原爆が投下された時代ですから、パイロットが1位を占めました。

2位が映画監督です。監督になるのはほとんど自殺行為というわけです。

「私はヴェネチアから帰ったばかりです。

そこの映画祭の審査員をしたので、現在の映画の完全な退廃を証言出来ます。

ヴェネチア映画祭は悲惨この上ないものだった。

ファスビンダーの『ケレル』のような映画を理解し是認するには、まるっきり異なる類いの精神性が必要だと、私は信じます。

明らかに、マルセル・カルネは私よりずっとそれを是認していましたが。

私は、それは反芸術的現象の現れだと思います。

その関心は、社会学的で性的な問題にすぎない。

ただファスビンダーの最後の作品だというだけで、あの映画が受賞するのは恐ろしく不当なことではないでしょうか。

ファスビンダーは『ケレル』よりずっと良い映画を作っているはずです。

けれども、映画の現在の危機は重要ではありません。

なぜなら芸術は絶えず危機の時代を通り過ぎてはそこで復活するからです。
ただ映画が作れないからと言って、映画が死んだということにはならないのです。


「最良の映画は、音楽と詩のはざまにあります。

映画はどんな芸術形態にも比肩する高いレベルに到達しています。

芸術形態として自らの姿を具体化しています。

アントニオーニの『情事』は随分昔の映画ですが、今日作られたばかりという印象を与えます。

本当に奇跡的な映画で、ちっとも古ぼけていません。

まあ今日作られるような類いの映画ではないかもしれませんが、それでもとても新鮮です。

イタリア人の同僚たちはとても悪い時代にいます。

ネオリアリズムも偉大な監督たちも去ってしまったように見えるし、プロデューサーはドラッグの売人みたいなもんですから。

金儲けだけを考えているんですが、長続きはしないでしょう。

イタリアで上映されている『ソラリス』は私の映画ではないと言いたいです。

でもその配給会社はもう潰れてしまいました。たいていの配給会社の運命じゃないですか。」

http://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html

タルコフスキーが選んだ映画ベストテン

1972年4月のあのうす暗い雨降りの日のことはよく覚えている。

私たちは開いた窓辺に腰を下ろして、いろいろなことについて話していたが、話の矛先はオタール・イオセリアーニの『歌うつぐみがおりました』に向いた。

「良い映画だね」とタルコフスキーは言ったが、すぐに「ただちょっと、うーん、ちょっとね…少し…」と言葉を継いで、そのまま目を細めて何も言わなくなった。

一瞬内面に集中した後、彼は爪をかみながら、きっぱりと言った。

「そうじゃない!ちがう。とても良い映画だ!」


お気に入りの映画を10本ばかり選んでみないかとタルコフスキーに言ったのは、この時だった。

彼は私の提案を非常に真剣に受け取り、数分間、頭を垂れて一枚の紙に向かい、深いもの思いに沈んでいた。それから監督の名前のリストを書き始めたー

ブニュエル、溝口、ベルイマン、ブレッソン、黒澤、アントニオーニ、ヴィゴ。

しばらく経ってから、ドライヤー。

次に映画のリストをつくり、順番をつけて注意深く並べた。

リストは出来上がったように思えたが、突然不意に、タルコフスキーは新たなタイトルを加えたー

『街の灯』。

彼が作成したリストの最終版はこうだ。


田舎司祭の日記
冬の光
ナサリン
野いちご
街の灯
雨月物語
七人の侍
ペルソナ
少女ムシェット
砂の女(勅使河原宏)

リストをタイプし、"16.4.72 A. Tarkovsky" と署名すると、私たちはまた話に戻ったが、彼はごく自然に話題を変えて、穏やかなユーモアを交えて、どうでもいいようなことについて話し始めた。

20年経って、今日リストを眺めると、彼の選択が芸術家タルコフスキーを何と明確に特徴づけているかに驚かされる。


さまざまな監督がさまざまな雑誌で示した数多くのベストテン・リストと同様に、タルコフスキーのリストは目覚ましい啓示である。

その主な特色はー『街の灯』を除けばー選択の厳格さにある。

30年代、40年代のフィルムは、サイレントを含めて1本もない。


その理由は、タルコフスキーが、映画誕生後の50年を、彼にとって真の映画作りであるものの序奏と見ていたということだ。

ドヴジェンコとバルネットの両者を高く評価していたが、リストにソヴィエト映画が1本もないことから察するに、真の映画作りはソ連以外のところで行われているとタルコフスキーは見なしていたのかもしれない。

この点を考察するとき、ソ連の映画監督としての経験から、タルコフスキーがたえず論争に巻きこまれていたことも忘れてはいけないだろう。


タルコフスキーにとって、問題は映画監督の芸術がどれほどの美を達成するかにあるのではなく、芸術というものが到達しうる高みにあった。

『アンドレイ・ルブリョフ』の監督は、彼のすべての作品において最も深遠な精神的緊張と究極的な実存的自己露出を目指していて、この目的と両立しえないものはどんなものでも拒否する覚悟があった。

3本のベルイマン映画を含む彼のリストは、監督としても観客としても彼の趣味をまぎれもなく映し出している。

しかし後者は前者に従属するものであるのだが。

彼のベストテンをまとめるやり方が示すように、このリストはタルコフスキーのお気に入りの映画のリストにとどまるものではない。

それと等しく、お気に入りの監督のリストでもある。


タルコフスキーとベルイマンの「選択親和力」は、大昔に気づかれていたのだ。

『サクリファイス』のはるか前のことである。

ところで、ブレッソンの映画は偶然リストのトップに来るのではない。

つまり、タルコフスキーはブレッソンを至高の創造的個我と見なしていた。


「ロベール・ブレッソンは私にとって、真のそして純粋な映画監督の模範です…

彼は芸術というものの高次の客観的な法則にしか従いません…

ブレッソンは自分自身であり続け、名声がもたらすあらゆる圧力に屈することなく生き残った唯一の人物です。」

リストに『街の灯』が不意に現れるのも同じように説明できると私には思われる。

タルコフスキーにとってもっとも重要なことは、作品が映画芸術として成功しているとか、それが哲学的洞察を提示しているといったことではなく、むしろ、映画監督としてチャップリンが成し遂げた自己実現の包括的な性質であったのだ。


「チャップリンはいささかの疑惑の影もなく映画史に刻まれた唯一の人物です。

彼が残した映画は古くなることはありえません。」


タルコフスキーのベストテン映画の本質は、作家映画の担い手としての自己を宣言するものにほかならない。
http://homepage.mac.com/satokk/topten.html

人生には幸福よりも大切なものがある…


アンドレイ・タルコフスキーは私たちの生活における精神性と芸術の占める位置について語る


主に彼の映画に対する興味から、また彼が西側にとどまると最近公式に決定をしたためでもあろうか、数多く集まった聴衆を前にしながら、タルコフスキーは自分の映画についてほとんど全く触れることもなく話を進めた。

その代わりに、彼は現代芸術の現況を分析し、近代社会の発達に関してコメントを寄せた。
そこに彼は非常に紛れもない「精神性の欠如」を看取しているのである。

芸術家タルコフスキーは、統語論にあまり気を遣わない。
彼の火のような気質(自分は性急な決定をするのは好まないと主張しているのだが)、彼の話しぶり−そこには芸術史の領域から引かれた多くの例にあふれている−彼の論旨のすばやい決めの見事さ、そしてその妥協を知らない鋭敏な精神はアインシュタインを髣髴とさせる。


2度にわたる講義の話題は、芸術祭の主催者によって決定された。

「黙示録」と「芸術家の役割と責任、1984年」と紹介されると、タルコフスキーはそれらに非常に個人的で興味深いひねりを加えた。

黙示録は芸術家としてのタルコフスキーにどんな意味をもつのか? 
彼は芸術活動をどのように見ているのか? 
また芸術家は近代社会でどんな役割を果たすのか?


自己中心の芸術は罪深い

ヨハネの黙示録は彼にとって「もしかすると史上で最も偉大な詩の作品」である。

無限に多い解釈を内包する映像の集積であり、人間に自分自身の生に対する責任を想起させるものである。

それは、罪に力点を置いたヴィジョンではなく、むしろ希望の源であり、それが映像の体系であるがゆえに、豊かな霊感の源泉でもある。

芸術家の観点から、黙示録は芸術的に非常に洗練された作品として出現する
(タルコフスキーは、7つの封印を破った途端に降りてくる沈黙に含まれる完璧な映像に驚嘆する)。

ところが、ヨハネのヴィジョンは、彼の講義全体の枠組みしか提供しない。
タルコフスキーはむしろ「芸術的才能」にその注視を集中することを選ぶ。
彼によると、「芸術的才能」は昨今、芸術家の個人の所有、その人格の一部と見なされがちである。
自分にふさわしいように統制支配できるものなのだ。


「この百年で、芸術家は精神性なしで何とかやっていけるという間違った結論に、人は到達しました。創造行為は突然本能的なものになってしまった。

その帰結として、芸術家の才能、天与の才は、芸術家を責任ある立場に必ずしも立たせなくなった。
そのために、私たちは現代芸術の大きな特徴となった精神的要素の欠如に至ったのである。」


タルコフスキーは「精神性」の正確な定義を与えないが、2つ目の講義で、この言葉によって彼が何を意味するのかについて、実際、いくつかの手がかりを提供してくれる。

タルコフスキーがドストエフスキーを「精神性の喪失と連関する問題を知覚した最初の作家」と呼ぶとき、この言葉は「信念、信じる力」の意味に近づき、それゆえに個人が恐怖を克服する手段に近づく。

ここで、精神性は純粋に形式的な芸術と対照的な位置にある。

「形式的な芸術」では「芸術家は形式の探求者、消費者に還元される。」


彼は続ける:


「この時代に、私たちはもはや芸術家の聴衆に対する態度に満足できない。
また聴衆の、芸術家とその作品に対する態度にも満足できない。」

個人の責任の問題は、タルコフスキーにとって最高に重要な問題である。
何度となく、彼は、人間の独自の自由意志と責任の重要性に注目を喚起する。

こうした価値が近代社会の発達で事実上存在しなかったと彼は思っているのだ。
近代社会の人間関係は共存する意志よりむしろ、恐怖に基づいているのだ。


私たちの精神的な発達は、これまでに生じたさまざまな変化についていくことが出来なかったし、そうする時間も与えられなかった。
これこそ、共同体の生存のために構築された集団で決定をする個人の不適切な可能性とともに、タルコフスキーが私たちの文明を邪悪であると断じる理由なのである。

彼はこう総括する:

「私は、皆様がご存じでない概念を、皆様に紹介しようとしているのではありません[…]

しかし皆さんの前でこうした問題について思索をめぐらすことで、私はこの過程の意義を知ったのでした。

皆さんが私に、これらの問題について考える機会を与えてくださったのです。
これは、独りでは出来ないことなのです。

「新しい映画を作る準備している間、それを何らかの独立した芸術形式、自由な創造であると見なすことは許されないことは私には全く明らかです。

むしろ、それは内面からわき上がってくるものを成就することなのです。

その場合、それは愉悦ではなく、むしろ苦痛に満ちた、もしかすると重すぎる義務なのです…

「芸術家が創造の過程でどれほど幸福な状態になれるか、私には理解できたためしがありません。

ひとは幸せになるために在るのではありません。

人生には、ただ幸福であるよりも、ずっとずっと高い目的があります。」


タルコフスキーは本や映画の登場人物の主張を作者自身に投影しない重要性を強調する。

この言葉は『ノスタルギア』の登場人物のひとりが話す言葉とそっくりである。

彼はこう付け加える:

「私が育った芸術は、それが自己表現でないときにのみ可能なのです。

私が他者から受け取ったものに焦点を定めたときにのみ可能なのです。

芸術は、私がそれを自分自身の目的に役立つように使うその程度に応じて、罪深いものになります。

そうすれば、私は、何よりも、つまらないものになりはてるでしょう。」

運命的な欠陥

タルコフスキーがさらに語りを進めると、ここまで触れられたさまざまな問題を彼がどのように理解しているのかが、浮かび上がってくる。

芸術祭主催者が課題として与えた話題は、「他者にそんなことを求めることは出来ない」とあっさりと一蹴される。

その代わりに、話は、全く異なる出発点から、もっと一般的に展開していく。

すなわち、芸術と私たちの生活におけるその役割という出発点からである。

ここでは、彼の言葉を追いかけたほうが良いだろう。


「芸術は、それに必要な精神的な内実を徐々に喪失する過程にあります。

芸術の目標という概念を失っているのです。

芸術は別の所に目標を求めています…

精神的クライマックスと社会的/経済的クライマックスの間に類似は存在しません… 私たちは精神性を失ってしまったのです。

私たちはもはやその必要性を感じません…
現代は、私たちの精神性を喪失するのにふさわしい時では、決してありません。」


芸術の商業化という問題、「大衆の趣味」に迎合する必要性を芸術家が肯定するという問題は、タルコフスキーの大いに懸念する事柄である。

もしかすると、もっとも大きな懸念かも知れない。

彼は経済の現状を忘れているわけではないが、それを自覚しているからと言って、「芸術は精神的な自覚を再確立させる巨大な責任を担っている」という彼の意見を揺るがすものにはならない。

精神的な自覚の欠如、それは、彼によれば、現代芸術が今ある危機の原因の一つとなっている。


彼自身の領域内で、タルコフスキーはある過程が作用しているのに気づいている。
その結果をタルコフスキーは災いと呼んでいる。


「観客は自分の望むものを得て、映画館に行くのを止めてしまいました。
もしかすると、観客はいわゆる商業映画に満足しなくなったのです」


タルコフスキー自身が、今起きていることの責任の一端を担わなければならないのか?

聴衆から笑い声が聞こえるのに、彼はさらに、万人に必ず罪があるその度合いだけ、自分にも明らかに罪があると言う。

それに続けて、「私の同僚も私も、芸術の真の目的が何か、あまりにもしばしば忘れてしまいがちです。時には、目標が仕事のキャリアの浮き沈みに左右されてしまうのです」

模範としてのイコン画家

「精神的」という言葉が何度も繰り返され、タルコフスキーがその言葉に託しているイメージが形をとりはじめる。

簡略化しすぎるリスクについて警告して、タルコフスキーは西洋(ヨーロッパ)芸術を古典的東洋(日本、東インド)芸術と比較する。


そこで、西洋芸術に、彼は、個人が自分自身、自己、自分の運命に心を奪われているさましか見えない。

それに対して、東洋には内向し、微妙なもの、ほとんど気づかれないものに集中する傾向があるという。


「私が言いたいのは、このタイプの精神性が西洋芸術でも十分に可能だということです。

自分自身を忘れること、自分自身を創造者として捧げること、犠牲にすること[…]それが芸術家にとって適切な道なのです。正しい態度なのです」


彼は、紀元1200年から1400年の頃のロシアのイコン絵画に言及して、自分の立脚点を明らかにする。

署名のあるイコンは存在しない。

芸術家は自分を芸術家と見なさず、神の僕と見なしていた。

芸術家は自分の才能を神の栄光のために用いるに過ぎなかったのだ:


「私が力説している大きな要素、それが誇りの欠如です」


「精神性」という言葉の使い方の背後に、一種の宗教的迷信のようなものが隠れているように見えるとしても、(ある質問に答えて、彼はあらゆるものには明確な理由があるという理念を強調した)タルコフスキーは芸術に含まれる精神性を、「生の意味といわれるものへの興味」と、総括したがっている。

最初の単純で明確な一歩は、自分にこの問いかけをすることである。

この問いが提起されない限り、ネコのレヴェルで存在しているにすぎない。

タルコフスキーはネコが幸福な動物であることを否定したくないのだが。

「何の目的のために私たちは生きているのか? 
私たちはどこから来たのか? 
私たちはどこへ行くのか?」

と問いかけることは、自分自身を意識することだ。

芸術家に必須の原材料であるかけがえのない人間的特徴を意識することだ。
そうしないなら、「芸術家でない、現実主義者でないということです。

最も重要な問題、すなわちひとりの人間を人間にしているものを観想することを拒否することだからです」


現代の不幸な風潮は、タルコフスキーによると、私たちが道徳的問題に関心を喪失した、自分自身以外のなにものにも信頼を喪失したという事実と関係している。

私たちは自分の(例えば芸術家としての)活動の結果として、ただちに金銭的な見返りがあると期待して生きている…

この風潮が芸術に影響を与えなかったわけがない、と彼は言う。


ところが、彼は、芸術家とは何か、芸術家は民衆にとってどんな存在であるべきか、に関して正確な定義をもっていて、

芸術家とは「民衆に精神的なものを供給するがゆえに、民衆に形を与える」ものだという芸術観に断固として反対する。

それどころか、タルコフスキーは芸術家を民衆そのものの内なる声の表出にすぎないと見ている。

これは、まず吸収から始まり、それから、(何であれ)媒介をとおして民衆自身に表現する能力が欠けているものを表出するのである。


「私にとって、これだけが、近代社会が芸術にどのように影響しているか、私たちが理解できる道筋なのです」

「現実主義」が「人間性に関する真実」を指し、人間の魂の生を描くことと関係しているという意味で、現実主義的芸術は、タルコフスキーによると、唯物主義のレヴェルに焦点を定める芸術ではありえない。

物質的側面を描くだけでは、「人間性の実質そのもの」を無視することになると彼は考えている。

「精神性の欠如は既成事実の開示にすぎないと言う人がいる。
これは私には乱暴で、文化に反しているものだ」

最後に、この講演で、主にこうした一般的な問題にこだわり、自分の映画にはついでに触れるだけであったタルコフスキーの目的は何だったのか?

「私が一番気にかけている問題が何なのか、私の映画を観る人たちが知ることは、私には大切です。
そうすれば、私たちはお互いをより良く理解できるからです」
http://homepage.mac.com/satokk/at_in_london.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー ―1985年3月、ストックホルム―
偉大なロシア映画の伝統ーエイゼンシュテイン、ドヴジェンコなど


Q: 偉大なロシア映画の伝統とあなたの関係は? だれがあなたの師ですか?


ところで、偉大なロシア映画とはどういう意味ですか?


Q: エイゼンシュテイン、プドフキン-


ああ、はい、はい-私には、ドヴジェンコとプドフキンのほうがエイゼンシュテインよりずっと重要です。


Q:『イワン雷帝』と『アレクサンダー・ネフスキー』の創造者としての?

一般的に言うと、です。

ついでに言うと、エイゼンシュテインはソヴィエト指導者、特にスターリンに完全に誤解された監督でした。

誤解されたというのはースターリンがエイゼンシュテインの仕事の本質を理解していたなら、エイゼンシュテインを迫害したりしなかったでしょう。
これは私には完全な謎です。

どういうふうにそれが起きたのかは知っています、或る程度なら分かります。
エイゼンシュテインは才能豊かで、完璧な教養人でした。

当時あれほど教養のある、あれほど知性に恵まれた映画監督はいなかった。
当時の映画は若造が作っていました。

典型的な例として、独学で、正式教育は受けたことがなく、革命から映画になだれ込んできた連中です。


Q:しかしほとばしる情念というものがありました-


ええ、そうです。情念がありました-
革命のパトス、未来への希望、建設的な文化の変容-一般にそれはよいものでした-
エイゼンシュテインは少数者でした、もしかすると彼だけかも知れませんね、伝統の意義を評価していたのは。

彼は、連綿と続くもの、文化の継承が何であるのかを知っていました。
しかし彼はそれを吸収しなかった、心に吸収しなかった。

彼は知的でありすぎました、彼は恐ろしく合理主義でした。
冷たく、理性だけで、計算し、監督しました。

彼は自分の設計をまず紙上で試しました。計算機です。
彼はすべてを描きました。

フィルムのフレームを描いたという意味ではありません。
すべてを考え尽くして、そのすべてをフレームの中に詰め込んだということです。

彼は生そのものから描いたのではなかった、生は彼にいささかも影響しなかった。
彼に影響したのは、彼が作り上げた理念でした、
それが変容して生まれた何らかの形式でした。

一般に、すっかり生気の失せたもの、鉄のように硬直したもの、非常に形式的で、乾いて、感情を欠いたものでした。

映画形式、その形式的特徴、撮影、照明、雰囲気ー何一つ彼には存在していなかった。
すべてが考えぬかれた性格を帯びていました。

絵からの引用であれ、その他の技巧を凝らした構成であれ、そうです。

これは或る意味で、合成的な映画の典型的な概念でした。

そこでは、映画が視覚芸術、絵画、劇場、音楽、その他なにもかもの統合として出現しますー
ただし、映画そのものはそこにはなかった。

こうした部分の総計がこの新しい芸術になるとでもいうかのように。


穏やかに言ってもーそれは巨大な誤解です。

映画は、それを他の芸術と分ける独自の特定の性格によって、支配されているからです。

エイゼンシュテインは彼の芸術によって、いわゆる固有の映画芸術を表現することに成功しなかった。

彼はすべてのものをちょこちょこと利用しましたが、映画に固有であるものには気づかなかった。

もし気づいていたなら、これまでの芸術類型を削除し、捨てて、映画に「映画」だけを残したことでしょう。

Q:でも、メキシコを扱った映画がありましたね-

ええ、あの映画は国外で見ました。

私にはとても弱く、稚拙に思えますー

演技も、性格の発展も、舞台状況も。

見せ場に乏しい芝居、恐ろしく稚拙なデザインのポスターです。


しかし『イワン雷帝』を例にして考えてみましょう。

この映画の第1部が、ご存じのように、なぜ共感を呼んだのか、私には皆目分かりません。

第2部は猛烈に非難されたのに、第1部は賞讃されたのです。
なぜでしょうか? 私には理解できません。


恐怖の正当性についても彼は話していますね。
特に、貴族たちの首をばさばさ刎ねる残酷シーンです。

エイゼンシュテインはこの映画で独裁制の強化の味方をしています。
中央集権権力の強化です。

目の見えない人にでもこの映画のテーマは明らかです。
ところが、金とメダルをエイゼンシュテインに浴びせるかと思いきや、突然彼らはこの映画のためにエイゼンシュテインを迫害し始めたのです。

まったくの謎です。


それからエイゼンシュテインは次の映画『ベジン草原』を作ります。
『アレクサンダー・ネフスキー』のことは言わなくてもいいでしょう。
何もかも明白だからです。社会の期待を満たしたいという願望が明白です。

Q:その映画は知りません。


知らないってどういう意味ですか? 
エイゼンシュテインについて訊きたいなら、当然知っているべきでしょう。
彼は1920年、30年代のヒーローです。

集産主義の時代です。彼は少年でした。
パイオニア[ボーイスカウト]であった生徒です。

そして彼の不運はクラク一家の出身であることでした。
彼は、どういえばいいのかな、ソヴィエトの聖人のような存在になりました。
血のつながった両親をその筋に告発したのですからね。


Q:ああ、それなら知っています、パヴリク・モロゾフですね。


ええ、そうです、彼のことを言っているのです。

Q:でもその映画のことは知らない。


彼こそ、その映画でエイゼンシュテインが聖人、犠牲者、神聖な犠牲者、理念のために命を捧げた殉教者として提示した人物です。

エイゼンシュテインは自己を喪失しかけています。

突然彼は崩壊の瀬戸際にあるようです。私には理解できません。

何もかもが退歩しているようです。

彼は、当時ひろがっていた、そして後に支配的になった理念を強化する可能性を探していたのです。

ところが突如彼らはそれを拒絶したのです。

ただ-これは言っておくべきでしょうーこの映画の歴史はこうです。

エイゼンシュテインが撮影を始めると、彼の友人達、同僚たちは権威筋に、エイゼンシュテインが反ソヴィエト映画を作っていると警告したのです。
形式主義で反ソヴィエトで、うさんくさい神秘主義を混ぜ合わせて、といったようにです。

驚いた映画局はこれをスターリンに報告しました。

ここには計算があった。

スターリンは、現物をクレムリンに持ってくるように要求しました。
彼は素材を見ました。

何かが燃えている、樽が2階から転げ落ちてくる、当然ですが、富農が火をつけたコルホーズの産品を救おうとしているのです。

樽は出火した小屋から転げ落ちて来ます、1度、2度、3度と、クロースアップで、ロングショットで、ハイアングルから、ローアングルから-しばらく経つと、スターリンは我慢できなくなった。

こんなスキャンダルはたくさんだ! 

