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dGhQLjRSQk5RSlE= コメント履歴 No: 100004
http://www.asyura2.com/acat/d/dg/dgh/dGhQLjRSQk5RSlE=/100004.html
[昼休み52] 分かっていても公表できないこともある 中川隆
28. 中川隆[-11777] koaQ7Jey 2019年2月28日 20:35:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[204]

名張毒ブドウ酒事件の村の過去の事 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=DviAGsFE_j4


2017/12/05 に公開


今回はかなり古い話しですが、昭和の時代、有名な名張毒ブドウ酒事件の村の過去の話しです。

時代は大正の頃、村の女性が、他の村の男性にレイプされる事件が2件発生してました、

1件についてですが、レイプ殺人です。
犯人は警察に捕まりましたが、奇妙なのは此処からです。
1、2日で犯人は警察から、無罪釈放されたそうです。

(エ―なんで!人を殺しても、無罪放免かよ、この国どうなってんの?)

村の女性がからかった?と言う事で、無罪になったらしいです。

(情報は、葛尾の会長のおばあさんから聞きました?)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/289.html#c28

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
29. 中川隆[-11776] koaQ7Jey 2019年3月01日 09:39:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[205]

準皇族 Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E6%BA%96%E7%9A%87%E6%97%8F


皇族に準ずる存在。皇族のようなもの。現在の日本の法律では存在する筈のない身分であるが、雅子夫人の実家・小和田家の人々がまるでそうであるかのような振る舞いを見せる為、スレでは以前からそのように呼ばれてきた。そのことから「小和田宮家」「小和田何様」といった呼称もある。

雅子・OWD擁護による荒らし書き込みにこの単語が用いられたことから更に注目が高まった。


Part342-654 名前:可愛い奥様 :2006/01/24(火)a 10:30:06 ID:RtaD+5Nd

優美子さまは妃殿下の実母ですから
殿下の実母美智子が皇后であるならば
優美子さまは準皇族のようなものですね。
 
皇室典範を改正して妃殿下の母親は準皇族という
新しい基準を創造し準皇族として東宮に入っていただくのが
妃殿下の病を治す一番の早道ではないでしょうか。


自ら準皇族を標榜してやまないOWDサイドにスレ住民皆大いに呆れたのであるが、その1ヶ月余り後の2006年3月13日の千葉県行啓:東京ディズニーランド&シーお楽しみに礼節姉妹の片割れ、実妹池田礼子親子が参加したことが大きく報じられたものだからさあ大変、たちまち「池田礼子は準皇族」「小和田家の人々は準皇族」との見方が確定した。

また2006年8月には東宮一家が元気にオランダ静養に出かけたわけだが、同月31日の日本テレビ放送「ザ・ワイド」にて、以下のような宮内庁公式発表が字幕スーパーつきで報じられた(参照:野村一成)。


2006年8月31日日本テレビ放送のザ・ワイドキャプチャ連結画像

宮内庁発表 8月23日(水)には ヘット・アウデ・ロー城
        にて小和田様ご夫妻並びに
        渋谷様ご夫妻の御訪問をお受けになった

てっきり「準皇族」とは2ちゃんねる既婚女性板皇室御一行様スレでのみ通用する用語かと思っていたら、いつの間にか宮内庁が公式にこのスタンスを取り始めていた模様である。また皇室御一行様★アンチ編スレを超えてこの語は結構な広まりを見せているようで、「インターネットスラングとしての準皇族」の用法が本物wikipediaの準皇族の項目に掲載されたこともある(何か不都合でもあったらしく、現在は削除済みである)。

香淳皇后危篤の報で御所に駆け付けてしまう、皇族気取りか!な小和田恒編集

『週刊現代』2004年6月19日号 <新聞テレビが報じない「浩宮の乱」 宮内庁はスパイなのか>
pp.30-31より引用
 雅子妃にとってたまらないのは、批判の矛先が、ときに父親の小和田恒にまで向けられることだ。たとえば、こんな指摘がある。ある宮内庁OBがいう。
「昭和天皇の香淳皇后が危篤になられたとき、小和田氏が御所に駆けつけてこられたんです。皇太子妃の父親なのだから、小和田氏が来るのは当然だと思うかもしれませんが、宮内庁では必ずしもそういう受け止め方ではありません。
 彼は元外務次官かもしれないが、皇族ではない。『皇族になった方の父親』というだけのこと。美智子皇后の父上、正田英三郎さんは、こういうとき、けっして目立つような真似はなさいませんでした。このときの一件は、皇后も不快に感じられていたようです。こうした行動が、宮内庁から見れば違和感になる。外務官僚特有の傲慢さが鼻につくということがあります」
 ちなみに、正田英三郎氏は美智子さまご成婚のあと、好きだった赤坂・銀座のクラブ通いを一切やめ、私欲も捨てて、最後は相続税のために自宅を物納するところまで身辺を清潔にしていた。
「それに比べて、小和田さんはいまだに贅沢な外務官僚の癖が抜けていないのではないか。よそ様から豪華な接待を受けて、平然としているではないか。
 愛子さまがお生まれになったとき、美智子皇后陛下より先に、雅子妃の母親の優美子さんが抱き上げたという話もまことしやかに流れています。真偽はともかく、そういう話が流れるほど、宮内庁では小和田家に対する反感が強いということです」(前出・宮内庁OB)


2014年6月17日桂宮宜仁殿下斂葬の儀に出席された奥様情報、「小和田恒 優美子」夫婦個人名で供花した小和田夫妻について編集

Part2796-62 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:16:36.21 ID:LHiMLRm50
拝礼し、安らかにとお祈り申し上げてきました。
彬子さま、常陸宮同妃両殿下、高円宮家の方々がいらっしゃいました。

小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました。
近衛家、黒田家等、他の方々は、家のお名前で、
財務大臣や都知事等の方々は官職名のみ、または官職名付でしたのに…
正田家、川嶋家からのお花はなかったので、連携がとれてないのだなあと、思いました。


66 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:22:35.98 ID:QPn//8qr0
>>62
お見送りされたんですね。お疲れさまでした。

小和田家では葬儀は目立つためのイベントなのかと。
あの一家は本当に残念なオツムの人ばかりなのね。


67 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:22:52.51 ID:tOxcakA20
>>62
むしろ
>小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました。

が突出していて、異様。
勝手にやらかしたんでしょう。

正田家がなさらないのなら、
小和田はするべきではない。
川嶋家の対応で〇
元皇族(清子さま)や親族(近衛家)とは立場が違います。


70 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:25:43.58 ID:F638XBXZ0
>>62
他の方々は家名だけなのに
小和田恒・優美子ってフルネーム書いてあったの?
目立ちたいんだなー


72 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:28:00.52 ID:n6lW2xzm0
>>62
小和田恒・由美子って木札に書いていたの?


74 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:29:08.77 ID:ILOLB8MM0
ジジン、ババンの花はどこが用意したのかね。誰が支払ったんだろう


79 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:33:26.56 ID:f308MeNC0
こういうお花は官庁は秘書課あたりに手配頼むのよ。弔電とセットが多い。
ガイムの担当者はなんでうちに支払わせるの?と思いながらも、名前をどうするか聞いただろうね。


85 可愛い奥様@転載は禁止 2014/06/17(火) 14:42:55.37 ID:7LlKeDAx0
小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました

まさしくオワダ何様!?


86 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:43:06.99 ID:LHiMLRm50
>>67さま
62です、私も、同じ考えです。
連携がとれていないのは小和田夫妻、と思っての書き込みでした。
せめて正田家、川嶋家に確認すればよろしいのに…

>>72さま
その通りです。
家名、官職名のお花の中で、夫妻連名での個人名の大書、目立ちました。
寛仁親王殿下のときも、そうでした。


87 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:45:05.87 ID:DtYjuTfg0
小和田は宮家のつもりなんじゃね??

東宮御所にお住まいだから勘違いされたのよw


91 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:50:40.98 ID:49HobP0F0
過去にはおしかけ騒動、記帳騒動もあったし
やっぱりおかしい人たちなんだよね


92 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:54:12.92 ID:Voqifg1N0
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1402983963777.png

ふとましいね

ジジンババンの花は東宮職が気をきかせて出したと言っても驚かないわ
本当に、皇族気取りなんだね


93 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:54:14.13 ID:nIfXltPf0
>>86
>寛仁親王殿下のときも、そうでした。

ハナッから連携するつもりなんて無いんでしょうね
普通は悪目立ちを恥ずかしく思うものだけど、小和田夫婦は 「悪目立ち上等」 な価値観なんでしょう


奥様は両殿下のご葬儀にいらしたんですね
頭が下がります


94 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:55:09.78 ID:fWPcDh6pO
>>62 お疲れさまでした

ジジン、最低
宮内庁は見逃してるんだね、並びの順番とか必ずあるはずだから札を見ないはずはない


95 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:58:32.58 ID:c25/9eDW0
>>93
「正田さんも川嶋さんも気が利かないわねw」ぐらいは思ってそう


97 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:00:47.99 ID:Ehci3+et0
ジジンは
正田家…息子の代(皇后陛下のお兄様)になっているし、官僚>粉屋
川嶋家…官僚>学者
ぐらいしか思ってないだろうな。

もう、ジジンは人生を完了してほしいよ。


98 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:01:27.37 ID:IRDjXFkk0
>>86
奥さまは、ご葬儀にいらっしゃったのね。
乙でございます。
OWDには、根っから「家」という概念が欠落しているのでしょうね。
つくづく下賤の出らしいエピですわ。


102 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:13:03.02 ID:uEWtYw3/0
>62
owd恥ずかしー。
そもそも名家じゃないんだから小和田といったら自分たちしかいないのに、
わざわざフルネームってw


103 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:14:18.84 ID:KTib1zq/0
>>92
東宮職にジジンが指示出したに10000ヨロヨロですわ。

ジジンとババンが「花出しておけ」と言うから個人名なんじゃない?
てか、一般からの供花供物は受け付けないと、要綱にあったのにw


153 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 16:19:01.96 ID:LHiMLRm50
天皇陛下・皇后陛下、皇族の方々からは、お花ではなく、
榊(のようなもの)が祭壇の両側に立てられていました。

お花は、皆さま同じでした。

祭壇の向かって右側には、祭壇側の上段から、
近衛家・島津家・黒田家等のご親戚、
財務大臣麻生太郎(寛仁親王妃ご実家でしょうか)、
「小和田恒優美子」、
閣僚・衆議院議長等、都道府県知事等、
の順番でした。

桂宮殿下のご公務の関係の方々からのお花は、祭壇の左側を飾っていました。

映像では、三笠宮殿下は、お強く気丈であられましたが、
心中いかばかりお悲しみでしょう…


https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E6%BA%96%E7%9A%87%E6%97%8F
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c29

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
34. 中川隆[-11775] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:04:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[206]

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


▲△▽▼


2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/


天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html

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戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し _ 2

天皇家は国際金融資本のエージェント

宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている


(平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について

6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html


天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。

4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。

その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c34

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
34. 中川隆[-11774] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:05:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[207]

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/


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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/


天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html

▲△▽▼

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し _ 2

天皇家は国際金融資本のエージェント

宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている


(平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について

6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html


天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。

4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。

その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c34

[リバイバル3] 起業するより多国籍企業に投資する(現物株を買う)方がギャンブル度は遥かに低い 中川隆
11. 中川隆[-11773] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:10:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[208]
セブンオーナーが悲痛な訴え、独自試算で見るコンビニ経営の過酷実態(週刊ダイヤモンド)
http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/325.html
https://diamond.jp/articles/-/195579

2019.3.1 週刊ダイヤモンド編集部  岡田 悟:記者

大阪のコンビニエンスストアオーナーの“反乱”で、フランチャイズ契約をする加盟店の過酷な実態に注目が集まっている。大手のうち2社のオーナー勧誘資料に示された収支モデルについて、「週刊ダイヤモンド」が最低賃金などを基に現実的な人件費を踏まえて独自に試算したところ、資料で示されていた手取り収入の見通しは激減。あらためてコンビニ経営の過酷な実態が明らかになった。(「週刊ダイヤモンド」編集部 岡田 悟)

「本部からひどい仕打ちをされたとの声が、私のところに届いています。でも、本部は交渉や文書で動く相手ではない。“百姓一揆”をせざるを得ない状態が迫っています」――。

 大阪府東大阪市で「セブン‐イレブン東大阪南上小阪店」をフランチャイズ(FC)契約で経営するオーナーの松本実敏さんは2月27日都内で記者会見し、こう訴えた。

 ともに店に出ていた妻が2018年5月にがんで他界。その後アルバイトの従業員を十分に雇うことができず、松本さんは2月1日、同店の営業を午前1時〜6時まで取りやめ、「24時間営業」の看板を下ろしたのだ。

 ところが、「本部」といわれるFC契約先のセブン‐イレブン・ジャパン(SEJ)は、松本さんに対し「このままでは契約を解除する」と文書で通知。本部側の地域の責任者に2月7日に面談した際には、違約金として1700万円の支払いを求める書面を見せられたという。

廃棄費用の大半は加盟店負担
仕入れさせるほど儲かる本部

 全国で5万店を超える大量出店による過当競争、人手不足による人件費の高騰、「恵方巻き」に代表される大量の販売ノルマや食品廃棄……。

 近年、コンビニ加盟店経営の過酷さを指摘する声が上がり始めた。松本さんが直面したように、労働時間や従業員の確保も大きな課題だが、収支が厳しい加盟店もまた多いとみられる。

 そこで「週刊ダイヤモンド」は2018年7月28日号で、SEJとローソンがオーナー募集の際に配布する資料に記載された、店舗の収益モデルを基に、18年時点での人件費などを加味して、より実態に近い収益性を試算した。図1はSEJのそれである。


図1 ©ダイヤモンド社 2019 ※全画面で拡大

 最近では大半を占める、店舗の土地や建物を本部が用意する「Cタイプ」の場合で、月の売上高は1800万円を想定。「売上総利益」(粗利)のうち一定額を「セブン‐イレブン・チャージ」として本部に支払う。その比率はSEJの場合、売上総利益の250万円までは56%だが、利益額に応じて累進し、550万円超の部分は76%となる。

 このケースの場合、チャージを差し引いてオーナーの手元に残る「オーナー総収入」は、売上総利益の半分以下の234万円だ。ここからさらに、雇い入れた従業員の人件費などのコストを支払う。さらに、仕入れたものの売れ残った商品の廃棄額のうち85%をオーナーが負担する。廃棄費用が原価に計上されないため、本部は、加盟店に商品を仕入れさせるほど利益が得られる仕組みで、恵方巻などの大量仕入れが起きる要因とされている。

都内最低賃金で雇用すると
手取り収入は半分以下に!?

 ところでSEJの元の資料では、1ヵ月の人件費を110万円と想定しているが、果たして実情を反映しているといえるだろうか。

 本誌が、2018年7月時点の都内の最低賃金958円(時給)に基づいて、日中・深夜にアルバイト従業員2人が勤務するという条件で、図1のように人件費を算出したところ、約149万5000円となった。営業費用のうち人件費をこの額に置き換えれば、営業費用計は約213万5000円となり、最終的にオーナーの手元に残る純利益は、SEJが示した65万円から、約25万5000円に減る。なお純利益=オーナーの手取りではない。そこから各種税金を納め、本部から借り入れた初期費用を返済するので、実際の手取りはもっと少ない。

 親会社であるセブン&アイ・ホールディングス(HD)の松本稔執行役員コーポレートコミュニケーション本部長(肩書きは当時)は、本誌の取材に「オーナーやその配偶者が日中に店頭に立ち、ピーク時に1〜2人程度のパート従業員と働く。深夜はアルバイトなどの従業員2人体制でシフトを組めば、人件費は110万円程度になる」と語ったが、その積算根拠は示されなかった。

 実際のところ、最低賃金で従業員を募集するのは容易ではない。特に深夜は厳しく、インターネットで日雇いのアルバイトを募集し、時給約2000円を支払って凌ぐことも珍しくない。結局、オーナー自ら深夜に一人で全ての業務をこなす“ワンオペ”で店頭に立つ店舗もある。

既存店平均の売り上げがあっても
やっぱり人件費負担は重い

 また松本本部長は、この募集資料で想定している条件について「開業直後なので日販(1日当たりの店舗の売上高)を60万円としているが、SEJの既存店日販の平均額である67万円に届けば、利幅はより大きくなる」と説明した。

 そこで本誌は図1の右下のように、日販67万円での試算も行った。人件費が110万円であれば、純利益は約82万円と確かに高額になるが、人件費が本誌試算の約149万5000円の場合は、約43万円にとどまる。

 なお、ローソンも同様の説明会で収益モデルを示している(下図2)。日中・深夜2人体制での人件費を全国平均の最低賃金で計算すると、同社のモデルに近づくが、都内の最低賃金に基づく約149万5000円では、あくまでも計算上だが、店本来の純利益がなくなる水準だ。


図2 ©ダイヤモンド社 2019

 ローソンについての試算では、廃棄費用をSEJのモデルの売上高との差に準じて、SEJの83%と仮定したが「実際の廃棄費用はもっと低い」(ローソン関係者)との指摘もある。

 なおファミリーマートは、募集の初期の段階ではこうしたモデルを示していないようだ。ただ、ファミマの平均日販はSEJより少なく、ローソンと大差ない。加盟店にとって、他の2社と比べて有利であるとは言い難い。

 コンビニ本部とFC加盟店との関係については、経済産業省がFC加盟店向けにアンケートを実施している。国もついに実態調査に動き出したわけだ。人件費の高騰が進む中、コンビニ業界最大のタブーにメスが入ることになるのだろうか。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/826.html#c11

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
30. 中川隆[-11772] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:31:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[209]

小和田雅子のエピソード Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia
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お妃候補前

小和田雅子がお妃候補になる前のエピソード

この頃の話を持ち出すのはちょっと可哀想ですが、雅子の性格を理解する上での参考までに。

◾アメリカ公立小学校1年生時期、おにぎり弁当に箸を入れ忘れた当時の小和田家お手伝いさん(井上道子さん)をひどく怒る事件
『週刊女性増刊1993年3月3日号永久保存版 皇太子さま貫かれた初恋 佳麗雅子さんとご婚約』
特別寄稿 元お手伝いさんが語ってくれた幼少時代のマーちゃん秘話 秋本誠(ジャーナリスト) pp.156-157より引用

 ところで、雅子さんの幼少時代は、ほとんど海外生活。ご両親以外で、雅子さんの幼少期を知る人は少なかった。おそらくご両親以外でいちばんよく知っているのは、雅子さんが生後9か月のときから7歳2か月までの約6年の間、小和田家のお手伝いさんとして身近に接してきた井上道子さん(44歳・千葉県在住)である。
「マーちゃんは活発でおしゃまさんでしたね。それに動物好きで、散歩中に犬を見ると、ちょこちょこ寄って行って頭を撫でたりして、目の離せないお子様でした」
 井上さんは、20年以上も前の思い出を懐かしそうに話し始める。
 井上さんと雅子さんとの出会いは、29年前の昭和39年9月。
 井上さん16歳、雅子さん生後9か月のときである。

・・中略・・

 当然、子供らしいわがままもあった。
雅子さんがニューヨークの公立小学校に入ると、お昼は、学校給食、お弁当、それに帰宅しての食事と3通りあったが、家が遠かったことからお弁当を持参した。
「ご飯は食べやすいように、おにぎりにしたんですが、ハシを入れなかった。でも、日本人はおにぎりを手でつかんで食べるので、友達に汚いといわれたらしく、ちゃんとハシを入れてと注文しました。ところが私が忘れてしまい、マーちゃんにひどく怒られたことがあります」


◾しかいし作文事件
◾伝蓋小学校2年生での中途編入不合格事件
◾伝蓋小学校3年生での中途編入にまつわる、双子妹・礼子&節子が合格したオマケで入学できた?疑惑事件
◾小学生の頃、自分のお尻につぶされた虫を見て雅子が「(押し花を意識して)押し虫ね」発言事件

◾学校のドッジボールで思いっきりボールを級友にぶつけていて、婚約時期当時のボールをぶつけられた元同級生に「痛かったんですよ」と態々証言されるぐらい、まるでダンスィ並み張り切り事件
『小和田雅子さん素顔の29年』永井雄一、データハウス(1993年) p.70より引用
 友人が語る言葉のなかから、その共通項を引き出してみると、
「スポーツ万能で勉強もできる、非のうちどころがないひと」
 ということになる。
 ドッジボールが得意で
「オワにボールをぶつけられると痛い」
 と同級生たちは逃げ回った。運動神経はバツグンだった。

『雅子さま 殿下の愛に守られて』江森敬治、集英社(2001年)
pp.68-69より引用(注:末尾に何故か二重括弧の片方だけがあるが原文ママ)
 校内の球技大会でも、雅子さまが入っているグループは必ず優勝するという“伝説”もあった。だが、決して目立つ存在ではなかったというのが、当時のクラスメートの“雅子さま評”。

「ドッジボールでもオワはエースでした。ただ、最初から攻めまくるタイプではなくて、当てられてみんなが“外野”にまわってから、いよいよ前にでてくるんです。結果的には、オワだけは最後まで当てられずにしぶとく残るというタイプだったと思います。さりげなくて、そして頼りになるのがあのころのオワでした。でも……ドッジボールでオワにぶつけられると痛かったんですよ」》


◾樽ネズミ事件
◾小学校卒業文集でコジュケイの剥製作りが最大の思い出と記した事件
◾巨人軍の高田繁選手追っかけグルーピー多摩川ギャルだった事件
◾巨人の代打・原田治明選手と夜の六本木でツーショット、どこまでの関係かは未だ謎事件【原田治明】、【原久美】

◾巨人軍原田治明とはまた別に、大洋ホエールズの長崎啓二選手までどうたぶらかしたのか、大洋の練習グラウンドで長崎ファンだった友人原久美に雅子が「こちら大洋の長崎さん」と引き合わせるという、1950年生まれ13歳年長である長崎選手に対しほとんど彼女気取りの振る舞いをしていた事件
『週刊文春』2001年12月13号<総力特集雅子妃ご出産 初めて明かされるとっておきの十大秘話> p.49より引用

【密かに応援していた選手】原久美さん
 雅子妃と「オワ(雅子さまの学生時代の愛称)」「クミ」と呼び合う田園調布雙葉時代からの親友。ボサノヴァ歌手。

「仲良くなったのは中学生の時です。ふたりとも巨人ファンで、よく多摩川に練習を見に行きました。妃殿下が巨人の高田選手のファンだったことは有名な話ですが、実は一人で密かに大洋(当時、現横浜)の長崎選手の応援にも行ってたんです。ある日突然、『ちょっとつきあって』と川向こうの大洋のグラウンドに連れていかれたのですが、『こちら大洋の長崎さん』と紹介されて、驚きました。そんな行動力もある方でした。

◾リングネームは「ナンシー雅子」事件
◾友人にテスト結果通知への保護者サインの代筆を頼まれ、バレても先生に言い返した事件
◾学校の活動中にみたらし団子買い食い事件
◾スカートめくりが流行った時、率先してそのいたずらをやっていた事件

◾中学二年の秋、学校の文化教室で京都へ二泊三日旅行、消灯後の部屋で雅子は、缶詰やパン、マヨネーズなどを広げ“宴会”を開き、真面目な友人たちがハラハラドキドキしている中で雅子だけは堂々としていて、肝っ玉の座った人だなあと周囲に印象付ける事件

◾中学三年のとき、世田谷区のソフトボール大会で優勝したのはよかったが、優勝カップにジュースを注いで回し飲みをするという、優勝の象徴をグラスと同一視でご機嫌事件

◾キリスト教カトリック系である田園調布雙葉学園中学の夏休み宗教合宿にて、信者でないのにキリストの血肉の象徴であるワインとパン=ホスチアをいたずらで盗み食い、挙句「こんなまずいものだったら食べなければよかった」と言い放つ、現在のgdgdにもつながる食欲優先宗教精神完全欠落事件

Part1574-67奥様発掘:『皇室アルバムvol.11 ご成婚特別号 世紀のロイヤルウエディング皇太子殿下と雅子さま』学習研究社(1993年発行)

ご結婚によせて 田園調布雙葉学園の学友が語る 小学校・中学校時代の雅子さん p.177より引用(注:画像提供奥様の説明では「p117」となっているが、正しい現物頁は「p.177」である)

村岡(ルリ子さん)
夏休みの宗教合宿でもよくみんないたずらしてましたね。信者でなければ食べられないワインをつけたパンを食べてしまったり……。まずいんですけどね。こんなまずいものだったら食べなければよかったなんて、二人で話したこともありました。あれも中学の時でした。

◾中学3年のときの現代国語の授業が始まる前の黒板に、“現代国語は体育に変更になりました”と書いて、生徒全員で窓側のベランダに隠れての授業開始妨害に中心となって関わる。体育のため着替えたように、机の上に風呂敷のようなものまで置いて完璧にカムフラージュを施すという、いくらなんでも悪質度が高すぎるいたずら事件

◾あらかじめ録音しておいた非常ベルのテープを授業中に鳴らして“火事だ、火事だ”と大騒ぎ、ほとんど学級崩壊状態の洒落にならない悪質授業妨害いたずら事件
◾中学の修学旅行で「急病人が出た」と嘘を吐いてツアコンを呼びだし部屋に閉じ込めたいたずら事件
◾高校生にもなって授業中友達の背中に消しゴムのかすを入れたりするようないたずらをよくしていた事件
◾伝蓋高校1年のソフトボール部夏合宿で、部員たちとの意見の対立から雅子一人だけが家に帰ってしまい、後に母小和田優美子が一緒にアイスクリームを持参して部員たちとの仲をとりなす事件
◾高校1年1学期の7月、小和田一家が渡米によりクラスでお別れ会開催、その場で何故か雅子はドイツ語の詩を朗読してみせる事件
◾ボストンのベルモントハイスクールで周囲からつけられた雅子のあだ名が「ブレイン」、本人は「頭が良い」という意味だと思い込んでたかもしれないが、実はアメリカ文化におけるLoserあだ名だった事件
◾小学5年生の時体育の先生から貰った飼い犬「プッチー」、高校1年の小和田一家渡米時に連れて行けず親戚宅に預かってもらうも、『以来帰国したときには、「プッチー」に会っても必ずお別れを経験しなくてはならないため、あえて会わない方を選んだという』超薄情事件

◾渡米後も文通を続けていた伝蓋時代の友達原久美に、「こちら(=ハーバード大)の優秀な学生についていくには一日十数時間勉強しなければならない。もう返事は書けない」とアメリカから文通お断りエアメール事件
『週刊文春』2001年12月13号<総力特集雅子妃ご出産 初めて明かされるとっておきの十大秘話> p.50より引用

【密かに応援していた選手】原久美さん
 雅子妃と「オワ(雅子さまの学生時代の愛称)」「クミ」と呼び合う田園調布雙葉時代からの親友。ボサノヴァ歌手

 高校でボストンに行った彼女と文通を続けましたが、ある日、『こちらの優秀な学生についていくには一日十数時間勉強しなければならない。もう返事は書けない』という手紙が来ました。彼女はハーバード大に入学し、帰国後外交官試験に合格、交換日記に『国際的な視野にたった仕事がしたい』と書いていた通り、目標を達成した彼女を私は尊敬していました。ご結婚されると聞いた時、個人的には、これからもう会えないし、失恋に近いような、絶望的な別れ、という気分でした。でも今年三月の同窓会で、七年ぶりに再会したら、妃殿下の表情が私のわだかまりを吹き飛ばしてくれました。


◾東大生があんまり勉強しないのに驚いて、「ハーバードでは皆死ぬほど勉強するのよ」発言事件

◾元ボーイフレンドのデビッド・カオが小和田雅子のトップレス写真所持疑惑事件


お妃候補〜婚約時代編集

外務省入省内定しただけなのに異常なまでのマスコミ露出編集
東大在学中、外務省入省前から異常なまでにマスコミ露出。ほどなく浩宮妃候補と騒がれだす。

◾東大在学中、写真誌『FOCUS』の取材を撮影場所に自宅コンクリ御殿を提供までして、中庭でイコン美術書傍らにポーズとったり台所でウインナー炒め姿等、144枚もの異様すぎる大量撮影事件
◾浩宮と小和田雅子が全く同じ『FOCUS』1986/10/17号に掲載され、その発売の翌週スペイン・エレナ王女レセプションパーティーで二人が出会う、偶然にしてはあまりに出来すぎな「運命の出会い」事件
◾「浩宮さまっておえらいの?」発言事件
◾1987年4月25日高円宮邸での夕食会に招かれ、同じく招待されていた浩宮とツーショット、偶然にしてはあまりに出来すぎな「運命の再会」事件
『美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道』河原敏明、ネスコ(1993年) pp.65-66より引用

 入省して三週間目の四月二十五日に、雅子さまは高円宮邸に一人招かれる。高円宮ご夫妻と浩宮、雅子さまの四人だけだった。英国人カップルも招かれていたが、「都合で欠席」とされた。
 お二人は、高円宮夫妻とともに会食した。浩宮は、同年三月に訪問したネパール、ブータン、インドのアルバムを用意していた。写真は浩宮がご自分で撮ったものである。

・・中略・・

 話ははずみ、たった四人のホームパーティは、数時間にもおよんだ。雅子さまがその日帰宅したのは、夜遅くなってからだった。

◾高円宮邸夕食会をきっかけにお妃候補として名前が挙がった当時、「彼(皇太子)に興味をもたれるのはイライラする」と友人に漏らした事件
◾路上でマスコミカメラマンを指差し恫喝事件
◾駅の反対ホームから記者にカメラを向けられて、全力疾走でそのホームに突進、記者の胸倉をつかんで揺すぶり「フィルムを出してください!!」と抗議事件【指差し恫喝】
◾取材記者に向かって舌打ちしながら明らかに「馬鹿野郎」と小声で吐き捨てた事件(『SPA!』1993/2/10号「神なき国のガリバー」by田中康夫より)
◾「マスコミって蛆虫みたい」と同僚にこぼし、駅ではタートルネックで顔を隠すほど神経質なマスコミ嫌い事件
◾皇太子妃候補として取り沙汰されだした小和田雅子を取材しようとマスコミがあの手この手、朝日新聞社の斉藤智子記者が食事(間違いなく全費用は取材側持ち)を餌に接触を試み、それにマスコミを嫌ってるはずの雅子が平気で16回も食いつく事件【大食い雅子さま】
『週刊女性』1993年6月29日御成婚記念号 p.68より引用
社命で雅子さまとデート。焼き鳥屋や映画に誘って…

 新聞社も雅子さまの取材となると“仁義なき戦い”――。ある新聞社など昭和62年12月から平成元年11月まで、第3社会面で企画物を掲載。
「殿下への雅子さまの気持ちを確認しろ。友達になれ」
と社命が下っていた。担当になったのは女性記者。電話をかけるのは当然だが、花束を贈ったり、手紙を書いたり、映画へも。
「いろんな口実を作って、16回も一緒に食事に出かけてた。焼き鳥屋、イタメシ、オムレツ店等……とにかく自分をアピールするので一生懸命」
その女性記者は「女性を誘うときの男性の気持ちがわかった」と……。


◾取材記者に向かって「あんな家には行かない」と声を荒らげ発言事件
『噂の真相』1993年3月号 p.27より引用

 実際小和田雅子はお妃になる意思のないことを自ら表明してもいる。オックスフォード大留学中の89年9月、日本から追いかけてきたマスコミ数社を前に即席の会見を開き、「わたくしはお妃問題には関係していません、ずっと外務省職員として生きていく」と語ったのはよく知られた話だが、実は、彼女はこの公になっているコメント以外にもっと強烈な台詞を発したこともあるという。
「一時たりとも活字になっていませんが、小和田さんは留学前の88年、ある新聞記者の執拗な取材に声を荒らげて『あんな家にはいかない』と答えてるんです。ちょうど報道陣に『名刺を見せなさい』と詰めよるなど、取材攻勢に神経を尖らせていた時期ですから、ついホンネが出ちゃったんじゃないですか。当時、この発言は記者連中の間でもかなり話題になりましたね」(もと宮内庁詰記者)


◾英国からの帰国後も続く取材攻勢に、40代の温厚なベテラン記者が差し出した名刺を目の前で破り捨てた事件≪選択2014年1月号≫
◾自宅に遊びに来た妹の友達に、皇太子のことを「本当は大っ嫌いなのよっ!!!」と吐き捨てるように断言した事件(2ch書き込み)
◾皇太子妃候補で騒がれ始めたころ、父方祖父・江頭豊が社長を務めていた水俣病原因企業チッソが取り上げられ「おじいちゃまのことが悪く言われるの」と周囲に愚痴って、祖父はなんにも悪くないと本気で思ってたらしい事件
◾横断歩道で取材を試みるレポーターを妹と一緒にクスクス嘲笑う事件
◾六本木でブイブイ言わせていて婚約発表の前には泣き崩れていた事件(2ch書き込み)
◾「よく自宅近くのコンビニで女性週刊誌を立ち読みしていた」by近所に住む小林よしのり目撃事件
◾デートに同席した皇太子の御学友・賀陽正憲氏から、もう少し周囲の雰囲気を考えることを勉強なさった方がよいと思うとコメントされた事件
◾一時期服の上から臍穴の場所が分かるほどピチピチ激太りだったのが、浩宮との婚約にこぎつける時期には一応すらっとした体型へダイエットに励む事件


外務省でのご活躍についての評判

◾1987年4月1日外務省入省、幹部を父に持つ小和田雅子一人だけ初日から、前身ごろに大胆な白い切り替えデザインが入った目立つ衣装でお出まし、なんとこれは友人の結婚式に着ていくような衣装だった事件

参照画像:1987年4月1日 文京区・旧外務省研修所にて入省記念写真撮影、皆が灰色・紺色系統スーツ姿の中で小和田雅子だけがただ一人大きく目立つ白切り替えデザインツーピース衣装。両親ともに彼女が家を出る前に注意しなかったのか不思議でならない光景

1987年5月5日 田園調布雙葉学園時代の友人の結婚式で、同年4月1日外務省入省時と同じ服を着ている雅子

◾職場外務省でも周囲に誰がいようが「お父様」けじめなし事件
◾外務省研修所での研修に遅刻、小走りで駆け込む事件
◾カラオケ十八番は表向きは山口百恵「いい日旅立ち」だけど、実のところはテレサ・テン「愛人」事件
◾オックスフォード国費留学前の送迎会、大勢の見送りの友人たちの前にて「フンドシを締め直して勉強しなくちゃ」品なし発言事件
◾オックスフォード大学院国費留学中、ボート部に入ってみるものの「水にぬれ風邪をこじらせた」との訳が分からない理由で僅か半年後に退部事件
◾そのオックスフォード国費留学、2年間丸々過ごしたのに同期研修留学の中でただ一人修士号取得失敗事件【学歴ロンダリング】
◾外務省時代、後輩や部下に「こんな事も出来ないの!」だの翻訳が遅いだの高飛車に命令して嫌われていた事件
◾小和田恒閣下御威光の内規違反自家用車カローラII通勤事件【運転免許証】
◾(外務省の人の話)雅子さんは動作がすべてゆ〜っくりでしかも30分おきくらいにトイレで化粧直しをしにいくので周りはすげ〜苛々させられてた事件
◾何を考えているか解らないので「ブラックボックスというあだ名がついていた」事件
◾ある新聞記者の談話「雅子妃は仕事はできるし、官僚としての事務処理能力は確かに優れていたが、外交官として大切な人脈作りは得意ではなかった。友人が少なく内向的な性格でマジメで融通が利かず原則論に固執する癖がある」

◾別の省庁官僚と仕事をしたとき関係ない英文資料もドサドサ渡し「これくらいで驚いちゃ困ります」と馬鹿にした事件(2ch書き込み)
◾別の省庁の官僚が外務省に会議に来て資料が足りずコピーを取ってたら「よその省庁の方が勝手にここのコピー機を使用しないでください!」とヒステリックに怒鳴った事件(2ch書き込み)
◾「高慢ちきな鼻持ちならない女」と外務省担当記者の評判(2ch書き込み)
◾営業時間外に外務省内の食堂に来て「コーヒーぐらい出せるでしょう!」と吐き捨てた事件(2ch書き込み)

皇太子・小和田雅子婚約内定記者会見エピソード
皇太子・小和田雅子婚約内定記者会見ページも参照されたい。

◾1992年GW時点で既に伝蓋旧友・土川純代さん一家協力の下、限りなくやらせと思われる「超キャリアウーマン小和田雅子さんってば実は子供好きで家庭的な女性なの」プロモーションビデオ撮影、婚約内定会見当日にNHKで全国放映事件

◾婚約発表に際し靴をオーダーメイドするものの、靴デザイナー河村龍介氏になんとそれまで履いていた既製品靴を渡して製作させ、後に「靴のフィッティングがぴったりいっていないように思われますが」と文句をつけるオーダーメイドする意味が全く理解できていない事件、また靴の採寸最中に飼い犬ショコラをうろちょろさせる非常識事件【甲の肉】

◾婚約内定会見にて徳仁直接話法として自分を「雅子さん」呼ばわり:「私に対して、『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうにおっしゃってくださいました」と、今後何があっても私を守れよゴルァと全世界を証人として言質取りする事件

◾婚約会見で皇太子よりも長く話した事件
◾全世界公式会見で「一言付け加えさせていただく」発言事件
◾全世界公式会見で「いい人生だったと振り返れるようにしたい」、“ら”抜き発言事件
◾「殿下に幸せになっていただきたい」上から目線発言事件【言質】
◾「殿下は人間が出来てらっしゃる」上から目線発言事件【浜尾実】
◾オーケストラ人数分出産拒否事件【言質】
◾婚約会見で仕事を辞めることに悔いはございませんと抜かしつつ皇室外交やらせろ矛盾発言事件


婚約発表後

◾皇室で外交をして参ります発言事件
◾お妃教育で神道を学ぶのになぜか英語の本(ザ・ワールド・オブ・シントー)を教材として求めた事件
◾めでたい記念に小和田家が注文した仕出しのふぐ料理に知人共々舌鼓、そのフグの皿をなんと返却せずガメてしまう事件
◾婚約正式締結となる納采の儀でお扇子ド真ん中挿し事件
◾桐箪笥として用を成さぬ、たいそう下品な金箔箪笥事件
◾田崎真珠から高級九ミリ玉二連真珠ネックレス(推定500万円)を軽率にも貰ってしまう事件(後返却)
◾「好きな食べもの=サラダ」「得意な料理=風呂吹き大根」「酒量=ワイン少々、ブランデーケーキでも顔が赤くなるぐらい」「習い事=茶道」「体重51キロ」etc.と嘘てんこ盛りのプロフィール流布事件【釣書き】
◾義妹となる紀宮殿下が平成5年誕生日発表文書にて、秋篠宮妃となった川嶋紀子さんの時と比較して、明らかに小和田雅子に対し距離を置いたクールな態度を取る事件
Part530-20奥様ご紹介、扶桑社『皇室Our Imperial Family』第29号平成17年冬紀宮殿下ご結婚記念号より

・川嶋紀子さんに対して(平成2年4月16日、21歳お誕生日の記者会見より)
「川嶋さんは本当にすんなりと私たち家族のなかに溶け込まれて、このたびのお二人のご婚約は、大変自然なもののように感じました。川嶋さんとお会いになった方は、あの温かな雰囲気に心が和むのをお感じになると思いますが、同時に、芯に大変しっかりしたものをお持ちになり、物事を慎重に深く、お考えになる方だと思います。これからご一緒に両陛下をお助けしながら仕事をしていく上でも、これからの生活の上でも、私が川嶋さんから教えていただくものがたくさんあることでしょうし、また、私の方でも何かお役に立つことがございましたならば、喜んでしたいと思っております」
---------------------
・小和田雅子に対して(平成5年4月18日、24歳お誕生日の文書ご回答より)
「(雅子さんとは)まだゆっくりとお話をする機会はございませんが、自分をしっかりと持っていらっしゃり、ユーモアのある楽しい方のように拝見しております。頼もしい姉二人を持つことが出来て大変心強く思っております」

入内後〜愛子誕生前

◾今上陛下(皇太子時代)正田美智子嬢ご成婚記念切手完売にあやかり、徳仁雅子結婚記念切手が製作されるも「関係筋から雅子さまのしわや目の大きさについてクレーム」がついたことにより発行期日に間に合わず、クレームつけた関係筋ってどう考えても雅子サイドだろ事件
『週刊文春』2014年1月2・9日新年特大号より引用

「皇太子さまと雅子さまのご成婚時にも記念切手は作られたのですが、関係筋から雅子さまのしわや目の大きさについてクレームがついた。印刷の版式も凸版からグラビアに変えたりしたので、結局ご成婚には間に合いませんでした」(切手の博物館元副部長 内藤陽介氏)


◾結婚式当日、皇太子と立ち位置逆事件

◾宮中饗宴の儀初日乾杯でお酒を一気飲みしちゃったんだよね。あれ、乾杯で飲み干してはいけなかったらしいね事件
『女性自身』1994年6月13日号増刊 新妻・雅子さま輝いて「愛の一年」<おーっと、イッキに杯をキュッ!>(上画像)

◾森村桂さんの作ってくれたケーキをマスコミ披露前に食べてしまい、再度森村さんに作り直させた事件【桂よ。わが愛・その死】
◾入内直後から皇室内でわからないことを“ド庶民”の実母・小和田優美子に聞く事件
◾嫁入り早々、宮内庁職員をあごで使って総スカンを食らった事件
◾公務で壇上堂々居眠り事件
◾1993年7月20日明治神宮参拝、石段を上る際にローブモンタントの裾踏んづけ]事件
『女性セブン別冊1996年6月5日号 皇太子さま雅子さま「ご成婚3周年記念」麗しのプリンセス』より<明治神宮のぬれた石段を上る雅子さまのヒールは5cm、参拝服のすそがちょっと…。><アッという間もなくすそを踏まれてが、そのときあわてず、騒がず…。>の説明入り画像

1993年7月20日 明治神宮参拝、「足下にご注意!」ドレスの裾踏みつけ雅子(右画像) ◾1993年8月小和田家コンクリ御殿里帰り、飼い犬ショコラとマスコミカメラ前で堂々ベロチューキス事件

◾1993年8月25日八大行啓の一つである全国農業青年交換大会にて、帽子を着用しないカジュアルスタイルで出席、雅子流「ファッション改革」事件

『女性自身』1993年9月14日号<滋賀県のご公務で気配りTPO雅子さまショルダーバッグとお帽子なしのファッション改革!>グラビア記事。文面ではマンセーしているが、主要公務での女性皇族無帽姿がいかに異例なことなのかが窺えるキャプション文面である。

◾1993年10月15日初出席の園遊会にて、世界陸上選手権女子マラソンで優勝した浅利純子選手に対して「殿下と夕食をとりながらテレビを見てたのよ。」品に欠ける夕食光景を自ら話して聞かせる事件
『週刊新潮』1993年10月28日号<雅子さま初めての園遊会>モノクログラビア記事 ◾両陛下や秋篠宮ご一家と中華料理の食事会をするとき、紀宮殿下はかいがいしく皆の分を皿に取り分けたりなさるのに、雅子はぼんやりしたまま何もしない事件
◾御料牧場の牛乳(「63度30分」低音殺菌瓶牛乳)は口に合わないと拒否、自分用を買いに行かせる事件
『週刊現代』2004年6月19日号<新聞テレビが報じない「浩宮の乱」 宮内庁はスパイなのか> p.30より引用

「両陛下や秋篠宮ご一家とご一緒に食事をなさる機会もよくあるんですが、中華料理のときなど紀宮さまが、みんなの分を皿に取り分けていらっしゃるのに、どうしたものか雅子妃はボンヤリとして何もなさろうとしない」
「皇室で使っている御料牧場でとれた牛乳が雅子妃はどうも苦手のようで、市販の牛乳を飲まれている」
 宮内庁担当記者らが取材に動くと、この類のマイナスのエピソードを聞かされることになる。その結果、記事のなかに、どうしても雅子妃に対する批判めいたトーンが反映してしまうことがある。
 体調がすぐれず夜なかなか寝付けないのに、早起きしないといけないと批判されるのは理屈に合わないし、御料牧場の牛乳を飲まないのは、持病であるアレルギーの症状が悪化するため、というのが理由だ。もとより完璧な人間などいないだろう。

◾公務中に雅子のイヤリング脱落、皇太子に拾ってもらう事件
◾結婚半年で、昭和天皇付きでもあった山本悟侍従長が朝日新聞・岩井克己記者に向かって「この結婚は失敗だった」と吐露、当時既に宮中は雅子のおかげでとんでもなくヤバい状態に陥っていたことが窺われる事件

『選択』2015年4月号<宮中取材余話 皇室の風(連載80) 二君に事えるということ(岩井克己)>記事

p.89より引用
 最も面食らったのは、同年六月の皇太子結婚から半年も経たない頃のことだ。
「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と(補足:昭和最後の侍従長である山本悟氏に)話しかけると、山本はしばし沈黙のあと「この結婚は失敗だった」と言ったのである。


◾結婚半年で早速ダイエットのリバウンド、皇室取材記者からは「ひょっとしておめでた?」妊婦と間違われるほど出腹事件【ふっくら】
◾婚約内定一周年会見で「一言付け加えるといたしましたら,依然としてオーケストラは考えておりませんということでございましょうか」と、一言付け加えさせていただく事件再び、そしてオーケストラ人数分出産再拒否事件
◾1994年6月徳仁雅子が奥多摩登山、「昼食は雅子さまお手製のおにぎり」と宮内庁が説明したけど、実際は業者から買ったおにぎりだった事件
『噂の真相』 1995年10月号 p.29より引用

 昨年の6月、皇太子夫妻は結婚後、初めて二人揃って奥多摩に登山に出掛け、一部のマスコミが 「雅子さまの愛情が篭もった手作りのオニギリで昼食を」 とその仲睦まじさを報じたことがある。しかし実はこのオニギリ、雅子の「手作り」などではなく、宮内庁が出入りの業者から買い入れたものだったのである。

「宮内庁としてもこの時、雅子妃に手作り弁当を作ってもらい、マスコミにPRしたがっていたんですが、なぜかそれが実現しなかった。ある関係者がお二人の関係は手作り弁当というようなホノボノとしたものじゃないからな、と洩らしていました」 (宮内庁記者)

◾1994年7月東宮御所3億800万円改修事件(私室棟メインで銅板屋根の葺き替え・鹿おどし付き日本庭園・夫妻好みの内装にするのが目的)
◾皇族女性や海外からご訪問の要人女性と同じ場での衣装バッティングが繰り返される事件【雅子のお召し物当たり屋シリーズ】
◾1994年11月中東訪問、カタールの水族館では魚を指さし皇太子の方を向いて「あれ!あれ!」とはしゃぎ喜ぶ、丁寧語も何もあったものではないまるで小学生事件
◾1995年(平成7年)1月17日阪神・淡路大震災発生、変更はできないからと中東三カ国(クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダン)訪問強行、21日にはめでたい紅白衣装を披露しマスコミを( ゚д゚)ポカーソとさせる事件

◾1995年中東訪問ヨルダンのフセイン国王から「お国が震災で大変なんだから早く帰ったら」と勧められようやく2日切り上げ帰国決定、帰国の途につくクイーン・マリア空港にてサルワット妃がすぐそばにいるのにムッとした表情のまま事件
◾天皇陛下に向かって「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」と口答え事件
◾東宮侍医長から基礎体温表の提出を求められるも激しく拒否、辞職にまで追い込む事件
◾海外要人との公務でも平気で指差し事件
◾知恵遅き子お歌事件(宮内庁公式情報)
◾1995-1997年頃、東宮夫妻が地方公務で地元有力者と食事会、後日雅子がのたまった「ああいう集まりには、もう二度と出席したいとは思いません」に東宮職が我が耳を疑った事件
『週刊新潮』2012年1月5・12日新年特大号<雅子さまに御された「東宮」のラスプーチン> p.27より引用

 さきに本誌は、ご病状が「適応障害」には当たらず、他罰的感情をその特徴とする「ディスチミア症候群」ではないかと報じた。事実、そうしたお振る舞いは長期療養に入られる2003年以前、さらに言えばご成婚直後から見受けられたという。さる東宮職OBによれば、
「ご懐妊の兆しが見える数年前、東宮ご夫妻が揃ってある地方都市を視察されたことがありました。土地の産業や地域の過疎化などについて、県や市の幹部と意見交換し、食事をともにされたのですが、後日、妃殿下は『ああいう集まりには、もう二度と出席したいとは思いません』と仰せになったのです」
 このOBが当時、耳を疑ったのは言うまでもない。

「つまりは、現在のご自分とお暮らしとは直接に関係がないことだというようなご趣旨だったのですが、皇族のお立場というものについて、根本的にご理解が異なっているのではないか、という違和感を強く覚えたことを記憶しています」

◾皇太子の友人や皇室関係者との会食出席を拒否。皇太子一人で対応事件

◾1997年またも東宮御所5億8000万円公室棟改修(耐震補強工事・[車椅子用リフト設置]等、バリアフリー化)、母方祖父江頭豊が遊びに来るのに便利にするためじゃないか?事件

◾1997年徳仁雅子裏磐梯静養で、夫徳仁の友人・乃万暢敏一家が近くで静養していたので共に夕食。後日「磐梯でお子様を…と思っていたのに邪魔をしに来た家族がいる」という愚痴が乃万氏に漏れる事件
Part2606-283 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 00:38:37.85 ID:NQ92jKpE0
今さらですみません。

週刊女性が出した誤成婚本「雅子さま 愛と絆の20年」に載ってたナル学友の話が本当に意味わかりません。
 
初等科からの学友・乃万暢敏(のまのぶとし)氏の寄稿。
97年の夏にナルマサが裏磐梯で静養した時、乃間氏一家も近くで静養してたから
ナルマサのホテルに招待され夕食を共にした。焼肉レストランのカウンターに横1列に並んで
食事したが、雅子さまは息子(小5)にとても気を配ってくれた。
楽しい時間を過ごしたのに、後日その静養について、ある東宮職関係者が
「磐梯でお子様を…と思っていたのに邪魔をしに来た家族がいる」と言っている
という話を聞き、愕然とした。殿下にそれとなく話したら殿下も驚いておられ、
激怒した(←職員に対して?)(←これは私のツッコミです)と伺った。
すでにこの頃から東宮職との関係がぎくしゃくしていたのではないか。
 
というエピ。
おめでたい20年本なのに、何でこんな後味悪い話題を持ち出したんだろう?
 
というか、夫の友人家族を「静養の邪魔しにきた」と断罪するのは雅子氏本人じゃないかと思うけどね。
表面は子供の世話焼いたりいい妻ぶってみたけど、そのあとドッと疲れてナルに
「気を使って疲れた」とか「休みを邪魔しに来やがって」とか当たってても驚かない。

◾公務のない日は自分の部屋に篭りきり事件
◾ヨルダン国王の葬儀に参列できて有難かった^^失言事件(宮内庁公式情報)
◾700万プラチナフルート事件
◾高知県知事によると「雅子さんは結婚一年目から外交ができないと悩んでた」事件
◾外務省直行便3000万ワインセラー建築事件
◾オーケストラ演奏中に途中入場事件
◾2002年皇太子妃記者会見でまさか皇室に入ろうとは夢にも思っていなかった ブヒヒヒぃ〜ンンwと、下卑た笑いをして反皇室発言をした事件
◾脳内モルヒネ発言事件
◾「検査の苦しさよりも私が子供を産める身体だと両陛下にご理解をいただいてほっと致しました」夫皇太子に男性不妊責任擦り付け発言事件≪文藝春秋2004年7月号友納尚子記事≫
◾豊葦原瑞穂乃國を統べる皇室に嫁に入って、どっかの公務で稲の成育の話に無関心だった事件
◾車の乗り降りのとき皇太子を優先にする行動が注意されても出来なかった事件
◾1998年8月石川県加賀市での梨狩りにて、夫徳仁が落としたナシを拾おうともせず、そのまま夫に拾わせ籠に入れさせる事件(当該場面映像キャプチャ連結画像)
参考ようつべ:雅子さま1989−2000 ttp://www.youtube.com/watch?v=AIBLW_spqj8#t=5m12s 5分12秒から梨狩り場面映像あり。

◾お客様にお茶をだす時の茶托を廃止する事件
『週刊文春』2001年12月13号<総力特集雅子妃ご出産 初めて明かされるとっておきの十大秘話>p.50より引用
【茶托を出さない理由】乃万暢敏(のまのぶとし)さん
 殿下は子供の頃から、自分に厳しく人に優しいという方でした。そして気配りを重要視される方です。たとえば、御所では、ある時からお客様にお茶をだす時の茶托をやめました。漆塗りの立派な茶托が、熱くなった湯のみの糸底にぴったりと吸い付いて持ち上がってしまうことがありますよね。その茶托が落ちて大きな音を立てると、タダでさえ慣れない御所で緊張されているお客様が、痛々しいほど緊張される。だったら茶托はやめて、くつろいでお茶をどうぞ、という気配りなのです。

◾ そのくせ、客人に出す飲み物でコーヒーか紅茶にするかに悩み、更にティーカップをどれにするか選ぶのに悩むという事件

◾ 赤坂御所に迷い込んだ犬が生んだという触れ込みである東宮家飼犬ピッピとまり、生まれた当時仔犬たちが万が一車に轢かれてはいけないと周辺の道を通行止めにさせる事件

◾ 赤坂御用地に生息していたタヌキを東宮御所内で飼育、無許可でやっていたなら明らかに鳥獣保護法違反事件


『女性セブン』1999年2月4日号 美智子さま(64)雅子さま(35)「宮中いじめ」を越えて>
p.18より引用
 ところで雅子さまは、昨年12月の誕生日会見で、犬を2匹飼っていることを話された。
「いま、犬がおり、『夫婦げんかは犬もくわぬ』と申しますけれど、けんかのタネはわりとよく(犬が)拾って食べてくれる気がします」
 雅子さまは、このようにユーモアたっぷりに紹介された。

 2匹の愛犬は雑種で、名前は「ピッピ」(オス)と「マリ」(メス)だ。この犬はいまから4年ほど前に、赤坂御用地内に住みついた雑種の犬が生んだ10匹の子犬のうちの2匹。残りの8匹は希望した宮内庁職員に分け、いちばん小さかったオスとメスの子犬を雅子さまが手元に残されたのだ。
 当時のことを、ある宮内庁関係者はこう話す。
「子犬が生まれたとき、妃殿下はたいへん心配されましてねえ。御用地内は車も走りますから、万が一車にでもひかれたらいけないということで、周辺の道を通行止めになさったほどでした。

 2匹の子犬もたいへんかわいがられ、ご自分ができないときは、職員に“ミルクをあげておいてください”などと頼まれてもいました」
 かつては、同じく御用地内に住みついていたタヌキも雅子さまは御所内で飼われていたこともあり、皇太子さまと一緒に、余った肉などを食べさせていたこともあったという。


◾ 1999年12月4日ベルギー王太子結婚式に出席、欧州の王族貴族が大集合する場で英国王室の色であるロイヤルブルーのスーツで登場の雅子]。元々赤色スーツの予定だったが、当日朝TVで見た式場教会カーペットが赤なのに気付き、これでは埋もれてしまい目立たないと急遽態々ロイヤルブルーに変更事件

ソース:『文藝春秋』02年1月号兵藤長雄氏(前ベルギー大使)記事]

◾ ベルギー訪問で郊外Durbuy (デュルビュイ)にあるレストラン「Les Sanglier des Ardennes」まで悪路を長距離グルメ旅行、そこで大皿交換といったとんでもないマナー違反事件 ソース:『文藝春秋』兵藤氏記事

◾ 結果今も店に飾られている記念写真]で雅子は“La Princesse”ではなく“SON EPOUSE”と書かれ店側に貴賎結婚認定、本人は気付いているかどうだか知らないが、店を訪れる数多の客に馬鹿にされ続けてますよ事件

◾ ベルギー訪問の際、懐妊兆候を知りながらそれを隠して渡欧、ワインを普通に飲んだり]、帰国した後に流産。因果関係は不明だが、そもそも8年間不妊で妊娠初期状態を知っていたら、まともな女性なら用心して飲酒しないだろ事件
→【ベルギー訪問】参照

◾ 雅子の「高度な懐妊治療」担当となった堤治東大医学部教授(当時)に「雅子さまは妊娠中もタバコをやめなかったんだ」と周囲にこぼさせるほど不妊治療にまともに取り組まない事件

◾ 2000年5月28日、大好物の外国人と肉が用意されている東京ローンテニスクラブのパーティーに夫婦でドタ出参加、ゴーゴーダンスに熱狂36歳事件

◾ 2000年7月25日、香淳皇后のお葬式である斂葬の儀を「[夏バテのようなもの]]」で欠席事件

◾ 香淳皇后と今上陛下・皇后陛下・秋篠宮ご一家・紀宮殿下との交流について、2000年12月天皇陛下が自ら誕生日会見で語られるが、徳仁雅子については完全スルー。恐らくこの二人は香淳皇后を見舞ったこともろくにないとお察しされる事件


天皇陛下お誕生日に際し(平成12年)]より引用

問3 今年6月に,香淳皇后がお亡くなりになりました。お別れの時のお気持ちや,印象に残っている出来事,お言葉などがありましたらお聞かせください。
天皇陛下
吹上大宮御所は,私どもの住んでいる御所からすぐの所にあります。週末には大抵皇后や紀宮,時には秋篠宮一家を交えて吹上大宮御所をお訪ねしていました。皇后は,香淳皇后がお元気であったころと変わりなく心を込めてお尽くししていました。また,秋篠宮の子供たちが一緒の時には,いつも子供たちを香淳皇后のおそばに連れて行き,二人が皇后に倣いお手を一生懸命さすったりしているのが印象に残っています。香淳皇后が崩御された時に,秋篠宮家の子供たちが,お見舞いしたいということを言ったことを,秋篠宮が話していますが,このようなことから香淳皇后に親しみを感じていたことと思います。香淳皇后がもう御生存ではいらっしゃらないのだということをしみじみと感じたのは,崩御の夜,祗候しこうのために吹上大宮御所を訪れた時のことでした。帰り道,空を仰ぐと月がこうこうと照っていました。昭和天皇崩御から11年,吹上大宮御所に勤める職員が皆誠意を持って勤めてくれたことを感謝しています。香淳皇后は,早くから高齢化の兆しがおありになり,香淳皇后とお話らしいお話ができたのは随分前のことになります。その分を昭和天皇がお心を遣われ,私どもの子供たちとの話も務めてくださったことを感謝とともに思い出します。香淳皇后について印象に残っていることは多々ありますが,戦後親子兄弟が,一緒に過ごす機会が多くなったころの香淳皇后の朗らかな印象は,私の記憶に深く残っています。


◾ 妊娠したお腹が大きくて恥ずかしい発言をして、それを聞いてた友人がTVインタビューで証言事件/友人が言ったんじゃなくて、フジテレビ「とくダネ!」武藤まき子レポーターが“雅子さまの母親優美子さんが「大きくなったお腹で人前に出るのが恥ずかしいと(雅子が)言ったので、今までの(子供が出来なかった時)事を思えばそんな事何でもないことでしょ」と言われたそうです”こんな感じで言ってたんだよ、だから“お腹が大きくて恥ずかしい”発言は間違いなく雅子本人が言った言葉です事件≪後者はPart2037-45書き込み≫

◾ 2001年8月またまた東宮御所改修コルク床2900万円事件(紀宮殿下のお部屋をコルク床に・壁にはリノリウム使用・部屋を仕切って看護婦控え室も)
◆アサヒコム]ソースと、日経ネット]ソース

◾ 公務現場に着用していた金・真珠ブローチを、実母小和田優美子に下げ渡し疑惑事件【小和田優美子】
比較画像:1994-1996年公務現場における金・真珠ブローチ着用の雅子、2001年12月1日「赤ちゃま」会見における金・真珠ブローチ着用の小和田優美子]


 

■第3期−愛子誕生後、公務同伴・公園デビューなど見せびらかし状態−■

◾ 浩宮礼宮紀宮&秋篠宮家両内親王を育んだ皇室のベビーベッドが愛子誕生で東宮家に贈られたものの後に行方不明、雅子がお古を嫌って廃棄させたことほぼ間違いない事件

◾ 敬宮誕生後4ヶ月しての初公式会見で「生まれてきてありがとう/生まれたての子供]」という変な日本語表現事件 宮内庁公式情報

◾ 「自分は健康に恵まれた子供を持っているが、そうでない方もいらっしゃるのに」発言事件 宮内庁公式情報

◾ 自分に子供がなかなか授からなかったのをすっかり忘れてか、小梨職人に「お子さんは?」失言事件

◾ お婆さんに服引っぱられ顔しかめ事件

◾ 愛子の乳母車が何十万事件

◾ 類似の国産品を探してきても気に入らず愛ちゃんの外国製知育玩具を外務省経由で手に入れる事件

◾ 皇太子が妻雅子に傘さしかけ事件

◾ 平成14年(2002年)7月26日 第41次本土派遣沖縄豆記者小中学生との接見公務に、非常識にも生後7ヶ月の愛子を連れて一家で登場]事件 宮内庁公式情報

◾ 平成14年(2002年)10月15日 生後10ヶ月の愛子を連れて藤城清治影絵展鑑賞]、愛子の影絵触りを止めず芸術的躾出来ない]事件 宮内庁公式情報

◾ Aと言いながら事件

◾ 愛子ちゃん、ご愛用カタカタ]で海外企業を救う事件

◾ 2002年10月15日愛子同伴で藤城清治影絵展を雅子が鑑賞、愛子にべたべた作品を触らせる常識外れ事件

◾ 2002年12月、『外国に行けないのが苦痛でした』顔面ブルブル痙攣発言事件 宮内庁公式情報

◾ ニュージーランドのクライストチャーチにて「まさかというような所で遊んで行かれた」、何と雅子が当地のカジノで大負け?事件


皇室御一行様避難所 part19
884 :可愛い奥様@避難所生活:2013/04/19(金) 00:28:41 ID:G9U9Xa3k

「クライストチャーチに住んでいたから会えた雅子様]」で検索してみて。
このブログの最後に「まさかというような所で遊んで行かれたそうだが、そこが何処だか書いていいのか分からないので書かない」って。
また皇族らしくないことしてきたのかしらね。
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Part2563-79 可愛い奥様 sege 2013/04/19(金) 19:38:58.59 ID:UhpxIG6u0
前スレ>雅子がニュージーランド訪問したとき、カジノで遊んで大負けした
ググるとたくさんでてくるね>「クイーンズタウン カジノ 雅子]」
 
>さっきも少し話しましたが、この街には2つのカジノがあってそのうちの1つは、]
>かつて雅子様もお忍びで来て、大負けした由緒正しいカジノがあるのですw]
 
国民の税金で賭博やって、大負けしたんだ、オランダでもやるのでは?
楽しいでしょうね、大負けしても全く気にならない掛け金
まさにマリーアントワネット(顔とスタイルと育ちは月とスッポンだが)

◾ オーストラリアの動物園訪問、コアラ・ソーフラッフィー溺愛、生毛皮に鼻先まで埋め日本ではついぞ見せたことがないほど大喜び]事件

◾ 「あなたと同じよ」豪州歩行器障害児落胆事件→【Like you!】

◾ ノーベル化学賞受賞田中耕一氏とお祝い茶会でテーブル同席し、氏をクスクス嘲笑う事件

◾ おみ足をお引っ張り事件 宮内庁公式情報

◾ 39歳誕生日公式記者会見]で北朝鮮拉致問題について触れ、「明るみに出て」とまるでバレては困ることだったような表現をしたり、「また亡くなられてしまったと言われている方々もいらっしゃるわけで」と言い切るなど、北朝鮮プロパガンダ発表=日本国外務省見解を拡声器で伝えるかのような発言事件宮内庁公式情報

◾ 砂場でアイボがお友達に砂をかけても知らんふり事件

◾ 当時の高知県知事・橋本大二郎氏メルマガ証言、徳仁が「(愛子の鼻から目のあたりが)私に似ていると言われるんです」と嬉しそうに言ったのに対し、雅子が「私はそうは思わないんですけど」と漏らす、そんなに娘愛子の父親似が嫌なのか夫皇太子発言を否定事件


http://www.pref.kochi.jp/%7Ehisho/chiji/omoi-no50.htm
平成14年12月19日 NO.50 お二人のお誕生月に寄せて

・・前略・・

また、雅子さまは今回のお誕生日の会見で、愛子さまは性格的に皇太子さまに似たところがあると話されていましたが、話がお顔のことになりますと、皇太子さまは、「このあたりが」と鼻から目のあたりを指しながら、「私に似ていると言われるんです」と嬉しそうでした。

 それに対して、僕の隣りに座られていた雅子さまが「私はそうは思わないんですけど」と漏らされたのを、僕は聞き逃しませんでした。

◾ 怪しい病名発表事件

◾ 愛子との公園デビュー当日、出席予定だった午後の演奏会はドタキャンの同日シリーズだった事件

◾ ブルネイ訪問で公務復帰?事件

◾ アイボ内親王は嫁に出すので普通に育てる発言事件

◾ 娘愛子が犬の顔を執拗に触って、犬が嫌がっても止めようともせず躾出来ない事件

◾ 葉山海岸で愛子が近い年頃の子供たちと一緒に遊んでいて別の子供が手にしていたペットボトルに興味を持ち、あろうことか後ろにいた母親雅子が愛子に手を貸し、元の持ち主であった子供からペットボトルを強奪]する事件

参考ようつべ http://jp.youtube.com/watch?v=kz58BvSUmIM(00:19〜あたり)

◾ 愛子ちゃんのおままごと用木製キッチンセット]は特注30万円事件

◾ 那須御用邸滞在時に斑点が無い綺麗なバナナを地元の店が納入と女性自身近重幸哉証言、黒い点のあるバナナは愛子が嫌いなので納品しないように注文事件

◾ 赤ん坊の愛子に英語のABCを教えようとする雅子、それに林田英樹東宮大夫が「まずはあいうえお(いろは)」と注意し、それ以来東宮大夫と口をきかない事件

◾ 御所にある愛子お気に入り滑り台映像撮影拒否事件

◾ 静養移動に利用する新幹線にて、娘愛子がひじ掛けに座ったり、窓ガラスをべろべろ舐めるのすぐ傍にいる母雅子が止めさせようともせず、舐めるがままにさせておく事件

ソース画像:2002年10月29日 静養から帰京する新幹線に乗り込んだ一家三人、雅子がお手振りに夢中でぞんざいに左腕で抱かれた愛子ちゃん、新幹線窓に顔を押し付け舌を出してガラスを舐めている光景。下唇や鼻先もガラスに押し当てとんでもない表情の「ちょっとヤンチャな愛子さまも可愛い!」グラビア一般人撮影画像(女性自身2003/12/16号)

    2003年5月6日 静養移動の新幹線窓から追っかけ主婦撮影による画像「ひじ掛けの上に座って窓ガラスに口をつけるなど、車内では活発なご様子です」どうして子供にひじ掛けの上に座ることを許すのか、どうして列車の窓ガラスに口をつけさせるのか、理解に苦しむ母娘の光景(週刊女性2004/1/6・13号グラビアより)]

◾ 小和田家コンクリ御殿へ徳仁愛子を連れて里帰り、雅子は体調から横になっていて何もせず、徳仁が小和田家台所に「愛子のミルクを作ってもいいか」とやってくる、娘のミルクも作らない育児放棄状態事件≪女性自身2012/10/23号≫
※2003年9月4日の小和田家里帰りと推察されるが、その場合愛子は1歳9ヵ月、卒乳していてもいい時期なのだが…?