彼は部屋を出ていった。

私の見方からすると、エイゼンシュテインは、ソヴィエト映画の最も偉大な理論家であり映画人なのですが、自分の同僚たちによってつぶされたのです。

私は連中を知っていますからね、あの果てしのない会合で彼を形式主義とイデオロギーの逸脱で告発していた人たちと会ってましたからね。

大声でわめき、彼から自己批判を求めました。

私は彼らを知っています。このテーマで彼らと話をしました。

第20回の総会の後、すっかり別人に見えましたね、彼を弁護する同僚として出てきて、エイゼンシュテインについておとぎ話をして、自分が彼の友だちだと主張しました。

そうやって彼らはみんなでエイゼンシュテインを足蹴にしていたのです。

おおかたの連中がそうです。
直接本人から聞いたので、このことはよく知っています。
ええ、これが真相です-非常に不思議な実話です。

Q:で、ドヴジェンコは?


確かに、ドヴジェンコは私の心に一番近い人です。
なぜなら彼は誰よりも自然を感じていたからです。

彼は実際大地に密着していました。
これは私にとって一般にとても重要なことです。
もちろん、ここで私はサイレント時代からの初期のドヴジェンコを思い浮かべていますー
彼の存在は私には大きかった。
とりわけ、自然の霊化という彼の思想を考えています。
この手の汎神論のことを。

或る意味でーもちろん文字通りではありませんよー
私には汎神論に非常に近い感情があります。

汎神論はドヴジェンコに強い影響を残しています。
彼は自然がとても好きでした、自然を見てそれを感じることが出来たのです。

これは私にはとても意味のあることです、私はそれをとても重要だと思います。


結局、ソヴィエトの映画作家は自然を全然感じることができなかったのです。
自然を理解しなかった。

自然は彼らとちっとも共鳴しなかった。自然は無意味だったのです。
ドヴジェンコは、この空気から、この大地から、この生から映画の映像を引き裂かなかった唯一の監督でした。

他の監督にとってこのすべてが、或る程度自然な、背景、硬直した背景にすぎなかったのです。
それに対して、ドヴジェンコにとってそれは欠かせないエレメントでした。

彼は自然の生と結びついていると内的に感じていました。

Q:最近だと、自然に繊細な感覚をもった芸術家、自然を感じている芸術家は、『赤いカリーナ』のシュークシンでしょう。


あー、そうですね-もちろん彼は自然を感じることが出来た。
田舎育ちだから、自然を感じて理解せざるを得なかった。

確かに彼は自然を生きた。
しかしドヴジェンコはそれを見せる能力があった。

シュークシンは全然見せられなかった。

せいぜいその存在を推量できるだけだ。
彼の風景には芸術性が欠けている。

時には月並みな風景で、まるで偶然のように映画に入ってくる。

しかしドヴジェンコは風景に大いに関心を払いました、自然に自分自身を見いだそうと努めました。

あなたはロマン派ですか?


Q:作品をロマンチックと呼ばれるのに同意されますか?

いいえ、呼ばれたくありません。

Q:でも、あなたの作品には自分のアイデンティティ、絶対の価値を探求するロマンティックな旅のように、反復されるモチーフがあるのですが。世界の聖化、出来事の聖化、神話化の探求です。最後には、芸術家が表現すべき精神文化の原型的な純粋さへの信頼があります。これらに現れる精神はとてもロマンティックです。

見事に表現されましたね、でも私の印象では、あなたがここで特徴づけたものは全然ロマンティックではありません。

あなたが今述べられたことはロマン主義とまったく無関係です。

私が思うにロマン派は-ロマン主義という言葉を聞くと、私はすくみます。

なぜならロマン主義は試みだからです-いや試みですらない、それはある世界観の表現法です。

人が現実の出来事に、現実世界に、現実以上のものを見る、そんな現実の見方です。
ですから、聖なるものとか、真理の探求とか言われるとーそれは私にとって-

Q:ロマン主義ではない?

ロマン主義ではありません。

なぜなら私は現実を現実以上に大きくしないからです。

私にとって現実は一般に私がそこに見いだせるものよりもずっと偉大である、私が知覚できるよりもずっと深く、神聖であるからです。

ロマン派は人生が目に見えるよりも、すなわち彼らが推量しているよりも、ずっと豊かだと考えました。人生はそれほど単純ではない、人生には深みがあると信じました。
私たちがエキゾティック、形而上学と呼ぶもの、私たちの認識をそれ自体逃れるもの、知では把握できないものがたっぷりあると信じました。

彼らはそれを推量して、それを表現しようとしています。

例を挙げましょう。

オーラが見える人がいます。
人体をとりかこんでいる多彩な輝きが見える人がいます。

そういう人たちはある種の感覚をたいていの人よりも高度に発達させています。
この前そういう人とベルリンで話をしました。中国人でした。

治療してくれるんです。こちらの状態を完璧に知っているのです。
どう感じているのか、何が問題なのかーそういうことのすべてがオーラに見えるのです。

Q:その現象はキルリアン写真で確認されました。


そうです、これらの実験はそれと関係していますー

しかしそういう人はその眼でこのオーラが見えるんです。

ロマン派はそれをでっち上げようとしましたがね、それが存在するはずだと推測しましたがね。

詩人はそれが目に見えるのです。

こう言われますか? 

しかしロマン派にも詩人がいた。
もちろん、私はそれを否定しませんよ。

私の憧れのホフマンがいた、レールモントフ、最も深い詩人のひとり、途方もない詩人チュチェフがいました。

多くの詩人がいました-それは事実です。

しかし彼らをロマン派と呼べるでしょうか?ー
彼らはロマン派ではない、絶対にロマン派ではない。

ホフマンはロマン派でした。

ですから、ロマン派と言われると-明らかにーこうした芸術家によって利用された形式が一種仰々しく、拡大されて、美化され、高尚になっている。
生は十分に美しいと私は思います。

生には十分の深さと霊性があります。
だから、何も変える必要はありません。

私たちこそ、精神的な意味で、自分の発達に気を配るべきなのです。
現実を美化したりしないでね。

ですから、このロマンティックな装いは人間の内面に信念が欠けていることから生じるのです。

あるいは自分の想像の産物への信頼が欠けているのです。

Q:それは唯我論です。


そうです。
私個人にとって、ロマン主義は、あるいは、少なくともその重要な要素のひとつはまったく異なるものに思えます。

ええ、ドヴジェンコは非常に上手いことを言っています。

「泥沼にも星が映っているのが自分には見える。」

この種のイメージを私は完璧に理解できます。

しかし、もし誰かが自分には「天国の星の天使軍」と、飛び回る天使が見えると言ったら、それは消毒済みの、寓意的形式でしょう。

現実からほど遠い、完全に真実でない。

しかし、それが鍵でしょう、ドヴジェンコはそれが見えたのです。
彼は詩人でしたから。

彼にとって生はずっと十全なものでした。
霊性に満ちたものでした

得たいの知れないところに単なる付録を、自身の創造的活動に補足するものを、現実に探し回っている人々とは違いました。

ロマン派にとって生は創造する理由を提供しますが、詩人にとって創造は必然なのです。

なぜなら彼の内部ではまさに最初から霊性が生きていて、創造を彼から求めているからです。

このように、芸術家、詩人はーロマン派と違ってー自分が神に似た存在になることを、誰よりも理解しているのです。

それは論理的なことです。これこそ創造力が出来ることです。

まるでこの能力が最初から想定されているかのようです。
それは人間のものではありません。

一方ロマン派は自分の才能に、自分の創造的活動に、特定の美をいつも見いだそうとします。

Q:あるいは至上命令を。

至上命令を。上手い。ここで私はあなたと完全に同意します。

Q:ポーランド語に"wietszcz" という言葉があります。例えばアダム・ミツキエヴィチは国民の"wietszcz" だったと言います。予言者、国民の前に隠された真実を啓示した見者だったと言います-


ええ、ええ、そうです。それがロマン主義でなければね。

Q:どのようにでしょうか?

プーシキンもまたそんな人物でした。

後には多くの芸術家もそうでした。彼らは今日でも存在します。

彼らは仕えている-私が信じるに、ロマン主義はー狭義においてー芸術家が自己崇拝に酔いしれたとき、自分の芸術で自己を創造するとき、姿を開示します。

それは私が大嫌いなロマン主義の特徴です。

この自己肯定もです。
この果てしない自己提示は彼の芸術の結果ではありません、その目標なのです。

これは私にはあまり好ましくない。

一般にこういうのが私の好きでないロマン主義です。

ものものしく、恐ろしくもったいぶって、もったいぶった絵画、もったいぶった芸術概念などなど。

シラーのように主人公は2羽の白鳥に乗って旅をする。

ご存じですか? 

あれはキッチュです。キッチュ以外のなにものでもない。

ところで、ロシアでは、またポーランドでもそうだと思いますが、ノヴァーリスや、クライスト、バイロン、シラー、ワグナーのように、自分のことをべらべらしゃべりたがる芸術家はいなかった。

Q:しかし、それはロマン的な個人主義です、ロマン主義の主な際だった特徴のひとつです。

それは自己中心主義です。

「私にとってこれ以上何があるだろうか?」という制限の中でしか考えない。

恐ろしい仰々しさです。

自分を宇宙の中心に据える欲求です。

その対極は別の世界です、東洋的と、東洋文化と、私が思う詩の世界です。

例えばワグナーの音楽を例にしましょう。
あるいはベートーヴェン、どうかな?
ーそれは自分自身についての果てしない独白です。


つまり、見よ、何と自分は貧しいんだ、ぼろをまとって、なんて惨めなんだ、ヨブのように私は悲惨だ、何て不幸なんだ、何たる苦悩ー余人とは比較しようがないー私は神話のプロメテウスのように苦しんでいる-そして私はこのように愛している、私は-お分かりですか? 私、私、私、私。ー


それほど前じゃないですね、私は紀元前6世紀の音楽をじっくりと聴きました。
古代中国の儀礼の音楽です。

それは、個人を無に、自然に、宇宙に、絶対的に消滅させます。

それは質的に対極です。

芸術家が芸術作品に自己を消し去るとでも言うのでしょうか、芸術家自身が跡形もなく消え去るとき、その時、それは信じがたい詩になります。

魔法のような日本の精神性


まったく魔法のような例を引用しましょう。

中世の日本には多くの絵師がいて、彼らは将軍家に庇護を見いだしたり、大名のもとにとどまりましたー当時の日本は多くの藩に分かれていたのですー

そして、こうした絵師は優秀な芸術家でした、高い評価の芸術家で、名声の極みに達していました。

で、そこまで到達すると、彼らの多くは突然姿を消す、どこかへ行ってしまう。

姿をくらまして、全くの別人として、別の名前で、別の殿様の家中に再び現れる。
彼らは宮廷絵師のキャリアを、それまでと全面的に異なるスタイルで仕事を創造して、一から始める。

このようにして彼らの中には一生で人生を5つも6つも生きたのでした。

Q:謙虚さ-


これは謙虚さではありません。

謙虚さとも呼べるでしょうが、私はむしろ別の言葉を使いたいー

私にはそれはほとんど祈りのようなものです、私自身の「私」が、何の意義ももたない祈りのようなものです。

私に賦与された才能は天の高みから与えられたものなのでーもし私が本当にこの才能を与えられていたとするなら、ですよー私は傑出しているでしょう。

で、もし私が傑出しているなら、私はそれに仕えねばならないという意味です。
私は奴隷です、宇宙の中心ではありませんーこれはまったく明らかです。
あなたは適切にも謙虚さと言われましたが、これは謙虚さよりもずっと重要なものです。

Q:ここで私たちは『アンドレイ・ルブリョフ』に近づきましたね-


確かに。彼は何と言っても宗教的な人間でした、僧でした。

映画監督であること

Q:これは実際、絶対的に根本的な問題です。ここで、お許しをえてーちょっと挑発させてください。ご意見を伺いますー今日、この時代に、芸術家、監督は予言者なのでしょうか? 約束の地に民衆を導くモーシェなのでしょうか? あるいは自分の使命を果たす、「大文字で書かれた」道徳家なのでしょうか? あるいはもしかすると、自分の商品を売りさばく職人なのでしょうか? あるいは「精神貴族」なのでしょうか? あなたは、人々の物質的なものへのこだわりを、ささやかな消費者の喜びを、苦々しく思われてはいませんか? 民衆が悔悟者の粗末な衣をまとっているのを見たいと思っておられるのでは?


これらの側面の幅広さを制限するために、この問いを一般的な展望から、そして同時に根本的な展望から考察するのが良いと思います。

つまり、ここで、芸術家の一般的な働き、役割、社会での位置をざっと描いてみましょう。

当たり前ですが、私は、何よりもまず芸術家は彼が生きている社会の内側で熟しつつある理念を表現するという見解をもっています。

単純に言うと、芸術家は、社会そのものが懐胎している理念を表出する、一種の媒介のように見えます。

しかし社会は芸術家ではありえない。

芸術家もまた結局一個人です、1つの人格です。

つまり、芸術家は、その国の声である、その産物であると判明するがゆえに、国家を人格化したようなものです。

そして時には、国家、民衆、社会がこの芸術家を受け入れないということすらあります。

時には追放します。時にはまったく理解しない。

ずっとずっと後になってはじめて評価が得られるのです。

しかしそれは重要ではありません。次の意味でしかないからです。
彼らは自分自身を知らないのだ。彼らは自分自身の問題を知らないのです。
そのために、芸術家は自分の文化、自分の文化、自分の民衆に決して対立することはありえません。

どんなこともあろうとも、敵対することはありません。

現在の社会が容認しがたい理念を含む思想を表現したときですら、こうした理念が内部で、その社会の内側で発生しなかったという意味ではないのです。

社会はこうした問題に気づく時間がまだ足りなかったというわけです。
一般に芸術家もそうした問題を意識的に自覚するわけではありませんー芸術家は表現するだけです。

芸術家はそうした問題を感じることが出来るのです。

それはまさに、芸術家がそれらを表現できるがゆえに、そうなのです。
芸術家は時代を超えた叡智を必ずしも持つ必要はありませんが、より多くを感知できるからなのです。

芸術家は自分が何を言っているのか理解していないことがよくあります。
子どものように、大人の後から言葉を繰り返します。

子どもは何も理解せずに繰り返し、大人はこう言います。

「おやおや、この子は何を言っているんだ?
 聞いたかい。あっちへ行きなさい! 向こうへ行きなさい!」

大人は子どもをぶったりする。

子どもが家で耳にした言葉を繰り返しただけで大人は子どもを叩きます。
子どもはそういう環境で育っただけなのです。
手短に言うと、こうでしょうか。

「芸術家の役割は、その民衆の声であるべきことだということですー
いや、「あるべき」ではない、こう「あれ」と言うことは出来ない。

自分に向かって国家の声「であれ」と言うことは出来ない。

単純に芸術家は民衆の声である。そうです。


当然、ここには問題があります。

もしあなたが民衆の声であるなら、民衆があなたに求めることだけを言わねばならない。

しかしここに問題がある。

民衆はあなたに何も求めない。民衆は誰にも何も求めない。
自分には何かが求められている、何かが期待されているかのように行動するのが芸術家なのです。

もちろん、民衆は期待していますよ。しかし、無意識に、です。

まさに、この大衆、民衆への義務、生きている時代の名において、芸術家は自分のために創造するのではないということをいつも心に刻んでおかなければなりません。

しかしー自分のために創造するのではないのだが、芸術家は自分が親密に感じられるものだけを表現すべきです。

ここでも、結果的に、自分の心に身近な理念、創造的な仕事のいくつかの位相が、誰にも必要とされていないこともあるかも知れない。

しかしこの場合にもあなたには権利がない-ここでもあなたは無力です。

まず、人々があなたを必要としていたのかどうかが明らかになるのに、100年はかかる。

こういうことは、自分の生きている時代に確信をもって言えないことですね。

社会にも役立ち、同時に真実を全うするというのはとても難しい。

誰も必要としないなら、自分の作品の有用性に自信をもつのは困難です。

それにもかかわらず、正しいと思えることをやるということです。

時が教えてくれるでしょう。

努力をした時点で自分の努力を判断することは誰にも出来ないからです。

だから、芸術家はこうすべきだ、こうしてはいけないと言って、芸術家を道学者にしようとする試みは私は大嫌いです。

芸術での位置づけを採ってー右だ、左だーこれは全くのナンセンスです-完全に無意味です。

芸術家が政治的な意味で誰かの支えになれるのは、ずーーーーーっと、ずーーーーっと後になってからです。

死後随分経ってからです。
本か映画だけが生き延びているときです。

こんな具合です。

「彼が何を言っていたか見てみようー私たちと同じ事を言ってるだろ」

そして、やがては、たとえばその次の年には何もかもが変化し、その芸術家が全然別のことを言っていたと分かる。

それで、それは別の人、そのまた別の人の関心を惹く。

手短に言うとー芸術家には権利がない。

いや権利がないというのではなく、芸術家がすでにそうであるよりも、さらに人々の欲求に近づく道具を芸術家は何ら持ち合わせていない。

神が自分に結局は国家が必要とする存在になる可能性を授けたもうと信じることしか出来ません。

成功しようがしまいがーこれは芸術家が知らないことです。

当面知り得ないことです。

こうした高所から見ると、映画芸術はとても危険な芸術です。

なぜならただちに成功することを期待されるからです。

Q:時間がない


時間がない。すぐに成功しなければならない。

だから、非常にしばしば、映画製作者が成功したからといって、その内面世界がいわば時代と同時代に、同時代の問題にーそして人々にーふさわしいとは言えないのです。
こう言いましょう。

Q:ちょっと質問したいのですが-

いいですよ。でも私はまだ先ほどの質問のどれにも答えていません。
ですから、この件に関してもう一つ言っておきたいと思います。
あなたは予言者と言う。どういう意味でしょう、予言者というのは?
 
ドストエフスキーはよく予言者と言われる。
ええ、そうです。そう呼べるでしょう。

Q:彼にはそうした責任があった。予言者としての果たすべき責任が。

ええ、しかしプーシキンも予言者としての責任があった。

ご承知のように、自分でそのことを書いているー『予言者』で、この壮麗な詩は心にしみこみます。

しかしあなたは正しい。まったく正しい。

もちろん、予言者です。芸術家は予言者です。

祖国では受け容れられない予言者のようなものです。

それでは、プーシキンを例にとりましょう。

彼は詩人でした。その小さなサークルでは人気があった。

そして、友だちの中でもー同時代の人の場合はもちろんー「彼は天才だ」と言う人はそれほど多くなかった。

彼は詩人にすぎなかった。プーシキンという詩人。

誰も彼のことを、今日の私たちのように、天才だと言ったりしなかった。

ショパンがエチュードを作曲したとき、彼はただの音楽家だった。

しかし今日耳にするのは、彼は祖国の魂だ、あれは独創的な天才だーその詩心と精神構造の繊細さを考えるとーヨーロッパ文化で彼に肩を並べる者はいない、あれは途方もない天才だ。

お分かりですか? 

彼が生きているときには-友人仲間しかいなかった、ジョルジュ・サンドやいろいろな人たちです。

Q:それが生、生そのもの。

生そのもの、より優雅かもしれないが、たいてい恐ろしい、難しい。


だから-いや、ドストエフスキーのことを話しましょう。

最初ドストエフスキーはあの-ベリンスキーにトップに持ち上げられた、やがて彼を攻撃することになるベリンスキーによって。

あのひどいベリンスキーー私の見方からすると、ですよ。

簡潔に言うと、詩人のだれかの未来の位置を誰にも予言できません。
もちろん彼が予言者、民衆の声であるなら、もし内的な精神的な本能を保持しているなら、民衆の精神的な高みを人格化しているなら、祖国の魂であるならーそのときには明らかに彼は予言者にならざるをえない。間違いなくそのはずです。

芸術家と民衆との関係


予言者は何でしょうか? 

予言者は民衆の作品です。民衆の創造です。

それは芸術家自身が結果である、芸術家は、芸術作品が創造されるのと同じように、創造されるということです。

神が国家を創造したように、国家が芸術家を創造し、芸術家は自分の作品を創造する。
もしかすると、神とシェークスピアについての、ボルヘスの優れた短編をご存じでしょう-

Q:『全と無』だと思いますが。

そうかも、タイトルは忘れました。
とにかく、そこで神はシェークスピアに、シェークスピア自身が作品を創造したのと同じやり方で、神がシェークスピアを創造したのだと告げます。

全作品が同じ精神的な力に浸透されています。

だから、予言者としての使命が芸術家の双肩にかかっているという現実を否定することは出来ません、どうしても出来ません。

しかしどうやれば、自分の胸を叩いて、まわりの者に「私は予言者である」と告知できるでしょうか?

 そんな芸術家がいたことを私たちは知っています。また沈黙を守った者も。
プーシキンは自分が天才で予言者であるとは一度も言わなかった。

『予言者』という詩を書いていますが、彼自身は-

Q:しかし、私たちは芸術家の社会的な働きを念頭においていませんでした。予言者の責任ということでした。あなたの映画の人物は-

私は社会的な働きを話しているのではない。

私が話しているのは、芸術家の理想の追求についてです。

なぜなら理想がなければ芸術家は存在できないからです。

そしていわゆる理想は到達不可能なのです。

だから芸術家は実践的な意味では役に立たない実体なのです。

芸術家はいつも理想のことであれこれ頭を悩ましています。

そして理想は具体的なものではありません、いかなる方法でも利用できないものです。
私の見解では、これが現代社会のドラマです。

現代社会は芸術家を実用に応用することを要求します。

このように芸術家を利用しようとすると、芸術家はオモチャのように壊れてしまう、破壊されてしまう。何も残らないーこういうことがマヤコフスキーに起きたのです。


Q:なぜならマヤコフスキーは「声」だったから。

なぜなら彼は声だったから。

その声の響きを彼らは力ずくで指導したかった。

彼に「社会の要求」を提示していた人々、彼らは民衆の声がどのように響くべきであるか「よく知っていた」。

こうして彼らは芸術家、どの芸術家にもある最も神聖なものを奪っていった、つまり誠実さを、そして自分でこの声に耳を傾けるということを。

彼に指示を出した人々はこう言うでしょう

「私たちは、この声が何であるべきか、知っているが、君は知らない」

彼らは芸術家から、その働きを奪い取っていった。
彼を盗用し、破壊していった。

私たちが責任というとき、それはこの意味なのですー

あなたは「精神的な貴族制」と言う。

まずーどんな種類の貴族制を念頭に置くのか、はっきりさせましょう。

貴族制、精神的な状況、芸術家の状況-何が芸術なのか? 

傑作とは何か? その意味と条件とは何か? 

傑作は人間精神の偉大さを表現します。

この精神が追い求めている理想を表現します。

これが民衆の隠された期待と欲求の反映であることにはすでに言及しました。
もしそうなら、私たちは一種の頂上、絶頂について話しているのです。

そして頂上と絶頂について話しているときに、私たちは芸術作品によって表現されたこの理想に接近できるのか、この理想に到達できるのか、それを問うてもいるのです。
私たちはこのようにして、この現象の特徴である独創性について語っているのですー
これでいいですか?