■第4期−引きこもり前期 帯状疱疹〜人格否定会見前まで−■

◾ 那須静養中に急病に掛かったアイボの取材を急遽キャンセル事件 これ以後、アイボの公的露出が激減し、雅子自身も公の場に出なくなる(引きこもり開始)

◾ リスカ疑惑事件 その日は典侍に至るまで全員シャットアウトで自宅待機 疑惑?

◾ 新年発表用の映像撮影は氷の団欒、なごやかな雰囲気がなかなか出なかった事件

◾ 氷の団欒後のお食事会欠席事件

◾ 天皇陛下の古希祝い欠席事件

◾ 正月から両陛下に挨拶なし事件

◾ 軽井沢小和田家別荘強行ご静養、また精神状態が不安定という触れ込みの筈なのに娘愛子を同乗させ自らハンドルを握りドライブ]お楽しみ事件→【運転免許証】br />
◾ 軽井沢別荘立て篭もり中、別荘の外に聞えるほどの大声で叫んでいたという、どこから見ても完全お気違い事件


『週刊新潮』2007年1月4・11日新年特大号<特集 かくも色濃い「皇室の憂愁」>記事
p.30より引用

 ある皇室ジャーナリストが言う。

「(補足:皇太子)殿下のご心配は絶えることがありません。03年12月に公務から離れられた雅子妃は精神状態が不安定な日々が続き、軽井沢の小和田家の別荘で静養されていた時には、別荘の外にまで聞こえる大きな声で叫んでおられることもありました。05年5月の人格否定発言の前には、思い悩まれた殿下が、両陛下と紀宮さまとの4人だけの食事の席で、美智子皇后とお二人だけになった時、皇后の手をとって泣かれたこともあったそうです。その後、人格否定発言があり、また、雅子妃が東宮幹部に電話で“私、皇太子妃、やめます!”と叫んだこともあった。情緒が不安定で、両陛下は、腫れ物に触るように雅子妃に気を使ってこられたのです」

◾ 送迎車の中、女官との談笑に夢中のあまり、報道陣を一切無視事件

◾ 大野裕・慶応大学教授が雅子の主治医になる以前、医師とのコミュニケーションもままならず、処方されたアメリカの薬に不信感を抱き、なんとアメリカ大使館に電話して効能を聞くという、どこからどう見ても頭がイカれすぎてる事件


『週刊新潮』2007年1月4・11日新年特大号<特集 かくも色濃い「皇室の憂愁」>記事
pp.30-31より引用

  その後、同年夏に大野裕・慶応大学教授が、雅子妃の主治医となり、
「それまでは、雅子妃ご自身が医師を探し、コミュニケーションがうまくはかれなくなれば、相談をやめてしまう、というようなことが続いていました。医師から処方されたアメリカの薬に不信感を抱き、アメリカ大使館に自ら電話を入れて効能を聞くということもあったそうです。しかし、大野教授が主治医になってからは、そういうこともなくなり、大野教授が“適応障害”と診断し、雅子妃と大野教授の意向によって、06年の8月にはオランダ静養も敢行されました。この直前、7月に那須での静養がありましたが、那須から帰京した際、オランダ静養を許可してもらったことに対するお礼も兼ねて挨拶に行かれればよかったと思いますが、ご夫妻はそれもされなかった。両陛下は寂しかったと思いますよ」(宮内庁関係者)

◾ 雅子一人でカローラIIに乗り、赤坂御用地内の未舗装道を走り、乗り上げてしまって皇宮警察に救出される事件


『週刊朝日』2013年10月4日号<天皇陛下が運転するグレーの「インテグラ」 雅子さまはカローラII乗り上げ救出も>
p.24より引用

 天皇陛下以外にご自分で車を運転される皇族といえば、雅子さまだ。ご結婚前に運転して外務省に通勤する姿が話題となったカローラII]は、嫁入り道具として持参された。

「雅子さまはその後も運転で気分転換されていたようです。一人でカローラIIに乗り、赤坂御用地内の未舗装道を走り、乗り上げてしまって皇宮警察に救出されたこともあるそうです。その後、適応障害と診断され、ご実家の別荘がある軽井沢で静養された際にも、ご実家のBMWを運転されていました」(宮内庁関係者)


 

■第5期−引きこもり後期 人格否定会見〜SOドタキャンまで−■

◾ 2歳児に映像公開の是非を問う事件

◾ 2004年(平成16年)10月23日新潟県中越地震発生、11月6日両陛下が中越地震被災者お見舞い]に行くのを尻目に、11月5-11日雅子は動物と触れ合いたいからと一家で那須御料牧場静養に出かける]事件

◾ 国民には会わないけど欧州王族には会うよ事件

◾ 新年の一般参賀で紀宮様に話し掛けまくり事件

◾ 「私、皇太子妃を辞めますっ!」逆ギレ電話ガチャ切り事件

◾ 外務省内のせんべい会員グループ、大鳳会の男性メンバー3人と夜遅くまでディナー事件

◾ 奥志賀でのスキーではしゃぎまくり、やる気のないアイボを両脇抱えて無理矢理[[文楽スキー事件

◾ 奥志賀スキーでのアイボ影武者疑惑事件

◾ スペシャルオリンピックス冬季世界大会を当日朝ドタキャン、理由はなんと全部低気圧のせい事件


■第6期−公務復帰への足慣らし期−■

◾ ヘイリー嬢コンサート鑑賞にお忍びお出まし、終了後時間オーバーご対面、ぶしつけな英語でサインをねだる事件→【ヘイリー】【マサグリッシュ】

◾ [スペイン皇太子妃の為にメニューも考えちゃう事件]]

◾ 香淳皇后五年式年祭の儀と欧州王族の差事件

◾ 愛知万博を仏頂面で視察、出迎えた[モリコロ無視]]事件

◾ マンモス療法してもやっぱり同日シリーズやらかし、マンモスは全然役に立たなかった事件

◾ 平成17年(2005年)8月6日に聖路加国際病院小児病棟を私的訪問、重症入院患者である子供たちとその家族らが「夏祭り」を開いていたのだが、射的遊びで使われていた割り箸ピストルを雅子が所望、そんなに欲しいなら作り方教えてもらって自分で作れよ事件


『女性セブン』2005年9月1日号<皇太子妃雅子さま(41)に30人のママが泣いた>記事
pp.32-33より引用

 8月6日夕刻、東京・中央区の聖路加国際病院小児病棟をお忍びで訪ねられたのだ。
 この日、小児病棟では入院中の子供たちとその家族、それに病院スタッフら、合わせて200人ほどが参加して「夏祭り」が行われていた。そこに雅子さまが姿を見せられ、夏祭りを楽しむ子供たちとふれあいのひとときをもたれたのだ。

・・中略・・

 なかでも、雅子さまが興味をもたれたのは、射的。この射的に使う、割り箸で作ったピストルに、雅子さまはとても感心されたという。
「それをお渡ししたところ、“初めて見ました。これは、どうやって使うのですか”と、おたずねになられて。子供たちが割り箸ピストルから輪ゴムを飛ばしてお手本を見せると、興味深げに観察なさっていました」(別の母親)
 そして雅子さまは、ちょっとためらわれたあと、遠慮がちにこうおっしゃった。
「ひとついただいてよろしいでしょうか」
 ひとりが割り箸ピストルを差し上げると、雅子さまはそれは嬉しそうな表情で受け取られたという。
「きっと、愛子さまへのお土産になさったんでしょうね。那須御用邸で、愛子さまと割り箸ピストルで遊ばれているのでは・・・とみんなでそんなことを話していたところなんですよ」(前出・母親)

◾ 2005年9月6日長野県奥志賀静養からの帰京時、普段駅弁抱っこ姿を散々披露しているくせに、この時には愛子を何故かホームで歩かせ、新幹線を2〜3分遅らせ運行ダイヤに影響を与える事件


『週刊アサヒ芸能』2006年2月16日号<雅子妃「離婚報道」で飛び交う皇太子一家の「深刻孤立」> p41から引用

 今春から学習院幼稚園の入園が決まった愛子さまのご養育を巡っても、こんな場面が見られた。
「昨年(=2005年)9月、奥志賀高原でご静養された際、新幹線でご帰京されたのですが、専用列車の発車が2〜3分遅れたのです」(前出・担当記者)
 その理由は、愛子さまをホームで歩かせたためだという。これは抱きグセをつけないためなのだが、専用列車とはいえ、ダイヤへの影響は避けられない。
 皇室ジャーナリストの河原氏が語った「天皇陛下誕生日中座事件」も、雅子妃と離れたくないとおむずがる愛子さまに付き添ったための「事件」だった。


黒田清子さん(紀宮殿下)結婚式時の振る舞い

◾ 花嫁かと見紛うばかりのオフホワイトのドレスで結婚式場に登場]事件→【雅子のお召し物当たり屋シリーズ】

◾ 淡い色調の和服で揃えた皇族女性の中で雅子一人だけ濃いワインレッドのベルベットスーツ&非常識バックストラップパンプス]事件

◾ 自分の派手洋装が披露宴会場で浮いてしまったことについて、東宮女官に「どうしてあなたたちが確認しないの。あなたたちのせいで恥をかかされた」と逆ギレ事件→【私は病気ではありません】

◾ 成人女性皇族の中で雅子ただ一人だけが派手な洋装、その理由について渡辺允侍従長が東宮女官に問い質すも「雅子さまから事前にお召し物の相談がなかった」、美智子さまや紀子さまに相談することだってできたのではという問いかけには「雅子さまは、私たちの申し上げることはまったくお耳に入れてくださいません」、和装で合わせるのが常識だということを知らせ合わせる手筈について「そういうことは妃殿下が我々に命じてくださって初めてできることです。我々は、そこまで雅子さまの全てのご面倒を見なければならないのでしょうか」、自分の部下である東宮女官をまともに仕事させることもできない、上司失格事件→【私は病気ではありません】

◾ 紀宮披露宴中座目撃情報]]→【タバコ】


平成17年(2005年)12月9日・雅子誕生日

◾ 「東宮職医師団の見解」と称して、お遊びイケイケ海外どんどん行くべき!な雅子擁護丸出し見解文を発表させた事件(関連:銀器)

◾ 自分の誕生日友人との茶会には出席しながら、直後の田蓋恩師との茶会はドタキャン事件

◾ 東宮家主催晩餐会ドタキャン事件

◾ 天皇誕生日、お祝いの晩餐会をアイボおむずかりを利用して2時間47分ブッチ、ようやく戻ってきても「どうも」と一言だけ詫びる言葉ゼロ事件

◾ 天皇誕生日の翌日、祭祀をサボっておきながら暗闇と光に慣れるためミレナリオ療法を実行事件

◾ 新年関係行事を国民の前に出る必要のない必要最小限の行事しか出席せず、一般参賀ではまたも隣にいらした常陸宮殿下に話し掛けまくる事件


■第7期−秋篠宮妃紀子殿下ご懐妊発表後−■

◾ 恐怖の意味不明小松菜事件→【コマツナ】

◾ 特に何もないけど書の至宝展事件]]

◾ 爆笑盆栽展公務事件

◾ ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日韓戦観戦事件、そして読売新聞社社長・内山斉氏に深々とお辞儀]してみせ「雅子がナベツネにお辞儀してる!」と勘違い続出事件

◾ 恩賜上野動物園休園日東宮一家来襲事件

◾ 池田礼子様御一家と東京ディズニーリゾート行啓事件→【礼節姉妹】【TDR】

◾ 葉山静養、大本営発表写真を修正疑惑事件

◾ 小和田閣下の腹心の部下野村一成、東宮大夫に就任事件

◾ 遊ぶ体力はあっても祭祀を行う体力はない事件

◾ 個人的なお抱え医師大野裕氏と「(大野医師は)週に1度のペースで東宮御所を訪れ、ときには日付が変わるまで話し込む日もある」「担当医の大野教授と明け方まで話し合ったこともあった」など、ただの医師と患者という関係にしてはかな〜〜〜り怪しげな接し方をしている事件


『AERA』2007年12月31日・2008年1月7日合併増大号 <雅子さまへ20の質問状>

p24より引用

 宮内庁関係者は言う。
「雅子さまは夜型。朝7時に散歩に出かける皇太子さまと生活のスタイルが違う。朝食もご一緒ではない日が多いようです」
 愛子さまに幼稚園まで付き添うのは、ほとんど養育係というのが実態のようだ。
 雅子さまの担当医は慶応大学保健管理センターの大野裕教授。週に1度のペースで東宮御所を訪れ、雅子さまと向き合っているとされる。ときには日付が変わるまで話し込む日もあるという。

p26より引用
 関係者によれば紀子さまの第3子ご懐妊で、雅子さまは心理的に不安定な時期もあった。担当医の大野教授と明け方まで話し合ったこともあったという。

■第8期−愛子入園後−■

◾ 平成18年(2006年)4月16日オール学習院の集い(幼稚園から大学まで全学習院関係者の文化祭のような催し)にて、出店の水風船ヨーヨー釣りを愛子がやり、徳雅大人2人の分も合わせ全部で3個ゲト]してしまう、他の子供たちのことなんて一切念頭にありません事件


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060416-00000039-kyodo-soci

愛子さま、合唱を楽しむ 皇太子ご夫妻と
 皇太子ご夫妻に付き添われ「オール学習院大合同演奏会」を楽しむ愛子さま=16日午前、東京都豊島区(代表撮影)
 皇太子家の長女愛子さまは16日、皇太子ご夫妻に付き添われて東京都豊島区の学習院創立百周年記念会館を訪れ、「オール学習院大合同演奏会」に出演した学習院幼稚園の年長組園児による合唱などを楽しまれた。
 幼稚園の授業の一環で、愛子さまは紺色の制服姿で出席。約50人の年長組園児が「ぞうさん」など3曲を披露すると、愛子さまは横に座った雅子さまと言葉を交わしたり、拍手したりして聞いた。
 演奏会後には、会場近くに設けられた出店でヨーヨー釣りに挑戦。愛子さまは自分で釣り上げた緑やオレンジのヨーヨー3個を持ち帰った。
 合同演奏会は、在校生や卒業生らが参加する「第20回オール学習院の集い」の催しの一つ。
(共同通信) - 2006年4月16日12時35分更新

◾ 御料牧場静養計画〜アイボマスコミ撮影予定発熱ドタキャン事件

◾ 新宿御苑での幼稚園遠足で、庶民に愛子を見せるなと警備員が注意、雅子は御付きの女官を叱責事件

◾ 同じく新宿御苑幼稚園遠足で、他の園児ママ達がてきぱきレジャーシートを敷く中、雅子は何もせずぼーっと突っ立ってるだけだった事件

◾ 同じく新宿御苑幼稚園遠足、終了間際に雨が降り出し、年長組の母子は当然のように傘を差しているのに、雅子はぼーっとしたまま傘を差すこともせず、おかげで周囲にいる同じさくら組(年中組)の母子は遠慮して傘を差すことができず濡れるがままだった事件【シート】

◾ 赤十字大会をブッチしておきながら、テニスに興じる事件

◾ [OWD|伝染性疾患を患ったばかりの病み上がりの娘を連れて、ホテル貸切ランチ]]事件

◾ 2006年6月16日香淳皇后の例祭を欠席]した翌日、メトロポリタンオペラの「椿姫」を“体調に配慮して”第2幕から鑑賞]、「椿姫」一番の聴き所である第1幕乾杯の歌なんて関係ない事件


オランダ静養計画ぶち上げ作戦実行

◾ 沖縄戦終結日にオランダ静養行くぞと発表事件

◾ オランダ静養に出かけるその前月にも那須と葉山(予定、その後中止に)両御用邸静養てんこ盛り事件

◾ 両陛下と円満仲良し演出のため葉山静養合流をゴリ押しするも断られ、雅子が顔色を変えプイッと横を向く、ブリザードのホタル鑑賞会事件

◾ 那須静養、駅前で皇太子に足蹴して指図事件

◾ 那須からの帰り、4歳にしては大柄すぎるアイボを駅弁抱っこ事件

◾ オランダ出発の空港にて関係者による見送り時、足元くねくね愛子を全く制しない]事件

◾ オランダ王室馬車庫にて、日本ではお目にかかれない程の呵呵大笑]事件

◾ オランダで徳仁雅子の乗った車が時速130kmでぶっ飛ばす事件≪週刊文春2008/6/12号 雅子さま再び囁かれるご病状 ご成婚十五年小誌が掴んで書かなかった全情報≫

◾ 愛子をハーグ在住の小和田両親に預け、夫婦で静養満喫事件

◾ 2006年8月22日、「ブルヘルス動物園」で遊んだあと、近くのレストランが立食パーティを企画準備したが、東宮一家三人はトイレを利用しただけでそのまま出口に。レストランスタッフたちに何の挨拶も無し事件→【オランダ静養】

◾ 2006年8月25日、オランダの誇りであるマウリッツハイス美術館で、ベアトリクス女王の案内にて絵画鑑賞するも、なんと僅か15分で予定切り上げ事件→【オランダ静養】

◾ 2006年8月27日、こともあろうにオランダ女王の所有ヨットによるセーリングを雅子愛子ドタキャン事件

◆『WiLL』2006年11月号、雅子のオランダ女王ヨットクルーズドタキャンについて話し合うオランダ記者座談会記事]]

◾ オランダからの帰国映像がまったく出ず、一時所在不明?と思われた事件

◾ 情報管理ネタもみ消しのエキスパート[チーム大盛り]]就任事件

 

■第9期−秋篠宮家悠仁親王殿下ご誕生後−■

◾ 親王殿下が誕生した秋篠宮家に対し、正式な誕生祝コメント出さずじまい事件→【いとこ】

◾ 両陛下お見舞い当日には一家で大相撲観戦、国技館貴賓席での愛子鼻くそほじりを全く止めなかった]事件

◾ 東宮一家による愛育病院お見舞い、口の周りを涎のようなもので濡らした愛子]を拭いてやることもせず、背中に隠れようと行儀の悪い振る舞い]をした挙句にはチャッキーよろしく表情を歪めて「やめろよ」とか何とか不快感を表す罵声を吐く愛子についても笑ってごまかすだけ事件

◾ 2006年9月24日母方祖父で水俣病原因企業チッソ元社長江頭豊が死去、25日実祖父の弔問に皇太子と内親王をやっぱり連れて行っちゃったよ]事件

◾ 2006年9月27日実祖父の葬儀にも皇太子連れて行っちゃったよ]事件 しかもこの日の空は大荒れで雷鳴も轟いていた。

◾ 2006年9月30日(土)、祖父が亡くなって一週間も経たないのに超トッププロテニスプレイヤー、ロジャー・フェデラーを私的に東宮御所に招き夫とテニスするのを見物、フェデラー氏自身がブログで証言]事件

◾ 両陛下に喪中挨拶参内する車中でもお手振りしちゃったよ]事件→【左手】

◾ 愛子は見学するだけの学習院初等科運動会、雅子と愛子の登校光景をマスコミ呼んでロケ撮影させた事件

◾ 2006年11月1日赤道ギニア大統領夫妻との接見懇談、途中から幼稚園児の愛子も同席させるという、とてもじゃないが「元外交官」とは思われない非常識事件


着袴の儀関連

【着袴の儀】項目ページも参照されたい。

◾ 宮中装束を製作している高田装束研究所HP業績ページから、愛子誕生時「平成13年敬宮愛子内親王殿下御儀式御装束調進」記載が、浩宮〜秋篠宮佳子内親王御儀式御装束調進記録もろとも全削除されるガクガクブルブル 恐怖事件→【宮中着袴の儀御儀服調進の記載削除】

◾ マスコミ提供された着付けの映像はリハーサル=習礼時のもの]、しかも着付けを担当したのは普段接している養育係ハクションさん]と福迫女史]だった事件

◾ 当日映像は様式に疑問の残る装束]で、車寄せに出てきたところだけしか撮らせなかった事件。よって本当に宮中三殿に拝礼したのかは不明事件

◾ 着袴の“疑”を境に、従来天皇皇后両陛下が折々の公式記者会見で口にしていた「敬宮(としのみや)」が全く使われなくなり、代わりに「愛子」としか呼んでもらえなくなる事件
→【敬宮愛子ちゃん】参照


■第10期−愛子着袴の儀以降−■

◾ 愛子5歳誕生日写真、2頭のポニーまでレンタルしてかなり時間を掛けて撮影したと思われる事件(保管庫03参照)

◾ 愛子と、眞子殿下佳子殿下シスターズが和やかにすごろく遊びをしているのに、雅子が眞子内親王殿下の後ろからニュッと手を伸ばしサイコロを奪い取る]事件

◾ 新年一般参賀、もはやお馴染みになりつつある隣の常陸宮殿下へ喋りかけ、業を煮やした華子妃に一喝されようやく黙る事件

◾ 三年ぶりに勤労奉仕団へのご会釈再開事件。ただし高校生限定一年一回こっきりの模様。

◾ H19歌会始「月見たしといふ幼な子の手をとりて出でたる庭に月あかくさす」、一首に「月」を2回用い、不吉の象徴「赤い月」を詠んじゃったよ事件 宮内庁公式情報

◾ H19皇太子47歳誕生日、主役でもないのに真ん中の席を陣取る短いスカート丈で膝小僧丸出し43歳]事件

◾ 皇太子が十二指腸ポリープ摘出手術で入院、食事制限がある夫の見舞いでこってり洋食の出前を頼み舌鼓を打つ「出前療法」事件

◾ 那須御用邸静養からの帰り、またまた5歳半過ぎの愛子を太腿露に駅弁抱っこ事件

◾ 徳島県での国民文化祭式典臨席、徳仁スピーチ時に気味悪いほど目玉をぐるぐる動かす]事件

◾ 『[[ミシュラン東京2008』が発売、その1ヵ月後早速三ツ星レストランロオジエにお出まし事件

◾ 長野県小布施町で年甲斐もなく白いふわふわ帽子をかぶり予定外のレストラン等も視察、その翌日肝心の冬季国体競技観戦をドタキャン事件

◾ 同じく長野県小布施町散策視察中に車内で雅子がアッカンベー事件

◾ H20皇太子48歳誕生日、スカート丈は長めにしたものの、またまた主役でもないのに真ん中の席を陣取る]事件

◾ 平成20年(2008年)2月23日徳仁誕生日公表の一家映像で「スティッキー」遊びをしている場面を撮影、その最中に娘愛子が棒を股間にグッサグッサ挿し入れしたり更には棒を股間に押し当てたりしているのに、すぐ隣にいる母雅子がそれを窘めるどころかそのまま映像を全世界公開させてしまう事件


参考動画:日テレにこにこアルバム映像] / 問題の愛子股間に棒グサグサ場面gif動画]

◾ 宮内庁幹部に飲み会で“雅子妃は、警護官を選り好みして困る”と愚痴をこぼさせるほどに、何が基準かは不明だが警護官の好みにやたらうるさい事件【私は病気ではありません】

◾ とにかく治療の一環を盾に、公務を休みまくったり外食したり遊びまくったりしているくせに、東宮職に向かって「私は病気ではありません」と言い放つ、マジで頭のビョーキじゃないか?事件

◾ 娘愛子が通っていた学習院幼稚園の園長先生(小山久子氏)を、卒園と同時に引き抜いて愛子養育専門女官として超異例の雇用をしてしまうわ、初等科進学に当たって愛子担任予定だった男性社会科教諭から女性国語教諭に変えろと我侭放題「雅子マター」事件

◾ 愛子が通う学習院初等科の朝礼を何故か雅子が木陰から監視していて、当然のことだが警備でものものしくなってしまう「学習院は雅子さまが監視しています」事件≪女性自身2008/7/10号≫

◾ 2008年6月23日午後に予定されていた定期健康診断を、なんと「体調不良」理由で欠席事件

◾ 東宮一家が外食に出かけようと出発支度、しかし雅子だけが一向に現れず、徳仁と愛子を玄関で1時間以上待たせることに。その間、雅子の夫徳仁はただ娘愛子と遊んで待っているだけで妻雅子を呼びに行こうとも何もしない「遠慮」というか仮面夫婦状態、部屋の中でいったい何をしていたんだ?事件


『サンデー毎日』2008年11月2日号<療養生活まる5年 孤独なプリンセス 午前零時に散歩する雅子さま>記事
p.149より引用

 ある日、ご一家で外食をする予定があった。東宮御所から車で出かけるため、出発時間の少し前に、皇太子さまと愛子さまが玄関に姿を見せた。
 ところが、雅子さまはいっこうに来ない。10分、20分、30分……結局、雅子さまは1時間以上遅れて姿を見せた。その間、皇太子さまは玄関で愛子さまと遊んだり、話をしたりしてずっと待っていたというのだ。
「普通だったら様子を見に行きますよね。だが、皇太子さまはそうはなさらない。玄関でずっとお待ちになっているだけでした。遠慮されているのでしょうか? 雅子さまはお部屋にいるので、どうされているのかもわからないのです。もちろん、女官も中に入ることはしませんから」(前出・宮内庁関係者)

◾ 2008年8月からの東宮御所改修で天皇陛下が使用されていた机を粗大ゴミとして廃棄しようとして、秋篠宮家に引き取られる事件≪選択2014年1月号≫→【ベビーベッド】

◾ 2009年3月5日WBC開幕戦を同日シリーズで元気に観戦、5回までの予定が再三「もう1イニング」と延長希望]で予定時間オーバー、更に「(先発を務めた)ダルビッシュ投手にも会いたい]」とまるでホスト扱いご指名事件

◾ 2009年5月2日那須御料牧場静養へ前月25日から飼い始めたばっかりの生後2ヶ月の仔犬「ゆり」を抱いてお出まし、免疫系も出来上がってない仔犬を長距離移動させ大勢の人前へ連れ出す非常識犬飼い事件

◾ 2009年8月14日 那須御用邸への移動ワゴン車にて、国民を見下すようなお犬様お手振り事件

◾ 学習院幼稚園園長だったのを定年退職と同時に愛子養育専門女官としてゴリ押し雇用した小山久子氏について、その僅か1年3ヵ月後にはニュースキン・マルチ商法疑惑をなすりつけ「東宮にいる方とは思えない」「他の省庁なら大変な問題になっているはず」「あの人に愛ちゃんを預けなければならないなんて」「まだ何も片付いてない」「東宮の職員がそんなことをするなんて」「誰を信用して良いのか」「愛ちゃんがすごく懐いているんだけど、やっぱり愛ちゃんのことを考えると辞めてもらうしかないわよね」といったとんでもない噂を雅子自らばら撒いて追い出し画策する事件

◾ 平成21年(2009年)11月25日、東宮御所にて東宮夫妻主催で開かれた「天皇陛下在位20年・天皇皇后両陛下ご成婚50年」の内祝夕食会にて、集まった皇族旧皇族親戚ら一同の前で「私は殿下とともに、皇室に新しいぬくもりを投じてみたい。そして、日本の伝統を意識しながら、愛子の人生生活を守りたいと思っています」とおかしな日本語で宣言事件

ソース:『女性セブン』2009年12月24日号<紀子さま「学習院拒否」と雅子さま「新しいぬくもり教育」宣言>

◾ 平成21年(2009年)12月13日、徳仁も出演した学習院大学OB管弦楽団定演(天皇陛下即位20年・両陛下ご成婚50年祝賀記念演奏会でもある)を天皇皇后両陛下と雅子が鑑賞、その退場の際、おつきの人間がいるというのに雅子が自分のひざかけをあろうことか皇后陛下に渡してしまうという、皇后陛下を従者扱い事件

◾ 平成21年(2009年)12月13日、同上学習院大学OB管弦楽団定演のレセプションに両陛下と雅子が出席予定だったが、雅子は参加せず両陛下より先に帰ってしまう事件


『AERAアエラ』2010年1月4・11日号<東宮職医師団の見解発表は二転三転 陛下が触れない雅子さまの病状>pp.21-22より引用

 その少し前の13日、学習院OB管弦楽団による天皇陛下の即位20年、両陛下のご成婚50年を祝う記念演奏会があった。ビオラ奏者である皇太子さまの演奏を、両陛下が鑑賞した。その隣には雅子さま。皇后さまと雅子さまはしきりに言葉を交わしていたが、雅子さまの行動にはやはり、ぎこちなさが見られたという。
 当日、客席にいた人はこう証言する。
「両陛下も雅子さまも退場されるときだったのですが、おつきの方に渡されていた黒いひざかけを雅子さまが帰り際の皇后さまに手渡したんです。本来ならばおつきの方に渡すはずなのですが……。皇后さまはそっと、おつきの方に返していらっしゃいました。雅子さまは過度に緊張なさっているご様子でした」
 この日、報道陣に告げられた予定では当初、雅子さまも演奏終了後のレセプションに出席とあったが、雅子さまは参加せず、両陛下より先に帰ったという。
補足:「おつきの方に渡されていた黒いひざかけ」は「おつきの方から渡されていた黒いひざかけ」とした方がより分かり易いだろう。

◾ 平成21年(2009年)12月19日、横浜こどもの国にご一家勢ぞろい(愛子のみ風邪気味理由で欠席)、カメラ映りを狙ったのか悠仁殿下のすぐ近くの場所をキープする雅子、その中で一瞬気が緩んで素が出たのか、とんでもなく恐ろしい表情で足元にいる悠仁殿下に冷たい視線をやる]事件

参考:日テレにこにこアルバム](2:30からの悠仁殿下と雅子の位置関係、カメラがパンしてズームアップで雅子の表情変化を捉える一連のカットに注目)

◾ 平成21年(2009年)12月19日、横浜こどもの国にてカメラ映りを狙ったのか悠仁殿下にくっついて仔牛の餌やり]をするのだが、ツボにはまったのか両陛下・秋篠宮ご一家・黒田ご夫妻が次に移動されてもただ一人餌をやり続け置いてけぼり]になる事件

◾ 平成22年(2010年)8月12日、東宮御所庭に外部業者を呼んで愛子同級生らと夏祭り、ライトアップもない暗闇でスイカ割りをしたり、子供メインのくせに夜22時まで続けるという祭りのやり方すら非常識事件

◾ 2010年9月1日那須静養から帰京する那須塩原駅前にて、娘愛子がワンボックスカーの陰に隠れ出てこない“雲隠れ”]、なだめすかすだけでろくすっぽ窘めようとしない事件
→【チィーッス】参照

◾ 2010年12月7日学習院初等科3年生のかまぼこ工場社会科見学に雅子同行、本来愛子は同級生らとバス移動予定だったのを、いきなり雅子とワゴン車移動に変更させるなど警備計画に影響与えまくり迷惑かけまくり挙句宮内庁HPで言い訳事件
→【かまぼこ事件】参照

◾ 2011年2月11-12日天皇陛下心機能再検査で東大病院入院、その12日に雅子ら一行は江戸川区スポーツランドで東宮一家スケートお楽しみ≪週刊朝日2/25号・週刊女性3/1号・週刊新潮2/24号]≫ スケートリンク含め全館10:00-13:00予約]「−お知らせ−2/12(土)は全館貸し切りの為13:00からの営業となります。」≪江戸川区スポーツランドHP]≫、お遊びはいつだって皆勤賞な事件


■第11期−東日本大震災以降−■

◾ 2011年4月6日東日本大震災避難所味の素スタジアム訪問、被災者漁師さんの「漁師は陸に上がるとかっぱになっちまうんです(=船が無いと全く仕事にならない、無力な状態だ)」という言葉に大笑い事件

東日本大震災避難所東宮夫妻訪問。被災者である漁師さんの「漁師は陸に上がるとかっぱになっちまうんですという言葉にご夫妻は大爆笑(原文ママ)≪週刊朝日2011/4/22号≫

参考連結キャプチャ画像:2011年4月6日 スーパーJチャンネル、津波で船を流された被災者漁師さんの「仕事がなくなると陸のカッパ状態です」の言葉に、大笑いの表情を見せる雅子
            2011年4月7日 モーニングバードでも同じく「陸のカッパ」に笑う雅子の姿を放映、3枚目のひどい表情に注目。]

◾ 2011年4月11日東日本大震災発生から1ヶ月となるこの日、東宮御所に愛子同級生を招き、午前11時〜夜7時近くまでお楽しみパーティー開催、「皇太子殿下はビデオカメラを、雅子さまは小さなカメラをそれぞれお持ちになり、子供たちの様子を常に撮影していました」事件
→【東日本大震災】参照

◾ 2011年9月14-16日学習院初等科4年生の山中湖2泊3日校外学習にまで雅子同行、「皇太子妃雅子さまも付き添いのため、別の車で山中湖に向かわれた。」≪産経新聞9/14]≫、「雅子さまも同じホテルに泊まり2泊3日の間、愛子さまを見守り続けるという。」「雅子さまは愛子さまが行く先々にすべて赴き、活動を見守るという。」≪毎日新聞9/14]≫、見事なまでのモンスターマザー事件
→【山中湖事件】参照

◾ 敬宮愛子ちゃんが発熱・咳の症状のため2011年11月1-5日東大医学部病院入院、連日泊まり込みの雅子は同病院内の精養軒に出前注文「出前療法アゲイン」事件

◾ 天皇陛下が2011年11月6-24日東大医学部病院ご入院、徳仁は10日夜お見舞いに出向くも、雅子は同日夕発熱と咳が出たとの理由で欠席]、結局最後までお見舞いに出向かず事件

◾ 2014年6月26日(木)愛子が学習院女子中等科に入って初めての保護者参観日、徳仁雅子二人揃って1時間目から5時間目までフル参観という、体力と暇ありすぎ事件


朝日新聞記者・中田絢子氏ツイッターより

中田 絢子‏@ayako_nkd
また、26日は愛子さまが中等科に進学してから初めての授業参観があり、皇太子ご夫妻も参加。1〜5限まで英語、音楽、理科、国語、古文の授業を参観されたそうです。ご夫妻は愛子さまが授業を熱心に聞き、お友だちと楽しそうに過ごされている様子を喜ばれたそうです。
3:22 - 2014年6月27日

◾ 2014年9月28日 日本臨床獣医学フォーラムJBVP年次大会2014に雅子が徳仁を伴い私的参加。後日JBVP公式HPにて石田会長が「皇太子殿下ご夫妻におかれましてはご多忙中,動物のご家族としてのカジュアルなご参加を頂き,心から御礼申し上げます.」と記す事件

◾ 2014年10月29日オランダ国王王妃夫妻のための宮中晩餐会というこれ以上ない最高にフォーマルな場面で「第一ティアラ」をかぶってこない事件

◾ 2014年10月29日オランダ国王王妃夫妻のための宮中晩餐会に雅子が着用してお出ましした「第二ティアラ(もちろん材質はプラチナのはず)」、それが海外ニュースサイトで「The princess, in a silky white formal dress and a silver tiara」と報じられる事件

◾2016年6月21日岩手県宮古市田老地区視察、一度見るだけでも耐えられないという人が少なくない「たろう観光ホテル」松本勇毅社長が撮影した津波映像DVD上映に「もう一度見せてください」お代わり所望「おーおー」事件

http://news.tvi.jp/index_78916483.html(魚拓記録)

皇太子ご夫妻が宮古・田老へ  (06/21 19:12)
岩手を訪問されている皇太子ご夫妻は宮古市で復興状況や震災遺構を視察された。震災から5年3か月余。お二人のあたたかなまなざしと交流は、被災者の励みになった。皇太子さまと雅子さまは、はじめに二重の防潮堤を越えてきた津波で大きな被害を受けた宮古市田老地区で防潮堤の上から復興の現状等を視察された。そして、近くにある震災遺構の「たろう観光ホテル」で、被災の状況について説明を受けられた。ホテルの6階から撮影された津波の映像を、雅子さまは「もう一度みたい」と要望され、2度繰り返してご覧になったという。「たろう観光ホテル」松本勇毅社長:「(ご夫妻は)『おー』と声を発していたので、津波が考えていたものと全然違うものだったのかと思った」また、宮古市の浄土ヶ浜ビジターセンターでは、皇太子ご夫妻が災害公営住宅に住む被災者と懇談され た。ご夫妻は、「大変だったね」、「お体をお大事に」等と声をかけられ、被災者の一人が「震災当時、小学生だった子どもが、ことし高校に入学した。愛子さまより一つ上だ」と話すと、笑顔を見せられた。高台移転先の三王団地で住民と懇談された後、夕方の新幹線で岩手を離れた皇太子さまと雅子さま。震災後3度目となるお二人の岩手のご訪問は、復興へと歩む被災地に明るく温かな光を灯した。

http://www.asahi.com/articles/ASJ6P4QJTJ6PUJUB00F.html

岩手)皇太子ご夫妻、宮古市田老で被災ホテル見学
阿部浩明2016年6月22日03時00分

高台移転団地の「三王団地」で住宅再建した住民と懇談される皇太子さまと雅子さま=宮古市田老(代表撮影)
 被災地視察のため岩手県入りしていた皇太子ご夫妻は21日、宮古市で最も被害が大きかった田老地区を訪れ、防潮堤の上から復旧が進む市街地の様子などを見学した。
 被災当時の姿で保存されている震災遺構「たろう観光ホテル」では、松本勇毅社長が撮った津波映像を目の前の実際の風景と重ねながら視聴。しぶきを上げて襲ってくる津波の威力に驚き、1回の予定だったDVD上映を「もう一度見せてください」と求めた。
 松本社長は「津波の恐ろしさを伝えることで、迅速に逃げる行動につながってほしい」と説明した。
残り:199文字/全文:442文字

http://www.youtube.com/watch?v=vP9PxRP7MVc
http://www.fnn-news.com/localtime/iwate/detail.html?id=FNNL00038362(WebArchive記録)

皇太子ご夫妻、宮古市ご訪問 被災者と懇談される(岩手16/06/21)
20日、岩手県内入りされた皇太子ご夫妻は、21日は、東日本大震災で被災した宮古市を視察された。田老地区の防潮堤では、黙とうをささげられたほか、被災者に、お言葉をかけられた。
20日夜、宮古市内のホテルに宿泊した皇太子ご夫妻は、午前9時30分ごろ、田老地区の防潮堤を視察された。

ご夫妻は、津波で亡くなった人たちへの哀悼の意を込め、海に向かって深々と頭を下げ、犠牲者に、黙とうをささげられた。
このあとご夫妻は、震災遺構となっている、たろう観光ホテルを見学された。
津波で、ホテルの4階まで浸水したことなどの説明を受けられたほか、たろう観光ホテルの松本勇毅社長が撮影した津波の映像をご覧になった。
映像を流したあと、雅子さまが「もう一度見せてください」と話し、2回にわたって、ご覧になったという。
松本社長は「『お―おー』と声を出されていたので、津波のすごさや勢いを感じられたのだと思う」と話した。
その後、浄土ヶ浜ビジターセンターに向かい、仮設住宅などで暮らす被災者と懇談された。
ご夫妻は、腰をかがめて、いすに座る被災者と同じ目の高さで話された。
懇談した人は、「『大変だった』ということで言われましたので、『1歩ずつ1歩ずつ、前を向いていくしかない』と答えた」、「わざわざ遠いところまでいらしていただいて、その分も、みんなで復興のために頑張っていこうと、あらためて思う」などと話した。
午後には、防災集団移転事業で高台に整備された三王団地も視察され、住民を慰労された。
そして、皇太子ご夫妻は21日午後、JR盛岡駅で新幹線に乗り、岩手をあとにされた。 (6/21 21:14) 岩手めんこいテレビ

◾ 2017年10月8日 来日したデンマークのフレデリック王太子・メアリー妃を宿泊先ホテル出迎え、ドタ出で張り切る雅子が記念撮影時にフレデリック王太子に背と腰をいきなり摺り寄せ「尻ドン」状態で突き飛ばす事件

2017年10月8日 デンマークのフレデリック王太子・メアリー妃と徳仁雅子で4ショット記念撮影、途中雅子がフレデリック王太子に尻ドン状態で背と腰を密着させる接近ぶりで、即座にフレデリック王太子がどんと押しのけられたような格好で距離をとる反応を見せるgif動画(TBS)

2017年10月8日 デンマークのフレデリック王太子・メアリー妃と徳仁雅子で4ショット記念撮影、途中雅子がフレデリック王太子に尻ドン状態で背と腰を密着させる接近ぶりで、即座にフレデリック王太子がどんと押しのけられたような格好で距離をとる反応を見せるgif動画(ANN)

2017年10月8日 デンマークのフレデリック王太子・メアリー妃と徳仁雅子で4ショット記念撮影、途中雅子がフレデリック王太子に尻ドン状態で背と腰を密着させる接近ぶりで、即座にフレデリック王太子がどんと押しのけられたような格好で距離をとる反応を見せるgif動画(FNN)

参考動画:デンマーク皇太子夫妻来日、皇太子ご夫妻が出迎えられる 8日 13時29分 
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3178892.html (数日で消去)

参考動画:皇太子ご夫妻、デンマーク皇太子夫妻をお出迎え 10/09 09:43 
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00372839.html

参考Youtube:皇太子ご夫妻 来日のデンマーク皇太子夫妻を歓迎(2017/10/09 05:56) ANNNEWS 
https://www.youtube.com/watch?v=GA5GDQEcv4Q&feature=youtu.be&t=35

参考Youtube:Kronprinsesse Mary og kronprins Frederik blev modtaget af Naruhito og Masako i Japan BILLED-BLADET 
https://www.youtube.com/watch?v=ZmR_zxsRY50&feature=youtu.be&t=31


時期不明、あるいは常時

◾ 雅子のお召し物当たり屋シリーズ事件

◾ 予定時間オーバー事件

◾ 宅配ピザお届け事件

◾ 和歌おへたくそ事件

◾ 通訳入れず喋りすぎ何を喋ったか宮内庁把握できず事件

◾ 雅子は朝寝、皇太子の朝食は犬のようにおあずけ事件→【食卓】

◾ 妃殿下たちの集まりで、突然「立ち聞きされていると」言って部屋を出て行ってしまってみんな遠巻きに見るしかなかったっていう事件

◾ 目黒駅近郊の動物病院にてフランス語衒学事件(「可愛い猫ちゃんね、何てお名前?、私のワンちゃん、ショコラよ」[1])

◾ 北米二課の同僚に「ネズミに似てる」。同僚が髪を切ってきたら今度は「うちのショコラに似てる」。]担任の先生に対しても「首の辺りがジャミラに似てる」しかも授業中の教室で。昔から他人に変なあだ名ばかりつける失言連発事件

◾ 日本人のなんとか学会会長に尻を向けて白人のおっさんと満面の笑顔で話しこんでいたよ事件

◾ (宮内庁の人の話)雅子さんはお支度が遅くいつも天皇陛下を待たせて皇后陛下が怒られた事件

◾ 終戦記念日にどこかにしけこんじゃった事件

◾ 皇太子夫妻が宿泊したホテルの人から直接聞いたんだけど、雅子さんは自室で皇太子を叱りつけていた(というか小言を言っていた)そうな。事件

◾ 地方公務のとき、控え室に入るとムッツリ不機嫌に黙り込んでお茶を出してもお礼一つ言わない(紀子妃殿下はにこやかに労ってくれたのに)事件

◾ 皇室では子供をチャイルドシートに座らせなくていいんだ事件

◾ 皇太子の会見文書等を影で執筆疑惑事件

◾ 親友の「結婚後はそれまでになく優しい顔に」証言から、元々気が弱くおっとりしたマサコ様というのは大嘘だったとバレバレ事件

◾ 友達談「雅子様は仕事だけじゃなく幸せな家庭を築きたいと言っていた」から、最近の友達談「雅子様はもともと仕事一筋でもいいと言っていた」に変化、証言が一貫しない事件

◾ ウイスキーボンボンの外側だけ齧って中身を吐き出す下品な食べ方事件

番外編・小和田恒・小和田優美子

【しょっちゅう会ってるシリーズ】も参照されたい。

◾ 優美子様も、雅子オックスフォード留学前にふんどし発言事件

◾ 総領娘が16歳になって初めて着物を着せる事件(日本に帰国しているのにまともに七五三やってない疑惑)→【新弟子検査】

◾ 閣下「(皇太子には)娘以外の人に興味を持って欲しい」「立場が立場だけに、断るのが難しい」発言事件

◾ 小和田閣下が「雅子は外交官に向いてないから皇太子妃になったほうがいい」と天皇家を軽視発言事件

◾ 娘が婚約内定発表された優美子様、反動物愛護精神の表れなのか毛皮コートで登場]事件

◾ 婚約発表&両陛下にご挨拶の当日、福田康夫の妻・喜代子夫人所有のものと同じ「福帯」を優美子様が締めてご登場事件

◾ 納采の儀当日、雅子に贈られた真珠の指輪を優美子様が路上で品定め]事件

◾ 金箔箪笥事件にて、優美子様TV生番組に対し直々にクレーム電話事件

◾ 「小和田雅子さんは気が強いから」とTV番組で皇室ジャーナリストに評され、母方祖母江頭寿々子がこれまた直々にクレーム電話事件

◾ 優美子様、娘が皇太子妃候補に上がったときに「あの娘はそんなタイプじゃない」発言

◾ 恒が某大使時代にフランス中のミシュラン1つ星以上の レストランを全て公費で試食事件 2ch書き込み

◾ 東宮への献上品に優美子が礼状を出す事件(献上品ガメ疑惑)

◾ 優美子様、流産時の発言「(雅子)妃殿下がおかわいそう」事件

◾ 外務省外交機密費横領事件で事務次官は小和田パパ処分されず事件

◾ 優美子様が飛行機のファーストクラスでショコラ放し飼い事件

◾ 愛子誕生、記者会見の席で恒が肘掛に肘ついた格好で答える事件

◾ 両陛下差し置いて皇孫抱っこ事件

◾ 小和田宮優美子様欧州勘違いお見送り事件

◾ 紀子妃殿下の弟・川嶋舟氏の妻(当時は婚約者)を相馬馬追にかこつけて品定め事件

◾ 小和田恒が「ケンブリッジLL.M.時代、執筆した博士論文をトランクに入れて船便で一時帰国したところトランクが盗まれ、そのおかげで論文提出できなかった」とインタビューで言い訳たらたら事件→【小和田恒】、【学歴ロンダリング】

◾ 小和田家おせち事件


https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/Dos
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c30

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
13. 中川隆[-11771] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:45:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[210]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


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なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c13

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
35. 中川隆[-11770] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:45:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[211]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


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なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c35

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
31. 中川隆[-11769] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:46:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[212]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


1409285860



1238219266261


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c31

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
35. 中川隆[-11768] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:46:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[213]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


1409285860



1238219266261


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c35

[近代史3] 知恵遅れの皇太子の嫁にされた上に、皇族全員から陰湿な苛めに遭った美智子妃殿下は復讐の鬼と化した 中川隆
24. 中川隆[-11767] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:47:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[214]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


1409285860



1238219266261


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/118.html#c24

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
63. 中川隆[-11766] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:48:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[215]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

images (2)


『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


1409285860



1238219266261


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c63

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
184. 中川隆[-11765] koaQ7Jey 2019年3月01日 10:48:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[216]

2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。

この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."

「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」

“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。

『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>

pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg


現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。

このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

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『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


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なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)


今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c184

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
32. 中川隆[-11764] koaQ7Jey 2019年3月01日 11:00:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[217]

小和田優美子 Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia
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雅子夫人の実母、小和田優美子(昭和13年・1938年1月30日-)のこと。御一行様スレでは大抵「ババン」のあだ名で称されている。類義語に「小和田何様」「政府高官夫人」がある。←→【小和田恒】


(旧姓・江頭)小和田優美子画像・映像・記事集

[http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1330665569455.jpg

「母 優美子さんは田園調布雙葉2回生」の説明入り、恐らく高校の制服姿の江頭優美子(当時)]【伝蓋】

独身時代の江頭優美子、豹柄らしい服を着ている。当時の時代風潮を考えればとんでもない派手好み【アニマルプリント】

同級生?5名集合写真、後列向かって右に豹柄らしい服の江頭優美子全身像、田雙同級生・石黒絢子さん結婚披露宴に出席したものと推察される

1962年10月7日 ホテルオークラにて結婚式をあげる江頭優美子

媒酌人は初代フランス大使西村熊雄・とよ夫妻。フランス製総レースの非常に贅沢で豪華なウェディングドレス。デコルテ部分にぴたりと沿っている作りからも上質な特注品と分かる。チッソ社長・江頭豊の一人娘なので金には糸目をつけなかったものと推測。

1962年10月7日 ホテルオークラにて挙式した江頭優美子と小和田恒全身像。フランス製総レースの豪華ウェディングドレスを身につけた優美子

1964年1月1日 出産後初の正月、雅子を抱く母小和田優美子。掌を使って赤ん坊の体を支えるのでなく、組んだ腕の中に赤ん坊を入れているだけなのに注目。この杜撰な抱き方は雅子ら娘たちに遺伝しているのか、愛子誕生後の宮内庁病院退院光景でも見られることに【駅弁抱っこ】

1964年夏 生後6ヶ月頃の雅子の頭上で、何故か金魚鉢を持っている母優美子

1964年夏 長野県・軽井沢で生後8ヶ月ごろの雅子を抱く優美子。組んだ脚の上に雅子をまたがらせている
参考:2002年6月27日 まもなく生後8ヶ月になろうとする愛子を膝にまたがらせて座る雅子

1965年ごろ モスクワ赴任直前の小和田恒・優美子・雅子と、小和田毅夫・静の父方祖父母(前列両端)と江頭豊・寿々子の母方祖父母(後列)【小和田毅夫】

1965-6年頃? モスクワ駐在時代、湖上?でボートに乗る優美子・雅子親子連続画像
時期不明 モスクワ在住時代?白樺林を背景にした草原で撮影された優美子と雅子。自分のカメラ写りを気にする余り、雅子のパンツがずるずるになっているのもお構いなしの優美子

1966年7月7日 スイスのジュネーブにてお気に入りの茶色ウサギぬいぐるみ「よしこちゃん」を手にしている雅子と母優美子。この翌日双子妹礼子・節子が誕生【礼節姉妹】

1966年夏頃と思われる、街中で浴衣を着て歩いている雅子キャプチャ連結画像。優美子夫人の友人・柏谷公子さんのコメントつき「(優美子さんは)日本の文化とか習慣をすごく大切にしていらっしゃいましたね。礼儀作法とか。例えば豆まき、雛祭り、七夕、お月見などをちゃんとやっていらっしゃいました」

1967年8月 「モスクワ郊外の公園で妹たちの食事を手伝う」雅子とのことだが、二人の妹の口元がゲロかと見紛う悲惨な状態。足元・敷物の上にも食べ物が散らばり、態々マスコミ提供し公表することを決定した小和田家の感性が疑われてならない写真
(↑はグロ画像レベルなので耐性がない人は閲覧注意のこと。北海道新聞社発行『平成の祝典』結婚記念写真集に掲載。撮影者は母優美子と推察される)

モスクワの動物園か?優美子と雅子、そしてラクダ
雅子の落ち着きなく動き回る様子が印象的。「よく動かれましたので、お世話する方としては目が離せなくて大変だなあと思っておりました」と語るベビーシッター井上道子さんの証言あり。

1969年1月 NYで正月を迎えた小和田家、ソファに勢ぞろいで記念写真。左からスーツネクタイ姿の小和田恒・雅子・珍しく着物姿の優美子・礼子節子・お手伝いの井上道子さん

1969年 ニューヨーク郊外のモホンク湖へ小和田一家&お手伝いさんとピクニック。サングラス着用で自分のカメラ写り優先、パンツが見えてる雅子の座り方を注意せずその写真をマスコミ提供する優美子

1969年5月3日 在米時代のアパートに訪ねてきた母方祖父母江頭豊・寿々子夫妻と一緒に記念撮影。3児の母でありながら頭に大きなリボンをつけている優美子に注目【チッソ】

1969年7月 グランドキャニオン観光の優美子・雅子・礼子・節子の記念写真

1969年? ニューヨークの噴水まわりで水遊びをする水着姿の雅子。左上に優美子のミニスカート姿あり

1970年8月 スイスのレマン湖畔にて、母優美子お手製の丈足らずワンピース姿で水鳥に餌をやる雅子。妹もお揃いの洋服

1970年夏 NY郊外の海岸にて、水着姿の小和田優美子・雅子・礼節双子

1970年12月9日 当時はNY在住、地元公立小学校に通っていたが日本人の友達ばかりが集まった雅子7歳誕生日パーティー、何故か一緒にポーズをとって写真に収まるカメラ目線の優美子
この時優美子の腰のあたりに、赤い髪飾りをつけた頭だけが見えているのは、礼子ではないかと推測される。翌年秋帰国後の礼子・節子のいわゆる七五三写真で、礼子が付けている髪飾りは、おそらくこの時と同一のものである。

1971年12月9日 この画像では「妹たちの七五三で記念撮影(1971年=昭和46年11月)」と説明が入っているが、実は12月9日雅子8歳誕生日に撮影されたという、神社の前の母優美子と雅子と双子妹礼子節子。雅子はおめかし風の白黒柄ワンピース、妹たちはお揃いのパンタロンスーツで千歳飴の長い袋を手にしている。雅子誕生日と礼節七五三をまとめて祝ったのか? なおこの時点で1966年7月生まれの礼節は5歳。女児は3歳と7歳に祝いをするため頓珍漢なことになっている。
上画像撮影日について、例えば『皇太子さまと雅子さん(ご婚約記念写真集/朝日新聞社)』p.74では「8歳の誕生日に妹たちと。ちょっぴりおしゃまに(日付は1971.12.9)」と記載、その他書籍にも同様の記述あり。

1971年12月9日 同じく神社前で撮影された、千歳飴の袋を手にしている礼子節子と、雅子と母優美子。画像の説明文「'71年12月9日、8歳の誕生日。帰国後公立小学校を経て'72年から私立田園調布雙葉小学校に編入。小学校時代はピアノを習っていた。」 / 当画像と説明文を掲載しているグラビア記事(Part2099-470奥様ご紹介)

1976年4月 雅子が田園調布雙葉学園中学校に入学した当時の家族写真。雅子と優美子、礼子(?)

1976年7月 長野県白馬岳に登山する小和田一家

参考ようつべ:19930609皇太子さまと雅子さまの歩み 
http://www.youtube.com/watch?v=olw3clvre78#t=2m45s  2:46〜

徳仁雅子二人の二人の幼少期〜大学入学までの映像紹介、雅子幼少期の映像に散見する母優美子の子育てぶり

1978年 世田谷のソフトボール大会で優勝、カップを手にしている雅子とチームメイト【ソフトボール部】

このソフトボール部の合宿で雅子は他の部員と対立、ふて腐れて帰る事件発生。優美子がアイスクリームを持参して謝罪に訪れ、決着を図る。

1979年9月 同上ボストンの公園にてピクニックの小和田一家とお手伝いさんの皆川薫さん。父親よりも男らしい座り方で物を食べる雅子。奥で雅子の正面に座って注意もしない優美子の躾け感覚が疑われる【胡坐寿司】

1980年頃? ボストン時代、母親優美子の誕生日を祝う雅子・礼子・節子三姉妹とお手伝いの皆川薫さん。手袋と鳥の置物がプレゼントと思われる

1981年6月 ベルモントハイスクール卒業、白角帽に白マント姿(1ドルの貸衣装)ではちれそうにパンパンな真ん丸顔の雅子。小和田一家との写真や、卒業アルバム写真も

1985年6月 小和田雅子ハーバード大学卒業。何故か場の主役である卒業生よりも目立とう精神が感じられる母優美子

1986年 江頭豊・寿々子夫妻の金婚式を揃って祝う小和田一家

1988年2月18日 OECD大使としてパリに赴任する小和田恒が優美子と東宮御所へ挨拶に、その車に途中まで乗せてもらう雅子。路上にてカメラに気づいた様子でガンをとばしている表情(FRIDAY1988/3/11号)

1988年4月 成田空港、大量の荷物を手に成田空港へ向かう小和田優美子と礼子(説明では節子とあるが恐らく誤り)、口を折り曲げただけの紙袋を上下逆さに持っている礼子のガサツさに注目

1988年4月 成田空港の小和田優美子・礼子・節子母娘。写真説明ではジージャン上下が礼子で、赤ツーピースが節子ということになっているが、恐らく逆だと思われる

1988年12月 国費留学期間中、パリ在住していたOECD大使恒ら家族を訪ねる雅子。母優美子・妹礼子?とルーブル美術館前で

週刊SPA! 1989年10月25日号<「これだけは申しあげたい」小和田雅子さんの母が語る「娘は[お妃報道に涙したこともあります」>表紙・目次]

週刊SPA! 1989年10月25日号<小和田雅子さんの母親が語った「娘は“お妃報道”に涙したことも」 「お妃候補には関係していない」と、雅子さんに続き母親も“全面否定”>記事一部

皇太子殿下のお妃候補として、最有力とみられていた小和田雅子さん(25)が、「関係ありません」と自ら否定したことで、「お妃問題」は再び白紙状態に―。殿下の“意中の人”とまでいわれた雅子さんだったが、本誌の直撃取材に対し、雅子さんの母、優美子さん(51)も、同感した心中をのぞかせた。

1991年9月 ピアニスト・中村紘子氏の難民奨学生のためのチャリティーコンサート会場で、中村氏を囲む中にいる小和田雅子と母優美子

微笑 1992年1月11日号<皇太子妃か女性大使か 小和田雅子さん母告白「娘は過労死しそうです」>表紙

1992年12月12日 徳仁からのプロポーズを受け入れた当日、小和田家と親交の深い書家小川東洲個展鑑賞に出向く小和田恒・優美子・雅子【小川東洲】

1992年12月12日 同上小和田家と親交の深い書家小川東洲氏個展鑑賞後、中華料理店でターンテーブルを囲み、小川夫妻・小和田家両親と共に記念撮影する雅子。優美子雅子ともに椅子の背によりかかり不敵なポーズ

1993年1月8日 皇太子妃内定について話し合う皇室会議(同月19日)提出用に、帝国ホテル写真室へ撮影に出かける小和田雅子と、付き添いの母優美子
雅子の白コートはHERNOのカシミア100%で定価55万円、コートの下はこのおかげですっかり有名になったキミジマのピンクスーツ。 母優美子は世界中を席巻する動物愛護風潮の空気も読めないミンクの毛皮コート姿。

1993年1月8日 コンクリ御殿前に集まった大量のマスコミカメラの前を挨拶しながら通る小和田優美子・雅子母娘

1993年1月8日 コンクリ御殿前に集まった大量のマスコミカメラの前を挨拶しながら通る小和田優美子・雅子母娘(よみうり写真館)

1993年1月9日、肺炎を起こしたセキセイインコ(ピッピ)をなんと素のケージに入れたままで運ぶ優美子。小鳥飼育においては病気でない通常時ですら、隙間風や温度変化は禁物である

『週刊新潮』 1993年1月21日号<「皇太子妃内定」巷談(1)なぜ外人記者「スクープ」なのか (2)小和田さんを承諾させた皇太子の「条件」 (3)皇后ご両親に会わなかった昭和天皇>記事
pp.46-47より引用

 皇太子殿下と雅子さんの四年十ヶ月ぶりの再会は、昨年(=1992年)八月十六日、千代田区にあるその柳谷邸が舞台になった。
 そしてもう一人、この再会までを陰に日向に支えてきたと目されるのが、高円宮憲仁殿下である。
 七年前の出会いのときから、高円宮殿下の存在は知られてきたが、
「一昨年(=1991年)九月に東京芸術劇場で" target="_blank 中村紘子さんのチャリティーピアノ演奏会があったのですが、その打上げの席に、高円宮さまが雅子さんを連れてきていたのです」
 と消息通が明かす。
「皇太子さまに年齢も近い高円宮さまが、皇太子さまの意を汲んで雅子さんとの間をつないできたのでしょう。
 高円宮妃の久子さんと雅子さんの母親優美子さんも旧知の間柄という。

1993年1月19日 皇室会議が終了し、御所へのご挨拶に出発する小和田恒・優美子・雅子の三人と、玄関前に現れた双子妹礼子と節子。雅子優美子母娘のハイヤーへの下品な乗り込み方、お尻をどっすんどっすんさせる様に注目

参考ようつべ:19930119小和田邸ご出発 
http://www.youtube.com/watch?v=68hkFbRyk74

1993年1月19日 両陛下に婚約のご挨拶の小和田恒・優美子・雅子の三人

1993年1月19日 両陛下に婚約のご挨拶の小和田優美子と、右画像2002年2月福田貴代子(福田康夫夫人)との帯の比較【福帯】

1993年1月19日 なんと背中にまで「福」の文字が入っている優美子の帯

1993年1月19日 ご挨拶後金屏風の前で記者会見に答える小和田優美子と、右画像2002年2月福田貴代子(福田康夫夫人)との帯の比較

1993年1月19日 福帯を締めた優美子何様が上から目線で語る「私ども国民の手本になるような家庭を」【小和田何様】

1993年1月19日 金屏風の前で記者会見に答える小和田夫妻連結画像(午後3:35)、優美子の後ろ髪がぐちゃぐちゃ状態である

1993年1月19日 徳仁雅子婚約内定会見当日、金屏風前の小和田優美子アップ画像

1993年1月20日 皇太子・雅子婚約内定会見の翌日、各宮家へ挨拶まわりに出かける小和田夫妻
『FOCUSフォーカス』1993年1月29日号<皇太子妃で変わる「小和田家」父母妹の運命>表紙目次

『週刊女性』1993年2月2日号<雅子さん(29)殿下の一途愛愛の花束から5年 プロポーズを待っていた!>表紙グラビア

『週刊朝日』1993年1月29日号<母たちが明かすデンフタ伝説「先生の背中に紙を張った優美子さん」>記事【伝蓋】【いたずら】

『週刊新潮』1993年2月4日号<TEMPO「雅子妃の母」大騒動で「教授」就任できず>記事

1993年2月5日 小和田夫妻と雅子が上野の森美術館「MOMA展」へ。キミジマの黒リボンスーツに、クリスチャン・ディオールのブレスレット。雅子の横目使いと、熱く語る父・恒と母・優美子の表情に注目

1993年2月5日 上野の森美術館「MoMA ニューヨーク近代美術館展 1993TOKYO」鑑賞の小和田雅子と母優美子連結画像

『週刊女性』1993年2月?日号<皇太子さま雅子さま特集第2弾 正式ご婚約!/雅子流コートが大人気!/小和田家母娘回想録>表紙

1993年2月22日 母・優美子と“母校”田園調布雙葉学園を訪問した青色スーツの小和田雅子

1993年2月22日 同上母・優美子と“母校”田園調布雙葉学園を訪問、約800人の職員・在校生が出迎えた。花束を受けとり、大股歩きでふり向きながら手を振る雅子
比較:上:母校聖心女子学院を訪問する正田美智子嬢/下:母校伝蓋を訪れた雅子と母優美子【伝蓋】

『文藝春秋』 1993年3月号 小和田恒・優美子<娘・雅子が決意した日―両親が語る新皇太子妃の素顔その1>【樽ネズミ】
同上記事その2 / その3 / その4 / その5【指差し恫喝】/ その6 / その7 / その8

1993年3月 水戸の老人ホームに入居していた父方祖父母・小和田毅夫&静を見舞う雅子と優美子。雅子は皇室会議提出写真と同じキミジマスーツを着用【小和田毅夫】

1993年3月17日 浩宮誕生に携わった元宮内庁病院産婦人科医長・目崎鑛太氏が小和田家にご挨拶、犬(=ショコラ)を抱いたまま応対する優美子【ショコラ】

1993年3月21日 母優美子とともにバイエルン放送交響楽団演奏会へ、チェーンバッグがお揃いの母娘

1993年 雅子婚約時期、取材カメラマンに頼まれて調子に乗ってしまったか、小和田優美子が抱いた“ショコラがカメラマンに「バイバイ」。”(女性セブン1993/6/24号五十嵐美弥カメラマン記事より)

比較:ショコラ・ダールンぬいぐるみ・ゆりでお手振り優美子・雅子・愛子三代
1993年 ショコラかかりつけの動物病院獣医師が往診に来たか?(同年6/5参照、電灯が小和田コンクリ御殿にあるものと同じ)、とにかく嬉しそうな雅子と、不思議大胆ペイズリー柄衣装の母優美子【ショコラ】

1993年婚約時期と思われる川崎市の動物病院(アニマルメディカルセンター)でのショコラと雅子と優美子

1993年4月 小和田雅子が小学2年生のとき通っていた新宿区立富久小学校の恩師、中坪先生を自宅に招いた優美子と雅子。客人にスリッパも出さず、自分たちの足元にはちゃっかりスリッパがあることに注目

1993年4月12日 納采の儀の小和田夫妻と雅子の表情連結画像

1993年4月12日 納采の儀、使者に対面する優美子とガンを飛ばす雅子

1993年4月12日 納采の儀を終えたことを報告するため御所へ上がる小和田親子。写真は車を降りた所。嵐の中を来たのかと思うようなぐしゃぐしゃに乱れた振袖を押さえつつもしっかりカメラ目線の雅子、和服なのにがに股なことにも注目【がに股】

1993年4月12日 両陛下への納采の儀報告&ご挨拶を終え出てくる小和田恒・優美子・雅子の三人。雅子は振袖姿でやっぱり蟹股歩き

1993年4月12日 納采の儀の後、両陛下へご挨拶をした小和田恒・優美子・雅子の三人。振袖姿の雅子の扇子がド真ん中挿しになっている

1993年4月12日 同上両陛下へのご挨拶後の恒優美子雅子。和服姿の優美子と雅子はどちらも真珠の帯留使い

1993年4月12日 納采の儀ご挨拶を終えハイヤーで戻ってきた小和田親子。品の無い所作で車を降りるペラペラ振袖姿の雅子

1993年4月12日 納采の儀で雅子に贈られた真珠の指輪を、路上にて「どれどれ、見せてごらん」と値踏みをするように見る母優美子

1993年4月17日 皇太子との婚約を祖先の墓前に報告するため、新潟へ向かう小和田親子(よみうり写真館)

1993年4月17日 新潟県新潟市の泉性寺へ墓参りに向かう小和田夫妻と、墓参りなのに金ボタンスーツ着用、ダーツ目状態でカメラ目線を決める雅子【ダーツ目】

1993年4月17日 新潟市泉性寺小和田一家墓参り。古い墓石に新しい土台をつぎはぎした奇妙な墓石、親子三人は数珠すら持っていない。優美子の二連真珠ネックレスも確認できる

1993年6月1日 天皇ご一家と小和田家が赤坂御所で夕食会、夜遅く帰宅しコンクリ御殿で勢ぞろいした小和田一家(『女性自身』1993/6/22号グラビア)

1993年6月4日 シェ・松尾で小和田一家と江頭豊・寿々子夫妻がお祝いディナー、恒の両脇に礼子節子姉妹が立ち、更に脇に雅子と江頭寿々子・優美子が着席。このディナーは同店2階にある個室インペリアルルームで開かれたとのこと【外食】

1993年6月5日 小和田家で撮影された一家5人の団欒光景。背中を丸めて座る優美子。いかにもカメラ撮影のために用意されたことが丸分かりのテーブル上の花、やけにごちゃごちゃ置かれている小物、座っているのが応接用にしては安楽椅子であることなどに注目

『アサヒグラフ』臨時増刊1993年6月20日号「皇太子・雅子さまご成婚決定保存版アルバム」、婚約会見で「小和田家とチッソ水俣病問題」について触れる浩宮【チッソ】

1993年6月9日 「結婚の儀」当日の朝、小和田家玄関で妹、両親へに挨拶する雅子
1993年6月9日 小和田家玄関で妹、両親への挨拶の後、祖父母江頭夫妻が登場
1993年6月9日 雅子を囲む恒・優美子・礼子・節子、後ろに母方祖父江頭豊。祖母寿々子は陰に隠れている

1993年6月9日 小和田家を出る雅子を見送る恒・優美子・礼子・節子、そして後ろに母方祖父母江頭豊・寿々子夫妻も

1993年6月9日 同上小和田家を出る雅子と小和田・江頭家の面々。雅子と江頭豊と寿々子がカメラ目線

1993年6月9日 車で出発する雅子を神妙な表情で見送る小和田夫妻と礼節姉妹、ところが肝心の雅子は反対側のカメラにでも気を取られているような笑顔。嫌々嫁ぐとは到底思われない浮かれた様子である

1993年6月9日 雅子を送り出した後、成婚の儀に出席するため着替えを済ませコンクリ御殿玄関前に現れた小和田恒・優美子・礼子・節子と、二世代住宅同居の江頭豊・寿々子

1993年6月9日 結婚の儀に参列するため皇居に参内、賢所へ向かう小和田恒・優美子・礼子・節子

1993年6月9日 「結婚の儀」の最中、涙をハンカチで押さえる母優美子と妹節子
1993年6月9日 「結婚の儀」のあと、金屏風の前で記者会見に答える小和田夫妻、恒は両方の肘掛を使って会見に応答

1993年6月9日 徳仁雅子結婚当日金屏風前会見、ちょっと猫背の優美子表情集

『フライデーSPECIAL』1993年6月26日増刊号<慶びに沸くプリンセス通り「ごひいき」の人たちが見た雅子さま「隣人のころ」>記事
納采の儀の鯛をさばいた魚屋「鮮魚相木屋」さんを始めとする色々なコメントあり。小和田優美子が地元トヨタの営業マンに「あんなに運転の好きな子が、自分で運転できなくなるんですね」と語っていたという証言も。現実には結婚後も自分でハンドルを握って運転している。

『週刊女性』1993年6月22日号「皇太子さま雅子さまご成婚おめでとう!」表紙
「雅子さま愛車も一緒!お嫁入り」「“金箔タンス”騒動全真相」

『週刊女性』1993/6/22号<平成のご成婚スクープ 金箔タンス大騒動 雅子さまの母小和田優美子さんが本誌に語った全真相!>記事【金箔箪笥】
時期・詳細不明、「特別展示品 雅子妃殿下ご成婚引き出物」とタイトルが付された、新潟県無形文化財の村上堆朱(ついしゅ)?かと思われる文箱や箸、小和田名義の熨斗などの展示物。小和田優美子の写真あり

1993年8月13日 結婚後小和田家への初めての里帰りで優美子が抱くショコラとキスする雅子【ショコラ】

1993年8月13日 雅子の里帰り当日出された食事は「母優美子さんの手作りパエリア!」……とのこと(『女性自身』1993/9/7号)だったが、後にそれは自由が丘「エルペスカドール」のシェフが出向き作ったものと判明する大嘘ぶり【ケータリング】

1993年8月13日 里帰りから戻る場面、徳仁雅子を見送りに現れた小和田恒・ショコラを抱いた優美子、後ろにチッソ江頭豊の妻寿々子の姿も【チッソ】

1993年10月19日 老人ホーム・ケアレジデンス水戸住まいだった父方祖父小和田毅が老衰にて死去(享年95歳)、また結婚当初から4tトラック3台分の嫁入り道具整理のため母優美子が東宮御所へマイカーで頻繁に出入りしていたという記事『女性自身緊急増刊 新妻・雅子さま 輝いて「愛の1年」』より【小和田毅夫】

1994年1月14日の唇ブルブル歌会始後頃から雅子「風邪気味」で公務中止、東宮仮御所に引きこもり状態だったと伝える記事。「もしかして懐妊?」と記者が色めき立つも母親優美子がそれは根拠の無い噂だと雅子本人が話したと海外記者取材に証言『女性自身緊急増刊 新妻・雅子さま 輝いて「愛の1年」』より
上記事から読み取れる事実:結婚半年で既に不明確な理由による欠席=サボりと引きこもりは始まっていた&実家の人間とも平気でべったり会っていた

1994年2月21日 天皇陛下還暦祝賀音楽会、皇族以外に親族も出席、後ろの席に川嶋辰彦さん・和代さんご夫妻の姿と、それに並んで座る小和田恒・優美子が確認できる

1994年4月 菊栄親睦会での集合写真。秋篠宮両殿下と同列右の方に小和田優美子の姿も見える。(川嶋家ご両親は近衛さんや千さんと同じ最後列。また常陸宮も最後列)

『婦人公論』 1994年7月号 渡辺みどり<小和田家の家風と歳月>記事【フンドシを締め直して】

1999年6月 渋谷健司・小和田節子結婚披露宴記事、節子の振袖は優美子が嫁ぐときに着ていたものだとの説明がある。横目の優美子画像【新弟子検査】

1999年6月26日 節子結婚披露宴、雅子は常識外れの白スーツ姿

1999年12月10日 雅子懐妊報道のあった当日、自宅付近の路上での取材に「違っていたら妃殿下が傷つく」と答える優美子。中身がはみ出したバッグの持ち方が雑

1999年12月13日 雅子が宮内庁病院で検査を受ける当日、自宅近くで飼い犬ショコ
ラを散歩させながら、報道陣に囲まれている小和田優美子

2000年7月12日 小和田優美子が大いに絡んでるユニセフ・ハウスのオープニング式典に出る夫妻、アグネス・チャンの姿も【日本ユニセフ】

2000年7月25日 雅子が欠席した香淳皇后斂葬の儀に出席している小和田恒・優美子。添えられた説明は「ご親族も、もちろん御参列」(週刊新潮2000年8月10日号<雅子さまは欠席された皇太后さまの葬儀>モノクログラビア)【夏バテのようなもの】

2001年6月24日 学習院OBオケ定演鑑賞の小和田恒・優美子夫妻と双子妹の池田礼子・祐久夫妻、渋谷節子・健司夫妻【礼節姉妹】

2001年6月24日 学習院OBオケ定演での澁谷節子、池田礼子・祐久、小和田恒・優美子の表情

2001年12月1日 東宮家女児誕生の報を受け宮内庁病院に入る小和田優美子、豹柄アニマルプリントスカーフに注目

2001年12月1日 午後6時15分、見舞いを済ませ宮内庁病院から出てくる小和田恒・優美子夫妻「女のお子様ご誕生」(NHKニュース)
http://www.youtube.com/watch?v=vE8JkpHejy4

映像からのキャプ画像:2001年12月1日 宮内庁会見で「赤ちゃま」発言の小和田優美子、こげ茶テーラードジャケットの襟を伸ばして着用?元々のデザイン?