Q:はい。

私たちは何かしらの偉大さを話題にしています。

そしてその現象が真空によって囲まれているときにだけ、偉大さについて語ることが出来ます。

絶壁や谷間があるときにだけ、雪をかぶった峰の頂を語ることが出来る、違いますか?

Q:しかし-

ちょっと待った。
だから頂上と谷間の間には違いがある。

もしそうなら、そしてもし頂上が芸術作品に保存された魂の内的な向上を象徴するなら、この独特の現象は、ひとの霊的な発達を引きつける、招き寄せ、呼び起こし、可能にするために生み出されたという意味になる。

そして、もしそうなら、誰かを霊的に発達させるために呼ぶ覚ますことが必要であるなら、彼はまた霊的な発達の比較的低い段階にいてはるか遠いところにいるという意味になる。

頂上にある芸術作品、傑作に対して、です。

自分の民衆の潜在可能性にすべてを反映させるとき作家が頂上にいるのに対して、です。

Q:定義では。

そうです。それはどういう意味ですか? 

こうした傑作、私たちがすでに、定義したそれらの機能は、追求すべき理想として現れますーこれはすでにある種の貴族主義、例外性、低いもの、魂の欠けたもの、悲惨なもの、それらのすべてを超越して精神的に高く上昇することを暗示しています。

大衆を超越して、暗愚を超越して舞い上がった民衆の精神が存在しています。

プーシキンは暗愚さを民衆と区別しました。

私たちはこのことをよく承知しています。

彼は、暗愚さについて書いています、ついでですが、そこには貴族と廷臣も含まれています。

当時『ボリス・ゴドゥノフ』で民衆について書いていますー

民衆は口を閉ざす-ーそこに特別な意味を与えています。

霊能力です、民衆が歴史の神秘に参入するのを可能にさせる霊能力です。
彼はそれに精神性の特徴を賦与しましたー高次の内的な叡智の特徴です。

簡潔に言うとー霊的な貴族主義と言うとき、芸術は低地を見下ろしてひろがる丘陵地帯のようなものです、芸術が自ずと貴族的なのです。

しかし社会学的なあるいは歴史的な意味で貴族的なのではなく、言葉の霊的な意味で、そうなのです。そうでなければ、芸術は存在しないでしょうー

もし芸術が、高次の霊的なレベルを追求する表現でないならば、芸術は存在しません。


Q:私の印象ではーもしかすると間違っているのかも知れませんがー西側の観客を話題にされるとき、あなたの言葉の調子はとても厳しくなりますが。

それほど厳しくないですよ-

それは西側の観客を批判しているのではなく、むしろ西側の観客がいる状況、西洋の文化状況を批判しているのです。

例えば、ロシア人にとって、今でも文化と芸術作品は必ず、ある種の霊的な、神秘的なーお好みならばー予言的な意義を担ったものです。

これと似た文化理解がポーランドでもずいぶん発達しました。
こちら側、西側では、文化は昔から消費の対象になりはてた。

消費者の所有物です。

彼らにとって文化とは何なんでしょうか? 

文化は私が持つことが出来るものです。
私が自由であることの結果として、です。

では自由とはどういう意味でしょうか? 
私はこちら側のだれもが持つものを持って自由である。

文化は西側に存在しているのでしょうか? 存在しています。
こうして私は文化を利用する権利を持つことが出来るし、持っています。

これはどういう意味でしょうか? 

私は持つことが出来る、とは?
 
ええ、ただー物理的に、功利的にー私は持つことが出来る、ということです。

ちょっと立ち止まってこう考えるなんて思いも寄らないでしょう。

「そうです。あなたはその文化を持つことが出来る。しかしあなたはそれを消化できるのか?」

ゲーテを例にとりましょうー

あなたは『ファウスト』を読むー

しかしあなたはそれを読むことが出来ましたか?

そりゃあ、所有すること、購入することは出来ますよ。
『ファウスト』を買いに行けばいいんだから。

ただしゲーテの『ファウスト』を買うことは出来ないでしょう。

むしろ映画館に行って、スピルバーグの映画を観るでしょう。
本屋に行くなら、漫画かベストセラーか、何か必読書を買うでしょう。

それでおしまいだ。

トーマス・マンは買わない。ヘッセも、フォークナーも、ドストエフスキーも買わない。

ええ、そういうことです。

何だって買える。

しかし文化を吸収するためには、作品を創造している芸術家自身の努力に等しい努力をしなければならない。

こんなことは、そういう消費者には思いも寄らないでしょう。

ちょっと行けば買えるんだ。金さえ払えばいいのさ。こう考える。
これこそ精神性の欠如の結果です。

芸術が貴族的であるということすら思いつかないでしょうー
言葉の霊的な意味でですよー繰り返しますけど。

別の意味で使うのを神が禁じたもうのです。


エリートの芸術だと連中は言う。

エリートとはどういう意味ですか?

 芸術は、万人が芸術を理解できることを、包括理解できることをいつも期待しています。

その瞬間を待ち望んでいます。

あらゆる芸術作品がこの目的のために創造されているのです。

しかし彼らはこういう。

これはエリート主義だ。なぜならすぐに理解できないから、と。

しかし理解できないというのはどういう意味でしょうか?
 
ありえない、芸術では-良い本を読むことは良い本を書くのと同じくらい難しいとゲーテは言っています。

その意味は、作家の狙いを理解するために人はある種の精神的な仕事をしなければならない、ということです。

繰り返します。

創造的な芸術家は、その民衆と敵対する者ではありません。
民衆に奉仕する個人なのです。

Q:あなたの言い回しを使わせていただくならーそういう観客はあなたの映画にいたる道にまだ足を踏み出していないと言えるのでしょうか? この旅が彼らを待ち受けていると言えるのでしょうか?

私の作品に対する観客の反応を私は密着して追跡しないので、それが本当かどうか、私にはとても分かりづらいです。

私が知っているのはただ1つです。

私の映画は、随分苦労して、ソヴィエト連邦で観客を見いだしていきました。

一作ごとに観客が増えていき、最終的には最後の2作の場合、チケットを入手するのが文字どおり不可能だった。

ゴスキノの経営陣は私の映画が人気があると気づくや否や、配給を引き上げました。
ただちに引き上げました。

最初彼らは、私の映画がこけると思ったから、封切りを許したのです。
こけなかったら、途端に上映をやめさせました。

Q:全作品がそんな扱いを受けたのですか?


今言っているのは最後の2作、『鏡』と『ストーカー』です。

これは計画通りでした。

この道は困難な道でした。
なぜなら私に出来ることは1つしか残されていなかったからです。

正直になり、自分に近しい事について自分の声で話すことです。
観客もまたそういうものとして見てくれるだろうと望みました。

最初、そういうやり方に観客は反発を覚えたようですが、徐々に観客数が増えてゆきました。

非常に不思議なことがあります。

ー不幸にもーソヴィエト連邦を出国しようとした頃、私の観客は非常に若い人たちでしたー16,17歳の若者ですーそして彼らは私を理解したのです。

とにかく私の映画を理解したのです。

「理解した」とはどういう意味でしょう? 
彼らは私の映画を受け容れたということです。

或る意味で私の映画は彼らの世界だったのです。私はそれでとても幸せでした。
しかし一般に私と同年代の人々はこれらの映画と情緒的に近しいと感じることがなかった、若者ほど、気持ちが近いと感じなかった。

これはとても不思議です。説明する気はありませんよ。


同じ過程が西側でも起こりました。
例えばロンドンで、確か5回、とにかく複数回、私の映画の回顧上映が行われました。
最後の上映は、さほど前じゃありません、1月ほど前ですか、ものすごい長蛇の列でした。

これは何でしょう? 

彼らは理解したのでしょうか? 理解していないのでしょうか? 

私にははっきりとは分かりません。

ここストックホルムでも大変な行列になりました。多くの人が私の映画を見に来ました。

今でも回顧上映が予定されています。

分からない。私自作が配給されるのを目にするのは一般にうれしいことですよ。
しかしあんなようになるのは大きな危険がある-ええ、誰もがこれらの映画を観ているだろうというのは。手短に言うと、先に話し合ったことから、観客動員でものすごい成功をした監督になるのはとても危険なことだということになるからです。とても危険です。

こういう場合、伝えようとすることに重要なことは何もないと私は思います。
前者の場合、内的な発達段階を経て、精神的な頂上に真に到達している。

そして観客に付いてくるように招いている。
まさにこの反対があるー芸術家自身が低次のレベルに滑り落ちていく。

これは間違いない。

当然、映画を作るためには監督に人気がなければならない。
そしてこれこそ映画の悲劇です。

祭りの場で、罪にまみれて、市場で映画が誕生したという事実がです。
物珍しい仕掛けがあって、あなたはそれをのぞき込む。

若い女性が服を脱いでいるのが見えた。

小銭を入れると、また別のことが起きようとする。

これは悲劇ですーなぜなら映画はそれ以来ちっとも変化していないからです。

新たな映画を作るためには金儲けをしなければならない。

他の芸術の場合、事情がまったく異なる。

本を書くなら家で机に向かえば出来るー
カフカのように、書いたけど何も出版しなかったカフカのように。

しかし本が書かれたのは間違いない。

手短に言うと、観客との関係、そして一般に人気との関係、という問題はとても複雑です。

しかも非常に頻繁に、それは芸術家が自分に課した問題と課題にかかっているのではなく、芸術家にプロデューサー、金が課した課題のほうにかかっている。

もしかするといつの日か、映画に金がかからないレベルにまでテクノロジーが到達したら、金属のヘルメットを頭にかぶって、脳波計のように私たちのファンタジーとイメージのすべてを記録して、それを編集して映画に出来ることでしょう。
これは金がかからない。

しかしこんなことが起きるのを目の当たりにして、この種の安いテクノロジーを話題にするには、随分長生きしなければならないでしょう。とりあえず、映画はとても金がかかる代物です。

ポーランド芸術の影響

Q:ポーランド芸術とポーランド映画はあなたの仕事に影響しましたか?

影響? 
もちろんです。VGIKで勉強している頃、ポーランド映画は異常に盛りあがったじゃないですか。

若き日のワイダやアンジェイ・ムンクなどの名前と結びついて花開いた時代でした。

Q:ポーランド学派。

ポーランド学派。世界中で有名になり、私たちにも影響せざるをえなかった。
特に印象に残るのが撮影です。

例えばヴォイチクが示したような、映画による世界知覚の様式です。
ワイダともムンクとも仕事をしたカメラマンです。
『灰とダイヤモンド』は私たちには啓示でした。

私たちの多くにとっては。こうしたもののすべてはとても影響力があって、とてもインスピレーションにあふれていました。

とりわけ、そうした映画に表現された生における真実さとの関係です、写実主義に基づく撮影から生まれる詩的な感興です。

これは当時ものすごく大切なことでした。
なぜならそれまで映画は真実味に欠け、厚紙細工で、嘘くさかったからです。
外的な面でも、その本質においてでも、です。

ポーランド学派の映画で、構造そのものがすでに驚異的だった、ポーランドの映画作家は自分が特殊な種類の構造を扱っていることを理解していました、それを壊さなかった。

昔の映画はイメージの構造を識別していなかった。
べニア板と壁紙と織物を貼り合わせたものでした。
つまり、その張りぼてでした。

当然スタジオで撮影されました。
それが突然純粋な自然、泥、荒廃した壁に向かったのです。

化粧を落とした俳優の顔に向かったのです。
完全に異なる感情が、イメージに浸透していきました、リズムが違うのですー
当時の私たちにとってこれは非常に大切なことでした。

ロシア人は亡命者になれない


Q:最後の質問をお訊きしますーあなたは亡命者として生活されています。ロシアの亡命芸術家の生活は、思うに、3つの名前で象徴できます。ブーニン、ナボコフ、ソルジェニーツィンです。この3人がそのヴァリアントです。亡命者として生きる3人の典型です。そのどれにご自分が一番近いと思われますか?

私は誰の生き方にも近いと感じないですよ。誰かの人格が自分に近いと感じることはありますよ。

Q:ええ、でもこの3つの名前は亡命者の3つの生き方なのです。

もちろんです。ブーニンです、間違いない。

間違いない。私は彼を身近に感じます。
なぜなら彼の作品にも親近感を覚えるからです。ブーニンは偉大な作家だと思います。


Q:しかし彼は過去に生きている、過去に自分を閉じこめている。もっぱら回想するだけです。

彼は回想する。どういう意味ですか? 回想するって? 

ソルジェニーツィンも回想しますよ。ナボコフも回想しますよ。

申し訳ないけど、誰もが回想しますよ。

芸術の理想は、結局、回想に基づいている。


Q:亡命者の生涯のモデルが念頭にあるのです。亡命者として、もっぱら過去の回想に閉じこもることが出来るー例えばブーニンのように。あるいは、異なる文化の中で、異なる言語を同化することが出来るー例えばナボコフのように。あるいは、新たな環境になじむよりもむしろ、祖国の問題にこだわって生きるー例えばソルジェニーツィンのように。

ロシア人は亡命者に絶対なれないんだ-


Q:誰だって、なれないですよ。

それから、忘れないでください、ナボコフは子ども時代にロシアを離れた。

ブーニンは、大人になってから、成人してから、出た、出国せざるをえなかった。
ソルジェニーツィンは成人であり作家であっただけでなく、先の2人が夢にも思わない経験を生き抜いた作家だった。

それはまったく比較できない人生ですよ。
しかし、あなたがモデルと言うならーそれなら私たちは身近なのでしょう。
どれほど身近なのかは分かりませんがね。

ナボコフはここではまったく当てはまらない。
彼は子どもの時に出国しましたからね。これはまるっきり違う。

出ていったのはソルジェニーツィンとブーニンだけです。

確かに、私はソルジェニーツィンが経験したことを経験したことがない、それからブーニンもーもちろんブーニンが経験したことも経験したことがない。

ご承知のようにブーニンはー彼の場合人生は革命前にすでに終わっていた。
革命のずっと前に、彼にとってすべてが崩れ落ちていた。

彼が描いている生は、追憶として、過ぎ去った人生として、示されています。


Q:彼は過去に閉じこもっていると言ったとき、そういう意味合いでした。

ええ、だから彼はあんなに痛々しいのです。
私はブーニンという作家を愛します。

彼の苦しみを理解し、さらには、彼の性格も分かります。

彼はすごい毒舌家でした。とても横柄で、いつも公正というわけでもなかった。
他者をひどく主観的に判断したりして。あまり善人ではなかった。
まあ、そうしておきましょう。

しかし、どうでしょうか、ナボコフは善人だったか? 
ソルジェニーツィンは善人か?
 
私は知らない。
だから、亡命者の生活モデルとあなたが言うとき、ブーニンは或る意味で明らかにソルジェニーツィンのほうに近い。

隠者のように生きたという意味で、です。

彼は新しい人生に順応できなかったし、心を開くことも出来なかった。
ナボコフの場合、英語でもロシア語でも書けたーしかしこれもまた子ども時代にロシアを離れたからだ。

ブーニンは非常に悪いタイプの亡命者を代表している。
例えば、ロシアを出たためにソルジェニーツィンがどこほど苦しもうとも、重要な問題、重要な事柄に心を向けることができるでしょう。

一方、ブーニンはー私が思うにー自分を苦しめた痛みをたえずもう一度生きることでしょう。

自分の内側にそれを抑圧することが出来なかった。
或る意味でソルジェニーツィンほど強くなかった。
とにかく彼はとても-子どものようなところがあった。
あのころ、いい子でないことが多かった。


Q:子どもは時にそうなりますね。

ええ。子どもにはよくある。彼は気むずかしい性格だった。
しかし、誰の性格が気むずかしくないのですか? 
ナボコフのですか? 違う。
もしかしてソルジェニーツィンの? やはり違う。

Q:あなたの性格は?

私のことを訊かれるなら、何も答えられませんね。
自分自身を判断することは私にはまったく出来ないからです。
やろうとしても、間違った判断をするでしょう。

Q:ブーニンも同じでしょうね。

どういう意味ですか?

Q:ブーニンもこの質問に同じように答えるでしょうね。

そう思いますか?

Q:ええ。そうするのが良いと考えて、誰もがそう行動すると思います。

何が良いのですか?

Q:そう行動するのが良いと。

しかし私は、自分自身について、自分がやることが良いと決して言えなかった。
第1に、私は自分がすべてを上手にやるとは信じない。
さらに、私がするかなりの部分を、私はひどいやり方をしている。
ええーしかしそれもまた別の話だ。

こんな風に私は性格としてはトルストイにずっと近く感じます。
芸術家の類型として、例えばドストエフスキーや他の誰よりも、身近に。
類型として、モデルとして、です。

私にとって最もロシア的な現象、私に最も重要な、最も身近なのはー精神的な意味で、ですー
この問題です、うーんと、聖アントニウス・コンプレックスとでも呼びましょうか。

つまり、精神と物質の葛藤です。それはハムレットの問題です。
私たちの知るハムレットはシェークスピアの創造です。
ドストエフスキーの創造ではありませんーですから、これはロシアの発見とは言えません。

聖アントニウスもロシア人ではない。
しかし、この聖アントニウス・コンプレックスは私には最も重要な問題です。
精神と物質の葛藤です。

人間の内側で神が悪魔と戦っている闘いなのです。
これがきわめて重要です。

トルストイもそれを感じていました。そのために悩みました。
彼は道徳の立場にいつも立っていました、むき出しの質問をしました。

芸術とは何か?

こんなものは誰も必要としていないと彼は決めました。
ブルジョアの迷信だ。

当時すでに大変な左翼でした。

彼は自分の創造的な仕事を否定し、初歩の読本を書き始めたり、色々なことをしました。

農業もやりたかった。
葛藤です。

理想と、可能であること、現実主義的に可能であることとの、葛藤です。


Q:そろそろお仕舞いにしたいと思うのですが。随分お時間を拝借しました。お話しをうかがえて、とても有り難く思います。


どういたしまして。


Q:祖国にーあなたの国とあなたの映画に、幸せに帰ることが出来ることをお祈りします。


いつポーランドに帰るのですか? [タルコフスキーはこの問いを私にしたーJ.I.]


Q:1月ほどで。


ここには何をしに来たのですか? レポーターとして?

Q:いいえ、個人的な事です。友人を訪れています。

そうですか、神様が御2人とともにあるように。
そしてもし出来ることなら、ポーランドを離れないように。

Q:国を出る気はありません。

亡命は重い負担ですよ。
ロシアからこちらに来た人がいてね、友だちです、誰なのかはどうでもいいことです-
「うーん、ええ? さあ。何? どうやって? 出るー出ない? 

何をすればよいか? どうやって生活するか?」ー
出ないように努めなさい。

出ないで済むように出来ることは何だってやりなさい。
そんなことはやっちゃあいけない。

母なる祖国を離れるべきじゃない。

ポーランド人も、ロシア人も、スラブ人一般に、そうだ。
他のどこにスラブのルーツを見つけるんだ? 

もちろんポーランドは西側に帰属する国だ、それは間違いない。
しかしポーランドのルーツすら、はるか東洋までひろがっている。

ロシアが東洋に帰属するからじゃないですよ。

ロシアのためにでもないですよ。
そうではなく、一般に東洋のほうに引かれる力が強いからです。

告白しましょう、私にはタイ、ネパール、チベット、中国すら、こういう国は精神的に霊感を受けた国です、フランスやドイツよりも精神的に私にはずっと身近です。
いろいろあるにしても、そうです。

そういうことを全部分かっているけど、理解し、好んでもいるのだけど、結局西洋風に育てられた。

ロシア文化一般が今日では西洋文化だ。

しかし、あの精神、東洋と私たちをまさしく結びつけるあの神秘主義ーそれは私たちにとって非常に近しいものだ。

ポーランドがカトリックの国であるにしても、です。
ところで、ポーランドのカトリックは不思議だ、例えばイタリアのカトリックとは違う。

共通点がない。
同じ法王を戴いているらしいけど。

ええ、これは非常に興味深い-もちろんポーランドはいつも2つの世界の間に挟まっていた。

ロシアはいつもポーランドをいたぶっていた。
ロシア人はそれをとてもよく覚えている。
それについて知っている。何が言えるかというと-
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/630.html

記事 [議論30] 共産党の衆議院北海道5区補選への候補擁立に反対します(2) -権力はまだ、アメリカと財界にある 有島実篤
民主党が政権をとった。さあ今度はお前らが与党なんだから、あれもやれこれもやれ、あれは公約違反だ、これは裏切りだと、民主党政権を攻め立てるのは、少なくとも自民党政権の打倒を願った者たちの取るべき態度ではないと、私は思います。
政権が変わったといっても、本当の権力はアメリカと日本のグローバルな大企業・財界と、それに育てられた官僚機構、マスコミにがっちり握られたままなのです。
そのことは、オバマの裏切り、鳩山・小沢の失脚を見れば明らかです。菅内閣もその延長線上にあります。

民主党は理念のない野合集団だと言われます。しかし、だから信用できない、自民党と変わらない、いやより悪い、などという評価は間違いだと思います。
私は、民主党はずさんな統一戦線党だと見ています。右は小沢より保守的な改憲派から、左は共産党より過激な協会派まで、政権を取りたいという一点でまとまってきた。それは悪いことではありません。
問題は、この後どう民主党・政権を支え、発展させていくかであり、それは有権者、国民次第だと思います。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/299.html

記事 [環境・エネルギー・天文板4] 氷河から巨大な「氷の島」が崩落 グリーンランド北部(CNN)
http://www.cnn.co.jp/science/AIC201008080001.html
CNN.co.jp
2010.08.08 Web posted at: 09:59 JST Updated

(CNN) 米デラウェア大の研究チームによると、北極圏のデンマーク領グリーンランド北部のペテアマン氷河から5日、面積260平方キロの巨大な「氷の島」が分離し、海上を漂流し始めた。このまま南下すれば、カナダとグリーンランド間のネアズ海峡をふさぐ可能性もあるという。

チームによれば、崩落した氷塊の大きさは米ニューヨーク・マンハッタン島の約4倍で、高さは超高層ビル、エンパイアステートビルほどに達する。氷塊に閉じ込められている水の量はハドソン川の流量にして2年分以上、全米国民が利用する水道水にして120日分にも相当する。北極圏で観測された崩落としては、1962年以来の規模だという。

同チームは北極から約1000キロに位置するネアズ海峡の氷の状況を研究している。今回の崩落は米航空宇宙局(NASA)の人工衛星が最初に観測し、カナダ氷層局の研究者が数時間後に確認した。

デラウェア大の研究者によると、このまま海流に乗ってネアズ海峡をふさぐことも考えられるが、小さな塊に分裂する可能性もある。その後も海岸沿いに漂流を続け、2年以内には大西洋に到達する見通しだ。

専門家らによると、北極圏では気温上昇による氷の融解が進み、数十年以内に夏期には海氷がすべて消滅する可能性もあるとの報告も発表されている。


http://www.asyura2.com/09/nature4/msg/486.html

記事 [昼休み41] 「uekusak、警察は元首相長男薬物検査を行うか」(小沢だけ捜査事件と同レベルで捜査しないなら検察の信用は失墜します
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-60c0.html
2010年8月 8日 (日)
警察は元首相長男森祐喜氏薬物検査を行うか
自民党の森喜朗元首相の長男で石川県議会議員の森祐喜氏が道路交通法違反(酒気帯び運転)容疑で逮捕された。

 