2001年12月1日 愛子誕生当日午後六時過ぎ、宮内庁病院への見舞いを済ませた後、宮内庁三階講堂で記者会見する小和田夫妻。優美子は「赤ちゃま」発言

2001年12月1日 同上「宮内庁」での小和田夫妻会見にて、「新宮さまもたいへんにおかわいらしい『赤ちゃま』でいらっしゃいまして」発言をする優美子

2001年12月1日 宮内庁で開かれた愛子誕生についての小和田恒&優美子記者会見
2001年12月1日 愛子誕生当日夕の小和田恒と優美子の全身ファッション、優美子の胸には雅子が公務の場で使用したことがあるのと全く同じ真珠ブローチが【小和田優美子】

2001年12月1日 宮内庁病院を見舞い、会見ののち目黒の自宅コンクリ御殿に戻った小和田夫妻

2001年12月2日 愛子誕生翌日、外出先から戻ってきたコンクリ御殿前モーニング姿の恒とお帽子&勘違いモンタント姿優美子、なお前日愛子誕生当日1日夕刻も小和田夫妻は面会に出かけ両陛下よりも先に愛子を腕に抱いている(よみうり写真館)

2001年12月7日 宮内庁病院へ見舞いに来た小和田優美子と池田礼子、見舞いの品を「ぐわしっ」と指を広げて掴んでいる品もへったくれもない仕草に注目

2002年9月18日 雅子の父小和田恒の70歳誕生日に揃って代官山ヒルサイドテラス『RESTAURANT PACHON』にて食事、記念撮影され飾られている小和田恒・優美子、雅子の妹・池田礼子と夫池田祐久、そして小和田雅子と小和田徳仁夫妻の写真。左右はオーナーシェフのアンドレ・パッション氏と美代子夫人

2003年9月4日 愛子を連れて小和田家へ里帰りの雅子、それを迎える父恒とやけに茶髪な母優美子

2003年9月4日 同上里帰り別画像、小和田邸の前で雅子に抱かれ、指差しをしている愛子

2003年9月4日 同上里帰り別画像、小和田祖父母の方を指差す愛子

2003年9月4日 同上里帰り、愛子を抱いてニラニラ笑顔でコンクリ御殿に入る雅子と、小和田夫妻。ババンの頭頂部が寂しいことになっている

2003年9月4日 動画キャプの合成連結画像、コンクリ御殿玄関前で勢揃いの小和田恒・優美子・雅子・愛子そして徳仁さん

2004年3月25日〜4月26日 雅子・愛子軽井沢籠城。現地での証言を集めたTV番組より連結画像。小和田一家が慌ただしく集合、緊急事態であったらしいことがわかる
『テーミス』 2004年6月号<皇室と小和田家の確執も 皇太子さまと雅子さまに訪れた「最大の危機」>記事

『週刊文春』 2006年8月17・24日号<「小和田家」と「川嶋家」>目次

2006年10月28日 広島市、原爆ドームを背景に、ノーベル平和賞受賞者であるバングラデシュの経済学者・グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏と同じ紅白花輪を首にかけている小和田恒と優美子ら。シャツの襟立てに優美子なりの拘りがあるらしい光景

2007年2月5日 英エリザベス女王オランダ訪問で国際裁判所視察、小和田夫妻が写真に写りこむ【小和田恒】

2007年4月14日 広島大学特別講演会「国際司法裁判所の現状と国際紛争」に出席の「広島大学学術顧問」肩書持ちの小和田恒と優美子。恒の父である小和田毅夫は広島高等師範学校卒という縁がある【小和田恒】【小和田毅夫】

2007年12月5日 TBS「水トク!」で“アノ小和田家御用達”として紹介された岐阜県飛騨高山にあるうどん&蕎麦屋『太田庵つるつる亭』に飾られている、小和田恒直筆色紙「優雅礼節 平成五年十月十日 小和田恒 優美子」

『週刊現代』 2008年3月22日号<雅子さまの「最新病状」と皇太子殿下の「決断」 ついに「小和田家は娘を引き取るべきだ」の声まで>記事、そして同号掲載のユージン・スミス写真
左の写真は、チッソ水俣病取材で江頭家と因縁深いカメラマン、ユージン・スミス氏のもの。

2008年4月19日 ワシントン奥様提供、小和田夫妻がワシントン到着し大使館員らの出迎えを受けている画像(リサイズと明るさ微調整済み)。雅子と同じく足を開いたがに股立ち姿の優美子に注目【ワシントン奥】【がに股】

比較:仁王立ちの立ち姿がそっくりな優美子と愛子(2010年)

2008年5月15日 スイスにて、ワインのコレクションで知られるレストランDer Gupfにて腕組み優美子も加わり記念写真。中央は元国連大使の明石康氏

2008年12月13日 朝日新聞朝刊付録「be on Saturday」2面・横田由美子ルポライター署名コラム「読み解く 官僚」

「皇太子妃雅子さまの父である小和田恒元国連大使の夫人が元チッソ社長の令嬢であるのはよく知られた話だ。」

2009年2月6日 国際司法裁判所(ICJ)所長に小和田恒が選出というニュース映像の恒・優美子夫妻(2003/09/04撮影)

2009年6月25日 オランダ・ハーグの国際司法裁判所にて、ハーグ賞国際法部門の授賞式に出席した小和田恒と優美子夫妻

『週刊女性』 2009年8月11日号<愛子さま夏休み満喫中! 雅子さまの小和田家流「愛ちゃん憲法」>表紙

『女性自身』 2009年9月15日号<鳩山民主党新首相「女性天皇」マニフェスト宣言で「愛子さまの未来」へ不安再び!>記事

「もともと雅子さまは、愛子さまの皇位継承を願ってらっしゃいました。…(中略)…皇太子妃として“お世継ぎ”を産めないという忸怩たる思いと、皇太子さまとご自分の子どもが将来、天皇になれない、という寂しさは感じていらしたと思います」by結婚前から雅子と交流がある小和田家の知人

2010年4月9日 オランダ・アムステルダムの桜庭園にて、桜祭りに出席する小和田恒・優美子夫妻。右端は、2009年の秋篠宮両殿下公式訪蘭の際、案内役を務めたライデン大学日本・アジア学科主任教授W. R. van Gullik(ファン・ヒューリック)氏

2010年12月23日 小和田恒・優美子夫妻が中国陝西省の西北政法大学を訪問、名誉博士号を受ける小和田恒。恒の筆による書は「学而不思則罔。思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし)

参考サイト:西北政法大学HPプレスページより<联合国国际法院院长小和田恒来访 受聘西北政法大学荣誉教授>

2011年4月6日 オランダ・アムステルダムの桜祭りに出席する小和田恒・優美子夫妻

2011年4月6日 オランダ・アムステルダムの桜祭りに出席、東日本大震災の犠牲者を追悼するセレモニーで、千羽鶴を手にしている小和田恒(優美子は陰になっている) 

2011年5月2日 オランダ・ハーグの国際司法裁判所にて、アイルランドの女性大統領メアリー・マッカリース(Mary McAleese)女史および夫マッカリース氏、ICJ書記官クーヴルール(Couvreur)氏と並んで記念撮影する小和田恒・優美子夫妻

2011年5月2日 オランダ・ハーグの国際司法裁判所にて、判事服の小和田恒と、縞々スーツ姿の優美子。優美子の下半身が長女雅子よろしくかなり肉がついている状態

2011年5月31日 オランダ・アムステルダムにて、ウィレム=アレクサンダー王太子夫妻主催の東日本大震災追悼コンサートに来場した小和田恒・優美子夫妻

2011年5月31日 ウィレム=アレクサンダー王太子夫妻主催の東日本大震災追悼コンサート全景

2011年5月31日 ウィレム=アレクサンダー王太子夫妻らと記念写真に収まる小和田恒・優美子夫妻

2011年5月31日 小和田恒・優美子夫妻部分拡大

2011年7月29日 岩手県山田町山田中学校を訪問、「July 29 2011 at the Yamada Junior High-school」、壇上で座る小和田恒・優美子・Mrs. Karelse、優美子のどでっとした腰掛け方に注目

2011年7月29日 岩手県山田町山田中学校を訪問、校長らと記念撮影する小和田夫妻「Principal Sasaki, Mr. & Mrs. Owada, Mrs. Karelse」

2011年7月29日 岩手県山田町山田中学校を訪問した小和田夫妻「Mr.Mrs. H.Owada & S.Karelse at the ruined school」

2011年9月27日 オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)にて、ベトナム関係者と集合写真に収まる小和田恒・優美子夫妻/同別アングル

2012年2月16日 <天皇陛下、入院前日も公務>JNNニュース連結画像、午後2時48分皇居乾門を小和田優美子が運転・恒が助手席に乗った灰色のBMWが入る。天皇陛下心臓バイパス手術に当たってのお見舞い記帳に訪れたのだが、正式な記帳受付は17日〜陛下退院日まで。およそ10分後に記帳終了し皇居退出【ロケ】

2012年2月16日 <天皇陛下、入院前日も公務>JNNニュース連結画像、小和田夫妻お見舞い記帳訪問、優美子が運転している灰色のBMWナンバーは「品川300 ゆ 44−86」

2012年2月16日 <天皇陛下、入院前日も公務>JNNニュースキャプチャ画像、BMWのフロントガラス越しハンドルを握る小和田優美子と助手席の恒。ハイヤーどころかタクシーすら頼まず自ら運転参内した理由は不明

参考ようつべ:天皇陛下、入院前日も公務 tbsnewsi 
http://www.youtube.com/watch?v=AqlMNzpvSm0

2012年10月5日 フランクフルトのシュテーデル美術館にて日独産業協会会員総会、小和田優美子も講演聴講

2012年10月5日 フランクフルトのシュテーデル美術館にて日独産業協会会員総会、シャンパングラスを手に、日本関係者の話を聞いている小和田恒・優美子

2012年10月5日 フランクフルトのシュテーデル美術館にて日独産業協会会員総会、シャンパングラスを手にドイツ関係者とツーショット記念写真の小和田優美子、髪が完全に白くなってかなりイメチェン

2012年10月5日 フランクフルトのシュテーデル美術館にて日独産業協会会員総会、日独関係者らとテーブルについている小和田恒・優美子夫妻

2013年5月1日 オランダ・ウィレム国王即位式のため東宮夫妻が在蘭中、午後6時頃(当地は日没が午後9時過ぎなのでまだ明るい)徳仁雅子が宿泊しているホテルオークラアムステルダムに入る、ホテルの駐車チケットを機械から取ろうとしている運転席の小和田恒と、助手席の優美子(TBS 5月2日)

2013年5月1日 徳仁雅子が宿泊しているホテルオークラアムステルダムに入る、ホテルの駐車チケットを口に咥えながら車を運転している小和田恒と助手席の優美子、退出時は優美子が運転(TBS 5月2日)

2013年5月1日 徳仁雅子が宿泊しているホテルオークラアムステルダムに入る小和田夫妻連結画像。駐車チケット受け取り〜ホテル退出まで。(TBS 5月2日〈雅子さま、宿泊先のホテルで両親と面会〉)初出のナレーションでは、レポーターがホテルに入る小和田恒を「小和田雅子さんのお父さま」と紹介していた

2013年5月1日 <雅子さま、宿泊先のホテルで両親と面会>TBSニュースより、ホテル駐車場に入ろうとしてカメラに気付き運転席サンシェードで顔を隠そうとし、受け取った駐車チケットを口に咥えて運転を続ける小和田恒と助手席優美子のgif動画
2013年5月1日 ホテルの駐車チケットを口に咥えながら車を運転している小和田恒拡大画像

2013年5月1日 徳仁雅子が宿泊しているホテルオークラアムステルダムに入る、小和田恒・優美子が乗った車を左側から撮影、マスコミカメラに対しサンシェイドを使って顔を隠そうとする小和田恒(NNN 5月2日)

週刊新潮 2013年5月16日号<雅子妃が3回の流産と報道した「オランダ公共放送」 / 特別読物「雅子さま」とご実家「小和田家」に思う(ジャーナリスト橋本明)>中吊り

週刊文春 2013年5月16日号<11年ぶりの“海外デート”−皇太子ご夫妻、オランダ国王即位式に列席 / オランダ密着レポート 雅子妃が「小和田雅子」に戻られた夜 ご両親に完全無視され凍りつく報道陣…テレビには決して映らない緊迫の面会現場 / 「雅子さまご公務復帰」女性はこう見た 中村紘子、香山リカ、工藤美代子… / ザ・プリンセス雅子妃物語(38) 朝日スクープ「懐妊の兆候」(友納尚子)>中吊り

週刊文春 2013年5月16日号<オランダ密着レポート 雅子妃が「小和田雅子」に戻られた夜 ご両親に完全無視され凍りつく報道陣…テレビには決して映らない緊迫の面会現場>記事

週刊新潮 2013年3月28日号<「皇太子さま」ご退位議論が不愉快だった「雅子さま」と「小和田家」>記事

女性セブン 2013年5月23日号<新聞テレビが報じない「オランダ訪問」の真実 皇太子妃雅子さま(49)を追って!ご出発翌々日小和田夫妻は実は日本から発った ●相談に乗るため、1か月前から東京に滞在、皇太子さまも交え食事会も●オランダに渡る朝を「スクープ撮」●現地面会は極秘のはずだった / 皇太子妃雅子さま安堵と自信のロイヤルスマイル>表紙目次

参考:女性セブン 2013年5月23日号「今週号の内容」魚拓

雅子さまを追って!ご出発翌々日小和田夫妻は実は日本から発った
相談に乗るため、1ヶ月前から東京に滞在。皇太子さま交え食事会も
11年ぶりに海外公式訪問を実現された雅子さま。オランダで見せられた笑顔は、療養に入られる前と変わらぬプリンセススマイルだった。渡蘭までには、紆余曲折があり、雅子さまも苦悩の日々が続いていたが、そんな雅子さまを案じていたのが両親である小和田夫妻だった。新聞、テレビで報じられることのなかった雅子さまの悲願が叶うまでの全真相。

女性セブン 2013年5月23日号<新聞テレビが報じない「オランダ訪問」の真実 皇太子妃雅子さま(49)を追って!ご出発翌々日小和田夫妻は実は日本から発った ●相談に乗るため、1か月前から東京に滞在、皇太子さまも交え食事会も●オランダに渡る朝を「スクープ撮」●現地面会は極秘のはずだった>記事

小和田優美子大量画像集
小和田恒・優美子夫妻の変貌(1962年と2009年比較)


雅子が公務用にあつらえたブローチを、実母小和田優美子に下げ渡し疑惑

 
  マコオタ掲示板住民様による「疑惑のブローチ」まとめ画像(2014年9月2日現在)
 

Part2097-755 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:13:22.31 ID:xAVnHWiX0
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1310387658187.jpg

 >このブローチ雅子がしていた物だよね
http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1214891282736.jpg
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071116091715.jpg

これって税金泥棒じゃん
血税で購入した、高価なブローチを 小和田の母にあげる
=公務員が公費購入したPC、各人が使ってたのを親にあげる
=公金横領ですよ


760 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:18:25.02 ID:UuCka/CW0
>>755
うわ、これらの画像何度も目にしていたのに初めて気が付いた。

762 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:18:53.07 ID:XZOyiYZ5O
>>755
すごーーー。

763 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:19:13.86 ID:R/q3CPr10
>>755
ほんとだ。他の宝石類も小和田家は勝手に東宮家から持ち出して使用?
池田玲子も?

765 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:21:33.38 ID:XZOyiYZ5O
よく見つけたねー。
これ以外にもありそうだな。
ブランド品とか実家メンへお下がり。

766 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:22:25.54 ID:wRhrU8hrO ←雅子擁護による言い訳か
おそろでブローチ買いました。
これで釈明できるw

767 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:24:19.97 ID:R/q3CPr10
購入時の領収書を出してみろw

768 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:24:26.94 ID:XZOyiYZ5O
支払いが東宮ならば…。

770 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:26:57.10 ID:27x+ZKLj0
献上品の礼状がユミコから届いた前例があるから、貴金属実家メンへお下がりもありそうだけど
ひょっとしたら小和田家からの嫁入り道具wかもしれないので、まだなんとも言えない

772 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:28:57.49 ID:wRhrU8hrO
ブローチ疑惑を払拭せねば。
菊栄親睦会に肥とユミコさんがともに
同じブローチで出席。
ど顰蹙ものだけど、疑惑は晴れる。

773 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:29:38.53 ID:UuCka/CW0
せっかくなので>>755ブローチ画像をまとめてみました。
今マコオタにうpできないのでこちらで。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1782121.jpg 
注:うp元画像が落ちてしまいましたので同内容のマコオタ画像を表示します)

774 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:31:39.45 ID:0cCFAYZ80
それぞれの時間がわからないとなんともいえない…と思ったら、
>>773ありがとう。こ、これは、かなりクロに近い気が…。

778 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:34:09.47 ID:UuCka/CW0
>>774
ねえ、時系列が逆(優美子が先で雅子が後)なら、
結婚前に母親から譲り受けたブローチをして公務に・・・てな母娘美談にもできそうだけど、
これ明らかに逆です。そして嫁いだ娘から公務に使ったブローチをお下がりとして母親に下げ渡すなんて、
まあ常識では考えられない。

781 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:36:43.68 ID:awarYPaY0
ダイアナ元皇太子妃のおさがりスーツを長姉のセーラが着ていたこともあるけど
皇室とイギリス王室は違うしね。

782 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:39:21.88 ID:XZOyiYZ5O
本日新たな疑惑がまた一つうまれましたw

783 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:40:34.16 ID:+WEwRaKN0
>>773
これはマズイですね・・
皇太子妃が公務で着用したブローチを、民間人の母親にお下がりとは。
しかし福帯といい優美子ってなんで自前で調達できないの?

784 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:40:44.79 ID:UuCka/CW0
>>781
ダイアナはさくっと離婚したし。そこまで雅子が真似してくれるならいいですけどね。

785 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:41:56.39 ID:X+QS8w4b0
>>781
皇室は完全に税金だものね

786 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:45:01.19 ID:XZOyiYZ5O
自分のお財布開くの嫌だ!ってタイプの人いるよねー。

787 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:47:54.85 ID:wRhrU8hrO ←雅子擁護による言い訳か
輿入れのとき、持参したものを、母に返しただけですが、
何か?と言いそうw

788 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:48:43.31 ID:UuCka/CW0
何で返すのさwwww

789 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:49:24.04 ID:X+QS8w4b0
小和田はたった10年で要らなくなるようなものを
妃殿下の嫁入り道具に持たすのか

790 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:49:37.37 ID:UuCka/CW0
ID:wRhrU8hrOの必死ぶりにワラタw

766 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:22:25.54 ID:wRhrU8hrO おそろでブローチ買いました。
これで釈明できるw

787 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:47:54.85 ID:wRhrU8hrO
輿入れのとき、持参したものを、母に返しただけですが、
何か?と言いそうw


791 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:50:16.67 ID:XRcDNE9N0
銭ゲバ 守銭奴優美子

792 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:50:38.68 ID:P11t7stu0
>>755
>>773
奥様すごいです。よく気づかれましたね。

お揃いで買った、たしかに言い出しそうですが、なんてとんでもない言い訳ですよ。
誤解を招くし、買ったとしてもこんな場で(愛子誕生の自発的記者会見でしたか)
するなんて、異常です、この親子。

794 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:50:46.49 ID:wRhrU8hrO
母がカネコマだから。

795 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:52:43.05 ID:awarYPaY0
どれどれ見せてごらんと路上で値踏みしてた指輪もババンの手元に。

796 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:53:34.09 ID:XRcDNE9N0
語尾に「ずら」付けた喋り似合いそう

797 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:55:33.24 ID:+WEwRaKN0
一個分の金額で二個購入とかはありそうですね。
だとしても皇太子妃と同じブローチを公式の場で着用とは
思い上がりも甚だしいです。
まさに皇族気取り。

798 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:56:34.04 ID:VKq9y9X7O
>>795
値踏み?
価値がわかるのだろうか?

799 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 16:56:39.19 ID:3gbRkt3l0
あーらら、いーけないんだ、いけないんだw

よく見つけましたね、素晴らしい。
他にもありそうだ。

ところで>>773の左マサコさん、帽子のリボンがとってもヘン。
なんで、顔真上にでかいの持ってくるかなあ。

803 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 17:00:00.31 ID:P11t7stu0
いまどなたか指摘なさっていましたが、これが例えば雅子が子供のときの
写真で隣の優美子がつけている、となると、(この一族唯一の)美談にも
なりそうですが、時系列が…
何を言い訳しても、異常な行動ですよ、これ。

804 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 17:01:48.16 ID:hDOU5leI0
こりゃー離婚出来ないわけだわ。

814 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 17:25:42.21 ID:JqViOeB80
>>755ブローチ凄い!よく見つけたよね>>733見やすいサンクス

小和田がこんなことしょっちゅうやってたんだろうと思う
海外の大使館備品とか「廃棄扱い」「行方不明」で問題になったよね?
コンクリ御殿の事務椅子とか、、貰ったんだろうな〜

821 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 17:50:00.22 ID:ty41J5UB0
>>755
すごい!
あからさまな横流しだわ。
持ち出せる宝飾品は、こうやって汚和田に流れるのかしら。

そういえば、
在外大使館の高額な美術品(備品)が、
短い期間に、次々「廃棄品」とされて行方不明になり大問題になってましたね。

これ、害務省の共通の換金の手口なんでしょうか?

822 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 17:54:40.75 ID:16USOR5/0
1.Y子さんが、妃からもらったことを忘れてつけていた
・・・この一点のブローチだけではなく、日常的に、いろんなものをもらっていたので、忘れた

2.妃からもらったことは覚えていたが、そんなに非常識なことだという認識はなかった

いずれにせよ、すごい感覚。
ぜひ、どス子に保存をお願いします。

823 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:01:27.71 ID:wRhrU8hrO
肥は着られなくなった衣装もたくさんあるし、
「お下げ渡し」の後、リフォーム、再使用なんて
やってても驚かない。

825 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:06:27.90 ID:M2wvVlyp0
雅子さんのお嫁入りのドレスを作る記事をケチって双子もの分まで
作ったおうちだもん、そんなのあたりまえでは?>ブローチ横取り

言われたら、借りただけ、とかいいそうwあの真珠のブローチは国賓の
出迎えにつけたものだしそれなりに値の張るものでしょうね。数百万円?
まさに豚に真珠w

828 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:08:56.79 ID:ty41J5UB0
そういえば、
美智子様が子育てに使われた想い出のベビーベッドも、
ナルマサのところへ行ったっきり行方知れずに。

R子の家にあったらビックリだわ。

829 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:09:10.89 ID:hTcmu0+K0
>>755
お見事!よく見つけましたね!

お金の出所は私らの税金。その公金で購入したものは
私有財産ではないよね。
そういうものを勝手に身内に譲って」いいものなんだろうか?
万が一犯罪にはならなくても道義上の責任は大いにあるね。

833 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:13:25.89 ID:mJFA7ZlDO
実家に横流ししすぎて今残っているのはあのS字型のブローチだけになっちゃったのかな。

841 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:22:26.08 ID:xAVnHWiX0
 金のブローチなら 売れば相当なお金になるよ 
5-7万円ぐらいで下取りしてもらえるよ 18Kなら

851 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 18:36:16.73 ID:n5kM0ApBO
あらあらw
以前から愛ちゃんの私たちの別荘ってフレーズがすごくひっかかってたんですけど
小和田さんたち、たぶん那須御用邸は「自分たちの別荘」って思ってところがあったん
じゃないでしょうかね。
何回も来てるし、何時間も滞在してメシ食ってるのも報道されてるしねえ。
外務省職員の悪い習慣 、究極のタカリ体質だね。海外の公館の皇室のものを売り飛ばすのも平気なわけだ。

ワインとか絵画とか食器とか骨董とか?そのうえブローチ等装飾品もですか?みっともないと思わないのかね。
こういう人間だけには死んでもなりたくない。

873 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:07:08.29 ID:UXF+OPdc0
疑惑のブローチ画像が、さらにまとまった形で充実しております。まとめ人様多謝。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1310464579161.jpg


876 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:10:54.75 ID:sANSlz4z0
>>873
乙です。
記者会見なんかに付けて来なければ、バレなかったのに、
信じられないわ。

877 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:11:21.06 ID:4FwFkimf0
>>831
治らないのは、宮内庁が悪いとかいって
また、海外行かせろだったら凹む。

878 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:15:00.43 ID:0cCFAYZ80
>>877
まともな医者なら、そんな発言するわけないと思うし、想像で凹まなくても。

879 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:18:31.51 ID:9u7eYA/A0
>>873
乙です。
平然と記者会見にして出てくる優美子さんの厚顔無恥なことに驚きます。
恥ずかしい母子だねえ。

880 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:19:37.86 ID:va5muazW0
>>879
東宮御所の調度品に異様な興味を示していたというババン。
那須御用邸にも出入りしていたというし、お持ち帰りなんて日常茶飯事だったのでは?
もちろんババンだけじゃなく、隷・窃も…かな。
結婚前のエピだけど、この画像思いだした。
ttp://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1282671035688.jpg
姉の結婚後も、同じ気分でタカってそう。

881 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 19:20:03.20 ID:I0dGVAKk0
ブローチ画像まとめ乙です

アクセや服が同じシリーズ、探せばボロボロ出てきそう
礼節にも流してるだろうし


Part2098-28 可愛い奥様 sage 2011/07/12(火) 22:22:03.44 ID:vw5NPytsP
ブローチ、いろいろ気になりますよね…
なぜ皇太子妃は、あのブローチをずっとお使いになるのか。
また同じものを、小和田優美子さん(民間人)がつけているという不思議。
昔なら、女官などに下賜なさるのもわからないでもない。
でも、何かと注目される民間妃が、それを
自分の身内になさったら……かなり軽率ですね。
ご自身の正当性を保持するためには、まずは
ご実家と適度な距離を置くべきです。
創価学会の雑誌やマルチ商法の広告塔になる妹など、
遠ざけないといけないでしょうし、
少なくとも親王をあげるなどして、皇太子妃としての地位を確立するまでは
母親にも会わず、ただただ美智子様や他の皇族方の指導を受ける、というものでしょう。

164 可愛い奥様 sage 2011/07/13(水) 08:04:44.19 ID:2QOSGiaRP
母親が結婚前にプレゼントしてくれた物、若しくは誰かからプレゼント
された物、だったとして、それを結婚8年目だかに母親が付けてるって
やっぱり変だわよ。
しかも公衆の面前でしょ。記者会見だよ、あれ。

192 可愛い奥様 sage 2011/07/13(水) 08:32:36.83 ID:sqX5/2nh0
皇族は庶民が同じものを身につけてることのないようにオーダーで洋服を作り、アクセサリーも
一点もの、唯一無二のものなんですよ。それを皇太子妃と同じブローチを実母が
疑われるような時系列で公式の場につけて現れたというだけでもう失笑を通り越して泥棒確定ですわよ。

232 可愛い奥様 sage 2011/07/13(水) 09:10:02.64 ID:oBhGCHFTP
ただでさえ、優美子さんと雅子妃の
母子密着が問題視されているし、
実家と深すぎるつきあいをしているのも大問題。
もしもブローチが、税金によるものではなく
小和田家の私的なもので御揃いのようなものだとしても、
やはりいかがなものかですよ。
皇族である雅子妃と、民間人である小和田優美子さん、
きっちりとけじめをつけなくてはいけない。
同じものを身につけ出てくるだけで
「皇族気取りか」と言われても仕方が無い。
まして、下賜などもってのほか。


Part2101-229 可愛い奥様 sage 2011/07/18(月) 20:26:09.11 ID:qIGPCBit0
>>226
白い襟、ありますよ。

>>225
奈良の写真だけ、体が斜めになっていて見える角度が違うので。
向かって右側のパーツは隠れてしまってるけど、周りを囲む葉の数や位置は
一致してると思います。

247 可愛い奥様 sage 2011/07/18(月) 21:45:20.13 ID:G1kBJ68g0
>>229
ブローチ、正面から写っている写真うpしてみました。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1310993032246.jpg


259 可愛い奥様 sage 2011/07/18(月) 22:09:46.99 ID:qIGPCBit0
>>247
ありがとうございます。

疑惑のブローチ(改訂第3版)
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1310994260524.jpg


299 可愛い奥様 sage 2011/07/19(火) 01:44:57.25 ID:e6xg7A0/0
ブローチって元々は母親優美子の物で、娘雅子が借りていた可能性はないの?
税金で購入した物であるなら、いくら何でもあんまりな…。

301 可愛い奥様 sage 2011/07/19(火) 02:00:29.06 ID:2RpYsihv0
>>299
皇族として品位を保つに十分な費用が支給されるのに、
なんでわざわざ実母からブローチを借りる必要があるわけ?
それがいくら高価な品だろうと、国賓と会う行事や公務先で何度も借り物を使うのはおかしい。

またもし母優美子が貸したとしても、皇太子妃が複数回公務で使ったとわかっている物を、
自分の記者会見につけて出てくるのはおかしい。

元々二つ買って両者が同じ物を持っていた説の人も、貸し借りがあった説の人も、
「皇太子妃」という地位の特別な主さを理解してないよね。

303 可愛い奥様 sage 2011/07/19(火) 02:09:38.86 ID:e6xg7A0/0
>>301
そっか、ごめんなさい。
でも雅子さんって皇太子妃の重みなんてこれっぽっちも考えてなさそうだから
お母さんの貸して〜、もう使わないから返す〜とかやりそうだなと思って。
御母様もちょっとアレレっぽいから窘めることもしそうにないな、と。

ま、真実はどうあれ疑問を持たれること自体が問題ということですよね。

304 可愛い奥様 sage 2011/07/19(火) 02:27:49.41 ID:2RpYsihv0
今まで実家メンバーが控え目に身を慎んできていれば、今回のブローチ問題もこんなに疑われないのにね。

東宮御所をバリアフリーにするほど入り浸ったり、御用地で散歩したり、
献上品を持ち帰って農家に献上催促の手紙を出したり、御所の調度品に異様に興味を示したり、
祖父(公害企業の元社長)の死去に際してなぜか東宮御所に記帳所を設けたり、
陛下のお許しを得た皇族以外は泊まれない御用邸に、実母や妹家族が泊まったり、
静養先に必ず妹一家が同行したり…
あの実家メンバーには疑われても仕方ないほどの事実の積み重ねがあるからね。


2001年12月1日雅子出産に関して宮内庁公式記者会見での小和田優美子「赤ちゃま」発言編集

平成13年(2001年)12月1日東宮家内親王誕生当日、宮内庁病院への見舞いを済ませ、午後6時20分過ぎに宮内庁にて開かれた小和田恒・優美子夫妻記者会見にて優美子が発した単語。強烈な違和感とともにスレ住民奥様方に記憶されている。

「○○ちゃま」とは一般庶民には耳慣れない言葉ではあるが、「赤ちゃま」自体は、三笠宮家の方も用いた例がある(「母宮貞明皇后とその時代」)。美智子さまが高円宮夫妻を「憲ちゃま、久君(ひさぎみ)」と呼びかけたともされる(高円宮久子妃著『宮さまとの思い出』)。だがそれは御所/公家言葉(おもうさま、おたたさま等)を当たり前に用いる方だから自然なのであり、明らかにそうでない育ちの人間が用いると不自然かつ下品なことこの上ない。なお、読売新聞等を始め、優美子のこの発言部分を“赤ちゃん”とした報道もあるので、実際の会見音声で確認いただきたい。


おまけ:小和田家の「赤ちゃま」参考画像1967年8月 雅子(3歳)と礼節姉妹(1歳)。二人の妹の口元がゲロかと見紛う悲惨な状態。足元・敷物の上にも食べ物が散らばり、
片づける以前に態々写真撮影し、それを保管し、後に小和田雅子婚約内定にあたってマスコミ提供し公表することを決定した小和田家の感性が疑われてならない写真


雅子出産直前からの経緯編集

2001年11月30日夜、雅子、出産のため宮内庁病院へ移動

2001年12月1日午前7時、母小和田優美子が付き添いのため、場違いなヒョウ柄スカーフで病院へ入る
同日午前8時半には皇太子も病院到着

2001年12月1日午後2時43分、皇太子・雅子夫妻に内親王(女児)誕生
出産そのものは安産であったと報じられる

同日夕方、宮内庁病院にて内親王と小和田夫妻が対面

同日午後6時20分、宮内庁にて小和田夫妻による記者会見開催、優美子「疑惑のブローチ」着用

同日午後10時、皇太子が記者に内親王を抱いた感想を聞かれ「なかなか難しいものですね」と応じる

2001年12月2日、天皇皇后両陛下が宮内庁病院訪問、内親王と初対面

2001年12月1日雅子出産後、小和田恒・優美子「赤ちゃま」宮内庁会見編集
◾当日夜7時のNHKニュースようつべ

陣痛が始まり11月30日夜に車で宮内庁病院入りする雅子と徳仁の姿が冒頭映像。
5分00秒頃から、午後6時20分過ぎ宮内庁にて開かれた小和田夫妻会見映像。[結婚当日会見]に比しあまり嬉しそうではなく淡々と祝意を述べる恒に、優美子「新宮様もたいへんに可愛らしい赤ちゃまでいらっしゃって、本当に何よりと嬉しく存じます」発言。
小泉純一郎首相(当時)が恒例の囲み会見で祝意を述べる場面もあり。
8分05秒あたりから、会見に先立ち雅子と「赤ちゃま」を見舞い、午後6時15分頃宮内庁病院から出てくる小和田夫妻の姿あり。

「新宮様もたいへんに可愛らしいご様子でいらっしゃって、本当に何よりと嬉しく存じます」ぐらいにしておけばよかったのに、「赤ちゃん」といういかにも庶民チックな言葉を「ちゃま」で軌道修正したようにも思われところが、かえって違和感を与えた。

小和田夫妻が出産を終えた雅子と新生児を見舞ったのが出産誕生当日の12月1日夕刻、一方天皇皇后両陛下が宮内庁病院へ見舞いに訪れたのが翌2日であり、小和田夫妻は両陛下に先立って孫に会いに行ったわけである。
出産する妃の実母が娘の出産に駆けつけるというのは前例がきちんとあり、それ自体は問題ないと言える。それでもなお、「両陛下より先に“赤ちゃま”を腕に抱いたのでは」という疑惑が生じ取り沙汰されるのは、もはや日ごろの振る舞いと人徳(準皇族などを参照)としか言えないだろう。
何よりも問題視されるのは、皇族の誕生に当たって、その外祖父母が出しゃばった態度を取ったことといえよう。


『週刊現代』2004年6月19日号 <新聞テレビが報じない「浩宮の乱」 宮内庁はスパイなのか>
pp.30-31より引用
 雅子妃にとってたまらないのは、批判の矛先が、ときに父親の小和田恒にまで向けられることだ。たとえば、こんな指摘がある。ある宮内庁OBがいう。
「昭和天皇の香淳皇后が危篤になられたとき、小和田氏が御所に駆けつけてこられたんです。皇太子妃の父親なのだから、小和田氏が来るのは当然だと思うかもしれませんが、宮内庁では必ずしもそういう受け止め方ではありません。
 彼は元外務次官かもしれないが、皇族ではない。『皇族になった方の父親』というだけのこと。美智子皇后の父上、正田英三郎さんは、こういうとき、けっして目立つような真似はなさいませんでした。このときの一件は、皇后も不快に感じられていたようです。こうした行動が、宮内庁から見れば違和感になる。外務官僚特有の傲慢さが鼻につくということがあります」
 ちなみに、正田英三郎氏は美智子さまご成婚のあと、好きだった赤坂・銀座のクラブ通いを一切やめ、私欲も捨てて、最後は相続税のために自宅を物納するところまで身辺を清潔にしていた。
「それに比べて、小和田さんはいまだに贅沢な外務官僚の癖が抜けていないのではないか。よそ様から豪華な接待を受けて、平然としているではないか。
 愛子さまがお生まれになったとき、美智子皇后陛下より先に、雅子妃の母親の優美子さんが抱き上げたという話もまことしやかに流れています。真偽はともかく、そういう話が流れるほど、宮内庁では小和田家に対する反感が強いということです」(前出・宮内庁OB)


http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt30/20011202EIMI136202030001.html(webarchive)
NIKKEI NET 「愛子さま、初めてのお正月」特集
(12/2)両陛下、お孫さまと対面・「いい赤ちゃん」と笑顔
 皇太子妃雅子さま(37)のご出産から一夜明けた2日、天皇、皇后両陛下は宮内庁病院を訪問し、雅子さまをお見舞いするとともに、誕生した女の子と初めて対面された。陛下は「とにかく元気そうですね」、皇后さまも「いい赤ちゃんでしたね」とお2人とも笑顔で話された。関係者によるとお子さまの元気な泣き声が病室の外にまで聞こえてくるという。同日、皇居での一般参賀の記帳も始まり、皇居前広場には開門前からお祝いの人の列ができた。

それまでの妃出産と実家との関わり前例編集

良子皇太子妃殿下と久邇宮家編集

1925年12月6日午後6時頃良子妃(香淳皇后)が産気づき産殿に入り、大正天皇・貞明皇后への奏上(報告)の後、妃殿下の母久邇宮妃俔子殿下も御所へ伺候した。午後8時10分、赤坂東宮御所(現:迎賓館)内産殿にて照宮成子内親王殿下がご誕生。直ちに天皇・皇后に報告すると、天皇・皇后は典侍を東宮御所へ使わして祝意を伝えた。別室で待機していた皇太子裕仁親王殿下(昭和天皇)は、午後10時半頃内親王さまと対面された。

ところが、歴史的事実として晩年の大正天皇の体調は思わしく無く、照宮さまの参内は何度も延期された。翌年3月29日、初めての参内。これ以前には大叔母たち(明治天皇皇女)が東宮御所を訪れたと報じられている。この際、御所へ向かう道には多くの市民が集まった。1926年12月18日朝日新聞にて「御母殿下と照宮様、御病室へ 御重態の御枕辺に、御祖父陛下と初の御対面」と報じられており、天皇とは1年以上も対面できなかったことになる。12月25日に大正天皇は崩御している。

こうした状況で、久邇宮家が公式に感想等を直接発表した様子はない。ただし1925年12月9日朝日新聞「お姉宮の御手柄に 智子さんの感激」にて、良子妃の妹:大谷智子さんの日記を引用する形で、内親王誕生の喜びが報道されている。

また、昭和天皇・香淳皇后にとって待望の男児(継宮明仁親王=今上天皇)が誕生した際には、俔子妃は誕生直前に産殿に入り、産声を聞いたとされる。当時の報道では詳しい順序は分からないが、誕生当日のうちに昭和天皇・姉の三内親王・俔子妃は対面したとされ、皇太后(貞明皇后)は翌24日に天皇に挨拶した後、親王と対面した。

美智子皇太子妃殿下と正田家編集

1960年2月23日午前1時50分に美智子妃殿下が入院し、午前3時30分には妃殿下の母正田冨美さんも駆けつけた。午後4時15分、宮内庁病院にて浩宮徳仁親王誕生。東宮仮御所で待機していた皇太子明仁親王殿下(今上天皇)は午後6時頃に病院を訪れた。午後8時半、正田英三郎・冨美夫妻は記者会見に応じた。25日午前11時頃、昭和天皇・香淳皇后が初めて親王と対面された。


1960年2月24日 朝日新聞<静かな正田邸 ご誕生を祝って>
正田英三郎氏と冨美さんは、23日夜8時半、宮内庁で記者会見し、ご安産の喜びを次のように語った。
本当にこんなにおめでたいことはありません。両陛下、皇太子さまともにお喜びのことと思います。どうか、お子さまがすこやかにご成長するよう祈っております

当時は現在ほどオープンではなく、昭和天皇に対するご用邸でのインタビューも正式には“記者会見”ではなかった。正式な記者会見が開かれるのは1975年まで待たねばならない(参考)。正田夫妻に対する“記者会見”も、読売新聞では言及が見当たらず、今日的な意味での“記者会見”とは言えない可能性がある。いずれにせよ、正田夫妻が出しゃばった態度を取らなかったのは事実のようである。

秋篠宮妃紀子殿下と川嶋家編集

1991年10月23日病院での検査に訪れた紀子妃殿下はそのまま出産態勢に入り、秋篠宮殿下は午後10時前に病院へ駆けつけ分娩室近くで待機、川嶋夫妻は午後11時頃に到着。午後11時41分、宮内庁病院にて眞子内親王殿下がご誕生。翌24日朝、両陛下に出産が報告され、その夜両陛下が内親王さまと対面された。秋篠宮妃殿下の父川嶋辰彦氏は白居易の漢詩「春題湖上」から「碧毯線頭抽早稲 青羅裙帯展新蒲」を引用し、喜びと祝意を示したがそれ以上の発言などは読売・朝日・毎日各紙からは確認できない。


1991年10月25日 読売新聞<新内親王と両陛下が初のご対面/宮内庁病院>より引用
 帰り際、報道陣から、赤ちゃんはお元気でしたかと聞かれた天皇陛下は「とても元気でした」と答えられ、初孫を持った感想を「やはりうれしい気がしました」と、にこやかに話された。
 また、皇后さまは、赤ちゃんを抱かれましたかとの問いかけに、大きく首をふって「まだ」と言いながら、「とてもいい赤ちゃんでした」とうれしそう。
 一方、秋篠宮さまは、もう抱きましたかという質問に「ちょっとの時間だけ。あんまりやっていると壊しちゃうので」とはにかまれた。

1991年10月23日 「23日夜、宮内庁病院へ駆けつけた川嶋ご夫妻。紀子妃殿下の無事の出産を知り、天皇皇后両陛下がお会いになるまでは新宮さまとのご対面を控えられて帰途についた」との説明入りムック本カラー画像入り説明

以上より、川嶋夫妻も出しゃばった態度を取らなかったのは事実である。


参考:2015年春誕生した英国王室シャルロット王女とエリザベス女王とキャサリン妃実家ミドルトン家編集

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150528-00000015-mvwalk-movi (archive.is記録)
キャサリン妃、女王の命令で早くも公務復帰?
Movie Walker 5月28日(木)11時57分配信
公務復帰を迫られているというキャサリン妃/写真:SPLASH/アフロ
5月2日にシャーロット王女を出産したばかりのキャサリン妃が、早くも公務復帰を迫られているという。
【写真を見る】女王本人が祝賀パレードにキャサリン妃を出席させたいと希望?
キャサリン妃はジョージ王子を出産した時には39日間の育休を取ったが、今回はそれよりも長い休暇を願い出ていると伝えられていた。しかし、6月13日に行われるエリザベス女王の誕生日の祝賀パレードにキャサリン妃を出席させたいと女王本人が希望しているそうだ。
「女王は、育児休暇を1か月も取れば十分だろうと考えておられるようで、キャサリン妃は公務に復帰すべきだと主張しておられます。女王の誕生日の祝賀行事では壮大なパレードが行われますから、ドレスアップしたキャサリン妃が出席すれば世界中の注目を集めるのは間違いありません」と関係者がOK!誌に話している。
長男のジョージ王子もまだ2歳になっておらず、2人の育児で大変なキャサリン妃が公務復帰を迫られているのは、彼女の実母であるキャロル・ミドルトンがウィリアム王子の邸宅に住み込みで育児を手伝っているから大丈夫だろうと思われているという説もある。 また女王は、シャーロット王女が誕生した時に、自分よりも先にキャロルがシャーロット王女に会いにケンジントン宮殿に行ったことを快く思っていないという報道もあった。
いずれにせよ、今やウィリアム王子とキャサリン妃は最も人気のある英国王室のメンバーであり、自分の誕生日の祝賀行事に出席させたいと女王が望むのは無理もないことかもしれない。【UK在住/ブレイディみかこ】


小和田雅子と浩宮初めての出会いとされる1986年10月18日スペイン王室エレナ王女パーティについて、当日になって母小和田優美子が誘い「あれこれ考えさせないで」出席させたんだという内容の、元小和田家家政婦さんインタビュー記事編集
◾『女性セブン』2007年1月18・25号<25年来の家政婦決意の告白 雅子さま苦しみの背景─私の不安は的中した!>


p.43「小和田家で約25年間、家政婦を務めた淡島よしこさん(仮名・70歳)の証言」より引用
 世の中のイメージではパリッとしたキャリアウーマンみたいにいわれてましたけど、小さな女の子みたいに怖がりなところがおありなんだな、ってそう思いました。
 皇太子さまと初めてお会いになった、スペイン王女来日のパーティーの時もそうでした。
 あの日(86年10月18日)、優美子さんが当日になって“マーちゃんも行く?”と誘われて出席することになったんですが、もし何日か前にパーティーのことを話されていたら、雅子さまはたぶん、緊張して“行かない”といわれたと思うんです。あれこれ考えさせないでパーティーへ誘ったような気がします。

「あれこれ考えさせないで(徳仁との出会いの場となるスペイン王室エレナ王女)パーティーへ誘ったような気がします」記事を知った奥様方の感想編集

Part2035-459 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 01:18:21.89 ID:m5DXBMFf0
>>445は、結婚前から極度の緊張型というのがわかるエピなので
結婚させた親も親だけど、それを皇室のせい、職員のせい、
宮内庁のせい、国民のせい、にしてしまう本人と皇太子も酷い人格だと思う。
結婚した時、もういい歳の大人だったのに。

462 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 01:21:02.55 ID:bQyxuBxIO
>>445
母親がどーしても雅子を連れて行きたかったことがわかる記事ですね。
入内プロジェクトの中のミッションだわ。

465 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 01:21:40.51 ID:TaKvBEbW0
>>459
極度の緊張型だと、ドタキャンやドタ出や遅刻とかになっちゃうんですか?
この人、自分がやると言ったことを守れないのが問題じゃないかと思うんですが。

466 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 01:32:20.35 ID:UHex8PqE0
>>465
そりゃそうだ。
マサはそもそも自堕落なオンナなんだよ。OWD夫妻がその自堕落を隠蔽
しまくってハバド東大外務省って歩かせたはいいが、これほど肩書と一致
しない人ってめずらしいよ。

469 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 01:46:41.75 ID:m5DXBMFf0
>>465
わからない。普通なら準備期間があった方が出やすいよね。
直前だと、え〜っ!ってなる。
ただ、発達障害や精神疾患の人なんかは、早く知らせると
興奮したり緊張するので直前に知らせた方がトラブルが少ない
と聞いたことがあります。

472 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 02:10:38.91 ID:FHDvL4mM0
鬱で通院していたことがある。
その頃は事前に知らされると、緊張してキツかった。
ドタキャンもいろんな人にかましてしまいましたわ。
直前に知らされるか、知らずについて行くほうがまだマシだった。
でもそれはそれで、気を使ってそうしてくれた人に向かって
騙し打ちみたいだって怒りをぶちまけたり。
今はもう治ったけど。

ただ彼女の場合、何十年も前からず〜っとそうなんだね…

476 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 02:22:42.10 ID:HmSVE7X8O
私は小心者タイプで不器用だけど、
逆に当日に、行く?なんて言われたら困るけどな。
かなーり前々から言ってほしいタイプだ。
体調の準備や知識や持ち物の準備等整えないといけない。
それやれば安心していける。

びびりだから当日誘う、について話の筋がわからない。
誰もつっこんでないのが不思議。びびりはそっちが普通なのかな

477 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 02:24:14.46 ID:FLI8Vkpu0
「本人は行きたくて行った訳じゃないんですよー」って
事を言いたかったんじゃないかと思いますけどね。
皇太子様ってお偉いの?と一緒で。

484 可愛い奥様 sage 2011/03/09(水) 03:07:12.65 ID:m5DXBMFf0
>>476
ただの小心のビビリなら、準備期間を設けて心を整えて出席ができると思いますけど、
不安神経症系や強迫神経症系や発達障害系の人だと、
「今すぐ」「待てない」というのがあるらしいです。

早く、早くと急かしたり、食事が終わってすぐに立てないとイライラしてくるとか、
欲しいものが、今すぐ手に入らないとパニックが起こるとか。
障害があるため、日常的に、心の許容範囲が狭くて余裕が無いので、
緊張、不安、興奮すると、心の中がムチャクチャ忙しくなってしまうようです。

そういう状態が何日も続くと疲れ果てて行けなくなってしまうので
なるべく直前に行動を指示するらしいです。
それ以上は専門家でないのでわからないけど、知人の経験者が教えてくれました。


1989年8月小和田優美子が取材攻勢のため心神耗弱で救急車で病院に運ばれ、二十日間ほど入院したという『週刊新潮』1989年11月23日号記事編集

『週刊新潮』1989年11月23日号<「妃候補」小和田雅子さんの線はこうして消えた>
p.49より引用
 とまれ、雅子さんに何があったかは、つまるところご本人に聞くほかはない。が、先の近親者によれば、この二年間の小和田家の心労はなまなかのものではなかったという。
「雅子の両親は、一年四ヶ月の間は日本を離れ、OECD大使としてヨーロッパにおりましたので、マスコミにも追いかけられず、もう終わったこととしてホッとしていたのです」
 それが、この八月、父親の恒氏が外務省審議官として帰任したことで、一転、趣を変えた。礼宮の婚約発表とも相まって、小和田家は再び取材攻勢の真っ只中に放り込まれたのである。
「それでまず起ったのが、母親の優美子の心神耗弱。救急車で病院に運ばれて二十日間ほど入院してしまったんです。一方、オックスフォードにいる雅子は雅子で、皇太子殿下のヨーロッパご訪問に合せて、寮にまで記者たちに押しかけられてしまった。困った雅子は、日本にいる祖母にSOSの国際電話を掛けてきて、どうしたらいいだろうかと相談したんですよ。母親はダウンしているし、一部のマスコミには皇太子さまとパリで会うんじゃないかと書き立てられる。で、お婆ちゃん子の雅子は思い余って祖母に相談したのです」
 実をいうと、雅子さんが、報道陣に追いかけられ、ロンドンでインタビューに応じたのは、祖母の江頭寿々子さん(七二)から、この時、「雅子ちゃん、もうハッキリいいなさいよ」と勧められたため。


「高円宮妃の久子さんと雅子さんの母親優美子さんも旧知の間柄」と記す『週刊新潮』1993年1月21日号編集
◾『週刊新潮』1993年1月21日号 「皇太子妃内定」巷談 2小和田さんを承諾させた皇太子の「条件」


pp.46-47より引用
 皇太子殿下と雅子さんの四年十ヶ月ぶりの再会は、昨年(=1992年)八月十六日、千代田区にあるその柳谷邸が舞台になった。
 そしてもう一人、この再会までを陰に日向に支えてきたと目されるのが、高円宮憲仁殿下である。
 七年前の出会いのときから、高円宮殿下の存在は知られてきたが、
「一昨年(=1991年)九月に東京芸術劇場で中村紘子さんのチャリティーピアノ演奏会があったのですが、その打上げの席に、高円宮さまが雅子さんを連れてきていたのです」
 と消息通が明かす。
「皇太子さまに年齢も近い高円宮さまが、皇太子さまの意を汲んで雅子さんとの間をつないできたのでしょう。
 高円宮妃の久子さんと雅子さんの母親優美子さんも旧知の間柄という。


小和田恒の浮気で優美子夫人に異変?……てなとんでもなく下世話なことをめでたい筈の小和田雅子婚約内定時期に態々記す『週刊文春』1993年1月21日号中村紘子寄稿記事編集
◾『週刊文春』1993年1月21日号<特別寄稿 皇太子妃決定! 日本はとってもツイている!>中村紘子記事

p.159より引用
 思えばあれが発端だった。五年ほど前の年の暮、いや正確に言うと一九八七年十二月十八日の夜、外務省きってのピアノの名手で私が時々我が家の「ホームコンサート」で連弾をお願いする斎藤邦彦さん(現外務審議官)のお宅に夕食に招かれた時のこと、三十分近くも遅れて現れた小和田夫妻の様子が何となくおかしかったのである。
 とりわけ優美子夫人ときたら、何故かすっかりやつれて眉間には深い皺を寄せ、私たちの談笑にもどうやら心ここにあらずと言った風情で、時折あらぬ方向を深刻な眼差しで見つめていたりする。
 帰りの車中で私がその気がかりを話すと、おいしいお酒ですっかり出来上がった主人(補足:中村紘子の夫である、小説家の庄司薫)は言った。
「どんなに知的で誠実な紳士も、人の子であり男である、とする……」
「とする?」
「小和田さんに愛人がいて奥さんにバレた」
 同じくホロ酔い気分の私は、あのお名前どおりに優美な小和田夫人が闊達な静謐さとでも言った雰囲気を持つ希有の紳士小和田さんの銀髪に、爪を立てて怒り狂う図なるものを想像しようと試みたが、どうしてもうまくいかなかったのをよく覚えている。
 真相は翌朝たちまち明らかになった。開いた朝刊各紙の週刊誌の広告には、「小和田雅子さん、皇太子妃に」という活字が大きく躍っていたのである。


実の母親を「今日はばあやを連れて参りました」と平気で使用人扱いする小和田優美子編集
◾『婦人公論』1994年7月号 小和田家の家風と歳月 by渡辺みどり


pp.233-234より引用
 小和田夫妻の新婚時代を知る沢田敦子さんは、優美子さんの実家・江頭家の別荘に近い中軽井沢千ヶ滝に別荘があり、両家とも、夏は家族そろって軽井沢で過ごす習慣だった。(中略)
 優美子さんにはお茶目な面があり、母・江頭寿々子さんと共に沢田家別荘を訪れたおり、「今日はばあやを連れて参りました」などといい、傍らで寿々子さんが優雅に微笑んでいたこともある。


夕食会で隣席になった河野太郎相手に「うちの長女が生まれる予定日だったのよ」とどうでもいい話をして、何かにつけ長女雅子のことをアピールしたがる小和田優美子編集
◾河野太郎ごまめの歯ぎしり ハードコピー版(魚拓)

第6号 『日本外交を考える〜1998.3〜』
うちの長女
 
 小渕外相のお伴で、小和田国連大使主催の夕食会に出席しました。
外相がまだ大学生の時にワシントンを旅行し、当時のロバートケネディ司法長官に電話をしたら会ってくれて感激した話などで盛り上がっていました。 私は、小和田大使夫人の隣の席になって、結構緊張していました。
なにかの話のときに、大使夫人が、「あら、それは、うちの長女が生まれる予定日だったのよ」。
 その頃は、もともと何で緊張していたのかよくわからなくなり、思わず「ご長女は、何をされているのですか」と聞きかけました。
 「ご長女は」とまで言ったところで、あっと気がつき「あっ、いや、えっ、ひ、妃殿下は、お、お元気ですか」。なんか一人であせりました。


日本経済新聞2014年2月7日<私の履歴書>市川猿翁 第7回、高校時代に劇団で共演した江頭優美子について「雅子妃のお母様は若き日、演劇部員のあこがれだった」編集

日経新聞<私の履歴書>
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66455720W4A200C1BC8000/
市川猿翁(7)大学生活 ドラマ・映画…獅子奮迅 卒論に近松、歌舞伎観築く
2014/2/7付日本経済新聞 朝刊
 高校卒業を前に「くるま座」という劇団を仲間と結成し、旗揚げ公演で「行く先は何処だ」という空想スペクタクル物の台本を書いた。共演した一人が江頭優美子さん。後に小和田さんとなられた雅子妃のお母様は若き日、演劇部員のあこがれだった。
 1958年に慶応大学国文学科に入ると、キャンパスライフを満喫した。深夜までほっつき歩く。日記を見ると1日24時間フル活用している。勉強大好き(?)の喜熨斗(きのし)政彦ク…
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『週刊文春』2014年10月30日号<「セラピーが必要」と洩らされて…美智子さま80歳が憂慮される愛子さま「独りぼっちの特別授業」 先週の中間試験もご欠席 学習院は箝口令>より、言葉を話さず頷くか首を横に振るかしかできない愛子(1歳半程度)のために金澤一郎皇室医務主管の推薦で児童メンタルヘルス専門の奥山眞紀子医師が東宮御所を訪問開始、その流れで雅子のカウンセリングも。しかし宮内庁はひどい所と訴える雅子に奥山医師「ご自身も変わっていただかなければ」と進言→なんと小和田優美子が金澤医務主管に「とんでもない。次の人を探してほしい」と電話恫喝www編集
◾『週刊文春』2014年10月30日号<「セラピーが必要」と洩らされて…美智子さま80歳が憂慮される愛子さま「独りぼっちの特別授業」 先週の中間試験もご欠席 学習院は箝口令>

pp.28-29より引用
 実は美智子さまは、子供のメンタルヘルスを専門にする医師と交流を持たれている。それは奥山眞紀子氏(国立成育医療研究センターこころの診療部・部長)だ。
 国立成育医療研究センターは、子供の発達に関わる診療を行う代表的な病院で、奥山氏は小児精神保健が専門で、トラウマ、発達障害、不登校、虐待を受けた子供の治療経験も豊富な医師である。
 この奥山氏、愛子さまとは浅からぬ縁がある。
「奥山氏は約十年前、よく東宮に参内していたのです。雅子さまの主治医が大野裕先生に決まる前のことです。奥山氏は当時、埼玉県立小児医療センターに所属していました」(宮内庁関係者)
 小さい頃、愛子さまはコミュニケーションを取られることが苦手だったという。学習院関係者によれば、「初等科に入学される前も、私がお目にかかった時は、意思表示のために首を縦に振るか横に振るかだけでした。『声が出ないのかな? 出る?』とお尋ねしたのですが、コクンと頷かれるだけで」
 奥山氏の知人が当時を振り返る。
「東宮に参内していたのは古い話ですね。まだ愛子さまがお小さい一歳半から二歳ぐらいの間のことです。その頃は何回も何回も、東宮御所に伺ったようですよ。
 ただ、彼女が参内を続け、雅子さまのお話を聞くうち、妃殿下のカウンセラーのようになっていって」
 奥山氏はいつしか雅子さまのために参内するようになったという。しかし、ある決定的な出来事が起こり、彼女にお声がかかることはなくなった。
「カウンセリングの中で、宮内庁はひどい所と悩まれていた雅子さまに対して、あるとき奥山氏は『ご自身も変わっていただかなければ』という進言をした。以来、奥山氏にはぷつんと連絡が来なくなってしまったようです。そして、奥山氏を紹介した金澤一郎元皇室医務主管に、雅子さまの母である小和田優美子夫人から、『とんでもない。早く次の人を探してほしい』と電話があったのです」(前出・宮内庁関係者)
 以降、奥山氏が皇室とどのように関わってきたかは不明だ。当の奥山氏に話を聞いたが、ひと言、「ご進講はしています」と話した。ご進講の内容については話さなかったが、前出の奥山氏の知人によれば、最近でも「短時間の場合もありますが、参内をしているようです」という。


Part2875-186 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 11:24:52.85 ID:dzKmGh+L0
セラピーが必要と洩らされてのレポです
詳細は各自ご確認くださいませ

・中間テストの欠席の詳細(地理、英語B、古文の日)
・登校時間前にSP出陣、作業終了だが登校無しで試験開始時間前に全員撤収
東宮職関係者の言い訳
・朝8時30分に起きていることを確認、試験開始時間の9時30分には間に合うはず
 持っていくお弁当も準備完了、登校の手はずすべて整うが欠席
二学期の始まりからの回想
・9月6日始業式は朝から登校
・一週目一日欠席
・九月中旬は週1程度午後から登校
・ほとんど就寝は深夜という生活リズムが乱れる
・中間テストも欠席

宮内庁担当記者コメ
・中間テスト欠席は知っていた(関係者への取材)が取材を控えろと言われたから詳細はわかりません
9月10日のコマッチ会見
・通学中の写真を掲載した女性誌があり「静かな環境を」と日本雑誌記者協会に要請したと公表
9月6日以降の登校状況
・遅刻が4回、欠席2回、金曜日が遅刻が目立ち9月26日より3週連続で午後登校
・アルフォードのまま北門通過(金曜の午後14時過ぎ)もある

続きます

194 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 11:41:35.20 ID:dzKmGh+L0
セラピーが必要と洩らされて・・のレポ続き

で、マサコはというと
・9月下旬から月〜土は普通の時間起床で朝7時台に揃って朝食
・長年の昼夜逆転を改善
・何とかしなければの決意か(東宮職関係者)
だが、学校の無い日が「普通の日」という職員
・皇太子→朝8〜9時朝食、12時昼食
・マサ、アイ→14時過ぎに昼食(朝食?)
・皇太子→22時夕食
・マサアイ→23時皇太子の夕食に合流