森氏は8月7日午前10時10分頃、小松市大島町にあるコンビニエンスストア「ポプラ」に、運転していたワンボックスカーで突っ込んだ。事故後、コンビニエンスの店員が「店に車が突っ込んできて、運転手の様子がおかしい」と110番通報した。駆けつけた署員が飲酒検知をしたところ、森氏の呼気1リットルから0・15ミリグラム以上のアルコール分が検出された。
 
 この事件には疑問点が多数ある。
 
@呼気1リットルから0.15ミリグラム以上の「酒気帯び」で、停止した車のアクセルを全開で踏みこみ、コンビニエンスストアに突っ込むようなことを起こすのかどうか。
 
A事件が発生したのが午前10時10分という時刻であること。
 
B森氏の逮捕が現行犯逮捕でないとの情報があるが、事件の状況から判断すれば、現行犯逮捕が通常の取り扱いではないのか。
 
C事件直後、森氏のろれつが回っていなかったとの情報がある。上記のアルコール濃度だけで、ろれつが回らぬほどの状況が生じるのかどうか。アルコール以外に他の薬物等の影響がなかったのかどうか。
 
D一部情報では、森氏の車には同乗者があったとのことだが、どのような同乗者が存在したのか、しなかったのか。
 
 森祐喜氏の今回の事件がネット上で波紋を呼んでいるのは、森氏がこれまでもネット上でさまざまな話題で取り上げてきたからである。


その代表事例が、押尾学氏の麻薬事件および保護責任者遺棄致死事件との関わりである。
 
 「カナダde日本語」の美爾依さんが、2009年12月6日付記事に、この問題を取り上げられている。また、8月8日付記事にも、今回の問題を取り上げられた。
 
 森祐喜氏は自身のホームページのプロフィールに、自身の星座を「てんびん型」としているので、美爾依さんは森祐喜氏を「てんびん型の男」と表現している。
 
 美爾依さんのブログ記事から、「新総理の長男・祐喜の愛人の告発テープ」の記述を一部転載させていただく。
 
「この中で、その愛人がてんびん型の男と一緒にホテルの一室でコカインを使ったこと、薬の入手先がてんびん型の男の後援会長の息子の「腱ちゃん」だったことを告白している。
(中略) 
参考記事:
『論壇』新総理の長男・裕喜の愛人の告発テープ
(平成12年4月14日)
 
 ろれつが回らず、車から降りた足取りもふらふらし、車のアクセルをいきなり全開で踏み込んだ状況は、「酒気帯び」ではなく「酒酔い」である。「酒気帯び」と「酒酔い」では、刑事上の取り扱いも大きく異なる。
 
 また、逮捕されたということであれば、当然、尿検査を実施するべきと考えられるが、石川県警は尿検査を実施したのだろうか。
 


押尾学氏の事件で死亡した被害者の田中香織氏と森祐喜氏との面識を指摘する情報も流布されている。
 
 押尾学氏の事件には多くの有名人の関与が指摘されているが、捜査は十分に進んでいるとは言い難い。
 
 今回の事件での焦点は、石川県警が森祐喜氏に対して尿検査などの薬物検査を実施したのかしなかったのか。していないとすれば、実施する方針があるのかどうかである。全国民がこの視点から推移を注視しなければならない。


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2010年8月 8日 (日) 警察・検察・司法(2) | 固定リンク
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記事 [昼休み41] 半分ガセの匂いがする板垣ブログによると、所詮「俺が、俺が」の空き缶七奉行の結束に乱れが生じているようです。
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/89b5ebc5232e0f0cef31524deb99fe3a
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/416.html
記事 [テスト19] Re: てすと
コンビニ特攻隊[コラージュ] (リチャード・コシミズblog)
※(コラージュ)Richardkoshimizu's blogより 

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201008/article_13.html
2010/08/08 09:59

コンビニ特攻隊


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コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
14. 2010年8月08日 14:07:41: qQzZIhyYNA
天然痘や結核が無くなったとは(厳密には存在しているが)
衛生状況と栄養接種の改善が多くを占める事は医者も認めている話だが?
それを、さも全てがワクチンで改善されたかのようなコメントはいかがなものか?
ワクチン全体を肯定するにはデータは偏っている
また、ワクチンを否定するにもデータが足りない
(意図的に表に出ないようにしている?)

ワクチン接種を受けなくて、ガンで死亡した人に対して
どのような責任をとるのか?のような恫喝をおこなうが
では、ワクチン接種してもガンになり、しかも重篤な後遺症を受けた場合
ワクチン推奨者はどのような責任をとるのか?
いや、それは国が承認したのだから・・・卑怯千万ですね

日本の産科婦人科学会は子宮頸がんの傾向やデータはいまから検証が必要と
発表しているのだから、マダマダ先の話です。
いまの2年間隔の検診ではなく、1年間隔で検診していれば
逆に金は掛からない。
論点としては日本ではまだ性交渉すらしていない女子児童にワクチン接種を
しようという、アホな決定をしていることに問題があるのですよ。
性交渉をしている女性に限定すべきでしょう。
そして、その大人の女性が
ワクチン接種を受ける・受けないの判断を任せるべきです。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c14

記事 [昼休み41] 「映画、ハゲタカ」(小泉ハゲタカ一派の悪行、それを蒸し返そうとする空き缶ハゲタカ一派の愚かさを見事に暗喩しています)
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%80%E3%83%8F%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%82%AB&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&aqi=g3g-r7&aql=&oq=&gs_rfai=
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/417.html
記事 [カルト7] 西洋の達人が悟れない理由 4 _ タルコフスキー4

4. 惑星ソラリス 1972年


http://www.youtube.com/watch?v=FkGEOZ02Db0
http://www.youtube.com/watch?v=P1ATdxtEkzU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GYozMk5qhf4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jgp25TMEFFA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=KjFXmbEm32k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fEX2X9JFrsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QgT8mBBzm0w&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=9AMbRYji3Kw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Z_3P2-I4HK8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=roGPZso4wlc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=11Sx7Vfj_Yw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nyOJar5zsrc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xI6mb5nPh-c&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=I4raHpDdav0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=VpA5w8qkkWU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IJvjuwdoQ04&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8Fjom7ODYMA&feature=related

http://www.amazon.co.jp/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9-DVD-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/B00006RTTR/ref=pd_sim_d_1

タルコフスキー、ソラリスを語る


スタニスワフ・レムの『ソラリス』の映画脚本をつくろうと決めたのは、SFに興味があったからではなかった。

一番大切な理由は、『ソラリス』でレムは、私が身近に感じることが出来る道徳的な問題を取り上げたということだった。

レムの小説のより深い意味は、SFの限界内に収まっていない。

文学形式だけを論じるなら、問題を制限することになる。

この小説は、人間理性と知られざる者との衝突を扱っているだけでなく、新しい科学の発見によって生み出された道徳的葛藤をも扱っている。

『進歩の代償』と呼ばれる痛々しい経験の結果として生じる新しい道徳性を扱っている。

ケルヴィンにとってその代価は、物質形態で自分自身の良心の呵責に直接対面せざるをえないということだ。

ケルヴィンは自分の行動原理を変えない。自分自身にとどまる。
それこそ彼の悲劇的なジレンマの根本であるのだが。


________________________________________

一体全体なぜ、私が見たSF映画のすべてで、監督は観客に未来の物質的な細部をじっくり見せようとするのか? 

なぜ彼らはースタンレー・キューブリックがそう称したようにー自作を予言的と称するのか?
 
専門家にとって『2001年』が多くの事例で食わせ物だ、芸術作品とはとても言えないと言うつもりはない。

私は、『ソラリス』を観客に異国情緒を味わわせることがないように、撮影したいと思う。

当然、テクノロジーの領域での異国情緒という意味だ。

例えば、電車に乗る乗客を撮影して、私たちが電車について何も知らないとしたらーそう仮定しましょうー以前電車を見たことがなかったからです、そのとき私たちは月に着陸する宇宙船のシーンでキューブリックがやったのと類似の効果を獲得するでしょう。
言い換えると、停車場で普通に撮影するやり方で宇宙のシーンを撮影する限り、何もかも上手く行くでしょう。

このように私たちは登場人物を、異国趣味のシーンではなく、リアルなシーンに置く必要があります。

なぜなら映画の登場人物が現実を知覚することによってのみ、観客が理解できるようになるからです。

だから、未来の科学技術を細々と見せると、映画の情緒的な基礎が壊れてしまいます。


________________________________________


肝心なのは、その「科学技術」の、と言っておきましょう、その発達の各段階で人間は、霊的なエントロピーのようなものと、道徳的価値の拡散と、戦わねばならないということだと思います。

一方で、人間性は自らをあらゆる道徳から解放しようとします。

その一方で、道徳を創造しようとする。

このジレンマが、個人の生においても一般社会の生においても、並はずれて劇的な緊張に満ちた状況を生み出すものになります。

この劇的な解放と、それと同時に、精神的理想の探求は、人間が自らをもっぱら道徳的な問題に捧げることが出来る発達段階に到達するまで続くことでしょう。

人間が絶対的な外的な自由を獲得する段階、それを社会的な自由と呼びましょう、そこで人間は日々の糧に、雨露をしのぐ場所に、子どもの未来を確保することに、いちいち心を惑わす必要はないことでしょう。

そこで、人間はかつて外的自由に捧げた同じエネルギーで、自己の内部深くに降りていくことが出来るでしょう。

私にとってハリーとケルヴィンの間で宇宙ステーションで生じたことは、人間の自分の良心に対する関係が問題なのです。

[…]

映画は奴隷のように本に忠実に従うことは出来ない。

レムの足跡をたどることは、作家と本に対する背信行為になるでしょう。

私は、『ソラリス』の私の個人的な読み方を映像にしようとしました。

作者に忠実であるために、私は時々、ある種のテーマに対する視覚的等価物を探して、小説から逸脱しなければならなかった。

私には対比として地球が必要だった、もっともそれだけのためではありませんが…
私は、地球を観客の心の何か美しいものと等価のものにしたかった。

人の憧憬を表すものです。

だから、ソラリスの神秘的な幻想的な雰囲気に飛び込んだ後、突然地球を一瞥したときに、彼は再び正常に、くつろいで、感じる。

その結果彼はこの平凡さへの憧憬を感じ始める。

言い換えると、彼はノスタルギアの有益な影響を感じる。

結局、ケルヴィンは人間としての自分の義務であると見なす実験をするために、ソラリスに残る決心をする。

このように私は、観客がさらに十全に、さらに鋭敏に、彼の決心の劇的な意義のすべてを実感できるように、地球を必要としたのでした。

私たちの根源的な故郷であった、今も故郷である惑星に帰ることをこのように断念する、そのことの意義が実感できるように、です。


________________________________________

スタンレー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を最近見ました。
人工的なものの印象が残りました。

最新科学技術の業績を見せる博物館にいるかのようでした。

キューブリックはそういうことに酔いしれて、人間のことを、人間の道徳の問題を忘れています。

それがなければ、真の芸術は存在できません。

映画の描写の最大限の直接性に私は信頼をおいています。

この映画でも私はギミックなしで、最も素朴な手段を用います。

今日流行の「スペクタクル」の類は避けています。

確かに、映画はカラーになりますが。
最近まで私はカラー映画に絶対反対でした、しかしどうすればいいのでしょうか、今日ではカラーを避けるのは不可能です。

何とかこの技術を最善のかたちで利用しようと苦心しています。
リアリズムの領域の中でしっくりしたものになるようにです。

SF映画のリアリズム?
 
ええ、可能だと思います。

私たちはこの想像世界を出来るだけ具体的なものにしています。

特にその純粋に外的な現れで、です。

『ソラリス』で示されるリアリティは物質的に経験可能なもの、ほとんど手で掴むことが出来るものになるはずです。

装飾のテクスチャーによって、ワディム・ユーソフの映画スタイルによって、それを実現します。

私たちの映画には、本にない地球上のシーンがあります。

対比のために地球が必要なんですが、それだけではありません。

私は観客に私たちの惑星の美に気づいてもらいたいと思います。

そうすればー調べようもない、神秘的な事柄をはらんだ雰囲気に包まれていたのでーもっと気持ちを込めて、地球に帰ってくるでしょう、その平凡さを自由に喜ばしく呼吸することでしょう。

この映画を見る方にホームシックの苦さを理解してもらいたいと思います。

結局クリスはソラリスにとどまる決心をします。

なぜならそれは科学者としての彼の使命が要求することだからです。

プロジェクトの監督を彼に託した人々に彼が負う責務が求めるからです。

この状況で、地球のイメージは観客の心理的な反応の触媒として作用し、クリスの決定に隠された意味を十分に、明確に見て取ることができるはずです。


________________________________________


私はSFは好きじゃない。

いやSFが基づくジャンルが好きでない。

テクノロジー、いろいろな未来論的なトリックや工夫が凝らされたああいうゲームが好きでない。

いつでも人工的だ。

でもファンタジーから引き出せる問題には興味がある。

人間と彼が抱える問題、人間の世界、人間の不安。

平凡な生もまたファンタジーにあふれている。

人生そのものがファンタスティックな現象です。

フョードル・ドストエフスキーはそのことをよく知っていた。

だから生そのものに、毎日の生、平凡な生そのものに焦点を定めたいのです。

その中では何だってあり得るのですから。


私の『ソラリス』は結局、サイエンスフィクションではありません。

その文学的な先駆者もそうではない。

ここで大切なのは、人間だ。その人格だ。

惑星地球と結んだ彼の非常に執拗な絆だ。
彼が生きる時代に対する責任感だ。

典型的なSFは好みでない。
私には分からないし、信じてもいない。

実際、『ソラリス』に取り組んでいるとき、私は『ルブリョフ』と同じテーマと取り組んでいた。

人間存在だ。

この2作はアクションが生じる時によって切り離されているにすぎない。


________________________________________


『ソラリス』は私の映画で一番成功しないものになった。

なぜならSFの要素を避けることが出来なかったからです。

スタニスワフ・レムは脚本を読んで、私がSF要素を排除しようとしているのに気づいて、不愉快になった。

脚色許可を取り消すと脅しました。

私たちは新しい脚本を用意しましたが、そこからは撮影中にこっそり逸脱することが可能だったのです。

そのつもりでした。しかしこの意図は十分には果たせなかったのです。


________________________________________

スタニスワフ・レムの証言


私にはこの脚本に根本的な留保点がいくつかある。

まず第一に、惑星ソラリスをこの眼で見たかったと思うのだが、監督は不幸なことに、作品が映画的に静かな作品になるべきであるとして、私を拒否した。

第2に、私たちのごたごたの1つでタルコフスキーに言ったことだが、彼は『惑星ソラリス』をまったく製作しなかった。

彼は『罪と罰』を創ったのだ。

フィルムになったのは、この忌まわしいケルヴィンが可哀想なハリーを自殺に追い込んで、それから良心の呵責にさいなまれたが、彼女の出現、奇妙な理解不能な出現によって、ますますひどく苦しむことになる様子だ。

ハリーの出現のこの現象は私には、カントその人から得られる概念を規範とするものだ。

なぜなら物自体、到達不可能なもの、もの自体、浸透不可能な彼岸が存在するからだ。

しかし私の小説でこれは別のやり方で、明白にされ、構成されている…

しかし、第2部の20分を除けば、映画の全編を私は見たことがないことを明らかにしておかねばならない。

脚本はとてもよく分かっているのだが。

なぜならロシア人は原作者に特別に1部を作成する習慣があるからだ。

どうしようもなくひどいことがある。

タルコフスキーは映画にケルヴィンの両親を登場させている。

叔母すら出てくる。

しかし一番ひどいのは母親だ。

なぜなら母親はmat' である、mat' は Rossiya, Rodina, Zemlya [ロシア、母国、大地] であるからだ。

これだけで私は怒り心頭だ。

この瞬間に私たちは馬車を反対方向に引っぱろうとする2頭の馬のようなものだった。
[…]

私のケルヴィンは何の希望もなく惑星にとどまる決心をする。

一方タルコフスキーは島のようなものを出現させ、その島に小屋があるイメージを創造した。

小屋と島のことを聞いたとき、私はいらだちで気も狂わんばかりだった…

こんなものは情緒的なソースにすぎない。

そこにタルコフスキーは彼のヒーローたちをどっぷり浸けたのだ。

科学的な景色を彼は完全に切断して、その代わりに私には我慢ならない奇妙なものをたっぷり導入したことは言うまでもあるまい。
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/solaris.html

タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:なぜスタニスワフ・レムの『ソラリス』に基づいてなぜ映画を創られたのか、話してもらえますか? 何があなたをあの小説に引きつけたのですか?

私はスタニスワフ・レムを非常に高く評価していて、彼の作品は非常に好きです。

いつでも読めるときに読みます、読めるものは何でも読みます。

彼の散文も好きですが、たまたまーこんなことを言うのは残念なのですがー彼は映画というものをあまり好きじゃない、分からない。

それで、一緒に仕事をしているとき、私たちは不平等なパートナーでした。

私は彼の本をどうしようもなく愛していましたが、彼のほうは私の映画にまったく無関心でした。

彼はいつも作家として考えていました、まず文学だと-。


Q:文学が一番大切なものだった。

さあ、どうでしょう?
 
一番大切じゃなくーとにかく文学が存在していた、事実として。音楽、詩、絵画が存在しているように。

しかし彼は映画を理解できなかった。

今でもそうですよ。彼は、映画とは何であるのか、分かっていない。

たくさんいますよ、非常に頭のいい人たちで、文学、詩、音楽は熟知しているのに、映画は芸術だと思わない人がね。

映画はまだ誕生していないと考えるか、映画を感じられないのです。

森の木を見ることは出来ない、本物の映画と商業映画を区別できないという意味です。

明らかにレムは映画を芸術として真剣に扱わない。

だから、脚本でも自分の小説に忠実であるべきだったと彼は信じているのです、それを絵にするだけで良かったと。

私にはそんなことは出来ない。

その場合、彼は私ではなく、「イラストレーター」である監督に近づくべきだった。

Q:そういう監督なら「動く絵」が作れる。

ええ、よくいるタイプです。

Q:たいてい、死んだ絵しかつくらない。

そんな監督がいます、作家に綿密に従って、作品を例示する人たちです。

このタイプの映画はたくさんありますが、たいてい同じように見えます。

単なるイラストだから、みんな死んでいる、生命が何もない。

それ自体、そして当然ながら、芸術的な価値は全くない。

単なる写し絵です。

文学の原典に従属する副次的なものです。

そういうのをレムは期待していた。

もし本当に彼がそう期待していたなら。私には理解できないことです。

彼がこの手の期待をしていたと考えるのは非常に奇妙なことですが、映画芸術に対する彼の姿勢こそ、まさにこの結果、イラストを期待する人間の位置に彼を置いたのです。
もしかするとそんなことは全然望んではいなかったのでしょうが。

しかし、私たちの脚本が小説の正確な描写からはずれる部分があれば、彼は必ず反対したものでした。新たな道筋を工夫したらいつでも彼は憤然としていました。

あの時私にはとても気に入った脚本の異稿がありました。

その場合、アクションのほぼすべてが地上で起きるのです、その半分以上が、つまり、ハリーをめぐる過去のすべてでした。

なぜ彼女がはるか宇宙の彼方のソラリスで「生まれた」のか。

『罪と罰』を想い出させるものでした。

もちろんレムのオリジナルの理念とは真っ向から衝突しました。

なぜなら私は内面生活の問題、いわば精神的な問題に興味があったからです。

一方彼のほうは人間と宇宙の衝突に興味があった。

括弧付きの「未知なるもの」に興味があった。

これこそ彼の興味を惹くものだった。

言葉の存在論的な意味において、認識の問題とこの認識の限界という意味でーそういうものに興味があった。

人間性が危機にさらされているとすら言ってました、人間が感じないときに認識の危機があると。

この危機は増加している、雪だるまのように、それがさまざまな人間の悲劇のかたちをつくり出している、科学者が経験する悲劇も、です。

そのすべてが熟して一種の爆発を起こす、前進をもたらす、すべてが未来に向かって行進する、などなど。

爆発ーそれはいいでしょう、私も否定しない、しかし私はそんなことにまったく興味がない。

この小説に惹かれたのは、生まれて初めて私がこう言える作品と出会ったから、それに尽きるのです。

つまり、贖い、それは贖いの物語なのです。

贖いとは何か?ー

良心の呵責。言葉の直接的な古典的な意味でー過去の過ち、罪、の記憶が実在になるとき、にです。

私にとってこれこそあの映画を作った理由なのです。

一方、未知との遭遇の問題を語るべきならーその場合も、存在論的な側面は私には重要でなかった。

そうではなく、ある人間の心理状況の再創造だった。

その魂に何が起きているのかを示すことこそ重要だった。

もしその人間が人間であり続けるならー私にはそれが最もかけがえのないことだった。


私の映画の主人公が心理学者であることは偶然ではありません。

レムの小説の主人公も心理学者ですが。

彼は平凡な都市生活者です、俗物です、そう見えます。

私には、彼がそんなふうであることが重要でした。

彼は精神的な幅のかなり限られた人間であるべきです、月並みな人間ですーこの精神的な闘いを、恐怖を経験できるためにです。

苦痛に捕らえられて、自分に何が起きているのか理解できない動物のようにではなく、この精神的な闘いを経験できるためにです。

私に重要であったのは、人間は無意識に自分自身に人間的であることを強制するということです。

無意識に、そしてその精神的な能力が許す限り、人間は野蛮さに反抗します。

人間的であり続ける限り人間は非人間的なものすべてに抵抗します。

そして結局、彼はー少なくともそう見えるでしょうー徹底的に月並みな奴であるにもかかわらず、彼は精神的に高いレベルに立ちます。

まるで自分を断罪するかのようです。

この問題の内側に入り込み、自分を鏡の中に見たかのようです。


結局、彼は精神的に豊かな人間ですー

先に見たように、見かけは知的に限界があるにもかかわらずです。


父親と話すとき彼はどうしようもない俗物です。

バートンと話すとき、月並みな凡庸さで、知識について、道徳について語ります。
凡庸な話をします。

自分の思念を形成し始めると途端に彼は凡庸になる。

しかし何かを感じ始めると、あるいは苦しみ始めると、途端に人間になる。

で、レムはこのことにまったく無感動だった。まるっきり無感動だった。

私はこのことに深く心動かされた。


カンヌで映画が賞を受けて、誰かが彼におめでとうと言ったとき、レムは訊いた。

「で、私はどうしたらいいんだ?」

彼は恨みを込めてそう言ったー

しかし別の見方をしてこう訊けるでしょう。

「確かに。彼はどうしたらいいのだろう?」

もし彼が映画を芸術として扱ったなら、映画というものは、スクリーンに合わせたものは、いつも、いわば作品の廃墟から生じるのだと分かったでしょうに。

しかし彼はそんな風には映画を見なかった。

しかし私は、共に過ごし語り合ったあの日々のことを彼に限りなく感謝しています-
彼はきわめて興味深い人物です。とても楽しい人です。

だから、私が少し苦い思いをしたなら、それは、彼が私と私の映画をあんな風に扱ったからではなかったー映画を一般にあんな風に扱ったからなのです。

ところで、彼によろしくと、私の心からの感謝と敬意を彼に伝えるようにお願いできますか?


 私はいつまでも感謝と共に一緒に仕事をして過ごした時を想い出すでしょう。

しかし、私が先に述べたことは、少なくとも、客観性のために述べておく必要があったのです。

Q:2つの別の問題ですね。


そうです。

ここで私たちはある争点に触れています。

これは、いつも私に問題を提起する。

ええ、こんなことが以前ありました。

誰かに会う。とても知的な人です。

読書家で、詩、絵画、音楽などを知っていて。知識人です。

で、彼は私の新しい映画が好きだと言う。偉大な映画だと言う。

そして「おお、私はうれしい、ありがとう、ありがとう」と言う。
で、彼に話し始めると私は彼が何も理解していないことに気づく。

これはひどい。これはまったくひどい。

これは私がさっき話していたことの逆です。

まあ似たようなーその人は言う

「そうです、そうです、映画、私には分かります」ー

しかし実は映画を理解していない。

映画が何であるか、映画をどのように扱うべきか、映画から何が期待できるかー
映画から何を期待してはいけないか、何を期待すべきか、分かっていない。

これは一体どういうことか? 

詩、絵画、文学、音楽に関しては水の中の魚のように、自由自在なのに、映画のことになると全くの素人だ。

映画に関する議論も話し合いも全然出来ないー自分はその気になっているのに、ですよ! 

これは非常に奇妙なことだ。

私にはこちらのほうが、誰かにこう言われるよりずっと辛いことです。

「ええ、私にはあなたの映画が分からない。

私の意見ではそれは戯言だ。馬鹿馬鹿しい、もったいぶった戯言だ。

政府の金がこんな映画に費やされるのは理解できない。」


こういう手紙を受け取ったこともありますよ。

『ルブリョフ』で大騒ぎしている頃、KGBに直接手紙を送った奴がいた。

「タタールの国家に反対する映画を作るためにタルコフスキーが政府の金を使えないように、タルコフスキーをまっとうに更正させなきゃいかん」
と書いてよこした。

Q:タタール人?!

信じられますか? 

私はただ-

「戦争中タタール人はロシアの兄弟と一緒に、共通の理想のために血を流したのだ。
それなのにタルコフスキーは反タタール映画を作っている。」


分かりますか? 

「反タタール映画を作る気なら、タルコフスキーには二度と何も撮らせるな。」

それだけじゃない。こういう人たちは実は自分たちの歴史を知らなかった。

このタタールの人たちは、自分が『ルブリョフ』で描かれたタタール=モンゴル人とはまったく別であることを確かに知らなかったのです。

2つのまるっきり違うことなんです。

彼らは自分の歴史すら知らない。

カザンにいたときそこで私は同じ話をしました。

私はその手紙を読んで、言いました。

あなたがたはタタール人としての国家の尊厳を言われるが、そういうあなたがたの誰ひとり、知らないー自分が何者であるのかまるっきり分かっていない。

あなたの父祖が誰なのか、覚えてもいない。

あなた方は他の国家と混じり合っている。

ええ。こんなふうにいろんな手紙をたくさん受け取りましたよ、時には侮辱的なものも。

そういう手紙を受け取っても、何とも感じないものですよ。

なぜなら一般にどうしようもない無知な手紙ばかりですからね。

しかし突然誰かに出くわしたら、例えば誰か以前なら文化的な動向に立派な意見を持っていたとしましょう。

その彼が突然、あなたがやったことについてナンセンスなことを話し始めたらー
彼がまったく無理解であることを暴露するならーこれはさらにつらいものですよ。

賛成されるかどうか分かりませんが、例えば1冊の本を読むなら、例えば、何か文学作品を読むなら、読んでいる人と同じ数だけ本もあるんです。

読者のひとりひとりが自分で創造したイメージを見ています。
自分の体験に基づいて作りあげたイメージです。

文学は描写が中心で、映画は例証が中心だから、余計そうです。

でも、映画も個人のヴィジョンを受け容れます。

このことを私はとびきり貴いものだと考えています。

もしそれが文学で可能なら、なぜ映画ではそれと戦わなければいけないのですか?
 
その逆のー一般に当てはまることだけを考慮する、すべての特徴にあてはまるだけを考える、普遍的に受容されことだけ考える?
 
私にはこういうことはまったく理解できない。

これは差別だと思います。

芸術作品は観客、聴衆、読者によって創られると私は信じます。

個人の知覚の可能性を許さないなら、芸術は芸術ではないでしょう。

もちろん、或る程度準備をしておかなければならない。

しかし、一番大切なのは、準備、教育ではなく、むしろ精神的なレベルです。

これが受容なのです。理解というよりむしろ受容です。

もしあなたが受け容れる、受けとめるなら、あなたには理解できるでしょう。

あなたが理解できる日が来るでしょう。

だから、文学作品がその性質固有のやり方で状況を示し、解釈できるなら、なぜ、他のジャンルが、例えば映画作品が、自分のやり方でそれを出来てはいけないのでしょうか? 

そうでしょう? そうであるべきだと私は思いますよ。
http://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html


タルコフスキー『惑星ソラリス』


 映画の中の恋愛というのは、往々にして世界との関係の隠喩でもある。

多くの映画の主人公は、ラストで抱えていた問題が一掃されると同時に、パートナーを手に入れる。

まあこれだけだと、単なるそこらの色と出世のサクセスストーリーだが、もうちょっと気取った映画となると、何らかの理由で世界から孤立して暮らしている人物がいて、その人の前にふとした偶然で相手があらわれる。

それが、世界の差し出してくれた関係修復のための蜘蛛の糸になる――そんな映画はたくさん思いつく。

たとえば『ブレードランナー』なんかを考えてもらえばいい。

もちろんこれも一歩間違えると、自分では何もしない怠惰なおたくのところに、労せずして美少女が勝手に宅配されてなついてくれるという、ただの卑しい願望充足話になってしまうので、それを避ける工夫は必要なのだけれど。

 その一つのやり方は、そこで登場する蜘蛛の糸たる相手を、何か受け入れがたい変なものに仕立てることだ。

『ブレードランナー』はそれを、自分の倒すべきネクサス6型アンドロイドにしたことで実現した。
あの映画の長期的な価値は、その仕掛けがきわめて上手に構築されたことからもきている。


 そしてタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』では、その相手はかつて自殺した妻の複製品だ。

 知性を持つらしき惑星ソラリスの海は、近くにやってきた人間が内心に抱いている世界との断絶の根本にあるものを探り出しては再現するという性質を持っている。


主人公の場合、それは自殺した妻だった。


 そうやって世界が、考えもしなかったような形で差し出してきた存在に対して、主人公はどう振る舞っていいかわからない。

いまでも奥さんのことは忘れられないけれど、でも一方で彼女の自殺の原因は自分にあるので、彼女の姿は傷口に塩をすりこまれるような苦痛だ。

耐えきれずに一度はそれを殺してみるし、またどうも自分が変な存在でうとましがられているのに気がついた当の複製奥さんも、自殺を試みるけれど、生き返ってしまう。


 『惑星ソラリス』は、そんな変な生き物とゆっくりと折り合いをつける過程の話となっている。

そこにある逡巡やとまどい、葛藤――それはまさに恋愛で、『惑星ソラリス』はそこにあまりロマンチックな要素を持ち込まないことで、逆に精神的な深みを出し仰せていた。


 いたんだが……『惑星ソラリス』はその最後の最後のところで、あさっての方向を向いてしまう。

主人公の脳内情報を投射されたソラリスの海は、奥さんもどきをあっさり消してくれて、かわりに昔の家とお父さんを復活させ、再会ごっこまで演じさせてくれる。

この時点ですでにソラリスの海は、おたくのビデオデッキまがいの都合のいい妄想再生実現マシーンになってしまっている。

その奥さんもどきをどうするか? 

そこにこそ、その恋愛――そしてそれまで映画が積み重ねてきた問いかけ――の意味があったはずだったのに。


 それはまた、タルコフスキーが常にやってきたごまかしでもある。


NHKがタルコフスキーについてのドキュメンタリーを放送したことがあって、そこにかれの妹が登場した。

そして、お兄さんの映画についてどう思うかと尋ねられたとき、彼女は吐き捨てるようにこんなことを述べたのだ。


 「大嫌いです。 冷たくて人工的で。

だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、

実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。

あんなの全部、口先だけのインチキです」

 ぼくはこれを聞いて、タルコフスキー映画を見る目が一気に変わってしまった。

かれの描いていた家族への郷愁がまがいものなら、かれが晩年になってますますしつこく押しつけがましく描くようになってきた神だの世界の救済だのといったものも、やっぱりまがいものでしかないんじゃないか。

それはかれが現実の家族をまったく顧みずに脳内家族に萌えていたのと同様、本当の神様でも本当の世界でもない、脳内の物欲しげな妄想でしかないんじゃないか。


 そしてそれはかれの恋愛の描き方にも出ている。

『ノスタルジア』でもそうだ。

主人公は世界のさしのべてくれた実物の愛を無視して、世界を救うとかいう妄想への耽溺を選ぶ。

それはたぶん、世界の頭でっかちたちの間でのタルコフスキーの評価を高めた選択でもあるんだろう。


でもそれは、結局かれが各種の愛や、世界との和解を手に入れられなかった原因でもあるんじゃないか。

だがそもそも、かれは現実にそれを求めていたんだろうか。
http://cruel.org/other/esquiresolaris.html

Marina Tarkovskaïa raconte Andreï Tarkovski
http://www.youtube.com/watch?v=Y4VZ-keEdfY&feature=related


________________

タルコフスキーの評価は厳しかったが、それでも映画の場合は、実に数多くの作品を彼は見たのだった。

彼がもっともよく話題にした創造的な精神は、ブレッソン、アントニオーニ、フェリーニ、黒澤、ワイダ、ザヌーシ、ベルイマンだった。

これと関連して、私は1985年11月の出来事を思い出す。

アンドレイと私はストックホルムの映画博物館で映画ポスター展を見ていた。

私はベルイマンの姿を見つけた。

ベルイマンとタルコフスキーはお互い会いたがっていたが、一度も会ったことがなかったのだ。

ベルイマンは博物館の中の劇場のひとつから出てきたところだった。

このチャンスに、出会いは実に自然で、ほとんど避けがたいと思われた。

2人はおよそ15メートルの距離でお互いを認めることが出来た。

次の瞬間、私は仰天した。

2人ともくるっと踵を返した。

まるで厳しい軍事演習に加わっているかのように。

そして別々の方向に歩いていった。

2人は二度と会わなかった。

こうしてこの世界の2人の偉人は触れあうことなくすれ違ったのである。
http://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html


「惑星ソラリス」 原作はスタニスラフ・レム。


その「惑星ソラリス」というと最近リメイクされたようですね。
リメイク版の監督さんは、確か賞味期限切れとして名高い?ソダーバーグさん。

ソダーバーグのデビュー作「セックスと嘘とヴィデオテープ」は確かに見事な作品でした。

現代における宗教的なマターを、あるいは、芸術家としてのあり方を、現代的に扱って「大したモンだ!スゴイ!!」と思ったものです。

今でも様々な俳優や映画スタッフは「セックスと嘘とヴィデオテープ」について、「ソダーバーグ監督はデビュー作であの力量なんて・・・スゴイ!!」と言っているようです。

まあ、逆に言うと、その賛辞こそがソダーバーグの現状を語っていると言えるわけですね?

デビュー作の「セックスと嘘とヴィデオテープ」以降の作品は「語られない」わけ。

本来なら、俳優とか同じ映画業界の人間なら、最新作について語るものでしょ?
いつまで経っても、「デビュー作はスゴかった!!」ではねぇ・・・

このように賛辞を語ることによって、否定的な見解を表明する。

意図的にやっているかはわかりませんが、よくある話です。ホメ殺しみたいなものでしょうか?


さて、さて今回の本題であるタルコフスキーによる本家の「惑星ソラリス」。

私はソダーバーグのリメイク版は見ていませんが、リメイクを作りたくなる、プロデューサーの、心境は理解できなくもありません。

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」は、

1.セリフがロシア語である。
・・・・この点は、当然のこととして、アメリカの観客には不利ですよね?


2 通常のSF映画の「売り」であるはずの未来風景がショボイ。
・・・最新技術を使えばもっとハデな未来風景が作れるはずです。

ということで、リメイク版を作ろうと思ったのでしょう。
しかし、どのみちねぇ・・・

確かにアメリカ人は字幕がキライでしょう。
しかし、スタニスラフ・レム原作の「惑星ソラリス」を見るような観客は、いくらアメリカ人だってそれなりの水準の人でしょうから、本来は字幕には抵抗がないはずです。

「字幕は絶対にイヤ!!」という観客は、そもそも「惑星ソラリス」なんて理解不能でしょ?

あと、「未来風景がショボイ」・・・これだってねぇ・・・

「惑星ソラリス」は未来世界がテーマである作品ではないのだから、未来風景なんてどうでもいいことですからね?

ハデハデな未来風景を楽しみにするような人には、どのみち「惑星ソラリス」なんて無関係の作品ですよ。

というわけで、「惑星ソラリス」のリメイク版を製作することは理解できなくもないけど
・・・無意味なことは確実ですよ。


大体、リメイクって・・・

タルコフスキー監督の作品を手直しする・・・という発想自体ぶっ飛んでいますよ。

まあ、ソダーバーグもよく引き受けたものだと感心いたします。


さて、この「惑星ソラリス」ではバッハのコラール・プレリュードが使われています。

というか一般的な呼び名では「オルガン小曲集」の中のBWV639「われ汝に呼びかけん、主イエス・キリストよ」です。

まあ、そのコラールのタイトルは映画そのものには、登場しません。

この「惑星ソラリス」はソ連映画なので、SFであれば共産党政府も問題にはしなかったでしょうが、「キリスト」を連想させるような宗教的なものは「慎重」に扱う必要があったはずです。

当時のソ連では、あまりおおっぴらにキリストなんて扱えませんよ。

ちなみに、バッハのオルガン小曲集ですが、これらのオルガン曲は、コラール(プロテスタントにおける会衆歌)の伴奏として使われた曲なんだと思いますが・・・

ということで、タイトルだけでなく歌詞もあるわけです。

大体の大意は下記のようなものらしい。


「わたしはあなたに呼びかけます、イエス・キリストよ!

私の嘆きに耳を傾け、この時に恩寵をおあたえください。

どうか私がひるまぬようにしてください。」

バッハの音楽になじんでいる人だったら、ここで言われる「恩寵」が、「死」を意味しているのは簡単に読み取れるでしょう。

「死による救済を憧れる。」

バッハの音楽にはよく出てくる感情です。


有名な82番のカンタータの「我は満ちたれり。」なんて、そのものズバリの曲ですし。

しかし、タルコフスキーでこの曲を使った意図は、死を求めるというよりも、
「自分の嘆きに耳を傾け・・・恩寵を与えて欲しい。」ということなんでしょう。

この「惑星ソラリス」では、映画の中でも「嘆き」や「恩寵を求める渇望」が顕著です。

そもそも、バッハのオルガン音楽だって、この曲以外にも、他にいくらでもあるわけです。

例えばBWV605は「かくも喜びに溢れる日は」とおめでたいタイトルがついています。

BWV645は有名な「目覚めよと呼ぶ声あり」ですよね?

タルコフスキーは多くのバッハの音楽から、「深い嘆き」と「恩寵への渇望」の音楽を「選択」しているわけです。


では、タルコフスキーの抱える「嘆き」とは?

タルコフスキーの渇望する「恩寵」とは?

イタリアの監督パゾリーニは「映画作家はどの作品でも、同じことを言っているだけ。」と言っています。

作品によって、多少スタイルが違っていても、「言わんとする」ことはいつも同じというわけ。

映画作家の代表例のタルコフスキーも「いつも同じこと」を言っているわけです。


タルコフスキーはルネッサンスに懐疑のまなざしを向けていたのは確実でしょう。

「ノスタルジア」では反ルネッサンスの修道士サヴォナローラを連想させる人間を登場させているでしょ?

「サクリファイス」だって、昔の世界への憧れがでてきます。
昔に製作された地図などを喜んで見たりして。地図というのは一種の世界観ですからね。

他にも、アンドレイ・ルビリョフのイコンがルネッサンスの人間中心主義から遠いのは自明ですし。

その他の作品だっていわずもがな。


神から人類を解放したはずのルネッサンスが、本当に人類を解放したのか?

神を放逐した後の、人類のみの世界の代表例が、ソビエトの共産社会でしょ?

現実の共産社会が、人類の解放からもっとも遠かったのは言うまでもないことでしょう。


ちなみに、ヨーロッパの美術において、ルネッサンス以前と以降で随分違います。
単に表現技法の問題だけではありません。

ルネッサンス以降、画家は自画像を製作し、絵にサインを入れるようになりました。
絵画における遠近法だって、ある意味において、神の視点から人間の視点への変更です。

つまり芸術は芸術家のものになったわけです。
それ以前は「神」のものだったわけです。

だからこそ、自画像は作らなかったし、サインも入れなかった。
芸術家はただ神の代理にすぎなかったわけです。

ルネッサンス以降、芸術は芸術家の創造物ということになった。

それが本当にいいことなのか?

創造という神の領域に人間が踏み込んでしまって・・・
人間はそれに値する存在なのか?

あるいは人間の創造した芸術など、神の創造したものに比べれば、取るに足らぬものではないのか?

人間タルコフスキー、別の言い方をすると芸術家タルコフスキーが創造した映画は、このような人間の「創造」に対する懐疑の念が付きまとっています。
逆説的な存在なんですね。

神を放逐した後で、創造を行う人類・・・
そして映画を創造しているタルコフスキー本人。

タルコフスキーの映画は「人類の創造への懐疑に満ちた創造物」という逆説的存在と言えるように思います。


だからこそ、タルコフスキーとしては、創造することへの「嘆き」は、まさに「汝に呼びかけん!!」と言いたいところでしょう。

人間の創造のむなしさを知り抜いていながら、自らの創造意欲から創造せざるを得ない。
そしてその嘆きから解放されるには、神の恩寵が必要となる。

・・・だから「イエス・キリストよ!」というわけですね。


別にタルコフスキーがキリスト教的な救済を意図していたわけではなく、もっと普遍的な絶対的な存在としての神を考えているわけです。

人類にとってルネッサンスとは?

それは人類の歴史の上では脇道に過ぎず、単なる放蕩ではなかったのか?


20世紀にもなって、そして、よりにもよって当時のソ連で「主イエス・キリストよ!」と呼びかけることは、ルネッサンスの否定に繋がっていくわけです。


この世界を人類のものから、神のものへ返上すること。

それこそが、「放蕩息子の帰還」のラストシーンに繋がるわけです。


御丁寧に犬までがんばっている。
放蕩息子の帰還のシーンに犬はお約束ですからね。

自らの願いがすべてかなうソラリスという場にあって、人間が望むことは、父なる神への帰郷なんだ。

ルネッサンスという人類の放蕩を反省し、父なる神に帰還する。

最後のシーンやバッハのオルガン曲は、父なる神の世界への帰郷への渇望を意図しているんだろうと思います。

ちなみに、私はこの「惑星ソラリス」のヴィデオを持っています。
このヴィデオでの解説は・・・・なかなか・・・何と言うかぁ・・・

まあ、タルコフスキーの作品を解説するというドン・キホーテ的な行為は賞賛に値するかも・・・その点は、私も人のこと言えませんし・・・そういえば、「惑星ソラリス」では、ドン・キホーテも引用されていたっけ・・

そのヴィデオでの「解説」で、タルコフスキーがバッハの曲を使ったのは、バッハの宗教性がタルコフスキーになじみがあったから・・・と「解説」されております。

まあ・・・ただ・・・タルコフスキーが育った共産主義社会において、宗教がなじみとは言えないことは、多少知識がある人は御存知のはず。

またバッハのコラールというのは基本的にプロテスタントのものですよね。
ロシア正教では使わないんじゃないの?

まあ、昔のソ連の音楽家によるバッハの録音なんて、ヴァイオリンとかの器楽曲ばかりでしたものね。ソ連の音楽家による宗教曲のレコードなんて聴いたことないなぁ・・・

それにバッハの曲といっても、器楽曲から宗教曲まで色々とあるでしょ?

それに宗教性ということを言いたいのなら、別の作曲家でもいいのでは?
ハインリッヒ・シュッツとか、あるいはもっと地味な宗教音楽家の作品の方が、そのシーンの宗教性を表現できますよ。

その「選択」からタルコフスキーの意図も見えてくるわけ。

タルコフスキーが持っていたパレットを想定した上で、その選択の意図も見えてくるわけです。
タルコフスキーはバッハの曲というと、この曲しか知らない・・・というわけではないし、宗教音楽というと、この曲しか知らないというわけでもない。

ロシア人はヨーロッパ人だから、バッハの宗教性となじんでいるはず・・・というのは、日本人の主食がキムチというくらいトンチンカンな話。

多分DVDだと、その解説も直っているとは思うんですが・・・

まあ、ルネッサンス的英知であるDVDという媒体で、「ルネッサンス否定」の作品を見るのもオツなものですね。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-23.htm

放蕩息子の帰還 ルカ傳福音書 第15章


15:1取税人、罪人ども、みな御言を聽かんとて近寄りたれば、

15:2パリサイ人・學者ら呟きて言ふ、『この人は罪人を迎へて食を共にす』

15:3イエス之に譬を語りて言ひ給ふ、

15:4『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、
九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。

15:5遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、

15:6家に歸りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん

「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」


15:7われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のためには、
悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歡喜あるべし。

15:8又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、
家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねざらんや。

15:9遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん、

「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を見出せり」


15:10われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のために、神の使たちの前に歡喜あるべし』

15:11また言ひたまふ

『或人に二人の息子あり、

15:12弟、父に言ふ

「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたへよ」

父その身代を二人に分けあたふ。

15:13幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、
其處にて放蕩にその財産を散せり。

15:14ことごとく費したる後、その國に大なる饑饉おこり、
自ら乏しくなり始めたれば、

15:15往きて其の地の或人に依附りしに、其の人かれを畑に遣して豚を飼はしむ。

15:16かれ豚の食ふ蝗豆にて、己が腹を充さんと思ふ程なれど、
何をも與ふる人なかりき。

15:17此のとき我に反りて言ふ

『わが父の許には食物あまれる雇人いくばくぞや、然るに我は飢ゑて
この處に死なんとす。


15:18起ちて我が父にゆき

「父よ、われは天に對し、また汝の前に罪を犯したり。


15:19今より汝の子と稱へらるるに相應しからず、雇人の一人のごとく爲し給へ』
と言はん」

15:20乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、
走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり。

15:21子、父にいふ

「父よ、我は天に對し又なんぢの前に罪を犯したり。
今より汝の子と稱へらるるに相應しからず」

15:22されど父、僕どもに言ふ

「とくとく最上の衣を持ち來りて之に著せ、その手に指輪をはめ、
其の足に鞋をはかせよ。

15:23また肥えたる犢を牽ききたりて屠れ、我ら食して樂しまん。

15:24この我が子、死にて復生き、失せて復得られたり」かくて彼ら樂しみ始む。

15:25然るに其の兄、畑にありしが、歸りて家に近づきたるとき、
音樂と舞踏との音を聞き、

15:26僕の一人を呼びてその何事なるかを問ふ。

15:27答へて言ふ

「なんぢの兄弟歸りたり、その恙なきを迎へたれば、
汝の父肥えたる犢を屠れるなり」


15:28兄怒りて内に入ることを好まざりしかば、父いでて勸めしに、

15:29答へて父に言ふ

「視よ、我は幾歳もなんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに、
我には小山羊一匹だに與へて友と樂しましめし事なし。


15:30然るに遊女らと共に、汝の身代を食ひ盡したる此の汝の子歸り來れば、
之がために肥えたる犢を屠れり」


15:31父いふ

「子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんぢの物なり。


15:32されど此の汝の兄弟は死にて復生き、失せて復得られたれば、
我らの樂しみ喜ぶは當然なり」』

http://bible.salterrae.net/taisho/html/luke.html


http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/631.html

コメント [近代史02] 西洋の達人が悟れない理由 中川隆
01. 2010年8月08日 14:15:25: MiKEdq2F3Q

西洋の達人が悟れない理由 1 _ タルコフスキー1
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html