皇后陛下の御憂慮とは
・アイコの日常生活に付いて
・学習院校内で起きる普通ではない深刻な事態
千代田関係者
・普通の授業ではない特別な授業を受けているようだ
・一人授業に特別な先生が付く授業
・きちんと登校出来ていない
9月21日の収穫の時にアイコとの会話で気が付かれたのではないのだろうか(千代田関係者)
・10月皇后陛下がセラピーが必要な段階に来ているとはっきり
・臨床的な心理相談が必要という意味であろう
奥山真紀子氏の紹介
・トラウマ、発達障害、不登校、虐待を受けた子供の治療経験も豊富な医師
・10年前、コミュの苦手なアイコのために東宮御所に行っていた
奥山氏知人
・アイコ1〜1歳半くらい、東宮御所に何回も
・マサコの話を聞くうちにマサコのカウンセラーのようになった
・宮内庁はひどい所というマサコに対して「ご自身もかわっていただかなければ」と進言してそれっきり
ババンから奥山氏を推薦した金澤医務主管に「とんでもない。早く次の人を探してほしい」と電話
奥山氏は短時間の場合もあるが参内しているようだと知人
続きます

205 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 11:49:40.97 ID:dzKmGh+L0
セラピーが必要と洩らされて
続きです
・学習院は厳しい箝口令
・愛子さまの学校生活に付いては口外しないように
・皇族が通うというブランド力が宮様方の学習院離れにより低下
・最後に残った玉である愛子を引き留めるために特別扱いが拡大か
・皇太子ご一家はお客様

女子中等科での特別授業
・初等科の付き纏い登校の産物ではないか
・国語、理科、歴史の担当教諭はノーコメント、広報を通せ
・東園常務理事は9月末で退官
・後任の常務理事は「まだ学校に行っていないので把握していない」

〆は問題の本質から目をそむけず「セラピーの必要な段階ではないか」と具体策を話された美智子さまに対し
東宮職や学習院はご意見を拝聴するべきではないか


579 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 18:20:28.33 ID:dzKmGh+L0
奥山真紀子氏についてレポ補足します
「小和田夫人から怒りの電話が」
・皇后陛下から見たらアイコの側には適任と思われる臨床心理士や児童や思春期に詳しい専門家がいないと思われている
・皇后陛下は子供のメンタルヘルス専門にする医師と交流がある。それが奥山氏
奥山真紀子氏と東宮の関係
・約十年前オーノが主治医になる前に東宮に参内していた
学習院関係者
・初等科に入学する前は意思表示は首を縦に振るか横に振るだけ
・「声が出ないのか」の問いかけにも頷くだけ

奥山氏の知人談
・アイコが一歳半〜二歳くらいの時代の話
・参内を続けるうちにマサコのカウンセリングのような役割も
・マサコのために参内するようになる
・カウンセリングの中で宮内庁はひどい所と悩むマサコに「ご自身も変わっていただかなければ」と進言
・以来ぷつんと連絡が無くなる

奥山氏を紹介した金澤医務主管にババンから電話
「とんでもない。次の人を探してほしい(原文ママ)」by宮内庁関係者

その後の奥山氏に関して
・本人は取材に対し「ご進講はしています」
・知人は最近でも参内はしているようだ
レポ終わり
これだけですので、ババンが言った言葉が奥山氏がとんでもないのか、辞めたのがとんでもないのかはわかりかねます


582 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 18:23:13.94 ID:+CGyxJPO0
文春 手元にあるけれど読んでも分からない箇所がある。

  以来、奥山氏にはぷつんと連絡が来なくなってしまったようです。
  (優美子さんのカッカ発言 省略)
  以降、奥山氏が皇室とどのように関わってきたかは不明だ。当の奥山氏に話を聞いたが、一言
  「ご進講はしています」と〜〜


上3行は原文のままなんだけれど、ご進講は東宮の誰かにしているんだろうか?
それとも古くから交流のある皇后陛下へのご進講なんだろうか?
いまいち誰にしているご進講なのか理解できない。
文春読んだ人、おバカな私に読み解いてくださいませ。


593 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/23(木) 18:35:34.52 ID:47u16iFC0
>>582
文春手元にあります。
同じく理解できません。
ARERAを気遣っているのか大変ぼかしておっしゃってますね、奥山氏もその知人も。
ちなみにその奥山氏の知人(誰よw)とやらは
「最近でも、短時間の場合もありますが参内をしているようです」
と言っていますね。誰だか明言してません。
超ぼかして書いてますね〜〜。ハハハ。
参内、を辞書で調べました。
参内というのは「宮中に参上すること。」だ、そうです。
宮中=御所…両陛下の元へ、ということではないでしょうか。


Part2876-176 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/24(金) 19:05:23.00 ID:5/QB6cAO0
文春ざっと読みましたわ

【東宮職関係者談】
「職員の間では『今日も普段通りですね』と言い交わし合う、”普通”のリズムがある
愛子さんの学校のない日の日常風景=既出のナル朝食(8〜9時の間)マサアイの昼食(14時過ぎ)ナル22時夕食マサアイ23時合流
職員が下がるのが午前1時 これが”普通”」

【千代田関係者談】(皇后陛下から直接お話しを受けた)
皇后陛下と愛子さんの会話
皇后「学校は楽しいの?」
愛子「先生はとても良い方」
皇后「お友達は?」
愛子「友達は一緒ではないけれども、別の先生に教えていただいている」

皇后陛下
「愛子だけが特別に、好きな先生から個別授業を受けているようなのよ」
「愛子はもう子供ではない。中学に入ったのだから、大人です」
10月に入ると愛子さまについて「セラピーが必要な段階に来ている」(はっきりと仰った)
「愛子と話していても、愛子にとって適切な対応が取られているようには思えない」

(続きます)

179 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/10/24(金) 19:06:17.33 ID:5/QB6cAO0
・実は美智子様は(記事の地の文)子供のメンタルヘルスを専門にする医師と交流を持たれている
それは奥山眞紀子氏(国立成育医療研究センターこころの診療部・部長)
【宮内庁関係者談】
約10年前(当時は埼玉県立小児医療センター所属)に東宮参内
【奥山氏の知人談】(当時を振り返り)
愛子さま1歳半から2歳ぐらいの間のこと 何回も何回も 妃殿下のカウンセラーのようになっていく
雅子「宮内庁はひどい所」
奥山氏「ご自身も変わっていただかなければ」
→その後、奥山氏にはぷつんと連絡が来なくなってしまった
→優美子(電話)「(奥山氏を紹介した金澤皇室医務主管=当時=に)とんでもない。早く次の人を探してほしい」


記者が奥山氏に取材
奥山氏「ご進講はしています」
前出の知人「奥山氏は、短時間の場合もあるが参内をしているようだ」
〜〜〜
この流れだと雅子愛子に進講とかはないし、多分、お相手は皇后陛下なのでは?と推測されます


小和田優美子についてのその他書き込み集=編集

小和田何様編集

Part943-699 可愛い奥様 sage 2007/07/22(日) 17:25:15 ID:ZOGIjLry0
雅子ママのフルネームをなんとなくググってみたが関連検索のところで吹いてしまった。
なんでそれを検索してるのw

724 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 17:50:41 ID:VrK5ALXB0
>>699
面白すぎますわw

726 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 17:53:42 ID:A7lmBf6S0
>>699
ワロタw

729 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 17:58:11 ID:n7SKUlYV0
>>699
それでもって、その関連検索で139件も出てくるところがなんとも凄い。
しかも、偶然同じページに出てきた言葉ではなく、ちゃんと文脈が合ってるw


730 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 17:59:23 ID:f5gp2mkZ0
>>699
関連検索:
小和田優美子 何様

ワロタ

825 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 21:00:40 ID:RhUhCE+50
出るよ。「小和田優美子 何様」って。

826 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 21:01:12 ID:ZOGIjLry0
>>822
一番下に
関連検索:
小和田優美子 何様
と出ます。確認してみたけど出ましたよ。


828 :可愛い奥様:2007/07/22(日) 21:05:01 ID:+rOVm4uW0
何様ハゲワロスww

雅子入内にあたって小和田家が遠い親類縁者にまで30万円の祝い金を要求していた件について編集

Part856-916 名前:可愛い奥様 :2007/04/30(月) 11:13:53 ID:ksGvMQr70
>小和田家は現金で受け取った

そうかもしれません
雅子さんのご結婚のとき、小和田家側のお祝いの会がありました
ご親戚(かなり遠い)までお知らせがあったんだけど
そのとき、「住宅ローンもあって小和田家も金がないので
お祝いはご親戚一律30万円で」
ってお願いがあったそうです
「こんなこと一生に一回しかないから出てみたいけど
30万ってねぇ」
ご主人のほうが「ほんのすこしカスル程度よ」っていう親戚で
普通なら結婚の連絡もないような付き合いだそうです

呼ばれた方が言ってるのを直接聞きました
「雅子さんってどんな方?」ってきいたら「ぜんぜん知らない」って

小和田優美子と親交のある京子スペクター(デーブ・スペクター夫人)が証言、着替えでズボンを後ろ前に履いても平気な優美子編集

Part855-194 可愛い奥様 sage 2007/04/27(金) 15:12:02 ID:79Dn8M0G0
京子スペクターが優美子と一緒に海外のバスツアーに参加して、
サファリかどっかで途中着替えをしたそうなんだけど、
優美子はズボンを後ろ前にはいてしまった。
「あら、履き替えたら?」と言ったが、
「大丈夫」といってそのまま
後ろ前のまんま。
 
京子スペクターが優美子のことを気さくな人として紹介したエピ。

大人の女がやることかと思ったが、わかんなきゃ、まー良いって感覚なんだろうな。

コンクリ御殿話から出てきた優美子「公費相乗り」作戦編集

Part1240-807 可愛い奥様 sage 2008/06/08(日) 12:29:45 ID:eizx36Hc0
流れに乗れてなくて申し訳ないんですが、O邸根抵当権抹消(97年)について。

これは、国連大使在任中(94-98年)で、高額な大使公邸購入と改装工事の時期に当たりますよね。
この改装工事をしたのが、O邸を設計したA氏のはずです。
と申しますのも、A氏の下請け内装業者が「Aが以前公邸の工事をさせていただいた関係で、
このたびのO邸『改装』も依頼されたのですが、今回は、いつもAと一緒に仕事をしている私が、
させていただきました」と言って、O邸内部の写真を見せてくれたんです。

つまり、公邸改築費の一部を流用したか、それとも、巨額な改築工事を請け負わせる見返りに、
「抵当権抹消」をさせたのではないかろうかと思います。

なお、ごちゃごちゃしそうですが、O邸の「改装」は2000年前後です。

この頃に、親宮誕生のための東宮御所改装工事が行われたと思いますが、これを担当したのが
どの業者か、お判りになる方がいらっしゃると、再た々々意味深になろうかと。

このような「公費相乗り」作戦は、Y夫人も試みたことがあります。

ある有名なオートクチュールで洋服をオーダーしたのですが、仕上がり品についてきた
「請求書」をM妃のものと一本化するように要求。これを店側に拒否されたため、
「ボタン位置が悪い」とクレームをつけて支払いを拒否しました。修正不能な部分ですので...。

当然のことながら、以降、その店にはお出入りお断りとなっています。

なんか凄まじいドタ出モンスターカスタマーらしい優美子話編集

Part1407-162 可愛い奥様 sage 2008/12/02(火) 23:08:09 ID:TLFi0Xpo0
小和田姉妹がやらかした話は青山界隈で聞いた事ない
ただ母御が凄すぎると ハナエモリでも無茶吹っかけまくりだったとか
娘もそれみて変な事覚えたのかもしれない 
短大時代の先生がこの母御とお店でバッティングしたら諦めると言ってた
何があったかは決して教えてくれないよ 特定されるからね

224 可愛い奥様 sage 2008/12/02(火) 23:45:32 ID:TLFi0Xpo0
母御は特に凄いみたいね 雅子さん自身のことじゃないからチトきいた
この母御1人の為に店員総出 クレームのつけ方の人間の枠超えてる凄さだと
つか思う通りに行かないとヒステリー状態
店に行った先生バッティング→店員一同それどころじゃなく放置→諦め帰る
こんな形らしい 伝聞ですみません 

249 可愛い奥様 sage 2008/12/02(火) 23:58:29 ID:TLFi0Xpo0
実際にお店行って母御の姿みて即刻短大に戻ってきた先生も居たらしく・・・
諦め帰らざるを得ないということは、多分母御は神出鬼没のドタ出女だと思う
ちゃんと予告して店に来てクレームならやりようあるよね

ただクレームの内容は教えてくれません

オランダで満席のレストランに毛皮のコートにお付きを連れて入ってきて、断られると「そこの客を帰らせて私たちを入れなさい! 私を誰だと思っているの!!」って30分も恫喝するのはやめて欲しい編集
◾ニュース速報+板:【皇室】宮内庁長官、雅子さま付き添い「心配している」★3より

403 名無しさん@12周年 2011/09/25(日) 02:41:55.55 ID:uUkHWkLV0
>>395
それに祖母の優美子も加えて。
三代で終わってる。

小和田優美子は、オランダで満席のレストランに毛皮のコートにお付きを連れて入ってきて、断られると「そこの客を帰らせて私たちを入れなさい! 私を誰だと思っているの!!」って30分も恫喝するのはやめて欲しい。

日本人の恥。

「つららになったよだれをものともせず橇遊びに熱中していた幼かった娘たち。」表現がインパクトある、優美子がとある機関誌に寄せたソ連モスクワ時代の回想を綴った文章編集

Part1350-265 可愛い奥様 sage 2008/10/16(木) 15:37:28 ID:UFbtxMBWP
全体的に修飾過多、中に「?」な表現が混じる...というのは、ババンの文章の特徴。
以下に、ある機関誌に掲載されたものを抜粋します。(1999年出版)

『私が初めての任地モスクワに赴任したのは、1965年8月末のこと、夏を思わせる
美しい青空の下の空気はすでにキリリと冷たく、白樺林は黄金色に輝き始め、日に日に
秋の深まり行く頃でした。9月には初雪も降って、長く厳しい冬の訪れが目の前に
迫っておりました。
(略)
お正月にはお節料理の真似ごとでもと真先に取出した缶詰類は、極寒のシベリアを
旅する間にきっとカチンカチンに凍ってしまったのでしょう、缶は真ん丸に膨れ、
中には輪ゴムのような白滝、期しゴムのようなこんにゃく、スポンジのような竹の子や
蕗の水煮.....どんなにがっかりした事でしょう。
(略)
時には零下30度近くなる冬の日々、西日を受けて空中に輝くダイアモンドダスト、
風に煽られ地表を舞うように飛ぶ粉雪、カチカチに凍ったモスクワ河の上を走り回る
オートバイの爆音、しいーんと静まりかえる森の中を黙々と進むクロスカントリースキーの
楽しさ、つららになったよだれをものともせず橇遊びに熱中していた幼かった娘たち。
 そんな寒い日に家族で囲む食卓には、暖かいボルシチの甘酸っぱい香りが漂います。』

とにかく、自分の「書きたい」ことが満載で、取捨選択が出来ていない。つまり、
読む側については、配慮無し。

初めて目を通した時にもクラクラしましたが、改めて転記してみると、頭グラグラです...。


335 可愛い奥様 sage 2008/10/16(木) 16:59:37 ID:UFbtxMBWP
265です。
それでいて、この文章の後には「ボルシチの作り方」(但し、大使館付きのコックさんによるレシピ)
が続くんです。

作りたいって思います? この「読後」に...。

2009年12月3日秋篠宮家悠仁殿下が来年春お茶の水女子大付属幼稚園に入園決定と宮内庁発表、情報を探ろうとでもいうのかお茶関係者のツテを求めて優美子があちこち電話?編集

Part1685-254 可愛い奥様 sage 2009/12/04(金) 22:12:11 ID:/gMfnbfwO
ゆみこさん、必死でお茶の水付属のツテを求めてあちこち電話。
何をしようとしているのか…
筒抜けですよん


2011年NHK大河ドラマ『江』が小和田優美子のお気に入り?自分と「お市の方」を同一視??編集

Part2024-958 可愛い奥様 sage 2011/02/25(金) 11:30:05.69 ID:xr1EdVKv0
新スレ乙でした

江の字をみて思いだしたので梅草

優美子さんは今年の大河がお気に入りで
録画したものを送ってもらって観ているとか。
なんでも、三姉妹とその母に自分たちを重ね合わせているとかなんとか

↑というのをどこかで(ネット上で)みた


971 可愛い奥様 sage 2011/02/25(金) 11:44:17.66 ID:x78XJMaY0
>>958
自分をお市の方にみたててるの?www
すげー図々しい。
娘同様自己認知が激しく歪んでいるな。
雅子=茶々はちょっと被るところもあるかも…

2人とも非業の死を遂げてるけど、敢えて柴田勝家に嫁いだ市の
心など、小和田のババアに分かるわけはないわ。ケッ。


974 可愛い奥様 sage 2011/02/25(金) 11:47:20.04 ID:phkOZr2E0
【話題】NHK大河ドラマ「江」 視聴者がついていけない! ひど過ぎる!1話につき6000万円の受信料が使われている。我慢できない!
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1298596984/

【芸能】1話6000万円をかける“お笑い”大河「江」は悪評しきり★2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1298581088/

975 可愛い奥様 sage 2011/02/25(金) 11:47:27.53 ID:ESZFT8z40
ユミコww保奈美演じるお市の方を自分に見立てるなんて、チト無理くり過ぎでしょ
保奈美は少なくともビシっと決めるところは決められるぞ

ユミコじゃ全然ダメじゃんって印象しかない
その娘たちもw
廂の尻叩きながら付いてきただけの、おバカで料理嫌いの女って印象だけ


小和田家について「お手伝いさんが週3の通いだったからじゃない。」「成長過程の子供3人もいて、まとめ炊きの保存食作らせるなんて、心底ケチだよね。」「いつでも食べられるものをたくさん作って保存用にして帰れみたいな要求。当人らは、当時はそこそこ珍しい電子レンジでチンしていつでもハンバーグ食べられるのよってご自慢だったらしいですが。当時の関係者ちょっと知ってるんだよね。」「優美子って美容院の前に迷惑駐車するのが恒例だったんでしょ?」「お手伝いさん、焼き豚のタコ糸は切ってからしまえよ。マサコちゃんが食べてしまったそうじゃないか。」編集

Part2516-51 可愛い奥様 sage 2013/02/12(火) 19:49:22.12 ID:sz/H341p0
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071201074437.jpg

あんまり料理はうまくはなさそうですね。
しかしウィンナー数本炒めてるときにこんな顔する???w


100 可愛い奥様 sage 2013/02/12(火) 21:54:32.23 ID:jjxHorC80
>>51
しかしこの写真見ていつも不思議に思うのが、1升炊きと思われる巨大電気釜。
庇はほとんど夜は宴会だろうし女4人でこんなにごはん食べるのかとw。


108 可愛い奥様 sage 2013/02/12(火) 22:34:50.63 ID:HWwqimWb0
 >>100
お手伝いさんが週3の通いだったからじゃない。
ババン一切自炊しないんだから毎日雇えっての。
成長過程の子供3人もいて、まとめ炊きの保存食作らせるなんて、心底ケチだよね。
子供の心身の健康なんて考えてもいない。
栄養完璧な、きょうのおいしいご飯を作ってほしいじゃなくて、
いつでも食べられるものをたくさん作って保存用にして帰れみたいな要求。
当人らは、当時はそこそこ珍しい電子レンジでチンしていつでもハンバーグ食べられるのよってご自慢だったらしいですが。
当時の関係者ちょっと知ってるんだよね。
家政婦を心底バカにして生きたババンの娘が、今も使用人をうまく使えてるとは思えません。


156 可愛い奥様 sage 2013/02/12(火) 23:54:43.16 ID:eyIRIfDY0
ああ、なるほど。
一升炊き釜は、一日中保温しておくためですね。やっと理解出来た。


191 可愛い奥様 sage 2013/02/13(水) 01:29:37.14 ID:A+DFa/+nI
優美子って美容院の前に迷惑駐車するのが恒例だったんでしょ?
地域で嫌われてそう。


204 可愛い奥様 sage 2013/02/13(水) 02:52:09.27 ID:Zj5fJ2jTO
三人いる娘のうち、二人の姑の名前が同じなんだよね、owd家って


222 可愛い奥様 sage 2013/02/13(水) 07:50:00.51 ID:EOOyoiP20
 >>108
お手伝いさん、焼き豚のタコ糸は切ってからしまえよ。
マサコちゃんが食べてしまったそうじゃないか。

2014年6月17日桂宮宜仁殿下斂葬の儀に出席された奥様情報、「小和田恒優美子」夫婦個人名で供花した小和田夫妻について編集

Part2796-62 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:16:36.21 ID:LHiMLRm50
拝礼し、安らかにとお祈り申し上げてきました。
彬子さま、常陸宮同妃両殿下、高円宮家の方々がいらっしゃいました。

小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました。
近衛家、黒田家等、他の方々は、家のお名前で、
財務大臣や都知事等の方々は官職名のみ、または官職名付でしたのに…
正田家、川嶋家からのお花はなかったので、連携がとれてないのだなあと、思いました。


66 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:22:35.98 ID:QPn//8qr0
>>62
お見送りされたんですね。お疲れさまでした。

小和田家では葬儀は目立つためのイベントなのかと。
あの一家は本当に残念なオツムの人ばかりなのね。


67 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:22:52.51 ID:tOxcakA20
>>62
むしろ
>小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました。

が突出していて、異様。
勝手にやらかしたんでしょう。

正田家がなさらないのなら、
小和田はするべきではない。
川嶋家の対応で〇
元皇族(清子さま)や親族(近衛家)とは立場が違います。


70 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:25:43.58 ID:F638XBXZ0
>>62
他の方々は家名だけなのに
小和田恒・優美子ってフルネーム書いてあったの?
目立ちたいんだなー


72 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:28:00.52 ID:n6lW2xzm0
>>62
小和田恒・由美子って木札に書いていたの?


74 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:29:08.77 ID:ILOLB8MM0
ジジン、ババンの花はどこが用意したのかね。誰が支払ったんだろう


79 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:33:26.56 ID:f308MeNC0
こういうお花は官庁は秘書課あたりに手配頼むのよ。弔電とセットが多い。
ガイムの担当者はなんでうちに支払わせるの?と思いながらも、名前をどうするか聞いただろうね。


85 可愛い奥様@転載は禁止 2014/06/17(火) 14:42:55.37 ID:7LlKeDAx0
小和田恒・優美子夫妻からのお花がありました

まさしくオワダ何様!?


86 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:43:06.99 ID:LHiMLRm50
>>67さま
62です、私も、同じ考えです。
連携がとれていないのは小和田夫妻、と思っての書き込みでした。
せめて正田家、川嶋家に確認すればよろしいのに…

>>72さま
その通りです。
家名、官職名のお花の中で、夫妻連名での個人名の大書、目立ちました。
寛仁親王殿下のときも、そうでした。


87 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:45:05.87 ID:DtYjuTfg0
小和田は宮家のつもりなんじゃね??

東宮御所にお住まいだから勘違いされたのよw


91 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:50:40.98 ID:49HobP0F0
過去にはおしかけ騒動、記帳騒動もあったし
やっぱりおかしい人たちなんだよね


92 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:54:12.92 ID:Voqifg1N0
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1402983963777.png

ふとましいね

ジジンババンの花は東宮職が気をきかせて出したと言っても驚かないわ
本当に、皇族気取りなんだね


93 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:54:14.13 ID:nIfXltPf0
>>86
>寛仁親王殿下のときも、そうでした。

ハナッから連携するつもりなんて無いんでしょうね
普通は悪目立ちを恥ずかしく思うものだけど、小和田夫婦は 「悪目立ち上等」 な価値観なんでしょう


奥様は両殿下のご葬儀にいらしたんですね
頭が下がります


94 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:55:09.78 ID:fWPcDh6pO
>>62 お疲れさまでした

ジジン、最低
宮内庁は見逃してるんだね、並びの順番とか必ずあるはずだから札を見ないはずはない


95 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 14:58:32.58 ID:c25/9eDW0
>>93
「正田さんも川嶋さんも気が利かないわねw」ぐらいは思ってそう


97 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:00:47.99 ID:Ehci3+et0
ジジンは
正田家…息子の代(皇后陛下のお兄様)になっているし、官僚>粉屋
川嶋家…官僚>学者
ぐらいしか思ってないだろうな。

もう、ジジンは人生を完了してほしいよ。


98 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:01:27.37 ID:IRDjXFkk0
>>86
奥さまは、ご葬儀にいらっしゃったのね。
乙でございます。
OWDには、根っから「家」という概念が欠落しているのでしょうね。
つくづく下賤の出らしいエピですわ。


102 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:13:03.02 ID:uEWtYw3/0
>62
owd恥ずかしー。
そもそも名家じゃないんだから小和田といったら自分たちしかいないのに、
わざわざフルネームってw


103 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 15:14:18.84 ID:KTib1zq/0
>>92
東宮職にジジンが指示出したに10000ヨロヨロですわ。

ジジンとババンが「花出しておけ」と言うから個人名なんじゃない?
てか、一般からの供花供物は受け付けないと、要綱にあったのにw


153 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/06/17(火) 16:19:01.96 ID:LHiMLRm50
天皇陛下・皇后陛下、皇族の方々からは、お花ではなく、
榊(のようなもの)が祭壇の両側に立てられていました。

お花は、皆さま同じでした。

祭壇の向かって右側には、祭壇側の上段から、
近衛家・島津家・黒田家等のご親戚、
財務大臣麻生太郎(寛仁親王妃ご実家でしょうか)、
「小和田恒優美子」、
閣僚・衆議院議長等、都道府県知事等、
の順番でした。

桂宮殿下のご公務の関係の方々からのお花は、祭壇の左側を飾っていました。

映像では、三笠宮殿下は、お強く気丈であられましたが、
心中いかばかりお悲しみでしょう…

とある観光地の奥様会に呼ばれて遅刻し、一方通行を運転手に逆走させた挙げ句、咎めた警察官に対して、窓から「小和田ですけど」と言い放って運転手にそのまま逆走を指示させてたよ優美子は編集

Part2907-864 可愛い奥様@転載は禁止 sage 2014/12/20(土) 02:05:54.35 ID:/0Ov3jzt0
準皇族wwww
どんな状況でも顔パスできると本気であの一家はそう思ってるよ

とある観光地の奥様会に呼ばれて遅刻し、一方通行を運転手に逆走させた挙げ句、咎めた警察官に対して、窓から「小和田ですけど」と言い放って運転手にそのまま逆走を指示させてたよ優美子は。

目の前の会場入口で待っていた奥様達も警察官もポカーンw

その観光地の組合員なら誰もが知ってるエピソード


Yahoo!知恵袋より<山屋他人大将のご息女寿々子さんが(昭和天皇の)側室候補にあがったとき陛下は側室を賛成された。><それから20年余りたった昭和30年ごろ、明仁皇太子のお妃候補に江頭優美子さんがあがった。><その後宮内庁から「せめて弟宮に優美子さんをお妃に」という声が出て義宮に優美子さんを紹介させお二人は生涯をともに過ごそうと約束された><(礼宮は)小和田礼子さんを紹介された。同じ「礼」の字もあってか、お2人はすぐに気が合い、生涯をともに過ごされるところだった>なるイカれた書き込み編集

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027976140 (魚拓)

◾皇室のお妃をめぐる記事ですがこれ本当ですか?ある掲示板から拾いました


質問者smac_anaruさん2009/7/518:53:52
皇室のお妃をめぐる記事ですがこれ本当ですか?ある掲示板から拾いました
昭和天皇に世継ぎがなかなかお生まれにならないとき側室制度が議論された。
このとき陛下は「良宮でいい」と側室を拒否されたが、
山屋他人大将のご息女寿々子さんが側室候補にあがったとき陛下は側室を賛成された。
しかし、皇后が不慮の妊娠をし、生まれたのは男の子。
寿々子さんが側室になられるのを期待した多くの国民たちは残念がっていた。
それから20年余りたった昭和30年ごろ、明仁皇太子のお妃候補に小和田優美子さんがあがった。
彼女の美しさに惹かれた明仁は求婚されたが粉屋の小娘である正田美智子と
政略結婚させられ、その後宮内庁から「せめて弟宮に優美子さんをお妃に」という声が出て
義宮に優美子さんを紹介させお二人は生涯をともに過ごそうと約束されたのに
種無し説が飛び回り、その結果小和田優美子さんは義宮のもとを去ってしまう。
その後義宮は石女の津軽華子と結婚する羽目になり、生涯小梨という悲劇に見舞われる。
そして1980年代に入ったころ。どこにでもいるような庶民と交際する礼宮。
しかもその庶民とは3DKのレオパレス21のボロアパートに住む川嶋紀子だった。
昭和天皇とその側近から別れるよう命じられ、小和田礼子さんを紹介された。
同じ「礼」の字もあってか、お2人はすぐに気が合い、生涯をともに過ごされるところだったのに
紀子の誘惑により、礼宮は精神を病み、礼子さんを泣かせてしまう。
そのことを知った昭和天皇はご体調を崩され、
20年前の1989年(昭和64年)1月7日6時33分、吹上御所で崩御された。
まだ喪が明けていないというのに堂々と婚約を発表した礼宮と川嶋紀子。
即位式を挙げていないのに結婚し秋篠宮家を興した文仁と紀子。
その後、徳仁皇太子殿下が小和田雅子さんとご成婚され、
皇室は闇から救われたのである。2001年には敬宮愛子内親王殿下がご誕生。
やがては愛子内親王殿下が明るい未来を築き、すばらしき女帝になられるでしょう。


https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%84%AA%E7%BE%8E%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c32

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
33. 中川隆[-11763] koaQ7Jey 2019年3月01日 11:06:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[218]

雅子様、香淳皇太后のお葬儀を御欠席(2000年)2014/12/11
http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-71.html


雅子様は香淳皇后のお葬儀に出席しませんでした。
っていうか、そんなこといたしません。

でも、新婚のときはちゃんと出てたんだよ☆

1995 8 31 秩父宮妃 れんそうのぎ (6)
1995年8月31日 秩父宮妃 斂葬の儀

あー信子さまもいる。高円宮もいるね。
常陸宮様が隠れちゃって残念〜

秩父宮妃勢津子様って、松平容保の孫だよね!?
ナス子は新選組と会津藩のファンなので、何度か容保様のお墓に行ったよ〜


1995 8 31 秩父宮妃 れんそうのぎ (2)
1995年8月31日 秩父宮妃 斂葬の儀

キコちゃん悲しそう…。

1995 8 31 秩父宮妃 れんそうのぎ (5)
1995年8月31日 秩父宮妃 斂葬の儀

ごめん、誘惑に負けて拡大した。


1995 8 31 秩父宮妃 れんそうのぎ (3)
1995年8月31日 秩父宮妃 斂葬の儀 雅子様 徳仁サン 三笠宮親王 百合子様

さてわれらが雅子様〜
あっ徳仁サンがすごくまともに見える。


1995 8 31 秩父宮妃 れんそうのぎ (4)
1995年8月31日 秩父宮妃 斂葬の儀

あーっこの迫力!さすがソシオパス雅子様!!
やっぱしすごい!


さて、、、5年後、舅の母ちゃんの葬儀には出ないよ?

s_香淳皇后れんそうのぎ1
2000年7月25日 香淳皇后 斂葬の儀

2000 7 25 香淳皇后 れんそうのぎ (2)
2000年7月25日 香淳皇后 斂葬の儀

香淳皇后の葬儀 れんそうのぎ でお見送りのまこさまきこさま

ひいおばあちゃまを見送るマコちゃんカコちゃん そして車いすの桂宮親王殿下

ちなみにマコちゃん小学校3年生、カコちゃん幼稚園年長組

2014 6 8 桂宮 弔問 きこさま 悠仁さま
2014年6月8日 桂宮邸 弔問
弟のとこの長男(小学校3年生)は弔問に行ってるね。


愛子様のこういう画像はないね。
あっ……。ごめんなさいごめんなさい!!

雅子様は興味のない人の葬儀には参加いたしません
雅子様がいちばんお偉いの
証拠?

香淳皇后葬儀欠席 記事 (2)

だって誰も何も雅子様に強く言わないじゃない
皇太后の葬儀は欠席してはならないと
誰も言わなかったんでしょ?

天皇も皇后も徳仁さんも、言わなかったんでしょ?

この7か月前、妊娠してるの隠してベルギーに行って
ワイン飲んで流産したからかな?
でも、もう7か月前の話だねー。

香淳皇后葬儀欠席 記事 (3)

--------------------------
6月16日に崩御された皇太后さまは、
この日25日、昭和天皇の眠られている八王子の武蔵陵墓地に無事、埋葬された。

皇室の方々が皇太后さまにお別れを告げるため、儀式に参加されたなか、
皇太子妃雅子さまは何故かご欠席。

雅子さまは「斂葬の儀」だけでなく、24日、吹上大宮御所で行われた「霊代奉安の儀」や、
26日の「斂葬後一日山陵祭の儀」もご欠席された。

宮内庁は
「疲れがたまっておられる。暑い日が続いており、大事な儀式との認識はあるが、
お体を大切にしていただく見地から取り止められる」

との不可解なコメント。

その後の予定は「(変更は)視野に入っていない」(宮内庁)
というのだから、なおさら訳がわからない。

---------------------


雅子さま(36)が皇太后さまの本葬に当る「斂葬の儀」を欠席された。

宮内庁は理由を“夏バテ”と発表したが、信じ難い。

スワご懐妊かと周囲が色めき立ったのも当然だった。
ところが、その週間後にはわずか1高校総体にご出席。
いったい何があったのか。
 
 宮内庁の古川清・東宮大夫が臨時記者会見を開き、
雅子さまが、皇太后さま(香淳皇后)の葬儀に欠席されると発表したのは
「斂葬の儀」前日の7月24日のことである。

 理由は「暑い日が続いており、お疲れがたまっている」
というもので、要するに夏バテのためだというのだが、
「皇太后さまのご葬儀はその程度の理由で
欠席できるような行事ではありません」
 と皇室記者の一人は言う。

「今回のご葬儀には、皇族方はもちろん、森首相や三権の長や、各国の駐日大使、
またタイからは特別にシリントン王女まで参列して執り行われました。
皇室行事としての位置付けよりも、春秋の皇霊祭や新嘗祭よりはるかに重く、
たとえ少しぐらい体調が優れなくても、まず欠席は許されない極めて重要なものなのです」

 ましてや皇太子妃である雅子さまは、将来、わが国の皇后になられる立場である。
 かつて雅子さまが勤めた外務省の幹部もこう話す。

「葬儀に出席した各国の大使からも、84歳の三笠宮崇仁殿下
が参列されているのに、
なぜ、プリンセス・マサコは夏バテぐらいでお休みになるのか

教えて欲しいと言われて困りました。

しかも、
その1週間後には、もうお元気になられて、岐阜の高校総体にご出席。
これでは、私たちも説明の仕様がありません」

 皇室関係者が真相を語る。

「実は、葬儀の2日前の7月23日夜。
ご夕餐といって、天皇ご一家が御所に集まって食事をする会がありました。
雅子さまも、皇太子殿下と出席されたのですが、
 その時、雅子さまは、急に具合が悪くなり、
殿下と一緒に途中で帰られてしまったのです。」
 
---------------------
げらげら。
「なぜプリンセスマサコは夏バテくらいでお休みになるのか」
げらげら。

それは、プリンセスマサコがお偉いからですよ!!!
皇太后よりも天皇陛下よりも、雅子様がお偉いからです!!

嫌いな人たちと食事もいたしません!!

国体には出たくなったら出ます♡

だってソシオパス(反社会的パーソナリティ障害)だもの〜

愛子様が障害児だったから病気になったって主張する人たち、
反論できるかなあ??
愛子様が生まれたのって2001(H13)年12月だね(笑)

2014 6 8 桂宮 弔問 まさこ巻き髪
2014年6月8日 桂宮薨去 弔問に訪れるクルクル巻き髪の雅子様50才


クルクル巻き髪の50才、弔問(笑)

http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-71.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c33

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
34. 中川隆[-11762] koaQ7Jey 2019年3月01日 11:08:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[219]

2005年06月20日
香淳皇后の式年祭を欠席した翌日の昼はベルギー皇太子夫妻と会食という体調の波
http://blog.livedoor.jp/dosukono/archives/50154771.html


香淳皇后って皇室に興味ない人は誰?って思うかもしれませんが昭和天皇の后だった人です。

「香淳(こうじゅん)」ってのは死後に付けられた名前、諡(おくりな)で生きてる頃は良子(ながこ)皇太后、
昭和時代は良子皇后。彼女は結婚前も皇族でその頃は久邇宮良子女王(にょおう)と呼ばれてました。
5年前に亡くなりましたが晩年は宮内庁がいうところの「老人特有の症状」つまり痴呆症が酷くって
(現在は認知症って呼び方に変わったんでしたか)週刊誌などでは昭和天皇の死を理解できて
いないと言われてました。
で、仏教の三回忌とかに相当する命日のイベントが神道の式年祭。
香淳皇后五年式年祭の儀は皇霊殿という皇居内の場所で行われました。
雅子の住んでいる赤坂御用地の東宮御所から近所で移動の負担は少ないはず。
つまり近所でやっている夫のバーチャンの法事みたいなものを雅子はサボったわけです。
夫の両親も出席しているし、(↓6月16日の日程を参照)
http://www.kunaicho.go.jp/gonitei/gonitei-h17-02.html
弟夫婦は出席して、ついでに八王子まで行って墓参りまでしているし
http://www.kunaicho.go.jp/gonitei-akishino/gonitei-akishino-h17-02.html
もちろん夫も出席しているのに、
http://www.kunaicho.go.jp/gonitei-koutaishi/gonitei-koutaishi-h17-02.html
自分だけ欠席というのは一般家庭の嫁でも余程の理由がないと顰蹙を買うでしょう。
まぁ、体調が悪いのだし仕方ない、と擁護派の方は庇うかもしれません。
が、しかし、しかし待ってください。翌日17日はベルギー皇太子夫妻と昼飯食ってるんですYO!。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050617ic24.htm
今回も国民には見せないアイボをお客様には紹介。
前回のスペイン皇太子夫妻との会食の記事を書くときはスペインの新聞まで捜しましたが、
今回はベルギーの新聞まで捜さなくても読売新聞がネット上で報じてくれました。パチパチ〜!!
白人と一緒にご飯を食べるのが雅子のリハビリになるとしても、遠路はるばる万博のために
来てくれた大切なお客様に付き合わせるのは失礼だと思います。
スペイン、ベルギー両皇太子夫妻は日本の皇太子夫妻の私的な友人ではなく、
国家としてお迎えした賓客なのですから。
と、いうことで私から宮内庁または外務省に提案したいことがあります。
ドラマやバラエティ番組に外国人出演者が必要なとき、手配してくれる
「稲川素子事務所」という会社があるので、ここに頼んで東宮御所に白人を
10人でも20人でも派遣してもらったらどうでしょうか。
もっともっと元気になれるのでは?
ここぞとばかりに外交機密費を使っていいですから、ぜひ検討して下さい。

そして、これは日本テレビの独占スクープみたいですが、
「雅子さまの愛知万博視察が、7月下旬に検討されていることが明らかになりました」
だそうです。
私がちんたらと書いている間に、肝心の日本テレビのサイトからも、ヤフー動画の
サイトからもソースが消されてしまったのですが、系列の福岡放送に提供したニュースが
まだWeb上に残っていました。
アンチスレッドPart235の567さん教えてくれてありがとう。
http://www1.fbs.co.jp/cgi-bin/news.cgi?mode=show&no=4778
この件について17日金曜日の宮内庁定例記者会見では正式発表も事実否定なかったもよう。

1. 6月13日(月)のスーパーテレビ 雅子さま特集(当然マンセー論調)で
小和田家提供以外ありえない、幼少時雅子さんの8mm映像が使われた。

2.この万博視察検討ニュースは日本テレビ以外は全く報じていない。
17日に報道されて、2日たった今でも後追い報道も無い。

という二つの客観的事実から小和田家からのリークと疑いがもたれています。

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23 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 15:38:00 ID:WmgFGwtR
皇太子妃・雅子さま 来月下旬に愛知万博視察の地方公務を検討
>ttp://www.ntv.co.jp/news/37413.html

例によって「強い希望」「強い意向」があるんだって。

24 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 15:41:01 ID:9PANBJbI
>23
もういい。
みなまで言うな。
黙って死ぬまで静養しててくれ とさえ思うようになった。

26 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 15:43:27 ID:cEiVgbe8
>愛子さまに万博を見せたいというご夫妻の強い意向から

「私」むきだしキタ━━(゚∀゚)━━ !!!

29 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 15:55:51 ID:3BNtxTDN
日テレ独占スクープみたいだけど
スーパーテレビで小和田家ヨイショしたお礼にリークしてもらったのか
宮内庁発表とかソースは言われてなかったね。
それから「外国パビリオン」を視察とあくまでも外国へのこだわりを見せてるね。

33 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:01:37 ID:kwJEnN0I
万博へ行きたくても、敬宮と一緒にいかれないということになったら
当日で、ドタキャンされる・・・間違いない!!

34 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:02:13 ID:ZJLT4iAv
日テレだけということは、定例会見じゃないんだね

37 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:07:50 ID:DBS2RRK+
本当。宮内庁発表とはなってないね。
ではこのスクープはやっぱり小和田家経由?
それはそれで大問題ですね。
ここで揶揄されていたのは話半分にみていましたが、目が覚めました。これは酷い。

38 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:12:28 ID:3BNtxTDN
7月に那須御用邸での長期静養があるから
静養、静養また静養に対する国民の批判をかわすための公務予定リークじゃない

スキー静養のときも「最後のご静養」で、その後SO出席で公務復帰と報道されていたのに、
結果は・・・

長期静養が先なのか、万博にちょろっと行ってから那須入りするのか謎だけど
20日という迷惑な日程は那須入りと関係してるんじゃないかと想像。
夏休みになると、こどもの城も使いづらいし、そのあたりで東京脱出したいんじゃないのかな。
こうなってくると、雅子さんはすでにお元気で愛子さんの都合に合わせた静養とも考えられる。

40 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:14:40 ID:d2g9xkIR
白人の方々と話すことがなくなってきたんじゃないの?
さすがに昔々の自慢話だけでは。

それに、セレモニーにご夫婦で当然出席されていると思っている諸外国
のかたもいらっしゃるでしょうし、話を合わせるために
ちょっと見に行くんじゃないの?
いちいち病気でドタキャンしたっていうのめんどくさいし。

41 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 16:15:40 ID:ZJLT4iAv
でも7月にいったところであらかた来賓はきたあとでしょうに

58 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 17:04:26 ID:ZJLT4iAv
日テレのこの熱意はなんだろう
59 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 17:10:54 ID:OeKLY1IN
>58
某家から秘蔵写真まで駆り出して特集したのに、
評判良くなかったから必死なんじゃないかなー。
あ、某家に対してねw
番組のBBSも苦言ばかりだしねぇ。
アイボ誉め殺しもあったけどw

79 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/06/17(金) 17:54:38 ID:IirnoWl1
>雅子さまは今年2月、長野県で開催されたスペシャルオリンピックスの競技観戦を検討されていたが、
>体調不良のため直前に取りやめられている。今回の訪問が実現すれば、約1年8か月ぶりの地方公務復帰となる。
>また、愛子さまに万博を見せたいというご夫妻の強い意向から、9月には愛子さまを連れてご一家で訪れることも検討されている。

も・・・もしもしぃ〜地方公務は負担が大きすぎて医師団に止められてるんじゃ
なかったのかぁ〜?さんざん既出でしたね。
絶対、愛子連れて3人で遊びに来ると思ってたよ。万博。
白人王室のかたがたもはるばる妊娠中でもいらしていたもんね。
今更、遊びで行ってみたくなったんだろう。子供連れて。
他の王家のかたがたで子供連れの方っていらっしゃいましたっけね〜??
公私混同も甚だしい。
http://blog.livedoor.jp/dosukono/archives/50154771.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c34

[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
21. 中川隆[-11761] koaQ7Jey 2019年3月01日 16:37:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[220]

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/


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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712090000/


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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/


天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html

▲△▽▼


戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し _ 2

天皇家は国際金融資本のエージェント

宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている


(平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について

6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html


天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c21

[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
22. 中川隆[-11760] koaQ7Jey 2019年3月01日 16:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[221]

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた _ 2

知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけた(?)小和田雅子の正体


雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

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柏原芳恵「空港バイブ事件」 Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia

昭和後期の女性アイドルタレント。1986年10月19日浩宮(当時26歳)が薔薇「プリンセス・サヤコ」を一輪携えコンサート会場に訪れ鑑賞したことは非常に大きく報じられ、後々になっても語り継がれている皇太子浩宮徳仁最大のエピソードといっても過言ではない。徳仁の非常にミーハーな性格がよく分かる事件であった。

この柏原芳恵氏コンサート前日である18日、スペイン王女レセプションパーティに飛び込み参加した小和田雅子と浩宮が「運命の出会い」を果たしているのであるが、雅子の存在は当時全く世に取り上げられず、とにかく芳恵ちゃんコンサート鑑賞事件が世間に大きなインパクトを与えていた。

後に柏原芳恵氏については「空港バイブ事件」なる都市伝説が日本全国にいきなり広まることになるのだが、

まだネットも未発達な時代にそんな情報を全国規模で流すことができたのは創価学会ぐらいじゃないか、

そして小和田家と創価学会の関わりあれこれがあることから、張り切って浩宮と小和田雅子の「運命の出会い」を演出したのに完全スルーされた小和田サイドがせんべいを使ってしかいししたんじゃないかとも囁かれている。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E8%8A%B3%E6%81%B5


2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。


この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."


「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」


“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。


『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>


pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg

現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。


このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)

今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


柏原芳恵のバイブ事件と植草一秀の痴漢事件は外務省創価グループの犯行だというのが定説になっているみたいですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c22

[リバイバル3] ニセコ薬師温泉 _ 温泉マニアに超絶人気の伝説の名湯がどうしてこうなった? 中川隆
24. 中川隆[-11759] koaQ7Jey 2019年3月01日 19:05:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[222]

聖地巡礼
水曜どうでしょう 闘痔の旅!ニセコ『薬師温泉』の廃墟で入浴 2018年8月6日
https://wednesday-mania.com/toji-niseko-yakushi/


あなたは 水曜どうでしょうの『闘痔の旅』をご存知ですか?

1996年12月4日、11日に放送された

どうでしょう初期の企画の1つで、

『大泉洋』の痔を治すために名湯秘湯を巡るという企画です。

メモ
DVD第2弾『サイコロ1/粗大ゴミで家を作ろう/闘痔の旅』に収録

どうでしょう信者の端くれとして、

聖地を巡礼するため、北海道を訪問した際、

彼らが巡った温泉を訪問。

そのうちの1つ、ニセコにある『薬師温泉』に行ってきました。

秘湯というより、廃墟と化していた聖地『薬師温泉』巡礼の様子をご紹介します。


目次 [非表示]

闘痔の旅とは・・
1

ニセコ 『薬師温泉』
2

ニセコ薬師温泉の場所
3

聖地巡礼を終えて・・
4

闘痔の旅とは・・


放送当時の企画名は「激走!24時間 大泉洋くん闘痔の旅」。鈴井が考えた企画のひとつで、「『サイコロ1』で発覚した大泉の“痔”を治すため、24時間でいろいろな温泉を回る“湯治(闘痔)”」を目的としているが、企画そのものは藤村Dが「温泉に入りたい」という安易な発想から始まった。

「この企画から大泉が(テレビタレントとして)自我を持った」と嬉野Dが語ったり、大泉が運転をし鈴井が後ろに座り車内で会話をするというスタイルが確立されたり、藤村Dがリアクションで“出演”し始めたりと、後の『どうでしょう』にとって大きなターニングポイントとなった企画となった。

出典:水曜どうでしょうの企画_(日本国内)-wikipedia

ニセコ 『薬師温泉』

闘痔の旅で、どうでしょう班が最初に訪れたのがニセコ町の『薬師温泉』

かつては日本三大秘湯の1つとも言われたニセコ薬師温泉旅館ですが2014年に廃業・・。

廃墟でもいいから行ってみようと車で向かった
薬師温泉
「年中無休」と「現在休業中」という矛盾した看板を発見。
薬師温泉
対向車来たら終わりだ!っていう細い道を突っ走る
薬師温泉
現在のニセコ薬師温泉旅館あ跡地
薬師温泉
一応、売地になってるが、

その看板すらこのありさま。

温泉はかけ流しのまま、ほったらかしになってて、

一応足だけ突っ込んでみたが、適温だった。

ここに内湯があったんだろうな。

露天風呂を探してもなかなか見つからかった。

ヒグマが出そうで怖い場所だった。

しばらく探して、ピンクのテープを発見!

この草むらの先に露天風呂が隠れてるんです。
薬師温泉
かつての脱衣場を発見!

この橋を渡るんだけど、崩れそうでドキドキしたなぁ。
薬師温泉
脱衣場でございます。

自然とこうなりますかね?

ヒグマがぶっ壊したんじゃないか?
薬師温泉
やっと見つけた露天風呂。
薬師温泉
得体のしれない藻のようなものがいっぱい浮いてる・・・

周りはアブがいっぱい飛んでて、久しぶりの人間に喜んでる様子。

入らずに帰ろうかとも思った

・・・

・・

諦めて帰ろう・・と振り返った瞬間、

あの映像が脳裏をよぎったのです

彼らはソルジャーと化し、入るのもためらうこの温泉に突入したのだったと・・。

そうか・・

おれもソルジャーになれば良いのだと気付かされました。

俺は腹をくくり

アブなんか無視して

一気に全裸になり、

ソルジャーになった。

脱いだ瞬間、

アブが飛びかかって来た。

逃れるように、露天風呂にそぉ〜っと入る。

どぼんと飛び込むには、あまりに濁っていて底が見えなかったからだ。

ソルジャーになりきれない弱い自分が垣間見れた。

いままで数多くの温泉に入ってきたが、

あれほどまでに湯底がブニュブニュする温泉は初めての体験。

何が沈んでるのか分からんが、すくってみる勇気はなかった。

死体でも沈んでるのかもしれない。

5分ぐらい入っただろうか。

顔の周りをアブが飛び交ってて、

いい加減嫌になってきた。

あんまりゆっくりしてるとヒグマが来るかもしれない。

意を決して、お湯から飛び出て、パパッとタオルでテキトーにぬぐい、

急いで服を着て、現場を離れる・・

一体何か所アブに刺されただろうか・・

恐る恐る身体を確認したところ、

まったく腫れた箇所が無いことに驚いた。

それどころか、かつてないほど肌がツルツルになってた。

いままで全国各地の温泉を400〜500湯は入ってきただろうか。

『薬師温泉』ほど入るのに勇気が必要な温泉はなかったが、

これほど顕著に効用が分かる温泉もそうは無い。

だれでも良いので、売地となっている『薬師温泉』を購入し、

再建整備してもらえないだろうか。

そうすれば、今後、悲しきソルジャーを生み出す必要もなくなるのだ。

ニセコ薬師温泉の場所

ニセコモイワスキー場やニセコアンヌプリ国際スキー場が近くにある。

2018年、モイワスキー場近くでヒグマの目撃報告があるので、

この記事を見て『薬師温泉』に行ってみようと思った方は

くれぐれも用心してほしい。

聖地巡礼を終えて・・

やはり・・聖地というものは容易く訪れることは出来ないのだな・・

と思い知らされた1日だった。

ここまで書いて、なぜアブに刺されなかったのか1つの理由に気付いた。

薬師温泉に来る直前、

これまたニセコの『五色温泉』という、白濁した硫黄泉に入っており、

全身から硫黄の匂いを発していたからアブが喰らいつけなかったのだと思われる。

てっきり薬師温泉の効用で、アブにさされた箇所が瞬時に治癒されたのかと思っていたが、そんなわけがなかった。

どうでしょうの聖地巡礼の第一回、

いかがだっただろうか。

どうでしょうの聖地は日本各地、世界各地に広がっている。

わたしは日本国内をメインに巡礼している。

今後も聖地巡礼の報国を続けて行きたいと考えている。

https://wednesday-mania.com/toji-niseko-yakushi/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/560.html#c24

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
22. 中川隆[-11758] koaQ7Jey 2019年3月01日 19:54:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[223]
2019.03.01
米朝首脳会談で合意に至らなかったのは米支配層の戦略から考えると必然的な結果

 ベトナムのハノイで2月27日と28日にかけて行われたドナルド・トランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長の会談で合意に至らなかった。トランプ大統領は金正恩が核施設を廃棄する見返りに経済制裁の全面解除を求めたとしているが、​朝鮮の李容浩(または李勇浩)外相は部分解除の条件として核施設の廃棄を提示したとしている​。韓国で伝えられている情報によると、アメリカ側は核プログラムの完全な廃棄だけでなく、生物化学兵器も含めるように求めたという。

 今回の会談にはアメリカからマイク・ポンペオ国務長官とジョン・ボルトン国家安全保障補佐官も参加している。シリアからのアメリカ軍を撤退させるというトランプ大統領の命令に公然と反対したコンビだ。ポンペオとボルトンは朝鮮半島、そして東アジアの平和を望んでいないだろう。

 かつてアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はリビアと似たような交渉をしたことがある。その結果、リビアのムアンマル・アル・カダフィ政権は2003年に核兵器や化学兵器の廃棄を決定したが、アメリカは約束を守らずに「制裁」を続けた。そして2010年、バラク・オバマ大統領がムスリム同胞団を使った侵略計画のPSD-11を承認、カダフィ体制が倒されただけでなく、破壊と殺戮が今でも続いている。ヨーロッパより国民が豊かな生活を送っていたと言われるリビアの面影はない。

 日本では肯定的に捉える人がいる東西ドイツの統一も問題が多い。1989年にベルリンの壁が壊され、90年に統一されたのだが、その際の約束をアメリカ側は守っていない。ジョージ・H・W・ブッシュ政権のジェームズ・ベイカー国務長官はソ連のエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へこの軍事同盟を拡大することはないと約束していたが、今はロシアの国境近くまでNATOを拡大させ、ミサイルを設置、軍隊を配備して軍事的に脅している。

 トランプはベトナムのケースを口にするが、これも問題。アメリカとの戦争に勝利したベトナムだが、戦乱で国土は破壊されて惨憺たる状態。多くの人が殺され、インフラが破壊されただけでなく、化学兵器の一種である枯れ葉剤(エージェント・オレンジ)やナパーム弾の影響も残っている。そうした中、後ろ盾だったソ連が消滅した。

 ソ連が消滅してから3年後の1994年にアメリカはベトナムへの経済戦争を中止するが、その代償としてベトナムは新自由主義を受け入れなければならなかった「毒饅頭」を食べることになったとも言える。しかもベトナム戦争中にアメリカ側が行った犯罪的な行為は不問に付され、ベトナムの庶民は低賃金労働者として西側巨大資本のカネ儲けに奉仕させられている。

 こうしたアメリカ支配層の行動は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいているように見える。ユーラシア大陸を囲むように西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部、つまり中国やロシアを締め上げようというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。日本はイギリスやアメリカにとって侵略の拠点であり、日本人は彼らの傭兵だと言えるだろう。

 この戦略を放棄しない限り中東や東アジアからアメリカ軍が撤退することは考えられない。この戦略に執着しているアメリカ支配層は朝鮮半島の平和も望んでいないだろう。

 現在、ロシアを中心に中国や韓国が計画している鉄道やパイプラインの建設計画は東アジアを経済的に結びつけるものであり、アメリカの支配層が認めるとは思えない。こうした面からも今回の米朝会談が不調に終わったのは必然だった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903010002/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c22

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
152. 中川隆[-11757] koaQ7Jey 2019年3月01日 20:35:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[224]
天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c152

[近代史3] 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 中川隆
15. 中川隆[-11756] koaQ7Jey 2019年3月02日 06:00:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[225]
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3

 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。

 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。

 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )

 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html#c15

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
45. 中川隆[-11755] koaQ7Jey 2019年3月02日 06:00:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[226]

2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3

 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。

 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。

 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )

 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c45

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
156. 中川隆[-11754] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:10:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[227]
バブル崩壊はもう訪れない?2020年まで続く上昇相場は「穏やかな景気循環」の時代へ=藤井まり子 2019年3月1日
https://www.mag2.com/p/money/645076


アメリカ経済と株式市場の先行きに悲観を示していたレイ・ダリオ氏も、今年に入って方向転換を表明。どんな変化が起きているのか、世界の景気動向を解説します。


「最後の一刷毛」なのか?ただの「レンジ相場」なのか?

中国側は「人民元カード」を切って、トランプ政権に大きく譲歩

今週は、

◾インドとパキスタンの間で緊張が高まった
◾ライトハイザー米通商代表の議会証言でのタカ派的な発言があった
◾米韓首脳会談では、これといった進展なしに合意が決裂した

と、いろいろと気をもむ場面がありましたが、
   ↓  ↓  ↓
◾インド・パキスタン間の緊張もすぐに峠を越えました
◾トランプとライトハイザーの間の意見対立は今に始まった

ではありません。

ライトハイザー通商代表は、がちがちの「筋の通った」対中強硬派です。知的財産権の保護・安全保障上の問題も含めて長期的な視野に立って米中通商協議を考えています。

トランプ大統領は、ライトハイザーとは対照的に、人気取り目当てで「対中強硬姿勢」を取っています。

しかも大統領は、株価を気にしています。今すぐ手柄の欲しい、思い付きで行動する人物です。大統領はとりあえず、中国がトランプに花を持たせる形で「人民元高政策」を切ってくれば、関税をこれ以上引き上げないとするスタンスでしょう。

平たく言えば(もっと赤裸々に言えば)、トランプ大統領は「中国の不動産や株式市場で再びブームが巻き起これば、彼の親族(クシュナー娘婿など)ががっぽり儲けられる」ことに一番関心が強いかもしれません。

なにはともあれ、ライトハイザー代表とトランプ大統領の間に意見対立があることは、かねてから分かっていたことです。



さて、米朝首脳会談で進展が見られなかったことは、想定の範囲内。米韓の間で緊張が高まったわけでもなんでもない。昨日は、メディアが過剰に流す「合意決裂」のテロップに、AI(人工知能)が過剰に反応しただけです。

その一方で、良い情報もありました。

パウエルFRB議長は、今週の議会証言で「パウエルプット(FRBは市場が下落すれば金融緩和へ転じる可能性があること)」を重ねて示唆する発言を行いました。

2月28日に、アメリカの2018年第四四半期の実質GDP成長率が発表になりました。

マーケット予測よりも0.4%高い2.6%でした!これを受けて、アメリカの長期金利も2.66%から2.72%へと上昇しています。

為替もドル高に振れて、ヨーロッパ株式市場と日本株式市場は上昇しています。

今週は、日本金融村では、「中国経済と世界経済は、最悪期を脱して底を打ったのではないか?」といったところが、話題になっています。

「最後の一刷毛(ひとはけ)」の確率は、20%〜35%くらい?

「アメリカのイールドカーブ」を眺める場合、今のような低インフレ時代では、「ドル国債3か月物」の金利と「ドル国債10年物」の金利の「差」に注意する必要があります。

(多くのマスコミやエコノミストたちは、未だに「高いインフレ時代」の先入観で、イールドカーブを眺めていますが、それは間違っています。彼らは、「ドル国債2年物」の金利と「ドル国債10年物の金利」の「差」を眺めて、将来を占おうとしていますが、それは間違っている可能性が高いのです)。

今のような低インフレ時代では、注意すべきは「ドル国債3か月物」の金利と「ドル国債10年物」の金利の「差」です。

今現在の「ドル国債3か月物」の金利と「ドル国債10年物」の金利の「差」は、0.279(279bps)です。

これは、将来の「向こう2〜3年の成長率の鈍化」を見越していますが、「景気後退」は全く予測していません。

なにはともあれ、今現在、市場を支配する楽観論は、「1月4日にパウエルFRB議長が、市場の恫喝に、さらにはトランプ大統領の恫喝に屈して、金融緩和策へと大転換した」ことが一番大きいです。

次いで、1月24日にはドラギECB総裁もTLTRO(量的金融緩和策の一種)に言及しました。

多くの市場関係者は、次は日本の「安倍&黒田」コンビの出方を見守っています。

中国北京政府も「死に物狂い」で市場へ超大量のマネーを供給、対GDP比3〜4%の超ウルトラ級の大型財政刺激策を発動しています。



詳細は3月上旬(3月5日?)の「全人代」で明らかになることでしょう。

米中通商協議では、「元の安定」(=事実上の元の切り上げ)を約束された模様。

では、今現在のグローバル規模での株価の上昇は、「ブームの最後の一刷毛(=今年後半には暴落があるのか?)」なのか?

それとも、「長い長い株式ブームの、ただの後半戦(株式ブームの終息は2020年以降)」なのか?

どちらなのでしょうか?とても気になるところです。

マーケット関係者の中には、未だに「2020年景気後退説(2019年後半の暴落説)」を信じている人が20%くらい存在しています。

ちなみに、「第二のジョージソロス」と称賛されていて、世界最大のヘッジファンドを率いているレイ・ダリオ氏は、1年半前まではアメリカ経済と株式市場の先行きには悲観的でしたが、今年に入ってからの中銀たちの一連の政策変更を受けて、直近のブログでは方針転換を表明しています、楽観論に傾いています。


「バブル型の景気循環の時代」は終わった

ダリオ氏は、「2020年秋の大統領選挙の前に、アメリカが景気後退入りする可能性は、35%くらいにまで低下した」と方針転換しているのです。

(大統領選挙の年の2020年には、トランプ大統領は選挙に勝つためには何がなんでも景気浮揚策(バラマキ)に打って出ることでしょう。対抗する民主党の候補たちも、バラまくことしか考えていません)。

ダリオはたいへん影響力がある人物ですし、自分の影響力を自覚している人物です。

2018年から悲観論を開陳していたダリオは、2018年を通じてパウエルFRBに「利上げを止めるように」とプレッシャーをかけ続けた人物なわけです。

そのダリオ氏が、「2020年の景気後退入りの確率は35%」と言っているのですから、ますますパウエルFRBは「次の利上げ」ができなくなります。

現在の内外の株式市場の上昇は、20%〜35%の確率で「株式ブームの最後の一刷毛(2019年後半の暴落)」である可能性がありますが、その一方で、今現在の内外の株式市場の上昇は、65%〜80%の確率で「長い長い株式ブームのただの後半戦(株式ブームは2020年まで続く)」である可能性があります。

景気拡大期は長くなればなるほど「景気後退期が近づいている!」と考える人々が多くなるのは無理もないです。繰り返しますが、経済がサービス化した現代では、景気拡大期が長くなる傾向があります。サブプライム危機後では、先進各国の中銀たちも「2%インフレ目標」を掲げています。金融規制も強化されて、ブームは起きてもバブルが起きにくくなっています。

人々が想像している以上に、今回の景気拡大期は長いかもしれません。

私たちは「間違った思い込み」を捨てなければいけないでしょう。



「低金利下で大型バブルが生成されて、利上げと共にそのバブルが崩壊、ある日突然に暴落が起きて、その後真っ逆さまに景気が後退してゆく」といった「ITバブル」や「サブ プライムバブル」などの「バブル型の景気循環の時代」は終わったのはないでしょうか?

サブプライム危機「後」は、ボルガールールなど「投資銀行への規制」が強化されて、バブルが起きにくくなっているのです。

「100年に一度の危機」を無事潜(くぐ)り抜けた今は、「バブルの生成や崩壊を伴わない『穏やかな景気循環』の時代」が始まっているのかもしれません。

上手くゆけば、その良好な人口動態から考察すると、今のアメリカ経済は向こう3年から4年は「景気後退」に陥らないかもしれません。

アメリカが景気後退に陥らなければ、この日本経済も、かつてのような「理不尽な円高不況」に無駄に苦しまなければならない時代は訪れないということになります。

(だからこそ、私はアメリカ経済の行方が気になってしょうがないのです)。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c156

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
64. 中川隆[-11753] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:14:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[228]
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能
 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c64

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
185. 中川隆[-11752] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:14:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[229]
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能
 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c185

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
36. 中川隆[-11751] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:15:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[230]
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能
 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c36

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
27. 中川隆[-11753] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:16:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[228]
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c27

[昼休み54] 安倍政権20の愚策 中川隆
13. 中川隆[-11752] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:02:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[229]

反緊縮財政、反グローバリズム、反竹中平蔵 2019-03-02
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12443787206.html


 結局、「金融緩和」「財政拡大」「成長戦略」というアベノミクスは行われませんでした。


 いわゆる三本の矢は、「金融緩和」「緊縮財政」「構造改革」という三つにすり替わり、消費税増税、各種政府支出の削減をする緊縮財政を強行し、同時に日本国を破壊する農協改革、種子法廃止、IR法、水道コンセッション、移民法、発送電分離、高プロ、派遣雇用固定化、漁業法改正、患者申出療養(混合診療)開始、TPP、日欧FTAといった構造改革を次々に推進(こうして並べてみると、凄いですね・・・)。


 反対側で、原発再稼働には動かず、北海道のブラックアウトを引き起こし、FIT(再生可能エネルギー固定買い取り制度)はそのまま、外国人の土地取得にも制限をかけず、国土強靭化や地方創生は「口だけ」で予算は付けず。


 そして、ついに日米FTAの交渉開始というわけで、ここまで日本国を破壊した政権は、過去に例がないでしょう。


 特に問題なのは、やはり緊縮財政。せめて「デフレ脱却」だけでも実現してくれれば、動きがとりようがあるのですが、わざわざ消費税を増税し、自ら「安倍デフレ」を引き起こした。

『【藤井聡】「アベノミクス」は、結局、やられてなかった。
https://38news.jp/economy/13240?fbclid=IwAR3Gucwx399AP2d4kKBFN2TFHziz4zPDsTuvXgLZa1SjP_moTzapKE6k0cc
 「アベノミクス」というと、ヒトによってとらえ方はそれぞれです。
 一般的に、「金融緩和」のことだけを指して、アベノミクスと呼ぶことが(新聞などでは)多いようです。
 が、もちろん、三本の矢がそろってアベノミクス。
 そもそも、当方が2012年、(総選挙後&組閣前の)当時の安倍自民党“総裁”に提案していた資料に掲載していたのが、こちらのフローチャート。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1700559520044984&set=a.236228089811475&type=3&theater
 この考え方はいたってシンプル。
 アベノミクスの全体の目標は、(実質)賃金を上げて、国民を豊にすること。
 そのために、第一に、「金融政策」で日銀から金融市場に大量のマネーを供給します、
 第二に、そのマネーを、金融市場から実態経済に注入するために、徹底的な「財政政策」を行います。
(その際に、その財政でインフラを形成すると、経済成長はさらに加速されます)
 そうして実態経済が活性化すれば、国民への所得が増えていき、国民が豊かになっていく・・・
 これが、当方のアベノミクスと呼ばれる経済政策の全体イメージ、でした。
 そして、おそらくは、誰が考えても、「三本の矢」を前提としたアベノミクスというものは、このイメージにならざるを得ないものです。
 では、安倍内閣は実際に、このイメージ通りにアベノミクスを展開したのでしょうか?
 まず、「金融政策」については、文句なく徹底的に進められています。(マネタリーベースが何倍にもなりました)
 では、「財政政策」についてはどうかというと・・・残念ながら、全く進められておらず、民主党政権の方が、積極的に展開していた、というのが実態なのです。
 こちらのグラフをご覧ください。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1700564250044511&set=a.236228089811475&type=3&theater
 これは、「政府が民間に注入したマネー量から、政府が民間から吸い上げたマネー量を差し引いた値」つまり、政府の民間への資金供給量の推移を示しています。
 ご覧の様に、安倍内閣が誕生してから、一貫して、民間への資金供給量は縮小されてきたのです。
 これを、先ほどのフローチャートで言うなら、本来なら、左側の「金融市場」から右側の「実体経済」に政府がマネーを注入していかなければならないところ、それを「やらない」どころか、むしろ「縮小」させて、右側の「実体経済」から右側の「金融市場」に、マネーを吸い上げる圧力をかけ続けていった、という次第です。(後略)』


 藤井先生は資金供給量で見てますが、わたくしは資金過不足で見ます(どちらでも同じです)。

【日本の中央政府の資金過不足(億円)】

http://mtdata.jp/data_63.html#kabusoku

 図は、中央政府の資金不足を見たものです。藤井先生の図は対GDP比で、わたくしの図は実学なので、ややズレが生じますが、実態としては、
「藤井先生の図を上下逆さまにすると、三橋の図になる」
 ことにお気づきになられると思います。


 民主党政権期には40兆円弱だった政府の資金不足(政府から民間への信金供給量)」は、18年には11兆円にまで絞られてしまいました。


 その分、政府が実体経済からマネーを取り上げたという話です。(挙句の果てに、負債返済でマネーを消した)


 何度か書いていますが、安倍政権が「せめて民主党政権期」の資金不足を続けてくれていたら、我が国は毎年(最低)5%の勢いで経済成長を遂げ、デフレ脱却はとっくに果たせていたでしょう。


 国民が豊かになる経済を取り戻すことができれば、色々と展望が開けたのでしょうが、安倍総理は自ら活路を塞ぎました。


 挙句の果てに、再度の消費税増税。狂っています。


 文天祥ではないですが、我が国は「正気(せいき)」を取り戻さなければなりません。そのためには、国民が右だ左だと争っている場合ではないのです。


 今後、わたくしは様々な「反緊縮財政」「反グローバリズム」「反竹中平蔵」の動きを取っていきます。結果的に、「な、なぜ・・・」と思われるケースも出てくるでしょうが、目的は「経世済民を取り戻す」ことです。


 過去に何やった、過去に何言った、何だかんだと「排除の理論」を振り回している限り、我が国の展望は永遠に開けないでしょう。


 反緊縮財政、反グローバリズム、反竹中平蔵の政党が必要です。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12443787206.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/221.html#c13

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
230. 中川隆[-11751] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:08:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[230]

2019年03月02日
中古住宅のリフォームで実際にかかる費用は?


完全リフォームで新築同様の状態にできる

リフォーム実績豊富な工務店に頼む

新築住宅を購入しても30年しか持たず、大規模リフォームしない限り老朽化していきます。

取り壊してまた新築するのもばかばかしいので、住み慣れた家をリフォームしたいと思う人が多い。

また新築住宅を建てるのではなく、安い中古住宅を購入してリフォームしたほうが良いと考える人も増えています。




ところがリフォームは新築と違って条件が全て異なるため、「坪いくら」で単純に算出することはできません。

計算上の費用を出しても工務店や大工の技術はピンキリなので、リフォームの技術もピンキリです。

古い住宅を解体してまた使うより、新しい部材を組み立てた方が楽なので、腕がイマイチの大工はどんどん新しい部材に交換するでしょう。


なるべく古い部材を使用して新しい部材と組み合わせるには、かなりの技術と経験が必要です。

新築住宅では経験豊富であっても、中古リフォームはうまくできず、結果として不満が残るケースもある。

リフォームは顧客の注文が細かくなるものですが、工務店から見ると手間が掛かって面倒な割に利益を出しにくい。


従ってリフォームを頼む工務店は、リフォーム経験がどれだけあり、リフォームした物件がどれだけの水準かが重要です。

できればその工務店がリフォームした物件を確認したり、その家の人に話を聞くなどした方が良い。

過去のリフォーム実績が不明だったり、説明したがらない工務店は避けるべきです。

リフォームは高いか安いか

リフォームといっても築年数とリフォーム範囲で費用はまったく違い、築20年で水回りと室内外観程度なら300万から500万円で済むでしょう。

売りに出される中古住宅は築30年から40年が多いですが、これは住宅ローンが払い終わった時期と一致しています。

売りに出される住宅は30年か35年ローンを払い終わった時期が多いということです。


築30年台だと水回りは総取り換えの必要があるし、一度骨組みだけにしてまた組み立てなおす全面リフォームが必要になります。

全面リフォームの費用は1000万円前後になり、築40年ですべて解体して基礎の上に立て直すスケルトンリフォームだと1500万くらいになるでしょう。

築40年台だと外観内装水回りすべて痛んでいるうえ、そのままでは耐震基準を満たさないので、耐震補強をする必要もあるため高くなる。


1500万のスケルトンリフォームは中古部材を利用しているだけで新築と同じなので、もう30年以上は住み続けることが可能です。

新築住宅が3000万円はするのを考えれば半額なので、これを安いと感じる人も居るでしょう。

築30年か40年の家を購入して1500万円でリフォームして総額2000万円以下、これで外見も中も新築同様の家が手に入ります。


家のサイズが小さめだったり平屋だったら、ここに書いたよりかなり安く済むケースもあるでしょう。

好ましくないのは築30年か40年以上の住宅に300万か500万かけて、水回りや外見など応急処置でリフォームしてしまうことです。

これだと家そのものの寿命は延びないので、見えない部分で老朽化し10年ほどでまたリフォームするような事態になります。


古い住宅には大規模リフォームが必要で、見える所だけを新しくしても内部は腐食していきます。
http://www.thutmosev.com/archives/79154058.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c230

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
514. 中川隆[-11750] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:09:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[231]

2019年03月02日
中古住宅のリフォームで実際にかかる費用は?


完全リフォームで新築同様の状態にできる

リフォーム実績豊富な工務店に頼む

新築住宅を購入しても30年しか持たず、大規模リフォームしない限り老朽化していきます。

取り壊してまた新築するのもばかばかしいので、住み慣れた家をリフォームしたいと思う人が多い。

また新築住宅を建てるのではなく、安い中古住宅を購入してリフォームしたほうが良いと考える人も増えています。




ところがリフォームは新築と違って条件が全て異なるため、「坪いくら」で単純に算出することはできません。

計算上の費用を出しても工務店や大工の技術はピンキリなので、リフォームの技術もピンキリです。

古い住宅を解体してまた使うより、新しい部材を組み立てた方が楽なので、腕がイマイチの大工はどんどん新しい部材に交換するでしょう。


なるべく古い部材を使用して新しい部材と組み合わせるには、かなりの技術と経験が必要です。

新築住宅では経験豊富であっても、中古リフォームはうまくできず、結果として不満が残るケースもある。

リフォームは顧客の注文が細かくなるものですが、工務店から見ると手間が掛かって面倒な割に利益を出しにくい。


従ってリフォームを頼む工務店は、リフォーム経験がどれだけあり、リフォームした物件がどれだけの水準かが重要です。

できればその工務店がリフォームした物件を確認したり、その家の人に話を聞くなどした方が良い。

過去のリフォーム実績が不明だったり、説明したがらない工務店は避けるべきです。

リフォームは高いか安いか

リフォームといっても築年数とリフォーム範囲で費用はまったく違い、築20年で水回りと室内外観程度なら300万から500万円で済むでしょう。

売りに出される中古住宅は築30年から40年が多いですが、これは住宅ローンが払い終わった時期と一致しています。

売りに出される住宅は30年か35年ローンを払い終わった時期が多いということです。


築30年台だと水回りは総取り換えの必要があるし、一度骨組みだけにしてまた組み立てなおす全面リフォームが必要になります。

全面リフォームの費用は1000万円前後になり、築40年ですべて解体して基礎の上に立て直すスケルトンリフォームだと1500万くらいになるでしょう。

築40年台だと外観内装水回りすべて痛んでいるうえ、そのままでは耐震基準を満たさないので、耐震補強をする必要もあるため高くなる。


1500万のスケルトンリフォームは中古部材を利用しているだけで新築と同じなので、もう30年以上は住み続けることが可能です。

新築住宅が3000万円はするのを考えれば半額なので、これを安いと感じる人も居るでしょう。

築30年か40年の家を購入して1500万円でリフォームして総額2000万円以下、これで外見も中も新築同様の家が手に入ります。


家のサイズが小さめだったり平屋だったら、ここに書いたよりかなり安く済むケースもあるでしょう。

好ましくないのは築30年か40年以上の住宅に300万か500万かけて、水回りや外見など応急処置でリフォームしてしまうことです。

これだと家そのものの寿命は延びないので、見えない部分で老朽化し10年ほどでまたリフォームするような事態になります。


古い住宅には大規模リフォームが必要で、見える所だけを新しくしても内部は腐食していきます。
http://www.thutmosev.com/archives/79154058.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c514

[近代史3] 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 中川隆
16. 中川隆[-11749] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:28:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[232]

h2t********さん 2015/9/23 13:55:56.

東山天皇のy染色体がD1b系統に属するという記事を目にしたのですが、出典が見つかりません。

ガセなのでしょうか?
それとも、本当に何かの論文に記載されていた記事なのでしょうか?

後者の場合は詳しい出典含めて教えて下さい。

ベストアンサーに選ばれた回答
zev********さん 2015/9/24 00:43:12

ガセネタでしょう。
そもそも、皇室の方々はDNA情報なんて、公開してませんので。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12150648267

_____

tuo********さん 2014/8/23 23:31:16.

天皇家の遺伝子D1bはものすごい繁殖しているんです。
それに反論できない。ので、わたしも困っているのです。
具体的には、(D1b−M125)のY染色体遺伝子です。
重要なことです。

歴史の真実を知らなければならない。

ベストアンサーに選ばれた回答
hea********さん 2014/8/23 23:54:22.

天皇家のY染色体のタイプがD1bだというのはネットの情報ですね。
これは全くの捏造ですよ。
誰も天皇家のY染色体のタイプなんか知りません。
もし調べた人がいるとしたら、どのように調べたのか興味ありますね。
でも、ある意味怖い気もします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10134574290
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html#c16

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
174. 中川隆[-11748] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:29:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[233]

h2t********さん 2015/9/23 13:55:56.
東山天皇のy染色体がD1b系統に属するという記事を目にしたのですが、出典が見つかりません。

ガセなのでしょうか?
それとも、本当に何かの論文に記載されていた記事なのでしょうか?

後者の場合は詳しい出典含めて教えて下さい。


ベストアンサーに選ばれた回答
zev********さん 2015/9/24 00:43:12

ガセネタでしょう。
そもそも、皇室の方々はDNA情報なんて、公開してませんので。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12150648267

_____


tuo********さん 2014/8/23 23:31:16.

天皇家の遺伝子D1bはものすごい繁殖しているんです。
それに反論できない。ので、わたしも困っているのです。
具体的には、(D1b−M125)のY染色体遺伝子です。
重要なことです。

歴史の真実を知らなければならない。


ベストアンサーに選ばれた回答
hea********さん 2014/8/23 23:54:22.

天皇家のY染色体のタイプがD1bだというのはネットの情報ですね。
これは全くの捏造ですよ。
誰も天皇家のY染色体のタイプなんか知りません。
もし調べた人がいるとしたら、どのように調べたのか興味ありますね。
でも、ある意味怖い気もします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10134574290

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c174

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
175. 中川隆[-11747] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:30:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[234]

2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c175

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
186. 中川隆[-11746] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:31:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[235]

h2t********さん 2015/9/23 13:55:56.
東山天皇のy染色体がD1b系統に属するという記事を目にしたのですが、出典が見つかりません。

ガセなのでしょうか?
それとも、本当に何かの論文に記載されていた記事なのでしょうか?

後者の場合は詳しい出典含めて教えて下さい。


ベストアンサーに選ばれた回答
zev********さん 2015/9/24 00:43:12

ガセネタでしょう。
そもそも、皇室の方々はDNA情報なんて、公開してませんので。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12150648267

_____


tuo********さん 2014/8/23 23:31:16.

天皇家の遺伝子D1bはものすごい繁殖しているんです。
それに反論できない。ので、わたしも困っているのです。
具体的には、(D1b−M125)のY染色体遺伝子です。
重要なことです。

歴史の真実を知らなければならない。


ベストアンサーに選ばれた回答
hea********さん 2014/8/23 23:54:22.

天皇家のY染色体のタイプがD1bだというのはネットの情報ですね。
これは全くの捏造ですよ。
誰も天皇家のY染色体のタイプなんか知りません。
もし調べた人がいるとしたら、どのように調べたのか興味ありますね。
でも、ある意味怖い気もします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10134574290

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c186

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
65. 中川隆[-11748] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:32:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[233]

h2t********さん 2015/9/23 13:55:56.

東山天皇のy染色体がD1b系統に属するという記事を目にしたのですが、出典が見つかりません。

ガセなのでしょうか?
それとも、本当に何かの論文に記載されていた記事なのでしょうか?

後者の場合は詳しい出典含めて教えて下さい。


ベストアンサーに選ばれた回答
zev********さん 2015/9/24 00:43:12

ガセネタでしょう。
そもそも、皇室の方々はDNA情報なんて、公開してませんので。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12150648267

_____


tuo********さん 2014/8/23 23:31:16.

天皇家の遺伝子D1bはものすごい繁殖しているんです。
それに反論できない。ので、わたしも困っているのです。
具体的には、(D1b−M125)のY染色体遺伝子です。
重要なことです。

歴史の真実を知らなければならない。


ベストアンサーに選ばれた回答
hea********さん 2014/8/23 23:54:22.

天皇家のY染色体のタイプがD1bだというのはネットの情報ですね。
これは全くの捏造ですよ。
誰も天皇家のY染色体のタイプなんか知りません。
もし調べた人がいるとしたら、どのように調べたのか興味ありますね。
でも、ある意味怖い気もします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10134574290

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c65

[番外地7] ビットコインの暴騰・暴落 _ 自国通貨が信用できない人間がバブルを作り、日本人が本気になって買ったらバブル崩壊 中川隆
28. 中川隆[-11747] koaQ7Jey 2019年3月02日 12:12:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[234]

2019年03月02日
ブロックチェーンの将来性 バフェットやゲイツも認める


バフェットは仮想通貨投資に否定的だが、ブロックチェーン技術は認めている


画像引用:https://i.ytimg.com/vi/qTxPfxmkLIY/hqdefault.jpg

3人の資産家の仮想通貨感

資産8兆円のウォーレン・バフェットはビットコインなどの仮想通貨否定派としても知られている。

資産10兆円のビル・ゲイツもやはり否定派で、資産16兆円(離婚で半分に減るが)のベゾスは賛否を表明していない。

ベゾス氏はCEOを務めるアマゾンでは買い物などに仮想通貨を利用できるようにするべきかが議論されている。


アマゾンは2018年に企業向けのブロックチェーン開発サービスを開始し、仮想通貨事業者と提携や協力している。

もしアマゾンが手数料無料でビットコインを支払いに使えるような事をやったら、利便性が大幅に高まるでしょう。

ベゾスが仮想通貨を重大な変化を考えているのは間違いなく、変化に対応するのではなく自ら開発する側に回った。


バフェットは度々ビットコインをやり玉にあげ、先日はテレビでビットコインは妄想とこき下ろした。

バフェットはブロックチェーン技術については認めているが、仮想通貨については全否定している。

バフェットの考えでは投資とは自ら富を生むものや増えていくもので、そうでないものは投資になりえないとしている。


マンション経営は人に貸して家賃収入を得るし、不動産売買も購入した人が利用して利益をえるので値上がりする。

株式市場は企業が投資家から集めた金を事業に使い、利益を得て配当することで株価が値上がりする。

これらは毎年膨大な賃貸収入や事業利益が流れ込んでくるから、長期的には必ず値上がりするように設計されている。

ブロックチェーンには将来性がある

ビットコインや仮想通貨は誰かが事業をしてビットコイン購入者に配当するのではないから、何も生産しないとバフェットは言っている。

仮想通貨取引所や仮想通貨を受け入れている小売店は事業をしているが、その利益が仮想通貨に還元されるわけではない。

ビットコインの利用者が多くなれば土地バブルみたいに値上がりすることはあるだろうが、土地取引とも違う。

土地を買った人は駐車場やコンビニを経営して利益を得られるから、高い値段で土地を買っています。


住宅として利用する人は会社で働いたりして、自ら利用するために土地を購入しています。


ビットコインを買う人はビットコインを利用するわけではなく、ただ保有して値上がりを待っているだけです。

仮想通貨の「値上がり」は円やドルのような法定通貨が値下がりすることなのだが、これには問題がある。


円やドルは中央銀行が流通量を調整して暴騰や暴落をしないよう、常に調整している。

仮想通貨は誰も調整していないので、一時的に暴騰することも暴落することもあるでしょう。

こういうものは通貨として使いにくいので、「ビットコインが世界統一通貨になる」ことは無いでしょう。


給料がビットコイン払いになり、きのう受け取った給料が2倍になったら嬉しいが、半分になっている可能性もある。

仮想通貨に肯定的な意見もあり、低コストで国家間の送金ができる点は高く評価されています。

例えば三菱銀行や世界の金融グループが独自のブロックチェーン通貨でコストゼロの国際送金を目指している。


だが国際送金には価値が変動する仮想通貨は好ましくないので、円やドルに対して固定していた方が良い。

通貨が不安定な国では仮想通貨を購入する人が多いが、彼らもできれば円やドルやユーロで保有したいはずです。

ブロックチェーンには可能性があるものの、今のままの仮想通貨が法定通貨に替わる日は来ない。
http://www.thutmosev.com/archives/79168912.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/314.html#c28

[番外地7] ビットコインの暴騰・暴落 _ 自国通貨が信用できない人間がバブルを作り、日本人が本気になって買ったらバブル崩壊 中川隆
29. 中川隆[-11746] koaQ7Jey 2019年3月02日 12:16:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[235]
「日本の未来を考える勉強会」ー貨幣と経済成長ー 
平成30年3月7日 講師: 中野剛志 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=PIVG7XDGrH4


第2回「日本の未来を考える勉強会」ー貨幣と租税ー 
平成29年4月27日 講師:中野剛志 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Zc9-Y5jiIO4

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/314.html#c29

[リバイバル3] 中川隆 _ 動物関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-11745] koaQ7Jey 2019年3月02日 18:19:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[236]
水道の栓ひねる「天才」カラス 飲む浴びる、調節も自在
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/937.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/815.html#c4
[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
112. 中川隆[-11744] koaQ7Jey 2019年3月02日 19:11:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[237]

雪日記 カチカチ山に逆戻り。
【18-19シーズン 106日目】 天候:曇り〜晴れ
3/1(金) かぐらスキー場でスキー。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3529.html


昨夜はちょこっと降雪があったようです。
木々がうっすら雪化粧。

白い森はいいねぇ。

うっかりパウダーがいただけるかも!?
と、森の探索をしてみましたが、
カッチカチ、恐ろしすぎ…。

場所を変えてみます。
見た目は最高じゃないか!

しかし、
カッチカチ…(笑)
そうだよね、降ったのは多分雨のような雪。
朝の冷え込みでそれが凍ってご覧の通り。

それでも山が白くなると嬉しい!
本日は景色だけを楽しみます。

昨日緩んだゲレンデも、再び凍結しハードバーンに。
じゃがいも畑もまた育っちゃいました。

癒しのテクコブもカチカチ…。

それでもコブに挑み続けます。

参りました!
怖いだけで楽しくない(笑)

見た目はこんなに美しいのに、中身は凶暴。
わたくしめ、美しくてやさしいのが好きです…。

みつまたは一転、
シャバシャバ、すっかり春です。

コブ太郎が冬眠から覚めていればなと考えちゃいましたが、
いやいやそれはまだ早い。
本日みたいな状況だと、みつまたにコブがあればなぁと願っちゃいました。

毎月1日は定蔵サービスデイ。
根曲がり筍のメンマとチャーシューがたまらない!

明日は久々に降雪予報が出ました。
湯沢町の予想量は1cm(笑)
1cmされど1cm、雪は降る予報だ…今はそれだけでも嬉しい!

うっかりパウダーにちょっぴり期待して、
本日はノーアルコールデイ、夜の部は無しです(笑)

スキー場発表積雪量
かぐらエリア:340cm (-10cm) 
田代エリア:320cm (-10cm)
みつまたエリア:300cm (-10cm)

使用板:LINE / FUTURE SPIN
ビンディング:LOOK / PIVOT12
ストック:SINANO / Bump Diver
ブーツ:K2 / PINNACLE 130


http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3529.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c112

[近代史3] 山田勇男 蒸発旅日記 (2003年) _ つげ義春は何故まともな映画化ができないのか? 中川隆
1. 中川隆[-11743] koaQ7Jey 2019年3月02日 22:24:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[238]

つげ義春『蒸発旅日記』
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%A4%E3%81%92-%E7%BE%A9%E6%98%A5/dp/4101328129/ref=pd_sim_b_1


「蒸発旅日記」という第1章の書き出しでは、九州に旅行したときのことを記しているのだが、一面識も無かった九州の女性と結婚して九州に住み着くつもりであるということが書かれていて、緩くだが驚かされる。

嘘か冗談かと思いつつも、つげさんの旅日記の記述には気負うところなど無く淡々と進められていくために、いつの間にか「それもあるかな…」というつげ世界の住人にされてしまうのである。

緩い衝撃の後には、ストリップ小屋でのあれこれやら見込み結婚相手の女性との関係やらが綴られていき、結局は日常生活にあっけなく戻ってきてしまう。ただその戻り方は、旅というものを通り過ぎた後だけに、それまでの日常とは異質な世界となって立ちはだかってしまうのだ。
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1651


万力のある家:つげ義春旅写真 秋葉街道(1973年4月)

蒸発とは自己を規定し束縛している関係としての自己を棄てる具体的行為であるが、一切が関係に拠るならば死との関係も含まれる。

 ふだん死をリアルに意識することはめったにないけれど、誰もが死によって生涯を限定され、制限されることによって存在している。関係とは限定や規定を意味し、関係なくして独立自存する存在はありえない。

 生は相対関係としての死によって規定され支えられている。自己を規定する関係を断つ蒸発は死をも断ち、死に支えられている生も同時に失う。死の支えを失った存在は、存在しながら存在しない<空>となる。死からの解放は「生からの解放」でもあり、生の放棄こそが絶対の至福であり、すべての宗教の目標である。蒸発は、はからずも「生死を超える」手取り早い方法なのであった。

 蒸発経験者として私はそのように理解しているのだけれど、「生死を超える」手応えはまるでない。むしろ呆けて生も死も忘れてしまうことを願っている。
http://manriki.sanpal.co.jp/tsuge/AKIBAKAIDO.html


蒸発旅日記
1981年『夜行』10号 随想・つげ義春より

 深沢七郎の「風雲旅日記」を読むと――旅行は見物をしに行って帰ってくるのだが、私の場合は、ちょっとちがって、行ったところへ住みついてしまうのだった――というすごい旅のしかたをしているが、私も以前これと似たような旅のしかたをしたことがある。住みつきこそしなかったけれど、住みつくつもりで出かけたのである。

 昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。九州を選んだのはそこに私の結婚相手の女性がいたからだった。

といっても私はこの女性と一面識もなかった。二三度手紙のやりとりをしただけの、分かっているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。

「どんな人かなあ」と私は想像してみた。

「ひどいブスだったら困るけど、少し位いなら我慢しよう」
と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮そうと考えた。

「離婚をした女なら気がらくだ。」
彼女はきっと「結婚してくれるだろうと私は一人決めしていた。

 二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこみ身軽に新幹線に乗りこんだ。私の間借りしていた部屋はそのままだが机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろう。

 名古屋で紀勢線に乗替え松阪で松阪牛を食い一泊した。翌日近鉄で大阪に着いたのは昼前だった。九州行きの列車の発車時刻まで一時間あった。私は駅の地下でコーヒーを飲みながら不安を静めようとしていた。名古屋までは調子よく出て来たが、大阪から先へは行ったことがなく急に心細くなってしまったのである。これが普通の観光旅行なら気持も浮かれるのだが、そうではないので決意が鈍りそうであった。松阪に寄道をしたのも迷いが生じたからだった。

「やっぱりやめようかな」。

そう思い、私は駅前の中央郵便局へ行った。中止をするにしてもこのまま東京へ引返しては面白くないので、千葉へ行こうと思ったのだ。千葉には落着いて昼寝でもしていられる宿屋がある。そこへ予約の手紙を出したのである。大阪近辺で二三日見物をし、それから千葉へ行くつもりでいた。

 また大阪駅へ行くと九州行きの発車の時刻がせまっていた。手紙を出したものの私はまだ迷いが残っていた。今決行しなければもう二度とチャンスはないかもしれない。このまま日常に戻ってはまたウツウツとした日を過さねばならない、それもうっとうしいことだ。そう思うと、私は役者が舞台へとび出して行くような気持ちで、小倉行の切符を買い列車にとび乗った。

 列車が動きだすと私はもう観念したが
「蒸発をするのは案外むつかしいものだな」

と思った。それは現実の生身の役者が舞台へとび出し別の人間になりきるのに似ている。役者は舞台のそでで緊張と不安のあまり吐気や便意をもよおすそうだ。しかし舞台は幕がおりる。蒸発は幕がおりないから演じ続けなければならない。そしてやがて演じ続けることが日常となり現実となるだろう。そうわかっていても私はもうとび出してしまったのだ。

 列車はウーンウーンと鈍い音を響かせていた。私は急には別の人間になりきることはできないで、まだ緊張が続きずっと目を閉じていた。広島を過ぎると安芸の宮島を紹介する車内放送があった。そのとき目をあけ窓の外へ視線を移すと、大きな蠅が一匹窓ガラスにとまっていた。車内は冷房がききすぎて、蠅は弱っているのかじっと動かないでいた。私は宮島を眺める気もなく蠅を見続けていた。

――この蠅は私と同じように大阪から乗ったのだろう。するとこのまま九州へ行くことになる、九州へ行ったらもう戻ることはできない。そうしたら九州でどのような生きかたをするのだろうか――そんなことを私は考えていた。

 小郡を過ぎたあたりで、通路をへだてた隣りの若い女性に私は声をかけた。

「九州はどんなところですか」

 と尋ねると、気さくそうな女性は、

「九州見物ですか、それなら水前寺公園がいいですよ」

 と教えてくれた。

「その公園はどこにあるのですか?」

 と、また尋ねると、

「熊本です。私は熊本に帰るのでよかったらご案内してあげます」。

 と云った。彼女は大阪で女工をしていて熊本に帰るのだと云う。私は
「熊本もいいな」
と思った。そして、この女性について行って彼女と結婚しようと考えていた。相手は誰だっていいのだ。

私はまた迷った。小倉にいる看護婦さんはまだ見たこともない人だ。こっちの彼女はもうだいたい人柄もわかり悪くない感じだ。ただ気になるのは、この女工さんは熊本の実家に帰るのだと云う。実家には親も兄弟もいるだろう、そうなると面倒くさいことになる。けっきょく私はあきらめて小倉で下車をした。

 小倉は日が暮れていた。駅前はネオンの海である。私は繁華街で宿探しをするのは慣れていない。どの方向へ行ったらよいのか見当もつかずうろうろしていた。すると旅館案内所が目にとまり、申込むと新月旅館を紹介された。旅館からの迎えは小肥りの中年女が歩いて来た。駅を背にして右の方角に並んで行くと魚町商店街にはいった。小倉で一番の盛り場らしい。新月旅館はパチンコ屋の向いにあった。盛り場の中の宿という連込みを想像し佗しくなるが、中に通されると堂々たる商人宿だった。入れかわり立かわり四五人の女中さんが部屋に来たが、皆中年の気さくそうな人柄なのでほっとした。私は旅に出て宿を決めるまでは安心できない性分なので、ようやくくつろいだ気分になれた。

 夜九時頃、看護婦の(仮りにS子としておこう)のいるT医院に電話をすると、日曜日なのでS子は休みだった。住込みのはずなので何処かへ出かけたのだろう。

 翌日は早々に朝食を済ませ外へ出てみると、通勤通学の人々が忙しげに行交い通りは混雑していた。これから一日が始まろうとする活気が満ちていた。私は自分だけ生活から離れた気分でいることがうしろめたいような寂しいような気持になった。

 私はこれからこの九州で生活をすることになるのだからそれらしく振舞ねばと思った。さいわい私の服装はよそ行きのそれではなく普段着のジャンパー姿であった。私は土地の人間になったような気持を装い駅前の上島珈琲店に入った。店の中は早朝にもかかわらずざわついていた。私は隅に席をとり、他所者の緊張が現われないよう気を配りながら新聞をひろげた。早朝の忙しさの中で新聞をひろげるということは時間をおしみいかにも用ありげで、そこここに私と同じように新聞をバサバサさせている者がいる。私は職業欄と貸間に目をやった。まず第一に必要な問題であったが、職業欄と貸間に目をやることで自分をカモフラージュしようとする気持が働いた。

 上島珈琲店を出ていったん宿に戻り昼食時に再び外へ出た。また自分を試すかのように土地の者が利用する一膳めし屋で昼食をすませた。めし屋のおばさんは愛想よく客に話しかけているので、もし私に声をかけて来たらどうなるか、私の言葉使いは東京弁である。地所者であることがバレたらと思うと、私は内心ヒヤヒヤしていた。

 そのあと時間つぶしに街を散歩したりパチンコをしたり、本屋をのぞいたりしているうちに次第に緊張がほぐれ、私は身も心も解放されて行くのを覚えた。どうゆうものかいっぺんに気がらくになってしまったのである。本屋では「人間存在の心理学」という本を買った。退屈しのぎに宿でねころんで読んでみたが、面白くない本だった。人間の存在について解説しているのだが、いくらリクツをこね回しても、生身の感情はどうすることもできないのだから「役に立たぬ本だな」と思い、途中でなげだしてしまった。

 夕食前またS子のいるT医院に電話をするとS子が出た。私が小倉にいることを告げると頓狂な声を出して驚いていた。S子はすぐとんで来た。小柄でやせ型の美人であった。私はまぶしいほどであったが少し失望した。美人にはちがいないが、私のあまり好みのタイプではなかったのである。早口のお喋りだった。

「私の弟がねツゲさんの大ファンなの。それで私もファンになったのです。私は○○町に六畳と三畳と台所の部屋を借りてあるんです。冷蔵庫やテレビもあるんですけど、勤めが住込みのような状態だからたまにしか部屋に帰ることができないんです」

 と、なにがおかしいのかやたら笑声をあげながらまくしたてた。私は陽気な人だなと思った。少し気にいらない点もあるが、部屋も所帯道具も揃っているのなら結婚してしまおうかなと思った。しかし、

「私の部屋にくれば弟も喜んで来るわよ」

 と云うのでがっかりした。私は弟なんかがのっそり現れては困るのだ。私は深刻なのである。九州まで蒸発して来たのだからもっと私の深刻さに同調してほしいと思った。

 彼女はなおも早口で離婚をしたいきさつ、その失意で山陰の萩へ旅行をし、自殺を考えたことなどをベラベラと疲れもせずに続けた。私はうんざりした。早く寝てしまいたいと思った。

「それで今夜は泊れるんですか」

 とたずねた。だが無断で外泊は禁じられているとのことだった。また来週の日曜日でないと会えないといって十時頃帰っていった。私は一週間待たされることになった。

三日間はパチンコをしつづけていたが、どうにも退屈で旅行に出た。宿のおかみさんに杖立温泉、湯布院、湯の平温泉を巡るコースを教えられ出かけた。別府まで行きそこからバスで湯布院へ行き一泊し、二日め湯の平の白雲荘に投宿した。

 湯の平は湯治場だった。年寄りばかりが多かった。私は夜、空腹を覚え散歩に出てバナナをひとふさ買った。そしてストリップ見物に出かけた。宿の眼下を流れる川の対岸の木造の宿屋でストリップは行なわれていた。私はバナナを浴衣のふところに入れ、宿の離れの二階へ上って行った。

離れにはいくつかの部屋があったが、宿泊客は一人もいないようであった。電気も消えうす暗い中に一ヶ所電灯のついている部屋があったので、障子の隙間からのぞくと、ベレーをかぶった小柄な初老の男と、踊子らしい三十前後の女と二人だけでテレビを見ていた。私は隣りの十畳ほどの部屋に案内された。客はほかに一人もいない。

 部屋にはベニヤで一段高く粗末な舞台が造られていた。その下にはテーブルとアルミの灰皿が三ツと大きな空の火鉢があるだけだった。舞台のそでに(一回の公演時間=レコード七曲=約二十五分右ご諒承願います)と下手な文字でかいてある。舞台の背景は隣室の楽屋との境いである襖だけで、その中央に花輪が一ツあるだけのさみしいものだった。私は煙草をふかしながらねそべって待っていると、楽屋からテレビの野球の音が聞え、踊子と初老のマネージャーが野球の話をしているのが聞えた。話をしながら仕たくをしているらしい。やがてマネージャーが「長らくお待たせ致しました」とカン高い声で一言挨拶し、レコードが演歌調の音を佗しげに流した。

 踊子はカツラをつけ紫の着物で現われた。下手な踊りで三曲までは着物の裾を乱す程度であったが、四曲目に帯をほどき、朱色の肌着のあわせを開きチラチラ陰部を露出させた。

私はバナナを買った残りの小銭を千七百円舞台に乗せ、股を開くよう手振りで指示した。彼女は真面目な顔でちらとそれを見た。私は助平な気持だけでそんなことをしたのではなかった。佗しげな雰囲気に酔い、佗しげな客になってみたかったのである。しかし、そんな大胆な真似ができる自分が不思議でならなかった。私は九州に来るまでは緊張と不安のかたまりだった。それが急に開き直ったような気持になってしまったのである。

 舞台の光に大きな蛾が一匹舞っていた。踊子は恐ろしげにマユをしかめ蛾をさけるように踊っていた。舞台の端に蛾がとまったので私は灰皿をすばやくかぶせてやった。彼女は少し歯を見せ笑った。そして私の目の前に来て大きく股を開いてみせた。私は思わず苦笑をしてしまった。

 終了後舞台の電気を消しにマネージャーが出て来たので、三人で舞台の端に坐りバナナを食べた。彼女は「王と長島はどうだったの」と野球の結果を気にしていた。大股開きの舞台が終ったあと、何事もなかったように、こうして野球の話をしていられる生活も(いいな)と私は思った。

(この人たちにこのままついて行きドサ回りでもして暮そうか)

とも思った。自分なら看板を描くこともできるし、その気になれば呼び込み位いできるかもしれない……。

「景気はどうですか」

 と私はたずねてみた。マネージャーは、

「この町はさっぱりです。だけど契約だからしかたがありませんわ」

 と、まだしばらくここに滞在するようであった。私はすぐにでもドサ回りに出発するかと思ったのでがっかりした。

 あくる日は杖立温泉の千歳旅館に泊った。また宿の近くにヌードスタジオをみつけ、夜の七時頃行ってみると、まだ時間が早いせいか客は一人もいなかった。舞台の脇の廊下で踊子が一人で化粧をしていたので話かけてみると、九時頃に来てくれというので出直すと今度は満席だった。といっても客席は十人ほどしか坐れない。
 踊子はネグリジェ姿で舞台に現われると、いきなり、

「そちらのお兄さんすましてないで前へいらっしゃい。

東京から私を見に来たんでしょう」

と私に冗談をとばした。開演前、私と二人きりで話を交したときは無口で恥かしそうにしていたのが、舞台に出ると人が変わったように大胆だった。湯の平の踊子とくらべると若くてグラマーで均整のとれた体つきをしていた。私は熱心に彼女を見つめた。彼女もなぜか私ばかりを見ながら踊り続けた。私は(脈があるぞ)と思った。

 宿に戻ってからも、私は彼女の視線が意味ありげに思え寝つけなかった。睡眠薬を常用していたがそれでも寝つけず、酒に酔ったような気分でもう一度ヌードスタジオに出かけた。一回の公演の終ったあとで客席は空だった。私は次の開演まで客が集まるのが待ちきれず、一人で五人分の料金を払い舞台を独占した。

 彼女はバタフライ一つをつけただけで踊ろうとしたが、私はやめさせ自分の目の前に坐らせた。私は客席の椅子に腰をおろし、彼女は舞台の前に出て正坐した。ちょうど目の前に彼女の太ももがあったので私は手を乗せ、感情が高ぶり、次に頬を寄せた。互いに無言のままであった。私はなぜかせつなさがこみ上げてきて、彼女の腰に手を回しすがりつくように抱きしめた。彼女もやさしく私の髪をなぜた。舞台に流れる甘いメロディの効果もあったのだろう、私は、

「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」

 と甘いセリフがすらすら口をついて出た。そして、

「今夜つきあってよ」

 と云うと、彼女はこくりとうなずいた。

「でもネエさん(座長)に無断で外泊はできないので相談してみてくれる?」

 と云うので私はまごついた。だがネエさんは楽屋で見ていて察知したのか「話はついたの?」と苦笑まじりに承諾してくれた。そして、こうゆう商売柄売春行為と誤解されると困るから、彼女を宿に出向かせるのはやめ、別に宿をとってくれと云った。

 私はいったん宿に戻り、彼女の舞台のハネるのを待った。それにしてもまさかストリッパーとこういう成行きになるとは思いもよらなかった。ああゆうヒトには決って恐いヒモがついているものだが、私はそんなことはおかまいなしに感情のおもむくまま行動をしていた。ふだんの自分では考えられないことで、私は蒸発をしてしまってから自分の心がどこかへ消えてしまったような、すべての拘束から解放され宙ぶらりんのような状態になっていた。鎖の切れた小舟のようにただ波まかせであった。

 彼女は十一時に舞台がハネそれから風呂に入ってくるはずだった。私は頃合をみて指定の宿へ出かけた。宿は連込み専門だった。私は部屋で寝ころびながら雑誌を見て待った。(彼女は本当に来るのだろか、話が少しうますぎやしないか)と私は少し心配だった。

 彼女は約束の時間より三十分ほど遅れて来た。風呂で化粧を落とし、髪も短く別人のように現われた。舞台ではかつらをつけていたのだった。素顔の彼女はごく平凡な娘のようだった。二十才前後だろうか恥ずかしそうにうつむいているだけだった。私も話題に困り、おきまりの身の上話を訊ねた。彼女は博多で女工をしていたが、男にだまされこの杖立温泉に売りとばされたのだった。

「たびたびこの宿を利用しているの?」

 ときくと、

「ずっと前一度お爺さんと、嫌だったけど無理やり頼まれて………」

 と答えた。私は少し気がらくになった。彼女は、

「東京の人はやさしそうだね」

 と云った。

「なぜ?」

 ときき返すと、

「言葉がやさしいからね」

 と云うのである。

 彼女は舞台の淫猥な姿態とはほど遠い未熟さで、まるで棒のようだった。私は彼女がいとおしくなった。 翌朝十時頃目ざめると彼女はいなかった。枕元の私の飲んだ睡眠薬の効能書の裏面に置手紙が走り書きしてあった。

  あなたと文通がしてみたいのでお便り下さいませ。
  あなたが云ったように髪を長くします。
  黙って帰ってしまって申訳ありません。
  でも気持良さそうに眠っていたのでさよならしました。
  あなたもいろいろ考えずに頑張って下さい。
  お手紙くらい下さいね。
   住所 小国町××× M・T方      F・M子

 私はこのまま別れてしまっては悪いような気がした。いったんもとの宿に戻り、身支度をしてスードスタジオに挨拶に行った。お礼もしたかった。だが彼女は散歩に出たとかでいなかった。

 私はバスターミナルへ行き十二時発のバスに乗った。今日は土曜日、小倉でS子と逢う約束がしてある。土曜の夜から日曜の夕方までがS子の自由時間なのだ。

 バスは発車まで十分ほど間があった。私は最後部の座席に掛けM子に会えないで良かったと思った。こんな場合の別れの挨拶は苦手なのだ。だが名残りおしい気持もないではなかった。それは彼女への思慕ではなく、彼女と結婚をした場合を想像してのことだった。私はまた、

(ストリッパーのヒモになって方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな)
と思ったのである。

 私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面もちで、バスの後方に近ずいて来た。私は身をかくすように座席に体を沈め、後髪をふりきるように目をとじた。バスは発車した。

 日田で汽車に乗りつぎ四時に小倉に着いた。七時にS子が来て、今日は実家に戻るつもりで外泊の許可を得てきたと、いいわけがましく云う。彼女は弟のほかに実家まである。なぜこんなときに親兄弟の話をするのか、私はまたしても失望した。しかし蒸発をする条件としては、部屋も借りてちゃんとした勤めもしているS子が最も適当な相手に思えた。彼女は働き者で男につくすタイプである。私は怠け者だからちょうど良いかもしれない。

 私は迷った。迷ったままS子と寝た。彼女は翌日も実家へ帰らず一日中宿で過し、夕方五時頃、患者の食事の用意をするため帰って行った。S子はこのまま私と生活を共にするとは考えていなかったようで、ひとまず東京に帰り、ゆっくり考えてくれという意味のことを云って別れた。

 東京へ戻ってからも私は真直ぐ家に帰る気がせず、神田の宿に二日間泊まり考え続けたが、蒸発がいったん元に戻ってしまってはもうおしまいだと思った。その後S子からは度々手紙が来たが、ついに私は一通の返事も出さなかった。

 いま思うと軽薄な真似をしたものだと恥いるばかりだが、私の蒸発はまだ終わってはいない。ものは考えようで、現在は妻も子もあり日々平安だが、私は何処かからやって来て、まだ蒸発を続行しているのかもしれない、などと考えることもある。
http://www.mugendo-web.com/y_tsuge/tabinikki.htm


うーん、今考えれば誰の目にも明らかなのですが、この蒸発行は所謂『死と再生の旅』なのですね。 但し、

死んだのは 『強烈をオーラを発する天才芸術家 つげ義春』
再生したのは『才能は失ったが社会人として成長した人気漫画家 つげ義春』

なのですね。 若い時に精神分裂病すれすれだった画家のエドヴァルト・ムンクやジョルジョ・デ・キリコと全く同じ経過を辿っています。

そういえば、シンガーソングライターの中島みゆきも全く同じですね。 30歳迄の中島みゆきの歌とそれ以降の歌ではとても同一人物だとは思えない極端なオーラの差があるのです。

要するに、このタイプの天才は若い頃は境界性人格障害か初期の統合失調症だったのでしょう。 それで普通の人は気付かない現実の背後にあるディープな世界を見る能力が有ったので優れた作品を次々に作っていったのですね。

しかし、若さを失うと脳は正常になる代わりにそういう能力も一緒に失われてしまうのです。
何れにしろ、つげ義春が蒸発行以降に書いた作品はすべて過去の作品の注釈という意味しか無くなってしまっています。 残念ですが。


31 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 10:04

オンドル式の風呂っつーかサウナっつーか、入ってみたいねぇ。
実際あるのか? どこだっけアレ。


33 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 11:00

秋田県と岩手県にまたがる八幡平には奥羽背梁山脈上に噴出した那須火山脈系に属し周辺には特色のある温泉群が散在する。
特に秋田県側の活火山 焼山付近には灼けただれた地肌や泥火山
大湯沼 大噴湯などのめずらしい火山現象がみられ
それらをとりかこむ玉川 後生掛 蒸の湯などの各温泉にはオンドル式という奇妙な入浴(?)法がある。


34 名前: キング・グレムリン 投稿日:2000/05/23(火) 13:27

オンドル式って、もともとは朝鮮半島の温泉の楽しみ方らしいですね。


35 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 13:34

オンドルは朝鮮半島が本場だよね。一種の床暖房でしょ。
旅行記といえば、どこかの温泉場の風景のなかで田中コミマサが酔っぱらってる
絵を、つげ義春がかいてたのが、なぜか思い出される。

忠男は千葉でジーンズ屋やってるけど、まだあるのかなあ?
古本屋で一山当てて、株式上場までした誰かとは大違いだね。


37 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 18:40

(温突)とは朝鮮・満州地方で行う一種の暖房装置で床下に仕切を設けて火気の通る坑を作り 焚口から火をたいて室を温めるものである
それと似たような天然の現象をオンドル式というのだそうだ


38 名前: 名無しさん@1周年 投稿日:2000/05/23(火) 18:59

「後生掛(ゴショガケ)  オンドル式の湯治棟があり、長期滞在可」
初心者には耐えがたい熱さだそうだ。経験者います?
秋田在住の人とか。
入ってみたいねェ。
http://www.geocities.jp/bbtugeken/2ch1.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/276.html#c1

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
183. 中川隆[-11742] koaQ7Jey 2019年3月03日 09:35:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[239]

2019年03月02日
ヴァイキング〜北歐戦士が教える強さ
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68754887.html

野心と復讐が満載の海賊ドラマ

Vikings Ragnar 3Vikings Lagertha 2


  「History」チャンネルの大ヒットTVドラマ『ヴァイキングズ(Vikings)』が、高視聴率を以てシーズン5を終了した。このドラマは伝説の英雄ラグナー・ロスブロックの活躍を描いた作品で、シーズン4からは、その息子達の戦争や内紛をテーマにしている。このドラマにおける見せ場は、何と言っても壮絶な戦闘にあり、ヴァイキングが敵を殲滅するシーンは圧巻だ。日本の時代劇だと、剣の達人が一瞬の隙を突いて相手を斬りつけるといった名人技か、大勢の兵隊を集めただけの合戦が主流となっている。しかし、北歐戦士の殺し方は“雑”というか、腕力で押し切るといった感じだ。とりわけ、斧で相手を惨殺するシーンは凄まじく、鬼包丁よりも肉厚の手斧が敵の肉体に食い込み、鮮血が噴水のようにほとばしる。TBSの時代劇に慣れた日本人だと、「えぇぇ〜! こんなドラマ放送していいの?」と驚いてしまうだろう。ウァイキングにとったら戦争は一種の家業で、生き甲斐という側面もある。キリスト教に染まっていないゲルマン人には、手当たり次第の殺人が悪いなんて感覚は一切無い。これは言いづらい事だけど、キリスト教的倫理観に囚われない殺戮がヴァイキング映画の魅力となっている。

Vikings Ragnar death(左 / 毒蛇に噛まれて死亡したラグナー・ロスブロック)
  歴史ドラマには、戦争や策略、欲望、愛情に加えて、登場人物の様々な人間模様が描かれているが、復讐というテーマも欠かせない要素だ。もちろん、『ヴァイキング』にも恨みを晴らす復讐劇があった。シーズン4で主人公のラグナーは、ノーザンブリアの王エッラ(King Aelle)に殺されてしまう。フランス遠征で失敗したラグナーは故郷のカタカットを去り、イングランドへと渡ってしまうのだが、そこで運悪くエッラ王に捕らえられ、恥辱的なリンチを受けてしまうのだ。嬲(なぶ)り物にされたラグナーは、最終的に地面に深く彫られた穴へと突き落とされてしまう。だが、そこには沢山の毒蛇がとぐろを巻いていた。観ているだけで背中に戦慄が走るが、負傷したラグナーは運命に身を任せ、蛇に噛まれながら絶命してしまうのだ。しかし、彼の息子達は後に復讐を果たす。ラグナーにはビョルン、ウベ、ヴィトゼルク、シガード、アイヴァーという五人の息子がいて、彼らは仲間を引き連れてエッラ王を捕らえることに成功し、親の仇(かたき)を「血の鷲(blood eagle)」という残酷な刑罰につける。

King Aelle 2King Aelle blood-eagleKing Aelle 3


(左: エッラ王 / 中央: 「血の鷲」を説明した絵 / 右: 宙吊りにされたエッラ王)

  酷刑の方法は次の通り。ヴァイキングたちはエッラ王を丸太に押しつけ、うつ伏せにさせたまま、その両手に太い釘を打ち込んで固定する。そして、ビョルンが熱した刃物で王の背中を切り裂く。背中の皮膚をめくって赤い肉と背骨が現れると、そこを手斧で打ちつけるもんだから、エッラ王は堪らず絶叫する。しかし、ビョルンは容赦なく手斧を振り下ろし、脊髄を叩き折り、肺を剔ってしまうのだ。壮絶な生き地獄を味わったエッラ王は即死。ラグナーの息子達は王の死体を宙吊りにして晒し者とする。王の遺体は背中に羽根が生えたような姿になっていた。女性の視聴者だと、思わず目を背けたくなるシーンだが、ヴァイキング達は夜中に行われた、この儀式的処刑を楽しんでおり、ちっとも悪いとは思っていないのだ。彼らにとって復讐は当然の義務である。仇討ちが禁止されている現代とは大違い。法学者が何と言おうとも、行政の役人が復讐の肩代わりをするなんて茶番だ。いくら犯人の死刑が実行されたからといって、遺族の気持ちが晴れるわけじゃない。やはり、遺族が直接手を下してこそ、本当の死刑である。そうじゃないと、いつまでも遺族は鬱血した状態のままなので本当に気の毒だ。(日本は古代人に倣って、原始的な処刑法を復活させるべきなんじゃないか。案外、ヴァイキング式の復讐は歓迎されるかもよ。)

Vikings Lagertha 1Vikings Queen Aslaug 2(左: ラガサ / 右: アスラグ)


  話を進める前に、ラグナーの家族について紹介したい。「英雄色を好む」というが、ラグナーも例外ではなく、正妻が居るのに別の女性を愛してしまった。正妻は王になる前から一緒に暮らしていたラガサで、彼女との間にはビョルンが生まれている。二人にはガイダという娘がいたけど、村に発生した疫病で失ってしまうのだ。その後、カタカットの王になったラグナーは、イングランドの侵掠を計画し、妻ラガサを残して仲間と共に遠征へ旅立つ。故郷を離れたラグナーは、ふとした事からシグリッドとブリンヒルドの娘であるアスラグに一目惚れ。彼女の魅力に抵抗できなかったラグナーは不貞を犯し、結果的に子供をもうけてしまう。これに我慢できなかったラガサは家を出る決心をする。戸惑っていた幼いビョルンは、母のラガサが旅立つ時、居たたまれなくなって態度を翻し、ラガサと共にラグナーの許(もと)を離れることにした。やはり、後妻や異母兄弟と暮らすより、実の母と一緒に暮らしたいと考えたのであろう。ラグナーは胸が張り裂けるほど悲しんでいたが自業自得だ。

Vikings Bjorn 01Vikings Bjorn 03(左: 少年時代のビョルン / 右: 「強靭(Ironside)」と呼ばれるようになったビョルン)
  ラグナーが君臨する村「カタカット」では、二番目の妻アスラグが女王になって夫を支えることになった。彼女は次々とラグナーの息子を身籠もるが、末っ子のアイヴァーだけは丈夫な子供でなかった。年上の息子三人、ウベとヴィトゼルク、ジガードは五体満足で生まれたが、アイヴァーだけは脚に障碍を持ち、まともに立つ事すらできない。アイヴァーは動くときはいつも両手を使い、地面を這いつくばるように進んでいた。(後に、鉄製の脚甲冑を作らせ、それを装着して立てるようになっている。) だが、兄弟の中で最も知能が高く、強固な意志を持っていたのはアイヴァーだ。父のラグナーはアイヴァーの素質を見抜き、不具の息子に智慧を授け、立派な統率者に育てようとした。父の薫陶を受けたアイヴァーもそれに応え、片輪の身体にめげることなく、強靱な精神を持つ戦士に成長したんだから偉い。彼は兄弟をも従えるほどの指導者になっていた。

Vikings Ubbe 1Vikings Hvitserk 2Vikings Sigurd 1Vikings Ivar the Boneless

(左: ウベ / ヴィトゼルク / ジガード / 右: アイヴァー )

  ところが、「骨なし(Bonless)」と呼ばれたアイヴァーには、劣等感ゆえの傲慢さなのか、矢鱈とプライドが高く、野心が強すぎるという欠点があった。確かに、鋼鉄の意思はリーダーの特質になるが、周囲の人間に対する兇器にもなり得る。アイヴァーは兄弟揃って食事を共にした時、シガードの軽い嘲笑に激昂し、その場で手斧を投げつけ、侮蔑的な兄を殺してしまったのだ。アイヴァーの性格は兄弟の関係をぎくしゃくさせ、団結を誓っていたラグナーの息子たちにも亀裂が生じ、次第に骨肉の争いへと発展する。長兄のウベと末弟のアイヴァーは対立し、袂を分かつことになるのだが、ヴィトゼルクは迷った末に、アイヴァーの側に附いてしまう。理由は明らかにされていないが、アイヴァーの気魄に靡いてしまったのかも知れない。

  しかし、弟に与したヴィトゼルクは後悔することになる。アイヴァーは自分を神の如き君主と思うようになり、独裁者のように振る舞い始めた。元々、ヴァイキングの王は絶対的な君主というより、対等な者からから推挙され、戦争の時に皆を統率する首長といった感じだから、神々の権化なんていう身分じゃない。ヴィトゼルクはアイヴァーの変質に反撥を抱き、敵対していたウベとビョルンの陣営に寝返ってしまうのだ。一方、アイヴァーと対峙したウベは、異母兄弟のビョルンと組んでアイヴァー軍と戦うことにした。ラガサの運命も数奇で激しい。ある時、ラガサは敵対するイングランド人の司教ヘフマンドを捕虜にする。しかし、いつの間にか二人は肉体関係を結ぶ仲になってしまう。今でこそ、カトリック教会の司教は独身が掟となっているが、古代までは厳格な独身制はなく、妻や愛人を持っている聖職者は珍しくなかった。また、当時の聖職者は質が違っていて、剣を持って戦うことに抵抗がない。ヘフモンドはシェルボーンの司教であるが、単に儀式を執り行うだけの聖職者ではなかった。彼は異教徒からキリスト教国を守る戦士という側面を持っている。異教徒からキリスト教国を守るという名目だったが、戦場に飛び出すと豹もビックリするほど豹変するんだから凄い。このクリスチャン戦士は鬼神の如く剣を振り上げ、次々とやって来る敵兵を滅多斬り。血塗れになってヴァイキングを叩っ斬る姿を見れば、司祭の方が副業なんじゃないかと思えてくる。

Vikings Heahmund 01Vikings Heahmund & Lagertha


(左: ヘフマンド司教 / 右: ヘフマンドとラガサ )

  ヘフマンドと恋に落ちたラガサだが、彼女と息子のビョルンには平穏な日々は無い。何と、ラガサは夫を奪った後妻のアスラグを殺していたのだ。母の復讐を誓うアイヴァーは、ラガサとビョルン、ウベが統率する軍隊と対決する。この戦いは熾烈を極めたが、アイヴァーは見事勝利を収めることができた。一方、負けたラガサたちは途方に暮れ、ヘフムンドの仲介で若きアルフレッド大王が君臨するウェセックスへと逃れる。アルフレッドの庇護を受けたウベは、北歐の土着信仰を捨て去り、よく理解していないがサクソン人たちが信じるキリスト教に改宗する。ウベは国王のアドヴァイザーに納まったが、アルフレッドの側近たちはヴァイキングの改宗者を胡散臭く思っていた。しかし、来たるべき戦争に備えねばならないアルフレッドにとって、この新参者は心強い味方である。何しろ、北歐の戦士は殊のほか勇敢で、懼れを知らぬ百戦錬磨のベテランだ。戦闘経験の無いアルフレッドにしたら“文明化”された家臣よりも頼もしい。

  古代の王様は部下を率いる力強い指導者でなければならない。後方に控えて「よきに計らえ!」と命令するだけじゃ駄目だ。出陣の前には感動的な言葉で仲間を鼓舞し、戦闘開始となれば先陣を切って戦わねばならない。そこで、アルフレッドはウベに戦い方を教えてもらうことにした。依頼を受けたウベは、森にアルフレッドを連れだし、戦士としての心構えを叩き込もうとする。彼はアルフレッドに樹木の前に立つよう命じた。意味の分からぬアルフレッドだが、ウベがそう言うので仕方なく彼の指示に従うと、ウベはいきなり手斧を投げつけた。若き王は即座に「何をする!」と激怒する。だが、ウベは構わず次の手斧を投げつけた。理屈よりも実践第一。これはある意味、空手やボクシングの練習よりもキツいんじゃないか。もし、斧が当たったら、アルフレッドは即死だ。

King Alfred 03Vikings Ubbe & King Alfred


(左: 若きアルフレッド大王 / 右: ウベとアルフレッド)

  ウベの特別訓練は恐怖心の克服にあった。戦場に出れば、敵は死に物狂いで襲いかかってくる。弓矢が飛んでくることもあれば、剣や斧で向かってくる者もいるから、怯むことは即「死」に繋がってしまうのだ。相手が誰であろうと恐れず立ち向かうことが肝心で、そのためには恐怖心を忘れなければならない。当時のヴァイキングは勇敢に戦って死ねばヴァルハラ(Valhalla)に行けると信じていた。「ヴァルハラ」とは主神であるオーディン(Odin)が主宰する殿堂で、ヴァルキューレ(Valkyrie)が戦場で斃れた戦士をここへ連れてくるという。要するに、英霊が集う死後の世界ということだ。ヴァイキングにとって戦死は総ての消滅ではなく、ヴァルハラへの旅立ちであったから、心置きなく戦うことができた。戦士文化では激戦での討死が名誉となる。ちなみに、戦場へ赴く前に転んで死んだり、愛人と寝ている時に腹上死じゃヴァルハラには行けなかったようだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68754887.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c183

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
9. 中川隆[-11741] koaQ7Jey 2019年3月03日 09:54:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[240]

名管「WE300B」に肉薄した真空管 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年03月01
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/1f35672cf4e959f116f078aac249ff3a


我が家の真空管アンプ群の中で、もし「ベスト1はどれですか?」と問われれば、どう答えようかと思うことがときどきある。


その日の気分次第に左右されるところもあるし、聴く音楽ソースによっても違うが、それらをいっさいおしなべて均してみたとするとやはり「300B」アンプに落ち着きそうだ。

   

現在、出力管を「WE300B」(1988年製)と「6A3」(1930年代製刻印付き)を交互に挿し代えながら楽しんでいるが、ケーブル類の交換などの周辺環境の変化に伴い、ますます存在価値を増しているのがWE300B。

「WE300Bはとても丈夫な真空管です。ごく控えめの動作に設定していますので、少なくともあなたが生きているうちは寿命が持つと思いますよ。」とは、このアンプを改造していただいた北国の真空管博士の弁だが、やはり高価な「WE300B」を常時使うのはちょっと抵抗感がある。

「高嶺の花はそれなりにそっとしておきたい」、マニアならこの心理お分かりですよね〜(笑)。

そこで、「WE300B」に肉薄した真空管を新たに手に入れて常時使用にすれば精神衛生上すこぶるよさそうだ。

さて「WE300B」の類似管として製作された球は山ほどあると言っても過言ではない。中国製、チェコ製、ドイツ製、日本製などいろいろだが、それらの中で比較的音がいいとされているのは「スヴェトラーナ」(ロシア)である。

第二次大戦後、ドイツの技術者を連れて帰って軍事用の球を作っていたという由緒あるメーカーなので信頼度は上の部である。民生用と違って軍事用は人間の命がかかっているのでよりシビアなツクリが求められる。

そこで、めったにオークションに出品されないスヴェトラーナ製の300Bに対してアンテナを張っていたところ、ついに引っかかったのが次の球。

   

   

真空管の点灯時に「紫色の光」がほのかに垣間見えるのは真空度が高い証拠で、これでほぼ新品同様であることがわかる。

オークションの解説にはこうある。

「Svetlana スベトラーナ SV300B マッチドペア 釣鐘式 Sロゴ レア品の新品同様品です。98年5月のペア管です。

資料も少なくレア品の理由をご存知の方は非常に少ないと思いますが、
このSV300B(Svetlana)は旧ロシア・サンクトペテルブルグにあるスヴェトラーナの工場で製造された300Bです。

写真の本体自体の構造を見て頂ければ判断頂けると思います。
WE300B(ウエスタンエレクトリック)を忠実にコピーしたレプリカで上部のオムスビマイカや釣竿型フィラメント固定具まで再現しています。

ウエスタンエレクトリックWE300Bにも劣らない丁寧なつくりで繊細で透明感のある音質がとても素晴らしい真空管です。コレクターの方や音質の優れた300Bをお探しの方には是非手にして頂きたい品物です。

新品をおろして数十時間しか使用しておりませんのでまだエージングの段階かもしれませんが動作は良好な状態でございます。

フィラメントの断線も一切なくゲッターの残量も良好でございますので写真を御確認下さい。プリントの印字のかすれもありません。残念ながら箱とデータシートはありませんが、間違いなくマッチドペアのVS300Bでございます。」

以上のとおりだった。

出品者の説明を鵜呑みにするほど「お人好し」ではないつもりなので(笑)、さっそく「北国の真空管博士」に連絡してご判断を仰いだのは言うまでもない。

「今は手いっぱいなので夜中でも見ておきましょう。」

そして、その翌朝のこと・・。

以下続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/1f35672cf4e959f116f078aac249ff3a

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真空管「SV300B」の実力 2019年03月03日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/d95260711f596f1ba29a9e5e8844cf6b


前回からの続きです。

遂にネットアンテナの網にかかったスヴェトラーナ製の「SV300B」。

   

巷では「WE300B」に優るとも劣らない緻密なツクリで音もすこぶるいいという評判である。

(即決で)落札しようか、それとも潔く諦めようか。

肝心の懐具合もいささか心もとないし「To be or not to be」と、まるでハムレット並みの心境だ(笑)。

そこで、前回のブログで記載したとおりオークションでの画像と解説の是非について我が家の真空管の主治医である「北国の真空管博士」のご意見を求めたところ次のような回答が戻ってきた。

「スヴェトラーナ製の300Bは初期の頃のものが一番いいです。その中でもSVブランドがより上位とされていますが、画像を見る限りとても程度がよさそうですよ。

真空管の命ともいえるフィラメントは音色と耐久性を大きく支配しますがこの球はとてもいいツクリがなされています。

   

(即決の)お値段からするといいお買い物だと思います。海外のオークションでも人気があってもっと高値で出品されています。

ただし良い球になればなるほどエージングに時間がかかる傾向があります。本領を発揮させるには2週間程度必要でしょう。もし、購入されたとしたら初めに半日ぐらいは整流管を引っこ抜いてエージングしてください。」

いつも否定的な博士にしては珍しく前向きなコメントに勇気百倍の思いで踏ん切りがついたのは言うまでもない(笑)。


「SV300B」が到着したのは落札してから二日後だった。見るからに程度が良さそうだ。

さっそくアンプに挿しこみ、博士の指示通り整流管を引っこ抜いて一晩エージングしてから音出しをしたのは翌朝のことだった。

スピーカーはウェストミンスター(改)。

   

ハラハラドキドキワクワク、この歳になってもこういう緊張感と胸弾む感覚を覚えるのだからオーディオさまさまである。

そして第一印象は・・。

音が前に出てくるのではなくて奥の方に広がるタイプなので、これは明らかにヨーロッパ系の音である。これなら長く付き合えそうだと、ほっとひと安心。

さあ、あとは手持ちの「WE300B」とどのくらい違うのか、試聴テストである。

さっそく大好きな愛聴盤のオペラ「魔笛」(モーツァルト)で聴き比べてみた。

左右両方のスピーカーの間にステージ(舞台)が展開されているとすると、魔笛の登場人物が遠ざかっていくときの足音が無限の漆黒の闇に溶け込んでいくように聴こえるのが「WE300B」である。

その点「SV300B」は遠ざかっていく足音が早めに消えてしまうのでステージの奥行き感が短いように感じた。ちょっと余韻が足りないかな〜。

とはいえ自分の耳だけでは心もとないので近隣のオーディオ仲間に来てもらって再度聴き比べたのは昨日(2日)の午後のことだった。

テスト盤はジャズの方がクラシックよりも音質の差が出やすいので、「枯葉」にした。

   

アルトサックス、トランペット、ピアノ、ベース、シンバルなど多彩な楽器のそれぞれの響き具合を確かめれば真空管の音の差は一目瞭然だろう。おっと、「一聴瞭然」かもね(笑)。

オーディオ仲間の感想によると「WE300Bはとてもリッチな音です。響きが豊かでもう言うことないです。その点SV300Bはネクタイを締めた実直なサラリーマンみたいでちょっとかしこまった感じですかね。

しかし、大いに素性の良さを感じますのでエージングが進むともっと良くなることでしょう。

後で聴かせていただいたゲリー・カーのコントラバスは素晴らしい音色でしたし、しかもオルガンがまるでスーパーウーファーを使ったみたいに深々とした低音を響かせるのには驚きました。」

「同感です。」と、自分。

「SV300B」の実力に「お値段」以上の手ごたえを感じた次第で、どうやら購入して正解だったようだ(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/d95260711f596f1ba29a9e5e8844cf6b
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c9

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
130. 中川隆[-11740] koaQ7Jey 2019年3月03日 10:16:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[241]

JBL Project K2 S9800SE 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12443662717.html


JBL S3100 禁断のKRELL
https://ameblo.jp/507576/entry-12444002949.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c130

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
23. 中川隆[-11739] koaQ7Jey 2019年3月03日 10:19:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[242]
2019.03.03
米軍がダーイッシュの盗んだ金塊を横取りしているとの情報


 ダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)がイラクやシリアで盗んだ金のインゴット約50トンをアメリカ軍が自国へ運び去ったと中東では伝えられている。その代償として戦闘員たちの安全を保証しているのだという。

 アメリカが金を持ち去ったという話はこれまでにもあった。例えばウィキリークスが公表したシドニー・ブルメンソールからヒラリー・クリントンへあてた2011年4月2日付け電子メールに出てくるリビアのムアンマル・アル・カダフィ政権が保有していた143トンの金と同量の銀。(​フィナンシャル・タイムズ紙によると少なくとも143.8トン​)金は金貨ディナールという全アフリカ通貨に使われることになっていた。

 2014年2月にアメリカはウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを成功させたが、その際、​ウクライナ政府が保有していた金のインゴットをアメリカへ秘密裏に運び去ったという噂​が流れている。同年3月7日の午前2時、ポリスポリ空港に4輌のトラックと2輌の貨物用のミニバスが現れ、そこから40個以上の箱をマークのない航空機へ運び込まれたと言われている。その中身は金塊だというのだ。


 1991年12月にクーデターで消滅したソ連の場合、消滅の直前にゴスバンク(旧ソ連の国立中央銀行)に保管されていた金塊2000トンから3000トンが400トン程度に減っていたとも言われている。クーデター派(CIA人脈とKGBの腐敗勢力)が盗み出したというのだ。

 日本軍にも金を盗んだという話が残っている。1918年に日本が革命直後のソ連へ派兵、22年まで留まっているが、そのときの話だ。この問題を最初に取り上げたのは憲政会の中野正剛で、持ち帰った金塊は1万2000キログラムに達すると考えられている。その大半は朝鮮銀行の下関支店に運ばれ、そこから大阪造幣局へ移され、またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。

 中国では財宝の略奪作戦を日本軍は実行したことがわかっている。ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、その略奪作戦「金の百合」を指揮していたのは秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳。政府や金融機関が保有していたものだけでなく、裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪、その総重量は6000トンに達したという。