西洋の達人が悟れない理由 2 _ タルコフスキー2
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/629.html

西洋の達人が悟れない理由 3 _ タルコフスキー3
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/630.html

西洋の達人が悟れない理由 4 _ タルコフスキー4
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/631.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html#c1

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
15. ダイナモ 2010年8月08日 14:16:15: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>14


>論点としては日本ではまだ性交渉すらしていない女子児童にワクチン接種を
>しようという、アホな決定をしていることに問題があるのですよ。
>性交渉をしている女性に限定すべきでしょう。

すでに性交渉している女性はすでにHPVに感染している可能性があります。すでに感染しているHPVに対して、HPVワクチン接種は無意味です。

 

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c15

記事 [昼休み41] 「alternative、バイ菌である有色人種」(世界平和実現には、白人の思い上がった差別意識を矯正する哲学が必要です)
http://alternativereport1.seesaa.net/article/158739171.html
2010年08月07日
広島、長崎に原爆が投下された、本当の理由

 1945年7月、第二次世界大戦における敗北を認めた日本は、正式に米国に対し降伏の意志を伝えていた。

米国は日本の敗戦の意志表示を「無視」し、「無理矢理」、45年8月に広島、長崎に核兵器を投下し、日本人の大量虐殺を行った。

米国の言う「戦争を早く終わらせるため原爆投下を行った」等、全くのウソ、デマである。

米国は、核兵器の「威力の実験」のため広島、長崎の市民を人体実験にかけ、虐殺した。

これは、米国の「プルデンシャル一般大衆爆撃」と呼ばれる作戦の一部であり、「兵士ではない一般市民を、どの位、大量虐殺すれば敵が戦意喪失するか」の統計を取るための、広島、長崎への原爆投下の後の社会心理調査を行うという人体実験であった。7月に日本の降伏の意志を知っていた米国は、原爆投下後、降伏の意志を受理し、即座に、調査員を日本に派遣し統計を取るための準備を行い、調査員達を待機させた上で、広島、長崎に原爆投下を実行した。

「統計調査のため」、米軍は広島、長崎への原爆投下を行った。

この「統計調査」を担当したのは、米国大統領直属の「心理戦争局」と呼ばれる部署であり、局長はエイブリル・ハリマン=前ブッシュ大統領一族が経営するハリマン銀行の社長であった。

ハリマンの「心理戦争局」は、黒人、日本人等の黄色人種を「絶滅」させるため、エイズ、天然痘、コレラ等の生物兵器を研究してきたニューヨークのハリマン優生学研究所を部分的に再編成し、そのまま大統領直属機関としたものであった。

この優生学研究所では、「人種衛生」学と呼ばれる研究が進められていた。「衛生」の意味は、黒人、日本人=黄色人種を「バイ菌」と呼び、その「バイ菌」を絶滅させる事を「殺菌消毒」すると呼び、「衛生管理」すると呼んでいた。

広島、長崎に投下された原爆は、バイ菌である有色人種=日本人を皆殺しにするための「殺虫剤」であった。

この局長ハリマンの妻が、クリントン大統領夫妻=現国務長官の政治資金集め責任者であった。このクリントン人脈が、2010年、オバマ政権の中枢を、「占めている」。

この優生学研究所の創立者の一人、ウィリアム・ドレイパーjrが米国の戦争省の最高指揮官の1人として、広島、長崎に投下された核兵器の製造、「投下」の指揮を執った。

ドレイパーは、第二次世界大戦後、日米の軍事産業を「まとめ」、「日米兵器工業会」を結成し、ここが日本の自衛隊の持つ膨大な兵器、警官の持つピストル、日本への原子力発電所建設等の、売り込みの「窓口」になる。

自衛隊という軍隊を持った日本が、中国、北朝鮮と戦争を行い、アジア人同士が大量虐殺し合い、原子力発電所が事故を起こし、原子力発電所から生み出されるプルトニウムによって日本が核武装し、日本、中国、北朝鮮の間で核ミサイル戦争が起こり、アジア人・日本人が大量に死ぬ事は、ドレイパーの優生学研究所にとっては「極めて望ましい殺菌消毒」である。


http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/418.html

コメント [マスコミ・電通批評10] マイケル・グリーンは原子力潜水艦に乗り、ロックフェラー4世と親密な小沢一郎前幹事長に鞍替え!(板垣英憲マスコミ事務所) 愛国改善党
08. 2010年8月08日 14:19:30: uXhAWeoF2I
小沢は八丈島じゃなくて、硫黄島の米軍と自衛隊基地で何かたくらんでるんじゃないですか。東京のあほなマスコミもすぐにはアクセスできない場所ですから。

まあ、小沢は日本のタクシンですから、アメリカも担保として、大事にしているんでしょう。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/770.html#c8

コメント [経世済民69] 日銀を廃止し政府紙幣だけに一本化しろ! 地には平和を
60. 2010年8月08日 14:28:08: uXhAWeoF2I
おいおい、生存権が保障されてたソ連では現在の日本と同様の高自殺国家だったんだよ。

地に平和は完全に社会主義左派を取り越して、日共も驚く新種の極左です。

まあ、この変人には何を言ってもわからんだろうが、政府紙幣はわれわれの全財産を官僚の恣意に供する愚考ですから、みなさんまともに受け取らないでください。

といってもこれだけドラマチックに新規投稿や閲覧者が減ったのも、小沢信者の自業自得で、この投稿も1000回程度ですから、心配ないでしょうがね。ははは。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/429.html#c60

記事 [経世済民69] ウソとは言わないまでも明らかに偏った超悲観シナリオで、ましてや日本のような先進国で食糧不足が起こるようなことはあり得ない
株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu221.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ウソとは言わないまでも、明らかに偏った超悲観シナリオで、ましてや
日本のような先進国で食糧不足が起こるようなことはあり得ない。

2010年8月8日 日曜日

◆小麦先物相場、2年ぶり高値 異常気象で投機買い膨らむ 8月6日 朝日新聞
http://www.asahi.com/food/news/TKY201008060386.html

世界的な異常気象の影響で小麦などの先物価格が上昇している。ロシア政府が干ばつ被害を理由に小麦輸出の一時停止を決めたことを受け、小麦相場は約2年ぶりの高値水準に。大豆やトウモロコシ、コーヒー、ココアも上昇しており、将来的にはパンやめん類などの消費者価格の値上がりにつながる可能性もある。

 シカゴ商品取引所では5日、小麦取引の国際指標となる先物価格が値幅制限いっぱいの前日比0.6ドル(8.3%)高の1ブッシェル(約27キロ)=約7.85ドルで引けた。最近2カ月で約2倍の上昇ぶりだ。

 日本の小麦輸入量(食糧用)は年間約480万トン。6割が米国で残りの4割がカナダと豪州だ。「ロシアから輸入しているエジプトなどの中近東諸国が米国にシフトする」(大手商社)との見方もあり、米国産小麦の価格も値上がりする恐れがある。

 背景には、収穫減を見込んで投機筋が買いに入っていることがある。他の商品も同じ構図で、大手商社によるとたとえばコーヒーは、ニューヨークの先物市場で1年前より約6割高の水準だ。いずれ現物価格も上がれば、家計を直撃しかねない。

 ただ、今のところ、国内の企業は冷静な見方だ。

 小麦の場合、輸入は政府が管理しており、年に2回、輸入価格をもとに製粉会社への売り渡し価格を決める。3〜8月の価格を反映させる次の改定は10月。7月までの価格が低水準のため、製粉業界や商社は「急激な上昇はない」との見方が多い。兼松の下嶋政幸社長は「米国では小麦が豊作。投機マネーでしばらくは上昇傾向が続くかもしれないが、秋口ごろには戻ってくるかも」と話す。

 パン最大手の山崎製パンは、2007〜08年の小麦の高騰時に値上げに踏み切ったが、「今回は当面値上げはないと考えている」。仮に政府が価格を引き上げても、消費者の低価格志向が強いため、「デフレの中で商品への価格転嫁は難しい」(第一屋製パン)との声もある。

◆食糧危機のウソ@  1月5日 世界平和への旅
http://kiichi.at.webry.info/201001/article_2.html

世の中には色んなウソがまかり通っている。ウソは大きければ、大きいほどばれにくいというは本当だ。気候変動やエネルギー枯渇など疑わしいものはたくさんあるが、今回は食糧危機のウソに焦点を当てる。

『「食糧危機」をあおってはいけない』(川島博之、2009年、文藝春秋)を読んだ。2007年から始まった食糧価格高騰は、サブプライム・ローンなどで余った金融資金が穀物市場に流入したために起こったもので、世界の穀物需給が逼迫したためではないと説いており、食糧危機のウソを一つ一つ暴いている。

そもそも食糧危機説は、ローマ・クラブという民間組織から委託を受けたMITプロジェクトチームが『成長の限界』という本を1972年に出版した時に始まったものだ。『成長の限界』では、「世界の経済成長や人口増加は地球資源の制約によってやがて限界に達する」「世界人口の幾何級数的増加に対して、食糧生産力は比例的にしか増加せず、工業化・都市化により農地も縮小していく」と結論付けている。1973年に第一次石油ショックが起き、原油価格と食糧価格が高騰したこともあり、『成長の限界』は世界中に知れ渡ることとなった。

第二のエポックは、アメリカの環境学者(ジャーナリスト?)レスター・ブラウンが『だれが中国を養うのか?』を1995年に出版した時だ。ブラウンは、急速に進む中国の工業化を分析しながら、耕地面積の縮小(工業化、砂漠化)と食生活の変化(肉食の増加)により、中国が一大穀物輸入国になり、世界の穀物を食い尽すと警告を鳴らした。

そして2007年から始まった食糧価格高騰は、「バイオ燃料の増産で穀物が足りなくなる」、というものだったが、1年ほどで穀物価格も落ち着き、いつも通り食糧危機は回避された。

誤解がないように言っておくと、本書では「世界全体でみると、食糧の需要過多は将来に渡って起こらない可能性が非常に高い」と言っているだけで、食糧支援は必要ないとか、飢餓が地球上からなくなる、と言っているわけではない。サハラ以南のアフリカでは紛争や貧困のために今後も食糧不足が続くだろうし、アジアの食糧輸出国の中にも政治的・構造的理由で、食糧支援が必要な人たちはいる。ただ、「人口増加に食糧生産が追いつかない」、というのは危機を煽るための方便で、よくよく検証していくとウソとは言わないまでも、明らかに偏った超悲観シナリオで、ましてや日本のような先進国で食糧不足が起こるようなことはあり得ない、ということを述べているに過ぎない。

細かな検証作業は次回以降書くとして、じゃあ何故そんなウソをつく必要があるのか、誰が得をしているのか、ということを考えてみたい。本書では、そこまで突っ込んでいないので、ここからはあくまで私的な考察だ。

まずパッと思いつくのは、アメリカなどの穀物メジャーだろう。石油価格が高騰すれば、石油関連会社が儲かるように、食糧価格が高騰すれば仲介の穀物メジャーに莫大な富が入り込む。途上国の農民の中から前回の食糧価格高騰で、ぼろ儲けしたという話はあまり聞かない。

次に考えられるのは、食糧輸出国、すなわち北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどの先進国だ。これら先進国には日本の休耕田のような休耕地がたくさんあり、北米や旧ソ連、オーストラリアなどでは、農地の半分以上が休耕地で生産余力があるので、価格が高騰すれば、当然これら休耕地で生産を開始する。結果、政府は休耕地への農業補助金も削減できる。

そして最後に、世界を支配しようとする人々だ。昨今、総合安全保障という言葉がよく聞かれるようになったが、兵器やエネルギーと並んで、「食糧」は人間が生きていくのに欠かせない、安全保障上の主要な戦略物資の一つだからだ。食糧の価格と供給網を抑えている人々が世界を支配できると言っても過言ではない。

「食糧問題=農業問題」と考えている人もいるかもしれないが、食糧は、市場、貿易、流通網、バイオ技術など様々な要素の絡んだ、非常に政治的な物資である。人間が食糧を必要とする限り、それを支配の道具にしようとする人々、危機を煽って利益を得ようとする人々は後を絶たないだろう。

大きなウソを見破るためには、マスメディアのトレンドに乗らないこと、地道な専門家の意見に耳を傾けること、そして、経験で培った自分の常識と思考を信じることだろう。


(私のコメント)
農業においても先進工業国ほど食料生産力があり、小麦や米なども工業製品と同じように資本と技術力のある国が主導権を持っている。途上国の農業は灌漑や肥料なども不十分だから収穫に波があり天候によって左右されてしまう。日本の米が余るようになって来たのも需要が減ったせいもありますが、天候に左右されずに収穫できるようになったからだ。冷害の時は別ですが旱魃や日照りの被害はあまり聞かない。

だからロシアの農業被害も異常高温のせいですが、灌漑設備があまり整っていないのだろう。ロシアの異常高温は6月から始まっており草原が異常乾燥して自然発火などでモスクワなどではスモッグでヨーロッパからの渡航制限が出るほどになっている。

異常高温と乾燥による森林火災は防ぎようがありませんが、ロシアの田畑は非常に広大であるにもかかわらず天候まかせの農業であり、ロシア革命などの背景にも旱魃などによる飢饉などがある。灌漑をしようにも河川の水量も限られるし、アラル海消滅に見られるように河川から水を引くと湖が無くなってしまう。中国なども同じような問題に見舞われている。

このためにロシアは90年代は食料をヨーロッパから輸入していたほどであり、ロシアは広大な田畑があっても輸出するほどの農作物は中東に小麦を輸出する程度で収穫量は多くない。それに対してヨーロッパやアメリカなどでも異常高温や旱魃などでギリシヤやアメリカなどでも森林火災がよく起きますが、小麦が不作になると言う事はあまり聞かない。

農業においては耕地面積の広さよりも水量の豊富さのほうが問題になる。耕地面積がいくら広くても雨が降らずに河川もなければ農作物は育たない。日本の場合は耕地面積は非常に狭いが水量が豊富で灌漑設備も整っているから異常高温や旱魃があっても米が不作になる事はあまりない。むしろ夏はカンカン照りになるくらい晴れた方が豊作になる。

北米やヨーロッパが生産調整しなければならないほど農作物が取れるのに、広大な耕地を持つロシアが食料飢饉が起きるのは途上国型の農業であるからであり、コルホーズやソホーズなどの近代的農業はプロパガンダに過ぎない。不作の時はヨーロッパから輸入するほどなのは農業が近代化されていないためだ。

金額から見れば日本は農業大国である事は先日も書きましたが、耕地が広くなければ多くの食糧生産ができないと言うのは神話なのだ。農業も一種の装置産業であり田畑が広ければ沢山の作物が出来る訳ではない。農作物を作るには水や肥料や除草などによって収穫を増やす事ができる。

それに対して途上国型の農業は、タネをまいて後は天候任せの農業であり、ロシアのように旱魃や高温で小麦は枯れてしまう。日本では7月から8月に欠けては雨らしい雨も降らずに山火事なども出ますが、旱魃で米が不作になった事はあまりない。むしろ冷害のほうが手のうちようがない。

現代の農業は機械化が進んで農作物も工場生産されるように作られる様になった。小麦や大豆やトウモロコシも品種改良して収穫を増やす事ができれば日本でも米のように余るほどできるはずだ。アメリカなどでは遺伝子組み換えで作るようになりましたが、旱魃に強い品種や病虫害に強い品種などで生産している。

方法を変えればトウモロコシや大豆なども一つの苗から大量に実を実らせる事ができるはずであり、そうなれば耕地面積の広さよりも水や肥料などを十分に与えて管理すれば日本などでも十分大量生産は可能なはずだ。日本が食料自給率40%と言う神話も農業予算がらみで作り出された数字であり、日本が農業大国になる事は可能だ。

問題なのは酪農などの家畜に飼育に大量の飼料が必要だから日本は大量の食糧輸入国になってしまっている。宮崎県の口蹄疫などで日本で大量の牛や豚が飼育されている事が分かりましたが、生活が向上すればそれだけ肉を食べる事になり、多くの食物が飼料用に消費されてしまう。

もし中国やインドが経済が拡大して生活レベルが向上すれば肉を大量に食べるようになって家畜用の飼料の生産は間に合わなくなるだろう。ロシアなども飼料用穀物を確保する事が出来ずにスーパーの棚から食肉が消えた事は記憶に新しい。ソ連の末期には農村地帯には大量のジャガイモが山づみにされて腐っているのにモスクワに店頭は空っぽであることがありましたが、ロシアとはそういう国なのだ。

アメリカやヨーロッパは政府からの農業補助があって農業振興が行なわれて生産の合理化が進んでヨーロッパも以前は食糧輸入国だったのに今では輸出国になっている。日本も適切な農業振興策が行なわれていれば輸出できるほどになるだろう。現に埼玉県ほどの面積の田畑が減反政策で放置されている。しかし今回の民主党の戸別所得補償制度はヨーロッパの制度とはかなり違うものであり、輸出産業として農業を育成して行くべきだ。

BRICsと言う言葉があるようにロシアは産業に関しては中国、インド、ブラジル並みの国家であり、少しの旱魃や高温被害で小麦の生産は落ち込んでしまう。だからプーチン首相が小麦の輸出を停止させたところで食糧危機が来るわけではない。元々は輸入国だったくらいだからだ。



http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/448.html

記事 [昼休み41] 「alternative、恐慌の次は、値段のツリ上げ」(ハゲタカを退治しない限り、世界経済は常に脅かされる構造です)
http://alternativereport1.seesaa.net/article/158741091.html
2010年08月07日
世界金融恐慌の次は、食品の値段のツリ上げを目指す、悪徳銀行ゴールドマン・サックス

2010年の世界金融恐慌を生み出し、

アメリカ政府によって、責任を問われる結果になった悪徳銀行ゴールドマン・サックス。

このゴールドマン・サックスが、世界の食料の「支配」に乗り出した。

ゴールドマン・サックスの「食料価格・吊り上げ」の戦略。

その悪徳商法の手法を明らかにする。


http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/419.html

コメント [経世済民69] 政治板でコメントしたけど、わいは馬鹿やから経済板でご意見を問いたい... めむめむ
43. めむめむ 2010年8月08日 14:38:03: lmDW19lBDnz8g: ZwvvarYQ5Q

>>42さん、

恐れ多いお言葉、わたいには似つかわしくないです。



http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/443.html#c43

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
16. 2010年8月08日 14:45:47: qQzZIhyYNA
HPVに感染している可能性がある・・・可能性?
データはどうしたのでしょうか
子宮頸がんになった方々とワクチンを結びつけるデータとしては
このHPV感染率は厳密なデータが必要なはずだが。
可能性とはどの程度の%か
グラクソのCMでは80%感染しているとあるが?
(性交渉している女性に限るとは何処にも出ていないが)

ワクチン接種の前にHPV検査をすればよい話です。
「性交渉をしている大人の女性」にHPV検査をすればよい。
そして、2年ではない1年間隔でこまめに検診すればよい

(1)HPV検診を受けさせる。
(2)HPVに感染していないのなら、副作用を含め説明して
   ワクチン接種を受ける・受けないを大人の女性が決めればよい。
(3)HPVに感染して無い女性のワクチン接種後の発症率を追跡調査する。

これで、ワクチンの有効性が本来解るのではないのでしょうかね?
私が調べたところ日本産婦人科学会関係のデータにこのような資料が見当たらない。
私の調査力不足だと思うので、申し訳ないが
知っている方に是非ご教授願いたい。

さらに付け加えるのなら、HPV感染しないよう啓蒙教育するのが必要だ
HPVに感染して子宮頸がんにならなくするより
HPVそのものに感染しないようにすれば良いが
その研究はどうなっている?
HPV感染が何故起こるのか?
HPV感染しないようにするには、どのような衛生習慣と衛生知識
または食生活を送るかが、医療費高騰に悩む日本の財政改善にも役に立つ。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c16

記事 [議論30] 町村を落とす、自民にとどめを刺すことで民社共は連携を
民主党の代表選で、誰が代表に、首相になるかで変わるでしょうが、政界の再編は十分ありうると思います。その際に、自民党最大派閥の長で、超タカ派の町村が、選挙区で勝ち息を吹き返すのか、38歳の若造に敗れて政界を去るのかはの影響は小さくないでしょう。
それだけでなく、これを機会に民社共、それに大地や国民新党の協力体制ができれば、衆議院では3分の2をこえ、参議院では半数に限りなく接近することになります。
北海道では、先の参院選で社民党が、消費税や沖縄基地問題での合意を条件に民主党の藤川候補を推した実績があります。結果は実りませんでしたが、民主党のような左右幅広い、中央の統制の緩い政党との協力や闘いを考える場合に、有効な試みだと思います。
共産党の2、3万の票は、どうひいき目に見ても当選を争う数ではありません。しかし、もし民主の新人が町村と接戦を演じるようなことになれば、この2、3万が当落を分けることになるかもしれません。
共産党が票を伸ばしても、喜ぶのはガジガジの党員か支持者だけです。
逆に、候補を降ろせば、民主党陣営は共産党票を取り込もうとし、少なくとも共産党の反発を買うような言動を避けるようになるでしょう。
戦術的に活用し、反共的な候補には対立候補を立て、友好的な候補・議員を少しずつ増やしていくことができれば、党外から民主党を改革し、政権を健全な方向に支えていくことも可能だと思います。
どっちが得か、考えるまでもないことだと思うのですが。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/300.html
コメント [経世済民69] 「財政再建」なんて自殺行為だ 何十兆円も償還されて困るのは“借金”漬けの銀行 (三橋貴明) ダイナモ
35. 2010年8月08日 14:59:16: dSZR7EKq7I
「もっと国債を発行し、支出を増やしてほしい」ッテ言ってんのは金融機関でしょ? 