 こうした財宝の一部は日本へ持ち帰られたが、途中で船を使うことが困難になり、集積地だったフィリピンへ隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将兵はアメリカ軍に尋問されているが、その責任者はOSSのオフィサーだったエドワード・ランズデール。この人物は戦後、CIAの幹部として秘密工作に参加している。結局、アメリカの支配層は日本が略奪した財宝を横取りすることになる。

 大戦中、ドイツも金塊を略奪している。ヨーロッパの場合、財産は銀行に集中して保管されているため、容易に盗み出せたという。これがいわゆるナチ・ゴールドだ。この金塊の多くもアメリカ支配層が横取りしている。

 その一部はアルゼンチンへ運ばれたが、フアン・ドミンゴ・ペロンと結婚したエバ・ドアルテ(エビータ)はその財宝を庶民のために流用していたと言われている。エビータは1952年に33歳で死亡、弟のフアン・ドアルテは1954年に頭部を銃で撃たれて死んだ。自殺だとされている。ペロン政権は1955年に軍事クーデターで倒された。

 ラテン・アメリカではヨーロッパ人が膨大な貴金属を盗み、資源を略奪した。その象徴的な存在がボリビアのポトシ銀山だろう。18世紀までにポトシ銀山だけで15万トンが運び出されたとされているが、実態は不明。それがヨーロッパ支配層の富になっている。イギリスが通貨を支配できたのは南アフリカを侵略、金鉱山を支配できたからだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903020000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c23

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
8. 中川隆[-11738] koaQ7Jey 2019年3月03日 10:23:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[243]

財務省忖度国家 2019-03-03
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12444015267.html


 東京新聞が、18年の毎月勤労統計調査の統計詐欺について、実に分かりやすい記事を書いていました。

『上振れ要因、委員長「知らず」 勤労統計賃金算出 18年の変更時

 毎月勤労統計で二〇一八年に賃金の算出方法を変えて伸び率が過大になった問題で、政府の統計委員会の西村清彦委員長は二十八日、最大の上振れ要因となった変更内容を同年一月の実施段階で「知らなかった」と述べた。安倍晋三首相らは変更の根拠を「統計委での適切な議論」に求めているが、統計の責任者が内容を知らないまま変更を認めたことになる。 (渥美龍太)

 同日の衆院予算委員会で立憲民主党の長妻昭氏の質問に答えた。この上振れの要因は「ベンチマーク更新」と呼ばれ、産業構造や労働者数などの変化を統計に反映させる処理。一八年に処理のやり方を変えた結果、賃金伸び率が経済の改善とは関係なく上振れした。(中略)

<ベンチマーク更新> 毎月勤労統計で賃金を算出する際に、世の中の実態に近づけるための処理の一つで、「調査対象事業所の入れ替え」と並ぶ柱。具体的には事業所の抽出調査をした結果に、定期的に行われている別の全数調査のデータを反映させる。2018年は大きな企業で働く人が増えるデータを反映させたことで平均賃金が上がり、伸び率の上振れ要因となった。これまでは上振れ分を過去の賃金にも反映させる補正をして伸び率に影響しないようにしていたが、18年からは補正をしなかった。このため、同年6月には21年ぶりの賃金伸び率を記録した。』

 しつこく繰り返しますが、わたくしは別に厚生労働省が毎月勤労統計調査のサンプルを入れ替えたこと自体は批判していません。
「三橋はサンプル変更を批判している〜っ!!!」
 と、藁人形を作って攻撃していた人たちは、普通に頭がおかしいこと確実なので、無視して下さい。


 わたくしが問題にしたのは、サンプルを変更した結果、
「賃金伸び率が経済の改善とは関係なく上振れした。」
 にも関わらず、補正を掛けず、
「同年6月には21年ぶりの賃金伸び率を記録した。」
 といった事態に至ってしまったことです。


 基準を2008SNAに変えた結果、GDPが30兆円前後拡大し、経済成長とは無関係であるにも関わらず、
「2014年のGDPは、いきなり28兆円も増えた! 安倍政権ばんざ〜いっ!」
 とか叫ぶ人がいたら、普通に「頭がおかしい」と思うでしょ。それと同じです。


 厚生労働省は、結局、18年の実質賃金について改訂値を出すことを拒否したため、表向きは「対前年比+0.2%増」で発表されています。とはいえ、共通事業所の名目賃金年平均(これは発表されている)を見ると、変更後のサンプルと「0.8%」のマイナスの差が出てしまっています。


 ということは、18年の実質賃金は、実際には「▲0.6%」に近いと考えるべきでしょう。いずれにせよ、マイナスであることは確実です。

【日本の実質賃金指数の推移(2015年=100)【修正版】】

http://mtdata.jp/data_63.html#syuusei

 ▲0.6%だったとすると、18年の実質賃金は2015年水準に戻ってしまったことになります。


 さて、野党は毎月勤労統計の詐欺統計について、相変わらず首相への忖度がどうのと、くだらない議論で追及していますが、そうではないでしょう。事の始まりが財務省である以上、
「10月の消費税増税に向けた環境整備」
 と理解するべきです。


 景気動向指数研究会が、2014年4月以降のヒストリカルDIの落ち込み(9指標の内、7つがマイナスに突っ込んだ)について、景気後退として認めず、結果的に2012年11月以降の景気拡大が「いざなぎ超え」になってしまったのと同じです。

【日本のヒストリカルDI(一致指数)の推移】

http://mtdata.jp/data_62.html#keiki

 別に、景気動向指数研究会は「安倍政権の経済政策は素晴らしい!」と、称えたかったわけではないでしょう。単に、14年4月から15年末までのヒストリカルDIの強烈な落ち込みについて、「消費税増税により景気後退に陥った」と認めることができなかったに過ぎません。


 内閣府の資料によれば、
「景気の山設定に当たっては、ヒストリカルDI が50%を下回る直前の月を山候補とする」
 となっています。14年4月には、ヒストリカルDIが22.2%にまで落ち込んだわけで、当然ながら14年3月を景気の山とし、その後は「景気後退」とせねばなりません。


 何しろ、民主党政権期には、ヒストリカルDIが12年5月に45.5%に落ち込んだことを受け、その直前が「景気の山」に認定され、5月以降は景気後退となったのです。

【民主党政権期のヒストリカルDI】

http://mtdata.jp/data_63.html#minsyuDI

 民主党政権期には、ヒストリカルDIが50%を下回っただけで、景気後退の始まり。それにも関わらず、14年4月は22.2%にまで落ち込んでも、景気後退ではない。


 この辺りの屁理屈は、三橋TV第53回【大ネタ!消された景気後退!】などで繰り返し指摘した通りです。


 別に、安倍政権を庇いたいわけではありません。何しろ、日本の憲政史上、最も国民を貧困化させ、実質消費を引き下げた政権なのです。


 安倍政権が終ったとしても、上記の「財務省への忖度」は続くという話です。安倍政権が「財務省忖度政権」の立場から脱することは、もはやないでしょう。


 安倍政権の「次」以降を考えたとき、日本の官僚や政治家が「財務省に忖度」し、統計詐欺までもが横行しているという現実を国民は理解しなければならないのです。


 さもなければ、いかなる政権が発足しようとも、我が国の緊縮財政は未来永劫、継続することになります。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12444015267.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c8

[リバイバル3] 中川隆 _ 相場関係投稿リンク 中川隆
26. 2019年3月03日 10:29:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[244]
バッド・ディールよりもノー・ディールの方がいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/938.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/456.html#c26
[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
14. 中川隆[-11737] koaQ7Jey 2019年3月03日 10:33:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[245]

2019年3月3日
ヒットラーとボスニア、苦難の歴史
早春のアルバニアからクロアチアまで中欧自転車&バスの旅 第8回
高野凌(定年バックパッカー)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15523

第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の舞台

 サラエボで投宿したホステルの名称は何と「フランツ・フェルディナンド ホステル」。 

 1914年のサラエボ事件で暗殺されたオーストラリア・ハンガリー帝国の皇位継承第一位(crown prince)フェルディナンド皇太子の名前だ。

 ホステルの壁や天井は一面に暗殺された皇太子フランツと皇太子妃ゾフィー、そして皇帝一族の写真やサラエボ事件のニュース写真などで覆われている。ホステルは暗殺現場から数分の裏通りである。

 ベッドに寝転んでドミトリーの天井一杯に貼られているフェルディナンドの巨大な肖像写真を眺めていると100年以上前の世紀の大事件の臨場感に包まれた。


サラエボ市街(Ellica_S/Gettyimages)

メルボルン生まれのボスニア青年の嘆き

 ホステルで同室になったジェミーは白人系のフツウの青年であった。しかし話を聞いて驚いた。イスラム教徒の彼の一家はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争当時にボスニア難民としてオーストラリアに移住。彼はメルボルンで生まれ、現在はメルボルン大学で数学を専攻している。

 歴史的にボスニア・ヘルツェゴヴィナには三つの民族が暮らしていた。同じセルビア系人種であり言語・文化は同一である。イスラム教徒のボシュヤニク人(=ボスニア人)、正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人である。

 この三つの民族が独立の主導権を巡り対立。そこに旧ユーゴスラビア軍(のちにセルビア共和国軍)が介入してセルビア人勢力を支援したため紛争が長期化。

 ジェミーは今回生まれて初めてボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れ、両親の故郷であるサラエボ近郊の親戚の家に逗留。故郷を訪問してジェミーが見てきたのは、戦闘行為が終結して20年以上経過した現在でも住民間の敵対感情は消え難く民族間の和解には程遠いという厳しい現実であった。

サラエボ事件の暗殺犯は英雄なのか狂信者なのか

 3月21日。前夜からの吹雪で午前中は観光を断念。ホステルのロビーで受付とガイド兼任のアレン31歳とおしゃべり。3月21日はサラエボの春の祭日(最初の春の日)とのこと。

 イスラム教徒のボスニア人(=ボシュヤニク人)であるアレンは政治意識が高い。アレンからボスニア人から見たバルカン半島の近現代史を拝聴。

 オーストラリア・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺したサラエボ事件の実行犯であるガブリロ・プリンチップ(Gavrilo Princip)はセルビア人にとっては国民的英雄(national hero)だが、ボスニアでは狂信的犯罪者と見做されているという。

 ガブリロ・プリンチップはサラエボで生まれ育った。セルビア正教徒のセルビア人である彼の一家はイスラム教徒の大地主の下で働く貧農であった。こうした家庭環境から成長すると汎スラブ主義に傾倒して、セルビアの首都ベオグラードに渡り過激な政治運動に身を投じたという。

 ガブリロ・プリンチップは暗殺実行時点で19歳であったので死刑を免れたが、4年後の1918年に第一次世界大戦の終結を見ずにオーストラリア・ハンガリー帝国の刑務所で病死した。大戦後に彼の墓はセルビア人の人々によって英雄の眠る聖地となったという。

大国ロシアが影を落とすバルカン半島の歴史

 第一次世界大戦以前、ロシアはオスマントルコと敵対してバルカン半島の勢力拡大を狙っていた。そのためロシアは汎スラブ主義(Pan-Slavism)の大義を掲げてセルビア人を支援。

 オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア人をロシアの手先として警戒。このような地政学的背景から皇太子フェルディナンド・フランツはボスニア人の権利を擁護して守護する政策を取った。現在でもサラエボでは皇太子は人々に慕われているという。

セルビア人はボスニア人(ボシュヤニク人)の言語・文化を抹殺

 第一次世界大戦でもロシアとセルビアへ対抗するためにボスニア人はドイツ・オーストリア側について参戦。

 しかし敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊。戦後処理では戦勝国ロシアの後押しを受けたセルビア人勢力が建国したセルビア・クロアチア・スロベニア王国にボスニア・ヘルツェゴビナは併合された。

 アレンによると、この時代セルビア人支配者はボシュヤニク人(イスラム教徒のボスニア人)を徹底的に弾圧。ボスニアの独自の言語表記を禁止し、民族的由来の名前の使用を禁止した。セルビア人支配下ではさらに職業も制限されて百姓、大工、石工、そして音楽・ダンス等の芸人という最下層の仕事のみが許されたという。



ナチスドイツはボスニアの救世主?

 第二次世界大戦においてもセルビア人はロシア(ソ連)についた。セルビア人の圧政に苦しんでいたボスニア人は対抗上ソ連と敵対するナチスドイツに接近した。

 ナチスドイツはボスニア人を優遇して同盟(alliance)を結んだ。ナチスドイツは武器を援助してボスニア人の若者はロシア(ソ連)と戦うために東部戦線(Eastern Front)に出征したという。

 亡くなったアレンの祖父の自慢話はナチスドイツの崩壊後にドイツ人の逃亡兵をかくまって保護したことだったという。素朴なボスニア人にとりナチスドイツは過酷なセルビア人支配からの“解放者”(liberator)であったのだ。

チトーはボスニア人を裏切った!

 第二次世界大戦の末期にチトーはボスニア・ヘルツェゴヴィナでも反ナチスドイツ闘争(パルチザン運動)を開始。彼はボスニア・ヘルツェゴヴィナの自主独立という甘言を弄して反ナチス闘争への参加を勧誘した。

 戦後ユーゴスラビア社会主義連邦が成立。アレンによるとチトー政権下でもセルビア人が支配階層となりボスニア人への差別は多かれ少なかれ存在した。ボスニア人はいくら優秀でも各分野の指導者になる道は実質的に閉ざされていたという。

ユーゴ紛争によるボスニア人の民族離散(diaspora)

 1990年から始まったユーゴスラビア社会主義連邦の解体の過程でセルビア人勢力による攻撃を逃れて膨大な数のボスニア人が国外に離散。

 アレンによるとトルコに逃れた難民は100万人以上となり、当時ボスニア難民の数はトルコ国内のクルド人よりも多かったとのこと。さらにドイツ、そして米国、カナダへも多数のボスニア人が移住した。

 混乱の収まった2013年の人口調査(census)ではボスニア・ヘルツェゴビナの総人口は約370万人であったとのこと。

 注)この国勢調査ではボスニア人(ボシュヤニク)が全体の54%であったので2013年時点のボスニア人の人口は約200万人と推計される。他方セルビア人は33%であり120万人程度となる。

ボスニア人にとりセルビアは不倶戴天の敵

 セルビアは歴史上常にロシアの先兵としてバルカン半島でdirty jobを担ってきたとアレンは強調。プーチン政権はセルビアへ最新鋭ミグ戦闘機を含む2億ドルの武器供与をコミットした。

 セルビアは現在も将来も常に危険な隣国であり、それゆえEUとNATOへの加盟がボスニア・ヘルツェゴヴィナの最重要政治課題であるとアレンは力説した。

悲劇の歴史の産物なのか、著名アーティストを輩出するボスニア

 アレンによると旧ユーゴスラビア社会主義連邦時代を含めて長年のセルビア人支配下でボスニア人に許されていた職業分野として歌手や役者などの芸人があった。こうした歴史的背景から現在でも著名なボスニア人アーティストが国境を越えて活躍しているという。

 セルビアの首都ベオグラードで人気を博しているのはボスニア人の歌手やバンドとのこと。TVのボスニア・ミュージック・チャネルはセルビアでも大人気らしい。映画でもボスニア人監督がオスカーを2回受賞。ベネチア映画祭、ベルリン映画祭でも最高賞を受賞したという。

 ボスニア人アーティストの活躍は、アレンの解説通りに歴史的差別の産物なのだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c14

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
136. 2019年3月03日 13:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[246]

山田勇男 蒸発旅日記 (2003年) _ つげ義春は何故まともな映画化ができないのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/276.html


石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html


井口昇 まだらの少女 (松竹 2005年) _ 楳図かずお を映画化すると何故全然怖くなくなるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/277.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c136

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
1. 中川隆[-11736] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:25:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[247]

つげ義春's ゲンセンカン主人 summarized in English
https://www.youtube.com/watch?v=IVyUfXuKx78

ゲンセンカン主人
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18437054

ゲンセンカン主人の宿 湯宿温泉 大滝屋
https://www.youtube.com/watch?v=pac6uB7nJOw
http://www.dailymotion.com/video/x19u3ps_%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89-%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5-%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E4%B8%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%AE%BF-%E5%A4%A7%E6%BB%9D%E5%B1%8B_travel

混浴の道標 ゆけむり写真館 _ 湯宿温泉 湯本館
http://www.konyokutomonokai.com/gunmaken/yumotokan.html

混浴 MACHICOの温泉入浴記 湯宿温泉 『湯本館』
http://machico.doorblog.jp/archives/34305707.html#more

湯宿温泉 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89

群馬県 みなかみ町 7月の景色 ダイジェスト版 湯宿温泉
https://www.youtube.com/watch?v=8RQ5PGCKkiU

【HD 5.1ch】 群馬 湯宿温泉ドライブ
https://www.youtube.com/watch?v=qBQNSwjjJ7s

湯宿温泉・・・清水国明さんの熱い熱いは、本当だったW・・・竹の湯入浴
https://www.youtube.com/watch?v=qaGfYfQdiY0


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c1

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
2. 中川隆[-11735] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:29:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[248]

ゲンセンカン主人は、つげ義春が1968年、『ガロ』に発表した短編漫画作品。
『ねじ式』とほぼ同時期に発表された、つげの代表作の一つ[1]。

夢の世界を描いた『ねじ式』に対して、本作は前世や因果、輪廻など仏教的なモチーフを前面に押し出した、一種の恐怖漫画であり幻想漫画でもあり全体にほの暗い色調に貫かれている。また、極めて日本的な物語を描きながら、つげがかつて愛読したエドガー・アラン・ポオの影響をもうかがわせる不思議な味わいを持っている。

本作の主人公は、つげ義春の自画像に近いリアルな劇画風キャラクターとして描かれるが、主人公のキャラクターはコマによって左右非対称になったり、表情が変わったりと目まぐるしい変化を見せる。しかし、その変化はかえってこの作品のテーマである自己否定の不安感を際立たせる結果となった。この人物像は以後、『やなぎ屋主人』や『退屈な部屋』など作者をモデルにしたと思われるキャラクターへと受け継がれていくこととなる。

1967年は水木プロの仕事を手伝っていたころで、仕事量が増え腱鞘炎を患う。同年秋に単独で東北を大旅行、旅と湯治場に強く惹かれる。1968年(昭和43年)2月には群馬県の湯宿温泉を訪れ、本作品のもとになる体験をし、同年7月に発表。1969年、つげは『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫、北井一夫と再び湯宿温泉、法師温泉などを訪問するほど湯宿温泉を気にいっていた[1][2]。

その後の時代の変化に対応する形で、作品の表現は初出時と微妙に変化した。特にヒロインの女将さんの障害を指摘する台詞部分(おし、つんぼ)は差別にあたると判断、小学館などその後、出版された作品集では全面的に書き改められたが(「耳と口が不自由らしいですね」への置き換え)、それによって初版のもつ効果は著しく損なわれた。

『ねじ式』同様、この作品も後年多くの表現者によって引用、パロディ化が試みられた。また、コマいっぱいに台詞を描く手法は、江口寿史や鴨川つばめなどのギャグ漫画家にしばしば引用されている。本作の場合、絵の特異さも勿論だが、台詞の異常さが際立っている。その原因の一つとして、女主人公であるゲンセンカンのおかみさんが、聾唖者であるという特殊な設定により、その発する言葉が『ギョホギョホ』『グフグフ』などおよそ会話として成立しない事情が上げられる。そうしたこの作品の持つ特殊性が後の作家たちに絶大な影響を与えた。


あらすじ

主人公は温泉地を訪れ、駄菓子屋に立ち寄る[3]。駄菓子屋の店主は、この温泉地にあるゲンセンカンという旅館の主人である男が、本作の主人公に瓜二つであると述べ、その男がゲンセンカンの主人になったいきさつを主人公に語って聞かせる[3]。それは次のような話である。

男は、主人公と同じように駄菓子屋を訪ね、ゲンセンカンに宿泊した[3]。その夜、男がゲンセンカンの浴場に入ると、そこには独身であるゲンセンカンの女将が先に入浴しており、男は女将に対して、暴力的に性交渉を誘う[3]。男の意を察した女将は部屋に男を招き入れる[3]。その後、男はゲンセンカンの主人となった[3]。

この話を聞いた主人公は、自身もゲンセンカンに泊まろうとする[3]。


舞台

老婆が駄菓子をしゃぶりおはじきをして遊ぶ、老婆しかいない町は、前年につげ義春が旅をした群馬県の湯宿温泉がモデルになっている。

湯宿温泉は上州街道から少し外れた旧・三国街道に面した宿場町であり、旅館も5, 6軒しかなく源泉かけ流しの共同浴場が複数あるばかりの目立たない温泉である。

タイトルの『ゲンセンカン』はおそらく「源泉館」を意味するのであろうが、着想の元になった旅館は「大滝屋旅館」である。

そこでつげは強烈な体験をする。泊まった部屋は傾き、襖越しに老婆のお経が聴こえ、宿泊客も老人ばかりで、自分自身が人生の落ちこぼれ、敗残者のように感じ、またそれが自分に似合っているようで切ない気持ちになったのだという。また、この大滝屋の混浴の浴室で作品の浴場でおかみさんを襲うシーンの元になる原体験をする。

混浴に入るのをためらい、人のいなくなったのを見計らい一人で入り脱衣をしているときに中年の女が不意に入ってきて手早く衣服を脱ぎ全裸になり、体を二つ折りにし、つげに向かって腰を高く向けた際に偶然、中年女の女性器が丸見えになってしまう。まだ若く独身であったつげは大変なショックを受ける。二人で無言で湯に浸かりながら、体がゾクゾク震えたのだという。「そのときのショックが『ゲンセンカン主人』の入浴シーンを発想させたのでした。」(『夜行』No.12 1983年)とのちに述懐する。

つげはこの旅の時、ひなびた宿場町の風情に孤独の境地を味わい、世捨て人になりたいと強く願ったというが、この時つげが宿泊した旅館も共同浴場もすっかり新装されて、今や往時の面影を求めるのは難しい。ただし石畳の道は今も残っていて、夜更けに人気のない道を靴音を響かせながら歩くと、漫画の世界に迷いこんだような感覚に襲われる。


大滝屋旅館

その後大滝屋旅館は新築され、つげが宿泊した頃とは全く異なった鉄筋コンクリートの近代的な温泉旅館に変貌しているため、当時の面影を求めて訪問しても無駄である。しかしながら、現在も湯治場としての機能を残し、低価格で宿泊できる。

ユング派の横山博は「『ゲンセンカン主人』と『もっきり屋の少女』-つげ義春の引き裂かれた女性イメージ」と題する論文で『ゲンセンカン主人』を例に挙げ、 つげの赤面恐怖症を統合失調症の前駆症状ないしは近縁領域と捉え、つげが少年期にエリク・H・エリクソンのいう「基本的信頼」の欠如やマイケル・バリントの「基底欠損」にさらされざるを得なかったことでユング的にいう「母親原型」に守られた形での幼児・子供原型を生き切れなかったとみている。

これはつげの母が生活に追われ、つげに対し母性を与えるだけの余裕がなく、つげの著作からは兄への愛情は語られるが、母への愛情は語られていないことなどから推測して、満たされなかった母性への強い渇望があり、それが現代人が持つ不安とともに『ねじ式』に描かれることとなったとし、つげは「所定めぬ異邦人(エトランゼ)」なのだという。

多くの人が持つ安心感を持つことができる逗留場所である場所や母性がつげには得られなかったことが、彼が近代化に取り残され既視感を伴うような辺鄙な温泉場へ赴くことで地域の共同体からこれまでに渇望しても得られなかった「母なるもの」を体験する。

また、『ゲンセンカン主人』のラストシーンの2人のそっくりな男の遭遇は精神病理学的には「ドッペルゲンガー」に酷似しているという見方を示した。自分自身の分身と出会うとき、周囲は嵐になる。内面の不安、恐怖の外部空間への投影がラストシーンだという[4]。

裏の話

『アサヒグラフ』1969年2月14日号のインタビューの中でつげは、作品を描いている際に、常にもう1本別の物語が並行して存在することを打ちあけている。本当はそちらの方が好きなのだが、どうしても作品化できない。覚書には何十本もストーリーを持っているが、大半が消えてしまう。従って、本当は多作家のはずなのだが、と告白。『ゲンセンカン主人』の裏話については、こう語っている[2]。

小さな村がある。今しも村は祭りでにぎわっている。お面をかぶった村男たちが通りを踊り歩いている。

それを暗い家の中からじっと眺めている少女がいる。夜が来る。静まり返った村。

広場で一人面を付け踊り狂う者がある。あの少女だ。
やがて少女は夜の郊外へまっすぐに伸びる道を踊りながら進んでいき、宙に浮きあがると、漆黒の空の中へと消えてゆく[2]。


これを作品化できなかった理由については、「技量のせい、いや漫画ではもう描ききれない何かがあるんです」とだけ語った。つげは、この作品を発表した直後の8月から、長い断筆期間に入る[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E4%B8%BB%E4%BA%BA
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c2

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
3. 中川隆[-11734] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:46:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[249]

3 : 列島縦断名無しさん : 01/10/17 21:40 ID:cxy5mxXE [2回発言]

ゲンセンカンってどこにありますかね?


5 : 2 : 01/10/17 22:54 ID:/ATxpC1Q [1回発言]
>>3
残念ながら、ゲンセンカンは存在しない。 しかし、モデルとなった旅館は存在する。

資料によると、 つげ義春氏は、昭和43年の取材旅行の際、群馬県湯宿温泉の大滝屋旅館に宿泊し、ここで「ゲンセンカン主人」の発想を得たらしい。

大滝屋旅館は、4年前(1997)の時点ではまだ営業しており、つげ氏が宿泊した当時の面影が、そのまま残されていたとのこと。 恐らく現在も、変わらぬ姿のまま営業しているものと思われる・・・。

詳しくは、

つげ義春 幻想紀行 単行本 – 1998/1 権藤 晋 (著)
5 「ゲンセンカン主人」之章
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5-%E5%B9%BB%E6%83%B3%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E6%A8%A9%E8%97%A4-%E6%99%8B/dp/4651700772


を読んでみてほしい。


339 : ピョンちゃん : 03/10/14 02:22 ID:Y1sAHHYM [2回発言]

湯宿について。

初めて訪れたのは10年程前の真冬のことです。。 思わぬ大雪に立ち往生し、仕方なく探した近くの宿が大滝屋旅館でした。 古い木造の大きな建物で、雪に埋もれた様はとても つげ的でした。

汚れたコタツ、ショボい食事、薄っぺらい布団、隣の音が筒抜けの障子。
とても生活感たっぷりで感激しました。
確か一泊二食四千円ほどだったと思います。

川を渡った橋のたもとに小さな本屋があって埃にまみれた本棚を物色してたら、パノラマ文庫でしたっけ?

昔の文庫版の「赤い花」が出版当時のまま並んでました。 誰も買う人もなく何年も何年も並んでいたんでしょう。すっかり日に焼けてました。 もちろん当時の定価で買いましたよ。

大滝屋旅館は現在改装して新しくなってます。 今年の初夏に10年振りに訪れてニュー大滝屋を見て愕然としました。 本屋も廃業してました。

賑やかな猿ヶ京温泉に隠れて、ひっそりとした湯宿は今も風情のある良い温泉街なのですが、昔の大滝屋を知っている身としては魅力も半減というか…。

16 : 列島縦断名無しさん : 01/10/25 02:00 ID:3LOzU/Dv [4回発言]

つげの絵は、事実より30年は古びて見えるんだよ
だまされないで

彼が撮ってきた資料の写真と漫画を見比べればわかる

それが味なんだけれども


25 : 列島縦断名無しさん : 01/10/27 17:50 ID:ykli7YjH [1回発言]

つげは昭和初期や大正時代に深い愛着があるらしい。
本人が言ってた。


56 : 列島縦断名無しさん : 02/01/21 22:04 ID:a4UMtg0H [1回発言]

つげ漫画と「混浴」は切っても切り離せない。
ああ、彼が旅路の頃はまだまだ荒らされていない素朴な混浴が日本にはイパーイあったんだ(T−T)


140 : 列島縦断名無しさん : 02/09/27 23:59 ID:kzJCCYd+ [1回発言]

つげ義春は、人から忘れられたような場所ばかりを探そうとする。
町はずれの古い神社、町工場の裏の空地、ドブ川、河原、土手あるいは鉱泉宿、東北の寒々とした漁港、信州の山奥の峠、過疎の村、車も通らないような昔の宿場町。 あげていくときりがない。

つげ義春が歩く場所、描く場所は、大半がそうした目立たない、隠れ里のようなところである。普通なら、なんの魅力もないところである。 それが、つげ義春によって描かれ、語られると小さな桃源郷のような、懐かしく暖かい特別の場所になる。それはいわば、つげ義春によって発見された、やるせなく、物哀しくも、詩情あふれる場所になる。その意味では、つげ義春は風景の発見者である。

つげ義春の旅はどこかうらぶれた「落魄の詩情」である。


89 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/07(土) 00:49:54 ID:???

ゲンセンカン主人のラストはもう1ページあったけど省いた、
西瓜酒の最後の説明は無い方が不思議な味の作品になった、
などとつげさんが言ってることからして各々意味はあるんだろうけど
説明したら消えてしまうような雰囲気を意味よりも大切にしてるんだと思うよ


42 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 09:40:51 ID:???

俺はあんまり頭良くないし、つげ作品に限らず理屈ではなく雰囲気を楽しむタイプなんで、
ゲンセンカンのラストは偽りと堕落に満ちた安逸な生活を楽しむ主人公を、もう一人の自分が
厳しい現実に連れ戻しに来たとか適当に考えてるけど

こういう作品は読者の数だけ答えがあっても良いし、下手に作者が「正解」とか披露しちゃうと
つまらなくなるよね

45 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 21:09:58 ID:???

ゲンセンカンはドッペルゲンガー?との遭遇で、何が起こるか解らない怖さを感じさせつつ終わるのがイイ。


378 : 列島縦断名無しさん : 04/01/10 09:09 ID:OS0Y5Hww [3回発言]

ドッペルゲンガー(ゲンゲル)は、芥川龍之介が、その作品「二つの手紙」に書いています。ただ、彼が見たというのは、嘘で、進歩派を気取りたかっただけと普通、解釈されています。

分身を見ると死ぬ、といわれています。心身の疲労の極にあるということでしょうか。
男は分身体験、女は多重人格というように、現れるらしいです。

87 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/06(金) 23:46:57 ID:???

たぶん、ゲンセンカンの旦那は自分でも知らないうちに能力に目覚めたんだと思う。
隣の世界と自分の世界を同時に存在させるような、そんな能力。


49 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 23:07:31 ID:???

うん、どのつげ作品も曖昧な夢のふわふわ感を楽しめるんだけどゲンセンカンだけはどうしても何かもやもやしてたんだ
>>42さんの考え方が自分的にはしっくりきたお


106 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 00:47:31 ID:???

「そんなことをしたらえらいことになるよ」

「もしあんたが行ったら」

「もしあんたがゲンセンカンに行ったら・・・・・」

老婆たちは何を恐れているのでしょうか?


107 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 01:35:01 ID:???

参考になるのかどうか分からないけど楳図と中沢新一の対談より抜粋


楳:僕、あらわになったときに無くなっちゃうのはホラーと宗教だと思うので。

中:でも、楳図さんはそれをあらわにしちゃおうとしてるわけですよね。

楳:でも、あらわにはなんないんですよね。

中:いつも最後にはベールがかかっていますね。

楳:ホラーって、"だからどうだった"という結末は、絶対に無いですよね。
 それがホラーの仕組みなんだけど、宗教の元の考え方と同じような気がしますね。

中:真理は薄いベールの向こう側に見てなくちゃいけない。
 ベールを取った瞬間に哲学者は哲学者でなくなるという、そういう神話がありますよね。
 だから、宗教とホラーっていうのは、ベールをめくろうとしちゃう人に近いですね。

楳:一生懸命めくってるんだけど、やっぱり見えてこない。

中:規定するともうベールになってしまうんですよね。
 恐怖も絵に描いた瞬間にベールですよね。


108 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 02:02:06 ID:???

念のため、ゲンセンカン主人がホラーだとは言わないよ
ただ作劇の手法はこの対談で語られてることにかなり近いんじゃないかな?

ちなみにつげさんは1968年の対談でねじ式について
「現実的には決して体験できないような恐怖というものを描いてみたかった。」
でも「それ(恐怖)だけが中心ではないんです。」と発言している。

760 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/10/03(土) 11:11:02 ID:???

図書館に行ったら、旅行の棚につげ義春の温泉本みたいなのがあった。
つげ氏が過去に行きまくってスケッチしまくった温泉絵や漫画と、実際舞台になった
温泉地の写真に、つげ氏のコメントがのってるコンセプトで、なかなか読ませた。

しかしつげ氏ほど温泉にまつわる漫画描いた人いないんじゃないか?知らんけど。
ほんっとに好きなんだなぁ。ってのが、スケッチのタッチに滲み出てるわ
巻末の解説に、とある温泉地に行ったらものすごい拓けてて、店やらバイカーが
山ほどいてガッカリした、なんて書いてあってクスッとしたり。わかります。
寂れた叙情が好きなんですよね。そこにひそむ影のような陰湿エロスも。

物理的に裸になる土地ですもんね。山間谷間にあるせいか、常識でははかれない
不思議なことがまかり通ってしまってそうな怖さもある…そういう昔ながらの、
決して大声でハシャぐような観光地ではない温泉地が好きなんですな。

あーやっぱ革新的じゃね。一体他の誰がゲンセンカンみたいな話を描けるというのか
あの感じ、あの土地だけ異質な感じをどう表現すればいいのか…
そうかと思えば、フツーに明るいノンビリした、でもそんなには人気のいない土地で
とある旅行者が旅館に泊まって温泉入ってそこのジっさんと色々しゃべって
特に事件が起きるわけでもなく旅行者は帰る、ただそれだけの話をなぜこうも
じっくり読ませてしまうのか。謎だ、謎すぎる。

つげ氏の感覚が好きなのだ、としか言い様がない…もっと何かあるはずなのに
言葉にならねェ。

780 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/10/10(土) 06:24:56 ID:???

つげさんてもてるんだよね、多分。人見知りが激しく赤面症としつつ、
蒸発旅日記だっけ?読んでると、手紙をくれたファンの人と結婚しよう、
とか、少々の欠点は目をつむるとか、でもあまりブスでも困るけど、
などといったことは気にしてるけど、自分が振られると言うことは想定していない。

でも自信家とかそういうのも感じられなくて、もてるんだけどその自覚がない人。
ごく自然に女性は寄ってくるものだということが無意識のうちに前提として
あるって感じがする。
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/rcomic/1235475558/

貧困旅行記 (新潮文庫) 文庫 – 1995/3/29 つげ義春(著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%A4%E3%81%92-%E7%BE%A9%E6%98%A5/dp/4101328129%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a663272-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101328129


この『貧困旅行記』は、漫画ではなくエッセイ。
昭和40〜50年代の鄙びた温泉をめぐる放浪記なんだわ。
当時のボロ宿やら、廃墟かとおもえるような温泉地などが写真も交えて描かれていて、温泉好き、旅好きであれば わけのわからないエロ漫画よりも、はるかに楽しめると思える作品。

その『貧困旅行記』に、湯宿について書いた章があってね。
要約すれば、つげ先生は、初めての湯宿温泉について次のように語っているの。

殺風景な街道の町、古びて傾きかけたような家の多い貧しい町。
車も通れないような細い路地に、人の姿はなく陽もささない。
わずかに宿場らしさは残っているが、温泉らしさはまったくない。
この町は時間が止まってしまったようだ。

路地の奥にとった宿では、自炊場の隅にボロ布の固まりがあると思ったら老婆だった。

「なんでこんな所に来てしまったのか、もう少しましな宿はなかったものか・・。」

と後悔してすぐに、「いや、どこも同じ様な宿ばかりだ」と言い切っている。
遊ぶ場も散歩する環境もなく、床の中で寒空に響く火の用心の拍子木の音を聞いていると寂寥とした気持ちが胸に迫り、人生の果てに来てしまったような絶望的な気持ちになった。

・・と散々に酷評しているのに、なぜかその後何度もここ湯宿を訪れている。
実はそうとう気に入ったのでありましょう(爆)。

この時の宿の名前は書いてないんだけど

隣室との境のふすまがボロボロに破れぴったりと閉じない。
そこから絶えず数珠の音、呪文のような読経の声が聞こえてくる。
線香の臭いも漂ってくる・・・。

と、『ゲンセンカンしゅじん』の描写と酷似する状況が語られている。


この時のボロ宿が、実は大滝屋だったのかなぁ?

このエッセイを書いたのは、初めて湯宿を訪れてから14年後のことで
その6年前『常盤屋』に宿泊したときの想いでも書かれている。


知人を同伴したら『これでも温泉地ですか?絶望的ですね・・」と言われたこと。

でも宿泊費2500円。

これは当時の相場の半額で それを知った知人は「もうここから帰らない」と興奮したことなど。

貧乏人にも違和感を与えず馴染めて慰められる。
湯宿の温泉は貧乏に特効がある・・と喜んだそうだ。
そしてこの年は、『湯宿の草分け 湯本館』に泊まったとある。

昨日ご紹介した『湯本館』が出てきて、おじゃる☆も一気に高揚だ!!ピース
湯宿でもっとも大きい宿で、大浴場の混浴円形風呂が名物だ・・とある!

なんと!!つげ義春はあのおじゃる☆も浸かった混浴風呂に実際に入っていたのだ!ヽ(^。^)ノ

しかも、湯本館は立派過ぎて寂寥感も侘しさもなく無く失望したそうなのだ(爆)。

おじゃる☆が、レトロ感があって、つげワールドを体感できるお宿と感じた湯本館は つげ先生が訪れた当時は、新しくて立派で・・先生にとってはつまらないお宿だったのだ。

30年、40年という時間を経過してなお、同じ浴槽の同じ湯に浸かる事の出来る幸せ。

それを知ってしまったら、しつこいと言われようと、ドン引きされようと今日もこの『つげワールド』について書かずにはいられなくなったのだ。ヽ(`Д´)ノ

だから今日は文章もちょっと、エッセイ風なのだ(爆)。

当時の円形風呂は女性に大人気で、女性はみんな女湯に入らず混浴に入った。
つげ義春は混浴が嫌いで、男湯を探したが宿の主から

「男湯なんか作っても、どうせ女が入り込むから無駄なんだ」

と言われたそうだ(爆)。


そういう事をいうと群馬の女が誤解されるからやめてくれぇ〜〜。・゚・(ノд`)・゚・。
おじゃる☆は混浴は嫌いです!!!


そういえば、昨日の漫画のページで客が「ぼくは混浴は嫌なのに・・」と言っている。
これもつげ先生の本音を語っていたのね。

それで・・・はい、やっと今日ご紹介の温泉の出番が来ました。(*^_^*)

それで仕方なく先生は、外の共同浴場へ出かけるの。
共同浴場は混浴は厳しく禁止されているので、つげ先生も安心。

当時から木造の素朴な共同浴場が4つあったそうで、これも現在と一緒です。

そんな4つの共同浴場の中でおじゃる☆が唯一お邪魔した事があるのがこちら

『窪湯』


湯宿の共同浴場は、鍵を持っている地元の方とお宿で鍵を借りられる宿泊者は比較的自由に利用することができるんだけど
外来者が利用できるのは、午後4時から9時まで。
その時間帯だけ、施錠が外されるの。

脱衣所は共同浴場らしい棚だけのシンプルなスタイル。
しかし・・・これは綺麗だわぁ〜。
趣のある木造ではあるけれど、近年建て替えられたばかりと思われ。
少なくともこの建物は、つげ先生は入られてないわね(^_^;)。


利用者は、維持管理費として100円以上の謝意をお願いいたしますm(__)m


お邪魔した時には、年配の地元の先客さんがいらっしゃったので、熱めながらもすぐに入れる湯温になっていました。

聞けば、埼玉から田舎暮らしにあこがれて引っ越してきたんだって。
毎日温泉に入れるところ・・ということで湯宿に決められたのだとか。

あぁ〜〜〜、そういう自由な生き方、憧れちゃいます!!


湯気抜きのある高い屋根。
窪湯の脇には薬師如来さまがおわします。
ありがたや。お坊さん

みなさんも、つげ義春の世界を訪れてみませんか?
つげ義春は日本中の温泉を旅しています。
http://ameblo.jp/naruru8854/theme9-10072871347.html#main

湯宿温泉は、つげ義春も好んで訪れたと言う程の、とても寂れた場末なイメージがある温泉地です。
三国街道沿う絶好の場所で、共同浴場も4箇所あり、旅館も数軒立ち並んでいるのですが、不思議なくらいに活気が無く、妙にひっそりとしています。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-yumoto/yujuku-yumoto.html


この日もおじゃる☆たちと入れ違いに足元のおぼつかないほどの
おじいちゃんとおばあちゃんのカップルが来ました。

若者は・・・絶対来ないな・・・。( ̄ー ̄)ニヤリ
おじゃる☆ 2011-02-07
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-10792248708.html#main


数年前、僕も、つげ義春ワールドに憧れて、湯宿の共同浴場、行きましたよ!
最初に行った時は、秋だったので、お湯は、熱めながら、いい感じでした。
でも、その次の年、夏に行ったら、熱くて、熱くて、とても入れません

百円払ったのに、諦めて帰りました。
夏はダメです(笑)
ジョナサン 2011-02-09
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-10794555829.html#main

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c3

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
4. 中川隆[-11733] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[250]

ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)とは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。

自分とそっくりの姿をした分身。第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある(第三者が目撃するのも含む)

医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は「autoscopy」と呼ばれる(日本語で「自己像幻視」)。

自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える。

現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は友好的なものより敵対的なことのほうが多い。

例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。

この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。

また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり、患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある。

しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものとつかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC

ドッペルゲンガーにあったら死ぬ原因


ドッペルゲンガーを見てしまった人の末路は悲惨で、たいていは死を迎えます。
これに対処できる有効な手段は、残念なことにないようです。

ある場合は自分自身を見てしまったショックで、心臓麻痺を起こして即死します。

またある場合は、数日から1年以内に徐々に体調をくずし、あるいは精神に支障をきたして死を迎えます。

自分の精神が蝕まれていくことに耐えられず、自殺する人もいます。

死をもたらすドッペルゲンガーは、普通本人にしか見えないので、はたからはその男(不思議なことに、女性がドッペルゲンガーを見たという報告は、あまり聞きません)が弱っていく理由がわかりません。

男のほうも、自分の気が狂ったと思われることを恐れて、なかなか人に話そうとはしません。後で日記や書き置きが発見され、人はその真相を知るわけです。


ではなぜドッペルゲンガーを見たものは死ななければならないのでしょうか?

ドッペルゲンガーと似て非なるものに、特殊な変身能力を備えた化け物や、魔術によるまやかし(幻術)があります。

これには直接的に相手を殺す能力はありませんが、本人がドッペルゲンガーを見たと思いこんでしまえば似たような効果があるでしょう。すなわち自分はもうすぐ死ぬのだと思い、ふさぎこんでいるうちに、本当に体調をくずしてしまうのです。

解決策としては、敵の正体をあばいて、見たものがドッペルゲンガーではなかったのだと納得させるしかないでしょう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129644917

“生き霊”との、意外なご対面
      ――幽霊は単に脳が想像している錯覚なのであろうか?――   
     


  幽霊などというものが存在するのであろうか?

スイスの神経科学者は、幽霊を見る人々のなかには、実際には「自分の全身の幻」を体験しているかもしれないと確信している。

         エドワード マッツァ記者(7月6日)

  あなたは今までに幽霊を見たことがあるか?

幽霊の存在(プレゼンス)を「感じた」ことがあるか?
あなたの“生き霊”が、あなたについて回ったことがあるか?
今までに、ほんのわずかな時間、体外離脱を経験したことがあるか?

しかし、これらは超自然的な経験ではないかもしれない。
だからといって、あなたの頭がおかしいことを意味しているわけでもない。

スイスのチューリッヒ大学病院の神経科医ピーター・ブラッガーによれば、手足を切断した後に「幻肢」を経験する人たちと同様の事情で、幽霊を体験する人たちは自分の「全身の幻」の存在を体験している可能性があるという。

これは脳損傷によっても起こされ得る・だが激しい感情も「幽霊」体験を起こすきっかけになりうると、彼は ABCNEWS.com に語った。

ロイター通信によれば、 ブラッガー の 「生き霊」(ドッペルゲンガー) 理論についての記事は『ニューサイエンティスト』誌 の次号に掲載される予定だ。

「多くの健康な人々は、はっきりとした脳損傷がないのに、幽霊体験をしている」

と ブラッガー は語る。

「つまり普通の脳であっても、自分自身が行為の主体となっている“距離をおいた行為”の対象に、容易に騙[だま]されることはありうる」。


  問題は脳にあったのだ。

  こうした「幽霊」は頭頂葉の損傷の結果、経験しうる。頭頂葉は、自分の身体と、身体を取り巻く周辺空間との識別を助ける働きをしているが、「正常な脳」であっても強烈な恐れや悲しみや陶酔感の結果、「幽霊」的幻覚を生み出してしまう可能性があるのだと、ブラッガーは語る。

彼はそうした例として「自動書記」現象を挙げている。

「自動書記」とは、見えない何者かが自分の手を動かして“あの世からのメッセージ”を書き付けるという現象だ。 

「自分の手が自分の脳に従っていない、と感じられる状況が生じた場合、脳は、そうした手の運動を合理的に解釈するための便法として、なんらかの幻をデッチ上げてしまう可能性が高いのだ」

と彼は言う。

「脳損傷の場合には、こうした“非合理な結論”すなわち“誤った解釈”が発動される閾値が下がってしまい、“誤った解釈”がひんぱんに出てくることになる」

というのだ。

他の研究でもこの仮説は立証されている。

つまり手や足を切断された患者は、すでになくなった手足がまだそこにあるかのような幻を経験するし、そればかりか、神経学的に考えて「あるはずのない」手足の痛みまで感じてしまう現象が、しばしば観察される。


見えない 「生き霊」

   ブラッガーらの研究チームが出会ったエピソードをひとつ紹介しておこう。

彼らは世界的に有名な8人の登山家に面接調査を行なった。

この登山家たちは、いずれも酸素供給なしで2万7000フィートの高さまで登ったことがある。

登山家たちはしばしば「見えない実在」の出現を感じ、ときには体外離脱経験もしたという。

これも同じ症状なのだ、と ブラッガーは語る。

彼はこれを「見えない生き霊」(インヴィジブル・ドッペルゲンガー) 」と呼んでいる。

ブラッガー は「幻肢」体験をしている患者を治療するために使われてきた「バーチャル・リアリティーボックス」と似た道具を使って、この仮説を実証できると考えている。

「実験で再現できるのは、単なるシミュレーションだけれども、薬物を使わずに実体験さながらの現象を作り出すことが可能だろう」

と彼は言う。

この実験では、何台かのビデオカメラと仮想体験メガネ(ヴァーチャルリアリティ・グラス)を被験者に装着することで、被験者の真横に自分の“生き霊”が座っている実感を作り出すことが可能だという。

「幽霊は錯覚である」と ブラッガーは言う。
「しかしその錯覚の仕組みは、まだ未解明」というわけだ。

おそらく、バーチャル・リアリティーボックスのような先端テクノロジーを用いれば、「幽霊」や「妖怪」や「生き霊」をめぐる長年のミステリーは解明できるであろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd8/msg/272.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c4

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
515. 中川隆[-11732] koaQ7Jey 2019年3月03日 14:11:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[251]

2019年03月03日
100万円以下 田舎の激安物件は買えるか


自然豊かな田舎に家や土地があるのは、とりあえず夢はある

田舎の激安物件が大量発生している

デフレの頃は激安XXXXが大流行りだったが、最近はあまり聞かなくなりました。

今激安価格なのが実は田舎の不動産で、人口減少の上に都市への移動で住む人が減っている。

不動産情報サイトで検索しても安い物件はあまり見当たらないが、実は大量に存在しています。




不動産屋は「利益になる物件」だけを宣伝するので、100坪10万円の土地があったとしても扱わないし宣伝しない。

そんな安い物件をサイトに掲載したら、他の物件が高く見えて値引きを要求されるのがオチだからです。

大手不動産屋は100万円以下のような物件は扱わないし、ネットの不動産サイトにも情報が掲載されません。


そうした激安物件は所有者から地元の不動産屋に売却を依頼するが、宣伝もしないのでほとんど売れ残っています。

激安不動産の所有者は親から相続したり、利用価値のない土地に税金だけを払っているので、タダでも良いから手放したい。

だが長年暮らしてきた愛着やメンツもあるので、300万円程度の価格がつけられている場合が多い。


こういう物件は実際に買う気がある客が現れれば、簡単に半額程度になる場合も多い。

駅から遠かったり廃線になった地域だと、値段はあってないようなものになっている。

激安物件を買う人とは

全国の住宅は約6000万戸以上で、2013年に800万戸が空き家になり、現在は900万戸を超えていると想定されます。

2033年には空き家が2000万戸になるとも言われていて、当然空き家の下の地面も空き地になります。

空き家を解体すると100万円ほどかかるのでそのまま放置される例が多く、各地でおばけ屋敷になっています。


田舎でも広い道路に面した更地で人口もそこそこあれば激安価格にはならない。

数十万円から200万円以下まで下がるのは、過疎で道路が狭く利用価値が低いような物件です。

斜面に段差をもうけて家を建てていることもあり、こんな土地では100万円でも買い手がつきにくい。


50万円とかゼロ円で空き家バンクに載っている物件は、現地に行ってみるとびっくりするような場所が多い。

最も近いスーパーやコンビニまで車で片道1時間、学校の類はなし、病院などもなし、バスは大通りだけコミュニティバスが走っているイメージです。

それでも空き家バンクの激安物件は売れているので、何らかの価値を見出して購入している人たちが居る。


そこに永住するには苦痛だが、別荘を建てたりレジャーの活動拠点とするには面白そうです。

田舎の自然の中に自分の土地があるのは都会の人からすれば夢があるし、激安なら欲しい人も居る。
http://www.thutmosev.com/archives/79170532.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c515

[リバイバル3] 不動産投資は絶対にやってはいけない 中川隆
21. 中川隆[-11731] koaQ7Jey 2019年3月03日 18:48:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[252]
ぐっちー「不正まみれのスルガ銀、持ち上げた森長官の罪は大きい」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190228-00000035-sasahi-bus_all
AERA dot. 3/3(日) 7:00配信 AERA 2019年3月4日号


 偶然なのかどうなのか、レオパレス21とタイミングを一にして出てきたのがスルガ銀行事件であります。

 ま、地方銀行は相応に公的な役割を担っていることもあり、こちらの方がインパクトが大きいかもしれません。恐らくこのスケールの銀行が破綻して日本経済がどうにかなることはないのですが、俺の地元の銀行もそうかもしれない、と疑心暗鬼にさせられるという意味では影響は大きいかもしれませんね。得てしてこういうところから取り付けが起こり、監督官庁は実は何もできないことが北拓や日債銀の破綻時にも実証されておりますしね。

 2月13日、共同通信がこう報じていました。

「スルガ銀行の行員がデート商法詐欺まがいの行為に関与し、個人向けローンを融資していた疑いがあることが13日、関係者の話で分かった」

 美人局(つつもたせ=男性のこともある)がデートし、思わせぶりな言動をとり、その気にさせた相手に「あなたと一緒に住むための家が欲しい」とか「二人の将来のことを考えて利回り物件を購入しよう(不動産投資をしよう)」とか言って不動産を購入させ、スルガ銀行でローンを組ませ、スルガは実績欲しさに審査がばがばの融資を行う、という実に元も子もない話なわけですね。

 まあ、この美人局がスルガ銀行の行員だったなんていうとまた別のおかしみがあるわけですが、ポイントは、こんなやり口で融資を積み増していたスルガを、収益モデルとして見習え!と檄を飛ばしていた森信親前金融庁長官の存在であり、更にオーナーである岡野光喜前会長が経営の天才とか、お手本とか言ってメディアに取り上げられていたことでしょう。経営の天才の実績は詐欺話といい加減な融資で築き上げられていて、それに金融庁長官がお墨付きを与えていたわけですから、笑えない、というレベルを超えて、もはやジョークです。

 とくに週刊現代は岡野氏の提灯記事にご執心で、こんな記事まで出しています。

「給料地銀トップ!スルガ銀行『結果につなげる経営会議』はここが違う/地銀壊滅時代に5期連続の最高益更新」(2017年9月22日更新)

 17年9月といえば、既にスルガは怪しい……と様々な調査などが始まっていたはず。この時期にスルガの経営はすばらしい、という記事を出す度胸もすごいもんですが、記事中でスルガをべた褒めしている元社外取締役の成毛眞氏や、経済評論家の佐高信氏などは、この記事を読んで大丈夫だと信じた顧客に対して、どう責任を取るつもりなんでしょうかね。もてはやした前金融庁長官や専門家の罪は大きいし、それを増幅したメディアの責任も極めて大きいと思います。

 改めて、資産は自己責任で守らねばなりません。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/827.html#c21

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
5. 中川隆[-11730] koaQ7Jey 2019年3月03日 19:35:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[253]


石井輝男 ねじ式 (1998年)


監督 石井輝男
原作 つげ義春
脚色 石井輝男
撮影 角井孝博
音楽 瀬川憲一
美術 松浦孝行
公開 1998年7月18日

動画(韓国語)
https://www.youtube.com/watch?v=1xZb3ZCDZbA
https://www.youtube.com/watch?v=p_AVfla_rvs&list=PLjwvwi69k_J2hPeRsGLyfI9DczGe3ItvV

▲△▽▼


売れない貸本漫画家の青年、ツベ(浅野忠信)が貧困と虚無感から逃れるように、あてもない放浪の旅に出る様子を描く。主人公のツベの足取りを追う放浪記的な形式を取っており、『ねじ式』や『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』など複数の作品を映像化したオムニバス作品である。

基本的に原作に忠実な作りになっており、『ねじ式』の街の看板や『もっきり屋の少女』の居酒屋内の貼り紙など、細部も丁寧に再現されている。

『やなぎ屋主人』の作中で言及される映画『網走番外地』の監督、石井輝男が自ら『やなぎ屋主人』を制作するという点でも話題になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E5%BC%8F


キャスト

ツベ 浅野忠信
国子 藤谷美紀
木本 金山一彦
家主 丹波哲郎
金太郎飴売り 清川虹子
看護婦 藤森夕子
もっきり屋の少女(コバヤシチヨジ)つぐみ
やなぎ屋の娘 藤田むつみ
ヌードの女 青葉みか
駅員 砂塚秀夫
女医 水木薫
村の飲み客 杉作J太郎
娘の母 三輪禮子
ロイド眼鏡の男 原マスミ
セパード(小次郎)広崎哲也
寮の住人 神戸顕一
狐面の少年 西川直希
舞踏 アスベスト館

▲△▽▼

映画のストーリー

売れない貸本漫画家のツベは、どん底生活の果てに遂に内縁の妻の国子と離れて暮らすことになる。国子は世田谷にある会社の寮の賄婦として住み込みで働くようになり、ツベは知り合いの木本のアパートに転がり込む。ところが、ツベは国子が浮気をしているのではないかと心配でならない。

そんなある日、彼は国子が別の男の子供をはらんでいることを聞かされ、ショックで自殺を図るのだった。木本のお陰で一命を取りとめたツベは、その後、放浪の生活と妄想に浸る日々を送るようになる。

一銭五厘で買われてきたという山里の寂れた居酒屋の娘・チヨジとの出会い、ヌード小屋通い、ふしだらな一夜を共にした女が営む、海辺にある大衆食堂へ、そして海に入ったツベはメメクラゲに左腕を噛まれてしまう。

パックリと開いた傷口を押さえ、医者を探すツベ。しかし、探し歩けど見つかるのは目医者ばかり。やがて、彼は金太郎飴を売る母親らしき老婆との出会いを経て、漸くひとりの女医を見つけ手術をしてもらう。だが、外科が専門外の彼女はツベの傷口にねじを取り付けてしまうのだった。以来、左腕のねじを締めるとツベの腕は痺れるようになる。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c5

[近代史3] 石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年) 中川隆
6. 中川隆[-11729] koaQ7Jey 2019年3月03日 20:11:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[254]

 [映画]ねじ式(1998)より もっきりやの少女 動画
https://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=p_AVfla_rvs
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html#c6
[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
176. 中川隆[-11728] koaQ7Jey 2019年3月03日 22:39:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[255]

<青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系

DNAの解析結果について説明する篠田副館長(右、鳥取市尚徳町で)
 

弥生後期 国立科学博など解析


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。

2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。

 DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。

同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。

 今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。

 3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。

今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c176

[リバイバル3] 中川隆 _ 温泉関係投稿リンク 中川隆
61. 2019年3月04日 00:28:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[256]
つげ義春『ゲンセンカン主人』のモデルになった群馬県湯宿温泉は良い所が一つも無いダメ温泉
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/279.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/453.html#c61
[近代史3] つげ義春『ゲンセンカン主人』のモデルになった群馬県湯宿温泉は良い所が一つも無いダメ温泉 中川隆
1. 中川隆[-11727] koaQ7Jey 2019年3月04日 00:35:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[257]

湯宿温泉情報


温泉の科学   湯宿温泉 by やませみ

「日本鉱泉誌」(明治19年刊行)では新巻鉱泉、「上野鉱泉誌」(明治25年刊行)では湯川原鉱泉となっています。

仁寿年間(851-)の発見というたいへん古い伝承をもち、江戸期にも街道沿いの湯治場として広く知られていたようです。とはいえ、「日本鉱泉誌」では浴舎四戸浴客780人と記されてますから、とても小規模な湯場だったようです。
今でも共同湯は 4箇所で宿数もさほど増えておらず、古い湯治場の形態を残す貴重な温泉地です。


(源泉>
 利用源泉は6カ所 自然湧出泉と浅い掘削動力泉 湧出量は約320 L/min
 Na・Ca−SO4 〜63℃ pH=7.4〜8.7
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/sience_of_hotspring/sience_of_hotspring_7-5-1.htm


窪湯源泉
Na・Ca-硫酸塩温泉 
59.1℃、pH=8.0
湧出量測定不能(自然湧出)
成分総計=1.31g/kg
Na^+=227mg/kg (55.34mval%)、Ca^2+=156 (43.63)、F^-=4.1、Cl^-=120 (18.43)、SO_4^2-=693 (78.57)、陽イオン計=388 (17.8mval)、陰イオン計=838 (18.4mval) メタけい酸=60.6、メタほう酸=6.1 (H5.8.6分析>


湯宿温泉は、古くからの三国街道沿いに佇む8軒の宿と4軒の共同湯がある1300年の歴史の長い温泉郷であります。現在でも国道17号線が湯宿温泉の脇を通り、名前を知っている方も多いと思う。しかしながらその温泉に入浴したかたといえば、なかなかいないと思われる程静かな佇まいである。

 通りの多い国道より、1本温泉街の道を歩くとその光景が一遍する、石畳の道や人の幅で通行する大通りの広さとも相成って、車で通行するのがはばかれるように、歩きたくなる道である。

 昔の多くの旅人が投宿したのであろうか、小さな街なのに多くの商店が軒をつなれていて、街道の面影を現代に色濃く残している情景に郷愁を覚える。

 湯宿温泉は、赤谷ダムの影響で、温泉地そのものが移転した、猿が京温泉と違い赤谷川の谷間で、大規模な開発が行われなかったためか小中規模の旅館が多い、そのためお湯の分量が旅館の身の丈にあった量が確保され、共同浴場だけでなく湯宿温泉の旅館のお風呂も鮮度感もありお勧めでき、比較的低料金のお宿も多く、湯治客で結構にぎわっている。

 湯宿温泉の硫酸塩泉らしくちょっと屈折率の高いお湯に入ると、香りが漂う、石膏臭交じりの芒硝泉の香りであり、温泉らしさが感じられる香りである。
味は、薄い塩味が感じられる石膏味で、硫酸塩マニアには堪らないものであり、その温泉の濃さに益々期待が高まる。

硫酸塩泉系は、炭酸水素塩系に比べ、無色的なものが多いが、その温泉には計り知れないパワーを感じる。入浴中より入浴後に汗が止まらないといった現象が度々起こる。特に芒硝泉系のお湯はそれがよりいっそう増す。

 そのお湯を求めて、私は日本各地の温泉に行くといっても過言ではない。

ここ湯宿温泉は残念ながら、露天風呂が少ない、ここの100名湯ブログもお湯のよさなら、他は問わないと潔さ的なものを感じる。ここの湯宿温泉そのものに、お湯さえよければ的なものを感じる。是非、温泉のお湯だけのよさがどれだけよいかが解っていただきたい。
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/2df8cc7512ba3785888b39f6a3837d8c


温泉街というより宿場町の面影をとどめる(湯宿>は、散策にも好適です(15分程)。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs02/bbs020511_0520.htm#1021849772

湯宿温泉  投稿者: うつぼ  投稿日:2005年11月11日(金)00時32分38秒

猿ヶ京三国温泉郷のひとつに数えられる湯宿温泉は、R17 三国街道沿いにある歴史の古い温泉地です。地味ながら実力派の温泉場として知られ、「窪湯」「小瀧湯」「竹の湯」「松の湯」の4つの共同浴場を擁し、かけ流しの宿が多いのが特徴です。

旧新治村では、川古、法師とともに「国民保養温泉地」に指定されています。ちなみに「国民保養温泉地」は「温泉利用の効果が充分期待され、かつ健全な温泉地としての条件を備えている地域」を環境省が指定するもので、「温泉の効能、湧出量及び温度」と「温泉地の環境」に関する条件を満たす必要があり、現在指定されている全国91の温泉地の多くは、地味ながらお湯や環境に定評のあるところです。

R17 からひとすじ奥まった石畳の道ぞいに旅館や共同浴場、なまこ壁の土蔵などが点在して宿場町の趣。ときおり R17 の喧噪がきこえてくるのが惜しいです。

月夜野側入り口には”湯けむりの塔”と飲泉場がありますが、飲泉場のお湯は出ていませんでした。

近くには

体験型テーマパーク「たくみの里」
http://takuminosato.or.jp/

や野仏たたずむ遊歩道などもあるので、あわせて楽しむのもいいかも。
なお、4軒の共同浴場はジモ専ではないようですが、開錠時間は不定で地元の方の利用が多いので、入浴の際には配慮が必要です。


(歴史>
湯宿の老舗旅館「湯本館」所蔵の「湯宿村温泉記録」によると

「約1200年前、文徳天皇治世の仁寿2年2月8日、須川村の弘須法師による大乗妙典誦行満願の夜、薬師如来が現れ、種々の薬湯を賜ったのが湯宿温泉の始まり」

という開湯伝承があります。(「湯本館」HPより抜粋引用)

また、「湯本館」館内の由来書きによると、戦国末期の沼田城主 真田信之が戦陣の疲れを湯宿の湯で癒して以来、代々の城主が湯治につかい、下屋敷も設けられていたとのこと。

江戸時代には宿場町として賑わったという記載をガイドなどで目にしますが、当時の三国街道の宿場は、下新田〜布施〜須川〜相俣〜猿ヶ京とあり、旧三国街道は湯宿西側の山裾を通っていたようです。湯宿、赤岩経由の赤岩新道が開通したのはだいぶ時代が下ってかららしく、宿場というよりは湯治場としての性格が強かったものと思われます。

ただ、かなりの数の旅人が、公認の宿場である須川宿ではなく、湯宿に泊まっていたという話も伝わっているようです。(”一泊湯治”は建前上は掟破り)

大正期以降、若山牧水や与謝野晶子らの文人も足跡をのこしていますが、観光地として脚光をあびることもなく、地味ながら湯治系の温泉地として固定客に支えられ今日に至っています。


takayamaさんの「群馬の温泉ページ」に掲載されている県薬務課作成の温泉統計(平成11年度温泉利用状況)によると、湯宿には 6本の利用源泉(うち自噴3本、動力3本)があります。
「湯本館」の敷地内に自然湧出の自家源泉があり、「金田屋旅館」は”窪湯”を利用しているようなので、残りの宿と共同浴場の源泉に興味がもたれます。(「小瀧湯」は、独自源泉らしい)

ここも

グリーンタフ起源の硫酸塩泉
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/sience_of_hotspring/sience_of_hotspring_4-3.htm

で、川古や猿ヶ京にくらべ Na の比率がやや高く、芒硝(Na-SO4)が主成分となっています。その理由は やませみさんが温泉の科学のなかで推論されています。泉温は比較的高く、猿ヶ京とならんで熱湯も楽しめる温泉地となっています。

無色透明の清澄なお湯は、硫酸塩泉らしい入り飽きのこない滋味あふれるもので、さすがに湯治湯として固定客を惹きつけるだけの実力をそなえています。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs05/bbs051111_1120.htm#CID893


___________


湯宿温泉 旅館 6ヶ所

@ 湯本館
http://www.yujuku-yumotokan.com/
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/


混浴の道標 ゆけむり写真館 _ 湯宿温泉 湯本館
http://www.konyokutomonokai.com/gunmaken/yumotokan.html

湯宿温泉 湯本館 の大浴場(混浴) 激熱風呂 動画
https://www.youtube.com/watch?v=O6iIErEMutk

0278-64-0011


A 金田屋旅館

B 太陽館
http://www.taiyoukan.com/
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen001299/kuchikomi/

湯宿温泉 太陽館 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Zfx59p3hM4A


E 常盤屋
0278-64-0102


_________


2. 湯宿温泉 「湯本館」
http://www.yujuku-yumotokan.com/
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/


混浴の道標 ゆけむり写真館 _ 湯宿温泉 湯本館
http://www.konyokutomonokai.com/gunmaken/yumotokan.html

湯宿温泉 湯本館 の大浴場(混浴) 激熱風呂 動画
https://www.youtube.com/watch?v=O6iIErEMutk


群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉2381
電 話 0278-64-0011


駐車場(20台)

地図
http://www.yujuku-yumotokan.com/pdf/map-syuuhen.pdf


入浴時間(日帰り) 11時〜18時 
定休日 不定休

日帰り入浴 大人…600円
家族風呂 日帰り入浴 1時間 一人 1,500円、グループで3,000円貸切。 
休憩 一人2,100円、ご昼食休憩…3,990円、ご夕食休憩…4,410円 (個室料、入浴料含む)

営業時間:11:00〜16:00
定休日:なし
駐車場:あり(無料)

混浴大浴場 : 朝7:00〜8:00は女性専用
女湯:1
貸切:1 (1時間 1,500円/人)

加水:なし 加温:なし 循環ろ過装置:使用なし 消毒剤:使用なし


Na・Ca-硫酸塩温泉 
62.7℃、pH・湧出量不明(自然湧出)
陽・陰イオン計=1355mg/kg、Na^+=274mg/kg (58.10mval%)、Ca^2+=169 (41.11)、F^-=4.4、Cl^-=131 (18.57)、SO_4^2-=750 (78.46)、陽イオン計=448 (20.5mval)、陰イオン計=907 (19.9mval) メタけい酸=64.2、メタほう酸=6.5 (H5.5.14調査>


湯本館は小さな温泉街の中ほど、石畳の旧道を進んだ先、共同浴場・窪湯の隣にある。
旅館には珍しく、門柱に個人名の表札。館主は代々「湯本作太夫」を名乗るそうだ。
自家源泉を持ち、62.7℃のナトリウム・カルシウムー硫酸塩温泉が浴室のすぐ近くから湧き出ていて、それがそのまま風呂に注がれる。
脱衣場から見える源泉。毎年2月8日、ここで湯宿温泉開湯式が行われる。
http://www.geocities.jp/nara_no_daibutu2/spa3/22-yujyuku-yumotokan.html


窪湯のすぐ上にある湯本館のご主人は旅館組合の責任者をされている。
湯本館の源泉は「湯伝薬師」という洞穴から出ているらしいが、湯宿温泉始まりの洞穴と言い伝えがあるらしい。
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000095981/


裏庭から沸く熱い温泉 [湯宿温泉 湯本館]
しろうさぎさん [入浴日: 2011年8月27日 / 2時間以内]
土曜日の15時頃だったが、、貸し切り状態で入浴。 裏庭から沸く源泉で温泉力は抜群。

湯宿温泉 洗湯 ナトリウム・カルシウムー硫酸塩泉 かけながし
62.7度 カルシウム 169 フッ素イオン 4.4 硫酸イオン 750 メタケイ酸 64.2 メタホウ酸 6.5 
酸化還元電位 (ORP) 48 (2011.8.27)
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000132616/

湯宿温泉 「湯本館」 〔 Pick Up温泉 〕2007年06月29日
〔 2005年11月11日レポに加筆 〕
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/aa6bce13906e9c15cb058382abf516b0


温泉街の奥にある老舗の旅館です。
外観はレトロでもなく純和風でもなく、やや個性に欠けるものの、佇まいは落ちついています。
暗めの館内、廊下を歩いていくと中庭に屋根掛けされた泉源があります。
そのすぐ横に男湯(混浴説もあり)、廊下を挟んで女湯と家族風呂があります。
家族風呂は日帰りでも入浴可のようですが、入りませんでした。(後日確認=別料金)


男湯の脱衣所はゆったりとして老舗の湯宿らしい落ち着きがあります。
さらにいいのが浴場。脱衣所より一段ひくく円形10人くらいの湯船(石縁、タイル壁面、石敷)が鎮座しています。天井が高く湯気の抜けがいい居ごこちのいい浴場です。

カラン6、シャワー・シャンプー・ドライヤーあり。土曜 15時でタイミングよく男湯独占(入るとき脱衣所に3人いた)、女湯3人、家族風呂入浴中でした。
湯治宿なので連泊客が昼間に入ることも多いのかも。
 

湯船の奥、岩枠の玉石が敷き詰められた大きめの湯口まわりは石膏の盛大な析出で真っ白け。飲泉用の柄杓が何本か置いてあります。
湯口の一画から湧きだした熱い源泉が、玉石のあいだをしみ込んで湯船側面3ケ所から注入されています。泉温が高いので、このようなしくみで自然冷却しているのかと思います。
槽内排湯は見あたらず、かなりの量をオーバーフローでかけ流しでしょう。

やや熱め〜適温のお湯はほぼ無色透明で、白とうす茶色の湯の花が舞っています。ほこほことした石膏味に甘い石膏臭が明瞭。きしきしとした湯ざわりにとろみが加わり、染み渡るような奥深い浴感が印象に残ります。

かなり強い温まりがありますが、トドになるスペースがたっぷりあるので快適。どうにも立ち去りがたく、ついつい長湯になりました。

湯宿の共同湯はいくつか入っていますが、いずれもゲキ熱で湯もみにアセしながらの入浴だったので、湯宿のお湯を適温でじっくりと味わえたのははじめて。すばらしいお湯です。

落ちつきある雰囲気といい、含蓄のあるお湯といい、温泉王国北毛らしいスグレものの浴場だと思います。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/aa6bce13906e9c15cb058382abf516b0


+++++ 憧れのまんまるお風呂に浸かるため +++++ 2004年初秋
http://www41.tok2.com/home/iyasiyu/yuzyuku1.yumeguri.html#yuzyuku.yumotokan
前々からど〜しても浸かりたかった湯宿の湯に逢いに出かけることにした。
無事1番湯が狙える時間に起きる事も出来て、湯本館に事前に立ち寄り湯の時間なんかを問い合わせ。
今回メインのまあるいお風呂が混浴なもんで、いつになく慎重なわけであります。
それに前夜色々と調べてたら、暇なら貸し切れるよ・・・なんて有り難い文面を発見したんで、お聞きしてみると
貸切はやってないんで無理だけど、平日だしお昼頃なら誰もいないんじゃないかなとの事。
応対してくれたのはたぶんお宿のご主人だと思うけど、電話の声からも物腰の柔らかい優しげな雰囲気が良く伝わってきて好印象。
混浴だからって出かける前からネガティブな想像の世界を繰り広げていたんだけど、電話だけで宿に親近感持ってしまったので、ちょっと前の躊躇が嘘のように消えてもう出かけたくってワクワク(^^♪。

xxxxxxxxxxxxx まずこの風呂に浸からなきゃ話が始まんないxxxxxxxxxxxxxxxx

何とか無事に上りの上越新幹線にて上毛高原まで戻り、ボケたおかげで出来た猿ヶ京行きバスまでの時間も、目の前で暇そうなタクシーの誘惑にも負けずにやり過ごし、湯宿温泉のバス停に降り立ったのは予定していた時間よりも遥かに遅いお昼過ぎであった。

で時間も時間だし、さっそく今日のメイン狙いの湯本館に向かう事にした。
(ちなみにバス停前には湯宿温泉の案内マップもありやして湯宿初心者には有難かったっす。)

バス通りから1本奥に入ったすぐの所に、その宿は何ともひっそりとそれでも老舗な威厳を漂わせつつ佇んでいた。
宿の看板は玄関左横に置かれてある感じで、門構えはちょいお金持ちの立派なお宅のよう。

門にはおそらく旦那さんの名前が掲げられており(しかしこのお名前が『湯本作太夫』・・・由緒正しさぶちかましておられます(^_^;))、玄関右横には自転車、スクーターなどが駐車されてて微妙な生活感もありで『・・・個人宅?』な雰囲気も漂わせております。

意外に小心者なんで、こりゃ、まるっきり前知識無しだったらひくかもだな(の前に気づかんか(^^ゞ)・・・てのが第1印象。

玄関入って呼びかけると、何とも上品な笑みを浮かべつつ電話で応対してくださったご主人のご登場。

(入浴後、湯宿のお湯についてご教授いただいたんだけど、電話で受けた好印象どおりの方で、雑な生まれ育ちの私は、このおじいさんの醸し出す物腰の柔らかい上品な雰囲気に1度でやられちまいました。)

今朝電話でお話したものだと自己紹介すると、今の時間なら風呂には誰もいないんじゃないかなとの嬉しいお言葉。
はやる気持ちで少しの時間も惜しくて、それこそ転がるように浴室へ向かった。

脱衣所はがらんと広くて男女一緒。
仕切りもないので女性には開き直り、男性には心遣いが求められる。

勿論浴室内もしかり。
ましてまんまるお風呂なんで男女の住み分けは難しそうだしね。

まるで脱皮したかのように一瞬で脱衣完了させ、
浴室への引き戸を開けると、ほのかな湯気をまといながら眼前に憧れの湯船が鎮座していた。

すぐお隣のこの宿のお庭の断層がまんま顔を出してるという小山の洞窟辺りから自然に湧いてる湯は、新鮮この上ない有り難い状況で湯船を満たしている。

見て下されませ、この湯口の岩の見事な装飾具合。
見事さに夢中になって、挙句このマクロ画像がウザッと御座いやす。
しかし、この湯口の造り、変わってて好きかも・・・。
此処に木の柄杓もありやして、飲泉するに喉ごしまるい美味な湯で、何度も柄杓を往復させちまいました。

この見事な岩の下あたりからも湯が出てるみたい。
ちょっと意味無しな感じの画像ではありますが、
この揺らめき具合よりちょびっとでも湯ざわりなんぞを感じていただければと思ったしだいでごぜぇやす。

激アツなんではと聞いていたわりに浸かりやすい湯温でちょこっと拍子抜け。
しかし程好く熱い湯の浸かり心地はまさに至福で、
貸切状態で出たり入ったりを何度となく繰り返し。
洗い場ペタ座りの幸福なトドの横には湯宿オリジナルケロリン桶。

ちなみに他にも男女別、家族湯とありまして、誰もいなかったので全部浸からせていただきました。
http://www41.tok2.com/home/iyasiyu/yuzyuku1.yumeguri.html#yuzyuku.yumotokan


ダンさんとカミさんの ふるむ〜んな日常  湯宿温泉「湯本館」 2004年(16年)1月下旬
http://www.dankami.net/yujuku.htm

国道沿いに湯本館専用の駐車場があったので、そこに停めて、ほんの少し歩いたが宿のすぐ傍にも駐車場はあった・・まあいいか。
国道から中に入った通りにあるこの宿・・ちょっと見つけづらいけれど、看板に従って着いた湯本館は、如何にも「湯治宿」という風情の鄙びた宿。
中に入るとロビーでソファに座って新聞とテレビを見ながらくつろいでいたオジサンが コッチを見て「いらっしゃい」・・あれ、宿のご主人だったらしい。

立ち寄りをお願いしてお金を払う。
幾らだったか調べてなかったんで一人500円は安くて得した気分。
お風呂の場所を説明してもらって、いよいよ温泉♪

混浴の内湯と聞いていたので、できたら誰も先客がいませんように・・とそっと脱衣場を覗く。
脱衣篭は全部空っぽ。ホッ・・そう、脱衣場は広いけど男女一緒。
誰も来そうな感じはないけれど、ダンさんが傍に立ってくれて、そっとガード。
浴室への曇りガラス戸を開けると、湯気の中に本物の温泉が!