いくら金融機関で安全パイの国債運用積み増やしたって 国民の懐に金が入るわけじゃない。 全ては金融機関の都合だよね? 金融機関が貸し出せる先でぐるぐるお金回したって国債買ったって 国民の懐には一銭たりとも入らない。

毎年国債及び地方債を40兆円以上を発行して20兆円以上国債の元利払いにあてられてるんですよね?http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/sy014_1809.pdf (国家予算円グラフ)
おいしいのは銀行だけなんでしょ?(あるいはその恩恵にあずかる企業・グループ)

一般家計に置き換えれば、収入が夫婦とも働きで年収450万円(月40万程度)しかないのに年間400万円(月々35万円)の借金を消費者金融で借りて生活をしている。

もちろん貯蓄に回すお金は無い。年間の元利返済は200万円 月々15万返済で夏のボーナス時(そんなもんあったとしてw)残りを一括返済してる つまり毎月20万円借りて15万円返済している。 もうすでに総額1000万円か2000万近い借金かもしれない(実は250万円くらいかもしれない)親から譲り受けた資産はあるが いくらになるのかわからない 果たしてこの借金は誰の借金なのか? 本当に借金なのか? 国民か? 政府か? 銀行のか? 国民は借りた覚えもなく請求書はだれ宛の請求書かもわからない。(w)

銀行は金を貸す先がない この20年公共事業で箱ものをずいぶん造ったが 厚生省が二束三文で売り払った 何処に? 国民の懐には一銭も金は回ってこない。

景気が悪いのは公共事業が少ないせいだ (そうだ そのとうりだ! 公共事業が駄目だというわけじゃない クリントンはそれで乗り切った でも政府の債務を我々一般庶民が何故負わねばならないのか?馬鹿馬鹿しいから国民に刷って配れと言っている)

政府紙幣発行案について 200兆円国民1人につき120万円を5年続けて配りなさい!
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/426.html

政府紙幣という表現が誤解を招くのであれば という意味で (5年間の期間限定 しかも国民に直接配るためだけの)(商品券であろうがサービスチケットだろうが地方紙幣であろうが構わないのです 政府の債務を我々一般庶民が何故負わねばならないのか?馬鹿馬鹿しいから国民に刷って配れと言っている)

ところがお金が上のほうでぐるぐる回ってるだけだから 景気なんて良くなるわけがない そうして失敗したんですよね?この20年 
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/440.html



http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/432.html#c35

コメント [お知らせ・管理19] お知らせ・管理19を起動しました 管理
06. 2010年8月08日 15:02:02: ZsUNOgGnko
管理人さんへ

次の投稿は投稿規範に違反していると思われます。

コンビニ特攻隊 [コラージュ] (リチャード・コシミズblog)
http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/114.html
投稿者 いさむ 日時 2010 年 8 月 08 日 14:03:35: 4a1.KLUBdoI16

この記事は200文字記載されておらず閲覧者を惑わすだけと思われます。

よろしくお願いいたします。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/101.html#c6

コメント [経世済民69] 円高はいつまで続くか taked4700
18. 2010年8月08日 15:15:39: ftWOvdbuww
先日マックスバリューではそばが一束13円で売っていた。3束100円よりさらに値下がっている。デフレは深刻化するばかり。よくデフレとインフレはコインの裏表と
言われるけれど、このままデフレが続けば、いつの日かインフレが来るんじゃないかという不安がある。
財政赤字については財務省が不安を煽っているだけでそれほど心配はしていないが、万が一国債が暴落すれば、必ずハイパーインフレがやって来る。当然、円安だ。破産者続出だろうな。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/434.html#c18
記事 [エネルギー2] 住友商事 ニュージーランドで世界最大の地熱発電所を完工
http://www.kankyo-business.jp/news2010/20100517d.html

2010/05/17
住友商事 ニュージーランドで世界最大の地熱発電所を完工
住友商事は、ニュージーランド国有電力会社マイティ・リバー・パワー社より受注し、建設を進めていたヌアワプルア地熱発電所140MWが完工したと発表した。同発電所には、1機の発電容量では世界トップとなる富士電機システムズ製の蒸気タービンが設置された。同地熱発電所は、2008年5月より約2年間の工期を経て完工し、4月4日より商業運転を開始している。

地熱発電は再生可能エネルギーのひとつとして注目されている。地熱資源を持つ国では開発に向けて取り組みを加速しており、住友商事は地熱発電プロジェクトの受注に向けて注力している。同社は、インドネシアでも、富士電機システムズ及び現地の国営電力会社と組んで地熱発電プロジェクトを展開し、これまでに7件・約530MWの受注実績がある。

富士電機システムは、地熱による腐食への耐性を備えたタービン製造において高度な技術と経験を持ち、昨年2月にインドネシアで完工したワヤン・ウィンド地熱発電所(110MW)でも、単機容量で世界最大の地熱発電用タービンを納入している。ニュージーランドでは、今回が4件目の納入となる。

http://www.asyura2.com/09/eg02/msg/243.html

コメント [スポーツ1] 鬼武氏と川淵氏、協会に問う。賞金を返還させるなら、チケット代も返還すべきだろう。
100. 2010年8月08日 15:34:13: lAiUoOkEWI
アメリカ=米国女子プロサッカーWPS試合結果[Ⓤⓝⓘⓣⓔⓓ Ⓢⓣ⒜ⓣⓔⓢ=ⓊⓝⓘⓣⓔⓓⓈⓣ⒜ⓣⓔⓢ ⓖⓘⓡⓛ ⓟⓡⓞⓕⓔⓢⓢⓘⓞⓝ⒜ⓛ ⓢⓞⓒⓒⓔⓡ ⓌⓅⓈ ⓖ⒜ⓜⓔ ⓡⓔⓢⓤⓛⓣ]【G日[⒜ⓤⓖ.G]】[ⓊⓈ⒜ ⓌⒹ@]【ⒻⓉ(=ⒺⓝⓓⓄⓕAⓝⓓⒽ⒜ⓛⓕ)・⓪G:⓪D〜(⒜ⓣⓛ⒜ⓝⓣ⒜)】アトランタ・ビート(⒜ⓉⓁ) @:A スカイブルーFC(ⓃⒿ)(ⒽⓉ:⓪:@)【ⒻⓉ(=ⒺⓝⓓⓄⓕAⓝⓓⒽ⒜ⓛⓕ)・@@:⓪D〜(Ⓛⓞⓢ⒜ⓝⓖⓔⓛⓔⓢ)】FCゴールド・プライド(Ⓑ⒜ⓨ) ⓪:⓪ シカゴ・レッドスターズ(ⒸⒽⒾ)(ⒽⓉ:⓪:⓪)
http://www.asyura2.com/09/sports01/msg/180.html#c100
コメント [戦争b5] 『未承認村』 : The Unrecognized : ネゲブ砂漠のベドウィン 妹之山商店街
04. 2010年8月08日 15:43:32: VFMOWmLqho
>>03

ああ、なんだバルセロナの人のところで粘着してる不要有害屑か
こんなのを駆除する方法の確立は人類存在の未開拓の分野だ
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/437.html#c4

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
17. ダイナモ 2010年8月08日 16:05:08: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>16

浸潤がんの99.7% がHPV DNA検出法により陽性であることが報告された1)ことから、発がん性HPV感染は子宮頸がん発症の必要条件とされています。しかし、発がん性HPVに感染したすべての人に子宮頸がんが発症するわけではありません。発がん性HPVに感染したうちの少数例においてのみ、長時間をかけて子宮頸部上皮内腫瘍(CIN:cervical intraepithelial neoplasia)から浸潤がんへと進展していきます。CINとは、上皮内に限局する異形成と上皮内がんのことで、子宮頸がんの大半を占める扁平上皮がんは、異形成という前がん病変を経て発生します。
1) Franco EL et al.:CMAJ 164(7):1017-1025,2001

子宮頸がんになった方々とワクチンを結びつけるデータとしてはグラクソのwebページに以上の説明があります。
http://glaxosmithkline.co.jp/medical/cervical/index.html

>ワクチン接種の前にHPV検査をすればよい話です。
>。ヨ性交渉をしている大人の女性」にHPV検査をすればよい。
>そして、2年ではない1年間隔でこまめに検診すればよい

だから性交渉の経験のある女性ではすでにHPVに感染している人が多いので、HPVワクチンは無力だと言っているのです。ただし、ワクチン接種後は新たなHPV感染を防ぐ効果はあります。
全女性の70〜80%が一度はHPV に感染すると日本産科婦人科学会などの文書に明記されています。

ワクチン接種を受けたうえで2年間隔で子宮頸癌検診を受けた方が費用も安く済むのでよいのではないですか。

国は乳がんと同じく2年に1回の検診を呼びかけています。同じくグラクソのWebページから。

わが国では、地域住民検診として20歳以上の女性を対象に、2年に一度の子宮がん検診を実施することが推奨されています。
わが国における子宮がん検診は1960年代から行われ始め、1983年に施行された老人保健法により国の事業として推進され、全国的に普及しました。以前は住民検診として、30歳以上の女性を対象に年1回の頻度で実施されていましたが、最近の20〜30歳代における子宮頸がんの増加を踏まえて、2004年から検診対象年齢が20歳以上と改正されました。

1)厚生労働省老健局:老人保健事業に基づく乳癌検診及び子宮がん検診の見直しについて.:がん検診に関する検討会中間報告.2004

http://glaxosmithkline.co.jp/medical/cervical/detect0201.html

 

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c17

コメント [マスコミ・電通批評10] マイケル・グリーンは原子力潜水艦に乗り、ロックフェラー4世と親密な小沢一郎前幹事長に鞍替え!(板垣英憲マスコミ事務所) 愛国改善党
09. 2010年8月08日 16:06:12: XJ9eMlz9vk
くやしいのは、このマイケル・グリーンなる、ゴロツキ程度が
日本担当をしていることだ。
アメリカではバカにされ、それ以上のポジションにつけない奴が
やらされる役だ。

早く、こんな低脳・低俗な奴らにではなく、自分の国のことは自分で決めて
いける「自立した国」になりたいものだ。
もうアメリカはいいよ。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/770.html#c9

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
13. 2010年8月08日 16:20:35: i25rmpCgVs
アメリカがイランを狙う理由は多々あるだろう。しかしアジア外交専門のルースが
国民不在の恫喝を日本政府にしにきたのだとしたら、
イラン戦争(核保持・テロリスト国家と言う予防戦争)に対して、アメリカ自身が世界の協力を得られにくい立場に有り、相当のあせりを感じているのではないか?
世界最強軍事国家の保持の為に世界中に紛争を起こさせ、貧乏大国になってゆくアメリカ。
今、世界は積極的協力体制ではなく、アメリカの動向を注視している。
日本政府は、今までのようにのらりくらり外交を行うべきである。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c13
コメント [お知らせ・管理19] 管理人さん こちらも二重投稿でした削除願います。 行雲流水
02. 行雲流水 2010年8月08日 16:29:15: CcbUdNyBAG7Z2: fEYiVE3nvI
ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/103.html#c2
コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
14. 2010年8月08日 16:30:37: dFQfn0xMh2
アメリカで非難轟々な事をあえてやる
これはこの前の小沢密会での手打ちの一つと見る。
米側は相当金に困ってるようだ。
もちろん、第3極を狙っての事だろうが、恐らく小沢はそこも分かって
やってるのだろうと思う。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c14
コメント [お知らせ・管理19] 管理人さま 二重投稿でした、削除をお願い致します 行雲流水
02. 行雲流水 2010年8月08日 16:30:52: CcbUdNyBAG7Z2: fEYiVE3nvI
お手数をおかけしました、ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/102.html#c2
記事 [昼休み41] 「borowitz、ソマリア海賊=ゴールドマンサックス」(海賊がハゲタカだとすると、アルカイダ=ハゲタカと考えられます)
799 :名無しさん@十一周年:2010/08/08(日) 16:06:22 ID:W/Iz6UrA0
ソマリア海賊彼らはゴールドマンサックスの子会社だと爆弾発言
http://www.borowitzreport.com/2010/04/25/somali-pirates-say-they-are-subsidiary-of-goldman-sachs/

ノーフォーク、ヴァージニア(Borowitz報告) ― 11人の起訴されたソマリアの海賊は今日米法廷の中で、爆弾発言をした。それは、彼らの全ての海賊行為活動が、銀行業務の巨人/ゴールドマンサックスの子会社であることを明らかにしたことだ。

海賊のリーダーが発表したとき、聞き取れるあえぎが法廷にあった。「我々は、神の仕事をしている。我々は、ロイド・ブランクファイン(ゴールドマンサックス最高経営責任者)のために働いた」

海賊(昨年4800万ドルのボーナスを金貨で受け取ったと言った)はゴールドマンのためにソマリ族の仕事の性質を詳しく述べた。そして、彼らはゴールドマンサックスが空売りしていた貨物船を襲撃するようにゴールドマンサックスから指令を受けていた。

「我々は投資銀行行員として働き、毎日がカジュアルフライデーだった」と海賊が言った。

海賊は、銀行規制の緩和を利用し、2008年の後半からゴールドマンサックスと経営を一体化させた。

衝撃的な意外な事実を受け、米国の検察当局はソマリア海賊に銀行法を適用することとし、違法な行為がなかったかどうかの調査に乗り出した。

「彼らが、実際、海賊であるならば、彼らの違法行為を摘発することができる」と、1人の政府筋が言った。「しかし、彼らが銀行家であるならば、我々の手は及ばない」とも。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/420.html

コメント [経世済民69] 円高はいつまで続くか taked4700
19. 2010年8月08日 16:56:43: 8ZUsU1oS5g
>>17
> これも、現状を見たくないという甘い考えではないですかね。

taked4700さんはどうかしているんじゃないの?。
>>16 さんは実際に韓国製部品や中国製部品が粗悪品で使い物にならなかったといっているんですよ。
現状そのものじゃないですか?。

欠陥住宅だの植民地化だの脈絡と関係ないことを持ち出して意味不明のすり替えをいます。
taked4700さんはおかしくなっちゃったみたいですね。


http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/434.html#c19

記事 [昼休み41] 「毎日、小沢政治は卒業しよう」(とハゲタカ岩見が吠えたところで、視聴者・購読者は6大マスゴミをとっくに見限っています)
719 :無党派さん:2010/08/08(日) 16:50:52 ID:E5h2afZu
近聞遠見:「小沢政治は卒業しよう」=岩見隆夫
http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
迷走、漂流などと言われるなか、政界の古参組は何をしているのか。

最古参は衆院当選14回の森喜朗、小沢一郎ら4人、ついで13回が加藤紘一、野田毅の2人、12回はなく、11
回が亀井静香、鳩山邦夫、鹿野道彦ら8人、10回が菅直人、横路孝弘、麻生太郎、谷垣禎一、平沼赳夫ら9人
で計23人。

全衆院議員の5%に当たる。年季が入っているはずのこのベテラン集団、動きが鈍い。指導層として、政界の風
通しをよくしなければならないのに、冴(さ)えないのだ。

しかし、だれもが手をこまねいているわけではない。自民党の加藤紘一元幹事長は、参院選投票日2日前の先
月9日、岩手県奥州市(旧水沢市)に入った。民主党の前幹事長、小沢一郎の地元だ。加藤は街頭で、

「一つの政党がすべて数でモノを決める。一人の政治家の力で決める。そういう政治に終止符を打つためには、
水沢の方たちの投票が重要です」

などとぶった。一人の政治家とは、当然小沢を指している。敵陣に乗り込み、レッドカードを突き付けたも同然だ
った。

来月14日の民主党代表選が近づき、政界は日増しにキナ臭くなっている。党内に小沢擁立論が強まり、すでに
出馬表明している菅首相と小沢の対決になるかもしれない、という観測が広がっているからだ。


720 :無党派さん:2010/08/08(日) 16:52:23 ID:E5h2afZu
新装の議員会館で、加藤に聞いた。小沢の出馬はありそうか。

「わからない。立たないような気がするが、力があるなら自ら立つべきだ。菅さんとテレビ討論をやればいい」

しかし、小沢政治には終止符を、と言っている。

「とにかく、小沢さんは幹事長の時にテレビで他党と議論したことがない、すぐ姿を消す。与党の場合、幹事長が
首相の代役をつとめるのが通例なのに、まったく異常だ。それを永田町もメディアも許している。戦後の議会でこ
んなケースはなかった」

2人の付き合いは古い。父親がともに自民党藤山(愛一郎)派に所属し、選挙区も岩手と山形で近く親しかった。
小沢は父、佐重喜が急死し、後を継ぐことになって、準備のため世界一周の旅に出る。最後に立ち寄ったのが
香港、総領事館に勤務していた加藤が一晩案内役をした。約40年前、それ以来だ。

「だから、新人議員のころはよく一緒に遊んだ。議論もした。自民党の幹事長になった(1989年)ころからかなあ、
奥の院っぽくなって。陰気で、ワイワイガヤガヤが小沢政治にはないんだ。

力量は相当だが、あまりに権力志向的で、権力保持にすべての力点がある。どういう国を造ろうとしているのかも、
はっきりしない」

加藤71歳、小沢68歳、時間は多く残されていない。政界通の野中広務元自民党幹事長は最近、雑誌の座談会で、

「加藤さんとまだ生煮えの小沢さんが手を結んで一つになる、なんてことがあるかもわからん」

と語っている。



http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/421.html

コメント [口蹄疫・新型インフル02] どうしてサボタージュが行われたかを国は調査すべきであり、サボタージュの原因追及を棚上げして法の不備(?)を主張する知事に taked4700
05. 2010年8月08日 17:10:51: 8ZUsU1oS5g
>>04
>今回の口蹄疫にしても、2000年の時の口蹄疫にしても、そして、2007年の鳥インフルエンザにしても、どれも、多分、人工的に起されたものですよ。

だから、そういうことを言うときは「ちゃんした証拠」を出してコメントして下さい。


http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/770.html#c5

記事 [昼休み41] 2、ACD層は、6大マスゴミの世論調査は、毒饅頭を食った放送作家が適当に数字を決めていると思い始めています。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1281225896/l50

789 :名無しさん@十一周年:2010/08/08(日) 16:50:29 ID:6iXPeUxF0
どうせ、実際に支持率調査なんてしないで、放送作家さんが適当に数字を決めているだけでしょ?
その方がお金が掛からないし。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/422.html

コメント [昼休み41] 「uekusak、警察は元首相長男薬物検査を行うか」(小沢だけ捜査事件と同レベルで捜査しないなら検察の信用は失墜します 小沢内閣待望論
01. 2010年8月08日 17:25:28: swlnfR07HU
週刊誌の続報に期待…
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/415.html#c1
コメント [昼休み41] 「毎日、小沢政治は卒業しよう」(とハゲタカ岩見が吠えたところで、視聴者・購読者は6大マスゴミをとっくに見限っています) 小沢内閣待望論
01. 2010年8月08日 17:32:20: swlnfR07HU
「卒業しよう」:
それは岩見隆夫を含む政局評論家やマスコミ自身に向けられる言葉であり、
「小沢政治」なるものの虚像を捨てることです。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/421.html#c1
コメント [戦争b5] スペインの裁判所、イラクで自国カメラマンを殺害した米軍兵士に逮捕状! バルセロナより愛を込めて
12. 2010年8月08日 17:49:12: 8ZUsU1oS5g
>>10 さん
>アフガン戦争「機密文書」暴露の衝撃度
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/427.html#c13

を読んでみたら、「輿水信者」とかいうレベルじゃなくて「子供」ですよ。


http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/429.html#c12

コメント [戦争b4] 韓国のメディア: 「日本、軍事大国化への第一歩か」 【中国情報局】 hou
17. 2010年8月08日 18:21:36: 8ZUsU1oS5g
憲法9条を改定して「自衛隊」を違憲にする事も出来ますね。


http://www.asyura2.com/10/warb4/msg/503.html#c17

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
18. 2010年8月08日 18:23:46: qQzZIhyYNA
ダイナモさん、私が意図したのは製薬メーカーのデータではなく
日本産婦人科学会や厚生労働省からのデータで、それが見当たらないのですよ。
>>04 の参照元の阿修羅のコメントによれば
子宮がんに、子宮体がんと子宮頸がんの統計データがごちゃ混ぜになっていて
本来の子宮頸がんの追跡調査が日本では精査されていないと
いまから精査するので、医療用語の区別とデータの区別をするとあった。

問題は子宮頸がんのワクチンだ、子宮頸がんの日本人のデータが無いのでは
ワクチンの有効性が解らないとの疑問です。
私は単純な話、ワクチンとは免疫系を補助・強化する薬であるとの認識で
それもある程度平均的に成熟した大人に有効であるとの認識です。
免疫系が整っていない成熟していない女子児童に有効なのですか?
ワクチンが有効だとのデータの元は成人女性=大人の女性のデータですよね?
それとも、女性の免疫系は平均的には12歳ぐらいで整うものなのですか?
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c18

コメント [経世済民69] 円高はいつまで続くか taked4700
20. 2010年8月08日 18:26:49: 8ZUsU1oS5g
>>19
パソコンが乗っ取られ、書き換えられてしまったので訂正。

誤:欠陥住宅だの植民地化だの脈絡と関係ないことを持ち出して意味不明のすり替えをいます。
正:欠陥住宅だの植民地化だの脈絡と関係ないことを持ち出して意味不明のすり替えをしています。


http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/434.html#c20

コメント [議論30] 〔独立〕の課題を提示した『岩波講座現代 第1』(1963年)の巻頭論文 仁王像
01. 仁王像 2010年8月08日 18:47:59: jdZgmZ21Prm8E: zqw7Lv8Ckk
その昔の労組歌(青年部)のフレーズを思い出した。
 ♪独立の願い、石も叫びー
 ♪民族の誇り知る我らー

 そうだ、独立の願いを石も叫んでいたという認識がしっかりした時代もあったのだ。
 「民族の誇り」はやはりこれでなくてはいけない。「国民の誇り」ではなにかふ抜けて気合いが入らない。「民族」と「国民」では語感が違う。前者には同胞間の絆が感じられるが後者には希薄である。その絆はやはり民族のアイディンティティというものだろう。

 ついでに「てっちゃんまんころ」の歌というのもあった。鉄鋼労働者は定年満期でコロリと死ぬ、という意味の労組歌であった。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/297.html#c1

コメント [マスコミ・電通批評10] 日テレ社員3名は 電通の選挙の不正を知った口封じのために殺害されたのでは? 直人
21. 2010年8月08日 18:55:19: UIGdljKFIA
こんなこと ここではスレチなのでしょうが言わせてください。

何で 夕方になると民放各局が旨そうな店の旨そうな食べ物を
高級取りでありそうな局アナがうまそーに食う番組が多いのでしょうか?

こういうのって最も局に対する殺意が湧いてくる番組だと思いませんか?