内湯は周囲が洗い場になっていて、円形の大きなもの。
どのくらい大きいかはこの画像にカーソルを当てると見当がつくかな。
無色透明でかなり熱め。水で薄める事もできるけれど、熱い温泉が注ぎ込まれる。
源泉はこの宿の敷地内にあって、この浴室棟に来る渡り廊下から見ることができる。
もう本当に目と鼻の先。浴槽と数メートル。

丸い湯船の一角に源泉が湧き出ている場所がある。
ここは飲用もできるように柄杓がある。
飲んでみたけれど、少し癖はあるが不味くはないね、が二人の共通の感想。
「ナトリウム・カルシウム硫酸塩泉」とか。
この石の色が白っぽくなっているのは、 固まった湯の花。
イソギンチャクじゃないよ。

大きなガラス窓から日が差し込んで本当に良い気持ち。
ダンさんは家では少しだけ熱めのお湯に入るので、このくらいの熱さもちょうどいい。
カミさんは温い方が好きだけど、入っているウチに慣れて、半身浴を楽しむ。


今回は誰もいなくて貸切状態だったけれど、この丸い内湯では他の人との混浴はなかなか勇気がいるかも・・
女性専用の小さな内湯もあるけれど、折角だから一緒にはいりたい。
そんなカップルが、もしも内湯に先客がいて、躊躇したら・・
すぐ隣に「家族風呂」があったので、そこを利用する手もある。
家族風呂にはちょうど男性が一人で入っていたので(二人に遠慮したのかも)中は覗けなかったが多分、上の女性用風呂と同じ感じだと思う。

でも、折角だから、あの雰囲気の良い丸いお風呂に入って欲しい。
家族風呂では、あまりシッカリ浸からないで、様子を見て混浴のほうに移動しよう。
http://www.dankami.net/yujuku.htm


2007(H19)/7/16
 湯宿温泉街の奥,窪湯共同浴場の裏手のうっそうと茂る林の中にある温泉旅館。宿の敷地内に自噴する独自源泉を所有している。朝の8時台ではあったが,快く日帰り入浴を受け付けてくれた。

 入口から入って左側の方へ向かって廊下を進むと右側の外の暗い森の中に何やら不思議な人物の胸像やら石灯籠やら岩が見える。不思議な胸像の前には「源泉」と書かれた立て札が立っている。

なるほど,敷地内に湧く源泉とはこのことか。源泉が湧いて溜まっている場所にタマゴが入った袋があり,お手製の温泉たまごも作っているようだ。ちなみにこの人物が誰なのか書かれたものが何も手元にない。次回行ったときに宿の人にしっかり聞かねば…。

 源泉湧出ポイントのすぐ横に混浴大浴場があり,その向かいに女性用浴室,そして家族風呂がある。
家族風呂は予約制で1時間1500円を別に支払い利用することになる。
今回は混浴大浴場を利用した。脱衣所から3段ほど下った先に広い浴室が待ちかまえている。浴槽の形は円形。天井は6角形の不思議な形の湯気抜きがあり,浴槽を取り巻くようにカランが並ぶ。

圧巻なのは湯口だ。湯口は熱めのお湯が冷めやすいようにたくさんの石の上を滑るように注がせており,それを浴槽内から浸透式で注がせている。湯口の石の上には芒硝石膏成分がモヒカン頭のようにこびりついて(左写真参照)おり,そのお湯の成分を思い切り主張している。

飲泉できるように長めの柄杓も置いてある。
アチチなお湯を飲泉してみるとしっかり硫黄味がする。ここの源泉のお湯は本当に美味しい。自分は飲泉の虜となり,結局柄杓で5〜6杯は飲んでしまった。

湯口川原でお湯の香りをクンクン嗅ぐと芒硝臭と若干硫黄臭が感知できる。どちらかというと芒硝臭の方が強めだ。この日の浴槽内は約44℃とやや熱めの適温だった。これだけビリビリと体に染みこんでくるような浴感がありながら湯上がりがサラリとする不思議なお湯だ。
 
 この日の朝の1湯めは実に爽快で快適な熱湯芒硝泉でスタートだった。記念にと頂いた宿のパンフレットに「ふつふつと湧き,ひたひたと溢れるやさしい温かさ。」というフレーズがあるが,まさしくその通りである。ここは個人的にとても気に入りました。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-yumotokan.htm


2007/07/16
湯宿温泉にある中規模の温泉旅館です。
共同浴場の裏手にあり以前から気になっていました。なにせユモトと名乗ってますからね。(笑)

ここは独自源泉を所有しているとのことでかなり期待してしまいました。
朝の8時半に入浴をお願いしてしまいましたが、快く受付けていただき早い時間での入浴となりました。

お風呂は大浴場(混浴?)と女性用とに別れています。
大浴場に入ってちょっと嬉しくなります。浴室の真ん中に大きな真ん丸の浴槽があるのです。湯小屋自体も六角形になっており、そのちょうど中心部に15〜6人が入れる円形の浴槽が配置されています。これは美しいなあ。

お湯はキリリと身の引き締まるようなお湯で入浴感は抜群に良いです。
無色透明でさらりとした中にもお湯の力強さが感じられます。肌触りは柔らかめで申し分ありません。

そしてお湯の湯口周辺が凄いです!お湯の白い成分の塊がオブジェのように置いてあるのです。こんなのは初めて見ました。ここはかなり良質の芒硝泉を堪能できる貴重な旅館だと思います。次回は宿泊で来たいと思いました。
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/yujyuku_yumoto.html


2007-7/16
湯宿温泉の中心、窪湯共同浴場の裏手にある旅館です。
余談ですが、湯宿温泉は、つげ義春も好んで訪れたと言う程の、とても寂れた場末なイメージがある温泉地です。
三国街道沿う絶好の場所で、共同浴場も4箇所あり、旅館も数軒立ち並んでいるのですが、不思議なくらいに活気が無く、妙にひっそりとしています。

そんな湯宿温泉で、一番立派なお宿がここ、湯本館。
屋号の通り、独自源泉を持っているお宿と言う事でしたので立ち寄ってみました。

内部は、それなりの年季を感じるものの、風情ある落ち着いたお宿と言う印象です。
お風呂へ向かう途中に中庭があり、そこから源泉が湧出しているようです。
その中庭には何故か胸像が一体。うーん、誰でしょう。
もしかしたらこの湯本館の源泉を掘り当てた方でしょうか?
なんとなく気になりますが未確認・・・

源泉が沸く中庭のすぐ隣が混浴大浴場になており、廊下を挟んで女性専用内湯と家族風呂がありました。


大浴場は、中央に円形の大きな湯船があり、周囲が洗い場と言う、なかなか広々としたものです。
熱い源泉を冷ます為でしょうか、源泉を汲み置く場所があり、湯口はそこから直接浴槽内部に引かれる造りをしています。源泉の組み置き場にくまれた岩は、析出した芒硝成分で真っ白になっていました。これは見ごたえがあります!

お湯は無色透明でピュアな芒硝臭が漂うもので、少し熱めの44度程度あります。
鮮度が非常に良く、芒硝成分がとても強いので、入った瞬間、肌が刺されるよう なピリピリする刺激を感じます。最初はとても熱く感じるお湯ですが、少し我慢するとすぐに体が馴染み、不思議と熱さを感じなくなります。

お湯から上がると、サラリとした肌触りで、浴後感がスッキリと爽やか。
体の芯から温まっている筈なのに、不思議とベタベタする感触が残りません。

ちなみに、汲み置き場には柄杓が置かれており、飲泉出来るみたいです。
試しに一口飲んでみたところ、ピリっと薬味がして、何だかとても美味しい!
思わずコップ1杯分ほど飲んでしまいました。


お湯のよさが際立つ、とても素敵な一湯です。
あまり目立たない湯宿温泉ですが、関東でこれほどまでにピュアな芒硝泉を楽しめる温泉地は珍しいのではないでしょうか。

4箇所ある共同浴場も含め、三国街道を利用する際は是非素通りせずに立ち寄られる事をお勧めします。


2009年 8月 29日 − 再訪
再訪しました。
やっぱりここの芒硝泉は気持ちが良いです。
前回訪れた時よりも湯温が高く、ビリビリする肌触りが強くなっていました。
ここは定期的に訪問したい名湯ですね
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-yumoto/yujuku-yumoto.html


誰もが圧倒される極上温泉の見事な湯口 (湯宿温泉 湯本館)
もうすぐ千湯さん [入浴日:2007年9月]
湯宿温泉は1200年の歴史があり、武将真田家ゆかりの湯治宿のようです。

泉質 ナトリウム・カルシウム-硫酸塩温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)敷地内自然湧出自家源泉

泉温 62.7℃(加水可)  PH 8.3  柄杓・コップで飲泉可

源泉掛け流し・無色透明・弱硫黄味・ラジウム含有・鄙びあり・歴史あり・浴槽内弱自噴
消毒剤なし・循環濾過なし・細かい白と薄茶色の湯の華舞う・
熱湯

六角形の浴室円形浴槽の混浴大浴場 1・婦人風呂 1・家族風呂 1・露天風呂なしカルシウムの結晶が湯口付近の玉石に見事に付着


建物の玄関脇に、「湯本館作太夫」と書かれた看板があります。
純粋湯治宿のお目当ては、混浴内湯です。

脱衣場の窓を開けると、中庭に低い屋根掛けの自然湧出の源泉湧出地が見えます。
脱衣場上部には、毛筆で書かれた「湯宿温泉縁起」が掛けられています。

(男女一緒の脱衣場で、若い女性には、かなり勇気が必要かと思われます。)

混浴内湯は、六角形の湯小屋で、高い天井も六角形に抜かれて一段高く換気口が6つ有ります。浴場は歴史と鄙びを感じるとても良い雰囲気です。

中央に円形浴槽があり、その奥に大きな岩がせり建ち、扇形に石で仕切られた湯口エリアがあります。その仕切られた湯口部分には、湯の湧出口と、数多くの不揃いの玉石があり、湧き出る熱湯を自然冷却させて、浴槽に流し込む仕組みのようです。

数ある全国の温泉の中でも、この様な湯口の形態は、湯本館だけではないでしょうか?
この、玉石一つ、一つにカルシウムと思われる温泉の成分結晶が、長い歳月をかけ  ぶ厚く、見事に付着している様に、誰もが圧倒される事でしょう。

円形浴槽はもちろん源泉掛け流し。貸切り状態と静寂の中で、新鮮な極上の温泉での 湯浴みに、最高の贅沢と幸せを感じました。

浴後感も持続する、お勧めの極上温泉です。
      (再々訪)
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000060387/

丸浴槽に溢れる透明なお湯 (湯宿温泉 湯本館)
なるさん [入浴日: 2009年4月]
平日昼時の訪問でタイミングよく先客も無く、混浴の丸浴槽を体験できました。
ガラス戸を開けると想像していたより大きめの丸い湯船、透明な湯が縁から溢れ出しています。
おお〜これが憧れの♪奥の源泉溜めに積まれた石にびっしりとこびり付いた真っ白い結晶。
透明な柔らかなお湯ながら成分の濃さを実感できます。
若干水でうめて入った熱めの湯は5分もしないうちに汗が滲むほど温まりの良いお湯でした。

大浴場の前には廊下を挟んで婦人風呂と家族風呂があります。

婦人風呂は4人用長方形、白く細長い湯の花が大量に浮かび、大浴場よりはややにごった感じに見えます。
混浴風呂は湯溜めがあるために湯花が自然ろ過されるのでしょうか?
飲泉するとほのかに卵風味、美味しいです。

平日の旅館の立ち寄りと言うことで、ほぼ貸しきりかと思っていたのですが、混浴風呂も入れ違いにお年寄りのご夫婦がいらっしゃいましたし、婦人風呂にも家族風呂にも先客さんがいらっしゃいました。

なかなか侮れない秘湯の宿、ツルツルと柔らかくほっとできる良いお湯でお勧めです。
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000096984/

見事な石膏の結晶と極上湯 [湯宿温泉 湯本館]
kiraさん [入浴日: 2011年2月4日 / 2時間以内]
  関東と越後を結ぶ三国街道として栄えた湯宿温泉。大きなホテルもなくひっそりとしている。この地味な存在の湯宿温泉の老舗の湯本館さんに立ち寄り入浴をさせて頂いた。
敷地内に自噴する源泉を持つ。玄関前の駐車場はかなり狭く、4,5台でいっぱいだろうか。

 混浴の大浴場の他に、女性用と家族風呂の内湯のみ。
大浴場の入り口の戸を開けたら湯気が充満していて浴室内がよく見えないほどだ。
中央に円形の湯舟があり、周りが洗い場となっている。
湯口エリアは独特で、奥の大きな岩の前は扇形に仕切られ、石がたくさん置かれていてボコボコと源泉が湧き出ている。柄杓とコップが添えられているので、飲んでみると熱かったがほのかに硫黄味(?)がしてまろやかで美味しかった。
圧巻なのは、石膏と思われる温泉成分が石に見事に凝固している様だ。
空気に触れている部分だけに付着しているのがちょっと不思議だ。
手加えいっさいなしの源泉掛け流しの無色透明のお湯は、少しキシキシ感があるが、新鮮そのもので極上湯と言っていい。湯温は、体感42,3℃位で熱めだったせいもあろうが身体の芯からよく温まる。湯上がり後も汗がなかなか引かなかった。

 混浴のこの大浴場は脱衣所も男女共用らしい。湯殿の造りといい、女性には少しハードルが高いかも。貸切状態のこの日の私の湯浴みのようだったら別だが…。
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000120679/

混浴 MACHICOの温泉入浴記 湯宿温泉 『湯本館』 2013年5月 立寄り
http://machico.doorblog.jp/archives/34305707.html#more

湯治旅館で、もちろん源泉かけ流し
このかけ流し、熱すぎて・・・ 敗北感を味わいました。

場所はね、東京方面からだと法師温泉に行く途中にあるんだよ。
法師温泉は人気で男性が沢山。混浴を断念した女性、カップルさんは帰りに寄ってみては?

ワニ、居ない。
ワニさんは法師温泉にいってるようです。
そしてここのお湯は熱すぎて、ワニ出来ないと思う。


http://livedoor.blogimg.jp/machicotin/imgs/6/5/65434adc.jpg


国道からのアプローチがわかり難いけど、カーナビで示す辺りにくると看板があるよ。
ロビーは歴史を感じる(?)いい感じ

中庭にこれ、 源泉なのかな?
銅像も・・・ 

大浴場の脱衣場(男女一緒)
わーい 独泉

http://livedoor.blogimg.jp/machicotin/imgs/c/5/c587a401.jpg

さっそく入浴、いっそげー

で、

ムリ

熱すぎ
草津温泉の共同浴場を凌ぐ熱さ


http://livedoor.blogimg.jp/machicotin/imgs/c/f/cfd040ab.jpg
(冷水注入中の写真)
温泉成分凄いのね。

なんとか入れるようになったけど・・・
http://machico.doorblog.jp/archives/34305707.html#more

B級感漂う、沼田真田家ゆかりの湯 (湯宿温泉 湯本館)
温泉ドライブさん [入浴日: 2013年6月28日 / 2時間以内]

R17沿い、旧三国街道沿いに8件の宿と、共同湯が4件もある温泉地で、1200年前開湯の歴史がある湯宿温泉、この湯本館も400年以前の関ヶ原の戦い以降の歴史があるそう。
沼田城主の真田初代から5代目まで愛用した湯である。

小さな温泉街の入口には棟が建ち、飲泉所があるが停止中。
ここから分かれる路地が旧三国街道らしい。
石畳道が続き、狭くなる所に湯本館があった。
門には表札があり珍しい。ここの主人になると表札の名前を襲名するんだとか。
門脇には共同の窪湯があり街の中心地を為している。
年季の入ったビルで奥から主人が飛んできてくれた。

湯殿は左手へ、温泉の歴史が書いてある。
廊下から見える裏山の洞窟前が湯本温泉の源泉場だそうで、屋根付きの小さな露天風呂のような感じの湯畑?が2つある。
サンダルがあり降りられるようになっているが、ぬかるんでいて足場は良くない。
おまけに曇りで古旅館と岩場の空間は真昼なのに薄暗く、あまり気持ちの良い環境ではなかった。

通路を挟んで左が女風呂、右が混浴大浴場。
脱衣室は大きく仕切った焦げ茶色の棚のみ。
男女の仕切りなし。
照明は点いていない。
宿の云われが書いてある。
ドライヤーは1台。
ここは施設の充実を求める人には向かない。温泉通好み向きかな。

ガラス戸を開けると6角ドームの天井、数段階段を降りる。おばあさん(大女将さん?)がカランを清掃中だった。
中央に10数人が入れる円形浴槽が一つあり、その周りにシャワー一体型カランが6席。席前はガラス戸、ケロリン桶で桶台はなし、鏡は横長の物が湯口の両脇の壁に付いている。

湯は無色透明、大変熱く、おばあさんがホースを入れてくれる。
湯口は岩場となっていて、柄杓があり飲泉可。石には灰白い析出物が突起状に着く。湯は掛け流しされる。
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/0000149167/

かなりの激あつ [湯宿温泉 湯本館]
TAKEさん [入浴日: 2014年7月22日 / 2時間以内]
沢渡温泉から峠越えルートでR17・三国街道のみなかみに抜けます。こちらは湯宿温泉の湯本という、ちと古びた感じの旅館です。かなりの老舗宿の様ですが、いつ頃に改築されて以来の建物なのか。館内は昭和の香りがします。湯宿温泉の開湯の歴史は1200年前に遡り、沼田城主・真田氏5代に渡るゆかりのお湯とのこと。

さてこちらのお湯はナトリウム・カルシウム‐硫酸塩泉、泉温62.7℃、ほぼ無臭、ほぼ無色透明。源泉名は記載なし。
主な特徴を表す成分はNa:274mg、Ca:169mg、Al:0.2mg、Mg:0.1mg/硫酸:750mg、Cl:131mg、炭酸水素:22.0mg、F:4.4mg/メタケイ:64.2mg。
使用状況表示はありませんが。基本掛け流しで、利用者により加水されます。

お湯の特徴としては硫酸塩系が突出したお肌に優しい感じのお湯ですが、泉温が高めですね。湯口の析出物はお湯の成分から見て、芒硝・石膏系の白い結晶ですね。

主浴場は内湯のみで、直径3.6mほどの円形浴槽があるのみですが、なかなかの趣で存在感があります。別途貸切風呂もある様ですが、そちらは確認しておりません。

槽内は激熱で50℃以上は確実、お客が使用していない時には加水は止められています。
状況的に考えて、当日は平日の夕刻。おそらく、私の入る前には利用者がなく、加水のない源泉掛流し状態だったのかと思われます。過去評にある様な40℃台前半というのは有り得ないかと思いました。おそらく適温付近まで、かなり加水された後の状態かと思われます。やはり、あつ湯だったとの評も見えますので、本来はそんな感じなのかもです。
掛け湯でかなりの熱さを察知し、これは危険と思いました。湯口と真向いになる左手手前には加水用のホースがあるのが目に留まります。どうにか入れる温度まで加水しました。
右手奥にある湯口からは槽内底付近を経て常時投入されています。

くれぐれも湯船にいきなり飛び込んではいけません。マナー的にもそうですが、このあつ湯に飛び上がること間違いなしです。相当な猛者でなければ加水せずに入るのは無理です。
私の後から入って来た地元常連と思われる年配さんは、何事もなさげに湯口付近に構えると、眉をひそめる事もなく暫くそのまま。さすがに慣れているのか猛者ですね。感心致します。このあつ湯はかなり効きました。湯上り後の汗が尋常ではありません。
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007064/kuchikomi/


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3.「金田屋旅館」 
http://www.yujuku-kanetaya.com/
http://kanetaya.gunmablog.net/
http://onsen.nifty.com/okutone-onsen/onsen010100/kuchikomi/


「ゆじゅく金田屋」 弘須の湯 動画
https://www.youtube.com/watch?v=FdOBk0xEUMM


群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉608
電 話 0278-64-0606

駐車場無料 30台

地図
https://www.google.com/maps?ll=36.700027,138.912929&z=14&t=m&hl=ja&gl=US&mapclient=embed&cid=7305091462835992830


男女別内湯
料金 大人 600円(税込)
利用時間 13時半〜16時


利用温泉 源泉名:窪湯(湯宿温泉)
源泉の泉質:ナトリウム・カルシウム-硫酸塩温泉
温泉:59.1℃ 利用施設:41℃
水素イオン:8.0PH
蒸発残留物:1.372g/kg


温泉利用状況
【加 水】 源泉温度が高いため加水しています
【加 温】 加温はしていません
【循環ろ過】 循環ろ過装置は使用していません
【入浴剤の有無】 入浴剤は入れていません
【消毒処理の状況】 消毒処理は使用していません
http://www.yujuku-kanetaya.com/seibun.html


「金田屋旅館」 投稿者:うつぼ  投稿日: 2002年 5月19日(日)23時09分32秒

若山牧水も泊まった明治元年創業の老舗宿。

R17 三国街道沿いの駐車場に駐車し 1分ほど歩いて宿へ。
(石畳みの湯宿メイン通りには、全く駐車場がなく行き止まりなので注意)

なかなか風情のある帳場の横の男湯「弘須の湯」は内湯のみ。
石造 5.6人の質素だが入り心地よい湯船。
カラン4。シャンプー・ドライヤーあり。15時前で独占でした。

湯口は2段で上段の槽で湯温を下げてから湯船へ投入。
コップあり飲泉可。湯口には白い析出。

投入量(20L/min弱)をそのままフローする源泉かけ流し。やや熱めのお湯。

お湯は無色透明ほぼ無味無臭で、法師よりぼう硝泉の特徴?が出ている感じ。
ここもよく澄んだきれいなお湯です。肌にまとわりつく感じのお湯でかなり強いキシキシ感があり、浴後はしっとりもちもちに...。浴感は十分でさすがに上州の名湯です。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs02/bbs020511_0520.htm#1021849772


温泉にいらっしゃい♪ 湯宿・金田屋☆お部屋と弘須の湯
http://ameblo.jp/naruru8854/theme3-10072871347.html#main


2008-4/13
以前湯宿を訪れた際、立ち寄りをお願いしたものの、 清掃中で断られてしまった事があります。ただ、その際にとても感じが良かったので、是非もう一度来たいと思っていた所でした。

今回は、お願いしたところ、宿泊の方が入っているので、少し待って頂けるならばとの事。
一旦出直し、時間を置いて再度お願いした所、今は誰も入っていないからどうぞと入れていただく事が出来ました。

宿泊客を大切にされている姿勢が伝わってきます。また、今回もとても感じが良く、やっぱり素敵な所だなぁと、改めて実感しました。


お風呂は男女別で、内湯のみ。玄関入ってすぐの左手側にあります。
お宿の規模相応と言う感じがする、小ぢんまりとした作りのもので、湯船がひとつと、洗い場が数人分あります。

お湯は窪湯源泉で、温度が高いので加水しているとの事。
湯船には無色透明のお湯がなみなみと張られていました。
循環はしておらず、ちゃんと掛け流されている様子です。


お湯に体を沈めてみると、42度程度でしょうか。ほぼ適温ですが、共同浴場などの熱いお湯を期待すると、少々物足りなく感じてしまいます。ただ、しっかり芒硝成分を感じる事は出来て、入った直後は僅かながらピリッと肌を刺すような刺激があります。

うっすらと芒硝臭があり、お湯から上がるとサラサラして気持ちがいい、癖の無い感触。
湯めぐりしはじめの頃は、兎に角強烈で特徴的なお湯が好きでしたが、最近はこう言うお湯が好きになって来ました。

湯口のお湯を口に含むと、ほとんど味がしないのですが、僅かに薬味味のような芒硝味がします。
少し薄暗くて雰囲気が良い浴室で、ゆっくり寛ぐ事が出来るのも良いですね!


やっと入浴する事が出来た金田旅館さん。
とても感じが良いお宿で、内部も小奇麗な印象。鄙びた所ばかりなのかと思っていた湯宿のイメージが少しだけ変わりました。
今後、三国街道を通過する旅に、この金田旅館さんの対応の良さを思い出す事になるでしょう。とても素敵な一湯でした!
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-kaneda/yujuku-kaneda.html


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4. 大滝屋旅館 (ゲンセンカン)
http://www.ootakiya.com/
http://www.yujuku-onsen.com/
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen009057/kuchikomi/
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/76921/76921.html

湯宿温泉大滝屋 つげ義春/ゲンセンカン主人の宿
https://www.youtube.com/watch?v=pac6uB7nJOw

湯宿温泉。大滝屋旅館さん「いい湯だな」デュークさん色紙の宿 動画https://www.youtube.com/watch?v=skt4BNc2FWQ


群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉2383 (旧 利根郡新治村)
電 話 :0278-64-0602

駐車場有り 10台 無料 
総部屋数 7室

時 間 : 正午12時から午後8時
料 金 :500円

「五郎兵衛やかた」を御利用のお客様は、レシートを提示ください。
レシート記載の日に限り、入浴を無料サービスさせて頂きます。


アクセス
JR上越線後閑駅又は上越新幹線上毛高原駅より猿ヶ京行きバスに乗車、湯宿温泉上にて下車後、徒歩1分 

福祉タクシー予約対応
福祉タクシーによる有償送迎を行っています。(利用条件などお問い合わせ下さい)車椅子乗車可


地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E138.54.57.690N36.41.53.043&ZM=9&id=akizzz1
http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E138.54.57.690N36.41.53.043&ZM=9


男女別内湯
加水:なし 加温:なし 掛け流し方式 殺菌処理:なし


〔 源泉名:湯宿温泉 大滝源泉とクボ(窪)湯の混合泉 〕

(窪湯源泉)ナトリウム・カルシウム-硫酸塩温泉(中性-低張性-高温泉)62℃
(大滝源泉)カルシウム-炭酸水素塩泉 39.1℃

Na・Ca-硫酸塩温泉 
48.0℃*、pH=7.2
湧出量:測定せず
成分総計=1.26g/kg
Na^+=236mg/kg (60.59mval%)、Ca^2+=131 (38.54)、Fe^2+=0.04、F^-=4.0、Cl^-=94.2 (15.76)、SO_4^2-=642 (79.32)、HCO_3^-=37.9、陽イオン計=371 (17.0mval)、陰イオン計=778 (16.9mval)、メタけい酸=52.6、メタほう酸=6.2 (H17.6.30分析>


湯宿温泉 「大滝屋旅館」 〔 Pick Up温泉 〕2006/08入湯
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/fa57eaefba181e63830dbc0f9f71d55a

名湯、湯宿で自家源泉をもつ貴重な宿。
湯宿でも奥まったところにあって、共同浴場「小瀧湯」の脇からのアプローチはなかなか風情があります。
湯宿のおもだった湯宿はおのおの屋号?をもっていて、ここは「薬師の湯」です。


【写真 上(左)】 案内図
【写真 下(右)】 アプローチ−1

接骨院も兼営していて通院がてら入浴している人もいるのか、日帰り受付は手なれたものでした。
浴場は混浴風呂と婦人風呂があり、婦人風呂はかなりこぶりのよう。
この日は空いていたので混浴風呂に貸し切りで入れました。
入口の暖簾をくぐり、右が婦人風呂、左が混浴風呂で脱衣所・浴室ともにこぢんまり。


【写真 上(左)】 アプローチ−2
【写真 下(右)】 エントランス


浴室はやや暗めながら、傍らを小さな沢が流れていてなかなか風情があります。
HPによると大滝源泉は沢の上手にある滝(大滝?)の脇から湧出しているそうで、沢沿いには泉源施設らしきものがありました。


【写真 上(左)】 浴場入口
【写真 下(右)】 脱衣所

カラン1+α(温泉かも?)、シャンプー?、シャワー・ドライヤーなし。
土曜14時で貸切。


【写真 上(左)】 浴室前の小沢
【写真 下(右)】 泉源施設?

伊豆石+タイル貼4-5人の浴槽ひとつをシンプルに配置。
タイル壁から突き出た石膏付塩ビパイプから赤茶に変色した伊豆石の湯口に落とし、さらにそれを浴槽に注いでいます。湯口のうえにはコップがおいてありました。
槽内注排湯はみあたらず、潤沢なオーバフローはかけ流しでしょう。


【写真 上(左)】 浴槽
【写真 下(右)】 湯口

やや熱めのお湯は、ほぼ無色透明で、白くおおきな羽毛状の湯の花がただよいます。
弱塩味にしっかりとした芒硝味が加わり、石膏泉系のほこほことしたやわらかな湯の香にわずかながら焦げ臭がまじります。


【写真 上(左)】 ざんざこのオーバーフロー
【写真 下(右)】 カランも温泉?

ツル(ヌル)すべのうらに硫酸塩系の弱きしととろみを感じ、よくあたたまり、浴後は肌がさらさらになってすっきり爽快感のでるなかなかのお湯です。
窪湯よりとろみとクセのあるお湯で、イメージ的には

「窪湯」
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/5e7afe1ca5e6942e0ef20208d411d137

洗湯(「湯本館」)
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/aa6bce13906e9c15cb058382abf516b0

の中間くらいかな?


【写真 上(左)】 湯口&湯色
【写真 下(右)】 ケロリン桶です

泉温が低いためか、惜しくも窪湯と混合していますが、それでもこれだけの個性を発揮しているので大滝源泉はかなりの実力派では?

湯宿は共同浴場めぐりも楽しいですが、ここや「湯本館」など、自家源泉系のお宿の入りくらべをしてみるのもこれまた一興では・・・。
(ただし、夏場にやるとヘロヘロになりますが・・・(笑))

〔 源泉名:湯宿温泉 大滝源泉とクボ(窪)湯の混合泉 〕
Na・Ca-硫酸塩温泉 48.0℃*、pH=7.2、湧出量:測定せず、成分総計=1.26g/kg
Na^+=236mg/kg (60.59mval%)、Ca^2+=131 (38.54)、Fe^2+=0.04、F^-=4.0、Cl^-=94.2 (15.76)、SO_4^2-=642 (79.32)、HCO_3^-=37.9、陽イオン計=371 (17.0mval)、陰イオン計=778 (16.9mval)、メタけい酸=52.6、メタほう酸=6.2 (H17.6.30分析>

*) 館内掲示に湧出温度:湧出口62℃+39.1℃とあり、窪湯源泉は泉温60℃ほどなので、大滝源泉は泉温39.1℃では?


宿のHPによると

(窪湯源泉)ナトリウム・カルシウム-硫酸塩温泉(中性-低張性-高温泉)
(大滝源泉)カルシウム-炭酸水素塩泉

とあり、大滝源泉は湯宿では異色の重炭酸土類泉のようです。

(温泉利用掲示>
加水:なし 加温:なし 掛け流し方式 殺菌処理:なし


■ブランドグルメ
〔 たくみの里のむヨーグルト 〕
http://www.takuminosato.or.jp/s_ygrt.html

地元産の生乳をつかってつくられるのむヨーグルトは

「たくみの里」
http://takuminosato.or.jp/

の人気アイテムです。
濃厚な味でほのかな酸味がいい感じ。通販もされています。
http://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/fa57eaefba181e63830dbc0f9f71d55a


2008-4/13
つげ義春の「ゲンセンカン主人」の舞台になったとも話を聞く、大滝屋旅館。
以前立ち寄ろうと思って伺った事がありますが、清掃中で入ることが出来ませんでした。

お宿へのアプローチは2通りあり、小瀧の湯 側から行くと、看板が非常に鄙びていて、まるで「ゲンセンカン主人」そっくりなアプローチで実に素晴らしいです。

国道側から行ってしまうと、駐車場でちょっとつまらないので、初めて行かれる方は、是非共同浴場側の細い路地を使用して欲しいです。

お宿はつげ義春の作品とは全く違う、普通のところ。
現在は接骨院も併設されています。
中に入り、立ち寄りをお願いすると、今回は快くOKして貰えました。

お風呂は男女別で、内湯のみです。
雨が降る夕方で、何だか少し薄暗い感じです。
タイル張りのシンプルな浴室は、手前が洗い場、奥が湯船と言う造り。
湯船は4〜5人ゆったり入る事が出来そうな、そこそこ大きい物です。
ちなみに女湯は三角形でかなり小さい湯船だったそうで、ちょっと羨ましい。

お湯は薄暗いので確認し辛いですが、恐らく 無色透明。
湯花なども特に見当たりません。

少し温めで41度くらい。ずっとお湯に浸かっている事が出来る温度です。
お湯は掛け流し。ここは独自源泉の大滝源泉と窪湯源泉を混合して利用しているとの事。

僅かに温泉臭がしますが、湯宿っぽい芒硝臭とはだいぶ印象が違います。
温いせいもあるかと思いますが、お湯自体もあまり鮮度を感じません。
ただ、肌触りはとても柔らかく、別に印象は悪くありません。

湯口からは少し熱めのお湯がドボドボと注がれていました。
脇にはコップもあり、飲泉が出来るようになっています。
お湯を口に含んでみたところ、ほとんど無味ですが、僅かに土類系の味がします。

芒硝泉と言うより、炭酸水素塩泉と言う印象の方が強いかな?
温めなので、時間を気にせずにゆったり入ると気持ちが良さそうなお湯だと思いました。

ゲンセンカン主人のイメージは、入り口のアプローチだけでした。
作品のように、浴室内に仏壇とかあったら面白かったのに・・・ って、でも、本当にあったら嫌かな?(笑)
ともあれ、来たいと思っていた所でしたので、立ち寄る事が出来て良かった一湯です。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-ootaki/yujuku-ootaki.html


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5.太陽館
http://www.taiyoukan.com/

群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉2384
電 話 0278-64-0211

男女別内湯
料金 600円
営業時間 極端な早朝や深夜以外ならいつでも

窪湯源泉


2008-4/13
三国街道を走っていると、電飾で「日帰り入浴OK!」みたいな案内が出ていて、常々気になっていたお宿です。何となく今までスルーして来ましたが、行ってみない事には良いか悪いか分からない訳で、立ち寄ってみました。

小ぢんまりした旅館と、ひっそりたたずむ共同浴場と言うイメージが強い湯宿温泉にしては、結構立派な外観をした建物です。

内部も結構広々としています。ただ、中に入っても誰も降りません。「ごめんくださーい!」と叫ぶも、誰も出てくる様子がありません。
5 時前でしたが、夕食の準備とかでお忙しいのかな?でも、堂々と立ち寄りOKと書かれている事ですし、玄関をあがって、フロントを見ると、そこには内線電話機が 1台あり、「御用の方は9番まで」と書かれています。

「ここがフロントな訳で、この電話機は普通部屋に置かれている物じゃないのかな?」と、疑問もありましたが、とりあえず9番にかけて見る事に。電話に出たのは男性の声で、ご主人と思われます。。立ち寄り出来るか聞いてみたところ、愛想良く、「はいはい出来ますよ!お待ちください!」との事。暫く待つと、中から電話の声の主と思われるご主人が出てこられました。

料金は600円との事です。私が「日帰りは何時頃まで受け付けているのですか?」と聞いてみた所、「夜中の12時でも・・・私たちが起きていればいつでも大丈夫ですよ」と仰っていました。

こちらのお宿には、お風呂が2箇所。露天と 内湯があります。

露天風呂はお宿の自慢なのか、街道沿いの電光掲示板でもしきりに宣伝されている物です。そういえば、湯宿で露天があるのは、ココだけのような気がします。
まずはそちらに行ってみました。露天は館内をちょっと歩いた、3 階にありました。

ちゃんと男女別に分かれており、脱衣所と浴室の間に仕切りの無い、素敵な作りをしています。最近出来たばかりなのでしょうか、使用しているヒノキ が綺麗で、和風ですが、現代風にデザインされたような、良い感じです。

どことなく「劇的ビフォーアフター」的な、演出がかった和風っぽさも感じます。

肝心のお湯はと言うと、無色透明。お湯は窪湯共同浴場と同じ窪湯源泉。

湯口は2箇所あり、静かにお湯が注がれています。その片方には飲泉用の
コップも置かれていて、期待出来そうですが、残念ながら循環式。
ただ、循環はしていますが、ちゃんと新湯が投入されているようですし、不快
な塩素臭は一切しません。

お湯に浸かると、湯宿特有の芒硝成分でビリビリ来ます。ただ、ビリビリ感
はほんの一瞬で、そんなに持続しません。引き湯距離と、やはり循環による
物が大きいのでしょうか、鮮度は多少損なわれている感じです。
残念ながら眺望はあまり良くなく、せいぜいタヌキの置物と、遠く対岸の町並
みが少しだけ見える程度なのですが、外の風に当たりながら入る湯宿のお湯
は、それはそれで価値のある物です。

続いて、内湯。こちらは露天とは離れた2階 にあるので、一度服を着て移動しな
ければなりません。こちらも勿論男女別です。
手前側に洗い場があり、奥が湯船。湯船は一度に10人以上浸かる事が出来る
ような、結構大きな物です。室内の換気があまり良くなく、少し篭った印象があ
るのですが、これは露天から移動してきた直後だから、余計にそう感じさせるの
かも知れません。

お湯はこちらも同じく窪湯源泉。ただ、こっちは循環されておらず、加水のみの
ようです。
湯口からはお湯がドボドボと注がれています。
入った印象は、わずかに芒硝っぽさを感じる物の、少し温めなので、ビリビリ感
はしません。逆に、肌触りサラサラと言う印象。
入りやすい温度ですし、これはこれで悪くは無いのですが、湯船の大きさのせ
いもあってか、鮮度は失われています。
うーん、これだったら、循環でも湯船が小さい露天の方が良いかな・・・?

お湯の使い方や鮮度は、間違いなく共同浴場の方に軍配が上がります。
そもそも、旅館に共同浴場以上を求めるって言う事自体が無理ありそうな気もしますけ
どもね・・・
ただ、遅い時間でも受け入れて下さるのは有難いですね。今後も三国街道を越える旅
人を癒し続けてほしいと思いました。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-taiyo/yujuku-taiyo.html

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6. 湯宿温泉 共同浴場 


湯宿温泉 共同浴場 4ヶ所

外来者は16時から21時
100円(100円以上を料金箱へ入れる方式) 
  源泉掛け流し (加水なし・加温なし・循環殺菌なし)

@ 共同湯 小滝の湯
http://onsen.nifty.com/okutone-onsen/onsen011271/kuchikomi/


2006/02/11
湯宿温泉にある共同浴場の一つです。有名な「窪湯」のすぐ近くにあります。
外観はいかにも共同浴場ってな感じです。お風呂は内湯×1があります。

4〜5人が入れるこじんまりとしたタイル張りの浴槽に無色透明のお湯が張られています。
お湯はちょっぴり芒硝臭のする芒硝泉で入り心地は良いものがあります。
少しだけ湯の花の舞うお湯は特別なものではありませんが、とても入浴感が良くうっとりとしてしまいます。こういう共同浴場はいつまでも続いて欲しいと思うと同時に地モ専にならいように祈るばかりです。
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/yujyuku_kotaki.html


2007(H19)/7/15
 群馬県みなかみ町旧新治村の三国街道沿いにある温泉街の共同浴場。窪湯のすぐ裏手にあり,窪湯源泉と温めの小滝源泉を注がせている(女湯に湯口があるらしい)。

ここも地元民のための浴場という色合いが強く,下区の人たちが各自で鍵を管理し,観光客のために時々鍵を開け放す以外の日はしっかり施錠されている。協力金100円以上を支払うと正式に利用することが出来る。

 この日は運良く解放日だったらしく,訪れたときには近代的オートロック解除システムが起動しており,通常通り協力金を支払って利用できた。脱衣所と浴室が一体型の造りをしており,脱衣所側の仕切のすぐ裏に協力金を入れる箱が設置されている。

長方形の浴槽の手前側に塩ビパイプの源泉口があり,その上に加水用の蛇口がある。
奥には湯もみ棒が立てかけており,早速友人はその湯もみ棒を浸かって湯を冷まし始めた。

最初熱くて入れないと思われたお湯だったが,46℃程度になり十分入れそうな温度に下がった。早速味わってみると…ビリビリビリビリ。本当にじんわり体に染みこんできます。

この浴感はまさしく芒硝泉だ。お湯からは芒硝臭がほんわり香り,遠く津軽大鰐温泉のような薬系の芳醇な香りが自分の顔をニヤニヤと喜ばせてしまう。

この源泉,友人の話だと窪湯と小瀧源泉の混合泉らしいのだが,それらしき雰囲気はあまり感じられなかった。噂によると女性浴室にタマゴ臭がする温いお湯が注がれる源泉があるらしいのだが…。まだ未確認です。

 こういうときだけは都合良く女性がうらやましく思えてしまう。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-kotaki.htm


2009-3/21
窪湯のすぐ近くにあり、一応観光客でも利用出来るそうですが、普段は施錠されていてなかなか入る事が出来ないそうです。
私が訪れた際も施錠されていたのですが、運よく中から出てくる人がいたので、入れ違いで入る事が出来ました。


内部はいかにも共同浴場と言った感じがする、必要最低限のものがこじんまりとまとまった造りをしています。
脱衣所と浴室は一体型で、浴室内には湯船がポツンと一つ。当然ですが、備え付けのシャンプーは勿論、カランもありません。
なお、入浴料は100円で、脱衣所にある料金箱に入れる仕組みになっています。

お湯は無色透明。成分表が無かったので詳細は分かりませんが、どうやら芒硝泉らしく、芒硝臭がします。少し熱めで、肌がビリビリしました。
湯切れが非常に良く、入っている時はとても熱いのですがあがるとすぐに汗が引きます。
なかなか入り応えがあり、とても気持ちが良かったです。

2009年 3月 21日 − 再々訪
湯宿に入った事が無いと言う友人の案内で、湯宿温泉に来ました。
ココには共同浴場が4か所あるのですが・・・
竹の湯、松之湯、窪湯と3つまわって、どこも全部鍵が掛かっています。
もともと鍵が掛かっている事の多い温泉地でしたが、こんなどこも閉まっている事は初めて です。最後の小瀧の湯に願いを託して、入れないかと来てみたら・・・
あぁ、ココも鍵が閉まっている! ナンテコッタイ!!!

うーん、どうしようかと、頭を抱えていた所、小瀧の湯のはす向かいの民家から、お婆ちゃんが出てきて、「お風呂入りたいの?」「じゃあ鍵を開けてあげるよ」と言って、小瀧の湯の鍵を開けてくれました。
あぁ、このまま帰るしか無いと思っていたので、嬉しいです!


お湯は、直前まで鍵が掛かっていて誰も入っていなかった事もあり、鮮度抜群です。
ビリビリ熱いお湯は、48度近くあります。お湯から香る芒硝臭が実に心地良いです。やっぱ湯宿のお湯は気持良いなぁ〜!

ピュアな芒硝湯と、お婆ちゃんの優しさが、とても身にしみて気持ちが良い一湯でした。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-kotaki/yujuku-kotaki.html


A 共同湯 窪湯
http://onsen.nifty.com/minakami-onsen/onsen007065/kuchikomi/

「窪湯」 動画
https://www.youtube.com/watch?v=XADSJq8gw58
https://www.youtube.com/watch?v=00i6cIWi7jU
https://www.youtube.com/watch?v=gvPB8rlA65Y


2002/03/29
源泉のすぐ前にあり、なかなか立派な外観をしています。
お風呂は内湯×1があります。
共同浴場としては大きい方で10人は入れるタイル張りの浴槽に無色透明のお湯が勢いよく注がれています。

お湯はやや熱めで、身体を浴槽に沈めるとキリリとした感触があります。
湯面からはほんのり温泉臭も感知できます。肌触りはさらりとしたものですが入浴感は悪くありません。さっぱりした入り心地です。
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/yujiku_kuboyu.html


2006-2/11
湯宿温泉に4箇所ある共同浴場のひとつで、源泉すぐそばにある大湯的存在の共同浴場です。
窪湯以外にある3箇所は施錠されている事も多く、観光客には少々敷居が高いところですが、この窪湯は常に利用出来るよう開放されているみたいです。

入浴料は他の共同浴場と同じで100円。
管理人不在のため、脱衣所にある料金箱にお金を入れる仕組みです。


中は、脱衣所と浴室がちゃんと分かれた、なかなか立派な造りをしています。
脱衣所には洗面器や鏡なんかもあり、ちょっと贅沢な感じもしますね。
浴室には湯船が一つ。ちゃんとカランもあり、使い勝手は非常に良さそうです。

お湯は湯宿の共有源泉らしく、直前に入った小瀧の湯と同じ無色透明で僅かに青味がかって見えました。
適温なのでゆったり浸かることが出来ます。湯船も結構広々としているので、日常使うお風呂としては申し分無さそうです。
湯口傍に飲泉用のコップが置かれていたので、試しに飲んでみたところ、薬品系の臭いがし、僅かに苦味がありました。

地元の方々が多く利用する大切な共同浴場です。
観光客の我々は「入れる事が当然」とは思わず、マナー良く利用したいですね。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-kuboyu/yujuku-kuboyu.html

2007(H19)/7/15
 群馬県みなかみ町旧新治村の三国街道沿いにある温泉街の共同浴場。 基本的に下区の人たちのための共同浴場なのだが,湯宿温泉のシンボルとしてほぼ毎日夕方から夜まで一般開放されている。湯宿温泉にある共同浴場の中では一番広く,窪湯の横には一休みできるベンチと休憩所がある。

 入口から中に入ると,脱衣所には赤い料金箱がある。これらは湯宿温泉街共通で,維持管理にあてるために湯を利用する人から寸志として頂いているものだ。心ないアラシがいるからなのかわからないが,料金箱に向かって天井から監視カメラが設置されてあった。

 浴室内は近隣の小瀧の湯や竹の湯のようにタイルばりの床,そして十和田石をあしらった浴槽が1つあるシンプルなもの。ここは浴槽も洗い場も広く,一度に6〜8人はゆったり浸かれるサイズだ。他の共同浴場が2〜3人サイズなのに対して窪湯浴槽がこのサイズなのでかなり広めに感じる。

湯口から無色透明のビリビリ熱いお湯が静かに注がれている。湯口お湯からは石膏系の香りが感じられた。お湯に体をとっぷりと浸け,湯面に鼻をもっていき香りを嗅ぐと今度は芒硝系の香りが感じられる。芒硝好きの人にとってはたまらない香りだ。しかもこの日はだれも利用客が居らず,このお湯を何と独占することができたのだ。
 人の気配も無くただお湯の落ちる音のみを聞きながらビリビリと熱い湯に浸かる。これぞ湯宿の醍醐味か?もし自分の住む地に近ければ何度でも足を運びたい温泉街です。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-kubo.htm

B 共同湯 竹の湯

「竹の湯」 動画
https://www.youtube.com/watch?v=qXJTOpCJ0Yg


2006/02/11
湯宿温泉にある共同浴場の一つです。湯宿温泉街の入口近くにあります。
ここも立派な外観の共同浴場です。お風呂は内湯×1があります。
浴室は「窪湯」と同じように立派にリニューアルされていますが、「窪湯」よりは一回り狭い感じがします。 4〜5人が入れる広さです。

お湯は無色透明のちょっぴり芒硝臭のするお湯で、勿論ここも入浴感は十分にあり入り心地は良いです。
ここも地元の方に愛されている共同浴場のフンイキが溢れており、一般人が立ち寄りで入るのは申し訳ないような気もします。快く鍵を開けてくださった地元の方に感謝です。
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/yujyuku_take.html


2007(H19)/7/15
群馬県みなかみ町旧新治村の三国街道沿いにある温泉街の共同浴場。
4つある共同浴場のうち,一番下手にある立派な佇まいの共同浴場。
この日は鍵がかかっていたため入口付近でしばらく待っていたところ,洗面器を持った地元のおじさんが現れたため100円を支払い,鍵を開けてもらって利用した。

 佇まいは大きいが中はそんなに広くなく,3人くらいが入れる十和田石浴槽に石湯口から熱々の芒硝泉が注がれかけ流されている。
湯口の石には芒硝成分がこびりついており,湯口からは弱い芒硝臭も感じ取れる。
お湯に浸かってみると,熱めのお湯がさらに熱く感じ,体にビリビリとさし込んでくるような浴感だった。これは気持ちいいです。一度入って慣れてしまうとやはり心地よい感じになり,逆にこのビリビリ感がたまらなくなってくる。

やはりいいなぁ湯宿温泉は。こういう浴場を自由に使える地元住民になりたいと切に願った夜でした。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-take.htm


C 共同湯 松の湯 


2006/02/11
湯宿温泉にある共同浴場の一つです。
ここは集会所風の外観で、地モ専のような感じがする共同浴場です。
たまたま地元の方が出てきましたので入浴をお願いすると、100円を払ってくれればOKだとのことでしたのでありがたく入浴させていただくことにしました。
ここは事前の情報だと入浴するのは難易度が高いということだったので、とてもラッキーだったのかもしれません。

お風呂は内湯×1があります。3〜4人が入れる小ぶりなタイル張りの浴槽に無色透明のお湯が張られています。ここは他の共同浴場に比べて入浴する人が少ないせいか、かなり熱めのお湯になっています。ちょっとピリリとくるお湯で、とても気持ちが良いです。

少しだけ湯の花が舞っています。はっきりとわかる芒硝泉特有の臭いが素晴らしいです。
ここは浴槽の下のほうで女湯と繋がっているタイプの浴槽です。
ここは湯宿温泉のピュアな温泉を味わえる貴重な施設だと思います。
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/yujyuku_matu.html


2007(H19)/7/15感動の夜
 群馬県みなかみ町旧新治村の三国街道沿いにある温泉街の共同浴場。
ここには地元住民が利用している共同浴場が4つあり(上区に2つ,下区に2つ)それぞれを鍵制で管理している。たいてい2つの共同浴場が日替わりで鍵を開けて開放されているが,鍵が開いていない時に利用する場合は地元の住民に断って鍵を開けてもらい,100円の協力金を支払うと良い。

 この松の湯は基本的に下区の住民が管理しており,下区には旅館が1軒もない閑静な住宅街。しかも表通りから約20mほど細い路地を入った先にあるため始めていく場合は見つけられず,地図に頼ることになる。今回はラッキーなことに鍵が開いており,しっかり協力金を支払ってありがたく利用させてもらった。

 脱衣所一体型で寂れた感じの浴室に仕切を隔てて男女の浴室と繋がっている内湯浴槽が1つあるだけのシンプルなもの。床はタイルばりで,壁や天井は立派な木組み。湯口は浴槽の横の升に一旦貯められて冷まされ,静かに注がせる方式となっている。熱めのお湯は45℃程度に保たれているが,芒硝泉ならではの体感温度アップで47℃ほどに感じる。ビリビリする浴感と湯面から漂う薬系の芒硝臭が感動を誘う。この香り,青森の大鰐や浅虫の独自源泉で嗅ぐ時の香りと同じである。これぞまさしく芒硝泉だ。

 芒硝好きな自分は我を忘れて長めの時間その湯に浸かってしまいました。閑静な住宅街にあるため,自分たちが静かにすると本当にお湯の音しか聞こえません。しぃんと静まりかえっている中,湯が溢れていく音に耳を傾けてみると,普段はあまり耳にしないような小さなお湯のささやきが聞こえてきます。まさしく「感動の湯浴み」です。

 しばらくすると地元のおじいさんがやってきて,浴槽の中でいろいろお話しすることが出来ました。昔,松の湯が表通りに面していた(50年近く昔)というお話や,マナーが悪い客が来たときの話など,いろいろお話を聞かせてもらいました。地元の方とお話ししながらゆっくりお湯に浸かるのも共同浴場ならではの光景です。この日自己最高の湯破数を記録した後だったにもかかわらず,ここのお湯は全然疲れませんでした。逆に浸かれば浸かるほど元気が沸いてくるようなお湯でした。芒硝好きにはたまらないです。

 4つある共同浴場はどれもお湯は同じ感じでどの建物もこぢんまりしているのですが,一番古い建物で大切に守られている感じがするこの松の湯が一番すばらしく感じました。個人的にここは今回の旅行で一番印象深いお湯になりました。いつの日か建て替えられる日が来るでしょうが,それまでの間もぜひ住民達の心と体を癒し続けていってほしいと思います。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-matu.htm

4つの共同浴場(窪湯、小滝の湯、竹の湯、松の湯)はすべて見ましたが、鍵がかかっているところもあり、慣れない人は後込みする感じ。

ポケットパーク横の窪湯が一番観光客向けでしょうか?
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs02/bbs020511_0520.htm#1021849772

一郷一会・関東周辺100名湯プロジェクト
湯宿温泉 「共同浴場」2005-10-02
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/2df8cc7512ba3785888b39f6a3837d8c

 湯宿温泉の共同浴場は、この小規模な温泉郷には珍しく、4軒の共同浴場があり一番大きな「窪湯」そして「小滝湯」「竹の湯」「松の湯」がありますが外来用として「窪湯」と「小滝湯」が開放されているが、管理人の方曰く、ここ湯宿温泉も一部の心無い入浴客のために地元のかたが迷惑しているという、閉鎖される可能性もあるのでここの温泉に限らず、共同浴場のルールを見につけて入浴したい。

 湯宿温泉は、これまで数多くの入浴してきたが、土曜日ということもあって、小滝湯に入浴する、窪湯の半分位の、5から6人くらい狭い浴場で、50℃位の源泉が少し絞り気味で掛け流しで投入されており、今日1番風呂なので、やや熱い湯であった。湯は、表面が熱く下にしたがって、温くなるので十分な湯もみを行うと、適温になることがある。(それでもダメなら加水するが)
 準備体操も兼ねて10分位の湯もみで、大分適温になってきたので、入浴する。

 硫酸塩泉らしくちょっと屈折率の高いお湯に入ると、香りが漂う、石膏臭交じりの芒硝泉の香りであり、温泉らしさが感じられる香りである。
味は、薄い塩味が感じられる石膏味で、硫酸塩マニアには堪らないものであり、その温泉の濃さに益々期待が高まる。
硫酸塩泉系は、炭酸水素塩系に比べ、無色的なものが多いが、その温泉には計り知れないパワーを感じる。入浴中より入浴後に汗が止まらないといった現象が度々起こる。特に芒硝泉系のお湯はそれがよりいっそう増す。
 そのお湯を求めて、私は日本各地の温泉に行くといっても過言ではない。
http://blog.goo.ne.jp/itugou/e/2df8cc7512ba3785888b39f6a3837d8c

郡司勇 湯宿温泉  小滝湯共同湯  2010/05/13
http://www.gunjion1000.com/?p=1107

鄙びた風情が良い  松の湯 竹の湯 窪湯とも施錠 
国道17号線沿いの湯宿温泉は小さな温泉街で宿の数は5軒ほどであるが、共同湯が4ヶ所あり充実している。

まずモルタル造トタン屋根の鄙びた松の湯共同湯に行くが施錠されていた。
ここが一番地元に密着した共同湯であろう。

松の湯
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/matunoyu1.jpg

次に板の壁と白い破風に瓦屋根の立派な竹の湯も施錠であった、

竹の湯
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/takenoyu1.jpg

3つ目のこの湯宿で大湯とも言える窪湯は白壁の造りで瓦屋根の立派な木造であるが、ここも施錠で午前中に空いている共同湯は無いのかなあ?と思い隣の小滝湯共同湯に行くと開いていた。

窪湯
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/kuboyu1.jpg

小滝湯
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/kotakiyu1.jpg
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/kotakiyu2.jpg

メザニン号漂流記 2011-09-26

湯宿の4共同浴場。竹の湯、松の湯、窪湯、小滝の湯。
それぞれの浴場の関係について、少し邪推を試みたくなっています。

小滝(小瀧)の湯と窪湯、それと、竹の湯と松の湯。

前者を「窪湯セット」とすれば、後者は「竹の湯セット」。

つまり、それぞれ二つの浴場が近接し、両セットはやや距離をもって存在しています。


窪湯セットについてみると、窪湯の方が圧倒的に小滝の湯より大きく、立派。

一方、竹の湯セットについてみると、規模はそれほど変わりませんが、湯屋の構えとしては竹の湯の方が松の湯よりどうみてもかなり立派です。


これはどういうことでしょうか?


地元の郷土史研究家のような人に聞けば一発で回答がえられそうですが、そこはよそ者の特権で、勝手に推論してしまう愉しみがあります。もっとも地元郷土史家というような人がもっとも私の苦手とする人なので、推論するしかないのではありますけど。


私の邪推は以下の通りです。


窪湯セットにおける窪湯、竹の湯セットにおける竹の湯、これらは、昔、「男子専用風呂」であったのではないかと。


他方窪湯セットにおける小滝の湯、竹の湯セットにおける松の湯は、「女子専用風呂」ではなかったのかなと。


それぞれのセットにおいて両浴場が近接し、一方のみ立派というアンバランスな構図。男尊女卑の小宇宙がこの関係にはみられたのではないか。しかし、ここは群馬。女性の力が大きいエリアでもあります。一筋縄ではいかない事情がさらにありそう。


というのも、昔であれば「混浴」という方法をとってしまうことができるわけです。しかし「かかあ天下」の上州では、むしろ、女子も女子としてきちんと一つ浴場をもちたいという精神がある。それが、「セット」という形をとり、女子は女子で個別の湯屋を持つに至った。しかし、そうはいっても、肉体労働で大汗をかく男子としては、窪湯のような大きさが必要であったかもしれないし、体面を保つ意味でも松の湯より竹の湯を立派に造らざるをえなかった。ただ、「かかあ天下」という文化は上州一般にみられる(あるいはみられた)風潮であって、湯宿のみがこういう微妙な力関係をもったとも、なんともいえません。


大小、あるいは湯屋の立派さ。極端に差がある二つの共同湯セット。その関係の不思議さが以上のような邪推に至ったわけですが、もう一つ、これを裏付けるかのような「仕組み」がそれぞれの浴槽に隠されています。どの浴場も壁でしきられているものの、実は浴槽内では男女が一体化しているようにみえる。一番わかりやすいのは「松の湯」ですが、他の3浴場もよく壁をみると穴があいていて、男子浴槽と女子浴槽の湯が混交するような造りになっています。これはもともと、それぞれ単一の浴槽で、それを後から二つに分割したからではないかと推測できる。単に壁で仕切って二つの小さい浴槽に分割してしまうと、湯量と湯加減の調整が単一浴槽であったときと比べて難しくなってしまう。それを解決するための構造と推論できないでしょうか。


以上を整理すると、昔はこの地域において、「窪湯」「竹の湯」が男子風呂、「小滝の湯」「松の湯」が女子風呂として存在していた。しかしこれではあまりにも男尊女卑なので、それぞれの浴場に男女の区切りを設けて、4浴場それぞれ男女の浴室をもつに至った。大胆すぎる推論でしょうか?