山本周五郎の小説で牢内にいた中のやさ男が 詐欺で牢に入る前にいかに
街の女将たちに寵愛されてて、その様を牢内で喋る度にみんなが興奮して
喜んだかが書いてある。
彼は牢内の誰からも愛されてて、その話題はエスカレートしていって、皆が彼の
話を毎日渇望していた。
しかし、狭い牢内 連日のように送り込まれる罪人達。
誰かを間引かなくてはいけない。
そのとき 牢名主が中堅身内に密かに言った 「この間男を間引く」

しかし どこの誰からも反対する意見はなかった。

民放の性格ってこれに似てると思う。
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/768.html#c21

記事 [昼休み41] 日航ジャンボ123便 日本の超古代兵器を鶴丸付近に伊豆で受けた 伊豆の葉付菊紋の、かっぱ天狗、の仕業
伊豆のかっぱ天狗の件ですが、
リークされている123便CVRと

らんま1/2の最初
http://www.youtube.com/watch?v=BqIvZxI_mG8&NR=1

を比べて見てください。
ほとんど同じ、というか、場合によっては日航ジャンボ123便のCVRをそのまま切り貼りして使っています。


これは、アメリカ・中国界隈から日航ジャンボ123便の件を、らんま1/2からリークした例と言えます。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/423.html

コメント [戦争b5] 米高官 広島訪問謝罪でない : 米国務省クローリー次官補 「広島でわれわれが謝罪すべきことは何もない」 妹之山商店街
02. 2010年8月08日 19:01:46: IiVR3pvUbw
われわれにとっての敵性国家が、本性をむき出しただけだ。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/463.html#c2
コメント [経世済民69] 「救国の秘策」への秘策を、ここに再び詳述し、その採用・実施を切言する(記事リンク) シャンプーhair
02. 地には平和を 2010年8月08日 19:13:19: inzCOfyMQ6IpM: SLfnrPFNMk
例えば100兆円の政府紙幣か小切手を1枚作成して日銀券と交換しその日銀券を貧乏人にすこしづつ配布するという方法が一番現実的かも知れませんね。再現なくこれをするのではなく効果を確認しながら少しづつ配るという方法です。まずは現在はデフレなのでデフレが止まり物価上昇に転じたという事を確認する段階がますありその次にインフレがあまりにも進み過ぎるように成り出したら給付をやめ又必要だと判断した時に又給付するというやり方です。政府の負債にならずに貧乏人を救済し経済を救済する方法です。又、国債も同じ方法で買い戻せばいい。政府が借金しているという状況は不健全過ぎます。子孫に対しても申し訳ないです。我々の世代でこの方法で借金0にしましょう。それは銀行にとっては大反対でしょうが、民間企業の利益よりも政府の財政健全化の方が大事です。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/447.html#c2
コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
39. taked4700 2010年8月08日 19:15:14: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
38さん、ぜひ、次の文章を読んで、返事を聞かせてほしい。

>当時、私の知り合いがあの現場近くの工場に勤務していて、消防、救急隊より早く共助に行ったそうです。
>1両目、2両目が何処にあるかも判らないほどにつぶれており、特に1両目は地下に押し込まれた状態で、誰もそこに1両目があることすら判らなかったそうです。


これは本当のことではない。少なくとも、「1両目、2両目が何処にあるかも判らない」ということはなかった。線路わきのマンション一階の入口に2両目は巻き付いていて、その写真はインターネット上にも多く公開されているはずだ。

更に、「特に1両目は地下に押し込まれた状態で、誰もそこに1両目があることすら判らなかったそうです」は、正に嘘でしかない。線路脇のマンションに地下があったという報道はない。また、地下に1両目が潜ったということもあり得ないし、そういった報道もない。そもそも、駐車場には車が何台も停められていて、そこへ水平方向から突っ込んで行ったのだから、地下へもぐること自体があり得ない。

つまり、38さんの書いたことは真っ赤なウソということだ。はっきり言う。アメリカの軍産複合体の手先になっている連中は、一般市民の命を気にすることをしていない。彼らは、単に命令に従っていろいろな工作をするだけ。ひどい奴は、そういった工作に便乗して自分の利益を図ることさえする。

地下鉄サリン事件の時、霞ヶ関駅で朝の通勤時間帯でのテロであったのに、警察庁、警視庁の職員は誰も犠牲にならなかった。また、一般の官僚も犠牲にはなっていなかったはずだ。通勤時間帯で霞ヶ関駅でもガスがふりまかれたのに、不思議なことに官僚の被害はなかったのだ。

更に、このことを調べていると、こんなページもある。

http://www.s-a-t.org/sat/sarin/teiki.html

このページの最後には、次のように書かれている。
以下引用:
●おわりに
 地下鉄サリン事件・松本サリン事件の実行犯は、オウム真理教のメンバーと言われる。それはそれとして、これまで述べてきておわかりのように、問題は現在の公訴事実がすべて真実といえるのか、意図的に何か隠蔽されているのではないかという、疑問がある。
 ここまで書いてきた内容で、一般に信じられている内容が事実ないし真実といかにくい違っているか、少しは感じていただけたと思う。一般に報じられている裁判報道がすべてを伝えているとは、私にはとうてい思えない。地下鉄サリン事件・松本サリン事件をオウム真理教メンバーのグループの単独犯行とする説に疑問を投げかける所以である。

以上引用終わり。

つまり、地下鉄サリン事件のような事件でさえ、真相究明はされず、真相究明を装ったウソが流されているのだ。

そして、そういった大掛かりなウソが今後どんどんと増えていくだろう。実際、911テロ以降、サブプライムローン破たんをはじめ、大がかりで多くの市民の犠牲者を出すウソが公然と行われている。

現状では、警察は、却って、市民生活の安全を脅かす存在になっている。確かに、市民同士のけんかや軽犯罪は取り締まれるのだろうが、最も重要な事件については、捜査自体ができていないし、あるいは、捜査自体をゆがめてしまい、実態をごまかしてしまうのだ。その結果、一般市民は植民地化が進んでいることさえ気が付かない。一般市民をだます道具が、警察だとさえ言えるはずだ。

警察、検察、裁判所、この司法三者は、残念ながら、最も植民地化が進んでいるところだ。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c39

記事 [日本の事件29] 日航ジャンボ機事故はまだ終わらない(ビデオニュースドットコム) これも日米関係が影響していた
マル激トーク・オン・ディマンド 第486回(2010年08月07日)
日航ジャンボ機事故はまだ終わらない
ゲスト:美谷島邦子氏(8・12連絡会事務局長)
http://www.videonews.com/on-demand/481490/001511.php


25年前の1985年8月12日、羽田空港を飛び立った満席の大阪伊丹空港行き日本航空123便ボーイング747は、離陸から12分後に後部左側ドアの異常を知らせる警告灯が点灯。直ちに操縦不能な状態に陥ると、そのまま32分間迷走を繰り返した後、群馬県上野村の高天原山の尾根に激突して炎上した(この場所は後に御巣鷹の尾根と命名された)。この事故で乗客乗員524名のうち、520名が死亡した。単独飛行機事故としてはいまだに史上最悪の惨事だった。
 その520名の中に、日航機事故の被災者家族の会「8・12連絡会」を事務局長として25年間引っ張ってきた美谷島邦子氏の二男で小学校3年生の美谷島健君(当時9才)もいた。健君は、夏休みの水泳教室で25メートルを泳げたことのご褒美として、仲良しの従兄弟たちが住む大阪に向け、生まれて初めての一人旅に旅立ったばかりだった。
 この事故の原因については、運輸省(現国土交通省)に事故調査委員会が設けられ、墜落の7年前の伊丹空港での尻もち事故の際に破損した圧力隔壁の修理に不備があり、それが金属疲労によって悪化したために、飛行中に破裂を起こしたことが、事故の直接の原因だったと結論づける報告書がとりまとめられた。
 しかし、美谷島氏を始めとする多くの遺族たちは、事故から四半世紀が過ぎた今もまだ、事故原因については納得ができていないという。それは、日本では飛行機事故に限らず、公共の交通機関などで大きな事故が発生した際に、原因の究明を最優先させる法的な制度が整備されていないため、事故調が発表した事故原因には数々の疑問点が残っているからだ。
 事故調の調査結果では、圧力隔壁の破損によって後部垂直尾翼の上半分と油圧系統が破損し、操縦が不能になり墜落に至ったと結論づけられている。あくまで修理ミスに第一義的な原因があったという立場だ。しかし、その後ボーイング社は同型機の油圧系統に安全弁をつけるなどの改善を行っている。4つある油圧系統が圧力隔壁の直下で1本化されていることが、機が全くの操縦不能に陥ったことの直接の原因だったとすれば、少なくとも当時のボーイング747には構造上の欠陥があったということになる。多くの遺族たちが事故調の調査結果に納得できず事故原因の再調査を望んでいるのも、そのような疑問点がまだ残ったままになっているからだ。
 また、事故原因を明らかにする上では、制度面でも遺族にとって納得のいかない理由があった。国交省の事故調は法的な強制力を持っていないため、あくまで事故の当事者たちの協力を得られない限り、調査ができない。しかし、その一方で、日本で強制力を持つ事故調査を行うためには、事故の責任者を刑事告訴することで、警察や検察による強制捜査に頼るしかない。日本にはアメリカのような、事故の当事者に刑事免責を与えた上で、原因究明に全面的に協力させる司法取引の制度が存在しない。そのため、仮に当事者が事故調には協力をしたいと考えていても、いつ自分が刑事告訴を受けるかもしれない立場にある以上、刑事裁判で自らを不利な立場に置く可能性のある情報を自ら積極的に出すことは難しい。
 特に、日航123便の事故の場合、航空機を製造したメーカーがアメリカのボーイング社で、尻もち事故の修理を行ったのもボーイング社の技術者だった。そのため、被害者たちが刑事告訴をする場合、ボーイング社の修理担当者もその対象に含める必要があり、そのためにはボーイング社の協力が不可欠だった。しかし、航空機事故で個人が刑事訴追されることなどあり得ないと考えているアメリカの航空機メーカーが、自社の社員を刑事訴追に追い込むような捜査に協力するはずもなく、結果的にこの事故の原因究明の努力は二国間の司法制度の壁にも阻まれることとなった。
 不起訴処分が決まった後、前橋地検の山口悠介検事正は原告の遺族たちに、異例の説明会を開催しているが、その場で山口氏は「検察は航空機の専門家ではないから、本当の事故原因はわからない」、修理ミスを犯したボーイング社職員を嘱託尋問しなかった理由については、「事故原因をぎりぎりまで追及すれば戦争になる」など、驚くような発言を連発している。要するに、現在の司法制度のもとでは、航空機の専門家の集まりである事故調の調査には強制力がなく、強制力のある調査が行える警察や検察には航空機の専門的知識はないために、真の事故原因を究明が困難であること、この事故はボーイング社というアメリカの基幹的な防衛企業が関わる問題であるため、日本政府の力ではこれ以上の原因究明が不可能なことを、捜査にあたった検事自らが、認めているのだ。
 8・12連絡会を立ち上げ、25年間その世話役を務めてきた美谷島邦子氏は、航空機を含む乗り物事故の原因究明のあり方については、いまだに25年前の課題が改善されていないことを残念がる。その後の25年間に数々の乗り物事故が発生しているが、そのたびに本当の意味で被害者や遺族が納得できる原因究明が必ずしも行われていない理由は、25年前に日航機事故の原因究明を阻んだものと同じ理由なのだ。
 しかし、その一方で、美谷島氏は自分たちが25年間地道に行ってきた活動が、いろいろいなところで実を結んでいると感じているとも言う。例えば、この事故の刑事告訴はアメリカから捜査協力を得られないことを主な理由に不起訴処分となったが、その後検察審査会が不起訴不当の議決を行ったため、前橋地方検察局は再度捜査を行った上で、あらためて不起訴処分としている。当時の検察審査会には強制的に起訴をする権限はなかったために、結局この事故は刑事事件とはならず、美谷島氏ら遺族らが強く求めてきた相模湾に落下した垂直尾翼上部の引き上げなどは行われなかった。しかし、今年から法が改正され、検察審査会の議決のみで強制起訴が可能になった。今、日航機事故が検察審査会にかけられていたら、結果は違っていたかもしれない。
 「誰かを刑務所に入れたいと思ったことはない」と美谷島氏は言うが、と同時に、「真の事故原因の究明と再発の防止こそが遺族の共通した願い」であるとも言う。日本が事故調査制度のあり方を根本的に改革しない限り、本当の事故原因を突き止めるために日本では刑事裁判に訴えることが唯一の方法であるとの遺族の思いは強い。
 不幸にも事故が起きてしまった以上、もう元には戻らない。しかし、残されたわれわれにできることは、持てる力の全てを使って事故の原因を突き止め、同じような原因で同じような悲しい思いをしなければならない人を一人でも作らないようにすることのはずだ。しかし、美谷島氏が指摘するように、25年前の事故がわれわれに残した課題を、いまだにわれわれは解決できていない。
 日航機事故から25年目となる8月12日を迎えるにあたり、この事故が残した多くの課題に取り組んできた美谷島氏とともに、この事故を風化させないためにわれわれにできることが何かを考えた。


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プロフィール
美谷島 邦子みやじま くにこ

(8・12連絡会事務局長)1947年生まれ。精神保健福祉士、栄養士。85年の日航ジャンボ機墜落事故で次男を亡くす。同年、同事故の遺族らと「8・12連絡会」を設立し事務局長に就任。著書に『御巣鷹山と生きる』、『いつまでも いっしょだよ』など。

http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/558.html

コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
40. taked4700 2010年8月08日 19:28:09: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
>懸命に救助に当たった消防、救急隊、市民にに対する冒涜としか言いようがありません。

 懸命に救助に当たった方が多かったのは自分でもわかる。しかし、確実に、ある程度の人間が情報操作のために、線路脇のマンション一階へ突っ込んだ一両目を少なくとも報道対象から5時間以上外していたことは確かだ。それらの人たちが正規の消防職員だったか、正規の救急隊職員だったか、それはわからない。しかし、どちらにしても、5時間以上も発見されなかったことはあり得いないことだ。7両編成であったことは事故当初から報道でも言われていて、テレビ画面に映る列車の車両数が6両しか見えないということもインターネット上で話題になっていた。現場で気が付かないはずがない。また、数年前に発売された週刊現代に載った当時の車掌の手記では、事故直後、運転指令部に連絡を取ると、「運転手に連絡をとれ」と言われたと書いてあった。驚くことに、この週刊現代は、その後、僕の家から消えてなくなっている。

 つまり、ここでも大がかりなマインドコントロールが行われているのだ。そうやって、非常に多くの人が、被害を受けていること自体が分からないまま犠牲になっているわけだ。

 いつも疑問に思うのは、こういったマインドコントロールをしている側の人々自体は、いつまでも自分たちの地位が安泰だと思っているのかということだ。そもそも自分の力でそういったマインドコントロールをすることができているわけではないだろう。単に利用されているだけだ。そうであればなおさら、そういった事態が長続きするわけがないのだが、それさえも気づかないのか?
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c40

コメント [経世済民69] 政治板でコメントしたけど、わいは馬鹿やから経済板でご意見を問いたい... めむめむ
44. 地には平和を 2010年8月08日 19:28:52: inzCOfyMQ6IpM: SLfnrPFNMk
めむめむさん 地域通貨というのは確かにに面白く私に兵庫県西宮市で地域通過を作れないか検討している所ですがお遊び程度を超える為にはしっかりとした制度設計が必要です。例えば西宮市の全ての店舗において西宮円の受け取りを拒否できないなどの条例を作る必要があります。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/443.html#c44
記事 [日本の事件29] Re:衝撃的な日航機墜落事故のボイスレコーダー。
事故発生から操縦不能になった機体を懸命に操縦しようとする機長と副操縦者のボイスレコーダー。泣けてきます。
http://sk.fox.ac/jal123/JAL123.swf
http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/559.html
コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫対策に関して東国原宮崎県知事のおかしな点 taked4700
01. taked4700 2010年8月08日 19:35:58: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
もうすでに記事をアップしてから15時間以上たつのに、あまりアクセス数が伸びませんね。今、アクセスカウンターは27だ。

東国原宮崎県知事はおかしくないか?
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/754.html のほうは、今現在7875のアクセスがある。


http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/778.html#c1

コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
19. ダイナモ 2010年8月08日 19:40:40: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
>>18

>子宮がんに、子宮体がんと子宮頸がんの統計データがごちゃ混ぜになっていて
>本来の子宮頸がんの追跡調査が日本では精査されていないと

これはわが国での子宮頸がんの年間罹患者と年間死亡者の数について、発表元が違うと数も大きく違っていることで子宮体がんと子宮頸がんが混同されているケースがあることを裏付けていると見ることができます。

実際に、日本産科婦人科学会、日本小児科学会および日本婦人科腫瘍学会が連名で発表した「ヒトパピローマウィルス(HPV)ワクチン接種の普及に関するステートメント」という文書では、「わが国では現在、年間10,000 人以上が新たに子宮頸がんに罹患し、約3,500 人が子宮頸がんで死亡していると推定される。」とありますが、一方、グラクソの「子宮頸がん疾病情報」というWebページでは「日本国内では年間約8,000人が子宮頸がんと診断され、約2,400人が死亡しています」とあります。

最も正確な数値は国立がん研究センターの以下の記述だろうと考えられます。

子宮がんにかかる方は、全体として年間約17,500人で、このうち子宮頸がんが約8,500人、子宮体がんが約8,200人、どの部位か情報がない子宮がんが約800人となっています(全国がん罹患モニタリング集計2005年報告 上皮内がんを除く)。また、子宮がんで亡くなる方は、全体として年間約5,700人、このうち子宮頸がんが約2,500人、子宮体がんが約1,700人、どの部位か情報がない子宮がんが約1500人となっております(人口動態統計2008年)

http://ganjoho.ncc.go.jp/public/cancer/data/cervix_uteri.html

この記述からすると、どの部位か情報がない子宮がんのうち、子宮体がんと子宮頸がんの年間罹患者の割合はおよそ半々と見られます。これらの数値も勘案すると、子宮頸がんの年間罹患者は約8900人と推定されます。どの部位か情報がない子宮がんのうち、子宮体がんと子宮頸がんの年間罹患者の割合はおよそ4対6と見られます。これらの数値も勘案すると、子宮頸がんの年間死亡者は約3400人と推定されます。

>問題は子宮頸がんのワクチンだ、子宮頸がんの日本人のデータが無いのでは
>ワクチンの有効性が解らないとの疑問です。

「日本人のデータ」が具体的に何を指しているのかが不明ですが、HPVワクチン接種によるHPV感染防止効果のことだとすれば、「日本人」の該当データは見つからないようです。ですが、日本における子宮頸がんに関連する発がん性HPVの遺伝子型に関するデータについてグラクソのWebページに以下の記述があります。

日本人の子宮頸がんに関連する発がん性HPVの遺伝子型は16型と18型が最も一般的で、これに52型と58型を加えると全体の72.5%を占めます。(メタ解析より)
発がん性HPV感染部位は、ヒトの扁平上皮に限られるため、実験動物やin vitro系での増殖は困難です。したがって、血清型で分類される多くのウイルスとは異なり、HPVはゲノムDNAの塩基配列の相同性に基づき、遺伝子型で分類されます。
現在、HPVは100種類以上の遺伝子型が知られていますが、遺伝子型によって全体に占める割合が異なります。発がん性HPVと広く認知されている遺伝子型のうち、わが国ではHPV16、18、52、58、33、31、35型の7タイプの検出頻度が高いことが、日本人女性の子宮頸部におけるHPV感染を報告している主要論文のメタ解析によって示されています。海外と比べると、16型の検出頻度がやや低く、52、58型の検出頻度が高いことがわが国の特徴です。
1)Miura S et al:Int J Cancer 119(11):2713-2715, 2006

http://glaxosmithkline.co.jp/medical/cervical/hpv0201.html

これによるとグラクソのHPVワクチンであるサーバリックスは、日本人に子宮頸がんを引き起こすHPVウイルス感染のうち約60%のHPVウイルス感染を防止する効果があることになります。

>免疫系が整っていない成熟していない女子児童に有効なのですか?

12歳程度ともなれば免疫系システムはほぼ完成されているとみなしてよいと思います。そうでないならインフルエンザウイルスに感染しても自然に治癒するはずがありませんから。

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c19

コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
41. taked4700 2010年8月08日 19:42:01: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
39と40の二つのコメントを書いたのに、表示がされないぞ。再読み込みをしても表示されない。いったいどうしのか?あまりに本当のことを書いたから、表示禁止になったのか?
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c41
コメント [医療崩壊3] 長妻大臣、大至急、この詐欺兼薬害事件を止めてください! - 子宮頸癌ワクチンは打たないで! 千早@オーストラリア
20. ダイナモ 2010年8月08日 19:44:26: mY9T/8MdR98ug: oz3zVsEkfw
訂正です。

どの部位か情報がない子宮がんのうち、子宮体がんと子宮頸がんの年間罹患者の割合はおよそ4対6と見られます。

とあるのは誤りで

どの部位か情報がない子宮がんのうち、子宮体がんと子宮頸がんの年間死亡者の割合はおよそ4対6と見られます。

が正しい記述です。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/320.html#c20

コメント [戦争b5] タリバン、米国人ら10人射殺=「改宗」支援の証拠発見と主張−アフガン(時事通信) 近藤勇
01. 2010年8月08日 19:48:41: FqDvXxU8vI
アフガニスタンの上を「グラン・ゲーム」が通って行くのは此れで何度目だろうか。
この事件は、勿論直接の「犯人」はタリバンだが、背景には有象無象の確執がある。
「キリスト教への改宗」は、前々世紀から悪名名高い東インド会社や欧州の「スパイ」が担って来た「情報工作」の雄。
無論、殺人が褒め称えられる事だとは思わない。
しかし、其れだけの事を「キリスト教徒」がして来た事もまた事実だ。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/468.html#c1
コメント [口蹄疫・新型インフル02] 口蹄疫被害対策にすでに国費800兆円以上が支出! taked4700
42. taked4700 2010年8月08日 19:52:17: 9XFNe/BiX575U: mhzhqAgL2A
もう一つある。

志布志事件だ。これも、地元の警察署長の出世欲が冤罪事件を作り出したと言われるが、とてもあり得ない。少なくとも中央からの指令があって事件捜査を始めたはずだ。そのことは、一度、報道で、「東京から来た」誰かに聞いてくれと黒署長か誰かがレポーターに答えていたことからもわかる。そもそも、あんな少人数の集落で100万円以上のわいろを使うなど選挙買収として成立しない。そのことは、当初から事件捜査にあたっていた刑事たちにもわかったはずだ。しかし、それでも操作は続いてしまい、冤罪と認められる前に自殺者まで出してしまうのだ。

それだけ、警察組織は自分自身でブレーキを踏めない組織になりつつある。自分の地元の住民を冤罪で自殺に追い込むことができるのが残念ながら、今の警察だ。

もちろん、その陰で、これは事件としておかしいと住民宅へ言いに行った方もいるという。個人として、そういった行動をするのは勇気がいったことだろう。しかし、本来、それでは足りないのだ。

全体がくるっているとき、個人がどう行動するかは難しい問題だ。しかし、だからと言って、黙っていていいわけではない。現状はあまりに黙ってみている連中や、植民地化に手を貸している連中が多すぎる。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/767.html#c42

コメント [戦争b5] 米国ルース大使の広島訪問は、イランへの(核?)攻撃に日本を引きずり込むための恫喝! バルセロナより愛を込めて
15. 2010年8月08日 19:53:52: PkApY5CoUA
>15
 核廃絶が実現して、世界に核を持つ集団・国家が一つもなくなった時、その核廃絶の約束を破って、ある集団・国家が核を密造し、世界を脅迫したら、世界はどう対抗するのか。
 私の馬鹿の一つ覚えでも結構だが、私のこの問いに対して、納得できる答えを聞いたことがない。多摩散人。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/465.html#c15
コメント [戦争b5] がん 白血病…イラクの子どもたちは 妹之山商店街
03. 2010年8月08日 19:54:21: FqDvXxU8vI
兎に角先ず、損害賠償請求をしなきゃ。
入院代ですら、イラク戦争が生活を破壊して非常に苦しい人が大半だ。
おまけに、難民先でも同様の障害が出てるし、何よりイラクの医療が現状「治療パンク状態」で周辺諸国へ其の為に難民として出る人達も多い。
米国の戦費を中抜きしたウハウハのチェイニー家とか潤って、困っている人達を踏み付けにして居る其の構図自体を僅かでも解消すべき。
でも、時間が掛かるんだよねえ…。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/467.html#c3
コメント [戦争b5] 香港のサウスチャイナ・モーニング:「中国政府が韓米合同演習へ反発したのは、中国軍部の巨大な圧力に屈服したため」(朝鮮日報 hou
01. 2010年8月08日 20:03:36: FqDvXxU8vI
軍部が暴走しているのは米国。
てか、正確には軍部の後ろに居る米国型資本主義の根幹、双子の赤字を生み出した戦犯、こと軍産石油複合体が暴走し続けてる。
国防総省よりも、軍産石油複合体の方が積極的な戦争推進姿勢だし、中国の事でも煽る姿勢が明白だ。
戦費が今にも米国の背骨を折りそうな今でも尚、中国の東風21ミサイルだの、この「黄海へ米軍空母を入れる」問題だの、次々と重石を背中に投げかけてる。
流石、既得権益は中毒になるだけの事はある。
事実に目が塞がれる。
まあ、何処かの島国も同じ事情だけどな!
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/466.html#c1
コメント [戦争b5] 米韓軍事演習 空母GWを黄海派遣へ 中国の反発必至  8月6日  毎日新聞 TORA
01. 2010年8月08日 20:04:00: EMzXytPluA
李明博政権が危なくなっているので、アメリカは李を見放さないというサインを韓国民に送ろうとしている、というところまでは絶対に書かないので古本陽荘記者が重宝がられているということでしょう。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/459.html#c1
記事 [ペンネーム登録待ち板6] 投稿テスト
だいじょうぶかな
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/535.html

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