タネ明かしはいつか誰かが教えてくれるとして、こういう妄想を湯船につかりながらのスパイスとするのも一興でしょう。


不思議な存在感を漂わせる湯宿の4つの共同浴場。鍵がかけられているのに、開いているときもあるし、開いていないときある。観光客からみるとひどく曖昧な湯。しかしこの微妙な世界が、湯宿の魅力でもあります。「共同浴場コスモロジー」と銘々しておきます。ウフフ。
http://d.hatena.ne.jp/TOOFAR2/20110926/p1


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2-1 共同湯 小滝の湯
http://onsen.nifty.com/okutone-onsen/onsen011271/kuchikomi/


郡司勇 2010/05/13
湯宿温泉  小滝湯共同湯  温泉地再訪 75点
http://www.gunjion1000.com/?p=1107


小滝湯
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/kotakiyu1.jpg
http://www.gunjion1000.com/wp-content/uploads/2010/05/kotakiyu2.jpg

小さな木造の湯小屋で、天井の高い風情のある造りである。
小さなタイル張り浴槽1つのみに湯が掛け流しになっていた。
入浴にはかなり熱く少々加水した。
芒硝泉ということだけ分かるが分析表の掲示がなかった。
透明、少苦味、無臭と観察した。熱めの湯が掛け流しで良い共同湯であった。
http://www.gunjion1000.com/?p=1107

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/279.html#c1

[近代史3] つげ義春『ゲンセンカン主人』のモデルになった群馬県湯宿温泉は良い所が一つも無いダメ温泉 中川隆
2. 中川隆[-11726] koaQ7Jey 2019年3月04日 00:36:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[258]

赤岩温泉 誠法館

群馬県利根郡みなかみ町湯宿温泉631
電 話 0278-64-0135

2食付6500円、1泊朝食付き4200円
日帰り入浴不可

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%B5%A4%E5%B2%A9%E6%B8%A9%E6%B3%89%E8%AA%A0%E6%B3%95%E9%A4%A8/@36.703784,138.910662,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xf1c27c37b7d01891
http://www.mapion.co.jp/m2/36.70373509,138.91062558,16/poi=L10201040000000000224
http://www.navitime.co.jp/?ctl=0190&provId=00011&spotId=020956762&advId=&LCode=0604002001

加水なし、加温なし、循環、消毒無しの100%源泉掛け流し

源泉名 : 太子の湯(赤岩温泉)
ナトリウム・カルシウム-硫酸 塩温泉
29.7℃ / ph8.9
成分総計 = 1040mg
Na+ = 184 / K+ = 1.53 / Ca++ = 138
Cl- = 33.9 / F- = 2.69 / SO4-- = 636 / CO3-- = 6.0
H2SiO3 = 30 / HBO2 = 3.42
http://jake.cc/onsen/gunma/akaiwa-seiho/akaiwa-seiho.html
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-seihoukan.htm
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/akaiwa_seihokan.html
http://www.journal.co.jp/gunma-onsen/04mikuni/4akaiwa/001seihoukan.html
http://kogure.gunmablog.net/e133725.html
http://kogure.gunmablog.net/e276488.html
http://kogure.gunmablog.net/e332554.html


アクセス
上越新幹線上毛高原駅よりバスで約20分。


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92379-1409+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E5%88%A9%E6%A0%B9%E9%83%A1%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%BF%E7%94%BA%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89/@36.7000715,138.9159628,15z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x601e6d1f3af30b75:0x7a0b8cccbfd8c14d

2007/07/15
湯宿温泉からちょっとだけ離れた所にある一軒宿です。
かなり鄙びつつありますが、ここは独自源泉を持ち日帰り入浴も不可と言うことで以前からとても気になっていた旅館の一つでした。今回は朝食付きの素泊まり(4,300円)で宿泊してみることにしました。

お風呂は2ヶ所あります。男子用が大きく4〜5人が入れる浴槽が2つ並んでいます。「あつ湯」と「ぬる湯」に分かれています。
「あつ湯」は加熱湯が注がれ「ぬる湯」は「あつ湯」から溢れたお湯が張られているようです。元々ここの源泉はぬるいので源泉槽なのかなと思いましたが、宿の女将さんに確認したところ違うとのことでした。
昔は源泉を出せるようにしていたらしいですが、源泉を出しっぱなしにするお客さんがいて、お湯がぬるくなりすぎて苦情が出たためお客さんが勝手に源泉を出せないようにしてしまったとのことでした。うーん、何か複雑な気分です。

加熱湯は少しとろり感のある肌触りの優しいもので、とてもやわらかな感触がするものです。お湯の成分が身体を包み込んでくれるような感じでとても気持ちがいいです。
「ぬる湯」のお湯は更にマイルドな感じがして浸かり心地は悪くはありません。
鮮度もそれほど悪くはなく「あつ湯」の余り湯には思えない感じです。

今回は幸いにも貸切でしたので女湯の方も利用させていただきました。(笑)
こちらの浴室・浴槽はかなり小さく2〜3人が入れる正方形の浴槽に無色透明のお湯が溢れています。ここも男子浴槽と同じ加熱湯のハズですが、男湯よりはぬるめでとろりとしたお湯の感じが素晴らしいです。とっても浸かり心地が良いお湯で浸かっているうちにウトウトしてきてしまいます。ここはひょっとして非加熱の源泉が足されているのかなあ?
ここの源泉はなかなか素性が良さそうですので、是非とも源泉槽が欲しいところです。

玄関に熊の剥製が置いてありましたのでちょっと遊んでみました。(笑)
http://www.kumagary.com/onsen/gunma/akaiwa_seihokan.html


2007(H19)/7/15宿泊
 群馬県みなかみ町にある独自源泉の宿。国道17号三国街道沿いにあり,すぐ横にある切り立った岩が赤いことからこの名前がついた。

数百メートル手前にある湯宿温泉からは歩いて3分程度の距離で,温泉郷の中では湯宿温泉としてくくられることが多い。太子の湯と呼ばれる源泉は,湯温が温いためボイラーを使って沸かしたお湯を贅沢にかけ流している。

この宿は宿泊客のために日帰り入浴は行っていない。今回は1泊朝食付き4200円で宿泊利用した。

 入口から入るとまず熊の剥製が首にいらっしゃいませというプレートをかけて出迎えてくれる。女将より従業員より先に熊と会話することになる。早速部屋に通され,3階にある部屋まで階段を上っていった。部屋は2間続きの広めの部屋で,ゆったり過ごすことができた。

 いよいよ浴室である。ここの浴室,大浴場と婦人浴場があり,大浴場はその名の通り広めで2つの浴槽が繋がっているゆったりした造り。婦人浴場は総檜造りの小さな浴槽に狭い浴室。浴槽の雰囲気なら婦人浴室。ゆったりじっくり浸かるには大浴場が良い。

お湯は無色透明で温め,ほんわかと温泉臭が香り,静かに静かにかけ流されている。
温めで透明なお湯はやわらかめで肌にからみついてくるような浴感がある。長湯しても疲れないのが特徴だ。
床や浴槽の底に敷かれている石タイルの色が美しく,朝湯をしたときはまどから入る明かりと色がマッチしてとても幻想的な空間を作り上げていた。ここはすばらしい。時間さえあればずっと浸かり続けたいそんなお湯だ。

 朝一番で婦人風呂のほうも貸切で利用した。こちらは小さい浴槽に体を沈めた瞬間に起きる大洪水がすごい。大浴場よりも温めのお湯が注がれる木の浴槽もまた心地よさをアップさせる。大浴場も婦人風呂もどちらも本当にすばらしいと感じた。

 朝食もおいしくいただき,ごはんを4杯おかわりしてしまった。これだけ満喫して4200円は破格だと思います。帰り際,玄関上の梁にツバメが巣作りを始めていた。女将曰く,この巣作りをじっと見守っているのもまた楽しいのだとか。ここは本当にのんびりした良いお宿でした。
http://todik.goemonburo.com/g-yujuku-seihoukan.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/279.html#c2

[近代史3] つげ義春『ゲンセンカン主人』のモデルになった群馬県湯宿温泉は良い所が一つも無いダメ温泉 中川隆
3. 中川隆[-11725] koaQ7Jey 2019年3月04日 00:37:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[259]

湯宿温泉 共同浴場巡り その1(窪湯・小滝の湯) - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/98ebbd1a48ef3acd618f2f3302a15b5b

湯宿温泉 共同浴場巡り その2(竹の湯・松の湯) - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/529dbb94c94ffcc66751f2bc5ed2fcb6

湯宿温泉 湯本館 - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/c5ff8494dc0ac5d7e2161884d0239225

湯宿温泉 金田屋旅館 - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/2028345626a6948125de8e3a29fc73ff

湯宿温泉 大滝屋旅館 - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/36f23ba818559563d0f7ce217ded0faf

群馬県の温泉記事の目次 - 温泉逍遥
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/15a1737096c0ab7c6c9da4108e80546e

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/279.html#c3

[近代史3] つげ義春『ゲンセンカン主人』のモデルになった群馬県湯宿温泉は良い所が一つも無いダメ温泉 中川隆
4. 中川隆[-11724] koaQ7Jey 2019年3月04日 00:38:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[260]

温泉チャンピオン 郡司勇の温泉サイト » 猿ヶ京温泉と湯宿温泉  2010/05/13
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猿ヶ京温泉と湯宿温泉


1猿ヶ京温泉  湖城閣  温泉地再訪  75 

 独自源泉掛け流し 庭の露天風呂は釜風呂、木の刳り貫き風呂など
 多彩 

http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=1108
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http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=1110


翌日の朝は雪で、法師の湯小屋の屋根は白く雪が積もっていた。山を下り猿ヶ京の温泉に着くと雪はなく、曇天の空になっていた。

猿ヶ京温泉も訪問は久しぶりで湖城閣は多種の浴槽がある露天風呂で独自源泉の宿である。

鉄筋の3階建ての古い宿である。毎分652リットルも湧出し、掛け流しで利用されている。

62.8度の石膏食塩泉(NaCa−Cl・SO4)で総計1710mgのものである。
しかししっかりとした薬味と湯の香があり存在感はある。

混浴の露天風呂には大きな樽風呂があり、ほかにも鉄釜風呂が2つと木の刳り貫き風呂が2つと庭園石組露天風呂がある。透明、弱塩石膏苦味、微湯の香と記録した。

2 湯宿温泉  小滝湯共同湯  温泉地再訪 75

鄙びた風情が良い  松の湯 竹の湯 窪湯とも施錠 

国道17号線沿いの湯宿温泉は小さな温泉街で宿の数は5軒ほどであるが、共同湯が4ヶ所あり充実している。

まずモルタル造トタン屋根の鄙びた松の湯共同湯に行くが施錠されていた。
ここが一番地元に密着した共同湯であろう。

次に板の壁と白い破風に瓦屋根の立派な竹の湯も施錠であった、

3つ目のこの湯宿で大湯とも言える窪湯は白壁の造りで瓦屋根の立派な木造であるが、ここも施錠で午前中に空いている共同湯は無いのかなあ?と思い隣の小滝湯共同湯に行くと開いていた。

http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=1116
http://www.gunjion1000.com/?attachment_id=1117


小さな木造の湯小屋で、天井の高い風情のある造りである。

小さなタイル張り浴槽1つのみに湯が掛け流しになっていた。入浴にはかなり熱く少々加水した。

芒硝泉ということだけ分かるが分析表の掲示がなかった。
透明、少苦味、無臭と観察した。熱めの湯が掛け流しで良い共同湯であった。
http://www.gunjion1000.com/?p=1107

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[近代史3] 『ゲンセンカン』の風呂場として描写された日本最高の名湯 今神温泉は野湯になっていた 中川隆
1. 中川隆[-11723] koaQ7Jey 2019年3月04日 09:24:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[261]

2007年・6月に館主の 田中勇行さんの特別の計らいで、現在は営業休止中の「今神温泉」にご案内戴いた。

戸沢村から車で山道を30分程かけて、たどり着いた温泉は、毎分120リットルの重曹が主の不思議な温泉だった。

館長と戸沢村の渡部秀勝村長らもご同行戴き、裏山のブナ林、御池なども散策、貴重な一日となった。帰り道で、田中館長の家で営業していたころの湯治療養中の客で満員のビデオを拝見させてもらったが、

湯治客は全員白装束で念仏を唱えながら4〜5時間温泉浴していたとの事。難病に良いとされ全国から湯治に来ていたと聞いた。

湯の温度は36度とぬるめで飲用としても利用されている。お湯は今も豊富でもったいないながら、営業開始は来年雪解け後も未定と話していた。
http://www.sakuranbo.co.jp/oyaji/2007/12/post.html


今、ここはオーナーさんが閉めているみたいですよ。
勝手に水を持って行く人がいるみたいなので・・・。

私は20年前位に、ここの温泉に入った事あります。
裸では、入れません。
白い服かTシャツ着て入る感じ・・・。

混浴なので・・・。ほとんどの人が病気を患っている人・・・。
私の母は卵巣がんでしたが、ここの水を飲んでから
術後の経過がよくなりました。

少し、怖いですが・・・。
確かに、交通事故に遭い手や足をケガした人とか
末期がんの人とか、最後にここを訪れる人が
頼ってきているので・・・。
慣れるまでは少し大変ですが・・・。

今は、温泉やっていないので残念!!
水のみの販売です。

だから、立ち入り禁止の看板をたてているのです。
私は、ツワモノでは、ないので
あしからず・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/hitou10rider/47420395.html


▲△▽▼


不治の病に効くと言われる山形の今神温泉の水・・・。

私の家族は父が初めて癌になった訳では、ありません。
実は、私の母も卵巣がんで私が中学3年生の時に手術を受けました。
今は私も40歳です。25年前ですか・・・。
長いこと入院し、私が高校2年生の夏に退院してきました。
約2年半の入院生活でしたが今は、とても元気になりました。
私の母は、この水の、おかげだと言っています。
山形県の最上川上流にある今神温泉「いまがみおんせん」の水を
飲んで体調がよくなりました。


父にも、飲ませようと買ったのですが、
父は、どうも、この水が美味しくなくて飲みません。
微弱炭酸水っぽい感じですが・・・・。
いろんな方が来られて治療しています。

残念な事に、ここのオーナーさんが今は、温泉宿を
閉めているので、水のみの販売ですが・・・。

本当は、温泉に入り、湯治するのが一番効果があるのですが・・・。

昔は、私も母と、よく来ました。
私は最上川沿いにある、そば屋に行って、美味しいそばと
天然あゆの塩焼きを食べるのが楽しみで行ってましたが・・・。
父と一緒に行ったのが懐かしいです。
父も、まさか自分が癌になるとは思ってもみなかったはずです。
やはり一番の原因は、タバコですね・・・。

今神温泉の水、ぜひ、お試し下さい。
宅急便での発送もしております。
詳しくは、こちら!!

今神温泉   0233-73-2311
http://poohsan888.da-te.jp/e49417.html


▲△▽▼

今神温泉の温泉水入り入浴体験サービス


古くから効能の高さで評判だった今神温泉。

現在は廃業し一般客は利用することができません。

しかし、地域の 縁者にはその霊泉を使うことが特別に許されており、地区の農家民宿の特設湯船に温泉水を運搬しお湯に混ぜて入浴しこの効能を体験できるサービスです。


実施場所: 戸沢村角川地区・提携農家民宿

対象客層: 個人/家族づれ/温泉マニア/グループ旅行

実施主体: 地元・地域づくり団体

実施時期: 5 月末〜10 月末

催行時間: 随時

催行人員: 1 名〜5 名

費用概算: 5 名分まで¥8,000〜

積算根拠: 仮設浴槽(特設湯船)設置費用:¥4,000+霊泉・燃料他¥4,000

備 考:
今神温泉は、含食塩芒硝重曹泉、泉温 36℃。胃腸病、リウマチ、皮膚病、糖尿病、神経痛などと共に、医学に見放された患者の為の温泉とも言われ、多くの難病を治して来ました。

宿泊は、農家民宿(ひとり 1 泊 6000 円〜)を斡旋します。
http://www.mogami-genki.net/kankou/tozawa/%E4%BB%8A%E7%A5%9E%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%81%AE%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%B0%B4%E5%85%A5%E3%82%8A%E5%85%A5%E6%B5%B4%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9.html

今神温泉と御池と巨木でパワースポット散策案内サービス


戸沢村角川地区は、かつて出羽三山の月山に登拝する登山道のひとつ「角川口」だったといわれ、その入り口の今熊野神社で道中の無事を祈願し、今神温泉に向かい読経をしつつ湯垢離をして精進潔斎し、御池、今熊山、高倉山を巡って月山に到ったといわれております。

今神温泉は現在は廃業し普段は入ることができませんが、地元の縁者のみが訪れることを許されています。

この今神温泉で浴舎跡と湯船に落ちる源泉を見学し、龍神が住むと伝えられる御池、樹齢 1200 年を超える長倉の大杉を巡るパワースポット三昧の散策を案内するサービスです。


実施場所: 戸沢村角川/今神温泉

対象客層: 個人/家族づれ/グループ旅行

実施主体: 戸沢村内農家民宿/地元・地域づくり団体

実施時期: 5 月末〜10 月末

催行時間: 10:00〜14:00 (所要時間 4 時間)

催行人員: 1 名〜5 名

費用概算: 2 名分¥6,000〜 ガイド料、昼食を含みます。

積算根拠: ガイド料¥4,000(交通費含む)+昼食代ひとり¥1,000

備 考:
ハンセン病、ガンなど医学的治療が困難な患者の為の温泉とも言われ、かつてはその効能は霊験と共に多くの病を治し、山奥に在りながら多くの湯治客がいました。
http://www.mogami-genki.net/kankou/tozawa/%e4%bb%8a%e7%a5%9e%e6%b8%a9%e6%b3%89%e3%81%a8%e5%be%a1%e6%b1%a0%e3%81%a8%e5%b7%a8%e6%9c%a8%e3%81%a7%e3%83%91%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%9d%e3%83%83%e3%83%88%e6%95%a3%e7%ad%96%e6%a1%88%e5%86%85.html

お問い合わせ窓口 山形県最上地域の観光(新)サービス
http://www.mogami-genki.net/kankou/inquery

今神温泉と御池でパワースポット三昧 体験報告
http://www.mogami-genki.net/kankou/monitor_tour


戸沢村・農家民宿に泊まって、今神温泉の霊泉でお風呂、そして…畑で芋煮
戸沢村 2014/11/15(土)〜16(日)

参加者:女性 2 名/男性 2 名=4人+幼児2名 仙台市1名/石巻市1名(幼児2名)/大崎市1名/戸沢村1名

◎参加されたきっかけ/動機 1.知人、友人からの紹介で。 2.主催者からの案内、戸沢村に興味をもった。 3.地元の可能性を再発見する為。


◎開始時間・土曜の 14:00〜は早い?遅い?それとも … ?

○企画者として、宿の通常のチェックイン時間(15:00)と、企画のボリューム(所要時間等)を勘案して 14:00 と設定。

当日の開始時間は定刻どおりでしたが、小雨の為各所で思ったより時間が掛る場面も有りました。


・妥当と思う/ちょうどいい時間帯だと思う。季節に応じて開始時間をくり上げてもいいかもしれない。

※アンケートには、以上の様な回答が有り、企画の内容と宿などの受け入れ態勢に応じて、もう少し早い時間からの開催を検討することも必要と判断します。

◎宿からの移動は …

○宿からの一台の自動車に相乗りして、今神温泉まで 30 分。細い山道なので遠く感じたかも知れません。

・自動車で便利。今神温泉は思ったより遠い。

・自動車での移動時間は長いと思わなかったが、自分が車で酔うタイプだったので、山道はしんどかったです。

※このような回答を得、車に酔うタイプの方には予め“酔い止め”などの薬の服用を促した方がよいと思います。

@ 今神温泉と御池でパワースポット三昧

サービス候補としてまとめられている企画は、

三つのパワースポット → 今神温泉敷地内の“今神石”=身体健康“御池”=心願成就“長倉の大杉”=縁結び を回ると云うもの。

降雪に見舞われた為、御池には行けません


でしたが、地元の許可を頂き長倉の大杉では隣接する熊野神社の社の中で参拝することが出来ました。各パワーポットでは灯明を燈し、霊験とご利益を演出しました。これは効果がありましたが、風の為に火がすぐ消えてしまうので、今後これを行う場合は(紙コップやペットボトルによる除風など)相応の準備が必要と思われます。

・雪が降って寒かったが、神秘的でよかった

・天候が悪かったため(御池)体験できなかったが、行けたらきっと良かったと思う

・予想以上の巨木に驚く

・巨木を見上げて圧巻

・お社に入れたのが良かった


■サービス提供者

現地までのアクセス:農家民宿ほたる

見学受け入れ:今神温泉 田中勇行 ガイド:田中満

A郷土料理の作り方指南

農家民宿で、自家製の野菜や近辺でとれたキノコなどを素材に、地元の料理法を学びながら一緒に調理をして夕食を頂く企画でした。この日は幼児の参加が有った為、急遽“お子様対応”の料理になり、郷土食が多少薄れてしまいましたが、野菜を畑から直接台所に運んで調理する体験は、食育としても有効的と感じました。


主なメニュー:もってのほか酢漬け/なめこおろし/キノコと野菜のてんぷら/地元野菜の煮物/角川蕪の漬物

参加者の声

・地域の料理を教えてもらいながら作れて楽しかった。とても美味しくいただきました。

・楽しく指南していただき、とてもおいしかった。 ・子ども向けの対応もあって楽しかった。


■サービス提供者 料理指南:農家民宿ほたる ガイド:田中景子


B幻の霊泉入りお風呂を愉しむ

かつては万病に効くとの評判で、全国的に名が知られた今神温泉。現在は廃業していますが、念仏温泉と云われ、パワースポット的意味合いを持つこの源泉を直接汲んで浴用とし、その効能と霊験を味わう企画です。

宿泊した農家民宿と温泉の持ち主が姻戚関係に有っことから可能となった企画ですが、今後の相互の協力関係や連携に関しては様々な課題が残ります。

また、この温泉の効能や神秘性については大変魅力を有するものの、アクセスや持ち主との各種交渉を鑑みると、広く一般に呼び掛ける企画としては、多くの調整が必要と判断します。


参加者の声

・ゆったりといつもの風呂より長めに入浴してあたたまりました。 ・(効能は)よくわからないけど面白い


■サービス提供者
霊泉の販売:今神温泉 田中勇行
入浴場所:農家民宿ほたる ガイド:田中満

C芋掘りをして畑で芋煮

獲り立ての里芋を取ったその畑で芋煮にしようと云う企画でしたが … 生憎の雨の為、里芋の収穫だけを行い、芋煮(会)は農家民宿内で行いました。雨は小雨だったので、簡易テントを張っての野外敢行も考えましたが、畑近辺の地盤がぬかるむことと、催行後の風邪などの心配を考慮しました。里芋の収穫が初めての参加者も居り、また畑で獲ったものを調理して食する、川の水で野菜を洗うなどの体験が、食育をコンセプトとした観光サービスメニューとして模索できると考えます。


参加者の声

・雪の為、芋掘りだけした。テントを張るとの話もでたが、お宿での食事で正解と思う。

・はじめての経験で楽しかった。

・場所がいい

・(雨の為)ほりだけだったがとても楽しく、芋煮がおいしかった。


■サービス提供者 畑と里芋収穫/芋煮(会)昼食:農家民宿ほたる ガイド:田中満/田中景子


◎印象に残ったこと、気になること …

・雪どけ後の今神付近は、滝が多く素晴らしい所だと思う。 ・参加者と宿の人が仲間の関係で交流が深まった。

・食事をしながらその家の方と会話もできてよかった。 ・子どもへの気配りもあって嬉しかったです。

◎参加料金や宿に関して …

・とてもくつろげました。
・とても Good です。
・適当 ・リーズナブル

◎スタッフやガイドに関してお気付きの点が有ればお教え下さい。

・これから(企画内容や協力者との関係を)練っていくことになると思う。

・スポットごとに、そこのなりたちや話を聞けてためになった。
・(協力者との)情報の一本化。連携を確りと。

◎ツアーそのものへの感想をお聞かせ下さい。

・志を感じました。 ・知らなかった事も知れ社会勉強にもなった。

・とってもたのしかったです。時期が紅葉の季節とかさなっていたらよかったな〜と思いました。

・協力者間の意思疎通が大切だと思います。


■経費関係 …

参加料:\8,000

霊泉販売今神温泉[田中勇行]…20ℓ \2,600=@520

宿泊[民宿ほたる]一泊二食付 … @\5,500

畑で芋煮(土産付) … @1,000

ガイド料 … [田中満] 全行程一括して … @980×5=\4.900

まとめ

天候が雨と雪になった為、野外での体験を中心にしていた企画としては難しいことが多い催行になりました。

移動に関しては人数的にも一台の自動車に同乗できたので、車内での解説も体験先の故事来歴なども質疑応答も含めて丁寧に行えました。野外での体験を断念した場合の代替案も予め用意して居たので、参加者の満足度を損なうことなく企画が遂行できたと思います。

課題としては、協力してくれる地域の方との意思疎通に不備が有り、予想外の展開(施錠が外されていなかったり、調理素材が届かなかったり)が有りました。今後、広く一般に体験企画として提供して行くには、更に課題を抽出し策を講じて行く必要を確認しました。
 

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/280.html#c1

[近代史3] 『ゲンセンカン』の風呂場として描写された日本最高の名湯 今神温泉は野湯になっていた 中川隆
2. 中川隆[-11722] koaQ7Jey 2019年3月04日 09:25:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[262]

72 : ちょろ : 02/03/14 10:57 ID:QGEzpTpD [1回発言]

つげの行ったとこ 僕も行って見ました。
オンドル小屋(蒸けの湯)漫画に出てる小屋 行ったこと有る。あの絵とおんなじだった。

深浦 下北

今神温泉は結界が張ってあって入れなかったけど もともとレプラの湯治湯だよ。

今でも看板などないから 車で行くとルートを見失う。最後の1本道にでると両側が切りとおしになったようなゲートみたいになったところを通ります

そこを入ると 湯治の予約客以外は帰れという看板が2箇所
最後には強行突破するなら訴訟すると書いてある。

あきらめて 切りとおしゲートのところに戻ると入ったときにはきずかなかったけど そこはお墓だった

湯治にきて帰れなかった人たちの お墓だと 思う。

http://logsoku.com/thread/ton.2ch.net/travel/1003246766/


48 :名無しさん@いい湯だな:2010/10/02(土) 11:40:53
ID:T0j0I9NMO

今神温泉は昔、病気になった人を荷台?に病人を寝かせムシロをかけヒモで巻いて今神温泉に連れていかれたんだって。地元のお年寄りが言っていたそうです。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1284288762/


90 :本当にあった怖い名無し:04/11/09 14:57:43 ID:vlOE5zfi

今神温泉の近くの沼って昔雨乞いの沼ていうけど詳細な情報知ってる方いる?


93 :本当にあった怖い名無し:04/11/10 07:53:20 ID:YqDJDRCo
>>90
今神温泉近くの沼って、御池のこと?
そこの話だったら聞いたことある。
かなり恐い歴史があるようです。
そもそも今神温泉じたいが特殊な場所ですから・・・


95 :本当にあった怖い名無し:04/11/10 09:07:32 ID:hhC9dJEe
>>93
詳しく知りたい。教えてください。おいけって竜神が祭られてますか?
山形の伝説関係の本で、今神温泉の事のってますな。
仏様(薬師如来?)祭ってるんだよね(ウロ覚え)
カセ鳥見たい。気さくで感じ良いお祭りぽい


97 :本当にあった怖い名無し:04/11/10 16:57:41 ID:cZVPSwwD

今神温泉自体が、マニアな人しか行かないからな。
俺は酷道好きだから行くけど、崩れかけの林道(砂利)を5kmくらい走らなければならないという。

妖気は感じないが、やたら捨て猫が道端からひょっこりと出没する。
最上地方の無責任な飼い主が捨てて行っているんだろうな。
熊とかツツガムシのほうが怖いところだ。


99 :本当にあった怖い名無し:04/11/10 19:02:41 ID:18HSLJGB
>>95
あくまでも私が聞いた話です。
今神温泉は昔から難病に効くと言われており、ハンセン病の患者さん達が治療のために行ったそうです。

御池には病気を苦にして身を投げた人や、家族から投げ捨てられた人がたくさんいるそうです。

私にその話をしてくれた人は、数年前、そこで撮ったという写真を見せてもらったそうですが、集合写真のまわりにたくさんの顔がはっきり写っていたそうです。 なかでも乱れた日本髪の女性の姿が忘れられないと言っていました。

竜神は祀られているみたいです。 いつ行っても生卵が山盛り供えてあると言っていました。
http://mimizun.com/log/2ch/occult/1097303019/

象徴的に死と再生を体験して精神的に成長して貰うより、実際に死と再生を実行してくれた方が、周りの人にとっては厄介払いできて助かるのですね。 レプラや梅毒で顔が崩れた人と身近で何時も接するのは大変ですから。


旅館で出される料理は本来、白装束を着て食べる物で、街の料理屋で食べる時とは状況が全然違うのです。

昔の人も、レプラや梅毒の人を遍路や湯治に送り出す時は村人全員が金を出し合って数カ月は生きていられるだけの路銀を渡したのです。 その数カ月の内に体力が尽きて路傍で行き倒れてくれる事を祈りながら。


参考

ディープ世界とは何か _ つげ義春が見たもの
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/300.html

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/866.html#c6

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/280.html#c2

[リバイバル3] 中川隆 _ 温泉関係投稿リンク 中川隆
62. 2019年3月04日 09:30:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[263]
『ゲンセンカン』の風呂場として描写された日本最高の名湯 今神温泉は野湯になっていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/280.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/453.html#c62
[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
137. 2019年3月04日 10:13:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[264]
NHKドラマ 紅い花 (1976年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/281.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c137
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
153. 中川隆[-11721] koaQ7Jey 2019年3月04日 10:19:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[265]
2019.03.04
非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/


 朝鮮側から流れている情報によると、金正恩労働党委員長はドナルド・トランプ米大統領との朝鮮半島の非核化を目的とした交渉に興味を失った可能性があるという。

 アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。朝鮮が交渉を続けるとしたなら、それは交渉自体に意味がある場合だけだろう。

 本ブログでは繰り返し書いているように、アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。

 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。

 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。

 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。

 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。

 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。

 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。

 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。

 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。

 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。

 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/



非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 アングロ・サクソンの長期戦略は1991年12月にソ連が消滅したことで目的をほぼ達成したように見えた。アメリカの支配層だけでなく、少なからぬ人がアメリカは唯一の超大国になったと信じる。そして1992年2月に作成されたのが潜在的なライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー源を支配する戦略。国防総省のDPG草案という形で1992年2月に作成された。

 その当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官がディック・チェイニー、国防次官がポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。

 当然のことながら、アメリカの支配層は属国である日本もこのドクトリンにしたがって政策を変更するように求めてくるが、反応は鈍かった。

 怒ったネオコンは自分たちでプランを作成する。それが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書き上げたことからナイ・レポートとも呼ばれている。

 この文書は日本に対して国連中心主義を放棄し、アメリカの単独行動を容認するように求めている。この年に日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたのだ。1995年は日本にとって節目となる年だ。

 その直前、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、ナイ・レポートが発表された翌月の95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その月の30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負っている。

 8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載されたことも無視できない。墜落当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。

 アンドヌッチらは上官から口外しないように命令され、10年の間沈黙を守っていたのだが、このタイミングで公表した。この新聞はアメリカ軍の準機関紙であり、アメリカ軍上層部が証言とその証言の掲載を許可、あるいは命令したのだろう。

 1995年に日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。沖縄県の普天間基地の返還合意が発表されたのはその翌年の4月。1995年に引き起こされたアメリカ兵による少女暴行事件が理由だとされているが、似たような事件は繰り返されてきたわけで、これは表面的な理由だろう。

 21世紀に入ってロシアはウラジミル・プーチンらによって再独立に成功、ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提は崩れたのだが、このドクトリンも放棄されていない。ドクトリンを軌道に戻すため、アメリカの支配層はロシアや中国に対する攻撃を強めるつもりだろう。

 昨年(2018年)5月に米太平洋軍は米インド・太平洋軍へ名称が変更になった。担当海域が大幅に拡大したわけだ。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。

 中国は一帯一路と呼ばれる政策を推進、ユーラシア大陸の東と西を結びつけようとしているが、これを寸断するためにアメリカはジハード傭兵などを投入して戦争の種を要所要所にまいている。

 南シナ海や東シナ海を中国の船が自由に航行することをアメリカは阻止するつもりだろう。朝鮮半島が鉄道、道路、パイプラインが結びつけられることもアメリカ支配層は受け入れられない。彼らが認める朝鮮半島の統一とは、そこが自分たちの支配地域になる場合だけだろう。朝鮮側がアメリカへ全面降伏する意思がない以上、トランプ大統領と金正恩委員長の交渉が行き詰まるのは必然だったと言える。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c153

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
44. 中川隆[-11720] koaQ7Jey 2019年3月04日 10:22:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[266]

アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。


アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。


 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。


 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。


 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。


 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。


 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。


 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。


 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。


 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。


 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c44

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
24. 中川隆[-11719] koaQ7Jey 2019年3月04日 10:44:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[267]
2019.03.04
非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/


 朝鮮側から流れている情報によると、金正恩労働党委員長はドナルド・トランプ米大統領との朝鮮半島の非核化を目的とした交渉に興味を失った可能性があるという。


 アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。朝鮮が交渉を続けるとしたなら、それは交渉自体に意味がある場合だけだろう。


 本ブログでは繰り返し書いているように、アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。


 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。


 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。


 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。


 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。


 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。


 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。


 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。


 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。


 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 アングロ・サクソンの長期戦略は1991年12月にソ連が消滅したことで目的をほぼ達成したように見えた。アメリカの支配層だけでなく、少なからぬ人がアメリカは唯一の超大国になったと信じる。そして1992年2月に作成されたのが潜在的なライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー源を支配する戦略。国防総省のDPG草案という形で1992年2月に作成された。


 その当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官がディック・チェイニー、国防次官がポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 当然のことながら、アメリカの支配層は属国である日本もこのドクトリンにしたがって政策を変更するように求めてくるが、反応は鈍かった。


 怒ったネオコンは自分たちでプランを作成する。それが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書き上げたことからナイ・レポートとも呼ばれている。


 この文書は日本に対して国連中心主義を放棄し、アメリカの単独行動を容認するように求めている。この年に日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたのだ。1995年は日本にとって節目となる年だ。


 その直前、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、ナイ・レポートが発表された翌月の95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その月の30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負っている。


 8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載されたことも無視できない。墜落当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。


 アンドヌッチらは上官から口外しないように命令され、10年の間沈黙を守っていたのだが、このタイミングで公表した。この新聞はアメリカ軍の準機関紙であり、アメリカ軍上層部が証言とその証言の掲載を許可、あるいは命令したのだろう。


 1995年に日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。沖縄県の普天間基地の返還合意が発表されたのはその翌年の4月。1995年に引き起こされたアメリカ兵による少女暴行事件が理由だとされているが、似たような事件は繰り返されてきたわけで、これは表面的な理由だろう。


 21世紀に入ってロシアはウラジミル・プーチンらによって再独立に成功、ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提は崩れたのだが、このドクトリンも放棄されていない。ドクトリンを軌道に戻すため、アメリカの支配層はロシアや中国に対する攻撃を強めるつもりだろう。


 昨年(2018年)5月に米太平洋軍は米インド・太平洋軍へ名称が変更になった。担当海域が大幅に拡大したわけだ。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 中国は一帯一路と呼ばれる政策を推進、ユーラシア大陸の東と西を結びつけようとしているが、これを寸断するためにアメリカはジハード傭兵などを投入して戦争の種を要所要所にまいている。


 南シナ海や東シナ海を中国の船が自由に航行することをアメリカは阻止するつもりだろう。朝鮮半島が鉄道、道路、パイプラインが結びつけられることもアメリカ支配層は受け入れられない。彼らが認める朝鮮半島の統一とは、そこが自分たちの支配地域になる場合だけだろう。朝鮮側がアメリカへ全面降伏する意思がない以上、トランプ大統領と金正恩委員長の交渉が行き詰まるのは必然だったと言える。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c24

[近代史3] 日銀副総裁を止めてやっと真実を言える様になった岩田規久男 中川隆
1. 中川隆[-11718] koaQ7Jey 2019年3月04日 12:33:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[268]

2019年3月4日 【三橋貴明】二人の教授


【今週のNewsピックアップ】

岩田規久男元・日銀副総裁の「正しい転向」
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12441454932.html

増税サポーター 浜田宏一
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12442857858.html

元々は同じ「考え方」を
持っていた学者二名が、
同時に政府の関係者となる。

両者の「考え方」に基づく政策を
実行に移したが、結果は惨敗。
その後、両名はどうしたのか、。

一人目は、自分の「考え方」を改め、
より正解に近い、国民が豊かになる政策の提言を始める。

もう一人は、「Aになれば、Bである」と
言っていたにも関わらず、

「実はAなんてどうでもいいんだよ。
むしろ、Aではない方がいい。
安倍政権の経済政策は大成功!」
などと言いだす。

ならば、最初から
「Aはどうでもい」という主張をするべきでしょう。

「Aになれば」と主張していた
過去の自分の発言は、
忘却の彼方なのでしょうか。

言うまでもありませんが、
Aとは「物価上昇」です。

さらには、一人目が岩田規久男教授、
二人目が浜田宏一教授。

「日本銀行がインフレ目標を設定し、
量的緩和をコミットメントすれば、
物価が上昇し、デフレ脱却できる」

と、いわゆるリフレ派理論を提唱し、
それぞれ日本銀行副総裁、
内閣官房参与として政府に入ったお二人ですが、
政府の緊縮財政の前に敗北。

日銀副総裁の職を去った岩田教授は、
「財政と金融が一致協力して、
お金を民間に流すことを真剣に考えるべき」

と、正しいデフレ対策を主張し始めました。

財政とは「国債発行と財政拡大」を
意味するのでしょうが、

● (金融)日本銀行が国債を買い取っても、
銀行の当座預金残高が増えるだけで、
支出(モノ、サービスの購入)とは直接結びつかない

● (財政)政府の国債発行と支出は、
「政府小切手」というおカネで
モノやサービスの購入が行われ、
確実に支出になり、誰か(国民)の所得が生まれる
のでございます。

岩田教授式に言えば、
財政支出により初めて
「民間におカネが流れる」わけでございますよ。

必然、金融政策で国債金利を抑制しつつ、
政府が国債を発行。

支出、所得を拡大する財政政策こそが
「正解」であることになります。

正しい政策に転じた岩田教授と比べ、
「国民生活にとって望ましいのは、
物価が上がることではない。

同じ経済状態であれば、
物価が下がった方が国民生活のためには良い」

と、自らの「リフレ派理論」を
すっかり忘れ去ってしまい、
消費税増税まで推奨する浜田教授。

つまりは、緊縮財政を推進する増税サポーター。

同じ持論撤回(あるいは「転換」)でも、
岩田教授は「国民のための自説転換」であり、

浜田教授の場合は
「自己防衛のための支離滅裂」なのでございます。

どちらが学者としての「良心」があるのか、
別に説明は要らないでしょう。

それにしても、
「物価は下がった方が良い」

「(消費税増税について)一度は良いかもしれない」
(←14年に「一度」上げたでしょ、お爺ちゃん・・・)

などと言いだす人物を
政権のブレーンにしている安倍政権・・・。

昨日と同じ締めになり恐縮ですが、
経済について完璧に理解した政党や政治家が望まれます。
https://38news.jp/economy/13264
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/258.html#c1

[リバイバル3] 箱根の日帰り温泉 _ 箱根湯本温泉 大和館(大和旅館) 中川隆
17. 中川隆[-11717] koaQ7Jey 2019年3月04日 12:43:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[269]

熊谷温泉・東日本の温泉掲示板
http://www.kumagary.com/cgi-bin/sr2_bbs1/sr2_bbs.cgi


箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:49:17 No.5602 New!


家から近くて行き易いのですが、値段が高い所が多く、はしご湯するには向きません。


Re:箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:50:17 No.5603 New!

箱根温泉山荘 なかむら
南甫園が休館になっており、代わりに選らびました、大涌谷造成掛け流しです。
大涌谷造成泉は強羅系でも仙石原系でももっと白く濁っているのですが、ここはあまり濁っていません。
山腹に静かな佇まいで保養所転用かと思いましたが、もとから旅館だそうです。
露天が有りませんが、広い窓の外は竹林で嫌味を感じさせない風情があります。


Re:箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:51:26 No.5604 New!

芦之湯温泉 きのくにや旅館
ここに来ると道路の向かいがいつも気になります。今回しつこく聞いてみました。
昔は建物がそこにあったそうで、今もそこに沸いている温泉を引いているのだそうです。
内湯は硫黄泉の循環、露天は重曹泉の循環、硫黄の加熱泉が少量注がれている壺風呂があります。
壺風呂は少量しか投入されていない為、この時期温すぎますが、注いでいる源泉は素晴らしいです。
現在新しい源泉で、新しい浴室を建設中、間もなく出来上がるので、また行ってみたいと思います。


Re:箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:52:31 No.5605 New!

強羅 金嶺荘
奥まったところにあります。お尋ねしたら快く日帰りさせて貰え感謝です。
鄙びているので入浴代も500円ですが、お湯は大涌谷造成をしっかり掛け流しにしています。
丁度お湯が溜まった所でタイミングが良かった。
ノーデータの飛び込みで良いものに出会えると、ほんと嬉しいですねぇ。


Re:箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:53:28 No.5606 New!

箱根湯本 弥坂湯
風呂から出る時にお湯で洗い流しているのですが、なかなか硫黄の臭いが取れないのでここで〆です。
まあ気休めです、ちょっと浸かったくらいじゃ臭いは落ちません。
最近はこういうアル単がぞっこん好きになってしまいました。塩素臭くも無く、温めで気持ちが良かったです。


Re:箱根の湯めぐり 2019/03/03/17:54:24 No.5607 New!

犬も歩けば風呂に当たる
歩いていて偶然に見つけた、個人所有の温泉です。大涌谷造成泉を贅沢に掛け流しています、羨ましい限り。




箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:06:45 No.5591


企画ネタ湯めぐり、1泊2日箱根一の湯コンプです。泊りは飲み放題。他に探索成果発表。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:07:54 No.5592

一の湯@、塔の沢本館
一の湯はグループのどこかに泊まれば全部無料で入れます。日帰りでも1か所払えば他に4ヶ所レシート提示で入れます。
但し貸切風呂は泊った宿だけです。循環が多いのが残念な所、数優先の私は問題無し。
大正時代の貸切風呂の風情がとても良いです。これが今回の目的です。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:08:55 No.5593

一の湯A、塔の沢キャトルセゾン・新館
塔の沢温泉は芒硝成分が多い高温のアル単です。どちらのお湯も循環で消毒臭があります。新館の客室風呂は掛け流しとのこと。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:09:47 No.5594

一の湯B、仙石原ススキの原・品の木
両方とも内湯は大平台から運び湯、露天は大涌谷造成泉の循環。施設は新しく良い雰囲気、硫黄泉もあるし、マニアでなければ気に入るのでは。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:10:48 No.5595

一の湯C、仙石高原大箱根、芦ノ湖
大箱根の内湯は仙石原高原開発泉(新姥子)茶色っぽい単純泉の循環、消毒臭はせず源泉の雰囲気は残っています。貸切風呂は掛け流しらしい。
芦ノ湖は姥子温泉(山越)重曹石膏泉掛け流し、箱根は地名と源泉名が合致しないことが多く、頭が混乱してしまいます。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:11:45 No.5596

基本日帰り営業の無い所@、宮ノ下温泉 民宿好楽荘本館
翌日出直してお湯張りしてもらいました。塩化物泉を加水せず投入で湯温調節しているので結構熱い。
浸かった印象では塩化物泉というよりは芒硝泉のように感じました。
1日1組限定のお宿だそうです。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:13:03 No.5597

基本日帰り営業の無い所A、強羅 金時荘
外観写真撮り忘れました。京成電鉄健保と契約している民宿です。
ひねくれものの私は皆さん訪問する山田家には行かず、隣のここで入浴依頼しました。
大涌谷造成(強羅方面)掛け流しです、体も服もすっかり硫黄臭くなってしまいました。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/08/18:13:53 No.5598

穴場の日帰り出来るお宿、DNP創発の杜 芦ノ湖山荘
そもそもHPが無いんです。企業の保養所が密集する分譲地にあり、こんなところで日帰り出来る施設があるとは。
ここも大日本印刷保養所ですが一般宿泊歓迎です。
前は大涌谷造成でしたが、噴火騒ぎで供給不具合、日帰り休止、新しく自家泉掘って日帰り再開。
これが箱根ではめずらしい重曹成分のある鶯濁り金気味臭の石膏泉を掛け流しています。
いやほんと那須塩原の温泉みたいだ。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/14/20:12:04 No.5599

8代熊者

Yさんレポートありがとうございます。
強羅 金時荘・芦ノ湖山荘辺りはよさげな感じですね。
そういえば最近体にべったり硫黄臭付く所入ってないなぁ。
Yさんが箱根って、かなり近場攻めてる感じがします。(笑)


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/14/22:10:31 No.5600

熊谷温泉

Yさん、「一の湯」完全湯破ご苦労様です。

老舗なのでもっと湯使いが良いのかな?と思っていましたが残念な結果でしたね。お陰様で私が行くことはなくなったようです。外観は良さげに見えたので・・・。


Re:箱根の湯めぐり 2019/02/15/07:58:59 No.5601





http://www.kumagary.com/cgi-bin/sr2_bbs1/sr2_bbs.cgi
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/295.html#c17

[近代史02] タイは天国に二番目に近い国 3 _ 鴨ネギにされる日本人 中川隆
64. 中川隆[-11716] koaQ7Jey 2019年3月04日 13:05:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[270]

◆タイは日本の28倍もレイプ事件が起きて、凶悪事件もすぐに忘れられる2019.03.04


タイは「微笑みの国」ではあるが、裏に回れば殺人もレイプも非常に多い国である。日本では考えられないほど、安易に人が殺されている。

学生もライバル校の生徒と互いに刺し合って殺し合いをしているし、浮気や痴話喧嘩での殺し合いも尽きない。

警察官による汚職や殺人も日常茶飯事だし、権力者が関わる殺人は無罪になるようなことも平然と起きる。観光地で白人(ファラン)の女性がレイプされる事件が起きても、事件を明らかにすると観光客が減るという判断が為されると捜査もされずに隠蔽してしまう。

これでも現在のタイはかつてに比べると警察もしっかり機能するようになっているのだが、それでも日本の警察機構から見ると、かなりアバウトな点があるのは否めない。

隣国のカンボジアやラオスやミャンマーに比べると、タイはかなり機能しているはずだ。しかし、統計を見ると決して治安が良い国であるとは言い難い。

レイプ殺人が起きたら日本では大騒ぎだが、そうした重大事件であってもタイでは適当に受け流して犯人も逮捕されないようなこともしばしばだ。また、そうした犯罪は今でもアンダーグラウンドでは延々と続いている。
https://blackasia.net/?p=11841
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/379.html#c64

[近代史3] 明治の人々が大嫌いだった明治政府。以来、150年も日本を占拠してきた長州レジーム(chihointokyoの毒皿ブログ) こーるてん
1. 中川隆[-11715] koaQ7Jey 2019年3月04日 13:47:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[271]

天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜

天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html




▲△▽▼


2019.03.04
非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/


 朝鮮側から流れている情報によると、金正恩労働党委員長はドナルド・トランプ米大統領との朝鮮半島の非核化を目的とした交渉に興味を失った可能性があるという。


 アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。朝鮮が交渉を続けるとしたなら、それは交渉自体に意味がある場合だけだろう。


 本ブログでは繰り返し書いているように、アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。


 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。


 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。


 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。


 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。


 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。


 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。


 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。


 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。


 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 アングロ・サクソンの長期戦略は1991年12月にソ連が消滅したことで目的をほぼ達成したように見えた。アメリカの支配層だけでなく、少なからぬ人がアメリカは唯一の超大国になったと信じる。そして1992年2月に作成されたのが潜在的なライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー源を支配する戦略。国防総省のDPG草案という形で1992年2月に作成された。


 その当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官がディック・チェイニー、国防次官がポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 当然のことながら、アメリカの支配層は属国である日本もこのドクトリンにしたがって政策を変更するように求めてくるが、反応は鈍かった。


 怒ったネオコンは自分たちでプランを作成する。それが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書き上げたことからナイ・レポートとも呼ばれている。


 この文書は日本に対して国連中心主義を放棄し、アメリカの単独行動を容認するように求めている。この年に日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたのだ。1995年は日本にとって節目となる年だ。


 その直前、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、ナイ・レポートが発表された翌月の95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その月の30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負っている。


 8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載されたことも無視できない。墜落当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。


 アンドヌッチらは上官から口外しないように命令され、10年の間沈黙を守っていたのだが、このタイミングで公表した。この新聞はアメリカ軍の準機関紙であり、アメリカ軍上層部が証言とその証言の掲載を許可、あるいは命令したのだろう。


 1995年に日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。沖縄県の普天間基地の返還合意が発表されたのはその翌年の4月。1995年に引き起こされたアメリカ兵による少女暴行事件が理由だとされているが、似たような事件は繰り返されてきたわけで、これは表面的な理由だろう。


 21世紀に入ってロシアはウラジミル・プーチンらによって再独立に成功、ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提は崩れたのだが、このドクトリンも放棄されていない。ドクトリンを軌道に戻すため、アメリカの支配層はロシアや中国に対する攻撃を強めるつもりだろう。


 昨年(2018年)5月に米太平洋軍は米インド・太平洋軍へ名称が変更になった。担当海域が大幅に拡大したわけだ。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 中国は一帯一路と呼ばれる政策を推進、ユーラシア大陸の東と西を結びつけようとしているが、これを寸断するためにアメリカはジハード傭兵などを投入して戦争の種を要所要所にまいている。


 南シナ海や東シナ海を中国の船が自由に航行することをアメリカは阻止するつもりだろう。朝鮮半島が鉄道、道路、パイプラインが結びつけられることもアメリカ支配層は受け入れられない。彼らが認める朝鮮半島の統一とは、そこが自分たちの支配地域になる場合だけだろう。朝鮮側がアメリカへ全面降伏する意思がない以上、トランプ大統領と金正恩委員長の交渉が行き詰まるのは必然だったと言える。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/282.html#c1

[近代史3] 明治の人々が大嫌いだった明治政府。以来、150年も日本を占拠してきた長州レジーム(chihointokyoの毒皿ブログ) こーるてん
2. 中川隆[-11714] koaQ7Jey 2019年3月04日 13:51:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[272]

天皇一族はアメリカのスパイでアメリカに日本女性を売って稼いでいた


 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。


日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。

娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 


ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった


「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。


これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか


 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/282.html#c2

[近代史3] 明治の人々が大嫌いだった明治政府。以来、150年も日本を占拠してきた長州レジーム(chihointokyoの毒皿ブログ) こーるてん
3. 中川隆[-11713] koaQ7Jey 2019年3月04日 13:59:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[273]

福沢諭吉先生はアジア人が大嫌い


福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:


「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)


朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。


「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)


なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)


中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)


目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。


「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。


たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、


豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。

http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html


福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像


 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、


福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。


天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。


また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」


と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。


理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、


すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。


 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。

2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱


 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について


「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」


と述べ、「江華島事件」では


「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」


と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。


 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では


「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ


と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。


 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち


「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、


また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から


「法螺を福沢、嘘を諭吉」


と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉


 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが


福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』


 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち


他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、


「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」


という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。


「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、


朝鮮人は豚や犬だというのです。


「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、


中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。


中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。


このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて


「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」


と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。


 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。


「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」


と書きました。


 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」


 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、


天皇崇拝は「日本人固有の性」、


「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」


とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。

http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html



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◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).


 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

 そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

 そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

 それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.


諭吉は、天皇家の先生だった!


昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).


皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.


(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)


「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?


(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」


(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html


「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた


「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html

「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)


(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html



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英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)


「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)

「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)


「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)


「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜)


「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 


・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)

この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.


それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html

福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ〜)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html

私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 


「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)


その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.


「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 


諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.


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「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)


諭吉は、こう書いています.


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)


なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.


◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる


◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる


◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!


◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.


◆だから、国民をだまさなければならない.


◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.


◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)


◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.


◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.


◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)


これが、福沢諭吉の真実です.

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福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.


◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)


日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.

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福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.


「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています.

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」

(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)


中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.

国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.


「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ〜)


(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)

日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/

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★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。


今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。


★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は

「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」

などと、即答します。高校でそう教えているのですね。

★ その度に、繰り返して来た言葉:


 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。

でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 

福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 

それをしっかり確かめて来なさい」


★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。

どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。


「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」


★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。


★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。


★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』


★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。


◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。


◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。

◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。


と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。


★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。

★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。


★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います

http://zenmz.exblog.jp/13489906/


 


▲△▽▼


安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと


安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。


1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実


 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。


丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節


 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。


 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、


「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する


と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。


 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論


 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。

 


▲△▽▼


丸山思想の決定的欠陥 鍜治正啓


丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html



04. 2011年5月04日 01:01:38: ETU4MaSquE
朝鮮人が全部するようなことだね。天皇制を廃止して日本を破壊する工作員だな。オルタの嘘をあちこちでかきまくってるが。プロパガンダをやめろ。在日か反日日本人だろ。

05. 2011年6月03日 19:55:52: qgfXIquhZw
バビロン・システムですね。

06. 2011年6月11日 21:17:56: urw8R1reRc
近代日本、戦後日本の壮大な嘘、愚民化がどんどん明らかになってくる。
世界もそうであろうが、ネットのおかげであり
阿修羅のおかげである。
投稿者・コメント者の熱意に感謝!!




2015/5/24 晴耕雨読
「『天は人の下に人を造るー「福沢諭吉神話」を超えて』杉田聡先生インタビュー:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17437.html

https://twitter.com/iwakamiyasumi

5月23日(土)「岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー」の模様を実況します。『天は人の下に人を造る』の著者である杉田氏に、福沢諭吉の差別的・拡張主義的言説の実態についてうかがいます。

岩上「本日は『天は人の下に人を造るー「福沢諭吉神話」を超えて』の著者である帯広畜産大学教授の杉田聡先生にお話をうかがいます。私たちは、今日の政治状況を考えるうえで、福沢諭吉を批判的に考えることが重要だと考え、2回目のインタビューをお願いしました」

岩上「まず、前回の振り返りをしたいと思います。福沢の女性差別について。福沢は娼婦制度を廃止することに反対だった。そしてそのうえで、妾や芸妓を非常に差別していました。『賤しき女輩』『汚い賤業婦』『人間以外の醜物』という言い方をしています」

杉田氏「福沢は廃娼論が存在すること自体を否定します。遊郭がなければ、性犯罪や浮気が蔓延する、という理屈です。福沢が言いたいのは、『表向きは隠せ』ということ。娼婦のことを、社会の暗部に追いやろうとします。彼女らが欧米人に見られることを嫌っています」

杉田氏「福沢が言う中等社会、富豪の社会に妾は入ってくるな、ということです」

岩上「奴隷を軽蔑しつつ、奴隷制は必要だ、と言っているようなものですね」

杉田氏「その通りですね」

岩上「『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』などといった作品を残した樋口一葉は、福沢諭吉とは対照的に、『何物ぞ、はかなき階級を作りて貴賎という』という言葉を残したいます」

杉田氏「福沢のような社会的地位のある男を念頭に置いていたように思えます」

岩上「続いて、福沢による他民族差別の言説を見て行きたいと思います。清国に対して、『チャンチャン』『豚尾』『豚尾児』『豚屋』『孑孑』などと、ヘイトスピーチの限りを尽くしています」

杉田氏「当時の辮髪を差して、『豚』と呼んでいるわけですね」

杉田氏「福沢の場合、こうした言葉が、漫言だけでなく、新聞の社説や著書にも出てきます。『豚尾の兵隊』『豚尾児』『豚尾奴』『豚尾兵と名づくる一種の悪獣』といった表現が出てきます」

岩上「他にも、中国人に対するヘイトスピーチはたくさんあります。『流民乞食』『彼(=支那)の国民の骨に徹したる淫欲の余毒』『半死の病人…豚狩り』などなど」

杉田氏「福沢は他の所で『こんなこと言ってはいかん』と、なんの反省もなく自己合理化しています」

岩上「朝鮮人に対するヘイトスピーチもたくさんありますね。『儒教主義に飽満して腐敗を致したる』『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆』など」

杉田氏「朝鮮人に対しては、一貫して『腐儒』という言葉を使いますね。福沢の底流には儒教主義があるのですが」

岩上「こういう言説を見ていると、明治の時代精神とはこんなものなのか、と暗澹たる気持になります。そこで、福沢の他に、明治の言論人がどのような言説を残しているのか、見ていこうと思います。まずは、『東洋のルソー』こと中江兆民です」

杉田氏「中江兆民は、1882年の『外交を論ず』のなかで、福沢諭吉の『圧政もまた愉快なるかな』とは正反対のことを書いています. イギリス人やフランス人がインド人、トルコ人に対して無礼に振る舞っていることを批判し、『これが文明か』と問うています」

岩上「次に植木枝盛です。彼は私擬憲法『日本国国権案』を出しています」

杉田氏「敗戦時、米国は日本で芽生えた憲法案として、植木枝盛の『日本国国権案』を参照しています。これは、大日本帝国憲法と比べ、人権を重視した、素晴らしいものです」

岩上「自民党の憲法改正草案を本当に実現しようと、自民党はキャンペーンを始めました。この中で、天賦人権説を認めない、と」

杉田氏「これは、ホッブズ以前、17世紀に戻ってしまう内容のものです。ピューリタン革命以前のものです」

岩上「自民党の礒崎陽輔議員は、『立憲主義なんて聞いたこともない』とツイッターに書きました。これは知らないはずがないんです。オトボケをしているんですね。先進民主主義国の隊列から落伍してしまいます」

杉田氏「植木枝盛は、貧民差別に抗する文章を残しています。福沢が差別する人力車夫、百姓、馬子などを、『天下に至貴・至尊の神』と称えています。植木枝盛は大変頭がまわる人で、街頭で演説会をすると、1000人以上が集まるような人でした」

杉田氏「植木枝盛は、福沢諭吉的な人物に対して、『下等社会を無学だの文盲だのと難癖つけて政治社会の継子にせんとすることは、正しく上等社会と称する一部の輩をして天下国家の政権を私せしめんとするものなり』と言っています」

杉田氏「中江兆民は、妻が被差別民であったと言われています。『平民』や『新平民』という言葉を使わず、『新民』という言葉を使うべきだ、と言っています。『平民』というのは、貴族に対置される言葉なのです」

杉田氏「中江兆民は北海道に移住した際、『西海岸にての感覚』という文章を残しています。この中で、アイヌの人々に対して横暴に振るまい、差別をする日本人に対する怒りを表明しています」

杉田氏「福沢が朝鮮や中国、台湾に対してどのような態度を取ってきたか、見ていきたいと思います。金玉均らが起こした甲申政変に、福沢が関与しています。しかし福沢はその後、この事実を執拗に隠すんですね。しかし、福沢が援助した事実が残っています」

岩上「金玉均や朴泳孝による甲申政変に関して、『自ら進んで役者を選び、役者を教え、また道具立其他万端を差図せられた事実がある』という文言が残っているわけですね。他国の政変を工作するなんて、とんでもないことです」

杉田氏「武器まで提供しています」

杉田氏「金玉均は、日本に来て福沢に対し『誠に申し訳ありません』と謝っています。福沢の期待通りに事を運べなかったことに対し、謝罪しているわけです。このことからも、どれだけ福沢が甲申政変に深く関与していたか、分かるかと思います」

杉田氏「甲申政変の段階で、井上馨による外交交渉が行われているなか、福沢諭吉は『我政府に於ても、止むを得ず曲直を兵力に訴るの外なかる可し』と、戦争を仕掛けろ、と鼓吹しています。日本人が殺されたことの弁償をしろ、という理屈です」

杉田氏「自分で仕掛けておきながら、支那と朝鮮が加害者だ、と福沢は言います。さらに、『御親征の挙、断じて行う可きなり』と言います。天皇が自ら乗り込んで戦争しろ、ということですね」

杉田氏「有名な『脱亜論』はこの時期に書かれます。この論説で明瞭なのは、列強によるアジアの分割に加わるべきだ、ということです。アジアの土地を奪え、遠慮はいらない、といった調子ですね」

岩上「次が台湾です。台湾に対してはよりあからさまです。『一人も残さず殲滅して』などということを書いています」

杉田氏「台湾で次から次に抵抗運動が起こります。そのたびごとに、台湾人を殺戮するよう煽る文章を発表しています」

杉田氏「時事新報に『雑報』という欄があります。この中に、『自分が見切れないで、とんでもないものが出てしまった』と書いています。しかし、台湾人の殺戮を煽っているような文章は、社論として書いています。平山洋さんが言うように、弟子が書いたものではない」

視聴者からの質問「福沢諭吉は病んでいるとしか思えない」

杉田氏「福沢としては、貧知者が生まれないように、かなり自覚的に差別を行っているのだと思います。それは、アジアに対しての視線でも共通しています」

岩上「最後に、日清戦争後に日本が膠州湾を租借した後の福沢の言動を見ていきたいと思います」

杉田氏「支那人の支配には日本人が最適だ、ということを言います。日清戦争の時にいかに日本が手際よく清国を倒したか、ということを強調しています」

岩上「今日の安倍政権が、改憲の動きや戦争法案の制定に動き出しています。さらに、安倍総理は『ポツダム宣言』は読んでいない、と」

杉田氏「これは、表立って否定する段階ではまだない、ということだと思います。すぐ、次の段階がくるでしょう」

杉田氏「集団的自衛権も含めて、かつての自民党ができなかったことを次々とやれるようになってきています。『ポツダム宣言を読んだことがない』というのも、かなり意識的に言っているのだと思います」

以上で「岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー」の実況を終了します。




▲△▽▼


民衆を裏切った福沢諭吉、隠されたもう一つの顔 2016/08/05


 私たちのお宝、一万円札に描かれている福沢諭吉は、日本の文明開化の先駆けとして高い評価を受けていた。だが、彼には隠されたもう一つの「裏の顔」があり、実際は「民衆を裏切った」福沢がそこにあった、というのだ。

 関係者の間でいま、話題沸騰の衝撃の書、「福沢諭吉」 (岩波現代文庫 ひろた まさき著)をアマゾンの書評から紹介する。

****************

 歴史の変動と個人史が福沢の思想にどのように影響したのかを、批判的に評価する。『漱石とその時代』のような書きぶりで、決して、慶應大学関係者には書けなかった伝記である。

 幕府の船で、幕臣あるいは従僕として三度も洋行すれば、国家意識や忠誠心は自然と強くなる。帰国後は、幕府独裁と富国強兵を上奏し、幕府開明派に取り入った(P.82)。

 「大君のモナルキにこれ無く候ては、ただただ大名同士のカジリヤイにて、我が国の文明開化は進み申さず」 。しかし、開明意識が先走ったのか、政府批判を口走った廉で、謹慎を食らう 。

 これがきっかけとなって政府とは距離を置き始めたちょうどその時、江戸幕府が瓦解する。幕臣エリート洋学者としての途が絶たれた福沢は、視線を民衆に移して、教育による小民の啓蒙を志した(P.101-104)。幕臣福沢から啓蒙福沢へ。これが一回目の転向(P.282)。

 明治五年の『学問のすゝめ 初編』は、「啓蒙家」福沢のピークだった(P.117)。「一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし 。理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず 。」

 しかし、現実には、国が独立するとは、他国を蹂躙する事でしかない。「報国心と偏頗心とは、名を異にして実を同うするものといわざるを得ず」 。とても、西洋文明が文明的だとは言えない。それでも、現在のところ、その西洋文明が、相対的には最も文明的であるのだから、その西洋文明を、清濁併せて学ぶしかない(P.165)。

 近代化とは別の発展段階を考えつくことができなかった福沢には(P.164)、原則を欠いた、権道的な現実追認主義しか見えなかったのである(P.187)。
http://79516147.at.webry.info/201608/article_43.html

下流の民間など犠牲にしてよい、と福沢諭吉 2016/08/05


 また、明治七年に長沼事件と関わったことで、民衆が、自分の期待する「一身独立の気風」を身につけるにはほど遠いことを実感した。日本が文明化するまで、「下流の民間」 が啓蒙されるのは、待ってられない(P.178)。

 同時に、明治八年に四十歳を迎え、老年を意識し、余生の短い事を悟っていた福沢にとって(P.183)、教育のような迂遠な方法に頼っている時間も残されていなかった(P.194)。むしろ、内安外競の「方便」として、「下流の民間」など犠牲にしてもよい(P.167, 281)。

 つまり、明治八年に書き下ろされ、啓蒙思想の頂点と誉れの高い『文明論之概略』は、福沢文明論の凋落でしかなかったのである(P.168)。明治十四年の『時事小言』では、それが露骨に宣言されているという(P.201)。

 啓蒙福沢から権道福沢へ。これが二回目の転向(P.282)。そもそも、「私のために門閥制度は親の敵で御座る」と啖呵を切っておきながら 、中津藩の江戸藩邸に出府を命じられれば、いそいそ出掛けていった頃から、風見鶏だったのである。

 そして最後は、資本主義者/帝国主義者福沢に転向する(P.282)。明治二十三年恐慌を経験した福沢は、明治二十四年の「貧富論」で、大資本こそ国家独立の要であると宣言した(P.232)。すでに、数多くの門下生が三菱商社や三井銀行に入社し、財閥の中核を占めていた(P.235)。

 そして、その大資本確立のために、朝鮮政略を上奏する(P.225, 242)。朝鮮を犠牲にして日本に資本主義を導入しようという発想は、国家独立のためには「下流の民間」など犠牲にしてよいという発想と全く同じである(P.228)。

 福沢は、「政治、経済、社会、学問の分野で節操をまげ現実主義の世俗にまみれることを強いられ続けた」(P.267)。ブレまくったのである。

『学問のすゝめ 初編』の頃、民衆の啓蒙による底上げを説いたまでは良かったが、『文明論之概略』を経て、独立の対象は、民衆ではなく、大資本家へと転向、凋落していった(P.282)。

要するに、弱者切り捨ての歴史だったのである。最後は、天賦人権論や啓蒙主義は、一欠片も残っていなかった(P.255)。その福沢が、最高額紙幣で乙に澄ましていたのは、話が出来すぎている。
http://79516147.at.webry.info/201608/article_42.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/282.html#c3

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